コッペリアの電脳 (エタ=ナル)
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第一章 ハンター試験
第一章プロローグ「ハンター試験」


この物語はフィクションです。実際の個人・団体・事件等とは一切関係ありません。
また、如何なる思想、良心および信仰等を肯定もしくは否定する趣旨のものでもありません。


第一章プロローグ「ハンター試験」

 

 昔、死にかけた記憶がある。

 

 念能力の修行中だった。それまで覚えは誰よりも早く、体術でも燃でも道場の誰より先んじていた。弟子が総勢十人ほどの、至極小さな道場だったけど、僕は天才と呼ばれていた。念も、精孔を開くまでは誰よりも上達が早かった。

 

 それが、わずか一日で崩れ去った。

 

 精孔を開いて、全身から吹き出すオーラを認識した。続いて、体へと留めることに集中する。四大行でいう纏の習得の修行だった。事前の座学もイメージトレーニングも完璧で、失敗するはずがないと、そう思っていた。いや、もしかしたら失敗という概念すら、あの頃は忘失していたのかもしれない。

 

 だというのに、結果としてオーラは一向に留まらず、一晩中瞑想しても手ごたえさえ掴めず、幼き天狗の鼻は見事に折れることになったのだ。纏の習得どころではない。噴出する量が多すぎて、生命維持さえ危ぶまれるほどの事態だった。元通り精孔を閉じる事もできなかった。朦朧とする意識の中、冥府へと落ち行く実感があったのを憶えている。

 

 生命力の極端な不足で生死の境をさまよった僕を、道場の皆は必死に看病してくれたらしい。とりわけ師匠の娘さん、今の義妹には世話になったと、後から皆に教えてもらった。一週間以上もの長い間、昼夜問わず付きっきりで側にいてくれたそうなのだ。

 

 なんとか目覚めた僕に、師匠は選択肢を与えてくれた。生涯絶の状態で暮らすか、一か八かの賭けで修行をするか。僕さえ良ければ、師匠はいつでも絶にする発を修得してくれるつもりらしい。制約も誓約もどんと来い、だそうだ。この人は本当に馬鹿だ。師匠、強化系なのに。馬鹿だ。

 

 一時間ほど考える時間をもらった後、僕は水見式に挑戦した。我ながら無駄な事を、と今でも思う。一秒一刻が生死を分つほど危険な状態だったのに。悔しかったのかもしれない。せめて自分の系統ぐらいは知ってから、今まで鍛練してきた、これから得るはずだった念という力を捨てたかったのだろうか。練すら修得していない僕の水見式は拙すぎて、師匠の強化した目でようやく分かるほど微かな兆候しか示さなかったけど、それでも、木の葉が確かに揺れ動いて、操作系だと判明した。

 

 それを聞いてストンと、憑き物が落ちたように感じたのを憶えている。

 

 結論は、実に簡単なものだった。

 

 

 

 1999年01月07日 ザバン市

 

 嫌な夢を見た。あの頃の夢だ。生きている事が地獄で、死んでしまうのが怖くて、失われていく生命力に怯えながら全力で修行したあの当時。自分の系統が操作系とわかって、命を捨てたつもりで発を覚えて、それがなんとか形になって九死に一生を得ることができた。

 

 その間、多くの人に支えられた。なかでも師匠と彼女には、いくら感謝してもし足りない。

 

「大丈夫? アルベルト、目が覚めた?」

 

 隣で寝ていたはずの妹が、心配そうに顔を覗き込んでいた。僕より一つ年下の、淡い金の髪を背中に流す繊美な少女。エリス・エレナ・レジーナ。この世で最も愛しい家族の一人。

 

「うなされてたわよ。水、飲む?」

「ああ……」

 

 ベッドの脇にあった水差からコップに汲んで、エリスはそっと差し出してくれた。飲むと、寝汗で乾いた体に染み込んでいく。

 

 僕とエリスはつい先日、戸籍上の兄妹になった。そのときにあった悶着は、あまり思い出したくない思い出だった。はっきり言って意外だった。僕と彼女は、もうずっと前から兄妹同然の間柄という認識だったのだけど、まさかあそこまで嫌がられるとは。

 

「ごちそうさま。ありがとう、エリス、もう大丈夫だよ。ちょっと夢見が悪かっただけだから」

「よりにもよってこんな日に? ついてないのね。アルベルトはほとんど夢を見ないのに」

 

 幼子を慈しむような表情で、僕の頬を撫でて微笑むエリス。推測だが、嫌ってる相手への反応ではないようだ。師匠が、彼女の親父さんが僕を養子にしてくれる手続きを完了したと明かされたときの、あの般若の相とは比べ物にならない。常々思う。まったく、この世に女心ほど理解しがたいものはないものだ、と。師匠がエリスに、僕を名実共に本当の家族として迎えないかと確認したときは、それはもう嬉しそうな様子だったそうなのだが。

 

「そうか、こんな日なんだね。時間は……、受付開始までだいぶあるか」

「ええ。まずは汗でも流しましょう」

 

 シーツを纏い、浴室へ向かうエリスを追って浴室へ入る。考えてみれば、エリスと共に寝るのは久しぶりだった。幼い頃から兄妹同然に過ごしてきただけあって、毎日のように一緒だった頃もあったのだけど。

 

 同衾の理由は昨日に遡る。チャーターした飛行船でザバン市に到着後、ホテルにチェックインした時の事だった。二部屋とっていたはずの部屋の予約が、なぜか一部屋しかとれてないというのである。こちら側の手違いかとも考えたが、申し込みしたのはエリスだった。こういう事にはしっかりしてるはずの彼女が、そうそう間違えるとは思いづらい。

 

 それでも、ないものはないで仕方なかった。ハンター試験を間近に控えたザバン市のホテルに、余分な部屋がないのは誰でも分かる。幸い、女性であるエリスが男の僕と同室でも構わないと言っていたのだ。ならばと僕は納得して、昨夜は数年ぶりに彼女と同じベッドで眠りについた。ほんの少しの戸惑いと、湧き上がった懐かしさを胸に秘めて。

 

「どうかしたの?」

「うん。エリスと寝たのも久しぶりだと思ってさ。相変わらず裸で寝る癖はなおらないみたいだね」

「ふふっ、そうね。お風呂はあなたがうちに泊まる度に一緒に入ってるのにね。最近、アルベルトったらせがんでもつれないんですもの」

「お互い、体が大きくなったからね。あの狭いベッドじゃ、もう、昔のようには眠れないよ」

「もう。相変わらずなんだから」

 

 交代でシャワーを浴びながら、心を預けきった者同士のたわいない会話を楽しんでいる。その根底にあるのは、きっと家族間の愛情だろう。しかし、だからこそ解せない事がある。エリスとは幾度も喧嘩をした。幼少期は数えきれないほど罵りあった。取っ組み合いに発展した記憶さえある。だがしかし決して、いや、だからこそ心底嫌いになった経験はないし、心底嫌われた経験もないと断言できる。

 

「エリス。いいかな?」

「真面目な話? ええ、いいわよ」

「僕が君の兄に、師匠の養子になるのは、そんなに嫌かい?」

 

 僕の背中を流していたエリスに、ここ数日ずっと気になっていた問いを投げかけた。後ろで息を呑んだ気配があった。彼女の動きが静かに止まった。

 

「僕は今年で十九。君は十八になる。お互いまだまだ未熟だけど、責任ある判断と無縁でいられる年齢でもないと思う。だからこそ尋ねたい。そして尊重したい。お前の希望に、僕は従うとここに誓おう」

 

 数秒間の静寂の後、エリスは僕の背中に体重を預けて、とても辛そうにつぶやいた。

 

「嫌よ」

「……そうか」

 

 沈黙が続いた。自分の中の存在が憎い。この世界はこんなにも繊細で、アナログな曖昧さにあふれている。なのに、僕のアンテナはデジタルだった。

 

「なら、白紙に戻そう。手続きは既に済んでしまったけど、ハンターライセンスの力を使えばいくらでも融通が効くはずだからね。だから、僕達が合格したら問い合わせてみよう。いや、今すぐがよければ、僕から師匠に頼んでみよう。いいね?」

「だめよ、だめ。勘違いしないで。その必要はないわ。残念だけど。今のところは……、だけど」

 

 僕の背中に顔を埋めてエリスがいう。無理はしてない。そう感じた。しかし、本当にそうだろうか? 確信をもつことは難しい。他者の感情の推測に関して、僕の能力はピーキーだから。

 

「本当に、今はその必要はないんだね?」

 

 彼女の手の平を探り寄せて、指と指を絡めて僕は尋ねた。エリスなら、裏にある意図を汲んでくれる。僕の不安を分かってくれる。そう信じていたからこそ、いや、信じることも要らないからこその確認だった。

 

「……うん。必要、ないから」

 

 搾り出すようにそう言って、エリスは僕の胸に腕を廻して、切ないほど強く抱き締めてきた。あまり大きくない乳房が押し付けられて、鼓動が微かに聞こえてくる。絡められたままの細い指から、女の体温が冷たく伝わる。後ろにいる彼女はたった一つ違いのはずなのに、幼い少女のように思えてならない。

 

「エリス、おいで」

「アルベルト?」

 

 寒かっただろうか。微かに震え始めた妹の体を、持ち上げながら僕は言った。なるべく強引にならないように、膝の上へと座らせる。驚いてきょとんとしながらも、腕の中に、彼女の細い体が何の抵抗もなく収まった。

 

「僕は、君のことが大好きだ」

 

 ロマンスから引用した台詞ではなく、メロドラマを模倣した演技でなもない。なんのひねりもない代わり、正真正銘、僕の心で紡がれた言葉で彼女を見つめた。水気で額に張り付いていた、淡い金色の前髪をそっとどけると、やや濃いめの灰色の瞳が、父親譲りのまなざしが、光をたたえて揺れていた。

 

「ええ、知ってるわ」

「だけど、エリス、これも知っているだろう? 僕は、普通の人とは違うから」

 

 会話は途中で中断した。エリスの柔らかい唇が、下から迫って押し付けられた。その先を言うのを許さないと、僕の胸板に両手を置いて、背筋をわずかに伸ばしていた。彼女と唇を重ねたのは、あの日の木陰以来だろうか。兄妹の間柄ならもちろんだけど、幼馴染としても少し過激な、儀礼化されてない直接のキス。

 

 それはしばらく続いていた。お互い、その先に割り込むことはなく、すぐに引き下がることもなく、幾秒もじっとそのままだった。やがて、どちらからともなくゆっくり離れて、唾液が微かなアーチを描いた。

 

 彼女の瞳に宿る炎は、いつかの記憶と変わらなかった。今も昔も同じだった。同じように何かを我慢して、泣く寸前まで何かを耐えて、怒りに心を燃やしていた。それはとても美しかったが、たまらなく僕を悲しくさせる。

 

「もちろん。誰よりもよく知ってるわ。きっとアルベルト、あなたよりも」

 

 さえぎった台詞の先に回ってエリスは言う。

 

「だから心配しないで、アルベルト。わたしはいつまでもあなたの味方だし、嫌なことがあったらすぐに言うわ。嫌いになんて、なるはずがない。……それにね、もしもわたしが本当に、あなたの妹になるべき時が来たのなら、必ず、心から喜んでそうするから」

 

 だから、その時は、あなたをお兄ちゃんって呼んであげるとエリスは言った。

 

「そうだね。いつか、そんな日が来るように頑張るよ」

 

 両腕を彼女の肩に回し、細いそれを抱きしめた。白い首筋に口元を寄せて、神聖な存在に祈るかのように厳かに、心をこめて誓いを捧げた。幼い頃、暗闇を怖がっていた時のように、エリスの体が一瞬だけ震えた。

 

「……応援してるね。心の底から」

 

 僕の膝に座ったまま、エリスの両手が胸板を押した。力で拘束するつもりはない。自然と抱きしめていた腕がほどけて、二人の体に距離が開いた。

 

「ね? 入りましょう? 体が冷めちゃうから」

 

 立ち上がったエリスに誘われて、湯舟の中に身を沈めた。エリス自身は僕の膝の間に入り込み、背もたれのように寄り掛かる。いつも通りの体勢なのに、なぜだろう、今の彼女は、無理をしてるようにしか見えなかった。

 

「エリス?」

 

 悲しそうに微笑んで、無言で首を左右に振る。それは彼女のサインだった。もう、終わりにして、と。このまま続けることもできたけれど、彼女を傷つけるのは本意ではなかった。喧嘩になればまだましだけど、きっと彼女は、誰もいない場所で泣くだろうから。

 

 それでも、どうしても一つだけ伝えたかった。彼女の胸元に手をまわし、上体を包み込むように抱き締めて、最後だからと、心の内をそっと吐露する。

 

「僕はね、義理とはいえ師匠の息子になれると知って嬉しかった。あの人は僕を拾ってくれた人だ。救ってくれた人だ。アマチュアハンターとして独立するまで、養い導いてくれた人だ。……だけどね、エリス。それ以上に嬉しい事があったんだ。君の兄になれた事だ」

「うん、知ってた。知ってたわ。だから、ありがとう」

 

 さすがに、そこまで知られていたことには驚いた。困惑と恥ずかしさで頬を掻くと、彼女はくすりと笑いをこぼして、僕の二の腕をぎゅっと抱いて、幸せそうに瞼を閉じた。

 

 

 

 風呂上がり、僕とエリスはそれぞれの装備を整えていた。僕の装備は特に捻ったものではなく、普段行う都市型ハントと同じ傾向でまとめてある。服は上下ともに特注品をあえて避け、大量生産された品から不自然でない程度に丈夫なものを、具体的には紺のジーンズと鼠色の長袖シャツを選択した。インナーは綿のものを選んである。武器はワイヤーカッター付きの多機能銃剣を用意してあるが、はっきり言ってサバイバルツールとしての期待が主だった。火器は発火と硝煙によるシグネチャの増加が深刻なので、よほどの事情がない限り、持ち歩かない事に決めている。あとはリュックに水と非常食、医療キット。そして各種通貨、金貨、毛布にロープなど、数日間行動するために最低限必要と思われる荷物を入れておいた。外見上は身軽な旅行者といった風情だろう。

 

 武器が足りない、と思うかもしれない。だけど僕達ハンターは兵士ではないのだ。ハンターにとって戦いは目的ではなく、ハントに際して選択する可能性のある手段の一つにすぎないのだから。無論、戦闘主体のハントであるなら、僕も武器の選択を視野に入れる。

 

 ところが、エリスの装備は凄かった。黒いドレスを基調にして、黒の長手袋とストッキング、黒の靴。ドレスの背中は大胆に開いていて、全体的に黒い分、長い髪の毛の影から見える白い素肌がまぶしかった。

 

 胸元には古い古いネックレス。球形に磨いた翡翠を一つ、細い銀の鎖で吊るしただけの、シンプルで素朴なものだった。亡くなった母親の品だそうだ。師匠から聞いた話によると、彼女の母は、出産と引き換えに他界している。形見となるそれを首から下げ、最後に髪を僕が結い上げて、帽子を冠ればエリスの装備も完成だった。

 

 断言しよう。エリスは別にふざけてない。

 

 ハンターには大きく分けて二種類がいる。常識的な方法でコツコツと地道にハントするタイプの人間と、絶大な能力やバックボーンに物を言わせて短期間で獲物を手に入れていくタイプの人間である。優劣の話ではない。傾向の話だ。アマチュアとして僕が経験してきたのは前者のハント。ところが、エリスには後者の才能しかない。

 

 そもそも、エリスにはアマチュアハンターとしての経験はない。それどころか体術の技量すら一般人に毛が生えた程度、護身や教養の範囲内だ。ハンター志望者として見た場合の彼女の力は、ひたすら念能力に片寄っている。あえて言葉を選ばなければ念能力馬鹿だ。逆にいえば、それだけで師匠が受験を許可できるほどの才能があり、他の全てを捨てても念能力に専念しなければならないほどの才能をもって生まれてしまったという事でもある。だからこそ今回のハンター試験で、エリスは念でぶっちぎるしか道がない。この服装はその覚悟を自他に示す象徴であり、発の邪魔にならないためのものでもあった。

 

 もちろん、僕もエリスを全力でサポートするつもりではある。が、試験官が見たいのはあくまでエリス本人だろう。僕の隣にいる少女、なんてものではないはずだ。必然的に個人の素質を試す試験内容があるだろうし、そうなれば僕のサポートにも限界はある。それでも、是が非でもライセンスをとってもらわなければ困るのだ。

 

 そして、もし……。

 

「エリス、最後にこれを。師匠と僕からの贈り物だ。ハンターを目指す君の旅路に、お守り代わりに添えてほしい」

 

 この時、僕は罪を犯した。

 

 手渡したのは青く輝く卵だった。鶏のものよりも少し大きい。これは、今からおそよ一千万年ほど昔に生息したと言われる幻の古代種、ヒスイクイドリの卵の化石。破片や状態の悪い物を含めても、ここ五百年間で五十個未満しか発掘記録がない希少品だった。贋作も多く出回っているが、もし本物を手にした者は類い稀なる幸運を手に入れるという伝説がある。

 

 説明と一緒に携帯用のポシェットも渡す。黒く上品な皮製で、ヒスイクイドリの卵がちょうど収まる大きさと形に、所々銀糸の装飾が入った特注品だった。専門の強化系術者の手によって、自身と中身を保護する念までかけられている。

 

 分かっていたはずだ。渡せば絶対に後悔すると。

 

 感激して、抱きついて喜びの言葉を口にするエリス。そんな彼女の前で不審な態度を取らないように、僕は全身の動作を抑制した。罪悪感で引き裂かれていたはずの本心は、脳の奥深くへと沈んでいった。お守り代わり、僕の口からそう言えば、エリスは決して手放すまい。

 

 もしも、これに貧者の薔薇が仕込まれてなかったら、仕込む必要がなかったら、どんなに幸せだっただろうか。

 

 

 

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【無色透明な黒色塗料(ファントム・ブラック) 具現化系】

使用者、アルベルト・レジーナ。

「黒い塗料であること」という概念以外の性質を持たない物質を具現化する。

質量も体積も存在せず、人体にとって毒にも薬にもならない。

能力者から離れると著しい速度で劣化を始める。

 

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次回 第一話「マリオネットプログラム」



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第一話「マリオネットプログラム」

第一話「マリオネットプログラム」

 

「やあ、キミ達も使えるみたいだね♠」

 

 地下通路に入って早々に、にこやかに近付いてきたのはヒソカと名乗る道化師だった。こういう奇抜な格好をするハンターは、プロアマ問わず時々見かける。その大半が何かを勘違いした駆け出し連中だが、もしそうでなければ相当の猛者である確率が高い。並み大抵の者が激しい自己主張を試みても、あっという間に潰れるのがオチだからだ。

 

 そして、目の前の男に限って前者であるはずがない。なぜならオーラが、やばすぎる。

 

 ビリビリと禍々しい邪気が肌を焼く。内心で舌舐めずりでもしているのだろう。濁りきった視線が僕とエリスの全身を舐め廻す。男性器が盛大に勃起していた。まずい。欲望に素直な奴の念は手強い。この男を動かすのが食欲か性欲か別の何かかは知らないが、オーラの質と量も鑑みれば、片手間にあしらえる相手じゃなかった。僕は常駐タスクの自動防衛管制を呼び出して、警戒度を3/6「厳重警戒」に引き上げると、隣にいるエリスの肩を軽く抱いた。

 

「どうも。アルベルト・レジーナです。こいつは妹のエリス。あなたも受験生ですか?」

「ククッ♥、そんなに警戒しなくてもいいじゃないか♣」

「よろしくね、ヒソカさん」

「呼び捨てでいいよ♦」

 

 差し出される手をあえて無視して、エリスの肩をそっと押した。

 

「エリス、僕はヒソカともう少し話をしたい。その間、せっかくだし、自分一人でこの場の空気を感じておいで。これもハンターの勉強だよ」

「そうね、アルベルト。お言葉に甘えてちょっとその辺回ってくるわ」

「あ、待った」

「え?」

「いいかい? 決して誰かに騙されないように。くれぐれも他人を信用しないように。自分を信用させようと安易に笑う笑顔には、安易な笑顔だけを返せばいい。なんせ、僕らの周りは、すでにライバルだらけなんだからね。いいかい?」

「分かったわ、心配しないで」

 

 くすっと笑って他の受験者たちがいる方向へと向かうエリス。ああ言ったが、彼女は常識もあるし頭も回る。心配は恐らく要らないだろう。しかしこちらは、さて、どうしたもんか。

 

「仲のいい兄妹じゃないか♠」

「ああ、もちろんさ」

 

 ヒソカの瞳からは、出会った瞬間のぎらついた欲望は影を潜めているように見える。が、だからといって油断できるほど余裕はない。僕の能力は比類なき応用力を誇ると自負してるが、その分、致命的な弱点があった。

 

「彼女、ボクに気付かなかったみたいだね♣」

「あいつはその部分の経験が足りなくてね。なまじ素質があるだけに、害意のあるオーラにも苦にせず向き合えるから、どう経験を積ませたらいいか困ってる」

「いいのかい? ボクにそんなこと話しちゃって♥」

「すぐにばれるさ。いや、もうばれてたよね」

 

 楽しげに、喉を鳴らして笑うヒソカ。

 

「彼女もいいけど、君もいいね♦ オーラの流れがたまらなく静かだ。これだけ挑発してもさざ波さえ立たない♥」

「そいうアンタは禍々しいな。僕と戦いたくて仕方がないってオーラをしてるよ。バトルマニアによくあるタイプだ」

「さて、それはどうかな♣」

 

 楽しげに、肩をすくめてはぐらかすヒソカ。しかし、その目は堂々と肯定していた。

 

 そのあとしばらく、取り留めもない会話をして、ヒソカという男の性格は大体把握した。酷く気分屋な戦闘狂。差し当たり、今すぐ戦う事はないだろう。この場ではそれで十分だった。ついでに携帯電話の番号も交換しておいた。実力者なのは確かなので、万が一アクセスする際の手段だけは、常に保っておきたかった。

 

 

 

 ところでエリスはどこにいるのだろうか? ヒソカと別れてしばらく会場をさまよった僕が見つけたのは、ピンクの帽子を被った少女と話題を弾ませる妹の姿だった。声をかけて邪魔したくはなかった。同業者の友人が増えるのはいい事だ。ハンターにとって、人とのつながりはそれだけで強力な武器になる。

 

 第一次試験は耐久走だった。サトツ、という試験官の後ろについていくのは、はっきり言って退屈すぎる。エリスも件の少女と一緒にいるわけだし、ここは少し休憩してもいいかもしれない。体内の乳酸操作の優先順位を上げ、自動防衛管制を2/6「通常警戒」に設定し、エリスの様子をオートで監視するスクリプトを即行で仕上げて走らせてから、僕は自分の能力の世界に埋没した。

 

 半径三十メートルほどの球形の空間の中心に浮かぶ椅子に腰掛ける。ここは念空間というわけではない。自分自身をコントロールする僕の能力、【コッペリアの電脳(マリオネットプログラム)】が神経系を操作する事で形成した、いわば高度な自己催眠による白昼夢だった。

 

 脳内管制空間の脳内指令席に座り、視覚情報を脳内球形スクリーンの背景設定に。正面の脳内メインスクリーンには、以前見て記録領域にストックしてある映像作品のリストアップを展開する。ついでに、手元には脳内アイスコーヒーと脳内ポテトを出現させた。カロリーもなければ腹も膨れない、いくらでも調達できて値段もただ、いろんな意味で夢の飲食物だ。まあ、満腹感は満腹感で自由に操作できるけど。

 

 ポテトをつまみながら映画を眺める。手元に浮遊させているウィンドウには、エリス監視スクリプトからの情報が、リアルタイムで入ってくる。現状、問題は特になさそうだ。肉体面では一般人としては鍛えているというレベルでしかない彼女は、莫大な生命エネルギーにまかせて持久走を続けているわけなのだが、しょせん肉体は肉体、念は念。オーラで肉体を補う事は可能だが、弱い肉体ではその真価を発揮するのは不可能だった。端的に言えば、鍛えてない肉体を強化しても、効率が圧倒的に悪いのだ。戦闘型強化系を極めた連中が見せるような人外の領域にある怪力などは、肉体とオーラの両方を研鑽した果ての存在である。だがそれでも、この程度のスタミナ維持なら楽勝らしい。理論では分かりきっていた事だったが、手放しで喜べる結果だった。

 

 そうなると、残る問題はただ一つ。エリスの大胆に開かれた背中や、走る度に揺れる尻肉を、彼女の真後ろで美味しそうに眺める変態だけか。さっきまであの位置は大勢の男たちが無駄に壮絶な争奪戦を繰り広げていたはずなのに、今では奇術師一人が占有していた。

 

 ちらりとメインウィンドウに目をやる。映画はいいところなのだが仕方がない。娯楽と大切な妹とでは比べ物になりようはずもなく、僕は管制空間からの離脱を即決した。

 

「ヒソカ、ちょっといいか」

「やあ♥ お兄様のお出ましかい♦」

 

 軽口を叩く道化を制して、僕は耳元で囁いた。周りの受験者たちにざわめきが起こる。どうでもいいが、あまり頻繁に接触してると、僕もこの男と同類に思われそうだ。

 

「エリスに戦闘を仕掛けるな、とは言わない。……いや、大いに言いたいが今はそれとは別の話だ。いいか? 仕掛けるなら大災害に巻き込まれるぐらいの覚悟をしろ。軽い気持ちで味見するのは、やめてくれ」

「そんなに凄いのかい?」

「ああ。忠告はしたぞ」

 

 期待に震えるヒソカを見る。やはり説得力はあったようだ。エリスの纏をじっくり見れば、よほどの初心者じゃない限り分かるはずだ。その奥に、言い知れぬ何かが潜んでいると。

 

 この忠告で手を引いてくれる事を、僕は全く期待してない。思う存分戦えそうな機会まで、じっくりと楽しみにしていてくれればそれでいい。そのとっておきが来る前に、機会を見て僕がヒソカを潰す。できるかできないかじゃない。やる。そう、決めた。

 

「いい目だ♣ 妹が関わると好戦的になるようだね、キミは♦」

 

 

 

 トンネルを抜けると湿原だった。

 

 ヌメーレ湿原、別名を詐欺師の塒というらしい。ランニングはまだまだ続くようだった。試験官の説明を遮って乱入した猿は、サトツ自身の攻撃によりあっという間に正体を現し退散した。そんな明らかな茶番でも、この湿原の特性を一目で分からせる寸劇としては悪くない。だけど。そんなことはどうでもよかった。

 

 ヒスイクイドリの卵には発信器も一緒に仕込まれていて、僕の携帯画面から確認できる。エリスに先にゴールに辿り着いてもらえれば、試験官から逸れても到達できる寸法だ。

 

 機会が来た。こんなに早く。絶好の好機が。

 

「いいか?」

「もちろん♠」

 

 隣も見ずに確認して、内容も聞かれずに了解された。

 

 エリスにはサトツのすぐ後ろをぴったりと追うよう、既に携帯で言い含めてある。湿原で靴が汚れると愚痴をこぼしていたけれど、それも余裕がある証だろう。

 

 長く思い描いてきたハンター試験だからだろうか。柄にもなく熱くなりすぎてる。自覚はある。それでも。

 

 やがて、受験生達がどかどかと走り去る。並んだまま微動だにしない僕とヒソカを、何人かが怪訝な顔で眺めていく。試験序盤から必要以上に目立ってしまった事になるが、それを気にしている余裕はなかった。

 

 リュックを地面において、ナイフを鞘ごと腰につける。

 

「ヒソカ、胸を借りるぞ」

 

 二人だけが佇む地下道出口で、僕は分かりきった宣言をする。

 

 釣り上がった唇が応えだった。

 

 

 

 【コッペリアの電脳(マリオネットプログラム)】。

 

 この能力は万能だ。およそ、人間が可能な行動なら何でもサポートしてくれる。人間の生命力を原動力にした念という技術は、それ故に人間自身に対して最も効果を発揮する。僕の能力はそれを更に突き詰め、自分自身の念が最も効果を発揮する人間、すなわち自分自身を相手にする事に特化したものだった。自分の体という愛着溢れる道具は、操作する対象としても絶好だった。

 

 加えて、刻まれた神字によるサポートがある。【無色透明な黒色塗料(ファントム・ブラック)】は、体内に効率的に神字を描くために編み出した能力だった。自分のオーラに満たされた場所なら、どこにでも出し入れ自由なこの塗料なら、体の中といえど自在に神字を描く事が可能だった。自分の体は一生付き合いどこにでも持ち運ぶ道具だ。手塩にかけすぎて困る事はない。

 

 しかし、この能力は全能ではなかった。

 

 

 

 並行して疾走する。ヒソカの堅はたまらなく優美だ。力強さもさることながら、弾けるほどの躍動感、歓喜に踊る未熟な歪さ。機械的に精密な堅しかできない僕には生涯辿り着けない、あまりにも価値ある無駄の極地。

 

「どうした、おいでよっ♣」

 

 挑発する奇術師を黙らせるよう、牽制の念弾をばらまいた。当然の如く避けられる。それでいい。その一瞬の隙を狙って、次手を打つ。出し惜しみするつもりはさらさらなかった。

 

 瞬間的にオーラを超圧縮し、人指し指の最先端で極小の硬、念弾としてそのまま放出。狙うは眉間、速さは閃光。だけど、それが当たるかどうかはどうでもいい。待機させていた戦闘用体術タスクを最大レベルで実行。全身がオーラの隷下に入った。単純な肉体強化とは訳が違う。腱、筋繊維、骨格、血管、神経系。その他全てを個別かつ総合的に強化し操作する。

 

 これまでとは違う速さでヒソカの懐へ入り込む。勢いを載せて鳩尾に拳を叩き込み、インパクトの瞬間に硬。即座に解除して全身の強化。浮き上がるヒソカを捕らえて湿原の地面へ頭から投げ落とす。バウンドする頭部。そのちょうど中心を捕らえ、サッカーボールの要領でトゥーキックを想いっきり振り抜いた。腰を中心にゆっくりと回転しながら飛んでいくヒソカの体。それは玩具のように空を舞って、着地後、二度、三度と弾んでから、ようやく止まった。

 

 そして、ぞくりと、戦慄した。

 

 ヒソカは倒れたまま動かない。オーラが増したわけでもない。実のところ何一つ変わってない。マリオネットプログラムもなんら異常を報告しない。ヒソカはなにも変わってない。ただ、理解した。僕は今、自分の中のどうしょうもなく本能的な部分で、生物としての原初の恐怖を味わっているのだと。

 

 その恐怖の名を、未知と呼ぶ。

 

 ゆっくりと、まるで気怠げにゆっくりと、ヒソカの体が起き上がる。

 

 ああ、なんて。

 

 なんてきれいな、微笑みだろう。

 

 

 

 僕の能力は二つしかなく、実質的には一つしかない。そして、マリオネットプログラムには本質的で致命的な弱点が存在する。

 

 系統ごとの念能力による戦闘は大きく二つに大別される。己の肉体を強化するのは、強化系やそれに近い系統が得意とする戦い方だ。一方で特質系側の系統は百花繚乱の特殊能力でそれに対抗する。言い方を変えれば正攻法に強いのが強化系側、裏技を得意とするのが特質系側と表せるだろう。

 

 しかし、操作系、すなわち特質系側に所属する僕には裏技がない。必然的に正攻法、苦手な系統の戦法で勝負を挑む事になる。確かに精密さは比類ない。小器用には戦える。しかし小器用なだけだ。端的に言って、僕の念には破壊力が足りない。それが致命的な弱点だった。

 

 この欠点は、特に格上の相手と戦う際に決定力不足として表面化する。推測はしていた。実際戦って、短いやり取りだが嫌というほど確信した。ヒソカは紛れもない格上だった。

 

 しかし、諦めるつもりもさらさらなかった。それでも、この化け物を倒すには決め手がいる。強力な正攻法か、必殺の裏技が。

 

 僕の能力には、どちらもない。

 

 ヒソカの足音が、近付いてくる。

 

 

 

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【コッペリアの電脳(マリオネットプログラム) 操作系】

使用者、アルベルト・レジーナ。

能力者自身を機械に見立てて精密に制御するための能力。

身体内部のオーラを使用するため絶の状態でも稼働する常時発動型。

事前にプログラムを組めば複雑な操作もオートで可能だが、過剰な処理による負荷は脳にダメージを与える危険がある。

 

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次回 第二話「赤の光翼」



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第二話「赤の光翼」

「やるじゃないか♦ 驚いたよ♠」

 

 頭からぼたぼた血を垂らしながら、異形の奇術師は楽しそうに笑った。とても綺麗な笑顔だった。無邪気でおぞましく純粋だった。今の彼を人間と呼ばないのなら、一体誰がそうなのだろう。

 

「でも、そうだな。大体分かっちゃった。君のそのオーラ、戦いの最中なのに整いすぎてるよね。そう♦ 不自然なほど♥ そういう能力なんだろ?」

 

 圧倒的な戦闘センス。異常なまでの慧眼。こと、戦いという一点に限っては、ヒソカのポテンシャルは今まで会った誰をも凌駕している。

 

 しかし、それでも。最善を尽くす。僕はやるべき事をやるだけだ。

 

 最低目標として、このピエロを試験から排除する。最悪はそれでいい。エリスに最後まで付き合えないのは残念だが、元々僕の合格は次善なんだ。師匠と幾度も話し合って決めた最優先目標は、エリスにハンターライセンスをとらせる事。プロハンターという確固たる立場を手に入れさせ、人類が彼女を踏み潰す可能性を少しでも減らす事だった。

 

 エリスという少女を辺境の田舎町に隔離し続ける期間は、もう十分に長すぎた。

 

 周囲を見渡す。使えるものは全て使おう。腰元のナイフは恐らく無駄だ。本職の強化系ならともかく、操作系な上に自分の体の強化に特化した僕の周では、このレベルの男には通用しまい。いや、むしろはっきりと足手纏いだった。

 

「今度は、こっちからいくよっ♦」

 

 強化されたトランプが飛来する。その軌道計算を自動防衛管制にまかせ、僕はヒソカの観察に専念した。どうにかして突破口を探さなければいけない。僕の能力で格上の能力者と戦うには、どうしたって頭脳勝負や裏のかきあいで勝つする必要があった。

 

「どうしたっ? 逃げてばかりかいっ?」

 

 よく喋る道化だ。余裕があって羨ましい。僕はステップも自動防衛管制にまかせてある。勝つ道筋が浮かばないのに逸っても負けるだけだ。僕のオーラは気合いや根性では絶対に増えない。逆に落ち込んでも絶対に減らない。マリオネットプログラムが動作し続けている限り。

 

 ヒソカが距離を積めてくる。操作系の僕は放出系の戦いのほうが得意だが、あまり距離を開ける事にこだわっても選択肢が狭くなるいっぽうだ。それに、近付いてみれば見えるものもあるかもしれない。僕は自動防衛管制に接近戦闘を命令し、同時に緊急離脱プログラムのタスクを立ち上げた。

 

 唸り来る拳をいなす様にかわし、続く上段蹴りを紙一重で避ける。しなやかな柔軟性。パワーを秘めた体躯。まったく、ヒソカの肉体の性能は、舌を巻くほど素晴らしい。

 

「そらっ、捕まえたっ♠」

 

 異常警報が出されたときには遅かった。ヒソカの左ジャブをガードした腕に、彼のオーラが張り付いていた。あからさまに怪しい。分析より先に緊急離脱プログラムを実行した。両足が地面を次々と硬で蹴り、一瞬で数十メートルの距離をとる。

 

「やあ、また会ったね♥」

 

 が、目の前にいたのはヒソカだった。移動したのは僕だ。僕の腕とつながったまま伸びたヒソカのオーラが突然強力に収縮して、離脱した距離を一気に引き戻された。

 

「ぐっ!」

 

 出迎えた拳に思わず息が漏れる。顔面を殴られ後頭部を地面に打ち付けられた。その顔面にオーラが張り付く。その事実を認識するより遥かに早く体が浮いて、今度は全力の左ストレートに迎撃された。

 

 凄まじいラッシュが始まった。やむをえず痛覚を遮断する。これで体の異常は無機質な情報でしか得られなくなったが、今はそれも仕方がない。怒濤の如く繰り出される重い衝撃を直で味わって、冷静でいられる自信は僕にはなかった。

 

 自分の肉体が壊されていく光景を冷静に眺めるのは妙な気分だった。拳の当たる瞬間、該当箇所に硬をあわせるのだが、それでも衝撃は殺せない。その上、ヒソカの体術の変幻自在さに、数発に一発軌道予測が超越される。それには硬が間に合わず、堅のまま耐えるしか術はなかった。

 

 あちこちの骨にヒビが入り、折れ、少しずつ少しずつ砕けていく。内臓がいくつも機能障害を報告している。自己修復プログラムに廻すオーラがない。防御だけで精一杯だった。

 

 しかし、仕掛けは分かった。ヒソカの体から伸びる粘着力と弾性に富んだオーラ。それこそがこの男の能力だろう。十中八九、変化系。強化系との相性は僕より一段高い上に、彼の能力は嫌になる程よくできてる。

 

 内心で憂鬱になりながら変化系総合制御を立ち上げ使用するタイプを選択。指を覆うオーラを鋭利な刃に変えるプログラムだ。タイミングを見てそれを発動させ、ヒソカのオーラを断ち切って離脱した。残存オーラが急激に減る。僕にとって最も苦手なのが変化系だ。ヒソカほどの能力者に対抗できるだけの切れ味が、何度も出せるはずもなかった。

 

 追撃が来る前にさらに後退。浮遊ウィンドウを幻視し設定を変える。

 

 自動防衛管制、5/6「緊急最大警戒」。

 

 この設定は脳に負担をかけるため5分以内の使用を推奨します。5分経過後に自動的に終了しますか?

 はい/いいえ

 

 はい。

 

 全感覚遮断、アラート管制、重要損害レベル4まで無視。

 警告レベル5以外の全ての重要損害を無視するように設定しました。

 

 「オーバークロック1」始動。

 この設定は脳に著しい負担をかけるため5分以内の使用を強く推奨します。5分経過後に自動的に終了しますか?

 はい/いいえ

 

 はい。

 

 ギアが上がった。脳の処理速度が加速する。頭部に血液が集中する。奥歯を強く噛み締めた。オーバークロックは正真正銘の緊急手段だ。命の危険も確実にある。だが死ぬつもりはない。死んでやるはずがない。死んでたまるか。

 

「いいね、やればできるじゃないか♠」

 

 何かが変わったのが分かったのだろう。間延びして聞こえるヒソカの言葉には答えずに、今度は僕から積極的に間合いを積めた。

 

 あの粘着性のオーラはとても手強い。が、ヒソカの体捌きの鋭さでは、遠距離からの放出系では埒が明かない。僕の念弾程度がそう簡単に当たってくれる相手じゃなかった。

 

 身の丈ほどもあろうかというガム状オーラの迎撃を避けると、その裏には拳を振りかぶったヒソカがいた。

 

 剛腕がゆっくりと唸り来る。それをゆっくりと紙一重で避ける。風を切る音すらとても遅い。なにもかも減速したこの世界で、僕の思考だけが加速していた。続いて炸裂する怒濤のラッシュに、防御も反撃もせずにポジション取りに専念する。オーバークロックだからこそ可能な捌き方。唇を引き締める。何かを狙っている事はばれてるだろう。果たして見破られる前に決められるか。——今だ。

 

 前方広範囲にファントム・ブラックをぶちまける。どうせこんなものはすぐに消える。稼げる時間は刹那以下。だけど、それだけあれば今のマリオネットプログラムは大抵の処理をなしてしまえる。

 

 右手の人指し指に直径一センチメートルの超高密度念弾が出現する。普通の念使いでは為せない凝縮密度。それを実現させる僕の能力も異常なら、当然の様に避けるヒソカも異常だ。しかしさすがに体勢は崩れた。そこを狙い、しがみついて首筋に噛み付いた。噛み切るためではない。固定するためだ。口の中には、溜めに溜めた渾身のオーラがある。

 

 絶対に避けられない密着距離。ヒソカの能力は、少なくともオーラに粘着性を与える技は、この状況は役立たない。僕は勝利を確信して、迷うことなく念弾を、ぐっ——!?

 

 一瞬の異常。それが何かを致命的に変えた。噛み付いていた首筋はどこかへ消えた。射出された念弾は湿原の風を切り裂いて、遠方へ虚しく飛んでいった。

 

 体の浮遊を感知して、状況把握を試みて理解した。

 

 あの時、ヒソカは避けるでも防御するでもなく、強烈なボディーブローで体軸を僅かにずらしたのだ。大部分のオーラを使い果たし、宙に浮き無防備な僕の腹部を、ヒソカは思いきり蹴飛ばした。

 

 飛んでいる。冗談みたいにゆっくりと、空を。オーバークロックの悪影響か。増強された処理速度の無駄遣いも甚だしく、地面に激突すらする前に体のダメージを伝えてきた。浮遊ウィンドウがオートで開き、致命的損害を知らせるレベル5のアラートがいくつも踊る。視界が赤文字で埋まってしまう。邪魔だ。

 

 アラート管制、重要損害レベル5無視。

 全ての重要損害を無視するように設定しました。

 

 自動防衛管制、0/6「無警戒」。

 

 「オーバークロック2」始動。

 この設定は脳に重大な損害を 警告スキップ

 いいえ。

 

 空中で姿勢を制御する。地面に激突している暇はない。地上のヒソカと目が合った。ひどく嬉しそうな笑みだった。そして、どうしてだろう。僕も笑っていると実感できた。高度統制中、表情が変わる事はないはずだけど。

 

 まあ、それも悪い気分ではない。着地して四肢を確認する。動く。今はそれだけで十分だった。ヒソカを見遣る。何も言わず、笑っていた。同感だ。言葉はいらない。ただ、拳があればそれでいい。

 

 瞬間、湿原を真紅の閃光が貫いた。

 

 ヒソカと僕のちょうど中間。地面が綺麗に陥没している。新手なら相手をしている余裕はない。即座に発射位置を座標計算。眼球を望遠モードで強化し、稜線近くの空を観測する。

 

 エリス。背には眩しく輝く一対の赤い翼が。忌わしくも壮大で美しい、太古の悲願の結晶が。

 

 意識があったのはそこまでだった。ブツンと電源が落ちるような不自然な暗転。どうやら、オーバークロック2を実行するには、オーラの量が足りなかったらしい。

 

 

 

「目が覚めた?」

 

 気が付けばエリスが心配そうに覗き込んでいた。馴染みのある感触だった。エリスの膝を枕にしているようだ。ここはどこかと聞いてみると、二次試験会場前の木陰だと返ってきた。

 

「エリス、帽子は?」

「どこかに落としちゃったみたいね」

 

 嬉しそうに目を細めて俺の頬を撫でるエリス。そうか。彼女が気にしてないならそれでいい。

 

「ヒソカは?」

「彼なら、あそこよ」

 

 エリスに頭を持ち上げてもらって視線をやると、さっきまでやり合っていた奇術師がいた。目が合ってニコニコと手を振られたが、無視だ。返答しようにも腕が動かない。

 

 自己診断が全身のダメージを次々と報告している。メッセージウィンドウの表示は顔をしかめるような内容ばかりだった。これでは、少なくとも数日間は痛覚を接続できないだろう。自己修復プログラムをフル稼働させる羽目になりそうだった。

 

 エリスは何も言わない。そっと撫でてくれる手の感触が心地よかった。赤くぼんやりと輝く掌から、優しくて暖かい匂いがした。微かだがオーラが回復していた。

 

 力を抜き、ごろりと寝転がって景色を眺める。空と梢とエリスだけが占める視界。

 

 今はなにも考えたくない。

 

 根源的な欲求は全て能力で統制しているはずだが、何故か眠気を感じた気がした。無論、現状で休息に異論はない。次の試験までのしばしの時間、このまま寝かせてもらう事にした。

 

 

 

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【色なき光の三原色(セラフィムウィング) 特質系・具現化系】

使用者、エリス・エレナ・レジーナ。

 赤の光翼 ■■■■■■■■■■ 具現化した光に■■■■■■■■。

 緑の光翼 ■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■。

 青の光翼 ■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。

長い■■をかけて鍛えられた、■■■■■■■■■ための能力の失敗作。

 

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次回 第三話「レオリオの野望」



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第三話「レオリオの野望」

 リュックをなくした。気付いたのは仕留めた豚を焼くときだった。たぶん、湿原の地下通路出口に置いてきたままなんだろう。残ったのはナイフと携帯電話だけで、替えの下着までなくしてしまったのは、何よりもエリスに申し訳ない

 

 あれだけ激しい戦いでも、携帯電話は壊れてなかった。頑丈さを第一に選んだかいがあったのだろう。こうでないと、貧者の薔薇を起爆する時、電話を探して右往左往する羽目になりかねない。それではあまりに愚かすぎる。

 

 仕方なくよく乾いた枯れ木と落ち葉を探し出して、原始的な方法で火を着けた。まあ、これ自体は大した手間じゃない。能力で無理矢理動かしている体にも負担ではなかった。グレイトスタンプを仕留めるのはエリスが二人分やってくれたし、僕の方が彼女にサポートされてる気になってくる。

 

 そうやって、前半戦を難無くクリアすると、元気な少年二人組に話し掛けられた。

 

「あら、ゴンくん」

「ん? 知り合いかい?」

 

 なんでも、僕がヒソカと戦ってるとエリスに教えてくれたのが彼等らしい。特に、ゴンという少年は人間離れした野生児で、その優れた聴覚で戦闘の様子を大まかに把握できたそうだ。そうであるなら、彼等は僕の命の恩人という事になる。

 

「そうだったのか。ありがとう。君達のおかげでこうして生きてる」

「わたしからももう一度お礼をいうわ。本当に、ありがとう」

「うん、どういたしまして」

「あんた、すげーな。あのヒソカと戦ったんだろ?」

 

 キルアという少年は言葉とは裏腹に、自分に対する自信に満ちあふれていた。『あんたもすごいが、オレもすごいよ』と。そして、それは確固たる実力に裏付けられての事らしい。この歳でこの体裁きができるとは、末恐ろしいにもほどがある。陰と陽に別れてるが、二人とも、戦慄すべき才能だった。

 

 彼らと話してるうちに試験官の説明が始まって、どうせだからと、二次試験後半は一緒に挑戦する事になった。彼等曰く、仲間がもう二人ほどいるらしい。

 

「どうも、はじめまして」

「よっしゃ! ゴンでかした!」

 

 常識的な挨拶をするクラピカ、ガッツポーズをとるレオリオ。二人とも一通り自己紹介をすませてから、試験の攻略に取りかかった。いや、取りかかろうとしたのだが。

 

「なあ、アルベルト。お義兄さんって呼んでもいいか?」

 

 肩を叩かれ、いい笑顔のレオリオに尋ねられた。もう片方の手でサムズアップ。彼の意思はよく分からないが、とりあえずサムズアップを返しておいた。

 

「別に呼称にはこだわらないから構わないが、どうしてか聞いてもいいかい?」

「おいおい、つれないな。素敵な妹さんじゃないか」

 

 ちらりとエリスを見るレオリオ。

 

 僕とレオリオ以外の面子はといえば、クラピカを中心に、酢と調味料を混ぜた飯に、とか、新鮮な魚肉を加えた、とか、魚? 川から捕ってくっか、とか、あーだこーだと議論している。その中に混ざっているエリスは目立っていた。確実に周囲の視線を集めている。大多数が男で占められたこの試験で、ドレスで着飾った女がいれば当然のことだ。

 

 なるほど。僕を義理の兄と呼びたいというレオリオの言葉の意味は分かった。それが吊り橋効果だろうが掃き溜めに鶴だろうが、魅力的に見えれば求愛する。年中通じて繁殖期である人間には、いかにもふさわしい行為だろう。パッと見、レオリオは不潔そうな風体でもない。衛生面の問題はないと推測できる。性格も、個人的には好感が持てる。

 

「エリスの同意があれば異論はないよ。まっててくれ。本人に尋ねてくる」

「あ、おい! ちょっと!」

 

 僕に恋愛感情はない。肉体が本格的な生殖本能に目覚めるより早くマリオネットプログラムを身につけてしまった影響で、性欲とそれに起因する異性間の愛情や子孫を残したいという願望が実感として理解できない。これは他の生理的欲求とは根本的に異なっている。食欲や睡眠欲は昔の事とはいえ、実感として理解していた頃のデータを再現可能状態で保存している。単に念能力で統制しているだけだった。

 

 しかし、性欲は前提が違う。知識では知っていても実感できない。僕に分かるのは幼児的な好きか嫌いかという単純な好意と、その強固なものとしての家族愛だけだった。しかし、だからといって他人の恋愛感情を否定するつもりはさらさらない。エリスがレオリオとの生殖行為を望むのであれば、僕は喜んで祝福しよう。

 

「エリス、レオリオと恋愛してみるつもりはないか?」

「レオリオさんと?」

 

 突然の提案に戸惑ったのか、エリスは目をぱちぱちと瞬かせ、やがて何かに思い当たったのか、レオリオを招き寄せて内緒話を始めた。ぽりぽりと頬をかいて困ったように話すレオリオ。合点がいったのか、クスクスと笑うエリス。ちらりと僕の方を見たその目は、困った人ねと言ってるようだった。

 

「アルベルト、レオリオさんはお友達よ?」

「つまり、恋愛感情に発展する可能性は低いという事かな?」

「ええ、そうね。ごめんなさいレオリオさん。アルベルトが失礼な事を言ってしまって。こういう人なの。悪気はないからゆるしてあげて」

「ああ、また、何かしでかしてしまったかな。確かに悪気はなかったけれど、もし不快になったのなら謝罪したい。すまなかった」

「お、おう」

 

 僕が頭を下げると、レオリオは困惑した表情ながらも許してくれた。気のいい人のようだった。

 

「でも、何でまた突然そんなことを?」

「うん、エリスもそろそろ年頃だと思い当たったからね。世間的には、いい男は早めに捕まえておいた方がいいそうだよ。見る限り彼はいい男だ。少なくとも僕は好みだと思う」

「アルベルトの好みにまかせたらヒソカみたいな人と結婚しなきゃならないじゃない。それに、いい男ならもう捕まえてるのよ」

「そうか。知らないとはいえすまなかったね。エリスの選択なら間違いはないだろうけど、兄として顔ぐらいは知っておきたい。今度僕にも紹介してくれないかな」

「そうね。考えておくわ」

 

 腕に抱きついてにこにこするエリス。頬が少し赤い。腕に伝わる心音などの諸元からは、体長不良というわけではないようだった。

 

「どうした? 急に抱きついたりして」

「捕まえてるのっ」

「そうか」

 

 意味はよく分からないが、エリスが満足ならそれでいい。

 

「諦めろレオリオ」

「ありゃぜってー無理だって」

 

 ところで、クラピカとキルアはなぜレオリオの肩を叩いているのだろうか。ゴンに視線で尋ねても、困ったように目を逸らされた。

 

 

 

 いつまでも関係ない話題に花を咲かせているわけにもいかないだろう。ニギリズシの試験は一見して料理の知識を問うものだが、その内実は大胆かつ的確に抽象化された情報ハントそのものだった。試験官のちりばめた情報を頼りに、未知の料理という名の獲物を捕獲せよという事だろう。流石はシングルハンター。いい試験だ。エリスに経験を積ませるにもちょうどいい。

 

 僕達は多人数の利点を活かすため役割分担を決め、三十分後に合流する事にした。具体的には、ゴンとレオリオが魚の調達、残りの各自が各々情報を集める担当だった。

 

 そして、三十分後。

 

「酢と調味料を混ぜた飯に新鮮な魚肉を加えた、っていうとこうなるよな」

 

 キルアが持つ皿にこんもりと盛られたのは、刻んでソテーした魚肉を飯に混ぜたものだった。試食してみたが味は悪くない。メンチのもつ皿に注がれていたのと同じ、大豆の醗酵ソースをかけるとうまかった。冷たい飯と温かい魚肉ソテーの温度が混じりあい、まだらなぬるさを演出するのが気になったが。

 

「いや、それだと試験官のスタイルにあわない。料理を待つ格好を見るに、恐らく完成品は一口大だろう」

 

 クラピカの指摘はもっともだ。僕は自分のデータベースの中から、使えそうな知識を提供する。

 

「ジャポン発祥の携帯食にオニギリライスボールというものがあったはずだ。こうやって、ご飯を握り固めて手で持って食べるらしい。サンドイッチみたいなものかな」

「よし、やってみよう」

 

 ゴンが怪力を活かしてぎゅっと握る。たちまちのうちに空気が抜け、かつて飯だった塊が残った。なるほど。ニギリズシという名にふさわしい。

 

 が、まずい。食感がやばいぐらいネチネチしてる。

 

「握りすぎじゃないかしら? もっと量を少なくして、軽く握る感じにしてみたら?」

 

 エリスがいう。彼女の料理の腕はかなり高い。そんなエリスの直感なら、かなりの信憑性があると見ていいだろう。

 

「だーかーらー。お前ら、レオリオスペシャルを無視するなよ」

「却下だ」

「明日がありますよ、レオリオさん」

「えっと、あはは……」

「つーかそんなに自信があるなら勝手に見せに行けばいいじゃねーかよ」

「おう、行ってくらぁ!」

「……あれって、中身は寄生虫だらけだけどね」

 

 ちなみに僕が試食した実体験である。食べたのが消化器内に円を展開したり体内に向けて念弾を飛ばしたりできない人間なら確実に大騒ぎになっていたと思う。あれ食わされたら試験官ぶちきれるんじゃないかな。

 

「ま、それはそれとして。やっぱり全体的に温くなるのが気になるね」

「素材が魚って前提は間違ってないの?」

「大丈夫だ、恐らく間違いないだろう。先ほどからマークしているハンゾーという受験者だが、彼が調達した食材は明らかに魚に片寄っている」

 

 クラピカの視線の先には、キョロキョロしながら必死に笑いを堪える受験者がいた。彼は先ほどからずっとあんな感じだ。きっと、本人は知らない振りでもしてるつもりなんだろう。

 

「なんかもうさ、あいつ拷問しちゃうのが手っ取り早くねーか?」

 

 キルアが僕とハンゾーを交互に見ながらいう。相当頭に来てるようだ。その気持ちは分かる。そういう意味で頼りにされてもあまり嬉しくなかったりするが。

 

「うーん。いっそ魚とご飯をわけてみるのはどうかな。こんなふうに」

 

 ゴンが掌の上に握りこぶしを置いて提案した。魚肉の上に握った飯をのせるというのだろう。いいアイディアだ。加えるといっても、なにも直接混ぜることに執着する必要はないわけだ。試作してみる価値はある。

 

「どうせなら天地を逆にした方がいい。その方が熱が移りにくいはずだ」

 

 新しい魚肉ソテーを用意しようとフライパンを火にかけるエリスに、僕は熱流束の観点から提案した。暖められた空気分子は重力の影響が相対的に小さくなり、統計的に上昇する傾向となる。簡単な理屈だった。

 

「いや、ちょっとまってくれ」

「おかえりなさい、レオリオさん。どうでした」

「だめだった。世界が俺に追い付く日はまだまだ遠いわ。いや、それよりよ。なんか生の魚肉を使う料理っぽいぜ」

 

 レオリオ曰く、帰りにハンゾーとすれ違ったが、その後で目をやった彼のスペースには、火を使った形跡が微塵もないと言う。また、試験官のメンチもレオリオスペシャルの形にこそ論外の評価を下したものの、素材が生のままだった事には触れなかったそうだ。生のままというかレオリオのあれは元気にピチピチ跳ねていたが。

 

 確かにハンゾーはフライパン等を用意していなかった。単に周囲を見て笑うのに忙しいのかと思ったが……。しかし、魚を生で食べるとは。キルアなど露骨に顔をしかめている。一方でゴンは割と平気そうだ。

 

「こんな感じか?」

 

 とりあえず、クラピカが手近な食材で簡単に作った。手の中で軽く握った一口サイズの飯にスライスした魚肉を生のまま載せて、形を全体的に整えてあった。見た目はそれほど奇怪ではない。民族料理として『あってもいい』とは思う。ハンター試験の課題にしては、いささか簡単すぎるような気もするが。

 

 と、そのとき。

 

「メシを一口サイズの長方形に握ってその上にワサビと魚の切り身をのせるだけのお手軽料理だろーが! こんなもん誰が作ったって大差ねーべ!」

 

 クラピカが自分の手元を見る。近い。凄く近い。そして全く意味がない。

 

 全てが無駄になった瞬間だった。

 

 結局、紆余曲折の末にマフタツ山の山頂から紐なしバンジーを敢行する事になるのだが、ヒソカとの戦いで痛んだ僕の体には、少しだけ負担が大きかったとだけ記しておく。

 

 

 

次回 第四話「外道!恩を仇で返す卑劣な仕打ち!ヒソカ来襲!」



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第四話「外道!恩を仇で返す卑劣な仕打ち!ヒソカ来襲!」

 初弾命中。体内炸裂、——発動。撃破確認。体内データ異常無し。環境データ微修正。次弾装填。投射。

 

 掃射される飛礫の嵐。絶叫を上げる人面鳥。念で強化および操作された石塊を喰らって無事で済むはずもなく、重力に負けて大地に次々と吸い込まれていった。蜘蛛の糸を切られた亡者達のようだなと、なんとなく、その光景をみて考えた。

 

 襲われかけた受験者が蒼い顔で戻ってくる。幸い目立った外傷はなく、人面鳥も既に遠巻きに眺めるだけだったが、念のため、トリックタワーの外壁をもう少し砕いて予備弾を確保しておく。一流のロッククライマーを自称するだけあって、こんな状況でも速く、しかし焦らず的確に壁を掴むのは流石だった。

 

 すぐに頂上まで辿り着いた彼に、ありがとう、ありがとう、とこちらが困惑するほど頭を下げられた。実のところ、僕に感謝されるいわれはない。横から手を出したのは、エリスに必要ない人死にを見せたくなかったから。それだけだ。

 

 しかし、これで実際に確認できた。僕のコンディションは悪くはない。昨晩、飛行船でじっくり休めたのが大きかった。完全回復まで、もうしばらくといった所だろうか。

 

「どうする? 降りようか?」

 

 今し方一人の受験者が食われかけた外壁を見下ろして、僕はエリスに尋ねてみた。その背から生み出される翼は、本来空を飛ぶためのものではないが、しかし飛行するという機能を立派に果たす程度の融通は効いた。この程度の高所から滑空して軟着陸するぐらい、彼女にとっては容易いだろう。もっとも、能力の発動自体がリスキーなのだが。

 

 僕の方も問題はない。指の筋力を強化するなり、指先のオーラを鍵爪状に変化させるなり、外壁を伝う方法はいくらでもあった。なんならエリスを背負ってもいい。怪鳥も、念能力者の前では小鳥に等しい。加えて、七十二時間という制限時間。少々オーラを消費した所で、回復に困る道理がない。ヒソカ戦でのダメージを考えても余裕があった。しかし……。

 

「別の道を探しましょう? 飛ぶと目立っちゃうし、なにより、あまりズルはしたくないわ」

 

 友人知人と対等でありたいのだろう。稚拙だが、とても純粋な願いだった。エリスの意見を採用する理由はその一言で十分だったけど、あえて付け足せば、外壁攻略は試験の裏事情という面からみても難があった。

 

 なぜなら、この試験は明らかに外壁以外のルートで攻略することが試験官の思惑と推測できるからだ。この程度の高さの壁面を伝って降りるのに、七十二時間という設定は過剰だった。であれば、正規の道であるはずの塔内部を進ませたい試験官からすれば、外壁ルートはかなりリスクの高い設定にしてあるはずだった。それが怪鳥以外の直接的障害などであればまだいいが、最悪なのが試験の評価そのものに関わるリスクだった。この試験自体は下に降りればクリアだそうだが、今後仮に、同着者の振り落としやシード権の選考、ハンターライセンス取得後の初期評価などに関わってくるなら話は異なる。

 

 そしてもう一つ。

 

 ちらりと後ろを伺ってみる。そこには例の奇術師がいた。外壁攻略が僕程度の念能力者で容易いのなら、ヒソカにはもっと容易いだろう。粘着性のオーラも大いに役立つ。再戦を求めて追ってこられたら、どう見ても僕に不利だった。

 

 さて。塔内部から攻略するなら、侵入口を開けるか隠し通路を見つける必要がある。足下へ向けて円を展開しながら歩いてると、ゴン達のグループに声をかけられた。

 

「隠し扉があと一人分?」

「うん、あるみたいなんだ」

 

 足下に深く円を伸ばした所、それら五つの穴は十メートルほど下にある単一の部屋につながっていた。彼等の話も総合すると、五人用のルートといった所だろうか。エリスと目を合わせる。ゴン達なら人格的にも能力的にも、妹を任せるのに不満はなかった。

 

「エリス。僕はいい機会だと思うけど、どうする?」

 

 しかしエリスは首を振った。

 

「残念だけど、遠慮するわ。心配だもの。アルベルトを一人にすると、きっとまた無茶をするんだから」

 

 ヒソカのいる方向に視線をやって彼女は言った。

 

「ごめんなさい。そういうことだから、二人で進める道を探すわ」

「仕方ないな。んじゃ、俺達はさっさと行くとしますか」

「どれを選んでも恨みっこなしでね」

「みんな、地上でまた合いましょう」

「おうよ」

「じゃーな」

「そちらも気をつけて」

 

 エリスと二人で、次々に消えていくゴンに手を振る。まあ、十メートル下で合流するはずの運命だが、それは詮無き事だろう。しかし……、あと一人、か。

 

「エリス、同じような入り口が他にもあるはずだ。手分けして探そう」

「そうね。そうしましょう」

 

 エリスに先にいかせて、僕は携帯電話を取り出した。ヒソカ宛のメールを作成し、送信する。彼等の、特に二人の少年の資質は、きっとヒソカのお眼鏡にかなうはずだ。僕と戦ったときの記録から見て、奴には才能や将来性を愛する傾向がある。ヒソカの視線がこちらを向いたのを確認して、この場所からの去り際に爪先でコツンと床を蹴った。

 

 名付けて、奇術師の興味を分散しよう大作戦。

 

 現在の実力差からして、彼等が殺される事はないだろう。気に入られれば、の話だが。それに、ヒソカみたいなのと関わる事も、ハンター志望の少年にはいい経験だよね、と心中で誰に聞かせるでもなく言い訳した。

 

 

 

 結局、一次試験の時にエリスと一緒にいたポンズという帽子の少女、そしてポックルという小柄な男と共に五人向けの部屋に向けて飛び込む事になった。どうやら我が妹君は、僕がヒソカとどつきあってる間に随分と幅広く交流していたようで、兄としては喜ばしい限りである。

 

 残る一人として降ってきたのは、受験番号303、体中を待ち針状のピアスで埋めた男だった。彼もまた念能力を使えるようだが、これまではお互いに暗黙の了解で不干渉の立場を貫いていた。途中からはヒソカの対処に忙しくてそれどころではなかったのが本音だが。

 

 しかし、同じルートを歩むとなればそうは行かない。最低でも意思を明示的に確認しておく必要がある。

 

「やあ、どうも。アルベルト・レジーナです。よろしく」

『基本的に不干渉でいいですか?』

 

 一歩踏み出し手を上げて挨拶、と見せ掛けてファントム・ブラックを掌に具現化する。頷く彼。周りからは僕の挨拶に返しただけに見えただろう。とりあえず今はこれでいい。

 

 しかし彼については、その言動の全てを記録しておく事にした。必ずしも用心のためだけではない。むしろ、僕自身の向上のためだった。ヒソカと戦ったあと、キルアやハンゾーといった裏の世界の出身者達を見て考えた事がある。今まで僕はハンターとしての体の使い方ばかりをインプットしてきたが、もしかしてそれは、あまりにも視野が狭すぎたのではなかろうか、と。今後のためにも、是非とも彼等のデータを入手しておきたかった。

 

 そしてそんな裏出身の受験者達で頂点に立つのが、恐らく303番なのだろう。当初は念能力者としてしかマークしてなかった彼だが、動きを分析して驚いた。体裁きは擬態も含めて極めて高度なものだった。できれば直接戦ってみたい。そんな想いさえ抱いた自分に対して、ヒソカに毒されているなと苦笑した。

 

 

 

 裏切りの道。僕達に課された試練はそれだった。なんともおどろおどろしい名前だった。どうやらこの試験の発案者はかなり陰湿なようだった。まあ、いざとなれば裏切らせてあげればいいのである。僕達の試験内容は地上に辿り着く事なのだから。

 

「ま、始める前から気にしても仕方ないや。とっとと進もうぜ」

 

 ポックルの気楽な提案に同意して僕達は通路を進み出した。とりわけ変わった様子はない。僕と303番は円を展開してあちこち舐める様に走査しているが、壁の内部にも少々の罠があるだけで、これといって特異な仕掛けも存在しなかった。隠し扉や分岐すらない。なお、罠については先頭を進むポックルが大いに張り切って解除していったので、僕達が指摘する回数は最小限で済んだ。ありがたい事である。

 

「おや? 広い部屋だぜ」

 

 一辺が五十メートルほどの部屋の正面には頑丈そうな扉があり、その隣に何らかの装置と端的な言葉があった。

 

『扉の鍵はプレート一枚』

 

 なるほど。裏切りの道か。

 

「そういう事ね。悪趣味だわ」

「プレートを失ったら失格ってルールはあった?」

「無いけど、去年は第3次試験でプレートの奪い合いをしたわね。今年も似たような試験が控えてないとは言い切れないわ」

 

 ポンズが少し不安そうにいう。ポックルは辺りを見渡している。広い部屋。開かない扉。少々あからさますぎる気がするが、まあ、戦えという事なんだろう。ハンター試験に挑む受験者達がこんなところで足踏みするはずがない。そしてその想いを嘲笑う様に、戦った事を後悔させる仕掛けがこの後に待ってる。

 

「おい、いいか。オレは……」

「ちょっと待った。議論はこの部屋をクリアしてからにしよう。その方が集中できていいだろう?」

「え? できるの?」

 

 ここで取り乱されても無益だ。安心させるため、ポンズの疑問には頷いておく。303番は無言だ。その役は僕が引き受けろという事だろう。まあ、異論はない。僕は正面の扉を無視して部屋の中央辺りの床を調べ、予想された仕掛けを発見した。

 

「つまり、扉を開けても進むべき道があるとは限らないという事さ」

 

 跳ね上がる床板。現れる隠し階段。カクンと落ちる3人の肩。

 

「大喧嘩の末、誰かのプレートを犠牲にして扉を開ける。でもそこには通路がない。大慌てで辺りを探したらノーコストで開けられる隠し階段。険悪になるよね?」

「ほんっと! 悪趣味っ!」

 

 エリスの叫びが、彼らの心を代表していた。

 

 しかし、これは前座だろう。こういう甘い条件の部屋を見せられると、次からも同じ傾向を期待する。だからこそ必ずあるはずだ。本当に、誰かを犠牲にしなければならない難関というものが。

 

 もっとも、試験官の思惑通りにいけばの話だが。

 

「階段を降りた途端に分岐ばかりで罠がないのね」

「全くないのも無気味ね。なんでかしら?」

「簡単さ。分岐があった方が意見が分かれていいだろう? 罠は、今までの一本道に沢山あったのは共同作業をさせてメンバーの絆を深めさせるためだろうね。裏切りのショックがより効果的になるように。今後は、忘れた頃に僕達に負担をかけるための罠が現れるはずだ。だから、二人ともポックルを頼りにしてやってくれ。彼の調子次第でこの迷宮の難易度が変わってくる」

「わかった。まかせて」

「ええ、それがアルベルトの頼みなら」

 

 必要ない所で面倒な事にならない様に、あらかじめ女性陣をポックルにけしかけておいた。分岐点では目立たない箇所にファントム・ブラックで目印を付けておく。このような使い方は苦手な能力だけど、風雨の影響のない室内で他人のオーラに干渉されなければ数時間位はなんとか持つだろう。

 

 それにしても303番。彼は念・体術共にとても凄い。総合的にはヒソカと同じレベルじゃないだろうか。増々その技術が欲しくなる。いっそこちらから積極的に話し掛けてみるべきだろうか。

 

「悪いけど、ちょっといいかな?」

「……キルア」

「え?」

「キルアとは、友達なの?」

 

 思ったより若い声だった。声紋解析は20歳から25歳程度の男性と分析している。

 

「どうだろうね。少し話はしたから知人ではあるだろうけど」

「……そう」

 

 キルアの関係者なのだろうか。その態度はあまりに素っ気なくて掴みにくい。

 

「で、なに?」

「ああ、良かったら体術を少し見せてほしいと思って。もちろんお礼はする。アマチュアだから予算にあまり無理は利かないけど、僕に払える対価で教えてもいい技術があれば是非頼みたい」

「見せるだけでいいの?」

「もちろん。修得するのは自分でやる」

「暇な時で、有料ならいいよ」

「ありがとう。本当に助かる。あ、これ僕の連絡先」

 

 想像していたより気さくな人物のようだった。303番、ギタラクルと名乗った彼と携帯番号を交換した僕は、思わぬ幸運に感謝した。

 

 

 

次回 第五話「裏切られるもの」



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第五話「裏切られるもの」

 極論すれば、試験官は蹴落とすために存在するのであり、受験者は蹴落とされるために存在するのである。トーナメント戦で敗者が脱落するのが当然なように、裏切りの道と名付けられたこの試験も、割り切ってしまえばそれとなんら変わらない。トーナメントで負ける人間が悪いように、ここでは裏切られる人間が悪いのだ。

 

 しかし、裏切るには相手が必要である。僕たちは協力しなければいけないのだ。裏切るべき時に裏切れるよう、できる限り仲良く攻略しながら、水面下でタイミングを見極めなければならないのだろう。

 

 現状、リスクなく裏切れるのは二人だけ。これから控える関門が、裏切られた人物の試験続行に支障がないものばかりである筈がない。仮に二人とも不可逆的状態に追いやってしまったら、三人目から先はギタラクルとの戦闘を覚悟しなければならないことは自明だった。二人しかいない貴重な裏切られ要員をいつ使うか。どれだけ二人を裏切り尽くせるか。いかにして二人で済ませるか。それが僕に課せられた命題である。

 

 というのが、試験官が考えたこのルートの正攻法だと推測される。

 

 まあ要するに、僕は正攻法で攻略する気はさらさらないのである。強いていえば最後の手段。保険扱い。精々そんなところだろうか。しかし、それは正義感に起因する選択ではなかった。

 

 そもそも、僕は裏切りの道に反感を抱いてない。ハンター試験の課題としては、これは適切な内容だと思っている。試験官の立場に立ってみれば、実戦に近い環境で、総合的な能力を評価できる。心身のタフさ、冷静な判断力、状況把握力、対人技能に戦闘能力。その上、受験者にとっては精神的な予防注射にもなる。現実のハントで裏切り裏切られる前に、試験という危険が比較的少なめの環境下で、あらかじめ予行練習できるのだ。試験官個人の嗜好を除外すれば、実に考え抜かれたいい試験だった。だが、それだけに。

 

 もし仮に、この試験をクリアできる人数の上限が、わずか一名に設定されていたとしたら?

 

 裏切りの道で、裏切られる側が常に一人とは限るまい。どうでもいい人物ではなく、絶対に裏切りたくない人を裏切らせる事こそ、この試験の真の趣向だろう。その意味では、僕達がこの道を選択したとき、試験官は小躍りしたはずなのだ。

 

 たとえ試験とはいえ、エリスに僕を裏切らせたくなかった。だから早いうちに対処する。僕が正攻法をとらない理由はそれに尽きた。彼女のためなら喜んで脱落しよう。しかし、きっとエリスは、裏切りを良しとしないだろうから。

 

 裏切りを演出したければすればいい。裏切りたい受験者は裏切ればいい。僕はエリスに別の選択肢を用意しよう。彼女が裏切らなくて済むように。

 

 

 

 二番目のポイントは実にあっけなく通過できた。誰か一人の衣服全部を捧げろと主張する扉の鍵は、しかしその要求を満たす前に、ポンズが発見したカードキーにより無力化された。発見の難易度は一つ前よりはるかに低い。確実にわざとなのだろう。都合のいい裏技のないポイントでも、希望に執着して仲間割れするように。

 

 だが、そこから先がくせものだった。

 

「また分岐……? いったい何時になったら次の場所に着くのかしら」

 

 ポンズが心底うんざりして溜め息をこぼした。先頭のポックルにも焦りが見える。だが現状、彼の進路選択は致命的な間違いを犯してない。オートマッピングの報告する所によるならば、僕達は確実に未知のエリアを開拓している。ポックルの勘は的確だった。優れた嗅覚とでもいうのだろうか。ハンターとしてよほど素晴らしい素質を持っているのだろう。

 

 しかし、同じような分岐をしつこく見せられ続けると、どうしても不安になるのが人間である。第二ポイントと第三ポイントを繋ぐ通路の距離は、それまでより遥かに長いようだった。これも揺さぶりの一つだろうが、実現するためには塔の全体的な構造を考慮して計画しなければならない大掛かりな仕掛けだ。ここまで演出に凝る試験官であれば、僕の撒く餌にも食い付いてくれるかもしれない。

 

「よし……、今度は右だ」

 

 その場でしばらく思案したあと、思い切った表情で彼は言った。

 

「右ね。わかったわ。……大丈夫よ。まだ前の部屋を出てから五時間しか経ってないもの。リミットは七十二時間もあるんだし、これくらいかかって当然なのよ。のんびりいきましょう。ね? ポンズも」

「ああ、すまない。大丈夫だ。焦って失敗なんてつまらない事はしないさ」

「そうね、ごめんなさい。私もちょっと軽卒だった」

 

 この場所にもファントム・ブラックで目印を付けてから、ポジティブに先を進む三人の後ろをついて行く。とりあえず手っ取り早い方法として要所ごとにマーキングを施しているが、これだけではいささか心もとない。他にも何か考えるべきか。

 

 そして、僕の様子を静かに見つめるギタラクル。彼にはそろそろ、悪巧みの相談をした方がいいのだろうか。

 

 彼と小声で相談しているうちに分岐。すぐその後に分岐、上下左右、階段と分かれ道の組み合わせ。そんな通路を進んでく途中、とある分岐に差し掛かった所で、ポックルがふと立ち止まった。

 

「風が鳴いてる。何かあるぞ」

 

 結論からいえば、その予感はまさに現実となった。

 

 

 

 部屋の壁面には金属製の無骨なレバー。隣には感電注意と大書きされた虎柄の看板。そんな、誰もが躊躇するであろう身体機能の根本に関わる凶悪な仕掛けは、ギタラクルによって一瞬で解除された。唖然とする僕達に目をくれず、開いた扉の先を見つめたギタラクルは、しかし微かに顔をしかめた。

 

 扉の向こう、少し進んだ通路の先に、今よりも大きな広間があった。二重関門。なんともまあ、心に揺さぶりをかけたがる事だ。

 

 その大広間には床がなかった。上を仰げば天井も見えない。深い深い奈落への入り口。そんな大穴に四方を囲まれた中央に、闘技場と思しき円盤がある。直径が八十メートルはあるだろうか。巨大な空間に浮かぶリング。そこには、多くの男達が控えていた。

 

「ようこそ! 百対一デスマッチへ!」

 

 中央に佇む大男が叫んだ。彼がリーダー格なのだろう。粗末な上下を着た集団の中でも、人を率い慣れた輝きがあった。

 

「これより諸君の中から代表者を選び、我々全員と戦ってもらう! 選抜は抽選! 武器の使用は禁止であるっ!」

 

 咆哮する大勢の男達。それは間違いなく歓喜だった。野獣のような、と形容してもいいような。

 

「勝利条件は我々全員の打倒か降参! 死ぬかギブアップすると敗北となる! 死亡した場合は次の代表者の選出に入る! ただし! ギブアップした場合は当人のみこの場所の無条件通過権が与えられる! その際、残りの諸君は試験終了までこの場で拘束される! 何か質問は!?」

 

 僕は片手を上げて一つ尋ねた。

 

「抽選で選抜された者が試合前に行動不能になっていた場合は?」

「その場合っ! ハンター試験の棄権を宣言済みか死亡していれば再度抽選をやり直す! そうでなければ気絶していても試合に参加してもらおうっ!」

 

 よくぞ聞いてくれたとばかりに男が答える。なるほど、彼等の考えは大体分かった。僕かギタラクルであれば屈強な男を同時に百人相手にするのも至極容易い。だが、僕達は最後まで選ばれない。最初に抽選で選ばれるのは、十中八九エリスかポンズ。そしてもし戦闘になった場合、デスマッチと称しながら死なせるつもりは微塵もない。ギブアップするまでは時間一杯、適当に玩具にするつもりだ。もしかしたら、ギブアップすら許さない算段かもしれないが。

 

 つまり結論を言うならば、戦闘に長けた僕とギタラクルに仲間を裏切らせるのが、この関門の隠された主眼だろう。

 

「では抽選に入る!」

 

 男が麻袋の中から取り出したのは、やはりと言うかなんと言うか、エリスのナンバーを示す札だった。皆に僕の推測を説明する。ポックルは怒りに顔を赤く染め、弓と矢をきつく握り締めた。ポンズの眼光は激情に染まり、帽子を爪弾いて蜂を静かに呼び出した。二人ともエリスの裏切りを懸念しないどころか、妹のために怒ってくれる気持ちはとても嬉しい。が、当のエリスといえば、無表情で男達を見つめている。

 

「なんなのよ、あいつら! エリス! 気にする事はないわ! 待ってなさい。今すぐ全員始末してあげるからっ!」

 

 念能力も使わずそこまで蜂を操るポンズの技量は見事だ。しかし……。

 

「アルベルト」

「ああ」

「纏を解くわ」

「……あまり無茶をするな。お前の情報も、気軽に晒していいものじゃない」

「ごめん、お願い。許せなくて。命がけの厳しい試験内容を課すのはいいけど、こんな嘲笑うみたいなのは違うと思う。だって、今年だけで沢山の人が亡くなってるんだよ!?」

 

 エリスの怒りは正当だが未熟だ。理不尽に対処する能力を測る試験。嘲笑に耐える冷静さを評価する試験。それらは成立して当然だろう。ハンターとして社会の荒波に晒されれば、そんなもの、日常的に待ち受けている。

 

 それでも。

 

「わかった。エリスが望めば否やはないさ」

 

 最愛の妹の髪の毛に、ぽんと手を置いて僕は言った。呆然とするポックルとポンズの間をとおって、エリスは現れた通路を渡って行く。

 

「お前っ! 見損なったぞこの野郎!」

「そ、そうよっ! あんたあの子のお兄さんなんでしょ! 止めなさいよ!」

 

 二人の危惧はもっともだ。エリスの体術は戦力にならない。たとえ念が使える事を鑑みても、彼女の勝ちは難しかった。エリスの発は大技専用で、この状況下にはそぐわない。対多人数戦闘の経験も技能もない。このような場合、群れに突っ込み掻き回し、主導権を握り続けることが常道だが、エリスの状況把握力では不可能だった。普通にやれば押しつぶされる。それが絶対の真実だった。だが。

 

「ありがとう。その気持ちは本当に嬉しい。でも大丈夫、あいつは勝つさ。必ずね。それより、僕達の後ろに隠れて、少しの間じっとしていてほしい。あと……、できればでいい。エリスをどうか、あまり怖がらないでやってくれないか」

 

 言って、僕は沈黙を貫くもう一人の人物に視線を向けた。

 

「ギタラクル」

 

 無言で続きを促される。

 

「携帯が圏外だ。振り込みは後でするから頼まれてくれ。僕達の堅で二人を守る。五百万でいいかな?」

「ケン?」

 

 疑問の声を上げるポックルを、腕で後ろに下がらせる。ギタラクルが頷くのを確認して、僕達は並んで体勢を整えた。そのとき、彼から小声で尋ねられた。

 

「練?」

「素だよ。エリスは練を修得してない」

 

 その意味は、きっともうすぐ分かってしまう。

 

「お待たせしました」

「ギブアップはするかい、お嬢ちゃん?」

「いいえ。合図はまだです? それとも、もう始めてもいいのかしら?」

 

 闘技場についたエリスは、無表情のまま相対した。舌舐めずりをする男達。勝利を確信した顔だった。背中から歯ぎしりが聞こえてくる。狼の群に襲われる哀れな子羊。眼前の光景は、それ以外の何かには見えなかった。男の一人が、ニヤニヤしながらコインをトスする。試合開始の合図だった。

 

 コインが地面と衝突する。百人の男が殺到する。佇んだままのエリスが、寂しそうな微笑みを浮かべた。

 

 纏。

 

 自然状態で垂れ流しになっているオーラを肉体に留める念の技術。エリスのそれは、その実、絶との複合技に近かった。それが解かれた。それだけで、ただ、それだけだった。

 

 見よ、蒼ざめた馬がやってくる。

 

 吹き荒れる生命エネルギー。垂れ流すだけで圧力をもつオーラ。地上に咲いた新しい恒星。今の彼女に比べたら、暴風雨の方が優しいだろう。次々と倒れ、吹き飛ばされ、あるいは嘔吐する男達。人の纏っていい威圧ではない。人の世にあっていい理ではない。単純に存在の尺度が違う。たったそれだけの事実である。

 

 こんな、どこにでもいる小娘が。

 

 加速する重圧。あまりにも暴虐。ドレスの裾が翻り、母親の首飾りがそよいで踊る。何の事はない。自然に垂れ流されるオーラだけで、物理干渉するほどの圧があるだけである。念を使えない一般人が、この中で生きていけるはずがなかった。

 

 尽く敵が倒れたのを確認して、エリスは一つ深呼吸した。途端、暴れ狂っていた生命力が、彼女を中心に収束する。自らのオーラを制御できる強固な纏。彼女が師匠から教わり鍛え上げた念の技術は、ほぼ全てがこれを実現するためだった。

 

 男達は辛うじて生きてる。肉体的には無傷だろう。精神も、しばらくすれば回復するに違いない。しかし、これだけは言える。エリスが纏をするのがもう少し遅かったら、彼等は確実に死んでいた。

 

 人は、微笑みで殺せるのだ。

 

 

 

 戦いとも呼べぬ戦いが膜を閉じた後、エリスが闘技場に渡った通路が再び現れ、僕達はこの広間を突破することを認められた。おそらくは試験官が見ていたのだろう。途中、確認した男達は思い思いに倒れ、気絶し、悪夢にうなされてはいたが、死傷者は一人もいなかった。

 

 しかし、エリスが無傷で本当に良かった。

 

 あれは実のところ、あまり戦闘向きな力ではない。ある程度の纏か堅があれば防げるし、同じように貫けもする。正味の攻撃力も大した事ない。エリスは流どころか凝もできないのだから。それでも、彼等の心を折るには十分だった。いざ、万が一の事があれば念弾で援護するぐらいは迷わずしたのだが、懸念で済んだのが嬉しかった。

 

「なんだったんだよ、あれは……」

「そうだね。ハンター試験に受かれば分かるさ。今教えられるのは、それだけかな」

 

 宥めるようにポックルにいう。彼は、そしてポンズも真っ青だった。僕達の背中に隠れていても、相当ショッキングだったらしかった。それでも、エリスを避けないのがありがたかった。むしろ彼等の方から積極的に、エリスに話し掛けてくれている。妹は本当にいい友人を持った。

 

「……あれ?」

「どうしたの?」

「いや、ちょっとな。この場所、さっきも通った気がしたんだが……、いや、まてよ?」

 

 分岐点に来た時だった。ポックルが突然立ち止まった。何か違和感があるのだろう。腕を組んでじっと考え込んでる。裏切りの道という状況で仲間に素直に相談できる人格。違和感を的確に拾い上げられる直感力。それを気のせいと断じない判断力。それらを駆使し積極的にパーティーメンバーを統率するその姿勢。全て正しい。未熟なアマチュアの戯れ言だが、彼はきっといいハンターになる。そう思った。

 

 なおかつ、ポックルの疑問は的確だった。オートマッピングも内耳の耳石と三半器官を利用した簡易慣性位置システムも、ここを一度通った分岐点だと報告している。ならばなぜ彼が違和感を感じているのだろうか。それは、明らかに辿り着いてはいけない順路でこの位置に帰ってきたからだった。

 

 おそらく、迷路全体を動かす大掛かりな仕掛けが存在する。

 

「ちょっといいかな? 実はさっきから一度通った場所には目印を残していてね。この辺りに……、あれ? ないぞ?」

「通った事ない場所ってことか?」

「ああ……、多分そうだと思う」

 

 ファントム・ブラックの痕跡が残されてない事を確認し、ポックルと一緒に首を傾げる。確かに具現化系の能力とはいえ、こうもすぐに完全消滅する程やわではないはずだ。そう、誰かのオーラに掻き消されでもしない限り。

 

 今の僕の様子を、試験官は監視カメラで見てるのだろうか。

 

「仕方がない。先へ進もう。どうやらオレの勘違いだったみたいだ」

 

 決断したポックルに同意しつつ、隙を見てファントム・ブラックで再びマーキングする。今度はかなり強めに念を込めた。簡単に落ちる事のないように。

 

 横目で確認したギタラクルは、カタカタカタと佇んでいた。

 

 

 

 微かに、カタリと異音が聞こえた。確認するまでもない。隣のギタラクルが爆発した。遅れずに僕も追従する。床を蹴り壁を蹴り天井を蹴る。堅は既に展開してる。疾走。否、もはや既に飛行に近い。踏み締めた壁面が陥没する。景色が滝のように流れて行く。いっそ音すら置き去りにしてしまおうと、僕達二人は全速力で今来た迷路を逆走した。

 

 先ほどの分岐点まで戻ったとき、そこに屈んでいたのは顔面に傷のある男だった。最高速のまま飛来する僕達。驚いて腰から二本の曲刀を抜く男。反応があまりに悪すぎる。そこは離脱するべきだろう。いや、そんな暇すら与えないが。

 

 曲刀を投げようとするモーションを視認して、ギタラクルの飛び蹴りが炸裂した。面白いように迷宮を弾む二刀流の男。僕は彼に追い付いて、空中で拘束してしたたかに床に叩き付けた。

 

「やあどうも。お勤めご苦労さまです」

 

 顔面近くに着地して、朗らかな表情を選択する。余裕を演じ、立場の違いを分からせるための常套手段だった。男は唸りながらも堅すらしない。あまりに拙い。恐らく、プロハンターではないだろう。そのような制度は聞いた事がないが、ひょっとすると、試験のため雇われたアマチュアといったところだろうか。

 

「もうお察しでしょうが、僕が残した念は罠でした。失礼ですが、あれだけ陰湿な試験内容を考えた方々です。意に沿わぬ状況が続き苛立てば、それぐらいはすると思ってました。でも、まさかこんなに早く餌に食い付くとは思わなかったな」

 

 ファントム・ブラックを劣化させるのは、一般人が垂れ流す生命力でも可能だ。それぐらい弱い能力だけど、しかしさすがに、短時間で消すなら最低でも纏ができる程度の能力者がいる。つまり、試験官はそこそこの手駒を使ってこの場所の目印を消したわけだ。

 

「確認しておきますが、あなたが試験官ではないですよね。試験官自らがこそこそ暗躍するのはこの試験の趣旨に反するでしょうし、なにより、責任者が管制できる場所を離れるとは思えない。現在進行中の試験は、僕達のルートだけではないのですから」

 

 試験官に手をあげて不合格になった、という話をヒソカから聞いた。一次試験が始まる前の事だ。さすがに、それは少しまずかった。しかし、試験官が試験のために運用し、かつ直接的な妨害を担当させるための人員なら、受験者が排除すべき障害の一つのはずだった。そうであれば僕達は、それを正当な手段で実現したというだけになる。

 

「ぐっ……! 畜生っ! 嬲るかッ! 早く殺せっ!」

 

 伏したまま、悔しそうに唸る男。抵抗は無駄だと分かっているのだろう。しかし……、僕は一つ溜め息をついた。

 

「勘違いしてるようだけど、僕の目的は貴方の命じゃない。クリア条件はあくまでも、スタートから七十二時間以内に地上に辿り着く事なんだ。むしろ殺人みたいなマイナス査定を喰らいそうな行為については、必要最小限にしたいぐらいだからね。まあ、命なんてどうでもいいと言うのなら、後ろの怖いお兄さんに身柄を任せるだけだけど」

 

 当たり前といえば当たり前だが、こんな気合いが入った迷路といえども、いや、だからこそメンテナンスハッチは存在する。いちいち屋上のあの入り口から入るのでは、人手がいくらあっても足りないからだ。

 

「悪いけど、諦めて裏切ってもらいたい。貴方の雇い主の思惑を」

 

 男の顔のすぐ隣に、ギタラクルが針を飛ばした。それが、止めとなった。

 

 

 

「オイ! 大丈夫か! 一体何がどうなってるんだよ!」

 

 ドタドタと三人が駆け戻って来た時分には、男は情報をすっかり吐き出していた。信じられないが、これでもプロハンターらしかった。去年の試験でヒソカに一蹴されたという試験官、それがまさしくこの彼らしい。今年は雪辱が目的だったそうなのだが、可哀想だが、この実力では挑戦しても言わずもがなだったろう。

 

「ああ、親切な人がいてね。この人が裏切りの道から途中下車する方法を、隅々まで詳しく解説してくれたんだ」

 

 言って、念のことをぼかして説明した。ポックルとポンズは終始胡散臭そうにしていただが、どうやら出れるらしいことは分かってくれたようだった。

 

「それで、どうする? 優等生に徹するならこのまま裏切りの道を進むという手もあるけど、とりあえずギタラクルは抜けるらしい」

 

 裏切りの道の名前を出されて、三人とも実に嫌そうな顔をした。どうやら結論は一緒らしい。クリアの方法としては若干変則的かもしれないが、この道を進みたがるよりは精神的に健全だと思う。

 

 その後、僕達はエレベーターで地上に直行した。道筋全体を変形させ順路を変える機構自体が、管理エリアへのアクセスも兼ねていた。なるほど。これならよほど大きな円を張らない限り見つからないはずだった。

 

 第三次試験突破記録は十五時間三十四分。地階には、ハンゾーを始め既に数人の受験者がいた。

 

 

 

次回 第六話「ヒソカ再び」



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第六話「ヒソカ再び」

 第四次試験会場へ向かう船上で、管制空間に入って調節を施した。長丁場に設定されていた第三次試験の余裕のおかげで、僕はじっくり休息を取る事ができていた。だからこそ、休んで回復した体を総点検し、設定を調節する機会が欲しかったのだ。また、塔内部で記録したギタラクルのデータも、分析して導入可能にしたかった。それらを一通り完了させた所で、僕はもう一つの確認作業に取りかかった。

 

 頭の隅で三十時間以上かけてコツコツ計算した結果を具現化系総合制御に受け渡し、仮想展開モードで出力させる。管制空間内の人格フィギュアの眼前に出現したのは、どこにでもあるようなレースのショーツだった。色は、ドレスに合わせて黒を選択している。無論、エリスのための品である。

 

 たとえマリオネットプログラムといえど、具現化系は扱いにくい。オーラの消費率が比較的悪いというのもあるが、主な理由は別だった。運用に要求される演算量が、他の系統と比較にならないほど多いのである。故に、単体で能力として確立されているファントム・ブラック以外の具現化系は、極一部の例外を除いて使用頻度が格段に低かった。戦闘時の応用は尚更である。つまり、今は珍しい機会という事になる。

 

 この程度の体積の小物であれば、ナノ単位の微細構造が重要でない限り、処理機能の占有率にもよるが十数時間から数十時間程度かければ、有限要素法により近似値を数値計算可能だった。僕の手から離れれば劣化するので強度は市販品より劣ってしまうが、データさえあれば再生成も容易い。容量を食う情報なので試験が終わったら破棄するつもりであるけれど、それまではエリスの下着類ならオーラが尽きるまで具現化する事が可能だった。なお、僕の下着は丈夫な綿製である。適当に水洗いすれば十分だった。

 

 一仕事を終えて管制空間から離脱した所で、僕はこちらにやってくる人影に気が付いた。レオリオだった。緊迫した空気が漂うこの船内には似つかわしくなく、よっ、と気さくに挨拶された。後ろにはゴンにキルア、クラピカも肩を並べて追従してる。

 

「やあ。エリスなら船内を廻らせてるけど?」

「さっき会ったぜ。いや、それよりアルベルト、お前に話があるんだが」

「僕に?」

 

 次々と四人が頷いた。

 

「まずは一発殴らせろ」

 

 彼ら全員に殴られた。1/6「軽度警戒」にしてあった自動防衛管制が迎撃処置を提案したが、僕はそれを却下した。衝突する拳をのんびりと見つめる。肉体のダメージは皆無だが、なぜ危害を加えられたのか、彼らに説明を要求した。

 

「ヒソカから聞いたよ。奴を呼び寄せたのは貴方らしいな」

「こちとらひどい目にあったんだぜ? どうしてくれるんだ、あぁん?」

「そうだよ。次やったらエリスに言いつけるからね!」

 

 ため息をつきつつクラピカ。そしてレオリオは柄が悪い。ゴンの脅迫方法は的確すぎる。

 

「ああ、その件か。それはすまない。反省はしないが謝罪はするよ。だからエリスに告げ口するのはやめてくれ。頼む」

「つーか下に部屋があったの知ってたのかよ」

「ただの推測さ。確信はなかったから黙っていた。君達を惑わせるつもりはなかったからね」

 

 キルアの鋭い指摘を嘘でかわす。じっと観察されるが問題はない。表情や声色から嘘がばれる危険は、僕に限っては全くなかった。しかし勘の鋭い少年だ。時々いるが、この子も虚言を皮膚感覚で判別できる人種かもしれない。

 

「それに、戦力にはなっただろう」

「うん。すごく強かった。アルベルトもあれぐらい強いんでしょ?」

 

 目を輝かせてゴンがいう。そうか。彼はこういう子か。無邪気に、真っすぐに、善悪の区別すらなく強さに憧れ追い求めている。こういう子供が才能を持っていると、あっという間に成長する。……ただ、少し危うい。

 

「僕はあれより一段落ちるよ。現に一回負けている。だけど、何度も負けてやるつもりはないかな」

 

 まあ、つもりだけで勝てたら苦労はないけど。

 

「そういえば、ヒソカをご指名の挑戦者はいなかったかな? 顔に傷のある曲刀使いなんだけど」

「うんん。見なかったけど何で?」

「いや、僕達が進んだルートでそういう人に会ってね。そうか、諦めたのか」

 

 それは今年だけだろうか。振り切る事ができたのだろうか。他人の価値観に口をはさむほど傲慢ではないつもりだけど、それはきっと幸せだ。叶わない復讐に身を滅ぼすより。これからの人生、生きてさえいればいいこともある。ハンターライセンスすら持っているんだ。やり直す方法はいくらでもある。

 

 そこまで考えてふと思った。もしもエリスを失ったとき、僕は諦める事ができるのだろうか。

 

 ……やはり、僕は傲慢だったらしい。諦める事などできないだろう。エリスの記憶を消去したら、僕は僕でなくなってしまう。エリスが失われるぐらいなら、彼女の代わりに死にたかった。それが叶わぬというのなら、せめて一緒に散りたかった。願わくば、彼女の人生が幸せな終わりを迎えますようにと、僕は信じてもいない神にそっと祈った。

 

「見つけた。こっちにいたぞ」

「ほんとだ。探したわよ」

 

 ポックルとポンズまでやってきた。随分と大所帯になったようだ。しかし、エリスがいないのに違和感があった。今までは、僕ではなくエリスの周りに人が集まってきていたと思ったが。

 

「ポックル、エリスは?」

「彼女なら向こうでトンパと何か話し込んでたぜ」

「げ、あのおっさんまだ残ってたのかよ」

「むしろお前が知らなかった事の方が驚きだ。他の受験者のチェックは基本中の基本だよ、レオリオ」

 

 クラピカの言葉はもっともだ。僕の場合、確認した全員の諸情報をデータベースにしてまとめているし、そこまでいかなくても、ヒソカのような例外を除いて、全員が同じような努力をしているだろうと考えていた。

 

「それよりアルベルト。あなたね、エリスに何を吹き込んでるの?」

「ん、ああ。四次試験の試験の性質を分析した結果を少し。あとは死者が確実に出るだろうことと、誰と永久の別れになってもいいように、残ってる友人知人の顔を見ておいでとも勧めておいた」

「あなたね……」

 

 ポンズが苦々しい顔で見つめてくる。レオリオやポックルも少し嫌そうに顔をしかめた。対して、ゴンやクラピカは顔色を変えない。キルアなど、何を当然の事と呆れてすらいる。

 

「ちょっとは言い方ってものを考えなさいよ」

「いや、彼の言はもっともだ」

 

 ポンズとの間にクラピカが割り込み、皆の視線が彼に向いた。

 

「第四次試験は今年初の受験者同士が直接的に争うものだ。いくら言葉を飾っても、そのルールも危険性も変わらないだろう。ならば、我々も覚悟を決めた方がいい」

「うん、そうだね。その方がきっとすっきりやれるよ」

「だよなー。っていうかさ、危険があるのは当然だろ? 一次試験の頃から死んだ奴いるじゃん」

 

 クラピカの意見に、皆が口々に同意する。

 

「誰が落ちても恨みっこ無しってやつだな」

「違いない。アンタいい事いうじゃん。オレ、ポックル。よろしくな」

「レオリオだ。こう見えても医者志望でな、怪我したらいつでも言ってくれ」

 

 受験者同士の対決を目前にして、何故か、新たな友情を育む奇特な人間もいるようだった。

 

「……そうね。腹をくくるわ。みてなさい。私だって立派な幻獣ハンターになるんだから」

 

 そして、数瞬の後にポンズも目を閉じて正面で拳を握った。納得したのか、単にこの場の空気に呑まれたのか、答えは僕には分からない。

 

「幻獣ハンター志望なのか?」

「うん、そうだけど。おかしい?」

 

 意外といえば意外だった。僕の専門でこそないが、あれはかなり泥臭い仕事だ。幻獣という名称からイメージされるファンタジックさとは程遠い。生い茂る藪の中で幾夜も息を潜め、動物の糞を舐めて情報を集め、ボウフラの池に潜れる人間、そういう連中にしか勤まらない、正真正銘の狩猟業。根っからの動物好きであるのは前提以前だ。常識的には、若い女性に似合う職業とはいいがたかった。

 

 しかし、僕はあの塔でポンズの技量を間近に見ている。念能力を使わず蜂を自在に操る様子は見事だった。自然と心通わせずにできる技ではない。そんな彼女だ。幻獣ハンターの仕事など、僕以上に熟知してるのだろう。ささやかだが、その夢を応援したくなった。

 

「幻獣ハンターなら、師匠の知り合いに何人かいる。よかったらしばらくアマチュアとしてでも弟子入りしてみたらどうかな。紹介状なら用意できると思うよ」

「なんでっ! 落ちる前提で話を進めてるのっ!」

 

 ポンズの拳が飛んできた。雰囲気がほぐれ、明るい笑い声がその場に満ちる。僕は彼らに囲まれて、今日はよく殴られる日だと、そう思った。

 

「アルベルト? あら、みんな集まってどうしたの?」

 

 エリスが戻ってきたようだ。彼女は僕を囲む皆を見渡して、何を思ったのだろうか、満面の笑みで飛びついてきた。僕が体を受け止めると、エリスは胸板に顔を押し付けて喜んでいた。まるで母親みてーだなと、レオリオが呟いたのが耳に入った。

 

 

 

 僕の獲物はすぐに見つかった。受験番号76番。エリスがトンパに尋ねた所によると、チェリーという名の武闘家らしい。毎年のように試験終盤まで残るベテラン受験者だそうだった。なるほど。その実績、決して伊達ではないのだろう。

 

「いかにも。オレが76番、チェリーだ。……お前には、見つからなければいいと思っていたが、待ってもいた」

「待ってましたか」

「実はな」

 

 言って、彼が取り出したのは、僕の番号を示すカードだった。偶然にもお互いに目標だったのだ。

 

「ひとつ、頼みがある」

「なんでしょうか」

「君は強い。今のオレでは勝ち目はないだろう。だが、君が勝っても、オレを殺さないでくれないか。……オレには、強い目的がある」

 

 臥薪嘗胆。彼ほどの武闘家がどれほどの苦汁を飲み干して今の言葉を吐き出したのか、僕には生涯分かるまい。無言のままに頷いた。それで良かった。それ以外の全てが余計だった。プレートをエリスに手渡した。僕が負けたら彼に渡すように頼んでから。エリスは、真剣な表情で頷いた。そして、チェリーもエリスにプレートを渡した。それが当然だというように。

 

 自動防衛管制を0/6「無警戒」に、戦闘用体術タスクをフルマニュアルモードに、体外噴出オーラを0に設定した。心身が流水の心地になる。

 

「……すごいな」

 

 チェリーが感嘆の声を洩す。絶。この状態で全力を尽くす。念を知り、高みにいる者の驕りだろうが、これが僕にできる精一杯の誠意の表現だった。ここで負けてもいいと思った。自分の納得できる道を選べ。それが師匠の口癖だった。もし仮に、ここで負けてエリスまで不合格になったなら、僕は永遠に悔やむだろう。それでも。

 

「いざ」

「ああ」

 

 お互いに構える。それっきり無言。エリスも何も言わなかった。森にたゆたう静寂の中、木の葉が風に鳴っていた。

 

 先に動いたのは僕だった。流れる時間が断絶し、鳩尾に突き刺さる渾身の掌底。気がつけば景色が変わっていた。踏み込んだと自覚したのは後からだった。息を吐き、倒れてくる体を受け止める。呻き声一つ漏す事なく、チェリーの意識は闇へ消えた。

 

 

 

「いいかい。こうやって偽装した人物を樹上に隠蔽するのは一般の人間及び地上性の動物に対して有効性が高い。また、森林状態さえ良好なら飛行性の脅威に対しても高い隠密性を誇る。しかし赤外線による観測では位置が露見しやすいし、その上、自然の生態系においても考慮しなければならない天敵がいる。なんだか分かるかな? エリス」

「そうね……。樹上生活型の肉食獣とかかしら」

「その通り。猫科の猛獣の一部やヒヒなど大型の真猿類、そしてなにより肉食性の樹上型魔獣が挙げられるね。この島の環境ではこれらを無視して構わないけど、決して万能ではないのは憶えておいてほしい」

 

 水場から近い位置の大樹に気絶したチェリーを隠蔽するついでに、エリスにちょっとした技術講義を施しておいた。役立つかどうかは分からないが、知ってて損はないだろう。ツタを編んで作ったロープで彼の体をくくりつけて、葉のついた枝をそこかしこに付与して偽装を施す。地中と違って水はけがよく、野犬やイノシシなど嗅覚に優れた動物にも強いのが利点だった。伐採した木を刳り貫いて作った即席の容器に水や果実を入れたものを、側にいくつか吊るしておく。ここまですれば、チェリーが目覚め、自力で動けるまで回復する程度の時間は稼げるはずだ。

 

 さて。これであとはエリスの目標を捕らえ、プレートを入手するだけだった。くじにより指定された番号は386番。体の動かし方から猟師とみられる大柄な黒人。他の受験者達の会話から、推定名称ゲレタ。僕のデータベースにあった情報は、エリスがトンパから入手したものとほぼ完全に一致していた。

 

 凄腕の猟師ゲレタ。第四次試験会場であるゼビル島は、彼にとって最良のフィールドだろう。恐らく、大まかな居場所を特定するだけで難しいはずだ。僕が主体となれば補足する方法はいくつか考え付くが、できればエリスに狩らせたかった。しかしいいアイディアが思い付かない。

 

「……アルベルト、ごめんなさい。わたしちょっと疲れてるみたい」

 

 そのとき、エリスが疲労を訴えた。無理もない。試験中はずっと緊張の連続だった。見れば、顔も少し赤かった。早めに休ませた方がいいと思った。ひとまずエリスを抱きかかえ、僕はゲレタの捜索を試みた。

 

 

 

 それから数時間ほどゲレタを探したが、手がかりすらも見つからなかった。いや、もっと正確に言おう。僕はスタート地点に戻ってゲレタの痕跡を把握する事から始めたのだ。地を舐める様に足跡を追い、一歩一歩慎重に道筋を解析した。しかし結果は、微か数歩で途方に暮れた。

 

 嫌というほど痛感した。こと、森林を舞台にしたハントの技術は、向こうが完全に上をいく。推測だが、彼は自然に溶け込むのが恐ろしく上手い。念能力者でもないのに完全な絶をたしなんで、生活痕の消去も完璧に近い。この広い森が舞台では、少なくとも偶然近くに寄らない限り、実力で発見する事は無理だろう。人間の痕跡は飽きるほど見つけはしたのだが、そこから算出される身長と体重のデータは明らかに別人のものだった。いかに僕が都市部でのハントを主体とするアマチュアハンターとはいえども、かなり悔しい気持ちだった。

 

 そうこうしているうちに日が暮れた。こうなれば、今日はもうゲレタを見つけるのは無理だろう。エリスもこれ以上連れ廻したくない。

 

 乾いた地面のある場所を探して、そこを今宵の寝床に決めた。動くのを禁じていたからだろう、エリスの体調は大分回復したようだった。僕はそれを確認した後、今後の方針を話し合った。ゲレタはエリスの目標なのだ。できる限り本人に考えさせるのが、筋であり彼女の望みでもあった。彼女はしばらく思案した後、一つの作戦を提案した。それは、ゲレタ捜索と平行して他の受験者のプレート三枚分の収集を目指すという概要だった。確かに妥当な方針だろう。しかし、そのためには一つだけ確認する必要があった。

 

「もしエリスの友人を見つけたらどうする。例えばポンズを発見したとするよね。期限まではまだ日数があって、見逃しても他の受験者が見つかるかもしれない。だけど見つからないかもしれない。そういう状況で、この人は狩る、この人は狩らないという基準をあらかじめ明確に決めておかない限り、その作戦には賛同できないな。どうする? 僕がさっき言った条件で、ポンズを狩るのか見逃すのか」

 

 焚き火がエリスの顔を照らし、揺らしていた。この火はいわば罠だった。戦闘能力に限りさえすれば、ヒソカとギタラクル以外の受験者に勝てる自信があったからだった。自動防衛管制は3/6「厳重警戒」を維持している。無論、徒党を組まれても誤差にしかならない。

 

「……決まってるわ。狩りましょう。例外はヒソカとギタラクルだけ。それ以外の全員が対象よ」

 

 その覚悟があるのなら、反対する理由はなにもなかった。僕はエリスを腕の中に招き寄せ、少しでも長く眠るように言い含めた。

 

「ねえ、アルベルト」

「なんだい?」

「もし、この試験に受かったら……」

「ああ」

 

 とろんと、半分眠った声でエリスがいった。

 

「……二人で、世界中を巡りましょう。世界中を巡って、素敵な景色を沢山見て、いろんな人とお話しするの。そして、お爺さんとお婆さんになったら、山奥の小さな家に住んで、暖炉の前で、思い出話に花を咲かせましょう」

 

 それっきり寝息をたてはじめたエリスを、僕はできるだけ優しく抱き締めた。無性に寂しい気持ちだった。その願いが叶わないからではない。エリスは、そんな夢しか抱けないのだ。

 

 幼い頃、彼女は無邪気な笑顔で語っていた。海が見える丘に小さな白い家を建てて、子供が二人と大きな犬。家族で幸せに暮らしましょう。何度もその設定でままごとに興じた。師匠の家から離れる事ができなかったあの当時、絵本で知った海に憧れを抱いた少女がいた。

 

 定住。結界の要石が砕けたあの日、エリスにはそれができなくなった。少なくとも、人のいる場所では不可能だった。この広い世界に生まれながら、エリスはどこまでいってもよそ者だった。

 

 

 

 翌日からの探索は、あまりはかどったものにはならなかった。原因はエリスの存在だ。彼女は気配を殺すのが極めて苦手だ。息を潜めても殺せない存在感は、ハントに長けたものには大いに分かりやすい目印になる。そして、エリスの近くには僕がいるという情報は、試験期間中に広まりすぎていたのだった。かといって、こんな試験でエリスを一人にできるはずもない。エリスは積極的な囮作戦も提案したが、ヒソカの存在を考えると頷けなかった。

 

 それでも、僕達は二枚のプレートを入手する幸運に恵まれた。

 

 一人はソミーという名の猿使いだった。エリスの姿を見て絶好の獲物を見付けたとばかりに近寄ってきたが、彼女がわずかに纏を緩めた瞬間、顔面蒼白になって狼狽した。エリスの素人拳法が顎にクリーンヒットするぐらいには隙だらけだった。相棒の猿も主人以上に怯えていたので、樹上で見守る僕の出番は全くなかった。

 

 もう一人、アモリという受験者は常に三兄弟で行動していたと記録に残っているのだが、たまたま各自分散して自分の獲物を狩りに出掛ける所だったようだ。こちらはエリスのオーラに取り乱すも、戦意喪失することなく逆に向かってきた。窮鼠猫を噛むの諺通り、追い詰められて逆上したのだろう。しかし、念が使えない者に纏で守られたエリスを倒しきるのは難しい。恐慌状態になった彼には、逃げるという手段も思い付かなかったのだろうか。しばらく続いた戦いを制したのは、防御力とスタミナで大幅に勝るエリスだった。

 

 そのように数日かけてあと一点まで迫った所で、僕達はそれに出くわした。森の中にそれはあった。無惨に打ち捨てられて転がっていた。

 

 首のない、ゲレタの遺体。

 

 ここで彼は殺された。失われた頭部。体に突き刺さった何枚かのトランプ。誰の仕業か考えるまでもなかった。プレートはどこにも見えなかった。恐らくヒソカが持ち去ったのだろう。

 

 必要なプレートがあと一点分になった時点でゲレタの重要性は大きく下がっていたのだが、それでも獲物をとられた無念はあった。しかしそれ以上に悲しかった。友を亡くした喪失感に近かった。会話どころか側に寄った事すらなかったけれど、それでも彼は僕とエリスにとって、紛う事なき強敵だった。敬意の持てる高貴な敵であったのだ。

 

 エリスと二人で遺体を丁寧に埋葬して、僕達はその場を立ち去った。

 

 あと一点。得点のペースは遅かったが、最悪の場合は僕の分を渡すつもりだった。これが終われば、あとは最終試験だけだったから。

 

 

 

 エリスの様子が急変したのは六日目の夜更けの事だった。全身に油汗を浮かべながら、真っ赤な顔で僕の差し出した手を握りしめる。体表のオーラが異常に濃い。この症状に心当たりはあった。嫌というほどありすぎた。そして、だからこそありえないと断じたかった。本来なら、纏のまま一ヶ月程度は余裕で持つはずだから。

 

 マリオネットプログラムが推測される原因を報告してきた。実戦環境に置かれる事による高揚感。仲間とともに積極的に試験に取り組む事による責任感。未知の状況を楽しむ好奇心。そんな、他の人間なら明らかに良好な状態へ導かれるはずの諸要因が、彼女の生命力を活性化させていた。オーラの生成量を増やしていた。それは、エリスにとっては致命的だった。

 

 予想はしていた。しかし、予想より遥かに増加幅が大きかった。

 

 川で汲んだ水を飲ませ、震える体を抱き締めた。一刻も早くオーラを解放させる必要がある。僕はエリスを背に乗せて、洞窟を探して島を駆けた。深い地の底にエリスを配置し入り口を塞げば、オーラの大部分が地中に吸われて人体や生態系への影響は最小限ですむはずだった。

 

 なのに、どうしてこの道化は邪魔するのだろう。

 

「いやあ♥ いい夜だね♣」

 

 現れたヒソカは上機嫌だった。胸元には四枚のプレートが並んでいる。予想通り386番は入手していたが、なぜか44番が見当たらない。まあ、それもどうでもいい。今の僕は気が立っていた。それでも、エリスが合格に近付くためには、こんな機会でも活用しなくてはならなかった。

 

「ヒソカ、386番を置いていけ。代わりに二枚くれてやる」

「いいよ、これかい♠」

 

 あっさりと交渉が成立する。お互いにプレートを投げ合って、間違いがない事を確認した、

 

「それで、何か用か? 見ての通りこっちは火急なんだ」

「クックック。怖い怖い♥ あいにく君には用がないよ。今日の目的はエリスさ♦ 彼女、ボクのターゲットなんだよね♣」

「お前の主目的はプレートか?」

「まさか♦」

 

 お馴染みの、喉奥での笑いが癇に触る。確かに今夜は、今夜こそは、エリスと戦う絶好の機会だろう。こいつの嗅覚が恨めしかった。タイミングがあまりに最悪すぎる。

 

「なら、僕を倒してからにしろ。言いたい事はそれだけだ」

「いいよ♠ 前菜に君も味わってあげる♣」

 

 エリスをそっと地面に寝かせる。涙に濡れる頬を撫で、汗に張り付く前髪をよけて僕は笑った。

 

「少しだけ、我慢してくれないか。ごめんな」

 

 濡れた瞳で僕を見つめてから、エリスは小さく頷いた。

 

「さて、またせたな」

「もういいのかい?」

「ああ、後はお前を倒してからだ」

「そんな目で見るなよ♠ 勃っちゃうじゃないか♥」

 

 戯れ言は無視して指先に硬を施し、超高密度念弾を出現させる。体外に顕在可能なオーラの大部分から全てを集中させたこの念弾は、およそ全ての念的な防御を貫ける上、追加で処理能力をさけば体内炸裂やファイア・アンド・フォーゲットなど諸々の性能を付与できる。しかし、致命的すぎる弱点があった。

 

 かなりの処理能力を必要とするため、生成する際に一瞬の硬直時間がある。その一瞬は、戦闘中には限り無く長い。オーバークロック中でさえ当たり前に避けるヒソカだ。通常状態ではまずあたるまい。

 

 逆に、今のようにあらかじめ生成した場合、体外に顕在可能なオーラを費やしてしまっているため、念弾の代償に身体強化の効率および限界値が著しく下がる。ヒソカが身体強化なしでとっておきの念弾を当てられる程度の能力者なら、僕ははじめから苦労してない。

 

 このため打撃力としての使用は実質的に足留め役がいる場合に限られており、一対一の戦いでは相手に回避を強要する手段として使う事がほとんどだった。だが、今回はこれでヒソカを始末する。

 

「どうしたんだい? そいつはもう見せてもらったよ?」

「ああ。だけどこの先はまだだろう?」

 

 言って、僕はファントム・ブラックで全身を漆黒に塗装した。闇色の保護色。人体に毒にも薬にもならないからこそできる使い方だ。更に念弾を再び体内に吸収し、全身を完全に絶にする。

 

 自動防衛管制。4/6「連続最大警戒」

 

 戦闘用体術タスク「モード・アサシン」

 

 ギタラクルの行動記録を分析したデータから開発したモードだった。処理能力を多く食うのが難点だが、スムーズで堅実、かつトリッキーにして威力抜群と、冗談みたいな性能を誇る。そしてなにより、隠密性が異常に高い。足音をたてずに疾走し、空気を揺らさずに拳を振るえた。

 

「へえ♠」

 

 とるべきものは無型の構え、自然体。肉体を透明に。心を冷水に。自身の全てをヒソカを殺す機械に集約させ、僕は鼓動の中に埋没した。

 

「なら♦ ボクも見せてあげる♣」

 

 ヒソカの体を覆う堅が、その様相を少し変えた。粘着質のオーラ。それが幾筋も巻き付いていく。ヒソカの腕に、足に、胴体に。まるで外付けの筋肉だった。知っている、と僕は直感的にそう思った。マリオネットプログラムが回答をはじき出す。

 

「あのときの、ボディーブローの正体か」

「正解♥」

 

 予測できなかった衝撃。ありえなかったはずの打撃。それを為したのが目の前のあれだ。収縮した瞬間、恐ろしいほどの瞬発力をヒソカに与える新たな応用技。あれほどポジション取りに専念して反撃を封じたはずの僕を、自分の胴体を強引に捻る事で打撃可能な位置へ持っていった脅威の性能。連発はできないだろう。精密な制御も無理だろう。しかし、パワーだけで全てを補える悪魔の発想。

 

 あまりの事に戦慄した。推測だったが間違いはない。僕は確信し、断言する。参考にしたのは僕の能力だろう。前々から何かを掴みかけていたかもしれない。しかし、確実に言える。ファントムブラックをぶちまけた瞬間、僕が何かを仕掛ける事が決定的になったその刹那、あいつはあれを編み出したのだ。

 

 きっとかなわない。そう思った。

 

 それでも、エリスを渡すわけにはいかなかった。

 

 僕の全てを捨ててでも、彼女が笑っていられますように、と。

 

 音は、なにも聞こえなかった。

 

 ただ、星空だけが瞬く世界で、僕とヒソカは衝突した。

 

 念弾はヒソカの肩をわずかに掠め、拳は僕の心臓を打ち抜いた。

 

「残念♣ いい線いってたけど、ボクに通用させるには経験不足だよ♠ 出直してきな♦」

 

 崩れ落ち、地面に吸い込まれて倒れるとき、そんな言葉をかけられた、気がした。

 

 

 

 意識を失っていたのは何時間か、何分か、何秒か。マリオネットプログラムに問い合わせても応答がない。心臓の拍動が著しく不安定で、オートで立ち上がった自己修復プログラムが、復旧にオーラと処理能力を最優先で割り当てられていた。それでも回復できるか分からなかった。マスター権限でその活動を妨害すれば、数秒かからず不可逆領域を超えるだろう。

 

「……アルベルト?」

 

 エリスの声がする。熱にうなされ蕩けたままの、エリスの声が。返事をしたかった。生きてる事を伝えたかった。心配ないと強がりたかった。

 

「彼ならもういないよ♦」

「ヒソカ。アルベルトを、殺したの?」

「どうだろうね♠ 心臓は止まったみたいだけど♦」

「……そう」

 

 エリスの声は素っ気ないほど冷たい。底冷えのする声色だった。

 

「いつか、こんな日が来ると思ってたわ。いつか、必ず来てしまうと。……本当に、馬鹿なんだから」

 

 頭は動かず、ぼんやりとぼけた視覚だけで、エリスのシルエットを探していた。せめて姿だけでも見たかった。

 

「クックック♣ それで、キミはどうするんだい?♦」

「もし、それが本当なら。……もう……」

 

 僕は必死に手を伸ばそうとした。数秒先の死などどうでも良かった。ただ、それだけはいけないと、その意思だけを伝えたかった。お願いだ、どうか。自己修復プログラムが処理能力を占有しすぎていて、介入すらろくにできなかった。エリスのオーラが解き放たれ、蒼白い光が闇を満たした。全ては無意味で、無駄だった。

 

 青の光翼。あれは単体ではひどく無能だ。しかしエリスの能力の中核でもある。他の二対の翼が出現する前に止めないと、エリスは全てを失うだろう。人の強い意志を実現させる念という力。エリスのそれには、彼女が望まぬ強力な指向性が内在している。それこそが全ての元凶だった。

 

 だいぶ視界が戻ってきた。

 

 エリスは青い翼だけでヒソカと単身戦っていた。僕の所へ駆け付けようとするエリスと、妨害する形で争うヒソカ。オーラは圧倒的にエリスが勝り、技量は圧倒的にヒソカが勝る。その結果は、ヒソカが完全に不利だった。歓喜に震えるヒソカが見えた。

 

 やがて、まとわりつくヒソカを強かに打ち払い、エリスが僕の所まで飛んできた。未だ指先さえ動かせない。抱きかかえられた僕はエリスと目を合わせ、ただただ強く抱き締められた。

 

「よかった……」

 

 二人の身体を翼が包む。そこはエリスの匂いがした。暖かくて、優しくて、頼もしかった。翼を構成する羽の一枚一枚が、比類なき密度のオーラの塊だ。この中は本当に二人きり。ヒソカに手を出せる道理がなかった。これだけ生命力を消費すれば、エリスの体調も戻っただろう。危険きわまりない方法だが、結果としては最良だったのかもしれない。ようやく機能し始めた口でそう伝えると、泣きじゃくるエリスに叱られた。

 

「仕方ないな。今夜は二人でお幸せに♥ これじゃあ、ちょっと手を出せないしね♠」

 

 この場を去るヒソカの、そんなセリフが耳に残った。

 

 

 

 第四次試験に合格した受験者は十名だった。そのうちの八名が新人で、これはとても多い数字らしい。合格した僕達は飛行船で最終試験会場へ向かいつつ、三日間の休養をとった。体力の回復、傷の処置、衣類の調達や他の受験者との交流など各自思い思いの時間を過ごしているうちに、休みはあっという間に過ぎ去った。

 

 最終試験はたった一勝で合格できる負け上がり方式のトーナメントだという。武器の使用は可、反則無し。ただし相手を死傷させた場合のみその場で即座に負けとなる。組み合わせは道中行われたネテロ会長との面接を参考に、これまでの試験の成績等と合わせて決められたそうだ。この試験方法を聞いた時、最良の結果を確信した。

 

 それを油断と呼ぶことに、そのときの僕は気付かなかった。

 

 

 

不合格┬┬┬┬┬アルベルト

   ││││└ヒソカ

   │││└ゴン

   ││└ギタラクル

   │└エリス

   └┬┬┬クラピカ

    ││└ハンゾー

    │└トンパ

    └┬キルア

     └レオリオ

 

 

 

##################################################

 

【色なき光の三原色(セラフィムウィング) 特質系・具現化系】

使用者、エリス・エレナ・レジーナ。

 赤の光翼 ■■■■■■■■■■ 具現化した光に■■■■■■■■。

 緑の光翼 ■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■。

 青の光翼 ■■■■■■■■■■ 具現化した翼に生命力を溜め■■■■■■■■■■■■。

長い■■をかけて鍛えられた、■■■■■■■■■ための能力の失敗作。

 

##################################################

 

次回 第七話「不合格の重さ」



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第七話「不合格の重さ」

 秒針が時を刻んでいる。エリスの腰まで届く髪は柔らかく、窓から差し込む陽光を浴びて淡い金色に輝いていた。この優しい髪色が好きだった。何度も丁寧にブラシを通して整えてから、リクエスト通りの髪型に編み上げていく。ドレスは淡い緑のAラインで、今朝方届いたばかりの品だった。大人びた黒と違い歳相応の可愛らしさのある色彩だが、すらっとした裁断は落ち着いた上品さと華やかさをも同時に演出していた。もちろん、背中は大きく開いている。

 

 肩に落ちた糸屑を払い、ネックレスとポシェットを着けて完成だった。姿見の中の自分に満足したのだろうか。エリスも満足そうに微笑んだ。この後に控えた最終試験、それさえ受かれば合格だった。ようやくここまで来れたのだ。あと一つ。たった一つ。だからこそ、是が非でも通過しなければならないのだ。

 

「アルベルト。その……、心臓はもう、大丈夫?」

 

 エリスが不安そうにおずおずと聞く。あの夜からずっとこんな感じだ。目の前で直接死にかけたのがまずかったのか。エリスは何かにつけて僕の容態を心配し、安静に休ませようとする。食事もベッドの上で摂らされる有り様だった。

 

 しかし僕の身体に問題はない。あれから三日が経っている。心拍は完全に安定していた。それを証明してみせようと、エリスを腕の中に招き寄せた。

 

「大丈夫だよ。ほら、聞いてごらん」

「……うん」

 

 胸に耳をあて、僕の鼓動に聞き入るエリス。その表情はとても真剣で、何かを祈るように厳かだった。しばらくの間そうしてから、ようやく安心したのだろうか、徐々に力が抜けていくのが分かった。

 

「もう、無理しちゃ駄目よ」

「善処するよ。これでいいかい?」

 

 僕の返事を聞いたエリスは、何故か、泣きそうに顔を歪ませた。

 

 

 

 ハンター協会の管理するホテル内部の巨大な部屋、最終試験会場で待ち受けていたのは、勝ったものが外れ、負けたものが次へ進むという実に変則的なトーナメントだった。発案はネテロ会長本人らしい。不合格者はたった一名。もはや選別するつもりがあるとは思えなかった。では、この試験は何を目的としているのだろうか。

 

 わずか一名といえ十人の内の一割だ。能力を試して選別するには少なすぎ、余興で落とすには多すぎる。今年の新人戦力の一割を削ってまで、協会がやりたい事とは何だろうか。

 

 今までの試験の目的は明瞭だった。基礎体力およびハンターとして最低限の自己防衛能力。観察力、情報収集能力、決断力。チームプレー時の能力及びより実戦的な環境下での総合力。そして対人ハントの実地試験。しかしこの試験には目的が見えない。それが少し不安だった。

 

 考えているうちに名前を呼ばれた。はじめは僕とヒソカの対戦だった。

 

不合格┬┬┬┬┬アルベルト

   ││││└ヒソカ

   │││└ゴン

   ││└ギタラクル

   │└エリス

   └┬┬┬クラピカ

    ││└ハンゾー

    │└トンパ

    └┬キルア

     └レオリオ

 

アルベルト vs ヒソカ

 

 マスタと名乗った立会人の指示に従い、部屋の中央に進んでヒソカを相手に向かい合った。これが第一試合という事もあって、周囲は固唾をのんで見守っている。受験者の中でも上位に入る戦闘力の持ち主同士の戦いという事情もあるのかもしれない。しかし、彼らが期待するような展開にはならないと断言できた。

 

 率直に言おう。僕は負ける気満々である。エリスとの対決まで負け進み、彼女の合格を勝ち取ってから次の試合で勝利する。最終試合で当たる可能性がある受験者はクラピカ、ハンゾー、トンパ、キルア、レオリオ。彼らを侮るつもりは微塵もないが、例え五人が束になっても圧勝できるだけの実力差があった。エリスは確実に合格し、僕も恐らく合格できる。試験の空気は確実に白けるだろうが、もはやそれも些事でしかない。

 

 ヒソカが一枚のトランプを取り出し念を込めた。振りかぶり、腕に例のオーラを張り付ける。試合開始と同時に仕掛ける気か。その準備も、楽しそうに笑うその笑顔も、もうすぐ無駄になるだろう。

 

 開始の宣言と同時に僕は口を開き、ヒソカはトランプを投合した。なぜか、真横へ向けて。

 

 マリオネットプログラムが軌道を予測する。その先にはエリス、着弾予測位置は頸動脈。間違いなく最悪の展開だった。理由を考えてる暇はない。オーバークロック2始動。安全係数の設定が全て解除され、処理速度のみならず筋力とオーラの体外顕在量を極限まで上昇させる。プログラムで再現した火事場の馬鹿力。それがこの設定の正体だった。

 

 右足の硬で床を蹴り、飛翔するトランプに追い縋った。蹴り締めた床が爆砕される。遅い。速度差があまりに少なすぎた。空気の粘性が強すぎる。乱流が邪魔だ。念弾発射用意、目標撃破までコンマ八秒。却下。絶望的に遅すぎる。このまま何もできないのか。皮肉なほど緩やかな時が流れる中、トランプは吸い込まれるようにゆっくりとエリスに迫る。そして。

 

 隠で張り付いていたオーラが収縮し、ヒソカの手元に戻っていった。

 

 呆然としながらも床を殴り、反作用で軌道を修正、エリスとの衝突を回避した。勢いのまま天井に着地し、表面を盛大に削って減速する。

 

「まいった♠ ボクの負けだ♥」

 

 間延びした声を確かに聞いた。誰も彼もが唖然としている。時間が凍った心地すらした。あの奇術師はこの瞬間、間違いなくこの場を支配している。それが無性に悔しかった。

 

 オーバークロック2 解除

 

 十分に勢いを減じさせてから、僕は床に降り立った。何が起きたか、考えたくもない愚かな失態。僕はあまりに間抜けだった。油断するにも程があった。なんで、一番重要な最終試験でミスをするのか。今すぐ頭を叩き割りたい気持ちだった。

 

「しょ、勝者アルベルト・レジーナ!」

 

 静まり返った会場で、立会人が職務を果たした。周囲がざわつき、視線が飛び交う。この瞬間、僕の合格が確定し、僕の思惑は無惨に散った。なにも言わず、なにも問わず、心底嬉しそうに抱きついて祝福してくれるエリスの優しさが、今はとても辛かった。

 

 

 

クラピカ vs ハンゾー

 

 その試合は順当に始まり、順当に破綻し、至極順当な結末を迎えた。

 

 オーバークロック2を使用しつつ最大負荷での戦闘機動という、脳を物理的に損傷してもおかしくない無茶をした僕は、自己診断プログラムをセーフモードでゆるゆると走らせていた。実のところ、立っている事さえ好ましくない。オーラの残存量が四分の一を切っている。処理能力制限で思考領域が圧迫され、さっきから目眩が止まらない。しかし、ここで座り込んでしまったら、エリスは確実に動揺する。これから試合を控えた僕の最愛の妹に、そんな負担をかけられるはずがなかったから。

 

 部屋の中央ではクラピカがハンゾーに打ちかかっていた。一対二本の木剣を長めの紐で繋いだ特徴的な武器を、縦横無尽に振るっている。あるときは鞭の如くしなやかに、あるときは槍の如く鋭い突きを。あれでは間合いが読みにくい。次々と繰り出される打撃は的確に体重を乗せており、木剣といえども一撃の重さは十分だろう。それを、ハンゾーは全て捌き続けていた。

 

 分析機能は休止しているが、明らかにクラピカはハンゾーに勝負してもらっていた。クラピカに能力を見極めさせる為だろう。ハンゾーに受け身に廻ってもらえれば勝負が成立するほどにクラピカは強かった。しかし、だからこそ本人は実力差を実感せざるを得ないのだ。

 

「……頃合いだな」

 

 呟いて、ハンゾーの動きが切り替わった。全身のバネを使った躍動感のある体術。それで後背に回り込んだ。恐らく、クラピカには消えたように見えただろう。慌てて振り向くクラピカの手中から、一対の木剣が弾き飛ばされた。ハンゾーが踏み込み、強めに腕を振り抜いたそれだけで。

 

「これだけやれば分かっただろ。オレ達の実力は違いすぎる。早いとこ降参しとかねーか?」

「断る!」

「おいおい、オレはお前さんを話の分かる男と見込んでこんな事をしたんだぜ? 分かるだろ、なあ? ここで体力の消耗を最小限に押さえておけば、あんたなら確実に合格できる。な? お互いその方が得なんじゃねーか?」

「……くっ」

 

 理性では分かる。しかし納得は絶対にできないとでも言うように、クラピカが奥歯を噛み締める。そんな二人の様子を見て、会長がこの試験でやりたかった事を、僕はおおよそ推察できた。名付けるならそれは生け贄の宴。ちらりと会長を窺ってみる。外見は飄々とした老人だが、なんとも性格の悪い人だった。

 

「……なあ。オレもお前も、この場だけの強いとか弱いとかどうでもいいじゃないか。そりゃ、俺だって実力には自信があったけどよ、世の中にはどうしようもねー化け物がいるんだって思い知ったばかりだしな」

 

 小指の先で耳の穴をほじくりながら、ハンゾーは僕に対して視線を向けた。否、むしろあからさまに睨んできた。なぜそこであえて僕なのだろう。返す返すも悔しい限りだが、先ほどの一戦は明らかにヒソカが上手だった。これでハンター試験中、彼にはしてやられっぱなしだった事になる。本当に、悔しい。

 

 ……いや、派手に動いたのは僕だったか。

 

 なるほど、確かに分かりやすい例としては僕の方が適切だろう。しかし彼らは遠からず知る事になるのだ。念能力という、僕達が使った奇術の正体を。そうなれば、僕らも楽に勝たせてはもらえなくなる。

 

 結局、クラピカが降参したのは、それから十秒ほど経った後だった。

 

 

 

キルア vs レオリオ

 

「っていうかさ! 組み合わせがぜってーおかしいって! 何考えてんだあの爺さん! ありえねーだろ!」

 

 試合中だというのに、キルアは盛大に愚痴を撒き散らしていた。レオリオというお父さんにお菓子をねだる駄々っ子のようだ、とは僕だけが抱いた感想ではないだろう。エリスも隣でクスクス笑っている。

 

「うっせークソガキ! ちっとは真面目に戦いやがれ!」

「わかった、よっ! と」

「ってーな! 蹴る事ねーだろ!」

 

 もうまるっきり漫才だった。会場のそこかしこから笑い声が漏れる。エリスは口元を隠しつつ、「淑女の笑い」の範疇で納めようと必死になって堪えていた。さぞかし腹筋が鍛えられる事だろう。

 

 なんでも、キルアは弱い受験者とばかり当たるトーナメントの組み合わせが許せないそうだ。彼の見立てでは最初にレオリオ、それで負ければトンパ、最後に当たるだろう相手がエリスとの事で、ハンター試験に面白さを求めて参加した少年の目論見は、見事に崩れる事となったらしい。だって一番マシなのがレオリオだぜ!? とは本人の弁。クラピカがもうちょっと頑張ってハンゾーを叩き落としてくれてたらなー、とも言っていたが、すぐに何かに気付いたのかトンパを見て、わりぃ! と謝っていたりもした。トンパの頬がひくついていた。

 

 二人はそうやって数分間、じゃれあいの戦闘を続けていたが。

 

「ま、いつまでも遊んでいてもしゃーねーか。オイ、キルア。次で最後にしようぜ! 攻撃を先に当てられた方が負け。四の五の言わずにまいったと認める。どうだ?」

「ん? ああ、いいぜ」

 

 二人の間の空気が変わった。キルアが裏の人間の顔になる。鋭利なナイフを人型に産み、丁寧に研摩し育て上げた姿だった。少年の奥底にたゆたう純正の闇。それに正面から対峙できるレオリオも流石だ。武器、兵器、拷問具。鑑賞するにはいい。しかし使用する意志を持ってそれらを己に向けられたら、誰もが必ず怖気を抱く。

 

 傷つけることに特化した道具から放たれる殺意はとても怖い。それが人として当然の感性だ。そうでない人間の方が異常だった。レオリオも確実に正常の側だろう。キルアの性能を感じ取れないほど、鈍い人間にも見えなかった。

 

 しかし、彼は怯まない。

 

 力も、技も、才も及ばない。もちろん念使いであろうはずもない。彼は特別な何かを何も持たず、自分の人格だけであれに立ち向かっていけるのだ。普通を許容できる人間はとても強い。それは、魂そのものの強さだから。

 

「はい、オレの勝ちね」

「だーっ、ちきしょー! おい審判! オレの負けだ! こんちくしょー!」

 

 ほんの少し、彼の強さに憧れた。

 

 無性にエリスを抱き締めたい気持ちだった。

 

 

 

不合格┬┬┬┬ヒソカ

   │││└ゴン

   ││└ギタラクル

   │└エリス

   └┬┬クラピカ

    │└トンパ

    └レオリオ

 

ヒソカ vs ゴン

 

 ヒソカが、とても、輝いていた。

 

 なんとも楽しそうな顔だった。奴は少し、人生を謳歌しすぎている気がする。一方でゴンも楽しそうだった。釣り竿を握りしめ、ヒソカと対峙する表情が語っていた。オレは今、ゾクゾクするスリルに身を焦がしているのだと。

 

「やあゴン♣ 準備はいいかい♦」

「ああ。いくぞっ!」

 

 愛用の釣り竿をゴンが振るい、重りと呼ぶには大きすぎる鉄球がヒソカを襲う。あやまたず顔面に飛来するそれを避けようともせず、ヒソカは優しく受け止めた。もとより当たるとは考えてなかったのだろう。次の瞬間、既に懐に潜り込んでいたゴンは、釣り竿のロッドで打ちかかる。棒術。いや。ただの子供の思いつきか。だが、それにしては腰がよく入っていた。自分の身体の使い方を、あの歳で既に感覚として得ている。

 

 二撃、三撃と繰り出されるゴンの攻撃を、ヒソカはいなし、受け止め、存分に味わい遊んでいた。ヒソカの顔が愉悦に歪む。なんとも形容しがたい表情だった。まるで美味しそうなお菓子を目の前にして、食べたいがとってもおきたい少年のような。

 

「あっ!?」

 

 ゴンの手から釣り竿が滑った。放物線を描いて飛んでいく。見学者が一斉に注目する。が、次の瞬間。

 

「え、消えた?」

「エリス、上だよ。ほら」

 

 ゴンは高く跳んでいた。隙をつき、顎を狙った跳び膝蹴り。意図的な武器の放棄による意識の誘導か。それほど斬新な手ではないが、選択のセンスがかなりいい。そして素晴らしいバネだった。躱したヒソカも大喜びで、ネテロ会長も頷いていた。

 

「あーあっ。もうちょっとだったのに」

 

 悔しがりながら着地した。これもゴンの強さだろうか。子供らしい自由で柔軟な発想を、実戦でどんどん試す事ができる好奇心。ゴンはきっと、戦闘そのものに何の他意も持っていない。だから無邪気に追求できる。彼が暴力に怒るとしたら、それは行為そのものではなく害意と結果についてだろう。

 

「クックック♥ やっぱりイイね、キミは♦」

 

 ヒソカも大満足の様子だった。どうやら、僕が予想した以上に気に入ったようだ。無理もない。恐ろしいほどの素質。果ての見えない将来性。それはきっと、高みにいる人間ほど良く見える。僕よりヒソカの方がゴンに興味を抱くのも、至極当然なんだろう。

 

「さあどうした♠ 今ので終わりかい?」

「まだまだっ!」

 

 言って、ゴンの攻撃が再開された。勝とうとしてる様には見えなかった。ヒソカという実力者から少しでも盗み、アイディアを試そうとする戦い方。まだ戦えてる事自体に喜びを見出し、自分の成長を喜んでいる。そんな推測さえ浮かんだ二人の戦闘は、やがてヒソカの芯を捕らえたアッパーにより、ゴンが優しく気絶させられた時点で終了した。

 

「もっと鍛えな♣ ボクにプレートを返せるように♦」

 

 意識を失ったゴンにそう投げかけて、ヒソカが敗北を宣言したのだった。

 

 

 

クラピカ vs トンパ

 

「まいった。オレの負けだ」

 

 開始して二分も経たないのに、トンパが突然降参した。試合のほとんどが間合いの駆け引きと小手調べの小競り合いだった。両者ともろくな有効打を与えていない。

 

「……いいのか?」

「ああ、お前とオレとじゃ地力が違う。格下だと油断していれば隙を見て勝負を挑むつもりだったんだが、そんな様子も全然なかったからな。せっかく三回もチャンスがあるんだ。これがオレの戦略さ」

「分かった。ならば私は何も言うまい」

 

 立会人が勝者を宣言する。お互いに軽く頷きあい、歩み寄って握手を交わした。

 

「ハンター試験合格、おめでとさん」

 

 クラピカを祝福するトンパの姿は、とても小さく、寂しそうに見えた。

 

 

 

不合格┬┬┬ヒソカ

   ││└ギタラクル

   │└エリス

   └┬トンパ

    └レオリオ

 

ヒソカ vs ギタラクル

 

 今日はヒソカの日なのだろうか。嬉しそうにギタラクルと対峙するヒソカを見て、僕は馬鹿な事を考えた。

 

 二人は見つめあったまま何も言わない。オーラも静かに波打っている。

 

「まいった♠」

 

 しばらくして、ヒソカが退いて試合は終わった。

 

 しかし、それからが問題だった。ギタラクルは会長にこれで合格は確定かと尋ね、肯定されると何を考えたのだろうか、寛ぎながら観戦モードに入っていたキルアの元に訪れた。

 

「や。奇遇だね、キル」

「は?」

 

 いぶかしむキルアを無視し、頭部の針を抜きはじめるギタラクル。軋み、変形していく頭蓋骨。おもわずエリスの目を隠した僕の判断は、きっと間違ってなかっただろう。死体などとは方向性の違う、常識を冒涜するようなグロテスクさを含んだ光景の後、一人の青年が現れた。後で知ったがこの男、本名をイルミ=ゾルディックといい、キルアの実の兄らしい。

 

 立派に成長してくれててうれしい、それとなく様子を見てくるように頼まれた、など物騒ながらも家族らしい会話を繰り広げた後、ギタラクルはキルアに問い質した。なぜハンター試験を受けたのかと。

 

「別に、理由があった訳じゃないよ。ただなんとなく受けてみただけさ」

「……そうか、安心したよ。心置きなく忠告できる」

 

 お前はハンターに向かない。ライセンスをとってしまったのは仕方がないが、天職は殺し屋だから家に戻れと告げるギタラクル。その言葉はある意味で正しいだろう。ハンターとしてのキルアの才能は未知数だが、殺し屋としては間違いなく一級品だ。門外漢の僕でさえ分かるのだから、真実は更に上かもしれない。だけど、僕はギタラクルの態度が気に入らなかった。エリスが僕の腕にギュッと抱きつく。彼女の頬に掌をあてた。

 

 家族は、お互いに尊重するべきだと思うのだ。

 

 二人の話は進んでいく。ゴンと友達になりたいという内心を吐露するキルア。頭から否定するギタラクル。その関係はきっと歪だ。しかし、彼らが殺し屋という家庭事情だから特別に見えるだけで、世の中にはもっと歪な家族関係が五万とある。部外者の僕が横から口出しする理由にはならなかった。

 

 ただ、説得の技術として見た場合、ギタラクルの手腕は最悪だった。やらない方がマシだった。僕も職業柄、数々の交渉現場を見たり参加したりしてきたが、あれほど高圧的な態度はずぶの素人以外に見た事がない。恐らく彼は生っ粋の殺し屋で、それも実動専門なのだろう。本人としては兄として弟を導くべく精一杯頑張ってるつもりなのだろうが、力技以外でキルアの同意を得られるとは思えなかった。そもそもギタラクル自身にも、力技以外の落とし所が見えてなかった。

 

 これではそもそも説得ですらない。相手の同意を得るつもりが全くなく、自分が何を実現させたいかも把握してない。それではキルアは傷付くだろう。それを見たエリスは悲しむだろう。妹が僕を見上げていた。瞳に宿る彼女の光が、濃いめのダークブルーの虹彩が、優しい悲哀に揺れていた。言葉はなにもなかったが、願いを断る術はなかった。

 

 金の髪をそっと撫でた。エリスは一緒についてきたがったが、僕は首を振って諦めさせた。万が一戦闘になった場合、守り切る自信がなかったのだ。大丈夫、戦う気はないよ。そう囁いてから腕を離した。

 

 ついにギタラクルはゴンを殺そうと言い出した。実にあっさりした決断だった。試験官の一人を殺しながら情報を聞き出し、隣の控え室へ向かう彼の目は本気だった。クラピカとレオリオ、そして黒服達が扉の前に集う。

 

 オーラの残量が心許ない。マリオネットプログラムは戦力にならない。それでもいい。行こう。エリスが望んだ。それ以上の理由は必要なかった。

 

「クラピカ、レオリオ、すまないがここは譲ってくれ」

 

 扉の前に立ち塞がる二人を宥めて下がらせる。たとえ実力差が明瞭でも、彼らは怯まず立ち向かうだろう。そして必ず死ぬだろう。

 

「ちょっといいかな」

「なに? 邪魔するの?」

「まあ、そうなるね。エリスが、ゴンを殺して欲しくないそうだから」

 

 額に針を三本刺された。いや、気が付いたら針が生えていた。全く反応できなかった。セーフモードのマリオネットプログラムで戦えるレベルの相手ではなかった。脳神経の結節が三つ、的確かつ最小限に刺激されていた。自己診断プログラムに一時停止を命令し、バイパス経路を構築させる。与えられたダメージは面倒だが、得られた情報は重要だった。彼自身や試験官に使用した際の事も合わせて考えると、針を刺した対象を操作するタイプの能力だろう。暗殺に関わる何らかの技術、恐らく拷問術と念能力の組み合わせか。使い勝手はよさそうだった。

 

「気がすんだかな? 残念だけど、僕にこの手のものは効かないんだ。早い者勝ちだよ。知ってるだろう?」

 

 余裕を装い、面倒くさそうに針を抜きながら言ってみる。僕の動揺は外部に漏れない。周りにいた人間が驚愕し、ギタラクルもわずかに目を見開く。固まっていたエリスが息を吐いた。だが、実際には厄介な攻撃だった。操作ではなく破壊主眼でこられらたら、今の僕には対処できない。今のうちに場の主導権を握りたかった。

 

「ネテロ会長、よろしいですか?」

「うむ、なにかの」

 

 この場を預かる責任者だというのに、先ほどからずっと傍観に徹していたネテロ会長に話を振る。

 

「これから彼、ギタラクル……、は偽名だったよね」

「イルミ=ゾルディック。イルミでいいよ」

「どうも。イルミがキルアの為にゴンの殺害を試みるより、両者共に満足度の高い解決手段を提案したいと思います。そこで一つ、わがままを聞いて頂けませんか?」

「さて。どうだかのう……」

 

 顎ヒゲをさすり、とぼける会長。だいたい分かった。部下を持つ身が故の優柔不断や世渡りの秘訣などではなく、この人はこういう性格だ。

 

「ご助力頂けるならプロハンターの方をお一人お貸し下さい。彼らの問題が平和的に解決できるなら、それが一番ではないでしょうか?」

「しかたないの、ワシが行こう。ブハラ試験官、この場を任せる。試験再開じゃ」

 

 会長の案内で別室に移動する。張本人のイルミとキルアに対しては、あえて確認をとらなかった。キルアはともかく、イルミは現状で話し合いに応じるメリットは低いと思ってるだろう。ネテロ会長と僕が組んだ場合の戦力計算と、本当にゴンを殺すなら立ちはだかるだろうヒソカとの戦いの想定、後は単に話の流れだったからという理由だろうか。そのような状態の彼の前に、話し合いに応じないという選択肢をぶら下げたくはなかったのだ。

 

 こうして会長と僕を交えつつ、イルミとキルアの話し合いが再開した。僕が司会を勤め、話す役と聞く役を明確に分けたのが良かったのだろうか。今度は相手の話に耳を傾け、お互いの立場を知る機会を得た。双方、目の前にいるのが言葉の通じる動物である事を再認識できたのだった。

 

 元々、兄弟仲はそこまで悪くはなかったのだ。イルミがキルアを心配し、キルアがイルミに内心の願望を吐露できるぐらいには。用意してもらった甘いお菓子も、心をほぐすのに役立ったかもしれない。

 

 結局、これから控えるイルミの仕事が終わり落ち着いた所で、彼らの父や祖父を交えてもう一度話し合う事でまとまった。

 

 やっぱり、家族は仲良くするべきだと思う。

 

「会長、ありがとうございました」

「うむ。悪い結末ではなかったの」

「ええ、全くです」

 

 彼らを部屋に残したままの帰り道、僕はエリスの事が気になっていた。トンパ対レオリオの戦いが終わったら次は彼女だ。対戦相手がヒソカに決まった時点ですぐに降参するよう言い含めておいてはいるけれど、本人は不満な様子だった。エリスなら、最終試合で確実に勝てると思うのだが。

 

 嫌な予感がした僕は、会長にもう一つお願いをした。

 

 

 

トンパ vs レオリオ

 

「二時間以上外していたはずなんだけど……」

「ご覧の通り、レオリオの試合は続いてるよ。それよりキルアの件はどうなった?」

「エリスが来てから話すよ。ほら、向かってきてるから」

「わかった、頼む」

 

 会場に入るなり寄ってきたクラピカに促され、僕は事の顛末を説明した。二人ともそれを聞いて大いに喜び、よくやってくれたと感謝された。レオリオもクラピカが見せたサムズアップで概略を悟って、殴られて腫れ上がった顔でサムズアップを返していた。そう、彼にはそれぐらいの余裕があった。

 

 一方でトンパはぼろぼろだった。顔面こそレオリオ程は腫れてないものの、全身の動きが明らかに鈍い。医者を志望するレオリオならば、身体能力に響く部位へのダメージの与え方も押さえていたのだろうか。

 

 しかし、僕は内心意外だった。トンパの話はトリックタワー内部を攻略中に、ポックルとポンズから色々と聞いた。十歳の時からハンター試験を受け続け、今年で三十五回目を数えるベテラン中のベテラン受験者。だがその実態は新人潰し。なにも知らないルーキーを潰し、他者の絶望を間近で眺める事を趣味として、攻略以上に精を出す異色の人物。いや、噂では既に合格する気もないらしい。聞けばエリスも一次試験前に怪しげな缶ジュースを勧められたという。

 

 そんな人物が最終試験に残ったと知ったとき、僕は何かの作用でひょっこりと勝ち抜いてしまったのだと推測した。であるなら、勝利に固執する事はないとも思った。クラピカ戦の結果もそれを裏付けていた。

 

 正直に言おう。僕は彼こそを不合格予定者として計算していたのである。

 

 ところが彼らは二時間以上殴り合いを続けている。若く体格にも恵まれたレオリオは分かる。気力体力共に充実してるし、なにより彼にとってこれは勝てる戦いだ。しかしトンパは違う。四十路を廻って衰え始めた肉体で長時間、勝ち目のない戦いを続けている。何かを企んでいるにしろ、いないにしろ、合格を目指さない男がこれだけの事をできるだろうか?

 

「おらっ!」

 

 レオリオの拳が鳩尾に突き刺さる。たまらずにトンパが崩れ落ちた。四つん這いになって床を睨み、体内に反響する痛みに耐えている。レオリオは息を荒くしながらも、隙だらけのトンパを追撃しない。

 

「レオリオはなんで強引に畳み掛けないのかな? 体力に任せれば可能だと思うけど」

「これは私の推測だが、お互いに満足のいく試合をしたいのだろう。いや、違うな。今の言葉は撤回しよう。奴のあれは性格だ。はじめからあんな戦い方しか頭にない。レオリオはそんな男だよ」

 

 クラピカの返答に僕も頷く。レオリオとの付き合いは短いが、それが正しいような気がしたのだ。エリスが僕の手を握りしめた。

 

「っ痛! まったく、後から響く嫌なパンチしてやがるぜ」

「あんたもな。体中痛くてたまんねーよ」

「よせよ。そう効いちゃいないはずだぜ」

 

 起き上がりながら軽口を叩くトンパに、レオリオも軽い調子で合いの手を入れた。

 

「本当はな、あんたとは十分以内にケリを着けるつもりだったんだ。十分以内ならオレが有利、三十分までならほぼ互角、それ以上時間がかかったらジリ貧だって見ていたんだ」

 

 クラピカを見ると頷いた。実際の戦闘もそれとほぼ同じ推移だったらしい。正確な目算だったという事だ。これこそ、飛び抜けた実力もない男がハンター試験という舞台に立ち続ける事が出来た理由だろうか。

 

「それが、あと十分粘ってみよう、あと五分、あとパンチ一発位は、ってな。おかしいよな。最終試験に残っちまったからって、そこそこでやめておく方針は変えなかったはずなのに」

 

 トンパの視線がレオリオの目を射抜く。レオリオは何をするでもなく、ただ正面から見つめ返した。

 

「なあ、レオリオ。教えてくれよ。何でオレ、オマエとまだ殴り合ってるんだ?」

 

 それがトンパの問いだった。三十五年間試験を受け続けた男が洩らした、一つの小さな問いだった。それに答えられるのは、きっと本人だけだろう。他人がいくら賢しげに語っても、トンパの心には響くまい。しかし、レオリオは当たり前の様に口を開いた。

 

「んなの簡単じゃねーか。納得できてねーんだろ? ならしょうがねえ。オレで良ければいくらでも付き合うぜ」

 

 その気持ちはよく分かるしな、と付け加えて、レオリオはどんと己の胸を叩いた。そして痛みに顔をしかめる。肋骨にヒビでも入っていたのか。そんな二人の戦いの様子に、会場の空気が少し変わった。もしかしたらだがレオリオは、ハンターより教師の方が向いてるのかもしれないと、僕は益体もない考えを浮かべていた。

 

 トンパが降参を宣言したのは、それから三十分ほど経ってからだった。

 

 試合が終わり、痛む身体を引きずって部屋の隅へ向かうトンパに、ずっと見ていたハンゾーが一つ尋ねた。

 

「なあおっさん。試験に合格したかったのなら、次の試合でエリスって女に勝てば良かったんじゃないか?」

 

 トンパは立ち止まって少し黙る。振り向いた顔は腫れながらも、微かな笑みを浮かべていた。

 

「ハンゾー、これからハンターになるお前さんに、試験を三十五回生き延びたオレが一つ教えてやるぜ」

「あん? なんだよ」

「あのお嬢ちゃんが一番やべーよ」

 

 

 

不合格┬┬ヒソカ

   │└エリス

   └トンパ

 

ヒソカ vs エリス

 

 とうとうこの時が来た。僕は会長に視線をやる。向こうも目を合わせて頷いてくれた。ヒソカの意思など確認するまでもないが、エリスの方はどうなんだろう。

 

「エリス」

「……ごめんなさい」

 

 そのやり取りだけで僕には分かる。それでも確認せずにはいられなかった。

 

「戦う?」

「ええ」

「なんでか聞いてもいいかな」

「だって、アルベルトに守られてばかりいたら、またあの時みたいになっちゃうじゃないっ!」

 

 エリスが僕を見上げて悲痛に叫ぶ。ヒソカに心臓を打たれた夜の事だろう。それを持ち出されると、正直辛い。エリスの為に命をかけるのは心の底から本望だったが、心配をかけてしまったのは、言い訳のできない事実だから。

 

「エリス、一つだけ約束してほしい。危なくなったらすぐ降参する事。これだけは守ってくれないか」

「……うん」

 

 妹の体を抱き締める。エリスは小さく震えていた。覚悟を決めよう。携帯電話の電波状況は確認してある。この部屋は確実に圏内だった。

 

「会長、お願いします」

「うむ。そのようじゃな」

 

 手はずの通りにお願いする。ネテロ会長はこの試合を特例とし、立会人は自らが勤める事を発表した。その上で、当人達以外は待避するよう命令した。理由は周囲の危険が大きすぎることを鑑みてである。それを聞いて、ヒソカの唇が釣り上がった。

 

「僕も残ってよろしいですか」

「無論じゃ。残りなさい」

 

 ざわめきが会場に広がるものの、やがて僕達を除く全員が退出する。広い部屋ががらんとした。避難部屋への誘導はプロハンター達が受け持っている。今頃は隣室のゴンも移動されているだろう。

 

「いいじゃないか♠ 素晴らしいサプライズをありがとう♦」

 

 ヒソカは上機嫌で笑っていた。既に室内には四人だけ。試合の準備は整っていた。

 

「アルベルト、ちょっと待って」

「どうしたんだい?」

「もう少しだけ、このままで」

 

 断る道理はない。右手でエリスの肩を抱き締めて、左手で頭を優しく撫でてやる。見下ろす位置にある白い背中に、何故か、オーラが集まり波打っていた。

 

「……エリス?」

「大丈夫。平気よ」

 

 纏が解かれた。淡い緑のドレスが軽やかに揺れる。背中が赤く発光している。そして翼が生えてきた。具現化された真紅の翼。美しくも不吉なエリスの発。大きさは片方三メートルほど。性別と色を別にすれば、天使の姿にも見えただろう。やがて翼が発光を始める。

 

「ね? 大丈夫だったでしょ?」

 

 腕の中で微笑むエリス。まさかこれを使うとは思わなかった。しかしそれ以上に問題があった。発現があまりにスムーズすぎる。溢れてくるオーラの量も多すぎず、適切にセーブされていた。今までは、これほど気軽に発現できる能力ではなかったはずだった。エリスは明らかに成長していた。それも、ありえないほどのスピードで。ハンター試験という実戦の場に置かれたからだろうか。いや、それよりも。果たしてこの成長は、本当に喜ばしい事なのだろうか。僕は言い様のない不安に襲われた。

 

「驚いたよ。あまり無茶はしないでくれ」

「そうね、ごめんなさい」

 

 頬を撫でて言う。エリスはくすりと小さく笑って、ヒソカと戦うために中央へ進んだ。肩からは例のポシェットが釣り下がっている。貧者の薔薇が仕込まれた卵の化石が。

 

「もういいのかい♣」

「ええ。待たせたわね。ごめんなさい」

 

 対峙する二人。ネテロ会長が開始を告げる。その直後、動いたのはエリスの方だった。軽くかざした手が発光する。次の瞬間、ヒソカに向け赤い光が放たれた。無論、ただの光であるはずがない。床と壁が陥没する。あれこそが赤の光翼のもつ特殊能力、光の速さの念弾である。

 

 ヒソカはそれを紙一重で躱した。相変わらずとんでもないセンスだった。湿原で一度見ているとはいえ、ほとんど初見に近いあの能力を、経験と勘だけで見破ったのだ。光を媒介にした生命力の授与。回避の叶わぬ絶対の暴力を。しかし、エリスの攻撃がそれで終わろうはずもない。

 

「このっ!」

 

 太い光での薙ぎ払い。正面がガリガリと削れていき、無惨な状況に成り果てる。ヒソカはそれを跳んで躱した。悪手だ。空中で避けられるはずがない。だが、奴の能力なら例外である。

 

 オーラを天井に伸ばし収縮、更に上昇して追撃を避ける。直後に天井を蹴り斜め下へ跳躍。エリスの光が天井をひび割れだらけにした。ヒソカの三次元機動は止まらない。床、壁、天井にオーラを縦横無尽に張り巡らせ、あるときは収縮させ軌道を変え、ある時は恵まれたバネで跳躍する。あの男の対G限界はどうなってるのか。そしてフェイント。動きに虚実を混ぜてエリスの思考を翻弄した。

 

 しかしエリスも負けてはなかった。戦闘経験の無さを能力で補い、頑丈な会場を瓦礫の山に変えていく。両手から赤い閃光を迸らせ、ヒソカを追い詰めようと乱舞した。僕も会長も流れ弾の回避に大変だった。壁際に待避していて比較的安全とはいえ、直撃を喰らったら一大事だった。ホテルが崩壊するかもしれないと本気で思った。果敢に攻撃を仕掛けられるヒソカが異常なのだ。

 

 いかに光速の攻撃とはいえ、エリスの思考速度は人間並でしかない。故に微かなタイムラグがあり、ヒソカはそこを上手くついていた。しかし反撃は尽く失敗した。投げ付けたトランプは蒸発する。エリスにオーラを粘着させても、発光する掌で千切られた。全身に大きなオーラ塊を被せ行動を制限しようともしたが、ひと撫でされて消滅した。

 

 エリスの攻撃は逆二乗の法則により距離とともに拡散して威力が弱くなり、逆に近付けば強くなる。光をレーザーの様に集束させる事はエリスにはできない。能力を使う機会に恵まれず、熟達してないためだった。

 

「なら、これでどうだっ♦」

 

 ヒソカが辿り着いたのはカタパルトだった。部屋中に転がる瓦礫をオーラで飛ばし、その運動エネルギーで攻撃する。なるほど。あれならエリスも対処しづらい。部屋中を飛び回りながら投石するヒソカと、迎撃と撃破を試みるエリス。圧倒的な展開で始まった試合は、徐々に拮抗に向け傾いていった。

 

 だがそれでも、エリスにはエリスなりに秘策があった。翼を広げ、四隅の一角に陣取り構える。なるほど、飽和攻撃か。悪くはない。しかしそれは、穴一つあれば回避できる。いや、もしかするとエリスの真意は……。

 

「建物ごと吹き飛ばしてあげるわ。ヒソカ、降参しなさい」

「クックックッ、やってみな♥ と、言いたい所だけど♠」

 

 脅迫としては、エリスの脅し方は三流だった。だが、ヒソカは笑って両手を上げた。

 

「まいった。降参するよ♣ これ以上やると殺しあいになっちゃうからね♦」

 

 なんとも不吉なセリフだった。心中では殺しあいを望んでやまず、そんな意思を隠そうともしない。しかし、これで試合は終了した。エリスの背から翼が消える。良かった。とにかく良かった。エリスの合格が、やっと確定してくれたのだから。

 

 

 

不合格┬ヒソカ

   └トンパ

 

ヒソカ vs トンパ

 

 やむをえぬ事情により試験会場を別の大部屋に移してから、最終試合の運びとなった。両者、中央に進み出て相対する。トンパは緊張で脂汗を流していたが、ヒソカはつまらなそうにトランプをシャッフルして遊んでいる。どうやら、彼には全く食指が動かないようだった。

 

「最終試合、ヒソカ対トンパ。始め!」

 

 再び立会人を勤めるマスタが告げる。ヒソカは動かない。冷たい瞳でトンパを見下ろし、無言で早く降参しろと促していた。

 

「毎年、この時期になるとな、お袋がパンケーキを送ってくれるんだ。果物の砂糖漬けがたっぷり入ってて、子供の頃からオレの好物でさ。ハンター試験を受けるのに最後まで反対した人だけど、受験し続けたら一番応援してくれた人なんだ」

 

 俯いたまま、トンパがぽつぽつと語りだした。

 

「出発する日にはかみさんが気合いの入った弁当をこしらえてくれてさ。最近じゃ娘も一緒に手伝ってくれて。それがまた旨くってよ。だけどオレ、試験に受かる事を諦めてたんだよな」

 

 これが、会長がやりたかった事だろう。今まで脱落し、踏み台になってきたものを分かりやすいスケールで再現し、脱落した者達に思いを馳せる。ある者は負ける側を体験し、あるものには踏みにじる側を体験させる。そう。最終試験は誰かを選ぶためのものではなく、一人を犠牲にして心構えを刻み付けるためのものだった。

 

「分かっちまうんだよなぁ。オレがここまで残れたのもただの偶然で、こんな機会、この先二度と訪れやしないって。その一度切りの最終試験が一人落ちるだけ、命の危険もないっていうんだからよ。……思い出しちゃったじゃねーか。合格を目差していた頃の気持ちってやつを」

 

 トンパとて、ただの嗜好、ただの娯楽で三十五年間、受験し続けた訳ではないのだろう。衰え始めた身体を引きずり、日常生活と折り合いを付け、そこまでして欲しかった何かがあった。

 

「エリス、目を逸らしてはいけないよ」

「ええ、わかってる。……でも、こんなのって」

 

 震えながらも、エリスの視線はトンパから片時も離れない。そんな彼女の手を握って、二人の体温を共有した。

 

「せめて、来年来る連中への土産話に、あのヒソカを一発ぐらいは殴ってやりたかったんだが、足がすくんじまって動かねぇ……」

 

 顔をあげてヒソカを見つめる。怯えも恐れも見出せなかった。この瞬間、わずか数秒の間だけ、トンパはヒソカと対等だった。対等の気構えで対峙していた。そしてマスタに、ぽつりと降参を宣言した。

 

「勝ちたかったな……」

 

 座り込み、静かに嗚咽をもらすトンパ。静かに見守る者、胸に何かを秘める者、興味なさそうに立ち去る者。各人の行動はそれぞれだったが、笑う者だけは一人もいなかった。

 

 

 

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【色なき光の三原色(セラフィムウィング) 特質系・具現化系】

使用者、エリス・エレナ・レジーナ。

 赤の光翼 ■■■■■■■■■■ 具現化した光に生命力を付与する。

 緑の光翼 ■■■■■■■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■。

 青の光翼 ■■■■■■■■■■ 具現化した翼に生命力を溜め■■■■■■■■■■■■。

長い■■をかけて鍛えられた、■■■■■■■■■ための能力の失敗作。

 

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次回 第一部エピローグ「宴の後」



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第一章エピローグ「宴の後」

「人からもらった食べ物というのは、具体的にどの程度を示すのか聞いてもいいかな」

「あー。そうだな。最低でも、何も混入されてないとオレが確信できるのが条件だな。できれば食材の段階から自分で選びたいんだけどよ」

「それなら多分問題ないよ。ホテルの一室、キッチン付きのスイートルームを借りて皆で持ち寄る型式だから、ハンゾーも好きにやればいい。なんなら、もういくつか部屋を借りてしまってもいいだろうしね」

「おっ、そうか! そいつはありがたいが、いやー、すまんなー! オレまで誘ってもらっちゃって!」

「気にする事はないさ。僕達は同期になったんだ。お互い変な遠慮は無しで気持ちよくいこう。じゃ、開始は二十時の予定だから」

 

 喜び勇んで駆けていくハンゾーに手を振ってから、携帯電話を取り出した。ヒソカとイルミは、特にヒソカは誘うなと事前に強く念を押されているので、これで全員に声をかけた事になる。それにしても陽気なスパイだ。ニンジャとやらの特徴なのだろうか?

 

「エリス、僕だ」

「アルベルト、どうだった?」

「打ち上げ、ハンゾーは参加するそうだけど、トンパには残念ながら断られたよ。何度か誘ったんだけどね。一人でやけ酒に浸りたい気分なんだそうだ」

「そう、残念ね……。こっちはもうポンズ達と合流できたから、これから買い出しに向かう所よ」

「わかった。会計は僕名義で構わないからね。じゃあ僕は先にホテルに向かってるよ」

「ええ、お願いね」

 

 ちなみに会場は最終試験の舞台となった協会のホテルではなく、あえて別の場所を選んでおいた。試験が終わった後でいつまでもその気分を引きずるのもどうかと思ったからだった。どの道ライセンスさえ提示すれば冗談みたいな割り引きが受けられるので、反対意見は誰も出さなかった。

 

 

 

 それから数時間後、ホテルに集まったメンバーは僕とエリス、ゴンとキルアとクラピカとレオリオ、そしてハンゾー、落選はしたもののポックルとポンズの九名だった。広いスイートルームのあちこちに料理と飲み物を沢山並べ、思い思いに寛ぎながら交流を深めるという趣旨だった。

 

 料理の中でも目を引くのは、飴色に焼けた七面鳥だった。ゴンが市場で見つけてきたもので、野生に極めて近い状態で放し飼いにされていたという。色艶も匂いも格別だが、味こそがまさに絶品だろう。これの腹にトリュフを真ん丸になるまで詰め込んでオーブンで焼いたものを、今宵は五羽も用意してある。これらはポンズの力作だった。

 

 それだけではない。山鼠と豚の肉を合い挽きにして塩と胡桃と香辛料を加え生地で包んで揚げたものはクラピカの出身部族がハレの日に食す伝統料理だったし、ハンゾーは練った中力粉を太く切断した麺にとぐろを巻かせた一本うどんというものを始めとして様々なジャポンの民族料理を並べたてた。僕が担当したのは魚料理だった。本当に質のいい魚は蒸すべきだというのが僕の持論である。焼くより時間も手間もかかってしまうが、なんと言っても旨味が逃げない。素材が秘める滋養分を口中で堪能するためには、それが一番合理的な方法だと信じている。エリスに調達してもらった素晴らしい大きさの舌平目は、塩を振られリーキの葉で編んだ草篭に包まれて、柔らかく弾力に富む状態に仕上がった。

 

 キルアの料理は豪快だった。どこからか生きた子牛を連れてきて、瞬く間に解体してしまったのだ。血がほとんど流れない妙技だった。それぞれの部位について下ごしらえが施され、後は食べる際に順次焼いていけばいいという。ホルモン焼きは鮮度が命だというが、ここまで新鮮なのは珍しい。テールだけはエリスが譲り受けて、圧力鍋でシチューにしていた。僕の好物を憶えていてくれて嬉しかった。

 

 ゴンは野性味溢れる品々を用意した。ドングリをたっぷり食べて肥えたリスの干し肉パイ、テラスで燻した川魚、海水を模した塩水で茹でた手長エビ。これは大鍋でざっと茹で上げて、熱々のところにレモン汁を付けてかぶりつくのである。島を訪れる漁師達が好む食べ方だという。それが大皿に山盛りだった。

 

 レオリオは料理というより酒の調達がメインだったが、彼の披露したサラダは好評を持って迎えられた。飛行船乗りのサラダという、かつての戦争で軍の飛行船乗り達が出撃前に好んで食べた事から名がついたというそれは、レオリオの国では男の料理の代表格なのだという。

 

 木製の大きなサラダボウルを用意して、新鮮なロメインレタスを手で千切っては次々と放り込む。更に数種類の野菜を入れ、こんがりと焼き目のついたクルトン、すり下ろしたチーズ、ベーコン、少量のハーブ、オリーブオイルにワインビネガーとレモン果汁、刻んだアンチョビを加えて混ぜ合わせた。こうして瑞々しいサラダがボウルから零れそうなほど溢れた所で、半熟にしたゆで卵をいくつも割って上から落とした。ほとんど生に近い状態のそれがロメインレタスをとろりと滑り、てらりと濡らした瞬間は、周りで見ていた皆が思わず息を呑むほどだった。

 

 ポックルが自慢げに振る舞ったのは、故郷に伝わる伝統的なパンの一種だった。小麦粉を練り、発酵をさせずに平たく伸ばして多種多様な具材と合わせる。本来はこれに油を塗ったものを縦穴式の竃の内側に貼付けて焼くのだそうだが、今回はないためにオーブンを使った。注目すべきは具の多様さだった。羊の挽き肉にトウガラシとトマトを刻んで混ぜ、辛さと酸味が際立つものもあれば、腸詰めやチーズ、ピーマンなどを加えて香辛料で味を調えたものもあった。小麦の生地はぱりぱりに焼け、香ばしい油の匂いが広がった。

 

 エリスは主にオードブルやデザートといった小品を精力的に量産していた。色とりどりの野菜と果実のジュースを若干固めのゼリーに仕立て上げ、味付けした柔らかいゼリーに投じたゼリーサラダ。一度焼いたリンゴにパイ生地をかぶせ、てっぺんの砂糖が溶けかかるまで焼いたタルト・タタン。桃のシロップ煮をバニラアイスとホイップクリームで飾り立て、ラズベリーのジャムをたっぷりとかけて冷やした甘い氷菓。これは周りにもブラックラズベリーが転がされ、賑やかで可愛らしい盛り付けになった。

 

 キルアの思いつきが発端となったこの企画は、想像以上の熱意をもって開始に至ろうとしていた。

 

「いや、作りすぎでしょ。これ」

 

 呆れながらポンズが言う。広いガラステーブルに料理が所狭しと並べられ、それでも全く足りないのでホテル側に頼んで追加で借りる必要があったほどだった。それぞれの皿の間には色鮮やかな草花を生けた花瓶が置かれ、小瓶に入ったキャンドルが料理を官能的に燻らせている。確かに、普通の人間の基準では九人で食べ切るのは無理だろう。しかし目を輝かせる欠食児童達の前では、その心配も無意味なはずだ。

 

「大丈夫だよ、ほら」

 

 ゴンやキルア、レオリオなどの面子を見渡し僕は言った。ハンゾーなど今にも七面鳥にかぶりつきそうな勢いだった。忍の習性はどうしたのか。まあ、そんな揶揄は不粋だった。

 

「……マジで?」

「たぶん、マジで」

 

 目を丸くしていたポンズは、しかし第2次試験の光景を思い出したのだろうか、苦笑しながら椅子に座った。そうこうしてるうちに飲み物が配られ、乾杯の準備が進められる。僕はエリスに冷たく煎れたフラワーオレンジペコを手渡すと、自分のために手近な位置にあった白ワインを用意した。ついでにとポンズにシャンパンを頼まれる。

 

 エリスはアルコールを飲めないし、僕は飲んでも意味がない。飲んでも酔わない上に、飲まなくてもいつでも酔えるからだ。しかし、こういう席で酒を飲まないと、面倒な事になりかねない。今日集まった人間ならそのような問題はないだろうが、念のため、エリスはともかく、僕は飲んでおくべきだと判断した。

 

「よーし。それじゃあお前ら準備はいいな! ハンター試験終了と皆の無事を祝してー!」

 

 ビールジョッキを片手にレオリオが乾杯の音頭をとり、ささやかな打ち上げパーティーが開始された。美味しい食べ物は舌の動きを滑らかにする。ハンター試験が終わったという開放感も手伝って、宴は大いなる盛況を見せた。

 

「二人とも、残念だったね」

 

 こちらに歩いてきたゴンがいう。彼が手にする皿の上には、切り分けた七面鳥とほぐしたヒラメの身が乗っていた。僕の手掛けた品も皆に好評だったようで喜ばしい。

 

「あ、ん、た、が! あんたが言うかこんにゃろー!」

「ご、ごめんごめん! 悪かったってホントごめん!」

「私のプレートを返せー!」

 

 ……まあ、好評だったようで喜ばしい。

 

「ポンズはまだいいよ。オレなんかさ、4次試験最後の夜にあいつが現れて」

 

 手長エビを肴に、舐めるようにワインを楽しんでいたポックルが、どこか遠い目をして呟いた。レオリオが訝しげに反応する。

 

「あいつ? 誰だよ」

「……ヒソカが」

「よく、殺されなかったな」

 

 クラピカがごくりと唾を飲む。皆も同じ意見らしい。この試験の間に、ヒソカ脅威の認識はすっかり定着したらしかった。しかし見方によっては彼らは幸運だと言えるのだ。あれほどの実力者の存在を、プロになる前に肌で感じる事ができたのだから。僕はエリス作のテールスープを舌の上で愛でながら、そんなどうでもいい事を考えていた。

 

「気分がいいからおまけで見逃してやるって……」

 

 プレート一枚とられて気絶させられただけで済んだよ、と肩を落とすポックルを、皆が次々と慰めている。そうか、僕達と戦った後にヒソカが入手した最後のプレートは、彼から奪ったものだったのか。

 

 ふと横を見ると、エリスが少し気まずそうだった。

 

 

 

 そんな一幕もあったものの、時間はおおむね賑やかに流れていく。そしていつしか、話題は自然に今後の展望についてとなった。

 

「オレは故郷に帰って受験勉強だな。やっぱり医者の夢は捨てきれねぇ」

 

 山鼠と豚の包み揚げを飲み込んでから、ソファーに身を沈めるレオリオがいう。

 

「今までハンター試験に集中してたからな。これからは猛勉強しねーとなぁ」

「うん、がんばってね」

「おうよ。絶対合格してやるぜ」

 

 国立医大の高額な授業料は、受かりさえすればライセンスの特権で全額免除されるそうだ。彼がハンター試験を志した主な目的がこれだった。エリスもその決意に耳を傾け大きく頷く。どうやら、彼の目標に大きな共感を得たようだった。

 

「オレは、まあ。里に帰ってから巻き物探しの旅の準備だな。長老連中に挨拶回りもしなけりゃならんし、これから忙しくなりそうだぜ。お前らも隠者の書についての情報があったら教えてくれや」

 

 そういってホームコードの記された名刺が配られる。雲隠流上忍とあるが、恐らく所属する組織だろう。なんとも自己主張の激しいスパイがいたものだ。あ、そうだ、ホームコードといえば。

 

「クラピカ、いいかな」

「私か?」

「ああ。ヒソカからクラピカのホームコードを教えてくれってメールが届いてるんだけど、どうしようか」

「……黙殺してくれ」

 

 凄く嫌そうに返答された。そこまで嫌なものだろうか。僕など、エリスの事がなければ彼本人にはそれほど悪感情を抱いてないのだが。

 

「それはそうと、私は雇用主を探すつもりだ。幻影旅団に近しい人物に接触するためにな。皆も旅団について情報があったら教えてくれ。これが私のホームコードだ」

「幻影旅団。クモかな?」

「知っているのか?」

「人並み程度には。ただ、これでもアマチュアのブラックリストハンターとしては繁盛してる方だからね。掘り下げることができそうな心当たりのいくつかはある。その程度で良ければ後でホームコードに吹き込んでおくけど、軽い気持ちで手を出していい相手じゃないよ」

「無論、わかっている。しかし私には必要な事だ」

 

 ハンターになってまで追うとすれば、それはもちろんそうだろう。僕は軽率だった事を謝罪し、クラピカからも情報について礼をいわれた。

 

「ブラックリストハンター? あなたが?」

 

 ポンズがぱちぱちと瞬きをしていた。凄く意外そうな顔だった。他も大体同じようだった。ゴンはよく分かってなさそうだし、キルアは全く驚いてなさそうだったが。

 

「意外かな?」

「ちょっと、見えないわね」

 

 そこまで真剣に頷かれると少し困る。エリスが少し拗ねていた。危険な仕事をしてるという自覚はあるが、そこまで危惧されるほどの事でもないと思う。まあ、ブラックリストハンターという仕事も世間では誤解されてる場合が多いから、これも仕方がない事なのだろうか。

 

 ブラックリストハンターといっても、ドラマのように凶悪犯とカーチェイスをしたり銃撃戦を繰り広げるのが全てではない。そういう戦闘力に優れた連中と直接戦闘を繰り広げるのは、アマチュアの極一部とプロの半分程度だ。僕のようなのはむしろ、指名手配を受けた人間の居場所を突き止めるのが主な仕事だった。

 

 どこにでもある街の、どこにでもあるアパートの、どこにでもある一室に住む、どこにでもいる顔の犯罪者。それを探し出すのが僕の仕事だ。そういった業務内容だと、戦闘は止むをえない場合の緊急措置でしかなく、大抵はその国の司法機関か元請けのプロハンターに場所を報告して終わりである。

 

 そんな説明を皆に行い、だいたい納得してもらえたのを確認して、アイスティーで喉を潤す。同じような話は何度もエリスにしているのだが、未だ本心からの同意は得られてない。曰く、もっと安全な職業はいくらでもあるそうだ。それは正真正銘の事実だが、実入りは良いしやりがいもある。そして何より、師匠が若い頃にしていたこの仕事は、僕にとって特別なものだった。

 

「オレは、二月ぐらいに一度実家に帰る他は決まってねーかな。ゴン、お前はどうする?」

「オレ? うーん、やっぱり特に決まってないや。やりたい事は沢山あるけどね。親父を探したり、お世話になった人達に挨拶にいったり、ヒソカにプレート叩き返したり!」

「ヒソカに!?」

 

 ゴンの当面の目標は凄まじかった。いつかきっと顔面を殴って、お情けで渡された44番のプレートを受け取らせる。傍から見て、それはあまりにも無謀だった。だがそれでも、不可能とは思わせないから心地がいい。ヒソカも上手い事やったものだ。

 

「じゃー特訓だなー。どっか適当な場所探して修行すっか」

「え? 遊ばないの?」

「おまえなあ」

 

 じゃれあう二人。仲がいいようで微笑ましい。ゴンと友達になりたいと語ったキルアの願いも、このままずっと、壊されずに続けば幸福だろう。

 

「オレも特訓だな。特に戦闘力を鍛えようと思ってる。今年の試験で思い知ったよ。オレは弱かった。だから負けた。もし何かの拍子で今の状態のままハンターになれたとしても、その弱さがネックになるだろう」

「あ、じゃあオレ達と一緒に行こうよ! 人数は多いほど面白いからさ。いいよね、キルア?」

「ん? ああ、いいぜ。よろしく」

「こちらこそよろしく頼むぜ」

 

 ポックルはゴンたちと同行する事に決まったようだ。輝かしい才能を持つ彼らの成長は、ポックルにもいい刺激となるだろう。それに、今回は僕も思い知った。今までは強さより便利さこそ自己の性能として追求するべきだと考えていたが、強い暴力は、時に全てを駆逐する絶大な便利さを発揮すると。

 

「あ、私も一緒にいいかしら。最近伸び悩んでて困ってたのよね」

 

 結局、ポンズも加え、四人で当分一緒に行動する事に決まっていた。

 

「わたしは、うーん。アルベルトがいてくれるならどこでもいいかな」

「はいはい、ごちそうさま。で、あなたは?」

「僕も同じだよ。エリスがいてくれるならどこでもいい。ただ、当面の指針としては、プロとして活動の基盤を再形成する事に力を注ごうと思う。まずは人脈や情報網の見直しかな」

 

 僕の答えは、あまり面白みのないものだったらしい。ゴン達からは一緒に来るよう誘われたし、ハンゾーにも技術指南という名の引き抜きのお誘いを受けた。なんでも、僕ならニンジャとしても十二分にやっていけるとの事だった。それらを丁寧に断ると、話題はやがて別のものに移っていく。

 

 皆はまたまき直しに食べた。食べて、飲んで、大いに寛いで会話を楽しんだ。ポックルが弓を弦に狩人の唄を披露する。ふけていく夜にぴったりの、楽しくもどこか物悲しい調べだった。あれだけあった料理もいつしか皆の腹へと消えていて、しかし、宴の空気は冷めそうにない。誰かが空きっ腹を訴えた。

 

「へへっ。そう来ると思って、実はな」

 

 ハンゾーが得意げにもってきたのは、米に具をのせて緑茶をかけたものと、オニギリライスボールに大豆の醗酵ソースを付けて焼いたものだった。お茶漬けと焼きおにぎりという、彼の国の料理らしかった。寂しくなり始めた腹の底に、しんとしみる旨さがあった。

 

 ハンゾーが皆の喝采を浴びた事は、もちろん言うまでもないだろう。

 

 

 

 翌朝、集った皆はそれぞれの志を果たすべく、別れを告げてホテルを後に旅立った。

 

「まずは師匠に報告かな」

「そうね。父さんも心配してるだろうし」

 

 手を繋いだままに大通りを歩く。エリスが楽しそうに笑っていて、それだけで僕は幸せだった。海のそば、丘の上の小さな白い家。子供が二人に犬が一匹。それはきっと無理だけど、いつまでもこの手を繋いでいられたらいいと思うのだ。

 

 

 

次回 第二部プロローグ「ポルカドット・スライム」



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第二章 ポルカドット・スライム
第二章プロローグ「ポルカドット・スライム」


 降りしきる雨は嫌いだけど、私は雨の日が好きだった。

 

 私を求めるお客さんが、雨の日は少なくなったから。

 

 しとしと。窓の外では水滴が落ちる。長い髪の毛が湿気を吸って、体にまとわりつくのが憂鬱だった。それでも、私にまとわりつくお客さんはいなかった。

 

 雨の日はずっとお勉強。賢く見えるように。もっと人気が出るように。商品価値が上がるように。宿の主様や守衛さんに戯れに抱かれる事はあったけれど、お客さんほどには乱暴じゃない。娼婦の人から戯れに苛められる事もあったけれど、お客さんほどには傲慢じゃない。だから、私は雨の日が好きだったんだ。

 

 けれども、雨の日にやってくる人もいる。そういうお客さんは嫌いだった。雨の憂鬱を私にぶつけるから。雨が上がるまで、暇つぶしに長い間居座るから。齢がおそらく十前後だろう小娘が、この宿で一番の人気だなんて、ちょっとおかしいんじゃないかと思うけど、世の中、そういう趣味の人は意外と大勢いるのだという。そして、そういう趣味の人は行為の内容も倒錯してることが多いそうだ。私の客さんは殆どが粗雑で乱暴だった。お腹を殴って、複数人で嬲って、使うべき所じゃない場所を散々使って。

 

 私はそれにお礼をいう。感謝と真心を込めて奉仕する。それこそ正しいルールだった。骨や内臓を痛めつけなければ、顔以外は好きにしていい決まりだったから。いくらお客さんを喜ばせても、私には一ジェニーも入らないけど。

 

 それでも、苛つかれて振るわれる暴力よりはずっといい。

 

 楽しまれて振るわれる暴力の方がずっと楽だ。体の負担もずっと軽いし、なにより心が痛みにくい。人を傷つけ壊そうとする強い想いは、それだけでとても痛いから。だから私は、どんなお客さんでも隷属する。雨の日の仕事はとても嫌いで怖かったけど、顔に出す事はしなかった。

 

 その人も、雨の日にやってきた人だった。

 

 一番初めの印象は、金遣いの荒そうな人だな、とだけ。高そうな葉巻きをくわえていたけど、着ている服はぺらぺらの薄生地。そんなに珍しい人種じゃなかった。たぶん、最近小金が手に入ったんだと思う。貯蓄なんて考えずに、パッと使って一時を楽しむ。そういう考えの人達は、こんな場所ではごろごろしていた。

 

 おかしいなと思ったのは、入れられて数分した時の事だった。口で奉仕していた時は何ともなかった。だけど、突き入れられたとき、妙に痛みが強かった。痛いのはいつもの事だから、そんなに気にした訳じゃなかったけど。

 

 だけど、気付いたら体から湯気が出ていた。私の上で動くお客さんの体も、もやもやしたのに包まれてる。これは一体なんだろう。がつがつと頭に響く営みの中、朧げにそれに目をやった。

 

「ははっ、なんだよガキ! 開いちまったのか!?」

 

 葉巻きを口にくわえたまま、お客さんが楽しそうに腰を振る。私に応える余裕はないけれど、その人の顔を少し見つめた。どうして上機嫌になったのか、その意図を察しないと逆に不機嫌になる人も大勢いたから。

 

「しょうがねーな、オイ!」

 

 言って、私のお腹に葉巻きを押し付けて、灰皿代わりに火を消した。よくある事だ。呻き声はあまりでなかったと思う。むしろ優しい人かもしれない。敏感な部分に火を近付けて、怯える私に喜ぶお客さんも沢山いたから。

 

 葉巻きが勿体ないなと、ちょっと思った。

 

「お前にいい事教えてやろうか。抱き終わるまでの時間でよければな。ほら、さっさと心込めて綺麗にしろ。それが終わったら次は後ろだ。犯しながら教授してやるからよ」

「はい、ありがとうございます。お客さま」

 

 反射的に頷いてお礼をいう。お客さんの股間にかしずいて、体に染み付いた動作で奉仕した。この人は私を気に入ったらしい。笑いながら私の頭をわしゃわしゃと撫でて、これから贔屓にしてやるぜと告げられた。

 

 しとしと。外では雨が降っていた。

 

 

 

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【ポルカドット・スライム 操作系・放出系】

雨の日限定の能力。

体に触れた水にオーラを流してテニスボール大のスライムを生成する。

スライムはそれぞれが自立した自動型であり、目標の口と鼻を塞いで窒息死させる本能を持つ。

十分な量の水さえあれば膨大な数のスライムを展開可能。

発動は条件を充たした際にオートで行われる。

 

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次回 第八話「ウルトラデラックスライフ」



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第八話「ウルトラデラックスライフ」

1999年03月02日 早朝

 

 目覚めると、アルベルトの寝顔がそこにあった。

 

 笑みがこぼれる。可愛くてあどけなくて懐かしかった。静止したままの端正な顔立ちが彫像のようで、呼吸だけが命の在り処を教えていた。撫でたかった。撫でてあげたかった。撫でさせてほしかった。だけど、起こしてしまうかなって、心配で。亜麻色の髪をくしゃりと愛でてみたくなって、溢れる愛しさで切なくなった。

 

 いつからだろう。眠るのが怖くなくなったのは。闇に落ちる錯覚が消えて、語りかける声が小さくなってくれたのは。昔は夜が怖かった。子供の錯覚といえばそうかもしれない。だけど、あの頃は生きているのが怖かった。

 

 そんなわたしだったけど、アルベルトに包まれて眠れば安心できた。幾日も、幾夜も一緒に眠って、やがてわたしは思い知った。ああ、この人がこんなに好きなんだなと。胸の奥が締め付けられた。たとえ一時離れていても、この人がいてくれれば生きていける。幼心にそう悟った。

 

 だから、あの日の同衾はただの悪戯。もう裸で眠る癖なんてないし、アルベルトがいなくても一人で寝付ける。だけど、それはあまりに甘美すぎて。結局、試験が終わるまで言い出す事はできなかった。

 

 アルベルトの幼い部分に付け込んだわたしの卑劣な行いを、この人は当然の様に許してくれた。わたしの頭を優しく撫でて、仕方ないな、エリスは、なんて兄の顔で微笑んで。それがとても嬉しくて、ただただ無性に悲しかった。そうして、アルベルトは今でも一緒に寝てくれる。ちなみにパジャマは着るように言われた。理由が風邪の予防というのが、ちょっと悔しかったのは絶対に内緒。

 

 あれからおよそ三ヶ月。兄妹のような幼馴染みから義理の兄妹へ再設定されたわたし達の新しい生活は、新しい距離感を模索しながら営まれている。……模索してるのは、わたしだけのような気もするけど。

 

 

 

 三月初旬。北半球にあるこの国では、陽射しに春の陽気が混じりはじめる季節だった。うららかな午前の街並を歩く。街路樹は楽しそうに新芽を萌していて、道行く人達の足取りもどこか軽い。そんな風がそよぐ中、わたしは一人で歩いていた。午前中に、買い物を済ませてしまおうと思ったから。本当はアルベルトも付き添ってくれると言ってくれたけど、あの人にはわたしがお願いした大切な用事がある。それに、一人での買い物も嫌いじゃなかった。アルベルトと一緒に考えるのも楽しいけれど、一人だとどうやって楽しませてあげようかと悩めるから。

 

「ただいま」

「お帰り、エリス」

 

 ホテルの部屋に戻ると、アルベルトはソファーに身を沈めて、レンタルした映画を視聴していた。手元にはポップコーンと烏龍茶。うん、よろしい。ちゃんとお願いに励んでくれたみたい。

 

「どうだった? 父さんのお勧めだからまたアクションだったでしょ」

「いや、友情ものみたいだよ。かつて同窓だった二人の老人のね。派手さはないけど、移り変わる心情が丁寧に描写されていて面白いかな」

「あら、意外ね。でも良かった。アルベルトが楽しめたのならなによりだわ」

 

 アルベルトの返事に頷いてから、帽子と手袋を外して買い物袋の中身を整理していく。買い物はそんなに量もない。アルベルトとわたしの二人だけで、買い溜めする理由もなかったから。

 

「だけど、ポップコーンじゃちょっと簡単すぎない? まってて、いま手羽先でも揚げてあげるから」

 

 わたし達がホテルを選ぶとき、キッチン付きの部屋は条件の一つだ。これはわたしのわがままだった。わざわざ高い部屋を借りるぐらいなら、その分の予算で外食をとったほうが利口かもしれないけど、やっぱり、好きな人には手料理を食べてもらいたくて。

 

「大丈夫。それよりエリスもこっちにおいで。疲れただろう?」

「もうっ、アルベルトったら。ちょっと買い物にいったぐらいじゃ疲れませんっ」

 

 口先で軽く否定しつつも、アルベルトの隣に腰掛ける。どれほど独占してみても、この場所に飽きる徴候はなかった。魅力的すぎて困るくらい。アルベルトの肩に寄り掛かったら、優しく頭を撫でてくれた。兄妹になってからこっち、明らかにスキンシップの頻度が増している。ちょっと複雑ではあるけれど、幸せすぎてのぼせそう。

 

 映画はクライマックスを迎えていた。背の高い雑草の生い茂る廃校の校庭で、お爺さん二人が一心にスコップを振るうシーン。やがて何かを掘りあてて、それが錆に錆びた鉄の箱だと知って落涙してた。多分あれはタイムボックス。ストーリーを始めから追っていれば、きっと感動的な場面なんだと思う。隣のアルベルトの横顔は、画面を真剣な顔で見つめていた。

 

 娯楽は、この人にとって義務に近い。念能力の影響で、アルベルトは合理性を追求する傾向があった。自分の価値観や感情を判断基準の一つに留め、より高い視点から物事を俯瞰しようとする基本姿勢。それは決して悪い事じゃないかもしれないけど、放っておくとどんどん人間らしさを失ってしまうのが難点だった。楽しい、嬉しい、美味しい、美しい。そんな誰もが持ってる人生の潤いが、アルベルトには無価値になってしまうから。それを悲しむ事さえできないままに。

 

 本人はそれでいいのかもしれない。人の価値観に横から口出しするのはお節介以前に傲慢だというのは父さんのセリフだ。だけど、それでもわたし達は許せなかった。だってそんなの、あまりに寂しいと思うから。

 

 一度、長期のハントから帰って来たときは酷かった。喜怒哀楽が薄くなって、無駄のない思考しかできなくなって。まるでロボットみたい、なんて思わず感じてしまうほど精巧に人間みたいな状態で。この人のあんな姿は恐ろしすぎて、再び見たいとは思わない。

 

 あの時にわたしと父さんがやったのが、自分達の趣味を押し付ける事だった。わたしが料理で父さんが映画。楽しさや嬉しさという感情を外からどんどん補充してあげたかった。強制的に、本人の意思なんて全く無視して。当時のアルベルトには迷惑だったかもしれないけど、いえ、多分確実に迷惑だったでしょうけど、それでも文句一つ言わなかった。アルベルトが元の性格を取り戻すまで、あの時は半年以上かかってしまった。その間、アルベルトはずっと耐えてくれた。

 

 だからわたしは繰り返さない。アルベルトを決して離してあげない。独りになんてしてあげるものか。もう二度と、絶対に。誰がなんと言ったって、この人はロボットじゃなく人間だ。楽しいときは楽しいと、寂しいときは寂しいと、ちゃんと感じながら生きてもらいたいと切に願った。

 

 結ばれたい気持ちは偽れないけど、アルベルトが望むなら妹でもいい。恋人ができたら祝福しよう。そして後でこっそり泣こう。好きな人が幸せならそれで十分、という言葉を無理矢理信じ込めるぐらいには、馬鹿な女のつもりだから。

 

 

 

 映画を最後まで見た後は、アルベルトに耳掃除をしてあげた。膝の上に感じる頭の重さが、頼られてるようで密かに嬉しい。アルベルトがわたしを頼ってくれる機会はほとんどない。この人の誰かに向ける感情は、とても一方的なものだった。

 

 こんなの、ただの自己満足だって、そんな事、誰に言われるでもなく知ってるけど。

 

「それで、先輩がね、言うんだ。僕がレジーナの家に入ったのは喜ばしいけど寂しくもあるって。アルペンハイムの家の名が消えてしまったのは、あの時代が過ぎ去ってしまったのを改めて感じさせられるってね」

「そうかも、しれないわね。わたし達の世代には、わからないけど」

 

 わたしに身を委ねて、目を閉じながらアルベルトが言う。

 

 こう見えて、アルベルトは名家の直系で、しかもお爺さんは救国の英雄だ。でもそのおかげで心ない襲撃に巻き込まれて、幼い頃に全てを失った。家族も、家も、将来も。残された子供は一人っきり。誰もが巻き添えを恐れて遠巻きに見守るだけで、手を差し伸べようとする人はいなかった。そんな状態の彼を引きとったのが父さんだった。だから、アルベルトは父さんを盲目的に尊敬している。それはもう、お風呂上がりにパンツ一丁でビールを飲む姿をみても全然幻滅しないぐらいには。

 

 この歳になるまで父さんが正式に養子にしなかったのは、責任を持って判断させるためでもあったのだと思う。名実共に家族になるか、自分の家を再興するか。もっとも、こんな人に成長してしまった時点であまり意味はなかったと思うけど。

 

「終わったわ。反対向いて」

「ああ、頼むよ」

 

 ごろんと、ソファーの上で寝返りを打つアルベルト。顔がわたしの方を向く。目の前にはわたしのお腹とかお臍とか色々恥ずかしい部分が来るけれど、この人はきっと、何の意識もしてくれないんだろうな、なんて思ってしまった。考えが汚れているのはわたしだけ。だけど、不満を持つには今さらすぎて。

 

「いくよ?」

 

 無言で頷かれる。まずは前座のマッサージから。アルベルトに尽くしてあげられる貴重な機会に、手を抜くなんて考えられない。耳たぶとその周り、耳の穴の浅い所を丹念に指圧し揉み込んであげると、十分もしないうちに柔らかくなる。それでも根気よく揉み続けると、マシュマロみたいにふわふわになった。安心しきって目を閉じるアルベルトの顔が、ちょっと可愛いくて微笑みが零れた。

 

 マッサージを一通り終えた所で、暖めたクリームを塗って蒸しタオルで耳を覆う。会話のない時間が流れていく。それでも沈黙は苦にならなくて、頭を撫でながら数分の時をのんびりと味わう。そろそろ、もういいかな?

 

 タオルをとり、シェービングクリームを塗ってから。テーブルの上のカミソリに手を伸ばす。耳たぶの上にそれをあてて、産毛に沿って軽く滑らせるように剃っていく。アルベルトは身じろぎもしなかった。寄せてくれるこの信頼は、わたしだけの独占物。剃り終えたらタオルで一通り拭って、アフターシェーブローションを塗ってあげた。ここまで来て、ようやく耳掻き棒の出番になる。

 

「そういえば」

「なに?」

 

 耳掻きを動かしながら返事する。開け放った窓から流れる風が、髪の毛を優しくなびかせている。アルベルトの頭をそっと撫でた。もっとわたしを頼って欲しいけど、その願いを伝えたいとは思わない。口に出してしまったら、いたずらに困らせてしまうから。

 

「ああ、大きな仕事を頼まれたんだ。しばらくエリスを一人にしてしまうかもしれない」

「そう……。どれくらいの予定なの?」

 

 胸がぎゅっと締め付けられた。押し殺したはずの内心の不安は、きっと気付かれているんだろう。すまなそうに顔が歪んで、上を向いたアルベルトがわたしの頬を撫でてくれた。仕方のない人。急に動いたら危ないのに。

 

「わからない。だけど1ヶ月ぐらいで終わりそうだよ。3月中に終息させたい事件だそうからね」

「うん、わかった。お仕事じゃ、仕方ないわね」

 

 本当は、何か手伝えたら嬉しいのだけど、あいにく、わたしではハントの戦力になれなかった。足を引っ張る事だけはしたくないから、おとなしくお留守番がわたしの役目。

 

「ねえ、アルベルト。無理に早く終わらせる必要はないから、わたしはいくらでも待ってるから、お願いだから、自分を一番大切にしてね」

 

 それだけは守ってほしいと念を押して、わたしは耳掃除を再開した。今は少しでも長い間、アルベルトとの日常を楽しみたかった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 どんよりした鼠色の、今にも泣きそうな空だった。

 

 その街のスラムは風が流れず、化石となった悪臭が沈澱していた。少女には馴染みのある匂いだった。ギラギラした目の少年達。うずくまったままの痩せた女。薬漬けの男。煙草をくゆらす娼婦達。何もかもが懐かしい。ほんの数ヶ月前まで、少女が売春宿の窓から眺めていたのもこれと同じ光景だった。このスラムは彼女の出身地ではない。訪れた事もない土地だった。単純に、都市部の最下層など何処も似たような有り様だというだけである。

 

 長い銀色の髪、薄い褐色の肌、赤褐色の瞳、幼いながらも可憐な美貌、かつて客達に人気を博したその容姿は、この場所でもひどく目立っていた。男達の視線が少女に刺さる。裸に透明なレインコートだけという彼女の格好は、あまりにも倒錯的で煽情的だった。陵辱を煽っているとしか見えなかった。いや、事実少女は煽っていた。レインコートを着た理由は、全裸だと押し倒されたときに背中を怪我してしまうからだった。そう、彼女は既に慣れていた。

 

 男達が集まってくる。ある者は砂漠で水を見つけた様に。ある者は闇夜に浮かぶ幽鬼の様に。向けられた性欲が少女の心を刺激して、彼女を密かに怯えさせた。精一杯の強がりでひたすら耐えた。客には嫌がる顔を見せない様にと、以前の主に繰り返し教育されたからだった。

 

 少女は気付かない。怯えは外界に漏れていて、それでも必死に強がる彼女の表情こそが、男達の嗜虐心を最も煽っているのだと。

 

 少女は空を見上げる。ぽたりぽたりと水滴が落ちた。もうすぐ、雨が降る。雨の中で犯される。それは彼女の念能力の、発動条件が整ってしまう事を意味していた。

 

 きっと大勢死ぬだろう。

 

 あの男も巻き込まれて死んでくれればと、少女は切にそう願った。

 

 それが不可能である事は、彼女が一番知っていた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

1999年03月24日

 

 アルベルトが出発してからちょうど二十日後、わたしは異国の空港に降り立った。空気が少し砂っぽくて、気のせいか金属みたいな味がする。お肌にはちょっと悪いかも。だけど、わたしの心は弾んでいた。だって初めてだったから。アルベルトが仕事の件でわたしの力を借りたいなんて、そんな連絡をしてきたのは。

 

 手荷物を受け取り待合所を見渡すと、求める人影はすぐに見つかった。久しぶりに会えてそれだけで嬉しい。頬が緩むのが止められない。あまり格好よくないな、とは自分でも凄く思うけれど、表情がだらしなく崩れてしまう。

 

「お待たせ、待った?」

「いや。久しぶりだね、エリス」

 

 アルベルトの胸にそっと触れる。本当はそのままでいたかったけれど、あいにくとお仕事が控えている。行きましょうとアルベルトを促して、わたしは先へと歩き出した。

 

 もっと沢山喋りたかった。留守中にあった大切な事。どうでもいい事。ポンズとは長電話をしてしまったし、キルア君からは手紙が来た。だけど、それも全部後にしよう。まずはお仕事が最優先。だってせっかくのチャンスだから、アルベルトに迷惑なんてかけられない。本性はできた女から遠くても、演じる事ぐらいはできると思うから。

 

「いや、すまないがもう一人迎えの人間がいるんだ。今は外してるから少し待ってくれないかな」

「もう一人? お手洗いかしら?」

 

 アルベルトは困った様に頬をかいた。この人にしては珍しい仕種。そんな表情をさせるだなんて、どんな方だか興味が涌いた。

 

「ちょっと、厄介な誓約を抱えていてね」

 

 わたしが頷いたときだった。揺れる視界。気が付けばアルベルトの腕の中。一瞬遅れて庇われてると理解した時、それはやってきた。

 

「ぬぅん! 南無阿修羅仏! スーパービックリボンバー!」

 

 爆発のようなすごい轟音と、それより大きな怒声だった。耳が痛い。だけど、とても嬉しい。本当に久しぶりの感触だった。アルベルトにぎゅっと抱き締めてもらえたのは。さっきの意気込みも忘れてしまって、このまま流されてしまいたかった。だってのに。

 

「悪を許さぬは我が誓約! ひったくり共は見事成敗してきたぞアルベルト!」

 

 どかどかと大股で歩いてきた男の人。歳は40代ぐらいだろうか。大柄で、頭を綺麗に剃っている。纏をしてるから念能力者みたいけど、ひょっとしてこの人がアルベルトの言ってた方かもしれない。見上げて視線で尋ねてみると、アルベルトはそうだよと教えてくれた。

 

「お迎え頂きありがとうございます。エリス・エレナ・レジーナと申します」

 

 腕の中から出て一礼すると、男の人は上機嫌で頷いた。どうでもいいけど、この人の声はとても良く響く。ちょっと周りに迷惑なぐらい。

 

「はっはっは! 礼義正しいお嬢さんだ。うむ、私はジャッキー、よろしく頼む」

「ジャッキー、奴らはどうした? ずいぶんと大きな爆音だったけど」

「なに、気絶させただけだよ。なにせ弱者を守るは我が誓約! 罪を憎んで人を憎まず! 無闇に傷つけることはせんさ!」

 

 素敵な誓約だと思う。気のいい人だとも思う。だけどこの人と一緒に仕事をしてアルベルトは大丈夫かなって、心配してしまうのを止められない。空港を出て、アルベルトの運転する車で拠点に向かっている間も、一抹の不安が消えてくれなかった。

 

 彼らを率いるカイトさんという名のハンターは、もう少し、その、普通の人だと嬉しいんだけど。

 

 

 

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【法門無尽誓願智(スーパービックリボンバー) 操作系】

使用者、ジャッキー・ホンガン。

能力者のオーラに触れた者に無尽の法門を教え驚愕させる。

この驚愕は神経系を操作する事による純粋な肉体的反応なので、事前情報や覚悟による対処は不可能。

彼我のオーラの量に差があるほど強く驚愕する。

 

【仏道無上誓願成(ウルトラデラックスライフ) 操作系】

使用者、ジャッキー・ホンガン。

自縄自縛のための能力。

自身に課した人生の目標を諦めた際に発動し、能力者を即死させる。

目標は中途半端なものであってはならず、達成する意義があると信ずるに足るものでなければならない。

上記に準じるものであれば目標はいくつでも増やせるが、減らす事は決してできない。

この能力によって定められた誓約は純粋な戒めであり、念能力に影響を与えることはない。

本人以外を戒める事はできない。

 

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次回 第九話「迫り来る雨期」



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第九話「迫り来る雨期」

 車は大きなゲートを潜った。厳重な警戒。多分軍人さんだと思う。小銃で武装した制服姿の人達は、アルベルトの示したライセンスを確認すると、フリーパス同然で通してくれた。

 

 広い、広い敷地内。わたし達の乗った自動車は建物の群れには向かわずに、離れた場所にあるスロープから地下に降りて、シェルターのような地下駐車場に吸い込まれた。分厚い鉄の扉を開けた先の通路には、私達以外の人影がなかった。

 

 深海魚になった気持ちだった。

 

 リノリウムの廊下に足音が響く。蛍光灯が明々と照らす、無色透明な白い廊下。警備の人さえ一人もいない。観葉植物の一つもない。やや早歩きで進んでいく。3人とも無言。わたしにとって初めての実戦が待ち受けるからだろうか。さっきから肌がぴりぴりしてる。大気の組成が違って感じる。異星に迷い込んだと言われても信じられる。

 

 張り詰めた雰囲気に息が詰まって、傍らのアルベルトをふと見上げた。そして、理解した。これが普通なんだ。この人が今まで潜り抜けてきた舞台。空気がアクリルでできていて、秒針がアレグロモデラートのステップを刻む。硬質で、真剣で、頼もしいけどちょっと怖い。まだ入り口にも立ってないんだろうけど、きっとこれが、男の人の世界なんだ。

 

 わたしの視線に気付いたアルベルトが、いつもの優しい瞳に戻った。ほっとする。だけど、甘えるのはまたの機会にしよう。わたしは足手纏いになりに来たんじゃない。安心してもらえるように笑顔を返しつつ、心の中で拳を握った。

 

 広い会議室に案内された。入り口以外の3面の壁が全て大きなモニターで、木製の円卓にも各席に小さな画面がある。わたし達が入ると、先にいた人達が一斉に振り向いた。何人かの軍人さんとスーツの人達。制服組の中で一番偉そうな人は、色とりどりの略綬を胸に付けている。詳しいわけじゃないけれど、偉い将軍さんなんだと思う。そして、ラフな格好の男女が二人。纏をしてるから、この二人もアルベルトと組んでるチームのメンバーなんだと目星を付けた。

 

「どうも。皆さんお待たせしました」

 

 アルベルトが気さくに挨拶して、わたしも続いて自己紹介する。偉い人を次々と紹介された。スーツの人達は内務司法省の高官や国を代表する程の政治家で、制服の人は国家憲兵隊司令官とか特別機動部隊の隊長さんとか、それはもう、肩書きだけで気圧されるような方々ばかり。あとはいかにも有能そうな専門家や実務者の皆さん。そんな人がこんな小娘に敬意を持って接してくれて、改めてプロハンターという職業の異質さを思い知った。

 

 世界で六百人しかいない探索と収集のスペシャリスト。ライセンスをめぐって人が死ぬ民間資格。懐に入れたどこにでもありそうな薄いカードを、あまりに重く感じて冷や汗が出た。動揺を表に出さないように気を張った。滑稽な強がりかもしれないけど、わたしはライセンスを背負っていて、あの試験で亡くなった人も沢山いるんだ。

 

「そしてこちらがハンターチームのリーダー、カイト君だ。本来であればカキン国で長期契約の最中だったのだが、無理を言って一時的にこちらに廻ってもらった。私の私的な友人で、世界でも最高峰と信じるプロハンターだ」

 

 そう、将軍さんに紹介されたのは、細身だけど力強い印象を受ける男性だった。最高峰という評価の割にはとても若い。だけど雰囲気は針のようで、生半可な実力じゃない事がよく分かる。

 

「エリスです。何の経験もない未熟者ですが、どうかよろしくお願いします」

「カイトだ。世界最高峰というのは大げさだが、よろしく頼む」

 

 一通り挨拶が終了して、話題が本題に移る前に、将軍さんが一つ確認した。

 

「伝えられているとは思うが、これから説明するのは我が国の重要な機密作戦だ。もし仮に事情を聴いた上で不参加か、もしくはカイト君により不採用の判断を下された場合、失礼だが作戦終了まで軟禁させてもらう。あなたを推薦したレジーナ君は過去にも本件においても重要な功績を上げており、我が国でも多大な信頼を寄せているが、だからこそ厳正に対応したい。無論、待遇については国賓級を用意しているから安心してくれたまえ。それについてはよろしいかね?」

 

 あらかじめ聞いてた事だ。それを知った上でここまで来た。アルベルトを見ると頷かれた。大丈夫。緊張なんて、してない。

 

「はい。異論はありません。事件終息後の守秘義務についても、誠実な対応をお約束します」

「うむ。すまんがよろしくお願いする」

 

 口頭でのやりとりの後、何枚かの書類にサインして、報酬や義務を確認する。その上で具体的な説明がされる運びとなった。モニタに映された資料を見ながら、事件のあらましが解説される。アルベルト達が関わっていた案件。この国を騒がせている現象は、あまりに衝撃的な内容だった。

 

 雨が降ると人が死ぬ。

 

 確認されただけで、犠牲者は八百人を超えていた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 ビルの並ぶビジネス街で、少女はひとり空を見上げた。今日の降水確率は十パーセント。穏やかに晴れた一日だった。

 

 春風の心地よいカフェテラスでアイスココアを飲みながら、少女はのんびりと寛いでいる。わずか二百ジェニーの出費ながら、かつては想像もできなかった贅沢だった。はじめて飲んだときなど、あまりの甘さに涙が溢れた。もう二百五十ジェニーも払えば最安値のケーキセットに手が届くが、それは男に禁じられていた。あんま急に贅沢に溺れると生きる気力が無くなっちまうからよ。そんなセリフに真剣に頷いた。麻薬中毒者の哀れな末路は、少女もよくよく知っていた。

 

 服も、今は真新しいワンピースだった。どこにでもある、誰でも着るような普通の安物。それが彼女には贅沢だった。男を誘う衣装ではなければ、普段着代わりのぼろでもなかった。

 

 幸せだな、と少女は思った。豊かなで清潔な暮らしは寝物語に聞く事こそあっても、スラムの中では夢のまた夢だった。まして、少女はあの宿から出た記憶がない。物心付いたときには拾われていて、ある程度育ったら売り物にされた。ただそれも、特筆するほどの不運ではない。少なくとも彼女は食べていけた。売れ筋商品の見栄えを維持するためであろうが、腹の足しになるのは善意ではない。宿側の都合で歪だが熱心な教育も受けられて、忍び寄る麻薬からも遮断された。

 

 これが一人であったなら、最良でも最下層の花売りとして何度か小銭を手にした後、野垂れ死ぬのが精々だろう。最悪など、想定する事さえ無意味だった。

 

 だが、それでも少女は男を嫌う。その理由は主に二つあった。どんな境遇に生きようとも、人殺しだけはしなくなかったのがその一つ。もう一つは、男に自分を好くなと命じられているためである。今の少女の奥底には、奴隷としての立場が刻まれていた。自分の念だと男はいった。抱いた女を隷属させ、自在に操る能力だと。

 

 待ち合わせの時刻までもう少し。男は今や、少女にとって神の声の持ち主だった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 わたしが絶句してる間にも、説明は淀みなく進んでいく。去年の暮れ頃から話題になった、ある一つの事件の法則。当初、連続殺人事件と考えられたそれは、不可解な点の多さから事故や自然災害の可能性まで疑われた。

 

 雨天集団窒息死事件。

 

 個人の犯行にしては規模が大きすぎ、組織的犯罪にしては形跡が残ってなさすぎる。テロリストなら、犯行声明が出てないのも奇妙だった。絞殺痕はなく、現場が屋外の例も多く、特筆すべき異常気象の痕跡も見あたらない。降っても犠牲が確認されなかった日もあったみたいだけど、確認された場合、小雨の時でも五十人以上、雨脚が強かった日は二百人を上回る数が亡くなっている。

 

 様々な対策がとられるのを嘲笑う様に、事件は場所を移しながら犠牲者をこつこつと積み上げていく。秋から冬にかけて乾燥した気候の続くこの国では、恵みの象徴だったはずの雨を凶器に代えて。

 

「犠牲者の数も事件による政治経済など各分野への打撃ももちろん深刻ですが、それ以上に懸念されてきたのが民衆に蔓延する恐怖そのものです。全国各地で暴動が発生した場合、最悪では社会秩序そのものへの損害すら懸念されました。我々は情報統制に腐心しつつ、大げさに見えない範囲で可能な限りの対策を講じました。捜査そのものはもちろん、諸外国への協力要請、有力な解決方法への懸賞金、科学者による対策委員会の編成。しかし……」

 

 進行役の人が顔を歪める。理知的な印象の、眼鏡をかけた男の人。その人が中心となって、時々専門の人の補足が入る説明は、わたしにもとても分かりやすい。画面の資料には事件の進行が表示され、犠牲者の数を表すグラフは無慈悲な右肩上がりを描いていた。

 

「さらに、現状で我々が直面している問題が二つあります。事件発生現場の北上、及び雨期の到来です。まず前者ですが、御覧下さい、これは事件発生現場のプロットです」

 

 それはランダムにふらふらしながら、北上する傾向を示していた。広域の地図が写し出される。北方、国境線の向こうには、聞き覚えのある地名があった。世界で最も異質な都市。公式な地図には掲載されてない、この世に存在しないはずの場所。流星街。

 

「最も近い事件現場との間隔は、五十キロメートルも離れていません。現状において当現象が流星街の領域に移動する事は避けねばならないというのが、政府内で一致した見解です。彼らに対する攻撃と見なされても、受け入れられても重大な問題となりかねません。外交的にも内政的にもです。現時点では国境警備隊によって厳戒体制を敷いておりますが、肝心の原因が判明してないので確実に阻止できるとは限りません。続いて、雨期についての問題ですが」

 

 あくまで淡々と、事務的に説明が続けられる。だからこそ余計に悲しかった。抽象化された愛国心と呼ばれる感情の有無は分からないけれど、郷里を愛してないわけではないだろう。その気持ちはわたしにもよく分かる。いっそ激昂してくれたなら、わたしも少しは気が楽だったのに。

 

「我が国には一年に二回、春と夏に雨期があります。春の雨期は期間こそ短いのですが、一度に降る雨の降水量が多く、集中的な豪雨となります。また、春の雨期が終わると初夏にかけて、湿気が多く、雨の豊かな季節が訪れます」

 

 進行役の人が一端区切って、手元の水を口に含んだ。そして、続ける。

 

「現状で最も懸念されているのが雨期の到来です。例年ではあと1週間程ですが、今年の気象予測も大きなずれはなく、場合によっては数日早い可能性もあるという結果となっております。雨期より前に事件解決の確証を得る事。それが国家全体の急務でした。が、成果は得られず、時間のみが経過していきました。私達には時間がありませんでした」

 

 そこからは、進行役の人に代わって将軍さんが説明を引き継いだ。

 

「そこで我々はプロハンターに直接依頼し、国権の一部を一時的に委ねる事により事態の抜本的解決を図った。カイト君を筆頭に、メンバーは過去、この国に大きな貢献を果たしてくれた人物から厳選した。事件の性質と行使してもらう権限の大きさから人数は最小限の少数精鋭。しかし、従来の懸賞金によるハントの推奨ではない。この国の警察組織である国家憲兵隊に対する最優先命令権を極秘に与え、従来の捜査班も全面的に指揮下に入った。超法規的措置の黙認も密約された。この国の司法は現状、実質的に彼らの手中にある。無論、これも極秘事項だが。

 一ヶ月にも満たない期間だが、彼らはよくやってくれている。素晴らしい成果をあげてくれた。だが、もうすぐ春の雨期だ。もう一ヶ月早く依頼できなかったのは、ひとえに我々の無能さによるのだろう。ならば、泥は我々がかぶるべきだ」

 

 わたしは辺りを見渡した。色々あったんだと思う。誰も彼もが苦虫を噛み潰したような顔をしてる。その胸の内にあるものまでは、正確に読み取る事はできないけれど。

 

「さて。ここからは極秘事項中の極秘事項だ。皆、すまないが退室してくれたまえ」

 

 そういう段取りだったんだと思う。ハンターと将軍さん以外の人達が、ぞろぞろと退出していった。部屋が一気にしんとする。普通の人に話せない話題。それは、きっと。

 

「改めて自己紹介しよう。国家憲兵隊司令官ワルスカだ。階級は憲兵大将。念能力は使えないが、その存在は先日カイト君から告げられた。この世には、不思議な力があるらしいな」

 

 それにわたしも頷いた。この事件も十中八九、聞いた話から、わたしも念能力者の仕業だと考えていた。自然現象より遥かに画一的で、唐突に現れた謎の現象。人が生身で起こすには大規模すぎるし、何より手段が不可解だから。

 

 次は、カイトさんがハンターチームによる調査結果を説明してくれた。

 

「オレ達が調査した結果、被害者の遺体には口元に微かにオーラの痕跡が見つかった。そこから推測すると、何らかの柔らかい物体で口と鼻を塞ぎ、呼吸を阻害したものと思われる。推測するならば操作系か具現化系の能力者。雨の日のみ事件が発生するのは、能力の規模から見て目くらましではなく制約の可能性が高い。雨や水に強い思い入れのある人物だろう。

 これらの特徴を元にハンターサイトで情報を徹底的に洗ったが、該当する能力を持つ人物はいなかった。また、かなり特徴的な能力ながら過去の事例を見てもこれに類する殺害方法は一つも見つかっていない。これは犯人が表に出て日が浅いか、ごく最近能力に覚醒した者である可能性が高いことを示している。

 だが、それにしては念の使い方がさまになりすぎている。事件発生当初から能力が実用段階にあっただけではない。使うタイミング、隠し方。素人が偶然開眼したにしてはできすぎだ。しかし熟練した能力者が教授したと考えると、それもまた不自然な点が多い。特に問題なのは事件の目的だ。なぜこんな発を修得したのか、どんな目的で使っているのか、動機が全く推測できない。念を使い慣れた者の思考ではないな」

 

 カイトさんの言う事はもっともだと思う。これだけの事件を起こしておいて、何の目的もないと言うのはおかしすぎる。念とは一生付いてまわる力だから。かといって念が使えるから使った、人が殺せるから殺したという犯行そのものが目的だったにしては、手口が洗練されすぎてる気がした。

 

「だがな、実は弟子にそんな馬鹿げた使い方をさせそうな人物に心当たりがあった。通称『こそ泥のビリー』。そこそこ有名だから君も知ってるかもな」

「いえ、初耳です」

「そうか。こいつはいくつかの偽名を好んで使い、本名は不明。その本質は渾名の通り、世界一頭の悪いこそ泥だ。はじめはただの直感だったが、ハンターサイトで調べた所、この半年間に国内で確認された痕跡情報が3件あった。入国記録はないから密入国だろう。

 裏付けではアルベルトが活躍してくれた。事件が起きた現場近くを縄張りにする場末の街頭娼婦を片っ端から篭絡してくれてな。おかげで彼女達が憲兵には決して話さないような情報をふんだんに入手できた。もっとも犯行時刻前後に立っていた奴は全員死んでいるわけだが、それでも事件後に周辺の建物に忍び込むビリーらしき男の目撃情報をいくつか得た。その結果を分析して、オレ達は事件にこの男が関わっていると断定した。

 奴はな、つまらない窃盗の為なら何人でも殺す、そんな気の狂った犯罪者だ。目的と手段が逆転してるだけでなく、程度というものを全く知らん。一回に盗む金額は数万ジェニーから精々数十万ジェニー。それ以上の金銭や貴金属が目の前に転がっていても見向きもしない。だが、その数十万ジェニーの為なら大金持ちの屋敷に入り込んで全員惨殺ぐらいは朝飯前にやってのける。

 ただのこそ泥と、それに附随する罪状だけでA級賞金首に指定された男。あまりに馬鹿馬鹿しいが、被害を受ける方としてはたまったもんじゃない。そして何より厄介なのが、奴の実力は本物だという事だ」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「相変わらず最低ですね、マスター」

 

 二時間も遅刻して悪びれずに座った男を、少女は冷たい目で出迎えた。歳の頃は二十歳ほど。健康的に日焼けした肌に短く刈った金髪をのせ、お馴染みとなった安っぽい服に身を包んでいる。そんな男の袖の辺りに、小さく染み付いた血痕があった。どうせまた、いつもの娯楽のためだろう。

 

「だから娯楽じゃねーよ。仕事だって。俺様自慢のライフワークだぜ。いやそれがな、ここに来る途中でいい形の窓がある家を見つけちまったからよ、懐も軽くなってたし、ついついひと汗流しちまった。ありゃ俺を誘うために建てたとしか考えられんな」

 

 男は軽薄に笑いながら、アイスコーヒーの氷をガリガリ噛み砕いた。よくあんな苦い飲み物を注文できるものだと少女は思った。一度だけ飲ませてもらったが、美味しいとは微塵も思えなかった。もっと苦いもの、まずいものはいくらでも口にした経験のある少女だが、男はあれを嗜好品として楽しんでいるらしい。はっきり言ってありえない。だから頭がおかしくなるんだと結論付けた。

 

「で、それよりこれからどうするんです? 世間では雨期の到来について大騒ぎですが」

 

 少女は読んでいた新聞を見せた。そこでは降水量と犠牲者を比例させた予測がショッキングに舞い踊り、政府の無能さを批判する論調であふれている。数万人規模の犠牲というのは少々大げさすぎる気もするが、二次被害も含めれば、あるいは不可能な数字ではないのかもしれない。富裕層の国外脱出も目立ってきているようだった。

 

「ん? あー、どうすっかな」

 

 男はぼりぼりと頭をかき、どうでもよさそうに考えている。この場で天秤にかけられているのは、少女の命そのものだった。雨期の豪雨の中で能力を発動させれば、それは大いに目立つだろう。予測される被害を鑑みれば、当局もこれまで以上の強行姿勢をとるはずだった。どう考えても、虐殺を実行する役である少女が生き残れる道理がない。

 

「実はな、正直言って迷ってる。別にお前を使い捨てにしてもいいんだが、火事場泥棒にも飽きてきたしな。最後に一発でかい花火を打ち上げるか、別の国にでも行って、もうちょっとお前を引っ張りまわすか。ま、そのときの気分次第ってとこか」

 

 青く澄んだ目で見据えられる。少女はこれが苦手だった。男の方が十も年上だというのに、何故か年下に感じるから。

 

「私としては、今すぐ解放してくれるのが一番嬉しいんですがね。あるいはマスターが死んでくれてもいいですよ」

 

 掛け値無しの本音でそういうと、男は嬉しそうに微笑んだ。変態だ。少女は改めて実感した。女を人形にできるこの男は、人形同然の女が嫌いらしい。少女の好意に、あるいは嫌悪に、男に対する媚が少しでも浮き出た瞬間、あっさりと廃棄処分されるだろう。少女の、他者が自分へ向ける感情に対する優れた嗅覚が、それが正しいと告げていた。

 

「しょうがねーな。気が向いたら考えといてやるよ。ま、あれだ。逃げ出そうとはしない事だな。俺の系統は知ってるだろ、おい」

 

 言って、残り少ないアイスコーヒーを男は掲げた。その色が見る見る赤くなる。真っ赤なコーヒーは余計にまずそうだなと、少女はどうでもいい事を考えた。

 

「教えた通り、水の色が変わるのは放出系だ。俺の能力は複雑な操作こそできないが、その有効範囲には自信がある。昔試したから断言できるぜ。世界の果てまで行っても解除はされねえ。どうしても逃げたければ、ははっ、いっそ宇宙船にでも乗ってみるんだな」

 

 赤いアイスコーヒーをテーブルに置くと、男は鋭く静かに、力を込めて囁いた。

 

「何にせよ。お前は俺には逆らえねぇ」

 

 その通りだった。言葉の持つ意味が少女に深く染み込んでくる。既に嫌と言う程実感していたが、彼女はこの男に逆らえない。それが絶対の事実だった。故に、頷く必要すらないのだった。男はそれに満足したのか、伝票を手にして立ち上がった。

 

「そろそろ出るぞ。ひと仕事終えたせいか血が騒いでな。適当に女買ってくるからお前はアジトに戻ってろ。なんかあったらいつもの方法で連絡するからすぐ来いよ」

 

 どうせまた自分が遅刻するだろうに、男は少女に念を押す。が、気が変ったのか、男は前言を翻した。

 

「もったいねぇからお前で済ますか。今日は晴れてるし、別にいいだろ?」

 

 決して断れないと知りながら、ヘラヘラ笑って要求された。最低すぎると少女は思った。だが、売春宿にいた時と違い、客に媚びる必要はない。少女は微塵も遠慮せずに、心底軽蔑した視線で睨み付けた。

 

「どうぞご随意に。マイマスター」

 

 余計な事は言わなくていい。言っても男を喜ばせるだけだ。そんな少女の内心を察したのか、男は嬉しそうに頭を撫でる。わしゃわしゃと無駄に力強く、少女が嫌いな撫で方だった。会計を済ませ、二人並んで街路を歩く。しかしふと、男は何か引っ掛かったのか立ち止まった。

 

「そのマスターっての、そろそろ変えねえか? いや、面白がってそう呼ばせたのは俺だけどよ、なんか飽きてきた気がするわ。普通に呼んでいいぜ」

「そう言われても、マスター、私は貴方の名前すら知らないのですが」

 

 一瞬の沈黙。ぽかんと惚けた数秒後、男は突然笑い出した。それは楽しそうに笑い出した。自分勝手な大股で歩く男の後ろを、少女は早歩きでついていった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「だが、カイト君がそこまで辿り着いてくれたと言うのに、我々は別の方針を立てる必要に迫られた。先ほど説明した通り、時間の逼迫が原因だ。従来の捜査と並行して雨期に犯行が行われた際の反攻作戦も準備せざるを得ない時期に来てしまったのだからな。秘匿名称『第四の段階』。ミス・エリス。あなたを招いたのは他でもない。その作戦の要になってもらいたいからだ」

 

 将軍さんの重い眼光がわたしを見据える。とても重大な役割だった。手の中にうっすらと汗をかいた。だけど、わたしがいればアルベルトが残りの時間も捜査に専念しやすくなら、それを彼が望んでいるなら、迷う理由なんてあるはずなかった。それだけじゃない。事件のあらましを聞いて、わたしも……。

 

「作戦は我が国が誇る虎の子の最新鋭高速飛行艦によりハンターチームを強襲させる事を主眼にしている。

 このため、雨期の到来までに解決できなかった場合、我々は陸軍空挺師団を投入する事を決めた。国内各所に展開させ、事件が発生した都市を即座に強襲し、ハンターチームが到着するまで犯人の拘束を試みる。この際、該当エリアの住民の安全は優先順位が低くなってしまう事はあらかじめ了解してもらいたい。

 犯人の逃走、特に瞬間移動系の放出系能力者による救援を考慮し、作戦は時間との戦いになる。故に求められるのは確実な決定力。ハンターチームの検討により、作戦の性質上最善であるのが強力な念能力者を遠距離からの一撃で確実に撃破する優れた火力であると判断された。これに該当するのがあなたの能力だという事だ。次善としては単純に決定力に長ける能力者。これは接近型でも止む終えない。

 そこであなたに問いたい。今私が話した任務は、あなたの念能力で可能だろうか?」

 

 将軍さんの熱い視線が、ハンター達の鋭い眼差しがわたし一身に集中する。わたしはアルベルトを見て、アルベルトもわたしを見据えていた。大丈夫。この人がいてくれれば強くあれる。

 

「目視できれば可能です。遠距離狙撃はチャージと収束に1分程かかりますが、撃てば外れる事はないでしょう」

 

 アルベルトと一緒にいたいからだけじゃない。この事件の解決をわたしが手伝いたい。そう思った。誰かを手にかけた経験はないけれど、それはとても怖いけれど、きっとこれは、わたしにしかできない事だから。

 

 しばらくわたしの目を覗き込んだ後で、将軍さんはほっとした様に力を抜いた。

 

「その言葉だけで十分だ。我が国はあなたを全面的に支援しよう。あとはハンターチーム内で検討してくれたまえ。必要なものがあれば遠慮なく言ってほしい。可能な限り手を尽くそう。

 今や国民の不安と政府に対する不信は最高潮にある。加えてこの強引な対処。たとえ解決したと発表しても、生半可な方法では納得してはもらえないだろう。かえって混乱を招くだけかもしれない。国民を混乱させる事は容易いが、混乱を収める事は難しい。時間という手段を抜きにしては。

 しかし、プロハンターならそれができる。彼らとハンター協会の優れた実力に対する世間一般の信頼は信仰の域にある。例え突然現れた不思議な人物が事件を不思議な手段で解決したと発表したとしても、主体がハンターであれば説得力を持つ。否、それだけで国民は納得できる。我々がプロハンターに期待する理由は念に対して最高の対処能力をもつが故のみではない。事件解決後も見据えた最高の解決役だと信じるからだ。

 だから、貴方に余計なプレッシャーをかけるつもりではないが、どうかこの国を救ってもらいたい。この通りだ」

 

 深々と、本当に深々と頭を下げられた。父さんと同じかそれより年上の男の人が、こんなに真剣に。だけど、わたしはそれを黙って受け入れた。この人の行為を否定するのは、かえって失礼な気がしたから。

 

「一つだけ、伺わせて下さい」

 

 私に聞かせられない話もあるだろう、後は専門家に任せると言って、一人先に退出しようとする将軍さんに向かって最後に尋ねた。

 

「なにかね?」

「第四の段階があるのなら、第五の段階もあるのですか?」

「第五段階は全軍を動員した重戒厳令および殲滅戦になる。たとえ国中を灰燼にせしめ跡地をコンクリートで埋め固めようとも、我々は全ての禍根を根絶する覚悟だ」

 

 

 

次回 第十話「逆十字の男」



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第十話「逆十字の男」

 怖いほど人がいない地下シューティングレンジの真ん中で、わたしは目標を確認した。1000メートル先の人型のターゲットを、人だと思って打ち砕け。カイトさんが最初に出した指示だった。

 

 これは試験。わたしにとってはじめての練。見守るのはハンターチームの人達だけ。リーダーのカイトさん。セクシーなスーツ姿で、いかにもできる女性って感じのパクノダさん。剃髪で逞しいジャッキーさん。そしてアルベルトの計4名。大勢が同時に射撃できる広い空間はがらんとして、だけど満たされた存在感は寂寥を感じさせてくれなかった。

 

 ポシェットの上から卵の感触を確認して、父さんとアルベルトがくれた大切なお守りの存在に安心する。胸の中にわだかまっていた不安がすっと、卵に吸い込まれていく心地がした。よし、大丈夫。わたしはきっとやれるはずだ。心の中で拳を握って気合いを入れて、この身に施す纏を解いた。

 

 解き放たれたオーラがドレスを揺らす。血が騒ぐ。意識が熱で浮かされていく。こめかみが少しズギンとした。粘性のある、ドロリとした害意が臓腑から込み上げる。翼の具現化には未だ慣れない。だけど、もうあんな思いはこりごりだから。

 

 パクノダさんが少し顔をしかめる。この人とは、更衣室で少し話をした。彼女の鋭い視線は少し怖かったりもしたけれど、実際に接してみると意外に気さくでいい人みたい。

 

 わたしの能力についてもほんの触りだけ話しておいたけど、とても信じられないようだった。でも、それが今から実演される。

 

 まとわりつくオーラがタールのようだ。体中が純粋に、ただ、痛い。不可視の雷が全身の神経を迸って、痛覚だけが火花を散らす。あまりの痛さに、骨という骨がゴリゴリ削れる気がした。だけど、これもいつもの事。結界が壊れたあの日から、月に一度は経験している。だから平気。耐えられる。顔に出してアルベルトを心配させるようなへまはしない。そよ風に吹かれる様に涼やかに、わたしはオーラの中に立っていられる。それでも、痛い事には変わりなくて。

 

 飢饉、戦乱、黒死病。

 

 信仰、社会、寒い冬、どうでもいい死。

 

 殺人、強奪、陵辱。害意、害意、人間、人間、人間。

 

 降り積もり濃縮された怨念がわたしに訴える。辛いと。ただ、助けてと。幾重にも伸ばされた誰かの腕がわたしの心に縋り付く。これはとても無垢な願い。生まれたての赤ん坊の様に、ただひたすらに純粋で。抱き締めてくれる人を探して辺り一帯を奔走する。

 

 苦しみを訴えるオーラと一緒に、頭の中に唄が溢れる。じんわりと優しく、透き通った神聖な旋律。希望の、慈愛の、渇望の詩。人の世を普く照らそうとするそれはとても綺麗な声で、とても純真な救いだけれど。

 

 ごめんなさい。わたしはそれを願えない。

 

 心に溢れるタールの奥底、赤い気配に鼓動を重ねる。あの夜に掴んだ感覚のとおり、わたしを飲み込もうとする声ではなく、礎にされた願いの方に。力ずくの制御はもう要らない。自分の中の深い場所で、わたしは喉を震わせた。声帯。意思を伝える器官の名前。その存在理由はとてもシンプル。隣にいる人に、ただ一言を告げたくて。

 

 はじまりの枷は三つ。

 

 太古、温もりを欲した動物がいた。

 

 独りは、とても悲しかった。だから。

 

 わたしの欲望に呼応して、背中に赤い翼が具現化される。自然と、この手を伸ばしていた。脳裡に浮かぶのは一人だけ。だけど、百億のわたしが、千億の誰かを求めて手を伸ばす。千億の手と願いを重ねて、たった一つの意味を吟じる。

 

 愛別離苦。数多の星霜の果てでさえも、ヒトはこの手を伸ばすだろう。ただ一言を聞いてほしくて、わたしは喉を涸らすだろう。ずっと叫び続けたいと、滑稽な永遠を、限り無い欲望で求めるだろう。例え、その果てに不可避の別れが待ち受けてるとしても。

 

 それは決して救いではない。むしろ、苦しみをまた一つ重ねるだけ。それでも、ヒトは。

 

 掌にオーラが収束する。ターゲットに心で照準して、胸の内で言霊を唱えた。……ねえ、アルベルト。

 

『わたしは、ここにいます』

 

 はじまりの枷は三つ。彼方へ、赤い閃光が貫いた。

 

 

 

「これは……、正直想像以上だな」

 

 カイトさんが目を見開いて言った。1000m先のターゲットを文字通り蒸発させたわたしの能力は、ハンターチームの人達に驚きを持って迎えられた。アルベルトだけは、わたしを心配そうに見てくれてるけれど。

 

 将軍さんが退出した後、会議室に残ったわたしとチームの人達は、近くにあった地下シューティングレンジへ向かった。作戦の前提となるわたしの練を見るために。

 

 わたしの能力を知る人間を最小限に留めるため、地下レンジは人払いが済んでいた。もとより、念という怪奇現象を大っぴらにできるはずもない。おかげで大勢の人に注目される事はなかったけれど、歴戦のハンター達の視線は想像以上に重たかった。存在感に背中を押される様に放った能力はすこし力が入りすぎてしまったようで、それでも、ターゲット奥の壁を半壊させただけで済んだのは幸いだった。

 

「うむ。見事」

 

 腕組みしたジャッキーさんが重々しく頷いた。パクノダさんはターゲット跡地を無言でじっと見つめている。いつの間にか側に来ていたアルベルトが、わたしの頭をぽんと撫でた。それだけで十分すぎるご褒美だった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 ブラインドから差し込む朝日で目を覚ました。寝汗と寝る前の汗にまみれた体を気怠げにシーツにくるませて、少女はベッドから身を起こした。横を見ると、男は裸の上半身を晒しながら、拳銃の手入れに没頭していた。安物の紙巻きを口に咥えながらの彼の作業は、妙に板についていた。少女は詳しくなかったが、多分リボルバーというやつだろう。黒光りする蜂の巣状の部品を丹念に掃除するその姿は、不覚ながら少し格好いいと思ってしまった。

 

「ん、起きたか? ほれ」

 

 差し出されたのはティーカップだった。中には黒い液体が半分ほど注がれ、湯気を立ち上らせている。鼻をくすぐるのはあの苦い泥水の匂いだった。脳裡に苦味が蘇る。少女は頬を引き釣らせながら、ベッドにこぼさないよう、両手でそれを受け取った。

 

「飲めと?」

 

 コーヒーを膝の上に置いて、少女は男を睨み付けた。彼女が嫌いな苦い飲料。それも、ひどく熱い。少女は軽い猫舌だった。自然に、ゆっくり冷ましながら飲む羽目になる。少女は男の嗜虐趣味に辟易した。じっくり味わえという事だろう。

 

「飲めといわれれば飲みますが、……命令なら、逆らえませんし」

 

 そう、命令といわれれば仕方ない。だが、しかし、これに比べれば例の白濁した液体の方がまだ飲み下しやすいと少女は思った。少なくともそちらの方が飲み慣れていた。微かに波打つ水面をじっと眺める。唾と、嫌な記憶が口の中に溢れた。そんな百面相が面白かったのか、男は軽く吹き出した。

 

「ほらよ、これでいいんだろう?」

 

 膝の上のカップに、角砂糖をいくつも、そして、ミルクをなみなみと追加された。黒から茶色に変化した液体をスプーンで数度かき混ぜて、男は再度少女を促す。少女はそれに困惑した。このような飲み方など、知らない。そもそも高価な白い砂糖を、苦い飲み物にわざわざ入れるなど気が狂っている。

 

「マスター?」

「いいから、飲んでみろ」

 

 軽く、ぽんと頭を叩かれた。男の笑みが癪に触った。なんだか、妙に子供扱いされてる気がしたのだ。昨晩は、あんなに少女を求めたくせに。

 

 ままよ、と少女は液体を口に含んだ。冷たいミルクを足したからだろう。温度は大分冷めていた。そして少女は驚いた。ほわりと甘く、優しい苦味がそこにあった。体の芯にこびり付いていた疲れが、静かに溶けていく気がした。賢しげな麗句はいらない。ただ、美味しいと、そう思った。隣で得意げに微笑む男には心底むかついたが、最早そんな事はどうでも良かった。再びカップに口を付けて、このまま蕩けてしまってもいいと本気で思った。

 

 しばし無言の時がすぎた。男は銃の手入れを再開している。少女は、自分の肌より少し濃い茶色の暖かい飲み物、それをちびちびと舐めていた。

 

 甘いものを口にして機嫌が良くなると不思議なもので、拳銃を弄くる男の、少年の様なキラキラした瞳が少し可愛く感じてくる。いつもは落ち着きがないと思い、内心で軽蔑していたというのに。意外に現金だったんだな、と、少女は自分を省みた。

 

 洗濯も掃除も何もせず、ベッドの上で無為に過ごす朝は柔らかかった。

 

「そういえば」

 

 少女は男に話し掛けた。その事に驚いたのは彼女自身だ。どうして自分は、親しげに話し掛けているのだろう。どうでもいい雑談をしたいと思ったのだろう。頭のどこかで冷静に混乱しつつも、思考は高速で回転する。それでも、少女には理由が分からなかった。

 

「あん?」

 

 だというのに、男は無頓着に返事をする。

 

「……いえ、どうして銃なのかなって思いまして。放出系なら、以前教わった念弾という武器があるのでしょう? ……つまらない話です。本当に、何でこんな」

「ああ、これな。なに、大した理由じゃねーよ。俺が男で、こいつが拳銃だからだ」

「は?」

 

 ぼそぼそと呟いた後半も、男には聞こえていただろう。しかし、それは綺麗に無視された。男の真意は気になったが、しかし今は回答の方が信じられなかった。あまりにおかしい。思わず、少女は間抜けな声を上げる。

 

「男根なんだよ、こいつは、男にとっちゃな」

 

 よし、わからない。大丈夫。少女は自分の正気を確認した。モヤモヤした胸の内も一気に晴れた。ついでに少女の中で男共という生き物の定義が上書きされた。そんな内心を知ってか知らずか、男は微妙な顔で少女を見つめる。

 

「んな顔すんなよ。真面目な話だぜ。いいか? 心理学的にはな、これは男のシンボルだ。理想化された、本物より遥かに都合がいい、な」

 

 言って、男は組み上がった拳銃を構えてみせた。黒光りする銃身が朝日に光る。端整な、絵画になりそうなシルエット。弾倉は全く空だったが、それでも引き金に手をかけない慎重さは、どこか上品な印象を与えていた。男の粗野な本性を、少女はいくらでも知ってたというのに。

 

「こいつは太く硬く萎えもしない。弾さえあればいくらでも射精できる。撃てば、轟音と快感をもたらしてくれる。男にとって理想的な、まさにもう一つの相棒さ。これを片手に盗みを働く。それが俺のライフスタイルだ。だから銃は手放せねぇ」

 

 そんな性器あったらたまらないなと、少女は心底で貯め息を吐いた。大体男という連中は、逞しければそれが正義だと、女が悦ぶと思ってる輩が多すぎる。かつて娼婦達もよく愚痴っていたが、原始人としての価値観をこの現代まで引きずっているのだろう。そんなものは、少女としては是非とも、洞窟の中に置き忘れて来てほしかった。

 

「男根の象徴はナイフでもいいが、拳銃の方がより原型に忠実だ、お上品なオートより、単純堅牢なリボルバーがいい。口径はもちろん大きめの奴だ。こいつを、金玉の重さを感じながら構えて撃つ。そのロマンが分からない野郎はカマだろうぜ」

 

 男は渋く笑って決めたが、言ってる事はあんまりだった。少女は深く深く溜め息をついて、思ったままの感想を吐き出した。

 

「……幼稚すぎます。子供じゃ、ないんですから」

「だろうな。だがよ、男って大体そんなもんだぜ」

 

 自分は何でこんな男と臥所を共にしてるのだろう。シーツ1枚で語り合っているのだろう。少女は苦々しく感じながら、とっくに空になったカップをサイドテーブルへ置いて言った。

 

「大体なんでこそ泥なんですか、マスター。貴方ならいくらでも高価なものを盗めるでしょうし、その気になれば表の世界で真っ当に活躍する事も容易いでしょうに」

「そりゃ、それが一番好きな生き方だからだ。お前にもあるだろ?そういうの」

 

 男に振られて、少女はどう答えていいか戸惑った。自分の奥深くをえぐられた気がして、どうにかして誤摩化したいと、そう思った。しかし結局、嘘をつく事すらできなかったので、ただ正直に洩らしていた。

 

「私は、わかりません。わからないんです。考えた事、なかったから」

「そっか。ま、そいうのもありだろうさ」

 

 深く追求されはしなかった。男は拳銃をホルダーにしまい、工具と共に少女に渡してサイドテーブルの上に置かせた。はじめて手にした拳銃は意外に重く、凶器としての存在感を主張していた。

 

「俺の能力、な」

 

 珍しく、男はポツリと静かに語った。

 

「……つまらないんだよ。調子に乗って作ったはいいけどよ、やっぱ俺はガキだったんだな。最初は荒稼ぎしていい気になってたもんだが、数年してすっかり冷めちまった。応用力がありすぎるんだよな。何でも出来ちまうんだ、この能力は。だから結局、普通に使えば人生をつまらなくする方向にしか役立たねぇ」

 

 深々と男は紙巻きを吸い、紫煙を部屋一杯に吐き出した。吸い殻を、乱暴な手つきで灰皿に押し付ける。少女の肩を抱き寄せて、首筋に唇を埋めて言った。

 

「まあいいや。今のは忘れろ。いいな」

「はい、忘れます」

 

 男の声が深く染み込む。少女はそれに従って、ここ数秒の記憶を無意識の底にしまい込んだ。少し眠いなと、そのときの彼女は自覚した。背中に回される男の腕が、力が入りすぎてちょっと苦しい。安物のパイプベッドがギシリと軋み、銀色の長い髪が白いシーツに広がった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 熱したフライパンには油をしかず、厚めに切ったベーコンをカリカリに焼いた。それを取り出し、残った肉汁にひと欠片のバターを溶かして、刻んだタマネギをさっと炒める。甘く香ばしい匂いがキッチンに広がって、アルベルトがキッチンに視線をくれた。二人で食べる久しぶりの朝食に、今からうきうきが止まらない。タマネギが透明になった辺りで、味付けした溶き卵を流し込んだ。宛てがわれた地下司令部の一室は無機質で、素敵なムードからは程遠いけど。

 

 昨日見せた練の結果、わたしの採用が決定した。そのまま各種の説明を受け、飛行艦の艦長さん達と顔合わせをして、気が付けば深夜になっていた。アルベルトはあの後すぐに調査の方にかかり切りになってしまったから、こうして一緒に摂れる朝食の時間が、いつになく貴重に感じてしまう。

 

 わたしの能力についてもう少し踏み込んだ説明は、カイトさんにだけしておいた。ハンターチームのメンバーの中でも、あの人は特に信頼できるという印象を受けたけど、なによりアルベルトから押された太鼓判が心強かったから。

 

 とろりと固まったスクランブルエッグをお皿に移して、ベーコンとサラダ、牛乳をたっぷり入れたコーンスープと一緒にテーブルに並べる。焼いたバゲットパンにはバターを塗って、二人分のコーヒーを用意した。アルベルトはブラック、わたしは砂糖一つにミルクを少しで。このまま朝食にしてもいいんだけど、アルベルトも朝早くから幾つもの資料を広げて情報の整理に余念がないようだし、エプロンを外す前に洗い物を済ませてしまうことにした。

 

「ちょっといいかな、エリス」

「なに?」

 

 洗い物を終え、食卓に付いたときだった。アルベルトも重たかった腰を上げて食卓までやってきて、目の前の食事に取りかかろうとしていた。だけど、きっと頭の中は半分ぐらい、資料に振り分けられているんだろうなと思っていた。

 

「この任務の間、周りをよく観察して、よく、憶えておいて欲しい」

「ハンターの仕事を?」

 

 問うと、アルベルトは真剣な目で頷いた。

 

「それもある。だけどもっと具体的に、軍と、国家と、ブラックリストハンターの仕事をだよ」

「それはもちろんよ。だって父さんとアルベルトが生きてきた世界なんですもの」

 

 わたしの返答が気に入ったのか、アルベルトは嬉しそうに微笑んだ。

 

「せっかくハンター試験に合格したんだ。どうせなら一般的な社会通念における善行、それもできるだけ大きな組織やたくさんの人に恩を売れるハントがしたかったし、エリスにも経験してもらいたかった。その観点から見ると、今回の仕事は実に都合がいい。上手くやれば、エリスの立場は、今よりずっと強固になるだろう。

 ……結局の所、僕に大切なのはそれなんだ。エリスは優しいから善意とか義憤とかを感じているかもしれないし、それは全く正しい事なんだけど、僕にとってこのハントには、失敗も一つの選択肢として存在してる。リスクとリターン次第では、僕はこの国を見捨てるだろう。

 他のハンターも大なり小なりそんな感じさ。やれる範囲では手を尽くすけど、やれない範囲からはすっぱりと手を引く。それができないブラックリストハンターは早死にするだけだからね。ハンター試験の時だって、僕はイルミを見逃しただろう? あの後、彼は殺しの仕事を控えてたって言うのに。ジャッキーは、彼だけはちょっと例外だろうけど」

 

 いつもと変わらないアルベルトの声。普段通りのその表情。まるで夕食の献立を話題にしてるみたい。なのに不思議と厳かで、わたしの心を釘付けにした。

 

「だから、エリス。ハントを経験すると、この業界の光と闇が見えてくると思う。ハンターという人種がどういうものが、肌で感じていけると思う。その上で改めて君が願うなら、僕はハンターをやめてもいい。でも、仮にこの世界で生きていけるというのなら」

 

 アルベルトがコーヒーで喉を潤して、気負った様子もなく言葉を繋いだ。

 

「ブラックリストハンターでなくてもいい。二人でハンター家業を始めよう」

 

 結論はいつでもいい。焦って出す必要はないからね、とアルベルトは微笑んだ。わたしは頭が真っ白だった。たぶん、表情も間抜けだったと思う。よだれぐらいは垂らしたかもしれない。もし誰かがこの様子を盗撮していたというのなら、世界を滅ぼしても悔いはなかった。

 

 それぐらい。

 

「……嬉しい」

 

 それだけ、絞り出すのが精一杯。本当に、ただひたすらに嬉しくて。それができるといいなって、心の底から願ってしまった。

 

「あまり綺麗な仕事じゃないから、申し訳ないけどね」

「それは、アルベルトが、優しいからよ」

「僕が?」

「ええ、アルベルトは優しいわ。わたしなんかより、ずっと、ずっと」

 

 掛け値なしの本音でわたしは言った。いつになく穏やかな気持ちだった、目の前には湯気を立てる朝食がある。今からアルベルトと一緒に頂いて、ソファーに並んでほんの少しの食休みができるなら、どんな激務だって天国になる。胸元がとても暖かくて、自然とそう確信できた。

 

「エリス、最後に一つだけ、これだけは踏まえておいてくれないか」

 

 アルベルトが言った。浮かれすぎたわたしをたしなめる様に、すっと、心臓に氷の刃を突き刺された。

 

「もしかすると彼らが、いや、今の僕達と同じ立場の人間が、君を狙う事になる可能性もあるという事を」

 

 

 

 朝の打ち合わせが始まるまで時間に余裕があったから、地下司令部併設の女性士官用シャワー室を借りて汗を流す事にした。本当はアルベルトと一緒に入りたかったけど、さすがにそこまで我が侭は言わない。

 

「あ、おはようございます」

「あら、おはよう」

 

 脱衣室でばったり出くわしたのは、ちょうど出てきたパクノダさんだった。体にバスタオルを巻き付けて、髪を塗らす水気を別のタオルに吸わせている。会って丸一日も経ってないけど、わたしはこの人に好感をもっていた。にっこり微笑む表情から何気ない仕種まで嫌味のない余裕がにじみ出てて、話してみると距離感の取り方もとても上手い。これが大人の魅力ってものなんだろうなと憧れてしまう。

 

「どう? よく眠れた?」

「はい、おかげさまで。パクノダさんは?」

「あたし? あたしは昨日も徹夜だったわ。まったく、この歳になると肌にすぐ響くから困るのよね」

 

 ため息をついて苦笑するパクノダさん。肩をすくめた時、タオルの向こうで大きな胸が柔らかく揺れたけど、それを羨ましいとは思ってない。ええ、断じて。わたしだって、もうちょっとでCに届きそうなぐらいはあるんだから。うん、多分、もうちょっとで。

 

「確か、あの後はジャッキーさんと外まわりでしたよね」

「ええ、何件か気になる情報が入っていたから、その確認に行ったわ。収穫はあまりなかったけど」

 

 パクノダさんはバスタオルを巻いた姿のまま、脱衣室の椅子に腰をおろした。微かだけど、鈍さが感じられる動作だった。少し疲れてるのかもしれない。それもそうだろう。幾つもの都市を飛行船で飛び回るのは大変な仕事なのに、その上で収穫が乏しければ熟練ハンターでも負担に感じてしまうんだと思う。

 

「で、今日もまたその続きよ。ほんと、嫌になるわね」

 

 わたしも服を脱ぎながら、頷いてパクノダさんにあいづちを打った。

 

「あ、そうそう。あなた、黒いコートの男に心当たりはない? 白いファーを盛大に逆立てて、背中に大きな逆十字を背負ってるの。二十代中頃ぐらいの男性で、髪は黒でオールバック」

「……えっと、暴走族の方、ですか?」

「だったら良かったんだけどね」

 

 若干引くわたしに苦笑して、パクノダさんは説明してくれた。男性の格好に、彼女はあまり違和感を感じてないみたい。思い返してみるとヒソカやイルミさんも奇抜な格好をしていたし、ハンターの人達の基準ではわりと普通の変態さんなのかもしれない。あの状況をドレスで通したわたしも周りから同類に見られてるかもという考えが一瞬浮かんだけど、絶対、気の迷いだ。レオリオさんだって、スーツだったし。

 

「詳しくはこの後の打ち合わせで報告するけど、ここ数日、いくつかの街で不審者の目撃情報が上がってるの。貧民街を中心に回ってるらしくて、当然、そこを縄張りにする連中とトラブルになってるんだけど、人間離れした身体能力で蹂躙してるみたい。動きがかなり派手だから、誰かを急いで捜しているのか、誰かに見つかるのを待っているのか、その両方かとあたしは見てるわ」

「そうですか。ごめんなさい。残念ですけど、わたしに心当たりはないみたいです。わたしが知るハンターの人達は、同期と父の知り合いとお弟子さんぐらいですし」

「そう。いいのよ。あたしもジャッキーも見当つかないんだから。カイトとアルベルトにも聞いてみましょう。彼ら、顔が広いから」

「ええ、そうですね」

 

 優しく微笑むパクノダさんに同意して、脱いだ服と下着を畳んだ。さてシャワーを浴びようと思ったけど、その前にふと、疑問に思った事を尋ねてみた。

 

「服、着ないんですか? さっきからずっと、バスタオルを巻いたままですけど」

「……ごめんなさい、昔から肌を見せるのは得意じゃないの。特に背中は、あたし自身にも見せたくないぐらいよ。……何故かは、自分でもよく分からないのだけれど」

「いえ、わたしの方こそごめんなさい。嫌な事伺ってしまいましたね」

「真面目ね。気にする必要はないわ」

 

 気分を害した様子もなく、わたしの不作法を笑顔で許してくれたパクノダさんはやっぱりいい人だと思う。胸元がとても大胆な服を着ていた彼女のセリフにしては違和感があったけど、まあ、感性というものは人それぞれなんだろう。

 

 

 

 鋭い銀色。細長く洗練された、風を切り裂くための流麗なフォルム。広く雑然とした整備ハンガーの中、わたしの目の前に横たわる巨体は、周囲を這いずる矮小な人間など知らぬとばかりに悠然と浮かんでいる。

 

 空中衝角艦サンダーチャイルド。彼女が、今回の作戦でわたしが乗る飛行艦だった。これから昨日紹介された艦長さんに館内を一通り案内してもらって、スペックなどについて解説を受ける。それが今日の午前中の予定だった。いざという時、どんな情報が役に立つか分からないから。

 

 それが終わったら艦単位での攻撃訓練に参加するけど、この段階ではまだ実際に能力を発動させる事はないとの事。全体像の把握とプロセスの慣熟、問題点の洗い出しが目的なんだとか。

 

「ご覧の通り、本級は気嚢が小さく、飛行船としては比重が大きめの設計になっております。また大きな出力重量比を持ち、我が国で初めて遷音速巡航が可能な戦闘艦でもあります。しかしその為に大型の燃料タンクを搭載しており、機体規模に比べてベイロードは小さめです」

 

 乗り込む前に、実物を前にして基本的な事からレクチャーされる。気嚢の上にちょこんと乗ったお椀型の透明なドームが、わたしが詰める防空指揮所という場所らしい。いざ能力を使う時は、ハッチから外に出る事も可能なようだ。

 

 艦長さんの説明はとても分かりやすくて、有能で頼りがいがある人だなって印象を与えてくれる。野太い声に太い腕や厚い胸板は空というより海の男の雰囲気だけど、ちょこんとした顎ヒゲがちょっと可愛い。実はわたしと同じぐらいの娘さんがいるそうで、きっと家庭ではいいお父さんなんだと思う。だからこの人の家族のためにも、無事に家に帰してあげたかった。だけど、それを願ってしまうのは偽善だろうか。

 

 この艦で念能力の存在を明かされたのは艦長さんだけ。防空指揮所に詰めるのは基本的にわたしだけだけど、なにかあればすぐ側の航海艦橋から真っ先にこの人が駆け付けてくるだろう。そのとき、もし能力を発動中であれば、この人の命は度外視しなければいけないのだから。

 

 何を見捨てても任務達成が最優先。その為ならば、この艦が墜落する事すら許容される。わたしは何度も、カイトさんにそう念を押されていた。その意味を改めて思い知って、胸の奥が締め付けられた。まだまだ弱いなと、ハンターとしての自分の未熟さが少し嫌になった。

 

 

 

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【色なき光の三原色(セラフィムウィング) 特質系・具現化系】

使用者、エリス・エレナ・レジーナ。

 赤の光翼 悠久の渇望;愛別離苦 具現化した光に生命力を付与する。

 緑の光翼 千古の妄執;■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■。

 青の光翼 原始の大罪;■■■■ 具現化した翼に生命力を溜め■■■■■■■■■■■■。

長い■■をかけて鍛えられた、■■■■■■■■■ための能力の失敗作。

 

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次回 第十一話「こめかみに、懐かしい銃弾」



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第十一話「こめかみに、懐かしい銃弾」

 室内を夕日が染めている。狭く貧相な部屋だった。備え付けられた家具は最低限で、どれもあからさまに安物だった。天井は低く照明も暗い。おまけに男が無節操に愛飲する煙草のおかげで、紫煙の匂いが染み付いている。それでも、この辺りでは背の高いビルの一室だからだろう、窓から見下ろす眺めだけは悪くなかった。

 

 これで最後になるだろうと、少女は窓際に佇んだ。夕暮れの、排ガスと埃の匂いが漂うスラム街。幾重にも連なるビルの屋上が、壁が、橙色に染まっている。コンクリート製の四角いシルエット達は、広がるでもなくそびえるでもなく、ただその場所に在り続けていた。廃虚にも似た街並は、少女の胸に切ない郷愁を呼び起こした。

 

「よう、荷造りは終わったか」

 

 ノックもなく、男がドアを開けて帰宅した。手には紙袋を抱えている。その口からバゲットパンとワインの瓶がのぞいている事から、買い出しは一通り済ませたらしい。

 

「はい、もちろん。もっとも、あまり量はないのですから」

 

 ベッドの上を視線で指して返答した。少女の体躯でも持てる小さな鞄に、半分ほどの容積を占める衣類と最低限の生活用品が入っていた。他には、特に何もない。少女が物を持たないのは、娼館時代からの習慣である。彼女は、特定の物品に執着する事ができなかった。

 

「おし、上出来だ。なら今夜出発するぞ。腹ごしらえは今からするとして、そのあと眠れるようなら少し眠っとけ」

「分かりました」

 

 バゲットパンを切りチシャの葉とドネルケバブの切り落としを挟んでいく男の手際を見守りながら、少女は特に感慨もなく頷いた。頻繁に拠点を変えたがる男に付き合わされ、アジト替えには慣れていた。面倒だなとは思うけれど。

 

「次はどの街に行くんですか?」

「あん? また少し北に向けて進んでみようと思ってるけどよ。ほれ」

 

 ケバブの切れ端をつまみ食いして男は言った。請われ、少女が塩の入った瓶を手渡すと、ついでとばかりに彼女の唇にも1枚ねじ込まれる。咀嚼すると口腔に風味が広がった。男にしては珍しく、いくらか上等なものに手を出したらしい。それが分かるぐらいには、少女の舌も肥えてきた。

 

「……ん。また北ですか。どうして北にばかり進むのか、聞いてみてもいいですか?」

「いや、んな御大層な理由はねーけどよ。なんかロマンを刺激されねぇ? 決まった方角へ向かうってよ」

「わかりませんね。これっぽちも」

「そりゃねえだろ。雪を冠った山脈の反対側とか、青い水平線の向こうとか、雨雲を抜けた上の空とか、道の辿り着く果てとかよ。お前だって響きだけでわくわくするだろ? え?」

 

 一蹴した少女の反応が気に入らなかったのか、男はサンドイッチを皿に並べながら妙に力説した。どうでもいい事に力を入れる性質はいつもの事だったが、少女には妙に可愛く思えた。

 

「男の子ですね」

 

 それは嘘偽りのない素直な感想だったのだが、男はそれが気に入らなかったのだろう、憮然とした表情で視線をそらした。楽しい、と少女は目を細めた。簡単に済ませただけの夕食のサンドイッチが、とても贅沢に感じられた。

 

 しかし、明朝はコーヒーに入れる角砂糖を一つ減らすと男に言われて、理不尽だと少女は恨めしがった。

 

 

 

「そういえば、お前さ」

「はい、なんでしょうか?」

 

 早めの夕食を平らげ、ベッドでごろんと横になっていた少女は、隣に転がる男に話し掛けられた。少女の返事は、わずかに刺のある声色だった。肘を枕に欠伸を噛み殺す男の姿が無性に憎らしい。甘いものの恨みは深いのだ。

 

「名前、なんだっけ?」

「……は?」

 

 少女は目を点にした。驚いたのではなく、呆れたのだ。ついでに幾分の怒りも混じっていた。あえて尋ねなかったのではなく、今の今まで、興味すら湧かなかったとでも言うのだろうか。少女は反感を隠しもせず、男に対し、素っ気なく答えた。

 

「いまさらですか? ありませんよ」

「なんだよ、無いのか」

 

 とても常識はずれな会話をしているな、と少女は頭のどこかで自覚した。しかしお互いに驚きは少なく、のんびりと、普段通りのやり取りだった。それが悔しいのは秘密だった。

 

「はい。源氏名なら、年に数回は変えられてましたので沢山ありますけど」

 

 娼婦の源氏名をあれこれ考えるのが宿の主人の趣味のようなものだった。今思えば、新鮮さを演出すれば売り上げに繋がると考えてでもいたのかもしれない。しかし源氏名の頻繁な変更など娼婦達が喜ぶはずもなく、よほど気に入った案以外はすげなく破棄された。そういった名前の中で主人が諦めきれなかったものは自然、少女のところに回ってくる仕組みだった。

 

「普段はどうしてたんだよ。商売ならともかく、日常生活には困るだろ」

「あのガキとか、あいつとか、お前とか、それで十分通じてましたよ。なにせあそこに子供は私一人しかいませんでしたから」

「そっか。まあ、それもいいや、別に」

 

 この話題に、男は興味をなくしたようだった。その瞳は既に少女を捉えず、肘枕をやめて頭を枕に預け、ぼんやりと天井を眺めている。じきにその瞳も閉じられて、眠りの中に沈むだろう。少女はその事実に苛立ちを覚えた。

 

「マスター。貴方の名前も、私は聞いてませんが」

「俺? あー、俺か。そうだな、結局教えてなかったな」

 

 瞳を閉じ、眠そうな声で男は応える。ぞんざいな、面倒くさそうな態度だった。今に始まった性格ではない。しかし、少女はその顔をじっと見ていた。眺めて楽しい顔ではなかったが、とにかく少女はじっと見つめていた。自分はなぜこんなにムキになっているのか、それを不思議に思うのは後回しにする事にした。

 

「俺の名も、沢山あってな」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 闇の中に闇がいた。一対二個の眼球は、闇より深い漆黒だった。どす黒く淀んで、どこまでも深くたゆたっていた。パクノダは、何よりもそれに脅威を感じた。

 

 眼前の男が、恐らく噂の逆十字だろう。夜更けのスラム街を調査するパクノダとジャッキーの前に滲み出るように現れた人物は、纏う空気だけで強者と分かった。白いファーの付いた黒いコートにオールバック、額には十文字が彫ってあった。

 

「もし、そこの方。私はジャッキー、こちらはパクノダ。連続死事件を追うプロハンターである。すまぬが調査に協力してもらえないだろうか」

 

 男はジャッキーを完全に無視した。一瞥すらせず、パクノダのみを眺めている。

 

「生かしたまま捕らえられようか?」

「無理でしょうね」

 

 余計な制限を設けて向き合えるような相手ではなかった。大人しく協力に応じてくれそうな雰囲気でもない。パクノダとジャッキーは臨戦態勢をとり、最大限の警戒をした。別段、逆十字の男は敵意をむき出しにしているわけではなかったが、それでも理解してしまうのだ。ハンターとしての本能が、眼前の男の凄まじさを。

 

 それでも、この二人なら戦える自身がパクノダにはあった。

 

「久しぶりだな。大事ないようでなによりだ」

「……あなた、何?」

 

 旧友に再開したかのような気軽さで、男はパクノダに声をかけた。ジャッキーが視線で問いかけ、パクノダも心当たりはないと否定する。手の中に汗を滲ませて、靴の裏で路面を踏み締めた。会った記憶は全くない。だが、しかし、その一言に奇妙な違和感を憶えたのが引っ掛かった。

 

「へー、ホントに忘れてるんだ。団長の言ったとおりだね」

「疑ってたのかい? 呆れたよ、全く」

 

 細い通りに新しい絶望が追加された。逆十字の男はジャッキーに任せ、パクノダは新手に向かって振り向いた。若い男女が二人。最悪な事に、揃って達人の域にあった。これで戦力は2対3。無論、念能力者の戦いは単純に人数で決まるものではないが、不利な要素に違いはない。

 

「なんだ? お主ら我らに何の用だ?」

 

 パクノダと背中を合わせたまま、ジャッキーが野太い声で問いかけた。よく響く声が夜の街に反響し、夜闇の冷たい静けさを強調した。

 

「別に? 大した用事じゃないよ。ただ、そちらのお嬢さんと暫くお話ししたいだけ」

 

 筋肉質な童顔の男が笑顔で答えた。それは脅迫以外の何かとは思えなかったが、念のため、ジャッキーはパクノダに確認をする。それに、パクノダは心からの拒否をこめて首を振った。

 

「断る、との事だが?」

「なら、無理矢理でもね」

「そうか」

 

 リーダー格らしい逆十字の男に視線を合わせたまま、ジャッキーは厳かに頷いた。

 

「悪を許さぬは我が誓約。そして誰かを裏切らぬも我が誓約だ。だが、罪を憎んで人を憎まぬのも我が誓約。悪い事は言わぬ。改心召されよ。狭く息苦しい人欲の道と違い、天理の道は甚だ広く、楽しいぞ」

「悪いけど、オレ達そういうの興味ないんだ」

 

 ジャッキーの善意を、童顔の男が一蹴した。隣の女が一歩進み、逆十字の男に向けて確認する。

 

「ちょいと邪魔だね。排除していいかい?」

「ああ、そうだな」

 

 肯定し、逆十字の男が一歩を踏み出す。その瞬間パクノダは戦慄した。あまりに洗練されすぎた動作だった。背中越しに感じた気配だけで、肌が粟立つに十分だった。パクノダとて凡百の使い手ではない。しかし、優れているからこそ鋭い嗅覚がある。同じ事はジャッキーも感じ取っていたが、生来の剛毅さに任せて黙殺した。

 

「よろしい。ならば私が説法して進ぜよう」

 

 ジャッキーが右手を軽く掲げた。空間が揺らぎ、錫杖が虚空から出現した。次いで現れた三鈷鈴が左手に握られる。しゃらんと、りんと、音が鳴る。

 

 これは【衆生無辺誓願度(グレートビューティフルミュージック)】と名付けられた能力だった。どこぞより愛用の楽器を取り出し奏でる能力だが、その真価はこの程度ではない。頭上の空間が大きく震え、何か巨大な存在が滲み出る。

 

「よいか、まずは聞くのだ。私の梵唄に耳を傾け、心を清くする事から始めるがいい。さすれば塵世苦海をするりと抜け、雲の白きと山の青きを楽しめよう」

 

 それは見事な梵鐘だった。全高が3メートルはあるだろうか。大きく、肉厚で、見るものに圧倒的な質量を想起させる鐘が浮遊していた。ジャッキーから潜在量の半分にも及ぶオーラを分け与えられ、鳴るべきは今かと佇んでいる。ただひたすらに壮大で、畏怖すべきは鈍重に。その周りを、大小数多の木魚と木柾と団扇太鼓が、ちりばめられる様に浮かんでいた。

 

 能力の発動は速くはなかったが、呆れるほど早く滑らかだった。3人の不審者は揃って先制をかけようとしたが、それでも尚、その隙を妨害することができなかった。

 

 これこそ、ジャッキー・ホンガンが本気で戦う際に用いる能力である。

 

「参る」

 

 屈強な体躯が跳躍した。パクノダが地を滑る様に疾走する。童顔の男は構えを取り、女は建物の壁面を蹴って駆け上がり、逆十字の男が後方に下がり支援の体勢に入った。闇に沈んだ街の片隅で、今宵、彼らの命が激しく揺れた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 眼下には夜景。切り裂くは春風。きらびやかに輝きがちりばめられた都市の上空から、サンダーチャイルドは地上すれすれに向けてダイブを始めた。街の明かりの一角に、河の様にも見える高速道路があった。その高架橋ギリギリを目掛けて巨体が迫る。対地速度は時速200kmを超えていて、このまま地面に吸い込まれていきそうな錯覚に陥る。

 

 上から見た高速道路には車がなかった。林立する照明に照らされた路面はがらんとして、冷たい寂寥だけが流れている。完全に封鎖されたコンクリートの大動脈。そこを、真紅のスポーツカーが疾走していた。向こうもこちらを視認したのだろう。お互いにランプを点滅させて意思を交わした。

 

 これから続く長い直線が最初で最後のチャンスだった。失敗は最初から想定されていない。アルベルトもカイトさんも信じてるけど、何もできない自分が歯がゆかった。

 

 サンダーチャイルドの船体が予定のコースに収まった。高低差およそ20メートルでの高速安定航行。揺れを鎮めたというより流れの中にそっと置かれたという感触。この艦の操舵手さんは物凄く、いえ、ヒトを超越した領域で上手だった。後部のランプドアが解放され、そこから大きなネットがたなびいた。

 

 その様子を確認して、スポーツカーのルーフが爆ぜた。鋼板が風圧で吹き飛んで、後方で路面と衝突して火花を散らす。一瞬で即席のオープンカーに転じた車の車内には、二人のハンターの姿があった。

 

 運転席でハンドルを握るアルベルトと、アッパーを放った体勢のカイトさん。彼らは風圧も金属やガラスの破片さえものともせずに、こちらに向けて軽く手を上げる余裕すらあった。その様子に、わたしは少しほっとする。

 

 飛行艦の位置関係を把握して、最後にもう一度地上を確認して、次の瞬間、二人は大きく跳躍した。踏み締められた車はシャーシが曲がり、あっという間に横転して砕けていく。それでも、それに注目する人は誰もいない。

 

 飛翔。片手で帽子を押さえるカイトさんの長い髪の毛が夜景に舞って、アルベルトの冷静な眼差しが澄んだ光を瞬かせて、綺麗だなって、そう思った。飛び上がった二人は風圧に押され、だけどそれすら計算に入れて夜の大気を疾走した。アルベルトだからこそできる高度で柔軟な弾道計算。それは当然のように最良の結果を弾き出し、二人はネットに掴まった。

 

「もう……。無茶するんだから」

「はっはっは。男ってのはそういうですよ、嬢ちゃん」

 

 安心してしゃがみ込むわたしにそう言って、艦長さんが笑い声を上げた。航海艦橋が歓声に沸く。そうこうしてるうちにまもなく、後部ランプが閉鎖され二人とも無事回収されたとの報告があった。

 

「アップ20! 第ニ戦速!」

 

 下令され、艦内の空気が引きしまる。すぐにカイトさんとアルベルトもやってきて、艦隊司令部として機能するための設備がフル稼働を始めた。憲兵司令部から矢継ぎ早に現状が伝えられ、陸軍空挺師団からは部隊の展開計画が承認はまだかと届けられる。あっという間に情報を把握して、瞬く間に指示を下していくアルベルト。その様子をちらりと確認すると、カイトさんはわたしに向き直った。鋭い視線が胸に染みた。

 

「頼むぞ」

「はい。任せて下さい」

 

 たった一言。わたしはそれに全力で応える。だってそれしか、できないから。

 

「艦長さん、状況次第では近接支援に切り替わるかもしれません」

「アイマム。ウエポンベイには準備を命じておきます。幸運を」

「ありがとう。お互い、頑張りましょう」

 

 検問や要所の防衛が次々に確認されていく声を背に、防空指揮所にわたしは向かった。パクノダさんとジャッキーさんから緊急コールが発信された後、連絡が取れなくなっていた。雨は今の所降ってないけど、わたし達は予想される全てに対処する必要があった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 ジャッキー・ホンガンは4種類もの発を修得した念能力者である。加えて念の基礎能力と身体能力も高いレベルで持ち合わせており、武術においても相当の達人である事は間違いない。であるにも関わらず、戦闘においては致命的な弱点が存在した。保有する能力が、尽く実用性を度外視されているのである。否、常人とジャッキーでは実用性の概念が全く違った。

 

 跳びながら靴を脱いで裸足になったジャッキーは、己が喚んだ浮遊する梵鐘の上に着地した。マチが壁面を立体的に機動する。念糸を繰り出し、張り巡らせながらの垂直疾走。彼女は瞬く間に間合いを削り、首筋を目掛けて手刀を放つ。なんの躊躇もない鋭い一撃。ジャッキーはそれを紙一重で躱し、しなやかな体術に目を見開いた。

 

「なんと、見事な」

 

 この女だけでもかなりの脅威だ。歴戦の経験で即座に悟ったジャッキーは、右手の錫杖を大きく振り下ろした。号令一下、全ての楽器がビートを刻む。大音響が辺りに響き渡った。木魚の奏でる素朴なメロディー。堂々たる低音の梵鐘。甲高い木柾が裏を打ち、団扇太鼓が高らかに鳴った。ジャッキー本人も左右の錫杖と三鈷鈴を手に舞い踊り、音曲のリズムに全身を委ねて唱いだした。

 

 その様子に、マチは一瞬躊躇した。念糸で空中に編み込んだ足場に身を乗せたまま、突然踊りだした大男の奇行に全身全霊で警戒した。念能力者同士の戦いであるが故に、この演奏に如何なる特殊効果があるか不明だったからである。まして、彼らには同系統を思わせる仲間がいた。

 

 しかし、躊躇はただの一瞬だった。地上にはクロロが控えている。故に、彼女が不安に思う理由は何もなかった。あるいは敵にしてやられても、それは彼女の宿命だろう。そう思いきれるだけの信頼があった。問題ない。それこそマチの直感が出した答えだった。彼女の直感は全く正しく、彼女の警戒は無意味だった。

 

 グレートビューティフルミュージックが奏でる音に、いかなる特殊効果もありはしない。ジャッキーはただ純粋に、音楽を聴かせたいが為に最大潜在量の半分という膨大なオーラを費やしていた。否、何の効果もないからこそ、聴かせる意味があると信じていた。

 

 梵鐘の上で唱い踊るジャッキー目掛け、糸を足場にマチが迫る。構造物の谷間の空中戦は、マチにとって最良の舞台だった。多少宙に浮けるからどうしたのか。マチであれば、三次元機動で自在に移動し、体術と念糸で思うがままに攻撃できる。さながら、囚われの蝶に迫る蜘蛛の様に、速度も手段も選択肢の幅も、全てが彼女に有利だった。

 

 それでも、世の中には、常識ではどうにもできない馬鹿がいる。

 

 木魚達が飛来する。ボクポクと嬉しそうに鳴りながら。立体音響を堪能させようとマチの背後に廻ってきたそれを、彼女は意図も知らずに念糸で破砕した。微かに注意が逸れたその隙に、ジャッキーは梵鐘の上から消えていた。

 

 跳んだか? マチが見上げたのも無理はない。だが真実はそこにはなく、念糸が振動を伝えてきた。気付き、マチは目を見開いた。ジャッキーはマチの念糸を完全に信頼して、それを踏み締め駆けて来たのだった。右手には長い棒状の錫杖を掲げ、左手には鋭い三叉の三鈷鈴を携えている。オーラも存分に込められていたため、マチは武器による攻撃を警戒した。

 

 直後、ジャッキーは両手を手放してなおも駆けた。宙に浮かぶ錫杖と三鈷鈴。ジャッキーにフェイントのつもりはさらさらなかった。これらはあくまで楽器である。ジャッキーは奏でるために楽器を呼び出したのであり、攻撃に使わないのが誓約だった。

 

 敵の間合いの読み間違えに、マチは内心で歯噛みした。ジャッキーに上手く立ち回られ、至近距離に立ち入られたのが苦々しい。お互いに念糸の上にいる以上、離れてしまえば相手はマチの掌の上だったが、こう食らい付かれたのでは容易に離脱できるはずもない。少なくともジャッキーが隙を見せるまでは、格闘戦に付き合うしかないのだろう。だが、マチとて格闘は苦手ではない。

 

 オーラを集中させたジャッキーの太い腕が唸りを揚げ、マチの放った渾身の拳打に迎撃される。轟音が夜闇に爆散した。爆風が衝撃波となっていた。星空が揺れ、地面が震えた。既にこれは格闘ではない。ただ純粋な破壊だった。

 

 互角。否、技では紙一重に劣り、力では紙一重に上だとマチは見切った。ならば力に任せて畳み掛けるべきである。マチは即座にそう判断した。それは、己の命を捨てる決断だった。迷う事なく打ち込んだ次の一撃に、ジャッキーの拳が激突した。しからば、更に次を放つだけだった。

 

 双方、糸の上で器用にバランスをとりながら、渾身の拳が次々に繰り出される。己の無事などどうでもいい。虚実を混ぜ得る狭間もなかった。マチも、ジャッキーも、ただ一心に打撃を繰り返している。そこに妥協は全くなかった。奥歯を噛み砕く思いで全身全霊の一撃を捻り込み、相殺されれば忘却し、次の一撃に魂を掛ける。少しでも速く、微かでも強く、瞬息でも早く拳を振り抜き、刹那より短い間隙を見抜き、虚空より微かな勝機をつかむ。瞬き一つ分の隙すらあれば確実に、どちらかの首が吹き飛ぶだろう。

 

 生と死の一線など知らぬとばかりに殴り合う二人を取り囲むように、数多の楽器が浮かんでいた。攻撃してくる気配はなく、特殊な効果もありそうにない。ただ、あるときは激しく、あるときは緩やかに曲を奏でている。耳に染み入るいい演奏だった。殴り合いに興じる自分を俯瞰する冷静な部分が、涼やかに澄み渡っていくのを感じた。ああ、こういう発かと、マチは直感で理解した。悔しいが良くできた能力じゃないかと、マチは心中で穏やかに賞賛した。穏やかで優しい殺意だった。

 

 渾身の中の渾身、全力の中の全力で腕を振るった。生涯最高と誇れる一撃。マチが今まで放ったどの打撃よりも、この拳は重く速かった。時間がひどく緩やかに感じる。静寂の支配する短い狭間に、マチはジャッキーが目を見開いたのを視認した。衝突の刹那、迎撃したジャッキーの左腕が弾け跳んだ。肉はおろか骨まで砕け、肩から先が粉砕された。今度は、マチが目を見開く番だった。

 

 ジャッキーの左腕にはオーラがなかった。恐ろしいほど速く、思いきりのいい流だった。左腕を犠牲に、ジャッキーは一歩踏み込む権利を得た。そこは、マチの懐の内だった。

 

「ぬぅん! スーパービックリボンバー!」

 

 怒号と共に、拳が鳩尾に吸い込まれる。やられた。この一撃は喰らうしかないが、即座に反撃して頭部を砕こう。例え、はらわたが破裂し飛び散ったとしても。マチは己の中でそう決めた。染み付いた反射に任せて打点をずらして威力を削ぎ、刹那の内に相手を打ち据える、筈だった。事実、打撃には見事に対処できた。

 

 しかし、全身の神経が発火して動けなかった。動けないまま衝撃で浮かんだ。全身が感電したようだった。刹那の時間が流れる中、マチは追撃を防ぐ術がない事を思い知った。ゆっくりと、ひたすらゆっくりと浮かぶ間、マチは己の死を覚悟していた。

 

 予想していた追撃はなかった。ジャッキーは微動だにせず機会を逃し、マチは落下しアスファルトに叩き付けられる寸前、クロロの腕に受け止められて、シャルナークの背中に庇われた。

 

「……悪いね。助かったよ」

「いい。それよりパクだ」

 

 クロロに促され、マチはパクノダに目を向けた。そして目を見開いた。パクノダは具現化した拳銃を片手に持って、未だ毅然と佇んでいる。マチとジャッキーが戦っていた時間は無限に等しく感じたが、正味では2分もないだろう。わずか、2分。しかしそれだけの間、クロロとシャルナークを相手に粘ってみせたのだ。いかに彼らがパクノダを殺すつもりがないとはいえ、凄まじいまでの健闘だった。

 

「まいった。凄いね、パクは」

「パクは凄いよ。昔からね」

「ああ、そうだったね」

 

 シャルナークの言葉にマチは頷く。パクノダはそれに怪訝な表情をしていて、マチは少し苦笑した。どうして自分を知ってる風に話すのかと訝しんでいるのだろう。合った記憶の全くない、完全に初対面のはずの人間が。その理由は、是が非でも教えてやる必要があった。

 

 パクノダの隣に、ジャッキーが上空から降り立った。やはり左腕は消失している。流れ出るはずの血をオーラで止め、何も問題はないと悠然としていた。纏の揺らめきにも動揺はない。あたしの獲物だとマチは思った。クロロの胸を軽く叩き、降ろしてくれと合図を送る。

 

「立てるか?」

「大丈夫、みたいだね」

 

 クロロの腕から解放され、四肢の調子を確認する。異常も違和感も全くなかった。これなら、戦闘にも支障はないだろう。

 

「彼ら、強いわね」

「うむ。予想した以上の猛者なようだ」

 

 パクノダとジャッキーが頷きあった。わずか1ヶ月程度と短い期間の付き合いのはずだが、二人は既に、信頼で結ばれた仲間だった。

 

「どうかな? 大人しく協力してくれる気にはならんかな?」

「何いってんだい? 論外だね」

「……残念だ」

 

 本気で残念がっているのだろう。ジャッキーは苦悩に顔を歪め、己の無力さを噛み締めていた。

 

「どうするの? あたしをおいて逃げた方が利口みたいよ?」

「だろうな。カイトかアルベルトであればその手もあろう。さすれば情報を持ち帰れる可能性もあろうが、しかし性に合わん。悪を許さぬという誓約以前に、性に合わんよ、パクノダ」

「ふふっ、どうも。あなたらしいわ」

 

 その様子を、マチは苦々しく眺めていた。

 

「そろそろ再開と行こうよ。オレ達もそんなに暇じゃないんだ」

 

 告げて、シャルナークが再び臨戦態勢に入る。それを止めたのがジャッキーだった。

 

「いや、方々、しばし待たれよ」

「……なんだ?」

「なに、一つ宣言しておこうと思ってな。ここに誓おう。パクノダを必ず無事に帰すと。今後、如何なる状況でも仲間を一人も失わぬと。しからざれば則ち死すと」

 

 その言葉に3人は警戒した。土壇場における誓約の追加、それも命を掛けるという強烈な。ならば、相応の力を手に入れて然るべきである。そう、あくまでジャッキーが普通の念能力者だったなら。

 

 ウルトラデラックスライフによって定められた誓約は純粋な戒めであり、念能力に影響を与えることはない。むしろ、オーラの量や能力の制御に好材料を与えないために編み出された能力だった。故に新しい制約、仲間を失わないと決めた彼の覚悟も、新たな足枷を填めただけである。対価を得ない誓約。しかし、だからこそ誓う価値があるとジャッキーは考えた。報酬を期待しての決意など、なんと味気ないものではないか。念能力の為ではなく、人生を面白くする為の誓約こそが、彼が求めたものだった。

 

 だが結局、そこまでして定めた誓約も、ジャッキーにとってはただの言葉にすぎなかった。法の為に纏せられず、空の為に纏せられず。もし誓約が現実にそぐわなくなったならば、彼は躊躇なく破るだろう。当たり前のように死ぬだろう。ジャッキーとはそのような男である。

 

「そうか。なら、オレも一つ告げておく事がある」

 

 そして、ジャッキーが求道者であったならば、クロロ達は生っ粋の盗賊であった。

 

「うむ、なにかな」

「オレ達は盗賊。欲しいものがあれば奪うだけだ」

「ぬう、なんとな……」

 

 誓約の追加で、ジャッキーが如何なる力を手に入れていても関係なかった。幻影旅団は盗賊である。旅団にとって障害の多寡は、盗みに際して考慮すべき要素の一つでしかなかった。まして他人の覚悟など、踏み潰す対象以外の何かではない。結局の所、すべき事は最初から何一つ変わってなかった。

 

「男の方から片付けるぞ。マチ、あいつの能力は使えそうか?」

「ああ、多分ね」

「よし。なら、可能であれば生け捕りにしてくれ。シャルはパクを引き着けろ」

「わかった」

「りょーかい」

 

 クロロが右手に本を具現化した。彼が何をしたいのか、パクノダにもジャッキーにも分からなかったが、何かをしたいのは理解できた。故に、二人が選んだのは先制であった。クロロほどの強者が行う決定的な何かを見逃すぐらいなら、例え罠であろうと飛び込んでいく方を選択したのだ。

 

 未だ上空に浮かぶ楽器類が、ジャッキーの意気込みに呼応して激しくリズムを刻みだした。梵鐘が大音響で響き渡り、周囲の空気を再び飲み込む。拳銃を具現化したパクノダが前衛を勤め、隻腕となったジャッキーが後ろに続いた。

 

「マチはそこで構えていろ」

 

 即席のコンビネーションで突進してくる二人に対して、クロロとシャルナークが迎撃に駆けた。シャルナークがパクノダを押さえに向かい、彼の後ろにクロロが控える。

 

 パクノダが低い姿勢で間合いをつめた。彼女の右手には、無骨な拳銃が握られている。具現化された彼女の相棒。弾丸に特殊な効果もなく、オートマチックですらなく、重く大きいだけの古風な構造。

 

 それでも、ただ、殺意があればそれでいい。

 

 重厚堅牢。人体を壊す為だけに生み出された単純性能。時代を超えた艶やかな金属。生産性を向上させ、洗練された鋭いフォルム。伝統と格式の王国が生み出した、今や遺物となった中折れ式のリボルバー。そは.455口径。覇権国家が握った蹂躙の象徴。銃火器に対して先入観のない、撃たれたショックで無力化されない人間をも問答無用で殺傷する為の設計思想。6インチのバレルから繰り出される必殺の弾丸、6連装。

 

 ウェブリー&スコット Mk.VI

 

 確かに重くかさばりはする。装弾数も少なめだった。だが、それがどうした。現代の軟弱な軍用拳銃とは、砕いた脊髄の数が、撒き散らした臓物の数が、踏みにじった希望の数が違うのだ。

 

 念とは、想いに宿る力である。

 

 具現化された拳銃に暴発などない。弾倉に直接弾丸を具現化し、シャルナークに向けて全弾放った。込められたのは十分なオーラ。飛来する6連の軌跡をステップで躱したシャルナークが見たものは、眼前に迫るパクノダだった。

 

 ハイキックが顔面に突き刺さる直前で、シャルナークは体軸を捻ってどうにか躱した。体勢を立て直すのは同時だった。掌中に隠し持つアンテナは刺せそうにない。達人同士の戦いでは、気軽にアンテナを刺せるほどの隙は滅多に生まれない。少々強引に攻め込めばあるいは成功したかもしれないが、下手な刺し方を試みて失敗し、警戒されては目も当てられない。人体操作の能力だと看破され、ならばと自害等を計られては最悪だった。とにもかくにも、パクノダは信頼する仲間である。下らない理由で損耗していい人物ではない。その懸念が、シャルナークの腕を鈍くしていた。決定的な隙が必要だった。

 

 シャルナークの躊躇を読み取ったのか、パクノダの動きのきれが一段と上がった。精錬された肢体を駆り、研ぎ澄まされたオーラが揺らめいて消えた。フェイントかと身構えたシャルナークは、すぐに猛襲する脅威に気が付いた。それは、隠を施された巨体だった。

 

 拳銃を構えながら、サイドステップで道を譲るパクノダ。即興にしてはひどく息のあったコンビネーション。豪快に振り上げるジャッキーの右腕を躱したとしても、パクノダの拳銃が襲うだろう。知らず、シャルナークは冷や汗をかいていた。だが、それも長くは続かなかった。

 

 それは突然の出来事だった。突如、コンビネーションの前提が消えた。相方が存在するという大前提。それを奪ったのがクロロだった。シャルナークを援護する位置にいた男が何をしたのか定かではない。ただ、彼が何かを行ったとき、ジャッキーの姿が消えていた。否、マチの眼前に転移していた。

 

 マチに動揺はなかった。するはずがない。団長に構えていろと命じられたのだ。だから、構えていた。全身全霊で構えていた。目の前にジャッキーが現れたとき、マチの反応はスムーズだった。一瞬で念糸を張り巡らせ、獲物を幾重にもからめとった。

 

 突然現れた厳重な拘束を、ジャッキーは力任せに解こうとする。が、筋力はマチが勝っていた。わずか紙一重の差でしかないが、その隔絶が遥かに遠い。

 

 相手の連係を逆手にとったクロロに対して、パクノダはとっさに全弾を掃射した。それは悪くない判断だったが、彼ら旅団には通じなかった。シャルナークは迷わず己の身を盾にして、全身でクロロをガードした。その堅は、もはや硬に近い意気込みだった。庇われたクロロは防御を気にせず、パクノダの側面に回り込んだ。

 

 懐に入られたパクノダ、次々と繰り出されるクロロの拳を、ただひたすらに捌くしかない。悪循環に臍を噛むパクノダに対して容赦なく、何かが肩に突き刺さった。

 

 

 

 厄介ね、とパクノダは思った。推測するに、他人を操作する念能力。状況は既に致命的だった。話をしたいと彼らは言っていたが、その程度で済まない事は明白だった。

 

「シャルナーク」

「ん? ああ。それが例の。まかせて」

 

 逆十字の男が何かを取り出し、金髪の男に投げ渡した。一つの弾丸が宙を舞った。パクノダにとって見覚えのある、いや、体の一部といえるほど慣れ親しんだシルエット。

 

「しくじるんでないよ」

「まっさか。オレを誰だと思ってるの?」

 

 ジャッキーを念糸で押さえたまま、女が鋭い目で忠告した。金髪の優男は軽く応え、渡された弾丸を弄ぶ。

 

 .45ロングコルト弾に比べて薬莢長が短く、全長も僅かに短く、特徴的な大きなリム。パクノダが見間違おうはずがない。それこそ.455ウェブリー弾。紛う事なく、彼女の愛銃の弾丸である。

 

 なぜこれを用意できたのか。何を目的としているのか。パクノダの疑問は尽きなかったが、今はなによりも呟きたい事があった。悪趣味ねと、せめて一言いってやりたかった。

 

 操作されるまま、流れるような動作で銃をブレイクする。体に染み付いた動きが皮肉だった。6個の空薬莢が勢いよく排莢され、カランと地面に落ちて空気に溶けた。渡された弾丸を装填して、パクノダは自分の死を覚悟した。微かだが、懐かしい感触の弾丸だった。破壊の意思とは別物の、何かが込められている気がした。

 

 拳銃がこめかみに押し当てられる。どうせら初撃で脳幹を撃たれたかったが、最終的な結末は変わるまい。この場所でパクノダは終わるのだろう。あまり実感が涌かないのが意外だった。彼女自身、決して鈍い方ではないと思っていたが、どうやら過信だったようだった。死に際して、パクノダには残すべき言葉もなければ執着すべき未練もなかったが、事件の解決を見れなかったのが残念だった。

 

 闇夜に、一発の銃声がこだました。

 

 

 

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【衆生無辺誓願度(グレートビューティフルミュージック) 放出系・操作系】

使用者、ジャッキー・ホンガン。

いずこより愛用の楽器を呼び出し自動演奏させる。

呼び出した楽器は誰かを傷つける為に用いる事はできず、奏でられた音は如何なる特殊効果も持たない。

演奏の技術は能力者本人のそれに準ずる。

 

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次回 第十二話「ハイパーカバディータイム」



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第十二話「ハイパーカバディータイム」

 それは、潜入調査にうってつけの能力だった。

 

 ここに優秀な人材がいる。勤勉で頭も回り腕も立つ。重要機密の溢れる中、他意の一つもなく適切に処理し、決してそれを洩らそうとしない。無論、業務に必要ない情報には、最初から手を触れようともしないだろう。なぜなら、あらかじめそのような指針を銘記させられているのである。故に、彼女は若くても経験豊富な情報の専門家であり、それ以外の何ものでもないのだった。

 

 彼女は決して焦らない。その日が訪れるまで絶対に。彼女は決して尻尾を出さない。そもそも尻尾が存在しない。彼女は信頼されるだろう。彼女は絆を育むだろう。彼女は期待に応えるだろう。

 

 そして、組織に深く食い込むだろう。

 

 能力の名をメモリーボム、記憶を司る銃弾である。彼女、パクノダはそれを自身に用い、潜入に都合がいいように、自らの人格を改竄した。無論、盗みを働く為だった。

 

 幻影旅団を構成する団員は、団長の招集に応じない限りは各自思い思いに過ごしている。パクノダは以前から、気が向けば個人的にハンターとして活動する事があった。主に暇つぶしや慈善活動のつもりだったが、最新状勢や注目すべき念能力者の把握など、旅団の情報担当として思う所もあったのだ。

 

 その縁で今回のチームに誘われた。聞くに、リーダーはカイトという人物らしい。彼は派手な活動履歴こそ存在しないが、若手で屈指の実力派ハンターとして知る人ぞ知る人物だった。地力、経験、直感の全てにおいて優れており、戦闘では旅団の戦闘担当組とも互角かそれ以上の強さだろう。一説によれば、師はかのジン=フリークスであるともいう。

 

 それほどの実力者と、その下に集う精鋭ハンター達で構成される捜査チーム。彼らの所持する念能力は、どんなに強力で、どこまで洗練されているのだろう。彼らの隠し持つ弱点を、赤裸に剥くのはどれほど快感だろう。パクノダは情報特化の念能力者である。故に、誰よりも未知に飢えを抱き、誰よりも秘密の甘味を知っていた。

 

 少し早いが、今年の誕生日プレゼントは豪勢になりそうだと、当時のパクノダは唇を舐めたのだ。

 

 

 

 パクノダが胡乱な暗中から浮き上がるまで、撃たれてから実に5秒もかからなかった。肩に刺さったアンテナを抜くと、痛みで意識にかかった霞が完全に取り払われた。傷は極めて軽度らしい。重要な神経も血管も、上手く避けてくれたようだ。

 

「どうだ?」

 

 クロロが尋ねた。

 

「ちょっと待ってて。まず記憶を整理したいから」

 

 言って、パクノダは愛銃をブレイクする。中折れ式の拳銃が大きく開き、先ほどの薬莢が一つ排莢された。代えて、弾倉に新たな二発を装填する。忘れるべき記憶と刻まれるべき記憶。順番を間違えるようなミスはしない。躊躇なくこめかみに銃口を突き付けて、パクノダは拳銃を連射した。

 

「……お待たせ。久しぶりね、みんな」

 

 先ほどまで本気で戦っていた者達に、パクノダは親愛の微笑みを浮かべていた。マチに捕まり、パクノダを救おうと必死にもがくジャッキーは、もはや路傍の石同然の価値しかない。

 

「貴方達も来たのね。団長の手伝いかしら?」

「ああ、ちょうど暇だったからね」

「オレは欲しいものがあってそのついで。兵器の運用情報あったら教えてくれない?」

「ええ、いいわよ」

「サンキュー」

 

 一転して敵と談笑を始めたパクノダを見て、取り残されたジャッキーは愕然とした。だが、驚愕はそこで終わらなかった。旧友と親しげに会話を躱す格好を崩さぬまま、パクノダは新たな弾丸を拳銃に装填し、二人の男を打ち抜いたのである。撃たれた側は避けようともせず、額に甘んじで銃撃を受けた。だが、ダメージを負った様子はない。

 

「おおっ! すっげー便利っ!」

 

 シャルナークが感激し、クロロは佇んだまま思考に沈んだ。

 

「マチは? せっかくだから体験してみる?」

「あたしはいいよ。どうせ貰っても使い道ないし」

 

 マチの返答に頷いて、パクノダはクロロの指示を待つ事にした。報告すべき事は一通りメモリーボムで強制的に植え付けてあったが、量が多いため把握に数秒はかかるだろう。

 

「信用は得られたようだな」

「そうね。大丈夫だと思うわ」

 

 潜入とチームへの取込みは成功したというのが、クロロとパクノダ、シャルナークに共通した見解だった。ハンター達の顔と名前から体を動かす際の細かい癖まで種々諸々の基礎データは、あるとないとでは大違いだ。シャルナークが欲しがった兵器の運用や軍の編成などの機密情報はパクノダの目的に直接関わるものではなかったが、上手くやればこれだけで莫大な利益を生むだろう。

 

 しかし念そのものについては、直接的な成果は乏しかった。

 

 カイトは未だ発を使用しておらず、常用ではなく切り札として使うタイプだと推測されるだけだった。ジャッキーの場合は本人が大声で喧伝してるから分かりやすいが、盗む価値があるかどうかは疑問があった。アルベルトの能力は微妙に分かりにくく。そもそも本人が掴みにくい。そしてもう一人、新しく入った娘についてだが、これは非常に期待できそうだった。大量の禍々しいオーラを放っていたが、本人の性格や身体能力と合わせて考えれば、付け入る隙は少なくあるまい。

 

「次は予定通り、私の発で本格的に調べてくるわ。数日もあれば十分でしょう。ついでだから、連続死事件の犯人の能力についても情報があれば流すわね」

「ああ、頼む。それとな、アルベルトという奴の能力だが、悪いが優先的に探ってくれないか」

 

 パクノダには意外な事だったが、クロロはカイトでもエリスでもなく、アルベルトに最大の興味を持ったようだった。しかし、彼が望むなら異論などない。なにせ、盗むのはパクノダではなくクロロなのだ。

 

「アルベルトね。了解」

「無理はするなよ。万が一気付かれそうなら脱出を優先しろ。それも無理ならオレ達が乗り込む」

「ええ、もちろん。頼りにしてるわよ」

 

 クロロはあくまで、パクノダの生存を優先した指示を出した。所詮、これは旅団としての正式な行動ではない。脚を切り捨てても蜘蛛を生かすというルールもあったが、パクノダほどのピースの損失に見合うだけのメリットは、今回の一件からは得られそうになかったのだ。

 

「マチ、そいつは殺せ。使えそうな能力は何もない」

「いいのかい? あたしが喰らった一撃はかなり良いと思ったけど」

「ああ、あれはな」

 

 マチの疑問にクロロは答えようとしたが、中断して後ろを振り向いた。続いて、旅団全員がそちらを注視する。コツコツと闇に靴音が響いてきて、青年と少女が現れた。二人とも纏でオーラを留めており、念能力者だと一目で知れた。

 

「なんだ、もう終わってんじゃねーか」

「まったく、だから言ったじゃないですか、野次馬なんてやめましょうって」

 

 短く刈った金髪の青年が残念そうにそう言って、銀髪で褐色の肌の少女が呆れを隠さず呟いた。旅行者だろうか。二人とも鞄らしきものを手にしている。危機感は全く感じられず、堅を行う様子すらない。纏の様子から読み取るならば、少女はともかく男の方は、この状況を察せないほど初心な使い手とも思えなかったが。

 

「わりぃ、邪魔したな」

 

 それでも、殺してしまえば大差はない。

 

「やれ」

 

 クロロは命じた。修練と殺戮を積み重ねた者だけが放てる圧倒的な害意が、二人に対して牙をむけた。例え相手が念能力者であったとしても、これだけで心を潰しかねない重圧があった。少女は目を見開いて後ずさり、手に持つ鞄を取り落とした。あと一呼吸、少女の脳が感覚の正体を悟った時、彼女の心は折れるだろう。

 

「大丈夫だ」

 

 男は少女の頭に手をおいて、力のこもった声で告げた。そのままぐりぐりと強く撫でる。そのやり取りに何の意味があったのか。少女は平静を取り戻し、ほっと息をついて肩の力をぬいた。よほど男を信頼しているのだろうか。瞳からは、既に恐怖は霧散していた。未だ髪を撫で乱す腕を迷惑そうに見上げていた。

 

 だが、何が大丈夫だというのだろう。彼ら二人が生き残る道はここにいる旅団員を残らず倒すか、拷問の末、クロロに能力を気に入られて盗まれるかしかないというのに。

 

 パクノダが拳銃を向けている。クロロが本を開いている。マチはジャッキーを捕らえたままだったが、男に対して、誰よりも鋭い殺意を向けていた。アンテナを手にしたシャルナークは、いつ飛び掛かってもおかしくない。

 

「お前らは、動けない」

 

 男が言った。幻影旅団を前にして、叫ぶでもなく、震えるでもなく、よく響く低い声で言の葉を置いた。それは恐らく、新しい事象を紡ぐ意図ではないのだろう。創世から在り続けた真理がごろんと転がっているのを指し示しただけの様な、気負いなくも傲慢な態度だった。

 

 そして、それは真実となった。

 

 クロロは動けない。パクノダは動けない。マチは動けない。シャルナークは動けない。お前らは、動けない。

 

 5秒ほど呪縛が続いていた。並程度の強者であっても飽きるほど命を刈り取れるその間、男は何一つ仕掛けず、逃げようとさえしなかった。ただ、つまらなそうに旅団の面々を眺めていた。

 

「じゃあな」

 

 完全に興味を失ったのを隠そうともせず、男はそう言って踵を返した。地面に落ちた鞄を拾い上げ、少女を促して闇へ消える。男は逃げたのではない。去ったのだ。それが厳然たる事実だった。

 

「シャルナーク」

「ああ」

 

 クロロが口を開いた。それは、旧い付き合いの者でもゾッとするほど底知れぬ声だった。怒りでも、恐怖でも、屈辱でもない。得体の知れない感情が漆黒の深海にただよっていた。

 

「あいつを探れ」

「分かった」

「マチはホームにいる連中を連れて来い。パクノダは引き続き潜入だ。だが、あいつの情報が入ったら最優先で知らせろ」

 

 男は旅団の障害になると判断され、潰す事が決定された。団員達にも、異存があろうはずがない。仮にあの男がその気であったなら、幻影旅団はこの場で壊滅的なダメージを負ったのだ。団長のクロロおよび屋台骨となる後方支援の中枢メンバーを失って、蜘蛛の再生が容易であるはずがなかった。対峙した状態での5秒という隙は、それほどまでに致命的だったのだ。

 

 だが、男はその時間を利用しなかった。そうする価値も無いとでもいうかの如く。だから、もしも、男が為した行為の恩恵を受けた人物がいたとしたら、それはジャッキーだっただろう。

 

 ジャッキーを中心に半径およそ20メートル、円が、広がっていた。

 

「スーパービックリボンバー!」

 

 叫びとともに能力が発動した。薄い濃度のオーラでは、大きな驚愕は望めない。ほんの少し、極々微かな驚きだった。だが、紙一重を覆すにはそれでもいい。わずかなマチとの筋力差を覆すには、ほんの少しの硬直で十分だった。

 

 問題があるとすればそれは唯一、ジャッキー自身の硬直時間にあった。

 

 【法門無尽誓願智(スーパービックリボンバー)】。能力者のオーラに触れた者を驚愕させるこの能力は、例外規定が何もない。その者が操作可能であれば問答無用で驚愕させるため、当然、ジャッキー自身も驚かされる。それどころか使用者は自身のオーラを緩和に用いる事ができず、距離も最も近いため能力が最も色濃く作用する位置にいる。つまり、発動させる度、ジャッキーは誰よりも強く驚愕していたのである。

 

 それでいい。否、そうでなくてはとジャッキーは思う。他者の心を無理矢理揺り動かしておいて、自分は除外されたいなど何の為の求道か。この能力の欠陥を、疎ましく思った事は一度もなかった。であるならば、即ち、補ってみせるだけだった。

 

 浮かぶ梵鐘が慟哭した。委ねられたオーラを使い尽くす、破裂しそうな程の狂想連打。轟音が突如として出現し、周囲を物理的に激震させた。全身を襲う音響の暴力に、心地よい、とジャッキーは感嘆した。止水明鏡の極みだった。かつて、これほど静かで趣ある夜があっただろうか。感激が驚愕を上書きし、ジャッキーの硬直を刹那に解いた。

 

 残された右腕でマチの念糸を振りほどき、動きを止める旅団の面々を後目にパクノダへ駆けた。彼女の身体を片手で抱き上げ、胸元にきつく抱き締める。左腕を失った今ではいささか不自由な抱き方だが、まさか淑女を肩に担ぎ上げるわけにもいくまい。ジャッキーはそう判断し、走り出した。

 

 だが、旅団とて逃走を見逃すほど間抜けてはいない。

 

 硬直したのは一瞬の事。轟音をかき鳴らす梵鐘など見向きもせずに、事態を即座に把握してジャッキーへ向けて殺到した。ジャッキーは逃げる。残った生命力を燃やし尽くしても構わないという勢いで。クロロが、マチが、シャルナークが追う。彼らはすぐに追い付くだろう。一瞬のスタートの差など瞬く間に詰められるだろう。傷の有無、残された体力、オーラの残存量、それら全てでジャッキーは不利な立場だった。しかし現実には、追い付かれるまで粘る事すらできなかった。

 

 銃声は、腕の中から響いてきた。焼け付くような痛覚が、ジャッキーの胸部に広がった。熱く、ひたすらに痛い。オーラを込めに込めたパクノダ渾身の銃撃は、過たずジャッキーの上行大動脈、心臓直後の血管を千々に吹き飛ばしていた。それは、どう見ても致死量の損害だった。

 

 ジャッキーにも分かっていた。撃たれて豹変する前後のパクノダの、どちらが本来の姿なのか。彼女にとってどちらが本当の仲間だったのか。そんなものは、注意深く観察すれば違えようはずもない。信じられなかったからこそ理解してしまった。ここでパクノダを連れて逃げおおせても、彼女は純粋に迷惑だろう。

 

 そんな事、ジャッキーとて分かっていたのである。

 

 それでも、見捨てぬと決めたのだ。

 

 滑稽な姿ぞ良し。嘲笑いたくば嘲笑え。ジャッキー自身、嘲笑が込み上げて止まなかった。未だ走りながらもぐらつき崩れ落ちる寸前の彼の巨体に、マチが背後から手刀を見舞った。躊躇のない鋭利な貫きは、見事にジャッキーの脇腹を貫いた。内臓がぐずぐずに引き回されて、体は二度目の致命傷を負った。

 

 しかし、ジャッキーは倒れない。倒れる事が、許せなかった。今生で最後の息を吸う。千切れてしまった腹筋で、血液が溢れる肺腑に空気を入れた。

 

「カバディー!」

 

 叫んで、ジャッキーは再び地面を蹴った。足取りは異常にしっかりしていた。走っている。カバディーカバディーと吠えながら。声と一緒に血を吐きながら。パクノダを腕に抱き締めながら。

 

 ジャッキーの体を纏うオーラの様相が、一変しておぞましく無気味になった。見る者に死を連想させる不吉なオーラ。既に生者の有り様ではない。死してなお蠢く呪われた遺骸。腐ってないだけの死体だった。これは、【煩悩無量誓願断(ハイパーカバディータイム)】。その名にたがい、煩悩しか肯定しない末期の能力。決して使わぬと決めていた、使用しない事に意義があると思っていた第4の発。

 

 ここに、ジャッキーの生涯は台無しになった。

 

 魂を燃やして増幅されたオーラにまかせて身体を強化する。カバディーと連呼しつつ追っ手から逃げる。拳を避け、蹴りを躱し、ただ脚を動かしてカバディーと叫んだ。腕の中のパクノダが逃れようともがく。脇腹に開いた穴から内臓がぼろぼろと零れだし、長い腸がこぼれて垂れた。胸元から、血がばしゃばしゃと吹き出してくる。それでも、ジャッキーはひたすらカバディーと叫んだ。

 

 なにが求道者だ。なにが誓願だ。結局の所ジャッキーは、信念を貫けない弱虫だった。どうしてだろう。迷いを断ち切りたくて生き方を選び、死に様を選ぼうと能力を決めた。それが、なぜ。最後の最後で煩悩に捕われているのだろう。ありのままに受け入れるのではなく、拘泥してしまっているのだろう。

 

 ジャッキーの脚は駆けるのをやめない。やめてくれない。分かっている、これは全く無意味な疾走だった。

 

 だけど、仲間を見捨てぬと、決めてしまったから。

 

 ただ、カバディーと。

 

 腕の中のパクノダを抱き締めて、ジャッキーはなおも速度を上げた。全身から、禍々しいオーラが大量に吹き出る。走る以外の機能はいらない。涙が、鼻水が、涎が、血液が、内臓が、糞尿が、止めどなく漏れ出て飛び散っていく。既に声は声ではない。自らの血が喉にまで溜まり、ガボガボと溺れながらもカバディーと叫んだ。パクノダの拳が側頭部を打ち、漏れ出るものに脳漿が加わった。苦しい。苦しい。痛い。痛い。辛い。それでも、ただ、カバディーと。

 

 ジャッキーの遁走は醜悪なほどに速かった。浅ましいまでに脚部を動かし、鍛え抜かれた旅団をも引き離し、カバディーと叫びながら夜の街を疾走した。地理など把握してるわけがない。目的地など念頭にあるはずもない。ジャッキーはただ走る為に走り、逃げる為に逃げ、叫ぶ為に叫びながら駆けたのだ。

 

 その様な無茶が長く続くはずもない。膨大だったオーラは見る間に消費され枯れていく。肺腑は萎み、喉は枯れ、血は尽き、筋肉は萎び脚は壊れる。走っていたと表現できる時間は、実際には1分もなかっただろう。もはやジャッキーの足取りは重く、引きずる様に足を擦るだけだった。本気の怒号であるはずの連呼は、ぼそぼそと呟くようにしか聞こえてこない。それでも、ジャッキーは全力で走り叫んでいた。パクノダが抱いていた抵抗する意思は、とうの昔に冷めていた。

 

 そして、ついに。旅団を振り切った地点からわずか5キロ、たったそれだけ走った先で、ジャッキーは唐突に崩れ落ちた。逞しかった巨体は老人の如く枯れ果てて、オーラは欠片も残っていない。5キロ。それはハンターにとって指呼の間にも等しい距離。ジャッキーはたった5キロを走るため、走って死ぬために生き返ったのだ。生涯を台無しにした代わりに得たものは、あまりに短い逃走劇だった。

 

 炉端にしゃがむジャッキーは何も言わない。何一つ言う事ができなかった。その亡骸は乾いていた。ジャッキーは二度と笑わない。彼の野太い笑いが響くことは、永遠に、無いのである。

 

 パクノダは一人、ジャッキーの最後を見つめていた。旅団には既にメールで無事を告げていた。本当に、ジャッキーのした事は無意味だった。パクノダのスーツを血糊で染め上げ、クロロ達との打ち合わせを邪魔しただけ。それでも、怒りだけは湧いてこなかった。

 

 別段、感傷に見舞われていたわけでもない。彼女が踏みにじってきた切なる願いは、ゴミの街で見届けた届かぬ志は、この程度で心を動かすほど乏しくはなかった。むろん涙腺も弛みはしないし、この男の冥福を祈ってやる義理もない。今宵、この街で馬鹿な男が一人消えた。それ以外の何かでは決してなかった。

 

 ただ、なぜだろう、遺体をしばらく眺めておきたかった。

 

 そういえば、とパクノダは思い直した。緊急コールを発信した後、彼女一人だけが生還した事実。その言い訳の材料は、ジャッキーの死に様が役立ってくれるだろう。この遺体の有り様を見れば、疑問を抱くものなどおりはしまい。そんな結論に達したパクノダは、ジャッキーに微かな感謝の微笑みを向けた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 わたしが現場に着いたとき、まず浮かんだ感情は怒りだった。ジャッキーさんを失った事は、とても悲しくて苦しくて、涙が出るほど悔しかったけど、それでも怒りが一番大きかった。

 

 たぶん、わたしの表情は、とても醜い。

 

 ぎりぎりと奥歯を噛み締めて、掌を必死に握りしめて、建物の壁面を殴りたい衝動を必死に抑える。萎び果てたジャッキーさんの遺体はとても寒そうで、抱き締めて暖めてあげたかったけど、悲しくて抱き締めさせてほしかったけど、現場保存のためにそれもできない。世界はこんなにも理不尽で、わたしはこんなにも無力だった。

 

 短すぎる付き合いになってしまったけど、ジャッキーさんは良くしてくれた。だけど、わたしがジャッキーさんに向けていた感情は、きっと親愛ではないのだろう。どこにでもある、仕事仲間に対する他人行儀な普通の好意。その先に進む前に関係は途切れた。だから、この怒りは正当ではないのかもしれない。状況に惑わされてるだけかもしれない。でも、今はその感情に酔っていたい。身を焦がす憎悪に浸っていたい。それが供養になるかはわからないけど、少なくとも事件解決の糧にはなる。

 

 憎悪を胸に、わたしは、人を殺そう。

 

 連続殺人の犯人を、ジャッキーさん達を襲った人も、わたしの光線で焼き払おう。それが必要とされたなら、わたしはこの手を汚してみせよう。そう、心に刻んだ。

 

「エリス、深呼吸して」

「……アルベルト?」

「勘違いしてはいけないよ。僕達は、全知全能の神じゃない」

 

 アルベルトは言った。いつも通りの優しい瞳で。これはありふれた理不尽だと。怒りに身を任せてはいけないと。それは確かにそうかもしれない。今までもいくらでもあったんだろう。戦争、飢餓、貧困、殺人。わたしにとってはそれが、今まではモニタの向こう側の世界だっただけで。だけど、ジャッキーさんの死は目の前にある現実で、そんな言葉で納得なんてできなかった。

 

 ともすれば嗚咽をもらしそうになるわたしを、アルベルトはきつく抱き締めてくれた。震える体を温めて、あふれだす感情をやわらげてくれる。

 

「もしね、エリスがどうしても堪えきれないなら、僕がその感情を半分貰おう。今まで通り、僕に君の思いを分けてくれ。そうすれば、僕もきっと怒る事ができる」

 

 カイトさんとパクノダさんの前だけど、他にも現場検証の人達が沢山いたけど、それでも恥ずかしさより嬉しさが勝った。アルベルトの力が強すぎて、胸が少し苦しかった。しばらく、アルベルトはそのままでいてくれた。

 

「カイト、捜査方法の変更を提案する。ジャッキーもご覧の通りだ。もう、手段は選ばない」

「ああ、詳しく聞かせろ」

 

 わたしを放したアルベルトは、自分の能力を最大限使う事を発案した。それは能力の全貌を丸裸にするに等しい事だって、それぐらいわたしにも分かっている。本気になったアルベルトの瞳はとても頼もしくて、だけど冷たくて少し怖い。きっと、この人はまた無茶をするから。

 

 携帯電話の赤外線通信部分に目を合わせて、アルベルトは能力を実演した。わたしには詳しくわからないけど、眼球周辺から赤外線を具現化して、同時に網膜の視細胞を赤外線に合うよう操作してるんだと思う。そう、アルベルトはその気になれば、生身でデータ通信に対応できる。人間離れしすぎてるから、あまり披露して欲しくない技だけど。

 

「便利だな。よし、詳しく詰めよう」

「便利すぎて、師匠にはあまり頼るなって言い付けられているんだけどね」

 

 冗談めかしてアルベルトは言って、ふと、何かをじっと見つめていた。視線の先にはパクノダさん。ジャッキーさんの血にまみれているけど、本人は大した怪我がなさそうで本当に良かった。

 

「……どうしたの?」

 

 アルベルトを見上げて尋ねてみた。カイトさんと話しながら現場検証の人達に指示を出していく彼女の姿を、特に背中を注視している。

 

「いや、なんでもないよ。寒くないのかなって思っただけだから」

 

 確かに、春とはいえ夜はまだまだ肌寒い。薄手のスーツの上1枚でワイシャツも着ていないパクノダさんは冷えそうだ。でもそれは普通の人の場合ならで、念能力者にも通じるはずがない。例え纏しかできない人でも、肉体の耐性がぐんと上がっているのだから。

 

「アルベルト?」

「ごめん、また後で」

 

 疑問を浮かべるわたしを振り切る様に、アルベルトは二人に混ざっていった。

 

 

 

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【煩悩無量誓願断(ハイパーカバディータイム) 操作系・死者の念】

使用者、ジャッキー・ホンガン。

能力者が明確な死の瀬戸際にいるときのみ発動させる事ができる能力。

息継ぎなしで「カバディー」と叫び続ける限り能力者を此岸に留める。

発動させた瞬間、能力者の死亡が確定する。

 

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次回 第十三話「真紅の狼少年」



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第十三話「真紅の狼少年」

 打ち付けた撃鉄は重く硬く、流れ出す脳漿は黄白く赤い。荒れ果て、忘れられた廃屋はガラスが破れ、世界はオレンジ色に染まっていた。惚れ惚れするほどの朝焼けだった。

 

 国家憲兵の黒い制服を着た死体が2つ、血溜まりの中に置かれている。男は懐から噛み煙草を取り出して、殺しの後の一服と洒落込んだ。吐き出された唾には、幾分、自嘲の色が混じっていた。

 

 殺す必要はなかった。男の能力であれば。殺してしまったのは失敗だった。二人が連絡を断ったこの付近は、すぐさま当局にマークされてしまう。ここ数日、捜査網の蠢動が劇的に早くなっている。だが、男は反射的に殺していた。自身の念能力に頼らない癖も善し悪しだった。

 

 しかし、彼らは大声を上げたのだ。

 

 職務上、不審者を威嚇する為だろう。自らを奮い立たせる為だったかもしれない。あるいは命令に服従させ、無駄な戦闘を避けるテクニックだろうか。とにかく、正当な理由をもった怒鳴り声だった。だが、ここには熱に浮かされる少女がいた。彼らを手っ取り早く黙らせる為、男は最も迅速な手段に出た。引き金を2回、頭部と心臓に1発ずつ、それが二人分で事は足りた。瞬きすらも許さなかった。

 

 念弾を吐き出した拳銃から周を解き、腰のホルスターに無造作に戻した。思えばこれも失態だった。男ほどの腕があれば、実弾を装填してから撃っても十二分に間に合ったはずである。わざわざ念能力者の被害にあったのが明白な死体を生産してしまったのは、きっと、その方が静かに殺せたからだ。

 

 過ぎた事は最早どうしようもないと、男はそれ以上拘泥するのを取り止めた。噛み煙草を床に吐き捨てて、銀のスキットルに入れたウイスキーで口をすすぐ。振り向けば簡素な寝床があった。床の上に新聞紙を敷いただけの寝所には、褐色の肌の少女がいた。寝顔は汗にまみれていて、ひどく苦しそうにうなされていた。

 

 限界だなと、男は少女の体調を見て取った。

 

 ここ数日はずっと野宿で、夜間も移動を繰り返し、ろくな休息を取れていない。屋根の下で眠れた昨夜はましだった。宿を取れず部屋を借りれず、昼夜を問わない憲兵の見回りに気を張った。暖を取れる機会も乏しかった。明らかに、今までとは捜査体勢が違っていた。

 

 この程度の無茶は、男一人ならどうにでもなる。だが、少女の小さな体には負担になった。未だ完璧さとは程遠い彼女の纏は、疲れとともに揺らいでいった。そしてついに、昨日、少女は熱を出して倒れ込んだ。娼館時代に染み付いた習性の為だろう。彼女は限界まで己の不調を訴えず、男の足手纏いになる事を恐れていた。

 

 あるいは、もう潮時なのかもしれなかった。

 

 

 

 少女が目覚めると、昨晩と違う景色が広がっていた。青く澄んだ広い空。昨日見つけた廃屋ではなく、都市から離れた荒野にいた。聞くと、男が担いで移動させたのだという。太陽が昇りきるまで眠れたからか。身体の調子も、少しは改善されたようだった。

 

 壁は岩蔭、椅子は石、食卓は膝。味の無いぼそぼそするビスケットを水で流し込むだけの簡素な朝食。ただ餓えを癒すためだけの食料を胃の腑に納めてから、少女は本日の行動を主に尋ねた。男はとうに食べ終わり、一人噛み煙草に興じていた。

 

「部屋を探すんですか?」

「ああ、そうする事にした。食べたら出るぞ」

「できるのですか?」

 

 少女の疑問は当然だった。それが容易でないからこそ、ここ数日難儀していたはずではないか。

 

 高級ホテルから場末の宿泊施設まで伸ばされて、リアルタイム同然に掌握された情報の魔の手。表の街に目を光らせ、貧民街の最奥まで占領とまごうばかりに乱入し、権力を振りかざして隅々まで調べる憲兵部隊。人の寄り付かない場所にも頻繁に巡回の人員が立ち入っていた。有力者は精密に補足され、鞭の音に怯えて当局の犬に落とされる。それでも従わない者達は、尽く牢に連れ去られた。袖の下で報告を誤摩化した憲兵も、数時間も経たずして牢獄へ消えた。

 

 あれは、スラムをよく知る者の発想ではなった。飴より鞭を。正確さより素早さを。地域の実力者を重視しつつも、決して信用せずに暴力で脅し、有無を言わせず動かした。経験を積んだ男はいうに及ばず、少女も直感から確信した。これは、スラムの水で育った者の発想である。

 

 実のところ、そんな根本方針自体はこれまで見られてきたものと大差ない。しかしここ数日、実現方法が異常なほどに発達していた。状勢を認識しきれていなかった少女に対し、男は矛盾する二つの推測を打ち明けた。人間の仕業ではないだろうと。恐ろしいまでに人間らしいと。

 

 いくら情報化社会と謳われる今日でさえも、情報の価値を最終評価できる存在はヒトしかいない。最先端の人工知能を走らせたコンピュータも価値観を主体的に評価する術を持つ事はなく、あらかじめ渡された条件に沿って条件分岐しているにすぎないのだ。この世界の装置は未だかつて、我を思うに至ってない。

 

 だが、捜査体勢が隅々まで強力に行き届いているのを見る限り、リアルタイムで大勢の捜査員それぞれに対し、優れて人間らしい柔軟な指令を与えてるとしか考えられない。たとえ全国規模ではないとしても、この方面というだけで個人の能力の範疇ではなかった。

 

 では、司令してるのは集団か。それこそまさかだ。集団で決定を下すのは容易ではない。個人が受信した報告から必要箇所を取り出し摺り合わせ、皆で共有するだけで大仕事だ。自然、集団による指揮管制はフットワークが鈍くなりがちで、細かい箇所まで目が行き届かなくなる。男は少女に断言した。どう考えても、裏に悪夢のような『個体』がいる、と。

 

 それはきっと異星の機械。おぞましいまでの、情報を把握する異形の秘術。

 

 そんな狂気に満ちた化け物を、男は出し抜こうというのだろうか。

 

 次の街へ赴く為、荒野を横断するハイウェイを監視して、時々通りかかる車を適当に襲って強奪する。それはいい。男のいつもの手口だから。傷害や殺人を厭わない性格への嫌悪はいまさらだったし、安っぽいオンボロを好む嗜好も諦めていた。高速で走行する自動車の狙った箇所を正確に狙撃できるかなど、この男に限っては懸念するだけ無駄だろう。だが、移動した先でどうするのか。

 

「別の街を訪れても、捜査体勢は緩くはならないと思いますが」

「まあな。だから、仕方ねぇから能力を使うわ。本当は、あんまやりたくないんだけどよ」

「能力、ですか? それは、私に使ってる?」

「おう。教えたとおり、もう一つは最後の手段だしな。戦闘中の、絶体絶命の危機でしか使えねぇ」

 

 自信満々に言う男に、少女は怪訝に眉をひそめた。男が都合よく利用できる女性など、そうそう転がってないと思ったのだ。例え住居となる物件の所有者を手篭めにできても、近隣の住人を軒並み犯して回るわけにはいかないのだから。

 

 

 

 車を走らせ荒野を超え、二人は次の街に辿り着いた。かつて、オアシスをもとに発展したという中規模都市。およそ10万人の人口が、ビルを寄せあい暮らしている。首都や主要都市のようなきらびやかな繁栄とは無縁だが、決して貧相な景観ではない。いくつかの主だった建物はそれなりに高くそびえ立ち、田舎なりの威容を誇らしげに晒していた。

 

 外れには、繁栄から取り残された旧市街が見える。打ち捨てられたコンクリート製の遺跡群。過去、開発計画が頓挫した公営団地を中心に、薄汚れた灰色が密集している。机上計算により最初から成功が確定されていた理想的事業の、夢破れた成れの果てだという。もう、何十年も前の話だった。

 

 世界を揺るがせた情熱は儚く消え、人々はなお、この場所で今を生きていた。

 

 他の街のスラムとそう変わった要素の見あたらない旧市街には、未だ多くの人が暮らしている。中核となるのが廃虚を不法占拠している最貧困層で、ごく稀に、外から追われた者が安息を求めて逃げ込んでくる。質素で優しい世界はどこにもなく、あるのは唯一、弱肉強食という法のみなのに。

 

「どちらに身を寄せるんですか?」

 

 車の助手席から街並を眺め、少女はハンドルを握る男に尋ねた。開け放った窓から吹き込む風は、砂塵と金属の香りがする。旧い2ストロークエンジンをかき鳴らす小さな乗用車はご機嫌で、男の機嫌を大いに上昇させたようだった。雨に濡れたら溶けそうな風情の不思議なボディーは、叩くと軽快な音がした。

 

「どうせなら活気のある方に行こうぜ。お前だって久しぶりにいい環境で寝たいだろ」

「それは、まあ……、休めればいいんですが」

 

 まだ少し重たい体を意識して、少女は座席の背もたれに身を委ねた。昨夜は久しぶりにいくらか眠れ、道中もある程度休む事ができた。体力は大分回復してきたようだったが、それでもベッドの誘惑は強力だった。贅沢なスウィートルームなんて戯れ言はいわない。当たり前のホテルの一室で十分だった。シャワーを浴びて埃を落とし、純白のふわふわに沈みたい。そうすればきっと、少女は幸せに溺れて死ぬだろう。

 

「……そうですね。その提案は、素敵です」

「だろ?」

 

 男は楽しそうにハンドルを切り、角張った自動車を目的地へ向けた。

 

 

 

 ああ、これは駄目だなと少女は悟った。

 

「うちに入居したいっていう物好きはあんたらか?」

 

 少女は最初から読み間違えた。男のいう活気のある方とは、ハングリー精神旺盛な側を指していた。少女にとっては退廃と暴力の象徴でしかなかったが、彼には違って見えたらしい。ならばさしずめ、いい環境とは郷愁誘われる汚泥と腐肉の臭いだろうか。

 

 それは、スラム街の中心に近い為に地価が安く、しかし憲兵の重点巡回地域からは外れていると思われる、なんとも都合のいい条件の揃った地区だった。

 

 男が慣れた手順と優れた嗅覚で探し出した五階建ての小さなビルの一階には、脂ぎった中年男の大家が住んでいた。この辺りでは稼いでいる方だろう。着るものはよれよれの安物だったが、顔に焦りが刻まれてない。太鼓腹がひときわ目立ち、全体的にどすんとした印象の太い体型。ビール樽にぶにぶにした手足を付け、態度の大きい頭部を乗せれば完成だろうか。閨事に持ち込めるとか、持ち込めないとか、もはやそれ以前の問題だった。

 

「問題を起こさず、ちゃんと金を払うってんなら文句はないがな。丁度空き部屋もある。最低限の家具は入ってるから、その気なら今日からでも住めなくはないはずだ」

 

 掃除はそっちでしてもらうがなと、大家の男は付け加えた。二人の関係を探っているのを隠そうとしない、傲慢で無遠慮な視線だった。とりわけ、少女をじろじろと眺めている。肢体に粘りつく独特の感触は、娼婦の頃から馴染みあるものだった。

 

 だが、それならむしろ都合がいい。

 

「ああ、それでいいぜ。頼む」

 

 男が言った。

 

「なら、ここにサインと、あとは身分証明書をよこしてくれ。時節柄、とにかくお上が煩いんだ。知ってるだろ」

 

 男が大家にいくらかの金額を前払いし、合意が成立した際に大家が言った。生体認証の簡易端末を取り出して、明らかに不馴れな様子で立ち上げていく。もしも男が照会に応じたら、瞬く間に不法入国の犯罪者とばれるだろう。少女に至っては、法的には死人のはずである。

 

 これだ。これこそ最大の障害だった。

 

 宿での宿泊や些末な賃貸契約でも国民番号を当局に報告させ、国際人民データ機構の登録情報とオンライン照会までさせる緊急措置。事件の影響で何ヶ月も前から存在し続けた制度とはいえ、今までは表の街のまっとうなホテルや業者でしか通用しなかった。あくまで、お上品な世界のルールでしかなかったのだ。

 

 それが、数日前からスラムでも徹底されていた。権力と恐怖に裏付けられ、横暴ともいえる圧政により促進された、ありえないほどの普及速度。今では既に住民達は、欠乏より違反を恐れていた。

 

 仮にこの場で断っても、確実に不審者として通報される。いっそ殺して乗っ取るなら少しの時間を稼げたかもしれないが、男にそうする気はないようだった。

 

「篭絡するなら、私が」

 

 少女は男の服を引いて、落とされた視線に小声で告げた。彼はこの大家を抱かないだろうし、絶対に抱いて欲しくなかったのだ。たとえ一方的に強制された主従関係だとはいえ、彼女の隣に立つ人物には最低限の節度を保ってほしかった。

 

 だというのに、男は驚いたように目を見開いて、その後、笑いを堪えるように奥歯を噛んだ。なんて失礼な態度だろうと少女は呆れた。実は男は両刀で、それも最悪の趣味だったのか。彼にとって少女とこの大家の肉体は、同列に分類されるべきなのだろうか。

 

 差し出された契約書に一通り目を通してから、ウィリアム・H・ボニーと男は記した。少女は知っている。それは彼の偽名だと。最も気に入ってる一つだと。

 

「ああ、これだ。ほら、確認してくれ。間違いなく俺の身分証明書だ。何も、問題はない」

 

 財布から未使用のコンドームを一つ取り出して、堂々とした態度で大家に渡した。大家はそれを受け取って、しげしげと裏表を眺めている。あまりに常識はずれの行動に、ふざけてるのだろうか、と少女は内心でいぶかしんだ。だが、大家の反応は少女の想像を超えていた。

 

「確かに身分証明書だが、おい、国民番号はどこだ?」

「必要ねーよ。あんたは確認も報告も全部済ませた。済ませたんだぜ」

 

 だから問題はないと男は告げた。国民番号をデータベースに照会しようと端末を操作していた太い指が、次第にゆっくりになってついに止まった。泳ぐように、眠るように、大家の目がゆるりと蕩ける。側に用意していた生体情報の読み込み装置も、役割を終えたかの様に仕舞われた。

 

 もし少女が、もっと念に熟達していたら、男のオーラが喉の奥に集まっていたのが分かっただろうが。

 

「そうだな。これで確認は終わりだ。あんたらに問題は何もなかった」

「その通りだ。もう、この契約書だって必要ないぜ。役割は完全に終わったんだ。俺が処分しておいてやるよ」

「そうか、頼む」

 

 唖然として眺めるしかない少女の目の前で、話はどんどんまとまっていく。彼女には全く理解できなかったが、何も問題はない、そういう事になったようだ。大家から取り返した契約書を懐に入れて、最後に男は部屋の鍵を要求した。

 

「部屋は一番上の5階だ。フロアに一室しかないから迷う事はない。気を付けろよ。鍵をなくしたら交換代は負担してもらうぜ」

「ああ、分かってるよ。ほら、行くぞ」

 

 とにかく、どうにかなってしまったらしい。少女の疲労感が増大した。部屋から出ていく彼女の臀部に、大家の好色な視線が張り付いている。それだけが、少女の常識に合致し続けた全てだった。

 

 

 

「どういう事ですか?」

 

 部屋に入るなり、少女は男に問い詰めた。

 

 小さいながらも建物のワンフロア全てを専有している一室は、意外に広く、天井も高い。調度品は前の住人が残していったものだろうか。テーブルに椅子、箪笥にベッドにソファーなどと、必要なものは一通りそろっているようだった。特にベッドはありがたい。無論、シーツも枕もなかったが、マットのスプリングはへたっておらず、それだけで格段の進歩だった。埃もそれほど積もってなく、少女の予想より遥かに上等の物件だった。

 

「なんだ? お前あいつに抱かれたかったのか?」

 

 窓を開けて空気を入れ替え、間取りを確かめつつ男が言う。

 

「そうじゃありません。あんな能力があったら、事前に教えてくれても良かったでしょう。二つしかない、なんて意地悪な嘘をつかないで」

 

 少女はベッドの縁に陣取って、男への不満を隠さない。男の為、彼女は大家に抱かれる覚悟まで決めたのだ。誰かに強制されたのでなく、自発的に。数多の夜を越えた彼女にとっても、生まれてはじめての経験だった。それが根本的に無駄だったなら、少女の憤慨も当然だろう。

 

「嘘じゃないぜ。さっきのも、お前に使ったのと同じ能力だ」

「まさか。抱いた女を操作する能力なのでしょう。現に私は、貴方の命令に逆らえません。放出系で複雑な操作こそできない代わり、地球の裏側に逃げても解除されない有効範囲を誇るとも教えられましたよ、マスター」

 

 本名を教えられ、二人きりなら口にする許しも得た今になって、少女はあえてそう呼んだ。よほど腹にすえかねたのか、赤い瞳が怒りに激しく燃えている。

 

「あー、そうだったな。そういやそんな説明してたんだな。……どうすっかな」

 

 ぽりぽりと後頭部をかきながら、男はしばし沈黙した。少女の胆力に押されるほど柔ではなく、是が非でも説明しなければならない立場でもなかったが、今となっては騙し続ける事もまた億劫だったのだろう。

 

「もう、本当の事を明かしても構わねぇか。今までお前に信じ込ませていた機能、そっちの方が、嘘だ」

 

 男の能力は放出系と操作系の複合技などではなく、強化系とのそれだった。

 

 

 

 当たり前の話であるが、この惑星の巨大さは、人間のスケールを遥かに超える。いかに放出系の能力者とはいえ、それだけの遠隔地にいる対象を操作可能なほど、パワーと射程を両立させる事は不可能である。まして、人間は独自の自意識を持っている。その意志に反した動きを強要することは、意外と大変なことなのだ。

 

 ではなぜ男はわざわざ、世界の果てまで行っても無駄だなどと口にしたのか。無論、少女に印象づける為である。

 

「つくづく、タチの悪い能力ですね」

 

 翌日。新市街まで繰り出し、小奇麗なカフェで頼んだアイスミルクティーを楽しみながら、少女は呆れた様子で呟いた。テーブルにはこの店手作りのチョコレートシフォンケーキにホイップクリームをたっぷりのせた皿が鎮座しており、フォークが入れられるのを今や遅しと待ち望んでいる。少なくとも、少女にはそう思えて仕方なかった。

 

 対面に座る男は相も変わらずコーヒーを注文したが、なんと、今日はエスプレッソという暴挙に出た。嗚呼、と少女は震駭した。ついにこの男は、濃縮された産業廃棄物を嗜好するまでに至ったのかと。いつか黒インクを飲ませてみたい。

 

「……却下ね。喜ばれたら、どうすればいいの」

「んあ? どうした?」

「いえ、なんでもありません。それより」

 

 ケーキを攻略していたフォークをしばし休めて、少女は男をじっと見つめた。

 

「早ければ明後日の夜半から、遅くても明々後日の明け方だそうですが、どうするんですか?」

 

 カフェ備え付けの新聞には、悲鳴にも近しいアオリが踊っていた。春の雨期の到来まで、後それだけの時間しかない。男がその気になったなら、少女の余命もそれまでだ。

 

 不思議と、恐怖はそれほどなかったが、あるいは麻痺しているのだろうか。少女は自分の心をぼんやりと眺めた。死を望むほど殊勝な心がけは無かったが、なりふり構わず生存に齧り付きたいと思うには、嫌な経験が多すぎた。

 

 だが、男は少女の想像を超越した。

 

「逃げたきゃ逃げろよ。いいぜ? 俺は追わねえし、欲しけりゃ支度金だって渡してやる」

「……え?」

 

 追加で注文したサンドイッチを食べる合間の、なんともやる気ない返答だった。挙げ句、財布の中身を確認している。もし足りないと判断すれば、すぐにどこかに忍び込むだろう。

 

「それは、逃げなければ覚悟しろとのことですか?」

「なんだ? 逃げたくないのか?」

「……間違えないで下さい。逃げられないんです。私はあなたに、そう、逆らえませんから」

 

 ギュッと、小さなフォークを握りしめて少女は言った。

 

「おいおい、まだ解けてないのかよ。カラクリは理解したんだろう? 現状を疑いさえできるなら、表層意識での縛りは一晩もありゃ余裕で解けるはずだぜ」

「そう言われましても、あいにくと解けてないようです。隷属の身に苦痛は感じても、この場所から離れたいと思えません」

 

 お前って意外と単純馬鹿だったんだなぁと男は呆れ、仕方ないと少女に向き直った。俺が合図すれば全てが解ける。そう予告して、強いオーラを声帯に込めた。

 

「最後に一つ、よろしいですか。マイマスター」

 

 おそらく、少女が男をこう呼ぶのは、これが最後となるだろう。

 

「あん?」

「なぜ、こんな、簡単に解放していいと考えたのでしょう。私に、飽きましたか?」

 

 少女が内心に押し隠した不安さは、ともすれば洩れていたのだろうか。

 

「いや、そうじゃねぇな。そろそろ潮時だと思っただけだ」

 

 一口齧ったサンドイッチを香り高い酸味のエスプレッソで流し込んで、男は面倒臭そうに説明した。

 

「嫌いなんだよ、与えられた感情しか持たない肉人形ってのは。世の中にはいろんな性癖の奴がいるんだろうが、少なくとも俺は、ゼンマイ仕掛けの模造品に欲情するような趣味はねぇ。だからな、そうなる前に殺すか捨てる事にしてる。別にお前も殺しても良かったんだが、なんとなく面倒だった。言葉にするなら、まあ、そんだけの理由なんだろうな」

 

 なら、なぜ女を奴隷にするスタイルをとっているのだろうか。少女は男の身勝手さに苛つきを覚えたが、そのおかげで娼館から自由になれたのも確かだった。しかし、だからといってそう簡単に納得のいくはずもなく。

 

 なにより、少女の扱いが軽すぎるのが我慢ならない。

 

「もういいか? んじゃ、いくぞ」

「ええ、早くして下さい。一刻も早く、貴方をぶん殴ってやりたい気分ですので」

 

 剣呑な瞳で少女は言ったが、男は歯牙にもかけず苦笑した。3、2、1、解けたぞ。男の、たったそれだけの言の葉だけで、少女から何かが抜けていった。肩がすっと軽くなり、縛られた魂が楽になった。

 

 だからだろうか。すとんと、その感情が腑に落ちたのは。

 

「憶えてますか? 最初に何を命じたか」

 

 急に切り出した少女に対し、男は怪訝そうに答えを返した。

 

「俺に従えってやつだろ?」

「もう一つです」

 

 瞬間、男は顔をかすかに顰めた。ちゃんと憶えているのだろう。答えたくないのだと少女は悟った。叱られた少年のような表情だった。無言で続きを促され、少女は慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。

 

「俺に好意を抱くな、と」

「……ああ、それがあったか」

 

 男の白々しい演技にも、少女は何も言わなかった。

 

「安心して下さい。私は今でも、あなたの事が大嫌いですから」

 

 男への評価は変わらない。彼女は今でも男が嫌いで、男の性癖が嫌いで、男の行動指針が嫌いだった。大嫌い。それが、偽らざる少女の本音だった。

 

 だけど。

 

 好きと嫌いが両立するなんて、少女はこれまで知らなかった。

 

 駄目な男だと少女は思う。恋心を抱くには幼稚すぎて、好感を抱くには悪辣すぎる。人生のパートナーとして目星を付けるなど、戯れ言にしても酷すぎた。だというのに、愛情を抱くには支障がない。駄目な女だと少女は思った。

 

「引き際を間違えたみたいですね。お互いに」

 

 貴方の事は大嫌いなままですが、逃げる事ができなくなりました。少女は静かにそう言って、責任を取るよう要求した。男は無表情で黙っていた。脈は全く無いのだろう。少女も、恋人になりたいなどとは思わない。それでも、彼女は願ってしまったのだ。殺されるにしても、打ち捨てられるにしても、この男の人生に消えない傷を付けてこの世を去りたいと。

 

 生まれてはじめて、少女は命の使い方を見出した。

 

 

 

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【真紅の狼少年(ラポールマスター) 放出系・強化系】

発声とともにオーラを飛ばして語りかけた言葉の意味を強化する。

強化の程は発声時に込めたオーラの多寡によって上下する。

 

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次回 第十四話「コッペリアの電脳」



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第十四話「コッペリアの電脳」

 身につけたドレスが、とても重い。

 

 ポシェットから卵の化石を取り出して、両手でそっと握りしめる。本当に、綺麗。深く澄んだ蒼色に、心も体も吸い込まれそう。だってのに、この胸を締め付ける苦しさは、ちっとも吸い取ってくれなかった。やっぱり、アルベルトがいないと、わたしは、こんなに弱い。

 

 椅子の背もたれに体を預けて、わたしは深く息を吐いた。目を閉じる。暗い闇の中にひとりぼっち。飛行艦は今、首都の司令部に待機している。いつ入ってくるかもしれないスクランブルの為、五分体勢を維持する艦橋の中、わたし一人が落ち込んでいた。欝だ。あの光景が、脳裡に焼き付いて消えてくれない。膝を抱えて泣き出したかった。だけど、アルベルトの頑張りを無駄にする事だけはしたくなくて。

 

 本当は、こんな姿を周りに見せるだけでも、いけない事だって分かってたけれど。

 

 手鏡を取り出し、笑った顔の演技をする。大丈夫。そう、わたし自身に言い聞かせるように。アルベルトの重荷にだけはなりたくない。その想いだけが、鏡の中の笑顔を支えていた。

 

 そうこうするうちに時間は経ってしまっていて、手元のモニタが点灯した、現れたカイトさんが、打ち合わせの開始をわたし達に告げた。4分割された画面の向こうで、パクノダさんとアルベルト、憲兵司令のワルスカさんが頷いた。通信状態が悪かったからか、画質がちょっと荒いみたい。

 

 大事な仕事だ。これから始まる通信会議は、作戦の最重要段階に直結している。カイトさんもパクノダさんも真剣で、わたしも緊張せずにはいられない。アルベルトだけは、普段と変わらない様子だったけど。

 

 そんな、いつも通りのアルベルトは、合成されたCGだった。

 

 

 

 

 あの日、ジャッキーさんが亡くなった夜、アルベルトはそれを急造させた。小さく洗練された装置は要らない。有り合わせの無骨な代物でいい。そんな注文が忠実に実行された結果、わずか二時間後、司令部に帰った時には目当ての物の基幹部分が組み上がっていた。

 

 その時から、アルベルトは機器の群に埋もれていった。医療棟の集中治療室を一つ占領して、ベッドに横たわったままで栄養は点滴、排泄も呼吸も機械任せ。接続されるチューブの数も、時間の経過に従って増えていった。自分の体の制御を最小限に押さえたアルベルトは、余った脳の処理能力を電子情報の制御に振り分けていた。

 

 体のそこかしこから具現化される情報を拾うため、受光器が何個も置いてあった。開きっぱなしの両眼に照射される二本の半導体レーザーが、秒間数ギガビット以上のデジタル信号を送信して、オーラで強化された視神経を通って脳に伝わる。細胞の脱分化と再分化を制御できるアルベルトだから失明の心配こそないけれど、自分をそんな、便利な道具みたいに扱うのは、仕方がない事態だと分かっていても苦しかった。

 

 わたしも訓練に忙しくてあまり側にいてあげられなかったけど、時間を見つけて治療室まで行く度に、本当に、心臓が潰れそうなぐらい怖かった。身体制御を極限まで省略して電子の海に沈むうちに、いつか本当に、機械の一部になってしまうんじゃないかって、不安になってしまったから。

 

 ガラスの向こう、白い病室の中に沢山のケーブル。次々に情報を流す多数のモニタ。横たわったままのアルベルト。窓越しに眺めても何の意味もなくて、データ越しでないと話す事すらままならない。アルベルトは昼夜も知らずに働き続けた。その間、体はぴくりとも動かなかった。

 

 アルベルトがやった事はシンプルで、コンピュータ上に自分の人格を仮想化するという試みだった。軍研究所のスーパーコンピュータを一棟丸ごと借り受けて、その環境をあっという間に掌握したあと、瞬く間にそれは実行された。汎用プロセッサで無いなんて、些細な問題だったらしい。

 

 たとえアルベルトの能力でも、人格の基幹部分だけは数式化できない。だけど、それ以外の部分はどんどん移植されてデータになった。今では既に計算の主力はコンピュータで、アルベルトの脳髄は、プログラムに人間なりの価値観を提供する機能に特化してしまっている。

 

 危険すぎると、わたしはもちろん反対した。記憶はバックアップをとるから大丈夫、なんて本人は微笑んでいたけれど、どう考えても尋常な手段じゃない。

 

 だけど、カイトさんが許可を下したのを知った時、わたしは空恐ろしくなって震え上がった。過ごした時間は短いけど、あの人が自分の渡らない橋を人に押し付けるような性格じゃないのは知っていた。だから、嫌が応にも理解してしまった。ここまでするんだ、と。目的の為には。この人達は。ハンターと呼ばれる人達は。

 

 アルベルトの能力の詳細を知る人間を局限する為に、直接関わってる医療スタッフ以外には、わたしとカイトさんしか知らない秘密。だからパクノダさんに相談する事もできなかったし、そもそも最近は予定が噛みあわなくて、モニタ越しにしか会えてなかった。

 

 これが、アルベルトが提供した奥の手だった。

 

 ナノ秒以下の時間が流れる電子回路の基準から見れば、人の思考はとても遅い。一分や一秒なんてそんなもの、水晶振動子の鼓動と比べれば那由他に等しい。今時の、1990年ごろからの十年で急激な進歩を遂げたコンピュータは、CPUひとつで秒間数百万回の命令をこなしてしまう。人の価値観を理解する為のパーツを手に入れたプログラムは、人間に報告して指示を仰ぐ必要がなくなった。あるいは、最小限のタイムラグで済むようになった。自己構築までもが可能になった。

 

 国中の情報が徹底的に管理され、人でない存在に人間らしい判断がなされている。どこかのSFに出てきそうな未来像を、アルベルトはこの現代に実現させた。

 

 電子情報との、誰よりも高い親和性。それがあったからできたのだけど、素直に喜べはしなかった。だって、それだけ人間離れしてるって事だから。アルベルトの無茶は今さらだけど、今回はちょっと度が過ぎてる。もしかしたら、本当に自我の崩壊を恐れてないのかな、なんて、馬鹿な事を勘ぐってしまうぐらいには。

 

 ふと、アルベルトの発の名前が思い浮かんだ。

 

 【コッペリアの電脳(マリオネットプログラム)】

 

 コッペリア。機械仕掛けの人形の名前。彼女にはもちろん脳は無く、魂も無く、ヒトを模しただけのカラクリ細工。自分を操る能力に名付けるなら、あまりに不吉すぎるんじゃないかと思う。

 

 壊される宿命の哀れな人形。存在した事で不和を招いて、失われる事で幸せに繋がる犠牲の羊。彼女が破壊される展開を経て、雨が降った後の地面が固まる。思いをはせるたびに辛くなる。アルベルトはあの頃、何を考えていたのだろうと。自分の生命を維持する力に、どんな想いを抱いたのだろうと。

 

 人間を真似て造型されて、人間らしく動いて、精一杯頑張って。なのに壊れる事が前提なんて、わたしは絶対に許容できない。めでたいめでたいハッピーエンド。ギャロップを踊る村人達と、忘れ去れたコッペリア。そんな脚本は許してあげない。

 

 だから、これ以上重荷を作りたくなかった。駄々をこねるのは胸の内だけ。今はわたしも精一杯やってみせて、全部終わったら沢山叱ろう。怒って、怒鳴って、泣いて、笑って。それから、ぎゅっと抱き締めて褒めてあげて。ご苦労さまって、ねぎらってあげようと密かに決めた。

 

 だからね、アルベルト。

 

 頑張って。今はそれしか言えないけれど。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 二人はカフェを後にして、再び街中へと繰り出した。とりわけ、目的の定められた行動ではない。この街の地理を把握するという名目こそあったものの、実際はただの散策である。目的地を決めることもしないまま、うららかな陽射しの中を歩いていた。

 

 木々が緑で潤う4月の街並は風光り、時間は緩やかに流れていた。スラムとは違う清潔な市街。雨期を控えて街を覆うピリピリした嫌な緊張感も、二人にだけは関係がない。

 

 風が吹き、少女の長い髪が柔らかくそよいだ。顔にかかる銀糸を手櫛で直して整えると、ふと、彼女を見下ろす男と目が合った。

 

「どうかしましたか?」

「ん、ああ。別にな」

 

 歯切れの悪い返事も特に気にした様子は無く、少女はそうですかと頷いた。

 

 あのようなやり取りがあった後でも、二人の距離感はあまり変わっていなかった。呪縛が解け、愛を告げたにも関わらず、少女はいつもの関係に甘んじている。腕を組もうともせず、体を寄せようともせず、ことさら会話を増やそうともしていない。

 

 ただ、男の隣にいるだけだった。

 

 男は当初、そんな彼女の様子をいぶかしんだが、すぐに気にしない事にした。いつも通りに少女を連れて、いつも通りに街を歩く。それで問題は何もなかった。いつも通り、男が獲物を見付け出すまではそうだった。

 

「駄目です。そういうのは、私が嫌いですから。ほら、行きますよ」

 

 素晴らしく欲情できる素敵な玄関を発見して立ち止まった男の腕を、少女が引っ張って中止を促した。まだ何も言ってなかったが、輝いた瞳で分かったのだろう。邪魔だなと、男は胸の芯が急速に冷えたのを自覚した。

 

 殺そう。男は即座にそう考えた。街中での殺人に慣れた男の頭は、遺体処理の方法について最適解を弾こうと回りだした。結果、この家に忍び込むと同時に捨てる事に決めた。それが一番楽だった。

 

「おい」

 

 ついてこい。男は命じようとして息を呑んだ。殺しを躊躇したのではない。殺人程度、今更躊躇えるほど繊細ではない。

 

 少女は男を受け入れ切った目で見上げていた。おまえを殺すと告げたなら、きっとそのまま受け入れるだろう。男に対してこんな目を向ける人間は、暗示を与えた奴隷以外に見た事がなかった。だが、少女は明らかに自分の意志で行動している。媚びるでもなく、恐れるでもなく、縋るでもない。ゴミ溜めで物心付いてから幾星霜、こんな人間の存在は知らなかった。深く底が見えない赤褐色の瞳に、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。

 

「これからどう食っていけって言うんだよ」

「真面目に働けばいいでしょう?」

「おいおい……」

 

 ぼりぼりと頭をかきながら男は呆れ、図太くなったなと少女にこぼした。女の子に対して失礼ですねと顰める顔は、珍しく歳相応に幼く見えた。

 

「それに、元々こういう性格でしたよ。知りませんでした?」

 

 いけしゃあしゃあと少女が言う。あるいは、本人は本気なのかもしれなかった。

 

「いや、変わったよ」

 

 掛け値無しの本音で男は告げた。いつまでも路上で突っ起っていても仕方がない。そう考えて、再びあてもなく歩き出した。少女はどうせ、後ろから付いてくるだろう。

 

「そうでしょうか?」

「ああ」

 

 明らかに、少女は昨日より生き生きしていた。積極的に生きていた。怖いものがなくなっていた。惰性で生きる男とは違い、何か目標を見出したようだった。

 

「お気に召しませんか?」

「どうだかな」

 

 こんなガキでも、右手代わりの役には立つ。啼かせて遊ぶのもいいだろう。だからもう少し生かしておこうと男は思った。雨の日に使えないのが難点だったが。

 

「じゃあよ、お前はどこか行きたい所、あるのか?」

 

 ぶっきらぼうに男は尋ねた。どこか拗ねてるような声だった。可愛い仕草だと少女は思った。表に出すことは、しなかったが。

 

「この近くに、公園とかありませんか? 椅子でもあって、ゆっくり過ごせる場所がいいです」

「公園、ねぇ。まあいいけどよ」

 

 街並みから地理を推測する直感は、男のほうがはるかに優れる。経験の桁が全く違った。建物の様相、地面の高低、人の流れ。そんなありふれた情報から、なんとなく予想して方向を定めた。男が適当に向かった先には、こじんまりした空間があった。木々で囲まれた中に広場があり、遊歩道が通っている。それは公園というよりも、小さな緑地に近かった。

 

 二人は木陰に据えられたベンチに座った。芝生にはスプリンクラーが水をまき、小さな虹がかかっている。設備の整った新市街は、乾期でも水に不自由しない。オアシスへ水を供給していたものよりもう一つ深い場所にある水脈から、強力なポンプで取水しているからだった。旧市街の同設備は、誰かに略奪された後である。新しく導入される事もないだろう。水資源の配分先を、無駄に増やすのは愚行だからだ。

 

「エサでも買ってこればよかったな」

 

 ベンチの背もたれにだらしなく体を預けながら、群れる鳩を眺めて男が言った。少女はそうですねと頷いた。本来ならマナー違反なのだろうが、あれほど悪事に手を染めた上で、今更こだわり抜くほど善人ではなかった。

 

「ん、いや。待てよ」

「なにかあるんですか?」

「ちょっとまってろ」

 

 男はポケットをしばらく探ってから、紙巻きと、一袋のビスケットを取り出した。少女はそれに見覚えがあった。堅く焼き締めただけの、味も素っ気もない保存食。袋の中で割り砕いたそれを、男は少女の掌にぱらぱらと落とした。

 

「良かったな」

 

 にやりと、煙草をくわえて男はいった。悪戯っぽい、少年のような笑みだった。少女が微笑むのを確認して、マッチに火を付けて吸い込んだ。安物の軽薄な紫煙ではなく、馥郁たる香りが辺りに広がる。どうせまた、忍び込んだついでに失敬した品だろうと少女は思った。

 

 ハト達も手慣れているのだろう。少女が欠片を撒く前に、足下にワラワラと集ってくる。それだけでは遅いと思ったのか、腕に、膝に、肩に、頭に、少女を埋め尽くすように群がってきた。ここまで人に慣れているという事は、恐らく、誰かが日常的に世話しているのだろう。

 

「え? わっ! わわっ!?」

 

 珍しくも素っ頓狂な狼狽ぶりを見せて、ハトに埋もれたままの少女が慌てる。頭を振り、上半身を揺らして追い払おうとするも、彼らは全く気にしていない。ばたばたと翼を羽ばたかせながら、掌の上の餌を狙ってひたすら群がる。両者が暴れるせいでビスケットは辺りに飛び散り、それを狙ってまた群がってくる。野生の食欲は留まる所を知らなかった。服や髪の上に撒き散った欠片さえも啄もうと、嘴で鋭く突っついてくる。端的に言って、少女は生きた餌台と化していた。

 

「ぶっ、はははっ。なんだそりゃ、おまえっ、はははははっ!」

「ちょっ、笑ってないで、助けっ! 助けてっ!」

 

 紙巻きを片手に、隣で見ていた男が吹き出す。小さな体を必死で動かし、少女は全力で混乱している。掌を宙に差し出したままなのは、律儀なのか思い至ってないだけなのか。仕方がないので男は、袋に残っていた粉を少女の頭の上からぱらぱらと振り掛けてやった。ハト達は大喜びで食らい付いた。

 

「ぶぁはははっ! っ、やべっ、苦しっ! あはははっ!」

「ふざけんなーっ!」

 

 少女の絶叫は虚しく響き、男は腹を抱えて爆笑していた。

 

 そして数分後、ベンチでは鎮座した少女が拗ねに拗ねていたという。

 

 

 

「返す返すも、随分と好きにしてくれましたね」

「だから何度も謝ってるだろ。いい加減しつこいぞ」

「女性の髪にあんなもの振りまいておいて、その誠意のなさは賞賛に値します。ええ、ほんとに」

「へいへい……」

 

 日が暮れかかった帰り道、思い返してまた腹が立ったのか、少女は鋭い視線で睨み上げてみせた。男はうんざりした表情で溜め息をつき、面倒臭そうに対応する。それが彼女の怒気を増々底上げしていたが、不思議と、男の側を離れる事だけはしなかった。むっつりとしたままの表情で、彼の腕を強く掴んでいる。しばらくそうしていた二人だが、折れたのは男の方だった。

 

「あー。悪かったよ。俺がガキだった。詫びに髪止めでも買ってやる。埋め合わせって事で納得してくれや」

 

 少女の髪の毛を撫でながら男は言った。なんとなく考えていたらしかった。背中に流したままの長い髪は、風に広がって邪魔だろうと。それに、月光を思わせる銀の糸には、控えめな宝石がよく似合うと。

 

「あの。本当に埋め合わせて頂けるなら……、その、髪止めなんかよりも」

 

 だが、少女は他に希望があったらしい。男は好意を無下にされた形だったが、不快感より疑問が勝っているようだった。そもそも、少女に物欲が乏しい事は、これまでの付き合いで分かっていたのだから。

 

「髪止めなんかよりも、なんだよ」

 

 男の視線から逃げるように、少女は目を閉じて俯いた。歩道の真ん中で足を止めてしまった二人を、通行人が迷惑そうに避けていく。

 

 少女はかつて、客の機嫌を取る為の口上ならいくらでも言えた。だけど、本心から紡ぐ言の葉が、これほど喉に重たいとは知らなかった。怪訝に思い声をかける男の腕から手を放し、大きな掌を両手で握った。

 

 自分の抱いた愛情を自覚しても、少女はこれまで積極的に迫る事はしなかった。それは打算の産物だった。どうせ惚れてしまったからには、相手にだって惚れさせたい。尽くしたいとも思うけれど、尽くされる側の快感にだって、一生に一度ぐらい浸ってみたかった。少女の想いは、半分ほど子供らしい悪戯心で、残り半分は本能だった。

 

 それでも、もう。

 

 目を閉じて、頬を染め、男の掌をきつく握った。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 夜半。

 

 作戦の全容が、決定された。

 

 カイトさんから連絡があった。明日中に手回しが終わって、深夜から部隊を展開して夜明け前に仕掛ける。全ては極秘のうちに。犠牲は計算のうちに。強引である事は承知の上で。

 

 古典的な手段だけど、熟練の念能力者に通じるはずもないけれど、人間のバイタルリズムから最も不意打ちに適した時間を狙う朝駆けは、少しでも成功率を上げる為だ。パクノダさんが包囲の指揮を執り、カイトさんが突入し、アルベルトが現場を統制する。シンプルで、だからこそ堅実な作戦だった。陸軍から融通された指揮用歩兵戦闘車に最小限の改造を加えた特別車両も、今頃は急ピッチで調整されているんだろう。今までのような、高度な情報管理はもう要らない。現場さえ把握できればそれで良かった。

 

 だけど、わたしは首都でお留守番。火消しの役割を負ったが故の、もう一つの懸念材料が生じたが故の、歯ぎしりするほど理不尽な現実。本当はわたしも行きたかったし、本来なら上空から圧迫する役割を請け負うべきだったけど、どうしてもそれができなかった。その元凶となったのは、数日前、ジャッキーさんが亡くなった少し後から騒がれだした。新しい不審死の勃発だった。

 

 それは明らかに模倣犯で、あまりにも大きな脅威だった。

 

 噴水や池の近くなど、水のある場所で誰かが死ぬ。白昼道々、公衆の面前で唐突に。死因は全て窒息死で、目撃した人は口を揃えて、被害者が自分で呼吸を止めたようにしか見えなかったと証言している。被害者に因果関係は全くなくて、唯一共通する点を挙げるならば、体のどこかに、小さな刺し傷があったことぐらい。そんなあからさまに不可思議な事件が、このところ大々的に量産されてる。一度に亡くなるのが一人か複数かの違いはあったけれど、当て擦ったように水に関わりある場所で繰り広げられる新しい形の窒息死は、人々を混乱させるに十分すぎた。

 

 アルベルトは明言してくれなかったけど、少し考えれば分かってしまう。犯人は明らかに念の使い手で、動機はわたしの存在だろう。わたしは最後の手段だから、最悪の場合に備えないといけない。犯人が誰かは分からないけど、わたしが首都に拘束されていた方が都合がいいどこかの誰かは、新たな虐殺で目的を遂げてる。もしもわたしが動いたなら、別の場所で、大殺戮ぐらいは起きるかもしれない。それくらい、人を人とも思わない所行だった。

 

 そして、アルベルトが教えてくれない事がもう一つ。絶対に、内部事情が漏れている。最低限、ハンター達の役割分担まで知っている人が、わたし達の情報を洩らしている。

 

 もしも時間さえあったなら、新しい事件の解決は容易だったかもしれない。手段は明らかに強引で、目的も明白だったから。だから、アルベルトが静観してるように見えるのは、手出しできない事情があるのか、対処する準備をしているのか。どちらにしても、必要のない負担が確実に増えている。

 

 感情がささくれ立っているのがよく分かった。アルベルトはあんなに頑張ってたのに。体中、チューブだらけにして頑張ってるのに。こんな嘲笑うような真似、わたしは絶対に許せない。だけど、アルベルトはきっと言うんだろう。憎しみに捕われて、視野を狭めてはいけないよと。現実をあるがままに認めないと、対策すらもとれないからねと。

 

 殴りたい。アルベルトを苦しめてる犯人を。腹立たしくて仕方がない。頬を打つぐらいじゃ勘弁できない。右手を堅く堅く握りしめて、何度も何度も殴ってやりたい。それが無意味な夢想だと分かっていても、空虚な妄想が止まってくれない。怒りと一緒に不安が高まって、胸がひたすら苦しくなって、わたしの感情は沈んでいった。

 

 ガラスの向こうで眠るあの人を見つめる日々は、どんなに、怖かったか。

 

 こんなストレス、お肌にとても悪いんだろうな、なんて、冷静に沈み込むもう一人の自分が、どうでもいい事を考えている。頑張ろうという決意は忘れてないけど、それでも正直、気を抜けば涙が滲みそうで。悲しくて、悔しくて、体は無性に寒かった。

 

 せめて顔にだけは出さないように、周りの誰にもばれないように、ひたすらそれだけを考えていた。飛行艦を待機状態に維持する為に神経を詰めている人達を、邪魔するような真似は嫌だったから。今ここで、エリスって優しく呼んでもらえたら、わたしはきっと、みっともなく号泣してしまうんだろうけど。

 

 そんな想いに耽っていた時、ふと、座っているコンソールに通信が入ってきた。誰からだろうと応対すれば、鋭い目を光らせるカイトさんだった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 ひんやりした地下司令部の長い通路を、パクノダは独り歩いていた。無機質な蛍光灯の灯りの下、靴底がリノリウムを鳴らしている。指揮する部隊の視察が終わり、丁度帰ってきたところだった。もっとも、指揮と言っても実際には部隊長に任せきりで、彼女は念への対処要員及びカイトの予備戦力としての位置付けだったが。

 

「あら、カイト?」

 

 曲り角に差し掛かったとき、見知った姿が視界に入った。いつも通りの鋭い視線で、細く洗練されたシルエット。こんな人物は一人しか知らない。

 

「帰ったか、パクノダ」

 

 言って、カイトは右手を挙げた。てっきり挨拶の仕種だろうとパクノダは思った。それほど自然で、気負いの見えない動作だった。直後、通路の隔壁が一斉に降りた。床に叩き付けるように天井から降りる鋼鉄の壁は、明らかに本来の仕様を無視していた。

 

 反射的に全力で後退し、一つを潜った判断は間違ってなかったのかもしれない。だが、結局はそれも無駄だった。廊下に点在する分厚い隔壁が一斉に降りて、パクノダの逃げ道を潰していた。

 

 飛び込める部屋もありそうにない。カイトとの間を隔てた壁が、ゆっくりした動作で上がっていく。当然、携帯も通じはしなかった。パクノダは愛銃を具現化して、現れたカイトをじっと見つめた。

 

「どういうつもりかしら?」

 

 一応、聞いてみた。ばれているのだとは悟っていた。尻尾を出した自覚はなかったが、この状況下でそれ以外の、陳腐な希望的観測に縋る趣味は彼女にはなかった。それでも声に出して尋ねたのは、ただの確認だったのだろう。

 

「背中の蜘蛛だ。アルベルトにはそれが見えたらしい」

 

 それなら仕方がないとパクノダは思った。十二本脚の蜘蛛をモチーフにした、団員のナンバーが白抜きされた黒い入れ墨。それは余りに有名だった。だが、一つ解せない事がある。彼女はアルベルトに、素肌を見せた記憶がない。ゆっくりと近付いてくるカイトにその点を尋ねると、意外な回答が帰ってきた。

 

「確かにお前は慎重だったが、一つだけ思慮が足りなかった。世の中には、赤外線を視認できる人間もいる事に」

 

 ジャッキーが他界した夜の事だった。あの夜も、パクノダはいつも通りの格好だった。下着もワイシャツも着込んでおらず、薄い春物のスーツの上着だけ。たとえその色が黒だったとしても、人体以外の熱源に乏しい夜間では、浮かび上がって見えたのだろう。黒体に近い物体ほど熱放射が強くなりやすい。白い肌に黒い入れ墨の組み合わせは、アルベルトに疑念を抱かせる程度には鮮明だった。

 

 カイトの説明から理解して、パクノダは肩をすくめて呆れてみせた。もう、どうしようもない。だいたいそれは反則だろう。他者や物体の記憶を読む、極めて珍しい能力を持つ彼女がいえる立場ではないかもしれないが、変態すぎるとパクノダは思った。

 

「それで? 今まで泳がされていたのかしら?」

「その通りだ。だが、効果はそれほど芳しくなかった。お前達の仲間には、よほど携帯電話に通じている奴がいるんだろう。暗号も対侵入も見事な技術だと、アルベルトも賞賛していたな」

 

 カイトは言ったが、実際には、それほど皆無な収穫ではなかった。暗号そのものこそ解読できはしなかったものの、交換局を掌握していたアルベルトは、別の方面から情報を入手していたのである。その日、パクノダがどんな任務に携わり、何を調べ、何を漏洩していたのか。解読ではなくパターンの出現頻度と回数、通話時間の推移から、パクノダが何を重要視していたのか、如何なる状勢変化を優先的に報告していたのか、おおむね把握する事ができていた。無論、国内で同様の暗号化が使用された頻度を元に、仲間らしき集団の居場所に関する推測も立てている。

 

 全ては、膨大なデータを管理できたがこそだった。

 

「なら、あたしは用済みって事かしら」

「そうだ。これ以上は、生かしておいた場合のリスクが大きい」

 

 そう、とパクノダは頷いた。拳銃を構え、不適に笑う。既に生還できるなどという希望は抱いてなかったが、だからといって楽に殺されてやるほどお人好しでは無かったのだ。どうせここまでの命なら、一矢報いてやりたかった。死ぬ時は楽しく死にたかった。

 

 だが、カイトとて敵には情けをかけない。

 

 その刹那、カイトは全力で壁際に跳んだ。壁にへばりつくような奇行を疑問に思う暇もなく、パクノダの上半身は消滅した。赤い閃光が貫いた。戦いと呼べるものなど全くなく、彼女は灰燼と化していた。パクノダが背中を向けていた分厚い隔壁の向こうから、遥か彼方の隔壁まで、幾重にも風穴が続いている。

 

 エリス・エレナ・レジーナに殺人の経験を積ませるため、カイトはパクノダの生命を流用した。

 

 鋼鉄の塊が天井へ吸い込まれ、エリスは死体の状態を把握した。人間らしさは全くなかった。ただ単に、ぱたりと下半身が倒れていた。赤茶色の液体がゆっくりと流れ、おぞましい切断面から臓物がいくつかこぼれている。異臭がして、空気が血の味に染まっていた。

 

 エリスは自らが作り上げた光景を目の当たりにし、口元を押さえて座り込んだ。真紅の翼は解けて消え、ドレスのスカートが床に広がる。覚悟などではどうにもできない、生々しい現実がそこにあった。白く澄んだ通路の中で、パクノダだけが赤かった。

 

 カイトはそんなエリスに近付いた。焦りはしない。権威者と仰げるようにゆっくりと、頼もしく感じるように堂々と、震える彼女へ歩み寄った。カイトは同情など感じていない。上司として、仲間として、エリスを利用すべき者として、義務を果たすだけの事だった。

 

 お前がしたことは正しいと、誰かが肯定してやらねばならないのだ。

 

 現状で、彼女に折れてもらうわけにはいかなかった。明日一日、いや、今夜一晩だけの間でも、アルベルトに付き添いをさせようとカイトは決めた。

 

 

 

次回 第十五話「忘れられなくなるように」



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第十五話「忘れられなくなるように」

 紙コップを満たすコーヒーから、白い湯気が昇っている。黒く熱い液体を一口啜ると、苦い芳香が広がった。自動販売機が林立する休憩室の片隅で、カイトはつかの間の安息を味わっていた。時刻は午前2時を回っている。静かだった。この場所には、他に人影は見あたらない。

 

 胸ポケットに入れたままの携帯電話が、バイブレーションを作動させた。アルベルトからの着信だった。

 

「オレだ。どうした?」

「今、エリスは落ち着いて眠った所。多分明日には平常通り動けると思う。少なくとも、表面上はね」

「十分だ。よくやってくれた」

 

 報告は満足すべきものだった。エリスは現状、彼等が保有する最大の打撃力であり、作戦の土台そのものだったのだ。彼女が後ろに控えているという前提があればこそ、カイトやアルベルトを前線に投入できるのだから。

 

「次はどうする? そっちへ戻ろうか?」

「いや、必要ないだろう。こちらは問題なさそうだ。皆よくやってくれてる。お前も休んで少しでも体調を万全に近付けてくれ。念の為、呼び出しに対応できる状況を整えておいてくれればそれでいい。オレももうすぐ仮眠をとらせてもらう」

 

 電話越しにアルベルトが了解の意を伝えてきた。打てば響くように返ってくる。使い勝手のいい部下だとカイトは思った。上司の意図に忠実であるだけでなく、頭が回り自分で判断させても不安がない。ヒトとしての一線を越える極めた側の戦闘能力こそ持たないが、彼の念は応用範囲が恐ろしく広く潰しがきいた。惜しむらくはただ二つ。妹が絡むと行動の箍が外れてしまう点と、有能さの基準があくまで普通の職業のそれである点だろう。仮に贅沢をいうのなら、ハンターとしては、性格にもう一つ二つ毒が欲しい。

 

「ところでカイト、戦力の補充についてはどうだった?」

 

 目下の懸念材料の一つについて、アルベルトが尋ねた。元々の捜査対象に加え幻影旅団まで現れた今、自陣営の念能力者が3人というのはあまりに少ない。個々の実力や組織的なバックアップでなんとか補ってはいるものの、手数で勝負されたら対処が難しいのが実情だった。仮に今からでも優秀なハンターを加える事ができるなら、それはとてもありがたかった。

 

「難しいな。知り合いのハンターにあたってはいるが、旅団に対抗できる実力と時間的余裕を合わせ持つような都合のいい人間は早々いない」

 

 しかし、現実は早々上手く回らない。そもそもハンターは年中世界を飛び回っているのが当たり前の職種である。有能な人物ほど己が目的や探究心に身を任せ、精力的にハントを手掛けている。中には他ならぬカイトの師匠のように、実力があるくせにどこで何をしているかも定かではない変人もいるにはいるのだが。

 

「そういう人種こそコンタクトさえとりにくいのが世の常だ。もし依頼をしようと思ったら、その為に新たなハンターを雇う必要があるだろう。できれば特別な念能力をもつ専門家をな。なぜなら、彼等自身こそが特A級のハント対象と呼べるにふさわしいからだ」

 

 ハンター最大のハント対象にハンター自身が含まれるとは皮肉だなとカイトは笑った。アルベルトも電話の向こうで同意した。二人とも実感がこもっていた。

 

「ハンターとしての活動基盤がまだ整っていないひよっこ以下なら捕まるだろうが、そんな連中を集めても仕方がない。ああ、そうういえばアルベルト。今年の有力な新人へのアクセスはお前に任せていたな。確か、二人いるといっていたか」

「それなら、メールで報告上げた筈だけど」

 

 アルベルトが不思議そうな声を出し、カイトはしまったと顔を顰めた。どうやら、忙しさのあまりどこかに紛れ込ませてしまったようだ。

 

「もう一回送ろうか」

「いや、口頭でいい。すまんな」

「結論からいうと、二人とも色好い返事はくれてない。一人は例のゾルディックの長男で、もう一人は生っ粋の戦闘狂でね。ゾルディック家は丁度仕事中で、旅団に対抗できるだけの人員は裂けないそうだ。後の一人は、天空闘技場でお楽しみの真っ最中だってさ。一応旅団の名前を出して勧誘してはみたけれど、タイムリミットはもうすぐだし、期待はしない方がいいと思う。刈り入れの時期、らしいからね」

 

 つまり、望みはないという事だろう。はじめから予想はしていたが、どうやらこのままでは3人で二正面作戦を強いられる事になりそうだった。しかも脅威の半分は悪名高き蜘蛛である。生半可な困難で済ませてくれそうな相手ではない。それでも勝ちを拾うなら、よほど大胆に立ち回らなければならないだろう。

 

 パクノダ経由で流した情報を逆に利用して罠にはめる案も出されたが、雨期という切迫した期限の前には難しかった。あらかじめ予定した決行時間を変えるだけでさえも、スケジュールが詰まりすぎて不可能だったのだ。

 

「わかった。ご苦労だったな。明日に備えてじっくり休んでくれ」

「了解。じゃ、僕はこのままエリスの部屋で眠るから、何かあったらこっちに連絡して」

 

 カイトは頷いて通話を終えた。休憩室がしんと静まり返る。深海底のような世界だった。暗く、全てが深々と静止していた。自動販売機から微かに零れる作動音が、静けさの中に波紋を落とした。

 

 湯気を立てていたコーヒーは、いつの間にか冷めていた。

 

 

 

 何とはなしに目が覚めた。カーテンの向こうが白んでいた。もうすぐ夜が明ける。鳥が鳴き、空が紫から青へ染まっていく時分だった。染み付いた習慣に従って、最初に枕元の銃の存在を確認した。ひんやりした感触が掌に広がる。弾は装填されていない。もう何年の付き合いになるのだろう。使い続けた愛銃は、男の手にしっかりと馴染んでいる。

 

 まだ薄暗い寝室に、オレンジ色の間接照明が仄めいている。買ったばかりの新しいシーツが、汗をかいた裸体に心地いい。萎えたものを包んだままの少女の柔肉は、寝息とともに穏やかな収縮を繰り返している。胸板に当たる呼気がくすぐったかった。煙草を飲みたいと男は思った。行為の後は、無性に一服が欲しくなる。

 

 ふと、少女が小さなうめき声を上げた。慣れ親しんだ生理現象だった。寝起きで張り詰めた肉の棒が、彼女の内側をえぐっていた。彼はどうしようかと思案した。眠ったままの少女の都合などおかまいなしに、このまま処理してしまってもよかったが、何となく面倒なのも事実だった。数秒の後、男は性欲より怠惰を優先した。

 

 男は気怠げに力を抜いて、全身をベッドに再び預けた。春の朝は少し寒い。まだまだ温もりが恋しくなる季節だった。布団をかぶり、とりあえず、男は手近な熱源を抱き寄せた。

 

 

 

 タイル張りの浴室は、意外と綺麗に使ってあった。湯は出なかったが水は出た。コックを一杯に捻っても流量はたかが知れていたが、シャワーが使えるだけ贅沢だった。やはりこの物件は、この辺りでは上等の部類なのだろう。

 

「痒い所はありませんか」

 

 座った男の後ろに立って、少女は髪を洗ってやっていた。新市街で見つけた輸入品のシャンプーは泡立ちもいい。短く刈った金髪をわしゃわしゃと洗う。男は返事をしなかった。少女も特に気にしなかった。そのまま続けろという意味だと分かっていたからだ。

 

 水しか出ない浴槽で、全裸でいるのは少し寒い。しかし、それも気分の問題だった。少女も既に纏を覚え、体は丈夫さを増していた。冬の最中でもない限り、水浴びぐらいなら風邪などひかない。だから、こうしてゆっくりできるのだ。

 

「本当は、もう少しマシな洗髪も心得ているんですけどね」

 

 男の頭皮に爪を立てて掻き回しながら、娼館で磨かされた技量を思い出して少女はいう。男のこういう大雑把さは嫌いではなかったが、自分の腕前が発揮できないのもつまらないものがあった。といっても、とうに諦めてはいたのだが。

 

「あのぬるいマッサージみたいなやつか。いらねぇよ。もっとがしがしやってくれ」

「はい。こうですね」

 

 言われるまま、少女はもう少し力を込めた。十本の指で慈しむように掻き回す。気持ちいいのだろうか。大きな背中が微かに震えた。可愛いなと少女は小さく微笑んだ。

 

「流しますよ。目、つぶって下さいね」

 

 一度に流れ出る水量では心許ないので、あらかじめ手桶に貯めておいた水で一度流した。続いて、シャワーで拭い取るようにすすいでいく。短い髪だ。すくに済む。それを勿体ないと思ってしまう自分がいて、少女は苦笑を噛み殺した。

 

「はい、終わりましたよ」

 

 最後にタオルでふいて少女は言った。男は特に礼もいわず、大きな欠伸をしてから頷いた。それすらもセクシーな仕種だと思う少女はきっと末期なのだろう。発達した肩や逞しい首に触れて、内側の筋肉を愛でたくなった。

 

「腹減ったな」

「もう昼過ぎですしね」

 

 続いて背中を流しながら、少女は適当に相槌を打つ。泡立てたスポンジで擦りながら、空いた手でさり気なく肌に触れる誘惑と戦っていた。あくまでそっと手を置くだけで、いやらしく撫で回しはしないつもりでも、男にはきっと悟られるだろう。少女にはそれが怖かった。不快に思われたくは、なかったのだ。

 

「上がったらメシにすっか。何か食いたいものあるか?」

「食べたいものも何も、食材なんてほとんどないと思いますよ。昨日、どうせまたすぐ買い出しにいくからって、ちょっとしか買わなかったじゃないですか」

「あー、そういや日用品ばかり仕入れてきたっけな。まあいいや。明日の朝までしのげるだけはあるだろう」

「水と岩塩でしのぐなら、何とか」

「ま、たまにはそれもいいだろ」

「どうしても出かけないつもりですか?」

 

 男の適当な発言に、少女はあからさまに眉をしかめた。背中を一通り洗い終え、泡を流した所だった。男は上体を捻って不満そうな様子の少女を持ち上げ、膝の上に座らせた。自然、抱きかかえられるような体勢になる。

 

「面倒くせえよ。それともお前一人で行くか?」

「……財布を預けてもらえるなら、近場回ってくるぐらいならしますけど」

 

 膝の上で、少女は背中越しに男を見上げた。この辺りの地理には不馴れだったが、通りに沿って歩くぐらいならできるだろう。少女が持てる荷物などたかが知れているが、二人分の食料程度なら何とかなる。都合よく利用されている気がしたのは、少しだけ不満ではあったのだが。

 

「財布、か。どうせなら花売りで稼いでこねぇ?」

 

 今度は男が、少女の髪を洗いだした。特に心を配りもせず、汚れさえ落ちればいいという手つきだった。まるで相手が弟のように、息子のように、舎弟のように。繊細な銀糸の扱いにしてはいささか乱雑ではあったけれど、少女は文句を言わず目を閉じている。

 

「嫌です。どうしてもお金がなければ、最後の手段としてなら構いませんけど」

 

 まずはちゃんと働いて下さいと少女は言った。たわいない戯れ言だとは分かっていたが、そこは譲れない一線だった。薄目を開けて後ろを見上げてくる相手を気にもせず、男は洗髪のついでに返事を返した。

 

「ま、お前に飽きないうちは従ってやるさ」

「はい、それで十分です」

 

 少女は満足そうに頷いた。

 

 

 

 暖めたヤギのチーズをパンに乗せただけの簡単なブランチを食べた後、少女は外へと繰り出した。隣には男も付き添っている。一緒に行こうという少女の誘いが成功したのではなかった。唐突に甲斐性に目覚めたのでもない。単に、腹がくちくなって食後の一服としゃれ込もうとしたところで、ズボンの後ろポケットから空っぽの紙巻き入れを発見したというだけである。

 

「何か食べたいものはありますか?」

 

 道すがら、少女は男の希望を聞いてみた。思えばこれが、はじめて買い物を任される機会だった。それに気付いたときからずっと、少女の胸は密やかな高鳴りをやめてくれない。保護者同伴の体もかえって嬉しい。預けられたままの財布の存在感が、無性に暖かく感じられた。

 

「旨いものならなんでもいいや」

 

 割とどうしようもない返答も予想の範囲内だ。そもそも料理の経験などあまりない彼女には、大層なリクエストをされても応えられない。懐も暖かいとは言いがたかった。パンと野菜と、あとは適当に肉と酒でも買いましょうかと少女は尋ねた、男もそれでいいぜと頷いた。

 

 そうと決まればまずは肉屋だ。最初に見つけたのは鳥肉屋だった。そこそこ安く、宗教的にも無難だからだろう。旧市街で肉屋といえば、やはり鳥を売る店が最も多い。ニワトリ、アヒル、ウズラにウサギなど、様々な種類の商品を生きたまま店先に並べている。もう少し貧しい地区になると、これがラクダや野犬、そしてクズ肉や脂肪の欠片を売る雑肉屋になる。

 

「ニワトリでいいですか?」

 

 簡素な鳥篭の中で思うままに時を貪る鳥達を見ながら、少女は無難な選択を男に示した。時折ばたばたと暴れるたび、羽毛や糞が辺りに飛び散る。獣の臭いがとても濃かった。これが一因なのだろう。鳥屋は食料品店から離れた場所で開業されるのが常だった。

 

「ウサギにしようぜ。どうせなら」

 

 ポケットに手を突っ込んだまま気楽にいう男を、少女は顔をしかめて見て遣った。今、二人は節約しなければならないのだ。ウサギは買えないほどではなかったが、今後を考えれば少し重い。健全な定期収入さえあるのなら、少女の反応も違っただろうが。

 

「ガキが余計な心配するんじゃねーよ」

 

 強く、乱雑に頭を撫でながら男が言った。そのガキに欲情したくせにと、少女は軽く睨んでみせた。が、男が堪えようはずもなく、いいからさっさと選べと少女を促すだけだった。

 

 仕方なく、ウサギ達の入った篭を眺めると、とある一羽と目が合った。長い耳がピコピコと揺れて、つぶらな瞳が見上げている。やや濃いめの茶色の毛で、丸々とした体型が可愛らしい。見た所、体に異常もなさそうで、毛並みも抜けなどはなさそうだった。かがみ込み、いけないと知りつつ鼻の先に指を差し出してみると、一通り嗅いだ後、小さな舌先で甘えるように舐めてきた。人懐っこいウサギだった。美味しそうだと少女は思った。

 

「……これにします」

「お、気に入ったのあったか」

 

 男の誘惑に乗ってしまうのはあまり面白くなかったが、目に付いてしまったからには欲しくもなった。男にも見せると、いいじゃないかと褒められた。最初の買い物で見る目があると認めてもらえたのは、掛け値なしに嬉しかった。

 

「今夜はシチュー、ですかね」

「おう、いいぜ。味付けは俺に任せな。昔、ダチから教わったとっておきがある」

「それは、楽しみです」

 

 ウサギは肉の味も悪くないが、すじ肉や骨も捨てられない。上等のダシこそが真価だからだ。下ごしらえをして鍋に入れ、野菜と一緒にことこと煮込めば、それだけでご馳走の出来上がりだった。二人では少し多いかもしれないが、男は沢山食べるし、余っても翌日に回せばいい。

 

 店員を呼んで、気に入った商品を指し示す。そうすればよく研いだナイフを喉元に刺して、屠殺と血抜きをしてくれる。殺されたのが確かに自分達の望んだ個体である事を確認すると、少女は残りの買い物を澄ませるべく別の店へ向かおうとした。帰り際に立ち寄る頃には、最低限の下処理を済ませてくれているだろう。

 

「どうしました?」

 

 ふと、男が立ち止まっているのに気が付いた。

 

「いや、別にな。よくある事さ」

 

 なにか、奇異な視線でも感じていたのだろうか。歩きはじめる前に男がちらりと目をやった先には、何の変哲もない建物の屋上があるだけだった。ここからは大分離れている。少女がじっと見つめてみても、人影も異常も何もなかった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 今朝方早くに、アルベルトとカイトさんが出動していった。現地では今頃、国家憲兵隊が今や遅しと展開の命令を待っていて、その外側では、陸軍空挺師団が演習の名目で集結している。先行潜入した陸軍特殊部隊は、他文化を持つ敵性地域にも溶け込む訓練を積んだエリートだそうだ。夜間を徹して包囲網の構築と住民の強制退避作戦が並行され、突入は夜明け前に決行される。急拵えの作戦だけど、この短い間に繰り返し研究を重ねた最善の一手。

 

 わたしが乗る飛行艦は、地上ではなく現地でもなく、首都上空で待機する手はずになっている。せめて少しぐらい近くに進出したかったけど、カイトさんはあえてこの配置を選んだ。高高度なら遷音速巡航が可能という飛行船の常識を覆すサンダーチャイルドの俊速があるのなら、それを活かさない手はないという理由で。確かにこの配置なら、首都に居ながらにして全国に睨みを効かせる事ができるんだろう。

 

 彼女は一隻だけしかなく、わたしも一人しかいないから、実際に駆け付ける事ができるのは一箇所だけだけど、アルベルトにいわせればそれほど心配はいらないらしい。既に旅団は情報を得ている。得ていないはずがないそうだ。パクノダさんを経由して、わたしが見せた能力の一端を。

 

 なら、まとまった人数でないと対抗できないという認識は、とうに出来上がっていてしかるべきで、仮に寡数で事件を起こすとしたら、それは陽動でしかないという。

 

 だからわたしは、この空で構えていればそれでいい。この国のどこで火の手が上がっても、すぐに駆けつけられるように。

 

 例え、それが真下でも。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「……ふう」

 

 皿に残ったシチューを拭いたパンの最後の一口を胃の腑へと飲み込んで、少女は満足そうな息を吐いた。

 

「あー、食った食った。な? たまには贅沢して正解だったろ?」

「はい。お腹いっぱいです。思ったより煮込むのに時間がかかってしまいましたけど、そのぶん味が染みて美味しかったですね」

 

 窓の外はとっぷり暗く、野良犬が寂しげに吠えている。風は冷たく、宇宙が深い。夜空が仄白く染まっているのは、きっと新市街の方向だろう。きらびやかに輝く高層ビルは、彼等だけの特権だった。

 

 空腹で旨さが増したのは否めないが、それを抜いても料理の出来は上々だった。とろ火で抱かれたウサギの出汁は豊潤で、肉は柔らかく、脂肪は甘く、野菜は土の香りが芳しかった。食べきれず鍋にはまだ残ってしまっているが、一晩寝かせればまた違った表情を見せてくれるだろう。

 

 満腹で腰が重くなってしまう前にと、少女は食卓から立って食器を下げる。台布巾で一通りテーブルを拭いた後、ひと休みしましょうと提案した。

 

「いま、お茶を淹れますね」

「あ、俺コーヒーな」

「はいはい。分かってますよ、もう」

 

 美食は人を寛容にするのだろうか。少女だけに働かせ、さっそく煙草をくゆらせ始めた男のだらしなさも今は愛しい。気を抜くと緩みそうになる頬を押さえて、少女は二人分のティーカップを用意した。もちろん、何も言われずともブラックだ。自分の前には甘い甘いミルクティーを置いてから、少女は食後の一服に興じる事にした。

 

 普段は目くじらを立てる苦いままのコーヒーも、今夜だけは濃いめに淹れてある。

 

 時間が優しい。男と向かい合って座ったまま、会話は何一つなされていない。男は紫煙の合間にコーヒーを飲み、肩の力を抜いて目を閉じている。この沈黙が幸せだった。少女は男を眺めながら、暖かい甘さで唇を潤した。

 

 ただ、時計の秒針だけが支配するこの一時。

 

 そんな満ち足りた安息でさえも、いつか必ず終わってしまう。ミルクティーの残りが冷めてしまった頃、少女はさてと立ち上がった。二人分のカップを流しへ運び、エプロンを付けて洗い物に取りかかる。このような後片付けでは、男はどうせ役に立たない。初めから期待などしてなかった。

 

「ほとぼりが冷めたら、なあ」

「なんですか?」

「海行かねぇ? 海。お前実物の海を見た事ってあるか?」

「……あるわけ、ないでしょうに」

「俺もないんだわ。考えてみたらよ、短い人生、海ぐらい見ておかないと損だろう」

「それは構いませんけど、海の近くで私の念を発動させるのはやめて下さいね。絶対、洒落じゃ済まなくなりますから」

「おいおい。今だって洒落じゃ済んでないだろ」

「だったら尚更でしょうっ」

 

 男に背中を向けたまま、気怠げな戯れ言をあしらっていた。食器が触れあって音を奏でた。水が指に冷たかった。いつの間にか会話はまた途切れてしまったが、少女はさして気にしなかった。どの道、放っておけば勝手に生活するのである。彼女が今さら何か言っても、男の気ままな性根は変わらない。

 

 そもそも、少女は男のそんな一面が、あまり嫌いではなかったのだ。

 

「あー、なんか眠くなってきた。もうシャワー浴びて寝るわ」

「え?」

 

 食卓でだらりとくつろいだまま、うつらうつら舟をこいでいた男が言った。振り向くと、ふらりと立ち上がり、歩き出そうととする姿が見えた。

 

「もう寝ちゃうんですか?」

 

 少女は尋ねた。知らず、声色にはすがる想いがにじみ出ている。

 

「明日から、雨が降るって予報なんですよ?」

「だからどうしたよ」

 

 心底疑問だとでも言うかのように、男が瞬きして聞き返した。そんな態度が気に入らない。少女は内心のいらだちに気付く前に、同じ意味の言葉を繰り返し紡ぐ。

 

「ですから、明日からは、雨期です」

「らしいな。……なんだ、言いたい事があるならはっきり言えよ」

 

 じれたのか、男の目が細められた。眠気でぼやけていたはずの瞳には、微かながら剣呑な光が灯っている。

 

「もういいです。……じゃあ、とっととシャワーでも浴びて、寝仕度すればいいじゃないですか」

 

 怯えが半分、拗ねたのが半分の胸の内で、少女は滞っていた手の動きを再開した。といっても、既に残りは少なかった。二人きりで生活してるだけに、使う皿が少ないのは道理である。ゆっくり、丁寧に洗いつつも、その数は着々と減ってしまう。終わらなければいいと少女は思った。

 

 男が近付いてくる気配がして、少女はぴくりと小さく震えた。嫌われるのが嫌だった。怒られるのが怖かった。だが、どんなにささやかであろうとも、男から構ってくれるならやはり嬉しい。触れてくれるならそれだけで楽しい。素直に認めるのは、少々癪でもあったのだが。

 

「……どうか、しましたか?」

 

 ゆすいだ食器を水切り篭に並べてから、流しの周りを布巾で拭いていく。近付いてくる足音に耳を傾ける。後ろは横目ですら見なかった。なぜなら少女はあくまで、そう、あくまで家事に専念しているだけなのだ。

 

「振り向くな」

「ひゃっ!」

 

 耳元で男が囁いた。卓越した身体能力で一気に距離を詰めたのだろう。少女は予想外の不意打ちに驚いたが、男の言葉通り振り返る事はできなかった、

 

「念を使いましたね!?」

 

 少女が吠えるも、男はどこ吹く風で飄々としている。じたばたと暴れても後ろを向けない。逃げようとしたら抱えられた。ついで逃げるなとも命じられ、すみやかにそれは実現した。彼女は改めて実感した。本当に、嫌になるほど便利な能力だと。

 

「離してっ! 離して下さいっ!」

「ま、なんだな。祭の前に英気を養っておくのもまた良しか」

 

 少女は抗議を完全に無視され、むかつくほど手慣れた手つきで肩の上に担がれた。

 

「まだっ、片付けも終わっていませんよ!」

「あれで十分だろ。食器なんて綺麗に片付けても、どうせ明日には無駄になるんだ」

「訳の分からない事言って誤摩化さないで下さいっ」

 

 歳相応に小さな少女の体が、ベッドにぽすんと投げられた。エプロンを奪われ、スカートをめくられ、下着を膝まで下ろされる。強引に押し付けられた男の唇は、微かにコーヒーの香りがした。後頭部を抑えられ、口腔を深くまで貪られた。

 

 長い長いキスだった。舌と舌を絡め合い、唾液と唾液を混ぜ合わせる。葉の一本一本を丹念に舐められて、応じるように顎を動かして吸い付けば、いつしか少女の瞳も蕩けていた。のしかかる男の体重が愛おしかった。

 

「どうしても、いますぐしたいんですか?」

 

 男の頬を両手で押さえて、キスの合間に少女は尋ねた。本当はもっとムードを大切にしたかったが、昂ってしまえば過去に思いを馳せる余裕もなくなってしまう。駆け引きの合間の沈黙さえ焦れったくて、彼女は啄むように唇を触れさせた。

 

「……お前がしたくないって言うんならいいけどよ」

 

 いじわるだ。少女は可笑しくなって微笑んだ。こんな夜中に、こんな場所で、こんな近くで、こんなにも熱く大きくしながらも、男はそんな戯れ言を紡ぐ。

 

「そうですか。なら、どうするんですか? これ」

 

 意地悪には意地悪で返そうと、少女はズボンの上から撫で上げた。堅く反り返った棒状で、先端だけが少し柔らかい。人種的な理由もあるだろうが、男のそれは逞しかった。指先を悪戯っぽくやわやわと動かしながら、少女は記憶に浮かぶ感覚を思い浮かべた。例え蕩け切っていても深く突き上げられると痛く苦しく、しかし言い様のない充実感を与えてくれる肉の味を。

 

「なに。俺は街頭女でも買ってこりゃそれでもいいぜ」

 

 少女の首筋に顔を埋めて、低く優しく男は告げた。残酷なセリフで耳の裏を甘く切なく攻められて、小さな体がゾクリと震える。被虐の快感を誤摩化すように、少女は拗ねる演技をしてみせる。

 

「……さすがに、それは意地悪すぎはしませんか? こんなときぐらい、私だけを見て溺れて下さい」

「はっ。いっちょまえなセリフは十年はえーよ」

「いいです、もう……」

 

 ズボンの、袋のある辺りを軽く抓った。薄い皮の存在を弄びながらも捻ってやると、男が微かに顔を顰める。

 

「今夜は、私が上になりますから」

 

 胸板を片手でそっと押し、寝転んで下さいと少女はいった。大人しく従った男の上に跨がって、上着のボタンに手をかける。衣擦れの音が部屋に消え、膨らみに乏しい胸部がはだけられた。そして、少女はスカートを捲り上げる。隠すものは何もなかった。

 

「どうですか? 私の体だって、そう捨てたもんじゃないでしょう?」

 

 片手で少し広げてやると、褐色の太腿を雫が伝った。頬が熱くなっていた。少女は今、羞恥と興奮に浮かされている。あんなにも嫌だったこの行為が、愛という調味料があるだけで、こんなにも甘美になるのが不思議だった。

 

「ほら、とろとろですよ?」

「……だな」

 

 男の膨らみが一層大きくなったのを目の当たりにして、少女の胸は歓喜で壊れる寸前だった。お互いの視線が双方の一点に固定される。ああ、興奮してくれてるんだなと、泣きたくなった。

 

「愛して下さい。いっぱい、いっぱい、忘れられなくなるように」

 

 上ではなく下でキスをして、感極まった声でねだってみせた。返事はない。男の瞳は性欲に昂ってはいたが、奥底はどこか冷たかった。少女の優れた嗅覚が、残酷にも事実を告げていた。それでも、いい。少しずつ、ゆっくりと腰が沈んでいく。寝ていた男が上体を起こし、少女の体を強く抱いた。押し付けられた唇は、ほのかに煙草の味がした。

 

 

 

「随分と気合い入った陣容じゃないか」

 

 感心したようにマチが言った。視線の先には、国軍の首都駐屯地が広がっている。演習場を兼ねる為、郊外の荒野を利用した広大な敷地は灯りに乏しく、深い夜闇に飲み込まれていた。が、ナイトビジョンも使わずに遠くの丘から眺めているにも関わらず、彼女にはその詳細が手に取るように把握できた。

 

「あー。これって確実にオレ達の襲撃読まれてるよね」

 

 すぐ側の木に登っているシャルナークが気楽に呟く。陸軍第一師団が威信をかけた厳重警戒態勢を前にして、彼は微塵たりとも動揺しない。

 

「当たり前ね。戦車も数が揃てるよ」

 

 まるで獲物を見付けたというかのように、口元を隠した服装のフェイタンが笑う。細心の注意を払って偽装隠蔽された防御陣地にこもる車両をも、いとも簡単に発見していた。

 

「ま、どっちにしろオレらの敵じゃねーけどな」

 

 腕を組みながら大言したフィンクスを、誰一人として諌めない。機関銃陣地、迫撃砲、榴弾砲、飛行船、もちろん数多の自動小銃。加えて、主力戦車まで投入された体勢である。世界的に見れば第二世代相当の旧式とはいえ、その性能は人類が生身で対抗できるほど生易しくはない筈なのだが。

 

「だけどちょっと面倒臭いな。ウボォーもこっちに来てもらえば良かったかも」

「あのガタイとパワーじゃ地上で良くても地下で動きがとりにくいだろ。団長の判断は間違ってないぜ」

 

 シャルナークに対してフィンクスが言った。右肩に左手を置きながら、軽く回す仕種をしている。オレなら小回りの効いた戦いができると、言外に誇っているようだった。

 

「あいつは開けた場所で使うのが最適ね。それに獲物減るの、つまらないよ」

 

 フェイタンもまた、好戦的な態度で同意する。そんな二人の様子に、マチが横から口をはさんだ。

 

「ちょっと、忘れるんじゃないよ。あたしらが最優先する目的はね」

「パクだろ。忘れるかよ、んなもん」

 

 うんざりしたように放言しつつも、フィンクスの瞳はぎらついていた。連絡を絶ったパクノダの身柄の確保が、さもなくば生死の確認が、クロロからの指示だった。

 

 

 

次回 第十六話「Phantom Brigade」



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第十六話「Phantom Brigade」

 そして、男は目を覚ました。

 

 外はまだ暗く、夜明けまでは少しある。枕元の拳銃は、よくよく手入れが行き届いていた。柔軟を兼ねて身体の調子を確認してから、箪笥から取り出した服を着た。そこまで身支度を調えた上で、男はようやく、少女に声をかける事を思い出した。

 

「静かにしろ。分かったら起きろ」

 

 耳元で力ある言葉を強く囁く。その通りに少女が目覚めたのを確認して、男は有無を言わせず服を着せた。

 

「この中に入って、じっとしてろ。絶はできるな? よし、それだ。その状態をずっと保ってろ。そのまま物音立てずに震えてりゃ、まあ、万が一は無理でも億が一ぐらいで生き残れるだろうぜ」

 

 少女は怯えた瞳で見上げていた。嫌われたのかと男は思った。それはそれでまた面白いと、男は上機嫌で口笛を鳴らした。愉快な一日になりそうだった。

 

「じゃあな」

 

 最後に財布を取り出して、少女と一緒に箪笥の中にしまい込んだ。外から鍵をかけるタイプだったのは、彼女の日頃の行いだろうか。もっとも、そんな些細な事はもう、心底どうでも良かったが。

 

 いくらかの時間が余りそうだった。男の方から仕掛けてやるのも考えたが、今日はそんな気分でもない。どうせなら相手の思惑に乗ってやろうと、暇つぶしを兼ねたウォーミングアップに専念した。やはり楽しい。男はこそ泥として忍び込むのも好きだったが、こういう遊びもまた大好きだった。

 

 愛銃をもう一度確認する。弾丸は装填されてない。これで良かった。男にとってリボルバーとは、この状態でこそ完成なのだ。回転式の傑作拳銃。特徴的な形状のリブ、銃口まで伸びたアンダーラグ。六発の.357マグナム弾を射出する、世界最高のダブルアクション。

 

 コルト、パイソン。

 

 あの日、粗大ゴミの中で見つけた瞬間、彼は仲間内のヒーローになった。弾丸は高くて買えなかったが、それでも脅しには役に立った。なによりとても格好よくて、朝に晩に磨いてすごした。

 

 拳銃に周をほどこす。すっと体に馴染む感触。念弾を六つ、回転式の弾倉に込めた。七発目はまだ込めない。まだ、込める必要はないだろう。

 

 わくわくしていた。男は今、紛れもなく生を謳歌していた。やがて、とんとんと、ドアが軽快にノックされる。分かってるじゃないかと男は微笑む。分かっている敵と戦うのは、他のなによりもずっと楽しい。

 

「鍵は開いてるぜ」

 

 笑い出したくなるのを押さえながら、最高の機嫌で男は応えた。現れたのはただ一人、鋭い目つきの人物だった。細い体躯を長袖で包み、長い髪の毛を揺らしている。彼はハンターライセンスを提示して、自らをカイトと名乗り上げた。

 

「ヘンリ・マカーティ、だな」

 

 ちっ、と男は舌打ちした。いよいよ盛り上がるという直前に、水を差された気分だった。

 

「生体情報まで盗んでやがったか。だがよ、悪いがそれは俺の名前じゃねぇ。物心付いて大分経った後、照会してようやく知り得ただけの“情報”だ」

「なら、オレはお前をなんと呼べばいい」

「ただのヘンリでいい。ビリーでもいいぜ。死んだダチから遺された名だ」

「いいだろう。ではヘンリ。お前は国際刑事警察機構、及びハンター協会によって国際指名手配を受けている。大人しく従う意思はあるか?」

 

 カイトのオーラが臨戦態勢をとり始めた。洗練された、正真正銘の強者だけが纏える極上の堅。想像以上の傑物だった。男は喉奥から笑いを洩らした。

 

「従って欲しけりゃ、力ずくで来いよ」

「ああ、そうしよう」

 

 カイトは恐らく、基礎能力では彼ともほぼ同等だろう。勝てない相手ではなかったが、理由なく勝たせてもらえる程度の雑魚でもない。このレベルの戦いは、ほんの僅かな相性、微かな隙、小さなミスが生死を分ける。

 

 男は銃のグリップを握りしめた。体中を流れる血潮が湧いた。命をかけたバトルはいい。躊躇なく全霊を尽くせる遊びなんて、もうこれぐらいしか残っていない。遠慮なく能力を使える相手であれば最高だった。久しぶりの対戦相手を前にオーラを昂らせ、舌頭で歓喜を転がした。

 

「だがよ、俺は強いぜ」

 

 聞かせたかったのは、カイトと、自分だ。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 でたらめ、すぎる。

 

 炎と爆音の踊る朝、曳火射撃の雨が降る。耳元のインカムから流れてくるのは、絶望的な戦況だけ。一時的にも状況好転に湧くチャンネルなんて、ただの一つも存在しない。駐屯地上空二千メートル、わたしは地獄を俯瞰した。

 

「第二研究棟より師団司令部へ、離脱計画は放棄する! 拘束も遅滞も不可能だっ! 俺達ごとでいい、やってくれ! オーバー!」

「司令部コピー! だが計画放棄は許可できない! 最後まで最善を尽くされたし! オーバー!」

「ぐだぐだほざいてねぇでさっさとやれっつってんだろ! 時間がねーんだよ!」

 

 逡巡は数瞬、第二研究棟と呼ばれていた建物が崩れ落ちた。内側から低層階が粉砕されて、達磨落としのように上層が沈む。轟音だらけの戦場の中、崩壊は恐ろしいほどに静かだった。

 

 十秒も経たずに瓦礫の山となった跡地を榴弾砲が、迫撃砲が、多連装ロケットが、間髪を入れず耕していく。二隻の爆撃艦が誘導爆弾を投下する。生き埋めになった仲間の救出は考慮外だ。炸裂する砲弾。舞い上がるコクンクリートの大きな塊。もうもうと土埃が撒き上げられる。爆炎が連鎖的に立ち上り、どす黒い煙が天へと昇る。眼下に見下ろす荒涼とした大地には、今や、同じような光景がそこかしこに点在していた。

 

「総司令部、わたしも撃ちますっ。ワルスカさん!」

 

 専用チャンネルを通じて呼び掛けた。駐屯地上空に対空する飛行艦五隻のうち、サンダーチャイルドただ一隻が温存のため高空待避を命令されてる。わたしはウエポンベイ直近の観測室で待機していたから、いつでも投下してもらえる準備は整っていた。煙と埃で瓦礫の山さえろくに見えないのにめくら撃ちしても当たってくないだろうけど、光が散乱して威力が分散されてしまうだろうけど、彼等の負担を増やす事はできるはずだ。

 

「いや、許可できない。まだしばらくそこで待機を続けてくれ。オーバー」

 

 だけど、与えられた指示は無情だった。奥歯を噛みながら地上を眺める。ワルスカさんの判断が正しいのは分かる。わたしの光は攻撃力と命中率こそずば抜けてるけど、相手がどこにいるのか分からなければ意味がない。切り札を苦手な場面で投入するのは愚かな事。根拠のない根性論でカバーさせるぐらいなら、絶好のタイミングまで温存すべきだ。

 

 誰も彼もが死んでいく。一方的に殺される。あまりに人が死にすぎて、ここでは臨終への敬意がない。炎と朝焼けが輝く中で、血の赤は存在を塗り潰された。この瞬間、死傷は戦況を教える数字でしかなかった。わたしはただ、強化アクリルガラスごしに見ている事しかできなかった。

 

 パクノダさんから情報が流れたのか、わたしの存在と攻撃方法は知られているんだろう。彼等は見通しのいい屋外では、常に遮蔽物を最大限利用して身を隠していた。多少のコンクリート塊なんて貫き砕く事ができるけど、肝心の目標を定める事が至難だった。

 

 建物の中では彼等は余裕だ。弾丸が当たらない。居場所が分からない。面制圧がやすやすと回避される。機関銃の掃射の中を悠々と歩いて、一瞬で数十メートルの距離を詰める。自動小銃のフルオートなんて、小雨とも思ってないらしかった。無線から漏れ聞こえてくる暴虐ぶりに、わたしは心の芯が凍っていくのを感じていた。

 

 少数の力ある人間が、残り大多数を蹂躙できる。一握りのエゴが全てを犯し、国家をも転覆できる狂ったバランス。今、下で殺されている軍人さん達は、決して毎日、怠けていたわけではないはずなのに。

 

 多くの予算を割いて装備をそろえて、日夜訓練に精を出しても、才能ある個人に太刀打ちできない。念を知る人間に対抗できない。弱肉強食というシンプルな掟。この世界の根底を流れる法則は、こんなにも理不尽で不条理だった。

 

 わずか数人と思しき侵入者を相手に最精鋭の戦車師団1万人を投入しても、一方的に蹂躙される。それも、完全なホームグラウンドで、防衛施設の恩恵を受けながら。

 

 建物ごと、味方ごと攻撃するような方法でも、侵入者は巻き込まれてくれなかった。どうやら、また次の狩り場を定めたようだ。インカムから悲鳴が響いてくる。連なり響く勇壮な吶喊の絶叫は、勇気と覚悟ではなく恐怖と狂気の産物だった。

 

 猛然と、機甲部隊が突撃していった。とあるトーチカ群へ向けて一心不乱に。一個大隊はいるだろうか。蹂躙されている人が配属されていた守備位置から割り出したんだろう。随伴の歩兵戦闘車を先行させ、戦車は後ろから火力支援と跳躍の体勢をとる。40t以上ある鉄の塊が荒れ地をトップスピードで駆けていく。もう何度か繰り返された展開だった。もしその衝撃力が十全に発揮されたのなら、幻影旅団といえど鎧袖一触できたんだろう。

 

 だけど、現実はあまりに儚くて。

 

 即興の支援射撃が折り重なり、弾着が幾重にも連なった。乾燥した大地を鷲掴みにして、高速回転する覆帯の群れ。何十丁もの機関砲がバリバリと猛烈な唸りを上げながら、身を隠せそうな場所を手当りしだいに粉砕した。呼応して、二隻のガンシップが空中から鉄の暴風雨を降らせていく。とどめに、命中精度なんてどうでもいいのか、戦車が行間射撃で主砲を斉射する。子供が両腕をがむしゃらに振るったような、稚拙とすら思える猛攻だった。

 

 煙の舞う向こうはもうきっと、地面ごと跡形もないんだろう。攻撃目標に定められた小さな機関銃陣地周辺は、味方も含めてエアロゾルにまで分解された。オーバーキルという表現ですら生易しかった。

 

 だというのに、突撃部隊は各車両全力でUターンして離脱を始める。歩兵の下車も眼中にない。分かってるんだ。戦果の確認も拡張も何もかも、部隊を殲滅される近道になるだけだって。

 

 彼等は、音速を防いでみせたから。

 

 運動神経が人間基準のそれじゃない。念と体術を極めた達人は、ヒトとして越えちゃいけない一線を鼻歌まじりに越えてしまう。音源の動きを視認してから防御動作が間に合うなんて、そんな化け物すぎるスペックが当然満たすべき最低ライン。あちら側の人種と常人では、一秒の重さが全く違った。アルベルトなら頼もしいと思えるその事実も、相手が盗賊だとただ怖かった。

 

 離脱部隊の最前列にいた一両の戦車が、いきなり砲塔を吹き上げた。遺された車体が炎上する。車内で爆発がおき、充満した爆風が逃げ道を探した結果だった。続いて、周囲の戦車も次々と撃破されていく。それを為したのは味方だった。無線では事態を把握できた誰かが事実だけを的確に絶叫していた。壕内で待機していたはずの自走対戦車ミサイルが友軍へ向けて牙をむいたのだと。誤射ではない。意図的に狙わなければありえないとても正確で落ち着いた射撃。結局その車両は、もう三両を仕留めた時点で反撃を受けて沈黙した。

 

 破壊された戦車が慣性で地面を削りながら減速して、後続の車両に回避を強要する。幸いに玉突きこそしなかったけど、隊列は否応もなく乱れていた。虚ろに蠢く歩兵が一人、その最中へ対戦車ロケットを打ち込んだ。旅団の中に最低でも一人、そういう能力者がいるんだろう。

 

 ゲームみたいに陣営対陣営で戦えたなら、きっと勝ってたはずだった。ターン制で攻撃力や防御力を競うなら、絶対に圧勝してたはずだった。だけど、実際にはそうはならなかった。

 

 突如、一隻のガンシップが爆散した。無線が混乱で溢れ帰る。曲がりなりにも念能力者のわたしには、かろうじて何かが衝突した事を認識できた。感じから念弾ではないと思う。爆弾か、砲弾か。そういう実体のある物を、思いっきり投合でもしたのだろうか。地上から300メートル以上の場所に浮いていたというのに、簡単に飛行艦が撃墜された。それを総司令部に報告した頃には、もう一隻も炎上しながら墜落していった。

 

 ほんの一瞬、ちらっと見えた人影は、腕をぐるぐると回していた。

 

 わたしの証言を元に総司令部が下命して、幾両かの自走対空機関砲がまだ焼けただれている瓦礫の山を攻撃する。容赦ない点目標への集中射撃。鉄筋コンクリートが粉々になって、新しい粉塵を空へと舞わせた。だけど、それもきっと無駄骨だ。

 

 旅団は速い。上から見ているわたしですら、時折ちらりと辛うじて存在がわかるだけなほど、速い。

 

 たとえ強力な装備を誇っていても、相手が存在しなければ打撃できない。認識できなければ対処できない。現代社会の軍隊組織は、人外級の超人と戦えるようにはできてない。一般的な兵士の眼球では、達人の動きが捉えきれない。人間の集団が機能するために必要な最低限のコミュニケーションの間隔なんて、彼等にとっては隙以前だ。そんな化け物が疾走したら、どうやって把握すればいいのだろうか。居場所を認識することもできない怪物に、どんな対抗手段があるのだろうか。

 

 素人なりの推測だけど、軍事力でこの人達を殺す為には、大量破壊兵器の出番が要る。そうじゃなくても、莫大な量の火力が要る。常識的な規模の面制圧では、この人達は簡単に逃げ延びるから。

 

 それでも、誰もがずっと戦っていた。

 

 怒りが、理不尽が、脳の深い場所で渦巻いて、灼熱を通り越して凍えていく。少し、楽しい。酔っているのだろう。暴力と激怒に。魂の根底を汚染する忌わしき漆黒の賛美歌が、今はこんなにも心地よい。うっすらとアクリルガラスに映るわたしの顔は、いつしか微笑みを浮かべていた。

 

 この世界はこんなにも、滅ぼしがいがあるのだから。

 

「……ワルスカさん、お願いします。出撃させて下さい」

 

 自分の声がふわふわしている。歌うように、熱に浮かされるように語りかけた。たぶん、わたしの声色は今、とても優しい。

 

「わたしが出れば、少なくとも彼等にとっての脅威になれます。それに接近戦なら、あのクラスの能力者にだって対抗できた実例があります。遠距離からの攻撃だけでも、このまま好き放題されるよりずっといいはずです」

 

 そう、適度に距離をとりつつの接近戦なら、ヒソカにだって対抗できた。

 

 分かっている。あれは彼の全力ではなかったって。あの時なりの本気ではあったかもしれないけど、本気の本気では絶対になかった。しかも今は多対一。条件は格段に悪かった。

 

 それでも、わたしにはこの翼がある。ずっと負担にしかならなかった癖に、ここで役に立たないなら何の為の念能力だ。

 

「念という存在の、秘匿性については」

「そんなの、今更じゃないですか。あんなに好き放題している人達がいるんですから、空を飛ぶ人間の一人や二人、追加されたって不思議じゃないでしょう」

 

 通信機の向こうで、ワルスカさんが沈黙していた。難しい判断なんだろう。今ここでわたしという手札を失ったなら、本命の窒息死事件に対処する手段が一つ減る。“いるはずの敵”がいなくなれば、旅団もさらに自由に動ける。例えわたしが無事に勝っても、情報が漏れたらそれだけで痛手だ。だけど、このまま出し惜しんでもジリ貧なのは目に見えてる。

 

「……そうだな。提案してみよう」

「ええ、お願いします」

 

 会議室みたいな場所にいたのだろう。ワルスカさんがその旨を周りに告げて、がやがやと、無線からざわめきが漏れてきた。戸惑い、怒り、期待、不安、焦燥。色々な感情が浮かんでは消えた。

 

 議論に要したのはほんの数分。迅速なはずの決断が、とても、長い。

 

「結論が出た。予定より少し早いが、頼めるか」

「ええ、任せて下さい。これから先は、わたし達プロハンターのお仕事ですから」

「心強いな」

 

 渋くかっこよく笑うワルスカさん。こんな時だけど、格好いいおじさまっていいなって、のんきな事を考えた。父さんも、少しは見習ってくれれば嬉しいのに。

 

「だが、我々にも意地というものがある。ちょっかいは出させてもらうよ。なに、奴らが念能力のプロなら我々は軍事のプロだ。旅団とやらの戦い方を実際に見て長所と短所は分析できた。いささか、代償を払い過ぎた気がするがね」

「そうですね。彼等にはお釣りを払ってもらいましょう」

 

 ワルスカさんと微笑みを交換しながら、意地悪な自分を自覚した。アルベルトにはあまり見せたくない。今朝のわたしは、ちょっとシニカルだ。

 

「無論だとも。実は今、まさにその手段を用意していた所でね。ヘッドセットは身に付けているかね?」

「もちろんです。ずっと前から常に付けてます」

「よろしい。では気をつけてくれたまえ」

「はい、いってきます」

 

 艦内通信を使い、艦長さんにその旨を告げた。ウエポンベイがゆっくりと開いて、吹き込んでくる風にドレスが揺れる。蒼さを増した空が流れている。茶色く広がる荒野の中に、炎がぽつぽつと上がっていた。黒い煙と、黒い瓦礫。広い。改めて上空から全容を眺めて、それが最初の印象だった。

 

 いよいよハイになって踊りだす心臓を沈めようと、卵の化石にそっと触れた。ひんやりと冷たい。いってきます、アルベルト。ここにはいないあの人に胸の内で呟いて、トンと軽く床を蹴る。

 

 景色が変った。吸い込まれる。高度二千メートルの上空から、あの場所にある地表へ向けて。重力が消えて内臓が浮く。気持ち悪くて気持ちいい。顔を叩く空気が、清浄で冷たくて痛かった。ドレスのスカートがばたばたと鳴って、わたしは一直線に落ちていく。

 

 赤い翼を具現化して、前縁を風にそっとかぶせた。渦を孕み、揚力が生まれ、わたしの体は空を滑る。気分は鳥。だけど、バランスを崩せばキリモミして落ちる。尾羽を持たないわたしには、ほんのちょっとのコツが要る。

 

 勢いを殺すため旋回する。水平に大きな円を描くように。見上げれば宇宙、眼下には戦場。地平線が大きく傾き、蒼く澄んだ空の色と、どこまでも続く荒野に見惚れた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 微動だにせず、アルベルトは一つの建物を眺めている。鉄筋コンクリート製、五階建ての小さいビルだった。古いがしっかりした造りであり、この地区の基準では上々の物件であるらしい。周りは国家憲兵の精鋭部隊が固めており、サブマシンガンから歩兵戦闘車の機関砲まで、大小様々な銃口がありとあらゆる窓やドアに向けられていた。

 

 包囲された建物の内部からは絶え間なく打撃音が響いてくる。カイトが突入してから約30分。逮捕の知らせは未だにない。状況も大きな変化はないままだ。時々、轟音が辺りを激しく揺らし、念弾が壁面を突き破り、戦いの余波で負傷者が数十人出た程度である。強力な念能力者同志の戦いとしては、周囲の被害は少なめだった。

 

 この場の采配はアルベルトに全て任されていたが、安易な加勢だけは厳に慎むよう、カイトから指示を受けていた。単体で念能力者に対抗できるのは念能力者だけだと考えていい。国家憲兵隊が用意した物々しい包囲網も、全てはアルベルトの補助という一点にのみ存在意義が認められている。故に、ハンターが抜ければ犯人に逃走の余地を与えてしまうのである。

 

 歩兵戦闘車を改造した即席の指揮車両の車内から声がかかった。視線を向けず詳細を問うと、エリス出撃の報だった。読み上げられる情報はアルベルトを心配させるに十分だった。このタイミング、早すぎはしないだろうか。

 

 片眼鏡に似た専用のデータ通信センサを右目にかぶせ、無線を介して指揮車両のサーバにアクセスする。直ちに詳細なデータを取得して、抽出と分析に自身の処理能力を割り振った。ハーフミラーを利用し、通信と視覚を両立させるこの装置は便利だったが、強度に乏しくメーザーの出力限界も低いという欠点があった。だが、急ごしらえでこれなら上々だった。

 

 報告の見る限りは今の所、観測された旅団の戦力は事前に想定した許容範囲の内側だった。否、むしろ予想よりかなりの善戦をみせていた。地下司令部への侵入も、現段階では阻止できているようだった。が、侵入者を十分に炙り出せたとはいいがたく、エリスを投入したならば、必ずや戦いが成り立つ程度には抵抗される。それは当然、より多くの衆目に彼女の能力が晒されることを意味していた。

 

 取り決めに従い与えられた強権を振りかざせば、今から回収させる事も可能だったが。

 

 だけど、とアルベルトは考え直した。我慢できなかったのだろう。エリスの精神は未だ、目の前の殺戮を許容できるほどスレていない。一般人として健全な思考回路をもっているが故に、救えそうな人間を見捨てる事には耐えられまい。もしそうなら、早期の投入は正解だったのかもしれなかった。エリスに無用なトラウマを植え付けるのは、アルベルトの本意ではなかったのだ。

 

 ここに、本人も自覚する甘さがある。もし仮にこれが他人であったなら、彼は断固として出撃に反対した。出血を強要されている当事者である軍の司令部がエリスの提案に飛びつくこと自体は、プライドに拘泥しないと言う意味で十二分に正しかった。が、だからこそ、一人のプロハンターとしてアルベルトは、別の立場から意見を出すのが適切だった。物理的な手段だけで、まだまだ拘束できるのだと。一見すると派手な破壊と流血の惨事が繰り広げられていたとしても、一個師団という戦力は、そう簡単に殲滅されるほど小さくはない。まして今回は、予定より消耗のペースが緩やかだった。

 

 善戦の理由は、立案した作戦が功を奏したというのもあるだろう。アルベルトが関わったのは素案のみであるが、概要は報告されて把握していた。濃密な曳火射撃と頭上にこれ見よがしに配置したエリスの存在により敵を遮蔽物に誘引し、火力集中の及び機甲部隊による突撃により打撃を試みる。この際、あえて分散して運用する我の戦力を積極的に切り捨てる事により彼の対応時間を局限し、大局的な主導権を常に握ることを主眼とする。

 

 なお、決定力としては念的な手段であるエリスと物理的手段である短距離弾道弾が用意され、その背後には更に最終的な破壊の段階が控えているが、拠点防衛であるからには、できる限り使わずに済ませたい。他にも予備戦力として他師団より極秘裏に抽出された増強自動車化狙撃大隊相当の任務部隊が駐屯地外縁から60キロの地点に集結しており、これが地上戦力の切り札とされていた。

 

 本来、軍が執り行うべき行動ではない、常識はずれの異色のプラン。全ての原因は念能力者という異端の脅威の存在であり、それに対して短時間の確実な拘束を指向するという要求にあった。将兵を能動的に切り捨てる左道の業であるため軍当局は忸怩たる思いであろうが、それでも、この短期間で他に用意できた有用な案は他になかった。

 

 だが、損害が軽微な根本的要因はそこではない。上げられたデータを分析すると、旅団が投入したと思しき団員は多くても5、6人と推測される。第二波が控えている徴候もないようだ。蜘蛛の団員は残り12人と思われる為、半分しか動員していない計算になる。幻影旅団の内実は未だに不明であり、常時全員を動員できるのではないのかもしれないが、仮にそうでもこの人数は少なすぎた。アルベルトには旅団の襲撃は、正気の沙汰には思えなかった。念能力者にとって軍事力とは、とても恐ろしい存在だからである。

 

 念は素晴らしい力を与える技術であるという認識は真実であり、使えない者か念を修めたばかりの初心者ならそれだけでもいい。が、研鑽を積むうち、もう一つの真実を痛感する。すなわち、念など大したことが出来ない技術であるというそれである。

 

 念弾を撃つなら銃を撃った方が手っ取り早い。剣を具現化するなら買ったほうが手っ取り早い。人を操作するなら雇った方が手っ取り早い。ただ少し、念を使えば毛色の違う効果が現れるだけである。ささやかな差異を実現するための代償は、膨大な修行の時間だった。

 

 人類が他の手段で実現している事を、わざわざ摩訶不思議な生命エネルギーで再現して見せ、さも有能な人材であるかのように自分を飾り飯の種にする。この世界にいる念使いの大部分を悪意を持って表現するなら、アルベルトはそんな評価を下すだろう。無論、彼自身の能力を含めてだった。

 

 純粋に念でしかできない奇跡を実現できる人物は、本当に希少な例なのだ。

 

 軍隊にとっても同様である。念能力者が脅威なのは確かだが、現代兵器の破壊力は念能力者にとっても致命的な破壊力を発揮する。仮にアルベルトと同等の使い手であれば、9mmパラベラム程度の拳銃弾なら冗談で済む。が、小銃弾が幾つも当たればかなり厄介で、それ以上では真剣に脅威だ。対物ライフルや重機関銃、携帯式ロケット弾に無反動砲に小型迫撃砲。恐ろしいのは、これらを軍全体で見た場合、威力的には豆鉄砲同然だという事である。

 

 これらの兵器は仮に強化系を極めた能力者だとしても、基礎能力だけで防ぐのは難しいと判断せざるを得ない。例えば基礎的な人体強化で対戦車兵器のメタルジェットの侵徹を防ぐならば、ユゴニオ弾性限界を十分に引き上げる必要があるのだが、それが可能な人間など、この世に何人いるのかという水準だろう。少なくとも、アルベルトの知る限りでは存在しない。

 

 が、現代の戦車の正面装甲は、あるいは爆破反応装甲や空間装甲などもろもろは、成型炸薬弾に抗甚するである。軍隊とは、敵の軍隊と争うことを前提とした組織なのだ。念能力者がひとたまりもない兵器の破壊力を、防御する術と対応するノウハウを備えている。

 

 つまるところ、相手は念能力者を屠る力を持つ武器をいくらでも繰り出せる。対して、念の向上には時間がかかり、そのペースも上限も知れたものだ。ただ唯一、生物としてより優れた基礎能力だけを頼りに駆け巡るには、戦場はいささか危険すぎる環境だった。かといって、防御用の優れた発を修得すれば、それ以外の事が何もできなくなりかねない。

 

 これら優れた装備を組織的に運用する軍隊という名の武力集団を相手にするなら、念能力者とはいえ無条件に勝利できるものではない。打撃と防御で大幅に劣る前提は覆しがたい為、圧倒的に上回る反応速度で行動の間隙を突くのが主になる。が、選択の幅が狭いという事は、敵に対処されやすいという事だ。具体的には拘束と飽和が十分であればそれで殺せる。あるいは、うっかり流れ弾一つ喰らうだけで、致命的なダメージとなる危惧すらある。

 

 そんな危険な戦場に、全力を投入しないのはなぜだろうか。常識的に考えるなら、持てる戦力を集中し、可能な限り短時間で目的を遂げて離脱するのが最善のはずだ。追う側と追われる側の意識の違いもあるだろうが、アルベルトには旅団の行動が、刹那的に思えてならなかった。

 

 しかし、とアルベルトは考えた。逆に半分しか廻せない理由があったとしたらどうだろう。駐屯地の襲撃に廻せない残りの半分は、どんな事情があるのだろうか。

 

 幻影旅団は盗賊だ。当然、何かを盗む事こそが存在意義であるはずで、目的があると想定するなら、やはり盗みこそ第一に懸念される。パクノダを泳がして試行した結果、最も活発な通信を促したのが念に関する情報だった。念を使える人材の確保を目論んでいるのだろうか。ならば、この国でそれが集まる機会はいつだろうか。そこまで考えを進めてから、アルベルトはあまりに自明な結論に頭を抱えた。

 

 決まっている。今、この場所だ。

 

 仮に現状で襲われたなら、空挺師団だけでは微かな時間稼ぎが精一杯だ。アルベルトが駆け付ければ包囲網が無実化し、カイトを撤退させればこれまでの成果が泡と消える。かといって、搦手で対処するのも難しい。策を弄したその策ごと、なにもかも破壊していく世界最強の盗賊団。そんな突き抜けた連中が、悪名高き幻影旅団なのだから。

 

 結局、本件を早急に片付けるしか術がない。そんな面白みのない結論に達したアルベルトは、戦いの場であるビルを改めて観察した。内部では相変わらず戦闘が続いているようだが、ここからでは様子を伺いにくい。それにしても長い。泥沼化しているならなるべく早い段階で介入したかったが、それは最後の手段でもある。下手な助太刀はカイトの邪魔になる恐れすらあった。

 

 だが、停滞した空気が突然変わった。部隊の誰一人として声を上げず、一斉に緊張を走らせた。一瞬前に何が起こったのか、正確に把握できたのはアルベルトだけだろう。しかし、違和感なら誰もが認識していた。アルベルトはそんな歴戦の猛者達に、内心で惜しみない賞賛を捧げた。

 

 目標のビルがずれていく。ゆっくりと、斜めに。

 

 内側から切断されたのだ。恐ろしいほどの切れ味で。やがて、建物は自重を支えきれなくなり、切られた上部が落下を始めた。衝撃に耐えきれず砕けていき、瓦礫となって崩壊する。土砂降りのコンクリート塊が全てを押しつぶそうとする豪雨の最中に、アルベルトは二人分の人影を視認した。

 

 

 

次回 第十七話「ブレット・オブ・ザミエル」



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第十七話「ブレット・オブ・ザミエル」

「はははははっ! すげーよアンタ最高だ!」

 

 呼気が笑いとなって噴出した。楽しくて楽しくて仕方がない。崩れ落ちる大量の瓦礫の中、背筋が凍るほどの鋭さで大鎌の刃が襲ってくる。思考が追いつく速さではない。とっさにコンクリート片を蹴って躱せたのは、ひとえに本能によるものだ。避けた後にゾッとした。それが楽しい。

 

 とかく、男は楽しかった。

 

 息を吐く暇など与えてくれない。カイトは己が体勢を立て直そうともしないまま、大鎌の柄をそのまま見舞った。石突き変わりのふざけたピエロが、男の側頭部へ猛烈に迫る。辛うじて腕による防御が間に合ったが、みしりと嫌な感触があった。男の堅は一流ハンターと比べても遜色がないが、その上からダメージを与えてくる。

 

「痛くねぇよ!」

 

 叫んだ。それで痛みは消えてしまう。お返しとばかりに蹴りを放って、躱されたと同時に拳銃を向けた。狙うは眉間。他の誰より速いイメージ。

 

「避けられねぇよっ!」

 

 叫びながら銃を撃つ。男の念弾はマッハを超える。大きさは拳銃弾と同等で、出鱈目な威力もありはしない。だが、貫通力と速さなら誰よりも上という自負があった。高超音速で飛ぶ一条の光。それを、カイトは瞬き一つせず躱してみせた。完璧だ。男は心中で絶賛した。忌わしくも強力な念能力に、既に対処の方法を見出している。

 

 熟練した念の使い手ほど、積極的に感覚を拾ってしまう。より深く自然と一体化し、より鋭く神経を研ぎ澄ませる。男の能力は、そこをいやらしく突くのである。

 

 初見でここまで対応されたのは初めてだった。オーラで耳を覆い、聴覚の強化ではなく純粋な防御を行っている。全神経を戦闘に集中させながら、強化の有無を一瞬で切り替えてみせる。能力の性質を見抜く慧眼、素早く正確な流を為す技量、感覚を殺すも同然の行為を迷わず選ぶ思いきり。全てが全て凄まじかった。男の生存本能がガンガンに警鐘を鳴らしている。脳髄がアドレナリンで発火しそうだ。

 

「ははっ! 俺は強えぇっ!」

 

 更なる自己暗示を積み重ねつつ、男は瓦礫を蹴って宙を駆けた。崩壊するビルの中を疾走し、カイトへ何発も引き金を引く。ほぼめくら撃ちに近いそれが当たるとは思ってない。案の定、カイトは並走しながらしなやかに躱す。それでも、男もその隙を見逃すほど腑抜けてはいない。距離を詰め、強烈な蹴りを腹部へと放った。作用と反作用で二人の体が大きく離れ、防いだ大鎌が弾き飛ばされる。追撃に連射した弾丸は、肩と脇腹の肉を微かに削いだ。が、あまりに浅い。

 

 再び道化が出現する。戯けながらにドゥルルルと笑って、今度は大弓が具現化された。カイトは僅かに顔を顰める。外れを引きやがったなと男は笑った。有利さが故の笑みではない。ただ単に、愉快に思っただけだった。

 

 男は空中を落ちゆく箪笥に着地した。続けざまに蹴り砕き、他の足場に飛ぼうとした時だった。ふと、頭の片隅に何かが浮かんだ。思い出した記憶はさして重要なものでもなかったが、男は上機嫌に任せて助け舟を出してやる事にした。勢いを殺すように優しく蹴って、瓦礫の積もりつつある崩壊範囲外に落ちる軌道にのせる。この位置からでもかなりの高さだ。内臓の十や二十は破裂するかもしれないが、それぐらいはまあ、愛嬌だろう。

 

「いい弓じゃねぇか! 飛び道具同士勝負といこうぜっ!」

 

 自慢の愛銃を構えて男が吠えた。念弾を込めた銃口を向けると、カイトは既に、大弓を真円近くまで引き絞っていた。番えた矢は鏃が鋭く、膨大なオーラを内包している気配があった、引き金を絞るのと矢を放つのは、微塵も違わず同時だった。

 

 空間を貫いて念弾が駆ける。降り注ぐコンクリートを幾重も貫き、あやまたずカイトの放った矢を粉砕した。凄まじい爆発が巻き起こり、破裂した念が四方八方に飛び散った。至近で喰らったカイトは、きっとひとたまりもないだろう。さらに次弾を放とうとして、男ははたと気が付いた。渦巻く膨大なオーラの向こうに、カイトの気配が感じられない。衝撃波に乗って移動したのだと悟ったとき、既に脅威は迫っていた。

 

 真下。人体の死角からだった。長い髪をなびかせて、ぼろぼろになりながらも飛翔してくる。手には短剣。黄金と宝石で装飾された、近東風の豪華な反り刃。刀身に翼の意匠をもつその武器にも、柄頭にピエロが張り付いていた。

 

 速い。男は迷わず銃を乱れ撃った。右肩を貫き左腿を掠める。だが、カイトを止めるには足りなかった。交差は一瞬、短剣が振り抜かれたのは刹那だった。閃きすら置き去りにした超速の斬撃に、男はどこを狙われたかも分からなかった。ただ、直感を信じて上体を捻った。それが、幸いした。

 

 心臓を狙った軌道は肋骨の表面を撫でただけで終わり、辛うじて一命を取り留めた。紙一重。あと紙一重でも遅かったら、男は確実に死んでただろう。おぞましいまでの切れ味に、痛みすら感じる事ができないでいる。全身から冷や汗が吹き出した。

 

 上を見上げる。カイトは再び瓦礫を踏み締め、崩れ落ちる足場を走り出した。負けじと男も駆け上がる。そう何度も、窮地に陥るつもりはなかった。ひときわ強いオーラを喉にこめ、男はカイトへと接近しつつ声を上げる。

 

「お前はっ」

 

 カイトのオーラが耳に集まる。それを見越して男は銃を構えて、さらに間合いを詰めて銃口を押し付けるように肉薄する。カイトの短刀が銃を受け止め、格闘戦が始まった。能力への警戒を逆に利用したフェイントだった。が、真実フェイントだったのは。

 

「脚を滑らせるっ!」

 

 至近。渾身の大声にオーラをのせた。負けてもいい。それが男の本心だった。この賭けの結果破れたなら、一点の曇りもなく満足だろう。そう断言できるほどに全力だった。カイトの耳にオーラが集うが、対処は僅かな差で間に合わず、不安定な足場を踏み外した。

 

 相手のバランスが微かに崩れた瞬間を、男は見逃しはしなかった。がらがらと崩れていく瓦礫の底へ、カイトを全力で蹴り落とす。細い外見からは想像できない、堅く弾力性のある感触だった。鍛え抜かれた筋肉の蹴り味だ。

 

「じゃあな。楽しかったぜ」

 

 一分の世辞も抜きにそう呟いて、真下へと全弾を撃ち込んだ。積もっていくビルの残骸の山の中へ、全身全霊で放ったとどめだった。男が知る最上級の賛辞の贈り方だった。

 

 

 

 新市街にそびえる高層ビルの屋上に、ラフなシャツを着た人影が佇んでいた。黒く、深い眼が印象的な、やや童顔の男だった。額にバンダナを撒いており、耳には黒玉の飾りを着けている。厳戒体制が敷かれる最中、彼は自然体を崩そうとしない。片手には異形の本を持ち、黒髪をナチュラルに揺らしている。背後にはこの場所に配置された憲兵達が、虚ろな瞳で棒立ちしていた。

 

 クロロ=ルシルフル。無害そうに見えるこの青年が、泣く子も黙る幻影旅団の団長だった。双眼を旧市街の一画に向けたまま、じっと、味わい噛み締めるように静止している。

 

 距離があるにもかかわらず、クロロは先ほどの崩壊の一部始終を正確に把握していた。そして、欲しいという渇望が沸き上がった。昔からそうだ。捨てられたものを拾って暮らしたあの頃から、誰かのものを目にすると、それが無性に欲しくなる。

 

 始めは、ただ欲しかった。

 

「……ああ、オレだ」

 

 携帯電話が振動した。とれば、馴染みある声が流れてくる。団員からの連絡だった。

 

「そうか。いや、まだだ。遅れているなら丁度いい。夜まで待て」

 

 会話をしながら、クロロは改めて景色を眺めた。見晴しのいいこの場所からは、地平線の丸さが何となく分かる。地球を丸ごと、手の中に握った錯覚を得た。足下には、これから活気づく時分の都市があった。

 

「ああ、そうだ。あいつらには成否はどうあれ無理に合流する必要はないと言ってある。そっちはお前達だけのはずだ」

 

 寂しい街並だった。循環する自動車の血流はなく、人々の賑わいは露と消え、生活の気配は排除され尽くしていた。装甲車の覆帯がアスファルトを噛み、硬質な靴音がまばらに響く。乾燥した埃っぽい荒野の風に、いくらかの湿り気が混じっていた。空には灰色の雲が増えていた。午後か、遅くても今夜には降るだろう。

 

「パクが探したものを見届けたら、あとは好きにしろ」

 

 最後にそう付け足して、クロロは通話を切断した。一つ、息を吐く。

 

 パクノダはもう、生きてる望みはないだろう。クロロはそう判断し、それを前提に動いている。

 

 数日間、なんの断りもなく連絡が経たれた現状を、偶然と断じる愚者は旅団にはいない。何らかの不都合でコンタクトができないだけなどと、無為な希望に縋る甘さも同じだ。ならば、露見したと見るのが当然だろう。

 

 国に協力するハンターは残り三人しかいないという。彼等の立場に立ったなら、殺すのが合理的な選択だった。生かしておくなら、最低でも一人は拘束される。念能力者なしでの監視など馬鹿げた措置をとったなら、とっくに脱出してるだけの実力と機転がパクノダにはあった。

 

 なにより、彼の直感が告げていた。もう二度と、彼女にまみえる機会はないのだと。

 

 悲しいとは、思えなかった。少なくとも、団長としてのクロロはそうだった。旅団設立以前からの付き合いであるパクノダと死別しても、それを許容するだけのルールがあった。団長は悲しみに浸れない。私情を挟めないのではなく、私情が存在してはいけないからだ。

 

 自分の心を殺す程度の在り方では、蜘蛛の頭は勤まらない。

 

 幻影旅団はクロロの力だ。世界を動かし震撼せしめる、比類なき暴力の塊だ。今の立場に不満はなく、団員は大切な仲間だった。だが、それでも、時々は自由になりたくなる。

 

 そんな時、彼は一個人としてのクロロに戻る。髪を降ろし、入れ墨を隠し、コートを脱ぎ、一人、気ままにぶらつくのだ。

 

 摩天楼の上で空を見上げた。蒼く、宇宙へと続く、どこまでも深い空だった。

 

 

 

 カイトとの一戦を終えた男は、充実した気分でズボンのポケットに手を伸ばした。余韻でいっぱいに満たされた肺を、一服の紫煙で洗い流すのだ。一本を空中で口にくわえ、地上へ落下しながら期待する。心地よい疲れと達成感に苛まれる体を癒す煙草は、果たしてどんなにか旨いだろう。

 

 男は終わったと思っていた。ヘルメットと防弾着で統一された連中など、物の数とも思ってなかった。むしろ人目を気にしなくていい分だけ、一般人よりも容易かった。小銃や機関砲で武装するなど、男にとっては逆効果だ。

 

 だが、男が浸るいとまは無かった。

 

 飛来したのは手榴弾だ。他の銃口は一つたりとも火を噴かず、正確に男の落下予測地点を狙っている。路上で陣を組む小銃手から、建物の屋上のスナイパーまで。

 

 統率されているなと男は思った。手榴弾を抜き放った愛銃で迎え撃つ。正確に信管を貫かれ、沈黙してただの物体になった。念が込められた様子もない。強肩でコントロールも良かったが、単にそれだけの事だろう。そんな楽観が、覆された。

 

 弩砲の如き豪速。それは飛来する人影だった。拳銃が間に合わず、男は拳で迎撃する。オーラに触れれば嫌でも分かった。強い。カイトには一歩劣るが、こちらもかなりの使い手だった。堅の緻密さ、オーラの流れの静かさでは上かもしれない。連戦になるのは辛いかもしれない。が、それ以上に相手の風采が気にかかった。珍しい。そして妙だと男は思った。

 

 特殊部隊ご用達の防弾チョッキに上体を包み、全身を黒暗色でまとめている。フルフェイスのヘルメットは付けておらず、一般的な鉄兜に加えて妙な片眼鏡を右目右耳に装着している。ヘッドマウントディスプレイの一種だろうか。SF映画にでてきそうなデザインの機器は凝で見てもろくなオーラが込められておらず、念の産物とは思いがたい。極め付けはその武器だ。

 

 着地間際、お互いに蹴りを打ち放ち、その反作用で吹き飛ばされた。いい蹴りだ。アスファルトを削り接地する。タイミングを計っていたはずの斉射は来ない。一発たりとも発射されない。が、いぶかしんでいる時間はもらえなかった。全身のバネを見事に使って、件の能力者が刺突で迫る。始動に気配がない、恐ろしく静かな体術だった。

 

 武器。それは着剣したカラシニコフの自動小銃。7,62mmの大口径。マズルジャンプを抑制するため斜めに切られた特徴的な銃口部。金属製の折りたたみ式直銃床。AK47の改良型、AKMがバージョンの一つ、AKMS。加えて、先ほどの手榴弾。サブウエポンのピストルポーチ。嫌な選択をする野郎だと男は思った。念能力者が好む装備ではない。

 

 銃を武器にする能力者はいる。現に彼自身がその一人だ。が、それはあくまで個性であり、思い入れの象徴であり相棒だった。断じて、そう、断じて、銃自体の性能に依存するためではないのである。

 

 相当量のオーラを左手に込め、男は正面から銃剣を押さえ付けた。インパクトの瞬間、相手は硬で先端を覆った。迅速で精密な流だった。男の凝と敵の硬。結果は僅かに押し負けて、掌は銃剣に貫かれた。だが、関係ない。

 

 苛立ちに任せ、男は刃を握りしめる。掌の骨がミシリと歪んだ。右手に持っていた拳銃を顎で噛み持ち、唇の端だけでニヤリと笑った。握りしめた右手には、今や渾身のオーラが集まっている。眼前の青年は逃げられない、はずだった。

 

 突如、銃剣がガラスのように割れて砕けた。相手が周を解いたのだ。鋼の刀身は念能力者である男の握力に耐えきれず、敵は自由になった小銃を右手にバックステップで離脱した。置き土産のつもりだろう。ピンの外れた手榴弾が放られている。同時に、精密に同期して周囲の兵が発砲した。

 

 決まりだな、と男は見切った。こいつには、こいつの戦い方には、念能力者としての意地がない。あれほど楽しかったカイトの後では尚更に、興醒めする軟弱な野郎だった。

 

 ここで殺されるのはつまらなかった。地面を全力で蹴って後退し、バク転の連続で爆発と着弾を回避する。

 

「何をしてる! 狙うのはそいつだ!」

 

 念の素養のない者には、男の能力はことさらに効く。オーラの乏しい肉体は念能力に対する抵抗力が皆無な上に、心を鎮め、意思を高める修行をしてないからだ。

 

「あいつが本当の容疑者だ! 他の連中は騙されている!」

 

 弾幕が敵の仇となった。男が早口で叫ぶに足る時間を、あの青年は距離を詰めて阻害することができなかった。チャンスだ。瞬く間に混乱しだす連中を後目に、男は手近な路地に駆け込んで駆ける。背後では、銃声と怒号が連鎖していた。

 

 旧市街の裏側は汚く狭い。壁は迫り、地面には私財やゴミが散乱する。両側に連なる建物の壁面を蹴って宙を飛び抜けながら、男は左手に食い込んでいる破片を抜いた。

 

 念に愛着を持たない使い手はいない。己がスタイルにプライドを持たない能力者はいない。念とは、人生を糧にする技能である。膨大な時間を費やし、一心不乱に求めなければ得られぬ能力なのだ。今までの半生を象徴し、今後の歩みの礎となる。念を修得したものにとって、それは一つの定めだった。

 

 が、あいつは、制圧だけを目的に銃器を選んでいた。獲物に愛着を持ってなかった。念を覚えたての初心者でもなければ、途中で挫折した落伍者でもない。あれほど見事な念技を披露していたのだ。さぞや研鑽を積んだことだろう。だからこそ、男は不快感を覚えていた。

 

 男は楽しい戦いが好きだった。楽しくない戦いが嫌いだった。

 

 振り返ると、例の人物が後を追ってくる。男は少し見直した。この空間を移動する念能力者に追従するのは、同じ能力者でなければ不可能だ。部隊を離れ、一人で戦う決心をしたのだろう。少しは楽しくなりそうだろうか。

 

 路地を駆け抜け通りへ躍り出、直角に近く右に曲がる。踏み締めたアスファルトが陥没した。あらかじめ配備されていたのだろう。装甲車両に跨がった憲兵達が、手持ちの火器を破れかぶれに乱射してきた。無論、男は楽に全てを躱した。

 

「馬鹿野郎! 俺は味方だ! 次に出て来る奴が敵だろうが!」

 

 軽い嫌がらせのつもりで言霊をばらまく。足留めになるとは思ってない。たわいないジョークの代わりだった。

 

 目につくままに任せ、別の路地へとすぐに飛び込む。行き先は全く考えてなかった。なるようになると割り切っているが、ならなかったらそれもまた良しだ。だがあの敵には、自分を仕留めた手柄をやるのは面白くない。

 

 建物の連なりが流れていく。風圧が頬を打ち付ける。二人分の暴風が路地を駆ける。物陰で寝ていた野良犬が、迷惑そうに片目を開けた。

 

 敵が銃を構える気配があった。振り向くと、男を追い掛けながら右手だけで、拳銃のように腕を伸ばして構えている。銃器に慣れ親しんだ男には分かった。尋常ならざる正確な照準。あの小銃の弾丸は、間違いなく男に当たりたがっている。

 

 コンピュータ制御の火器管制を彷佛とさせる、感情のこもらない冷徹な狙い。男は一つ舌打ちした。青年が銃を当てようと構えているのではなく、銃の方が当てたい場所へ向いている、そんな錯覚さえ覚える精密無比な魔技だった。外れるイメージが湧かなかった。あとはただ、銃の集弾率次第で結果が決まる。

 

 だが、遅い。舐めるな。

 

 音速を少々超えた程度の、低超音速の小銃弾。それが一体どうしたというのか。円を展開するまでもない。男は苦もなく避けてみせた。飛来する弾に周はされていたが、やはり、これにも思い入れが全くなかった。オーラに、弾丸にこびり付こうとする執念がない。機械的にただ込められた、至極無機質な強化だった。

 

 それでも、体に当たればダメージになる。フルオートで自在に指切りしてみせる射撃の中には、弾道を操作されたものも混ざっていた。あるいは任意に破裂して、男の器官を化かしにかかる。それらにいちいち対処しながら走るのは、いくらなんでも面倒だった。ほんのわずかな集中の乱れが遅れを生み、少しずつ距離を詰められていく。

 

 煩かった。かといって本格的に応戦の構えをとったなら、それこそ相手の思う壷だろう。

 

 つくづく嫌な奴だと男は思った。つまらない戦い方のくせに実力はある。いやらしい戦い方に熟達している。だから余計にむかついた。ならいっそ、思惑に乗ってやろうと男は思った。

 

 拳銃から弾倉を振り出して、念弾六発分のオーラを左手で込める。これはただの儀式だった。こんな真似をせずとも、念弾はいくらでも発射できるのは当然だ。が、何となくだがこうしたほうが、弾丸を込めたイメージに浸れるのだ。事実として、一撃の威力が確かに上がった。

 

 体に染み付いた作業はほんの一瞬で完了し、振り向きざま、親指で地面を指すジェスチャーを送った。ちょうど駆けてきた路地を抜け、新しい大通りに出たところだった。辺りには人影も装甲車もない。だんだんと濁ってきた暗い空。忘れ去られて寂びた街。ロケーションとしては絶好だった。

 

 本当の銃の使い方を教えてやる。路面を削って止まりながら、男はそんな闘志に燃えていた。

 

 二十メートルほどの距離を開けて、二人の能力者が対峙した。西部劇のようだと男は思った。タンブルウィードの代わりに空き瓶が転がり、大地の代わりにアスファルトが乾く。

 

 言葉を使うまでもない。早撃ちは男の十八番だった。最初の一手は確実に、男の掌中に収まるだろう。

 

 静かに視線が交錯する。若い。改めてそんな印象を受けた。自分と同じかやや下だろうが、年齢以上に若く見えた。少し濃いめの金の眉。整った顔だちの白色人種。お上品ながらひ弱には見えない。さして面白みの見出せない、どこにでもいそうな優男だった。ただ、その瞳が、異様に冷たい。否、高低問わず熱という概念が見出せない。おぞましいまでに機械的で、その上でなお、人間としての深みがある。

 

 なんだこいつは。

 

 戸惑いが引き金を遅らせた。相手に先制を奪われるなど、ここ十年は無かった失態だ。その狭間に敵は間合いを詰めた。幾重にも残像を遺しながら、流れるように向かってきた。速くはないが、早い。こちらを幻惑しようとする不可思議な歩法。音に聞く肢曲という技だろう。

 

 オーラの移動が恐ろしく静かだ。誰にでもあるはずのムラがなく、動作の前兆の揺らぎもない。まさか、この歳で仙人の域まで達したのか。だとしたら随分と姑息な仙人様だ。

 

 銃剣の折れた自動小銃を槍にして、相手は突きを放ってくる。対して、男は左の拳で迎撃した。衝突でオーラの火花が散り、青年の体が微かに揺れた。オーラの質と量に比べて、身体強化の程度が低い。

 

 操作系か具現化系だな。相手に回し蹴りを放ちながら、男はそう判断した。強化系に属する肉体強化との相性は、放出系より一段下だ。明らかに具現化系であろうカイトは不利な条件でありながら基礎能力で男に拮抗してみせたが、目の前の敵は一歩劣る。それがそのまま、両者の力量の差なのだろう。

 

 だが、と男は考えた。それにしてはやや効率が高いような気がする。精密な技量で埋めているのだろうか。事実、全身のオーラが動きに合わせて異常に細かく蠢動している。が、どうにも何かが不可解だった。妙にすっきりしない相手だった。

 

 回し蹴りをガードさせ、生まれた隙に拳銃を構えて至近から撃った。敵はバックステップと同時に躱したが、勢いにまかせて二度三度と撃ち重ねる。無駄撃ちになるならそれでもいい。何かが掴めるだろうという判断だった。男の念弾は異常に速く、発射後の回避は間に合わない。そのため相手に強制させる回避行動の大きさは、凡百の念技の比ではなかった。

 

 だんだんと、男は興が乗ってきた自分を自覚した。こういう戦い方もできるならば、そう邪険にすべき相手でもなさそうだ。驚くほどの正確さで弾道を予測し最小限で避けた青年に、今さらながら興味が湧いた。

 

 が、そんな期待は脆くも崩れた。甲高い音が空から迫る。男はそれを知っていた。迫撃砲か榴弾砲。その、山鳴りの軌道を描き降りゆく砲弾の群れは、間違いなくこの一帯を目掛けている。これほどまでに短い時間で、どうやって射撃を指示したのか。技量は買うが、つくずく見下げ果てた根性だった。

 

「てめえ!」

 

 怒りつつ、男はオーラを練り上げる。妨害さえなければ離脱できる。否、してみせると強く決めた。

 

「おまえは、そこで止まっていろ!」

 

 怒鳴りながら、残った全弾を土産に撃った。曳火射撃か着発だろうか。どちらにせよ、自分で撒いた罠にかかって不様に死ね。男にとって、それは相手が被るべき当然の報いだった。

 

 しかし、敵に全く影響が見えない。凝で防いだ様子もなく、精神力で耐えた印象もなかった。初めから効力などないというかのように、澄まし顔のままで間合いを詰めてくる。この発を修得してはじめての経験に、逆に男が目を見張った。致命的な隙だった。

 

 AKMのフルオートを全身に受けた。堅で守る肉体では致命傷にはなり得ないが、猛烈に痛く、そしてなによりうっとうしい。硬直した男の懐に、青年は素早く潜り込んできた。投げか。男が意図を悟ったとき、体は既に落下していた。スローモーションに見える視界の端に、放棄されたカラシニコフが浮いていた。

 

 背中から、強かに路面に叩き付けられた。アスファルトの皮が路盤から浮いて、弾んで波打つほどの強烈な衝撃。辛うじて間に合った凝のおかげで、ダメージはそれほどでもなかったが。

 

 次の一手が、ひどくやばい。

 

 ガキリと、相手が一瞬硬直した。右手人指し指の先端にオーラが集まる。戦いの最中、不自然な全身停止をしてまで実現したのは、背筋も凍る密度の硬だった。男は考えずとも分かってしまった。致命的な、反則的な貫通力を持っていると。

 

 全て、このためか。見上げれば、敵の背後で砲弾が弾け、曳火射撃の雨が降る。起き上がる暇は全くない。男は死を覚悟した。だが、彼はこいつが嫌いだった。こいつに殺されるのは癪だった。例えつまらないこそ泥でも、男には男の意地がある。右手に握ったままの拳銃に、六発分のオーラを込めた。

 

 その上から更に、七発目の念弾を装填する。

 

 させじと敵が硬を放つ。が、高超音速マッハ数を誇る男の念弾には適うまい。銃身で照準を付ける必要はなかった。心の中で六発分、狙いを定めて引き金を引いた。一回の射撃で七発が、的外れな方向へ飛んでいく。強烈な虚脱感に襲われた。大量のオーラが流れ出た感覚。堅も儚く纏へと堕ちた。

 

 男は奥歯を噛み締めて、一心不乱に堅を立て直そうと試みる。起き上がることも後回しだ。曳火射撃などどうでもいい。その程度の脅威に、構っているだけの余裕はなかった。なにしろ、七発目がどこに当たるかは、彼自身にも分からないのだ。

 

 相手の体がぐらりと崩れた。当然だ。頚椎、心臓、左右それぞれの頸動脈、肝臓、金的。どれか一つでも必殺の急所。その全てに対してあやまたず、男の念弾が突き刺さったのだから。

 

 直後、男の体を念弾が貫く。大動脈。左心室直後の人体最大の血管を、銃弾は的確に打撃した。男の喉から空気が漏れる。絶叫にならない絶叫だった。練り上げたオーラと鍛え上げた胸板で辛うじて血管は破れなかったが、全身が弓なりになって痙攣した。口からは泡が吹き出していた。

 

 激痛に見開かれる男の眼。が、それは更に大きく開いた。止めどなく流れる涙に濡れて、ぼやけた瞳で男は見た。

 

 なぜ、敵は倒れていないのか。

 

 土壇場で硬を放棄した。それは分かる。が、そこから先がありえない。流の速度が異常だった。状況把握が正確すぎた。命中箇所にそれぞれ硬を分散して、的確かつ確実に防いでいた。時を止めたかのように、全てが完璧な対処だった。なぜ、あの刹那で全てを見切れたのか。オーラの量もありえない。なぜ、あそこまで急激に増加しているのか。なぜ。

 

 踏み止まった体勢のまま、無機質な眼球が静かに動いた。

 

 男の脳裡に浮かんだのは、いつか見た映画のワンシーン。壊れたと思ったロボットが、煙を上げて動いてくる。甲高い作動音を響かせながら、眼に映る人間を破壊する為に。

 

 男は全力で跳ね起きた。動かない体が動いたのは、粟立つ魂のせいだろう。股間の括約筋は完全に弛み、大小の排泄物を洩らしていた。生存本能の働きだった。今は身だしなみなど構ってられない。余計な荷物は留めておけない。そんなお上品な目的に、使っていいエネルギーは欠片もなかった。

 

 曳火射撃の雨の中、今、はじめて、男は眼前の敵に戦慄した。

 

 

 

 灰神楽だ。もうもうと撒き上がる土煙を、フェイタンはそう感じ取った。イラついていた。目に入る。愛用の衣装が埃で汚れる。だが、安易に抜け出る事は適わなかった。これも全ては、あの忌わしい女のせいだった。

 

 大空にいる光点を彼は見つめる。赤い、光り輝く一対の翼が、呆れるほど鈍重に旋回していた。確か、名をエリスと言っただろうか。クロロから彼女の性能を告げられた時、フェイタンは半信半疑だったのだが。

 

 再びエリスがダイブを始めた。急降下とともに両手にオーラを漲らせる。遠目にも分かる禍々しさ。纏をせず、辺りに無駄にばらまいている。が、何より脅威だったのは、あの女の念に力みや猛々しさが微塵も見えない点だろう。フェイタンほどの達人であれば間違えようがない事実である。練による増量の成果ではない。あのふざけた量のオーラは、あくまで彼女の自然体なのだ。

 

 フライパスとともに赤い閃光が降り注ぎ、豪快に周囲を薙ぎ払った。コンクリートの巨大な塊が容易く砕け、地面が深く陥没する。戦車の残骸がひしゃげて潰れ、榴弾砲の直撃に抗甚するひときわ頑丈なトーチカに、轟音と共に亀裂が入る。ウボォーギンをも遥かに超える破壊力。それが、何よりもフェイタンをイラつかせた。

 

 パクノダの報告の比ではない。現物は更に異常だった。あれほどの獲物が、あれだけの女が、なぜ、届かない場所を飛んでいるのか。手の届く場所にいたならば、全身くまなく壊せただろうに。

 

 降りて来い。そしてワタシに身を捧げろ。フェイタンは鋭い表情でエリスを睨み、煮えくり返るはらわたを焦がし続けた。散々に痛めつけられた彼の体は、憎悪をさらに増幅させる。

 

 また攻撃だ。粉塵だらけのこの場所で、光は是非もなく拡散する。それが粒子に動きを与え、閃光に複雑な乱流と乱反射を纏わせていた。威力こそ分散されているものの、危害範囲が尋常ではない。躱したはずでもダメージを喰らう。四方八方、全周から硬で殴られたかのような理不尽な打撃。

 

 逃げ回り、隠れる事に専念すれば、今はまだ捉えられる確率は低かった。エリスという女は間抜けにも、索敵がひどく不得手らしい。が、それでも、手近な遮蔽物は砕かれていき、行動範囲は削られていく。調子に乗った軍隊までもが、いらぬ手出しをしてきてうっとうしい。機関砲に戦車砲。腰抜けな長距離狙撃など発火炎をみてから離脱できたが、こう何度も繰り返されれば面倒だった。唯一ましだと言えたのは、マチが軍相手に暴れていて、奴らの意識は大部分がそちらに向けられている事だろうか。

 

 そもそも、なぜフェイタンが逃げ回り続けなければならないのか。彼はそれが気に入らない。剣も拳も、空を飛ぶ敵には届かない。エリスは常に羽ばたいて、都合のいいときだけ接近して攻撃を放ってくる。奪った銃を撃ってみることも試したが、赤い光に粉砕されて終わりだった。

 

 飛行船が二隻、悠々と爆弾を散布していく。フィンクスが落とさなかったものだった。フェイタンは全身のバネをしなやかに使い、全速で疾走を開始した。調子に乗ってやがる。ギリリと奥歯を噛み占めた。もう随分と長く戦っているが、炙りだされるのも時間の問題だった。せめてまともに戦わせろ。それが彼の渇望だった。

 

 勢いのまま機関銃トーチカの銃眼へ飛び込んで、乱入と同時に有象無象を断首した。人体から血液が勢いよく吹き出し、狭い壕内を鮮血が飛び交う。いい匂いだ。フェイタンは血糊の中で深呼吸して、久々の癒しを楽しんだ。苛立ちか微かに中和されて、少しだけ落ち着きを取り戻した。

 

 銃眼から外へ躍り出て、新しい気分でフェイタンは走る。地雷原だった。遮蔽物を利用しながら移動しつつ、数多の地雷が敷設された領域へ躊躇なく侵入した。地中に秘められた存在も、フェイタンの眼は誤摩化せない。一瞬の早業で地面を切って対人地雷を幾つも掘り出し、適当な穴に重ねて納めた。これでいい。あとは駆け引き、タイミング、そして風向きだ。

 

 遠くの丘で自走砲が軒並み暴発し爆散していた。きっとマチの仕業だろう。

 

 エリスをはめる事は簡単だった。ほんの少し存在をアピールしてやるだけで、猪突猛進に突っ込んでくる。なんて愚かな女だろうか。フェイタンは衣装に隠れてほくそ笑んだ。

 

 上空を通過しようとお決まりのコースに入ったのを確認して、フェイタンは地雷を強烈に踏み締めた。衝撃が信管を作動させて、彼の身体が宙へと吹き飛ぶ。硬で防御した肉体でもいくらかダメージが通ったが、そんな些事はどうでもよかった。

 

 呆然と、間抜け女が上を見る。エリスを見下ろすのは痛快だった。唇を釣り上げ、愛剣をしかと握りしめる。絶好のタイミングで空を舞って、フェイタンは最良の機会を手に入れたのだ。

 

 交差は一瞬。が、その寸前に。

 

 フェイタンの意図は、適わなかった。

 

「クソがっ」

 

 落下しながら悪態をついた。右腕は繋がっていた。辛うじて、原型らしきものは保っていた。が、骨という骨がひしゃげ、粉々に砕けきっていた。鍛え抜いた肉体を堅で包んだ上からでも、余裕で押しつぶす圧倒的な圧力。専門の術者に診せたとしても、完全な回復までいくだろうか。いや、それ以前に動かす事ができるのだろうか。それほど酷い損傷だった。

 

 エリスが、発光する腕をかざしたのだ。遠距離からの砲撃とは全く違う、威力の桁が違う閃光だった。

 

 体勢を立て直せないまま、肩から地面に激突した。そこは地雷の真上だった。爆風が猛烈に吹き上げる。傷付いた右腕に激痛が走り、肉体に滑稽な悲鳴を上げさせた。生涯最大の屈辱だった。

 

 とどめでも指す気なのだろう。エリスは離脱する事なく旋回し、再びこちらへ突っ込んできた。調子に乗った、売女が。

 

 もうもうと砂塵が舞う中で、フェイタンがゆらりと立ち上がった。限界を超えた怒りを全身に滾らせている。後の事などどうでも良かった。痛みを返す。それだけがフェイタンの存在する意義になった。

 

 彼の能力が発動した。【許されざる者(ペインパッカー)】。防護服が具現化する。念の密度が飛躍的に高まって、報復の為の鬼と化した。防護服の内側で無事な左の拳を握りしめ、地面へと全力で突き刺した。莫大なオーラが大地へ向けて浸透し、フェイタンは辺り一面を掌握した。半径25メートル以上のオーラの円陣。エリスは先ほどの二の舞を避ける為だろう。遥か上空でオーラを集中させていた。だが、その場所は。

 

 今のフェイタンにとって、あまりに低い高度だった。

 

 ボルケーノ。オーラを灼熱に変化させた。噴火の如く、怒濤の熱流が吹き上がる。クズ女を灰燼に期す為に。味わった痛みを返す為に。お前には土葬も勿体ない。無惨に、惨めに、孤独に、成層圏まで飛んでいけ。

 

 圧倒的な炎柱が雲を貫いて昇っていった。上昇気流が形成され、全てを吸い込んで巻き上げていった。フェイタンの能力が収まったとき、周りには何一つ残らなかった。

 

 春の午前の陽を浴びて、地面がキラキラと輝いていた。先ほどまでの面影は全くない、ガラス質の蕩けた地表だった。粉塵のない、爽やかな空気が流れている。静かだった。

 

 見上げると、広大な青空が広がっていた。飛行船が二隻、ゆっくりと炎を上げて堕ちていく。

 

 ——小川は流れず、丘はそびえず。

 

 体内のオーラをすっかり消費し、フェイタンの心は気怠い清涼感に満たされている。愉快を越えてすっきりしていた。苛つきは既に残ってない。痛みも、今だけは忘れていいだろう。世界はこんなにも美しかった。

 

 そして、彼の命は消失した。

 

 たった一発の銃声が、静寂の中に鳴り響いた。フェイタンの胸板の中心を、しっかりと見据えて射撃していた。およそ1km先、潰れた建物の瓦礫の中、死に瀕しても冷静なままだった一人の狙撃手。名も、顔も、何も知らない一介の兵士の、なんの変哲もないただの狙撃。

 

 銃声を切っ掛けに、思い出したように攻撃が始まる。戦車が、榴弾砲が、機関銃が、倒れゆくフェイタンに向けて猛攻を加えた。肉体が砕け壊れていった。

 

 だが、銘記せよ。彼の命を奪ったのは、強力な念の使い手でもなければ破壊に長けた兵器でもなく、どこにでもある一発のライフル弾だったのだと。

 

 

 

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【第七の弾丸(ブレット・オブ・ザミエル) 放出系・操作系】

愛用の拳銃を介して念弾を7発同時に放出する。

7発中6発は能力者の意図する箇所に必ず命中し、残りの1発は能力者が無意識で最も命中してほしくないと願う箇所へ必ず命中する。

ただし能力者が存在を明確に認識していない対象は標的にならない。

弾丸は個々が独立して自動制御され、自らを構成するオーラを消費して円を展開し索敵する。

このために通常の念弾よりも距離にる減衰が激しい特徴がある。

 

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次回 第十八話「雨の日のスイシーダ」



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第十八話「雨の日のスイシーダ」

 地下。リノリウムに赤い河が流れている。照明は所々破裂して薄暗く、白かった壁は面影もない。分厚い鋼鉄の隔壁に、豪快な穴が開いていた。兵器による整った破壊ではなかった。もっと原始的で強引な、単純な打撃の跡だった。かつて人体だった名残りの破片が、長い通路に散乱している。壊れたスプリンクラーが一つ、延々と誤作動を続けていた。地中雨が降っていた。

 

 シャルナークとフィンクスが歩いているのは、そんな、終わってしまった世界だった。彼等以外、動く人影はどこにもない。靴が血を踏み締めるのも気にせずに、二人は肩を並べて歩いていた。足取りを邪魔する者は一人もいない。妨害できるような人間は、どこにも残っていなかった。

 

 フィンクスは大きな袋を担いでいる。身長の半分近くもあるだろうか。その荷物は、ひんやりと念入りに冷やされていた。

 

「よう、マチ。待たせたな」

「あれ、フェイタンは?」

 

 地下司令部を出て地上へ上がり、二人はマチと合流した。もう一人の仲間の姿はない。問われたマチは簡潔に答えた。死んだよ、と。

 

「例の女か?」

 

 フィンクスは最小限の確認をする。冗談などとは思っていない。そのような事、眼前の女が口にするはずなかったのだ。だが、彼女は違うと否定した。

 

「キレてその女を消し飛ばした後、オーラを使い切ったとこに狙撃を受けたんだ。死体もどこにも残っちゃいないよ」

 

 二人は顔を見合わせた。

 

「あいつらしいな」

「だね」

 

 オーラの加護あっての念能力者だ。一般人から見れば非常識なほど肉体を鍛えていたフェイタンだが、体を鋼鉄製にしたわけではない。激情に任せて能力を使用する特性の弱点を、見事に突かれた形だった。

 

 詳しくは歩きながら話すよと、マチはさっさと振り返って発とうとする。言葉は普段以上にそっけなく、動作の節々が少し重い。機嫌が悪いようだった。なんだかんだ言っても仲間の死が、胸に突き刺さっているのだろう。彼女はそういう性質だった。

 

「あ、マチ。その前にちょっとこれ見てよ」

「……なんだい?」

 

 シャルナークが指して示したのは、フィンクスの担ぐ荷物だった。下ろされて、ジッパーが彼女に向けて開けられる。マチの眼光が険しさを増した。そのままじっと数秒間、彼女は袋の中身を見つめていた。

 

「……勘だけど」

 

 十分だ。二人は無言で頷いて、マチに続きを促した。彼女の勘は極めて鋭く、旅団の皆が信頼していた。

 

「パクだと思う」

「やっぱりな」

「まあ、間違いはなかったって事で。団長にはオレから報告しとくよ」

 

 携帯電話を取り出してシャルナークが言った。最後に情報を纏めるため、親指を高速で動かして操作している。言われた通り彼に任せ、フィンクスとマチは一足先に歩き出した。未だに敵中であるこの場所で、ぞっとするほどゆとりがあった。

 

「んじゃ、オレは保冷車でもかっぱらって来るか。速度でそうなのが見つかるといいんだがなぁ」

「向こうに合流する気かい? 団長は無理に急ぐ必要はないっていってたじゃないか」

「馬っ鹿、おまえだってこんなんじゃ全然暴れたりねぇだろ。なあ?」

「あんたやフェイじゃないんだからさ。で、間に合うのかい?」

 

 間に合わせるさとフィンクスは笑った。会話の内容は物騒だったが、快活で嫌味のない笑みだった。

 

「げ」

「なんだよ」

 

 突然声を上げたシャルナークを、フィンクスが訝しげに振り返る。

 

「マチ。そのエリスって女、確かにフェイタンの能力を受けたんだよね?」

「間違いないよ。アタシの記憶が確かなら、一番強力な奴だった。どうしたんだい?」

「生きてるらしいよ」

 

 二人へ向けた携帯電話の液晶には、誰かの視点が映っている。総司令部に食い込めるような人物なのだろう。指令室の慌ただしい騒乱ぶりは地下への侵入者によるものだろうが、それとは別に、壁面の大型モニタにもう一つの重要情報が踊っていた。

 

 エリス・エレナ・レジーナ、生存確認。現在位置——。

 

 今度は、フィンクスとマチとが顔を見合わせる番だった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 体中が痛んで目が覚めた。胡乱な頭で辺りを見回す。白い天井、白いシーツ。蛍光灯が明々と灯る病室の中、わたしはベッドで寝かされていた。

 

「気が付きましたか」

 

 声がして、顔を向けると誰かがいた。五十歳ぐらいだろうか。白衣を着ていて、いかにも医官って格好の女性。柔和な微笑みの目尻には、隠しきれない疲れがあった。

 

 痛む腕に力を込めて、上半身を起こしてそちらを向いた。尋ねたい事は山ほどある。この場所の事、今の時刻の事、犯人や襲撃者の人達の事、そしてなによりアルベルトの事。だけど、声を出そうとして咳き込んだ。喉が、肺が、ずきずきと焼けるように痛くて熱い。

 

「急がなくても大丈夫ですよ。お水、飲めますか?」

 

 優しく笑って、女の人が水をくれた。コップを両手で受け取って、ちょっとずつ喉の奥へ流していく。それだけでもう痛いけど、水はとても美味しかった。体が水分を欲していた。

 

「お目覚め次第ワルスカ大将に取次ぐよう指示を受けておりますが、よろしいですか?」

 

 頷いた。一にも二にも情報が欲しい。一体何がどうなったのか。とにかくそれが知りたかった。わたしの意志を確認して、女性は部屋を出ていった。ふらつくように、だけど隠しようもなく足早に。

 

 その行動に違和感を感じて、改めて自分の状態を見直して気が付いた。わずかだけど、纏が緩んでオーラが漏れてる。念の使えない人間には、堪え難い嫌悪感を与えるはずのわたしのオーラが。あのおばさんやわたしを回収してくれただろう人達は、これに耐えてくれたんだ。頭が下がる想いだった。

 

 緩みかけたリボンを締めるように、纏をもう一度しなおした。見れば、ドレスもほとんど乱れてない。普通、こういうときは服を切るか脱がせるかして、怪我の確認や治療行為の一つもすると思うけど、襟元がちょっと寛げられてるぐらいだった。だけどそれだって、どれだけ決死の覚悟でしてくれたのか。本当に迷惑をかけてしまったようで、申し訳ない気持ちになった。

 

 体内にオーラを循環させると、少し体が楽になった。喉もヒリヒリと痛いけど、何とか喋る事はできそうだ。相変わらずこの体の回復力は、出鱈目なほどに高かった。

 

 落ち着いてくれば思い出す。あの、迫り来る炎の奔流を。とっさに翼で遮ったけど、余波だけで喉を焼かれてしまった。憶えている。とても怖くて熱かった。全開にしたオーラでも防ぎきれず、がむしゃらに翼を延ばして繭にした。

 

 いったいどれだけ想いを込めれば、あんなオーラが出せるんだろう。どれほど修行に専念すれば、あんな高みに至れるんだろう。生まれつき能力を持たされた私とは全然違う、人生に息づいた念だった。あの人達がやってる事には絶対賛同できないけど、ひた向きな在り方は眩しくて、憧れてしまう自分がいた。

 

 だけど、そういう真っ当な努力を積み上げる人達を、わたしは踏みにじりながら存在している。今までも、そして確実にこれからも、その中にはもちろん、アルベルトだって含まれている。

 

 考え込んでるうちにノックが聞こえた。どうぞと言うとドアが開く。一人で入ってきたワルスカさんは、わたしを見るなり破顔した。

 

「おお。元気そうじゃないか」

「ごめなさい。迷惑をかけてしまったみたいで」

 

 ガラガラの声で応対する。頭がズキンと強く痛んで辛かったけど、全力の猫かぶりで微笑んでみせた。女の子をなめたらいけないのだ。

 

「いや、こちらこそすまんな。我々のため、命がけで早期出撃してくれた恩人に対して、ろくな検査も治療もしてやれなかった」

 

 そう言って、ワルスカさんは一つのポシェットを差し出してきた。それを間違えるはずがない。わたしの大切な宝物。慌てて中身を確かめれば、卵の化石は確かにあった。ひび割れの一つも見あたらなかった。ほっとして脱力してしまうわたしを優しそうに眺めながら、ワルスカさんはベッド脇に粗末な丸椅子を置いて座った。

 

「さて。じっくり話し込みたい所だが、あいにくと私にも時間がない。手早く説明させてもらうがよろしいかね?」

 

 異論なんてあるはずない。ポシェットを抱き締めながら頷いた。ワルスカさんがやや早口でまくしたてたのを要約すると、だいたいこんな感じになる。

 

 あの時、敵の攻撃で吹き飛ばされたわたしは、衛星携帯電話の測位システム端末が生きてたおかげで素早く位置を特定してもらえ、空中衝角艦サンダーチャイルドによって回収された。その際、謎の恐怖感によって少々の停滞は生じたものの、基本的には作業に支障はなかったらしい。……本当に、凄い人達だ。

 

 そしてわたしはここ、首都中心部にある軍医大学付属病院に運ばれた。搬送されたのは二時間ほど前の事らしく、意識が戻って今に至る。ちなみに現在時刻は十三時を少し回ったところ。雨期のタイムリミットまではまだあるけど、作戦開始からはかなりロスをしてしまってる。

 

「駐屯地の方はどうなりました? それに、カイトさんとアルベルトは?」

 

 一番気掛かりだった2つを聞くと、ワルスカさんの表情が苦々しいものに変わってしまった。まさか、と血が引ける。アルベルトになにかあったのだろうか。

 

「カイト君は行方不明、レジーナ君はダメージを負って直接戦闘は厳しい状態だ。そして駐屯地だが、あの時は君に告げてなかったが、戦いの最中、我々は地下司令部への侵入を許してしまっていたのだよ。既に、敵の離脱を許した後だ」

 

 理解した瞬間、立ち上がった。ベッドから降りてドレスを整える。体の痛みなんて関係ない。行かなきゃいけない。爪先から頭の上までガンガン鐘を鳴らしたようだったけど、まともに歩けずふらふらするけど、じっとしてられるはずないじゃない。

 

「出ます。どこへ向かえばいいですか?」

「待ちたまえ!」

「……ワルスカさん?」

 

 信じられなかった。わたしが切り札だと言うのなら、いま使わなくてどうするのか。わたしにだって分かるぐらい、作戦の成否が決まる瀬戸際なのに。

 

「だからこそ、だからこそだ。切り札には切り札でいてもらわなければ困るのだ。時間稼ぎなら我々でもできる。君には、君にしかできない仕事がある。それに、最悪の事態だけはレジーナ君が防いでくれているのだよ」

 

 ワルスカさんは言った。犯人の場所を割り出し、拘束が成功している限り、我々の勝ちは決まっていると。あとはどう勝つか。その勝ち方の問題なのだと。

 

「夜までには到着できるように艦を出す。君はそれまで、全力で休んでいてくれたまえ。何か用意すべきものがあったら教えてほしい。力の及ぶ限り手を尽くそう」

 

 犯人の念能力がよほど状況にマッチしたのか、向こうでは大混乱が起きてるらしい。崩壊寸前の前線を、アルベルトが超人的な能力と努力で支えている。それを無駄にしない為にも、わたしは回復しなければいけない。万全でなければ、荷物になりにいくだけだ。ワルスカさんに、そう諭された。

 

 たぶん、それは正しい。悔しいけれど、すごくすごく悔しいけれど、今のわたしは自分の中の漏れちゃいけない声を押さえる事で精一杯で、他の事に廻すオーラが足りない。直感的に表現すれば、とてもお腹がすいている。勢いに任せて暴走させてしまったなら、新しい問題を増やすだけだ。

 

「……分かりました。シャワーと食事を用意して下さい」

 

 ベッドの縁に座り込んで、わたしは観念して休む意思を伝えた。ワルスカさんが大きく頷く。

 

「うむ。食事は軽いものかね?」

「いえ、お肉を」

「肉を?」

「はい、がっつり食べられる肉っぽい肉を山ほどお願いします。ああ、それから」

 

 ふと思い付いた。験くらい、担いでみてもいいかもしれない。

 

「もし手が空いてる方がいれば、司令部からわたしの衣装をとってきて下さい。薄い緑のドレス一式が、衣装ダンスの中に入ってますから」

 

 ハンター試験に合格した時、わたしが着ていた緑のドレス。アルベルトが選び、似合ってると褒めてくれた宝物。大切すぎてあれから袖を通す事はなかったけど、着れば、強くなれる気がしたから。

 

「ワルスカさんは、これからどうなさるんですか」

 

 わたしがベッドに横たわったのを見届けて、退出しようとする時に何気なく聞いた。

 

「そうだな。告げておかねばならないか」

 

 だけど、振り向いた視線は鋭かった。体から漏れるオーラは乏しいのに、立ち上がる気配が歴戦の念使いのそれだった。強い。わたしの五感が誤作動した。念の代わりに、壮絶な覚悟を纏わせていた。

 

「現場の人間に規程以上の奉仕を要求する際に、上がしてはいけないことはなんだと思う?」

 

 ワルスカさんが質問した。正解は、とっさには浮かびそうにはなかったけど、思い付くままに口にした。

 

「上限をわきまえない事ですか?」

「いや。切り捨てられている、と実感させてしまう事だ。一方的に要求して、彼等を都合よく利用する事だ。上が思っている以上に現場は聡い。安全な場所にいながら精神論を説いた所で、彼等の心を震わせる事はできないだろう。現場に上層部への一体感をもってもらう為には、我が身を削って報賞を出し、彼等が被る不利益を共有する覚悟がいる」

 

 具体的には、金銭であり勲章であり保証であり、最たるものは死の危険だとワルスカさんが説明する。

 

「軍人という連中はね、究極的には、隣で戦う仲間の為に死ぬんだ。国でも、金でも、遠くで待ってる家族でもなく、たまたま配属が同じになっただけの仲間の為に勇敢に振る舞う。私はもう、前線には出れない立場だが、それでも有事に安楽椅子に座ったまま部下を死地に追いやりたくはないのだよ。あの辛さはね、年寄りにはたいそう堪えるんだ」

 

 死ぬつもりですか、とは聞けなかった。わたしがしていい問いじゃないと思ってしまったから。こんな部下思いの上司さんがいれば、現場の人も笑って死んでいけるんだろうか。——それでも。

 

「ワルスカさん。もう一つだけ、お願いがあります。この卵、どうか預かって頂けませんか」

 

 化石の入ったポシェットを差し出してそう言った。ワルスカさんが困惑で眼をぱちぱちして、ちょっと可愛くて面白かった。こんな年輩の男の人でも、そんな表情をするなんて。

 

「大切なお守り、ではなかったのかね」

「はい。でも大丈夫ですよ。まだもう一つ、母の形見のお守りがありますから」

 

 首元に揺れる、翡翠のネックレスに触れてわたしは言った。

 

「それをどうするかはお任せします。誰かに預けて、保管して頂いても構いません。だけどわたしは、ワルスカさんから直接、手渡して返してもらいたいです」

「しかし、私は……」

 

 わかってる。無粋だって。場の空気の読めない、生意気なおせっかいをしてるだけって。だけど切り札が気持ちよく出撃するには、これは絶対に必須事項。自信満々にそう断言して、わたしはワルスカさんの大きな掌にポシェットを押し込んだ。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「良かったのかい?」

 

 3t保冷車のハンドルを握るシャルナークに、中央席に座るマチが尋ねた。助手席では、フィンクスが盛大にいびきをかいている。アクセルはベタ踏みに近い暴走状態。このままハイウェイを爆走すれば、夜半には他のメンバーに合流できるだろう。その後で少々時間を食っても、荷台のパクノダは痛むまい。

 

「何が?」

「あの飛行船だよ。それが欲しくてこの国にきたんだろう?」

 

 ああそれ、とシャルナークは納得する。確かに、当初はそれが動機だったが。

 

「興味があったのはどちらかといえば技術そのものだったから」

 

 遷音速飛行を可能にする、機体に施された低ムーブ化の設計技術。それが気になったとシャルナークは言った。実機は、ついでに欲しただけだった。

 

「そうかい。ちょっと残念だね。旅団専用飛行船ってのもちょっと興味はあったんだけど」

 

 珍しい事を言い出すマチのセリフがあまりに似合わず、シャルナークが思わず吹き出した。自覚していたのだろうか。睨み付けるマチの瞳はいつもよりわずかに力がない。彼女にそんな顔をさせるならば、盗んでおいた方が良かっただろうか。自身の手で命運を決めてしまった飛行船を、シャルナークは改めて惜しいと思った。

 

 が、どちらにせよ軍用飛行船を13名で運用するという構想は、どう考えても無理がある。オートメーション化が進んだ現代とはいえ、空中戦闘艦の乗員は最低でも50名以上が相場なのだ。戦闘行為をしない前提で、冗長性を完全放棄すれば要員はぐっと減りはするが、それでも旅団では無理があった。

 

 シャルナークはくつくつと笑い続ける。そんな彼にそろそろ肘鉄を決めようかとマチが思案していた時、助手席のフィンクスが欠伸をした。指で涙を拭いてから、備え付けの時計を確認する。

 

「お。そろそろ運転交代か?」

「うーん。ちょっと早いけど頼めるかな」

 

 フィンクスはまかせろと請け負った。車を路端に止め、座る位置を交換する。その途中、ふと空を見上げたシャルナークは、何もない事を確認した。

 

 彼が押し付けてきた置き土産は、未だに作動条件を満たしてない。

 

 

 

 マンホールの蓋が開いた。内側から僅かに持ち上げられ、ゆっくりと横にずれていく。褐色の小さな掌が、下から重そうに支えている。そしてやがて、地中から銀髪の少女が這い出てきた。下水道の中を彷徨った為にあちこち汚れ、泥にまみれて湿っていた。

 

 日は暮れ、宵の始まる時分だった。新市街の夜は明るく楽しくきらびやかで、今の少女には少し寒い。住人達の息遣いがなく、軍靴と装輪がまばらに過ぎるだけなのがせめてもだった。春とはいえ、荒野の夜風はまだまだ冷たい。空に爪を立てる摩天楼が囲む街の底で、少女は孤独に上を眺めた。涙は、ついぞ湧いてこなかった。

 

 どうして教えてくれなかったのか。どうして連れて逃げてくれなかったのか。それを恨む権利は少女にはなかった。ついていきたいと願ったのは彼女のわがままだったのだし、あの男は閨物語であってさえ、愛を囁いてはくれなかったのだ。それぐらい分かってはいたのだが、それでも。

 

 今も、過去も、これかも、少女はずっと一人だった。たぶん、それが真相なのだろう。

 

 疲れて重い体を引きずって、棒のような脚で誰かから逃げる。どこへ逃げればいいのかなど知らなかった。どうして逃げているのかすら分からなかった。追われている者の本能として、ただただ逃げているだけなのだ。

 

 体の芯が痛かった。崩壊の際、地面に叩き付けられたのが原因だった。よくぞ死ななかったと今でも思う。少女は運がよかったのだ。あの時、無意識にオーラを纏うことができなかったら、直後、包囲していた憲兵達が突然混乱しなかったら、少女はここにいなかったろう。それでも、痛い。疲れた。つらい。

 

 一歩ごと、一息ごとに心が削れる。俯きながらふらふらと、よろよろと歩き続けていた。へたり込んでないのは気力ではなく、単に惰性の産物だった。

 

 国家憲兵隊の哨戒網は、何故か混乱の極みにあった。あちこちで同士打ちが相次いで、クーデターまで発生してるらしい。組織としての機能は残ってなかった。そのおかげで、少女はあてもなく街を彷徨い続けた。

 

 いつしか、少女はそこに迷い込んでいた。ビルの谷間に闇があった。街灯に照らされる通りの側に、暗闇がごろんと転がっていた。

 

 照明に乏しいその空間は、どうやら緑地のようだった。こじんまりとしていて、木々で囲まれた中に広場がある。遊歩道が通っていて、見覚えのあるベンチがあった。音はなく、ハトの姿は見えなかったが、見覚えのある、公園だった。

 

 少女の胸から想いがこぼれた。いつかの記憶が溢れてきた。

 

 神様、私はあなたの存在なんて、信じた事はなかったけれど。

 

「素敵です」

 

 少女は小さく呟いた。小さすぎて、口の中でかき消えていたかもしれない。それほど微かな、だけども切実な感謝の祈りだった。

 

 ふらふらと、吸い寄せられるようにベンチへ近付く。手をつけば、確かにそこに実体があった。幻ではない。それだけで涙が滲んできた。堅い。堅いのにどこか優しかった。座れば、ひんやりととした感触が背中に伝わる。

 

 少女は今まで知らなかった。座るとは、こんなにも楽な事なのだと。酷使した脚から乳酸が抜け、体中が癒されていく。このまま泣きじゃくりそうになった。これで煙草の匂いが嗅げたならば、彼女は確実に泣いてただろう。

 

 これからどうやって生きていこうか。少女はぼんやりと考えていた。男から渡された財布があれば、しばらくの間は食べていける。あの時これを渡されたのは、優しさの証だと信じたかった。決別の代価だとは思いたくなかった。それでも、革のそれを抱き締めるたび、小さな胸は苦しく締め付けられるのだ。

 

 このまま眠ってしまおうかと、少女は疲れた頭で考えていた。その時、生き物の息遣いが耳に入った。人間ではない。もっと野生的なものだった。

 

 ベンチに座る少女の前に、老いた野良犬が近寄ってきた。餌をねだろうとでも考えたのか。よだれと、すえた匂いを撒き散らしている。こんなみすぼらしい年寄り犬が、この街にいて無事に済むはずがない。新市街の衛生委員会に駆除されてないのなら、寝床を捜査部隊に追い出され、旧市街から逃げてきたのだろう。

 

 今は惨めなこの犬も、かつては勢力を誇りもしたのだろうか。野良犬の骨格は大きかったが、ガリガリに痩せて疲れていた。右耳は千切れ、後ろ右の足はびっこをひいて、凛々しい灰色だったはずの体毛は白い毛が多く混じっていた。

 

「おいで?」

 

 招くと、老犬は大人しくすり寄ってくる。少女は優しく抱き上げた。こんなに寂しい夜ならば、獣と添い寝するのもいいだろう。抱き寄せた体は動物の臭いがとても濃い。腕の中で静かに息をする犬の毛を、少女は手櫛で愛でて微笑んだ。どうやらオスのようだった。

 

 お腹が減ったな。少女は夜空を見上げて思い出した。思えば、朝から何も食べてない。この場にウサギのシチューの残りがあれば、どんなにか喜んで食べただろう。そんな事を思っても、虚しいだけの妄想だった。

 

 ガサリと、今度は人間の気配がした。黒い闇に映える黒い上下。少女はそれを見慣れていた。間違いなく、国家憲兵の制服だった。草を踏み分けながら近付いてくる。一人しかいないようだったが、もとより少女の適う相手ではない。念の基礎は憶えていても、格闘に活かす術がなかった。短い一人旅だったなと少女は思った。緊張を隠す事もできないまま、老犬の首をギュッと抱いた。だが。

 

「よう。ここにいたか」

 

 聞きなれた声に思考が麻痺した。気楽で、馬鹿で、幼稚で、スケベで変態な声だった。だけど、何よりも聞きたかった声だった。二度と聞けるはずのない声だった。それでも、眼の前にあるのはどう見ても、会いたかった男の顔だった。

 

「元気そうじゃないか。おい、どうした?」

 

 幻であればいいと少女は思った。幻であってほしいと少女は願った。今のうちに幻であると知れたのなら、これ以上傷付かなくて済むのだから。

 

 だというのに、彼は無遠慮に近付いて、少女の頭をぐりぐりと撫でた。特徴的な、強すぎる頭の撫で方だった。少女が間違えるはずがない。あんなにも嫌いな、……嫌いだった、撫で方だった。

 

 少女の目が見開かれ、幾度か瞬きを繰り返し、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。腕に増々力が入って、野良犬が迷惑そうに体をよじる。嗚咽が漏れそうになるその前に、男を見据えて少女は言った。

 

「遅いですっ。もっと早く見つけて下さいよ!」

 

 何とかそれだけを絞り出して、後はぐしゃぐしゃに泣き出した。涙と鼻水で顔を濡らし、みっともなく顔を歪めていた。そんな表情は、男に見せられたものではなかった。犬の汚れた首筋に、少女は顔を突っ込んだ。

 

「いや、別に探してた訳じゃねえんだけどな」

 

 偶然見かければ声ぐらいかけるさと、男は臆面もなく台無しなセリフを吐き出した。だが、少女は怒りなどしなかった。会えただけで良かった。声を掛けてくれただけで嬉しかった。忘れられてなかったなら、それ以上はもう、何一つ言う事もなく満足だった。ただひたすら、うん、うん、と頷きを繰り返す。

 

 十分か、二十分か、あるいはもっと短かったか。少女が落ち着くまで、男は何も言わなかった。何かを考えるようにじっと眺め、その場を動かず立ち続けた。

 

「……座りませんか?」

 

 嗚咽の名残りが混ざった声を恥じるように、小さな声で少女が尋ねた。抱きかかえていた野良犬を地面に下ろす。懐かれてしまったのだろうか。犬は逃げる素振りもなく、彼女の足下で丸くなった。少女はベンチの左端に少しずれて、開いた場所を右手でポンポンと叩いてみせた。

 

「おう。……なんだ。ずいぶん冷てぇな」

「ええ、冷たかったんですよ」

 

 隣に男の肩の気配を噛み締めがら、少女は愚痴にも似た愛の言葉を紡いでいく。服を着替えているからだろう。煙草の匂いがいつもより薄い。それが、ほんの少しだけ残念だった。

 

「なんで、そんな格好を」

「聞くな」

 

 男は嫌そうにそっぽを向いた。なにか、恥ずかしい事情でもあったのだろうか。声色はどこか拗ねていて、柄にもなく頬が染まっていた。くすりと笑った。少女は泣き腫らした瞳で微笑んで、沸き上がってくる幸せを噛みしめていた。男の左腕を抱き締めようか、自重しようか迷っていた。これぐらいは許されるかとも思ったが、重たい女にはなりたくなかった。

 

 妥協して、男の左手を握ろうとした。我ながら度胸がないなと少女は自分に苦笑する。だが、楽しかったのはそこまでだった。恐る恐るとった掌には、何かおかしな感触ががあった。男が痛みに顔を顰める。慌てて様子を確かめれば、少女から一気に血の気が引いた。

 

 穴が開いていた。オーラの作用だろうか。出血こそ酷くはなかったが、刺し傷が手の甲まで貫通していた。

 

「どう、して……?」

 

 震えながら男を見上げると、忌々しげに振り払われた。

 

「なんでもねぇよ。これぐらい唾つけときゃすぐ治る」

 

 が、憮然とした顔がすぐに歪んだ。思わず左胸を押さえる男は、とても痛そうに少女には見えた。

 

「……脱いで」

「あ?」

 

 少女の声が冷えていく。喜びも、悲しみも、疲れも、ひもじさも全て忘れていた。

 

「服、脱いで下さい」

「おいおい。なんだってお前そんな」

「いいから脱いでっ!」

 

 胸ぐらを掴んで引き寄せて、半ば無理矢理にボタンを外して脱がせていく。男も、抵抗したければできただろうが、面倒だったのか少女のなすがままにさせていた。制服の前を開き、シャツをめくり上げたその先には、生々しく巻かれた包帯があった。あちこち、無数に紅が滲んでいる。

 

 数秒間、少女は理解できず固まっていた。そしてそのまま脱力した。また泣いちゃおうかな、なんて、そんな誘惑に溺れたかった。

 

 ひときわ酷い、左胸のシミをそっと見つめる。命に別状はないのだろうか。苦しくて心臓が止まりそうで、悲しくて。撫でて慰めてあげたかったが、触れればきっと痛いのだろう。じっと注意して見つめれば、男のオーラそのものも、どこか不安定に揺れていた。

 

「そんな顔するなって」

 

 乱れた服を直しながら、男が飄々と気楽に言った。少女には理解できなかった。どうして笑っていられるのか。なんで戦いが怖くないのか。死んでしまったらどうするのか。

 

「相手は、ハンターですか?」

「ああ、そうだろうな」

「これからどうするつもりですか」

 

 それを聞いてしまっては、この逢瀬が終わると分かってたけど。

 

「決まってるだろ。次は勝つ」

 

 そういう意味じゃなかった。そんな返事は期待してなかった。しかし、少女は理解していたのだ。男は少女の願いを分かった上で、あえてそんな答えを返したのだと。

 

「お前ももう、好きにしろ。じきに砲撃が始まるはずだ、街の外に空挺師団がいる。今は街から出ようとする人間を無差別に殺してるだけだが、動き出すのは時間の問題だ。この街にいる全員を殺すつもりでな。だから、生き延びたければ地下へ潜れ。金が足りなきゃ、これでも持ってけ」

 

 一応、貴金属だからだろうか。男は懐からスキットルを取り出して、少女の手の中に押し込んだ。それは古びた銀製で、中身がちゃぽちゃぽと揺れていた。時折飲んでた、ウイスキーの残りだろう。

 

「砲撃、ですか。そんな手があるなら、なんで今までそうしなかったんでしょうか」

「ハンターが残ってるからだろうな。最低、一人は生きてるはずだ」

 

 会話を繋げ、少しでも長く留め置きたい一心で尋ねた少女の疑問は、あっという間に氷解する。

 

「その人に負けたんですか」

「まあ、な。悔しかったぜ。無機質な眼の、そりが合わない奴だった」

 

 少女は男と一分でも、一秒でも長く一緒にいたかった。危険な場所にはこれ以上、近付かないでほしかった。だから、すがれそうな話題に飛びついた。

 

「たぶんその人、私も見ましたよ。ちらっとですけど。金髪の、若い男の人ですよね」

「どう感じた?」

 

 壊れた箪笥の隙間から伺った、あの時の記憶を少女は紡ぐ。

 

「怖かったです。私も、多くの男の人を見てきましたし、他人の感情には敏感だったつもりですが、あんな瞳ははじめて見ました。あの人には本能が、性欲が、私が一番馴染んだ色が、ありませんでした」

 

 とても異質だったから、強く印象に残っていた。少女にとって性欲とは、他者から受ける暴行の源であると同時に、人を測る物差しでもあった。老若男女、子供以外、全てに適応できる基準だった。故に少女の優れた嗅覚は、まず最初にその多寡を計ろうとするのである。

 

「男女関わらず、そんな人は今までいませんでした。奥に秘めていたり、動かしてないだけじゃなくて、存在自体が見えなかったんです。悟った聖者様のようでもなく、強いていえば幼い子供に似てましたが、幼子はあんな機械的な眼はしません。普通とはかけ離れてましたから、ですから私、あれが世にいうハンターって人種なんだなって、思いました」

 

 正直に言えば、少女は彼の瞳以外はろくに憶えていない。顔かたちも既に朧げだった。それだけ印象深かったからだ。自分が生まれ落ちてしまった世界の、今まで知らなかった一面だった。

 

「……分かった。なるほどな。大分参考になったぜ」

 

 じっと聞いていた男が言った。低く静かに、真剣に何かを考えていた。生き残る算段ではないのだろう。そんな些事、眼中にないという目つきだった。

 

「おまえは下水道にでもこもってろ。奴らに見つかったら、俺の被害者として保護してもらえ。そうすれば、その場で殺される可能性も少しは減る」

 

 少女の頭に掌をのせ、男はベンチから立ち上がる。だが、少女には確かに分かってしまった。男の動きは明らかに、傷を庇ってのものだった。素人の彼女にも理解できた肉体の不調。そんな状態でプロハンターに、街を取り巻く軍隊に、勝てるはずがないではないか。

 

「わっ、私がっ、そのハンターを倒しましょうかっ!? 雨さえ降れば、私ならっ!」

 

 必至にまくしたてた少女の胸ぐらを、男が掴んで持ち上げた。右腕一本で軽々と、小さな体が宙に浮く。ばたばたと脚を暴れさせても意味はなく、気が付けば本気で怒った男の顔が至近にあった。

 

「ガキが。あいつは俺の獲物だ」

 

 時が凍った。少女は恐怖に停止した。苦しみも痛みも慣れていたが、害意だけはいつまでも慣れなかった。まして、愛しい人からならなおさらだった。それを見てどんな思いを抱いたのか、男は持ち上げていた少女をベンチに降ろした。

 

「じゃあな」

 

 逞しい男の後ろ姿が、闇へと歩いて溶けていく。せめて、これだけはと少女は大声で叫んだ。憲兵に見つかってもいいと思った。男に殺されても本望だった。心の底から湧出した、彼女の魂の叫びだった。

 

「無茶だけはしないで下さいよ!」

 

 男は振り向きもしないまま、ひらひらと肩ごしに手を振ってみせた。どうせ、聞き入れるつもりはないのだろう。全身の力が抜け、少女はベンチに寄り掛かかった。見上げた夜空が冷たかった。悲しくて虚しくて視界が滲んだ。もう、多くは望まない。彼女はただ、あの男に生き残ってほしかった。そしてできれば、二人で旅を続けたかった。しかし、男は少女より戦いを選んだ。一緒に逃げてはくれなかった。未練さえ示してくれなかった。

 

 少女は悔しさに打ちひしがれた。ついに最後の最後まで、あの男を釣り上げる事はできなかったのだ。

 

 ごしごしと袖で涙を拭く。力が足りない。力が欲しい。この夜を切り抜け、優しい日常を取り戻すに足る力が。ぽたりと水滴が空から降ってきた。雨だ。だが、一人では能力さえも発動できない。

 

 辛かった。

 

 ぺろんと、誰かが少女の頬を舐めた。犬だった。痩せこけて、疲れ果て、今にも倒れそうな老犬だった。見れば、優しい眼で見つめている。優しい犬だと少女は思った。自分は偽善者だと自覚した。力を欲していたはずなのに、こんなにも罪悪感に苛まれる。

 

「ごめんね」

 

 オス犬の性器を探し当てて、既に勃っていた事に驚いた。小さな掌に触れられて、大きなそれが脈打っている。その気遣いが嬉しくて、悲しくて苦しくて辛かった。少女は自分の行動が、ひどく利己的で強欲に思えた。それでも、愛する男を救いたかった。あの人には生き抜いてほしかった。

 

「ごめんねっ。でも、ありがとうっ……!」

 

 感極まって少女は泣いた。野良犬を強く抱き締めながら。夜闇に降りしきる雨の中、彼女はしゃくりあげて泣き続けた。ありがとうと泣き続けた。

 

 

 

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【雨の日のスイシーダ 操作系】

雨の日限定の能力。

自らを操作し大切な記憶を破棄する代償に、自身の念を一時的に増強することができる。

正確には覚悟を裏付けする為の念能力であり、念の増強はあくまで覚悟の結果である。

そのため、失われる記憶の重大さと得られる増強効果は必ずしも正確には比例しない。

増強効果は雨が止むと失われるが、喪失した記憶は除念を受けても決して戻らない。

 

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次回 第十九話「雨を染める血」



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第十九話「雨を染める血」

 曇り空の、暗い夜。サーチライトで照らされた駐機場に、準備の整った飛行艦が浮かんでいた。流線形に成型された、風を切り裂くための巨大な気嚢。鋭い先端。鈍い銀色。クジラの如く壮大。空中衝角艦サンダーチャイルド。彼女は今、全身にともづなを纏わせたまま、エンジンの作動音を当たり一帯に響かせている。

 

 下ろされたランプを登って搭乗すると、艦長さんが迎えてくれた。いよいよだった。防空指揮所に通されて、離陸の時をいまかと待つ。わたしだけが詰めるこの空間はとても静かで、オープンにしてもらった艦内通信から流れる慌ただしさが、遠い世界の出来事のような隔絶を覚えた。

 

 緊張している。握りしめた掌がしっとりしていた。

 

 半球形の強化アクリルガラスの天蓋の向こうには、雲に覆われた夜空があった。半透明のわたしの姿が、そこに重なって映っている。薄緑のシンプルなパーティードレス。銀の鎖で翡翠を吊るした、母の形見の首飾り。編み上げた髪。外見だけはどうにか恰好がついてるけど、内実は万全からは遠かった。

 

 わたしの中に残ってるオーラの量は、満タンの七割ぐらいしかないと思う。実際に使える量は二割ほど。それ以上オーラを消耗すれば、暴走はきっと抑えきれない。休息はできる限りとったけど、あの時の噴火のような攻撃は、重い負担になってのしかかっていた。

 

 雨が、降りそうだった。

 

 ともづなが解かれた。飛行場を飛び立ったサンダーチャイルドは仰角をとって上昇し、雲間目掛けて飛び込んでいく。加速がきつい。雨雲の中に突入すると、ガラスに水滴が流れていく。気流が乱れて猛烈に揺れる。だけど些事は歯牙にもかけず、あっという間に突き抜けていった。

 

 雲の上には海があった。果てしなく広がる雲海だった。静かで、とても綺麗な世界だった。月の光が白く照らして、地上とは逆にほのかに明るい。飛行艦の上昇は止まらなかった。エンジンがさらに勇猛に唸る。艦首を一杯に持ち上げたまま、星々を目指して上がっていく。

 

「25000ft、予定高度に到達しました」

「よーし。アップゼロ、進路12時、最大連続推力」

 

 スピーカーから航海艦橋の様子が流れてくる。艦長さんのオーダーでスロットルが調整され、時間制限のある離陸推力からこの高度で持続可能な最大値まで出力を絞った。水平飛行に移行して、あとは目的地まで一気に飛翔していくだけだった。

 

 そう、だった、はずなのに。

 

 わずか十分後、艦内を強烈な衝撃が飲み干した。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 十年前、この国は混沌の渦に呑まれていた。

 

 長く続き、何から何まで腐敗しきった内乱の時代は大国の介入により集結した。腐敗しきった独裁政権は崩壊し、腐敗しきった反政府ゲリラの上層部もまた、多くが国外へと亡命した。国内には困惑と歓声が満ちあふれ、治安は悪化し秩序は混乱へと変換された。同じ街で同じ時間に、政治犯の釈放とリンチや略奪が平行して行われていたのである。

 

 希望はあった。街には失業者が溢れ、問題は山と積まれていたが、根拠のない希望だけは辛うじて燃え尽きていなかったのだ。例え二度目だとしても。宗主国から独立した後の経緯がまだ深く刻まれていたとしてもである。流出していた人材も、着々と祖国へ舞い戻り始めていた。

 

 空爆で煤けた瓦礫の上に、新しい国作りが始まった。

 

 彼は運がよかった。生まれつき体格に恵まれていて、三男であったが故に跡を継ぐ心配もしなくてよかったのだ。むしろ、早々に独立して食い扶持を減らしてやる必要があった。だから国軍新設の噂を聞いたとき、迷う事なく志願を決意したのだった。それまで働いていた国営の小さな紡績工場は政権転覆と同時に工場長が逃亡し、設備は略奪の果てに消えていた。

 

 当時、年齢は十九歳。気力も体力も十分だった。性格も実直で通っており、部族の長老も志願センターの担当官も、君ならいい兵士になれると太鼓判を押してくれた。

 

 新設国軍は大国の指導という名の全面投資の元に創設されており、給料は国際通貨ジェニーで支払われた。これがとてもありがたかった。以前の通貨が正真正銘のゴミと化していた為に、その頃の経済は物々交換の様相を見せていたのである。トイレットペーパーの一箱、ストッキングの一つで隣人の一晩が買えた時代だった。

 

 三ヶ月間の初期訓練を終え、最初の休暇をもらった時の記憶は未だ鮮明に思い出せる。窓口に並ぶ行列は誰も彼もがにやついていた。もちろん、彼自身も頬が緩むのが止まらなかった。じわりじわりと前へ進む時間さえもが楽しくて、何もかも嬉しいひと時だった。差し出した書類に受領印を押してくれた小太りの男が、優しく笑って封筒を渡した。六万ジェニーしか入っていないはずの封筒が、とても厚くて重く感じた。

 

 三ヶ月間、毎日汗だくになって訓練して六万ジェニー。月給に換算すれば二万ジェニー。今ならば薄給すぎる条件だろうが、当時は破格の待遇だった。正規レートで現地の旧通貨に交換すれば六百八十二ベンド三十四フェスになるのだろうが、無論、そんな馬鹿な真似をする人間は一人もいなかった。

 

 彼はさっそく友人達と合流し、訓練所の売店で十ジェニーのアイスバーを一つ買った。砂糖水に色を付けて凍らせただけの商品だったが、午前の訓練を終えた昼休憩の時、これを食べるのが楽しみだった。

 

 故郷への土産はなにがいいだろうか。煙草、酒、小麦はもちろん、トウモロコシの粉もいい。綺麗な柄の布も女達がさぞかし喜ぶだろう。冷たいアイスを齧りながら、彼らはそんな話題で盛り上がった。

 

 あれから、まだ、十年しか時は流れていない。

 

 

 

 高層ビル地階のエントランスホールの真ん中で、彼は降りしきる雨音を聴いていた。ガラス張りだった壁面は無惨に破れ、大理石の床に血液の池が広がっている。部下だった遺体が六つ、虚ろな瞳で転がっていた。操縦手と車載機関銃手の遺体はここにはない。彼らの傍らで炎上中の、装甲兵員輸送車の中だろう。夜闇の中、赤い炎が彼の顔を照らしていた。

 

「曹長殿、参りましたね」

 

 背中を預ける一等兵がぽつりと言った。黒い国家憲兵の制服を着こなした、二十歳頃の男だった。彼には馴染みのない顔だったが、確か、この混乱で落伍していた所を拾ったという事情だったはずである。飲み込みが早く目端が利く、よそ者ながら邪魔にならない兵だった。原隊では、きっと重宝されていた事だろう。今では、彼ら二人しか残っていない。

 

「俺なんてな、来月娘が産まれるんだぜ。三人目だ」

「やめましょうや。そういう話は」

 

 その二人を、数多の水塊が囲んでいる。幾百か、あるいは幾千も万もあるだろうか。拳大ほどの小さな怪異。透明な体表をふるふると震わせ、部下達の遺体に縋り付いてはちっぽけな体を嬉しそうに波立たせる。死体に群がる性質があるのか、あるいは何かを摂取しているのか。どこか可愛らしいその仕種は、そうであるが故にかえって無気味でおぞましかった。

 

 ずるり、ずるり。ゆっくりと這いずり距離を詰めてくる怪物たち。グリップを握る手が汗をかいている。弾倉は既に最後の一つだ。後ろの一等兵に至ってはとうに全弾を使い果たし、今では軍用スコップを構えている。先端をよく研いだそれは土と言わず人体と言わずに突き刺さる上、胸を衝けば肋骨に邪魔されず引き抜けて、振り下ろせば鈍器にも使える優れものだった。だが、このスライム相手では気休めに近い。

 

 近付いてきた箇所に、ぱらぱらと小銃撃ってみる。正確な狙いは必要なかった。水の塊は広いエントランスホールを埋め尽くし、めくら撃ちでも外すのが難しい。連中の柔らかい体が着弾に耐えきれるはずもなく、貫かれ、砕かれ、水滴を散らして沈黙する。殺せたのか。そう安堵することはできなかった。

 

 砕かれた破片がうぞうぞと動いた。貫かれた穴が塞がった。分散されたものは再び一つの塊に結集し、あるいは他の個体に吸収されて一部となる。やはり、効いていない。ろくなダメージを与えられない。この、怪奇な雨水の集合体には、少々の打撃では時間稼ぎにしかならなかった。

 

「とにかくどこかへ合流しましょう。せめて情報を上に渡さないと死ぬに死ねませんや」

 

 一等兵が言った。無駄死にはごめんだ。そういうことだろう。彼自身、それには心の底から同意する。散々抵抗した苦労のためにも、ここで倒れた部下達のためにも、何でもいいから成果が欲しい。しかし光明は見つからず、今こうしている間にも、敵達はじりじりと寄ってくる。

 

「同感だが、こいつらをどうかしない限り無理な話だ。良い案があるのか?」

 

 ここを突破できない限り離脱はできず、無線も混乱が激しくろくな情報が送れない。悔しくてもそれが実情だった。

 

「あれですよ」

 

 一等兵が指し示したのは、未だ炎上する装甲兵員輸送車だった。ガラスを破って突入させ、即興の簡易トーチカとして使用したものである。一時は車載された機関銃で奮闘したとはいえ、この状態ではさすがに役立たない。

 

「あいつが、どうした?」

「ええ。うちは自動車化されてますから、装甲車は基本、各分隊一両ずつあるわけです。そんなに沢山の車両があるんでしたら、誰も使ってない、無傷のままのやつってのも見つかるんじゃありませんか?」

「なるほどな。だがそれからどうする? 戦ってもさっきの二の舞になるだけだぞ」

「戦いません。逃げます。大通りを一目散に突っ切って、この街を包囲している空挺師団の元まで駆け込みます。そこからなら、情報を上げるルートもあるでしょうよ」

 

 曹長は頷いた。目端の効く奴だと思っていたが、この窮地で冷静に逃げる事を考えられるとは、なかなかできる事ではなかった。ここで殺していい若者ではない。殺したくない。彼はそんな思いを抱き始めた。

 

「いいアイディアだ。だが、一つ欠陥があるな。この包囲をどうやって突破するかだ」

「人間、死ぬ気でやれば意外と何でもできるもんですよ」

「頼もしいな」

 

 もう時間がない。今はじりじりと這っているが、いざ間合いに入れば、こいつらは意外なほどの瞬発力で飛び掛かってくるだろう。一匹二匹といった単位ではなく、全体が、怒濤の如き勢いで。

 

「お前、手榴弾は残ってるか」

「ええ、一つだけ」

「上出来だ。よこせ」

「……それは、曹長殿」

 

 背中合わせに手榴弾を渡しながら、低い声で男が尋ねた。

 

「ここで殉じられるんで?」

「ああ、それしかないだろう。行け。俺が時間を稼いでやる」

 

 右手に小銃。左手にたったひとつの手榴弾。それしかない。だが、それだけでいい。彼が軍隊で禄を食んだ十年間は、決して伊達ではないのである。死ぬ気でやればなんでもできるのであれば、知り合ったばかりの一等兵を生かすため、ここで果てるのも面白い。

 

「……よろしいので?」

「くどいぞ。俺はここで部下達と眠る。お前は好きなように命を使え」

 

 あの雨の中へ飛び出す勇気を持つ若者に、彼は最大限の賛辞を秘めて促した。だが、しかし。

 

「……ったく。これだから真面目な連中は」

「なに?」

 

 ざくりと、スコップが何かを突き刺す音がした。それが自分の後頭部だという事に彼は気付かず、痛みすら感じないまま地面へ落ちた。大理石にぶつかり、頭が微かにバウンドする。冷えていく意識の中、見上げた一等兵の表情は、異常なまでの自然体を保っていた。

 

「本当は俺の銃でちゃんと打ち抜いてやりたかったが、わりぃがオーラを節約したいもんでな。しっかし、あのガキ。人がせっかく食い込んだ部隊を潰しやがって」

 

 あいつとのタイマンに持ち込むための手駒にしたかったんだがな、など、訳の分からぬ言葉を呟いている。彼の体は、既に指一つ動かない。視界が暗くなってきた。それでも、あの怪異が這って来るのが気配で分かる。

 

「ん? 意思があるのか。一緒に来るか?」

 

 微かに見えたスライムが、その言葉に全身を震わせた。それが、喜びの仕種に見えたのは何故だろうか。

 

「じゃあな。ほんの一瞬の付き合いだったが、あんたの事は嫌いじゃなかったぜ」

 

 彼が最後に目にした光景は、迫り来るスコップの先端だった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 轟音を越えた空気の津波。床が消失したかの様な振動。サンダーチャイルドの巨体が比喩を抜きに波打ち、それが爆発だという事を一瞬遅れて理解した。唐突な、完全な不意打ちに思考が消える。本能的に爆発源を探して振り向くと、艦体の後方、航海艦橋のさらに向こうから、紅蓮の炎が輝いていた。黒い煙が後方に流れる。いえ、それよりも、その前に。

 

「ダメージコントロール! 何があった!」

 

 艦長さんの叫びは悲鳴に近い。応える人も訓練通りの条件反射で、コンソールの情報を読み上げているも同然だった。

 

「後部気嚢反応なし! 中央第二気嚢内圧低下! 艦体後部にて自動消火装置作動中! 浮心、前方限界を超えています!」

 

 そして、意味を理解して、自分達の言葉に驚愕する。一度認識してしまえば、事態は誰の眼にも明らかだった。銀に輝く巨大な気嚢の、お尻が、ない。

 

「エンジン、全機オールグリーン! アクチュエータシステム正常です!」

「こ、後部気嚢および尾翼、消失しています! 艦尾観測室、連絡とれません!」

「隔壁作動箇所全確認。与圧は維持されています!」

「バラスト移送ポンプ、反応しません! バルブの破損を確認!」

 

 何人もの報告が通信を埋める。良い情報に悪い情報。その間にも、艦体はゆっくりと頭を上げていく。さっきまでの上昇の如き勇ましい姿ではなく、儚くも地上へ引きずり落とされる予兆だった。

 

「後部バラスト緊急投棄!」

「アイサー! 後部緊急バラストバッグ、後部バラスト水、後部各タンク燃料、全投棄!」

「爆心推定できました。……そんな! 艦尾第二倉庫? 営倉ですよこの区画!」

 

 隔離室、つまりは牢屋のことだろう。火気のあるような場所ではなかった。人気のある場所でもない。考えられるとすれば、それは……。

 

「艦長、電測です。うちの部下が爆発の寸前に艦尾から燃料が噴霧されたのを観測しています。しかしこれは」

「いや、いい。細かい事は後からだ。皆には周りに不審な動きしてる奴がいればぶん殴っておけとだけ伝えておけ」

「了解しましたっ!」

 

 オペレーターさんに命じてから、艦長さんの通信がわたしを向いた。頼りがいのある男の人の声で呼び掛けられて、芽生え始めた孤独と不安が緩和される。

 

「無事ですか?」

「わたしは平気です。それより、この艦こそ大丈夫ですか? もし航続が不可能でしたら、わたしはここから飛びますが」

 

 わたしの飛行速度は、所詮は鳥の羽ばたきの擬態でしかない。高度もこんなにとれないから、もっと空気の濃い場所を飛ぶことになる。だから、遷音速巡航ができるこの飛行艦とは比べるまでもないほど遅いけど、それでも、わたしはアルベルトを助けに行かないと。

 

「いえ、しばしお待ちを。できる限り近くまでお届けしますので」

 

 言って、艦長さんは通信を他所に切り替えた。不可能な大言をする人ではない。気が付けば仰角もさっきより減っていた。流れてくる情報に耳を傾けると、前部の気嚢からガスを抜いて、浮力を減らしてトリムを調節したのだと理解できた。そんな事をすれば、全体の浮力は増々減ってしまうだろうけど。

 

「スロットル、最大戦闘推力まで開け! 全艦に通達する。いいか! 機関員はエンジンから絶対に目を離すな! 他の連中は全力で応急作業! 手が空いたら目についた重量物を片っ端から投下しろ! ぐずぐずしてるとそいつから外に放り出すぞ!」

 

 艦長さんの下命で気合いが入って、艦内が慌ただしく動き出した。アクチュエータが轟音でがなり立てる。猛烈な勢いの噴流が、艦体と干渉して鼓膜を揺らす。やる事が見つかったからだろうか。みんなの声だけじゃなくて、そんな騒音までもがどこか明るい。

 

「上申! こちら対地観測! 全武装の投棄を提案します! 現在雲下に市街地なし」

「よしやれ!」

「アイ、サー!」

 

 防空指揮所のモニタの一つに、ウエポンベイが全開した様子が映されている。眼下にたゆたう雲海目掛けて、ぱらぱらとミサイルや爆弾が散っていく。一緒に、フレアやチャフからロッカーのような用具まで、あらゆるものが捨てられていった。それでも、高度はジリジリと下がっている。

 

「偏流でかなり流されてるな。操舵手、13時の方向へ回せるか?」

「尾翼を損失しましたから、操縦舵面がまるで足りません。今は直進だけで精一杯です」

「そうか、分かった。可能なときに少しずつ針路を修正してくれ」

「了解しました」

 

 以前、あれだけの腕を誇っていた操舵手さんでも旋回できない。いえ、違う。直進できてる事だけでもすごいんだ。普通なら、とっくに迷走していておかしくない。それだけ深刻な損傷だった。

 

「艦長、中央第二気嚢の内圧低下が止まりません。損傷部、充填材による補修限界を超えています」

「ネットで保持できないか?」

「既に試したそうですが、この高度の気圧では」

「そうか。分かった。追って指示する」

「了解しました」

 

 状況はかなり悪かった。沈降を止める手段がない。それは、サンダーチャイルドに乗ってる乗組員の命が危ない事を示していた。下方には雨雲が群れている。上昇するときに乗り越えた乱気流は、今度はこの艦の命脈を絶つだろう。雲上からのパラシュート降下は論外だ。少しでも彼らが生き残る確率を上げるためには、任務をすぐに切り上げて穏やかに不時着できる場所を探すしかない。

 

「艦長さん、わたしに何かできることはありますか?」

 

 忙しいとこに邪魔になるかもしれないけど、少しでも何かをしたくて通信を入れた。彼らがこうしてわたしを送る事に専念すればした分だけ、命を削るに等しいって分かってたから。

 

「いえ、大丈夫です。ここは一つプロに任せて、じっくり休んでてくださいや」

「でも……」

「艦長! 中央第二気嚢の応急処置、完了したとのことです!」

「なにっ?」

「報告入りました! ブラウン大尉以下三名、外壁を伝って損傷部位に保持ネットを展開、充填材の足掛かり確保に成功しました。完全に塞ぐには至りませんでしたが、沈降速度は緩和されます!」

 

 全力航行中の飛行艦の外壁を、零下50度の極寒の空で!? そんなこと、念能力者だって出来はしない!

 

「あいつらめ……。ははっ、あいつらめ! あの、馬鹿共めっ!」

 

 艦長さんが笑い出した。とても楽しそうな笑いだった。息子さんが試験で満点を取った時のような、徒競走で一番になった時のような、幸せそうな泣き笑いだった。

 

「あいつらめ、俺に黙って。よしっ! よくやった! 帰ったら好きなだけ奢ってやると伝えておけ! 最高の店に連れてってやるぞ!」

「わたしが迎えに行きます! わたしなら風を防げますし、飛べますから!」

 

 思わず叫んだ。念の秘匿なんて関係ない。どうせこの艦の人達には、朝の戦いのおかげで暗黙の了解以上のものになっているんだ。小さな事情にこだわっているより、今は救うべき命を救いたい。例え高高度の寒空だって、わたしならきっと耐えられる。いいえ、そうじゃない。その人達のためにも、絶対に耐えてみせないと、

 

「おお! お願いできますか?」

「……いえ、できません。艦長、ミス・エリス」

「なんだと?」

「続報が入りました。彼らは最後までネットの保持に全力を尽くした後、全員、力付きて落下しました。全員、です」

「そう、か……」

 

 浮かれていた空気が凍ってしまった。艦長さんが肩を落とした、航海艦橋に佇むその姿は、可哀想なほど小さく見えた。俯き、両手を堅く握りしめて、掌から血の雫がポタリと垂れた。だけど、それもほんの十秒ほどで、再び上げた顔は、何か強烈な意思に燃えていた。

 

「そうか、よくやった! 全艦に通達する。回線開け!」

 

 血の滴る左手でマイクをギュッと握りしめて、右手を拳に、艦長さんが事の経緯を簡単に話した。艦内の気配がしんと静まる。そして。

 

「総員に告ぐ! 俺達の到着を待ってる奴らがいる! あいつらだけにいい格好はさせるな! 本艦はこれより墜落を前提に行動する! スロットル全開! こんな状態だ! 機関を惜しむような間抜けはするな! 進むぞ!」

 

 数秒の沈黙。艦長さんが息を吸った。右手が上がって、振り下ろされる。

 

「前進一杯!」

 

 返事は歓呼にとって代わられた。いえ、歓呼の様な、応諾だった。怒号の如き正義だった。死地へと向かう覚悟だった。見えない位置でも気配で分かった。飛行艦中の命という命が鮮烈なオーラを噴出させて、全身に紅蓮の熱気を充満させてる。念。それが生命の意思を原動力にする異能なら、この人達の滾らせる魂は、限り無くそれに近かった。

 

 ギアが、噛み合った。

 

 目の前で起こったあまりの変異に、わたしは自分の正気を疑った。

 

 空中衝角艦サンダーチャイルド。銀色の巨体は今、真に生命として力を受けた。艦体そのものをオーラが包み、ひとつの個として咆哮を上げる。流れる血潮はジェット燃料。秘めた骨格はジェラルミン。チタン補強の衝角を備えた、史上最大最速のクジラだった。

 

 それは、念能力者にしか分からない命の在り方。本人達は気付いてないだろう。劇的な変化もありはしない。この飛行艦の運命は尚も変わらず、いずれ墜落する定めだった。それでも。

 

 シャフトが踊る。タービンが唸る。傷付いた体を苦ともせずに、流線形の体で空を泳いだ。クルーのオーラを暴飲して、命と引き換えに一メートルでも前へ進むために。

 

 今宵、彼女はこの空で誕生した。星の下を泳ぎ、眼下の雲海に溺れて死ぬために、ただ一時のために生まれたのだ。

 

 これは既に奇跡ではない。奇跡を越えた必然だった。わたしは今、体が震えて止まらない。畏怖ではなく、恐怖でもなく、ただ、涙がこぼれて止まらなかった。わたしの中の深い所で、恐ろしい何かが鳴動している。

 

「艦長さん、こちらと艦内全域を通信で繋いで下さい」

 

 長く喋るつもりはなかった。伝えたい事は一つだけ。

 

「皆さん、多くは求めません。皆さんの命をわたしに下さい。絶対に、負けませんから」

 

 そして、忘れませんと、たったそれだけで通信を終えた。わたしは、彼らの命を飲み込む事を受け入れた。それを知ってもらいたかっただけだった。それ以上は、余計な感傷だろうから。

 

「聞いた通りだ。お前ら、俺達の国を守るぞ!」

 

 大歓声が艦を揺るがす。彼女自身の纏うオーラも、嬉しそうに震えていた。

 

 彼らは死ぬ。この空で、墜落して全員死ぬだろう。それでもいいと。功績も賞賛もいらないと。ただ、前へと。皆の総意をエネルギーに、クジラは大気を切り裂いて加速していく。纏わる衝撃波を押し返しながら、高度を徐々に下げながら、見る間に皆のオーラを消耗しながら。それもただ、前へと。

 

 何かに似ていると、ふと思った。

 

 そうだ。パクノダさんから聞いたジャッキーさんの最後。それとそっくりだったんだ。

 

 気嚢から流れるガスは止まってない。サンダーチャイルドの高度が下がる。雲がもう、すぐ下に迫っていた。飛距離は大分稼げたけど、この艦の寿命は、すでに幾許も残ってはいなかった。もう、お別れだった。

 

 赤い翼を具現化する。星空へ向かって光を放って、強化アクリルガラスの天蓋に大きな穴を開けた。途端に暴風が流れてくる。冷たくて痛いこの風は、飛行艦の早さの象徴だった。

 

 飛び出す前に振り向いて、航海艦橋を最後に眺めた。にこやかに笑った艦長さんが、さよならと片手を振ってくれた。つられて艦橋の人達が、それぞれに別れの合図をしてくれる。照れくさそうにサムズアップするおじさまから、投げキッスを送って来る若い人まで。わたしも思わず微笑み返して、一度だけ、スカートを摘んで礼をした。

 

 空を睨んで翼を広げる。吹き込んでくる風に乗って、体は外へと投げ出された。全身に強烈な抵抗を受けたまま、わたしは上へと吹き飛ばされた。サンダーチャイルドが前に出る。速度を保ったままの巨大な体が、わたしからは加速したように見えていた。

 

 胸が絞まって、目頭が滲む。凍える風に心が熱い。

 

 翼を強く打ち下ろす。羽ばたきで飛ぶには、この高度の空気はまだまだ薄い。オーラの消費は痛いけど、具現化する規模を大きくした。

 

 最後の時が訪れた。鈍い銀色の艦体が、雲海を鋭く掻き分ける。損傷した尾部が痛々しい。気嚢が、雲の表面で一度僅かにホップして、その直後に左へ横転しだした。傾きながらゆっくりと、黒雲の中に沈んでいく。

 

 雲間から紅蓮の炎が立ち上った。何かが爆発した音がした。エンジンの轟音が小さくなった。そうして、彼女は豪雨の中へと消えていった。きっと、一人も助かりはしないだろう。あの下では、血に濡れた雨が降るのだろうか。

 

 眼をつぶり、開いた。感傷に浸る暇はなかった。ここで翼を休めたらならば、彼らの意思が無駄になる。

 

 急ごう。きっと、わたしを待ってる人がいる。

 

 

 

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【空中衝角艦サンダーチャイルド 全系統】

使用者、同艦乗組員一同。

実在する飛行艦を礎に、一個の独立した疑似生命体を創造し操船する。

創造された疑似生命体の性能はオーラの合計量および各系統の割合によって若干変化する。

厳密には一つの発と呼べるほど確立された念ではなく、才ある人物が知らずのうちに物品にオーラを込める現象の延長である。

 

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次回 第二十話「無駄ではなかった」



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第二十話「無駄ではなかった」

 夜の荒野を雨が叩く。地面はぬかるみ、幾筋もの流れが土地の起伏に沿って生まれていく。視界は悪い。闇の中、誘導灯の赤い光が規則的に動き、装甲車両のヘッドランプが辺りを白く染めていた。アルベルトが見守る目の前で、三個小隊十二両の戦闘車両は、静かに、迅速に、厳かに、二列横隊を完成させた。

 

 空挺戦闘車。飛行艦による迅速な展開を前提に開発されたため、わずか八トン強の軽い車体に機関砲と機関銃、および対戦車誘導弾を搭載している。また後部に兵員を五名搭載する能力を持ち、歩兵戦にも対応していた。その役割から空挺戦車の名で呼ばれる事もあるのだが、単体で見れば武装も装甲も貧弱な歩兵戦闘車の亜種でしかない。だが、陸軍の誇る精鋭部隊、空挺師団が使えば話は代わる。

 

 彼らは猛者の中の猛者だった。火力に頼れないが故に体を鍛え、装甲に頼れないが故に体を鍛えた。空挺師団の練度は他師団の平均を遥かに上回り、他部隊の者達からは揶揄を半分、畏怖を半分にこう評される。即ち、狂っている、と。

 

 この十二両、三個小隊十二個分隊は、そんな精鋭の中から決死隊を募り、厳選に厳選を重ねた最精鋭である。至高の中の至高。益荒男の中の益荒男。それをもってあの街に楔を撃ち込むのが、アルベルトの打ち出した方針だった。

 

「師団長、アルベルトです。こちらは準備が出来ました。いつでも行けます」

「了解です。お好きなタイミングで出撃して下さい。しかし、よろしかったのですか? 戦闘飛行艇も抽出できましたが」

「ええ、この気象条件では、さすがに運用は厳しいでしょう。戦闘を行うには、何よりも視界が悪すぎます」

「それはパイロット達も覚悟の上です。その上で皆が志願してきます。いえ、実のところは抗議に近い。なぜこの局面で我々を投入してくれないのか、とね」

「お見事です。しかしその覚悟は、包囲網の維持と、事件終息後にこそ役立てて下さい」

 

 通信を終えて息を吐く。

 

 撹乱され尽くした憲兵隊を、アルベルトは戦力的に見限っていた。だが、空挺師団にも、本当は何も期待してないのに等しいのである。あの街の包囲と、ついでに火力支援でもしてくれれば十分だった。決死隊もただの脚と見なしており、速度と体力温存以外の存在意義をろくに認めていない。

 

 士気が上がる気持ちは分かる。だが、アルベルトの中に潜む非人間的な演算装置は、理を捨ててまで余人の情熱に報いる選択を示さないのだ。ただ一つ、彼の義妹が関わるケースを除いては。

 

 故に、包囲部隊から最小限の精鋭戦力を抽出し、それを捨て駒とするつもりだった。何かあればすぐに自害しろ。犯人の言葉に踊らされないよう、これ以上クーデター騒ぎを起こさないよう、事前にそんな指示をも与えてある。徹頭徹尾、合理的で冷たい思考だった。

 

 ——アルベルトは優しいわ。わたしなんかより、ずっと、ずっと。

 

 いつだったか、エリスが口にした事がある。しかし、これが現実だ。自分達の判断ミスにより追い詰めた手配犯を取り逃がし、国家憲兵隊を撤退させず時間稼ぎの為だけに崩壊を阻止し、あげく、さらに捨て駒を切り込ませる。だから、アルベルトはこう考える。もし仮に、彼に優しさがあるとしたら、それはエリスの影響をうけてのことなのだ、と。

 

 目を伏せ、アルベルトは一つ思いに沈んだ。もし仮に、全く冷徹な機械と化してしまったらどうだろうか。それはきっと寂しいだろう。そして、それを自覚する事すらできないのだ。

 

 今はまだ、寂しいと思う事ができている。

 

「失礼します。師団長より緊急の報告です」

 

 若い将校が声をかけてきた。眼鏡をかけた、理知的なまなざしの大尉だった。

 

「西側に幻影旅団と思しき勢力が接触してきました。人数は四名。手はず通り、遠距離からの火力投射に専念し、遅滞と被害の極限に努めています」

「わかった。突破されても構わないから、深追いは厳に慎んでほしいと伝えてくれ。水塊だけは絶対に逃がさないように、とも」

「了解しました」

 

 アルベルトはそう指示を出した。現段階で、旅団を排除する有望な手段は彼らにはない。ならば、まずは事件の犯人を処理するという基本方針を、土壇場で変えるのは無益だった。まして、交戦中の空挺師団への救援など、ろくな処理時間も割かずに却下された。

 

 準備を整えた突入部隊を見渡した。彼らは皆、無言のうちに不思議な熱気に包まれている。アルベルト自身の体調も良好だった。オーバークロック2を使用した際に脳への物理的反動は検出されず、身体の損傷箇所も一通り修復が終わっている。ただ、仮に連戦を考えるなら、オーラの残量が今一つ心許ないのが懸念された。

 

 切り札には、今しばらく切り札でいてもらう必要がありそうだった。

 

 

 

 アスファルトに溜まった雨水を、履帯が盛大にかき分ける。装甲が風を切って雨粒を蹴散らす。勇猛な突進。新市街の中心、セントラルビルへと続く大通りを駆け抜けるのは、空挺師団突入部隊の二列縦隊だった。

 

 先頭車両の上面装甲にはアルベルト自身が跨上している。望遠モードで強化された眼球から周囲の情報が高精度で取得され、右目にかぶせたセンサーからは生存してる憲兵部隊の配置と各報告が、消息を絶った部隊の最終位置と壊滅時刻が、データベースを介してリアルタイムでやり取りされる。その有り様は、自走する指令室に近かった。通常の念能力者が得意とする自然と一体化する探索こそ不可能だったものの、このようなデジタルな捜索は、至極、上手い。

 

 車列を疾走させながら、的確に、迅速に、痕跡を辿りつつ被害の新しい方向へと進んで行く。奇妙な点があった。スライムの被害が段々と、一箇所に集中しつつある。なにか誘因する材料があったのか、それとも、近くに能力者がいるのだろうか。

 

 疑念を抱き、アルベルトが警戒を高めた時だった。常駐する自動防衛管制が反応し、全力での跳躍を作動させた。ほぼ同時に、跨上していた空挺戦闘車が狙撃された。上面装甲に空いた小さな穴は内部の構造を打ち砕き、飛び回る破片が乗員をズタズタに損傷させた。弾薬が破裂し、エアロゾルと化した燃料の軽油に引火し、車体は炎上しながらもスピードを上げる。後続車両は怯まない。もし自分達が撃たれていたら、きっとそうすると分かっていたのだ。

 

 アルベルトは空中で姿勢を整え、空気抵抗を調節して別の車両に降り立った。燃え盛る車両は全速のまま、ハンドルを切って傍らのビルに突っ込んだ。壁が砕ける音がする。全ては、縦隊を乱さないためだった。

 

「全車両、目標、セントラルビル屋上周辺。行間射撃!」

 

 マリオネットプログラムが着弾から弾道を算出し、合成音声が部隊に命じる。前方の高層ビルの屋上に、直線距離およそ1000メートルの彼方から、拳銃でありえない長距離狙撃を成し遂げた人影があった。アルベルトと目が合い、その男は驚いたように息を呑んだ。間違いない。

 

 機関砲の着弾が折り重なり、屋上にあった人影が消える。仕留められた可能性は皆無だった。アルベルトは車列に加速を命じた。所詮は弾幕にすぎない命中精度の行間射撃を続けるよりは、一刻も早く駆け付けた方がましだった。

 

 しかし、それを阻むものがいた。

 

 雨水が河を作る路面から、数多のスライムが湧出した。群体で壁となって前を遮る。それは静止した大波だった。粘性の高い防壁だった。突入すれば命はない。そう理解するだけの威圧があった。

 

 アルベルトは両腕を真っすぐ伸ばし、肩よりやや高い位置で大きく開いた。手信号である。二列縦隊はたちまちのうちに変形し、走行しながら逆楔の陣型を形作った。彼が何をするつもりなのか、既に全分隊が悟っている。合成音声が命じると同時、ブレーキがアスファルトを激しく削った。けたたましい音が一斉に鳴る。装甲車が急停車を果たした直後、すでに準備を終えていた対戦車誘導弾が一点目掛けて斉射された。

 

 炸裂する弾頭。炎と破片と水蒸気が爆ぜる。もうもと上がる湯気の中心を目掛けて、猛スピードで突き進む車両があった。無論、アルベルトの跨上する一両である。

 

 突入部隊の攻撃で空いた穴を一心に目指し、装甲車は全速で突入した。スライムの補充は間に合わない。生き延びた僅かな水塊はアルベルトが機械的に正確な念弾で処理していく。阻まれる道理がなかった。何者かの、行かせないという強い意志を感じるオーラは儚くも蹴散らされ、一両は水の壁の向こうへ消えていった。

 

 決死の支援は成功した。突入部隊の役目はここで終わり、あとは離脱すればそれでよかった。

 

 大量のスライムが蠢いている。壁状になっての阻止から一転、両翼を延ばし包囲しようと動き出した。しかし彼らは車上である。道を完全に塞がれなければ、速力に任せて逃げられるだろう。

 

 逃げられたはずだった。

 

 

 

 絞り出す様に小さな体を捻らせて、少女はえずきを繰り返している。吐き気がした。頭痛がした。悪寒がした。だがもう、胃液もろくに出てこない。涙と涎だけが止めどなく体から滲み出て、ぽたぽたと地面に垂れていった。あきらかに、やりすぎた能力強化の反動だった。

 

 彼女は、大量のスライムに埋もれていた。

 

 主である少女を心配そうに、プルプルと震えながら取り巻いていた。体表を流れる冷たい水は、体に貼り付く濡れた衣服は、体力を際限なく奪っていった。その水からも、ぽこぽこと新しい個体が生まれてくる。

 

 しかし、オーラが尽きそうな気配がない。

 

 栄養を補食してきたのだろう。帰ってきたスライムの一団から少女にオーラが供給された。体の芯が熱くなる。だけど、こんなものより、少女は腹を満たす食事が摂りたかった。疲れより空腹を癒したかった。たとえばそう、奮発して買った、二人で作った、美味しくできた、暖かい……。

 

 ……暖かい、何を、食べたんだっけ?

 

 はは、と少女は力なく笑いをこぼしていた。思い出せなかったのだ。何も。改心の出来映えの何かの味も、日常的に食べた何かの味も。ぽそぽそした、味気ない固形の何かの味も。それらにまつわる思い出さえも。

 

 例えばそう、二人並んで楽しく笑って、予想だにしなかったハプニングがあった、はずなのに。

 

「ふふっ、ははは……。そうね。そうだったものね」

 

 一筋の涙が新たに零れる。これは代償だ。過ぎた力を得るために、精一杯手を伸ばした咎だった。身の程を知らぬ愚者のために、天が授けた枷だった。彼女が用いる念の報いは、あまりに痛く辛かった。犯されたくない時に犯されねばならず、失いたくないものを失わないといけない。しかし、それをしなければ、彼女には何一つ力がないのである。

 

 カランと、胸元からこぼれ落ちたものがある。古びた銀製のスキットル。あの男から最後に渡された、気にかけてもらえた証だった。数少ない心の支えだった。

 

 はっとして、少女はそれを胸にかき抱く。なくしたりしたら大変だ。どこにでもあるはずの銀の肌が、優しく柔らかく暖かかった。ポチャリと鳴ったウィスキーの残りも、頼りがいのある音色に聞こえた。物品には執着できない性だったが、これだけはどうしても手放したくない。そう、少女は心から願いを込めた。男から授かった赤子にも等しく、愛しく思えてきたのである。

 

 雨に打たれながら、少女はじっとそうしていた。体の不調の波が引くまではと、スキットルを抱き締めて耐えていた。深くゆっくりと息を吐き、吸い、時間が経つのを待っていた。

 

 そうして、ようやく落ち着いてきた頃だった。後ろから近付いてくる気配を感じた少女は、誰だろうと慌てて立ち上がり振り返った。あわよくば想い人であればいいとも期待したが、すげなく裏切られることになった。彼女は身を固くする。驚きと、生存本能が鳴らした警報のために。

 

 ただ、巨大だった。

 

 筋骨隆々とした逞しい巨躯に、野性味溢れる毛皮を直に羽織っている。巨大な骨格に巨大な筋肉、巨大なオーラを纏わせていた。ヒトの形をした暴力の塊。そしてなにより魂が巨大だ。少女と目の前の人間は、単純に、存在の基本となる格が違っている。

 

「なんだ。まだほんのガキじゃねーか」

 

 つまらなそうに野人は言った。濡れた蓬髪をかきあげて、無造作に後ろに流しながら。

 

「見つける事は見つけたがよ。これじゃァ運がよかったとは言えねぇな」

 

 失望を隠そうともしないまま、屈強な男が近付いてくる。肉体は臨戦態勢からは程遠く、オーラを滾らせもしていない。だというのに、少女の脚はガタガタと震えて止まらなかった。当然である。百獣の王と哀れなウサギ。狩る側と狩られる側の明確すぎる関係は、どうあがいても、逆転させようがなかったのだ。

 

「ひっ!」

 

 悲鳴が漏れた。主の危機に反応したのか、スライム達が大男に襲いかかる。水から成る全身の弾力で、口を目掛けて恐るべき速さで飛び掛かった。相手は、腕をひとなぎしただけだった。風が乱れ、大きく重い音がする。その風圧だけで、スライムは一つ残らず打ち払われた。

 

 別の集団が染み込むように路面から湧き出て、太い足に取り付いた。群れ全体が粘性を極端に上昇させて、ガラスの様に、否、それ以上に硬質化して拘束する。少女の記憶を代償に、増強されていた知能の成果だった。だが直後、バリンと割れて水へと還った。敵は気合いを入れて砕いたのではない。当たり前の様に歩き、当たり前の様に壊したのだ。

 

 周囲の建物の壁面から、屋上から、数多のスライムが崩れ落ちた。なだれ込み、巨躯を押しつぶそうと殺到する。たちまちに全身を覆い尽くし、それでも足りぬと集っていく。口と鼻を塞ぐだけでは飽き足らない。圧縮していく。何もかも潰してしまおうと。全身を水塊に包まれて、大男は莫大な加圧を受けた。強靭な骨格がミシリと歪む。地上にいながら、深海魚の心地を味わっていた。

 

 それが、ただの練で弾け飛んだ。たった一瞬のオーラの増幅。いかにスライムが物理的ダメージに強くても、水を操作するオーラを消し飛ばしてしまえば雨水へ還る。それは確かに道理だったが、これだけの規模の水塊をいとも容易く殲滅してしまえるなど、人知を越えた強さだった。

 

 歩いてくる。あれだけやって、かすり傷の一つも与えてない。大男は未だ、堅という技さえしていない。臨戦態勢ですら、なかったのだ。

 

「駄目だな。ちっとも楽しくねぇや。おいガキ、こんだけか?」

 

 少女は歯の根も合わず震えていた。銀のスキットルを抱いていた。死ぬのが怖かったからではない。自分の死すら忘れるほど、圧倒的な恐怖だった。眼前のこれは人間なのか。それとも、彼女が人間ではなかったのか。生物学的に同じ種族に属するなど、夢にも思えない隔絶だった。

 

「ま、死んどけや」

 

 野人の姿がぶれる。気が付くと、少女の体は飛んでいた。彼女では判別できなかったが、彼のモーションはとても遅い。いっそ優しささえ感じるほど、なおざりに放たれた蹴りだった。力を込める必要もないと言わんばかりで、真実それは正しかった。だから、少女は運がよかったのだ。

 

「え……?」

 

 空を、飛んでいた。

 

 スライムの群れが、少女の体を突き飛ばしていた。彼らの献身のおかげで小さな肉体は粉砕されず、滑稽に宙を滑って地面に落ちる。堅いアスファルトは痛かったが、それでもまだ、生きている。生きている事だけは確かだった。

 

 だが、手放してしまっていた。少女は手放してしまったのだ。腕の中にあった、スキットルが、ない。

 

 目の前に何かが降ってきた。路面にそれが打ち当たった。硬質な音が無情に響く。スキットルは壊れ、痛々しくも裂けていた。中身のウィスキーがこぼれて流れる。

 

「あ、ああ……! なんで! なんでなんでなんで!?」

 

 半狂乱になった少女が押さえても、器物が直るはずがなかった。少女を庇って攻撃を受けたスライム達の、さらに余波だけでこうなったのである。

 

 小さな手を、ウィスキーが濡らしていく。降りしきる雨粒と混じり合い、新しいスライムが手元に生まれた。淡い琥珀の色をした、優しく震える塊だった。その誕生は、混乱していた少女の心に、新しい衝撃を突き刺した。

 

「……なんだ、この程度だったんだ」

 

 少女はスライムを両手で握った。スキットルの残骸が地面に落ちる。赤い瞳が燃えている。褐色の肌からオーラが滾り、白銀の髪が怒りに輝く。奥歯をきつく噛み締めて、件の大男を睨み付けた。恐怖ももはや微塵もない。狂乱と狂乱が打ち消し合い、一蹴回って冷静な思考が戻ったようだった。

 

「大事だったのか?」

「ええ。そうね。……だけど、もうどうでもいいわ」

 

 涙を拭い、冷えきった頭で少女は憎む。今はただ、目の前の人物を殺したかった。決して殺せないと分かっていても、殺意を抱かずにはいられなかった。

 

 相手は今だ余裕だった。偉そうに腰に手を当てて、堂々と少女を眺めている。軽率な態度とはいえなかった。実力に裏付けられた油断だった。なにかできるならやってみろ。巨大な野人の眼光は、そう、視線だけで語っていた。

 

「……おいで」

 

 右手に琥珀の水塊を。左手は掌を天へとかざす。そこへ周囲に残っていたスライムが、スライムが、大量の大量のスライムが、怒濤の如くに殺到した。少女に触れた途端に水へと還り、オーラを主に渡して果てていった。小さな褐色の掌から、ざあざあと滝が流れ落ちた。

 

 彼女の潜在量を軽く超える、膨大なオーラが集中していく。充血して視界が赤く染まる。頭痛と目眩が少女を苛み、鼻腔の毛細血管が損傷して、一筋の鼻血が流れ落ちた。相手を睨み柄付けたままの視界には、キラキラした幻覚が踊っていた。

 

 痛い。

 

 集まったオーラを集中させる。琥珀色のスライムに、全てのオーラを与えていく。筋肉とオーラの強靭な鎧を穿つために、彼女の激情を注いでいった。莫大なエネルギーが一箇所に集い、渦を巻いて収束していく。渦を巻いて収束していく。

 

 しかし、試みは上手くいかなかった。漏れていくのだ。念を込めれば込めるほど、辺りに霧散していくのである。

 

 大男は少女を見下している。目には侮蔑と退屈しか宿っていない。当然である。纏とは、念の基本であると同時に奥義でもあった。強大なオーラを留め、圧縮していくのは至難の業だ。極限の密度を実現するには、極限の集中が必要だった。まして、己の器を遥かに越えたオーラの制御など、彼女の技量ではとうていできまい。要求されるは繊細至極。微かな雑念さえ許されない、絶対無音の神域である。

 

 達人の中の達人、ヒトの理を越えた神仙、異常識に生きる異次元生命。少女が為そうとした事は、そんな化け物にしか実現できない、高みの果ての高みだった。

 

「おい、そろそろ行くぞ」

「待って。もうすぐだから」

 

 焦れた野獣が声をかけて、少女は充血した脳髄で応えを返した。このまま何年続けても、この技は形さえできないだろう。しかし、術がない訳ではなかったのだ。

 

 極地。そこへ至る強固な扉を、彼女は力技でこじ開けた。

 

 拙い模倣で構わない。最低限の威力でいい。だから、お願いと、少女は切に渇望した。頭の中から何かが抜ける。大切だった、思い出である。

 

 春風の心地よいカフェテラスで飲んだ。シーツに包まれた朝に飲んだ。呪縛が解かれたあの日、男と差し向いで飲んでいた。涼やかだった。暖かかった。おいしかった。少女はそれが大好きで、自由と贅沢の証でもあった。彼女が生涯で最初に知った、それは幸せの味だった。

 

 はじめて飲んだときなど、あまりの甘さに涙が溢れた。

 

 もう、二度と思い出せない。

 

 ただこの一瞬の為だけに、少女は扉の鍵を捏造した。右手には琥珀色のスライムが蠢いている。凝縮された、持ってるだけで火傷しそうな灼熱のオーラ。頭痛が大音響で鳴っている。血が、喉の奥から沸き上がり、吐き気すら感じられないままに流れ落ちた。路面の河に赤が混じる。苦しかった。そんな体の苦痛さえも、どこか遠く愛おしい。

 

「ごめんなさい。待たせたわね」

「……あのな。まあ、いいや。来いよ」

 

 律儀に待っていた相手は既に呆れ果て、疲れた様に佇んでいる。相変わらず堅をする様子もなく、構えをとろうともしていない。喧嘩は嫌いではなさそうだったが、拙さのあまり興醒めさせたようだった。であれば、これが終われば待っているのは殺戮である。

 

 鼓動が大きい。体が熱い。少女が掌をそっと開くと、スライムはひゅっとそこから消えた。彼女の眼で追える事象ではなかった。爆音が後から轟いた。音の壁を打ち破り、水塊が一直線に飛んでいった。降りしきる雨にトンネルができる。纏で守っていたはずの少女の指が、衝撃波でジンジンと痛んでいた。

 

 それが、受け止められた。大男は特に凝もせず、片手で軽々と受けきった。円錐状に変形していたスライムが、大きな掌に突き刺さっている。微かな血液が滲んでいた。彼女の持てる全てを注いで、それだけが敵に負わせた傷だった。

 

「ま、その歳でオレに傷を付けただけ大したもんだ」

 

 彼にとって、これは児戯ですらなかったのだ。何を犠牲にしたとしても、付け焼き刃の増強などたかが知れてる。背伸びして星に手が届けば苦労はない。日々研鑽を積み、努力に努力を重ね、才能を実力に換えなければ、真の実力は得られない。基礎がなければ、誓約も覚悟も意味はないのだ。少女には下地が足りなかった。あまりに自明の理であった。

 

 だが、そんな事は、彼女とて百も承知である。

 

「安い酒だな」

 

 掌を舐めて大男が言った。少女はクスリと微笑みを作る。訝しがられるのも構わずに、唇の血糊を拭い取って、そろそろかな、と呟いた。そろそろでなければ死ぬだけだった。だけども、予想された攻撃はいつまで経ってもこなかった。

 

 巨獣は動かず、初めて本気で少女を見ていた。倒すべき敵と認識され、彼女の胸がゾクリと震えた。

 

「……てめぇ、何をしやがった」

 

 低く轟く彼は唸った。噛み締めた口から泡を吹き、目を血走らせながらも倒れてない。

 

「そう、怒らないで下さいな。油断したあなたが悪いのよ」

 

 少女は会心の勝利に酔いながら、悪戯っぽく笑ってみせる。

 

 彼女はあの琥珀色の水塊を、その巨体へと侵入させただけだった。たとえ内側で暴れても、大男の強靭な肉体には堪えまい。しかし脳神経周辺の血中アルコール濃度を直に上げるだけならば、血管に流れ込んでしまえば十分だった。あらかじめあのスライムには、できるだけ頭に、重力に逆らう方向に集まるように頼んであった。

 

 それにしてもこの男は出鱈目だった。常人ならショック死しておかしくない攻撃をまともに喰らって、意識があるのは異常すぎる。雨でも分かる脂汗を垂らしながらも、戦意は決して衰えない。もしも少女が近付いたなら、必ず殺されてしまうだろう。ここまでの猛者なら確実に、彼女のみならず愛しい男にも脅威になる。すぐにでもとどめを刺したかった。

 

 だが、ここまでだ。

 

 今の少女には、この怪物を殺す手段がなかったのだ。たとえ口と鼻を塞いだとて、窒息死してくれる前に回復するのがオチだろう。これだけ強化された肉体が誇る肺活量は、いったい幾らになるのだろうか。

 

 両腕で頭を抑えながら、大男は憤怒に駆られている。少女は逃げることを決意した。絶対に適わないと思い知った。それは人間としての判断ではなく、動物としての本能だった。

 

「さよなら。願わくば、二度と会わずにすみますように」

 

 もしも、その祈りが叶ったなら、はたして、少女は幸せになれたのだろうか。

 

 

 

 決死隊は一心に戦っていた。微かでも多い水塊を、僅かでも長く拘束するため、命を賭して戦っていた。弾薬の消費が激しすぎる。30分にも満たない戦闘で、誘導弾も機関砲も打ち尽くした。山ほど用意した携帯式の対戦車ロケット砲ですら、既に幾つも残っていない。

 

 それでも、皆が戦い続けている。

 

 駆けつけた憲兵たちがいた。包囲網の外側から、彼らは射撃と撹乱を繰り返す。少数の散発的な増援などすぐにスライムに駆逐されたが、その間は内側への攻撃が緩んだ。貴重な立て直しの時間だった。

 

 誰もが信じていたのである。じき、ハンターが犯人を倒してくれるだろう、と。粘れば粘るほどアルベルト・レジーナは戦いやすくなり、仲間の損害も減るだろうと。あるいは、噂に聞く増援が間に合うだろうと。

 

 展開した歩兵が小銃を撃つ。装甲車を盾に手榴弾を投げ、徹底的に遅滞を行っている。戦力の温存を第一に、しかし命を惜しまずに。一部が突出してスライムの攻撃を誘引し、その隙にエリアを挽回もした。彼らは戦闘のプロであった。敵が不死身に近い怪異でも、翻弄に徹すれば戦えた。

 

 だが、じりじりと追い詰められていくのは止められない。

 

 残弾が足りない。スライムに白兵戦で立ち向かえる筈がなかった。撃てば撃つだけその時は近付き、撃たなければその場で終わる。

 

 最後の瞬間は近かった。

 

「おい、あれを!」

 

 最初に気付いたのは誰だったか。叫びを上げたのは誰だったか。

 

 雨の降る夜の闇の中、それは鮮烈な紅だった。それは彼等の人生で、最も美しい光景の一つだった。それは雄大に羽ばたいていた。それは急速に近付いてきた。黒雲の狭間から現れた、それは。

 

 それは、翼だった。

 

 涙が溢れそうだった。誰かが嗚咽を洩らしていた。この街は孤立してはいなかった。戦いは無駄ではなかったのだ。挺身は、結実に至ったのだ。

 

「投光しろ!」

 

 誰かが命じ、サーチライトが彼の人へ向いた。明滅を与え、意思のある事を強調する。呼応して、翼の光が強くなった。決死隊の士気が爆発する。疲れはもう吹き飛んだ。弾薬の不足などもう知らない。さあ、戦おう。彼等はまだまだ戦えた。スライムの群れが気圧された。

 

 赤色の極光が辺りを薙いだ。水の怪物は粉砕され、路面が大きく陥没した。雨粒さえもが蒸発し、空間に刻まれた軌跡が湯気の白煙を上げていた。わずか一撃。全ての人間が驚愕する。これがプロハンターの一撃か、と。

 

 形勢は容易く逆転した。

 

 兵士達は次々と攻めに攻め、びしょ濡れの体で吶喊する。顔には希望が溢れていた。生き残ったスライムの集団は、面白いように窮地に陥る。それが、ただひたすらに楽しかった。

 

 翼が戦場へと参りる。

 

 正体は美しい女性だった。まだ若い、天使のような少女だった。薄緑のドレスに金の髪、真紅の翼の女神だった。歓声が迎える中に羽ばたき降りて、精悍な表情で辺りを見回す。次の瞬間、両腕から閃光か解き放たれた。コンクリートが砕け、アスファルトが粉塵となって舞い上がり、この場にいたスライムのほとんどが消滅した。爆発的な賞賛が浴びせられた。急に増した威圧感も、気にする者はいなかった。むしろ頼もしいとさえ思われていた。

 

 十秒後に訪れる絶望を、この時は誰も知らなかった。

 

 

 

次回 第二十一話「初恋×初恋」



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第二十一話「初恋×初恋」

 地面が揺れてる。降りしきる雨まで震えている。常識がまるで追い付かない。コンクリートの破片が舞い上がって、幾つものビルが倒壊していく。道ではない場所を走りながら、立ちふさがる壁を砕きながら、それは大通りへと躍り出た。

 

 目が合った。いえ、見つかったと言う方が正しいだろうか。わたしの前方、兵隊さん達から見て後方の離れた場所に、一人の男性が地面を削りながら停止した。形相は怒り。そして深い歓喜だった。眼球は赤く充血し、大きな口が殺戮の予感に凶悪に笑う。鍛え抜かれ、逞しく盛り上がった全身の筋肉。毛皮をあしらった野性の衣装。ただ強さだけを突き詰めた、野蛮の果ての理想像。なによりもオーラが凶暴だった。激しく狂わしく爛々と、夜闇の中に燃え盛る。

 

 脊髄を雷鳴が駆け抜けた。今まで遭遇した誰よりも、衝撃的な人物だった。強化系だろう。一目でわかった。わたしとは正反対の能力者。特別な能力に見向きもせず、ヒトであることを極め尽くした完成形。誰かに与えられた力ではなく、一心不乱に追求された暴力の結実。

 

 端的に言えば、怖い。戦力としての脅威ではなく、人間として、芯の部分で怖かった。

 

 男の人が重心を落とす。兵隊さん達がすくみ上がった。無理もない。例え精鋭の兵士であっても、それ以前に一人の人間だから。本能は訓練では消せないから。

 

 相手の名前も、襲われる理由も何も知る由はない。

 

 それでも、ただ、理解した。彼はわたしと戦いたいから戦い、殴りたいから殴り、殺したいから殺すのだと。

 

 獣が吠えて、地面を蹴った。

 

 加速が速い。巨躯に似合わぬ俊敏さ。近付かせてしまっては負けるだろう。接近されれば、わたしの反射神経で追従できるレベルじゃない。

 

 ありえない速さでこちらへ向かってくる影へ向かって、わたしは右腕を真っすぐ延ばした。躊躇わずに放つ。赤い閃光。光子の交換を介した生命力の強制授与。進路上にある雨粒を尽く打ち砕き、乱反射しながら闇を貫く光速の念弾。

 

 それが、パンチ一つで相殺された。

 

 読んでいたのだろう。男性は、激情に見えて冷静でもあった。光の威力も低かったんだろう。牽制のつもりで撃った、なんの溜めもしてない攻撃だった。

 

 だけど、ありえない。あんな防ぎ方をされたのは一度もなかった。特別な発を使ったのだろうか。そうであってくれればいいと思った。その筈がないと分かっていた。あの人は、単純な強化と筋力の相乗効果、基礎的な身体強化だけでわたしの能力に打ち勝ったんだ。

 

 爆発が起こる。打ち重ねられたオーラが激しく反発して水滴が爆ぜる。広がる湯気の向こうから現れたとき、男性は傷もろくに負ってなかった。上着が吹き飛ばされただけで済んでいた。

 

「痛てぇな」

 

 獰猛な笑顔を浮かべて彼は佇む。わたしも笑ってしまいたい。いつから慢心していたのだろう。オーラの出し惜しみができる相手じゃなかった。わたしより強い人なんて、この広い世界、いくらでもいるって知ってたのに。

 

 男の人が堅をする。今まではただの纏だったのか。もう、ますます人間の領域じゃない。兵隊さん達を見渡すと、誰も彼もが蒼白だった。一人も倒れてないのが不思議だった。全身の筋肉が引き絞られる。一秒後、巨体は弾丸と化すと悟った。

 

 それを、横から止める人がいた。

 

「そこまでにしとけウボォー。団長から命令されただろうが」

 

 白煙に遮られた向こうから、新しい人達が現れた。アルベルトでも、カイトさんの声でもなかった。全く見知らぬ、だけど優れた念能力者。最悪だった。このタイミング、この状況、旅団の一員でないはずがない。

 

「あの女だけは、四人全員でかかれってな」

 

 その中の一人が諭すように言った。大きな上半身とアンバランスな下半身、顔の傷と長い耳たぶが特徴の、大柄な体格の男性だった。

 

「必要ねぇよ。ありゃ念に振り回されてるだけだぜ」

「おいコラ。団長の命令無視する気か? フェイタンまでやられてるんだぞ」

 

 髪の毛を頭上で結わえて、刀を持った男の人がガンを付ける。ウボォーと呼ばれた人は反論せず、じっと相手を見下ろしていた。小さな、顔を長い髪の毛で隠した人も隣に現れ、その様子をじっと見守っていた。

 

「……悪い。熱くなった」

 

 睨み合いはすぐに終わった。一番背の高い男の人が、すぐに自分を省みたのだ。

 

「はっ。どうせどっかの雑魚にでも上手いこと逃げられて逆上したんだろ」

「うっせえな。見てたのかよ」

「カカッ、マジかよ。しっかりしてくれよウボォーさんよ」

 

 苦々しく視線を逸らす大きな人と、楽しげに笑い飛ばす刀の人。普段から仲が良いのだろう。男の人らしい純朴な友情。こんな時でなかったら、微笑ましい気持ちになってたぐらい。

 

 だけど、今の状況は最悪だ。想定外の援軍。そして冷静になった強力な敵。

 

 髪を揺った人が無精髭を片手で投げながら、さて、とわたしたちを見渡した。なんの気負いもない自然体で、殺すか、とその目だけが告げていた。

 

 勝てない。

 

 胃液の酸っぱい味がこみ上げてきた。拍動が耳まで響いてくる。恐怖だ。殺される側の感情だ。これまで経験した戦いとは違う。わたしは今、明らかに狩られる側に回っていた。そして何より恐ろしいのは、わたしがこれから殺すという事だった。今までの犠牲とは全く違う、大勢のため戦いに臨む人達を、自分の意思で捨て駒にするという初めての決意。

 

 空を飛び、距離をとるにはオーラが足りない。午前の戦い、強烈な噴火とそこからの回復、ここまでの飛行、そして先ほどの遠距離射撃と、オーラを消費する要因が多すぎた。わたしのオーラは多ければ体に毒となってしまうけど、少ないと込み上げる暴走を抑えきれない。

 

 仮に飛んだとしても、遮蔽物に隠れられたら午前の戦いの繰り返しになってしまうだろう。だけど接近戦では勝負にならない。なら、とれそうな手段は一つしかなかった。

 

 だから、わたしも全力を尽くさないと。

 

 生涯、最初で最後になればいいと、流れ出すオーラを絞らないままに纏をする。おぞましいオーラが体に留まり、わたしの体をなめらかに覆う。心臓が破裂しそうな高揚感。宇宙と一体になったかのような全能感。全身がひとつの自己になって、指先の細胞一つまで、わたしというわたしが、わたしで満ちる。

 

 これが本当の纏だった。念を学ぶ人が最初に修める、常人と超人を隔てる初めの一歩。

 

「皆さん、命を下さい」

 

 静かに、だけどはっきりとわたしは告げた。兵隊さん達が注目する。頭の中で、できるだけ直接的な言葉を選んだ。逃げる事は、したくない。

 

「時間稼ぎをして下さい。皆さんが殺されている間に、わたしは先ほどの光を最大まで溜めます」

 

 しっかりと見据えて言い切った。彼等は困った様に顔を見合わせ、だけどその後、意思の篭った目で頷いてくれた。確実な死しか待ち受けてないと、魂で理解しているはずなのに。

 

 アイコンタクトと単純な合図。それだけで中央の装甲車が突撃した。即断即決の極みだった。小銃を握った歩兵が続く。左右の部隊は、やや遅れてから追従する。上手いと思った。大胆かつ洗練された戦術だった。負けてられず、意識を両手に集中させる。

 

 フルパワーで迫る中央部隊を、顔に傷のある男性が余裕のある動作で迎撃する。両手の指先から念弾が放たれた。無造作にばらまかれる弾丸の一つ一つが、装甲をいとも容易く貫いていく。鋼の塊が火花を散らし、砕け、夜闇に煌めいては燃えていく。豪雨に打たれる街の底で、壮大な星雲が誕生していた。

 

 流れ弾が路面を柔らかい土と同じように抉り砕いて、そこかしこで黒い粉塵が吹き上がった。叩き付ける雨の中でなお色濃く、空気から鉄とアスファルトの味がした。

 

 瞬く間に壊滅していく中央の部隊を見向きもせず、左右の部隊が跳躍する。炎上する残骸を追いこして、発砲しながらの両翼挟撃。自然に、念弾を撃つ手が左右に分かれる。弾幕の密度が半分になった。先行車両の命を犠牲に、後続が先へ先へと続いていく。歩兵の小銃が援護をする。

 

「っらあ!」

 

 野性味のある男性が、地面を殴って礫を飛ばした。巨大なショットガンにも等しい攻撃。原始的でシンプルな一撃は、効果的に突撃を阻害した。スピードが落ちた所へ念弾が容赦なく降り注ぎ、装甲を千々に引き裂いていく。丸く赤黒い塊が、大量に飛び散っては湯気を立てる。肉体と鋼が掻き混ぜられ、焼け焦げて絡み合った成れの果てだった。

 

 何もかもが壊れていく。あっけないほど簡単に。人間の生命に価値は無い。少なくとも、この場所ではそれが事実だった。

 

 地獄へと果てた弾幕の下、宿命の川と成り果てたカーテンを、一台の装甲車が突破した。たった一台、だけど、それですら奇跡の一台だった。雨の中、履帯でドリフトをかけながら後背に回る。そこは完全な懐だった。背中という人類絶対の死角だった。

 

 一条の光が奔った。

 

 ただ、無慈悲。装甲車はどこにも存在しない。かつて装甲車だった残骸は、水平に両断されていた。下半分は横転して、上は慣性でどこかへ飛んでいく。居合による斬撃。だけどその脅威の性能は、わたしの知る物理法則と噛み合わない。

 

 残っているのは歩兵が数人。決死の突撃は傷一つ相手に与えていない。

 

 でも、時間は稼げた。

 

「撃ちます! 逃げて!」

 

 兵隊さん達に警告する。両手に宿るこの光は、わたしの罪の証だった。絞り出せる全てのオーラを凝縮した、怨念宿る赤の光塵、髪が揺れる。ドレスが激しく羽ばたきだす。零れ出る余波だけで濡れた服が乾いていた。わたしの周りだけ、雨が降らない。落ちてこれない。空中で蒸発してしまうから。

 

「ボクに任せて」

 

 小さな人が進み出た。だけど、それも無駄だろう。手加減はしない。オーラの出し惜しみなんてするものか。血塗られた手で放つどす黒い赤光。問答無用で叩き付けて、庇った仲間まで殺してみせる。

 

 両手を掲げて、全ての絶望を解放した。閃光が夜を赤く満たす。断末魔の如く無音。狂気の如き極陽。赤を越えて絶色。雨粒で散乱し、ささやかな乱反射さえ圧力となる。軌道直下の路面が粉砕され、暴風が周囲に吹き荒れた。それでも足りず、見渡す全てが血塗られた薔薇色に染め上がる。周囲のビルの硝子が砕け、コンクリートに亀裂が走る。この街を喰らおう。潰して砕き、全て塵にして吐き出そう。死体も残骸も大地に還そう。幻影旅団もろともに。

 

 狂り、真紅の花弁が世界に満ちた。

 

 その直撃を、突如出現した壁が受け止めていた。なぜだろうか、空中にアスファルトが浮かんでいる。坂道、ではない。赤く照らされたシュールな光景。盾にするつもりだろう。確かに、光を介してしかオーラを遠隔作用させられないわたしには、それは有効な障壁になる。それでも。

 

 脆い。絶対的に脆弱すぎた。瞬く間に路面は貫通される。分子間力が用を為さない、日常とは次元の異なる超高圧。圧倒的な、物体の許容値を一瞬で超える念の奔流。その前では、アスファルトも水面と変わらない。

 

 貫かれ、些細な光の残滓だけで砕かれる黒い壁。その先にはさらに壁があった。連続的に生成される、砕かれる先から出現し、出現する先から砕かれる路面の群れ。轟音が地震となって激しく揺らす。黒い瓦礫の濁流が、噴火の様に立ち昇る。竜巻きの様に巻き上がる。この世の有り様が変わっていく。景色が赤と黒に塗り潰される。

 

 終末だった。世界が滅びる光景だった。都市という名の虚構が壊れ、現実が現実感を失っていく。箱庭から銀幕が剥がれ落ちた。装甲車両が空を舞った。

 

 幾百のアスファルトを破っただろう。終わりが見えない。それが堪らなくもどかしかった。白煙で、黒煙で、水と破片と粉塵で、光線は拡散を余儀なくされる。出力で圧倒していても押し切れない。歯軋りとともに力を込めた。

 

 そのとき、ドクンと心臓が跳ねた。

 

 辿り着いた深域。沈澱していた憎悪。汚染されていく意識。それは始まりの記憶だった。受け継がれるなかで薄まった、千年前の渇望だった。戦慄を伴って理解する。オーラを使いすぎたのだと。

 

 纏うオーラのおぞましさが、今までが児戯に思えるぐらいに増していく。惨憺たる戦慄。悲惨な絶望。悲鳴が、汚濁が、黄昏が、頭の中に満ちあふれる。聖なるかな、この世界。気が付けば、思考が空白になっていた。

 

 光が途切れる。しまったと焦ったときには遅かった。頭上に気配を感じて、空を見上げて驚愕した。ビルが、空中に出現している。基礎ごと、土壌ごと具現化された建物が、こちらへ向けて倒れ込む。それも一つや二つじゃない。五、十、いえ、まだ増えるっ……!

 

 嘘みたいな質量が雪崩れこんで、わたしは為す術もなく押しつぶされた。迎撃も回避も間に合わない。とっさに体を翼でくるんで、繭を堅くしてひたすら耐える。次から次へとビルの重量が加算されて、衝突の衝撃で砕けていく。コンクリート製の土石流。上下左右にもみくちゃにされる。加圧の連鎖が無遠慮に重なる。ダンプカーに跳ねられ続けたほうがましだろう。掻き混ぜられる質量の底は、重く、ただひたすらに痛かった。

 

 攪拌がようやく治まった。ぐちゃぐちゃに掻き回された意識を無理矢理叱咤する。瓦礫という名の海の底で、どうやって出るかという心配は杞憂に終わった。全方位からの突然の圧縮に続く開放感。驚いたわたしは、翼の合間から空を見た。雲に覆われた雨模様。コンクリートが粉砕されて、巨大なクレーターが穿たれていた。

 

 真上には、人影。左の拳を降り抜いた直後の体勢で、真っすぐに落ちてくる野生の男性。その右手には、これ見よがしに溜めたオーラが篭る。渾身の、絶対必殺の右ストレート。

 

 もう、避けられない。

 

 死に瀕して、体感時間が圧縮された。ゆっくりと流れる絶望の刹那。与えられた役目は果たせてない。みんなの思いを叶えられない。命を捨てて、わたしに託してくれた人達に顔向けできない。そしてなにより、アルベルトの笑顔を見足りない。

 

 死にたくないなと、そう思った。

 

 力が足りない。オーラが足りない。あの人の攻撃に耐えるには肉体が弱い。わたしの中の呪縛が吠える。解放しろと。開花しろと。嫌だ。暴走なんてしたくなかった。わたし以外の何かになんてなりたくなかった。それでも、このままだとそうするしか術はなくて。人格を侵食されるしか道はなくて。だから、せめて。

 

 そのエサを、よこせ。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 地上より来たりて、それは、疾風のスピードで駆け上がって来る。武器を持たずに無手のまま、垂直の壁面を踏み締めてくる。男は屋上から飛び下りた。重力に身を任せた自由落下。右手にシャベル、左手に拳銃。今度こそ、今度こそ一対一だと男は笑った。セントラルビルの外壁を舞台にする戦いに、一般人が手出し可能ないとまなどない。

 

 右手のシャベルを投合しようと全身を捻る。ぎりぎりと、限界まで筋肉を収縮させ、直後、解放した。槍と化し風を切り裂くシャベルを、相手は壁面を蹴って紙一重で躱した。元より当たるとは思っていない。男はただ、挑発のつもりで投げたのだ。

 

 登り迫る青年の瞳が光る。相変わらず嫌な目だと男は思った。メカニカルな、可愛げの欠片もない眼光だった。機械的な堅に機械的な流。体が金属製でないのが不思議なぐらい、この敵は人間離れした印象だった。

 

 男の顔を夜気が叩く。敵が強く外壁を蹴った。摩天楼のガラスにヒビが走った。交差は一瞬。その一瞬に備えるべく、男は愛銃を両手で構える。言霊の効く相手ではない。自分への暗示は、事前に十分すぎるほど与えてあった。

 

 お互い小細工のできない空中決闘。男はこの瞬間を待ち望んでいた。沸き上がる血潮が愛おしい。唇が自然と釣り上がる。接触まで刹那も残っていない。殺意を胸に、引き金に優しく力を込める。

 

 青年は、射線の先から消失した。

 

 消えた。否、横へ高速に滑ったのだ。なんの足場もない空中で。男が視線で追いかけると、敵は右手からビルの壁面へ延ばしたオーラを収縮させていた。変化系。オーラに、粘着力と弾力を与えたか。まるで、ガムとゴムを合わせたかのような性質付与。

 

 発動が速い。効果も洗練されている。だが、強い想いの込められた念ではないと男は思った。相手に似合わぬトリッキーな変化の性質は、もっと戦いを楽しむ者にこそふさわしい。しかしあまりに状況にマッチしていた。

 

 さらに滑る。今度は左手から粘性のあるオーラを延ばして、敵は男の背後に回り込んだ。体を捻るも間に合わない。相手の右手に粘着された。左手には例の、常識外に圧縮された硬が宿る。勝負は既に見えていた。完全に男の敗北だった。だが、大人しく殺されてやるのは趣味ではなかった。嫌いな奴に命を盗られるぐらいなら、自殺するぐらいが丁度いい。

 

 分かっていた。もう一度あの能力を使ったならば、今度は確実に死ぬだろうと。相手は初見で対処していて、あれ以上の成果など望めないと。それでも、このまま死ぬよりずっとましだと男は思った。

 

 第七の弾丸を拳銃に込めて、ためらいもなく引き金を引き絞った。敵は一時的に硬を解き、憎らしいほど精密に弾道を読んで威力を軽減してみせる。さすがに体勢は崩れたが、その隙を男が活かす術はない。魔弾は過たず彼を穿ち、左胸を今度こそ貫くだろう。そのはず、だった。

 

 ならばなぜ、男は未だに生きてるのか。

 

 男は驚愕に襲われた。七番目の弾丸が当たってない。しかし、それでは辻褄が合わないのだ。困惑が脳内をぐるぐると回る。体に染み付いた習性が敵の青年をビル内部に向けて蹴り込んだ。頭上で大音響が響いている。摩天楼の濡れた外壁に足をかけ、摩擦で落下速度を殺していく。しかし、今では全てが些事だった。

 

 能力者本人が無意識で最も命中してほしくないと願う箇所へ必ず命中する七番目の魔弾。それは確かに発射された。男に当たってないならば、別のどこかへ向かったのだろう。男に家族はいなかった。友人達も生きてはいない。執着する物品といえば愛銃ぐらいのものだったが、それもこの通り無事だった。思い当たる対象なんて、男には一つしかありはしない。

 

 ひとつ、あってしまったのだ。

 

 馬鹿馬鹿しい。男はそうやって笑い飛ばした。笑い飛ばしたかった。笑い飛ばせれば、良かったのだが。

 

 しかし、直感はそれが正解だと告げている。銀の髪、紅の瞳、褐色の肌が脳裡に浮かぶ。何を今さらと男は笑った。女など、腐るほど抱いて殺している。いまさら陳腐な感情なんて、抱く余地などなかったのだ、

 

 そう、信じ込めれば幸せだった。

 

 離れていてくれればいいと男は願った。あの念弾は減衰が激しい。ある程度の距離さえ離れていてくれれば、あるいは少女の纏でも防げるかもしれないのだ。それが唯一の希望だった。とにかく一度顔が見たい。

 

 そこに、死神が出現した。

 

 長い髪が闇夜に流れる。細身の体が大鎌を振るう。見覚えのあるピエロが笑っていた。セントラルビルの内部から飛び出した人影は、見覚えのある人物だった。生きていたという驚きより、不思議と納得の方が大きかった。

 

 絶好の状況、最適の舞台、切り札の先の切り札。積み重ねられた苦心の結果に、男は賞賛すら抱いていた。これほどの達人、これほど重要な戦力を、よくぞここまで温存したと。

 

 大鎌が円舞を踊りだす。銃を構えるのは間に合わない。否、構えなければ間に合うのだ。七発の魔弾さえ撃ち込めば、直近の死だけは延ばせるだろう。例えジリ貧になったとしても、粘れば光明は探し出せる。それは、幾つもの修羅場をくぐり抜けたが故に持つ、男の確かな直感だった。A級首は決して伊達ではない。

 

 撃てさえすれば。そう、撃てるならとっくに撃っていた。撃てるはずなどなかったのだ。

 

 ワルツを押しとどめる術は他にない。決して間に合わないとは知りながら、男は通常の念弾を照準する。悪い最後ではなかったが、下らない死因だと自嘲した。煙草を吸いたいと男は思った。

 

 そのとき、上空から黒いコートが乱入した。

 

 

 

 がざり、がざりと床を摩る、雑音がひどい。ノイズが頭蓋骨の中を反響する。暗く静かなビルの中で、アルベルトは馴れない感覚に浸っていた。肉体が上手く動かせない。なんとか操ろうと試行錯誤を繰り返しながら、懐かしい現象に苛まれていた。

 

 彼は、アルベルトだった。

 

 アルベルトという一個の人間の人格以外、何も含まれないアルベルトだった。

 

 随分と、久しぶりの事だった。

 

 破れた窓ガラスの向こうでは、緑の光が煌めいている。戦っているのは誰なのか、考えなくてもすぐに分かる。彼女に会いたい。無事でいてほしい。慣れない体の動かし方を思い出しながら、ただそれだけを望んでいた。遠目に眺めたエリスのオーラは、今までとは毛色が違っていた。

 

 天井には大穴が空いている。アルベルトが建物内部に蹴られたとき、落下の衝撃で突き破った穴だった。肉体の方も、かなりのダメージを負っていた。しかし、重要なのはそこではない。

 

 息が苦しい。拍動の緩急が不規則だった。体力はもう、いくらも残っていないだろう。それでも、アルベルトはなんとか立ち上がった。エレベーターは動かない。ならば階段しかないのだろう。壁に手を着いて支えとしながら、痛みに耐えて歩き出した。

 

 黒コートの男が脳裡にちらつく。旅団の団長だと彼は名乗った。邂逅は、つい先ほどの出来事である。確保直前の犯人に蹴り飛ばされ、ビルの内部に突っ込んだ際、それは間もなく現れた。

 

 アルベルトはその時に思いを馳せた。彼は言った。ビルの外壁で行われた戦闘ではなく、大通りでの衝突を指して告げたのだ。自分なら、それを止める事もできるのだと。罠だとは分かっていた。だが、エリスに深く関わる件ならば、アルベルトに無視するという選択肢はない。

 

「だが、条件がある」

「……なんだ?」

「その前に一つ確認させろ」

 

 そう、低い声が響いたのを覚えている。

 

「お前の念能力は、自分自身の機械的制御。そうだな」

「ああ、そうだけど」

 

 だけど、それがどうしたとアルベルトは尋ねた。

 

「いや、もう用はない」

 

 彼は笑った。直後、逆十字を背負った体がぶれ、鋭く重い拳が迫った。マリオネットプログラムが分析を上げる。ヒソカを彷佛させる強者だった。ダメージを負った体では対処しがたい。身体の強化効率こそ低かったが、体術のセンスが抜群に良い。

 

 拳を右腕で防御した。その手がとられ、疑問に思う暇もなく、具現化した書物の表紙を押し付けられた。それっきり、マリオネットプログラムが応答しない。もう、存在すらも掴めなかった。

 

 蜘蛛の長を名乗った男は、窓を破って外へと落ちた。とどめを刺される事はなかったが、追いかける術も既になかった。全身の精孔が開き切り、オーラが勝手に噴出しだした。制御はもはや不可能だった。

 

 階段を一歩一歩降りながら、アルベルトは沸き上がる雑念に戸惑っていた。実行可能か否か、ランできるかどうかという、二律背反の条件ではない。クリアでデジタルな思考から雑味のあるアナログな思考へ。曖昧で、不明瞭で、抽象的な、原始的な脳の使い方が戻ってきていた。勝手に雑音ばかりかき鳴らす、演奏不能の楽器だった。

 

 それでも、アルベルトは少し楽しかった。新鮮みがあった。懐かしかった。マルチタスクもできない、高度な統制もされない不器用な脳髄を愛しく思った。アルベルトは完全に人間となった。表情を偽装する必要も、外部から感情を補給する必要もない、暖かい機械になったのだ。

 

 そしてなにより、エリスの事を思うと心が躍る。胸がざわめく。苦しいほどに締め付けられるのにとても楽しい。彼にとって初めての感情だったが、嬉しさとともに理解した。余人が恋と呼ぶ感情を、アルベルトは今、手に入れたのだ。

 

 アルベルト・レジーナ、十九歳。彼の初恋の瞬間だった。

 

 

 

次回 第二十二話「ラストバトル・ハイ」



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第二十二話「ラストバトル・ハイ」

 この宇宙に漂う泡状構造は、無数の微細な粒子の集合から成立している。空洞の淵に群れをなし、低エントロピー分布のほとんどを担うそれを、とある知性は銀河と呼んだ。

 

 ある、一つの銀河の片隅に、一つの惑星系が存在している。そのさらに局所、小さな惑星の表面に、ある種の生物群が付着していた。彼等は自らの小ささを自覚すれど、社会を作り、幻想を共同し、万物の霊長を自認している。

 

 その社会は、数多の脅威に撹乱され、傲慢と暴虐に蝕まれながら、それでも、システムを辛うじて保っていた。

 

 

 

コッペリアの電脳 第二章最終話「ラストバトル・ハイ」

 if 1999

 

 

 

 巨大なクレーターが乱造され、建物が次々と薙ぎ倒され、地方都市が丸ごと、破砕に揺れる。緑色の光がなぎ払われ、その度に、周囲の空気がおぞましく冷える。

 

 ビルの谷間を男は飛ぶ。体が重い。傷は深い。動く度に左胸が痛い。だがそれでも、かろうじて命は繋がっている。黒コートの人物の乱入によって始まった三つ巴の戦いの結末は、男が離脱する糸口を見つけた事により訪れていた。だが、もしも乱入者が男を庇うような動きを見せていなかったら、到底逃げ延びてはいないだろう。

 

 また一つ、大通りで摩天楼が倒壊した。あれに巻き込まれていたならば、少女はとうに儚くなっているだろう。その考えが、男を余計に焦らせる。スライムからは今の所、死者の念らしき気配はしない。だがそれも、あくまで今の所でしかないのだった。

 

 追跡を気にしながら男は急ぐ。道標にするのはスライムの群れだ。憲兵達の遺体に集るそれらの分布を、濃度の微かなグラデーションを頼りに男は駆ける。

 

 しかし、何故だろう。スライムの数が妙に多い。活動も不自然に活発だった。少女が健啖である証なら問題ないが、男は嫌な予感を感じていた。むしろ逆に、それだけ多くの生命力を、欲せざるを得ない事態に陥ったのではないかと危惧したのだ。

 

 心中で焦りが火勢を増す。そうなれば余計に不安は増して、スライムの原始的な蠢きさえ、どことなく焦っている様に見えてくる。嫌な傾向だ。自分の胸の内で繰り広げられる悪循環を、男は苦々しく思いながらも放置した。言霊で強引に断ち切る事はできた。しかし今はそれよりも、残り少ないオーラの方が惜しかった。

 

 雨の中、沈みゆく街並を疾駆する。緑色の光線が闇を照らした。破砕音が連鎖している。折り重なる躯は何も言わない。がらんどうの瞳で何一つ文句をいわないまま、波打つ水塊に喰われていた。

 

 それは終末の光景だった。人の世が終わり、文明が絶え、この星が緩やかに傾いていく有り様だった。

 

 走りながら、懐を探って煙草を出した。煙でも吸わないとやってられない。しかし、男は直後に舌打ちした。制服と同時に調達した紙巻きは、わずか二本しか残っていない。けちがついた気分でイラっときたが、今現在、補充する暇などあるはずもなかった。一本を咥えて火を吸い込み、最後の一本を懐に戻す。安っぽい風味が肺を満たし、紫煙が雨の中に消えていった。

 

 どれほど走っていただろう。乏しい手がかりを頼りに駆けずり回って、男はようやく辿り着いた。

 

 そこは水の花園だった。夜中に、水塊の絨毯が咲いていた。ビルの陰で、透明なベッドに横たわる少女がいた。スライム達の大群に、彼女は優しく抱かれていた。雨の中でしか生きられない偽りの生命たちは、創造主に対し懸命な奉仕を捧げている。集めてきた生命力をかりそめの命ごと主に還して、弱った少女の糧としていた。

 

 彼は、少女の頬に手をあてた。ひんやりした体温にぎくりとする。が、首筋を触れば拍動があって、口元に耳を寄せれば呼吸があった。安堵し、男の肩から力が抜けた。気を失っているだけだった。

 

 少女に意識はない。だが、大きな外傷も見あたらず、外見上は命に別状はなさそうだった。よく見れば、胸が微かに上下している。男はほっとして微笑みを浮かべた。少女の頬を軽く撫でると、くすぐったそうに顔を顰めた。

 

 そうして、思考に余裕が出てきてから、男は自分の異状に気がついた。この小さな存在にここまで拘泥していたなど、彼にとって、意外極まりない事だった。

 

 始まりはただの偶然だった。気まぐれで飼って、知らないうちに愛着を覚え、困惑とともに捨てようともした。それが、どうしてだろう。いつの間にか、何よりも大切になったらしい。彼自身、未だに実感は乏しかったが、能力が、無意識がそうだと言っていた。否定する材料も持ってなかった。

 

 いや、失いかけた今だからこそ断言できる。男にとって、少女は確かに大切だった。亡くしたくない宝だった。永遠の愛などに興味はないが、少なくとも今、彼は彼女を必要としている。なら、飽きてから捨てようと男は思った。飽きるまでそばに置こうという決意だった。その結論に達した時、男の中で燻っていたわだかまりは、綺麗さっぱりと雲散した。

 

 彼はスライムの群を書き分けて、腕を差しいれて少女を抱えた。感傷にひたるのは後からでもできる。こうしているうちにも追っ手はすぐそこまで差し迫り、あるいは、今にも襲ってくるかもしれないのだ。

 

 

 

 踏み込みは深く、鋭く、速かった。二人の拳が衝突し、暗闇の中に閃光が爆ぜた。黒いコートが爆風にはためく。強いなと、カイトは相手の実力を認識した。深く玲瓏に輝く双眼はどこまでも冷静で冷徹だったが、同時に、少年のように無邪気に輝いても見える。

 

 大降りの裏拳が肉薄する。カイトはそれを、右腕を振り上げてガードした。打撃は素手ながらひどく重く、巨大な鈍器のように芯に響いた。体重移動が的確で、攻防力の移動が異様に速い。一手受け損なえば生死の向こう側へ吹き飛ばされる事が必定の、達人の域を越えた体術だった。だが、それでも。

 

 敵の腕が伸びきった瞬間を見極めて、カイトは手刀を首筋へ放つ。躊躇などない。頸動脈を切断すべく、刃の如く研ぎ澄まされたオーラを纏わせた突きである。並の強化系能力者を軽く凌駕する一撃だった。しかし相手も並ではない。裏拳の勢いのままに体軸を回し、紙一重で辛うじて躱したのだ。今度は、相手から突きが放たれる番だった。

 

 刹那、攻防は嵐の如く交錯した。次々と絶技が応酬され、弾け飛ぶオーラは火花と咲いて散り急ぐ。拳を打ち出し、いなし、防ぎ、虚実を混ぜて貫き躱す。お互いに素手のままとはいえ、威力は凡百の武器より遥かに高い。それが、急所の至近をかすめていく。命の灯火を揺らがせる。両者、いつ絶命してもおかしくない、極限を超えた極限だった。

 

 人類の思考が追い付く領域の速さではなく、雑念がはびこる余裕はない。頭脳が漂泊されていく。空も、大地も、地平線の彼方まで純白に染まった無我の中、殺意だけが赤かった。そんな世界に己が全身を沈めながら、カイトは冷静に俯瞰していた。百戦錬磨の希代の経験を礎として、更なる高みを知るが故の慧眼を持って看破する。眼前の相手は、戦技、肉体、眼力全てにおいて極上だった。しかし、上手く隠していてもカイトには分かる。彼より、身体強化効率が一段低い。すなわち、敵は特質系に他ならない。

 

 それは、決して有利な事項ではなかった。真逆である。相手はどう見ても戦闘系の能力者。ならば、能力を使わせる前に畳み掛けるのが至上だった。

 

 敵の掌底をあえて躱さず、最小限より微かに少ないオーラで防いだ。ダメージと引き換えに手に入る、極小ながらも確かな余力。それを脚運びに費やして、ほんの少し有利な要素だけで、わずか半歩だけ間合いを開けた。これは一つの賭けだったが、勝算が高いと踏んだ勝負だった。事実、それは当たり、間隙が生まれて笑うピエロが出現する。神業と呼ぶにふさわしい、素早く正確な能力発動だった。所要時間は打撃一つ分にも及ばない。しかし、カイトの能力には強制的なタイムラグがある。スロットの数字が決定するまでの間、具現化から武器の選択まで、数秒という長すぎる間隔が必要なのだ。怒濤の攻防が飛び交う中、永久にも等しい時間であった。

 

 だが、それが不利になる必然はない。他者は知らず、カイトほどの領域に達していれば、その性質すらメリットに変わる。具現化されたスロットを完全に無視して、カイトは攻撃に専念する。反して敵は注視する。当然である。当然を越えて必然だった。戦闘中、ここぞと出された発である。無駄だらけの、自我を持ってさえ見える道化の異形。注意しなければおかしいのだ。念に通じれば通じるほど、発の怖さを知るほどに、この能力の異質さに幻惑される。その間、全自動でスロットが回る間、カイトは完全にフリーになる。

 

 せいぜい、全身全霊で警戒すればいい。そんな思いと共に、カイトは腰だめのストレートを打ち抜いた。敵もさるもの。辛うじてガードは間に合ったが、カイトの本命は次にある。渾身の打撃を受けて、硬直し、ピエロとカイトの間で逡巡する隙を見逃す術はない。線の細い肉体がぶれ、長い髪が残像を残した。採魂の大鎌もかくやと鋭き、重い回し蹴りが撃ち落とされる。

 

 しかし、それこそが敵の狙いだった。隙は演技だったのだ。この一撃、決定打を誘うのが思惑だった。コンマ一秒の単位で動きが変わり、瞳の色が塗り変わった。黒いコートが不敵にはためく。大降りの回し蹴りを皮一枚で辛うじて躱して、その男は、窮地の狭間に微か半秒に満たない時間を手に入れたのだ。

 

 右手に書物、次いで左手に短剣が具現化する。付け入る隙は微塵もなく、カイトは苦虫を噛み潰した。どこからか情報を仕入れたのか、それとも垣間見られていたのだろうか。あらかじめ知っていなければできない策だ。乱数を武器とするカイトに対し、自身の命をも囮にし、冷厳な理で拮抗してきた。

 

 敵の短剣は黒かった。艶のない、漆黒の刀身が闇に溶け込む。一方でスロットも数字が決まり、具現化した獲物をカイトは掴んだ。種類は槍。運の悪さに辟易した。この接近戦に長物は向かず、技も好ましいものがない。きちんと使えるかすらも不明だった。しかし、状況に合わぬ武器だからこそ、意外性を発揮するのが常である。そう簡単に負けはしない。それは、挟持であると同時に事実でもあった。

 

 ほんの一瞬、具現化した武器をお互いに携え、戦いが冷たい静寂に満ちる。

 

 睨み合いは刹那に瓦解した。雨の散る夜気が爆轟する。初撃は互角。逆手に握られた短剣が闇を潜って、槍の柄の薙ぎ打ちに相殺される。莫大なエネルギーが衝突し、念で強化した体でなおも、痛烈な余韻に痺れが奔った。だが、敵の初撃には次があった。

 

 肩口に刃が突き刺さっている。カイトの目が、驚愕に大きく見開かれた。鮮血が飛び、神経が加熱されて痛みが生まれた。全く予期できなかった第二の刺突。それは、存在しないはずの軌跡だった。所作も音も光も無く、直感すらも欺かれた。急所から外れたのは偶然だった。ならば、次も外れる保証はない。

 

 突き刺さった何かは短剣ではない。黒い刀身は確かに弾いた。敵の左手に収まる刃にも、血液で濡れた気配がない。しかし、この傷は確かに短剣である。その齟齬を深く噛み締めて、カイトは攻撃を一旦中止した。窮鼠猫を噛むという諺もあれど、自ら鼠に堕ちる謂れはない。無理な深追いは無用である。

 

 チャンスを逃がさず、再び短剣が迫り来る。狙いは顔面。速く、どこまでも自然体な突きだった。朝食のコーヒーカップを持ち上げるが如き、気負いもりきみもありえない無鳴の断命。血河を作り、骨山をなし、万斛の涙を踏みにじり、暗黒を極めた更に果ての、白痴に還った刺突である。きっと、この敵にとって殺人とは、息をするのと同じだろう。

 

 槍の柄の存在を両手の内に確かめながら、カイトは刮目して迎え撃った。集中力が昂り、時間が圧縮された錯覚が広がる。コンマ一秒が緩やかに刻む流れの中、二人の視線が交錯した。

 

 そしてカイトは理解する。槍の柄を振り上げ、短剣の刀身と、関係ない場所を同時に弾く。手ごたえは両方に存在した。黒い刃が溶けて消える。ありえないはずの二つ目の刃の正体は、その瞬間だけ具現化される第二の刀身だったのだ。

 

 一度の突きで二条の軌跡を描く漆黒の短剣。単純至極な必殺の秘技。具現化速度だけを極めに極め、闇を纏いて虚を貫く、暗殺のための能力だった。代償に狙いの精度は甘いのだろうが、その誤差が故に軌道が読めず、本来の刀身の精密無比な攻撃と相乗している。

 

 やっかいだ。カイトは掛け値なしに評価を下した。シンプルで、それでいて絶大な効果の能力だった。見破れなければ致命的だが、知っていてさえ対処がしがたい。防御に回ればなますに刻まれ、攻撃に移れば突き殺される。だが、それも。

 

 三度、敵の攻撃が飛来する。受け損なえば即ち死。反撃の光明はあまりに乏しく、生半可で凌げる窮地ではない。それでも。

 

 左手しか使えないなら話は別だ。

 

 カイトは槍を渾身で振るった。握られた短剣が宙を舞う。所詮は片腕。仕掛けも見切った。なら、力で負けるはずがなかった。しかし敵も焦らない。はじめから想定していたかのように蹴りを放つ。尋常ではない。虎の子であるはずの発を使い捨てにする戦術は、念能力者の根本原理に逆行している。

 

 しかし、それすらもカイトは読んでいた。読んでいた上で誘ったのだ。当然のように蹴りを躱して、石突き代わりの道化を見舞った。それは敵の体に吸い込まれ、重く激しく吹き飛ばした。体の芯を強く揺さぶり、骨にヒビが入った手ごたえがあった。

 

 見破れたのは道理である。確かによくできた発であったが、あれほどの達人があの程度の動力を実現するのに、片手が塞がるのは不自然だった。特質系ともいいがたい。くわえて、これ見よがしに連発してきた暗殺の秘技。愛着を持つ者の戦いではなかった。あれの本来の持ち主なら、徹頭徹尾、一撃必殺に努めるだろう。どうやら、先ほどの能力、いずこより掠め奪ってきたものらしい。

 

 なるほど、とカイトは納得した。まさに特質系の能力である。つまり、敵はまだまだ手をもっているのだ。あの程度、使い捨てにして惜しくないほどの数々の発を。

 

 起き上がった相手が楽しげに笑った。カイトも薄く微笑んで、帽子を深くかぶりなおす。おもしろい。心の底からそう思った。今度は、こちらから攻めるべきだろう。間合いも丁度空いている。槍を構え、細い四肢が引き絞られる。狂ったピエロが笑っている。槍の穂先の狙いは正鵠だった。

 

 この街は既に無人であり、憲兵も全滅に等しかった。ならば、少々瓦礫が増えた所で問題はあるまい。

 

 貯めた力を解き放ち、カイトは音の壁を突破した。

 

 

 

 目覚めた時、少女は男に抱かれて揺れていた。景色が高速で流れていく。長い銀の髪がたなびいている。雨が顔を叩いて少し痛い。少女の常識を超えた疾走だった。生身での走りは車とちがい、体感速度が恐ろしく速い。

 

 しかし、少女は恐怖を感じなかった。帰ってきてくれたと、再び会えたという喜びが胸を満たしていた。雨に撃たれて冷えた体に、男の体温が暖かかった。くいくいと制服の襟元を引っ張って、少女へと向けられた顔にそっと触れるだけのキスをした。瞼を閉じて、全身全霊を唇の触覚に集中する。首の後ろに両腕をまわして、一時の至福を満喫した。ずっとこうしていたかった。

 

 終えて、名残り惜しみながらも唇を離すと、男はいつになく優しい目で少女を見下ろしていた。彼女は疲れた上半身を愛しい人の腕に横たえ、逞しい胸板に頬を預けた。そこは暖かく湿っていた。雨水ではない。鉄錆の臭いのする液体だった。少女は泣きそうな気持ちになった。男は、傷口が開くような事をしてきたのだ。

 

「……無茶だけはしないで下さいって言ったじゃないですか」

 

 瞳を閉じて、静かに少女は呟いた。耳を澄ませて、とくんと鳴る拍動に心を寄せる。心拍に異常はなさそうで、彼女は少しだけ安心する。

 

「泣かないんだな」

「私も、いろいろありましたから」

 

 少し、悟っちゃいました、と少女は言った。穏やかで、悲しみに染まった声色だった。男は背後を気にしながら、街並を縫う様に駆け抜けていく。ある所で曲がり、引き還し、しばらく隠れてから急に駆け出す。逃げているようだなと少女は思った。少女の五感では分からなかったが、誰かに追われ、捲こうとしているのだろうか。

 

 答えは、すぐに向こうからやってきた。黒い、いつぞやの黒い男だった。白いファーの付いた黒いコートに身を包み、黒い本を片手に持ってた。見覚えのある姿だったが、瞳だけは明らかに違っている。あの無機質な輝きは、金髪の青年のものだったはずだ。

 

 物陰より飛来したその人物は、目にも追えぬ速さで二人へ迫った。男は少女を抱えたまま、振り向き様の回し蹴りで迎撃する。少女の見る景色がぐるんと回った。一瞬の出来事に目を丸くしている間に、衝撃が二人を貫いた。男の腕がぎゅっと絞まる。体が低空を舞っていた。そして、ようやく少女は認識できた。敵が掌底で吹き飛ばしたのだ。男の骨がミシリと鳴って、口からいくらかの血を吐いた。余計な破壊を伴わない、恐ろしくシンプルな破壊だった。やはり少女の存在は、相当に不利な事らしい。

 

「捕まってろ! 喋るなよっ、舌を噛むぞ!」

 

 地面との猛烈な接触を幾度ものバク転で回避しながら、今更ながらに男が叫ぶ。少女は必死で従った。視界の高速回転に付いていけず、それでも、目を閉じて暗闇に逃げるだけの勇気もない。ただ、嵐がすぎるのだけを願っていた。そんな彼女の目の前で、男の喉にオーラが集まる。頼もしさに少女の胸が高鳴った。

 

「お前は転ぶ!」

 

 しかし言霊は全く効かず、虚しく闇に吸い込まれた。それは不可解な現象だった。以前邂逅したときは、男の術中にはまったはずだ。だが、男はこの結果を予想していたのか、苦々しく舌打ちしただけで驚いてはない。

 

「しがみついてろ! 撃つぞ!」

「はいっ!」

 

 片腕で彼女を抱えたまま、愛銃を取り出して振り向き様に撃ち放った。いつになく必死な、明々と燃える男の瞳が、見上げた少女には怖かった。

 

「くそっ! やっぱりあいつと同じ特性かよ!」

「……うそ」

 

 そして少女は愕然とした。追跡者は完全に冷徹だったのだ。念弾を躱そうとするのではない。弾道を予知するかの如く正確に見切り、発射前にミリ単位で空間からどいている。その様子は、弾丸が外れた場所を勝手に通過していくとしか思えない。銃撃は、追跡者の足留めにすらならなかったのだ。

 

「切り札はどうしたんですか! あるっていったじゃないですか!」

「ああ、あるさ! おまけに今なら使い放題だ! だがなぁ!」

 

 悲痛で無意味な叫び合いは、敵を利するだけの茶番だった。体力を削るだけの愚行だった。だが、それでも。

 

「お前が生きてる限り使う気はねぇよ!」

 

 左腕で少女をひときわ強く抱きしめて、男はギラギラ燃える眼で敵を睨んだ。相手は、未だ涼やかに笑っている。しつこく迫り痛烈に嬲るという行為とは対照的に、残虐さの欠片も見えない無機質な眼光。それが気に食わない、と男は瞳で語っていた。嫌な予感が少女を襲った。

 

 そして、一発の念弾が放たれた。

 

「なんて、馬鹿な真似を……!」

 

 追跡者に念弾が命中した。疾走中にバランスを崩して、体が地面に打ち付けられる。だが、そんな些事はどうでもよかった。少女は目を見開いて、呆然と起こった事を眺めていた。男の腹には、小さな穴が開いていた。

 

「うるせえ、致命的な場所は避けた。ほら、逃げるぞ」

 

 男は自分の腹部を撃ち、貫通させた弾丸を当てたのだ。

 

 自らの胴体で銃身を隠して、弾道の予測と発射のタイミングを隠匿した。拳銃という、取り回しのいい銃器に熟練したからこそ出来た芸当だった。直感で狙えるまでに馴染んでいたからこその直撃だった。達人なればこそできた、相手の先入観を裏切る妙手だった。しかし、少女は讃える気にはなれなかった。

 

 それからの逃走劇は血まみれだった。男の脚は明らかに鈍り、無茶な自己暗示の重ねがけで辛うじて走り続けた有り様だった。幸い、再び補足される事はなかったが、そこに余裕は全くなかった。心臓が潰れそうな不安と恐怖に、少女はひたすら耐えていた。

 

 そして、男はどこかの路地で脚を止めた。

 

 ザアザアと雨が降り続いている。男の呼吸が荒かった。汗ばんだ全身は白い湯気を造り出し、熱い体温が少女の心を苛んでいる。濃厚な血の臭いに抱かれながら、彼女は小さく震えていた。

 

 男の短い金髪は水気を含み、額も繭も濡れている。目に入ってしまわないよう、少女は手を伸ばしてそれを拭った。にやりと釣り上がった唇は、きっとお礼の言葉の代わりだろう。不適な態度は崩さずとも、呼吸を整えるまでいくらかの時間が必要だったのだ。

 

「あぁ、こっちの傷も、また……」

 

 胸板を見つめて少女は呟く。直接触る事はできなかった。触っても癒せるはずもなく、なによりあまりに痛そうで、臭いの滲んだ黒い制服をただ見つめていた。張り裂けそうな思いだった。そんな彼女の心配に対し、男は端的に、ああ、と返した。

 

「ここで待ってろ。動くなよ。生きてりゃ迎えにきてやるから」

 

 少女を降ろし、拳銃に念弾を装填しながら男は言った。ぽんと、頭を撫でて言い聞かせてくる。いつものような、乱暴に掻き回すやり方ではない。優しいがどこか弱々しい、遠慮したような撫で方だった。少女が恐る恐る見上げると、大人びた微笑みの男がいた。それがとても不吉に思えて、少女は遮二無二しがみついた。邪魔をして逆鱗に触れようと、殺されようともどうでも良かった。それほど、いまの男は儚かった。

 

「私、もう嫌です!」

 

 男に抱きついて縋りながら、少女は必死に引き止めた。

 

「もう、一人じゃ生きていけそうにないんです。あなたと出会う前は、生きていて楽しい事なんて、一つもありませんでした。初めてなんですよ。娼館を抜けて、あなたと暮らして、初めて、幸せという言葉の意味を知ったんです!」

 

 それはダムの決壊だった。ただのわがままだとは分かっていた。適うはずのない願いだと知っていた。表に出しても男の負担になるだけで、最悪、邪魔だと殺されてしまうかもしれない。それでも、抑えようともとどめようのない切なる思いが、支離滅裂で稚拙な願望が、小さな口から流れていく。

 

「だから、あなたに生きて欲しかったから、これでも頑張ってみたんですよ! なのに、足りない力を補おうとすればするほどに、どんどん、楽しかった思い出が消えていってっ!」

 

 男にとっては遊び以下でも、少女には本気の愛だった。彼女の最初の執着だった。この危機を無事に抜け、二人で旅を続けられたら、どんなにか幸せな人生だろうか。その一心を礎に、自ら危険に飛び込みさえした。しかし、そこは化け物の闊歩する地獄だった。

 

「幸せだった事は覚えているのに、何が幸せだったのか思い出せないっ。このままじゃ私、あなたの全部を忘れてしまいそうで。なのにあなたは全然言うこと聞いてくれなくてっ! このままじゃ、どうしてくれるんですか。私、私っ!」

 

 これから先、どれほどの記憶を失わなければならないのか。いつまで男は無茶を続けるのか。いつになったら、切り裂かれるような心配から解放してくれるのか。少女は嗚咽とともに言葉を紡ぐ。そして最後に残ったのは、たったひとつの呟きだった。

 

「お願いだから、死なないで……」

 

 膝を付き、傅くようにしゃがんで少女は洩らした。結局はそれが全てだった。彼女の唯一の渇望だった。彼女の身を焦がした焦燥の、そして絶望の根源だった。男が生きていてくれるなら、記憶も命も惜しくはない。少女は心からそう思った。

 

 だというのに、上から降ってきたのは笑いだった。喉の奥からこぼれてくる、愉快でたまらないという声だった。

 

「……なんで、笑っているんですか」

「やっぱり、ガキだなって思ってよ。俺も、お前も、お互いにな」

 

 男はそう言って微笑んで、しゃがんでいた少女に手を差し伸べた。どこか少年めいた輝きの、幼稚で悪戯っぽい笑顔だった。少女が苦手な、年下のような笑みだった。

 

「悪かったな。今まで、悪かった」

 

 気が付いたとき、少女の唇は奪われていた。触れるだけの一瞬の口付け。理解は全く追い付かず、少女はばちばちと瞬きする。

 

「え……?」

 

 目を白黒させる少女を眺めて、男は面白そうに笑い続けた。

 

「ほんとは俺、もうちょっと育ったのが好みだったはずなんだがなぁ」

 

 ぽんぽんと頭を叩きながら、そんなとんでもない独白をする。かつてはいつも通りだった馬鹿話に、少女にも余裕が戻ってきた。今、この微かな時間だけ、失われた日常が戻った気がした。それが錯覚だと分かっていても、胸が暖かくなってきた。

 

「こう、ボンキュッボンってよ。分かるだろ?」

「……今、それを言いますか。だいたい、赤ちゃんみたいにしゃぶり付いたくせに」

「ははっ。ま、お前じゃ十年後だな。いや、育つとしてな」

 

 あれほど貪っておいて悪びれもせず、飄々と残酷に告げられた。もっと甘いムードにできないのかと、少女は男を睨み付ける。だが、堪えた様子は微塵もない。

 

「だから、あと十年は一緒にいろ」

 

 少女を抱き上げながら男は言った。いつも通りに飄々とした、なんでもない、雑談の中のような一言だった。それでも、彼女がどれほどそれを望んでいたか。感情の奔流が沸き上がり、何一つ喋る事ができなかった。情けない女だと自覚したが、舌が震えて動かせない。失神してないのが奇跡だった。

 

「どうした? 嫌か?」

「……誤摩化されませんからね。今回の分の思い出はちゃんと埋め合わせして下さいよ」

 

 回ってない頭はろくな言葉を用意してくれず、少女はそっぽを向いて誤摩化した。本当は、埋め合わせなんてどうでも良かったのだ。もしも二人が共に生き残れるなら、その後はただ、生きていくだけで幸福だろう。一緒に生活できれば、それだけで。

 

「ま、仕方ねぇか。憶えてたらな」

 

 わしゃわしゃと強く頭を撫でて、男は楽しげに約束した。濡れた髪の毛が乱れてしまい、少女は困ったような顔をした。事実、彼女は心底困っていた。ともすれば、嬉しすぎてこの場で死にそうだった。

 

「じゃ、まずはとりあえず、二人でこの街から脱出するか」

 

 いとも気軽に大言を吐いた男の顔は、悪戯っぽい笑みで一杯だった。

 

 

 

 アルベルトの体は熱かった。冷たい外気が肌を焦がした。ビルの外を、アルベルトは熱に浮かされながら歩いていた。這いずるようにゆっくりと動き、夢遊病のごとくどこかへ向かう。

 

 鉄の塊を肩に担ぐ。十キロを優に超えるほど重く、体力を余計に奪っていく。約一メートルという長い銃身をもつそれは、対物ライフルと呼ばれる銃器である。発射速度と威力は高いが取り回しは悪く、反動はきつく、その上露見性まで高い武器だ。その威力も、屈強な念能力者にはどこまで効くか。憲兵部隊の遺体の側には他にも対戦車ロケットが落ちていたが、あれは初速が遅すぎた。

 

 撃てて、ただ一発。その弾丸を撃つために、ささやかな一助を為すために、アルベルトは歩みを続けている。その一発で何を撃つのか、妹か、敵か、それは本人にも分からなかった。

 

 たった一人の地獄の行進。葬送はない。全身、雨でびっしょりと濡れていたが、喉はからからに渇いていた。気が狂いそうな暑さだった。体から温もりがすっかり奪われていて、春の雨さえ火の粉に思える。体と心に狂いがあった。肉体は高熱を発していたが、精神は怖気に震えていた。

 

 灼熱に病める豪雨の中、路面は河の様に流れている。しゃがめばいくらでも乾きは癒せた。座り込みたいという欲望が、彼の心を乱していった。しかし、それは不可能だったのだ。一度しゃがんでしまったら、立ち上がる体力は残ってない。彼はそこまで消耗していた。生きていることさえ苦痛だった。スライムだらけの街の中、いつ襲われてもおかしくない現状で、今のアルベルトはあまりに弱い。足を踏み出すだけでも辛かった。体中が苦しく、だるく、気力が根こそぎ奪われていく。

 

 それでも、アルベルトは未だに歩いている。それは惰性の産物だった。今のアルベルトにとって、止まるという決断さえもが心を削ぐ大仕事に等しかった。歩くか止まるか、生きるか止まるか、そんな些事に振り分ける思考の余地は、完全に残されていなかった。端的に言えば、彼にはどうでもよかったのだ。

 

 アルベルトの頭を占めるのは、唯一、エリスの顔と声だけだ。マリオネットプログラムが消えた為、データベースにはアクセスできない。それは、管理していた対人情報が完全に失われたことを意味していた。現在、アルベルトが思い描けるのは中枢人格が保持していた記憶だけだ。つまり、彼が経てきた人生において、特に印象深かったものである。しかも、熱の影響だろうか、それすらおぼろげに霞がかっているように感じている。こぼれ落ちそうな記憶の欠片を、アルベルトは幾度も列挙し、反芻し、もう一度脳に刻んでいく。貴重となってしまった思い出を、欠片も失いたくはなかったのだ。それは、鬼気迫る執念の固執だった。

 

 全身から噴出するオーラの勢いは、刻一刻と弱まっていく。生産されたそばから、次々と生命力が抜けていく。かつて、初めてこの状態になった時は、一週間以上も死なずにいられた。だが、それは安静にした上でのことである。この先、戦闘に臨んだなら、どうなるかは本人にも分からなかった。

 

 それでも、エリスを見捨てる道はない。彼女を、全身全霊で抱き締めたい。そのためなら苦痛などなんでもなかった。そのためなら死んでも本望だった。否、恋という感情を得た代償と思うなら、苦しみは盛大な讃歌だった。

 

 破壊の中心、目指す目的地が強い光で照らされる。瀑布の如き念弾が爆ぜて、流れ弾がビルを揺るがせた。緑の光線が空を貫く。見慣れた姿が宙に踊った。翼を背負った女性である。その時、アスファルトの体を雷鳴が襲った。ちらりと見えた彼女は確かに、ポシェットを身につけていなかった。それは仕込まれた貧者の薔薇を、最後の保険を手放してしまった事を意味していた。

 

 重い銃把をきつく握り、アルベルトは強く奥歯を噛み締めた。もはや、エリスが一線を越えたとしても、究極の義務を果たしてやれない。この世界は今、確実に滅亡の危機に瀕していた。

 

 もしもあの時、アルベルトが真実を告げていたら、エリスを信じ、偽りなく薔薇のままに渡していたら、この結末は訪れなかったのではないだろうか。しかしその仮定は成り立たなかった。真実を告げる勇気がなかったのではない。あまりに酷な現実を、知らさずに済ませてやりたかったのだ。

 

 そもそも、死ねば良かったのだ。真に正道をいくのであれば、エリスと二人、自害して果てればそれで良かった。それがこの世のためだろう。最も悲劇を生み出さない、最良の選択肢がそれだった。だが、それでも、アルベルトはエリスに生きていてほしかった。ずっと笑っていてほしかった。人は甘えというかもしれない。だが、甘えで結構。彼の意思は揺るがなかった。女を一人、許容もできずになんのための世界か。

 

 アルベルトの体が、心が、更に加熱した。オーラが更に噴出する。口中で鉄錆の味がして、喉の渇きが加速した。嘔吐寸前の悪寒の中で、魂の凶暴性が鎌首をもたげる。

 

 気付けば、水塊の一群に囲まれている。格好の獲物と見たのだろう。逃げ道を塞ぎ、じわじわと間合いを詰めてくる。絶体絶命の危機だった。今のアルベルトはオーラをろくに制御できず、肉体もいつ倒れてもおかしくない。ならば、餌として貪り食われるのが常道である。

 

 もし、常道であったなら。

 

 先陣を切り、一体のスライムが飛び掛かった。弾性をバネに、自身を豪速球に変えて飛来する。対して、アルベルトの腕が無造作に伸びた。結末は完結で残酷である。分かりきった勝負の結果は記すまでもなく、あっさりと鷲掴んだ水塊を、アルベルトは果実のように齧って飲んだ。かりそめの命は雲散し、乾きが微かに癒された。

 

 アルベルトの体内は荒れ果てている。彼自身の内臓をも痛めつけるオーラの噴流。渦巻く嵐に放り込まれて、スライムが無事でいられるはずがなかった。

 

 丁度いい。手中のスライムを握り砕いて、アルベルトは眼前の光景に微笑んだ。それは獰猛な笑みだった。ぼろぼろの体を引きずりながら、瞳には狂気にも似た熱がある。およそ、今までの彼とは似つかない、猛禽の如き微笑みだった。

 

 アルベルトには消耗が足りなかった。残存する生命力が多すぎた。今の彼には絶ができない。ならば、当然。闇に紛れ、あの場所まで目立たず進むには、死の淵へさらに近付かなくてはならないのだ。

 

 ただ、一発のために。

 

 水塊が群れで襲いかかり、アルベルトの体が冷たく燃える。肩に担いだ鉄塊を握り、烈震の踏み込みで万象を揺らして、暴風の如き横薙ぎを放った。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 はじまりの枷は三つ。

 

 太古、群れで暮らした動物がいた。

 

 独りは、とても儚かった。だから。

 

 緑色の翼を羽ばたかせる。両腕に緑光を纏わせる。付与ではなく収奪のための閃光を。脊髄がひび割れる幻痛がする。爪がめくれ上がる幻覚に溺れる。痛い。

 

 この世界の大地はとても広い。この世界の風はとても寂しい。この世界の夜はとても暗い。ヒトは強い生き物ではなかった。隣に誰もいなければ、わたし達はそれを不安と感じる。群れからはぐれた臆病な猿が、悲鳴のような鳴き声を上げた。自分を抱いて震えていた。それは原初の執着だった。

 

 求不得苦。欲しいものほど得られない。今際の際、猿は幻覚を見るだろう。それが幻だと知りながら、孤独な命は手を伸ばす。わたしはそれに手を重ねて、寂寥の遺産を追想する。

 

『あなたは、どこにいますか』

 

 はじまりの枷は三つ。それは、聴覚に由来する孤独の象徴。周囲を、緑の閃光が薙ぎ払った。

 

「まただ! おいウボォー、どうなってやがる、きりがねぇぞ!」

「なに、纏さえ強めとけば怖くはねぇ! 緩めるなよ! ごっそり喰われるぞ!」

 

 雨粒が光を散乱させる。夜気が更に冷え込んだ。気温が下がっているんじゃない。第六感が寒いと告げている。

 

「お前ら、どいてろ!」

 

 上半身の大きな男の人が、両手をこちらに向けて攻撃を始めた。洪水のような念弾を翼を盾に防ぎながら、わたしはもう一度光を撃った。念弾の威力が減衰する。さすがに消滅はしないけれど、着弾の衝撃は格段に軽く、捌きやすくなってくれた。

 

 それは、赤の対になる光だった。付与ではなく収奪。命の欠片を奪う力。他者の営みに寄生する力。熟練の念能力者が行う纏との綱引きには勝てなくても、一般人の垂れ流すオーラはもちろん、体から距離が空いた念弾ぐらいなら削り取る事ができる程度の性能があった。光子を媒介しにした生命力の授受。それこそが、わたしたちの家系が代々伝えた、特質系としての性質だった。

 

 だけど、緑の真価はそこではない。

 

 この世界のあまねく生命は、独特のエネルギーを宿している。生き物は日夜生命力を造り出し、活力として消費しながら暮らしている。そして、その場に棲む生物たちが生み出して、使い切らずに垂れ流されるオーラもある。持ち主に消費されずに拡散し、朧げに流れ漂う残留粒子。

 

 古来、人々はそれを精霊と呼んだ。

 

 緑の光は精霊を喰らう。山にあっては山の精を、森にあっては森の精を、街にあっては街の精を、屠り、啜り、貪飲する。これは精霊殺しの念能力。集めたエネルギーを燃やして更に集めて、その連鎖は、理論上、体外顕在の限界までもっていける。

 

 わたしは今、自分のオーラを回復させつつ戦っていた。

 

「っらあ!」

 

 念弾の嵐で足留めされた隙を狙って、巨大な拳が、莫大な念を凝縮した右ストレートが迫り来る。これが、やばい。尋常じゃない威力はただ防いだだけでは殺しきれず、衝撃で体が吹き飛ばされる。仕方なく、右翼を全力で振り当てて相殺した。眩しいぐらいのオーラが爆ぜて、脊髄がみしみしと軋みをあげる。その硬直を、相手は情け容赦なく狙ってきた。

 

 間合いに、その人はいた。神速の居合が一閃される。莫大なオーラで強化された眼球で、ようやく認識できた不可避の斬撃。幽深に研ぎ澄まされた至高の一芸。瞬間移動とも思える究極の一。それを、がむしゃらに左翼で防ぎきった。

 

 野生の大男から注意が逸れた。あからさまな隙を見逃してくれる人達じゃない。右翼の上から叩き付ける様に、左の拳を上から大きく振り落とす。耐えきれないと悟ったわたしは、あえて逆らわず全身で地面にバウンドした。痛いなんてもんじゃない。纏をしてなければ確実に粉砕されてる。それでも、体が浮いた微かな瞬間、衝撃を利用して翼で上空へと待避できた。死線を強制的に潜らされ、一か八かの賭けが連発している。

 

「っぱ、堅ってえな!」

 

 悔しそうに、その何倍も嬉しそうに、ちょんまげの男性が口を裂いて笑う。だけど、文句はわたしが言いたかった。左翼の傷は半分ほどまで達してる。修復に使うオーラを計算して泣きそうになった。切るという特性。オーラを局所的に集中させる攻撃の恐ろしさを痛感する。あの人はそんな刃を引っさげて、身軽さを生かして連係の隙間を縦横無尽に埋めて回っていた。

 

 この人達は、強すぎる。オーラの収支が釣り合わない。戦いながら総量を回復しようと試みても、それ以上の支出を強要された。そもそも場の生命力は無限じゃない。雨の中なのもまずかった。雨粒は光を散乱させる。一度や二度、大気中のオーラを吸うには都合がよくても、何度も繰り返せば逆にあだになった。たとえわたし達が戦う最中だろうと、この辺りの枯渇は近かった。

 

 息を吸って、両腕を発光させてオーラを飲んだ。他人の魂で着色された生命の力が、わたしの心身を犯してくる。プチプチと小さな声が大量に弾け、脳髄を幾億の蛆虫が泳ぎ回るリアリティー。だけど、わたし自身のオーラのおぞましさに比べれば、こんな違和感はずっと楽だ。

 

 地上に降り立つ。体内オーラの回復は、その実とっくに諦めている。ジクジクした深部の歌声にも、なんだか慣れてしまってきた。よくない徴候だと分かっていても、今は少しでも時間を稼ぎたかった。四人の男性を睨みながら、わたしは纏をたぎらせる。

 

 唾と一緒に、血の塊を地面に吐いた。手の甲で口の周りを乱雑に拭う。不様だ。はしたない。でも、もうそれでいい。体裁を気にしてる余裕はなかった。辛く、痛く、苦しいけれど、少し楽しくなってきた。

 

 ずっと、こんな窮地に憧れていた。

 

 前に睨むは無双の強敵。庇う背中に誰かの運命。わたしは独り、愛しいあの人はどこにもいない。だから、嬉しい。初めて、この念を祝福された気がしたから。破滅の力を誰かのために活かすのは、それはそれは難しいから。

 

 オーラを燃え盛らせて一歩を進む。軋む背骨が心地よい。張り裂ける鼓膜が音楽を奏でる。瓦礫を踏み締め、拳を握った。夜は暗く、雨は強い。願わくは、アルベルト、あなたに優しい朝が訪れますように。

 

 翼をたたんで、廃虚を走った。防御に専念してるだけでいつまでも生き残っていられるほど、甘い相手ではないのだから。型も、技も、術理も捨てて、オーラの流れに従って体を動かす。それだけでいい。それだけしかできない。それだけでいこう。

 

 上半身裸の大男が、大口を開けて凶悪に笑った。太い脚が地面を蹴る。冗談じみた速度で飛来する筋肉質の巨体。後ろでは居合の剣士が腰だめに構え、念弾が援護射撃でばらまかれて、駆け抜けるそばへと着弾していく。

 

 右手にオーラを強く込めた。凝、なんて上等なものじゃないけれど、ただ一心に集中を重ねる。鋼鉄の如き重量の出鱈目な硬が、大気を貫通して肉薄する。その、豪快な拳の真ん中へ、わたしは迷う事なく拳を重ねた。インパクトの瞬間、二人のオーラが打ち付けられ、濃密な衝撃波の爆発を起こした。

 

 衝突。それは夜中の太陽だった。たった一瞬の新星だった。莫大なパワーが解放されて、巨大な瓦礫が次々と転がり、枯れ葉のように軽々と飛んだ。体の芯が僅かにぶれる。鍛え抜かれた肉体と研ぎ澄まされたオーラの相乗効果は、わたしを紙一重で上回った。

 

 次の刹那、わたしの右手が、極彩色の緑に光った。

 

 オーラが限界まで込められた相手の硬は、纏を緩めてやればたちまち漏れる。吸い尽くす事はできなくても、少しの弱体化ならとても容易い。衝撃をオーラで強引に黙らせて、紙一重の敗北を紙一重の勝利にねじ伏せた。力と力の戦いに、わたしは反則技で打ち勝ったのだ。

 

 右腕を振り抜き、大男を吹き飛ぶに任せて見送った。止めを刺すような余裕はない。収まりきらない爆風の中、再び居合に襲われる前に、わたしは顔に傷のある男性の懐へ飛び込んだ。念弾を主武器とするらしいこの人なら、この状況では確実に殺せる。そして確実に殺すべきだ。まずは、一人目。

 

「はっ!」

 

 ぞぶりと、右腕が根元までめり込んだ。皮も、骨も、筋肉も、ろくな抵抗を受けなかった。大柄な体に大穴が空いて、大量の血液が飛び散ってくる。おかしい。腕を引きながらいぶかしんだ。強化系ではないとは言え、どう考えても、能力者の肉体の強度じゃない。

 

「残念だが、フェイクだ」

 

 低い声が後ろから響いた。はめられたと悟る。振り向く事も間に合わず、辛うじて視線を向けたその先には、先端のない十本の指が、無気味なほど静かに照準している。ぞっとするような光景だった。嘲笑うかの様にゆっくりと、雷光の如く迅速に、その指先は、火を噴いた。

 

 滝に呑まれた。瀑布はバリバリと天地を引き裂く轟音を奏で、至近距離からの掃射がわたしの全身を苛んでいく。ただ、必至になって纏をした。外れ弾が、コンクリートとアスファルトの瓦礫をやすやすと貫通して砕いていく。それを横目に、翼で体を包みながらただ耐えた。髷を結った剣士が間合いで構え、念弾の男性との間に目配せがなされるのを眺めながら。

 

 激痛にいたぶられながら理解した。狙われてるのは首だろう。この人達は慎重に、確実に殺すために機を見ている。絶体絶命の危機だった。生きたい。だけど生き延び方が分からない。念弾の檻に捕われながら、全身を砕かれそうな暴力に耐える。

 

 光も、翼も、打開はできない。分かっていた。ほんの少し、ちょっとした隙を見せた瞬間、わたしの頚は空を飛ぶと。だから、ただ眺めるだけしかできなかった。筋骨隆々の大男が立ち上がり、小さな長髪の人まで近寄ってくる。状況は刻一刻と悪くなった。抜刀の鞘走りが開始される。それは処刑の瞬間だった。悔しさに歯噛みしながらも、死神の抜刀を待ち受けていた。

 

 そのとき、新しい気配が乱入した。

 

 突然現れた存在は意外なほど近い。わずか百メートル、アスファルトに穿たれた大穴の中から、大きな銃口が覗いている。無機質で、無慈悲で、精密な、アンチマテリアルの近距離狙撃。狙いは剣士。気が付いたときには遅かった。わたしを切ろうと踏み出した隙に絶妙に合わされ、彼は引く事も行く事もできなかった。

 

 千載一遇のチャンスを逃すつもりは全くない。両腕から全力で光を放って、未だに叩き付ける念弾の豪雨をやわらげる。そして、逃げた。渾身のバックステップの直後に翼を打ち下ろし、無我夢中で空中へ離脱した。

 

 ぽんと、放り投げられた様に宙を飛ぶ。その最中、着地までの間にわたしは見た。大穴の中に潜み、今や引き金を引いたアルベルトの姿を。音速を超える弾丸に迫られ、死に瀕して驚愕に染まった男性の顔を。死んだ、と思った。スローモーションで流れる微かな刹那、その巨体は、意外な早さで動いていた。よくコンビを組むのだろうか。おかしいほど庇い慣れていた。

 

「……ふぅ。ギリギリだったな」

「ウボォー……、お前か」

 

 呆然と、髷を結った剣士は呟いた。大きな掌の真ん中には、焼け爛れた銃弾が未だに回転を続けている。濃密なオーラに強化された分厚い手は、僅かに傷ついただけだった。

 

 それを横目で見届けながら、顔に傷のある男性がアルベルトへ向けて念弾を放つ。破壊の豪雨が荒れ狂う。その威力を少しでもやわらげようと、上空から光を照射した。例え手出ししなくてもアルベルトならという信頼があったけれど、少しでも役に立ちたかったし、なにより感謝の念に堪えなかったから。

 

 だけど、目が合った。そして、わたしは理解した。アルベルトの体から、念能力が抜けている。深い、綺麗な瞳には、懐かしい輝きが戻っていた。穏やかにわたしを見上げながら、あの頃の表情で笑っていた。満足そうな微笑みだった。

 

 念弾が地面ごと抉っていく。穴を更に抉っていく。オーラでの強化もろくにできないアルベルトに、逃れる術は完全にない。手を伸ばしても届かない。奇跡が起きればいいと願った。助けてほしいと誰かに願った。そんな祈りも虚しいままに、わたしが愛したアルベルトの姿は、念弾と土煙に飲み込まれた。もしも、赤い翼を広げていたら、助ける事が出来たのだろうか。

 

 着地する。煙は雨に打たれてすぐに収まり、灰燼に帰したクレーターが見えた。そこには何一つとして残ってなかった。瓦礫も全て粉砕されて、がらんとした穴だけが残っていた。血も、骨も、肉の欠片すら残らずに、アルベルトはこの世から消滅していた。

 

 遺体がないのは、逃げ延びてくれたからだと信じたかった。だけど、どうやって逃げたと言うのだろう。発が消えたアルベルトが、絶とまごうほど消耗した体力で、制御できないオーラを使って、瞬時に動いたと思いたいけど。この空の下、あの人はどこかで生きていると、宛もない人探しの旅に逃げたいけど。

 

 それは、あまりに残酷すぎる夢想だった。

 

「わりぃ。助かった」

「気にすんな。いつもの事じゃねーか」

 

 あの人達が、言葉を交わす。少し顔をしかめてみたり、陽気に軽くからかってみたり、そんな仲間同士のやり取りは、彼等に取っての日常だろう。今、邪魔者を殺した事だって、蚊を潰したほどにも気にしてない。

 

 アルベルトの最後を胸に宿す。あの人は確かに笑ってくれた。あれは満足の笑みだった。その気持ちは、よく分かった。もし、立場が逆なら、わたしは満足しただろう。全ては、ただ、あの一助のために。決して生還できないと知りながら。一発の弾丸を撃つために、わたしを助けてくれるために、アルベルトは、己が命運を炎にくべた。

 

 おめでとう。心の中で祝福を囁く。自然と、優しい気持ちが沸き上がった。知っていた。ずっとずっと、アルベルトは豊かな感情を欲しがっていたって。だからヒソカみたいな人に憧れもしたし、ゴン君たちに好感も持った。寂しかったんだと思う。悔しかったんだと思う。それは心の底の底で、本人も気付いてなかったかもしれないけど。

 

 ほんとうに、馬鹿なんだから。

 

 優しく笑った。とてもとても悲しいけれど、これからずっと寂しいけれど、涙は後にとっておこう。最後に感情を取り戻したなら、それで満足して逝ったなら、わたしはそれを祝福したい。

 

 だから、おめでとう、アルベルト。頑張ったね。

 

 ……そして、許せない。

 

 わたし自身を、許せない。思えば、最後までアルベルトに甘えていた。自分を一番大切にしてね、なんて、そんなお願い、聞き入れてくれる人じゃないって知ってたのに。

 

 幻影旅団を、許せない。わたしの体からオーラが吹き出す。あの人達が警戒した。だけど、そんな事はどうでもいい。フワフワと体が揺れていた。地面を踏み締める脚は喪失したように頼りなくて、わたしという外殻の中身が空っぽになったような空白感。

 

 清き歌声が聞こえてくる。穢れた魂の深淵から、千年前の真摯な祈りが沸き上がる。

 

 生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し。

 

 全身の細胞が活性化して、オーラが爆発的に吹き出している。たぶん、これが練という技術だろう。難しいとは聞いてたけど、やってみると、とても体に馴染んでしまう。軽すぎるトリガーが憎らしい。体機能がオーラによって強化されて、視覚は雨雲の先の星を認め、聴覚は千里先の鼠の拍動をたやすく拾った。自然体で吹き出すオーラだけで、都市が丸ごと震えている。

 

 魂の奥底に沈んでいた、始まりの意思が鎌首をもたげる。沈澱していた黒い泥が、オーラの中に舞い上がる。蛹の時代はもうおしまい。羽化が、わたしの開花が始まった。

 

 今さらになって気が付いた。一線を越えてしまったと。あの飛行艦で、絶対に負けないとわたしは告げた。誓いは容易く叶うだろう。アルベルトはわたしを怒るだろうか。向こうで叱ってくれるだろうか。それはとても楽しみだけど、あの人の努力を踏みにじりたくはなかったから。アルベルトはあんなに苦労した。昼夜を問わず捜査に奔走して、自分をコンピュータに直接つないで、部隊を伴って戦場に飛び込んだ。それを、わたしが無駄にしてしまうのだろうか。

 

 なら、せめて、死にたかった。だけど、もう遅い。

 

 四人の蜘蛛が迫ってきた。今のうちに始末する気なんだろうか。幻影旅団は許せないけど、戦う事はできなかった。この力は彼等を始末した後、都合よく止まってくれるものじゃなかったから。

 

 それは前の世紀末。約束の日が来なかった千年前。飽食と程遠い苦しみの時代。ありもしない神の国を待ち望み、人の手でラッパを吹こうとした哀れな背信者が一人いた。世界を憂いて狂った彼女は、自らの慈愛の命ずるまま、血族に使命と呪いを受け継がせた。たったそれだけの話だった。終末願望。この身を蝕む呪いの名だ。

 

 絶滅は優しい。人生は辛い。それは偉大な発明だった。かつて、誰かが思い付いてから幾星霜、何度も訪れ、何度も乗り越え、あるいは、何度も縋り付いて支えとした究極の希望。多分、この世の誰もが思い描いた、全てを無に帰すリセットボタン。

 

 その社会は、数多の脅威に撹乱され、傲慢と暴虐に蝕まれながら、それでも、システムを辛うじて保っていた。

 

 ただし、今日までは。

 

 あまねく人類を滅ぼすため、わたしはこの世に生を受けた。

 

 地面に膝を付いて絶望した。これ以上は抑えられない。体の制御が効かなかった。自分の肩を抱いてガクガクと震えながら、わたしは深淵に埋もれていった。美しい賛美歌の幻聴が聞こえる。幻影旅団が迫ってくる。彼等に殺されるのが先か、彼等を殺すのが先だろうか。それは、あまり意味のない想定だろう。

 

 豪雨に沈む廃虚の底で、わたしは終わりを迎えるのだ。

 

 

 

コッペリアの電脳 第二章最終話「ラストバトル・ハイ」

 if 1999

 END

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 But, we are living.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おっと、それはやめとけ」

 

 それは。

 

「大丈夫だ。あんたはちゃんと抑えられる」

 

 とても、力強い、声でした。

 

「なんって馬鹿な真似をしてくれるんですか! 脱出するんじゃなかったんですか!? 泣きますよ! ほんとに!」

「脱出するさ。だからこその、この道だ!」

 

 わたしの背後から念弾が連射されて、接近する旅団たちに回避を強いる。ありえないほどの高速念弾。瓦礫をゼリーのように貫く貫通性能。呆然としてるわたしを完全に無視して、女の子を抱きかかえた男性が駆け込んできた。

 

「一旦力を合わせてあいつらを消して、返す刀で残りを屠る。そうすりゃ包囲網なんてどうにでもなるさ。なあ、おい! お前も一口乗るだろう?」

 

 油断なく女の子を降ろしながら、どこかへ向かってその人は叫んだ。直後、大きな物体が通過していった。後から轟音が鼓膜を揺らす。物凄いスピードで飛んでいったものの正体は、槍を構えたカイトさんだった。

 

「さがれ! 危ねえ!」

 

 居合が槍を迎撃した。穂先と物打ちが寸分違わず打ち重なって、金属音をたてて拮抗した。奇跡のような精度の競り合い。間髪いれず念弾が双方から掃射されて、野生の大男が助太刀に入る。そんな状況に即座に見切りを付けたのだろう。カイトさんは鋭いバックステップからの疾走で、あっという間にこちらに戻ってきた。

 

「いいだろう。一時の休戦を受け入れよう」

 

 濡れた長い髪を靡かせて、涼やかに頷く姿が頼もしい。槍の後ろにくっついたピエロの顔が、上機嫌に笑いながらはやしたてる。絶望に瀕していたわたしの気持ちも、おかげで、だいぶ軽くなってくれた気がした。

 

「よくやってくれたな。大手柄だ、立てるか?」

 

 差し出された手を借りて立ち上がった。オーラは、練はさっきの声のおかげで沈静化していた。

 

「お前は、大人しく捕まれば減刑嘆願ぐらいは出してやる」

「はっ、ぬかせ。逃げ延びてみせるぜ、俺は。いや、俺達はな」

 

 飄々とした様子で軽口を叩いて、男性は女の子の頭をわしゃわしゃと撫でた。彼女は困った顔で見上げたけど、眼には隠しきれない喜色が混じっていた。きっとこの子は恋しているんだ。そう、直感した。

 

 金髪の男性と銀髪の少女。そんな二人の人相は、映像資料で見た容疑者のものとぴったり重なる。言動からも間違いない。伝え聞く罪状から言うならば、幻影旅団に匹敵する極悪人。いえ、なんの意味もなく殺人を犯す性質からは、邪悪さではさらに上かもしれない。わたし達にとっては紛れもない敵。向こうから見てもそうだろう。

 

「やるぞ」

「おう、やってやろうぜ」

 

 相争う関係の二陣営が、切迫にまかせて手を組んだ。

 

 それぞれの明日を生きるために。夜明けをその眼で拝むために。死の運命にあらがうために。もう、二度と交わらない定めと知りながら。自分達の日常を取り戻すために。己が信じる正しさのために。

 

 ただ、この窮地を覆すためだけに。彼等は、いえ、わたし達は共に戦う道を選んだのだ。

 

 わたしは、戦う。

 

 それは危険な選択だろう。確実に命を削るだろう。世界を危険にさらすだろう。この地は無人になるだろう。それでも、わたしは戦いたい。ジャッキーさんが命を捧げ、多くの兵隊さんたちが命を散らして、そしてなによりアルベルトが、全てを惜しまず尽力した、わたし達の明日を守りたい。

 

 だから、戦おう。この人達と共に。決して負けないというあの時の誓いを、今こそ、再び本当にするために。

 

「仕方ないんですから、ほんとにもう。やりますよ。どうせなら徹底的にやりましょうか」

「ええ、やってやりましょう、皆さん、カイトさん」

 

 アルベルトの死を、決して無駄にしないために。

 

「あのガキ! おいてめぇ、憶えてるぜぇ!」

「あ、おいウボォー!」

 

 大男が青筋を立てて、褐色の少女を指差して激昂した。足下の瓦礫を粉砕しながら、暴力的な質量が突進してくる。機関車のような突撃は、それ自体がもはや無双の兵器だ。冗談じみた衝撃力を止めるためには、念の達人の二人や三人、犠牲になってもおかしくない。

 

「知り合いか?」

「襲われたので、返り打ちにして逃げました」

「そうかそうか。やるじゃねえか。じゃ、後は任せろ」

 

 だというのに、男性は上機嫌で気楽に請け負った。右腕を伸ばして拳銃を構え、オーラを喉元に集めて大声で叫ぶ。

 

「デカいの! お前は今すぐ転ぶ!」

 

 暴走はいとも簡単に沈静化した。轟音とともに、新しいクレーターが形成される。頭から地面に突っ込んで、粉塵を巻き上げて大地に埋まる。滑稽を通り越して戦慄的な、笑い話のような能力だった。

 

「はっはー! 強化系バカには暗示がよく効いて気持ちいいねぇ!」

「んだとコラァ!」

 

 憤怒の様相で起き上がる大男目掛け、男性は、嘲笑うように射撃する。追い討ちをかけながらの挑発に、居合の剣士が怒気を上げた。仲間の危機を救おうというのだろうか。こちらへ駆け寄るその姿は、傍から見れば鴨そのものだ。妙に力強く響く男性の声は、心を深々と刺激する。そんな二人を、瓦礫の大群が虚空から振り落ちて防ぎ隠した。

 

「二人とも、大丈夫?」

「お前ら、少しは頭を冷やせ。ノブナガ、お前は奴の相手を頼む」

 

 顔に傷のある人が言った。鋭く睨む視線の先には、カイトさんが悠然と佇んでいた。側でルーレットが回っている。決定したのは剣だった。柄頭にピエロが付いてる以外、なんの変哲もない両手持ち両刃のロングソード。

 

「ほう。今夜のオレは運がいい」

 

 だけど、それを見てカイトさんは頷いたのだ。わたしはゾッと震えを感じた。穏やかで、満足そうで、とても迫力のある凄惨なオーラを纏っていた。

 

 壮絶な睨み合いが始まった。絶対零度の空気が流れる。カイトさんと金髪の男性が獲物を片手に半歩を進み、わたしと女の子が半歩下がる。安易な猪突はできなかった。乱戦になればこちらは弱い。勝敗は、作戦の成否が要だった。

 

「個々の実力が高い上に警戒慣れして機転も利く。あの四人が固まってる限り正面からの攻略は無理だな」

 

 冷静な分析をカイトさんが告げる。それに応えたのは女の子だった。見た目より落ち着いた雰囲気で静かに頷き、当たり前の回答を当たり前にいった。

 

「じゃあ、連係さえ崩せばいいんですね」

 

 片手を挙げて、彼女はここにはいない誰かに対して言葉を発した。

 

「みんな、おいで」

 

 ぞわり、幾多の気配が沸き出した。瓦礫の影から、路地から、遠くからも近くからも、沢山の何かが蠢いてくる。それは拳大の水塊だった。意志を持った様に動くスライムだった。一つ一つはか弱いけれど、数は万をはるかに越えている。

 

 まだ、こんなに。どこに潜んでいたのだろう。

 

「もう、これで最後です。行って!」

 

 スライム達が飛び掛かった。散乱している瓦礫に隠れて疾走し、死角から多角的に襲いかかる。たぶんあれは自動操縦。その利点を最大に生かして、数に物を言わせた波状攻撃で意識の分散を強要する。それは効率のいい嫌がらせだった。一体一体は大した事ない。だけど、微かな隙、僅かな遅れが致命傷につながる。機に乗じて、カイトさんと男性が地を飛ぶような疾走で攻めかかったから。

 

 カイトさんの剣が振るわれる。ざくりと、大気が明確に断ち切られた。切れ味がおかしい。体の動きのキレがとてもおかしい。髷を結った剣士が居合でそれを迎撃して、念弾の洪水が満ちあふれて閃光が音を切り裂いて、周りに倒れるビルの残骸が上空から現れては崩壊していく。爆発の連鎖が地面を掘った。

 

 もう、あそこは人外の戦場と化していた。

 

 わたしも負けてはいられない。緑の光を両手から放ち、顔に傷のある男の人を集中的に狙って支援する。前線さえ押し上げられていたならば、この力は効果的に回復できる。

 

「いいですね、それ」

 

 隣で見ていた女の子が言った。手招きし、スライム達を呼び寄せる。破壊の渦から沸き出したそれは、だいぶ数が減っていた。

 

「どうぞ。オーラを吸えるんでしょう。食べて下さい」

 

 そのほうが効率的でしょうから、と彼女はいう。観察眼がすごい。この歳で、この破滅的な状況で、周りの様子をよく見ている。同性だからこそよく分かる。赤褐色の綺麗な瞳には、女の輝きが宿っていた。

 

「貰うわ。ありがとう」

「あの人、巻き込まないで下さいね」

「できるだけ、ね。それ以上は、ちょっと約束できないから」

「それで十分ですよ」

 

 スライム達の生命力を全て吸収して、両手を握って確かめる。十全からは遠いけど、オーラは、少しだけ回復して余裕ができた。そして背中の翼を消す。暴走の危険は、少しでも減らしておくにしかなかった。最後に、一度深呼吸をして肩の力を抜いてから、少女に、離れていてねとお願いした。

 

「あ、あ、あ、ああああああぁぁぁ!!!」

 

 気合いとともにオーラを吹き出す。二度目の練は、やっぱり容易い。身体能力が激増して、高揚感が全身に満ちた。噴火のように吹き出すオーラを、あれほど鍛えた纏で留める。自分が恒星になった錯覚があった。

 

 金髪の男性がにやりと笑った。戦いの最中から離脱して、わたしへ向かって駆けてくる。そして、オーラの篭った声で強く言った。

 

「嬢ちゃん、あんたの能力は制御できる! 何があっても耐えきれる! この戦いでは! 絶対に! いいな!」

 

 とてもありがたい助太刀だった。絶対的な自信が心に刻まれるのがよく分かった。頷いて、お礼の代わりに一言を告げる。

 

「あの子の側に!」

「言われるまでもねぇ!」

 

 二人は駆けた。わたしは敵の元へ、男性は彼女の元へ。能力はかつてないほど安定している。足裏の感覚が地面の底まで理解させて、頭上は雲の上まで把握させた。奥底から聞こえる声が小さい。わたしを苛んだ呪縛が軽い。恍惚する全能感が沸き出てきた。魂が生命力に満たされていた。

 

「カイトさん、とどめ、お願いします!」

 

 アイコンタクトで了承された。わたしの技術は所詮拙い。だから暴れまわることに専念する。あの人が命を狩ることに専心できれば、それは最強の布陣だろう。

 

 眼前にビルが立ちふさがった。分厚いコンクリートの塊を、何も考えずに殴り倒す。粉砕されて大穴が空いて、噴流の中を突き抜けた。威力に肉体が耐えきれず、過剰なオーラが内部で暴れて、わたしの右腕はずたずただった。皮膚は破れ、筋肉が千切れ、骨は粉々に砕けている。吹き出した血が撒き散らされた。

 

 そして、完治。

 

 着地と同時に、腕に意識を向けただけで治癒された。別に、特殊な発など使ってはない。オーラ任せの身体強化。それで増強された治癒力だけで、時間の巻き戻しにも等しい再生が成った。

 

「狂ってやがる……」

「うん、そうだね」

「おもしれぇ。化け物だぜ、こいつ」

 

 口々に、旅団のメンバーがわたしを罵り、あるいは好奇の目を隠さず眺めてくる。そんな彼等へ向かってゆっくりと歩く。示威的に、カイトさんが動きやすくなるように。今や、わたしのオーラが、戦場を完全に着色していた。圧倒的に有利な状況だった。

 

 そこに、黒い男性が現れた。

 

 倒壊してないビルの上から、その人は静かに舞い降りた。深く、大きく、無気味な気配を纏っていた。

 

「団長!」

 

 大男がその人に声をかけた。それで知れた。この人こそが彼等のリーダー、幻影旅団の団長だと。

 

「お前達、そろそろ時間だ。引くぞ」

 

 指示を下すというよりも、事実を告げるに近い厳然たる態度。傲慢ながらも鋭敏な、隷下を心酔させるであろう絶対存在。わたしは思わず納得した。この人ほどの器なら、旅団を率いて余りあると。

 

「やれ」

 

 女の子を指差し、端的に告げる。命令は即座に実行された。筋骨隆々の大男が、二メートル近くあるかという巨大な瓦礫を片手で持ち上げ、渾身の力で投合した。なんて常識はずれの豪速球。カイトさんは動けない。居合の剣士が間合いに迫り、静止した戦いに興じていた。わたしもすぐには動けない。顔に傷のある男性と小柄な長髪の男性が、命を賭しても妨害しようと構えている。少女の命を奪おうと、大質量が唸りを上げて飛んでいく。

 

「危ねえっ!」

「きゃっ!」

 

 だけど、彼女の隣にいた男性は、的確に弾道を予測した。女の子を抱えて跳躍して、余裕を持って回避する。それを見てわたしは安堵した。あの人がそばにいる限り、あんなこれ見よがしの攻撃が、彼女を傷つけることはないだろう。

 

 そう、思っていた。

 

 空中を走る瓦礫が消えた。いえ、ずれた。瞬間移動。その、たったひとつの要素だけで、見え見えの投合が必殺の不意打ちに激変した。宙に浮く男性は躱せない。腕の中の少女を目掛け、瓦礫は容赦なく差し迫った。

 

「っかはっ……!」

 

 強烈な衝撃に貫かれて、金髪の男性が血を吐いた。だけど少女は無事だった。抱えた彼女を放り投げて、あの人は自分一人で喰らったのだ。

 

「なんて無茶するんですか!」

「うるせえっ! 惚れた女一人守れずして、なんのための男の命だ!」

 

 両者、したたかに地面に打ち据えられ、転がりながら怒鳴り合う。ひとつ息を吐きながら、心の中で、仲のいい二人を無事を祝った。例えこの後戦う凶悪犯でも、目の前で殺されるのは気分が悪い。微笑ましいカップルならば尚更だった。

 

「ナイスだ。よくやったウボォー」

 

 女の子は未だに無事なのに、彼等の長は頷いた。いつの間にか手にしていた書物をぽんと閉じ、それをいずこかへと消失させる。黒い眼は自信に満ちたままで、諦めたようには見えないけれど。

 

 内心に疑問を抱えたそのとき、一台の装甲車が旅団の背後から迫ってきた。

 

「当初の目的は全て達した。引き上げるぞ。シャルナークからも連絡がきてる。外の包囲網が、著しく強化されてるそうだ」

「逃がすと思うの?」

 

 わたしは尋ねる。逃がすつもりはさらさらない。だというのに、その人はまるでわたしの存在に初めて気付いたかのように、見下しに見下して鼻を鳴らした。

 

「逃げるさ。それがオレ達だ」

「そう」

 

 莫大なオーラを滾らせたまま、無造作に一歩一歩先へ進んだ。間合いも攻撃もどうでもいい。ただ進んで、ただ倒す。それだけのために前へと歩いた。

 

「エリス、止まれ」

「カイトさん?」

「深追いは無用だ。今の状態で無理はするな。念能力者同士の戦闘は、オーラの量が絶対の基準じゃない」

 

 鋭い視線で射抜かれて、わたしは自分の増長を自覚した。

 

 たしかに、彼等は達人の中の達人だ。磨いた技術と言う一点では、わたしが及びもしない高みにいる。それぞれに特色のある発もあるのなら、例え今のわたしでも、殺しきる術があるかもしれない。後ろの二人は負傷していて、人数も彼等のほうが圧倒している。それでも、アルベルトの命を奪った怨敵を目の前にして、このまま逃がすのは嫌だった。

 

「……でも」

「それにな、これは極秘だったんだが、秘匿名称『第五の段階』はとうの昔に放棄されている。全軍は今や完全に自由だ。各師団が逐次、この都市の郊外に集結している。オレの命令があるか、バイタルセンサーが一定時間反応をやめれば、その時点の全力で殲滅作戦を実行する予定だった」

 

 カイトさんが説明してくれる。本当に最後の、極秘中の極秘の保険。それをわたしに明かしてまで、深追いを思いとどまらせようとしてくれた。

 

「文字通り、この街ごと灰燼に帰すための作戦だ。短距離弾道弾まで投入した、な。ワルスカが手段があると言っていただろう。それが、これだ」

 

 退路には地獄が待ち受けていると言うのだろう。だけど、相手はあの旅団だ。今も、不敵に笑みを浮かべている。絶望的な罠へと飛び込んでも、噛み破って逃げ出しそうな予感があった。たとえ遠距離からの火力戦でも、圧倒的な威力の兵器にものを言わせても、確実に仕留められるかは不安だった。それは、カイトさんも重々承知だろうに。

 

 だけど、胸がじくりと痛んだから。

 

 時間切れを自覚した。練が持たない。暴走の危険が迫っていた。あれはもう、嫌だ。それだけは本当に嫌だった。カイトさんが止めた理由も、これにあると分かってしまった。本当にいつも冷静で、嫌になるぐらいこの人は正しい。わたしの練がこけおどしになったと知れたなら、蜘蛛は即座に牙を剥くに決まっていた。それは最悪の展開だった。

 

「お待たせ。準備はいい?」

「ああ、出てくれ。フィンクスとマチはどうした?」

「指示通り、外の連中に紛れてるよ。呼応して撹乱してくれるはず」

「よし、それでいい。それからウボォーにあれを」

「ん、了解」

 

 やってきた装甲車に乗り込みながら、旅団は平然と会話を続けている。爽やかな金髪の青年が、針状のものを大男に渡した。緊張感のないやり取りだった。それをみて、わたしは怒りを胸に刻んだ。いつか、機会があるまでは、決して忘れる事はないだろう。

 

「なんだこれかよ。こいつは記憶が飛ぶから面白くねぇ」

「我慢しろって。すげーのは確かなんだからよ」

 

 談笑しながら撤退していく。地獄と絶望へ向かいながら、傲慢なほどの自然体で、彼らはそのまま去っていった。

 

 姿が見えなくなってから練を解いた。カイトさんが労ってくれる。勝ち得たものは多かった。連続死事件も解決だろう。この国に降る春の雨は、再び恵みの象徴へと変わったのだ。幻影旅団も追い払った。軍の力を大きく借りたこととはいえ、たった五人、最後は三人のハンターで、これだけできれば上出来なんじゃないだろうか。

 

 もうすぐ、夜が明ける。昨日は違う、希望の朝がやってくる。

 

 だけど、勝ち得たものは多かったけど、アルベルトは隣にいなかった。

 

 

 

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【色なき光の三原色(セラフィムウィング) 特質系・具現化系】

使用者、エリス・エレナ・レジーナ。

 赤の光翼 悠久の渇望;愛別離苦 具現化した光に生命力を付与する。

 緑の光翼 千古の妄執;求不得苦 具現化した光で生命力を収奪する。

 青の光翼 原始の大罪;五蘊盛苦 具現化した翼に生命力を溜め■■■■■■■■■■■■。

長い世代をかけて鍛えられた、人の手で終末を招くための能力の失敗作。

 

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次回 第二章エピローグ「恵みの雨に濡れながら」



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第二章エピローグ「恵みの雨に濡れながら」

 降り続ける雨に濡れながら、終わってしまったと、わたしは思った。

 

 静けさが、痛い。雨も、空も、街も、全てが虚無に染まっていた。この世にアルベルトはもういない。なら、わたしはどうして生きているんだろう。あの人がいなければ生きていけないと、ずっとずっと考えていた。それなのに、わたしはこうして生きている。呼吸を止めれば死ねるはずだ。心臓を抉れば死ねるはずだ。だけど、それすらも今ではおっくうで、ただ、何となく世界を眺めている。

 

「あの二人、あれでよかったんですか? カイトさん」

 

 無気力のままに尋ねてみた。あんまり興味はなかったけど、せめて、わたしたちが請け負った仕事の結末ぐらい、見届けておいた方がいいと思ったから。

 

「ああ、あいつらはもう、放っておいて構わない。それよりもエリス。お前、携帯電話はどうしたんだ?」

 

 急にどうしたというんだろう。意味も分からず、ドレスのポケットを触ってみると、金属質な素材の感触が返ってきた。うん、スクラップだ。思い起こせば戦いの最中、壊れる機会なんていくらでもあった。だけど、どうせもう、使いそうな要件もないんだけど。……ああ、父さんには、連絡を入れなければいけないんだ。

 

「仕方ないな。電話だ、どうせお前宛だろう」

 

 そう言って、カイトさんが渡してくれた彼の携帯電話には、信じられない着信が表示されてた。今まさに、バイブレーターを震わせている電話の相手は、確かに、アルベルト、と。

 

 震える指先でボタンを押す。ありえない。そんな考えで一杯になった。だって、嘘だ。アルベルトが生きてるなんて、嘘だ。携帯だけ奇跡的に壊れなかった? そんなはずない。携帯をどこかに置き忘れた? あのアルベルトがこんな時に? だけど、それでもわたしは縋ってしまう。ここまで期待させておいて違ったなら、今度こそ決壊してしてしまうと知りながら。

 

「……アルベルト?」

「残念。ボクだよ♥」

「その声、ヒソカ!?」

 

 聞き覚えのある声に耳が汚れた。携帯を握りつぶしそうになったわたしは悪くない。カイトさんのじゃなかったら、躊躇いなく壊していた自信があった。ギリリと奥歯が軋みを上げて、どす黒い怒りが沸いてくる。どうしてヒソカが出てくるのか。というか、なんでこの国に来ているのか。

 

「おっと、彼もいるから安心しなよ♣ ほら、アルベルト。妹さんのお出ましだよ♦」

「……エリス、無事かい?」

「アルベルト!」

 

 今度こそ、間違いなくアルベルトの声だった。わたしが間違えるはずがない、聞きたくてたまらなかった声だった。はしたないとは分かっていたけど、反射的に携帯電話に齧り付いた。目の前にいないのがもどかしい。

 

「アルベルト……っ!」

 

 なのに、信じられない気持ちが消えてくれない。一度確信してしまったから。殺されてしまったって思ったから。あのとき流れなかった涙が今になって両目の奥から溢れてきて、雨水と混ざって流れ落ちた。

 

「心配かけたね。ごめん」

「ばかっ……、そんなのっ、そんなのっ……、どう、でも、いいのっ……!」

 

 アルベルトが困惑した気配が伝わってくる。困らせてしまった自覚はあった。時間を無駄にしてると分かっていた。それでも、嗚咽がどんどん溢れてくる。止めようとした。我慢しようと胸元を押さえた。だけど涙は止まらなくて、嬉しいのか、悲しいのか、そもそも誰が泣いてるのか、なにも分からなくなってくる。

 

「だって、ありえないのにっ! 塵一つ残ってなくて、避けられるはずもなくて、それで、わたしっ、わたしっ……!」

「エリス」

 

 怖いほど力強い声でアルベルトが言う。泣いたわたしが、息を呑むぐらいに鋭い声。

 

「確かに、僕は、生きてる」

「アルベルト……っ!」

「生きてるよ。エリス」

「うん……、よかったっ……!」

 

 無事で、よかった。

 

 

 

「落ち着いた?」

「ええ、ごめんなさい。だけど、怖かったのよ。……本当に」

 

 ひと泣きしたらほっとした。どうしてだろう。なんだか随分久しぶりに、アルベルトと話した気分だった。会話をしただけで、いいえ、生存を確認できただけで、損耗を続けていた心が癒されていくのがよく分かった。暖かい気持ちで一杯になって、嬉しさで涙がもう一度滲んできた。

 

「体は? 大丈夫? 怪我、してない?」

「色々ひどいけど、致命的なのはなんとかね。そっちこそ、エリスが元気そうでよかった」

「わたしも、なんとか大丈夫。さっきまで、ちょっと挫けそうだったけど」

 

 指で目尻を拭きながらわたしは答えた。本当は冗談抜きで死にそうだったけど、そんな些事、とっくにどうでもよくなってしまっている。アルベルトが無事ならそれだけで、全てに勝る価値があったから。

 

「その様子だと、やっぱり、戻れたのね」

「うん。久しぶり、なのかな。エリス」

 

 少し照れたように、困ったように、懐かしいアルベルトが微苦笑した。その仕種はいつもよりちょっと幼くて、感情の起伏が鮮やかで、可愛かった頃を思い出した。いえ、今までも十分可愛いかったけど。

 

「いいえ、アルベルトはどんなになってもアルベルトよ」

「そっか。だけど、なんだか長い夢を見ていた気がするよ」

「そう。じゃあ、おかえりなさい、アルベルト」

「……ただいま、エリス」

 

 微笑みがこぼれた。お互い、安心しきって、安らいだ声の表情だった。体を冷やす春の雨が、優しく暖かく感じられた。

 

「ねえ、エリス」

「うん?」

「結婚、しないか」

「……え?」

 

 穏やかな時間が突然止まった。唐突さについていけなかった。確かに、アルベルトがそっち方面に疎いのは念のせいだって知ってたけど、戻った瞬間、告白も通り越していきなりプロポーズされるなんて、予想できる方がおかしいと思う。

 

「僕は、男として君に恋してる。多分、ずっと前から恋してたんだ。やっと気付いた。遅くなって、ごめん」

 

 驚きに止まってる頭の中の隅っこで、冷静な部分のわたしが、普通は、こういうときは恋人からなんじゃないかなって呟いてる。でも、これはこれでアルベルトらしい。うん、この人は元々、こんな風に清らかな人だったから。

 

「もちろん、今すぐじゃなくてもいい。むしろ今は無理だ。だけど、しばらく時間が経って、お互いに落ち着くことができたなら、僕は、君を生涯の伴侶に迎えたい」

「……アルベルトは、本当は自由なのよ? どこにだって、どこまでだって一人なら行けるじゃない」

「ああ、知ってる。エリスといれば、きっと沢山苦労するだろうね。だけど、そんな事は今更じゃないか。たとえお前がただの幼馴染みや義妹でも、その苦労を投げ出したいとは思わないよ」

「そっか。そうよね。ごめん、わたし今、とても混乱してるみたい」

 

 頭の中がぐるぐると回る。それはまるで洗濯機。わたしを丸ごとつっこんで、ぐるぐる回して真っ白にする。でも、頑張らなきゃ。アルベルトが伝えてくれたように伝えなきゃ。大きく息を吸って、吐いた。数度深呼吸を繰り返して、分かりきった返事を、確かな形にするために。

 

「もちろん、喜んで。アルベルトが求めてくれるなら、わたしの人生は全て残らず、あなたに委ねて捧げます」

 

 拍動が高鳴る。心臓がばくばくといっている。それでも、坂道を転がりだしたタイヤは止まる術を知らなかった。ふわふわに湯で上がったままの体をどうにか動かして、携帯電話ごしに愛を告げた。

 

「好きよ。愛してるわ、アルベルト。知ってた? わたしね、昔からずっと、あなたの事が好きだったの。ずっとずっと恋してたの。胸がねじ切れそうな想いで焦がれてたの。誰よりもあなたを愛してたの」

 

 とても長い片思いだった。ずっと引きずってきた初恋だった。妹で終わる覚悟もした。諦めるつもりはなかったけど、もしかしたら諦めているのかもしれないと、何度も不安になったぐらいには長かった。

 

「だから、お願い。これからもずっと、あなたの隣に、いさせてください。わたしの隣に、いてください。いつまでも、どこまでも」

 

 だけど、それがついに結実した。唐突にアルベルトからもたらされた、とても素敵なプレゼント。天下りな感は否めないけど、せっかくの奇跡、享受しないのは嘘でしょう。

 

 これより嬉しい贈り物は、彼との赤ちゃんぐらいしかないと思う。だけどそれは無理だから、きっと今日は、わたしの人生で一番素敵な一日だろう。

 

「……うん。責任重大だね」

「ええ、そうよ。重大なんだから」

「それでも、嬉しいよ」

「……うん……」

 

 気が抜けてしまったんだろうか。アルベルトの声が、とろんと眠気を帯びてきた。それが、可愛い。だけど心配さが上回った。ついつい熱を込めて話し込んでしまったけど、今の状態は状態だから。

 

「疲れた? 休んだほうがいいわ、アルベルト。いえ、お願いだから、休んで」

「そうだね。じゃ、あとはヒソカに任せてあるから、代わるよ」

 

 昔の症状そのままなら、今すぐ病院に搬送しなきゃいけない。それか、熟練した念能力者の保護がいる。ヒソカは近くにいるようだけど、彼はどうみても戦闘特化で、他者の看護や癒しなんて期待する方が無理だった。

 

「いいかい?」

「ヒソカ? アルベルトは?」

「眠っちゃった。あと、クククッ。婚約おめでとう♥ まさかこんなタイミングで切り出すとはねぇ♠」

 

 不意打ちに顔が赤くなった。そういえば、こっちでもカイトさんがずっと見てたんだ。横目でちらっと盗み見ると、なんとも言えない表情で見守っていた。顔から火が出るほどに恥ずかしかった。

 

「悪いけど、彼、このままじゃ死ぬよ? こんな体質は初めてみたけど、ボクの見立てではあと二日もてば良いほうだね♣」

 

 今更すぎる最悪の事実に、ガチリと頭の中のスイッチが切り替わった。のぼせていた回路は凍てついて、できる事をするために疾走をはじめる。全ては、アルベルトの生存のためだった。

 

「分かってるわ。でも、アルベルトならあらかじめ可能性の一つとして対策してるはずよ。もう聞いてるんでしょう、ヒソカ」

「まあ、そうみたいだね♦ でも、用意はしてあったらしいけど、消耗しすぎて動けないみたい♠」

「そう。なら簡単よ。生かしなさい」

 

 静かに、強い口調で命令した。彼ほどの実力者に対して身の程に合わない滑稽な対応。それを、あえてわたしは選択した。

 

「必要なものがあればこちらで最大限協力するわ。ヒソカ、あなたは一秒でも早く、アルベルトの用意していた手段を適切に実現させなさい。ハンターライセンスは?」

「もちろん、持ってきてるよ♦」

「なら、それを示せば包囲網は抜けられるように手配しておくわ。アルベルトの携帯にデータを送るから、指定されたルートで脱出しなさい」

 

 隣のカイトさんと目配せしながら、ヒソカに対して、一方的に要求をまくしたてた。わたしも今回の事件が切っ掛けで、随分と図太くなったみたい。成長した事は悪くないけど、こういう姿は、アルベルトにはあまり見せたくないなと考えた。

 

「うーん♠ ボク、君達の戦いを見て興奮しちゃってるんだよね。用事を頼むなら解消してからにしてほしいんだけどな。さっき、丁度よさそうな獲物達も見付けたし、ね♥」

 

 ごねるヒソカを鼻で笑った。見え見えの駄々の裏にあるのは、やっぱり見え見えの要求だろう。この人はたぶん、分かった上で楽しんでる。

 

「どうせアルベルトからは決闘の約束でも取り付けているんでしょう。いいわ。ならわたしからの報酬は、あなた達の決闘を邪魔しない事。例え、どちらかが死のうとも。それでどう?」

「……いいねぇ♦」

「ただし、その時はわたしも同席させなさい。手は出さないと誓うから。その方が、あなたにとっても好都合でしょうしね」

「もちろん。じゃあ、よろしく♣」

 

 電話越しでも分かる邪悪な笑いを残してから、ヒソカは電話を一旦切った。きっと、今頃はもうアルベルトを抱えて走り出している事だろう。戦いと殺人に異常に執着する奇人だからこそ、目的が一致している間は信用できる。

 

「カイトさん、申し訳ありませんが、手配の件、協力していただけますか。この通りです」

 

 携帯を返しながら頭を下げた。事後承諾そのものな失礼さだったけど、カイトさんは迷う素振りも見せずに頷いて、同時に国軍に連絡してヒソカの為に飛行船を一隻用意するよう要請してくれた。本当に頼もしくてありがたい。

 

「事後処理と同時に軍上層部にも話を通す。疲れているだろうが休む暇はないぞ。覚悟しておけ」

「はいっ、お願いします!」

 

 これからはわたしにとっても戦いだった。いまは例の男性の念能力のおかげで落ち着いてるけど、一度練を使って深層まで撹拌してしまった禍々しいオーラは、今までのようには扱えない。練という技術そのものも、あまりに体に馴染みすぎた。念はわたしを蝕むだろう。きっと前よりも苦しむだろう。その痛みは、今から震えたくなるほど怖かった。

 

 だけど、生きたい。アルベルトと一緒に歩んでいきたい。だから辛さは表に出さない。アルベルトのために働いて、周りに笑顔をふりまこう。彼を心配させる要素を増やすのが、一番怖い事だから。

 

 次に泣くのは、アルベルトが帰って来てからだと心に刻んだ。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「いいんですか? こんなところで時間を潰して」

 

 男の膝の上に座りながら、少女は後ろを見上げてて尋ねてみた。とくん、とくん、と心音が聞こえる。穏やかだった。廃虚の中に雨が降り、悲しいほど穏やかな時間だった。もたれ掛かる男の体は暖かく、逞しい腕が少女を優しく抱いている。

 

 こうして時を迎えてみれば彼女は思う。幸せとは、なんと残酷なものだろう、と。時が凍ってくれないだろうか。未来なんていらなかった。雨を防ぐ屋根も、豊かな食事もいらないから、二人このまま、永久にたゆたっていたかった。

 

「いいんじゃねえか? なるようになるだろ」

 

 甘える猫を愛でるように、閨で愛撫するように、気怠げに喉の下を撫でられた。相変わらず、だらしがなくて駄目な男だ。仕方がない人だと少女は思った。放っておけない、側にいてあげたいという気持ちになる。彼女の願いは叶うだろう。死が二人を分かつまで、もう、誰も邪魔などしないのだから。

 

 とくん、とくん、と心音が聞こえる。暖かく、優しく、寂しかった。

 

「……なあ」

「はい」

「煙草、吸わせてくれないか」

 

 仕方のない人ですねと少女は笑った。男に請われるままに従って、彼の懐から煙草を取り出す。最後の一本となってしまった安い紙巻たばこを口に咥えて、マッチを擦って火を吸った。彼女の小さな口の中に、紫煙の香りが広がった。苦くてまずい。それでも、胸がぽかぽかする味だった。

 

「口、開けて下さいね」

 

 男の唇は柔らかそうで、水気でしっとりと濡れていた。普段は、もう少しカサカサに乾いてたな、と、少女は心の中でくすりと笑った。白く磨かれた前歯の上に、紙巻の吸い口を置いてやる。なんだかちょっと可愛かった。

 

 そのまま、少女は男の体にしなだれかかった。首筋に顔を埋めながら、汗の臭いに心を沈める。とくん、とくん、と心音が聞こえる。男が抱き締めてくれるのを感じながら、彼女はずっと、緩みそうになる涙腺を引き締めていた。

 

「ちょっと寝るわ、起こすなよ」

「……疲れましたか」

「ああ。終わったと思えば、なんだかな」

 

 小さな欠伸を一つして、男は一人、夢の世界へと溺れていく。少女は頬をそっと撫で、彼の顔を至近で見守っていた。求めていたはずの幸せが、彼女の胸をひどく傷めた。

 

「しかし、悔しかったなぁ。結局、あれには一度も勝てなかったか」

 

 男はもう、少女の事を見ていない。胡乱に落ちた意識の海で、呟きを洩らしているだけなのだ。

 

「次に会ったら、今度こそ、俺は……」

 

 唇の端から煙草が零れ、瞼がゆっくりと降りていった。とくん、とくん、と心音が聞こえる。暖かく、優しく、寂しかった。我慢できず、少女は男に口付けをした。赤い舌先が割って入り、くちゅりと湿った音がする。彼の唾液は、安い煙草の味がした。

 

 唇が離れ、アーチが架かる。男はもう、とっくに寝入ってしまっていた。すうすうと、穏やかな寝息が聞こえてくる。年下のようなあどけない寝顔は、彼女を思わず微笑ませた。

 

「おやすみなさい、ビリー。お疲れさま」

 

 ありったけの愛しさを込めて、少女は優しくささやいた。

 

 

 

 燦々と降り注ぐ陽射しの中、列車はガタゴトと揺れていた。レンガ造りの赤い街の、昔ながらの単線鉄道。民家の軒先が、若葉の眩しい初夏の庭木が、車窓のすぐ側を流れていく。

 

 空が、蒼かった。

 

「わあ! カモメですよカモメ! ほら、あんなにも!」

 

 少女が瞳を輝かせた。この車両には他に客はなく、古い三等車に並ぶボックスシートの対面には、唯一、男が苦笑しているだけだった。手には新しく買ったスキットルが握られていて、程よく酔っているようだった。

 

「どうです? 来て良かったでしょう?」

「ま、な。お前が財布を握って節約してくれたおかげだよ」

 

 半分ほど皮肉が含まれた男の言葉に、少女のかんばせが綻んだ。長い銀色の髪がふわりと揺れる。真新しい薄桃色のワンピースが、薄い褐色の肌によく似合う。空色のシャツをラフに着た男の姿と相まって、二人は気楽な旅行者として、平和なこの街に至極自然に溶け込んでいた。

 

「なら、お礼があってしかるべきだと思いません?」

 

 悪戯っぽく少女が笑う。幼い容姿とは対照的に、赤褐色の瞳に、成熟した雌の潤いが混ざりだした。

 

「お礼?」

「ええ。たとえば、こんな」

 

 言って、少女は席を立って男に近寄る。シャツの襟元に指を這わせて、筋肉の隆起を楽しんだ。皮膚に触れるか触れないかギリギリの、妖艶で手慣れた手つきだった。そして彼女は微笑んで、男の膝の上にとすんと座った。

 

「……期待しましたか?」

 

 上目遣いで少女は問う。男はにやりと笑ってから、彼女の頭を撫でた。強く、乱暴で、髪の乱れる撫で方だった。

 

「してない、っていったら拗ねるんだろ? 宿に帰ってからな」

「はい。期待、してますから」

 

 甘さにとろけて少女は言った。逞しい腕が彼女を包んだ。そのまま二人、窓の外を眺める。丘陵地帯に広がる赤いレンガの家々は、爽やかな風と一緒に彼と彼女を祝福しているようだった。よく晴れた初夏の陽の下に、優しい街並が広がっていた。ここには寒さも餓えもなかった。

 

 線路はそこでカーブを描いた。景色が一気に切り替わる。蒼く、広い。海だった。少女は息を呑んで絶句する。どこまでも広大で巨大だった。それは星の大きさだった。蒼く深い大空の下、エメラルドグリーンの海原が輝いていた。

 

「うわぁ!」

 

 感激の声が思わず漏れた。鳥が遊び、船が行き交い、白い雲が流れている。これが、海。モニタ越しでは味わえない、本物の大きさがそこにあった。少女の体が震えている。それに微かに違和感があった。確かに感動はしたけれど、彼女は震えてなかったから。

 

「……ははっ! すげぇや!」

 

 上を見上げて理解した。震えていたのは男の腕だ。震えていたのは男の膝だ。大きな口を全開に開けて、瞳をきらっきらに輝かせて、眼前の光景に見入っている。雄大すぎて心細くなったのか、震えるままの腕が少女の体を強く抱いた。きっと無意識の行動だろう。視線は未だ、海原から一瞬たりとも離れていない。それはとても痛かったが、彼女は母性本能のままに受け入れた。腕に頬をそっと預けて、瞼を閉じて全てを委ねた。列車はガタゴトと揺れていた。

 

 そんな未来が、あればよかった。

 

 

 

「嘘つき」

 

 雨に濡れる廃虚の底で、少女はぽつりと呟いた。

 

「私に、あと十年は一緒にいろって、言ったくせに」

 

 男の心音は聞こえない。彼女は既に一人だった。世界はとても灰色で、これからもずっと灰色だろう。冷えてしまった男の体は、もう二度と、目覚める事はないのだから。

 

「惚れた女って、あんなに大声で叫んだくせに」

 

 穏やかに、眠っているだけに見えたけれど。

 

「なんで、死んじゃうんですか。ほんとうに、最後までひどい人なんだから」

 

 優しく寂しく少女は語る。優しく悲しく男を撫でる。結局、この男は最後まで自分勝手だったのだ。勝手に生きて、勝手に拾って、勝手に惚れて、勝手に守って、勝手に満足して逝ったのだ。彼に生き残ってほしいというのが、彼女の願いだと知りながら。

 

「貴方は、何も残してくれませんでした」

 

 男の寝顔に少女は言った。それは少女のせいだった。彼女は物に執着する事ができなかった。それは男のせいだった。彼はいつもマイペースで、少女の願いなど、ろくに聞き入れてはくれなかった。

 

 残っているのは記憶だけで、それすらも、あちこち欠けてしまっている。いうまでもなく、ここにいない誰かのせいだ。彼があの時、戦いではなく逃走を選んでくれたなら、こんな結末はなかっただろう。

 

 それでも、少女は恨みに思っていない。恨める道理もなかったし、守られたのは嬉しくもあった。ただ、寂しさがあまりに大きいだけで、悲しみと絶望が深すぎただけで。

 

「だから、せめて、これぐらいは貰って良いですよね」

 

 男の大切にしていたものを、少女は一つだけ貰い受けた。そして最後に、冷たい頬をそっと撫でる。これ以上は、きっと泣いてしまうだろう。そう悟って、少女は意を決して立ち上がった。

 

 男の体に両手を組ませ、彼が愛した拳銃をその手に握らせてやる。制服についていたナイフを借りて、銀髪を首の後ろで無造作に断った。それを結わえ、花の代わりに死者に捧げた。これが今の彼女にできる、精一杯の葬送だった。無粋な憲兵に荒らされてしまうと分かっていても、愛する人の体には、安らかな姿でいてほしかったのだ。

 

「いつか、必ず返しにいきますから。それまでは」

 

 そして少女は歩き出す。ゆっくりと、しっかりした足取りで瓦礫を踏んだ。懐古の繭は暖かく、柔らかい絹糸で織られている。叶うのなら、その中で二人、永久に眠っていたかった。ここで終わってしまいたかった。しかし、それを選んでしまったなら、男は何のために死んだのだろう。

 

「ひょっとすると、意外に近いかもしれませんし、ね」

 

 少女は最後に、寂しそうに振り返って微笑んだ。

 

 廃虚を歩く。灰色になってしまった街の底で、少女は一人歩いていた。灰色の雨に打たれながら、灰色のビル街を歩いている。短くなった髪が軽い。それでも心は重かった。男の残した最期の言葉が、少女の胸を蝕んでいた。最後の最後、今際の際に、あれに全部持っていかれたと少女は思った。がらんどうの瞳が思い出される。それは、無機質な輝きを放っていた。

 

 ああ、憎悪だ。

 

 少女はあれに憎しみを抱いた。この世にあってはならない存在だと勝手に決めた。復讐でも、男の意思を継いだ訳でもない。女として負けたのが悔しかった。だから、せめて。

 

 あなたは最後に願ったから。

 

 空を見上げて少女は誓う。機会が訪れてくれたなら、巡り合わせがあったなら。例え動機は不純でも、二人の意思は重なっていると信じたかった。端的にいえば、何か目的がほしかったのだ。

 

 未練は、私が代わりに、叶えます。

 

 彼女はこの後、国軍によって保護される。犯人によって操られていたという証言は受け入れられ、被害者の一人として扱われた。なぜなら、選りすぐられた国家憲兵部隊にクーデターまで頻発させた男の能力を認めるなら、幼い少女が一人、抵抗できたとする事はできなかったのだ。ただし、被害の規模と彼女自身の事情を鑑み、身柄はハンター協会に預けられる。専門の施設に入れられて、専門のハンターが担当に付く、事実上の監禁であった。

 

 しかし、その施設は三ヶ月後に炎上する。何人もの死傷者を出した忌わしき事件が起こったのは、雨の降る七月の晩であった。それ以降、公式記録に彼女の足跡は一切ない。彼女の遺体は見つかっておらず、行方不明のまま数年が経ち、法的に死亡として認定された。

 

 彼女は名を決める事を拒んだため、墓碑には名前が刻まれず、無名のままに祀られている。

 

 

 

 事件終息より七日後、国家憲兵隊司令官ワルスカの執務室をノックの音が訪れた。入室を許可すると、入ってきたのは二人の男だ。国家憲兵隊に所属しており、彼も顔を知っていた。若いが優秀な部下達で、何よりも職務に忠実だった。

 

 執務室に入ると、彼等は驚いた顔をした。きっと、部屋が綺麗に片付いていたためだろう。塵一つ、ではない。書類の一つ、秘書の一人すらそこにはなく、がらんとした空間の中で目を引くものを挙げるなら、執務机の上に写真立てが一つあるのみだった。

 

「将軍閣下、命令によりご同行願います。令状をお確かめ下さい」

 

 ワルスカは重々しく、されど満足そうに頷いた。差し出された令状を形式的に改めて、間違いのない事を確認する。

 

「うむ。確かに。それで、他に指示はなかったかね」

「……外で、一時間ほど、お待ちします」

「待ちたまえ」

 

 噛み締めるように言って退室しようとする男達を、ワルスカは穏やかに呼び止めた。

 

「憶えているかね。この国を救ったハンターの一人、ドレスを纏ったお嬢さんを」

 

 彼等は力強く頷いた。忘れるはずがないと、意思と同時に微かな怒りも灯っていた。

 

「無論です。それがなにか」

「なに。出国を見送った時、別れ際にな、彼女に言われた。格好いいおじさま、だそうだよ。こんな私がね。どうだ、羨ましかろう。天国の家内にも自慢できる。いや、怒らせてしまうから内緒にした方がいいのかな」

 

 くつくつと、ワルスカは愉快そうに笑っている。机の上の写真立てに目をやって、親しみを込めて微笑んだ。写っているのは彼ともう一人、同じ年頃の女性である。

 

「君達も、そう呼ばれるよう、これからも頑張ってくれたまえ。以上だ」

 

 部下達の退出を見送ってから、ワルスカは執務机の引きだしを開けた。そこには一丁の拳銃があった。なんの変哲もない、使い古されたオートマチックの軍用拳銃である。慣れた手つきでそれの状態を点検し、発射に何の問題もない事を確認した。

 

「お別れだね。君には本当に、何度も世話になってしまったようだ。ありがとう」

 

 部屋の隅へ向けてワルスカは語る。そこには誰もいない筈であったが、いつの間にか、修練を積んだ男の気配があった。カイトである。曰く、絶という念の技だという。初めて実演されたときは驚いたものだ。直前まで溢れ出ていた濃厚な存在感がぴたりと消えて、残響すらどこにも感じられない。透明になったかのような錯覚さえあった。

 

「いいのか、ワルスカ」

「無論だとも」

 

 歳の離れた友人に問いかけられ、ワルスカは戸惑いもなく頷いた。外には雨が降っている。もはや、誰も怯える必要のない、古来から恵みの象徴だった春の雨が。

 

「もはや、誰かが泥をかぶらねばならぬ。今回の一件、我らは醜態を演じすぎた。だが、人々はこれからも生きねばならない。この国で暮らしていかねばならんのだ。だから、この国の社会機構が無意味だったのではなく、誰かが著しく無能であったのだと、そういう事にしなければならんのだ。たとえ、明らかな茶番であろうとも」

 

 そして、泥をかぶるなら自分以上の適任はないと、ワルスカは冷厳な目で断言した。

 

 殺人事件一つのために、数多の人命を喪失し、多くの人権を蹂躙し、街を丸一つ粉砕され、天文学的な損害をだした。購うためには、天文学的な規模の支出が要求される。財源となるのは税金である。この国は今後、幾重もの試練を乗り越えねばならないだろう。

 

 彼はそれに貢献できない。だが、後任達に不安はない。部下達は皆、勿体ないほどの人物だった。これからは若い世代の時代だろう。老いたる自分は負の遺産を一つ抱えて冥府へ消え、彼等にやりやすくしてやりたい。ワルスカはそう考えていた。

 

「そうか。寂しくなるな」

「私もだよ。君はいい友人だった。皆にも、よろしく言ってくれたまえ」

 

 男達は頷きあう。余計な感傷はいらなかった。目を合わせるだけで理解しあえた。

 

「送ろうか」

「いや、気持ちは嬉しいが遠慮しよう。君ならきっと、微かな苦しみもなく逝かせてくれるんだろうがね」

 

 友人の手を煩わせず、最後まで、自らの手で終わらせたい。そう、ワルスカは拳銃を手にして口にした。

 

「さて。果つる時を迎えてみれば、実に楽しき人生だった」

 

 形式張って独白してから、ワルスカは悪戯っぽく笑ってみせた。カイトも静かに微笑みを返した。

 

 そして、一発の銃声が鳴り響いた。

 

 

 

次回 幕間の壱「それぞれの八月」



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幕間
幕間の壱「それぞれの八月」


 念を修めてからというもの、世界が広がったことを実感しない日は一日もない。森の中で座禅を組んで心を澄ませば、溢れる命の気配に敬虔な驚きを与えられた。美術館にて歴史的な傑作を目の当たりにすれば、古の巨匠の息遣いに感銘を受けた。復讐に身を焦がす我が身なれど、この世の奥深さには限り無い敬意を払いたくなる。

 

 それでも、こんな驚きは初めてだった。

 

 乾いた山岳地帯に車を走らせること数時間、山を越え、谷を越えて、指定された地点が見えてきた。空気は冷えて、地味は悪く、埃っぽい痩せた地肌が露出している、お世辞にも豊かとはいいがたい土地柄だった。だが、纏をして集中すればそこかしこに小さな生命が息づいているのが把握できた。苔や草のような植物から、昆虫や爬虫類のような動物まで。どこかの岩影を覗いてみれば、小さなネズミが潜んでいるのも分かるのだろう。

 

 それが、途絶えた。

 

 そこは空白の地帯だった。生き物の気配が全くない。見た目はほとんど変わらないが、これまでの荒れ地とは命の量の多寡で決定的に違っていた。枯れて乾涸びた草木の僅かな残骸だけが、かつて生命の存在していたことを証明する痕跡だった。

 

 だが、生命力だけは濃厚だった。岩から、土から、小石から、オーラが陽炎のように昇っている。それは指向性を持ったエネルギーだった。無垢で透明な力ではなく、生けるものを苛みつづける毒だった。その効果はとりわけ、人に対して覿面だろう。私という人間に対し、一途なほど執拗に牙をむく圧力と比べれば、生態系が消失した範囲は非常に狭い。恐らくは、ほんの些細な余波を受けての事なのだ。纏を使えない人間がいたならば、瞬く間に体調を崩すに違いなかった。

 

 熟練の念能力者と敵対した際のような圧迫感に、私とて愉快な気持ちにはなれなかった。知らぬ間に手の中に汗を握っていた。落ち着くために息を吐く。右手に巻き付けたままの鎖の束が、ジャラリと微かな音を鳴らした。

 

 復讐を旨とする私には分かった。肌を焼き、首筋を焦がすこの感覚の正体は、積もり積もった怒りではない。憎悪も、悲哀も、絶望も、混ざり物の一つにすぎなかった。

 

 以前、書物で読んだ記憶がある。ある地域に伝わる呪法の一つに、蟲毒というものがあるらしい。密閉した容器に毒をもつ生物を充満させ、殺しあわせる古代の外法。数多の負の感情を凝縮させたこのオーラは、さながら、その呪いの結実を想起させた。

 

 核となるのは憎しみではない。どす黒く濁った混沌の渦を束ねるものは、純然たる人類への害意だった。

 

 これは、結界だ。人の世と異界を隔てる境界だ。

 

 念を知った今でさえ、想像できない高みというのは存在してる。あのハンター試験の最中において、私達はそれを幾つも体験した。最終試験でアルベルトが見せた体捌きも、ヒソカやイルミの拍子すら見えない攻撃も、ヒソカとエリスの戦いでホテル全体を揺らした破壊の規模も、どれほどの修練を積めば到達できるのかさえ分からない領域だった。あるいは、なにかトリックがあるのかもしれないが。

 

 だが、これはそれらとも別物だった。性質が違う、と直感した。

 

 物体をオーラで強化する技術があるという。天才的な芸術家が、無意識のうちに作品にオーラを込めた事例も多いと聞く。恐らくはこれも、それと全く同じ現象だろう。何処より流出した強いオーラが、この土地の物質に吸着された。原理としては単純明快。だからこそ、私は恐ろしくてならなかった。

 

 わずか五ヶ月、一人の人物が住んだだけで、このような異境が生まれた事に。

 

 目的のログハウスはまだ遠い。私がいる場所からあそこまで、優に千メートル以上は離れていた。

 

 

 

 いらっしゃい、と、エリスは人恋しそうな笑顔で私を迎えた。

 

「ごめんなさいね、クラピカ。こんな辺鄙な場所まで呼び出してしまって」

「いや、問題ない。私としても、一度直接会って話したかった」

 

 ログハウスの中はがらんとしていた。テーブルと簡易なキッチンと幾つかの椅子、そして手洗いへの入り口であろうドアだけが眼に映る。壁には申し訳程度に小さな額縁が飾られているものの、生活臭は全くない。先ほど、外に地下室への入口らしきものが見受けられたが、恐らく、普段はそこで暮らしているのだろう。どれほど深いのかまでは分からないが、地上に広がっている影響は、ほんの一部のものらしい。

 

「どうぞ、おかけになって」

「ああ。失礼する」

 

 木製のシンプルなテーブルには、白地に薄いピンクの花々が描かれた真新しいクロスが掛けられていた。清潔だが、それ以上に使った形跡がほとんどない。切り花なども飾られておらず、感心よりも先に寂寥を訪問者に与えている。

 

「ゴン達からは、連絡は来たか?」

「ええ。わたしはレオリオさんからだったけど。困ったわ。よりにもよってヨークシンでしょ? あれ」

「だが、ヨークシンといっても広い。こちらの事情を伝えれば放っておいてくれる連中でもなし、今しばらく様子をみるのが賢明だろうな」

「それしかないのかしらね」

 

 腰掛けながら、世間話に近いやり取りをする。彼らは皆、相応の戦闘力はもっている。直接関わってしまったならともかく、余波の火の粉なら振り払える実力があると信じていた。

 

「お茶をどうぞといいたい所だけど、ごめんなさい、普通の人が口にできそうなものは生憎とここには置いてないの。保存食ばかりで、汚染されちゃってて。念が使えれば実害はないと思うけど、気分がいいものじゃないでしょう?」

 

 聞いて、私は表の様相を思い出した。あれはまさしく異常だった。常識が通用しない異世界に近く、常人が踏み込めるような環境ではない。しかし、その原因となったはずのエリスはどうだ。こうして対峙していても、彼女の纏から溢れるオーラは非常に少ない。だがそれは逆に、漏れるときは大量に噴出する事を示唆しているのではないだろうか。どうやら、彼女の抱えている症状は、想像よりさらに深刻なものらしい。

 

「いや、気を遣う必要はない。それより、早速だがこれを見てくれないか」

 

 懐から小箱を取り出してテーブルに置いた。中には、私がつい最近探し出した物品が入れてある。

 

「名女優セーラの毛髪、DNA鑑定書付きだ」

「まあ!」

 

 エリスは瞳を輝かせ、それをしげしげと観察した。やはり、それなりに興味はあるらしい。自分の髪と見比べているのは、女性としてのさがだろうか。人体収集という下衆な趣味も、この程度であれば可愛いものだ。

 

「じゃあ、これで?」

「ああ、クリアだ。提出すれば採用まで持っていけるだろう」

「おめでとう。さすがね。そして、ありがとう」

 

 投げかけられた微笑みに頷いて、祝福と謝辞を受け入れた。穏やかな空気が流れている。この調子で終止したならば、久しぶりに会った友人同士の会話だろうが、これからが私達にとっての本題だった。

 

「ヒソカは、あれから何か言ってきたか?」

「ええ。一つ提案をしてきたわ」

「提案?」

「そもそもヒソカは旅団の団長、クロロって名前らしいけど、その人と戦いたくて入団したふりをしたんですって。だから、彼の希望は団長との対決。わたしへの報酬は団長の殺害。そのために利用しあう関係にならないか、って。返事は、まだしてないわ」

 

 エリスは淑やかに笑っている。成長した、と肌で感じた。ハンター試験で会ったときは、アルベルトの背に庇われたままの小娘といった印象だったが、これで中々、彼女にも様々な出来事があったらしい。駆け出しの雌狐ぐらいにはなったのだろうか。しかし、世慣れし始めた自称中級者ほど転びやすいのも事実だった。

 

「乗るのか?」

「あら、クラピカは乗るつもりなの?」

 

 エリスは意外だったらしく驚いた。だが、その選択は腑に落ちない。団長の殺害。それは、是非とも私自身の手で成し遂げたい事柄だ。あんな奴の趣味などのために、譲ってやりたいとは思えない。しかし、それは彼女とは無縁の理由なのだ。

 

「なぜだ。性格や嗜好はともかく、戦力としては一級だろう。それに、内通者というポジションも魅力的なはずだが」

「いえ。わたしは自分の経験不足をよく知ってるもの。あんな気まぐれの道化なんて、制御できるはずがないじゃない。味方に付けるなら、常識的があって信頼できる人が一番でしょ? クラピカは頭も切れるのだし」

 

 ふむ、と私は頷いた。確かに、あれを頼るのは最小限に押さえたい。それは理にかなった判断だろう。加えて私自身の感情を添えるなら、奴は是非ともこの手で殺したい一人だった。仮に緋の眼に関わってはないとしても、あんな集団に好き好んで加入した時点で復讐の対象にするに余りある。

 

「了解した。ところで、アルベルトの状態はどうだ」

「落ち着いているけど、大事を取って安静にしてるそうよ。ヨークシンの件は手を出さないから、エリスの好きにすればいい、ですって。……わたしが信じると思っているのかしら?」

 

 心底困ったというように、エリスが頬に手を当てて息を吐いた。優しい憂いの滲む顔には、婚約者に対する慈愛がある。左手の薬指に指輪はない。オーラに汚染されてしまわぬよう、実家に預かってもらったそうだ。

 

「来ると思うか」

「間違いなく。だってそれがアルベルトだもの」

 

 エリスは自信を持って断言する。確かに、それが正しい答えだろう。彼女より圧倒的に付き合いの短い私でも、彼が動かず、妹に全て任せきりにするとは考えがたい。

 

「本当に、ヒソカの奴が言う通り、団長を殺せば戻ってくるといいのだがな」

 

 アルベルトの発、それさえ取り戻せたのなら、いくつもの問題が解決し、あるいは好転へ向かうだろう。それは私の望みでもあった。エリスの体質は、アルベルトが側にいたからといって、都合よく収まるようなものではないのだろう。彼女の挑戦は無駄かもしれない。だが、どうせ破滅する運命なら、最後は本人達が満足できる形で終わる事ができればいいと私は思った。

 

「ええ、本当ね。だけど、アルベルトに聞いたらね、それが合理的な推測なんですって」

 

 エリスの瞳がぎらりと光った。強烈な希望と願望が、入り交じって輝いた光だった。

 

「ほう。何故だ」

「ここから先はアルベルトからの受け売りだから、細かい疑問までは答えられないかもしれないけどいいかしら」

「ああ、問題ない。話してくれ」

「えっとね、最初に整理すると、あのとき起こった現象は三つよ。アルベルトが発を一つ使えなくなって、旅団の団長がアルベルトを見逃して、その後、その人がアルベルトと同系統の能力を習得したと思しき動きをしたのが目撃されてる。前二つはアルベルト自身が体験してて、最後のは保護された女の子が証言したの。彼女はね、数日前にもその男と別の街で邂逅していて、その時はそんな能力が使える徴候はなかったとも言ってるわ」

 

 列挙されて違和感を感じる。いや、明確に異質な項目が混じっているのに気が付いた。恐らくは、アルベルトもその疑問点から考えを巡らせたのだろう。

 

「ここで不自然なのは二つ目よ。なぜ、相手はアルベルトを殺さなかったのかしら。自分の発の情報は、能力者にとってとても重要な秘密なのに」

「それが能力の成立に必須だったからだろう」

「ええ、そうでしょうね。だから、団長の能力が『相手の発を喪失させる』ものである可能性はほぼ消えるわ。発を消す代償に敵を殺せないという誓約は能力そのものを無意味にするもの。まして戦闘に長けた能力者で、一人で戦いに挑んできたなら尚更よ」

 

 至極道理だ。実現すれば強力な補助系の能力になるだろうが、とどめを刺せなければ意味はない。アルベルトと対峙したから能力が使えなくなった時点で決着が付きはしたものの、他の術者であれば勝敗は容易に裏返るだろう。

 

「『相手の発を喪失させる代償に相手と同じ発を修得する』というケースも考えづらいわ。なぜ、『相手の発を喪失させる』なんて余計な機能を組み込む必要があったのかしら。」

「たしかに、ついでにしては重すぎるな」

「でしょう? それにアルベルトを殺さなかった説明も苦しいわ。『相手の発を喪失させる』という弱体化の機能を組み込んだなら、弱体化させた相手を放置せざるを得ない誓約を付けるのはおかしいもの」

「その場合も、通常ならとどめ役の随伴がいるな」

「ええ、そうでしょうね」

 

 相手と同じ発を修得するという能力だけで相当な無茶だ。自然、かなりの重荷になるだろう。その上で更に、他者の能力を喪失させる機能を付けるなど、あまりに突飛すぎる想定だった。そして、そこまで話が進めば回答は容易に推察できる。他者とよく似た発を短期間で修得し、その相手を生かしておく必要があるだろう念能力。

 

「つまり、『相手の発の使用権を強制的に借り続ける』といった念である可能性が高いわけだな。端的にいえば、『誰かの発を盗む』能力だ」

「さすがね。アルベルトはそう考えてるわ。それなら、アルベルトを殺さなかった理由も、その後によく似た能力を使えた理由も説明できるもの。そして恐らくその場合、発としてのパワーの大部分は、奪った発の使用権を握り続けることに割り振られていると考えられる。複数人の発の使用権を奪えるなら、とても強大な念能力よ」

 

 確かに非常に強力だ。だが、それ以上に不愉快だった。念を修得し、発を開発たからこそよく分かる。それは、他人の半生を強奪するに等しい所行であると。

 

「まさに、盗賊の長らしい能力だな。卑劣で、姑息だ」

「そうね。その通りね。でもね、クラピカ、もしこの推測が当たってるとすると、団長を殺害した場合、使用権はアルベルトにかえってくると考えるのが自然になるわ。万が一、死者の念として盗んだ念に拘泥されたとしても、その時持ってるオーラを使い尽くせば同じこと。一般的に、死者の念は自身で生命力を生み出せないから」

 

 私は大いに納得した。確実に戻るか断言するまではできないが、挑戦するだけの価値はあるだろう。どのみち、彼女はこのまま指を咥えていても仕方ないのだ。何かの解決策を見つけない限り、彼らは二度と直接会う事ができないのだから。

 

「分かった。ならば、後は実現するだけだな」

 

 そして、それが最も困難だ。だが、実現させなければならない。私は渇望してきた復讐のために。エリスはアルベルトと共に暮らすために。

 

「ええ、頼りにしてるわ、クラピカ。ヨークシンでは、よろしくね」

「ああ、こちらこそ。よろしく頼むよ、エリス」

 

 細くひんやりした手と握手をした。こちらとしても、旅団相手に実戦経験をもつ仲間がいてくれるのはありがたい。その不安定さから戦力として勘定はできなくても、陽動役としてなら反則的な威力を期待できる。彼女の存在をちらつかせて奴らの計画を掻き回しつつ、一人ずつ捕らえては狩っていく。それこそが、オレ達がとるべき方針だ。

 

 全ては、幻影旅団を滅ぼすために。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 それは、予定にはなかった訪問者だった。

 

「よう、精が出るじゃねえかコラァ!」

 

 樹海の中の一軒家、森に埋もれた丸太小屋を尋ねる客は少ない。いや、今まで二人しか存在してない。その一人が、目の前にいるナックルだった。

 

「やあ。どうしたんだい?」

 

 鍛練の手を休め、タオルで汗を拭きながら僕は尋ねた。やや柄の悪い口調ながら、楽しそうに張り上げる声は好ましい。彼とは以前からの付き合いだが、これほど自然な親しみを感じたのは、能力を失って以来だった。近頃、風景がキラキラと輝いて見える。

 

「ちょっと様子を見によ。これからしばらく、師匠についてハントに入るから行き掛けにな。で、どうだ?」

 

 僕は感謝をしながら頷いた。行き掛けでこんな場所まで来てくれる人物も希有だろう。普通なら裏を疑ってもおかしくないが、ナックルは本当に善意だけでここまでしてくれる人なのだ。

 

「おかげさまで、健やかに毎日を送ってるよ。ありがとう」

 

 隣に浮かぶトリタテンを撫でながら、僕は心から礼を言った。これのおかげで、ここ数カ月、僕は命を保っていた。三十日ごとに訪れて能力をかけなおしてくれたナックルは、正真正銘の恩人だった。

 

「よせやコラ。こちとら金を貰ってやった事だ」

「それでもだ。いや、あえて僕の言い値をそのまま受け取ってくれた事も含めてだよ」

 

 照れるナックルに頭を下げる。彼は師匠のご友人のお弟子さんだった。能力に目をつけ、前々から頼んでいた事とはいえ、連絡を受けてすぐに駆けつけてくれたそうだ。仮に到着が遅ければ、僕は確実に死んでいた。ヒソカの機転でバンジーガムに包まれていたとはいえ、噴出を続けるオーラの流れは、容赦なく余力を奪っていったのだから。

 

 余談だが、その時の縁でナックルもヒソカに言い寄られたらしい。

 

「……あと半月、だったな」

「そうだね。日程の調節も完璧だ。結局、纏の習得はできなかったけどね」

「本当にこれでよかったのか?」

 

 ナックルが言うのはエリスの事だ。彼は、エリスにもハコワレをかける事で、最後の一ヶ月を共にすごしたらどうかと提案してくれたのだ。もしそれが実現していたならば、この八月は、どんなに幸せな日々だっただろう。

 

「大切な女なんだろう。今から半月だけでも、男として精一杯いたわってやれよ」

「前に断ったときも言ったけど、それは恐らく、危険すぎる。不可能だ」

 

 気持ちだけ貰っておく事にすると首を振ったが、ナックルは納得してないようだった。無言で、理由を話せと促している。その気迫から逃れる事はできそうにない。しばらく沈黙を続けてから、僕は観念して口を開いた。

 

「……エリスを絶にしてしまうとかえってまずい」

「どういう意味だ?」

「ここから先は、絶対に秘密にしてくれないか」

 

 もとよりそのつもりだったのだろうが、僕の最後の確認に、ナックルは真剣に頷いた。

 

「エリスが内在しているオーラには、とある強力な指向性がある。よくある、禍々しいオーラの比ではなくね。そしてそれは、彼女本人にも害を及ぼす。だから、内包する生命力の充実は、あいつに限っては喜ばしくないんだ。現にそれで、何度も体調を崩している」

 

 彼女の能力の発祥経緯に、ぎりぎりまで踏み込んで打ち明けた。ナックルの人柄を信頼しての事とはいえ、彼女の預かり知らないこんな場所では、本来なら開示したくない情報だ。

 

「ナックルの取り立て、トリタテンによる絶についてもそうだ。他人のオーラを回収するなら、ある程度の浄化機能は備わっているのかもしれないけど、膨大かつ重度の汚染をなんのリスクもなく無効化できるほど出鱈目な性能があると考える事は難しい。というか、そんな都合のいい発の作成は人間の範疇を越えてるだろうね」

「……まあ、だろうな」

 

 そう、仮にオーラに込められた意思を浄化する専門の能力がこの世のどこかにあったとしても、処理力には限界があるはずだ。無限の性能を持つ浄水器の具現化が不可能なように。そして、術者が人間であるのなら、その限界はあくまで人間らしい基準に留まるはずだった。

 

「どうかな。さすがに、これ以上深くは話せないけど」

「……いや、いい。悪かったな」

 

 ぼかにしにぼかした説明だったけど、一応納得してくれたのだろうか。ナックルは僕の話を遮って、残念そうに瞑目した。

 

「まっ、事情があるんじゃ仕方がねぇか」

「気持ちはとてもありがたかったんだけど、どうしてもね」

 

 本心を言えば、僕だってエリスと暮らしたくない訳がない。それでも、欲に目が暗んでリスクの大きさに気付かない振りをする事はできなかった。僅かな可能性にかける、というのはこの場合は明らかに違うだろう。

 

「しゃあねぇ。来いや、詫びの代わりに手合わせしてやらぁ」

 

 オーラを滾らせているのだろう。膨れ上がった存在感でナックルは言った。もちろん、僕は一も二もなく頷いた。とてもありがたい申し出だった。彼の体術の実力は、あのカイトに近いほどに高いのだ。森に篭ってばかりいて、人を相手にした経験に乏しいこの数ヶ月を考えると、感覚の調整が必要だった。

 

 

 

 大の字になって空を見上げる。森の中の小さな広場の真ん中で、僕は独りで寝そべっていた。疲れきった体が熱かった。ナックルは、もうハントへと旅立っていった。

 

 背中に柔らかい土が敷かれている。青い草の臭いが頬を撫でる。情報ではない感覚は久しぶりだ。この半年間、森の中で暮らしてきたのは、今まで最も苦手だったことに馴染もうと決めたからだった。かつての僕はデジタルで、他の念能力者達の様に、自然と一体化するハントは不可能だった。だからハンター試験の際、僕は感覚ではなく情報を追ってゲレタを探し、そして敗北を喫したのだ。

 

 木々を揺らす風が涼しい。疲労から来る苦しみと、軽い嘔吐感に苛まれている。能力を失う前までは、ただのデータでしかなかった五感の中に埋没している。

 

 だけど、このまま溺れる事はできなかった。一刻も早く、僕はマリオネットプログラムを取り戻し、以前の状態に戻らないといけない。ヨークシンは恐らく、最初で最後の機会だろう。その先の機会をうかがうには、残された時間は少なすぎた。

 

 僕の能力は二つしかなく、実質的には一つしかない。それは、二つの発が、実際には不可分である事を示している。

 

 マリオネットプログラムの真髄は、オーラを操作する事にこそある。念的な手段を用いてのオーラの操作。それこそがあれの本義だった。しかし、オーラそのものを用いてオーラを直接操作するという方法は、本質的にループに陥る。そのため、僕は肉体の完全な掌握という手段を介して、自分自身の統制をもってその問題に臨んだのだ。

 

 だが、ここに一つの難点がある。纏や絶、大雑把な凝程度ならともかくとして、厳密な制御をしようと思ったなら、肉体の繊細な操作に消費するオーラが多くなりすぎる。かといって、精密な処理によりロスを減らす方向に頼りすぎれば、脳に負荷がかかりすぎる。今頃はあの男も痛感している事だろう。マリオネットプログラムとは単体では、特に高度統制を行う際、燃費が悪い能力なのだと。

 

 そこで、僕は生命の危機を乗り越えて落ち着いた後に、ファントム・ブラックという発を開発した。当初、それは体内に神字を書くためだけに編み出した能力だった。そのため、余計な特徴を削ぎ落とし、「黒い塗料であること」という概念以外の性質を持たない物質にした。それを実現できたのは、ひとえに、マリオネットプログラムによる思考制御の恩恵だった。

 

 故に、今、ファントム・ブラックに現実的な色がつく危機が迫っている。

 

 念による具現化の産物には特色がある。よほど明確なイメージを植え付けられない限り、その形態はなかなか変わらず、変わる事ができないのだ。例えば、念獣はそうそう汚れない。仮に汚れが付いたとしても、再度具現化すれば綺麗な状態に戻っている。逆に、強烈な攻撃を受けて破壊のイメージが確定すれば、今度は払拭するまでまともに具現化できなくなる。その回復は、一流の術者が専念しても軽く数カ月はかかると言う。

 

 専念した上で数カ月。だがもう、僕は半年経っている。あと半年、ファントム・ブラックが今の状態を維持する事はできないだろう。いずれ特色は上積みされ、より現実的な性質を持った塗料に変わる。体内に神字を刻むだけならそれでもよかった。だけど。

 

 現実の黒とは全く異なる方向性の、完全黒体よりも「黒い」塗料。誕生した経緯は偶然とはいえ、今の僕には必然があった。保有し続けるという意味。誰にも明かしてない未完の保険。自分のオーラを操作する能力に附随した、とても優しい最終兵器。

 

 いずれ、変わってしまう前に取り戻さねばならないのだ。

 

 念とは、人々の意思による作用のせめぎ合いに他ならない。マリオネットプログラムを使えないのは、僕の意思による作用より、あいつの意思による作用の方が勝っている事の現れだろう。ならば、仮に彼の意思による作用を排除できれば、能力が再び使える可能性は十分ある。

 

 そう考えて、僕は森に寝そべったまま、ポケットから携帯電話を取り出した。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 人生は、潤いだ。

 

 陽光が燦々と降り注ぐ青空の下、橙色の荒野を貫くハイウェイを、俺のトラックは走っていた。今の仕事に不満はない。爺さんの代からトラック乗りで、ガキの頃からオヤジの運転を眺めて育ってきた。今年で五つになる俺の息子も、将来の夢は運転手だそうだ。

 

 だが、一人で座り続ける業種だからか、時々は運転席が寂しく感じる。そんなとき、俺はヒッチハイクによく応じた。あいつらはたいてい、陽気で人懐っこい性質だ。そして面白い人生を送ってやがる。だからちょっと耳を傾けて促してやれば、とっておきの体験とやらが溢れ出てくる。俺たちは足を、奴らからは潤いを。そんな持ちつ持たれつの関係だった。

 

「そいつは残念だったな、坊主。だがよ、この時期、この辺りの物流はヨークシンに向かうばっかりだぜ」

「なんだっけ。ドリームオークションってやつだっけ?」

「それよ。かくいう俺も、この仕事が終わったらあそこで一週間ほどバカンスさ。かみさんとガキと合流してな」

 

 そいつは奇妙なガキだった。身なりからして貧民街出身のハイカーだろうが、にしては妙に小奇麗だった。ズボンもそれなりに新しい。きたねぇケツで助手席のシートを汚すようなら、躊躇せず蹴り出してやるつもりだったが、この歳でも最低限のマナーは心得てやがる。ツラも、よく見れば女のように線が細い。そっちの趣味のオヤジが見れば、さぞかしいい値段をつけそうだ。

 

「ヨークシン発の物流はそんなに少ねぇの?」

「少ないねえ。なにより、そいつを請け負うのはヒッチハイクにかまうような奴らじゃねえ。つまんねえ小銭のためにあくせくクソ真面目にトラック転がす、七面倒くさい企業勤めのリーマン連中だ。ま、期待するだけ無駄ってもんよ」

「ふーん。運転手の業界にもいろいろあるんだ」

 

 興味なんかないんだろう。頬杖をついて流れる景色を眺めながら、そのガキは生返事を返してきやがった。だがまあ、煩わしい社会のしがらみに首突っ込んでくるよりは可愛げがある。そう思い直して、俺はラジオのスイッチを入れながら会話を続けた。

 

「悪い事は言わねえ。オークションの期間が終わるまで待つんだな。今度は世界中に向けてヨークシンの人と物資が吐き出される。こいつは壮観だぜ。そりゃあ、渋滞はちっとばかし困るがな」

 

 ラジオがガザリとノイズを鳴らして、陽気なブルースが流れてきた。ギターのリズムに指を乗せて、ハンドルを叩きながら体を揺らす。

 

「おっさんもオークションに参加するの」

「俺はもっぱら冷やかしだ。隅っこでちっせーオークションハウスやってる馴染みがいてな。そいつらとつるんであっちこっちへぶらりとよ」

 

 奴らとはお互い、家族単位の付き合いをしてる。ブギーのかみさんがこしらえるローストチキンは毎年この季節の楽しみで、エドの奴は密造酒造りが趣味で最近は中々の味に仕上げてくる。ああそういえば、ダムドの野郎、去年の暮れに三度目の結婚をしたって言ってたなぁ。

 

「お前も値札競売市なんかどうだ。あれはいいぞ。活気があっておもしれぇ。並んでるのがガラクタばかりなのが難点だがな」

「へぇ、にぎやかそうだね」

「おう、そりゃあな! 売り物はほんっとうに、ゴミばかりだがな!」

 

 俺もかかあと子供に一、二品ぐらいは買うだろうが、それも二足三文のくず物に毛が生えた程度のもんでしかない。普通にそこらの店でも買えそうなものを、高い安い騒ぎながらわいわいやる。傍から見れば馬鹿だろう。だが、それでいい。あそこでは夢が最高の付加価値だ。そこで頭良く節約するような連中には、オークションを楽しむ事なんてできやしねえ。

 

「去年なんかよ、なんとかって大昔の大女優が使ってたって触れ込みの櫛をかみさんに買って帰ったらよ、そいつ中身はプラスチック製でやんの」

「あははははっ。いいねぇ、好きだよそういうの」

 

 ガキはけらけらと笑っている。男にしては幾分長い髪の毛を頭の後ろで一つに結わえて、首の後ろに垂らしていた。それが、笑い声と一緒に揺れている。薄い褐色の肌に銀色の髪が、妙に似合って目を惹いた。奇妙なガキだと俺は思った。

 

「だいたいよ、何でこの地方に来ようと思ったんだ。ハイカーの間じゃ、この時期はヨークシンシティのドリームオークションに吸い込まれちまう事は常識だろう」

 

 だからだろうか。俺は大人に接する様に、つい、気になった事を尋ねてみた。理路整然とした回答が返ってくるか、子供らしい無思慮な応えが戻ってくるか、俺はどちらもを期待して、内心で楽しみながら答えを待った。

 

「まあね。すれ違った連中にも忠告はされたよ。だけど」

 

 海を見たかったとそいつは言った。どうしても、海というものを眺めたかったと。

 

「オレ、今まで見た事なかったからさ。見ておきたいって思ったから」

「ほう。そいつはそいつは。で、どうだった。大きかったか」

「うん。でかかった。めちゃくちゃでっかいんだね。正直いって動揺したよ。ただの塩水の溜まり場なのに。だけど……」

 

 沈黙があった。いつの間にか、ラジオは別の曲に変わっている。俺は片手を伸ばしてスイッチを切り、少年の言葉に聞き入っていた。

 

「だけど。どうした」

「でかすぎた。なんてかさ、あれは人間が耐えられる大きさじゃないよ。でかくて、広くて、寂しくて、隣が無性に寒くなった。怖いね」

 

 赤褐色の瞳が深く揺れた。ゾクリとした。背骨が震えて、呼吸が止まる。心臓を氷の刃で抉られたような、恐ろしく実感が篭った言葉だった。

 

「……なんてね」

「はっはっは。そこまで感性があれば詩人になれらぁ! たいしたもんだよ。うちの息子にも見習わせてやりたいぜ」

「ははっ。まっ、慣れの問題だろうけどね。海で生まれた奴なら初めて山に登って怖いと思うかもよ」

「違いねえ。違いねぇが、坊主、その感覚は大切だぜ。人生に必要な潤いってやつだ」

 

 笑いながら、俺は背中から冷や汗が吹き出てるのを感じていた。迫力が違う。ガキとは思えない重みだった。大人としてのプライドでどうにかこうにか誤摩化したが、この坊主、将来は大物になるかもしれん。まるで修羅場を既にくぐったような、芯の通った態度だった。

 

 その先、俺はそいつをガキとして扱わなかった。別に、表面上の態度は変えてない。それでも、内心では対等な男として、少年ながらも大人として、視線を合わせて接していた。そいつも俺の心を察したんだろう。特に突っ込んでは来なかったが、目上に対する遠慮をだいぶ減らしていた。それからの会話は、ガキだと侮っていた時よりも、ずっと楽しいものとなった。

 

「どうだ。坊主なら帰りも乗せてやるぜ。俺の行き先と合えばだがな」

 

 ヨークシンに着いて別れの時、携帯番号をメモした紙切れを差し出しながら、そんなセリフを俺は吐いた。トラックのドアを開ける所だったそいつは、少し驚いたような顔をした後、にやりと笑って受け取った。

 

「どうも、考えとくよ」

「そういや、名前を聞いてなかったな」

 

 わざとらしかったかもしれない。だが、大人になるとは厄介な事だ。年端もいかない少年に対して、友達になってくれというのは恥ずかしい。だから俺は、わざわざこのタイミングで尋ねたのだ。

 

「名前かい? いいよ、教えてあげる。特別だぜ?」

 

 キャップを深めにかぶりながら、悪戯っぽくそいつは笑った。にかっと、よくぞ聞いてくれましたという笑顔だった。赤褐色の瞳が輝いている。子供が、親から貰った玩具を自慢するような、歳相応の煌めきだった。

 

「人呼んで、悪たれのビリー。ビリー・ザ・キッドとはオレの事さ」

 

 ドアを開け、少年は路面に飛び下りた。排ガスを含んだ都会の風に、銀色の髪がふわりと揺れた。しなやかな猫のような細い四肢は、少女の様にも錯覚した。

 

 

 

次回 第三章プロローグ「闇の中のヨークシン」



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第三章 闇の中のヨークシン
第三章プロローグ「闇の中のヨークシン」


 光の天使が熱に病んで

 あなたは苦海をさまようだろう

 どこよりも出口に気をつけなさい

 きっと蜘蛛の巣に続くから

 

 蜘蛛が脚を噛み切るとき

 あなたは失せ物を取り戻す

 疲れていたら眠るといい

 愛しい天使の腕に抱かれて

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

1999年8月30日(月)

 

 深夜。今日という日も、残すところあと三十分を切っていた。潮香るヨークシンの蒸し暑い夜風に、涼しさと寂しさが混ざりはじめる季節の頃だった。そろそろ、夏も終わりに近づいている。

 

 この時期のヨークシンは眠らない。一足早い祭の気配は観光客の気分を高揚させ、熱は地元民にまで伝染する。盛り場では誰もが笑っていた。まだはじまってもないオークションの夢と希望に酔いしれて、瞳を子供のように輝かせながら笑っていた。

 

 そんな騒がしくもほほえましい喧騒の中を、一人の女がものめずらしそうに見回しながら歩いていた。長い黒髪につややかな肌。海老茶の袴に洋傘を持ち、編み上げ靴を履いたうら若い少女。とある小国の過ぎ去った時代から湧き出たような、かつての女学生風の格好だった。名を、皐月という。

 

 右手に薄緑色の洋傘を、左手には食料の入った買い物袋をぶら下げて、皐月は仲間達の下へと帰路についた。ただの散歩ではあったけれど、自然と微笑みがこぼれていた。厳しい家庭で育った身には、午後十一時半の街並みは、そこにあるだけで楽しく見える。仮宿に帰れば、楽しい仲間達が待っている。皆、底抜けに優しい人たちだった。

 

 市街地見物の土産は、ヨークシン名物と名高いベーグルサンドの各種だった。歯ごたえのあるドーナッツ型のパンを二つに切って、チーズやサーモン、各種の野菜などを挟んだものだ。軽い夜食にしてもらうつもりだったが、数は何十も用意してある。そのおかげで買い物袋はパンパンだが、皐月は重さも感じずに、軽い足取りでリパ駅へ向けて歩いていく。皆さん、たくさん食べる方達ですから、と彼女は心の中で呟いた。

 

 ああ、楽しい。こんなに楽しくていいのだろうか。皐月が楽しみにしていたフェスティバルの開催まで、まだあと二日もあるというのに。

 

 だが、帰る前に、皐月には済ませねばならぬことがあった。溜め息をつき、うんざりしながら立ち止まる。人の流れの中で急に止まった彼女の背中に誰かが軽くぶつかったが、それには一顧だにしなかった。

 

「もういいでしょう? 殿方、ご用事なら早く済ませていただけませんか」

 

 透き通った声でささやくように、夜風にそっと言葉を流した。虫を仮宿までつれていくことはできないのだ。ならば、余計な時間をかけるつもりはなかった。それは相手も同じだったようで、数拍の後、不審者がどこからともなく現れた。気配から読み取ったとおり、男。観光客として当り障りのないラフなファッションに身を包み、翡翠だろうか、首にさげたネックレスが柔らかく揺れる。

 

「さきほどから、私をつけてらっしゃいましたね」

 

 美形だ、と皐月は思った。意外に若く、歳は二十かそこらだろう。柔らかい金の若草を思わせる髪をそよがせて、やや薄い緑の瞳に優しそうな光を灯している。人目を引く派手な美しさでこそなかったが、聡明で包容力のありそうな、端正な顔立ちの青年だった。

 

「やっぱり、気付いていたね」

 

 じゃれつく子供をあやすように、優しい声で彼は言った。あからさまに見下した言いように、皐月は少しむっとした。

 

「白々しいですね。それほど禍々しいオーラを、これ見よがしに纏っておきながら」

 

 観光客でごった返す大通りの歩道の真ん中に、不思議な空き地が広がっていく。それはこの男のせいだろう。いかなる恨みを秘めているのかは分からないが、これほど行儀悪く誇示される害意に、一般人が耐えられると考える方が間違っている。必死の形相で押し合いながら逃げていく一般人の群れを無感動に眺めながら、皐月は、目の前の男の挙動を待った。

 

「アルベルト・レジーナ。ブラックリストハンターをやっている」

「ハンター? 尾行すら満足にできぬあなたがですか?」

 

 皐月が吐き捨てた皮肉と侮蔑を、アルベルトはひとつ頷いて肯定した。そうだね、とあっけない返事が返ってきた。だが、その瞳の底には熱があった。そして彼女は気が付いた。優しそうな光は表層だけだ。軟弱ともいえる自然体の奥には、渦巻き鳴動する灼熱の憎悪。てっきりゴミを掃除するだけかと思っていた皐月には意外なことだったが、素材としては悪くなかった。

 

「燃えてますね、殿方」

 

 気分が変わった。買い込んだ夜食をそっと置いて、改めてアルベルトと向き直った。すでに億劫さは消えていた。ありったけの真心と愛情を込めて、一期一会の心得で金髪の青年と対峙した。臨戦態勢に入ったオーラが猛々しく滾る。

 

「これでも申し訳ないと思ってるよ。君には、なんの恨みもないんだから」

「かまいませんわ。その秘めた思いのことごとく、私のこの身にぶつけてください」

 

 それは、なんと心地よい遊びだろう。彼女はこんな仕合が好きだった。強い意志をもつ男たちの、振り絞る全力と立ち向かうことが。鋼の肉体を持つ男たちの、汗臭い命の炎と交わることが。殴りたい。殴られたい。体の芯が熱くなる。武道家の娘に生まれたが故の、皐月の愛する悪癖だった。

 

 そして、最後はぼろきれ同然にうち捨てたい。

 

 アルベルトも構えをとっている。オーラは禍々しくも静かなままで、体は素晴らしい脱力ぶりだ。異人の風体にもかかわらず、この男の修めた武の根底には、皐月たちの文化に通じる理があるらしい。ふと、ロックなデザインの猫らしきものが彼の傍らに浮かび上がった。十中八九念獣だろう。いかなる能力を持つのだろうか。少なくとも、直接戦闘を得意とするようには思えないが。

 

 睨み合いがしばし続いていた。アルベルトはじっと動かない。どうやら、この男は自分から喧嘩を売っておきながら、あくまで待ちに徹するつもりらしい。それもまた、面白い。手に持った洋傘にオーラを通し、皐月は能力を発動する。

 

「武藤流兵法、武藤皐月、参ります」

 

 呟いたと同時に、彼女が踏み締めていた路面一帯が陥没した。全くの不動。爪先で軽く蹴ってすらない。にも関わらず、鉄球を叩き落としたかの如きクレーターが現れた。アルベルトが驚きに硬直する。その不様な隙を逃す手はない。舞い上がる粉塵に隠れるように、人体に可能な限りの低い姿勢で、地面を滑るように肉薄した。下段からすくう突きを穿つ。重いうなりをあげて迸る傘を、青年は紙一重で辛うじて躱した。それでいい。皐月は意図通りの展開にほくそ笑む。構えが崩れた懐の中、必死の域に踏み込むと同時に、全身で伸び上がるようなアッパーを放った。自慢の黒髪が夜に流れ、海老茶の袴がはためいた。

 

「え?」

 

 だが、次の瞬間、宙に浮いていたのは皐月だった。力をいなされ、方向を変えられ、首筋から地面へ衝突した。お手本のように綺麗な投げ技だった。オーラの流れに逆らわず、相手の力を利用して、ほんの少しの加速を加える。とっさに重心をずらしてなかったならば、皐月の首は折れてただろう。

 

 冷や汗をかきながら離脱する。投げは予想していたけれど、まさか、これほど鮮やかに決められるとは思わなかった。追撃はこない。念獣も動いていなかった。態勢を整え再び対峙すれば、アルベルトは同じように構えていた。涼しげに、無垢に、盲目的に、自分が何を為したかも知らないように。

 

 皐月は悟った。驚きも硬直も、優しい雰囲気すらも誘いだった。冷徹で、利己的で、猛禽のように鋭い合理主義の化身だった。網の巣を張る蜘蛛のようだ。そういえば似ているなと、彼女は、仮宿で待つ仲間達の眼光を思い出した。胎の奥がぞくりと震えた。

 

 洋傘を手放す。自由落下に従って路面にあたり、轟音とともに突き刺さった。先端から半分までめり込んでいる。この傘は特注でも何でもない、至極普通の市販品である。

 

 皐月は車道へと躍り出た。歩行者と違い、車の通行は絶えてない。少女が身一つで乱入したことで、ブレーキとクラクションが合唱した。無論、皐月の気にするところではない。彼女は手近な乗用車に目をつけると、歩道へ無造作に蹴り飛ばした。車体が凹み、乗せた家族連れもそのままに、黒の軽が飛んでいく。アルベルトはわずかに顔を顰めると、見事な体捌きでそれをいなして躱してみせた。車は建物に衝突し、金属や肉片が飛散する。しかし、注目する者などいなかった。皐月が次弾を蹴り放ってみせたからである。ダンスパーティーの幕開けだった。

 

 破片が舞う。砕けた金属片の一つ一つが、超重の鈍器となって降り注いだ。皐月には、車体に周を施す余裕があったのだ。あるときは軽く、あるときは重く。変化自在の不可思議な軌跡を描いて降り注いだ。鋪装が面白いように砕けていく。ガソリンが飛び散り、炎が生まれる。ヨークシンの夜空の下で、鉄の雨が音楽を奏でた。

 

 その差中、アルベルトは縦横無尽に踊っていた。怪我一つない。綺麗、と皐月は感嘆した。あるいは嫉妬だったかもしれない。天性の感性なしではできぬ動き。並の天才では辿り着けぬ、世界と一体化して初めて可能な、武の神に愛された者だけが踏めるステップだった。まるで絶でもしてるかのように、透明な表情で念獣と一緒に舞っていた。全身を包み込む禍々しいオーラの中心には、翡翠の首飾りが揺れていた。

 

 負けじと皐月も踊り狂う。この時期、大通りの交通量に不足はない。車の流れは簡単には途切れず、阿鼻叫喚に呑まれたこの場所にも、弾丸は自然と供給される。なんとか切り抜けようと必死に暴走する車の群れのなかを駆け巡って、手ごろな車体を次から次へ宙に舞わせた。炎の風が吹き荒れて、白いうなじに汗をかいた。

 

 その時、ブレーキの絶叫を響かせて、巨大な10トントラックがスピンしてきた。チャンスだった。全身にひときわ強くオーラをこめ、トラックの車体を真正面から受け止めた。暴力的な質量の横薙ぎを受けて、少女の小柄な体は小ゆるぎもしない。物理法則は冒涜され、編み上げ靴の踏み締めるアスファルトは陥没し、トラックはひしゃげながらも横転した。そこへ、皐月は渾身の殴打を打ち放った。力の支点とベクトルを見切り、勢いに逆らわずに方向を変えた。巨大な車体は跳ね上がり、アルベルトへ向けて猛然と飛んだ。なにも、合力の投げ技は彼だけの専売特許ではないのである。

 

 【偽造質量(パーソナルダークマター)】。奇術のタネは単純だった。皐月のオーラは質量を持つ。強くオーラを込めるほど、物体は比例して重量を増していく。ただし、皐月との距離が開くほど効率は落ちる。変化系能力者の例に漏れず、彼女も放出系の技が苦手だったからだ。

 

 アルベルトのいた空間は、今や破片と土煙に支配されていた。視界はゼロに近いだろう。千切れて変形したシャーシーの名残りが、前衛芸術のようにそびえている。だが、あの一撃で仕留めるつもりで投げはしたが、禍々しいオーラを確かに感じる。それでこそ皐月の見込んだ男だと、戦いがいがある敵だと彼女は笑った。

 

 夜を染めあげる惨状の中へ、皐月は果敢に飛び込んでいった。迫り来る破片をものともせず、縫うように躱してオーラの元へ接近する。接近戦の再開である。勢いにまかせ、踏み込みと同時にまずは軽いジャブから入った。小手先だけの牽制技。だが、重いハンマーで殴られたように、アルベルトのガードが弾き飛ばされた手ごたえがあった。そう、彼女の自慢の能力は、抜群の応用性を誇っている。接近戦から中距離まで、場合によっては遠距離まで、些細な体重移動から面攻撃まで。そして、戦闘以外の用途まで。

 

 間髪いれず、手近に降ってきた破片をジャブで殴る。重低音が炸裂し、冗談じみた速度で飛んでいった。しかし当たりはしなかったらしい。聴覚で成否を判別すると、躱したと思しき方向へさらにさらにと攻撃する。そんな彼女の二の腕を、再びアルベルトが絡めとった。制限された視界の中、完璧とも言えるタイミング。振れられた瞬間、投げ落とされることが確定するほどの熟練技能。だが、かかった、と皐月は唇を釣り上げた。彼女の身体は、いつまでたっても浮かなかった。

 

 軽重自在、出滅自在の虚構の質量。故に、重い拳がいつまでも重いままのはずがない。身軽だった体を重くすることなど朝飯前だ。打撃の瞬間だけ重さが増す、反則的な利便性がここにある。

 

 一瞬の硬直で十分だった。数たび手を合わせただけだが、彼の弱点は見切っていた。流が下手だ。いや、そもそも使ってもいなかった。禍々しいオーラを纏っただけ。武術の腕は素晴らしいが、念能力者としては三流だった。

 

 あの、無思慮に垂れ流されるオーラを目印に、渾身の豪碗が唸りをあげる。踏み込んだ脚が大地を揺らし、超重量の拳が眼前の空間に突き刺さった。空気が弾かれ、舞い狂う粉塵が晴れるほどの暴力である。手ごたえはあった。しかし、それは人体を殴った感触ではなかった。オーラの中心にいたのはアルベルトではない。奇妙な猫に似た念獣が、体にネックレスをひっかけていた。打撃を受けて吹き飛ばされる。あれだけの攻撃で壊れないとは随分と頑丈なイメージだったが、今重要なのはそこではない。

 

 つまり、彼ではなかったのだ。シンプルな翡翠のネックレスこそが、オーラを纏う中核だった。アルベルトは、絶で皐月の至近にいた。右手には、隠し持っていたナイフがある。なにもかも最初から擬態だった。この瞬間のために積み上げた布石だった。彼女は己の死を覚悟した。

 

 ナイフが奔る。皐月は全力で仰け反った。生と死が交差する一瞬を超え、刃先が頸動脈の表層を掠めていった。それは純粋な奇跡だった。なぜ躱せたのか、どうやって動いたのかも本人にさえ分からない。しかし、思案するには必死すぎて、奇跡とすらも認識できなかった。今すべきことはただ一つ、神が与えた恩寵の刹那に、もう一度、全力の拳を叩き込むだけだ。

 

 その時、秒針が動いて、日付けが変わった。

 

 そしてアルベルトが爆発した。そう、感じた。そうとしか、感じることができなかった。皐月の驚愕は、首から上だけのものだった。体は、既に切り離されていた。ナイフをオーラが覆っている。吹き荒れるオーラの量に物を言わせた、稚拙きわまりない周のカタチ。だが、恐ろしく早く速かった。動きの質が別人だった。

 

 少し、皐月は悔しかった。もし、この戦いの最初から、この状態の彼と戦えていたら。もし、驚きに邪魔されず、最後の瞬間まで打ちあえていたら。それは、どれほど楽しい戦いだっただろうかと。

 

 だけど、それよりも。

 

 暗くなっていく意識の中で皐月は思う。せめて、あと一日だけ生きたかったと。くだらない未練だ。それでも、ついぞ会えなかった仲間がいた。明日の正午、集合時間まで生きられたら、そう思えば寂しくてならなかった。みんなと一緒に、初めて出会う人たちとも一緒に、楽しく食事でもとりながら、ベーグルサンドでも齧りながら、一度ぐらいは、笑いたかった。

 

 

 

 暗い路地裏にアルベルトはいた。二つになってしまった遺体を持ち、首からは翡翠のネックレスを下げていた。禍々しいオーラと彼自身のオーラ。二つが混じり合って拡散し、余人を寄せつけぬ悪寒の異境を辺りに形作っていた。あのまま現場に居座っていたら、さぞかし事後処理の邪魔になっただろう。

 

「お疲れ様です。素早い規制をしいていただき、どうもありがとうございました」

 

 路地裏に入ってきた数人の男達へ向かって、アルベルトは軽く笑顔を作ってみせる。近付いてくる彼らを手で制し、無理をする必要はないと言ってみせた。彼らの内の二人こそ、ここ、ヨークシンの市長と警察署長である。他の数人は護衛だろう。

 

「おかげで被害も極限できたでしょう。あなた方のお手柄です」

 

 実際にはそれほど早くもなかったのだが、世事を言っておだててみせた。そもそも、いくらライセンスを持つプロハンターとはいえ、突然乗り込んで幻影旅団の潜伏を告げた若輩者に対し、全力を傾けて協力する警察組織は逆に怪しい。常識的なリソースを割いた上での対処なら、十分に有能と言える結果だった。

 

「それで、それが、例の……」

「ええ、悪名高き蜘蛛の構成員です。ご確認下さい」

 

 裸に剥いた皐月の体を放り投げ、旅団の目印を確認させる。右太腿の外側に、特徴的な入れ墨があった。これぞ世にも有名な、十二本足の蜘蛛である。

 

「で、では! 本当にこの街に集結しているのですか!?」

 

 すがるように市長が言う。信じたくないという想いが、全身を通じて現れていた。それを、アルベルトは優しく微笑んで打ち捨ててみせる。

 

「はい、最初に申しました通り、これは確実な情報です。付け加えますと、街中で上位の実力を持つ団員が暴れた場合、被害はあの比では無いでしょう」

 

 相手を絶望させるには、事実を告げるのが一番だった。男達が色めき立つ。表通りの惨状は、彼らが今まさに直面している覚めない悪夢だ。あの十二倍、あるいはそれ以上が起こると予想されては、それも当然の反応だった。

 

「そこで、私から皆さんにお願いしたいことが2つあります。一つは各方面への警告、特に規模が大きな競売に関連してる方々へは厳重な警戒を呼び掛けてください。旅団全員が集まるということは、それだけ獲物も大きいことが予測されますから。ただ、最も権威あるサザンピースは6日からですから、恐らく、彼らの狙いは別でしょうが」

 

 言外にマフィアンコミュニティーの地下競売が狙われているとアルベルトは言った。市長は警戒した様子を示したが、彼はあえてそれを無視し、つまらない贈収賄事件などに興味はないと態度で告げた。そして、それからともう一つの要求を追加した。もちろん、こちら側が本題だった。

 

「特に狙われそうな方々……、もちろん善良な市民の皆さんのことですが、その人達と接触できるように連絡を回しておいて頂けませんか。私としては、要望がない限り彼らの自主警備に干渉するつもりはありませんが、状況は逐一把握しておきたいのです」

 

 柔らかいが、有無を言わせぬ口調だった。断るという選択肢ははじめからなかった。なにしろ、相手は旅団の一人を殺害できるだけの実力者である。全身から尋常でない威圧の噴流を出していることもるのだろう。アルベルトが少し視線を強めてお願いを重ねた時には、市長はしどろもどろになって快諾していた。快諾せざるを得なかった。皐月の体を手土産に、彼らはすごすごと引き下がった。

 

「あまり強引な手段は使うんじゃないぞ」

「師匠、お体の具合は?」

「ああ、かなりつらい。悪いがこれが終わったらすぐに帰らせてもらうわ」

「そうして下さい。エリスも、あなたが倒れたら心配します」

「それがよ。あいつ、電話してもお前の話ばかりなんだぜ。まあ昔からだけどよ」

 

 現れたのは四十代らしき男だった。赤みがかった金髪が、暗い路地で鈍く光って揺れていた。赤銅混じりの金塊の色、とは、彼が現役だった頃によく使われた表現である。少し緑がかったダークブルーの瞳が、強い意志を宿して輝いていた。

 

「ほら、これが残りの頼まれた物資だ。だが、こんな事言っていい状況じゃないかもしれんが、極力使うな」

「いえ、肝に命じます。できるだけ、でしかありませんが」

「すまんな。こんな体じゃなかったら、俺も戦ってやりたかったんだが」

 

 そう言って、服の上からアルベルトの胸元に軽く触れる。絶の状態で首飾りのオーラに触れていたその場所は、火傷のように腫れていた。体表の傷はさほどでもないが、精神の圧迫はいかほどだったか。心配そうに呟く己が師匠に対して、アルベルトは静かに首を振った。もう、十分すぎるほど助けてもらいました。そう、無言のうちに語っていた。そうか、と、彼は頷いた。

 

「じゃあな。生き残れよ、そして、今度こそ俺を父さんと呼んでくれ。な」

「ええ、是非。師匠もお体に気をつけて」

「なに、俺のはただの一過性だ。お前こそあまりエリスを泣かすんじゃねぇぞ」

 

 心臓の上を強く握って油汗をかきながら、男は路地から去っていった。アルベルトも、こんな場所に長居するつもりは全くなかった。皐月の首を片手に抱え、翡翠の首飾りを胸に揺らして、ヨークシンの闇へと消えていった。

 

 

 

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【偽造質量(パーソナルダークマター) 変化系】

使用者、武藤皐月。

オーラに質量という性質を持たせる念能力。

変化させたオーラの量に比例して、大きな質量として発現する。

 

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次回 第二十三話「アルベルト・レジーナを殺した男」



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第二十三話「アルベルト・レジーナを殺した男」

1999年9月1日(水)

 

 青い空に雲が流れ、さんさんと陽光が降り注ぐ朝だった。湿気が少なく微風がそよぐ、からりと暑い初秋だった。待ちに待ったドリームオークションの始まりだった。この日、この街は日常までもが華やかになる。人々は陽気に笑って練り歩き、ヨークシンに散らばる夢物語を肺でいっぱいに呼吸しようというのだろう、目を一杯に見開いて、せわしなく視線を動かしていた。通りには露天が建ち並び、商店は呼び込みに忙しかった。

 

 いつもと同じサンドウィッチを、茶目っ気で競売風に売りさばくパン屋があった。あるいは少し趣向を変えて、段々と値下がりしていく叩き売りを実践してみる肉屋があった。この日のために修得した、珍しい軽食メニューを目玉に掲げた喫茶店があった。リンゴーン空港からヨークシンシティの中心部へ向かう道すがら、ハンゾーは異郷の祭を満喫していた。待ち合わせの時間までは余裕がある。人懐っこい性格の彼だったが、今はもう少し、一人の余暇を満喫していたい気分だった。

 

「まあ、まあ、まあ!」

 

 ところが、その、一人でいたいという彼の意思は、あっけなくも散らされる羽目になる。人々でごった返す雑踏の中、二十歩ほど離れた場所にいた幼い少女は、ハンゾーの姿を見つけると、アルカイクな微笑みを浮かべて近寄ってきた。周囲には、保護者らしき人物は見あたらない。

 

「あなた、ニンジャね。素敵。素敵よ。エキセントリックでファンタジックだわ。そしてなによりチャーミング。握手してくださる? あと、サインも!」

 

 少女の体の動きに会わせ、豊かな金髪が元気に跳ねる。年齢は10か、あるいはもう少し上だろうが、体の大きさに合わない大人びた彼女の言動が、かえって印象を幼くしていた。大きな青い瞳が期待に輝き、ハンゾーを下から見上げていた。

 

「キャロルと申しますわ、ムッシュ」

 

 紹介されてもない男性に話し掛けた自分を恥じるかのように、頬を染めて少女は名乗った。その様子を、ハンゾーは無言で見下ろしていた。おずおずと差し出された手帳の1ページに、こんなとこもあろうかと練習していた一筆を書く。半蔵という漢字を図案化した花押を物珍しげに見つめていたキャロルは、返された手帳を大切そうに抱えて微笑んだ。握手は、それが信条だからと言って断った。少女は気を悪くすることもなく、むしろ本格的だと言って喜んだ。

 

「ありがとう。ニンジャさん。あなた、ちょっとリリカルね」

 

 彼女にとって、それが最上の褒め言葉だといわんばかりに、キャロルは花の香りがする笑みでハンゾーを見た。そして、少し思案する素振りを見せてから、彼女はお礼がしたいと言い出した。私の家、ちょっとしたお菓子屋さんをやってるの。お小遣いでごちそうしますから、よろしければついてきてくれませんか、と。

 

 数分後、人目につかない小さな空き地に、キャロルの首が転がっていた。彼女の小さな両手の先は、毒々しい紫の輝きを持つ鉤爪に変じていた。

 

「ま、オレを獲物に選んだのが運の尽きだったな」

 

 地面に染み込む赤い水たまりを眺めながら、つまらなそうに吐き捨てる。子供による不意打ちなど飽きるほど受けた。無抵抗の弱者など何度も殺した。それが忍としての役割であり、ハンゾーの生き方そのものだった。だから、彼はこの程度の罠では殺されない。自衛を躊躇うはずもない。そもそも、脅威として認識することもない弱さだった。だが、観光ついでに訪れたはずのこの街で、無闇に襲われたのはどうしたことか。

 

 ヨークシンの空は晴れ渡っている。ハンゾーはその空模様の向こう側に、雨の気配を嗅ぎとった。

 

 

 

 大通りに面したカフェテラスの片隅で、クラピカとエリスは待ち合わせた。街のにぎわいに比例して大いに繁盛していたため、席を取るのがやっとだった。しかし、このような場所だからこそ人目につきづらいと踏んだのだ。

 

 その日、エリスは珍しく濃い化粧を施していた。頬はこけ、肌は荒れ、目の下には濃い隈ができている。多少のファンデーションなどクラピカの観察眼の前では無意味だが、彼はあえてなにも言うことなく、再会の挨拶を手早く済ませた。

 

「アルベルトとは連絡をとれたのか?」

「いいえ、無理だったわ。ヨークシンに来ているのかもわからない。……ヒソカもよ」

 

 エリスのダークブルーの虹彩が、寂しさと怒りを静かに孕み、かすかに緑がかって濡れて見えた。クラピカは一瞬、己の両目を微かに見張った。整った容姿の女性だとは思っていた。だが、彼女から美を感じたのはこれが初めてのことだった。無論、尋常な類いのものではない。己が白骨を火にくべて燃え盛った輝きだった。エリスは完全な絶を維持していた。曰く、纏では何の拍子で破れるかわかったものではないのだという。

 

「繋がらないということは、来ているのだろう。なんにせよ、私達がすべき事は変わらないのだしな」

「そうね。お互い、悔いの残らないようにがんばらないと」

 

 エリスは注文したアイスティーを口に含み。ごくりと喉を大きく鳴らして飲みこんだ。胃の腑に無理矢理入れたのだろう。健常ではまず行わない動作だった。指の爪から透ける肉も青黒い。まだ一日目でこの状態だ。クラピカは彼女を帰らせることも考えたが、旅団に対する強力な牽制になることを思い直し、もうしばらく様子を見ることにした。なにより、彼女自身が帰ろうとするまい。そして、彼らに比べて敵は強い。圧倒的に。だからこそ、生半可に揺れ動く覚悟で勝てるなどとは思えなかった。

 

「念のため、いくつか部屋をとっておいたわ。全部のホテルでクラピカの名前を出せば鍵をもらえるようにしておいたから、何かあれば遠慮なく使ってちょうだいね」

「ああ、私達の拠点一覧はこれだ。本来は極秘情報だから、極力外部に漏れないようにして欲しい」

「ええ、了解」

 

 メモを交換し、いくつかの事項を確認する。特に話題になったのは一昨日おきたというテロ事件だ。被害の規模に比べて報道が少なく、情報が厳重に封鎖されている。何かがあったのは確実だが、真相を知るには警察へのつてか本格的な調査を行う時間が必要だった。どちらも、現時点での二人は持ち合わせてない。その後、細かい連絡は携帯で行うと確認して、彼らはひとまず席を立った。

 

「……これは、もしかしたらでしかないのだが」

「なにかしら」

 

 別れ際、クラピカは口を滑らせた。ただの推測でしかなく、本来なら伝えるつもりのない情報だった。それを洩らしてしまった理由も、安い同情だと自覚していた。だが、目の前で友人が苦しんでいるのだ。予測ともいえない願望であったとしても、少しでも好材料を与えておきたくなってしまった。期待が裏切られたときの落胆にも、頭の中ではしっかりと思い当たっていたのだが。

 

「まだ確定はしてないが、今夜、さっそく囮を頼むことになるかもしれない。私のところまでは情報が降りてきてないのだが、なにやら、昨日から上が騒がしい」

 

 エリスの顔が華やいだ。わずかだが血の気の戻ったエリスを眺めて、クラピカは今日初めてなにがしかの安堵を感じることができた。もう、これ以上仲間たちを失いたくない。まして、蜘蛛の餌だけにはしたくなかった。

 

「望むところよ。大丈夫。余計な期待はしないで、準備だけはしっかりしておくわ」

 

 このときは、まだ、仲間だと信じて疑わなかった。

 

 

 

 それはレオリオにとって、久しぶりに気合いを入れた昼食だった。薄く切った食パンを軽く焼いて、溶けたバターをささやかに塗った。薄茶色の編み目を控えめな油が塗らしていく。そこに切り落とした薫製肉を二枚乗せて、パンを上から覆い尽くした。しかし、いまだ何かが物足りない。少し考えると、レタスとトマトの薄切りをのせ、胡椒とバジルを振りかけた。そして、トースターに再び入れて焼く。二分ほどして取り出した時、ぷつぷつと薫製から沸き立つ肉汁がトーストに染み込んで、トマトとバジルがほのかに香りを放っていた。

 

 出来映えは満足すべきものだった。皿の上にとりおいたトーストが、熱い秋波を送っている。こいつをレオリオスペシャルと名付けよう。そう決めた。今すぐにでも齧りたい。が、その前に安い赤ワインで興奮を喉に押し流した。

 

 レオリオはパンをゆっくりと持ち上げて口を開ける。バターの匂いが鼻をくすぐり、大量の唾液が溢れてくる。かぶりつく前の至福の一瞬、食事の本当の楽しみは、この時にこそあるのかもしれない。

 

「最低落札価格が89億ジェニーだぁ?」

 

 握り飯を片手にハンゾーが叫び、その拍子に薫製肉から上がずれ落ちた。具材はスーツの太腿に落下する。レオリオの手の中に残ったのは、バターと肉汁が染み込んだだけのトーストだった。予約していたホテルの一室、久しぶりに集合した仲間達との食事の席で、彼は少し挫けそうになった。

 

「……で、いったいなんの話だったんだ」

 

 後始末を何とか終え、気を取り直してレオリオは尋ねた。彼らは顔を見合わせて、一同を代表してポンズが答えた。

 

「なにって、こいつらのお目当てよ。例の、お父さんの手がかりとかいう」

「あー。確かに電話でそんなこといってたが、89億!? おいゴン、予算はいくらあるんだよ」

「えーと。オレとキルア合わせて500万ちょっと、かな」

「つーかオレの所持金0だけどな」

 

 ある意味で頼もしい少年二人に、他の四人が沈黙した。詳しく話を聞いてみると、金策のつもりで8億を540万まで減らしたという。果敢に挑戦するにも限度があった。

 

「一応、オレとポンズの貯金も合わせれば8億ジェニーぐらいはいくだろうけど、それでも一割にも満たない、か」

「そもそも、たとえ89億用意したところで競り落とすのは無理でしょう。そこからスタートってだけなんだから」

「他人事のようにいってるがよ、お前らがついてながら何でこんなことになってるんだ」

 

 ポックルとポンズが呆れていうが、そこにハンゾーからの追求が飛んだ。レオリオも、作りなおしたレオリオスペシャルを咀嚼しながら頷いていた。年齢上、彼らは一応、保護者だ。年少者達の蛮勇に、なにがしかの助言を与えられたはずの立場だった。

 

「ついて、いけなかったんだ」

 

 ポックルの呟きが重々しく響いた。部屋が納得と気まずさに包まれる。

 

「あんた達が化け物すぎんのよ……」

 

 蜂蜜をたっぷり入れた紅茶をひと口飲んで、どこか遠い目をしたポンズが言った。彼らは天空闘技場という場所を中心に修行を行っていたらしいが、四人揃っていたのは最初のうちだけだったようだ。

 

「キルアはともかくゴンまでどんどん上の階層にいっちゃうし。二人でこっそりウイングさんに弟子入りするし。ようやく200階まで行って追い付いたと思ったらありえない早さで念を憶えていっちゃうし……。特に! 練! あんなあっさり習得されたら私達の立つ瀬がないでしょ!」

「練? あんなの長めに見ても一日もありゃ楽勝だろ?」

「だよなー。タイミングさえ分かれば簡単でさー」

 

 ハンゾーが素直にこぼした残酷な意見に、キルアがチョコ菓子を食べながら乗っかった。

 

「人外どもは黙ってなさい!」

「まーまー。落ち着けって、おい」

 

 ポックルがポンズを宥めるさまが、レオリオには妙に手慣れて見えた。こいつら、そのうちくっつかもな、などと益体もない事を考えながら、コンソメ味のスナック菓子を缶ビール片手につまんでいた。

 

「で、こいつらはゴンの故郷でバカンスしてて、オレ達はみっちり補習の夏だったってわけだ」

「オレたちも付き合うよって言ったのに」

「いや、さすがにそれはな。親御さんにもずっと会ってなかったんだろ」

 

 だんだんとずれていく話題を戻すため、レオリオは少し大きめの声でまとめに入った。

 

「だいたいの話はわかった。が、なぁ。落札できなければしょうがねーだろ。サザンピースの入場券にいくらかかるか知ってるか? カタログとセットで1200万ジェニーだぜ。参加するだけでそれだけの金が要る世界なんだよ」

「でもよ、ハンターサイトのお宝リストじゃ入手難度はGだったぜ。下から二番目」

「は? マジ?」

「うん。金額抜きなら一番下のHだって」

 

 最低でも89億の品物に、たったそれだけの難易度しかつけられない。それが示す事実とは、つまり。

 

「つまり、ハンターたらんとするならこれぐらい簡単に手に入れられて当然ってことでしょうね」

 

 男達が立ち上がった。目の色が完全に変わっていた。ヨークシンが誇るドリームオークションは、夢のような成功談、地獄のような失敗談を五万と産んだことで有名だった。過去の栄光にヒントを得るべく、熱心に電脳をめくりはじめた。余談だがこの時、最も熱くなっていたのはキルアだという。

 

 

 

 本日午後九時、セメタリービルの地下会場で、マフィアンコミュニティー主催のオークションが開催される予定となっていた。時計の針は八時を回り、残すところあと一時間を切っている。所属する各組織からは三名の代表が選抜され、正装の上、専属の警備員が守る会場に続々と集結を始めていた。クラピカはセンリツとペアを組んで、離れたビルの屋上から監視していた。

 

「だけど、なにもリーダー自身が行かなくてもいいのにね」

「このような事に熱くなる性格なのだろう。軽率だとは思うが」

 

 ノストラードファミリーからは、ダルツォルネを筆頭にイワレンコフとトチーノが参加していた。代役として指名されたのはスクワラだ。ネオンの護衛と後方指揮を兼ねてホテルの部屋に残っているが、今頃は、彼女のおもりにさぞや辟易してるのだろう。先ほどの定時連絡の電話では、既に声が疲れていた。後ろから漏れるボスの笑い声とは対照的で、彼の苦労が忍ばれた。

 

「恋人?」

「いや、友人の妹だ」

 

 仕事中、エリスへ打った短いメールに、センリツはさほど目くじらを立てなかった。今の居場所を告げただけだったが、彼女にはこれで伝わったはずだ。その時を思えば、クラピカの心身が熱くたぎる。夜の風が心地よかった。

 

「……ひとつ、聞いてもいいかしら」

「ああ」

「幻影旅団って、あなたとどんな関係があるの」

 

 クラピカは街並を見下ろして、しばし沈黙を守っていた。そして、なぜ尋ねたのか理由を聞いた。センリツは、ただの好奇心だと回答した。

 

「さっきのミーティングで、あなたの反応は尋常じゃなかった。あんな心音を聞いたのは久しぶりよ。重く深い永遠の怒り。あの時、あなたが冷静を装えたのは奇跡だと思うわ」

 

 暗い、暗い夜の街が沈んでいる。煌めき輝く電飾の夜景は、闇に怯える夜光虫に見えた。クラピカはセンリツの瞳の奥を見つめてから、低い声で静かに語った。右手に鎖が現れていた。眼の無い遺骸が脳裡に浮かんだ。暗い両目をぽっかり空けて、無造作に積み重ねられていた。

 

「クルタ族が絶滅した理由は知ってるか」

「ええ」

「私は、クルタ族最後の生き残りだ」

 

 具現化した鎖が微かに揺れる。センリツが妙な真似を見せたなら、一瞬で命を刈れる体勢だった。だが、彼女は戦闘体勢には入らない。ただただ静かに聞き入っていた。クラピカの声を、鼓動を、体の熱を。

 

「幻影旅団は私の獲物だ。できるなら、今すぐあのビルに乗り込みたい」

 

 セメタリービルは、丸ごと罠だ。

 

 

 

「どうも、アルベルト・レジーナです。よろしく」

 

 コミュニティーが牛耳る高級ホテルの一室で、アルベルトは柔らかな微笑みを浮かべて挨拶した。ソファーには、梟と名乗る大男が寛いだ姿勢で腰掛けている。部屋には他の人影はない。アルベルトの体から噴出され、首飾りのものと混じりあった膨大で禍々しいオーラの前に、一般の武装構成員ではまともに相対することもできなかったのだ。

 

「分かってねーな。多少派手に粋がったところで、オレの警戒には値しないぜ」

 

 そんな有り様を鼻で笑って、梟はブランデーを瓶のままにラッパ飲みした。口を拭き、アルベルトへ向かって投げてよこす。まだたっぷりと入っている。それを、近付きの印だから飲めと言った。上等の蒸留酒が喉を焼いた。

 

「話は聞いてる。情報をもって来たのはお前だってな」

「ええ。おかげで素晴らしい成果にありつけそうです。大船に乗せてもらえた気分ですね」

「うらやましいねぇ、ハンターさんは楽ができて」

 

 テーブルの上に脚を乗せ、梟はアルベルトに手を差し出した。ブランデーの瓶が投げ返される。喉を鳴らして旨そうに飲んで、ニヤニヤと上機嫌に頬を緩めた。丸々と大きな目が細まった。

 

「ま、オレたちの縄張りにでしゃばらなかったのはいい判断だったな」

「こう見えて身の程は弁えているつもりですよ。それに、マフィア内部の功績に興味はありませんから。ハンター協会には、僕の助言で大いに助かったとでも言っておいてくれれば嬉しいです。あなた方も、協会内部の功績に興味なんてないでしょう?」

「ははっ! よく言うよ!」

 

 高層ホテルの豪華な部屋に、二人の笑い声が響き渡った。ひとしきり笑って満足した後、アルベルトは肝心の要件を切り出した。

 

「さて、この後あちらへ向かわないといけないので、さっさと済ませてしまいましょう。競売品の避難と護衛の状況確認をさせてください。まあ、もっとも……」

 

 そこで一旦言葉を区切って、窓に近付いて景色を眺めた。ヨークシンの街の中心部、黒い空に杭を打つように、悠然とセメタリービルがそびえている。コミュニティーの財力の象徴ともいえる、黒い資本の建造物。あの場所には、今、残る九人の陰獣が集結している。

 

「奴らが早めに来てたら、そろそろ終わってる頃かもしれねーぜ」

「だといいですね。僕としてもそちらのほうがありがたいです」

 

 言って、二人はもう一度楽しそうに笑いあった。

 

 

 

「ねえ、おじさん。パパがいないの。ちっとも来ないの」

 

 自動小銃で武装する警備員の袖をくいくいと引いて、キャロルは不安そうな顔で彼を見上げた。精一杯おめかししたのだろう。ひらひらした赤いドレスで着飾った幼い少女の突然の出現に、コミュニティーの男達は顔を顰めた。仲間内でアイコンタクトが交わされる。その場を率いていた男が近付いて、膝をついて視線の高さを彼女に合わせた。念のため、脅かさない程度の自然さで部下に銃口を向けさせてから。

 

「お嬢ちゃん、お父さんとはぐれちまったのかい?」

「うん、パパがね、待ち合わせの場所にちっとも来ないの。組の人に送ってもらって、わたし、ずっと動かないで待ってたのに」

 

 青く澄んだキャロルの瞳が、わずかに潤みを増してきた。戦争前の空気に置き去りにされてしまったからか。年齢と比べても幼い印象を受ける仕種だった。事情を把握したと判断した責任者の男は、苦々しい顔で立ち上がった。ったく、どこの馬鹿な組だと、顔も知らぬ誰かに向かって、内心で盛大に罵った。貴重な三枠を割いてガキを入れて、挙げ句に最重要の連絡をとちるとは。

 

「あー、こちら中央ロビー南。保護対象者一名、迷子だ。至急確認と搬送を頼む」

 

 無線で指令室に連絡した。どうせ、向こうも監視カメラで見てるだろうが、つまらない怠惰で後々どこぞの組長の恨みを買ってもおもしろくない。

 

「おじさん、オークションは?」

「残念だけどね、今日は時間がずれたんだ。会場も変わるかもしれないから、お父さんの待ってる場所に戻ろう。ね?」

 

 彼はキャロルに説明した。まるで幼児をあやすような口調だと、自分自身でも呆れていた。迷子の世話のために栄えある警備要員に指名された筈ではなければ、馬鹿な組長の後始末をするために勇んで銃の手入れをしたつもりでもなかったのだが。

 

「では、この警備は競売のためではないのかしら?」

「ん? ああ、まあな」

 

 思わず答えてからぎょっとした。幼い雰囲気が消えている。理解も思考も追い付かぬまま、ただの本能で銃を乱射しようとしたが、それすら彼にはできなかった。キャロルの指が閃いて、心臓を抉り潰されていたのである。

 

「もしもし、私。団長のいった通りね。プランBよ」

 

 血に濡れた右手を舐めながら、携帯越しに彼女は告げた。直後、高層ビルが震撼する。歓喜に沸き立つ獣声が、鉄をも貫く豪雨の音が、離れた場所から聞こえてきた。楽しい宴の始まりだった。

 

 キャロルも微笑みを浮かべていた。獰猛な笑み。周りを囲っていた警備員達が、驚きながらも小銃を撃った。交差したのは一瞬だった。小さな両手は赤く染まり、男達はばたばたと倒れていく。だが、彼女は違和感に気がついた。肩と腹に灼熱の如き激痛がある。調べてみると、避けきれなかった弾丸が骨と内臓を砕いていた。つまらないことで洋服を汚してしまったなと、キャロルは少し残念に思った。

 

「おう、ここにいたか」

 

 ウボォーギンが合流した時、その場には少女の姿は既になかった。カイゼル髭の紳士が代わって聞いた。

 

「おや、君と組めという命令だったかね。私はてっきり、噂通りに、君はノブナガと組むものかと」

「お前が一番弱えーじゃねーか。団長がしっかり守ってやれとよ」

 

 全身から火薬の匂いを滾らせて、ウボォーギンが紳士に並ぶ。髪の毛に鉄球が絡まっているのを見ると、指向性散弾の直撃でも浴びたのだろう。傷一つ無いのが異常だが、この男に限ってはいつものことだ。常識と比べるだけ無駄だった。

 

「ふむ、否定はしないが本意ではないな。私の弱さはスペクタクルだ。仕方あるまい。今度、機会があったら団長にもしかと講義しておかねばなるまいか」

「どうでもいいが、お客さんだぜ」

「ん? ……おや、おや、おや! これはこれは! これは失礼してしまいましたな!」

 

 ウボォーギンが顎で示した先にいたのは、オーラを纏った異形たちだった。所属組織から派遣された武闘派か、はたまたメインディッシュの陰獣とやらか。どちらにせよ、その辺のゴミよりはよほど楽しめそうな相手だった。

 

 

 

「競売品はオレのポケットに入れてある。こうしているかぎり、誰にも手は出させねぇ」

「なるほど、一応、確認させてもらってもいいですか」

 

 梟は顔をかすかに顰めたが、仕方ないと思ったのか、問題ないと判断したのか、小さな布状のもので包まれた物体を出した。ほう、とアルベルトは感心する。珍しい、そして便利な能力だった。

 

「その中に?」

「そういうことだ。やっぱ中身も見ないと気が済まねーか?」

「いえ、もう十分です。ありがとうございました」

 

 アルベルトが素直に明かした感嘆に、梟は気をよくしたようだった。大柄な体をより一層深くソファーに沈めて、帰る前にもう一杯のブランデーをと勧めてきた。だがその時、セメタリービルをもう一度眺めながら、アルベルトは最後の決断を迫られていた。絶対に後悔する。それが分かっていてなおも、彼はこの道しか選べない。戻れない一線などとうの昔に超えてただなんて、理性では理解していたのだが。

 

「そうですね、いただきます。あっちも、未だに静かなようですし」

 

 微笑みながら、窓ガラスをコツンと叩いてアルベルトは言った。それが合図だった。夜景の中、ホテルの高層階に人影が舞った。黒いコートをはためかせ、クロロは空中に静止した。梟は、そしてアルベルトも息を呑んだ。時間が氷結するほど繊美な技術。身体各所から万分の一以下の誤差でオーラを空中に放出し、最小限の消費で空に浮かんだ超精密の心身制御。右手には黒い書物が開いていた。

 

 ガラスが外から蹴り破られる。梟が瞬間的に反応し、部屋の出口に体当たりした。粉砕されるドアのむこう、廊下に大男の体が消えていく。

 

「よくやった。お手柄だ、アルベルト」

 

 本を閉じながらクロロは言った。どんな能力を使ったのか、アルベルトに理解できないはずがない。紛う事なく、彼が盗まれたそれなのだから。しかし、だからこそ彼は衝撃を受けた。高度統制の消費効率が悪いことを割り切った、瞬間限定の演算処理。常時能力を使い続ける前提では思い描くこともできなかった、並の術者では使いこなせるはずがない、別の側面の使い方。

 

 廊下の方が騒がしい。二人が連れ立って見に行くと、梟が空中に浮かんで暴れていた。

 

「やあ♥ 指示通りつかまえておいたよ♠ これでいいんだろ?」

「よし、ナイスだ」

 

 満足そうにクロロが頷く。隠を施されつつ縦横無尽に張り巡らされたバンジーガムは、蜘蛛の巣の如く幾重にも梟の体に粘着していた。こうなってしまえば、尋常な方法では脱出できない。

 

「おっと、妙なことは考えるなよ」

 

 暴れる頭をフィンクスが押さえ、握力と眼光で脅しつけた。さしもの陰獣の一人でも、これには冷や汗をかいて押し黙った。反対側の廊下で待ち伏せていたボノレノフとコルトピも歩いてきて、梟の望みはますます断たれた。哀れな彼にできるのは、もはや、アルベルトを睨むことぐらいだった。しかし、アルベルトが動じるはずもない。犯した罪が大きすぎて、動じることができなかった。

 

 アマチュアハンターとして積んだ実績も、プロハンターとしての信用も、彼個人の指針だった信条も、全てをまとめてドブに捨てた。この先、どんなに善行をなそうとも、汚名は生涯付きまとう。仲間など二度と得られまい。一度でも信頼を卑怯に利用したものは、永久に裏切り者として扱われるのが必定である。これまで生きた彼の半生を否定し尽くしたこの愚行、それは、アルベルト・レジーナという存在を殺したに等しい所行だった。

 

 アルベルトはヒソカと目を合わせる。たった一瞬のアイコンタクトが、彼の挑戦の始まりだった。

 

 

 

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【リリカル・メモリアル 具現化系】

使用者、キャロル。

「女の子の夢」を実現させるための念能力。

記憶しておけるのは三人分までであり、それ以上憶える際はストックを一つ消さなければならない。

その性質上、憧れの対象にならない人物には使用できない。

 

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次回 第二十四話「覚めない悪夢」



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第二十四話「覚めない悪夢」

 ホテルの豪奢な一室に、黒い人影が佇んでいる。右手に書物、遺骸の如き白い手形。左手に盗品。四海の宝物が詰め込まれた、手中に収まる極小の風呂敷。足下に柘榴。赤い化粧を施された、痙攣するだけの痛んだ肉体。その身に背負うは逆十字。かの人との類似を自ら拒否する、孤立と無価値の象徴である。

 

 寄り添わぬ人。その姿は、厳かが故に断罪に似ていた。

 

「行こうか」

 

 書物のページを開いたまま、クロロは己の部下達を見渡した。ボノレノフは頷き、フィンクスは笑い、コルトピは静かに佇んでいた。そして、アルベルトはヒソカと並んでいた。

 

 踏み出した廊下は戦場だった。異変を察知していたのだろう。黒いスーツを着込んだ彼らは、手にした拳銃や小銃で、必死の咆哮で押し寄せてきた。しかしそれは、待ち伏せと呼ぶにはあまりに儚く、挟持と呼ぶにはあまりに寂しく、なにより、旅団を敵に回すには弱すぎた。その肉は、肉であって肉ではなく、その命は、命であって命ではなかった。死にゆくだけの人体など、屠殺される家畜ほどの価値もなく、わざわざ振り向くだけの意味もない。磨かれた天然石の壁面に、鮮血の花弁が狂い咲いた。どこまでも続く長い廊下に、虚ろな遺体が散らばっていった。

 

 悠然と歩くクロロの周りを囲みつつ、幻影旅団は歩いていく。アルベルトは集団の先頭に立っていた。廊下をオーラの風が吹き抜ける。害意を練り上げた異色のオーラが、禍々しく純粋な生命の力が、世界の果てまで駆け抜けていく。それに触れた人々の体は、心は、魂は、いともたやすく凍結した。撫でられた後に残ったのは、冷えきった生命の残り火だった。

 

 恐慌状態に陥った強面の群れが、またも、銃を乱射しながら駆け込んできた。彼らの自殺に成果はない。赤が華咲き、肉が爆ぜる。天井に血と内臓の汚れが塗りたくられ、腸の内容物が悪臭を放ち、死体は無造作に転がされた。蜘蛛にとって、それは殺人という名の罪ではなかった。煩い羽虫を払うだけの、ありふれた日常の光景だった。人間の尊厳などという幻想は、ここでは全く共同されない。

 

 銃弾が降りしきる豪雨の中、フィンクスが正面から襲いかかった。次々と骨を砕いていく。鍛練の成果を濃縮された肉体は、オーラを糧に人外の性能を発揮する。反応速度と筋力だけに物を言わせた、ストリートファイトの戦い方。それは、武術と呼ぶには粗雑すぎて、洗練というには野趣にすぎた。しかし、だからこそ強い。回りくどい理屈の入る隙のない、単純至極な強さだった。

 

 その隣で、ヒソカは自在に空間を飛び、トランプで人体を切り裂いていった。派手に鮮血を巻き上げるのは、純粋にそれが好きだからだ。激痛と絶望に顔を歪ませ、人間ポンプと化していくマフィア達。数秒の余命を絶叫で浪費する生け贄の中で、異形の奇術師は愉悦に歪む。壊れていく命を楽しんでいた。

 

 ボクシンググローブをはめたボノレノフの拳が、踊るようにしなやかに打ち抜かれた。破裂する頭蓋。飛び散る大脳。次の瞬間、なめらかに流れるステップで、ボノレノフの体は敵の群れを縫うように潜り込んでいった。一拍を置いて倒れる人々。だが、彼はその様子を見もしない。自分の行いの成果など、興味もないとでもいうように。ボノレノフにとって、戦の舞踊とは最も神聖な行為であるが、同時に最もどうでもいい些事でもあった。大切なのは心だった。誇りであり意思であり生涯だった。故に、肉体の動きなどというものは、極めた果てに忘れていた。もう、幾星霜も昔からそうだった。

 

 コルトピの長髪が低く揺れた。小さな手が、武装構成員の太腿を軽く掴む。それだけで肉がごっそりと千切り取られた。大腿骨が露出し、苦痛のあまり銃を無茶苦茶に乱射した。同士打ちが始まり、その男は瞬く間に味方に殺された。しかし、そんな惨劇の合間にも、元凶となったコルトピは、オーラを纏わせた両掌を気の向くままに振るっていた。それは莫大にして余裕があった。具現化系でありながら、並の強化系が絶命を覚悟にようやく絞り出せるかどうかという威力の肉体強化を、さも当然のように維持している。常識はずれのオーラを小躯に宿す彼ならば、常にフルパワーをだそうとも、ガソリンが尽きる心配はなかったのだ。

 

 アルベルトは先陣を切っていた。苛烈なオーラを撒き散らしながら、十字砲火の待ち受けるキルゾーンへも、積極的に飛び込んでいった。誰よりも敵を恐れさせるアルベルトに、自然、火線は最も誘引される。オーラも纏わないシンプルな直線の攻撃だったが、被弾の連鎖は念能力者をも容易に殺す。しかし、アルベルトにはかすりもしなかった。全ての銃口を把握しているのではない。感じているのだ。

 

 幼い頃、彼は天才と呼ばれていた。若くして一線を退いた、武闘派で知られるブラックリストハンターの開いた道場で。そこは無論、子供を遊ばせるためのものではなかった。達人の域に達した武芸者達、プロを目前にしたアマチュアハンター、開眼寸前の能力者の卵。そんな猛者達を10人ほど集めた、少数精鋭の修行場だった。そんな中でも、アルベルトは大人達を尻目に独走していた。恵まれた血筋と良質な環境。それが、彼の持つ感性の源流だった。もしそのまま成長を続けていたら、今頃は強者の向こう側にある一線を越え、ヒソカやクロロの域へと達したかもしれない。惜しむらくはただ一つ、彼には、体質とも言える致命的な才能の欠如があったことだ。

 

 それでも、高度にデジタル化されたマリオネットプログラムの影響下にあってなお、ある程度自然な感性を維持していたのは、ひとえに当時の残留の賜物であった。

 

 超音速で迫る鉛弾の嵐をかいくぐり、執拗に照準される数多の銃口を冷えた瞳で眺めながら、アルベルトは多くの人間を殺害した。流れ弾が彼らの仲間にあたるよう、効率的な位置どりを常に頭で計算しながら、無慈悲な合理主義でマフィアを最短経路で減らしていった。旅団を先導する露払いのように、両腕を鞭の如くしならせて、手の届く全てを撲殺した。

 

 軽やかに頚椎を砕かれた男がいた。トランプで穿たれた男がいた。破裂した胸元を掻きむしる男がいた。涙を静かに流しながら、生き別れた下半身を懐かしむ男がいた。おぞましい気配に至近で晒され、心が枯れ果てた男がいた。決死の攻撃は届かない。中心を歩くクロロには、いまだ、弾丸の一つ、ナイフの一本でさえ到達してない。コミュニティーの誇る屈強で歴戦の戦闘員は、尽く無意味に散らされていった。

 

 クロロの指示でエレベータは避け、一同は階段で屋上へ向かっていった。旅団が階段を登るにつれて、戦場も上へと後退していく。床に溜まった血液だけが、重力に従って流れて落ちる。

 

 やがて、マフィアは最上階まで追い詰められた。そのフロアは、一般客で賑わう展望ラウンジとレストランだった。子供の甲高い悲鳴が聞こえ、掃射される銃声が流れてくる。待ち伏せの布陣の邪魔になると、誰かを怒鳴りつけている気配もあった。流血は将棋倒しに拡大し、逃げ惑う群集の体重さえもが凶器に変わる。真鍮製で凝った装飾の手すりに新しい脳漿を塗り付て、アルベルトはそれに聞き入った。死体が握っていた手榴弾から、信管を千切り抜いて捨てながら。

 

「あいつらだ! 旅団が来たぞ! 幻影旅団だ!」

 

 フィンクスが階段のドアを吹き飛ばした時、マフィアの一人が恐怖に叫んだ。続く悲鳴の大合唱が、広いラウンジを丸ごと揺らした。壁際で押しつぶしあうように震えていた客たちが、お互いに圧殺せんがごときにすくみ上がった。旅団が入ってきたのとは別の方向の出入り口には、人々が土砂崩れのように殺到していく。助かりたいがため、大切な人を助けたいがための一心で、暴動に近い騒乱が巻き起こり、多くの命が潰れていった。手動で防火扉を閉めようと押し込む集団と、がむしゃらに逃げようと押し返す集団のぶつかり合いは、殺しあいに近い光景だった。

 

 泥沼の混乱の各所から、死にものぐるいのマフィアが弾も尽きろと乱射する。熱く灼けた薬莢が飛び散り、銃火は恐慌をさらなる次元へ加速させた。

 

「殺せ! どけ! 邪魔だ、撃てねぇだろうが!」

 

 怒号は、号泣の嗚咽に近かった。誰も彼もが泣いていた。泣きながら絶望的な抵抗を試み、泣きながら流れ弾で蜂の巣にされ、泣きながらエレベーター前に群がる他人を潰していた。

 

「あーあ。これは酷いね♣」

「ああ」

 

 興醒めを隠さずヒソカが呟き、ボノレノフが珍しくも相槌を打った。手近な死体を盾にしつつ、フィンクスがクロロへと視線を向ける。

 

「で、どうすんだ、団長。全員やるか?」

「時間の無駄だ。邪魔な分だけ殺せ。アルベルト」

「了解」

 

 胸元のネックレスを握りしめて、アルベルトはオーラを一層強く放出した。全身の細胞が生命力を振り絞り、外界へ向けて噴出する。増量された流れに乗って、混ざりあう害意も共に拡散している。念を使えない一般人が、それに対抗する術は全くなかった。皆、凍え、怯え、精神が侵食されて乾いていく。そして、ヒトの人間性は崩壊した。脱出路を目指す狂鼠の群れは、人込みの肩に這い上がり、お互いに踏み潰しあいながらも消え去っていった。逃げ切れなかったものは倒れている。それは死亡と同義だろう。かさかさに乾いた白骨のように、永遠に心を喪失していた。我が子を捜して人の波に逆らった母親も、身を挺して恋人の盾になろうとした青年も。もの言わぬ誰かの隣に居続けた幼子さえも。

 

 だが、口から泡を吐きながら、吐瀉物にスーツを汚しながら、わずか数名のマフィアだけが、辛うじて膝立ちになってこらえていた。震える両手で銃を構えて、充血した目で蜘蛛を睨む。それは驚愕すべき偉業であった。人類の限界に迫る勇気だった。直後、額にトランプが刺さるまでは、彼らは確かに勇者だった。

 

 倒れ込む残骸を見向きもせずに、旅団は屋上へ向けて歩いていく。逃げ延びた敵にも興味はない。妨害者がひとまず消えたなら、この階層にいる意味はこれ以上なかった。

 

 屋上では風が吹いていた。ヨークシンの夜景が眼下に広がる。待ち伏せはなく、近隣のビルにも狙撃手は見えない。鋭い視線を巡らせて、一通り周囲を確認した後、団員達はあらかじめ隠しておいた熱気球一式を取り出して準備を始めた。その様子を見てアルベルトは、疑問に僅かに顔を顰めた。

 

「まさか、昨日の今日でもう一つを探し出して盗んだのか」

「ううん。これはぼくの複製だよ」

 

 コルトピの言葉に納得し、同時に彼は改めて感じた。蜘蛛のもつ最大の優位性とは、強力な戦力そのものよりも、人材の多様さにあるのだと。ハンター協会ほどの規模になってようやく抽出できようかという実力者達が、ろくな基盤もないまま所属している。いかなる出自を持つかまでは今のアルベルトには分からないが、それは、身軽さと強大さを兼ねた、どう見ても反則的な組織だった。

 

 その時、クロロの懐の携帯が震えた。

 

「ああ、オレだ。なんだ?」

 

 シャルナークの声が漏れてくる。冷静に淡々と話は進み、確認も含めてわずか十秒ほどで会話は終わった。内容は、想定の範囲内のトラブルだった。何者かにキャロルが攫われたのだ。

 

「げ、またかよ」

「またなのかい♠」

「二回目だよ、あのクソガキ」

 

 ちなみにフィンクスが証言するには、彼女が旅団の活動に参加したのは、これで入団以来四度目なのだという。まだ数ヶ月であることを考えれば多かったが、窮地に陥る確率までもが多すぎた。

 

「放っておいてもそのうち勝手に戻ってくるんじゃねーか?」

「いや、今は仕事の最中だ。フィンクスは車を調達して迎えに行け。アルベルト、お前もだ。途中でシャル達と合流しろ」

「了解。ま、仕方ねぇか。おい、行くぞ」

「そうだね、行こう」

 

 悪態をつきながらもフィンクスは動き、後ろにアルベルトが従った。

 

 

 

「幻影旅団を捕らえただと!?」

 

 ドアが壊れるほどの勢いで、クラピカが部屋へと駆け込んできた。続くセンリツは息が完全に上がっている。ポリオ物産所有のビルの地下二階、中心に拷問台が据えられた特別室には、スクワラとリンセン、バショウとヴェーゼ、そして拉致されたキャロルの姿があった。

 

「裏口を見張っていたところにリーダがね、あいつを抱えて駆け込んできたのよ」

 

 言って、ヴェーゼはクラピカとセンリツに視線で部屋の隅を指し示した。そこには、物言わぬダルツォルネの体が寄り掛かっていた。

 

「その後だ。すぐに彼は事切れた。俺達三人の成果だって、満足そうに呟いてな」

 

 セメタリービルの中でどんな駆け引きが交わされたにせよ、残るイワレンコフとトチーノも、到底生きてはいないだろう。誰も口にはしなかったが、全員が暗黙のうちに悟っていた。そして、三人がつかみ取ったこの奇跡の、唯一にして最大の結晶が、台に拘束された少女である。体にはシーツがかけられていて、肩から上だけが見えていた。

 

「ねえ、本当にこんな子供が旅団なの?」

「それなんだがな」

「ええ、ええ、ええ! そうよ、そうなのよ! 正真正銘本物の団員よ! だから、ねえ、お楽しみはまだかしら? 待ちくたびれてしまいましたわ」

 

 センリツに答えたのはキャロルだった。青い瞳がキラキラと光り、遊びましょうと誘っている。だからこそ彼らは困惑した。無邪気な容姿はあまりに幼く、旅団にしてはオーラも弱い。この歳で念能力者であるのは珍しかったし、実力も、既にある程度はありそうだった。だが、それだけだ。どこにでもいそうな普通の人材。あるいは、それより上な程度だろう。真の力を隠しているのかもしれないし、将来性を買われたのかもしれないが、なにより、強者から滲み出る匂いがなかった。魂のかもす威圧がなかった。ここにいるネオン護衛団の面々は、それぞれが修羅場をくぐっている。そこで鍛えられた嗅覚は、皆が各々信頼していた。

 

「調べたぜ、体のどこにも印はねえ」

 

 バショウは言った。センリツは不安げに沈黙し、クラピカは熱を帯びた口調で静かに尋ねた。

 

「ヴェーゼ」

「もうやった。無駄だったわ」

「無駄だった、とは?」

 

 空気が重々しく沈滞している。赤々と電灯の灯る地下室は、地上のにぎわいから孤立していた。横たわる少女を睨みながら、ヴェーゼは忌々しげに吐き捨てた。

 

「言葉の通りよ。何度試しても効かなかった。もしかしたら、誰かに操作されてるだけの端末なのかもね」

「いいえ、まさかよ! 操作なんてされてないわ! だけどあなた、キスが能力のトリガーなんでしょ? 残念ね。私、唇なんてもってませんの!」

 

 無気味な物言いに沈黙が走る。リンセンがごくりと唾を飲んだ。唯一、囚われの身のキャロルだけが、ころころと楽しげに笑っていた。

 

「そうじゃなければ、隷属してあげてもよかったのに! 素敵な念! とてもアンニュイなアイロニーだわ。あなた自身は、あまりリリカルに見えないけれど」

 

 全身から隠しきれない怒気を洩らして、クラピカはずかずかと拘束台へ歩み寄った。案じるようなセンリツの視線も、彼は全く気付いていない。コンタクトに隠された瞳の色は、ずっと前から真紅だった。

 

「失礼」

 

 躊躇も見せずにシーツをはぎ取る。現れたのは裸体だった。白く細い少女の四肢が、一糸纏わぬ肉体が、頑丈な金具で絞められていた。そこに、蜘蛛を意匠した証は見えない。

 

「確かに、体の表に入れ墨はないな。背中側もか?」

「ヴェーゼが隅々まで確認してる。オレの犬達にも探らせたが、皮下から塗料の匂いはしないそうだ。残り香すらな」

 

 スクワラが答えた。頷き、クラピカは冷たく燃える目でキャロルを容赦なく睨み付けた。子供としての扱いはとうに消えて、完全に尋問対象として処遇している。

 

「どういうことだ。答えろ」

「……もしかして、……答えなければ、拷問されるの?」

「ああ、オレはそのつもりで質問している」

 

 初めて零れた不安な表情に対しても、クラピカは容赦せずに言葉を続けた。シンプルで頑丈そうな造りの部屋は、さぞかし遮音性が高そうだ。彼女が拘束されてる台の上には、血を溜めつつはけをよくするための溝が彫られている。周りを見渡し、状況を見据えて、明るかった少女の目に徐々に涙が溜まっていった。馬鹿なガキねと、ヴェーゼは肩に篭った力を少し抜いた。おい、と咎めようと伸ばしたバショウの腕は、しかし空中で固まった。彼女の声が響いたのだ。

 

「素敵! わたし拷問されるの大好きよ!」

 

 不安な様子も、悪戯心の産物だったのだ。一変して花が咲くかんばせに、見ていたメンバーはおもわず一歩後ずさった。それは明らかに偽りのない、心の底からの歓声だった。だが、クラピカだけは微動だにせず、一言も喋らず彼女のことを見つめている。

 

「教えて! どんなお遊びしてくれるの? まずは軽く焼ごてかしら? オーソドックスに指切りかしら? 内臓を抉られるのも面白そう! ちょっと時間がかかるけど、強姦の末に孕んだ赤子を犬のように惨めに食べさせてくれたら嬉しいわ!」

「黙れ。質問してるのはこちらだ」

「怒ってるのね! ああ! なんてブリリアントな眼光かしら! 今にも泣きそうな憎悪の目ね! あなたってとってもリリカルだわ!」

「黙れと言ったっ!」

 

 顔面に、クラピカの拳が打ち下ろされた。

 

 

 

 静まり返ったホテルの廊下を、アルベルトはフィンクスに続いて歩いていた。人影はほとんど見あたらず、たまにいても、アルベルトの気配に怯えて一目散に逃げていく。シックな照明がインテリアを照らし、乾いた彼らの靴音が、単調なリズムを刻んでいた。ここは今、二人きりの密室も同然だった。

 

「どうした。隙あらば殺してやろうって顔してるぜ」

 

 急に振り向いてフィンクスが言った。獰猛な笑みを浮かべていた。だが、アルベルトは意外そうに目を見開いてみせた後、ごくごく軽く肩をすくめた。立ち止まった二人の表情は気安かったが、オーラは臨戦態勢へと変わっている。

 

「警戒してただけだよ。僕にはまだ、君を盲信できるだけの材料がない」

「……へえ。だったらどうした?」

「こんなこと言うのは何だけど、いくら団長が認めたからって、個々の心情は別だろう?」

 

 そこまで聞いて、フィンクスはつまらなそうに舌打ちした。呆れと失望が入り交じって、アルベルトに向けてぶつけられた。視線が正面から交錯して、数秒間の沈黙があった。

 

「くだらねぇ……。言っとくがな、テメェも蜘蛛に入った以上、ルールと団長の命令は絶対だぜ」

「もちろん。その覚悟がないなら入団しないよ」

 

 相手を強く睨み付けてから、踵を返してフィンクスは続けた。アルベルトも再び歩き出した。目的地である地下駐車場への通用口には、もう数分も歩かずに着くだろう。

 

「信用しろとは言わねぇが、前の九番を殺して団長が認めた、お前を仲間と認める理由は他にいらねぇ。死ねば代わりを見つけるし、裏切りには制裁を加えるだけだ」

 

 幻影旅団の方針は、昔から何一つ変わってないし変わりもしない。例え、誰が入団しようとも、彼らはずっと続けるだろう。いつか尽く死に絶えるか、代替わりの果てに、掟が磨耗しきるその日までは。少なくとも、団員はそれを信じていた。

 

「だからよ、もし他の誰かがお前を不意打ちで殺しても、そいつはオレが代わりに始末してやる」

 

 突然の言葉にアルベルトは驚き、ほんの一瞬だけ立ち止まり、小さくありがとうと呟いた。それは微かな音だったが、フィンクスの頬が釣り上がった。

 

「ま、個人的に言うならお前はかなりうさんくせぇが、物怖じしねえ性格は嫌いじゃないぜ」

「どうも。ま、新入りなんて少々疑われてなんぼだからね」

「その小賢しいところは好きじゃねえな」

 

 砕けた雰囲気で軽口を交わして、鉄製の防火扉をフィンクスが開ける。そこには、平時とさして変わらぬ光景があった。車両は並んで寝静まり、時折、ヘッドライトが通過していく地下世界の夜景。最上階で惨劇が起こっても、ホテルの営業は続いていた。閉鎖されているのは上層階だけで、下層に泊まる客達には、恐らく、緊急の連絡もないのだろう。マフィアの後ろ楯が存在し、犯罪が日常的であることを加味してもなお、あまりに鈍感な対応だった。

 

 しかし、時として鈍さは必要でもある。現世は常に理不尽で、あがく力は儚く弱い。安眠を貪るだけの家畜であるなら、暗愚さは唯一の救いになろう。隣の仲間が消えようとも、己が運命を悟らずにすめば、人の錯覚に溺れていられる。屠殺の時が訪れるまでは、泡沫の夢の中で生きていける。牙だらけの世界で生き抜くために、愚かさは人々のたずさえる知恵だった。

 

 もし、身の丈に合わぬ明敏さをもって生まれてしまうと、それはこのような悲劇となる。

 

「お、丁度いいのがあるぜ」

 

 フィンクスが近くのワンボックスを指差した。白く、大きく、真新しい。そしてなにより好都合な事に、今まさに、持ち主が乗り込もうとしているのだ。エンジンの直結は時間もかかるし面倒でもある。なにより、今時の車はあからじめそれなりの準備がいる。

 

「そうだね、あれにしよう」

 

 アルベルトは鋭くステップを刻んだ。コンクリートの床を強く蹴り、天井を駆けて接近する。唐突に舞い降りた強いオーラに、鞄を載せようとしていた若い女が気絶した。運転席にいた若い男は、慌ててドアを開けて凍り付いた。

 

「悪いけど、車はもらうよ」

 

 ガクガクと震える男の腕を掴んで告げると。アルベルトは車内から引きずり出した。女の隣に無造作に下ろす。キーは既に差してあった。乗ろうとしたところで、後ろから腰に抱きつかれた。振り向くと今の男がすがっている。何かを訴えたいのだろう。必死に口を動かしてた。しかしそれは言葉にならない。舌は萎え、顎は凍え、喉は絞まって呼吸もできない。涙と涎を流しながら、股ぐらを汚物で汚しながら、それでも、男性はひ弱な筋力を振り絞っていた。

 

「なにやってんだ?」

「いや、なんでもないよ」

 

 不思議そうに近寄ってくるフィンクスに、アルベルトは男を蹴り捨てながら返答した。拘束にもならない体は軽く吹き飛び、コンクリートの上に落下する。加減を間違えて後頭部が砕けてしまったが、それも些細な事だろう。蹴った感触で理解した。彼は、あの時点で事切れていたのだと。

 

「……なんだ。そういう事か」

 

 運転席に乗り込み、助手席に目をやったときにアルベルトは悟った。喉奥から、冷めた声を絞り出す。あの男をつき動かした原動力は、ひどく陳腐で、ありふれていて、誰もが持っていそうな理由だったのだ。

 

 

 

 地下二階に隠された拷問室で、バショウとヴェーゼは秒針の刻む時の流れに身を置いていた。会話はあまり交わされない。緊張感だけが続いている。寝そべるままのキャロルには、再びシーツがかけられていた。ただし、腕には点滴のチューブが繋がっている。二人きりの見張りでシフトを回す事に決まった際、念のため、スクワラが麻酔の投与を指示したのだ。首から下が麻痺するタイプの神経毒である。

 

「暇ですわ。ああもうっ、インプレッシブに暇ですわ! 淑女へのもてなしがなってないわ!」

 

 腕組みして台と扉の間に立ち、バショウは戯れ言を右から左に聞き流している。ヴェーゼは壁に寄り掛かって、キャロルの一挙一同を、静かな瞳で眺めていた。

 

 激昂したクラピカをセンリツが宥めて連れ出した後、試しに一通り拷問してみた。が、本人の言葉通りに喜ぶだけで、ろくな情報も聞き出せなかった。仕方なく二人体制で監視を続け、残りは、上階で休息を兼ねて今後の方針について話し合っている事だろう。

 

 結局、彼女を捕らえたという情報は、コミュニティーにすら流していない。本当に旅団員だという確信も得られていない。それだけではない。仮に団員だった場合でも、どう振る舞うべきなのか、今いるネオン護衛団のメンバーでは明確な指針を打ち出せていない。少なくとも確信できるのは、この場面での軽挙妄動は下策であるという事だけだった。なにしろこの少女の扱い次第では、陰獣をも一蹴した旅団を相手に、事を構える危険すらある。

 

「あら。あなたそこにいると危ないわよ」

 

 お髭のムッシュ、と甘い声色でキャロルが言った。バショウはその意味を即座に解し、続いてヴェーゼも警戒に入った。だが、その時には全てが手後れだった。重い扉が粉砕される。轟音の向こうから現れた巨大で精悍なシルエットに、キャロルはまぁと歓声を上げた。

 

「ようっ、ここにいたか! 探したぜ!」

 

 ウボォーギンが豪快に笑った。キャロルもつられて笑っていた。破片が体に降り注ぎ、刺さっていくにもかかわらず。

 

 襲撃に即座に対応して、バショウは懐に手をやった。インスピレーションを練り上げて、最適な効果を詠み上げる。彼の誇る念能力は、希代の応用性を秘めていた。だが、発動すらも叶わなかった。バショウがそれと気が付いた時、首は宙を飛んでいた。同郷を思わせる着流しが、視界の隅をまたたいていった。

 

 ヴェーゼは己の死亡を覚悟していた。フィンクスとマチが、彼女を壁際へと追い詰める。いや、追い詰めるという認識も持たなかった。二人はただ、相手に近寄っていたのである。彼らにとって、これは狩りにすらも届かなかった。気負うような理由は何一つとしてなく、丁重に扱う重要性も、欠片たりともなかったが故に。

 

 しかし、それでもヴェーゼは諦めなかった。決死の形相で向かってくる彼女に対して、旅団は塵も同然に見くびっていた。そこに、付け入る隙があるかもしれない。一人。誰か一人でも下僕にできれば、打開するチャンスは飛躍的に高まる。それこそヴェーゼに残された、たった一つの希望だった。だが、それすらも無惨に踏みにじられた。

 

 小柄な体躯が現れて、紫に変色した鋭い爪が、ヴェーゼを千々に引き裂いていた。全身を駆け巡る致死性の毒が、神経を強引に沈黙させる。断末魔さえ上げられず、彼女の意識は掻き消された。サディスティックに笑う子供の顔を、末期の両目に焼きつけながら。

 

「なんだい。もうちょっと休んでればよかったのにさ」

 

 片手を腰にあてながら、マチはキャロルにそう言った。彼女の幼く細い肢体は、真紅のドレスに包まれていた。点滴の針も刺さっていない。拷問台の金具がこじ開けられた様子はなく。体にかぶせられていたシーツはもちろん、いくつもあたっていた破片すら、撥ね除けられた形跡はない。全て、台の上に広がっている。

 

「この子、キスで操作できたみたいなのよね」

 

 解体した肉片を爪先で遊んで、キャロルは団員達に微笑んでみせる。赤い靴の表面に、血と肉のペーストがこびり付いた。

 

「へえ」

 

 フィンクスが興味を持って反応する。便利そうな力だと彼は思った。無論、戦闘中に唇を奪われる間抜けなど蜘蛛にはいなかったし、いても笑われるだけだろうが。

 

「面白そうだな。団長の土産にしてもよかったんじゃないか?」

「やめとくれよ。本当に気に入りそうでぞっとしない」

 

 マチはやれやれと首を振った。クロロならきっと、誰にでも躊躇なく使うであろう。女はもちろん、男であろうと必要次第で。それが美形同士なら嘆美と見る向きもあるだろうが、彼女にとっては、あまり歓迎できない光景だった。いったい何が哀しくて、知り合いのそんなシーンを拝まなくてはいけないのか。

 

「おう、無事だったか。悪かったな、オレが目を離したのがまずかった」

「なわけねーだろ。あんなんで攫われるこいつが悪りぃ」

「まあ、まあ、まあ! ウボォー!」

 

 キャロルが瞳を輝かせ、胸板へ向けて飛び込んだ。隣のノブナガは眼中にもない。頬をすりすりと擦り付けて、筋肉の感触を味わっていた。

 

「助けにきてくれたのね! 最高だわ! とても素敵なハッピーエンドだわ! ありがとう!」

「ま、どうでもいいけどな」

 

 わいのわいのと盛り上がる。拷問用だったはずの地下室に、明るい声が反響していた。

 

「あれ、もう終わっちゃったんだ。まだ生きてた?」

 

 シャルナークとアルベルトが入ってきた。手には、いくつかの電子機器を抱えている。マフィアにも明かされていないキャロルの居場所を探し当てたのは、シャルナークの準備のおかげだった。

 

「例の迷子用の首輪のログ見たらこの辺りで反応が途絶えてたから、あとは怪しいところをしらみつぶしにね。といっても、二件目でビンゴを引いたけど」

「ああ、それでこんなに早かったのね」

 

 拷問台のシーツの下に、金属製のカプセルが一つ落ちている。大きさは小指の先ぐらいで、純金のメッキかがかけられていた。キャロルの胸部に仕込まれていた、シャルナークお手製の発信器である。

 

「お礼を言うわ。だけど、迷子用はちょっとひどいんじゃないかしら」

「ははは、でも役立ったじゃん」

「もうっ」

 

 ウボォーギンの首筋に抱きついたまま、キャロルはほんの軽く拗ねてみせた。金色の髪を豊かに揺らして、シャルナークと兄妹のように笑いあった。そこに、アルベルトが時計を見ながら口をはさんだ。

 

「さあ帰ろう。団長も待ってるだろうから」

「あ、待って。ちょっと服を一着手に入れたいの。とても素敵なお洋服を見かけたのよ。目の色がとても綺麗なの」

「ま、いいけど。手っ取り早くすませなよ。アタシも一緒に行ってやるから」

 

 仕方がないとマチが一緒についていき、だったらオレもと出口へ向かう。一人留まったアルベルトは、彼らの後ろ姿に声をかけた。

 

「じゃあ、僕は表に車を回しておくよ」

「おう、頼むぜ」

 

 ウボォーギンの左手が挙がり、ノブナガが去り際に肩を叩いた。そして、部屋は急に静かになった。見渡せば、二人分の肉片が捨てられている。弔う者はだれもいない。照明を消せば、暗く深い闇に飲まれた。アルベルトは扉をそっと閉めた後、音のない廊下を歩いていった。

 

 裏に止められていた白いワンボックスに乗り込んで、アルベルトは努めて冷めた心を維持していた。胸元のネックレスを強く握る。球形の翡翠が冷たくて、暴れ出しそうだった心臓を、優しく包んで蝕んでくれた。ふと、隣の助手席を見た。そこには、金属の破片が転がっていた。幼児用の、拘束座席の止め具だった。強引に引き千切られた跡があり、わずかな血痕が付着していた。

 

 アルベルトは金具を拾ってしばし見つめた。奇跡のように小さくて、まだ柔らかい手の平を思い出した。再び翡翠を握りしめ、金具を口元に持っていった。オーラに強化された顎にまかせて、よく噛み砕いて味わった。そして、じっくり、飲み込んだ。

 

 たとえ胃の腑に入れたとて、体の一部にはならないけれど。

 

 

 

次回 第二十五話「ゴンの友人」



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第二十五話「ゴンの友人」

 馴染みのハチに導かれて、ポックルは路地を歩いていた。オーラを纏った複眼は夜目も効く。本来の活動時間から外れていても、彼らは主のために飛び続ける。本能の域を超えた献身だった。ポックルはその理由を知っていた。間近でずっと見ていたからだ。彼女が念を学ぶ全ての過程を。重ねられていく信頼の軌跡を。

 

「お待たせ。お、ハンゾーはまだか」

「もうすぐ着くって。そっちの様子はどうだった?」

「大混乱だ。間違いなく何かが起こってる」

 

 セメタリービルに程近い地区の路地裏で、ポックルとポンズは合流した。周囲には嫌な緊張感が流れていて、堅気でない男達がうろついている。一般の観光客が気付かないだけで、ヨークシンは戦場と化していた。全世界の裏社会を支配する巨大組織、マフィアンコミュニティーに喧嘩を売った命知らずがいるのである。

 

「ただ、こんなこと調べても落札に結びつくかは不明なのよね」

「この街には競売品も金もわんさとあるんだぜ。情報を集めようって考えは間違いじゃないさ」

「そうかもしれないけど……」

 

 どこか不満そうな、いや、不安そうな表情のポンズの肩に、ポックルはそっと片手を置いた。この半年間の修行のおかげて、彼らは見違えるほど強くなった。それでも、まだまだ弱すぎる。非凡な才能をもって生まれてしまったが故に、周囲との差を自覚せずにはいられないのだ。だが、自分達のペースを常に守り、こなせる範囲の無茶しかするまい。それが、二人の暗黙の了解だった。

 

「そういえば聞いたか? レオリオの奴すごいぜ。半日で800万以上儲けたってよ」

「え? まさかあの腕相撲でじゃないでしょうね」

 

 雰囲気を切り替えるために振った話題に、彼女は目を白黒させて驚いた。くつくつと喉の奥で笑いながら、彼は事のあらましを説明する。

 

「時間をかけて、何回も場所を変えて頑張ったらしいぜ。街中に噂が流れてたよ。さっきオレも耳にしたけど、ゴリラに育てられたサル人間だとか、某国が開発した生体兵器とか色々な」

「へえ……」

 

 ゴンとキルアも頑張ったよな、とポックルは愉快げに呟いた。ポンズは素直に感心していたが、しかし納得はできないようだった。

 

「凄いわ。凄いけど、目標の1%にも満たないじゃない。あのコ達に精一杯努力したって充実感だけ与えておいて、結局は諦めさせるつもりならそれでいいのかもしれないけど」

「レオリオは器の小さい男じゃない。あいつの事だから何か考えがあるんだろう」

「……そうね」

 

 その時、ハンゾーが夜空から降ってきた。音もなく着地する体術とバネに、二人はそろって目を見開く。敵であったなら死んでいた。ハチたちの自律迎撃が開始されようとしたところで、ポンズが慌てて中止を命じた。

 

「わりぃわりぃ。ホテルでひと騒動あったのを調べてたら遅くなったぜ」

 

 陽気な忍者がからりと笑った。黒い装束を着ているのに、なぜか闇夜で目立っていた。お調子者で慌て者だが、この男の実力は本物である。

 

「そっちでも何かあったっていうの?」

「まぁな。詳しくは帰ってからにするが、ひどかったぜ」

 

 市街地の中心方面を担当していたハンゾーは、見聞きしたものを簡単に話した。まさに凄惨の一言だった。現場に守備よく忍び込み、惨状を直接目にしたために具体性も高い。セメタリービルの戦いが素人から隔離されたものであることに対して、こちらは一般人までもが巻き込まれていた。老若男女、乳児であっても容赦はなかった。闇の住人である彼でさえ、眉をひそめる殺戮だった。

 

「くっ……! なんだってんだそいつらは!」

「ひどい! 人間のしていい所行じゃないわ!」

 

 故に彼らは確信した。この街の裏で蠢いてるのは、おぞましくも超越した存在であると。全世界のマフィアと戦う狂気に加え、無関係の人間をゴミ同然に踏みにじる人倫の欠如。数多の銃火器を相手に回して、仲間の死体一つ残さない異常な戦力。そして恐らく少数精鋭。高度な統率、高すぎる結束。あまりに異色すぎる在り方は、異端すぎるが故に鮮烈だった。それを可能とするような集団など、そう多くの心当たりはなかったが。

 

 知らず、口数の少なくなった帰り道、三人の靴音が単調な響きを奏でていた。電飾の明るい大通りでは、何も知らない人々が、色とりどりの笑顔を浮かべている。その光景も、彼らには盲目の羊の群れにしか見えなかった。彼と彼女は押し黙り、ハンゾーも、胸くそが悪そうに歩いていた。そこでふと、ポックルが思い出した様に言及した。

 

「そうそう。忘れてたけどエリスを見たぜ」

「エリス? あのコ、今回は欠席なんじゃなかったの?」

「だけど、あれは確かに彼女だった。見かけたのは相当の遠目だったし、一瞬だったが間違いない。……でも、随分とやつれた印象だったな」

 

 今年始めの試験で知り合った友人がヨークシンに来てるらしいという情報に、ポンズが顔をしかめて疑問を呈した。

 

「あなたの視力は信じてるけど、見間違いってことはないかしら? だって、ポックルの調べていた区域ってことは、セメタリービルの直近でしょ? 彼女、地下競売にもマフィアと誰かの争いにも、自分から首を突っ込みそうな性格じゃないわ」

 

 少なくとも私の知ってる限りでは、とポンズはいう。確かに、とポックルもその考えに同意した。エリスの行動指針は基本的に受け身だ。身の回りに兄と共にすごせるだけの平穏があれば、それだけで充足できるたちに見えた。だがしかし、だからこそ、その平和を乱す者がいたらどうだろうか。伝え聞くところによると最終試験で、あの娘はヒソカに単身で挑んでいるのである。そこまで思考を進めたポックルに、ハンゾーが横から口を挟んだ。

 

「あのお嬢ちゃんがいたっていうなら、アルベルトの方はどうしてる? 見たか?」

「いや。……だが、そうか。たしかに彼女が本物なら」

 

 この街に彼がいないはずがない。三人は言葉にせずとも確信した。

 

 

 

 暗黒がヨークシンを染める時分、一人の金髪の青年が、静かにその部屋の扉を開けた。眼球の周りは落ちくぼみ、肌は不自然に蒼白い。体の動きは堅く錆び付き、足取りは年老いたロバのように重かった。体表からはオーラが強く吹き出していたが、それもまた息切れに似た不安定な蠢動を繰り返し、そこかしこムラだらけで朧げだった。唯一、緑の虹彩に囲まれた瞳孔だけが、強い輝きを放っている。

 

 扉を閉めるに伴って、古びた蝶番が悲鳴を上げた。室内は古く汚れている。否、そこは既に廃虚だった。ガラクタがいくつも積み重なり、埃をかぶって朽ちていた。壁は汚れで黒ずんでいて、天井の電灯は割れていた。宛てがわれた仮宿の一室は、ただ空間が区切られているだけで上等な、雨風を防ぐだけの場所だった。分け与えられた蝋燭をいくつか灯すと、暗い闇の中を、柔らかな橙色が染め上げた。

 

 翡翠のネックレスを首から外す。ハンカチで丁寧に包んでから、瓦礫の上に大切に置いた。そのそばに座って、アルベルトは痛む体から力を抜いた。冷や汗がどっと吹き出した。ようやく、やっと、どうにか一人になれたのだ。決して息を乱してはいけない。絶対に苦痛を悟られてはいけない。それが、蜘蛛として振る舞うために最低限必要な演技だった。故に、この部屋でもこれ以上は気を抜けない。

 

 割れた窓から流れこむ夜風に、微かな談笑が乗っている。気楽な飲みが続いているのだろう。かくいう彼も先ほどまで、ヨークシン風の軽く辛い口当たりの缶ビールを片手に持って、団員たちの雑談につきあっていた。喉で味わう麦酒は初めてだった。彼の故郷の習慣では、もっと控えめに冷やしたものを、口と舌で味わって飲むのが定番だった。

 

 アルコールの酩酊感がアルベルトを浮かせる。これには未だ慣れていない。体質的に分解酵素に乏しい方では決してなく、むしろ大酒飲みの家系らしいが、今まではマリオネットプログラムで制御していた。そのため、酔おうと思えばいつでも酔えたし、醒めようと思えばその場で醒めるのが当然だった。だが、普通の人間の肉体は、そのように便利ではないらしい。微かな歯痒さを憶えながら、アルベルトは焼き干した肉のスティックを噛み千切った。口中に獣臭さが広がった。

 

 蒸留した雨水を飲みながら、彼はいくつかの食物を食べていった。食事というよりも作業に近い。パズルのように淡々と、胃の腑に食料を詰め込んでいった。ブドウ糖の粉末をそのまま飲み込み、熊の睾丸を咀嚼する。サンショウウオの黒焼きは、食感が炭素に近かった。食べ進めるごとに目眩がひどく、頭痛が進行していった。時折吐き気が込み上げる。しかしそれでも体の中に、ドロリした粘性の熱が沸き上がった。芯から力が沸き上がり、体温が数度も上がっている。

 

 瓦礫に寄り掛かって瞑目した。体を流れる血流が熱い。心臓の鼓動が痛いほど強い。呼吸は先ほどよりもずっと深く、細胞が活力を得て蠢いている。脳の働きは無意味に加速し、宙を舞う微粒子が視界に満ちた。大音響を奏でるノイズが聴覚を満たし、触覚は血管の疼きをクリアに感じる。なにより、今にも嘔吐しそうなほど辛かった。だが、ここまでしても足りなかった。所詮はこの程度だ。感覚の変化が派手なだけで、体力は万全からは程遠かった。オーラは今も頼りなく吹き出し、変則的にゆらいでいる。

 

 日付けは変わり、トリタテンの期限が切れて三日目になる。大量に撒き散らし続けた生命力の目減りは極めて早く、既に底が見え始めていた。このままでは、遠からず動けなくなるだろう。最初から分かり切っていた事態であった。

 

 やむをえない。アルベルトは忸怩たる想いで判断を下した。出し惜しみに興じて立ち回れるほど、敵は生温くはなかったのだ。彼が懐から取り出したのは、頑丈な金属製のケースである。中にいくつも入っていたのは、軍用の特殊な注射器だった。柔らかいプラスティック製の薬嚢に針が直接付けられていて、片手で扱いやすく工夫してある。あらかじめ薬剤が封入してあって、すぐにでも使えるようになっていた。左腕を止血し、それを一つ取り上げて、アルベルトは自分の静脈に注射した。薬はやがて神経を侵し、体がすっと冷たくなった。

 

 彼はじっと座っていた。心が静かに暴走していく。集中力が異常に高まり、思考速度が空回りし、無性に走り出したくなる気分だった。あれだけあった疲労感が、幻の様に消えていた。眠気もない。五感を更に注意深く探ってみると、食欲という概念までもが消え失せている。細胞という細胞が活性化して、なけなしの貯蓄だった命の欠片を、あらん限りに浪費していた。常識という枷が解き放たれ、人としての枠組みさえも打ち砕く、そんな効果の薬だった。それは、一般には覚醒剤と呼ばれている。

 

 アルベルトの体から吹き出すオーラが、万全の状態にまで回復した。精神は胡乱な状態だが、戦力はなんとか盛り返し、外見の不審さも消えただろう。精神は明らかに平常ではないが、気力でカバーする心算である。とりあえず今はこれでいいと、これから待ち受ける地獄のスパイラルに憂鬱な思いを馳せながら、それでも彼は肯定した。破滅に至る覚悟など、はじめからずっと持っていた。

 

 そうして、しばらく呼吸を落ち着けていると、いくつかの靴音が響いてきた。まだだいぶ距離がある。階段を登っているらしい。少し意識を振り向けると、足音の重さからマチとキャロルで、この部屋に向かっているらしい事が理解できた。これもまた、薬物による異常な集中力の効果だった。

 

「ちょっと、いいかい?」

「どうぞ。開いてるよ」

 

 翡翠のネックレスを首に掛けて、努めて平静にアルベルトは答えた。だが、努めすぎてもいけないのだ。与えてしまった違和感を挽回する事に固執すると、相手の不信感は降り積もる。嘘つきが嘘を見破られる際の、典型的なパターンがそれだった。

 

「明日の朝の事だけど、団長に確認とってきたよ。午後六時集合を厳守すれば、それまでは各自が自由に行動してもいいってさ」

「そう。で、結局どうする事になった?」

「フランクリンとシズクも来るそうよ。大所帯になったわねえ」

 

 上品な老婦人が口を挟んだ。見ない格好だねと彼がいうと、捨てる前に着てみたと彼女は返した。古風な緑のドレスを着て、レースのストールを掛けている。今時はほとんど見かけない、丁寧な手編みの逸品だった。

 

「そういうことだから、待ち合わせの時間に遅れるんじゃないよ」

「了解。でも本当にいいのかな。僕が行って、邪魔じゃない?」

 

 ともすれば大きく、早口になりそうな声を落ち着かせて、冷静に、いつも通りにと考えて喋る。しかし彼は気が付いた。自己を観察することに嵌っていると。声色を調整するのにのめり込みすぎて、脈拍を数えるのに熱中して、いつの間にか過剰に没頭していた。動き出すことしか考えない肉体の狂気と、止めることしか考えない精神の狂気がぶつかりあう。それは、パニック寸前の状態だった。凍死寸前の熱病だった。

 

「なんだい水臭いね。邪魔と感じたらはっきり言うよ」

「ええ、そうね。それに便利ですもの。陽動にも人避けにも使えるわ。情報処理も得意でしょう?」

「情報ならシャルもいるじゃないか」

「面倒だって。取りつく島もなかったよ」

 

 なるほど、と彼は納得した。詳しく聞くと、仮宿でクロロと待機するつもりらしい。居残りデートよとキャロルが茶化す。他の面々も残ったりぶらついたりまちまちだそうが、ヒソカだけは、今から街に繰り出すそうだ。あら、あら、あら、腕白でとても可愛い子ねと、老いた貴婦人は優しく笑った。外見相応の振る舞いである。マチが隣で眉を顰めた。

 

「じゃ、アタシはこれで。おやすみ。キャロル、あんたは?」

「私はもう少しここにいていい?」

「もちろん。おやすみ、マチ」

 

 頷いて去っていく後ろ姿を見送りながら、アルベルトは唐突に訪れたチャンスの内容を吟味していた。焦ってはならない。だが、薬で胡乱な頭は回転を続ける。この状況の意味、罠の可能性、最初の一人の予定のずれ。あらゆる事項に思い当たりつつ、しかし、脳髄は夢の中のように拙く朧げな分析しか出さない。それでも、彼は此岸の理に齧り付うて、辛うじて正常だった部分の欠片を拾い集めて判断を下した。即ち、結末が不自然すぎるという結論である。このタイミングで、アジトでの異変が起きれば怪しすぎた。

 

「ところで、それはいったい何かしら」

 

 キャロルが興味を示したのは、数本残っていた干し肉だった。頭を回しすぎたためか、穏やかな女性の声が脳に痛い。ガリガリと神経繊維が削れていく。今すぐ立ち去ってほしかったが、不快感を表に出さないように、アルベルトは気のいい笑みを演じてみせた。

 

「食べる? ちょっと癖はあるけどね」

 

 差し出されたスティックを受け取って、老婦人がありがとうと微笑んだ。とても上品な仕種だった。

 

「あなた達って、ソーセージとキャベツの酢漬けばかり食べてると思ったわ。それから、タマネギと茹でたジャガイモと黒いビール。違う?」

 

 彼は座っているはずなのに、飛んでいるのか、泳いでいるのか、ふわふわと心が泳いでいる。自分は本当に笑えているのか、話せているのか、生きているのか、それすらもアルベルトには分からなかった。いっそ頭蓋骨をこじ開けて、花火でも突っ込めばすっきりするのか。目の前でさえずる老婆の頭を、すり潰したくてたまらなかった。だが、ここで個人の欲望を満たしてしまえば、残されたエリスはどうなるのか。

 

「半分ぐらいは正しいかもね。でも、君達だっていつも紅茶ばかり飲んでるわけでもないだろう?」

「言われてみれば確かにそうね。私も、日に五杯か六杯ほどしか飲まないもの。少ないときだと」

 

 冷静になれ、とアルベルトは念じる。ほんの一瞬の気の迷いだと、慣れない薬のせいだと反芻した。キャロルのつまらない戯れ言は、今はいっそありがたかった。呆れた表情だけを作っておけば、返事をしなくても自然だろう。少し拗ね、干し肉を齧る彼女の様子を、ただぼんやりと眺めていた。

 

「……パラライズだわ」

 

 橙色に揺れる灯りの中で、キャロルは獣臭さに顔を顰めた。細い眉毛が釣り上がって、皺だらけの顔が恨めしげに歪む。アルベルトはそれに微笑ましそうに、微笑ましげに見えるように応対した。

 

「なんなのこれは。獣臭いわ」

「犬の肉だよ。カキン周辺の文化圏じゃ、強壮食として定番なんだ」

 

 強い陽の気を持ってるから、病人には逆に食べさせない方がいいって言われるほどのね、と彼は言った。彼女が気に入らなかった事を確認すると、立ち上がり、持ち込んだ荷物の中をしばし漁る。

 

「口に合わなければこんなのはどうだい? ジャポンって小国から輸入した蒸留酒で、ちょっと珍しいものを漬けてあるんだ」

「あら、なにかしら」

「女の子は聞かない方がいいと思うよ」

「まあ、まあ、まあ。何かの肉ね。棒みたいだけど蛇じゃないし。気になるわ。教えて下さる?」

「熊の陰茎。あの国の伝統的な猟師に伝わる逸品らしいね」

 

 私物から取り出した酒瓶を、なかば強引に手渡した。あわよくば、これで帰ってくれてもいい。そんな下心も伴っていた。しかし、キャロルは中に沈んだ肉片をしげしげと興味深そうに眺めた後、至極冷静に返却した。

 

「悪いけど、実用的すぎて私の趣味には合いませんわ。例えば人間のペニスなら、それを為す人の意思に多少の興味もわいたでしょうけど」

 

 だがそれさえも、直接叩き付け合う感情ほどの美味ではないと、キャロルは熱っぽい瞳でうっとりと語った。頬にさっと赤が浮かんで、老いた風貌でありながら、その仕種には華があった。

 

「人の好みに口出しするつもりはないのだけど、もう少しましな物を食べたらいかが?」

「そうだね。考えておくよ」

 

 アルベルトの生返事にむっとしたのか、キャロルの眼光が鋭くなる。はしたないですけどと断ってから、ドレスの袖を捲り上げて、萎びて血管の浮いた左腕を右手で握った。そして、いともたやすく上品に、肘から先をねじ切った。

 

「お食べなさいな。そんな干し肉よりはましですわ。きっと精もつきましてよ」

 

 二の腕を差し出してキャロルは言う。慈愛に満ちた表情が、蝋燭の光に照らされている。ここが耐え時だとアルベルトは思った。ここで馬脚を現したら、全てが未遂で終わってしまう。礼を言って受け取って、皮をはいで肉を齧った。口の中に入れた時、新鮮な筋繊維がきゅんと絞まった。食欲は麻薬のせいで全くない。いや、食べるという本能そのものが停止していた。だが、不審に思われたくはなかったのだ。租借という動作を強引にして、飲み込むという動作を無理矢理にした。喉から込み上げる強烈な吐き気は、知らない素振りで押し通した。ここさえ耐えれば誤摩化せる。その一心による奇跡であった。

 

 だが、それはあくまでこの場ではだ。オーラで強化された念能力者の肉体は、薬物からの回復は常人より早く、耐性も遥かにつきやすい。たとえ今夜を乗り越えても、薬が切れたらどうなるのか。無論、答えは始めから決まっていた。

 

「……味が薄いね。それになんだか水っぽい」

「劣化してるの。だから服が欲しかったのに」

「あの後、結局失敗したんだって?」

 

 口の周りについた暖かい血を、何喰わぬ顔で拭うアルベルト。彼のそんな、ひと事のような態度が気に入らなかったのか、恨めしそうな目が睨んでいた。

 

「ねえ、聞いたわよ、一軒目で随分と暴れたって」

「僕じゃない。意気込んで乗り込んだのはウボォーだよ」

「煽ったのはあなただそうじゃない」

 

 嗄れながらも潤った声が、青年を柔らかに注意する。穏やかな老婦人に見つめられて、アルベルトは肩をすくめて困ってみせた。彼女の左腕から零れる鮮血が、ぽたぽたと床に垂れて滲みていた。埃だらけの部屋の中に、鉄の匂いが広がった。

 

「それは……、そうだね、君が心配だったからと言う理由じゃ足りないのかい?」

「真心が篭っていませんわ。そんな適当なあしらいじゃ、紳士的な殿方とは呼べませんわよ」

 

 キャロルのひんやりした二つの手が、アルベルトの右手を優しく捕らえた。見上げてくる表情にはっとする。どこまでも深い二つの目は、まるで全てを見透かした様に、青年の瞳を包んでいた。今までの不自然なやり取りは、全て見逃されていたのだろう。キャロルはこちらに合わせている。訳もなくアルベルトはそれを悟った。その深い眼差しに、エリスの印象を重ねた時、アルベルトはどす黒い巨大な衝撃を受けた。意識が一瞬で漂泊された。この冷えた熱病が生み出した、たわいない錯覚と信じたかった。だが、改めて考えを巡らせれば、否定する材料が見つからない。これも薬のせいだろうか。

 

 キャロルの中の歪んだ狂気は、エリスと通じるものがあるのではないか。それとも、女とは全て狂った生き物なのだろうか。その可能性は大いにある、とアルベルトはとっさに考えた。そうであれば都合がよかった。しかし、もし、世界の半分が狂人なら、残り半分の男たちは、はたして正気と言えるのだろうか。全ての人類が狂人の時、狂気こそ正常なのではなかろうか。

 

 彼は女をほとんど知らない。アマチアのブラックリストハンターという職業上、女性経験は豊富にあった。情報源や内通者を取得する際、閨ごとは強力な武器だったからだ。だが、それは、操り人形を通じての戯曲にすぎない。記録から再生した愛の言葉を囁いて、完全に制御された肉体反応で女達が望む一夜を提供してやったにすぎないのだ。いわば、理想の自慰に近かった。

 

 そんな中、アルベルトの機械的な肉体の上から、人格を包み込もうとした女が一人いる。一人だけのはずだった。これからも一人だと安心していた。だがしかし、前提がそもそも違っていた。彼の精神は鎧を失い、こんなにも簡単に包み込まれる。ビジネスライクの付き合いでもなければ、女には誰でも可能だった。それなら、どうしてエリスと愛を交わしたと錯覚したのか。どうしてエリスに惚れたのだろうか。アルベルトは未だ、女と、否、人間とまともに触れあった経験すらも乏しいのか。

 

「……無理に制御しようと力むのはおやめなさい。手綱を手放し、狂態も自分の姿と受け入れるのよ」

「なにを……」

「あなたの汗、匂いがするもの」

 

 熱病だ。薬のせいだと無理に断じて、妄想を頭の隅へと追いやった。致命的に硬直した数秒間を、キャロルはじっと見つめていた。ただ単に、じっと見つめているだけだった。それは優しさなのだと希望にすがって、彼は何喰わぬ顔で口を開いた。

 

「……悪かった。お目当てのお洋服の名前ぐらいは分かってるのかい」

「ええ、名前はクラピカ、とても綺麗な男の人よ。金髪で、とっても素敵な目をしてるの。見かけたら教えてくださらない?」

「……クラピカ、ね。了解。それぐらいなら協力するよ」

 

 最後の気力を振り絞り、台本を読むように演技を続けた。キャロルがよくできましたと微笑んでいる。クラピカ、その名前には憶えがあった。

 

 

 

 男を騙すのは簡単だった。最低限の演技をすれば、彼らは自分から騙されたがる。女を騙すのも簡単だった。彼女達の嗅覚は鋭いが、注目するようなポイントは、飽き飽きするほどお決まりだった。

 

 九月二日の朝の街を、ビリーは気ままに散策していた。どこもかしこも競売だらけで、誰もが数字を競っている。昨日は物珍しく眺めもしたが、特に面白いという程ではなかった。それでも、暇さえ潰せれば満足だった。

 

 二日目の祭も初日と変わらず、あまり収穫はなさそうだった。目が覚めてしまったという理由だけで、早朝からごった返す人混みを、流れに逆らわず歩いていった。そして、運命のそれを見つけたのだ。最初は通行の邪魔だと思っただけだが、子供が関わっていると耳に入って興味がわいた。

 

「ゴリラに育てられたサル人間? 兄さん本当かい?」

「らしいぜ。あいつ、昨日100人以上の腕へし折ったんだとよ。みえねぇけどな」

「へー。あんな子がねぇ」

 

 野次馬の一人と語りながら、テーブルに座る少年を眺めた。ツンツンと逆立つ黒髪が、やや不安そうに佇んでいた。年齢は、ビリーと同じぐらいだろうか。そう大きく違いはしないだろう。

 

「お、あんた参加するかい? いいぜ、こっち来いよ」

 

 銀髪の少年が声を掛けた。今まで大人しくダイヤを持っていたのが嘘のように、チャシャ猫の笑みで誘っていた。しかし、スーツを着込んだ男が曰く、ゲームの参加料は一万ジェニー。今のビリーにはかなり痛い。300万相当のダイヤとやらも、どうせ手に入りはしないだろうし。

 

「悪いけど」

「あんた使えるんだろ?」

 

 わざとオーラをさざ波立てて、悪戯っぽく挑発してくる。纏が使える少年が二人、そろってビリーを注視していた。この場の主役にまで見つめられては、目立たずいられるはずがなかった。こっちもガキかと周囲がざわつく。

 

「応援してるぜ、坊主!」

 

 気の早い誰かが声を上げて、後ろから背中を叩かれた。頑張れ、気を付けろよ、とビリーの意思を無視して盛り上がっている。

 

「別にオレ、そんなに強くはないんだけどな」

「ま、やってみなよ。おっちゃんたち、悪いけどそいつ通してくんない?」

 

 前にいた野次馬が道を作れば、もはや断る事は難しかった。貴重な札を1枚持って、スーツの男に手渡した。彼のテンションは既に高く、ノリノリで実況する気まんまんである。

 

「コイツ強いぜ」

 

 銀髪の少年が囁いた。仲のいい友人なのだろう。お気に入りの玩具を自慢するような、男の子らしい茶目っ気が覗いた。

 

「アンタよりも?」

「……へぇ」

 

 なんとなく空気を感じて尋ねたところ、少年は少し驚いて、とても嬉しそうににやりと笑った。獰猛な、鋭い眼光の微笑みだった。ビリーの嫌いなタイプではない。自分から踏み込むのは得意だが、踏む混まれるのは案外苦手そうだ。素直な子供はあまり嫌いじゃないからね、と心の中で呟いて、黒髪の少年に相対して座った。透明な目。じっと見つめられると、吸い込まれてしまいそうな黒い色だ。

 

「おーっと、今日は生意気そうな少年が一番乗りだァ!」

「よろしく」

「え?」

 

 ビリーは座ったまま挨拶したが、相手はきょとんと目を見開いた。

 

「ねえレオリオ、この子、女の子だよ?」

 

 ビリーの動きが凍結した。心を重くし、女として盛られた感情を削ぎ落とせば、致命的な失敗はありえない。それは、彼女の特技だったはずだった。相手の心情に敏感だったが故に身につけた、精一杯の技能だった。護身と、大切なお守りの代わりだった。それが、こんな少年に初見でばれた。男装とすらも思われていない。

 

「いや、どっからどう見ても男じゃねーか! な、だろ?」

 

 レオリオと呼ばれた男が叫ぶ。銀髪の方の少年も、何事かと様子を見つめている。野次馬達も静まっていた。予期せず訪れた沈黙の中、堰を切ったのはビリーだった。

 

「ははっ、はははっ! やだっ、もうっ、なんでっ! ははははっ!」

 

 腹を抱えてビリーが笑う。どうして笑っているのかも定かではない。全てが露見してしまったのに、とにもかくにもおかしかった。後から思えば、彼らは、少女の初めての友人だった。この時の出会いがなかったら、友情を知る事はなかっただろう。つまり、少女の最後の友人だった。

 

 

 

次回 第二十六話「蜘蛛という名の墓標」



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第二十六話「蜘蛛という名の墓標」

 マフィアとは、フィクションを売り物にする商売である。彼らは裏社会を力によって率いている。が、彼らが保有する戦力と、彼らが保有すると思わせたがっている戦力には、大きな隔たりがあるのである。当然だった。彼らは税金で養われている軍隊ではない。私的な営利集団である以上、収支に気を配る必要がある。また、そうであるからこそ、次のような事実が彼らの双肩にのしかかっている。つまり、金喰い虫である戦力の獲得と維持にリソースを割けば割くほどに、業務のコストパフォーマンスは悪化の一途を辿るしかないというものである。故に当然、実力よりイメージに固執するようになっていく。もし仮に、マフィア強しという共同幻想を完全かつ永久に浸透させることに成功したら、彼らは戦力の放棄すら考えるだろう。

 

 だからこそ、彼らは舐められることを嫌うのだ。マフィアにとってのプライドとは、商売道具の別名だった。幻想の刀身で他者を切りたいと欲するからこそ、刀の手入れは欠かさない。万が一、それを偽物だとあざ笑う者が現れたなら、そいつはどんな手段を講じても、実際に切り捨てて見せる必要があった。

 

 そんな事情があったからこそ、その手配書はヨークシンの各所へ向け、全力をもって配布された。あるときは命令という形を取り、あるときは競売という手段を模し、九月二日の午前中から、ありとあらゆる場所へと徹底的な周知が試みられた。目標は合計十三名。ビルとホテルに設置されていた監視カメラの映像から、それぞれ抽出された画像だった。

 

 

 

 彼女は宗教家ではなかったが、暮らしていた地域の関係上、鱗のない魚介類を食べた経験はなかった。市場に出回る量が少なく、高値が付けられていた為である。故に、運ばれてきた小海老のサラダを目にしたとき、口に入れることには抵抗があった。が、いざ食べてみると意外といける。口いっぱいに広がる細やかな旨みは、やや生臭いが味わい深い。オリーブの効いたヨーグルトドレッシングとの取り合わせは、エメラルドグリーンの香りがした。

 

「おいしいわ。なんにでも挑戦してみるものね」

「そりゃよかった。どんどん注文していいからな」

 

 正面に座るレオリオが笑った。自分はフライの盛り合わせを齧りながら、パスタの到着を待っている。新鮮な魚介に卵白を泡立てた衣をつけて、パセリを効かせて揚げたものだ。ゴンとキルアはといえば、少女の左右で、忙しそうに料理を次々と平らげている最中だった。落ち着くまで、もう少し時間がかかりそうである。男の子ねと、ビリーは微笑ましく思いながら見守った。

 

 テラスに張り出した日よけの下、白いクロスの丸テーブルが輝く特等席は、昼食を求める多くの観光客で賑わっていた。曰く、移民が経営している店らしい。せっかくヨークシンに来たのに難儀なことね、と、彼女は周りの客たちを見渡していた。家族連れやカップルで賑わっている。その間を、このエリア担当の青年給仕が忙しくも軽やかに飛び回りながら、人好きのする二枚目半の笑顔を惜しげもなく陽気に振り撒いていた。

 

 九月の正午の気温は高い。黒い液体の入ったガラスのコップが、結露で汗をかいている。手にとって回せば、氷がカラカラと音を立てる。アイスコーヒーを一口飲んで、ビリーは苦さに辟易した。後味の酸味も眉間に来る。それでも、彼女はこれを愛飲していた。苦味は心底嫌いだったが、なんとなく存在が好きだったのだ。もう一口飲んでも、やっぱり苦い。だけど、これでいいと彼女は思った。どうせこれ以外の味なんて、少女は知りはしないのだから。

 

「しっかしなぁ……。結局釣れたのはこの一件だけか。なんなんだろうな、これ」

 

 渡された名刺をかざしながら、レオリオはしげしげとそれに見入っていた。そこには期待が見て取れる。キルアも頬いっぱいに料理を詰め込みながら、悪戯っぽい視線をキラキラさせて、横目でそれを眺めていた。普段なら、ビリーは口出しはしなかっただろう。あるいは、形だけでも乗っただろう。どうせこんな出会いは一期一会だ。不用意に機嫌を損ねるより、適当に調子をあわせておくのが利口だろう。だが、どうしたことか。彼らの無邪気な様子を観察すればするほどに、自分自身の目先の利より、がっかりさせたくないと言う欲求の方がじわじわと強くなってくるのだった。ええい、畜生。心中でわりと汚く罵ってから、苛つきはじめた自分を見捨てて、余計なお節介のために口をはさんだ。

 

「腕力に注目されて呼ばれたんだから、所詮、腕力さえあれば許容できる程度の用件でしょう。あまり入れ込まない方が気が楽よ」

 

 被っていたキャップをはずして結わえをほどく。肩よりも少し長めに伸びた髪の毛が、風に乗って銀色の光を振りまいた。手櫛ですいて癖を直せば、気持ちも少し落ち着いた。

 

「これ自体はな。肝心なのは、この名刺がどこに繋がっているかって、そこよ」

「なるほどね。でも、あと二、三日しかないんでしょう?」

 

 名刺の先にいるのはどうせ下っ端なのだろうが、問題は、どこに属する下っ端かということらしい。こればかりは運で左右される問題だったが、しかし仮に結果が上々でも、上の方まで食い込む時間などあるのだろうか。

 

「やっぱ間に合わねーと思うか、オメーも」

「その質問に正直に答えて、あなたに追い討ちをかけたくないわ」

 

 レオリオが情けない唸り声を上げる。ゴンがきょとんと見つめていた。そして、キルア。彼はさっきよりさらに面白そうに、愉快なおもちゃを見る目でビリーを見ていた。小憎らしい印象を受けもしたが、きっとこの少年はこうなのだ。そう思っていれば微笑みもこぼれる。

 

 心地がいい、と少女は思った。胸が熱くならない関係とは、子宮を焦がさないですむ好意というのは、……こんなにも目新しくてさわやかなのか。

 

「じゃ、お前はなんかアイディアないの?」

 

 口の中の食べ物を飲み込んでキルアが尋ねる。挑発を含んだ無邪気な意地悪。それに彼女は首を振って、降参の白旗を素直に掲げた。だいたい、聞く相手がそもそも違うのだ。九十億以上の大金など、ビリーには想像さえもできなかった。彼女が知っている世界の感覚では、一万ジェニーもあれば一ヶ月は暮らしていけたりするのだから。路地裏での隣人との付き合い方、正しい寝床の定め方、噴水で体を洗う際の注意。そういった類の知識なら、いくらでも教えることができたのだが。

 

 もっとも、ここにいる男たちも、そう貴族的な暮らしを営んでるようには見えないのだ。どう見ても一般庶民と呼ばれる階級の風貌なのに、ふざけたテレビゲームの落札を、いとも簡単に目指してみせる。空恐ろしくなるほど豊かなバイタリティーだった。

 

 こんな時、あの人ならばどうするかと、ビリーは思いをめぐらせて見た。もしそのゲームソフトが必要なら、きっとだらだらと引き伸ばして、期限ぎりぎりになったらいかにも面倒くさそうにどこかへ向かって出かけるだろう。その光景がありありとリアルに想像できて、少女は淋しく微笑んだ。そして、結局は手に入れて帰ってくるのだ。だがそのとき、彼がとるだろう手段とは、真面目に金を稼ぐというものだろうか。……絶対にないなと、彼女は心の中で断言した。天地がひっくり返ってもありえなかった。

 

「思うんだけどね、きっとお金を稼ぐより、ゲームソフトを手に入れるほうが簡単だと思うのよ」

 

 彼女はあの煙草臭い笑いを脳裏に浮かべて、彼のやりそうな裏技を考えてみた。ゲームの持ち主のところに訪問して、何分かで交渉を終わらせる。お互いに十分満足して、にこやかに握手で別れる際にはもう、品物は彼の手の中にあることだろう。相手がほくほく顔で交換したのは、きっとくだらないガラクタに違いない。

 

「どういうこと?」

 

 ゴンが率直に尋ねてくる。レオリオは出来上がったばかりのパスタを前にして、喉を水で潤していた。唐辛子たっぷりの真っ赤なソースが、ペンネにたっぷりとかけられている。

 

「要はゲームより何かが欲しい人がいて、何かよりゲームが欲しい人がいる。お金っていうのはみんなが欲しがるものだから、たぶん、九十億ジェニー稼ぐには正味九十億ジェニー分の無茶が必要になるわ」

「なるほど。物々交換とかの条件なら、運さえよければこっちが払える対価で済む可能性もあるわけか」

「まさにその通りなんだけど、すごい自信ね、キルア」

 

 ビリーはアイスコーヒーを口に含んで、苦味で自分にブレーキをかけた。軽く上気していた少女の頬が、冷たい液体で冷やされていく。外見では冷静さを装っていたが、彼女は若干舞い上がっていたのである。そのことを正確に自覚していた。

 

「そうか? 別にこれくらい普通だろ」

「……きっとお金じゃ解決できない無理難題を突きつけられるわ。お金で解決できる目的の持ち主なら、ゲームを売ればいいのだもの。それとも、まさか相手は純粋にゲームを楽しむためにそれを所有したとでも思うのかしら」

「えっ、違うの?」

「あら?」

 

 ビリーは目を真ん丸にして驚いた。

 

「ゴン、お前なぁ」

 

 キルアが、そしてレオリオも呆れるが、ゴンは何か別のことに思い至ったかのように、うつむいて考えに没頭しだした。テーブルには沈黙が流れたが、そうしているうちにビリーの注文したジャガイモの冷製スープが到着して、空気は一度切り替えられた。

 

 型崩れ寸前まで柔らかく煮込んだジャガイモとポロネギ、そしてたっぷり注いだ冷たい牛乳の涼しさが、暑い日中に食欲をそそる。喉越しはひんやりと優しかった。山の風の匂いのする、家庭的な夏のレシピ。口の中に広がったほのかな甘味は、きっと生クリームなのだろう。それはとてもアットホームな、優しい母親の味だった。パンを一口千切りながら、少女は少し後悔した。こんな雰囲気は苦手なのだ。稚拙な感傷にすぎないと、理性では理解しているのだけど。

 

「……ま、自信のことについてなら、オレら全員プロハンターだし」

 

 手元からパンがこぼれて落ちた。スープの中に落下して、雫が何滴か飛び散った。言ってなかったっけ、とわざとらしく笑う猫のような少年をまじまじと見つめる。嘘はついてなさそうだ、と少女の観察眼が告げていた。できれば嘘の方がありがたかった。

 

「プロ、ハンター? 三人とも?」

「ああ。ライセンスだって持ってるぜ。見るか?」

「ねえゴン。ほんとに?」

「うん、本当だよ。オレもキルアも、レオリオだって」

「まー。信じられねーのも無理ねぇだろうな」

 

 ゴンに続いてレオリオまで頷き、ビリーの思考が真っ白になった。ハンターと聞いて思い出すのは、収容施設を預かっていたスケベで傲慢な小男ではなく、豪雨の戦場で出会った二人の男女の姿であった。……そして何よりもう一人、箪笥の中から盗み見た、無機質な瞳の機械的な青年。彼女は思わず身を乗り出して、もう一度、三人の顔をまじまじと見る。心臓が激しく鳴っている。だが、注意してじっくり観察しても、あのように化け物じみた気配はなかった。透明でガラス質の眼球ではない、感情のこもった普通の瞳。

 

 ビリーの体から力が抜けた。プロハンターは嘘ではないかもしれないが、この三人はちゃんとまっとうな人間だ。安心して肺から息を吐き出すと、知らず浮いていた腰が椅子に落ちる。手の中に汗をかいていた。

 

「……信じるわ。でも、心臓に悪いことはやめて頂戴」

 

 少女が放った一瞬の殺意に、気が付かなかった者はいないだろう。が、皆が素知らぬそぶりをしてくれた。さりげなくレオリオが会話をつなげ、なんでもない雑談へと興じてくれる。それに参加して気を紛らわせながら、いい人たちだな、と、彼女は思った。

 

 ふと、レオリオの懐から着信音が流れてきた。ずんぐりと大きな、カブトムシに似せた携帯電話が取り出される。ハンゾーからだ、そう呟きながら応対した。

 

「なんだってオイ! そりゃ一体どういうことだよ!?」

 

 突然の怒声にビリーが固まる。昼時の喧騒も掻き消えて、周囲の注目を集めていた。しかしそんな些事は気にせずに、レオリオは大声で会話を続けて、その後で一方的に切断された。

 

「なんだったの?」

 

 ゴンが尋ねる。レオリオは腹立たしそうに早口で答えた。

 

「わからねぇ。だが、尋常な様子じゃなかったぜ。とんでもねぇ情報を入手したから、今すぐ戻ってこいだとよ」

 

 残っていたパスタをかきこんで、口を拭きながら彼は言った。怒りもあるが、その原因はもっぱら心配が中心となって占められている。喉に水を流してから、テーブルの上に出しっぱなしだった例の名刺に気付いて舌打ちした。

 

「ったく。これじゃコイツも諦めるしかねえな」

 

 乱雑にポケットにつっこまれそうだった寸前で、隣からのびた手が止めた。キルアだった。

 

「待ちなよ。その情報とやらを聞くために、全員でぞろぞろ戻る必要はないだろ。オレが行くよ。オレなら一人で大丈夫さ。なあゴン、お前もそっちの方がいいだろう?」

 

 オレ一人で動く前提なら、どこへでも行けるし帰ってこれる。そんな絶対の自信を滲ませて、彼は鋭い目つきで提案した。二人も異論を挟まない。キルアの保有する技量には、誰一人文句はないらしい。ビリーには程度が見えなかったが、隔絶する実力のせいだろうか。

 

「どうする、ゴン」

 

 レオリオはゴンに確認する。年長者の立場も関係なく、彼らは対等な付き合いに見えた。

 

「うん、キルアにならオレも任せられる。お願い」

「決まりだな。こっちが終わったら電話するからさ」

「よしっ、わりぃがそっちは任せたぜ」

 

 目の前でまとまっていく今後の動きを見つめながら、ビリーは話に割り込みたい衝動が沸き起こっていくのを感じていた。惜しいと思ったのだ。彼らとここで別れたくない。もう少し成り行きを見守りたいと、もっと観察を続けたいと、理不尽とも思える欲求が、胸の内から湧き出てくるのを感じていた。

 

「私も同行してもいいかしら。食事の借りも返したいし、キルアだけじゃ少し不安だわ」

 

 思いつくままに言葉を紡ぐ。だが、とっさに口に出した適当な理由は、思いのほか状況にマッチしていた。

 

「おいおい、譲ちゃん」

「ビリーと呼んでくださる? レオリオさん。この名前、とても気に入っているのよ。私の唯一の宝なの」

「じゃ、オレもレオリオでいいぜ。しかしな、ビリー。こんな昼飯ひとつでお前さんが借りなんて考える必要はねぇし、これから行くところは明らかに堅気の現場じゃねぇんだぞ」

 

 お前もあの二人組みを見てただろとレオリオが言った。彼女は素直に頷いた。だが、そこに割って入ったのはキルアだった。言い草が気に入らなかったのだろう。ビリーに対して、むっとした様子で問い掛けてくる。

 

「つーか、オレだけで不安な理由ってなんだよ」

「だってあなた、簡単に騙されそうなんだもの。とても綺麗な顔してるわ。だから、きっと清潔な場所で育ってきたんでしょうね」

「はぁ? なんだよそれ。関係ねーだろ」

「あるに決まってるわ。ねえ、キルア。あなた、腐った泥の中で暮らす人たちと接した経験はおありかしら? 彼らの苛立ちを身に受けたことは? どうしようもなく卑劣で哀れな人たちの、腹の中の不満を一晩中続けて聞かされたことは? あなたが知ってる常識と、あの人たちの怖さは違うのよ」

 

 だが、それだって本当に悲しい人たちの姿ではなかった。あの宿に飼われていた時代、少女が最も恐れたのは、さらに貧しい層であった。一世一代と思い切ったのか、彼らにとっての大金をはたいて、一夜を買われた経験が何度かあった。総じて小鳥のように臆病で卑屈だったが、万乗国の王のごとく自尊心が高く、抑制を知らぬため感情が頻繁に切り替わる。何より真っ正直で善良で、見ていて、辛い。

 

 視界の隅で、レオリオが真剣に見つめていた。それは男としての顔だった。厳しい無表情に優しい瞳。ビリーの生きてきた境遇に、大人として心当たりがあったのだろう。しかし、彼女はあえて丁寧に無視して、キルアの目だけを眺めていた。

 

「キルア、仕方ないよ。オレも一緒に行ってもらったほうがいい気がしてきたし」

「……あーあー。分かったよ。怪我しても知らねーからな。マジで!」

「もちろん。私を見捨てたいと思ったら、即座にそうしてもらって結構よ。大丈夫。化けて出たりはしないから」

 

 ほどいた髪の毛はそのままに、キャップを被ってビリーは言った。精一杯の虚勢だったが、同時に、力になれそうな役割に、不思議と胸が躍ってくる。心のどこかにこびりついた好意という名の執着は、今の彼女にとって、一種投げやりな力の源にさえなっていた。

 

「行きましょう。ゴンたちを待つのは急ぎの用件でしょうし、私も、早く恩を返したいわ。だってこんなに美味しい食事をいただけたの、本当に久しぶりのことなんですもの」

 

 立ち上がりながらビリーは言う。それは彼女の本心だった。だが、いかに上等な食物でも、あの日食べた何かより美味くはなかった。何か、そう、何かだ。それが何なのかは思い出せない。形も味も材料さえも。ただ、あの人と一緒に市場へ行って、二人一緒に選んで買って、捌いて煮込んで味付けた、名前も思い出せない何かだった。

 

 

 

 だんだんと傾き始めた太陽の下で、アルベルトは夢を眺めていた。彼は眠ってなどいなかったが、それは確かに夢だった。白昼夢というべきものであろうか。いや、ただの幻覚かもしれないと彼は思った。携帯電話で電脳ページをめくりながらも、思考は自然とそちらへ向かう。危うい幻を見そうな条件は、嫌というほど揃っていた。まずなによりもオーラの噴出。これは、真剣に命を削る行為であった。その上、彼はここ数日というもの眠っておらず、片時も気が抜けぬ緊張状態を自らの心身に強いている。それらの消耗に加えて薬物の乱用。つい先ほど一人になれた隙を見計らって、二本目を注射したばかりだった。これほど異常なハイペースは、体に耐性のできてしまった常習者であってもまず見られない。

 

 建物の狭間、コンクリートだらけの現実の視界と重なって、砂丘の続く砂漠が見える。砂の一粒一粒が、黄金色に燃えていた。別の惑星めいた暑さだった。空はひとかけらの雲とて見当たらない、宇宙まで抜けるような蒼である。天頂に、真っ白い太陽が輝いている。ぽつり、ぽつりと瞬く点は、真昼に浮かぶ星々だろうか。

 

 その世界で、アルベルトの視点は浮いていた。砂を踏みしめる感触はない。奇妙な浮遊感を伴って移動しつつ、永遠の砂漠を徒歩と思しき速度でずっとさまよっていた。そして、どれほどの時が過ぎただろうか。夢の中特有の時間感覚の混乱の果て、彼は、一つのオアシスを発見した。いつの間にか目の前に現れていて、気が付けば存在を認めていたのだ。ふちには黄緑色の草木が茂り、柔らかそうな苔が生え、真ん中に、空と同じ蒼さを湛える池があった。直径はほんの八メートルたらずだが、水深は深く、冷たい水がこんこんと湧き出ているのが水上からでもよく分かった。

 

 砂っぽく熱い風に吹かれながら、アルベルトの喉が期待に弾んだ。無性にそれが欲しかったのだ。冷たく流れる水の味が、空想の体を潤すだろう。アスファルトとコンクリートの現実世界でも同時に唾を飲み込みつつ、彼はゆっくりと水面へ降りていった。全霊で潤いを渇望していた。夢はそこで掻き消えた。

 

「どうした?」

 

 フランクリンの大きな顔が覗き込んだ。彼は努めて平静に、平静に見えそうな様子を取り繕った。手元の携帯電話に視線を戻し、キャロルへとデータを送信する。頼まれていた件についての情報だった。もちろん、好ましい形に加工してある。

 

「いや、なんでもないよ。そう、なんでもないんだ」

 

 ショッピングモール近くの通りの隅に、わずかに開けた広場があった。周囲を古びたビルに囲まれており、たまたま、この一角だけ人通りが少なく淋しげだった。その場所で荷物の番に従事しながら、大男のフランクリンと二人きりで、アルベルトは時間を潰していた。無論、禍々しいオーラによる人払いで、近くに他人は一人もいない。あんな幻を見たせいか、ひどく喉が渇いていた。

 

「それにしても遅いね。女性陣は」

「なに、女の買い物なんていつもこんなもんさ」

 

 慣れた様子で、諦めたように肩をすくめてフランクリンは言った。重厚な上半身が緩やかに動き、傷だらけの顔が微苦笑した。

 

「いつもなのかい?」

「まあな。今日だってきっと、お前が来てなきゃオレ一人だ」

 

 助かったぜと感謝された。確かに、と彼は旅団のメンバーを思い出す。少しの用事程度ならともかくとして、気ままなショッピングまで付き合ってくれそうな人物など、フランクリンを除いていそうになかった。あるいは彼が知らないというだけで、他の団員達にも、意外な一面が隠されているのかもしれないが。

 

 しかし、とアルベルトは一つ疑問に思った。エリスと買い物に出かけた経験は多々あったが、これほど長々と感じた憶えは一度もなかった。むしろ当時の彼でさえ、その行為を楽しんでいたのである。

 

 エリスは余計なものを買わなかったが、時には、なんでもない小物や装飾に無邪気な興味を示しもした。それの購入を提案するのは、常にアルベルトの役目だった。だが、エリスが了解したことは一度もない。彼もことさら勧めなかった。言葉を交わさずとも理解していたのだ。それが彼女の本心だと。今思えば、あれは二人そろって逡巡そのものを楽しんでいたのか。不思議なものだと彼は思った。

 

 そのように考えを巡らせていると、また、この広場に気配が一つ進入した。今日で何度目のことだろうか。いささか辟易しながらも、アルベルトは視線で残骸を数えてみた。もう六つにもなっている。そして、これで七つにも達するのだろう。だんだんと慣れてきた感すらあって、それが最も憂鬱だった。

 

 隣のフランクリンをちらりと見る。無言で先を促してきた。なので、上半身の些細な身じろぎで、アルベルトは大まかな方向を伝達した。別段、慎重になっていたのではなかったが、逃走されて仲間を連れてこられるのだけは避けたかった。大きな右手が気だるげにかざされ、先端が外されたフランクリンの指が、発見した気配を正確に捉えた。相手も異常に気付いたのか。とたんに絶に綻びができる。鍛錬の精度が甘かった。マフィア所属の能力者の一人か、もしくは、たまたまヨークシンに訪れていたプロかアマチュアのハンターか。どちらにせよ、敵として警戒に値するような実力ではない。念弾が何発かやる気なく撃ち出され、隠れていたコンクリートの物陰ごと、いとも容易く吹き飛ばした。血の滲むピンク色の肉塊が、また一つ増産されただけだった。きっと、蝿たちにとっては朗報だろう。

 

「多いね。それとも何時もこんなものかい?」

「いや、確かに多いな。懸賞金でも懸けられたのかもしれねぇが……。ま、お前のおかげで雑魚の群れを掃討しなくて済むのは楽でいい」

「掃討向きの能力のくせによく言うよ」

 

 この付近に、一般人はまず近寄らない。アルベルトが拡散させている害意あるオーラが、人という種族を拒んでいるのだ。纏を習得してない人間では、ここの空気にはまず耐えられない。自覚して恐慌状態に陥る以前の濃度の距離で、無意識の防衛本能が足を反らせてしまうのだ。だがそれ故、能力者には逆に目印になる。

 

 空は、もうだいぶオレンジに染まってきた。アルベルトは時間を確認したが、女たちは少し遅い。本日の地下競売が中止だという情報こそ独自に入手してはいたのだが、団長からは未だ、六時の集合命令を撤回されてはいなかった。

 

「なあ、お前のオーラについてだが、訊いてもいいか」

「どうぞ。でも、答えられるかどうかは分からないよ」

 

 フランクリンはわずかに逡巡した様子を見せたあと、アルベルトに深い視線をやった。

 

「本来なら団長以外が尋ねるようなもんじゃねえが、お前のオーラには憶えがある。正確には、そのオーラを纏っていた人物にだ。金髪でドレスを着込んだ女だった」

「……」

「もっとも、質も量も向こうが圧倒的に上だったがな」

 

 アルベルトは肝心の質問に黙ったまま、だろうね、とそれだけについて相槌を打った。

 

「話したくなけりゃ話さなくていい。だが旅団に入った以上は、いざとなれば団長の命令が最優先だ。お前の事情は知らないが、それだけは肝に銘じておけ」

「フィンクスにも同じことを言われたよ」

 

 アルベルトは柔らかく微笑んだ。ひたひたと押し寄せる慢性的な頭痛に耐えながら、平常を装って微笑んでいた。不自然さが、許容地を越えてしまわないように。そうか、とフランクリンも頷いた。

 

「まあ、ブラックリストハンターなんていくら御託を並べても半分犯罪者みたいな連中だ。中には賞金首と兼業してる奴もいるんだってな。だが、お前は仁義までをも裏切った。何か事情があるんだろうが、そいつはお前と団長だけが知ってりゃそれでいいさ」

 

 穏やかに、瞼を閉じながらフランクリンは言った。アルベルトが合わせて頷くと、左肩にちりりと違和感があった。彼がそちらを眺めると、物陰のむこう、小さな影が微かに見えた。昆虫、恐らくはハチかアブであろう。理論的な思考はそれで安心しようとしたのだが、感性は違和感を発信した。ふと思い至る。なぜ、こんなコンクリートの街中で、濃密な害意あるオーラのそばで、昆虫が一箇所に留まっているのだろうか。

 

 密やかに特徴を観察する。昆虫はシビレヤリバチと同定できた。森林を好むハチであるが、そもそもこの大陸には生息しない。どこかで飼育されていたのだろうか。養蜂には向かない種類のはずなのだが。

 

 ビルの陰に沈んでいく夕日の中、広場に、また、新しい気配が現れていた。

 

 

 

 ラリった格好の男性が、マイクを片手に叫んでいた。条件競売はかくれんぼ。報酬は一名につき三十億ジェニー。標的は合計十三名、落札条件は身柄の譲渡。だが、そんな雑音はどうでもよかった。

 

 少女は愛しささえ覚えながら、その紙切れを抱きしめた。目には涙が溢れていた。感謝と慈愛と感動と、灼熱の憎悪が込められていた。信じてもいない神に祈りを捧げた。生きているうちに会えたのだ。生きている意味に会えたのだ。

 

「やっと会えた。会えましたよ、こんなにも早く。あぁ……、ビリー……。良かった」

 

 再びキャップを目深に被り、男装しているにも関わらず、彼女は周りも気にせず呟いた。ここにはいない愛しい人に、万感の喜びが届くように。

 

 手の中にあるのは一枚の手配書。高額な賞金が懸けられていたが、彼女が注目したのはそこではなかった。隣でキルアが見つめていた。彼は当初、この紙を目にして驚いていたが、そこには感情的な怒りと冷徹な計算が混じっていた。横から覗き込んだビリーが内容に気付き、食い入るようにひったくるまでは。

 

 まるで何らか監視カメラの動画から、静止画を抜き出したかのような俯瞰の画像。デジタル処理で鮮明さを無理に上げた際の、独特の不自然さがそこにあった。十三も並ぶ顔の中から、最初に目に入った男がいた。後ろに流した豊かな髪、豊富なもみあげ、野性的ながら端整な顔。忘れもしない。あの時少女が対峙し逃げた、そして再び邂逅した時、巨礫を投げてきた野人だった。驚愕しながら隅々まで見ると、いくつも記憶にある人物が写っている。そして何よりあの二人、黒いコートを着た黒髪の男と、濃いめの金髪の優男。

 

 ああ、と少女は感嘆した。あの時は顔すら忘れてしまったなんて言ったけど、嘘だ。こうしてみれば瞭然だった。心に雷鳴が轟いた。この二人、少なくともこの二人のうちのどちらかが、あるいはきっと両方が、あの眼差しを持っている。

 

「繰り返します、報酬は一名につき三十億ジェニー! 十三名全て捕らえると、三百九十億ジェニーもの大盤振舞でございます! 無期限、生死不問、もちろん手段も問いません! 皆様、早い者勝ちでございます!」

 

 地下に設けられた会場の中央、設置されたリングで司会が煽る。聴衆が破格の報酬に湧き上がった。だが、かくれんぼの参加料は五百万ジェニー、彼女に払える金額ではない。手段は選んでいられなかった。

 

「おい、待てよ」

 

 ためらわず歩き始めたビリーの肩を、後ろからキルアが掴んで止めた。

 

「離して。私はこれをもらっていくわ」

「どうすんだよ。オレたち金なんて持ってないだろ」

 

 そもそも、無意味だ。この場で払う金などは、あからさまに体面の取り繕いだった。払おうと考えるだけ馬鹿馬鹿しい。おそらくしかるべき方面に当たったなら、こんな紙切れの十枚やそこら、無料で入手できるだろう。人脈か手腕があればの仮定であるが。

 

「ええ、そうね。でもそれがどうしたの? ここの男たちに身を売ってでも、私はこれを持ち帰ってみせるわ」

「っ! そういう女かよ、お前は」

「ええそうよ。幻滅した? そう、それが利口でしょうね。さよなら、キルア。あなたたちとは友達になりたかったわ。結構、好きだったから」

 

 未練も躊躇も見せず去っていこうとするビリーを再び強引に引き戻して、キルアは力ずくで向き直らせた。彼女は憤怒の相で睨み付けた。

 

「だから待てって! オレに任せろ。オレだってそいつが必要なんだ!」

 

 眼前で小声で怒鳴る彼に、さしものビリーも硬直した。そして一度冷静になる。しかし、これはどうしても欲しいのだ。少女の目的を達するために。

 

「……でも、キルア」

「任せろって言ったぜ」

 

 自信に輝く少年の瞳に、少女ははっと息を飲んだ。奥底に除く悪戯っぽさが、冷酷さの混ざった遊び心が、微かに誰かのものに似ていたのだ。本当に、ほんの微かだったのだが。

 

 そして、二人は並んで出口へと歩いた。押し合う客たちで込み合っている。興奮で殺気だった筋者達の行列の中、小さな体格の子供が二人、寄り添うように沈黙していた。

 

「おっちゃん、オレ達はパスね」

 

 受付に設置されたテーブルで、キルアは投げ捨てるように紙切れを返した。いかにも興味がなさそうに、すたすたと無造作に去っていく。手を繋がれて導かれる隣のビリーは、深く被ったキャップの奥で、悲痛に目を伏せて耐えていた。

 

 途中、何度か他の客とぶつかりそうになりながらも、彼らは早足で地上に出た。外は暗くなっていた。興奮の熱気から開放されて、レンガで鋪装された洒落た通りを、二人は押し黙って進んでいた。

 

 しばらく歩いていただろうか。ふと、少女はキルアの手をぎゅっと握って、道の真ん中で立ち止まった。後ろを歩いていた男性が、迷惑そうに避けていった。キルアも無言で立ち止まり、ややあって後ろを振り向いた。少女は彼の目をじっと見つめたが、気まずさや焦りは見受けられない。知らず、赤褐色の瞳が濡れていた。嗚咽をこらえながら声を出した。

 

「説明してちょうだい。何か試して、失敗したの?」

「いんや、全然。むしろ簡単すぎてあくびが出たよ。あいつら、懐に無警戒に入れてるんだぜ?」

 

 ズボンのポケットをごそごそとあさり、キルアは何かを取り出した。折りたたまれた数枚の紙片。印刷された内容を目にしたとき、ビリーは信じられない気持ちでいっぱいになった。

 

「とりあえず五枚。足りなかったか?」

 

 全身から湧き出た感激にまかせて、少女は飛びつくように抱きしめた。恥も外聞も気にせずに、首筋にすがって震えていた。銀髪の少年は驚きながらも、しばらく、彼女のしたいようにさせていた。

 

 

 

次回 第二十七話「スカイドライブ 忍ばざる者」



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第二十七話「スカイドライブ 忍ばざる者」

 稜線の向こうに陽は沈み、空は、だんだんと薄暗さを増していった。青から黒へグラデーションする天空で、夕焼けの残響だけがほのかに赤い。地上では涼しい風が吹き抜けて、秋の匂いが漂いだした。どこかで犬が鳴いている。

 

 人気のない寂れた広場に佇みながら、アルベルトとフランクリンは新たに増えた気配の方向を見つめていた。数は四つ。多いが、じきに少なくなるだろう。

 

「ごめんね、遅くなって」

「おう、戻ってきたか」

 

 まず現れたのはシズクだった。いつも通りのパンツルックで、大きな眼鏡をかけている。手には、恐らく三人分の買い物だろう、左右それぞれ数個の紙袋を下げて歩いてきた。一つ一つは大きくはないが、合計である程度の量にはなっていた。だが、華奢な体つきの彼女がそれらを苦もなく持ち運び、芯をふらつきもさせずにやってくる。もし一般人が目撃したら、若干の違和感を得たかもしれない。そして、後ろからはマチが続いてきた。こちらはいつもの装束とは印象の異なる、カジュアルなトレーニングウェアに身を包み、髪をナチュラルに下ろしていた。彼女は買い物袋を下げてないが、その代わり両肩に人間を担いでいた。男と女が一人ずつ、どちらも未だに生きていた。

 

「で、この二人は?」

 

 どさりと落とされた男女を前に、アルベルトが彼女たちに質問する。彼が尋ねたのは正体ではなく、ここに連れてきた理由であった。ただの襲撃者であったなら、その場で殺していたはずである。運んでくる理由は何もなく、生かしておく理由は尚更なかった。

 

「見覚えないのかい? こいつら、アンタの名前を呟いてたから、一応拾ってきたんだけど」

「ああ、なるほど。どれ?」

 

 女性陣の近くまで彼は進み、苦痛に身悶えている男女の様子を観察する。眉間にわずかに皺が寄り、何かを考え込んでいる様子であった。それを後ろから眺めながら、マチに対してフランクリンが聞いた。

 

「ん? キャロルの奴はいねぇのか」

「アイツは獲物を狩りに行ったよ。団長の許可も得たようだし、別にいいだろ」

「そりゃそうだが、よかったのか、一人で行かせて」

「今回はきっと大丈夫さ。勘だけどね」

 

 数十秒ほど無言でいた後に、アルベルトはマチが担いできた二人の片割れ、小柄な男に語りかけた。ターバンのような帽子が特徴的な、小動物じみた人物だった。その帽子をアルベルトは手の甲で乱暴に弾き飛ばし、厳然たる様子で頭を無理やり上げさせた。

 

「それで、君は?」

「ア、アルベルトっ……! お前、やっぱりっ!」

「そうだけど」

 

 髪を掴まれ、殴打された痕の残る顔を持ち上げられて、男は苦悶の表情で彼を見上げた。血の滲む唇を小さく神経質に震わせて、両手を必死に握っていた。それは屈辱か死の恐怖か、体が引きつったように震えている。驚愕、混乱、不信、悔恨、憎悪。彼の顔に浮かぶ百面相は、傍目に観賞する分には滑稽だった。しかしアルベルトは不機嫌さを一層強く表して、男の頭部を路面に叩きつけるように投げ捨てた。

 

「……ああ、思い出した。ハンター試験の時の、脱落した」

「知り合い?」

「一応ね。何でこんなところに居るのかは分からないけど」

 

 シズクが隣から覗き込む。アルベルトは頷き、冷たい瞳で続きを促す。どうしてこの場所に現れたのか、説明を無言で求めたのだ。オーラの流れが彼に向けられ、無造作に撒き散らされていた凶暴な気配が、ポックルの周囲をぞろりと舐めた。リスのように震え上がった彼に向かって、アルベルトは緩やかに右手を指向させた。欠片も力のこもらぬ手の平に、大砲の如き迫力がある。穏やかなアーチを描く五指の奥に、底知れぬ殺意が垣間見えた。

 

「答えたくないなら、それでもいい。……さよならだ」

「やめなさいっ!」

 

 女の叫びが悲痛に響いた。ポンズだった。帽子はない。未だ起き上がることができないまま、上半身だけをどうにか腕で持ち上げて、必死で声を張り上げている。顔を真っ赤に上気させて、野良犬の如く牙を剥いて、盛んに怒りを外部に示している。旅団員が一斉に彼女を見た。芥としか認識していなかった人物に対して、好奇心の視線が集中したのだ。誰かが気まぐれを起こしたら、次の瞬間、彼女は血と肉の無残な混合物になっていただろう。それでも、彼女は声帯を震わせるのをやめなかった。圧倒的な実力差と絶望を体に刻み付けられていてなおも、声だけは痛みを決して感じさせない。

 

「あなたねっ、こんな外道に落ちたの、あの子は知ってるっていうのっ!?」

「君にはまだ聞いてないよ」

 

 彼女の腹部に、アルベルトの蹴りが穿たれた。一挙動で移動し、一拍子で放たれた強烈な一撃。それはポンズの体を軽々と遠く吹き飛ばし、反対側の建物の壁に激突させた。広場の隅にゴミが増えた。

 

「念は覚えたようだけど、まだまだ戦うには弱すぎる。ま、一応基礎だけはできているね」

 

 彼は一言感想を述べた。極めて事務的な口調だった。ポンズはかろうじて生きていたのだ。纏を維持できていたおかげだった。蹴られたショックでほどけていたら、彼女の肉体の強度では、内臓が破裂し背骨が折れていたであろう。しかしそれもどうでもいいと、アルベルトは再びポックルに振り向いた。だが、傍観していたマチが言った。

 

「今、あの子って言ってたね」

「さあ、心当たりはないけれど、気になるなら彼女から先に尋ねてみようか」

 

 言って、アルベルトはポンズを眺めたが、ふと、思い出したように言葉を紡いだ。

 

「そういえば、彼女、帽子をかぶってなかったかな?」

「ああ、あの蜂かい? 潰したよ、全部」

 

 なるほど、とアルベルトは納得した。ポンズの操る蜂の個体数と毒はある程度厄介かもしれなかったが、何のことはない、手数で上回ってしまえばいいのである。おそらく、攻めてくる順から一匹一匹丁寧に潰していったのだろう。マチの素早さと器用さなら容易いことだ。そして、最後には帽子そのものが破壊された。彼女の両手が汚れていないことを鑑みると、蜂の体液や残骸はシズクが吸い取りでもしたのだろうか。

 

「や、やめろ……。やるなら、オレからやってくれ。頼む」

 

 ぼろぼろの体を引きずって、ポックルがアルベルトの膝に抱きついていた。俯いた顔は見えないが、体は恐怖に震えていた。時間稼ぎと呼ぶにも馬鹿馬鹿しい、妨害にもならない行為だった。アルベルトは簡単に振りほどき、鉄のように硬い無表情で、つまらなそうに彼に殺意を向けた。一応周りに確認の視線をやったのだが、誰一人それ以上用件はないようで、一様に頷きを返された。しかしそのとき、濃紺に染まった西の空に、黒い点がぽつんと増えた。

 

「あれ、殺やらないの?」

 

 シズクが疑問を呈したが、アルベルトは空の点を顎で指した。黒点は見る間に大きくなり、数瞬後、新たな人物となって広場の地面を強かに揺らした。墜落とも形容できようかという速度である。剃髪で、黒衣に身を包んだ男だった。四肢は長く、メリハリのはっきりした筋肉が猫科の猛獣を思わせた。

 

「誰だおめぇ」

 

 フランクリンが怪訝に問うが、男は完全に無視している。アルベルトをしばらく眺めたあと、冷たい口調で言葉を発した。

 

「よう、変わったな」

「おかげさまで。さすがに君のことは憶えてるよ、ハンゾー」

「そうかい。ま、なんでもいいがよ。そいつらは返してくんねぇか」

 

 アルベルトは穏やかに笑っている。ハンゾーは針のように佇んでいた。禍々しいオーラが闇にたゆたい、静かに磨かれた忍びのオーラが、正面からそれと対峙している。ただ、無言。しかし長くは続かなかった。

 

「返せねぇなら力ずくだ」

 

 ハンゾーの周辺の空気から、微かだが、硬質な殺気が出現した。ごくごく微量の風切音。ちらちらと、夜の風景に瞬きが見える。その正体が何なのか、アルベルトが推察した時には遅かった。

 

「はっ!」

 

 気合一閃。ハンゾーが踏み込みと共に手刀を薙いだ。相変わらずの卓越したバネ。だが、アルベルトも見切って後ろへ退いた。お互いに様子見の小手調べ、だった、はずだった。さざ波の立った心に従い、アルベルトは横へと跳んでいた。直後、得体の知れぬ物体が、高速でいくつも飛来した。彼がもといた空間を、視認できぬ何かが切り裂いていく。ささやかな風が吹き抜けた。

 

 ハンゾーは隙を見逃さなかった。着地直後のアルベルトへ、俊敏な肉体が接近していた。低い位置から手刀が貫く。ただの徒手であろうはずがなく、不可視の刃が添えられていた。アルベルトは紙一重で辛うじて回避し、腕を取って路面へと投げようとした。だが、それすらも中断して後ろへ跳んだ。脚の筋肉を無理に酷使し、強引に地面を蹴って逃げおおせたのだ。路面に十センチほどの裂傷が穿たれていた。

 

 右腕の皮膚が微かに痛む。触れると、指先に血液が付着した。傷口は恐ろしいほどに鋭利だった。至近距離からの誘導攻撃。最後の手刀と同時の刃は、かわしても気配が消えなかった。そしてアルベルトは理解した。気付かなければ死んでいた、と。

 

 強い。アルベルトは実感を伴って認識した。今年の一月に試験を終え、その後に念に触れただろうにこの練度。禍々しいオーラにも小揺るぎもせず、元より命を奪うのに躊躇がない。そして、能力もシンプルで強力だった。

 

「大気の操作、か。便利そうだ」

 

 アルベルトは、そして傍観していた団員達も能力の正体を悟っていた。風の念弾、圧縮された空気の円盤。彼の故郷に伝わる手裏剣という名の武器にも似た、変化自在の軌道の刃。接近すれば小太刀にもなり、防御に徹すれば小楯にもなろう。……が。

 

「へぇ、やるじゃないか。体術だけならかなりのもんだね」

「うん。念の方は初心者みたいだけど」

 

 女性二人が即座に見切った。ハンゾーは発こそ習得していたのだが、オーラの流れが硬すぎた。堅も流も、未だに行なう気配はない。念能力者同士の戦いでは、それは致命的に不利だった。しかし、弱点を補って余りあるほど、輝かしい才能を秘めている。能力もいやらしいタイプではなく、戦って楽しめる獲物だろう。

 

 ふと、アルベルトが何かを感じ取り、地面を鋭く蹴って跳躍した。瀑布の如き念弾が、射線上の仲間も気にせず掃射される。生命力の濁流がハンゾーを飲み込み、向かい側の建物に大穴を開けた。余波でコンクリートが粉砕され、粉塵が辺りに巻き上がった。

 

「……つくづく、見下げ果てた奴らだな」

 

 土煙の中から、ハンゾーの声が聞こえてきた。多数の気流の円盤が、半球上に彼を取り巻いて守っていた。わずかな反射率の違いだけが、微かに瞬くきらめきだけが、本来は肉眼で認識可能な全てであろう。しかし、今は粉塵が巻き込まれており、無色透明の円盤が、刹那的に姿を晒していた。それは十センチほどの円形で、厚みは無いに等しかった。

 

「好機と見れば仲間ごとかよ。ええ?」

 

 ハンゾーは怒りをあらわにした。が、アルベルトは微塵も気にしていなかった。この程度、幻影旅団の認識では、ほんのささやかな稚気であった。もとより彼らはその多くが、一対一を最も好んでいる。だからこそ、余計な手出しは滅多にしない。今回のフランクリンの攻撃も、それだけ手を抜いていたのである。

 

「ははっ、おもしれぇ。おいアルベルト、こいつは譲ってくれねぇか」

 

 だが、同じく念弾を使う者として思うところがあったのか、フランクリンが珍しくもそんな要求をした。獰猛な、血の匂いのする笑みを浮かべている。拒むことはできたであろう。暗黙の了解でしかなかったが、獲物は早い者勝ちが基本だからだ。しかし、アルベルトは数秒ほど考えに沈んでから、やがて、仕方がないなと苦笑して見せた。とても明るい笑顔だった。

 

「団長には上手く言っておくよ、フランクリン」

「わりぃな、こいつは貸しってことにしてくれていいぜ」

 

 上機嫌に肩を揺らしてフランクリンが言う。彼はそれに頷いて、マチとシズクの様子を見た。男たちのやり取りの傍らで、彼女たちは既に帰り支度を始めている。買ってきた荷物を一纏めに縛って、シズクが扱いやすくしていたのだ。手伝う余地はなさそうである。

 

「なら、そうだね」

 

 手の空いたアルベルトは独語して、転がったままのポックルの近くへ歩み寄った。未だに満足に立ち上がれず、憎憎しげに彼を見上げてくる。アルベルトはポックルに微笑んだ。羽がもげ、体も半分潰れて死にかけている羽虫に向けるのと同質の、ひどく優しく透明で、興味の見えない表情だった。殺すのだと、周囲の誰もがそう思った。しかし彼はそうしなかった。寝転んでいる羽虫に右足をそっと差し出して、何度か派手に踏みつけた。大きな音が鳴り響き、地面と靴裏の間でポックルの体が幾度か弾んだ。面白いように弾んでいた。ハンゾーの眼差しがさらに凍えた。

 

「しばらく動けない程度に痛めつけておいた。そいつ、逃げ足は見るからに速そうだから、逃げれば殺すとでも脅せばいいんじゃないかな」

 

 苦痛にあえぐ知人をわざとポンズにぶつかるように蹴り捨ててから、アルベルトはフランクリンへさわやかな親愛の表情を向けて言った。どこからから二人分のうめき声が風に乗って流れてきたが、顧みる者は一人もいない。大きな左手が軽く上がって、了解の合図が送られた。

 

「おい、待てよ」

 

 底冷えする声色でハンゾーが言うが、アルベルトは意にも介さない。フランクリンとの戦いは、火蓋が切られる寸前である。他に害を為せるほどの余力など、彼にはあるはずがないと分かっていたのだ。

 

「ねえ、マチがもう行くよって」

「ああ、了解」

 

 シズクに従って追って広場を出た、後ろでは爆音が轟きだす。楽しそうに笑うフランクリンの声が、祭の街に溶け込んでいった。それにしても、運がいい。女性陣と共に歩きながら、アルベルトは密かに彼らに感謝していた。

 

 

 

 クラピカは、限りなく冷静に激昂していた。瞳の奥が熱かった。また、視界が赤くなっている。そのつど戻すのがひと仕事だった。ノストラード名義で借りたホテルの部屋が、一面、炎に包まれているようにも見えている。目を閉じればあの日の絶望が、怨嗟と慟哭が聞こえてくる。空っぽの眼窩の同胞たちが、血液が土と混ざった泥の中を、眼球を捜して蠢いていた。自分の、我が子の、友人たちの眼球を、泣きながら探して這いずっていた。彼らを癒す手立てはない。どんなに腕を伸ばしても、死者には決して届かないから。

 

 やり切れぬ無念に苛まれながら、クラピカは千の夜を超えてきた。もう、これ以上は一夜も待てなかった。既に十分耐えたのだ。今回の機会を逃したとしたら、次は何年後になるか分からなかった。命も、人生の時間も惜しくはなかった。しかし、復讐が日常の一部にうずもれて、いつしか朽ちてしまうのが恐ろしかった。彼は、癒されたくはなかったのだ。

 

 渇いてきた喉を潤すため、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出そうとした時に携帯が鳴った。また一件、ノストラードファミリー所有の拠点が潰されたという旨の報告だった。受話器の向こうのセンリツに、彼は端的に例を言う。手の平にまた少し汗が滲んでいた。喉が熱く、よりいっそう水が欲しくなった。ボスと護衛団の面々は、既に別所に逃がしてある。マフィアとは何の接点も無い女性が借りた部屋であれば、そう簡単には見つかるまい。だが、たとえ暴力を生業とする裏の世界の住民たちが被害者でも、一方的な虐殺というものは業腹だった。旅団の仕業であれば尚更だ。

 

「残る候補地はそう多くはない。いつ来てもおかしくないはずだ。覚悟は、できたか?」

 

 今現在、この部屋にいる唯一の他者に向けてクラピカは尋ねた。彼女は応接用のソファーに深く体を沈めたまま、静かに瞼を閉じている。ともすれば眠っているようにも見えようが、彼はそれが正しくないと知っていた。

 

「できるわけないわ。できるわけが、ないじゃない」

 

 熱っぽく気だるげに瞼を開け、弱弱しく首を振りながらエリスは言った。身に纏うのは黒いドレス。長いスカート、長い袖に絹の手袋、首までしっかり覆うレースの襟元。フォーマルに近い、ドレスコードのあるオークションへ赴くかのような出で立ちだった。そして、この体勢では背もたれに隠れて見えないが、全体的に肌を見せないデザインの中、唯一、背中だけが眩しく開いている。あのハンター試験の時と同じように、これは彼女にとって戦に臨む装束だった。

 

 だが、華美な衣装とは裏腹に、顔色は病的に青白かった。化粧で誤魔化してはいるのだが、頬に紅をさそうとも、生気のなさは瞭然だった。眼光だけは相変わらず美しく燃えていたが、それすらも、どこか疲れを帯びていた。彼女は腰の辺りに指を触れて、ポシェットが無いことに気付いて寂しそうに両手を太腿に乗せた。クラピカの記憶が確かならば、それは以前、兄からの贈り物だったと嬉しそうに語っていたはずの物である。

 

「分かっているだろうが、私はここに来る蜘蛛を、悪戯に一般人を殺戮して回っている人物を殺すつもりだ。例えそれが、あのアルベルトであったとしても。覚悟は、無理にでもしておいてくれ」

 

 クラピカは二つのグラスに氷を入れ、ミネラルウォーターを丁寧に注いだ。氷が冷たく音を奏でる。そして、うち一つを彼女の前のガラステーブルにそっと置いた。誤魔化すこともできた。土壇場まで先伸ばすこともできただろう。しかし、クラピカはそれをよしとしなかった。正直さが今の彼女を傷つけようとも、それこそが誠意だと信じていたのだ。彼女は昨日まで仲間だった。できれば、明日からも仲間でいたかった。左手でグラスを持ち上げて、冷たい水を口に含んだ。

 

 コミュニティーが総力を持って回した手配書は、今朝方遅く、彼の手の届く範囲にも届いていた。その内容を目にしたとき、クラピカは己が正気を疑った。すぐさま協力者に対して連絡を入れが、そこの頃にはもう、瞳は紅になっていた。電話の向こうで話したエリスは、あっと小さく叫びを上げて、それっきり無言で聞き入っていた。

 

 始まりの日だった。あれほど渇望した開幕の日だった。まず、一人目。今夜、少なくとも一人を殺そうと心に決めた。鎖の巻きついた右手をきつく、きつく握り締めながら喉を潤す。沸騰寸前の水のように、纏うオーラが静かに泡立つ。

 

「今、会ってしまえば、アルベルトを憎まないではいられないでしょうね。こんなことを言えば、クラピカ、あなたはきっと怒るでしょうけど、もし誰かの犠牲が必要だったら、わたしが旅団に入りたかった」

 

 絶をしたまま彼女は話した。喋るのも考えるのも辛そうに、一言一言をゆっくりと語る。それは、クラピカには許容できない願望だった。

 

「私の前で、それを言うのか」

 

 向かい側のソファーに腰かけて、エリスをじっと見ながら彼は尋ねた。彼女と仲違いしたくはなかったが、必要なら躊躇するつもりもなかったのだ。だから、見極めようと彼は思った。

 

「ごめんなさい。だけど、わたしを恨んでほしかったの。アルベルトを憎む、全ての人から恨まれたいわ。この身に罪という罪を全部集めて、丸ごと地獄へ持っていきたい。あんな人たちの仲間にならなきゃいけないなんて、考えただけでも嫌だけど、それがアルベルトのためだったら、喜んで体に刺青を彫ったのに」

 

 熱に浮かされ、かすれた声でエリスは言う。まるで子守唄を唄ように、ここにはいない誰かのために、祈りを捧げるように彼女は続けた。

 

「アルベルト、きっととても苦しんでいるわ。だって、とても優しい人だから。苦しまずにいられない人だから」

 

 罪人の個人的心理に限定すれば、罪とは過去の事象にすぎないのだ。それを忌むのは、自身の心に他ならない。彼にまだ心はあるだろうかと、クラピカは冷徹に思案した。少なくとも入手できる限りの情報では、旅団に良心はありそうもないが。

 

「だけど、今はとても嬉しいの。醜い女ね、ほんとうに」

 

 忸怩たる思いでエリスが明かした。協力者に嘘をつきたくないのだろう。そのせいで、例え道が分かれたとしても。苦悩に垣間見えた彼女の誠意が、クラピカにはほのかに嬉しかった。

 

 アルベルトに会ったら、まずは理由を聞き出そう。それが可能な状況ならば。クラピカは密かにそう決めた。エリスの件は抜きにしても、そうでなければ気がすまなかった。例えどんな事情があったとしても、仮初めでも旅団と馴れ合い加担した者を、許せる自信はなかったが。

 

「ところで、話は変わるのだが」

 

 突然の話題の転換に、エリスが軽く首をかしげた。クラピカが気になったのはポシェットだった。あのハンター試験の最中に、彼女はずっと着けていた。大切にしているのは誰にでも分かった。あれを今になって外した訳を、彼はエリスに尋ねたのだ。それが彼女の戦力評価に関わるなら、あらかじめ把握しておきたかった。

 

「戦う力には関係ないわ。つまりね、わたしがあれを置いてきたのは、とても単純な理由なの。汚したくないって、それだけよ」

 

 くすりと笑ってエリスは答えた。

 

「戦いの際に湧き出るオーラは、日常の発作とは段違いよ。まして、練をしてしまえばなおさらね。もしも、わたしがその時お守りみたいに、心の支えとして頼みにする品、思い入れのある品を携えたとしたら、果たしてそれはどうなると思う?」

 

 大切だからこそ汚したくない。害意あるオーラに晒したくない。エリスは寂しそうにそう言った。支えにしたいのに頼れない。それは、果たして品物だけの問題だろうか。クラピカが懸念に沈んだ時、ノックの音が部屋に響いた。軽く優しい音だった。

 

 

 

 マチとシズク、そしてアルベルトの三人は、人目の少ないルートを選び、アジトへ向かって駆けていた。常人が目を見張るであろうスピードも、旅団員にとっては小走りにすぎない。路地を、空き地を、ビルの屋上を彼らは走った。あまり飛ばさず、時には談笑しながら走っていた。わざわざ素人の目を避けたのは良心ではない。別段、誰の目についても構わなかったが、どちらかといえば今は、その方が面倒だっただけである。

 

「見られてるよね」

 

 確認するようにシズクが言った。無論、他の二人も気付いている。細い車道を飛び越えながら、マチがいぶかしんで周りを見渡す。

 

「妙だね。ねっとりとこびりつくのは分かるけど、甘ったるい匂いのする視線だ。ヒソカじゃないのかい、これ」

「ヒソカならこんなに下手じゃないさ」

「そうなんだけどね。なんだか、わざと悟らせてるような感じがしないかい?」

 

 この場にいない奇術師の存在を思い出して、マチは違和感に顔をしかめる。怪しいとまではいかないが、今ひとつすっきりとしない様子だった。アルベルトはシズクと顔を見合わせたが、お互いに言えそうなことは何もなかった。

 

「勘?」

 

 シズクが尋ねマチが頷く。根拠のある考えではないようだ。とはいえ、軽軽しく無下にできるものでもない。このような時、マチの直感は尋常な思考の一歩上を軽く行く。

 

 一行は川岸に差し掛かった。河口が近いこの場所では、流れは幅広く緩やかになり、広大な空間が開けている。夜を照らすヨークシンの街の千の光が、流れる水の向こうで星々のように灯っていた。

 

「よし、一回止まろう」

 

 アルベルトの提案で彼らは止まった。柔らかい草の生える川岸に、三人分の靴底が急停止する。地面に溝が刻まれて、潰された草の汁の新しい匂いが、夜の茂みに立ち昇った。ネオンの輝く大都市で、川面は意外なほどに静かだった。

 

「どうするの?」

「僕が残ろう。二人は迂回して先に帰ってくれ。この川沿いに絶で走れば、そう簡単には見つからないさ」

「いいのかい」

「女性の前だし、少しは格好つけないとね。それに、ほら、僕は一番目立つから」

 

 やや自嘲気味に彼は言った。確かに、絶で尾行を撒くことは、アルベルトにだけは不可能だろう。彼の発案した対処法は、至極真っ当なように傍目には思えた。

 

「悪いね」

「あ、一つだけ、団長に電話してくれないか。僕とフランクリンが遅れるって、なるべく早めに報告しておいて欲しいんだ」

「ああ、それぐらいならお安い御用さ」

 

 マチが了解するのを確認して、アルベルトは心からの安堵に微笑んだ。さばさばした性格の彼女であれば、拒絶するはずがないと分かっていた。だがそれでも、ありがたい事この上なかった。

 

「ねえ、アルベルト」

 

 すぐ隣、今にも肩が触れそうな至近距離で、彼を見上げてシズクが言った。

 

「いま、すごく優しい顔してた」

「……そうかな」

「うん」

 

 アルベルトは自分の頬に手をあてた。表情を崩した自覚はなかったが、触れれば少し緩んでいた。楽しいのか、嬉しいのか、愛しいのか。理由は彼には分からなかった。童顔なシズクの眼鏡の奥、混じりけのない純粋な瞳の透明さに、とほうもない寂寥を与えられた。それが、無性に悔しくて悲しかった。

 

「気をつけてね」

「無茶するんじゃないよ」

 

 去り際、何気なくかけられた一言が、彼の胸中に残響している。それでも、立ち止まるわけにはいかないのだ。胸元の翡翠を握りながら、彼は二人が遠くへ立ち去るのを厳かに待った。祈るような神妙さで、銀の鎖の冷たさを感じていた。風が涼しく、夜空は暗く、草原から虫たちの営みが聞こえてくる。やがて、辺りの気配を慎重に探り、一人きりである事を確認した後、アルベルトは首飾りを取り外して、ハンカチで大切に包み込んだ。

 

 

 

 ハンゾーはほぞを噛んでいた。攻防は一進一退が続いている。彼の善戦が故ではない。彼が善戦できるよう、相手にいざなわれているのである。舐められていた。そして、それを許してしまっているのは自分の無力だ。それが、ハンゾーをどうしようもないほど苛つかせた。体術はハンゾーが一枚上、とりわけ俊敏さは格段に上だろうが、念の技量で致命的に敵に劣っていた。フランクリンの能力はシンプルだったが、それ故に堅実で穴がない。

 

 どうにもまずい。おそらく相手は尻上がり。今に、この程度の遊戯では満足できなくなるだろう。が、まだ温まっていないにもかかわらず、あの暴力的な数の念弾は、ハンゾーの念を軽く上回って余りあった。

 

 広場は見るも無残な姿に変わっていた。コンクリートに深い穴が空き、砕け、焼け焦げて異臭が漂っている。建物のガラスは尽く砕け、この一角だけが、さながら滅びた都市の如く、黒い廃墟に囲まれていた。

 

 ゆったりと、淀みなく指先が向けられる。両手に重機関銃を付けてるようだ。フランクリンは単身で兵器に近い。恐らくあれは、軍用の装甲車すら砕くであろう。念という技能と人類の可能性に驚かされる一方で、ハンゾーは世の理不尽に笑いを洩らした。せめて、得意な形で戦えれば。そう悔しがってみたところで、現実の前には無為でしかない。にやりと、敵の頬が釣りあがった。まだいけるだろう? そんな意思が言葉を介さず伝わってくる。そうだ、まだいける。ハンゾーは背中の気配を感じて己を鼓舞した。

 

 黒焦げてしまった世界の中、彼の後ろ、わずかな扇状の領域だけが、薄汚れた灰色を保っている。

 

 指先にオーラが集中される。密度は先ほどよりもさらに色濃い。ハンゾーはそれに対抗すべく、夜風を束ねて盾を造った。まだいける。そう、まだいけるはずだと決めたのだ。本来、彼は命を見切ることに抵抗はないが、手加減された上で見捨てれば男がすたる。舐められることは嫌いだった。

 

 彼が背負うは二人の命。仮初めとはいえ、仲間とも思った男と女。それをどうして、この程度の窮地で捨てられようか。【風盾の術(スカイドライブ)】、そう名付けた能力を回転させる。刃が回り、微細な風切り音が鳴り始める。気流の速度差で生まれた渦の音だ。切れ味は絶世。未だ実戦での活躍は乏しいが、修行では金剛石すら切ってみせた。

 

 フランクリンが念弾を掃射した。雪崩のような物量が迫る。今にも飲み込まれそうになる光景の中に佇みながら、ハンゾーは鋭く目を見開いた。数多の念弾の一つをめがけ、風の手裏剣を打ち込んだ。飛翔する両者は高速で迫り、直後、一つの念弾が二つに裂けた。念弾と念弾が衝突し合い、爆発の連鎖が巻き起こる。オーラの粒子が飛び散って、視界が光で飽和した。だが、ハンゾーはその最中で尚も両目を見開いた。これで終わりなら苦労などない。稼げた時間は一秒に満たず、後から続く念弾が、連鎖そのものを勢いに任せて押し流してくる。そこに彼は二撃目を投じた。轟音が空気を振動させる。三撃目、四撃目、怒涛の念弾に終わりは見えず、彼は全速の体捌きで渾身の風盾を打ち込み続けた。半瞬休めば次はない。一手誤れば確実に死ぬ。集中が切れれば全てが終わる。後ろの二人を守るために、ハンゾーは終わりの見えない悪あがきを続けていた。

 

 どれほど風盾を投げただろう。射出が始まってまだ何秒も経ってないが、打ち出した風盾は五十を超えた。敵のオーラの底は見えず、ハンゾーのスタミナには限りがある。それでも奥歯を噛み締めながら、無謀な抵抗に興じている。そのとき、背中で誰かの気配が動いた。ポックルだと、後ろを見ずとも彼には分かった。ポンズに肩を貸していた。

 

「大丈夫か?」

 

 戦いながらハンゾーは尋ねた。さっきまでなかったはずの余裕さえも、仲間の無事を知れば湧き出てくる。空間を揺るがす爆音にまぎれて、ああ、と、かすかな肯定を確かに聞いた。きっと生まれたばかりの子鹿のように、脚を震わせているのだろう。それでも、良かった。

 

「幸い、手足はほとんど痛んでねぇ。ポンズも、……命に別状はないみたいだ」

「そいつぁ良かった。上出来だ。早く行け」

 

 幸運も、二人を一箇所にまとめて捨てたアルベルトの傲慢もあっただろう。しかし彼ら二人の修行の成果が、なによりもこの場に希望をたぐり寄せた要素なのだ。彼は確信を持って考えた。半年は、決して無駄ではなかったのだと。

 

「十秒。それだけでいい、持たせてくれ」

 

 十秒、地獄のような永劫だった。悪魔のような宣告だった。フランクリンが唇を舐めた。遊びの時間はもう終わった。これからはきっと全力だろう。待っているのは破滅だけだ。すまない、と、ポックルが低く呟いた。

 

「はっ、楽勝よ」

 

 が、三人を待ち受けていた宿命を、ハンゾーは不敵に笑い飛ばした。たったそれだけでいいのかと、むしろ物足りなさを演じてみせる。ポックルが駆け出した気配があった。聞こえてくるのは、走るともいえない遅い足どり。だが、背骨にひびが入っているにしては脅威の早さだ。気付かないはずがないだろうがと、彼は心の中で低く笑った。遊びの少ない適切な打撃は、きっと仲間の女によるものだろう。

 

「はっは! お前ら本当におもしれぇなぁ!」

 

 フランクリンが高らかに笑う。纏う気配が決定的に変わった。弾幕が全くの別物に切り替わった。質が、量が、圧倒的に異なる。念弾が風盾を粉砕した。ハンゾーは驚愕に停止した。あの無数のオーラの塊が、その一つ一つの小さな弾が、彼の渾身を凌駕する。悠久を流れる大河のようだと、正面から飲み込まれる刹那の前、ハンゾーは畏敬すら込めて感嘆した。

 

 それでも、彼はここで死ぬわけにはいかないのだ。死ぬなら任務で。生まれた時からの誇りであり、ハンゾーの存在する理由でもある。そう、彼は根っからの忍であった。

 

 そもそも、忍者にとって道具とは、単一の用途のためにはない。一つの道具で万難を切り抜け、万能を誇る道具を生み出す。それこそが忍の極意であり、誰でも知ってる基礎でもあった。当然、彼が編み出した能力も、攻撃や防御には収まらない。鍵を切り裂き、捕らえた敵を拷問し、木々を倒し、土を掘って塀を穿つ。そして、なにより。

 

 念弾の暴雨に飲まれる寸前、ハンゾーは足元の風盾を踏みしめた。風を圧縮した円盤は、彼を乗せて空を跳ぶ。その勢いに乗りながら、更なる一歩を踏み出した。恵まれたバネで風盾を蹴り、即座に次を生成する。全身の筋肉を躍動させ、彼は空へと駆け上がった。一歩のごとに風を踏んで、加速に加速を繰り返す。フランクリンが指を空に向け、ハンゾーを墜とそうと追従してくる。が、彼は縦横無尽に蛇行して、卓越した動きで怒涛の瀑布をかわしてみせた。オーラを放出するだけの飛行能力者では真似できない、飛んでいながら身体性能を無駄にしないが故に可能となる、人智を超えた俊敏性。

 

 夜空は暗く、街は明るく、空気は冷たい。スカイドライブ。彼の編み出した念能力を、足元に踏みしめながら宙を駆ける。念弾を避けながらループを描き、フランクリンの頭上へ向けて急降下した。地面に吸い込まれるように走っていく。二人の視線が交差した。大地からとびきり濃密な雨が昇り、空からは一人の男がまっ逆さまに駆け下りた。

 

 念弾は極太のレーザービームのようだった。異様な連射で途切れがなく、極光を纏って空へと消える。念能力者にだけ見える灯台だった。恐らくハンゾーの防御では、かすっただけで死ぬだろう。機関銃陣地への突撃に近い、自殺同然の攻撃である。だがそれでも、竜巻のような螺旋を描き、全力のダッシュで走っていく。

 

 スピードの乗り切ったハンゾーの動きに、フランクリンの対処が追いつかない。大きな体格が仇になった。低空を駆け抜けながら懐にもぐりこみ、至近から放った断空の一閃。だが、フランクリンは掃射の反動で体をよじった。風盾は敵の長く垂れた耳を一つ切り飛ばし、念弾の瀑布は路面と建物を粉砕する。地面が深くえぐられて、土砂が噴火のように舞い上がった。視力は完全に役に立たない。追撃の念弾ががむしゃらに撃たれ、被害が連鎖的に広がる中、ハンゾーは辛うじて脱出に成功した。

 

 

 

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【風盾の術(スカイドライブ) 放出系・操作系】

使用者、ハンゾー。

大気を局所的に操作して、空中に極薄の円盤を出現させる念能力。

円盤は能力者の意思で自在に操ることができるが、複雑な操作には高度な集中力が必要となる。

 

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次回 第二十八話「まだ、心の臓が潰えただけ」



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第二十八話「まだ、心の臓が潰えただけ」

 日暮れに騒ぎ出した夏の残響のたおやかな風が、だんだんと夜に飲まれて静まっていった。河の周りはやや冷たく、黒く流れる水の上を、街の明かりが揺れていた。遠くに聞こえる喧騒は、排ガスと人々の汗の微細な匂いは、この場所にもゆったりと漂ってくる。水域と街の境界線、斜めに護岸されたコンクリートの道ならぬ道を、一陣の風が吹き抜けていった。影は、速い。道化師と見まごう奇抜な装束に身を包んでいる人影は、尋常ならざる速さで夜を静かに駆け抜けていく。その人物の名を、ヒソカという。

 

 ヒソカの足音は皆無に近く、ただ、風を切る音だけが周囲に広がる。【伸縮自在の愛(バンジーガム)】、彼は、その能力を両の靴底に履いていた。オーラの弾性と粘着性が、最先端のレーシングカーのタイヤよりも鮮やかに、人体と地面の間に理想的なグリップを実現させる。余計な音がしないのは、エネルギーの無駄な損失が極めて少ないが故であった。圧倒的な速力でヒソカは走る。時折、頑丈そうな構造物を見つけては、ガムで自身を引き寄せて、体をさらに加速させた。

 

 ヒソカは獲物を遠望していた。じっくりと愛でるように眺めていた。数は二つ。前方を気配を消して走っている。うち一つは彼のとっておきだ。彼女が携帯電話を懐にしまうのを確認して、ヒソカは表情を歓喜に歪めた。二人との距離はいくらもない。絶をせず近づける限界線を、あと数秒で踏み越えるだろう。残り三百メートルほどの間隔を一挙に詰めるべく、ダイブをかける猛禽の如く、彼は最後のスパートに突入した。脚に巻きつけられたバンジーガムが、外付けの筋肉として収縮する。地面が爆発的に蹴り飛ばされ、ヒソカは弾丸の如く飛翔した。

 

 

 

 ノックはしばらく続けられた。おとなしく、行儀のよいリズムで叩かれていたが、明らかにしつこく怪しかった。クラピカとエリスは顔を見合わせ、お互いに短く頷きを交わした。ソファーから立ち上がって位置につく。クラピカは部屋の中央に、エリスは斜め後ろに控えるように。ドアが外側から爆ぜたのは、それから五秒も経たぬ未来の出来事だった。

 

「さあ、楽しいディナーのお時間よ!」

 

 かつてドアノブだった金属製の残骸をお手玉のように弄びながら、彼女はあっけらかんと立ち入ってきた。豊かな金髪に赤いドレスをおませに纏った、子供と呼んでいい年頃の少女だった。

 

「お前か」

 

 苦虫を噛み潰してクラピカが言う。目の前の人物の襲来ももちろん想定していたが、できれば、別の人物のほうが望ましかった。旅団の一員だという確信がなかったのだ。コミュニティーより回された写真にも、彼女は片影すらも写ってなかった。

 

「まあ、まあ、まあ! 随分とご挨拶じゃないかしら! 酷くないかしら? 私、クラピカを一生懸命探したのよ!」

 

 ぴょんと、嬉しそうに彼女は飛び跳ねて叫んだ。ふわふわに波打つ長い髪が、照明を受けて光をこぼす。優美だが、どこか作り物めいたアルカイクな微笑み。二人を値踏みするかのような青い瞳。

 

「それは、幻影旅団としての用件か?」

「まさか! 私個人からのお誘いですわ。遊びましょう!」

 

 それが罠だという認識もなく、誘導尋問も踏み抜かれる。もはや限りなく黒だという予感があった。一刻も早く断じてしまいたかったが、クラピカははやる己を押さえつけた。一つ足りない。命など惜しくなかったが、目的を遂げずに散ることも彼にはできなかった。中指の鎖を使うには、あと一つ、確実な証拠が、確信できる推理が、心からの納得がいる。それでも、忸怩たる思いが押さえきれない。

 

「せめて、名前ぐらい名乗ったらどうだ、賊」

 

 まあ、と少女は驚いた。白い頬が赤く染まる。大仰な、芝居がかった羞恥だった。ごめんあそばせと早口で言って、彼女はキャロルと名を名乗った。

 

「さあ、エスコートして頂けて?」

 

 一転、挑発的に近づいてくる。老練すら含んだ艶やかな歩み。ゆっくりと間合いをつめる足どりを再び止めたのは、横から口を挟んだエリスであった。

 

「待ちなさい。あなた、本当に旅団の一員なの?」

 

 冷え冷えした眼差しで端的に尋ねる。かすれた、乾いた熱砂のような声だった。キャロルがわずかに眉をしかめた。

 

「ええ、そうよ。あなたは?」

「わたしのことなんてどうでもいいわ。ねえ、アルベルトの名前に心当たりはあるかしら」

「まぁ……」

 

 口元に手を当ててキャロルは微笑む。エリスの無礼を暖かく許すようなませた仕草が、逆に、獲物をなぶる子猫のような、天性の残酷さを浮き彫りにしていた。

 

「ええ、もちろん知ってるわ。とても綺麗に泣く人ね。透明で、今にも壊れそうな無表情で」

 

 エリスがはっと息を呑んだ。全身が小刻みに震えている。そんな彼女をじっくりと眺めて、キャロルは、一言ずつ舌で転がすように問いを投じた。

 

「あなた、彼の、なに?」

「……婚約者よ」

 

 断言に要した微かな間を、キャロルは糖蜜の如き悦楽として受け取ったようだ。エリスの頬がさっと染まり、奥歯が強く噛み締められる。クラピカは右手の鎖に左手で触れた。しっとりと冷たい肌触りが、彼の心に染み込んだ。なら、そうね、といかにも優しげな口調で前置きして、キャロルは祈りにも似た敬虔さで天を仰いだ。

 

「婚約者さんには伝えておくけど、私、あの人の涙の味が知りたいの」

 

 年端もいかぬ少女の瞳が、下卑た感慨に恍惚と濡れる。エリスの顔から表情が落ちた。下唇をわずかに震わせながら、彼女は一歩前に踏み出した。それを、クラピカは左腕を水平に上げて留まらせた。

 

「まて。奴とは、私が先約だ」

 

 エリスと目が合う。明々と燃え盛る灰色の虹彩。その奥深い場所までじっと見つめて、クラピカは己の意志を無言で伝えた。お互いにしばらく相対して、やがて、エリスは何も言わずに半歩さがった。キャロルは、ずっと面白そうに眺めていた。

 

「コミュニティーが配った手配書には、お前の姿は含まれてなかった」

 

 距離を詰め、【導く薬指の鎖(ダウジングチェーン)】を伸ばしながらクラピカは語る。全身からオーラがほとばしって、臨戦の気配がホテルの部屋を満たしていく。

 

「ええ、失礼しちゃうわよね。それは確かに、あの場ではこの服をほとんど着てはいなかったし、あの傷は致命傷に見えたかも知れないけど」

 

 赤いドレスを翻し、紫の爪を伸ばしながらキャロルは笑う。あれに含まれるのは猛毒だろう。どのような効果があるか定かではないが、ひと掠りも好ましくないことだけは自明だった。だが、彼の持つ覚悟と渇望の前には、その程度の脅威では牽制にもならない。

 

 赤く染まった視界をクラピカは駆ける。同時にキャロルも疾走した。両者の速度は室内の距離を一気に削り、爪と鎖が火花を散らした。二人の視線が交錯する。憎しみと憧れが衝突し、殺意にからめて打ち出される。遠心力を利用し鞭のように襲う鎖を、爪が火花を散らして弾き飛ばした。毒を埋め込もうと奔る爪を、宙を舞う鎖が弾いてそらした。

 

 勝てる。息も付かせぬ連撃の中、クラピカは冷徹に彼我の実力を把握した。速さは互角。力と技術はクラピカが上だ。即決の毒爪は鬱陶しいが、裏を返せばそれだけだった。牽制が間に合わなくなった時、彼は勝利を得るだろう。

 

 しかし、敵も蜘蛛。このままで終わるほど軽くはなかった。爪で弾くのが間に合わず、腕を捕らえると思われたダウジングチェーンの一撃が、肉も骨もすり抜けた。想定外の現象にクラピカが驚く。その隙に、彼女は別の方向を見定めた。視線の先にはエリスがいた。獰猛に瞳をぎらつかせて、腰を落として床を蹴った。彼は追い掛けようと踏み込んだが、その時にはキャロルは消えていた。完全に見失った一瞬のうちに、少女の姿は背後にあった。

 

 理想的とも言える完璧な不意打ち。振り向く暇は最早ない。手後れになってからクラピカは悟った。床を蹴ったのはブラフだったと。鎖をすり抜けたのと同じ手口で、そのように見せ掛けただけなのだろう。猛毒の爪が背中に迫る。クラピカの体術では対応できず、エリスの援護も間に合わない。

 

 しかし、問題は何もなかったのだ。

 

 キャロルの腕が唐突に止まった。具現化した鎖が幾重にも絡まり、きつく巻き付いて押し止めている。クラピカが武器としていたダウジングチェーン。探索を旨とするその鎖は、彼がキャロルに捲かれたその直後に、毒爪をたやすく見付け出した。

 

「くっ!」

 

 再び鎖をすり抜けて、キャロルはバックステップで距離を取る。だが、一度見た技は予測可能だ。そもそもこの鎖は本命ではない。クラピカは至極冷静に、静かな哀れみさえも抱きながら、小指の鎖を一直線に射出した。剣状の装飾が施された先端が奔る。それは見事にタイミングをとらえ、彼女の胸の中心に、深々と突き刺さって心臓に達した。

 

「動くな。ここまでだ」

 

 静寂が部屋に訪れた。キャロルの顔に表情はない。窮地に立たされた彼女の姿を、エリスが無言で見つめていた。

 

「なにを、したの」

「掟を強いる戒めの楔だ。私に逆らえば発動し、貴様の心臓を握り潰す」

 

 審判者の如く高圧的に、クラピカは事実だけを淡々と告げる。誇張も虚偽も必要なかった。定められた法を破った時点で、鎖は自動的に裁きを下す。【律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)】の能力は、単純が故に絶対だった。

 

「質問に答えてもらおうか。まずはお前の能力からだ。正直に言え」

 

 あの時、彼女の腕が消えたように見えた。そして、蜘蛛の入れ墨がない彼女の身体。クラピカは答えを推測するまでに至っていたが、ここではあえて慎重に出た。もしも最後の確認ができれば、彼の優位は完全になる。無論、能力が発動しても支障は少ない。

 

「素敵。とても情熱的な念能力ね。インプレッシブだわ」

 

 キャロルはうっとりと呟いた。胸元にそっと手を当てて、熱っぽい吐息をくゆらせていた。

 

「……でも、嫌よ」

 

 言って、彼女は己が胸部に爪を沈めた。赤いドレスは破かれて、血が飛び散り、白い肋骨がひしゃげて折れる。その中から、キャロルは何かを取り出した。エリスが両手を口元に当てて息を呑んだ。子供らしく可愛い手の平の上に、小さな、血塗れた心臓が乗っている。鎖が刺さり、巻き付いていた。

 

 一拍おいてジャッジメントチェーンが発動し、手に乗った心臓が押しつぶされた。キャロルは相変わらず無事である。胸部に開いていた深い穴も、避けて汚れていたドレスさえも、全てが幻だったかのように無傷だった。常識を冒涜するあまりに猟奇的な光景に、エリスは絶句して固まっていた。しかし、クラピカはさほど驚いてない。半ば予測していた事態だった、

 

「心臓までとは。外道め。人としてそこまで終わっていたか」

「あら、女の子に対して失礼ね」

 

 そんな気遣いはどうでもいいと、心底からの怒りを込めて、彼は紅蓮の眼差しで敵を睨んだ。右手の鎖がジャラリと鳴る。圧倒的な怒りを肺に凝集して、舌先で空間を切り裂くように吐き捨てた。

 

「確信した。お前は、蜘蛛だ」

 

 能面に貼り付いたにこやかな笑みで、キャロルはこくりと頷いた。そして、エリスに顔を向けて語りかけた。年長者が若輩を導くに似た、親愛と優越感の篭った話し方。

 

「不思議?」

「え?」

「人間の脳の大きさって、年齢や体格の差がそれほど影響されないものなのよ。あんまりかけ離れてると無理だけど、細かい誤差なら、訓練次第でどうにでもなるわ」

 

 言って、彼女は紫色の爪を出し入れしてみせた。その技は、念ではなく技術の成果である。毒を喰らって体内に貯え、体を操作して爪を鋭い刃に変える。闇にまみれた世界では、さして珍しくもない特技だった。実現に要求される特記事項は、努力と才能の二つだけだ。

 

「女の子が持ってる一般的な憧れ、変身願望。私はね、憧憬があればなんにでもなれるの。コスモスの似合う少女にも、舞台で輝く女優にも、白馬に乗った王子様にも。そして、屈強無双の紳士にも」

 

 そこで一旦言葉を区切り、キャロルは赤いドレスを消し去った。少女の未発達な細い肢体に、ふわふわの金髪が揺れている。そして、クラピカを油断なく見つめながら、彼女はぴょんと軽く跳んだ。直後、幼い子供は消え去って、鍛えられた男性の裸体に変わる。それは瞬間的な芸当だった。隙あらば仕掛けようと身構えていたクラピカが、ついぞ介入することができなかったほどに。

 

「そう、このように変身できるのだ!」

 

 下着を、靴を、服の上下を、ステッキを、あえて段階的に具現化しながら、紳士は大声で朗らかに叫んだ。その喉も、舌も、肺も尽く借り物だった。彼女は脳だけで生きている。脊髄さえも具現化で済ませ、憧れに寄生して長らえていた。

 

「つまり、あいつが使っている念能力は、他者の肉体の具現化だ」

 

 憎悪を込めてクラピカは断じた。同じ具現化系の技を使う者として確信できた。リアルに飛び散ったあの血潮。白骨や内臓の暖かい色艶。表層からの観察だけでは辿り着けない、肉感的な自然さが確かにあった。それを実現するためには、視覚で、触覚で、嗅覚で、聴覚で、味覚で、入念な研究が必要なのだ。ちょうど、彼が鎖で遊んだように。だからこそ、彼はキャロルを外道と呼んだ。

 

「……だったら、具現化のモデルになった人達は」

「ああ、常識的に考えるなら、存分な実体験がないとおかしいのだよ」

 

 エリスは事情を把捉して、しかし信じたくないがために動揺している。それを察知したクラピカは、あえて突き放した口調で断言した。余計な迷いは隙を産む。相手はそこに付け込むだろう。

 

 最早ためらう理由はない。【束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)】を展開する。一刻も早く、下衆を地上から消し去りたかった。潔癖な傾向のあるクラピカは、キャロルを幻影旅団としてだけでなく、一人の個人としても唾棄するに足る、この上なくおぞましい敵とみなすに至った。

 

「覚悟しろ。肉体の性能だけではオレには勝てない」

 

 中指に繋がれた鎖を伸ばし、彼は紳士を深く見据えながら大言した。クラピカが纏う念の様子は、先ほどとは完全に違っている。たった一つの確信だけで、彼の心情が切り替わったのだ。深海の如き深い絶望に身を焦がし、眼のない亡霊を背負いながら、灼熱のオーラを魂の奥から吹き出していた。情報を聞き出すという計略さえも眼中になく、ただ、蜘蛛を追葬者として捧げるために、荒れ狂う殺意の渦中で静思していた。

 

「最後に祈れ。それぐらいの慈悲はくれてやる」

 

 構えをとって、彼は言った。エリスも、震える手を握りしめて見つめている。激しい怒りが渦巻いていて、いつ絶が解けるとも知れなかった。仮にわずかでも緩んだならば、それだけで暴風が巻き起こるだろう。単純に、噴出するオーラの圧力のみで。

 

「さて、どうかな? ……しかし残念! あぁ本当に残念だがね!」

 

 場違いなほどに快活に、キャロルは饒舌に嘆いてみせる。右手のステッキを振り回し、革靴で床を踏み鳴らし、大仰にふんぞり返って演説の如く、頭を抑えて嘆きを吟じた。

 

「団長からあまり遅くなるなと命じられているのでね。ところがこれ以上戦えばお互いに生死をかけた決戦になってしまう。いや、実に残念だよ、私も!」

「そうか。なら、死ね」

 

 クラピカは鎖を打ち放った。細い金属製の連環に、空前絶後のオーラが秘められている。物体に対する破壊力はさほどではない。しかし、旅団に対する害意だけが、永久に束縛したいという意思だけが、規格外の威力となって現れていた。人体に対しての打撃力のみに限定すれば、一流の強化系術者にも匹敵している。無論、単純に鞭として用いた際の性能である。

 

「ふむ、思い上がった若人を戒めるのも先達の努めかっ! 面白い!」

 

 それを、キャロルは正面から迎撃した。小細工のない、手にしたステッキによるシンプルな突き。全体重をのせた単純単一の攻撃が、先端に凝集されたただの硬が、積年の憎しみに拮抗した。爆風が部屋に吹き荒れて、生命力の粒子が閃光の如く撒き散らされる。だが、クラピカは何が起こったのか理解していた。パワーで互角であるのではない。あの紳士は鎖の軌道の要を見抜き、その一点を精緻な狙いで貫いたのだ。陰湿な宿主に似合わない、愚直なまでに真っすぐな戦術。しかし、であれば、次を防げるという確約はない。荒れ狂う衝突の残骸へ向け、更なる一撃を振りかぶった。

 

「が、生憎と私の保有する細胞は脳だけでね、今回はオーラの残量も少ないから退かせてもらうよ! 悪いな! だが、悪く思わないでくれたまえ!」

 

 捨て台詞が、次いで轟音がキャロルのいた場所から聞こえてきた。刹那の後に鎖が薙ぐ。想定した場所に手応えはなく、中指の鎖は壁を打った。頑丈なホテルが大きく震える。が、そのような些事は放置して、即座に彼は床を蹴った。そこには敵の姿はなく、唯一、ぽっかりと穴が開いていた。何枚もの階層を貫いて、遥かな階下まで続く縦穴だった。それは人間の肩幅よりも小さかったが、頭部だけなら落ちていけるだけのサイズがあった。

 

 クラピカはエリスの方を振り向いた。怒りで蒼白に震えていた。きっと、彼自身も同様の状態だろう。追いかける事は無意味だった。キャロルが能力を駆使したら、人込みに紛れ込まれた時点で対処できない。負けたのだ。勝ち負けをこの場で定めるとしたら、彼らが敗者であることは自明だった。

 

 あれが、旅団。

 

 あれが、あんなものが、幻影旅団。あんな奴らに滅ぼされたのか。そう思うと、脳漿が沸騰しそうな怒りを憶えた。クラピカの頭蓋の内側に、嘲笑がいつまでも残響していた。

 

 

 

 マチは己の迂闊さを噛み締めていた。いつか裏切るだろうとは感じていた。だが、実際に裏切るほど馬鹿だとは知らなかった。異形の奇術師が宙を舞う。彼女の攻撃が見透かされる。シズクの振り下ろした掃除機を、体をねじって避けてみせる。自在に張り巡らされては収縮するバンジーガムは、二対一という状況でさえ、戦いのペースをヒソカの手中にもたらしていた。回避性能は尋常ではなく、フェイントも異常にやりにくい。なにしろ、生半可な攻撃ではオーラに粘着されて窮地に陥るだけで終わるのだ。しかし、大ぶりの一撃では察知も容易く、赤子をあやすようにさばかれた。

 

 せめて、相手の攻撃に合わせて同士討ち覚悟の大技を仕掛けようと試みたが、彼はなかなか乗ってこない。一定以上には深追いせず、二人の抵抗を楽しんでいる。奇襲しておきながらの専守防衛。その上で、彼女たちが連携しようとすれば絶妙な妨害を挟んでみせる。それは、酷く鬱陶しいスタイルだった。

 

「マチ!」

「ああ! 任せる!」

 

 後ろから聞こえるシズクの声に、手刀を念糸で防ぎながら了解した。何かをしようというのなら、全てを許容する覚悟だった。たとえ命を失っても、最後まで悔やみはしないだろう。せめて、後方支援の彼女だけは無事にアジトに帰したかった。

 

「デメちゃん! ヒソカ後方の石礫とコンクリ片、投棄されたゴミ、およびその他硬質の小物全てを吸いとれ!」

 

 鋭い歯の並んだノズルが勇ましく鳴き、シズクの掃除機が猛り狂う。標的にされたのはヒソカの背後、その更に向こうの石だった。大小さまざまな大きさのつぶてが、銃弾以上の速度で迫ってくる。その数は優に百を超える。能力者なら致命傷にはならなくとも、当たれば硬直は免れまい。しかしヒソカは振り向きもせず、ただ、気配だけで事情を尽く察してみせた。奇術師は不敵に足を止め、彼の体のごく近くを、弾は風を切って通過していく。避けたのではない。全ての弾道を完全に把握し、隙間を見つけて待機したのだ。雨粒を見切るに等しい所業である。マチは心底呆れ果て、化け物と毒づく気持ちにもなれなかった。

 

 石つぶてはマチへも飛来する。だが、これは窮地ではなく好機である。彼女は避けるつもりは全くなかった。瞬く間に念糸で盾を編みこんで、強靭な防御を完成させる。それを前方に掲げながら、マチは弾幕の中へと踏み込んだ。ヒソカの頬が吊り上った。

 

 ヒソカの拳が強烈に迫る。衝撃は念糸の盾を貫通し、彼女の体を重く襲った。激痛が走り、呼吸が止まる。強い、とマチは痛感した。しかも明らかに余裕がある。筋力もオーラも渾身ではあるまい。遊ばれていた。それが無性に悔しかった。だが、そんな事はどうでも良かった。強さも元より承知の上だ。接近戦で勝ちきれるとは考えていない。彼女が目指すのは唯一つ、旅団としての勝利である。

 

 念糸で編んだ盾がほどける。それはヒソカの腕に絡みつき、見る間にきつく拘束していく。さらに、マチは追加で糸を繰り出す。後も先も考えず、オーラを全力で振り絞る。勢いのままに密着し、絞め技で彼の肉体を固定して、その上から自分ごと糸を巻いた。鋼より硬い念糸が肌に食い込む。奇術師が喉の奥で笑っていた。

 

 ヒソカのオーラが膨れ上がった。ぞっとするほど迫力があり、鮮烈に磨きぬかれた練だった。危機感を超えて感嘆に近い。鍛錬の日々に生きるが故の、境地を目の当たりにしての純粋な憧れ。実際に殺しあって始めて分かる、本当の意味での戦闘能力。

 

 だが、届く。

 

 服越しにヒソカの身じろぎが伝わってくる。パワーの予感を秘めた雄の肉体。筋繊維が形作る熱い隆起。マチは直感で理解していた。このまま時間を与えていれば、念糸はいずれ破られると。しかし、片手間の攻撃などは悪手だった。この体勢を維持すれば、彼女は敗北に至るだろう。

 

 それでも、命を狩ることに支障はない。

 

 さあ、殺しな。相方の女性へ念じながら、マチは全霊をかけて両腕をきつく締め上げた。永遠ともいえる一瞬の間、決定的な成果を待ち望んだ。だが、変化は何も訪れず、一秒もの時間が過ぎ去っていた。馬鹿な、と、彼女の思考が真白く染まった。さらに一秒が経過する。シズクほどの実力を持つ能力者が、戦闘中に犯してよいような遅れではなかった。

 

 呆然と彼女のいるだろう方向を見る。答えはそこに存在していた。終焉であった。シズクの胸元を貫いて、誰かの右腕が突き出ている。それは背後から背骨と肋骨を掻き分けて、心臓だけを摘出していた。シズクは目を見開いて痙攣しながら、口元を小さく動かしている。掃除機のヘッドに硬を施して振り上げた瞬間、後ろから柔らかく穿たれたのだろう。具現化していた彼女の獲物が、取り落とされて儚く消えた。

 

 唐突に現れたその人物は、全身から靄のような闇を噴き出していた。夜闇の中でなお暗い、深遠の如き純然たる黒。唯一、色の残った右腕からは、オーラが湯気のように立ち昇っている。

 

 見覚えのある腕だった。

 

「アルベルト、あんた」

 

 屈辱と悔恨と憤怒を込めて、乱入者の名前をマチは呼んだ。オーラの量がいつもより少なく、禍々しさも消えている。だが、闇を脱ぎ捨てて現れたのは、確かにアルベルトそのものだった。常に身に付けていた翡翠の珠の首飾りが、なぜかどこにも見当たらなかった。

 

 アルベルトの左手が薙ぎ払われる。苦しみを終わらせようという慈悲だろうか。シズクの首を目掛けた断頭の手刀。それは、当の彼女の腕で防がれた。マチにはシズクの気持ちがよく分かった。例え無駄だと分かっていも、その方が楽になれると知っていても、残された時間で最大限、命を燃やして足掻いたのだ。

 

「おっと、ボクも忘れてもらっちゃ困るよ♥」

「かはっ……!」

 

 腕すら使わず、体重移動だけで放たれたヒソカの打撃が、マチを強かに打ち据えた。肺の空気が抜け、意識が一瞬かすれて揺れた。しかし、念糸だけは意地でも離せない。決して離してなるものかと、衝撃を殺せず放物線を描いて飛んでいく仲間の体を眺めながら、彼女は最後まで勝利のための抵抗に殉じることを受け入れた。それは決意と呼ぶには自然すぎる、蜘蛛として当たり前の在り方だった。

 

 ヒソカの体躯がぶれる。それを機と見て念糸を消した。急に拘束から開放され、敵は微か刹那だけバランスを崩した。それだけの隙で十分だった。全身全霊を己が右手に集約して、生命を賭した硬を実現する。変化自在の戦術に対抗する、愚直なまでに真っ直ぐな拳。迫り来るのはヒソカの蹴り。崩れたバランスすらも利用した、恐ろしく鋭い一撃だった。

 

 思考も、技術も、駆け引きも、全て忘れて捨て去った、最も原始的な戦いの形。都会を貫く暗い河原で、今、二人の意志が交差した。

 

 

 

「殺さないのか」

 

 シズクの体が暗い川面に没したことを見届けてから、アルベルトはヒソカにあえて尋ねた。

 

「まさか♥ 美味しくなるのはこれからなのに♥」

 

 ヒソカは楽しそうに微笑んでいる。戦いの末にマチは気絶し、バンジーガムを全身に巻きつけられて彼の肩に担がれていた。

 

「彼女は大切に閉じ込めておくよ。クロロを狩るまで手は出さない♠」

 

 それが一番堪えるだろうから、と、喉の奥で笑うヒソカ。アルベルトはわずかに不満を滲ませたが、何も言わずに頷いた。

 

「それで、彼は?」

「大丈夫。生かしてあるよ♣ データ見るかい?」

 

 携帯電話で情報を端的にやり取りし、一番肝心な用件の残り半分の首尾を確認すると、彼らは満足そうに視線を交わした。ようやく、これで最初の段階まで進めたのだ。蜘蛛の心臓は潰れたに等しい。しかし、まだ頭も多くの脚も残っている。血液の流れは悪くなっても、壊死までは簡単には辿り着くまい。目指す道のりは遠かった。

 

「それにしても、クックック……。彼には感謝しなきゃね♦」

「ああ、ハンゾーか。確かに、ね」

 

 アルベルトは心の底から頷いた。今回は本当に運が良かった。そもそもの原因は、マチとフランクリンまで参加して、思いのほか大人数の買い物になったことにある。あらかじめ想定はしていたが、対策をとるには限界があった。そこに、ポックルとポンズの乱入である。エリスの存在を口に出された時は二人の殺害まで覚悟したが、結果として全てがプラスに向かって働いた。彼らのおかげで稼げた時間で、ハンゾーの乱入が間に合ったのだ。

 

「あそこで彼がフランクリンの足止めをしてくれなかったら、ここまで最良の結果はきっと無理だったろうね。最悪、今日は諦める必要があったかもしれない」

 

 許された時間は余裕に乏しい。仮に一日を無為に過ごしてしまったら、その代償は巨大なリスクとなって後日の自分たちにのしかかるだろう。だしにされた格好になる上、生存できたかも不明な彼らには何の申し開きもできないが、アルベルトはせめて心の中では真摯な気持ちで感謝の念を捧げようと決めていた。

 

「じゃあ、またアジトで♠」

 

 マチを担ぎ、ヒソカが何処かへ駆けていった。暗闇が急にがらんとした。冷えた風が流れている。一つ、終わった。未だに先は険しくとも、段階を昇ったという充足と安堵が、アルベルトの胸を満たしていた。

 

 夜空の下、まだ少し残っている闇の残滓を彼は見やる。光を発しない絶対の黒色。全身を覆っていた念の塗料を、思案と共に観察した。

 

 現状、アルベルトは絶ができないため、常に濃厚な気配が立ち上がり、接近戦による不意打ちは不可能に近い。だが、例外となる抜道は存在する。先ほどまで使っていた手段がそれだった。全身から吹き出るオーラを片っ端からファントム・ブラックに費やして、気配と姿を隠したのだ。消耗が激しく、視界が著しい制限を受けるため、実質的に奇襲専用の切り札であった。

 

 アルベルトはファントム・ブラックを解除した。物質が生命力に還元される。しかし、本人へのオーラの回収は、マリオネットプログラムなしでは不可能らしい。この半年間、何度か繰り返した試みだったが、結果は常に同じだった。

 

 感傷に浸っている暇はない。まだ一人目を倒したにすぎないのだ。早急に隠した首飾りを回収し、何食わぬ顔で仮宿に帰らないとならないだろう。ここで裏切りを悟られるわけにはいかなかった。アルベルトはそのように自分の気持ちを切り替えて、この場を立ち去ろうときびすを返した。

 

 だが、不意に轟音があたりに響いた。流れ落ちる瀑布の如き水の音。ゆったりと流れていたはずの河の中に、巨大な渦が出現している。竜巻を逆さにしたような、大自然の猛威に近い現象だった。水位がわずかながら減っていく。

 

 やがて、渦の中心が見えてきた。河底を二本の脚で踏みしめて、彼女はしっかりと立っていた。……シズクである。メガネはない。掃除機に水を飲ませながら、眼に怒りを灯して見つめていた。

 

「ねえ、アルベルト」

 

 彼女は語る。静かに、胸から血液を滲ませながら。

 

「痛いよ」

 

 水流が爆音を奏でる中で、シズクは掃除機を握り締める。限界以上の筋力がかかり、痛んだ腕が惨烈に歪む。みしりと、アルベルトは骨の軋みを幻聴した。彼女の纏う末期のオーラに、重厚な意志が宿っていた。脳死までの数分間、あるいはほんの数十秒か、駆け抜ける姿は荒々しくもかくも気高い。動機の善悪、手段の可否を超越して、一つの存在として尊かった。

 

「デメちゃん、吐き出して」

 

 優しくささやくような声色で、彼女は己の半身に語りかけた。とたん、掃除機が甲高い絶叫を上げて振動する。吸引の動作が中断され、一泊の後、激烈な噴出に切り替わった。膨大な水が噴き出され、周囲に叩きつけられて爆発する。巨大な水柱が立ち上がるが、アルベルトに気にかける余裕はなかった。ロケットのように一直線に、猛然と彼女が迫ってきた。音速などとうに超えている。対応する時間は刹那もなく、ただ、時が止まったような暗い世界で、生死の境も曖昧な狭間で、彼は、魂を削って相対した。練。既に底の見えた命の力を、全開で燃やしてオーラを増やす。

 

 回避など始めから不可能である。防御など考えるだけでおこがましい。軸をずらそうにも速すぎる。それでも、彼岸も同然の無我の境地で、彼はシズクへ手を伸ばした。

 

 そして、空高く体を打ち上げられた。

 

 これでいい。

 

 弾き飛ばされ、宙を舞いながらアルベルトは思う。神経が焼き切れそうな痛みがあった。臓器の損傷も危惧された。だがそれでも、生命に比べれば些事であった。あの瞬間、ダメージは完全に度外視していた。絶命を避けることしか念頭になかった。局限されたタイミングで、シズクの体を覆う離脱衝撃波に打撃を加える。オーラの流れに逆らわず、方向だけをわずかに変える。ただし、彼女に対してではない。自分の体の流れを変えた。それだけが、彼に可能だった全てだった。

 

 衝撃を喰らい、弾き飛ばされることを利用して、最悪の結末を回避する。それは完全な賭けであった。失敗していれば骨は砕け、肉は大きくえぐれただろう。が、彼は未だに生きている。空中を無抵抗に飛ばされながらも、アルベルトは辛うじて生きていた。

 

 しかし、シズクは諦めてはいなかった。

 

 天高く、水流の斬撃が夜空へ昇った。突撃を避けられた彼女が放った、振り向き様の執念の一撃。それを躱す術はなかった。アルベルトにできる抵抗は一つ、オーラを纏った防御しかない。枯れ果てた井戸から更に絞り、魂を炉心にくべながら、彼は身を打つ水流にひたすら耐えた。数秒後、彼が川原に落ちた時、立ち上がる力も残ってなかった。

 

 草を踏み分ける音が聞こえた。見上げればそこには、シズクがいた。掃除機の姿は見あたらず、全身、泥水をかぶって汚れながら、ゆっくりと這いずるように歩いてきた。衣服は無惨なボロと化して、片腕は完全に砕けている。顔面は蒼白で血の気がなく、夜間にはっきりと分かるほど、死の淵に瀕して衰弱していた。恐らく、生まれたての猫より弱いだろう。

 

 それでも、追撃されたら死ぬしかない。

 

 未だ、アルベルトに反撃するような余力はなかった。オーラの残量が全くなく、生きているだけで奇跡だった。呼吸するたびに痛みが走る。体が動くようになるまでは、絶望的に時間が足りない。せめてあと数時間の時を経れば、三十分だけでも休息があれば、そんな懇願をしたところで、滑稽すぎて喜劇にもならない。決定的な瞬間は近付いてくる。

 

 永遠にも等しい沈黙が流れて、そばでどさりと何かが倒れた。シズクであった。倒れたままで目が合った。アルベルトと、シズク。二人は至近で見つめ合って、数秒間の時をすごした。やがて、彼女の眼光が濁っていき、何も言わずに死んでいった。己の全てを使い切って、何一つ残さなかった最後だった。もしも彼女にあと一歩、あと数秒だけ時間があれば、アルベルトの命は消えていた。

 

 それは、推測ではなく事実だった。

 

 

 

次回 第二十九話「伏して牙を研ぐ狼たち」



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第二十九話「伏して牙を研ぐ狼たち」

 九月三日の金曜日、昼時の病院の白い廊下を、一人の青年が厳しい表情で歩いていた。顔だちは美形というには面長で、やや歳より老けて見えるきらいがあるものの、優れて端正な骨格を肉の内側に忍ばせていた。髪は墨のように黒く真っ直ぐで、力強い太さのある質の毛を、短めに切って立てていた。暗褐色の瞳は小さかったが、澄んだ輝きを湛えていた。ともすれば可愛らしい印象を与えかねないその特徴は、鼻先に乗せられたサングラスの、洒落てはいるが強面なイメージと調和して、男らしさのバランスを保つことに成功していた。

 

 彼は上背が高かった。恵まれた長身に溌剌とした筋肉を適度につけ、黒い背広を着こなすさまは、優れた知性やキザったらしい気取りといった方向性が微塵もなく、見る者にざくりと快活で率直な、若々しい印象のみを与えている。黒地に白いラインが走ったネクタイは、華美ではないが生地が良かった。ポケットに突っ込まれたままの掌は大きくしっかりした造りをしていて、諸々の力強さを秘めている。

 

 レオリオ=パラディナイト、十九歳。苛立ちを紛らわせるような早歩きで進む靴音が、リノリウムのタイルにリズムを刻む。彼は、医学を志す受験生であり、今年のハンター試験の合格者でもあった。

 

「よう、どうだった?」

 

 黒い忍装束を堂々と着るジャポンの忍者、ハンゾーがロビーで待っていた。長身の男たちが見つめ合い、緊迫した空気を醸成している。外来の患者で埋め尽くされたこの空間で、二人の纏う雰囲気だけが異質だった。

 

「大丈夫だ。二人とも、障害が残るほどの重傷じゃない」

 

 レオリオは自身と担当医師の見地の両方から、大きな問題がなかった事を真っ先に告げる。午前中一杯をかけて行った検査の結果、ポックルとポンズの負った傷は、ひとまず安心できる程度であると判断された。

 

「ま、しばらく入院して安静にする必要はあるだろうがな」

「そうか、そいつはよかった」

 

 言葉と裏腹にハンゾーの表情は固く苦い。レオリオも、また同様に固かった。彼らはそれ以上の会話を一切続けず、並んで外へと歩き出した。ゴンの待っている宿へと向かって、人通りの多い賑やかな通りを、ずんずんと大股で進んでいった。

 

 レオリオは怒りを胸に灯している。アルベルトは友人だと思っていた。ゴン達ほどの絆はなくても、決して細くない縁で結ばれた、立派な仲間だと考えていた。今でもそれは変わりない。だが、だからこそ相手の行動に不信感が募った。なぜマフィアに手配されなければならないのか。ポックルとポンズに遭遇して、なぜ痛めつけなければならなかったのか。

 

 辻を曲がりながら思考を続ける。ちょうど飛び出した自転車が、隣のハンゾーに当たりそうになったが、ひょいと避けられて去っていった。乗っていた十歳ごろの少年が、大声で礼の言葉を残していった。だが、そんな微笑ましい出来事も、レオリオはろくに見もしなかった。

 

 ポックルとポンズが与えられた傷。あれを見ればレオリオには分かった。伝え聞くアルベルトの攻撃と、ダメージの様相が異なっていると。医学的知識があれば誰にでも分かる。傷は表層に留まっており、重くても打撲どまりが精々だった。皮下に青あざを作る程度のもので、概観では痛々しく見えたとしても、骨にも内臓にも筋繊維にも、ろくな損傷が及んでいない。最初に体の自由を奪ったであろう、恐ろしく深い衝撃の形跡とは正反対ながら、共に、異常に器用な攻撃だった。放たれた手数の多さから、偶然の産物だとも考えられない。

 

 なぜ、あんな事をしたのだろうか。あれこれ思索を巡らせても、判断材料が少なすぎた。この場にクラピカがいれば鋭敏に核心を突くのかも知れないが、彼の頭の回転では現状これが精一杯だ。なにか意図があるのは理解できても、旅団に対して二心があるのか、あるいはそう思わせたくて謀っているのか、その判断がつかなかった。

 

 もしなにか事情があったというのなら、レオリオは明かしてもらいたかった。たとえその場では話せなくても、この時代、いくらでも伝達する方法はあるではないか。前もってホームコードに吹き込んでもいいし、後からでも機を見て電話することぐらいはできるはずだ。正当な理由を伴って釈明の一つもしたならば、直接の被害を受けたあの二人ですら、恐らく納得するであろう。しかし、未だに連絡は一切なく、こちらからの通信も繋がらない。その事実に対する忸怩たる思いが、彼の感情を苛んでいる。

 

「どう思う?」

 

 運び手と護衛を兼ねて病院まで付き添ってもらったハンゾーに向かって、レオリオは歩きながら尋ねてみた。

 

「さてな……。だが、オレもあいつからは話を聞きてぇ」

 

 普段は明るい彼の顔も、今日は鋭く影がある。不満が溜まっているのだろう。祭の空気に浮かされていた頃とは比べ物にならず、ゴンの父親探しに協力している時に見せた、張り切った笑顔ともまた別だった。

 

「ま、アルベルトに会えないとどうしょうもねぇがな」

 

 小石を蹴ってハンゾーが言う。それは歩道を転がって不規則に弾み、側溝に落ちて消えていった。車道を自動車が流れていく。彼ら以外は平穏な、昨日と同じ風景だった。

 

 もしも、本人以外でアルベルトの事情を把握してる人物がいたら誰だろうか。真っ先にエリスが思い浮かび、旅団の関連ということでクラピカも浮かぶ。しかし、この二人も連絡がつかないままだった。どいつもこいつも、とレオリオは灰汁の強い友人たちを恨めしく思った。

 

 果たして、こちらを巻き込まないようにしてるのか。あるいは、一緒に食べて飲んで騒げても、対等な仲間とまでは思えないのか。友人と呼んでも仲間ではないのか。だとしたら、首根っこをひっ捕まえても協力して、その後で存分に説教してやる。そんな考えに耽りながら、彼は宿への道を進んでいった。

 

 だがしかし、ふと、レオリオは新しい可能性に思い至った。彼らに無用な気遣いを強いているのは、自分達の実力の無さだろうか、と。ハンゾーとキルアの二人でさえも、あの最終試験で垣間見た、アルベルトの異常な戦闘能力に匹敵できるとは思えなかった。レオリオ自身は言わずもがなだ。念という新たに知った力を後回しにして、受験にかまけた自分の判断は間違いだったというのだろうか。もし、それが彼らの真意だとしたら、オレは。

 

 レオリオはどこか深い場所を見つめながら、無言で道を歩いている。

 

「とんだ同期会になっちまったな」

 

 ハンゾーが呟いた一言に、本心からの同意を返した。

 

 

 

 飢えた鼠のような沢山の眼が、そろって彼を凝視していた。

 

 初秋の街並みを撫でる風は、青空に昇った太陽は、廃墟の奥までは届かなかった。何本もの蝋燭が照らす壁は、自動車の排ガスと埃とが長い年月をかけて染み込んでいて、ねっとりした黒で汚れている。無造作に積み上げられた瓦礫の影に、鼠が潜む気配があった。苦悶の声が灯火を揺らす。すえた臭いが濃密に漂い、部屋の隅に集められた人々をも、恐ろしさで揺らさないではいられなかった。別の隅には、要件の済んだ人々が、山と積まれて沈黙していた。

 

 時折、中央に添えられた古く頑丈なテーブルから、血と肉片がこぼれ落ちる。台の上に乗せられた人間が、苦痛に耐えきれずに声を洩す。血液が床に降り積もった埃と混ざり、無気味なほど静かな水面となって広がっている。橙色の控えめな灯りのせいで、それは、タールのような漆黒に見えた。

 

 部屋の隅で人々が見つめる。彼らは皆、手足を折られ、あるいは腱を切られ、もしくは先端そのものを引きちぎられ、大雑把に運動能力を壊されていた。その上から鋼鉄のワイヤーで乱暴に縛られ、人ではなく、物品としての扱いを受けているに等しかった。

 

 それでも、彼らは未だに生きているのだ。見ず知らずの他人と肩を寄せあい、容赦なく刻む一分一秒の時間に滑稽なほど必死にすがりながら、眼を見開いて彼の一挙一動をじっと見つめている。自分の番が来るまでの間、残された僅かな人生を、全身全霊で数えていた。遠くない未来に確実な不幸が来ると知りながら、不思議な事に、自害を選ぶ者はいなかった。

 

 手術に挑む医者のような敬虔さで、一人の男が作業している。体内から摘出されたばかりの電極をつまみ、こびりついた体組織を拭っていく。寝かされているのは女だろうか。三十路を超えたばかりと推測される彼女の体は、己の血液だけを纏っていた。まだ、大きな傷は目立たない。

 

 やがて男は、女の眼前に何かをそっと差し出した。滑らかな球状のシルエットを、オレンジ色にこぼれる蝋燭の光が、柔らかく闇に浮かび上がらせる。暖かく、新鮮な桃色に見えたその物体は、筋肉に包まれたままの眼球だった。一人前の被害者から取り出されたばかりで、まだ暖かく湿っていた。彼女は、絹を裂いたような悲鳴を上げた。裸の体を激しくよじり、拘束から抜け出そうと必死にもがく。そこへ男は何かを告げた。優しく短く穏やかに、端的な言葉で要求した。

 

「殺して」

 

 女は、とても静かに拒絶した。

 

「ようアルベルト、どうだ」

 

 後ろから声がかけられた。振り返るとノブナガとウボォーギンが連れ立っていた。二人とも、肩には何人もの釣果を担いでいる。アルベルトは彼ら二人の帰還よりも、その気配を感じ取れなかった己に危惧を抱いた。

 

「細かい情報は逐一団長に報告してるけど、大きな進展は何一つ無いね」

 

 応えながら、アルベルトは拷問台に横たわったままの頭を潰した。そして、持ち帰った獲物をワイヤーで縛っている最中の彼らに向かって、努めて平常に似た声で苦情を言った。

 

「だいたい、君たちは張り切りすぎなんだ。こうも対象が多かったら、ろくに情報源も絞り込めない。いいかい? そもそも拷問っていうのはね、一人に何日もかけてじっくりやるのが基本なんだよ。……あ、ウボォー。そいつとって」

「こいつか?」

 

 順番待ちの中から指定された小太りの男を、ウボォーギンが片手で持ち上げた。それはアルベルトに受け渡され、台の上に四肢を固く拘束さる。今度の哀れな被害者は、その間、一言たりとも喋れなかった。恐怖と絶望が大きすぎて、何一つ、言葉にすることができなかったのだろう。

 

「おいアルベルト、なんだよそりゃ」

 

 ノブナガが不機嫌そうに顔をしかめて、ウボォーギンの巨躯の脇から、滑り込むように割り込んだ。

 

「なにも全員に構うこたぁねえだろ。要らねえ奴は放っときゃいいだけじゃねぇか」

 

 低い声で詰め寄って来る。至極もっともな彼の意見に、隣のウボォーギンも頷いた。アルベルトは顔をしかめたが、それは精神的な理由ではなく、純粋な痛みのためだった。大きめの声が鼓膜に響き、頭蓋の中身を揺さぶったのだ。

 

「まあね。でも、その選別だけで一苦労なんだよ。こう見えて口の堅い人間ばっかりで」

「雑魚じゃねぇか、こんな連中」

「それでもだよ」

 

 溜め息を吐いてアルベルトは言った。もしもこれがマフィアなら、簡単に吐いてくれると思うだけどね、と。事実、捜索は部外者に任せきりで、彼ら自身は妙に静かなままだった。シャルナークの考えを受け売りするなら、次の作戦に向けての準備だろう。

 

「それに、あの二人の行方を知ってそうな人物が、こうも皆無だと嫌にもなる」

 

 拷問台に拘束され、がちがちと歯を鳴らす男を見下ろしながら、アルベルトはうんざりしたように首を振った。背後には用済みの遺体が積み上げられ、小さくない山を形成している。その全て、老若男女に関係なく、生きながら切開された傷があった。

 

「だがなぁ、外を歩けば襲撃だらけだ。仕方ねぇだろ」

 

 腰に手を置いてウボォーギンが言う。それはアルベルトにも分かっていたし、現に、昨日実際に体験していた。

 

「まあ、あの賞金が懸けられたならそうだろうね。団長の前でも説明したとおり、三十億ジェニーというのは、たとえ本格的なチームを組んだとしても、一人狩るだけで採算が合うような金額だから」

 

 その道で一流の人材に、短期ミッションで命をかけてもいいと思わせる相場が一人およそ三億ジェニー。標準的な情報網の構築に要する主要な人員の要求が、一単位辺り六名から七名。職業として犯罪者を狩るブラックリストハンターの常識に沿えば、幻影旅団という獲物に対して、一人二十億ではリスクがきつい。二十五億でも妥当な範囲だ。だが、三十億という金額であれば、十分以上に魅力を感じる。

 

「オークションで世界中から人材は集まってるし、大金にそられてチームを組んだり、手足として雇われてみる人間は多いはずだ。情報を売るだけのつもりの連中も入れると、その気になった人数はちょっと予測がきかないな」

 

 業界の基準で美味しいライン。それを見越しての賞金は、プロアマ問わず、専門のハンターを主力と見込んでの設定だろう。アルベルトはそのように分析していた。それだけでも、マフィアがどれほど本気か分かる。

 

「さて、あなたもそろそろ落ち着いたかな。大丈夫。洗いざらい話せば痛いことはしないよ。僕たちを、信じ込ませることができればだけど」

 

 血と脂に濡れた拷問台に向き直り、アルベルトは今度の相手に語りかけた。四十歳ごろの中年で、灰色の髪に二割ほど白髪が混じっている。膨らんだ腹をスーツに押し込み、洗いざらしのシャツに地味なネクタイを締めていた。纏は使えるようだったが、オーラの量はかなり少ない。手足の拘束を解くほどの力もなく、彼はひたすら震えていた。明らかに、戦闘以外に従事するタイプだ。害意が濃密に混じったオーラに包まれるアルベルトと、背後に立ち並ぶ二人の男を、交互に見上げては怯えていた。

 

「殺せ。俺たちの事情に通じているなら、どうかこのまま殺してくれ」

 

 それでも、回答は簡単には得られないのだ。

 

「まあ、こうなるんだ」

「なるほどな」

 

 ウボォーギンが頷いた。腕を組み、納得した顔で様子を見ている。このような小者にまで念入りな拷問が必要であれば、情報の集まるペースも芳しくない、と。

 

「ま、こんなヤクザ家業でも飯種だし、プロだけでなくアマチュアハンターにも専門家としてのプライドがある。それに、あの幻影旅団に捕らえられて、なぜか無傷で生還したという噂が流れただけであったとしても、今後の爪弾きは確実だろうね。ましてや、その後で雇い主が襲われでもしたら」

「関係ねぇよ」

 

 苛立ちを噛み締めてノブナガが言った。アルベルトを右手で押しのけて、拷問台のすぐ傍に立つ。そしてその勢いに全てをまかせて、無造作に伸ばした左手で睾丸を潰した。暗い廃墟の深淵に、痛みに耐える絶叫が響いた。

 

「オレはこいつみてぇに優しくはねぇぞ。吐け」

「……殺せっ」

 

 口の端から泡をこぼし、脂汗を流して失禁しながら、男はなおも強情をはった。続けざまに数発の打撃音が部屋に響く。腹を、手足を、死なない程度に殴られて、何箇所も骨が折れて砕けた。が、それでも、男は頬を釣り上げて笑った形の表情を作り、無駄だ、と声にならない声で言った。

 

「なんだと!?」

 

 ノブナガは頭に血を上らせて、腰の刀に手をかけて怒鳴り声を上げた。

 

「おい待て、殺すには早いぜ!」

 

 とっさに後ろから肩を掴み、ウボォーギンがノブナガを制した。旅団の判断として、それは正しい。マチとシズクの手がかりを握ってるかもしれないと考えれば、簡単に楽にしてやることなどできないのだ。

 

「落ち着けよ。こいつが当たりだったらどうするんだ」

「……わりぃ」

 

 彼らも、これまでにブラックリストハンターや情報屋とは何度も相対しては蹴散らしてきている。情報を絞り上げた経験もいくらでもあった。しかし、今回は事情が違っていた。仲間の安否という気がかりがある現状でありながら、自白に到る手段が足りない。データを効率良く扱える人間が足りない。その反面、襲ってくる人数は異様に多い。その多くが、超一流とはいかないまでも優秀ではあった。

 

「ノブナガの方法も間違いじゃないんだ。ただ、今はもう少し効率を上げたい時だから」

 

 なにも、戦闘力だけが実力ではない。裏社会を自らの手腕だけで生き抜く人種にとって、同業者から寄せられる嘲笑は、この世のなによりも辛いのだ。それを恥とする傾向は、技量がある人材ほど格段に増える。そして、マチとシズクの行方を知る可能性の高い人物とは、当然、そのようなこだわりの強い人種だろう。かちゃかちゃと器具の音を立てながら、アルベルトはそんな補足を追加した。

 

「なあ、自白剤みてぇな代物はねえのか?」

「あれは使えないこともないけれど、決して魔法の薬じゃない。投与すれば朦朧として、夢と現実の境界すらも定かでなくなる。よく言って最後の手段だね」

 

 ウボォーギンの疑問に応えながら、アルベルトは淡々と衣服を剥ぎ取っていく。中年男の纏う矮小なオーラが、不安を反映してか細く揺れた。しかし、この場に助けようと動く人物はいない。彼は血に濡れた股間を簡単に処置して、一応の準備を整えた。

 

「……そもそも、本当に賞金狙いだったのかも疑問があるよ。まだ二人の手配は撤回されてないんだし、なにより、あの状況で人数の多い方を狙うのは定石から外れる。……不自然すぎるほどでは、ないんだけどね」

 

 そこへ、赤いドレスの少女がひょっこりと訪れた。

 

「あら、お帰りなさいウボォー。ノブナガも」

「おう、そっちはどうだ」

「全然だめね。楽しいばかりで進展はなし。アルベルト、新しいのいくつか貰っていくね?」

「頼む。でも、楽しくても遊びじゃないんだよ」

「もちろんよ、マチにはお世話になったもの」

 

 表面上だけは拗ねながら、キャロルは玩具を選ぶように囚われの人々を見定めていく。アルベルトはそれに興味も示さずに、台の上の男に何本の電極を突き刺していった。オーラの消耗で悪寒が酷く、リアクションをとるのが辛かったのだ。

 

「なるべくなら可愛い女の子がいいんだけどな。あ、この男の子もらいっ」

「どうぞ」

 

 カイゼル髭を蓄えた紳士の外観に着替えた彼女は、何人もの目ぼしい人物を担いで持っていった。容姿だけが基準ではなく、実力もありそうなところを優先的に選択している。どうやら、言葉は嘘ではないようだった。それを見ていたノブナガが、肩をすくめて呟いた。

 

「あいつはずいぶん楽しそうだな」

「彼女の拷問は娯楽的で、僕のそれはシステマチックだ。過程と結果が似てるだけで、その本質は全く別のものさ」

 

 アルベルトはヒソカに聞いて知っている。もといた旅団のメンバーに、同じように拷問を趣味とする団員が一人いたことを。その男が、今年の春、どこでどのように果てたかも。

 

「ところでノブナガ、シャルは?」

「ん? フランクリンとペア組んで出かけたぜ。例の現場を見に行ったそうだが、その後までは知らねえよ」

「現場って、ああ、河原の地面がえぐれてたっていう。僕はまだ見てないけど、どんな様子だったか分かるかい?」

「そうだな……。あそこで誰かが戦ったのは確実だが、それ以上はなんとも言えねぇな」

 

 頭をかきながらノブナガが言った。何かがあった事だけはわかるが、マチとシズクが関わっているかも、現状では断言することができないと。そこに、ウボォーギンが口を挟んだ。

 

「少なくとも戦闘が成立したんだ。あの二人を相手に戦うとなると、敵にもそれなりの使い手がいるのは間違いねぇ」

「なるほどね。あ、暇ならそこら辺に転がってる連中の髪の毛剃ってくれないか。あとで頭蓋骨切開していじくるから」

 

 そんな頼みごとをアルベルトがしたが、二人は顔を見合わせた後、別の用事を理由に断った。

 

「いや、外をもう一回りしてくるぜ。数よりも、なるべく知ってそうな人間を選んで連れてくればいいんだな」

 

 ウボォーギンが確認をとる。アルベルトは片手間に機器を操作して、強弱のある通電を繰り返しながら頷いた。男の体が連続で仰け反り、断続的なうめきを洩らした。

 

「そうお願いできるかな。情報を引き出すことはできてるんだ。釣り方を工夫して数さえ絞ってくれたなら、こちらとしてはだいぶ助かる」

 

 中年男を観察し、相手に与える苦痛の量を調節しながら彼は答えた。どうせなら他の団員にも伝えてくれと頼んだところ、二つ返事で了解された。

 

 今朝早くクロロが発した命令は、ペアを組んで連れてこいという一点のみに絞られている。そのような場合、手段も生死も、各員の裁量に全てまかされていると解釈される。が、あの二人であれば問答無用で殺しそうだな、と、アルベルトは歩いていく大小の背中を眺めながら考えた。

 

 そのとき、特にこれといった予兆も無く、彼の右手から何かが剥がれた。皮だ。それは紛れもなく人間の、アルベルト自身の皮膚だった。手の平の皮がごっそりと剥けて、肉が完全に見えている。怪我を負うような原因はどこにも見当たらない。だからこそ、彼は即座に理解した。当たり前の動作に耐え切れず、自然にはがれて落ちたのだと。傷口は枯れた白骨のように乾いていて、血液の一滴すらも滲まなかった。

 

「どうした」

 

 振り向いたノブナガが怪訝に尋ねた。が、アルベルトは拷問をそのまま続けながら、なんでもないよ、と返答した。その時、何食わぬ顔で応えながら、アルベルトは密かに呼吸を整えていた。疲労の溜まった体の芯が、歯車で押し挟まれたような軋みをあげる。痛い。反応が悪く、感覚が妙に遅れていた。昨夜から薬を二本も追加で打っていたが、全身から噴出する彼のオーラは、とうとう量が減りはじめた。脳全体を潰すように、激しい頭痛が拍動している。少々休んだ程度では、気休めにしかならなかった。しかし、この場で息を切らしては不自然すぎる。

 

 相手は彼の答えに頷いて、部屋の出口から去っていった。

 

 事実、なんでもないような傷なのだ。塗り薬とガーゼ、包帯で適切な処置を施して、上から手袋でもはめて隠す必要がありそうだが、体の動きに支障は無い。肉体が連日の酷使に耐え切れず、劣化し始めている事の証左でしかなかった。人生の終わりが近づいている。このままのペースが続けば恐らく明日、遅くても明後日の今ごろには、彼は朽ち果てて死ぬだろう。

 

「殺してくれ」

 

 ふと、かすれた声で懇願された。拷問台の上で寝そべる男は、未だにろくな情報を吐いていない。しかし、この拷問は最初から無意味だった。当然である。消えた二人の行方を知るのは、他ならぬアルベルト自身なのだ。知っていることを知られてはいけないという理由だけで、彼は、無関係の人間を虐げていた。外界から隔絶された暗い部屋で、何一つ生み出さない虐殺をしていた。

 

 一旦電流を止めてから、中年男の顔をじっと見つめる。いつ他の団員が訪れるかもしれない以上、軽挙妄動はできなかった。が、メスを取り出したアルベルトは、刃をおもむろに首筋に当てて、うっかりと手を滑らせて殺してしまった。不注意だったと首を振る。果たして何人目の不注意だったか。暗い部屋の片隅では、順番待ちの人間たちが、彼の行動をじっと見ている。

 

 メスを置いてアルベルトは思った。これは、罪と罰のどちらだろうか、と。

 

 

 

 レオリオとハンゾーが宿へ帰り、部屋の戸を開けると仲間がいた。ゴンとキルア、そしてビリーと名乗る褐色の少女が、それぞれ思い思いの場所で寛いでいる。ゴンはベッドの上であぐらをかき、キルアは窓枠に腰掛けて外の風景を眺めていた。そしてビリーは、部屋の隅の硬い椅子に、深窓の令嬢のように背筋を伸ばして座っていた。だが、格好こそ各々楽にしていたが、雰囲気は針のように鋭かった。会話もない。およそ子供らしさとは程遠い、大人びすぎた時間の過ごし方。それは点と呼ばれる訓練だった。心を静めて平らにし、水平線まで風一つない、真凪のような集中をしている。レオリオとハンゾーは顔を見合わせて呆れていたが、ビリーがいち早く彼らに気付いた。

 

「あら、お帰りなさい」

 

 彼女の声がきっかけになって、残りの二人も瞼を開いた。部屋の空気が切り替えられて、仙界の如き清涼感がどこかへ消える。しかし、十分な集中の成果だろう、三人ともオーラの流れが整っている。特にゴンとキルアのそれは素晴らしく、穏やかだが雄大な迫力があった。彼らの才能を間近で見て、レオリオは思わず唾を飲んだ。

 

「お、おう。今帰ったぜ」

「あいつら大事無いってよ」

 

 ハンゾーが明るい声で結果を告げた。彼も慌てて頷いて、視線で感謝の意をこっそりと送った。ゴン達を子供と侮るつもりはなかったが、それでも、なるべくなら辛い表情はさせたくない。

 

「で、お前らこれからどうするんだ?」

 

 本気で落札を目指すなら、サザンピースの入場券を兼ねたカタログを今のうちに購入しておいたほうがいいだろうと、彼は二人に説明する。幸い、現段階でもその程度の金額ならば届きそうだ。肝心のゲームの購入資金は、未だ、皮算用することも厳しかったが。

 

「オレ、アルベルトと合って話がしたいよ」

「おいゴン! それじゃあ趣旨が変わってるだろ!」

「だけど、キルア」

 

 ゴンに言葉を続けさせず、キルアは一瞬先んじて詰め寄った。手馴れてやがる。レオリオは銀髪の少年を眺めながら、ストッパー役として彼の積んできた苦労を思って軽く笑った。床に腰を下ろしながら、ハンゾーもまた愉快気に頬を吊り上げていた。

 

「あいつが今いるのは十中八九旅団だぜ。今の俺たちが腕力でどうこうできる相手じゃねーっつうの! ソッコー返り打ちにあってあの世行きだ!」

「でも、昨日はハンゾーが戦って帰ってきたじゃないか!」

「逃げるのと倒すのは全くちげーよ!」

 

 わいわい騒ぐ二人についてはそれとして、レオリオは、行儀よく椅子に座ったままの少女にも声をかけて話題を振った。彼女はずっと、少年達を興味深そうに眺めて黙っていたのだ。

 

「お前はどうだ、ビリー」

「え、私なんかに聞いていいの?」

 

 びっくり、と驚いた表情で見上げる彼女に、彼は逆にたじろいだ。おいおい、と内心で呆れ果てる。少女の過去にまた一つ関心が湧きはしたが、そこは年長者としてぐっとこらえた。いつの間にか、ゴンとキルアまで言い争いを止めて、彼女の方を見つめていた。

 

「おいテメー、変な遠慮はいらねぇぜ」

「そう、そうね。……私は初めから決まってるわ」

 

 赤褐色の瞳をそっと伏せて、大切な思い出を抱きしめるようにビリーは言った。

 

「私は、あの手配写真の人たちを捕らえたい。いえ、できることなら殺したい」

 

 はっきり口にされた直接的な単語に、皆がそれぞれの反応をした。彼女もあえて承知の上で、正直に思いを明かしたのだろう。一通り周りを見回してから、やや低い声で言葉を続けた。

 

「だけど、私独りじゃ無理だから、それができる人たちをどこかで探すわ。ご心配なく。あなたたちにそのつもりが無いのなら、迷惑をかける前にさっさとおいとまさせていただくから」

「ああもう! どいつもこいつも!」

 

 突然キルアが立ち上がり、大きな声で叫び声を上げた。そして、ゴンとビリーの二人を交互に睨んでから、勢いよく人差し指を突き刺した。

 

「いいか! こっちの身の安全が第一だからな!」

 

 期せずして先ほどの自分と同じ意見を抱いた彼に、レオリオは優しい気持ちで微笑んだ。旅団の強さは聞き及んでいたが、自然とやる気が湧き出てくる。

 

「まっ、オレも奴らを捜索するのは賛成だ。個人的に礼がしたい相手もいるしな」

 

 ハンゾーも腕を組みながら頷いた。決まりだな、と口々に言う。しかし、ビリーが銀色の髪を揺らしながら、素朴な疑問で水をさした。

 

「でも、具体的にはどうするの? あの人たち、人間の常識が通じないわよ」

 

 知っているのとゴンが問えば、一度遭遇した経験があるという。彼女が目撃したという彼らの力について概説されるが、それは確かに人を超え、天変地異の域に近かった。全員の表情が固くなる。

 

「……とりあえず、それについては後で考えよう。ハンゾーがやってみせたように、奴らの弱点や油断をつくことは決して不可能じゃないはずだ。それよか、まずは見つけないとどうしょうもないぜ」

 

 キルアの提案は問題の先送りにも等しかったが、今のところはそれしかなかった。しかし、旅団の居場所を探すにしても、要となるポックルとポンズは頼れない。レオリオはしばらく思考を巡らせてから、一つ、気になっていたことを口に出した。

 

「クラピカは、クラピカとエリスはどうなんだ? エリスはポックルが見たそうだがよ、旅団がいるならクラピカもどっかで関わってんじゃねーか?」

 

 せめてきっかけになるような情報が欲しかったが、それ以上に彼が何をしているかこそが心配だった。蜘蛛が絡んだ際のクラピカは、とたんに猪突猛進かつ不安定になる。理性は残ったままだから、逆に始末に負えないのだ。

 

「つーか、あいつそもそもこの街にいんの?」

 

 キルアがハンゾーに視線で尋ね、オレは見てないと首を振られた。レオリオも確信があるのではない。ただ、そんな予感がしただけだった。

 

「ねえ、だったら一回電話してみようよ」

 

 携帯電話を取り出して、それを指差しながらゴンが言った。そのとき、まるで計ったようなタイミングで、彼の携帯にメールが届いた。突然鳴り始めるメロディーに、ゴンは慌ててボタンを押す。

 

「え、これってヒソカから?」

「おいゴン、ちょっとそれ見せてみろ」

 

 キルアが横から手を伸ばして、携帯電話を引ったくった。そして、しばらくじっと眺めて考えてから、何かの考えに沈み込んだ。その間、携帯は次々と隣へ回して回覧される。ある者は胡散臭そうに顔をしかめ、ある者は不思議そうに首をかしげた。自分の手元に回って来た時、レオリオはそれを確認した。未登録のアドレスからの一通は、至極シンプルな内容だった。

 

 署名と久しぶり♥という挨拶に、旅団が人間狩りをしているという短い警告。そして、画像として添付された地図と添えられたコメント。現状、レオリオには内容の信憑性までは分からないが、ただ一つ、このメールが事実なら確実に言えた。

 

 今夜、セメタリービルは再び戦場になる。

 

 

 

次回 第三十話「彼と彼女の未来の分岐」



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第三十話「彼と彼女の未来の分岐」

 エリスは、浴室で膝を抱えて震えていた。固いタイルの上に座り込んで、空虚に床を見つめていた。シャワーの熱い水流が、背中に打ち付けられては流れていく。白い湯気で満たされた密室。限界まで高くされた設定温度。火傷しそうなお湯のはずが、氷水のように冷たく、寒かった。体が高熱を持ちすぎていて、体感温度が狂っていった。

 

 この入浴に癒しはない。汗を流し、清潔さを保つためだけの単純作業。彼女は昨晩、怒りで心をたぎらせすぎた。活性化した全身の細胞が、生命力を吐き出しすぎた。増量したオーラを体内に封じることは、心身に絶大な負担をかけていた。あの後、安定に要した集中は八時間。結果、朝が白む時分まで、針先ほどの乱れすら許されぬ精神の綱渡りを必要とした。その後は泥のように眠り続け、今ごろになってようやく、彼女は、辛うじてシャワーを浴びるだけの体力と気力を取り戻せたのだ。

 

 エリスは虚ろな瞳で二の腕を撫でた。荒れていた肌は不自然に潤い、艶と張りを取り戻している。血色は相変わらず悪いままで、そのアンバランスさは自然界の常識から大きくはずれ、生物としての原始的な感覚に強い違和感を投げかけていた。恐らく、見るものはホラー映画のように生理的な嫌悪感を感じるだろう。脳細胞が茹で上がりそうな頭痛にずっと苛まれながら、アルベルトに会いたくないな、と彼女は思った。

 

 じくじくと波打つ吐き気とどうしょうもないほどの倦怠感に侵されて、シャワーのコックをひねることさえ容易ではない。柔らかいベッドが恋しかった。暖かい場所で横になりたいと、それだけを頼りに気力を絞って、彼女は浴室からあがることに成功した。バスタオルで体を乱雑に拭き、バスローブを巻いただけの姿でベッドへ倒れるようにもぐりこむと、ちょうどその時に電話が鳴った。重い視線を動かすと、液晶にはクラピカの名前が表示されている。彼はマフィアの関係者を護衛する仕事があったため、昨夜、敵を逃してからは一旦分かれて行動していたのであるが。

 

「……どうしたの? クラピカ」

「エリスか。今、大丈夫か?」

「ええ」

 

 聞き慣れた声がスピーカーから流れる。男性にしてはやや高い、理知的で、冷静さを感じさせる静かな口調。しかし、エリスはその一言だけで察知していた。あらかじめ知ってないと分からないほど微量だが、理性という水面下に決して隠し切れない高揚感が紛れている。ずきずきする頭で彼女は思った。少し、可愛い。

 

「今夜、蜘蛛を迎撃する暗殺チームに参加できることになった。なおかつ私の随伴という名目なら、もう一枠ぐらいなら増やせるそうだ。来るか?」

 

 それは確認ではなく儀式だった。答えなどお互いに分かりきっているのであるが、必要なのは同調だった。今は、まだ、共に戦っていくことができる。どうか最後まで決別せずにありたいと、エリスは自分勝手な願望を抱く。いざという時が訪れたならば、彼女に、自分の意志を譲るつもりは全くない。

 

「行くわ」

 

 たった一言に全ての心情をのせながら、彼女は熱っぽい吐息で返答した。今夜、旅団と邂逅できるとするならば、アルベルトとはどうしても会いたかった。

 

 ベッド脇に置かれていた卵の化石を、エリスはひしと抱きしめた。

 

 

 

 宿の部屋で、ビリーはじっと時計の秒針を見つめていた。会話はない。となりで、どさりと音がした。

 

「……一分八秒。すごいわ、五秒も延びてるじゃない」

 

 床に倒れこんで荒く息をつくゴンに向かって、彼女は目を丸くしてそう言った。返事はない。二人きりしかいない空間で、ビリーは独り言のように言葉を続けた。

 

「うらやましいわ。私が最初に挑戦させられた時なんて、二十秒もたたずに力尽きたもの。今だって二分が精一杯」

 

 汗だくで喘ぐゴンの前に、彼女はコップ一杯の水を差し出した。少年はそれを一気に飲み干して、安堵したように息をついた。

 

「大丈夫?」

「うん、なんとか」

「そう、よかった。……でも、ゴンもこれで分かったでしょう。堅なんて、そうそう実戦に使えるようなものじゃないって。一度や二度挑戦したぐらいで実用になるほど、軽々と使える技じゃないわ」

 

 タオルを渡しながら彼女は言った。脳裏には、件の野人が浮かんでいる。強化系の強みは正攻法。なればこそ、圧倒的な基礎能力の差は覆しにくい。

 

「いいや、まだまだっ! 九時まではまだ時間がある!」

 

 立ち上がりながらゴンが叫ぶ。相当の時間をおかないと回復しないと一度その身で味わいながら、それでも、気力だけを頼りに彼は立った。

 

「無理をしないで、休みなさい。夜までに体力を回復しないと、本末転倒もいいところよ」

「でもさ!」

「駄目」

 

 ふらつくゴンの肩をビリーは押さえた。纏をしただけの細腕が、怪力の少年を容易く制する。むろん彼女の実力ではなく、彼の疲労のためだった。

 

「焦ってもいいことなんて何もないわ」

「だけど、オレ」

「ゴン」

 

 それっきり彼女は黙って、眉をひそめながら彼を見つめた。少年の瞳には光があった。純粋な輝き。それが、逆に彼女の心を締め付ける。キルアは男の子としてかわいかったが、ゴンは違う。表面上は普通だが、一皮向けば、あまりにも深い。人間観察には自信があったはずのビリーだが、その底に何が潜むか、未だに推測すらもできてなかった。末恐ろしく、怖かった。

 

「寝なさい。横になるだけでもだいぶ違うわ。話だけなら、してあげるから」

 

 油断すると吸い込まれそうになる自分を振り払うように、彼女は強引に寝台まで彼を引きずっていった。ゴンは眠れないと主張したので、ビリーはベッドのはしに腰かけて、子守唄のように言葉を紡いだ。

 

「それじゃあ、周とか、硬とか、応用技について話しましょうか。といっても、私自身がどれも完全に使えるわけじゃないし、うまく教えられるかどうかはわからないわ。そもそも、さっきも言ったけど私なんて素人に毛が生えたようなものだから、なるべく近いうちに信頼できる人にちゃんとした教えを受けなおしたほうがいいわよ。それでもよければ、なんだけど」

 

 ゴンは真剣な表情で頷いた。それをうけて、彼女も記憶を頼りに語り始める。思い出すのは一人の男だ。短く刈った金髪の、日焼けした肌の男の記憶。ビリーは、喉にざらりと苦い砂を感じた。

 

 小汚い灰色の狭い宿屋で、少女は自分の思い出を語る。少年はじっとそれに聞き入って、時折、短い相槌を打っていた。

 

「それで、発なんだけど、私に念を教えた人はちょっと特殊な考えの持ち主でね。下手に利便性を追求するより、自分の心の赴くまま、深層心理の求めるものを引き出して造るのが一番楽しいって言われて従ってみたはいいけれど、実際その通りにするとトラウマをそのまま投影したような能力になったわ。確かに強力なんだけど、個性がありすぎて使いどころが限られるのが困りものね」

 

 彼女は自分の能力についてもぼかして語った。雨の日だけ使える限定条件。融通の利かない自動発動。本能をプログラムされた自動操縦。そして、制約と誓約に傾きすぎた、記憶を削る自虐の剣。

 

 いつしか、ゴンは寝息を立てていた。疲れたのだろうと彼女は微笑む。現場の下見に向かったキルアたちも、いまだ帰ってきそうな気配はない。彼女は毛布を彼の肩までかけてから、もうしばらくここに腰かけていることをこっそりと決めた。

 

 

 

 世界は、音もなく橙色に染まっていった。何もかも白かった病室が、暖かい色彩に変わっていく。窓の外には、コンクリートで形作られた直方体の箱達が、赤く焼けた空の下、影絵のように建ち並んでいた。緩やかに流れる大きな雲が、遠い彼方まで連なっている。丸く熟した太陽が、水平線へ緩やかに降りていく。この街では、陽は荒野より浮かび上がり、海へと向かって沈むのだ。

 

 背中をリクライニングベッドに預けながら、ポックルは、異国の夕暮れを眺めていた。故郷とは違う匂いの風が吹いて、知らない旋律の口笛が聞こえる。多彩な顔だちの人々が、共通言語で笑っていた。それは今の彼にとって、ほんの少しのノスタルジーと、しっとりした胸の高鳴りが訪れるような情景だった。もしもプロハンターになったなら、こうやって、世界中を飛び回って暮らすのだろう。

 

 この街は夜へと向かっていく。明るかった昼間から、赤く濡れた時間を経て、暗い闇の底へと沈んでいく。昨日のこの時間もそうだった。だから、きっと、今日も夜が訪れる。しかし、なぜだろう。彼は今、こうしてベッドにもたれている。

 

 感傷に沈んでいたポックルに、ふと、隣からカットされたりんごが差し出された。白い陶器の皿を持つ腕は繊細で、薄桃色の女性用入院着の袖口からは、巻かれた包帯が覗いていた。夕日に染まり、その女性は柿色に濡れて見える。

 

「また来たのか」

「暇なのよ。付き合いなさい」

 

 ポンズは丸椅子を取り出して、ポックルの病室に居座った。入院着の上から薄いカーデガンを一枚羽織り、病院の売店で買ったであろう適当な女性向けファッション雑誌に、何となく目を通しているようだった。彼女の個室は、隣だ。だというのに、一通りの検査から開放されると、このようにたびたび彼の部屋へと訪れては、巡回の看護士に見つかり連れ戻されるのを繰り返している。

 

 ポンズの怪我は重くはない。頭にも、そして体にも何箇所か包帯が巻かれたままだったが、致命的というほどの傷はなかった。それはポックルもまた同様である。背骨の傷も重くはなかった。医者によるとしばらくは専用の固定具を付ける必要があるそうだが、激しい負担にさえ気を付ければ、日常生活に支障はないということである。

 

「なあ」

「ん?」

「いや、いいや」

「そう」

 

 どことなく薬品の匂いのする友人が、ベッドのすぐ脇に座っている。お互い異性である上に年頃だったが、現状、その種の感情を彼女に感じた経験は彼にはない。かといって会話に耽るというようなそぶりもなく、時々思い出したように一言二言何気ない言葉を交わしては、それっきり、それぞれの時間を当たり前のようにすごしていた。

 

 この距離感が好きだった。ポックルにとって、それは、気安く気取らない間柄に思えたのだ。

 

 恋人でもなく、家族でもなく、ただ一緒にいただけの一人の女性。一緒にいるのが自然になった、それだけの事実しかない関係。恐らく、次のハンター試験を受けるまでは、彼女と共にいるのだろう。そう、思っていた。

 

 りんごを齧る。やや季節外れの早い果実は、幾分硬くて、すっぱかった。

 

 プロハンター。次の試験は、恐らく受かる。念という異能に触れてから、心身の成長が著しい。日常が生命力で満ち溢れていて、日々の鍛練の成果があっという間に実感まで至る。全身に躍動感が漲っていて、去年とは違う自分であると、今までにない自信を持って頷ける。しかし、だからこそ彼は不安でもあった。

 

 およそ半年、彼はずっと間近で見ていた。目をそらすことすらできない稀代の才能が二人も並んで、平然と呼吸しているのをだ。そのゴンとキルアは言うに及ばず、久しぶりに会ったハンゾーも、当然の如く穎脱している側だった。試験の様子から察するに、クラピカもまた同様だろう。遠距離からちらりと見かけただけのエリスなど、絶であったのに魂が凍えた。得体の知れない恐怖だった。

 

 あのレオリオでさえ、どうだ。独学で纏まで辿り着き、歪さなく体得してしまう天性の才覚。恵まれた体躯に真っ直ぐな熱意。練も覚えてないはずの彼のオーラを一目見たとき、ポックルは、開花を待つ若い力のつぼみが音もなく膨れ上がっているのを理解した。おこぼれで超常の力に預かった自分たちとは生まれた時点で別ものの、別の世界出身の住人たち。もしも、プロハンターの内側に本物と偽物の区分があると仮定するなら、あれこそがきっと本物だろう。

 

 あれと並べと言うのだろうか。試験に合格したならば、ああいう人種が切磋琢磨し、しのぎを削る日常が待っているとでも言うのだろうか。彼らが困難と思う難関を、ポックルは乗り越えていけるのだろうか。

 

 分からなかった。カード一枚手にした時、何が変わって、変わらないのか。

 

 やがて、病室の扉がノックされ、レオリオが一人で入ってきた。ポンズを見かけ、意外そうに目を見開く。彼女はばつの悪そうに微苦笑した。

 

「なんだ、何か進展あったのか?」

 

 ポックルが尋ねた。レオリオは、ああ、と頷いてから、病室の隅から丸椅子をもう一つ持ち出して、ベッドの傍らにどっかりと座った。土産として持ってきた数冊の書籍が、ポックルとポンズに分けられる。

 

「今夜、奴らにリベンジするって事になったぜ」

 

 ポックルは小さく息を呑んだ。ポンズと視線を合わせてから、レオリオの顔を注視する。夕焼けに浮かぶ真剣な目。冗談を言うような表情ではない。再び、ポックルとポンズは顔を合わせた。

 

「勝てるの? 近くで見たけど、はっきり言ってキルアでも足下にも及ばないわよ、あいつら」

「だからこその待ち伏せだとよ。絶対に成功する自信があるなら手を出していいが、隙がなければ諦める。無理はしない。全員、この条件で納得済みだ。……ま、やるとしたらそれしかねーからな」

 

 レオリオはそう言って頭を抑えた。簡素な椅子がぎしりと軋む。無理をするなと言ったところで、彼自身を含め、無理せずにいられそうな人間は少ない。それを理解していながらも、結局、彼らはこんな方法しか選べなかった。

 

「じゃ、どこを襲うかは分かってるのね。ひょっとして、また例の高層ビルでオークションでもやるのかしら?」

「まーな。ったく、どいつもこいつも、ほんっとうに懲りやしねーよなぁ」

 

 その後、彼は二人の体調を確認してから、少しの雑談を交わして立ち上がった。

 

「まっ、とりあえず近況は伝えたがよ、こっちはオレ達に任せといて、お前らはしっかり養生しとくんだぜ」

 

 そうやって念を押してから、レオリオは立ち上がって帰っていった。廊下を固い靴音が去っていく。にぎやかな男だ、とポックルは他愛無い感慨を抱いていた。隣で誰かが微笑んでいた。

 

 そして、無音の時が訪れた。会話はない。一人減ったというだけで、病室があっという間に静かになる。太陽もいつの間にか沈んでいて、残りわずかな残滓だけが、空を薄暗い赤色に染めていた。

 

「行くのか」

 

 閉まったドアを見つめたまま、ポックルは核心だけを呟いた。

 

「……分かっちゃう?」

「分かるさ、そりゃな」

 

 沈黙が続く。ポンズはポックルを見ようとしない。じっと、扉の方向を向いたまま、彼女は静かな声でぽつぽつと語った。

 

「いくら待ち伏せでも、索敵する役は必要でしょ」

「ああ。いれば、便利だろうな」

「今、レオリオについていってもどうせ断られるだけだから、後でこっそり抜け出すつもり。やっぱり、あの子達だけを頑張らせるわけにはいかないもの」

「そっか。わかった」

 

 臨戦の決意を優しげに詠うポンズの言葉に、ポックルは噛み締めるように頷いた。

 

「蜂は? 全部潰されちまったんだろ」

「大丈夫よ。なんとかなってしまったわ」

「そうなのか?」

「ええ」

 

 私って意外と才能あったのね、と、どこか寂しそうな声色が言った。彼女は、今、どんな表情をしているのだろうか。寂しげに笑っているのだろうか。すっかり暗くなった部屋の中、電灯もつけず、彼女は彼の方へ振り向いた。

 

「もうっ、そんな心配そうな声ださないでよ! 私は無茶なんてしないってば!」

 

 暗がりの中でポンズは笑った。少し長めの、肩にかかる髪がふわりと広がる。木漏れ日のような微笑みだった。

 

「そ、だな。……まあ、その点については、信頼してるぜ」

「そうでしょ。自分で言うのもなんだけど、私って結構臆病だもの。無茶なんて頼まれたってできないわ。だから……、だからあなたは、安心してここで休んでなさい」

「おう、了解」

 

 わざと明るくポックルは言って、彼女の言葉に頷いた。ポンズはそんな彼の様子を見て、弟を前にした姉のように、よろしい、と満足そうに頷いた。

 

「それよりさ、これから先、どうするんだ」

「これから先?」

 

 部屋に電灯をつけながら。ポンズが不思議そうに瞬きする。唐突に明るくなった病室で、彼はこのところ密かに考えてた話を、この場で打ち明けてしまう事にした。それはポックルの不安の結晶だったが、恥ずかしいとは思わなかった。弱味を見せるならポンズがいい。そんな感情を抱けるほど、彼は彼女を信頼していた。

 

「ハンター試験を受けて、それに受かったらの話だ」

「それは、まだ分からないわ。受かってみないと、全然」

「だったら、よかったら当面オレと組まないか」

 

 ただ、仲間として。同じハンターの仲間として、共に、来ないかと。

 

「ポンズが物見に向いた能力を作ってくれるなら、オレは、戦闘に特化した能力にもできる。そうすれば、化け物たちが跋扈するような世界でも、最低限の自衛ぐらいならできるかもしれない」

 

 ポックルは静かにポンズを見つめ、彼女もまた、彼を真剣に見つめている。なにかをじっと探るように、澄んだ彼女の瞳が揺れていた。

 

「どうだ、オレと一緒に、来てくれないか」

 

 突然、彼女はくすりと笑いをもらした。どこか樹液の匂いのする、柔らかく甘い微笑みだった。

 

「横になって言ってもあまりしまらないわね。でも、そっか、考えておくわ」

「ああ……、頼むぜ。最初の頃のハントはやっぱり、気心の知れた相手とがいい」

「それは、うん。それは同感、なんだけど」

 

 困った様に、戸惑った様に苦笑しつつ、ポンズは自分の病室に帰ると言い出した。それがいい、とポックルもまた同意した。窓の外はもう夜だ。旅団との戦いに臨むなら、そろそろ準備をしないといけないだろう。ところが、ドアノブに片手をかけながら、そうそう、と彼女は振り向いた。

 

「昨日は本当にありがとう。あのときのあなた、とても格好良かったわよ」

 

 照れくさそうな声がして、ぱたんと、扉が閉まった。

 

 

 

 セメタリービルの屋上、ホバリング用のヘリポートに、エリスは一人で佇んでいた。コンクリートの広い足場。見上げれば夜空。風が強い。鈍重な巨大飛行船でゆっくりと空を飛んでいるかのような、そんな錯覚さえも抱くほど、地上と隔絶された場所だった。

 

 空調設備のユニットの、重く低い唸りが聞こえる。黒いフォーマルドレスのスカートが、風に揺れてはたはたとはためく。結い上げた髪が揺れていた。絹の長手袋に包まれた両手を、彼女はそっと胸元に寄せた。オーラの加護は今はない。絶で剥き出しになった肉体の奥に、心臓の鼓動が高鳴っている。黒いポシェットもここにはなかった。だが、本当に置いてきてよかったのかと、彼女は少し不安になった。

 

 眼下には灯りの消えぬ街がある。ヘッドライトの流れる道路がある。ここはあの街とは違うのだ。半年前、彼女が潰したあの街とは。

 

 しばらくして、彼女は後ろを振り向いた。そこには自然と湧き出たかのような静かさで、二人の男性が存在していた。ゼノとシルバ。このビルに来る前、別所で行なわれた顔合わせで、そう名乗っていた人物だった。

 

「先ほどはどうも。キルア君のご家族ですよね」

 

 エリスの言葉に頷いたのは、背の低い初老の男性だった。落ち着いた動作。上唇から垂らす銀色の髭が、カキンの幻獣画を髣髴させる。だが、風体こそは穏やかだが、雰囲気は好々爺とは言いがたかった。もっと硬い、鈍い銀色の気配を香らせていた。

 

「よろしくな。ワシが祖父でこやつが父だ」

 

 巨躯の男が無言でじっと見据えていた。彼女は、そんな二人に会釈をした。

 

「キルア君からは、春にお手紙を頂きましたよ。アルベルトも喜んでました。無事にひと段落ついたようで嬉しいって」

「キルめ、手紙などろくに書いたこともなかろうに。どうだ、さぞかし稚拙じゃったろう」

 

 似合わないことをと呆れたように、ゼノは斜め上を睨んで呟いた。が、エリスは首を振って否定した。

 

「がんばって書いたのがよくわかる、とてもいいお手紙だったと思いますよ。あれは、お爺様がお手伝いを?」

「いや、恐らく執事だ。だが、そうか、アイツがな。ふむ、よかったか」

 

 なにか事情があるらしく、彼は遠い目をして独語した。エリスは思った。いつか、この世界から全てのしがらみが消え去って、彼らもただの子供として暮らしていけたらどんなにいいか、と。しかしそれは、眼前の二人にしてはいけない話だという事も分かっていた。

 

「親父、そろそろ行くぞ」

 

 シルバが言った。ゼノも頷いてきびすを返すが、立ち去る前に、横目でエリスをちらりと見た。

 

「その皮膚、内側によほど恐ろしいものが渦巻いておると見た」

 

 激しくはないが、不動の視線。それにじっと見つめられて、エリスは静かに目を合わせた。驚きはそれほど大きくなかった。絶でオーラを封じてながら、本質を容易く見抜かれたことも、いつのまにか、当然の結果として受け入れていた。

 

「何でもいいが、仕事の邪魔だけはしてくれるなよ。ワシらも、おぬしとはあまり戦いたくはないからの」

 

 彼の言葉に圧迫感は全くなく、ただ、存在感だけが確かだった。エリスは何かを言おうとして、わずかに唇を動かした。だが、彼女が喉を震わせる前に、彼らは既に去っていった。

 

「……ふぅ」

 

 溜め息をつく。背中に、疲労とは違う汗が流れた。彼女は穏やかに感嘆していた。怖かった。あれだけ力を見せ付けられても、ついぞ、彼らを強いと認識することができなかったのだ。超脱の境地に達した自然体を、彼女は始めて肌で感じた。

 

「エリス」

 

 新しい声に呼びかけられた。見ると、民族衣装を着こなす青年がいた。まぶしい金髪が夜に輝き、女性顔負けの細やかな美貌に、漆黒の意志が宿っているのが見て取れる。

 

「あ、クラピカ」

 

 彼女はほっと息をついた。親しい友人と会えた事で、緊張が一転してほぐれたような気がしたのだ。

 

「いまの二人、キルアの家族だそうだな」

「ええ、そうみたいよ。すれ違った?」

「ああ、そこでな」

 

 そちらを向きながら顔をしかめて、何かを噛み締めるかのようにクラピカは黙った。右手の鎖を左手で触れ、そのままの体勢で沈黙していた。やがて、およそ一分ほども経ってから、彼はぼそりと呟いた。

 

「凄まじいな」

 

 エリスも深々と頷いた。全くもって同感だった。

 

「まさに、下でたむろしている暗殺者たちとは格が違う。彼らも、決して弱い部類ではないのだろうが」

「本当にね。わたし、そういうのは実際戦ってみないとよく分からないんだけど、それでも、あの人たちの怖さは身にしみたわ」

 

 両人とも、相手が強いからと戦いを臆する程度の覚悟ではない。しかし、無駄に強者に挑むほど破綻した性格はしてなかったし、もとより、余力があり余ってるはずもないのだから。

 

「それで、どうだ」

 

 唐突かつ端的に彼が尋ねた。彼女はそれに、二つの意図が内包されていることを理解していた。

 

「体調のほうは、なんとか。だけど場所の方が問題ね。思っていたよりも地上が近いわ。たぶん、この屋上でもぎりぎりかしら」

「ならば決まりだ。中層階での迎撃は断念して、アルベルトをこの場におびき寄せよう」

「いいの? 暗殺チームは護衛をかねてって話だったでしょう? 幻影旅団を倒して、その屍の上で堂々と競売を開いて勝利をアピールするのが今夜の彼らの目的なんだから」

「いや、あれはただの建前だ。現実には、組の重要人物は全員離れた場所に待機している。オークションが開催されるまでは、マフィアの幹部はこのビルには来ない」

 

 意外な事実に驚くエリスに、クラピカは裏にある事情を簡潔に明かした。

 

「そういう予言がでていたのだよ」

 

 予言という単語には覚えがあった。事前に、彼から説明を受けていたのである。記憶の片隅から釣り上げられたその情報を、彼女は口から言葉にした。

 

「例の、クラピカのボスって女の子?」

「ああ。実質的には、先ほど紹介したライトという男が雇い主だがな。そして彼女も、私以外の護衛団に守られながら、マフィアのボスたちと一緒の場所にいるはずだ」

「そう。良かった。巻き込まれる心配がないのなら何よりだわ」

 

 エリスの言葉は裏も他意もなくこぼれたものだが、クラピカはかすかに表情を歪ませた。人体収集家を嫌う彼が故に、複雑な感情があるらしかった。

 

「それよりも、アルベルトを呼ぶならそろそろ連絡をしたほうがいいだろう。携帯にメールでも送っておくか」

「いえ、やめておきましょう。そうしてもいいけど、……それで来てくれるかは分からないもの。そんなことより、もっと手っ取り早い手段があるわ」

 

 それに、そちらの方がクラピカの事情にも都合がいいと、夜景を眺めながら彼女は言った。

 

「蝋燭一本、それだけあれば充分よ」

 

 

 

次回 第三十一話「相思狂愛」



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第三十一話「相思狂愛」

 よく冷えたアスファルトの広い車道を、彼らは並んで歩いていた。暗く寂しい街並みだった。通行する車は見当たらず、歩道にも人通りは全くなかった。火の手がいくつも上がっている。破壊された検問の名残りだろう、カラフルなプラスチックの欠片が散乱し、警察用と思しき車両が、何台かまとめて置き捨ててあった。風に、血と硝煙の臭いが混じっている。やや離れた辺りでは、スーツ姿の男たちが、銃火器を握り締めたままで倒れていた。

 

 炎が赤く、煙が黒い。道端には、街灯の明かりが点々と続き、街路樹を薄暗い濃緑色に照らしてる。生存者の息吹は聞こえなかった。

 

「あら、あら、あら! 皆さんご活躍じゃありませんこと! クァイアみたいね!」

 

 楽しそうにはしゃいでキャロルが叫んだ。幼く愛らしい体つきが、鮮やかに赤いドレスの姿が、この暗黒の寂寥の中、ライトアップされたかの如く鮮烈だった。

 

「お祭り騒ぎだね」

「ええ、ほんとに!」

 

 隣を歩くアルベルトは、ブラックタイのタキシードに代えて、黒い背広を折り目正しく着こなしていた。しっかりした作りの革靴に、黒い皮製のドレスグローブ。もともとが端整で癖の少ない容姿をしているためだろう。隙がなさすぎてやや没個性ではあったものの、颯爽と調和のとれた自然さがあった。噴き出すオーラは弱弱しく、顔色は鉛色に近いまでに青ざめていたが、足どりも口調も、それを感じさせないほど確かだった。

 

「さて。団長からは具体的な指示は特になかったから、これは結局、各自好きに楽しめってことだろうね」

 

 少し遠くで爆発があった。絶望を孕んだ悲鳴が聞こえ、銃声と破砕音が和音を奏でる。暗く深い夜空の下、赤色の光源がまた一つ増えた。どこのペアかは不明だったが、暴れている団員がいるのだろう。

 

「私たちはどうしましょうか?」

 

 わくわくした様子の彼女に問われ、彼はそびえ立つセメタリービルを見上げながら、舞台上の役者のように朗々と吟じた。

 

「有象無象は放っておこう。やっぱり、遊ぶなら賑やかな場所の方が面白そうだ」

「賛成!」

 

 歓声を上げてキャロルが跳ねる。そして待ちきれないとでも言うかのように、小さな歩幅で歩き出した。アルベルトが後を追ってくる事を、微塵も疑ってない様子だった。

 

「ねえ」

 

 道すがら、彼女は突然立ち止まって彼を見上げた。近くで燃える横転した車の赤い光が、悪戯っぽい少女の顔を、明々と奇妙なほどに照らし上げた。

 

「ねえ、アルベルト。一つ聞かせてくれないかしら」

「なんだい。君には世話になってるからね、大抵のことなら答えるけど」

「まあ、まあ、まあ! お世辞が上手くてらっしゃること!」

 

 冗談めかしたやり取りの後、彼女は本題を切り出した。それは、旅団に入った理由であった。その一言で会話が途切れ、靴音だけが鳴っていた。しかし、それも数秒のことだった。

 

「了解。でも、君が教えてくれるならね」

「え、私?」

 

 キャロルは両目を丸々と見開いた。どうしてそんな事をと彼女が問う。気になったからねとアルベルトが返すと、一変して、とても嬉しそうにくるりと回った。

 

「私、私ね! クロロにとても憧れてるの! 素敵だもの! だから、その体に飽きてからで構わないから、私に頂戴って約束したのよ! ああ、楽しみだわ! 楽しみすぎて脳が燃えそう!」

 

 くるくると、ステップを踏んで彼女は踊る。奮発したディナーに出かける少女のように、そのダンスは、とても無邪気で無垢に見えた。

 

「それで、あなたは!」

「うん、欲しいものが多すぎてね」

 

 微笑みながらアルベルトは答えた。ふと、キャロルのステップが中断された。見上げる彼女の表情には、小さいが隠す気のない確かな不満と、値踏みするような感情があった。

 

「今一番欲しいものは?」

「そうだね、国をひとつ欲しいかな」

 

 あっけにとられるキャロルをよそに、彼は秘密の宝物を袋の口からこっそり見せるかのように、ゆっくりと己の欲望を語っていく。

 

「豊かな土地はもちろんだけど、それ以上に人間が欲しい。笑って暮らす人たちが。圧政を受けても、汚染を浴びても、食べるものすらまともになくて、毒のような汚泥を食らってでも。それでも、何の文句も言わないで、僕の為に笑う愚かな民が。手に入ったら、僕は飽きるまでゲームのように統治して、丘の上の城に、愛人の女でも囲うんだ」

 

 旅団という力の後ろ盾があればそういう無茶な所業だってやりやすいと、彼は優しいまなざしでそっと言った。

 

「どうだい? こんな理由ではいかがかな」

「綺麗な生き方」

 

 彼女の口からこぼれたのは、ぼんやりとおぼろげで輪郭のない、真冬の木漏れ日のような一言だった。

 

「この世に哀れな騎士ありき、ね。素敵。……でも、格好いいけど不合格よ。女の子を相手にする時は、もう少しマシな嘘をつきなさい」

「手厳しいな」

 

 アルベルトは苦笑して肩をくすめた。

 

「でも、そうね、半分ぐらいは騙されてあげるわ。だって、もう半分はあなた、本気でしょう?」

 

 本来、旅団員に求められるのは具体的な物欲ではなく生き方だった。蜘蛛という場所を愛する心。あるいは、これから愛することができるかどうか。キャロルとて、やや歪だが同じだった。彼女は、憧れの人を近くで観察する環境をも含めて欲している。その点、アルベルトの示した願望は蜘蛛に依存しないという点で根本的にずれていた。もちろん、彼自身それは理解している。

 

「でも、クロロには本当にこんな理由を明かしたんだけどね」

「まあ。それはそれは。大胆だと褒めればいいのかしら? でも、そう。それを知って許したというのなら、何か考えがあるんでしょうね。もしかしたら、ただ刹那的なだけかもしれないけど」

「だろうね。団長の期待については大まかな見当はついてるけど、最後までそれに応えられるかは、僕にはちょっと自信がないな」

「あらまあ! 謙遜するじゃない!」

 

 キャロルは愉快そうにコロコロと笑った。

 

「楽しい人ね、あなたは! ますます気に入ってしまったわ。ご褒美よ!」

 

 気品ある老婦人の姿をとったキャロルは、右手を胸元へ差し込んだ。指先が緑のドレスの繊維を破り、切り裂き、肌の表面に爪を立てる。皮膚の奥、肉の内側を掻き分けて、肋骨を折り砕いて取り出したのは、赤黒く温かい心臓だった。まだ、確かな脈動を続けている。

 

「半分いかが。景気付けに」

 

 血塗れたりんごのような物体を、二等分しながら彼女は言った。断面の筋肉がほつれて蠢き、さびた鉄の臭いを昇らせている。

 

「食べろと?」

「もちろん」

 

 皺だらけの顔で笑って彼女は言った。彼は押し付けられた心臓の半分を口元へやって、前歯でひとかけら噛み切った。租借して飲み込む。すると、どうだろう。胃の腑から暖かい輝きが膨らんで、頭頂から足裏までを包み込んだ。

 

「これは、……なんて、言えばいいんだろう」

 

 万感の感激が彼を襲った。微かだが、細胞が生命力を取り戻しつつある。もう一口齧る。人肉の生臭い味が口いっぱいに広がっていく。また少し、しかし確実に体力が回復しているのが感じられた。

 

「この一族の肉体はね、素晴らしい即効性の強精薬として作用するの。だいぶ劣化していた代物だし、そもそも具現化で再現した紛い物だけど、それでも、心臓ならさすがにこれくらいの効果は得られるわ」

 

 自分でも心臓を齧り取って、オーラを増大させながら彼女は言った。だが、そのように会話しながら歩いているとき、老婆の剥き出しになった胸部の傷から、生命力の光がこぼれて洩れた。血の塊や肉片が、オーラの粒子に戻ったのだ。その光はやがて全身から外へと拡散を始め、肉体がほろほろと崩れだした。

 

「あっ! もう終わりだなんて!」

 

 キャロルが叫んだ。彼女は急いで心臓を全て食べ尽くし、アルベルトにもそうするように命令した。彼は従い、最後の一口を飲み込んでから、覗き込むように質問した。

 

「もう終わり? 具現化できなくなったのかい? 本当に?」

 

 彼女はええと頷いて、すぐにカイゼル髭を蓄えた紳士の姿にとって変わった。

 

「困ったものだね! 憧れが尽きてしまったよ!」

 

 紳士の声でキャロルは叫んだ。やれやれと首を振りながら、これまで彼女だったはずの彼は、急に慇懃だがどこか尊大な態度になった。

 

「同じ感情を持ち続けるというのはね」

 

 左手でステッキを握り、右手でこするように撫でながら、キャロルは彼らしい調子で語りだした。

 

「ある一つの対象に同じ感情を持ち続けることは難しい。悲しいことにね、いつまでも憧れ続けることはできんのだ。永遠はない! ないのだよ! 惜しいがね。仕方がないのだ。ドゥームなのだよ。まして私の場合はね、新しく構成するたび、傷つくたび、憧憬も劣化していかざるを得ないのでね」

 

 そこで一旦言葉を区切り、彼は少女の姿へと再び戻った。

 

「まあ、新しいお洋服を一着手に入れればすむことだから。そもそもあれは、近々捨てるつもりだったのよ」

 

 あっけらかんと彼女は言うが、表情は少し硬かった。無理もない、とアルベルトは思った。たとえ具現化できる水準を下回っても、憧れが消えるほどではないのだろう。愛着だってあっただろう。憧憬と近しく接触すれば、しばしば親しみへと変化する。

 

 その後もしばらく歩き続け、彼らはビルの正面入り口すぐそばまで辿り着いた。余計な戦いに関わらず、早めに到着したはずの二人だったが、既に、その場には突破された形跡だけが残されていた。

 

「なんというか、これは、酷いな」

 

 機関車が走りぬけたかの如き破壊の跡を検分しながら、アルベルトは苦々しく口元を歪めていた。いくつかの死体は、銃器ごと横一文字に斬られていた。その断面は非常に鋭利で、金属の部分は、とりわけ鏡面のようになめらかだった。

 

「あの二人、 大はしゃぎしすぎじゃないかしら」

 

 目を細め、母猫のように彼女は呟く。そこには負の感情はほとんどなく、微かな喜びさえをも見て取れた。我が子が悪戯するまで育ったのが、嬉しくて仕方がないとでも言うかのように。

 

「入りましょうか。中から戦いの気配はして?」

「いや、それはここからじゃ分からないけど、ビルに入るのは、いま少し待った方がよさそうだ」

 

 言って、アルベルトは斜め上を指差した。そこでは、薄く均一なオーラで形成された巨大な球体がすみやかに大きさを増していた。上層階を中心に広がっていき、それから、徐々に地上へと向かって降りはじめた。

 

「位置取りから、迎撃側の使い手だろう。あれだけの円を実現させるような達人と、僕は、今の状態で戦いたくない」

「私たち、旅団最弱のペアだものね!」

 

 キャロルは楽しそうに言い切った。まがうことなき事実であった。弱さを楽しむ彼女はもちろん、いくらか体力を回復したとはいえ、念能力者として難の多いアルベルトも、最弱を自認するに異論はなかった。他のメンバーに聞かれたら弱腰だと笑われること必至だったが、この場にはそのような他者はなく、二人の意見は一致した。

 

 アルベルトは己が内側に意識を向けた。回復した生命力の量はそれほどではない。満タンの十分の一にも満たなかった。それでも、この状況下ではありがたかった。彼は思わぬ恵みに感謝しながら、幼い容姿のキャロルをしばらく見つめていた。

 

「あらっ、私に惚れた目をしてるわ!」

「かもね」

 

 軽口を叩き合っていたときだった。セメタリービルの屋上から、絶大な気配が膨れ上がったのは。それは立ち上るオーラだった。上層階全体を包み込むそれは、あまりに禍々しく、おぞましい害意に彩られていた。円ではない。繊細な密度の薄さは感じられず、留まらず天へと昇っていった。練とも違う。意気込んで噴出させてるというような気概がなく、ダムから水が流れるように、ただ単に、自然な現象として吹き上げていた。まるで、纏を修得してない常人から、自然に垂れ流されるオーラのように。

 

 下から見ると、それは巨大なキャンドルにも見える。キャロルは、あら、と呟いた。アルベルトの周りに存在する害意あるオーラを、彼女は意味ありげな視線で観察していた。質も量も段違いだったが、両者の方向性が同じなのは、能力者ならば誰にでもわかる。しかし、彼女は何も言わなかった。

 

「行きましょうか」

 

 どこへ、とは言わない。アルベルトも、ああ、とだけ頷いた。これだけのオーラの奔流である。興味を持つ団員は少なくあるまい。彼らより先に駆けつけなければ、何が起こるか分からなかった。

 

 

 

 彼らはエレベーターを使わずに、階段を飛ぶような速度で昇っていった。床を蹴らずに壁を蹴り、非常用の階段を、屋上へ吸い込まれるように駆けて行く。その時、鋭敏な感覚で何かを予期したアルベルトは、隣を行くキャロルを抱えて強く段差を蹴った。天井に着地し、すぐに床へと跳躍する。刹那の後、一筋の鎖が唸りを上げて通過した。鞭のようにしなり、壁面が轟音とともに陥没する。その細さからは考えられない、あまりに強烈な威力だった。

 

「まあ、まあ、まあ!」

 

 踊り場の陰から現れたのは、独特の民族衣装を身につけた、憎悪を宿した青年だった。

 

「久しぶりだな、アルベルト」

 

 鎖を回収しながら彼は言った。冷え冷えと凍結し尽くした眼球は、極彩の赤に燃えている。纏うオーラが猛っていた。

 

「ああ、久しぶり。クラピカ」

 

 アルベルトは返した。煮えたぎる憎しみを全身に受けて、表情は何一つとして変わらない。

 

「あら、知り合いだったの、あなたたち?」

「みたいだね。まったく、この街では知人とよく会うようだ」

 

 腕にキャロルを抱えたまま、アルベルトは、クラピカの姿を見上げている。相手は、苛々した様子で彼ら二人を見下ろしていた。

 

「私は、お前が背中を刺すために蜘蛛の巣にひそんだとばかり思っていた。いや、望んでいたのだな。今から思えば虚しいことだが」

 

 右手を掲げてクラピカは言った。

 

「買いかぶりだったようだな。二人仲良く歩くだけには留まらず、私の攻撃からも庇おうとは」

 

 尋常ではない殺意が込められたオーラが二人を炙った。およそ、念と出会って半年程度の男が放つものとは思えない、要塞の如き圧迫感。こと、念という闘いの舞台において、その意志の力は、単純に、強い。

 

「心の底から賊に落ちたか」

 

 それを聞いてアルベルトは笑った。肩をすくめて苦笑した。

 

「その通りさ。仲間を殺して得るものがあるかい? だけど、そうだね、僕が旅団に入った事がそんなに信じられないというのなら」

 

 キャロルを降ろしながらアルベルトは応じる。頬を釣り上げ前歯を見せて、笑った顔の形をしてみせた。

 

「証拠を、見せようか」

 

 スーツの上着を脱ぎとって、無造作に床に放り捨てた。それから、皮のドレスグローブをはめた左手を首元にやって、ネクタイごとシャツを千切って破いた。千切れた布きれが落ちていった。

 

「……貴様」

 

 クラピカのオーラが爆発的に増えた。見たのだ。スマートに鍛えられた上半身に、翡翠の首飾りだけが揺れている。その胸板、左胸のあたりを中心にして、胴体全面を覆うように、十二本の脚を伸ばす蜘蛛がいた。皮膚の下に埋め込まれた、漆黒の色素で描かれた証。白抜かれた番号は九だった。

 

「どうかな? まだ、信じることはできないかな?」

「そこまで、蜘蛛という立場に固執するか」

 

 声色はいっそ穏やかだった。しかし、念は今やマグマの如く沸き立っており、瞋恚の目でアルベルトをじっと黙視していた。

 

「……いや、言うまい。アルベルト、お前は通れ」

 

 しかし、その全てを彼は飲み込んだ。否、飲み込んだのではない。ぶつける対象を変えたのだ。彼はキャロルへと目を向けている。

 

「どういうことだ?」

 

 アルベルトはキャロルと顔を見合わせてから問い掛けた。

 

「この上でエリスが待っている。頼まれたのだよ。お前だけは、何があっても通してくれとな。本来なら私が倒してやりたいが、お前とのつながりは彼女の方が深い。さあ、行け」

 

 言って、クラピカは腕を下ろした。その状態からでも一挙動で攻撃できることには変わりはないが、意志は示したことになる。急に移り変わった状況に、アルベルトはキャロルに視線で尋ねた。彼女は艶やかに頷いた。

 

「婚約者さん?」

「まいったな。知ってたのか」

「安心して。ほんの二言三言、話しただけの縁だから。それに、旅団の誰にも喋ってないもの。それより、ここは私に譲って頂戴。ほら、せっかくのお洋服からの申し出ですもの」

 

 とても楽しそうに彼女は言った。少女のように喜んでみせたその仕草は、いつも以上に芝居がかり、秘めた思惑の存在を彼に教えていた。だが、それすらもきっと計算だろう。

 

「ありがとう」

「どういたしまして!」

 

 ませた笑顔で彼女は叫んだ。

 

「ねえ、クラピカ。あなたは一つ見誤っているわよ。そもそも、今は私のほうが強いもの。よほどの隙を突かれなければ、私は彼に殺されないわ」

 

 キャロルの言を背中の後ろに聞きながら、アルベルトは階段を慎重に昇っていく。鎖が獲物に飢えた音を鳴らし、紳士が現れる気配があった。クラピカの隣を彼は歩く。アルベルトは前を向いたまま、クラピカも下を睨んだまま、お互い、一瞥だにせず通り過ぎた。

 

 

 

 屋上では暴風が渦巻いていた。正面に佇むエリスから、絶大なオーラが溢れ出ている。目も開けてられないような横殴りの流れは、もはや、巨大な竜巻のそれに近かった。人類への害意がアルベルトを苛む。脳髄を痛め、痛覚を引き裂く。垂れ流されるだけの個人のオーラが、並みの兵器を超えている。

 

 そんな嵐が、静まった。

 

 エリスは静かに立っていた。婚約者にして、義妹。そんな関係の女性がいた。彼女の容態は予想より悪い。開放と絶を切り替えて、見るからに体力を消耗している。骨格ごと砕けて倒れそうで、経っているのが不思議だった。ただ、目だけは恐ろしく力があった。

 

 九月の夜風が二人を撫でた。アルベルトの首からさがる翡翠の珠のネックレスが、裸の上半身を彩っていた。彼女は、その下にある異形の蜘蛛を、皮膚に透ける黒色の塗料を見やって息を呑んだ。

 

「やつれたね」

 

 アルベルトの第一声はそれだった。衰弱と心労で真っ青になり、内臓ごと下しそうな彼女の様子を眺めながら、冷たいほど優しく彼は言った。

 

「辛かったかい?」

 

 彼自身の容態は彼女より酷い。今もオーラを噴出しながら、おぞましいオーラを纏いながら、彼は涼しげに微笑んでいた。当たり前すぎて、残酷だった。

 

「それを返して。母の形見の首飾りを。そんな用途に使うと知っていたら、わたしは絶対に送らなかった」

 

 右手を差し出してエリスが言う。しかし、彼はそっけなく拒絶した。悪いね、と、形ばかりの謝罪を平然と口にした。

 

「もうしばらくこれは必要なんだ。だから、まだ手放したくはないんだよ」

 

 アルベルトは視線をそらさない。執拗にエリスを見つめたまま、灰色の瞳を見続けたまま、ただただ穏やかに語っていた。まるで、愛の言葉を紡ぐように。

 

 彼女は十秒近く黙っていた。そして、低く澄み渡った声で言った。

 

「そっか、分かった」

 

 二人は沈黙の中で見つめ合った。

 

「わたしを殺すの?」

「必要があれば」

「……なら、いいわ」

 

 更に一分ほどの沈黙が続いた。二人は微動だにしないままだったが、やがて、エリスがまぶたをゆっくりと閉じた。そのまま、空を見上げて彼女は言った。

 

「ずっと考えて、悩んでいたわ。アルベルトがなにを思っていて、どうすればあなたに、いえ、わたしたちにとって一番いい結果に辿り着くかを」

 

 摩天楼の屋上に夜風が流れる。機械の作動音が遠くに聞こえた。そのまま何十秒も待ってから、彼女は再びまぶたを開けた。そこには、なぜか、何かに勝ち誇ったような輝きがあった。

 

「考えても、あなたの思惑は読めなかったけど、望みのほうは、分かったつもり。除け者にされたことは憎らしいけど、本当はね、わたしもあなたの気持ちは分かるもの。わたしが旅団に入ったら、あなたにだけは、絶対、蚊帳の外にいて欲しいと願うから」

 

 エリスは詠った。透明で涼しい、野に咲く花のように白い声で。

 

「ねえ、アルベルト。いえ、アル」

 

 燃えるように輝くダークブルーの虹彩で、今にも倒れそうな細い体で、少女が少年に囁くように、エリスはアルベルトに声を掛けた。彼女の表情を見つめたとき、彼の脳裏に、かつての光景が浮かび上がった。二人で遊んだ広場の風景。初めて口付けした木陰の匂い。ハンター試験の前日の夜、久しぶりに聞いた彼女の寝息。そういえば、と、彼は当たり前の事実に今更気付いた。このところ、ずっと、彼女の肩を抱いていない。

 

 唐突に思い起こされた感傷を、アルベルトは邪魔だと疎ましく思った。思考が明らかに曇っている。人間の脳はままならない。極めて不合理な生き物だった。

 

 エリスの唇は乾いていた。化粧で誤魔化してはいるものの、頬はこけ、目の周りは熱っぽく腫れていた。彼女はゆっくりと一歩進んだ。屋上に、かかとの音がこつりと鳴った。やがて、もう一歩。また一歩。彼女はアルベルトの元へと近付いてくる。預言者が湖面を歩くように。こわばった無表情には恐怖が浮かび、それとは別に、明確な決心も同居していた。アルベルトは、彼女に何かを言いたかった。靴の音が鳴っていた。

 

 そして、彼女は彼のすぐそばにまでやってきた。おぞましいオーラをものともせず、絶のまま、彼の目の前で立ち止まる。見下ろす彼を、彼女は見上げた。彼女は、エリスだった。それだけだった。また静寂が訪れた。

 

「あなたに、一番優しい言葉をあげる」

 

 エリスはアルベルトの頬を触った。絹の手袋が皮膚を撫でた。いまや、エリスは瞳だけで笑っていた。子供っぽい、懐かしい匂いの笑みだった。背伸びをして、乾いた唇が少し濡れた。わずか一瞬、エリスの目が潤んだようにアルベルトには見えた。彼は、自分が微笑んでいることを自覚した。

 

「終わりにしましょう、わたしたち」

 

 アルベルトが渇望していた言葉だった。決して口に出せない願望だった。どうしょうもなく臆病な逃避だった。

 

「今ならまだ、思い出で済むわ」

 

 そうだね、と、彼は言いたかった。全てはそうなるべきであった。それこそが最良の結末だった。アルベルトは、今、快晴のような気持ちだった、はずだった。それでも、彼は言葉に詰まっていた。

 

 願っていたのだ。エリスは、アルベルトに縛られるべきではない、と。彼女には彼女の人生があり、彼女の行為と報いがある。もし、クロロから発を取り返せても、アルベルトに縛られて暮らすなら、それは、はたして幸せと呼べるのだろうか。例え、定期的に会うことを義務付けられても、心は自由でいてほしかった。だからこそ、彼一人の意思で闇に堕ちた。

 

 ただ一つ、一つだけ彼には分からなかった。なぜ、目の前の彼女は、あんなにも泣きそうに笑いながら、幸せそうな顔で微笑んでいるのか。

 

「もしも、僕が死んだなら」

 

 絞り出すように彼は言った。心残りは後一つ、奪還が失敗した際のことしかない。

 

「君の青い牢獄で、僕を、永遠に包んでくれないか」

 

 それは、彼に遺せる最大で最後の遺産だった。可能性は乏しい。むしろ危険だけを産むだろう。それでも、万が一可能かもしれないのだ。エリスという名前の一人の女性が、真実、一人の人間として生きることが。

 

「勝手な人。それだけは、望んでほしくなかったのに」

 

 エリスは、童女のように俯いて、今にも決壊しそうな声で言った。

 

「あなたのためなら死んでもいいけど、あなたが死んだら、わたしも死ぬ」

 

 もう、あんな虚無は二度と味わいたくないのだと、震えながらエリスは答えた。今度の静寂は長かった。五分か、十分か。永遠とも思える沈黙の後、彼女はぽつりと呟いた。

 

「戦いましょう。もう、そうするしか方法はないのだから。お互いの意志を貫くために」

 

 どちらからともなく口付けをして、真紅の翼が広がった。

 

 

 

次回 第三十二話「鏡写しの摩天楼」



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第三十二話「鏡写しの摩天楼」

「また始まったか」

 

 セメタリービルの地下ホールで、クロロは天井を見上げて呟いた。忘れもしない気配だった。

 

「あの女だ、間違いねぇ。……戦ってやがる」

 

 頭上で蠢く禍々しい力の存在の懐かしさに、ノブナガは刀の柄を嬉しそうに撫でながら首肯した。

 

「で、オレらはどうすりゃいいんだ、団長」

 

 ウボォーギンが問い掛けた。彼ら三人と相対すのは、立ちふさがる二つの人影である。シルバとゼノ。彼らこそあの、名高きゾルディック家の暗殺者だった。

 

「突破するか?」

「やめておけ。これだけの気配だ。他の奴らが好きにするさ」

「まぁ、そうか」

 

 自分たちも戦いに行きたかったのだろう。やや落胆したようにウボォーギンが言うが、クロロはそんな彼を愛でるように、不敵に笑って命令を下した。

 

「それよりもそっちの大男だが、お前ら二人で好きにしろ。オレはこっちの爺さんをやる」

 

 彼らが喜色に染まるのを横目で見てから、クロロも、オーラを闘いに臨んでどす黒く揺らした。

 

「ずいぶんと大それた余裕じゃのう。シルバの力は知っておろうに」

 

 ゼノは狐のように凶悪に笑った。ノブナガとウボォーギンは遊びのように、コインで順番を決めている。しかしそれは余裕ではなかった。彼らは戦闘が好きなのだ。戦闘狂ぞろいの蜘蛛の中でも、あの二人はとりわけそうであった。決して勝てぬ、実力の絶した相手であっても、彼らは一対一を欲するだろう。クロロの立場から見れば難点でもあったが、その愚直さが好ましかった。

 

「かまわないさ。死んだら、それまでだ」

「まったく、ふざけた奴らじゃわい」

 

 言葉を残してゼノが消えた。後ろだった。クロロは高速で振り向きながら、右手を思い切り打ちつける。老人はそれを余裕で防いだ。壁面まで殴り飛ばすつもりの一撃だったが、小柄な体が恐ろしく重い。そのまま、拳打の応酬が始まった。機関銃の如き攻防が炸裂し、オーラの火花が撒き散らされる。パワーは相手が上だった。

 

 身体強化の具合から見て、相手は強化に近い系統だろう。このまま続けるのは上手くない。クロロはそのように判断して、腕を振るいながらタイミングを見た。そして、迫り来るゼノの拳に自分の力を相乗させて、後ろへと鋭い跳躍に転じた。しかし、着地を待つどころか次の瞬間、追撃の念弾が放出される。空中のクロロに回避はできず、痛みと共に、軽々と彼は吹き飛ばされた。

 

 追って、低い姿勢でゼノが駆ける。彼の右手にはオーラがあった。異常なほどの密度であり、貫かれれば命はない。クロロは床にこすりつけられるように着地しながら、腰から毒を塗ったナイフを抜いた。呼吸する間もなく跳躍し、ステップを踏みながらゼノの体に一閃をくれた。

 

 浅いものの手ごたえはあった。が、相手は気にもしていない。頬についた切り傷の存在などは気にもせず、クロロに右手が掲げられる。そこには、龍頭の形を取ったオーラがあった。生きてると見間違えるほど生々しく、獰猛に牙をむいている。形状変化。間違いなく変化系に属する発である。先ほどの念弾の威力を思って、クロロは知らず冷や汗をかいた。今や、お互い抱きつけるほどの至近にいる。避けられない。ありえざる龍の咆哮を確かに聞いた。

 

 白光が爆ぜる。クロロは既に駆け出していた。ゼノの存在にも構わずに、敵の横を通って駆け抜けていった。爆風に背中を押されながら、なりふり構わず逃げ出した。無論、敵も後ろを追ってくる。クロロは足にオーラを集めて高く跳び、天井を蹴って壁を蹴った。

 

 闘いは高速機動の様相に変わった。毒ナイフにもはや意味はなく、彼はあっさりと投げ捨てた。広い地下ホールの空間を、縦横無尽に飛び回る。すれ違いざまに攻撃し、軌道を計算して回り込みをかけようと駆け引きをしあった。シルバとウボォーギンの闘いの衝撃までをも利用して、空中を駆ける速度を競う。壁際で見てたノブナガが、迷惑そうに場所を移した。

 

 そして、正面から二人は激突した。拳と拳が空中でぶつかる。お互いに渾身の硬である。轟音がホール全体を激しく散らし、二人の体がはじかれた。クロロは靴底で床を激しく削りながら、好敵手に心を躍らせていた。

 

 正面にはゼノが佇んでいる。息切れはなく、オーラの流れにも淀みはなく、曲がり始めた小さな背中を、悠然と背負って彼はいた。傲慢なほどの平常心で、彼はそこに立っていた。

 

「おぬし、本気じゃないのう」

 

 ゼノは言った。

 

「おぬし、ワシの能力も盗むつもりか」

 

 やりづらいな、とクロロは思った。心を読まれてるような気がしてくる。喋れば喋るだけ見透かされて、黙れば黙るだけ窮地に陥る。そんな妄想に近い危惧すら生まれた。恐らく、生半可な駆け引きに意味はあるまい。

 

「舐められたものじゃ」

 

 出し惜しみの効く相手ではなかった。故に、極力殺したくない類の敵ながら、クロロは盗賊の極意を具現化した。使用する発は決めていた。彼は注意深くゼノを見つめながら、そのページを開いて実行した。

 

 はじめにイメージが展開された。前頭葉の奥、小さな球体が出現する。それは幻の機械であった。実体を持たない中枢だった。そこから幾重にも糸が伸びて、無数に枝分かれしつつ神経細胞を支配していく。そして、神経系から全身に更なる幻の糸が伸ばされていき、今、あらゆる細胞が尽く完全に掌握された。

 

 視神経が操作される。彼にしか見えない浮遊ウィンドウに滝のように情報が羅列され、基幹プログラムが立ち上がった。思考が速く、曖昧さが消える。体が精密に制御され、世界がデジタルに変質し、オーラの流れが神域に至った。

 

 マリオネットプログラム、起動。

 

 要した時間は刹那もなく、クロロは床を蹴って横に跳んだ。ゼノも即座に追従してくる。だが、拙い。鮮麗なはずの達人の流が、現状のクロロにとっては児戯にも近い。オーラの歪みが分析にかけられ、相手の意図が尽く手中に収められる。積年の研鑚の果ての稀代の技術が、二進法の前に覆された。

 

 心身を完全に操作する、空前絶後の念能力。クロロはその演算に己の体をゆだねながら、ほんの一瞬の空隙だけで、左の人差し指に超高密度の念弾をいとも容易く形成した。

 

 

 

 喧騒から外れた静まった路上で、ハンゾーとポンズ、そしてレオリオの三人は、周囲の様子を窺っていった。怒号と銃声がどこかで聞こえて、人体の焦げる匂いが漂ってくる。

 

 粉雪のようなオーラの光が、ポンズの周りに渦巻いていた。それはキラキラと虹のような乳白色に輝きながら、一つ一つが、独自の意志を持つかのように思い思いの方向へ向かって跳んでいた。しかし、全体を見れば調和の取れた渦であった。光の正体は球形のオーラの塊である。すなわち、無数の小さな念弾が、社会性の生き物のように規律の取れたダンスを踊りながら飛び続けているのだった。まるで、再会を喜んでいるかのようだった。

 

「見つけたそうよ!」

 

 突然走り出しながらポンズは言った。彼女の顔の正面で、一群をなした念弾が、独特の八の字ダンスで知りえた情報を報告していた。

 

「こっちよ! 例のビルにすごいスピードで向かってる。来て! 私たちの位置なら追いつける!」

 

 レオリオとハンゾーも追走する。

 

「旅団だと思うか!」

「当たり前でしょ!」

 

 確認してくるレオリオに、ポンズは迷いもせずに叫びつけた。彼女を取り巻き、時にオーラに出入りする小さな念弾の群れまでもが、ジージーと大顎で威嚇するかのように唸っている。

 

「すごいオーラと身のこなしだって! この子達、みんな揃って怯えている! そんな化け物、そうそう転がっててたまるもんですか! だいたい、なんであの子達だけ行かせたのよ!」

 

 先ほど、セメタリービルの屋上にオーラの炎が灯った時、ゴンたちは飛び出していったのである。あの時、追いかけようとしたポンズをレオリオが止めた。今更だったが、彼女は文句の一つも言ってやらないと気が済まなくなった。

 

「仕方ねーだろ! 子供でもオレらよりは強いんだぜ! それに、ハンゾーは遊撃にうってつけだ! 索敵のお前と揃っていてこそ意味がある!」

「女の子までついて行ったじゃない! っていうか、さすがにあの子よりは強い自信あるわよ私!」

「ビリーは一人にすると勝手に敵のど真ん中まで行っちまう奴だ!」

「ああもうっ! わかったからっ!」

 

 髪の毛を振り乱しながらポンズは叫んだ。頭部の軽さが不安だった。帽子がないと落ち着かない。が、そのとき、ハンゾーがありえない俊足で二人を軽々と抜き去っていった。

 

「先に行くぜ! お前らは見つからないように後から来いよ!」

 

 忍者が一人で駆けていった。残されたポンズはレオリオをみて、とにかく、と前置きしてから端的に言った。

 

「いつでも絶をできる心構えだけはしておきましょう!」

「ちょっ、おい、オレ絶なんてできねーって!」

「なんですって!」

 

 思わずレオリオの首根っこをひっつかみ、急停止してからポンズは怒鳴る。苦しそうな声が聞こえたが、彼女は完全に無視をした。

 

「だったら早く隠れなさいよ! 全く! ほんとにもう!」

「お前だって今は似たようなもんだろうが!」

 

 言われて、彼女は自分の状態を改めて見た。纏からは絶えず小さな念弾が出入りしては、彼女の制御を離れて飛び交っている。念的に操作する方法はない。が、動きのパターンは見慣れたもので、慣熟さえすれば、全て統制できる確信はあった。しかし、今の段階では五分と五分だ。知らず背筋が冷えていた。

 

 二人は顔を見合わせた後、声をひそめ、充分な距離を開けてハンゾーを追う方針を確認し合った。

 

 

 

 大通りに隣接する細長い緑地の暗い影に、沈殿した臓物の暖かい臭気が、霧のように重く淑やかに漂っていた。その中を、二人は泳ぐように駆け抜けていく。道すがら、野良犬や野良猫の気配はなく、虫たちは奥まったところで震えていた。植物はゆっくりと弱っていった。

 

「どう? フランクリン」

 

 シャルナークは横を行く相方へと問い掛けた。

 

「間違えようがねぇ。本物だ」

「やっぱり。なら、急ごう」

 

 言って、彼は走る速さを上げようとしたが、直前に、意外な気配が近づいてくるのを発見した。

 

「おや♦ これは二人とも奇遇じゃないか♦」

「ヒソカ!」

 

 ヒソカとコルトピ。そのペアが、同じく件の高層ビルへと向かっていた。長身と短躯のコントラストは、夜間に出会うと案外不気味で笑いを誘う。

 

「珍しいな、ヒソカが真っ先に駆けつけるなんて」

「言い出したのはボクじゃないよ、彼さ」

「コルが?」

「うん」

 

 コルトピが走りながら頷いた。普段、自己主張が控えめな彼であったが、仮にも旅団の一員である。奇人揃いの面々に劣らず、言うべき時はかなり積極的な一面も見せるのは知っていった。

 

「あれ、ボクの力と相性がいいから」

 

 シャルナークは確かにと頷いた。大規模な物質の具現化において、コルトピを超える存在を彼は知らない。光線への対策についてなら、これ以上ない人材だろう。そして、ヒソカ。彼がすぐそばにいるのであれば、貴重な後方要員をそうやすやすとは失うまい。仲間内の信用に欠けることにおいては他の追従を許さぬこと甚だしいこの奇術師だったが、頭の回転は一級である。これほどあからさまな状況で、組んだ相手に不利益を与える愚行はしないと考えていいだろう。シャルナークは思考を高速で巡らせて、そのような結論に辿り着いた。

 

「急いで。たぶん、あのビルには団長が到着している」

 

 シャルナークは言った。セメタリービルのオーラは激しく揺れて動いていた。十中八九、旅団級の能力者を敵にして戦っている。相手が誰かはわからなかったが、複数を敵に回しているような様子ではない。だが、普通の強敵程度ならともかく、あの女に限っては団長から特別の命令があるのだ。春に発せられたその指示は、未だに蜘蛛の内部で生きている。それを破るということは、不測の窮地に陥ったか、あるいは、命令に束縛されない立場にあるかのどちらかだ。

 

「クロロならいくらでもどうにかするさ♥」

 

 ここにいない誰かを愛でるように、恍惚に目を細めながらヒソカは言う。彼の趣味は不愉快だったが、実力の評価については同意だった。が、シャルナークは万が一のことを心配したのだ。せずにはおれない性分だった。

 

「とにかく、行けってば!」

「クッククッ。じゃあ、後ろの彼についてはまかせていいかい?」

「……後ろ?」

「つけられてるよ♠」

 

 はっとする動作を辛うじて飲み込み、シャルナークとフランクリンは注意深く、意識だけで後方の様子をつぶさに探った。無論、他者のオーラの気配はない。余計な物音などもしなかった。だが、微細な違和感が確かにあった。まるで、壮大な雪原に一つまみの塩を混ぜたような、人知を超えた極細の齟齬。

 

「……いるな。相当尾行慣れしてやがる」

 

 フランクリンが感嘆した。絶の達人というだけではない。体の動かし方だけの問題でもない。天賦のしなやかな筋肉とバネ、それらを十分以上に活かしきった、己が才能に裏打ちされた歴戦の極意。

 

「よく見つけたな。円も使わずによ」

「ボク、いまビンビンだから♦」

 

 ある一点を指差してヒソカが言った。シャルナークとフランクリンは顔を見合わせ、二人で呆れて肩をすくめた。まあ、ヒソカだし。彼は内心で呟きつつ、相変わらずの変態性と化け物ぶりに、どこかで和んだ自分を見つけた。

 

「じゃ、ボクらはお先に失礼しようか♦ 乗りなよ♠」

「うん」

 

 差し出された肩にコルトピが飛び乗り、圧倒的なスピードで彼らは去った。いつの間にか、案外息が合っている。あれでなかなかいいコンビじゃないかと、シャルナークは急停止して後ろを振り向きながら考えていた。追跡者の居場所を包み込むように、フランクリンの両手が豪雨の如き念弾を放つ。敵に隙ができ、瞬間的に気配が洩れる。その間に、彼は謎の人物の背後へ全速をもって回り込んだ。

 

「……ちっ、しくったか」

 

 逃げ場をなくした追跡者は、黒装束を着込んだ男だった。頭を丸く剃っていて、力強い眉が印象的だ。いつだったか文献で見たことのある、忍者という特務集団の特徴に似ていた。

 

「なんだてめぇか。こそこそしやがって水臭せぇな。再戦ならいつでも受け付けたぜ」

「うっせーな。オレは奥ゆかしさが売りの国出身だぜ。人見知りすんに決まってんだろ」

「あれ? フランクリン知り合い?」

「話したろ? この片耳はこいつのおかげだ」

 

 かつて彼が自慢にしていた、耳飾のついた長い耳朶。今ではそれは片方しかない。右側は、半分ほど垂れたところで切れている。その傷を与えたのがこの男だと、ぎらぎらした眼光が語っていた。

 

「ところでよ、おめぇ……。あの時オレたちと一緒にいた女二人の行方に、なにか心当たりがあるんじゃねぇか?」

「はぁ? あるわけねぇだろ。いや、つーかお前ら、はぐれたのかよ」

「……だろうな。お前並みの奴が何人かいてもあいつら相手じゃ勝ち切れねぇし、まして、あの二人程度の雑魚なら百人いようがシズク一人だってやれはしねぇ」

 

 フランクリンは怒りながらも冷静に断じた。彼は短気な面も確かにあるったが、懐は広く頭も切れる。定型の回答をはじき出すのに長けたシャルナークとはやや違い、蜘蛛という指針に沿って大まかで大局的な視点に立つのが得意だった。

 

「が、シャルナーク、そのへんにいるはずの仲間を頼む。ないだろうが、一応、念のため拷問しておいて損はねぇだろ」

「ん、オッケー。たしかにまだ気配がいくつか動いてるしね。適当にそれっぽいのいたら捕まえておくよ」

 

 黒装束の男が怒りを見せるが、彼らには関係のない出来事である。シャルナークはこの場をフランクリンにゆだねると決めた後、暗闇の中へと駆け込んだ。

 

 

 

 暴風の中にアルベルトはいた。エリスの発する害意ある渦に、真横から殴られるかのように吹かれていた。裸の上半身にオーラが痛い。いるだけで体力が消耗していく。翡翠の首飾りが飛ばないように、既にポケットにしまっていた。彼女は、十歩も離れぬ位置にいた。

 

 エリスは空を飛ばなかった。遠距離から光を放てば勝てるであろう。アルベルトを殺すこともできたであろう。しかし、彼女は頑迷にその選択肢を無視し続け、先ほどからずっと、接近して取り押さえることに固執している。

 

「まだ続けるのかい?」

「……ええ」

 

 赤い翼を輝かせて、彼女は右手を持ち上げた。次の瞬間、あからさまに牽制の光線が薙いだ。彼が避けたタイミングにあわせて、エリスは猛然と突っ込んでくる。莫大なオーラに物を言わせ、素人に毛の生えた程度の武の心得を絶大に強化し、破壊の権化となって拳を振るった。踏みしめたコンクリートが砂塵に帰り、ただの右ストレートが音速を超える。もしもそれをガードしたら、アルベルトは全身が吹き飛ぶだろう。

 

 故に、容易い。

 

 彼の先読みは正確だった。感じ取ったとおりの動きでもって、感じ取ったとおりの誤差の範囲で、彼女の動きがずらされる。肘、肩、腰、の三点を支柱にして、与える刺激は最小限に、軌道の変更は最大限に。

 

 結果、屋上のヘリポートに大穴があき、粉塵が盛大に吹き上がった。

 

「こっ、のぉ!」

 

 彼女は果敢に立ち上がった。ドレスと髪に粉がかかり、白く汚れてしまっている。しかし、傷はない。頭からコンクリートに突っ込みながら、体のどこにも外傷はなかった。

 

「無理だよ。君の体術では僕に勝てない」

 

 何度目だろう。アルベルトは飽きるほど繰り返した言葉を再び告げる。エリスはしばらく無言だった。数秒ほど考えるように沈黙してから、翼を一度羽ばたかせて、感情に染まった瞳で応えた。

 

「分かってるわ。でも、アルベルトをどうしても止めたいから」

「そうか。なら、仕方ないね」

 

 彼は靴音を響かせて、荒れ狂う害意の中を無造作に進み歩いていく。その顔は完全な無表情で、声色は冷涼と澄み切っていた。体躯から漏れるオーラの量こそ乏しいが、目には透明な力があった。

 

「少し痛くするよ」

 

 それは断罪の宣言だった。純粋な身体能力のみを使って、アルベルトはエリスの至近に踏み込んだ。速くはない。が、相手の呼吸の間隙に潜る、意識の虚をつく拍子だった。故に、迎撃される心配もなく、彼女の認識は致命的に遅れた。

 

 エリスは驚いて後ろへ跳んだ。空中で翼を羽ばたかせ、空気を打って更に離れる。が、アルベルトは倒れるようにふらりと動いて、次の瞬間、彼は彼女の頭上にいた。オーラの暴風を利用して、自らの体を打ち上げたのだ。

 

「エリス」

 

 落下しながらアルベルトは囁く。勝敗は既に確定していた。もとより、殺そうとする意志がない限り、彼女に勝てる可能性など、万に一つもなかったのだ。

 

 原因はいくつも挙げられる。体調の不良をおしての参戦。内に秘める泥濘を押さえるため、心身ともに力みながらの格闘戦。個々の動作は高速でも、所詮は運動神経に司られた全体の動き。常識に縛られた戦術の範疇。師を同じくし、教えは浅く、手の内は全て把握している。幼少より幾度も手合わせして、癖も尽く知っている。そしてなにより、なまじ力に溢れるが故、彼と接近する要所要所で、殺したくないという思いが致命的に動きを鈍らせれば……。

 

 これだけ要素が揃ったならば、最初の刹那で全てが読める。

 

「一緒に落ちよう」

 

 背後に回ってアルベルトは言った。軽く触れるだけで体勢を崩して、更に体軸を揺るがせて、跳躍を墜落へ狂わせた。肩を、腕を、腰を、かつて愛した細い体を、彼は空中で拘束する。皮グローブ越しの体温は、彼の行動を止めなかった。背中の翼に打たれないよう、たったそれだけに気をつけていた。そしてそのまま、着地の瞬間にタイミングを合わせて、コンクリートの表面に正確無比に叩き付けた。骨の折れる手ごたえが確かにあった。

 

 轟音と振動があたりを揺るがす。赤い羽根が無数に舞った。後ろへ跳んで離脱する時、アルベルトはエリスと目が合った。悲鳴も上げず罵倒もせずに、何も言わずに見つめていた。

 

 また一つ、屋上にクレーターが形成された。エリスは未だに立ち上がらない。破片と粉塵の舞い上がる場所を、彼は無言で見つめていた。彼女が生きていることを知りながら、何一つとして声を掛けず、アルベルトはじっと見つめていた。果たして、やがて閃光で周囲を吹き飛ばして現れたエリスは、背中を丸め、右手をだらんと下げていた。しかし、それもすぐに復元される。

 

「纏も使わず、自然なオーラの恩恵だけで、三箇所の骨折が一呼吸で治るか。だいぶ外れてしまったね」

 

 機械的な調子で彼は評した。エリスが激昂した徴候は見当たらない。アルベルトはそれを、ほんの少しだけ残念に思った。

 

「そろそろ、どうして戦いたいと思ったのか、聞いてもいいかな」

 

 彼はようやく切り出した。

 

「それとも、まだ、殴り合いが足りないかい?」

 

 あまり間を置かずにそう続け、アルベルトは右手を軽く掲げて鉤爪を模した。それは臆病な態度だった。エリスは蒼白な顔色で、乾いた唇を震わせた。

 

「あなたが、一生懸命目指したなら、たとえ結果は失敗でも、わたしはそれでよかったの」

 

 臨戦態勢を崩さずに、赤い翼を広げたまま、エリスは低い声で語りだした。

 

「負けた結果は悔しくても、独断するあなたは憎くても、二人一緒に破滅するなら、地獄すら喜びに感じると、……そう、思ってた。後顧の憂いがなくなるのなら、別れ話だって切り出せた! 見捨ててくれても喜んだでしょうね。わたしという重荷が消えることで、アルベルトが自由に戻れるなら、それだけで充分幸せだから。でも、あなたは!」

 

 堰を切ったように涙が流れる。顔をくしゃくしゃに歪めながら、彼女は嗚咽交じりにアルベルトに叫んだ。オーラの圧力が強くなった。

 

「辛かったんでしょう! やりがいなんてなかったんでしょう! 何一つ、楽しいことなんてなかったんでしょう! いつも帰ってきては話してくれた、いままでの潜入の仕事とは何もかも全然違ったんでしょう! 目的のための努力じゃなくて、何もないところで苦しんでたんでしょう! わかるもの! わかってしまったもの! だってあなた、なんで、自分の死を前提に考えてるの?」

 

 アルベルトの体が小さく揺らいだ。彼は額に手を当てて、慮外の台詞を反芻していた。エリスは一転して静かな声で、今にも駆け寄り、抱きしめたいという顔でゆっくりと言った。

 

「なんで……、そんな結末を思い描いたの? ずっと考えていたんでしょう? それしか救いがなかったんでしょう? あの時のアルベルト、とてもほっとしてたもの!」

 

 実際には、彼にそのようなつもりはなかった、はずだった。しかし、救いを、逃げ道を探したかったのは事実である。理性では戒めておきながら、その実、無意識に逃避することはなかっただろうか。なかったとはいえない、と、無言のまま、そのときのアルベルトは考えた。彼女の思い込みと断じるには、彼の渇望は深すぎた。

 

「気付いてないんでしょう? あの言葉を口に出してから、あなた、ずっと泣いてるって」

 

 彼は、殴られたような衝撃をうけた。致命的な隙だと知りながら、指先で目元に触れてみる。触って確認した上でほっとした。が、安心してしまったことを苦々しく思った。

 

「泣いてなんかないよ」

 

 アルベルトは言った。やや語気が荒くなってしまったかもしれないと、口に出した後で後悔した。何か後から付け足そうとしたが、躊躇して、その方が不自然だと考え直して言葉を飲んだ。

 

「知らないのね、アルベルト。あの女の人も言ってなかった? 涙なんて、人は、そんなものなくても泣けるのよ」

 

 そこには、若干の哀れみもあったかもしれない。だが、彼女の瞳の奥底には、剥き出しにされたある種の純粋な感情があった。憎悪にも近い感情であった。単一の名前をつけることは、今の彼には戸惑われた。

 

「だったら、わたしはもう黙ってなんていられない。力ずくでも連れて帰って、適切な能力を持つ人を探して、一生絶にしてもらって、無理にでも生き残ってもらうから」

「だめだ、それでは君が救われない」

「どうしてわかってくれないの!」

 

 涙を飛び散らせてエリスは叫んだ。瓦礫が飛び散る。漏れたオーラが衝撃波になって、アルベルトの体にたたらを踏ませた。

 

「わからなくていいさ。元より、僕は理解しようというつもりもないのかもしれない。そもそも、エリスの言うことは感傷的すぎる。ここで僕が退いたなら、君たちは、内部にろくな伝手もなく旅団を壊滅させるつもりなのかい? 今まで、数多のハンターができなかったのに」

 

 彼女の言に従っては、いつまでも目的は叶わないのだと、アルベルトはどこまでも冷徹な声で切り捨てる。エリスは寂しそうに笑ってから、そうね、と涙交じりの声で頷いた。

 

「だって、あなたは男で、わたしはどうしょうもなく女だもの」

 

 肯定も否定もできなかった。アルベルトには致命的に経験が足りず、自分の足りない部分に対し、内心で彼女に詫びることしか術がなかった。胸元を握りつぶしたい気分だった。あるいは物語などから拝借した、借り物の言葉であれば返せただろう。しかし、それだけはどうしてもできなかった。

 

「エリス、聞いてくれ。僕はたぶん、もうすぐ死ぬ」

 

 代わりに彼にできたのは、事実の列挙だけであった。本心を明かすことのみであった。

 

「このままのペースで消耗したら、明日一杯も無理かもしれない。ここに来る前、少しは回復できたけど、原因を解決しない限り、それだって気休めにしかならないんだ。でもだからこそ、最後に君に言っておきたい。結婚を申し込んだあの言葉、軽率だったと反省している。だからね」

 

 エリスは絶句して固まっていた。もはや、戦闘態勢など跡形もない。だいぶ前から崩れていたが、ここにきて完全に崩壊した。

 

「早まって、ごめん」

 

 全ての希望が潰えたように、彼女の肩から力が抜けた。翼が力なく地に垂れて、荒れ狂うオーラが鳴動しだす。膝から崩れ落ちてないのが奇跡に見えた。

 

「本当は黙っているつもりだった。でも、何もかも分からなくなってきたんだ。僕は、まだ、恋愛という概念もろくに理解できてないかもしれない。だけど、その上でこれだけは言っておく。ここでお前に連れ去られても、僕は最後の瞬間まで足掻くだろう。それだけは、誰に頼まれたって譲れない」

「もう、止まれないのね」

 

 子供が泣きじゃくる寸前に似た、歪んだ表情でこらえながら、彼女は、場違いなほど優しい声で静かに言った。

 

「そういえば、約束してたっけ。その時がきたら、あなたをお兄ちゃんって呼んであげるって。……呼んであげましょうか? なんだってするわ。もし、これが最後になるかもしれないのなら。それしかわたしにできないのなら」

 

 それこそ、彼女なりの諦めの言葉だと、このときのアルベルトは、いつになく明敏に察知していた。

 

 彼はそんな些事よりも、生きてくれと、エリスに対して願おうとした。兄としての想いかもしれないと彼は思った。しかし、それでもいいと考えたのだ。どんな形でも生きてほしいと、心の底から欲していた。例え彼女を傷つけようとも、時間さえあれば解決もしよう。恋破れても問題はあるまい。なにしろ、この世界に男は彼だけではない。それは理論的な正答だった。

 

 だが、このとき、その願いは形にならずに消失した。

 

 アルベルトは何故か言えなかった。喉を震わせることができなくなった。何度も口に出そうとして、そのたびにつかえて沈黙した。エリスはずっと眺めていた。彼に心を委ねて待っていた。今の彼女は、いかなることでも受け入れただろう。それでも、できなかった。

 

 どれほどの時間そうしていたか。あるいは、現実には数分もなかったかもしれない。が、それだけの隙は、乱入者が現れるには充分すぎた。夢中になりすぎて気付くのが遅れたと、アルベルトが後悔した時には遅かった。

 

 ビルの壁面を駆け抜けてヒソカが跳んだ。圧倒的な脚力で、夜の空へと高く舞った。その肩に、さらに跳躍しようというコルトピがいる。彼はヒソカの掌へと飛び移り、腕力の助けと相乗して、更なる高さへ跳躍した。小さな体が、吸い込まれるように天空へ昇る。

 

 右手は天へ、左手は地へ。

 

 ——そして、神の左手が、世界に触れた。

 

 コルトピの念能力が発動する。空間を、大気を、その先を、一つの物体として手中に収め、悪魔の右手が複製する。低く重い音が響いた。空気が弾かれる音だった。通常の具現化過程では、音として認識もされない類の振動である。

 

 アルベルトは空を仰いで震撼した。エリスは言葉なく見つめている。上空に、さかしまのセメタリービルが浮いていた。超高層ビルの壮大な威容が、屋上を下に、地階を上に、九月の夜空に出現していた。

 

 それは、自然災害の領域だった。重力に退かれ、音もなく落下が始まった。現象があまりに巨大が故に、見るものに滑稽な笑いさえも与えかねないような光景であった。

 

 ヒソカとコルトピの体が消えた。あらかじめ張っておいたゴムのオーラで、一瞬で離脱していったのだろう。彼も、そして彼女も、このままでは確実に命がない。アルベルトが思い至った丁度その時、エリスのいた場所から光が爆ぜた。

 

 光がヨークシンの夜を切り裂いた。三色のうちのどれでもなく、全てが混じった白光である。月光の如き白亜の銀色。無垢にして終焉の永遠の象徴。背中の赤い翼の付け根から、新しい二対の翼がまさに生えようとしつつあったのである。アルベルトは残されたオーラを気にせずに、全力でファントム・ブラックを具現化した。

 

 アルベルトは駆けた。だが、さらにも増して彼女からオーラが噴き出して、接近は歯軋りするほど遅かった。人類を滅ぼさんと咆哮する濃密な害意が、彼の魂を直接蝕む。体のあちこちで皮膚は裂け、掌の傷口から血液が噴き出し、ドレスグローブの内側から、液体が一気にこぼれ落ちた。

 

 彼は最初の一歩で悟っていた。決して間に合うことはないであろうと。それでも、止まるという考えは皆無だった。

 

 やがて、ふと、暴れていた圧力が唐突に消えた。エリスは右手を空に掲げて、アルベルトに向かって微笑んでいた。背中には一対の赤い翼。そして、右手から赤い光が漏れ出した。彼女は奥歯を食いしばり、無慈悲に落ちるビルを睨んだ。アルベルトはまだ間に合わない。それなのに、なにをするつもりか理解してしまった。

 

 無茶に無茶を重ねた光の指向。能力が本質的に苦手としている、定められた方向への光の収束。大出力の限定解放。それを、彼女はこの一瞬で成し遂げようとしているのだ。右腕を覆う手袋が裂け、肉が爆ぜ、傷口からいくつもの小さな赤い翼が生えてきた。恐らくは、暴走による奇形的な能力の発現だろう。なにもかも彼女の限界を超えている。例えこの瞬間を乗り越えても、この後、いかなる事態に陥るのか。

 

 具現化した翼が一斉に輝く。アルベルトは届かないと知りつつ手を伸ばした。

 

 最後に、彼女の唇が動いたのが見えた。

 

 さよなら、と、エリスは確かに言い残した。

 

 

 

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【路上の霊魂(ピー・ビー) 放出系・操作系】

使用者、ポンズ。

自動操縦型の念弾。

無意識にプログラムされた疑似本能にのみ従って動作する。

そのため、発動も行動も能力者本人の操作は一切受け付けない。

もはや寄生に近いトラウマの投影そのものである。

 

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次回 第三十三話「終わってしまった舞台の中で」



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第三十三話「終わってしまった舞台の中で」

 大地が砕け、万物が地の底に飲まれていく。土砂降りの瓦礫が外壁を打ち据え、轟音が絶え間なく轟き続ける。異常な振動がビルを揺らし、全体が徐々に軋んでいく。あちらこちらで火花が飛び散り、外壁の窓ガラスが砕け散り、蛍光灯が破裂していく。構内放送のスピーカーから、マフィア構成員の祈りにも似た絶叫が流れては儚く消えていった。

 

「これはこれは! 困ったねぇ! 楽しいねぇ! いやぁ、どうしようかねぇ!このままでは二人そろってベリアルじゃないかね! ははっ! それもいいねぇ!」

 

 紳士が手に持つステッキがぶれる。瞬間、九つの打撃が炸裂した。不可視の衝撃が同時に放たれ、クラピカを包み込むように命中した。弾丸のように飛ばされた彼の肉体は、コンクリート製の内壁を何枚も貫き、天井と床を突き破り、キャロルの視界から消失した。遥か先で重低音が聞こえる。

 

「ふむ……」

 

 足をとめ、カイゼル髭を撫でて紳士はしばしの休憩を入れた。これぐらいで潰れる相手ではないのは知っている。あの憎みようは尋常ではない。知らないし興味もなかったが、よほどの因縁があるのだろう。キャロルに興味があるとすれば、その意思がどう発露するかの一点である。

 

「おっと、上だね!」

 

 前触れなく天井が崩れ落ち、切り裂くような鎖の一撃が、キャロルの頭上から襲い掛かる。強烈な三連突きで受け止め相殺するが、圧力までもは消失しない。彼の靴底が床にめり込み、陥没させて崩壊させた。

 

「なんと! おおぅ?」

 

 床下の配線が引きちぎれ、コンクリートが瓦礫に変わり、鉄筋も、階下の天井の空調ダクトも、彼と共に砕けて落下する。下の階にあったオフィスに、大柄な紳士が着地した。机が飛び散り、椅子はひしゃげ、パーソナルコンピュータは破砕された。

 

「いやはや、なんとな……」

 

 見上げると、天井には大穴が開いている。二フロア上の穴の淵に、真紅の瞳が輝いていた。青い民族衣装に身を包んだ、憎悪に身を焦がす金髪の青年。中指から伸びる細い鎖が、オーラを吸ってぎらぎらと光る。

 

「ふはははは! 躊躇のない素晴らしい不意打ちじゃないかね! いや、実にいいよ!」

 

 両腕を広げ、紳士は全身で喜びを表現した。リリカルだった。信じられないぐらいリリカルだった。きっと彼は、極上の洋服に変わるに違いない。より丈夫で、より長持ちする、素敵な素敵なお洋服に。

 

「その鎖、先ほどから私の体に巻きつけようとしているが、どんな効果があるのかね! 興味があるね! さあ、さあ、さあ! 頑張って縛ってくれたまえよ!」

 

 今度はキャロルが姿を隠した。大声で挑発の台詞を残しながら、全力で穴の直下から走り去る。そして、壁や床を壊しながら、ビルの内部を縦横無尽に疾駆した。後ろから破壊の大音響が追いかけてくる。炎が噴き出し、建物がぐらつき、窓の外の夜景がだんだん斜めになっていく。防火扉を吹き飛ばしながら紳士は思った。楽しいと。これだから弱者はやめられないと。

 

 キャロルの弱さはスペクタクルだ。人は、自分より弱きものを踏みにじる時、秘められた獣性が最も出る。憎悪が伴えば最高だった。人間の人生は壮大であり、その本質は意思にある。剥き出しの本性を叩きつけられ、叩きつけ、一つに混じる際のエクスタシー。たとえ肉体は偽物だとて、心には永久に刻み込まれる。人を愛するキャロルにとって、それは、生きていく意味にも等しかった。

 

 紅蓮の炎に飲まれながら、体表を炭化させながら、紳士の体が廊下を走る。一つ下のフロアにクラピカはいる。その気配は先ほどから立ち止まって、あまりに無防備に構えている。円もしてない。火炎にまぎれたキャロルの気配は、確実につかめてないだろう。絶好の奇襲の機会であった。己が狩られるとは想定してない、一方的な優位者の傲慢な油断。それが覆された時、彼は果たして、どんな顔を見せてくれるのか。

 

「さあ、よく狙いたまえよ若人! 私の肉体は小さいからねぇ!」

 

 天井を崩して落下する。燃える瓦礫と共に落ちながら、黒く炭化し、血と脂の滲む体のまま、鍛え上げた紳士は鋭いステッキの一撃を穿った。一条の光が瞬くように、細い風穴が果てなく開いた。

 

「狙っているさ」

 

 が、絶技を、クラピカは予知していたかのように回避していた。

 

「そもそもお前の位置などは、最初から筒抜けだったのだよ」

 

 先端に小さな鉄球のついた薬指の鎖が、冷酷にキャロルを指し示している。ここにきてようやく理解した。傲慢だったのは自分だったと。中指の鎖が飛来する。もう、避けられるような段階ではなく、手心を期待できるような相手でもなかった。死。それが明確に迫っていた。

 

 刹那、ビルが不自然にガクリと沈んだ。今までの揺れとは決定的に異なる、何かが折れた瞬間だった。お互いの位置が微細にずれ、鎖の軌道が紙一重でそれた。キャロルはそれを天佑ととった。

 

 頭蓋が砕け、硬膜が破裂し、脳が剥き出しになって脳漿が飛び散る。それでも、命が消えることはなかった。紳士は少女に変身し、毒の爪を伸ばして間合いを低く踏み込んだ。クラピカはとっさに蹴りを叩き込む。キャロルは防御を考えず、わずかに体をひねって最小限にかわした。肩をえぐり、肉を切り裂いていく彼の靴先を実に甘美に味わいながら、停滞したような時間の流れで、彼女は下品に唇を舐めた。

 

 至近からの爪の斬撃は、しかし、クラピカの首を狙いながらも、とっさに左手で逸らされる。腕が伸びきった瞬間に、クラピカは後方へ離脱した。中指の鎖を引き戻しながら、鋭いバックステップで後ろへ跳んだ。キャロルの耳が鎖で削がれ、髪の絡まった血肉が銀色の光沢を赤黒く汚した。

 

 コンマ一秒単位の攻防では、長大な鞭は使いがたい。が、クラピカのセンスは尋常ではなかった。一度接近戦と決めたなら、空中を蛇行する部分部分が、無数の短い鞭のように自在にしなる。近づくことは困難で、近づいてしまえば地獄が待つ。故に、キャロルは己が左手を引き千切った。背中を見せる投球フォームで、回転の力を加えて投げる。

 

 敵へ飛来する毒の手首、その数、二十。空中に散らばるように具現化した手首を、引っ掻くように飛ばしたのだ。

 

 クラピカの右手が激しく振るわれ、鎖が縦横無尽に躍動する。それは絶対の結界であり、巨大な怪物の顎にも似ていた。少女の左手が咀嚼される。一つたりとも、一指たりとも届くまい。が、既に紳士へと成り代わっていたキャロルにとって、それは些細な事実であった。

 

「そうら! まだまだだよ!」

 

 叫び、大柄な肉体が走り寄った。右手でステッキを握り締め、鎖の圏内に踏み入れて、熾烈な攻防を再開する。瞬きさえもできない時間に、空間は火花で満たされた。衝突が連鎖し、オーラの火の粉が爆散していく。赤く輝くクラピカの眼を、闘いに上気した紅顔を、キャロルは心底美しいと思った。

 

 キャロルは少しずつながら近づいていく。限界を超える限界を踏み越え、間合いをじわじわと削っていく。いつか、ステッキの直撃が届く距離まで近寄れたら、今度こそあの肉体を穿つために。しかし、彼の思惑はそれだけではなかった。

 

 それは、たった一度の機会であった。空間を満たす破壊の渦を恐ろしく冷静に眺めながら、彼はその瞬間を見極めた。まだ、宙に浮いていた肉片の一つを、毒爪のついた指先を、無手の左手が殴り飛ばしす。たった一枚の爪が弾かれ、紫色の軌跡を描き、打ち合いの隙間を通って飛翔した。

 

 クラピカは躱すことができなかった。逃げればステッキに貫かれ、それこそ確実に終わりであろう。彼にできたのはたった一つ、ギリギリの狭間で鎖を揺らし、ほんの一つの鉄輪で、軌道を微細に変えることだけだった。結果、指先は首の皮一枚を微かに撫でて、わずか一筋の血を流した。そのとき、キャロルは勝ちを確信した。

 

 爪に仕込まれたのは神経毒だ。まず全身を麻痺させて、次に、徐々に命を蝕んでいく。超即効性でありながら、遅効性の致死効果。その性質は実に悪辣で、指一本動かせないような状態で、数日間は死ねないのだ。戦闘手段としても極めて優れ、解毒薬があれば交渉にも使える。極めて致命的でありながら、殺すも生かすも自由自在。

 

 この体の少女を生んだ一族は、幾億の毒物を賞味し尽くし、幾千、幾万の命を犠牲にし、その境地にまで辿り着いた。今でも鮮明に思い出せる。その執念、奪った未来、幼い決意。実に、美味であった。

 

 だが、クラピカが倒れる予兆はなかった。鎖が消える。反動が突然消失した為に、キャロルの体勢が否応なく崩れた。渾身のショートアッパーをクラピカは放つ。あやまたず、紳士の顎を殴り上げた。脳が揺れてキャロルは止まり、続く回し蹴りを無防備で食らった。紳士の体が吹き飛ばされた。

 

 廊下を十数メートルも転がってから、キャロルはどうにか起き上がった。追撃がないのが幸いしたが、今のは死んでおかしくない隙だった。しかし、それ以前におかしいのだ。キャロルはクラピカの様子をじっと見詰める。崩壊寸前のビルの中、彼は未だに立っている。己が両膝を震わせながら、激増した憎悪を宿してキャロルを見ていた。

 

 たかが一指、爪一つ。されど、確かに体内に毒は入った。

 

 キャロルはこの毒が気に入っていた。便利なことは折り紙つきだが、なによりも、苦しむ姿を楽しめた。絶望に染まる瞳を眺めるのが、彼女の至福の時間だった。だから幾度も試した。何人をも相手に堪能した。分量にも効能にも齟齬はない。彼以上に優れた相手でも、耐えた者はいなかった。

 

 毒に耐性がありそうな様子もない。それでも、彼は膝をつかなかった。支える杖も、寄り添う仲間も、帰る希望さえ持たないままに。彼は、未だに床に倒れていない。少量とはいえ絶命の毒に、鉄の意志だけで抗うのか。崩壊しつつあるこの舞台で、ただ、憎しみのためだけに戦うのか。

 

 その姿に、キャロルは、敬虔な信徒のような感銘を受けた。

 

 数十年ぶりに彼女は思った。弱さではなく、強さで、他ならぬ彼と競いたいと。武に生きた一人の者として、何の意味もなく戦おう。そんな気持ちを、キャロルは見つけた。

 

 紳士の姿でキャロルは構える。言葉はもはや要らなかった。眼前に、剣のようにステッキを立てて、敬意を込めて戦いに捧げた。

 

 クラピカの鎖が水平に薙いだ。キャロルは即座に掻い潜って躱す。それは深すぎる踏み込みだった。バランスを全く顧みない、立ち直りを考えない重心移動。が、次の瞬間、そこにいたのは背の低い少女だ。キャロルに、人体の常識は通用しない。廊下の壁に鎖が当たり、反動を利用して斜めに高速で切り返してくる。彼女は避けようとしなかった。袈裟懸けに裂かれる肉体を放置し、慣性で頭部だけが放物線を描く。そして紳士が前転し、勢いを利用して立ち上がった。

 

 クラピカの瞳は朦朧としている。だが、熱だけは微塵も冷えていない。鎖が根元から波打って、新たな攻撃がキャロルへ襲う。大腿骨を自ら折りつつ、人間に不可能な動きで避けた。

 

 具現化を繰り返しながら戦闘は続いた。紳士に、少女に、姿を変えながらキャロルは挑んだ。間接を逆方向に捻じ曲げて、骨を砕きがらありえざる角度でステッキを振るう。クラピカとて負けてはいなかった。既に鎖さえ囮に使い、具現化と解除を繰り返して自分から間合いを捨ててかかる。接近しては赤い眼光にまかせて肉弾戦で圧倒し、離れては鎖を強烈に振るう。

 

 クラピカの意識は既にない。夢うつつのまま戦っているのだ。真紅の瞳を輝かせたまま、彼は脳髄を介さずに、魂だけで動いている。

 

 美しい様相の闘いではなかった。泥臭いだけの野蛮な決闘。知恵を持つだけの猿の争い。クラピカは少女の金髪を掴んで顔面を殴り、キャロルは顎だけで空を飛んで噛み付いた。十秒後も知れぬ摩天楼で、脱出も考えず殴打しあった。それでも、キャロルはそれを綺麗だと誇った。

 

 敗北は唐突に訪れた。掌底で叩かれた大柄な紳士の胸部から、光の粒子がこぼれ出した。限界である。キャロルは宙に浮かされながら、ああ、と一言感嘆を洩らした。紳士の体が壊れていく。生命力に回帰していく。もう二度と、具現化されることはないだろう。廊下を飛ばされながらキャロルは悟った。少女の体一つでは、クラピカが相手では闘いにもならないということを。

 

「……まいったね。いや、まいったよ」

 

 膝から下は既になく、立つこともできずにキャロルは呟く。紳士の言葉は独り言で、クラピカには決して届かない。だが、彼は未だに倒れずに、憎悪のさなかに佇んでいる。迸るオーラが激しく渦巻く。この階の廊下も炎が回り、瞬く間に瓦礫を燃やしていく。紅蓮の明かりが彼を照らした。赤く輝く闇の中、幽鬼の如く存在していた。

 

 それはあまりにリリカルすぎて、消え去りつつある紳士の体で、彼女は、最後のステッキを振るったのだ。

 

 

 

「困ったわ。ええ、ほんと、困ったわ」

 

 崩れていく摩天楼に背を向けて、キャロルは寂しそうにそう嘆いた。

 

「卑怯じゃない、こんなのって。あなたちょっと、リリカルすぎるわ。……はじめてよ、こんな気持ちになったのは」

 

 すぐそばにクラピカが倒れていた。毒は完全に体を巡った。四肢は完全に麻痺しており、纏すらほどけ、垂れ流すオーラさえもが弱弱しい。今なら絶対にものにできる。それはとても美味しそうで、とても素敵な洋服になろう。だが、彼女は。

 

「永遠に憧れていたいから、あなたのことは諦めますわ」

 

 怖かったのだ。いつか、彼に抱いた憧れが、ただの親愛に変わることが。脳に纏った彼の記憶が、今日のように砕けることが。

 

「……そこのあなた」

 

 そばに停めてあった乗用車の陰に、キャロルは穏やかに声を掛けた。

 

「出てきなさい、スーツの殿方。さもないと、殺すわよ?」

 

 それもいい、と彼女は思った。気分はひどく沈んでいたが、言いようのない怒りがあった。淑女らしさを取り戻すには、八つ当たりの相手が必要だった。しかし、そんな思惑を知りもせず、相手はすごすごと這い出てきた。長身で鼻先に丸いサングラスを載せた、黒い髪の似合う青年だった。

 

「あなた、この人の知り合い? さっきからずっと見ていたけれど」

 

 男は纏を不安定に揺らしつつ、神妙な顔で頷いた。念能力者としては論外で、体もそれほど鍛えていない。一般の常識程度は隔絶してたが、旅団の水準からみれば塵でしかなかった。

 

「……クラピカを、……どうするつもりだ」

 

 冷や汗をかきながら彼は言った。一応だが、力関係ぐらいはわかるらしい。ギリギリで合格と言えるだろうか。キャロルは内心で懸案してから、ずいぶんナイーブになっているなと自嘲した。能力に追加するのを諦めただけだ。生死など、別にどうでもいいではないか。

 

「別にどうにも? ほしけりゃ持ってきなさい。邪魔しないから」

 

 言って、彼女はクラピカを置いて歩き出した。男はそろそろと彼に近づき、容態を確認して驚愕していた。その方面の知識があるのかと思い当たり、ナトバ族の毒よ、と一言告げた。

 

「あ、そうそう。あなた、絶はできる? やってみなさい」

 

 従わなければ殺すだけだと、彼女は爪を出して脅してみた。が、結果は散々に近かった。辛うじてオーラは抑えてあるが、あちこちに微量の漏れがあり、完璧とはお世辞にも言い難い、

 

「下手ね。覚えたて?」

 

 聞けば、今夜覚えたばかりらしい。初心者と思っていたがそれ以下だった。才能があるやらないのやら。キャロルは少し楽しくなって、とある方向を指差して言った。

 

「なら、あちらの方向にお逃げなさい。そして、これからの二分は死ぬ気で絶をし通しなさい。クラピカは、……まあ、それで見つかったら仕方ないわね」

 

 言い捨てて、キャロルはそれっきり彼らから興味を無くした。男はクラピカを背負って駆けて行ったが、もはやそれもどうでもいい。なんとなく楽しくはなってきたが、それと同じぐらい憂鬱でもあった。

 

「あら、こんばんわ」

 

 先ほど男が逃げた方向とは反対から、シャルナークとフランクリンが歩いてきた。隠れようなどとは微塵も思わず、濃厚な存在感をそのままに、いつもの散策のように戦場を横切って近寄ってくる。

 

「あれっ、アルベルトは?」

「あら……? まあ、まあ、まあ! そういえばはぐれてしまったわ! どうしましょう。困ったわ!」

 

 いつものテンションではしゃぎながら、自分のペアの不在を誤魔化す。シャルナークは少々顔をしかめたが、まいっか、と気楽に妥協した。

 

「んでさ、それより、このあたりにスーツ着た男が逃げて来なかった?」

「マフィアならそこのへんにいくらでもあるじゃない。死体だけど」

「んー。マフィア……、じゃないような気がするんだよなぁ」

「どうかしら。見てないように思うけど、もしかして殺してしまったかも」

 

 もともと、大して意味のある獲物というほどでもなかったのだろう。追い詰めたと思ったのになぁ、と和やかに落ち込むシャルナークには、悲壮感というものが欠如している。少し悔しい、その程度のノリのようである。そのことにフランクリンも突っ込んだが、そっちも逃げられた癖にと反撃されていた。

 

 居心地がいいとキャロルは思った。自分には、これぐらい泥臭い付き合いが似合っている。だから感傷は感傷のままで、とりあえず、思い出に仕舞っておくことにした。それに釣ることを諦めた魚よりも、今は、もっと差し迫った用事があった。

 

「ねえ、私、外れてもいいかしら? この服、最後の一着なのよ。最低でも一着、早めに調達しておきたいの」

「え、マジ? 壊れかけ一つじゃなかったっけ?」

「ええ! そうだったけど、二着いっぺんに壊れちゃったの!」

 

 飛び跳ねながら、キャロルは叫んだ。こちらは手に入れてから日が浅く、そうすぐには崩壊までいかないだろうが、万が一も見越して予備が欲しい。なにしろ、ストックが尽きれば命がないのだ。

 

「帰るにしても、団長に連絡入れといたほうがいいんじゃねぇか?」

「あ、そうね。お貸し願える? 私また携帯なくしちゃったみたいだから」

 

 より正確には持てないのである。戦う前なら所持できるが、戦闘中には私物は持てない。よって、稀に盗品を用いる程度のことはするが、恒常的な所持は不可能だった。ところが、フランクリンのものを借りてコールしたが、どれほど待っても応答がない。お楽しみの最中かもしれないねと、シャルナークが可能性を指摘した。仕方ない。彼はそう言い、独断で彼女の帰還を許諾した。

 

 

 

 レオリオは焦りを隠せなかった。背中のクラピカは意識がない。体を麻痺させる毒を受け、処置が遅れれば生命が危うい。追っ手のおかげでポンズとはぐれ、仲間内最強のハンゾーさえも、生死すらもが不明だった。だが、最大の危機はそれらではなかった。

 

「どうした? お前も使えはするんだろう」

 

 立ち塞がるのは異形の男だ。浅黒い全身に包帯を巻き、ボクシングのパンツにグローブをつけた、好戦的な念能力者。旅団の一員としか思えなかったが、今は賞金よりも何よりも、生き残りたいと彼は願った。

 

 踊るように男が消える。目ではとても追いつけないが、ゴキブリのように左へ逃げた。避けた場所に影が舞い、アスファルトの路面が軽々と割れた。レオリオは荒く息をつき、顎から汗を何滴もたらした。あがく様子は無様だったが、辛うじて、今は何とか生きている。相手が遊んでなかったら、そもそも、消えたと認識する前に死ぬだろうが。

 

「見苦しいな」

 

 虫けらのようだと、蜘蛛の団員が侮蔑して言った。うるせぇよ、と、レオリオは心の内だけで吐き捨てた。口に出すことを臆しはしないが、それだけの体力が残ってなかった。

 

「お前の誇りはその程度か。安いな」

 

 だが、それでも、許せない言葉は存在する。

 

「……ふざけるなよ」

 

 もとより、彼は単純で短気だった。小ざかしい計算などとは無縁だった。反論を我慢するような上品な真似は、生きてる限り、彼にできようはずもなかったのだ。それが、レオリオという男の性根である。

 

「俺一人ならまだしも、男が背中にダチを背負って、ハイそうですかと死ねるかよぉ!」

 

 怒鳴り声と共に、オーラが急激に増加した。全身の細胞が沸き立って、集った生命力が開放へ転じる。彼は知らない。これが、音に聞く練と呼ばれる技術だと。相手も知るまい。彼が、初めてそれを行なっているとは。

 

「ほう」

 

 男が頬を吊り上げた。それは戦士の目つきであった。ここに来てようやくレオリオは、相手に敵とみなされたのだ。

 

「吼えたな。それでこそだ」

 

 敵の体の包帯が落ちる。腕、脚、腹、肩、首筋、頬に顎。そこに存在したのは穴であった。体の向こう側まで貫通する、黒く暗い何かの穴。何もかも飲み込む洞窟のようで、全てを吹き飛ばす風穴にも見える。気がつけばレオリオは息を呑んで、得体の知れぬ敵の体を注視していた。

 

「お前の叫び、ほんのわずかだがオレに響いた。いいだろう、精霊と一族の名にかけて誓う。お前が死ぬまで、背中のそいつに手は出さないと。……下ろしていいぞ。足掻いてみせろ」

 

 実に勝手な言い分だった。その傲慢さに怒りが湧いた。眼前の男は、たかだか戦闘力で勝るだけで、よく知らぬ人間を勝手に見下し、格下とあざ笑って舐めている。

 

 なにが、響いた、だ。偉そうに。

 

 そう強がって見せるものの、レオリオは冷や汗が止まらなかった。実力の次元が違いすぎる。だがしかし、オーラが増して初めて分かった。相手は十分の一の力も出していない。勝てる勝てないでは既にない。何秒戦闘が持続するか、どこまで手加減してもらえるか、そのような水準の勝負である。

 

 レオリオにもプライドは存在する。できるなら意地を張りたかった。だが、背中のクラピカを巻き添えにはできない。彼は屈辱を噛み締めながら、相手の慈悲を信じて仲間を下ろし、道路の隅にそっと置いた。敵は盗賊。極悪非道。それでも、誠意を信じるしか術がなかった。

 

 バタフライナイフを懐から出し、刃を開いて低く構える。相手にとっては、チワワが爪楊枝を咥えた程度の脅威であろう。手の平が嫌な汗で湿っていた。

 

 突如、相手は奇妙な踊りを始めた。足取りに合わせ、どこからともなく音楽が鳴る。レオリオはすぐに気がついた。あれは笛だ、と。全身に開いたいくつもの穴が、空気を鳴らして奏でている。念能力者との戦いは初めてだったが、それが敵の能力であるとは、今の彼にも理解できた。しかし……。

 

 止めるか。いや、止めてしまっていいのだろうか。そんなところから分からなかった。知識が足りない。経験が全く存在しない。闘技場で戦いに接する機会もなく、師匠の教えを受けたことすらない。そもそも彼にとって念能力とは、ほんの数日前までは、纏だけを指す言葉だった。だが、そのような状態のレオリオにも、たった一つだけ分かることがあった。念とは、意志が動かす力である。

 

「うおぉおおおおおぉぉぉ!」

 

 咆哮しながらナイフを握り、レオリオは己が左肩に突き刺した。痛い、そしてひたすら熱かった。脳細胞が絶叫し、眼球の裏側がスパークする。更に力を込めて捻り込み、骨に到達するまで傷口を抉る。血が噴き出してシャツが汚れ、スーツに黒い染みが広がった。

 

「ああぁあああぁぁ! ってぇよクソォ!」

 

 一気にナイフを引き抜いて、握ったままの右手で額を殴った。そうしなければ立ってもいられず、転げまわってしまいそうだった。涙が熱い。呼吸が荒い。よだれがダラダラとこぼれている。だが、確かに心は一つになった。痛覚による集中のブースト。雑念の合唱。街角の不良のような不合理の方法。それでも、オーラは飛躍的に増加した。レオリオは本能によって見出したのだ。彼が手にした力の名を、人は、覚悟と呼んでいる。

 

 敵の準備も整っていた。蛮族の仮面に双刃の石槍を両手で持ち、レオリオの行動を眺めている。クラピカは全く動かない。かつて世話になった仲間の命を、今度は、彼が守らなければならなかった。

 

 レオリオは躊躇せずに走り出した。もう、これ以上時間を浪費できない。解毒するタイミングは早いほどよく、他の仲間達も気になった。そしてなにより、あまりに消費が早すぎて、体内に残る彼のオーラが、いつ尽きるとも知れなかった。

 

 ナイフを握って全力で駆ける。体が異常に軽かった。相手は試すように待ち受けている。体術も重心も関係ない。戦術も奇策もどうでもよかった。自分の血に濡れたバタフライナイフを、体の一部のように錯覚していた。トラックがひしゃげるような金属音が、夜の街路に重く響いた。がむしゃらに振るった一閃が、敵の持つ槍に食い込んでいた。ただ、それだけ。石槍を半分ほど切り裂いて、彼の渾身は止まってしまった。相手が無造作に槍を投げると、レオリオは体ごと飛ばされていった。

 

 アスファルトの路面に尻餅をつく。気力を絞り尽くして呆然としていた。肩の痛みまでをも忘れている。戦場の雰囲気はとうに失せ、石槍が空気に溶けて消えていった。敵の姿は元に戻り、再び体に包帯が巻かれた。何一つ言葉はなかったが、喉奥でくくと笑っていた。

 

 丁度そのとき、オールバックで目つきの悪い、ジャージの男がやってきた。

 

「なにしてんだ、団長からそろそろ集まれってメールきたぜ」

 

 親しげに会話を交わす様子から、この男も幻影旅団の団員と知れた。ペアを組んででもいたのだろうか。二人一緒に、どこかへ立ち去るようだった。

 

「なんだこいつら、殺すのか?」

「いや、いい。殺すと次が楽しめないだろ」

「へぇ、そんなにかよ。どれ」

 

 ジャージの男が目を見開き、じろじろと無遠慮に眺めてくる。包帯の男は一つ頷き、得意げな様子で追加した。

 

「やらないぞ。オレが先に目をつけた獲物だ」

 

 ケチだなんだと戯れあいながら、二人の男は去っていった。彼は思考が追いつかず、惰性でクラピカを背負い上げた。脱力した友人の重さだけが、現実感を与えていた。

 

「助かった、のか……?」

 

 レオリオの洩らした呟きに、答える者はいなかった。

 

 

 

次回 第三十四話「世界で彼だけが言える台詞」



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第三十四話「世界で彼だけが言える台詞」

 ただ、蜂のようにありなさいと、彼らは、そう願われて生み出された。

 

 故に。

 

 なによりも、蜂であることを優先した。

 

 

 

 赤いドレスを纏った少女が、寂しい大通りを一人歩いていた。余人の息遣いは聞こえない。車両の通行も全くない。空間がぽっかりと空いている。アスファルトは冷たく、空は暗く、風は涼しい。検問の跡も今は虚しく、警官やマフィアの死体だけが、誰にも顧みられずに捨てられている。

 

 女がいた。厚い桃色の服を着て、軽く癖のついた海色の髪を、背中に届くほどにのばしている。彼女から薫る気配には、沈殿した決意が見て取れた。纏うオーラは粉雪のように、蛍の群れのように、数多の念弾を生み出しながら漂っている。

 

 少女は楽しくなって微笑んだ。己の金髪に手をやって、娼婦のように手櫛ですいた。深海底のような夜の街で、女たちは対峙した。

 

「あら! 私を蜘蛛と知っているの?」

 

 水をさすつもりはなかったが、キャロルはあえて先に訪ねた。女は、かすかに怒った表情で、声に力を込めて睨んできた。

 

「当然よ」

 

 キャロルはクスリと微笑んだ。

 

「まあ、まあ、まあ! 可愛い人ね。復讐かしら!」

「八つ当たりよ。それと、ほんの少しのお節介」

「そう。それもいいわね!」

 

 くるりくるりとキャロルは回った。赤いドレスのスカートが広がり、小さな靴がステップを刻む。純粋に楽しさから湧き出た演技だったが、相手には違って見えたらしい。何故か、冷めた哀れみの視線で見下してきた。

 

「あなた、弱ってるわね。オーラは少ない、体も貧弱。今のあなたを狩れなければ、旅団の誰をも狩れはしない。子供に対して悪いけれど、私は勝機を逃がすつもりはないわ」

 

 それは完全な事実であった。キャロルのオーラは残り少なく、影響が表層に出始めるほどに減っていた。ある程度修練を積んだ能力者なら、あるいは感知に長けた人物なら、もれなく察することができるほどに。

 

 少女はステップを止めて立ち止まり、顎に指を当てて考えてみる。

 

 そもそも、キャロルは生身の細胞が少ないのだ。体の大部分が紛い物。それは、生命力の生成量に直結する。が、それらは所詮、ただの前提でしかないのである。目の前の女は正気だろうか。念能力者同士の戦いにおいては、データなど、たったそれだけの価値しかないのだ。恐らくは初心者なのだろうと、キャロルは内心で勝手に決め付けた。

 

「丁度いいわね。誰かに八つ当たりしたかったのは、私も同じだったから」

 

 身体能力はほぼ同等。オーラの量では相手が上。それでも、キャロルは負ける気がしなかった。赤いスカートの端をつまみ、それらしい仕草でお辞儀をする。

 

「キャロルと申しますわ。さ、踊りましょう」

 

 大きな青い瞳を瞬かせて、少女は、アルカイクな微笑みを浮かべた。相手の女はポンズと名乗った。彼女のオーラから念弾が涌く。一つ一つは小さかったが、無数の光珠は銀河のようで、キャロルに感嘆をもたらした。

 

 どこからか、蜂のような羽音が聞こえた。

 

 

 

 遺跡の如き寂寥が漂う、神殿の如き廃墟であった。摩天楼の面影はどこにもない。セメタリービルのあったこの場所には、大小さまざまな瓦礫が山と高く積み重なり、奇怪なシルエットを夜の灯りに照らされていた。いたるところから煙がくすぶり、土砂はまだ熱の残滓を留めながら、もぞもぞと構造材の隙間へずれ落ちるように動いている。

 

 やや離れた場所に、一人の女がうずくまって、己を抱いて震えていた。右腕を固く抱え込んで、背中から生える赤い翼で、体をひしと抱きしめている。彼女の皮膚は青ざめていたが、体温はひどく高いらしかった。全身から玉のような汗がとめどなく吹きだしているが、瞬く間に蒸発して立ち昇り、冷えた夜風に湯気と漂う。

 

 その周囲に、幾人もの男が集まっていた。皆が皆、たたずまいだけで達人と分かる。彼らは女を遠巻きに囲み、闇の中、六対の冷厳な目で見下ろしていた。

 

 女の周りに味方はいない。誰一人として、いなかった。

 

 そのとき、瓦礫の山の頂上付近、極々浅い土砂の中から、一人の男が抜け出してきた。彼はふらつく足どりで歩いてくる。上半身は剥き出しのままで、翡翠の首飾りだけをぶら下げていた。

 

「やぁ、生きてたね♠」

 

 囲んでいた男の一人が言った。

 

「ひどいな、僕ごとか」

「ごめんごめん♦ でも、キミならあれぐらい余裕だったろう?」

 

 音速を目視してから防ぐのが当然といった、異界の常識を振りかざし、おどけた様子で彼は言った。わかっているのだ。この男は全ての事情を見通した上で、自分の楽しみのために振舞っている。

 

「……いつもなら、ね。でも、今回ばかりはきつかった。こう見えて、あともう少ししたら死ぬかもしれない」

 

 瓦礫より這い出た男は言った。全身におぞましいオーラを纏わせながら、彼は男たちの囲いを通り過ぎ、女のそばまで歩いていった。誰も一言も発しなかった。

 

 熱のない瞳で男は見下ろし、虚ろな瞳で女は見上げた。

 

「屋上で絶だった理由はそれか、エリス」

「生きていたのね、アルベルト」

 

 再び、沈黙の時が訪れた。

 

 女、エリスの体はオーラが包み、纏の状態となっていた。だが、その密度が、決定的に常人の基準を冒涜している。纏として現実的な規模の範囲にするには、こうならざるを得なかったのだろう。余人に害なす染められたオーラは、今、尋常な硬をはるかにしのぐ、壮絶なオーラの塊だった。足を乗せているだけのアスファルトでさえ、ほんの少しの身じろぎだけで、巨大なクレーターに変わりかねない。

 

 オーラを体内に溜めすぎていた。渇望がありすぎ、戦意を削げず、生命力が活性化しすぎているのだろう。もはや一刻も早くどこかで開放しなければ、致命的な事態の危険もある。

 

「アルベルト、あなたは蜘蛛なの?」

 

 熱に浮かされ、体から湯気を昇らせながら、エリスは朦朧とした声でそう聞いた。まるで、眠る前の幼子が問い掛けるように。

 

「ああ、蜘蛛だ。エリス」

 

 アルベルトは応えた。彼女は安心したようにまぶたを閉じた。それっきり、全く動かなくなった。

 

「で、どうするのさ、コレ」

 

 シャルナークがアルベルトへ向けて言った。他の団員も大なり小なり、例え口には出さずとも、表情で同じことを聞いている。唯一、ヒソカだけは楽しそうに観察していた。だが、アルベルトは黙ったままだった。

 

 そのとき、彼らの後ろの瓦礫の山から、強い爆発音が轟いた。地面が不気味に振動する。地中で爆弾でも起爆したのか、くぐもって響く鳴動だった。やがて、土砂に開いた大穴の中から、銀髪の大男が一人、飛び出してきた。旅団の全員が即座に悟った。相当、強い。場を緊張感が支配する。

 

 直後、光の龍が地面を穿ち、地中から空へと立ち昇った。今度現れたのはクロロだった。ついでウボォーギンとノブナガも、新しい穴より跳躍してくる。そして、クロロの合図に従って、ウボォーギンが何かを大男に向けて放り投げた。それは小柄な老人だった。彼はそれを受け止めて、夜の闇へと消えていった。ついぞ無言のままだった。

 

「待たせた。全員揃っているか?」

 

 団員を振り向いてクロロが言った。が、シャルナークがすぐに首を振る。彼はキャロルが帰ったことを報告した。

 

「それで、服が二つも壊れたって」

「またかあいつか……。もう少し強い肉体を手に入れればいいだろうに。ま、あの女については止む終えん。他はいるな」

 

 統率者が現れた効果だろう。旅団の面々が纏う空気が、明らかに先ほどのものから変化した。個々がそれぞれの方向に我を通す気配は急に失せ、落ち着きながらも、クロロに完全に従属している。

 

「で、アルベルト、それはなんだ?」

 

 黒い瞳を暗く深く澄ませながら、クロロはエリスを顎で示した。釣られて再び、全団員の視線が彼女に向けて集中する。アルベルトは何拍か開けてから、平然と取り澄ました声で返答した。

 

「名はエリス。血のつながりはないが、かつては僕の妹だったこともある女だ。どうしてこの場所にいるのかまでは、今の段階では把握してない」

「……ふむ」

 

 考え込むクロロと見守るアルベルト。一種、緊迫した空気が流れていた。誰かがクク♥、と声を洩らした。

 

「どうするつもりだ? お前の意見を言ってみろ」

「どうしようかな。僕としては、誰にも迷惑のかからない場所で、速やかに自滅してくれるのが最良だけど」

「オイ! どういうつもりだ、テメェ!」

 

 割り込んだのはノブナガだった。彼はアルベルトを強く睨み、声を荒げて怒鳴りつけた。

 

「今すぐ殺せよ! 当然だろうが!」

「いいのかい?」

 

 アルベルトはあっけらかんと問い返した。

 

「あぁ?」

「多分暴走するよ、手を出すと。それでもいいって言うのなら、試してみるのもありだろうけど」

 

 アルベルトの示した可能性に、ノブナガが気圧されたように苦虫を噛んだ。エリスは、今も凄まじいオーラを纏っている。そして、異常な熱源と化していた。この不調の原因は、能力の無茶な発動の直後、無理やり押さえ込んでいるためだろう。少なくとも、短時間で落ち着きそうな様子ではなかった。

 

「団長」

 

 アルベルトが呼んだ。クロロはエリスをもう一度見て、それから己の中に入って考え込んだ。

 

「ふむ、チャンスではあるな……」

 

 呟きに応じて、全団員が身構えた。もしも攻撃を指示されたら、間髪いれずに従えるように。蜘蛛にとって、それは常識以前に必然だった。

 

 だが、そのとき、やや離れた場所にあった植え込みの茂みの内側から、三つの人影が飛び出してきた。

 

「ゴン、キルア! 急いで! 助けるんでしょう!」

 

 先頭を走る人物が、右の拳を振りかぶる。その手にはオーラが強く集まっていた。硬。不安定でオーラの量も少なかったが、紛うことなく硬であった。

 

 アルベルトからエリスを守るかの如く、褐色の肌の少年が、割り込むように滑り込んだ。硬の右手が路面を叩く。舗装が砕け、下の砂利が噴き上がった。視界が遮られたのを見逃さず、ゴンとキルアの二人がそれぞれ、エリスの両脇に回り込む。歳若いながらも研ぎ澄まされた、鋭く速い体捌きは、見ていた旅団を感心させた。ウボォーギンが遠目に笑い、フィンクスが一つ口笛を吹く。そして、噴出した砂利のカーテンをかいくぐって、件の褐色の少年が、アルベルトへ硬で殴りかかった。

 

 だが、視界が晴れて落ち着いたとき、三人は地面に組み伏せられていたのである。ゴンはヒソカが取り押さえ、キルアの上にはフィンクスがいた。残る一人の少年は、アルベルトが投げ落とした上で押さえ込んだ。

 

「危ない危ない♣ ダメじゃないか。今の彼女に不用意に触っちゃ♦」

 

 面白そうにヒソカが言った。エリスは微動さえもしておらず、少年たちを見てもなかった。が、オーラが微かにざわついている。近づけば本人が大怪我をするだけではなく、暴走のスイッチが入る危険もあった。

 

「離しなさい! 離せっ! 離せっ! 離してっ……!」

 

 褐色で銀髪の少年が、アルベルトに上から押さえられて、殺意を込めて歯軋りした。肩までの髪が悔しげに乱れる。小さな体にオーラがたぎり、憎しみに沸いて燃え盛った。それを見て、アルベルトは彼の後頭部を軽く押さえた。衝撃が一拍遅れて少年を襲い、意識を刈り取って昏倒させた。

 

「アルベルト!」

 

 一連の動作を見てゴンが叫んだ。

 

「お前は、なんでそんな!」

「知り合いか?」

 

 吼える少年は眼中になく、フィンクスがアルベルトに視線をやった。アルベルトは深い溜め息を一つついて、彼の疑問を肯定した。

 

「一人は憶えがないけれど、あとの二人は、ハンター試験の時の同期だね。全く、なんでこの街に来てからこんな、次から次へと……」

 

 本気で弱ったように首を振って、彼は褐色の少年の上からどいた。そして、ゴンとキルアを交互に見てから、アルベルトは他の団員達へと話を振った。

 

「あと、この三人の処遇については提案がある」

「殺すか?」

「いや、殺すにしてもそれは後だ。こいつらもハンゾーと面識がある。だから可能性は低いけど、マチやシズクの居場所について、手がかりを持ってないとも言い切れない。なら、殺すより連れ帰って拷問したほうが都合がいいだろ?」

 

 例え知らないと言い張っても、相手を信用できなければ意味がない。故に、蜘蛛にとって尋問と拷問はイコールだった。対象を見逃すなど論外である。情報の取捨選択は難しくなるが、手がかりを見逃すよりはずっといい。仮に旅団に、他者の記憶を探るような手段があったら、話は違ったのかもしれないが。

 

「なんだよそれ! どうしちゃったのさ! ねえ!」

「おい、ゴン!」

 

 友人を抑えようとキルアが叫ぶが、この場合、迂闊だったのは彼のほうだ。フィンクスが至極うざったそうに拳を握り、上から頭を殴りつけた。あえて気絶しない程度に手加減しており、キルアはうめき声をかすかに洩らして沈黙した。ゴンが激昂してやめろと叫んだ。

 

「……懲りねぇな。ま、一人ぐらいは殺ってもいいか」

 

 言って、彼はもう一度拳を上げた。

 

「フィンクス、やめろ」

 

 横からアルベルトが制止した。

 

「あ? こいつら生意気すぎんだろ」

「気晴らしなら拷問が終わってからにすればいい。ガキじゃないんだ。今はそれぐらい我慢しろ」

「ほぅ……」

 

 二人の間に、よく研いだ刃のような緊張が走った。空間を切断しそうな殺気の中、お互いに無言で佇んでいる。

 

「おい! やめろって! 掟はどうした!」

 

 シャルナークが大声で掣肘した。彼ら二人はしぶしぶと、臨戦態勢にあった意識をほどいて軽く息を吐いた。もめたらコインで。それが、幻影旅団の団員を縛る、絶対の掟の一つである。

 

「仕方ねぇか。いくぜ」

 

 クロロが口を挟まないことを横目で眺めて確かめてから、フィンクスは自分のコインを取り出した。次いで親指で宙に投げる。団員達が注視するが、アルベルトは面倒そうに目をつぶって、何をするでもなく自然体のままじっと立っている。

 

「表だろう」

 

 つまらなそうに肩をすくめてアルベルトは言った。まだ、目はつぶったままだった。

 

「死に瀕しているせいか、今の僕は意識さえ向ければ大抵の気配は察知できる。少し離れた場所にあるコイン表面の文様ぐらい、円を使わずとも肌でわかるさ。なんなら、ウボォーがいる辺りからもう一度当てて見せようか」

 

 気味が悪いほどの皮膚感覚に、その場の空気が一気に白けた。ある者は呆れ、他の者は興味深そうに観察し、あるいは喉奥から忍び笑いを洩らしている。だが、例え反則に近くても、勝ちは勝ちに変わりなかった。ヒソカはゴンを開放し、フィンクスはキルアの上から降りて離れた。無論、一時的な自由にすぎないのだが。

 

 そして、自分を睨むゴンに対して、アルベルトは気絶した少年を無造作に投げた。それから、彼はクロロに振り向いた。

 

「そういう訳だから、もうすぐ死ぬよ」

「仕方ないな。今までご苦労だった」

 

 お前は役に立つ奴だった、と、クロロは仲間をねぎらった。

 

「それで」

「ああ、ガキ共はともかく、その女は逃がしてかまわない。今回で性質は完全に把握した。次があれば殺せばいいさ」

 

 とりわけ気負うところもなく、クロロはそのように判断を下した。蜘蛛の団員はそれぞれ頷き、彼の決定を受け入れた。一度決まれば迷いはなかった。

 

「じゃあこいつらはどうしようか。気絶させて縛っとく? 見張りつけるのも馬鹿らしいし」

 

 シャルナークが言った。腰に片手を当てながら、非道な行為を涼やかに話す。それが蜘蛛の普通であり、いつもの彼らの流儀であった。そのことに怒りを燃やす二人の子供を、アルベルトは無表情で見下ろしていた。

 

「いや、面倒だろ。四肢の腱でも斬っとけばいいさ」

「それもそっか、じゃ、ノブナガお願いね」

「おい、オレかよ」

 

 呼ばれて、ノブナガは瓦礫の山を降りてきた。

 

「それぐらいテメェでやれよな、ったく」

 

 気のない愚痴をいいながら、ノブナガは歩きだして柄を握る。着流しを夜風に軽く揺らして、三人の少年たちへと向かっていった。ゴンとキルアは歯軋りしたが、彼らはあまりに無力だった。

 

「アルベルト!」

 

 ゴンが叫んだ。

 

「なんだい?」

 

 アルベルトが庇うような気配はなかった。むしろ、彼らが抵抗したならば、真っ先に殺せる位置にいた。純粋に念能力者として見た場合、今の彼は恐ろしく弱い。とりわけ潜在オーラの残量では、ゴンとキルアにも大きく劣った。が、それだけで戦場での優劣が決まると盲信することができるほど、暗愚な人物はこの場にはいない。

 

「なんだって、なんだってこんな奴らと一緒にいるんだ! エリスだって、なんでこんなに苦しんでるんだ! 説明しろ!」

「断る。君には関係ないことだ」

「ふざけるな!」

 

 が、それでも、戦力で上だと知りながら、ゴンは全く怯まなかった。褐色の少年を抱えたまま、怒りに任せて練をする。鮮烈なオーラが噴き出した。若い息吹の青い風。量だけならプロの端とも互角だろうが、それ以上に際立っていたのは至純さである。

 

「エリスの気持ちも考えたらどうだ!」

「知らないよ、そんなの」

 

 アルベルトは反射的に言い返した。そして、かすかに息を吸ってから、冷たい声で付け足した。

 

「僕は自分の意志でここにいる。それだけだ」

「なんだと!」

「おい、ガキども」

 

 今度はフランクリンが口を出した。重く低い彼の声は、瓦礫の舞台によく響く。加えて、右手が厳かに向けられた。切り落とされた五つの指は、静かで無慈悲な銃口である。

 

「おとなしくしてりゃ、まだ殺さねぇ」

「うるさい!」

 

 ゴンは大声で怒鳴りつけた。空気がビリビリと振動し、市街地全体が打ち震えた。オーラは轟々と燃え盛り、瞳は闘志に輝いている。キルアも冷や汗をかきながら、じっと機会を窺っていた。これほど致命的な状況でも、戦意を捨ててはいなかった。

 

 アルベルトは未だに動いてなかった。本来なら、既に殺していてもおかしくない。そうでないと不自然だった。が、少年は未だに生きていた。

 

「いいか! エリスはそんなこと望んでない!」

「お前に何がわかる」

「わかるさ! お前だって本当は、本当は分かっているんだろう!」

 

 悲鳴に近い絶叫に、アルベルトは半歩後ろへよろめいた。が、少年たちができたのもそこまでだった。

 

「やれ」

 

 クロロの一言が全てを変えた。怒涛の念弾が掃射され、エリスの体のみを避けるように、環状の豪雨となって降り注ぐ。数え切れないトランプが鋭い弧を描いて精密に飛び、軌道上の全てを切り裂きつつ全方位から彼らを襲う。止めにノブナガが居合を踏み込み、首をねじ切ろうとフィンクスの姿がぶれて消えた。

 

 

 

「もう終わりかしら? がっかりね」

 

 嘆きながらキャロルは近寄る。ポンズは脇腹を押さえながら、満身創痍の体を引きずり、辛うじて立っているようなありさまだった。キャロルに致命的な傷はなく、まだ、毒の爪さえ使ってない。拳と流だけでこれだった。

 

「まだ、っよ!」

「残念。こっちよ」

 

 ポンズの横からキャロルは言った。攻防力の移動ができていない。凝にかかるタイムラグが遅すぎた。隠で滑り込むように接近すれば、ポンズは全く対応できない。頬を殴り飛ばしながらキャロルは思った。弱すぎる。

 

「あら、痛いわね」

 

 と、念弾の群れにまた刺された。この攻撃は妙に痛い。穿たれる瞬間、念弾は水滴状に変形し、蜂のように尻尾で刺してくる。それはひどく痛かった。鋭さに特化し、神経を狙っているのだろうか。痛覚に偏ったダメージは、微妙に珍しく面白い。

 

 だが、面白くはあるがそれだけだった。

 

 激痛、害意、儚い抵抗。どれも、キャロルにとっては甘露にすぎない。陰惨な拷問でさえも楽しむ彼女だ。この程度の神経の不協和音、好みこそすれ妨害にはならない。念弾が群がる腕を持ち上げて、少女は目を細めて鑑賞した。皮膚に刺さりながら破裂していく、小さな球体の営みを。

 

「逃げないのね」

 

 立ち上がるポンズにキャロルは笑った。それは親愛の微笑であった。相手は臆病に震えながらも、隙を見て逃げ出そうという徴候すらなかった。逃がすつもりもなかったが、自ら挑んでくる態度は不快ではない。

 

「逃げるわけ、ないでしょうがっ……! ここで私が負けたなら、あいつはどうやって自信を取り戻せばいいってのよ! 才能がなくてもやればできるって、証明してやらなきゃならないのに!」

 

 唇を噛み締めながら拳を握って、ポンズは一直線に駆け寄ってくる。それとは別に、念弾の群れも彼女と無関係のリズムで波状攻撃を仕掛けてくる。しかしどちらも、キャロルにとっては脅威ですらない。念弾は楽しみがらも放置して、ポンズを凝で蹴飛ばした。練や堅すらもったいなかった。それでも、彼女は再び立ち上がる。

 

「まだよ……。まだなんだから……」

 

 ずっとずっと悔しかったと、ポンズは灼熱する瞳で呟いた。そのときキャロルは理解した。女の秘める負の感情の正体は、よくある才能の格差であると。キャロルも、若かりし頃は悩んだものだ。生まれの違いを何度も憎み、天の理不尽に涙をこらえた。なるほど、彼女の苦悩、腐るほど溢れる陳腐さだったが、溜まった淀みはなかなかの量だ。

 

 キャロルは唇を舌で舐めた。その意志に、ほんの少しだが憧れを感じた。今、ストックの空きは二つもある。いつもなら無視する程度の器だったが、今はこの邂逅に感謝していた。少なくとも、その場しのぎの服にはなろう。

 

 指先に紫の毒爪を伸ばす。今度は、こちらから仕掛けることにした。

 

「ほんの少しだけ本気を出すわよ。なるべく持たせてくださいな」

 

 言って、キャロルは闇にドレスを翻した。路面ぎりぎりを駆け抜ける。オーラを脚に集めた疾走は、ポンズの反射神経では対処できない。ぶつかった念弾が破裂していく。金髪の少女は笑いながら、相手の背中へと踊り出た。ポンズが慌てて後ろを振り向く。瞬間、少し本気で移動した。練によるオーラの瞬間増量。身体強化の水準が上がる。彼女の体を回り込み、いとも容易く背後をとった。両手の毒爪を剥き出しにして、甲高い笑い声を上げながら抱きついた。纏に触れた際、念弾が次々と爆ぜていったが、そんなもの、全身が激痛に喜ぶだけだ。

 

「これなーんだ! 正解はとっても強い毒の爪よ!」

 

 右手でポンズの乳房の谷間あたり、心臓の上を撫でながら、キャロルは背中ではしゃいで見せた。左手は上に伸ばして喉元を撫でる。どちらも致命傷を想像させるに充分な、人体の最大級の急所であった。

 

 が、ポンズの反応は予想外だった。キャロルの爪を意に介さず、ポケットに右手を突っ込んで、小さめの茶瓶を取り出した。それを彼女は後ろに放り、同時に、左手を楽団を指揮するように、リズミカルに動かした。あっけにとられるキャロルをよそに、念弾が小瓶を叩き割った。一握の液体が彼女にかかった。

 

「油断したわね! 私の勝ちよ!」

 

 キャロルの拘束が緩んだのを機に、ポンズは腕の中から抜け出した。そして叫んで振り返る。少女の体表はとろけていた。傷は浅いが広かった。見れば、ポンズの厚手の服までも、何箇所か小さな穴が空いている。傷口がぐずぐずにただれていき、血液が徐々に滲んできた。

 

「これだけは使いたくなかったけど! さあ! 今すぐ降参するなら治療してあげ……、あ、ひぃぃ……!」

 

 だが、勝利を確信したはずのポンズだったが、すぐに、驚愕と恐怖に震え出した。震えた足で一歩、また一歩とあとずさる。それも無意識の行動だろう。彼女の意識は尽く、キャロルの姿に注がれていた。金髪の美しかった幼い少女は、何割か焼け爛れた顔をうっとりと撫でては、血肉に汚れた指をしゃぶって、恍惚と頬を赤く染めた。そして、一転してポンズに視線をやって、最上の笑顔を振り撒いた。

 

「あはっ! やるじゃない! 見直したわ!」

 

 演技抜きで彼女は笑った。心の底からの賞賛だった。

 

「可愛い顔してえげつないのね! こんな幼い女の子に、躊躇なく強酸をぶっかけるなんて!」

 

 量は少ない。使い方もぬるい。それでも、キャロルは心底楽しかった。一歩踏み出すという暗黒の勇気が、たまらなく嬉しく思えたのだ。ポンズという女が気に入った。もう、完全に手に入れてしまうつもりだった。

 

 お礼にすみやかに決めてあげようと、がくがくと震える目の前の少女に、彼女は優しく近づいていった。堅を用い、流れるように足を運べば、体捌きはそれまでの遊びとは隔絶していた。結末は、実にあっけないものだった。

 

「……あら? あら、あら?」

 

 しかし、そこから先が予想外だった。術者が完全に気絶したというのに、念弾の群れが消失しない。動きに微塵のかげりもなく、相も変わらず、ポンズから流れ出るオーラから、巣から出る昆虫のように涌き出てくる。

 

 自動操縦。いや、その分類ですら生ぬるい。キャロルの背中がゾクリと震えた。無数に輝く念の珠が、一つ一つ、蜂の姿に形状を変えていったのだ。放出と操作に加え精密な変化。恐らくは、能力の一人歩きによる自立進化。かつて一例だけ見たことがあった。ここにきてキャロルはようやく、彼女の能力の真価を知った。

 

 酸による傷を修復し、心を切り替えながらキャロルは思った。この女、なかなか、リリカルな洋服になりそうだ。

 

 

 

 念弾が何かに遮られる。トランプは寸前で止められた。ノブナガの斬撃が受け止められ、フィンクスの体が弾かれる。

 

「ちっ!」

 

 ノブナガが舌打ちして後ろに跳ぶ。幸い刀にダメージはない。しかし、それは幸運の賜物でしかなかったのだ。あと一寸深く踏み込んでいたら、あるいは、紙一重に彼の技量が足りなかったら、愛刀は確実に折れていた。地面を削りながらフィンクスも着地し、苦々しい表情で彼女を睨んだ。とっさに堅でガードしたもの、それでもダメージが通ったのだろう。体に走る痛みに対して、彼は怒りをあらわに立ち上がった。

 

 それは巨大な翼だった。赤い翼が覆い隠して、少年たちを守っていた。

 

「エリス、あんた……」

 

 キルアが呆然としながらも、どこかほっとしたように呟いた。彼女は強引に纏を飲み干し、絶の状態に戻っていた。だが、背中だけに、強いオーラが集っている。選択的な絶の制御。それは、今の彼女の現状では、到底出来るはずもないような技能であった。

 

「ゴンくん、キルアくん、もう大丈夫。遅れてごめんね、声は聞こえてたんだけど」

 

 優しく慈しんで彼女は言い、それから、ゴンの腕に眠る少年を見て、久しぶりねと微笑んだ。

 

「……あなたも、お久しぶり。幻影旅団の団長さん」

 

 そして彼女はクロロを見た。三人をそばに抱き寄せて、親鳥のように寄り添いながら、下から上へと睨み上げる。赤く輝く翼の周囲に、首をもたげる毒蛇のように、オーラが異常識の密度で凝集する。彼は、そんな彼女を鼻で笑った。

 

「あのダサいコートはどうしたの? パクノダさんも、暴走族みたいって褒めてたのに」

 

 クロロはエリスの挑発を、眉をしかめるだけで軽く流した。心底、それだけの価値しかないと思っているのだろう。そばにいるウボォーギンの存在を見て、その後でコルトピを見、他の団員達を見渡した。当然、アルベルトも中に含まれている。全員が臨戦態勢をとっていた。

 

「団長、やるか」

「そうだな。勝てそうだが、アルベルト、どう見る」

「先に命を刈れるなら。誰か、一撃で頭を吹き飛ばす自信はあるかい?」

 

 ウボォーギンにフィンクス、そしてボノレノフが反応した。が、彼らが名乗りを上げる前に、クロロのほうが口を開いた。

 

「いや、やめておこう。今は競売品のほうが優先だ」

 

 言って、クロロは興味が尽きた様子で踵を返した。合図でコルトピを呼び寄せて、今後について指示を出す。団員達も従って、彼を追って消えていった。去り際、何人かが殺気を混ぜて一瞥するが、命令に反することは慮外であった。残念♦、とヒソカが喉で笑った。

 

「アルベルト! オレ達納得してないから!」

 

 ゴンが叫び、キルアもまた、アルベルトの背中をじっと見つめた。エリスは少年を抱き寄せる腕に力を込め、まぶたを閉じ、感謝をこめて頬を寄せた。しかしアルベルトは振り返らず、言葉も返さずに離れていった。双眸は無感情に冷えていた。

 

「さあ、オークションを始めるぞ! 手はずどおりだ。奴らにお宝を持ってこさせろ!」

 

 クロロの号令が空気を変えた。コルトピの周りに団員が集まり、何かを担いで運んでいく。が、その際、クロロはアルベルトの様子をしばらく眺め、辛いなら仮宿に戻れと優しげに言った。アルベルトは少し黙って考えて、ヒソカをちらりと見やってから、せっかくの言葉に甘えると決めた。

 

 

 

次回 第三十五話「左手にぬくもり」



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第三十五話「左手にぬくもり」

 暗闇の中、アルベルトはひっそりと耐えていた。命より大切なものを取り返す為に。彼女の笑顔をもう一度この目で見る為に。拳に頼る事はできなかった。情報を司る事もできなかった。それでも、儚い望みに賭けようと、彼はじっと待っていた。

 

 

 

 大通りに面したひなびたビルの屋上で、アルベルトは息を殺してひそんでいた。ファントム・ブラックで全身を包み、夜の片隅にまぎれていた。翡翠の首飾りは外しており、離れた場所に隠してある。服は、似た体型のマフィアの遺体が着ていたスーツを、適当に奪って着込んでいた。変装など気休めにすぎなかったが、やらないよりはマシだった。

 

 狙撃銃のスコープで地上を望む。遠方に悠々と歩く一団がいた。談笑しながら近づいてくるのは、クロロと、つきそう八人の団員だった。ウボォーギンとノブナガ。シャルナークにフランクリン。フィンクス、ボノレノフ、コルトピ、ヒソカ。彼らの顔はみな明るく、充実した達成感に彩られていた。盗みが成功裏に終わったことの証左であった。

 

 先頭を歩く男がいる、髪を下ろして額を隠し、黒い背広を着こなしている。右手に黒い装丁が為された書籍を持ち、後ろで語られる仲間達の雑談に笑みを浮かべ、時折は唇を動かし参加している様子の人物。彼こそ、アルベルトがどうしても殺したいと欲する、クロロ=ルシルフル、その人であった。そのためにヒソカと手を組んで、今もこうして観測している。

 

 今ならば奇襲は成立する。ほぼ、確実に。推定一秒、彼らに隙をもたらす手段が手元に存在しているためである。しかし、クロロの殺害まではできるだろうか。アルベルトは一度目を閉じて、はやる心を抑えようと、深呼吸を幾度か繰り返した。自分に有利な結論を出したがる頭を叱咤して、一つ一つの要素を検討していく。

 

 ……不可能だ。そう断じざるを得なかった。一秒。それだけの間隙があったなら、ヒソカなら団員を二人は殺せるかもしれない。だが、あの場所には彼を除いて七人もいる。仮にアルベルトが囮になり、奇跡的に半分も釣れたと想定しても、クロロを守る団員は三人もいた。

 

 ヒソカなら、一秒あれば拉致もできよう。が、一秒後のクロロは間違いなく、持てる全力で抵抗する。決闘寸前までおとなしくさせるような手段がないならば、追って来る団員に殺されるだけだ。

 

 ここから狙撃しても致命傷にはなるまい。先ほどまで無手だったアルベルトには、マフィアから奪ったライフル程度しか武器がない。重機関銃でもあれば別だったろうが、これでは、彼らの興味を引くのが精一杯の威力であった。そしてウボォーギンがいるからには、たとえ重症を負わせても、即死でない限り二発目はない。彼の鋼鉄の肉体は、いざという時、団長を守る城壁となる。

 

 最悪、ここで奇襲を強行すれば、ヒソカが敵に回る恐れすらあった。彼の目的がクロロとの決闘である以上、アルベルトがそれを邪魔したなら、排除に躊躇はないだろうから。

 

 どう考えても、多すぎるのだ。クロロに従う団員の数が。何かの都合で、分かれて仮宿へ帰ってくれる可能性にすがって待ち伏せを行なってみたものの、結果はこのようなありさまだった。そもそも、マチとシズクが消えた時点で、彼らの警戒が上がるのは必然だったが。

 

 だがそれでも、アルベルトは今夜に賭けてみたかったのだ。理由は至極単純で、一番期待値の高いチャンスには、彼の余命が間に合いがたい。たった一度の切り札だったが、焦りを隠せずにはいられなかった。

 

 それでも。

 

 中止しよう。アルベルトは拳を強く握り締めて、泣きそうな思いで決断した。携帯電話を取り出して、ヒソカに、定められた回数をコールする。スコープで拡大された奇術師は、誰かと談笑を交わしながら、自然な流れで頷いた。

 

 崩れ落ちるように姿勢を崩した。窒息寸前の魚のように、荒く深く呼吸する。ヒソカの楽しみの成否はともかく、アルベルトが能力を取り戻すには、時間が絶望的に足りなかった。

 

 

 

 目覚めた時、ポンズは指の一本も動かせなかった。眼球は錆び付いたように反応が鈍く、唇も顎もおぞましく重い。首から下は絶望だった。感覚はあっても、微動だにしない。

 

 部屋は暗く、恐らくは蝋燭の明かりだろう、天井はオレンジ色に照らされている。埃の匂いが色濃く漂い、内装は灰色に汚れていた。どこからか、湿った音が聞こえてくる。

 

 ポンズは裸に剥かれていた。仰向けに寝かされているようで、自身の体は見えなかったが、背には直接シーツが当たり、前面は空気が撫でている。乱暴された形跡こそはなかったが、これからを考えると吐き気がした。

 

「お目覚め?」

 

 優しい声に背が震えた。ひょっこりと、場違いなほどの無邪気さで、キャロルが視界に現れた。水音の正体は彼女だろう。ポンズを覗き込んで微笑みながら、ハンカチで口の周りを拭いている。ポンズは何か言おうとしたが、気だるさに阻まれて不可能だった。

 

「あ、ちょっと待っててね。今、体を起こしてあげるから」

 

 言って、キャロルはポンズの背中に片手を差し込み、介護するように上体を起こした。やはり裸だ。下着も靴も靴下も、何一つとして残っていない。だらんとした手足がだらしなく開いて、力なくシーツに伸びていた。

 

 部屋は廃墟も同然だった。ガラクタが埃をかぶって散乱し、無数の蝋燭が灯されている。他の人間の姿はない。穴のように開いた窓の外には灯火がなく、永遠の水面の如きだけ闇があった。どこからか血肉の悪臭が流れてくる。赤いドレスの少女とは、ミスマッチすぎて猟奇的に思えた。

 

 キャロルはクッションをいくつも取り出しては、ポンズが寄りかかれるように置いていく。うきうきと楽しみながらの甲斐甲斐しさには、相手への配慮は存在しない。ままごとに使われる人形の気分で、ポンズは己の境遇を見つめていた。やがて、作業を一通り終えてから、キャロルは再びなにかをしゃぶった。いや、食べていた。食事の正体を見極めた時、ポンズの魂はぞっと凍えた。

 

 ピンク色の厚手の布地。森林でも手足を保護する長い袖。見間違えるはずがなかったのだ。それが、他ならぬ自分の服だということを。

 

 キャロルは布地をよく眺め、触り、嗅ぎ、耳元で動かしては聞いている。そして最後に齧り取り、繊維の味、下触り、香りや喉越しに至るまで、無心に頬張りながら堪能していた。見れば、ドレスに包まれたキャロルの腹部は、ぽっこりと膨らみ始めていた。

 

 食べていく。衣服で遊びながら食べていく。しわを伸ばすように撫で広げ、表面を舌で舐めて遊んだ。裏地を嗅いで、こすれあう音を鑑賞した。それから、食べた。妊婦のように、内臓が破壊されそうなほどに詰め込んでも、彼女の遊戯に終わりは見えない。

 

 上着の次は、インナーや下着の番だった。汚れも不潔さも気にしない。どれにしようか迷いながら、それぞれを交互に味わっていった。口中でガムのように噛み続け、唾液をすすって飲み込んでいた。その光景を眺めながら、ポンズは、一つの危惧を抱いていた。服を全て食べ終わった時、キャロルが次の遊び相手に選ぶのは、どんな物体であるのかと。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 光の天使が熱に病んで

 あなたは苦海をさまようだろう

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 アルベルトは仮宿へ向かっていた。引きずるように体を動かし、夜の街を、重い足どりで動いていた。祭で賑わう繁華街の裏側、人通りのない暗い路地を、這いずるように歩いていた。もう、一歩たりとも進めないと、ずっと前から思いながら、最後の一歩を、踏み出していた。何度も、何度も、飽きもせず。

 

 建物の壁に寄りかかりながら、体をこすりつけるように歩いてく。アルベルト自身のオーラはもう、ほとんど噴出してなかった。エリスと同質の禍々しいオーラが、ぼんやりと彼を包んで苛んでいる。翡翠の首飾りを握り締める。引きちぎってしまいそうな弱い本能の欲求に、残された理性で抗っていた。

 

 まだだ、まだだ、と脳裏で呟く。一歩進むたびに繰り返しながら、ひたすら、末期の力を脚に込める。蜘蛛の待つ仮宿へ帰るために、命を削ってさまよっていた。それ以外に何も術はなかった。

 

 いつかの、スライムの蠢く街での夜を、彼は自嘲ぎみに思い出した。あの時は、愛の存在に疑問はなかった。無邪気だったのだ。得られたばかりの生身の思いに、全身全霊で酔いしれていた。今はもう、何一つとして分からない。

 

 この挑戦は何だったのだろうか。仁義を裏切り、信用を捨て、守るべき一般人を虐殺し、友人たちを殺しかけ、多くの同業者を拷問し、挙げ句に、最愛の人と戦いさえした。たった一度のチャンスの為に。ただ一度、その機会を最大限に生かすべく、ほんの少し、わずか一歩、有利な前提を維持するだけに。

 

 その全てが、今、徒労に終わろうとしているのだ。

 

 アルベルトは路地裏に倒れこんだ。あっけないほど簡単に、鈍い音を立てて地面に落ちた。受身を取るような力はなかった。無意味に磨かれた感性が、鼠たちの気配を察知する。彼らは肩を寄せあって震えていた。おぞましいオーラに怯えきって、群れで集まって耐えていた。単純で一途な野生の愛。それを、彼は羨ましいと心底思った。

 

 分からなかった。何が正しくて、間違ってるのか。悔しかった。悲しかった。寂しかった。愛とは、人の幸せとはなんなのか。ゴンの言葉を反芻する。彼の主張は単純だった。しかし、その単純さの前提にある、当たり前の経験がアルベルトにはない。

 

 一度倒れてしまったら、それで終わりだと思っていた。奇跡の力など湧いてこない。気合などとうに使い果たした。

 

 得られた成果は多いかもしれない。精密でリアルタイムの貴重な情報。蜘蛛の雰囲気や団員の素顔。協力者に頼りすぎ、振り回されすぎないだけのアドバンテージ。窮地に陥った友人を助け、あたかも蜘蛛の利益を追求するかのように振舞いながら、些細な手助けを試みることもできていた。そしてなにより、あの能力の把握とシズクの殺害。それらの収穫は確かにあった。だが、一番欲しいものが手に入らず、彼はここで朽ちようとしている。もう、幻覚さえも見なかった。熱さえなかった。それでも、アルベルトは辛うじて立ち上がった。

 

 彼を支えたのは勇気ではなく、もっと暗い、嫉妬にも近い執念だった。枯れた老木の如き命への羨望。あるいは、平穏に生きる人々への憎悪。アルベルトが密かに抱いていた、無意識の最深にあった切なる憧憬。

 

 いつも、人間になりたいと思っていた。

 

 マフィアから奪ったスーツのネクタイを引き抜いて、襟元を広げ、喘ぐように空気を吸った。緑の瞳だけが燃えていた。全世界を尽く憎むように、過剰な力を脚に込めて、彼はもう一度歩き出した。

 

 捨ててしまおうかとアルベルトは思った。今から旅団を抜け出して、ゴン達に謝り、後人の為、情報を全世界に発信する。そして残された数十時間、残りの人生を精一杯、エリスと共に生きるのだ。あるいは、正面から旅団に立ち向かい、死力を尽くして戦ってもいい。

 

 だが、それでも、幻影旅団の内と外、どちらが有利かというならば、それは間違いなく内側だろう。身内として潜んでチャンスを待たず、ここで抜けるという選択は、いまある優位を捨てるということに他ならない。

 

 ……それができるだけの力があれば、どんなにか。

 

 

 

「ふぅ……。服だけで、おなか一杯になっちゃった」

 

 腹を臨月の如く膨らませて、幼い少女は艶やかに笑った。満足そうに撫でながら、ポンズをみて、わずかに照れてはにかんだ。次いで、己が両手を、その内臓に突き立てた。赤黒い血が飛び散って、桃色の、薄茶色の、諸々の形の臓腑がまとめて落ちた。意外と重い音がして、埃だらけのコンクリートに、塊となって潰れて広がる。橙の光に浮き上がるそれは、生まれたばかりの赤子にも似ていた。そして、溶けるように消えうせた。

 

 ポンズには信じられない現象であった。血も、肉も、唾液すらも見当たらない。細切れにされた布切れだけが、濡れた痕跡もないまま散らばっている。キャロルの腹部も傷一つなく、もとのとおりにドレスに包まれ、細いラインを保っていた。

 

「おまたせ。じゃあ、次は、あなたね」

 

 幼い少女は、汗をかいていたポンズの額を、髪を持ち上げて舐めとった。金の髪がキャンドルに照らされ、柔らかい銅色に浮かんでいる。青く大きい愛らしい瞳が、間近でじっと見つめている。若く柔らかそうな唇から、真っ白い歯列が覗いていた。

 

「いい顔よ。もっといろんな姿を私に見せて、お願い」

 

 慈母が赤子をあやすように、ポンズの頬を愛でながらキャロルは言った。首筋に指先を軽く当てて、頚動脈をなぞっている。胸元に耳を静かにあて、心音を聞きながら鎖骨を撫でる。そして、脇の下に指をやって、肋骨を皮膚の上からくすぐった。その間、ポンズはやはり動けなかった。

 

 人差し指と中指で歩くように、乳房という山を登っていった。そして、乳首の周りを周回する。臍のそばを通って腹へと滑り、性器のすぐ脇を撫でて太腿へ下りた。羞恥心に耐えるポンズと目を合わせながら、内腿を手の平で柔らかく揉み、膝の裏から足首へ移った。最後に足先を口でしゃぶって、指の間を舌で舐めた。

 

「やっぱり、おなかから<span class="FIND_IN_PAGE FIND_IN_PAGE_SELECT" ooodarken="1" ooodarken10="1">いく</span>のが一番かしら」

 

 一通り様子を探った後、思案するようにキャロルは言った。赤い唇が下腹部へ近づく。が、途中で思い直したように首を振った。

 

「体もいいけど、最初はやっぱり指からかな。蜂を指揮したあなたの仕草、とても素敵だったもの」

 

 花咲く笑顔で少女は言った。ベッドへ上がり、ポンズの腹にまたがって、両手をいっぺんに持ち上げる。右手と左手を交互に眺め、慈しむように撫で回し、やがて右手を離し、左手の中指と薬指をくすぐるように愛撫しだした。恋人同士がするかのように、指を絡めて握ってもみた。親指の腹でそっとくすぐり、かすかに爪を立てて悪戯し、息を吹きかけて唇で触れた。それから、薬指の先端を甘噛みして、舌先で唾液を塗りつけた。ポンズの指と唇の間に、透明なアーチを描いてから、この指が綺麗ね、とキャロルは言った。

 

 

 

 緩やかな丘が見えた。あの頂上にアジトがある。ヨークシンシティの街並みの外れ、廃墟の立ち並ぶ見捨てられた団地が、今回の蜘蛛の仮宿だった。

 

 アルベルトは思った。とにもかくにもここまで来た、と。

 

 幾度も倒れた。顔は埃と涙とよだれで汚れていて、かつて黒かったスーツの上着は、灰色と茶色のまだらとなった。ゴミ溜めに倒れこんだ時のなごりだろう。生ゴミのすえた臭いが体に移り、彼に猛烈な吐き気を促していた。といっても、胃液も完全に枯れていたが。

 

 予想を越える衰弱だった。気力だけで持っていた状態の彼だったが、それさえも今では折れかけていた。背は曲がり、目は暗く、脚は萎えて腕はしおれた。ともすれば、這いずった距離の方が長いかもしれない。

 

「エリス」

 

 独語し、アルベルトは傾斜へ踏み出した。だが、なんでもない小石につまずいて、最初の一歩で彼は転んだ。闇夜に黒い土を握り、爪を立てて体を起こす。野犬が一匹近づいてきたが、害意あるオーラに撫でられて、悪寒に逆らえず逃げていった。

 

 どうしてこんな事をしているのか。旅団とは、ここまでして帰る意味のある場所なのか。あの能力は、ここまでして取り戻す意味のあるものだろうか。なんのために? どうやって? アルベルトに答えは出せなかった。

 

「……エリス」

 

 再び呟く。哀れな女だ。しかし、哀れな女だから愛したのか。ならば、もっと気に入る女がいるのではないか。いるはずだ。あの程度が、この世で最も哀れであるはずがないのだから。醜く、病的で、無思慮な、ヒトとして生まれた意味も見出せない、生涯で一度も喜べない女と出合った時、アルベルトはどんな感情を抱くのか。それとも、美しい女だから愛したのか。近くにいた女だから愛したのか。

 

 道すがら、彼女のことばかりを考えていた。彼はずっと不安だった。人間は、誰かを愛するものだから、自分も、誰かを愛しているのだろうか、と。そしてアルベルトは怖くなった。懸念を抱いてしまったのだ。ヨークシンで足掻いた挑戦さえ、人間の模倣なのではないか、と。献身という名の自己陶酔に、浸っているだけかもしれない、と。

 

 それでも、彼は止まらなかった。口の中の土を噛み締め、ゆっくりと丘を登っていく。ここで足を止めてしまったら、彼女と戦ってまでしがみついた道が、戦闘寸前までかぶり続けた蜘蛛の仮面が、何もかもが無駄になる。

 

 また、ゴンの言葉が心に響いた。エリスの幸せとはなんだろうか。アルベルトの最善とはなんだったのか。あの真っ直ぐな行動原理を、彼は無性に羨ましく感じた。

 

 

 

 部屋は静かなままだった。ポンズの喉は動かない。悲鳴をあげたくてもあげられない。とても小さな咀嚼音だけが、断続的に聞こえていた。ポンズの腕が減っていく。左腕が、一寸ずつ短くなっていく。脳漿が痛みで満たされすぎて、狂うことさえできないでいた。

 

 直視するのが怖かった。が、それ以上に、目をそらすのが怖かった。ポンズはもう、助からないと悟っていた。だというのに、何度試しても自殺できない。彼女の余命はいくらだろうか。仮にあと一時間で尽きるとしたら、そんなの、今すぐ死んでも同じではないか。例え舌も噛めなくても、呼吸を止めれば死ねるのだ。その方がよほど尊厳がある、人間らしい死に方に思えた。少なくとも、この化け物に食われるよりは。

 

 だが、ポンズは生にしがみつくことしかできなかった。不思議だった。今まで、死の危険にある場所には何度も行った。ハンター試験だって何回も受けた。命をかけて戦いさえした。覚悟は、いつだって胸に秘めていたつもりだったのに。

 

 いつだったか、古い小説でポンズは読んだ。断崖絶壁に立つ死刑囚の話だ。彼は、避けられない死が運命付けられてるにも関わらず、その瞬間だけを生きるために、必至でバランスを保つという。あるいは、自分のための墓穴を掘る、銃殺を控えた一人の兵士。彼は最後の一晩を生きるため、今撃たれないためだけに土を掘り、処刑の段取りに協力する。スケジュール通りの定められた死。その残酷さをポンズは知った。絶望は優しい。死は、怖い。

 

 キャロルは飽きずに遊んでいる。筋繊維を裂いて蝶結びし、蝋燭に皮膚を透かしてじっくりと見て、骨の欠片を飴のようにしゃぶる。ペースト状になった血肉をドレスの胸元に塗りたくって、彼女は官能的に上気した。痛かった。

 

 生きたかった。まだまだ生きていたかった。残された一分一秒を、己が全力で感じ取ろうと、ポンズは心の中で強く決めた。呼吸を頼りに集中する。神域の武人が無心に至ると、刹那も永遠に等しいという。その境地が今こそ欲しかった。だけど、時の流れは残酷で、時間は水のようにこぼれていった。

 

 キャロルに唇をむさぼられ、咀嚼したものを流し込まれた。自分の肉の味を知るなるなんて、さっきまで、ポンズは想像すらもしなかった。力ない舌で抵抗するが、脇腹を抉るように爪で突かれた。優しげな残虐行為とは全く違う、直接で暴力的な手出しの仕方。指先で内臓を愛撫される。動かない体が痙攣し、足の先まで電撃が走った。柔らかいままの少女の瞳がかえって不気味で、もはや従うしか術はなかった。

 

 やがて、ポンズの片腕は完全に消え、キャロルはこくんと喉を鳴らして、最後のひとかけらを飲み干した。にこりと微笑む。そして、金髪の少女はベッドから降り、上機嫌でくるくると優雅に踊った。

 

「ねぇ、見て。素敵でしょ?」

 

 言って、キャロルは自分の左腕を引き千切り、無造作に床に投げ捨てた。狂ってくれたかとポンズは思った。もしかして終わってくれるのかと、淡い期待が胸を満たした。しかし。

 

 少女の左肩から生えたもの。それは一回り大きくて、なによりも、彼女には見覚えがありすぎた。暗闇に浮かび、蝋燭に照らされ、キャロルの意思に従って握っては開くその形は、紛うことなく、ポンズ自身の腕だった。

 

 

 

 土に汚れてさまよいながら、アルベルトはようやく辿り着いた。市街地の外れに放置された、開発の失敗した廃棄区画、その一棟が蜘蛛の拠点だ。吸い寄せられるように脚が動いた。残ってないはずの力が湧いて、もつれるように先を急いだ。

 

 アジトの前に辿り着いた。広場として使っている空間からは、明かりと、団員たちの笑いがこぼれてくる。乾杯でもしているのだろうか。彼らの様子は気になったが、顔を出す余裕はアルベルトにはなかった。

 

 そこより上階の片隅に、もう一つだけ、明かりの洩れる窓がある。間違いない。キャロルの使っていた部屋だった。アルベルトは垂直の壁に足をかけて、コンクリートの壁面を蹴って駆けた。体力と余命のことなんて、頭の中から消えていた。

 

 甘えに行くのだ。気安い、愛を感じない女のもとに。

 

 窓枠から身を踊らせて、声もかけずに押し入った。橙色の明かりに照らされた瓦礫だらけの室内に、赤いドレスの少女がいた。彼女は驚いたようにアルベルトを見たあと、全て悟ったかのように哀しい表情で優しく招いた。

 

 服の補充の途中なのか、ベッドの上に誰かがいた。赤く染まった小さな誰か。どうでもよかった。今のアルベルトには、もう、どうでも。

 

「辛かったのね」

 

 背伸びして頭を抱き寄せて、キャロルは胸元にいざなった。幼い手で髪を撫でられて、悲しみがほぐれていくのを感じていた。頭頂にささやかな口付けをされた。やがて、彼女はアルベルトを支えて立たせた。

 

「何があったの? 言ってみなさい。何でも聞いてあげるから」

 

 自分の都合を、全て後回しにして彼女は言った。その時である。アルベルトとその人物の目が合ったのは。恐らくは女性だったのだろう。四肢がなく、腹には大きな空洞があり、乳房は片方消えているが、身体的特徴から推測された。そして、髪の色と、半分だけ残った、顔の皮膚。

 

 見覚えがあった。マリオネットプログラムのデータではなく、個人的な印象に残ってたが故に、不幸にも、間違えることができなかった。

 

 あの試験で、エリスと初めて友人になってくれた、桃色の服を着ていた女性。

 

 トリックタワーを共に歩いた。あの時、彼女はエリスを怖がらなかった。ゼビル島に向かう船で戯れた。あの時、彼女は幻獣ハンターを目指していると教えてくれた。打ち上げで彼女にシャンパンを注いだ。その時にはもう、何でもない雑談に興じるほどに打ち解けていた。

 

 ポンズ。彼女は小さくなっていた。そして、彼は何かを致命的に悟った。

 

「キャロル」

「ええ」

 

 青い瞳がアルベルトを見上げる。それは優しい光だった。彼の求めた癒しだった。旅団の先輩としてよくしてもらって、返しきれない恩義があった。こうなっても、憎しみも恨みも全くない。だから、仲間として、アルベルトはキャロルにゆっくりと言った。大切な告白さながらに。

 

「ごめん」

 

 小さな少女の体が潰れる。頭蓋が床に押し付けられて、千々に罅割れて中身がこぼれた。現れた脳髄を彼は潰す。それは絶叫するように震えていた。コンクリに押し付けて塗りたくり、優しくしてくれたキャロルという女性を、アルベルトは粛々と殺しきった。

 

 脳からは蜘蛛のコインが見つかった。入れ墨の代わりに埋め込まれていたのか。アルベルトはそれをじっと見つめて、ズボンのポケットにそっと入れた。

 

 アルベルトはポンズへ近寄って、スーツの上着とシャツを脱いだ。それらで丁寧に彼女を包み、帰ろう、と静かに微笑んだ。瞳だけでポンズも頷く。お互い、彼女が助からないことは悟っていた。それでも、帰る意味はあるはずだった。

 

 悩む季節はもう終わった。

 

 アルベルトの胸に、新しい風が吹いていた。生まれ変わったような気分であり、元に戻っただけのような、自分を取り戻したにすぎないような、そんな些細な変化でもあった。

 

 アルベルトは急ぎ支度する。とにかく、彼女を皆のもとに届けよう、と。その後のことは分からない。だが、この決断に悔いはなかった。例え、今までの挑戦が無駄になっても、受け入れられるだけの覚悟があった。悲壮ではなく、清々しかった。

 

 あとで、きっと取りにくるからと、アルベルトは胸元のネックレスをその場に外した。害意あるオーラがそこに留まる。これはエリスのオーラである。芸術品などによくある残留オーラと同じだったが、純粋に規模だけが異次元だった。あの雨の日、エリスが初めて練をした夜、操作系に隣接する彼女が携え、頼みにしていたお守り代わりの母親の形見。その経緯は、人ひとり包み込むのに十分な、規格外のオーラをこの翡翠の珠に染み込ませていた。

 

 これを持っている限り彼は目立つ。隠れての脱出は不可能だった。逆に、この部屋に残せば囮にもなる。彼女の大切な品をこのように扱いたくはなかったが、この場合はどうしても仕方なかった。

 

 そして彼は、窓に足をかけて飛び降りた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 どこよりも出口に気をつけなさい

 きっと蜘蛛の巣に続くから

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 石だらけの地面に着地する。音はない。

 

 体は不思議と軽かった。苦痛は全て鎮静してる。全て麻痺してしまったのか。それにしては、地平線の果てまで澄み渡るような、澄明とした感覚が説明できない。星々の光が太陽にも思えて、闇夜が白昼のように感じられる。満月の浮かぶ雪原にも似ていた。

 

 もしや彼岸にいるのだろうか、と、アルベルトは本気でいぶかしんだ。

 

 しかし、磨き抜かれた感性だからこそ分かるものがあった。

 

 建物の上、瓦礫の上、しんと静まった闇の中で、七つの影が見下ろしていた。

 

「よう、アルベルト」

 

 フランクリンと思しき影が言った。

 

「帰って来るなり散歩かよ? つれねぇな」

「いいじゃないか。気分がいいんだ」

 

 アルベルトは笑った。出血の滲む湿った上着に、ほんの少しの力を込めた。

 

 シャルナークの声が問いかけた。

 

「アルベルト、右手に持ってるそれはなんだ」

「なんでもない。ただの私物さ」

 

 彼は答える。冷たい夜の砂利を踏みながら、暗い廃墟の谷間を歩きながら。

 

「おい、アルベルト」

 

 ノブナガが声を掛けてきた。

 

「なんだい」

「キャロルはどうした」

「さあ、部屋じゃないかな」

 

 アルベルトは言った。不自然な言動は避けたかったが、本音を言えば急ぎたかった。帰りたかったのだ。腕に抱えた誰かの鼓動が、夜風に溶けてしまわぬうちに。

 

「アルベルト」

「ああ」

 

 フィンクスが、何気ない調子で口を開いた。

 

「マチの奴が戻ってきたぜ」

 

 空気が冷たい。暗い暗い闇の中、夜の廃墟は静かだった。

 

「うん、そうか」

 

 アルベルトは穏やかに頷いた。幻影旅団が彼を見ている。皆、一分の隙も見当たらず、彼を遠巻きに囲んでいる。その距離は、彼らにとっては一足の間だ。膨れ上がるオーラを肌で感じた。

 

「怖えー女だよな。身じろぎだけで鋼鉄の棺桶ぶち破ってきたんだとよ」

「流石だね。だからこそ、あの場で殺して欲しかったんだけど」

 

 男達は苦笑しあう。交わされるやり取りは和やかだった。アルベルトは既に立ち止まって、上着を左手に持ち替えていた。

 

「ちょいと、聞こえてるよ」

 

 ひときわ離れた壊れた建物の屋上に、クロロの気配が現れた。横抱きでマチをたずさえている。漆黒のコートが風に靡いた。フィンクスは誤摩化すように肩をすくめ、アルベルトは苦笑いして首を振った。

 

「じゃあ、ヒソカは?」

「アイツなら逃げやがったぜ。忌々しいがよ」

 

 ウボォーギンが律儀に応え、吐き捨てた。アルベルトを哀れみの目で見つめてくる。が、彼は安堵していたのだ。計画上の共犯者というだけでなく、なによりも、友として、彼に憧れた者として、ヒソカの無事が嬉しかった。

 

「アルベルト、お前は誰と戦いたい?」

 

 クロロが最後に訪ねてきた。彼はほんのひと呼吸ほど考えた後、どうせならウボォーギンがいいと指名した。何人かが当てが外れた顔をして、分かってるじゃねぇかと大男が笑った。

 

 とても爽やかな心地だった。裸の上半身に片手を当てて、皮下のファントム・ブラックを解除する。蜘蛛の入れ墨が消え去った。彼なりの決別の証だった。もう一度、旅団の皆を見渡した。

 

 左手にぬくもり。周りに絶望。隔絶しすぎた戦力差。オーラはないに等しかったが、心の中に淀みはない。遠くに望む街の明かりが、彼に郷愁をもたらしていた。右手を握る。反応は鈍いが支障はなかった。久しぶりに心おきなく戦えそうだと、アルベルトは、冷えた闘争心に暖かみがさすのを感じていた。

 

 ウボォーギンが近寄ってくる。

 

 アルベルトはひとつ決意した。心を一つに、自己を見つめ、目標を定めて。

 

 点。

 

 命の全てを、この一戦にかける。

 

 

 

次回 第三十六話「九月四日の始まりと始まりの終わり」



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第三十六話「九月四日の始まりと始まりの終わり」

 音もなく光もなく闇もない、時の流れの止まった世界で、ビッグバンインパクトが振り下ろされる。かわすことは不可能で、投げ飛ばすことは論外だった。ただ、殴るという動作を極めたが故に、肉体を極限まで鍛え上げたが故に、ウボォーギンの動きの芯は、アルベルトがずらせるような領域にはない。彼は完成されていた。誇張なく強化系を極めていた。

 

 だから、前へ跳んだ。

 

 アルベルトはウボォーギンへ向かって跳躍する。左手にポンズを抱えたまま、迫り来る暴力へ自ら走る。万物がスローに見える一豪の狭間に、二人の視線が交錯した。破壊の拳が地面に触れた。

 

 水滴が落ちて、星に波紋が広がった。

 

 無色の衝撃が天空を揺るがし、無音の薄膜が万象を潰して拡大していく。極彩の閃光が遅れて生まれ、物質が微粒子に回帰していく。これは既に、爆発という名の現象ではない。世界の片隅を塗り替える、創世に連なる御技であった。

 

 何よりも豪放。誰よりも一途。故に、至強。ウボォーギンの暴力は、局所的ながら人類の英知を凌駕する。将来は、原子核の崩壊さえをもいざなうだろう。

 

 その衝撃に、アルベルトは乗った。

 

 彼の体術は何よりも優しい。左手の彼女を傷つけぬように、そっと静かに足を踏み出す。それでよかった。それだけでよかった。届かない望みはもう捨てた。

 

 誰よりもヒトという種に憧れるが故に、彼は、ありのままを愛することを決めたのだ。

 

 駆け引きは刹那。だが、悠久の時が流れたかもしれない。アルベルトは逃げるために跳んだのではなかった。相手を正面から殺すために、己の全てを込めるために、間合いの格差を逆に利用し、懐に一撃を入れるために、右の拳に、乗っていた。

 

 残されたオーラを右足に集める。纏も絶もできないため、アルベルトに硬は可能ではない。かすか数寸の間隙を開け、彼は衝撃波に着地した。拳に直接触れれば体は砕ける。遠ければ脚は支えきれない。絶妙を見切ったのは慧眼ではなく、完全に偶然の産物であった。神のサイコロに全霊をゆだね、希少な最良を勝ち取った。無謀だが、躊躇の可能な敵ではなかった。

 

 背中を押す風がアルベルトを運ぶ。纏のない体が苛まれる。衝撃波を蹴って彼は跳び、限界を超える速さで体軸を回した。筋肉がねじれ、骨の軋みが脊髄に至る。全て、些事であった。ポンズの体を両腕で抱いて、ウボォーギンの顔面を狙って、アルベルトは、閃光の如き蹴りを穿った。ビッグバンインパクト、硬で生まれたオーラの致命的な空白地帯を、おぼろげな凝が完全に捉えた。稀なる巨躯が激しく震えた。

 

 夜のしじまに風が吹く。

 

 ウボォーギンの額から、一筋の血が流れ落ちた。ただ、それだけだった。

 

 オーラもなく、純粋な肉体の強度だけで、とっさに放ったただの頭突きで、アルベルトの渾身は相殺された。二人の体が弾かれる。ウボォーギンはわずかに後退し、アルベルトは地面を削って着地した。

 

 沈黙が続いた。周りからは、しわぶき一つ上がらない。アルベルトは視線だけを感じていた。そしてやがて、大男が豪快に吼えて笑い出した。いくつかの羨ましそうな舌打ちが聞こえる。

 

 アルベルトも感銘を受けていた。ウボォーギンの実力は聞かされており、離れた場所からは目にもしたが、このように至近で味わうのは、これが初めてだったのである。人間とは、ここまで鍛えられる生き物なのかと、彼は巨匠の絵画を味わうかのように、眼前の巨人を仰ぎ見ていた。

 

 だが、足りない。戦闘と呼べるだけの攻防は成った。だが、勝ちきり、その命の炎を掻き消すまでには、アルベルトの力は微細すぎた。ならば、とアルベルトは策を練る。

 

 背後の気配を密かに探った。今しがた、彼らが飛び降りた蜘蛛の仮宿。そこまでの距離を肌で計った。内部に未だ競売品があったとしたら、あの場所ならウボォーギンは本気を出せない。自身のあまりの火力が故に。しかし、アルベルトは舞台を移すという考えを打ち消した。

 

 クロロは本を具現化してなく、梟の能力は使用してない。キャロルが無警戒だったことからも、マチの帰還は直前だろう。しかし、たとえお宝があったとしても、あそこで戦うのはデメリットしかなかった。絶でさえダメージが通らなかったのだ。攻撃に振り向けるオーラをウボォーギンの守りに回されては、勝てる道筋は完全に消える。つまり、アルベルトがすべきは間逆である。前に進み、より多くの攻撃を相手に打たせ、死線の狭間を掻い潜り、身命をかけて挑むしかなかった。この程度の死力では足りないのなら、さらに冥府へと踏み込んで、魂を燃やし尽くす必要があった。

 

 お互いに再び見詰め合う。針先のような緊張が生まれ、いつ再開しても不思議ではなかった。

 

「少し、長い戦いになるかもしれない」

 

 ポンズの体を抱きなおし、首もとで彼は囁いた。かすかだが、頷きの動作が感知できた。何千何万でも打ち込もうと、友人を抱えて心に決めた。他の団員のことは今はいい。この、最も安定した絶大な脅威を、最も迅速に倒したかった。それだけが生存への希望であった。

 

 その時、その気配は空より現れた。

 

 最初に気付いたのはアルベルトだった。かすかに遅れてクロロが続き、大声で何かを怒鳴り上げる。内容を把握するよりも迅速に、全ての団員が反応した。弾丸以上の速度で飛来する、超高速の飛翔体。それは地面に着弾し、水柱のように土煙が上がった。次々と、爆撃さながらに打ち込まれる。それはくろがねの矢であった。なんでもない、どこにでもあるような鉄骨だった。何棟も廃墟が続けざまに砕け、砂城のように崩れていく。常識外の威力であった。見覚えのあるオーラを纏っているが、ただ周で強化しただけでこのような破壊は不可能である。対象を貫かず弾かれず、両者は合体して粉塵と化した。オーラの粘着性を利用した、運動エネルギーの無駄のない移動。

 

 ヒソカ。誰もがその名を浮かべた時、異形の奇術師が飛来した。弾丸に貼り付けたバンジーガムを収縮し、自らをこの場に飛ばしたのだ。着地と同時に彼は笑い、お待たせ、と唇だけで呟いた。

 

「全員でいい! ヒソカを殺せ!」

 

 マチを傍らにクロロが下令し、右手に盗賊の極意を具現化する。あらゆる団員が命令に従う。柄を握り、右腕を回し、グローブを外し、両の手の平にオーラをこめ、アンテナを取り出し、あるいは両手の指で照準した。しかしヒソカは、そんな行動を嘲笑うように、これ見よがしに右腕を掲げた。そこには、一際太いガムが未だに空に向かって伸びている。

 

「お・み・や・げ♣」

 

 両足をオーラで地面に貼り付け、野球選手の投球のように、全身の力で右腕を振りぬく。直後、巨大なタンクローリーが着弾した。闇が紅蓮に燃え上がった。その頃にはもう、アルベルト達はヒソカの肩に担がれていた。

 

 ところが、炎の海をものともせずに、ヒソカに突撃する巨体があった。ウボォーギンである。最も近い場所にいた彼は、尽くの些事に気を払わず、一心に奇術師へ走ったのだ。

 

 ビッグバンインパクトがヒソカに迫る。奇術師は最後に伸びる一本のガムを発動させる。もしそれが収縮したならば、彼らはヨークシン市街まで飛び去るだろう。それでも、巨大な拳はあまりに早く的確で、離脱は紙一重で間に合わない。

 

 ウボォーギンの踏み込みが大地を揺るがす。その時、大男の背後を忍者がよぎった。空中を駆け抜ける黒衣であった。アキレス腱が切り裂かれ、ウボォーギンがわずかに揺らいだ。至極微細な狙いのずれは、ヒソカの体捌きの前では充分だった。

 

「フランクリン!」

 

 命じながらクロロもページをめくる。左腕のオーラが光龍に変化し、密度のあまりに紫電が生じた。念弾が逃走者たちへ掃射され、老練を極めた念の飛龍が、幾千にも分裂して降り注いだ。

 

 豪雨が地面を耕す中、ふたつの影が飛翔していった。

 

 

 

 ポンズの姿を一目見たとき、ポックルの涙腺は決壊した。嫌な予感はしていたのだ。窓から病室に乱入したハンゾーによって、有無を言わさず連れ去られた時から。ヨークシンの夜空を駆けながら、終始無言だった彼を見ながら。

 

「畜生! ちくしょうっ……!」

 

 嗚咽を洩らしながら抱きしめる。手足を失った彼女の体を。もう、ポンズには命が残っていない。それぐらい、いくらなんでも瞬時に分かった。顔の半分は布が覆い、体はシーツで包まれている。頬には化粧が施してあって、辛うじて体裁を保っていた。それでも、例えオーラを見なくても、ポックルに理解できないはずがなかった。

 

 ポンズの唇が小さく動く。ポックルは遮二無二頷いた。ゴンが拳を握り締めて、キルアが隣で呆然としてる。ハンゾーは無表情を深くして、レオリオは涙を流して震えていた。

 

 あとどれくらい、ポンズの時間はあるのだろう。

 

 ポックルは鮮明に憶えていた。初めて出会ったハンター試験で、トンパの罠に振り回され、わたわたと混乱していた一人の少女を。全身に薬品をこれ見よがしに装備して、据わった目で再び挑んだ翌年の彼女を。試験場が森林だったときだけは、妙に頼もしくなるライバルを。

 

 今年の打ち上げの開始直後、ゴンの首を絞めた大人気ない女性を。天空闘技場の一階で、一人だけ二十階を宣言されて落ち込む彼女を。夜毎、ばれてないつもりでこっそりと、秘密の特訓に抜け出る友人の姿を。

 

 念という異能の存在を知って、わくわくと燃えた二つの瞳を。練の感覚がどうしてもつかめず、二人して悩んだあの日の午後を。

 

 なにもかも、もうすぐ、二度と見ることができなくなる。彼女の笑顔も、泣き顔も。どれほど運命を恨んでも、絶対に覆らない不可逆の定め。それが、人の死という現象だから。

 

 最後に、二人っきりにしてほしいと、ポックルは仲間達に願いを伝えた。誰一人、何一つとして口にせず、静かに扉が閉められた。

 

 

 

 ゴン達が使っていた一室の隣、レオリオが予約した部屋の扉に、ヒソカは一人で寄りかかっていた。

 

「お友達の所はもういいのかい?」

 

 くつくつと笑いながらヒソカは言う。目の前の人物は肯定した。ああ、と続けて彼は話す。

 

「ポンズはもう、できる限りのことは全部した。しちまった。あそこから先は、医者志望のオレが出る幕じゃない」

 

 持参した医療カバンを持ち上げて、レオリオは真剣な瞳でヒソカを見つめた。そして、穏やかな口調で続きを言った。

 

「クラピカの解毒はもう済んだ。あとはここだけなんだ。どいてくれ。今のオレは、自分でも何をするかわからねぇ」

 

 ヒソカは目を細めて喉奥で笑った。怖い怖いと楽しげに笑った。

 

「いい目だ♠ いいよ、通りな。でも、驚くなよ♦」

 

 大声を出したら殺すから、とヒソカは濁った眼光で釘を刺す。レオリオはそれに頷いて、ヒソカの開けた扉から入った。彼も覚悟をしていたのだろうが、最初の一歩目でたたらを踏んだ。叫びは、辛うじてだが飲み込んだ。

 

 室内はひたすら赤かった。真夏のように暑かった。赤色の翼が輝いている。五枚十枚という単位ではない。エリスの背中から何対も、歪な翼が生えていた。そして、両腕。そこからは無数の翼が生え、生えては砕け、生命力の粒子となって消えていく。エリスの腕はひび割れていた。亀裂から赤い肉が垣間見え、瞬間的に治癒しては次が裂ける。明らかに、尋常に用いられている念ではない。

 

 寝台の上にアルベルトがいた。寝顔は生気が欠片もなく、赤く照らされながらも蒼白だった。エリスはひたすら、彼に微弱な赤光を注いでいる。

 

「あの翼に触れちゃダメだよ♠」

 

 ヒソカはレオリオの耳元で説明した。簡単に、彼が把握してるだけの概要を。エリスの能力の一端である、赤の光翼の性質を。それは、具現化した光に生命力を付与し、光子の交換を介して行なう強制授与。害意あるオーラを相手に送り、地を這うあまねく者たちに、等しく救いを与える殲滅の極光。

 

 だが、ごく微細な量を維持できれば、害意が閾値を越えなければ、純然たる癒しの光にもなるのである。だからこそ今も、体外からの供給により、エリスはアルベルトを救おうとしている。かつて二次試験会場前の木陰でも、彼女は同様の行為をアルベルトにした。あのときはまだ、能力はここまで先鋭化してはいなかったが。

 

 限界を超えた能力の制御が、エリスの体を苛んでいる。ぎりぎりを見極め、繊細すぎる調節を行ない、供給量の限界に挑戦しようと集中している。細い指の先がはじけて砕け、そこからも翼が生えてきた。それでも、やがて翼は枯れて傷口は治る。ほんの些細な阻害だけで、彼女の試みは終わるだろう。それでもエリスは瞬きもせず、鬼気迫る顔でアルベルトを一心不乱に見つめていた。

 

 レオリオは唾を飲み込んで、恐る恐るだが踏み込んだ。慎重に彼女の視界に入り、驚かせないように存在を告げる。エリスと目が合い、彼は頼もしく見えるように頷いた。

 

「おっと、キミはダメだよ♥」

 

 ヒソカは扉を閉めながらそう言った。暗い瞳で、幽鬼のように立っていたのは、キャップをかぶったビリーであった。

 

「どうしてもかしら」

「もちろん♦」

「お願いよ。今しかないの。今しか、あの人を殺せそうなのは」

 

 ダメダメとヒソカは彼女を阻む。あまり煩いと殺すと言ったが、少女は道化師を虚ろに見上げて、奈落の底のような瞳でじっと見つめた。そして、彼女は踵を返して歩き出した。

 

「どこへ行くんだい?」

 

 ビリーは夢遊病のように去っていく。ふらつく彼女の後姿に、ヒソカは興味本位で問い掛けた。彼女に食指は動かなかったが、ゴンが友情を感じていることぐらいは知っていた。

 

「……街へ。今夜は、雨が降るって予報だから。ああ、それと一つ」

 

 立ち止まり、肩越しに見つめて彼女は言った。

 

「あの子たちに、私が感謝してたって伝えてくださる? 友達になってくれて、ありがとうって」

「気が向いたらね♠」

 

 再び扉に寄りかかり、気のない返事をヒソカは返した。実際のところ、憶えておくつもりは全くなかった。あまりに表情に出すぎたのか、ビリーはクスリと暗く笑った。

 

「使えない人ね」

「よく言われるよ♦」

 

 ホテルの廊下で、奇術師は一人佇んでいた。

 

 

 

「悔しいか?」

 

 夜景の瞬く屋上で、ハンゾーはポックルに問い掛けた。長めの髪の毛が夜風になびき、頬をくすぐって揺れていた。彼はやや乾いた表情で、そうかもな、と呟いた。

 

「まだ、実感が湧かないだけかもしれないけどな」

 

 ハンゾーは腕を組みながら、背の低い青年を見下ろしている。ポックルは手すりに寄りかかり、まぶたを伏せてぽつぽつと言った。彼の肩には蜂がいた。オーラでできた一匹の蜂。その死者の念は弱々しく、もうすぐ消えそうな光だった。

 

「わかってるんだ。やがて忘れて思い出に変わる。たったそれだけのことだって」

 

 暗い夜はまだ明けない。日の出までまだ一時間はたっぷりとあった。ポックルにそよぐ秋風は肌寒く、夏の温度は残ってなかった。

 

 別段、ポンズとは特別な関係だったわけではない。人の死も幾度も経験していた。世の中に理不尽な死はありふれていて、彼女もそのうちの一つでしかない。今回の一件で身にしみた。一時の衝動で敵対するには、旅団は強大すぎる存在である、と。並みのプロハンターなど歯牙にもかけない、世界最強の盗賊団。

 

「だけど、今はまだ、思い出に変わっちゃいないんだ」

 

 それでも、まぶたを明けてポックルは言った。乾いていた表情はどこにもなく、瞳は激情に燃えている。性格でないのは知っていた。似合わない行為なのもわかっている。だが、ここで尻尾を巻いて逃げたなら、後できっと許せなくなる。他の何でもなく、それを選択した自分こそを。

 

「付き合うぜ。命をかける気はねぇが、オレもあいつらにゃ、ちょいとばかしキレそうだったとこだ」

 

 親指で自分を指差して、傍らの忍者が明るく告げた。舐められっぱなしは気に食わなかった。殲滅などはできなくても、自分たちの意地を見せてやりたい。後悔はやらかした後ですればいい。その思いで、男たち二人はニヤリと笑った。

 

 そうと決まれば話は早い。他の奴らには秘密でいいと、彼らは準備も手早く抜け出した。

 

 

 

 早朝、朝日が街並みを橙色に照らし、長い影法師を与えた時分、キルアはホテルの出口でゴンを見つけた。

 

「よっ、何してんだ」

「あっ、キルア。待ってたんだ」

 

 待ち合わせなどしてないというのに、ゴンはそれが当然というような口ぶりだった。キルアは少し嬉しくなって、笑みを隠しながら彼に言った。

 

「行こうぜ」

「うん」

 

 少年たちは駆け出していく。大人には内緒で街並みの中へ。例え危険だと分かっていても、やりたい事をするために。他の理由は必要なかった。旅団の強さは理解していたが、対抗する手がかりはなくはなかった。新しく知り合った少女より、ヒントとなる概念を教わっていたのだ。

 

「ねえ、そういえばビリーがいなかったよ」

「んだなー」

 

 駆け抜けながら彼らは話した。垣根を越え、屋根を跳び、道ならぬ道を走っていく。ビルからビルの屋上へ、飛び移りながらキルアは楽観的な答えをゴンに返した。

 

「でもそのうち見つかるだろ。アイツかなりすっとろいし」

 

 楽勝楽勝とキルアは言って、ゴンは苦笑しながらも否定しない。若いオーラが踊っている。そして、彼らは朝焼けの中へ駆けていった。

 

 

 

「もういいのかい?」

 

 レオリオが扉を開けたとき、ヒソカは廊下でトランプを投げて遊んでいた。孤独だが妙に楽しそうだ。レオリオは深く追求することもなく、一言、手は尽くしたとだけ告げて去った。

 

 ホテルの廊下をレオリオは急ぐ。目指す場所は決まっていた。否、正確には目指すべき人物であるのだが。

 

「どこ行こうってんだ、お前は」

 

 午前の街中、観光客でごった返す表通りに彼はいた。鮮やかな金色の美しい髪に、青い民族衣装が人目に止まる。後ろから声をかけられて、特徴的な背中がぴくりと止まった。

 

「今更一人じゃ行かせらんねーぞ、なぁ」

「お前には関係のないことだよ、レオリオ」

 

 振り向きもせず、再び歩きだそうとするクラピカを、レオリオはぽかりと殴って止めた。困惑した顔が振り返るが、レオリオは気にせず隣に並んだ。そして、有無を言わせず歩き出した。

 

「おい、どういうつもりだ」

「どうもこうもねぇよ。誇り高いのも結構だが、少しは周りを頼れってんだ、ったく」

 

 両手をポケットに突っ込んで、スーツの男は歩いていく。その背中をしばし見つめてから、クラピカは仕方あるまいと溜め息をついた。足音が二つ、並んで響いた。

 

「お前には借りがあるからな。解毒と、それに」

「それに、なんかあったか?」

「聞こえていたよ、ありがとう」

 

 不意打ちにレオリオはたじろいだ。うっと息を呑んでそっぽを向く。そんな長身の友人を眺めてから、クラピカは不快ではなさそうに目を伏せた。

 

「今回は私も思い知った。自分だけで切り開こうとする無茶な行為が、周りをどれだけヤキモキさせるかを」

「アルベルトの奴か?」

「エリスから何か聞いたのか?」

「それどころの話じゃなかったがよ、あれを見りゃ馬鹿でも推測はつくぜ」

「そうか。そうだろうな」

 

 しばらく二人は無言だった。昨晩は、色々なことがありすぎた。湧き上がる感情を噛み締めるには、しばしの時間が必要だった。

 

「……で、どうするつもりだ」

「まずは奴らの現状を把握しなければな。居場所と人数は最低限だ」

「あてはあるのか?」

「なくはない」

 

 言いつつ、彼は親指で路地を指す。レオリオも付き従ってそちらへ曲がれば、一匹の中型犬が近づいてきた。野良犬にしては匂いがなく、毛並みはブラッシングされて肉付きもよいい。犬は、彼らを案内するように歩き出した。

 

 路地を縫うように抜けていく。曲がり、進み、しばらく行くと、小さな広場に差し掛かった。そこには二人の人物がいた。何匹もの犬を従えた男性と、帽子をかぶった、小柄で柔らかい雰囲気の女性。クラピカは彼らに手を上げて、いくつかをさっそく確認しだした。

 

 なんだ、ちゃんと仲間がいたんじゃないかと、レオリオは友人を穏やかに見下ろしていた。しかし、いや、と考え直した。無用な心配だったかもしれない、と。エリスとも組んでいたようだし、宿にも、何も告げずに出てきてしまったが、あんなにも沢山の友人がいる。同胞を失ってしまった青年に、これ以上の孤独は似合わないとレオリオは思った。

 

 

 

「迷惑をかけたね。ヒソカ」

「なんだか一皮剥けたじゃないか。ますます♠ 美味しそうになった♥」

 

 舌なめずりをしてヒソカが言い、アルベルトはそんな彼を微笑ましく見つめた。陽は高く、時刻は正午をだいぶ回っている。アルベルトの頬には赤みが差し、オーラもやや少なくはあるが噴出していた。体の動きもずっと軽い。

 

「じゃ、行ってくるよ、エリス」

 

 ベッドで眠る最愛の女性に、彼は優しく声を掛けた。

 

「この場所に置いといて良いのかい?」

「どの道、終わってしまえば一緒なんだ。郊外の荒野に寝かせても、その程度の距離は誤差にしかならない。だったら、少しでも落ち着ける方がいい。君に取ってきてもらった卵の化石も、枕元にちゃんと置いてあるしね」

 

 エリスの額を撫でながら彼は語る。彼女の寝顔は穏やかだったが、いつ容態が急変するか、それは誰にも分からなかった。アルベルトの体調こそ回復したが、事態は好転してなかった。

 

「ほかのみんなは?」

「さあ。ボクは見てないけど♣」

「そっか。でも、それはかえって都合がいい。さ、見つかる前にここを出よう」

 

 アルベルトの台詞に、奇術師は忍び笑いを洩らし始めた。邪気はない。単純に面白いことがあったかのような笑い方は、ひどく少年じみて彼には見えた。

 

「どうした?」

「なんでもないよ♦ ただ、キミらは仲がいいねって思ってね♠」

 

 アルベルトは首を傾げるが、ヒソカが理由を明かすことはついぞなかった。

 

 

 

次回 第三十七話「水没する記憶」



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第三十七話「水没する記憶」

 薄暗い路地裏の奥深く、ある建物の半地下倉庫へ続く階段に、ビリーは憂鬱そうに佇んでいた。キャップを目深にかぶり、ズボンのポケットに手を突っ込み、俯いて壁に寄りかかっている。ややボサボサになった銀色の髪を、紐で無造作に縛っていた。赤褐色の目はどんよりとしていて、何もない暗がりを飽きもせずに睨んでいた。

 

 カビ臭く湿った場所だった。壁は煉瓦で、段差はタイルで造られており、倉庫への入り口は脂で真っ黒に汚れた木製の扉が固く閉ざしていた。いくつかの樽が積まれていたが、中身は空のようだった。

 

「あんたが悪たれのビリーか。背、低いな」

 

 面倒くさそうにビリーは見上げた。階段の上には、いかにもストリートを治めているという風体の十二、三ぐらいの少年が、手下らしき子供たちを連れて仁王立ちしていた。顔にはにきびが多く目立ち、真っ赤な髪の毛は縮れていた。彼女はポケットに手を突っ込んだまま、陰気そうに片頬で笑って見せた。

 

「困るんだよなぁ、分かるだろ。この街でオレを通さずガキどもを動かしてもらっちゃさぁ」

 

 ニヤニヤと少年は降りてくる。彼が示した右手の上には、何枚かの五十ジェニー硬貨が乗せられていた。思ったより早く釣れたなと、ビリーはキャップの日除けの奥で考えていた。

 

「……可哀想に」

 

 それほど同情してはなかったが、儀礼的に彼女は呟いておいた。前金を奪われた子供たちは、頬を腫らした程度で済んだだろうか。あるいはよくある程度にリンチされたか。どちらでも、余人が口を挟むような道理はない。悪いのは要領が悪かった当人なのだ。それがここでの公平さだった。昨日までずっとそうだった。明日からもずっとだろう。もしも、今日だけ他所のルールを押し付けるなら、それは傲慢と呼ばれる行為である。

 

「よその街で鳴らしたそうだが、ここじゃオレの顔を立ててくれよ、な?」

 

 抱きつくような距離まで近づいてきて、赤毛の少年はいやらしく笑った。体をワザと斜めにかがめ、下から覗くように見上げてくる。あと少しでキスさえできそうだった。息が臭い。体が汚い。ドブ川のように濁った目。全て、少女は嫌というほど慣れていた。

 

「聞こえてるぅ? 小さい兄ちゃん、ビビッちゃったぁ?」

 

 無言のビリーに肩をすくめて、少年は馴れ馴れしく肩を組んできた。それから得意げに地上を見上げ、それを見た取り巻きからキャハハと甲高い笑いが上がった。階段の壁で反響し、鼠の鳴き声のように波立って聞こえる。

 

 自分の優位を確信して、少年はビリーのズボンのポケットを探ろうとしてきた。探しているのは財布だろう。他の街では、最初に殴っておくのがセオリーだったが、ここの流儀は違うのだろうか。それとも、ビリーのばら撒きが過ぎたために、欲が先立ってしまったのだろうか。どちらでもいいが、鬱陶しかった。

 

「触るんじゃねぇよ」

 

 纏でオーラを留めた体のまま、ビリーは赤毛の少年を軽く押した。予想しなかったであろう強い力に、彼の体がぐらりと揺れて尻餅をつく。しばし呆然と見上げていたが、そこは流石にこのあたりの頭だ。すぐに考えを切り替えて、立ち上がりながら右手でさっと合図を送った。取り巻きのうちから何人か、側近らしき少年たちが駆け下りてくる。残りは階段の出入り口に壁を作り、逃げられないように封鎖した。リーダー直属というだけのことはあるのだろう。指示も早ければ手際もいい。相手が普通のチンピラ程度なら、軽くあしらうことができるぐらいに。

 

「……さて、どうしようかな」

「あぁ! なんだってぇ?」

 

 赤毛の少年が荒々しくがなった。唾が何滴か飛んでくる。そんな暴力的な態度さえも、今ではどこか可愛らしく感じた。反則技で一方的に優位にいるので、少なくとも喧嘩の範疇なら、ビリーに負けはないためだった。これがなければ、彼女は三秒で完敗できるが。

 

「殴り合いは一番早いんだけど、ね」

 

 ただし、加減は意外に難しかった。脅しが強すぎると彼らは逃げる。蜘蛛の子を散らすように一目散に。かといって、ささやかすぎればその場限りの効果しかなく、別れて十分もしないうちに刻み込んだ上下関係を忘れるだろう。時間を掛ければなんとかなるが、ところがその時、彼女は一昨日の早朝の出来事を思い出した。たった二日しか経ってないのに、もうずいぶんと懐かしく感じるその記憶。ビリーは少年たちの様子を眺め、古樽を見、気だるい調子でそっけなく告げた。

 

「じゃぁさ、腕相撲をしようぜ。オレに勝った奴に全財産やるよ」

 

 突然提案された勝負事に、少年たちは色めき立った。最初にリーダーが鼻息も荒く挑みかかって、十秒後に愕然としながら敗北した。それから何人も何人も相手にし、全員三戦は回った頃には、ビリーはヒーローになっていた。

 

「すげぇな! アンタすげーよ、一番だよ!」

 

 ストリートの少年たちは歓声を上げ、彼女の周囲にまとわりついた。憧れのスターを取り囲むように、彼らはビリーを称えあう。キャップを脱いで彼女は言った。

 

「悪いけど、頼まれてほしいことがあるんだ」

 

 何だってする! 言ってくれ! そんなコールが合唱される。ビリーはポケットから百ジェニー硬貨を何枚も出して、赤毛のリーダーに手渡した。そして、全ての少年に聞こえるように言った。

 

「オレが欲しいのは情報だ。この街に余所者が入り込んで、大きな顔してるのは知ってるだろう? 昨日までマフィアの連中が探していた」

「死んだんだろう! 知ってるぜ!」

 

 ビリーは重々しく頷いた。既に噂は広まっていた。全員分ではないものの死体が見つかり、電脳ページ上で晒し者にされたと。が、ビリーはそれを信じてない。ヒソカとかいう男がゴンたちに話しているのを聞いていたのだ。物体を複製できる能力者が、流星街の出身者を選び、肉体を偽造して放置したと。そちらのほうがよほど信憑性があった。マフィアの銃撃程度で死ぬ連中なら、軍隊を相手にした時点で死んでないとおかしい。なにより、彼女は信じたくはなかったのだ。仇は自分の手で取りたかった。

 

「そいつは嘘だ。他のエリアの連中にも声を掛けてる。金はたっぷり持ってるけど、競争だぜ」

「でもよ、懸賞金もなくなったんだろ」

 

 赤毛の少年が尋ねてきた。さすが頭、とビリーは感心して頷いた。電脳端末にもさわれないのに、耳が早くて正確だった。競売の都市では情報こそ最も貴重な商品である。公開非公開を問わずして、諸々のニュースが囁き合われる。そのような環境で暮らすからか、彼らの情報意識は驚くほど高いようだった。

 

「問題ねぇ。オレが探してる理由は別口だからよ。ああ、それと、一番上手くやったチームにはご褒美に、サッカーボールを買ってやるって約束なんだぜ。ピッカピカの新品をさ」

 

 少年たちがはしゃぎまわった。リーダーも隠そうと努力しているようだったが、頬が緩んでくるのが押さえきれない。皆が皆、走り出したくてたまらなそうだ。ビリーは彼ら一同に簡単な説明を済ませてから、思うがままに街に散らせた。

 

 

 

 空は暗く陽はかげり、だんだんと灰色の雲が増えてきた。夏を終えた街路樹が、移ろう季節に向けて準備をしている。パンの耳からこぼれた欠片を、土鳩たちが摘んでいた。遅めの昼食をとった後、ビリーは髪を櫛で整えて、一人で繁華街へと歩いていった。陰気な顔をしすぎたせいか、眉間の筋肉がこっている。

 

 今から宿に帰ったなら、誰か残っているだろうか。あの人を殺す機会はあるだろうか。そんな事を考えながら、彼女は人込みの中を進んでいく。

 

「分かってるのよ。悪いのは私たち二人の方だって。だって、犯罪者だったんですもの。それも、平然と殺人を犯す凶悪犯。でも、でもね」

 

 口の中だけで独語する。あの男への想いは未だに消えない。それどころか、日増しに深まるばかりだった。顔を忘れてしまうのがひたすら怖くて、思い出すたびに泣いてしまいそうになりながら、脳裏で声を反芻した。忘れるべきだと考えるたびに、忘れられないことを思い知った。体が熱く、涙腺が緩く、胸が苦しくなっていった。

 

「なのに、なんで……」

 

 憎悪を糧に、錆び付いた心を動かしてきた。この街で思わぬ幸運を得て、復讐の対象にめぐり合えた。そして、絶好の機会が訪れたのに、昨夜の彼女は諦めてしまった。自分の無力が悔しかった。

 

 知っていたくせに。いかにヒソカという男が強くても、旅団も同じぐらい強いのだと。

 

 あれだけのチャンスで引き下がってしまうなら、どう足掻いても成就などできまい。愛した男の未練を晴らせず、無機質な眼光をこの世から消せない。しかし、彼女の戦力は脆弱すぎた。あの場で我を張って粘ってたら、きっと無駄死にしていただろう。

 

 そして、もう一つだけ懸念があった。目の前で彼を殺したら、あの女性はとても悲しむだろう。ほとんど会話はなかったけれど、一緒に戦い、あの人を殺さないでいてくれた人。少女のことを、憶えていてくれた人。

 

「それは……、ちょっと、胸が痛いな」

 

 それでも、あの男の末期の想いを叶えないと、いや、そういう目的を設定しないと、少女は生きていけないのだ。もう、一人はあまりに寂しすぎた。煙草の香りが恋しかった。死んで想い人に会えるなら、彼女はためらいもしなかった。

 

 もしも、このまま何もできなかったら、この世から消えてしまいたかった。

 

 

 

 瓦礫の山のあちこちから、灰色の細い煙が立ち昇り、風に流されて消えていく。崩れた廃墟群は焼け爛れ、秋空の下、黒ずんだ姿を転がしていた。

 

 放棄された区画をクラピカは歩く。人々の気配は感じられない。小石が未だに暖かく、炭素と化した木材の欠片が、体重に負けて砕け散った。遠くでスクワラが口笛を吹いた。彼の周りに犬が集まり、次の指示を受けて散っていった。風が冷たくなってきた。

 

「あっちも無人ね。心音の一つも聞こえなかったわ」

 

 いつの間にか近寄っていたセンリツが言った。灰色になってしまった光景を見つめながら、クラピカは、彼女の言葉に頷いた。

 

「ここからはヨークシン市街がよく見える。どんな気持ちだったのだろうな、奴らは」

 

 スクワラがレオリオと連れ立って、犬たちを従えて戻ってくる。手掛かりは見つからなかった様子であるが、その点はクラピカもセンリツも同じであり、今更失意は抱いていない。

 

「そうね、あたしなら、新しい曲でも浮かびそうだけど」

 

 ピアノが欲しくなるわねとセンリツは言って、片目をつむって柔和に笑った。クラピカも同じように笑い返して、向こうから歩いてくる二人を待つ。昨夜、生死の境をさまよってから、不思議と焦りが消えていた。

 

 略奪品が傷つくことを恐れたのか、旅団は拠点をどこかに移していた。街に溶け込んでいるのだろうか。あるいは荒野に潜んでいるのか。現段階では未だに分からない。

 

 いささか、確認が慎重すぎたかもしれないな、と、クラピカは冷静に反省していた。総戦力では劣るとはいえ、一対一で負ける心配はしてなかった。毒という搦め手では不覚を取ったが、何度も同じ手を食らうつもりもなかった。

 

 しかし、慎重でもいいと思い直した。彼らを失うよりはずっと良かった。

 

「次はどうするんだ」

 

 目の前まで来てスクワラが尋ねた。クラピカはその問いかけに頷いて、自分の考えを述べ始めた。

 

「私なりに旅団の動機を推測してみたが、奴らの動きは、差し迫った窮地が現れない限り、明らかに競売品の強奪に偏っている。それ以外の目的に、裏切り者の抹殺ととある女性の始末が考えられるが、どちらも全力の対応をしているとは思えない。裏切り者への報復にこだわるなら、この場所に待ち伏せ要員を置いても不思議ではないのだからな」

 

 先刻まで彼らの最大の懸念だった事柄を挙げると、三人は同時に頷いた。

 

「とりわけ、レオリオから又聞きしたゴンたちの証言によるならば、彼女は明らかに優先順位が低いのだろう。いや、歯牙にもかけられていないというべきか。邪魔になれば対処する。個々の団員の心情はともかく、旅団全体としてはその程度の方針なのだろうな」

 

 エリスについて必要以上の情報を洩らさないよう、ある程度ぼかしてクラピカは話した。この場にいたのがレオリオだけなら、もう少し踏み込んでもよかったのだが。

 

「これまでの行動から考えるに、恐らく旅団という組織の戦闘指針は、基本的に自衛を旨としているはずだ。ブラックリストハンターたちへの対処でも、自分たち自身をおとりにし、襲い掛かった者達を返り討ちにしていた。だからこその蜘蛛なのだろうな。罠を張り、ただ、眼前の行為のみを排除する。奴らは、他者からの感情に恐ろしく無頓着で独善的だ。盗みに入る際の殺戮など、戦闘とすら認識していまい」

 

 個人的な心情の違いはあるかもしれないが、具体的で信憑性のある脅威が示されない限り、組織として能動的に攻撃はしないと、クラピカは手を固く握り締めながら平坦に語った。焦燥が消えても、憎悪は欠片も減っていない。センリツが彼の手を悲しそうに眺めた。

 

「すなわち、個人の団員の趣味としてはともかく、裏切り者二名を組織だって探す可能性は低い。であれば蜘蛛の目的は、後一日分の競売品に絞られる。今夜の競売がどうなるのか、恐らくはまだ上層部の決定さえされてないのだろうが、開催か、延期か、あるいは中止とされるのか、旅団が着目しているのはそこだろう」

 

 スクワラとセンリツが同意した。コミュニティーからの通達はリンセンが逐一連絡してくる手はずだったが、地下競売についての沙汰はなかった。だが、今の時間になっても決まらないなら、開催は至極難しいと言えた。

 

「以上が私の考えだ。群盲、象を評すに近しいが」

 

 個別の証拠から全体像を割り出すのは難しい。象という正答を知らなければ、ある者はごつごつした手触りの岩であると、他の者は巨大な化石だと、あるいは凄まじい大蛇だと叫ぶだろう。それらは全て一理あるのだ。たとえ九十九パーセント正確な分析ができたとしても、わずかに視点をずらすだけで、別の九十九パーセント確からしい推測ができる。だからこそ、別の経路から結論の欠片を入手できるとありがたい。分析材料の入手ではなく、数多くある分析の方向性の決定。通常、スパイの最大の役割はそこにあるといわれている。クラピカは、今更ながらアルベルトのいた立場が少し羨ましくなった。そう感じた自分に殺意を抱いた。思い浮かんだだけとはいえど、あまりに卑劣だと考えたのだ。

 

「じゃあよ、旅団はどこかに隠れてマフィアの決定を待ってるって事か?」

 

 レオリオがしてきた確認に、クラピカは表層だけは平静に頷いた。センリツが耳を帽子で隠し、スクワラの犬たちが半歩下がった。あえて普段どおりに接してくれる一人の男に、彼は感謝の念を抱いていた。

 

「ああ、私はそうだと考えている」

「ならよ」

 

 レオリオは街を眺めていた。雨雲の下、薄暗くなり始めたヨークシンでは、ヘッドライトを点灯させる車が増え始めている。その光線がこちらまで届き、時折、きらめくように輝くのだ。

 

「市街地と荒野、どっちだと思う?」

 

 クラピカは俯いて考えに沈んだ。街に近ければ拠点が得やすくアクセスにも勝り、荒野にいれば隠密性が高く思う存分暴れられる。双方にメリットは存在したが、彼にはもう一つ懸念があった。

 

「どちらにせよ、網を張るなら街中だろう」

 

 今にも雨が降りそうな空の下で、彼は静かに決断した。彼らのチームは、荒野での探索に力を発揮できる布陣ではない。スクワラの犬、センリツの聴覚、どちらも人々の営みに紛れ込める場所で最大の効果を期待できる。故に、受身の姿勢で待ち受けると決めた。それは一つの賭けであった。

 

 

 

 繁華街を抜け、裏道に入り、少女は奥へと進んでいった。子供の肩幅ぐらいしかないコンクリートの谷間を抜けていく。途中、いくつもの腐乱死体をまたぎながら、彼女は躊躇もせずに歩いていた。

 

 汚い風俗店が密集している地域の更に裏側、少年たちから聞き出した、ヨークシン最悪の無法地帯がここであった。公園で生活するのとは訳が違う。路上でスリを働く程度可愛いものだ。ここは、終わりきった人間たちの住む墓場であった。ストリートチルドレンも立ち入らない、マフィアすら見捨てた都会の姥捨て。ごく狭い地域でありながら、素人が迷い込めば五分もせず行方不明になるという。

 

 少女は衣服を身に着けていない。透明なレインコートだけを一枚羽織り、靴もはかず、キャップもつけず、髪も結ばずに歩いていた。淡い褐色のうなじの上に、銀色の髪がさらさらと流れた。数十秒後、彼女の後頭部を鉄パイプが襲った。問答無用のフルスイングで、渾身の力を込めて振りぬかれた。少女は倒れながら後ろに目をやる。犯人は裸の上半身を晒している、肋骨の浮き出た痩せ男だった。

 

 受身も取れず、少女は路面に衝突した。悲鳴さえも上がらない。そんな彼女を仰向けにし、男は焦った手つきでジーパンを脱ぎ、逸物を取り出してレインコートをめくった。そしてそれをあてがって、口の端からよだれを垂らしながら、滑稽なほど激しく腰を振った。一刻も早く終わらせなければ、彼の命はないかのように。その様子を、少女は無垢な瞳で見上げていた。痩せ男に唇を貪られても、抵抗も従属もしないまま、人形のように動かないでいた。

 

 ぽたりと、コンクリートに染みが広がる。

 

 やがて、痩せ男が最初の欲望を彼女の最奥に叩きつけたころ、物音を聞きつけ、ワラワラと男たちが集まってきた。皆、濁った目でのっそりと動いている。集団が彼女を殴った痩せ男に取り付き、持ち上げ、乱闘しながら叫び声を上げる。お互いに噛み付き引っ掻きあって、あっという間に流血沙汰まで発展した。

 

 少女の体は取り合いされ、道具としても真っ当に扱われない。一言の声もあげないまま、彼女は男たちの渦の中にいた。入れられた瞬間に注がれ、あるいはその前に体にかけられる。穴という穴に区別はなく、誰も他人に興味はなかった。何人かは、興奮を抑えられなくなった衝動のままに、手近な男を犯し始めた。それを、彼女は寂しい瞳で眺めていた。

 

 ぽつぽつと雨が降り出した。

 

 

 

 ビリーが路地から通りに出た時、赤毛の少年が駆け寄ってきた。探したぜ、と元気よく叫ぶ彼に対して、彼女はキャップの奥で寂しげに笑った。後ろで結わいた銀色の髪は、ほんのわずかに乱れていた。

 

「朗報かい?」

「ああ、やっと見つけたぜ! こいつぁ確かな情報だ!」

 

 そのまま二人は通りを歩き、手ごろな小道へと折れていった。ストリートの少年たちが掘り出したのは、今朝方早く、まだ日も明ける前に起こった出来事だった。よくもまあ聞き出すことができたものだ、とビリーは感心して続きを促す。

 

「荒野を貫くハイウェイを、徒歩でだぜ! まだ暗い時間だってのに、九人もずらずらとまとまって! しかも、それがまた変な格好の奴らだったってんだからさ!」

 

 情報をまとめるとこうだった。大陸内部に向けてヨークシン市街から伸びる長距離道路。そこへ向かって、日の出前に歩く異形たちを見た人物がいたらしい。先頭の男は大きなファーの目立つ黒いコートで、右手は書物をずっと開いていたそうだ。その他、各人の特徴も全て手配写真のものと同一だった。少年たちに渡してないはずの情報までも一致しており、報酬欲しさに嘘をついているにしては出来すぎていた。

 

 当たりを引いた、とビリーは思った。彼らは今、荒野にいると見て間違いない。それも、ハイウェイの道筋から大体の方向までもが推測できる。あとはただ、物量に任せて探せばいい。

 

「どうだ! 俺らが一番か? なあ、そうだろ!」

「もちろんさ! ここから一番近いスポーツショップに連れてってくれよ!」

 

 赤毛の少年は跳び上がった。後をつけてたらしい子分たちも、隠れるのを忘れて踊っている。勢いのまま、彼らは一群となって店へ向かった。雨の中、傘も差さず路上でお祭り騒ぎをする少年たちに、すれ違う人々が何事かと見た。

 

 らっしゃい、と禿げ頭で太鼓腹の店主が言った。しかし、彼は店に入ってきたストリートチルドレンの集団を見て、露骨に顔をしかめて警戒した。磨いていたゴルフクラブを片手に強く握り締める。ただそれも、ビリーが財布を取り出し中身をさりげなく見せたことで安堵へ変わった。

 

「坊主、なにが欲しいんだい?」

 

 サッカーボール! と彼女の後ろで合唱が起きる。店主はビリーに視線で尋ね、頷きを確認して笑顔で応えた。子供たちがはしゃぎまわった。一番いいやつね、と少女は小声で付け足した。禿げた中年男のウインクは、それはそれは似合わなかった。包装さえも我慢できずに、傷一つないボールを囲んで、子分たちは店の外へと駆け出していった。ビリーと赤毛のリーダーは、苦笑してその後に続いていった。

 

「本当にありがとうね、これ、残りの分の報酬よ」

「へへ、どういたしまして」

 

 鼻の下をこすって彼は照れるが、手渡されたものを見て固まった。そこにあったのは財布であった。何枚もの札が丁寧に折りたたまれて入っており、中には一万ジェニー札でさえ数枚といえど見受けられる。ビリーは狼狽するリーダーを見て、全部あげると気軽に言った。

 

 閨事を除いて、彼女は特別な職能をもっていない。しかし念能力さえあったなら、この程度の収入は子供でも容易い。むしろささやかすぎる方であった。まして、少女は一万ジェニーあれば一家が一ヶ月は食べていける界隈の、とりわけ抑圧された環境の出身である。我慢も節制も身についていて、貯蓄に全く苦労はなかった。

 

「あ……、お前、これっ!」

「あなた達の正当な報酬よ。それだけの働きはしてくれたわ」

 

 むしろ少なすぎるかもしれないと、ゆっくり歩きながらビリーは言った。キャップを取り、髪の毛をほどいて彼女は微笑む。赤褐色の目が少年と合った。

 

「アンタ……、まさか、女?」

「あら、今更なの?」

 

 少女は悪戯っぽく微笑をこぼした。呆然と彼は立ちすくんだ。合わせて彼女も立ち止まった。彼らは公園へと差し掛かっていた。暗い雨雲に覆われて、雨中の街は薄暗かった。ビリーの足元が揺れ動いていたが、赤毛の少年は気付いていない。

 

「さあ、もう寝床に帰ってしまいなさい。これから先は、お化けがでるような時間だから」

 

 少女は笑って手を広げた。その時、緑地の暗い木陰から、花壇の中から、ベンチの下から、這いずりいずる物体があった。それはテニスボール大の水塊で、どう見ても生物には見ないのに、意志をもつかのように蠢いていた。彼女は愛しげに目を細めた。

 

「いいこと? 決して、安全な場所から出てはダメよ」

 

 まるで、何かをたっぷり食べてきたように、水塊たちは満足げに震えてゆっくりと近寄る。赤毛の少年が狼狽して、よろよろと何歩か後退した。ほんの軽く押しただけで、容易く尻餅をついたであろう。彼女はじゃれてくるスライム達をあやしながら、懐かしいあの日を思い起こした。それは、最後に抱かれた夜の記憶。忘れられなくなるように、体に刻んでもらった大切な思い出。

 

 記憶を代償に水塊が猛り、少女の頬を、一筋の涙が流れ落ちた。

 

「おい! アンタ!」

「まだいたの、あなた。帰りなさいと言ったでしょう」

「いやだ! アンタが何かも知らねぇが、オレも一緒について行くぜ!」

 

 ところが、少年は意地を張り続けた。ビリーは驚いて目を見開く。そしてつい、彼女は彼に名前を尋ねた。

 

「ヘンリ、あいにく苗字は覚えてねぇ」

「マカーティよ」

「へ?」

 

 ビリーは思わず即答した。言葉にしてからしまったと後悔はしたのだが、時既に遅く、彼女は勢いのままに最後まで口にしてしまうことにした。心中で、愛しい誰かに謝りながら。

 

「あなたの姓は、マカーティ。ヘンリという名前の男の子には、マカーティ以上に似合う姓はないの。憶えた?」

「お、おぅ……」

「よかった」

 

 にっこりと微笑み、彼女は細い腕を一度振った。直後、背後に現れた人影が、少年の後頭部を打って気絶させた。彼の体がぐらりと揺れて、力なく地面に崩れ落ちた。

 

 そこにいたのは彼女自身だ。透きとおった水の長い髪。水のワンピースが透明に揺れ、水の肢体の細さが輝く。それは一体の水塊であった。横で、背後で、新たに四ヶ所でスライム達が凝集し、新しい少女が生まれてくる。計、五体。全て、かつての彼女の姿をしていた。

 

「さよなら、馬鹿な男の子」

 

 言い捨てて、ビリーは少年の体にキャップを乗せた。それから、いつの間にか遠巻きに見ていた彼の配下の少年たちに、持って帰るよう身振りで指示した。

 

「行きましょう」

 

 スライムの少女達が頷いた。彼女の下に、残りの水塊が集ってくる。スケボーのように彼らに乗って、ビリーは雨の降る街を疾走した。

 

 

 

 ポックルの命は尽きようとしていた。残された右手で泥を掴み、這いずるように痛みに耐える。頭を覆うターバンが重い。腹からこぼれる内臓が冷たい。彼の体に下半身はなかった。横隔膜のやや下あたり、しばらく生存できるギリギリの位置を見極められて、上下に分断されていたのである。右腕が残ったのも偶然だった。左は、肘から下が消失している。全身から脂汗を流しながら、彼は、雨中の荒野に転がっていた。

 

 横一文字に走った閃光は、頭で知った後でさえ斬撃と解することができなかった。それを成し遂げた着流しの魔人は、自然体そのままの風情で顎鬚を撫でて見下ろしている。

 

「もう一人いるんだろ。吐いとけ」

 

 手の平を日本刀で貫かれて、新しい激痛が彼に走る。しかしその時、ポックルの胸中を占めたのは絶望ではなく、ほっとする暖かい安心だった。その時ようやく、離れた位置にいたハンゾーが、うまく逃げていたことを知ったのだ。彼にとって、それは唯一の朗報だった。

 

 旅団の隠れ家は見つけ出した。広大な荒野に人口過密の大都市という二つ隣接した困難な舞台で、目撃情報の一つもないまま、ポックルは己がハントの腕前だけで探したのだ。たとえハンゾーの移動力という手助けがあっても、紛れもなく彼の誇れる勝ち星だった。あとは、あの忍者が仲間の元に届けてくれれば、あるいは悔しいがヒソカなどに伝えてくれれば、この世に残す未練はなかった。

 

 雨で薄められた血溜まりの中、ポックルは微笑を浮かべて冷えていった。

 

「その必要はないぜ。岩陰に潜んでいやがった」

 

 どさりと、隣に重い物が落とされるまでは。

 

「おうフィンクス、マチ」

「そいつで仕舞いだろ。他に人らしい振動もなかったしね」

 

 ぼやけた目で見る黒い体は、些細な痙攣さえもしてなかった。胸に大穴が開いていて、じくじくと血液が滲んでくる。ポックルはどうしようもなく悟ってしまった。もう、彼は息絶えているのだと。それでも、ポックルはあまりに信じられず、思わず全霊で凝視した。残されたオーラが目に集まり、自然と、凝を行なった状態になる。

 

「なんだ、これ……」

 

 彼は呆然と呟いた。岩という岩に繊維が走り、荒野の地面が、かすかな光を放っていた。高度な隠の施された極細の糸。全力の凝を行なって辛うじて見える、壮大すぎる蜘蛛の巣の罠。恐らく、ここからキロ単位の半径で、世界を覆うが如く張り巡らされているのだろう。

 

「振動ねぇ。まあ、こういう時には便利だよなぁ」

 

 フィンクスと呼ばれた男がしみじみと頷き、マチという女が腰に手を当ててなんでもなく言った。

 

「ま、あたしの糸は木綿程度なら世界一周できるぐらい紡げるし。これくらいなら余裕だよ」

 

 そこに、着流しの男が茶々を入れた。

 

「でもオメーよ、実際にやってみた訳じゃねーんだろ、ソレ」

「うるさい男だね、アンタは」

 

 そうして彼らは去っていく。意識が遠くなっていくポックルは、完全に眼中にないのだろう。右手で逃げるように遠ざかっても、誰一人振り向くことすらしなかった。

 

 

 

「役に立ってね」

 

 雨に打たれて少女は言った。泥にまみれた荒野の中で、上半身だけの男を抱き上げて、辛うじて命があることを確認してから。

 

「私の一番大切な思い出を、あなたのために使うのだから」

 

 だから、あと十年は一緒にいろと、少女の脳裏に染み付いた声が言った。喪失感で泣きたくなったが、彼女はそれを飲み込んだ。唇をポックルに押し付けて、小さなスライムを嚥下させる。直後、彼の体の切断面から、ぽこぽこと雨水が湧いてきた。周囲に集った水塊たちも、そこを目掛けて合体していく。その様子を途中まで確認して、ビリーはすぐそばにあった岩棚を見上げた。風化から取り残された砂岩の山は、地層を晒し、平坦な頂上を保ってこの場所に何十何百とそびえている。彼女はスライムの一群に足を乗せて、そこを登るようにお願いした。

 

 上から周囲を見渡せば、いかにも対空警戒というかのように、遠くの岩棚の頂上に、三人ほどの人影があった。ポックル達は彼らの視線を避けるために、岩陰を縫って進んだのだろう。だが、先刻、少女形スライムが報告してきたそのままに、彼女の目当てはそこにいた。向こうかこちらに気付くよう、彼女はあえて練をした。

 

「お久しぶり」

 

 ビリーは唇を動かした。あまりに遠く、彼女からは輪郭だけしか見えないが、どうせ相手は、視力も化け物に決まっている。

 

「忘れたの? 都合のいい頭ね」

 

 反応もわからずに挑発した。少女の形のスライムを、一体だけ隣に呼び寄せる。水溜りから涌き出るように現れたそれを認識した直後、向こうでオーラが爆発した。毛皮を羽織った巨大な野人が、暴走する機関車の如く走り出した。

 

 筋肉の塊の野蛮人。あの時、あの人に瓦礫を投げた憎悪の対象。まず、一人目。

 

 ビリーは岩棚から飛び降りる。スライムが岸壁を削りながら、彼女の体を減速させた。水塊の群れに着地して、少女は再びポックルを見る。時間はない。破砕音は急激に近づいてくる。

 

「気がついた?」

「……ああ、オレは……?」

「なら急いで。一人来るわよ」

「ああ」

 

 どこか朦朧としながらも、今度は彼もはっきりと応えた。ポックルが纏うオーラは禍々しい。人が本能的に恐れるような、原初の恐怖に染まっている。それを死者の念と呼ぶのだと、ビリーは誰に教えられるでもなく知っていた。

 

 水で補完された左腕に、彼岸のオーラが凝集する。彼の無念が集まって、大気をギチギチと歪ませた。ありもしない弓に矢をつがえる動作をする。腕のスライムが変形し、大きな突起となって上下へ伸びる。瞬く間にそれは大弓となり、水の矢を伴って出現した。

 

 彼はようやく力を掴んだ。空想の弓を掴んだのだ。

 

 絶対的な滅びの気配に、少女の背筋が寒くなった。それでも、ポックルは一心に前を見つめている。満月の如く引き絞って、未だ姿の見えぬ敵へと狙いを合わせた。

 

 

 

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【雨色弓箭(レインボウ) 放出系・操作系・死者の念】

使用者、ポックル。

無念をつがえて水の矢を放つ。

 

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次回 第三十八話「大丈夫だよ、と彼は言った」



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第三十八話「大丈夫だよ、と彼は言った」

 ビリーは前へ踊り出た。水塊の群れに乗って岸壁を駆ける。在りし日の少女の姿をとったスライムたちが、彼女の周りを疾走している。五体の透明なヒトガタは、無数の水塊が寄り集まって形成された、超圧縮された雨水であった。

 

「いた!」

 

 眼下に土煙を発見した。硬質の長髪を後ろに流した、毛皮を羽織った筋肉質の巨人。端整な顔を怒りで染め、障害物を砕きながら接近している。今、彼と少女は目が会った。大男は即座に跳躍した。

 

 大砲の弾のように飛来する巨体。スライムがビリーを抱えて岩肌を蹴った。彼女の顔に雨粒が当たる。寄り添う少女たちが野生的な咆哮をした。上昇と落下の軌跡が交わる。赤銅色の瞳が憎悪に燃え、男の全身を覆うオーラが爆発的に膨れ上がる。

 

 衝突の瞬間、空中に一輪の花火が生まれた。

 

 ビリーは水塊に包まれて地面に弾む。それらは着地の衝撃から主の体を守った後、すぐに別れて少女型へ戻った。次いで、巨人が轟音を立てて大地に激しく降り立った。彼の上半身は裸だった。毛皮は吹き飛び、シャツは破け、岩山のような筋肉を冷たい外気に晒している。そして、胸元からは一筋の赤。薄皮一枚でしかなかったが、ビリーは無傷で、相手は軽傷を負っていた。

 

 戦える。張り裂けそうな心臓を押さえ、彼女は確かな手ごたえを感じた。小さな両手を握り締める。手の平に汗が滲んでいた。

 

 野獣が号砲の如き怒声を上げた。言葉は既に意味をなさず、音量だけで人を殺せる雄叫びであった。雨粒が空中で次々と爆ぜ、乾いた空間がまさに音速で膨張した。だが、少女の防御の方が早かった。体を打つ雨からスライムが二つ、高速で誕生して耳をふさぐ。音が到達するより前に、彼らは自動的にビリーを衝撃波から守りきった。

 

「……強くなったじゃねぇか、お前」

 

 じっと、胸板を右手で抑えながら、熱く醒めた眼光で野人は言った。そして彼は名を名乗った。ウボォーギンと自称した大男は、少女の名前も尋ねてきた。少女は万感の想いで震えながら、ビリーという名を舌で刻んだ。それは二人分の名前だった。

 

「銘記なさい。あなたより強かった男の名よ」

 

 言って、ビリーは水の少女たちに無言で命じた。五体のヒトガタが口を開ける。歌うように広げられた喉の奥、透明な肉体を形成する一部分に、ほんのわずかなほころびができた。ウボォーギンが刮目する。超高密度の水塊がほどけ、極細の光線のように噴出する。空中で衝突した際と同じ攻撃。連装五門の水圧砲。超速の水流が音を切り裂き、空気がパイプオルガンのように鳴動した。ウボォーギンが強く踏み込み地面を揺るがし、両腕を視認不能な速度で激しく振るった。爆発が五連、響き渡った。

 

 爆散した水蒸気が雨に冷えて、視界を遮る霧となった。数秒後、乳白色の靄が晴れたとき、ビリーとウボォーギンは目を合わせた。大男に傷は一つもない。口の端から蒸気のような吐息を洩らして、彼は体を震わせていた。至極、嬉しげに。

 

 体を大の字に伸ばして彼は吼えた。大量のオーラが生成され、これまでとは桁の違う迫力が少女の脳幹を捻じ切らんばかりに圧迫する。これが本当の全開だろう。存在感だけで世界が歪み、地形が軋んで微震が生じる。ビリーは下腹に意識を込めた。半歩下がれば刹那で死ぬ。

 

 ウボォーギンがいた場所の地面が破裂して、彼の気配が完全に消えた。隠、と少女は瞬時に悟った。体得は終ぞできなかったが、あの男から存在だけは聞いていた。彼女の隣にいたスライムの少女の一体が、本能を頼りに、右手の爪を振り下ろした。絶好のタイミングで敵を捉えた。至近距離、五指の先から水流が走る。装甲車さえ容易く切り裂くであろう攻撃を、巨人は堅だけで耐え切った。それでも、傍にはあと四体が控えている。

 

 透明の少女たちが乱舞する。長い髪をしなやかに揺らし、ワンピースの裾をひるがえし、構成する水を解き放ちながら、主人の敵を屠るために。

 

 懐に一体が潜り込み、細い腕が巨体を殴った。ありえざる重い衝撃が発生し、ウボォーギンの勢いが止まった。その隙を逃す道理はない。残り四体が両手を掲げ、擬似的に再現された意志に任せて、十指の水流を全身全霊の渾身で振るう。合計四十の大斬撃。ウボォーギンは両腕を壁に全力でガードし、絶大なオーラで亀のように防御に専心した。背後の岩山が切断された。

 

 ところが、敵は辛うじて耐え切ったようである。皮膚にはいくつも切り傷が合ったが、筋肉に達した形跡は一つもない。しかし、攻撃が止んで前を見たとき、彼は驚愕のあまり硬直した。ビリーは会心の笑みを思わず浮かべた。

 

 一体、顎が外れそうなほど大口を開け、四つん這いで四肢を地面に深く刺して、体を固定した個体がいる。ウボォーギンを殴った水塊である。彼女の後ろにはビリーがいた。主人から直接新しいスライムを供給され、髪が、服が、圧力を込めて鋭角に尖った。そして彼女は、構成する全てを砲撃に変え、万全の体勢で滅びの歌を絶叫した。

 

 スライムたちの膜がビリーを包む。生身では、発射の余波すら耐えきれないが故にである。

 

 雨色の濁流が空中を貫き、地平線の先、星を飲み込もうと疾駆する。衝突の刹那、今度は、ビリーが目を見開く番だった。

 

 ウボォーギンが右手を振りかぶった。ただの、硬。だが、信じられない量のオーラが秘められている。恐らくは、あれが眼前の男の発であろう。右ストレートの最終進化。殴るという行為の終着点。どこにでもある単純なパンチ。両者の全力が接触し、宇宙が生まれた瞬間のように、全ては光で満たされた。威力は完全に互角だった。大地震のように大地がうねり、水流が瀑布のように張り裂けた。

 

 その時、大男は横から吹き飛ばされた。

 

 何か透明な物体が砕け、宙を舞う生命力のきらめきに回帰した。それは巨大な水の矢であった。渾身の力が込められた、死者の無念から生まれた一矢であった。爆風の名残りが渦巻く中を、巨体が冗談のように飛んでいく。そして、岩山の断崖に激突した。遠い遠い岩の陰、ビリーの視界に映ったポックルは、力なく泥へ倒れこんだ。彼は狙い続けていたのである。自然に溶け込み、この瞬間、あるとも知れぬ絶対的な隙が訪れるまで。

 

 ビリーはウボォーギンの消えた方向を見る。致命傷は与えてないかもしれない。だが、ダメージは少なくないはずだった。戦える、と少女は己の胸を抑えて確信した。肉体そのものは脆弱だったが、ここまで補って戦えている。他者の観察に長けた彼女の才は、ここにきて完全に開花していた。残るヒトガタはあと四体。砲撃した個体は既にない。彼女が存在していた場所にあるのは、元の大きさに回帰した、いくつかのスライムだけであった。それでも、例えこのままのペースで戦闘が続くと想定しても、あの男を倒して余力が残る。

 

 そう、考えていた。

 

 降りしきる雨の向こう側、少し離れた程度の場所に、ウボォーギンが立っていた。いつ走ってきたのかも分からない。全身に強い打撃を受けて、体中に傷が散見される。目が血走って息が荒い。なにより、纏うオーラの量が明らかに少ない。消耗している証だった。それだけならよかった。少女は、恐ろしくなって息を洩らした。生物としての直感が彼女の脳裏で警鐘を鳴らす。あれは手負いの獣だと。決して関わってはいけない怪物だと。彼の眼光が瞬いた。やばい、とビリーは思わず身構えた。

 

 それも、無意味だった。

 

 ウボォーギンが地面を蹴った。水塊の少女たちが主を守ろうと警戒する。が、男の目的はビリーではなかった。瞬時に、もぐりこむように巨体が滑り、彼女を囲むヒトガタのスライムの一体を、後ろから強烈に殴り潰した。高い身長を利用した重く鋭い一撃は、水塊の核を破壊した。

 

 反射的にビリーは離脱を命じる。一体が彼女を抱いて後方へ跳び、残る二体が左右から挟みこむように攻撃した。水流の爪が肉薄し、鋼鉄の肉体を切り裂こうとした。先刻までであれば、ウボォーギンは強引に切り抜けただろう。しかし、彼はためらうことなく回避した。プログラムされた本能しか持たないヒトガタたちを、フェイントを織り交ぜ、虚実をもって翻弄する。

 

 同格以上、否、格上と見なしたが故の積極的な戦術行使。楽しむための喧嘩ではなく、倒すべき敵との戦い方。急いて本体であるビリー自身を狙うでなく、確実に堅実に処理していく。数分もせずに一体が砕かれ、残る一体は数秒で消された。その光景を、少女は我を忘れて眺めていた。

 

 ウボォーギンが近づいてくる。最後の一体、彼女を守護していた透明な少女が、一歩前に出て背中で庇った。残り少ないスライムたちが、それに集っては融合していく。巨人が呼吸を整えて、練を経て莫大な生命力を噴出させた。右手に途方もない規模のオーラが集中し、硬を経て更なる次元へ到達する。時間をかけて用意した二度目の発は、先の一撃をも上回って余りあった。気がつけば指が震えていた。ビリーは奥歯を食いしばり、指先を握りつぶすように両手を握った。憎悪を心の炉心にくべる。もう、あとに引き返すことはできなかった。

 

「私には、好きな人が、いた!」

 

 全ての思い出を糧に彼女は叫んだ。瞬間、少女が纏うオーラが波打ち、滝のように記憶がこぼれていく。竜巻の如く雨水が一点に凝集し、残り一体の水の少女が、別の何かへ変化していく。

 

 それは、世界一残酷な走馬灯。彼の仕草、匂い、背格好。初めての出会いから終わりの時まで、全てが尽く消えていく。スライムが脱皮するように蠢いた。透明な、雨の色の誰かの背中が現れる。気だるげに立ち上がるように現れた男性の体躯。水製の拳銃を右手にたずさえ、紙巻煙草を咥えていた。その背中が誰だか分からない。

 

 小さな褐色の手を少女は伸ばす。振り向いて苦笑する男の名前は、もう、永遠に思い出すことはできないけれど。

 

 それでも、手を伸ばさずにはいられなかった。

 

 ウボォーギンの拳が振りぬかれる。男が楽しそうに笑って拳銃を構え、端整な、絵画になりそうなシルエットで、水の引き金に指をかけた。

 

 

 

「中止が決定されたそうだ」

 

 運転席に座るレオリオに、携帯を片手にクラピカは言った。往復するワイパー越しに見る通りには、沢山のヘッドライトが動いている。ターセトル駅前のターミナルは、雨だというのに、多くの人出で賑わっていた。

 

「地下競売がか?」

「ああ。残りの競売品も引き上げられ、後日電脳ページ上でオークションにかけられることになるそうだ。事実上マフィアの敗北だな」

 

 それほど旅団のもたらした被害は凄まじかったと、二人きりの車内でクラピカは語る。実感の篭った彼の言葉に、隣のレオリオも相槌を打った。生身で高層ビルさえ砕いた所業は、彼らの記憶に新しかった。

 

「じゃあ、いよいよか」

「ああ、蜘蛛が動き出すとすればこれからだ。奴らが口先だけでなく、本当に全てを奪うつもりならな」

 

 クラピカの言葉に頷いて、レオリオは運転する乗用車を発進させた。センリツ達と合流するため、予定の地点に向けてハンドルを切る。残る競売品を狙うなら、今夜中に旅団は動くだろう。なにしろ彼らは蜘蛛なのだ。丸ごとかっさらうと豪語しておいて、中止になったという理由だけで、すごすご引き下がるとは思えなかった。

 

 コミュニティー上層部の動きが慌ただしい。慎重に隠蔽された数々の宝を、彼らは一刻も早く全世界の安全地帯に分散しようと急いでいた。それらは夜を徹して密かに搬出され、明朝にはヨークシンから回収される手筈であった。無論、極秘中の極秘の情報だったが、旅団が推察してない筈がなかった。

 

 ただし、昨日までと今夜では条件が違う。大々的な催し物への襲撃ではなく、秘密裏の輸送を捕捉しての強奪行為。当然、マフィア側も偽装もすれば陽動も行なう。そもそも競売品の大部分が、抱えて持ち運べる程度の大きさなのだ。旅行カバンに入れてしまえば、観光客を装って運び出せる。旅団がそれに対処するには、団員を分散させて動かすしかない。戦力の過剰な分散は、古今東西共通の愚だ。付け入る隙は必ずできる。

 

 ただ一つ、クラピカには密かな葛藤があった。市内各所で戦闘が起これば、一般市民に犠牲者がでるのは避けられない。復讐は絶対に成し遂げたい。が、本当にこのままでいいのだろうかと、彼は内心で焦りを強くしていた。旅団が分散する前に補足したとき、クラピカは、そのまま見過ごすことができるのだろうか。

 

 誰かが死ぬのはもう嫌だった。蜘蛛の殺戮など見たくもない。仲間が巻き込まれると考えれば怖気がした。だが、同胞の恨みは晴したいのだ。つまるところは道は二つ。彼は右手に鎖を具現化し、それをきつく握りしめた。

 

 レオリオは、何も言わずに見つめていた。

 

 

 

 一人ぼっちの宿の部屋で、エリスは膝を抱えていた。電灯は灯されていなかった。窓ガラスから光がこぼれている。雨で滲んだ街の明かりが、サーカスのように動いていた。寝台の上で、彼女はじっと固まっていた。

 

 絶を施した体が冷たい。目覚めた時には一人だった。アルベルトの姿はどこにもなく、友人たちの気配もなかった。絶望で張り裂けそうな彼女の心を救ったのは、ベッドの脇にあった一枚のメモ。水差しに添えるように置かれていたそれには、懐かしすぎる筆跡があった。記されていたのはたった一言。ただいま、とだけ。

 

 恐らく、彼女の体は夜明けまでもたない。体内のオーラが多すぎて、制御する精神力を消耗しすぎて、ほんの些細な動作だけで、耐え切れなくなってしまいそうだった。だが、アルベルトが帰ってきてくれたと知れたなら、心が寄り添っていると思えたなら、それだけで一人でも怖くなかった。枕元にあった卵の化石を彼女は抱く。ひんやりした感触が愛しくて、頬を一筋の涙が伝った。能力が抑えきれなくなったなら、何よりも先に、赤い光で自分の頭部を撃とうと決めた。心残りは一つだけ。負担ばかりをかけたくせに、手助けになれないことが悔しかった。

 

 夜の街を雨が濡らす。日付が変わるまで数時間あった。予報では、夜明けには雨は止むという。

 

 

 

 アルベルトは手の平を見つめていた。そこには、割れた翡翠の珠がひとつ置かれていた。ネックレスの部分は焼失している。念を込めた手で潰されたのだろう。あれほど染み付いていた彼女のオーラも、既にほとんど消えかけていた。

 

「どうだい? そっちの準備は♣」

 

 背中越しに聞こえた奇術師の声に、残骸を見ながらアルベルトは応えた。

 

「ついさっき、向こうからも連絡があった。できるだけのことは完了したよ。あとは微力を尽くすだけだ」

 

 手の中の翡翠を軽く握った。物質として劣化していた鉱物は、それだけで粉と砕け散った。アルベルトは青い粉末をしばらく眺めて、風に乗せて別れを告げた。そして、後ろのヒソカに振り返った。

 

「僕一人で彼らを抑えるのは限界がある。楽しむなとは言わないけど、早めに決着をつけないと邪魔が入るよ」

「努力するよ♠ できるだけね♦」

 

 くつくつと笑って彼は言った。いよいよ待ち受ける決闘に、全身を昂揚感に震わせている。オーラが楽しげに揺らいでいた。

 

「だけど、キミの戦いも楽しそうだ♥ 見物できないのが残念だよ♠」

 

 目を細めてヒソカが続けるが、アルベルトはそっけなくも否定した。そばにあった地図に視線をやって、書き込まれた情報をもう一度頭の中で整理した。

 

「君が楽しめそうな戦いにはしないよ。いや、できないといったほうが正確かな。今の僕は、念能力者としては三流以下も甚だしいから」

 

 銃火器と手榴弾をチェックしながら、アルベルトはヒソカと最後の段取りを打ち合わせた。それは簡単に終わったが、実現するのは至難であった。無謀な挑戦と呼べるだろう。しかし、成功しなければ勝利はない。

 

 全ては、単身で旅団をどれほど足止めできるかにかかっている。

 

 

 

 街角にゴンは立っていた。レインコートを上から羽織り、完全防水の大きな携帯電話を耳元に当てて人通りの流れを観察している。異常なし、という定期コールを、もう何十回も繰り返していた。

 

「ねえ、キルア」

「ん?」

 

 ぼんやりとした声で少年が言い、電話の向こうから似たような声色が返ってきた。場所を変え、方法を変え、一日中続けた張り込みは、全くの無駄となりそうだった。

 

「オレたち、何でこんなことしてるんだろう」

「仕方ないだろ、旅団がどこにいるかも知らねぇんだから」

 

 道行く人々を注視しながら、カブトムシ型の携帯で彼らは話す。考えてみれば間抜けた話である。二人の戦闘力は卓越していたし、それぞれ探索能力も高かったが、ヨークシンはそれ以上に広かった。手掛かりもなくたった数人を探すには、もう一段上の方法が必要であったのだ。ゴンが鳥言語に耳を傾けても、もとより彼らは、個々の人間に興味などない。

 

「ハンゾーにあいつらのアジトの場所聞いておけばよかったね」

「バカ、それじゃ抜け出すことバレバレじゃねーか」

「だからさりげなくさ。今思えば、レオリオも詳しい話聞いてたみたいだったし。……これから電話しても大丈夫かなぁ」

「オレ達がいないのはとっくにバレてるだろーけどな。あ、でもヒソカなら案外教えてくれるかもしれないか。よしゴン、電話だ」

「え、オレが? っていうかヒソカは無理でしょ」

「まーな。冗談冗談」

 

 たわいない雑談に興じている時、ふと、ゴンは予感に促されて視線を上げた。空にささいな違和感がある。それがオーラの光点だと知ったとき、彼は無意識に駆け出していた。

 

「キルア! リパ駅方面!」

「何かあったか! すぐ行く! 気をつけろよ!」

 

 視力で稼いだ時間を元に、全速力で彼は走った。オーラを足に集中する。雨の中、傘を差す通行人たちが邪魔だった。彼は車道に踊り出て、街中を自動車に並ぶ速度で疾走した。クラクションが鳴らされ、目撃者たちがざわめいたが、気にしている場合ではなかったのだ。

 

 物体が、猛烈な速度で落下してくる。憶えのある気配を感じていた。落下地点は、駅前の広い道路だった。何台か車が走行している。

 

「止まって!」

 

 駆けながらオーラを猛らせて、強化した体で怒声を放つ。フロントガラスがビリビリと震え、運転手たちが急ブレーキを踏んだ。いくつかの車両がスピンするが、幸いにして衝突はない。結果として開いたスペースに、その存在は落ちてきた。巨大な、透明な水の塊である。

 

 人ひとり入りそうな水滴は、路面に当たってバウンドした。轟音が鳴り、アスファルトが蜘蛛の巣状にヒビ割れる。それでも勢いは残っていた。歩行者の老婦人が潰されそうな寸前、それを、ゴンは全身を滑り込ませて受け止めた。恐ろしく重い衝撃だった。ただの水の球体が、残留していた威力だけで、鉄球のようにも感じられた。

 

 だが、なによりショックだったのは中身である。不可思議な水の玉の内部には、見知った褐色の少女がいた。胸は窪み、背骨はひしゃげ、顔は無残に潰れていたが、それは確かに彼女だった。

 

「ゴン!」

「キルア! こっちだ!」

 

 キルアが近くに駆けてきた。瞬間的な判断で、ゴンは水塊ごとビリーを抱え上げる。キルアも反対側に回り込み、二人はその場を脱して手近な小道へと走り去った。

 

 

 

 少女は、おぼろげな意識のまま目を覚ました。脳に霞みがかかっていた。全身を鈍い激痛が苛んでいた。ぼんやりと辺りを眺めてみる。場所はおそらく路地裏で、どこかの建物の狭い軒下、雨を防げるだけのスペースだった。

 

 ゴンとキルアが、覗き込むように見つめている。背中には何枚かの服が敷かれていて、濡れたアスファルトから遮られていた。体には、力尽きたスライムの名残りの欠片が、わずかに粘性を残してこびりついていた。

 

 少年たちが呼んでいる。身に憶えのない名前を呼んでいる。自分に呼びかけているのだとは理解できた。それでも、少女にとっては意味のない名で、どうして彼女をそう呼んでいるのか、心当たりが全くなかった。ただ、死ぬということだけは分かっていた。

 

 唇を微動させるだけで、体中が引き千切れるように痛かった。オーラなど微塵も残っていない。水塊が崩壊したためだろう。かすかな動きで血肉が飛び散り、瞬時に絶命しそうな苦痛が走った。二人は、ここを彼女の死に場所に選んだのでなく、これ以上運ぶことができなかったのだ。

 

「ゴン、キルア」

 

 捻じ曲がった体で彼女は呼んだ。音はろくに出なかった。呼吸するたびに胸が熱い。ずたずたになった肉体は、もはや、どんな機能も満足にできない。血液が路面に染みていく。

 

 ゴンとキルアが傍にいる。彼らは手を握ろうとしたのだが、腕の骨が耐え切れずに折れた。彼女は少し苦笑して、気にしなくていいわと唇で言った。いてくれるだけで、友情を感じられるだけで嬉しかった。

 

 何があったのかと二人に問われて、彼女は永久に眠りたがる頭をなんとか回し、途切れ途切れに数語ずつ語った。街の外れの荒野の中に、盗賊たちのアジトがあると。大まかな方角と距離だけを教えて、早く逃げなさいという警告を込めた。万が一にも、友人が巻き込まれてほしくはなかったのだ。ゴンとキルアが頷いたのは、退避するという意味だと思っていた。

 

 このまま少女は死ぬのだろう。どこかに運ばれるはずの亡骸は、野次馬の目にもとまるのだろうか。検死で解剖されるのだろうか。彼女にはそれが耐え切れなかった。

 

 もう、この世の誰にも触られたくなかった。裸を見せなくないと切に願った。乱暴されるのは嫌だった。他人に犯されるのは沢山だった。どうせ男の人たちは、少女の体を殴って笑い、複数人でなぶって楽しみ、使うべきでない場所を酷使して、挙げ句に傅かせて喜ぶのだ。それが彼女の毎日だった。抱かれたいと望んだ愛しい人は、一人もいない、ように思った。思ったはずなのに涙がこぼれた。

 

 少女の人生は辛すぎて、楽しいことなんてほとんどなくて、この世界に、縁を残すのが怖かった。

 

 だから少女は、助けてと、末期の声で二人に頼んだ。見取ってくれた友人たちに、たった一つのわがままを言った。この体を、どうか、跡形もなく消してくださいと。

 

 キルアが何かを彼女に叫んだ。ところが、ゴンが無言で立ち上がり、キルアを片手で下がらせた。

 

「おい、ゴンっ!」

「いいんだ、キルア」

 

 ゴンのオーラが、生命力が燃え上がる。細胞から湧き上がった命の力が、少年の意志を乗せて輝いていた。彼はその全てを右の拳に集中して、続いて、残る全身を絶にした。

 

 深い怒りが込められた、完璧な、惚れ惚れするほどの硬だった。

 

 少女は安心して微笑んだ。ありがとうと、柔らかく笑った。ゴンはただ、真っ黒い瞳で見つめていた。すごした時間は短かったが、思い出深い友情だった。

 

 最後に、残された時間で彼女は夢見る。もしも、あの世があるというのなら、大切な誰かに、会いたかった。預かっていた宝物を返したかった。必ず返すと約束したのに、結局なくしてしまったけれど。だけど、ごめんなさいと、謝りたかった。

 

 名前を持たない一人の少女は、自分の血に溺れて咳き込んで、それを最後に事切れた。名前を知らない誰かに焦がれて、幻すらも見えないままに。

 

 奇しくも、雨の降る灰色の街中であった。

 

 

 

 アスファルトで覆われていた路面には、深いクレーターが開いている。少女の体はどこにもない。血の一滴、肉の一片すらも残さずに、塵となって消失した。白煙が秋雨に溶けていった。

 

「……なあ、ゴン」

「大丈夫」

 

 暗い穴を見つめて彼は言った。

 

「大丈夫だよ」

 

 彼は言った。

 

「行こうか、キルア」

 

 

 

次回 第三十九話「仲間がいれば死もまた楽し」



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第三十九話「仲間がいれば死もまた楽し」

 雨の降るヨークシンシティーの大通りを、キルアはだいぶ少なくなってきた通行人を縫うように避けて走っていた。斜め前を行くゴンの姿を過剰なほどに注視しながら、キルアは、黒ずんだ不快な物思いに心を囚われ続けていた。気温は高くないはずなのに、神経がひどく熱かった。ブラックコーヒーのようなコールタールが、喉の奥に粘りついているかのようだった。

 

 荒野を目指して彼らは走る。道中、二人は終始無言だった。ゴンの怒りは真っ直ぐだった。対して、キルアには臆病な迷いがあった。それは決して間違いではないと、彼は自信をもって断言できる。旅団は強く、ゴンとキルアでは勝てないだろう。待つことこそ殺し屋の最大の仕事だと、父と兄より教わっていた。確実に勝てる自信がないならば、次の機会を待つべきだと。その心得は、戦い全般に言えるはずだ。それでも、ゴンの歩く道は眩しすぎた。キルアの奥歯が噛み締められた。

 

 彼らは岐路に立たされている。優先すべきはなんだろうか。ビリーという少女と交わした絆の深さで言えば、二人ともそれほど大差はないはずであった。キルアとて怒りは強く感じている。彼女から受けた感謝の抱擁の感触は、未だに体が憶えていた。だというのに、全身を激情に委ねることは、キルアにはとてもできなかった。なぜゴンは、ここまでの憤激を覚えることができるのか。どこか一線を引いていた彼女に対して、あそこまで心情を重ねることができるのだろうか。……そしてなにより、仮にキルアがそうなっても、ゴンは怒ってくれるのだろうか。……分かっているのだ。それが下らない妄念だとは。

 

 雨粒に濡れたネオンの街並みを眺めながら、彼は、幻影旅団に八つ当たりにも近い感情を抱いていた。握り締めた手の平の骨が、みしりと小さく音を立てた。額の内側がずきずきと痛い。旅団は確かに怖かった。体は全力で恐れているし、今にも逃げ出したくてたまらない。だが、キルアの心が恐れるのは、それとは別の人物であった。彼は、ゴンという友人が怖かった。だからこそ自分を許せなかった。激怒が脳髄を焦がしていた。

 

 ヨークシン市街の玄関口、荒野を貫くハイウェイの入り口に近づくと、徐々にパトカーが目立ってきた。辻々に赤い誘導灯を握った警官達が立っており、長距離トラックなどを誘導している。それらに構わず進んでいくと、やがて一つの検問があり、制服の上から透明なレインコートを几帳面に羽織った、歳若い警官が近づいてきた。

 

「君たち、おうちの人はどうしたのかな。悪いけど、この先は明日の午前六時ごろまで通れないんだよ」

「オッチャン、オレたちプロのハンターなんだ」

 

 ライセンスを提示してキルアが言うと、警官は失礼しましたと敬礼した。無線で上に確認をとり、すぐに奥の道へといざなわれる。パトカーにお乗りくださいという申し出を後ろに置き去り、ゴンは、そしてキルアも後を追って駆け出した。

 

 

 

 星明りを遮る黒雲の下、照明もなく、車両のライトも見えない道路を、九つの影が駆け抜けていた。雨の中、水の流れるアスファルトを、いくつもの靴裏が叩いていく。時速七十キロを大きく上回る走行速度は、彼らの基準で考えれば、軽いジョギングのようなものだった。視界には光源がほとんどない。街の光は雨で届かず、星の光は黒雲が遮り尽くしていた。それでも、彼らは乏しい光を卓越した視力で拾っていた。

 

「まて、何かある」

 

 ハイウェイの途中に異常があった。クロロが真っ先にそれに気付き、即座に全員が確認した。それは色の見えない霧であった。

 

 眼前、暗黒に近い闇夜の中でなお暗い、不自然に濃厚な闇がある。重い毒ガスの如く沈滞していて、旅団の進路を塞いでいた。一切の光を通さない、黒より黒い闇色であった。ウボォーギンが突撃の許可を求めるが、団長は否と言って停止を命じた。五十メートルほども距離を開けて旅団は止まり、自然な流れでボノレノフとフランクリンが前に出た。遠距離攻撃をする際に、射線を確保するためだった。

 

「さすがだね。団長」

 

 アルベルトの声が、闇の中から発せられた。姿は見えず、垂れ流すオーラも感じないが、いざ存在を認識すれば、団員達は彼の気配を肌と直感で感知できた。間違いなく、彼はあの黒い霧の中に潜んでいる。

 

「出立がてら、最後のお宝の調達かい?」

 

 まるで仲間のように馴れ馴れしく、彼の声が語りかける。フィンクスのこめかみが引きつるが、クロロが背中越しに左手を振り、シャルナークとコルトピが両脇から制した。

 

「それが、お前に何か関係があるのか」

 

 クロロはあくまで冷徹だった。アルベルトなど一瞬で蹴散らせるだけの武力を配下に持ちながら、右手に本を開いたまま、黒いコートに包んだ体を雨中に自然体で置いている。油断もなければ慢心も見えず、あるがままの姿だった。

 

「盗んだ端から団長に預けて、そのまま公共の交通機関で脱出しつつ現地解散の予定なんだろうけど、悪いけど、させないよ。マフィアにも、伝手を通して情報を流しておいたから」

 

 そこまで耳を傾けると、クロロは軽く鼻で笑った。

 

「知ることと防ぐことは別だろう」

「ごもっとも。だけどね、だからそこ僕はここにいる」

 

 アルベルトはあくまで穏やかだった。マフィアどころか軍隊をも翻弄する幻影旅団の実力を知りながら、どこか余裕をもって相対している。マチが不自然さを嗅ぎとり不信感で表情を微動させた。

 

「お前の出る幕は今更ねぇよ」

 

 毒々しい声でノブナガが言うが、ウボォーギンに制肘されて口をつぐんだ。他の団員達からも睨まれていた。クロロが代表しているからには、無意味な横槍は無用だった。どの道、裏切り者の運命は既に決まっている。決闘はない。仕事前に露骨な時間稼ぎを許すほど、彼らの頭は短慮ではなかった。

 

「言い残しておきたい事はあるか」

「いや、特に何も」

「そうか。ま、いい」

 

 クロロは左手を軽く挙げた。彼が用済みなのは明らかだった。故に、消す。単純明快な道理であった。旅団の戦力は過剰すぎる。左手が振り下ろされた時にはもう、アルベルトは微塵になっているだろう。

 

「僕が、シズクを殺したのはどうしてだと思う?」

 

 ふと、アルベルトの声が、そんな事を尋ねた。

 

 時を同じくして、旅団には知る由もなかったが、ヨークシンで小規模な爆発があった。そこは厳重に隔離された地下室であり、男が一人、数日間監禁されていたのだった。結果、書物のページがひとつ消えて、クロロのポケットで何かが弾けて消失した。

 

 突如として、空中に競売品が出現した。コートのポケットを突き破り、大量の物品が溢れ出てくる。玩具箱をひっくり返したような有様だった。

 

 同時にアルベルトが踏み込んできた。至近から何かを発射する。重く大きく初速の遅いその物体は、対戦車ロケットの弾頭だった。フィンクスが即座に反応した。凄まじい瞬発力でダッシュして、未だ加速中の弾体を素手でひねって軌道を変える。その先には打ち合わせたようにウボォーギンがいた。彼は両手を広げて迎えている。ロケット弾が分厚い胸板に着弾した。瞬間、巨躯が抱え込む様に抱き締められる。爆発の轟音と火焔が舞うが、それで全ては終わりだった。メタルジェットは猛威を振るわず、鋼鉄の肉体に閉じ込められて完封された。仲間の誰にも被害がないよう、クロロには破片の欠片も行かないよう、全身を盾に防いだのだ。現代戦車の側面装甲さえも貫く威力の兵器だったが、結果、彼の皮膚をささやかに暖めるだけで役目を終えた。

 

 故に、気付かなかった。光と爆風にまぎれるように、人影が猛速で飛来したのを。黒い靄を吹き飛ばしつつ、市街地の方向から数キロに渡る超加速にて。刹那、幾名かの団員は確認した。アルベルトがいたであろう場所の隣に、鋼鉄の杭がアスファルトに深く打ち込まれていたのを。

 

 ヒソカの体躯がクロロに迫る。伸ばしに伸ばしたガムの収縮。音速を軽く超えるしなやかな蹴りに、周りの全員が間に合わない。それでも、クロロの反応は的確だった。宙を泳ぐ戦利品を一瞬で見捨て、無くした能力に見切りをつけ、新たな念を発動する。マリオネットプログラムが起動して、脳と肉体のリミッターが全て外れた。オーラが絶大な増量を見せ、筋力が平時の限界を超える。

 

 思考速度が加速した。空中浮遊さえ成し遂げた高度な制御が、性能を更に増加させた。脳がヒソカの弾道を予測する。算出される弾着の各種データを見極めながら、左腕にオーラを集中させる。オーバークロック2、プログラムで再現した火事場の馬鹿力を源泉に、増幅されたオーラの顕在量の全てを用いて、彼は左手に硬を形成した。直後、マリオネットプログラムを解除する。ページは既に切り替わり、【龍頭戯画(ドラゴンヘッド)】が起動していた。タイムラグはほとんどなかった。オーラの制御から威力に繋げる、クロロならではの高速発動。世界で彼にしかできないコンボ。借り物である利点を存分に活かし、龍を纏った拳を握り、超常の一撃を打ち放った。

 

 衝突。世界が白亜に染まりきった。地平線の果てまで極白に染まり、夜中の大地に真昼の太陽が出現する。威力は完全に互角だった。だがしかし、慣性までは殺せない。バンジーガムが粘着して、クロロの肉体を掻っ攫って、地平線に吸い込まれるように飛んでいった。はるかな荒野の方向へ、二人の男は消え去っていった。

 

 攻防は終わり、後には、静けさだけが残された。

 

 競売品が地面に当たり、割れる音、壊れる音が聞こえている。一箱数億は堅い人類の宝が、見る間に価値を減じていく。だが、もはや誰も興味はなかった。アルベルトに視線が集中している。彼は既に闇を纏わず、混乱に紛れ、団員の至近を抜けて彼らの後背に踊り出ていた。いくつもの死線を横切りながら、誰か一人は確実に殺せるだけのチャンスが目の前にありながら、一度も攻撃に転じず駆け抜けたのだ。

 

 先ほどまでとは間逆の位置どり。荒野の方面を塞ぐ場所。その意図はあからさまに明白だった。

 

 

 

 レオリオは乗用車のハンドルを握りながら、助手席のクラピカを横目で観察し続けていた。彼は携帯電話を握り締めて、先ほどからスクワラと話し込んでいる。重点的に見張っていたポイントの一つ、市内を内陸部と接続するハイウェイの一つが、突然封鎖されたというのである。ハンター協会を正式に通した、プロハンターからの要請だった。

 

「レオリオ、クラウスという名のハンターに心当たりはあるか?」

 

 通話中のマイクを押さえてクラピカが尋ねた。センリツの名義でヨークシン市警に問い合わせたところ、得られた回答にあった名前がそれらしい。レオリオは一寸ばかり記憶の底を洗ったが、すぐに首を振って否定した。クラピカは一つ頷いて、スクワラとの通話を一旦切った。直後、ホテルのリンセンに連絡を入れる。ライト達のそばで待機している彼に電脳ページで調べさせたところ、略歴はすぐに探し出せた。

 

 その男は、殺害専門のブラックリストハンターを自称していた。とどめとしての戦闘がありうる案件にのみ参加して、腕力に物を言わせて犯罪者を殺すスタイルである。相当な腕利きとして名を馳せたらしいが、既に過去の人物だった。二十年ほど前、当時シングルだった彼は突如として引退を表明している。その後は祖国で小さな道場を開き、主に教育者として活動している。

 

 男のフルネームはクラウス・レジーナ。ハンターサイトの情報によると、実子と養子が一人ずついる。携帯のスピーカーからその情報が流れた時、レオリオとクラピカは顔をあわせた。

 

「なぁおい、レジーナって姓は」

「ああ、そう考えて間違いはあるまい」

 

 知らず、レオリオのアクセルを踏む足に力が入った。彼らの乗る自動車が加速する。クラピカは携帯を握り締めて黙り込み、己の思考に没頭しだした。今回の一件、情報を最も持っているのはアルベルトとヒソカと見て間違いない。だからこそレオリオも瞬時に悟った。旅団は、その道路からやってくるということを。

 

「今、センリツからも連絡があった。念使いの少年二人、ゴンとキルアらしき人物が、そのハイウェイに向かうのを目撃したそうだ。……相変わらず羨ましい生き方を貫く奴だ」

 

 突然、クラピカが穏やかに笑いだして、レオリオはぎょっと驚いた。気が触れたのかとも思ったが、すぐにそれは杞憂だと分かった。

 

「仕方がないな。ああ、本当に仕方のないことで悩んだものだ」

 

 幼い子供のように無垢な瞳で、クラピカは己が憎悪の始まりの場所に立ち戻っていた。色の入ったコンタクトを外し、真紅に輝く伝説の美色を、一族の誇りを晒してみせた。あの二人には借りができたなと、外を眺めて呟いていた。

 

「レオリオ、私にははっきりと分かったよ。幻影旅団は許せない。だけど、仲間を失うのはもう嫌だ。……だから私は、すこし、高望みして生きてみようと思うんだ。……あんな奴らに、妥協なんてしてやるものか」

 

 旅団が散るのを待ってからでも、実際に隙をつけたかは分からない。しかし可能性は少なくなかった。賭けるに足る要素は揃っていた。それでも、不意打ちの機会を投げ捨ててまでも、彼は、仲間と戦うほうを選んだのだ。

 

「レオリオ、オレと一緒に来てくれるか」

「……ああ、勿論だ」

 

 その時、レオリオが感じたのはまず安堵であり、続いて訪れた激しい羞恥と自己嫌悪であった。彼は表に出さないようにこらえながら、自分への憤慨に燃えていた。クラピカを見守ると決めながら、特定の選択を勝手に期待していたのだと、痛烈に思い知ってしまったのだ。もし彼が別の選択をしていたなら、レオリオは軽蔑の情を抱いたかもしれない。たまらなくそれが嫌だった。

 

「じゃ、あいつらもついでに拾って行くか。どうせ徒歩だろ、なあ」

「そうだな。センリツはそのように言っていたよ」

 

 だからこそ、明るく声を上げながら、レオリオは密かに決意していた。この罪悪感も鬱憤も、全てを奴らにぶつけようと。そこに実力差についての計算はなく、ただ、男としての意地であった。

 

 

 

 荒野を背に、街と旅団を前にして、アルベルトは冷静に佇んでいた。少なくとも、表面上は平静だった。路面の堅さを靴裏で確かめ、打ち終えた対戦車ロケットの発射機を横へ投げ捨てて、手榴弾を一つ懐から取り出す。眼前には蜘蛛。世界最凶の盗賊団。対して、彼は三流以下である。念能力者と呼べるかどうかすら怪しい。纏も使えなず、全身からオーラを乱雑に噴き出し、無秩序に気配を撒き散らしていた。近代兵器の助けがなければ、牽制すらも難しかった。

 

「やってくれたな」

 

 低く、地獄のように重くシャルナークが唸った。爽やかなマスクの青年であるが、今の彼は別人にも等しい。やや伏せた目からは火花の如き怒りが飛び散り、露出した筋肉質の両肩には、何か、深すぎる感情が沈澱していく。自作の携帯とアンテナが、左右の手中に収まっていた。シャルナークは対人操作を専門にしている。彼の一撃を受けただけで、アルベルトは敗北に至るだろう。

 

「たいしたもんだね、アンタ」

 

 マチが言った。乾いた喉を震わせながら。彼女は、旅団への想いが人一倍強い。そんな彼女が、アルベルトのした事を止められなかった。その憤慨、己を燃やす激しい悔恨、内側から湧き出る無限量の憎悪、いかほどの域に達したのか。あらゆる激情を糧として、身に纏うオーラが繊維にほどけて紡がれていった。両腕に糸が巻き付いていく。それは非情な凶器だった。その気になれば恐らくは、ダイアモンドの糸をまぶしたよりも、彼女の糸は切れるであろう。

 

「おい、こいつだけはオレにやらせてくれ。後で制裁を受けてもいい。あいつはオレがぶった切る」

 

 沸騰寸前の血流に耐えるような形相で、ノブナガは遠間から居合の構えをとって言った。彼はもう、周りの何も見ていない。右手を腰の刀の柄に添え、周囲に円を展開し、今にも踏み出す寸前だった。あの円がアルベルトに触れた刹那、神速の斬撃が瞬くのだろう。

 

「待てよ。全員でだ。決闘なんてしてられねぇ」

 

 歯を噛み締め、口の端から血の混じった泡を漏らしながら、フランクリンがどうにか吐き出した。ともすれば彼自身が全てをぶち壊しそうになりながら、辛うじてそれだけの理性を保持したのだろう。語ってしまった後はもう、微動だにせず沈黙していた。十指をアルベルトに照準しながら、いつでも放てるだけの態勢でいながら、決定的な一瞬を求めて凝視していた。重量級の肉体が静止している。鼓動が夜気を暖めている。それは人型の砲台だった。戦場に佇む戦車だった。片側だけ長い耳朶がそよぐ。歯列から漏れる吐息まで、含有するオーラで闇夜にぼんやりと浮かんで見えた。

 

「お前はずっと、あれをする機会をうかがっていたのか」

 

 比較的冷静だったボノレノフが、密やかな賞賛を込めてアルベルトに尋ねた。真に殺すべき者と見据えた目であった。誇りを傷つけるだけの資格を得た、そして今まさに傷つけた、敵として見定めたしるしであった。

 

「もちろんだ。幸運だったよ、梟の能力をあの時知って」

 

 殺意に苛まれながら彼は応じる。アルベルトにとって、これは想定内の窮地であった。惜しむらくはただ一つ。これより適切なタイミングを、クロロのすぐ傍で計れなかったことだ。ならば……。

 

「もういいだろ」

 

 フィンクスが乱暴に吐き捨てた。ジャージの下で、鍛え抜かれた闘争用の筋肉が唸る。その体躯は何よりも逞しかった。実用性を追求し尽くし、洗練されすぎた均整が故、いっそ平凡に見える整った肉体。こと、バランスという一点では、蜘蛛の誰よりも上だろう。

 

「こいつはただの足留めだ。さっさと倒して、とっとと団長と合流しようぜ」

 

 怒りすぎたが故に冷静となり、冷静となって怒りを抱いて、フィンクスは煮えたぎりながらも理性を捨てずにそう言った。

 

「させると思うか?」

 

 アルベルトは応じる。代償となるべき負担は大きい。当然だった。それだけの意義がなかったなら、あの時、友人を見捨てる覚悟をし、妹と戦いはしなかっただろう。一般人の虐殺に加担した上、数多くの同業者たちを拷問してまで、保持したかった立場があった。それを失ってしまったならば、別の手で補わなくてはならないのだ。

 

「……だから、その埋め合わせには命を賭そう」

 

 旅団は強く、手段は乏しい。アルベルトは自分の無力さを改めて感じた。彼らの用いるオーラの流れの、何と美しく雄々しいことか。こうして向かい立つ己の念の、なんと拙く矮小なことか。昨日の決闘さえも生ぬるく思える、本当の窮地がこの場にある。

 

「早くしよう。そろそろボクも我慢できない」

 

 いとも簡単にコルトピがいう。気負いはない。当然である。彼らには、ここで負けるという懸念はない。しかし、誰よりも実力差を痛感しながら、アルベルトはおもむろに口を開いた。安い挑発だとは知りながら。

 

「君達全員、僕一人で止める」

 

 ウボォーギンの歯軋りが大きく響き、口の端から一滴の血が滴り落ちた。雄々しいオーラが湧き立っている。肉体の強さ突き詰めた、動物としてのヒトの最終形態。原始の英雄。物言う猿の頂点に立つオス。その本領である筋肉が、限界まで引き絞られて縮んでいく。巨大な体がうずくまり、体内にパワーが溜められていく。

 

「あたし達全員を、一人でかい?」

「無理だと思うか? なら、さあ、おいでよ」

 

 左手に手榴弾を乗せながら、アルベルトが手招きして挑発した。それが限界の時だった。咆哮が爆ぜた。アスファルトが蹴られ、爆発が起きる。他のメンバーも負けてはいない。巨人の猪突に追従して、それぞれが霞むような速さで疾駆した。フランクリンの両手が絶え間ない轟音を爆裂させ、ボノレノフの包帯とグローブが内側から弾けた。

 

 念弾が左右に掃射され、逃げ道を完全に埋め尽くした。奏でられる音楽のリズムに乗って、全周から、剣の舞がアルベルトを襲った。具現化された数多の刃物が、生き物のように舞曲を踊って飛来してくる。避けることは不可能だった。単純に、避け得るだけの隙間がない。耐えることは不可能だった。純粋に、攻撃の威力が高すぎる。そしてなにより正面からは、巨大な、獰猛な破壊の化身が迫っている。

 

 突撃は断頭台の如きリズムだった。力強くも破滅的で、激怒に染まった足音である。明確に死を連想させる破壊の連鎖が、アスファルトを踏み砕きながら接近していた。

 

 ウボォーギンが迫ってくる。あと三秒。彼は手榴弾のピンを抜いて、起爆するためレバーを外した。

 

 心を静めて尖らせた。命を燃やした果ての果て、死という事象の境に肉薄して、アルベルトは無へとダイブを始めた。脳神経が焼けそうだった。世界が真白の海に沈み、生き物の気配だけが浮かび上がった。長く臨死で居続けたが故の、神業にも近しい皮膚感覚。それだけが、今の彼の取り柄だった。

 

 接触までほんの一秒もない。これを避けても生き残れない。だからこそ、アルベルトは靴裏で路面を軽く蹴って、踊り出るように走り出した。

 

 ウボォーギンの巨躯が荒れ狂う。それは灼熱の台風だった。おそらくほんの少し攻撃に掠っただけで、人体を構成する水分が爆ぜ、全身が赤い霧に変わるだろう。そう確信するだけの迫力が、至近から見上げる巨人にはあった。

 

 血走った両眼と目が合った。アルベルトを上から潰そうと、右の拳が振り上げられらる。その眼前に、彼は左の掌底を放つ。瞬間、手の内の手榴弾が作動した。闇夜の中に爆発が起こり、爆風が、破片が、そして紅蓮の閃光が、唐突にウボォーギンの顔面を覆った。

 

 その下をくぐる。爆発の下、地面すれすれを滑るように、アルベルトは跳ぶような速さで疾走する。近づくことは悪手だったが、離れれば念弾の餌食となる。触れるか触れないかのぎりぎりを、ツバメの如く掻い潜った。

 

 すれ違いざまに右手を振るう。狙いは低い。五指はオーラで強化された強度を伴い、ウボォーギンのアキレス腱を鋭く斬った。尋常の念能力者程度の強度であれば、この一撃で肉深く、骨の芯まで斬れたであろう。だが、もとより、敵の肉体は尋常ではない。鋼鉄の皮膚は小揺るぎもせず、血の一滴も出なかった。しかし、その程度はアルベルトも承知の上だ。狙いは念糸。昨日の傷を塞いだはずの、マチの施した手術の痕跡。それを、断った。

 

 ハンゾーの与えた傷口が開き、アキレス腱が破断する。いくらウボォーギンの自己治癒力でも、あれだけの深手を与えられて、一日で完治まではいかなかったようだ。巨体が揺らぎ倒れていく。旅団員たちが驚愕している。ゆっくりと、呆れるほどにゆっくりと流れる時間の中、ウボォーギンが転倒した。薄氷のようにアスファルトが割れ、土砂が水柱の如く立ち上がった。飛来してきた刀剣類が、その余波で軌道を乱され砕けていく。

 

 アルベルトは空を飛んでいた。あえて土砂に巻き込まれ、空高く打ち上げられたのだ。ボノレノフの能力を避けるため、とっさに選択した苦肉の策。それを見切ったノブナガが、刀に手を添え腰を沈める。上から見下ろすアルベルトは、死を予感して背筋が凍えた。もとより不可避の居合である。飛び掛られたら、空中で避ける術など尚更ない。

 

 その時、マチが何かを大声で叫んだ。音が耳に届くよりも早く、ウボォーギン以外の、動ける団員が全力で散る。紙一重の差異を挟んだ後、流星雨の如き光が流れた。それは曳光弾の軌跡であった。ハイウェイの左右から挟むように、遥かな岩山からこの場所まで、超音速の弾丸が降り注いだ。紛れもなく、機関銃による長距離からの射撃であった。

 

 間に合ってくれたと、アルベルトは着地しながら安堵した。バックステップを強く刻んで、旅団を塞ぐ位置を確保する。銃弾の雨は未だに止まない。道路の外側、左右の地面から爆発が爆竹のように連鎖している。散布地雷。簡易に設置した埋めない地雷。本来、旅団には玩具以下の代物だろう。数もそれほど多くなかった。だがしかし、暗黒に近いこの状況下では役に立つ。事実、ようやく止んだ銃撃の跡地に、彼らは次々と戻ってきた。怒りで形相を歪めながら。

 

 再び、旅団と無言で対峙した。クレーターの中でしゃがみながら、ウボォーギンが凄まじいオーラを今にも解かんと溜め込んでいる。コルトピが両手を掲げて構えた。彼が物体を複製したら、バリケードも容易に構築される。フランクリンが太い指を向けてきた。今度は直接狙ってくる。マチがゆっくりとウボォーギンへ歩く。彼女に傷口を塞がれたら、もはや、再び突撃を防ぐ術はない。しかし、アルベルトの状態は最悪だった。

 

 爆風で全身が痛んでいる。皮膚は傷つき、オーラは減り、骨の中にも軋みがあった。何よりも重症なのは左手である。手首から先が存在しない。おぼろげな凝での肉体強化は、手榴弾の威力にこの程度耐えるのが限界だった。砕かれた二の腕はぐしゃぐしゃになり、筋肉と骨とが混ざっていた。

 

 まだ、時間はろくに稼いでいない。

 

「弱いね」

 

 聞こえるように、ぼそりと言った。体が圧壊しそうな怒気が叩き付けられる。彼は涼しげに鼻で笑って受け流したが、どれだけ虚勢を張れば気が済むのだろうと、内心で強く自嘲していた。閃光手榴弾を一つ放る。それを合図に、遠距離から機関銃が掃射された。

 

「憶えてるかい? 君たちが蹴散らした軍人たちだ」

 

 両腕を広げ遠景を示して、アルベルトは歌うように言葉を紡いだ。某国陸軍の特殊部隊。敵地への先行潜入を主任務とするエリートである。露見すればこの国と戦争状態になること必然な、ぎりぎりの綱渡りに等しい助力であった。例え復讐という目的があったとしても、国家として、犯していい冒険を越えている。だというのに、彼らはチームを選抜し、喜び勇んで駆けつけてくれた。こうして役割を果たしてくれた。

 

 全ては、幻影旅団を討つために。

 

 アルベルトに念能力者としてのこだわりはない。もとより彼は異端である。アマチュアハンターの時代から、必要さえあれば、当然のように火器の選択を視野に入れた。嫌っていたのは性能ではなく、露見性の高さだけであった。彼の戦闘はシステマチックだ。どうしようもなく、悲しいほどにそうであった。

 

「マチ、ウボォーを治療してやってくれ」

 

 銃撃の中に平然と佇み、アルベルトの挑発に興味も示さず、シャルナークが仲間へ指示を出した。彼女はそれに頷きながら、ウボォーギンの傍でしゃがみこんだ。攻撃する絶好の隙であるが、アルベルトの視線を遮るように、フィンクスとフランクリンが立ち塞がった。いっそう強固に燃え盛る堅が、機関銃の銃弾もものともせず、城壁のごとく微動だにしない。あの二人に防御に専念されれば、アルベルトに突破することは至難だった。

 

 つまるところは足りないのだ。命を絞る覚悟が足りない。より深く死の淵へ向かって沈みながら、アルベルトは己が皮膚感覚をさらに鋭く研ぎ澄ませた。神経細胞が悲鳴をあげ、額に焼け付くような痛みが張り付く。脳の活動が活性化して、左腕の痛みが倍化する。それでも、噴出し続けるオーラを糧に、漆黒の塗料を具現化した。

 

 

 

 ポックルは孤独な終わりを迎えつつあった。誰もいなくなった暗い荒野で、冷たい雨にさらされていた。地面を流れる泥水が、せせらぎのように顔を濡らした。失った半身を補う半個体状の液体が、先刻から不定期に脈動している。内在していた力の気配がない。表面が破れ、中身がとろけ出る寸前のような、とかく不安定な蠢きであった。

 

 意識をわずかでも緩めたとき、彼は昇天するであろう。このまま苦しんでいたところで、ポックルに為せることは何一つない。それが分かっていてもなお、彼は命にすがりついた。魂を此岸に留めたのは、血液のように体を満たす鈍い痛みと、脳髄を熱く燃やす無念であった。理解していたのだ。ビリーと名乗った、彼に仮初めの体を与えた少女が負けたことを。ポックルが一矢を当てた大男が、幻影旅団の一員が、至極平然と生きていたことを。

 

 彼は何もできなかった。命を捧げ、未来を棒に振ってまで為そうとした血みどろの願いは、一つの命も奪えず潰えつつある。が、それを運命と受け入れることは、それだけはポックルにはできなかった。苦しみは辛い。足掻いた先に希望は無い。それでも、足掻くことをやめるのは悔しすぎた。何もかも無駄だったと認めたくなかった。たったそれだけの執着で、彼は、這いずるように地べたに倒れて喘いでいる。

 

 死は刻一刻と近寄ってくる。口の中の泥を噛み締めた。

 

 ありふれた敗者の末路だった。

 

 

 

 漆黒の霧があたりにたゆたう。眼球の機能しない真の闇では、自分の体さえもが見えはなしない。その中で、アルベルトは全速力で戦っていた。この能力はひどく脆い。旅団のオーラで劣化し尽くし、再び具現化しては崩壊していく。体力の消耗が酷かった。

 

 人間の心身はとかく不便だ。体が痛く、だるく、ひたすら辛い。それでも、力を得なければ殺されるだけだ。生命の力を炉心にくべ、魂を削って死力を絞り、アルベルトはオーラをさらに搾り出した。

 

 ノブナガが至近に踏み込んできた。速い。薄く展開されたオーラを肌で感じる。思考している暇もなく、全身全霊でステップを刻んだ。直後、鉄の風が頬を涼やかに撫でていった。そう認識することしかできなかった。頬から鮮血が噴出してなおも、痛みすら感じられない神技だった。アルベルトにとって、最大の脅威が彼であった。視覚に頼らない円の使い手。速度と威力に優れる居合は、放たれてしまえば対処は不能だ。必然、先読みに賭けて避けるしかなく、それでもバランスが崩される。純粋に、肉体の性能がついていかないせいである。

 

 そして、ボノレノフ。彼はアルベルトの背後にいた。巨大で神秘的な仮面をかぶり、鋭すぎる踏み込みで回り込み、今まさに、槍で突こうという体勢だった。雄大なシルエットの石槍に、壮麗なオーラが宿っている。ファントム・ブラックは掻き消され、闇色の濃霧が切り裂かれていく。精霊に捧げた奏楽の舞踊は、体捌きとしても一流だった。

 

 回避はできない。するつもりもなかった。アルベルトは振り向きざまに左腕を振るい、ボノレノフの双槍を迎撃した。当然のように押し負けて、彼の体は吹き飛んだ。その先にはシャルナークの気配がある。アンテナを手に、勝利を確信した顔で待ち構えている。あれが刺されば敗北だった。だがそれでも、連携に翻弄されるだけではジリ貧だ。

 

 より広く、深く、あらゆる事象の詳細な把握に努めながら、アルベルトは勢いを得たままシャルナークへ向かって肉薄する。左腕はもう、肘から先が存在しない。痛いという感覚とはなんだったのか、それさえ忘却する激痛に耐えながら、右腕にオーラを集わせる。

 

 刹那、顔面に無慈悲な金属針が打ち付けられた。

 

 はずであった。

 

 シャルナークを幻惑した虚像が消える。肢曲という闇の世界の秘技である。能力の補助もない猿真似だったが、自分と相手の全てを把握し、辛うじて残像一個分の歩法は成功した。無防備に腕を振りぬいた脇腹に、渾身の掌底が打ち放たれた。シャルナークの体が吹き飛ばされる。致命傷を与えた手応えはなかった。

 

 路面を削って勢いを減じ、コルトピが具現化した土石流の如き土塊を避ける。時の流れが遅かった。主観では何年も戦っているような有様だったが、現実には、まだ、ほんの、一分経ったかどかだろう。手榴弾は既に一つもない。遠距離から銃撃していた特殊部隊は、フィンクスに投石されて皆殺しにされた。

 

 念弾の雨がアルベルトを飲み込む。が、アルベルトは流れの中を駆け出した。回避する動作も最小限だ。至近距離を掠めるオーラの弾が、彼の肉体を削っていく。右耳が、左肩の肉が吹き飛んだ。フランクリンを屠ろうとアルベルトは駆ける。それは確かに無茶だったが、本人は無謀と考えていなかった。彼はいまだ、生き残りたいと願っているのだ。

 

 アルベルトは人を愛したかった。人として人と暮らしたかった。だから、帰って、まずはエリスから始めよう。

 

 結局、数式めいた理論化などはできなかったが、素朴な愛情は確かにある。つがいを愛するという原始的な心。それは肉欲の発露かもしれない。ただの生殖本能なのかもしれない。少なくとも、洒落た高級な感情ではない。しかし、アルベルトはそこに万感の憧憬を見出した。それだけでいいとあの夜に決めた。ふっきれたのだ。キャロルを殺した瞬間に。

 

 念弾の河を遡上して、アルベルトはフランクリンの懐に入り込んだ。発でオーラを用いるが故、堅が薄くなっている。それでも相手は屈強である。ただの殴打は通るまい。だから、右手が緩やかにすぼめられた。貫き手。柔を束ねて剛を貫く、義父より託された牙であった。シズクの心臓もこの技で穿った。

 

 フランクリンの防御は間に合わず、アルベルトは一人目の殺害を確信した。そう、横合いから殴り飛ばされる寸前までは。彼がその時目にしたのは、腹に当たるウボォーギンの拳だった。

 

「待たせたなお前ら!」

 

 下から掬うように腕を振りぬき、ウボォーギンが嬉しげに叫んだ。堅をしてフランクリンの弾幕に果敢に飛び込み、仲間の窮地を救ったのだ。治療は既に完了していた。丁寧な、完璧ともいえる施術だった。アルベルトは冗談のように吹き飛んで、路面に強かに打ちつけられた。

 

「あんたも終わりだよ。諦めな」

 

 幾重にも念糸を編みこんで、鞭の如き何本もの縄を形成しながらマチが言った。長さと強さを両立させる、高度な応用技の一つだった。それに囚われた暁には、アルベルトに逃げ出す術などあるまい。しかし、それでも。

 

 立ち上がりながらアルベルトは思う。まだやれると。オーラはあとわずかだが残っている。致命的なダメージも未だに負っていない。右目が熱く、頬にどろりとした液体の感触があった。眼球が衝撃で内側から爆ぜ、視界が半分消失していた。右手に力を入れたとたん、胃の腑から大量の血を吐いた。感触から、内臓がいくつが破裂しているのを彼は知った。左肩から流れるとめどない血が、体温を急速にこぼしていく。それでもまだ、致命的なダメージは負っていない。

 

 稼げた時間はどれほどだろうか。アルベルトの能力はまだ戻らず、旅団の戦力は一人も減らない。が、まだ諦めるには早いと思った。噴出し続けるオーラを糧に、再度、ファントム・ブラックを具現化する。靴の裏で小石を踏みしめ、次なる攻勢に出ようとした。そんな彼に、マチが念糸を手にして近寄ろうとした。哀れみで眉を歪めさえして、オーラを威圧的に撒き散らしながら。

 

 その時だった。ヨークシンシティーの方向から、猛然と一台の車が突っ込んできたのは。それは白いありふれた乗用車だった。濡れた路面を切り裂いて、トップスピードのままに突入してくる。明らかに旅団への攻撃を兼ねた、アクセルベタ踏みの運転だった。が、全ての団員は軽々と避ける。ハンドルが切られ、車両はスピンしながら減速した。ブレーキが金属的な悲鳴を上げて、アルベルトの前で停止した。

 

 ドアが内側から蹴り飛ばされ、小さな人影が一つ、躍り出た。

 

 マチの正面に誰かが迫る。両手で両腕を拘束して、その人物は頭部を思いきり仰け反らせた。そして、硬で強化した渾身の頭突きが、強い感情をぶつけるように、荒々しく乱暴に彼女を見舞った。アルベルトは残された左目を見開いた。突如乱入してきた人物は、どう見てもゴンであるとしか見えなかった。

 

 無論、それを見逃す旅団ではない。ボノレノフの槍が真っ先に迫り、ノブナガが、シャルナークが、フィンクスが、乱入者を攻撃しようと襲いかかる。が、もう一人の人影がゴンを小脇に抱えて跳んだ。彼は旅団の攻撃を次々と避け、素晴らしい反応でひたすら逃げに徹し続け、数秒で車の付近まで離脱した。そこにはもう、クラピカが鎖を具現化して構えている。積年の憎悪がこめられた、驚異的なオーラを纏いながら。

 

「お前なぁ! ホントっ、お前はなぁ!」

 

 小脇にゴンを抱えたまま、荒々しく息を切らしながらキルアが言った。全身、汗をぐっしょりとかいている。だが、ゴンは悪びれもせずにふてぶてしく、あっけらかんと放言して見せた。

 

「大丈夫だって言ったじゃない」

「おまっ……!」

「だって、キルアが止めてくれるんでしょ?」

「うおっ! マジでありえねぇよオメー!」

 

 呆れ果てて叫びながらも、キルアはどこか嬉しそうにアルベルトには見えた。クラピカも同じ感想を抱いたようで、くつくつと喉の奥で笑っていた。

 

「まったく。だが、彼らには借りができてしまったな」

 

 クラピカは言う。アルベルトは信じられない気持ちだった。四人がこの場に現れてから、否、正確にはゴンという少年が加わっただけで、雰囲気があっという間に変わってしまったのだ。ゲームを攻略するかのような、真剣だがどこか楽しみすら隠れていそうな空気であった。

 

 レオリオがアルベルトに残った右肩を叩き、暴れてやろうぜと気軽に言った。それだけで心に活力が涌いて、体が不思議と軽くなった。彼らが死ぬ可能性はあまりに高い。アルベルトの目標は生存だったが、旅団を相手に、仲間の安全などは保障できない。だというのに、四人ともこんなにも前向きだった。アルベルト自身、根拠の無い自信に満たされている。

 

「……あいつらを止めよう。オレたちなら必ずそれができる」

 

 ゴンが改めて言葉にして、残る全員が頷いた。

 

 

 

次回 第四十話「奇術師、戦いに散る」



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第四十話「奇術師、戦いに散る」

 一閃が荒野を薙ぎ払った。一筋の鉄鎖が暴風を奏でる。侮っていた敵の表情が見る間に変わった。全力のステップで飛び跳ねて、あるいは伏せて回避する。クラピカの横顔がほころんだのをレオリオは知った。あまりに真剣な旅団の顔は、彼に、慈愛にも似た優しい軽蔑を呼び起こしたらしい。直後、鎖の腹が波打って、返す一撃が空間ごと激流の如く押し流した。

 

 かつてない量のオーラを纏い、クラピカは王者の如く佇んでいる。念能力とは意志の力だ。星霜に堆積した復讐の想いが、生命をここぞとばかりに燃やしていた。かすかに濡れた真紅の瞳が、ひどく虚しく心地よいと語る。

 

 レオリオには分かった。精神は不快な怨念に蝕まれ、魂は渇望した瞬間の到来に歓喜している。忘我にも似た混濁に、クラピカの心は沸騰している。玲瓏なのは外面だけだ。怒りに堕ちた友の姿は、この世の果てよりも美しく在った。激情が火酒の如く喉を焼けば、癒せるものは鮮血しかあるまい。

 

「レオリオ! 車を壊せ!」

「おう!」

 

 長鎖を引き戻しながら打ち鳴らし、身に纏わせながらクラピカは叫んだ。戸惑いも挟まずレオリオは従う。条件反射に近い信頼で、ボンネットの鉄板を拳で穿った。あやまたず中のエンジンを砕き割り、中枢のシリンダーを破壊した。これでもう、逃げ道は誰にも存在しない。

 

「舐めるんじゃないよ!」

 

 敵の女が牙を剥いて、鞭の形状のオーラを振るう。それは地を舐めるように低く滑り、寸前で大蛇の如く跳ね上がった。拘束する中指の鎖の迎撃が、離陸するが如く舞い上がる。上空で両者は衝突した。一撃の重さはクラピカが上だ。修練した期間は短くとも、込められた感情が格段に違った。だが、技量と意地の賜物か、相手も一瞬だけは拮抗した。女は笑った。それで充分なのだと言いたげに。

 

 念縄が解けて糸となった。それは蓄積の賜物なのか、生来の器用さによるのだろうか、能力の制御が果てしなく早い。獲物を捕らえる蜘蛛の巣のように、鎖の環に絡まっていた。燃え盛るクラピカのオーラでも、この拘束は早々切れまい。が、支障など何一つとしてありはしない。戸惑うことなく、彼は鎖を消失させた。

 

「マチ! そいつ操作じゃない! 具現化だ!」

 

 金髪の優男が看破して叫んだ。だが、遅い。既に鉄鎖は具現化され、吸い込まれるようにあの女へ迫った。驚愕による硬直を見逃すほど、クラピカは実直でも愚昧でもなかった。レオリオはマチと呼ばれた女の敗北を確信した。当然だった。単純に威力だけで必殺の上、凶悪な付加効果を有する武器。蜘蛛を屠るためだけの能力。仮に旅団を脱退されたら、仇といえど使用はできない。それほどの覚悟で制約を決めたと彼は聞かせた。しかし。

 

「大丈夫。ボクの防げない威力じゃない」

 

 小柄な男が滑り込んで、右手が素早くかざされた。直後、突如として土塊が出現して、鎖の打撃から女を隠す。小さな丘ほどもある壁だった。クラピカの鎖が衝突し、轟音が鳴り、土砂が半分ほども吹き飛んだ。だが、肝心の団員までは到達しない。鉄鎖が伸びきった一瞬の隙に、毛皮を着た大男が横合いから暴風と共に飛び込んできた。

 

「っらぁ!」

 

 右の拳を大ぶりに振るう。ただの硬。事前動作も溜めもない、至極単純な右ストレート。それが、拘束する中指の鎖をから弾いて吹き飛ばした。

 

「大した強度だ! あれを食らって砕けねぇか!」

 

 呆れ半分で叫びながら、遠くにいる男が念弾を放った。十本の指から噴出する奔流。銀河に飲み込まれた海鳥のように、レオリオは壮大な光景に感動すら抱いた。クラピカは鎖を引き戻しながら、右手を強くジグザグに振るった。鎖が縦横無尽に蛇行して、広域の念弾を次々と砕いては相殺していく。彼は今、確実にこの戦域を支配していた。

 

 数百の破裂で満たされる空間を縫って、ジャージの男が疾駆してくる。速い。軌道の隙間を的確に見破り、豪快なステップで地面を蹴って間合いを激しく詰めてくる。が、所詮は人間の走る速度である。対処は容易い。刹那でも鎖をそちらへ向ければ、クラピカは造作もなくあの男の勢いを削ぐだろう。僅かな減速を強要し続け、有利な流れを維持できるはずだ。だが、それをやってしまったなら、他の団員へ向ける注意は大幅に減る。

 

 そもそも、前提条件に無理があるのだ。いかにクラピカが強くとも、旅団全員を向こうに回して、単身で勝てるほど外れてはいない。

 

「……だったら」

 

 敵は最凶の盗賊団だ。今できてる牽制は一過性にすぎない。未来は危うく、逆転は必然にすら近かった。

 

 しかし、逆を言えば、現時点のみに限っては、主導権はクラピカの手中に握られている。

 

「だったら、周りが補うしかねぇだろうが!」

 

 怒鳴り声で自分を叱咤して、レオリオはがむしゃらに駆けだした。棒立ちするために来たのではない。いつまでも背中に隠れてはいられないのだ。彼我の実力差は笑えるほどあるが、ならばいっそ笑ってしまえと突進していく。ジャージの男が凶悪な目付きで顔を歪めた。

 

「はっ、テメェから先に死にてえってか」

 

 鎖の舞う下をレオリオは走る。全身から吹き出るオーラが熱い。これ見よがしの自殺行為。自分を餌にしたあからさまな囮。それでも、眼中にもなかった弱者から、掃除すべきゴミ程度には格上げされた。その程度の認識ではあったのだろうが、それであっても、倒すべき人間として認識された。

 

 敵の筋肉が引き締まる。殺戮の前兆。隠す気もない一撃への挙動。地面のひと蹴りで詰められる距離。気合いで埋められる格差ではない。レオリオの首筋が予兆で凍えた。クラピカを頼ることは不可能だった。横目で伺った彼は今、念弾を粉砕しつづけながら、何人もの旅団を相手にしている。奮迅の活躍の邪魔をするのは、本末転倒も甚だしかった。それでも。

 

 いままでは弱すぎて眼中にもなかった。だが、目障りな蠅になれたなら、奴らが、先に始末する気になったなら。

 

「今だ、ゴン!」

 

 キルアの声が鋭く響き、気配を殺した少年たちが、突如として上から降ってきた。隠でもなく、乱戦で絶をする暴挙であった。ゴンの右手にオーラが集まる。硬。強い感情を乗せた攻撃の落下に、敵は忌々しげに舌打ちした。念の素人のレオリオでも分かる。あれは子供が辿り着ける出力ではない。怪物じみた暴力の塊。例え幻影旅団の水準でも、これだけは真剣な対処が強要される。

 

 きっかけはほんの少しでよかったのだ。あれが警戒していたのはクラピカの鎖だけである。強すぎるが故の必然的な油断が、ジャージの男を一歩追い詰める原因となった。

 

 そして、それは今も同じである。

 

「余所見してんじゃねぇぞオラァ!」

 

 上を見上げた敵の腹に、どたどたと駆け寄って渾身のボディーブローを突き刺した。勢いに任せた全開の練で、彼の全人生を込めたに等しい全力の拳。だが、所詮はただの殴打でしかない。大木を殴ったかのように不動のない手ごたえ。堅で守られた肉体は、わずかに揺らぐだけに留まった。

 

「あ?」

 

 どけ、と、無造作に腕を振るって吹き飛ばされた。虫を追い払うような一振りが、ダンプカーの如く重い衝撃をレオリオに与える。地面を弾みながら彼は思った。悔しいという気持ちすら粉砕されたと。蜘蛛の実力は強大すぎて、いっそ清々しい次元で格差があった。だが、それでも。

 

「うまくやれよ、ゴン!」

 

 キルアがゴンの背中を強く蹴って、落下の軌道を鋭角に変える。絶妙な一手。フェイントで間合いの格差を覆し、攻防の前提が成立した。敵が見上げ、ゴンが落ちる。少年の瞳に迷いはない。自分の安全すらも眼中になく、一心に拳を振りぬいた。

 

「これは、あいつの分だ!」

 

 迎撃も硬で行なわれた。二つの拳が打ち合わされ、弾かれて辺りを揺るがせる。威力はほとんど互角だった。観測した全員が戦慄する。単純な基礎能力の応酬といえ、いや、だからこそそれは異常だった。強化に近い系統であろう団員の硬に、十二の子供が拮抗して見せたというのである。

 

 怯えがなく思い切り良く攻めるゴン。他意なく逃げるからこそ戸惑いがないキルア。その二人が織り成す連携が、冗談じみた戦力の上昇を実現している。なにより二人が信頼しきって、心を預けているのが大きかった。

 

「くそっ、まだまだか!」

 

 着地し、地面を削りながら悔しがるゴン。激しく高ぶる感情が、更に素晴らしい練をさせる。体が纏うオーラの鎧が、より一層分厚く滑らかになった。彼は成長しているのだ。生と死の狭間で戦いながら。次の拳は確実に、先のそれより重いだろう。そしてまた、レオリオも自身の成長を実感していた。ほんの少しでありながら、今の自分は紙一重で強い。

 

 が、旅団ははるか上を行く。金髪を揺らす青年が、途方もない速度で滑り込んだ。レオリオが急襲を告げようとしたときには遅かった。軌跡すらろくに見えぬ走行速度で駆けつけて、その男は横合いからゴンを蹴り飛ばした。信じられない脚力だった。ゴンはレオリオに衝突して、二人とも軽々と吹き飛ばされる。そんな彼らを確認もせず、青年は、一直線にキルアへと向かった。構えた右手の中からは、針状の金属が覗いて見えた。一回の攻防で見抜いたのだ。三人の連携の中核を。

 

「逃げろ! キルア」

 

 怒鳴りながらレオリオは立ち、ゴンもまた、優れた瞬発力で親友へと向かう。それでも二人は遅すぎた。怖気を感じて全力で逃げるキルアさえも、金髪の青年よりも一段遅い。戦闘能力に限っては、比べることも馬鹿馬鹿しかった。数瞬もせずにキルアは捕まり、オーラの移動速度と体技によって、ろくな抵抗もできずに取り押さえられた。わざと殺してないのだとレオリオには分かった。蝙蝠をあしらった針がキルアを襲う。死よりも恐るべき致命的な何かが開始される。キルアに逃れる術はなかった。

 

 ゴンとレオリオの正面に、先ほどのジャージの男が瞬動してきた。これが彼の堅なのか、非常識な量のオーラが敵の全身を覆っている。眼光だけで圧殺されそうな迫力があった。それでもゴンは止まらない。それが無駄だと知りながら、少年は大声でどけと叫んだ。レオリオは命を捨てる覚悟で加速した。ここで自分が殺されれば、あるいはゴンなら間に合うかもしれない。そんな道理は、なかったのだが。

 

 金髪の青年がキルアに針を突き刺す寸前、雷光の如き突然の蹴りが、後背から彼に襲い掛かった。辛うじて振り向いて防がれる。その、彼が防御に回った隙に、キルアは青年の下から脱出した。

 

 闇を纏って出現した人物、彼こそがアルベルトその人であった。右腕一本でありながら、隻眼となっていながらも、旅団の警戒が明らかに上がる。彼ら二人にしてみれば、有象無象の三人より、アルベルト一人のほうが手ごわいのだろう。

 

 ジャージの男へアルベルトが踏み込む。彼の戦いは舞踊に近い。速度も遅く、腕力もなく、奥の手の能力も発現しない。そもそも、纏すら行なう徴候がない。しかし、敵の拳が打たれるとき、彼の一手はそこにある。あらかじめ置いてあるかの如き拍子の調和。既知ですらこうはいかぬであろう神がかった先読み。そしてなにより、ミリ単位で構築される綿密な計算。

 

 が、旅団とて知性を捨てた猿ではない。虚実を織り交ぜる打撃の果て、わずか三秒の時の狭間、実際に放たれた技はたったの三十。レオリオには流れとしか見えない三者の動き。だがその裏では、千を超す読み合いが展開された。その全てでアルベルトは死を防いだ。血糊が飛び散り闇が撒かれる。

 

 レオリオもうかうかしてはいられなかった。ゴンとキルアも再び駆ける。彼らの戦力は微小だったが、決して無力ではないと理解していた。優先できるほど強くはないが、完全に放置できるほど弱くもない。結局のところ、この場ではそれで充分なのだ。なにしろ、ほんの少しの完全な隙、たった一つの判断ミスにつけこめたなら、アルベルトは一歩有利に進められる。

 

 が、直後、最小限の介入を終えたと見たのだろう。アルベルトは敵の拳を利用してバックステップを強く刻んだ。この場を離脱し、別の蜘蛛の下へと闇に潜るように消えていく。

 

「っの野郎!」

「待て、オレが行く! フィンクスはそいつらを始末して!」

 

 金髪の青年だけが後を追い、フィンクスと呼ばれたジャージの男は、額に青筋を浮かべながらもゴンたち三人に向かって振り返った。

 

「レオリオ」

「お、おうっ……!」

 

 キルアのアイコンタクトにレオリオは応えた。腹を据えて先陣を切る。地面を叩き鳴らすだけの不恰好な疾走で接近し、泥だらけに汚れたスーツを引き千切るように脱ぎ取った。雨水をたっぷり吸って重いそれを、気合一閃、顔面に向けて投げつける。敵は至極つまらなそうに、右腕を振る風圧だけで布を砕き、迫るレオリオの顔面を乱雑に掴んだ。超重の握力が彼を苛み、頭部が今にも爆ぜそうになる。だが、オーラを死ぬ気で集中して、レオリオは辛うじてだがそれに耐えた。

 

「ほぅ。……だがな」

 

 相手は少しだけ感心を示したが、すぐに横目で誰もいないはずの場所を見る。肢曲という名の高等歩法で、音もなく、気配も完全に断ちながら、銀髪の少年がそこにいた。

 

 しかし、キルアは間合いより数尺遠い。攻撃する意志も感じられない。

 

「丸分かりなんだよ、お前ら」

 

 左腕を伸ばしただけで牽制を済ませ、フィンクスと呼ばれた男は別所へ向いた。苦悶するレオリオがオーラを撒き散らす後ろ、そこには、より一層磨きがかった硬を握るゴンがいる。十二分に時間を稼ぎ、思う存分練った脅威のオーラ。

 

 しかし、当たらなければ意味がないのだ。ゴンが全霊をこめた体術を、フィンクスは容易く細部まで見切った。右腕のレオリオをあっけなく捨てて、そのままの動作でゴンをいなした。彼の右手には硬すらない。ただの流麗なオーラの移動で、完全に無理なく受け流された。

 

 悔しがる時間はゴンにはない。左腕という名の死が迫る。スローモーションのように流れる時間、レオリオは悪足掻きで蹴りを放つが、フィンクスを揺るがすこともできなかった。ゴンを殺す左手が瞬き、手刀となって突きを穿った。

 

 何事も、当たらなければ意味がない。

 

 迸ったのはキルアの体躯だ。完全に無防備だったフィンクスの顎を、渾身のとび蹴りが完璧に捉えた。衝撃が、怒りが、脳を揺らす。そこへ更に、レオリオが体ごとぶつかっていった。体当たりとも呼べない乱雑な一撃。しかし、今度はフィンクスを弾き飛ばした。そして、受け流されただけのゴンの硬は、威力を失わずに生きていた。

 

「よっしゃいけ、ゴン!」

 

 宙を落ちながらキルアが叫ぶ。レオリオは期待を込めて仲間を見た。怒りに燃えた黒髪の少年が歯を食いしばり、一人目の旅団に肉薄する。当たらないはずがない。外れていいような理由がない。その拳は、運命のように劇的に、ジャージの男の腹へと決まった。

 

 叩き付けるように殴り飛ばされ、地面を削っていく敵の体。キルアとレオリオが歓声を挙げ、手の平を高く打ち合わせた。ゴンは額を汗で濡らしながら、確かな手ごたえを確かめていた。

 

 五十メートルも掘られた溝の向こうで、フィンクスが再び立ち上がるまでは。

 

 眼光が怒気で血走っている。口の端から一筋の血が流れている。オーラの猛りが猛獣のそれだ。だが、それだけだ。あれだけの攻撃を食らいながら、四肢は無事で、胴体は潰れず、痛みと怒りだけで済んでいる。しかも、彼の本領はこれからだった。

 

 遠く、立ち上がった場所で右腕を回す。ぐるぐると、巨大な産業機械の回転のように重々しくも雄大に。壮絶な笑みを浮かべながら、彼は腕を回していた。

 

 何故か、致命的な危機の予感がした。

 

 

 

 五十メートルほどの間隔を開けて、男が二人、対峙していた。岩棚が立ち並ぶ砂岩の谷間には、余人の気配は近くには無かった。

 

 一人は黒い、長めの外套を纏っている。大きな白いファーが逆立っていて、背中には逆十字の紋様が描かれていた。髪と眼はどちらも黒かった。濃い茶色としての黒ではない。底暗い闇夜を切り取って、人間の体に埋め込んだかのような暗黒だった。彼は右手に大きな本を開きながら、泰然ともう一人の男を観察していた。

 

「上手くやったな、ヒソカ」

 

 クロロは言った。もう一人、道化師風の男は薄く笑った。端整な筋肉のついた長身を包むのは、トランプの愚者のような奇抜で派手な衣装だった。顔にも、星と涙滴がポイントのメイクを施している。体を覆うオーラは未熟に拙く不規則に揺れ、時折、愉快そうに弾んで震えていた。

 

「なるべく早く終わらせる……、と言いたいところだが、そうはさせてもらえないらしい」

「つれないね♥ キミだって、本当は楽しみたいんだろう?」

「……嫌いじゃないさ。だがな、立場上、私事を優先させるわけにはいかないんだ。まして、仕事前なら尚更だろう」

 

 目を伏せ、楽しげに苦笑してクロロは言った。ヒソカもトランプを取り出して、上機嫌で弄びながら笑っている。

 

「それでも、たまには遊んだっていいじゃないか♠ こんな時ぐらいは、ね♦」

「……言うなよ。オレまでその気になりそうだ」

「クックッ♥」

 

 ヒソカは手にしたトランプの束を、何気なく前方に放り投げた。クロロが堅を展開し、左手を本のページに添えて構えた。

 

 トランプは花びらのように大きくばらけて広がったと思うと、宙に浮かび、くるくると水平方向へ一様に回転して踊り始める。黒と赤の紋様が入った沢山のカードは、クロロからヒソカを隠すように、一枚の壁の如く舞っている。トリックは凝で見れば明らかだった。無数の細やかなバンジーガムが、個別のタイミングに従いながら、規則正しく収縮を繰り返していたのである。器用な奴だとクロロは思った。

 

 回転を続けるトランプの隙間の向こう側で、奇術師が二本指を振って踵を返した。去り行く寸前のジェスチャーに、クロロは眉をひそめていぶかしんだ。

 

 ぱたぱたとカードが回転を止め、隙間が尽く閉じていく。次の瞬間、トランプの壁が消失した。いかに夜間の雨中とはいえ、派手な紋様を見逃すほどクロロの視力はやわではない。しかし、そこには確かにヒソカが立っていた場所の背景が見える。不明な状況をそのままに、彼はマリオネットプログラムを起動した。頭の中にアラートが鳴る。それに従い、クロロは左手を前方に伸ばした。流でオーラを集中させた人差し指と親指が、飛来したカードを受け止めた。キャッチしたそれはトランプだった。既に周も跡形も無く解け、カラフルな模様をあらわにしている。

 

 先ほど、この一枚は見えなかった。すさまじく高度な隠が施された、透明に近い不可視の攻撃だったのだ。十中八九、何らかの能力による光学欺瞞。マリオネットプログラムが解析し、結果がすぐに提示される。彼の奇術の正体は、異常なまでに繊細な、恐ろしく高度な迷彩であった。

 

 クロロは楽しげに頬を緩めた。そして突然、何の躊躇もなしに後ろへ振り向く。その場所にヒソカの影が舞った。至近距離。ガムで自分を飛ばしたのだろう。右の拳を振りかぶり、疾風の如き速さで迫っている。スピードの乗り切った攻撃は、既に躱せる間合いではない。だが、もとより躱そうなどとは考えてなかった。スキルハンターのページは既に、ドラゴンヘッドの箇所を開いて発動している。クロロの左腕が突き放たれる。人類最高に迫るオーラの凝集密度、老いてなお研鑚を詰んだが故の念能力が、奇術師の硬を迎撃した。

 

 インパクトの瞬間、ヒソカの体躯が、腕が、不自然に鋭く加速し、ずれた。体に巻かれたバンジーガムが、外付けの筋肉として作用して、威力を底上げしつつのフェイントだった。しかしクロロも負けてはいない。純然たる体術でそれに応じ、己が視力だけで軌道を見切る。右と左、二人の拳が衝突し、夜に一輪の閃光が咲いた。衝撃波が地面を抉り飛ばし、周囲の全てが吹き上がる中、二人の男が笑っていた。

 

 お互いの体が弾けて別れる。が、ヒソカの周辺に浮かぶ飛礫の群れが、突如としてクロロへ向けて射出された。同時に、クロロの体も引き寄せられる。左手に付着していたバンジーガムが、ヒソカの右手との間で収縮したのだ。待ち受ける左手には硬がある。タイミングは完璧。踏みとどまることもできはしない。パワーでは相手が勝るのだ。特質系の能力者では、同水準の変化系に筋力で勝つのは困難だった。

 

 絶体絶命の窮地だったが、クロロはそれに攻撃で応じた。左腕の龍を射出しつつ、無数に分裂させて正面の尽くを飲み込ませる。至近距離からのドラゴンダイブ。圧倒的な面制圧力をもつその攻撃に、眼前の全てが吹き飛ばされた。

 

 バンジーガムが千切れたのを見て、クロロは慎重を期して後ろへ跳んだ。暗雲立ち込め星明りもない雨の夜を、もうもうと土煙が立ち昇っている。無人の荒野には照明もない。その中では、たとえオーラで強化しても、自分の手さえも見えないのだ。気配を頼りに戦うことはできるものの、それだけで完璧と思えるほどには、クロロの自惚れは強くはなかった。まして、相手はあのヒソカなのである。実力的にも性格的にも、がむしゃらな深追いは悪手でしかない。

 

 数秒して、何者かが土煙から進み出てきた。ファッションショーのモデルのように、気取った上機嫌な歩き方。特徴的なシルエットは、サーカスの道化も思わせる。ヒソカだった。

 

「やはりな。仕留められるとは思わなかったが」

 

 くつくつとクロロは愉快げに笑った。一方、ヒソカの右腕はずたずたに傷ついていたのだが、おそらくそれも表面だけだ。機能に影響するほどのダメージは、とうてい、負っているように見えなかった。

 

「やっぱりあなたは最高だ♥ 壊してしまうのがもったいないよ♥」

 

 とろけた瞳で紡がれる言葉は、間違いなく彼の本音だろう。それから、ヒソカは己の右手に滴る血液を啜って、陰惨に歪んだ笑みを浮かべた。

 

 黒いオーラが二人からこぼれる。まだ、お互いに軽い小手調べだ。本気の一分も出していない。クロロの胸中に楽しさが踊った。命のやり取りは嫌いではない。一対一の殺し合いは、決して嫌いではないのである。

 

 仕方がないなとクロロは思った。ああ、本当に、仕方がない。

 

「しばらく待ってろ。すぐに済ませる」

 

 言って、彼は右手の書物を閉じて消した。ヒソカの攻撃を懸念もせず、岸壁の近くへと歩いていった。攻撃されない事などは、確認せずとも分かっていたのだ。そしてクロロは、幾分窪んだ岩陰を見つけ、コートを脱いでそこを目掛けて放り投げた。そして、雨水の染み込んだ黒い髪を、右手で一度かき上げた。

 

「あいつらには言うなよ」

 

 冗談めかしてクロロは言った。セットしたオールバックの髪に両手の指で手櫛を通して、水で洗うように自然に下ろした。それから、二回ほど首を振って水滴を飛ばすと、黒い髪を掻き分けて、少年のように実に明るく朗らかに笑った。タイトな黒衣はぐっしょりと濡れ、引き締まった肉体に張り付いていた。今や、彼は完全に開放されていた。あらゆる束縛から自由だった。

 

「照れてるのかい?」

「言うなよ」

 

 クロロは微かにはにかんで、力を抜いた自然体で、息を深く吸い込んだ。しばらくの沈黙が訪れて、そして。

 

「はっはー!」

 

 クロロは大声で笑いながら、無邪気な、風のようなオーラを噴出させた。それはまるで子供のようで、この世の何よりも純粋だった。ヒソカの顔面が邪悪に歪んだ。

 

 クロロは大地を蹴ってヒソカへ跳ぶ。両手は無手のままである。燃え盛るオーラも楽しげだった。ヒソカもまた、至福の表情で応戦した。間合いは一瞬で詰められて、猛然としたラッシュが相互に打たれた。荒野に火花が連鎖する。

 

「いいよ! いいよいいよ! 楽しんでるね、クロロ!」

「お前ほどではないさっ! ははっ! はははっ!」

 

 拳と拳を打ち付けあう、少年じみた殴り合い。されど技量は天に届く、至高を越える舞踏であった。虚空の油断で終わる極限の攻防。呼吸という概念すらも既にない。ヒトの至れるはずの領域ではなく、しかし彼らは、誰よりも人間らしく戦っていた。パワーはヒソカが上回ったが、スピードではクロロが上手だった。二人とも完全に笑っていた。

 

 打撃と迎撃が一体となった高度な肉弾戦を繰り広げながら、彼らは単純に楽しんでいた。

 

 ひときわ鋭い右ストレートが、ヒソカの腕から放たれた。体重の乗り切った一撃が、風を切り裂き、クロロへと迫る。まともな防御は不可能だった。変化系の相手の肉体強化は、特質系より二段上だ。が、彼はその拳のタイミングを完全に見切り、渾身のショートアッパーを下から鋭く精密に当てた。右ストレートの軌道は跳ね上がり、クロロの肩を掠めて裂いた。血霧が吹き出し、ヒソカの顔がグロテスクに笑う。お互いに温まってきた頃合だった。準備運動は終わりである。

 

 瞬時、ヒソカの腕が引き戻され、オーラが弾性を持って大きく弾んだ。腕には、筋繊維を思わせる幾本ものガムが、一瞬にして既に張り付いている。

 

 そして、夜の空気が破裂した。

 

 音の壁を容易く破り、豪腕が彼に迫り来る。これまでとは違う、ゴムの収縮を用いた加速。直撃すれば即ち詰む。圧縮された時間の中でクロロは見切った。拳に集う濃密なオーラに、偏執的な粘着力があることを。だが、それを把握した上で彼はなお、左の掌で受け止めた。凝では足りず、左腕の骨が幾重にも折れる。衝撃が伝わって腰が沈み、踏みしめた地面が陥没した。足元の泥が大波めいた波紋を作り、空中の雨粒が弾け飛んだ。

 

 クロロの右手の中には既に、盗賊の極意が具現化していた。否、拳を受け止める前に済ませていた。今までにない速度である。テンションが上がってるせいだろうか。過去、これほど好調だった戦いなど、聡明な彼でも憶えがない。

 

 クロロは笑った。ヒソカも笑った。盗んだ能力が発動する。突如、左手のオーラが渦を巻いた。形状は螺旋。性質は旋回。形状と性質の複合変化による念能力。【渦潮太鼓】。渦流はバンジーガムの粘着を捻じ切り、ヒソカの右手を弾いていた。反動でお互いの体勢が大きく崩れる。次の刹那、ヒソカの足元からオーラの竜巻が吹き上がった。

 

「っ!」

 

 奇術師の顔が驚愕に染まる。稼げた時間は一瞬に満たない。が、そ吹き荒れるオーラの拘束が晴れた時、クロロは折れた左腕に旋風を纏い、ヒソカの腹部を殴り飛ばしていたのである。拳は確かに芯を捕らえた。長身が面白いように吹き飛んでいく。

 

 クロロはそれに追従する。足に渦を履いて車輪の如く扱いながら、泥水の荒野にしぶきを上げて、飛び去る獲物を追いかけていった。

 

 空中でヒソカがつぶてを放った。岩石の破片をゴムで捉え、収縮性をもって飛ばしたのだろう。丁寧に周で強化され、機関銃以上の破壊力で襲ってくる。が、今のクロロを前にしては、あまりに脆弱な飛沫でしかなかった。彼の周囲、四方八方に渦が浮かぶ。辺境の国の雷神の如く、背負う太鼓の絵図が如く、彼のオーラが回転を始めた。石の弾丸は尽く弾かれ、あるいは砕かれて消えていく。

 

 そこに、透明な何かが飛来した。大量のトランプであると理解した。恐ろしく高度な隠を施されたオーラが塗られ、精密な迷彩がリアルタイムに動いて、完璧に風景に溶け込んでいる。無駄に精緻な技術だった。だが、この戦いにおいては有効である。闇夜の高速戦闘の只中では、あらかじめ知っていても見分けがつくまい。必殺の刃の群れであった。だが、凝などしなくてもクロロには、直感だけで全てが知れた。トランプの位置も、狙いも、たわけた奇術師の稚気さえも。

 

 あいつは遊びだ。そう、クロロは正確に看破した。渦流でカードを塵に帰しながら、にやりとするかつての四番と視線を合わせた。ここまで悪辣な暗殺の技も、あれにとってはジョークでしかない。仕方ない奴だと、頬が緩むのを自覚した。

 

 放物線を描くヒソカに追いつく。左手には一層激しい渦が牙を剥き、破砕の顎門を開けている。着地の瞬間を狙って一閃を穿つ。正面から押し付けるような掌底は、風を貫いて容赦なく一直線に迸った。

 

 ぞぶりという手ごたえ。人体ではない。刹那、割り込んできたのは幾抱えもあるような岩石だった。バンジーガムで引き寄せたのだろう。宙に浮かぶ物体に、左腕は深々と埋まっている。が、邪魔になるような道理はない。直後、内側から渦流が荒れ狂い、大岩は脆くも砕け散った。ショットガンの如き破片が飛ぶが、縦渦で保護ざれたクロロには、掠り傷さえも与えられない。

 

 ただ、ヒソカが右腕を振りかぶる時間はあった。

 

 奇術師の肉体が唸りを上げ、バンジーガムが収縮する。遠くから、稜線近くの背景から、一筋のオーラが飛来する。瞬間でキロメートル単位の伸縮である。彼の念技は熟練を越え、壮大の領域で一人優雅に遊んでいた。星の大気が引き裂かれ、真空の尾を引いてオーラが迫る。クロロが避ける間隙はない。クロロが避け得る理由はない。

 

 腹に吸い込まれるオーラの弾丸。渾身の硬でガードしながら、クロロは確かに視認した。どこにでもあるだろうただの小石に、空前絶後の周が為され、あれだけの動きに耐えたのだと。今度は、クロロが吹き飛ばされる番であった。

 

 沼地のような泥に埋もれて倒れながら、クロロは掛け値なしに感嘆した。愉快さに笑う。口中の血と泥を吐き出して、汚れてしまった手の甲で拭った。遠くで佇む奇術師も、今では無残に泥だらけだ。それが可笑しくてたまらなかった。

 

 あの時、別の能力を使えば逃げることはできた。あるいは防ぐこともできたかもしれない。だが、それをする気持ちは湧かなかった。渾身の一撃が嬉しかった。殴られてみたいと心から思った。恐らくは奴も同じだろうと、彼はごく自然な結論を己に与えた。例えばそれは竜巻の時、クロロから離脱する手段はあったはずだ。だというのにあれは、あえて拳を味わったのだ。手加減ではない。それが楽しさであるが故に。

 

 ある意味で恋愛のような戦いに、クロロは愛しく悲しく切なくなった。戦いも殺人も好きだったが、これほど浮かれる一時は、あいつ以外にありそうにない。終わらせてしまうのが惜しかった。

 

 それでもクロロは立ち上がる。終わらせるために。ヒソカにこの手で止めを刺して、命を収穫するために。あるいは敗北して死ぬために。いずれ来るその時を予想すれば、喪失感が胸を満たし、例えようのない歓喜が踊った。病み付きになりそうな美食だった。団長という役割があったから、ずっと押さえてきたというのに。

 

 新たな発を発動させた。【魂の静穏の聖油(オイル・アタラクシア)】、オーラを癒しの薬液に変化させる能力である。たちまちのうちに痛みが和らぎ、全身の傷が癒えていく。体が格段に軽くなった。クロロ=ルシルフルは特質系の能力者である。強化系との相性は悪い。だが反面、全系統中最も異色な念を保有している。故に、正面からの肉弾戦では分が悪くとも、こうした技で補える。

 

 ヒソカが上機嫌で口笛を吹いた。体を反らし、親指を下ろし、勃起した股間の膨らみを誇示している。彼の動きはしなやかだった。流血はあっても致命傷はなく、決闘はまだまだ終わりそうにない。

 

 クロロはさらにページを進めた。次の能力が発動する。眼前の虚空から出現したのは、反りのある細身の刀剣であった。素朴な拵えに納められ、柄と鞘の表面には、様々な種類の獣の姿が、独特の浮き彫りにされて祀られている。彼がそれを手に取ると、彫刻のはずの獣神たちが、秘めた気配だけで鼓動を始めた。

 

 

 

 レオリオは圧倒的な格の違いを痛感していた。嗜虐的に歪むフィンクスの顔が、魔王の形相にさえ見えてくる。右腕を包むオーラの量が、今までの男の比較ではない。顔を流れた脂汗が、顎の先から数滴落ちた。意地も根性も関係なく、人であるが故の生物の部分が、どうしょうもなく足を竦ませた。喉の奥が粘ついていた。

 

 これが、本当の、発。

 

 小手先の小細工とは隔絶する、真の意味での必殺技。念能力の奥義。これまでの半生を結集し、今後の半生の礎となる、人間の生命を象徴する異能。レオリオは初めてそれを感じた。実際に殺意を持って向けられて初めて分かる、魂による感覚の理解だった。ゴンはおののき、キルアは驚愕で動けない。恐らく、それは二人が強いからだ。レオリオよりはるかに優れているから、見えなくていい場所までも見えてしまう。

 

 だから、彼は笑った。

 

 引きつった笑いにしかながなかったが、そんな些事は無視をした。これは笑いだ。喜びだ。奥歯をきつく噛み締めながら、震える両手を握って誤魔化して、彼は己が笑っていると定義した。いいじゃないかとレオリオは思う。分からないが故にまだ動ける。鈍感が故に愚かになれる。数歩歩き、ゴンより、キルアよりも前に出た。今、窮地に陥った仲間を前に、弱いということはこんなにも強い。

 

 稼げる時間はどれだけか、稼いだ後にどうなるのか。それは考えるべき事柄ではなかった。一秒先の出来事も、現在を乗り越えてから初めて心配するだけの価値がある。

 

 精一杯の虚勢を張って、レオリオは右手の親指で胸板を叩く。来いよ、と言葉にしないで口にした。狂気に近い絶望と恐怖が、脳の内部で電流を流す。それは痛みを伴う感情だったが、レオリオは表に出すことをしなかった。誰にでも分かる、滑稽なやせ我慢でしかなかったが、彼は意固地になって演技を続けた。遠く離れてフィンクスが笑った。

 

 眼前に敵が出現する。レオリオはそれを眺めていた。戦いの前は視認もできなかったであろう敵の動きが、辛うじて目に映るまでに成長したのだ。故に、彼は確かにそれを見た。圧縮された時の狭間で、金色の髪が流れたのを。独特の青い民族衣装。右手には鎖。膨大なオーラの篭った復讐の枷。

 

 クラピカ。単身で旅団と渡り合っていたはずの友人が、戦いを投げ出して滑り込んだ。

 

「テメェ!」

「させん!」

 

 豪速で唸るフィンクスの拳。それを受け止めるクラピカの左手。強大なオーラがぶつかり合って、視界が白く染められた。直後、吹き飛ばされるクラピカの体を、レオリオは渾身中の渾身で受け止めていた。威力が重くのしかかり、地面を削りながら減速する。腕の中のクラピカが右手を振るい、フィンクスへ鎖で反撃した。彼はそれを辛うじて回避し、続く、頚動脈を狙うキルアの手刀を紙一重で避ける。ゴンが果敢に攻め駆けた。今度は両手に硬を振り分けている。他愛ない工夫だ。フィンクスの技量であれば敵ではあるまい。しかし、多勢に無勢と見たのだろう。忌々しげに舌打ちして、彼は一旦間合いをあけた。

 

「お、おい。お前。その腕!」

 

 腕の中の友人を見てレオリオは叫んだ。クラピカの左腕はひしゃげている。それは幸運な結果にも見えた。あの攻撃を正面から受けて、片手の骨折で済んだだけでも驚愕である。だが、理性では納得できても感情は別だ。

 

「くそっ! ここじゃ応急処置もできやしねぇか!」

「いや、問題ない。完治した」

 

 クラピカはてらいも見せずに即答した。彼が言い切ったときには既に、砕けた骨は治っていた。親指の鎖が発動し、自己治癒力の強化で復元したのだ。あまりに非常識な現象だった。決して念に詳しいとは言えないレオリオだが、クラピカの才能は怖いほど分かる。平凡な能力者が真似した場合、それ一つに全霊を注ぎ込んで、ようやく実現できるかという強力な発。だが、彼にとっては、五つあるうちの一つでしかない。

 

「……お前達こそ、あまり無茶はしてくれるな」

 

 レオリオの腕から解かれる寸前、クラピカはぼそりと呟いた。直後、壮絶に鎖が薙ぎ払われ、旅団への牽制が再開された。そんな、鬼神の如く戦う男が、不思議と儚く弱々しく見えた。

 

 戦場ではアルベルトが舞っている。着流しの剣士の居合から逃れ、穴だらけの男の具現化をいなし、横殴る鎖の上を駆けて、念弾の掃射を牽制していく。闇を纏い、夜に紛れ、あらゆる事象を把握しているとしか思えない動きで、最低限の介入を全ての箇所に続けていく。戦域を支配しているのがクラピカなら、戦況を調整しているのがアルベルトだった。およそ、纏もできない人間のとれる挙動ではない。

 

 レオリオは思う。クラピカとアルベルトに任せれば、拮抗はこのまま続くだろうと。だが、拮抗できるだけだ。死闘には永遠に余裕がなく、ほんの小さなつまずきだけで全体が即座に瓦解する。旅団は強い。クラピカは強いが小さく脆い。

 

「このまま千日手にかまけても仕方がねぇ! オレが死ぬ! 後のことは頼んだぜ!」

 

 痺れを切らしたような大声で、巨大な筋肉の大男が吼えた。妨害するアルベルトを無視しながら、これ見よがしの突進でクラピカへと迫る。中指の鎖が直撃するが、肉体の強度だけを頼りに大男は耐えた。規格外のオーラが迸る。鎖という長鞭は単発ではない。蛇のように舞い、波のようにうねり、連続する打撃を与えるだろう。それでも、何発何十発と食らおうと、突進し続けるという覚悟なのだ。どれほど致命的な攻撃でも、命のある限り耐えようと。後ろから駆けてくる旅団たちが、彼らの目的を果たすと信じて。そう、そのはずだった。

 

 鎖の真価は拘束にある。足止めのための打撃ではなく、クラピカは大男に鎖を巻きつけた。見る間に全身が覆い尽くされ、その瞬間に異常は起きた。あれほど猛っていたはずの敵のオーラが、強制的に閉じ込められる。絶。有無を言わせぬ封印に、さしもの巨人にも焦りが見えた。

 

 もう一本、新たな鎖が戦場を伸びる。剣状の先端をもつ一筋の鉄鎖が、獲物を求めて煌き駆けた。【律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)】。掟を律する裁定の念。

 

 だがその時、間に割り込む人物がいた。長い髪で顔を隠した小柄な男が、身を投げ出すように大男を庇う。ところが、仲間を庇う蜘蛛の行為も、鎖の勢いは止められなかった。小さな体躯にあやまたず刺さり、心臓に先端が埋め込まれる。今のクラピカに迷いはない。彼もまた、仲間を背負って戦っているのだ。

 

「死ね」

 

 冷酷無比にクラピカは命じた。一拍を置いて、断罪の鎖が発動する。死ぬという動作をしなかったが故、心臓が無慈悲に圧壊された。逃れる術は唯一つ、裁定前の自害しかなかった。

 

 もし仮に、あの体が本人自身のものだったら。

 

「やったか!」

 

 レオリオは叫んだ。順番こそ変わってしまったが、まず、一人目。彼だけがこの場で誤解していた。

 

「違うっ! 念人形だっ!」

 

 キャロルと同じ手応えに、クラピカは即座に全容を見破った。即死せしめる能力とはいえ、全身の細胞は直ちには死なない。ところが、あれは完全に生命がない。そう、肉体は具現化された偽物だった。本人は空へと跳んでる。複製は盾と同時に囮でもあった。その隙に仲間が巨人へと向かう。アルベルトが阻止せんと乱舞するが、所詮彼は一人でしかない。着流しの剣士が真っ先に抜け、大男を拘束する鎖を剥いで、速やかに仲間を救出していた。絶好の機会を逃した痛恨のミスに、クラピカは奥歯を砕けそうなほどに噛み締めた。

 

 戦いが途切れ、アルベルトが四人の場所まで戻ってくる。血を喪失しすぎた彼の顔は、蒼白いを超えて土気色だ。レオリオは止血しようとワイシャツを脱いだ。これで上半身は裸である。熱くなった筋肉に雨が当たり、心地よく冷やして流れ落ちる。

 

 怪我は簡単な処置しかできなかった。泥だらけの面を外側に、左肩の傷口を圧迫し、上からネクタイできつく縛る。気休め程度にしかならないだろうが、やらないよりはましだった。アルベルトは、ありがとうと穏やかに言った。平常すぎて苛立ちすら抱いた。この異常な地獄の戦いの場でも、レオリオの精神は一般のそれを維持している。

 

「強制絶に、命令を破れば即死の枷か」

 

 旅団の一員、顔に傷のある念弾の男が、後方から冷静に評価した。

 

「反則くせぇな。どれも一級の能力じゃねぇか」

「ああ。だが、だからこそ大きな弱点があるはずだ。あれだけ激しい意志ならば、偏りが生じぬはずがないだろ」

 

 全身に穴を持つもう一人の男が、無情な経験則を指摘した。レオリオは思わず低く唸る。念と触れていた期間が違いすぎる。今も、看破されたというよりも、対処法が身に馴染んでいるに近い。

 

「とにかく、あいつはここで殺しておこう。強いだけならほっとけばいいけど、今も肌で感じるオレたちへの妄執、きっと旅団の妨げになる」

 

 ともすれば団長との合流よりも優先度は高いと、金髪で美形の青年が言った。

 

「ウボォー、どうやらあたしの方が適任みたいだ。あんたは生きな」

 

 驚くほど容易く女が言った。そこに思いやりの欠片は滲めど、悲壮な覚悟は全くない。呆れるほどに日常的に、彼らは、己を死ぬものとして位置付けている。

 

 そして、その場の光景が一変した。

 

 突如として念糸の大河が出現した。糸で紡いだ天の川。逆しまの滝の如く吹き出る大量のオーラが、空高く大樹のように全てを覆い、夜空を輝ける生命力で塗りつぶし、世界の有り様を変えていく。それはやがて大地に突き立ち、巨大なドームに変容した。

 

 著しく大規模な念糸の繭。壮大すぎる個人の異能。その内側に囚われて、レオリオは旋律に飲み込まれた。空を見上げて喉を震わす。どれほどの糸を紡げたら、ここまでの奇跡が織り成せるのか。この広い世界を括れるほどか。いや、もしかしたらそれでも足りないのか。

 

 なりふり構わぬ奥の手だろう。奥の手でないといけないはずだ。これが、命を賭したが故の出力でなかったら、旅団など人類が挑める存在ではない。レオリオは己も知らぬ間に、信仰にも似た畏敬の念を、相手に対して抱いていた。

 

 これが、蜘蛛。

 

 対抗して、クラピカの瞳が光り輝く。それはさながら業火の如く。一族を惨殺された怒りを糧に、奪われた未来に手を伸ばして、ありとあらゆる自己に関する喜びを捨て。羅刹の如き凄惨な殺意が、破壊と殲滅へ向けた強烈な飢えが、かつてない力となって鎖へ集った。

 

 中指の鎖から感じる威圧は、この星さえも裂けそうである。

 

 繭を構成する糸がほつれ、轟音を奏でて圧縮が始まる。鎖が唸り、破滅が始まる。四方八方から念糸が襲い、オーラの激流となって押し寄せてくる。クラピカが鎖でそれを粉砕する。クラピカの鎖が蜘蛛へと迫り、念糸の束で逸らされた。女は奥歯を噛んで汗を流す。クラピカは奥歯を噛んで汗を流す。お互い、意地と維持のぶつけ合いだ。威力はクラピカが辛うじて強く、手数は相手が一手多い。

 

 蜘蛛の面々が援護する。唐突に巨大な木星が現れたが、鎖のひと薙ぎで消滅した。津波の如き土壌の流れは、たった一撃で相殺された。念弾が猛烈に掃射されたが、クラピカは意にも介さない。

 

「まずい、クラピカ! 抑えろ!」

 

 珍しく大声でアルベルトが叫ぶ。が、クラピカに言葉を聞くような余裕はない。悔しげに渾身の鎖を振りかぶり、がむしゃらに旅団の方向目掛けて叩き付けた。それが最後の一撃だった。ついにオーラが尽きたのだ。全ての力を絞りきり、クラピカの意識が断絶した。体がぐらつき、そのまま地面へ崩れ落ちる。レオリオが慌てて支えるが、最早、先ほどまでの猛者はそこにはいない。生命力の井戸は枯れ果てて、纏が解けてもオーラがほとんど漏れ出さない。気絶し、病的な発熱が始まっていた。

 

 失念していたとレオリオは悟った。確かにクラピカの戦力は凄まじかった。だが、激しい怒りと緋の目で出力は増大したとしても。根本的な体力までが増えていたのではないのである。いかにエンジンが強力になったとしても、燃料タンクの大きさは全く無関係だ。潜在オーラの総量は、純粋に細胞の生命力だけに比例している。まして、あれほどの奮戦。蜘蛛と正面からぶつかって、互角以上に展開した戦い。湯水の如くオーラを使わず、織り成せるはずがなかったのだ。

 

「やっとか。……ふざけてくれたね」

 

 荒く息をつきながら女が言った。今にも内臓を吐き出しそうな、瀕死にも近い息の荒さ。空を覆う念糸は消失している。本人が回収したのだろうが、そんな些事はどうでもよかった。

 

「テメェら……」

 

 歯軋りしても、現実は何一つ変わらない。クラピカを肩で支えつつ、レオリオはオーラを込めて拳を握った。幻影旅団が近づいてくる。油断なく歩み寄る彼らの姿は、暴力的に厳かだった。

 

「レオリオ、待てよ」

 

 隣に並び、敵を見据えたままのキルアが、密やかに彼に囁きかけた。

 

「……逃げようぜ。こうなったらもうそれしかない」

 

 レオリオは驚いて振り向いた。取り乱した様子は全くない。銀髪の髪の少年は顔色が悪く、ぐっしょりと脂汗に濡れながらも、平静なままでそこに在った。暗い、刃の如き気配だった。

 

「おい、本気か?」

「冷静になれよ。オレは、……ゴンを殴り倒してでも連れてく。アンタにはクラピカのことを頼んだぜ」

 

 冷静で利口な判断だ。その冷静ぶりを苦々しく思った。オレは利口にはなれそうもないと、レオリオは口の中だけで呟いた。

 

「それがいい。同じ可能性ゼロならば、逃走が一番芽があるだろう。時間は稼ぐよ。ようやく、慣れ親しんだ状態に近づいたところだ」

 

 アルベルトが穏やかに頷いた。キルアの判断を賞賛し、囮になって死ぬと言った。穏やかに佇む優男の顔で、片目も片耳も片腕もなく、平然と無茶を言ってみせる。

 

「今の僕なら、旅団全員と戦って二秒はもつ。自分の全てを使い切ったら、十秒稼ぐのも不可能じゃない」

 

 恐らく彼なら成し遂げるだろう。クラピカが鬼神ならアルベルトは幽鬼だ。即興の連携、致命的な地力の格差を埋めていたのは、アルベルトの功績に他ならない。思えば、彼は常にその場にいた。連係の穴が開いた時、力が足りずに窮地になる時、彼は戦場の急所にいた。あるときは団員の一人をひきつけて、あるいはクラピカの代わりに他を抑えた。

 

 しかし、だとすれば少なくともここ数日、瀕死に慣れるような状態にいたのか。本人は平気な表情だったが、つくづく、化け物の一人だとレオリオは思った。こんな状況でなかったら、小一時間は説教してやりたい気分だった。

 

 だが、それでも。

 

 背中に友人の重さがあれば、レオリオも逃げの一手を切り捨てられない。

 

 幻影旅団が近づいてくる。油断も隙も驕りもなく、慎重に包み込むように歩いてくる。あと二十メートルもありはしない。奴らにとっては一足の間だ。もう、時間の余裕は残っていない。

 

「ゴン、待て!」

「大丈夫。キルアは逃げて。オレがちゃんと守るから」

 

 突然前に出たゴンが言った。黒い瞳を暗く燃やし、右の拳を抱えるように構えている。敵の間合いで既に硬。右手以外は完全な無防備。いや、それより。あの手に集う絶大な光は。

 

 いったい、どれほどのオーラを圧縮したら、あれだけの気配をかもせるのだろう。あれではまるで旅団級。そう、威力だけで考えるなら、蜘蛛の一撃にすら匹敵する。

 

 旅団が迫る。ゴンは頑としてその場所を動かなかった。大量のオーラを注ぎこみ、唯一の技の硬だけを武器に、怒りを糧に。さながら、己が子を守る母猫の如く。

 

「おうおう、怖いことするじゃねぇかよ、坊主」

 

 短い顎鬚を擦りながら、着流しを羽織った男が言った。少年の死力を意にも介さず、むしろ楽しげに観察している。居合の初太刀の間合いは広い。卓越した身体能力とあいまって、ゴンでは絶対に先手はとれない。

 

「ノブナガ、相手が欲しいなら僕がなるぞ」

 

 アルベルトが言う。この距離まで近づけてしまったら、いくら彼でも全員から庇うのは不可能である。まして相手は速さに長ける。アルベルト本人ですら先読みできても、放たれてからの回避はできない。だからこその挑発だった。しかしそんな思惑も、進み出た新手によって露と消えた。顔に傷の目立つ念弾の男が、お前はオレだと無言で告げた。念弾が爆ぜ、アルベルトは否応なく戦いの渦中へいざなわれた。

 

 ゴンを目掛けて閃光が煌く。神域に達した抜刀速度。居合は無慈悲に鞘を滑り、軽々と音速を突破した。手心など最初から期待できない。彼はそこまで器用ではなく、そもそもそこまで愚者ではない。切っ先は少年の首筋に吸い込まれ、たった一人の一つの動作が、戦場の空気を凍結させた。

 

 キルアだ。最後の刹那に滑り込んだ彼が、刀身を両手で止めていた。

 

 白刃取り。水平に斬り払われた刀のしのぎを、上下から挟んで受け止めた絶技。それは完全な偶然だった。億より稀な空前の奇跡。本人にとっては、なぜ体が動いたのかすら不明だろう。それでも、キルアはこの瞬間に間に合った。そして、誰もが止まった時の狭間で、ただ一人動いた者がいた。レオリオだった。

 

 生来の単純さに物を言わせ、クラピカを肩に担いだままで、全力の拳を振り下ろした。頬を殴られた着流しの剣士が、地面に埋もれるほどに打ち付けられる。泥が盛大に飛び散った。

 

「いい土産話だ! 旅団を殴り倒してやったってな!」

 

 上半身を晒した不格好な姿で、彼は大声で叫び上げた。旅団が一斉に我に返る。明らかに敵を利する悪手だったが、結論から言えば、彼は何も考えてなかったのだ。そして、ここには何一つ考えてない馬鹿がもう一人。ひたすら自己に埋没し、一身に機会を待っていた。

 

 ゴン。彼の右手には、硬がある。

 

 拳が唸る。居合の男を守ろうと、毛皮を着た大男が迫ってくる。ゴンのオーラが爆発した。知っていたのだ。なによりも本能で嗅ぎとっていた。彼女を殺した団員を。空前絶後のオーラが込められ、二人の硬が正面からぶつかる。ゴンの体が弾かれた。それでも彼らは終わらない。絶妙に軌道を読んだキルアに容易く受け止められ、少年は無傷で復帰した。

 

 起き上がった剣士が激昂して駆ける。今度は止められるはずがない。そこにレオリオが立ちふさがった。彼では決して奇跡もおきない。レオリオもそれは承知していた。泥を跳ね上げる様に蹴りを放つ。だが、その程度は児戯も同然である。レオリオを両断しようと刃が滑る刹那、間を潜り飛来したアルベルトの蹴りが、男を上空から急襲した。

 

 ゴンとキルアが戦場を駆ける。死の運命は覆せない。こんな健闘では時間稼ぎだ。それでも、例え数秒後に死ぬと分かっていても、彼らは全力で戦っていた。

 

 ———そのはず、だったのだ。

 

 

 

 バンジーガムが収縮した。体が遠くへ引き寄せられる。はるか彼方、クロロの背後の岩塊まで、ヒソカは一直線に飛んでいく。風が、雨が、頬に当たる。自然の幼い悪戯に、ヒソカは穏やかに目を細めた。クロロが地上で見上げていた。その上空を過ぎ去っていく。

 

 無論、このまま飛び行くつもりはない。大地にガムを突き立てて、彼は勢いのままに急降下した。骨が加重で軋んでいる。空を破いて引き裂きながら、人の目で追えぬ速度に至る。接近しながら、四肢に幾筋ものガムを巻きつけていく。最適な量で、最適な運動ができるように、外付けの筋肉を装着していく。長身が故の手足を伸ばし、卓越した柔軟性に任せてしなやかに力を溜めていく。

 

 地面の上でクロロが見上げる。手にした刀の鞘が砕けた。それはきらめく光の破片になって、持ち主の体に吸い込まれていく。彼の体に紋様が現れ、刺青の如く燐光を発した。白く濁った刀身が、左手の中で鎌首をもたげる。ヒソカは歓喜に破顔した。汗をかいた拳を握る。コンマ一秒にも見たぬ視線の交差で、相手の全力を察知したのだ。あの人の命を、もうすぐ狩れる。

 

 稲妻の如くヒソカは落ちて、クロロは明星の如く切り上げた。拳と切っ先が触れ合った。肉と鉄とが拮抗する。この領域の現象では、材質などもはや関係がない。オーラの加護がなかったならば、物体は固体としても振舞えない。

 

 衝突の瞬間、一筋の光が、オーラが天地を貫いた。それだけだった。音はなく、風も微塵も動かない。天変地異の如き静けさをもって、二人の激突は迎えられた。意味することは唯一つ、世界の有り様の変容が、彼らについていけなかったのだ。例え全人類がこの場にいても、全容を見抜けたのは十人とおるまい。

 

 だが、それほどの絶技を競いながら、彼らは全く無頓着に次へと移った。今度は、更に速かった。

 

 荒れ狂うショートアッパーの連発をクロロが放った。刀剣は既に見限っている。悪夢のように濃密な左の拳の弾幕は、単純なスピードによるものである。拳からは念弾が掃射され、天よ憎しと上空をつんざき迸る。ヒソカはそれを紙一重で避けた。体躯をガムで強引にねじり、手足の回転を伴い空中で大胆に横転した。

 

 この伸びやかな心身こそ、ヒソカの強さの源流であった。生まれながらの性質から、万事において自然体に、彼は念の奥義に合致している。仙人じみた滑稽な領域、必死めいた無我に自らを追いやることもなく、生来のままに邪悪だった。だからこその最強。だからこその遊戯。能力の強弱すらも関係ない。彼はヒソカであるが故に無敵なのだ。

 

 対して、クロロは正真正銘の天才であった。ヒソカの本気を即座に見切り、性能を正確に把握していく。理論と直感を高度に伴い、異常識の慧眼で看破していく。反則的な能力量を礎に、最良の技を、最適な機会に、持ち主以上の応用力でもって当てはめていく。最強は彼に必要ない。クロロにとって、強さなど勝利を掴む材料のひとつにすぎなかった。

 

 地面に着地してヒソカが迫る。間合いは既に至近である。お互いに必殺の距離だった。ヒソカの体をガムが覆う。クロロは使用した能力の事後硬直を、ページの切り替えで強制的にキャンセルしている。

 

 刹那、機関銃の如き攻防が咲いた。バンジーガムを存分に活かし、ヒソカの両腕が弾雨を奏でる。クロロの身体に粘着し、行動を絡めとろうと束縛していく。が、クロロは異様に精密な動作でその尽くに正確無比に対処していく。ヒソカが仕掛けたガムを切り、起動を完全に予測して、左手一本で全てを防ぐ。のみならず、ヒソカの攻撃のムラを利用し、致死威力の攻撃を頻繁かつ果敢に挟んでくる。クロロの眼光からは人間味が消え、オーラは機械的に整っている。ヒソカはその能力を知っていた。対処法は誰よりも把握している。

 

 ヒソカの長躯が捻られ歪んだ。今筋の筋肉で右腕を絞り、健在可能な全てのオーラを集中し、超絶の筋肉として貼り付ける。クロロの漆黒だが無機質な目が、されど驚愕に見開かれる。これほどの異形の体勢をとって、なおも彼の介入が不可能なほど、その動きは能力の隙をついていた。回避する術はもはや無かった。使用する側では分かるまい。マリオネットプログラムの戦闘システムは優秀で、だからこそ優等生的な回答ばかりを弾き出す。演算に余裕を持てる格下か、常識的な敵ならそれでもいい。

 

 しかし、世の中には例外もいるのである。望んで非効率に走るような、摂理に逆行するどうしょうもない奇人が。卓越した能力を持ちながら、救いようのない愚行しかしない狂った輩が。クロロとてあの能力を使っていなければ、その程度は百も承知だったはずだ。

 

 最大限の瞬発力で、ガードの上から殴り飛ばした。クロロの体が吹き飛んでいく。最良の手応えをヒソカは感じた。腕の一本は確実に砕けた。否、衝撃はそれ以上深くまで揺るがしたはずだ。

 

 ところがその時、ヒソカの腹部が灼熱した。気付き、さすが貴方だ、と彼は微笑む。あの刹那、クロロは防御を最小限に、念弾を無防備な腹部へ向けて撃っていたのだ。かつてアルベルトが得意とした、超高密度の小さな念弾。その残留と思しき気配が、ヒソカの背後へ消えていく。内臓が破け、血がこみ上げてくるのを実感した。とても愉快な気分だった。

 

 雨がそぞろに降っていた。

 

 お互いに残すオーラは少なくなり、深刻なダメージを負っている。終わりが近い。ヒソカは舌で唇を舐めた。体中、血の滲む傷の一つ一つが、生娘の如く切なく痛んだ。クロロでの遊びはいくらやっても飽きる徴候さえもなかったが、だらだらした幕の引き方はごめんだった。ならいっそ、次で終わりにしようじゃないかと、ヒソカは絡みつく視線でクロロに問うた。相手は見透かした顔でにやりと笑った。

 

 お互いに最高の一撃にするのが、暗黙の了解以前の前提としてあった。後を考えずオーラを練る。黒い目を深い闇色に輝かせて、クロロは、爛々とヒソカを見つめていた。ヒソカは彼を惜しいと思った。恐怖にも似た肉の愛が、心身を激しく痙攣させる。かつてない力が出せそうだった。愛しさと切なさが混ざり合って、ヒソカの肉柱を硬くした。その頃には、彼ら二人のかんばせには、子供らしい無垢な微笑さえもが表れていた。

 

 激しい力が噴出してくる。あと五秒。それだけあれば、両者のオーラが練りあがり、どちらかが確実に命を落とす。二人ともそれを知っていた。

 

 だが、五秒後はついぞ訪れなかった。

 

 

 

 どれほどの時間が経っただろうか。ポックルが次に目覚めた時、体のどこかが鋭角に痛んだ。まどろみに似た緩慢な死が、未だに脳裏に張り付いている。やがて、ぼやけていた視界がゆっくりと晴れた。

 

 懐かしい気配がそこにあった。どこからともなく現れたもの。粉雪のような数多の光。それは、蜂の姿をした念弾であった。ここに至り、彼はようやく、彼女の能力の真価を知った。

 

 ポンズの能力。それは、術者をも置き去りにする独立性だ。ただ、蜂のようにありなさいと、彼らは、そう願われて生み出された。故に。彼らは、一つの個として独立して、蜂であることを優先したのだ。擬態にすぎぬと知りつつも、母の望んだそのままに、この大空に群れていた。

 

 念弾がポックルの体に染み込んでくる。このオーラの群れは妙に痛い。全身の神経が発火している。これまでの鈍痛とは違う鋭さ。笑い出したくなるほどの痛さだった。額を右手で押さえながら、彼は再び立ち上がった。

 

 左手はある。両足も。水塊は今にも崩れそうで、辛うじて流れ去ってないだけだったが、形だけはどうにか残っていた。それだけでよかった。自分の中に埋没する。残存する無念を集めようと、彼は自己の深窓へ向けて潜行した。だが、その時にはたと気がついた。彼の心に寄り添うように、弱々しい意志が漂っていると。左腕のスライムの真ん中に、誰かの無念が灯っていた。

 

 無念。そう、無念だ。彼が夢中で開眼した念は、無念をつがえて水の矢を放つ。であれば、既に死の境地に踏み込んでいる今の彼ならば、他の死者の無念をも汲み取れるのではないか。ポックルの頭に浮かんだ発想は、すぐに実地で試された。

 

 呼びかけるように瞑想する。まずは最も手近に感じた、銀髪の少女の無念から。ややあって、彼女ははるか暗い深遠から、驚いたように顔を見上げた。そんな気配が確かにあった。

 

 お互いに再び活が入った。スライムの手足がしゃんとする。ポックルも負けていられるはずがない。より深く、より遠くまで、貪欲に他者の念へと心を広げる。一つでも多く、共感する存在を探そうと。なにせ、これで確実に最後なのだ。自らの終焉を眼前にして、ちっぽけな存在と自覚しながら、彼は全霊以上のものを注いでいた。結果は驚くべきものだった。

 

 荒野の片隅に無念が集う。虐げられたものたちの残した悲哀が、大地にこびりついたやり切れぬ想いが、ポックルを目掛けて飛び込んできた。それら多くの死者達は、共通する死因を抱えていた。

 

 戦いで散ったマフィアがいた。無意味に潰された婦人がいた。恋人ごと殺された青年がいた。虐殺された大衆の恐怖が、赤子を殺された親の憎悪が、拷問に果てた激痛の記憶が、あの町に降り積もった沢山の無念が、たった一つの目的のため、善悪も忘れて殺到していく。ポックルは彼らの全てに向き合っていく。誰一人として拒まずに、心身の全てを開け広げ、惨憺たる無念を受け入れていく。体に染み込んでいた念弾が、よく知った仕草でくすりと笑った。

 

 これは一つの反逆である。圧倒的な力に対する、ちっぽけな個人たちの反逆であった。

 

 無念を糧に水が集う。ポックルが何かしようとしたのではない。集わせようとほんの微かに気を抜いただけで、自ずから空中に渦を巻いてきたのだった。

 

 水が集う。生命力の粒子にいざなわれて。いつしかそれは球体となった。洪水のように大量の水が、分子の大きさ、電磁気力の反発を容易く無視して、一握の空間に吸い込まれていく。渦巻くオーラで紫電が生じ、水はプラズマとなってなおも集う。

 

 ところがポックルはたじろいだ。今さら臆病風に吹かれはしない。が、皆と願いを共同する故、誰よりもそれを為したいが故、見抜いてしまった欠落を、無視することができなかった。確信したのだ。これだけの念の奔流は、彼の才能では扱えないと。

 

 悔しかった。歯がゆかった。ポックルとて、有象無象の凡愚ではない。むしろ天才と呼ぶに十分な、世界に羽ばたけるだけの素質があった。否、それ以上に才能があった。しかしそれでも、常識という一線を超えてはいない。

 

 やめてくれ、ここまでにしてくれと彼は焦った。たった一度しかないこのチャンスを、生涯最後に放つ一矢を、こんな形で終えたくない。生半可な力で太刀打ちできないことは身にしみていた。だが、このままでは触れることすらできはなしない。天賦の才は役に立たず、水球を矢に変えることも不可能だった。

 

 雨水は無常に集まっていく。治まる様子は欠片もなかった。余命は少なく、躊躇していられる時間はない。一か八か、ポックルは一歩前へ踏み出した。半ばやけになりながらも喉を鳴らす。無謀な挑戦だとは分かっていても、少しでも規模の小さい段階で、水球に触れる覚悟をした。

 

 その時、大きな掌が肩に触れた。優しく、力強く、さばけた様子で、ぽんと叩いて感触は消えた。陽気な忍者の声が聞こえた。それは完全な幻聴だった。振り向いても誰もいなかった。そのはずだった。

 

 風が、動き出した。

 

 水球から怖さが消失した。迫力はある。暴力的な現象は際限がない。なお一層に勢いを増し、竜巻そのものとなって周囲の水を貪飲している。半径およそ二百メートル、雨の染み込んでいた大地は乾き、地下水は枯れ、宙を舞う雨粒は跡形もなく、空の黒雲は消失し、きらびやかに輝く星々が見えた。ありとあらゆる水分が、円筒状の空間に限り存在しない。絶大な力の胎動が聞こえる。しかしそれでも、恐怖だけは全く感じなかった。むしろ、頼もしい安心感さえ匂っていた。

 

 そしてついに嵐がやんだ。今、一本の矢が静かに空中に浮いている。内部には七色に光るプラズマが流れ、風を凝縮した表皮に覆われ、凍ったように美しかった。ポックルはその矢にそっと触れた。氷のように静かだった。呼応して、左腕の水塊も異形の強弓へ変形していく。手首からリボルバーの如く出現する、三対六腕の星型大弓。弦はない。これは弾力で打ち出す武器ではなく、心で放つ祭器である。

 

 ここから先は得意分野だ。稜線の彼方の超遠距離、生命の欠如で衰えた視力、邪魔をする地形。それでも、問題は何一つとして存在しない。戦いの気配から方角は分かる。地形は土が、角度は夜風が教えてくれる。

 

 矢をつがえて、祈りを捧げながら引き絞った。渾身の力を使い切り、最後までオーラを込めながらも、完成された挙動は無造作に近い。額にふつふつと汗が湧いた。右手の筋肉が断裂を始め、脊髄が刻一刻と壊れていく。胃の腑の奥に死の味がした。彼は既に死に始めていた。辛うじて意識らしいものを保ちながらも、睡眠寸前のまどろみのように、頭が甘く溶けるのを自覚していた。だが、ポックルは終ぞ焦らなかった。鋭敏になりすぎた神経が、指先に全てを集中させた。

 

 狙いを定めて指が離れる。矢はゆっくりと滑り出し、唐突に光の速さに加速した。それは蜂のように鋭く飛び、水塊のように純粋に、風を切り裂く手裏剣のように、あの空の向こうまで消えていった。

 

 終えてみれば、なんとあっけない出来事であろうか。後に残ったのは静寂だけだ。ポックルは倒れながら空を見上げる。左手と両足は飛沫になって、ただの水へと返っていった。背中を打った暗い土が、彼の常しえの寝床となろう。最良の気分で眠れそうだ。

 

 天候は徐々に戻り始め、雨雲の穴が塞がっていく。彼は最後に星を眺めた。吸い込まれそうな無数の星が、金貨のように大きな月が、雲の切れ間に輝いていた。終わりゆく今のポックルにとって、それは絶対的な救いに見えた。たとえ人の内で殺しあっても、人類は月を殺さなくていい。あれだけはいつも見下ろしてくれる。あれだけは遠くに見上げていられる。海に漂っているように錯覚して、無性にシイラを食べたくなった。

 

 こうして、彼の生命は停止した。その死は決して悲劇ではなかった。駆け抜けた果ての価値ある到達。生まれ持った命を使い尽くし、彼は正しく終わったのだ。

 

 

 

 胸に穴が空いていた。

 

 

 

 最初に察知したのはマチだった。予知能力じみた勘のよさで、徴候が現れるより刹那に早く、恐るべき形相で荒野の方向を睨みつけた。彼女はその瞬間に走り出した。

 

 直後、アルベルトのオーラが明らかに変わった。延々と垂れ流されていた生命の力が、彼の体に纏わりつき、力強く庇護して留まっていた。機械の如き精密さで、全身に微塵の歪みもない。そしてまた、彼も即座に疾走した。あれだけの重症を負っていながら、その事実を全く感じさせずに駆け抜けていった。

 

 旅団の面々がそれに続く。誰もがオーラを全開にして、必死の形相ではるか彼方へ走り去っていった。駆ける以外、彼らは何も考えていない。自分や仲間の生死どころか、敵の無事さえ無頓着で、全員が一丸となって荒野の彼方へ消え去っていった。オーラの軌跡を後に残して、何かに吸い寄せられるようにその場から消えた。

 

「なっ……、おい、何が起こった……?」

 

 クラピカを肩に抱えながら、レオリオが呆然とした様子で呟いた。ゴンもキルアも唖然としていた。レオリオには何も異常は感じられず、少年二人も、強いて言えば微かな違和感をどこか遠くに認める程度の知覚しかなかった。彼らは皆、旅団とアルベルトの反応から、あの荒野で致命的な何かが起きたのを知ったのである。

 

「……終わった、のか?」

 

 レオリオが尋ねた。それは事実の確認ではない。突然訪れた幸運を、誰かに肯定して欲しいが故という心情が内心から色濃く浮き出ていた。

 

「ああ、終わりだと、思う」

 

 低い声でキルアは言って、ゴンの顔を窺った。彼もまた実に慎重に頷いて、戦いが終わったことに賛意を示した。まるで、少しでも大きな声を出せば、旅団が舞い戻ってくるかのようであった。

 

「勝ったんだ、よね?」

 

 ゴンが尋ねて、キルアとレオリオが無言で首を縦に振った。しばらく、誰も何も発言しない。物音の一つもたてなかった。だが、やがて。

 

「勝ったぞー!」

 

 思い切り仰け反ってゴンが叫んだ。歓声が歓声を呼び起こし、彼らは叫びながら抱きしめあい、背負った友人の肩を抱いて、足を踏み鳴らして狂喜を示した。そのために体力を使い果たし、すぐにふらふらと倒れそうになる。だが、これで少なくとも街は守れた。程度の浅い勝利だったが、旅団を撃退できたことだけは事実である。

 

「信じられねー。なんで生きてんだろ、オレたち」

 

 その場に座りながらキルアは言った。今さらながら、額にどっと汗が吹き出ている。それを手の甲で拭ってから、彼は仰向けに倒れこんだ。大の字になり、降り続ける雨を眺めている。ゴンもまた、彼の隣に座り込んだ。

 

「ってか強すぎだろ、旅団。まるっきり化け物じゃねぇか」

「怖かったね。……アルベルト、大丈夫かな」

「まぁ、元気に走り去っていったし平気だろ。つーかもう心配してもしょうがねぇよ」

「ああ。うん、そっか」

 

 ゴンとキルアの語らいを横目に、レオリオも地面に座ることにした。いずれ街に帰らなければならないだろうが、今はとにかく休みたかった。意識を失ったままのクラピカも、命に別状はなさそうだった。レオリオは思わず口を開いた。

 

「あー、安心したらなんか涙出てきた」

 

 情けない台詞が飛び出てくる。ゴンは面白そうに笑っていたが、キルアはやや間を空けてから目じりを拭った。

 

「やべ……、オレもだ。おいゴン。オレ明日から戦えないかも」

「なに言ってるのさ。キルア色々凄かったじゃない。刀とかバシっと受け止めちゃって」

「頼まれても二度とあんなことしねぇよ。つーかぜってーできねーっての!」

 

 二人は軽口を叩き合う。それはいつもと同じ光景だった。先ほどまでの死闘も、もはや過去の一部となり、彼らの血肉となったのだろう。レオリオはそんな歳若い友人たちの生き方を、微笑ましくも恐ろしい気持ちで見守っていた。ところが、しばらくしてゴンが右手を握り、拳を無言で見つめ出した。

 

「ゴン、どうした?」

 

 レオリオは尋ねた。キルアは何か思い至ることがあったようで、複雑な表情で彼の様子を観察している。

 

「うん……。少しは、浮かばれたかな、って」

 

 レオリオは詳しく知らなかったが、ゴンの仕草から大体悟った。事情をではない。心情をである。なによりも思い出したのはポンズの顔だ。レオリオは奥歯を噛んで沈黙した。口だけなら、ゴンの疑問に応えるのは容易い。だが、真実は誰にも分からないのだ。

 

「おーい、勝ったぞー」

 

 寝転んだまま、キルアが無責任に声を上げた。それは大気に吸い込まれ、雨の振る中に消えていった。ゴンとレオリオは顔を見合わせ、やがて、空を仰いで息を吸った。

 

「おーい」

 

 

 

 荒野。ヒソカの肉体を右肩で支えて、アルベルトは旅団と対峙していた。胸に大穴の開いた奇術師も、命までは喪っていない。心臓の代わりにガムを使い、その弾力で血液を流し、辛うじてだが、彼はいまだに長らえている。

 

 クロロはウボォーギンに抱えられて、旅団のメンバーに守られている。円陣は強固に固められ、壮絶な警戒心があらゆる方向へ牙をむいているのだった。

 

 雨の中、両者は無言で睨みあった。仮に旅団が攻撃に来れば、彼らは必ず勝てるだろう。だが、それを為すことはできなかった。アルベルトに団員を殺す力はないが、抱えた弱点が致命的すぎた。能力の戻った状態であれば、瀕死のクロロを充分に狙える。

 

 現在、アルベルトには能力が戻っていた。視界には浮遊ウィンドウが幾つも並び、様々なデータを示している。オーラの残量ゲージはゼロ寸前で、体はレッドアラームだらけである。だが、そんなことすら微笑ましくなるほど、全てが彼にとって懐かしかった。

 

 マリオネットプログラムが分析する。謎の攻撃はヒソカを背中から貫いて、一直線にクロロへと向かった。頭部を吹き飛ばすはずだった一撃を、恐らく彼は右腕でいなした。とっさの、無意識による判断だろう。とほうもない水準の反射であるが、凝縮された生命力が、そこで一気に爆発した。結果、盗賊の極意はそのイメージごと粉砕されて消失し、右腕を伝った余波が血液を伝い、心臓の内部で致命的に爆ぜた。

 

 アルベルトはクロロを見つめていた。彼もまた、おぼろげな瞳で見返していた。黒い、吸い込まれそうなほど深い透明な闇。やがて旅団はその場から消え、アルベルトも、ヒソカを抱えて帰路についた。

 

 胸に抱く感傷は多かったが、言葉は何一つとして掛けなかった。誰もが終始無言だった。全員が理解していたのである。また、すぐに会うことになるだろうと。

 

 終わりは近い。それは終演の前兆であった。

 

 

 

 ドリームオークションは眠らない。ネオンの瞬く大きな通りを、アルベルトは、ヒソカを肩で支えて歩いていた。夜は未だに暗かったが、雨脚はだいぶ控えめになっていた。あまり多くない数の通行人が、遠巻きに奇異の目で眺めていた。血と泥で汚れた男が二人、重症を負った体を引きずり、支え合うように歩いているのを。

 

 ヒソカの体が重かった。

 

 胸に大穴を明けられても、彼の命は終わらなかった。残り少ないオーラを用いて、辛うじて、穿たれた傷を塞いでいる。それでも、分析せずともアルベルトには分かった。もう、永くはない。

 

 ヒソカの太い腕の力が、だんだんと弱弱しく抜けていった。重力に負けて体が落ちる。アルベルトは自らの腰を一旦下げて、力を込めて抱えなおした。左手がないのを不便に感じだ。

 

「戦いたかったんだ、クロロを♠」

 

 独り言のようにヒソカが言った。熱に病んだ目つきで地面を見つつ、雨水の滴る前髪をたらして、蒼白な顔色で白い吐息を洩らしていた。アルベルトは隣に視線をやることも叶わずに、ただ、ああ、とだけ小さく頷いた。

 

「殺したかったんだ。この手で♦」

 

 壊したかったと、止めを刺したかったとヒソカが言った。獲物に想いを馳せると同時に、筋肉に生命が戻ったのだろうか、恐ろしく強い、瀕死とは思えぬ腕力が、アルベルトの肩を軋ませた。戦ったじゃないか、とは言えなかった。その言葉はとても蒙昧で、あてつけがましく、そして何より酷薄だった。

 

「クロロは、壊れちゃったかな♣」

「……生きては、いるだろうけどね」

 

 下手な慰めはできなかった。詳しい観察こそはできなかったが、死んでないことは確かだろう。なにしろヒソカが死んでない。だが、これからどうなるかは不明だったし、再び戦闘できるほど回復するかはさらに未知数だった。盗まれた能力の帰趨も含めて、アルベルトとしては、是非とも命を断っておきたかった。しかし、今はそのような些事よりも。

 

「なあ、ヒソカ」

 

 アルベルト自身の呼吸も弱い。肉体に力は残っておらず、オーラの残量はあまりに少ない。それでも、彼はヒソカに問い掛けた。

 

「決闘しないか、僕と」

 

 立ち止まって、男たちは至近で顔を見つめ合った。ヒソカは目を丸くしていたが、やがて、玩具を見つけた子供のように、嬉しそうな瞳で陶酔して笑った。

 

「殺し合おう。いつかの約束のとおりに、さ」

「ああ、そうだったね♥」

 

 アルベルトを見上げてヒソカは笑う。今年の初め、初めて会ったあの日のように、とても歪でよこしまで、あまりに綺麗な微笑みだった。その眼は色鮮やかな未来に輝き、無邪気な期待感に満ち溢れていた。

 

「さぁ、戦おうじゃ、ないか♠」

 

 それっきりだった。それっきりヒソカは何も言わず、肉体から、あらゆる存在感が抜けていった。胸元を塞いでいたオーラがほどけ、こぽりと、鮮血の塊が地面に落ちた。水溜りが赤く色付いて、通行人の悲鳴が上がった。体温はまだ少し残っていたが、ヒソカは二度と動かなかった。

 

 夜の街並みをアルベルトは歩く。物言わぬ友人を支えながら、たった一人で、一歩一歩と歩いていった。警官たちが駆けつけてきたが、ライセンスを提示して黙らせた。邪魔されたくはなかったのだ。アルベルトにとって、彼は確かに友人だった。ひどく奇妙な関わり方で、一方的な憧れにすぎなかったが、友情らしき好ましさを感じていた。……だからこそ。

 

 ヒソカは、戦いの中で散ったのだと、アルベルトは己の心に深く刻んだ。

 

 

 

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【渦潮太鼓 変化系】

オーラを渦状に変化させる念能力。

術者からオーラが離れた際は、最大射程は十メートル。

 

【魂の静穏の聖油(オイル・アタラクシア) 変化系】

オーラを癒しの薬液に変化させる念能力。

万障に効くが、外用薬のため体表面の傷や疾患に対して特によく作用する。

自然治癒しない症状の場合、ある程度の緩和に限り可能である。

 

【虎杖丸(クトネシリカ) 強化系・具現化系】

神話を模した一子相伝の護り刀。

最長で一秒という短い時間に限り使用者の身体能力を著しく上昇させる特性がある。

反面、刀としての性能はありふれた名刀並のそれでしかない。

 

【我流天昇(ランページキャノン) 強化系・放出系・操作系】

瞬間的に乱打される喧嘩アッパーとそれに附随する放出攻撃のコンビネーション。

威力こそ高いが、動作が定型として決まっているため、発動中は正面上方以外に対して無防備となる。

 

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次回 第四十一話「ヒューマニズムプログラム」



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第四十一話「ヒューマニズムプログラム」

第四十一話「ヒューマニズムプログラム」

 

 そのような手段を用いることで、アルベルトはエリスのオーラを飲み干した。

 

 

 

 雨は止み、夜空が紫に変わる時分、黒々とした闇が彼らの心中を覆っていた。集中治療室の外は血まみれだった。廊下は臓物と絶望に暗く濡れ、病院中、永久の眠りが蔓延している。それでも、通報する者は誰もいない。蜘蛛たちは風のように事を運び、余計な者は、誰一人として残さなかった。彼らに脅され、従属を選択したわずかな医師と看護士だけが、辛うじて命を長らえている。

 

 やがて、手術中を示すランプが消え、内側から一人の男が現れた。丹念に滅菌された手術衣を着て、帽子をかぶり、口元をマスクで覆っている。シャルナークだった。施術に負担をかけないため、彼一人が、監視のために立ち会っていた。

 

「マチ」

 

 彼女は腕を組みながら、壁にもたれて瞑目していた。

 

「縫合かい?」

 

 マチが問うが、シャルナークはマスクを取り外しながら首を振った。それは終わったと付け足して、マチと、今一度彼女の名前を呼んだ。

 

「中に来てくれ。団長が呼んでる。みんなもだ。全員に話があるんだって」

 

 彼の言に従って、待機していた全員が入室していく。重々しいほどに無言だった。暗い猛りに包まれながら、足音一つ立てようとしない。シャルナークはその様子を最後まで見守ってから、まだ湿った一着の外套を手にとった。丁寧に畳まれ、長椅子の上に置いてあった黒いコート。それは、彼らが荒野より拾ってきた、クロロの脱ぎ捨てたものだった。

 

「団長」

「マチ、か」

「ああ。呼んだんだってね」

 

 手術台の上にクロロが寝ていた。まだ麻酔が残っているのだろう。ぼんやりとした雰囲気が漂っている。ただ、顔色はあまり悪くはない。溌剌としてこそいなかったが、いや、常人なら瀕死であるほど弱っていたが、想像よりもずっと良かった。マチはほっと息をついた。

 

「なんとか乗り切れそうじゃない。安心したよ」

 

 腰に手をついて彼女は微笑む。クロロの体力は信頼していた。安静に回復に専念すれば、峠はきっと越えるだろう。そう確信できるだけの付き合いがあった。後ろで見守る面々も、言葉にせずに同意していた。

 

「オレはもう、戦えない」

 

 クロロはそう言って上半身を起こし、己が右腕を皆に示した。肘から先が何もなかった。

 

「盗賊の極意が使えない。盗んだ能力を、発現させることができなくなった」

「そんなの……」

 

 たいした問題じゃないじゃないかと言いかけて、マチは唇を噛んでたじろいだ。理解していた。発が使えないのは致命的だと。他の盗賊団ならばとにかく、それで団長が勤まるほどには、幻影旅団は生易しくない。彼の体術は凄まじい。念の技量も高く経験もあり、例え発を使えなくても、ありふれたプロハンター程度では歯牙にもかけまい。……しかし、それだけは到底足りないのだ。

 

 仮に右手を義手にしたとしても、彼の能力は使えないだろう。利き手を封じると決めたからこそ、あれだけの奇跡を起こせたのだ。安易な手段で回避できては、彼自身の心が納得しまい。右手の再生も難しい。完全に喪失した肉体を復元せしめる奇跡の力は、それ自体が歴史的な至宝に値する。今まで宝物を盗み尽くしてきた旅団だからこそ実感として分かる。世界中駆けずり回っても発見は厳しい。

 

 かといって、誓約の変更は習得よりはるかに難しい。生涯を共にすると決めた誓いだ。それを、変える。これまで想定していた人生全てに匹敵する意志の強さを持って誓約を否定し、一度変えたという事実が生じてしまった上で、さらに強固な意志で新しいそれを上書きする。クロロの才能は途方もないが、だからこそ過去の自分が障害になってしまうのだ。彼が諦めることもないだろうが、寿命が尽きるまでに実現すれば上々だった。

 

「シャルナーク、あれを」

「了解」

 

 応じて、シャルナークがマチに何かを手渡した。それは黒く、大きく、わずかに湿った、よく見慣れた背中のコートだった。

 

「次の団長は、マチ、お前だ」

「あ……」

 

 クロロが低い声で厳粛に言った。彼女は一歩下がりたかった。嫌だと拒否をしたかった。首を振って否定したいと切実に願った。胸から苦しさがこみ上げてくる。団長の責務が怖いのではない。頷けば、クロロを喪ってしまいそうで、何よりもそれが恐ろしかった。

 

「お前がやれ、マチ。オレの最後の命令だ」

 

 コートを胸に、マチは一旦後ろを向いた。誰もが彼女を見つめている。厳粛に、ひたすらに沈黙を守りながら。仲間達の注ぐ眼光を、彼女ははじめて怖いと思った。

 

 それでも、マチは再びクロロを向いた。上体を起こすのが辛いのだろう。彼は真っ青な顔をして、死者の如くに冷えつつあった。だが、誰も口を挟まない。クロロにもマチにも触れようとしない。

 

「……分かった。今からあたしが蜘蛛の頭だ」

 

 たったそれだけの簡素な儀式が、必要な全てを満たしていた。自分の心を飲み込んで、彼女は蜘蛛になったのだ。旅団を率いるには『何か』が要る。圧倒的な、余人の及びもつかぬ強大ななにかが。マチはそれを得ようと思った。否、既に得ていると決定した。コートを羽織り、じっと目を瞑って自己に沈む。着心地は暗く、重かった。

 

「クロロ」

「なんだ、団長」

「今後について考える。今の状況を、全て教えて」

 

 寝そべるように促してから、マチは説明を要求した。クロロは諾々と言葉を紡ぐ。アルベルトの能力を盗んでいたこと。その発の性質。盗賊の極意のイメージが砕け、その際、恐らくは盗んだ能力も解き放たれたであろうこと。時折咳き込み、声を小さく掠れさせながらも、彼は簡潔かつ明瞭に尽く答えた。

 

「集めた能力は、具現化のイメージが回復すれば手元に戻るのか?」

「分からない。だが、一度は盗んだ能力だ。綱引きのようなせめぎ合いだろう。試してみるだけの価値はあるな」

「……そうか」

 

 無論、それは向こうも懸念していることだろうと、誰もが自明に理解していた。

 

「みんな、聞いとくれ。今の旅団にとって、最大の障害はアルベルトだ」

 

 颯爽と彼女は振り返った。玲瓏な声が手術室に響く。部屋の隅で、医師たちが恐怖に震えていた。微かな邪魔もしないように全身全霊をすり減らしながら、小動物のように震えていた。

 

「ほかの奴なら逃げればいいさ。蜘蛛という存在が生き残るなら、あたしたちにとってはそれが勝ち。あの鎖の男だって、二度目なら対処も容易だろう。二人以上なら間違いなく殺れる」

 

 団員達は頷いた。彼らには自明の確信だった。一度底を見た以上、対抗する方法は五万とある。なにより、ほとんどの団員があの場では切り札を見せていない。

 

「だけど、アルベルトだけは例外だ。あれだけはここで殺さないと、どこまでも必ず追ってくる。滅ぼさない限り、永久に蜘蛛の脅威になり続ける。だから、この街でアルベルトを確実に潰す」

 

 異論は誰も出さなかった。重要なのは強弱ではない。旅団の内部に潜んでいた男。ろくな能力も持たぬまま、オーラを垂れ流し続けながら、彼らとあそこまで渡り合った男。ヒソカと手を組み、意表をつき、クロロとの分離に成功した男。それだけの熱意、成し遂げた成果。社会の暗闇に潜む蜘蛛にとって、それこそが真の脅威なのだ。更に、今では本来の発までをも取り戻し、貪欲に機会を窺っているはずである。

 

 ところが、彼女はそこで言葉に詰まった。方策が浮かばないという理由ではない。むしろ逆に、最善策が見つかったからこそ、マチは沈黙に囚われていた。何をすればいいかは分かっている。クロロならきっとそうするだろう。彼女とて、彼に命じらたら迷わなかった。しかし、命令を出すのはこんなにも辛い。

 

「マチ、これからはお前が団長だ。お前の思う通りにやりゃあいい」

 

 ノブナガが言った。クロロを真似する必要はないと。皆が頷く。フィンクスが続いて断言した。オレたちは何があってもついて行くと。ウボォーギンが腕組みして笑い、シャルナークが苦笑し、ボノレノフが精霊に誓ってと誠意を捧げた。そして、フランクリンの大きな手の平が彼女の頭を包むようにひと撫でして、コルトピが静かに寄り添っていた。

 

 ……振り返らなくても彼女には分かる。後ろではクロロがいつもの顔で、きっと、殴りたくなるようないつもの顔で、……娘を見るような父の顔で、この光景を見てにやついているのだ。

 

そうだ、これからはあたしが頭だと彼女は思った。脚は大分減ってしまったけれど、これからも旅団が続いていくために、蜘蛛らしくありたいと自然に願えた。

 

「蜘蛛の巣を張ろう」

 

 マチはクロロが好きだった。誰よりも彼を慕っていた。恋慕ではない。性別も愛情も超越し、ただ、人として彼が好ましかった。

 

「罠だ。あいつが、アルベルトがどうしても見逃せない罠を張ろう。あいつには今、妹がいる。体勢を整えられたらこっちが不利だ。早急に、否応なく誘い込んで殺さないといけない。そのためには、一つの前提が必要だから」

 

 皆が慎重に見守っている。これから、彼女は絶対の命令を下すのだ。団長として、頭として、あらゆる感情を消してマチは断じた。自分の心を殺す程度の在り方では、蜘蛛の頭は勤まらない。

 

「クロロの余命を、使い潰す」

 

 だから、みんなの命をくれと彼女は言った。

 

 

 

 深海底の如き暗黒の中、一握のファントム・ブラックを解除した。回帰したオーラを回収する。計算通りの手応えを得て、アルベルトは、誤差のないことを確認した。ならば、するべきことはただ一つ。速やかにリソースを振り分けて、指先に小さな念弾を生成した。ほんの小さな念の塊。密度も極めて常識的だ。しかる後、単純な自動操縦のプログラムを設定して、一通り機能をチェックした。どこにも不備は見当たらなかった。そして、彼は専用のタスクを用意して、同じものを数十と生成した。

 

 ここから先は賭けである。理論、否、夢想だけは古くからあったが、養父にさえも話していない。盗まれる前、彼には素養が足りなかった。例え環境は整っていても、脳が焼ききれるという予測しかなかった。

 

 だが、死に接し、感性を磨き、肉体を知り尽くして確信を得た。今ならきっと実現できる。念、心が織り成す意志の異能。半年間の修練と、ここ数日間の命を賭した荒行と戦闘。マリオネットプログラムを失って、麻薬を打ち、熱病に溺れ、死線を闊歩して残されたもの。それは、能力を行使してなお暖かい、人の心の欠片であった。実感として得た、再生可能な愛情のデータ。

 

 念弾を数百と生成した。

 

 自動操作の内容は単純である。隣接する念弾との微弱な光の送受信。自身は一つの状態を保持しており、外部からの刺激によってその現状を反転させる。隣から入力を受けた時、反対側に自分の状態に応じて微細な光子を具現化する。役割は電気回路のスイッチに近い。

 

 ファントム・ブラックを解除する。回収されたオーラを元に、念弾を数万と生成した。

 

 設計図はとうに用意してある。実績もあった。今年の春、集団窒息事件を捜査した際、アルベルトはそれを実現している。あの時とは勝手が異なるが、根本的な原理はさほど変わらない。

 

 ファントム・ブラックを解除する。生命力の井戸は無尽蔵だ。が、回収されるオーラには癖がある。危険を警告するアラートが鳴った。肉体は高度統制されていたが、それでも体への負担はある。特定の方向へ着色された、人間には扱いにくい禍々しさ。だが、アルベルトには多少とはいえ耐性があった。纏もできずに首飾りをつけ、染み込んだ猛毒と寄り添ったが故に。そして、耐性は多少で充分だった。肉体とオーラの完全制御は、処理能力の範囲内なら、害意を害意のままに扱える。アルベルトが操作を憶えこませた念弾は、既に数百万を超えていた。作動は既に始まっている。

 

 単純なプログラムによって自律する、自動操縦の小さな念弾。一つ一つ、それなりの量の生命力を与えられて圧縮され、光信号の連鎖を形成する。さらに、必要な補助機能を付随させ、全体で一つのシステムが構築されていた。即ち、念によるコンピュータの模倣である。

 

 計算する念弾。演算能力の外部増設。脳は人格と中枢制御に特化させ、念の微粒子による演算代行。自動制御の念弾の応用。基幹さえ作動している状態であれば、自己構築さえ可能だった。事実、アルベルトが携わっている割合は、時間と共に減少している。現在、二つ目の回路を新規に構築しているにも関わらずである。総数は既に億を超えた。

 

 ファントム・ブラックを解除する。演算能力の向上により、体外顕在量もまた増加している。それを基に、あり余るオーラを注ぎ込み、念弾を更に小さく凝縮していく。加えて外周を強固な殻で覆い尽くし、強力な纏、高度な隠を施した。周囲への気配の流出が防止され、禍々しい気配が急減していく。

 

 外殻により、一つの回路がパッケージ化される。バスケットボールほどの大きさで、オーラの源と演算補助を兼ねるそれを、アルベルトは、戯れに演算球と定義した。表面は単純に高密度のオーラの壁であるが、内部には、極小の念弾が所狭しとひしめいていた。

 

 

 

 窓からは新しい陽光が差し込んでいる。わずかに寒く、すがすがしい匂いの朝だった。気温を感じたのは久しぶりだった。鈍い痛みが消えている。ガラスの外をさえずりが飛ぶ。生命が素晴らしくきらめいていた。エリスは己が生きていることを噛み締めていた。

 

 禍々しいオーラが体内にない。全てをすっかりと吐き出して、肉体は清涼な疲労感に綺麗さっぱりと洗われていた。何よりも驚くべきであろう事は、街どころか部屋の調度品に至るまで、何一つとして壊れた形跡がないということだった。喜ぶべきだとは知っていた。だが、彼女の心は重かった。

 

「落ち着いた?」

 

 ひどく優しい声がした。心地よく乾いた体に音色が染み込む。ファントム・ブラックを回収しきって、アルベルトはエリスの頬を右手で撫でた。左腕がないと知ったときはショックだったが、旅団と戦ったと聞いて更に激しい衝撃を受けた。生きていてくれて本当に良かった。そんな彼の周囲には、今や、六つのオーラの球体が、取り巻くように浮かんでいた。

 

「わたしのほうは問題ないわ。とても疲れてるけど、たったそれだけ。ありがとう、アルベルト。何度お礼を言っても足りないけど、ありがとう」

 

 決壊寸前の涙腺を締めて、エリスは想い人との再会を噛み締めていた。離れていた時間が長かったからか、対立と戦闘を経たからか、胸が破裂しそうに苦しく痛い。彼は今、生きている。マリオネットプログラムも戻っている。それでも、その姿はあまりに痛々しくて。

 

「それが平常というものだよ。大抵の人間が享受している、痛みのない普段の体調だ。ごめんな。お前には、もっと早くに与えたかった」

 

 言って、アルベルトは悔しそうに顔をゆがめる。エリスは彼の顔に手を伸ばして、右の眼窩に手の平をかざした。触れることはためらわれた。まぶたは閉じられていたのだが、中身はがらんどうと知れたのだ。しかし彼は、すぐに治すとあっけなく言った。

 

 言葉は即座に実現した。右目を、次いで右耳を復活させる。アポトーシスで死んだ細胞たちが、垢となってぽろぽろとこぼれた。エリスは思わず息を呑んだ。脱分化と再分化の急速制御。発生の再現に近い人体再生。今までも行使可能だった機能だが、これだけのスピードは初めて見た。

 

「左腕は容積が大きすぎるね。アミノ酸の余剰が足りない」

 

 やや残念そうに言った直後、汚れたワイシャツによる止血を外し、アルベルトは上半身の服を脱いだ。そして、右手に纏った刃状のオーラで、露出した傷口の表面を薄く削る。新鮮な組織が現れた直後、生命力が集い、骨が生えて筋肉が絡み、瞬く間に皮膚が覆い尽くし、左腕がゼロから構築された。具現化したのだ。処理能力の向上に物を言わせて。

 

 奇跡の糧は彼女にも分かる。己の器を遥かに越えたオーラの制御。要求されるは繊細至極。微かな雑念さえ許されない、絶対無音の神域である。

 

 それを実現する能力があった。

 

 達人の中の達人、ヒトの理を越えた神仙、異常識に生きる異次元生命。……機械の如き、デジタルな思考。

 

 そして、ファントム・ブラック。現実の黒とは全く異なる方向性の、完全黒体よりも黒い塗料。真正の闇。その恐ろしさを彼女はようやく理解した。泣きたくなるほどの相性だった。

 

「まだ、戦いへ行くの?」

 

 エリスは尋ねた。努めて明るく、震える両手を隠しながら。左腕を具現化したのはそのためだろう。このまま日常へ戻れるなら、アルベルトは静養と腕の再生を優先するに決まっていた。それは合理性であり優しさでもあった。

 

「もう少し休む時間はないの? その、体もだいぶ汚れているし」

「ああ……。確かに、戦い通しだったからね」

 

 自分の体の臭いを嗅いで、アルベルトは朗らかに苦笑した。エリスの勧めに従って、浴室へシャワーを浴びに行く。彼に服を用意しながら彼女は思った。いっそ、なにもかも投げ出してしまえないかと。アルベルトが左腕を具現化したとき、喪失を見て取ったときよりも悲しかった。まるで、より一層、彼が機械じみてしまった気がしたのだ。もちろん、ただの杞憂だと知っていたが。

 

 自分も共に戦えたらと、枯渇したオーラを恨めしく思った。わがままなど言えるはずがない。今の彼女は足手まといだ。行かないでほしいとはいえなかった。彼が戦いを選ぶなら、きっとそれは必要なことだ。アルベルトはとても優しいから、泣き喚けばきっと困ってくれる。だけど、それじゃあまりに嫌な女だと、エリスは己の弱さを叱咤した。

 

 あの人の居場所になりたいと、あの人の支えになりたいと、そう願っていたからこそ、彼女はこの街へ挑んだのだから。

 

 何より、今のアルベルトを信じなければ、エリスは自分が許せなくなる。彼の瞳には、新しい輝きが確かにあった。数時間前、発狂寸前の女を救った灯火。より人間らしい暖かさ。なによりもあれが嬉しかった。アルベルトがずっと憧れていて、渇望していたのを知っていたから。本当に、天に昇るほど嬉しかった。

 

 あの時、エリスはベッドの上に座り込み、己が腕を噛んでいた。犬歯が肉まで刺さっていた。血が滲み、衣服に雫が滴り落ちた。体が芯から凍えていた。魂の内側から賛美歌が聞こえ、救いを求める人々の声が、蓄積された絶望が、枯れた手を伸ばして這いずってくる。一秒という一秒が辛かった。後何分持つのかなんて、彼女には全く分からなかった。

 

 そんな苦しみの沼の中で、ふと、片手で抱きしめてくれたよく知った温もり。誰よりも欲しかった人の顔。そして、その目に宿る懐かしい喜び。それが、どんなにかエリスにとって救いだったか。

 

「紅茶でいい?」

 

 浴室から出てきたアルベルトに、テーブルの準備を整えていたエリスが尋ねた。湿った柔らかい金髪が、額にかかって可愛らしい。彼女はくすりと笑いをもらした。

 

「コーヒーがいいな。あるかい?」

「インスタントでよろしければ」

 

 アルベルトは目を細めて頷いた。電気ポットの湯が注がれ、香ばしい匂いが部屋に広がる。皿の上には市販のクッキー。安っぽい、ありふれた朝の憩いだった。

 

「はい」

「どうも」

 

 ブラックを熱いまま手渡して、自分のに砂糖とミルクを入れてから、エリスは彼の対面の椅子に座った。

 

「あぁ、ほっとする」

 

 小さく音をたてて一口飲んで、アルベルトは一つ息をついた。エリスはくすくすと小さく笑った。お年寄りみたいと彼女が言うと、彼は少し拗ねたように肩をすくめた。

 

 本来、能力を取り戻した今の彼に、このような行動は必要ない。仮にコーヒーが飲みたければ、記憶から最高の味を再生できる。カフェインの効果も同様だった。それでも、アルベルトはエリスに付き合ってくれる。同じ時間をすごしてくれる。なによりもそれが嬉しかった。結局のところ、彼女が取り戻したかった幸福など、この程度でしかないのである。

 

 ただ、時だけが緩やかに過ぎていく。会話一つない早朝の風景。同じ部屋に一緒にいるだけ。アルベルトがクッキーを齧る音が、静かな空間に控えめに響く。彼女はカップの水面を眺めてから、ゆっくりと口にコーヒーを含んだ。何の変哲もない普通の味。だというのに、とても穏やかに頬が緩む。安い女だと自嘲した。目尻に滲んだ水滴を、指先でこっそりと拭い取った。視線でどうしたと聞かれたから、あくびをしただけと目だけで返した。

 

「ごちそうさま。……さて」

 

 十分もかけて一杯を飲んで、アルベルトは、陶器の触れ合う音を立てた。

 

「行く?」

「ああ、行かないと。クロロが回復にこぎつけたあとに、能力がどちらに転がるか分からないから」

 

 だから殺すと言外に告げて、アルベルトは椅子から立ち上がった。エリスも立って、アルベルトに近寄り、頬に口付けしてからそっと見上げた。話したいことは沢山あったが、言葉は、全て胸でつっかえている。

 

「エリス、僕が決着をつけている間、君に頼みたいことがいくつかある」

「言って」

「まず、師匠とゴンたち四人が病院にいる。ハンゾーたちに至っては、昨夜の時点では連絡を取ることができなかった」

 

 エリスは驚いて硬直した。知らぬ間に、肩に力が篭っている。アルベルトの両手がそれをなだめた。

 

「父さんも?」

「僕のせいだ。ヨークシンを旅団から守る最終ライン、その中核を引き受けさせてしまったんだ。幸い戦闘はなかったけれど、電話でそう報告したとたん、検問の現場で倒れたと聞いている。幸い、命に別状こそないそうだけど……」

「……どうしてこう、うちの男の人たちは」

 

 彼女はほっと力を抜いた。そして、口の中でもう数個ほど文句を連ねてから、アルベルトの顔を再び見上げた。

 

「皆のお見舞いと連絡と、必要な措置の手配でいいのね? 他には?」

「市や国との交渉は難しいかな。後始末に取り掛かる土台だけでも」

「やるわ」

 

 エリスは力強く即答した。

 

「始めるなら早いほうがいいんでしょう? 手伝わないはずがないじゃない。まかせて。わたしでは知恵も経験も足りないけれど、方々にハンターライセンスを振り回してでも、あなたが満足する結果にしてみせるから」

「無理はしなくていいからね」

 

 アルベルトはそう補足するが、エリスは首を振るのみであった。説得力がなさすぎたのだ。本人は本気で言っているのだろうが、彼女はそれでは気がすまない。結局、アルベルトの能力を取り戻す事にも、ろくな役に立てなかった。それどころか、奇跡の相性を持ち帰って、苦しむ彼女を救ってくれた。だから、こんな時ぐらい無理をしないと、エリスはきっと、彼の側に立つ自分を許せなくなる。

 

「いってくるよ」

「ええ、いってらっしゃい。帰ってきてね」

 

 エリスは笑った。気持ちからこぼれた笑顔ではない。少しでもアルベルトの気持ちを楽にするために、微笑みを浮かべて送り出した。扉が閉まり、一人になってしまった部屋の中で、彼女はしばらくドアを見つめていた。しかし、それもすぐに中断された。是が非でもやりたい事があったのだ。

 

 エリスは気合いを入れようと、まずは熱いシャワーを浴びることに決めた。

 

 

 

 表通りに出て間もなく、どこからか、能力が引っ張られてる感覚があった。アルベルトは直感的に理解した。これはクロロからの兆しであると。魚が釣餌で遊ぶような、ほんの些細で紛らわしい違和感。だが、見逃せるような道理はない。焦る必要はないだろうが、早めに対処する必要がある。そう考え、彼はハントを開始した。

 

 体内の神字が活性化する。高度統制が開始され、マリオネットプログラムの秘める機能が解き放たれた。六つの演算球が唸りを上げた。オーラが、処理の占有率が貪飲される。しかし、性能には未だに余裕があった。

 

 左腕内部に具現化したアンテナから電波を発信、携帯電話の基地局を介して電脳ネットワークへアクセスする。ハンターサイトにて認証を済ませ、同時に、ヨークシン市警のサーバへ特権を使用して正規のリクエストを送信した。双方に目ぼしいデータがないことを知ると、一転して、彼は非合法の手段に着手した。

 

 管制空間へ自意識を飛ばした。指令席に着座し、球形スクリーンにヨークシン全域の三次元地図を鳥瞰モードで投影する。道路交通管制用の監視カメラネットワークを完全掌握。市内に数社ある大手民間警備会社のデータベースへ不法侵入。軍事用低軌道偵察衛星の通過情報を奪取して、偶然上空をフライパスしていた一基から、データを丸ごと掠め取った。人々の現在の活動場所は、携帯電話の位置情報を基幹に推測する。その他、防衛上の機密からオンライン家電の反応まで、ありとあらゆる情報が、アルベルトの脳に集約される。

 

 結果、足元にリアルタイムで再現される、電脳世界から眺めた現実の街並み。アルベルトを模した人格フィギュアは、今まさに、この街の空に座っていた。

 

 メインスクリーンが展開される。数多の浮遊ウィンドウを出現させ、キーボードなど及びもつかない思考の速度で、彼は命令を入力していく。常人では把握不可能な量の情報が流れる。街並みの各所を駆けるように探していく。はるか上空の衛星から、信号の上のカメラから、路地裏を歩く携帯から、小さな手掛かりを徹底的に拾って分析する。秒間数千回の取捨選択を繰り返し、世界的な巨大都市を表裏の別なく探索していく。

 

 そして、ほんの五分も要せずに、アルベルトは旅団の居場所を特定した。

 

 件のハイウェイからも程近い、荒野に隣接したヨークシン外縁地区の中枢区域。閑静な住宅街が中心の地域の、その辺りでは大きい総合病院。昨晩からそこに限ってのみ、人間の反応が急激かつ極端なまでに消滅している。

 

 複数の経路から裏づけをとる。決め手はセキュリティーサービスの記録だった。深夜、常駐する警備員が送る定時連絡の発信開始が、毎時ともミリ秒単位で正確だった。あからさまに不自然だったが、シャルナークの仕事にしては杜撰すぎる。十中八九罠だろう。相手がここまで辿り着き、偽装を看破するのを見越した上で、このような細工で挑発している。準備を整えた蜘蛛の前に、残る戦力で飛び込んで来いと。

 

 本来は絶望的な挑戦だろう。昨夜の消耗が回復せず、重傷を負った状態であるならば。

 

 だが、アルベルトの現状をもってすれば。

 

 勝てる勝てないは問題ではない。きっと、どこまで勝ちきるかという戦いになる。

 

 そうと決まれば準備は早い。まずは市当局の対応を信用して、資料付きで戦域情報をリークしつつ、批難経路等についての助言を添える。かつ、ハンター協会および国際刑事警察機構への報告を私有サーバ上にアップロードし、本日正午までにアルベルトからのコード入力がなかった場合、自動的に全ての経緯が行き渡るように整えた。

 

 そして彼は空を駆ける。

 

 

 

 雨上がりの涼しい朝であった。九月の初めの新しい空気が、柔らかな風に乗って運ばれてくる。かつての雨雲は大きく千切れ、天に開いた壮麗な穴から、冷たい朝日が斜めに差しこみ、濡れた街並みを照らしている。空がゆっくりと流れていた。

 

 贅沢な敷地の病院だった。前庭は豊かな芝生に覆われていて、そこかしこに茂る木々や草が、夏から秋へ移りつつある。アスファルトで舗装された太い私道が、訪れる車両のために広々と口をあけていた。その脇には、赤いレンガの小道も見える。正門から見える病棟は二つ、どちらも大きく、洒落た近代的な外観と清潔さを与える白い塗装で、近年建て替えられたばかりと分かる。全て、事前に入手した構造と寸分たがわず合致していた。

 

 前庭の中央にノブナガはいた。階段のように差し込む光が、水中のように揺れている。前夜の雨に濡れた黒い舗装が、蒼い、浅海底のような砂原に見えた。ノブナガは居合を構えている。

 

 マリオネットプログラムがサーチするが、他者の姿は見当たらない。他が絶で隠れる中、彼だけが姿を晒していた。当然、全てが旅団の罠であり、そもそも罠ですらないだろう。ノブナガと戦えば他が助け、他の団員を狙えば彼が斬る。それは蜘蛛にとって自然であり、作戦と呼ぶには今さらだった。故に、アルベルトの指針に変更はなかった。殲滅である。

 

 微動だにせず、ノブナガは円を展開している。おそらく、一晩中ずっとそうだったのだろう。心身ともに完全な受身。禅にも通じる無我の集中。それは、今までの居合とは意味合いから違った。

 

 正門から立ち入り、アルベルトは歩く。ノブナガは彼に気付いていない。両目を軽く閉じたまま、眠ったように停止している。半径四メートルの太刀の間合いを、円だけが鮮明に示していた。

 

 自動防衛管制を6/6、「無制限」に時限設定。アルベルトという人格が消滅する。脳の全てが己の能力に委譲され、思考領域すらも残されない。この瞬間、アルベルトは人間性の全てを喪失し、彼が使用していた肉体は、戦うための機械に変じた。

 

 マリオネットプログラムが選択したのは、手刀から延びるブレードであった。データが変化系総合制御に受け渡され、タイムラグなく実現する。両手からオーラが薄く伸張し、一メートルほどの刃となった。刃先の厚さはナノもない。

 

 アルベルトは無造作に歩き続け、ついに、ノブナガのオーラに踏み込んだ。

 

 時間が飛んだ。

 

 刃は既に煌いていた。居合だけを極めた男の奥義。たった一人を殺すための、たった一重の斬撃の軌跡。次を想定しない潔さ。剣速は自ずから攻め挑む際とは比較にならない。拍子を斬り間合いを切り時空を斬り、ノブナガは、因果の狭間に踏み込んでみせた。

 

 ノブナガの頬が吊り上り、彼の肉体が四つに分かれる。左右それぞれ袈裟懸けに、抜き放った刀身ごと抵抗もなく、一人の蜘蛛が切断された。時間が断絶するほど不可知の速度。身体各所から万分の一以下の誤差でオーラを空中に放出し、最大限の出力で地を駆けた超豪速の心身制御。心で、技で、体の練度で負けながら、一人の男の生涯を、無粋極まる純粋な速さで、アルベルトは木石同然に切り捨てたのだ。

 

 役目を終え、自動防衛管制が4/6「連続最大警戒」まで水準を落とす。ノブナガの体躯が赤く破裂し、刀の切っ先だけが空へと舞った。人格が回帰し、状況を認識したアルベルトは、背後へ向けて右腕を振った。ブレードはあやまたず首を切り裂き、彼の国の流儀の介錯を済ませた。

 

 その時、音楽が庭を包んでいた。圧縮された時間の刹那、一音にも満たぬ音階だが、不思議と曲と知れたのだ。素朴なリズムが奏でられ、黄泉の気配が出現していた。

 

 滲み出る人影をアルベルトは見た。踊るボノレノフを囲むように、数多の男が舞っている。一瞬で電脳ページを検索し尽くし、マリオネットプログラムが分析を告げた。

 

 密林の奥地にその土地はあった。そこでは人は音楽と共に生まれ、育ち、暮らし、死ぬという。舞楽は武力の象徴であり、命と愛の唄であった。結婚前夜、花婿は花嫁の実家に自ら曲を作って送る。悠久無形の婚資だった。子が生まれれば曲を奏で、精霊と共に踊り喜ぶ。

 

 部族の男は成人の日に、父親から自分の名前をつけたメロディーを貰う。狩りではそれを高らかに踊る。自分の家畜に聞かせてやり、惚れた女にはこっそりと教える。舞闘士が死ぬと、一番の親友が故人の音楽を半分まで演奏して中断する。そして、その曲は二度と奏でられない。彼らは忘れようと努めるのだ。旋律を覚えていたならば、死者との別離がいつまでも心を苦しめるが故に。

 

 激しいビートが猛り狂う。ギュドンドンドの住む土地で、彼らは音楽と共に暮らしていた。その重み、歴史の全てが再現される。

 

 吹奏されるは精霊の調べ、祖霊の唄、先祖伝来の戦闘音楽。バプたちの踊った共通の楽曲。具現化されるは歴代の奏者。歴史の闇に消え去った、在りし日に営まれた生活の全て。今、肌の色が現実味を帯び、彼らの音が個性を宿す。見よ、これは戦士の歌である。

 

 多重吹奏、レクイエム。呼ばれた戦士が自身を呼び、自ずから、己が仲間を具現化する。陽炎の如く湧いた人々の影が、勇壮な舞踊を再現していく。その数、実に四十人。神と同格と見なされて語り継がれた、一族のなかでもずば抜けた踊り手たちの記憶である。

 

 一糸乱れぬ勇壮なリズムで、一心不乱に踊り狂う。四肢が風を吹き奏で、裸足が地面を叩き鳴らす。それは踊る軍勢であった。バプにとって、唄と戦いは同義が故に。ボノレノフを先頭に彼らは襲う。鏑矢の如く、アルベルトを目掛けて一心に。それぞれの武装に身を固めながら、それぞれの誇りを胸に灯して。

 

 無慈悲な横薙ぎが切り裂くまでは。

 

 なにもかも水平に切断される。左のブレードが延ばされて、中心で率いていたボノレノフも、左右から追った戦士たちも、全てが一撃で終焉に至った。左腕の筋繊維が断裂する。内在するオーラを使い切り、手刀の刃が粒子に返った。

 

 コルトピの小さな影が至近に舞った。

 

 具現化が始まる。対象物の選択はなかった。コルトピが右腕から出力したのは、ありとあらゆる全てだった。土石流である。空気が、舗装が、土が、植物が、建物が、この街がそのままそっくりと、アルベルトへ向かって吐き出された。

 

 アルベルトは迎撃を選択する。空いた左手をコルトピへ向け、オーラの流れを放出した。念弾にならぬ奔流が、噴出する具現化物と激突する。生命力がせめぎ合った。されど、コルトピの複製に直接的な威力はない。攻撃する思念が込められない。単純な質量では脆かった。幻想は砕かれ、光に飲まれて消滅していく。

 

 ところが、彼はその程度では終わらない。削られる物質で小さな体を隠しながら、吹き上がる土砂に紛れながら、残されたオーラをたぎらせて、アルベルトの懐に肉薄した。小柄な両手が流麗な凝で掴みにかかる。だが、いかにオーラの量が多いといえど、コルトピの肉体の強度は低い。このレベルの戦闘で肉弾戦に関わることは自殺行為だ。即ち、意図は時間稼ぎに他ならないとアルベルトは見切った。迎撃は自動防衛管制に一任する。ブレードで斜めに斬り捨てながら、彼は捜敵に専念していた。

 

 直後、警戒管制に報告されて、粉塵の切れ間にフランクリンを見た。病棟の屋上に彼はいた。全身のオーラが高められて、体表を紫電が覆っている。常識を覆す異様な練は、まさに渾身の証左であった。

 

 太い両腕が伸ばされている。切断された十の指が、アルベルトを捉えて照準している。念弾の掃射は行なわれない。オーラは彼の指先ではなく、更に前方、眼前の空中に集っていく。大柄な体躯から生み出されるパワーが、ただ一つの場所へ集約された。オーラが込められ、密度が高まり、内部でなおも圧縮され、多重殻構造の球体となる。

 

 それは強大な大砲であった。念弾という概念を極め尽くした、戦艦に匹敵する主砲であった。連射に長ける術者が己が誇りの全てを捨て、全てを捧げた、たった一つの巨大な弾丸。中枢に存在する核らきしものは、極小の恒星さえをも想起させる。

 

 アルベルトが全容を認識した時、既に、発射の態勢は整っていた。

 

 陽光が爆ぜる。回避は不可。あの砲撃が地に触れれば、底知れぬ大穴を穿つだろう。提示された分析を見て、アルベルトは軽く左手を掲げた。演算球が一つ従い、自ずから、巨大な円盤状に変形する。計算能力を喪失し、浮かぶシールドと化したのである。薄膜状のオーラを通して、二人の視線が交差した。

 

 オーラの激流が押し寄せて、閃光が円盾の中心に着弾する。生命力の爆発が起きた。暴風が吹き荒れ、かつての前庭は激しくたわみ、樹木は破砕されながら激しくしなる。しかし、シールドの直下は静穏としていた。衝撃は完全に遮断され、アルベルトは髪すらたなびかない。いくつもの浮遊ウィンドウを幻視して佇んだまま、彼は右手の手刀に意識をやった。演算球は残り五つ。問題はない。変化系総合制御に指令して、更なるオーラをブレードに送る。刀身の放つ威圧が上がった。それに渾身を込めながら、断絶された空の向こう、荒れ狂う余韻に満ちる世界に、一気果断に振り下ろした。

 

 シールドごと万象が両断され、一筋の境目が現れては消えた。白濁する光に溢れた残響の嵐も、屋上で砲撃を放つフランクリンも、彼が陣取った建物さえも、初めからそれが自然だったように、真二つに分かれて死に至った。あらゆるものが切断された。

 

 その渾身の、隙をつかれた。

 

 右手を振り下ろす丁度その時、自動防衛管制が後方の脅威に警報を鳴らした。アルベルトは手刀を振り下ろし、ブレードはオーラを使い尽くして消失している。完璧に合わされたタイミングに、体勢を立て直す余裕はなかった。振り向くことさえできなかった。

 

「じゃあな!」

 

 未だ収まりきらぬ余波の中、声紋解析が音を拾った。背後から強襲したのはフィンクスである。完全な絶を維持しながら、凶暴な気配で右腕をかぶる。瞬間、多すぎるオーラが腕を包んだ。【廻天(リッパー・サイクロトロン)】の発動は、回転のあとに行なわれる。絶から硬へ、最高潮まで切り替えたのだ。

 

「続きは地獄と洒落込もうぜ!」

 

 フィンクスの拳が豪放に唸る。振り下ろすような右ストレート。腕に纏うは潜在量全て。体内にオーラは残存しない。消費の任意調整という便利さが故の、回転数至上という融通の利かなさ。たとえ命が尽きる量であっても、体に生命力が残る限り、能力は強引に引き出しきってしまうのである。だが、リスクを逆に利用して、彼は正真正銘の死力に至った。生命の残らぬ体を駆って、残されたわずか数瞬で、死と引き換えの豪腕を振るう。

 

 寸前、フィンクスの上半身が吹き飛ばされた。それはオーラの噴火であった。一つの演算球が自爆したのだ。外殻が破裂し、演算素子の念弾が弾け、散弾銃の如き破壊をばら撒く。至近距離からの炸裂である。下から上へ奔流が貫き、光の柱が宇宙へ消えた。地上に湧き出た天の川。肉体は赤色の霧ともなることなく、微細な粒子に回帰して、彼方へと永遠に旅立った。

 

 わずか十秒に満たぬ戦闘。後には、静寂だけが残された。

 

 

 

 リノリウムの廊下をアルベルトは歩く。静まり返ったその場所には、動く人影が見当たらない。空気が止まり、呼吸がなく、生命の営みが感じられない。なにより微かに漂うのは、脳漿と血と、臓物に収められていた排泄物の混じった悪臭。病院中の機器に侵入しても、感知した反応はふたつしかなかった。無論、ひとつはアルベルト本人である。

 

 四つの演算球を周囲に浮かべて、もう一人の居場所へアルベルトは向かう。第二新棟、三階、奥。そこに彼はいるはずだった。該当する病室へ到着すると、彼は律儀にノックする。無意味だとは知りながら。

 

「入れ」

「具合はどうだい、クロロ」

 

 ドアを開けるとクロロはいた。ただ一人、医師も看護婦もつけないで、窓辺のベッドに座っていた。いつもの黒い服を着て、土足のまま、ソファーでくつろぐように外を見ている。右腕には包帯が巻かれていた。

 

「驚いた。さすがだね。いや、それにしたって……」

「やはりお前か、アルベルト。立ってないで入って来いよ」

 

 クロロに促されたアルベルトは、廊下から室内へと立ち入った。罠の存在はサーチしている。何も問題は存在しない。それ以前として今さらでもあった。

 

「まさか、お前がここまでやるとはな。あいつの勘が、正しかったか」

 

 横目で彼を見上げながら、クロロは親しみすら滲ませて襲撃者を眺めた。アルベルトもまた、同様の表情で傍に立つ。クロロの頬は幾分やつれ、眼窩は窪み、血の気は名残りも見えなかったが、瞳には深い命があった。蜘蛛を率いた者として、黒い炎が冷たく燃えて揺れている。

 

「君こそ、……能力が引っ張られると感じるはずだ。クロロ、それは完全に砕かれたはずだろ」

 

 ある種の感動を伴って、アルベルトは彼の左手を示した。そこには黒い半透明で、輪郭もおぼろげな書物があった。細部はたゆたい不安定で、存在感も弱々しい。だが、手の跡の意匠された独特の表紙は、眩しいほどに鮮明だった。アルベルトは既に確信していた。分析をマリオネットプログラムに回すまでもない。自身が重体でありながら、刻まれたはずのイメージを払拭し、数時間でここまで回復したのだ。

 

「ただの死力だ。そんなにたいした芸じゃない。それより、お前はいいのか?」

「爆弾だろう。知っているよ」

 

 クロロはそうかと頷いた。アルベルトが言及したのはコルトピの念だ。つい先ほどの戦いの中で、彼だけが精彩を欠いていた。コルトピがあの程度ではすまないことは、アルベルトもよくよく知っている。であれば、事前にオーラを使うような、大規模な行動をしていたと考えるのが自然であった。

 

 結論から言えば、この病棟そのものが爆弾であった。地下から最上階に至るまで、ありとあらゆる空きスペースに、所狭しと火薬の複製が詰まっていた。マフィアから盗んできたのだろうか。時限式、無線式、複合式に信管作動。果ては化学薬品による発火まで、一つ一つは小型だったが、異常なほどに量が多い。その威力、単純な爆風に限るならば、小規模の核兵器にすら匹敵しうる。

 

「なあクロロ。最後に一つ、尋ねていいかな」

 

 アルベルトは穏やかに切り出した。クロロが物言わず続きを促す。それに頷きで応えてから、かつて団員だった者として、団長へ宛てて問い掛けた。

 

「僕は、いい裏切り者の役をやれたかな」

「なんだ、そんなことか」

 

 アルベルトは思う。当時、幻影旅団は順調すぎた。無敵すぎた。エリスという規格外の障害も、所詮は破壊力に特化した素人である。例え数人殺されても、集団としての勝利は揺るぐまい。自信を上乗せする糧にしかならないのだ。だが、いかに最凶の蜘蛛とはいえ、いつか必ず窮地が来る。戦いの場に身を置く以上、危機は必ず訪れるのだ。そしてその際、恐怖を忘れていた者は必ず死ぬ。無論、旅団はそこらの歴戦の猛者とは根本的に違う。致命的な油断はそうそうするまい。だが、彼らを率いる頭にとっては、無視のできない課題でもある。

 

 格上に油断しないのは当然だ。必要なのは弱者である。旅団にほどほどの危険をもたらす、適度に狡猾で弱い狐。圧倒的強者である彼らにとって、慢心を削ぐにはそれがいる。

 

 そんな折、アルベルトという存在が現れた。彼はこのように推測する。団長という立場のクロロにとっては、都合のいい駒だという認識と同時に、手ごろな不穏分子に見えたのだろう、と。だからこそ、あの時、邂逅場所に指定された暗い廃墟で、アルベルトはそんな魂胆で己の存在を売り込んだ。二律背反の裏切りは、当初から既に始まっていた。

 

 そのような考えをアルベルトは語るが、クロロは小さく吹きだした。

 

「そんなんじゃないさ。ただ、お前を仲間にしたほうが楽しめる、そう思っただけだ」

 

 くつくつと笑いながら彼は言う。面白そうな奴がやってきたから、面白くなるように迎え入れたと。暗躍も身内の行為として愛でるクロロに、アルベルトは静かに目を見開いて驚いた。

 

「思えば、蜘蛛はオレの家族だった。なら、裏切りぐらいは許容するさ。表に出れば、処罰もするがな」

 

 目を伏せて紡ぐ漆黒の男を眺めながら、彼はやや薄い緑の瞳を寂しげに細めた。窓が開けられ、涼しい風が二人の間をそよいでいった。義父とエリスがひどく恋しい。時間はあまり残されていない。もう数秒もしないうちに、この病棟は消えるだろう。

 

 最後に、アルベルトは無音で唇を動かして、勝てなかった男に別れを告げた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 蜘蛛が脚を噛み切るとき

 あなたは失せ物を取り戻す

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 戦いが止んでしばらくして、決定的な時間が訪れた。予定と一秒の狂いもない。だが、起きた現象は爆発ではなかった。

 

 遠方から見守っていたマチたちは、巨大な黒色のドームが出現したのを見て取った。それは歪みない純粋な半球で、強固なオーラによって形成されているのが嫌でも分かる隔壁であった。クロロのいた病棟を完全に包み、一滴の光も洩らさなかった。

 

 嫌な沈黙が数分も続いた。腕組みをするウボォーギンが、苛立たしげに舌打ちした。最悪の予感が当たった以上、勝敗の帰趨は明らかである。現状、彼女たち三人の関心は、ダメージの深度という一点に尽きた。アルベルトに止めをさせるかどうか。ただそれだけを見極めるため、固唾を飲んで見守っていた。

 

 やがてドームの一部が破れた。黒い半球の頂上が裂け、茶色の噴流が空へと上がる。轟音が響き、逆しまの瀑布が周囲を揺らすが、衝撃は爆破の規模よりはるかに軽いものでしかなかった。隣接する市街地への被害もほとんどなく、土埃が降り注ぐ程度だろう。シャルナークが悔しげに拳を握るのをマチは見た。十中八九、敵の状態は悪くない。少なくとも、あれだけの制御ができる程度には健在である。

 

 黒いドームが消失する。内部は完全に廃墟だった。もうもうとした粉塵で満ちていて、細かい人影などは識別できない。瓦礫と化した建物が、辛うじてシルエットとして認められた。茶色い終末の光景だった。

 

 マチが口の中で呟いた。

 

「やばい」

 

 その一言が合図となった。三人は即座に離脱する。陣取っていた屋上を蹴り、街並みを飛ぶように全力で駆ける。絶をするような余裕はない。周りを気にするつもりもなかった。踏みしめた構造物が陥没し、蜘蛛の巣状にひび割れが走った。

 

 マチが、シャルナークが、ウボォーギンが、示し合わせたように荒野へ駆ける。殺害が無理だと分かったからには、旅団の存続が最優先だ。ヨークシン市街地に隠れるのは下策だった。この広い大陸の奥地へ潜るか、あるいはリンゴーン空港から飛行船で逃げるか、とにかく、敵の手の届かぬ場所に行かねばならない。

 

 だが、敵は彼らの予想の上を行った。わずかな時間で荒野まで至り、ハイウェイ沿いに駆けていた時、ウボォーギンがいち早く気付いて怒鳴り声を上げた。

 

「あの野郎っ、上だっ!」

 

 マチは思わず振り向いた。ヨークシン市街地から青空へ、何かが一直線に上昇していく。大量のオーラを放出し、瞬く間に高空へ吸い込まれていく。彼女の視力が姿を捉えた。

 

 アルベルト。

 

 凝で眼球を強化する。彼は今、既に上空を占位して、静止しながら下界を広く見渡している。

 

 以前とは完全に別ものだった。

 

 全身に膨大なオーラを纏いながら、歪みどころか揺らぎもない。白く煌々と光り輝く、磨いた宝珠の如き端整な堅。浮遊のためオーラを放出しながら、深い瞑想の直後のように、波打ちもしない精緻さ。神代より生きる大木の如き、完全かつ精密な静けさの化身。それでいて、隠で抑えられてこそいたものの、害意は垂れ流していた頃よりなお色濃い。傍に浮遊する二つの球体に至っては、彼女の常識を超える何かだ。

 

「……ヒトじゃない」

 

 勝てる勝てないの次元ではない。勝つ道筋が、浮かばない。

 

 そんな化け物と、目が合った。

 

「——っ来るよ!」

 

 アルベルトが動く。小さく輝くオーラの点が、彼女たち目掛けて飛翔してくる。冗談じみた速度でもって、雄大に空を切り裂いてくる。マチは迷わず迎撃を選んだ。荒野には隠れる場所も見当たらず、たとえあっても全くの無意味だ。散開は戦力を分散する愚でしかない。故に彼女は急停止を選んだ。靴底が摩擦で熱くなり、黒いコートが風を孕み、盛大に揺れて音を立てる。

 

 旅団の団長となった今、マチとて昨日までとは比較にならない。覚悟が彼女を強くしたのだ。より一層念糸が先鋭化し、細く凝集して刃と化した。念能力者でさえ視認し難く、気配だけがギラつくそれは、存在するだけで凶器に近い。だが、あいつには勝てないと直感した。

 

 轟音を上げ、敵は荒野に着地した。

 

「団長、お前は逃げろ!」

 

 減速しながらウボォーギンが吼え、マチの体を横薙ぎに殴って吹き飛ばした。辛うじて流が間に合うだけの、手加減もろくにない裏拳だった。軽い体は大きく弾かれ、アルベルトと反対方向へ飛んでいく。着地の際に受身も取れず、まだ濡れた荒野を盛大に削った。それでも地面を殴りつけ、反動で彼女は一瞬で立った。

 

「ふざけんじゃないよ! 置いてく気かい?」

「行けよ! お前が蜘蛛だろ、マチ!」

 

 愛用の携帯電話を取り出しながら、シャルナークが大声を上げて本気で怒鳴った。冷静な彼には似つかわしくない、荒々しい怒気を混ぜた叱咤。それがマチの胸に突き刺さり、心を激しく揺さぶった。小娘のように泣きたくなった。

 

 だが、それでも彼女は旅団であった。

 

 要した躊躇は刹那にも満たず、マチは全速力での離脱を選んだ。身を翻し、方向を気にする余裕もなく、ひたすら荒野の地面を蹴った。短距離のつもりでの全力疾走。それで長距離を駆け抜ける。二度と会うことはないだろうが、振り向くだけの余力もない。オーラを全て脚に送り、背後を気にせずがむしゃらな長躯を己に課した。

 

 肺が破れ、脚が千切れそうな苦痛の中で、彼女は悔しさだけを噛み締めていた。

 

 

 

 蜘蛛が跳ぶ。果敢なステップが刻まれる。攻撃と見せながら接近し、反転を駆使し常に方向を一定させない。だが、機動計算はアルベルトの十八番だ。旅団の二人を前にしても、今の演算能力であれば翻弄されずに予測しきれる。故に、彼は正面から最短距離で距離を詰めた。

 

「ウボォー、頼んだよ!」

 

 高速機動で交差しつつ、シャルナークがアンテナを投げ渡した。握りしめ、己が首筋に突き立てながら、ウボォーギンが任せろと叫ぶ。同時に、シャルナークは携帯のボタンを押し、頚動脈を手刀で断った。血液が激しく噴出し、【携帯する他人の運命(ブラックボイス)】が宙を舞う。その危険さをアルベルトは感じた。死者の念。それも、人体操作を得意とする術者の。だからこそ、即座の始末を選択した。

 

 二つの演算球に物を言わせ、左右それぞれの手にオーラを充填、怒濤の砲撃を連射する。二人ごと眼前の全てを飲み込む攻撃。破壊の洪水が荒野に生まれて、間断なく躊躇なく破砕し尽くす。容赦などアルベルトの念頭には完全になかった。相手は旅団の中核である。在り方を繋ぐために温存された、次世代へ向けた種にして礎だったのだろう。後方の中枢シャルナーク、最強の対応力をもつウボォーギン。そして、例えコートがなくとも一目で分かった。新しい旅団を率いる長、マチ。誰一人として例外はなく、正真正銘、選び抜かれた生粋の蜘蛛だ。

 

 まさに、ブラックリストハンターが狩るべき獲物である。

 

 盗まれた能力は取り戻した。だが、師の志を継ぐものとして、ここで見逃す選択はない。おびただしく見捨てた弱者のためにも、一人でも多く、一秒でも手早く。最早、頭を潰すことにもこだわりはなかった。仮に彼らを無視してマチを倒せば、シャルナークが団長になるだけなのだ。その次はウボォーギンの番である。重要なのは蜘蛛という組織。その戦力。それは、アルベルトも飽きるほど熟知している。更に言えば、旅団の力を削ぐ決定打へ至る光明も、彼ら自身が残してくれた。

 

 単身で一個師団にも相応する火力を浴びせ、アルベルトはようやく静止した.荒野の様相は一変し、既に渓谷の有り様に近い。扇状に大地は抉れ、茶色の濃霧が立ち込め、光学観測を阻害している。それでも、風に洗われる土煙の向こうに、巨大な男のシルエットを認めた。

 

 やはりと思った。あれだけ乱雑な乱撃では、ウボォーギンの防御は崩せない。

 

 だがやがて、心の底から驚いた。

 

 それは炭化した物体だった。それは何かを守るように、大の字を描いて仁王立ちを続けていた。生命反応は既にない。後ろからウボォーギンに抱え込まれるような体勢で、支えられながら立ち続ける、人のカタチの、黒い個体。

 

 生命反応は既になく、彼は、仲間に抱き締められて砕け散った。

 

 視線が合った。決別が始まる。腰元に挟まれた自作の携帯電話は所有者に守られ、傷一つとして負っていない。自動操作モードが発動し、シャルナークの遺した全オーラが、仲間の肉体に乗り移る。死者に特有の禍々しい念。潜在能力が引き出され、心の、体の上限が解除された。強靭な肉体の細胞が吼えた。ブラックボイスによる操作に慈悲はない。他人だろうと、自分だろうと、入力された指令のため、一切の配慮なく操縦し尽くす。ただでさえそのような能力が、この一戦、例外となろうはずがなかった。

 

 機械音声が敵の視認を無機質に告げ、オーラが爆発的に増加した。

 

 硬質な頭髪が更に鋭角に後ろへ流れ、瞳から感情が消失した。ウボォーギンの筋肉が精密に軋み、歪み、力を限界以上に引き出されていく。ありえないスペックが計測された。人の形をしているだけの、より高性能な別種に近い。否。それはさながら破壊の体現、暴力を行使する純粋な機械だったはずなのだが。

 

 操作されたはずの眼光だけが、弔いという感情に濡れていた。

 

 巨獣が駆ける。風を破り地を壊し、あらゆる事象を置き去りにして。アルベルトもまた正面から立ち向かう。オーラの噴出制御によるブーストで、肉体強度を強引に補う。双方、牽制も駆け引きも必要としない。軽い攻撃は隙にしかならず、半端な欺瞞は通用しない。要求されるは必殺の一撃。それ以外の全てが無用であった。

 

 二人の拳が衝突した。光が満ちる。パワーは互角。齧り合うような至近距離で、猛然と正確な猛打が連ねられる。両腕両脚の間断なき応酬。限り無き精密。アルベルトの脳髄が灼熱する。残り二つの演算球が、最大限に稼働している。敵は絶でさえ並の強化系に勝る怪物である。処理能力を余らせて勝てはしない。切り札のオーバークロックを装填して、精神のマグマに身を委ね、アルベルトは、原始のように咆哮した。

 

 

 

 ヨークシン市警の署長室で、エリスは、窓ガラスの向こうの空を見上げた。

 

「……アルベルト」

 

 戦いの気配は続いている。もう、二十分以上もずっとだった。最初の短い閃光とは違う、絶え間なく押し寄せる鋭角なさざ波。遠い場所で火花を散らす死闘の余波が、彼女の、否、ヨークシンにいる全ての生物のオーラを弱くささやかにそよがせていた。念の素養がある者は、もれなく把握できるだろう。

 

 エリスはポンズ達の捜索手配を電話で済ませ、父やクラピカ達の見舞いを後回しにし、真っ先にここへ足を運んだ。連絡の直後に駆けつけたのだろう。急な来訪にも関わらず、タクシーを降りた彼女が婦警に案内された時にはもう既に、相手の面子はそろっていた。広い部屋が狭苦しく感じた。

 

 豪勢な内装の室内には、署長と市長、更に強面の壮年が二十人以上は陣取っている。黒いスーツに身を固めた、マフィアンコミュニティーの幹部達。この街で話を付けるとはそういう事だ。政治家は闇献金で選挙を行ない、裏の人間が堂々と闊歩し、警官とマフィアが談笑する都市。世界的に見て珍しくもないが、それでも彼女は苦々しく思った。

 

 誰も、彼女をエリスとしては見ていない。プロハンターの一人としても。搾り取る利権の象徴として、報復のための代替として、取り囲んで脅すだけの小娘としてしか認識してない。アルベルトからの回し者として扱われたら、あるいは上等な部類だろう程にである。それだけ、アルベルトは上等の金づるとして見られている。プロハンターという人種への信頼が、蜘蛛という盗賊への強い畏怖が、今は悪い方向に作用していた。

 

 なかでも、ゼンジという太った小男には見覚えがあった。先日、ノストラードファミリーの紹介で暗殺者チームに参入した時、苛立たしげに睨んでいた人物である。彼は今、顔を憤怒に彩らせながら、すぐ傍に立って見下ろしている。

 

 彼らの威圧も、普段であったら造作もなかった。少し纏を緩めてやれば、たちまち恐れをなして逃げ惑っただろう。が、今のエリスには実態のない、虚しい優越感でしかない想定である。身に宿るオーラは残り少ない。彼女にとってオーラとは、あり余り溢れ出るのを押さえるものだ。意図的に噴出させる技能はなく、練を行うのも論外だった。無意味に汚染をばらまくだけでなく、アルベルトの気持ちを踏みにじりもする。そんなこと、彼女に許容できるはずがなかった。だから、舌先だけで戦うしかない。

 

 無理はしなくていいと彼は言った。しかし、負担は極力減らしたかった。あらん限りの雑事を引き受け、疲れて帰ってくるだろう愛しい人を、ゆっくり休ませてあげたかった。が、それ以上に彼女には許せなかった。アルベルトが罪悪感を抱いていることは知っている。痛いほどに。旅団の一員として蹂躙した、多くのマフィア、市民、同業者。その罪を、彼はきっと受け入れれるだろう。己の事情が許す限り、いかようにも償うつもりだろう。

 

 それは旅団の罪だけど、アルベルトがいなくても犠牲はあったはずだけど、エリスは彼を、そんな人だと知っていた。……だからこそ、だからこそ彼女は逆を行くのだ。群がる蠅を除去するために。彼だけに責任を押し付けて、結果だけ奪いたがる輩を許せなかった。

 

 誰よりも好きで、誰よりも愛して、誰よりも傍にいたいと願った人を、幸せにしてあげたいとエリスは願った。甘えるよりも支えたい。幸せにされるよりしてあげたい。奪いたくない、奪ってほしい。彼が罪悪感を抱くなら、正しい意味で使われてほしいと、利権扱いはしてほしくないと、そんな想いで、彼女は先手を打つことに決めたのだ。

 

 応接用のソファーに背筋を伸ばして座りながら、出された紅茶をひと口飲んで、エリスはかちゃりと陶器の触れあう音を立てた。取り囲む男達はあえて無視して、対面に座る市長と警察署長だけを見据えつつ、ゆっくりと口を開いていく。心の修行は積んでいる。この程度の圧力、なんて事はないと自分に言って聞かせながら。

 

「今日中に、いえ、もうすぐ、幻影旅団は壊滅します」

 

 その場の雰囲気が大きく揺らいだ。当然だった。彼らは世界最凶の盗賊団。一国の軍事力をもっても撃退することが精一杯な、表も裏も関係のない、人類共通の恐怖の象徴。マフィア自身、陰獣を屠られ、戦闘員を殲滅され、高層ビルを倒壊させられたばかりだった。突如として終焉を予言されれば、戸惑いに染まらない方がどうかしている。

 

「前哨戦はもう終わっています。署長さん、通報もされてると思いますが、どうですか?」

 

 そこに彼女は畳み掛ける。気配だけで推測した情報を刃として、全容が把握される前に、驚愕が既知に変わる前に、切っ先を敵の眼前に突き付けてやる。ありもしない武力を鼻にかけて、歴戦の猛者のように振る舞ってやる。これはエリスの戦いだった。例え念に頼れなくても、アルベルトもそうやって戦っていた。今もきっと戦っている。

 

「お、大きな爆発事件は起きてますが、未だに警官が近付けませんので……」

「近付かせないでください。迂闊に踏み込めば精神を病みます」

 

 幻影旅団は壊滅する。これは揺るぎない事実だろう。量に特化した者のオーラを、制御に特化した者が扱う。それで崩せない壁はなく、まして、アルベルトは旅団の内状を把握している。ブラックリストハンターとしての経験もあり、都市部では無敵の奥の手もある。……なによりも、エリスはアルベルトの勝利を願っていた。彼が敗北した後の未来でなんて、どんな窮地に陥ろうともかまわない。

 

「警察の皆さんにおかれましては現場周辺の封鎖、及び、必要なら避難の誘導だけに努めてください。その代わり、現場の保存には全力で取り組んでください。後日、ハンター協会の者が内部の確認に赴くでしょう。今回の件、対応を間違えれば被害はセメタリービルの比ではありません」

 

 ハンターライセンスをこれ見よがしに提示しながら、エリスは戦闘跡地の隔離を市警当局へ要請した。言外にこれは国際規模の問題だと、お前達が割り入って来られるレベルじゃないと、ゼンジをはじめ周りのマフィア幹部を切り捨てながら。オーラの扱いに長けたアルベルトなら必要以上に拡散させることはないだろうが、さすがに現場直近は汚染が心配だったのである。結果、署長は慌てて連絡のために席を外した。

 

 そしてようやく、彼女は周囲を見渡した。ジトノーダ市長とゼンジ、黒いスーツの男達。皆、コミュニティーに繋がる人間ばかりだった。全員が一言も話さずに、彼女をじっと凝視している。

 

 出端は挫いた。だが、ここから先が本番だった。根拠の提示から事後処理と今後の調整についてまで、話すべきことは山ほどある。失敗すれば、今後、一生粘着されて餌にされることだって十分ありえる。一度接点を持ってしまった以上、思惑の尽くを粉砕し、完全に縁を切ってしまわないといけなかった。アルベルトはそれだけ巨大な金鉱になってしまった。

 

「愛してます」

 

 指に力を込めながら、彼女は口の中で呟いた。大好きだった幼馴染みへ、最愛の義兄へ、全て捧げた良人へ。アルベルトへ。お節介でもいいと思った。あとで叱られるのも大歓迎だ。彼が自分で決めたなら、共にコミュニティーの走狗に堕ちてもいい。それでも、アルベルトの命がけの頑張りを、私欲で踏みにじって欲しくはなかったから。

 

「愛してます、あなた」

 

 裏社会の殺気に晒されながら、未だ許されぬ意味を込めて、彼女は勇気を振り絞った。

 

 幻影旅団のいない世界という、今まで誰もできなかった仮定。ここより始まるその構想から、利権に群がる輩を排除する。全てエリスの独断だった。

 

 

 

 ビッグバンインパクトが乱打される。怒濤のラッシュが振り下ろされる。左右両手のありえざる連撃。岩石が、地盤が、大地が砕かれ裂けていく。クレーターの中にクレーターが穿たれ、荒野に渓谷が彫られていく。星に裂傷が刻まれていく。稼働するごとに筋肉が爆ぜ、血液が赤く飛び散っていく。なにもかも限界を超えていた。

 

 アルベルトは球形のシールドでそれを防ぐ。円の外縁部の密度を操作し、硬質のオーラの膜を作る。さらに打撃の瞬間に、局所的にオーラを増強する。こと、念の制御に限っては、アルベルトは携帯よりも高性能だ。浮遊ウィンドウのレッドアラートを無視しながら、彼は内部で両手を構えた。オーバークロック1を発動。処理能力不足を訴える警告を放置し、現在可能な最大顕在量を超越して、掌に念弾を装填した。岩石の飛び交う破壊の海で決定的な時を待ちながら、灼熱する脳神経を傍観する。機能はとうに人を超えた。脳髄すらも増設した。それでも、僕はれっきとした人間だと、今の彼は、胸を張って言えた。

 

 特大の砲撃が放出される。豪流が生まれた。岩塊の渦から光の河へ、崩壊の有り様が一変する。内在するオーラを使い尽くし、演算球が一つ消滅する。ウボォーギンは吹き飛ばされ、反動でアルベルトも地層へ深く衝突した。土地の有り様が崩壊し、何もかも大きく揺るがされる。

 

 崩落する岩盤の隙間を縫って、彼は空へと飛翔した。オーラを精密に噴出し、最後となった演算球を伴い、ゴルドー砂漠の青空へ飛んだ。上空から見る光景は壮観だった。巨大な亀裂が土地に一直線に割り砕かれ、熱く土煙を上げている。惑星の割れ目だ。微笑みすら零れる壮大な光景の出現に、アルベルトは内心で僅かに目を細めた。そんな遥かな地上から、もう一人の人影がこの高度まで駆け上がってくる。

 

 ウボォーギンは空気を蹴った。鋼のような大腿部が屈強に強張り、膨れ上がっては空中を足蹴に爆発させる。両足で続けざまに繰り返し、階段があるかのように疾走してくる。それは筋力による空の征服。野蛮を極めた常識への唾棄。行きすぎた酷使に腱が裂け、筋肉から血液が噴出する。しかし、小回りは効くまいが猛然と速い。馬鹿馬鹿しいほどの飛翔原理が、アルベルトの加速性能を上回った。

 

 避けることは難しい。突き進む敵の姿からそう判断して、アルベルトは念弾を照準する。狙いは膝の関節だった。あれだけ無茶な機動である。僅かな破損で地へと墜ちよう。右手の五指にエネルギーを装填して、頭の中で撃鉄を落とした。

 

 超高密度念弾が五つ、光線の如き速度で風を切り裂く。だが、ウボォーギンの行動は彼の予測を上回った。手元の空気を鷲掴み、純粋な握力で圧縮し、暴風として真横に放り投げる。自らが起こした突風の反動に身を任せ、巨体が軽やかに横へ滑った。さらに脚で空気を蹴り、続けざまに軌道を変える。暴力的ともいえる鋭角な旋回で宙を駆け、アルベルトの背後、上空を一瞬で占位した。位置エネルギーに物を言わせ、加速と共に落下してくる。オーラの噴出は間に合わず、演算球は残り一つ。命中する確率の低い状況では、ここで消費しても窮地にしかならない。ウボォーギンが拳を振りかぶる。筋肉質の右腕には、今までで最大のオーラがあった。

 

 マリオネットプログラム、解除。

 

 フィルタリングされていた感覚が、生身のそれに切り変わった。轟々と鳴る風が耳を震わせ、冷たく低い気圧が肌を刺す。身を護っていたオーラはほどけ、アルベルトの体は落下しだした。眼前に敵が迫っている。具現化されていた左腕が、生命力の粒子となって散っていく。念への抵抗力は皆無となって、猛禽に襲われる蝶と化した。

 

 剥き出しになった感性を頼りに彼は舞う。体を回し、軸線を翻してすり抜けるように拳を避けた。ひどく、容易い。操作されたパワーは脅威だったが、精密に最善の動作しかしてこない。この時アルベルトは思い知った。ヒソカとの最初の戦闘で、いかに彼が読みやすかったか。どれほど自分が未熟だったか。

 

 ウボォーギンの上空に躍り出て、マリオネットプログラムを起動した。独立モードに入っていた演算球と合流し、オーバークロック2で全てのリミッターを解除する。オーラを残された右腕に集約して、アルベルトは、最大出力の一撃を放った。

 

 新しい流星が地に落ちた。

 

 巨大な火球が誕生し、衝撃波の津波が世界を揺らした。

 

 

 

 擂り鉢状に灼けた土が黒く広がり、小さなガラスの小片が、日の光を反射して輝いてた。ウボォーギンは瀕死だった。衝撃は深く内臓まで達し、消耗はひどくオーラは乏しい。それでも、彼は戦意を失わずに、首筋のアンテナを自力で抜いた。腰元の携帯電話も引き抜いて、二つ揃えて地面に置く。特に力んだ様子もなかったが、意思だけで対人操作を超越したのだ。

 

「シャルナークの奴には悪いが、これ以上はオレもやばいからな」

 

 時間は充分稼いでやったと言いながら、準備運動の如く腕を回して柔軟に勤しむ。

 

「こっから先はただの喧嘩だ。お互い楽しもうぜ、なあ」

「……本当に君は相変わらずだね。ウボォーギン」

 

 毒気を抜かれたと彼は思った。高度統制中、表情が変わる事はないはずだが、現在のアルベルトは笑っていた。それは荒々しい笑顔だった。闘争本能にまみれた雄の表情。ヒソカとの最初の戦いが思い出される。思えば、兆しはあの頃からあったのだ。そして今、半年の修行と生死の境の経験を経て、ついに完全な開花を果たした。

 

「やっとオレたちの目になったじゃねえか」

 

 ウボォーギンは眉を釣り上げて頬を緩めた。親愛なる仲間にするように、アルベルトを指さしておおらかに笑う。嬉しげに喉を震わせながら、先達として一つの答えを彼に与えた。

 

「クロロがお前を仲間にしたのは、きっとその目を見たかったからだぜ」

 

 重要なのは行為ではないと彼は言った。盗みなど、結局は組織の動く目的でしかない。ただ単に人を集めた理由がそれであり、集まった連中が外道だっただけだ。核となるのは喜びだった。

 

「ようこそ、だな。歓迎するぜ、オレ達の旅団に。……さぁ、来いよ」

 

 あと何分の命とも知れぬ身で、ウボォーギンはそんな戯れ言を吐く。アルベルトに付き合う義理はなかった。彼もまた状況は厳しいのだ。左腕はなく、演算球はついに尽き、オーバークロックによる酷使は本人の肉体までをも蝕んでいた。しかし、義理はなくても欲求はあった。戦いは楽しい。正統な対決は楽しかった。高度統制は続いている。根源的な欲求も制御している。それでも、アルベルトの中の本能が、歓喜に涌いて仕方がない。狂ってしまったかと彼は危惧した。が、マリオネットプログラムに問い合わせても、異常はどこにも見あたらなかった。

 

「ウボォー。人生最高の喧嘩にしよう」

 

 残る一つの拳を握りながらアルベルトは走り、ウボォーギンが両腕を大きく広げた。

 

 

 

 たった数分はあっけなく終わった。ウボォーギンは事切れている。アルベルトは勝利を手にしたが、重要なのはそれではなかった。マリオネットプログラムの統制を低いレベルに下げてみれば、充実した疲労感が実感できた。すがすがしい青空の一日だった。

 

 アルベルトの消耗は大きかった。もう一歩動けるかも分からないのに、心だけが燃えて高ぶっている。肉体の休息をアラートが勧め、心にひどく疲労を感じた。

 

 汗にまみれた手の平を見る。彼は今、エリスをこの手で抱きたかった。思えば、荒々しく抱きしめたことは一度もなかった。壊したいと欲したことも一度もなかった。だがしかし、この瞬間のアルベルトは別だった。雌として雌にするように、己のものとして屈服させたい。そんな野蛮な欲望が、己の中から湧き出ていた。おそよ愛する人にするものではないと、記録した知識が告げている。

 

 それでも、痛いほどに抱きしめたかった。

 

 笑顔だけでなく泣き顔も欲しい。涙で顔をぐしゃぐしゃにさせて、だけども無上に喜ばせたい。理由は全く分からなかったが、なにもかも手中に収めたかった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 疲れていたら眠るといい

 愛しい天使の腕に抱かれて

 

 

 

次回 第三章エピローグ「狩人の心得」



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第三章エピローグ「狩人の心得」

1999年9月11日(土)

 

「もう、父さん? 駄目じゃないの。テレビなんて見てちゃ」

 

 薄い色の金髪をポニーテールに上げたエリスが、ホテルのキッチンから振り向いて言った。薄桃のエプロンを身につけて、木製のお玉を手にしている。後ろでは鍋が煮えていた。中では上等の去勢鶏を用いたブイヨンのスープが、脂を丁寧に除かれて、透明な茶色に仕上がっていた。

 

「今朝退院したばかりなんだから、安静にしてなきゃ」

 

 叱られてクラウスは顔をしかめた。ソファーに沈んだままに娘を見上げ、のっそりした仕草でリモコンを操作してスイッチを切った。が、彼の口元に残った歪みは不愉快さではなく、ささやかな嬉しさの名残りだった。

 

「どうしたの? 変な顔して」

「いや、お前の煩い口ともお別れかと思うとな」

 

 今度はエリスが顔をしかめた。むっとした仕草で背中を向けて、乾燥パスタの袋を開ける。ファルファッレと呼ばれる蝶に似た種類で、真ん中がリボン結びのようにくびれていた。大柄の友人から勧められた品だ。

 

「なによ。無理して死にかけた人の台詞じゃないわ」

 

 拗ねてみせる彼女の背に、クラウスは頑張ったなと声を掛けた。それは優しい言葉だったが、二人きりの部屋に沈黙が落ちた。エリスは歯切れ悪く俯いて、細い肩をますます細く小さくした。

 

「……うん、でも」

「友達か」

「うん」

「お前は通信スクールだったからな」

 

 クラウスはぼつりと呟いた。エリスは二度と彼らに会えない。発見した遺体は防腐処理して手続きを済ませ、それぞれの故郷へ送っていた。クラウスは何も言わなかった。悲しみの記憶は自分で乗り越えるべき過程であると、彼も彼女も分かっていた。

 

 しばらくして、二人はマッシュポテトとスープの軽い昼食をとってから、ソファーに並んでとりとめもなく話した。クラウスは高級な赤ワインを取り出して、娘の焼いたつまみを肴に、なんでもない会話に興じていた。エリスはアルコールをほとんど飲めなかったが、この日ばかりは相伴した。舐める程度であったのだが、頬に薄い紅が散った。舌はいつも以上によく回り、父子の会話に花が咲いた。

 

 彼ら二人の憩いの機会は、これが最後というわけではない。だが、二人きりとなると別であった。たとえ皆無とはいかなくても、確実に少なくなるだろう。娘の左手には指輪があった。薬指の付け根を彩るそれには、誰かの瞳と同じ色の金緑石が、優しい輝きを放っていた。

 

 のんびりした時はいつの間にか流れ、彼女が空港に向かう時間が近づいていた。エリスは髪をほどいて身を整え、クラウスは一人で再び感傷に浸った。虚空へ向けて乾杯を捧げる。彼の心に浮かんだのは、娘によく似た少女だった。淡いプラチナブロンドの髪は白に近く、儚い雪のような面影に、ブルーの瞳が哀しげに澄んで濡れていた。

 

 あれから十八年もの年月が経ったが、少女は歳を数えていなかった。

 

 

 

 幻影旅団との戦いが終わり、およそ一週間になろうとしている。かつて病院だった決戦跡地は、ハンター協会が購入していた。土地、建物、器財や医療機器までもが現存するものとして査定され、本来の価格で買い上げられた。彼らにとって、これは保障というより事業であった。同胞が成し遂げた偉業を保存し、広く知らしめるための投資であった。しばらくして汚染が完全に流れた後は、記念公園にもするつもりだろう。それは新たな名声を獲得し、後の世でより多くの特権を引き出すための礎となる。そのためには、使えない物件を元々の価値で買い上げる程度、なんてことはない出費だった。

 

 三日三晩眠り続け、アルベルトが昏睡から回復した頃、ここは既に聖地の様相をなしていた。遠巻きに多くの花束が供えられ、今も世界の各国から、多くの調査団や取材陣、そしてなにより、過去に旅団と思しき事件の被害者や遺族がひっきりなしに詰め掛けている。彼らは皆、目を精一杯に見開いて、鼻の穴を広げ、少しでも終わりの気配を嗅ぎ取ろうとしていた。

 

 ドリームオークションは終了したが、この年のヨークシンは未だ眠らず、身を焦がす熱気に酩酊していた。

 

 廃墟となった場所をアルベルトは歩く。賑やかな外と異なって、敷地の内側は恐ろしく静かで寂しかった。左腕の袖がはためいていた。

 

 降り積もった砂塵を彼は踏んだ。靴の裏が深く沈む。ここから円形に区切られた部分だけは、景色が他とは一変していた。都会に現れた赤茶色の砂漠。まるでここだけが数万数億の月日を経て、滅びを迎えたかのように、砂の中、壊れたビルが横たわっていた。

 

 第二新棟のあった地点。クロロが他界した位置であった。

 

 異様な印象を受ける光景だった。核と違い破壊の主体は爆風であり、残骸に焼け焦げた痕跡はひどく乏しい。単純に粉砕されただけであるが故に、その異常さが際立っていた。

 

 青空の下に穴がある。茶色い穴が。遠くにはヨークシン市街の街並みが見える。色の逆転したオアシスのように、化石のように佇んでいた。

 

「アルベルト」

 

 背後から声を掛けたのはクラピカだった。彼はアルベルトの隣へ並び、同じ方向を見つめながら言った。

 

「終わったんだな」

「ああ、終わったんだ」

 

 今まで、彼らは連れ立って街の各所を回っていた。大通りを歩き、セメタリービルの跡地を見て、虐殺のあったホテルを見舞い、蜘蛛の仮宿だった廃墟を眺めた。そして、最後に選んだ場所がここだった。振り返るほどに傷跡の大きさが印象に残り、旅団という存在の大きさが、否応なく脳裏に刻み込まれた。

 

 だが、それも全ては過去のことだ。人類は彼らを克服し、新しい歴史を築かないといけない。ここには記念碑が建つという。追悼を示すモニュメントが築かれ、平和と安寧を祈るという。石碑には推測される全ての犠牲者の名が刻まれ、悲運を悼み勇気を称える。ハンゾーたちも例外ではなかった。

 

 ただ一人、ビリーと名乗った少女の存在を除いては。

 

 ゴンの強い意向だった。アルベルトは彼女との交流がなく、データの上でしか知らなかった。よって反対をすることもなく、今後も他言しないことを約束した。真実は、それぞれの心にふさわしい形で、それぞれの胸に秘めればいい。そういうことになった。

 

「いい顔をするようになったな」

 

 クラピカは言った。アルベルトの首には細い銀の鎖があり、一つの指輪が下げられていた。リングの上にはサファイアが一粒乗せられている。やや緑がかった輝きは、彼女の瞳と同じ色だ。それを見てから、クラピカは右手に鎖を具現化した。

 

「ずっと、私の手で復讐を成し遂げる事にこだわってきた。だがな、奴らの長がアルベルトの手にかかって死んだと聞いた時、いや、目覚めてゴンたちと話した時」

 

 一つ息をついてから、彼は肩の力を抜いて上を見上げた。秋晴れの高く澄んだ青空を、鳥たちの群れが渡っていった。

 

「……なんでだろうな、ひどく救われた気持ちになった」

 

 嬉しそうに、寂しそうに、クラピカは柔らかく微笑んだ。

 

「ありがとう。これからは眼の回収に専念できる」

 

 左手で鎖に触れながら彼は言った。それは新しい決意だった。闇に回った眼球を集めて弔うことに、今後の人生をかけるのだろう。残る一人の殺害よりも、クラピカは、そちらを選ぶことができたのだ。

 

「その件だが、すまない。緋の眼を一対壊してしまった」

 

 アルベルトはクラピカに謝罪をした。梟を殺害した際のことである。あの時、盗まれた競売品は全てが空中に投げ出され、その後の戦いに巻き込まれた。後で確認をさせたものの、無事だった品は一つもなかった。どれもが稀に見る秘宝である。しかし、そうなることを分かった上で、クロロを奇襲するために犠牲にしたのだ。が、クラピカは首を振って、いいさと一言で全て流した。

 

「残念ではあるが仕方ない。友人の苦労を否定するほど傲慢ではないし、なにより、アルベルトは悲願を叶えてくれたのだからな」

 

 だからむしろ喜ばしいと、同胞も満足だろうとクラピカは言った。アルベルトはしばし同意をためらったが、再び促されて頷いた。それから二人は肩を並べて、ぶらりと散歩でもするように、敷地の中をぐるりと巡って眺めていった。それぞれの団員の果てた場所を、一つ一つ、なぞるように見定めていく。

 

 蜘蛛の生き方と死に方について、二人は静かに語り合った。アルベルトは今回、皐月を含めて十二人全員の息絶えた瞬間に立ち会っている。その際、彼ら一人一人について感じたことを、敬意すらも隠さずとつとつと話した。クラピカは幾度か顔をしかめることもあったものの、拒否をせずに全てを容れた。時折、クラピカが幾つか質問をし、アルベルトが端的に答えていった。そのようにして時間を過ごし、いよいよ帰る時間になった頃に、クラピカはふと思い出したように口にした。

 

「世話になったな。お互いに落ち着いたら、近いうちにまた会おう」

「そうだね、是非。エリスもとても喜ぶだろう」

 

 向き合って、どちらからとなく握手をした。

 

「私はしばらくマフィアに残る。どうやら、雇い主にひどく気に入られた様子でな。あの一戦に参加したことで、他の組を差し置いて面子を保ったことが嬉しいらしい」

 

 アルベルトは強く頷いた。彼がいなければ旅団の足止めは不可能だったと、奮戦を想起しながら肯定した。クラピカはやや複雑そうに苦笑して、独り言のように言葉を続けた。

 

「財力もあの娘の占いの力も、強力な武器になることだろう。せいぜい利用させてもらおうと思っているよ。まあ、向こうもそのつもりだろうがな」

「そうか。まぁ、ゴンたちは今ごろゲームを始めているだろうし、レオリオは受験を控えている。……しばらくはこのまま忙しそうだね。ただ、悪い忙しさではなさそうだ」

 

 結局、ゴンはゲームを買おうとしなかった。保有ではなく参加を目指すことにしたらしい。サザンピースの入場券を兼ねる目録には、彼ら手持ちの現金に加え、ダイヤを売ることで届いたそうだ。昏睡から回復したアルベルトは、修行に少し付き合わされた。

 

「お前は?」

「僕は、この件で協会に呼ばれている。どう転ぶかはそれ次第だ」

 

 彼は少し寂しそうに言った。

 

 

 

 出頭要請を受けたアルベルトは、数日ほど飛行船を乗り継いでその街に着いた。ハンター協会本部。特徴的な威容の高層ビルに、協会のシンボルが非常に大きく示されていた。同行したエリスをひとまず待たせ、彼は受付で指示されたとおりに、上層階の一室へと向かった。高級そうなドアをノックする。

 

「アルベルト・レジーナ、要請に従い出頭しました」

「どうぞ。お待ちしてましたよ」

 

 声に従って中に入った。が、会長の執務室で待っていたのは老人ではなく、ストライプのスーツを着こなした、若々しい顔立ちの青年だった。輝く笑顔が眩しかった。座っている応接用ソファーの対面の席を、至極自然に勧めてきた。

 

「ネテロ会長はご不在ですか」

 

 いぶかしむアルベルトの発した疑問を、青年は笑いながら否定した。

 

「いやぁ、ついさっきまでいたんですけどね。ほら、あそこに窓があるでしょう」

「はい」

「落ちちゃいました。あそこから」

 

 彼はキラキラと笑っていた。見れば、ガラスにはわずかながら汚れがあり、半分ほど拭き取ったような跡があった。なぜ高層ビルの上層階に、こんな手動開閉式の窓があるのか、アルベルトはしばし考えていた。今は閉じられ施錠もしっかりされていたが、開ければ風が吹き込むだろう。が、結局は気にしないことにした。

 

「いやぁ、たまにはこういう罪のない力技も面白いかと思いまして。ま、それはどうでもいいんで、アルベルトさん?」

「はい、なんでしょうか」

 

 再度勧められたソファーに座り、アルベルトは青年と向かい合った。彼はパリストン=ヒルと自らを名乗り、副会長だと役職を告げた。

 

「迅速正確がハンター協会のモットーです。ネテロさんについては後回しにして、あなたへの裁定についてお話しましょう」

 

 アルベルトはお願いしますと頷いた。パリストンは書類の束を取り出して、テーブルの上に丁寧に並べる。彼のオーラは一見して平凡を装っていたが、恐ろしい重厚さを秘めていた。そしてアルベルトは気が付いた。相手には、深さまで隠す気持ちがない。本気なら一般人すら演じるだろう。その時は、マリオネットプログラムですら見切れたかどうか。

 

 と、そのとき、外壁を駆け上がる音が聞こえた。

 

「こりゃぁ、待てぃ!」

 

 突然、外から下駄がガラスを破り、ネテロが室内に踊りこんだ。風が吹き、広げた書類が宙に舞う。アルベルトとパリストンはそれを素早く取り押さえてから、一度顔を見合わせた。数瞬して、パリストンは何事もなかったかのように続きを始め、アルベルトもそれに従った。

 

「それでですね、アルベルトさん、我々協会と致しましては」

「ええ、是非お聞かせください」

「だから待てぃちゅうとるんじゃ」

 

 ネテロは猛烈に踏み込んで、二人の持っていた書類を大人気ない速度で掻っ攫った。その時になってようやく、彼らはネテロを仰ぎ見た。

 

「あ、会長。お帰りなさい」

「お久しぶりです。ネテロ会長。ハンター試験以来ですね」

「おぬしら……」

 

 呆れ半分で若者二人を見下ろしてから、ネテロはパリストンの隣に無造作に座った。そして、手元の書類に目を通して、咳払いしてからおもむろに告げた。

 

「さて、おぬしが今回携わったという事件じゃが」

「はい、できる限り処分に従うつもりです」

「そう硬くならんでもよい。アルベルト・レジーナ。右の者、幻影旅団十二名を個人で打倒し、背後関係を明らかにし、組織的活動を停止せしめた一件をもって、特定の分野で華々しい業績を残したと認め、ここにシングルハンターと認定する」

 

 アルベルトは困惑に眉を強くひそめた。しかし、ネテロにふざけている様子は微塵もなかった。視線をパリストンに向けるものの、彼もキラキラと微笑むのみだ。

 

「今後は上官職に就任し、後輩の育成に力を入れることを要望する。……ほれ。認定証はビーンズの奴が用意しておるから、帰り際に今までのライセンスと交換することじゃな」

「それだけですか?」

「はて、それだけとは」

「私は今回、大量の一般人を殺害し、同業者へ著しい危害を加えました。間接及び直接的に、プロハンターと思しき者も最低数名は殺傷しています。それについては?」

 

 アルベルトの疑問にはパリストンが答えた。

 

「アルベルトさんから上げられた報告をこちらで精査しましたが、全て、ハントのためやむをえぬ最小限の犠牲であると判断されました。旅団員として下された命令に従う最小限度のものに留まることは明白であり、潜伏に絶対的に必要であったと考えられます。よって、当協会はあなたに対し、ハンター十ヶ条其乃四に定められた例外条項該当者であるとの判断を見送りました」

「ま、そういうことじゃの」

「では、陰獣の梟は」

「別件で指名手配されていたようだの。まあ、我々も正義に立脚する組織ではないのだし、マフィアの構成員一人を巻き込んだからといって、同胞を責めるいわれもなかろう」

 

 言っている理屈は理解できた。恐らくは世論の後押しもあったのだろうと、アルベルトは裏事情を推測する。それにそもそも、難色を示しても協会の決定は覆るまい。あとは、各人がどう受け止めるかという点に尽きる。

 

「了解です。理解はできました」

「納得はできんか?」

「いえ。それほどでもありません。ただ、時間が少々かかりそうですが」

「……ハンターたる者、それが必要と感じたら、罪も罰も自力で探して当然じゃよ」

 

 ネテロの言葉に、アルベルトは深く目を閉じた。ソファーに背中をもたれて深呼吸し、気持ちを落ち着けてまぶたを開く。思えば、エリスの体調も今後は相応に落ち着くだろう。旅団にかけられた莫大な懸賞金は犯罪被害者のための財団に全額寄付することに決めていたが、手元に残る名声だけでも、金銭に困ることはありえない。目の前に自由な人生が拓けたのだと、このとき彼はようやく知った。

 

「これから、妻と共に自分に何ができるか探してみようと思います」

「うむ。それがよかろう」

 

 ネテロもまた、深々と頷いて同意を示した。が、そこにパリストンが割り込んだ。一段と輝きが増している。

 

「胸を張りましょうよ! あなたは素晴らしい功績を残したんです。そんな方をシングルにせずに、他の誰をしろというのですか。さあ、今後のためにも受け入れてください。いえ、納得はあなたの義務に近い!」

 

 より一層胡散臭さくなったパリストンに、アルベルトは懐かしさを覚えて注視した。よくよく観察してみれば、芸風がどことなくキャロルに近い。が、彼女と違って軽薄さの中に重たい芯が垣間見える。人間らしい複雑性は、彼の好むところだった。

 

「ま、悩んでどうしょうもなくなった時は、いつでもワシの執務室を訪ねたらいい。鍵はいつでも開けておるよ」

「お望みならハントもこちらで紹介しますよ。それなりのやりがいと安定した収入は保証します。報酬から多少の天引きはしますけどね」

 

 アルベルトはソファーから立ち上がり、深々と頭を下げて二人に心からの礼を言った。そして、なにやら対立を始めた彼らを微笑ましく見守りながらも退室して、下で待つ彼女の元へと歩き出した。

 

 幸い、アルベルトは生涯を通じて己の道を見失わず、協会本部の敷地へは、二度と訪れる機会がなかった。

 

 

 

1999年9月22日(水)

 

 この日、歴史に一つの区切りがついた。

 

 当日未明の流星街。ハンター協会の所有する飛行船が、わずか一隻で議会前に降り立ったという記録がある。しかし、詳細は何も伝わっていない。これより半日におよぶ空白の時間で、誰が何を為したのか、それは人々の間で常に議論の的となった。が、確実なのはただ一点の史実でしかない。この日の正午、流星街は独立を宣言し、一時間以内に世界各国から公的に承認されたのだ。

 

 事実上の解体であった。

 

 その日のうちに近隣諸国を主力とする連合軍が飛行艦隊を発進させ、新政府からの要請という名目で治安維持活動が開始された。ゴミの廃棄は強制的に中断され、衛生部隊が子供や病人を発見と同時に保護していく。犯罪や暴動は武力を用いて排除された。外の世界の秩序を押し付ける行為には多くの非難や同情の声が上がったが、それ以上に際立っていたのは流星街に対する怒りだった。旅団と流星街の関係が明らかになり、前日に公表されていたためであった。

 

 彼らが受け入れるだけでなく奪っていたという新事実は、世論から見れば裏切り同然に映ったのだろう。この頃、世界は開放感を満喫し、もてあましてさえいたのである。自爆攻撃による報復の懸念も、憎悪を煽ることにしか役立たなかった。蜘蛛がほのめかしていた脅迫は、皮肉にも彼らが地上から滅びた後、故郷の痛恨事に直結した。

 

 住民の生活は保障されたが、国際人民データ機構への登録が一人も洩れなく義務付けられ、不法投棄は禁止された。存在は公認されたものとなり、異質都市としての長い歴史は、終焉を迎えたと言っていい。どこにでもある街を目指して、平凡な幸福へ向けて援助と監視が継続された。最深部は貴重な史跡として認定され、発掘と調査の対象となった。観光資源としての活用も目論み、整備計画も進んでいた。外部に散っていた同胞には、新政府から帰順と生存が呼びかけられた。

 

 長期的な構想はやがて十数年の歳月をかけて完遂される。その頃には市街地も笑顔と活気に満ち溢れ、ゴミの汚染は封印され、人々は牙を抜かれて温恭に堕ちた。計画に携わった人の中には、サトツを初め、多くのプロハンターの名前があった。

 

 

 

 壮麗な山脈の頂上で、一人の女が空を見上げた。蒼く、宇宙へと続く、どこまでも深い空だった。眼下には一つの集落もなく、誰の人影も見えなかった。地層の深い青を雪が覆い、息は白く、手はかじかむ。だというのに、彼女は空ばかりを見上げて佇んでいた。

 

「寒いじゃないか、馬鹿」

 

 真昼の星を見上げながら彼女は呟く。周囲に聞く者は誰もいない。正真正銘の独り言は、しかし、誰かへ向けて放たれていた。

 

 彼女の額には刺青があった。装飾された十文字の紋様。彼女はコートを纏っていた。黒い生地にファーが逆立ち、背中には逆十字が刻まれている。丈を合わせられたその一着は、今や、完全に彼女の体型に合致していた。

 

 だが、そのコートは彼女の趣味には合わなかった。デザインはかなり大げさで、自己主張が強すぎた。よほどメリハリの利いた素材でもなければ、衣装に喰われて滑稽だろう。そして何より彼女には。

 

「……重いよ」

 

 分厚い生地は、重かった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 光の天使が熱に病んで

 あなたは苦海をさまようだろう

 どこよりも出口に気をつけなさい

 きっと蜘蛛の巣に続くから

 

 蜘蛛が脚を噛み切るとき

 あなたは失せ物を取り戻す

 疲れていたら眠るといい

 愛しい天使の腕に抱かれて

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

※アルベルトは死ななかった。

 

 

 

次回 外伝「御子を見守り奉り 前編」



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