牙狼〈GARO〉 -女神ノ調べ- (らいどる)
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第一部  女神ノ調べ -Song of μ's-
第1話  騎士


 

 

 

光あるところに、漆黒の闇ありき

 

 

 

古の時代より、人類は闇を恐れた

 

 

 

しかし、暗黒を断ち切る騎士の剣によって――

 

 

 

 

人類は希望の光を得たのだ

 

 

 

 

**

 

 

 

 

 

 

 

――ああ、またですか

 

そう思ったのは今自分に起きていることが初めてではないからだ。

自分は今、5歳くらいの姿で近所にある公園でブランコを漕いでいる。だけど周りには2人の幼馴染はおろか人っ子一人おらず、不気味なほど静まり返っている。

だけど慌てることはない、自分にはこれがただの夢だとわかっているからだ。

 

なにせ本来の自分は16歳の高校2年生なのだ。こんな5歳の姿を取っているわけがない。

また、というのもこの夢を見るのは初めてではない。ここ最近、時折こうやって同じ夢を見るようになったのだ。夢はすぐに忘れてしまうと言うが、ここまで何度も見ていれば嫌でも覚えてしまう。

だからこれから何が起こるのか手に取るようにわかる。それに対して自分が感じるのは一つ。

 

――恐怖だ。

 

 

「………」

 

やがてブランコを漕ぐ自分の目の前に、フードを深く被った男が現れた。フードに深く覆われたその顔は窺うことができず、代わりに洩れてくるのは獣のような深い吐息。

生臭さの混じったその吐息に顔を顰めていると、異変が現れた。

骨と肉が裂き弾ける音と共に男の体が膨れ上がり、身に纏っていたフードを突き破ってその下に隠されていた姿が白日の下に晒された。

 

「キシャァァァァァ!」

 

そこにいたのは怪物だった。

おとぎ話に出てくるような悪魔の姿に、イメージぴったりの黒い翼と到底似つかわしくない純白の翼をもった、見るだけで嫌悪感に包まれるような醜悪な怪物だ。

姿を晒した怪物は驚愕と恐怖に塗り固められた自分に向けて、おぞましい腕を伸ばした。

 

「っ! いやぁぁぁぁ!!」

 

その瞬間、ブランコを飛び降りた自分は脱兎のごとく駆けだした。あんな怪物に捕まってしまっては何をされるかわからない。もしかしたら殺されてしまうかもしれないし、それ以上にひどい目に合うかもしれない。そんな思いが自分の体を動かしていた。

 

やがて公園の出口にまでたどり着いたが、白い靄に包まれた出口はまるで見えない壁があるかのように塞がれ、通れなくなっていた。

――まるで、お前に逃げ場などないと言うかのように。

 

「助けて! ほのか! ことり!」

 

幼馴染の名前を叫びながら出口をふさぐ見えない壁を叩くが、それで状況が変わるわけでもない。ただ自分の中の不安と恐怖が大きく膨れ上がっていくだけだった。

ふと後ろを振り返れば状況はさらに悪くなっていた。あの怪物の姿が増えていたのだ。

空から舞い降りるように一体、地面から這い出るようにまた一体とどんどんと増えていき、次第に自分の周囲は完全に怪物で埋め尽くされてしまった。

 

「い、いや……こないで、こないで……!」

 

じりじりと迫りくる怪物たちを前に、もはやしゃがみ込んで泣き出し、命乞いをするしかなかった。

そうして眼前まで迫った怪物の手が自分に触れようとした時――

 

 

「キシャァァァァ!?」

 

一筋の光が、怪物を斬り裂いた。

 

「え……?」

 

唖然とする自分をよそに、その金色の光は一閃、また一閃と走り、怪物たちの体を斬り裂いていく。

そうして自分を襲っていた怪物たちはあっという間に全て斬り裂かれ、その光の正体が露になった。

 

「……おお……かみ?」

 

そこにいたのは――金色に輝く狼の騎士だった。

手には先ほどの怪物たちを斬ったのであろう、幾何学的な装飾が施された長剣を携え、緑色の瞳が自分をじっと見据えていた。

 

「あなたは……」

 

そう尋ねようとした瞬間、狼の姿がぼやけ始めた。

いや、狼だけではない。周囲の光景すべてがぼやけ始め、やがて視界全てが真っ白になり――

 

そこで自分の意識は暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

――チュン、チュン

 

「……あ」

 

小鳥のさえずりと共に、カーテンの隙間から朝日が洩れる。

覚醒したばかりで僅かに重い体を起こし、カーテンを一気に開くと遮られていた眩い日光が差し込み、自分の目に突き刺さってくる。そうして目に突き刺さった日光によって寝起きでぼやけていた頭も一気に覚醒してきた。

 

「……またあの夢ですか」

 

こうして私――園田海未の一日が始まった。

 

 

 

 

 

 

身支度を整え、道着に着替えると家に併設されている道場へと向かう。

剣道の自己鍛錬をするためだ。将来園田流の看板を背負う身として、こうした鍛錬を欠かしたことはない。もはや習慣となっており、特別な用事でもない限りはこれをしないと一日が始まった気にならない。

そうして道場に近づき、扉に触れようとした時、扉の奥から微かな音が聞こえてきた。竹刀を振る音、すり足の音だ。

 

――また先を越されてしまった。

 

そう思いながら扉を開けると予想通り、先客が既に素振りをしていた。

同じ道着を纏い、まっすぐな瞳で素振りを行う同じ年頃の“彼”の姿はこの道の先輩である私から見ても非常に様になっていると思う。髪を後ろに流し、僅かに前髪が垂れている彼は私に気づいたのか、素振りの手を止め、額に流れる汗を拭いながら振り返った。

 

「おはよう海未、今日も早いんだな」

 

「おはようございます彩牙くん。それは私の台詞ですよ」

 

――彼の名は、村雨彩牙(さいが)

園田道場の門下生にして、この家の居候である少年だ。

 

 

 

 

「それじゃあ今日も一戦、お願いしようか」

 

「ええ、こちらこそお願いします」

 

ここ最近、朝の日課に新たに加わった彩牙との対面稽古。

互いに竹刀を構え合う――が、彩牙の構えを見て海未は苦言を漏らした。

 

「彩牙くん、またですよ」

 

「あ。ごめんよ、つい」

 

彩牙のとった構えは剣道本来のそれから大きくかけ離れていた。

腰を低く落とし、竹刀は顔の横に添えられて切っ先はまっすぐ相手に突き付けられていた。

無意識だったのか、注意されるとすぐに本来の構えに戻した。その様子を見て、海未は彩牙について思考を巡らせる。

 

 

――村雨彩牙。

彼と出会ったのはもう1か月は前になる。

あれは雨の日だった。μ’sの練習が長引いてしまって遅くなった帰り、家の前で傷だらけの姿で倒れていたのを見つけたのだ。その様子は酷い有様で、一緒にいたことりなどは悲鳴を上げて危うく卒倒しかけた。

何せ全身血まみれで、新たな血が雨と一緒にどくどくと流れ続けていたのだ。荒事に無縁な女子高生に平気でいろと言うのが無理な話だ。

 

ことりの悲鳴に気づいた両親によって救急車が呼ばれ、搬送された先――真姫の両親が経営する病院で三日三晩眠り続けた後、彩牙はようやく目を覚ました。これでめでたしめでたし――とはいかなかった。

目覚めた彩牙の経過は順調で、常人とは比べものにならないほど凄まじい早さで回復していった。だが一つだけ、どうしても回復できないものがあった。

 

記憶だ。

目覚めた彩牙は自分の名前以外、何一つ覚えていなかったのだ。

どこに住んでいるのか、普段何をしているのか、どうしてあんな場所で倒れていたのか、あの怪我はどうしたのか、そういったことが何一つわからなかったのだ。これでは彼の処遇を決めることができない。

どうしたものか――誰もがそう思った時、その均衡を破ったのは驚いたことに海未の両親だった。

 

「家で暮らさないか?」

 

その場に居合わせた海未、そして言われた彩牙本人も唖然にとられた。

海未の両親――特に武道家である父は非常に厳格である。会って数日もしない――それも記憶喪失の身元不明の少年を受け入れようとするなど到底信じられなかった。

母も母で、優しい性格ではあるが由緒正しい日舞の家元。そんな母がどこの馬の骨ともわからない男を招くなど家の名に泥を塗ることになりかねないのではと思ったのだ。

そもそも家族でも知り合いでもない、同じ年頃で全く赤の他人の男女が同じ屋根の下で暮らすというのはいかがなものだろうか。きっと彩牙もそう思っていたことだろう。

 

何故と聞いてもはぐらかされるだけの上、彩牙の処遇に困っていたのは事実だったためそのまま彩牙は園田家に預けられることになった。

最初は突然現れた彩牙に警戒心をもっていた海未だったが、それも徐々に薄れていった。

彩牙はとても気の利く少年だった。炊事、掃除、洗濯などのような家事全般に加え、道場や日舞などにおける雑事を、『お世話になっているから』と誰に言われるわけでもなく手伝い始めたのだ。

 

その上落ち着きのある性格をしており、そこらの男子のようにへらへらと軽薄な笑みを浮かべたりするでもなく、かといって他人の顔色を窺うような卑屈さがあるわけでもない、芯のしっかりした好青年だった。元々男性に対して苦手とまでいかなくても初心なところがある上厳格な父を見て育ったため、へらへらした性格や卑屈な性格――所謂男らしくない男性が好きではなかった海未にとって、そういった彼の姿は好印象だった。

 

そうして雑事の手伝いをしているうちに彩牙は剣道の稽古に加わるようになったが、そこでも海未は彼に驚かされた。

彩牙の太刀筋は昨日今日剣を持ったような人間のそれではなかった。粗さはあるものの、その太刀筋に迷いや雑念はなく、非常に鋭いものだった。幼いころから稽古していた自分と同じ――いや、それ以上……彩牙の太刀筋に海未はそう感じた。

太刀筋は振るう者の心を表すもの。その淀みのない太刀筋からこうも思った。

 

――彼は悪い人間ではない。

 

そういった経緯もあって、ほとんど海未の貸し切り状態だった早朝の稽古に彩牙の姿が加わるようになり、今ではこうして対面稽古をする仲に――

 

 

「メェェーーンッ!!」

 

バシン、と防具越しに頭に響く竹刀の弾ける音と衝撃。見れば自分の目の前で防具に弾かれた竹刀を持った彩牙の姿があった。

 

――いけない、やってしまった。

 

稽古の最中だというのに考え事に没頭してしまった。きっと彩牙の目には隙だらけの間抜けな姿が映っていたことだろう。海未は自分の迂闊さを恥じた。

 

「油断大敵だよ、海未」

 

「……申し訳ありません。ですが、次はこうはいきません!」

 

「望むところさ」

 

まずは彩牙から一本取る前に自分の心から一本取らなければ。

そう思いながら身を引き締め、海未は再び稽古に臨んだ。

 

 

 

**

 

 

 

「今朝もお疲れさま、海未」

 

「彩牙くんもお疲れ様です。また太刀筋が鋭くなったのではないですか?」

 

「俺はまだ新参者だからね、先生や海未に追いつけるように頑張らないと」

 

「それを言うなら私も同じですよ、まだまだ修行中の身ですから」

 

朝の鍛錬を終え、身支度を整えて広い園田家の廊下を進む二人。

汗を流すために浴びたシャワーで若干火照った体で、海未は隣を歩く彩牙の横顔をちらりと見た。

顔立ちは悪くない。むしろ世間一般からすれば十分美形の部類に入るだろう。だが野性味…とまではいかなくても荒波に揉まれたような逞しさが感じられる。テレビで見るような線の細い男性アイドルとはまた違った魅力が――

 

――って、私は何を考えているのですか!

 

浮かんだ考えを払うように、ぶんぶんと頭を振る。これではまるで彼にときめいているようではないか、それだけはあり得ない。

確かに彩牙は悪い人間ではない、それだけは断言できる。しかしまだ出会って一月も経っていないのだ。そんなよく知りもしない男性のことを好きになるなどまるで軽い女のようではないか。

だいたい男女とはそんな簡単な気持ちで付き合っていいものではない。知り合い、お友達と時間をかけて互いのことを深く知っていくことで初めてお付き合いするもので――

 

 

「あら、海未さん、彩牙さん、もう朝の稽古は終わったのですか?」

 

と、悶絶していると向こうから呼びかける声があった。

そこにいたのは園田家の現当主――海未の母だった。すでにお辞儀していた彩牙に続くように慌てて海未もお辞儀し、「はい」と答えた。

 

「でしたら――久しぶりにお稽古を見てさしあげましょうか?」

 

「はい、お願いします」

 

即答だった。普段は優しい母でも日舞においては敬うべき師匠なのだ。師匠の言うことには全て「はい」と答えるのが弟子のあるべき姿だと海未は捉えている。

稽古を言い渡したのも、きっとさっきの心あらずな様子を見たからなのだろう。海未は反省した。

 

「それと彩牙さん、申し訳ないのですけど夕方にお使いを頼まれていただけないでしょうか? 私が行くべきなのですけど、どうしても外せない用事と被ってしまって……」

 

「わかりました。俺でよければ」

 

「いつもすみませんね、勝手なお願いばかりして」

 

「いえ、先生と奥様にはお世話になっていますから、これくらいは」

 

「ありがとうございます。それでは海未さん、参りましょうか」

 

「はい」

 

母に促され、その後をついて舞台に向かう海未。

その背に彩牙が声をかけた。

 

「そういえば海未、さっき顔が赤くなってたけどどうしたんだ?」

 

「……なんでもありません、お気になさらず」

 

――やっぱり、嫌いではないが苦手かもしれない。

母のからかうような笑みと、「?」と彩牙のポカンとしたような表情に挟まれて、海未は恥ずかしさで再び顔が赤くなるのを感じた。

 

 

**

 

 

「――1,2,3,4! 花陽、少し遅れています!」

 

「は、はいっ!」

 

「穂乃果は少し速すぎです! もっと周りに合わせてください!」

 

「うん!」

 

時間は流れ、放課後。

海未の通う国立音ノ木坂学院の屋上に、彼女をはじめとした9人の少女たちの姿があった。

彼女たちこそ音ノ木坂のスクールアイドル“μ’s”。廃校の危機に陥った母校を救うため、たくさんの生徒が集まるようにと、海未の幼馴染の穂乃果を中心に立ち上がったスクールアイドルグループだ。

今はつい先日ライブを行ったオープンキャンパスの結果を待ちながら、次の目標であるラブライブ!――スクールアイドルの全国大会に向けて練習中である。

 

「――はいストップ! それじゃあ少し休憩しましょう」

 

「は~い!」

 

「もう疲れたニャ~」

 

絵里の号令により、穂乃果と凛をはじめとして次々とへたり込むメンバーたち。まだ7月半ば、これからどんどん暑くなるという時期だ。流れる汗によってシャツが体にへばりつき、健康的なボディラインが露になる。

ここが男性に覗かれる心配のない女子高でよかったと誰もが思っていることだろう。

 

「みんな、動きがだいぶ良くなってきたわね」

 

「ええ、オープンキャンパス前と比べると見違えるようです。これも絵里先輩が指導してくれたおかげですね」

 

「そ、そんなことないわよ。みんなの努力あってこそよ」

 

絵里は照れるように頬を掻いた。

絵里は幼いころ、バレエの経験があった。その経験を活かし、日舞の跡取りである海未と共にメンバーのダンスの指導にあたっていた。その甲斐もあり、μ’sメンバーのダンスのキレは彼女が加わる前に比べて格段に上達していた。

 

「そんなこと言って~、ホントは嬉しいんやろ?」

 

「きゃっ! ちょっと希、からかわないで」

 

そんな絵里をからかうように後ろから抱き着いてきたのは彼女の友人、東條希。

絵里と同時にμ’sに加入したメンバーであり、一年のころからの親友だった。

 

「でもさ、やっぱりどんどん上達してるよね、私たち! オープンキャンパスの時もお客さんの反応良かったし! これなら廃校にも待ったがかかるよね!」

 

元気いっぱいに叫ぶ穂乃果。

彼女の言う通り、先日のオープンキャンパスの結果が乏しくなかったら音ノ木坂の廃坑は確定していたのだ。だがオープンキャンパス当日、彼女たちのライブに集まったのはたくさんの中学生たち。そのみんなが笑顔になっていた。

まだはっきりとはわからないが、きっと廃校確定だけは免れただろうと誰もが思っていた。

 

「そうだね♪ お母さんも明るい表情してたし、きっと大丈夫だよ」

 

「本当!? テンション上がってきたニャー!」

 

「それじゃあ次は本格的にラブライブに向けることになるのかしらね」

 

「そうだね! 大会も近くなってきたし、μ’sの今の順位…は……」

 

「? どうしたの花陽ちゃん」

 

スマートフォンを操作していた花陽の表情が明るいものから段々と暗くなり、怯えるようなものになっていった。

どうしたのだろう。と、穂乃果をはじめとした全員が花陽の持つスマートフォンを覗き込んだ。

その画面にはたまたま映ったのか、あるニュースのテロップが流れていた。

 

――『連続猟奇殺人、新たな被害者』

 

「……この犯人、まだ捕まってなかったのね」

 

にこの呟きに、その場の全員が沈痛な表情で沈黙した。

――それはここ数か月、東京23区内で起こる連続殺人事件だった。

被害者はいずれも若い女性、そのどれもが首から上が切断されて存在しない“首なし死体”となった猟奇的な殺し方だった。

警察の必死の捜査にも関わらず犯人は捕まらず、これまでに6人――このニュースを含めれば7人もの女性が被害にあっている。

華の女子高生である彼女たちを恐怖させるにはあまりにも十分すぎた。

 

「嫌よね……被害者には私たちと同じ年の子もいたんでしょ? 海未先輩も気を付けてくださいね」

 

「そうよね……この中じゃ海未さんが一番狙われやすいかもしれないし」

 

「海未ちゃん! 死んじゃやだよ!」

 

真姫、絵里、穂乃果をはじめとした全員が海未に心配な視線を向ける。

この連続殺人事件、もう一つ特徴があった。被害者の関係者からの証言により、被害者は全員黒い長髪だったことが明らかになったのだ。

それ故、青みのある艶やかな黒い長髪を持つ海未がメンバーの中では一番犯人に狙われやすく、危険だと言える。

 

「大丈夫です。穂乃果やことりを残して先に逝くわけにはいきませんから」

 

「本当!? 本当だよね!? 嘘だったら針千本飲ますからね!」

 

「わかってます、わかってますから少し離れてください。近すぎです」

 

涙交じりの顔で迫る穂乃果を嗜める海未。

幼馴染の自分を心配してくれるのは嬉しいが、些か感情表現がオーバーな気もする。

まあ、それが穂乃果のいいところなのですけど――と、密かに思う海未。多分本人に面と向かって言うことはないだろうが。

 

――プルルルル

 

「……あ、すいません。私のようです」

 

と、その時海未の携帯が鳴り響いた。

バッグの下に駆け寄り、携帯を開いてみるとそこには『彩牙』の二文字が。

どうしたのだろうと思いながら電話に出た。

 

「彩牙くん?」

 

『あ、海未? 今朝奥様に頼まれていたお使いなんだけど、先方の都合でちょっと遅くなりそうなんだ。だから今晩の稽古に付き合うのはちょっと厳しそうでさ』

 

「そうですか……それじゃあ仕方ありませんね」

 

『ごめんね。最近物騒だから気を付けて』

 

「はい、彩牙くんもお気をつけて」

 

少し残念に思いながら電話を切ると、全員が海未を見つめていた。

希を含んだ何人かがにやにやしているのは気のせいと信じたい。

 

「海未ちゃん、今のってあの日倒れていた……?」

 

「ええ、そういえばことりはあまり話したことがありませんでしたね」

 

「う、うん……」

 

どうもことりは彩牙のことが苦手なようだと海未は思った。

しかし無理もないと思う。倒れていた彩牙を見つけた時、彼の傷は本当に酷いものだった。

まるで事故にあったか、獰猛な獣にでも襲われたかのように血だまりの中に倒れていたのだ。身に着けていたボロボロの白いコートが余計にその姿を映えらせていた。

その姿がトラウマになったのか、ことりは彩牙に苦手意識を持つようになってしまっていた。

 

「それにしても海未ちゃんが男の子と同棲するなんて、すっごい意外やね♪ 噂じゃ結構カッコいい子なんやろ?」

 

「あ、彩牙くんならこないだ家に饅頭買いに来てたよ! 今時珍しく礼儀のしっかりした子だってお母さんたちが言ってた!」

 

「おお、海未先輩も隅に置けないニャー……」

 

「アンタね、仮にもアイドルなんだから下手に付き合ったりするんじゃないわよ。 アイドルの熱愛報道なんてシャレにならないんだからね」

 

「つ、付きっ……!? しません! そんな破廉恥な!」

 

先ほどまでの重苦しい雰囲気はどこにいったのやら、和気藹々とした声が響き渡る。

スクールアイドルとはいえ、彼女たちも華の女子高生。気になる男子の話題で盛り上がるのはごく自然とも言えた。海未としてはその話題でからかわれる立場にあり、非常に恥ずかしかったが。

だが偶然とはいえ彩牙のかけた一本の電話が、沈みかけていたμ’sの元気を再び引き上げてくれた。

ありがとうございます――僅かに赤くなった顔で、海未は密かに感謝の言葉を浮かべた。

 

 

 

**

 

 

 

――チョキ、チョキ

 

シザーの音が響く。

ここは個人経営のヘアサロン。こじんまりとしているが隅々まできっちり整理されて清潔感に溢れ、真っ白な壁と床にところどころ浮かんでいる赤のワンポイントが洒落た雰囲気を出していた。そして一角には練習用のウィッグが並んでいた。

 

「……お客さんの髪、とっても綺麗ですねぇ……カットし甲斐がありますよ」

 

その中で一人、若い男が“女性客”の髪をカットしていた。

彼はこのヘアサロンの持ち主であり、唯一の店員だった。

 

「僕ね、お客さんみたいな髪の人って大好きなんですよ。日本的っていうのかな、大和撫子を彷彿させるみたいで」

 

「そう、こんな感じの艶のある黒い髪が」

 

うっとりとした顔つきで、男は“女性客”の背まであるような“黒い髪”をなでる。

“女性客”は何も答えない。

シザーの髪を切る音が響く。

 

「美容師になったのも、そんな髪を美しくカットしたいと思ったからなんですよ。もう好きで好きでたまらなくて――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――だから、カットしたら帰すのが勿体なくなって、手元に置いておきたくなっちゃったんですよ」

 

シザーの音と同時に、粘着質のある音が響く。

 

「お客さんでちょうど7人目ですよ。今までのお客さんたちも本当に本当に、美しい髪をお持ちでした」

 

「でも……美しさはいつまでも続かないんですよ。段々髪の質も痛んで、匂ってきちゃったんです。そんな時は新しいお客さんを“ご招待して”また美しい髪をカットしたんです」

 

ポタリ、ポタリと、液体の滴り落ちる音が響く。

 

「ほら見えます? あそこに並んでいられるのが過去のお客さんたちです。皆さんかつては美しい髪だったんですけど、今じゃあそこまでみすぼらしくなっちゃって」

 

指差した先には、一角に並べられていたウィッグ――

 

 

 

 

 

 

――いや、女性の生首だった。

 

「お客さんはいつまで美しいままでいられるんでしょうねぇ。ずっと美しいままなら嬉しいんですけどね」

 

「まあ、もし駄目になったらまた新しいお客さんを“招待する”だけですけど」

 

血に塗れたシザーが閉じられる。

髪のカットが終わった“女性客”――の生首から、新たな血が床に滴り落ち、新たな赤いワンポイントとなる。

――この男こそ、東京一帯の女性を恐怖に陥れている連続殺人事件の犯人だった。

 

「よし、今日のカット終わり!」

 

血に塗れたシザーを台にコトリと置くと、男は光悦の表情を浮かべ、愛でるように女性の生首の髪をなでる。

しかしそれも束の間、悦の入った表情はやがてみるみるうちに憤怒に満ちたものへと変化していった。

 

「……駄目だ……」

 

そう呟いた直後、男は台に置いたばかりの血塗れのシザーを手に取り、生首めがけて振り下ろした。

ざくり、とシザーが突き刺さり、粘性の高い血がじわりと滲み出てきた。

 

「こんなんじゃ、駄目だ!! こんなのじゃ、僕の求める美しさには到底及ばない!!」

 

狂気に取りつかれたように何度もシザーを振り下ろし、突き刺す。

何度も、何度も、何度も突き刺し、生首の髪は乱れ、肉が、形が崩れていく。

そうして何度も振り下ろし、息を荒げ、男がようやく平静を取り戻した時には血まみれで髪がボロボロになり、肉が醜く崩れ落ちた生首があった。

 

「もっとだ……もっと美しい髪の女性なら僕の求める美しさに……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『………し……なぃ………?』

 

「……ん?」

 

ふと、声が聞こえたような気がした。男以外、生者が誰もいないヘアサロンに。

気のせいかな、と思ったその直後だった。

 

『もっと沢山の女の髪を切りたくないか?』

 

「!? だ、誰!?」

 

また声が聞こえた、今度ははっきりと。

男のような女のような、老人のような子供のような、複数の声色が混じったような声だった。

一体どこから、と辺りを見回していると、ある一点で目が留まった。

シザーだ。男が普段カットに使い、さっきまで使っていたシザーが妖しい光を帯びていた。

 

「……そ、そこにいるのか?」

 

『貴様の欲望、美学、見せてもらった。どうだ、もっと沢山の女の髪を切りたくないか?』

 

『美しさを永遠に保ったまま、女の髪を切り続けていたいと思わないか?』

 

『それができると言われたら――貴様はどうする?』

 

その声が語る内容は、男にとって非常に魅力的で甘美なものだった。

それらは全て男が望んでやまないもの、到底現実にはできないものだった。

だから――男に迷う隙はなかった。

 

「うん! 僕はそうしたい! カットした美しい髪を永遠に保ち続けたい!」

 

『……いいだろう。ならば――』

 

 

 

 

 

 

 

『――その身体、俺によこせぇぇぇぇぇ!!』

 

その瞬間、シザーから“闇”が噴き出した。

 

「う、ああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

 

噴き出した“闇”は、まるで意志を持つかのように男の中に入り込んできた。

目から、鼻から、口から、耳から、穴という穴から入り込み、男の中を侵食していく。

肉体だけではない、意識を、心を、魂を全て黒く染めていく。

――そうして、噴き出した“闇”が全て男の中に入り込むと、男は少しうなだれた後、カッと金色の瞳になった目を見開いた。

そして、すぐ傍にあった女性の生首を見るや否や、指先をシザーに変化させ――

 

――ジョキン

 

女性の生首を切りだした。

しかし切り口から血が噴き出ることはなく、代わりに出てきたのはあろうことか髪の毛だった。切っていくたびに髪の毛がどんどん噴き出していき、そして女性の生首だったものはあっという間に黒い髪の毛の山になっていた。

そして山になった髪の毛はなんとひとりでに浮かび上がり――

 

――ズゾゾゾゾ

 

男の口に吸い込まれていく。

余りにも異常な光景だが、男は嫌悪感を浮かべるどころか光悦な表情を浮かべており、髪の毛が全て吸い込まれると咀嚼し始め、やがてごくりと音を立てて呑み込んだ。

 

「……うん、なかなかいい趣味をもった人間だね。とっても美味だ」

 

「さて、久しぶりの人界だ。たらふく食べるとしようかな」

 

ぺろり、と口の端に残っていた髪の毛を舐め取り、満悦そうにつぶやく男――だったもの。

そこにいた男はもう、人間ではなかった。

それは太古の時代より人の陰我に引き寄せられ、人に憑依し、人を食らうモノ。

その名は――

 

 

 

**

 

 

 

「すっかり暗くなっちゃったね」

 

「全くです、穂乃果が忘れたりするからですよ」

 

「ホントごめんなさいっ!」

 

夜も更けた帰り道、海未、ことり、穂乃果の姿があった。

元々は絵里の提案で暗くなる前に練習を切り上げ、万が一のために何人かずつでまとまって帰っていた。しかし穂乃果が学校に課題のノート――しかも明日提出しなければいけないものを忘れてきたことを家の近くで思い出し、一人で行くのは危険ということで3人一緒に学校まで戻って回収し、戻ったころにはすっかり夜も更けてしまっていた。

 

「普段からしゃんとしていなからこのようなことになるのですよ、何のために絵里先輩が早めに切り上げたと思っているんですか」

 

「まあまあ海未ちゃん、穂乃果ちゃんだって反省してるしそこまで強く言わなくても……」

 

「ことりは穂乃果に甘いのです、穂乃果のように抜けてる相手にはそれこそ何度でも言わないと駄目なんです」

 

「うぅ、耳が痛いよぉ……」

 

しょんぼりとうなだれる穂乃果。これできちんと次に生かしてくれれば海未としては文句ないのだが、きっと無理だろう。

ともあれ、何事もなく無事ここまで来ることができた。あとは目の前の角を曲がれば自分たちの町に入ることができる。

――そう思った時だった。

 

「――こんばんは! お嬢さんたち!」

 

「「「ひゃっ!?」」」

 

突然、後ろから声をかけられた。

慌てて振り向くと、そこには一人の男が立っていた。20代半ばのような若い男だ。帽子の下から覗かせるその顔には人懐っこそうな笑顔が浮かんでいる。

 

「な、何ですかあなたは!?」

 

「あ、驚かせちゃったかな? ごめんごめん! 僕、こういう者なんだけど」

 

そう言って男が差し出したのは、一枚の名刺。

そこには『滝川』という男の名前と、美容師である旨が記されていた。

 

「美容師……ですか?」

 

「そう! 小さなヘアサロンなんだけどね。偶々見つけたお嬢さんたちの髪がとっても綺麗で! どうです、ウチでその髪をもっと美しくしていきません?」

 

「は、はぁ……?」

 

――怪しい。怪しすぎる。

髪を褒められたというのにちっとも嬉しく思えない。こんな時間に人気のない場所で女子高生を捕まえて言うセリフだろうか。

男は相変わらずニコニコした笑みを浮かべている。だが何故だろう――海未にはその笑顔があまりにも不気味なものに思えた。

横を見ればことりと穂乃果も同じことを思ったのだろうか、二人の顔も強張っていた。

 

「あの……すみませんが急いでますので遠慮します」

 

「えぇどうして!? そんなに美しい髪なのにもったいないよ!」

 

断っても男はしつこく言い寄ってきた。

断られてもめげない強引さ――穂乃果にもある点だが、男のそれは穂乃果とは全く別だと感じた。

穂乃果のはみんなのため、一緒に楽しくなるためにあるが、男のはただ自分が楽しくなるため――自分の欲を満たすためだと海未は感じた。

交番も近いし、いっそのこと通報してしまおうかとも思った。

 

「お断りします。最近は物騒なので早く帰らないと家族も心配します」

 

「物騒?」

 

「知らないんですか? 最近起きてる殺人事件ですけど……」

 

遠慮しがちにことりが言う。

それに続くように穂乃果も言う。

 

「そ、そうなんです! だから早く帰らないと……!」

 

「……そっか、残念だなぁ……」

 

「わかっていただけましたか。申し訳ありませんが、それでは」

 

「うん、しょうがないから――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――しょうがないから、この場でカットすることにするよ」

 

「え?」

 

「! 穂乃果!」

 

真っ先に気づいたのは海未だった。

穂乃果を押し倒すと同時に、自分たちがいた場所をあるものが横切った。

それは、男が手にしたシザーだった。

 

「海未ちゃん! 穂乃果ちゃん!」

 

「大丈夫ですか、穂乃果!」

 

「う、うん……」

 

 

 

「あーあ、外しちゃった」

 

そう言いながらチョキチョキとシザーを開いては閉じる男。

その時、3人は気づいた。いや、気付いてしまった。

男の持つシザーが、血に塗れていたことを。

 

「君たちも今までのお嬢さんたちのように美しくカットしようと思ったのに」

 

「ま、まさかあなた、例の連続殺人の……!」

 

「うん、そうだよ! “この人間”は君みたいな黒い髪の子ばかりを狙ってたみたいだけど……」

 

 

 

 

 

 

「“僕としては”、隣の子たちも美味しい“つけあわせ”になると思うんだよね」

 

「……! 逃げますよ、穂乃果!ことり!」

 

「う、うん!」

 

やばい、やばすぎる。本能がそう叫んでいた。

今すぐにここから離れなければ殺されると。気づいた時にはことりと穂乃果の手を握って駆け出していた。

幸い、この曲がり角を曲がった先すぐには交番がある。そこに駆け込んで助けを求めれば――

 

 

「ハロー♪」

 

「「「きゃあぁぁぁっ!!」」」

 

――曲がった先には、あの男が待ち構えていた。

何故、どうして、自分たちの後ろにいたはずなのにどうやって一瞬のうちに先回りを――

そんな疑問を考えるより先に足が先に動いていた。逆方向になってしまうが仕方ない。

今はとにかくあの男から逃げなければ――

 

 

 

**

 

 

 

そうして逃げているうちに人気の全くない夜の公園へと辿りついた。

幼いころはよく3人で遊んでいたこの場所が不気味な雰囲気を帯び、まるで自分たちの処刑場かのような錯覚を受けた。

まずい、まんまと誘導された――海未はそう思い、そして後悔した。

せめて自分一人だったら二人を巻き込まずに済んだのに――と。

 

「やあようこそ! 僕の即席サロンへ!」

 

「ひいっ!」

 

ことりが涙交じりの短い悲鳴を上げる。

案の定というべきか、3人の目の前にはあの男が立ちふさがっていた。ご丁寧にもヘアサロンにあるような散髪椅子を横に添えて。

そして仰々しくお辞儀をすると、男は深い笑みを浮かべて歩み寄ってくる。

 

「お嬢さんたちの髪、本当に美しくて綺麗だからカットし甲斐があるなぁ……」

 

血に塗れたシザーを弄びながら、ゆらゆらと歩み寄ってくる男。

――やるしかない。このような猟奇殺人犯相手にどこまでやれるかわからないし、本音を言うととても怖い。今すぐ逃げたい気持ちになる。

だけど今は穂乃果とことりが――最も大切な二人が傍にいるのだ。こんな時に二人を守れないで何のために修練してきた武道なのか。

そう海未が己を奮い立たせていると、男はおもむろに血に塗れたシザーを投げ捨てた。凶器のはずのそれを――である。

もしかして気が変わったのか。海未をはじめ、3人はそんな希望を抱いた。

 

「……そして、とっても美味しそう」

 

しかしそれは、淡い希望でしかなかったことを思い知らされた。

3人は自分の目が信じられなかった。目の前で起きていることが現実だと、到底受け入れられなかった。

目の前にはあの男が立っている。頭も、胴体も、腕も、足も、すべてが人間のものだった。

ただ一つ違っていたのは指先だった。シザーの金属音とともに、男の指がありえないものへと変形していく。

 

「……な、なに……あれ……」

 

震える声で穂乃果が呟いた。

シザーだ。男の指一本一本がシザーの刃へと変わっていく。それも普通の長さではない、少なく見積もっても膝下までの長さがあった。

10本のシザーの刃が、まるで爪のように動く。動くたびにカチャカチャと甲高い金属音が響く。

――この男は、本当に人間なのだろうか。3人の胸に浮かんだのは同じ思いだった。

言いようのない恐怖――まるで子供のころ理由もなく怯えていた、闇のような恐怖と共に。

 

「お嬢さんたちの髪はどんな味がするのかなぁ……楽しみだなっ!」

 

「! 穂乃果、ことり!」

 

「えっ」

 

「海未ちゃん!」

 

無意識に体が動いていた。

あの男が信じられないスピードで駆け出した瞬間、海未は穂乃果とことりを突き飛ばしていた。二人の呆気にとられた表情、それがみるみると庇われたことを理解した悲しみのものに変わっていく。

一瞬のうちに目前まで迫った男が狂気に染まった笑顔で、海未に向かってシザーに変化した指を突き出す。

 

――ああ、ここで終わってしまうのですね。

全てがスローになった視界で、海未はそう思った。

折角μ’sが9人になり、オープンキャンパスも成功し、ラブライブに向けてようやく軌道に乗り始めたというのに。2人を残して逝く気はないと言ったばかりなのに、早速破ってしまった。

2人を助けてよかったと思うと同時に、申し訳ないという気持ちが溢れてきた。

 

――穂乃果、ことり、あなた達はどうか無事に逃げてください――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――ガキンッ

 

鳴り響く金属音。

――痛みはない。斬り裂かれた感触もない。

自分はまだ生きているのか、しかしどうやって?

おそるおそる目を開くと、今度は驚きで更に目が見開かれた。

 

シザーの刃は海未の体に触れるギリギリのところで止まっていた。

――いや、止められていた。横から割り込んできた、もう一つの“刃”によって。

 

「あ、あれって……まさか……?」

 

驚愕の表情で呟くことり。きっと自分も似たような顔をしているのだと、海未は思った。

割り込んでシザーを止めたのは、一本の剣だった。

細身の両刃剣で、10本もあるシザーの刃をいとも簡単に押し留めていた。その“赤い柄”を握る腕を、海未には見覚えがあった。

いや、見覚えがあるどころの話ではない。海未はその腕をここ数週間、毎日見ていた。

そう、日が昇ったばかりの早朝、他に誰もいない道場で一緒に竹刀を握っていた――

 

「……彩牙、くん……?」

 

「……」

 

――村雨彩牙。

園田家の居候兼門下生の少年がボロボロの白いコートを身に纏い、たった一本の剣で海未に迫るシザーを押し留めていた。

 

 

「なぁに、君は? いいところだったのに」

 

「貴様、ホラーか?」

 

「……だとしたらどうするの?」

 

「狩る」

 

見たこともない鋭い目つき。聞いたこともないような怒りを込めた低い声。

穏やかな普段の彼とはまるで違う。海未は目の前にいるのは本当に彩牙なのだろうかと言い知れぬ違和感を覚えた。

 

「ぎゃっ!!」

 

次の瞬間、状況は一変した。

彩牙が剣を握る腕を振るうと押し留めていたシザーが弾かれ、男は胴体むき出しになった。

すかさず彩牙はその腹に強烈な蹴りを叩きこみ、蹲りかけた瞬間にその体を斬り裂いた。

肩から腰へ、更にそこから袈裟斬りを刻み込み、男の体は大きく飛ばされる。

穂乃果とことりの潜めていた息からかすかな悲鳴がもれた。

 

「そうか……貴様、魔戒騎士か!」

 

「……」

 

男はまだ生きていた。

袈裟にかけて刻まれた大きな傷から夥しい量の血を流し、苦痛に顔を歪ませながらもしっかりと立っていた。まるでこれしきでは死なないと言わんばかりに。

そしてその口からは先程までの余裕と不気味な無邪気さとはまるで正反対の、苦痛と怨嗟に満ちたおどろおどろしい声が発せられていた。

こんな人間が本当にいるのか、そもそもこれを人間と呼んでいいのか。3人は目の前の現実にただ戸惑うだけだった。

 

「さ、彩牙くん……?」

 

「隠れていろ」

 

彩牙は海未に振り向くこともなく、男から目を離さずに剣を構える。

海未はその構えに見覚えがあった。

腰を低く落とし、顔の横に添えた剣の切っ先を相手に向ける。毎朝稽古のたびに直すよう注意していたあの構えだ。

 

「海未ちゃん! 大丈夫!?」

 

「穂乃果、ことり……」

 

海未の下に穂乃果とことりが駆け寄り、支えられてその場を離れる。

海未はこの時自分の足が震えていたことに気づいた。

ふと振り返れば、彩牙が男に向かって駆け出していた。

距離を詰めた彩牙が剣を振り下ろす。男はシザーで剣を受け止め、火花と共にギチギチと金属同士の擦れ合う音が響く。

男は空いている片腕のシザーで彩牙を斬り裂こうとするが、今度は赤い鞘で受け止められ鍔迫り合いになる。

 

拮抗する二人。その均衡を破ったのは彩牙だった。

一瞬で鞘の持ち方を変えるとその先端を男の鳩尾めがけて突き出す。息を一気に吐き出し、力が抜けた男の隙を見逃さずに剣でシザーを叩き折り、そのまま胴体を斬り裂いた。

反撃で繰り出したもう一方の腕のシザーを剣で弾き、再び距離を取る。

圧倒的だ。彩牙の剣にはブレがなく、隙もない。だが何故だろう、その剣にはどこか別の感情が込められているような気がする。

海未がそう思った、そのときだった。

 

「あ、あれ? 通れないよ!?」

 

「なんで、どうして!?」

 

穂乃果が何もない空間をバンバンと叩く。ことりもまるでそこに壁があるかのようにペタペタと手を動かす。

いや、あるかのようではない。そこには本当に見えない壁があったのだ。

まるで獲物はここから逃がさないと言うかのように。

そしてその獲物を狙う狩人――男がぎょろりとこっちを見つめていた。

 

「ウゥゥゥ……ガアァァァ!」

 

獣のような唸り声と共に、男の体が再び変化していく。

全身から無数のシザーが肉体を内側から食い破らんと突き破って這い出てくる。ことりから恐怖と嫌悪感に満ちた悲鳴がもれる。

やがて突き破ったシザーが男の体を覆い尽くすと、肉を追い出すかのようにシザーが弾き飛ばされた。

 

 

「な…なに、あれ……」

 

そうして露になった男の姿は、もはや人間の形をしていなかった。

肌はぬめりのあるごつごつとした黒い肌に、それを覆うような外骨格。シザーの刃となった指、全身に現れた美容師を彷彿とさせるような赤、青、白の意匠。

見るも醜悪な怪物が、そこに立っていた。

 

『――カアッ!!』

 

怪物が息を深く吸うと次の瞬間、信じられないものがその口から飛び出してきた。

シザーだ。歪な形の無数のシザーがまるでスチールウールのように絡み合い、ボール状の塊となって吐き出されたのだ。

それも一つではない、二つ三つと続けて吐き出された。

――見えない壁に逃げ道をふさがれた、海未たちめがけて。

 

「きゃあぁぁっ!」

 

悲鳴と共に屈みこむ3人。だがそんなことはお構いなしと、シザー塊は3人を切り刻まんと突き進む。

そしてシザー塊が目前まで迫った、そのときだった。

 

 

「――はっ!」

 

彩牙だ。

海未たちの前に躍り出た彩牙が、シザー塊を剣で弾き飛ばす。

一つ、二つ、三つ。どんな硬度をしているのか、その剣はあれだけのシザー塊を弾き、鍔迫り合いをしたというのに刃こぼれ一つしていなかった。

 

海未がほっとしたのも束の間、彩牙の目の前には新たなシザー塊が迫っていた。

それも先程のとはまるで違う、自分たちの背丈ほどはあるかのような巨大なシザー塊だ。

あれだけ巨大なものを弾き返せるのか――そう思った次の瞬間、海未はぎょっとした。

巨大なシザー塊が迫る中、彩牙は剣を構えてなかった。あろうことかその切っ先はシザー塊にではなく天を突くかのように掲げられていた。

 

「な、なんで!?」

 

「何やってるんですか!シザーが……!」

 

天高く掲げられた剣が円を描く。その軌跡が宙に残り、光り輝く。

光は円全体におよび、金色の光を放つ。

光の円から“何か”が降り注いで彩牙の体を包み、眩いほどの金色の光が辺りを包む。それと同時に巨大なシザー塊が彩牙の体に到達した。

 

「彩牙くんっ!!」

 

しかし肉体の裂かれる音は聞こえない。

光の向こうから聞こえてくるのは、火花が鳴る、金属同士が擦れあう音だけだった。

そして光がやんだ時、彼女たちは、中でも海未は他の二人以上に驚愕で目を見開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「黄金の……狼……!?」

 

そこにいたのは彩牙ではなかった。

騎士だ。

狼を模った、華美な装飾の施された黄金の鎧を纏った騎士が立っていた。

巨大なシザー塊は騎士の左腕一本で受け止められ、力を込めて握りしめたと同時にシザー塊は砕け散り、元のシザーとなってバラバラと地面に零れ落ちる。

手にしていた細身の剣は、金色の柄に装飾の施された厚みのある黒い刀身の長剣へと変化していた。

緑色の瞳が怪物を睨み、牙を剥き出しにした憤怒の表情からは狼の唸り声が上がる。

 

それはまさに、海未の夢に現れたあの黄金の騎士そのものだった。

ただ一つ違う点を挙げるとすれば、夢に出てきたものよりも“くすんだ金色”をしていたことか。

 

「彩牙、くん……?」

 

『バ、バカなっ!?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『“ガロ”だとっ!? こんな小僧が!?』

 

怪物が狼狽え、信じられないような叫びをあげる。

彩牙――いや、ガロと呼ばれた騎士は何も答えないまま、怪物に向かって歩を進める。

怪物は怯えるかのようにシザー塊を次々と吐き飛ばしていく。

しかしガロの歩みは止まらない。ガロが腕を振るうだけでシザー塊は砕け散り、みるみるうちに距離を詰めていく。

シザー塊だけでは駄目だと悟ったのか、怪物は両手のシザーを振るってガロに斬りかかる。

 

――そこから、勝負は一瞬で着いた。

怪物の振るったシザーは、ガロの振るった長剣によって叩き折られた。そしてガロはそのまま長剣を怪物の脇腹に充て、一気に振りぬいた。

振りぬいた長剣の軌跡は金色の光となり、それは怪物の体を一刀両断していた。

金切り声の断末魔と共に、怪物の体は血飛沫を撒き散らして弾け飛んだ。

そしてその血は――ことりめがけて飛んでいた。

 

「え?」

 

「ことり!!」

 

嫌な予感がする。あの血をことりに着けてはいけない。

そんな直感を感じた海未は、ことりを庇うように覆いかぶさった。

 

「っ!」

 

海未の背中に浴びせられた、あの怪物の血。

肌が焼けるような感覚の後、その血は一瞬だけ黒い跡を残して肌に吸い込まれるように消えていった。

 

「海未ちゃん、大丈夫!?」

 

「は、はい。ことりも大丈夫ですか?」

 

「う、うん……」

 

互いの無事を確認し、海未たちはガロに向き直る。

緑の瞳でじっと海未たちを見つめていたガロ。それが一際光った直後、鎧がいくつものパーツに分離され空へ還るかのように消えていった。

そしてそこに立っていたのは、元の彩牙の姿だった。

 

「彩牙くん……」

 

「……無事かい? 海未」

 

先程までの苛烈さはどこへ消えたのか。

そこにいたのはいつもの穏やかな表情を浮かべた、海未のよく知る彩牙だった。

先程までの苛烈な戦いを繰り広げた彩牙と、今目の前にいる彩牙。一体どちらの姿が本当の彼なのか。

穂乃果、ことり、そして海未は只々困惑の表情で彩牙を見つめることしかできなかった。

 

 

 

***

 

 

 

闇に潜む魔獣“ホラー”

 

 

奴らは人間の邪心をゲートに人間界に現れ、人を食らう

 

 

それを討ち倒すは人を守りし者――“魔戒騎士”

 

 

今宵、ホラーを狩る若き魔戒騎士

 

 

そして9人の少女たちによる

 

 

 

 

 

――新たな伝説が幕をあける――

 

 

 

***

 

 

海未「私たちは知りませんでした。彼のことを」

 

海未「私たちは知りませんでした。この世界の真実を」

 

海未「今、彼の口から本当のことが語られる」

 

海未「次回、『彩牙』」

 

 

 

海未「彼の戦う理由、それは――」

 

 







魔戒指南


・ ホラー・シザリアン

連続殺人を繰り返す美容師・滝川に憑依したホラー。
美しい黒髪を持つ女性を好んで捕食する。指先をシザーの刃に変えて相手を斬り裂くほか、シザーの刃を何重にも固めた塊として飛ばすこともできる。


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第2話  彩牙

ちょっとキワドイ表現があります。牙狼ですから。


 

 

 

 

 

 

――俺、村雨彩牙は記憶がない。

 

あの日、病院で目覚める以前の記憶がなかった。

幸い一般知識はあったけど、自分の名前以外は何も思い出せなかった。何処で暮らしていたのか、何をしていたのか、何故病院に担ぎ込まれるような怪我をしていたのか、何もわからなかった。

 

よくまあ落ち着ていられるものだと言われたけど、実際そんなことはなかった。

本当は、何者なのかもわからない自分に強い不安を抱いていた。そしてこれからも、後見人のいない状況でどうなってしまうのだろうとも思っていた。

だけどその時、俺が倒れていた道場――園田道場の先生と奥様が言ってくれた。

 

「家に来ないか?」

 

園田先生の家には同じ年頃の娘さんがいるという話を聞いていたから、本当にいいのかと思った。

だけど嬉しかった。こんな身元も知れない自分を受け入れてくれることが、素直に嬉しかったのだ。

それに本当のことを言うと、人の温もりに飢えていたのだと思う。自分が何者かもわからないまま、誰も自分を知る人がいないということが、どうしようもなく寂しくて、恐ろしくて、耐えられなかった。

だから申し訳なさを感じつつも先生の話を受け、園田家のお世話になることにした。

 

園田家の人々はとても良くしてくれた。

自分を剣の門下生にしてくださった先生の教えはとても厳しいものだったが、そこには強い人間になってほしいという愛情が感じられた。

奥様はとても優しい方で、どこの馬の骨ともわからない自分をとても良くしてくれた。

そして年が近い、園田家の一人娘――海未。

 

彼女はとても心の綺麗な人だった。他人にも自分にも正しくあろうとし、だけど決して優しさを忘れない――大和撫子を体現したような人で、とても可憐だった。初めて会った時、思わず見とれてしまったのは秘密だ。

最初の頃はとても警戒されていたが、剣を習うようになってからは徐々に鳴りを潜め、早朝と晩に一緒に稽古をするようになり、普通にとりとめのない会話もするようになった。

そんな会話を交わしていく中で、ありのままの彼女の姿により一層惹かれるようになった。

 

園田家の人々、そして高坂さんや南さんをはじめとした周りの人たちは本当によくしてくれた。だからいつかしっかりと恩返しをしたいと思うようになった。

そう思いながら生活していた、ある日の夜だった――

 

 

 

 

「……今のは?」

 

自室の壁に架けていた、倒れていた自分が着ていたというボロボロの白いコート。

なんとなしにそれに触れた瞬間、ふとどこからともなく不穏な気配を感じた。その気配は段々と強くなり、気付いた時にはそのコートを纏い、これまた倒れてた自分が持っていたという“髑髏を模した石の指輪”を指に嵌めて家を飛び出していた。

気配を辿って走っていくと、さっきまではただ不穏だったその気配は次第に邪悪なものだと感じるようになり、何故かはわからないが急がなければと強く思うようになった。

 

気配の元はそれほど離れていなかったため、思ったよりはすぐに着いた。

気配の元には、凄惨な光景が広がっていた。

 

「いやあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

血に染まった女の人が腰を抜かし、怯えるように震える身体を引きずって後ずさっていた。

女の人の前には、見るも醜悪な怪物が立っていた。怪物の足元には男物と思われる千切れた服と、ピンク色の物体、そして血だまりが広がっていた。

そんな非現実的で余りにも凄惨すぎる光景を見ても、自分の心に恐怖は浮かんでこなかった。

代わりに浮かんできたのは悲しみ、怒り、そして――怪物に対する“憎悪”だった。

そして自然な動きでコートの内側から一振りの“剣”を取り出し、怪物に向かって駆け出していた。

 

 

「うおおおおおお!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

気づいた時には全てが終っていた。

女の人は逃げていた。怪物は見るも無残な姿で自分の足下に転がり、やがて霧散するように消えていった。

そんな自分の姿は、普通の人間ではなかった。狼を模った、黄金の鎧を身に纏っていた。

還れ。無意識のうちにそう念じた瞬間、鎧は分解して宙に消えていった。

あの怪物は何なのか、自分のこの鎧の姿は何なのか、わからないことだらけだと言うのに不思議と自分の心は落ち着いていた。

 

――いや、違う。自分は知っている、そうだ、思い出した。

あの怪物は“ホラー”。人に憑依し、人を食らう魔獣。

そしてあの鎧は“ガロ”。ホラーを倒せる、ただ一つの牙。

思い出したのはこれだけだった。なぜそんなものを自分が持っているのか、なぜ自分が戦うのかわからなかった。

だが戦わなければと思った。ホラーを狩るのは、自分の宿命なのだと。

そして――こうも思った。

 

 

 

――ホラーが憎くて仕方ない。

 

ホラーに食い散らかされ、助けられなかった男性の残骸を見つめ、強くそう思った。

そしてそれ以来、夜にホラーの気配を察知しては家を抜け出し、ホラーを斬っていった。

そんな日が続いたある日、奥様に頼まれたお使いで遅くなった帰り、またもホラーの気配を感じた。気配を感じた先にはホラーになったと思しき男。

 

そしてそのホラーに襲われている、高坂さん、南さん、そして海未の姿があった――

 

 

 

**

 

 

 

「――おはようございます」

 

「あ……」

 

「おはよう、海未ちゃん」

 

――朝、音ノ木坂への通学路

海未と穂乃果、そしてことりの幼馴染3人の姿があった。

 

「いやー、今日もいい天気だねぇ。 こんなにいいと、なんかいいことがありそう!」

 

「そういえばお母さんが言ってたよ、廃校確定は延期になったって!」

 

「本当ですか!?」

 

「ぃやったー! これであとはもっと有名になって、入学希望者が増えれば!」

 

「ええ、廃校からは完全に免れます!」

 

廃校確定という危機を脱し、喜びに包まれる3人。それからもとりとめのない話をしながら学校へと足を進めていく。

いつもの時間、いつもの通学路、いつもの3人。いつもと何も変わらない日々。

だが何故だろうか。3人には目に映る世界が昨日までとは別物のように感じた。

ふと、穂乃果の視界にあるものが入り込んだ。

 

「あ……海未ちゃん、その絆創膏……」

 

「ああ、大丈夫です。ただの擦り傷ですよ」

 

「それって、やっぱり昨日の……」

 

そこまで言いかけて、ことりは思わず口を噤んだ。

それまで楽しげな表情をしていた海未と穂乃果の表情にも影が差す。

3人の脳裏に浮かぶのは昨夜の出来事――怪物に襲われたこと、その怪物を倒した黄金の騎士のこと、その騎士の正体――彩牙のこと。

 

「……夢じゃなかったんだね、あれ」

 

「……」

 

夢であればいいと思っていた。

あんな恐ろしい体験、あんな怪物がこの世に潜んでいるという事実、それらがすべてただの夢であればどれだけ幸せだっただろうか。

だが現実はそうならない。昨夜の出来事は全て何も嘘偽りない、現実に起きた出来事だった。

3人の脳裏に、昨夜の出来事が再び浮かび上がる。

 

 

 

**

 

 

 

――昨夜

 

「すっかり暗くなっちゃったな」

 

「……そうですね」

 

「高坂さん。南さんは?」

 

「うん、とりあえずは歩けるみたい」

 

陽も沈み、街路灯の灯りだけが暗闇を照らす住宅街。

その中を彩牙が先導する形で海未、穂乃果、ことりの3人が歩いていた。彩牙はいつもと変わらぬ表情と声色だったが、海未たちはそうはいかなかった。

殺されかけたのだ、何もわからない、醜悪な怪物に。彼女たちの中で、今までの人生で最も恐ろしい出来事となったのは間違いないだろう。

 

海未はちらりとことりを見る。

3人の中で一番状態が悪かったのはことりだった。愛らしさに満ちた顔は恐怖で青ざめ、体は未だ小刻みに震えている。

穂乃果に支えられることで、辛うじて歩けている状態だ。

ひどい有様だ。海未はそう思った。こんな状態を引き起こしたあの怪物は一体何だったのか。

そういえば、彩牙はあの怪物を“ホラー”と呼んでいた。

 

ホラー――“恐怖”。なんともおあつらえ向きな名前だと海未は思った。

現にその恐怖によって自分たち――特にことりの精神はここまで追い詰められたのだから。

では彩牙は?そのホラーと戦い、倒した彩牙は一体何者なのか?あの黄金の騎士は?なぜ自分の夢に出てくるものと瓜二つなのか?

考えれば考えるほど、疑問が泉のように湧いて出てくる。その答えを知っているかもしれない人物は、今目の前にいる。

そう思い、海未が口を開こうとした時だった。

 

「南さん、ちょっといいかい?」

 

彩牙がことりの手を取っていた。対することりはよほど精神的に参っていたのか、男性に手を握られたというのにほとんど無反応だった。

そんなことりの手を両手で優しく包むと、彩牙は微かに力を込めた。

 

「……わ! 光ってる?」

 

小鳥の手を握る彩牙の手が微かに光り始め、その光はことりの手、腕を通じ、全身へと及んだ。

全身を包んだ光がゆっくりと収まると、露になったことりの顔色は先程までの青ざめていたものとは正反対の、赤みを帯びた健康的なものになっていた。

そしてゆっくりと目を開けると、きょろきょろと辺りを見回し、しっかりとした足つきで立っていた。

 

「……あれ? 私なんで……」

 

「ことりちゃん、大丈夫なの!?」

 

「う、うん。今のって……」

 

「自分の気を分け与えて他者の気力を蘇らせる術さ。ついさっき思い出したやつだけど、上手くいってよかった」

 

――やはり、彼は何か知っている。

この状況について、自分たちが巻き込まれたものについて。

 

「彩牙くん、あなたは何者なんですか?」

 

「……」

 

「あなたはあの怪物を“ホラー”と呼んでいましたよね、何が起こっているのか知ってるんでしょう!?」

 

「そしてそのホラーと戦ったあなたは、あの黄金の騎士は一体何なんですか!?」

 

「海未ちゃん落ち着いて!」

 

鬼気迫る表情の海未を引き留める穂乃果。

海未はいつの間にか彩牙に掴みかかっていたことに気が付いた。熱くなりすぎてしまっていた。

彩牙は乱れた胸元を軽く整えると、静かに口を開いた。

 

「……そう、奴らはホラー。魔界から現れ、人に憑依し、人を食らう魔獣だ」

 

「ま、魔界? それって漫画とかに出てくる、あの魔界?」

 

「ああ、ホラーは陰我の満ちたオブジェをゲートとして、魔界から現れる」

 

「陰我……?」

 

「妬み、恨み、悲しみ、憎しみ……そういった人間の負の感情が凝り固まった邪心のことだ。ホラーはそういった陰我をもった人間の心の隙をついて憑依するんだ」

 

「さっきのホラーもシザーを多用していたから、きっとシザーがゲートになったんだろう。元は美容師か何かだったのかもな」

 

なるほど、と海未は思った。

確かにあのホラーはよく見ると美容師を彷彿とさせるような意匠をしていた。それにあのホラーが言ったことが本当なら、憑依された男は恐らく最近世間を騒がしていた連続殺人犯だろう。

それならばホラーに憑依されるのも納得がいった。殺人鬼などホラーからしてみれば格好の餌なのだろう。

 

「そして俺が纏ったあの鎧は“ガロ”。ホラーを倒せる唯一の力だ」

 

「ガロ……?」

 

「……」

 

「あ、あの……それで?」

 

急に黙りこんだ彩牙におずおずと尋ねることり。

じいっと見つめる3人を前に、ばつが悪そうにぽりぽりと頭をかいていた。

 

「……ごめん、思い出せないんだ。何故俺がガロの鎧を持っていたのか、わからないんだ」

 

3人は忘れていた。彩牙は記憶喪失だったのだ。

思い出したのはそれだけで、他のことは何も思い出せなかったのだ。

誤魔化している――と一瞬思ったが、彩牙の表情は嘘をついている人間のそれではなかった。

そして海未は、新たな疑問を浮かべていた。

 

「……わからないのに、なぜ戦うのですか?」

 

「海未ちゃん……?」

 

「理由もわからないのに、どうしてあんな恐ろしい怪物と戦えるのですか?」

 

「ひょっとしたらその鎧の持ち主が別にいて、ホラーと戦うべきなのはその人ではないのですか?」

 

 

 

 

 

「あなたが戦わなければいけない理由が……どこにあるのですか?」

 

「……海未」

 

結局、困ったような笑みを浮かべたまま、彩牙がその質問に答えることはなかった。

そして今日のことは忘れた方がいいと告げ、彩牙は穂乃果とことりを送り届け、海未と一緒に帰っていった。

互いに気まずい空気を漂わせ、一言も言葉を交わすことがないまま。

 

 

 

**

 

 

 

――時は戻り、今

 

「……彩牙くん、どうして戦うのかな」

 

「わかりません、あの後も何も話せませんでした」

 

「ひょっとして、自分でもわからないのかな……」

 

穂乃果は、彩牙のことを放っておいてはいけないような気がした。自分たちを助けてくれて、ただ一人ホラーと戦う彩牙のことを忘れ、何事もなかったかのように過ごしてしまってはいけないように思った。

ことりは、彩牙のことがわからなかった。戦う理由がわからないのに、なぜ命を懸けてホラーと戦おうとするのか、なぜそこまでできるのか理解できなかった。

 

そして海未は、そんな彩牙のことが悲しいと思った。何故戦うのかわからないまま戦う力を手にし、ただ一人誰にも知られることなく戦おうとするその姿勢が。

傍から見れば、人知れず怪物から人々を守る、とても気高い行為のように見えるだろう。

――だが海未にはそれがとても、とても悲しいものに感じた。

 

 

「……私たちもできること、何かあるんじゃないかな」

 

「穂乃果ちゃん?」

 

「あんなおっかない化け物と戦ってる彩牙くんをさ、一人にしちゃいけないと思うんだ」

 

「しかし、私たちにできることなど……」

 

穂乃果の言うことは正しいことだとは、海未も思った。

しかし自分たちは一介の女子高生だ。ホラーと戦うことはおろか、ホラーを前にするだけで恐怖で足が竦んでしまう自分たちに、一体何ができるというのか。

 

「忘れないでいること、支えてあげることはできるよ! 彩牙くんはみんなを助けるヒーローなんだから、その分私たちが支えてあげなきゃ!」

 

「穂乃果……」

 

穂乃果には敵わない、海未はそう思った。

こうして自分の気持ちを素直に表すことができるのは彼女の美点だと思った。

怯え、尻込みしてしまう自分とは大違いだと。

 

「……そうですね、私もそう思います」

 

「だよね!」

 

「でも、そういうことは自分のことをしっかりできてから言いましょうね。今日の課題、ちゃんとやってきたのですか?」

 

「あ」

 

辺りに響く情けなさを多分に含んだ穂乃果の悲鳴と、呆れたような海未のため息。

そんな二人を眺めることりの表情には、影が差していた。

 

「……」

 

言いたいことはあれど、言い出せないような気弱さを秘めて。

 

 

 

**

 

 

 

「――ハアーーーッ! タアーーーーッ!!」

 

海未たちが学校に通っているのと同じころ、彩牙は園田家の道場で一人素振りをしていた。

己の中の雑念を取り払うかのように、見つからない答えを見つけようとするかのように。

ただ我武者羅に、竹刀を振り続けていた。

 

――なぜ戦うのか。俺は何故ホラーと戦うんだ?――

 

昨夜、海未になぜ戦うのかと問われた時、彩牙は答えることができなかった。

戦わなければと思ったのは事実だ。だが何故そう思ったのか自分でもわからなかった。

ホラーが憎い、確かにそう思ったのは間違いない。だが何故そこまで憎いのだろうか。人を食うことが許せないのは勿論だが、それだけではないような気がする。

それに憎いから戦う、ただそれだけなのだろうか。何か、もっと大切な何かを忘れているような気がした。

 

何故、何故、何故――

いくら考えても、浮かんでくるのは「何故」という疑問ばかりだった。

自分という人間がわからない。自分のことなのにわからないことが多すぎる。

気づけば竹刀を握る手も強く、剣筋も粗くなっていた。

 

 

 

 

「――剣に迷いがあるな」

 

「! 先生……」

 

彩牙の剣をそう指摘したのは、同じく道着に身を包んだ寡黙な壮年男性だった。

彼こそがこの道場の主で、彩牙が先生と呼び慕う――海未の父だった。

彼は防具を取り出すと彩牙に渡し、その正面に立つと竹刀を構えた。

相手をしろ、ということか。そう汲み取った彩牙は防具を着け、竹刀を構えた。

しかし一つ疑問がわいた。海未の父は防具を着けていなかった。普段ならばしっかりと着けていたのに、だ。

 

「先生は防具を着けないのですか?」

 

「今のお前相手に必要ない」

 

ばっさりと切り捨てられ、彩牙は自分の頭に血が昇るような感覚を覚えた。

自分はそこまで弱く、頼りのない男なのかと。次の瞬間には竹刀を振り上げ、一気に駆け出していった。

彩牙の竹刀は海未の父の頭を捉えていた。一本もらったと思った、次の瞬間だった。

 

「――ハアッ!」

 

「っ……!?」

 

彩牙の竹刀は外れ、その代わり海未の父の竹刀は的確に彩牙の面に一本とっていた。

彩牙の剣は掠りさえもしなかった。

何故と思うより先に、悔しさと反骨心が湧き出てきた。

 

「っ、もう一本お願いします!」

 

「いいだろう」

 

 

それから何本も試合をしたが、結局彩牙は海未の父から一本もとることができなかった。

それどころか回数を重ねるたびに彩牙の剣は精細さを欠き、雑になっていき、完膚無きにまで打ちのめされた。

そうして終いには力尽きたかのように道場の床に倒れこむ彩牙の姿があった。

 

「何故一本もとれなかったか、わかるか?」

 

「……俺が実力不足だから、ですよね」

 

むしろそれ以外何があるのか、そう思った。

だがそうではないと言うかのように、海未の父は静かに首を横に振った。

 

「そうではない、むしろお前の実力は私以上だ」

 

「そんなこと! 現に俺はこうして先生から一本も……!」

 

「お前が一本も取れなかったのは、お前の剣が目的を見失っているからだ」

 

「……俺の、剣が……?」

 

「剣は振るう者の心を映す鏡。剣を見ればその者の心のあり様がわかる」

 

それには聞き覚えがあった。海未の父がいつも言っていた言葉だ。

剣には人の心のあり様が嘘偽りなく現れる。信念の通った剣は何物をも貫く強き剣となり、迷いのある剣は何一つ斬ることのできない弱き剣になると。

 

「お前の剣には迷いがある、剣を振るう目的をお前が見失っているのだ。今のお前の剣ではいくらやっても私から一本取ることはできぬ」

 

「ならば……俺はどうすればいいのですか、目的がなくとも俺は剣を握らねばならないのです!」

 

 

 

「俺は何を目的に剣を握ればよいのですか!」

 

気づけば語気も荒く、師に対するものではない態度で叫んでいた。

自分のことがわからないというのに、戦う理由、目的、それらをどうやって見つければよいのか。

迷っている間にもホラーは現れ、自分はそれと戦う。ホラーは自分が戦う理由を見つけるのを待ってはくれない。ならば迷いがあろうと戦わなければならない。そんな思いが彩牙の中に渦巻いていた。

だから海未の父がホラーのことを知らなくても、そう叫ばずにはいられなかった。

 

そして対する海未の父は顔色を何一つ変えぬまま、静かに口を開いた。

 

「それはお前が見つけることだ、理由とは他人から与えられるものではない」

 

「っ……!」

 

突き放されたような、そんな感覚を彩牙は覚えた。

 

「だがあえて言うなら……迷う時は自らの剣に問え」

 

後は自分で考えろ、そう言い残して海未の父は道場を後にした。

迷いがある自分の剣に、何を問えばよいのか。何一つわからない自分に、本当にそんなものがあるのか。

誰もいなくなった道場で一人、彩牙は自問自答を繰り返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……“彼”のように強くなれ、彩牙」

 

そんな彼を見つめる呟きは、誰の耳にも入ることはなかった。

 

 

 

**

 

 

 

「……おいおい、ホントにあの噂信じてんのかよ」

 

「いいから行ってみようぜ、もし本当だったらすっげえお得じゃん」

 

――夜、暗闇に包まれた街

人気の全くない、住宅地からも離れた一角に二人の男の姿があった。どちらも若く、その表情には暗闇に怯える面と、それ以上に隠しきれない快楽に期待する面が混在していた。

 

男たちがこの場に来たのはある噂を聞き付けたからだ。

夜な夜な、人気のないこの場所に美しい女が現れては男を誘い、どんな相手でも分け隔てなく股を開くという。なんとも性欲旺盛な男にとって都合のいい願望が形になったような噂だった。

この男たちも半信半疑ではあるがその噂を嗅ぎ付け、仮に本当だったら自分たちもそのおこぼれにあやかろうとする、悪い意味で若さに溢れた男たちだった。

 

「それにしても、こんな倉庫ばっかのとこにヤラセてくれる女が本当にいんのかねえ……」

 

「……お、おい。見てみろよ」

 

男の一人が指を差した方向には、ポツンと立った街灯に照らされた一人の女性がいた。

整った顔立ちに、すらっとした脚。豊満な胸にくびれた腰、そして大きく出たヒップ。そんな男を魅了してやまない身体を包むのは、ほとんど布一枚と変わらないようなドレスといった、妖艶な美女だった。

女は男たちの元に歩み寄ると、そのうちの一人に胸を押し付けるかのように抱き着いた。

 

「へ、へへ……本当にいたんだ」

 

「ねえ、お兄さんたち……暇ならちょっと気持ちイイことしていかない?」

 

胸を押し付けながら、シュルシュルと女の纏っていたドレスが落ちていく。

やがて女の生まれたままの姿が露になり、縛り付けるものが無くなった白い乳房が男との間で潰れるように変形する。

それを見た男は悦に満ちた表情をし、目の前のご馳走に思わず舌なめずりをした。

 

「いいぜ……後から金よこせなんて言うなよ?」

 

「そんなものいらないわ……私が欲しいのは一つだけだから」

 

言い終わるや否や、女は抱き着いていた男の口に深い口づけをした。

舌と舌が絡み合う深いキスをしたまま男が女の肢体を弄ろうとした

 

 

 

 

 

 

 

 

その瞬間だった。

 

「……!? ~~!~~~~!!」

 

口を塞がれたまま、言葉にならない悲鳴を上げる男。

何かが、何かが自分の口から吸い取られていく。そんな感覚を覚え、女を引き剥がそうとするが吸盤で張り付いたかのようにびくともしない。

そう、男はキスをしている口から吸い取られ、女に食われていた。

自分の血、体液、内臓、肉、骨――命を、魂を食われていたのだ。

やがてチュルンという音と共に男の全ては食い尽くされ、後に残ったのは男だった皮だけだった。

 

「ごちそうさま♡」

 

「あ、あ、うわあぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

その一部始終を見ていたもう一人の男は悲鳴を上げながら一目散に逃げだした。

女から逃げ出そうと、来た道はどこだったかなど考えずにただひたすらに走った。

そうして曲がり角を曲がった直後

 

 

 

 

 

 

 

仲間を食ったあの女が立っていた。

 

「たっ、助け」

 

命乞いの言葉を言い切る暇もなく、男の口は女のキスによって塞がれた。

そして仲間の男と同じように、自分の全てが吸い尽くされ、食われる感覚を覚えながら彼の意識は闇へと落ちていった。

 

 

 

「……ふう、ごちそうさま。性に満ちた若い男ってホント美味しいわぁ」

 

食事を終えた女は口の周りを拭き取ると、今しがた食った二人の男の皮を手に取ると宙に浮かせてこねこねと混ぜ合わせ、一枚の布へと変化させた。

そしてそれを先程脱ぎ捨てたドレスと同じように、その身に纏った。

そこまでした直後、満腹で幸せそうだった表情は訝しげなものに変化していった。

 

「……でも、なんだか飽きてきちゃった。たまには別の人間でも食べようかしら」

 

「そう、例えば若い女の子とか……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うおおおおおおっ!」

 

そこまで言いかけた時、一つの影が躍り出て女に斬りかかった。

女はドレスを硬質化させてそれを防ぎ、大きく飛びのいて距離を取った。そして雲に隠れていた月が顔を覗かせ、その影の姿を露にした。

影の正体は彩牙だった。

 

「なあに、魔戒騎士? 嫌ね、丸腰のレディに斬りかかるなんて恥ずかしくないの?」

 

「ホラーが何を言う!」

 

彩牙は女――ホラーとの距離を詰め、赤い柄の剣――魔戒剣を振り下ろす。

女ホラーは先程と同じようにドレスを硬質化させ、魔戒剣を打ち弾く。そこから一閃、また一閃と魔戒剣とドレスの打ち合いが続いていく。

やがて打ち合う間隔が短くなっていくと、遂には火花を散らす鍔迫り合いの形になった。

 

「荒っぽい男ねぇ。そんな魂のこもってない剣じゃちっとも感じないわ」

 

「ふ ざ け る なぁ!!」

 

湧き上がる怒りに身を任せ、魔戒剣を押し込める力を更に強くする彩牙。

しかし女ホラーはドレスを僅かにずらすことで魔戒剣を受け流し、力の行き場を失った彩牙は前のめりになり、その背中めがけて蹴りを叩きこむと女ホラーは倉庫の屋根の上に飛び乗った。

 

「私はもっと多くの人間を食べたいの。あなたみたいな女のリードもできない弱い魔戒騎士の相手なんてやってられないわ」

 

「待て!!」

 

すぐに追おうとしたが、女ホラーは見下すような高笑いを残して夜の闇に消えてしまった。周囲から気配も消えてしまった。

逃げられてしまった。折角追いつめたというのに、いいように踊らされるだけで全く斬ることができなかった。ホラーにみすみす人間を食わせてしまい、また食わせるチャンスを与えてしまった。

何故なのか。自分に力が足りないからなのか、自分に迷いがあるからなのか。迷いがあっては、自分はホラー一体すら斬ることができないのか。

自分は――何故ホラーと戦おうとするのか?

 

 

 

そうして彩牙は逃げたホラーを探しながら自問自答を繰り返した。

しかし結局答えはおろか、ホラーを見つけることもできずに夜明けを迎え、そのまま帰路に就いた。

足取りが重いまま園田家の前まで辿り着くと、そこには道着を着た海未が立っており、心配そうに彩牙を見つめていた。

 

「彩牙くん、こんな時間まで何を……?」

 

「……」

 

彩牙は答えない。

答えるだけの気力が出てこなかった。

 

「……もしかして、またホラーなのですか? どうしてそこまで……」

 

「……ごめん、海未。ちょっと一人にしてくれ」

 

「奴を倒さないと……今度こそ、絶対に逃がさないように……」

 

 

 

 

「彩牙くん……」

 

 

その日。

彩牙は初めて、早朝の稽古に顔を出さなかった。

 

 

 

**

 

 

 

「じゃあ穂乃果先輩、また明日ニャー!」

 

「うん! 花陽ちゃんも凛ちゃんもまたねー!」

 

学校の帰り道。

穂乃果は後輩の凛と花陽に別れを告げ、帰路についていた。

普段だったらそこに海未とことりの姿もあるのたが、海未は弓道部の方の用事があり、ことりもなにやら用事があるらしく、結果的に幼馴染組では穂乃果一人になっていた。

とはいっても途中までは凛と花陽が一緒だったため寂しくはなかった。ただ何と言うのか、いつもの3人ではなかったことが穂乃果にとって“ずれ”があった。

 

たまにはこういう時もあるよね。と気を取り直しながら歩いていると、見覚えのある背中が見えた。

腕に抱えたあのボロボロの白いコートは間違いない。穂乃果の知る限り、夏真っ盛りのこの時期にあんなものを持って出かけている人間など一人しかいない。

 

「彩牙くん?」

 

「あ、高坂さんか……」

 

彩牙だ。

だがその表情は先日助けられた時に比べると、随分とやつれているように見えた。平静を保とうとしているが、どうにも隠しきれていないようだった。

 

「ねえ、大丈夫? 顔色悪いよ?」

 

「いや、大丈夫だよ。心配される程じゃない」

 

嘘だ、明らかに無理をしてる。彩牙の言葉に穂乃果はそう思った。

そして、昨日の朝言った自分の言葉が思い出される。

――支えてあげることはできる。一人にしちゃいけない。

 

「ほら、暗くなる前に早く――!?」

 

そうと決めたら善は急げ――!

穂乃果は彩牙の手を取り、駆け出していた。

 

「こ、高坂さん!?」

 

「大丈夫大丈夫! まだ時間あるし、美味しいもの食べていこ! 海未ちゃんもことりちゃんもいないから一人だと退屈だし!」

 

 

 

 

 

 

「あーんっ。美味しー! ね、ここのクレープ美味しいでしょ! お気に入りなんだ♪」

 

穂乃果に連れられてやってきた場所は、秋葉原の一角にあるクレープ屋だった。人通りの多い大通りから外れた小さな通りに小ぢんまりと構えていたその店は知る人ぞ知る穴場のような雰囲気を持っていた。

美味しそうにクレープを頬張る穂乃果につられるように、彩牙も手にしていたクレープにかじりついた。

 

――美味しい。それが率直に出た感想だった。

上手く言い表せないが、優しい味がした。見れば、クレープ屋の店主は朗らかな笑顔を浮かべる壮年の女性だった。きっと彼女の美味しく食べてもらいたいという想いがこめられているからなのかもしれない。

そういえば甘いものを食べるのはいつごろぶりだっただろうか。自然と表情が綻んでいた。

 

「あ、やっと笑った! よかった、さっきからずーっと元気ない顔してたし、海未ちゃんも凄い心配してたもん」

 

「海未が?」

 

「そうだよ、今日だって朝方まで帰ってこなかったって。そんな時間まで何してたの?」

 

「……」

 

「……ひょっとして、あのホラー……っていうのと?」

 

「……ああ」

 

やはり彼女も何故戦うのかと聞いてくるのだろうか、そして自分はそれに答えられないのだろうか。

そう思っていると、穂乃果は太陽のような笑顔で言った。

 

 

 

 

 

「おつかれさま! でも海未ちゃんに心配かけさせちゃだめだよ?」

 

「……え?」

 

「それにちゃんと休まないと体が持たないよ。 私もよく休むんだけど、海未ちゃんには『穂乃果はだらけすぎですっ!』ってよく怒られちゃうんだ~えへへ」

 

穂乃果は何も聞いてこなかった。

戦う理由も何一つ。ただその笑顔には彩牙を労う想いだけが溢れていた。

 

「……聞かないのか? 何故俺が戦うのか」

 

「え? だって彩牙くんが戦うのは――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ――みんなを守るためでしょ?」

 

「……!」

 

 

守る。

その言葉を聞いて、彩牙の頭の中に一筋の光が差し込んだ。

そう、まるで失くしていたパズルのピースを見つけたような――

 

「……高坂さん、一つ聞いていいかな?」

 

「なに?」

 

「高坂さんや海未たちのやってる……スクールアイドル、だったっけ? なんで始めようと思ったんだ?」

 

「それはもちろん! 学校を守るためだよ!」

 

また一つ、光りが差し込んだ。

 

「私たちの学校が廃校になっちゃうかもってのは聞いたよね? スクールアイドルで有名になって入学希望者が増えれば学校が守れる! そう思ったからなんだ」

 

「……どうして、そこまでして守ろうとするんだ?」

 

「それはね……

 

 

 

 

 

 

 

  ……学校が、音ノ木坂が大好きだから!」

 

差し込む光が一つ、また一つと増えていく。

 

「そういえば私たちと彩牙くんってなんだか似てるね。私たちは学校を守るためにアイドルをやってて、彩牙くんはみんなを守るためにホラーと戦う」

 

 

「彩牙くんも、守りたい人がいるから戦うんでしょ?」

 

 

光が溢れだし、闇を照らしだした。

溢れだす光の中で見えたのは、ガロの鎧を持つ真の意味。

そしてすらっとした長い髪を揺らす、凜とした少女――

 

 

「そうか……そうだったのか」

 

光の中ではっきりと見えた。

何故戦うのか、自分がホラーと戦う理由が。

 

「ありがとう高坂さん! おかげではっきりわかったよ!」

 

「えっ? 私、何かした?」

 

きょとん、と首をかしげる穂乃果。彼女は彩牙にしてくれたことをわかっていないようだった。

だけどそれでいいのかもしれない。普段から彼女への説教や愚痴を漏らす海未が、何だかんだで穂乃果と一緒に居続ける。

その理由が、彩牙はわかったような気がした。

 

素早くクレープを食べ終えると、彩牙は持っていた白いコートを羽織りだした。

 

「さあ、今日はもう帰って。 もうすぐ夜が訪れる」

 

「ホントだ……彩牙くんは、今日もホラーを……?」

 

「ああ。だから早く――」

 

「あ、またここのクレープ食べようね! 今度は海未ちゃんたちも一緒に!」

 

 

 

 

「……気を付けてね!」

 

「……ああ!」

 

穂乃果の声援を背に、彩牙は駆け出す。

奴は――あのホラーは、きっと“彼女”を狙う。何故かはわからないが、そうだという確信があった。

だから急ごう、彼女の下へ。彩牙は力強い足取りで駆け出していった。

 

 

 

陽が沈み、夜が訪れる。

人の時間から、ホラーの時間へと。

 

 

 

**

 

 

 

暗闇が世界を包む夜。

その夜よりも更に暗い闇の中、一匹の獣が光を見つめていた。

獣が見つめるはイルミネーションや街灯に照らされた喧噪の中を行きかう人々。

 

男――あれは食べ飽きた。次。

女――顔は悪くないが肉付きがない。次。

あの女はあまり美味しくなさそう。次

 

 

そうして獲物を品定めしていると、一人の少女に釘付けになった。

あの女だ。顔もいい、肉付きもそこそこいい感じだ。

そして何よりも、美味そうな匂いがする。そう、あれは同胞の血の匂い。故郷の匂いだ。

あれよりも美味なご馳走があるだろうか――いや、あるわけがない。

 

獣は動く。

腰まではある長い髪を揺らして歩く少女を狙って――

 

 

 

 

 

 

「すっかり暗くなってしまいましたね……」

 

街灯で照らされた夜の街を、海未は一人歩いていた。

今日はμ’sとしてではなく、弓道部としての活動があった。久しぶりの弓道部での活動、思うこともあってついいつもより遅くまでやってしまい、気付けば夜になっていた。

穂乃果もことりもいない、一人での夜の道。言い知れぬ不安に思わず身体がぶるっと震え、同時に思い起こされるのは先日ホラーに襲われた記憶。

あの時は彩牙が助けてくれたが、もし今、またホラーに襲われたらどうなってしまうのだろうか。また彩牙が助けてくれるのだろうか。

 

――いけません。今の彩牙くんに戦わせては……

 

そこまで考えて、海未は思わず首を振った。

今の彩牙を戦わせてはいけない。戦えば、きっと二度と戻ってこれなくなるかもしれない。

今朝、明け方に帰ってきた彩牙の心は恐ろしく憔悴していた。外から見ても一目瞭然なほどに。

そうさせてしまったのは自分だ。自分の些細な言葉が、彩牙を思考の迷路に追いやり、追い詰めてしまった。

 

理由がわからないのに戦う。それは歪なもので、どうしようもなく悲しいと思う。だからといって無理に問い詰めるような真似をしていいのだろうか。潰れてしまうのではないだろうか。

まずは謝ろう。せめて彼の心が平穏を取り戻せるように……

 

 

 

 

 

 

「あらお嬢さん、こんな夜道に一人?」

 

「えっ? な、なっ……!?」

 

そう考えていた時、後ろから声をかけられた。振り返るとそこには妖艶な雰囲気を纏った、一人の女性が立っていた。

綺麗な人だ。と思うと同時に、破廉恥だとも思った。なにせ女性の姿は布のようなドレスを纏っただけの、ほとんど裸のようなものだった。

見ている自分までもが恥ずかしくなり、顔を赤くした海未は思わず目をそらした。

そんな海未を女性はじいっと見つめる。その瞳が一瞬妖しく光った。

 

「可愛いとは思ったけど……こうして近くで見ると本当に可愛いわね、私の好みだわ♡」

 

「なっ、何を言うのですか!? だいたいあなたは一体――」

 

 

 

 

 

 

 

「……本当、今すぐ食べちゃいたいくらい」

 

「……え?」

 

その時、女性の纏う雰囲気が変わった。

瞳が妖しく光り、周囲の空気がゆらゆらと揺れているように見える。自分を見つめるその目は可愛い女の子を見るようなものではなく、まるで獲物を狙う獣のようだった。

この感覚に、海未は覚えがあった。そう、つい先日感じたばかりの――

 

――まさか、ホラー!?

 

確証はない。だが海未の直感がそうだと告げていた。

逃げなければ。本能がそう警報を鳴らしていたが、足の震えが止まらない。走れない。動けない。まるで蛇に睨まれた蛙のように。

できたのは精々後ずさりするだけだった。しかしそれも壁際に追い込まれたことですぐに終わってしまった。

 

「ああ……まさかこんなご馳走にありつけるなんて夢にも思わなかったわ」

 

女性の口から涎が垂れる。人間のものとは思えない生臭い息が海未の顔に吹きかけられる。

もはやホラーであることを隠そうとする気は皆無だった。

目前に迫った“死”に、海未はただ震えることしかできなかった。

 

「いや……やめ、やめてください……!」

 

思わず漏れた助けを、ホラーは聞かない。

ホラーはただ目の前のご馳走を食べるため、その柔らかな唇に口づけを――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――彼女を離せ」

 

――できなかった。

後ろから肩を掴まれ、振り返った瞬間。その顔面に強烈な拳が叩き込まれ、殴り飛ばされたからだ。

海未は女ホラーを殴り飛ばした人影を見て、目を見開いた。

そこにいたのは自分の言葉が原因で、思考の迷宮に囚われていた少年――

 

 

――村雨彩牙が、立っていた。

 

 

「さ、彩牙くん……!」

 

「早く行って」

 

彩牙はそれだけ言うと、立ち上がろうとする女ホラーと対峙した。

 

「で、でも貴方は……!」

 

戦えないのではないか。理由が見つけられないのではないか。

そう言おうとして、海未はその言葉を飲み込んだ。

彩牙の目を見たからだ。

今の彩牙の目は、答えが見つけられず、迷っている人間のそれではない。

――答えを見つけ、迷いを吹き飛ばした、強い人間の目だった。

 

「……俺なら大丈夫。さあ、早く行くんだ」

 

「……わ、わかりました! 信じてますから、帰ってきてくださいね!」

 

――ああ、そんな目をされては、信じるしかない。

彩牙の無事を祈り、そして信じて海未は駆け足でその場を離れた。

 

 

 

そうしてその場に残ったのは彩牙と、女ホラーのみとなった。

彩牙は魔戒剣を抜き、構える。

 

「昨日の貸しを返しに来たぞ」

 

「くっ……魔戒騎士め……!」

 

女ホラーはドレスを硬質化させ、しなやかに変形する鉄板のように振るう。

彩牙は迫りくるドレスを魔戒剣で弾き、女ホラーとの距離を詰める。

昨日であったら迫るドレスを全て力押しで斬り裂き、ただ我武者羅に、力任せで攻めていただろう。しかし今は体をずらしてドレスを避け、必要な時だけ剣で斬り、弾くという、緩急をつけた戦いをしていた。

 

昨日とはまるで違う戦い方、徐々に迫りくる彩牙に女ホラーは焦っていた。

そうして女ホラーとの目前にまで迫ると魔戒剣を振り下ろし、対する女ホラーは手元のドレスで受け止め、鍔迫り合いとなった。

 

「どうだ。 今度はちゃんとエスコートできてるだろう?」

 

「――っ! 舐めた口をぉぉぉ!!」

 

彩牙の挑発に乗り、ドレスに込める力を強くする女ホラー。

その瞬間、彩牙は剣の重心をずらし、込められた力を無にした。それにより、力の行き場は失った女ホラーは大きく前のめりとなった。

――まるで昨日の焼き直しのように。ただ一つ違う点は、互いの立場が逆であること。

その隙に彩牙は女ホラーの背中を取り、がら空きとなったそれを魔戒剣で大きく斬り裂いた。

斬り裂かれ、よろめく女ホラー。彩牙はその動向を窺うように、魔戒剣をじっと構える。

 

「く……なぜだ! 何故貴様は我らと戦おうとする!」

 

「……」

 

「元々我らを人界に呼び寄せたのは陰我、つまりは人間の心だ! そんな人間どもの尻拭いのために、何故貴様が戦う!」

 

――確かに、それは一理ある。

ホラーを呼び寄せるのは人間の欲望、業。自業自得とも言える。果たしてそんな人間の尻拭いのために戦う必要があるのか?

だが彩牙の目は、意志は、心は揺るがない。それらを踏まえても、彼には戦う理由があった。

 

「――決まっている」

 

目を閉じ、浮かび上がるのは記憶喪失だった自分を受け入れ、助けてくれた人々。

園田の先生、奥様、この街の人々。高坂さん、南さん、そして――海未。

その人たちが、ホラーに苦しめられる。襲われる。食われる。

それだけは見たくない。それだけは許せない。その光景を防ぐことができるのは、ガロの鎧を持つ自分だけ。

ならば――やることは一つだけ。

 

 

「守りたい人たちがいる。それだけだ!!」

 

そう、それだけでいい。戦う理由など、それだけでよかったのだ。

それだけで、自分はいくらでも戦うことができる――!

 

 

「うぅぅぅああぁぁぁぁぁ!!」

 

獣のような雄たけびと共に、女ホラーの姿が変わっていく。

ドレスが繭のように変化して女ホラーの体を包むと一拍胎動し、中から羽化するかのように新たな姿を露にした。

それは美しい翅を持つ蛾のようだった。しかし美しいのは翅だけで、その身体は肉が醜く崩れ落ちた女性のような姿をしていた。まるで醜い心を、美しい顔で誤魔化すかのように。

それが女に憑依したホラー――ドレイモスの真の姿だった。

 

そして彩牙もそれに応えるように魔戒剣で円を描き、ガロの鎧を召還する。

変化した魔戒剣――牙狼剣を構え、昂る気を鎮めるかのように静かに息を吐く。

一幕呼吸を置き、月が雲に隠れて辺りを闇が包む。

その瞬間、両者は飛び出した。

 

ドレイモスはドレス――布状に変化した肉の一部――を伸ばし、鞭のようにガロに叩きつける。

ガロはドレスを難なく斬り裂き、ドレイモス目がけて走る。一本、また一本とドレスが斬り裂かれる。ガロの足は止まらない。

伸ばしたドレスの内一本が牙狼剣を捉え、幾重にも巻き付いた。ガロの瞳が大きく見開かれる。ドレイモスは牙狼剣を捉えたドレスをぐいっと持ち上げ、ガロの身体を宙に放り出す。

 

『何!?』

 

ガロは宙に放り出されなかった。放り出されたのは牙狼剣のみだった。持ち上げられる寸前、ガロが自ら牙狼剣を手放したのだった。

ドレイモスの表情が驚愕に包まれる。

隙だらけとなったドレイモスに、ガロは一気に距離を詰める。ドレイモスの胴体ど真ん中に、ガロの拳が叩き込まれる。そのまま上空に向けて殴りぬいた。

 

ガロの繰り出したアッパーによって、ドレイモスは宙に殴り飛ばされた。その後を追うようにガロも跳び上がる。

殴り飛ばされた軌道上には、今しがた宙に放り出された牙狼剣が待ち構えていた。

殴り飛ばされた勢いと重力により、ドレイモスの片翅は牙狼剣によって引き裂かれた。同時に牙狼剣に巻き付いていたドレスも引き裂かれた。

 

そのまま落下する牙狼剣を、跳び上がっていたガロが再び手にする。

ドレイモスの下まで到達するとそのまま牙狼剣を振りぬき、ドレイモスの身体を一刀両断する。

真っ二つになったドレイモスが断末魔と共に、宙に溶けるように消えていく。

しっかりとした足取りで着地するガロ。同時に雲に隠れていた月が再び顔を覗かせた。

 

 

 

月光が、ガロのくすんだ金色を照らし――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一瞬、僅かに透き通った輝きを放った。

 

 

 

**

 

 

 

園田家の玄関前、そこで海未は立っていた。

制服から着替えないまま、心配そうな顔つきで門の入り口をじっと見つめていた。

 

「海未さん、そろそろ家に入られたらいかがですか?」

 

「すみませんお母様。もう少しだけ待たせてください」

 

 

 

 

「――彩牙くんが、まだ来てないのです」

 

母が家に入るように促したが、海未は入らなかった。

ただひたすらに、彩牙を待ち続けていた。

 

 

――彼は大丈夫だろうか。

また怪我をしたりしないか、心配はあった。けど不思議と、不安と思うことはなかった。

きっと、あの目を見てしまったからだ。迷いを振り切り、確固たる意志をもって戦いに臨むあの目を。

だから彼はきっと帰ってきてくれる。そんな確信に近い思いがあった。

だから待とう。彼が無事に帰ってきてくれることを信じて――

 

 

 

やがて、闇の中から一つの影が現れる。

闇の中から現れたそれは、街路灯の灯りに照らされてその姿を露にした。

海未はその姿を見た瞬間、その表情を笑顔で輝かせた。

 

「彩牙くん!」

 

「……ただいま、海未」

 

現れた影――彩牙に駆け寄る海未。

彩牙の姿は先程別れた時と同じ、五体満足の姿だった。

 

家に帰った彩牙と、それを待っていた海未。

今朝と同じ構図のその光景は、決定的な違いがあった。彩牙の目には迷いがなく、海未の表情は明るかったのだ。

そして彩牙の無事を確かめると同時に、海未は深く頭を下げた。

 

「どうしたんだ?」

 

「すいません、彩牙くん……私が余計なことを言ったせいであんなに憔悴させてしまって……」

 

迷いを振り切れたとはいえ、自分が彼を追い詰めてしまったのは事実だ。

だから謝ろう。許してくれないとしても。

それが海未の判断だった。

それに対し、彩牙は穏やかな表情で答えた。

 

「……いや、どのみちいつかはぶつかる問題だったんだ。むしろ海未が指摘してくれたお陰で吹っ切れたよ」

 

「ありがとう、海未」

 

彩牙の言葉に顔を上げる海未。

目には僅かながら涙が浮かんでいた……が、その表情には一点の曇りもなかった。

 

「彩牙くんは、これからも戦うのですか?」

 

「ああ、でももう大丈夫。俺にも戦う理由ができたから。――いや、そうじゃないな。最初からあったんだ、気付かなかっただけで」

 

「彩牙くん、その……」

 

「ん?」

 

「……いえ! 何でもありません」

 

――戦う理由を教えていただいてもいいですか?

そう尋ねようとして、海未は考え直し、聞くのをやめた。

今更聞くようなことでもない気がしたからだ。彼がしっかりと答えを見つけたのなら、その胸に秘めさせたままにした方がいいと思ったのだ。

それに案外、自分たちとあまり大差ないのかもしれない。

そう、自分たちがスクールアイドルを始めた理由と同じような――

 

「さあ、もう家に入りましょう。お母様もお父様もお待ちしてますよ」

 

「ああ」

 

そうして二人は並んで、園田家の玄関をくぐっていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……黄金騎士、か……」

 

そんな二人を、闇の中から見つめる影が一つ。

 

「それにあの少女。そうか、彼女が……」

 

「……」

 

「……これは、一番都合のいい展開になったな」

 

 

 

**

 

 

 

――彩牙の部屋。

自室に入った彩牙は石の指輪を抜いて机の上に置き、白いコートを壁に架けた。

身体が軽くなり、ふぅと息を吐きく。

硬くなった筋肉をほぐそうと簡単なマッサージをしようとした瞬間――

 

 

 

『……なんだここは。随分と立派な部屋のようだが』

 

「っ! 誰だ!!」

 

――まさかホラーか?

そう思い、辺りを警戒する彩牙だが、それらしい気配は感じられなかった。

 

『おい小僧、何をしている。ここだここ』

 

また聞こえた。金属越しに喋っているような、くぐもった男性の声だ。

部屋中を見回すが、特に怪しい点はない。

 

――いや、一つだけあった。

今さっき、机の上に置いた指輪だ。

ついさっきまでは石だったそれは抜け殻のように石の殻を脱ぎ捨て、鈍い光を放つ銀色になっていた。

髑髏を模ったその銀の指輪は、目と口の部分をカチカチと動かしていた。

 

「……お前が、喋っているのか?」

 

『おいおい、なんだその反応は。まさか俺様のことを忘れちまったなんて言うんじゃないだろうな』

 

“指輪”は、意志を持っているかのように彩牙を小馬鹿にしたように話していた。

訝しげに見つめていると、やがて改まるように口を開いた。

 

『しょうがない奴だ。いいか、忘れたのならもう一度教えてやる』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『俺様の名はザルバ。魔導輪だ』

 

 

 

***

 

 

 

ザルバ「おい小僧、お前記憶喪失なんてどういうことだ? ホラーはお前の都合なんか考えちゃくれないぞ」

 

ザルバ「仕方ない。こうなったら俺様がもう一度一から教えてやるとするか」

 

ザルバ「次回、『魔戒』!」

 

 

 

ザルバ「これを読んでるお前さんもだ。決して聞き逃すなよ」

 

 

 





魔戒指南


・ ホラー・ドレイモス
妖艶な美女に憑依したホラー。人間に口づけして皮以外の“全て”を文字通り吸い込んで捕食し、残った皮をドレスにして身に纏う習性がある。
その正体は美しい翅を持ち、それに反して肉が醜く爛れた肥満体の女性のような体のホラー。ドレスのようになった自らの肉の一部を硬質化し、鞭のように振るって敵を攻撃する。



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第3話  魔戒

ファイナルのBD先行落ちた\(^o^)/


……まだだ、まだHP先行がある。負けたと思わなければ負けじゃないってタケル殿も言ってた。


 

 

 

 

「都市伝説?」

 

誰のものとも知らない、呆けたような声が音ノ木坂の屋上に響き渡る。

そうや。とその声に答えたのは東條希。自慢気な表情で、これまた自慢げにその豊満な胸を張る。

ぐぬぬと、にこの歯軋りをする声も聞こえたが、誰も気に留めなかった。

 

時は放課後。スクールアイドルの練習の合間に取った休憩中のことだった。

ドリンクを飲んだり、タオルで汗を拭いたり、おにぎりを食べたりと思い思いの方法で体を休めていた中、「面白い話がある」と希が切り出してきたのだ。

 

「えーっと、都市伝説ってあれだよね。口裂け女さんとか、くねくねとか」

 

「は、花陽、そういうのは苦手だな……」

 

自分の知ってる都市伝説を挙げていく凛と、それに怯える花陽。

確かに都市伝説というと、そういった恐ろしい内容なイメージがあった。

しかしなぜそれらをチョイスしたのか、有名だが特に恐ろしい部類ではないかと凛以外の誰もがそう思った。

 

「んー、それに近いけどちょっとはマシな部類かな」

 

「ねえ、もったいぶらないでどんな話なの?」

 

もったいぶる希に絵里がそう問いかけた。

すると希はわざとらしく咳払いをすると、神妙な表情で――本人は面白半分だろうが――語り始めた。

 

 

 

「実はな……最近、この辺りで夜な夜な人を襲う怪物が現れるんやけど、金色の狼がそれを退治して周ってるんやって!」

 

「「「!!!???」」」

 

それを聞いた瞬間、海未と穂乃果とことりが飲んでいたドリンクを噴き出した。

たまたま近くにいた真姫にその飛沫が飛びかかった。

 

「ちょっ、何すんのよ!?」

 

「げほっ、す、すみません……げほげほっ」

 

むせながら謝る海未。しかし彼女たちがそうなってしまうのも無理はなかった。

なにせ希の語った都市伝説というのは、どう見てもホラーと彩牙のことだ。まさか都市伝説にまでなっていようとは思いもしなかった。

 

「あ、凜もその話聞いたことある! 悪い奴はいねがーって夜の街を彷徨ってるんだよね」

 

「あら? 私は狼の方が人を襲うって聞いたけど……違ったのかしら?」

 

凛と絵里がそれぞれ聞いていた噂を出し合った。

少々内容に違いがあったが、噂とは人から人へ移っていくもの。途中で解釈の違いによってずれが生じ、全く違う内容になるなんてことはよくある話だった。

そして、噂自体を肯定する者がいれば、当然否定するものも出てくる。

 

「馬鹿馬鹿しい。ヒーローアニメじゃないんだし、そんなのただの噂じゃない」

 

「そうよ。怪物なんているわけないでしょ」

 

「もー、真姫ちゃんもにこっちも夢がないなー。……ん?海未ちゃんどうしたん?」

 

「い、いえ。何でもありません」

 

皆が都市伝説に対して思い思いの言葉を口にする中、真実を知る海未はもはや乾いた笑みを出すことしかできなかった。

実はその都市伝説は本当で、その大元と一緒に暮らしてます……なんて、言えるはずもなかった。

穂乃果とことりも同様だったようで、二人とも笑ってはいるが口元が引きつっていた。

 

「ま、噂のことはさておき、そろそろ練習しましょうか」

 

「ああん、えりちのいけずぅ」

 

甘えるような声で絵里にすがる希だが、絵里はそれを「はいはい」と軽く流した。

話題を練習に向けた絵里に、海未は心の中で感謝した。

――だが希以外は知らない。

絵里はそういうお化けなどの出てくる怖い話が苦手で、早く切り上げたかっただけだということを。

 

そんなことは露知らず、絵里に促されるまま他のメンバーと共に練習の準備をする海未。

その時、海未の視線はある一点に釘付けになった。

するとそれに気づいた穂乃果が海未に問いかけた。

 

「どうしたの? 海未ちゃん」

 

「……あ。いいえ、何でもありませんよ」

 

「さ、始めましょう」と、手を叩いてメンバーたちを促せる海未。

――そうだ、気のせいのはずだ。

もう一度見たらいなくなっていたし、気のせいに違いない。

 

 

 

 

 

 

――学校の裏に彩牙の姿があったなど――

 

 

 

**

 

 

 

「……音ノ木坂の裏に、こんな場所があったのか」

 

『正確にはこの学校が後からできたんだ。番犬所の入り口はそうそう動かせるもんじゃない』

 

そこは不可思議な空間だった。

辺りが暗闇で包まれている中、一筋の道だけが白く輝き、そこを歩くものを照らす。神殿を思わせるような神秘的な雰囲気に包まれた回廊だった。

その道を髑髏の指輪――魔導輪ザルバを指に嵌めた彩牙が歩いていた。

 

「番犬所……魔戒騎士のユニオン的存在……だったか?」

 

『そうだ、まさか魔戒騎士という言葉さえ忘れていたとはな。こんな小僧がよくガロを名乗れたもんだ。先代だった親父さんが草葉の陰で泣いてるぞ』

 

「……おい、さっきから一言多くないか?」

 

『それが嫌なら精進するんだな。理由はどうあれ、今ガロの称号を持つのはお前だからな』

 

「わかってる」

 

 

 

そもそもは昨夜――彩牙とザルバが対面した時から始まった。

ザルバの語る言葉――魔戒騎士、番犬所、そして自分の父について、彩牙はほぼ全くと言っていいほどついていけてなかった。

『いつ騎士見習いを卒業した?』『番犬所の管轄に入ったのか』『そもそも虹河はどうした?』それらについて彩牙は疑問符を浮かべることしかできなかった。

その様子を疑問に思ったザルバが尋ねたところ、彩牙が記憶喪失であることを知り、こうして状況説明を兼ねて近くの番犬所に赴いたのだった。

 

そして彩牙は彩牙で複雑な思いが渦巻いていた。

自分の指とこの先に、失われた自分の記憶の手掛かりが秘められているのだ。期待と、それと同じくらいの不安が胸の中で渦巻いていた。

しかし番犬所の入り口が、まさか海未たちの通う音ノ木坂の裏にあったとは。これは最早何かの縁なのだろうか?

そんなことを考えていると回廊の道が終わり、開けた空間にたどり着いた。

 

『着いたようだな』

 

そこは小さなホールのようにも思えた。

白を基調とした彫刻のような燭台、シャンデリア、テーブル、狼を模った彫像。そのどれもがぼんやりと白く輝いており、辺りは闇に包まれているというのに暗いという気持ちを全く感じさせなかった。

そしてその中央に、他の家具装飾と同じように白を基調とした豪華なソファーが鎮座していた。

そしてそのソファーには、一人の少女が腰を掛けていた。

 

ソファーなどの家具類と同じく、淡く輝いている白いドレスに身を包んだ銀髪の少女だ。歳は海未たちと同じくらいかと彩牙は感じた。

眠るように閉じていた目をすうっと開け、彩牙を見つけると、にやりとした笑みを浮かべた。

 

「おやおや、久しぶりの客人かと思えばガロの息子か。久しいのぉ」

 

『ちょいと違うな。今はこいつがガロだ』

 

「……なんじゃと? それはどういうことじゃ」

 

少女の言葉を聞いて、彩牙は面食らった。

少女の話し方は歳相応のそれではなく、老婆のそれに近かったからだ。外見が神秘的な雰囲気を秘めた美少女だっただけにそのギャップも大きかった。

 

「あの……あなたは……?」

 

「ん? ああそうか、以前会った時のおぬしはまだ赤ん坊だったからの、無理もないか。

 

 

 

――儂はこの虹の番犬所を預かる神官、“オルトス”じゃ。よろしくのぉ、彩牙」

 

『こう見えて中身は結構な歳の婆さんだ。見た目に惑わされるなよ』

 

「そこの魔導輪、お主は相変わらず余計なことまでぺらぺらと喋るのう」

 

『生まれつきだ、諦めるんだな』

 

「ほほほ。そこまで減らず口を叩けるなら当分ガタはこなさそうじゃの」

 

ケタケタと快活な、それでいて老獪な笑い声をあげる少女――神官オルトス。

その様子を見た彩牙は、人は見かけによらないという言葉を早速身に染みていた。

 

「……さて。思い出話に華を咲かせるのもいいが、そろそろ本題に入ろうかの?」

 

『そうだな。俺様もそれだけのためならこいつを連れてきたりしない』

 

ひとしきり笑い終えた後、表情を引き締めるオルトス。

その声も口調そのものは変わらないが、真剣味を帯びたものになっていた。ザルバも同様だった。

 

「儂の記憶ではガロの称号を有しておったのはお主の父であったはすじゃが……いつ継承したのかの?」

 

「俺の……父?」

 

『そうだ。お前の父であり、先代ガロ……村雨虹河(こうが)。お前はアイツの下で魔戒騎士としての修業を積んでいた』

 

『それとオルトス、こいつに聞いたところで無駄だぜ。どうやら記憶喪失らしいからな』

 

「なんじゃと……!?」

 

それからザルバは話した。時折、彩牙からの指摘も添えて。

彩牙が記憶喪失になっていること。自分の名前、ホラーと自分がガロであること以外何も覚えてなかったこと。ここ1か月、ガロとしてホラーと戦っていたこと。

全てを聞き終えた後、オルトスは難しい顔で口を開いた。

 

「……そうか。お主がガロを継いでおるということは、虹河は……」

 

『……確証はないが、おそらくはな』

 

そこから先はザルバもオルトスも、そして彩牙も言わなかった。

言わずとも、この場にいた誰もがうっすらとわかっていた。

――彩牙の父、村雨虹河はもうこの世にいないのだと。

 

「しかしザルバよ、お主は知らないのか?」

 

『……ああ。どうやらつい昨日まで石になっちまってたらしくてな、ここ1か月の記憶が全くない。最後に覚えてるのが虹河とこの小僧がホラー狩りに行ったところなんだが……』

 

「その時に父さんの身と、俺の記憶が失われた何かが起こった……ということなのか?」

 

『そういうことだ』

 

1か月前。園田家に拾われる直前。

そこに全ての答えが秘められていることだけは間違いなかった。

 

 

 

「……さて彩牙よ。お主はここ1か月ホラーと戦っておったそうじゃが剣の浄化は……しておらんそうじゃの」

 

「浄化……ですか?」

 

『そこに狼の像があるだろう、そいつの口に剣を突きさせ』

 

「こうか?」

 

ちょうど彩牙の横にあった、口を開いた狼の頭の像。

ザルバに促され、魔戒剣をその口に突き刺すと、白い蒸気がその口から吐き出された。

魔戒剣を抜くと入れ替わるかのように、その口から蒸気と共に一振りの短剣が吐き出された。

 

『ホラーを斬っていくと剣に邪気が溜まる。その邪気をそのままにしちまうと騎士の身体を蝕むようになっちまう』

 

「それを防ぐため、剣に溜まった邪気を浄化して短剣に変え、魔界に送還するのも番犬所の役目じゃ」

 

一本、二本とオブジェから吐き出され続ける、ホラーの邪気を封じ込めた短剣。

結果、現れた短剣は8本となった。

 

『8本か。浄化もせずよくここまでのホラーを狩ったもんだ』

 

ザルバは言った。

ホラーの邪気を封じた短剣は、12本にまとめて魔界に送還されるのだと。

つまるところ、自分の剣に溜まっていた邪気は相当な量だったことになり、もしこのまま放っておいたら自分の身体は邪気に呑み込まれていたことになる。

それを想像して、彩牙は思わずぞっとした。

 

「さて、浄化が済んだのならこの管轄の騎士として、早速仕事をしてもらおうかの。黄金騎士ガロよ」

 

「仕事?」

 

そう言いながら、にやりとした笑みを浮かべるオルトス。

その手には、赤い封筒が握られていた。

 

 

 

**

 

 

 

――園田家、稽古場

 

私、園田海未は今、実家の稽古場で母を前に日舞の稽古をしていた。窓から差し込まれる夕陽が稽古場を、母を、そして私を淡く照らしていた。

この夕方の稽古、そして朝の稽古はスクールアイドルを続ける上で、本来の鍛錬が疎かにならないようにと親と取り決めた約束だ。大変ではあるが自分で決めたことであるし、鍛錬をした分だけその結果は自分に返ってくるものだからやりがいはある。

万が一も考えてあまり無茶はし過ぎないようにも心掛けていた。

 

やがて流れていた唄が終わり、舞を締めくくるとそれまで静かに見つめていた母がポンと手を叩いた。

 

「はい、結構。日々の稽古がしっかりと身についているようですね」

 

「ありがとうございます」

 

自分でも舞っている最中にもしやと思ったが、今日はいつもより上手く舞えていたようだ。

母からのお褒めの言葉に、つい心が弾んでしまう。

――いけない。上達しているとはいえ、調子に乗ってはいけない。天狗になるものは足元を掬われると母も父も言っていた。

 

「スクールアイドル……だったかしら? あれを始めてお稽古にもし支障が出たら……と思っていましたけど、杞憂だったようですね」

 

「はい。穂乃果に誘われた時はどうしようかと思いましたが、色々と得るものもありましたし、始めてよかったと思ってます」

 

少なくとも、大勢の人前で踊ることにいくらかの耐性を……その、ほんの少しは得られた……とは思う。

そして何よりも楽しかった。日舞とはまた違った感じで歌うことが、踊ることが、こんなにも楽しいとは思わなかった。

だから始めてよかった。多忙になってもそれだけの価値があったと今では思う。

 

そうして母と会話をしていると、マナーモードにしていた自分の携帯の振動音が聞こえた。電話の着信だった。

失礼します。と母に断りを入れてから電話を取ると、画面に出ていたのは“彩牙”の二文字。

私は彼からの電話に出た。

 

「彩牙くん?」

 

『海未、悪いけど今日も少し遅くなりそうなんだ。先生と奥様に伝えておいてくれないか?』

 

「それは構いませんが……もしやまた?」

 

まさかまたホラーが出たのではないか――また戦いに行くのではないか。

そんな私の心配を感じ取ったのか、彩牙くんは明るく努めるような声で答えた。

 

『大丈夫さ、無事に帰ってくるから。俺を信じてくれ』

 

「……わかりました。それではお気をつけてください」

 

それを最後に、彼との通話は切れた。

彩牙くんはああ言っていたが、やはりどうしても心配してしまう。人を守るためとはいえ、戦えば彼が傷ついていく。そして戦うたびに、彼が遠いところに行ってしまう――そんな気がした。

そうしていると、私たちの会話を聞き付けたのか母が向こうからやってきた。

 

「彩牙くんからですか?」

 

「はい、今日は少し遅くなるとのことです」

 

「あらまあ……それじゃあ、彼の分の夕食をちゃんと残してあげませんとね」

 

そう語る母に、私はある疑問をぶつけた。

ここ最近――いや、前から思っていたことを。

 

「……お母様は、彩牙くんを疑ったりしないのですか?」

 

「疑う、とは?」

 

「用事の内容も碌に伝えず、夜遅くまで出歩いて……何か厄介事に手を出しているのか、とは疑わないのですか?」

 

元を辿れば彩牙くんは血の繋がりも全くない、素性すらもわからない赤の他人だ。

そんな人間が理由も告げずに夜出歩くなど、大っぴらには言えない“何か”をしていると疑うのが常だろう。

しかし母は、それを聞いてもいつもと変わらない優しい笑みを浮かべるだけだった。

 

「そんなことはありません。海未さん、あなたは彩牙くんがそのようなことをする人間だと思いますか?」

 

「……いえ。それだけはありえません」

 

そうだ。それだけはない。

事情を知っていることもある。しかしそれを抜きにしても、彼のような実直な人がそのようなことをする筈がないと断言できる。

彼の淀みのない太刀筋を見てきたからこそそう言える。大体、彩牙くんが隠れて悪事を行うような人間だったらあの父がここに留めておくはずがない。

 

「そう、彩牙くんはとても真面目な子です。そんな彼が遅くなるというのはきっと事情が……“成すべきこと”があるのでしょう」

 

 

 

「だから海未さん、彼のことを信じて待ちましょう。今はあの子も私たちの“家族”なのですから」

 

そう告げる母に、私はただ感嘆された。

母の言葉には彩牙くんを疑っている様子は一切見られなかった。

もしかして私以上に彼のことを信用しているのでは?そう考えると嬉しく思う反面、なんだかもやもやとした複雑な気持ちも胸の中に生まれた。

そしてそんな母に、私はもう一つ質問することにした。以前から不思議に思っていた素朴な疑問だ。

 

「お母様とお父様は何故、彩牙くんを家に招き入れたのですか?」

 

その質問に母は少しだけ考えるそぶりを見せると、はにかんだように答えた。

 

「そうですね……一つだけ、あえて言うのなら……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「約束したから、でしょうか」

 

 

 

**

 

 

 

『なんだ、彼女に電話か? 随分と呑気だな』

 

「……別に、そんなんじゃないさ」

 

同じころ、彩牙は秋葉原近郊の廃ビルの中に佇んでいた。

海未に掛けていた電話を懐に仕舞うと、もう一度辺りを念入りに見回した。

 

「それよりもここで間違いないんだな、ザルバ」

 

『ああ、辺りから幾つもの邪気を感じるぜ』

 

彩牙がここを訪れたのは昼に番犬所から受けた指令のためだった。

指令書にはこう記されていた。

“人去りし場所に集いし邪気、その場を辿り討滅せよ”

要するに複数のホラーが1か所に集まっているから討滅しろとのことだった。

指令を受けてからからずっと街中を駆け巡り、日が暮れる頃になってやっと掴んだ微かな邪気を辿り、着いたのがこの廃ビルだった。

 

『しかし複数のホラー討滅とは……珍しい指令もあったもんだ』

 

「ホラー同士がコミュニティでも作ったのか?」

 

『さあな、奴らはつるんだりなんて滅多にないからな。過去にそういうことをしたホラーがいるという話は聞いたことがあるが』

 

ザルバと会話をしながら、警戒をしたまま廃ビルの中を散策する彩牙。

やがてそれなりに広いフロアに辿りつくと、床に無造作に転がっている物体を見つけた。

 

『なんだ?』

 

「……そういうことか」

 

彩牙が見つけたのは、バケツ、中身のなくなっていた洗剤、そして漂白剤だった。

所謂、“混ぜるな危険”と言われる組み合わせ。それを見たことで何が起こったのか、どうしてホラーが発生したのかが容易く想像できた。

 

『なるほどな、集団自殺を図ろうとした奴らの陰我に誘われたわけか。そりゃあ複数も出るわけだ』

 

指令書の“人去りし”という文はビルを使用してた人々というだけでなく、この世から去ろうとしていた人々のことも指していたのだ。

なんとも皮肉な。そう思いつつ、彩牙は魔戒剣を抜き、構える。

 

『囲まれたようだな』

 

「ああ」

 

ザルバと同じように、彩牙も自分たちを囲む邪気、そして殺気を感じていた。

殺気の出所を探ると1,2,3……少なくとも5体はいることがわかった。魔戒剣を構え、フロアの中央に陣取ってじりじりと相手の出方を窺う。

窓から差し込む僅かな光がフロアを仄かに照らす。警戒する彩牙の足が転がっていたバケツにぶつかり、カランカランと空虚な音を響かせる。

その瞬間、状況は一変した。

 

『ギシャアァァァァァァ!!』

 

窓を、ドアを、壁を突き破り、金切り声と共に魔獣がフロアになだれ込んできた。

悪魔のような風体に白と黒の翼を持つホラー。全てのホラーの原型とも言える姿、素体ホラーだ。

5体の素体ホラーは爪を、牙を立て、彩牙を取り囲むように一斉に飛びかかった。

 

『いいか小僧、お前の持つ魔戒剣や鎧はソウルメタルで出来ている。ホラーの爪を加工して作られた魔界の超鋼。謂わばホラーの力そのものでもある』

 

彩牙はまず、自分の正面に向かってきたホラーを縦一文字に斬り裂き、その勢いでホラーの下を潜るように前転した。斬り裂かれたホラーは消滅し、彩牙という標的を失ったホラーたちは互いに衝突し、僅かにのけぞった。

転がった勢いで姿勢を正した彩牙はその隙を突き、ホラーのうち一体の胴体に魔戒剣を深く突き刺し、薙ぎ払うように横に斬り裂いた。胴体が大きく裂かれたホラーは消滅した。

 

『ソウルメタルは扱う者の心次第でその重さを変える。強い心の持ち主が持てば羽毛のような軽さになり、弱い心の持ち主が持てば鉄塊を遥かに超える重さになる』

 

すると今度はのけぞりから復帰したホラーが彩牙に襲い掛かる。

彩牙は姿勢を低くしてホラーの攻撃を避け、同時に独楽のように回転して魔戒剣を振るい、襲い掛かったホラーの足を両断した。

足を斬られ、倒れこむホラー。そんな同胞を足蹴にして別のホラーがしゃがんだ状態から復帰していない彩牙に襲い掛かる。

 

『そんなソウルメタルを操り、鎧を纏い、ホラーを討滅する者……』

 

彩牙は咄嗟に自分の横に転がっていたバケツを手に取り、襲い掛かるホラーの顔面目がけて投げつけた。

当然、ただのバケツにホラーを傷つける力などない。顔面にバケツをぶつけられたホラーはほんの一瞬だけ怯んだものの、すぐさま持ち直し、彩牙を襲う。

だが――その一瞬がホラーの命運を分けた。

怯みから回復したホラーの目に入ったのは、姿勢を直し、魔戒剣を振り上げる彩牙の姿だった。

 

『それがお前たち、魔戒騎士だ』

 

残ったホラーは一体。

そのホラー目がけて彩牙か駆け出した、その時だった。

 

『ギィィシャアアアアアア!!』

 

「なにっ! もう一体だと!?」

 

天井を突き破り、新たな素体ホラーが彩牙に降りかかってきた。

虚を突かれ、反応が遅れた彩牙は降りかかったホラーに組み敷かれてしまった。ホラーの生温かい息が彩牙の顔にかかる。

そしてその隙を突こうと、さっきまでは最後の一体だったホラーが彩牙に襲い掛かる。

 

「くっ……そぉっ!!」

 

躊躇する暇はなかった。

彩牙は何とか自由になっていた手首を駆使し、魔戒剣を襲い掛かろうとするホラー目がけて投擲した。投擲された魔戒剣は弧を描き、ホラーの肩に突き刺さった。

そして自らを喰らおうと眼前まで迫っていたホラーの顔面に頭突きを叩き込み、怯んで力が抜けた瞬間に組み敷かれた状態からすり抜け、回し蹴りを叩き込んだ。

ホラーの拘束から脱出すると、別のホラーの肩に突き刺していた魔戒剣を手に取り、そのまま肩から腰に掛けて大きく斬り裂いた。

 

そして自らの背後に迫る、自分を組み敷いていたホラー。

彩牙はそれに目を向けることなく、脇から魔戒剣を後ろに突き出し、迫っていたホラーに突き刺した。

身体が前のめりに崩れ、黒い粒子と化して消滅していくホラー。それと同時に感知できなくなる邪気。

 

「今度こそ、全滅できたか?」

 

『ああ。さっきのでこのビルに巣食っていたホラーは全部討滅された』

 

それは何よりだった。

しかしそれとは別に、彩牙にはザルバに言いたいことがあった。

 

「ザルバ……お前、さっき乱入してきたホラーに気づいてたんじゃないのか?」

 

『ああ』

 

悪びれもなく、しれっと答えるザルバ。

彩牙は問い詰めるように尋ねた。

 

「なんで言わなかった?」

 

『お前の実力を見るためだ。戦い方はそこそこだが、敵はいつも見える範囲だけにいるとは限らないぜ』

 

「お前な……」

 

『いいか小僧、前ばかりに気を取られるな。たとえ見えずとも相手の動きがわかるように感覚を研ぎ澄ませるんだ』

 

「……わかったよ」

 

悔しいが、乱入してきたホラーに気づかなくとも、予測、警戒していなかったのは事実だ。

それは紛れもない自分の落ち度、力不足。ザルバの言うことは最もだった。

だからしぶしぶとはいえ、彩牙は己の力不足を認めた。

 

『それはそうと小僧。この街、やけにホラーが多いと思わないか?』

 

「……お前の言う、エレメントの浄化を俺がしなかったから。じゃないのか?」

 

それは魔戒騎士の昼の仕事だった。

ホラーを呼び寄せる陰我の溜まったオブジェ――エレメント。それに溜まった陰我を浄化することでホラーの出現をあらかじめ防ぐもの。

無論、それで万全というものではないが、少なくともホラーの出現を抑えることができる重要な仕事だった。

 

『それもあるかもしれん。だがお前の剣を浄化した時の短剣の数といい、どうにも妙だ』

 

『人の陰我がそれほどまでに増えたのか、あるいは……』

 

 

 

 

 

 

「……“何か”がホラーを増やしている?」

 

 

 

**

 

 

 

「――あ、彩牙くん。お帰りなさい」

 

「ただいま、海未」

 

指令を終え、園田家へ帰路についた彩牙。そんな彼を迎えたのは海未だった。

話を聞くとちょうど風呂に入ろうとしていたところらしく、彩牙の声が聞こえたのでこうして迎えに来たとのことだった。

とりとめのない話と共に、彩牙の分の夕食が残っていることを伝えると、「ありがとう」と礼を述べて彩牙は台所に向かおうとした。

その時だった。

 

「……彩牙くん、その傷は?」

 

「ん? ……ああ、大丈夫。大した怪我じゃない」

 

彩牙の腕には、爪で引っ掻いたような傷があった。

それは先のホラーとの戦いで出来た傷であることは明らかだった。彩牙は大したことはないと言うが、傷はやや深めに肉を抉っており、とても平気とは言えないものになっていた。

海未もそれを察したのか痛々しい表情で見つめた後、何かを決意したかのような表情に変え、彩牙の手を掴んだ。

「へ?」と素っ頓狂な声を出した彩牙をよそに、海未は彼の手を引いて歩きだした。

 

「えっ?ちょっ、海未!?」

 

「どうせホラーと戦ったのでしょう。私の部屋に薬箱がありますからそこで手当てしましょう」

 

「いや大丈夫だってこれくらい!」

 

「そんなわけありません! 放っておいたらバイ菌だって入りますよ!」

 

「だ、だったら俺が一人でやるし、海未は風呂に入るところだったんだろ? それじゃ悪いし……!」

 

「そんなもの後回しです! いいからついて来てください!」

 

結局、有無を言わさぬ雰囲気に圧倒され、彩牙は海未の部屋にまで行くことになった。

そうして連れてこられた海未の部屋。整理整頓がきっちりされており、真面目な海未の性格がしっかりと表れているようだった。

そして僅かに香る、女の子の部屋らしい甘い香り。薬箱を探す海未の傍らで、彩牙は胸の高揚を抑えるのに必死だった。

 

 

 

「――ありました。それじゃあ、腕を出してください」

 

「あ、ああ」

 

彩牙の腕につけられた傷を消毒し、ガーゼと包帯で止血をする海未。

消毒と包帯を巻かれるむずむずとした感覚に、ちゃんとした理由とはいえ海未に腕を触られているという状況に、ただどぎまぎしていることしかできなかった。

そして海未は手当てをしている彩牙の傷を見て、少し悲しげな表情を浮かべた。

 

「……彩牙くんは、これからもホラーと戦うのですよね?」

 

「ああ」

 

「その度に、このような怪我をするのですか?」

 

「……そうかもな」

 

手当は終わったが、海未は彩牙の腕を離さず、悲しげな表情で見つめていた。

彩牙も海未の言葉に表情を引き締めていた。

 

「……やめてほしいのか?」

 

「いえ、そんなことを言うつもりはありません。ただ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ただ、無理だけはしないでください」

 

海未は怖かった。

戦うたび、彩牙が傷ついていくのが。傷が増えていくのが。

無論、戦うことを決めたのは彩牙自身の意志だ。海未は彼の意志を止めるつもりはない。止めてはいけないと思った。

ただ、その代償に傷ついていくのが悲しかった。いつか、初めて会った時のように倒れてしまうのではないか、最悪、命を落としてしまうのではないか。

自分が知る人が傷つき、この世から去る。それが、たまらなく怖かった。

 

「海未……俺は……」

 

 

 

 

 

 

 

 

『おい小僧。なんでこの嬢ちゃんがホラーのことを知っている』

 

「きゃあっ!? な、なんですか今の声は!?」

 

突然、それまで黙っていたザルバが口を開いた。

二人しかいなかったはずの自室に突然響いた声に海未は驚き、もしや不審者かと怯えるように辺りを見回した。

そして彩牙は呆れたようにザルバを見つめた。

 

「おいザルバ、いきなり喋るなよ」

 

『ふん、俺様は喋りたいときに喋る。それで今は喋っても問題ないと判断したまでだ』

 

指輪――ザルバと会話を始めた彩牙に海未は怪訝な視線を浮かべた。

そしておずおずというような態度でザルバを指さした。

 

「も、もしかして……その指輪、喋ってるんですか……?」

 

『ただの指輪じゃないぜ、お嬢ちゃん。俺様は魔導輪ザルバだ』

 

カチカチと音を鳴らして得意げに話すザルバ。

その様子を見た海未は顔をさあっと青くし、驚くべき速さで壁際まで退いた。

ずささささ、という幻聴が聞こえたような気がした。

 

「なんですかその指輪! お化け!?もしかしてホラーですかぁ!?」

 

『ほう、カンが良いなお嬢ちゃん。その通り、俺様はホラーだ』

 

ピタリ、とザルバの言葉に一瞬無表情になったかと思うと、みるみるうちに顔を青くして恐怖の表情を浮かべる海未。

その様子に、まるで百面相みたいだと、彩牙はどこかズレた感想を浮かべていた。

 

「な、何でホラーがこんなところにいるんですか! は、早く退治してください!」

 

『落ち着けお嬢ちゃん。確かに俺様はホラーだが、お前さんたちを喰おうってワケじゃない。それに俺様の身体は魔界にあって、この指輪に込められているのは魂にすぎない』

 

「……ど、どういうことですか?」

 

『言ったろ、俺様は魔導輪。魔戒騎士をサポートする存在なのさ』

 

 

魔導輪――それは人間との共存を考えている、善良なホラーの魂が封じられた魔導具。

本来の肉体を魔界に残し、指輪等に自らの魂を封じた魔導輪はその遥かな年月を生きたことによって蓄積された莫大な知識をもとに、ホラーの情報提供や邪気の探知など、騎士たちをサポートする存在である。

しかし共存を考えていてもホラーであることには変わりはなく、人間が他の生き物を食べて生きているように、魔導輪も人間の命がなければ生きてはいけない。

 

そこで魔導輪となったホラーと騎士の間に、ある契約が定められた。

自らの知識を提供しサポートする代わりに、契約した騎士は1か月に1日、自らの命を魔導輪に奉げる契約を。

それが魔導輪、そして魔導輪と魔戒騎士との間に定められる契約だと、ザルバはそう語った。

 

 

「――それではザルバ……さん、は彩牙くんの命を食べているということなのですか?」

 

『いいや、この小僧とは契約していない。半人前の命など欲しくもないからな』

 

「お前さっきから言いたい放題だな」

 

『ふん、本当のことだろう』

 

いがみ合う彩牙とザルバ。

だが海未には本気でいがみ合ってるようには見えなかった。

そう――まるでからかう親と拗ねた子供のような――

 

 

 

 

 

『……で、話は逸れたが、なんでこのお嬢ちゃんがホラーのことを知っている?』

 

「そ、それはホラーに襲われている時に彩牙くんに助けてもらったからです」

 

『そういうことか。で、記憶を消さずにそのままにしてると』

 

「な、何故記憶を!?」

 

『お嬢ちゃん、よく考えてみろ。ホラーのことが世間に知れ渡ったらどうなると思う?』

 

ザルバの言葉に、海未は考えてみた。

人に憑依し、人に化け、人を喰らうホラー。そんなホラーの存在が明るみになれば、人々はパニックに包まれ、誰がホラーなのかと互いに疑心暗鬼になるだろう。

それによって引き起こされるのは恐怖と疑心暗鬼に包まれた人々による密告、騙し合い、殺し合い。そしてそこから生まれた陰我に引き寄せられ、更なるホラーが現れる――

最悪の――地獄絵図の光景が浮かび上がった。

 

「……そういうことですか」

 

『そうだ。そのために巻き込まれた人間の記憶は消すのが掟なんだが……』

 

彩牙は海未を見つめた。

その眼は、海未自身が望むのならすぐに記憶を消そうと語っていた。このような恐ろしい裏側の世界を知るよりかは、表の世界で何も知らずに平穏に暮らせればいいと想ってのことだった。

そんな彩牙の視線を受けた海未は穏やかな笑みを浮かべ、答えた。

 

「このままでいいです。……いえ、消さないでください」

 

海未は記憶を消さないことを選んだ。

いくら恐ろしいことだとはいえ知った以上、目の前の現実から逃げるのは自分の心が許さなかった。

そして何よりも、彩牙が身を置く世界。そこから目を背けるのは“家族”としてしたくなかった。

彼を、一人にしたくなかったのだ。

 

 

「……そうか。わかったよ、海未」

 

『まったく、甘い小僧だ』

 

「止めないのか?ザルバ」

 

『決めるのはお前たちだ。それにお嬢ちゃんは知れ渡ることの意味がわかってるみたいだしな』

 

『だが選んだからには、決して後悔するなよ』

 

「はい」

 

さてと、と立ち上がる彩牙。

疑問符を浮かべる海未に、彩牙は思わず苦笑いをした。会話に夢中で手当てを終わらせていたことに気づいていなかったようだ。

そのことにようやく気付いたのか、海未は面食らったような表情を覗かせた。

 

「そろそろ戻るよ。海未もお風呂に入るところだったんだろ?」

 

「あ……そ、そうでした」

 

いそいそと、薬箱を片付ける海未。

その様子に彩牙は穏やかな気持ちになり、何が何でも守りたいと思った。

 

「手当てありがとう。それじゃあまた明日」

 

「はい、おやすみなさい」

 

パタンと海未の部屋を後にし、自分の部屋……の前に、遅くなった夕食を取りに向かう彩牙。

その指に揺られるザルバには、ある懸念があった。

 

 

――あのお嬢ちゃん、まさかとは思うが――

 

海未の身から発せられたある気配――いや、“匂い”がザルバには気がかりだった。

とても親しみがあり、懐かしみがあり、邪悪なものであり、そして――人間からは決して感じ取ってはいけないもの。

まだ確証はない。だがホラーのことを知ったきっかけといい、可能性は十分にある。

きっとこれから何度も彩牙の指に嵌められた形で彼女と接すれば、懸念は確信に変わるだろう。だがザルバは、その懸念が外れてほしいと思った。

もしその懸念が当たっていれば――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――彩牙は、彼女を斬らなければならない。

 

 

 

**

 

 

 

――神田明神・境内の雑木林

 

都内で数少ない緑に包まれた林の中、無数に並ぶ木々の内一本の前に彩牙は立っていた。

鋭い目つきで目の前の木を見据え、魔戒剣を引き抜くと躊躇なくその幹に突き刺した。

すると突き刺した部分から靄のように闇が噴き出し、宙で一つの塊になった。彩牙がその闇を十文字に斬り裂くと、闇は悲鳴のような金切り声を上げて霧散していった。

 

――これが、エレメントの浄化。

ゲートが開く前にオブジェに溜まった陰我を浄化し、ホラーの出現を未然に防ぐ、魔戒騎士の昼の務めだった。

 

「終わったぞ、ザルバ」

 

『ああ、これで何個目だったか……結構な数になったな』

 

彩牙は朝からずっと街中を駆け巡り、エレメントの浄化を続けていた。

覚えていなかったとはいえ、自分の怠慢によることである負い目もあったため虱潰しに探し、浄化をし続けていたのだ。

そしてザルバが言うように浄化した数は相当なものになり、20個を超えたあたりから数えるのをやめていた。

 

「だけどその分かなり減らすことができた。そうだろ?」

 

『ああ。この分ならペースを緩めても大丈夫だろうな』

 

「そうだな……っと」

 

会話の途中、身体がふらついて気に寄りかかりかける彩牙。

浄化といえど楽な作業ではない。浄化一つにも体力が相当消耗されるのだ。

短時間で数多くの浄化を行った結果、グロッキーになりかけた騎士も過去には存在していた。今の彩牙はその状態の一歩手前にあった。

 

『そろそろ休め小僧。そんな状態でホラーが出たらあっと言う間にやられちまうぞ』

 

「……そうだな。そうするよ」

 

ザルバの言うことも最もだった。流石に無茶をし過ぎたと彩牙も思った。

息を整え、倒れたりしないように足腰にしっかり力を入れ、林の出口に向け歩き出す彩牙。

木々によって夏の日差しが遮られ、木陰と爽やかなそよ風が真夏で火照った疲労感に満ちた身体を癒していく。

そういて歩いていた最中、彩牙の足踏みが急に止まり、その視線はある一点に釘付けになった。

 

「あれは……?」

 

彩牙の視線の先には、木陰に包まれて穏やかに眠る一匹の“獣”の姿があった。

だがその獣の姿は世間一般で見るような動物とは大きく異なっていた。外見的な特徴もそうだが、何よりもその身に纏う神秘的なオーラが彩牙の心と視線を奪っていた。

その獣の姿に心奪われていたところ、ザルバが驚きの声を上げた。

 

『こいつは驚いた、霊獣じゃないか! まだ若いがこんなところでお目にかかれるとはな』

 

「霊獣?」

 

『ああ。本来は特殊な手順じゃないと姿を見れないんだが……よっぽどこの地の霊力が優れているんだろうな』

 

感嘆とした様子のザルバにつられ、彩牙はもう一度霊獣の姿を見つめる。

やはり見れば見るほどこの世のものとは思えない、神秘的な美しさを感じる。

そうして時間と体の疲労を忘れるほど、霊獣の姿を見つめ続けていた――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あ。あの子、今日も来とるんやね」

 

「っ!?」

 

――すると、背後から声がかけられた。

慌てて振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。巫女装束に身を包み、紫がかった長い髪を纏めた、ふんわりとした雰囲気の少女だった。

「おおぅ」と急に振り返った彩牙に驚きの声を上げた少女は、気を取り直すかのようににんまりと微笑んだ。

 

「あ、驚かせてゴメンね? ウチ、ここでバイトしてるんやけどこの林って滅多に人がいないから、つい」

 

「いや……こっちこそごめん。勝手に入り込んだりして……」

 

「ええんよ。別に誰が入っちゃダメってわけでもないし、昔は丑の刻参りしに来た人もいたって話やしね。……あ、もしかして君も?」

 

「いや、そんなんじゃないよ。ただ……そう、歩いたら気持ちいいかなと思って」

 

魔戒騎士の仕事を言うわけにもいかず、咄嗟に考えた理由を口にする彩牙の心情は驚き、焦り、そして反省の心が駆け巡っていた。

理由はどうあれ、目の前に夢中になって背後からの気配に疎かになってしまった。

今回は人だから良かったものの、もしこれがホラーだったと思ったらぞっとする。もう生きていなかったかもしれない。

彩牙は己の不注意を恥じた。

 

「それで、“また”ってことはあのれい……生き物はよくここに?」

 

「うん、たまにやけどね。なんか見てるとほっこりって言うか、心が澄んでくる感じがするからちょくちょく見に来ちゃうんよ、あの白い狸さん」

 

「狸?」

 

少女の言葉に彩牙は疑問符を浮かべた。

今、少女は霊獣のことを確かに“白い狸”と言った。だが彩牙の目には霊獣の姿は角の生えた犬のように見えていた。

これはどういうことなのか――そう考えていた時だった。

 

(霊獣は見る者によって違う姿に映る。だから本来の姿がどんなのかは誰にもわからないのさ)

 

「うわっ!?」

 

「わっ、どうしたん急に?」

 

頭の中にザルバの声が響き渡った。

その声に驚いた彩牙の様子に首をかしげる少女に「何でもない」と答えると、ザルバに視線を向けた。

すると再び頭の中にザルバの声が響いた。

 

(お前の頭に直接話しかけてる。頭の中で念じれば会話できるぜ)

 

(……こ、こうか? こんなこともできたのか)

 

(そうだ。上手いもんじゃないか)

 

おそろおそる念じてみると、確かに会話ができていた。

ザルバは何気に芸達者なのだと思い知った。

 

(しかし驚いたもんだぜ、この嬢ちゃん)

 

(何がだ?)

 

(霊獣ってのは本来普通に見れないことはさっき言ったな? いくらここが優れた霊地だとしてもお前のような魔戒に生きる者ならともかく、普通の人間が何もなしに見ることなんて不可能なんだ。この嬢ちゃん、案外タダもんじゃないかもしれないな)

 

その言葉に、彩牙は驚いたような眼差しで少女のことを見つめた。

普通の人間には到底見ることが不可能な霊獣。それを見ることを容易に為すこの少女に、一体何が秘められているというのか――

そうしていた時、ガサリと草を分ける音が聞こえた。

 

「あ」

 

視線を移せば、そこには目を覚ました霊獣の姿があった。

霊獣は彩牙達を一瞥すると走り去り、あっという間に林の奥に消えていった。

 

「行っちゃったね」

 

「……そうだな」

 

ただ静かに、そして惜しむように霊獣が消えた場所を見つめる彩牙と少女。

数秒かあるいは数分か。しばらくの間そうしていると、少女が突然思い出したかのように「あ!」という叫び声を上げた。

 

「あかん、まだ掃除の途中やった!早く戻らんと! 君も今度はちゃんとお参りしていってなー!」

 

慌てて神社の境内に向けて駆け出していく少女。

その背中を見つめ、見送るとぽつりと呟いた。

 

「……不思議な子だったな」

 

『そうだな。ああいうのが好みか?』

 

「バカ言え、そんなんじゃない」

 

とは言え、先程の少女には何か感じるものがあったと彩牙は思っていた。

本来は見ることのできない霊獣の姿があっさり見えていたこともそうだが、何よりもその柔らかな雰囲気に包まれ、途方もない安心感をいつの間にか覚えていた。きっと普段からそうやって周りの人たちの気を癒してきたのかもしれない。

また近いうちに会えるかもしれない。確証はないが、そんな気がした。

 

 

そして自分も林から抜け出そうと歩き出したとき、「あ」と間の抜けたような声を出した。

 

『どうした?』

 

 

 

「さっきの子……名前聞いてなかったな」

 

 

 

 

――不思議な人やったなぁ……

 

境内に戻ろうと林を駆ける中、少女は彩牙のことを思い出してそう思った。

最初は声をかけるつもりなどなかった。林の中で一人佇む見知らぬ男性など、警戒するのが年頃の少女として当然の反応だ。

しかし林に訪れる白い狸――霊獣を見つめるその姿があまりに純粋なまなざしで――自分にそっくりで、いつの間にか自然と声をかけていた。

 

それに少女は彩牙に何か感じるものを抱いていた。

少女は元々霊感が強い方で、幼いころからよくこの世ならざるものを目にしていたが、彼からはそれに似たような気を感じた。

――ひょっとして彼も自分と同じで霊感が強い人なのかな?

そんな同族意識を抱き、そんな自分によくここまで人懐っこいと言うか、知らない人に積極的になれたものだと感心した。

 

そこまで考えた時、少女はとても肝心な――あることに気づいた。

 

「……あ、名前聞くの忘れた」

 

 

しかし、不思議と悔やむ気持ちは起きなかった。

また近いうちに会える――そんな確信めいた予感が少女――東條希にはあった。

 

 

 

**

 

 

 

――秋葉原、大通り

大勢の人で賑わうその中を、彩牙は歩いていた。

 

『どこに行く気だ?小僧』

 

「さっきチラシをもらってさ、喫茶店みたいだから寄っていこうと思って」

 

『なになに……“メイドカフェ”? メイドというと西欧の侍女のことか』

 

「らしいな。日本で西欧流のもてなしを受けられるなんてそうそうないだろ?」

 

彩牙の手に握られていたチラシは、ついさっきビラ配りの女性から受け取ったものだった。

その時は何故侍女の格好をしているのだろうかと疑問に思ったが、チラシを見て納得がいった。メイドを目玉としているのだから、それに相応しい衣装で宣伝をしていたのだと。

……ただ、チラシの装飾が彩牙のイメージする西欧の侍女とは違ってやけにハートが多かったり、“萌え”という言葉を強調しているのはやや気になったが。

ともあれ、そんな経験はそうそうないだろうと、楽しみにしながら向かっていった。

 

 

チラシに記された地図に従って歩いていると、やがて一つの雑居ビルに辿りついた。

非常階段のような外に面した階段を上がっていくと、フロアに参入している店の看板が目に入った。

その看板と手に持ったチラシを照らし合わせると、ここが目指していた店だとわかった。

 

「……ここだな」

 

『普通の雑居ビルに見えるが、本当にこんなところで西洋のもてなしが受けられるのか?』

 

「まあ、中はちゃんとそれらしい装飾をしてるんじゃないか? とにかく入ってみよう」

 

自動ドアを超え、中に踏み入れるとそこにはややこじんまりとしているものの、華やかさと清廉さ、そして可愛らしさを表現したカフェが広がっていた。

彩牙のイメージしていた厳粛なものとは違っていたが、これはこれで過ごしやすそうだと感嘆した。

……しかしそうするとあのハートが沢山あったチラシは一体何だったのか。彩牙は深く考えるのをやめることにした。

 

そうしていると、彩牙の目の前に一人のメイドが現れた。

 

 

「お帰りなさいませ、ご主人さ……ま………」

 

「……! 君は……!」

 

彩牙を出迎えたそのメイドは言葉が尻すぼみになっていき、愕然とした表情を見せた。そしてそれは彩牙も同様だった。

彩牙はそのメイドに見覚えがあった。ロングスカートのメイド服に身を包んだそのメイドは、サイドテールにした長いベージュの髪に、頭頂部をまるでトサカのように結っていた、ふんわりとした声と雰囲気を持った同じ年頃の少女だった。

そう、そのメイドは――

 

 

 

「……南、さん?」

 

「……ダ、ダレノコトデショーカー……?」

 

 

まごうことなき、海未の幼馴染、南ことりだった――

 

 

 

***

 

 

 

ことり「自分には何もない。自分には何もできない」

 

ことり「自分に自信がない人は、そんな自分を変えようともがく」

 

ことり「自分という籠に囚われていることに気づかないまま……」

 

ことり「次回、『小鳥』」

 

 

 

ことり「私は、籠に囚われているだけの小鳥じゃないもん!」

 

 

 




魔戒指南


・ 村雨彩牙
黄金騎士ガロの称号を持つ少年。歳は海未と同じか1つ2つ年上程度。
記憶を失い、倒れていたところを海未に発見され、彼女の両親の好意によって園田家で手伝いをしながら世話になる。
普段は穏やかな性格だがムキになりやすいところがあり、ホラーを前にすると苛烈な怒りを見せることもある。
ご存じガロの鎧を纏うが、夢で見ていた海未曰く、その姿はくすんだ金色をしているらしい。ガロの瞳の色は緑。


・ オルトス
秋葉原の周辺一帯を管轄とする“虹の番犬所”の主。
10代半ばの少女の姿をしているが、その話し方や性格は悪戯好きな老婆そのもの。ザルバ曰く「若作りな婆さん」
名前の由来はギリシャ神話に登場する双頭の犬“オルトロス”。タコではない。




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第4話  小鳥

炎の刻印劇場版の最新PVが公開されましたね。
オヤジが生き返ったとか、過去から来たのかとかいろいろ言われてますが、そんなことは重要じゃない。

重要なのはオヤジが脱ぐのか脱がないのか、それだけです。

・・・・え?ファイナル?一般?
うっ、頭が


 

 

 

 

 

 

 

「お、お待たせしました……ご主人様……」

 

「……ああ」

 

カチャリと、彩牙の前に紅茶が差し出される。

その紅茶を差し出したメイド――南ことりはまずいものを見られたかのように、いつも以上におどおどとして居心地が悪そうにしていた。

対する彩牙もそんなことりの様子を肌で感じ取り、どこか気まずさを感じていた。

 

気を取り直そうと、出された紅茶を口に含む。深い味わいが口の中に広がり、気分が落ち着いてくる。

そんな時、思い詰めたような表情でことりが口を開いた。

 

「あの、彩牙くん! ここでバイトしてること、海未ちゃんたちには……」

 

「……言ってほしくないのか?」

 

彩牙の問いに、こくりと頷いた。

 

「ワケを聞いてもいいかな?」

 

「……笑わない?」

 

「笑うわけないだろ」

 

「ええっとね……バイト始めたのはμ’sを結成した頃なんだけど……」

 

それからことりは話した。

始めたきっかけは衣装が可愛かったこと、穂乃果や海未と比べて自分には何もないというコンプレックスがあったこと。

そして知られたくない理由は――まだ二人に……いや、μ’sの皆と横に並べられるという自信がないこと。そんな状態で知られてしまったらまた置いていかれそうな気がして怖かったからだというのだ。

 

それを聞いた彩牙は不思議に思った。

海未から聞いた話では、衣装を考え、作っているのは他でもないことり本人だという。詳しいことはわからないが、曲にあった衣装を考える発想力とそれを形にする腕は、十分誇ってもいいものではないのだろうか?

 

「……わかったよ、海未たちには秘密にしておく」

 

「あ、ありがとう……!」

 

とはいえ、ことり本人がそれで満足していないのなら自分がとやかく言うことではないのかもしれない。

ことり自身がこうしようと決めた道、それを邪魔するのは無粋なのではないか。

そう思い、これ以上追及するのをやめることにした。

 

 

「でも、南さんは何もない人なんかじゃない。気づいてないかもしれないけど、それだけは忘れないでほしい」

 

「そんなこと……」

 

「ある。きっとそのうちわかるさ」

 

だが、これだけは言っておきかった。

ことりが自分で決め、自分なりに自信をつけようとして始めたこと。だからこそ、このことを記憶に留めてほしかった。

何も持たない人間など、この世にはいない。いたとしても、それはただ気づいていないだけなのだと。

 

 

「――ミナリンスキーさーん! ちょっといいかしらー!?」

 

「あ、はーい! それじゃあ彩牙くん、ゆっくりしていってね」

 

 

ちょうどその時厨房から呼ばれ、そう告げるとことりはぱたぱたと駆け出して行った。

その背中を見ながら、はて、と彩牙の中に疑問が生まれた。

 

 

「……“ミナリンスキー”?」

 

『……ほう、なるほどな』

 

「知ってるのか?ザルバ」

 

『いや、知らん』

 

「オイ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ南さん、あのカッコいい人誰?彼氏?」

 

「ぴいっ!? そ、そんなんじゃないです!」

 

「えー? それにしちゃあすごい真剣な雰囲気で話してたよね、別れ話?」

 

「違いますっ! ただの……その、お友達ですっ!」

 

一方、ホールから抜けたことりは厨房に入るや否や、先輩のメイドから質問攻めにされていた。先程の彩牙との会話がよっぽど男女のもつれ話か何かのように見えていたようだ。

実際に内容を聞いていればそんなことはないのだが、接客などで忙しく、耳を傾ける余裕はそうそうなかったようだ。

そしてことりは先輩たちの言葉を必死に否定する中で、彩牙の言葉を思い出していた。

 

――何も持たない人じゃない、気付いていないだけ――

 

……本当にそうなのだろうか。確か服飾には興味があって、可愛い衣装が好きで、よく作ったりする。ステージの衣装も考えて、μ’sの皆から感謝されたこともあった。

でもそれだけだ。穂乃果のように人を引っ張る力もない、海未のようにしっかりとした意志を持っているわけでもない。自分はただ、二人に置いていかれないようにしがみつくことしかできない。

 

そんな弱い自分を、変えたいと思った。

 

 

 

――私、やっぱり何もない、弱い人間だよ……穂乃果ちゃんや海未ちゃんがいなきゃ何もできない。

それに……彩牙くんのように、怖いことにだって立ち向かえない……

 

 

 

ことりは、自分という人間に自信が持てないでいた。

そんな彼女には穂乃果や海未、そして人知れず戦う彩牙の姿は眩しすぎたのかもしれない――

 

 

 

**

 

 

 

「海未、ミナリンスキーって知ってるか?」

 

「ミナリンスキー……ですか? ええと、どこかで聞いたような……」

 

その日の晩。いつものように海未と稽古していた合間、彩牙はそう尋ねた。

その問いに記憶を掘り起こそうと考え込み、やがて思い出せたのか得心を抱いたような表情で答えた。

 

「思い出しました、にこ先輩がサインを持っていました。なんでも秋葉原の伝説のメイドだどか……」

 

「伝説のメイド?」

 

「はい。なんでも数か月前に突然現れたらしく、聞いた話では完璧な接客対応、可愛らしい容姿に脳が蕩けるような甘い声。その上歌唱力もかなり高いとか……まあ、どこまで本当かわかりませんけど」

 

 

なるほど、と彩牙は思った。海未の語ったミナリンスキーは完全にことりと一致していた。

みんなに知られないように考えたのか、あるいは名付けられたのかはわからないが、なんともことりらしい愛称だと思った。

そして同時に、そこまで有名であるのにまだ自信を持ちきれないのだろうかと思った。

 

「しかしどうしてそんなことを?」

 

「ああ。今日秋葉原に出たら偶然耳にしてさ、何のことかなと思って」

 

「そうでしたか……」

 

ことりとの約束もあり、ことりがそのミナリンスキーであることは話さずに誤魔化した彩牙。海未は追及してこなかったが、その代わりというのか、彼女の表情には僅かに陰が差していた。

 

「どうしたんだ?」

 

「……ああ、いえ。ことりのことなのですが……」

 

海未の言葉に一瞬ドキリとした。

まさか上手く誤魔化しきれなかったのだろうか?ヒヤリとそう思っていると、彼女は続けて口を開いた。

そしてその危惧は杞憂であったと思い知った。

 

 

「最近、一緒にではなく練習も休んで一人で帰ることが多くて……勿論、ことりにだってプライバシーはありますし、何か用事があるのだってわかります。ですが……」

 

「心配、なのか?」

 

彩牙の問いかけに、こくりと頷いた。

 

「最近のことりには何というか……少し壁を作られているような感じがして……。何か思い詰めているんじゃないかと心配で……」

 

「……そうか」

 

海未の言葉は的を獲ていた。

彼女の懸念した通り、ことりは自分という人間に対して弱気というか、ことり曰く“何もないこと”に非常に思い詰めていたようだった。

メイド喫茶で隠れてバイトし、克服しようとするほどには。

 

ことりが不安を抱いていたことをガワだけとはいえ、言い当てた海未。

そんなにもことりのことを想い、心配している海未だからこそ、彩牙は聞きたいことがあった。

 

 

 

「海未はさ、南さんのことをどう思う?」

 

「ことりのこと……ですか?」

 

「ああ。頼りないとか……そう思ったことはあるか?」

 

ことりは自分のことを穂乃果や海未に比べて何もないと言っていた。

ならば逆に、海未はことりのことをどう思っているのか。言い方は悪かったが、海未の気持ちが知りたかったのだ。

その問いに一拍ほど考えるそぶりを見せたのち、少しむっとした表情で海未は答えた。

 

 

 

「いくら彩牙くんでも怒りますよ。むしろ私の方こそことりに頼ることが多いくらいです」

 

「そうなのか?」

 

「ええ。私、お恥ずかしいですが引っ込み思案というか人前に出るのが苦手なところがありまして、尻込みしてしまうことが多いんです。でもことりは怖気づくことなく、率先して前に出ることができるんですよ」

 

それは意外だと彩牙は思った。

ことりも言っていたように、海未はしっかりとした意志を持つ性格だったため、人前が苦手というイメージがなかったのだ。

 

「スクールアイドルだって最初は恥ずかしくて本当に嫌でした。でも穂乃果と、そしてことりが私を引っ張っていってくれたんです」

 

海未の脳裏に浮かぶのは穂乃果がスクールアイドルを始めようと言い出した、あの春。

あの時、ただ学校を守りたい一心でひたむきに努力する穂乃果と、そんな彼女に一番に協力し、自分も加わるように後押ししてくれたことり。

あの二人がいなければアイドルをすることがなく、こんなに充実した日々を送ることができなかった。それどころか人見知りを治せないまま過ごしていたことだろう。

 

「だからことりが頼りないなんて私は思いません。それどころか私以上にしっかりしているところだって多いんですよ?」

 

にっこりと、嘘偽りのない表情で語る海未。

その様子から、海未からのことりに対する信頼の高さが感じられた。

 

「……そうか。悪く言って、ごめん」

 

「いえ、わかっていただけたのならいいのです」

 

 

海未の話で彩牙は確信した。

ことりは何もできない人間などではない。それはこうして目の前にいる海未が証明してくれている。

あとはことり自身がそれに気づき、自分の持つ“強さ”を信じることが出来るか否か……それに掛かっていた。

 

 

――気づいてくれ、南さん。君を頼りにしている人は確かにいるんだ。

 

 

 

**

 

 

 

「店を畳め……? どういうことよ!」

 

――ここは秋葉原。その一角にある、とあるメイド喫茶。

カーテンの閉められた窓から漏れる微かな光だけが照らし、薄暗く他に誰もいない店内で二人の男女が言い争いをしていた。

女はこのメイド喫茶の店主。壮年一歩手前の容姿に、露出の非常に少なく、高級そうな生地を使用したメイド服を纏っていた。

対する男はメイドの喫茶が参入しているこのフロアのオーナー。派手な色合いのシャツを着た、軽薄な笑みを浮かべる壮年男性だった。

 

「どうしたも何もそのままの意味だよ。こんな店続けても金が飛んでいくだけだからやめろって言ってんだよ」

 

「それが理解できないのよ! ここまで英国侍女を忠実に再現した素晴らしい店をどうしてやめる必要があるのよ!」

 

女の反論を、煙草をふかしながら鬱陶しそうに聞く男。

すう、と煙草を深く吸うと女の顔に近づいて煙を撒き散らしながら口を開いた。

見下しているような、愚か者を見るような表情で。

 

「あのな、お前のそのこだわりとやらを追求した結果がどうだ? 英国貴族のマナーがどうだこうだで女の子どころか客にまで堅苦しさを強制してよ、客は来なくなるし、女の子も憔悴してどんどんやめていっただろうが」

 

「大体よぉ、店の内装まで馬鹿みたいに金使いやがって。英国貴族に古くから伝わるだか何だか知らないが、たかだか皿一枚にウン十万? こんなので店が続けられるわけないだろうが!」

 

「何を言ってるのよ! 私の店はそこらの萌えだか何だかの客に媚びたような偽物の店とは違う、英国侍女の本当の姿を再現した“本物の”メイド喫茶なのよ! 本当の姿を再現するには従業員だろうと客だろうとマナーには従ってもらうし、内装の一つ一つにも本物の家具を使うのは当然でしょ!」

 

男の言葉に反論をまくしたてる女性。

それに対する男の反応は冷ややかで、やれやれと呆れたように肩をすくめていた。

男からしてみれば、女の言うことはただ自分の願望を他者に押し付け、営業の何たるかも知らない愚か者の戯言にしか聞こえなかった。

 

「そんなんだから客にも女の子にも逃げられるんだよ。お前の言う“本物”なんて誰も求めちゃいないし、俺にとっちゃ……そうだな、ミナリンスキーちゃんの方がよっぽど本物のメイドに見えるぜ」

 

「……なんですって?」

 

ぴくりと、女の肩が震えだし、その表情は鬼のような形相に代わっていく。

ミナリンスキーの名は彼女も知っていた。数か月前突然現れて伝説のメイドと呼ばれる、彼女にとっての“偽物”の代表格。

“本物”たる自分がその“偽物”以下――

気づいた時には男の首元につかみかかり、湧き上がる激情に身を任せて締め上げていた。

 

「がはっ……!」

 

「私があの偽物以下だと! あんな小娘に私の店が劣るだと!? メイドのことを何も知らないくせに知ったような口をきくなぁ!!」

 

「こ……のっ……離せ!!」

 

ふりほどき、女を突き飛ばす。

突き飛ばされた女は壁際のサイドボートにぶつかってうずくまり、その拍子に掛けてあったイギリスから取り寄せたという年代物の皿が女の傍に落ちた。

 

「ったく、殺す気かよ……言っとくけどな、いくら反対したって無駄だぜ。ここはもうカラオケボックスに建て替えることが決まってるんだからな」

 

「……なんですって?」

 

「昔馴染みのよしみでスタッフに入れてやろうと思ったが……気が変わった。お前みたいな自分勝手なヒステリー女なんて知ったことか、そのへんでのたれ死んでしまえ」

 

くるりと、もう話すことはないと踵を返す男。

それを背にして蹲る女の表情は――自分への理不尽な仕打ちに対する怒り、“偽物”を祭り上げ、“本物”を認めようとしない世の中に対する憤り。

そして――自分の城を壊そうとする男と、偽物の分際で本物を脅かそうとするミナリンスキーに対する憎しみに満ちていた。

 

 

――ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!! どいつもこいつも私の“本物”を否定して!!

何が萌えだ!高尚なメイドをそんな低俗なもので穢して! そんなものを本物のメイドと認めてたまるか!

憎い憎い憎い!! この男もミナリンスキーも私以外の偽物メイド――

 

 

 

 

――す べ て が 憎 い !!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『そうだな、認めてはいけないなぁ』

 

「!?」

 

幻聴か。いや、そうではない。女にはその声がはっきり聞こえた。

視線を動かせば、そこにはついさっきサイドボードから落ちた皿が――行商人を名乗る男から買った、英国貴族の家に伝わっていた年代物“だと言われる”皿が怪しげな光を――

――いや、“闇”を纏っていた。

 

『お前は間違ってはいない、お前の求めるものは確かに“本物”だ。そんなお前が“偽物”以下などと認めていいはずがないよなぁ』

 

「あ、あなた……わかるのね? 私の求める“本物”の素晴らしさが!」

 

『ああわかるとも。お前の“本物”は素晴らしい。それが理解できない愚か者など……許していいのか?』

 

「……許せるものか……! 私を認めない者など、あってはいけないのよ!!」

 

『そうか……ならば私を――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『“闇”を受け入れよ!!』

 

一気に噴き出す闇。

闇に包まれ、闇と一体になっていく女。

背後で起きている異常事態に気づかないまま、男は扉を開ける。

 

 

「――へ?」

 

その瞬間、男の表情は驚愕に包まれ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁーっ!!」

 

 

 

 

――悲鳴が、誰もいないメイド喫茶に木霊した。

 

 

 

 

 

いや――一人だけいた。一体いつの間にいたのか、その悲鳴を聞いていた男がいた。

闇のような黒いフードを深く被り、表情を全く窺うことができない男は、ぽつりと呟いた。

 

 

「……これでまた一つ、“餌”が増えた」

 

 

 

 

**

 

 

 

「……」

 

一人。誰もいない教室で今までになく真剣な表情で机に向かうことり。

真っ白なノートを前に瞑想するかのように瞳を閉じ、息を深く吸い、意識を集中させる。

そしてカッと目を見開き、その口から紡がれたものは――!

 

 

 

「チョコレートパフェ、美味しい! 生地がパリパリのクレープ、食べたい……ハチワレの猫、可愛い……五本指ソックス、気持ちい……いぃぃ……」

 

……何とも形容し難い、呪文のような言葉の羅列だった。

その言葉を真剣な表情でノートに書き並べていったが、自分でもおかしいと気づいたのかすぐに涙目になり机に突っ伏したのだった。

 

「思いつかないよぉぉぉーーっ!!」

 

ぐすんと、自分のセンスの無さに涙ぐむことり。

そんな彼女を教室の外から穂乃果と海未が心配そうに見つめていた。

 

 

「思ったより苦戦しているようですね……」

 

「うん……」

 

「……やはり、今からでも代わってあげた方が……」

 

「駄目だよ! これはことりちゃんが一人でもしっかりできるってことを、私たちと何ら変わりないんだってことを知ってもらうためなんだから」

 

「……そうでしたね。ことり、頑張ってください」

 

 

ことりがしているのは怪しげな呪文の作成では断じてない。

――作詞である。

これまでは海未が担当していた作詞を、今はことり一人でしているのだ。

 

 

 

 

そもそもなぜことりが作詞をすることになったのか?

端的に言ってしまえば、メイド喫茶でバイトをしていることがμ’s全員にバレてしまったのだ。それも彩牙がメイド喫茶を訪れた翌日に。

 

何故バイトをしていたのか、そして何故隠していたのか。穂乃果たちが問い詰めると、ことりは彩牙に語ったことと同じことを――自分に自信が持てなかったことを打ち明かした。

勿論、穂乃果たちは即座にそのことを否定した。ことりは自分たちと何ら変わらない、ずっと同じ肩を並べて立っているのだと。

その言葉にことりは「ありがとう」と返したものの、その表情は晴れず、自信を持つには至れなかった。

 

そこで穂乃果たちはことりに自信を持ってもらうため、秋葉原での路上ライブで歌う曲の歌詞をことりに考えてもらおうと提案したのだ。今までになく楽しいライブになりそう、μ’sのステップアップになるのだと理由を添えて。

そうしてここ二、三日、授業や昼休みの間もずっと新曲の歌詞を作ろうと奮闘しているのだが――

 

 

 

「ほーしいならばくーれーてやーるぜ♪ ………うぅぅ、やっぱりこんなんじゃないよね……」

 

これである。

思いの外――いや、かなり悪戦苦闘していた。よもやここまで作詞のセンスがないとは流石に穂乃果も思ってもみなかった。

本音を言えば今すぐにでも手伝いに行ってあげたい。しかし下手な手助けをしようものなら、ことりは結局自分では何もできないと思い込んでしまうだろう。

それでは意味がないのだ。ことりが自信を持つことができなければ、何の意味もない。

だから穂乃果と海未はただ、彼女の姿を見守っていた。

 

 

そして一方、ことりも悩んでいた。

いい歌詞が思い浮かばない。フッと思い浮かんだフレーズを並べてみても脈絡のない文章ができるだけ。秋葉原らしい歌詞を作ってほしいと言われたが、本当に自分にできるのかと自信を無くしかけていた。

 

――やっぱり私なんかじゃ無理だよ……

 

そう思い、深くため息をつく。ふと時計を見るとバイトの時間が迫っていることに気づいた。

いけない、遅れちゃう――! そう思い、急いで机の上を片付けているとバッグの中から一枚の写真が顔を覗かせた。

それはあの日――μ’sの全てが始まったあのファーストライブの日、その時の衣装に包まれた穂乃果、海未、そしてことりが写っていた。ライブ前、三人とも緊張している様子はあるものの、曇りのない満面の笑みを浮かべていて、微笑ましい気持ちが込み上げる。

懐かしいと思うと同時に、ことりの中にある疑問が生まれた。

 

 

――私、どうして穂乃果ちゃんと海未ちゃんに並びたいって思ったんだっけ?

 

二人に置いていかれたくないという気持ちは確かにあった。だがそれだけではない。もっと大事な理由があったような気がする。

その疑問の答えを探すべく、記憶を思い起こしてみる。

何故並びたいと思ったのか?二人と一緒になれたと思った時――そう、例えばこの写真にあったあのファーストライブの日、三人で一緒に歌ったあの時、自分は何を思ったのか――

 

 

 

 

 

 

 

「……あ……!」

 

――そうか、そうだったんだ。

 

今気づいた。何故ことりは穂乃果と海未に並びたいと思ったのか、何がしたいのか。

そして――これからどうすればいいのか。

頭の中に覆っていたもやがある程度晴れ、立ち上がると教室の外でこちらを見つめていた穂乃果と海未の姿が目に移った。

ちょうどよかった――そう思い、二人の下に歩み寄るといつになく真剣な表情で口を開いた。

 

「ことりちゃん……?」

 

「あのね、穂乃果ちゃん、海未ちゃん。お願いしたいことがあるの!」

 

 

 

**

 

 

 

彩牙がことりの働くメイド喫茶を初めて訪れてから数日が経った。

彩牙はあれからもあのメイド喫茶を度々訪れていた。エレメント浄化の息抜きというのか、メイド喫茶の明るくも落ち着いた雰囲気がいつの間にか彩牙の癒しになっていたのだ。

 

そして店を訪れるようになってから、ことりとも話すようになっていた。

はじめの頃はどこか彩牙におどおどしていたことりだったが、何度か話しているうちにほんの少しではあるが平静を保ったまま話せるようになっていった。

ことりが特に声色を弾ませたのは、穂乃果と海未についての話題だった。二人のことを嬉しそうに、そして誇らしげに語るその姿から、負い目こそは感じているものの心の底から二人のことが大好きなのだと彩牙は実感した。

 

 

 

そうしたある日のこと。

その日も彩牙は件のメイド喫茶を訪れていた。

「いらっしゃいませ、ご主人様……」恥ずかしそうに小さな声で出迎えたそのメイドは彩牙の姿を見るや否や、時間が止まったかのようにピタリと止まり、やがてやかんが沸騰するかのようにみるみるうちに顔を赤く染めていった。

 

対する彩牙もこの光景に既視感を抱きながら、目の前のメイドに驚いていた。

そのメイドはよく知る顔だった。いや、よく知るどころではない。なにせ彩牙は毎日彼女の顔を同じ屋根の下で見ているのだから。

そう、そのメイドは――

 

 

「……海未……?」

 

「あ あわわ あわわわわわわわわわわわ」

 

「あ、彩牙くんだ! いらっしゃいませぇっ!」

 

 

海未だった。

その後ろでは同じメイド服を着た穂乃果が元気一杯に挨拶していた。元気ではあるが、どちらかというとメイドというより大衆食堂の店員のような雰囲気だったが。

そして海未はといえば、まるで茹蛸のように真っ赤になり視点が定まらず、あぅあぅと呂律が回らない状態に陥っていた。俗に言うパニックである。

 

「なななななな、何で彩牙くんがここにいるのですかぁっ!?」

 

「それはこっちの台詞だよ」

 

「あ、彩牙くんはここ最近よく来てくれるんだよ。言ってなかったっけ?」

 

「一言も聞いてませんっ!!」

 

もう無理です!皿洗いしてますっ!

そう言い残して海未は厨房に驚くべき素早さで一目散に逃げこんでしまった。ポツンと一人、彩牙はその場に取り残された。

 

「もうっ! しょうがないなぁ海未ちゃんは」

 

「ははは……それで、どうして高坂さんたちが?」

 

「私がお願いしたの」

 

「南さんが?」

 

「うん。……あ、席に案内するね」

 

席に案内されたのち、彩牙は穂乃果とことりからことのあらましを聞いた。

秋葉原で路上ライブをすることになったこと。その新曲の歌詞をことりが作ることになり、非常に苦戦していたこと。そして作詞の手掛かりを見つけるため、穂乃果と海未がことりのバイトの手伝いをすることになったこと。

話し終えたのち、穂乃果は海未を連れ戻してくると言い厨房に戻り、席には彩牙とことりが残された。

 

「そうか、ここのところ上の空だったのはそれが理由か……」

 

「うっ……そ、そんなに顔に出てた?」

 

「ああ。……でも、今はそうでもないかな。何か掴みかけているんだろ?」

 

確かにここ最近、ことりは仕事中でも何か考え込むそぶりを見せ、上の空になりがちだった。そしてその表情も、隠そうとしていたがやや影が差していた。

だが今は違った。影自体はまだ残っているが、パズルのピースを見つけたかのように明るい表情が大部分を占めていた。

 

 

「……うん! もうちょっとで見つかりそうなの、どんなことを歌詞にすればいいのか!」

 

 

 

――チリンチリン

晴れ渡ったような笑顔でそういった時、来客を告げる鐘の音が鳴った。

それを聞いた直後、ことりは伝説のメイド・ミナリンスキーとして来店の出迎えに向かった。

 

 

「お帰りなさいませ、ご主人様♪ ……あ、みんな!」

 

「こんにちは、穂乃果さんと海未さんがいるっていうから来ちゃった。……それで二人は?」

 

入ってきたのは金髪の少女を筆頭にした、海未と同じ音ノ木坂の制服に身を包んだ6人の少女たち――μ’sの残りのメンバーだった。

金髪の少女――絵里がきょろきょろと辺りを見回すが、彼女の目当てである穂乃果と海未の姿は見つからない。その理由に応えるべく、少し困ったような表情でことりが口を開いた。

 

「それが海未ちゃん、恥ずかしくって厨房に逃げちゃって……穂乃果ちゃんが今連れ戻しに行ってるんだけど……」

 

「惜しいなぁ。穂乃果ちゃんと海未ちゃんのメイド姿、是非ともカメラに収めやかったけど」

 

そう答えたのは悪戯そうな笑みを浮かべつつも、ふんわりとした雰囲気の少女――希。

そう、以前彩牙が神田明神で出会ったあの少女である。

彼女の姿を見た瞬間、思わぬ再会に彩牙は思わず立ち上がった。希も気づいたのか、驚いたような表情を彩牙に向けた。

 

 

「「君は!?」」

 

「わぁ、ハモッたニャ!」

 

「え、え? 希先輩と彩牙くん、知り合いなの?」

 

 

きょろきょろと、二人の間で視線をせわしなく泳がせることり。

まさか既に知り合いだったとは思わなかったのだろう。知り合いといっても、互いの名前も知らない間柄ではあるが。

 

「うん、前に珍しい狸さん見た時に一緒になってな」

 

「ああ。まさか南さんの友達だったなんて驚いたよ」

 

「それで、あなたは……?」

 

 

 

 

 

 

 

「おーい! 海未ちゃん引っ張ってきたよーっ!」

 

「離してください! メイドとはつまり給仕なのですから皿洗いをするのです!ホールに出る必要はないでしょう」

 

 

絵里がちょうど尋ねた時だった。

無理です!恥ずかしいです!と真っ赤にして泣き喚く海未を、文字通り引っ張って穂乃果が戻ってきたのだ。

彩牙達全員の視線がそちらに向かい、穂乃果もμ’sメンバーが視界に入ると「お!」と声を弾ませた。

 

「みんな来てくれたんだ! ありがとう!」

 

「ねえ穂乃果先輩、この人知り合いなの?」

 

ショートカットの少女――凛が彩牙に視線を向ける。

その問いに、あ!といったような表情をすると、穂乃果は彩牙の肩に手を置いた。

彩牙のことを話したことはあったが、実際に会わせたことはなかったのだ。

 

「そういえばみんなは会うの初めてだったね。この人が彩牙くん、海未ちゃんの家で暮らしてるんだよ!」

 

「ええと……村雨彩牙だ。海未にはいつもお世話になっているよ」

 

スッと、頭を下げてお辞儀をする彩牙。それに対するμ’sメンバーの反応は様々だった。

興味津々に見つめる者、少し縮こまる者、興味なさげな者、訝しげに睨む者と十人十色の反応だった。

その中で真っ先に前に出て、手を差し出した人物がいた。

――東條希だった。

 

「そっか、君が噂の彩牙くんやったんやね。ウチ、東條希。海未ちゃんのよしみでこれからもよろしくな♪」

 

「……ああ。よろしく、東條さん」

 

差し出された握手の手をしっかりと握り返す。

希はニコニコと優しい笑みを浮かべ、彩牙を見つめていた。

そんな彼女に続くように、絵里と凛、そしてつられるように花陽が彩牙の前に出て来た。

 

「海未さんから話は聞いてたわ、私は絢瀬絵里。よろしくね、彩牙さん」

 

「凛は星空凛だよ! 彩牙さんって、毎日早起きして海未先輩と稽古してるんだっけ?凛には無理だニャー……」

 

「あの……小泉花陽といいます……よ、よろしくお願いしますっ!」

 

「よろしく、絢瀬さん、星空さん、小泉さん」

 

最年長らしく余裕のある態度の絵里、元気いっぱいの凛、おどおどした様子の花陽と、三者三様の様子で彩牙と挨拶を交わす。

そして彼女たちの後ろで興味なさげに髪をくるくると弄る赤毛の少女――真姫に視線を向けるとこちらに気づいたのか、視線を僅かにそらしながら呟くように応えた。

 

「……西木野真姫よ。よろしく」

 

「あーっ!真姫ちゃんそんなツンケンしちゃだめだよ!」

 

「うえっ!? ちょ、別にそんなわけじゃないわよ!」

 

凛に押し寄られ、焦ったように弁明する真姫。そんな彼女の様子に、気難しいというか素直な気持ちを出すのが苦手な子なんだなと彩牙は思った。

そして最後に残ったツインテールの少女――にこは彩牙を睨むようにじっと見つめた後、一度振り返って向こうを向いた。

そして彩牙に振り向き直ると――

 

 

 

 

「にっこにっこにー♡ あなたのハートににこにこにー、笑顔届ける矢澤にこニコー☆ にこはー、μ’sの皆もだけどー、アイドルだから恋愛ごとはご法度なのー♪ つまりー、何が言いたいかっていうとー、家族公認だか何だかどうか知らないけど海未と一緒に暮らしてるっていうんなら付き合ってるなんて誤解されないように気を付けるのよ、わかったわね!」

 

愛嬌に満ちた表情と言葉づかいから一転、厳しい表情で睨みつけるように早口で捲し立てるにこに思わず気圧される彩牙。

にこの抱くアイドルへの熱意――プロ意識とも言えるそれにただ圧倒され、まるで強力なホラーと対峙したかのようなプレッシャーを感じた。

 

 

「にこ先輩また言ってるニャ」

 

「何よ! アイドルは清純なイメージが大事なんだから、周囲の人間もそれに気を使うのは当然でしょ!」

 

「だからって初対面の人にそれを言うのもどうなのよ」

 

ワイワイと彩牙を尻目にして騒ぎ出す凛、にこ、真姫。そしてそれを心配そうに見つめる花陽と、一歩引いて見守る絵里と希。

μ’sは皆性格がバラバラで、一見纏まりのないグループに見える。だがしかし、不思議と彼女たちに関してはこれが一番良い関係のように見えると彩牙は思った。

海未が早朝と晩に稽古の時間を作ってまでμ’sの活動に取り組む理由が、少しわかった気がした。

そう思っていると、今まで彩牙達を見守っていた穂乃果とことりが、彩牙の隣にやってきた。

 

「ね、彩牙くん。μ’sの皆のこと、どう思った?」

 

「そうだな……みんないい人で、何より楽しそうだなって思ったよ。海未が夢中になるのもわかる気がする」

 

「あ。そうそう海未ちゃんといえば……」

 

思い出したように、パタパタと海未に歩み寄ることり。

メイド服を着た自分を晒すのがよっぽど恥ずかしいのか、海未は顔を真っ赤にしながら小動物のように震えて縮こまっていた。

ことりはそんな海未を引っ張ると彩牙の目の前に連れ出した。ひゃあっと、海未の小さな悲鳴が上がった。

 

「彩牙くん、海未ちゃんのことどう? 可愛いでしょ?」

 

「さ、彩牙くん……見ないでください……」

 

もじもじと、恥ずかしそうに縮こまる海未と、それを見つめる彩牙。

気が付けばμ’sメンバーも先程までの喧噪をピタリと止め、二人のことを――彩牙の反応をじいっと見つめていた。

 

彩牙は海未を見つめる。

普段は道着に身を包み、凛々しい顔つきで竹刀を振る彼女が今、フリルの付いた可愛らしいメイド服に身を包み、恥ずかしそうに顔を赤らめ、縮こまっている。

普段の海未とは違う魅力を引き出しているようなギャップに気づいた彩牙は――

 

 

「……に、似合ってるよ。海未……」

 

「う、うぅぅぅぅ……」

 

まるで思春期真っ盛りの少年のような反応しかできなかった。

対する海未も恥ずかしさで更に赤くなり、まるで恋愛に奥手な少年少女の構図ができあがっていた。

ニヤニヤとするような笑顔を浮かべ、二人を微笑ましく見つめる穂乃果やことりたち。

そして――

 

「……なにこれ」

 

目の前の青春漫画のような構図に戸惑う――いや、若干呆れたようなにこの呟きが響き渡ったのだった。

 

 

 

 

 

 

「ふぅ……」

 

色々一悶着あったがどうにか落ち着き、彩牙は今ゆったりと紅茶を飲み、リラックスしていた。店内を見回せば他の客に交じってμ’sメンバーが思い思いに過ごしている。

メイド姿の穂乃果や海未と会話する絵里と希。我関せずというように紅茶を飲むが、一人でいることは許さんと言わんばかりに凛と花陽に押し寄せられる真姫。何故かサングラスとマスクを装備しているにこと、様々だった。

 

 

「はい、お待たせしました。彩牙くん」

 

「っと。ありがとう、南さん」

 

そこに、頼んでいたケーキを携えたことりがやってきた。

カチャリとテーブルに置くと、ことりはこの店を、訪れる人々を、一緒に働いているメイドを、そして穂乃果たちμ’sをじいっ見つめる。

その表情はとても優しく、楽しそうで――そして、非常に充実している人間のそれだった。

その様子を見ていた彩牙が、思わずつられて顔を綻ばせるほどには。

 

「楽しそうだな」

 

「えっ? そ、そう……かな?」

 

「ああ。前から思っていたけど、ここで働いている時の南さんはいつも以上に輝いている気がするからさ。……好きなんだろ?この場所が」

 

 

彩牙がそう言うと、ことりは一瞬呆気にとられたような表情を見せ、またすぐに優しげな表情を見せた。

そしてゆっくりと、ともすれば自分に言い聞かせているかのように口を開いた。

 

「……うん、そうなの。ここにいると違った自分に……新しい自分になれてるような気がするの。どんなに変わろうと……変わったとしても全て受け入れてくれるような気がする……楽しいって気持ちにさせてくれる」

 

 

 

 

「だから私、ここが好き。この店の人や、街の人たち。穂乃果ちゃんや海未ちゃん、μ’sの皆も、みんなみんな大好き!」

 

 

だからこんなに楽しいのかも。はにかんだようにそう答えたことりに、彩牙は微笑ましいと思った。

そしてそれと同時に、ある疑問を抱いた。

 

「……南さん、本当に作詞に手こずっていたのか?」

 

「え? う、うん……そうだけど?」

 

不思議そうに答えることりに、彩牙は得心を抱いた。

ことりはやはり気づいていなかったのだ。自分は何もない人間ではないことを。答えは最初から自らの内にあったことを。

 

「簡単なことだよ。南さんが言ったその気持ちを、そのまま歌にすればいいだけなんだ。歌ってのは自分の気持ちを相手に伝えるものなんだろ?」

 

「……!」

 

その言葉にことりはハッとして、同時に自分の中に欠けていたピースを見つけた。

穂乃果と海未に並びたいと思った理由――それは一緒に居ると楽しいと思ったから。そしてその思いを強くしてくれる、楽しくなるために変わろうとする自分を受け入れ、支えてくれるこの場所が、人が、μ’sの皆が大好きだから。

そのことに気づいた時、今まで全く思い浮かばなかった歌詞が――自分の思いが、自然と心の中に浮かんできた。

 

 

「……気づいたかな?」

 

「……うん! 彩牙くんや穂乃果ちゃんの言ったとおりだった。私には何もないなんてこと、なかった」

 

 

 

 

 

 

「この胸には、私だけの思いが……みんなが好き、みんなと楽しくなりたいってことを伝えられるものが、確かにあったんだ!」

 

 

――ありがとう!

そう告げて、ことりは穂乃果の――μ’sのもとへとパタパタと駆けて行った。その表情に一点の曇りもない笑顔を浮かべながら。

その姿を見て、もう大丈夫だと彩牙は思った。あとはことりが、μ’sの仲間と力を合わせて乗り越えていけると。

 

そんな確信にも近い思いを抱き、ケーキに舌鼓を打っていると――近くの席から女子高生たちの話し声が彩牙の耳に入った。

ただの会話なら気にも留めなかっただろう。だがしかし、その会話は違った。

 

 

「ねえ聞いた? “紅の館”のNo.1メイドのサクヤさん、あの人行方不明になったんだって!」

 

「聞いた聞いた! それらしい前兆とか全くなかったんだよね! 仕事中、神隠しにあったみたいにフッといなくなったって!」

 

「怖いよねー、ここのミナリンスキーちゃんもそんなことなきゃいいけど」

 

 

 

普通ならば何か言うにやまれぬ事情があったのか、人間同士のトラブルに巻き込まれた等と思ったことだろう。

だが彩牙はある懸念を抱いた。……もしや、ホラーが関わっているのではないかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「正解じゃ。ホラーの仕業じゃよ」

 

「っ!? なっ……お、オルトス様!?」

 

いつからそこにいたというのか。

彩牙の向かいの椅子には、番犬所の神官――オルトスがカジュアルな服に身を包んでさも居て当然と言わんばかりにジュースを飲んでいた。

周囲を見回すと、ことりたちやほかの客、店員はオルトスに気づいていないようだった。彩牙は周囲に悟られないように、できる限り小声でオルトスに問い詰めた。

 

「な、何故神官であるあなたがここに!?」

 

「ほほ、儂だって引きこもってるだけでは退屈じゃからの。ちょっとしたショッピングじゃよ」

 

『こいつは神官の中でも変わり種でな、こうしてたまに番犬所を抜け出しては街中をぶらついてるのさ』

 

「そういうことじゃ。あんなところに引きこもってたら退屈で死んでしまうわ」

 

番犬所の主であるあなたがそれを言うのか。

呆れたような表情で彩牙はそう思ったが、すぐに気持ちを切り替えた。今オルトスは何を言ったのか、そのことを考えると気を引き締めずにはいられなかった。

 

「ホラー、ですか」

 

「ああ、さっきの話に出てたメイドをはじめ、既に何人か喰われてるようじゃよ」

 

酷い話じゃのう――ケタケタと愉快そうに語るオルトスが取り出したのは赤い封筒――指令書。

オルトスのその表情に訝しげな視線を向けながら指令書を手に取り、睨むようにそれを見つめると次の瞬間、オルトスの姿は目の前から消え失せていた。

まるで最初から誰もいなかったかのように。

 

――しっかり使命を果たすのじゃよー、黄金騎士ガロー。

 

「……一方的だな」

 

『そういう奴だ。付き合い方はしっかり考えておけよ』

 

一歩的に指令を出されたものの、彩牙にはそれを断るつもりは毛頭なかった。

ホラーが現れたと言うのなら、それを斬るのが自分の使命なのだから。

そう思い、“妙な厚みのある”指令書の中身を確認すべくトイレに立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大勢の客と店員の中、そんな彩牙の様子を一人だけ認識していた人物がいた。

彩牙の前に当然現れ、ふと視界が遮られた直後に消えていたオルトスを、“彼女”は見ていた。先程話した時とは一変して、まるで射殺さんとばかりに鋭い眼光を覗かせる彩牙に、唖然としていた。

 

 

 

――彩牙くん……キミっていったい……?

 

 

“彼女”――希は、新しい友人である彩牙が覗かせた一面に、ただただ困惑の表情を浮かべていた。

 

 

 

**

 

 

 

「それじゃあミナリンスキーちゃん、それ片づけたらもう上がっていいわよ」

 

「はーい!」

 

あれから数日経ち、バイトで日が暮れ始めたころ。

店長にそう言われ、「うんしょ」と、空のダンボール箱を両手で抱えることり。倉庫にあるダンボール置き場に折りたたんで置くと、ふぅ……と可愛らしい声と共に僅かに垂れた汗を拭った。

 

今、ことりの心はいつも以上に晴れ渡っていた。

あれほど難航していた歌詞作りはあの日、彩牙や穂乃果の言葉を受けてあっという間にできた。頭でっかちで考えていた思いつきの言葉ではない、心から伝えたいと思った、自分の素直な気持ちを込めた言葉がこめられた歌詞が。

そうして路上ライブの場所を押さえ、曲が、衣装がドンドンと出来上がり、練習を重ね――今、ライブを明後日に控えていた。

 

そして今日もライブの宣伝を兼ねてメイド喫茶のバイトに勤しんでいた。ここ数日は穂乃果も海未も一緒だったが、今日は生憎と二人とも家の都合で来ることができなかった。

しかしことりには不安は微塵もなかった。そう思ったりする以上に、明後日のライブが楽しみで仕方がなかったのだ。

早くみんなと歌いたい――ことりの胸はそんな気持ちでいっぱいだった。

 

 

「早くみんなと歌って……沢山の人にこの気持ちを届けたいなぁ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ミナリンスキーさんね?」

 

「――えっ?」

 

突然後ろからかけられた、聞き覚えのない声。

振り返るとそこにはここのメイド喫茶のものではない、見知らぬメイド服を身に纏った壮年の女性が立っていた。

灯りを背に逆光になっているせいか、妙に顔色が悪く見える――そう思った。

 

「あの、あなたは……?」

 

「ミナリンスキー……本名、南ことり、9月12日生まれ。音ノ木坂学園に通う2年生、母は同学園の理事長。スクールアイドル・μ’sとして活動、衣装担当をしており、メンバーの高坂穂乃果と園田海未とは幼馴染。子供の頃の夢は幼稚園の先生……」

 

 

「な……なに言ってるんですか……!?」

 

――怖い。それがことりが抱いた気持ちだった。

この女性はなんなのだろうか、本名どころか誕生日や昔の夢まで知ってるなど、どう考えても普通ではない。悪質な熱狂的ファンか――それはそれで非常に恐ろしいが、この女性はどうも違うように感じた。

ブツブツと呟き続けるその表情には、吉色や興奮だとか――そういう感情がない。代わりにあるのは虚無と言えばいいのか、ただ冷たいとしか感じられなかった。

 

 

「……メイドを始めた理由は衣装が可愛い、自分を変えたい。伝説のメイドと呼ばれる身でありながら、メイドに専念する気はなく、あくまでスクールアイドルがメイン…………

 

 

 

 ……ふ ざ け る な っ !!」

 

「ひっ!?」

 

突如、それまで無表情だったものから一変、まるで般若を思わせるような憤怒に満ちた表情に変貌した。

一方的な、理不尽とも言える怒りをぶつけられ、ことりはただ震えることしかできなかった。

 

 

「メイドに専念していないばかりか、よりにもよってあのアマチュアもいいとこのスクールアイドル!? こんな偽物以前のゴミが伝説なんて、メイドを見る目も落ちたものね!」

 

「わ、わた……し……ゴミなんか じゃ……」

 

震えて言葉が出ない。

女の悪意に晒されることりは、蛇に睨まれた蛙のような恐怖を味わっていた。――では、蛇に睨まれた蛙はその後どうなるのか?

その答えは一つだけだった。

 

 

 

 

 

「もういいわ。あなたも紅茶にしようと思ったけどもういらない。軽々しくメイドの世界に踏み込んだことを悔やませながら喰ってあげるわ」

 

「な、なに言って……!?」

 

その直後、ことりは己の目を疑った。

女がメイド服をはためかせると、窓のない屋内だというのに風が吹き荒れた。あまりの暴風に髪を押さえ、目が開けられなかった。

風が止み、目を開けると周囲の光景は一変していた。倉庫であったはずのその場所は、まるで英国貴族の屋敷を彷彿とさせるような豪華絢爛な部屋へと変貌していたのだ。

そしてことりは、大きなテーブルの前にかけられた椅子に座らされていた。

 

「な、なにこ……っ!? う、動けない!?」

 

立ち上がろうとしても、まるで金縛りにでもあったかのように指一本動かせなかった。

辛うじて動かせるのは口と視線だけ。瞼を閉じることもできなかった。

せめて瞼を閉じられたらどれだけ幸せか――この直後、ことりはそう思うことになる。

 

目の前では女が陶器製の華美な装飾の施されたポットから、ティーカップに紅茶を注いでいた。その動きは優雅で一分の隙も見当たらない、見る者を魅了させるようなものだった。

しかしことりが目を奪われたのは女の動きではない、女が注いでいる“紅茶”だった。

 

それは紅茶と呼ぶにはあまりにも赤すぎた。まるで血と見間違うかのごとく。

その紅茶からは“声”が漏れていた。女の人の、助けを、命乞いを求める声が。

「助けて」「食べないで」「パパ」「お母さん」「なんで私が」「嫌だ」――「死にたくない」

ことりは目を、耳を塞ぎたくて仕方がなかった。

 

――嫌! やめて! 聞かせないで! その“人”たちをどうするの!?

 

やがて紅茶を注ぎ終えると、女はそのティーカップを口元に近づけ、香りを楽しむ。紅茶からの悲鳴が一層大きくなる。何が起きるのか、ことりにももうわかってしまった。

 

「やめ……!」

 

止めようとしても時すでに遅し。

女はティーカップを口につけると紅茶――人間を、ごくりと一気に飲み込んでしまった。断末魔の悲鳴と共に。

目の前で人が死んだ――その事実に、ことりは深い悲しみと――次は自分の番だという恐怖に包まれた。

 

自分を包み込む冷たい恐怖。その感覚に、ことりは思い出した。数日前に味わったものと、全く同じ恐怖であることを。

目の前の女が人を喰らう魔獣ホラーであることを――嫌が応にも理解した。理解してしまった。

 

「さて、お次は……」

 

ナプキンで口元を拭い、捕食者としての視線をことりに向ける女。

コツ、コツと、ゆっくりと歩み寄ってくる女を前に、逃げようとことりはもがく。

しかし動けない。ことりの身体は、椅子に座られた状態から僅かにも動くことができなかった。

 

「やだっ、やだぁっ! 穂乃果ちゃん!海未ちゃん! 助けっ、助けてぇっ!」

 

「無駄よ。この結界には誰も入ることができないし、誰も見つけることができない。あなたはもう、籠の中の小鳥よ」

 

もがけどもがけど、身体はピクリとも動かない。

そうしているうちに女はことりの目前にまで迫っていた。

濁った瞳が、涙に濡れ恐怖に染まったことりの顔をじいっと覗きこむ。

 

「あなたみたいなゴミは……そうね、ミンチにしてからミートボールにしちゃいましょうか」

 

「ひっ……!」

 

スウッっと、女の手がことりに伸びる。

指を動かすことも身をよじることもできないことりは、その死をもたらす手に怯え、叫ぶことしかできなかった。

 

「やだ……やだ……! 誰か……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――誰 か 助 け て ぇ っ !!」

 

 

 

――その瞬間

 

 

「なにっ!?」

 

ガラスの割れる音と共に、一振りの“剣”がことりと女の間を斬り裂くかのように舞い降り、突き刺さった。

それに続くように舞い降りてきたのは、ことりの視界一面を覆い尽くさんばかりの、“白”。

“白”は突き刺さった剣を抜くと流れるような動きで女を斬り裂き、ことりから引き離す。それと同時に、ことりは金縛りから解放された。

 

そうしてことりは“白”の正体を知る。

“白”はボロボロの白いコートだった。風にたなびくそれは、ことりには天使の翼のように見えた。

そのコートを身に纏い、ことりを庇うように立ち、女を睨みつけるのは一人の騎士――

 

 

「――彩牙くんっ!」

 

「無事か、南さん!」

 

『ようやく見つけたぜ。随分と追いかけ回らせてくれたもんだ』

 

 

――魔戒騎士・村雨彩牙が立っていた。

下がっていろ――手を振ってそうジェスチャーするとそれを読み取ったことりは一歩二歩と下がっていった。

そして女は獣のような形相で彩牙を睨み、それに見合う獣のような声で口を開いた。

 

「魔戒騎士か! 何故法師でもないお前に私の結界が……!」

 

「残念だったな。こっちにはお優しい上司からのお恵みがあったんだよ」

 

そう言って彩牙が取り出したのは、魔界文字が刻まれた赤い札――魔戒符。オルトスから渡された指令書に同封されていたものだ。

それにより、彩牙はこのホラーが張った結界に侵入することができた。

 

『それに俺様もいる。もうちょっと結界の気配を隠す努力をするべきだったな』

 

「貴様らのような本物気取りの偽物が私に指図するのか!」

 

ザルバの言葉に舐められたと受け取ったのだろう。激昂した女が手をかざすとどこからともなく現れたモップや包丁、ポットなどのメイドが使うような家事道具が怪しげな光を纏って無数に浮かび上がり、それらを彩牙めがけて一斉に射ち出した。

迫る家事道具に怯え、驚き、思わず頭を抱えてしゃがみ込むことりを傍目に、彼女の前に立つ彩牙は魔戒剣でそれらをすべて叩き斬っていく。

 

『おいおい、メイドが物を粗末に扱っていいのかよ』

 

やがて射ち出す家事道具が切れたのか、新たな家事道具を呼び出す女。

その隙を彩牙は見逃さず、一気に距離を詰める。女は辛うじて呼び出した包丁を射ち出すが、彩牙はそれを弾き返し、弾き返った包丁が女の肩に刺さると同時に魔戒剣が女の身体を斬り裂いた。

 

「――ちっ!」

 

斬られた傷を押さえ、忌々しそうに舌打ちをした女ははハタキを取り出し、振るった。

するとハタキから夥しい量の煙が噴き出し、辺り一面を真っ白に染め上げる。ことりが咳き込む中、彩牙は――

 

『小僧!』

 

「ああ!」

 

狼狽えることなく、懐から取り出した青い札を煙の中に放った。そして警戒を解かぬまま、身構える。

やがて煙が晴れると、そこは英国貴族の部屋のような結界ではない、ことりの働くメイド喫茶の倉庫の中だった。

戻ってこれた、助かった――その事実に安堵したことりは腰が抜けたようにその場にへたりこんだ。

 

死に直面した恐怖から脱した安堵――それが込められたことりの吐息がその場に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

「はい、南さん」

 

「うん。ありがとう……」

 

メイド喫茶からの帰り道。

ホラーに狙われたことりを守るべく、彩牙が付き添って歩いていた。

道中、自販機で買った飲み物をことりに手渡す。自分の分のお茶に口をつけながら、彩牙は隣のことりの表情を覗き込んだ。

 

その表情は暗く、恐怖に沈んでいた。ライブに向けて楽しそうに、充実していたときの笑顔が微塵も感じられないほどに。

しかし無理もないだろう。ホラーに名指しで狙われ、喰われる寸前までいったのだ。気丈にいろと言うのが無理な話だ。

だがことりの表情に込められた気持ちはそれだけではないと彩牙は感じた。何か辛いことを……そうすることにぐっと耐えるような。

まさかと思い、彩牙は声をかけた。

 

 

「……まさかとは思うが、明後日のライブ中止にしようとか考えてないか?」

 

その言葉にことりは一瞬、驚いたように目を見開いた。

そして自嘲するような表情を浮かべ、口を開いた。

 

「しょうがないよ……だって、私がいたらあのホラーにみんなを巻き込んじゃうもん。私のせいで穂乃果ちゃんが、みんなが酷い目に合うくらいならライブなんてしない方がましだもん……」

 

「……それでいいのか? あんなに楽しみしてたじゃないか」

 

「……」

 

沈痛な表情を浮かべたまま、黙り込むことり。

自分が我慢すればみんなを危険に巻き込まずに済む――そう無理をしているのは明らかだった。

――妥協。自分の気持ちに気づかないのではなく、自分の気持ちに嘘をついている。

だからこそ、彩牙は――

 

 

 

 

 

「……そうか。南さんの思いというのはその程度だったんだな」

 

「っ!」

 

敢えて厳しい言葉を選んだ。

 

 

「結局、南さんが伝えたい想いっていうのはホラーに脅かされたくらいで諦める程度のものだったのか。その程度でよくライブをしようなんて気になったもんだ、だったら最初からライブなんて――」

「…………しだって……」

 

 

 

 

 

「私だって、本当はライブがしたい!!」

 

 

彩牙の言葉を遮るように、ことりの叫びが辺りを包む。

その瞳には涙を浮かべていたが、同時に憤りを籠めた目をしていた。

彩牙の言葉と、それ以上に弱気になった己の心に向けて。

 

「本当は歌いたい! この胸に秘めた思いを、気持ちをみんなに伝えたい、みんなと歌いたい!みんなのおかげで作れた曲だって、みんなのことが大好きだって! それは誰にだって負けない気持ちだもん!」

 

「でも、だからってそれでみんなが傷つくのは嫌、みんなが私のいざこざに巻き込まれるのは嫌! みんなが大好きだから、だから……!」

 

 

 

 

 

 

 

「――なら、やればいいじゃないか。ライブを」

 

「――え?」

 

ことりの想い、嘘偽りのない本音。本当にやりたいこと。

彩牙は、それが聞きたかった。

 

「そこまでやりたいと思っているのにやらない理由がどこにある? 南さんは自分の大好きだという気持ちを伝えたいからライブをする。何もおかしいことはないだろ?」

 

「で、でも……ライブをしたらまたあのホラーが……今度はみんなも……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――大丈夫、奴は俺が斬る」

 

想いを歌にして伝え、人々を笑顔にするのはアイドルの使命。

そしてホラーを斬るのは、魔戒騎士の使命。

 

 

「奴には二度と君の前には立たせない。決して君たちを傷つかせない。君たちのライブは、何が何でも俺が守る。だから、南さんは自分のしたいことを思う存分にやればいい」

 

 

ことりは言った。ライブをしたい、想いを伝えたい。

ならばそれを脅かさんとする魔獣を斬るのは、魔戒騎士たる自分の役目。

それが、彼女たちのように人々の心を突き動かす手段を持たない自分ができる、唯一のことだった。

 

「でも……」

 

どこか躊躇するように呟くことりの震える両肩をしっかりと掴み、彼女の瞳をまっすぐ見据え、彩牙は言った。

 

 

 

 

 

「――俺を信じてくれ」

 

 

 

 

**

 

 

 

 

「――いよいよだね、ことりちゃん」

 

「……うん」

 

 

秋葉原での路上ライブ当日。

ライブ会場となったことりの働くメイド喫茶近くの通りに、ライブ衣装――メイド服のそれに身を包んだ9人の少女――μ’sの姿があった。

夕暮れの優しい光が辺りを包み、横一列に並んだその中央――センターに位置することりは瞳を閉じ、想いを馳せる。

 

思えば、メイドを始めたのは自分に嫌悪感を持っていたからだ。幼馴染の二人がいなければ何もできない自分が嫌で、変えたいと思ったから。

でもそうじゃなかった。穂乃果が、海未が、μ’sのみんなが、彼が教えてくれた。自分は何もない、何もできない人間ではないと。そしてそんな自分を、変わろうともがいていた自分を笑うことなく受け止め、見守り、支えてくれたこの街が、人々が、途轍もなく愛おしく思った。

 

きっと今、この瞬間、あのホラーが自分と仲間たちを喰らわんと息を潜めてこちらを窺っていることだろう。だがことりは少しの不安も恐れも抱いていなかった。

そのホラーと同時に、あの騎士が自分たちを見守ってくれているからだ。自分たちのライブを、あのホラーから守ってくれる。

そんな確信があったから、ことりの心に迷いはなかった。彼女の心にはこの夕暮れのように優しく、暖かな光が広がっていた。

 

だから――ことりは歌う。

 

 

――Wonder Zone、君に呼ばれたよ、走ってきたよ

――きっと、不思議な……夢がはじまる……

 

 

曲名は『Wonder Zone』

変わろうとする姿を受け入れ、見守ってくれるこの街と人々に向けた、大好きだという気持ちを歌った、ことりの、みんなの歌――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ミナリンスキーめ……あんな真似をして、メイドの面汚しめ……!」

 

――そして、路地裏から忌々しそうに見つめる一つの影。

メイド服に身を包んだ、壮年の女性。ことりを襲ったあのホラーだった。

ミナリンスキーも、メイドを汚すあの仲間も喰ってやる――そんな思いと共に踏み出したとき、女の前に一つの影が現れた。

 

 

「行かせないぞ」

 

『前も思ったが、夕方だってのに随分と早起きなホラーだ』

 

――彩牙だった。

 

「また貴様か魔戒騎士! あれから何度も先回りしおって!おかげであれから私は一人も喰えなかったんだぞ!」

 

「それはよかった。この札のおかげでお前の行動は丸分かりだったからな」

 

そう言って彩牙が取り出したのは女に張り付いたものと同じ青い札。

あの日、逃げようとした女に張り付けたあの札は女の行動を彩牙の持つ札に伝える、発信機の役割を果たしていたのだ。

そのおかげであの日以来、このホラーに一人も喰われずに済んだ。

 

「とは言え、これ以上は逃しておけない。お前は今ここで俺が斬る!」

 

「ふざけるな! 貴様のような偽物を庇う奴に、粛清を邪魔させてたまるか!!」

 

その叫びと共に女の身体が弾け飛び、ホラーとしての姿が露になる。

メイド服を彷彿させるヒラヒラとした上半身に、猫のような関節の下半身。獰猛な猫の顔を持ったホラーだった。

 

『なるほど、ヴィクトリスか。自分の価値観にこだわり続ける陰我にはぴったりのホラーだ』

 

ホラー・ヴィクトリスが唸り声と共に飛びかかると同時に、彩牙も魔戒剣を天に掲げ、ガロの鎧を召還する。

牙狼剣とヴィクトリスの爪がぶつかり合い、狼と猫が牙を剥いて互いを睨み合う。そうして鍔迫り合いになったのも束の間、ヴィクトリスはガロの身体を蹴り、大きく飛び退いた。

そしてその反動を利用してビルの壁を蹴り、大きく飛び跳ねた。

――ライブ真っ最中のことりたち目掛けて。

 

『させるか!』

 

しかしそれを許すガロではなかった。

読んでいたのかヴィクトリスの軌道に先回りし、その身体に強烈な蹴りを叩き込んで元の路地裏の中に蹴り戻した。そしてガロも路地裏の中に戻ると同時に、ヴィクトリスが虚空から呼び出したナイフや包丁がガロを襲い始めた。

牙狼剣を振るい、それらを弾き飛ばしていくガロ。ヴィクトリスはナイフや包丁を放つと同時に新しく呼び出していたため、弾切れを起こすことなくガロを襲う。

このままでは防戦一方、疲労が溜まっていくだけだった。

 

『――ならば!』

 

ガロは牙狼剣を振りかぶると、回転を加えて大きく投擲し、駆け出した。

円を描きながらガロの前を飛ぶ牙狼剣はヴィクトリスが放ったナイフや包丁を弾き飛ばしていき、ガロを守護する。

その光景に驚愕したヴィクトリスは更に大量のナイフや包丁だけではない。モップ、ポット、皿、燭台――ありとあらゆる家事道具を呼び出し、ガロを飲み込まん勢いで放つ。

 

しかし、それでも牙狼剣は――ガロの足は止まらない。

 

 

『己以外を認めようとしない、貴様の陰我――』

 

やがて、大量のナイフや包丁等を押し負かし、ヴィクトリスの目前に到達したガロ。

己の前で回転する牙狼剣を手にし、それまで押し留めていた家事道具を全て弾き飛ばした。目の前で大量の家事道具がバラバラに弾け飛び、思わず顔を庇うヴィクトリス。

次にその瞳に映ったのは――今にも牙狼剣を振るわんとする、ガロの姿だった。

 

 

『俺 が 断 ち 切 る !!』

 

 

一閃。

横一文字に振るわれた牙狼剣はヴィクトリスの首と胴体を両断した。

黒い粒子となり、消滅していく胴体。残った首も怨嗟の表情を浮かべながら信じられないといったような声色で呟いていく。

 

『何故、だ……私の信じるものが、本物のメイドだというのに……何故、あんな偽物が……!』

 

『お前の言う本物がただの独りよがりだからだ』

 

ヴィクトリス――ホラーに憑依された女は自分の価値観を絶対のものと信じ、他者の価値観を決して認めず、排除していた。

しかしことりは違った。全く違う価値観の者――仲間とそれを認め合い、手を取り合って進んできた。

他者を決して認めず、己を認めようとしない者は全てを敵と見る――だからこそ、この女はホラーに憑依されたのだ。

 

もはや話すことはないと、ガロはヴィクトリスの首を斬り裂いた。

縦一文字に斬り裂かれ、縦に真っ二つとなったヴィクトリスの首は怨嗟に満ちた断末魔と共に消滅していった。

そして彩牙も、ガロの鎧を解除した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――その時だった。

 

「っ!?」

 

背後から襲い掛かる殺意。咄嗟に反応した彩牙が振り向きざまに魔戒剣を振るうと、闇色の光が斬り裂かれた。

光が消滅し、その正体が地面に落ちる。それは真っ二つになった、漆黒の魔戒符だった。

そして――魔戒符を放った存在が露になる。

 

「見事だ。 未熟とはいえ流石は黄金騎士といったところか」

 

それは闇色のフードを被った男だった。

表情は窺えず、辛うじて見えるのは鋭く光る眼光のみ。闇の中から現れ、光が一切感じ取られないその男は、まるで闇そのものであると言わんばかりの佇まいをしていた。

 

「何者だ!」

 

『今の符……まさか魔戒法師か?』

 

魔戒剣を構える彩牙。

魔戒剣を向けられても、男はピクリとも狼狽えるどころか身構える様子も見せず、悠々とした態度で佇まっていた。

 

「私はホラーを愛で、共に歩む者……また会おう、黄金騎士よ」

 

「っ、待て!!」

 

慌てて駆け出すも時すでに遅し。

転移の術を使ったのか、光と共に男の姿はその場から消え失せてしまった。気配も何も感じ取ることができなくなった。

 

悔しそうに表情を歪ませる彩牙。

路地裏の外の通りでは、既にμ’sのライブが終わりを迎えようとしていた――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――へえ、あれが黄金騎士か。初めて見た」

 

――そしてその様子を、ビルの屋上から覗いていた人影があった。

 

『声をかけないのですか?』

 

「いいさ。どうせそのうち会うことになるだろうし」

 

 

 

 

 

「――楽しみは、後にとっておいた方がいいだろ?」

 

 

 

 

**

 

 

 

 

「彩牙くん、ことりと何かありましたか?」

 

「え?」

 

ライブの終わった帰り道。

穂乃果とことりとも別れ、園田家に向かう中、突然海未がそう切り出した。

何故そんなことを?そんな疑問に満ちた視線を向けると、海未は当然というような表情で口を開いた。

 

「ことりが彩牙くんと普通に話していたからですよ。この間までは碌に目を合わせることもできなかったのに、何かあったと思うのは当然です」

 

「そうなのか?」「そうです」――そう返す中、彩牙は記憶を掘り返してみる。

確かに少し前まではことりは彩牙とあまり目を合わせようせず、どこか怯えたような様子を見せていた。だが今は違った。穂乃果や海未、μ’sの仲間と話す時と変わらない笑顔を見せていた。

 

「……別に大したことはないさ。ちょっと相談に乗っただけだからさ」

 

「そうなのですか?」

 

「そうだよ」

 

訝しげに彩牙の顔を除く海未。

少し間そうした後、まるでからかうかのような、それでいて子供を見守る母のような優しげな笑みを浮かべた。

 

「……わかりました、そういうことにしておきます」

 

くるりと彩牙に背を向け、少し前を歩く海未。

そんな彼女を、彩牙が少し困ったような表情で見つめた、その時だった。

 

 

(……小僧、話がある)

 

(ザルバ?)

 

ザルバが頭に直接話しかけてきたのだ。

海未はザルバのことを知っているのにそうするということは――海未に聞かせては不味い話なのかと察した。彩牙がそう考えたことを感じ取ったのか、ザルバは話を続けた。

 

 

(あのお嬢ちゃん、ホラーの返り血を浴びたな? 何故斬らない)

 

「――何を言ってるんだ!!」

 

ザルバの言葉の余りの内容に、思わず声に出して叫んでしまっていた。

びくりと、驚いた様子の海未が振り返った。一体何事かと表情に現れていた。

 

「ど、どうしたのですか!?」

 

「あ……い、いや……ごめん、なんでもないんだ」

 

そうですか――いまいち納得しきれていない様子だったが、向き直った海未は再び歩き始めた。

深呼吸し、心を何とか鎮めると、彩牙は再びザルバに話しかけた。憤りの感情と共に。

 

(どういうことだ! 何故海未を斬らなければならない!彼女はホラーじゃないんだぞ!)

 

(……そうか。やはりそれも忘れていたか)

 

憐みの感情が込められた、ザルバの声。

 

(いいか小僧、よく聞け。ホラーの返り血を浴びた人間は奴らにとって最高のご馳走になり、ホラーに真っ先に狙われるようになる。

 

 

 

 

 

 

 

 ……そして、ホラーの返り血を浴びた人間は、地獄のような苦しみと共に――)

 

 

そこまで聞いて、まさか、と彩牙は思った。

聞きたくない。聞かせないでくれと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(――100日後に死ぬ)

 

 

 

 

***

 

 

 

絵里「人の出会いは素晴らしいことだと思うわ」

 

絵里「出会いは新しい世界を見せてくれるもの」

 

絵里「でも時には問題の火種を起こすこともあるのよね……」

 

 

絵里「次回、『波紋』」

 

 

 

絵里「出会いは重なり、大きな波になっていく」

 

 

 

 







魔戒指南


・ ホラー・ヴィクトリス
寂れたメイド喫茶の女店主に憑依したホラー。
憑依した人間の陰我に応じ、非常に利己的な性格を持ち、自らの価値観にそぐわない人間を結界に引きずり込み、その魂と肉体を紅茶に変えて捕食する。
また、捕食する際には紅茶になった人間の悲鳴や嘆きを十分に堪能してから捕食することを好む性質を持つ。
ナイフ、包丁、ハタキ、ティーセット……メイドに関連するあらゆる家事道具を召還し、それらを相手にぶつける安全帯からの一方的な攻撃という戦法をとる。


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第5話  波紋

ファイナルライブ、2日目のLVだけですが参加しました。
言いたいことは多いですが、まとめられそうにないので一言だけ。

最高でした。素敵な時間をありがとうございました。


 

 

 

 

 

「今日呼び出されたのは何故か、わかっておろうな?」

 

「……」

 

 

――番犬所。

いつにも増して真剣な表情のオルトスと、ほとんど睨むような表情の彩牙が向かい合っていた。――いや、オルトスのそれはもはや真剣を通り越し、感情を無にして罪を咎める者の表情だった。

まるで罪人を罰する執政官のように。両者が出す重々しい空気が辺りを包んでいた。

 

 

「お主と共に住んでいる少女。あの者は“血に染まりし者”であるにも拘らずお主はそれを放置しておる。ホラーの返り血を浴びた者がどうなるかは知っておろう?」

 

「……ええ、ザルバから全部聞きました。返り血を浴びた人間がどうなるのか」

 

『気絶することも許されない地獄のような苦痛の中、醜く崩れ溶けて死んでいく』

 

「ならば話は早い、その少女を斬れ。それがあの者のためになることはお主もわかっておろう?」

 

オルトスの言葉には、有無を言わせない力が込められていた。

ホラーに喰われるか、もしくはこの世で最も惨たらしい死を迎えさせてしまうくらいなら、まともな人間である内に安らかな死を迎えさせる――。それが魔戒騎士の掟であり、せめてもの情けだった。故に魔戒騎士は、血に染まりし者を斬らなくてはならない。

責めるような視線を向けられる中、彩牙は静かに口を開いた。

 

 

 

 

「――お断りします」

 

「……なんじゃと? 聞き間違いかの?今何と言った?」

 

「ハッキリ言いましょう。俺は海未を斬る気は毛頭ありません」

 

「……その言葉の意味を分かっておるのか? お主はその者をホラーの餌にするか、惨たらしい死を迎えさせると言っておるのじゃぞ、わかっておるのか?」

 

咎めるような鋭い視線を更に強くし、彩牙を睨むオルトス。

対する彩牙はそのような視線を向けられても尚、敢然とした姿勢を崩さなかった。

 

「いいえ。餌にさせる気も、死なせるつもりもありません」

 

「……まさかとは思うが、お主……」

 

「ヴァランカスの実……あれで彼女を浄化します」

 

――ヴァランカスの実。

それは紅蓮の森と呼ばれる場所に実る実であり、ホラーの血を浄化できる唯一の手段。

過去、何人かの血に染まりし者がこの実によって命を救われたとの言い伝えがあった。

しかし、それは決して容易な手段とは言えなかった。

 

「ヴァランカスの実か……あの実はいつ実るかはわからんし、そもそも紅蓮の森に入れるのは魔戒法師だけじゃぞ」

 

一つ、ヴァランカスの実はいつどんな時でも実るものではない。10年、あるいは100年に一度実ると言われており、100日が経過する前に実が実る保証はどこにもない。

そしてもう一つ、紅蓮の森には魔戒法師だけが立ち入ることを許され、魔戒騎士は立ち入ることができないのだ。

これらの理由――主に前者の為に血に染まりし者の浄化を諦め、斬ることになるケースが多かった。

 

「かまいません、法師は何とかして見つけます。絶対に」

 

「本気か? さっさと斬った方がホラーに喰われることもなかろうし、その者の為じゃぞ」

 

「人一人救えずして何が魔戒騎士ですか」

 

彩牙の目は、意志は揺るがない。

どれだけ非難の目に晒されようと、険しく困難な道のりだろうと、諦めようとする意志はなかった。

彩牙にとって海未は大切な、何が何でも守りたいと思う人。共に居るだけで心が照らされ、暖かな気持ちになる光のような人。だからこそ、彩牙には海未を見捨てるという選択肢はなかった。

 

どれほどそうして睨み合っていたのか。

呆れたような溜息と共にオルトスは表情を崩した。

 

「ザルバよ、お主は何か言わんのか?」

 

『こいつも頑固でな、何度言っても助けると言って聞かん。こういうところは父親そっくりだ』

 

呆れたようなその言葉に更に深くため息をつくと、オルトスは仕方がないと言わんばかりに姿勢を崩し、口を開いた。

まるで手のかかる子供を見つめる親のような表情と共に。

 

「わかったわかった、そこまで言うのならこの件はお主に任せる。実が実ったら知らせてやるから勝手にせい」

 

結局折れたのはオルトスだった。

こういった頑固な手合いは一度決めたことを決して変えようとしないことを知っていたからだ。下手に縛ろうとすれば手を噛まれることも。

 

 

「ま、それじゃったらちょうど都合がよかったかもの。入ってよいぞー」

 

「……?」

 

オルトスの声に応えるように、彼女のソファの横からまるで闇に隠れていたかのように一人の男が現れた。

黒いコートに身を包み、寡黙な雰囲気と屈強な肉体を併せ持った、壮年の男性だった。

その男に、彩牙は何か自分に近しいものを感じ取った。そう、自分と同じ闇を斬る者の――

 

 

「こやつは鬼戸大和、元老院付きの魔戒騎士じゃ。お主とはこれから度々組むことになるから仲良くせえよ」

 

「鬼戸大和だ、この管轄には最近の異常なホラーの出現率を調査すべくやって来た」

 

男――大和は彩牙の前に歩み立つと、剣のような鋭さを覗かせる視線で彩牙を見つめた。

その視線に彩牙は心の内を覗かれているような、試されているような……奇妙な感覚を覚えた。

 

「……何か……?」

 

「……そうか、お前が今の黄金騎士か……」

 

感慨深いような言葉と視線を彩牙に向ける大和。

するとそれまで黙っていたザルバが口を開いた。

 

『なるほど、確かに大和がいれば法師の問題は解決だな』

 

「どういうことだ?」

 

『こいつは魔戒騎士であると同時にかなり腕の立つ魔戒法師でもあるんだ』

 

「そう。先の件でお主に渡した魔戒符を作ったのもこやつじゃよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

『そして、お前の親父さんの戦友でもある』

 

「――父の!?」

 

「その通り。久しいな、ザルバ」

 

『全くだ。最後に会ったのは何年前だったか?』

 

和やかな表情でザルバと言葉を交わす大和。

まさか父の知り合いとこんなにも早く会えることになるとは夢にも思わなかった。

そしてそれは同時に、自分の記憶を取り戻す手掛かりとなる可能性もあった。そんな期待を込めた瞳で、彩牙は大和に問いかけた。

 

「父のこと、何故ガロの鎧が俺の下に来るようになったのか、何か知りませんか!?」

 

彩牙の言葉に、大和は申し訳なさそうに表情を僅かに歪め、答えた。

 

「すまない。私も虹河が死んだやも知れぬと聞かされたばかりでな、お前の期待には応えられん」

 

「……そう、でしたか……」

 

例え僅かであろうと期待していたことに変わりはなかった。

だからこそ、記憶を失う切っ掛けの手掛かりを見つけられなかったことに彩牙は肩を落とした。そんな彼の気を晴らすかのように、大和は明るく努めるかのように声をかけた。

 

 

「しかしあの彩牙が黄金騎士になるとはな。何があったかは知らぬが、十分に腕を磨いたのであろうな」

 

「俺のことも知っているのですか?」

 

「当然だとも。お前が小さい頃は虹河と共に稽古の面倒を見ていたからな。あのチビがガロになるとは感慨深いものだ」

 

懐かしむようにそう語る大和に、彩牙は奇妙な感覚を覚えていた。

――いや、正確には感じていなかった。大和の語る過去、それが記憶のない彩牙にとって実際にあったことという実感を得られなかったのだ。だから懐かしいという感情も湧いてこず、「そんなことがあったのか」という感覚しか得られなかった。

記憶を取り戻せばそうやって懐かしむことができるのだろうか――そんなことを考えた。

 

そうして過去の思い出に思いを馳せた後、本題に入ると言わんばかりに大和は表情を引き締めた。

 

 

「さて、話は聞いている。血に染まりし者の浄化を行うのだったな、ヴァランカスの実が実ったら私が取ってこよう」

 

「本当ですか!?」

 

大和の言葉に、彩牙は思わず表情を輝かせた。

先のオルトスの反応といい、本来ならば斬ることが最も確実な救いの手段とされていたため、こうも一つ返事で協力してくれるとは思わなかったのだ。むしろ彩牙としてはどれほど愚かで醜くあろうとも協力を得られるまで縋るつもりでいた。

それに対する大和はさも当然と言わんばかりの表情を浮かべていた。

 

 

「当然だ。僅かでも助けられる可能性があるならそれに賭ける、それが魔戒騎士だからな」

 

「――! はい!」

 

自分に記憶はない。だからこの人が父の知り合いで、自分のことも知っていると言われても実感が湧かなかった。

だけどこの人は――人として、騎士として信頼できる人だ。

湧き上がる憧憬の念と共に、彩牙はそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……そうだ。最近のホラーの出現についてですが、一つ心当たりがあります」

 

「ほう?」

 

オルトス、そして大和に向き直り、表情を引き締めて切り出した彩牙。

思い出したのは先日、秋葉原でのμ’sの路上ライブの日。

あの日、ことりを狙ったホラーを討滅した直後、彩牙はある男に襲われた。

 

「黒いフードに身を包んだ法師と思しき男に会いました。奴は自分のことを“ホラーと共に歩む者”と言ってました」

 

『それに奴の身体、奴が使った符からは邪気を感じた。無関係ってことはないだろうな』

 

あの男――闇の法師からは強い“闇”を感じた。

それは単純に強大な力だけではない。あの僅かに覗かせた鋭い眼光からは暗闇に包まれた奈落のような――いや、それよりも深い“絶望”――そして、“憎悪”が感じられた。

 

 

「ふーむ、なるほどのぉ……なら当分はその法師を探すことにするかの」

 

「そうですな。仮にそやつが無関係だとしてもホラーと共謀するような奴は放っては置けません」

 

互いに頷き合うオルトス、大和、そして彩牙。

闇の法師を見つけ、ホラー異常発生との関係を吐かせる――これからの基本方針が決まった。そうしたところで気持ちを切り替えるかのように、大和は彩牙と向き合った。

 

 

「さて、それではまず我ら魔戒騎士の使命を果たすとするか」

 

「……ホラーですか」

 

静かに頷く大和。

それは肯定の意を表していた。

 

「夜が更けたころ、番犬所の前で集合だ。よいな?」

 

「はい!」

 

ホラーを斬る――

魔戒騎士の使命はどのような事情があろうと、決して怠ってはならない。

 

 

 

**

 

 

 

番犬所を後にした彩牙は、エレメントの浄化も兼ねて街を探索し始めた。

音ノ木坂から神田に抜け、神田から秋葉原に向けて探索していく。だが探してもエレメントとなるオブジェも、その気配も見つからない。

恐らくここ数日この辺りを徹底的に浄化しに周っていたためだろう。最も、エレメントが発生しないことはホラーが出現しないことを意味しており、むしろ歓迎すべき状態であるのだが。

だが油断してはいけない。ここ最近の異常なスパンでのホラー発生、何かが――もしやするとあの法師がエレメントを発生させている可能性だってあるのだ。

 

そうして神田を抜け、秋葉原に出たころだった。見覚えのある人影が彩牙の目に写った。

ポニーテールにした金髪にツインテールの黒髪、そして二つにまとめられた紫の髪の少女たち。

もしやと思い、彩牙はその背中に声をかけた。

 

「東條さん?」

 

「――あれ、彩牙くん? 奇遇やね」

 

希、絵里、にこの三人だった。

学校が夏休みに入ったということもあるのか、私服に身を包んだ三人。希の言うようにさも奇遇と言うような表情を浮かべていた。……最も、にこだけは若干しかめっ面で、何故かサングラスをかけていたが。

そんな中で、希はにこやかと言うのか、フレンドリーな表情を浮かべていた。

 

「今日は海未ちゃんと一緒やないんやね」

 

「はは、そんないつも一緒なわけじゃないさ。高坂さんや南さんと用事があったみたいだし、俺も俺で用事があったからね。東條さんたちは?」

 

「フフ、うちらはね~……敵情視察や!」

 

――敵情視察?

何のことかと疑問を浮かべる彩牙に応えるように、補足するかのように絵里が前に出た。

 

「今日、UTXでA-RISEのライブがあるんですよ」

 

「あらいず?」

 

「知らないのアンタ? A-RISEよA-RISE!スクールアイドルの頂点!常識でしょ」

 

何のことかわからない彩牙に、興奮気味のにこが仕方ないと言わんばかりに説明を始めた。

秋葉原に拠を構えるUTX学院が擁するスクールアイドル・A-RISE。全スクールアイドルのトップに君臨するグループであり、憧れの存在。

 

メンバーは三人。

統堂英玲奈――泣きぼくろと高い身長が特徴のクールな少女、その佇まいとハスキーな歌声から女性ファンが多い。

優木あんじゅ――甘さたっぷりの声と顔立ちが特徴の姫系の少女、メンバー1の女性らしい振る舞いと体つきから特に男性ファンからの人気が厚い。

そして綺羅ツバサ――A-RISEのリーダー、小柄ながらもその可憐さと高いカリスマ性から先の二人を凌駕する人気を誇る少女。

彼女たちがスクールアイドルの頂点・A-RISEなのだと、にこはそう語った。

 

「なるほど……で、東條さんたちはそのライブがどんなものなのか視察に行こう、と」

 

「そういうことやん♡」

 

「私や希はアイドルを始めてまだ日が浅いから、勉強も兼ねて見ておきたくて」

 

「まったくよ、せめて生のA-RISEのライブくらいは1回見ておきなさい。このにこにーがせっかく教えてあげるんだからきっちり頭に叩き込むのよ」

 

「頼むで、にこっち先生♪」

 

楽しそうだな、と彩牙は思った。彼女たちを見ていると暖かな気持ちになる。

それ故に、彼女たちの日常を何としても守らなければいけない。そう思い、エレメント探索を再開しようと別れを告げようとした――その時だった。

 

 

 

「そうだ、よかったら彩牙くんも一緒にいかへんか?」

 

「……俺も?」

 

希が彩牙を引き留めたのだ。

彼女の言葉に「あら」と言いたげな表情の絵里と、「何を言ってるんだ」と言いたげな表情のにこが反応した。

 

「はぁ!? ちょっと何言ってんのよ希!」

 

「そうよ、彩牙さんにも何か用事があるかもしれないのに、急に誘ったら迷惑じゃないかしら?」

 

「まあまあええやん。ほら、うちらって三人揃って類稀無い美少女やし、悪い虫さんが寄り付かんように♪ あの海未ちゃんが一緒に暮らしてるって言うなら安心やん?」

 

「つまり虫除けってことか?」

 

「うそうそ冗談。ここで会ったのも何かの縁ってことで、どうかな?」

 

朗らかな笑顔で彩牙の顔を覗き込む希。

それに対する彩牙はしばしの間考え込むと――

 

「……そうだな。お邪魔じゃなかったら一緒にさせてもらおうかな」

 

希の誘いを受け入れた。

 

 

「ふふ、勿論や!こっちこそよろしゅうな♪」

 

「ごめんなさいね、なんだか無理言わせちゃったみたいで」

 

「構わないさ。俺もその、あらいずというのに興味があるからさ」

 

「ったく、仕方ないわね。ま、にこみたいな美少女と一緒に居たい気持ちもわかるけど」

 

「にこっち、美少女言われて気分良くなっただけとちゃう?」

 

「違うわよ!」

 

やいのやいのと賑やかな彼女たちととりとめのない会話を交わしながら、UTXへと足を運んでいく彩牙。

彩牙が希の誘いを受けたのは理由があった。

一つは彼女たちに言ったように、単純に彼女たちが目標としているスクールアイドルに興味があったこと。

そしてもう一つは――

 

 

 

 

 

 

――UTX学院・ライブ会場

 

「すごいな……学校の中にこんな広い会場が……」

 

「ここまで凄いとはうちもビックリさんやー……」

 

「ハラショー……」

 

いくら有名なマンモス校であったとしても、一学校に収まっているとは到底思えないような広大なライブ会場に、ただただ唖然としていた。まるで一コンサートホールのようなその広大な会場が埋め尽くさんばかりの人で溢れかえっているのも、それに拍車をかけていた。

その中でにこだけが一人、何度も来て慣れているのか堂々としていた。

 

「当然でしょ。なんたってA-RISEはUTXが学校を挙げてサポートしてるのよ、これくらいは毎度のことよ」

 

「いっつもここでライブしてるん!?」

 

「へぇ……流石マンモス校は違うのね……」

 

感心したような表情をにこに向ける絵里と希。

そんな彼女たちを傍目に、彩牙は険しい視線を辺りに向ける。

 

(どうだ?ザルバ)

 

(エレメントの邪気は感じないな。今のところは、だが)

 

校舎に入ってからこのライブ会場まで、エレメントの気配を感じることはなかった。

また、大勢の人に混じってホラーの邪気も感じられなかったため、少なくとも現時点ではホラーの発生、および脅威はないということになる。

とりあえずはと一息つく彩牙、するとそんな彩牙の姿が目に入ったのか、からかうような表情の希が寄り添ってきた。

 

「あれれ?彩牙くん、こんなカワイイ子をほっといて何きょろきょろしてるん?」

 

「いや、ただちょっと圧倒されてさ。スクールアイドルってここまで凄いものだったんだな」

 

「何言ってんの。会場くらいでそんなこと言ってたら……っと」

 

にこの言葉を遮るように、会場内の灯りが消え、辺りを暗闇が包む。

それと同時にそれまで会場内に響いていた喧噪がピタリと止まり、嵐の前の静けさと言うのか――まるで主賓を迎え入れるかのような静寂に包まれた。

その気に充てられたのか、初めての絵里や希、慣れているはずのにこ、そして彩牙も思わずごくりと喉を鳴らした。

そして、煌びやかなスポットライトがステージを照らした瞬間――

 

 

 

 

 

 

 

 

歓声が、一気に爆発した。

 

 

「ぅおっ……!」

 

まるで爆発したかのような歓声に包まれ、サイケポップなミュージックと共に現れたのは三人の少女。キレ目のクールな少女――統堂英玲奈。姫カットの緩やかな少女――優木あんじゅ。そしてその中心に立つ圧倒的存在感を放つ小柄の少女――綺羅ツバサ。

彼女たちこそ、ここUTXを代表し、全スクールアイドルの頂点に立つグループ――A-RISEだった。

 

白を基調とした衣装に身を包んだ三人は、会場を埋め尽くさんばかりの観客に笑顔を向けて手を振り、ミュージックに乗ったダンスと共に、歓声に負けない程の歌声を紡いでいく。

曲名は、『Private Wars』――

 

 

 

 

 

 

 

 

――凄い

 

A-RISEのライブに、彩牙が抱いた思いはそれだけだった。いや――余りにも凄すぎてそれ以外に表現することができなかった。

彩牙はアイドルのことをよく知らない。何が良くて何が良くないのかもてんで知らない、ずぶのど素人だ。

だがそれでも、そんな彩牙でも目の前にいるA-RISEという存在が、その歌声が、ダンスが、パフォーマンスがどれほどハイレベルなのか理解するほどに、そのライブは凄まじかった。まだ1曲目だというのに、彩牙はすっかりとA-RISEに引き込まれていた。

 

ふと視線を横に向ければ彩牙と同じようなことを思ったのか、希と絵里も呆けたような表情を浮かべながら視線を奪われていた。

そしてにこは魅了されたような視線を浮かべながらも、まるでライバルを見つめるかのように複雑な、険しい顔つきをしていた。

 

――そうだ。自分とは違い、同じスクールアイドルである彼女たちにとってA-RISEはただ憧れるだけの存在ではない。超えるべきライバルでもあるのだ。

 

「……凄いわね。素人にしか見えないとか言ってた自分にビンタしたい気分だわ」

 

「そうでしょ。ダンスも歌もパフォーマンスも、μ’sはまだまだA-RISEには追いつけない」

 

「でもだからこそ、超え甲斐がある。そうやろ?」

 

もう憧れているだけの、夢を見ているだけの少女ではいられない。

弱小であろうと同じスクールアイドルという土俵に立った以上、彼女たちは競い合い、夢に向かって駆け上がっていかなければならないのだから。

 

改めてA-RISEと競い合うことに意志を固めた三人を横目で見ながら、彩牙は頑張ってほしいと思った。

A-RISEは確かに途轍もなく凄いグループだ。だがμ’sはそれに負けないような輝きを秘めているように感じる。

その輝きを無駄にしてほしくない――そう思っていた、その時だった。

 

 

 

(……夢中になるのはいいが小僧、気付いたか?)

 

頭の中にザルバの声が響いた。

その声に従い、感覚を鋭敏化させる。すると彩牙にも感じられた。

微弱な、しかしじわじわと膨れ上がっていく闇の気配を。

 

「あー……ごめん。ちょっとトイレ行ってくる」

 

「はあ!? せっかくのライブだってのに勿体ないわね、早く行ってきなさい」

 

もう少し楽しんでいきたかったが仕方ない。適当な理由をつけ、彩牙はその場を後にした。

魔戒騎士の昼の仕事が始まろうとしていた。

 

 

 

 

 

――まただ。あの時と同じ目……

 

自分たちから離れていく彩牙の背中を、希は見つめていた。

抜けようとする一瞬前、彩牙が鋭い表情を浮かべているのを、希は偶然にも目撃していた。

数日前、メイド喫茶で目にしたような、あの表情を。

 

 

――彩牙くん。キミは一体何を見てるの……?

 

 

 

「みんなーっ!ありがとーーーっ!! 続いてはこの曲、『CHIASTOLITE』!」

 

希の抱く不安とは裏腹に、ライブは更なる盛り上がりをもって進んでいく。

宴はまだ終わらない。その裏で何が起きているのか気づかないまま――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

結局、彩牙が戻ってきたのはライブが終ろうとしたころだった。

 

「ごめん、広すぎて道に迷っちゃった」

 

「迷いすぎでしょ!もうライブ終わっちゃうのに、何勿体ないことしてんのよ!」

 

「あはは……まあ抑えて、にこ」

 

何食わぬ顔の彩牙に、アイドル好きとして憤るにこに、それを嗜める絵里。

傍から見れば微笑ましい場面に――彩牙に、希は何とも言えない違和感を拭えずにいた。

 

 

 

**

 

 

 

UTXでのライブが終わり、太陽が夕陽になりかけ始めたころ。

秋葉原と神田の境、人通りもまばらな道を歩く三人の少女たちの姿があった。

 

「はあ~っ、凄かったよぉ~……!」

 

「すっかり上の空ね」

 

「凛はこっちのかよちんも好きだよ♪」

 

花陽、凛、真姫の三人だった。

彼女たちも希たちと同じようにA-RISEのライブに訪れていたのだ。希たちと一緒にならなかったのは人があまりにも多く溢れかえっていたことと、お互いが取っていた場所が大きく離れていたため、互いの存在に気づくことはなかったからだ。

 

さて、その中で花陽は非常にうっとりとした表情を浮かべていた。

それもそのはず、にこと並んでアイドルが好きな花陽はμ’sに加わる以前からA-RISEの大ファンだったのだ。同じスクールアイドルとして競い合う関係であろうとも、自分たちよりもまだ遥か格上にいる存在であることもあってか、一ファンだという感覚で強い憧れを抱いていた。

 

「夢中になるのはいいけど、私たちもこれからはアレと競うんだってこと、忘れないでよね」

 

「はっ! そ、そうだったね。今は私たちもスクールアイドルだもんね。あぁでも、あのA-RISEと同じ舞台に立てるなんて夢みたいだよぉ……」

 

「もう、ここまでトリップしちゃうなんてね」

 

「でも凛は知ってるよ。さっきのライブ、真姫ちゃんも目を輝かせていたってこと」

 

「うぇっ!? ちょ、そういうことは言わなくていいの!」

 

「素直じゃないニャー♪」

 

ニャフフッと跳ね回る凛に、思わず赤面する真姫。

真姫も真姫でμ’sに加わったころから作曲の――アイドルの曲とはどのようなものかを参考にするために色んなアイドルやスクールアイドルの曲を調べた。その中には当然A-RISEの曲も入っていた。

それでいても今日のライブには衝撃を受けた。CDを聴いたりPVを眺めるのとでは全然違う、生のライブならではの迫力というものを目で、耳で、全身で感じ、A-RISEの王者たる所以を思い知った。

 

――花陽やにこ先輩が夢中になるのもわかる気がする。

 

競い合う相手なのに思わずファンになってしまいそうになるほどに、相手はあまりにも強大。でもだからと言って諦めるのは、自分のプライドが決して許さない。

何よりも相手が強大であればあるほど超え甲斐がある――真姫はそう思った。

 

 

 

そうしてとりとめのない会話をしながら帰路につく最中。ちょっと休んでいこうという話になり、三人は偶々通り道にあった公園に立ち寄った。

自販機で買った飲み物がライブの熱気と夏の日差しで火照った体を冷やし、気持ちを落ち着かせる。じりじりと照り付ける夏の日差しに汗を拭いながら、花陽は影を作るように手をかざした。

 

「暑いね……いよいよ夏本番って感じだね」

 

「暑いニャ~、溶けるニャ~、海行きたいニャ~。真姫ちゃん家なら海に別荘あったりするんだろうな~羨ましいニャ~」

 

「凛ちゃん、いくらなんでもそんな漫画みたいなこと……」

 

「あるわよ、別荘」

 

「そうそうあるわけ……」そう言いかけ、さらっと言い放った真姫の発言を理解したのか驚愕の叫びをあげ、迫真の表情で真姫に詰め寄る花陽と凛。

詰め寄った二人に真姫はただ、たじろぐことしかできなかった。

 

「ほ、本当なの真姫ちゃん!? 凄いよ!」

 

「ちょ、そんなに大したことじゃないでしょ!? 普通よ!」

 

「さすがお金持ちは違うニャー……」

 

ごくりと、恐れ慄くような表情を浮かべる凛。

だがそれも束の間、いいことを思いついたと言わんばかりに表情を輝かせ始めた。その表情に真姫は面倒な予感を覚えた。

 

「そうだ! それじゃあ今度みんなで真姫ちゃんの別荘に行くニャ!」

 

「な、何よ突然!花陽も何か言ってやって!」

 

「えっ!? ……わ、私もちょっと行ってみたいかなぁって」

 

「うぇえっ!?」

 

おずおずとしながらもそう答える花陽に思わずたじろぐ真姫。

凛と花陽の期待を込めた眼差しに見つめられ、真姫は仕方ないと言わんばかりにため息をついた。

 

「……仕方ないわね。適当な理由つけてパパに聞いてみるわ」

 

「わーい! 真姫ちゃん太っ腹ニャー!」

 

喜び跳ねる凛を傍目に、花陽は少し複雑そうな視線で真姫を見つめた。

海に行けるかもしれないというのは素直に嬉しい。しかし真姫の言ったこと――“適当な理由をつける”ということに違和感を感じていた。

 

――もしかして、真姫ちゃん。お父さんには……?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ねえキミたち、カワイイね。よかったら俺たちと遊ばない?」

 

突然響いた、軽薄そうな男たちの声。

視線を向ければ、そこには声色に偽りなしと言わんばかりに髪を染め、だらしなく着崩した5,6人ほどの軽薄な男たちが三人の前に立っていた。

軽薄な、それでいて下品な笑みを向けられて花陽は怯え、凛はそんな彼女を抱きしめながら警戒心を露にし、真姫はキッと睨みつけて男たちの前に立った。

 

「お断りします。私たちそんな気はないので」

 

「オコトワリシマスだって! カワイィー!」

 

「こういうツンツンしてる子、俺タイプなんだよねー!」

 

毅然とした態度で言い放ったものの、男たちは下品な笑い声をあげるだけで全く取り合おうとしない。

男たちの反応で真姫は察した。

これは人の話を聞かないタイプだ。早く立ち去らないと面倒なことになると。

 

「迷惑だから本当にやめてもらいます? 二人とも行きましょ」

 

「いこ、かよちん」

 

「う、うん」

 

そうと決まれば逃げるが勝ち。

花陽と凛の手を取り、早足で立ち去る真姫。こういう手合いは相手にするだけ無駄だ。下手に話せば話すほど逃げられなくなってしまうのだ。

そうして公園の出口目掛けて歩き始めたのだが――

 

 

 

 

 

 

「まあまあ待ってよ、そんなに冷たくしなくてもいいじゃん。退屈させないよ?」

 

「っ! やめて!離してよ!」

 

あっさりと追い付かれ、男たちに組み付かれてしまった。

それは真姫だけではない、凛と花陽も同じように組み付かれてしまっていた。嫌悪感を露にしても男たちはやめようせず、それどころか彼らの情欲に火をつける結果となってしまった。

 

「や、やめて……ください……!」

 

「ちょっと! かよちんに変なことしないでよ!!」

 

「ヒューッ!怯えた顔もカワイイーッ!」

 

「俺こっちのショートカットの子が好み!」

 

下卑た笑いを浮かべ、彼女たちの拒絶を男たちは聞こうともしない。

逃げようともがくものの、男たちとの力の差は歴然。全く振りほどくことができず、次第に彼女たちは組み付かれたまま引き摺られ始めた。

何をされようとしているのか、嫌が応にも理解してしまった。

 

 

「離して! 離してってば!!」

 

「ほら暴れないでよ、天国に連れてってやるからさ!」

 

「天国にイクのはお前だけじゃねーの!」

 

「そりゃそうだな、ハハハッ! ヒト来ないうちに茂みに行くぞ!」

 

「ひっ……! や、やだぁっ……!」

 

「真姫ちゃん!かよちん! やめて!やめてってば!」

 

言ったところで何かが変わるわけでもない。抵抗虚しく三人は徐々に茂みの中に引き摺られていく。

自分たちの力だけではどうしようもないこの状況。真姫は、花陽は、そして凛はこう思わずにはいられなかった。

 

 

――誰か、誰か助けて!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――パチパチパチ

 

「――へえ、面白そうなことしてんじゃん」

 

突然、辺りに響いた声と、拍手するような音。

男たちが、そして凛たちが声のした方向に視線を向けると、そこには一体いつからいたのか、木に寄りかかるように一人の少年が立っていた。

非常に危うい状況であったというのに、その少年の姿を見た凛は変な人だと思った。

 

少年は黒髪で、凛たちと同じか少し年上くらいの背格好をしていた。

目元をサングラスで隠していたその表情は、僅かに吊り上がった口元から不敵な笑みを浮かべているのだということが辛うじてわかった。

だがそれよりも、何よりも奇妙だと思ったのは少年の服装だった。夏真っ盛りだというのに、少年は膝下まであるような黒いコートを身に纏っていたのだ。

見てるだけでこっちが暑くなりそうだと、凛は呑気にもそう思った。

 

「アァ? 何だよお前、イイトコだってのに邪魔すんじゃねーよ!」

 

「そうそう、俺たちこれから楽しい遊びをするとこなんだからさー!」

 

喧嘩腰の男たちを前にしても、少年は少しもたじろぐ様子を見せない。

それどころか余裕たっぷりに辺りを見回し、組み付かれている真姫、花陽、凛の姿を見ると不遜な態度を崩さずに口を開いた。

 

「ふーん……それにしちゃあ、随分と嫌がってるみたいだけど?」

 

「おい兄ちゃん、怪我したくなかったら大人しく引っ込んでろよっ!」

 

少年の態度に痺れを切らしたのか、男の一人が少年の前に出るとその顔面目がけて拳を繰り出した。

男に殴り飛ばされる少年の姿が頭によぎり、思わず目をつぶる凛たち。

しかしいつまでたっても殴られる少年の悲鳴や骨が砕けるような音は聞こえず、代わりに耳に入ったのは男たちのどよめきだった。

恐る恐る目を開くと、そこには驚きの光景が広がっていた。

 

 

 

「いてててててて!痛い痛い痛い痛い!!」

 

少年は殴られていなかった。

男の繰り出した拳は少年の目前にて掌で受け止められ、逆に締め上げられていた。

自分たちよりも小柄な少年に締め上げられ、情けない悲鳴を上げる男。少年はそんな男を乱雑に放り捨てると挑発するように手をかざした。

 

「来いよ。代わりに遊んでやる」

 

「ふざけんじゃねぇぞガキがぁ!!」

 

少年の挑発に乗り、凛たちを拘束する者を除いて一斉に少年に襲い掛かる男たち。

迫りくる男たちを前にしても少年は微動だにしない。やがて男の一人が少年の前に辿りつくと拳を振るった。

しかしその拳が少年を捉えることはない。少年はわずかな動きで男の拳を躱していき、男を翻弄する。

やがて繰り出された男の腕を掴み取ると、少年はその小柄に見合わない力で男を投げ倒した。

 

「ヤス!」

 

「テメェ、さっきはよくもやってくれたな!」

 

もう一人の男と、先程少年に締め上げられた男が、少年を挟み撃ちするように襲い掛かる。

前後から襲い掛かる男たちに、それでも少年は不敵な態度を崩さない。

前後から逃げ場を塞ぐように少年に殴りかかる男たち。しかし少年は拳が当たるその瞬間にしゃがみ込んで避け、本来の相手を失った男たちの拳はそのままの勢いで進み、互いに正面にいた仲間の顔面を見事に捉えて撃沈していった。

 

「くそっ、さっきから調子乗りやがって!」

 

先程少年に投げ倒された男が取り出したものを見て、凛たちはヒッと息をのんだ。

男が取り出したのは折り畳み式のナイフだ。刃渡りが小さくとも人の命を脅かすには十分な代物だった。

ナイフを振りかざし、襲い掛かる男。それを前にしても少年は身構えようとするそぶりも見せなかった。

これから起こされるであろう惨劇に悲鳴をあげる凛たち。そして――

 

 

 

 

――ポキンッ

 

「へ?」

 

目の前に突き出されたナイフの刃を、少年はあろうことが指で挟んで受け止めたのだ。

更に少年が少し力を込めただけで、なんとナイフは真っ二つに折れてしまった。

目の前の現実が信じられず、呆けたような声を出した男の顔面に少年の掌底が叩き込まれ、男の意識は刈り取られた。

返り討ちにした男たちを一瞥した後、少年は凛たちを拘束する男たちに視線を向ける。先程とは逆転したように、今度は男たちが怯えたような表情を見せた。

 

「まだやるかい?」

 

「ひ、ひいぃぃぃぃ! 何だこの化けモン!に、逃げるぞ!」

 

「お、おう!」

 

「おーい、忘れモンだぞー」

 

少年に恐れをなし、凛たちを放り出して逃げ出す男たち。

少年はその男たち目掛け、たった今返り討ちにして気絶した男たちを放り投げた。

仲間の身体が自分たちに積み重なり、ひぃひぃと仲間を引き摺って逃げていく男たち。それを見て助かったのだと自覚した花陽はペタンとその場にへたりこみ、恐怖を思い出したかのように涙を流し始めた。

 

「こ、怖かった……怖かったよぉぉ……!」

 

「かよちん、大丈夫……?」

 

「もう大丈夫、大丈夫だから……!」

 

慌てて駆け寄り、花陽をそっと支える凛と真姫。

震えているのは花陽だけではない。気丈に見せているだけで凛も真姫も震えていた。

怖かったのだ。男たちの声で、力で、手つきで、何をされるところだったのか嫌が応にも理解してしまったのだから。もしあの少年が助けてくれなかったらと思うとゾッとする。

やがて花陽の涙が収まり始めたころ、件の少年は彼女たちの前に歩み寄ると朗らかな笑顔――サングラスをしているので口元だけだが――を浮かべ、凛たちに話しかけた。

 

「怪我はなかった? 暑くなるとああいう連中が出るから気をつけなよ」

 

「は、はい。あの……ありがとうございます!」

 

少年に頭を下げてお礼を言う真姫に倣うように、凛も、泣きじゃくっていたため僅かな動きだが花陽も、ぺこりと頭を下げた。

普段から素直じゃないと言われる真姫だが、流石に自分たちを助けてくれた恩人に対して礼を言わないほど意地っ張りではなかった。

目の前の少年には本当に感謝の気持ちで溢れていた。

だからこそ――

 

 

 

 

 

「どういたしまして。それじゃ、さっきの連中はほっといて俺と遊ばない?」

 

 

その言葉は、真姫の中の熱を冷めさせるには十分だった。

 

――ああ、そうか。

結局のところ、この男もさっきの男たちと同じなんだ。私たちを助けたのは、別に私たちが可哀想とか義憤に駆られたとかそんなんじゃない。単にあの男たちが邪魔で、最初から私たちが目当てだったんだ。一瞬でもヒーローみたいとか考えてた自分がバカみたい……!

 

冷めきったのと入れ替わるように怒りが真姫の頭を駆け巡り、カッと熱が昇る。

気づいた時には怒り心頭で、花陽と凛の手を引きながら心の内を表すかのように、乱雑な足取りで歩き出していた。

 

「結構です!! 凛、花陽、行きましょ!」

 

「う、うん……」

 

「真姫ちゃん……ま、待って……!」

 

強く手を引かれ、よたよたと歩く凛と花陽。

その中で凛はちらりと戸惑いの表情で少年に振り返ったが、すぐに向き直して真姫を慌てて追いかけていった。

 

そして公園に一人取り残された少年。

助けた相手に怒りをぶつけられ、逃げられたにもかかわらず、その表情には悲しみや残念といった感情は何一つ浮かんでいなかった。

 

 

「あらら、振られちゃったか」

 

『わざと言ったくせによく言いますね』

 

少年一人だけのはずの公園に響き渡る、紳士然とした男性の声。

少しくぐもったようなその声は、あろうことか少年が首から下げた銀色のペンダントから発せられていた。

犬の頭と男性の顎の部分が融合したようなそのペンダントを、少年はさも当然のように触れ、慣れ親しんだ相手に向けるように語り始めた。

 

「あれ?わかっちゃうか?」

 

『当然です。何年見てきたと思っているのですか』

 

「それもそっか」

 

ハハハ、と笑う少年。

ひとしきり笑った後、踵を返してその場から歩き出した。

 

『どちらに?』

 

「お仕事だよ。仕事熱心な様をアピールしといた方がいいだろ?」

 

『しかし先に挨拶に向かわれた方が……』

 

「後ででいいんだよそんなモン」

 

黒いコートを翻す少年は夕陽でできた影の中に――闇の中に溶けていくように、公園を後にした。

そうして誰もいなくなった公園に、蝉の鳴き声だけが響き渡った。

 

 

 

**

 

 

 

「二人とも、今日はありがとうね♪」

 

「いいよいいよ、色んな服見れて楽しかったし!」

 

「それにしてもたくさん買いましたね……何に使うのですか?」

 

陽も暮れた夜道。その中を仲睦まじく歩く三人の人影があった。

穂乃果、ことり、海未の三人だ。

今日はことりからのお願いということで、三人揃って服屋などを見て回っていたのだ。途中、可愛らしい服装にうっとりとしたことりや、露出の多い服装に赤面して慌てふためく海未など、彼女たちらしい反応を覗かせていた。

 

そして今、ことりの腕の中には大きな紙袋が抱えられていた。

ほくほくと満足そうな笑顔で腕一杯にそれを抱えることりに海未が尋ねると、待ってましたと言わんばかりの笑顔を浮かべた。

 

「色んな水着だよ。夏真っ盛りだし、新曲は水着みたいな衣装でしたいなって」

 

「ことりちゃん、もしかして新しい曲作ってるの?」

 

「ううん、だから海未ちゃんお願い! 可愛い水着さんが映えるような歌を作って♡」

 

「やはりそこは私なんですね……」

 

軽くため息はつくものの、キラキラと瞳を輝かせてお願いをすることりに、海未は断る気はなかった。

幼馴染が自分を頼りにしてきてくれているのだ。断る理由はどこにもない。

 

「わかりました。折角ですし夏らしいのを作ってみましょう」

 

「ありがとう海未ちゃん! それじゃあ後でフリルがたくさんついたヒラヒラの可愛い水着さんを見せてあげるから参考にしてね♪」

 

「うっ……ひ、ひらひらの……ですか」

 

――波が打ち寄せる砂浜、その中で波飛沫にあてられるのはヒラヒラのフリルの付いた面積の小さな水着を着けた自分。その水着の合間から覗かせるのは、ハリのある白い肌――

そんなことを想像し、沸騰したかのように赤面する海未。

……安請け合いしてしまったかもしれないと、軽く後悔していた。

 

ウキウキと楽しそうに語ることりに、浮かべた妄想で顔を真っ赤にさせた海未。

そんな幼馴染二人の様子を見た穂乃果は、この二人とはずっと一緒に居たいと、心から思うのだった。

そんな中、ふと思い出したかのように穂乃果が海未の首元を指さして口を開いた。

 

 

「そういえば海未ちゃん、その首に下げてる指輪……だよね?どうしたの?」

 

穂乃果の言う通り、海未の首元にはシンプルな銀の指輪がペンダントのように下げられていた。

海未はその指輪を手に取り、少し恥ずかしそうなそぶりを見せながらも答えた。

 

「これですか? 今朝彩牙くんから渡されたのですよ。肌身離さず持っててほしいと」

 

思い出されるのは今朝。稽古が終わるなり彩牙に突然この指輪を渡されたのだ。

そういったシルバーアクセサリの類があまり趣味ではなかったことと、男性からの贈り物というものが気恥ずかしかった海未ははじめ、丁重に断ろうとしたが彩牙の余りにも真剣な眼差しに押し負け、指に嵌めるのは恥ずかしかったのでペンダントという形にして受け取ったのだ。

 

そして今、海未の話を聞いたことりと穂乃果はこれでもかと言わんばかりに表情を輝かせていた。

そんな二人を目にした海未は猛烈に嫌な予感がした。

 

「聞いた?ことりちゃん!」

 

「うん!男の子が女の子にプレゼント……これはつまり!」

 

「春だよ! 海未ちゃんに春が来たんだよ!」

 

「なっ、ななななななな何を言ってるのですかぁっ!! そんなんじゃありません!」

 

キャーキャー!と黄色い声を上げる穂乃果とことり。

完全に彩牙が海未に告白したような流れになっていることを前に、初心なところがある海未が平静を保っていられるわけがなかった。

そんな海未を、穂乃果は満面の笑みで肩を叩く。わかってる、わかってるよと言いたげな笑顔で。

わかってないでしょう。海未は声を高々にしてそう叫びたかった。

 

「大丈夫!アイドルなのに彼氏はどうなのかー、とかそういうことでしょ?」

 

「心配しないで!何があっても私と穂乃果ちゃんは海未ちゃんの味方だから!」

 

「もういい加減にしてください! 穂乃果!ことりも!」

 

顔を真っ赤にして叫ぶ海未。

そんな彼女を前に穂乃果とことりは舌を出しながらテヘ、と悪戯っぽく顔を見合わせた。

やはりこの二人、最初から確信犯だったのだ。こういう時に限って異常な速さで結託する二人を海未は若干うらめしく思った。

そうしてひとしきり笑いあった後、神妙な表情を浮かべた穂乃果は呟いた。

 

 

 

「それにしても彩牙くん、今もみんなのために戦っているのかなぁ……」

 

「……うん。きっと、この空の下で頑張ってるんだよ」

 

その言葉に倣うように、ことりと海未も神妙な表情を浮かべた。

思い出されるのはガロとしてホラーを斬り裂く彩牙の姿。初めて目撃した時も、女ホラーに襲われた時も、ミナリンスキーとしてのことりが狙われた時も、彩牙はホラーから守ってくれた。

それよりずっと前から、そしてこれからも、彩牙はホラーを斬り、人々を守っていくのだろう。それを思い、心の内に安心にも似た光が満ちる。

だが、それと同時に――

 

 

 

――でも、不安なのです。少し目を離したら遠いところに行ってしまいそうで……危ういと言うか……

 

 

そう、海未は不安を感じていた。

戦うたびに、ホラーを斬り裂いていくたびに、魔戒騎士として自分たちの知らない場所に行ってしまいそうで、離れ離れになってしまいそうで――二度と会えなくなるような。

 

そしてもう一つ、彩牙はまっすぐだ。人々を守ろうと奔走し、真面目なその性格や太刀筋から彼がどこまでもまっすぐな人間だということが窺える。

それ故に不安だった。ふとしたきっかけでぽっきりと折れてしまいそうな――そんな漠然とした不安があった。

 

しかし以前、穂乃果は言った。「自分たちが支えてあげればいい」と。

ならば支えよう。どうすればいいのかわからないけど彼が折れてしまわないように、支えられるように守られる側としてせめてもの努力しよう。

それがきっと、同じ家で暮らす“家族”としてできることなのだから――

そんな思いを胸に秘め、それとはまた別の不安を海未は口にした。

 

 

 

「しかしこんなに遅くなってしまって……またホラーに襲われたりしなければよいのですが……」

 

「そうだね……噂になっちゃってる程だし……」

 

「大丈夫だよ~! そんな何回も襲われるはずが――」

 

 

 

 

 

 

――ドスンッ!!

 

穂乃果の声を遮るかのように、アスファルトを砕くような音と共に一つの影が彼女たちの前に降り立った。三人はその影を呆然とした表情で見つめる。

影は一見すると人影のようなシルエットをしていた。だが街灯に照らされたその姿は人とは大きく異なる姿をしていた。

――蟲だ。まるで蟻を彷彿とさせるような、人型の白い蟲だった。白い外骨格に覆われた体躯は彼女たちの背丈を大きく超し、青い複眼が闇の中で妖しく輝き、牙に覆われた口からはギチギチと気味の悪い音を漏らしていた。

三人は一瞬のうちに察した――ホラーだと。

 

「ま、またですか!?」

 

「言ってる傍から!?」

 

「は、早く逃げなきゃ!」

 

踵を返し、ホラーから逃げようとする海未たち。

だがそんな彼女たちを嘲笑うかのように、振り返った先に全く同じ姿のホラーが現れたのだ。それも一体だけではない、二体、三体と増えていく。

そうして計六体。全く同じ姿をした蟲のホラーに逃げ道を塞がれ、すっかり囲まれてしまった。

 

「か、囲まれちゃったよ……!」

 

前から、後ろから、ホラーたちが彼女たちを囲み、じりじりと追いつめていく。

壁際に追い込まれ、少しでもホラーから距離を取ろうと互いの体を密着させる海未たち。

そんなささやかな抵抗を嘲笑うかのようにホラーは一歩、また一歩と距離を詰めていく。すぐ一斉に飛びかかろうとしないのは獲物の怯えるさまを堪能しているとでも言うのだろうか、海未たちにはわからない。

 

そうしてとうとう目前までホラーが迫り、牙を剥いた口から生臭い吐息が漏れる。

海未は、穂乃果は、ことりは恐怖と嫌悪感を露にしながら必死にホラーから顔を背ける。

だがそれもホラーの前では無駄な足掻きにすぎない、そう笑うかのように、ホラーの内一体が彼女たちを喰らわんと口を大きく開いた。口から垂れる涎が道路を、彼女たちの服を、肌を汚していく。

もう駄目だ――諦めかけた、その時だった。

 

 

 

 

『ギッ……!?』

 

口を開けて迫っていたホラーの動きが止まり、痙攣し、苦しむかのような唸り声をあげる。

何が……?そう思い、背けていた視線をホラーに向き直しその全身を見ると、ホラーの腹から一本の剣が生えていた。

――いや、生えているのではない、刺し貫かれているのだ。背後から突き出された剣によって。

剣はそのままホラーの身体を宙に持ち上げて放り捨て、海未たちを囲んでいた他のホラーを斬り裂いていき、彼女たちを囲んでいたホラーはあっという間に引き剥がされた。

そうして剣の持ち主が露になる。

 

 

「――彩牙くん!」

 

「逃げろ!」

 

それは彩牙だった。

魔戒剣を構える彩牙はたった今のやりとりでできた道――ホラーの手が届かない道のりを示し、逃げるように促す。

それに応えるように海未は穂乃果とことりの手を引き、恐怖に震える身体を奮い立たせて駆け出した。

 

「行きましょう! 穂乃果!ことり!」

 

「う、うん!」

 

「彩牙くん! 気を付けて!」

 

夜の闇の中に溶け、少しずつ遠くなる海未たちの声。

無論ホラーも折角の獲物を逃そうとするはずもなく、何体かがすぐさま彼女たちを追おうとした。

しかしそれは叶わなかった。闇の中から現れた、一振りの剣によって。

 

「今のが例の少女か。危ないところだったな」

 

――大和だ。

彩牙の持つ物よりも長い刀身をもつ魔戒剣を振るい、海未たちを追おうとしたホラーを斬り裂いていく。僅かな動きでホラーを斬るその佇まいには全く隙が見当たらず、歴戦の戦士である風を醸し出していた。

 

『全くだ、まさかターゲットに真っ先に襲われるとはな。指輪を渡しておいて正解だったな』

 

「そうだな」

 

今朝、彩牙が海未に渡したというあの指輪。

あれはザルバが己の身から生み出した、いわば体の一部なのだ。それが発信機の役割をすることで海未が現在どこにいるのか、ホラーに襲われているのかそうでないかということがザルバには手に取るようにわかるのだ。

浄化するまでの間ホラーに喰われないように行った措置だが、早速役に立つことになるとは彩牙自身も思ってなかった。

 

『しかし渡すときの小僧と嬢ちゃんのガチガチっぷり、あれは見物だったぜ』

 

「そのことは言うなっ!」

 

「お喋りはそこまでだ、来るぞ!」

 

大和の言う通り、二人に斬り裂かれたホラーは回復し、二人に襲い掛かり始めた。

ザルバの言葉に赤面していた彩牙は表情を引き締め直し、迫りくるホラーを迎え撃つ。

 

彩牙に襲い掛かったホラーは三体。

ホラーが突き出した爪を避け、避けた先に待ち構えていた別のホラーが繰り出した腕を魔戒剣で受け止め、斬り裂く。

斬られたホラーが仰け反ると同時に、先のホラーとまた別のホラーが牙を突き出しながら踊りかかる。彩牙は蟻の顎のようなその牙を素手で掴み取り、そのままホラーの身体を持ち上げてもう一体のホラーに投げつけるようにぶつけた。

 

『ギギッ……!』

 

もつれあい、重なり合う二体のホラー。

上の方に重なったホラーの頭目掛けて魔戒剣を突き刺し、そのまま縦一文字に斬り裂くようにしてその身体を両断した。

黒い粒子となり、ホラーが一体討滅された。

残り五体。

 

 

大和の方にも同じように三体のホラーが襲い掛かっていた。

大和に覆いかぶさるかのように一斉に飛びかかる三体のホラー。牙を広げ、噛みつかんと言わんばかりに大きく開けられたその口目掛け、大和は魔戒剣の鞘を突き刺した。

喉を突き破らんとばかりに深く刺された鞘に悶絶するホラー。残り二体が大和の身体に牙を突き立てようとした瞬間、内一体の顔面に大和の拳が叩き込まれ、大きく殴り飛ばされる。

それと同時にもう一体の胴体に魔戒剣が突き刺され、それを一気に振るってホラーを両断する。

残り四体。

 

「――はっ!」

 

そのまま大和は口に鞘を突き刺したホラー目掛け、服の袖から取り出した大きな毛筆――魔導筆を向ける。

すると魔導筆の先から光が伸び、鞘と繋がる。そのまま釣り上げるかのようにホラーを持ち上げ、自分の方に引き寄せる。

逃れようとするホラー。しかし大和はそれを許さず、ホラーの身体に魔戒剣を突き立て、横一文字に斬り裂いた。

残り三体。

 

「っ! しまった!!」

 

その時だった。

彩牙と相対していたホラーのうち一体が彩牙と鍔迫り合いをしている隙に、もう一体が頭上を飛び越えて行ったのだ。すかさず大和が追撃しようとするものの、残ったホラーに飛びかかられて動きを封じられてしまい、逃してしまった。

ホラーが逃げた先を見て、彩牙は肝が冷えた。何故ならその先は――

 

 

 

海未たちが逃げた先なのだから。

 

 

 

「彩牙! 追え!」

 

「はい!」

 

すかさず鍔迫り合いをしていたホラーを斬り払い、逃げたホラーの後を追う彩牙。

その後を追おうとするホラーの前に、大和が立ち塞がる。

 

「通しはせぬぞ」

 

金切り声を上げ、道を開けろと言わんばかりに威嚇するホラー。

それを前に、大和は静かに魔戒剣を逆手に持ち変え――

 

「――ムンッ!」

 

その剣先で甲高く――それでいて静かな音を響かせて地面を突いた。

すると剣先で突いた箇所からまるで波紋のように蒼い光の輪が広がっていく。やがてそれが大和の身体を覆うほどの大きさになった瞬間、光の輪は円となり、その円を突き破るかのように鎧のパーツが飛び出し、大和の身体を包んでいく。

 

鎧が飛び出してから装着されるのは一瞬だった。

それはガロと同じように狼を模り、そしてガロ以上に重厚感のある造りとなった鎧だった。

各所に波を彷彿させるような意匠が刻まれ、その身を彩るのはまるで海を思わせるような深い深い、蒼。

金色の瞳がホラーを睨み、狼の唸り声が響き渡る。そして手に持つ魔戒剣は、音叉を彷彿させるような二又の異形の大剣へと変質していた。

 

これこそが鬼戸大和が纏う鎧。

その名は――イブ。

 

 

 

――波紋騎士・威武(イブ)!!

 

 

 

『――参る!』

 

その言葉が引き金となり、ホラーが二方向から同時に飛びかかる。

襲い掛かるホラーを前に、イブは異形の大剣――波紋剣の刃を左手の甲に擦り合わせるように構え、ただじっと静かに待ち構える。

 

牙を剥いて喰らいつかんと、爪を伸ばして斬り裂かんとするホラー。

それでもイブはただじっと構え、波紋剣と左手の甲を擦り合わせる。

――まるで、何かを溜めこむかのように。

 

『……ハアッ!!』

 

あと少しでイブにホラーの爪が届きそうになった瞬間、遂にイブは動いた。

雄々しく、それでいて弦楽器の弦を弾くかのような軽やかな動きで左手の甲を擦るように波紋剣を引き、振りぬいたのだ。

火花が散り、その剣の軌跡を示す――と同時に、うっすらとした光の輪が波紋のように剣先から広がっていく。

ホラーがその波紋に触れた瞬間、その身体は空中でピタリと止まった。

 

『ギッ!? ギギッ!?』

 

――いや、止まったのではない。止められたのだ。

あの波紋を浴びた瞬間、ホラーの身体にまるで高圧電流を浴びたような衝撃が流れ込み、その動きを封じたのだ。

今、二体のホラーは空中に縫い付けられたかのように動きを止めていた。

そしてそんなホラーをみすみす見逃すほど、魔戒騎士は甘くはない。

 

『ギイィィィッ!!』

 

片方のホラーの眉間にイブの波紋剣が突き刺さり、そのまま下に振り下ろしてホラーの身体を縦に両断する。

真っ二つとなったホラーは、黒い粒子となって消滅した。

 

そして残ったもう一体のホラーは一矢報いんとでもするかのように、剥き出しになった牙をイブ目掛けて弾丸のように射出した。

背を向けていたイブ。ホラーの放った牙はイブの首筋を狙っていた。

仕留めた――そんな風に思いでもしたのか、青い複眼が妖しく光った。

 

 

 

 

 

『甘い』

 

だがそれは、大きな誤りでしかなかった。

イブは背後に目を向けることなく、波紋剣を後ろに向けて牙を受け止め、弾き返し――

 

 

返って来た牙は、ホラーの複眼に突き刺さった。

 

『――ギッ、ギ、ギギギギギギギギギィッ!!』

 

激痛――それも予想以上のそれが、ホラーの身体を蝕んでいく。

ただ眼に突き刺さったからではない。返って来た牙は振動を繰り返し、ホラーの肉体を削っていたのだ。そしてその振動はどんどんと強くなり、更に深く削っていく。

ホラーを斬るという意志を、波紋剣からそのまま持ってきたかのように。

そう、さながら波のように。

 

『――――――!!』

 

そうして自分の牙に身体を削り取られ、食い散らかされたような有体となったホラーはもはや鳴き声とも言えない、言葉にならないような断末魔を上げて消滅していった。

圧倒的ともいえる力で、瞬く間にホラーを討滅したイブ――大和。

一人佇む彼は彩牙が向かった方向を、ただ静かに見つめていた。

 

 

 

**

 

 

 

「ここまでくれば大丈夫でしょうか……」

 

「わ、私……もう走れないよぉ~」

 

そのころ、彩牙の手によりホラーから逃げていた海未たちは公園の近くに辿りついていた。

命が懸かっていることもあり、脇目もふらず全力疾走した結果か、三人ともダンスで体力がついていたにもかかわらずすっかりバテきってしまっていた。

とは言え、ここまで逃げ切ればさすがに大丈夫か――そう安堵した。

しかし、天はそう簡単には微笑んではくれない。

 

 

 

 

 

『ギギギギッ!』

 

「ひっ!」

 

「そ、そんな……!」

 

あのホラーが海未たちに追いついたのだ。

たった一体とはいえど、海未たちには手も足も出ない相手。逃げようにも完全にバテてしまい、足がうまく動かない。

万事休す――襲い掛かるホラーを前に、そう思った時だった。

 

「――海未ぃぃぃぃっ!」

 

「っ、彩牙くん!」

 

追いついた彩牙がホラーを捉え、海未たちから引き離した。

ホラーの爪と彩牙の剣が斬り結び、火花を散らしていく。彩牙の眼球を抉り出さんと繰り出された、ホラーの爪。それを彩牙は魔戒剣を振るって腕を斬り落とし、ホラーの胴体を蹴ってその反動で距離を取る。

その時、まるで射出されたかのようにホラーの牙が飛び出し、彩牙に喰らいつこうと迫る。

魔戒剣で弾き飛ばそうと構える彩牙。牙が彩牙の間合いに入った、その時だった――

 

 

「――なにっ!?」

 

どこからともなく飛んできた銀色の軌跡が彩牙の身体スレスレを通り、牙を弾き飛ばしたのだ。

銀色の軌跡は、回転しながら飛翔する一振りの剣だった。剣はそのまま勢いを殺さないまま飛翔し、ホラーのもう片腕を斬り落とした後、どこかへと消えていった。

何が起きたのかわからないが、絶好の好機。両腕と牙を失ったホラー目掛け、彩牙は駆け出した。

 

駆けながら魔戒剣で円を描き、ガロの鎧を召還する。

鎧を纏うと同時に足を強く踏み出して一気に飛び出し、距離を詰めるガロは牙狼剣を振りかぶり、ホラーの下に到達すると同時に一気に振り下ろした。

袈裟にかけて斬り裂かれ、両断されたホラー。その身体は黒い粒子となって消滅し、邪気が感じられなくなったことを確認するとガロの鎧を解除した。

 

「……あっけないな」

 

(ああ。しかし初めて見る奴だったな)

 

 

「彩牙くん!」

 

「こ、怖かったよぉ……!」

 

「よかった……三人とも無事だったか」

 

駆け寄る海未たちに、安堵の表情を浮かべる彩牙。

守りきることができたと安堵していたのも束の間、先の戦いで謎の剣が現れ、そして消えていった場所を険しい表情で見つめる。海未、穂乃果、ことりもつられるようにその場所へ視線を向ける。

 

そこにはただ闇が広がっていた。

……いや違う。闇が蠢いていた。

…………それも違う、蠢いていたのではない。人だ。闇に溶けていたかのように、人が現れたのだ。

 

それは少年だった。

黒いコートを身に纏い、サングラスで目元を隠し、首からは犬の頭の男性の顎が融合したかのような銀色のペンダントを下げていた。

そしてその手には先の戦いのときにホラーの牙を弾き、腕を斬り落としたであろう、奇妙な形状の――まるでブーメランのような形状の剣を携えていた。

口元だけで不敵に笑うその少年に、彩牙は自分と似たような雰囲気を感じていた。

 

「……さっきのは、お前が?」

 

「ああ。ま、そのままお前ごと斬っちゃってもよかったんだけど」

 

その言葉により一層鋭い視線を向けると「冗談だよ冗談」と、おどけたように笑う少年。

どこか不安そうに彩牙と少年を見つめる海未たち三人は、張り詰めたような空気を感じていた。そんな状況にも関わらず笑う少年の存在が一層そう思わせているように感じた。

 

「……っと、俺としたことが自己紹介もまだだったな」

 

そう言うと少年は改めるように、仰々しくお辞儀をして口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺の名は“コテツ”、お前と同じ魔戒騎士さ。

 

 

 

 

 ――よろしくな? 黄金騎士サマよ」

 

 

 

***

 

 

 

花陽「夜に並び立つ二つの牙」

 

花陽「それは闇を斬る二つの牙」

 

花陽「……どちらも志は同じはずなのに、どうしてなの……!?」

 

 

花陽「次回、『灰塵』」

 

 

 

花陽「ぶつかり合う、禁じられた刃!」

 

 

 





魔戒指南


・ 鬼戸大和
元老院付きの魔戒騎士。虹の管轄にはホラーの異常発生の調査のために訪れていた。
寡黙な壮年の男性で、彩牙の父・虹河とは古くから共に戦う戦友だった。
手にする魔戒剣は彩牙のそれよりも長い長剣となっている。
また、魔戒法師としての腕も一級で、戦闘では魔戒剣の他に魔戒符や魔導筆による術を駆使して戦う。
前回(第4話)でオルトスが渡した魔戒符を作ったのも、他ならぬ彼。


・ 波紋騎士・威武
大和が纏う鎧。瞳の色は金色。
海のような深い蒼色に、各所に波の意匠が刻まれた鎧。
魔戒剣は音叉を彷彿とさせる二又の異形の大剣・波紋剣へと変化し、相手の動きを封じる“波”を刀身から放つ他、受け止めた相手の攻撃を波のように増幅して返すことが可能。




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第6話  灰塵

Aqoursのダイヤお姉ちゃんを演じる小宮有紗さんことありしゃが炎の刻印劇場版に出演することでなんだかテンションが上がってます。
まあPV見る限りホラーっぽいですけど、ダリオの中の人はカイジだし。

今もゴーストにゲスト出演してますし、これで戦隊、ウルトラマン、ライダー、牙狼を制覇したことになりますね。
Aqours、またはμ'sから彼女の後を追う人は出てくるのでしょうか・・・・


 

 

 

 

 

 

――音ノ木坂、屋上

 

「……ね、ねえ。どうしたのかな」

 

「わかりません。私が来た時にはすでに……」

 

「これはちょっと……練習どころじゃないというか……」

 

夏の日差しが照り付ける中、今日も今日とて練習をしようと集まったμ’sのメンバー。

だが集まったはいいものの、その場に漂う雰囲気が中々練習を始めようという空気にさせずにいた。

照り付ける夏の日差し――?それは違う。確かに暑いがそれなら精々穂乃果やにこがややげんなりして愚痴を漏らす程度だ。練習を躊躇させるほどではない。

 

答えは負の感情だ。怒り、憤り、軽蔑――そんな負の感情がこれでもかと込められたオーラが屋上を包み、やって来たメンバーたちを圧倒していた。

そしてそのオーラを出していたのは――

 

「……」

 

「ま、真姫ちゃん。とりあえず落ち着こ、ね?」

 

「私は落ち着いてるわよ!」

 

一年生でμ’sの作曲担当――真姫だった。

普段は知的な雰囲気を浮かべているその表情には隠しきれない怒りの感情を覗かせ、苛立ちを感じさせるかのように不機嫌なオーラを撒き散らし、時折何かを思い出したかのようにより一層眉間に皺を寄せていた。

花陽が必死におだててはいるものの、その憤りは自分でも抑えきれていないようだった。

 

「どうすんのよ……暑いうえにこの雰囲気とか……」

 

「そうですね……真姫があそこまで怒りを露にするなんて一体何が……」

 

げんなりとした様子のにこに口合わせする海未。

彼女たちの知る限り、確かに真姫はムキになって感情的になりやすいところがある。しかし元が常識的で賢いところもあってか、少し置けば冷静さを取り戻し、己の行いを反省することができる少女だ。

それが今はご覧のように怒りを露にし、落ち着かせようとする花陽の言葉も耳に入らないようだった。周りを見る限りμ’s内でトラブルがあったようにも見えない。

一体何が真姫をここまで憤らせているというのか。

 

「真姫ちゃん、昨日のことまだ気にしてるのかな……」

 

「何か知ってるの?凛ちゃん」

 

不安そうな表情で呟いた凛にことりが尋ねると、凛は一瞬真姫をちらりと見ると昨日あったという出来事を語り始めた。

花陽と真姫と三人で出かけている時に乱暴な男たちに襲われたこと、その男たちからサングラスをかけた黒いコートの少年に助けられたこと、でもその少年も男たちと同じように自分たち目当てだったということを。

話を聞いた直後、驚愕と心配が織りまざった表情を浮かべた絵里が凛に詰め寄った。

 

「襲われたって……三人とも怪我はないの!?」

 

「うん、大丈夫だったよ……でも、それから真姫ちゃんずっと怒ってて……凛もかよちんもどうすればいいのかわかんなくて……」

 

「まったく……これだから男ってやつは……」

 

普段の元気いっぱいの様子はどこへやら、おろおろとした様子を見せる凛。

親友が覗かせる負の感情にどう対応していいのかわからないのだろう。普段の真姫を取り戻したいという思いと、どうすればいいのかわからないという不安が混在していた。

 

そしてそんな凛を可哀想と思うと同時に、海未にはある気がかりがあった。それは凛が言った、サングラスをかけた黒いコートの少年。

海未の記憶が確かならばこの真夏にそんな恰好をしている人間など1人しかいない。

昨夜、ホラーに襲われた際に……海未と穂乃果とことり、そして彩牙の前に現れたあの少年。

 

 

――魔戒騎士・コテツ

 

 

 

 

 

 

――時間は巻き戻り、昨夜

 

「俺の名はコテツ、お前と同じ魔戒騎士だ。よろしくな?黄金騎士サマよ」

 

そう名乗った黒いコートの少年――コテツ。

自分と大和に加えた新たな魔戒騎士――恐らくは同年代であろうそれを前に、彩牙は訝しげな表情を浮かべていた。

 

「魔戒騎士だと……?」

 

「そ、お前の同業者ってヤツ。今日は栄えある黄金騎士サマにご挨拶ってことで」

 

「……俺は彩牙だ。黄金騎士サマなんて名前じゃない」

 

「おっと、こりゃ失礼」

 

彩牙とコテツの間に漂うピリピリとした空気に、海未たちは不安を覚えずにはいられなかった。

魔戒騎士だというならば、二人は志を同じくする仲間のはずだ。だというのになぜここまで張り詰めた空気に満ちているのだろうか。

その疑問に答える声が、その直後に響き渡る。

 

『それにさっきは狙ってやったくせに、挨拶なんてよく言うぜ』

 

『申し訳ございません。私は止めたのですが……』

 

「ゆ、指輪とペンダントが喋った!?」

 

響き渡るザルバの声と紳士然とした男性の声。

コテツの首に下げられたペンダント――犬の頭と男性の顎が融合したようなそれが喋ったことに驚く穂乃果やことりをよそに、彩牙とザルバ、そして海未はすぐさま察した。

魔戒騎士が身につける喋る装飾具――ザルバと同じ、魔導具であることを。

 

『申し遅れました、私は魔導具“ゾルバ”と申します。この度はコテツがとんだご無礼を……』

 

「ちょっと黙ってろよゾルバ」

 

ペンダント――魔導具ゾルバの口を鬱陶しそうに塞ぐコテツ。

そんなコテツを前に、彩牙は自分の考えが当たっていたことを確信した。

先の戦いの際、コテツはホラーを狙おうとして彩牙が巻き込まれたのではない。初めからホラーと彩牙の両方を狙っていたのだ。

どんな理由があるにしろ、自分に牙を剥けるような相手とそうそう仲良くなれる筈がない。彩牙はより一層鋭い視線をコテツに向けた。

 

「……あらら。嫌われちゃったか?」

 

「当然だと思わないのか」

 

「んー……まあいいか。さっきも言ったけど挨拶のつもりだったし」

 

それだけを言うと、くるりと踵を返して背中を向けるコテツ。

 

「近いうちにこっちの番犬所にも顔を出すからさ。精々後ろから刺されないように気をつけろよー」

 

「……お前がそれを言うのか」

 

睨むような視線を向ける彩牙の言葉を背に受けながら、ひらひらと手を振って闇の中に消えていくコテツ。

そうして完全に姿が見えなくなったころを見計らったように、ザルバが口を開いた。

 

『面倒な奴が出てきたな、小僧』

 

「そうだな……」

 

ホラーとはまた別の、底の見えない謎の魔戒騎士・コテツ。

その登場に、彩牙の警戒心は高まるのだった。

 

「あの、彩牙くん……」

 

「っと……そうだ。三人とも、このまま送って――」

 

――さて、それはそうとコテツの登場でこれまで蚊帳の外になってしまっていたが、大和の方も無事にホラーを討滅できたことだろうし、海未たちを家まで無事送り届けなければいけない。

そうして背後に隠れさせていた海未たちに向き直ると――

 

「「………」」

 

「……あの、高坂さん?南さん?」

 

そこでは穂乃果とことりが彩牙を――いや、彩牙の指に嵌ったザルバをじぃっと見つめていた。

その視線がやけにキラキラしているように見えるのは気のせいだろうか――彩牙と海未は同時にそう思った。

そしてそれは的を獲ていたと直後に思い知ることになる。

 

「………か……」

 

「か?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「「……かっわいい!!」」

 

穂乃果とことりが発した黄色い悲鳴に驚き、思わずびくりとした彩牙と海未。

そんな二人を無視するかのように、穂乃果とことりは彩牙の指にあるザルバを手に取ってさらに捲し立てる。

 

「凄いよことりちゃん!指輪が喋ってる!」

 

「うん!髑髏だけど怖すぎずにデフォルメしてる感じで可愛いよ!」

 

『ほう、嬢ちゃんたち見る目はあるようだな』

 

「わっ、すっごいカッコイイ声! 可愛いくてカッコいいなんて反則だよ~♪」

 

「ね、ね! あなたお名前はなんていうの?」

 

『俺様の名はザルバだ。よく覚えておいてくれよ、目の利く嬢ちゃんたちよ』

 

「ふむふむ……じゃあザルちゃんだね!よろしくぅ!」

 

『ざ、ザルちゃんだと?』

 

「よろしくね、ザルちゃん♪ わぁ、頭の撫で心地気持ちいぃ~♡」

 

『ザルちゃんはやめろ。……っおい、頭を撫でるな』

 

これでもかという勢いでザルバを愛でる穂乃果とことり。

先程までの張り詰めた空気はどこへやら、穂乃果とことりの出す和やかな雰囲気がいつの間にか辺りを包んでいた。

彩牙と海未は顔を見合わせた。互いに苦笑いではあるが、先までの緊迫していたものとは違い心からの穏やかな表情を浮かべていた。

ザルバには悪いがもう少しこの空気でいさせてもらおう。そんな明るい雰囲気のまま、4人は帰路についたのだった。

 

 

 

 

 

 

――あの人は、凛たちにも会っていたのですか?

 

 

時は戻り、現在。

凛の話を聞き、昨夜の出来事を思い出していた海未は、コテツという人間が掴めずにいた。

男たちに襲われた凛たちを助け、心が不安定だった彼女たちをナンパした姿。ホラーを斬るのに彩牙を巻き添えにしようとした姿。一体どれが本当の姿なのだろう。

いや――そもそもこの中に彼という人間の本当の姿があるのだろうか。

 

そしてもう一つ。

確かに真姫は怒るだろう。自分たちを助けてくれたと思った相手が、実は男たち同様に自分たち目当てだったのだから。

だがそれでも腑に落ちない。いくらコテツに幻滅したとはいえ、それなら話題に出さないなり忘れようとするなり色々あるだろう。真姫という人間の性格を考えれば少なくともそうするはずだ。

 

だが実際の彼女は周囲にピリピリと伝わるほどに怒りを露にしている。

一体何が彼女をそこまで苛つかせているというのか。

そうして考えに集中し、真姫本人から意識が逸れていた時だった。

 

 

 

「――きゃあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」

 

屋上に、真姫の甲高い悲鳴が響き渡った。

一体何事か――!?

皆が視線を向けるとそこには一体いつの間に忍び寄っていたのか、真姫の背後を取っていた希が真姫のやや小ぶりな胸をしっかりと鷲掴みにしていた。所謂わしわしMAXだ。

 

唖然とし、トラウマを思い出したのかさっと胸を庇う一部のメンバーたち。

その中で被害者の真姫は胸を鷲掴みにされている感触と羞恥で顔をみるみる真っ赤に染め、背後の希に思いっきり振り返った。

 

「なっ、ななななな何するのよ!?」

 

「おぉ、真姫ちゃん前よりちょっと大きくなってるんやない?」

 

「イミワカンナイこと言わないでよっ! 一体何のつもりよ!」

 

希を振りほどき、彼女のわしわしから逃れる真姫。

対する希は一瞬だけ名残惜しそうな表情を浮かべたが、すぐに優しげな表情になり、口を開いた。

 

 

 

「真姫ちゃんはさ、自分が許せないんやろ?」

 

「は、はあ!?」

 

「昨日会ったって言う男の子のこと、その子のことを簡単に信じちゃった自分が許せないんやろ? ひょっとしたら花陽ちゃんや凛ちゃんが危ない目に合ったかもしれないのにって」

 

「――! な、なによ!人のこと見透かしたようなこ――!」

 

希の言葉にドキリとし、反論しようとした真姫。

だが言い終わる前に希が真姫をぎゅっと抱きとめ、その言葉を遮った。

希の暖かな包容力に包まれ、戸惑いつつもそれまで抱いていた怒りが引いていくのを感じる真姫。そんな彼女を抱きとめたまま、希は優しい声色で話しかけていく。

 

「隠さなくていいんよ、真姫ちゃんが優しい子だってわかってるから。だからついつい怒っちゃったんやろ?花陽ちゃんと凛ちゃんのために」

 

「わ、私は別に……!」

 

 

 

 

 

 

「でも、それだったら真姫ちゃんが二人を不安な顔にさせちゃダメだよね?」

 

「……あ……」

 

希の言葉にふと思い出したかのように振り返る真姫。

そこには他のメンバーと一緒に、真姫を心配そうに見つめる花陽と凛の姿があった。

 

そういえばと、冷静さを取り戻した頭で真姫は思い出した。

今日一日、朝から花陽と凛の笑顔をまともに見てなかったような気がする。

それは自分が怒っていたから、昨日の少年のこと、そして油断していた自分に怒り、その感情を周囲に撒き散らせてしまっていたためだ。

音ノ木坂に入って初めてできた友達を不安にさせてしまった。真姫は自分がしてしまったことを理解し、熱が急速に冷めていくのを感じた。

 

「わかった?……それじゃあどうすればいいか、わかるやろ?」

 

優しい声の希に促され、花陽と凛に向き直る真姫。

自分のしたことに気まずくなったのかクルクルと髪を弄ったがそれも束の間、決心したかのように二人の顔を見据え、そわそわしつつもはっきりとした口調で話し始めた。

 

「その……二人とも、ごめんなさい。私、頭に血が昇って……」

 

「……真姫ちゃん……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……にゃーっ! 凛も真姫ちゃんのこと、だーい好きだよ!!」

 

「うぇええっ!?」

 

――ガバッ。

そんな擬音が聞こえるかのような勢いでさながら猫のように真姫に抱き着く凛。

そんな凛に戸惑っていると、誰かが真姫の手を取った。

 

「真姫ちゃん!そこまで想ってくれてたなんて……私も真姫ちゃんのこと、大好きだよ!!」

 

「は、花陽まで!?」

 

花陽だった。

涙を浮かべてはいるが、その表情には溢れんばかりの笑顔が浮かんでいた。

 

「さあさあ!あんな男の人なんか忘れて今日はパーッといくにゃー!」

 

「……も、もう! これじゃあうじうじしていた私がバカみたいじゃない!」

 

せめて一言二言くらいは文句を言われるかと思った二人の友人に責められることなく、笑顔で詰め寄られ、戸惑いを見せて憎まれ口を言う真姫。

だがその表情には隠しきれない、確かな笑顔が浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

「……どうやら、上手く納まったようですね」

 

「そうだね、一時はどうなることかと思っちゃったけど」

 

そんな仲睦まじい1年生三人を見つめる、海未や穂乃果をはじめとしたμ’sメンバー。先程までの張り詰めたような空気が消え、平穏さを取り戻したことに誰もが胸を撫で下ろしていた。

 

「今回は希先輩に助けられちゃったね」

 

「ええ。流石ね、希」

 

「そんなことないよー。ウチはただ、真姫ちゃんが素直になれるようお手伝いしただけやし」

 

隣に戻って来た希に褒めたたえるような言葉をかけることりと絵里。

そうは言うが、たとえそうだとしても希の行動がこの騒動の解決のきっかけになったことは事実だった。

だから誰もが、希に――μ’sを優しく見守る母に感謝していた。

……まあ、真姫にしたわしわしMAXに、穂乃果とにこはトラウマを思い出して震えあがっていたが、それは隅に置いておこう。

 

「さあ、一件落着したことだし、そろそろ練習始めましょう」

 

「ええ。夏休みにもなりましたし、これまで以上に気合を入れませんと!」

 

「お、お手柔らかにオネガイシマス……」

 

「真姫ちゃん、いこう!」

 

「ちょっ、そんな引っ張らないで!」

 

それでは気持ちを切り替えてと、絵里の号令をもとに和気藹々と練習の準備を始めるメンバーたち。海未の言葉に少々顔を引きつる者もいたが、怠けようとする様子や気持ちは見られなかった。

 

 

そしてその一方で、海未は思考を巡らせていた。

――コテツ。

同志であるはずの彩牙を巻き添えにしようとして険悪な仲を作り、その上真姫たちに手を出しかけ、間接的にとはいえ自分たちをも巻き込んだあの魔戒騎士。

彼が現れて、面倒なことばかりが起きているような気がした。

 

――これ以上、変に拗れなければいいのですが……

 

これからのこと、そして彩牙のことを想い、海未は日差しが照り付ける夏の青空を見つめるのだった。

 

 

 

**

 

 

 

「厄介なホラーが現れた」

 

時を同じくして、番犬所。

呼び出された彩牙を出迎えたのは、いつになく険しい表情のオルトスだった。その言葉を補足するかのように、彼女の隣に佇んでいた大和が口を開いた。

 

「昨夜、私とお前が戦ったホラーだが、妙に思わなかったか? 何故素体ホラーではないのに同じ姿をしているのかと」

 

「……そういえば……」

 

大和の言葉に、彩牙は違和感に気づいた。

ホラーとは人間に憑依する前は一部を除き、全く同じ姿をした素体ホラーと呼ばれる姿をしているが、憑依した人間の陰我に応じてそれぞれ独自の姿形を取るのだ。

しかし昨夜戦ったホラーは全て素体ホラーでないにもかかわらず、一寸違わぬ姿をしていたのだ。これでは辻褄が合わない、どういうことなのだろうか。

 

 

『……そうか、昨夜のアイツらはレギオンか』

 

「レギオン?」

 

納得がいったかのように呟くザルバ。

それに対する彩牙の疑問に答えるかのように、オルトスが口を開いた。

 

「左様。ホラー・レギオン、他のホラーや人間を自分そっくりな兵に変えてしまう厄介な奴じゃ」

 

――ホラー・レギオン。

それは自分に似せた兵を作り、群体として行動する特殊なホラー。

レギオンは自らの肉の一部を他の生物に埋め込むことでその肉体をホラーに作り替え、どんな命令にも従う兵隊に変えてしまう能力を持つ。その兵を利用して人間を攫い、捕食するのだ。

兵にする対象となる生物は人間はおろか、同胞たるホラーにまで及ぶ。しかも対象が生物として高等であればあるほど強力な兵となるおまけつきだった。

 

「まるで病原菌のような奴じゃ。おまけに奴は固定の姿を持たず、憑依するたびに全く違う姿をとる」

 

「それ故に魔導具でも一目でレギオンと判断するのは難しい。過去には発見が遅れ、街一つを埋め尽くさんほどに大発生したという記録もあるほどだ」

 

だから昨夜戦った時、ザルバはホラーに見覚えがなかった。出現するたびに姿が変わるため、ただの一ホラーとして見てしまったのだ。

集団で現れない限り決して正体が悟られずに兵を生み出し続け、その気になれば一個大軍を作ることだって可能なホラー。

確かに厄介な相手だ。オルトスと大和が揃って険しい顔をするだけはある。

 

 

「それを倒すのが今回の指令、ということですか」

 

「その通り、お主たち“三人”でこれ以上兵を増やす前にレギオンを突き止め、討滅するのじゃ」

 

「……三人、ですか」

 

彩牙は、ちらりと自分の隣に視線を向ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほー……そりゃあまた責任重大だな」

 

『着いて早々、大変な仕事が舞い込んできましたね』

 

へらへらとしたような笑みを浮かべる黒いコート纏う少年。

そこにいたのは昨夜彩牙をホラーごと狙った魔戒騎士・コテツだった。

確かに近いうちに番犬所に顔を出すとは言っていたが、自分を狙った相手がさも当たり前のように隣にいることに、彩牙は険しい表情を浮かべていた。

 

「この男も加わるのですか」

 

「おいおい、つれないこと言うなよ。仲間だろ?」

 

どの口が言うのかと、彩牙は思った。

昨夜の攻撃、あの時僅かではあったが自分に対する確かな敵意が感じられたのだ。

その上で仲間と言うなどと、白々しいにも程があると思った。

 

「当然じゃ、そやつはホラーの異常出現に対してわしが呼び寄せたのじゃ。若者同士仲良くせい」

 

「そういうこと。それとも黄金騎士サマは他人と協力するのが不服か?」

 

オルトスの言葉に便乗するかのように挑発するコテツ。

――この男とは根本的にウマが合いそうにない、彩牙はそう思った。

 

 

「……わかりました。レギオンは必ず討滅します」

 

心の内で燻り始めた憤りを抑え、コテツから意識を逸らして使命を果たすことに意識を向ける彩牙。

自分は魔戒騎士だ。例えこの男がどれだけ気に喰わない相手であっても、それを理由にホラー討滅を怠るなどあってはならないことだ。ここは堪えるべきだ。

そう思い、コテツに対する怒りで我を忘れる前にとくるりと背を向け、レギオン探索のために番犬所を後にしようとする彩牙。

しかし―――

 

 

 

「昨日お前と一緒に居た、黒髪の子」

 

その背に向けて放たれたコテツの一言が、彩牙の足をピタリと止めた。

 

「カワイイ子だったよなぁ、ずっとお前のことチラチラ気にかけてて。彼女か?」

 

「………」

 

彩牙は背を向けたまま、何も答えない。

だんまりを決め込んだかのように佇むその背中に、コテツは更なる言葉を投げかけていく。

 

「ま、俺にはどうでもいいし、何だっていいけどよ。精々気をつけろよ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――うっかり斬っちゃったりホラーに喰われでもしたら、一大事だからさ?」

 

「―――!」

 

嘲笑うように放たれたコテツの言葉。

それが我慢の限界だった。怒りを露にした彩牙は目を見開きながら振り向き、乱暴な音がしそうな足取りでコテツに近づき、その襟首を掴み取った。

それでも尚、コテツは嘲るような笑みを崩そうとしない。それが一層彩牙の怒りを買った。

 

「お前が何を企んでいようと、俺に刃を向けようと関係ない。だがな……彼女に手を出してみろ!俺はお前を決して許さないぞ!」

 

瞳孔が開き、より一層深い怒りをコテツにぶつける彩牙。

この男がどんな理由で自分を狙ったのかはわからない。もしかしたら記憶を失う前の自分に原因があったのかもしれない。それならまだ堪えることが、受け入れることができた。

だがコテツは、何の関係もない海未を手にかけようと暗に言った。

大切な人を手にかけようとすること。そのことが、彩牙には我慢できなかった。

 

「ふーん、熱いねぇ………そんなにあの子が大事か。

 

 

 

 

 

  ―――でもな」

 

それまで浮かべていた嘲るような笑みを潜め、突如としてサングラスの上からでもわかるような鋭い表情を覗かせるコテツ。

コテツが初めて見せた、人を喰ったような笑顔以外の――怒りの表情だった。

 

「自分だけ大事な人を守れると思ったら、大間違いだぜ?」

 

コテツの襟首をつかんでいた彩牙の腕を掴み取り、締め上げようとするかのような力を籠めて腕を引き剥がそうとする。彩牙も負けじと引き剥がされないように襟首をつかむ手に力を籠める。

怒りが込められた鋭い視線で互いを睨み合う彩牙とコテツ。

あわやこのまま殴り合いにまで発展するのではないかと思われた、その時――

 

 

 

「やめぬか、この馬鹿ども」

 

有無を言わせないオルトスの声が、二人の怒りを強制的に鎮めた。

見下すような――愚者を裁く審問官のような視線を彩牙とコテツに向けるオルトス。

声だけではない、その視線も争いに発展しかけていた二人を鎮めるには十分すぎるほど冷たいものとなっていた。

 

「わしの目の前で争おうとするとはいい度胸じゃ、それなりの覚悟はあるんじゃろうな?」

 

「魔戒騎士同士で争ってはならない。この絶対の掟を忘れたわけではあるまい」

 

『コテツ、ここは抑えてください』

 

『小僧、少しは頭を冷やせ』

 

オルトスに同調するように、大和もまた罪を咎めるような視線と言葉を二人に向ける。これ以上争おうとするなら容赦はしないと言外に添えて。

それらを受け、彩牙とコテツは互いを掴み取っていた手を静かに放した。

最も、その視線は火花を散らすかのように相変わらず互いを睨むようなものだったが。

 

「……さっきの言葉、忘れるなよ」

 

「そっちこそ、自分が正しいのかよーく考えてみるんだな」

 

喧嘩別れ――と言うには余りにも殺伐とした雰囲気。

途轍もなく険悪な空気を残したまま、彩牙とコテツはそれぞれが入ってきた出口から番犬所を後にしたのだった。

そして大和もまた、若さゆえに暴走しがちな若者二人に頭を抱えつつ、レギオン捜索のため番犬所を後にした。

 

そうして残ったのは、オルトス1人。

犬猿の仲もいいところの二人の若者とそれに頭を抱える熟練の騎士がいなくなり、オルトスは呆れたような表情を浮かべ、どっと疲れたように溜息を吐き出しながらソファに座り込んだ。

 

「まったく、最近の若造はどーしてああも怒りっぽいんじゃ」

 

ソファに身体を預けるように深く落とし、所在なさげに手をヒラヒラとさせながらオルトスは考える。

先の彩牙とコテツ。あの場ではいったん収まったがどこからどう見ても当人達二人は納得していない様子だった。

だがそれも当然だろう。彩牙の中ではコテツは仲間と言うよりはその皮を被って後ろから刺さんとする敵になりかけているのだ。

コテツもその真意はわからないが、少なくとも彩牙と仲良くやろうとする気は皆無だった。

 

ふとしたきっかけがあれば今度こそ争い合う――掟破りをしかねない二人の騎士を考えながら、オルトスはぽつりと呟いた。

 

 

「……二人とも仲良くしてくれると良いのじゃがのぉ」

 

自分で言ったその願望が、オルトスにはひどく薄っぺらく空虚なものに聞こえた。

 

 

 

**

 

 

 

番犬所を後にし、音ノ木坂の裏に抜け出た彩牙。

番犬所から出た瞬間に彼の目に差し込んできたのは一筋の強い光――しかしどこか暖かみを感じる陽の光。そこで彼は、もうすでに夕方になりつつあることに気が付いた。

暑さこそはあるものの真昼とは違って優しさが感じられる陽に照らされ、彩牙は先程までのコテツに抱いていた激しい怒りが徐々に引いていくのを感じた。

 

――不思議とこの街は、気持ちを落ち着かせてくれる。

 

この街は――特にこの音ノ木坂近辺で浴びる夕陽は、とても心が安らぐように感じていた。

神田と秋葉原に挟まれて小さくひっそりと、でも古くから続いてきたこの街並みがそうさせているのか、そこに暮らす人々の暖かさがそうさせているのかはわからない。

だが確かなことは、怒りを自然と鎮めてくれるこの街は、とてもいい街だということだ。この街に根付く音ノ木坂という学校を守りたいという海未たちμ’sの気持ちも、少しはわかるような気がした。

 

ここに暮らす人々を守っていきたい。

そう思い、レギオン探索のために音ノ木坂の裏から校門前の大通りに出た時だった。

 

 

 

 

 

「――彩牙くん?」

 

横からかけられた、聞き覚えのある声。

もしやと思い、振り向いた先。そこには練習帰りなのか、ノースリーブのカーディガンが特徴の音ノ木坂の夏服に身を包んだ9人の少女たち――

 

「……海未、それにみんな?」

 

海未をはじめとしたスクールアイドル・μ’sの面々がそこにいた――

 

 

 

 

 

 

「おばちゃん! 私はこの苺たっぷりのやつ!」

 

「凛はこっちのバナナのやつがいいにゃー!」

 

秋葉原の大通りから外れた小さな通り、そこに響き渡る穂乃果や凛の元気いっぱいな声。

それを見つめるのは二人の後ろで並んだり、クレープを手に持ったりしている他のμ’sメンバー――そして、彩牙。

 

ここは、以前彩牙と穂乃果が訪れた移動式のクレープ屋。

彩牙は今、海未たちと一緒にそのクレープ屋を訪れていた。

 

 

さて、どうしてこうなったのだろうか。

きっかけはそう、音ノ木坂近くで彼女たちとばったり出会った時だ。

あの時既にこのクレープ屋に向かおうとしていたらしく、そこで偶然出会った彩牙のことも旅は道連れと言わんばかりの穂乃果によって、ほとんど連行に近い形で一緒に行くことになったのだ。

初めて訪れた時と同じように。

 

「ごめんなさい彩牙くん。穂乃果が無理やり……」

 

「いや、構わないよ。ここのクレープは俺も好きだからさ」

 

そう、強引に連れてこられたはしたもの、彩牙はここのクレープが好きだった。だから困惑こそはしたものの、決して悪い気はしなかった。

……まあ、店主の女性に「モテモテだね、兄ちゃん」とからかわれた時は流石に慌てふためくとまではいかなくとも、ドキリとしたものだが。

 

そんなこんなで皆、思い思いのクレープを食べていた。

ちなみに彩牙が食べているのは抹茶アイス入りのクレープである。黒蜜とクリームの甘さの中に潜む抹茶の苦味がアクセントとなり、食指が進んでいく。

そして彼の隣にいる海未が食べているのは甘さ控えめの餡子入りクレープだった。普通のクレープ屋では中々見られないようなレパートリーの広さがこの小さな店の人気の秘密らしい。

 

そんなクレープに舌鼓を打つ彩牙の前にある人物が歩み寄ってきた。

 

「……東條さん?」

 

希だった。

同じようにクレープを持った彼女だが、何故か数歩離れたところで止まり、彩牙とその隣の海未をちらちらと順に見るかのように眺め始めた。

これまた何故かにやにやとしているような笑顔を浮かべていることに彩牙は疑問を抱き、その表情に見覚えのある海未は猛烈に嫌な予感を覚えた。

いつの間にか希の横に加わり、同じような笑みを浮かべる穂乃果がそれを余計に強くした。

そしてその予感は、例のごとくと言わんばかりに的中する。

 

 

「どうですか!希隊長!」

 

「うむ、ウチの見込んだ通りや。片や大和撫子の体現者たる海未ちゃん、もう片や精悍な佇まいの彩牙くん。

 

 

 

 

 

 ――お二人さん、結構お似合いやね♪」

 

「「!!??」」

 

希の言い放った言葉に揃って動揺し、咳き込む彩牙と海未。

幸いクレープを口から噴き出すという見るに堪えないような事態は免れたが、それでもむせて苦しい思いをしたのには間違いなかった。

いや、そんなことはどうでもいいのだ。それよりも希が言ったことの方が重要だった。

 

「とっ、東條さん!? 何を言うんだ!?」

 

「そ、そうです!何のつもりですか希先輩! 私と彩牙くんはそんな、破廉恥な……!」

 

慌てふためいて反論する彩牙と海未を前に、希はからかい甲斐があると言いたげな笑みを崩さずにいた。

そう、思春期真っ盛りの男女のような二人の反応は格好の餌――エンジンを加速させる燃料にしかならなかったのだ。

 

「えー? ウチは自分が思ったことを正直に言っただけやし、それに有力な証言があるからね。なー、穂乃果ちゃん?」

 

「はい! 私、高坂穂乃果は海未ちゃんが彩牙くんから指輪をプレゼントされたと聞きました!他ならぬ海未ちゃんからです!」

 

「えぇえええっ!?」

 

「ぬわんですってぇ!? ちょっと海未説明しなさい!」

 

「まさかあなた、不純異性交遊まで発展してるなんてことは……!」

 

「さあ海未先輩!さっさと吐いて楽になるにゃー!」

 

「してませんっ!そんな破廉恥なこと!」

 

穂乃果が暴露したことに動揺を見せ、海未に詰め寄るにこや絵里、花陽や凛。

そしてこの事態の引き金を引いた穂乃果も加わったことで、釈明する海未に詰め寄るにこ達、全力でからかう穂乃果という混沌とした場ができあがっていた。

そして彩牙は――

 

 

 

「………」

 

「彩牙くん、その時のこと詳しく教えてほしいな~♪」

 

「ウチも詳しく聞きたいなー♪」

 

(墓穴を掘ったな、小僧)

 

(うるさい)

 

同じようにニコニコとしたことりと、相変わらずニヤニヤとした希に詰め寄られていた。

混沌と化している海未の方よりかは格段に――恐らく天と地ほどはマシであるのだろうが、ザルバに毒つかずにはいられなかった。

 

さて、正直にザルバの一部だと言うわけにもいかないし、どうしたものだろうか。

ことりと希に詰め寄られ、考え抜いた彩牙が答えたものは――

 

「……南さんや東條さんたちが思ってるようなものじゃないさ。あれは……そう、魔除けみたいなものだからさ」

 

嘘は言っていない、嘘は。彩牙はそう己を納得させた。

 

「ほほう、つまりスピリチュアルなアイテムってことやね」

 

「あ、ああ。ほら、物騒なことも多いしさ、せめてお守りにと思って」

 

「そっか、ちゃんと海未ちゃんのことを想ってのプレゼントだったんだね」

 

なるほどなるほどと言うかのように頷くことりと希。

――よかった、納得してくれた。そう思い、安堵した時だった。

 

「でもね、彩牙くん」

 

「?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「海未ちゃんを泣かせるようなことをしたらことり、怒っちゃいますからね♪」

 

そう語ることりの表情は笑顔だったが、同時に有無を言わせない迫力に満ちていた。

――海未と立場が逆だった方が良かったかもしれない。彩牙はそう思った。

そして追及が無くなったという美味い話もなかった。

 

「で、肝心の渡す時はどんなんやったん?」

 

(代わりに答えてやろうか?)

 

(黙ってくれ頼むから)

 

相変わらずにやりとした笑みを浮かべる希に追及され、ザルバにからかわれて頭を抱える彩牙。

もはや乾いた笑みを浮かべるしかなくなったとき、彩牙の目にあるものが映った。

混迷と化したこの状況でどの輪にも加わることなく、少し離れていたところでちらちらと彩牙を見つめていた少女――真姫だ。

彼女は警戒しているよう――とまではいかなくとも、どこか訝しげな表情を浮かべていた。

彩牙の視線を追うようにしたことりと希も、真姫のその表情に気が付いた。

 

「……西木野さん?」

 

「真姫ちゃん、ちょっと目が怖いよ?」

 

彩牙とことりが声をかけると無意識でそうしていたのか、真姫はあっと言うような表情を見せた。

自分がしていたことをようやく気付いたのか、ばつが悪そうに髪の毛を弄り、恥ずかしそうに口を開いた。

 

「……ごめんなさい。夏にロングコートって見たらちょっとやなこと思い出しちゃって」

 

「……さっき話してた、黒コートの男の子のこと?」

 

その言葉を聞いた途端、彩牙の肩がピタリと止まった。

 

「黒コートにサングラスってのがどうにも頭に残っちゃって。関係ないのにごめんなさい」

 

「でも白いコートってのも珍しいよね、結構ボロボロやし。暑くないん?」

 

「……ああ。大丈夫だよ、これくらい」

 

もしやとは思ったが、間違いない。

この夏にロングコートを着るなど余程の物好きか、自分たち魔戒騎士以外にありえない。

そして彩牙の知る限り、“黒コートにサングラスの少年”など1人しかいない。

そう思い、彩牙は傍にいたことりに耳打ちした。

 

「……南さん、まさかとは思うけど……」

 

「……うん。私もね、話を聞いた時、あの人じゃないかって思ったの」

 

「……あいつか……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

訝しげな表情を浮かべる彩牙とことりを、真姫は不思議そうに見つめていた。

確かに同じようなコートを着ているという共通点はあるが、そこまでに気にするようなものだろうか。ただ同じような物好きがいるという事で済むのではないか。

もしかして何か知っているのかと、そう思った。

 

 

希は、そんな彩牙のことを不安げに見つめていた。

またあの目だ。ライブの時やメイド喫茶の時と同じ、訝しげな表情の中に鋭さを覗かせた目だ。

彼は一体何を想ってあの目をしているのか、何を知っているのか。希にはわからなかった。

 

そしてもう一つ。

なぜ自分は、彼にそのことを尋ねようとしないのか。――いや、“尋ねられないのか”。

どうしてかはわからない。だが尋ねようと思うと頭の中で警鐘が響くのだ。

“知ってしまったら戻れなくなる”と。

無意識――いや、むしろ防衛本能とでも言うのだろうか。知ることを恐れている自分がいた。

 

まるで昔の……内気で臆病だったころの自分が帰ってきたようだ。

だげど何時までも臆病なままではいられない。あの日、張り詰めていたころの絵里に初めて話しかけたあの時のように、勇気を出さなければならない。

例え知った先に何が待っていようとも。

 

「……あんな、彩牙くん――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――もうやめてくださいっ! 知りません!!」

 

意を決した希の言葉を遮ったのは、悲鳴にも似た海未の叫び声だった。

散々穂乃果たちにからかわれたからなのか、その顔は耳までトマトのように真っ赤に染まっていた。

よっぽど恥ずかしかったのだろう。目を潤ませ、羞恥に満ちた表情を浮かべた彼女は通りから連なる路地の中に逃げるように走り去ってしまった。

 

突然の事態に唖然とする彩牙、ことり、真姫、そして台詞を遮られた希。

そんな中で当の海未に詰め寄っていた穂乃果たちはバツが悪そうに――というよりは、引きつったような苦笑いを浮かべていた。

 

「えへへ……ちょっと、からかいすぎちゃったかな?」

 

「もう、穂乃果先輩はともかく絵里先輩まで何してるのよ」

 

「ご、ごめんなさい……」

 

呆れたように呟く真姫と、恥ずかしそうに肩を縮ませる絵里。

ともかく扱いされたことに穂乃果がプンプンと言いたげな表情を浮かべていたが、彩牙はそれを無視し、海未の走り去った方向を見つめた。

路地の中は非常に入り組んでいる。仮にも地元とはいえ、道に迷いかねないだろう。

それに悪くどい輩が出ないとも限らない。

 

「仕方ない、俺が迎えに行ってくるから皆は待っていてくれ」

 

「二人っきりだからって変なことするんじゃないわよー」

 

「はは……信用ないな」

 

半眼のにこの言葉に苦笑いしながらも、海未の後を追う彩牙。

その背中を、希は先程までの物憂げなそれを潜め、穏やかな笑顔で見つめていた。

 

騒めく心の内を隠しながら。

 

 

 

**

 

 

 

「――もうっ、何ですか穂乃果もみんなも……!」

 

走り抜けたことと羞恥で顔を赤く染め、息切れした海未が路地の中で佇んでいた。

息を吸い、膝に体重を預けながら、海未は先程までの穂乃果たちとの会話――いや、むしろ追及と言った方がいいか。それを思い出していた。

 

一言で言ってしまえば、途轍もなく恥ずかしかった。

穂乃果も絵里も花陽も凛もにこも、皆が皆海未と彩牙が付き合っているかのように問い詰めてきたのだ。特に花陽とにこは『アイドルとしてやっちゃダメ』と言わんばかりの気迫に満ちた表情で。

穂乃果なぞ「どんなことになっても私は海未ちゃんの味方だよっ!」なんて言う始末だ。味方だと言うならすぐにやめてほしかったが、生憎とその願いは届かなかった。

 

「私と彩牙くんは、そういう関係ではないというのに……」

 

気持ちと呼吸が落ち着き、頭が冴え始め、首から下げた指輪に手を添える。

海未は考える。なぜ、彼はこれをくれたのだろうか。

指輪を渡したときの彩牙は、どこかそわそわしながら顔を僅かに赤く染めていた。きっと自分も同じか、あるいはそれ以上に顔を赤くし、慌てふためいていたことだろう。

 

それだけだったらやんわりと断るなりするか、例え受け取ってもずっと身につけることなく大事にしまっておくなりしただろう。

だが海未は受け取り、彩牙の言うように可能な限り身につけるようにしていた。

それもあの時の彩牙の表情が理由かもしれないと海未は思った。

指輪を渡すときの彩牙は確かにそわそわしていた。だけどその中に別の感情が秘められていることを海未は感じた。

 

何かを誓うような固い意志、憂い、そして――罪悪感。

ひょっとしたら自分の気のせいなだけかもしれない。だけど海未はそれらをどうしても無視することができなかった。

だから彼女は恥じらいながらも指輪を受け取り、身につけた。彩牙の思いを少しでも知りたいと思ったから。

 

 

「……そろそろ、戻りましょうか」

 

たっぷりと息を吸い込んだことで頭が冴え、高揚が静まった海未は、くるりとその場から踵を返した。

いきなり飛び出して心配をかけてしまっただろうし、こちらが落ち着いて話しさえすればきっと穂乃果たちもわかってくれるだろう。たぶん、きっと。

そんな期待を抱きながら、海未は足を踏み出――

 

 

 

 

 

「――ほら、出すもん出してくれねえかなぁ?」

 

――そうとして、その足をピタリと止めた。

耳に入り込んできた軽薄で、それでいて乱暴な言葉の男の声。辺りを見回すと、その声の出所がすぐに見つかった。

海未が今いる路地の通路。そこから横に入ったその一角に、それはあった。

 

「お、お願いします……見逃してください……」

 

「あぁん? 人にぶつかっておいてなんだその言い草はよぉ?」

 

「そーそー。骨折させておいて、財布の中身だけで見逃してやるって言ってんのに。なぁ?」

 

「あー、痛てー。痛ってえよー」

 

頬に痣を作り、見るからに気弱そうな自分と同年代の少年が、ガラの悪い男たちに囲まれていた。

男たちは仲間が骨折されたなどと言っているが、そのわざとらしい態度と言葉で演技であることは一目瞭然だった。よくある言いがかりによるカツアゲの手口だ。

弱い者を相手に振るわれる、集団による理不尽な暴力。

その光景を前に、海未は――

 

 

「――あなたたち! 何をしているんですか!」

 

知らんぷりをすることなど、できなかった。

路地の中に響いた海未の凛々しい叫びに、怪訝そうに男たちが振り向く。

その瞬間、見た目に反して意外と目敏いのか、カツアゲされていた少年が男たちの間を縫うようにすり抜け、あっという間に反対側に走り去っていった。

慌てて男たちが手を伸ばすも少年は既に路地を抜け出し、獲物を逃した男たちは舌打ちして改めて海未に振り返った。

 

「……おい姉ちゃん、なんてことしてくれんだよ」

 

「そうそう。俺らはただ仲良く“ハナシアイ”してただけだって言うのになぁ?」

 

「……何が話し合いですか。自分たちより弱い相手に寄ってたかって暴力を振るい、金を奪おうとするなど、男として恥ずかしくないのですか!恥を知りなさい!!」

 

「……ハア?」

 

海未の言葉が癇に障ったのか、青筋を立てて彼女を睨む男たち。

しかしそれも束の間。男たちの視線は睨みつけるようなそれから、海未の全身を舐め回すかのような下劣なものへと変化していった。

新しい獲物を品定めするかのように。

 

「……へへ、それじゃあ代わりに姉ちゃんが俺たちと遊んでくれるってか?」

 

「……下劣な」

 

――まあ、そうなりますよね。

たった一人の女子高生が倫理観の欠いた男たちの前に出ればどうなるか。それくらいは初心なところのある海未にもわかっていた。

加えて海未自身、周りから大和撫子と揶揄されるように優れた容姿の少女だ。この男たちがみすみす放っておく筈がない。

 

さて、勿論海未は男たちの慰み者になる気など毛頭ない。そして何も無策で飛び出したと言うわけでもなかった。

武道をしているとはいえ、流石に女性が素手でこの男たち相手に切り抜けられるわけがない。ならば取る手は一つ、逃げの一手だ。

幸い自分のいる地点は男たちよりも大通りに近い。いくら力では向こうが勝っていても集団である向こうと違い、単独且つ武道やダンスで鍛えてきた自分の方が身軽に動け、体力的に長く走ることができる。

力と身体能力や体力はイコールではないのだ。

 

後はタイミング。

自分と男たちの間――男たちよりのところに瓶や缶が転がっている。

あの付近に足が寄った時点で走り出せば男たちも追いかけようとし、瓶や缶に気づかずに躓いて転ぶだろう。そうなれば逃げ切れる確率はグンと上がるはずだ。

 

そう考え、海未は下卑た笑みを浮かべながらにじり寄って来る男たちをじいっと見つめる。

まだだ、まだ早い……もう少し、あと5歩……3歩……1歩……。

 

 

――今です!

 

「――きゃっ!?」

 

自分の狙っていたタイミングになった瞬間に踵を返した海未だが、それ同時に人にぶつかり、尻餅をついてしまった。

 

――そんな、まだ仲間が!?

 

何という事だろうか。まさか後ろに仲間が迫っていたことに気づかなかったとは。

海未は己の迂闊さを恥じ、逃げ道を塞がれ、男たちに捕まった自分の末路を想像し、ぎゅっと目を閉じる。

だがしかし、男達の歓喜の声も、ざわめきも、こちらに迫る足音も聞こえない。

不思議に思った海未が振り返ると、そこには恐れ慄くような表情を浮かべ、震えながら海未を見つめる男たちの姿があった。

 

――いや違う。男たちが見ているのは海未より上――今しがた、海未がぶつかった人物だ。

正面に向き直した海未の視界に入ったのは“黒”だった。

真っ黒なロングコート、黒いズボン、暗い赤色のシャツ。その顔には黒いサングラスをかけ、不敵な笑みを浮かべている。

そう、その人物は――その少年は――。

 

 

「……コテツ、さん?」

 

――コテツだった。

彼は足元で尻餅をつく海未を一瞥すると、もう一度男たちに視線を向けた。

その口元に変わらない笑みを浮かべながら。

 

「お前ら、昨日あれだけ遊んでやったのにまだ懲りてないみたいだな?」

 

「ひっ……!」

 

「あんまりオイタが過ぎるようなら……もう一度、“遊んで”やろうか?」

 

サングラスに隠れたコテツの眼光が、ギラリと光った。

それを見た男たちは勿論、その視線を向けられていない海未もびくりと震えた。

闇の魔獣を狩る魔戒騎士。一端とはいえその眼光に睨まれてしまっては普通の人間に抗うことはできなかった。

 

「ち、ちくしょう……! 覚えてろ!」

 

コテツの眼光に慄いた男たちが、ありきたりな捨て台詞を吐いて一目散に逃げていく。

その姿をコテツはひらひらと手を振りながら眺め、そして海未は呆然としていた。

何をするでもなく、場が収まってしまった。勿論怪我をしないに越したことはないため、よかったのだが。

海未は立ちあがって埃を払い、コテツを見つめる。コテツもまた、海未を見ていた。

 

「……ありがとうございます。おかげで助かりました」

 

「いいって、別にアンタを助けたわけじゃないからさ」

 

海未は正直、彩牙のことを考えるとコテツには複雑な思いを抱いていた。

なにせ彼は彩牙のことを狙っていたのだ。警戒せずにはいられない。

だけど形はどうあれ、今助けてもらったのは事実だ。だから海未は素直に礼を口にした。

 

それに――コテツには聞きたいことがあった。

 

 

 

「助けてもらってなんですが、聞いてもよろしいでしょうか?」

 

「内容にもよるぜ?」

 

「……なぜあなたは、彩牙くんのことを狙ったのですか?」

 

その言葉を聞いた途端、コテツの動きがピタリと止まり、笑みを浮かべていた口元も真顔のそれに変化した。

それを視界に収めながら、海未は更なる疑問をぶつけていく。

 

「さっきの会話を聞く限り、あなたは昨日凛たち……ショートカットの女の子たちをあの人たちから助けてくださったんですよね?」

 

「そして今は私を助けてくれました。そんな私たちを助けてくださったあなたが……魔戒騎士のあなたが、どうして同じ仲間の彩牙くんを狙うのですか?」

 

コテツの行動には謎が多かった。

自分や凛たちを助けてくれた一方で、仲間であるはずの彩牙を巻き添えにしようと狙った。

海未はその真意が知りたかったのだ。自分たちを助けてくれたという事は彼も人を守る者。

志を同じくする彩牙と争う理由などない筈なのだから。

 

そしてそんな海未の疑問をぶつけられ、コテツは――

 

 

 

 

 

 

「……くくくくっ……あっはははははははは!」

 

――可笑しくてたまらないというかのように、大笑いしていた。

 

「……え……?」

 

「何を勘違いしてんのかわからないけどさ、俺と奴は仲間でもなんでもない」

 

唖然とする海未を前に、コテツは笑いながら彼女に歩み寄っていた。

一歩、また一歩、ゆっくりと近づいてくる。

 

「それとさっきも言ったけど、俺はアンタを助けたわけじゃない」

 

歩み寄ってくるコテツに、海未は言いようのない恐れを抱いていた。

その笑顔が余りにも恐ろしく、まるで狩人のようで。コテツが一歩近づくたびに海も一歩後退り、終いには壁際に追い詰められた。

壁際に海未を追い詰めたコテツは――

 

 

 

「アンタを斬るためだ」

 

ブーメラン状の剣――魔戒剣を抜き、その切っ先を海未に向けた。

人を守るはずの剣を自分に向けられ、怯えと信じられないと言うような感情が織り交ざった表情を浮かべる海未。金縛りにあったかのように体が動かない。

魔戒騎士の彼が、なぜ自分を……?

湧きあがる疑問に答えないまま、コテツの魔戒剣が海未に振り下ろされ――

 

 

 

 

 

 

――ガキンッ!

 

「……へえ」

 

「――っ! 彩牙くん!」

 

横から割り込んだ彩牙が、己の魔戒剣でコテツの剣を受け止めた。

後一瞬遅ければ、コテツの剣は海未を斬り裂いていたことだろう。彩牙はコテツを睨みつけたまま、背後で肩を縮ませている海未に一言だけ言った。

 

「逃げろ」

 

「……っ!」

 

それだけで十分だった。

彩牙の言葉にコクリと頷いた海未はそれまで恐れ慄いて動けなかったのが嘘のように走り出し、脱兎のごとくその場を後にした。

角を曲がる瞬間、ちらりと振り返った海未の目に入ったのは、殺気を放ち、今までにないほど怒りに満ちた表情でコテツを睨む彩牙の姿だった。

 

――彩牙くん……!

 

そんな彩牙の姿に一抹の不安を抱きながら、海未は路地の中から抜け出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その場に残ったのは彩牙とコテツのみになった。

しかしその場に漂う空気は途轍もなく、重い。

激しい怒りの表情でコテツを睨みつける彩牙。対するコテツも飄々としているものの、隠し切れないほどにその身から溢れているのは、彩牙に対する確固とした敵意。

一触即発と言えるこの状況、先に口を開いたのはコテツだった。

 

「場所を変えないか?」

 

「……いいだろう」

 

――ここだと少々人目につく。

言外にそう含んだコテツに、彩牙は静かに頷いた。

それはまさに、嵐の前の静けさのようだった。

 

 

 

**

 

 

 

「さーて、何が聞きたい?」

 

既に日が暮れた逢魔が時。

彩牙とコテツの姿は今、秋葉原近郊の廃ビル――以前の指令で彩牙が訪れた場所にあった。

ひび割れた窓ガラスからは闇を裂かんばかりの街の光が差し込み、闇に包まれるビル内を、彩牙とコテツをおぼろげに照らしていた。

その中で相も変わらず軽口を叩くコテツを、彩牙は射抜くかのように睨んでいた。

その内に激しい怒りの炎を滾らせながら。

 

「何故海未を斬ろうとした」

 

「はっ、なにかと思えばそんなことかよ」

 

そんな彩牙の視線を、コテツは屁でもないかのように受け流す。

しかしその直後、へらへらとしていたその表情を鋭いものへと変え、口を開いた。

彩牙を責め立てるかのように。

 

「あの子、ホラーの返り血を浴びただろ? 血に染まりし者がどうなるかぐらい、お前知ってるだろ」

 

「……」

 

「せめて苦しまずに死なせてやろうとしてるんだぜ?魔戒騎士の当然の務め、お前に恨まれる筋合いはないと思うけどな?」

 

気絶することも許されない苦しみの中、悪臭を放ちながら醜く崩れ死んでいく。

返り血を浴びた人間が100日後に辿る死の運命。

知っている。知っているからこそ――

 

 

 

 

「――! おっと!」

 

彩牙はコテツを許すことができなかった。

我慢などとうの昔に――路地で海未に斬りかかるところを目にしたあの時から、堪忍袋の緒と共に切れていた。

懐から抜かれ、コテツ目掛けて振り下ろされた彩牙の魔戒剣がそれを物語っていた。

 

「――先に剣を抜いたな?」

 

「……」

 

挑発するかのように指を差すコテツを前に、ゆらりと振り向く彩牙。

まるでホラーと相対しているかのような眼光でコテツを睨み、魔戒剣を構えていく。

 

「……海未は死なせない。彼女は俺が必ず守る」

 

腰を落とし、魔戒剣を顔の右側に沿うように構え、切っ先を目の前の“敵”に向ける。

 

「彼女に手を出すというのなら……今ここで、俺がお前を斬る!!」

 

例え魔戒騎士の掟に背くことになろうとも――!

彩牙の頭は、心は、絶対の掟を二の次にしてしまうほどに、激しい怒りで熱く燃え滾っていた。

 

そして、そんな彩牙と対峙するコテツは――

 

「……いいぜ、先に抜いたのはそっちだしな。それに――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――俺の方こそ、お前には言いたいことが山ほどあるんでな」

 

挑発するかのような今までの軽い表情から一変し、冷酷さを感じさせるほどに冷たい表情を浮かべ、魔戒剣を抜き取った。

ブーメランのような形状のそれを脇に添え、居合のように構える。

 

『おい小僧落ち着け! 頭を冷やせ!』

 

『コテツ!あなたも処罰されますよ!』

 

ザルバとゾルバがお互いのパートナーを止めるべく声を荒げるが、二人の若い騎士には届かない。

二人が見えているのは――自分の目の前に立つ“敵”の姿だけだった。

 

 

「――――」

 

互いに剣を構えたまま、微動だにしない彩牙とコテツ。

部屋の中が闇に包まれ、一呼吸おいた後に再び街の光がその場を照らした瞬間――

 

 

 

 

 

「――!」

 

「――ハッ!」

 

――二人の騎士は、駆け出した。

 

彩牙の剣が横薙ぎに振るわれ、コテツの剣が受け止めてそれを弾く。

お返しにとコテツの剣が彩牙の顔目掛けて振るわれる。今度は彩牙の剣が受け止め、それを弾くとその勢いで一回転。魔戒剣をコテツの視界から一瞬消し去り、振り向きざまに突き出した。

突き出した彩牙の剣はコテツの頬を裂き、対するコテツは突き出された彩牙の剣を魔戒剣で振り払い、それと同時に彩牙の頬を裂いた。

 

一撃、一撃、また一撃と火花を散らし、剣戟を打ち鳴らしていく。

その最中、コテツの蹴りががら空きとなった彩牙の腹に叩き込まれる。

息が詰まり、吐き気を抑えて後退りする彩牙。そんな彩牙に追い撃ちをかけんがごとく迫るコテツ。

コテツの魔戒剣が振るわれた瞬間、彩牙は敢えて自ら姿勢を崩して足払いをかけた。

 

足を払われことで姿勢が崩れ、不安定な態勢でよろめくコテツ。

それを見逃さなかった彩牙はすかさず魔戒剣を振り下ろし、対するコテツもギリギリのところで剣を受け止め、鍔迫り合いの形となった。

 

互角の力で鍔迫り合い、拮抗する彩牙とコテツ。

全身の力を籠め、互いに相手の剣を斬り払わんとする二人。

その眼はとても荒々しく、少しも気を弱めれば相手に喰われかねないといった状況になっていた。

 

 

 

 

 

 

――その時だった。

 

『小僧! 喧嘩は後にしろ!』

 

『ホラーの気配です!来ます!』

 

ザルバとゾルバの警告と共に、辺りを包んでいく闇の気配。

だがそれでも、彩牙とコテツは目の前の敵から視線をそらさず、鍔迫り合いを辞めようとしない。

そんな中、闇が姿を現した。

 

 

『ギギギギギィッ』

 

『ギチギチギチギチッ』

 

窓から、フロアの入り口から、這い出るように現れたのは白い蟻のような姿のホラー。

昨夜も現れたレギオンの兵隊――レギオン兵だ。

彩牙とコテツは鍔ぜり合っていて、そちらに視線を向けようとすらしない。

 

自分たちを無視しているのあるいは気づいていないのか、争い続ける二人の魔戒騎士目掛け、二体のレギオン兵は金切り声を鳴らしながら駆け出していく。

レギオン兵たちは彩牙とコテツが隙だらけだから即座に襲い掛かったわけではない。傀儡となった彼らにそんな思考をする意思はない。

彼らの中にあるのはただ一つ。“魔戒騎士を排除せよ”という主からの命令だけだ。

 

だからレギオン兵たちは愚直なまでに突き進んでいく。

たとえそれが――

 

 

 

 

「「――邪魔だ!!」」

 

自らの死を招くことであっても。

 

彩牙とコテツ、二人の背後をそれぞれ取ったレギオン兵が爪を振り下ろそうとした瞬間だった。

それまでレギオン兵には目もくれずに互いを斬ろうとしていたのが嘘のように鍔迫り合いを解き、自分たちの背後に迫っていたレギオン兵を振り向きざまに一刀両断に斬り裂いたのだ。

断末魔と共に消滅していくレギオン兵。それを視界に収めながら彩牙とコテツは再び対峙する。

互いに剣を構えた、その時だ。

 

『まだ終わりじゃないぞ』

 

『屋上から奴らの気配を感じます』

 

ザルバの言葉に視線を上へと向ける彩牙。

まだいたのか。そう思った瞬間――

 

 

「っ! くっ!!」

 

「先に行かせてもらうぜ」

 

響き渡る剣戟音。

コテツが不意打ち気味に繰り出した魔戒剣を、彩牙が咄嗟に弾いたのだ。

不意打ち気味だったため少しよろけ、態勢を直してコテツに視線を向けた時には、彼は既に窓の縁に足をかけていた。

そのまま縁を足蹴にして、窓の外を跳ねるように駆け上っていった。

 

『俺たちも急ぐぞ』

 

「わかってる!」

 

彩牙はすぐさまフロアの近くにあった階段から、屋上へと駆け上っていく。

奴だけには遅れをとってなるものかと思いながら。

 

 

 

 

 

 

――廃ビル・屋上

 

その真ん中に佇んでいるのは一体の白いホラー――レギオン兵だ。

このレギオン兵も先の二体と同様、彩牙たちを狙ってこの場にやって来たホラーだった。

ならば何故先の二体と一緒に彩牙たちを襲わなかったのか?

それはこのレギオン兵が先の二体よりも上位の個体だからだ。

 

レギオン兵は素体となる生物が高等であればあるほどその力は強く、群の中での立場も高くなる。

先の二体の素体は烏や野良猫、そしてこのレギオン兵の素体は――ホラーだった。

ゲートから現れた直後の素体ホラーがレギオンによって兵にされたのだ。しかし今はもう元の知性を失っており、同胞であるはずのレギオンに使役されるだけの存在となっていた。

 

そして今現在、このレギオン兵は配下である2体を主の命に従い、先に突入させていたのだ。

だがその2体は戻らず、そればかりか群の中でのみ行われている情報の――感覚の共有もできないことに疑問を抱いていた。

元がホラーであったためか、ほんの少しではあるが思考するほどの知性が残っていたのだ。

その僅かな思考で考え、どうするべきが主に指示を仰ごうとした時――

 

 

 

 

「見つけたァッ!」

 

『ギッ!?』

 

屋上の縁から跳び超えるようにコテツが現れ、魔戒剣をその形状を物語るようにブーメランのごとく投擲した。

弧を描き、空気を斬り裂きながら滑空していく魔戒剣から、レギオン兵は右腕を犠牲にして己の命を守った。

腕一本を切断しても全く勢いが衰えないまま、コテツへと戻るように滑空する魔戒剣。

コテツは魔戒剣の帰りをただ待つなんてことはせず、自ら魔戒剣の下へ――その先にいるレギオン兵へと駆け出していく。

 

そうして滑空していた魔戒剣を手にし、その下で見上げるレギオン兵へとそのまま振り下ろすコテツ。

しかし――

 

「――ちっ!」

 

素体がホラーであるということもあるのか、咄嗟の瞬発力でレギオン兵はコテツの剣を避けたのだ。

そして剣を振り下ろした隙を見せたコテツ目掛け、右腕の仇と言わんばかりに左腕の爪で斬り裂かんと迫る。

その時――

 

 

『ギィッ!?』

 

割り入るように横から現れた赤い柄の魔戒剣がレギオン兵の脇腹に突き刺さり、その動きがガクンと止まる。

その隙にコテツがレギオン兵の傍から退いたことで、振るわれた爪は虚しく宙を斬った。

去り際にコテツが振るった魔戒剣が、レギオン兵のもう片方の脇腹を斬り裂いたというオマケつきで。

 

両脇腹を裂かれ、悶えるレギオン兵。

その苦しみから悶えようと、片方に突き刺さった赤い柄の魔戒剣を抜こうとする。

しかしそれは、レギオン兵が抜くよりも早く抜き取られた。

 

「――ハアッ!」

 

コテツの後を追うように現れたその剣の持ち主、彩牙によって。

彩牙はレギオン兵から脇腹から自らが投擲した魔戒剣を抜き取り、そのまま横に振るって残っていた左腕を両断した。

斬り払われた勢いで後ずさるレギオン兵。

 

両腕を失い、満身創痍となったレギオン兵を前に彩牙は油断なく魔戒剣を構える。レギオン兵を挟むように彩牙の反対側で、コテツも同じように構える。

一瞬か、あるいは数秒か。息の吐く音だけが静かに響くその静寂の中で、動きが現れた。

 

『ギギギギギッ!』

 

恨めしい――そんな感情が残っているのか定かではないが、そう思わせるような金切り声をあげるレギオン兵の背中がもぞもぞと蠢く。

何か仕掛ける気か――そう警戒する彩牙とコテツの目の前で、レギオン兵の背中を突き破りあるものが現れた。

 

 

 

 

『……翅だと?』

 

レギオン兵のその蟲の見た目に違わない、透き通った翅だった。

レギオン兵はその翅を素早く動かし、蟲のそれと全く同じ羽音を響かせて飛び去ろうとする。

もはやこのまま戦っても勝てないと悟ったのか、命の危機からなる生存本能がそうさせたのか、レギオン兵はここから逃走することを選んだのだ。

 

 

「逃がすか!」

 

無論それを見逃す彩牙ではない。

魔戒剣で円を描き、円に光が満ちると同時にレギオン兵を追わんと跳び上がり、召喚されたガロの鎧をそのまま空中で装着した。

 

対するコテツも魔戒剣の剣先で円を描くようにその場で一回転し、逃げようとするレギオン兵目掛けて跳び上がる。

身体を包むように描かれたその円が白い光を放ち、突き破るように飛び出した鎧のパーツがコテツの身体を包んでいく。

 

レギオン兵を挟むように迫る、金色の軌跡と白色の軌跡。

その軌跡――ガロと“騎士”は交差するかのように、逃げようとしていたレギオン兵をその剣で同時に斬り裂いた。

×(クロス)を描くように斬り裂かれたレギオン兵は、哀れにも断末魔の叫びを残し、その身を爆散した。

 

 

レギオン兵を斬り裂き、交差するかのように互いのいた場所に着地したガロと“騎士”。

振り返り、対峙するかのように向き合うガロと“騎士”。その時、ガロの瞳に“騎士”――鎧を纏ったコテツの姿がはっきりと映った。

 

 

 

――その鎧は白と言うにはあまりにも暗く、黒と言うにはあまりにも明るく、銀と言うにはあまりにも煌きがなかった。

魔戒騎士の象徴たる狼を模ったその鎧は、鎧の各所に炎を彷彿とさせる意匠が刻まれ、

ガロに比べると幾分かスマートな出で立ちをしていた。

 

手にする魔戒剣は一回り大きくなり、炎のような装飾が刻まれているが、ブーメランのようなその形状は依然として変わらない異形の剣――灰塵剣へと変質していた。

炎のような赤い瞳が輝き、その身を彩るのは白でも黒でも銀でもない、生命を感じさせない――灰。

コテツが纏う、灰色の鎧。その名は――

 

 

 

 

 

 

 

 

――灰塵騎士・陰狼(カゲロウ)

 

 

『……貴様』

 

『さあ、第2ラウンドといこうぜ』

 

指で首切りのジェスチャーをするカゲロウ。

それが引き金となり、同時に駆け出すガロとカゲロウ。

すれ違いざまに互いの剣――牙狼剣と灰塵剣を振るい、ぶつかり合い、火花を散らしながら緑の瞳と赤の瞳が互いを睨む。

 

剣の打ち合いはすれ違うと同時にすぐに解かれた。

その勢いのまま、ガロとカゲロウは砂塵を巻き起こし、滑るように距離をとった。

一拍、息を吐くように剣を構え、互いを見据えた彼らは並行するように走り出し、互いの距離を徐々に縮めていく。

 

そして互いの姿が目前まで迫った時、駆け抜けた屋上の縁から宙へと飛び出し――

 

 

 

『うおおおおおおっ!!』

 

『でぇえりゃぁぁぁぁぁぁっ!!』

 

 

 

**

 

 

 

街灯と街のネオンが暗闇を照らす、夜の秋葉原。

その中を道行く大勢の人々の中、ある親子連れの姿があった。

仕事帰りなのか、スーツ姿の母親の手に引かれているのはまだまだ年端もゆかぬ、園児くらいだろうと思われる幼く小さな男の子。

 

母に手を引かれ、ぼんやりとした顔つきで歩く男の子はある一点を見つめ、立ち止まった。

クイ、と我が子に手を引かれ、つられて立ち止まる母親。しゃがみこみ、我が子と同じ目線でその顔を覗く。

男の子はぼんやりとした顔つきはそのままで、ある一点をじいっと見つめていた。

 

「どうしたの? こたろう」

 

「おおかみー……」

 

男の子の指さす方向を、母親もつられて見つめる。

そこにはビルの合間から覗く夜空があるだけで、狼の姿など影も形もなかった。

もっとも、こんな都会の真ん中で狼がいるわけないのだが――母親は笑うことなく、優しげな言葉をかける。

 

「狼さんがいたの?」

 

「ひかってたー……」

 

「ふふ、きっとこたろうが無事でいられるように見守ってくれてるのかもね」

 

「んー……」

 

「さ、お姉ちゃんたちも待ってるし、行きましょう」

 

そうして母親に優しく手を引かれ、再び歩き出す男の子。

男の子は一瞬だけ狼がいたという方向を見つめた後、手を引く母親の後をついていく。

 

 

 

――母親も、誰も思いはしなかっただろう。

男の子の差した方向には、確かに狼がいた。

2頭の狼――金色の狼と、灰色の狼が……

 

 

魔戒騎士・ガロとカゲロウが争っていた――

 

 

『ハアァァァッ!!』

 

『ウオォォォォォッ!』

 

ビルとビルを飛び交いながら、ガロとカゲロウは激しい剣戟を繰り広げていく。

牙狼剣が振るわれればカゲロウはそれを弾き返し、灰塵剣が振るわれればガロがそれを弾き返す。

互いに一歩も引かない、そんな攻防が繰り返されていた。

 

――やがて、二人の騎士は一つのビルの屋上に辿りつく。

先に足をつけたのはカゲロウだった。振り返り、灰塵剣を構えてガロを待ち受ける。

一歩遅れてガロが足をつけた。飛び移った時のスピードを殺さずに駆け出し、その勢いのままカゲロウに斬りかかる。

 

一撃、二撃、三撃。

火花を散らし、牙狼剣と灰塵剣がぶつかりあう。

その激しい剣戟は、金と灰の軌跡を描いていく。飛び散る火花により、ガロとカゲロウの顔がおぼろげに照らされる。

そうしてまた剣がぶつかりあった、その時――

 

『ぐっ!』

 

ガロの頭が激しく揺さぶられた。

剣を打ちあったその瞬間、カゲロウが頭突きを叩き込んだのだ。脳を揺さぶられて感覚が狂い、よろめくガロ。

そんな隙だらけとなったガロを、カゲロウは灰塵剣で斬り裂いていく。

 

『ぐあっ……!』

 

鎧を構成するソウルメタルが、同じソウルメタルによって削られる。

カゲロウの振るった灰塵剣は鎧の装甲に守られていないアンダースーツの部分も斬り裂き、その下から真っ赤な血が流れ出ていく。

斬り裂かれ、鮮血を流し、床に転がるガロ。

そんなガロに追い撃ちをかけようと、カゲロウが灰塵剣を振るった瞬間――

 

 

『――なんだとっ!?』

 

地面スレスレで振るわれた牙狼剣が、カゲロウの足を払った。

鎧の装甲に守られたことで足が両断されることは勿論、血を流すこともなかった。

だがその時振るわれた牙狼剣は、カゲロウの足の感覚を麻痺させ、姿勢を崩すには余りにも十分すぎた。

 

『ぐぅおっ!』

 

姿勢を崩したカゲロウ目掛けて、立ち直ったガロによる拳が叩き込まれた。

渾身の力を籠めて繰り出されたその拳はソウルメタルの装甲に深くめり込み、その下に守られた骨を、内臓を圧迫していく。

狼の頭を模った兜、その牙の隙間から吐き出された血が零れ出し、その衝撃でカゲロウの身体は大きく殴り飛ばされた。

 

殴り飛ばされたカゲロウの身体は何度も床を転がり、階下へと続く階段の出入り口となるペントハウスの壁にぶつかることでようやく停止した。

ひび割れたペントハウスの壁にめり込み、破片と砂埃を撒き散らしながらよろりと立ち上がろうとするカゲロウ。しかしそれは手元から引っ張られるかのように止められた。

 

カゲロウが視線を向けると、そこには手にしていた灰塵剣がペントハウスの壁に突き刺さっている光景があった。

刀身の半分近くになるほど深く突き刺さっており、軽く力を籠めた程度では抜き取ることはできなかった。

それと同時に感じた、正面から迫る敵意。先の仕返しと言わんばかりに、牙狼剣の切っ先をまっすぐに向けたガロが迫っていたのだ。

 

下手に灰塵剣を抜くことに集中すればその間に牙狼剣はカゲロウを貫くだろう。かと言って素手で牙狼剣を迎え撃つには余りにも心許ない。

思考は一瞬。

そしてカゲロウの下に瞬く間に到達したガロはカゲロウ目掛け、牙狼剣をまっすぐに突き出した――

 

 

 

 

 

 

――ガキン。と、鳴り響く金属音。

 

『――何だと!?』

 

牙狼剣は止められていた。

牙狼剣を止めたカゲロウの手には一本の“剣”が握られていた。

しかしもう片手には、未だ壁に深く突き刺さったままの灰塵剣が握られていた。

灰塵剣ともう一本の剣――否、“2本の灰塵剣が”カゲロウの両手に握られていた。

 

『二刀流だと!?』

 

ザルバの驚きの声が上がる。

そう、カゲロウの持つ灰塵剣は2本の剣へと変化していた。

ブーメランのような形状――その中心から二つに分かれ、ブーメランのような1本の剣から逆手持ちの双剣へと変化していた。

これこそがカゲロウの持つ灰塵剣、もう一つの姿――

 

 

 

――灰塵剣・双剣態!

 

『くっ!』

 

牙狼剣を受け止めていた灰塵剣を振るい、牙狼剣ごとガロを宙へと弾き飛ばすカゲロウ。

その間に突き刺さっていたもう一本を抜き取り、再び連結してブーメランのような形状――飛翔態へと灰塵剣を変化させる。

そしてそれを振りかぶり、宙に飛ばされたガロ目掛けて投擲した。

 

『ぐうっ……!』

 

迫る灰塵剣を、ガロは牙狼剣を振るって弾き飛ばす。

しかし弾かれた灰塵剣はまるで意志を持っているかのように軌道を変え、再びガロに襲い掛かる。

正面から、右から、左から、後ろから。何度弾き返そうとしても、灰塵剣は何度でもガロを斬り裂かんと襲い掛かる。

――やがて、先に限界が訪れたのはガロだった。

 

『ぐああああああっ!』

 

牙狼剣で受け止め損ねた灰塵剣が遂にガロの身を捉えたのだ。

回転する灰塵剣の刃がガロの鎧を削り、斬り裂き、抉っていく。

ガロを捉えた灰塵剣はその勢いのまま、宙にいたガロを斬り裂きながらその身体をビルの上から遥か下の地面へと押し落としていく。

 

落下していく中、ガロを斬り裂いていた灰塵剣が離れ、上へと飛んでいく。

視線を向けるとそこにはガロの後を追うように宙に身を投げ、戻ってきた灰塵剣を手にするカゲロウの姿があった。

斬り裂かれて節々が痛む身体を抑え、満足に身動きが取れない空中でありながらもガロは上を、下を、辺りを見回す。勿論そうしている間にもガロの身体はどんどん落下していき、それを追うカゲロウも灰塵剣を構えて徐々に近づいてくる。

 

そうして灰塵剣を再び双剣態にしたカゲロウが、遂にガロの目前にまで迫った。

仰向けになったまま落下し続けるガロに、灰塵剣を振り下ろすカゲロウ。

追い撃ちをかけんと迫る灰塵剣の刃を前に、ガロは受け止めるべく牙狼剣を――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――構えなかった。

 

『なに!?』

 

ガロは、灰塵剣を防ぐために牙狼剣を構えることはしなかった。

迫る灰塵剣を前にガロが取った行動。それは落下する自らの横にあったビルの壁に、牙狼剣を突き刺すことだった。

ビルの壁に深く突き刺さったことにより、牙狼剣を手にしていたガロの落下も止まり、牙狼剣を軸にしてくるりとその場で1回転した。まるで体操の選手のように。

 

相手を失ったことにより、虚しく空を斬る灰塵剣。

虚を突かれ、驚愕に包まれたカゲロウが次の瞬間目にしたものは、牙狼剣を軸に回転し、ビルに突き刺さったそれの上に身を置くガロの姿。

交差する、緑と赤の瞳。

そして――

 

 

『―――!』

 

隙だらけとなったカゲロウ目掛け、ガロの渾身の蹴りが叩き込まれた。

薙ぐようにして放たれたその蹴りはカゲロウの身体をくの字にしならせ、その身を夜空へと向かうように凄まじい勢いで蹴り飛ばした。

牙狼剣をビルから抜き、それと同時にガロは壁を足場にしてカゲロウを追うように跳び上がった。

 

蹴り飛ばされたカゲロウに肉迫するガロ。

月が照らす夜空の中、姿勢を取り直したカゲロウとガロの剣が交差する。

慣性のまま空中を駆ける中で、一撃、二撃、三撃と、激しい剣戟を繰り返していく。

元々跳び上がったビルが秋葉原の端の方にあったこともあるのだろう。そうしている内にガロとカゲロウの身体は秋葉原の街を抜け、いつしか二人の眼下には住宅地や小さな雑居ビルが立ち並ぶ街並みが広がっていた。

 

そんな中、ガロとカゲロウの剣戟にも変化が起きた。

互いが同時に突き出した剣。それらは相手の剣と打ち合うことなく火花を散らしながら擦れ合い、お互いの頭を的確に捉えたのだ。

正常な感覚と、それまで宙を駆けていた勢いを失い、真っ逆さまに落下していくガロとカゲロウ。

そんな中でも狂った感覚でありながら、相手へと剣を振ろうとする姿はもはやある種の執念と言ってもいいのかもしれない。

 

やがて、彼らはほとんど同時に墜落した。

身体を強く打ちつけたコンクリートのタイルは割れ、剥がれ、まるでクレーターのような有様を見せていた。

二人が落ちたのは道路でも、かといってそこらの雑居ビルでもない。

まるで、“学校の屋上のような”場所だった。

 

「ぐっ……!」

 

「く、そ…がっ……!」

 

鎧が解除され、彩牙とコテツの姿が露になる。

二人とも体の至る所から血を流し、息も絶え絶えで満身創痍といった風貌だ。

だがそれでも、二人の目はギラギラと光っていた。

まだ戦えると言うかのように。相手を力強く睨んでいた。

 

『いい加減にしろ!小僧!』

 

『コテツ!命を没収されますよ!』

 

パートナーたるザルバとゾルバの静止の言葉も、二人には届かない。

その証拠に二人は己の魔戒剣を手にしてよろよろと立ち上がり、覚束ない足取りながらも相手に向かって駆け出した。

ふらつきながらも一歩一歩と進んでいくその様は、鬼気迫るものを感じさせた。

そうして二人の間の距離が縮み、剣の間合いに入った瞬間、彼らは同時に動いた。

 

「おおおぉぉぉぉぉぉっ!」

 

「うぉりゃぁぁぁぁぁぁっ!」

 

咆哮と共に振るわれる、二人の魔戒剣。

相手の急所を狙って振るわれたそれらは銀色の軌跡を描き、互いの急所を的確に捉え――!

 

 

 

 

 

 

 

 

『――何をしている、お前たち』

 

――なかった。

 

彩牙とコテツの魔戒剣は相手を斬り裂くことなく止まった。

いや、止められていた。二人の間に割り込んだ、蒼い腕とその手に握る大剣によって。

驚愕の表情に包まれる、彩牙とコテツ。

二人を止めたのは、蒼い鎧に身を包んだ魔戒騎士。

――イブの鎧を纏った、鬼戸大和だった。

 

『魔戒騎士同士が争ってはいけないと……忘れたのか!!』

 

「ぐあっ!」

 

「ぐっ!」

 

怒気に満ちたその言葉とともに、イブは受け止めていた魔戒剣ごと彩牙とコテツの身体を弾き飛ばした。

力なく屋上を転がっていく彩牙とコテツ。

声にならなない呻き声を上げ、倒れ伏す若き魔戒騎士たちを見据えながら、イブの鎧を解除する大和。

その表情には、感情を消した冷たい眼光だけが浮かんでいた。

 

「来い。番犬所にて然るべき罰を与える」

 

有無を言わせないその言葉に逆らうだけの力は、もう彩牙とコテツには残っていなかった。

 

 

 

***

 

 

 

ザルバ「まったく、派手にやらかしてくれたな小僧」

 

ザルバ「いい機会だ。ここらで少し自分を見つめ直すことだ」

 

ザルバ「お前に言いたいことがあるのは、なにも俺様だけじゃないからな」

 

 

ザルバ「次回、『言葉』!」

 

 

 

ザルバ「言われて初めて気づくことだってあるんだぜ」

 

 

 






魔戒指南


・ レギオン兵
ホラー・レギオンと瓜二つの姿を持つ、レギオンの尖兵たるホラー。
ホラーと表記したがその実態はむしろ使い魔に近く、その正体もレギオンの肉片を埋め込まれた生物の肉体がホラーと同様のものへと変化したもの。
ベースとなる生物は植物以外なら何でもよく、人間は勿論、犬や猫のような動物も可であり、果てにはホラーですら兵にすることができる。
また、ベースとなる生物が高等であればあるほど強力な兵になり、動物類<人間<ホラーの順にその力は大きくなる。
だが兵になった時点で本来の理性や知性は完全になくなり、レギオンの命に忠実に動く傀儡へと成り果てる。




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第7話  言葉

牙狼〈GARO〉 -DIVINE FLAME-観てきました。
お世辞抜きに最高の映画でした。活動報告の方に詳しい感想を載せているので、興味のある方はそちらもどうぞ。



今回はちょっと短めです。


 

 

 

 

 

 

「言った傍から派手にやらかしてくれたのう、お主ら」

 

――番犬所

 

心底呆れたような言葉を吐くオルトスの前には、大和によって引き摺るように連れてこられた彩牙とコテツの倒れ伏した姿があった。

満身創痍で膝をつく彩牙とコテツだが、その瞳は相も変わらず獰猛な光を放っており、それはより一層オルトスの呆れと非難の感情が混じった目を強くした。

悪びれるどころか未だに闘争心を隠そうとしない二人に対し、オルトスは呆れ果てたような溜息を吐いて口を開いた。

 

「騎士同士が争ってはならんと言うたのに……罰としてお主ら二人から命を一週間分没収する」

 

「おいちょっと待てよ、先に剣を抜いたのはこいつだぜ?」

 

「先に抜いたも何もない。剣を交えた時点でお主も同罪じゃ」

 

不満げな言葉を吐くコテツだったが、オルトスの有無を言わせない正論を前にチッと舌打ちをして押し黙った。

そして彩牙はそんなやりとりを横にして険しい表情は変えないまま、押し黙っていた。

オルトスはそんな彩牙に視線を向け、問いかけた。

 

「さて彩牙よ、何故掟のことを理解しておきながら剣を抜いた?」

 

オルトスの問いに、彩牙は一拍おき、答えた。

 

「海未を斬ろうとしました。だから剣を抜いた、それだけです」

 

「ふん、血に染まりし者を斬るのは俺たちの掟だろ。逆恨みもいいとこだぜ」

 

「お主は黙っておれ。掟破り云々が言えたことか」

 

オルトスは横から口を挟んだコテツを黙らせ、彩牙を見据えた。

その眼に鋭い眼差しを浮かべたまま。

 

「なるほどの、お主の言いたいことはわかった。その気持ち、わからんでもない」

 

「……」

 

「じゃが、だからと言ってお主の行いを見過ごすわけにはいかん」

 

確かに、彩牙が掟を破った理由は納得のいくものだろう。

魔戒騎士はただ使命のために戦うだけのマシーンではない、人間だ。大切な人を手に掛けられそうになる場面を目の当たりにして平静でいられる人間など果たしているだろうか。

答えは否だ。心が通った人間ならば我慢できるはずがない。

故に、彩牙の行いは当然とも言える。

 

しかしだからと言って、それが彩牙を許す理由にはならない。

どんな理由があっても掟破りを許すほど、番犬所は甘くはない。

それ故にオルトスは言葉にする。彩牙にとって何よりも重い枷になるであろう言葉を。

 

「もし今後もこのようなことがあれば……例の少女のことをお主に任せる件、考え直さなければなるまい」

 

「なっ……!?」

 

「それが嫌ならしっかりと自制することじゃ。わかったかの?」

 

「……肝に、銘じておきます」

 

苦虫を噛み潰したように表情を歪ませる彩牙。

海未のことを盾にされてしまっては、彩牙には従うより他にない。彩牙にとって海未は最大の弱点でもあるのだ。

そんな彩牙を傍目に、オルトスは不満げな表情のコテツを見据えた。

 

「お主もじゃ、下手にこやつを刺激するでない。例の少女のことはこやつに任せておるのでな」

 

「へっ、それはこいつ次第だと思うけどな」

 

「……あんまりオイタが過ぎるようじゃと、“例のこと”を教えてやらんぞ?」

 

「……ちっ」

 

オルトスの言葉に更に不満げに顔を歪ませたコテツはふらふらと立ち上がり、番犬所の出口へと向かって歩き出していく。

その背中にオルトスが言葉をかける。

 

「どこへ行く?」

 

「……レギオンを探しにだよ」

 

そう言い残して覚束ない足取りで去っていくコテツ。

その後ろ姿を怪訝そうに見つめる彩牙に、再びオルトスの言葉が投げかけられる。

 

「彩牙よ、先に言ったこと、忘れるでないぞ。お主の行い一つにあの少女の命が懸かっておるのじゃからな」

 

「お前はただの魔戒騎士ではない、黄金騎士ガロだ。そのことを肝に銘じるのだ」

 

「……はい」

 

 

 

 

**

 

 

 

――園田家・道場

 

「っ……」

 

「ほら、じっとしててください」

 

「……すまない、海未」

 

「そう思うのなら怪我なんてしないでください。あんな傷だらけで帰って来た時には肝が冷えましたよ」

 

あの後、ふらふらになりながらも園田家へと帰路についた彩牙を出迎えたのは、玄関で彼のことを心配そうに待っていた海未だった。

着いた途端にコテツとの戦いと命を没収されたことによる傷と疲労によって倒れこんだ彩牙を海未が慌てて引っ張り、こうして今道場で手当てをしていた。

倒れこむほどにしては少ないように見える怪我が、魔戒騎士の強靭な肉体によって自然治癒されたものであることを、海未は知らない。

 

だがそれでも、彩牙の身体の各所に残る斬られたような傷跡。

別れる直前の――コテツと険悪な雰囲気で対峙していた光景を思い出し、海未はあの後何があったのかを察した。

――戦ったのだ。彩牙とコテツが、魔戒騎士どうしである二人が。

 

「……戦ったんですね、あの人と」

 

「……ああ」

 

「……どうしてですか」

 

震えるような海未の言葉に、振り返る彩牙。

そこにはガーゼや包帯で巻かれた彩牙の身体に手を添え、うつむく海未の姿があった。

 

「あの人はホラーじゃありません、彩牙くんと同じ魔戒騎士、人間ですよ? そんなあなた達がどうして戦わなければいけないのですか?」

 

「……」

 

「……教えては、くれないのですか」

 

「……すまない」

 

苦々しくそう呟く彩牙。

 

「……私は、それほど頼りないですか?」

 

「……」

 

彩牙は、何も答えない。

そんな彩牙の反応に途轍もない悲しみを覚えた海未は、手当てが終わると小走りで道場から去っていった。

隠されたことが悲しいのか、それともそれ以外のことで悲しいのか、海未にはわからない。

だけど理由はどうであれ、涙と共に溢れ出てくる悲しみを止めることはできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

『……小僧、とんでもない無茶をやらかしてくれたな』

 

「……あんなもの見せられて、我慢できるか」

 

一人残された彩牙に、嗜めるようにザルバが声をかける。

あの時、海未がコテツに斬られそうになった光景。あの時から彩牙は完全に頭に血が昇っていたのだ。

だから剣を抜いた、コテツと戦った。

その結果どうなるかも考えないまま。

 

『それで嬢ちゃんを泣かせていたら世話ないな』

 

「……それは……」

 

 

 

 

 

 

「――どうやら、相当な無茶をしたようだな」

 

「――! 先生……!」

 

その時、まるで海未と入れ違いになるかのように、海未の父が道場内に足を踏み入れた。

彩牙を見下ろすほどの大きな身体が、ガーゼや包帯に巻かれた彩牙をじっと見つめる。

心の内を探られているような――彩牙はそんな奇妙な感覚を抱いた。

 

「……帰って来てからな、海未はずっとお前のことを心配していた。夕食にほとんど手を付けないほどにな」

 

「……ご心配おかけして、申し訳ございません」

 

海未の父が語ったそんな海未の姿を想像し、彩牙は胸が苦しくなった。

あの律儀な海未が食事を疎かにする程など、よっぽどのことだ。海未にそんな思いをさせてまで、自分は怒りに身を任せて何をやっているというのか。

そんな自責の念に駆られる彩牙に、海未の父は再び口を開いた。

 

「……お前がどうしてこのようなことになっているのか、夜に度々外に出て何をしているのか、私は聞かん」

 

「先生、まさか……!?」

 

(……)

 

出来得る限り、気配を消していたはずだ。だというのに気づかれていたというのか。

目の前に佇む海未の父に驚愕と畏怖の念を抱く彩牙を前に、彼は続けて口を開いた。

その言葉に言い躾けるような厳格さと――諭すような優しさを纏わせながら。

 

「だが、お前が無意味に傷つくことで悲しむ者がいるという事を……忘れてはならんぞ」

 

それだけを言い残し、海未の父も道場から去っていった。

一人残された彩牙は、自問自答する。

今日、彩牙は海未のことを想い、海未を守るためにコテツと剣を交えた。その思いに偽りはなかった。

だが、怒りに身を任せただけのあの戦いで、一体何が得られたというのだろうか。誰が、何を得したというのだろうか。

少なくとも、海未は悲しんでいた。泣いていた。

海未のためと言っておきながら、当の彼女は悲しい思いをしただけだった。

 

――お主の行動一つにあの少女の命が懸かっておる。

 

――どうして戦うのですか?

 

――お前が傷つくことで悲しむ者がいる。

 

オルトスの、海未の、そして海未の父の言葉が頭の中を何度もよぎった。

 

 

 

 

**

 

 

 

「かーよちんっ! おっはよー!」

 

「おはよう、凛ちゃん♪」

 

――朝。

まだ夏の暑さが表に出ない、そよそよとした風が吹く涼しいひと時。

その中に、μ’sの朝練のために音ノ木坂に向かう凛と花陽の姿があった。

幼いころからずっと仲良しだったこの二人は、学校に行く時も帰る時もいつも二人一緒に居た。

無論、別々になる時もあるが、それでも一緒に居る時の方が多かった。

そしてそれはμ’sに入ってからも変わることはなく、今では真姫も交えるようになっていた。生憎と今日は一緒になれなかったが。

 

学校に向かいながら凛と花陽は、とりとめのない会話を繰り返す。

あのラーメン屋が美味しいだの、今日もご飯が美味しかっただの、練習に向けてテンションが上がるだの、穏やかで微笑ましい会話を繰り広げていく。

そんな穏やかな会話を交わす中、凛がふと思い出したかのように口を開いた。

 

「そういえば昨日の海未先輩、どうしたんだろうね?」

 

「うん……なんだか戻ってきてから心あらずっていうか……」

 

思い返されるのは昨日、クレープ屋に行った時のこと。

からかい過ぎて恥ずかしさのあまり路地の中に走り去ってしまった海未と、彼女を追いかけて行った彩牙を待っていた時のことだった。

あの時、残されたメンバーは皆のんびりと二人のことを待っていた。

……穂乃果やことりは人気のない場所で男女が二人っきりというシチュエーションに何かしら触れるものがあったのか、キャーキャーと騒いでいたが割愛しよう。

 

きっと、からかわれたことに顔を赤くしてぷっくりと怒った海未を、彩牙がなだめながら戻ってくる――そんな光景を想像しながら待っていた。

しかしそんな予想に反し、しばらくして戻ってきたのは海未ただ一人だけだった。

駆け足で、緊迫とした表情を浮かべながら。

何かあったのかと聞いても何でもないの一点張り。彩牙はどうしたかと聞くと一瞬目を泳がせ、「急用ができたようです」と答えるだけだった。

 

その後、そんな様子のおかしい海未に急かされて帰ることになったのだが、その最中でも海未は先程までいた路地が気になるかのようにそわそわと、ちらちら振り返るような仕草を何度も見せていた。

普段から落ち着いている海未が、あれ程までに恥じらいとは全く別の、落ち着きのない姿を見せたことが凛と花陽には非常に印象に残っていた。

 

「うーん……彩牙さんと何かあったのかな……?」

 

「はっ! ま、まさか人気がないのをいいことに海未先輩にあんなコトやこんなコトを……!彩牙さん見かけによらず最低だにゃ」

 

「さ、流石にそれはないんじゃないかな?」

 

「だよねぇ…………あれ?」

 

そんな冗談を織り交ぜた会話を交わす中、凛の目にあるものが映った。

公園の中、道路からはほとんど死角となっている花壇の脇から飛び出た黒い棒のようなものだ。

――なんだろう?

無性に好奇心が湧き、ひょこひょことそれに歩み寄る凛。彼女を慌てて追いかける花陽も、その黒い棒のようなものに気づいた。

 

近づくにつれて棒のようなものの姿が鮮明になり、その正体がわかった。

それは棒ではない。黒いズボンを履いた人の足だ。誰かが花壇に寄りかかり、足を伸ばしているのだ。

寝てるのかな?そう思った、次の瞬間だった。

 

――ドサリ

 

何かが倒れるような音。

いや、倒れるような――などではない。実際に倒れていた。

突き出した足の持ち主が、花壇に寄りかかったままずるずると倒れたのだ。

ぎょっとした凛と花陽は、慌てて倒れた人物へと駆け寄った。

 

「だ、大丈夫です……か……」

 

「この人……!」

 

そこにいた人物を目の当たりにして、凛と花陽は驚愕で目を見開いた。

そこにいたのは一人の少年だった。

凛と花陽より少し年上くらいの背格好に、サングラスをかけ、そしてこの夏の中では異様に目立つ黒いコートを纏った少年だった。

そう、そこにいたのは一昨日自分たちと出会った……乱暴な男たちから助けてくれたあの少年――

 

「一昨日の人……!」

 

「っ……ああ、アンタ達か……」

 

――コテツだった。

しかし凛と花陽は目の前にいるのが本当に一昨日の少年と同じなのかと疑わずにはいられなかった。

あの特徴的な人を食ったような不敵な笑みは消え、苦悶に満ちた表情だけが浮かんでいた。

身体の節々が痛むのか、所々を苦しそうに手で押さえていた。そして何よりも目を引いたのが、至る所にある斬られたような傷跡だった。

一昨日の時とはまるで正反対のボロボロな姿に、凛と花陽はただ唖然とする他なかった。

そんなコテツに、凛は恐る恐る尋ねた。

 

「ど、どうしたの……?あの後また喧嘩でもしたの……?」

 

「あー……まあな……むかつく狼とちょっとな」

 

「そ、それより早く病院に行かなくちゃ!」

 

「そんなもん必要ねえって」

 

「そんなものって……!」

 

花陽にはとてもそうは見えなかった。

息も絶え絶え、全身に傷を作り、寄りかかって倒れるほどに消耗した人間に病院が必要ないなどとは見えなかった。思えなかった。

何故そんな意地を張るのだろうか――花陽はそう思わずにはいられなかった。

そんな花陽の気持ちを知ってか知らずか、コテツは無理に不敵な笑みを作って呟く。

 

「ほらさっさと行け。アンタ達みたいな女の子がこんな怪しい奴にかまう必要なんて――」

 

「そんなのヤダよ!!」

 

コテツの言葉を遮るように叫んだのは、憤るような表情を浮かべた凛だった。

呆気にとられたコテツをまっすぐ見据え、凛は自分の思いを叫ぶ。

 

「苦しんでる人を放置して、知らないふりしていくなんて……そんなこと、凛は絶対したくないよ!」

 

凛は幼馴染の花陽をはじめ、困っている人間を前にすると手助けをせずにはいられないタイプの少女だ。そんな彼女が目の前で倒れているコテツを見過ごすことなどできなかった。

そしてそれは花陽も同じで、力強い眼差しでコテツを見つめていた。

 

 

「……あのな、俺がこうしてるのは実はフリで、本当はアンタたちを襲おうと隙を窺ってる……なんて思わないのか?」

 

「思わないよ」

 

コテツの言葉に、凛は迷いなど一切ない様子で答えた。

――何故だ?そうコテツが問うと、凛はあっけからんとした表情で答えた。

 

「だって一昨日、凛たちが帰るときあなたは追ってこなかったでしょ? その気になれば凛たちを簡単に捕まえられるはずなのに」

 

「それに、本当に悪い人だったらそんなこと言うはずないもん」

 

「……はは」

 

凛の言葉に、コテツはもはや力なく笑うことしかできなかった。

そこまで言われてしまっては、最早何を言おうと凛はコテツを助けようとするだろう。

ただそうしたい、その一心で。

 

 

「ね?だから早く病院に……」

 

「必要ねえよ」

 

「まだそんなこと言って……!」

 

そう言いかけて、花陽は思わず口を噤んだ。

コテツの表情は強がって意地を張る人間のそれではなくなっていたからだ。

本当に病院の必要がない――花陽にはそう言っているように見えた。

 

「――水、持ってないか?」

 

「えっ? ミネラルウォーターなら持ってるけど……」

 

「十分だ」

 

そうして凛が取り出したのは、ペットボトルのミネラルウォーター。

それを受け取ったコテツは、懐から包み紙に入った緑とも赤とも黒ともつかない、極彩色の丸薬を取り出した。そのあまりにもおどろおどろしい色合いの丸薬に、凛と花陽は思わず表情を歪めた。

 

どう見ても怪しげな成分が入っていそうなその丸薬を、コテツは何粒か手に取り、一瞬ためらうようなそぶりを見せて水と共に一気に飲み干した。

サングラスの上からでもわかるほどに非常に苦々しく表情を歪め、丸薬を飲み込んだコテツに、凛と花陽は恐る恐る尋ねた。

 

「だ、大丈夫ですか……?」

 

「なんだかすごくやばそうな薬だったけど……飲んで平気なの?」

 

「あー……今のは魔法の薬だよ。どんな怪我でもすぐに治しちまうすげえヤツ」

 

どんな怪我でも治す――どう考えても世間一般で言われるような危ない薬にしか見えないし、聞こえない。

そう思う彼女たちをよそに、コテツは何やら緊張した様子を見せていた。

まるで、何かに身構えているかのように。

 

「だけどこの薬には欠点が二つあってな。一つは吐き気がするほどクソ不味いってこと、そしてもう一つが――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――治す時、死ぬほど痛いってことなんだ」

 

そう言った瞬間、コテツの身体がびくりと震えた。

そして――

 

 

「――ぐぅぅああぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

「ひっ!?」

 

絶叫と共に先程までとは比べものにならない程の苦悶の表情を浮かべ、その場に転がった。

肉の、骨の蠢く音がコテツの身体から響き、蹲る彼の肉体を耐え難い激痛と共に強制的に治癒していく。その証拠に体中にあった血に塗れた無数の傷が次々と身体の中に埋め込まれるかのように消えていく。

そんな光景を目の当たりにした凛と花陽はどうしていいかわからず、怯えた表情でただ待つことしかできなかった。

 

そうして治癒の副作用にコテツが苦しむこと数分。

コテツの絶叫に誘われて、通りがかりの人が来て騒ぎにならなかったのは幸いと言えた。

怯えながら様子を見ていた凛と花陽の前で、たった今まで激痛に苦しんでいたコテツの身体がびくりと跳ね、絶叫が止まった。

やがてその呼吸もだいぶ落ち着いてきたころ、それまで見守っていた凛が恐る恐る尋ねた。

 

「……だ、大丈夫?」

 

「……あー……死ぬかと思った」

 

むくりと立ち上がったコテツ。

その姿はさっきまで倒れていたとは思えないほどにピンピンとしていた。

 

「ほ、本当ですか?あんなに苦しそうだったのに……」

 

「滅茶苦茶痛いからできればあの薬使いたくなかったんだけどさ。御覧の通り、ほら」

 

そう言いながら軽く飛び跳ね、五体満足であることをこれでもかとアピールするコテツ。

無理をしているようには見えないその様子に、凛と花陽はほっと胸を撫で下ろした。

絶叫しながら激痛にのたうち回る姿を見ていたため、尚更安堵していた。

そして、コテツの使った薬と彼自身、明らかに普通ではない。いったい彼は何者なのか、そう思わずにはいられなかった。

 

そんな彼女たちの疑問をよそに、凛に向き合ったコテツはどこか神妙な表情を浮かべた。

 

「一つ聞いていいか?」

 

「えっ?」

 

「アンタ、さっき『苦しんでる人をほっとけない』って言ったよな。それじゃあもし、その相手が心から憎い奴だったら……アンタならどうする?」

 

コテツの言葉に呆気にとられたものの、凛は考える。自分ならどうするか、その答えを。

凛をまっすぐに見据えるコテツ。突然起こった問答に戸惑い、どこか不安そうに見つめる花陽。

二人の視線を浴びる中、しばらくして答えが見つかったのか、凛はコテツを見つめた。

 

 

「……凛はね、誰かを憎んだこととかしたことないし、これからもしたくないって思ってるよ。だからね……あなたの言うこと、よくわかんないんだ」

 

「……」

 

「でもね、それでも凛は助けようとすると思うよ。憎くたって同じ人だもん、生きていればきっと仲良くなれる筈だから」

 

「……ははっ」

 

凛の言葉に思わず笑うコテツ。

それは嘲笑ではない、感嘆のあまりに漏れたものだった。

凛の思いの、その純粋さに。

 

「そっか、それだけ聞けりゃ十分だ。水、ありがとな」

 

凛と花陽にそう告げ、背を向けて歩み去るコテツ。

そんなコテツの後姿を見つめた凛を花陽は互いを見つめあい、何かを決意したかのようにコクリと頷き合った。

 

 

(どうかしたのですか? あのような質問をして)

 

(別に、ちょっとした気まぐれさ)

 

(……ふふ)

 

(何だよ)

 

(いえ、コテツも少しは人と仲良くなる気ができたのかなと)

 

(なんだそりゃ)

 

語りかけるゾルバの思念に毒づくように応えるコテツ。

だがその言葉とは裏腹に、ゾルバは気づいていた。

そう語るコテツの表情に、穏やかな笑みが浮かんでいたことに。

 

 

 

「――あの!」

 

そんな時、去っていくコテツの背にかけられた声。

振り返るとそこにはコテツを呼び止めた凛と花陽の姿があった。

 

「凛の名前はね、星空凛だよ!」

 

「あ、あのっ!私、小泉花陽といいます!」

 

 

「――あなたの名前は?」

 

元気一杯に叫ぶ凛と、戸惑いながらもはっきりと名乗った花陽。

……そういえば、まだお互いの名前も知らなかった。

今更ながら気づいたその事実に可笑しくなったのか、あるいは尚も快活な姿を見せる凛が微笑ましく見えたのか、コテツの表情には可笑しくて堪らないと言うかのような笑みが浮かんでいた。

そして、彼は答える。

 

 

「――コテツだ。縁があったらまたな、凛、花陽」

 

 

人知れずホラーを狩る魔戒騎士としては褒められたものではないかもしれない。

だが、新しい出会いを経たパートナーを、ゾルバは穏やかな気持ちで見守っていた。

 

 

 

**

 

 

 

「……どうしよう?」

 

「どうしよう、とは言ってもこれではどうしようも……」

 

「困ったわね……どうしてこんなことに……」

 

――音ノ木坂、アイドル研究部部室。

そこには凛と花陽以外のμ’sメンバーが朝練のためにと集まっていた。

しかし朝練であるにも拘らず、練習場所である屋上には向かわずにいた。

そして全員が、沈痛な表情、憤るような表情、困り果てた表情と、種類こそは違うものの暗い雰囲気に包まれていた。

そんな中で、誰のものともしれないため息が漏れて部室中に響いた、その時だった。

 

「おっはよーございまーす!」

 

「ごめんなさい!遅れましたぁ!」

 

遅れていた凛と花陽が部室の中に足を踏み入れた。

コテツと別れた後、遅刻しかけていることに気づいて全力疾走してきたのだ。

そうして部室にまでたどり着いたのだが、入った瞬間に異様な空気に包まれた部室に違和感を抱いた。

全員が全員、練習に向かわないのはおろか、暗い雰囲気に包まれているのだ。

 

「……あの、みなさんどうかしたんですか?」

 

「……あ!もしかして凛たちのこと待ってたの!? ごめんね、それじゃ早く練習に――」

 

「練習はできないわ」

 

凛の言葉を遮ったのは、沈痛な表情を浮かべた絵里だった。

いや、絵里だけではない。全員が同じような表情をしていた。

そして突如言い渡されたその言葉に、凛と花陽は驚きのあまり固まってしまっていた。

 

「ど、どうして!?」

 

「……アンタ達、ここに来るまでなんか変だなーとか、思わなかった?」

 

「えっ?……そ、そういえばどこか騒がしかったような気が……」

 

にこに問われ、凛はここまでの記憶を思い返してみた。

学校の目に停まっていた見慣れない車、夏休みで部活のある人間しかいないにもかかわらずどよめきが響いていた校舎、神妙な表情で話し合いをしていた先生たち。

何かあったのかなとは思っていた。しかしそれがどうして自分たちの練習ができないことに繋がるのか――

 

「……見た方が早いわ。行きましょう」

 

絵里のその言葉を皮切りに、μ’sメンバー全員が立ち上がった。

一体何があったというのか、凛と花陽はただ慄くことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「……な、なにこれ……!?」

 

「ひどい……!」

 

他のμ’sメンバーに連れられて凛と花陽がやって来たのは、普段自分たちが練習に使っている屋上だった。

だがその屋上は、彼女たちが知っているものとは変わり果てた光景となっていた。

タイルが剥がれてその下にあった基礎が剥き出しになり、所々に何かが斬りつけたような跡が残っており、まるで“何かが争ったような”――そんな傷跡が屋上に刻まれ、立ち入り禁止のテープが張られていた。

自分たちのかけがえのない場所が見るも無残な姿となり、メンバーの心は悲しみと憤りに包まれた。

 

「どうしてこんなことに……?」

 

「……わからないわ。噂じゃ『狼同士が争っていた』なんて言われてるけど実際はどうなのか……」

 

「こんな都会に狼なんているわけないでしょ」

 

「……」

 

絵里と真姫はそう語るが、その中で唯一、海未だけは心当たりがあった。

昨夜、戦ったという彩牙とコテツ。その戦いの傷跡がこの音ノ木坂の屋上まで至ったのではないかという疑惑を抱いていた。

とはいえ確かなことではない上、到底話せるような内容ではないため、他のメンバーには黙っていた。

 

「お母さんの話だと、直すには最低でも一週間以上はかかるみたい……」

 

「そんな……!それじゃあ練習はどうするの!?」

 

「体力づくりやストレッチ程度なら神社でもできるとは思いますが……」

 

「さすがに歌やダンスの練習までとなると、他のお客さんに迷惑がかかっちゃうもんな……」

 

海未と希が代替案を挙げるが、内容としては如何とも乏しい。

確かに体力づくりだけなら可能だろうが、歌やダンスはそうはいかない。

ダンスも体力づくりと同じように何日間もやっていなければ、それまで身につけてきたダンスの動きや独特の癖というものを身体が忘れてしまうものなのだ。

このままではスキルダウンは免れない――そんな暗い考えが彼女たちを包んだ、その時だった。

 

 

 

「――そうだ!」

 

それまで他のメンバーたちと同じように暗い表情に包まれていた穂乃果が、突然何か閃いたかのように表情を輝かせたのだ。

一体どうしたのだろう。そんな疑問を抱いているいるメンバーたちの視線を浴びる中で、穂乃果はさも名案を浮かべたと言わんばかりの表情で高々と言い放った。

 

 

「合宿しようよ!!」

 

 

 

**

 

 

 

「――はっ!」

 

虚空に走る銀色の剣の軌跡。その一閃によって斬り裂かれ、霧散していく闇。

ここは音ノ木坂近辺の一角にあるとある街角。レギオンの手掛かり探索の傍ら、エレメント浄化を行う彩牙の姿があった。

魔戒剣を鞘に納め、今しがた浄化したオブジェを見つめる彩牙。その瞳にはとある疑惑が浮かんでいた。

 

『前に比べりゃ随分とエレメントの数が減ったな』

 

「ああ、だいぶ楽になったな」

 

『あのコテツとか言う小僧か。やっこさんも随分と仕事熱心のようだな』

 

ザルバの言うように、多いことには変わりないが、それでもエレメントの数が以前に比べると目に見えるように減っていた。

理由は簡単だ。コテツが彩牙と同じように浄化して回っているのだ。

もっとも、今ではコテツもここの管轄の騎士であるためそれも当然であり、エレメントが減って悪いことは何一つないのだが。

 

『さて、次は……あっちの方だぞ、小僧』

 

「わかった」

 

ザルバに誘われ、次のエレメントを求めて歩き出す彩牙。

エレメントに向けて歩を進める中、彩牙はずっと何か考え込むような表情をしていた。

そんな彩牙に、エレメントへの道を示すザルバが声をかける。

 

『どうした小僧、嬢ちゃんたちに言われたことが引っかかってるのか?』

 

「……そうかもしれないな」

 

あの時――コテツと戦っていた時、彩牙は怒りで我を忘れていた。

その怒りの源は海未を守りたいという純粋な想い。しかしそれは海未を悲しませるという結果だけが残ったものだった。

事実、あれから二日経ったが気まずさを感じ、海未とは碌に話ができずにいた。

たとえどれだけ純粋な想いであろうとも、手段を間違えてしまえば守りたい相手を悲しませてしまうだけなのだ。

 

『……いいか小僧、守りたいという想いを持つのは結構なことだ。だがな、怒りに囚われるな』

 

「……」

 

『どんなに純粋な想いでもな、怒りに呑み込まれてしまえばお終いだ。その先に待ってるのは闇だけだぜ』

 

「闇、か……」

 

それを聞いて思い浮かべたのは、あのフードを纏った闇法師。

あの男も何かしらの怒りに囚われて闇に堕ちたと言うのだろうか。

そもそも奴は何故、ホラーに味方するような真似をするのだろうか。

 

 

『……さて、話はここまでだ。近いぞ』

 

ザルバの言葉に思考を切り替える彩牙。

目の前にある角。その先から漂う、肌で感じられるほどの邪気。

エレメントがあるのは間違いなかった。それも相当な陰我が溜まったものが。

 

懐から魔戒剣を取り出し、息を深く吸う彩牙。

先程までの思考を隅に追いやり、魔戒騎士としてエレメントの浄化を行う準備を整える。

そうして角を飛び出し、浄化を行おうとした瞬間――

 

 

 

「おっと……!」

 

「お前は……!」

 

陰我の溜まった電柱――エレメントから溢れ出た闇を斬り裂く銀の閃光。

しかしそれは彩牙の魔戒剣によるものではなかった。その闇を斬り裂いたのはブーメラン状の魔戒剣。

そう――ついさっきまで話題に上がっていたコテツが、一足先にエレメントの浄化を行っていた。

 

「よう、誰かと思えば黄金騎士か。一足先にやらせてもらったぜ」

 

「……別に、誰が浄化を行おうと構わない」

 

エレメントの浄化を終え、挑発的な笑みを浮かべるコテツ。

その顔を見た瞬間一昨日の戦いと怒りの感情を思い出し、思わず身構える彩牙。

過ぎた怒りは身を滅ぼす――先程のザルバとの会話で刻まれたことだが、一度火がついた怒りというものはたとえ鎮まっても燻り続け、そう簡単に消えるものではなかった。

そして笑みこそは崩していないが、コテツも同じような反応をとっていた。

 

「へえ……それじゃあまた別のエレメントを探すか?

 

 

 ――それとも、一昨日の続きをやるか?」

 

彩牙に向け、魔戒剣を突き出すコテツ。

その言葉と行動に咄嗟に反応し、魔戒剣を手に身構える彩牙。

まるで先日の焼き直しのように睨み合い、一触即発の空気に包まれた二人。

また争ってしまうのか――そんなピリピリとした空気の中、その空気を破る声がその場に響いた。

 

『小僧、下らん喧嘩は後にしろ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あの嬢ちゃん“たち”が、例のホラーに連れ去られたぞ』

 

 

 

**

 

 

 

それは、彩牙とコテツが鉢合わせる数分前の出来事だった。

 

「ふう……こんなところでしょうか」

 

買い物袋を片手に街の中を歩く海未。その手に下げられた買い物袋にはタオルや粉末状のスポーツドリンク、虫よけスプレーなどの衛生用品が一杯に詰め込まれていた。

まるでアウトドア旅行に行くかのよう――いや、“まるで”ではない。正にそのための準備をしている最中だった。

 

なぜこんなことをしているのか、事の発端は昨日にあった。

屋上がしばらく使えなくなったという事で穂乃果が提案した合宿。突然のことで皆が皆困惑したが他に良い案もなく、なによりも“夏休みの部活らしい”ということで行くことに決まったのだ。

 

それでまず課題に挙がったのが当の合宿先。

一介の高校生である彼女たちのお小遣いに歌やダンスもできるような合宿先を確保できるような経済力もなく、言い出しっぺの穂乃果に至ってはことりのバイト代を頼りにしようとしたほどだった。

 

そこで名乗りを上げたのが真姫だった。

真姫の家が所有している別荘なら使えると言うのだ。

何でも以前から親に使っていいかどうか聞いていたらしいが、そのことを語る真姫がどこか気恥ずかしそうなことと、そんな彼女を見つめる凛と花陽に満面の笑みが浮かんでいたことが海未には印象に残っていた。

その別荘が海の近くにあり、周りが自然に囲まれているという事なので、こうして海未が必要になりそうな衛生用品などを買い出ししているところだった。

 

そうして粗方買い集め、こんなものかと思い帰路につこうとした時、海未の目にあるものが映った。

見覚えのあるオレンジ色のショートカット。もしやと思い、海未は声をかけた。

 

「……凛、ですか?」

 

「あ、海未先輩!」

 

少女――凛も海未に気づいたのか、元気いっぱいにぶんぶんと手を振る。

――相変わらず元気いっぱいだ。穂乃果に通ずるようなその快活さに思わず微笑むと、海未は凛の下へと歩み寄る。

すると凛はウキウキとした笑顔を海未に向けた。

 

「こんにちは、凛もお買い物ですか?」

 

「うん!今度の合宿で持っていくやつをね、真姫ちゃんやかよちんと一緒に買いに来てたの!」

 

「そうですか……花陽と真姫は?」

 

「そこのお店に行ってるよ、買い忘れたものがあったんだって」

 

そう言って凛が指さしたのは、激安を売りにしているという大手量販店。

じゃんけんの結果、凛がこれまで買ったものを手にここで待つという事になったらしい。

 

「それでね、いーっぱい買ったんだよ!花火とか、浮き輪とか!」

 

「……練習するのであって、遊びに行くわけではないんですよ?」

 

「うー……それはそうだけど、折角の海なんだしたくさん遊びたいよー……」

 

「…………まったく、仕方ありませんね。少しだけですよ?」

 

「……! わーい!海未先輩ありがとにゃー!」

 

先程までのしょぼくれたような表情が嘘のように満面の笑顔を浮かべる凛。

気まぐれな猫のようにころころと表情を変えるその愛らしさに、海未の中に微笑ましい気持ちがこみあげる。

 

それと同時に、ふと彩牙のことを想った。

何故彩牙のことが浮かんだのかはわからない。だが彼のことを考えると、途端に悲しい思いに包まれていく。

そうして海未本人も気づかないうちに表情が悲しげなものに染まっていく。そんな時だった。

 

 

「……海未先輩、どうかしたの?」

 

「……あっ! い、いえ、何でもありませんよ」

 

心配そうな表情の凛が、海未の表情を覗き込む。

ただ純粋に海未のことを心配しているであろうその眼差しに気圧され、思わず視線を逸らす海未。

申し訳ない――そう思う海未を見つめたまま、凛はぽつりと呟いた。

 

「……彩牙さんと何かあったの?」

 

「えっ……!?」

 

そう呟いた凛を、海未は思わず見つめ返した。

まっすぐな澄んだ瞳が、じいっと海未を見つめている。その瞳を見ているとまるで何もかも――下手な隠し事は見透かされてしまいそうな――そんな感覚さえ抱いた。

 

「この間の……彩牙さんと別れてから、海未先輩どこかおかしかったから……喧嘩でもしたの……?」

 

「……いえ、その……喧嘩したというわけではないのです」

 

――そう、別に喧嘩したわけではない。

ただ――

 

「ただ……そうですね……ひょっとしたら私は、悲しかったのかもしれません」

 

「……?」

 

「ここ最近、彩牙くんはどこか思い詰めているように見えて……何が理由でそうなってるのか話してくれないのが、悲しかったのかもしれません」

 

――そう。指輪を受け取ったあの日から、彩牙は海未の前であまり笑わなくなった。

朗らかな凛の笑顔を見て、海未はそのことに気が付いた。

確かに彩牙はそれほど快活に笑う方ではなく、どちらかというと静かなタイプだ。だがそれにも増してあの日から海未の前であまり笑うことはなくなり、それどころか悲しげな視線で海未を見つめていることが多くなっていた。

それを肌で感じ、何も語ろうとしない彩牙が――同じ人間と剣を交えて傷つき、なおも語ろうとしない彩牙が――途方もなく悲しいと感じた。

 

――もしかすると、自分は信頼されていないのではないかと思うほどに。

支えてあげたいのに、それが叶わない。

 

「私が彩牙くんにしてあげられることは、ないのかもしれませんね……」

 

 

 

 

 

 

 

「――大丈夫にゃ!」

 

激励するかのように響く、凛の声。

呆気にとられた海未を前に、凛はその小さな手で海未の手を取った。

元気いっぱいな凛の、その暖かさが海未に伝わっていく。

 

「凛は彩牙さんのことまだあんまりよく知らないけど、それでも海未先輩のことを大事に思ってるんだなってことは知ってるよ」

 

それは一昨日のこと、彩牙とμ’sの皆でクレープを食べに行った時のこと。

クレープを食べている時や指輪をプレゼントしたことを問い詰められていた時、彩牙が海未のことを時折穏やかな視線で見つめていたことを凛は気づいていた。

大事にしたい、守りたい――海未を見つめる目がそう語っているように凛には見えた。

あの視線は、凛には到底偽りには思えなかった。

 

「だから大丈夫にゃ! 海未先輩も彩牙さんも、もう一度話し合えばきっと仲直りできるよ! 二人が互いを信じれば、きっと大丈夫!」

 

「凛……」

 

元気いっぱいに、そして自信たっぷりにそう言い放つ凛。

その言葉を受け、海未の中で消えかけていた光が再び輝き始めた。

 

――そうだ。私は何を弱気になっているのだろう。

彩牙くんが戦いで傷つくのなら癒せばいい。彩牙くんが人と争い、道を踏み外そうとするなら正せばいい。

彩牙くんが私を頼ってくれないのなら頼られるように自分を磨けばいい。何か話せないことがあるのなら尋ねればいい、それでも駄目なら話してくれるまで待てばいい。

彩牙くんが笑えないのなら――彼が笑えるように、私が笑えばいい。

“信じること”――そんな当たり前のことに、どうして今まで気づかなかったのだろう。

 

海未はもう一度凛を見やる。朗らかな笑顔が海未を見つめていた。

その天真爛漫な視線が、愛らしい笑顔が――海未にはとても眩しく見えた。

 

「……ありがとうございます、凛。おかげで元気が出てきました」

 

「えへへ。海未先輩が笑ってると凛も嬉しいにゃ」

 

そうして互いに朗らかな笑顔を浮かべる海未と凛。

その姿は、傍から見れば仲の良い姉妹のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――あ、あのっ!」

 

突然背後からかけられた上擦ったような声。

何事かと海未が振り向いた先には、そこには見るからに弱気そうな、おどおどとした同年代の少年が緊張しきった様子で立っていた。

どこかで見たことあるような――そう考えた直後、海未はその既視感の正体に気づいた。

 

「あなたは確か……一昨日の……?」

 

「は、はいっ! あの時はその、あ、ありがとうございました!」

 

そう。目の前にいる少年は、一昨日の秋葉原の路地裏で男たちに絡まれていた少年だ。

あの時は男たちの注意が海未に向いた途端に逃げ出していたがこうしてまた、無事な姿で会うことになるとは思ってもみなかった。

 

「よかった、あれから無事だったのですね」

 

「は、はい! ……その、あの時は君みたいな女の子を残して逃げて……す、すいませんでした!」

 

「いいのですよ。あのような状況では無理もありませんし、私が勝手にやっただけのことですから」

 

「そ、そう言ってくれるなんて……あ、あの!お詫びも兼ねて何かお礼させてください!」

 

そう少年は叫ぶも、海未は困っていた。

彼女は何も見返りが欲しくてあの時飛び出したわけではない。ただ自分の正義感に――心に従っただけなのだ。

 

「そんな……私はそれほどのことをしたわけではないのに……」

 

「い、いえ! せめて何か返さないとぼ、僕の気が済まないんです!お願いします!」

 

気持ちはありがたいと思ったが、海未は困り果てた。

――これは、うんと言わない限り解放されないかもしれないと。

こうなったら少年の顔を立てるためにも、何かしら受け取った方がいいかもしれない。

顔に似合わず根気強い少年を相手に、海未がそう思った時だった。

 

 

 

 

――くい

 

「? ……凛?」

 

「……」

 

不思議と今まで黙っていた凛が、海未の服をくいと引いた。

視線を移すと、海未の陰に隠れるように寄り添い、どこか怯えたような表情を浮かべる凛の姿があった。

いくら初対面の相手とはいえ、人懐っこい性格の凛がここまで怯えた様子を見せていることに海未は驚いていた。

そういえばこの少年が現れてから、凛は一言も口をきいていなかった。

そんな凛の様子に只ならぬ気を感じたのか、海未は先程までの考えを改めた。

 

「……申し訳ありませんが連れを待っていますし、お気持ちだけ受け取っておきます」

 

「そんな……!」

 

まるでこの世の終わりといっても過言ではないかのように悲しみの表情を浮かべ、俯く少年。

そんな心の底から悲しんでいるような少年の姿に、やはり気にしすぎてしまったかと海未は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その時だった。

 

「――じゃあ、無理に来てもらうしかありませんね」

 

「え……!?」

 

聞き間違えかと思うような、底冷えする声。

その正体を確かめる間もなく、身体に走る衝撃と共に海未の意識は闇に堕ちていく。

意識を失う寸前、最後に映ったのは彼女と同じように気を失い、倒れ伏す凛の姿。スタンガンを持ち、虚ろ気な目をした見覚えのある男たち。

そして――目を怪しく光らせ、口を吊り上げた少年の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ごめんね凛、待たせちゃっ……た……?」

 

「凛……ちゃん……?」

 

しばらくして、買い物を終えて店から出てきた真姫と花陽。

だがそこには待っていたはずの凛の姿はなく、これまでに買った買い物袋の中身が散乱していただけだった――

 

 

 

***

 

 

 

凛「すっごく仲の悪い人たちっているけど、その人たちって何でそこまで仲良くできないのかな?」

 

凛「ちょっとは素直になった方が仲良くできるし楽しいと思うのになぁ……」

 

 

凛「次回、『双牙』!」

 

 

 

凛「……さすがに、危ない時には仲良くできるよね?」

 

 

 






魔戒指南


・ コテツ
灰塵騎士カゲロウの称号を持つ若き魔戒騎士。
彩牙と同年代と思われる少年だが常にサングラスをかけており、その素顔は謎に包まれている。
魔戒騎士として動く傍ら、彩牙に強大な敵意を向けることがあるが、その真意や目的は謎に包まれている。
武器はブーメラン状の魔戒剣であり、曲刀のように扱うほか、その形状が物語るようにブーメランとして投擲する。


・ 灰塵騎士・陰狼
コテツが召喚する灰色の鎧。瞳の色は赤。
ガロに比べると若干スマートな体形に、鎧の各所に炎を彷彿とさせる意匠が刻まれている。
ブーメランのような形状はそのままに一回り大きくなって炎のような紋章が施された灰塵剣を武器とし、ブーメラン状である飛翔態と、中心部から分かれて二振りの逆手持ちの剣となる双剣態という二つの形態を有する。


・ 魔導具ゾルバ
コテツのパートナーであるペンダント状の魔導具。犬の頭に男性の顎が融合したような形をしている。
紳士然とした男性の声で物腰の柔らかい話し方をする。
若い騎士であるコテツを兄のように見守り、暴走しがちな彼を窘めることが多い。



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第8話  双牙

【速報】ダイヤお姉ちゃん(アニメ版)、まさかのガチライバーだった。

「スクールアイドルには興味ありませんわ。勝手にどうぞ」と言っていたダイヤお姉ちゃんはもういないんや・・・・
あれか、使徒ホラーになった経験で考えが変わったのか。




 

 

 

 

 

 

「………う、うぅ……ここは……?」

 

まどろみの闇の中から目覚める海未。

覚醒しきっていない頭の中に目や鼻を通して飛び込んでくるのは、薄暗くてかび臭く、その中に混じる油のような臭い。

そこは先程までいた街中とは程遠い、まるで正反対の工場のような廃墟の一室だった。

 

「なっ……!何ですかこれは!?」

 

余りにも現実離れした光景を前に一気に覚醒し、思わずその場から飛び出そうとする――が、海未は動けない。

手首に伝わる圧迫するような痛みとガチャリという金属音が彼女の動きを封じたのだ。

視線を向ければそこには手錠に掛けられ、パイプなどに繋がれた自分の手首があった。

 

監禁状態――そこで海未に一つの懸念が走り、動けない手首以外を駆使して自らの身体を調べた。

結論から言えば海未の懸念――気を失っている間に身体を嬲られていないかという懸念は杞憂に終わった。

身体を弄られたような感覚も痛みもないし、出血した様子もない。強いて言うなら最悪な目覚め方をしたせいで頭の中がガンガンと殴られたような感覚が収まらずにいたことだった。

 

そうしてもう一度辺りを見回す。

すると自分の隣にもう一人、同じように繋がれた少女がいたことに気づいた。

 

「――凛! しっかりしてください!」

 

「……う、うぅん……海未、先輩……? ……あ、あれ?なにこれ!?」

 

少女――凛は海未の呼びかけによって目覚め、そして意識がはっきりしていくと共に自分が置かれた状況に気づき、慌てふためいていく。

その様子にいつもの天真爛漫さはなく、ただ恐怖に震えるのみだった。

無理もないだろう。自分でさえこのあまりにも異常な状況に戸惑うことしかできないのだから、と海未は思った。

だからこそ、自分が怯えるような様を見せ、不安にさせてはいけないとも思った。

 

「う、海未先輩……凛たち、どうなっちゃうの……?」

 

「……わかりません。ですが大丈夫ですよ、きっと助けが――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――あ、あの!大丈夫ですか!?」

 

自分たちだけかと思われた部屋に響いた、年若い少年の声。

声の出所に視線を向けると、そこには照明が届かずに暗くてシルエット程度でしか判別できないものの、意識を失うまで一緒に居たあの弱気そうな少年がいた。

そのシルエットから、海未や凛と同じように繋がれていることが窺い知れた。

 

「あなたもいたのですか! そちらは無事ですか!?」

 

「は、はい! ただ手錠に繋がれて身動きできなくて……!」

 

「そちらもですか……!」

 

もしかしたら少年の方は繋がれていないかもしれないという希望的観測も断たれ、苦々しく表情を歪める海未。

その一方で、とある疑問もあった。

意識を失う寸前――邪悪に笑っていたように見えた少年。だが今、表情こそはよく見えないもののその声色はこの状況に本当に戸惑っているようにも聞こえた。

意識も朦朧としていたし、あれは気のせいだったのだろうか――自分が見たことにそんな風に結論付けた、その時だった。

 

「きゃっ!?」

 

「眩しっ……!?」

 

突如それまで付いていなかった照明が灯り、部屋のある一点を照らしだした。

照らされた先にあったもの――それを見て海未は、凛の瞳は、大きく見開かれた。

 

 

 

 

「……た、助けてくれよぉ……!」

 

「あ、あの人……!」

 

「凛も知っているのですか!?」

 

「う、うん。このあいだ凛たちを襲おうとした男の人だよ」

 

そこにいたのはかつて海未を、そして凛を襲った乱暴な男たち、その内の一人だった。

男も海未たちと同じように繋がれていたのだが、なによりも彼女たちが驚いたのはその様子だった。

あの欲望を隠そうともしない見るからに乱暴な笑みを浮かべていた表情は恐怖に染まり、汗を幾重も流し、目はぎょろぎょろと大きく開いていた。

一体何を見て、或いは何をされたというのか。その身体は小動物のように小刻みに震え、あまりの恐怖によるものか、股間のあたりのズボンが大きく湿っていた。

 

あの乱暴な男がここまで変貌するというのか。

海未はそのことに唖然とし、同時に自分たちの置かれた状況に途轍もない危機感を抱いた。

凛はただただ恐怖していた。これから自分がそうなるかもしれないというその姿に怯え、幼馴染の名を――花陽の名を弱々しく呟くことしかできなかった。

 

 

 

そうしている中――“それ”は起きた。

 

 

 

「がっ……!」

 

突如ビクンと跳ねた男の体。

“それ”が始まったことを知った男は恐怖と苦痛に表情を歪め、狂ったようにもがき、叫びだす。

 

 

「いやだ!いやだぁぁぁぁ! やめ、やめてくれ! 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくn――ぅぷっ!」

 

「ひっ……!」

 

「っ! 凛!見てはいけません!」

 

言い切ることなく言葉が途切れ、頬がボコリと膨らんだ男を見て途方もない不吉な予感を抱いた海未が叫ぶも時は既に遅かった。

恐怖に支配され、硬直した凛は目の前で起こりつつある惨劇から目を逸らすことができなくなっていた。

そうして惨劇は続く。

 

「おっ……ご、GA……AAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!」

 

最早言葉にすらならない叫び声と共に男の頬が、頭が、腕が、足が、身体が膨らんでいく。

まるで風船のように膨らみきった“男だったもの”の背中から、弾け飛ぶように裂いて“それ”は現れた。

血に塗れた白い外骨格、赤い血の中で爛々と輝く青い複眼。まるで蟻を彷彿とさせるような姿――

 

先日海未を襲ったホラー――レギオン兵が、抜け殻となった男の血と肉片を浴び、辺りに撒き散らしてその産声を上げたのだった。

 

 

「いっ……いやああああああああ!!」

 

「うわあああああっ!?」

 

人が弾け、怪物が姿を現すという目の前で起きたあまりにも惨たらしい惨劇に恐怖し、悲鳴をあげる凛。

暗くて表情こそは見えないものの、少年も同じような悲鳴をあげていた。

そしてその場の視線を一身に浴びたレギオン兵は辺りをきょろきょろと見回し、やがてその視線は凛に向けて留められた。

レギオン兵の青い複眼が、恐怖と涙で濡れた凛の姿を映し出す。

 

「ひっ……!?」

 

おぞましい怪物に見つめられ、びくりと震える凛。

数秒、もしくは数分間だったのかもしれない。まるで品定めをするかのように凛をじいっと見つめた後、レギオン兵は凛目掛けて歩き出した。

生まれたばかりなためかその足取りは覚束ないものの、一歩、また一歩と着実に凛に迫っていた。

 

「や、やだぁっ!! こないで!こっち来ないでよぉ!!」

 

「凛!! ……このっ!外れなさい!!」

 

泣き叫び、じたばたともがく凛。それも無理はないだろう。

突然の監禁、弾け飛んだ男とあまりにも異常で残酷な光景を目の当たりにして精神を摩耗し続け、迫りくるレギオン兵を前にした恐怖により遂に精神が決壊してしまったのだ。

凛の危機を前にして、海未はどうにかして拘束を解こうともがくものの一向に解ける気配はない。

鍛錬を重ねていると言っても海未は一介の女子高生だ。手錠の拘束を解く術など持っていなかった。

 

そうしている間にもレギオン兵は凛に迫り、最早彼女の目と鼻の先にいると言っても過言ではなかった。

凛の目前にまで迫ったレギオン兵は生臭さのある牙を剥き出しにし、血に塗れた腕を凛に向けて伸ばす。

凛を喰う気なのだと、海未は理解してしまった。

 

「やだ、やだ!やだよぉ!!」

 

「凛! やめなさい!彼女から離れなさい!!」

 

海未は必死に叫ぶものの、生まれたばかりで意識がはっきりせず食欲だけで動くレギオン兵には届かない。――もっとも仮に意識がハッキリしていたとしてもホラーである以上聞き届くことはないのだろうが。

虚しく響く海未の叫び。死の恐怖に直面し絶望したような表情を浮かべる凛。

そんな凛の身体をレギオン兵の腕が遂に捉え――

 

 

 

 

 

 

 

 

『ギイィィィィッ!?』

 

――ようとした、その時だった。

まるで蹴り破るかのように扉が乱暴に開かれる音と同時に、レギオン兵の頭に突き刺さる一振りの剣。

その下手人は部屋に乗り込んだと思った瞬間、瞬く間に凛の前に迫っていたレギオン兵を蹴り飛ばし、突き刺していた剣を抜いてレギオン兵を斬り裂いた。

斬り裂かれ、断末魔と共に消えていくレギオン兵。一瞬の出来事に海未と凛は呆然とし、そこで海未はようやくその下手人の正体に気が付いた。

膝下まであるようなボロボロの白いコートに赤い柄の剣。そんな佇まいをしている人間など、一人しかいなかった。

 

「……二人とも、無事でよかった」

 

「彩牙くん……!」

 

『どうやら間に合ったようだな』

 

そこにいたのは――村雨彩牙だった。

赤い柄の剣――魔戒剣を振るい、海未と凛を拘束していた手錠を容易く斬り裂く彩牙。

そうして自由になった海未は真っ先に凛の下へと駆け寄った。

 

「凛!大丈夫ですか!?」

 

「海未、先輩………こわかった、怖かったよぉ……!」

 

「もう大丈夫、大丈夫ですよ……!」

 

海未に縋りつき、泣き続ける凛を海未は固く抱きとめる。

余程怖かったのだろう。肩はがたがたと震え、愛らしく朗らかな笑顔を浮かべるその顔は恐怖で染まり、涙で濡れていた。

彼女の笑顔を何としても守らねばと、海未は深く思った。

 

そして彩牙はそんな海未と凛の無事な姿を見て安堵していた。

海未の持つザルバの分身を辿ってここまで来たが、最悪の事態を避けられたことにほっとしていた。いつ喰われていたとしてもおかしくなかったのだ。

 

「……そうだ、彩牙くん! 私たち以外にもそこに人が捕まっているんです!」

 

「た、助けてください!」

 

凛を抱きとめていた海未が思い出したかのように彩牙に言った。

凛の無事で安堵していたが、まだもう一人、あの少年が拘束されたままだったのだ。

そんな海未の言葉を受け、照明の届かない暗い場所で拘束されている少年を一瞥し、彩牙は口を開いた。

 

 

 

 

海未にとって信じられないような言葉を。

 

「誰がお前なんか助けるものか」

 

「彩牙……くん?何を言って……!?」

 

底冷えするような彩牙の言葉にぎょっとし、思わず問い返す海未。

だが彩牙はそれに答えず、少年の方に鋭い視線を向けたまま、懐から一つ目のような彫が刻まれたライターを取り出し、それに火を灯した。

だがその火は普通の火ではなく、緑色に妖しく燃え上がる火――魔導火だった。その鮮やかな緑色の火に、見つめていると吸い込まれそうだと海未は思った。

 

そうして燃え上がる魔導火は部屋全体を――少年のいる場所をも照らしだした。

そこで明るみになった少年の姿に、海未の、泣き止みかけた凛の表情は驚愕に包まれた。

確かにそこには海未が会ったあの弱気そうな少年がいた。――拘束などされておらず、拘束された“フリ”をしていた少年が。

だが海未と凛が何よりも驚いたのは少年の目だ。魔導火に照らされた少年の目は――瞳は白っぽい緑色に濁り、奇妙な文様――魔界文字が浮かび上がっていた。

海未たちは知らなかったが、これが意味することはただ一つ。

 

「やはり貴様がホラーか」

 

『ホラー・レギオン。間違いない、こいつだ』

 

彩牙の、ザルバの言葉を受け、ついさっきまで弱気そうな表情を浮かべていた少年はすくっと立ち上がった。

その顔に先程までとは正反対の、相手を小馬鹿にするような表情を浮かべて。

 

「……なぁんだ、やっぱり魔戒騎士にはわかっちゃうのか」

 

本性を露にし、嘲笑うような視線を向ける少年――いや、レギオン。

そのあまりの変わりように事情の知らない凛は勿論、海未も思わず後退りをした。

そんな彼女たちの前に立ち、魔戒剣を手に対峙する彩牙は“あるもの”背後の海未へと投げ渡した。

 

「っと……ザルバさん?」

 

『よう嬢ちゃんたち、無事そうで何よりだな』

 

「ゆ、指輪が喋った!?」

 

“あるもの”――ザルバを手にした海未と、ザルバが喋ったことに驚きを隠せない凛。

そんな見覚えのある光景をよそに、どういうことかと海未は彩牙を見つめる。

 

「海未、星空さんを連れて逃げてくれ。道はザルバが知っている」

 

「し、しかし……!」

 

また下手な無茶をするのではないか――そんな不安が海未の中に生じる。

しかしそれと同時に彼女は思い出した。つい先程自分が見つけた光を――彩牙を支えること、彩牙を信じ続けることを。

それに気づいたら、彼女のとる行動は一つだけだった。

 

「……わかりました。行きますよ、凛。ザルバさん、よろしくお願いします」

 

「う、うん……!」

 

『エスコートは任せな』

 

戸惑いつつある凛の手を取り、部屋の出口へと駆け出していく海未。その足取りを邪魔する者は今この場には誰もいなかった。

そうして部屋の出口に差し掛かった時、海未は一瞬だけ振り返り、彩牙の背中を見つめる。

そして彼女は口を開く。先程見つけた自分の思いを籠めた、ある一言を。

 

 

「彩牙くん――――ご武運を!」

 

「……ああ!」

 

彩牙の信頼するような言葉。その短いやりとりだけで十分だった。

迷いのない足取りで凛の手を引き、海未は部屋を後にしていく。

 

『嬢ちゃん、こっちの通路をまっすぐだ!』

 

「はい!」

 

「う、海未先輩! 彩牙さん、大丈夫なの……!?」

 

ザルバの案内により、廃墟のような通路を駆け抜けていく。

そんな海未に手を引かれ、不安げな表情を隠せない凛。何も事情を知らない彼女からすればこの恐ろしい場所に彩牙一人を残してきたことが不安なのだろう。加えて彩牙自身も剣を手にしていたため、何がどうなっているのかという思いがとても強くなっていた。

そんな凛に対し、海未は非常に落ち着いた声色で話しかける。

恐怖に怯える妹を、優しく慰める姉のように。

 

「大丈夫ですよ、凛。なぜなら彼は――」

 

 

 

**

 

 

 

対峙する彩牙と少年。

魔戒剣を構える彩牙とは対称的に、少年を嘲笑うような笑みを浮かべるだけで身構えようとすらしない。

しかし彩牙は油断しなかった。構えていないからといってホラー相手に油断するのは愚の極みでしかないからだ。

 

「まったく……どうして魔戒騎士ってのはいいところで邪魔をするのかなぁ」

 

「それが俺たちの使命だからだ」

 

「あの子たちだって、あのままだったら僕と可愛い兵たちのご馳走になるっていう、名誉溢れる死が迎えられたのに」

 

「……ふざけるな!」

 

少年のあまりにも身勝手な――ホラーらしい言葉が怒りに触れ、斬りかかる彩牙。

振るわれた魔戒剣を、少年は腕一本で受け止めた。

人間のものではない、カマキリの鎌のような黒い腕で。

 

「身勝手だって思った?違うね、本当に身勝手なのは人間さ! 僕がホラーになる前はそれは酷いもんだったさ。学校に行っても家に居てもどこにいてもみんながみんな僕をいじめて、苦しめて、汚いものを見るかのような目で助けようともしない!」

 

「だからホラーにしても、喰ってもいいと言うのか!」

 

「ああそうさ!僕はホラーになれて最高に幸せだったよ! 僕がされてきたことを全部あいつらにお返ししてやったんだ、僕の兵隊にしてね!自業自得さ、悪いかい!?」

 

「ああ――悪い!!」

 

少年のもう一本の腕が、同じように黒い鎌腕へと変化し、もう片腕と魔戒剣をぶつけあっている彩牙に向けて振るわれる。

鍔ぜりあっていた鎌腕を弾き、振るわれるもう一本の鎌腕を魔戒剣で弾き返す彩牙。

それと同時にまた振るわれる少年の鎌腕。それを弾き返す彩牙。

一撃、二撃、三撃……幾度となく打ち合う、少年の鎌腕と彩牙の魔戒剣。そうして何度か打ち合いを交わし、今再び魔戒剣と鎌腕の鍔迫り合いが起きた。

 

「それにしてもいいのかい?」

 

「何がだ!」

 

「ここは僕の城、あちらこちらに僕の兵がうようよいるんだよ? それなのにあの子たちをほったらかしにして平気なのかなぁ?」

 

――そう、この廃墟はレギオンの根城。いわば城だ。

ならばその城の中に蔓延るのは王の手足たる兵隊たちであることは自然の明利。故にザルバがついているとはいえ海未と凛を二人きりにするのはあまりにも危険すぎた。

だというのに――その言葉を聞いても彩牙に動揺した様子は見られない。それどころか不敵に笑っているように見えた。

 

「それなら心配ない」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「気に食わない奴だが、優秀なボディガードがいるからな」

 

 

 

**

 

 

 

『次の角を左だ!』

 

「はい!」

 

一方、海未と凛、そしてザルバ。

彼女たちは今、彩牙から預かったザルバの導きによって廃墟の通路を迷うことなく進んでいた。事実、これまで行き止まり等にぶつかることは一度もなかった。

このままなら無事に脱出できる――そんな考えを抱いた時だった。

 

『次の角を右……いや左……ダメだ!来た道を戻れ!』

 

「えっ!?ど、どうしたのですか!?」

 

「う、海未先輩!あそこ!」

 

突然慌てだしたザルバに、今しがた進もうとしていた道の先を怯えた表情で指さす凛。

その先には暗闇の中で騒めく影、闇に浮かぶ青い複眼――レギオン兵たちが迫っていた。

それは反対側の通路も同じだった。そして来た道を戻ろうとしたのだが――

 

「こっちからも来たにゃ……!」

 

『ちっ!』

 

「凛!下がってください!」

 

その来た道からも、レギオン兵が迫っていた。

三方向から囲まれ、孤立する海未たち。せめて凛だけでも守ろうと、海未は彼女を庇うように前に立った。

牙を剥き出しにし、涎を撒き散らしながら迫るレギオン兵。

 

「海未先輩!」

 

「っ……!」

 

凛の悲鳴と、襲い掛かるレギオン兵の唸り声。

自らに降りかかるであろう痛みに耐えようと身構え、瞼をぎゅっとつぶった瞬間――

 

 

 

 

『ギイィィィィィィ!?』

 

「……え?」

 

痛みは訪れず、耳に入るのはレギオン兵の断末魔。

おそるおそる目を開けてみると、驚きの光景が目に入った。

 

どす黒い血と共に飛び散るレギオン兵の腕、脚、首。

その中で舞うようにレギオン兵を斬り裂いていくのは、銀色の閃光――魔戒剣。

そしてそれを振るうのは黒いコートをたなびかせる一人の少年。

その圧倒的な剣の舞に魅入られる海未と凛。瞬く間にその場のレギオン兵が全滅した時、その少年の正体が明らかになる。

 

「コテツくん!?」

 

「よう無事かい?お二人さん」

 

――彩牙と争った魔戒騎士、コテツだった。

 

「な、なんでコテツくんが!? さっきの彩牙さんといい、もう凛わけわかんないよ!一体何がどうなってるの!?」

 

「あー……詳しい話は後だ、さっさとここから出るぞ」

 

自分の知り合いが難なく怪物を倒していくという現実に混乱する凛をよそに、脱出するように促すコテツ。

だがそんなコテツを、海未は険しい表情で見つめていた。

 

「? なんだよ?」

 

「……あなた、一体何を企んでいるのですか? この間は剣を向けたかと思えば今度は助ける。彩牙くんと戦ったことといい、あなたは何を考えているのですか?」

 

海未からすれば、コテツは理由もわからずに自分を斬ろうとした相手だ。

そんな相手が「助けに来た」などと言っても信用しきれないのは当然のことだった。それに同じ騎士同士である彩牙と戦ったことも、海未にはしこりとして残っていた。

 

「……心配しなくても、アンタにはもう手出ししねーよ。上からお叱りを受けたし、ここはきっちり守ってやるよ」

 

「……」

 

――本当だろうか。

海未にはまだ、疑いの心が残っていた。信頼というのは壊すのは簡単だが築くのは途方もなく難しいものなのだ。

 

 

 

 

 

 

「……あ、あの!」

 

そんな海未とコテツの中に割り込む声があった。

怪物に対する恐怖を抱いたまま、それでも二人の仲を取り繕うと必死の表情を浮かべる凛だった。

 

「凛、あんまり頭良くないし、何が起きてるのかちんぷんかんぷんだから上手く言えないかもだけど……でもね、コテツくんは悪い人じゃないないよ! だからその……二人とも、喧嘩しないでほしいな……」

 

険悪にならないでほしいというその一心。必死の表情で訴える凛。

そんな彼女を海未はじっと見つめ――

 

 

 

 

 

 

 

 

――仕方ないと言わんばかりに、息を吐いた。

凛の必死さに根負けしたのだ。

 

「……仕方ありません。凛がそこまで言うのなら信じましょう」

 

「そりゃ光栄だ。ま、信じようが信じまいと俺はどっちでもいいんだけどさ」

 

「……前も思ったけど、コテツくん変に悪ぶってないかにゃ?」

 

「………気のせいだろ」

 

ぷい、と凛の言葉に知らんぷりするかのように目を背けるコテツ。

これまであまりにも謎に満ちていた、コテツの性格の一端が垣間見れた瞬間だった。

 

 

『おいおい、何時までぼさっとしてる気だ?』

 

『早くしないと次が来ますよ』

 

「っと、それもそうだな。走るぞ!」

 

ザルバとゾルバに促され、再び通路を駆けだした海未たち。

そんな中で海未は一つ、気になっていたことをコテツに問いかけた。

 

「……そういえば凛とは随分仲がよさそうですが、どういうご関係ですか?」

 

「ん? そりゃあ………」

 

 

「凛とコテツくんはね、お友達なんだよ!」

 

「あー……そういうことだ」

 

何を言っても仕方ないと言わんばかりに、コテツは頭をポリポリと掻いた。

 

 

 

**

 

 

 

「うおおおっ!!」

 

「シャアッ!!」

 

一方、そのころの彩牙は少年――レギオンと戦っていた。

彩牙の魔戒剣がレギオンの鎌腕を受け止め、弾く。同様に魔戒剣を鎌腕が弾き、火花を散らし、何度も打ち合う。

そんな互いに一歩も引かない、激しい攻防が繰り広げられていた。そして今、魔戒剣と鎌腕がぶつかり合い、鍔迫り合いとなった。

 

「ここでキミを、ガロを始末できれば僕の名前は魔界中に知れ渡り、魔界の王になることができる!ガロを倒した、唯一の存在として!」

 

「……下らない考えだな」

 

レギオンの言葉を一蹴し、彩牙は鍔迫り合いとなっていた鎌腕を渾身の力で弾き飛ばし、がら空きとなったレギオンの胴体を魔戒剣で斬りつける。

どす黒い血が飛び散り、よろめくレギオン。その隙を逃さんと更なる追撃を仕掛け、魔戒剣を突き出したとき――

 

 

 

――衝撃が、彩牙の身体に襲い掛かった。

 

 

 

 

 

 

「――そろそろ出口だな」

 

「凛、あと少しです!頑張ってください!」

 

「う、うん!」

 

廃墟からの脱出を試みていた海未たち。

ザルバの導きによって最短距離で駆けあがり、道中遭遇したレギオン兵をコテツが斬り裂いていったため、彼女たちは無事に建物内から外に出ることができていた。そして自分たちが今までいた場所をようやく知ることになる。

 

その廃墟は一言でいうなら廃工場だった。人の手がつかなくなったことにより地面は荒れ、雑草が伸び放題に生い繁げ、錆びついたドラム缶やら重機やらがあちらこちらに散乱していた。

敷地の周囲は暗いためよくはわからないが、少なくとも秋葉原から離れていることは明らかだった。

とはいえ後は塀を越えるだけ――そう思い、再び駆け出そうとした時――

 

 

 

「――ぐっ!」

 

「きゃあっ!?」

 

「さ、彩牙くん!?」

 

彼女たちの目の前に、建物の壁を突き破るようにして彩牙が降って来たのだ。

地面を幾度か転がり、立ち上がりながら自分が降ってきた方向を睨みつけていた。

 

「お前いきなり何を――!」

 

そんな彩牙に文句を言おうとして、その睨むような視線にはっとするコテツ。

彩牙が睨む方向に一瞬視線を向けた後、すぐさま傍にいた海未と凛を突き飛ばした。

 

「わっ!?」

 

「な、何をして――!?」

 

その直後、大きな影が彼女たちの前に降り立った。

2メートルを超えるような大きな体躯。人とは到底離れた蟲のような姿。

唖然とする海未と凛。少年――いや、本性の姿を露にしたホラー・レギオンがそこにいた。

 

レギオン兵と同じように蟻を彷彿とさせるような人型の蟲の姿。しかし兵とは正反対のようにその身体は大柄で黒く、複眼は赤く輝き、更に背中には上級兵と同じような翅を有していた。

だが兵との最大の違いは腕だ。兵と同じような腕の他にもう一対、カマキリの腕のような鎌腕を有していたのだ。

 

「おい、仕留め損なう上に何連れて来てんだよ」

 

「悪かったな。海未と星空さんは下がっててくれ」

 

「は、はい!」

 

四本の腕――二本の腕に二本の鎌と対峙するのは、一本の剣と二本に分かれる剣。

それを前にしても臆することなく、彩牙は頭上に、コテツは身体を囲むように、それぞれ魔戒剣で円を描き――

 

 

 

 

 

 

 

光の輪が溶けるようにして消えていった。

 

「なにっ!?」

 

『無駄だよ。この城には結界が張ってある、君たちの鎧は召喚できないよ』

 

「……そういうこと。まんまと嵌められたってわけか」

 

――そう、廃墟に張られた結界により、彩牙とコテツは鎧の召喚を封じられていた。

レギオンが海未や凛を連れ去ったのは彼女たちを喰うためだけではない。彼女たちを助けるために乗り込んでくるであろう彩牙――黄金騎士ガロの鎧を封じ、安全に始末するためだったのだ。

レギオンにとって今の彩牙とコテツは飛んで火にいる夏の虫――といった具合だった。

 

『これでもう、キミたちに僕を倒すことはできない!』

 

「ちっ!」

 

舌打ちする彩牙とコテツに、レギオンの無慈悲な鎌が振り下ろされる。

二人はその鎌を避け、地面に突き刺さったその鎌腕を両断しようと斬りつけるが僅かに食い込むだけとなり、あまりの硬度に両断することは到底敵わなかった。

そしてそんな彩牙とコテツに、レギオンのもう一対の両腕が襲い掛かる。

渾身の勢いで殴り飛ばされ、血を流して地面に転がる彩牙とコテツ。

 

「くっ……!」

 

『なんという硬さ……!鎧を纏わなければ突破するのは難しいですよ!』

 

「くそったれが……!」

 

悔しそうに顔を上げる彩牙とコテツ。

そんな二人の前には更に現れるレギオン兵たち。そして兵たちを従え、四本の腕をゆらゆらと揺らめかせるレギオンが迫っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「彩牙くん……!」

 

「ど、どうしよう!?彩牙さんとコテツくん、このままじゃやられちゃうよ!」

 

彩牙に促され、物陰に隠れて戦いを見守っていた海未と凛。彼女たちは今、集燥に駆られていた。

彼女たちの目の前では、レギオンとレギオン兵たちを前にして防戦一方を強いられている彩牙とコテツの姿があった。

レギオンの腕を、鎌を躱しては反撃をしようとするが、レギオン自身の高強度の外骨格に阻まれるかレギオン兵の妨害を受け、攻勢に向かうことができずにいた。

その上大量のレギオン兵も相手にすることで、彼ら自身の疲労も徐々に溜まっていく。このままでは一瞬の隙を突かれ、その物量によって呑み込まれてしまうだろう。

 

――何か、私たちにできること、何か――!

 

このまま見ていることしかできないのか?……それは嫌だ。

自分にできること、この状況を切り開くために自分ができることは何かないのか。

海未がそう考えた、その時だった。

 

『……なるほどな、結界で鎧の召喚が阻まれてやがる』

 

ザルバの言葉が、海未の意識を向けた。

そういえばこの戦いの中で、彩牙とコテツは鎧を召還していなかったのだ。

そのことに気が付いた海未と、何のことかわからず疑問符を浮かべる凛がザルバを見つめた。

 

「! 鎧が!?」

 

「よろい……?」

 

『ああ、魔戒騎士の鎧。あれが召喚できないせいで倒せずにいるんだ』

 

ザルバの言う通り、素体ホラーやレギオン兵のような使い魔程度ならばまだしも、ホラーを倒す――封印するためには鎧の存在が必要不可欠なのだ。

いずれこのままでは彩牙とコテツの体力が底をつき、その隙を狙って瞬く間に殺されてしまうだろう。

そのことを聞いた時、海未の中にある考えが浮かんだ。

 

「……ザルバさん、その結界というのは破ることができるんですか?」

 

『ふむ……周りをもう一度見せてくれるか』

 

そう言われ、見渡しやすいようにザルバを高く掲げる海未。

周囲を――上下左右を確認した後、満足する答えを得たザルバが口を開いた。

 

『あの螺旋階段の上あたり、わかるか?あそこに貼ってある札が結界を張ってある』

 

ザルバが示した先は、海未たちと彩牙たちが戦っている中間辺りに存在している螺旋階段。

その階段を昇りきって少し上に進んだ先に、黒い札が2枚貼ってあるのを確認できた。

あの2枚の札が、結界を張っていたのだ。

 

「つまり、あれを剥がせば彩牙くんたちは鎧を召喚できるのですね」

 

『ああ。……まさかと思うが、嬢ちゃん』

 

「はい、私が行って剥がしてきます。どのみち彩牙くんたちがやられてしまっては私たちもお終いです」

 

彩牙もコテツも、レギオンの相手で手一杯で結界を破る余裕などないだろう。

ならば今こそ自分の出番だ。自分なら結界を破る余裕がある。こんな安全な場所でただ怯えているだけなどできない。

それに彩牙もコテツも自分たちを助けるために命を張ってくれているのだ。ならば自分も、自分にしかできないことで彼らを助けたい。自分なりのやり方で彼らと共に戦いたい。

それが海未の出した答えだった。

 

「いいですか、凛。あなたはここに――」

 

「凛も行くよ!」

 

残っているように――そう伝えようとした海未の言葉を、凛は遮った。

驚きの表情で見やる海未をよそに、凛は自分の思いを伝えていく。

 

「よくわからないけど、あのお札を剥がせば彩牙さんやコテツくんも助かるんだよね? だったら凛もお手伝いしたい!」

 

「……危険ですよ?」

 

「それはそうかもしれないけど、だったら尚更海未先輩一人には行かせられないよ! 凛も力になりたい、凛だって……怯えてるだけなのはやだもん!」

 

海未はじっと凛の表情を見つめる。

恐怖を浮かべながらもそれを抑え、それ以上の使命感――自分を助けてくれた人たちの力になりたい、助けたいという思いに満ち溢れていた。

その思いは梃子でも動かせないだろう――そう、海未と同じように。

すると海未は呆れたような笑みを浮かべた。無謀なことに挑戦しようとする凛、そして彼女自身に向けて。

 

「……わかりました。行きましょう、凛!」

 

「うん! 彩牙さんとコテツくんを助けるにゃー!」

 

『……まったく、恐れ知らずな嬢ちゃんたちだ』

 

覚悟を決めた二人の少女たち。

そんな彼女たちにザルバは呆れたような溜息を吐きながら――――同時に、その声色は嬉しそうに弾んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はあっ!」

 

目の前に迫り、爪を振り下ろしたレギオン兵の爪を受け止め、弾き、斬り裂く彩牙。

消滅していくレギオン兵。しかしその余韻に浸る暇はなく、それと同時に別のレギオン兵が迫りくる。

爪を、牙を弾き、反撃していくが一向にレギオン兵は減らない。そしてレギオン兵を相手している間にレギオンが目の前に迫り、その巨大な腕でレギオン兵ごと彩牙を殴り飛ばした。

コテツの隣にまで殴り飛ばされ、なんとか体勢を立て直す。

 

「……おい、今ので何体目だ?」

 

「さあな。数える気がしない」

 

「そうかい、こっちもだ」

 

そう語るコテツも不敵な笑みこそは浮かべているが、疲労は隠せずにいた。

彼も彩牙と同じで鎧の召喚を封じられ、この圧倒的な物量差に押されていた。

そんな二人の前に、今一度レギオンが立った。レギオン兵たちを従え、まるで王のように。

 

『あの黄金騎士が僕に手も足も出ないなんて……やっぱり僕は最強なんだ!僕は黄金騎士よりも強いんだ!』

 

「よく言うぜ、数に物言わせただけのお山の大将気取りが」

 

「ああ。それに結界で鎧を封じているくせに偉そうなもんだ」

 

『ふふ、何とでも言えばいいさ。君たちが手も足も出ないのは紛れもない事実だからね!』

 

確かに、それは事実だった。

現に今、鎧を封じられて数で押されている彩牙とコテツは追い詰められているのだから。どんな手を使おうと最後に勝てばいい――とは誰の弁だっただろうか。

そうして高らかに叫ぶレギオンが彩牙たちを更に追い詰めんとレギオン兵を差し向けようとした時――

 

 

 

『……ん……?』

 

僅かながら、視界に入ってきた違和感。

その正体を確かめようと、彩牙たちから視線を逸らすレギオン。それにつられて彩牙とコテツもレギオン兵を警戒したまま、レギオンの向いた方向へと視線を向ける。

そこには――驚きの光景が映っていた。

 

 

「――海未!?星空さん!?」

 

隠れていたはずの海未と凛が、螺旋階段を昇りきった先の屋根の上を昇っていたのだ。

老朽化して不安定な足場の上、落ちてしまえばひとたまりもないだろう。

何故そんな危険なことを――その答えは、コテツの首元から返ってきた。

 

『あれは――!あの二人の先、あの札がこの結界を張っています!』

 

「なに!? あいつらまさか――!」

 

結界を破ろうとしているというのか。

あの二人が、守られる立場であるはずの海未と凛が。他でもない、自分たちを助けるために――

 

『あーあ、余計なことしちゃって』

 

先に動いたのはレギオンだった。

配下のレギオン兵を二体、海未と凛の下に送り出したのだ。

翅を羽ばたかせ、飛翔するレギオン兵。結界を破ろうとする海未と凛を殺そうとしているのは火を見るより明らかだった。

 

 

「――! 凛、急いでください!」

 

「えっ? ――ひいっ!?」

 

「海未!星空さん! ――どけえっ!!」

 

海未たちもレギオン兵が迫っていることに気づき、結界を破るため、レギオン兵から逃れるために急いで駆け上ろうとする。

彩牙もそんな彼女たちを助けようとするが、その前にレギオン兵が立ち塞がり、妨害する。

レギオン兵を斬り裂いていくが余りの物量に道は開かない。

 

 

『嬢ちゃんたち!後ろだ!』

 

「きゃあっ!」

 

「あと少しだというのに……!」

 

そうしている間にもレギオン兵はどんどん迫り、遂に海未たちのすぐそばまで迫った。

結界を張る札はもう目と鼻の先にあるというのに、こんなところで水泡に帰してしまうのか。そう思った海未は苦虫を噛み潰したように表情を歪めずにはいられなかった。

このまま無防備な彼女たちが殺されるのを黙って見ていることしかできないのか――?

 

 

「そうは……させるかってんだよ!」

 

違う。決してそうはさせない。

渾身の力を籠め、魔戒剣を投擲するコテツ。円を描いて回転しながら飛翔していく魔戒剣は寸分の狂いもなく海未たちに迫っていたレギオン兵を捉え、まるで意志を持っているかのような自由な軌道で幾度となく斬り裂き、討滅した。

 

「――がはっ!」

 

『きみ、何余計なことしてるの?もう少しであの子たちが食われるところを見れるとこだったのに』

 

魔戒剣を手元から失い、丸腰となったコテツをレギオンは見逃さなかった。

その巨大な腕でコテツの首根っこを掴み、ギリギリと締め上げる。余計なことを――結界を破ろうとする海未たちを殺そうとしたことが許せなかったのだ。

このまま首を斬り落としてやる――コテツ目掛け、鎌腕を振り下ろそうとするが――

 

『――がっ!?』

 

「……いくら外骨格が硬くても、間接だけはどうしようもないだろう」

 

コテツを締め上げていたレギオンの腕、その手首の関節へ彩牙が魔戒剣を突き刺した。

外骨格に守られていない僅かな隙間――そこに正確に、かつ深々と突き刺したのだ。

痛みに悶え、コテツを絞める力が弱まるレギオン。その隙を見逃さなかったコテツはするりと脱出した。

 

 

 

――そして、遂にその時はきた。

 

「いいですか、凛!」

 

「うん! せえ……のっ!」

 

彩牙とコテツが稼いだ時間により、札のところまで到達した海未と凛が札に手をかけ、その掛け声と同時に2枚の札を剥がしたのだ。

それと同時に辺り一帯に広がる、見えない膜のような何かが雷鳴と共に破れ、崩壊していくような感覚。

魔戒騎士の真の力を縛る邪悪な結界が破られた瞬間だった。

 

 

 

 

「や、やったんだよね海未先輩! やっ、た――?」

 

「凛!!」

 

彼らを助けることができた。

そう思った瞬間だった凛の気の緩みを、一体誰が責められようか。

不安定な屋根の上。そこで身体を海未の方に向けようとしてバランスを崩し、身体が屋根から離れて地面に向けて落下していく。

呆然とした表情の凛。海未が咄嗟に手を伸ばそうとするが、無情にもその手は届かない。

 

――あれ?凛、死んじゃうの――?

 

 

 

 

 

 

「だから……させるかって言ってんだよ!!」

 

自由になったコテツがレギオンとレギオン兵たちを足場にして跳びあがり、落下する凛の身体を抱きとめる。

そのまま壁を蹴り、体勢を直して着地する。コテツが上手く衝撃を逃がしたことにより、着地の衝撃が凛に伝わることはなかった。

凛の無事にほっとした海未。そして自分が生きていることに安堵した瞬間、ようやく抱きとめられていること――それも俗に言う“お姫様抱っこ”されたことに気づいた凛がみるみるうちに顔を赤く染め、慌てふためいた。

 

「にゃっ、にゃっ、にゃ~っ!?」

 

「ようお姫さん、ホント無茶するな」

 

そう語るコテツの言葉には呆れたような感情に混じり、嬉しそうな感情が込められていた。

 

 

 

「凛……よかった……」

 

『嬢ちゃん、お前さんにも迎えが来たようだぜ』

 

安堵し、屋根から降りようとしていた海未の傍に彩牙が降り立った。

レギオン、そしてレギオン兵の妨害を強行突破してきたのだ。その証拠に身体には新しい傷が幾つかできていた。

海未の身体を支え、屋根を、螺旋階段を彼女と共に降りていく彩牙。地面に降り立った時、彩牙と海未は改めて向き合った。

彩牙の眉間に皺を寄せた表情に、海未は自分が責められているような感覚を抱いた。

 

「海未……」

 

でもそれも仕方のないことだと、海未は思った。

守る対象が自分から危険なことに足を踏み込むなど、守る側からしてみればたまったものではないだろう。海未だって同じことをされたらきっと怒るだろう。

相手が何よりも大切なのだから。

 

だが海未に後悔はなかった。

彩牙を助けたい――そんな己の本心に従ったのだから。どんな結果になろうとも、それを果たすことができたのだから。

だから海未は、彩牙の責めるような視線から逃げない、逸らさない。まっすぐに見つめ返した。

そして、彩牙の口がゆっくりと開く――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――ありがとう」

 

「……え?」

 

責められると思っていた。あんな危険な真似をしたのだから。

 

「助かったよ。海未のおかげで十分に奴と戦うことができる」

 

「彩牙くん……」

 

彩牙の穏やかな、そして安堵した表情を見て、海未は思った。

自分は彼のことを助けることができたのだと、支えとなることができたのだと。

 

「でも、あんな無茶はもうしないでくれよ」

 

「……はい。でもそれは彩牙くんもですよ」

 

「ああ――そうだな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――ダンッ!

 

『きみたち……よくもやってくれたね、僕の完璧な結界を……!』

 

「……海未、後は任せてくれ」

 

「下がってな、凛」

 

お互いの無事を確かめ合った時、結界を破られた怒りに震えるレギオンが兵たちを引き連れ、再び彩牙たちの前に立つ。

海未を下がらせる彩牙。同じように凛を庇うように立つコテツ。

その大群を前に正面切って戦えるのは彩牙とコテツの二人のみ。一見すれば圧倒的不利に見えるだろう。

 

だが彼らは恐れない、退くことはない。

後ろには守るべきものが、守りたい人がいるのだ。その身を危険に晒してまで自分たちを助けようとしてくれた人が。

そして何よりも――

 

 

「おい、負ける気がするか?」

 

「いいや、全くしないな」

 

「へっ、お前と一緒なんて気分悪いぜ」

 

「同感だ」

 

互いに憎まれ口を叩きながら並び立つ彩牙とコテツ。

互いを許したわけではない、わだかまりは消えない、ちょっとしたきっかけがあれば彼らはまた剣を交えるだろう。

犬猿の仲という表現も生ぬるい、相容れない二人。だが彼らは今、共通の目的をもって並び立っていた。

目の前のホラーを討滅し、後ろにいる人を――大事な人を、友を守るということを。

 

彩牙の魔戒剣が天に円を描く。コテツの魔戒剣が身体を囲むように円を描く。

黄金の鎧が現れ、彩牙の身体に纏う。灰色の鎧が現れ、コテツの身体に纏う。

そこにいたのはもはや、彩牙とコテツではない。

 

「黄金の、狼……? 海未先輩、まさか……!」

 

「ええ。先ほども言ったように、彩牙くんが都市伝説になっていた――

 

 

 

 

 

 

 

 ――黄金騎士・ガロなのです!」

 

黄金の狼と灰色の狼が――黄金騎士ガロと、灰塵騎士カゲロウがそこにいた。

 

『いくぞ!』

 

『おう!』

 

『鎧を纏ったところで、僕の軍に勝てると思うなぁ!!』

 

レギオン率いる群隊に向け、同時に駆け出していくガロとカゲロウ。

対するレギオンも兵を差し向けて迎え撃つ。

今までとは比にならないほどの大量のレギオン兵が同時に襲い掛かる。それこそガロとカゲロウの姿を埋め尽くさんほどに。

しかし、二人の騎士の足取りに躊躇いはない。臆しない、退くことはない。

 

『ハアァァァァァァッ!』

 

『ウォリャァァァァァッ!』

 

牙狼剣が、灰塵剣が、レギオン兵を斬り裂き、突き貫き、薙ぎ払い、道を切り開いていく。

鎧を纏った騎士の猛進を、素体ホラー以下か、それに毛が生えた程度のレギオン兵では止めることは不可能だった。

そうしてレギオン兵による“肉の壁”を臆することなく、そして易々と突破していくガロとカゲロウ。二人の騎士が自分の軍をいとも容易く蹴散らしていく光景にレギオンが戸惑っている間に、遂にガロとカゲロウがレギオンの目前に現れた。

 

『シィイィィィィィ!』

 

ガロとカゲロウ目掛け、鎌腕を振り下ろすレギオン。

鎧を纏う前は必死に避けるか弾いていたそれを、二人はそれぞれの得物で真正面から受け止める。

ギチギチと音を鳴らし、鍔ぜり合う鎌と剣。

一見すると巨大な鎌に二人が押されているように見えるだろう。しかしガロとカゲロウには押し負けている様子など微塵もなく――

 

 

 

 

『――ギイィィィアァァァッ!?』

 

牙狼剣が鎌腕を弾き、浮かせ、その一瞬の隙で両断する。双剣態となった灰塵剣が鎌腕を薙ぎ払うように切断する。

両鎌腕を失い、悶絶するかのような悲鳴をあげ、よろめくレギオン。

そしてそんな隙を、ガロもカゲロウも見逃さない。

 

『『――ハアッ!!』』

 

牙狼剣と灰塵剣が、レギオンのもう一対の両腕を両断する。

腕を全て失ったレギオンに、ガロとカゲロウの更なる追撃が迫る。

牙狼剣が胴体ど真ん中に突き刺さる。灰塵剣が脳天に突き刺さる。

このままレギオンが討滅されるのは、もはや自明の利だった――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「す、すごい……彩牙さんもコテツくんもあのお化けに勝ってる……!」

 

「……そう、ですね」

 

レギオンを圧倒するガロとカゲロウの姿に、凛は魅入られていた。

あの数のレギオン兵をものともしない勇猛さ。力強く、そして流れるような動きで剣を振るい、レギオンを斬り裂いていくその姿に憧れにも近い感情を抱いていた。

そう、幼いころに憧れた、テレビのヒーローのように。

 

そして海未は、レギオンを圧倒していくガロとカゲロウに心強さを抱いていた。

――が、同時に、僅かではあるが漠然とした不安も抱いていた。

このまま無事に終わらないような……何か良くないことが起こりそうな……そんな不安があった。

 

――杞憂であってくれればよいのですが……――

 

 

 

 

 

 

 

「……彼は、ここまでか」

 

暗闇の夜の空に浮き、その光景を見下ろしていた者が一人。

闇色のフードを纏う男――あの闇法師だった。

闇法師はフードから僅かに覗かせる眼を眼下に、ガロに、カゲロウに、海未に、凛に、そしてレギオンへと向けていた。

その中でもレギオンに向ける視線は――見下すような冷え切ったものだった。

 

「結界も与えてやったが……仕方ないな。それに貴殿は私との“約束”を破ろうとした」

 

そして闇法師が視線を向けるのは、ガロとカゲロウの戦う姿を見つめる一人の少女。

だがそれも一瞬で、闇法師はもう一度レギオンを見つめ直した。

 

「だがこのまま為す術もなく討滅されるのは口惜しいだろう……せめてもの手向けだ」

 

闇法師が懐から取り出すのは、骨があしらわれた禍々しい形状の魔導筆。

その筆先を宙にかざすと闇色の陣を描き、そしてそれは瞬く間に消滅する。

 

「さあ、最期に一矢報いるといい」

 

獣が、狂う。

 

 

 

 

 

 

『――! ギッ、ガアアアアAAAAAAAAAAAA――!』

 

『っ、なんだ!?』

 

レギオンにトドメを刺そうとした時、それは起こった。

突然レギオンの頭上に現れた闇色の陣。そこからレギオン目掛けて闇の稲妻が降りかかる。

稲妻は悲鳴と共に、レギオンの身体を変えていく。やがて稲妻が止み、陣が消えた時にはレギオンの姿は変わり果てていた。

 

『なん……だっ、こりゃっ……!』

 

カゲロウから驚愕に染まった声が漏れる。

レギオンはただでさえ大柄な体が更に巨体になっていた。一階建ての小屋の屋根まではあるかのような勢いだ。

 

いや、ただ大きくなったわけではない。

触手だ。

ガロとカゲロウが両断した腕、その断面から先端が鋭い爪のようになった触手が生えていたのだ。

しゅるしゅると蠢かせ、突然跳ねるかのように飛び出す触手。襲い来ると思い、迎撃に構えるガロとカゲロウだったが触手の狙いは彼らでも、ましてや海未たちでもなかった。

 

 

『ギッ!』

 

『ギギィッ!』

 

触手の狙いは――生き残っていたレギオン兵たちだった。

一体、また一体とレギオンの触手に貫かれ、倒れていく。

思わず息を呑む海未と凛。目の前で起きた同士討ちに驚くガロとカゲロウだったが、それだけでは終わらなかった。

 

 

 

――ゴキュ……ゴキュ……

 

『なんて奴だ……自分の兵を喰ってやがる……!』

 

ザルバの言う通り、レギオンはその触手で兵を喰っていた。

飲み込むような音と共にレギオン兵の全て――肉を、血を、魂を喰っていく。

やがて一体のレギオン兵を“文字通り”喰い尽くすと、他のレギオン兵を触手で貫き、喰っていく。

そしてレギオン兵は逃げようとしない。それが主の命だから。

傀儡である彼らには、例え喰われることになろうとも主たるレギオンに逆らうことなどできないのだ。

 

共喰いと表現するのも生易しい、そのあまりにも一方的な食事を呆然と見つめるガロとカゲロウ。

やがて――生き残っていたレギオン兵が全てレギオンに喰い尽されたその時、更なる異変が起きた。

 

『……腹いっぱい食べて力でもついたか?』

 

筋骨隆々と膨れ上がるレギオンの外骨格に包まれた身体、脚、そして触手。

ただ膨らむだけではない。触手は腕の断面から一本、また一本と次々と生えてくる。

そうして無数の触手を生やしたレギオンは、最早知性など毛ほども感じさせないように爛々と赤く光る複眼をガロとカゲロウに向け、その口から涎を撒き散らしながら言葉にすらならない咆哮をあげる。

 

『■■■■■■■――!!』

 

『くっ!』

 

『ちいっ!』

 

咆哮と共に振るわれる触手が、ガロとカゲロウに襲い掛かる。

無数に、そして鞭のように襲い掛かる触手を弾き、斬り裂いていくがあまりにも数が多すぎる。

加えて触手一本一本の耐久力が跳ね上がっており、弾いて斬る位では両断することも敵わなかった。

 

あまりにも開き過ぎた手数の差と力に、徐々に、しかし着実に追い詰められていくガロとカゲロウ。

次第に疲労の色が見え始めてくるその姿に、はらはらとしながら見つめる海未と凛。

そしてついに――彼女たちが危惧したその時が訪れた。

 

『ぐっ……!』

 

『くそがっ……!』

 

触手の猛攻に耐えきれず、僅かに生まれた隙を突かれ弾き飛ばされる牙狼剣と灰塵剣。

自らの剣を失ったガロとカゲロウに触手が巻き付き、その身体を持ち上げる。

触手に拘束され、天高く掲げられる二人の騎士。逃れようと、拘束を解こうともがくが触手はびくともしない。

 

やがて、二人の前にそれぞれ一本の触手が現れる。爪のような先端をまっすぐと、狙いをつけるのように向ける。

あのレギオン兵たちのように、ガロとカゲロウを喰い尽さんとするかのように。

もがき続けるガロとカゲロウだが、触手の拘束は一向に解ける気配がない。

そしてとうとう――二人目掛け、触手が突き放たれる。

 

「彩牙くんっ!!」

 

「コテツくん!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

響き渡る断末魔。

しかしそれは――ガロとカゲロウから発せられたものではなかった。

 

『■■■■■■――!!』

 

悲鳴を発したのは他ならぬレギオンだった。

ガロとカゲロウを貫こうとした触手、そして二人を拘束していた触手は根元から切断されていた。それもただ切断されていたわけではなかった。

 

炎だ。

紫色に燃える炎が、レギオンの触手を焼き斬っていた。突然現れた炎の斬撃が、レギオンの触手を断ち切ったのだ。

ガロは、カゲロウは、海未は、凛は、炎の斬撃が現れた方角――廃工場の屋根の上へと視線を向ける。

そこには、一人の騎士が立っていた。

 

 

 

『――大和さん!』

 

『おっさん!?』

 

『すまぬな、遅くなった』

 

波紋騎士・イブが――鬼戸大和がそこにはいた。

波紋剣に紫色の炎――魔導火を纏わせたイブは波紋剣を構え――

 

『――二人とも、使え!!』

 

波紋剣を振るい、魔導火の斬撃をガロとカゲロウ目掛けて放った。

思わず悲鳴をあげそうになる海未と凛。その斬撃がどれほどの威力を秘めているかは先のレギオンを見て十分に分かっているからだ。なぜそんなものを二人に放つのかと。

だがしかし、ガロもカゲロウも戸惑う様子は見せない。二人はわかっているのだ。

その魔導火の斬撃が、“何を目的としているのかを”。

 

狼狽えることなく、牙狼剣と灰塵剣を魔導火の斬撃へと向ける。

斬撃が二振りの剣に到達したとき、魔導火が牙狼剣と灰塵剣を、ガロとカゲロウを包み込む。

その衝撃に押し負けぬように堪え、苦しそうな唸り声をあげる二人の騎士。

そして魔導火が二人を焼き切らんと思われた時、それは起きた。

 

『――ハアァァァッ!!』

 

『――ウオォォォォッ!』

 

魔導火の斬撃は二人を焼き切ることはなく牙狼剣と灰塵剣に伝わり、その二振りの剣に新たな炎として纏われた。

牙狼剣が纏うのは、緑色の魔導火。灰塵剣が纏うのは、真紅の魔導火。

自分たちの武器に――魔戒剣に魔導火を纏わせるそれは、こう呼ばれている。

 

 

 

――烈火炎装!

 

 

 

『■■■■■■――!!』

 

再び振るわれるレギオンの触手。

だがそれらはもはや二人には通じない。魔導火を纏い、烈火炎装となった牙狼剣と灰塵剣にはレギオンの触手など容易く焼き斬ることができた。

触手が牙狼剣によって斬り裂かれていく。灰塵剣・双剣態によって引き裂かれていく。そして、魔導火に焼かれ、燃え尽きていく。

 

やがて触手が二本だけになった時、レギオンは二人目掛け、触手を猛烈な勢いで突き刺した。

しかし、触手が二人を貫くことは叶わなかった。ガロとカゲロウによって貫く寸前に焼き切られたのだ。

それと同時に高く跳び上がるガロとカゲロウ。

天高く跳び上がり、緑と真紅の魔導火を纏いながら牙狼剣と灰塵剣を掲げ、振りかぶる騎士をレギオンは知性を失いながらも呆然と見つめる。

そして――

 

『――ウオォォォォォォォォッ!!』

 

『――ドォリャアァァァァァァァッ!!』

 

気合一閃。

魔導火を纏った牙狼剣と灰塵剣が、クロスを描くようにレギオンを斬り裂き、通り抜けた。

剣を振り下ろして着地したガロとカゲロウの背後で、斬り口からどんどんと燃え移り、且つ燃え盛っていく魔導火がレギオンの全身を包み、その邪悪な身体を焼き尽くしていく。

 

『■■■■■■■■■――!!』

 

言葉にすらならない断末魔。

魔を滅する緑と真紅の炎に焼き尽くされ、自分だけの軍隊を作ろうと企んだ悪しき魔獣は消滅していった――

 

 

 

**

 

 

 

 

 

 

 

「………うん、うん。ごめんね」

 

「……えへへ……真姫ちゃんにも言われたにゃ……あああごめんね!だから泣かないで……?」

 

「……うん。それじゃまたね、かよちん」

 

そう言って電話を切る凛。

ちょうどその時、それまで傍で見守っていた海未が口を開いた。

 

「……どうでしたか?凛」

 

「かよちんには凄い泣かれちゃったにゃ……真姫ちゃんにはとっても怒られたし、えへへ……」

 

「それほど二人が凛のことを大事にしている証ですよ。明日は二人一緒に怒られないといけませんね」

 

「うぅ……が、頑張るにゃ!」

 

ふんす、と覚悟を決めたと言わんばかりに息を吐く凛。

凛がしていたのは花陽と真姫に無事を知らせる電話。買い物の途中で突然いなくなってしまったのだから心配しているだろうと思い、電話していたのだ。

その結果花陽からは泣かれ、真姫からはこっぴどく怒られていた。

だけど凛は嬉しかった。裏を返せばそれだけ凛のことを心配していてくれたということなのだから。勿論、若干の申し訳なさも感じていたが。

 

それは凛を見守る海未も同じだった。

そして彩牙は、そんな二人を見て安らかな気持ちを抱いていた。

 

 

今、この場にいるのは彩牙と海未、そして凛の三人。

レギオンとの戦いを終え、二人の護衛も兼ねて帰路についていた。

だがそこにコテツと大和の姿はない。

大和は今回のことを番犬所へ報告すると告げて一足先にいなくなり、そしてコテツというと余韻に浸る間もなく、一言も告げずにいつの間にか姿を消していたのだ。

ちゃんとお礼を言いたかった、と凛は残念がっていた。

 

そうしている間に、辺りの通りを目にして落ち着いたように息を吐く凛。

凛の家のすぐそばまで辿りついたのだ。自らの日常に――闇から光に戻ることができ、安堵する。

くるりと振り返り、彩牙と海未に改めて向き合う凛。

 

「彩牙さん、ザルちゃん、助けてくれてありがとうにゃ!」

 

『お前さんもザルちゃん……もう知らん、好きに呼べ』

 

「いや、俺の方も助かったよ。二人がいなければ危なかった」

 

「えへへ……そう言われるとなんだか照れくさいにゃ」

 

「しかしよいのですか、凛。今日の事をなかったことにだってできるのですよ?」

 

凛は今日のこと――レギオンの一件についての記憶の抹消を拒否していた。

目の前で人がホラーになり、命を狙われた――あのような恐ろしい記憶などなかったことにした方がよいのでは――海未はそう考えていた。

 

「ううん、確かに怖かったけど……でも、それだけじゃなかったもん」

 

思い返されるのは、自分たちを助けに来てくれた彩牙とコテツ。

そして黄金の鎧と灰色の鎧を纏った二人の姿。その姿が凛には闇に差し込む希望の光に見えたのだ。

絶望の闇の中に確かにある光――その光までも忘れたくないと、そう思ったのだ。

 

「だからね、凛はこのままでいいの。この光を失くしたくないって、そう思うから」

 

「……わかった。俺からはもう何も言わないよ」

 

「ええ。凛がそこまで言うのでしたら」

 

彩牙も海未も、凛の意志をまっすぐに受け止めた。

下手に彼女の記憶を消してしまっては光を見失い、闇に怯えるだけになってしまう――そう思ったからだ。

特に海未は、凛の言葉に親近感を抱いた。

闇を斬り裂く希望の光、その光を失いたくない――まるで自分のようだと、そう思った。

 

「それじゃあ彩牙さん、海未先輩、また明日! コテツくんにもよろしく言っておいてほしいにゃー!」

 

そう告げて元気いっぱいに手を振り、自分の家へぱたぱたと駆けて行く凛。

そんな凛の姿を、彩牙と海未は穏やかな表情で見守っていた。

 

「いい子だな」

 

「はい。凛と一緒だとこちらまで元気が貰えそうです」

 

 

 

 

 

 

 

 

「――そいつは同感だ」

 

「! お前は……!」

 

背後から突然かけられた、若い男の声。

聞き覚えのあるその声に二人が振り返ると、そこにはサングラスをかけた黒いコートの少年――いつの間にか姿を消していたコテツが立っていた。

その顔に不敵そうな笑みを浮かべながら。

 

睨むような形で向かい合う彩牙とコテツ。ピリッと張り詰める空気。

さっきは共に戦ったのにまた争い合うつもりなのか――二人を見つめる海未にそんな懸念が生まれる。

不安げに二人を交互に見やる海未。張り詰めていく空気の中、魔戒剣に手をかける二人の姿に、やはり手を取り合うことはできないのかと、そう思った時――

 

 

 

 

「……ま、しばらくはやめておくか」

 

「……そうだな」

 

互いの魔戒剣に掛けられた手が、離れていく。

張り詰めた空気が、解けていくのを肌で感じた。

 

『しばらくと言わず、二度としないでほしいんだがな』

 

『同感ですね』

 

ザルバとゾルバの呆れたような言葉をよそに、安堵で胸を撫で下ろした海未はもう一度彩牙とコテツを見つめる。

二人とも睨み合うような形はそのままではあるが、そこに敵意や殺気は感じられなかった。

少なくとも、今は。

 

「ああまで純粋なところを見せられるとなー……ちょっと自分を見つめ直しちまうっていうか……」

 

「……俺も、沢山の人に色々言われたからな」

 

「お互い、似たような考えってか」

 

「そうだな、気に食わないが」

 

「同感だ、ムカつくことにな」

 

まるで子供の喧嘩のように罵り合う彩牙とコテツ。

そんな二人の会話を目の当たりにして、海未は思った。

――ひょっとしたらこの二人、実は似た者同士なのではないかと。

 

「それに、ちゃんと目的も果たせたしな」

 

「……そうか。そういえば、そうだったな」

 

「ま、そんなわけで今日のところはお暇させてもらうぜ」

 

それだけを告げ、コテツはくるりと踵を返し、彩牙と海未に背を向けて去っていく。

二人の視線を浴びる中で、ぽつりと、誰にも聞かれないように呟いた。

 

 

 

 

「……“今度は”間に合うことができたしな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

去っていくコテツの背中を見つめる彩牙と海未。

また争いにならなくてよかったと胸を撫で下ろす中、海未は一つ気になったことを彩牙に尋ねた。

 

「彩牙くん、コテツさんと何かあったのですか?」

 

「ん?」

 

「先日に比べると、お二人とも随分穏やかそうでしたので……」

 

先日――彩牙とコテツが戦ったあの日、現場から去る海未が見たのはお互いに殺気を向ける二人の姿だった。

仲直りなど到底不可能そうなあの姿に比べると、今日二人の関係は罵り合ってはいたものの、ホラーを前にしていることを抜きにしても随分と穏やかだった。

それが海未には気になったのだ。

 

「大したことはないさ。海未や先生に言われたこともあるし、それに……」

 

「それに?」

 

 

 

~~~

 

 

 

「海未と星空さんが!?」

 

「……星空、だと……!?」

 

『ああ、どうやらレギオンと鉢合わせちまったようだ』

 

「くそっ……! ザルバ、行くぞ!」

 

 

 

 

 

「……待ちな、俺も行くぜ」

 

「なに!? ……まさかお前、まだ海未のことを……!」

 

「ちげーよ、あの子には手を出さねーよ。番犬所がおっかないしな」

 

「……なら、何故だ?」

 

「決まってるだろ」

 

 

 

 

 

 

 

 

「守るべき奴がいる、それだけだ」

 

 

 

~~~

 

 

 

「……奴も魔戒騎士だってことを、わかっただけさ」

 

 

 

**

 

 

 

「……うん、うん。大丈夫、今月はまだ余裕があるから。お母さんは心配しなくても大丈夫だよ」

 

「……うん。お友達もたくさん増えたし、ついこの間だって男の子の友達もできたんだよ?」

 

「……え?ふふっ、お父さんもしょうがないなぁ。ただのお友達だから安心して」

 

――マンションの一室。

一人で住むには少々広いその部屋に住んでいるのは紫色の髪の、ゆったりとした雰囲気の少女。音ノ木坂学院の3年生にしてμ’sのメンバー・東條希だった。

音ノ木坂に入学する際、転勤族でもある母が以前使っていたという部屋を、譲り受けてもらっていたのだ。

 

そんな彼女は今、離れて暮らしている母親と電話をしていた。

だがその口調はμ’sのメンバーの前や外で普段使っている、所謂エセ関西弁とは違う、至って普通のありふれた標準語そのものだった。

あることがきっかけで関西弁を使うようになっただけで、本来の希の言葉遣いはこれが素なのだ。

 

そして、電話越しとはいえ親と話す希の表情には朗らかな、満面の笑みが浮かんでいた。

その表情、その言葉に――今の生活が充実しているという言葉に偽りはなかった。

男の友達ができたということに慌てふためく父の反応に可笑しくてたまらないと思いつつ、彼女は親との会話を楽しんでいた。

 

 

 

「……ん?お守りのことなら大丈夫。お母さんとお父さんがくれた物だもん、ちゃんと大事にしてるよ」

 

そう言いながら希が手に取ったのは、傍らに置いてあった“お守り”。それを壊してしまわぬように、大事に持っていた。

その“お守り”は、彼女が幼いころ両親から貰った大切なもの。

『怖いことがあってもこれが守ってくれる』そう言われて譲り受けたその“お守り”を、希はずっと大事にしてきた。

 

“お守り”を持っているとほんの少しでも勇気が湧いてくる。一人暮らしをしても、これがあると両親が傍にいてくれている気がする――そう思い、これまでずっと肌身離さず持ち歩いていた。

きっと、これからもそうすることだろう。自分がこの“お守り”を手放すという光景を、希には想像できなかった。

 

 

 

 

 

その“お守り”――“大きな毛筆”を、希は大事そうに抱えていた。

 

 

 

***

 

 

 

真姫「合宿って不思議ね。今まで気づかなかったことに初めて気づくことがるし」

 

真姫「他の人のことだろうと、自分のことだろうと」

 

真姫「でもそれって、決して良いことだとは限らないのよね」

 

 

真姫「次回、『合宿』」

 

 

 

真姫「知らないことが幸せ……なのかもしれないわね」

 

 

 

 






魔戒指南


・ ホラー・レギオン
いじめられっこだった少年に憑依したホラー。黒い外骨格に赤い複眼を持つ、大柄な人型の翅を持つ蟻のような姿をしており、普通の両腕の他に蟷螂の鎌のような腕をもう一対有している。
通常のホラーとは違って人界に現れるたびに異なる姿をとり、自らの肉を他の生命体に埋め込むことで、その生命体を自らにそっくりなホラー・レギオン兵に作り替えて兵として使役する。また、対象となる生命体に縛りはなく、ホラー相手でも兵に変えることができる。
大量のレギオン兵による数の暴力で圧倒する戦法をとるが、レギオン自身の実力は並のホラーよりも少し強い程度である。そういう意味では“白夜の魔獣”と名高いとあるホラーよりも劣る存在であるといえる。




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第9話  合宿



すいません、長らくお待たせしました。
なかなか思うように筆が進まず、ここまでかかってしまいました。

別にシンゴジが面白すぎて筆が止まってしまったとか、そんなことはアリマセンヨ?
あー・・・・ゴジラこわい




 

 

 

 

 

 

 

「海未さん、みなさんとお泊りに行くのは明日でしたかしら?」

 

「はい。海の近くに真姫の家が持つ別荘があるそうですので、そこにお邪魔することに」

 

「あら、それでしたら今度西木野さんのお宅にお礼に行かなければいけませんね」

 

――園田家、その一室。

そこには座卓を囲んで一同で夕食をとる、海未をはじめとした園田一家と彩牙の姿があった。白いご飯にお味噌汁、焼き魚や和え物などの和食で彩られた食卓が、日舞の家元且つ武道の家でもある園田家らしい色を表していた。

 

さて、今この場で話題となっているのが、明日に控えたμ’sの合宿だ。

海未をはじめとしたμ’sの面々で真姫の家が持つ別荘に数日間泊まり込むことになっているのだ。

 

元々は学校の屋上が修理で暫く使えなくなったからその代わりに――という理由だったのだが、ついでに新曲のPVも撮ってしまおうという話になり、海未もここ2、3日は合宿の支度と日舞や武道の稽古の合間に歌詞作りに専念し、完成に近づけていた。

以前ことりに水着が映えるような夏らしい歌詞を作ってほしいと頼まれたこともあり、今回の海辺での合宿は正にベストタイミングとも言えた。

 

そんなわけで明日から数日間、海未は留守することになるのだが――

 

「………」

 

「海未さんが留守の間に彩牙さんには………どうかしたのですか?彩牙さん」

 

「彩牙くん……?」

 

夕食を取り始めてから――いや、それよりも前からずっと押し黙っていた彩牙にその場の全員が意識を向けた。

しかめっ面――とまではいかないが、どこか険しい表情を浮かべていた。

 

その表情を見た海未は、何かあったのだろうかと思った。

先日のレギオンとの戦い以来、彩牙がホラー狩りに出かけた様子はなかったし、今朝の稽古の時だって普段と何一つ変わらない様子だった。

となると日中に何かがあったということになる。またコテツと諍いを起こした――とも思ったが、それだったらもっと殺気を放たんとする勢いで険しい表情を浮かべているはずだ。

そんなことを考えていると、意を決したかのように彩牙が口を開いた。

 

「……すみません、先生、奥様。急な話ですが俺も明日から数日、留守にしなくてはいけないのです」

 

「……ずいぶんと急ですね」

 

驚いたような、それでいて静かな海未の母の声。

声にこそ出していないが驚いたのは海未も同じだった。

彩牙がこうして急な用事を入れてくるなど初めて見たからだ。これが穂乃果だったら「またですか」とか「穂乃果は仕方ありませんね」と返すようなところなのだが、当然のごとく彩牙は穂乃果ではない。

それ故に不思議だった。

 

「それで、どのような御用なのですか?」

 

「……申し訳ありません、お答えできません」

 

海未の母の問いに対して真っ向からそう答える彩牙に、彼女は困ったような表情を浮かべた。

こちらからの問いかけにこうも黙秘を貫こうとする姿など、見たことがなかったからだ。

そして海未はそんな彩牙の姿に、ある懸念を浮かべていた。

その懸念について考えていた時だ。

 

 

「……彩牙」

 

「はい、先生」

 

彩牙と同じように沈黙を保っていた海未の父が、口を開いた。

一見すれば射止めているように見える視線を向けられても尚、彩牙は臆することなくその視線を真っ向から受け止める。

 

「その用というのはどうしても話せないか」

 

「はい。ですが何としてもやり遂げねばならないことです」

 

「……何が何でも、か?」

 

「……はい」

 

静かに、そして有無を言わせないような言葉と共に見つめ合う彩牙と海未の父。

どれくらいそうしていたあろうか。数秒であるはずなのに何分間もそうしているかのような錯覚を海未が抱いた中、海未の父が再び口を開いた。

 

「……わかった。そこまで言うのならその用事、何としても果たしてくるといい」

 

「ありがとうございます。急な申し立てにもかかわらず……」

 

「その代わり、戻ってきたら忙しくなりますよ」

 

「はい。謹んでお受けいたします」

 

海未の両親からの許しを得て、深々と頭を下げる彩牙。

そんな彩牙の姿を見て、海未は自分が抱いた懸念が真実味を帯びていくのを感じた。

彩牙がここまで頑なに自分の意志を通そうとする理由など、一つしか考えられなかった。

即ち――ホラーが現れたのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

(……どうやら、大手を振って出られそうだな)

 

(ああ、いきなり話を聞いた時には驚いたが)

 

一方で彩牙は海未の両親から突然の留守に許しをもらえたことに安堵していた。それと同時に申し訳なさも抱いていた。

それも当然だ。「明日から理由は話せないけど数日間留守にします」など普通だったら許してもらえるわけがない。手伝いをしている居候の身であるのなら尚更だ。

それ故に、許しをくれた海未の両親には申し訳なさの他に言い表しきれない感謝の意も抱いていた。

 

そもそも何故、このようなことになったのか。

その理由は今日の昼、彩牙が番犬所に呼び出された時にあった――

 

 

 

**

 

 

 

――時間は遡り、昼。虹の番犬所。

 

 

「……他の管轄へ、ですか?」

 

「さよう。海の管轄、お主には明日からそこに向かってホラーを討滅してもらうぞ」

 

オルトスに呼び出され、番犬所に訪れた彩牙を迎えたのは彼女のその言葉だった。

 

『何故小僧が行く必要がある?その管轄の騎士や法師に任せればいいんじゃないのか?』

 

ザルバの言うことも最もだ。

本来それぞれの管轄にはその地を担当する騎士や法師がいるのだ。

管轄内で出現したホラーはその管轄の騎士や法師が討滅するのが当然であり、他所の騎士や法師が手を出すことは余計な軋轢を生むことになりかねないのだが――

 

「ちと手強いホラーが現れてな、その管轄の騎士が討滅に向かったのじゃが返り討ちにあって喰われてしまったのじゃ」

 

「なっ……!」

 

オルトスがさらっと放った言葉に、彩牙は驚きを隠せずにいた。

彼女が言うことが真実ならば今、その海の管轄には騎士がおらず、ホラーが我が物顔で跋扈している状態となる。そんなもの到底見過ごせる状況ではない。

だがそれで合点がいった。自分がその管轄に向かう理由とは――

 

『小僧に後始末をつけさせようってわけか』

 

「うむ。後任の騎士が決まるまでにお主にそのホラーを討滅してもらう」

 

つまりは“喰われた騎士の代わりにホラーを倒せ”ということだ。

何ともシンプルでわかりやすい理由だと、彩牙は思った。

 

「……大和さんとコテツは?」

 

「大和は元老院に出ておってな、灰塵騎士にはお主の留守を務めてもらう。なんじゃ、不安かの?」

 

「……いいえ、やれます!」

 

――そう、不安などない。

他の管轄だろうと、騎士を返り討ちにしたホラーであろうと関係ない。自分のやるべきことは何一つ変わらない。

ホラーがいる。その地に住む人々の命が脅かされようとしている。ならばホラーを狩る。人々を守る。

それが自分の使命なのだから。

 

そんな彩牙の毅然とした態度に気分を良くしたのか、オルトスは含みのある笑みを浮かべた。

 

 

「……良い返事じゃ。それでは、お主に討滅してもらうホラーについてじゃが――」

 

 

 

**

 

 

 

今日はいい日だ。

だって今日は、パパとママがずっと一緒に居てくれる。

パパもママも普段はお仕事が忙しくて、中々一緒にはいられない。誰もいないリビングで、一人でご飯を食べることもあった。

お友達もできないから遊びに行くこともなく、寂しかった。

 

でも今日は違う。

今日は私の誕生日だから。今日だけはパパもママも必ずお仕事を休んで一緒に居てくれる。

だから私は誕生日が大好き。プレゼントを貰えることよりも、ケーキが食べられることよりも、パパとママが一緒に居てくれることが嬉しいから。

 

「あらあら、ほっぺにクリームが付いちゃってるわよ」

 

そう言ってママは私のほっぺに付いていたケーキの生クリームを掬い取って私の口元に運んだ。ママの指にぱくっと食いついて、クリームを舐めとる。

えへへ、ふわふわして美味しい。

クリームを口に運んでくれたママも、それを見守るパパも、優しく微笑んでる。それを見た私も嬉しくなって、ついつい笑顔を浮かべちゃう。

 

今、そんな私の懐にはパパとママがプレゼントしてくれたタロットカードがある。

最近占いに嵌りだして、ただ占ってもらうよりも自分で占ってみたいって勉強していたらプレゼントしてくれたの。

それも見たことないデザインだったから「どこの?」って聞いたら、なんと特注で作ってもらったカードだった!

 

世界に一つだけのカードだねって言われて、なんだかすごく嬉しくなっちゃった。

あまりに嬉しくて、後でパパとママを占ってあげようって思ってたら、パパが後ろに何かを隠すようにして近づいてきた。

 

「実はね、今日はもう一つプレゼントがあるんだよ」

 

「ほんと!?」

 

そう言ってパパが差し出したのは綺麗なラッピングがされた箱だった。

ラッピングを丁寧にはがしてその下の箱を開けると、そこには一本の筆があった。

私はその筆を見た瞬間、なんだか心奪われたような感覚を覚えた。

軸には三日月の模様があしらわれていて、筆先の毛はキラキラ光ってるような感じがしてすっごく綺麗で、吸い込まれそうな気がしたんだもん。

思わず夢中になって見つめていると、パパが私の頭の上にポンと手を置いた。

 

「それはね、お守りだよ」

 

「お守り?」

 

「ええ。怖いものから守ってくれる、とっても大事なお守りよ」

 

そう言われて私はもう一度その筆を見つめた。

……確かに、この筆を持ってるとほっとするような、暖かくなるような……ううん、勇気が湧いてくるような気がする。

この筆があればどんなところでも――お化けが沢山いるような場所でも勇気を持って進める、そんな気がした。

 

「それともう一つ。この筆を使ったおまじないを教えてあげるよ」

 

「おまじない?」

 

「そうよ。怖いものから大切なものを守れるおまじない」

 

そう言ってパパとママは筆を手にした仕草をして、不思議な動きを見せた。

不思議な……でもなんだかすごく綺麗に見える、舞のような動き。

私は、その動きから目を離せなくて……――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――ジリリリリリリリリ!

 

「………あ」

 

……耳に響き渡る目覚ましの音。カーテンの隙間から漏れる日差し。

薄暗い、見慣れた天井。そこは小さい頃パパとママ……ううん、お父さんとお母さんと一緒に暮らしてた頃の家じゃなくて、ウチが一人暮らししているマンションの一室。

目覚まし時計をカチッと止めて、カーテンを開けると部屋が一気に明るくなる。それと同時にウチ――東條希も一気に目が覚める。

よく寝たなぁと思うと同時に、ふと思う。

 

「随分懐かしい夢やったなぁ……」

 

あれはウチがまだ小学生くらいの頃の誕生日の夢だった。あの日のことは今でもよく覚えている。

今でもずっと使っているお気に入りのタロットカードとお守りをプレゼントしてもらった日だから。ウチの昔からの相棒たちと初めて会った日だから。

そんなことを考えながら、ウチはゆったりとしたパジャマから着替え始める。

 

着替えた後、タロットカードの横に大事に置いてあった筆――お守りを手に取る。そうすると今日も一日がんばろうって勇気が湧いてくる。

それと同時に、ウチはふと思う。なんであの日の夢を見たんだろう?

確かにあの日は大事な、それでいて大好きな日だった。でも今まであの日のことを夢で見ることなんてなかった。勿論、最後まで見れなかったけど“おまじない”のことだって。

 

でもあの日のことを夢に見ることなんて一度もなかった。

……このあいだ久々にお父さんとお母さんに電話したからかな?

それとも――

 

「……っと、そうだ。早く準備せんとあかんね」

 

ウチとしたことがうっかり忘れるところだった。

いつもより早く設定された目覚まし時計。今日はμ’sの皆で真姫ちゃん家の別荘に合宿に行く日。

荷物の準備は昨夜のうちに済ませておいたとはいえ、しっかり早起きして身だしなみを整えておくに越したことはないからね。年頃の女の子やし。

でも穂乃果ちゃんなんかはちょっと寝過ごして大慌てするんやろうな。そんな光景が簡単に想像できて、思わずくすっと笑っちゃう。

 

さて、お守りをちゃんとバッグに入れて。

朝ごはん食べて、身だしなみを整えたらウチも駅に向かわんとね。

 

 

 

**

 

 

 

――東京駅・その一角

 

「みんな、おはようさん!」

 

「あら、おはよう希」

 

「おはようございます、希先輩」

 

「おはよう花陽ちゃん。うふ、今日もわしわしし甲斐のありそうなお胸さんやね♪」

 

「か、からかわないでください……」

 

やって来た希を出迎えたのは、穂乃果と海未とことりを除いたμ’sメンバーだった。

希のセクハラまがいの言葉に照れるようにさっと胸を庇う花陽の反応に、希は悪戯っぽい笑みを浮かべながら「可愛い反応やなぁ」という感想を抱いた。

そんなやりとりに仕方ないと言わんばかりの表情を浮かべる絵里と真姫に対し、にこと凛は過去のトラウマを思い出したのか無意識に胸を庇うような姿勢をとったが、それは隅に置いておこう。

 

ちらり、と希はμ’sメンバーを見回す。それと同時に物足りなさも感じた。

彼女も気づいたのだ。まだメンバーが揃ってないことに。

穂乃果をはじめとした二年生組がまだ来ていないことに。

 

「穂乃果ちゃんたちはまだ来てへんの?」

 

「そうね、まだ時間はあるから大丈夫だけど……」

 

時計を見ながらやや不安そうな表情で答える絵里。

そんな彼女の言葉に相槌を打つかのように、にこが口を開いた。

 

「どうせ穂乃果が寝坊してるってオチじゃないの?」

 

「それは……――」

 

――ありえない。と真姫は言い切れなかった。

あの普段からズボラなところのある穂乃果のことだ。うっかり目覚ましのセットを忘れてぐっすり――なんて光景が容易に浮かんだのだ。

そんな苦笑いしか浮かばないようなことを全員が考えていた、その時だった。

 

 

「おーい、みんなー!!」

 

「あ、穂乃果ちゃんたち来たみたいやね」

 

手を大きく振った穂乃果を筆頭に海未とことりの二年生組――幼馴染三人組がやって来た。

慌てた様子もなく、いつもと変わらぬ元気一杯な穂乃果の姿に予想が外れたと思うと同時に、外れてよかったと安堵していた。

合宿の言い出しっぺが寝坊して遅刻なんて光景にならずに――

 

「おはよう三人とも、誰も遅刻しなかったみたいでよかったわ」

 

「………そう、思いますか?」

 

「え」

 

――ならず……に。

含みのあるような返答をする海未。

思わず呆けたような呟きを発した絵里の目の前には、苦笑いを浮かべることりとジト目を浮かべる海未、その視線の先で冷や汗をかきながら固まった笑顔で明後日の方向を見つめる穂乃果の姿があった。

……まさか――二年生組を除いたメンバー全員の脳裏に“ある予感”が浮かんだ時、それに応えるように困ったような笑顔のことりが口を開いた。

 

「えーっとね……穂乃果ちゃん、どうやら目覚ましを予定より遅い時間にセットしちゃってたみたいで……」

 

「もしやと思って様子を見に窺ったら案の定でした」

 

「……ご、ごめんなさい。でもホラ!無事に遅刻せずに来れたわけだし――」

 

「私とことりが様子を見に来なかったら?」

 

「………遅刻してました、ハイ」

 

ぐぅの音も出ないと言わんばかりに気まずそうにうなだれる穂乃果。

そんな穂乃果の姿に事実は小説よりも奇なりというのか、色んな意味で期待を裏切らない人間だとメンバーの誰もが思った。

穂乃果らしいと言えば穂乃果らしいのだが。

 

「……と、とにかく!みんな揃ったことだししゅっぱ――」

 

「あ、ちょっと待って!」

 

気を取り直して号令をかけようとした穂乃果に、絵里が待ったをかけた。

穂乃果をはじめとした皆が不思議そうに絵里を見つめる中、希だけがにこやかな笑顔で絵里を見つめていた。そして絵里も自信満々の笑顔を希に向ける。

 

この合宿が決まった時、二人はある提案を考えていた。

それはμ’sの結束をより深めるために必要なこと。戸惑い、すぐには適応できない者も出るかもしれないが避けては通れない道。

そして何よりも――無意識にできているであろう壁を、取り払いたいと思ったから。

 

「出発する前にみんなに提案があるのだけど、いいかしら?」

 

「提案……ですか?」

 

「ええ。あのね――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――先輩禁止、してみない?」

 

 

 

**

 

 

 

「……」

 

『どうした小僧、ぼーっと窓なんて眺めて』

 

「いや、綺麗な海だなと思ってさ」

 

『ふむ。魔界道が使えなかったのは残念だったがこれはこれで悪くないかもな』

 

「だろ?」

 

――某県、沿岸地域。

その地を走る乗客もまばらな電車の中に、彩牙の姿はあった。

海の管轄にてホラーの討伐を命じられた彼は今、電車に揺れられて海の管轄へと向かっていた。本来ならば管轄と管轄の間を繋ぐ魔界道を使えばあっという間に辿りつくことができるのだが、生憎と今の時期は道が閉じており、こうして電車で向かっていた。

だがこうして景色を心に噛みしめながら目的地へ旅するのも悪くない。少なくとも心に余裕を持つことができると彩牙は思った。

 

『それにしても海か』

 

「なんだよ?」

 

『いやなに、真っ先に“うみ”について言うとはな。それほどぞっこんってことか?』

 

「なっ……!う、海未のことは関係ないだろ!」

 

『おいおい、俺様はあの嬢ちゃんのことだとは一言も言ってないぜ?』

 

「ぐっ……!」

 

からかうかのようなザルバの言葉に思わず詰まる彩牙。

……確かに、ザルバの指摘は図星だった。海を見て同じ名前である海未のことを――それこそ海のように落ち着きがあり、麗しい心を持つ彼女のことを想ったのは事実だ。

だがぞっこんというのは違うはずだ。海未はあくまで守りたい人であって、ザルバの言うようなことはない。

そうではない……はずだ。

 

『だがな、あまり思い入れするんじゃないぞ。返り血を浴びている以上、いつ何が起こるかわからんからな』

 

「……わかっている」

 

『だといいがな。お前はどうも深入りしすぎるところがあるからな』

 

「……」

 

ザルバの言葉に思い当たるふしがないわけでもなかった。

先日のコテツとの一件。あの時は剣を交えた後にコテツのことをほぼ完全に敵としてみなしていた。

海未たちの言葉やコテツ自身に魔戒騎士としての意志を感じたからこそ敵意は収まったが、もしそれらがなければ彩牙はずっとコテツのことを敵として見ていただろう。

それは彩牙の未熟な点。記憶がないことを抜きにしても、直していかなければならないところだった。

 

 

『――次は、○○駅、○○駅です。お降りの方はお忘れ物のございませんよう――』

 

『……っと、どうやら着いたようだな』

 

「ああ、行こうか」

 

電車内に響き渡るアナウンス。

目的地が近づいたことを知らせるそれを受け、それまでの考えを中断して彩牙は腰を上げた。

考えねばならないところはある。だが今は目の前の指令をこなさなければ――

 

 

 

「……そういえば、隣の車両が少し騒がしくなかったか?」

 

『さあな。邪気も感じなかったし、大したことないだろう』

 

「それもそうだな」

 

 

 

 

 

 

彩牙が降りたのは、木々に囲まれた中にポツンと建った駅だった。

先程の電車以上にまばらな人。一見すると寂れていると錯覚しそうなその光景も、自然に溶け込み調和した駅という“味”を出していた。

夏の日差しと木々の間から微かに覗く海に反射された輝きが彩牙を出迎えた。

 

「ここが海の管轄か」

 

『ああ。こっちの番犬所にはすでに話を通しているようだし、早速向かうとするか』

 

「そうだな。“奴”を探しに――」

 

――と、彩牙が足を踏み出そうとした時だった。

とすん、と背中にぶつかる感触。まるで人のような重みのある感触に何かと思い振り返ると、そこには確かに人がいた。

よほど慌てていたのか、または浮かれ過ぎていたのか定かではないが、周りが見えずにそのまま彩牙にぶつかってしまったのだろう。“オレンジ色のサイドテール”を揺らし、いたたと言わんばかりに頭を抱えていた。

 

「大丈夫ですか?」

 

「いたた……ご、ごめんなさい!彩牙くん怪我なかった?」

 

「いや、高坂さんが無事ならそれで――」

 

「……」

 

「……」

 

沈黙。

互いの顔を見合わせ、自分たちが口にした相手の名前と、目の前にいる相手の姿を呆然としたまま目に焼き付ける彩牙と“穂乃果”。

一秒、二秒と針の音と共に経過していく時間。その音と同時に彩牙と穂乃果の表情も呆けたようなそれから驚愕に包まれたものへと徐々に変化していった。

そして表情が驚愕一色に染まった時、二人はほぼ同時に互いを指さし、衝動に駆られるままに叫んだ。

 

 

「「な、なんでここに!?」」

 

見事なまでにハモった叫び。

何故こんなところにいるのかと考える間もなく、駅の中から聞こえてくる少女たちの話し声。

――そう、彩牙は思い出した。今日、自分以外にも遠出をする少女たちがいたことを。

そしてここに穂乃果がいる。つまりそれが意味することは――

 

 

「穂乃果!急に走り出すと危ない……って、え!?」

 

「あれ、彩牙くん?」

 

彩牙の予感は的中した。予期していた分、穂乃果と出くわした時よりも衝撃は抑えることができた。

穂乃果を追ってきたのであろう、海未とことり。彼女たちもまた彩牙がいることに驚きを隠せずにいた。

彼女たちが現れれば後の展開はもう容易に予想できた。次々と駅の中から現れてくるμ’sメンバー。その誰もが彩牙を目にして驚愕に染まっていた。

あまりにも予想通りの反応に、彩牙はもう苦笑いを浮かべずにはいられなかった。

 

 

「あれま、彩牙くんこんなところで奇遇やな?」

 

「それはこっちの台詞だよ。……もしかして、海未が言ってた合宿先って言うのは」

 

「ええ。この辺りに真姫の別荘があるらしいの」

 

「そうだったのか……」

 

絵里の言葉に、彩牙は偶然の悪戯を感じずにはいられなかった。

まさかμ’sの合宿が行われる真姫の別荘が海の管轄内にあるとは夢にも思わなかった。

これは今回の指令、より一層気合を入れて取り組まねばならないと彩牙が思ったとき、不思議そうな表情を浮かべたことりが尋ねた。

 

「それで、彩牙くんはどうしてここに?」

 

「まさか、にこ達のことをストーキングしたなんて言わないわよね!?」

 

「そんなのあるわけないでしょ」

 

「ははは……俺はちょっと探し物があってね。ほら、あの海のあたりに」

 

「………え?あそこに?」

 

ホラーのことを適当にはぐらかし、目的地である海の方向に指を向けた時、いの一番に反応したのは真姫だった。

今回の合宿で使う別荘の持ち主である真姫。その彼女が真っ先に反応したことに、彩牙は恐る恐る彼女の方を向いた。

偶然の一致とはここまで重なるものなのかと、そう思いながら。

 

「……まさかとは思うが、西木野さん」

 

「ちょうどあの辺りよ、うちの別荘があるの」

 

――もし神というものがいるのなら、どこまで運命の悪戯が好きなのだろうか。彩牙はそう思わずにはいられなかった。

もはやここまで偶然が一致すると思わず頭を抱えざるを得ない。そんな彼の心の内など知らずか、ピンと何か閃いたような表情を浮かべた穂乃果が口を開いた。

 

「ねえ彩牙くん、泊まるところって決まってるの?」

 

「え? いや、どこか適当な宿を探そうと……」

 

「――だったら、私に良い考えがあるよ!」

 

「……穂乃果、まさかとは思いますが」

 

ふっふっふと言わんばかりに笑みを浮かべる穂乃果。

そんな猪突猛進な幼馴染が言わんとしていることを予想した海未は、頭を抱えずにはいられなかった。

 

 

 

**

 

 

 

「――ほら、ここよ」

 

駅からバスに揺られていき、降りたバス停から少し歩いたところ。

道路を挟んで砂浜を目前にしたそこに、真姫の家が所有する別荘はあった。

手入れが行き通っているのだろう、小奇麗な庭が広がる最早豪邸と呼んでも差し支えのない別荘に、真姫以外の全員が感嘆としたような表情に呆けたような息を漏らしていた。

 

「すごいよ真姫ちゃん!さすがお金持ち!」

 

「こんなおっきな別荘、初めてだにゃー!」

 

「そう?これくらい普通でしょ?」

 

称えるような穂乃果と凛の言葉に少し照れくさくなったのか、わずかに顔を赤く染める真姫。

そんな彼女を案内も兼ねて先導にして、はしゃぐようにして別荘の中へと足を踏み入れていく穂乃果と凛。彼女たちを皮切りにして次々と続いて足を踏み入れていくメンバーたち。にこは何故か悔しがるような表情を浮かべていたが、それは隅に置いておこう。

そうして別荘の前に残ったのが海未、ことり、絵里、そして希だけになった時、彼女たちは後ろを振り向いた。

道中で一緒になった、もう一人の連れに向かって。

 

 

 

「……本当に俺が一緒に居ていいのか?」

 

「大丈夫だよ。もうここまで来ちゃったんだもん」

 

「彩牙くん、荷物の方は大丈夫ですか?」

 

「無理して持たなくてもいいんよ?」

 

「突然お邪魔するんだ、これくらいはしないと」

 

バッグなどの沢山の荷物を肩から下げ、抱える彩牙の姿がそこにはあった。

事の発端は駅で彩牙と彼女たちが出くわした時だ。あの時、穂乃果は彩牙に真姫の別荘に一緒に泊まろうと提案したのだ。

無論、μ’sのメンバーの多くと彩牙は反対した。年頃の女子だけの合宿に一人生徒でも何でもない、“メンバーの一人の同居人”であるだけの男が混じるなど普通に考えてありえないことだ。

彩牙自身も適当な宿を探すつもりだったし、折角の彼女たちの合宿に部外者である自分が割って入るのはあまりにも申し訳がなさすぎると思った。

 

その旨を伝えて申し出を断り、去ろうとした彩牙を引き留めたのは意外にも真姫だった。

彼女曰くこの時期は海水浴客などが多く、宿は殆ど埋まっているらしいのだ。そのことを知っていたが故に、本質的には世話焼きな真姫は引き留めずにはいられなかった。

それでどうするのかと問いだしたところ、彩牙は野宿でもすると答えたのだが、そこで彼を止めたのが海未だった。

 

まるで聞き分けのない子供に言い聞かせるかのように、「彩牙くん一人だけに野宿させるわけにはいきません」と怒った様子の海未。

そんな彼女に続くように絵里も、「そんなことをさせるくらいなら一緒に居た方がいいわ」と語気を強めて詰め寄った。

 

偶然巡り合ったとはいえ、知り合いを一人だけ野宿させるというのは彼女たちには受け入れられなかったのだろう。まるで説教のように言い詰められ、結局折れたのは彩牙だった。

仮に野宿を押し通そうとすれば、こうなった海未はきっと彩牙を探し回るだろう。それほどの気迫が感じられた。

 

そうして今、彩牙も真姫の別荘に泊めてもらう形となり、ここにいた。

バッグなどの荷物は「突然泊めてもらうわけだから」と彩牙が彼女たちから預かり、荷物持ちしていたものだった。

 

「ごめんなさいね、重かったでしょう?こんなに沢山持たせちゃって」

 

「これくらい平気さ。なんならみんなの荷物全部預かっててもよかったのに」

 

「ふふ、お世辞が上手ね。ありがとう」

 

微笑みを浮かべながら、彩牙から自分の荷物を受け取る絵里。

そんな彼女に続き、海未、ことり、希も自分の荷物を受け取っていく。

 

「それじゃ、荷物を置いたら早速着替えましょうか」

 

「そうですね、絵里せんぱ……あっ」

 

「き・ん・し……って言ったでしょ?」

 

「……すみません、絵里」

 

何気ない、海未と絵里の会話。

それを横で見ていた彩牙は、今まで抱いていた違和感に気が付いた。

駅で皆に会ってからここまで感じていた違和感。それは下級生が上級生のことを先輩付けで呼んでいなかったことだった。

 

「気が付いた?先輩禁止にしたんよ」

 

「禁止?」

 

「そう、みんながもっと仲良くなれるように。なー、ことりちゃん♪」

 

「うん、希ちゃん♪」

 

朗らかな笑顔で互いの名を呼び合う希とことり。

そんな仲の良い彼女たちの姿を目にし、希の言葉に納得する彩牙。確かに先輩呼びが無くなったことで先輩後輩の垣根がなくなり、これまでよりも親身になっているように感じられた。

そんなことを考えていた彩牙に、悪戯っぽい笑みを浮かべた希が語りかける。

 

「なんなら彩牙くんも好きに呼んでいいんよ。ほら、苗字呼びなんて他人行儀みたいなことせんでええんよ♪」

 

「ははは……別に他人行儀なんてつもりはないけど、遠慮しておくよ。“それ”は東條さんたちだけのものなんだからさ」

 

「あら、つれないなあ」

 

部外者の自分までμ’s内の決め事にあやかっても仕方がない――そう言外に含ませてやんわりと断り、別荘の中へと歩いていく彩牙。

そんな彩牙の姿を少し寂しそうな笑顔で見つめる希に、同じような表情を浮かべた絵里が語りかける。

 

「仕方ないわよ。彩牙さんもちょっと気まずいところがあるのだろうし」

 

「んー……そうかもしれへんけどなあ」

 

誘われ、それしか手がなかったとはいえ、いくら顔見知りであっても仲間内での合宿――それも同年代の女子の集まりに加わるというのは非常に気まずいところがあるのだろうと、絵里は思った。

かつてμ’sを――スクールアイドルをやりたいという気持ちに素直になれなかった時の自分のように。

 

「それでもお友達なんやし、ちゃんと名前で呼んでほしいなぁ……」

 

「……そうね」

 

少し、壁を作られている――

希は、彩牙にそんな思いを抱いていた。

 

 

 

**

 

 

 

「りょ、料理人!?」

 

「……そんなに驚くこと?」

 

「驚くよ~普通はいないもん」

 

別荘のキッチンに響き渡る、にことことりの驚きに満ちた声。

荷物を運び終えた彼女たちは今、真姫に別荘の中を案内してもらっていたのだが、キッチンで真姫が言い放った言葉に驚きを隠せずにいた。

それもそのはず、真姫が言うには家族でここに来た時には専属の料理人に調理してもらっているというのだ。

 

――そう、料理人、コックだ。しかもそれは別荘に限った話ではなく、普段家にいるときからそうだというのだ。

自分たちとあまりに違う真姫の暮らしぶりに感嘆とすることり。彼女は彼女で一学校の理事長の一人娘という十分にお嬢様として通じる立場であるのだが、料理は主に自分や母親がするものであって料理人を雇うなどという発想はないのだ。

そうしてにこに同意を求めることりだが、当のにこは胸を張っているようで――

 

「へ、へぇ~真姫ちゃん家もそうなんだー。にこも同じだから自分で料理とかしたことなくて~」

 

「へぇー……にこちゃんもそうなんだー……」

 

そう自慢げに語るにこだが、その表情は無理をしているかのように引きつり、冷や汗も浮かべていたが、ことりはそれに気づかない。

怪訝そうな表情でそれを見つめる真姫だけが、何となくにこの言葉の真意を察していた。

――と、その時だ。

 

「……っと、ここが厨房か」

 

「あ、彩牙くん」

 

彼女たちと同じように荷物を運び入れ、別荘の中を探索していた彩牙がキッチンに現れたのだ。

普段見知っている園田家の和風に満ちた厨房とは正反対の、西洋風のキッチンを物珍しそうに見回していく。

 

「……そうだ、折角だからご飯は俺が作ろうか?」

 

「えっ? そんな、悪いよ」

 

「いや、みんなは練習をしておきたいだろ?疲れた体に無理をさせるのもよくないと思ってさ」

 

自分が食事を作ることを提案する彩牙。彼からしてみれば突然お邪魔することになったのだから何か手伝いをしておきたかったのだろう。

そこまでやってもらうことに申し訳なさを覚え、断ろうとすることりだが、構わないと言うような姿勢の彩牙。

そしてそんな彩牙の意見に同調する者がいた。

 

「別にいいんじゃない?本人がやりたいって言うなら」

 

にこだ。

彩牙の意志を尊重するかのように言っているが、実はその裏ではつい先程自分が言ったことをそのまま真にできるという算段がある――とは、誰が気付いただろうか。

少なくとそれに気づかなかったことりは悩むそぶりを見せ、ゆっくりと口を開いた。

 

「ん~……それじゃあ、手伝いでもいいからお願いしようかな……?」

 

「ああ、それじゃあ今日の夕食は――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――彩牙くんっっ!!」

 

承諾を貰い、今夜の献立を考えようとした彩牙の前に鬼気迫るような表情を浮かべた海未が駆け寄ってきた。――いや、駆け寄るなどという生易しい表現ではない。彼女のそれは辺りに地響きでも起こるかのような勢いだった。

あまりにも緊迫した様子の海未に呆然としたことりたち三人をよそに、海未は彩牙の肩をがっちりと掴み、鬼気迫る表情で彩牙を見つめる。

しかしそれも束の間、その直後に海未はにこやかな笑顔を浮かべる。

――彩牙の肩を掴む手の力を緩めないまま。

 

「ど、どうしたんだ?海未」

 

「食事の方は大丈夫ですから、彩牙くんは掃除や大きな道具の出し入れをお願いしてもいいですか?何分力仕事が必要ですので」

 

「あ、ああ。それは構わないけどそれなら料理も一緒に――」

 

「いえいえ、昔から台所は男子禁制とも言いますし、こちらは私たちに任せて彩牙くんはそちらの方をお願いします」

 

「いやしかし、普段家でも手伝ってるし――」

 

「お・ね・が・い・し・ま・す」

 

「はい」

 

有無を言わせない迫力に満ちた海未の言葉。

それに圧倒された彩牙は流されるままに頷くしかなかった。

 

「それでは彩牙くんはあちらの方で荷物の整理をお願いしていいですか?」

 

「あ、ああ」

 

海未に圧倒されたまま、キッチンを後にする彩牙。

やけに哀愁漂うその後ろ姿を非常に安堵した様子で見つめる海未に、ことりが恐る恐る声をかけた。

 

「う、海未ちゃん……?どうしたの?」

 

「そうよ、折角料理してくれるって言ってたのに」

 

やや恨みがましく言うにこだが、海未はそれに応えない。

それどころか神妙な表情で三人を見つめていた。

 

「……いけないのです」

 

「え?」

 

「彩牙くんに、料理をさせてはいけないのです」

 

「ど、どういうこと?」

 

張り詰めたような表情で語る海未に、呆気にとられたように尋ねる真姫。

その表情を崩さないまま、海未は語り始める。

 

「……彩牙くんが家の手伝いをしてくれていることは知ってますよね?」

 

「う、うん」

 

「それである日、彩牙くんがご飯を作ることになったのですが――」

 

「……まさか……」

 

語る海未の表情、先程の彩牙を必死に止める様子。

それらを思い出し、真姫は自分の中である予想を立てた。

そしてその予想が正解だと裏付けるかのように、遠くを見つめる海未はどこか達観したような――儚い笑みを浮かべた。

 

「……食材への冒涜とは、正にあのことを言うのですね」

 

その一言だけで、ことりたち三人にははっきりと伝わった。

――村雨彩牙は、壊滅的に料理が下手なのだと。

 

「ですから、厨房では彩牙くんには精々皿洗いか米とぎだけをさせてください。無事に帰りたいのならば絶対に料理をさせてはいけませんよ!」

 

「「「はい!」」」

 

海未からの忠告を断る理由など、三人にはもう微塵もなかった。

 

 

 

**

 

 

 

「これが、合宿の練習メニューです!」

 

そう高らかに、元気いっぱいに叫ぶ海未の前には“一部を除いて”練習着に身を包んだμ’sメンバーの姿があった。練習のために合宿に来たのだから、それも当然だ。

……当然なの……だが、皆が皆、顔が引きつり、苦笑いを浮かべる者や明らかにげんなりしている者がいるなど、どこからどうみても歓迎ムードではなかった。

 

理由は今、海未が提案した練習メニューだ。

目の前には海未が作って来たのであろう、円グラフにスケジュールが書き込まれた練習メニューが張ってあったのだが、その内容が問題だった。

ダンスレッスン、遠泳10km、ランニング10km、etc……

あまりにもタイト且つハードなスケジュールに皆、完全に引いていた。

 

「最近、基礎体力が落ちていると思っていたんです。折角ですからここでみっちり!」

 

「そ、それはそうだけどこれは流石に……」

 

生き生きとした海未にやんわりと考え直すように言葉をかける絵里だが、これまでにないくらい瞳を輝かせている海未には届きそうにない。

そんな中また一人、海未に異議を唱える少女が現れた。

 

「ていうか海は!? 海水浴は!?」

 

「そうにゃ!海未ちゃん、海で泳がせてあげるって約束したはずにゃ!」

 

穂乃果だ。彼女に追従するように凛も異議を口にする。

しかし彼女たちが身につけているのは他のメンバーたちと同じ練習着ではなかった。健康的な肌を覗かせる面積が広い装い――そう、水着だ。

「私たち、練習より海で遊びたいです」と言わんばかりに水着を纏っていたのだ。

そんな彼女たちの抗議を前にしても、海未はあっけからんと答える。

 

「ええ、ですから書いてあるではないですか。遠泳10kmと」

 

「違うから! そんなんできるわけないでしょ!」

 

どこかズレたような返答をする海未に、すかさずにこのツッコミが入る。

……穂乃果や凛と同じように、水着を纏っていたにこ――が。

そんなにこの切羽詰まったような突っ込みを受けても尚、海未は輝く笑顔を崩さない。

 

「大丈夫です!熱いハートがあれば!」

 

瞳を輝かせながらそう語る海未に、彼女を除いたメンバーは皆困惑と危機感を隠せない。

常日頃から武道の鍛錬を重ねている海未からすればこれくらいは可能なことなのかもしれないが、彼女以外にとってはそうではない。バテて筋肉痛――などまだいい方だ。

だが完全に鍛錬スイッチがオンになっていた海未には、その思いは届かない。

 

誰か、この危機的状況をひっくり返せるような者は――“ヒーロー”はいないのか。

そんな彼女たちの願いが通じたのか、現れたのは――

 

 

「……ん? みんなどうしたんだ?」

 

彩牙だった。

穂乃果や凛に頼まれていたのかビーチパラソルやチェアを抱えている彼が、困惑する彼女たちを不思議そうに見つめていた。

救いが現れた――!そう心に抱いた穂乃果は即座に彩牙に話を振った。

 

「彩牙くんからも何か言ってよ!こんな練習メニューできるわけないって!」

 

「? ……これは……」

 

穂乃果に促され、張り出された練習メニューを見つめる彩牙。

真剣な表情でメニューを見つめる彩牙の姿を、穂乃果、凛、そしてにこは希望に満ちた表情で見つめる。

自分たちの声は届かなくても、共に暮らし、常日頃から一緒に稽古をしているという彩牙の言葉ならば、きっと海未の考えを改めることができるだろう。

穂乃果たち水着装備の三人ほどではないにしろ、その場にいたメンバー全員がそんな希望を抱いていた。

そして、そんな彼女たちの祈りが届いたのか、真剣な表情の彩牙が口を開いた。

 

「……海未、この練習メニューだけど――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ちょっと物足りないんじゃないか?」

 

ピシリ、という音が聞こえるかのように固まるμ’sメンバー。

そしてそれに反するように、海未の表情は更なる輝きを増していく。

 

「彩牙くんもそう思いましたか! 私も昨夜作ってからここに来るまでずっと考えてたんです。みなさんならばもっと質の高い練習ができるのではないかと」

 

「ああ。例えば……ランニングもただ走るだけじゃなく、水瓶の中身が一杯になるまで川の間を往復する、なんてどうだろうか?」

 

「なるほど!脚力や体力と一緒に動きながらのバランス感覚も鍛えようということですか! でしたら私もこのような案が……」

 

特訓談議で盛り上がっていく彩牙と海未を、他のメンバーたちはより引きつった表情で見つめ、特に穂乃果たち水着三人組は絶望に満ちた表情を浮かべていた。

そして海未を除いたメンバー全員が同時にこう思った。

 

――この二人に任せていたら確実に死人が出る。

 

「こ、こうなったら……!」

 

「やるしかないわね」

 

決意を秘めた表情で頷き合う穂乃果とにこ。

“後でどうなろうと”知ったことか。このままではあのメニューを更に凶悪にした練習という名の拷問まがいの苦行をやらされる。それだけは御免だった。

今一度、約一名を除いたメンバーの心が一つになった。

 

 

 

 

 

 

 

「……よし、それじゃあこんな感じでいくか」

 

「はい! みなさん、お待たせしまし……た……?」

 

特訓談議も一段落し、新たに生まれ変わってしまった練習メニューを手に、待たせていたメンバーたちに振り返った海未。しかしその瞬間、彼女の表情は呆気にとられたようなものに変化した。

振り返った先にいたのは苦笑いを浮かべる絵里と希、そして真姫の姿だけがあった。

他のメンバーはどこに行ったのか?辺りを見回すと、その答えはすぐに見つかった。

 

海だ。

一体いつの間に着替えたというのか、水着姿のことりと花陽も加えて海で遊んでいたのだ。

練習――少なくとも本人にとっては――を始めようとした海未としては困惑するより他なかった。

 

「あ、あなたたち!練習はどうしたのですか、ちょっと!」

 

「まあまあ、落ち着いて海未」

 

「絵里!しかしですね……」

 

困惑する海未を、穏やかな表情でなだめる絵里。

異議を唱えようする海未に対し、優しく言い聞かせるように語りかけていく。

 

「μ’sはこれまで部活の側面も強かったし、こうやってみんなで遊ぶのも大事だと思うの。先輩後輩の垣根をとるためにも、ね」

 

「それは、そうかもしれませんが……」

 

「それにほら、見て」

 

絵里が指さす先には、笑顔を浮かべ、海で楽しくはしゃぎまわる穂乃果たちの姿。

その中で海未たちに向けて「早くおいでよ!」と言わんばかりに手を振る穂乃果の姿に、海未の中にある思いが湧きあがる。

 

「一緒に混ざりたいって、思うでしょ?」

 

「……そうですね」

 

はにかむように微笑みを浮かべる海未。

確かに練習は大事だ。それは絵里もよく分かっている。

だけど練習だけでは得られないものがあるのも確かなのだ。それを得るために、絵里は海未に手を差し伸べる。

 

「さあ、私たちも行きましょう!」

 

「はい!」

 

その手を、海未は迷うことなく取った。

先輩――いや、仲間の、友達の手を――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ。それとさっき作った練習メニューは生徒会長の権限で処分ね♪」

 

「ええっ!?そ、そんな……」

 

「駄目、なのか……?」

 

無慈悲(?)な絵里の勧告に驚き、愕然とする海未と彩牙。

特に彩牙のそれは心あらずというような状態だった。

 

「駄目に決まってるじゃない、あんなのやったら身体壊すわよ」

 

「そう、なのか……」

 

「あらら、彩牙くん元気だそうな?」

 

「……駄目、なのか……」

 

「どれだけやりたかったのよ……」

 

 

 

 

 

 

それから数分後。

真姫の別荘の前のビーチでは、すっかり海水浴を楽しむμ’sの姿があった。

水着に身を包んだ彼女たちは水かけ、スイカ割り、ビーチバレー等々、思い思いの方法で海を満喫する。ちなみに彼女たちの着る水着は、以前ことりが買ったものにアレンジを加えたものであり、彼女の強い要望で身に着けたものであった。

そうして水着を纏って遊ぶ姿を新曲のPVに使うのか、希がハンドカメラで納めていく。

そんな彼女たちの姿を、彩牙は穏やかな表情で見つめていた。

 

「楽しそうだな」

 

『なんだ、混ざりたいのか?』

 

「……いや、俺はいいさ。こっちでさ」

 

彼女たちが楽しそうでも、自分も混ざりたいとは思わなかった。

無論、彼女たちと一緒に居るのが嫌というわけではない。だが自分がいるべき場所は彼女たちと同じ立場ではなくその外側――彼女たちの暮らしを守る側なのだと、そう思っていた。

そんなことを考えながら、彩牙はちらりと横に視線を向けた。

 

「……それで、西木野さんはみんなと一緒に遊ばないのか?」

 

「私はいいわよ、ここで」

 

そこには他のメンバーに混ざらず一人、パラソルの下でチェアに座りながら本を読む真姫の姿があった。

他のメンバーと遊ばないというのは彩牙と一緒だが、時々ちらりとμ’sメンバーの様子を窺っている姿から、彩牙とはどうも違う理由のようだった。

そう、単純に素直になりきれていないかのような――

 

「それよりもさっきから何してるの? ビーチを汚すような真似だけはやめてよね」

 

眉間に僅かに皺を寄せながらそう語る真姫。

というのも彼女からすれば当然で、目の前にいる彩牙はさっきから札のようなものが巻き付いた瓶のような何かを砂浜に埋め込んでいるのだ。

それも一か所だけではない、ビーチのあちらこちらにだ。真姫にはゴミのような何かにしか見えないそれを、彩牙はやけに真剣な表情で埋め込んでいた。

 

「ああ、別に捨てているとか、海を汚すようなものじゃない。用が済んだらちゃんと全部回収するから安心してくれ」

 

「ふぅん……それならいいのだけど」

 

その言葉に、真姫は半信半疑で頷いた。

嘘はついていないようだが結局のところ、彩牙が埋めている“それ”が何なのかわからないうちは無邪気に信じることができずにいた。

そんな真姫の考えは露知らず、全てを埋め終えた彩牙は一息つき、ザルバに思念を送る。

 

(こんなところか?)

 

(ああ、後は夜を待つだけだぜ)

 

(……砂浜、か……)

 

何を思いついたのか、足下に広がる砂浜を見つめ、ポンポンと踏みしめる。

ゴミがほとんどない、サラサラとした白い砂が彩牙の足を覆っていく。下手に体重をかければバランスを崩しそうな砂だった。

 

(ザルバ、少し鍛錬に付き合ってくれないか?)

 

(ん?……まあいいだろう)

 

そうして適当な長さの木の枝を拾い上げ、精神を統一するように瞳を閉じ、深く息を吸い、吐いていく。

そんな彩牙の姿を、真姫は怪訝な表情で見つめる。ザルバの瞳が一瞬光ったのには気づかない。

 

「彩牙さん……?」

 

「……」

 

不思議そうに尋ねる真姫の声にも彩牙は答えない。いや――聞こえない。

今、彼の意識は陽光輝き波の音が響くビーチではなく、一片の光もない無音の闇の中にいた。

意識を集中し、研ぎ澄ませていく中、闇の中に変化が現れた。

ホラーだ。闇の中から溶け出すように、一匹、また一匹と素体ホラーが現れていく。闇の中であるにも拘らず、その姿形ははっきりと見えていた。

 

そうして現れた四体の素体ホラーが、彩牙に襲い掛かる。

そして彩牙が持つ木の枝は、“彼の意識の中では”魔戒剣となっていた。

まず一体のホラーが彩牙の下に到達し、爪を振るう。彩牙はその爪を避け、魔戒剣でホラーを薙ぎ払う。斬り裂かれたホラーはたちまち闇へと還っていった。

 

次に、二体のホラーが同時に襲いかかる。そのうち一体が牙を剥き出しにし、彩牙の肉に喰らいつかんと躍りかかった。

そのホラーの顔面に横薙ぎに振るわれた彩牙の蹴りが叩き込まれる。横っ面に蹴りを叩き込まれてよろめくホラー。

それと同時にもう一体が尻尾を振るい、彩牙の足を薙ぎ払おうとする。しかし彩牙は身体を横に回転させながら飛び跳ねて避け、回転の勢いを利用して尻尾を振るったホラーを斬り裂き、つい今しがた蹴り倒したホラーに魔戒剣を深々と突き刺した。

 

残るは一体。

しかし着地した瞬間砂に足をとられ、バランスを崩してよろめく。

その隙を見逃さなかったホラーは彩牙の身体を貫かんと、槍のように爪を突き出してきた。

目の前に迫る、ホラーの貫手。しかしそれを前にしても、彩牙は姿勢を直そうとしなかった。

彩牙は逆に姿勢を崩し、倒れこむ勢いを利用して魔戒剣を振るい、ホラーの足を斬り裂いた。

足を失い、前のめりに倒れこむホラー。その口目掛け、魔戒剣が突き出された。

 

頭を貫かれ、消滅していくホラー。

ホラーがすべて消滅すると同時に、彩牙の意識も無音の闇から陽光輝くビーチに――現実へと引き戻されていく。

 

 

 

「ふう……助かったよ、ザルバ」

 

『……それはいいがな、周りを見ろ』

 

鍛錬を終え、一息つく彩牙に呆れたようなザルバの声がかけられる。

何かと思い見回すと、そこには遊びの手を止め、呆然とした表情で彩牙を見つめるμ’sメンバーの姿があった。チェアに腰かけていた真姫も手にしていた本に目もくれず、同じような表情で彩牙を見つめていた。

 

「すごーい……空中でくるくる回ってたよ……」

 

「イメージトレーニング……かしら?それにしても剣道って凄い動きをするのね……」

 

「それはちょっと違うようなー……」

 

「……海未ってあんなのと毎朝稽古してんの?」

 

「いえ、流石にあそこまでは」

 

「彩牙さんすごいにゃー!凛も負けてられないにゃ!」

 

「凛ちゃん、砂浜じゃ危ないよぉ」

 

見惚れる者、呆気にとられる者、瞳を輝かせる者とその反応は様々だが、共通していることが一つあった。

彩牙はこの場の全員の注目を浴びている――つまりは、目立ち過ぎであった。魔戒騎士であるにもかかわらず、だ。

 

『場所はいいが、時を選ぶべきだったな』

 

ザルバの言葉と自分の浅はかさに、彩牙はばつのわるそうな表情を浮かべるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

その中で一人、希だけが何とも言えないような表情で彩牙を見つめていた。

先の彩牙の姿――正確には表情が彼女には気がかりだった。

あの時、彩牙は目を瞑っていた。だが眉が、口元が、その表情がとても鋭いものに……まるで何かと戦っているような、そんな風に見えた。

そして同時に思い出す。メイド喫茶の時、A-RISEのライブの時、あの時も彩牙は似たような表情を覗かせていた。

あの表情は一体何を意味しているのか――そんな疑問が、希の中でどんどん膨れ上がっていった。

 

 

 

**

 

 

 

 

「綺麗な夕陽やねえ」

 

「そうだな。西木野さん、スーパーまであとどれくらいかな?」

 

「ここまで来ればあと少しよ」

 

夕陽が優しく照らす、海沿いの街道。

その道を歩く三人の少年少女――希と真姫、そして彩牙の姿があった。

 

海水浴を終え、別荘の中に戻った時だった。

夕飯の食材の買い出しをすることになったのだが、別荘から一番近いスーパーがバスの通らない場所にある上、歩きだと結構時間のかかる場所だったのだ。

そこで唯一店の場所を知っている真姫が買い出しに行くと名乗り出たのだが、そこで人数が人数なため大荷物になるだろうという希と、女の子二人だけで出歩かせるのは危ないということで彩牙も名乗り出たのだった。

 

そうしてスーパーに向かっているのだが、真姫の言う通り結構遠いというのは本当だったらしく、今ではすっかり夕焼けになっていた。

 

「それで、なんでそんなコートなんて持ってきたの?」

 

「ああ、いくら夏でも夜は冷えるだろうと思ってさ」

 

「いくらなんでもそこまで冷えないでしょ……」

 

「かもな」

 

――かもなって……。

あっけからんとそう語る彩牙に真姫は呆れた。

自分で言っておいて、一体何を考えているというのか。彩牙の考えが、真姫にはわからなかった。

 

「……」

 

「……ん~?真姫ちゃんどうしたん?ウチのことじいっと見つめて」

 

「……ねえ、なんでそんなに私に構うの?」

 

考えがわからないと言えば、もう一人いた。

希だ。

真姫は普段から、希が何を考えているのかわからなかった。いきなり人の胸を揉みしだいたりしておちゃらけたような顔を見せたと思いきや、時折神妙な表情で核心を突いたようなこと言う。

ころころ変わるその表情の意図が読み取れず、二人きりでいるというのが苦手だった。そういう意味では彩牙がいてよかったのかもしれない。

 

「……ほっとけないから、かな。真姫ちゃんみたいに素直になれない子、知ってるから」

 

「……なにそれ」

 

まただ。

神妙な、それでいて穏やかな表情で語る希。

嫌いというわけでは決してない。だが自分の心の内が覗かれているような――素直になりきれないという自覚しているところのある部分が露にされているような気がした。

真姫は、それがとてもむずかゆく感じた。

 

「ま、たまにはちょっと無理してみるのもいいと思うよ、合宿やし♪」

 

朗らかな笑みでそう語る希の背中を、真姫は考え込むような表情で見つめていた。

――思うところはあった。物怖じせずに進んでスキンシップをとる凛や穂乃果のことを、羨ましいと思うところはあった。自分もあんな風に進んで仲良くしてみたいと憧れを抱いたことも事実だ。

 

「……ちょっとの無理、か……」

 

いきなりは無理かもしれない。

だけど少しずつ、やってみるのもいいかもしれない。

真姫は、自分の中で小さな勇気が生まれるのを微かに感じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

真姫がそう思っていた一方で、希は先を歩く彩牙の背中を陰のある表情で見つめていた。

真姫に語った、素直になれない子。あれは自分のことも言っていた。

転校続きで友達もできず、他人に対してすっかり臆病になってしまっていた内気な女の子。それがかつての自分だった。

――いや、今もその本質は変わっていないのかもしれない。お姉さんらしく振舞ってはいるけれど、その心の底を打ち明けられたのはμ’sでも絵里以外にいなかった。

 

それは彩牙に対しても同じだった。

これまで彩牙に抱いた疑問を、彼本人に――一回は勇気を出したが――尋ねることができずにいた。

その気になれば尋ねられるような場面はいくらでもあった。でも尋ねることができずにいた。

何もかも壊れてしまいそうな――そんな予感が、不安が、希を支配していた。

 

――真姫ちゃんのこと、偉そうに言えへんね。

 

ばつが悪そうにそう考えた時、先を歩いていた彩牙が振り返り、希たちに呼びかけた。

 

「――二人とも、早くしないと日が暮れちゃうぞ?」

 

「はーい、今行くねー!」

 

「もう、そんな焦ることないでしょ」

 

ぱたぱたと駆けて行く希と真姫。

きっと、今はまだ知らなくてもいいことなのかもしれない。

きっと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今は、まだ。

 

 

 

**

 

 

 

「やっぱり合宿といったらカレーやね♪ みんな喜んでくれるかなあ?」

 

「喜ぶさ。よし、ここは一つ俺が腕を振るって――」

 

「米とぎの方をお願い」

 

「いやしかし――」

 

「お ね が い」

 

「……はい」

 

スーパーでカレーの材料をはじめとした諸々を買い込んだ彩牙、希、真姫の三人。

やはり予想していた通り帰りの荷物が大量になり、男手である彩牙が一番多く持っていたが、それでも三人で分けてようやくといった量になっていた。

 

彼らがスーパーから出たころには陽が沈みかけ、薄暗くなっていた。

別荘への帰路についている間にもどんどん暗くなっていき、中ほどですっかり暗くなった。所々にある街灯のみがおぼろげに照らし、人や車の通りがほとんどない道を三人で歩いていく。

虫や蛙の鳴き声だけが辺りに響く中、希が悪戯そうな笑みを浮かべた。

 

「それにしても雰囲気あるなあ、なんだかお化けさんが出そうやね♪」

 

「そんなのいるわけないでしょ、いたって困るし」

 

「もう、真姫ちゃんはロマンがないなあ。ここは一つウチが出会った白い狸さんの話を……」

 

(お化けならまだ可愛いもんだがな)

 

(かもな)

 

交わされていく、何気ない穏やかな会話。

そんな中、希と真姫の足が、視線がある一点に止まった。

 

「……女の人?」

 

道沿いに生えている木の根元。

そこに一人の女性がこちらに背を向け、蹲っていたのだ。

時折震えているように見えるその様子に、具合でも悪いのかと思った希と真姫は女性の下へと駆け寄っていく。

彩牙が止める間もなく。

 

 

「大丈夫ですか?どこか具合悪いんですか?」

 

「救急車呼びましょうか?ここならそうかからない筈だから……」

 

希と真姫が呼びかけるが、女性は震えたままで答えない。

返事ができない程具合が悪いのかもしれない。救急車を呼んだ方がいいと彼女たちが思った時、女性の方から何かぼそりと聞こえ始めた。

 

 

「………か………った……」

 

「え……?すいません、もう一度言ってくれますか?」

 

途切れ途切れ且つか細い女性の呟きに、思わず聞き返す希。

聞き耳を立てて女性の言葉を待っていると、徐々に何を言っているのか聞き取れるようになった。

 

 

「ぉ……か……へ……」

 

「……なか……へっ………」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おなか、へった」

 

思わず顔を見合わせる二人。

聴き間違いでなければこの女性は確かに言った。「お腹減った」と。

具合が悪いわけでなかったことに拍子を抜かれたと同時に、大事にならなくてよかったと胸を撫で下ろした。

 

「ええと……少し歩いたところにスーパーがありますから、そこで買ってきたらどうですか?」

 

「歩けない程でしたら何か食べます? すぐ食べられそうなやつあったかなあ……」

 

 

 

 

「おいしそう」

 

女性が、感情の籠っていない声で呟く。

 

「……あ、何か欲しいものあったんですか?どれが――」

 

 

 

 

 

 

 

「おいしそうな、こたち」

 

 

 

「――え……?」

 

――ぞくり

背筋が凍るような悪寒を、希は感じた。真姫も同じだったようで、呆然と、そして微かに怯えた様子で女性を見つめていた。

 

「おんなのこ、にく、やわらかくて、すき」

 

「何、言って―――!?」

 

驚愕に包まれる、希と真姫の表情。そしてそれは驚愕から徐々に恐怖に染まったものになる。

振り返った女性の顔、それは人間と呼べるものではなかった。瞳はぎょろぎょろと動き、口は大きく裂けて獣のような生臭い息と共に覗く鋭い牙をもった、まさに悪鬼と呼んでも過言ではない顔をしていた。

 

しかもそれだけでは終わらなかった。

彼女たちの目の前で、振り返った女性の首がごきごきと音を鳴らしながら文字通り回転し、首が、身体が、どんどん捻じれ、まるで蔓のようにぐるぐる巻きになっていく。回り続ける首は不気味な笑顔を浮かべ、それが希と真姫から正常な思考を奪っていく。

やがて女性の頭が、最早原形を留めなくなった身体がどんどん青色に変色し、溶けあうように崩れ、新たな形へと変わっていく。

 

「……なに、これ……」

 

そこにいたのは人間ではなかった。

怪物だ。

透明感のある水色の身体に赤い瞳が覗く無機質な仮面を持った、人型の怪物がいた。

あまりにも現実離れしたその光景に、希と真姫はただ茫然とし、そして恐怖に包まれ動けずにいた。

恐怖に支配された二人に、怪物の指から伸びる鋭利な爪が向けられ――

 

「――ハアッ!」

 

『ギイッ!?』

 

手にしていた白いコートを纏った彩牙がその間に飛び込み、魔戒剣で怪物を斬り裂いた。

斬り裂かれ、よろめきながら後ろに退く怪物。それを前に油断なく構える彩牙の姿に、希と真姫は困惑の表情を浮かべる。

 

「さ、彩牙くん……?」

 

「逃げるんだ、今すぐに!」

 

怒鳴るように言うと同時に、怪物が再び爪を振るって襲い掛かり、反射的に腕で庇う彼女たちを前に魔戒剣で爪を受け止める彩牙。

怪物の爪と魔戒剣が擦れ合い、火花を散らしていく。

 

「ザルバ!まさかこいつが――!?」

 

『違う、“奴”ではない!こいつの名はゲメルスだ!』

 

怪物――ホラー・ゲメルスは無機質だと思われていたその瞳をいやらしそうに歪ませる。

嗤っているのだ。彩牙を、その後ろで恐怖と困惑に見た表情で見つめる希と真姫――餌のことを。

 

「な、なによこれ……何がどうなってるの!?」

 

「下がってるんだ、早く!」

 

ゲルメスの爪を斬り払い、再び後退させる彩牙。

そして頭上に魔戒剣で円を描くと同時に駆け出し、その身体に黄金の鎧が――ガロの鎧が纏われていく。

黄金の狼となった彩牙の姿に、今一度、希と真姫の表情が驚愕に包まれる。

 

「まさかあれって、都市伝説の……!」

 

「彩牙くんが……黄金の狼……!?」

 

驚愕に満ちた二人の視線を浴びながら、ガロはゲメルス目掛け一直線に駆けて行く。

ゲメルスの眼前まで到達すると同時に跳び上がり、全体重をかけて牙狼剣を振り下ろす。

振り下ろされた牙狼剣は、受け止めようとしたゲメルスの腕を容易く両断した。

 

『ギィィィィッ!』

 

肘から下を失い、たじろぐゲメルス。失った腕の断面からは血ではなく、ゲル状の肉がボトボトと零れ落ちる。見るものすべてに生理的嫌悪感を抱かせるその光景に、希と真姫は顔を強張らせた。

そしてガロは、再びゲメルスに斬りかかっていく。

 

振るわれていく牙狼剣をゲメルスは片腕だけで辛うじて弾き、避けていく。

時折その鋭利な爪を振るっていくが、ガロの鎧を成すソウルメタルを貫くことは叶わず、虚しく弾かれていく。

ゲメルスを圧倒していくガロ――彩牙の姿を、希と真姫は逃げることも忘れ、呆然と見つめていた。

 

「なによ、これ……こんなことが本当にあるって言うの……?」

 

「……」

 

何か知っているとは思っていた。何か隠しているとは思っていた。

でもこんな……こんなあまりにも血生臭く、現実離れしているものだとは思わなかった。

物語の中に出てきそうなおぞましい怪物に、それと戦う黄金の騎士。まるで質の悪い夢を見ているようだと、そうであることを願った。

しかしその願いはかなわない。これはまごうことなき現実なのだと目が、耳が、肌が、五感全てが告げていく。

そう、これは現実なのだ。

 

 

 

『ウオォォォォォォッ!』

 

『ギ、ガッ!』

 

牙狼剣と爪が振るわれる中、遂にそれは起こった。

横薙ぎに振るわれた牙狼剣が、がら空きとなったゲメルスの胴体を的確に捉えたのだ。

ガロはそのまま渾身の力を籠めて牙狼剣を振るい、ゲメルスの身体を両断した。

上半身と下半身に分かれ、崩れ落ちていくゲメルス。倒した、と思ったその時だった。

 

『グゥオオオオオオッ!』

 

『なにっ!?』

 

上半身だけとなったゲメルスが、再びガロに襲い掛かって来たのだ。

切断面はゲル状の肉が固まり、まるで触手のような足へと変化していた。

振るわれた爪を弾くガロだが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。

 

『―――――!』

 

『くっ、なんだと!?』

 

背中に走る衝撃。

振り返るとそこには、切断されたゲメルスの下半身が意志を持っているかのように起き上がり、切断面が変化した触腕を振るっていたのだ。

上半身と下半身――二体のゲメルスに囲まれたガロ。

 

『核だ!核を潰さない限りキリがないぞ!』

 

ザルバの言葉に従い、目を凝らしていくガロ。

その間にも振るわれるゲメルスの攻撃を捌きながら、核を探していく。

そしてその視線は、ある一点で止まった。

 

――あれか!

 

ゲメルスの上半身、その胸部。ちょうど人間の心臓と同じ位置に、それはあった。

ゲル状の肉の中にうっすらと浮かび上がる、鼓動を打つ心臓のような器官。

それこそがゲメルスの核であった。

核の位置がわかればこっちのものだと、上半身に向かって飛びかかり、牙狼剣を振るうガロ。

しかしその間に下半身が割り込んで牙狼剣を受け止め、その肉で絡みついて離さない。

 

ゲメルスの下半身によって剣が捉われ、動きを封じられたガロ。

この機を逃さんと、残されたゲメルスの上半身は襲い掛かった。

 

 

 

 

 

 

 

――戦いを見つめていた、希たちに向かって。

 

「――え?」

 

『逃げろっ!!』

 

片腕と触手のような足を使い、這いずるように迫るゲメルス。

突然自分たちに牙を向ける怪物の姿に思考が追いつかない中、響き渡るガロの叫びにはっと我に返る二人。

そして瞬時に脳裏に浮かび上がる、生きたまま怪物に喰われる自分たちの姿。

 

――逃げなければ!

 

そうして逃げようとした、その時だった。

 

「――きゃっ!」

 

「真姫ちゃん!?」

 

「あ、足が……!」

 

真姫は動かない。――いや、動けなかった。

足下に視線を移すと、そこには先ほどガロに切断されたゲメルスの腕が真姫の足首を掴み、逃げられないようにしていたのだ。

すぐさま腕を足から離そうとするが、あまりの力の強さにビクともしない。

 

「離れて! 真姫ちゃんから離れ――!」

 

ゲメルスの腕を真姫の足から離そうと四苦八苦する希の言葉が不意に途切れる。その理由は彼女の視線の先にあった。

その腕の持ち主――ゲメルスが、彼女たちの目と鼻の先まで迫っていたのだ。

希たちに向かって飛びかかるゲメルス。牙狼剣を捉えていた下半身を斬り払い、彼女たちを守らんと駆け出すガロ。

しかしその間の距離は空いてしまっており、間に合うのは不可能に近かった。

 

飛び跳ね、頭から飛び込むように希と足を拘束された真姫目掛けて襲い掛かるゲメルス。

その頭頂部が円形の口に変化し、びっしりと並ぶ牙が覗く。

自分たちに降りかかる“死”に希の、真姫の顔が絶望に染まっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――おまじないを教えてあげるよ。

 

――おまじない?

 

――ええ。怖いものから大切なものを守れるおまじない。

 

 

 

不意に、そして唐突に希の脳裏に浮かび上がった。昔の誕生日の思い出。

その日にお守りと一緒に両親から教えてもらった、おまじない。

気づいた時には、希は真姫の前に――ゲメルスから庇うように立っていた。

まるで白昼夢でも見ているかのようにぼんやりとした表情を浮かべる希に、真姫は呆然と呟いた。

 

「のぞ み?」

 

聞こえていないのか、その呟きに希は応えない。

希は無意識に手提げカバンから毛筆――お守りを取り出した。

その筆先をゲメルスに突き出すように向けると淡く光り始め、すうっと円を描くように動かしていく。

するとその軌跡に三日月のような光の陣が現れ、希はその陣を今一度、お守りの筆先で突き出した。

次の瞬間――

 

 

『ギギイッ!?』

 

希の前に光の防壁が現れ、襲い掛かるゲメルスの身体を弾いたのだ。

体勢を立て直し、防壁を破ろうと何度爪を振るうゲメルスだが、淡い紫色の輝きを放つその防壁はビクともしない。

そしてそれは――時間を稼ぐには十分すぎた。

 

『ウオォォォォォッ!』

 

『ギガガガッ!』

 

ゲメルスの下まで到達したガロがその上半身のみの身体を鷲掴み、渾身の力を籠めて地面に叩きつけた。

仰向けに倒れ、起き上がろうとするゲメルス。だがそれは既に遅く、その赤い瞳に最後に映ったのはゲメルスの核目掛けて真っ直ぐに振り下ろされる、牙狼剣の剣先だった。

 

『■■■■■―――――!!』

 

核を貫かれ、おぞましい断末魔を上げながら消滅していくゲメルス。

本体たる核が消滅したことでガロに駆け出そうとしていた下半身も、真姫の足を拘束していた腕も、霧散するように消滅していった。

そうしてその場に、夜の静寂が戻ったのだった。

 

 

深く息を吐き、呆然とする真姫に振り返るガロ。

その鎧が一際強く輝くと宙に溶けるように消えていき、こちらを見つめる彩牙の姿が露になる。

聞きたいことはあった。あの怪物は、黄金の鎧は何なのか。

だが真姫の意識はそれらよりも、今自分の隣にいる希に向けられていた。

 

 

「…………あ、あれ?ウチ、今何を……」

 

ガロの鎧が解除されると同時に我に返る希。

今、無意識のうちに自分が行っていたことに戸惑いを隠せず、困惑した表情で手にしているお守りを、そして自分自身を見つめていた。そこにはいつもの余裕のある様子や皆を見守る姉のような雰囲気は、ない。

普通の人間とは全く違う、希の行動。疑問に満ちた表情で彩牙と真姫が見つめる中、驚きに満ちたある言葉が響き渡る。

 

『こいつは驚いた……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お嬢ちゃん、魔戒法師だったのか』

 

「まかい……ほうし……?」

 

ザルバの言葉を呆然と反芻する希。

その場に吹く潮風が希の持つお守り――魔導筆の筆先をざわざわと揺らした。

 

 

 

***

 

 

 

希「自分に眠っていた未知なる力」

 

希「それに気づいた時、人は新たな一歩を進もうとする」

 

希「でも中には、余計に閉じこもっちゃう人もおるんよ……」

 

 

希「次回、『法師』」

 

 

 

希「ウチの場合? それはね……」

 

 

 

 







本日の魔戒指南は休業になります




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第10話  法師



・・・・すいません。大変お待たせしました。

2か月って・・・・・遅いにも程があるでしょう、自分・・・・
筆がまったく思うように進まず、ここまでかかってしまいました。お待たせして申し訳ありませんでしたが、それではどうぞ。





 

 

 

 

 

――それは、数日前の出来事だった。

 

月が雲に隠れた暗い暗い夜。とある海岸の砂浜に、一組の若い男女がいた。

服を脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿となった男女が絡み合うように重なっていた。

 

「ねえ……ホントにこんな所でするの?」

 

「平気平気。ここならちょうど岩陰になって道路からは見えないし、この辺りは金持ちの別荘があって地元のやつらは殆ど近づかないからさ」

 

彼らはカップルだった。

地元の人間である男と他所から来た女のカップルで、今まさに所謂男女の営みを始めようとしていたところだった。

男の言う通り、彼らのいる場所はビーチの端にある岩陰に隠れた所であり、月が雲に隠れていることも相まって通りがかりの人間がいたとしても見つかる心配はほとんどない場所にあった。

 

「それにそんなこと言ってるけど、本当はまんざらでもないんだろ?」

 

「やん♡」

 

さわり、と女の肢体を撫でる男。色っぽい声で反応したことが示すように、女もまた普段のベッドの上とは違う、大自然の中で営みをすることに言い知れぬ解放感と興奮を抱いていたのだ。

そうして彼らは一層深く絡み合い、唇を重ね、舐め、弄り合い、熱の籠った吐息と共に興奮をより高めていく。

そしてその営みは、遂に佳境を迎えようとしていた。

 

「さあ……いくよ」

 

「ん……」

 

男が女の股を大きく開き、その間に身体を埋めていく。

女は瞳を閉じ、指を色っぽく軽く咥えながらそれを受け入れていく。

受け入れて――

 

 

 

 

 

「………? ちょっと?」

 

――おかしい。

いつまで経っても、あの営み独特の身体が貫かれる感覚がやってこない。

予期せぬおあずけを喰らった女は不思議に思い、目を開け、男の方に視線を向けると――

 

 

 

 

 

 

「――――え」

 

男がいた。身体を伸ばした男が。

男がいた。一言も言葉を発しない男が。

男がいた。地面から足を浮かせている男が。

男がいた。

 

 

 

 

 

――巨大な口のようなモノに、上半身がすっぽり覆われた男が。

 

「~~~~!! ~~!!」

 

「あ……ぁ……」

 

呆然と目を見開いて見上げる女の前で、息ができずに苦しいのか露になっている下半身を使ってばたばたともがく男。

だがそれも束の間で、チュルンと吸い上げるように男の身体はその口の中へと消えていった。

そして男を飲み込んだ口――先端が口になったタコの足のようなソレが、残された女に向かってニィ――と笑うように口を吊り上げた。

 

「……ぃ、イヤアアアアアアアアアッ!!」

 

悲鳴をあげ、恐怖で抜けてしまった腰を引き摺りながら這うように逃げ出す女。

涙と砂で汚れ、肌が擦れても気にせず逃げた。気にする余裕などなかった。

殺される、喰われる――!女の中にあったのは、恐怖のみであった。

そして――

 

 

――ガシッ

 

「え?」

 

突然止まった身体、足に何かしがみついたような感覚。

恐る恐る、女が振り返ってみると――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――先端が人の手になったタコの足のようなものが、自分の足首をがっしり掴んでいた。

それに気づくと同時に、“手”が女の身体を引き摺り始めた。

“手”が現れた、海に向かって。

 

「嫌ぁぁぁぁぁぁっ!! 誰かっ、誰か助けてぇっ!!」

 

引き摺られていく中助けを求めるが、その助けが耳に入る者は誰もいない、どこにもいない。

何かに掴まろうと腕を伸ばすが、周りにあるのは砂ばかりで何も掴めない。

“手”を振り払おうと足をばたつかせるが、ビクともしない。それどころかもう一本現れた“手”がもう片足を掴み、彼女は完全に抵抗できなくなった。

そしてとうとう、女の身体が海の中に浸かりはじめた。

 

「ガボッ、たっ、たすけっ、たすガボッ」

 

打ち寄せる波が、海水が。女から言葉を、空気を、意識を奪っていく。

そうして碌な抵抗もできないまま、突如現れた“手”によって女は夜の海の中へ完全に引き摺りこまれていった。

 

それと同時に、雲に隠れていた月が顔を覗かせる。

 

 

 

 

 

 

 

月に照らされた海の中に、うっすらと赤い靄のようなものが浮かんだ。

 

 

 

これは、数日前の出来事。

 

 

 

**

 

 

 

「花火したいにゃ!」

 

「駄目です。昼間あんなに遊んだのですから練習です!」

 

――真姫の家の別荘・リビング。

その中でテーブルを挟み、意見を対立している海未と凛の姿があった。

 

きっかけは、夕食を終えてこれからどうしようかという話題になった時だった。

元気が有り余り、まだまだ遊び足りない凛が花火をしようと言い出したのだがそれに海未が待ったをかけ、練習した方がいいと言い出したのだ。

 

凛にしてみれば単純に遊びたいと思っていることに加え、折角の海での合宿なのだからみんなで花火をしたいと思ったからだ。

そして対する海未としては、本来練習をするために合宿に来たのだから、昼間遊んだ分をここで取り戻して実のある練習をしたいと思っていたのだ。

 

とは言っても他のメンバー全員が彼女たちに同意しているわけでもなく、夜が更けた今からの練習に乗り気でない者、花陽のようにお風呂に入りたいと思っている者など、微妙に考えが食い違っていた。

……ちなみに穂乃果はというと夕食を食べ終えた直後に傍にあったソファーに寝転がり、「ゆきほー、おちゃー」と妹の名を呼びながらしつこくお茶を催促するという、起きているのか寝ぼけているのかよくわからない状態であったが傍に置いておこう。

 

そんな中で、希はただ茫然と彩牙の姿を眺めていた。

他のメンバーたちと同じようにテーブルを囲んでいた彼は、意見を言い合う海未と凛を穏やかな表情で見守っていた。

そんな彼を見つめ、心あらずというような希の姿が目に入った絵里が、不思議そうに尋ねた。

 

「希、ぼーっとしてどうかしたの?」

 

「あっ……ううん、それじゃあ今日はもう寝て、練習は明日の早朝、花火は明日の夜ってことにせえへん?」

 

絵里の言葉で我に返った希がそう提案した。

 

「そっか……花火ができれば凛はそれでもいいにゃ」

 

「確かに、練習もその方が身が入るかもしれませんね」

 

希の提案に言い合いを止め、凛と海未が賛同した。

なんだかんだで誰もが疲れているこの状況で、希の提案が一番理に適っていると気づいたのだ。言い合いを止めた二人にほっと胸を撫で下ろす一同。

 

「彩牙くんもそう思わへん?」

 

「……そうだな。夜の外は危ないからな」

 

彩牙に話を振る希。

そんな彼女の姿を唯一、真姫は怪訝な表情を浮かべて見つめていた。

 

 

 

**

 

 

 

「彩牙くーん、お風呂空いたよー」

 

幾分か時間が経ち、彩牙の部屋をトントンと叩く人物がいた。

それは希だった。風呂上がりで身体から湯気を昇らせ、肌をほんのりと紅く染めたその姿は、豊かに発達した身体も相まって無自覚な色気を出していた。

先に風呂に入っていたμ’sのメンバーが全員上がったので、この場で唯一の男性ということであしらわれた彩牙の部屋をノックしていたが、部屋の中から返事はない。

 

「……入るよー?」

 

断りを入れ、恐る恐るとドアを開ける希。

灯りのない薄暗い部屋の中を見回すと、確かに彩牙はそこにいた。

――あのボロボロの白いコートを身に纏い、こちらに背を向け、左手に嵌めた髑髏の指輪に話しかけるように向き合っている彩牙が、そこにはいた。

 

「ザルバ、反応はあったか?」

 

『いいや、まだだ。やっこさん、話にあった通りに時間にならないと現れないようだな』

 

指輪――ザルバに話しかける彩牙の表情は夕食の時のそれとは一変した、差すような鋭い表情を浮かべていた。

それは買い出し帰りに襲い掛かってきた怪物――ホラーと戦っていた時と同じものだった。

彩牙の時折覗かせる鋭い表情に――それまで疑問を抱いていたそれの意味を今一度思い出し、思わずたじろぐ希。

そんな彼女を、ザルバは見逃さなかった。

 

『おい小僧、どうやらお客さんのようだぞ』

 

「ん……ああ、東條さんか。そうか、お風呂空いたんだな」

 

希の存在に気づいたザルバの言葉により、振り向く彩牙。

その顔には夕食の時と同じような穏やかな表情を再び浮かべていたが、希にはどうしてもついさっきの表情が頭から離れることができなかった。

 

「……彩牙くん、もう一度教えて」

 

「……」

 

「彩牙くんのこと、あのホラーって怪物のこと。……そして、ウチのことを」

 

希は知りたかった。

黄金の狼となった彩牙のこと、彼が戦ったホラーのこと。そして、不思議な術を行使した自分自身のことを。

昔から不思議なことには縁があった。占いの類はほぼ確実に当たっていたし、幽霊や神さまなど本来見えてはいけないモノが見えていたし、時折神田明神で見かける白い狸もその類のものだと思っていた。

だけどそれが――あんな怪物に抗える力に繋がっているとは思いもしなかった。

 

それにホラーそのものもだ。

たしかに悪霊など人に害をもたらすモノはいたが、それはあくまで霊的なものだ。

それがあんな、確かな肉体としてそこにあり、人を喰らわんと襲い掛かる怪物がこの世にいるなど、夢にも思わなかった。

 

 

『……さっきも言ったが奴らはホラー。人の陰我に誘われて人に憑依し、人を喰らう魔界のバケモノだ』

 

「ザルバ」

 

『この嬢ちゃんには全く無関係というわけにはいかんだろう』

 

答えあぐねていた彩牙に代わり、答えたのはザルバだった。

勝手に答えたザルバに非難めいた視線を向ける彩牙だが、正論とも言える言葉を返され押し黙った。

そうして、ザルバは続けて口を開いていく。

 

『そしてホラーを狩るのが魔戒騎士だ。さっき森での戦いで見ただろう?あれがこの小僧がいつの間にか受け継いでいた黄金騎士ガロだ』

 

「ガロ……」

 

オウム返しのように呟く希。

彼女は今、森で目にした金色の鎧――ガロの姿を思い出していた。

 

『そして嬢ちゃん、お前さんにもホラーと戦う者の血が流れている』

 

「ウチにも……?」

 

『ああ。魔戒法師、嬢ちゃんにはその血が流れている』

 

たしかにあの時、戦いが終わった直後にもザルバはそう言っていた。

魔戒騎士というのは大体わかった。戦っている時の彩牙の姿や佇まいはまさに騎士と呼べるものだったからだ。

では魔戒法師というのは?騎士に対して法師とはいったいどのような存在なのだろうか?

そんな希の疑問に答えるように、ザルバは口を開いた。

 

『魔戒法師ってのは俺様のような魔導具を作ったり、法力による術で騎士をサポートする存在なのさ。ま、中には騎士顔負けに腕の立つ奴もいるが』

 

「それが……ウチのこと?」

 

『ああ。嬢ちゃんの持ってる筆、そいつが魔導筆だ。法師はその筆を使って様々な術を操るんだが……その魔導筆、どこで手に入れた?』

 

「……小さい頃、お父さんとお母さんに貰ったんよ」

 

『なるほどな、お前さんの両親は魔戒法師だったんだろう。なんだってホラーのことを教えなかったのかは知らんがな』

 

ザルバの言葉を浴びながら、希はお守り――魔導筆を見つめた。

両親は何を想い、自分にこれを授けたのかわからなかった。もしやこの時を予期していたとでも言うのだろうか。

ホラーと戦うために――

 

――あれ?

 

そこまで考えた時、希はふとあることに気づいた。

――魔戒騎士としてホラーを狩る彩牙。

そんな彼がこの地に現れ、ホラーを倒したはずなのにいまだ警戒を解いているようには見えない。

つまり、それが意味することは――

 

「……もしかして、まだおるの?ホラーが……」

 

「ああ」

 

希の問いに、彩牙は静かに答えた。

彼の浮かべる鋭い表情が、それが真実であることを雄弁に物語っていた。

 

「俺がここに来たのはあるホラーを倒すためだ。さっき戦ったのははぐれホラーに過ぎない」

 

『強力な奴だ。ここの管轄の騎士を返り討ちにしたという話でな、後任が決まるまでに小僧が討滅するというわけだ』

 

「そんな……!」

 

それを聞いた希は背筋が凍るのを感じた。

つまりあんな恐ろしい怪物が、それもより強力な奴がまだこの近くにうろついているということだ。

それに下手をすれば自分たちμ’sにも牙を剥くという可能性も捨てきれない。

 

 

「そ、それじゃあウチもお手伝いするよ!」

 

「……」

 

そうは言うものの、怖い。

本当は怖くて怖くて仕方がない。普通の女の子として暮らしてきた自分が、あんな恐ろしい怪物と戦わなければならないのだから。

だけどやらなくてはいけない。自分にその魔戒法師の血が流れ、力を持っているというのなら自分が戦わなくてはならない。

そんな集燥に駆られた希をじっと見つめ、彩牙は言った。

 

 

 

「ダメだ」

 

「――! どうして……!?」

 

切り捨てるかのような彩牙の言葉に、思わず食ってかかる希。

何故駄目なのか。自分は魔戒法師で、ホラーと戦う力があるのではないのか?戦わなければならないのではないか?

そんな希の疑問に答えるように、刺すような視線を浮かべたまま彩牙は口を開いた。

 

「東條さん、俺たち魔戒騎士の……ホラーとの戦いは過酷だ。今まで普通の人間として生きてきた君が生きていけるような場所じゃない」

 

「で、でも!ウチは……!」

 

「それに」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「“やらなきゃいけない”で通るような世界じゃない」

 

「――っ!」

 

希は、言葉を失った。

見透かされていた。自分がただの義務感で戦おうとしていたことを。

力があるから。それだけの理由で恐怖を無理やり押し殺していたことを。

最早何を言ったところで、彩牙は希が戦うことに賛成はしないだろう。

彼女の言葉は、本心ではなかったのだから。

 

「……大丈夫だ、ここのホラーは俺が必ず始末をつける」

 

『それにここの別荘にホラー避けの結界を張っておいた。お前さんたちはただ静かに朝を待てばいい』

 

「……うん、そっか。ごめんね、変なこと言って」

 

諭すような彩牙とザルバの言葉に、希はただ頷くことしかできなかった。

その顔に、無理矢理作ったようなぎこちない笑顔を貼り付けて。

 

 

 

 

 

 

「……」

 

パタン、とドアを閉め、彩牙の部屋を後にした希。その表情は晴れない。

今、この部屋の向こうでは彩牙とザルバがこれから戦うホラーについての対策を練っているのだろう。しかし自分がその中に加わることはない、その資格がない。

戦うのが怖いのに、力を持っているという義務感で戦おうとした。だから彩牙は戦わせようとしなかった。

そう、これは仕方ないことなのだ。無理をしてまで戦うことにならなくて良かったのだ。

――良かった、はずなのに――

 

――なんでウチ、こんなに悲しいんだろ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――こんなところにいたのね」

 

背後からかけられた、やや強気の声。

振り返るとそこにいたのはすらっとした赤毛の少女――真姫だった。

 

「あら、真姫ちゃんやん。んーとね、彩牙くんにお風呂空いたよって声かけてたんよ。でも彩牙くんまだやることがある言うてなー……」

 

朗らかな笑顔を見せる希。

だが真姫は睨みつけるとまでは言わなくとも、もの言いたげな目で希を見つめていた。

そして、ぽつりと呟いた。

 

 

 

 

「……戦う必要なんて、ないじゃない」

 

その一言は、希の笑顔を凍らせるには十分だった。

しかしそれも一瞬で、希はすぐに新しい笑顔を顔に“貼りつけた”。

 

「……もー、真姫ちゃん盗み聞きしてたん?ダメよ、女の子がそんなこと――」

 

「そうよ。あなたも私たちも、普通の女の子なのよ」

 

遮るように放たれた真姫の言葉で、希は気づいた。

真姫の表情が、憤っているような哀しんでいるような、そんな目で希を見つめていたことに。

そんな希を前に、真姫は吐き出していく。

自分の思いを、昂っていく感情に任せたまま。

 

「あの人と私たちじゃ住む世界が決定的に違うのよ。そんな世界に足を踏み入れる必要がどこにあるって言うのよ」

 

「あんな恐ろしい怪物と戦う?……冗談じゃないわよ! あれは……あなたや私たちが踏み込んでいいようなところじゃないのよ!」

 

吐き出していくうちに表情は険しくなり、語気も荒くなっていく真姫。

彼女には、彩牙とホラーの戦いには恐怖しか映らなかった。あのような恐ろしい非日常があるものなのかと、あんなのは自分たちが踏み込んでいい世界ではないと、そう思った。

だから希が彩牙の部屋に入っていき、行儀が悪くとも聞き耳を立てた時、彼女は希の正気を疑った。

 

希は自分も戦うと言い出したのだ。それも単なる義務感でだ。

だから真姫は、希が許せなかった。

どんな理由であっても自ら死地に向かおうとする彼女のことが――

 

 

 

――大事な“ともだち”が、危険な目に遭おうとすることがすることが許せなかった。

 

 

「……真姫ちゃん……」

 

そんな真姫の叫びを、希はただ黙って聞いていた。

自分のことを想ってくれているからこそ怒りを顕わにしているのであろう彼女を、希は困ったような――憂いを帯びた表情で見つめる。

そうして僅かな時、俯くような仕草を見せると――

 

「……そんな心配せんでも大丈夫! 彩牙くんにも釘を刺されたし、ウチがあんなおっかないお化けと戦うなんてことはありえへんよ」

 

――いつもと変わらないような、朗らかな笑顔を浮かべた。

 

「あ、あなたね!私は真面目に――」

 

「ほら、いつまでも終わった話せえへんで早くみんなのとこいこ」

 

「ちょ、ちょっと待ってよ!」

 

はぐらかされているような気がしてならない真姫は思わず食ってかかるが、希はそれを軽くあしらうようにして他のメンバーが待つリビングへと向かって行く。

いつもの希。お姉さんっぽくふるまう一方で時に無邪気にからかう希と、それに照れ隠すように振り回される真姫。

いつもの日常と変わらない光景がそこにあるはずだった。

 

だが真姫は、慌てて追いかけていく希の背中に、一抹の不安を感じずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「……」

 

そしてその後、彼女たちと入れ違いになるように部屋から出てきた彩牙。

白いコートを纏い、これから起こりうる戦いに臨もうとする彼は辺りを見渡し、誰にも気づかれないようにと玄関に向かって足を向け始めた。

 

 

「……ホラーと戦いに行くのですか?」

 

しかし、その背中を呼び止める声があった。

彩牙が振り向いた先には寝間着を纏った海未が立っていた。その表情は心配そうに見つめているようにみられた。

そんな彼女と彩牙は改めて向き合った。

 

「……どうしてわかったんだ?」

 

「わざわざこんな遠くにまで来た時から……いえ、昨日お父様とお母様にお話しした時からもしやと思ったんです」

 

昨夜の夕食の時から、そして今日駅で彩牙と遭遇してから海未はずっとその懸念を抱いていた。

そしてそれは今、白いコートを纏った彩牙を――魔戒騎士としての使命に臨もうとするその表情を見て確信に変わったのだ。

彩牙はそんな彼女を、驚きを見せつつも穏やかな表情で見つめた。できるだけ安心させるかのように。

 

「海未、みんなが不安にならないようにできるだけいつも通りでいてくれ」

 

「……わかりました。彩牙くんもお気をつけて」

 

「ああ、ありがとう」

 

そう告げて、再び玄関へと歩いていく彩牙。

少しずつ遠ざかっていくその背中をじっと見つめていた海未は、少し悩むようなそぶりを見せた後、意を決したように再び口を開いた。

 

 

 

「――希や真姫と、何かあったのですか?」

 

「……」

 

夕食の時、一見普段と変わらないように見えたが、時折神妙な表情で彩牙のことを見つめていた希と真姫。

気のせいなのかもしれないが、買い出しから戻ってからどことなく様子がおかしいように見えた彼女たちのことが気になったのだ。

 

対して彩牙はその問いに一度足を止めたが、振り向くことも答えることもなく、再び歩き出していった。

その背中を、海未は哀しげな視線でじっと見つめていた。

 

 

 

**

 

 

 

――夜、別荘前のビーチ。

夜空の殆どが雲に覆われ、月が隠れて夜の闇に包まれたビーチの中に、彩牙の姿はあった。

白いコートを纏い、悠然と佇む彼は、静かにビーチの先に広がる海を見つめていた。

陽光煌く昼とは違い、真っ暗な夜の海。月の光がないこともあってそれはどんな光も呑み込もうとする深い闇のように感じられた。

 

そんな海を見つめる彩牙の目は途轍もなく鋭かった。

それもそのはず。この闇のような海の底には何人もの人々を喰らい続ける魔獣が潜んでいるのだから。人々の命を貪り、奪い続ける魔獣が彼の守りたい人々の目と鼻の先に潜んでいる。そう思うだけで彩牙の中に魔獣に対する怒りが湧き上がってくる。

 

その魔獣を討滅すべく、ビーチの中でじっと佇む彩牙。

波の音だけが辺りに響く中、それ以外の音――いや、声が辺りに響いた。

 

『しかしあの希って嬢ちゃんには驚かされたぜ。まさか自分から戦うなんて言い出すなんてな』

 

「……そうだな。東條さんが魔戒法師だったなんて夢にも思わなかった」

 

ザルバの言葉に彩牙は思いを馳せる。

東條希。彼女が魔戒法師の血を引いていたことは彼らにとってあまりにも想定外のことであり、驚愕に満ちた出来事だった。

法師の力を持っていたにもかかわらず、守るべき一般人として生きていたばかりか彼女自身もその事実にまったく気づかなかったのだから。彩牙やザルバが驚くのも無理はなく、それを表情に出さないようにするので精一杯だった。

 

だがそれで納得がいった。

以前神田明神で霊獣の姿を見かけた時、いくらあの地が優れた霊力に満ちていたとはいえ普通の人間であるはずの希にもその姿が見えていたのはそれが理由だったのだ。

彼女の中に流れる法力が、霊獣の姿を見ることを可能にしていたのだ。

 

『しかしああは言ったが、本当に良かったのか?』

 

「何がだ?」

 

『あの嬢ちゃんに流れる法力は相当強力なやつだ。俺様も永いこと生きてきたがあそこまで強力な法力を持つ人間ってのはそうそうお目に掛かれるもんじゃない』

 

『いくら戦いにはずぶの素人とはいえ、折角自分から言い出したんだから手伝ってもらった方が楽になっただろうな』

 

……なるほど、ザルバの言うこともある意味間違ってはいないのだろう。

例え戦う術をほとんど持っていなくても強力な力を有しているのだから、彼女を上手く利用すればホラーを楽に倒すことができるのだろう。

しかしそれは――

 

「それは違う、ザルバ」

 

『ほう?』

 

「それは、魔戒騎士のすることじゃない」

 

それは魔戒騎士が――ホラーから人々を守る者がしていいことではない。

いかに戦う力があろうと、優れた力を有していようと、それまで普通の人間として生きてきた者を無理矢理戦わせるなど、あってはならないことだ。

本心ではないのに“仕方ないから”という者を戦わせようとするなど、もっての外だ。それで多くのホラーを倒せるようになるとしても魔戒騎士がしていいことではない。

如何に有力であろうとそんなことをしては、彼らが狩るホラーを何ら変わりないではないか。

 

 

『……ふん、わかってるじゃないか』

 

否定されたというのに、満足気なザルバの声。その反応で彩牙は察した。

――ザルバは、彩牙を試したのだ。

目先の力に囚われて、守るべき人を危険に晒そうとしないかを。本心でない希を、無理に戦わせようとする愚行を犯さないかを。

 

「ザルバ、もし俺が東條さんを戦わせる気だったらどうしたんだ?」

 

『二度とお前とは口を利かないつもりだった』

 

手厳しいが、そうでなければ魔戒騎士は務まらないのだろう。

ザルバの容赦ない言葉を受けながら、彩牙は目の前に広がる海を見つめる。

そこはどこまでも暗く、波の音だけが静かに響いていた。ここに魔獣が潜んでいるなど誰が想像できるだろうか。

だが油断してはならない。奴らの時間はまだたっぷりと残っている。

夜は、長い。

 

 

 

**

 

 

 

一方、そのころのμ’sは――

 

「ん~っ! 穂乃果ちゃん重いよぉ~」

 

「にこっちは軽いなー」

 

別荘のリビングに敷き詰められた、九つの布団。

そこは至る所に枕が散らかり、メンバーの半数が沈むように寝ているという嵐が過ぎ去った後のような惨状になっていた。

そんな中で無事な――単に起きているだけだが――希、ことり、真姫、花陽、凛が撃沈しているメンバーたちを引っ張るように元の場所へと戻していた。

 

そもそもの事の発端は希が投げた枕だった。真姫のふりをして投げた枕を始まりとして合宿の風物詩たる枕投げ合戦が行われたのだ。

自分以外の全てが敵ともいえる大乱戦。ヒートアップしていく中でその悲劇は起きた。

今となっては誰が投げた物かわからないが、唯一熟睡していた海未の顔面に枕が直撃したのだ。

 

穂乃果とことり曰く、無理矢理起こされると普段からは想像もつかない程機嫌が悪くなる海未。寝起きということも相まって幽鬼のようにそびえ立つ彼女に全員が慄く中、最初に犠牲になったのはにこだった。

音速と見間違えるほどの豪速球で海未が放った枕。それは彼女を眠らせようと抵抗しようとした穂乃果と絵里を立て続けに襲い、その意識を刈り取っていった。

 

最早どうにもならないと思われたその時、隙を狙った希と真姫が投げた枕によってようやく海未が撃沈し、平和が訪れた。

そうして後始末をしている今に繋がる……というわけだった。

 

うんしょうんしょと穂乃果を引っ張ることりと、小柄なにこを軽く引っ張っていく希。

そんな彼女たち――特に希を、凛と一緒に絵里を引っ張っていた真姫はじっと見つめていた。

希は、完全に普段通りの彼女と言ってよい状態だった。

つまみ食いしていた穂乃果に驚いたり、枕投げを始めたり、希たち上級生を名前で呼べずに素直になりきれなかった真姫を諭したりと、悪戯好きな側面もあるけど優しく見守るみんなのお姉さん、いつもの東條希の姿がそこにはあった。

 

しかしそれでも……いや、だからこそだろうか。

真姫はそんな希の姿に不安を抱かずにはいられなかった。

何かを心の内に隠しているような、無理にいつも通りに振る舞おうとしているような……そんな気がしてならなかった。

 

「真姫ちゃん、どうかしたの?」

 

「あ……ううん、何でもないわ」

 

不思議そうに尋ねる凛に、慌てて取り繕う真姫。

彼女は、己の中に生じた懸念が外れてほしいと願うばかりであった。

 

 

 

 

 

 

「それにしても海未ちゃんぐっすりやねぇ、さっきまで暴れてたのが嘘みたいやん」

 

「あはは……寝起きは悪いけど一度寝ちゃうとなかなか起きないから……」

 

穂乃果とにこを運び終え、先程まで修羅のごとく暴れ回っていた海未を二人がかりで慎重に慎重に運んでいく希とことり。

ついさっきまで暴れ回っていたのが嘘のように海未の寝顔は穏やかなものだった。希はそんな色んな一面を見せる彼女が微笑ましいと思うと同時に、不思議に思うところがあった。

 

海未の様子はあまりにも穏やかだった。寝ぼけて暴れていたところはあったが、穂乃果やことり曰くそれは彼女の素なのだ。

海未が彩牙のことを――魔戒騎士であることを知っているのかどうかは希にはわからない。いや、以前都市伝説の話をした時の反応を思い出す限り、知っているのかもしれない。

もし、仮に知っているとしたら――

 

「希ちゃん、どうかしたの?」

 

「……ねぇことりちゃん、海未ちゃんはどうしてこんなに落ち着いていられるんやろね」

 

「……どういうこと?」

 

「海未ちゃんは彩牙くんと一緒に住んでるんやったよね、でも彩牙くんはさっきから顔見せなくなってるのに心配じゃないのかなって」

 

彩牙は今、さっき話していたホラーを討滅しに行っているのだろう。つい先程の枕投げ合戦の騒ぎにも顔を出さなかったのだからそれは間違いない。

もし海未がホラーのことを知っているとしたら、彩牙がホラーと戦いに行っていることを知っているとしたら、どうしてここまで落ち着いていられるのだろうか。希はそれが気がかりだった。

そんな希の言葉を受け、ことりは考えるようなそぶりを見せた後、答えた。

 

「……海未ちゃんはね、本当はすっごく心配なんだと思うよ。彩牙くんって落ち着いているように見えてとっても無茶する人だから」

 

「……」

 

「でもね、それ以上に信頼してると思うんだ」

 

「信頼?」

 

「うん。どんなことがあっても彩牙くんは絶対に帰って来るって、約束を守る人だって信じてるんだと思うな」

 

そう語ることりの表情はとても穏やかなものだった。

海未を優しく見守るようなその表情からは、彼女自身も彩牙のことを信じているように感じられた。少し前までは彩牙の話題で怯えているように見えた彼女が、だ。

 

「ことりちゃんも信じてるんやね、彩牙くんのこと」

 

希のその言葉に呆気にとられたような表情を見せることり。

だがそれも一瞬のことで、再び穏やかな……はにかむような笑みを浮かべた。

 

「……そうかもね。私ね、前に彩牙くんに怒られたことがあるんだ」

 

「彩牙くんが?」

 

「うん、前にちょっと怖いことがあってね、本当にやりたいことから逃げようとしたことがあるんだ」

 

 

「その時に言われたんだ、『それくらいで諦めちゃう程度のものなのか』って」

 

ことりの脳裏に浮かぶのは、秋葉原での路上ライブを控え、ホラーに狙われた時のこと。

あの時、ことりは本当にやりたいこと――μ’sのライブを諦めようとした。やりたいと思う心を偽って、それが最善なんだと自らに言い聞かせながら。

だけど彩牙は言った。本当にやりたいこととはその程度なのかと。

――そんなことはない、本当は諦めたくなかった、歌いたかった。

 

その思いを吐露した時、彩牙は約束した。

ことりを狙うホラーを斬る。だからことりも自分の本当にやりたいことに嘘をつくな、偽るなと。

それを受け、ことりは歌った。μ’s全員で歌った。

そして彩牙も約束を守った。あのホラーを討滅した。

 

「あの時、彩牙くんは約束を守ってくれた。だから私も、本当にやりたいことには嘘をつかないって決めたの」

 

「……本当にやりたいこと……」

 

きらきらと輝くことりの顔を見ながら、希は考える。

自分のやりたいこと――自分が今、本当にやりたいことは何なのかと。

恐怖に従ってホラーから逃げること?忘れること?何も知らず、目を逸らし、ただみんなと穏やかな日々を送ること?

――本当に、そうなのだろうか。それらは本当に自分がしたいことなのだろうか。

 

 

 

――ウチが本当にやりたいこと、それは……

 

 

 

**

 

 

 

「――! ザルバ」

 

『ああ、来たぞ』

 

時間は過ぎ、午前三時を回ったころ。

誰もいないビーチで一人瞑想を続けていた彩牙が突然何かを感じ取ったかのように立ち上がり、目の前に広がる海を見据える。

魔戒剣を抜き、待ち構える中、それまで静かな波が立っていた海が大きく盛り上がっていく。彩牙の身の丈を優に超え、別荘程の丈があるそれは海を裂き、遂にその姿を現した。

 

それは、巨大な蛸のような姿をしていた。

しかし蛸で言う頭の部分は鎧のように鈍く光る外骨格に覆われ、その中央には巨大な人面が彫刻のように無機質な表情を浮かべて存在していた。

頭から伸びる足――触手は意志を持つかのようにうねうねと動き、その先端は口になっているものや人の手になっているものが入り混じっていた。

――これこそがこの海に潜み、多くの人々を、ここの管轄の騎士さえも喰らってきたホラー。

 

「ザルバ、こいつか!」

 

『ああ!ホラー・ダンタルカス。こいつで間違いない!』

 

『■■■■―――――!!』

 

ホラー・ダンタルカスは轟音といっても過言ではない雄叫びを上げ、その巨体を躍らせて陸地に上陸する。

それと同時に周囲で蠢いていた触手が一斉に彩牙に襲い掛かる。

 

喰らいつかんと、押し潰さんとばかりに怒涛の勢いで襲い掛かる触手の間を縫うように、駆け抜けていく彩牙。触手そのものが巨体である上に数も多いため一本一本相手にしてはキリがなかったのだ。

そうして彩牙を狙い、躱されて砂浜に突き刺さっていく触手の間を走り抜け、ダンタルカス本体との距離を徐々に縮めていく彩牙。

 

そんな中、一本の触手が彩牙目がけて襲い掛かった。

先端の手を貫手のように伸ばし、彩牙の身体を貫かんと迫る触手。それを前にした彩牙は避けるそぶりを見せず、そして――

 

「――ハッ!!」

 

魔戒剣で先端の指を斬り裂いた。斬り落とされた指がボトボトと落ち、勢いを失った触手は波を打つように悶える。

それと同時に跳び上がった彩牙は今しがた斬り裂いた触手の上に着地し、それを一本の道として駆け抜けていく。

最短距離で本体との距離を詰め、目と鼻の先になった時に再び跳び上がり、ダンタルカス本体目掛けて魔戒剣を振り下ろした。

しかし――

 

「ちっ……!」

 

――硬い。

鎧のような外骨格に覆われている外見から予想はできていた。

しかしそれでもあまりにも、予想以上に硬すぎた。渾身の力を籠めて振り下ろした魔戒剣ですらも乾いた音で難なく受け止められ、ビリビリとした衝撃が魔戒剣を通じて彩牙に伝わっていく。

そして一瞬とはいえ、そんな隙だらけの様子を見せた彩牙を、ホラーが黙って見逃すはずなかった。

 

「ぐおっ!」

 

横殴りに振るわれた触手。それは彩牙の胴体を的確に捉え、その身体を砂浜へと叩き落した。

砂埃が上がる中、完全に上陸したダンタルカスは“餌”の匂いに誘われ、這うようにその巨体を躍らせて進んでいき、砂浜の先に見える家屋――海未たちμ’sが眠る別荘を目指していく。

そうしてビーチの中間辺りに到達した瞬間だった。

 

『■■■―――――!?』

 

バチリ!という音と共に響くダンタルカスの悲鳴。

音の出所に視線を移すとそこには、焦げたように煙が立ち昇るダンタルカスの触手と、その近くでパチパチと音を立てる不可視の壁――結界があった。

 

「……効果は抜群のようだな」

 

『ああ、それに外部からは見えない上に音を漏らさないなんて、奴も粋なものをくれたもんだ』

 

砂埃の中から現れた彩牙が、結界の効果に感嘆するような声を上げる。

ダンタルカスが引っかかった結界、それは昼間の内に彩牙が仕掛けていたものだった。

ダンタルカスがこのビーチから陸地に現れているという情報を予め聞いていた彩牙は、オルトスから渡されていた結界の起動装置をこのビーチの中に仕掛けていたのだ。

――中に結界の札が込められた、瓶のような起動装置を。

 

結界内に閉じ込めた相手を逃がさないようにする上、外部からは視覚も音もシャットアウトする結界。

その効果は御覧の通り上々であった。

 

『■■■■―――――!!』

 

 

傷をつけられた怒りに燃え、彩牙を睨みつけるダンタルカス。その巨大な人面を囲むように、周囲に小さな人面――人間サイズそのもの――が浮かび上がる。

老若男女を問わないそれらは恐らく喰われた人間のものなのだろう。口を大きく開けるとその奥がキラリと光り、次の瞬間には無数の針が飛び出した。

 

彩牙目がけて放たれたそれらを、魔戒剣を振るって弾き飛ばしながら駆け抜けていく。

正に針の雨と呼んでも過言ではないほどの針が降りかかる中、更に追い撃ちをかけるように触手が彩牙に襲い掛かる。

針を弾き、触手を躱していく彩牙。身を捩るようにある触手を躱した時、その足元の砂がもこりと盛り上がり、その次の瞬間、砂浜を裂くように一本の触手が飛び出した。

 

「なにっ!」

 

先端が口になったその触手は、口を裂かんとばかりの勢いで大きく口を開き、彩牙の身体をあっという間に飲み込んだ。

忌まわしい魔戒騎士をまた一人喰らった喜びに震えるかのように身を躍らせるダンタルカス。

今度は己を遮る小賢しい結界を破壊しようとした時、彩牙を飲み込んだ触手が一瞬、そして僅かに光ったような感じがした。

 

ダンタルカスがそれに疑問を抱こうとした瞬間、その触手に激しい痛みが走り、びくびくと悶えるように震わせる。

そして――

 

 

 

『――オオォォォォォォォッ!!』

 

内側から触手の肉を裂き、黄金の鎧を纏った彩牙――ガロが飛び出した。

触手を裂き、宙に飛び出したガロ目掛けて他の触手が一斉に襲い掛かる。ガロはそれらの触手を殴り、蹴り、牙狼剣で斬り裂いていく。

そんな中、一本の触手に牙狼剣を深々と突き刺し、その触手は痛みに悶えるように血を噴き出しながら突き刺さった牙狼剣とそれを持つガロをしがみつかせたまま暴れまわる。

 

右に左へ、上に下へ、平衡感覚を失いかねない勢いで触手に振り回られるガロだが、その緑の瞳が揺らぐ様子はない。

やがて振り回されるうちに牙狼剣が引き抜かれ、暴れ回っていた勢いで宙に放り出されたガロ。

放り出された先の行き先は――ダンタルカスの巨大な人面、その真正面だった。

 

牙狼剣をまっすぐに突き出し、ダンタルカスを貫かんと迫るガロ。

触手に振り回された勢いを利用したこともあって、両者の距離はあっという間に縮まった。

そして、牙狼剣がダンタルカスの人面に突き刺さろうとした瞬間――

 

 

 

『――たすけて』

 

『―――――!!』

 

びくりと、勢いを止め、ダンタルカスの寸前で止まった牙狼剣。ダンタルカスの表面に足をつけ、牙狼剣を止めたガロ。

牙狼剣の剣先――ダンタルカスの人面にあったのは、涙を流し、助けを請うような表情を浮かべた、喰われたと思しき女性の顔が生えていたのだ。

守るべき人間の助けを請う表情と声に動揺し、反射的に剣を止めてしまったガロ。

だがそれは、目の前の狡猾な魔獣にとって絶好の隙でしかなかった。

 

『小僧!惑わされるな! そいつはホラーが作り出したまやかしだ!』

 

ザルバが警告するも時すでに遅し。

ガロの周囲は無数の触手で囲まれ、それに気づいて離脱しようとするが、それよりも早く触手がガロに襲い掛かる。

牙狼剣で触手を斬り払うが襲い掛かる触手の数があまりにも多く、圧されていく。そうしてとうとう触手がガロの四肢を絡め取り、その身を大の字にして拘束した。

 

吊り上げられたガロの姿を目にし、無表情だった巨大な人面に嘲笑うような卑しい笑みを浮かべるダンタルカス。

それに睨み返すガロが触手の拘束を解こうとするが――

 

『――ッ! グアアアァァァァァッ!!』

 

それぞれを拘束する触手によって引っ張られるガロの四肢。

ガロの四肢を引きちぎり、その身を裂こうとしているのだ。

絶叫を上げ、触手から逃れようともがくガロ。しかしもがけばもがくほど触手は更に四肢をぎりぎりと引き延ばし、引き裂こうとする。

月が雲に隠れ、光のない夜のビーチの中でガロの――彩牙の絶叫が響き渡った。

 

 

 

**

 

 

 

「……ん……」

 

――真姫の家の別荘。

皆が寝静まったリビングの中、もぞりと動く影があった。

 

真姫だ。

真夜中に起きてしまった彼女はぼーっと眠たげな眼で辺りを見回す。静かに寝ている者、どんな寝相をしているというのかとんでもない格好で寝ている者がいる中、そのなかにある一人の姿がないことに気が付いた。

 

「……希……?」

 

皆が寝ている筈のリビングには、希の姿だけがなかった。

今現在、最も気がかりな彼女の姿が見えないことに、寝惚け気味だった真姫の意識は一気に覚醒した。

皆を起こさないように、そろりそろりと希を探してリビングを抜け出す真姫。何処に行ったのか――まさかホラー絡みの場所に行ったのではないかと危惧しながら探していると、彼女の姿はあっけなく見つかった。

 

希は玄関にいた。

玄関の窓から外をじっと見つめていたのだ。

希の姿が“こっち側”にいたことにほっとしたのも束の間、真姫は気づいた。外を見つめる希の表情がはらはらしているかのような危機感と、憂いの感情を秘めていたことに。

 

「……希、何してるの?」

 

「あ、真姫ちゃん起きちゃったん? ちゃんと寝ないとあかんよ」

 

「あなたもでしょ」

 

それもそうやね、と。

そう返す希の横で、彼女が見つめていた窓の外を除く真姫。

………何もなかった。窓の外に広がるのは、月が雲に隠れた夜の中、静かに波が打ち寄せるビーチがあるだけだった。

疑問符を浮かべる真姫の横で、憂いの表情で彼女を見つめる希が呟いた。

 

「……そっか。真姫ちゃんには見えないんやね」

 

「見え……? ……って、まさか!?」

 

「うん。今あそこでね、彩牙くんがホラーと戦ってるんよ」

 

そう言って希が指さしたのは、別荘の前に広がるビーチ。

嘘だと信じたかったが、希の表情は嘘をついている人間のそれではなかった。

自分たち――μ’sが眠るこの別荘の目の前であの怪物、ホラーが暴れているという事実に、真姫の心は恐怖に包まれる。

そしてホラーに対する恐怖とは別に、ある不安が生じた。

 

「……行っちゃダメよ」

 

「え?」

 

「あそこには彩牙さんもいるんでしょ、だったらあなたが戦う必要なんてないわよ。それにさっきも言ったけど、あそこは私たちが踏み込んでいい世界なんかじゃないのよ」

 

真姫は怖かったのだ。

希はかつて釘を刺された、戦わないと言った。だが真姫はそう語る希に、それ以降もいつも通りの姿を見せる彼女に誤魔化しているのではないか、無理をしているのではないかと不安を抱いていた。

そんな真姫を呆然と見つめた後、希は優しげな表情を浮かべた。

 

「……優しいんやね、真姫ちゃんは」

 

「べ、別にそんなんじゃないわよ。私はただ――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だからこそ、ウチも覚悟が決まったのかもしれへんね」

 

「……え?」

 

希の放った一言に、愕然とする真姫。

動揺を隠せない彼女を横目に、希は続けて言葉を放つ。

 

「ウチな、μ’sの皆のことが大好きなんよ」

 

「μ’sを作ったのは穂乃果ちゃんたちやけど、ウチもずっと見守ってきたんよ。それだけ思い入れがある」

 

「だからね、μ’sの皆には誰も欠けてほしくないんよ」

 

「何……言ってるの……?」

 

「だから――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ウチ、行くね」

 

 

そう言った瞬間、希は勢いよく玄関の扉を開けて外に飛び出し、そしてすぐに閉めた。

呆気にとられた真姫は一瞬遅れ、すぐに希を追おうとしたが玄関の扉は開かない。外にいる希が抑えている様子でもなく、鍵が閉まっているわけでもないのに、だ。

 

「開けて! 何をする気なの!」

 

「真姫ちゃん、ウチな、考えたんよ。ウチがしたいことは何かって」

 

「彩牙くんに言われて、ことりちゃんの話を聞いて、本当は何がしたいのか、そのためには何をすればいいのか、ずっと考えてたんよ」

 

希の脳裏に浮かんだのは、「やらなきゃいけないで通る世界じゃない」という彩牙の言葉。そして「本当にやりたいことに嘘はつかない」ということりの言葉。

二人の言葉について考えに考え抜き、そして見つけた。

自分がやりたいこと、自分が一番大好きなことは何なのかを。

 

「そうしたら答えは一つだった。だからウチは行くね」

 

そう告げて魔導筆を片手にビーチへ向かおうとする希。

その背中に向け、玄関越しの真姫が必死に言葉を投げかける。

 

「待って、行かないで! 私は、あなたに……

 

 

 

 

 

 

 ……“友達”に!そんな危険なことしてほしくないのよ!!」

 

その言葉に思わず振り返る希。

その視線の先には涙目で必死に玄関のドアを開けようと、四苦八苦する真姫の姿があった。

……嬉しかった。音ノ木坂に入学するまで友達がいなかった自分に、こんなにも身を案じてくれる友達ができたことが、心の底から嬉しかった。

だからこそ、自分が抱いた決意を一層強固なものにする。

眼の奥が熱くなり、流れ落ちそうなものを必死に堪え、希は精一杯の笑顔を真姫へ向けた。

 

「ありがとう、真姫ちゃん……行ってきます」

 

その言葉とともに、ビーチへ向かって一気に駆け出していく希。

真姫はその背中を、ただ見送ることしかできなかった。

 

「待って!お願い行かないで! ……のぞみぃ!!」

 

素直になりきれなかった友達思いな少女の、悲痛な叫びが響き渡った。

 

 

 

**

 

 

 

『ぐ……あっ……!』

 

ダンタルカスの触手によって四肢を拘束され、引き裂かれようとしているガロ。

その抵抗も徐々に弱まり、今や関節が外れかけ、四肢の付け根からはプチプチと筋肉繊維が断裂しかかっている音が響いている。四肢が引きちぎられて達磨が一つ出来上がるのは時間の問題だった。

黄金騎士が斃れようとしているその光景を卑しい笑みを浮かべて見つめるダンタルカス。最早これまでかと思われた、その時だった。

 

 

――コツン。

 

ダンタルカスの背後に響いた、何かがぶつかったような軽い音。

不思議そうにダンタルカスが振り返ると、その音の正体は小石だった。

そして、その小石を投げたのは――

 

 

 

「彩牙くんを……離して!」

 

息を荒げ、寝間着のままで魔導筆をダンタルカスへと向ける希の姿があった。

必死の表情で震えながら対峙する希の姿を目にしたダンタルカスは標的を変えたのか、触手を彼女に向けて放った。

すぐさま防壁を張り、襲い掛かる触手を防ぐ希。先端が人の手や口になっている生理的嫌悪感を抱かせる触手が目の前で踊り狂い、希の表情が恐怖で染まる。しかしキッと睨み返し、防壁を緩めようとはしなかった。

そんな彼女の足下が、もこりと盛り上がり――

 

 

『――東條さんっ!!』

 

その寸前、希に気を取られて力が緩んだ触手を振り払ったガロが倒れるように砂浜に落ち、同時に鎧が解除された。

倒れこんでしまいそうな身体に鞭を打ち、すぐさま希目掛けて駆け出す彩牙。そして目の前の触手を防ぐのに精一杯だった希を抱えたその直後、彼女がいた場所の砂から触手が飛び出したのだ。

先の彩牙のように、希を飲み込まんとするために。

 

間一髪のところは免れたが、同時に希が張っていた防壁が解かれ、希と彼女を抱える彩牙目がけて大量の触手が一斉に襲い掛かった。

怒涛の勢いで襲い掛かる触手を相手に、彩牙は希を抱えたまま残った片手に握る魔戒剣で辛うじて触手を弾き、戦いに出たばかりの希は防壁を張る余裕が生まれなかった。

 

「――ちっ!」

 

「彩牙くん!後ろも……!」

 

そうして逃げ回っていた二人の行方を阻むかのように、目の前に触手が現れた。

前後を触手に阻まれ、逃げ道を失った彩牙と希。そんな二人に触手が一斉に襲い掛かろうとした瞬間――

 

 

『―――!? ■■■■――!!』

 

それまで隠れていた月の光が雲の隙間から差し込み、辺りを淡く照らしだした。

それと同時に悲鳴をあげ、彩牙たちを追い詰めていた触手を引っ込めてダンタルカスは海中へと逃げ出した。

突然の出来事に呆気にとられたと同時に危機から逃れてほっとする希。そんな彼女の横で彩牙ががくりと膝から崩れ落ちた。

 

引き千切られかけていた身体に鞭を打ち過ぎたのだ。

そんな彩牙を支えようと、希が彼の肩を取ると――

 

「東條さん……何故来たんだ!」

 

苦痛に顔を歪ませながら、責めるような彩牙の言葉が迎えた。

鬼気迫る彩牙の表情に一瞬びくりと尻込みした希だが、すぐに敢然とした表情で彩牙を見つめ返し、はっきりと答えた。

 

「決めたんよ。ウチも戦う、この力でホラーと戦うんやって」

 

「何を言ってるんだ!俺の言ったことを忘れたのか! 君が生きていけるような世界じゃ――」

 

「ウチはみんなを守りたい!!」

 

彩牙の言葉を遮るように放たれた、希の叫び。

呆気にとられる彩牙を前に、希は自らの思いの丈をぶつけていく。

 

「ウチはμ’sのみんなが大好きなんよ、μ’sのみんなを守りたい。みんながホラーに喰われるなんて嫌や」

 

「だからウチがみんなを守るんや! やらなきゃいけないとかじゃない、ウチがやりたいって、そう思ったから!」

 

「ウチが大好きなみんなは……ウチの手で守るんや!」

 

怖くないと言えば嘘になる。自分たちを喰らわんと迫るホラーの恐ろしさは彼女自身、既に身をもって知っていた。

しかし……いや、だからこそ、同じ恐怖を味あわせてはいけない。自分の大切な友達をそんな目に遭わせたくない。

ホラーの恐怖から皆を、大好きな場所を守りたい――それこそが東條希の本当にやりたいことであり、戦う理由であった。

 

「東條さん……」

 

毅然とした態度で想いを叫んだ希を、彩牙はまっすぐに見つめた。

覚悟を問いているようにも見えるその瞳が、目を逸らすことなく見つめ返す希の姿を映し出す。

――彼女の表情は、ただの義務感でものを語るような人間のそれではない。彼女が言ったことは全て嘘偽りない事実。希という人間の想いの、その全てを表していた。

 

「……後悔はできないぞ」

 

「しないよ。だって他でもないウチが決めたことだもん」

 

希の想いは揺るがない。

彩牙と頷き合う彼女の姿は既に恐怖に怯えるだけの少女ではなかった。

そう、それはまさに彩牙たちと同じ――

 

『――どうやら、話は纏まったようだな』

 

待っていたとばかりに口を開いたザルバ。

 

「ザルバくん、頼りないところもあるかもしれへんけどよろしくな」

 

『積もる話はまた後だ。まずはあのホラーを倒さないとな』

 

「……そうだな」

 

ザルバの言葉に表情を引き締める彩牙と希。

ダンタルカスはまだ健在だ。今は何故か海中に閉じこもっているが、いつ海中から姿を現してもおかしくはない。

ダンタルカスは強大だ。巨大な体躯に堅牢な外骨格、伸縮自在な無数の触手をもち、その上喰った人間の顔を利用する狡猾さも併せ持っている。

事実、それらを駆使したことで彩牙は追い詰められていた。あそこで希が助けに入らなければ命はなかったかもしれない。

何か手を考えなければ――二人の思考は一致していた。

 

『それだがな、俺様に一つ考えがある』

 

「本当なのか?」

 

『ああ。だがな嬢ちゃん、それにはお前さんの力がどうしても必要になる』

 

「ウチの……?」

 

 

 

 

 

 

『■■■――――』

 

時がいくら経過しただろうか。

月の光が再び雲の中に隠れ、辺りが闇に包まれたころ、ダンタルカスが再び海中から姿を現した。

甲高いような野太いような――聞く者に不快感を抱かせることは確実な唸り声を上げ、周囲を見回す。

するとその視点は、ある一点で止まった。

 

「……」

 

彩牙だ。

ビーチの真ん中で一人立っていた彩牙が、待ち構えていたかのようにダンタルカスを睨んでいた。

獲物がまだいたことにダンタルカスは歓喜に包まれた。法師の姿は逃げたのか見当たらないが構わない。黄金騎士を喰う機会などそうそうあるものではないのだから。

そんなことを考えたのかどうかは定かではないが、人面に卑しい笑みを浮かべたダンタルカスはその巨体の全てを海中から露にし、唸る触手を一斉に放った。

 

それらを前にした彩牙はガロの鎧を召喚し、駆け出した。

辺りを覆いかねない勢いで迫る触手を牙狼剣で斬り裂き、殴り、蹴り、薙ぎ払っていく。

だがやはり多勢に無勢というのか、徐々に埋め尽くされていくかのように追い詰められていく。

 

『くっ!』

 

そんな中、一本の触手が先端の手でガロの身体を捉えたのだ。

胴体を鷲掴みにされ、地面から浮いてダンタルカスの目前まで触手で運ばれるガロ。ダンタルカスはそんなガロを嘲笑うような笑みで迎えた。

そしてガロを握る触手に渾身の力を籠め、握り潰さん勢いで締め上げる。

 

――芸がない。

思わせぶりな雰囲気で待ち構えていたと思ったらやっていることはさっきまでと同じ、ただ正面から突っ込んでくるだけのこと。

馬鹿の一つ覚えのようにそれを繰り返したガロを、ダンタルカスは嘲笑う。

ダンタルカスは、“愚行を繰り返し、まんまと殺されていく”ガロが滑稽でたまらなかった。

 

 

 

『――いいか、教えた通りにやるんだ』

 

「……うん」

 

――そんな会話に、気付かないほどに。

 

 

『嬢ちゃん、今だ!』

 

突然辺りに響き渡った、威勢のいい叫び声。

それと同時にダンタルカスの目の前――ガロとの間に現れた、線香花火のような小さな光。

突然現れたそれを呆気にとられたように見つめた、次の瞬間――

 

『――!? ■■■■■―――――!!』

 

その小さな光が爆発するかのように、夜の闇を昼のように照らしだす閃光と化した。

それと同時に轟音のように響き渡るダンタルカスの苦悶に満ちた悲鳴。両目から黒々とした血涙を流し、その巨体の至る所から肉の焼ける音と共に煙を上げ、狂うように悶えだした。

 

「や、やった!」

 

『思ったとおりだ。奴は光を極端に嫌うようだ』

 

そう言いながら岩陰から現れたのは驚きと歓喜の表情を浮かべた希と、彼女の魔導筆に嵌っていたザルバだった。

 

ザルバの言う通り、ダンタルカスには単純で致命的な弱点があった。

それは光だ。ダンタルカスにとってありとあらゆる光は自らを焼き尽くす忌まわしきものなのだ。

先程月の光が照らしだした時、ダンタルカスは彩牙たちを追い詰めていたにも拘らず海の中へと逃げ出した。光が届かない海へと。

 

ザルバはそこに目を付けたのだ。

ダンタルカスの弱点が光ではないかと踏んだ彼は一つの作戦を打ち出した。

それは実にシンプルなものだった。彩牙が囮となってダンタルカスを引き付け、油断した瞬間に希の術で閃光のごとき光を浴びさせる。シンプルが故に非常に効果的なものだった。

その結果、ザルバが希に教えた術によって発動された光はダンタルカスを焼き焦がしていった。

 

『■■■■――――!』

 

『くっ!』

 

光による苦痛にもがき、暴れ狂うダンタルカス。

その隙に触手の拘束から抜け出したガロを暴れ回る別の触手が偶然捉え、その身体を上空へと殴り飛ばした。

そうして光から逃れようとその巨体を海へ向かって引き摺らせていくダンタルカス。脇目もふらず、身体を焼く光から一刻も早く逃れたい一心で潰れた両目の代わりに感覚を駆使して進んでいき、遂に海面の目の前に辿りついた。

 

そして海の中へと潜ろうとした、その瞬間だった。

 

「行かせへん……よっ!」

 

ダンタルカスの巨体を凌ぐほどに巨大な防壁が、海面を覆うように現れたのだ。

希によって張られた防壁により海への逃げ道が失われ、苦悶と苦痛に苦しむダンタルカス。

海に逃れようと鉄壁の防壁を必死で壊そうとするその姿は――

 

 

 

――あまりにも、隙だらけだった。

 

 

『――ウオオオォォォォッ!!』

 

殴り飛ばされた上空で体勢を持ち直し、牙狼剣をダンタルカスへまっすぐに突きつけながら落ちるように迫りくるガロ。

その気配を感じたダンタルカスはガロがいるであろう上空に向かって触手を我武者羅に放つが、光に焼かれて狂った感覚では殆どガロを捉えることができず、運よくガロに命中しそうだった触手は希が張った防壁によって弾かれていった。

 

そうして両者の距離はあっという間に縮まっていき、ガロが間近まで迫ってきたことを感じたダンタルカスは、巨大な人面の表面に己が喰った人間たちの助けを求める顔を浮かび上がらせるという、先程ガロが引っかかった手を使った。

だがしかし、それが罠であることに――人間の命ばかりかその尊厳をも踏み躙る行いであることに気づいているガロの瞳は揺るがない。その瞳に浮かぶのは戸惑いではなく、目の前の狡猾な魔獣に対する純粋な怒りだけだった。

 

そして――ダンタルカスの額に、牙狼剣が深々と突き刺さった。

 

『■■■■■■■■―――――!!』

 

辺りに轟くダンタルカスの悲鳴。

牙狼剣は突き刺さるだけに収まらず、それを持つガロごとダンタルカスの内部へと突入していく。

ダンタルカスの中を貫いていく牙狼剣とガロ。やがてダンタルカスの巨体を完全に貫通し、背面の外骨格を突き破るように背後へ――希の張った防壁の上へ降り立った。

その手に持つ牙狼剣の先端にはミイラのような生首――ダンタルカスの核が突き刺さっていた。

 

呻き声のような断末魔と共に消滅していくダンタルカスの核。

それと同時に核を失ったダンタルカスの巨体も、宙に溶けるように崩れ落ちていく。

巨獣が斃れ、希が発動させていた閃光も消えて再び夜の闇に包まれる中、それを背にするガロの瞳だけが爛々と輝いていた――

 

 

 

**

 

 

 

「彩牙くん、怪我の方は大丈夫?」

 

「ああ。これくらいだったら休めばしっかり治るさ」

 

戦いが終わり、静かな海が戻ったビーチ。

夜の闇は消えつつあり、太陽が昇ろうとしている水平線の向こうから伸びる淡い朝焼けに照らされた中、彩牙と希の姿がそこにはあった。

 

ふと、彩牙は横に佇む希に視線を向けた。

彼女の表情は晴れやかだった。以前からホラーと戦い続けてきた自分とは違い、昨日の今日ホラーのことを知り、初めて戦ったのにも関わらずだ。

だがもう一度よく見てみると、決してそうではないことに気が付いた。

希は震えていた。ホラーと戦ったこと、そしてその恐怖により手先の震えが止まっていなかったのだ。

 

彩牙は、もう一度尋ねてみることにした。

 

「東條さん、本当にいいのか?」

 

「え?」

 

「ホラーとの戦いはこれで終わりじゃない。奴らはいつでも現れ、人に憑依し、人を喰らう。それは決して終わることはない」

 

「その終わらない戦いに身を投じる覚悟が……君にはあるのか?」

 

彩牙のまっすぐな視線を受け、希は自らの手先の震えを見つめ、少し考え込むように視線をずらす。

そうしてもう一度彩牙をまっすぐに見据え、自らの想いを答えた。

 

「……彩牙くん、ウチは言ったよね、μ’sのみんなを守りたいって。その思いは今でも変わることはないんよ」

 

「だからウチは戦うよ。怖くても、終わりがなくても、ウチがやりたいってそう思うから」

 

「みんなが大好きだから……なんて、ちょっと理由としては軽いかな?」

 

 

「……いや」

 

悪戯っぽい微笑みを向ける希。

それに対する彩牙は満足そうな表情を浮かべて改めて彼女に向き合い、手を差し出した。

彩牙の思ったとおりだった。先の戦いの中で思ったことは間違いではなかったのだ。

恐怖を抱いたとしてもそれに屈せず乗り越え、自らのやりたいこと――大切な人たちを守るために立ち上がることができる。

自分たち魔戒騎士と同じ精神を彼女も持っていることが、はっきりとわかったのだ。

 

「そんなことはない。東條さん、これからもよろし――」

 

「“の・ぞ・み”!」

 

「……東條さん?」

 

「せやから希! 一緒に戦う仲間なんやし、名前で呼んでほしいやん?」

 

希の言葉に少し呆気にとられたようなそぶりを見せ、すぐに引き締まった笑みを浮かべた彩牙は答えた。

 

「――ああ。これからよろしく頼む、希」

 

「うん!ウチからもよろしくね、彩牙くん!」

 

 

晴れ渡るような歓喜に満ちた表情を浮かべ、彩牙の手を取った希。

二人の若き“守りし者”の姿を、朝焼けの光が優しく照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……希」

 

そんな二人の姿を見つめていた人物がいた。

真姫だ。別荘の玄関の扉を何とか開き、希を追いかけてきた彼女は二人の姿を複雑な表情で見つめていた。

希が無事であったことに安堵すると同時に、彼女が戦いに身を投じたことに――友達が遠い世界に足を踏み入れたことに悲しみを抱いていた。

 

 

「――真姫ちゃん?」

 

呼ばれ、振り返った真姫の視線の先には穂乃果を筆頭にしたμ’sのメンバーがこちらに歩いてくる姿があった。起きたら真姫と希の姿がなかったことが不思議に思ったのだろう。

と、そこで真姫に続いて希の姿も見つけた穂乃果が高らかに叫んだ。

 

「あ、希ちゃんもいた! おっはよーーー!」

 

「あ、みんな! おはようさん!」

 

そこで向こうも穂乃果たちに気づいたのだろう、大きく手を振りながら名前を呼ぶ希の姿があった。

そして希が彩牙と一緒にいたことに、一部のメンバーが目敏く反応した。

 

「あれ?希ちゃん彩牙くんと一緒にいる……?」

 

「ちょっと希! 海未に続いてアンタまで熱愛疑惑とかやめてよね!」

 

「ちょっ!私がいつそんな破廉恥なことをしたというのですか!?」

 

わいのわいのと騒ぎながら希たちの下へと駆けていくμ’sメンバーたち。

真姫はそんな彼女たちのことを呆然と見つめ、思い直すようにその後を追いかけていった。

 

希は違う世界へと足を踏み入れてしまった。

だけどきっと、彼女はこっち側へと帰ってきてくれる。何故ならここは、彼女自身が大好きと言ってくれた場所なのだから。

大好きな人たちを、場所を、自ら手放すわけがないと。そう信じて。

 

 

 

***

 

 

 

ザルバ「人生ってのは、悩むことの連続だ」

 

ザルバ「たとえ一度は決心したことでも、ふとしたきっかけでまた悩むようになっちまう」

 

ザルバ「そう、まるで分かれ道のようにな」

 

 

ザルバ「次回、『迷路』!」

 

 

 

ザルバ「悩むあまり、袋小路に追い込まれるなよ」

 

 

 

 







魔戒指南


・ ホラー・ダンタルカス
海の管轄に出現したホラー。
兜のような外骨格に包まれた巨大な蛸のような姿をしており、頭の中央には無機質な表情を浮かべた巨大な人面が存在している。
無数にある触手の先端は人間の口や手のようになっており、それらによって対象を捕食したり捕らえたりしている。
まともな言葉は話せないが非常に狡猾な性格であり、かつて己が食べた人間の顔を体表に浮かべることによって、相手の動揺を誘う戦法をとる。




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第11話  迷路

最近どうにも執筆ペースが遅くなってしまっている・・・・
これもすべて、F○1○が面白いのがイカンのや・・・・・

12/9追記:一部修正しました。


 

 

 

 

 

「……じゃあ、いくわよ」

 

「……」

 

――音ノ木坂学院・アイドル研究部部室

 

スクールアイドル・μ’sの活動拠点でもあるその部屋には9人の少女――当のμ’sの姿があった。

彼女たちは皆、この部室唯一のノートパソコンが置いてある机の前に群がるかのように集まっていた。椅子に座り、パソコンを操作するにこを筆頭にして。

皆が皆緊張しているかのような気を引き締めたような表情を浮かべる中、誰かごくりと唾を飲む音が響く。

 

そんな中でにこが操作するパソコンの液晶には、一つのウィンドウが映し出されていた。

そのウィンドウの中にある動画ファイルにカーソルを持っていくと、一瞬ためらいがちにクリックした。

動画ファイルが起動して画面が暗転した中、しばらくして映し出されたのは――

 

 

「――ハラショー!」

 

「やっぱりみんな可愛い!」

 

 

 

水着のような衣装を纏い、歌い、踊るμ’sの姿だった。

これは彼女たちの新曲のPVであり、曲名は、“夏色えがおで1, 2, Jump!”。合宿に行ったときに撮影した新曲であった。

自分たちの新曲のPVが見事に完成した姿に、彼女たちの歓声が沸き上がる。

 

 

「さすがにこちゃん!文句の付けどころのない編集力ですぅ!」

 

「ふっふーん!ま、宇宙No.1アイドルたるもの、自分のPVくらい作れないとね!」

 

褒め称えるような歓声に囲まれ、自慢げに胸を張るにこ。

そう、合宿中に撮影された映像を編集し、PVの形に仕上げたのは他でもないにこだった。

そもそもμ’sに加入する前のものを除けば、これまでの曲のPVを作ったのもにこだ。元々アイドルが好きであることと、かつてスクールアイドルであった経緯でPVの編集能力を身に着けていたのだ。

その上、μ’sの中で最もアイドルに情熱を傾けているにこはアイドルのPVで魅せるためには何が重要なのかを深く理解しており、PVの編集に関してμ’sの中で彼女の右に出る者はいなかった。

 

「これでまた、ラブライブや廃校阻止に一歩近づけるんだね!」

 

「安心するのはまだ早いわ。廃校のこともそうだけど、ラブライブに出場するには順位がまだ足りてないんだからね」

 

「ええ。そのためにはより沢山の人に興味を持っていただけるように、より練習を重ねなければいけません」

 

「合点承知にゃ!」

 

絵里の言う通り、μ’sはラブライブ出場の条件を満たしていない。

ラブライブに出場するにはスクールアイドルのランキングの20位以内に入っていなければならないのだ。

μ’sは現在50位以内に入っているもののまだ圏内には届いていない。加えてここから上位のランキングにはそれぞれのグループのファンも多くなり、苦戦に見舞われることは必須だった。

 

それ故、更なるスキルアップのために練習を重ねる必要があり、屋上も無事に修理が終わったことで練習しない理由は最早どこにもない。

そう、ないのだが――

 

「あのね、ウチはちょっと今日用事があって練習には出れへんよ」

 

申し訳なさそうにそう言ったのは希だった。

彼女の以外なその言葉に、部室にいた全員が反応した。

 

「え?そうなの?」

 

「そういえばそんなこと言ってたわね……」

 

「明日はちゃんと出るから堪忍してな?」

 

申し訳なさそうにしつつ、パタパタと部室を後にする希。

その姿を見送ったメンバーが不思議そうに呟いた。

 

「希ちゃんどうしたんだろ?具合が悪いってわけでもなさそうだし……」

 

「詳しいことは私も聞いてないけど、とっても大事なことって言ってたわ」

 

「………まさか、男なんてことはないでしょうね」

 

にこのその一言に、部室の中は大きなどよめきを見せた。

それもそのはず。根も葉もない憶測とは言い切れず、彼女たちには一つ心当たりがあったからだ。

それはPVの件にも出ていた先日の合宿、その二日目の早朝のこと――

 

「そ、そういえばこの間の合宿の時、早朝の砂浜に彩牙さんと二人でいましたよね……」

 

「ま、まさか希……嘘でしょ……?」

 

「そんなことないよ!」

 

「そうだよ!彩牙くんには海未ちゃんがいるんだもん!二股なんてマネしないよっ!」

 

「あなた達はまだそれを言うのですかっ!?」

 

深く考える者、慄く者、反論する者――海未が異を唱えたが――が現れ、わいのわいのと賑やかに騒ぎ出すμ’sメンバーたち。

その中で唯一、賑やかな輪に入らずに希が去った後を複雑な表情で見つめる真姫。

そしてそんな彼女の姿を、輪の中で海未だけが不思議そうに見つめていた――

 

 

 

**

 

 

 

アイドル研究部の部室を後にした希はそのまま校舎を通り抜け、音ノ木坂の敷地外へと飛び出した。

そしてマンションの自宅に帰宅――するでもなく、校門前の大通りを学校の塀伝いに歩いていき、人目を気にするように辺りをきょろきょろと見回すと、学校の裏に繋がる路地裏へと入り込んでいった。

 

狭く薄暗い通りを緊張しているような面立ちで進んでいく希。

やがてちょうど音ノ木坂の裏――校門の反対側にまで辿りつくと、そこにいた待ち人の姿を見つけ、朗らかな笑顔を浮かべた。

 

「彩牙くん、お待たせ!」

 

「……っと、希か」

 

『思ってたより早かったな』

 

待ち人――彩牙の下へぱたぱたと駆け寄る希。

そんな彼女を穏やかな表情で出迎えた彩牙だったが、ふと、不思議そうに彼女を見つめた。

それは彼が抱いたある疑問によるものだった。

 

「しかしよかったのか?練習を休んでしまって」

 

彩牙の知る限り、希にはμ’sとしての練習があったはずだ。しかも希はμ’sそのものにとても強い思い入れがある。それこそ自らの戦う理由となるほどに。

約束があったとはいえ、そんな彼女がμ’sの活動から抜け出して想定していたよりも早く来たことが不思議に思ったのだ。

 

「ええんよ。確かにウチはμ’sが大事やけれど、こっちのことを疎かにしていいわけでもないんやからね。それに――」

 

自分で選んだことやしね。

そう告げて改めて微笑んだ希に対し、彩牙は僅かに驚いたようなそぶりを見せ、納得した表情を浮かべた。

わかっていたことだったのだ。希はそう簡単に己の意志を曲げるような性格ではないことを。大切だからこそ、あえてその場所から離れることもあると。

 

「……そうか、それじゃあ行こうか」

 

「うん! エスコートは任せたで♪」

 

すぐ傍にあった壁――音ノ木坂の塀に向け、左手を突き出す彩牙。

すると指に嵌ったザルバが一瞬輝き、それと連動して二人の背丈よりも大きな四角形の光の線が塀に現れた。光の線の内側の壁が溶けるように消えていき、四角形の光はぽっかりと暗い穴の開いた“門”へと変化した。

 

彩牙が促すように顎を引くと、先導するようにその門を潜っていく。ごくりと唾を飲み、緊張した表情を浮かべ、一拍遅れて追うように希も門を潜っていく。

すると光の線の内側に再び塀の壁が現れ、門を塞いでいく。

そこにあったのはただの塀であり、その裏通りには人気のない静寂が戻ったのだった。

 

 

 

 

 

 

「……音ノ木坂の裏に、こんなスピリチュアルな場所があったんやねえ……」

 

「……ふふ」

 

「ん? どうかしたん?」

 

「いや、何でもないさ」

 

暗い空間の中に一筋だけ伸びる淡い光の道――番犬所の神官の間へと続く回廊を歩いていく彩牙と希。

その道中で希が呟いた言葉に、彩牙は思わず可笑しそうに笑った。

同じだったのだ。かつて自分が初めて番犬所を訪れた時に呟いた言葉に。あの時の自分も番犬所の存在に、その入り口の意外すぎる場所にただただ驚くばかりだった。

あの時はそんな自分をザルバが先導していたが、今度は自分が希を先導することになるとは思ってもみなかった。

 

そんな懐かしさに思いを馳せていると、二人は神官の間に辿りついた。

だが彩牙も希も、その顔には訝しげな表情を浮かべていた。

 

「……ここに、その神官さんがおるん?」

 

「……ああ。だけど……」

 

『妙だな、静かすぎる』

 

ザルバはそう言うが、静かというレベルではなかった。

神官の間には主であるオルトスの姿はおろか、彼女が普段掛けているソファや調度品すらもなく、暗い空間に狼の頭を模したオブジェ――浄化装置がポツンと立っているだけだった。

想定していなかった光景を前に、警戒心を抱いた彩牙が庇うように希の前に出る。

 

『とりあえず、剣の浄化だけでも済ませておくか』

 

「……そうだな」

 

気を取り直し、魔戒剣を抜いて浄化装置の前に立つ彩牙。

そしていつもと同じように狼の口に魔戒剣を突き刺し――

 

 

――バン バン バンッ!

 

「わあっ!?」

 

「っ! 何だ!?」

 

何処から現れたのか、突然神官の間に差し込まれる無数の照明。その光はスポットライトのようにある一点に集まっていた。

照明に照らされたのは、華や月などの装飾が施された白く輝く舞台だった。それを目の当たりにした希はどこか既視感を抱いた。

――まるで、アイドルのステージのようだと。

 

突然現れたステージを前に、彩牙と希が驚きつつも警戒していると、どこからともなく可愛らしく軽快な音楽が流れ始め――

 

 

 

 

 

 

 

 

「な……!?」

 

「わぁ……!」

 

……どこからともなく現れたオルトスが、マイク片手にそのステージの上で歌い、踊り始めた。それもご丁寧にヒラヒラのフリルが付いた白いドレス――アイドルのような衣装に身を包んで。

ポカンとした表情を浮かべる彩牙は、自分の理解が追いつかない光景にただ茫然としていた。――魔戒剣の浄化が終わり、邪気を封じた短剣が吐き出されたことに気づかないほどに。

 

対して彩牙の後ろにいた希は突然始まったアイドルのステージに驚きつつも、楽しそうな表情で見つめていた。

そう、何も知らない彼女からすれば、見た目麗しい美少女アイドルがステージを披露しているようにしか見えないだろう。

……その中身が年齢不詳の老婆であることを知らないのだから。

 

呆然とした彩牙と輝かしい表情の希が見つめる中で、オルトスはノリノリで歌い、踊る。ザルバは何かがこみあげそうになるのを必死に抑えた。

そうして一曲歌い切ったオルトスは清々しい表情で、アイドルが観客にするようにぺこりとお辞儀をした。

それを満面の拍手で迎える希だが、理解が追いつかず呆然としていた彩牙はそこでようやく我に返り、オルトスに恐る恐る尋ねた。

 

「……お、オルトス……様?」

 

「おお彩牙か、待っておったぞ。そちらにいるのが前に話した娘じゃな?」

 

「えっ? えっ?」

 

オルトスの素――美少女の外見に反して老婆のような話し方のそれに、希は驚きを隠せなかった。彩牙が初めて訪れた時のように、外見と中身のギャップに驚いていたのだ。

そんな彼女をよそに、オルトスと困惑の色を隠せない彩牙が言葉を交わしていく。

 

「え、ええ。彼女が魔戒法師の希です。それであの、その姿は……?」

 

「これか?最近人の世では年頃の娘たちが歌って踊る……アイドルじゃったか、それが流行っておるのじゃろう? ならば儂も乗り遅れるわけにはいかんと思ってのう」

 

――どうじゃ、似合うじゃろ?

そう言いながら色っぽいポーズを決めるオルトスを前に、彩牙は乾いた笑みを浮かべるしかなかった。

 

『歳を考えろ。お前さんみたいな婆さんがそんな格好してもキツイだけ――むぐっ!?』

 

「ザルバっ!?」

 

思ったままのことを口にしたザルバだが、言い切る前にその口が塞がれた。

オルトスがザルバに口封じの術をかけたのだ。真顔で、即座に。

口を塞がれてカチカチと音を鳴らしてもがくザルバと、何とか口を開けさせようと奮闘する彩牙を無視するように、オルトスは希と向き合った。

 

「さて、口煩い魔導輪は放っておいて、お主が彩牙の言うとった法師じゃな? 儂はこの虹の番犬所を預かるオルトスじゃ。歓迎するぞ」

 

「は、はい! ウチ……その、東條希って言います。よろしくお願いします!」

 

改めてオルトスを前にした希は、緊張した様子を見せていた。

騎士や法師たちに指令を下す番犬所。その一つである虹の番犬所の主であるオルトスのことを、予め彩牙から聞いていたのだ。直接の上司に当たる存在であると。

しかもまるで人形のような美少女であったため、その美しさが希の緊張をより高めていた。

……ザルバの言った「婆さん」という単語は聞き流して。

 

「ん? ……そうか、“東條”か……」

 

対して、希のフルネームを聞いたオルトスは訝しげな表情を浮かべていた。

彼女の様子に疑問を抱いた希だったが、それをかき消すようにオルトスの快活な笑い声が響いた。

垣間見せた訝しげな表情は、偽りだと言わんばかりに。

 

「彩牙から聞いたぞ、あのダンタルカスの身の丈を越えるほどの防壁を張れると言うではないか」

 

「そ、そんな大したことじゃ……ウチにできるのはあれくらいですし……」

 

「謙遜するでない。お主のその力は人を守るためには必要不可欠なのじゃ、それを忘れるでない」

 

「――! はい!」

 

オルトスの言葉に希は再び身を引き締める。

――そう、自分は何もここにステージを見に来たわけでも、ただ挨拶に来たわけでもない。

自分はホラーと戦うために、みんなを守るためにここに来たのだと。

そうして気を引き締めた希の姿を、深みのある笑みで見つめたオルトスは胸元から一通の赤い封筒――指令書を取り出した。

 

「さて、というわけで早速初仕事に取り掛かってもらうかの」

 

「ホラーですか?」

 

『―――ぷはっ! おいおい、また現れたのか。キリがないな』

 

オルトスの取り出した指令書に、気を切り替えた彩牙とようやく口が開けたザルバが真っ先に反応した。

エレメントの浄化を続けていても一向にホラーの出現が減る様子がないのだ。ザルバがうんざりしたようにそう漏らすのも無理はなかった。

そして希は初めての正式な仕事を前に、ごくりと喉を鳴らした。

 

「うむ。お主ら二人に当たってもらうのじゃが――」

 

そう言いながら、オルトスは希の姿をじっと見つめる。

音ノ木坂の夏制服――学校帰りであるが故のその服装。その姿をじっと見つめられ、希はどこか気恥ずかしい感覚を抱いた。

 

「……その服装では行かせられんのう、魔法衣をやろう」

 

「……まほうい?」

 

『そうか、魔法衣のことを教えてなかったな』

 

聞き慣れない単語を鸚鵡返しのように呟く希。

何のことかわからないと言いたげな彼女に補足するように、ザルバが説明していく。

 

――魔法衣とは、騎士や法師たちが纏う衣類のことであり、術による加護が施されている衣類のことである。

施す加護は様々であり、ホラーの返り血を防ぐという戦う上では必須になるものから、衝撃を和らげる、人目に留まりにくくなる、裏側に物を収納できるなど多岐に渡っている。

そして個人の差はあれど、多くの魔法衣がコートの形状をしており、黒で配色されていることが多いのである。

 

『この小僧が着ているコートもな、ボロボロだが立派な魔法衣の一つなんだぜ』

 

「へぇ~………ってことは、この間のウチは結構危なかったってこと?」

 

「そういうことじゃ。そういうわけでお主にも魔法衣を着てもらうぞ」

 

「しかし、予備の魔法衣などあったのですか?」

 

番犬所に魔法衣があるなど聞いていなかった彩牙の疑問に対し、オルトスは不敵な笑みを浮かべた。

 

「あるぞ。とっておきのやつがのう」

 

その不敵な――いや、悪戯心に溢れたにやりとした笑みを前に彩牙は、そして初対面であるはずの希もどこか嫌な予感を抱いた。

 

 

 

**

 

 

 

「――真姫、何かあったのですか?」

 

「……え? 何よ急に」

 

「いえ、どこか心あらずというような感じがあったので気になりまして」

 

練習が終わり、休んだ希を除いた皆が帰りの準備を進めている中、真姫にそう声をかけたのは海未だった。

訝しげな、それでいてどこか気まずそうな真姫の表情を目にした海未は、己の直感が的中していたことを察した。

 

ここ最近、海未から見た真姫の様子はどこかおかしかった。

初めて違和感を抱いたのは合宿の時だったが、その時はまだ『そんな気がする』程度だった。

それが確信に近くなったのは今日のことだ。用事で先に帰った希のことを見送った時の真姫の表情が、物悲しげなものに見えたことだった。

 

対する真姫は、海未の言葉にどきりと心臓が跳ね上がりそうな感覚を抱き、周りに悟られないように少し悩みこむような様子を見せた。

やがて意を決したのか、辺りを見回して海未以外は誰も聞き耳を立てていないことを確認すると、ひそひそと耳打ちをした。

 

「……ねえ、ちょっと聞いてほしいことがあるんだけど」

 

「ええ、構いませんよ?」

 

真剣な表情で言う真姫を前に、海未はためらうことなく頷いた。

そして再度周りの様子を窺うと、海未以外には聞こえないように呟いた。

 

 

 

 

 

 

「……ホラーって言葉に、聞き覚えない?」

 

 

 

**

 

 

 

「……ここか?ザルバ」

 

『間違いない、邪気がこれでもかってほどに伝わってきやがる』

 

――時は過ぎ、夜。

人気がほとんどなく、微かな街灯だけが辺りをおぼろげに照らす広場。その隅に隠れるようにサーカスのテントのような小屋が建っていた。

“ドッキリハウス”とポップな文字でファンシーなピエロやお化けと一緒に描かれた看板が掛けられたその小屋を、彩牙は睨むように見上げていた。

 

その理由は、ザルバが言うように小屋から漂ってくる邪気。

情報が正しければここにホラーが潜んでいる筈なのだ。ファンシーな見た目とは裏腹におぞましい邪気が、彩牙の警戒心をより高めていた。

 

『可愛い見た目に惹かれてみたら地獄の入り口……ってわけか』

 

「……」

 

人間を喰らうために、誘い込むためにあらゆる手を使うホラー。

時には甘い顔をも使うその狡猾さが、彩牙の中にある怒りの炎を燃え上がらせていく。

その怒りの炎を胸に秘め、いざ乗りこまんと踏み出そうとした時、彩牙は何か思い出したかのように突然くるりと踵を返した。

そして後ろの方に立っていた街灯に向かって、呆れるように声をかけた。

 

「……いつまでそうしてるんだ?」

 

「ちょ、ちょっと待って!まだ心の準備が……」

 

彩牙の声に応えたのは、関西弁のような少女の声――希の声だった。

しかし彼女の声が発せられたのは、彩牙が向き合っている街灯の裏。希はその街灯の裏に隠れていたのだ。

ホラーの住処を目の前にして恐怖に侵されてしまった――というわけではない。彼女の声と街灯の端からちらりと見える仕草は、恐怖に侵された者のそれではなかった。

どちらかというと――

 

『なんだ、まだ恥ずかしがってるのか?俺様たちしかいないっていうのに』

 

「し、しかたないやん。恥ずかしいもんは恥ずかしいんよ」

 

――羞恥に染まった者のそれに近かった。

ザルバに促されても渋っていたがやがて意を決したのか、飛び出すように街灯の裏から現れた希。

そして街灯の灯りに照らされ、彼女の姿が露になった。

 

 

「……あ、あんまり見とんといてや」

 

希は、魔法衣を身に纏っていた。

背中に三日月のワンポイントが施された紫色のロングコートを纏っていたが、コートは問題ではなかった。問題なのはその下だ。

丈の短いスカートとブーツの間で輝く白い生足に、肩が完全に露出しているトップス。特にトップスは彼女の最大の特徴である豊満な胸を強調するように谷間を覗かせていた。

 

……これが、オルトスが希に与えた魔法衣である。

一歩間違えれば“そっち系の趣味”と誤解されかねないその魔法衣を纏う希は羞恥で顔を真っ赤に染め、対する彩牙も出てくるように促したものの気恥ずかしそうに視線を逸らした。

いくら魔法衣とわかっていても、年頃の男子である彼には少々刺激が強いのもまた事実だった。

 

『アイドルをやってるのに何をそこまで恥ずかしがる?この間だって水着同然の姿で踊っていたじゃないか』

 

「そ、それとこれとは話が別やん。ステージで着るのと街中で着るのじゃわけが違うんよ」

 

希の言い分も最もで、確かにライブをするときには露出が激しい衣装を着ることもあるが、それはあくまでステージに合った衣装なのだ。街中で着て歩くわけではないし、ライブ中では集中していることもあって気にすることはない。

だけどこれは別だ。これはライブで着る衣装ではない、街中で着る服装なのだ。いくら認識阻害の術がかけられていて人目に留まることはないにしても、恥ずかしいものは恥ずかしかった。

 

『しかしだな、昔は今で言うレオタード同然の魔法衣を着ていた法師がいたんだぜ。それに比べれば可愛いもんじゃないか』

 

「そう言うてもなあ……」

 

「もういいだろう、行こう」

 

「あ、ちょっと待って」

 

そろそろ話を切り上げてテント小屋へと進もうとした彩牙を、希が呼び止めた。

まだ恥ずかしがっているのかと思い、振り返った彩牙だったが、そこにいた希は自らの格好に恥ずかしがっている様子ではなく、真剣な表情を浮かべていた。

そして、やや躊躇いがちに口を開いた。

 

「……本当なん?海未ちゃんのこと」

 

「……ああ、本当だ」

 

『ホラーの返り血を浴びちまったあの嬢ちゃんは百日後に死ぬ。残念だがれっきとした事実だ』

 

希は彩牙から、そしてオルトスから聞いたのだ。

ホラーの返り血を浴びた者がどうなるのか。海未がその返り血を浴びてしまったことを。

大切な友達が死の運命に囚われてしまった事実。それを聞いた直後、ショックのあまり視界が真っ暗になってしまった程だ。

 

「でも、ヴァランカスの実ってのがあれば海未ちゃんは助かるんよね?」

 

「ああ、だから海未はその日まで守り抜く!絶対に……!」

 

決意を新たに固めるように、険しい表情で拳を握りしめる彩牙。

そんな彼の拳に、希の手がそっと置かれる。

見ればそこには、優しい表情で彩牙を見つめる希の姿があった。

 

「ウチも、やで? 海未ちゃんは大切なお友達やもん、ウチらで必ず助けような」

 

「……そうだな。俺たちで、必ず」

 

 

 

 

 

 

「……中は思ってたより広いんやね」

 

「おそらく、この小屋自体がホラーの張った結界なのかもしれないな」

 

『ああ。この胃の中に呑み込まれたような感じ、間違いないだろうな』

 

テント小屋へと足を踏み入れた彩牙たち、彼らは今その通路を歩いていた。

希の言う通り、テント小屋はそのこぢんまりとした外見に反し、内部は広い通路がどこまでも続いており、その上小屋の内部全体に靄がかかったような感覚が漂っていた。薄いピンクで染められ、ファンシーなピエロやお化けの装飾が施された通路の内装が、生理的嫌悪感とも言えるその薄気味悪さをより高めていた。

 

テント小屋そのものがホラーの張った結界であることが疑い様のなくなったその通路を、彩牙が先導して警戒しながら進んでいく。

ホラーの張った結界であるならば、いつどこからホラーやその使い魔が襲ってきても不思議ではないからだ。それに感化され、希の魔導筆を握る手にも自然と力が入る。

 

そうして通路を進んでいくと、曲がり角に差し掛かった。

ピエロのお面が壁に架けられたその角の先を窺う彩牙。敵の姿や気配がないことを確認すると、先に進もうと足を踏み出した。

――その時、希の背筋にぞくりとした悪寒が走った。

 

「――! 彩牙くん!待って!!」

 

「!?」

 

集燥に駆られた希の叫び。

その叫びに尋常ではない危機感を抱いた彩牙は踏み出していた足を引っ込めて飛び退くと、それと同時に角の壁に架けられていたピエロのお面の両目が妖しく光りだした。

すると突然ピエロのお面の真下から数本の針が生えてくるように現れ、彩牙が踏み出そうとしていた場所目掛けて伸びてきたのだ。彩牙が飛び退いていたため、空を切るだけに終わった針は金属音と共に床に突き刺さり、宙に溶けるように消えていった。

 

「っ……すまない希、助かったよ」

 

『罠か。よく気づいたな、俺様よりも早かったんじゃないか?』

 

「なんだか猛烈に嫌な予感がしたんやけど……無事でよかった」

 

彩牙が罠を踏もうとした寸前、希の脳裏に直感とも言うべき警鐘が鳴り響いたのだ。『今踏み出させてはいけない』と。

それが彼女の持つ強力な法力の副作用なのか、生来の勘の鋭さによるものなのか定かではないが、結果として彩牙が助かったことに安堵していた。

 

その彩牙だが、罠に嵌らずによかったという安堵もそこそこに、訝しげに罠のあった場所を見つめていた。

希が不思議そうにその姿を見つめていると、彩牙はどうにも納得しきれないと言いたげな表情を浮かべた。

 

「……おかしいな」

 

「どうしたん?」

 

「今の罠だけど、出てきた針が急所を狙っていないんだ。敵を排除する罠にしてはおかしくないか?」

 

「……そうだったん? 咄嗟のことやったから全然気づかへんかった」

 

彩牙の記憶が正しければ、あの時彩牙目がけて突き出てきた針は頭、首、胸などといった急所は避け、手足などの刺さっても命に別状はない箇所を狙っていたのだ。

敵――この場合自分たちを排除する罠にしてはどうにも不自然な造りになっていた。それが気がかりだった。

 

『……この罠は敵の排除じゃなく、獲物を弱らせるためのようだな』

 

「弱らせるため?」

 

『ああ。おそらくここに潜んでるホラーはデストラップ。結界内に誘い込んだ人間を罠で心身ともに弱らせてから喰らう悪趣味なホラーだ』

 

ザルバの話ではこうだ。

件のホラー――デストラップは、自らが張った結界の中に人間を誘い込む。そして結界内の至る所に罠を仕掛け、獲物を心身ともに弱らせ、追い詰めていく。

一度では到底死ぬことのない罠でじわじわと嬲り、その苦しんでいく様を楽しみながら。

そうして弱りきって“味付けが施された”ところで喰らうというのだ。

 

話を聞いているうちに彩牙の表情は険しくなり、拳も固く握られていく。

怒っているのだ。人間を喰らうホラーを、じわじわと嬲り殺しにするかのように追い詰めるその悪辣さに怒りを抱いていた。

そしてそれは彩牙だけではなかった。隣にいた希も、ホラーの非道に憤りを隠せずにいた。

 

「……先に進もう」

 

「……うん。これ以上好きにさせたらあかんね」

 

 

 

 

 

そうして奥へと進んでいく彩牙と希。

奥に進むにつれて通路は薄暗くなっていき、空気の重苦しさも増していった。

そして罠も。致命傷には至らないが対象を確実に弱らせていく罠の数も、そのえげつなさも増していった。

しかしそれらは全て罠にかかる前に希が感知したため、彩牙たちは事実無傷だった。

持ち前の勘の鋭さによるものといえばいいのか、彼女の感知力の高さに彩牙とザルバは感嘆とした。

 

そうして二人が辿りついた場所は、開けた空間だった。

テント小屋の外から見た広さがちょうどこの位だったと思わせるその広間には、壁に幾つものピエロやお化けのお面が架けられており、ここまでの通路に比べるとやや明るかった。

しかしその反面、空気の重苦しさはこれまでの比ではなくなっており、最早肌に触れる空気が獣の吐息のように感じるほどだった。

 

警戒する彩牙と希。

辺りを注意深く見回しながら進んでいく、その時――

 

 

 

「――おやおや、まさかここまで入り込む方がいらっしゃるとは驚きです」

 

「「―――っ!!」」

 

背後から響いた、驚きと愉快さが織り混じった声。

振り返った先には派手な化粧と衣装に身を包んだピエロがいた。ステッキを片手に、興奮冷めやらぬ様子で彩牙たちを見つめていた。

すぐさま彩牙が魔導火を灯すと、その瞳に魔界文字が浮かび上がった。

すなわち、このピエロがホラー・デストラップであるということだ。

 

「なぁるほど、魔戒騎士でしたか。それにしても掠り傷一つないとは驚きです。ワタクシ自信をなくしてしまいそうです」

 

オヨヨヨ、と泣いているそぶりを見せるピエロ。

その感情に溢れた姿を前にした希は、言い表しようのない気味の悪さを感じていた。泣いているようで泣いていない、笑っているようで笑っていない。初めて目にした意志をはっきりと持ったホラーに、途方もない不快感を抱いた。

 

そして彩牙は、ピエロをただじっと静かに見つめていた。

表情を険しくし、鞘に収まった魔戒剣を強く握りしめながら呟くように口を開いた。

 

「……この結界を張ったのは、お前か」

 

「ピンポンピンポーン!そぉの通りデス!」

 

「あの罠は何のつもりだ」

 

「ンー……あれですか。 あれはワタクシ自慢の“調味料”です」

 

「ちょうみ……りょう……?」

 

呆然とした希の呟きに、ピエロは愉快そうな笑みを浮かべた。

それはさながら自分の技術を誇らしげに語る職人のように。

 

「ワタクシは珍味が好みでしてね、幸せの絶頂を調味料とする輩もいるようですが、あんなものはただ脂っこいだけです!」

 

「本当の美味というものはですね、甘さ、辛さ、ほろ苦さが絶妙に絡み合ったものなのです! そしてそれが実現できるのはそう!極限の恐怖と絶望なのです!」

 

「勢いあまって殺してしまわないようにじわじわと痛みつけ、死への恐怖と絶望にゆっくりと染めていくと素材の味が最大限に活かされるようになり、このときの味がまた言葉に表せないほどの美味なのですよ!」

 

「そうそう、一つお話ししましょう! 先日そちらの法師と同じ年頃の娘がやって来たのですが、その娘の恐怖に染まった顔が実に最高のスパイスでして――」

 

 

 

 

「――もういい。喋るな」

 

遮るように放たれた彩牙の言葉と同時に振るわれた、魔戒剣。

軽々と躱したピエロによって魔戒剣は空を切ったが、彩牙は怒りを隠しきれない表情を浮かべ、すぐにその切っ先を向き直す。横では同じように憤りを隠しきれていない希が、魔導筆を構えていた。

話を遮られ、剣を振るわれたピエロはそれでもニタァと愉快そうに笑っていた。

 

「いいでしょう、普通の人間を喰うのも飽きてきました。お二方にはワタクシの最高のトラップを楽しんでいただくとしましょう!」

 

その言葉と同時にステッキで床を突き、沈むように床の中へと消えていったピエロ。

すると広間の全体が脈動を打つように妖しく光り、ピエロの不気味な高笑いが響き渡る。

一層薄暗くなり、どこから仕掛けてくるのかと辺りを警戒する彩牙。冷や汗を浮かべ、緊張しきった表情だが恐怖に呑み込まれないようにと希も周囲に意識を向ける。

そして、彩牙の足がすり足で一歩動いた時――

 

「――! 彩牙くんっ!」

 

「っ!」

 

希の叫びと共に飛び退く彩牙。その直後、彼のいた場所に無数の槍が天井から降ってきて床に突き刺さった。

そして飛び退いた先に着地した瞬間、今度はどこからともなく噴き出てきた火炎放射が襲い掛かる。

炎にコートをたなびかせながら火炎放射を躱すと、今度は巨大な斧が振り子のように揺られながら襲い掛かる。すかさず魔戒剣で受け止め、鍔迫り合いの後に弾き返すと、畳みかけるように全方位から同じような斧が襲い掛かってきた。

 

息をつく間もなく襲い掛かるピエロ――いや、ホラーのトラップ。

魔戒騎士ならば少しくらい過激でも平気だと言いたいのか、そのトラップは普通の人間ならば即死してしまうようなものばかりだった。

 

全方位から襲い掛かる斧を、独楽のように回転して弾き返す彩牙。

すると今度はその隙間の縫うように無数のナイフが襲い掛かる。360度、真上も含めた全周囲から襲うそれらは一度に飛んでくるのではなく時間差になっており、防ぎきるのは困難となっていた。

襲い掛かるナイフを弾き返すが、全てには対処しきれない彩牙。振るわれた魔戒剣を逃れたナイフが彼の身体に突き刺さらんとした瞬間――

 

「彩牙くん!」

 

彩牙をドーム状に囲むように張られた希の防壁が、襲い掛かるナイフを全て弾き落とした。

次のトラップが襲い掛かる前に彩牙の傍に駆け寄り、再びドーム状の防壁を張る希。その直後、ナイフだけでなく槍、斧、火炎放射などが途切れることなく防壁に守られた二人に襲い掛かった。

 

「助かったよ」

 

「どういたしまして。でもここからどうしたらええんやろ?」

 

『奴をおびき出すことができればいいんだがな』

 

ピエロは未だ姿を隠し、その高笑いが響くだけだ。

その上希の防壁が解除された瞬間、これら無数の凶刃がその身を襲うことは明白だったため、彩牙たちは下手に身動きが取れなかった。

頑丈さは折紙付きである希の防壁が破られる心配はなさそうだが、このままではいつまで経っても状況を覆すことができない。

どうしたものかと手を探っていた、その時だ。

 

 

――フワッ

 

「え……?」

 

「なっ……!」

 

突然の浮遊感。

足下に視線を移すと、そこにはさっきまで自分たちが立っていた床がなく、ぽっかりと二人を呑み込むほどの穴が開いていた。

そしてその遥か下には、人骨らしき残骸が浮かび上がる酸の池が待ち構えていた。

 

「――きゃあああぁぁぁーーーーー!」

 

「うあああぁぁぁーーーーーっ!」

 

重力に従い、穴の中へと落ちていく彩牙と希。

深く深く、酸の池目掛けて落ちていき、その声が聞こえなくなった頃、床から生えてくるようにピエロが姿を現した。

白く塗られたその表情に愉快な笑みを浮かべ、二人が落ちていった穴へと歩み寄っていく。

きっと今、穴の中では酸の池で身体を焼かれてもがき苦しむ二人の姿があることだろう。

 

「楽しみですねぇ。どんな美味しそうな悲鳴をあげていることでしょう」

 

あの騎士も良さそうだが、何よりもあの法師がとても美味しそうだ。

逞しい顔立ちの騎士の表情を恐怖に歪ませるのもいいが、あの法師のように可憐な少女の苦痛と恐怖に歪んだ顔は格別だ。普段は愛らしい笑顔を浮かべているであろうその表情を絶望に落とし、醜く崩れさせる姿は想像しただけで涎が止まらなくなる。

そうして舌なめずりし、穴の中を覗き込むと――

 

 

 

 

「――ハアッ!」

 

「ぎゃあっ! な、なんですって!?」

 

魔戒剣を構えた彩牙が猛烈な勢いで穴の中から飛び出し、穴を覗き込んだピエロを斬り裂いたのだ。

斬り裂かれたことで顔にできた横一文字の傷を抑え込み、魔戒剣を構える彩牙を困惑した表情で睨みつけるように見つめるピエロ。

 

――何故奴が無事なんだ!?酸の池に焼かれることもなく!?

なぜ?どうやって!?

 

その疑問の答えは、穴の中を再度覗きこんだ瞬間に明らかになった。

 

 

 

「……! なんですって!?」

 

穴の中には希がいた。

――自らが張った防壁を足場にして、酸の池に落ちることなく立っていた希が。

穴に落ちた時、酸の池に落ちる前に自分たちの下に穴をちょうど塞ぐように防壁を張っていたのだ。そうして自分たちが酸の池に落ちたと思い込んだピエロが姿を現し、穴の中を覗き込むのを待ち構えて彩牙が跳び上がった。

これが一連の流れだった。

 

『逆に罠に嵌められた気分はどうだ?』

 

「私を、罠に嵌めた……? ……許しません、ただじゃおきませんよっ!」

 

今までの愉快そうな笑みとは一転し、憤怒に満ちた怒りの表情を浮かべたピエロがステッキを振るうと、その身体をファンシーな色合いの光が包み込んだ。

その光は靄のような闇へと変化していき、やがて溶けるように消えていくと、ピエロの姿は人間の姿ではなくなっていた。

道化師を彷彿とさせ、それでいて生理的嫌悪感を抱かせる生々しい姿をした怪物――ホラー・デストラップの真の姿だった。

 

禍々しい形状に変化したステッキを携え、彩牙に襲い掛かるデストラップ。

振るわれたステッキを彩牙は魔戒剣で受け止め、デストラップごと弾き返す。そして間髪入れずに円を描いてガロの鎧を召喚する。

たたらを踏むデストラップに、これまでの仕返しとばかりに牙狼剣を振るい、躍りかかるガロ。

 

猛烈な勢いで振るわれる牙狼剣をステッキで受け止めるデストラップだが、その動きはガロのそれとは違ってぎこちなく、辛うじて受け止めるのが精一杯というような様子だった。

それもそのはずで、デストラップの本来の戦い方とはトラップで相手を苦しめ、自らは安全なところから高みの見物をするというもの。こうして自分自身で戦うなどとは以ての外なのだ。

だが今のデストラップは自らのトラップを防がれた上、自分を嵌めるために利用したことによる怒りに支配され、その事実を見失っていた。

 

やがてガロの猛攻に押し切られ、デストラップのステッキが弾かれて宙を舞う。

デストラップは宙に舞う自らのステッキを集燥に駆られたように見つめるがそれも僅かで、すぐさま爪と牙を立ててガロに襲い掛かった。

しかしガロはデストラップの攻撃を躱し、カウンターとして横薙ぎに振るった牙狼剣をその胴体に押し当てる。

一瞬、時間が止まったかのように動きを止める両者。やがて再び時間が動き出すと、ガロはそのまま牙狼剣を振りきってデストラップの身体を両断した。

 

『■■■■■―――――!』

 

上半身と下半身が分かれ、苦痛と驚愕に満ちた表情で崩れ落ちるデストラップ。その様は皮肉にも、これまで喰らい続けてきた人間たちと同じ姿だった。

そして断末魔と共にその肉体が消滅すると、周囲の光景が――テント小屋の広間が歪み、変化していく。デストラップが斃れたことにより、その結界が効力を失ったのだ。

 

気づいた時にはガロと希の姿はテント小屋の外にあった。

自分たちが先ほどまでいたテント小屋は今にも崩れそうなほどにボロボロに、寂れた状態になっていた。

希は、ガロの鎧を解除した彩牙は、そのテント小屋をじっと見つめる。すると希はテント小屋の一角に何かが張り付いていることに気づき、傍に歩み寄ると悲しげな表情を浮かべながらそれにそっと触れた。

彼女が触れた指先には、昔このテント小屋を訪れたと思しき子供が、あのピエロと一緒に満面の笑みを浮かべている写真が張り付けてあった。

 

「……あの人、ホラーに憑依される前は純粋に人を驚かせるのが好きだったんかな」

 

「……そうだったのかもな。だが何かがきっかけとなって奴はホラーになり、人を喰らうようになってしまった」

 

『人を笑顔にさせるのが目的だったトラップが、人を絶望させて喰らうためになっちまったってのは、皮肉な話だな』

 

「……」

 

あのピエロは、一体どこで道を間違えてしまったというのか。何故ホラーになってしまったのか。

だがいくら考えてもその答えを知る由はない。あのピエロはもういないのだから。

彩牙が斬る前から、ホラーに憑依された時点であのピエロはもうどこにも存在しないのだから。

 

「帰ろう、希。今日の仕事は終わった」

 

「……うん、そうやね」

 

いつまでもこうしていても仕方ない。

番犬所への報告もあるし、明日も早い。そう思い、気持ちを切り替えて立ち上がった。

 

 

その時だ。

 

 

 

 

「――なんだ、もう終わっちまったのか?」

 

「っ!」

 

後方から近づいてくる、草を踏む足音と聞き覚えのある声。

彩牙と、彼に倣うように振り返った希の視線の先にいたのは、林の中からゆっくりと現れた黒いコートに身を包んだサングラスをかけた少年。

――魔戒騎士・コテツがそこにいた。

 

「……お前か、何の用だ」

 

「何だとはお言葉だな、仕事だよ仕事。この辺りに人を誘い込んで喰らうホラーがいるって話だったからな」

 

『そいつならたった今討滅したところだ、一足遅かったな』

 

「みたいだな。 ………ん?」

 

自然と表情が険しくなった彩牙と話すコテツの視線が一点に止まる。

その視線の先にあったのは、こちらをキョトンとした表情で見つめる魔戒法師らしき少女――希。

 

「……アンタは?」

 

「あ、はじめましてやったね。ウチ、東條希っていうんよ。魔戒法師……の見習いってとこやね」

 

「俺はコテツ、御覧の通り魔戒騎士さ。しっかし可愛いなあ……どうよ、こんな奴よりも俺と組まないか?」

 

「えっ!?」

 

「……どさくさに紛れて何を言ってるんだ」

 

呆れたような表情を浮かべる彩牙に、「冗談だ」と鼻で笑うコテツ。

まるで正反対な二人の騎士の姿を前にした希は、賑やかな居場所が増えたと、朗らかな気持ちと共にそう思うのだった。

 

 

 

**

 

 

 

――園田家・玄関

 

「おかえりなさい、彩牙くん」

 

「……ただいま。どうしたんだ?こんなところで」

 

「そろそろ帰ってくる頃だと思いまして」

 

『ほう、嬢ちゃんも小僧の行動がわかるようになってきたか』

 

「そうかもしれませんね。ザルバさんもお帰りなさい」

 

帰路についた彩牙を待ち構えるように出迎えたのは海未だった。

きょとんとした表情を浮かべる彩牙を出迎えた海未は凛々しくも優しい笑みを浮かべ、それがホラー狩りをした後の張り詰めた彼の心を解かしていく。

コートを脱ぎ、腕に掛けた彩牙の隣を一緒に歩いていく海未。自然と背の高い彩牙を見上げる形となった。

 

「……今日もまた、ホラーですか?」

 

「ああ、でももうカタがついた。何の心配もない」

 

「そうですか……あら、また怪我をしたのではないのですか?」

 

「ん……ああ、ただの掠り傷さ」

 

「だとしてもそのままにしたらバイ菌が入りますよ。手当てしますから来てください」

 

廊下を歩きながら会話を交わしてく二人。

手当てをするようにと迫る海未の姿に朗らかな気持ちになる彩牙だが、その一方で何とも言えない違和感を抱いていた。

こちらを向きつつも、時折何か考え込むかのように俯くそぶりを見せているように見えたのだ。

そのことに疑問を抱いていた中、二人のやりとりを静観していたザルバが口を開いた。

 

『――嬢ちゃん、小僧に何か聞きたいことがあるんじゃないのか?』

 

ザルバの言葉に驚いたような表情を浮かべる海未。

やがてその表情が躊躇うようなものから仕方ないと言いたげなものに変化し、真剣な表情へと変わると、彩牙に改めて真っ直ぐ向き合った。

 

「……彩牙くん、お話ししたいことがあるのです」

 

 

 

 

 

 

――海未の部屋

 

「……そうか、西木野さんから聞いたのか」

 

「はい。希が魔戒法師だったということ、ホラーと戦うことを決めたということを」

 

立ち話でするような話じゃないということで、傷の手当ても兼ねて案内された海未の部屋。

そこで彩牙は傷の手当てを受けながら、海未の話を聞いていた。

先日の合宿の時、ホラーに襲われて希が魔戒法師であること――それまで本人も知らなかったが――が明らかになったこと。彼女がホラーと戦うことを選んだと、真姫から聞いたことを。

それらの話を彩牙は黙って聞いていた。その話は嘘偽りない真実だったからだ。

 

そして海未は、この話を真姫から聞いた時に自分の耳を疑った。

真姫がホラーのことを知っていたこともだが、それ以上に希が魔戒法師だったことに驚きを隠せなかったからだ。

彩牙から騎士や法師のことについて聞いていたからこそ、驚いたのだ。まさか自分の大切な仲間が魔戒法師であることなど、そしてその危険極まりない世界に足を踏み入れたことなど夢にも思わなかったのだから。

 

“もしやあの勘の鋭さも法師としての力に由縁するものか?”などと考えつつも、気持ちを切り替える海未。

話はまだ終わってはいないのだ。

 

「……心配なのか?」

 

彩牙が言うと、海未はこくんと頷いた。

 

「……話では、希は彩牙くんと違って戦ってきたわけではなく、ホラーのことを知らずに生きてきたわけですから……不安にはなります」

 

海未の言う通り、希はこれまで彩牙のように戦ってきたわけでも、鍛えてきたわけでもない。

今はただその身体に流れる強力な法力によって戦えているのだ。

そして――

 

「希が自分でその道を選んだのならそれを邪魔するのは無粋――と思うべきなのでしょうが……」

 

 

 

 

 

 

 

「……やはり、怖いのです。私も真姫も、希に戦ってほしくないのかもしれません」

 

「……」

 

「彩牙くんだけでもそうなのに、もし希までもが傷ついてしまうのかと思うと……怖くて仕方がないのです」

 

海未の脳裏に浮かぶのは彩牙と初めて会った夜――家の前で血だらけで倒れていた彼の姿。

深い傷を負って倒れた彩牙の姿が、希の姿にダブって映し出される。

もし、ホラーとの戦いの中で彼女までもがあのような姿になったら――それが、怖くて怖くて仕方がなかった。

 

 

「……優しいんだな、海未も西木野さんも」

 

ホラーとの戦いという、何時命を落としても可笑しくない世界。自ら選んだとはいえ、海未も真姫も本音では希にそんな世界に足を踏み入れてほしくなかったのだ。

――だからこそ、あの夜、希は彼女たちを守るために戦う道を選んだのだろう。友達を心から大事に思う彼女たちを守りたかったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――しかし

 

『……もっとも、あの嬢ちゃんがこれから先も戦うかはわからんがな』

 

「……え……?」

 

「おやすみ、海未」

 

ザルバの言葉に思わず反応した海未だが、それよりも先に立ち上がった彩牙が海未の部屋を後にした。咄嗟に彩牙を掴もうと手を伸ばした海未だったが、それは叶わなかった。

そうして部屋には、ザルバの言葉が頭から離れずに呆然とした表情の海未だけが取り残された。

 

 

 

海未の部屋を後にした彩牙は、屋敷の廊下を一人歩いていく。

薄暗いそこを進んでいく中で、真剣な表情でザルバに話しかける。

 

「ザルバ、希はどうなると思う?」

 

『さあな、どちらを選ぶかはあの嬢ちゃん自身だ。

 

 

 

 

 

 

 

 ――これまでの生活を捨てるかどうかはな』

 

 

 

**

 

 

 

――希の部屋

 

 

「……はぁ」

 

マンションにある自らの部屋に帰宅した希は衣服を脱ぎ捨て、下着同然の姿となって寝室のベッドに身を投げた。

ぼふん。と、弾力がありつつも柔らかいベッドに受け止められ、胸を押し潰しながらうつ伏せになるその表情にはホラーと戦った疲労だけでなく、どこか憂いを帯びていた。

その表情は普段の朗らかな笑顔とは全くの正反対だった。

 

ごろんと仰向けになると、両親から貰った魔導筆をじいっと見上げる。

希は今、まったく気分が晴れずにいた。

彼女の心にはあることが重く圧し掛かっていた。

そのことを考えるだけで胸がずしりと重くなり、頭の中がごちゃごちゃと絡まって上手く考え事ができなくなる。

 

「……どうして、こんなことになっちゃったんやろ」

 

 

 

 

 

 

――それはデストラップを討滅し、番犬所へ報告しに行った時の出来事だった。

彩牙と希を出迎えたオルトスはソファに深く腰掛け、アイドル雑誌を手にくつろいでいた。

 

「ご苦労じゃ。その様子じゃと無事討滅できたようじゃの」

 

「はい」

 

「希も初仕事じゃったが具合はどうじゃったかの?」

 

「は、はい!彩牙くんもいたので大丈夫でした!」

 

「それは何よりじゃ」

 

緊張気味に答える希を、オルトスはケタケタと笑って労う。

それを目にして、希は自分にもちゃんと法師としての役目を果たすことができたのだと安堵した。そんな彼女を穏やかな表情で見守る彩牙。

そんな中、アイドル雑誌を閉じたオルトスは思い出したと言わんばかりに二人に向き合った。

 

 

そして――

 

 

 

 

 

「それで希よ、お主はいつ頃学校をやめるのかの?」

 

「………え……?」

 

余りにも唐突なオルトスの言葉に、希は思考が追いつけなかった。

 

――学校をやめる?誰が?ウチが?音ノ木坂を、μ’sをやめる?みんなと離れる?

なんで?どうして!?

 

「わしらは闇の世界に生きる者たち、故にこの道で生きると言うのならこれまでの世界とは別れを告げねばならぬ」

 

「でも……その、ウチは……!」

 

「それともお主にはその覚悟もなかったのか?」

 

頭が混乱しきった希に現実を教えるかのように、威圧感をも抱かせるような言葉を投げかけていくオルトス。

その言葉は冷たいナイフのように希の心に深く突き刺さり、抉っていく。

そんな希の姿を見兼ねてか、彩牙が前に出た。

 

「……オルトス様、急な話では希も混乱するでしょうし、彼女に考える時間を頂けないでしょうか?」

 

『どのみち今の状態じゃ、まともな答えなんてできないだろうな』

 

「……ふむ、まあいいじゃろう」

 

じゃが。と区切り、再度口を開くオルトス。

 

 

「この世界で生きるのならどうあるべきか、よく考えることじゃ」

 

 

 

 

 

 

――時は戻り、希の部屋。

 

「……」

 

確かに、オルトスの言うことは正しいのかもしれない。

ホラーと戦う身であるのなら、普通の人間の世界とは距離を置くべきなのだろう。人の世に別れを告げ、闇の世界に身を置くのが本来あるべき姿なのだ。

 

だがそれは、希にとって辛く重い選択だった。

彼女にとって音ノ木坂は――μ’sは、何物にも代えがたい居場所。元来寂しがりで内気だった彼女が勇気を出して踏み出したことをきっかけに得ることができた、暖かい居場所だ。

そんな居場所を――友達を、自ら捨てなければいけないかもしれないという事実が、希の心に重く圧し掛かっていった。

 

「お父さん、お母さん、みんな……ウチはどういたらええの……?」

 

何となしに掴んだ一枚のタロットカード。

そのカードは――“月の正位置”を示していた。

 

 

 

**

 

 

 

深夜

月が天に昇り、多くの生き物たちが眠りにつき、もしくは目覚める時間。

そして、魔獣ホラーが人を襲わんと跋扈する時間。

そんな時間に、闇に紛れて雑木林を歩く人影があった。

 

夜の闇に溶け込むような闇色のローブに身を包み、深く被ったフードからはその下の顔を窺い知ることはできない。まるで闇そのものと一体化したかのような男が、ローブの下に何かを抱えるようにして歩いていた。

周囲は闇に包まれ、灯りになるような物は何一つ持っていないというのに、男の足取りには躊躇う様子がなかった。まるで闇の中ではっきりとものが見えているようだった。

 

やがて男は雑木林の開けた場所で立ち止まった。

するとローブの下に抱えていたものを取り出し、それらを使って門のようなものを組み立てた。

――“人骨を使った”門を。

 

そして懐から一本の筆を取り出し、呪文のようなものを唱えるとその先が闇色の光を帯び、人骨の門に向けて突きつけた。

すると筆と共鳴するように門が闇色の光を放ち、鼓動をするように点滅を繰り返すと光を放つ門ごと夜の闇に溶けるように消えていった。

 

まるで、そこには最初から何もなかったかのように。

 

「……これでまた一つ、準備が整った」

 

後に残ったのはローブの男――闇法師の不敵な笑い声だけだった。

 

 

 

***

 

 

 

穂乃果「選ぶことって大変だよね」

 

穂乃果「だってどっちも大切なんだもん、簡単には決められないよ」

 

穂乃果「なんでどっちかを選ぶなんてこと、しなきゃいけないのかなぁ……」

 

 

穂乃果「次回、『選択』!」

 

 

 

穂乃果「……え?二択とは限らないって?」

 

 

 

 





魔戒指南

・ ホラー・デストラップ
人を驚かせることを喜びとするピエロに憑依したホラー。生物感のあるピエロのような姿をしている。
罠が張りめぐされた結界内に人間を誘い込み、罠によって心身ともに徐々に弱らせ、弱りきったところを喰らうことを好んでいる。
戦闘時には次々に罠を生み出して嵌らせるという、罠ありきの戦い方をとるため、素の戦闘力はそれほど高くない。


・ 希の魔法衣
オルトスから贈られた魔法衣であり、露出度が非常に高い。
烈花の魔法衣とスクフェスのチャイナドレス編を足して割ったような感じ。



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第12話  選択

遅くなりましたが、新年あけましておめでとうございます。
今年一年も、『女神ノ調べ』をよろしくお願いいたします。




 

 

 

 

 

 

「1,2,3,4! 1,2,3,4!」

 

――音ノ木坂学院・屋上。

そこにはダンスの練習をするμ’sメンバーたちの姿があった。海未のリズム取りに従って踊るその姿は息がぴったりと揃っている。

――そう、見えていた。

 

 

「――あうっ!」

 

床に何かを打ちつける音と、軽い悲鳴。

その正体はバランスを崩すように尻餅をついて倒れた希だった。痛そうに腰をさする彼女を心配するように、他のメンバーたちが慌てて駆け寄った。

 

「希ちゃん!大丈夫!?」

 

「あいたた……ごめんな穂乃果ちゃん。ウチならほら、ちょっと転んだだけやから大丈夫や」

 

穂乃果をはじめとして心配そうな表情で見つめるメンバーに対して、希は安心させるかのように笑顔を浮かべて答えた。

だがその中で、表情が晴れない者もいた。

 

「……そうは見えないけど」

 

「にこっち?」

 

にこだ。

彼女は怪訝そうな――問い詰めるような表情で希のことを見つめていた。

 

「アンタ今朝から変よ。どこか上の空になってるみたいだし」

 

「え~?ちょっとバランス崩しただけやし、そんなことあらへんよ」

 

にこの言葉にケラケラと笑って答える希。

いつもと変わらない朗らかな笑みのそれは、にこの言葉はただの思い込みで、事実何ともない“ように見える”。

そしてそこに、にこに同調するように絵里が前に出た。

 

「だとしても派手に転んだみたいだし、大事になる前に保健室で診てもらうべきじゃないかしら?」

 

「もう、心配症やねエリチは」

 

困ったような笑みを浮かべる希。

一見普段と変わらないような彼女の姿を、穂乃果、ことり、凛、花陽は心配そうに。絵里とにこは怪訝な表情で。そして海未と真姫は憂いを帯びた表情で見つめていた――

 

 

 

 

 

 

――保健室。

 

「……うん、特に心配はなさそうね」

 

「ありがとな真姫ちゃん、さすがお医者さんの娘さんやね♪」

 

「別に、これくらい大したことないわよ」

 

あれから、絵里をはじめとしたメンバーたちに診てもらうように圧された希は保健室にいた。

希自身は何度も「大丈夫」だと言ったのだが、「怪我をしていたらどうする」という至極真っ当な意見によって、ほぼ強制的に保健室に行くことになったのだ。

希の意志を無視する――ともとれるかもしれないが、裏を返せばμ’sの皆がそれだけ希のことを大事に想っていることの証でもあった。

 

そしてメンバーを代表して真姫に引っ張られる――もとい、付き添われる形で保健室を訪れたのだが、保険医が留守にしていたこともあり、多少医療知識を持つ真姫が見ることになったのだ。

その結果は打撲や足を捻った様子もない、健康体そのものだった。わかってはいたがほっと胸を撫で下ろす希。

 

対する真姫は使った道具を棚の中へと戻していく。

その最中、希に背を向けたままぽつりと呟いた。

 

「……ねえ、希。この間はどんな用があったの?」

 

「んー? ……バイト先の神社でどうしても外せない仕事があっただけやで?」

 

「……そうなの」

 

真姫の言うこの間とは、初めて番犬所を訪れた――デストラップの討滅に向かった日のことを指しているのだろう。

とはいえ本当のことを言うわけにもいかないため、適当な言い訳で誤魔化す希。

騙しているようで少々心苦しいが――そんなことを考えていると、真姫が再び口を開いた。

 

 

「希、何か隠してるでしょ」

 

どきり、と心臓が跳ね上がる。

気づいた時には、真姫は振り返って希のことをじっと見つめていた。こちらをじっと見据える真姫の視線に、できるだけ平静を装うようにして答える。

 

「……そんなことあらへんよ?」

 

「……そう……」

 

希は平静を装うので必死だった。

実際のところ、真姫の言葉は確信を突いていたのだ。

希の隠し事――それは今、彼女の中で大きく占めている悩み事のことだった。

 

――魔戒法師を続けるために、μ’sを、音ノ木坂の生徒を辞めるか否か。先日オルトスに問いだされた選択のことだった。

魔戒法師を――ホラーと戦うことを決めたのは紛れもない彼女自身の意志。人々を、μ’sのみんなを守りたいと思ったが故に、彼女は法師を辞めるなんてことはしたくなかった。

 

だがそれでも――音ノ木坂を、μ’sを去るというのは話が別だ。

彼女が最も大事にしている居場所であり、何が何でも手放したくない友達、それがμ’sだ。

そんなμ’sを手放さなければいけないというのは、元来寂しがり屋であった希にはあまりにも酷な話だった。

 

魔戒法師としてμ’sのみんなを守りたい。だがそのためにはμ’sを手放さなければいけない。その選択が、希のことを大いに悩ませていた。

にこに言われたときには否定したが、今朝からずっと上の空になっていたのはそれが理由だった。法師を諦めるか、μ’sを諦めるか――希にはどちらを選べばよいのか、わからなかった。

 

 

「ねえ、希」

 

「ん?」

 

「希は……遠くに行っちゃったりしないわよね?」

 

不安げな――涙をこらえているようにも見える表情の真姫に、希は何も答えることができなかった。

 

 

 

**

 

 

 

「奥様、お茶をお持ちしました」

 

一方同じころ、園田家にて彩牙はお茶汲みの手伝いをしていた。

盆に茶と茶菓子を載せ、襖を開けた先では海未の母が客人――日舞の関係者と談笑に華を咲かせている姿があった。

上品な笑みを浮かべているその姿は、妙齢でありながらもとても高校生の娘がいるとは思えない美しさを醸し出していた。

 

「ありがとう彩牙さん、いつもご苦労様ですね」

 

「勿体ないお言葉です。それではお客様、奥様、ごゆっくりお過ごしください」

 

茶と茶菓子を差し出し、早々に客間を後にする彩牙。

空になった盆を片付けるため、台所へと足を運んでいくその最中、ふと希のことを想った。

 

海未の友人で彼女と同じスクールアイドルであり、そして魔戒法師でもある希。

だが彼女は今、これまでの暮らしを――一介の高校生であることを、μ’sであることを捨てるかどうか迫られている。それは海未たちμ’sの皆と別れることも意味していた。

 

最初から――少なくとも記憶があるころから――魔戒騎士として生きてきた自分とは違う。希はつい先日まで何も知らず、ただの女子高生として生きてきたのだ。

当然それまで積み重ねてきたものが――友人とそれにまつわる思い出がある。

それらを捨てろと言われて、そう簡単にできるものなのだろうか。

 

彼女の気持ちがわかる――などとは、彩牙には到底言えない。

記憶がなかった彩牙と希では、あまりにも違い過ぎるのだ。置かれた状況もその立場も、積み重ねてきたものの重さも。

だから彩牙はこうするべきなどとは言わない。希が自分で決めなければ何も意味がないからだ。

 

そうしている内に、台所に辿りついていた。

盆を拭き、元の場所に戻す。そうして一息つこうとした時、彩牙の視界にあるものが留まった。

テーブルの上に無造作に置いてあった“それ”を見た瞬間、彩牙の目は大きく見開かれた。

 

「――っ!? ザルバ、これは……!」

 

『ああ、指令書だ。だがこいつは……』

 

そこにあったのは一通の封筒――番犬所の指令書だった。

だがその色は普段目にする赤一色ではなく、漆黒に染まっていた。

漆黒の指令書――それは決して断ることのできない、厳命であることを意味していた。

 

『どうやら、面倒なことになりそうだな』

 

警戒するようなザルバの言葉を耳にしながら、彩牙は険しい表情で指令書を見つめ、それを持つ手に無意識に力を籠めた。

 

 

 

**

 

 

 

――虹の番犬所

 

「……あ、彩牙くん」

 

「希、君のところにも来たのか」

 

「うん、お仕事ってあんな風に来るんやね」

 

指令書の招集により番犬所を訪れた彩牙だったが、そこには既に先客がいた。

その一人が希だ。とは言っても彼女は彩牙とほぼ同時に番犬所に訪れたのだが。

彼女も彩牙と同じように黒い指令書によって呼び出されたのだ。

ちなみに彼女の場合は帰ろうとしたときの下駄箱の中に入れられていたのだが、それは割愛しよう。

そしてもう一人――

 

 

「なんだ、お前まで来たのか。オッサンはともかく俺だけで十分なのによ」

 

「……その言葉、そっくりそのまま返してやる」

 

コテツだ。

彼もまた二人と同じように黒い指令書を受け取り、ここにいた。

だが彩牙と対面した瞬間挑発的な言動をとり、彩牙自身もその挑発に乗るかのように言葉を返す。

火花を散らすように睨み合う二人。顔を合わせた途端に険悪な雰囲気となった彩牙とコテツを不安そうに見つめる希の視界に、ある人物が映りこんだ。

 

「……」

 

壮年の魔戒騎士――大和だ。

彼は言い争う彩牙とコテツを一瞥すると呆れたように溜息を吐き、静かに佇んでいた。

この場における一番の年長者である彼に対し、希はやや緊張気味に話しかけた。

 

「あの……あなたは……?」

 

「……む。私は魔戒騎士の大和という者だが……そうか、お前が彩牙の言っていた法師の……」

 

「は、はい。ウチ、東條希っていいます。よろしくお願いします!」

 

「うむ」

 

そう言ったっきり再び黙り込み、静かに目を閉じる大和。

そんな彼に対し、希はさっきから気になっていたことを問いだした。

 

「……それで、あの……止めないんですか?あの二人」

 

希が差した先にあったのは、先程から互いを挑発するような言い争いをする彩牙とコテツの姿があった。

売り言葉に買い言葉といわんばかりに言い争いを繰り広げる二人はヒートアップしたのか、取っ組み合い一歩手前という姿を晒していた。互いを睨み合うその表情からは、最早歯軋りが聞こえてきそうな勢いだった。

 

「……勝手にやらせておけ。剣さえ抜かなければ掟破りにはならん」

 

「え?でも……」

 

「何度言っても聴かんのだ。言うだけ無駄だ」

 

「……そ、そうなんですか?」

 

呆れ返ったように――諦めを含んでいるようなその言葉に、希はもう一度彩牙とコテツの方に視線を向ける。

 

 

「――上等だ!どっちが強いかハッキリさせてやる!」

 

「ああ、この間の決着をつけてやる!」

 

 

「……ホントに大丈夫なんやろか」

 

とても落ち着きそうにない二人の姿を目にし、不安げに呟く希。

それと同時に、呆れ返ってしまう大和の気持ちがわかってしまうのであった。

 

 

 

 

「――よう集まってくれたのう」

 

そんな折、突如辺りに響いた声。それは一体いつから居たというのか、いつものソファにどっしりと腰かけたオルトスのものだった。

神官である彼女の登場により、希や大和は勿論、それまで言い争いをしていた彩牙とコテツもその喧噪をピタリと止め、オルトスと向き合った。

そうしてこの場にいる者の視線を一身に受けたオルトスは満を持したように口を開いた。

 

「お主たちを呼んだのはな、ちと厄介な事が起きてしまったのじゃ」

 

「……ホラーが出たんですか?」

 

「いや、そうではない。“まだ”の」

 

希の問いに奇妙な返答をするオルトス。

疑問符を浮かべる希をよそにオルトスは再び口を開いていく。

 

「お主らは“ガザリウスの門”を聞いたことはあるかの?」

 

「……それはまた、厄介なものが……」

 

オルトスの言葉に、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる大和。

だが聞き覚えのないその単語に彩牙にコテツ、そして希の三人は首を傾げた。

 

「……知ってるか?ゾルバ」

 

『……ええ。大昔に闇に堕ちた法師が作り出した魔導具です』

 

『こいつがまた厄介な代物でな』

 

ザルバとゾルバの話ではこうだ。

ガザリウスの門とは大昔に闇に堕ちた魔戒法師が闇の力を得るために作り出した、魔界からホラーを召喚する魔導具なのだ。その材料には陰我の溜まった素材が――主に人骨などが使われると云う。

そして周辺の陰我を集めて濃縮することで、強大なホラーを呼び寄せるゲートとなるのだ。それこそ最初から固有の姿を持つ強大なホラーを。

 

だがガザリウスの門はそれだけではない。最大の特徴は“複数使用が前提であること”なのだ。

各地に配置された門がその周辺の陰我を集め、複数の門の内一台に集められた陰我が一点に集められるのである。しかもどれが本体か決まっているわけではなく、一台一台が本体としての機能を持つ――生物でいう群体と同様の性質があった。

その上一台を潰しても蓄積された陰我は別の門へ送られるため、確実に一台も残さずに潰さなければホラー召喚を近づけてしまうという厄介な事極まりない機能も持っていた。

 

「そんな物がこの街に……?」

 

「うむ。門が設置された場所には既にいくつか目処をつけておる。お主らには手分けして門を破壊してもらうぞ」

 

「わかりました」

 

「虱潰しか……ま、仕方ないか」

 

「――行くぞ」

 

門の破壊のため、番犬所を後にしていく彩牙にコテツ、そして大和。

その後に続こうとした希だったが――

 

 

「希、ちょいと話がある」

 

その背にかけられたオルトスの声が、希の歩みを止めた。

振り返った希の視線の先には、指令の内容を伝えた時とはまた別の意味で険しい表情を浮かべたオルトスの姿があった。

 

「あの、なにか……?」

 

「……先日の話の件、答えは決まったかの?」

 

「っ! それは……」

 

オルトスの言いたいことはすぐに分かった。

法師として生きるために学校を辞める決心がついたかどうか聞いているのだ。

しかし希はまだそのことについて答えを決めていない。決められていない。

答えに詰まった希に、オルトスは仕方ないと言わんばかりにため息をついた。

 

「……わしもすぐに答えを出せとは言わん。じゃがな、いつまでも目を逸らしてばかりではいられんぞ」

 

「……はい」

 

 

わかっていた。

いつまでも引き延ばしていられるようなことではないと。

わかっているからこそ、答えを出すことができなかった。

 

 

 

**

 

 

 

――夜の街・その一角

 

「――えいっ!」

 

掛け声と共に放たれた、魔法衣に身を包んだ希の魔導筆の筆先から伸びる光。

その光は鞭のようにしなりながら伸びていき、何もない空間で突然ピタリとその動きを止めた。

――いや、“何もない”のではない。その光の先端はまるで何かを引っ張っているかのように震え、光の先にある空間は陽炎のように蠢いていた。

そして――

 

「てぇいっ!」

 

何もない空間から光が引っ張り出したのは、人骨でできた門――ガザリウスの門だった。

多くの闇を纏った門は防衛機能が働いたのか、自らを引き摺りだした希に対して闇でできた手を伸ばす。

希の首を締め上げようと、その手が彼女の目前まで迫った時――

 

「――ムンッ!」

 

横から割り込んできた一振りの剣が、闇の手を両断した。

長い刀身を持つ剣――魔戒剣を振るったのは、黒いコートに身を包んだ壮年の男――大和だった。

彼はその鋭い目つきでガザリウスの門を睨むと、懐から魔導筆を取り出して五芒星の陣を描き、その陣を魔導筆で一突きした。すると五芒星の陣から五つの光弾が門に向かって飛び出していった。

五つの光弾を浴びたガザリウスの門は悲鳴のような断末魔を上げ、纏っていた闇が天に昇っていくように消えていく。すると最後に残った人骨の門はガラガラと音を立てて崩れていった。

 

大和が門を破壊する一連の流れを、隣で頭に刻みこむようにじっと見つめていた希。

そんな希に、大和は手にしていた魔導筆を改めて見せつけるように向き合った。

 

「よく覚えておけ。これが法師が門を封印する術だ」

 

「……はい!」

 

希は今、大和と共に行動してガザリウスの門を潰しに回っていた。

お互いに初対面の二人が行動を共にする理由だが、それはガザリウスの門の破壊方法にあった。

 

ガザリウスの門の破壊は通常のエレメントを浄化するのと同じ方法であった。故に彩牙とコテツはそれぞれ単独で門の破壊が可能であった。

しかし魔戒法師であり、素人でもある希は法師としての浄化方法を知らなかった。その上、彩牙とコテツも、法師ならではの方法は知らなかった。もっともこの二人は魔戒騎士なのだから知らなくて当然だが。

 

そこで挙がったのが大和だった。

魔戒騎士であると同時に魔戒法師でもある彼は、法師ならではの浄化方法をよく熟知していた。

そのため彼が希と行動を共にすることで、法師による浄化方法を彼女に伝授する――というのが、今に至る理由であった。

 

「では次に行くぞ。今夜中に片付けられる分は片付けておく」

 

「は、はい!」

 

次の門がある地点へと向かって歩き出す大和の背を、慌てるように追いかける希。

自分は法師なのだ。大和がやってみせた浄化方法とその術をしっかりと身に着け、自分一人でもできるようにならなければならない。

今は無数にあると言われている門を一つでも多く破壊しないといけない。自分のことで悩んでいる状況ではないのだ。

 

――そう思っていた時だ。

 

「法師の道を歩むために、これまでの生活を捨てるかどうか決められずにいるそうだな」

 

「――っ!?」

 

背を向け、歩みを止めないままの大和の言葉に、希の意識は一気に冷え切った。

いったん頭の隅に追いやっていた――いや、“目を逸らしていた”といっても過言ではない問題を突き付けられ、凍ったように固まる希。

こちらに背を向けている大和の姿が、まるでいつまでも決められずにいる自分のことを責めているように感じた。

 

「……私は、今のお前が法師の道を歩むべきではないと思っている」

 

「っ! どうしてですか、素人のウチじゃ頼りないからですか!?」

 

大和の言葉に思わず食ってかかる希。普段声を荒げるような真似をしない彼女にしては珍しいことだった。

しかしそれも無理はない。確かに希は魔戒法師としては未熟だ。彩牙たちのように鍛えているわけでもない。豊富な種類の術を扱えるわけでもなく、唯一胸を張れるのが防壁のみだ。凄まじい法力を持っているとは言われているが、比較対象のない彼女にはいまいちその実感がなかった。

 

だけどそれでも、仮にもホラーと戦うことを決めた身だ。

今はまだまだ未熟かもしれない。だがこれから自分に足りないものを、業を磨いていこうと決めていたのだ。

それを無下にして未熟だからやめろと言われるのは、いくら温厚な希でも我慢できなかった。

 

しかし、大和の答えは違った。

 

「そうではない。お前には法力も、それを活かすための下地もある。修練を積めば十分に立派な法師になれるだろう」

 

「なら、どうして――――」

 

 

 

 

 

 

「自分が進むべき道を決められない者に、背中を預けることはできん」

 

「……っ!」

 

頭をガンと打ちつけられたような衝撃が走った。

自分の道を決められない者はいざという時に決断を下すことができず、それが原因で自分や仲間の命、果てには守るべき者の命さえも危険に晒すことに繋がりかねない。

フラフラして答えを出さない者に頼ることはできない――大和の言いたいこととは、そういうことだったのだ。

 

去っていく大和の背中に、希は何も言い返すことができなかった。

 

 

 

**

 

 

 

――音ノ木坂・屋上

μ’sの練習場所となっているその場所では、今日も変わらずにラブライブに向けて練習に励むμ’sの姿が――

 

「…………」

 

「――希。ねえ希ってば」

 

「…………あっ。ごめんなエリチ、どうしたん?」

 

――違う。いつも通りではない。

その中の一人、希は練習の最中にふらふらとした動きを繰り返し、絵里の呼びかけにもすぐに応じられないほどに意識が朦朧とした様子を見せていた。

絵里をはじめとしたメンバーたちはそんな彼女が怪我でもしないかと心配し、なかなか練習が進まずにいた。

 

「寝不足かしら? ちゃんと寝なきゃダメよ」

 

「あはは……ごめんなぁ、面白い占いの本見つけてついつい夜更かししちゃったんよ」

 

「それで体調崩してちゃ世話ないわよ。アイドルたるもの自己管理は大切よ!」

 

「はーい」

 

絵里やにこに窘められた希は普段と変わらないように気丈に答えたが、やはりどこかふらついていた。

そんな様子を、海未や穂乃果をはじめとした他のメンバーたちも心配そうな眼差しで見つめていた。

 

「あんなにふらついている希ちゃん、始めて見ました……」

 

「何か困ってるのなら凛たちも何か助けになりたいにゃ……」

 

「そうですね……」

 

今もまた、ダンスをしようとして足が覚束ない様子を見せる希。

そんな姿を目の当たりにして、海未は思った。ここ数日、彩牙が毎晩家を空けていることと何か関係があるのだろうか――と。

 

 

 

 

 

 

――ガザリウスの門の探索及び破壊を始めてから数日が経過した。

希は現在、日中は普通の女子高生としてμ’sの活動を、夜は法師として大和らと共に門の探索と破壊を行うという生活を送っていた。

日中にガザリウスの門の探索を行わないのは彼女が女子高生としての生活を疎かにしないため――というわけではない。日中に探索を行わないのは彩牙やコテツ、大和たちも同じであった。

 

それというのも、ガザリウスの門の特性が理由だった。

ガザリウスの門が陰我を集められるのは夜間だけなのだ。それ以外の時間帯では機能を停止し、休眠状態に入る。

その間、門は人界と魔界の境目に潜むことで身を守り、現世から干渉することは一切不可能になってしまうのだ。

それ故にガザリウスの門を破壊するには陰我を集め、干渉が可能である夜間に限られるのである。

 

その結果、まだ法師としての経験が浅い希の睡眠時間はじわじわと削られて今に至る――というわけだ。

なお、彩牙たち騎士の三人に関しては、少ない睡眠時間で十分に体を休める術をとうの昔に身につけてある。そうでなければ昼間にエレメント捜索、夜にホラー討滅というタイトな生活サイクルを送ることはできないからだ。

 

その上、これまでの生活を――μ’sを捨てるか否かという、彼女にとってこれ以上なく辛い選択が希の心を、身体を蝕んでいた。

病は気からとはよく言ったものだ。

 

 

――希……このままじゃ……

 

そんな事情は知らなくとも、痛々しい希の姿がいたたまれなくなったのか、絵里はちらりと穂乃果に目配せをした。

すると絵里の視線を受けてか、穂乃果は少し考えるようなそぶりを見せ、そして――

 

 

「……ああーーーっ!! 宿題がまだ残ってるの忘れてたーーっ!海未ちゃん、ことりちゃん、教えてっ!」

 

「ええっ!?どうしたの穂乃果ちゃん!?」

 

「夏休みの宿題ならこの間つきっきりで――」

 

そう言いかけた海未だが、穂乃果の目を見て思い留まった。穂乃果の目は「話を合わせてくれ」と語っていたのだ。

彼女の目、そして今の状況を考えた海未は穂乃果の意図が読めた。

今は“口実”が必要なのだ。

 

「……まったく、仕方ありませんね穂乃果は」

 

「私もお手伝いするね♪」

 

「二人ともごめんねぇ……じゃっ、そういうわけでわたくし高坂穂乃果は誠に勝手ながら練習を早退します! みんなまたねー!」

 

そう告げてあっという間に屋上から去っていった穂乃果たち2年生組。

その姿をメンバーの多くがポカンとした表情で見つめていた中、凛が何か閃いたような表情を見せ――

 

「にゃああぁぁぁーーーっ!! 凛も宿題忘れてたよぉーー!真姫ちゃん手伝って!お願いっ!」

 

「ぅええっ!?わ、わかったから引っ張らないでよ!」

 

「凛ちゃん、私も手伝うよ!お腹すかないようにおにぎり持っていくからね!」

 

「というわけで、緊急事態発生のため凛たちも今日は早退します! いっくにゃーーー!!」

 

穂乃果たちに続くように、凛を先導にして嵐のように去っていった1年生組。

余談だがこの数分後、凛の言ったことは事実であることが明らかになるのだが、それは隅に置いておこう。

 

そうして屋上に残ったのは絵里、にこ、そして希の3年生組だけとなった。

呆然とした表情を浮かべる希に対し、絵里とにこは仕方ないと言わんばかりに含みのある笑みを浮かべていた。

 

「……これじゃ、練習どころじゃないかしら?」

 

「そうねぇ、にこにーの可愛らしさの秘訣を伝授できないんじゃ仕方ないわよねぇ」

 

「……えりち、にこっち?」

 

困惑した表情で絵里たちを見つめる希。

普段だったら逆の立場であろうその光景が可笑しいのか、絵里はクスリとした笑みを隠し切れなかった。

 

「ねえ二人とも、帰り……どこか寄っていかない?」

 

 

 

 

 

 

――秋葉原、小通りのクレープ屋。

いつか来たことのある小さなクレープ屋に、希たち3年生組の姿はあった。

 

「はい、お待ちどうさん!」

 

「ありがとうございます」

 

恰幅の良い女店主からクレープを受け取る絵里。チョコレートソースがたっぷりと乗った彼女好みのクレープだ。

それを手に、先にクレープを買っていた希とにこの下へと早足で駆け寄っていく。そうして三人揃って満面の笑みでクレープに舌鼓を打つ。

 

「ん~っ! やっぱり美味しいわねここ!」

 

「ホンマやね♪ 隠れた名店っていうんやろか」

 

「穂乃果もいいとこ見つけてくれたわよねー、にこに相応しい味だわ」

 

和気藹々と笑い合う三人。

共にクレープを食べ、笑い合う絵里とにこの姿を見て、顔には出さずに希は考える。

――やっぱり、二人といるのは……いや、μ’sの皆といるのは楽しい。いつまでもこうやって一緒に笑い合いたいと思う。魔戒関連のことがなければ、知らなければそうしていただろう、と。

 

しかしその反面で、その笑顔を失ってしまうかもしれないと考える。

法師の道を捨て、一般人としての道を選んだら自分にホラーと戦う力は――皆を守る力はなくなってしまう。そうなったらホラーから皆を守れない。ホラーの手によってこの笑顔が失われてしまうかもしれない。

だが法師としての道を選んだら今この時は――μ’sの皆と共に笑い合う時間は失われてしまう。幼い頃からずっと望んできたこの時を手放すのはあまりにも心苦しい。

 

一体どちらを選ぶべきなのか――

考えを巡らせていた、そんなときだ。

 

 

「――希、何かあったの?」

 

おもむろにかけられた声。

意識と視線をそちらに映すと、そこには希の顔を心配そうにじいっと覗きこむ絵里とにこの姿があった。……いや、にこの方はやや不機嫌そうに見えた。

表情に出てしまっていたのだろうか――そんなことを考え、希はいつものようにあっけからんと表情を浮かべた。

 

「何もあらへんよ。ちょっと寝不足の疲れが溜まってるだけで――」

 

「何か悩みがあるってことぐらい、わかってるわよ」

 

希の言葉を遮ったのはにこだった。

驚きの目で彼女の方を見ると、呆れたような表情で希を見つめていた。

 

「あそこまでぼうっとしてたらね、寝不足以外にも何かあるってわかるわよ」

 

「話して希、一体何があったの?」

 

「……」

 

絵里とにこの言葉に押し黙る希の中に、葛藤が生まれる。話してしまってよいものか、と。

普通に考えればホラーとの戦いに関することを、いくら友とはいえ普通の人間に話すことは許されないだろう。話さないべきだと、希の中の法師としての心が告げる。

しかし――

 

「言いたくないなら無理に話す必要もないわよ」

 

「……ううん。あんな、二人に相談したいことがあるんよ」

 

希の中の少女としての心は、打ち明けるべきだと告げていた。

いくら魔戒法師としての道を歩もうとしても、希はまだ若干17歳の少女なのだ。背負いこめるものには限度がある。

彼女にとってあまりにも心苦しい選択についての悩みを共に打ち明けることを、一体誰が責められようか――

 

 

 

 

 

 

 

 

「………つまり、話をまとめると」

 

「どうしてもやりたいこと――もとい、やらなきゃいけないことがあって、それをやりぬくためには学校を辞めるように言われて悩んでるのね」

 

希は話した。

己が抱える問題――法師として生きるために学校を、学生を辞めるか、もしくは法師として生きるのを諦めて普通の人間として生きるかを。

ただし、流石にホラー絡みのことを話すわけにはいかないので、その辺りは適当に誤魔化していたが。

一連の話を聞いたにこは、怒ったように口を開いた。

 

「名付け親のくせにμ’sを抜けるなんて許さないわよ!……って言いたいところだけど、それと天秤にかけるほど大事なことなのね」

 

「……うん、そうなんよ。ウチにとってはどっちもすごく大事なことやから、どうしたらええのか頭こんがらがっちゃって……」

 

そんな簡単に決められるようなことではなかった。

法師の道を諦めるには彩牙たちのこと、ホラーのこと、海未のこと、多くのことを知りすぎた。μ’sを――学校を辞めるには絵里やにこ、彼女たちをはじめとしたμ’sのメンバー――友を、思い出を作りすぎた。

どちらも捨てるにはあまりにも大きすぎるため、希は決断を下せずにいた。

 

 

「……ねえ希、一つ聞いていいかしら?」

 

ふいにあがった声。

それはこれまで沈黙を保ちながら話を聞いていた絵里のものだった。

 

「希はμ’sのことも、やりたいことっていうのも大事で、手放したくないのよね?」

 

「……うん、そうやで?」

 

「アンタ、ちゃんと話聞いてたの?」

 

呆れたような視線を絵里に向けるにこだが、当の絵里は不思議そうな表情を浮かべていた。

そんな彼女の姿に、自分は何か可笑しなことを言っただろうかと、希は思った。

μ’sを抜けるかもしれないということ自体可笑しな話ではあるが、そのことについてではなさそうだった。

一体何のことについて――そう考えていると、何か答えに辿りついたかのような表情の絵里が口を開いた。

 

「希、その答えはあなたの中でもう出てるんじゃないの?」

 

「…………え?」

 

絵里の言葉に呆然とした表情を浮かべた希が、気の抜けた返事をしたのも無理はなかった。

――答えが出ている?自分の中で?ありえない。もしそうだったらこんなに悩むような真似はしていないではないか。

そんな考えを見抜いたのか、絵里は仕方ないと言わんばかりの表情を浮かべた。

 

「……まさかこの言葉を、あなたに返すことになるとはね」

 

「えりち……?」

 

「ねえ、希――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――希の本当にやりたいことって、何?」

 

 

――ウチの、やりたいこと?

ウチがやりたいのは、法師としてホラーから人々を――みんなを守りたくて。でもえりちたちμ’sのみんなと一緒にμ’sを続けたくて。

でもどっちか選ばないといけへんから…………あれ?

どっち、か……?

 

 

呆然と、自分が抱いていた悩みに疑問を持つ希。

そんな希に、絵里が優しい声色で語りかける。

 

「……少しくらい、自分の気持ちに我儘になってもいいんじゃない?」

 

その言葉で、希は理解した。

自分の答えを。自分はどんな道を選ぶべきか――いや、選びたかったのか。

そう、絵里の言う通り答えは最初から自分の中にあったのだ。ただ「できるわけがない」と思い込み、無意識に蓋をしてしまっていただけで。

そのことに気づき、希の表情が晴れやかになっていく。暗闇の中に差し込んだ、一筋の光のように。

 

「――そっか、そうやったんやね。ウチの答えは――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――しばらく後

 

「それにしても以外ね。希もあんな風に悩むことがあったなんてね」

 

秋葉原の街の中を、並んで歩く絵里とにこの姿があった。

あの後、希は大事な用事があると言って先に帰ったため、こうして二人で街の中を歩いていたのだ。

 

そんな中、にこは希の思い悩む姿に思いを馳せる。

彼女にとって希はいつも一歩引いたようなところから何か企んでいる……とまではいかなくとも達観しているところがあり、うじうじ悩むようなイメージがなかったのだ。

それ故に、物事を決められずに悩むという姿は心から珍しかった。

 

「あら、希ってああ見えて内気で結構寂しがり屋なところがあるのよ」

 

「そうだったの? あまりそうは見えなかったけど」

 

「まあ、今じゃ滅多に見れないからね」

 

「へぇ、カメラにでも撮っておいた方がよかったかしら?」

 

軽やかに言葉を交わしていく絵里とにこ。そこにはもう希のことを心配している様子はなかった。

希はもう大丈夫だろう。

あの晴れやかな笑顔にはもう、悩みこむ様子は見えなかった。彼女は自分の悩みに、彼女なりの答えを見つけたのだ。そうでなければあんな笑顔を浮かべることはできない。

大事な友達が元気を取り戻したことに安堵している中、ふと思い出したかのようににこが呟いた。

 

「……そういえば、希の“やりたいこと”って結局何だったのかしら?」

 

その呟きは、夕焼けに包まれた街の喧噪の中に消えていった。

 

 

 

**

 

 

 

――同じ頃、街の一角。

 

「……これが、残りの門の位置ですか?」

 

「そうだ、昨夜のうちに目星をつけておいた。これらで最後だろう」

 

人目の付かない路地裏の中に、間に何か挟んでいる彩牙と大和の姿があった。

二人の間に広げられているのは、所々に目印がつけられたこの街の地図。昨夜のうちに大和が目星をつけていたという、残りのガザリウスの門の位置だった。

二人は今、今後の門の破壊の方針を練っていたのだ。なおこの場にいないコテツはエレメントの浄化に回っており、後程大和が連絡するとのことである。

 

今一度、彩牙は大和が示した地図に視線を移す。

――確かに、この数ならば今夜中にすべて破壊することができるだろう。“四組に”分かれれば十分に行えるはずだ。

そんなことを考えている中、不意に大和が口を開いた。

 

「お前はあの娘……東條のことをどう思う」

 

突然切り出してきたのは希についての話題。

今現在自らの在り方について悩んでいる彼女が“どんな道を選ぶのか”と聞いていた。これまでの暮らしをすべて捨てて法師として生きるのか、法師を辞めてこれまでと変わらない一般人としての道を選ぶのか。

 

「……それは希が決めることです。俺にはかんけ――」

 

「“お前は”どうしてほしいのだ」

 

――違った。

“どちらの道に進んでほしいと思っているのか”。希がどちらを選ぶと思うのかではなく、どちらを選んでほしいのかと聞いていたのだ。

大和の質問の意味を理解した彩牙は――

 

「……それこそ、俺には関係のないことです。俺の願いなど、彼女の選択には関係ないですから」

 

あっけからんと、表情を変えることなく答えた。

そんな彩牙の態度が不思議に思ったのか、大和は再び口を開いた。

 

「……随分と余裕そうだな。お前が紹介したのであろうに、心配ではないのか?」

 

「確かに、心配してないと言えば嘘になります。ですが――」

 

彩牙の脳裏にあの日の光景が浮かび上がる。

希が法師として戦うことを決め、彩牙と初めて共に戦ったあの日のことを。

あの日、希は悩みながらも最後は自分の心に従って道を選んだ。

だから今度も――

 

 

「希はきっと、自分のやりたいように……そんな道を選ぶと、信じています」

 

 

 

**

 

 

 

――その日の夜、街の一角

 

 

「……えいっ!」

 

華やかな掛け声と共に、魔導筆で描いた五芒星から放たれた光弾が人骨でできた門に命中し、そこから漏れだした闇が宙に解けて消えていく。

そこには単独でガザリウスの門を破壊する希の姿があった。その隣には魔戒法師の大先輩である大和の姿はない。

数日間の探索に渡って大和に術の使い方を教えられたため、今では一人で門の破壊ができるようになったのだ。この物覚えの良さも、彼女の美点なのだろう。

 

そうして門の探索と破壊を行う希だが、その表情は昨日までとは違って非常に晴れやかなものだった。

術を身に着けたことでスムーズに門の破壊ができるようになったのもあるだろうが、やはり一番の理由はずっと悩んでいた選択肢にようやく答えが出せたことだろう。それも満足のいく答えを。

 

と、そこでふと思った。

自分が出したその答えを、オルトスはおろかまだ誰にも話していなかった。

もう急ぐようなことではないが、やっぱりちゃんと話しておきたいと思った。ちょうど今日でガザリウスの門をすべて破壊できるはずなので、終わった時に話そうと思った。

 

「さて、ウチの分は今ので最後のはず――」

 

今日の探索を始める前に大和に教えられた分では、自分のノルマは今の門で最後だったはずだ。

まだ残っているかわからないが、他の人に合流して手伝おうと思った時――

 

「――――っ!! な、何なん今の……!?」

 

――ぞわり。

背筋に走った激しい悪寒。

恐ろしさすら感じるその悪寒に何事かと思い、魔導筆を再び構えて辺りを警戒するが、周囲には何もなく、何の気配もない。それがかえって不気味だった。

そんなとき、魔法衣のコートの裏側から震える何かを感じた。

 

「……彩牙くん?」

 

それは大和から連絡用にと渡された魔戒符だった。

表面に筆で描かれたザルバの顔が浮かんでいることから、通信相手は彩牙だということがわかった。

もしかすると今しがた感じた悪寒と何か関係があるのだろうか――そう思い、通信に応じた。

 

「彩牙くん、どうか――」

 

『ヤバイことになったぞ嬢ちゃん!!』

 

魔戒符の向こうから聞こえてきたのは、ザルバの切羽詰まった声だった。

よく耳を澄ましてみると、ザルバの声の背後からは剣戟の音や獣の鳴き声のようなものまで聞こえていた。

 

「どうかしたん!?」

 

『いいか嬢ちゃん!決して一人でこっちに来るな!大和と合流してから―――っ!小僧!!』

 

「ザルちゃん!?ザルちゃん!!」

 

ブツリ。と、それっきり通話が途絶えてしまった。

今のザルバの声、後ろから聞こえてきた戦いの音、どうみても只事ではない。あそこまで切羽詰まったザルバの声は、希は聞いたことがない。

もしかすると、さっきの悪寒の正体はこれだったのかもしれない。

 

「――っ、彩牙くん……!」

 

通信が途絶えるや否や、すぐに希は駆け出した。

ザルバは大和と合流してから来いと言っていた。つまりそれだけ深刻な事態が起きているということだ。

そんな中に自分一人だけで向かったら危険では済まないだろう。大和と合流してから行くのが賢明な判断だろう。

 

だが、希はそれまで待つことができなかった。

友達が危険な目に遭っているかもしれないのに自分だけ安全な位置にいるなど、希にはできなかったのだ。

 

 

 

**

 

 

 

――それは、時を少しだけ遡る。

 

「どうだ?ザルバ」

 

『ああ、次が最後の一つだ』

 

大和が示した情報をもとに、次々とガザリウスの門を破壊してきた彩牙。大和の情報が確かだったこともあって門の破壊は順調に進み、己の分は残り一つになっていた。

そうして辿りついた先はコンテナ置き場だった。積み上げられたコンテナ群が迷路のようになっていた場所だった。

 

その中を迷うことなく進んでいく彩牙。

そうして辿りついたのは少し開けた場所だった。まるでコンテナでできた広間のような空間の一角に、ザルバが反応した。

 

『あったぞ、あの隅の辺りだ』

 

ザルバが指した箇所――角のようになっていた箇所に、僅かながら空間の歪みを感じた。

遂に見つけた最後の一つ。いざ破壊しようと歩を進めていくと、横から割り込むように一つの人影が現れた。

それを目にした彩牙は、思わず眉を顰めた。

 

「……コテツか」

 

「なんだよ、お前もこっちにいたのか」

 

そこにいたのはコテツだった。彼も彩牙の存在に気づき、「げ」と言いたげな表情を浮かべていた。

しかしそこで気を取り直し、普段の不遜な表情を浮かべたコテツが、改めて口を開いた。

 

「それで、お前の方はまだ終わってないのか?」

 

「いや、あれが最後の一つだ」

 

「奇遇だな、“俺も”あれが最後の一つだ」

 

そう言ってコテツが指したのは、つい先程彩牙が見つけた門だった。

――しばしの間、沈黙が辺りを包む。

 

「……」

 

「あっ、てめ」

 

彩牙がガザリウスの門に向かって歩き出し、それを追うように歩き出したコテツが彩牙を追い越していく。歩みを速め、コテツを追い抜き返していく彩牙。またも追い抜いていくコテツ。

歩みが進むたびにその足は速くなっていき、互いが追い抜くのを繰り返していく。やがて歩みは早足になり、終いには互いに全力疾走する形となった。

 

――どんな形であれ、コイツに負けるのだけは我慢ならない!!

 

そんな子供じみたような思いと共に駆け出していく二人は、どんどんガザリウスの門へと距離を縮めていく。

やがて門が目前に迫った時、互いよりいち早く破壊しようとほぼ同時に魔戒剣を抜いた時、それは起きた。

 

『……っ!これは……!』

 

突然空から降ってくるように現れた闇色の靄。

それらは迷うことなく、一つ残らずガザリウスの門へと吸い込まれていき、大量の闇を吸収した門は闇色の光を放ち、胎動するような鼓動を打つ。

事態の急変を前にした彩牙とコテツはそれまでいがみ合っていたのが嘘のように、一刻も早く門を破壊しようと魔戒剣を突き出した。

二振りの魔戒剣がガザリウスの門へと突き刺さろうとした時、扉が開く音が響き――

 

 

 

噴き出した闇が、二人を襲った。

 

 

 

**

 

 

 

「……はあっ、はあっ……!」

 

――数分後

その場に現れたのは、ザルバからの通信を聞き付けた希だった。

余程急いできたのか呼吸は乱れ、顔には珠のような汗が張り付いていた。しかしそれらを気にも留めず、辺りをぐるりと見渡した。

 

「なんなん、これ……!?」

 

そこは彩牙がいるはずのコンテナ置き場だった。しかしその様相は本来の姿から一変していた。

積み上げられていたコンテナは無残に散らばり、中には大きく窪んだものや、食い破られたかのように破損しているものがあった。

地面もあちこちが抉れており、希はまるで戦場にいるかのような錯覚を覚えた。

ホラーと戦ったにしても、ここまで大荒れになるなど想像もつかなかった。

 

「彩牙くん、どこにおるん……!?」

 

これでは彩牙の無事がますます不安になる。ザルバの話では相当深刻な状況にいるはずなのだ。

急いで探さなければと思い、足を踏み出そうとした時――

 

 

 

 

――目の前を、“何か”が猛烈な速さで通り過ぎていった。

 

「きゃあっ!? い、一体何が……?」

 

勢いのあまり突風まで起こして通り過ぎた“何か”は轟音と共にコンテナへと衝突した。

砂埃が舞い上がって辺りを包み、咄嗟に目を庇う希。

やがて砂埃が収まり、“何か”衝突したコンテナの姿が露になると、その正体が判明した。

 

 

『く……そ、がっ……』

 

そこにいたのは灰色の鎧を纏った騎士――灰塵騎士カゲロウこと、コテツだった。

身体がコンテナにめり込んだカゲロウは呻き声を上げながら身じろぎをするが、やがてがっくりと項垂れるように意識を失い、鎧が解除された。

そうして露になったコテツの姿は全身血や痣だらけであり、満身創痍と言った様子だった。

そこでコテツであることがようやくわかった――鎧を纏った姿を初めて見たのだから当然だが――希は驚愕の表情を浮かべ、慌ててコテツの下へと駆け寄った。

 

「コテツくん大丈夫!? 一体何があったん!?」

 

『東條、さん……危険、です……』

 

意識を失ったコテツに代わって答えたのは、首から下げられたゾルバだった。

おそらく表面にできた傷により言語機能に不具合が出たのだろう、彼の言葉もまた絶え絶えであった。

そして――何があったのかという希の疑問はこの直後、明らかになるのだった。

 

「――っ!?」

 

突然背後から現れた気配。それと同時に感じた、今までにない恐怖と悪寒。

反射的に魔導筆を取り出し、振り返る希。その先にあったのは、コンテナの上からこちらを見下ろす巨大な長い“何か”だった。

竜か何かと見間違えるような“それ”は、ゆっくりと希の方に向かって身を乗り出し、点滅を繰り返す照明に照らされて姿が明らかになった。

 

一言で言うのなら、それは巨大なムカデだった。

しかしその身の各所には悪魔のような翼が生えており、その巨体を悠然と宙に浮かべていた。

そして頭があるべき部分からは一糸纏わぬ女性の上半身が生えていた。――その上半身だけで希の二倍近くはあり、肌は人間ではありえないほどの青白さであったが。

 

“それ”は紛れもなくホラーだった。きっと最後に残ったガザリウスの門から出現したのかもしれないと、希は推測した。

しかし彼女は知らなかった。目の前にいるのはただのホラーではないということを。

そこにいるのは非常に強力な力を持ち、“使徒”の称号を与えられたホラー。

その名は――

 

 

 

 

――魔装ホラー・アバドン!

 

 

『ホホウ、今度ハ魔戒法師ガ現レオッタカ。ソレモ女子トハ妾ノ大好物デハナイカエ』

 

「……っ!」

 

アバドンにその存在を認知され、魔導筆を構える希。

蛇に睨まれた蛙のように絶対的な強者に怯える心を奮い立たせ、魔導筆を握る手に力が入る。ホラーと戦った経験はまだ少ないが、それでも目の前にいるホラーがこれまでとは桁違いであることはすぐに分かった。

その証拠に魔戒騎士であるコテツは今、自らの後ろで倒れているのだから。

 

『いけません、東條さん……あなたでは奴には……』

 

「そうかもしれへんけど、コテツくんを見捨てることなんてできへんよ!」

 

ゾルバの言葉に、希は毅然と返した。

今自分が逃げるなりしたら、アバドンは気を失っているコテツを容赦なく喰らうだろう。

それがわかっていたからこそ、希は逃げるという手を取らず、アバドンの真正面から立ち向かっていた。

 

『ホホホ……ソレデハオ望ミ通リ二人仲良ク喰ラッテヤルトシヨウカノウ!』

 

「っ!」

 

その言葉と同時に、その巨体を躍らせて襲い掛かるアバドン。

凄まじい勢いで迫るアバドンを前に恐怖心を抑え、魔導筆で防壁の陣を描こうとする希。

そしてアバドンの巨体が目前まで迫った、その瞬間――

 

 

『――オオオオオォォォォォッ!』

 

『ヌウッ!?』

 

突然横から飛び込んできた人影がアバドンに体当たりし、よろめかせたのだ。

突然のことに動揺を隠せない希だったが、その正体はすぐに明らかになった。

 

「彩牙くん!?」

 

そこにいたのは黄金の騎士――ガロの鎧を纏った彩牙だった。

しかしその鎧は所々が欠け、内側から噴き出てきたと思しき血で汚れており、如何にアバドンに追い詰められていたかが読み取れた。

その瞬間ガロの瞳と希の瞳――同じ緑色の瞳が見つめあった。

 

『希、コテツを!』

 

「っ! う、うん!」

 

一瞬呆然としたもののすぐに気を取り直し、コンテナに埋まったコテツを助け出す希。それを尻目に、ガロはアバドンに斬りかかっていく。

牙狼剣を振るい、斬りかかっていくガロ。しかし牙狼剣を振るう腕のみならず、全身の動きが重いものとなっていた。

その理由はわざわざ説明するまでもなく、今のガロの姿を見れば明らかだった。

故に――

 

『ホホ。軽イ、軽イノウ』

 

『――っ!』

 

アバドンの指に軽々と受け止められたのは、無理もないことだった。

 

『マサカ、ガロガココマデ弱クナッテオルトハ期待外レモイイトコロジャ。ソレニ――』

 

『ぅ――おっ!?』

 

驚愕を隠せないガロの身体が、アバドンの指に掴まれた牙狼剣ごと持ち上げられ、そのまま宙に投げ出される。

そうして投げ出されたガロの周囲をアバドンの胴体――ムカデのそれが取り囲む。

 

『ソノミスボラシイ姿ハ何ジャ、妾ノ知ッテイルガロノ鎧ハ忌々シイ輝キヲ放ッテオッタゾ。ソレデガロヲ名乗ロウトハ――』

 

取り囲んだアバドンの胴体から生える脚――ムカデの脚そのものであるそれらが、骨が砕けるような音と共にその形を変えていく。

あるものは剣に、あるものは槍に、あるものは槌に。

そして、振りかぶるようなそぶりを見せると――

 

『――身ノ程知ラズニモ程ガアル!』

 

『ぐああああああっ!!』

 

一斉に、取り囲んでいたガロに向かって襲い掛かった。

防御もままならないまま、嵐のような凶器の猛攻に晒されるガロ。

斬り裂かれ、突き貫かれ、叩きつけられ、その猛攻はあまりにも凄まじく、外からはガロの姿が確認できない程だった。

やがてガロの叫びも聞こえなくなり、アバドンの脚がその動きを止めると、力なく項垂れたガロの身体が崩れ落ち、地に落ちると同時にその鎧は解除された。

 

血まみれになり、倒れ伏す彩牙。

その姿を、アバドンは愉快そうに笑いながら見下ろしていた。

 

『ホホホホホ、呆気ナイノウ。忌々シイガロノ系譜ガコンナ形デ終ワルコトニナルトハナ』

 

そうして倒れ伏す彩牙に手を伸ばすアバドン。喰らおうとしていることは明白だった。

その手が彩牙の身体に届こうとした時――

 

『ムッ!?』

 

バチリ、という音と共に弾かれたアバドンの手。

手が届こうとした瞬間、彩牙との間に淡い紫色に輝く壁が現れ、アバドンの手を弾いたのだ。

突然のことに驚いていると、どこからか伸びてきた光の鞭が彩牙に巻き付き、その身体をアバドンの下から引っ張り出した。

アバドンがその光の鞭を目で追った先には、傍らにコテツを横たわらせ、魔導筆から伸びる光の鞭で彩牙の身体を引っ張る希の姿があった。

 

『ホ、小娘ガ無粋ナ真似ヲシテクレタノウ』

 

「彩牙くんたちはやらせへんよ!」

 

彩牙の身体を手元まで手繰り寄せた希は横たわる二人の前に立ち、魔導筆を構え、毅然とした表情でアバドンを睨みつける。

だがアバドンは愉快でたまらないと言わんばかりに高笑いし、希の目の前まであっという間に距離を詰めた。

その素早さに驚きつつも咄嗟に防壁を張る希。それと同時にアバドンの脚が防壁とぶつかり合った。

 

――お、重い!こんなんを彩牙くんは何度も……!――

 

アバドンの脚による一撃は想像以上に重く、もしこんなものを生身で受けてしまえば自分の身体など粉々に砕けてしまうだろうと、希は思った。鎧を纏っていたとはいえ、彩牙はこんなものを何重にも受けたのだ、立てなくなるのも無理はない。

一瞬でも気を緩めればすぐに防壁を破られてしまうかもしれない。そんな危機感と共に防壁を張り続ける希に対し、アバドンは愉快そうな笑みを崩さずにいた。

 

『ホホホ、ワカル、ワカルゾ。幾人モノ騎士ヤ法師ヲ見テキタ妾ニハワカル。キサマ、“ナリタテノ”法師ジャナ?』

 

アバドンの脚、その一本がその形をチェーンソーに変え、エンジンの唸り声と共に防壁に襲い掛かる。

防壁が削られていき、その欠片が火花のように舞い上がる。

 

『ナント愚カナ娘ヨ。半端ナ覚悟デ首ヲ突ッ込マナケレバ平穏ナ余生ヲ送レタモノヲ』

 

チェーンソーに変化したアバドンの脚が防壁を削っていく中、もう一本の脚がまたもその形を変え始めた。

螺旋を巻いたドリルへと変化したその脚は金切り声のような唸り声を上げ、チェーンソーと同時に防壁へと襲い掛かる。

ドリルによって防壁にヒビが走り始め、希は負けじと防壁を維持する力を更に籠める。

 

『サア、陰我ニ満チタコノ世ニ絶望シテ死ンデユクガヨイ。全テ妾ガ喰ウテヤルワ!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……さっきから何言うてんのかなぁ」

 

『ナニ?』

 

アバドンの脚の猛攻により防壁が破られかけている希。

これまでにない危機を迎えているにもかかわらず、その表情は恐怖にも絶望にも染まっていなかった。

そこにはただ、決して諦めないという強い意志が現れていた。

 

「確かにウチは半端だったかもしれんよ。ひょっとしたら勝手に絶望してたのかもしれへんね」

 

そう、アバドンの言うことも一理あった。

半端な覚悟だったが故に、法師を辞めるか学校を辞めるかで悩んだ、迷い続けた。迷いに溺れるあまり、決めることができないと勝手に絶望していたのかもしれない。

 

「でもウチは決めたんよ。誰になんて言われても、ウチの決めた道を行くって」

 

だけど気づいたのだ。

答えは見つからなかったのではなく、最初からあったのに見て見ぬふりをしていただけだったのを。勝手に諦めていたということを。

自分に足りなかったのは、その答えを選ぶ覚悟だったのだ。

そのことに気づいた今、もう迷うことはない。その答えを背負う覚悟はある。

なぜならそれは――

 

 

 

「ウチはただ、ウチのやりたいようにやるだけなんや!」

 

 

――自分が心からやりたいと願うことなのだから。

 

 

 

『……クダラヌ。ナラバソノ思イヲ抱イタママ、妾ニ喰ワレルガヨイ!』

 

「――っ!」

 

毅然とした希の答えが面白くなかったのか、アバドンは防壁を削っていたチェーンソーとドリルに更に力を籠めた。

そうして防壁の全面にヒビが広がっていき、遂に限界が訪れ、ガラスが砕けるかのようにして防壁は割れ、砕け散っていった。

 

ガラスの破片のように舞い、消滅していく防壁の欠片。

それを前にした希は驚愕に満ちた表情を浮かべるも、すぐに気を取り直し、また新たな防壁を張ろうとする。自分と、後ろで倒れ伏す彩牙とコテツを守るために。

だがそれよりも早く、チェーンソーやドリル――アバドンの脚が彼女らに襲い掛かる。

もはやそれらの凶器によって希の身体が無残に引き裂かれるかと思われた、その時――

 

 

『――ム? ヌオッ!?』

 

脚が届く寸前、アバドンの身体は“なにか”によって後方へと引っ張られ、その巨体は地面へと打ちつけられた。

何が起こったのか――突然の出来事に驚きを隠せない希の目に、アバドンを引っ張った“なにか”の正体が映し出された。

 

それは一筋の光の鞭だった。

アバドンの胴体――ムカデの身体の尾の端に巻き付いていたそれはアバドンからしゅるりと離れると、発生源へと戻っていくように縮んでいく。

光の鞭が縮んでいった先には、一人の男がいた。

光の鞭の発生源――魔導筆を携えた男は鋭い瞳でアバドンを見下ろしていた。

 

希は、その男に見覚えがあった。

先日まで共に門を破壊して回っていた、自分と同じ魔戒法師であると同時に魔戒騎士でもある男――

 

 

「――大和さん……!」

 

――鬼戸大和が立っていた。

 

『ヌゥ……マタ魔戒法師カ。イイトコロデ邪魔ヲシオッテ……!』

 

体勢を立て直し、恨めしそう大和を睨むアバドン。並の人間ならば睨まれただけで失神してしまいかねない程の威圧感を放っていた。

しかし、それであるにも拘らず、大和は何事もないかのようにアバドンを無視し、希のことをじっと見つめていた。

 

見つめられていることに緊張感を覚える希。

数秒間であるはずなのに何分間もそうしているような錯覚を抱いた時、大和がその口を静かに開いた。

 

 

「……いい目をするようになった」

 

「……!」

 

穏やかでいて、それでいて力強い瞳と言葉。

それらが自分に向けられていることに気付き、希の表情は明るいものへと変化していった。

――認められたのだと。共に戦える者として。

 

『妾ヲ無視シヨッテ!人間風情ガ生意気ナァァァ!』

 

無視された怒りに震え、その巨体を躍らせて大和に襲い掛かるアバドン。

大和は迫りくるアバドンを前に狼狽えるそぶりを見せず、魔導筆を懐に仕舞い、代わるように抜いた魔戒剣で足下を一突きした。

それと同時に大和の足下に蒼い光の輪が広がり、やがてそこから鎧のパーツが飛び出し、大和の身体に装着されていく。

 

光が収まった時、そこにいたのは――波紋騎士・イブだった。

 

『――ムンッ!!』

 

目前まで迫ったアバドンに、イブは手にした大剣――波紋剣を振りぬいた。

それと同時に離れた場所にいた希が思わず目を庇うほどの凄まじい風圧が起こり、それをまともに喰らったアバドンはイブの脇に吹き飛ばされ、そこにあったコンテナ群に突っ込んでいった。

そうしてイブは再度希と向き合い、ただ一言を発した。

 

『背中は任せるぞ』

 

「―――! はいっ!」

 

気合の入った希の返事を見届け、イブはアバドンが吹き飛ばされた場所に向かった。

そこにはコンテナ群に体半分が突っ込んだアバドンがピクリとも身動きをしていなかった。

ゆっくりと、だが力強い足取りでアバドンに近づいていくと――

 

『ムウッ……!』

 

突然アバドンの胴体が動き出し、無数にある脚がイブに襲い掛かった。

すかさずイブは波紋剣で受け止め、弾き返し、脚を両断したが、アバドンに大したダメージ受けた様子はなかった。

 

『……手応えはない、か』

 

無論、無数にある脚の一本でしかないということもあるだろう。しかし弾き返したとき、イブは脚の攻撃による衝撃を増幅してアバドンに返したのだ。

にもかかわらず、アバドンに目立ったダメージがあるようには見えない。それはつまりアバドンの耐久性はイブの想定以上ということだ。

 

この様子では波紋剣による波を放っても大した効果はないだろう。

そんな時、アバドンの体半分が埋まっているコンテナ群が動き出し――

 

『ホホホホホ! タカガ魔戒騎士ガ妾ヲ倒セルト思ウテカ!』

 

高笑いをあげ――それでいて、イブに対する怒りの形相を露にしたアバドンがコンテナを撒き散らしながら起き上がる。

起き上がったことで降ってくるコンテナを避けたイブの前に、脚を大剣や槍など多数の武器に変化させたアバドンが襲い掛かる。

 

いくらイブが腕の立つ騎士であろうと、一度に迫りくる多数の武器に剣一本では立ち向かえないだろう。先程の黄金騎士のように圧倒的武装をもって蹂躙してやると、アバドンは考えたのだ。

イブの危機を感じた希だったが、その表情は驚愕に包まれた。イブは迫りくる多数の武器を前に回避できず――否、避けようとも防ごうともしなかったのだ。

 

――大和さん、どうして!?

 

捌ききれないと考え、諦めたのかと思い、希は援護に動こうとした。しかしすぐに違うと気づいた。

イブの瞳から闘志の炎は消えていなかったのだ。

その証拠に避けようとも防ごうともしないイブだが、その代わりに波紋剣で地面を一突きしていた。

 

甲高い音が鳴り響き、イブの足下に蒼色に輝く陣が現れる。

陣から放たれる光は強くなり、やがてイブの姿を包み込むほどに強く輝くと――

 

 

 

――途方もない衝撃が、アバドンを襲った。

 

『――ナニッ!?』

 

衝撃に弾き飛ばされ、武器に変化していた脚がバラバラに崩れ落ちたアバドンは今一度イブのいた場所に視線を向けた。希もつられるように再度視線を向けた。

そこにはイブの身の丈の二、三倍はある蒼色の光があった。

未だ強く輝くその光は突然フッと消え、代わりにそこにいる“モノ”の姿が露になった。

 

そこにいたのはイブだった。

いや、正確にはイブだけではない。“あるもの”に跨ったイブの姿があった。

それは一頭の馬だった。しかしただの馬ではない。イブと同じように蒼い甲冑に身を包んだ雄々しい馬の姿があった。

希は、その馬からザルバやゾルバに近しい気配を感じ取っていた。

 

――それは大いなる力。

百体のホラーを討滅し、試練を乗り越えた騎士のみが所有することを許される力。

魔獣の魂が封じ込められたその馬は、騎士の足となり、盾となり、矛となり、共にホラーを打ち倒す存在。

魔界より召喚される大いなる力。その名は――

 

 

 

 

――魔導馬・仇武(アダム)

 

 

『ハアッ!!』

 

――ヒヒィィィィィン!!

 

イブの檄と共に咆哮をあげ、駆け出した仇武。

甲冑の擦れ合う音と蹄鉄の足音を響かせながら、まっすぐにアバドンへと駆け抜けていく。

それをただ見ているアバドンではない。そのムカデのような巨体をしならせ、鞭のように叩きつけた。

 

しかし仇武はそれを軽々と避け、イブが波紋剣でアバドンの脚を斬り落としていく。

それだけに留まらず、仇武はアバドンの胴体に飛び乗り、その巨体を一本の道にして駆け抜けていく。

アバドンは脚を駆使して攻撃するが、仇武はそれらをことごとく避け、それを操るイブの波紋剣によって斬り落とされていく。

やがてアバドンの頭頂部――女性体の下まで辿りつくと、すれ違いざまに波紋剣を一閃する。

 

『ギィヤァァァァァァァ!!』

 

宙に跳び、地面に着地し、火花を散らしながらアバドンに振り返る仇武。それと同時にボトリと響く、肉の塊が落ちる音。

イブの視線の先には、両腕を失い、痛みに悶え、憤怒の形相で睨みつけるアバドンの姿があった。

すれ違いにざまに振るわれた波紋剣を防ぐため、咄嗟に構えた両腕が斬り落とされたのだ。

 

『妾ノ美シイ腕ガ!妾ノ美貌ガ! 許サヌ、許サヌゾコノ痴レ者ガ!』

 

怒りに身を任せ、再度イブに襲い掛かるアバドン。

イブはそんなアバドンを前にしても落ち着きを失わず、波紋剣を横向きに構えた。

イブは構えた波紋剣の刃を仇武の鬣に――弦のように硬くそびえ立つそれに押し当てる。

 

一呼吸。狼の唸り声と共に大きく息を吐き出すイブ。

やがてアバドンが目前まで迫った時――

 

 

 

 

 

弦が響く音と共に、波紋剣を一気に引き抜いた。

 

『――ギャアアアァァァァァ!?』

 

それと同時に響き渡る、アバドンの苦痛に満ちた悲鳴。

弦の音と同時に全身に発生した鈍く深い激痛が、アバドンの巨体に襲い掛かる。

イブはただ仇武の鬣を波紋剣で弾いているのにどういうことか――その答えは、一部始終を見ていた希の目にはっきりと映っていた。

 

アバドンのムカデのような胴体――先程仇武が駆け抜けたそこに、いくつもの小さな印があった。

それは馬の足跡――仇武の蹄鉄の跡だった。それらが弦の音に共鳴するように輝いていたのだ。

そう、これこそが仇武を召喚したイブの真骨頂。

仇武の蹄鉄の跡は云わばスピーカー。波紋剣で仇武の鬣を弾き鳴らすことで蹄鉄の跡に対象を破壊する“波”を送り込んでいるのだ。

 

『ソノ音カ! ソノ耳障リナ音ヲ止メヨ!!』

 

自身を襲う激痛の原因が、イブが弾き鳴らす音にあると読んだアバドンは、脚を槍に変化させ、イブに向けて突き出した。

迫る槍を前にしてもイブは躊躇わず、波紋剣で仇武の鬣を弾き続ける。

やがて槍がイブに突き刺さろうとした時――

 

『――ナニッ!?』

 

突然現れた紫色の壁がアバドンの槍を弾き、へし折った。

何事か――いや、考えるまでもない。この壁をアバドンは先程まで目にしていた。

そう、先程自分が破ったこの壁を張ったのは――

 

 

「そうくるやろなあって、思ったで」

 

魔戒法師の少女――希だった。

不敵な笑みを浮かべ、魔導筆を構える彼女はアバドンのことをまっすぐに見つめていた。

してやったりと言わんばかりのその表情と、今もなお自らを襲い、徐々に増していく苦痛にアバドンは更に強い怒りに包まれる。人間で言うならば頭に血が昇ったと表現するのが適しているだろう。

 

『コ……ノ……ッ! 小娘マデモガ妾ヲ愚弄スルカァッ!!』

 

その叫びと共に放たれたのは、アバドンの脚だった。

切り離し、砲弾のように飛び出したそれは単純な凶器となり、希に襲い掛かる。

しかしイブを守るために――より強固なものとした防壁を張り続ける希にはそれを維持するため、襲い来る脚を防ぐ手立てはない。

そして目前まで迫った脚が希の身体を無残に吹き飛ばすかと思われた時――

 

 

 

――ガキンッ

 

 

突然響いた金属音。それと同時に勢いを失い、見当違いの場所で地に落ちた脚。

希が防いだのか――違う。希にはイブを守る防壁の維持のため、そんな余裕はない。

その答えは彼女の前にあった。

そこには二人の男がいた。白いコートと黒いコートに身を包み、血まみれで倒れていた二人の少年の姿が――

 

「寝てばっかりってのも、カッコつかないしな!」

 

「すまない希、遅くなった」

 

「――彩牙くん! コテツくん!」

 

魔戒剣を振るい、迫っていたアバドンの脚を弾き飛ばした彩牙とコテツの姿があった。

先程まで倒れ伏していた二人の騎士の復活に、希の表情に晴れやかな笑顔が宿る。

 

それとは対照的に、アバドンに怒りと絶望が織り混ざった表情が現れる。

絶対的強者であるはずの自分に歯向かい、一度打ち負かされたにもかかわらず、ここまで虚仮にされたことに激痛を越えた怒りが現れる。

この場の全員をただ殺すだけでは収まらない。じっくりと嬲り殺しにして喰ってやらねば気が済まなかった。

 

しかしこの場にいる人間には、アバドンのそんな思いなどどうでもよかった。

目の前にいる魔獣を討滅すること――彼らにあるのはそれだけだった。

 

『グ、ギ、ガッ……! ヤ、止メヨ……ヤメヨォォォォォ―――!』

 

仇武の鬣を弾き鳴らすイブの動きが、激しさを増していく。それと同時に響く音も荒々しさと深みを増していく。

それに呼応するように、アバドンの全身に印された蹄鉄の跡がその輝きを増していき、堅硬な外骨格にヒビを走らせていく。

他に何も考えることができないほどの苦痛――体が内部から崩壊していくような感覚のそれに苦しみ、のたうち回るアバドン。

 

やがて、アバドンの全身がヒビに覆われ、その内側から蒼色の光が漏れ出すとイブは波紋剣を鬣から一気に引き抜き、弦の音が鳴り響くと同時に波紋剣は一回りも二回りもある巨大な大剣――波紋斬馬剣へと姿を変えた。

そして仇武を駆けらせ、瞬く間にアバドンの下へ接近するとすれ違いざまに波紋斬馬剣を振りかぶり、その巨体を一刀両断した。

 

『ギィィヤァァァァァァァァ――!』

 

断末魔を響かせ、蒼い輝きと共に爆散するアバドン。

こうして邪悪な魔導具に導かれ、人界に現れた使徒ホラーは人間を喰うこともないまま、討滅されたのだった。

 

 

 

**

 

 

 

――虹の番犬所

 

「答えは出たのかの?」

 

「はい」

 

アバドンを討滅した後、ガザリウスの門が全て破壊されたことの報告も兼ねて番犬所を訪れた希が、主であるオルトスと向かい合っていた。後方では彩牙と大和が彼女の姿を見守っていた。尚、コテツはいつの間にか姿を消していたため、この場にはいなかった。

 

オルトスが問うのは法師を続けるために今の学生としての生活を捨てるか否か、その答えを希に問いかけていた。

誤魔化しは許さないというオルトスの視線を浴びる中、臆することはない希は自らが見つけた答えを口にした。

 

「どっちもやめません。それがウチの答えです」

 

「……それは、学生でありながら法師を続ける、ということか?」

 

「はい」

 

「……あえて聞こう、何故じゃ?」

 

法師も学生――μ’sもどちらも続ける。それが希の出した答えだった。

あのとき、絵里に言われて希はもう一度考えた。自分の本当にやりたいことは何なのかを。

法師として皆を守ること。学生として、スクールアイドルとして友達と共に今ある青春を駆け抜けること。どちらがやりたいことなのか。

答えは“どちらもやりたい”だった。しかし生来の臆病さによるものなのか、両立できるわけがないと無意識に決めつけてしまっていたのだ。

 

しかし希は、もうただの臆病で内気な少女ではない。

絵里に初めて話しかけたあの日、そしてμ’sに関わりを持つことを始めたあの日から、勇気をもって前に進むことを決めたのだ。

そして今、また勇気をもって前に進むべき時が来たのだ。一介の学生でありながら、魔戒法師としてホラーと戦う道を歩むことを。

そしてなにより――

 

「ウチがそうしたいって、どっちもやりたいって思ったからです」

 

どちらもやりたい、その本心を偽りたくなかったからだ。

そんな彼女を値踏みするような冷たい視線で見つめるオルトス。その視線から目を逸らさず、まっすぐに見つめ返す希。

互いの間に沈黙が流れ続けた時、その場に第三者の声が割り込んだ。

 

「……俺は、希の答えを支持します」

 

第三者――彩牙が希の隣に現れ、オルトスにまっすぐ向き合った。

驚いた表情の希が彼を見つめる中、彩牙は続けて口を開いた。

 

「希は自分が納得できる答えを出しました。自分を納得させられる人間にこそ、人を守ることができるのではないかと、俺は思います」

 

「彩牙くん……」

 

「それに俺が傍にいないとき、学友である希なら血の匂いに誘われたホラーから海未のことを守ることができると思います。……海未のことを救いたいという思いは、俺も彼女も変わらない筈です」

 

彩牙の言葉を受けても尚、オルトスは冷たい視線を崩さない。

だがそれでも希と彩牙は、オルトスにまっすぐと向き合い続けた。

 

 

「――よいではないですか。やらせましょう」

 

その時、新たな声がその場に響き渡った。

後方で希のことを見守っていた大和のものだ。彩牙のように希の隣に立つというようなことはしなかったものの、その声ははっきりと響き渡った。

 

「過去にも一国の指導者としての顔を持った騎士がおりました。それと比べれば東條のは可愛いもの、好きにやらせても問題はないでしょう。それに――」

 

 

 

 

 

 

「――仲間の選んだ答えは、尊重してやらねばなりますまい」

 

 

静寂に包まれる番犬所。

誰もが皆、希の、彩牙の、そして大和の言葉を受けたオルトスの反応を待ち続けていた。

幾らほどの時間が経過したのだろうか、その沈黙を破ったのは――

 

 

 

 

――呆れ返ったような、大きなため息だった。

 

「まったく、お主と言い彩牙と言いコテツと言い、若い連中はどうしてこうも儂の言うことを聞かんのじゃ。それに大和、お主までそっち側に立ちおって」

 

ため息と共にそう漏らすオルトス。

仕方ないと言わんばかりに呆れ返った表情だったが、心なしかどこか嬉しそうでもあった。

 

「勝手にせい。じゃがお主が決めたこと、吐いた唾は飲みこめぬぞ。それを肝に銘じることじゃな」

 

「――はい!」

 

そう言い残し、掛けていたソファごと闇の中へと消えていくオルトス。

それをずっと見続けていた希は認めれれて安堵すると同時に、これからのことに気が引き締められる。

これからは今までの日常生活に加え、本格的にホラーとの戦いに関わっていくことになる。どちらも疎かにしないと決めた今、それは大変なものになるだろう。

だがやるのだ、やりきらなければならない。

それを全て承知の上で、自分はこの道を選びたいという選択をしたのだから。

 

そんな希の肩にポン、と手が置かれた。

振り向けばそこには希と同じように安堵しつつ、凛々しい表情を浮かべた彩牙の姿があった。

 

「改めてよろしく頼む、希」

 

「……うん! これからもよろしゅうな、彩牙くん!」

 

一人の仲間として今一度、希は心からの笑顔を浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……親子揃って、言い出したら梃子でも動かん奴らじゃのう」

 

その呟きは、誰の耳にも入ることはなかった。

 

 

 

**

 

 

 

――都内某所

 

「……これで支度は整った」

 

夜の闇に包まれたその場に、その男の姿はあった。

夜に溶け込むような闇色のローブに身を包んだ男――闇法師は今、“あるもの”を仕掛け終わったところだった。

 

今回の仕掛けは、闇法師にとってとてもスムーズに行った。

わざわざガザリウスの門という“目くらまし”を街中に設置した甲斐があった。そのお陰で番犬所の目は完全にそちらに向かい、こちらには邪魔が入るという手間が省けたのだ。

 

これで準備は整った。

後は時が来ればこの仕掛けが発動し、己が目的を果たすための一歩になるだろう。その目的を果たすためにも、黄金騎士にはあの少女を守り続けてもらわねばならない。

目的を果たす前に死んでしまうということがないように――

 

そうして闇法師はその場を――とある校舎を後にした。

桜の木々が並び立つ、その校舎を。

 

 

 

***

 

 

 

にこ「にっこにっこにー☆ みんなのアイドル、矢澤にこニコー♡」

 

にこ「にこはー、まかいきしとか、ほらーとかよくわからないけどー、みんなに笑顔になってもらいたいニコー☆」

 

にこ「……えっ、嘘!予告!?」

 

 

にこ「え、えーと! 次回、『偶像(アイドル)』!」

 

 

 

にこ「…………なによ、なんか文句あんの?」

 

 

 

 




魔戒指南


・ 魔導馬・仇武
イブが召喚する魔導馬であり、海のように深い蒼色の甲冑を纏っている。
その鬣は竪琴の弦のようになっており、波紋剣を弓にして弾き鳴らすことにより、蹄鉄の印をつけた相手へ直接波を流すことで身体を崩壊させることができる。
また、他の魔導馬と同じように召喚した騎士の剣を巨大な斬馬剣へと変えることができる。


・ 魔装ホラー・アバドン
ガザリウスの門より出現した、使徒ホラーの一体。
悪魔の羽を生やした巨大なムカデの胴体に、頭頂部は一糸纏わぬ女性の肉体を有している。
ムカデの脚一つ一つを様々な武器に姿を変えることで、圧倒的な手数によって相手を圧倒する。その姿は正に自在に宙を駆ける武器庫とも言える。
また、騎士や法師は勿論、同胞たるホラーをも見下している傲慢な性格の持ち主でもある。


・ ガザリウスの門
太古の昔、闇に堕ちた魔戒法師により作られた禁断の魔導具。
人骨などの陰我に満ちた材料で作られた門であり、周囲から陰我を取り込むことで魔界からホラーを召喚する。
複数使用が前提であり、一つの門が破壊されたとしてもそれまで溜め込んだ陰我は別の門へと送られ、全て破壊しない限り強力なホラーを呼び出しかねないリスクがある。
また、日中は人界と魔界の境目に潜むことで身を守るため、破壊するのは夜に限られる。



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第13話  偶像


・・・・2か月ですね、ハイ。
お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした!

最近どんどんペースが落ちてしまっているなあ・・・・・




 

 

 

 

 

 

――アイドル。

それは光り輝くステージに立つ、女の子たちの憧れの象徴。

昨今では学生たちによる自主的なアイドル活動――スクールアイドルが世の流行を占めてはいるが、だからといって芸能界で活躍する本来のアイドルが廃れたわけではない。寧ろ更に勢いが加速していると言ってもいいだろう。

アイドルそのものが女の子たちの憧れの的であることには変わりないのだ。

 

そんなアイドルたちを擁する芸能プロダクションの中に、金城プロダクションという名の芸能事務所があった。

とある巨大グループに属する一芸能プロダクションであるそこには、数多くのアイドルやそれを夢見る少女たちが所属しており、日々の努力の下に輝かしい活躍を送っていた。

 

――しかし、全員が全員輝けるわけではない。

日の光を浴びる者もいれば、日の目を見ない者もいる。夢を叶える者もいれば、夢破れる者もいる。

そしてそれは、アイドルに限った話ではなかった。

 

 

「……え? い、今なんて?」

 

「……ですから、私、ここを……アイドルを辞めます」

 

金城プロダクションのアイドル部門、その一室に一人の男がいた。

男の名はアキヤマ。この金城プロダクションに所属するプロデューサーの一人であり、アイドルを光り輝かせるために導く役割を担っていた。

そんな彼の前にはデスクを挟んで一人の少女がいた。彼女はアキヤマがプロデュースを担当しているアイドルの一人である。

――いや、だったと言うべきか。

 

「ど、どうしてだ!?君はまだまだこれからだろう!?たしかに今はまだ大きな仕事はないが、これから大きく……」

 

「無理なんですよ、私には」

 

少女の言葉――アイドルを辞めるというその言葉にアキヤマは慌てて反論するが、少女は小さく、だがはっきりとした声でその言葉を遮った。

その表情には疲れ切ったような、諦めたような――虚無感に満ちた感情が浮かんでいた。

 

「歌もダンスもトークも、お客さんに魅かれるようにならない、上手くならない。三年たっても碌にファンも付かない。私にはアイドルなんて、最初から無理だったんですよ」

 

「ま、待ってくれ! 今はそうでもまだ十分に巻き返せるはずだ!ヒットするまでに数年かかることなんてよくあることだろう!?」

 

「……」

 

確かに、アキヤマの言うことは間違っていない。

ヒットするまでに数年もの下積みがかかることなど、芸能界では特別珍しい話ではなかった。

だがしかし――

 

「ひょっとして他の部署にいる同期の子が活躍しているのを気にしているのか? 君には君のやり方があるんだ、諦める必要なんてないだろう!?」

 

「……」

 

「それに今君に辞められると困るんだ! 今は君を中心とした新しいプロジェクトを進めているんだ。なのに君が辞めてしまったら他の子たちにも迷惑が掛かってしまうし、僕の立場だって悪くなってしまう!」

 

「……」

 

少女を引き留めようと、必死さを露にして興奮してまくりたてるアキヤマ。

だが、彼は気づいていなかった。

アキヤマが少女を引き留めるために紡ぐ言葉。その一言一言を聞くたびに、少女の表情が冷めきったものへと変化していくことを。

 

「これ以上立場が悪くなってしまったらこの部署自体の存続も危うくなってしまう!そんなことになったら他の子たちも路頭に迷ってしまうかもしれない!だから――」

 

「やっぱり、そうだったんですね」

 

再びアキヤマの言葉を遮った少女。

突然のことに戸惑うアキヤマを前に、少女は再び口を開いていく。

冷めきった表情を、鉄仮面のように変えないまま。

 

「プロデューサーは私たちのためにとかじゃなくて、自分のために――自分がいい思いをしたいだけなんですよね」

 

「な、なにを言ってるんだ! そんなこと――」

 

「私の一年後に入った子が心を病んで辞めていった件、覚えてますよね。あの子のこと、プロデューサーが追い詰めたんですよ。さっき私に話したみたいに、色んな人に迷惑がかかるとか、気が弱い子なのにプレッシャーを与えるような真似をしたこと、知ってるんですよ」

 

「そ、それは……!」

 

アキヤマは、言葉が出なかった。

反論の一つも碌にできないそんな彼の姿に幻滅したのか、少女は呆れ返ったような溜息を吐いた。

 

「……アイドルに向いてなかったと思ったのもそうですけど、一番の理由は貴方のような人にプロデュースされたくないからです。本当なら上の人に訴えたいところですけど、仮にも今までお世話になった恩がありますので止めておきます。 できることなら、今後は担当アイドルの子たちをしっかりと思いやれるようになることを願っています」

 

「待っ……!」

 

踵を返し、オフィスから去ろうとする少女に慌てて手を伸ばそうとするが、それは出かかった言葉と共に虚しく空を切り、そのまま少女は振り返ることなくオフィスを後にした。

一人残され、虚しく腕を伸ばしたまま固まるアキヤマ。

唖然とした表情で腕を伸ばしたまま固まっていたが、しばらくすると伸ばされた腕がプルプルと震えはじめ――

 

 

「…………なんだよ……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――なんだよ子供のくせに偉そうなこと言って!!」

 

激情に駆られ、憤怒に満ちた表情で拳をデスクに激しく叩きつけるアキヤマ。

その姿は先程までの少女に責められて狼狽えていた姿とは、あまりにもかけ離れていた。

 

「くそっくそっくそっ! 今まで面倒見てやってきたのに恩を仇で返しやがって!誰のおかげでアイドルになれたと思ってるんだ!」

 

アキヤマは怒りに震えていた。

アイドルとしてスカウトし、輝けるようにプロデュース“してやった”というのにその恩を忘れ、勝手に辞めると言い出した挙句まるで自分が悪いかのように糾弾したあの少女のことが、そして碌な成果も出せず、自分に迷惑をかけたくせに被害者ぶる他の担当アイドルのことが許せなかった。

ちやほやされる人形のように、大人しく言うことを聞いていればいいのに――そんな憤りが彼の中で渦巻いていた。

 

「大体元を辿れば他の部署のやつらが僕より良い成果を出しているのが悪いんだ!どいつもこいつも僕の足を引っ張りやがって!」

 

そして彼の怒りは、この件には何ら関係もない他の部署の人間にまで向けられる。

――第三者から見れば、アキヤマの方こそが身勝手で他者の足を引っ張る人間に思えるだろう。事実、先の少女も彼ではなく他の人間にプロデュースされていたらアイドルとして十分に輝けた可能性があっただろう。

しかしアキヤマは自分こそが正しいと、自分の思い通りにならない他の人間こそが害であると信じて疑わなかった。

 

 

 

――そして、その歪極まりない自尊心は――

 

 

 

『―――思い通りに動く人形が欲しいか?』

 

 

奴らを呼び寄せる“陰我”となる。

 

 

 

 

 

 

「……アイドル、好きだったんだけどな」

 

アキヤマに縁切りを言い渡した少女は一人、事務所の廊下を歩いていた。その表情はアキヤマと話していた時の冷めきったものとは打って変わり、悲しげなものになっていた。

彼女はアイドルが好きだった。芸能界入りしたのもアイドルになりたいという、ごくありふれた理由だった。それだけにアイドルにかける情熱も大きかった。

 

だが彼女はそんな大好きなアイドルを諦める道を選んだ。

その原因が彼女をはじめとした担当アイドルたちに無理難題を押し付け、プレッシャーを与えて心を追い詰めるようなプロデュース“まがい”のことをするアキヤマにあるとはいえ、大好きだったはずのものから身を遠ざけるという現実に、彼女の心は暗く沈んでいた。

 

「……ダメね。あんな啖呵きったのにこんな弱気になっちゃ」

 

とにかく、落ち込んでばかりではいられない。

アイドルを辞めることを選んだのは自分なのだ。気持ちを切り替えなくてはいけない。

とりあえずまずは実家に帰り、家の仕事を手伝おうと考えた。突然仕事を辞めたことに両親は怒るかもしれないが、なんとか説得して――

 

 

「――あ、れ……?」

 

――おかしい。

なにかが、おかしい。エレベーターに向かって歩いていたはずなのに、一向に辿りつかない。

いや、そうじゃない。足が動いてない、動かない。

足だけじゃない。腕が、口が、瞼が、うご か な――

 

 

 

 

「――良い人形っていうのはね、思い通りに動くことだと思うんだ」

 

少女の背後から、声が聞こえた。

それは先程彼女が絶縁を叩きつけたアキヤマのものだったが、その声に彼女は言い知れぬ恐怖を抱いた。

口調は軽いのに感情がこもっていないその声が、まるで蛇のようで――

 

「でも君は思うように動いてくれないし、そんな“不良品の”人形は必要ないよね」

 

アキヤマの言葉と共に、動かなかった少女の腕が動き始め――いや、“動かされた”。

自分の身体が理解の及ばない何かに動かされているという現実に少女の心は恐怖に支配されるが、その表情は人形のように動かない、動かせない。悲鳴の一つも上げられない。

そして両腕が横に開かれ、彼女の姿が十字架の形になった時――

 

「だから――“いただきます”」

 

――い、いやぁぁぁ!うで、私の腕が!!

 

指先と足先――少女の身体がその端から糸へと変化していき、アキヤマの口の中に吸い込まれ始めた。

自分がわけのわからないまま喰われていくという現実に、少女は恐怖し、絶望するが涙を流すことも、表情を恐怖で歪ませることも、悲鳴をあげることさえできなかった。

やがて少女の全身が文字通り糸へと変えられ、アキヤマの口の中に吸い込まれていく中、彼女の脳裏に最後に浮かんだのは――

 

 

――おかあ、さん。おとう、さん。

 

 

かつてアイドルになると決めた自分を見送ってくれた、両親の姿だった。

 

 

 

**

 

 

 

――秋葉原・とあるマンション

 

「それじゃ、行ってくるわね。虎太郎のことお願いね」

 

「はい!任せてくださいお姉さま!」

 

「行ってらっしゃーい!」

 

二人の妹に見送られ、我が家を後にする一人の少女がいた。

黒髪をツインテールにした少女――矢澤にこだ。

夏休みが終わり、今日から新学期が始まるということでピンクのカーディガンの下に音ノ木坂の制服に身を包んだ彼女は廊下、エレベーター、マンションのフロントと通り抜け、音ノ木坂へと繋がる秋葉原の街中を歩いていた。

 

街中を歩く中、鼻歌を囀り、軽やかな足取りに似合うような笑顔を浮かべるにこ。

今の彼女はとても充実していた。

数か月前までの彼女はお世辞にも良い状態とは言えなかった。妹たちのいる家ではともかく、外に出ている時は表情を強張らせているというか、心に余裕というものがなかった。

 

だが今は違った。

μ’sの一員として、スクールアイドルとして再始動した今のにこは腐りかけていた以前とは違い、大好きなアイドルに仲間たちと共に熱中できていることが、彼女の心に輝きを灯らせていたのだ。

 

 

そうして音ノ木坂に向かっている途中、一際大きいビルの前でにこの足取りは小さくなり、やがて完全に立ち止まるとそのビルを大きく見上げた。

その表情に強い意志を宿して。

 

「……いつか、私もここに……」

 

己に誓うかのようにそう呟くと、再び音ノ木坂に向けて歩き出すにこ。

その際一人の少年とすれ違ったが、にこは特に気に留めることもなく、そのままその場を後にした。

だが少年は立ち止まり、黒いコートを翻して振り返ると、にこが去って行った方向をサングラス越しに見つめた。

 

『どうかしましたか?コテツ』

 

「……いや、何でもねえよ」

 

少年――コテツは気を取り直すかのように視線を逸らすと、その先を一際大きなビルに――先程までにこが見上げていたビルへと向けた。

同じビルを見上げるという点では、先程のにこと同じであった。しかし彼女と決定的に違ったのは、単純に強い意志を浮かべていたにことは違い、コテツは睨むような鋭い表情を浮かべていたということだった。

 

「……どうだ、ギルヴァ」

 

『はい。かなり微弱ではありますが、おそらくは』

 

コテツが、そしてギルヴァがビルから感じ取った気配。

それは彼らにとって馴染み深いものであると同時に、決してこの世にあってはならないものだった。

それは――

 

 

 

「――あ! コテツくん、おはようにゃー!」

 

「お、おはようございます!」

 

――と、その時、コテツに呼びかける、元気一杯な少女の声と、少し気恥しそうな少女の声、二人の声が響いた。

その特徴的な語尾に振り返らずともわかった。

そこにいたのは星空凛と小泉花陽だった。二人とも先程のにこと同じように、音ノ木坂の夏服に身を包んでいた。

 

「――よ、おはようさん。二人とも今から学校か」

 

凛と花陽に振り返ったコテツ。

その顔には先程までの鋭い表情とは正反対の、穏やかな笑みを浮かべていた。

その変化に凛と花陽は気づかず、曇りのない朗らかな笑顔を浮かべていた。

 

「うん!コテツくんはお散歩かにゃ?」

 

「ま、そんなとこだ。街の平和を守るためのパトロールってな」

 

コテツの言葉に、事情を知る凛は察したような表情を見せ、すぐに満面の笑みを浮かべた。

一方、何のことなのかよくわからない花陽は不思議そうに疑問符を浮かべ、視線の先をコテツが見上げていたビルへと移した。

その瞬間何かに気づいたのか、彼女の表情は驚愕したもの、歓喜に満ちたものへと変化していった。

 

「かよちん?」

 

「も、もももももももしかしてここは、あの金城プロダクションじゃないですかぁ!?」

 

「……知ってんのか?」

 

やけにテンションが上がっている花陽の姿に戸惑いつつも、そう尋ねるコテツ。

その瞬間キッと睨むような、普段の彼女からは想像もできない程の鋭い視線をコテツに向け、そして――

 

「知ってるも何も! ここ金城プロダクションこと金城プロはアイドル業界の中でも大手中の大手!現在活躍中のアイドルの多くが金城プロ所属と言われているほどの芸能事務所なんですよ! かのA-RISEも金城プロからのスカウトを受けているとの噂がある程なんですよぉ……!」

 

早口で、かつ人目も憚らないほどの大声で捲し立てるように力説した。

普段の姿からは想像できないほどに興奮しきった様子から悦に浸った様子へと、怒涛の勢いで感情の変化を見せた花陽に思わず気圧されたコテツに、凛がこっそり耳打ちした。

 

「かよちんはね、アイドルが大好きなんだ。アイドル絡みになると大体こんな感じになるんだよ」

 

「……そ、そうか」

 

「ちなみに凛はこっちのかよちんも大好きだよ」

 

大好きにしても性格が変わりすぎだろうと思ったが、本人や親友である凛がそれでいいと言うのならそっとしておこうとコテツは思った。と言うよりも、単に下手に言及したらまたさっきの勢いで言い詰められるかもしれないのを避けたかっただけかもしれないが。

 

とにかく、と気を取り直し、悦に浸った花陽とにこにこと笑顔を浮かべる凛をよそに、彼女が金城プロダクションと呼んだそのビルを、コテツはもう一度見上げた。

 

「……芸能事務所、ね」

 

確かめるようにそう呟いたコテツ。

ビルを見上げるそのサングラスの下からは――鋭い眼光を覗かせていた。

 

 

 

**

 

 

 

「…………むむ……」

 

――新学期初日の音ノ木坂学院。

理事長や生徒会長である絵里の挨拶を含んだ全校集会が終わり、初日ということで簡単なHRだけで放課後を迎えることになった音ノ木坂学院とその生徒たち。

家に帰る者や遊びに出掛ける者、部活動に精を出す者など、各々が思い思いの時を過ごす中、校舎の一角にある階段の踊り場に希の姿はあった。

 

ちょうど周囲からは死角となる位置にいた彼女は、唸るような声を漏らしながら険しい表情を浮かべている。その視線の先には、掌の上に乗る魔界文字が記された風船があった。

希が力を籠めるたびに――自らの中に流れる“力”を流し込むイメージを浮かべるたびに、風船は淡い光を放ち、膨らんでいく。

 

やがて希の額に汗が浮かび上がり、それと並行して風船はどんどん大きく膨らんでいく。

そして、膨らみきった次の瞬間――

 

「――――わっ!?」

 

―――パァン!!

空気の弾ける音と衝撃と共に、風船が破裂したのだ。

その音と衝撃に、思わず悲鳴をあげ、顔を庇う希。

そして一息つき、落ち着くと床に落ちた風船の欠片を拾い上げ、それを見つめては残念そうにため息をついた。

 

「……やっぱり、そう簡単にはいかないんやね」

 

この風船は普段の学生生活の合間にも行える鍛錬のためにと、大和から渡されたものだった。

大和曰く、希は非常に高い法力を有してはいるが、その出力を状況に合わせて微調整する術に乏しいというのだ。事実、防壁をはじめとして、希がこれまで行使してきた術はそのほとんどが最大出力で放たれていたのだ。

 

そこで大和から言い渡されたのが、この風船を使った鍛錬だった。

術者の法力の出力に反応して膨らむ風船を利用し、破裂する寸前まで膨らませ、法力の出力を一定に維持してその状態を保たせることで、法力の出力をコントロールできるようにするという代物だった。

この鍛錬を希は暇を見つけては人目を盗んで続けているのだが、結果は御覧の通り、中々芳しくはなかった。

だがそれでも、希の表情に諦めの色はなかった。

 

「でもできるようにならへんと。ウチが鍛えさせてくださいって言いだしたんやし」

 

そう、そもそも大和に鍛えてもらえるように頼んだのは希だったのだ。

法師として生きることを改めて決めた希が自分の実力不足を補うために、同じ法師である大和に鍛えてもらえるようにお願いしたのだ。

その嘆願を大和は快諾。こうして今、風船を使った鍛錬を言い渡されていた。

今一度、再度挑戦しようと、鞄から新しい風船を取り出す希。

その時――

 

「……ふむ。少しずつ上達しているようだな」

 

「―――っ!?」

 

背後から突然かけられた声。

それに驚いて振り向いた希の視線の先には、作業服に身を包んだ初老の男性――音ノ木坂の用務員がじっと見つめていた。

見られてしまったと慌てる希だったが、すぐに違和感に気が付いた。

用務員は希の鍛錬――法術のそれに驚いている様子ではなかったのだ。それどころか感心しているような雰囲気だった。

 

そんな彼女の訝しげな様子に気が付いた用務員は、懐からある物を取り出した。

無骨な作りの、大きな毛筆。見覚えのあるそれを目の前にした希は、おそるおそると尋ねた。

 

「ひょっとして……大和さん、なんですか?」

 

「うむ」

 

「……その姿は?」

 

「変化の術だ。お前の様子を一度見ておこうと思ってな」

 

あっけからんと答えた男――大和。

その全くの別人となった姿に、唖然とせずにはいられなかった。

しかしその一方で、彼の言葉が確かならば大和は希の鍛錬を見に来てくれたことになる。師と呼べる人物が自分のことを気にかけてくれていることを自覚し、身が引き締まる希。

そうして今一度、彼の前で今の自分の実力を見てもらおうとした時――

 

 

 

 

 

 

 

「――希? こんなところで何してるの?」

 

階段の下から、彼女を呼びかける絵里の声が響いた。

一瞬見られたかと思いドキリとしたが、絵里からは風船や大和の姿はちょうど死角になって見えなかったらしく、絵里は特に不思議に思う様子は見せなかった。

そんな彼女と向き合った希は、できるだけ何もなかったように普段通りに装ってみせた。

 

「あ、えりち。実はな、新しい占いの練習やってたんよ」

 

「そうなの?それじゃあ今度占ってもらおうかしら」

 

「ええよ、楽しみに待っててな♪」

 

それを最後に「先生に呼ばれているから」とその場を後にする絵里。

去っていくその姿を見て一安心したように息を吐く希を、大和は静かに見つめていた。

 

「……今のが、お前の守りたい友か」

 

「――はい。えりちは……μ’sのみんなはウチの大事なお友達。みんなを守りたいから、離れたくないから、ウチはこの道を選んだんです」

 

魔戒法師であると同時に一介の女子高生を続ける。

普通ならばありえないその道を選んだのは、友を守りたいという思いと離れ離れになりたくないという思い、二つの相反した思いから来たものだ。

他の騎士や法師が見れば何を甘いことを言うのかと、何と心の弱い者かと思うだろう。だがそう思われ、蔑まれようとも希は決してこの道を違えたりはしないだろう。

 

なぜならこれこそが、彼女が心からやりたいと思うことなのだから――

 

「……そうか。ならば何としてでも守りぬいてみせろ」

 

「……大和さんにも、誰か守りたい人がおったんですか?」

 

希のその言葉に、大和は自嘲するような……懐かしむような、複雑な感情が籠めらた笑みを小さく浮かべた。

 

「……ああ、いた」

 

 

 

 

 

 

 

 

「この世の何よりも、守りたいと思った者が」

 

 

 

**

 

 

 

「えーっと……こんなものかしら」

 

――時が経ち、夕方。

夏休み明け初日の練習が終わり、μ’sのメンバーと別れた後、その帰り道にあるスーパーマーケットから出てきたにこの姿があった。その手には沢山の食材が入れられた買い物袋を提げていた。

帰り道に頼まれたおつかい――というわけではない。帰りが遅くなる母親に代わって夕食を作るため、こうして買い出しをしていたのだ。

 

練習で疲れた身体に家事の労働が追加されるという形ではあるが、にこは特に苦には思っていなかった。むしろこれは彼女にとって特に変わり映えのない日常の一つでしかなかった。

母子家庭であるにこの家では母親の帰りが仕事で遅くなることが時折あり、そんな時にはにこが家事全般を行っていた。

 

年頃の女子高生の遊ぶ時間が減ることになっているが、にこは母親を恨んだことはない。

母が遅くなるまでに仕事をしているのは、女手一つで自分たちを養うためであることが分かっているからだ。それに帰りが遅くとも、家には自分を慕ってくれる妹や弟たちがいる。

だからにこは、寂しいと思うことはなかった。

それに――

 

「……今は、みんながいるものね」

 

 

 

買い物を終え、再び帰路につくにこ。

その道中、たまたま通りがかった家電量販店の前でその足取りは止まった。

道に面したショウウィンドウに展示されていた、最新型のテレビ。その中に映されていたアイドルの姿に、にこの視線は向けられていた。

 

アイドル。

それはにこにとって何物にも代え難い夢そのものであった。

きっかけは些細な憧れだった。小さい頃にテレビに出てきた、可愛らしい笑顔と衣装で歌うアイドル。その姿がキラキラ輝いて見えたにこは瞬く間にアイドルに夢中になり、いつしかこう思うようになった。

――自分も、人々を笑顔にさせるようなアイドルになりたい。

それがにこの夢の始まりだ。

 

そしてにこは今、夢の一つの形とも言えるスクールアイドルになっていた。頼もしい大事な仲間と共に、少しずつではあるが着実に人気を集めてきている。

だがこれで夢が終わったわけではない。

にこはまだ、現状に満足しているわけではない。

 

確かにスクールアイドルは立派なアイドルであるし、にこはμ’sを愛している。そもそもアイドルはどんな形であってもアイドルであることには変わりないというのがにこの考えだ。

だがにこの目指すアイドルは沢山の人を笑顔にさせるアイドルだ。彼女がよく口にする“宇宙No.1アイドル”というのはその意識の表れだと言ってもよい。

 

それ故、にこはスクールアイドルだけで終わるつもりはない。高校を卒業した後はプロのアイドル入りを目指すことも考えていた。

勿論、それが容易ではないことはにこもよく知っていた。μ’sが築かれる前のスクールアイドル活動で挫折した経験をもって。

プロのアイドルではそれはより困難な道になるだろう。だがそうだとしても、にこは信じていた。

その先に自分が夢見た景色があると――

 

 

 

 

 

 

「――アイドルねぇ。憧れだとか何とか言うけど、そんなに良いモンかね?」

 

――そんな思いを秘めながらテレビの中のアイドルを見つめていた、その時だ。

にこの隣から嘲笑うような声が聞こえたのだ。

その言葉にピクリときたにこが視線を向けた先には、同じようにテレビを見つめる一人の少年がいた。

彼女と同じような背格好に、黒いロングコートとサングラスを身に着けた、非常に目立つ姿の少年だった。

 

「アイドルになれたとしてもプライベートは無いようなモンだし、場合によっちゃ変な仕事をやらされたりイカレたストーカーにつけ回されるんだろ? 俺だったらそんなのは絶対ヤダね」

 

「……ちょっと、何よアンタ」

 

少年の言葉に憤りを感じるにこ。

アイドルが何よりも好きな彼女にとって、アイドルを侮辱するような少年の言葉は到底見過ごせるようなものではなかった。

そもそもこんな往来で、初対面の相手の隣で――しかもはっきり聞こえるようにそんなことを口にする少年の正気を疑った。

 

「ん? 俺はただ自分が思ったことを口にしただけだぜ?」

 

にこの非難の視線を受けても少年は動揺するそぶりも見せず、にやりと相手の神経を逆撫でするような笑みを浮かべていた。

その笑みを見たにこの中で、言い表しようのない対抗心が芽生え始めた。

 

「……そう、じゃあ私も思ったことを言わせてもらうわ。 確かにアイドルは笑顔を振りまけばいいだけの楽な仕事じゃないし、報われないことだってあるわ。けどね、それでもアイドルには人を笑顔にさせる力ってものがあるのよ。 アンタがどこの誰で何を考えているのか知らないけど、一方的な視点でアイドルを語ってんじゃないわよ!!」

 

初対面の――通りすがりの相手であるにも拘わらず、思いの丈を叫んだにこ。

それだけ彼女のアイドルにかける情熱が大きいことへの表れでもあった。

だがその言葉を受けた少年は、尚も変わらずに馬鹿にするような笑みを浮かべていた。

 

「ふーん、お熱いこって。ま、精々頑張ってくれよ」

 

「ちょっと!待ちなさいよ!」

 

にこの制止も気に留めず、その場から立ち去る少年。

最後までこちらを馬鹿にしているような笑みを崩さずにいたその姿に、にこは怒りを隠し切れなかった。

それと同時に心の隅で――本人も気づかぬまま、こうも思った。

――何故、通りすがりの相手にこんなにムキになるのだろう、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まったく、何だったのよアイツ!」

 

再び帰路につきはじめたにこ。

だがその感情はトップアイドルを目指す決意に水を差され、不機嫌極まりなかった。

自らが愛するアイドルにあのような物言いをされたのだ、にこが怒るのも無理はない。

 

――そりゃあ、ああいう考えがあるくらい、知ってたけどね。

 

あのようなことを言われたことで、アイドルを目指す思いに陰りが生まれる――ということはなかった。

むしろその逆で、熱が灯った。人々を笑顔にできるようなアイドルとなり、あの少年の鼻を明かしてやりたいという反骨心へとなったのだ。

そのためにまずはラブライブに出場し、有名にならなければと決意を新たにしたとき――

 

 

 

「――あの、少しよろしいですか?」

 

後ろから声をかけられた。

何かと思い振り向いた先には、一人の男性がいた。

スーツ姿のその男性に先の少年のことを思い出したのか、本人も気づかないうちににこの表情は若干険しいものへと変化した。

新手のナンパかセールスか何かと思ったこともあったのだろう、よくもこんな高校生に声をかけられるものだと呆れてもいた。

 

「……なにか用ですか?」

 

「あぁすいません。私、こういう者ですが……」

 

そう言って男が懐から取り出したのは、一枚の名刺だった。

その名刺に視線を移し、印刷された文字を追うにこ。その表情はみるみるうちに驚きの表情へと変わっていった。

そこに印されていたのは“金城”――

 

「……金城プロダクションの……プロデューサー!?」

 

驚愕に満ちた表情のまま、男と、男の持つ名刺の間で視線を行き来させるにこ。

そんな彼女の姿に男は笑顔を浮かべ、口を開いた。

 

 

「アイドルに――興味はございませんか?」

 

男――アキヤマの表情には、どこまでも深い笑みが刻まれていた。

 

 

 

 

 

 

『まったく、いきなり何を始めたのかとヒヤヒヤしましたよ』

 

「まあ悪かったよ、そうカッカするなって」

 

一方、にこの前から立ち去った少年――コテツはギルヴァに諫められていた。

そうは言うが余り反省しているようには見えないコテツに、ギルヴァは呆れの色を隠しきれなかった。

コテツが突然あの少女――にこに話しかけたことだけでも驚いたのに、彼女の神経を逆撫でするようなことを言い出したのだ。会話のペースを握っていたとはいえ、いつ下手なことを言い出さないか気が気でなかった。

 

 

だがギルヴァはどうしても、あまり責め立てる気にはなれなかった。

それはにこと話した後のコテツの様子が――

 

『……嬉しそうですね』

 

「そうか?気のせいだろ」

 

嬉しそうに――いや、安心しているように見えたからだ。

 

 

 

「……っ」

 

『どうかしましたか?』

 

だがそれも束の間で、突然表情を険しくさせ、にこと会話した先へと視線を向けた。

コテツには何か感じるものがあったのか、その表情には警戒の色と――怒りの色が籠められていた。

 

 

 

**

 

 

 

「「「――アイドルにスカウトされたぁ!?」」」

 

アイドル研究部・部室。

普段からμ’sメンバーの賑やかな雰囲気に包まれたそこに、にこ以外のメンバーの驚愕に満ちた声が響き渡った。

余りの声量に窓ガラスがびりびりと震える中でその声を一身に浴びたにこは、何事もないかのように鼻高々とふんぞり返っていた。

 

「ま、いつかこういう日が来るとはわかっていたけどねー? やっぱりにこの持つアイドルオーラが放っておかれるわけないっていうかー?」

 

「……合宿の時みたいに、見栄張ってるだけってオチじゃないでしょうね」

 

「んなわけないでしょっ!ほら、これが動かぬ証拠よ!」

 

疑わしい視線な向ける真姫に対してカッとなったにこが突き出したのは、一枚の名刺。

そこに記された“金城プロダクション”の文字を目の当たりにした花陽は、その驚愕に満ちた表情を更に深いものにした。

 

「かっ、かかかかかかかか金城プロダクション!? まさかあの金城プロですかぁ!?」

 

「そうよ花陽!あの金城プロに、このにこにーが認められたってことよ!」

 

興奮した花陽に応えるように自らを称えるにこ。

盛り上がっていく二人のやりとりを目にしたメンバーたちは、にこの言うことが真実であることを察したのだった。

それは普通に考えればとてもおめでだいことだろう。

常日頃からアイドルへかける情熱が人一倍強いにこが、プロのアイドルとして活躍できるきっかけを掴んだのだ。

 

しかしこの場合、彼女たちにとっては一つの懸念が生まれる事柄でもあった。

それは――

 

「……にこは、どうするのですか?」

 

「うん?」

 

「にこはこのスカウトに応え、プロのアイドルになるのですか?

 

 

 

 

 

 

 ――μ’sを抜けて」

 

誰もが聞きあぐねていたそのことを、はっきりと問いかけたのは海未だった。

そう、プロのアイドルとスクールアイドルは同じアイドルであってもその領分は全く異なるものであり、掛け持ちすることなどできない。

プロ野球と草野球がいい例だ。プロとアマチュアの世界とは完全に分けられているものなのだから。

 

そのことに気付いた花陽は表情を曇らせた。

わかっているのだ。普段からトップアイドルとして輝くことを夢見ていたにこにとって、このスカウトがどれほど大きなチャンスなのかということを。だからにこ自身の夢を考えれば、スカウトに応えるのが一番良いことの筈なのだ。

だがその一方で、こうも思ってしまう。

 

――μ’sが9人でなくなってしまう。にこに抜けてほしくない。

にこと離れ離れになりたくない。

 

そんな我儘にも似た思いが、にこ以外のメンバーに渦巻いていた。

 

 

「……私は、にこちゃんのやりたいようにやるべきだと思う」

 

沈黙を破ったのは穂乃果だった。

その言葉に反応したメンバー全員の視線を一身に浴びる中で、穂乃果は続けて口を開いていく。

 

「にこちゃんがμ’sでなくなっちゃうのかもしれないのは寂しいけど……でもアイドルになる、アイドルとしてみんなを笑顔にしたいってのは、にこちゃんがずっと夢見てきたことだよね」

 

「だったらその夢を私たちの我儘で邪魔しちゃいけないと思うんだ。勿論、μ’sに残ってくれるって言うならすっごく嬉しいけど……」

 

 

 

「……にこちゃんは、どうしたいの?」

 

改めて静かに問いかける穂乃果。

その表情にはにこの望みを聞いてあげたいという思いと、μ’sから離れてほしくないという、相反する感情が渦巻いていた。

彼女も他のメンバーたちと同様、本心ではにこに抜けてほしくないのだ。その思いを心の中で留まらせようと必死になっていた。

 

そしてにこは、その一連の話に口を挟まず、静かに聞いていた。

腕を組み、目を閉じていた彼女の表情からは考えが読み取れない。

喜んでいるのか、怒っているのか、はたまた失望しているのか、何もかもわからなかった。

どれくらいそうしていただろうか。数分であるはずなのに何時間も経ったような錯覚を抱いたころ、にこは静かに口を開いた。

 

「……そうね、昨日スカウトされてから私もずっと考えてた」

 

「……それで、答えは決まったの?」

 

絵里の問いかけに「ええ」と返したにこは、その眼を開いた。

そして自分を見つめるメンバー全員を一通り見渡し、再び口を開いた。

 

 

「私の答えは――……」

 

 

 

 

 

 

『……そうか、そんなことがあったのか』

 

――にこの話を聞いてから数分後の、音ノ木坂の廊下。

そこには周囲に聞かれないように彩牙に電話をしている希の姿があった。

周囲に聞かれないようにしているのは彼氏ができた等と思われないように――などでは決してない。

その証拠に、希の表情は普段以上に引き締まったものになっていた。

 

「うん、にこっちが言っていた金城プロダクションなんやけど、それってやっぱり……」

 

『間違いない。俺様達が怪しいと踏んでいた場所だ。――ホラーが潜んでいる、な』

 

希の問いに答えたのはザルバだった。

そう、希は金城プロダクションのことを知っていた。にこや花陽のように大手の芸能事務所としてではなく、ホラーが潜んでいるかもしれない場所として。

そもそものきっかけは番犬所からホラー討滅の指令が出されたことだった。無名のアイドルが何人か行方不明になっている――おそらくホラーに喰われたらしく、その調査を行っていたのだ。

 

そうして怪しいと踏んだのが、金城プロダクションだった。

行方不明になった無名のアイドルが金城プロダクション所属であり、なおかつその事務所ビルからザルバが僅かな邪気を感じ取ったのだ。

それ故、今夜にでもホラー捜索、もしくは討滅に乗りこむつもりであったのだが――

 

『それで、矢澤さんはその金城プロってとこに行ったのか』

 

「話をつけについさっきな。守りの加護をこっそりかけておいたんやけど」

 

『わかった、俺もすぐに向かう。もし本当にホラーがいた時は――』

 

「うん、気を付けてな。ウチも今からにこっちを追いかけるよ」

 

その言葉を最後に彩牙との電話を切り、先に金城プロダクションへと向かったにこの後を追いかけ始める希。

その表情には、友人に襲い掛かるかもしれない魔獣の脅威に対する焦燥が現れていた。

 

――にこっち、無事でいて――!

 

 

 

**

 

 

 

――同じころ、金城プロダクション。

 

「みんな、集まったかな?それじゃあ今週の成果を発表するよ」

 

アイドル部署の一つ――アキヤマのオフィスにて、そう告げた彼の前には数人の少女たちが並んでいた。

彼女らはアキヤマがプロデュースを担当するアイドルであったが、皆普通ではなく、その表情は恐怖に青ざめ、脂汗がいくつも伝っていた。

そんな彼女たちの様子を満足そうに見渡したアキヤマは、手元にあるファイルの中身に視線を移した。

 

「それじゃあ成績のいい子から……スズちゃんとユカリちゃんは昨日のイベントがいい感じだったよ、アヤちゃんはちょっと噛んじゃったのがいただけなかったね」

 

アキヤマが“成績”の内容を口にしていくたびに、少女たちの様子は安堵したものや冷や汗をかくようなものなど、多彩に変わっていく。

だが共通していたのは、“最後の一人になるまで”名前を呼ばれた少女は皆、ホッとしていたことだった。

まるで、命拾いしたかのように――

 

 

 

「……さて、残念ながら“移籍”が決まったのは――ユミちゃんです」

 

アキヤマが最後の一人の名を口にした瞬間、ユミと呼ばれた少女は顔面蒼白となり、絶望に染まった表情になった。

そして瞳から涙が溢れ、歯をガチガチと震えさせながら、縋るようにアキヤマの下へと駆け寄った。

 

「お、お願いします! それだけは、それだけは勘弁してください!」

 

「んー……そう言われてもねぇ。ユミちゃんは他の子たちと比べても大した結果を出せなかったし、この続けてもしょうがないでしょ?だから――

 

 

 

 

 

 

 

 ――僕の胃の中への“移籍”、受け入れてくれるよね?」

 

「――いっ、イヤァァァァァァ!!」

 

アキヤマの言葉に恐怖が限界になり、恐怖に歪んだ顔を涙や鼻水で濡らし、その場から逃げようと駆け出すユミ。

しかしアキヤマが彼女に向けて腕を突き出すと――

 

「――あ゛っ!」

 

ピタリと、まるで何かに縛られているかのように、その場で動きを止めた。

そのままアキヤマは、彼女の下にゆっくりと歩み寄った。

 

「逃げちゃダメだよ。ユミちゃんは今夜の移籍の時間までここにいてもらわなきゃ」

 

「た……たす け………!」

 

「あ、前も言ったけど、みんなも誰かに言いふらすとかしちゃ駄目だよ?もし余計なことを言ったりしたらアイちゃんみたいに首と身体がお別れしちゃうことになっちゃうからね?」

 

アキヤマの言葉に少女たちはアイと呼ばれた少女の無残な姿を思い出したのか、再び顔面蒼白となり、恐怖で震えだした。

そんな彼女らの首には、まるで首輪のように透明な糸が巻かれていた。

 

「……さて、近いうちに新しい子が僕の人形に加わることだし、楽しみだなぁ」

 

そう言いながら舌なめずりをし、懐から一枚の写真を取り出したアキヤマ。

そこには音ノ木坂の制服に身を包んだ少女――矢澤にこが写し出されていた。

 

 

 

**

 

 

 

「……よし、行くわよ」

 

――金城プロダクション・本社ビル前。

そこにはやや緊張したような表情のにこが、そのビルを見上げていた。

スカウトに対する“答え”を告げるためにやってきたのだが、自分が憧れを抱いていたその場所を前に、緊張に包まれていたのだ。

やがて頬を軽く叩き、気を入れ直すとビルに向かって一歩踏み出し――

 

「――よお、そんなとこに行くのはやめた方がいいと思うぜ?」

 

――聞き覚えのある声に呼び止められた。

その声に「はぁ」とため息を吐き、後ろを振り返ると、そこには昨日にこが会った少年――コテツが立っていた。

その姿を前にしたにこは、うんざりしたような表情を浮かべた。

 

「……なによ、またアンタ?」

 

警戒心と不満感を露にするにこ。

だがそれも無理はないだろう。コテツはにこが愛するアイドルを愚弄するような言葉を吐いたのだ。そんな相手と仲良くしろと言うのが無理な話だ。

そんなにこの態度を気にもかけないコテツは、昨日と同じように人を喰ったような笑みを浮かべていた。

だがそれも束の間で、表情を引き締めたものへと変えた。

 

「なんだってそこまでアイドルにこだわる?何故そこまでアイドルになろうとする? そこまでアイドルであろうとすることに、一体何の意味があるってんだ?」

 

「アンタ……」

 

真剣に問い詰めるコテツの姿に、驚いたような表情を浮かべるにこ。

そんなにこに構わず、コテツは続けて口を開いた。

 

「だいたいアンタはスクールアイドルなんだろ?それだってのにそっちに行くのか。プロのアイドルになることができれば所詮アマチュアのスクールアイドルなんか踏み台でしかないって、そう言いたいのか?」

 

コテツの、ともすれば責めているようにも見える問いかけに、にこは彼への認識を改めた。

軽口ばかりで人を見下すようなことばかりを言う軽い人間かと思っていたが、どうやらそうではないようだった。

何故そこまで必死になるのかわからないが――とにかくも相手が真剣に問い詰めているのだから、こちらも真剣に答えねばと、そう思った。

 

 

「……好きだからよ、アイドルが」

 

その言葉にコテツはピクリと反応したが、にこは構わずに口を開いていく。

 

「私はアイドルが大好きなの、明日もまた頑張ろうって気持ちにさせてくれるアイドルがね。人を笑顔にできるような、そんなアイドルに私もなりたいからよ」

 

“好きだから”――それがにこがアイドルにこだわる理由だった。

単純で、何の捻りもない理由。だがそれ故に強靭でもある。

だからにこはアイドルであろうとすることに折れることはない。彼女がアイドルを好きでいる限り。

 

「……そうか。だからアンタはどうしてもアイドルになりたいって言うのか」

 

「ええそうよ。それと一つ言わせてもらうわ。一体どこでそんなことを聞いたのか知らないけど――……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私がいつ、スクールアイドルを辞めるなんて言ったのかしら?」

 

その言葉に、コテツは思わず口を半開きにして、呆気にとられた表情を見せた。

そしてその言葉の意味をよく噛みしめると、その表情を破顔させ、口から笑い声が漏れ始め――

 

「――は、はは……はははははははは! そうかそうか!なるほど、そういうことだったのか!」

 

その言葉で、理解した。

にこが今日ここを訪れた、その理由を。

 

「もういい?人を待たせてるから早く行きたいんだけど」

 

「――ああ。そうそう、そうだったな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――それを聞いたら、尚更行かせるわけにはいかないな」

 

その言葉と共に、コテツはあっという間ににこの目前まで詰め寄った。

えっ、と息を漏らす暇もなく、彼女の額に魔戒符が突きつけられ、その意識は闇の中へと落ちていった。

 

「よっ、と……」

 

崩れ落ちるにこの身体を抱きかかえるコテツ。

腕の中で穏やかな寝息を立てるにこを一瞥した後、彼はもう一度金城プロダクションのビルを見上げた。

魔獣の住処となった、そのビルを。

 

 

 

 

 

 

 

 

――数分後

 

「――希! あれを!」

 

「にこっち!」

 

金城プロダクション前に辿りついた彩牙と希が目にしたのは、街路樹の花壇に寄りかかるように倒れているにこの姿だった。

急いで彼女の下に駆け寄り、その身を確かめるが特に目立った外傷はなく、穏やかな寝息をたてていた。

 

『どうやら寝ているだけのようだな』

 

「よかったぁ……」

 

ホラーに何かされたのかと思った希は、彼女の身に特に異常がなかったことに安堵した。

自分たちが来るまで騒ぎなどにならなかったのは、ちょうど都合よく人通りがなかったためだろう。路上で少女が倒れているという騒ぎにならないよう、にこの身体に認識阻害の術をかけ、冷えないようにと自らのブレザーを羽織らせた。

そうして改めて、彩牙と共に金城プロダクションのビルを見上げる。

 

「どうだ、ザルバ」

 

『……ああ、間違いない。ホラーの邪気をはっきりと感じるぜ。魔戒騎士の気配も一緒にな』

 

「大和さんか、コテツくんのこと?」

 

希がそう問いかけた瞬間、動きがあった。

ビルの上階の方から、激しい空気の震えが伝わってきたのだ。膨れ上がった邪気と共に。

それが意味することは――

 

『どうやら、一戦おっぱじめたようだぜ』

 

「――行こう!」

 

「うん! ――にこっち、ちょっと待っててな」

 

そうして彼らもまた、金城プロダクションへと乗り込んでいった。

 

 

 

**

 

 

 

――時は少し遡り、金城プロダクション・アキヤマのオフィス。

 

「もうそろそろかな……」

 

そこではアキヤマが自分のデスクに腰を掛け、昨日スカウトした少女――にこを待ち続けていた。貰った電話によれば、そろそろ訪れるはずだった。

待ちながらちらり、と彼はオフィスの隅に視線を移した。そこには“移籍”を告げられた少女――ユミが何かに縛られているかのように立ち尽くしていた。

涙で濡らし、恐怖で青ざめたその表情を見て、アキヤマは舌なめずりをした。

 

にこがオフィスを訪れてからどうするか、彼は既に決めていた。

まずは彼女の前で、ユミの“移籍”を行う。そうして恐怖に支配され、逃げ出すであろうにこをすかさず“糸”を植え付ける。

そうすれば、彼女はめでたくアキヤマの人形への仲間入りを果たすことになる。その時を想像し、期待で胸を弾ませる。

 

 

そして――遂にその時が来た。

 

 

――コン、コン

 

オフィスのドアをノックする音。にこが来たのだと、アキヤマは確信した。

ドアの向こうからは“彼女の匂いも感じられた”ため、嬉々としてドアに歩み寄り、その扉を開いた。

 

「待っていたよ矢澤さん!さ、まずは中に入って――」

 

 

――ボッ

 

アキヤマの言葉を遮るように、彼の目の前に突き出されたのは、目のような彫が刻まれた金属製のライター。そのライターから、鮮やかな真紅の炎が灯しだされた。

その炎に照らされたアキヤマの瞳は赤みを帯びた白に濁り、魔界文字が浮かび上がる。

目の前の炎、そして自らの異変に“何が起きたのか”気づいたのと同時に、ドアの隙間から繰り出された足がアキヤマの胴体に叩き込まれ、その身は大きく蹴り飛ばされた。

 

「がっ……!? ま、まさか……!」

 

蹴り飛ばされ、デスクに叩きつけられたアキヤマ。

よろりと立ち上がる中、半開きだったドアが全開になり、下手人の姿が露になる。

真紅の炎が灯されたライターを手に、黒いコートに身を包み、サングラスで目元を隠した少年だ。

そこにいたのは―――

 

「どーも。スカウトに来たぜ、ホラーさんよ」

 

魔導ライターを携えた、コテツの姿があった。

 

「魔戒……騎士っ……!」

 

「そう、お前らホラーの天敵サマだ」

 

そう言いながらちらり、とコテツはこの場にいた一般人――ユミへと視線を移した。

驚愕の表情でこちらを見つめている彼女は何かに縛られて拘束されており、今の今まで死への恐怖で絶望していたのか、息は荒れ、脂汗がいくつも浮かんでおり、顔色は血の気が感じられない程青くなっていた。

 

「……随分とまあ、下衆な趣味だな」

 

「く、くそっ!」

 

コテツの視線がユミへと移った瞬間、起き上がったアキヤマは彼女に向けて腕を伸ばし、その指を手繰り寄せるような動きをした。

するとオフィスの隅にいたユミの身体は、手繰り寄せられるかのようにアキヤマの下へ引き寄せられていく。

アキヤマへと引き寄せられていくユミの姿を、コテツはただ見ていることしかできず――

 

「させるかっての!」

 

――ということはなかった。

彼の手から放たれた魔戒剣が弧を描いて飛んでいき、アキヤマとユミの間で“何も切らずに”軌道を残して彼の手元へ戻っていった。

自分とユミの間を飛翔した魔戒剣を目にし、しまったという表情を見せるアキヤマ。

それと同時にアキヤマの下へ引き寄せられていたユミの身体は途中でピタリと止まり、まるで糸が切れたかのようにその場に倒れた。

起き上がり、戸惑いの表情を浮かべるユミは自分の身体が“自由に動ける”ことに気付いた。

 

「さっさと逃げな」

 

「は、はい!」

 

コテツに促され、涙混じりの表情でオフィスから逃げ出すユミ。

そんな彼女を背にしたコテツは己の目の前で屈辱に満ちた表情で見つめるアキヤマに、軽蔑の意を籠めた視線を投げかけた。

 

「人質を取ろうなんてな、クズもここに極まれりってか」

 

「くそ、魔戒騎士が……! 何故僕の邪魔をする!そんなに使命とやらが大事か!」

 

「ああ大事さ。だがな、それ以上にお前がムカつくんだよ」

 

「なに!?」と言いたげな疑問に満ちた表情を浮かべるアキヤマ。

そんな彼の疑問に答えるように、コテツは口を開いていく。

 

「あるところに一人の女の子がいた。その子はみんなを笑顔にできるようなアイドルになるのが夢だった」

 

「だがその子の夢につけこみ、餌にして女の子を喰おうとする悪魔が現れた。 ……わかるか、えぇ?お前のことだよ」

 

 

 

「そんな女の子を――“アイツ”の夢を利用して、喰おうとするお前が……俺は何よりも腹立たしいんだよ」

 

そう言って、魔戒剣を突きつけるコテツ。

それを前にしたアキヤマは、心底納得できないと言うような表情を浮かべ、そして――

 

「夢……? そんなもの、人形に必要あるものか!アイドルなんてものは皆、僕の欲を満たす人形になってさえいればいいんだ!」

 

怒りの形相を浮かべて叫び、両の掌から夥しい量の糸を噴き出した。

糸はアキヤマの身体を幾重にも包み、繭のように形作っていく。アキヤマだった繭は鼓動を一拍打つと、内側から破くように弾け飛んだ。

 

『貴様も、あの子も、全ての人間は、僕の思い通りに動く人形であればいいんだ!』

 

繭が弾け飛んだ場所、そこにいたのはもはやアキヤマではなかった。

関節が露になった木彫りの人形のような姿をし、まるで吊らされたマリオネットのように不自然に浮いている魔獣がいた。

これが、アキヤマに憑依したホラーの真の姿。その名は――

 

『ホラー・マリグルス。何もかもが思い通りにならないと気が済まない癇癪持ちのホラーです』

 

真の姿を露にしたマリグルスを前に、魔戒剣を構えるコテツ。

それと同時にマリグルスは腕を突き出し、その指先をカチャカチャと音を立てて蠢かせた。

するとマリグルスの後ろにあった無残に壊れたデスクがピクリと動いた直後、ひとりでに浮かび上がって猛烈な速さでコテツに向かって飛び込んできた。

 

「おっと!」

 

飛びかかってくるデスクを咄嗟に避けるコテツ。

すると狙う相手を失ったデスクはその勢いのまま彼の後ろにあった壁に激突し、原形を留めない程に破壊された残骸が残った。

だがこれにより、マリグルスの能力ははっきりとわかった。

 

『奴は指先から糸を噴き出し、物や人間を人形のように操ってるようですね』

 

「自分が人形みたいな見た目してる癖にか」

 

マリグルスは両手の指先から、透明と見間違うほどに細い糸を噴き出し、それを対象となる物や人間に植え付けることで、人形のように自在に操ることができるのだ。さながら人形遣いのように自由自在に、思うがまま。

そしてそれを証明するかのように椅子、本棚、観賞植物など、オフィスの中にあったありとあらゆる物が浮かび上がり、マリグルスの周りに集まり始めた。

 

「……マジか。こいつは骨が折れるな」

 

不敵な笑みは崩さずとも、思わず冷や汗を垂らすコテツの前で、マリグルスに操られたオフィス用品が一斉に襲い掛かった。

ある物はまっすぐに射出するように、またある物は鎖付き鉄球のように叩きつけるようにして、コテツへと襲い掛かる。

コテツは襲い掛かるそれらのオフィス用品を避け、時には魔戒剣で弾きながら隙間を縫うようにしてマリグルスへの距離を詰めていく。

 

そしてマリグルスの目前まで迫り、魔戒剣を振り下ろそうとした瞬間――

 

「――ぐっ!?」

 

そこで、コテツの身体はピタリと止まり、身動きができなくなった。

彼の身体もまた、マリグルスの糸によって支配下に置かれたのだ。

何一つ身動きができず、宙に浮いたままの彼を前にして、マリグルスから歓喜に満ちた笑い声が発せられた。

 

『ふ、ふふ……ははははははは! やったぞ!これで魔戒騎士も僕の人形になったんだ!』

 

宿敵たる魔戒騎士さえも思い通りに操る人形にしたことで、狂喜に震えるマリグルス。

糸の支配下から逃れようと必死にもがくコテツの姿を前に、マリグルスは更なる喜びに打ち震える。あれほど自信に溢れていた振る舞いをしていたくせに、偉そうなことを言っていたくせに、呆気ないものだと。

そんな彼の屈辱に満ちた表情を嘲笑いながら喰らってやろうと、手始めにサングラスを外すべくコテツの身体を手元に手繰り寄せた。

その時――

 

 

「――ギルヴァ!!」

 

『カアッ!!』

 

コテツの声に応えるように首元に下げられたギルヴァの口が開かれ、そこから真紅の魔導火が吐き出された。

まるでバーナーのごとき勢いで放たれた魔導火はコテツの身体を操っていた糸を焼き尽くし、その糸を伝ってマリグルスの身体も焼き尽くしていく。

真紅の炎に包まれたマリグルスは苦悶の声を吐き出しながら地へ崩れ落ち、その隙に自由の身となったコテツはマリグルスから距離を取った。

 

『グ、アァァ……! 熱い、熱いイイィィィ!!』

 

「やっぱ人形なだけあってよく燃えるな」

 

『キィサァマアァァァァ!!』

 

先程までとはうって変わり、怒りに震えるマリグルスは燃え盛る身体のまま、コテツへと襲い掛かる。

さながら炎の人形のようにも見えるその姿を前に、コテツは臆することなく魔戒剣を構え、己の身体を包むように円を描き、灰色の鎧を――カゲロウの鎧を召喚する。

そして、こちらに向かってくるマリグルス目掛け、灰塵剣を投擲した。

 

弧を描きながら飛翔してくる灰塵剣を前に、マリグルスは怒りに囚われた頭の中で思考を巡らせ、指先から糸を噴き出した。

向かってくる灰塵剣を操り、逆にカゲロウに反撃しようと目論んだのだ。

しかし、カゲロウに対する怒りに支配された頭では、その行為の結果に至ることができなかった。平常時なら必ず至ることができたその答えに。

 

『な――にぃ!?』

 

マリグルスが噴き出した糸はその目的を果たせぬまま、その全てが焼け落ちていった。

怒りに支配されたことで考えが至らなかったが、今のマリグルスは魔導火に焼かれ続けているのだ。そんな状態で糸を噴き出しても悉く焼き尽くされていくのは当然の結果だった。

そして邪魔するものがない灰塵剣はそのまま飛翔していき――マリグルスの身体を両断した。

 

身体が上半身と下半身に分かれたマリグルス。

下半身はそのまま崩れ落ち、みるみるうちに魔導火に焼かれていき、残った上半身はカゲロウに襲い掛かろうとした勢いのまま、宙を舞った。

そして宙を舞うマリグルスの瞳に映ったのは、手元に戻った灰塵剣を双剣態へと変え、今にも振るおうとしているカゲロウの姿だった。

そして――

 

『――オリャアッ!!』

 

振るわれた灰塵剣はクロスの軌道を描き、マリグルスの上半身を斬り裂いた。

そしてマリグルスはそのまま魔導火で焼き尽くされていき、もはや声にすらならない断末魔を残して消滅していった。

マリグルスが消滅したと同時に消えていく魔導火。それを見届けた後、コテツはカゲロウの鎧を解除した。

 

それと同時に、オフィスの外から人の気配が近づいてきた。

覚えのある“二人分の”気配に、コテツはその正体が誰なのか見当がついた。

そこに現れたのは――

 

 

 

「――あれ、コテツくん!?」

 

「これは……!」

 

彩牙と希の二人だった。

戦いの舞台になったことで見る影もないほどに荒れ果てたオフィスを目にして驚愕に包まれた二人を前に、コテツはさも何事もなかったかのように不敵な笑みを浮かべた。

 

『……邪気が消えた。そうか、もう終わったということか』

 

「そういうこと、一足遅かったなお二人さん。じゃ、後始末よろしく」

 

「なっ、おい!」

 

ザルバの呟きに応えるようにそう言い残し、彩牙の制止も聞かぬまま、コテツはオフィスの窓を開けて外に飛び降りていった。

地上から数階分の高さはあったが、魔戒騎士の体力なら特に問題はないだろう。

それよりも、残された彩牙たちには一つ問題があった。

 

「……ねえ、なんだか騒がしくなってきてへん?」

 

『相当暴れたようだからな、騒ぎにならない方が可笑しな話だ』

 

ビル内にいた人々の慌てふためく声と、大きくなる足音。人が沢山残っているビル内で戦ったのだ、当然の結果だった。

巻き込まれた人々の記憶の消去に、証拠の隠滅、やらなければいけない後始末が山ほど残っている。

コテツの遺した置き土産に、彩牙はホラーと戦ってすらいないのに頭を抱えずにはいられなかった。

 

 

 

**

 

 

 

――翌日、音ノ木坂への通学路。

そこには通学途中の希と絵里の姿があった。

 

「ふあぁ……」

 

「希、大丈夫? 凄く疲れてるようだけど……」

 

「んー……うん、大丈夫。無理せえへんようにするよ」

 

非常に疲れた様子の希を、心配そうに見つめる絵里。

それもそのはず、昨日はコテツとホラーの戦いの証拠隠滅で大忙しだったのだ。

まずホラーに囚われていた少女たちや騒ぎに気付いた人々の記憶を取り除くことから始まり、監視カメラに収められた映像のすり替え、ホラーとの戦いの跡を火事の跡に誤魔化すなど、短時間でやらなければいけないことが山ほどあった。

 

大和が駆けつけて手を貸してくれたものの人が多く残ったビル内であったということもあり、作業量はこれまでにない程になりあちこちを駆け回ったのもあって彩牙共々、下手するとホラーと戦った時よりも疲れ切ったような気がしたのだ。

そんなこともあり、希には後始末の疲労が色濃く残っていた。今日ばかりはホラーもゲートも現れないでほしいと切に願っていた。

 

そうして校門前まで辿りつくと、見覚えのある後ろ姿が見えた。

小柄な体に黒いツインテール。その姿を見た希は先程までの疲れ切った様子はどこへやら、悪戯な表情を浮かべて両手をわきわきとさせた。

そして、素早く忍び寄ると――

 

「にこっち、おっはよー!」

 

「ぅわあっ!? 朝っぱらから何すんのよアンタは!」

 

人影――にこの胸をわしわしと掴んだ。

出会い頭にわしわしされたにこは顔を赤らめ、希の手を振りほどく。すると希はにこの胸を掴んでいた掌を不思議そうに見つめ、口を開いた。

 

「にこっち……ちょっと縮んだんとちゃう?」

 

「んなわけないでしょっ! ……ったく、こっちは首が少し痛いってのに」

 

そう言いながら腫れ物を扱うかのように自分の首をさするにこ。

それを見て、絵里は心配そうな表情を浮かべた。

 

「ちょっと、寝違えたの?」

 

「んー……なんかね、昨日金城プロに行った辺りからの記憶がおぼろげなのよ。気が付いたら家の前にいてね、それから妙に痛むのよ」

 

にこは昨日のこと――コテツと話した辺りのことを覚えていなかった。

彼と会話したことも、彼によって眠らされたことも。眠らされた時の姿勢により、首少し痛くなったという形だけを残していた。

そして、金城プロという言葉に反応した希は、にこに問いかけた。

 

「そういえばにこっち、金城プロの人とは……?」

 

「それがね、あれからもう何度か電話してみたんだけど繋がらないのよ。事務所の方にも電話してみたけどそんな人いないってさ」

 

「それじゃあ、スカウトの件は――」

 

「そ、完全にお流れになったってわけ。ま、元々“断るつもり”だったからいいんだけどね」

 

にこの言葉に反応した絵里の表情に陰が差す。

そう、昨日にこが金城プロダクションを訪れたのはスカウトの件を断るためだったのだ。

あれほど憧れるプロのアイドルになれる機会を自ら手放す、その理由は――

 

「……ねえ、本当に良かったの? プロのアイドルになれるチャンスだったんでしょ?」

 

「昨日も言ったでしょ。プロへの道があるからって、ラブライブに出てもないのにスクールアイドルをやめるような真似、このにこがするわけないでしょ?」

 

「でも、アイドル好きなんやよね?」

 

「好きよ? 好きなものだからこそ、途中で中途半端に投げ出すような真似したくないのよ。あんた達もその気持ち、わかるでしょ?」

 

にこはアイドルが大好きだ。そこにはアイドルに対する強い思いが――こだわりがある。

だからこそ、妥協はしたくない。プロへの道があるからといって、スクールアイドルを中途半端に投げ出すようなことはしたくないのだ。

アイドルが好きだからこそ、どんな形であろうと、どんなに華やかな道が用意されていたとしても、今のアイドル活動を――スクールアイドルを投げ出したりしない。

それがにこの考えだった。

 

「言っとくけど、別にアンタたちのために断ったわけじゃないからね。まあ、宇宙No.1アイドルであるにこに離れてほしくないって気持ちもわかるけどねー」

 

「……ふふっ。そうね、頼りにしてるわよ、宇宙No.1アイドルさん」

 

「にこっちがいないと寂しいもんなぁ」

 

そうして和気藹々とした雰囲気で、校舎へと歩いていく絵里と希、そしてにこの三人。

にこは今回、プロのアイドルへの道を自ら手放した。

だがいつの日か。スクールアイドルを最後までやりきり、プロのアイドルへの道を本格的に目指そうとするとき、彼女はきっと宇宙No.1に相応しいようなアイドルになれるだろう。

彼女には、それができるほどの器があるのだから――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『……よいのですか?声をかけなくて』

 

そんな三人の姿を、遠くから見守る影があった。

 

「いいんだよ。知ってるだろ、なんで俺がカゲロウの鎧を継いだのか」

 

そう言い残した影――コテツは、三人のうち小柄な人影を今一度見つめると、その場を後にした。

その表情にはこれまで誰も見たことがないほどの、穏やかな意志が宿っていた。

 

 

 

***

 

 

 

ことり「誰もが、彼女のことをこう言いました。“太陽のような人”だと」

 

ことり「でも太陽は、いつもさんさんと輝くわけじゃありません」

 

ことり「時には雲に隠れちゃうことだってあるんです……」

 

 

ことり「次回、『涙雨』」

 

 

 

ことり「雨が、太陽を覆い尽くす」

 

 

 

 




魔戒指南


・ ホラー・マリグルス
木彫りのマリオネットのような姿をしたホラー。
自分の思い通りにならないものは何もかも気に入らない癇癪もちであり、他者を自分の思い通りに好き勝手に操ることを何よりもの幸福としている。
指先から非常に細い糸を発射し、それで捉えた対象を意のままに操る。



主人公が主人公していない件について。
ちなみに金城プロダクションの経営者は先代の愛人との子という噂がなきにしもあらず。


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第14話  涙雨

今回から、アニメ一期における終盤に突入します。





 

 

「――それじゃあ、本当にいいのね?」

 

――ことりの家、リビング。

そこではテーブルを挟み、ことりと彼女に似た一人の女性――音ノ木坂の理事長でもある、ことりの母が向かい合っていた。

問い質すかのようにそう問いかけることりの母の手には、一通の便箋が――エアメールがあった。

そうした母を前に、ことりは毅然とした表情で頷いた。

 

「うん、こっちでやりたいことがまだまだ沢山あるから。折角留学先を探してくれたお母さんには悪いけど……」

 

ことりの母が手にした便箋、それは留学への紹介状だった。

ことりは元来服作りが好きであり、いつかは本格的に服飾の勉強をしたいと考えていた。μ’sの衣装作製を担当していることもその表れだ。

そんな彼女の意を汲み取ったことりの母が、自らのツテで服飾の勉強ができるところを探し回り、そこで見つかったのが手にしている便箋の送り主――フランスの学校だった。

 

ことりが前々から願っていた、服飾の勉強ができる場所。フランスへの留学。

しかしそれを断るという選択を、ことりは選んだ。

折角の母の動きが無駄になったというのに、彼女は優しい笑顔でことりを見つめていた。

 

「いいのよ。どうしてもやりたいことがあるっていうのなら、お母さん応援するわ」

 

「お母さん……!」

 

「でも、覚悟を決めなさい。一度断ったってことは次に留学したいって思った時はことりの努力だけで果たさなくちゃダメなのよ」

 

先程とは打って代わり、険しい表情で警告する母。

だがそれを前にしても、ことりは狼狽えることなく、毅然とした表情で見つめ返した。

 

「大丈夫だよ、どんなに大変でもやるって決めたんだもん。それに私、やりたいことにもう嘘はつきたくないから」

 

そう語ることりの脳裏に、スクールアイドルを始めてからこれまでのことが浮かび上がった。

穂乃果に誘われ、やってみたいと思ったことから始めたスクールアイドルは大変なことも辛いことも沢山あった。だけどそれと同じくらい――いや、それ以上に楽しいと思った。この日々を手放したくないと、そう思った。

 

そしてもう一つ、ことりがホラーに狙われた時のことを思い出した。

あの時、ことりは彩牙からやりたいことに嘘をつくなと言われた。そして今、ことりがやりたいことは穂乃果たちと一緒にスクールアイドルを――ラブライブに出場し、廃校を阻止すること。

だから留学を断った。勉強はいつでもできる、だがスクールアイドルができるのは今しかないからと、そう思ったからだ。

 

 

――前は、穂乃果ちゃんや海未ちゃんについていくだけだったのに……――

 

そして、そんなことりの姿を前にした母は感慨深くそう思った。

彼女の知る限り、以前までのことりは自分の意見を出すことができず、穂乃果や海未についていくことしかできなかった。以前のままだったら今回の留学に関してはっきりと答えを出すことはできなかっただろう。

だが今は違う。ことりは自分で答えを決め、進みたい道をはっきりと選んだのだ。何があったのかはわからないが、今のことりは以前より強くなったと実感した。

 

そんなことりを、母は嬉しそうに優しく見つめていた――

 

 

 

**

 

 

 

――夜

人気のない街の中、屋根から屋根へと飛び移っていく一つの影があった。

人のような形をしていたそれは、人ではなかった。おとぎ話に出てくるような悪魔の姿をした魔獣――素体ホラーだった。

まるで何かから逃げるかのように、ホラーは素早い身のこなしで屋根を飛び移っていく。

そう、ホラーは実際に逃げていたのだ。自らを狙う狩人から。

 

『ギイッ!?』

 

やがて、その逃避行も終わりを告げる。

突然目の前に現れた光の壁――淡い紫色に輝く壁にホラーの身体は勢いよく衝突し、地へと落ちていった。

地面へと叩き落され、身悶え、もう一度逃げようと起き上がるホラー。

だが、それはもう遅かった。ホラーの目の前には狩人が――いや、処刑人が待ち構えていた。

剣を振りかぶった、黄金の狼が。

 

 

『――ハアッ!!』

 

その雄叫びと共に、暗闇の中に黄金の閃光が走った。

ガロの振るった牙狼剣によってホラーが斬り裂かれたのだ。

ホラーの身体が消滅し、完全に討滅されたのを確認したガロは鎧を解除し、彩牙の姿が露になる。

ホラーを倒し、昂った気を鎮めるように息を吐く彩牙。そんな彼に寄り添い、声をかける人物がいた。

 

「彩牙くん、お疲れさま」

 

それは同じくホラー討滅に加わっていた希だった。

すっかり慣れたのか、何事もないかのように魔法衣を身に纏った彼女は、彩牙を労うかのように隣に立っていた。

 

「ああ、希もお疲れ」

 

『嬢ちゃんも大分慣れてきたな。動きに戸惑いが無くなってきていたぜ』

 

「そ、そうかなぁ?なんだか照れるやん?」

 

ザルバの言葉に、照れ隠しのように恥ずかしがるそぶりを見せる希。

だが確かにザルバの言うように、最近の希の動きは初めの頃とは大きく変わっていた。初めの頃は自分や仲間を守ることに使うことが多かった防壁は、先程のようにホラーの動きを封じるためにも使用していたのだ。

他にも大和から様々な術を教えてもらったらしく、希が少しずつ成長していることを彩牙は実感していた。

 

「そういえば帰らなくていいのか?明日は朝早いと言ってたが……」

 

「あ、そうやった。ほな、後のことはお願いな?」

 

そう告げて、急ぎ足でその場を後にする希。

その後ろ姿が見えなくなった頃、彩牙はぽつりと呟いた。

 

「……ザルバ。希は強くなったよな」

 

『そうだな。最近はめきめきと上達してるし、あれなら将来は有望な法師になれるだろうぜ』

 

「ああ、俺も負けてられない」

 

少しずつではあるが確実に進歩を見せている希の姿に、彩牙は自らも成長しなくてはと奮起していた。

先日の使徒ホラー出現の際、為す術もなくやられてしまったこともあり、日々成長を続ける彼女のように自らも更に強くなりたいと思うようになっていたのだ。そうでなければ人を守ることはできないと。

そんな彩牙に、ザルバは静かに口を開いた。

 

『小僧、一つだけ言っておく。嬢ちゃんは嬢ちゃん、お前はお前だ。比べて焦るなんて考えるなよ』

 

「わかってるさ」

 

ザルバの言う通り、彩牙は彩牙、希は希。成長の仕方というのは個々で違うものなのだ。そこで比べて焦ってしまっては何の意味もない。

そのことを胸に秘め、彩牙は拳を握りしめる。

 

それと同時に、ふと思う。

記憶を失う前の自分はどのような人間だったのか、ひょっとしたら今とは全然違う性格だったのではないと思う時が度々あるのだ。

もし仮にそうだとしたら、記憶が蘇ったとき、“今の自分”はどうなってしまうのだろうと。

 

 

 

**

 

 

 

『――オラァッ!!』

 

――同じ頃。

そこにはガロとはまた別の場所でホラーを斬り伏せる灰色の狼――カゲロウの姿があった。

斬り伏せられた素体ホラーが黒い靄と化して消滅するのと同時にカゲロウの鎧は解除され、コテツの姿が露になる。

ホラーを討滅したコテツは張り詰めた緊張の糸をほぐすかのように背を伸ばし、ゾルバへと話しかけた。

 

「ふう……ゾルバ、今ので終わりだな?」

 

『――はい。周囲にもう邪気は感じられません』

 

「うっし。……しっかしまあ、斬っても斬ってもキリがないな。ネズミじゃあるまいし」

 

コテツがそうぼやくのも無理はなかった。

なにせ連日エレメント浄化に駆け回っても、一向にホラーの出現が無くなることがないのだ。何者かの――闇法師の手が入っているという話ではあるが、ゾルバはそこに疑問を持ち続けていた。『その闇法師は一体何を目的としているのか?』ということを。

 

仮にホラーが好きなのだとしても、それならば魔界にでも行ってしまえば済む話だ。文字通り地を埋め尽くさん限りのホラーが出迎えてくれることだろう。

そうでないのならば、ホラーを呼び出すことに何か理由が――目的があるはずなのだ。

……もっとも、それが何なのかがわからないのだが。

 

 

その一方で、コテツは全く別のことを考えていた。

――彩牙のことだ。

さる理由で彩牙に敵意同様の感情を抱いてきたコテツだが、最近になってその敵意が薄くなりつつあるように感じていた。彼と共に戦うのも悪くないと思ってしまう自分がいることに、戸惑いを覚えていたのだ。

 

元々は彩牙を断罪する筈だったのにそう思うようになったのはあの少女――凛の影響だろうか。彼女の言葉が――人を憎みたくないという言葉が響き、興が醒めるように彩牙に対する敵意が引いていくのだ。

それも悪くないという思いと、このままでいい筈がないという相反した思いが、コテツの中でせめぎ合っていた。

 

そのことに思考を巡らせていた時――彼は異変に気が付いた。

 

「―――なっ!ここは……!?」

 

コテツは人気のない路地にいた筈だった。

だが今の彼の姿は木造の小屋がポツンと建ち、鬱蒼とした木々が生い茂る、濃い霧に満ちた山の中にあった。

突然飛ばされた見知らぬ場所――いや、コテツはこの場所をよく知っている。

この場所は、コテツにとって何よりも忘れられない場所の一つだった。

 

――腑抜けたか?灰塵騎士よ――

 

「っ! おい、誰だ!」

 

目の前に広がる光景に目を奪われていたコテツに、どこからともなく男の声が語りかけた。

その場全体に響き渡るような、もしくはコテツの頭の中に響くように発せられたその声は、まるで囁くかのように語りかけていく。

 

――もう一度見せてやろう。己が戦う、その理由を――

 

「なんだと……!?」

 

その言葉と共に、コテツの瞳に一つの影が映りこんだ。

それは人影だった。倒れ伏しているその人影にコテツが少しずつ歩み寄ると、霧に隠れていたその姿が露になる。

そこに倒れていたのは老人だった。白くなった髪と髭を蓄え、血まみれになった老人が仰向けに倒れていたのだ。

その姿を目の当たりにした瞬間、コテツの表情は集燥なものへと変化し、その老人の下へ一目散に駆け寄った。

 

「――師匠!」

 

悲痛に満ちた声で、師匠と呼んだその老人を抱きかかえるコテツ。

しかしそれも虚しく、老人の身体は力なく崩れ落ち、その命を引き取った。

それを目の当たりにして震えるコテツの腕の中で、老人の身体は黒い霧状となって消滅していった。

その光景を前に、驚愕の表情を浮かべるコテツに、再び謎の声がかけられる。

 

――お前の記憶から読み取った光景だ。よく再現されているだろう?――

 

「……ふざけんな!こんなもん見せやがって、何を考えてやがる!」

 

――私はお前に、自分の戦う理由をもう一度見直してほしいのだ。お前は自らの師の仇を討ちたい、そうだろう?――

 

「……だからどうした!どこの誰だか知らないが、俺の戦いに首を突っ込むんじゃねえ!」

 

――いや、それでいい。お前はそれでよいのだ――

 

「おい待て! 姿を見せろ!」

 

その言葉を最後に、遠ざかっていく謎の声。

声の主を引き留めるべく叫ぶコテツだが、先程まで響いていた謎の声は何一つ返事をしなかった。

そして――

 

 

 

 

『―――テツ………コテツ!』

 

「――はっ!?」

 

気が付いた時、コテツの姿は元の路地にあった。

ゾルバが何度も呼びかける中、コテツは困惑を隠せないまま辺りを見回した。

 

「おいゾルバ!奴は!?」

 

『……奴、とは?』

 

「さっきから何処かから話しかけてた奴だ!あの野郎、師匠の幻まで見せやがって!」

 

『……コテツ、何を仰っているのですか?私には何も聞こえませんでしたし、あなたはただぼうっとしていたのですよ?』

 

「なんだと……?」

 

信じ難い表情を浮かべるコテツだが、ゾルバの声色に嘘をついている様子はない。

……夢だったのか、それとも何かしらの術で幻覚を見せられていたのか?

そんなコテツに、ゾルバは躊躇いがちに声をかける。

 

『……コテツ。まだ零士の仇のことを考えているのですか』

 

「当たり前だ。お前だって師匠は親みたいなもんだろ」

 

『……ええ、それはそうですが……』

 

はっきりと、それでいて苛立ちを隠せないように答えたコテツに、ゾルバは不安を隠せずにいた。

彼の師――自分にとっては親同然の仇を取りたいという気持ちはよくわかる。しかしその反面で不安もあった。

このままでは、彼は――

 

 

 

 

 

 

 

 

「――その通り。復讐は果たさなければ意味がない」

 

 

 

**

 

 

 

「ふわぁ~……おはよー……」

 

「おはよー」

 

――高坂家・居間

 

そこには起きたばかりで寝惚け気味の穂乃果と、そんな彼女とは対照的にぱっちりと目を覚ました状態である妹、雪穂の姿があった。

起きたばかりの穂乃果と違って先に起きていた雪穂は先に朝食を食べており、穂乃果もそれに倣うように食卓の前に座り、朝食のトーストを口に運んでいく。

起きているのか寝ているの定かではない様子の姉に、雪穂は呆れるような視線を向ける。

 

「お姉ちゃんまた寝坊?」

 

「んー……」

 

「しっかりしてよ、ラブライブも近いんでしょ?そんなんで大丈夫なの?」

 

「んー………あ」

 

雪穂の言葉で、穂乃果はふと思った。

ラブライブに出場できるグループが決まるまであと二週間、そこで20位以内に入っているグループが出場できるのだ。

最後にランキングを見た時、μ’sのランクは……あまりよく思い出せなかったため、今はどうなっているのかと思い、穂乃果はスマートフォンを取り出した。

 

「穂乃果!ごはん中に携帯弄るのはやめなさい!」

 

「ちょっとだけ!すぐ終わるから」

 

母に注意されたが、穂乃果はどうしても今の順位が気になり、操作を続ける。

そうして画面に表示された、スクールアイドルのランキングページ。その中でμ’sの名前を探していき――

 

 

「…………ん゛!?」

 

――その指がピタリと止まった。

それと同時にスマートフォンを持つ手が震え、信じられないといった様子でトーストを咥えたまま、驚愕に満ちた表情で固まる穂乃果。

そんな彼女の様子に疑問を抱いた雪穂が、横から穂乃果のスマートフォンを覗き込むと――

 

「……すごい!!」

 

 

 

**

 

 

 

「凛ちゃん見た!?」

 

「うん!しっかりこの目で見たにゃ」

 

――音ノ木坂学院・アイドル研究部

そこには興奮冷めやらぬといった様子で盛り上がる穂乃果と凛の姿があった。

 

「遂に……遂に!」

 

 

 

 

 

 

「μ’sが20位以内にランクインできたんだよー!!」

 

「やったにゃぁーー!!」

 

「ヘイ!!」と叫び、ガッツポーズをとる二人の間には、部で使用しているノートパソコンがあった。

そこに映し出されているのはスクールアイドルのランキングサイトであり、表示されているμ’sのランクは“19位”。

そう、彼女たちμ’sは遂に、ラブライブの出場圏内である20位以内にランクインできたのだ。

そんな二人の横では強がりつつも感動に打ち震えるにこの姿があり、この場にいる全員がこの事実を心から喜んでいた。

 

 

「安心するのはまだ早いですよ」

 

「ええ、海未の言う通り。これを見て」

 

釘を刺すようにそう言ったのは海未だった。

そんな彼女に同調するように、穂乃果と凛の間に割り込んだ絵里はノートパソコンを操作し、画面を切り替えた。

するとそこに映し出されたのは一つの動画、A-RISEのライブ動画だ。だが彼女たちが視線を奪われたのはライブの映像そのものではなく、そこに表示されたテロップだった。

 

「……7日間連続ライブ!?」

 

そう、A-RISEは七日間の連続ライブを開催することを決定したのだ。自分たちに同じことができるだろうか、と誰もが慄いた。

ラブライブの出場権が決まるのはあと二週間後、その時に20位以内にランクインしていることが必要になる。

つまりどのスクールアイドルもこれから最後の追い込みをかけることになり、ここから巻き返されることもその逆も十分にあり得るのだ。

 

「つまり、ここからが本番ってわけね」

 

「そういうこと。でも今から無理をしても仕方ないし、まずは学園祭でのライブを成功させることを目標にしましょう」

 

絵里の言う通り、音ノ木坂学院では今、学園祭の準備を控えていた。

音ノ木坂の学生のみならず、外部の人間も招かれる学園祭において十分なライブパフォーマンスを魅せることができれば20位以内を維持することが――それだけでなく、更なるランクアップも期待できるのだ。

そのことを胸に、メンバーの心は改めて引き締められる。

 

「それでにこ。早速だけど部長としてぴったりの仕事があるの」

 

「――いいわ! 何でも言ってちょうだい!」

 

 

 

**

 

 

 

「――それで、屋上でライブすることになったのか?」

 

「はい。講堂が使えなくなったときはどうしようかと思いましたが」

 

――その日の夜、園田家。

庭に面した縁側で隣り合って腰を掛ける中、海未の話を一通り聞いた彩牙はそう返した。

海未の話では、あれから学園祭での講堂の使用権をかけたくじ引きが行われたのだが、μ’sことアイドル研究部はそのくじ引きを見事に外してしまい、講堂を使用できなくなってしまったのだ。

ちなみにそのくじを引いたのは部長であるにこであった。

 

代わりにどこでライブをしようかと皆が悩む中、穂乃果が提案したのは屋上でのライブだった。

十分な広さがあって他の部活が使わない場所であり、何より自分たちにとって思い入れの深い場所であるということから、ラブライブへの出場をかけた舞台にピッタリだと言うのだ。

その一方でたまたま通りがかって目に留まることがないという欠点もあるが、その点は学校中に響くような大きな声で歌い、お客さんを誘おうという、前向きな穂乃果らしい答えだった。

 

「なるほど、高坂さんらしいな」

 

海未の話を聞いた彩牙は、思わず顔が綻んだ。

どんなに向かい風な状況であっても常に明るく、自分のやりたいことに嘘をつかずに前向きな発想でいられるのが穂乃果なのだと、改めて知った。そんな彼女だからこそ、海未は穂乃果のことを心から信頼しているのだ。

彩牙自身も戦う理由に迷っていた時、穂乃果の純粋な言葉があったからこそ立ち直ることができたのだ。

 

そして海未も昼の出来事を思い出しながら、穂乃果には敵わないと思っていた。

穂乃果が屋上をステージにすると提案した時、自分たちは“お客さんに気づかれないかもしれない”とネガティブなことを考えていた。

だけど穂乃果はそれを真っ向から否定した。それならば気づいてもらえるような大きな声で歌おうと言ったのだ。

そんな困難に臆することのない穂乃果が、海未はとても眩しく、そして誇らしく思っていた。

 

 

その一方で、海未は意識を隣に向けた。

そこにいるのは、彼女の隣で腰を掛けている彩牙がいる。彼は海未の話で何かしら思うところがあったのか、穏やかな表情を浮かべている。

 

――ホラーと戦っている時とは大違いですね――

 

ホラーと戦う時の苛烈な姿の彩牙と、そうでないときの穏やかな姿の彩牙。

どちらが本当の彼の姿なのかは、海未にはわからない。――いや、どちらも本当の彼の姿なのかもしれない。

だけど願うのならば、彩牙には――希にも、ホラーと戦うことなく、穏やかに、戦いとは無縁の世界で生きてほしい。

 

そんな切なる願いを、彩牙の横顔を見つめながら海未は抱くのだった。

 

 

 

**

 

 

 

――同じ頃。

高坂家、穂乃果の部屋。

 

「……」

 

そこで穂乃果は、スマートフォンの画面をじっと見つめていた。

そこに映し出されていたのは、スクールアイドルのランキングサイト。そこでは19位という、μ’sの現在の順位が表示されていた。

 

真剣な表情でしばらくそれを見つめ続けた後、スマートフォンに表示される画面を大手の動画投稿サイトに切り替えた。そこには7日間連続ライブの敢行を決定したA-RISEのライブ映像が映し出されている。そしてA-RISE以外の多くのスクールアイドルも、それぞれ多種多様なイベントの告知を出していた。

 

「……みんな、頑張ってるなぁ……」

 

ぼんやりと、そう呟いた。

ラブライブ出場をかけた最後の追い込み――穂乃果の脳裏に昼間の会話が思い出された。

どのスクールアイドルもこの二週間で出場権を手に入れるため、あるいは守り抜くために必死だった。それはどれだけ人気のあるグループだろうと――王者であるA-RISEであっても例外ではない。

そしてμ’sも、学園祭という舞台で人気を集め、ラブライブの出場を勝ち取ろうとしている。

 

穂乃果は、ここで自分に何ができるだろうかと考えた。

廃校を阻止するために始めたμ’s。ラブライブに出場して有名になれば入学希望者も増えると考え、出場することを目指してここまでやってきた。

 

……ここで終わりたくないと、そう思った。何としても出場したいと、そう強く願った。

μ’sの発起人は他ならぬ穂乃果だ。発端であるが故に、そしてリーダーであるが故に、彼女なりに責任を感じていた。

この大事な場面で自分がヘマするわけにはいかないと、そう思った。

 

「……よしっ」

 

決意を固めるようにそう呟いた穂乃果はすくっと立ち上がり、着ていた部屋着を脱ぎ捨て、代わりに動きやすいジャージを身に着けた。

着替えを終えると身体を伸ばして軽く柔軟を行い、頬を軽く叩いて気合を入れ、部屋を後にした。

 

「あれ、お姉ちゃんどうしたの?」

 

「ちょっと走ってくる!」

 

 

 

**

 

 

 

――夢を見た。

 

夢の中の自分は、波飛沫が岩に打ちつけられる、人気のない海岸に立っていた。

手に持っているのは木彫りでできた小さな剣。無骨に彫り上げられたそれを、自分は小さな腕で無我夢中に振り回す。

「やあ」「とお」と、幼い掛け声とともに振られるその剣は、およそ剣技と言ったものには程遠い、お粗末なものだった。だけど自分にとってはそれが精一杯の、自分なりの剣技だった。

 

そんな自分を見つめている視線があった。

剣を振るう自分の後姿を見つめている視線の持ち主は、一人の男性だった。

潮風にはためく白いコートを纏ったその男性が自分の下へと歩み寄ると、それに気づいた自分は屈託のない笑顔を浮かべ、彼の下へと駆け寄った。

 

男性は自分の頭を、髑髏の指輪がはめられた左手でがしがしと撫でる。無骨で、固くて、傷だらけで、でもとても暖かい手だった。

自分の頭を撫でる男性の表情は、厳しさを秘めつつも暖かみを感じる、穏やかな表情だった。

 

まるで子を見つめる親のような――そんな表情だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その姿がぶれ、次の瞬間には雨が降りしきる森林の光景が映し出された。

その中であの男性が血に染まって倒れていき、その向こう側には“狼の影”が、闇の中に立っていた。

 

 

 

**

 

 

 

――夢を見ました。

 

夢の中の私は、公園にいました。

幼い頃、二人の幼馴染とよく遊んだ公園。そこで幼い私は一人、ブランコを漕いでいたのです。

そこで私は気づきました。これはあの夢――悪魔のような怪物が現れて、それらを黄金の狼が斬り払う、あの夢なのだと。

 

最近にあまり見ることが無くなったあの夢。どうしてまた久々に見るようになったのだろう――と考えたような気もしましたが、すぐに何処かへと消えていきました。

そこにいたのは私一人ではなかったのです。両隣のブランコに――ちょうど私を挟むようにして二人の幼馴染の姿があったのです。

太陽のような屈託ない笑顔を浮かべる少女と、穏やかな気持ちにさせるふんわりとした雰囲気の少女。昔から変わることのない、大切な幼馴染が一緒にブランコを漕いでいたのです。

 

それから私たちは何を話したのか思い出せないくらい、たくさんのお話しをしました。

それはとても楽しくて、わくわくして、心が躍り、時間も忘れるほどに沢山のお話しでした。私も、二人の幼馴染も、心からの笑顔を浮かべていました。

その中で私は、こう思いました。

 

――この時がずっと続けばいいのに、と。

 

 

 

だけどそんな思いは裏切られるもの……とでも言うのでしょうか。私は異変に気付きました。

ついさっきまで幼い頃の姿だった私は高校生の姿に――現在の姿になっていたのです。

それは幼馴染も同じで、二人とも私と同じ、通っている高校の制服を身に纏っていました。

だけど異変はそれだけではありませんでした。先程までの楽しい雰囲気とは打って変わり、二人とも俯いて表情を見せず、暗い雰囲気を漂わせていたのです。

 

『わたし、いかなきゃ』

 

そう言ったのはベージュ色の髪をした幼馴染でした。

すくっと立ち上がった彼女はまるで何かに誘われるかのように、どこか暗い場所へ向かって歩いていくのです。何度名前を叫び、呼び止めても彼女は足を止めませんでした。

そこで私はもう一人の幼馴染に――オレンジの髪をサイドテールにした幼馴染に呼びかけました。追わなくていいのですか、三人が離れ離れになってしまうのですよ、と。

だけど彼女は俯いたまま、こう答えました。

 

『やるだけむだだよ』

 

そう言った彼女の瞳には光が失われ、底知れぬ闇だけが映し出されていました。

そうして彼女の姿は、闇に溶けるようにして消えていったのです。私がどれだけ名前を呼んでも、腕を伸ばしても、彼女に届くことは叶いませんでした。

 

そうしてその場には、私一人だけが残されました。

変化は周りの景色にも起こりました。私が漕いでいたブランコだけを残し、周りは全て闇に覆い尽くされていったのです。

孤独と恐怖に押し潰されそうになった私は必死でその場から走り去りました。けれども行けども行けども目に映るのは暗闇だけ。幼馴染の名をどれだけ叫んでも返事はなく、沈黙だけが残されていったのです。

 

そうした中、暗闇の中に一本の腕が現れました。

金色の光を放つその腕は、私に向けて手を差し伸べていたのです。それはまるで救いの手のようでした。

私はその腕に向けて、無我夢中で手を伸ばしました。この暗闇による孤独と恐怖に耐えられなかったのです。

そして、その腕を取ったとき――

 

 

 

――ナニカが、嗤ったような気がしたのです。

 

 

 

**

 

 

 

――音ノ木坂学院、屋上。

 

「も、もう無理……足動かない……」

 

「まだだよっ! ほら、もう一回やるよ!」

 

「ちょっ、嘘でしょ!?まだやるの!?」

 

学園祭に向けた練習が始まってから数日が経ち、本番が明日に迫っていた。

そこではにこをはじめとした多くのメンバーが、これまでとは比べものにならない練習量に疲れきった姿を見せていた。

その理由として学園祭では一番に新曲を披露することになったのだが、練習を始めてから本番まで数日間とかなりの短期間のため、必然的に練習内容がこれまでよりも格段に厳しいものになっていたのだ。

 

加えてこの日、穂乃果の提案で振り付けを一部変えることになったのだが、その動きがとても激しいものである上、元々予定していた振り付けとの擦り合わせにより、練習は更にハードになったのだ。

その結果、ほとんどのメンバーが疲れ果てており、元々体力のある海未や絵里、そして凛も肩で息をせざるを得ない状態となっていた。

 

だがその中で唯一、異彩を放つメンバーがいた。

――穂乃果だ。彼女も同じくらい疲れきっている筈なのに、身体を休めることよりも練習を続けることにこだわる姿を見せていた。

現に今、疲れ切ったにこを立たせようとしている彼女を前に、このままではいけないと考えた海未は一歩前に出た。

 

「……私たちはともかくとして、穂乃果は一度休むべきです。あなたは私たちよりもかなり動くことになるのですから、バテてしまっては元も子もないのですよ」

 

「大丈夫! まだまだやれるよ!」

 

「……雪穂から聞いた話では、夜遅くにも練習をしているとのことですが?」

 

「大丈夫! 私いま、燃えてるから!!」

 

……取りつくシマがない、とはこのことを言うのだろう。

確かに穂乃果はこの新曲において一番重要な立ち位置であり、必然的に彼女が身につけなければならないことは沢山ある。

だからとはいえ、この状況はあまりよろしくない。彼女は自分の身体に溜まった疲労に気が付いていないのではないかと不安になる。

 

どうにかして思い留まらせなければいけない、しかし今の穂乃果は海未一人の言葉だけでは到底耳を傾けそうにない。

せめてあと一人――彼女の言葉なら聞いてくれるかもしれないと思い、海未は視線を移した。

 

「――ことりからも何か言ってやってください」

 

「え?」

 

海未が意見を求めたのはことりだった。彼女からも言えば、穂乃果も少しは聞き入れてくれるだろうと踏んだのだ。

話題を振られたことりは少し考えるそぶりを見せ、ゆっくりと口を開いた。

 

「んー……穂乃果ちゃんのやりたいようにするのが一番いいんじゃないかな?」

 

「ほら!ことりちゃんもそう言ってるよ!」

 

だがそれは、海未の求めていた答えではなかった。

自慢げな表情を浮かべる穂乃果を前に、予想外の答えに海未が困り果てていると、「でも」と前置きしたことりが再び口を開いた。

 

「その前にちょっとお休みするのも悪くないと思うな♪」

 

「えーー!?」

 

「そうそう、ことりちゃんの言う通りやで」

 

ことりの言葉に穂乃果が驚いたのも束の間、自らの背後から聞こえたその声に戦慄した。

その独特の喋り方は最早見なくてもわかる、希のものだ。問題はいつ忍び寄ったのかわからないが、それが自分の背後から聞こえているということだった。

自らの背後にいる希、そして上機嫌に聞こえるようなその声。……ここまで揃えば、次に何が起こるかは日の目を見るよりも明らかだった。

 

「――ひぃっ!?」

 

咄嗟に逃げようとしても間に合うはずがなく、希の伸ばした手によって穂乃果の胸は後ろから鷲掴みにされたのだ。

そしてそのまま、穂乃果の胸は為す術もなく希に揉まれていった。

 

「ほらほら、ちゃんとお休みするって言わへんとずぅーっとわしわしするよ?」

 

「ひぃぃぃぃっ! 休むっ!休みますからわしわしはやめてぇぇぇぇっ!」

 

悲鳴をあげる穂乃果をよそに、海未は改めてことりに視線を向けた。

その視線を受け、ことりは優しく微笑み返した。ことりも、穂乃果は少し休ませた方がいいと考えてくれていたのだ。

漠然とした表現ではあるが、幼馴染同士、考えが通じ合っているのだと実感した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――この時、海未は油断していたのかもしれない。

良く言えば信頼しきっていると、悪く言えば依存していると言えるのかもしれない。

休もうとしない穂乃果に強く言おうとしなかったのは、彼女ならきっとどこかで思い留まってくれるという過信があったのかもしれない。

 

それはことりも同様で、「穂乃果のやりたいようにするのがいい」というのは紛れもない彼女の本心だった。

そこには穂乃果に任せれば驚くような――わくわくするような新しい発見があるという、ある種の心酔を抱いていたのかもしれない。

 

『穂乃果なら何があったとしても大丈夫』

その過信がある事態を引き起こすことになるとは、この場の誰もが考えもしなかった。

 

 

 

**

 

 

 

「疲れたにゃあー……」

 

「今日も練習、大変だったもんね」

 

学校からの帰り道、夕陽が差す中歩く凛と花陽の姿があった。

二人とも疲れきってはいるが、その表情に辛いといった感情はなかった。

なにせ明日は新曲を披露する学園祭本番なのだ。昼間の穂乃果程ではないにしろ、彼女たちも迫る勝負の時に少なからず気が昂っていたのだ。

 

「よーっし!明日に向けてラーメンで気合入れるにゃー!」

 

「ふふ、そうだね。 ………って、あれ?」

 

ラーメンで気合を注入しようとする凛を優しく見守っていた花陽だったが、その視線はある一点に移された。

彼女が視線を向けた先には、こちらに背を向けた一人の少年がいた。未だ夏の気候であるこの時期に黒いコートを纏ったその姿は、誰であるのか明らかだった。

花陽に続いてそれに気づいた凛が大きく手を振り、その少年の名前を呼んだ。

 

「コテツくーーん! ちょうどいいところに!凛たちとラーメン食べに行かな――」

 

呼びかけたその声が、ピタリと途切れた。

凛の声に振り返ったコテツは、一見すればいつもと変わらない様だった。

だが違った。普段の彼とはあまりにも雰囲気が違っていた。

普段話す時とも、ホラーに襲われた時とも違う、言い表せないほどの負の感情が立ち昇っているように感じたのだ。

 

そのあまりの変わりように凛は思わず立ち竦み、花陽はびくりと肩を震わせ、二人は互の手を強く握りしめた。

そしてコテツは二人を一瞥して何も話さないまま踵を返し、人混みの中へと消えていった。

 

「コテツくん……だったんだよね?今の……」

 

「……そのはず……だよ……」

 

友人が見せた異様な雰囲気に凛と花陽はただ、呆然と立ち尽くしていた。

そんな二人の不安を表すかのように、空が少しずつ雲に覆われつつあった。

 

 

 

**

 

 

 

――その日の夜。

 

『オォォォオッ!!』

 

雨が降りしきる中、雄叫びが響き渡った。

雨音に負けんばかりに響かせたその雄叫びを放ったのは黄金の狼――ガロ。

雨粒が滴り落ちる黄金の鎧の目の前には、たった今ガロによって切り伏せられた悪魔こと、素体ホラーの姿があった。

牙狼剣の一閃によって斬り伏せられたホラーはずるりと崩れ落ち、水溜りに同化するかのように解けて消滅していった。

 

それを見届け、ガロの鎧を解除する彩牙。

鎧に守られていた彼の姿が降りしきる雨に晒されていく。

 

「……これで終わりだな」

 

『ああ。全く狩っても狩っても湧いてきやがるな』

 

ザルバの言葉に耳を傾けつつ、彩牙はゆっくりと拳を握った。

そして自戒するかのような表情で、己の拳をじっと見つめた。

 

――この程度では駄目だ。素体ホラーを簡単に倒せるくらいで浮かれていては駄目だ。

自分はより強い相手、より強いホラーと戦っていかねばならないのだ。これくらいの相手を倒したからといって浮かれている余裕はない。

せめて、レギオンやダンタルカスのような強力なホラーと互角に渡り合えるようにならなければ――そう考えていた時だった。

 

「? あれは……」

 

雨の中、人影が見えた。

少し小柄なように見えるその人影はフードを被っているようだが、彩牙はそれがどうにも奇妙に映った。

その人影はこの雨の中、傘を差していなかった。出かける折に傘を忘れてしまい、急いで走っているのならまだしも、その人影はそういったそぶりを見せず、ぼんやりと立ち尽くしていた。

 

その在り様が奇妙であると思いつつ、彩牙には一つの懸念があった。

つまり――ホラーなのではないかと。

確証はないし、思い過ごしの可能性も高い。

だがホラーとは人々の中に紛れ、人間を喰らっていく存在なのだ。人間らしく為りすますことなど、奴らにとっては赤子の手をひねることよりも容易なことである。

 

それ故に、彩牙はすぐさま行動に移した。

その人影に気配を消して忍び寄り、背後まで接近すると素早い動きで肩を掴み、振り向かせると同時にその人影をすぐ近くの塀へと押し付ける。

そしてホラーかどうか判別するべく、魔導火でその瞳を照らした。

 

「――きゃっ!?」

 

年若い少女のものである短い悲鳴が、人影の口から漏れる。

そして被っていたフードがずれ落ち、その下が露になると、彩牙は驚愕に満ちた表情で固まった。

魔導火で照らされた瞳には何も――魔界文字は浮かんでいなかった。その緑色の炎に照らされたその顔は――少女の顔は彩牙にとって非常に見知ったものだった。

そこにいたのは、オレンジの髪をサイドテールにした少女――

 

「……高坂さん?」

 

「いたた……彩牙くん、いきなり何するのぉ?」

 

 

――高坂穂乃果の姿があった。

 

 

 

 

 

 

「――ひどいよっ!」

 

「……すまない」

 

「よりにもよってホラーと勘違いしたとか、ひどすぎるよっ!」

 

「いや、その……本当にすまなかった」

 

雨宿りのために入った軒下。

そこで怒り心頭の穂乃果を前に、彩牙は心の底から気まずそうに頭を下げ続けていた。その姿からは黄金騎士の風格など微塵も出てはいなかった。

しかし穂乃果の怒りも最もだった。いきなり乱暴に壁に押し付けられ、うら若き女子高生が身の危険を覚えたのだ。

しかもその実行犯が自分の友人であり、その理由が“ホラーと勘違いした”などというものだったのだ。怒りを顕わにしない方が無理な話だった。

 

『すまなかったな嬢ちゃん。小僧のバカを止められなかった俺様にも責任はある』

 

「いいよ、ザルちゃんは何も悪くないもん。悪いのは彩牙くんだもんねぇー」

 

「う……わかった。クレープでも何でも、好きなものをご馳走させてくれ」

 

「……え、いいの!?やったぁ! それじゃあ許してあげないこともないかな~?」

 

先程まで怒っていたのが嘘のように、上機嫌な表情を浮かべる穂乃果。

コロコロと表情が切り替わる彼女の純粋さを前に、彩牙は思わず苦笑いを浮かべた。

それと同時に、穂乃果の姿をもう一度見やる。フードの付いたパーカータイプのジャージを着ていた彼女は、そのジャージは勿論、肌も髪も、全身が彩牙と同じように雨に濡れていた。

この雨の中、彼女は傘も持たずに何をしていたのか――装いを見れば何となく想像もつくが、だからこそ聞かずにはいられなかった。

 

「……それで、この雨の中何をしていたんだ?」

 

「それはもちろん、走ってたんだよ!」

 

『それくらいはわかる。問題はこの雨の中、明日がライブだってのになんで走ってるのかってことだ』

 

ホラ!と言わんばかりに雨に濡れたジャージを見せつける穂乃果。

そんな彼女に呆れたような声色のザルバが問いかけるが、穂乃果はそれを意に介する様子を見せることなく、雨音に負けんばかりの声で口を開いた。

 

「だからだよ! だって、明日のライブでラブライブに出場できるかどうかかかってるんだよ、ここで頑張らなきゃ!」

 

「……多少無理をしても、か?」

 

「うん!それに私はリーダーだし、みんなより一生懸命頑張らないといけないんだもん!」

 

そう意気込む穂乃果の姿に、彩牙は自分が重なって見えた。

――強大なホラーと互角に渡り合えるようになりたい。強くなりたい。

そんな自分の姿に――現状の自分に満足せず、より上を目指そうとする姿勢があまりにも似ていたのだ。

 

「……俺と同じだな」

 

「え?」

 

「俺も力をつけたい、より強くなりたいと思っていたんだ」

 

「……そっか。似た者同士だね、私たち」

 

そうして微笑み合う二人。

お互い強くなりたい、力をつけたいと思う者同士、ある種の親近感が湧いていた。

 

「……そうだ。俺もランニングに付き合ってもいいか?」

 

「え? でも彩牙くんってお仕事の途中だったんじゃ?」

 

「今日の分はもう終わったさ。それに高坂さんを夜道に一人行かせたら海未になんて言われるかわからないしな」

 

「あー……海未ちゃんって心配性だもんね」

 

「ああ。それで、ご一緒してもいいか?」

 

「うん! こっちこそよろしくね!」

 

そう言って歩調を合わせ、雨の中走り出した彩牙と穂乃果。

――後から考えてみれば、この時、この選択が決定的になったのだろう。

 

 

 

**

 

 

 

「――穂乃果!もう起きなさい!今日学園祭なんでしょ!」

 

――お母さんの声が聞こえる。

寝坊しちゃったのかな?なんだか頭の中がぼんやりして、まだ夢の世界にいるみたい。

そうしてぼうっとしてるうちに、お母さんは下の方に降りて行っちゃった。

朝ごはんの支度かな?私も早く行ってご飯食べなきゃ。

 

 

「……雨?」

 

窓の向こうから打ちつける雨粒の音に、私はようやく雨が降ってることに気が付いた。

……昨日からずっとやまなかったんだ。更に強くなってるような気もする。

でも弱音なんて吐いちゃいられない。だって今日は大事なライブが――

 

「……あ、れ……?」

 

立ち上がろうとして、力が入らなくてお尻をペタンと打っちゃった。

どうしたんだろう……?なんだか目の前がぼんやりするや。それに起きたばっかりなのに息も荒いし、喉も……

 

 

 

 

 

 

――喉、も……?

 

 

 

**

 

 

 

「……む?」

 

――虹の番犬所。

洒落たスピーカーからアイドルものの音楽を流しながらアイドル雑誌を読みふけるという、完全にリラックスモードに入っていたオルトスがふと、何かを感じ取ったかのようなそぶりを見せた。

読んでいたアイドル雑誌を畳み、感じ取った“何か”に警戒するように険しい表情を浮かべ、口を開いた。

 

「……何か、不吉な予感がするのう」

 

今、外界で降っている雨が嵐の予兆になるような――そんな気がしてやまなかった。

 

 

 

**

 

 

 

「……何の用だ」

 

――雨の中。

エレメントの探索に回っている最中だった彩牙の前に、立ちはだかる人影が現れた。

そこにいたのはコテツだった。彩牙と同じように雨に濡れる彼は何も言わぬまま、俯くように立っていた。

突然目の前に現れ、何も言わずに敵意と呼ぶには生易しい感情を己に向ける彼の姿に、彩牙は警戒を崩さずにいた。

 

「………師匠の……」

 

やがて、変化が訪れた。

その声と共に、コテツがゆっくりと顔を上げたのだ。

雨に打たれるサングラス越しに、隠しきれないほどの憎しみの感情が表れていて――

 

 

 

 

 

「……師匠の仇! 覚悟しろ村雨彩牙ァッ!!」

 

激昂と共に魔戒剣を抜き、彩牙に向かって斬りかかった――

 

 

 

**

 

 

 

「……ほの、か……?」

 

海未は目の前の光景が信じられなかった。

いや、現実だと受け入れたくなかったのが本音だろう。

だが今にして思えば、こうなることが予想できた要因は幾つもあった。どこかおかしい様子の穂乃果、雨の中での屋外ライブ、今まで以上に身体に負担をかけるダンス、少し考えればわかることだった。

 

だがどれだけ後悔しようとも、目の前の現実――新曲の終了と同時に穂乃果が倒れたという事実は変わらない。

 

「穂乃果!?」

 

「穂乃果ちゃん!!」

 

海未が、絵里が、ことりが、μ’sの全員が、倒れた穂乃果のもとに駆け寄る。

ステージの上の異常事態に気付いた観客側がざわめくが、今はそれに構う余裕はなかった。

そっと、倒れた穂乃果の額に絵里が手を当てる。

 

「! ひどい熱……!」

 

「穂乃果!」

 

「穂乃果ちゃん!」

 

海未とことりが必死に呼びかけるも、穂乃果からは呻き声のようなものが漏れるばかりで、まともな返事が返ることはなかった。

そしてそのまま、穂乃果の手は力なく崩れ落ちた。

 

降りしきる雨粒が、涙のように彼女たちの頬を伝っていった――

 

 

 

***

 

 

 

希「占いに使う水晶ってあるよね」

 

希「未来とか、運勢を映し出すためのものなんやけど、じっと覗きこみすぎるのもアカンと思うんよ」

 

希「だってなんだか――魂が吸い取られそうな気がするやん?」

 

 

希「次回、『水晶』」

 

 

 

希「そこに映りこむのは希望?それとも……」

 

 

 

 






魔戒指南『本日休業』




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第15話  水晶


どうもこの頃、筆を進めるのがかなり遅くなってしまっています……
お待ちしていただいてる方々には申し訳ありませんが、今後も投稿間隔が長引いてしまうかもしれません。
お許しください。

あと前回でお気づきの方もいるかもしれませんが、アニメ一期終盤に当たるこのエピソードは、かなりオリジナル要素が入っています。


 

 

 

「……海未、ここにいたのか」

 

「……彩牙くん、ですか」

 

――夜、園田家の縁側。

そこに面した庭の中に、園田海未の姿はあった。

鯉が泳ぐ池の傍で腰を下ろし、屋敷の灯りに薄く照らされた彼女の表情は、どこか悲痛なものに映っていた。

そんな彼女の下へと歩み寄った彩牙は、同じように隣に腰を下ろした。そんな彼の表情もまた、心なしか険しいものだった。

 

何も言わず、ただ静かに、隣り合いながら池の中の鯉を眺める二人。

沈黙と静寂に包まれる中、口を開いたのは彩牙だった。

 

「……高坂さん、倒れたそうだな」

 

「……はい」

 

その言葉に海未は静かに、そして悲痛な表情を更に深くして頷いた。

学園祭でのμ’sのライブが中止になったこと、穂乃果が倒れ、病院に運ばれたこと。

 

海未が医者から聞いた話では、風邪を患った身で疲労がピークに達してしまった結果なのだという。幸いにして命に別状はなかったが、下手をすれば肺炎になっていた可能性もあった。

数日間安静にしていれば元通りに回復するとのことらしいが、それでも海未の心は晴れなかった。

 

「……私がもっとちゃんと言い聞かせていれば、こんなことにはならなかったのかもしれません」

 

「……」

 

「穂乃果ならきっと大丈夫だろうと……そんな幻想に、囚われていたのかもしれません」

 

――無理をしているとわかっているのに止められなかった。穂乃果なら大丈夫だろうと過信し、彼女に甘えすぎていた。

無理矢理にでも止めさせるべきだった。そうすればこのような結果にならなかった筈だと、後悔の念が渦巻いていた。

 

「……俺も、高坂さんとは昨夜会っていた」

 

「え……?」

 

「雨の中走る彼女を止めようとしなかった、俺にも責任はある」

 

後悔しているのは彩牙も同じだった。

魔戒騎士である彼と普通の人間である穂乃果とは、身体のつくりが根本的に違うのだ。すぐに帰すべきだったのに、それを失念してしまっていた。

だから穂乃果が倒れた責任の一端は自分にもあるし、責められるべきだと――そう語った。

 

「……でも、そうだとしても彩牙くんが全て悪いわけでは……」

 

『それを言うのならお前さんもだぜ。この件は誰か一人が悪いなんてもんじゃない、全員が手を誤っちまった。それだけの話だ』

 

ザルバの言うことも最もである。

今回の件は誰か一人が悪いという話ではないのだ。無理な練習を重ねて身体を壊した穂乃果も、そんな彼女に頼りきりになっていた海未たちμ’sも、止めようとしなかった彩牙も皆が皆悪かった点があり、責任がある。

だから誰か一人を責めようというのは見当違いなのだ。

 

「……そろそろ戻ろう。身体も冷えるし、海未まで体調を崩したら元も子もない」

 

「……そう、ですね。あんなこと言った矢先に風邪なんてひいたら穂乃果に顔向けできません」

 

彩牙に促され、彼と一緒に屋敷の中へと戻っていく海未。

少なくとも海未一人の責任ではないと励まされたこともあってか、その表情は一人で庭にいたころと比べて幾分か楽なものに変わっていた。

その道中、彼女は隣にいる彩牙の表情をちらりと窺った。

そこにいる彼の表情は普段と変わらないように見えていた。

しかし――

 

「……彩牙くん、あの……」

 

「……? どうかしたか?」

 

「……いえ、何でもありません」

 

 

――なんだか、思い詰めているような気がしましたが――

 

そんな懸念を抱いたが、きっと自分の勘違いだと思い、その考えを振り払った。

あるいは穂乃果が倒れ、自責の念を抱いた今、そう思いたかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(……ザルバ、俺は一体なんなんだろうな……)

 

(………)

 

海未が気のせいだと思い込んでいた懸念。それは実の所、的を獲ていた。

ザルバに念話で話しかける彩牙の声には不安と、そして恐れが表れていた。海未と話していた時は、この心の動揺を彼女に察しられないように振る舞うので必死だったのだ。

彩牙にここまで動揺が現れた理由、それは今日の昼までに遡る――

 

 

 

 

 

 

「――お前が師匠を殺したのか!村雨彩牙ァッ!!」

 

その雄叫びと共に魔戒剣を抜き、斬りかかるコテツ。

彩牙は咄嗟に魔戒剣を抜き、コテツの剣を受け止めた。ソウルメタル同士が擦れ合う音が響く中、驚愕に満ちた表情を浮かべた彩牙は先程のお返しのように怒鳴り返した。

 

「いきなり何をする!俺が一体誰を殺したと言うんだ!」

 

「とぼけんじゃねえ!!テメェが師匠を殺したんだろう!!」

 

「だから……何の話だと言っている!!」

 

その言葉と共に、受け止めていたコテツの魔戒剣を弾き返す彩牙。

剣を弾かれたコテツはいったん彩牙から距離を取り、サングラス越しでも伝わるほどの激情を漂わせたまま口を開いた。

 

「……ああ、そういや記憶喪失とか言ってたな。だったら教えてやる! 俺の師匠は魔戒騎士に殺された。そう、テメェが持つガロの鎧を纏った騎士にな!!」

 

「ふざけるな!俺はそんなことをした覚えはない!」

 

コテツの糾弾を前に言い返す彩牙。

魔戒騎士である自分が人を殺したなどと、ある筈がない。仮にもガロの鎧を継いでいる自分がそんなことをするわけがない。そう信じての言葉だった。

しかし――

 

「“覚えがない”? 記憶のない奴がなんでそう言い切れる!!」

 

「っ、それは……!」

 

そう、彩牙には園田家に拾われる以前の記憶がない。

何をしていたのか、どんな人間だったのか、人伝に聞くだけで何一つはっきりとわからない。

だから頭の片隅で考えてしまうのだ。“もしかすると自分は、そのような罪を犯してしまったのかもしれない”と。

そして一度湧きあがった疑惑は自分に向けたものであろうと、簡単に消えるものではない。

言葉に詰まった彩牙を、確認するように頷いたコテツは再び口を開いた。

 

「……そういうことだ、覚悟しやがれ!!」

 

それと同時に魔戒剣を投擲したコテツ。

彩牙は己の魔戒剣でそれを受け止めるが、回転を加えられて放たれたことにより彩牙の剣は宙へと弾き飛ばされた。動揺したことにより、剣を握る手がぶれたのだろう。

主の手を離れ、空中にてぶつかり合う二人の魔戒剣。それと並行して距離を詰めたコテツは、彩牙に向けて拳を繰り出した。

空を切る鋭い音と共に放たれた拳を受け止め、流し、カウンターで拳を繰り出す彩牙。コテツはそれを腹部へと受けたが、そのお返しに放ったハイキックを、彩牙の横っ面に叩き込んだ。

 

そうして激しい肉弾戦を繰り広げていく二人。

その間に宙に放たれた二振りの魔戒剣は何度も何度も、まるで互いの主のようにぶつかり合いながら落ちてゆき、やがてそれぞれの主の下へと還った。

己の手の中に再び剣を戻した二人は、今度は剣戟を繰り広げていく。何度もぶつかり合い、火花を散らし、互いに互角に見えるその剣戟だが、次第に変化が表れてきた。

 

彩牙がコテツの勢いに押し負けてきたのだ。

剣を振るうその表情も、コテツは彩牙を斬るという確固たる執念が表れているのに対し、彩牙の表情は困惑し、迷う者のそれだった。

そしてその動揺は、決定的な隙を生み出すこととなる。

 

「もらった!!」

 

「っ、しまっ……!」

 

コテツが横に一閃した魔戒剣によって彩牙の剣が弾かれ、体勢を崩すと同時に胴体ががら空きになったのだ。

その隙を逃さんと、彩牙目がけて魔戒剣を振りかぶるコテツ。

そのまま彩牙の身体を斬り裂かんとした、その時――

 

 

「――っ、これは……」

 

段々と近づいてくる、雨の音をかき消すように辺りに響き渡るサイレンの音。

救急車の発したものであるそれにコテツが気を取られたその瞬間、彩牙は体勢を整え直し、突き出された魔戒剣を弾き返した。

それと同時に地を蹴ってコテツから距離を取り、そのまま塀を、建物を飛び越えてその場から離脱した。

 

「待て!!逃げんじゃねえ!!」

 

怒気を孕んだコテツの制止も振り切り、離脱する彩牙。

今の彼にコテツの制止の声を聴くことはもとより、戦いを続ける余裕もなかった。

今はただ、己に対する疑惑で思考が一杯になってしまっていた。

 

 

 

 

 

 

当時のことを思い出していた彩牙の胸中には、戸惑いと疑惑が渦巻いていた。

かつての記憶を失う前の自分はどんなことをしてきたのか、自分はどんな人間だったのか。記憶がないが故に、人伝でしか聞いたことがない故に、自分が師を殺したというコテツの言葉を、はっきりと否定できる自信がなかった。

もしそれが本当なのだとしたら、自分は本当にガロの称号に相応しい人間なのだろうか。

自分には人を守る資格があるのか。

 

――海未。俺に君を守る資格はあるのか?――

 

隣で歩く海未の姿を視界に収めながら、彩牙はそんな自責の念に囚われていた。

 

 

 

**

 

 

 

――あの日のことは、一度も忘れたことはない。

 

師匠からカゲロウの鎧とゾルバを受け継いでしばらく経った頃、“ある目的”のために力をつけるべく、ホラーの討滅に精を出していた頃だ。

その日もまた、ホラー討滅の帰りだった。人里から離れた、樹々が生い茂る森の中にある師匠の家――当時の俺の家でもある――に帰っている最中だった。

 

最初に異変に気付いたのは、家が近くなった時だった。

ゾルバが微かな邪気を感じると言い出し、そして俺自身も樹々の香りの中に紛れ込む淀んだ匂い――血の匂いを感じ取り、不吉な予感を抱いて駆け出していった。

そうして家の前まで辿りついた時、俺の視界にとんでもないものが映し出された。

 

そこにあったのは、血の海の中で倒れた一人の老人だった。

白い髪と髭が血で赤く染まったその老人は、見間違えるはずがなかった。

俺を鍛え上げ、戦う力とカゲロウの鎧を授けてくれた恩師――零士こと、俺の師匠その人だった。

 

「――し……師匠!!」

 

気付いた時には叫びながら駆け出していた。

まだ息はあるのか、息があるのならすぐに蘇生しなければならないと、とにかく師匠を死なせたくないことで頭が一杯だった。

だけど――

 

『コテツ……零士はもう……』

 

「……嘘だろ……?なんで、こんなことに……!」

 

師匠はもう、息をしていなかった。目の前にあるのは、“師匠だった”死体だったんだ。

そのことを理解した俺は、言葉にならない声で大きく叫んだ。

……どれくらい叫んでいたのかは、わからない。涙を流していたような気もする。

“また”失くしてしまった。奪われてしまった。

ひとしきり慟哭し、悲しみに包まれていた俺の心は、徐々にそれを打ち消すほどの怒りに包まれていった。

一体、どこのどいつが師匠を――!

 

 

 

「――そうだ! ゾルバ、何か映ってないか!?」

 

そんな中、ふと気づいたことがあった。

侵入者対策に師匠が仕掛けた、監視用の魔導具――所謂監視カメラのそれの存在を思い出したんだ。重要な魔導具を奪われないようにするためだと、以前師匠から聞いたことがあった。

記憶を頼りに近くの樹々を探してみるとすぐに見つかった。札が張り付けられた木箱のような形状の魔導具を手に取ると、ゾルバをそれに翳した。

 

『……ほとんど壊れているようですが、辛うじて残った部分があります』

 

「すぐに映してくれ!」

 

そう伝えるとゾルバの瞳が光り、それに呼応するように魔導具から映像が浮かび上がった。

……映し出されたのは、ついさっきまでの映像のようだ。ノイズがいくつも走っていてかなり見辛いが、師匠が映っていることは確認できた。

こちらに背を向けているが、身振り手振りしているように見える。

……誰かと話しているのか?

 

そう思ったのも束の間、突然映像の中に鮮血が飛び散った。飛び出した鮮血が、師匠の身体を赤く染め上げていく……!

映像の中の師匠が血まみれになり、崩れるように倒れていく。

師匠が倒れていく中、一瞬だけ、師匠の向かい側に人影が映ったのを見逃さなかった。

そこに映っていたのは――

 

「魔戒騎士……だと……!?」

 

見間違いかと思った。だけどそれは間違いではなかった。

そこに映っていたのは鎧を纏った魔戒騎士だったんだ。映像の乱れが酷くてシルエットくらいしか確認できなかったが、あの形状はハガネじゃない、何かしらの称号持ちの騎士であることは間違いなかった。

こいつが……こいつが師匠を……!

 

「……ゾルバ、ここに映っている鎧は何なのかわかるか?」

 

『……この形状、剣……いや、そんな馬鹿な……』

 

「わかったのなら教えてくれ、頼む!」

 

ゾルバの反応からして、どこの騎士なのか見当がついたのは明らかだった。だから俺はすかさず問い詰めた。

するとゾルバは、躊躇いがちに口を開いた。

 

「……この鎧、おそらくは――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――黄金騎士・ガロのものと思われます」

 

――ガロだと!?

ガロは何度も聞いたことがある。魔戒騎士の中でも頂点に君臨する、最強の称号。

……そいつが、師匠を殺したのか。何が最強の騎士だ、ふざけやがって……!

 

心の中に芽生え、燃え上がっていく怒りを抱きながら、俺は師匠だった亡骸をそっと地面に横たわらせ、ライターで灯した魔導火の炎をその亡骸に移した。

鮮やかな真紅の炎に焼かれていく師匠の亡骸を目に焼き付けながら、決意した。

俺は奴を――!

 

 

 

**

 

 

 

――都内某所

 

「もし、そこのお兄さん」

 

夜が更け、人気のなくなった街中を歩いていた青年を呼び止めたのは、若い女の声だった。

急に呼び止められ、振り返った青年の視線の先にはその声に違わぬ若い女性がいたが、その姿を目にした青年は思わず不思議そうに首を傾げた。

 

というのも、女性の格好は紫のローブに身を包み、シャラシャラとした装飾を着けているという妙なものだったからだ。加えて女性は腰を掛けているのだが、その前にはローブと同じ紫のクロスで覆われたテーブルがあり、その上に丸い水晶が置かれていた。

そんな一昔前のステレオタイプな占い師の格好をした女性は、青年の奇異な視線を気にすることなく語りかけた。

 

「私はしがない占い師なのですが……あなたの夢を叶えてみませんか?」

 

「はあ……?」

 

「ああ、代金はいただかなくても結構です。私はただ、あなたの夢を叶える助けになりたいだけなのです」

 

女性の言葉に怪訝な表情を浮かべた青年だが、しばらくして「それもいいかな」と思い、女性の下に足を進めた。

特に占いを信じている訳でも好きであるという訳ではないのだが、“夢”というワードに気になるところがあり、お金もかからないようだし偶にはいいかなという軽い気持ちだった。

そうしてテーブルの前にあった椅子に腰を掛け、女性と向き合う。こうして近くで見ると結構綺麗な人だな、とも思った。

こんな怪しげな商売もどきをしていなければお近づきになりたいと、呑気に考えていた。

 

「では、始めます。あなたの夢を強く思い描いてください……」

 

女性が水晶に手をかざすのと同時に、言われるがままに自分の夢を頭に思い浮かべる。

青年にも夢があった。昔から思い描き、そして現実にするために努力を続けている夢が。

その夢を頭に浮かべ、一体どんな占いをするのかと考えていると――

 

「……へ?」

 

青年は自分の目を疑った。

女性が手をかざしていた水晶がひとりでに輝き始め、どんな仕組みになっているのかその中に映像のようなものが映り始めたのだ。

そこに映りこんでいたのは、画家として自分の姿――青年が思い描いていた夢の内容そのものだった。

 

「え、え!? これどういう仕組みなんですか!?」

 

「素晴らしい夢ですね。希望と活力に満ちた、とても素晴らしい夢です」

 

水晶の仕組みに戸惑う青年のどよめきを無視するように、女性はうっとりとした表情で水晶に映りこんだ青年の夢を見つめていた。

その姿を目にして、これは下手に質問をしても答えそうにないかもしれないと思い、疑問を頭の片隅に押し込めて占いが進むのを待った。

 

……しかし、いくらなんでもじっと見つめ過ぎではないかと思う。

自分の夢のことを褒めてくれるのは嬉しいが、そこまでじっくりと熱の入った視線で見つめられていると段々恥ずかしくなってくる。

いい加減早く進めてほしいと口を開こうとした時――

 

 

「……それでは、始めましょう」

 

「わっ!?」

 

女性が唐突にそう言った瞬間、水晶から強烈な光が放たれた。

あまりの眩しさに目を瞑る青年だが、水晶から放たれる光は瞼を貫かんばかりに強く、目が潰れてしまうのではないかという錯覚を覚えた。

しばらくそうしていると徐々に光が弱くなっていくことを感じ取り、恐る恐る目を開けると――

 

「………え?」

 

青年の目に映った光景は、先程のものとはうって変わっていた。

水晶もあの女性も、彼の目の前から消えていた。彼が立っている場所も、あの街中ではなくなっていた。

その目に映るのは、アトリエの中で見事な絵を描き続ける自分の姿――先程あの水晶に映っていた光景そのものだった。

 

一体何がどうなっているのか。

青年はこの摩訶不思議な現象を前に戸惑いを隠せず混乱していたが、目の前の光景を――夢を叶えた自分の姿を目の当たりにしていると、疑問が不自然なほどに引っ込んでいった。

その代わりに湧き上がってきたのは――この光景を今すぐ自分のものにしたいという“欲”だった。

 

抑えきれないほど湧き上がってきたその欲に従い、画家になった自分に向けて手を伸ばす青年。

自分が長年夢見てきた光景がこの手の先にある、この光景を今すぐモノにしたい――!

そんな欲に支配された彼が、画家になった自分に手を触れた瞬間――

 

「や、やった!やっ――――」

 

歓喜に満ちた表情を浮かべると同時に、青年の身体は一瞬で弾け飛んだ、

弾け飛び、光り輝く粒子となった彼は、夢を掴んだと“思い込んだ”高笑いを上げたまま、その空間に――水晶の中に溶けるように消えていった。

その一連の光景を水晶の外から見続けていた女性は、光悦の表情を浮かべ、ぺろりと唇を舐めた。

 

「……やはり、夢と希望に溢れた魂ほど、美味なものはありませんね」

 

――ごちそうさまでした。

誰もいないその通りに、満足気な女性の声が響き渡った。

 

 

 

**

 

 

 

「……」

 

――高坂家、穂乃果の部屋。

学園祭から数日が経ち、病院から自宅での療養に移った穂乃果。

彼女は今、ベッドの上で開いたパソコンの画面にスクールアイドルのランキングサイトを表示させ、それをじっと見つめていた。あの学園祭までの間、彼女はそのサイトを開くたびにランキングの変動を前にして喜びに溢れた時もあれば、落胆した時もあった。

 

だが今、そのランキングサイトを見つめる彼女の表情は何の感情も写さない、空虚なものだった。

そんな彼女が見つめるランキングサイトには――μ’sの名前はどこにも存在しなかった。

 

「……ラブライブに、出れないんだ……」

 

μ’sは、ラブライブを辞退したのだ。

事を知ったのはつい先程、μ’sのメンバーが見舞いに来てくれた時だった。自分のせいで学園祭のライブが台無しになってしまったことによる罪悪感と、そんな自分のことを心配してきてくれた皆に感謝を抱いた穂乃果が、今後はこんなことにならないようにもう一度ラブライブに向けて頑張ろうと意志を示した時、躊躇いがちに絵里が言ったのだった。

 

――ラブライブには、出場しない――

 

それを聞いた時、穂乃果は自分の耳を疑った。そしてすぐに冗談か何か――もしかすると自分を律させる為にわざとそんなことを言ってるのかもしれないと、淡い期待を抱いた。

だが真剣で、辛そうな表情を浮かべる絵里の姿を見て、冗談でも何でもないということを思い知った。

 

このような事態を招くためにスクールアイドルを許したのではないと、ことりの母――理事長に言われたらしいのだ。自分たちの――それもリーダーの体調管理が疎かになるばかりか倒れてしまうなど、学生の活動としてあってはならないと。

その言葉を重く受け止めた絵里は他のメンバーと話し合った結果、ラブライブの出場を辞退したのだった。

そのことを語る時、絵里をはじめとしたメンバーたちはずっと申し訳なさそうだった。穂乃果に黙って出場を辞退したことに罪悪感を抱いたからだ。

 

そんなことはないと、穂乃果は皆を励ました。

なぜなら、それが本当なら一番悪いのは――

 

「……私のせいだ……」

 

自分が調子に乗って無理をしなければ、こんなことにならなかった。

折角出場できるところまで来たのに、それを全てフイにしてしまった。みんなのこれまでの努力を、台無しにしてしまった。

 

自分のせいで――

 

 

 

**

 

 

 

「……やっぱり、言わない方が良かったのかな?」

 

――同じ頃。

穂乃果の見舞いの帰り道で、おもむろにそう呟いたのは凛だった。

その言葉に思う所があったのか、その場にいたμ’sメンバー全員の表情に影が差した。凛の言いたいことが皆にはよくわかっていたのだ。

ラブライブを辞退したと伝えた時の穂乃果の様子は正直なところ、見ていて痛々しかった。

自分のせいでそうなってしまったと思っているであろうことは明らかだったのだ。

 

「……ですが凛、いずれは知ってしまうことです。ならばせめて……」

 

「でも!……穂乃果ちゃん一人を責めてるみたいで、なんかヤダにゃ……」

 

凛の言いたいこともわかる。

彼女たちだって穂乃果一人が悪いなどとは思っていないのだ。穂乃果を止めることができず、彼女に負担を背負わせてしまった自分たちにも責任があると。

それ故に今、あの場でラブライブ辞退を伝えることには抵抗があった。

しかし――

 

「それでも、ちゃんと伝えなきゃ穂乃果の……ううん、それだけじゃない、私たちのためにならないわ」

 

「そうやね。ウチらみんなに悪いところがあった、それを踏まえた上でこの結果を受け止めへんときっと先には進めないと思うんよ」

 

絵里の言葉に希が賛同する。

人間というのは過ちを受け止めてこそ成長し、先に進めるもの。受け止めることができなければそこから何も学ぶことはできず、いつまでたっても前に進むことはできないのだ。

 

その一方で、穂乃果をこのまま落ち込ませておくわけにはいかないのも事実。友人が意気消沈している姿というのは、見ていて辛いものがある。

どうにか穂乃果の元気を取り戻さなければ――全員がそう考えている時、やや躊躇いがちに手を挙げたのはことりだった。

 

「……ねえ、一つ提案があるんだけど、どうかな?」

 

その言葉に、その場にいた全員がことりに意識を向けた。

皆がことりの提案に耳を傾けている中で唯一、希だけは話を聞きつつも意識を別の所へ向けていた。

それは彼女が持つ鞄に向けられていた。鞄の中から到底無視できない異様な気配を感じた彼女はファスナーを開け、ちらりと中を覗き込んだ。

 

 

その瞳に映りこんだのは――外の明かりに照らされた、赤い封筒だった。

 

 

 

**

 

 

 

「くぅっ……!」

 

「――まったくお主という奴は。掟破りということを忘れておるのではないか?」

 

――虹の番犬所。

そこでは彩牙に対して呆れたように叱責するオルトスの姿があった。

彼女が責めているのは先日のこと、彩牙とコテツがまたもや剣を交えたことだった。あの日剣を抜いて戦ったことを、彼女は完全に認知していたのだ。

その罰としてまた寿命を一週間分没収され、その苦痛で彩牙は苦しげな表情で膝をついていた。

また、彩牙と同じようにコテツも呼び出していたのだが、彼が来ることはなかった。

 

そんな中、オルトスは違和感に気付いた。

処罰を受けている彩牙だが、その表情を歪めているのは苦痛によるものだけではないように見受けられたのだ。

それはまるで――

 

「……お主、何を悩んでおる?」

 

「っ! ……なんのことで――」

 

「とぼけるな。わしの目を誤魔化せるとでも思うたか」

 

そう語るオルトスの目は誤魔化しを許さない、問い詰める者のそれだった。

その鋭い視線に黙秘することは不可能だと感じた彩牙は、寿命を没収された苦痛を和らげるように深く息を吸い、ゆっくりと、罪を告白するかのように口を開いた。

 

「……俺に、人を守る資格はあるのでしょうか」

 

「……何を言うのかと思ったらそのようなことか。よいか、お主は黄金騎士――」

 

「――だとしても、俺にはわからないのです。記憶を失う前の俺はどのような人間だったのか……本当に、ガロを名乗るに相応しい人間なのか」

 

彩牙は、自分自身のことがわからなかった。

記憶を失う前の自分はどんな人間だったのか。父の顔も知らない、そんな父を知る人物やザルバから昔の自分のことを聞かされても実感が湧いてこないのだ。

それ故に、以前の自分に不信感を抱いてしまう。コテツの言う通り、彼の師を殺めてしまった可能性も否定できないのだ。

 

そんな彩牙の懺悔にも近い告白を前にしたオルトスは呆れたように溜息を吐き、よく言い聞かせるように口を開いた。

 

「……お主に何があったのかは知らん。じゃが今のお前は魔戒騎士、それ故に何をしなければいけないかわからんわけではあるまい?」

 

「……はい」

 

――そうだ。

いくら彩牙が自分自身のことで悩もうとも、ホラーにはそんなことは関係ないし、事情を考えてくれることもない。

どれだけ悩もうとも、ホラーは人間界に現れ、人を喰らう。それと戦い、人を守るのが彩牙の――魔戒騎士の使命。

資格のあるなしに悩む以前に騎士である以上、その使命を果たさなければいけないのだ。

 

「それにコテツは音沙汰もないし、大和は所用で留守にしておる今、ホラーと戦えるのはお主と希だけなのじゃぞ」

 

「……ホラーが現れたのですか?」

 

その問いかけに肯定するようにコクリと頷いたオルトスの手には、指令書が握られていた。

 

 

 

**

 

 

 

「――講堂でライブ?」

 

「ええ、穂乃果だってあのまま終わるのは嫌でしょう?」

 

身体が回復し、復学した初日。アイドル研究部の部室にて穂乃果は呆然と呟いた。

ポカンとした表情の彼女の疑問に応えるように、絵里は説明を続けた。

先日の学園祭ではトラブルにより、新曲一曲しか披露できなかった。今更あの時のことを蒸し返すつもりはないが、自分たちも観客も物足りないと思ったのは事実だ。

それ故に、音ノ木坂の生徒だけではなく一般の観客も招待したライブを講堂で開催し、あの時やりきれなかった分を果たそうというものだった。

それに――

 

「廃校阻止の記念にもなるしね」

 

そう、音ノ木坂学園の廃校は阻止されたのだ。

正確には来年度の生徒募集を行うというものなのだが、元々生徒募集をかけない方針だったことを考えれば目的はほとんど達成されたと言える。

そのことが発表されたのが今日だったため、狙ったわけではなかったが絶好のタイミングであった。

 

「ね、ええ考えと思わへん?」

 

「――そう、だね……」

 

そうは言うものの、穂乃果の表情はどこか晴れない。

――やはり、学園祭の時のことを気にしているのだろう。自分が無茶をし過ぎたことで、皆に迷惑をかけてしまったと。

また同じようなことを繰り返してしまうかもしれない――そんな危惧を抱いていることが窺い知れた絵里や希、花陽などメンバーの多くが心配そうな表情で見つめた。

しかし――

 

「……アンタ、まだ気にしてるの?過ぎたことをいつまで引っ張ったってしょうがないでしょ」

 

「にこちゃん……」

 

「にこちゃんの言う通りね。ラブライブに出れなかったのは残念かもしれないけど、廃校は阻止できたのよ?ならそれでいいじゃない」

 

そんな穂乃果を嗜めるようにそう言ったのはにこと真姫だった。

彼女たちの言う通り、学園祭のことはもう過ぎてしまったことだった。反省することはあれど、後悔に囚われて委縮してしまうことはお門違いである。

それにラブライブに出場しようとしたきっかけは知名度を上げて有名になり、音ノ木坂への入学希望者を増やそうとするものだった。出場こそは叶わなかったが目的は達成できたのだ。

故に気に病む必要はないと、そう言いたかった。

 

「ねえ、穂乃果ちゃん……もう一度、一緒にがんばろ?」

 

そう語りかけることりと、自らを立ち上がらせようとするメンバーたちを前に、穂乃果の瞳と意志に光が灯し始める。

いつまでもくよくよしていてはいけないと。こんなにも励ましてくれているのだから、弱気なままでは自分らしくないと思った。

――そう“言い聞かせて”、奮い立つ。

 

「……そうだね。いつまでもへこんでちゃ、駄目だよね」

 

「穂乃果……!」

 

「やろう!あの時の汚名を挽回して、最高のライブをもう一度しよう!」

 

「それを言うなら、“汚名返上”ですよ」

 

「あうっ」

 

「よーっし!気合入れていくにゃー!」

 

「頑張ろうね、凛ちゃん!」

 

奮い立った穂乃果の宣言と共に、思い思いの言葉で盛り上がっていくμ’sメンバーたち。

その姿を視界に収めながら、海未は思った。

――これからは、穂乃果のことをしっかりと支えよう。二度とあのような事に、あのような目に遭わせぬよう、穂乃果一人に背負わせないようにしようと、そう強く誓った。

 

 

 

**

 

 

 

――夜の街。

人気のない、ひっそりとした通りの中に、彼女はいた。

装飾のある、紫色のローブに身を包んだ占い師のような姿の女性――水晶の占い師が。

彼女は今、この場で“客”が来るのを待ち続けていた。夢を持った人間を、希望と活力に溢れた人間を。

――今夜のメインディッシュとなる人間を。

 

“彼女”の好みは夢を持った、希望と活力に溢れた人間だった。

夢を抱いた人間に、その夢を叶えた姿を見せ、触れさせることで幸福と達成感の絶頂に至った人間を喰らうことが、彼女にとって最高の美味であり、至福の時だった。

“同胞”の中には幸福の絶頂から絶望へと突き落とすことを美味とする者がいるが、彼女からしてみれば悪趣味極まりなかった。折角食べてあげるのだから、どうせなら喰われる瞬間も幸福を感じさせるべきだというのが彼女の考えだった。

 

 

「――もし。そこのお嬢さん」

 

そんな彼女が呼び止めたのは、一人の少女だった。

フードを深く被り、顔を隠した少女は不思議そうに振り返った。水晶の占い師が踏んだ通り、その少女からはキラキラとした夢が感じ取れていた。

 

「私はしがない占い師なのですが……あなたの夢を叶えてみませんか?」

 

「……ウチの夢を?」

 

「ええ、夢を叶える助けをしたいのです」

 

「……ほんなら、お願いしようかな。ウチ、占いって大好きなんです」

 

誘われるがまま、少女は水晶を挟んで占い師の前に腰を掛けた。

その素直な姿を好ましく感じた占い師は、この少女のことは特に幸せな夢を見せ、より強い幸福の中で喰らってあげようと決めた。

 

「では始めます。あなたの夢を強く思い描いてください……」

 

そうして水晶に力を送り、少女から読み取った夢の内容を映し始めた。

水晶が輝き始め、その中に少女の抱く夢が徐々に映し出されていく。少女の夢がどのようなものなのか期待に胸を膨らませながら待ち、少女の夢がはっきりと映し出されようとした瞬間――

 

「………はっ……!?」

 

占い師の瞳に映りこんだのは、少女の夢ではなかった。

代わりに映りこんだのは、少女の手にある一枚の符。その先端に灯された緑色の炎――魔導火だった。

その炎に照らされた占い師の瞳が白く濁り、文様が――魔界文字が浮かび上がる。魔獣ホラーであるという、確固たる証拠が。

それと同時に、フードに隠されていた少女の顔が――占い師をキッと睨みつける、希の顔が露になった。

 

「彩牙くん!!」

 

正体を明かされた占い師が攻撃しようとするも、希はすかさず魔導筆を取り出して術を発動し、占い師の身体を包み込むようにして防壁を張った。防壁内に閉じ込められたその姿は、さながら檻のようだった。

占い師はどうにかして防壁を破ろうとするが、希の声に応えるように現れた彩牙が彼女目掛けて魔戒剣を振り下ろした。

 

魔戒剣が触れる寸前に防壁が解除されたことにより、占い師は斬り伏せられると思われた。

しかし斬られる寸前に水晶で魔戒剣を防ぎ、弾いたことで占い師は難を逃れたのだった。

そして彩牙と希も、それぞれ油断なく構えることで占い師と向かい合い、互いに出方を窺う緊迫した空気が流れた。

 

「なるほど、魔戒法師でしたか……」

 

「ザルバ、こいつで間違いないな?」

 

『ああ。奴が指令書にあったホラーだ』

 

「占いを騙って人を食べようなんて、許さへんよ!」

 

「……人聞きの悪いことを。私はただ、夢を叶える助けをした代価を頂いているだけですよ」

 

『よく言うぜ。ただの幻じゃないか』

 

先に動いたのは占い師だった。

ひとりでに宙に浮かんだ水晶が光り輝いたかと思うと、そこから光弾を撃ち出したのだ。

それと同時に駆け出す彩牙と、彼の前に防壁を張る希。彼女が張った防壁によって、占い師が放った光弾は彩牙に届くことなく砕け散った。

占い師は続いて水晶から光弾を放つが、彩牙は怯むことなく、魔戒剣を振るうことで光弾を斬り裂いていく。

そうして占い師との距離を詰め、魔戒剣を振り下ろす彩牙。対する占い師は宙に浮かぶ水晶をまるで体の一部のように操り、魔戒剣を受け止めたのだった。

 

「強い瞳……けど怒りと迷いといった雑念も渦巻いている……あなたの夢は活力が乏しそうですね」

 

「……黙れ!貴様らホラーに語る夢などない!」

 

占い師の言葉を振り払うように、魔戒剣を受け止めていた水晶を弾き、再び刃を振るう彩牙。

占い師は弾かれた水晶を軌道修正し、再び魔戒剣を受け止め、弾いた。その繰り返しにより、魔戒剣と水晶の激しい打ち合いが繰り広げられていく。

 

「ウチを忘れたらあかんよ!」

 

その攻防に第三者の手が――希が介入する。

希の魔導筆から光の鞭が伸び、占い師の水晶を捉えたのだ。

攻撃兼防御手段を封じられ、がら空きになる占い師。その隙を逃さんと振るわれた彩牙の魔戒剣が彼女の身体を斬り裂いた。

血飛沫をあげ、後ろにたたらを踏む占い師。続けて斬り伏せんと、魔戒剣を振り下ろす彩牙。

この一撃で決着がつくと、彩牙も希も、そしてザルバも、誰もが思った時――

 

 

「――きゃっ!?」

 

「っ、なんだ!?」

 

突如空から無数の光の矢が降り注ぎ、水晶を拘束していた光の鞭を断ち切ったのだ。

突然の奇襲にたたらを踏む希と、光の矢を弾いて後退する彩牙。意識が逸れたこの瞬間を逃さまいと、占い師は高く跳び上がり、この場からの逃走を始めた。

それに気づいた彩牙と希は逃がすわけにはいかないと、追跡を始めようとした。

しかし彼らと占い師の間に再び光の矢が降り注ぎ、二人の行く手を遮ったのだ。

雨のように降り注ぐそれによって二人の足は止められてしまい、占い師の逃走を許してしまった。

 

「あれは……!」

 

そして、逃げた占い師と入れ替わるように現れたのは一人の男。

闇色のローブに身を包み、フードで顔を隠したその男は、矢が降り注いだ天から降り立つように現れ、骨をあしらった魔導筆を携えている。

その男は以前彩牙に奇襲をかけた魔戒法師――闇法師だった。

 

『あの時の法師か……!』

 

「もしかして、あの人が例の……?」

 

「ああ。 ……お前!ここ最近のホラーの異常な出現はお前の仕業なのか!」

 

闇法師へと魔戒剣を突きつけ、憤るように問い詰める彩牙。

対する闇法師は突きつけられた魔戒剣に動じることはなく、何事もないかのように淡々と口を動かした。

 

「そうだ、私がホラーをこの地に呼び寄せている。先日も魔導具で使徒ホラーを誘ったばかりでな」

 

『……なるほど、ガザリウスの門をばら撒いたのはこいつだったのか』

 

「……なんでなん!?魔戒法師なのに、どうしてこんなことするん!?人を守るのがウチらの役目じゃないの!?」

 

淡々とした闇法師の口調に動揺を隠せない希の、悲痛な問いかけが辺りに響き渡る。

魔戒法師、ひいては魔戒騎士は、人々をホラーの魔の手から守る絶対的な守護者。希はそう信じているからこそ、自身もこの道を歩むことを決意したのだ。

だというのに目の前の闇法師が語ること、していることはその真逆。ホラーに人間を捧げているようなものだった。

 

「……人を守る、か……下らんな」

 

しかし闇法師は、そんな希の問いかけを一蹴した。

 

「人間など守る価値もない。……いや、そもそもこの世に存在してはならぬものだ」

 

「そんな……!」

 

闇法師の答えに愕然とする希。それと同時に彼女の横を彩牙が駆け抜けていった。

彩牙は瞬く間に距離を詰め、闇法師目掛けて魔戒剣を振り下ろす。

しかし闇法師は闇色の光を纏わせた魔導筆一本で、その刃を難なく受け止めたのだった。魔導筆で受け止められた魔戒剣を握る彩牙の表情には、闇法師に対する怒りの感情が表れていた。

人々の命を脅かす、敵に対する怒りが。

 

「貴様だけは放っておく訳にはいかない!」

 

「……いいだろう。お前たちの力、見せてみるがよい」

 

その言葉が引き金になり、魔戒剣を受け止めていた魔導筆から波動が放たれた。

その全身が殴られたような衝撃により、彩牙の身体は大きく吹き飛ばされる。

間髪入れずに闇法師は無数の魔戒符を取り出し、それらを自身の目の前へと展開させる。そして魔導筆で符を撫でると光を灯し、光の矢が発射された。

無数に襲い掛かる矢を回避し、時には魔戒剣で弾いていく彩牙。しかし無尽蔵に繰り出される矢の猛攻により、徐々に追い詰められていく。

しかし――

 

『――っと! いいタイミングだぜ嬢ちゃん!』

 

「彩牙くん、受け取って!」

 

希の張った防壁が彩牙の前に展開されたことにより、矢を防いだのだ。

続けざまに希の魔導筆から紫色の光――彼女の法力が放たれ、魔戒剣へと到達することでその刃に法力を纏わせる。

希の法力を纏い、紫色に発光する魔戒剣。彩牙はそれを闇法師目掛けて振り下ろし、斬撃として飛ばしたのだった。

 

斬撃として放たれた法力は闇法師の前に展開されていた無数の符に衝突し、希の強力な法力によって強制的にその能力を停止させられていく。

そうして矢を放っていた符は力を失うように光が消え、ぱさぱさと落ちていった。

 

「ほう」

 

符が力を失って地に落ちていく中、闇法師の目に映ったもの。

それは距離を詰め、符の合間から魔戒剣を振り下ろそうとしている彩牙の姿だった。

しかし闇法師は少しも狼狽える素振りを見せず、魔導筆の先端に光を灯らせると、魔導筆の先端だけで軽々と魔戒剣を受け止めたのだった。

 

「随分と怒りを滾らせているようだな、黄金騎士よ」

 

「当たり前だ! 貴様のせいでどれだけの人が犠牲になったと思っている!」

 

「……犠牲、か……」

 

彩牙が糾弾するも、闇法師は可笑しいと言わんばかりに笑っていた。

 

「何が可笑しい!」

 

「なに、滑稽なものだと思ってな」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――人を死に追いやった男が、犠牲に憤る姿はな」

 

「――――ッ!?」

 

闇法師の発した言葉に、驚愕の表情を浮かべる彩牙。

その時に生じた隙を、闇法師は見逃さなかった。魔導筆で魔戒剣を弾き飛ばし、がら空きとなった彩牙の胴体に蹴りを叩き込んだのだ。

動揺していたところに鳩尾に蹴りを入れられてしまい、胃液を吐き出しながら蹴り飛ばされ、倒れる彩牙。希が彼の下に駆け寄ると同時に、弾き飛ばされていた魔戒剣が傍に突き刺さった。

 

「彩牙くん、しっかり!」

 

「ぅ……くそっ……!」

 

倒れ伏す彩牙の姿を一瞥した闇法師は、闇の中へと消えていった。

その後ろ姿を睨みつけるように見つめていた彩牙は、地面に拳を叩きつけた。

後に残されたのは己の力不足を嘆き、友を介抱する希と――闇法師の言葉が突き刺さり、自分自身を見失いかけている彩牙だけだった。

 

 

 

**

 

 

 

「えーっと……これで全部だよね」

 

そう呟き、手提げ袋の中身を確認しながら街中を歩いていたのは穂乃果だった。

彼女は今、母親からの頼みでのお使いの帰りだった。

夕食の材料に買い忘れがあったらしいのだ。頼まれた時には店仕舞いの準備で忙しかったため、手が空いていた穂乃果に白羽の矢が立ったのだ。

 

そうして出かけ、いつも使っている店で買い揃え、家の近くまで来る頃には既に空は真っ暗になっていた。

ちょうど真っ暗になると同時に着けてよかったと安堵し、このまま真っ直ぐ家に向かおうとした時――

 

 

「――っ!? だ、大丈夫ですか!?」

 

目の前の角から一人の女性が現れた。

全身を覆うように紫色のローブを纏ったその女性は、肩で息をしながらふらつくように歩いていたかと思うと、躓くようにその場に倒れたのだった。

慌てて駆け寄り、女性に呼びかける穂乃果。自分の呼びかけにも碌に応えられない様子を見て、救急車を呼ばなければと思い、スマートフォンを取り出そうとした。

 

 

「――え?」

 

その時。

おもむろに女性は水晶を取り出し、自信と穂乃果の間に翳したのだ。

水晶に映りこんだ自分の顔、そして瞳を目にした穂乃果が呆気に取られていると、その水晶が光を放ち――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あ、あれ?」

 

――気づいた時には、何もかも無くなっていた。

水晶も、それを手にしていた女性も、最初からどこにも存在していなかったかのように忽然と消えていたのだ。

 

「気のせい……だったのかな?」

 

――それにしては随分とリアルな気がしたけど……

ううん、きっとまだ疲れが残っているだけなんだ。海未ちゃんにも言われたし、今日は帰ったらゆっくり休もう。

もう、あんな失敗を……みんなに迷惑かけるわけにはいかないんだから――

 

 

そんな考えを抱きながら、再び帰路に就く穂乃果。

彼女の瞳はこれまでにないほど澄んだ瞳をしていた。

そう、まるで水晶のような――

 

 

 

***

 

 

 

ザルバ「お前たち、自分の振る舞いを考えたことはあるか?」

 

ザルバ「いくら正しいことをしていたとしても、振る舞い一つでそうは見られないことがあるんだぜ」

 

ザルバ「ま、他人の目ばかりを気にするのもどうかと思うがな」

 

 

ザルバ「次回、『悪鬼』!」

 

 

 

ザルバ「さて、お前の姿はどう映っている?」

 

 

 

 






魔戒指南

・ 闇法師
闇のように黒いローブを身に纏い、フードで顔を隠した魔戒法師。
闇に堕ちた法師であり、虹の管轄を中心にホラーを魔界から呼び寄せるべく暗躍をしている。
人間を守る気は毛頭なく、むしろ滅ぶべきだと語っているが、その真の目的、正体共に謎に包まれている。


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第16話  悪鬼


大変お待たせしました、第16話です。
かなり時間がかかってしまいましたが、ようやく投稿することができました。

なお、今回は少々ショッキングが描写があるのでご注意ください。




 

 

 

 

 

 

「彩牙くん、大丈夫……?」

 

「ああ……もう平気だ」

 

街の一角。

周囲に人の気配がないその一角に、彩牙と希の姿はあった。

闇法師と一戦交えた後、彩牙は希に介抱されていた。あの時闇法師が叩き込んだ蹴りの一撃は思いの外深く、彩牙に動けなくなるほどのダメージを与えていたのだ。

その傷を癒すため、大和から教わった技術を用いて介抱していたのだった。

 

「ザルバ、あのホラーを追えるか?」

 

『……いや、気配が突然消えた。追うのは無理だな』

 

「くそっ……」

 

逃がしてしまった占い師――ホラーを追うことが適わないと知り、苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる彩牙。

それも当然だ。ホラーを逃がしたということは、また人が喰われてしまうかもしれないからだ。魔戒騎士として、それはあってはならないことだ。

一刻も早く見つけ出し、討滅しなければ――そんな想いを抱く彩牙の横で、希は何とも言えない表情で彼の横顔を見つめていた。

 

そして躊躇いがちに、ゆっくりと口を開いた。

 

「あんな、彩牙くん……あの人が言ってたことって……」

 

「……何てことはない。揺さぶりをかけるための出鱈目さ」

 

「……」

 

――嘘だ。

希の問いかけに対する彩牙の答えに、彼女はそう思った。

闇法師の言葉を聞いた時、彩牙の表情には明らかな動揺が走っていた。それに今問いかけた時も何事もないかのように取り繕っていたが、視線が一瞬泳いだのを見逃さなかった。

何か心当たりがない限り、こんな反応はしない。

 

人を死に追いやった――

闇法師のあの言葉が、今も頭の中に響いている。

そんなはずはない、と希は思う。魔戒騎士である彼が、友達である彼が――海未のことをあれ程守りたいと思っている彩牙が人を殺したなど、ある筈がないと信じていた。

 

だが彩牙自身は、少なくともそう考えてはいないようだ。

彼の過去に何があったかは知らない。彩牙自身もわからないのだ。

それ故に彼の抱く恐れは消えることなく、少しずつ膨れ上がっていく。

自分は何を言ってあげることができるのか、どんな言葉が彩牙の励みになるかはわからない。

その代わり、してあげられることが一つだけあった。

 

 

――ウチは信じてるよ、彩牙くん。

 

何があっても、どんな真実があったとしても彼を見捨てず、信じ続けること。

それだけは貫こうと、希は強く思ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

『……』

 

その一方で、ザルバはあることに思考を巡らせていた。

それは先程まで戦っていた闇法師のことだった。

奴は魔戒法師でありながらも、魔戒騎士である彩牙に一歩も劣らないどころか、終始圧倒していた。

 

無論、それは彩牙自身の実力不足に拠るところがある。

それに騎士顔負けに強い法師というのもいないわけではないし、優れた体術を身に着けて互角に渡り合える法師もいる。

だがあの闇法師の動きは、体術は、術を主体に使う法師のそれにしては違和感があった。

 

あの動きは、法師というよりはまるで――

 

 

 

**

 

 

 

――高坂家。

 

「ただいまー」

 

「おかえり穂乃果。こんな時間に悪いわね」

 

「ううん、大丈夫!少し身体動かしたかったからね!」

 

「そんなこと言って、また倒れたりしても知らないわよ?」

 

「うっ……お、同じことは繰り返さないもん!」

 

買い物から戻った穂乃果を出迎えたのは、彼女の母だった。

頼んだ品を受け取り、からかうように笑う母に、ぷんぷんと怒る様子を見せる穂乃果。

傍から見れば無理をして倒れたことをからかうなど……とも取れるかもしれないが、穂乃果にとっては有り難かった。下手に慰められるよりも会話のネタにしてくれた方が、気が楽になるのだ。立ち直りつつあるのなら尚更だ。

 

「はいはい、すぐにご飯にするから着替えてらっしゃい」

 

「はーい」

 

そうして会話もそこそこに母は夕飯の支度に戻り、穂乃果は自室へと戻っていく。

階段を上がり、見慣れたピンクのカーペットが敷かれた自室に入ると着ていた出かけ用の服を脱ぎ、ゆったりとした部屋着に着替え始める。

身体が身軽になっていく、そんな最中――

 

 

 

――…………ぃ………――

 

「……うん?」

 

何か、聞こえたような気がした。

物音のような、声のような、何かはわからないが音らしきものが聞こえたような気がしたのだ。

穂乃果は不思議そうに辺りを見回すが、音を出したと思しきものは何一つなかった。首を傾げ、雪穂あたりの声が漏れでもしたのだろうかと考えた。

 

「穂乃果ー? 早く降りてらっしゃーい」

 

「あ、はーい!」

 

そこで母の催促する声が響き、疑問を頭の隅に追いやった。

きっとさっきのは気のせいだったのだと思い、一階へと降りていく穂乃果。

――灯りの消えた穂乃果の部屋にきらりと光る“何か”が落ち、そして溶けるように消えていった。

 

 

 

**

 

 

 

「「――ヤアァァァァァァーーッ!!」」

 

――早朝、園田家の道場。

朝日が差し込み、冷たい空気に包まれた道場に、彩牙と海未の姿はあった。

剣道着に身を包み、日課である早朝の稽古を行う二人は勇ましい鬨の声を上げ、激しく竹刀を打ち合っていく。

鬨の声と、摺り足と、打ち合う竹刀の弾ける音が、早朝の静寂を破っていく。

 

――やがて、決着はついた。

竹刀が面を激しく打つ音が響いたのだ。

一本を取った勝者――海未は面を脱ぎ、珠のような汗を浮かべた彼女の顔が露になる。そして敗者――彩牙もまた、それに連なるように面を脱いだのだった。

 

「流石だな、海未。更に腕を上げたんじゃないか?」

 

「……そう、ですね……」

 

海未を称える言葉を贈る彩牙だが、当の彼女はどこか上の空といったような様子だった。

普段の彼女ならば謙遜するような態度をとるのだろうが、今はただ己の手と、そして彩牙の間で何か考え込むような表情で視線を行き交わしていた。

しばらくそうした後、何かに気付いたかのように顔を上げると、先程までとは違ってはっきりとした表情で彩牙に向き合い、口を開いた。

 

「彩牙くん、何があったのですか?」

 

「……何のことだ?俺は別に――」

 

「誤魔化さないでください」

 

彩牙の言葉を遮った海未の表情は真剣そのもので、その瞳には彼の心を見透かすような凛々しさが表れていた。

 

「彩牙くんの剣がいつもと違うのです、動きも手応えも何もかも。何かあったとしか考えられないのです」

 

剣は人の心を表す。海未の父がよく口にしていた言葉である。

実際、居候を始めた頃の彩牙を彼女が受け入れるようになったきっかけも、彼と剣を交わしたことでその心を――悪意のある人間ではないと理解できたからだ。

それ故に、海未は気づいたのだ。

彩牙の剣に違和感があることを。心を乱す“何か”が、彼の心に潜んでいるのだと。

 

「………」

 

そんな彼女に見つめられる彩牙は、何も言わずにただ見つめ返していた。

海未の言葉に何一つ動じていないという風にも見受けられているが、その実は心の動揺をただひたすらに抑え込んでいた。

しばらくの間、そうして互いに見つめあっていると――

 

「――! 彩牙くん……!」

 

彩牙が、踵を返して彼女に背を向けたのだ。

 

「……そろそろ日舞の稽古だろう?支度を始めた方がいい」

 

背を向けたまま、話を逸らす彩牙。

海未に背を向けた今では、彼女がどんな表情を浮かべているのかは、彩牙にはわからない。

しかし――

 

「……私は、そんなに頼りないですか」

 

 

寂しげなその声が、彩牙の耳に深く残った。

 

 

 

 

 

 

『……小僧、あれでよかったのか』

 

道場を後にして廊下を進む彩牙に、彼の指に嵌められたザルバが語りかけた。

先の二人のやりとりに口を挟むことなく見定めていたザルバだが、その結果は彼にとって不満しか出ないものだった。

そのせいか彩牙に語りかけるその声も、心なしか棘があるように感じられた。

 

「……ああ。俺たちのことを無闇に話すわけにもいかないだろう」

 

『ほう?』

 

確かに彩牙の言う通り、彼ら魔戒に生きる者たちのことは普通の人間に無闇に話していいものではない。

例え相手が魔戒騎士やホラーのことを知っていてもだ。下手に話して余計な混乱や恐怖を抱かせてしまっては意味がないし、時にはそれが巡り回って陰我に繋がってしまう場合があるからだ。

しかし、この場合は――

 

『俺様には嬢ちゃんに拒絶されるのが怖くて、逃げただけに見えたがな』

 

「っ……」

 

ザルバの指摘を、彩牙は否定することができなかった。

魔戒のことを話してはいけないことも、彼女に余計な心配をかけさせたくないということも、確かにある。

だがそれ以上に海未がどう受け止めるのか、それを考えるのが怖かったのだ。

自分が過去に人を殺めたかもしれないと聞いたら彼女は何と言うのだろうか。

自分を人殺しと恐怖するのか、拒絶するのか、糾弾するのか――どちらにせよ、今のこの関係が終わることには間違いないだろう。

 

『もう一度言うぜ。それでいいのか、小僧』

 

「……そんなわけが、ないだろう」

 

 

 

**

 

 

 

「……彩牙くん」

 

一糸纏わぬ姿でシャワーを浴び、稽古の汗を洗い流す海未。

憂いのある表情を浮かべた彼女が思うことはただ一つ、彩牙のことだ。

剣を交えた時に感じ取った、彩牙が抱え込んでいるであろう、“何か”。戦う理由に思い悩んでいた頃のように、“何か”が彩牙を思考の渦に閉じ込めているのだ。

 

海未は、彩牙の助けになりたいと思った。

これまで自分を助けてくれたことや、人々を魔獣の手から守ってきたことのように、思い悩む彼の助けになりたかったのだ。

 

しかし、彩牙はその助けを受け取ることはなかった。彩牙は何も答えてはくれなかった。

話すのを拒否するほど、彩牙が抱え込んでいるものは大きいのかもしれない。

海未は、それが何よりも悲しかった。

自分は頼るに値しないと突き付けられた気がした。思い悩む彼の助けになることができないのだと。

 

自分は助けられるばかりで、助けることはできないのかと――

 

 

「……いえ、そんなことはありません」

 

――そうだ。そうと決まったわけではない。

自分にはまだ何もしていない。やれることがある筈だと、諦めるにはまだ早すぎると、海未は思い直した。

そのためにはまず、彩牙が抱える“何か”について知らなければならない。

“彼女”なら何か知ってるかもしれないと、海未は自分がやるべき方向性を固めた。

 

 

 

**

 

 

 

「みんな、やっほー!」

 

「あ、穂乃果ちゃん!やっほー!」

 

――その日の放課後。

高らかな声で元気よく屋上の扉を開けたのは穂乃果だった。

既に部室にいた五人の視線に迎えられながら、穂乃果と彼女に続くようにしたことりは部室の中へと入っていった。

と、そこで穂乃果とハイタッチを交わしていた凛と、その様子を楽しそうに見守っていた花陽が違和感に気付いた。

 

「あれ?海未ちゃんは一緒じゃないの?」

 

「うん、なんか希ちゃんと話したいことがあって後から来るって」

 

「へえ、そういえばあの二人ってなんだかんだで一緒にいること多いわね」

 

その言葉にぴくりと反応した真姫だったが、それに気づいたのは誰もいなかった。

 

そうして二人を待つ間、彼女たちの話題は講堂でのライブについて移っていく。

ライブでどんな曲を歌うか、どんな順番にしていくか。あれやこれやと思い思いの言葉を交わしていくのだった。

 

「それで、最初に歌う曲は―――――がいいと思うんだ」

 

「あ、この曲って……」

 

「へえ、懐かしいのを出してきたじゃない」

 

「あれ?にこちゃんってあの時いたかにゃ?」

 

「……そういえば、μ’sはこの曲から始まったのよね」

 

「ええ、あの時は自分もスクールアイドルになるなんて思いもしなかったわ」

 

穂乃果が提案した“その曲”にまつわる思い出を口にしていくメンバーたち。

その様子を見ながら穂乃果はほっとしたような表情を浮かべていた。

するとくい、と彼女の服の裾を引っ張る手が。それは優しげな表情を浮かべることりのものだった。

 

「がんばろうね、穂乃果ちゃん」

 

「……うん!」

 

――大丈夫、大丈夫だ。

私には共に考えてくれる友達がいる、間違っていようとしたら止めてくれる友達がいる。

だからもう、あんな失敗はしない。失敗しちゃいけない。

みんなが一緒なら、私はどんなところにだって――

 

 

――………ばら………しぃ……め………――

 

「……あれ?」

 

「穂乃果ちゃん?」

 

「今、誰かの声しなかった?」

 

「私たちの声じゃないの?」

 

「うーん……それにしては違和感が……」

 

首を傾げながら呟く穂乃果。

そう考えるのも、彼女が今耳にした声は周囲の話し声というよりはすぐ近くから――それこそ耳元から聞こえたように感じたからだ。

まるで自分の内側から聞こえたような――

 

 

 

 

 

「……え?」

 

その瞬間、穂乃果は己の目を疑った。

目の前に映る景色が――フェンスも空も、ことりも花陽も凛も真姫も絵里も、目に映るものすべてが色を失い、微動だにしなくなったのだ。

まるで時が止まったような――

 

 

――あなたは素晴らしい夢をお持ちですね。

 

「えっ、えっ……!?」

 

それだけでは終わらなかった。

頭の中に響くようにして声が聞こえたのだ。

はっきりと聞こえるそれは、つい先程耳にした謎の声と同じものだった。それにより、穂乃果の表情は驚愕と混乱の色に染まっていく。

 

「な、なに……?あなたは何なの……!?」

 

――おや、忘れてしまったのですか?昨夜私を助けてくれたのは貴方ではありませんか。

 

「さく……や……?」

 

そう言われ、昨夜のことを必死に思い出す穂乃果。

そうして思い出せたのは昨夜の買い物の帰り、幻か何かと思っていた倒れた女性。今聞こえている声は、ちょうどあの女性のような――

 

「ま、まさか……あの時の女の人……?」

 

――あなたの肉体をお借りしたおかげで、私はここまで回復することができました。ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

――おまけに、このような素晴らしいご馳走までご用意していただけるとは……感謝の極みにございます。

 

「え……?」

 

頭に響くその声に、穂乃果は言葉を失った。

今、この声は何と言ったのか?ご馳走?何が?

自分が今いるのは音ノ木坂の屋上。そして目の前にいるのは、大切な友達であるμ’sのメンバー。これを前にして、ご馳走?

まさか、昨夜の女性は――自分の中にいるのは――!

 

「まさか、ホラー……」

 

 

――このような夢に満ちた馳走が、ここまで揃っているとは……

 

「や……めて……」

 

――やめて。

いや、お願い、それだけはやめて……!

みんなを、友達に手を出さないで……!

 

 

――あなたのおかげで素晴らしい食事にありつけます。ありがとう……

 

「やめてぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ほ、穂乃果……どうしたの?」

 

「穂乃果ちゃん……?」

 

突然取り乱し、頭を抱えたまま黙り込んだ穂乃果に、絵里とことりが恐る恐る声をかける。

他のメンバーたちも慄く様子でそれを見つめていた。

彼女たちが声をかけても穂乃果は碌な反応を見せず、呻くようにして抱えたまま。何かの病気かと思い、救急車を呼ばなければと思った、その時――

 

「………げて………」

 

「穂乃果ちゃん……?」

 

絞り出すように呟いた穂乃果。

その顔が上げられた時、彼女の顔を目の当たりにしたことりは、絵里は、その場にいた全員が言葉を失った。

 

彼女たちの視線は穂乃果の顔に――正確には瞳に集まっていた。

本来、穂乃果の瞳は澄んだ青空のようなスカイブルーの色をしている。

だが今の穂乃果の瞳はスカイブルーと言うにはあまりにも透明感のある――いや、透明そのものといっても過言ではなかった。

 

水晶のような、澄んだ色を――

 

 

 

 

「――早く逃げてぇぇぇぇぇぇぇっ!!」

 

 

 

**

 

 

 

「――海未ちゃん、話があるって、どうしたん?」

 

――少し前、穂乃果とことりが屋上に向かった辺りの出来事。

校舎の一角、生徒の数が減少したことにより使われなくなった教室に、海未と希の姿はあった。

希が部室に向かおうとした時だ。海未が二人で話をしたいと言い出し、この場に誘われたのだ。人気のないこの場所を選んだということは第三者には聞かれたくない内容なのだろう。それこそμ’sのメンバーにも、

そしてそんな内容に、希は心当たりがあった。

 

「真姫から聞きました。希は魔戒法師で、彩牙くんと一緒に戦っているのですよね」

 

「……まいったなぁ、知られちゃったんやね」

 

やはり、魔戒に関することだった。

だがそれも当然だろう。海未は彩牙と一緒に住んでいて、尚且つホラーの存在も、それと戦う彩牙の姿も目の当たりにしているのだ。希が法師になったことを知られるのは時間の問題だったといえる。

それはいいのだが、その上で海未がどんな話を切り出すのか――

 

「希には希の理由があるのでしょうし、今更とやかく言うつもりはありません。………正直、危険なことはしてほしくないというのが本音ですが」

 

「……ありがとうね、海未ちゃん。それで、ウチに何が聞きたいんや?」

 

そう尋ねると、海未は緊張しているかのように押し黙った。

だがそれも一瞬で、深く息を吸い、吐いて、心を落ち着かせるとまっすぐに希を見据え、口を開いた。

 

「彩牙くんに、何があったのか知りませんか?」

 

 

 

そうして海未は希に打ち明けた。

彩牙が何かに思い悩み、苦しんでいること。剣筋が乱れるほどに心が追い詰められていること。

そして、そんな彼の助けになりたいことを。

彩牙と一緒に戦う希ならば自分の知らない“何か”を知っているかもと思い、問いだしたのだ。

 

「彩牙くんは私を助けてくれました。だから今度は、私が彩牙くんを助けたいのです」

 

海未の相談を受けた希は、彼女の気持ちが痛いほどわかった。

昨夜の彩牙の様子を、無理に何とも無い様に振る舞おうとしている彼の姿を目の当たりにしたが故に、その思いが理解できた。あんな痛々しい姿の彩牙を、黙って見過ごすことなどできない、と。

 

それ故に考える。本当のことを話してしまっていいものかと。

彩牙の抱えている悩み――過去に誰かを殺めているかもしれないという疑問。

敵である闇法師の言葉で動揺してしまうほどなのだ。ホラーに与するような男の言うことなのだから切り捨ててしまえばいいものの、そうしなかったということは彼自身に心当たりがあるということである。

 

そんなデリケートな問題を、果たして本人のいない間に話してしまっていいのだろうか。

自然と希の表情に、躊躇いの感情が現れる。

しかし――

 

「……希。彩牙くんが話せないほどなのですから、言い淀むのもわかります。ですが私は彩牙くんを助けたいのです、そのためにも彼が抱える“何か”を知らなければならないのです!」

 

「海未ちゃん……」

 

海未の想いは固かった。

どんな真実があったとしても、例え彩牙を見る目が変わってしまうような内容だとしても、彼女はそれを受け止めると決めたのだ。

そうでなければ彩牙を助けることなど叶わないと信じて。

だから彼女は彩牙の抱える“何か”を知りたかった。知らなければならないのだ。

 

そんな海未の決意を前にした希は先程までの自分の考えを改めつつあった。

彼女の言う通り、知ることを恐れてしまっては何も始まらない。大事なのは知ることによる変化を恐れることではなく、知ることにより如何に道を切り拓くかなのだ。

海未にはその覚悟があった。ならば自分も彼女を信じて打ち明けるべきだと思ったのだ。

一人で彩牙を助けるのは難しくても、仲間と協力すれば何とかなると信じて。

 

「……ウチも完全に把握してるわけじゃないけど、驚くなんてもんじゃないよ。それでも知りたいんやね?」

 

「はい」

 

希の問いに、海未ははっきりと答えた。

それを確認した希は打ち明けることを決意した。彩牙には勝手に話したことを後で謝らなければいけないと思いながら。

そうして口を開こうとした時――

 

 

 

 

――ぞ わ り

 

「―――――っ!?」

 

突然感じ取った悪寒に、希の背筋は凍りついた。

希の異変に首を傾げる海未だったが、当の希は先程までの会話が頭から吹き飛ぶほどの衝撃に包まれていた。

この感覚は――どこまでも暗く、冷たく、悪意に満ちた感覚は間違いようがない。

――ホラーだ。ホラーの邪気が音ノ木坂の中から発せられたのだ。

しかもその邪気の出所は、この場所は――!

 

「あっ、希!?」

 

駆け出した希を、慌てて追いかける海未。

――まさか。そんなことはあり得ない、あってはいけない。

“あの場所”からホラーの邪気を感じるなどあっていい筈がない――!

 

鬼気迫る希の表情に一大事であることを感じ取った海未は、見失わないように希の後を追いかけていく。

そうしてすれ違った生徒に何事かと視線を向けられる中で、校舎を駆け巡った二人は邪気の発生源――屋上の扉まで辿りついた。

そのまま突き破らんばかりの勢いで扉を開けた二人の目に、信じられない光景が飛び込んできた。

 

 

「ぁ………かっ……!」

 

「穂乃果!アンタどうしたっていうのよ!?」

 

「穂乃果ちゃん!やめて!やめてよぉ!」

 

――ことりの首を絞める穂乃果という、悪夢のような光景が。

他のメンバーが必死に穂乃果を止めようとするものの、まるで石像を相手にしているかのようにびくともせず、能面のような無表情で首を絞め続けていた。そして首を絞められていることりは目を見開き、酸素を求めて口をぱくぱくと動かしていた。

そんな目を覆いたくなるような光景を前に、希と海未は固まっていたが――

 

「――――ッ!!」

 

「穂乃果!ことり!」

 

一瞬早く、我を取り戻したのは希だった。

穂乃果から邪気を感じ取った希は魔導筆を取り出し、穂乃果目掛けて光の鞭を放ち、彼女の身体に巻き付けるとことりの身体から引き剥がしたのだ。

解放されたことりを駆け寄った海未が支え、咳き込む彼女を必死に介抱する。

 

「ごほっ、ごほっ! ……海未、ちゃん……穂乃果ちゃんが、穂乃果ちゃんが……!」

 

「ことり……!」

 

他のメンバーが唖然とした表情で希と穂乃果を見つめる中で、希は魔導筆の先端に魔導火を灯らせ、穂乃果に向けて翳した。

信じたくはないが、もし穂乃果がホラーに憑依されているのなら瞳に魔界文字が浮かび上がる筈だが――

 

――浮かび上がってこない!?

 

穂乃果の瞳に魔界文字は浮かび上がっていなかった。

普通に考えればホラーではないということで済む話であるのだが、それでは水晶のように異常に澄んでいる穂乃果の瞳と、彼女からハッキリと感じ取れる邪気に説明がつかない。

どういうことなのかと思考を巡らせている間に、穂乃果が口を開く。

 

「おや、昨夜の魔戒法師ではありませんか。その節はお世話になりました」

 

「……そっか、あの時の……穂乃果ちゃんに何したんや!」

 

「この少女の身体を少しお借りしているのですよ。弱っていた私を介抱してくださったのでお言葉に甘えたのです」

 

穂乃果――いや、穂乃果の身体を乗っ取ったホラーの言葉に、希は怒りを覚えた。

何が言葉に甘えるなのかと。穂乃果の身体を使って友達であることりを殺めて喰らおうとするなど、そんな非道なことを平気で行うことに憤りを感じたのだ。

 

「の、希……一体何が起きてるっていうの?穂乃果はどうしたの……?」

 

「……後で説明するよ」

 

困惑した表情で呟いた絵里。

彼女からしてみれば穂乃果が突然豹変してことりを襲い、今まで見たことのない険しい表情でそれと対峙する希という、思考が追い付かない状況が続いているのだ。

後で話さなければいけないと思いつつ、ホラーの挙動を窺うように魔導筆を構える希。

そしてホラーは一瞬だけ海未の方に視線を向けると虚空から水晶を出現させて口を開いた。

 

「さて、それではドルチェまで揃ったことですし、皆さんを私の食卓へとご招待しましょう」

 

「――っ! みんな逃げて!」

 

穂乃果の姿と声でそう告げたホラーは水晶から辺り一面を包むほどの強い光を放った。

――結界だ。

それに気づいた希が皆に逃げるように促すも、突然の出来事に碌に動くことができなかった。そうしている間に、結界はどんどん広がっていく。

最早逃れることは不可能だと察した希は、取り出した一枚の符を屋上の出入り口の傍に貼り付け、ちょうど一か所に固まっていたメンバーたちの下に駆け寄った。

それと同時に結界の光が彼女たちを包み込み、一際強く光るとフッと消えた。

 

そうして誰もいなくなった屋上に、静寂だけが残った。

 

 

 

**

 

 

 

「……ここか」

 

――街の一角、とある廃工場。

人っ子一人の気配もない、缶などの物が散乱しているその場に彩牙の姿があった。

彼がここにいる理由、それは今朝のことだ。海未との稽古を終えて部屋に戻った彩牙の前に、一通の指令書が置いてあった。

そこには新たなゲートが出現したことと、その場所について記してあった。その場所が、この廃工場――という訳だ。

 

「どうだ、ザルバ」

 

『……妙だな』

 

ゲートの探索をする中、ザルバは訝しげにそう呟いた。

 

『ゲートが出現したにしては邪気が感じられん。それらしい気配が全くしないぞ』

 

「なんだと……?」

 

ゲートが出現した場所というのはホラーの邪気が残って然るべきものなのだ。魔導輪であるザルバにそれが感じられない筈がないのだ。

これはどういうことなのか――番犬所の読み間違いか、そもそもゲートが出現していなかったのか――

 

 

 

 

「――待っていたぞ」

 

「――ッ!?」

 

突然投げかけられた言葉に、咄嗟に振り向く彩牙。

氷のように冷たく、どこまでも深く暗いその声に身構えた彩牙の視線の先にあった声の主。

そこにはフードの下から彩牙を見下ろす闇法師の姿があった。

その姿を目にした瞬間、彩牙は事の次第を察した。

――嵌められたのだ。

 

「私の招待状はよく出来ていただろう?」

 

「お前……何のつもりだ」

 

『ここで小僧を始末しようという気にでもなったか?』

 

「始末? ……ふふ、まさか」

 

魔戒剣を突きつける彩牙とザルバの言葉に、闇法師は臆することはない。

それどころか可笑しくて堪らないと言わんばかりに笑い声を漏らしていた。

 

「私はお前に認めてもらいたいのだ。私と同じ、闇に生きる者だということを」

 

「ふざけるな!誰が貴様などと……!」

 

闇法師の言葉に毅然として言い返す彩牙。

彩牙にとってその言葉はその言葉は到底許容できないものだった。魔戒騎士である自分がホラーに与するような男と同じに扱われるのはどうしても我慢できなかったのだ。

だが闇法師は零れるような笑い声を止めることなく、口を開いた。

 

「灰塵騎士の師のことは、どう説明するつもりだ?」

 

「っ!……お前には関係ない!」

 

「ほう……これを見ても、か?」

 

そう言う闇法師は魔導筆を取り出し、彩牙に向けて光弾を放った。

直線的に向かってくるそれを、身構えていた彩牙は魔戒剣で難なく両断した。

しかしその瞬間、両断した光弾は消滅することも勢いを失うこともなく、二つに分かれて彩牙に襲い掛かった。

意表を突かれた彩牙はそれを防ぐことはできず、その頭に直撃した。

頭を揺さぶるような衝撃と共に、彼の意識は――

 

 

 

 

 

 

俺は、波飛沫が岩に打ちつけられる、人気のない海岸に立っていた。

手に持っているのは木彫りでできた小さな剣。無骨に彫り上げられたそれを、小さな腕で無我夢中に振り回していた。

「やあ」「とお」と、幼い掛け声とともに振られるその剣は、およそ剣技と言ったものには程遠い、お粗末なものだった。だけど俺にとってはそれが精一杯の、自分なりの剣技だった。

 

そんな俺は、一つの視線浴びていた。

剣を振るうその後姿を見つめている視線の持ち主は、一人の男性だった。

潮風にはためく白いコートを纏ったその人が俺の下へと歩み寄ると、屈託のない笑顔を浮かべた俺は彼の下へと駆け寄った。

 

その人は俺の頭を、髑髏の指輪がはめられた左手でがしがしと撫でていた。無骨で、固くて、傷だらけで、でもとても暖かい手だった。

自分の頭を撫でるその人の表情は、厳しさを秘めつつも暖かみを感じる、穏やかな表情だった。

 

まるで子を見つめる親のような――そんな表情だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――視点が切り替わる。

先程までの海岸とは違い、俺の姿は森の中にあった。

樹々が生い茂り、僅かに薄暗い森の中にいた俺の目の前には、一人の男性の姿があった。

さっきの人とは違い、老人と言って差し支えのないその男性は俺の目の前で血を流し、血の海に倒れていた。

既に事切れたその男性の前で、俺は夢うつつのように立ち尽くしていた。

 

その手には、男性のものである血に塗れた剣が握られていて――

 

 

 

 

 

 

「――――――はっ!?」

 

唐突に意識を取り戻す。

彩牙の意識はあの廃工場へと戻っていた。目の前では闇法師が彩牙のことを見下ろしていたが、彩牙の意識はそちらに向いてはいなかった。

彼の意識はついさっきまで目にしていた光景に奪われていた。あれは、あの光景は――

 

「……ザ、ルバ……今、のは……?」

 

『……間違いない、あの光景は俺様も覚えている。あれは、幼い頃のお前とお前の父――虹河だ』

 

意識を失い、最初に見た海岸の光景。

鍛錬をする少年――幼い自分と、それを見守る父の姿。あれが失われていた過去の記憶の一つとするのならば。

あれは、その次に見たあの光景は――!

 

「そう、あれこそお前の抱える罪……灰塵騎士の師を殺めたという事実そのものだ」

 

「ふざ……けるな……! あんなもの、幻術か何かに決まっている……!」

 

「そこの魔導輪が言っていただろう? あれはお前の失われし記憶、お前の過去だ。その中に“それ”があるということ、それこそがお前が闇に生きる者であるという証だ」

 

「違う……違う!!俺は……!」

 

闇法師の言葉を否定しようとするも、言葉に詰まる彩牙。

否定しようとしても、それに対する反論の言葉が出てこなかったのだ。

今見た光景が自分の記憶であることは、ザルバの言葉からも明らかなのだ。その中にコテツの師を殺める光景があったということは、それは彼の師を殺めたという証拠。

幾ら否定しようとしても、自らの記憶にあったそれを偽りと断じることができなかったのだ。

 

「案じるな、それを恥じることはない。闇を受け入れ、闇に生きることを選べばその苦しみは癒しへと変わるだろう」

 

そんな苦しみに囚われた彩牙に向けて、闇法師が手を差し伸べる。

穏やかな声で語りかけるその言葉に、闇に差し込む一筋の光のような錯覚を抱いてしまうほど、彩牙の心は疲弊してしまっていた。自らが人を殺めるという禁忌を犯していたことに、押し潰されそうになっていたのだ。

強い自責の念に支配された彩牙はその苦しみから逃れようと、手を伸ばそうとして――

 

 

 

『――おい、小僧!あの嬢ちゃんがホラーに襲われているぞ!』

 

――その一言で、目を覚ました。

 

 

 

**

 

 

 

「う……ここは……!?」

 

光が止んだ頃、海未は恐る恐る瞳を開いた。同時にその表情は驚愕に染まった。

つい先程まで自分たちがいたのは音ノ木坂の屋上にいたはずだ。だが光が止んだ時に自分たちがいたのは屋上とは全く違う、辺り一面が水晶で覆われた異様な空間だった。普段は綺麗と思うような水晶の煌きも、不気味さを感じさせるものとなっていた。

 

「っ……! みんな、無事!?」

 

「な……なに、ここ……」

 

「……ちょっと、何がどうなってるのよ!」

 

辺りを見渡せば、穂乃果を除いたμ’sメンバーが全員揃っているのを確認できた。

希が全員の無事を確かめる中で、これまでホラーと遭遇したことのなかった絵里、花陽、そしてにこは困惑と恐怖の色に染まっていた。それ以外のメンバーもホラーのことを知っていたこともあり、何が起きたのか、これから何が起こるのかを理解し、恐怖に慄いた。

 

「……! 穂乃果ちゃん!」

 

ことりの一言に、その場にいた全員の意識がそちらに向いた。

ことりの視線の先、そこには水晶の床の上で横たわる穂乃果の姿があった。

 

「穂乃果!」

 

希が止める間もなく、穂乃果のもとへと駆け寄る海未とことり。

横たわる穂乃果の身体を海未が抱き起し、ことりが彼女の様子を窺う。すると穂乃果の胸が上下に動き、息をしていることを確認するとほっと胸を撫で下ろした。どうやら気を失っているだけのようだった。

 

「二人とも!急に離れたらあかんよ!」

 

「すみません……ですが、穂乃果の無事を確かめたかったのです」

 

一拍遅れて希と、彼女に続くようにして他のメンバーたちも穂乃果のもとに集まった。

希はこの空間で穂乃果の姿を目にした途端、まだあのホラーが彼女の身体に潜んでいるかもしれないと疑った。海未やことりを止めようとしたのもそのためだ。

だがこうして近づいてみてはっきりとわかった。あのホラーはもう穂乃果の身体に潜んでいない。彼女から邪気が全く感じなくなったのだ。

 

むしろ、この空間全体にあのホラーの邪気が蔓延っているようで――

 

「――っ!危ない!!」

 

「きゃあっ!?」

 

それに気付けたのは、希の勘の鋭さがあってのものだろう。

つららのように先端が尖った水晶が、絵里目掛けてどこからともなく飛来したのだ。寸でのところで防壁を張ったことにより防ぐことができたが、一歩遅ければ絵里の頭は無残に貫かれていたことだろう。

突然自分に襲い掛かってきた水晶と、それを防いだ紫色の防壁の目にした絵里は困惑の表情でそれらと希を見つめていたが、希に気を留める暇はなく、魔導筆を構えたまま辺りを警戒していた。

 

『今のに気付くとは……お見事です』

 

その時だ。この空間中に響き渡るような声が聞こえたのだ。

その声の主は水晶の中から光が透過するかのように現れたのだが、その姿を見たメンバーの多くが息を呑み、恐怖を抱いた。

それは水晶のように煌くローブを纏い、その上からでも分かるほど女性的な体つきをしていた。だがフードの下から覗くその顔は人間のものとは思えない程青く染まっており、羊のような角を有していた。

――これが穂乃果の身体を乗っ取っていたホラー・カミラの真の姿だ。

 

「わざわざ穂乃果ちゃんから離れてくれたんやね」

 

『ええ、その子の中にいたままでは食事がとれませんので』

 

「そんなこと、ウチが許すと思う?」

 

魔導筆を構え、カミラと対峙する希。

普段からは想像もできないような険しい表情を浮かべる希の姿に、メンバーの多くは戸惑いの視線を向けるしかなかった。あれは本当に、自分たちの知る希なのかと。

そして数少ない事情を知る海未と真姫は、希に戦ってほしくはないがそうしなければ自分たちの命はないという思いに駆られ、複雑な表情を浮かべていた。

 

先に動いたのはカミラだった。

カミラが手を翳すと、それに応じるように絵里を襲ったものと同じような水晶が幾つも浮かび上がり、砲弾のような勢いで希たちに襲い掛かった。

その形状もありさながらミサイルのように飛来する水晶を、希は防壁を張ることで迎え撃った。

水晶が防壁と衝突する毎に発する炸裂音と衝撃を前に、メンバーたちの悲鳴が上がり、その身を小さく縮こまらせていく。皆、自らの命を狩りに来る脅威に呑み込まれつつあるのだ。

 

その中で唯一、希だけが歯を食いしばりながら立ち向かっていた。

ミサイルのごとく飛来する水晶は一つ一つの威力が凄まじく、少しでも気を抜けば破られかねない勢いだ。昨夜ではここまでの実力はなかったのにこれほどに強化されたのは、この空間がカミラに生み出された結界だからなのだろう。結界にいる限り、カミラの力は何倍にも跳ね上がる。

が、このまま黙ってやられるわけにはいかない。

防壁を展開したまま懐から数枚の札を取り出し、宙に放り投げる。するとそれらは紫色の光を帯びて浮かび上がり、幾重にも固まって一つの塊に――星を模したような形状となり、希の下から飛び立っていった。

 

まるで手裏剣のごとく飛翔する星は撃ち出される水晶の合間を縫うように飛んでいき、遂にカミラの目の前に到達した。

星はカミラの眼前で破裂し、元の札の姿になって炸裂弾のごとく襲い掛かる。法力が籠められたそれらはカミラの肉体を傷つけていき、その衝撃で水晶の射出が途切れた。

その隙を希は見逃さなかった。自分たちを守るように展開していた防壁を解除すると、すぐさまカミラの周囲に防壁を展開し、さながら檻のように閉じ込める。

密閉された空間により、札の炸裂は更に激しくなっていく。カミラの呻き声と共に法力が炸裂する光がその身体を包んでいき、遂には完全に埋め尽くされた。

その様子を希は警戒を崩さぬまま、他のメンバーたちは恐れを含んだ目で見つめていた。

 

やがて札の炸裂が止んだ頃。

カミラを閉じ込めた防壁内は札の炸裂による煙で埋め尽くされており、中の様子を窺い知ることはできない。だがあれだけの札を喰らったのだ。倒せてないにしてもタダでは済んでいないだろう。

そして煙が晴れ、防壁の中が明らかになったとき――そこに、カミラの姿はなかった。

 

「っ!しまっ――――」

 

――逃げられた!

防壁を張り直して警戒しなければと思った瞬間、希の身体に横殴りの衝撃が襲った。

 

 

 

 

 

「―――え?」

 

絵里は――いや、彼女だけではない。この場にいた全員が唖然としたような呟きを漏らした。

目の前で彼女たちを守るようにホラーと対峙していた希の姿が忽然と消えたのだ。

――いや、消えたのではない。横から突然現れた“何か”によって凄まじい勢いで殴り飛ばされたのだ。その証拠に、ついさっきまで希がいた場所には球状の水晶が浮かんでいた。

――真っ赤な返り血が、べったりと付着した水晶が。

 

彼女たちは、視線をゆっくりと横に動かした。

そこには希の姿があった。床を何度も転がって力なく横たわり、血を流す希の姿が。

血だまりの中に沈む、希の姿が。

 

「の……ぞ、み……ちゃん……?」

 

「……嘘、でしょ……ちょっと、返事しなさいよ……!」

 

「……ぁ……ぅ……!」

 

大事な仲間の変わり果てた姿を前に、信じられない、信じたくないといったような表情で震え、呟くメンバーたち。

それに応えようとする希だが、喉元の異物感によって上手く言葉が回らない。半開きになった口から唾液交じりの血が流れ、全身に走る激痛により身体が碌に動かせない。

誰の目から見ても瀕死の状態であることは明らかだった。

 

「……い、いやあぁぁぁぁぁ!! 希!のぞみぃ!!」

 

「今行きます!動かないで!」

 

半狂乱の叫びを上げる絵里と、我に返った海未。

二人を筆頭にしたメンバーたちが瀕死の希の下に駆けつけようとするが、その前に障害が現れる。この場の何よりも恐ろしい、死を運んでくる障害が。

ホラー・カミラが返り血で塗れた水晶を見せつけるように、妖艶な微笑みを携えて見下ろしていた。

 

「……あ………」

 

『うふふ……まず、一つ』

 

「ぃ……げ……!」

 

カミラを目前にして慄く海未たち。そんな彼女を――極上のドルチェを喰らおうと、カミラの手が伸びてくる。

「逃げて」と叫ぼうとする希だが、呻くだけで口が碌に回らない。助けに向かおうとしても、激痛により身体が全く動かない。

彼女には最早、守りたいと願っていた親友たちが喰われていくのを見ることしかできない。

そして海未を喰らうべく、カミラの手が彼女に触れようとした時――

 

『―――グ!?』

 

突然、呻くような声と共にカミラの身体が海未から離れた。

いや、離れたのではない。引き剥がされたのだ。

 

 

 

――カミラの背後に現れた、彩牙によって。

 

「彩牙くん……!?」

 

「……離れろ!!」

 

憤怒の表情を浮かべる彩牙はカミラを引き剥がすと、それと同時に魔戒剣で袈裟懸けに斬り裂く。

どす黒い血を流し、悲鳴と共に床を転がるカミラを、彩牙は射殺さんばかりに睨みつける。

そして海未は助かったと安堵すると同時に、どうやってこの場に現れたのだろうと疑問に思った。海未以外のメンバーも彩牙の素性を知る者は戸惑いつつも安堵の表情を浮かべ、知らなかったメンバーは剣を握る彩牙の姿に戸惑いを抱かずにはいられなかった。

 

――よかった、間に合った……!

 

その中で唯一、希だけが心の底から安堵していた。

彼女は、彩牙ならば必ず来てくれると信じていた。結界に呑み込まれる寸前、屋上に結界侵入用の符を残してきた甲斐があったというものだ。

そんな希の下にカミラの脅威から脱した絵里たちが駆け寄り、生きていることに涙しながら彼女の身体を抱きとめた。

 

瀕死の状態となった希の姿を一瞥した彩牙は、その表情に浮かべる憤怒の感情をより一層深いものとしてカミラに対峙する。

彩牙を、魔戒騎士を前にして身構えるカミラ。

彩牙はそんなカミラに向けて歩を進めると同時に魔戒剣で円を描き、ガロの鎧を召喚した。

降りかかる金色の光に、纏われる狼の鎧。

黄金騎士ガロの姿となった彩牙に、絵里とにこ、そして花陽の三人の瞳が大きく見開かれた。

ガロの姿を初めて目の当たりにした彼女たちは、近頃噂になっていた都市伝説のことを思い出した。あの話が本当のことで、その正体が彩牙であったことに。

 

「さ、彩牙さん……!?」

 

「あれって、まさか噂の……!?」

 

彼女たちの受けた衝撃をよそに、ガロは駆け出した。

瞬く間にカミラとの距離を詰めると、牙狼剣を振り下ろす。

大きく振るわれたそれはカミラの繰り出した水晶に受け止められ、火花と、付着していた返り血が辺りに飛び散る。

無論、それだけでは終わらない。何度も、何度も牙狼剣を振り下ろす。カミラもそれらを水晶で受け止めていき、時にはガロ目掛けて振り下ろす。

その剣戟の音は段々と間隔が短くなっていった。

 

そこに変化が訪れる。

カミラの周囲に新たな水晶が発生したのだ。先程希たちを襲ったのと同じような、先端が鋭く尖った水晶だ。

カミラはその水晶をガロに狙いを定め、一斉に放った。

ミサイルの如き水晶を至近距離で喰らい、水晶の欠片とソウルメタルが辺りに飛び散りながらたたらを踏んで退くガロ。一撃が重いそれらを何発も喰らい、呻き声を上げながらカミラとの距離が離されていく。

先程まで自分たちに襲っていた水晶のミサイルを一身に浴びるガロの姿に、μ’sメンバーの口から悲鳴が漏れた。

 

だがそれでは終わらない。終われない。

水晶のミサイルを喰らって離される中で、耐えるように脚に力を籠めてその場に踏み止まった。そうして一歩、また一歩と足を踏み出し、水晶のミサイルの雨に晒されながらもゆっくりとカミラとの距離を縮め始めたのだ。

 

『――ウ、オォォォォォォォォッ!!』

 

自らを鼓舞するように咆哮したガロは、牙狼剣を横薙ぎに一閃した。

それによって放たれた剣圧により、ガロに迫っていた水晶のミサイルは勢いを失い、弾き飛ばされていく。

剣圧に怯むカミラ、ガロはその隙を見逃さない。飛びかかるように一瞬で距離を詰めると、今度は水晶で受け止める暇も与えないように高速で牙狼剣を振るい、すれ違いざまにカミラの身体を両断した。

身体が上半身と下半身に分かれ、崩れ落ちていくカミラ。だが彼らの戦いを見ていた希は、そして海未は気づいた。

 

ガロの背後で崩れていくカミラ。その口角が、確かに吊り上がったことに。

 

「っ、まだです!!」

 

海未が叫ぶのと同時だった。

ガロによって両断されたカミラの身体が水晶へと変化し、砕け散ったのだ。

水晶の破片が辺りに舞い上がる中、海未の言葉に周囲を警戒するガロの瞳に映ったもの。それは水晶の床から生えるように現れたカミラの姿だった。

――水晶の刃へと変化した腕を、ガロの腹部に突き刺した。

 

『――ガハッ……!』

 

「彩牙くんっ!!」

 

海未の悲鳴が木霊する中、ガロの兜――狼の口からごほりと血が吐き出される。

その様を見たカミラは「獲った」と確信した。後は動けなくなった黄金騎士の目の前であの法師と少女たちを喰らい、絶望に染まったところで黄金騎士を味わうのだと、その美しい顔を光悦で歪ませる。

しかし――

 

『――ウゥゥ……オォォォォォォッ!!』

 

『な――!?』

 

ガロの――彩牙の瞳からは闘志の炎は消えていなかった。

自らの腹に突き刺さったカミラの腕をがっしりと掴むと咆哮と共に引き抜き、そのままカミラの身体を投げて床に叩きつけた。

それも一度ではない、腕を離さないまま、いたぶるかのように何度も何度も叩きつける。ガロから飛び散る彼自身の赤い血と、カミラのどす黒い血が飛び散るその光景に、戦いを見つめていた海未たちは恐怖に慄き、息を呑んだ。

つい先程までは危機に駆けつけた正義の味方のように見えたガロが、まるで憎悪に満ちた悪鬼のようだった。

 

今一度、渾身の力で床に叩きつけられたカミラ。その姿は無残の一言に尽きるものだった。

羊のような角はひしゃげて折れ、自身の真っ黒な血で染まり、美しかった顔は醜く腫れ上がっていた。

もしこれが人を喰う魔獣ホラーではなかったら誰もが同情の視線を向けていたことだろう。あるいはこの醜い無残な姿こそが、ホラーであるカミラの本質を表しているのかもしれない。

 

仰向けに倒れたカミラは、それでも尚ガロを討とうとするべく、水晶を放つために腕を動かそうとする。

だがその腕を、ガロは骨ごと踏み砕く。もう片腕も同様に踏み砕かれ、カミラはガロに組み敷かれる形となった。

そして見上げることしかできなくなったカミラの瞳に映ったのは――憎悪に満ち溢れた瞳で自らを見下ろし、牙狼剣の切っ先を突きつけるガロの姿だった。

 

『や、やめ――――!』

 

咄嗟に放ったカミラの命乞いは、聞くに堪えない断末魔によって埋め尽くされた。

牙狼剣がカミラの眉間を刺し貫いたのだ。びくりとその身体が跳ねたかと思うと力なく倒れ、黒く醜く崩れ落ちていった。

黒くて醜い肉の塊へと変化したカミラの肉体はそのまま宙に解けるように消えていき、それと同時にこの結界も崩れ始めていった。

辺り一面の水晶に罅が走り、ボロボロと崩れていく。そして現れたのはμ’sにとって馴染み深い光景――先程まで彼女たちがいた音ノ木坂の屋上へと戻ってきたのだ。

 

「――希!」

 

ガロの鎧を解除した彩牙は口元の血を拭うと、真っ先に希の下へと駆け寄った。

彼女を抱える絵里は咄嗟に庇うように身を逸らしたが、希がそれを手で制し、彩牙もまたその反応に臆することなく希の前に腰を下ろした。

そして着ていたコート――魔法衣の下から緑色の液体が入った瓶を取り出すと、その中身を躊躇うことなく希の口に移した。

口の中に広がる苦味に顔を顰める希と、怪しげな液体を彼女に飲ませたことで険しい表情を浮かべる絵里の前で、彩牙は口を開いた。

 

「応急処置用の秘薬だ。すぐに治るわけにはいかないが、これで大分身体が楽になる筈だ」

 

『瞬時に治す薬もあるが、あれは嬢ちゃんにはまだ負担が強すぎるからな。我慢してくれ』

 

「……ううん。ありがとな、彩牙くん、ザルちゃん」

 

希の身体が楽になったことを確認し、立ち上がる彩牙。

振り返る彼の視線の先には、こちらをじっと見つめているμ’sメンバーの姿があった。

だがその視線の大半は困惑と、彩牙に対する恐怖で染まっていた。例え自分たちを殺そうとした怪物が相手だったとしても、必要以上にいたぶるようなあの戦いは彼女たちに恐怖を抱かせるには十分すぎた。

特に、にこや真姫に至っては先のガロの姿は野獣か何かにしか見えず、警戒心を抱いているという有様だった。

 

 

 

 

 

「……んぅ……あ、れ……?」

 

「! 穂乃果!」

 

「穂乃果ちゃん!」

 

その時、彩牙を中心としていた場の空気が一変した。

カミラに乗っ取られてから気を失っていた穂乃果が目覚めたのだ。彼女を抱えていた海未とことりが真っ先に顔を覗き込み、それにつられてその場の全員が穂乃果に視線を向ける。

場の視線を一身に浴びた穂乃果は、ぼんやりとした思考の中で何をしていたのか思い出しつつあった。

 

――えと……わたし、確かみんなと練習してて……そしたら……えっと……。

そうだ、声が聞こえたんだ……頭の中から、女の人の声が………

 

 

 

 

……声、が……!?

 

その瞬間、穂乃果の記憶は爆発的に蘇った。

女の声、ホラー、自分の中に潜んでいた。動けなくなる身体、得体の知れないモノが自分の身体を勝手に操る感覚、気持ち悪い、きもちわるい、キモチワルイ。

伸びていく自分の腕、幼馴染の首に潜り込んでいく。締め上げる感覚、友達の命を奪っていく感覚。嫌だ、いやだ、イヤダ。ことりちゃんが、ことりちゃんが、ことりちゃんを。

 

「穂乃果ちゃん、大丈夫!?」

 

その声に、穂乃果の視線はことりに向けられた。

その瞳に映ったのは、白くきめ細やかな肌に手の跡がうっすらと残った、ことりの首。

視線を横に動かせば、絵里に支えられる希の姿。血に塗れた彼女の姿に、穂乃果は何があったのか理解した。理解してしまった。

 

自分が何をしてしまったのか。

何を壊してしまったのか。

それを理解した瞬間、穂乃果の顔は血の気が引いたように蒼白となった。

そして――

 

 

「―――ぅ、あ、あぁ……! うわぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

「穂乃果!?」

 

抱えていた海未を突き飛ばし、絶望に狂ったような叫びを上げながら、穂乃果は逃げるようにその場から駆け出した。

その表情に普段の快活さや明るさは影も形もなく、己がもたらしてしまった過ちに対する絶望だけが残っていた。

そんな穂乃果を慌てて追いかける海未とことり。

彩牙も彼女たちの後を追いかけようとして――

 

――お前は闇に生きる者だ。

 

闇法師の言葉が、脳裏に響き渡った。

人を殺めてしまった自分が、海未を――彼女たちの後を追っていいのか?血に塗れた自分が、彼女たちと一緒にいていいのか?魔戒騎士最大の禁忌を犯した自分が彼女たちと共にいることなど、許されていいはずがない。

ここは――自分がいていい場所ではない。

 

「彩牙くん……?」

 

急に立ち止まった彩牙を、訝しげに覗きこむ希。

 

「……希。海未を――高坂さんたちを頼んだ」

 

「え……? ちょっ、彩牙くん!」

 

それだけを言い残し、踵を返した彩牙は屋上の手すりを飛び越えて宙へと消えていった。

突然屋上から飛び降りた彩牙の姿に殆どのメンバーが騒然としていたが、魔戒騎士はあれしきのことでは怪我すらしないことを知っていた希だけは、彩牙の様子が気がかりであった。

まるで、昨日以上に思い詰めているような――

 

「――希」

 

その時、自らを呼ぶ声に、希は振り返った。

呼んだのは絵里だった。希を見つめる絵里の瞳は、困惑に染まっていた。

絵里だけではない、にこも花陽も凛も同じように見つめていて、真姫は僅かな憤りさえ感じさせるような表情を浮かべていた。

そうした中、真剣そのものな表情を浮かべたにこが一歩前に出てきて口を開いた。

 

「……希、アンタ言ったわよね。後で説明するって」

 

――約束よ、全部話しなさい。

そう告げたにこは問い詰めるように希を見つめた。他のメンバーたちも彼女につられるように、希に視線を集中させる。

それらを前にした希は、もはや避けて通ることはできないと悟った。

穂乃果には海未とことりが付いている。彩牙の件も気になるが、これを無視することはできない。

彼女たちと、本当の意味で向き合う時が来たのだ。

 

 

 

**

 

 

 

「――待ちなさい!穂乃果!」

 

同じ頃、海未は屋上から逃げるように飛び出した穂乃果を捕まえていた。

そこは校舎の廊下の一角だったが幸か不幸か、周囲に人の気配はなかった。

遅れるようにことりが二人に追いつき、穂乃果は振り返ることなく俯いたまま呻くように口を開いた。

 

「……もう駄目だよ……」

 

「……何がですか?」

 

「私、ことりちゃんを殺そうとしちゃった……希ちゃんをあんな目に遭わせちゃった……もうあそこには、μ’sには戻れないよ……!」

 

「何を言うのですか!それはホラーの仕業なのですよ!」

 

「そうだよ!穂乃果ちゃんのせいじゃ――」

 

「違うよ!!」

 

ことりと海未の言葉を遮るように強く叫び、振り返る穂乃果。

涙を浮かべたその表情には絶望と後悔が織り混じり、海未とことりは思わず息を呑んでその剣幕に気圧された。

 

「私がホラーに憑りつかれなきゃ、こんなことにならなかった! 私のせいでホラーが現れた、ことりちゃんも希ちゃんもあんなことにはならなかったんだ!」

 

自分がホラーに憑りつかれなければ、ホラーを助けたりしなければ、ホラーに見出されるような“夢”がなければ――

自分のせいで、自分のせいで、自分の“夢”のせいで――。自らに対する憤りが、後悔や怒り、悲しみなどの感情と混沌と混ざり合い、自己否定として飛び出していく。

そしてそれは、堰を切ったようにとめどなく溢れ出ていく。

 

「……そうだよ、はじめてホラーに襲われた時だって、私が原因だった。アイドルなんて夢があったからホラーが私に憑りついて、みんなが死んじゃうところだった。私なんて……」

 

 

 

 

 

 

 

「――私なんて!最初から何もしなければよかったんだ!!」

 

「っ! あなたという人は――!」

 

その言葉を聞いた時、海未は反射的に飛び出した。

今の穂乃果の言葉は許せないものだった。彼女がこれまで積み重ねてきたものを、それによって救われた人もいたというのに、それらを全て否定するような言葉は到底許せるものではなかった。

湧きあがった激情を抑えきれぬまま、海未の掌が振り上げられ――

 

 

 

 

 

 

――パンッ

 

廊下に響く乾いた音。

それは人の頬を――穂乃果の頬を叩いた音だった。

ほんのりと赤く腫れた穂乃果の頬を叩いたのは海未の掌――ではなかった。彼女は目の前の光景を呆然と見つめ、振り上げていた手が固まっていた。

赤く腫れた頬を抑える穂乃果は微かに震えながら、呆然とした表情で自らを叩いた人物を見つめていた。

それは穂乃果の幼馴染で、愛らしいふんわりとした雰囲気を備える少女――

 

 

「……ことり……?」

 

――南ことりだった。

だが今の彼女は溢れ出てくる涙を流しながら、憤りに満ちた表情で穂乃果を睨みつけていた。

その掌は穂乃果を叩いたことにより、赤く腫れていた。

 

「………ばか……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「――穂乃果ちゃんの、ばかぁっ!!」

 

 

 

***

 

 

 

穂乃果「罪の意識に苛まれる少女」

 

穂乃果「罪を突きつけられる少年」

 

穂乃果「消えることのない罪が、彼らを追い詰めていく」

 

 

穂乃果「次回、『咎人』」

 

 

 

穂乃果「……償うことなんて、できるのかな……」

 

 

 

 






魔戒指南


・ ホラー・カミラ
占い師の女性に憑依したホラー。水晶のローブを纏った美女のような姿をしている。
水晶を自在に操り、結界を作って獲物を閉じ込めるうえ、自らの力を何倍にも強化することができる。
なお、非常に食い意地が張っており、ご馳走を前にすると昼だろうと我慢が利かなくなる。




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第17話  咎人

大変長らくお待たせしました。

・・・ですがその割にあまり長くありません。



 

 

 

 

 

「――どういうことですか……!」

 

――虹の番犬所。

普段は静厳な雰囲気に包まれたその場に、悲痛な声が響き渡っていた。

その声の主は希だった。彼女は困惑と憤りが織り混じった表情で、ソファーに腰かけるオルトスと対峙していた。

オルトスの態度はそんな希とは正反対とも言える姿であり、いつもと変わらぬ気だるげな様子で彼女を見つめていた。

 

「不満そうじゃのう」

 

「当たり前です!彩牙くんを捕まえろなんて……どうしてそんなことになってるんですか!」

 

あの日――μ’sがホラーに襲われたあの日から、彩牙は行方を晦ましていた。海未の家に帰ることは勿論、番犬所にも顔を出していなかったのだ。

そんなある日、番犬所に呼び出された希は彩牙の捜索についての話だと思った。だが捜索は捜索でも、“彩牙を捕らえること”というものだった。

当然ながら希は納得できなかった。共に戦ってきた仲間であり、友人でもある彩牙が罪人であるなど納得できる要素がどこにもなかった。

だがそんな彼女の訴えを、否定する者が現れた。

 

「彩牙は先代の灰塵騎士――コテツの師を殺害した疑いがある。それ故にだ」

 

大和だ。

屋上の時と同じように感情を感じさせない声色の彼の言葉に、希は信じないと言いたげに憤りを籠めた視線を向ける。彩牙がそのようなことをする筈がないと。

だが大和は無駄だと言わんばかりにその視線を受け流し、代わりに札が貼られた木箱――記録用の魔導具を取り出し、そこに内蔵されていた映像を浮かび上がらせた。

 

「これは……!?」

 

そこに映し出されたのは、一人の騎士によって斬り伏せられる老人の映像。

老人を斬り伏せた騎士はシルエットだけではあるものの、その姿はガロに違いなかった。

愕然とした表情で映像を見つめる希だが、オルトスはそんな彼女に訝しげな視線を向けた。

 

「……納得しておらんようじゃの」

 

「……当たり前です。こんなの、嘘か何かに決まってます」

 

「だがこの魔導具には細工された痕跡はなかった。時期も奴が記憶を失う前後と一致している。我々はこの真意を確かめねばならないのだ」

 

希はそれでも、彩牙の無実を信じていた。

例えこの魔導具の映像が偽りないものだとしても、状況証拠が揃っていたとしても、彩牙がそんなことをするとは信じられなかった。元来友というものに飢えていた希は、友を疑うような真似は――友を信じる心だけは捨てたくなかったのだ。

そんな彼女の心を見透かすような視線を向けるオルトスが口を開く。

 

「お前さんがどう考えるかは勝手じゃ。じゃが“あの少女”を救いたいというお主らの望み、忘れたわけではなかろう?」

 

「――っ!」

 

オルトスの冷酷な言葉が、希の心に突き刺さる。

オルトスからすれば、希がどう思うかは――それこそ彩牙のことを信じていようと関係ないのだろう。

だが彩牙が行方を晦まし、希も番犬所に従わないというのであれば、最早二人の望みでもある海未の浄化を待つ義理はどこにもない。来たるべき最悪の死から救うために、すぐにでも彼女を斬ろうとするだろう。

 

「どうすればよいか、わかるじゃろう?」

 

「……はい」

 

それ故に、希はオルトスの言葉に頷くことしかできなかった。

唇を噛み締め、憤りを抱えながら。

 

 

 

**

 

 

 

「……はぁ」

 

――音ノ木坂学院の裏路地。

番犬所を後にした希は重々しくため息をついた。ため息をつくと幸せが逃げるとはよく言うが、今の状況を考えるとため息の一つや二つ、つきたくなるものだった。

彼女自身、彩牙が人殺しをしたなどとは思っていない。例え記憶を失う前後の出来事だとしても彩牙がそんなことをしたとはどうしても思えなかったのだ。

 

だがオルトスや大和、そしてコテツはそうではない。

彼らは彩牙が裁くべき罪人であると疑っている。

師を殺されたというコテツはそれが特に顕著だ。この状況下で彩牙の無実を訴えたところで門前払いにされるどころか、下手をすれば爪弾きにされるだろう。

そうなってしまえば彩牙だけではない、海未を返り血の呪縛から救うことも敵わず、斬り伏せられてしまう。

それ故にどう立ち回るべきか悩んでいた。

 

そして、彼女が抱える悩みの種はそれだけではない。

希の頭を悩ませるもう一つの種、それは――

 

 

 

 

 

「……希」

 

「っ……えりち、どうしてここに……?」

 

番犬所から裏路地に出たばかりの希を呼び止めた声。

ハッとした彼女が振り向いた先には、こちらを真剣な表情で見つめる絵里の姿があった。

その表情と、たった今現れたのではなく待っていたような佇まいを見て、希は察した。

絵里は全部見ていたのだ。希が番犬所に入っていったことも、そこから出てきたことも。

そんなことを考えている間に、絵里は希の下に歩み寄っていく。

 

「つけるような真似をしたのは謝るわ、ごめんなさい。でもどうしても確かめたかったの、希が関わっているのがどんなものなのか」

 

「……」

 

「ここが、そうなのね」

 

希の隣に立った絵里はそう言って、番犬所の入り口があった塀を見つめた。

その姿を横目で見ながら、希は先日のことを思い出す。

そう――μ’sの目の前にホラーが現れ、希と、そして彩牙の正体が彼女たちに明らかになった、あの日のことを。

 

 

 

 

 

 

「――そんなわけで、ウチはホラーと戦っているんよ」

 

μ’sのメンバーから問い詰められた希は、全てを正直に話した。

ホラーのこと、魔戒騎士・魔戒法師のこと、彩牙のこと、そして……自分自身のこと。

話を聞いたメンバーの反応は様々だった。希もホラーと戦っていたことに驚く凛、ホラーという裏側の脅威に怯える花陽、改めて聞かされた内容に顔を顰める真姫。

そして――

 

「……」

 

「えりち……」

 

絵里は、俯くように顔を伏せていた。

表情が窺えない彼女を、憂いを帯びて見つめる希の前に、絵里に代わるようにしてにこが立つ。

希と向かい合うその表情は、まるで怒っているようで――

 

「希、アンタ前に言ってたわよね。“やりたいことが他にもできた”って、それがこれなの?」

 

「……うん。そうやで、ウチは――」

 

「ふざけないでよ」

 

希の言葉を遮るにこ。

それと同時に彼女は希に掴みかかっていた。

小さな悲鳴が漏れ、メンバーの間に動揺が走る中、希の顔を引き寄せる彼女の表情は隠しきれない怒りで染まっていた。

 

「アンタ、自分が何言ってるかわかってんの? あんな化け物と戦うなんて冗談、許す筈がないでしょう!」

 

「冗談なんかやあらへん!ウチは、ウチができることをしたいって――」

 

「死んじゃうかもしれないのよ!!」

 

にこの叫びが、希の言葉を打ち消した。

その叫びに気圧されたのは希だけではない、その場全体に響き渡り、時間が止まったかのように静まりかえる。

にこの叫びはそれほどまでに鬼気迫るものであり、それでいて悲痛に満ちたものだった。

先のカミラとの戦いの際、希は瀕死の重傷を負った。これまでと同じ生活は不可能に――いや、下手をすれば死んでしまっても可笑しくはなかった。

希がそんな世界に身を置いていることが許し難く、そしてどうしようもなく悲しかったのだ。

そして、そう思っているのはにこだけではない。

 

「……希」

 

その言葉と共に、今まで俯いていた絵里が顔を上げた。

希とまっすぐ向き合う彼女の表情は怒っているようで、泣いているようで――

 

 

「……私は、頼んでないわ」

 

「え……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あなたにそんなことしてほしいなんて、頼んだ覚えはないわ」

 

 

 

 

 

 

「ねえ、希……考え直す気はないの?」

 

――時は戻り、現在。

希をまっすぐ見つめる絵里はそう告げると、彼女に向かって手を伸ばす。

差し伸べるように出されたその手は、希が取るのを待つように在った。

絵里は希にこの手を取ってもらいたいのだ、戻ってきてほしいのだ。ホラーとの戦いという闇の世界から普通の女の子として生きる、光差す世界へと。

それと同時に、絵里の立っていた場所が差し込んできた陽の光に照らされる。日陰の中に立つ希とは対照的なその姿は、彼女たちの今の立ち位置をそのまま表しているかのようだった。

 

差し伸べられた絵里の手を前にした希は無意識に、そして釣られるように歩み寄っていく。

だが希がその手を取ろうとした直前、彼女の手はピタリと止まった。

脳裏に浮かび上がるのはこれまでの思い出。絵里との出会い、μ’sの結成、そして魔戒法師として戦う決意を固めたこと。今こうして絵里の手を取ってしまったら、皆を守りたいというその決意も否定することになってしまうかもしれないと、そう思ったのだ。

そうして絵里の手を取ろうとして、しかし下ろされた希の手を目にした絵里は、悲しげな笑みを浮かべた。

 

「……それが答えなのね」

 

「あ……」

 

今にも泣き出してしまいそうに儚げな表情を浮かべ、その場から走り去っていく絵里。

彼女の後姿に手を伸ばす希だが、その手は所在なさげに下ろされていき、後悔の念が胸に浮かんでいった。

どうして絵里の手を取ることができなかったのか、法師もμ’sも、どちらも続けるつもりではなかったのかと。

結局自分は、どちらか片方しか選ぶことしかできないのか――

 

 

 

**

 

 

 

「――はぁ……」

 

「……なに溜息ついてんのよ……」

 

「……にこちゃんこそ」

 

――学校帰りのファストフード店。

大勢の客で賑わうポップな飾りつけがされたその店に、凛と花陽と真姫、そしてにこの姿はあった。

しかし店内の雰囲気やいつかμ’sの仲間達で来た時とは違い、今の彼女たちに漂う雰囲気は重く澱んだものになっていた。

溜息をついた真姫に思わずそうぼやいたにこだが、彼女も溜息をつきたくなる気持ちはよくわかっていた。あまりにもいろんなことがありすぎたのだ。

 

ホラーという怪物の存在、それと戦う希と彩牙。

その話を聞いた時、にこは質の悪い冗談か何かと思った。いや、思いたかった。

だが瀕死になった希の姿、まるで獣の如くホラーに追い撃ちをかけていた彩牙の姿が頭に焼き付いて離れない。

あれを人知れず怪物と戦う英雄譚――などとは決して思えなかった。あんな恐怖を抱かせるようなものを英雄などと、どうして呼べようか。

 

「……凛ちゃんは、知ってたの?」

 

「うん、前に彩牙さんに助けてもらったことがあったんだ」

 

希ちゃんのことは知らなかったけど――そう続けて、凛は口を噤んだ。

以前レギオンから助けてもらった時、凛には彩牙の姿が勇敢な正義のヒーローのように見えていた。小さい頃に好きだったテレビのヒーローのようで、憧れを抱いた。

だが先日の彩牙の姿は違った。獣のように執拗な攻撃を加える彩牙の姿に抱いたのは恐怖のそれだった。

あれは本当に彩牙だったのか――そんなことさえ抱いていた。

 

「かよちんは……みんなは、彩牙さんのことどう思う?」

 

「ええと、その……」

 

「私は、あまり関わるべきじゃないと思うわ」

 

凛の問いに言い淀む花陽をよそに、はっきりとそう答えたのは真姫だった。

 

「あんな危険な真似をしている人に関わっていたら、私たちも巻き込まれかねないわ」

 

魔戒騎士とホラーの戦いに関わるべきではない――彩牙の事情を知ったあの日から、真姫はその考えを変えることはなかった。

それに真姫にとって彩牙は希を戦いに巻き込んだ張本人だ。それ故に彩牙に――魔戒騎士に対して良い印象を抱いていなかった。

 

「……そうね、私もそれには同感よ」

 

「にこちゃん……」

 

「それに、もっと考えなくちゃいけないことがあるでしょ」

 

そう言って話題を切り替えるにこ。

確かににこの言う通り、彼女たちにはもっと身近な、それでいて大きな問題を抱えていた。

 

「……μ’s、本当に活動休止になっちゃったんだよね……」

 

花陽の言う通り、μ’sはその活動を休止していた。

ホラーが現れたあの日の翌日、絵里は言ったのだ。μ’sは活動休止とすると。

ラブライブに出場しないどころか、活動そのものまでも休止にする。そのことを聞いた時、絵里に食ってかかりそうになったにこだったが、一方で心ではそうなってしまうことに納得している自分がいた。

 

お世辞にもあの時の――今のμ’sは一つになっているとは言えない。むしろバラバラになっていると言った方が当て嵌まっていた。

心が折れた穂乃果、それによって塞ぎ込みがちになった海未とことり、そして魔戒法師として足を遠ざけつつある希――これをバラバラになっていると言わずして何と言うのか。

 

こんな状況でμ’sの活動などできるものだろうか――

 

「穂乃果ちゃん、大丈夫なのかな……」

 

「……どうかしらね。海未の話じゃ相当自分を責めてるみたいだし」

 

 

 

 

 

 

「あの子、あの日からずっと学校に来てないみたいだしね」

 

 

 

**

 

 

 

「――穂乃果、起きていますか?」

 

――穂むら、その中にある高坂家の住まい。

その一角、穂乃果の部屋の前に海未の姿はあった。部屋の扉に向かって呼びかける彼女だが、中から返ってくるのは沈黙ばかりであり、返事はない。

「入りますよ」と断りを入れてから扉を開け、部屋に入る海未。

 

足を踏み入れた穂乃果の部屋は、彼女の記憶とは全く違う有様になっていた。

主の心を現したかのような陽光の差しこむ明るい部屋は、カーテンが閉め切れられ、薄暗く陰惨な雰囲気に包まれていた。また、漫画本などが散らかっていることがなく片付いてはいるが、そこから感じ取れるのは無気力さだけだった。

自らの記憶と180度変わってしまった幼馴染の部屋、薄暗い中で部屋の主を探して目を凝らしていると、ベッドの上にその姿はあった。

 

ベッドの上で丸くなり、蹲っている彼女の姿はとても弱々しいものに見えた。

髪は碌に手入れをしていないのかあちこちが跳ねて荒れており、健康的だった肌は暗い部屋に引きこもっていたせいか白くなってしまっていた。

そんな変わり果てた姿になった穂乃果を前にした海未は憂いげな表情を浮かべたが、明るく務めるようにして声をかけた。

 

「……穂乃果。今日の授業のノート、持ってきましたよ。休むにしても、勉強だけはしておかないとみんなに置いていかれますよ」

 

「……」

 

「ほら、そんなところで丸くなってないで、教えてあげますからこちらに来てください。大丈夫ですよ、いつかのように怒ったりはしません」

 

「………なんで、何度も来るの」

 

テーブルの上にノートを取り出していた海未はその手を止め、穂乃果に視線を移す。

蹲っていた顔を上げた穂乃果はやつれた目で海未を見ていた。その表情はどこまでも暗く、瞳には底知れぬ闇が広がっていた。

 

「穂乃果……」

 

「私が余計なことをしたからラブライブに出れなくなった上に、みんなも危険な目に遭ったんだよ。なのに……」

 

そう語る穂乃果の言葉には、いつもの快活さも覇気も感じられなかった。

ただ空虚だけが広がっていた。

 

「……放っておけるわけないじゃないですか、みんなもずっと心配してるんですよ」

 

「……心配なんて、する必要ないのに」

 

普段の穂乃果なら絶対に口にしないであろうその言葉に、海未は愕然とした。

他者からの心遣いを無下にするような言葉を、穂乃果が吐くわけがない。なのにそれを口にしてしまうということは、穂乃果の心はそれほどまでに追い詰められたということだった。

 

「……本気で言っているのですか?」

 

「……」

 

穂乃果は答えない。

無視されたことや皆の心配を無下にした態度に対する怒りは、不思議と湧いてこなかった。

それよりも――

 

「本当にμ’sも……何もかもやめてしまうのですか?」

 

怒りよりも――悲しみの方が大きかった。

 

「……何したって意味ないよ……私が何かしようとしたら、誰かが不幸になっちゃうし。それに――」

 

 

 

 

 

――もう、疲れちゃった。

 

 

 

**

 

 

 

「……私には、どうすれば」

 

穂むらから出てきた海未は、思わずそんな独り言を零していた。

今日も穂乃果を立ち直らせることはできなかった。

穂乃果が学校に来なくなってから毎日彼女の下を訪れていたが、一向に良くなる傾向は見られなかった。それどころか日に日に弱々しくなっているようにさえ見えた。

雪穂をはじめとした高坂家の家族も、突然閉じ籠るようになった穂乃果を立ち直らせようとしているようだが芳しくなかった。

「お姉ちゃんが引きこもってから家の空気が重い」とぼやいていた雪穂の言葉が強く心に残っていた。

 

……穂乃果はもう、立ち直れないのだろうか。

あるいは彼女の心はもう死んでしまっていて、立ち直るも何もその心がないのではないか――そんな不安さえも、海未の心に燻り始めていた。

もうできることは、何もないのだろうか――

 

 

 

「……海未ちゃん」

 

かけられたその言葉に、海未は意識を自分の内から目の前へと向けた。

視線を上げた先にいたのは、穂むらの向かい真正面にある塀によりかかるように立っていた少女――

 

「……ことり、来ていたのですね」

 

 

――南ことりの姿があった。

 

 

 

 

 

 

「……穂乃果ちゃん、どうだった?」

 

「……お世辞にも、良いとは言えません」

 

隣り合って帰り道に就いている海未とことり。

その道中でことりは穂乃果のことを尋ねるが、海未から返ってきた返事は芳しいものではなかった。

海未は穂乃果の様子を語った。酷くやつれていること、言動も以前の明るさはなく空虚なものばかりで完全に別人のように変わり果ててしまったこと。

話を一通り聞いたことりは顔を俯かせ、自責の念に駆られた。あの時、自分が穂乃果を叩いたりしなければこんなことにならなかったと。

 

「私が、あんなことしちゃったから……」

 

「……いいえ、そんなことはありません」

 

優しく諭すような海未の言葉に、ことりは驚いたように顔を上げた。

 

「きっとこうなることには変わりなかったのでしょう」

 

あの時、μ’sの皆に命の危険を招いてしまった穂乃果は、錯乱するほどの自責の念に駆られていた。いや、あれは最早自己否定と言っても過言ではない。

そこまで心が追い詰められた彼女に手を出していようとなかろうと、どんな言葉をかけていたとしても、今の状態に陥ることは避けられなかっただろう。

「それに」と続けて海未は口を開いた。

 

「あそこでことりが手を出していなくても、私が穂乃果を叩いていましたよ」

 

穂乃果が自己否定のあまり今までしてきたこと全てを否定した時、海未の頭は激情に支配されていた。

あの時ことりが一歩早く動いていなければ彼女を叩いていたのは海未だ。そうなれば海未がことりの立場になっていた。

そしてこうなることにも変わりはなかっただろう。そのことを語る海未は、自嘲するような笑みを浮かべていた。

 

 

「……それで、よかったのですか?穂乃果に会わなくて」

 

話題を切り替えるように、海未は内にあった疑問を口にした。

海未が穂むらから出てきた時、ことりは店の前にいた。だがその場にいるだけで店の中に――穂乃果に会おうとはしていなかった。

まるで会うことを躊躇っているかのように。

ことりの表情に影が差し、躊躇いがちに口を開いた。

 

「……穂乃果ちゃんにちゃんと謝らなきゃって思ったんだけど……怖くて……」

 

「怖い……ですか?」

 

「穂乃果ちゃんが何て言うのか……そのことを考えたら怖くなって……」

 

ことりは、今の穂乃果に会うのが怖かった。

変わり果てた穂乃果の姿を目の当たりにするだけではない。実際に穂乃果に会った時、彼女が何と言うのか――それを考えたら怖くなったのだ。

無論ことり自身、穂乃果が恨み言を口にするような人間ではないことは知っている。だが一度芽生えてしまった恐れとはそう簡単に消えるものではない。

それに今の穂乃果に何を言ってあげればいいのか――何度考えてもわからなかった。

 

「……大丈夫ですよ、ちゃんと穂乃果と話せる時がきっと来ますよ」

 

励ましの言葉を口にする海未。

そんな彼女の顔を横で見ながら、ことりは恐る恐る口にした。

彼女が抱いていた、もう一つの懸念を。

 

「……海未ちゃんは、大丈夫なの?」

 

「……確かに、穂乃果に何を言ってあげればいいのか、私にもわかりません。ですが――」

 

「彩牙くん、ずっと帰ってないんでしょ……?」

 

ことりの言葉に、海未の表情は固まった。

その様子に、海未はやせ我慢していたのだとことりは悟った。

 

「……それは……」

 

ことりの言葉に思わず口籠る海未。

彼女の言う通り、あの日から彩牙は家に帰っていなかった。

最初は魔戒騎士の仕事で空けているだけだと思った。だがいつまで経っても彩牙が帰ることはなかった。携帯に電話をかけても一度も出ることはなかったのだ。

希に聞いてもあれ以来会っていないらしく、彼女も彩牙の行方を知らなかった。

 

――彩牙くん。あなたはいま、どこにいるのですか……?

 

海未は彩牙のことが心配でならなかった。

彼の身だけではない、何かに思い悩んでいた彼の心も――

 

 

 

**

 

 

 

『――ウオォォォォォォォッ!!』

 

――夜道。

人っ子一人の気配もないその場所に、狼の咆哮が木霊していた。

その咆哮の主――黄金騎士ガロの目の前にあったのは、たった今彼の振るった牙狼剣によって両断されたホラーの姿があった。

真っ二つになったホラーは金切り声のような断末魔を上げ、醜く崩れていく。

それと同時にガロの鎧が解除され、彩牙の姿が露になる。

 

「っ、ぐっ……!」

 

それと同時に、膝をつく彩牙。

その額には幾つもの汗が浮かび上がり、肩で大きく息をしている。その姿はたった今ホラーを圧倒していたとは到底思えない姿だった。

そんな彩牙に、ザルバが呆れた様子で語りかける。

 

『小僧、剣の浄化もせずに無茶しすぎだ』

 

ザルバの言う通り、あの日以来彩牙は園田家に帰ることはおろか、番犬所にも訪れておらず、ただひたすらにホラーを狩り続けていた。

まるでこの街で戦い始めた頃のように剣の浄化を行わないまま狩り続けていたため、彼の身体に溜まった邪気は相当なものになり、その身を蝕んでいたのだ。

額に幾つもの汗を浮かばせ、肩で息をしているのもそのためだ。

 

「――ザルバ、俺に魔戒騎士である資格があると思うか?」

 

粗くなった息で途切れながら、彩牙が口を開いた。

 

『……お前、この間のことを気にしているのか』

 

「ザルバも見ただろう、コテツの師を殺した俺の記憶を。そんな男が騎士を名乗っていいのか」

 

彩牙がここまで自分を追い込んでいる理由には、闇法師によって引き出された自らの記憶にあった。

人間を殺めるという、魔戒騎士最大の罪を犯していた自分。そんな自分が騎士を名乗ることが許されるのかという自責の念が、邪気を溜めこむような戦いに走らせていた。

それでもホラーを狩り続けていたのはせめてもの償いのためか、それとも胸の内にあるいらだちをぶつけたいだけなのか――彩牙にもわからなかった。

 

『だから嬢ちゃんの所にも帰れないと、そう言うのか?』

 

「……ああ」

 

そしてそれ故に、海未の所にも帰れない。

こんな血に塗れた男が彼女の傍にいることはできない、あってはならないのだと。

彼女を守ることはしても、傍にいることは最早許されないと、そう考えていた。

 

 

 

 

「――よくわかってるじゃねえか」

 

「――ッ!!」

 

頭上からかけられたその声と同時に、浴びせられる殺気。

間髪入れずに振り下ろされた銀色の刃を避けた彩牙の視線の先には、一人の男がいた。

黒いコートを纏い、ブーメラン型の魔戒剣を手にした魔戒騎士――コテツの姿がそこにはあった。

 

「俺を斬りに来たのか……!」

 

「応ともよ、番犬所の許しも出た今……ここで引導を渡してやらぁっ!!」

 

話すことは最早何もないと言わんばかりに、即座に彩牙に襲い掛かるコテツ。

対する彩牙は魔戒剣を抜いてコテツを迎え撃ち、何度も剣を打ち合うが、彼に圧されつつあった。それは師の仇を前にしたコテツの勢いがそれほど凄まじいものであるが故だろう。

しかし、それだけではない。

 

――俺は……倒されるべきじゃないのか――?

 

彩牙の心には迷いが生じていたのだ。

自分は魔戒騎士に相応しいのか、ここでコテツに斬られるべきではないのか。少なくとも師を自分に殺された彼にはその権利があるのではないか。

そんな心に生じた隙が、彩牙の剣を鈍らせていた。

 

「オラァッ!!」

 

「グッ――!!」

 

そして、その結果はすぐに現れた。

コテツの一閃が、彩牙の魔戒剣を弾き飛ばしたのだ。

宙を舞い、地面に突き刺さる彩牙の魔戒剣。そしてがら空きとなった彩牙の身体にコテツの蹴りが叩き込まれる。

蹴り飛ばされ、地面を転がる彩牙。咳き込みながらも起き上がった彩牙の目に飛び込んできたのは、魔戒剣を振り下ろすコテツの姿だった。

 

「――ッ!!」

 

宙に舞う血飛沫。

それはコテツの魔戒剣によって斬り裂かれた彩牙の血だった。しかし彩牙を斬っていながらも、コテツの表情は苦々しげなものだった。

寸でのところで避けたことにより、肩を斬り裂くだけに終わったからだ。肉を深く裂いていながらも骨まで達してはいなかったのだ。

 

転がるように避けた彩牙は地面に落とした己の魔戒剣の下まで辿りつき、再び剣を手にした。斬り裂かれた肩から夥しい量の血を流す彩牙は、苦悶の表情を浮かべながらもコテツを睨みつけていた。

そんな彼を前にしたコテツは、今度こそ確実に仕留めんと再び構える。

その時――

 

「うおっ!?」

 

彩牙とコテツの間を遮るように現れた、紫色の光の壁。

突然現れたそれを前にしたコテツは一瞬たじろいだものの、すぐに魔戒剣を投擲した。しかしその刃は壁に弾かれ、その向こう側に届くことはなかった。

そうしている間に光の壁は宙に溶けるように消滅し、向こう側にあった彩牙の姿は跡形も無く消え、彼の流した血の跡だけが残っていた。

それを目にしたコテツは忌々しそうに舌打ちをした。

 

「くそっ……!」

 

彼の相棒たるゾルバは首に下がったまま、ぴくりとも口を開くことはなかった。

 

 

 

**

 

 

 

――ここではないどこか。

闇に包まれたその場所で、遠い場所での出来事を除いている者があった。

鏡を通してその者が覗いていたのは、二人の騎士が争う場面。復讐の炎を燃やす黒い騎士と、己が道を見失いかけている白い騎士。

黒い騎士の憎しみの刃が白い騎士を斬り裂こうとした時、第三者の乱入によって白い騎士はその場から逃れ、復讐心を燻らせる黒い騎士が取り残された。

 

第三者の横槍によって消化不良に終わった戦い。高みの見物をしていたその者にとって不満の残る結果となったはずなのに、その口元は僅かに吊り上がっていた。

まるでこうなることは予想の範疇だったと言うかのように。

 

「それでいい……怒りを、憎しみの炎を激しく燃え上がらせるのだ」

 

そう満足気に呟き、彼は鏡の向こうから姿を消した白い騎士へと意識を向ける。

その者にとってみれば、不満だったのは白い騎士の戦いぶりだ。

白い騎士の戦い方には覇気がない。憎しみの心はおろか、生きようとする気概もない。

“そうなるように仕向けた”ものの、これでは闇に染まるには物足りない。

 

「ふむ……彼女に協力を仰ぐとするか」

 

そう呟くと、鏡に映し出された映像が黒い騎士の姿から切り替わる。

そうして代わりに映されたのは青味のある黒髪を持つ少女――

 

 

 

 

――園田海未の姿があった。

 

 

 

**

 

 

 

――ファストフード店

 

「えっ……!? 今、なんて……?」

 

にこに呼び出された花陽と凛は、彼女の持ちかけた話を受けて驚いたようにそう呟いた。

 

「話した通りよ。真姫には断られちゃったんだけどね」

 

彼女の話に困惑を隠せない花陽と凛を、にこは真剣な表情で見つめていた。

そして深く息を吸い込むと、彼女たちに話した内容をもう一度口にした。

それに対する決意を新たにするように――

 

 

 

「アイドル、一緒に続けない?」

 

 

 

***

 

 

 

ザルバ「人付き合いが面倒と考えたことはあるか?」

 

ザルバ「確かに気を遣ったり厄介事を押し付けられたりと、面倒なことは多い」

 

ザルバ「だがそうやって蔑ろにする奴ほど、後で痛い目を見るんだぜ」

 

 

ザルバ「次回、『迷走』!」

 

 

 

ザルバ「人間ってやつは独りじゃ生きられないのさ」

 

 

 

 






魔戒指南「本日休業」




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第18話  迷走

みなさん、お久しぶりです。約5か月ぶりの更新になります。
・・・・うん。自分でも待たせすぎだなーと思います。
ホント申し訳ない。お詫びにレディ・ヴィオラのご参拝権利を・・・アッチョッナグラナイデ

また、活動報告にて、とあるキャラの名前について報告しております。
よければそちらもご一読お願いします。


 

 

 

 

 

 

 

――希の家。

マンションの一部屋にある、彼女の住まい。

かつては両親と共に暮らし、今は親元を離れて一人暮らしをしているその部屋に、二つの人影があった。

 

「彩牙くん、大丈夫……!?」

 

希と、彼女に支えられている彩牙だった。

夥しい血を流し続けて意識が朦朧としている彩牙を肩で支え、希は血で部屋が汚れることを厭わずに進んでいく。

 

「えと、こんな時は……!」

 

『落ち着け、俺様が手筈を教えてやる』

 

ベッドの上に彩牙の身体を横たわらせると、辛うじて覚えていた知識を総動員して手当てを行っていく。血を拭き、消毒し、傷口をガーゼで塞いで包帯を巻いていく。

その手つきはやや拙いものではあったが、ザルバの助言のお陰もあり、希は無事手当てを終えることができた。

 

『これで大丈夫だろう。ちと血を流し過ぎたが少し安静にしていればすぐに回復する』

 

ザルバの言葉にほっと一息つく希。

だがその一方で、彼女の脳裏にはある焦りがあった。

 

――番犬所に、思いっきり背いちゃったやんね。

 

彩牙を捕らえよという、番犬所の命に背いたことだ。

彩牙を助ける際に顔は見られなかったが、あの術で下手人が希であることは完全にばれているだろう。当然、コテツから番犬所に報告が行く筈だ。

そうなれば希も晴れて彩牙と同じ反逆者の仲間入りである。そうなれば番犬所には最早二人の望みを――海未の存命を叶える道理はない。

だがそれでも、希は彩牙を助けずにはいられなかった。

 

「……ぅ……希……?」

 

「っ、彩牙くん!気が付いたん!?」

 

その時、彩牙が目を覚ましたのだった。

おぼろげな目で辺りを見回し、希の姿を目にした彼は意識を失う寸前に何があったのかを理解した。

希に助けられた――言葉にすればそれまでだが、それが何を意味するのかも彩牙は理解していた。

 

「……どうして助けたんだ。俺は番犬所からも追われている身なんだぞ……?」

 

コテツの言葉が正しければ、彩牙は番犬所からも追われる身になっている筈なのだ。コテツの師を殺害した容疑者として。

そんな彼を捕まえるのではなく助けるような真似をすれば、希も番犬所から追われる身になってしまうはずだ。

それなのに、何故――?

 

「だってウチと彩牙くんはお友達やん。ウチ、友達を見捨てるような趣味はないんよ?」

 

彩牙の疑問に、希は穏やかな笑顔でそう告げた。

穏やかな表情と声色からは、その言葉が彼女の嘘偽りのない本心であることが窺い知れた。

例えどんなことになろうとも、希には友を見捨てるような真似だけはできないのだ。

 

「だが俺は……!」

 

「ほらほら、まずはちゃんと休まへんと。疲れきった体じゃなんにももできへんよ?」

 

尚も自らの危険性を伝え、起き上がろうとする彩牙に対し、穏やかながらも有無を言わせぬ口調で再びベッドに横たわらせる希。

彼女の言う通り彩牙の身体は衰弱しきっており、肉体面では彼に遠く及ばない希の力に碌な抵抗もできず、為す術なくベッドに押し戻されてしまっていた。

それと同時に休息を求めている肉体が限界を迎えたのだろう。抗えない程の睡魔が彩牙に襲い掛かる。

 

徐々に意識が薄れていく中、彼の脳裏には海未のことが浮かび上がった。

彼女はどうしているのだろうか。

ホラーに襲われてはいないだろうか。

自分のことをどう思っているのか――人殺しと知っても自分を信じてくれるのか、それとも恐れを抱いて拒絶するのか。

そんな不安にも似た思いを抱いたまま、彩牙の意識は沈んでいった。

 

 

 

「……さて、これからどうしようかな」

 

彩牙が眠りに就いたのを確認した希は、これからのことに考えを巡らせる。

自分も彩牙に続いて番犬所に歯向かってしまった今、いつ海未が斬られてしまっても可笑しくはない。それどころか返り血の匂いに誘われてホラーに襲われることすら十分にあり得る。

それだけは防がなくてはならない。何が何でも海未を――友達を守らなくてはならない。

彩牙が倒れている間、皆を守れるのは自分だけなのだから――

 

 

 

『まったく、無茶しやがる』

 

「……そうやね。彩牙くん、意地っ張りなんやから」

 

『そいつはお前さんもだぜ、嬢ちゃん』

 

「ウチも……?」

 

『大方、学校の仲間と上手くいってないんだろう。見ればわかるぜ』

 

ザルバの言葉に、希は声を詰まらせた。

ザルバの言う通り、あれから希はμ’sのメンバーたちと上手くいっていなかった。

穂乃果が塞ぎ込んでしまったことも一因ではあるが、やはり一番の原因は自分が魔戒法師であることが明かされたからだ。命の危機と隣り合わせであるホラーとの戦いに恐怖を抱かれ、それに関わることを責められたのだ。

それ故に事情を知っていた海未はともかく、真姫や絵里、にこを筆頭に彼女たちとの間にはギクシャクとした関係が続いていた。

 

 

自分と向き合う――

それは彩牙に限った話ではない。

希と、そして彼女たちにも――

 

 

 

**

 

 

 

「――くそっ!!」

 

――都内某所、コテツの寝床

 

適当な廃墟を利用したその場所に、苛立たしげに缶を蹴り飛ばすコテツの姿があった。

蹴り飛ばされた缶の金属音が辺りに響く中、コテツの表情と心は憤りに満ち溢れていた。

仇である彩牙を取り逃してしまったことだけではない、それを魔戒法師である希に邪魔されてしまったからだ。姿を見てはいなかったが、あの防壁を使えるのは彼女しかいない。

どこまでいっても仇討ちに邪魔が入る――その現実に怒りを抱いていた。

 

「――ゾルバ、お前もお前で、なんで喋らないんだ」

 

そして、彼の苛立ちの理由はもう一つあった。

コテツの相棒たる魔導具ゾルバ。彼がまったく口を開かなくなってしまったのだ。

会話はおろか、叩いても呻き声一つ上げなくなってしまった相棒の姿に、コテツは今一度思考を巡らせる。

 

ゾルバが喋らなくなったのは――確か、“彩牙が仇だと確信した頃”だっただろうか。

前触れもなく、あの頃に突然全く喋らなくなったことを覚えている。

あの時は普通に話せていた筈なのだ、師匠の仇を討つことについて――

 

 

――ん?待てよ……?

 

そこまで考えて、コテツの中に疑問が生じた。

そういえば、自分はあの頃に彩牙が仇であると確信した。それは間違いない。

しかし――仇だと確信を抱いた“根拠は何だったのだろうか”?

彩牙を疑った根拠は、魔導具に残された映像にガロに似たシルエットが映っていたからだ。

しかし何故なのか、仇だと確信を得た根拠が何だったのかどうしても思い出せない。靄がかかっているというより、ぽっかりと穴が開いてしまっている感覚だ。

 

まるで、最初からなかったかのような――

 

 

 

 

 

 

「――先程は惜しかったな」

 

そんな思考を遮る声が響き、コテツは声の主へと振り返った。

いつからそこにいたのだろうか、その視線の先には一人の男――闇法師が闇の中に佇んでいた。

闇に魂を売り、ホラーを呼び寄せる外道を前に、コテツは魔戒剣を突きつけ、鋭い眼光で睨みつける。

 

「……何の用だテメェ。俺は今虫の居所が悪いんだ、怪我どころじゃ済まさねえぞ」

 

「そうだな……あの法師がいなければ黄金騎士を討てたのだ、無理もなかろう」

 

「……テメェ……!言っただろ、虫の居所が悪いってな!!」

 

煽るような闇法師の言葉に激昂するコテツ。

事実、あそこで希の介入がなければ彩牙を仕留めることができたのだ。そのことを悔やみ、憤っている中、闇法師の言葉は彼の中の導火線に火をつけるには十分すぎた。

激情に任せるまま、魔戒剣を投擲するコテツ。回転しながら飛翔する魔戒剣はまっすぐと闇法師に向かっていき、闇法師を斬り裂かんとする。

 

だが闇法師は動じることなく、魔導筆を取り出すと、その先端に闇色の光を灯らせる。

それを前に突き出した瞬間、闇色の衝撃波が発せられ、向かってきていた魔戒剣ごとコテツの身体を吹き飛ばした。

 

「うおおぉぉぉぉぉぉっ!?」

 

吹き飛ばされ、壁に叩きつけられるコテツ。

同時に魔戒剣も虚しく地に落ち、乾いた音を響かせる。

背中に走る衝撃に表情を歪ませ、顔を上げた先にはいつの間にか距離を詰め、彼を見下ろす闇法師の姿があった。

そしてそのまま追撃を加える――かと思いきや、懐から一枚の符を取り出すとコテツに差し出し、背を向けるのだった。

 

「何のつもりだ……!」

 

「餞別だよ。近いうちに黄金騎士を誘い込む手筈を整える。その招待券だ」

 

「ふざけんじゃねえ!! なんでテメェがそんなことをする……!」

 

コテツの疑問も最もだ。

彼らは魔戒騎士と闇に堕ちた法師、敵同士だ。そんな闇法師が自分を見逃し、あまつさえ手助けをするなど信じられる訳がなかったのだ。

しかしそんな疑問を前に、闇法師はさも当たり前のように口を開いた。

 

「復讐は果たされて然るべきだ。手を貸さない理由がどこにある?」

 

「―――!」

 

真顔になり、言葉を失うコテツ。

だがすぐに苦虫を噛み潰したような表情を浮かべ、吐き捨てるように口を開く。

 

「……ふざけんな、テメェみたいな堕ちた奴の手なんか借りるか……!」

 

「ふむ……まあ好きにするといい。用意が整えば符が光るのでな、気が変わったら使うといい」

 

そう言い残し、闇法師は闇の中へと消えていく。

一人残されたコテツは、手渡された符を複雑な表情で見つめ、その心境を表すかのようにくしゃりと握りしめるのだった。

 

 

 

 

何も応えないゾルバ。

その目が一瞬、赤く、怪しく光ったことに、コテツは気づかなかった。

 

 

 

**

 

 

 

「……」

 

「……えりち、こっちの書類纏めたよ」

 

「ありがと、希」

 

――音ノ木坂学院、生徒会室

そこには生徒会の仕事を進める、絵里と希の姿があった。

会話もそこそこに、黙々と仕事をこなす二人。そこに以前までの仲睦まじい様子はなく、第三者から見れば気まずい空気が流れていた。

あの日から――μ’sが崩壊した日から絵里と希の間には以前のそれが嘘のように、会話がめっきりなくなってしまっていたのだ。

それはμ’sの活動が無くなったことだけではない。希が魔戒法師としてホラーと戦っているという事実を前に、壁が生じてしまっていたからだ。

 

――ねえ、希。あなたは本当にそこにいるのかしら……?

 

絵里は希にどう接すればいいのかわからなくなっていた。

親友が知らない間に非日常の世界に身を投じていたという事実が、彼女を戸惑わせていたのだ。

希はもう自分の知っている希ではないのか、どうして一言も相談してくれなかったのか、こちらに戻ってきてはくれないのか。そんな考えが何度も頭の中を駆け巡り、彼女から言葉を奪っていく。

すぐ近くにいるのにその心は遥か遠くに離れている――そんな錯覚さえも抱いていた。

 

 

「――失礼します」

 

「あら、海未?」

 

そんな時、生徒会室に一人の客が訪れた。

――海未だ。普段一緒にいる穂乃果とことりの姿はなく、一人で生徒会室を訪れた彼女は希に視線を向け、口を開いた。

 

「実は……希に話がありまして……」

 

「ウチに?」

 

「ええ。それでその、申し訳ないのですが……」

 

顔色を窺うかのように、絵里へ視線を向ける海未。

申し訳なさそうなその目に、何を言いたいのかを絵里と希は察した。

――二人きりで話したい。そしてその内容も、何となくだが察することができた。

希と二人きりで話したいことなど、一つしか考えられない。

 

「……いいわ、行ってあげて。残りは私だけでも大丈夫だから」

 

「えりち……うん、わかったよ」

 

絵里の言葉を受け、戸惑うような表情を浮かべながら海未と共に生徒会室を後にする希。

その背を見つめる絵里の胸中には複雑な思いが浮かんでいた。

生徒会室を後にする希の姿が、まるで自分たちの知らない世界に去っていくように見えたのだ。

そう、ホラーと戦う闇の世界に――

 

 

「絵里、いるー?」

 

その時、彼女たちと入れ替わるようににこが足を踏み入れた。

生徒会室に入る前に海未と希の姿を見たのか、絵里に呼びかけていながらもその視線と意識は彼女たちが去った方に向けられていた。

 

「……今の、希と海未?」

 

「ええ、海未から話があるんですって」

 

「……ふぅん」

 

そう呟くにこの表情には、怒っているような哀しんでいるような、複雑な感情が見えていた。

きっと、彼女も絵里と同じなのだ。友である希が闇の世界に足を踏み入れ、自分たちの下から離れていくように感じたのだ。

そしてそんな希に対し、自分たちはどうすればいいのかわからないもどかしさも……。

 

「……それよりどうしたの?何か用があってきたんでしょ?」

 

「っと……そうだったわね」

 

そんな考えを振り払うように、明るく務めて声をかける絵里。

その声ににこも気を取り直したのか、カーディガンのポケットに手を突っ込みながら口を開いた。

 

「講堂の使用許可が欲しいのよ」

 

そう言ってポケットから取り出した一枚の紙を、絵里の前に差し出すにこ。

その言葉の意味することに呆気にとられた絵里は、すぐさま慌てるように差し出された紙に目を通した。

それは確かに講堂の使用許可を求める申請書類であり、申請者の欄には『音ノ木坂スクールアイドル』の文字が、使用者名簿の中にはにこの他に花陽と凛の名前があった。

それに一通り目を通した絵里は愕然とした表情で、にこに視線を戻した。

 

「にこ……あなた、これ……!」

 

「μ’sは活動休止になったかもしれないけど、スクールアイドルそのものは禁止になったわけじゃないでしょ?ダメなんて言わせないわよ」

 

毅然として語るにこを前に、絵里は呆気にとられた。

確かに彼女の言うことには一理ある。スクールアイドルそのものを禁止したわけではないのだから、彼女がμ’s以外のスクールアイドルを始めることは何もおかしくはない。

――それ故に、絵里の脳裏には一つの疑問が浮かび上がった。

 

「……一つ聞いていい?」

 

「なによ?」

 

「こんなことになってまで、どうしてアイドルを続けようと思えるの?」

 

穂乃果の心が折れ、希との間に深い溝が生まれた今。彼女たちという二柱を失ったμ’sは瓦解し、ギクシャクとした空気が続いている。

そんな中、形を変えてでもアイドルを続けようとするにこ。

彼女のその情熱は一体どこから来るのだろう。何が彼女をそこまで突き動かすのだろう。

絵里はそれが不思議でならなかった。

 

にこはそんな絵里と改めて向き合い、その目をまっすぐに見つめると口を開いた。

 

 

「好きだからよ」

 

短いながらもはっきりと芯の通った声。

一片の迷いもなく放たれたその言葉は「好きだから」という、言ってしまえば単純なモノ。だが単純であるが故に、その言葉には力強い意志が宿っていた。

 

「にこはアイドルが大好きなの。一生懸命で、みんなに笑顔を届けて、また明日から頑張ろうって気持ちにさせてくれるアイドルが大好きなの」

 

アイドルが好き。

それだけの理由で――いや、それだからこそ、にこはここまで強い情熱を持てるのだ。

一度は挫折を経験しながらもアイドルへの情熱を絶やすことがなかったのは好きであるからこそ。形を変えてもアイドルを続けようとするのは好きだからこそ。

好きだからこそ、転んでもまた立ち上がれる――そんなにこがとても眩しく見え、絵里の胸中に羨望に近い感情が沸き上がった。

 

「あんたはどうなの」

 

「え?」

 

「あんたは、どうしてアイドルを始めたの?」

 

そう問われた絵里は考えを巡らせる。

自分がアイドルを始めたのは……学校が好きだから、学校を守りたかったから。

……でも、それだけだったのだろうか?もっと何か、根底に何かあったはずだ。

何か――

 

 

 

 

――やってみたいからやる。本当にやりたいことってそうやって始まるもんやない?

 

 

――そうだ。

やりたかったからだ。

ひたむきで、楽しそうな穂乃果たちの姿を見て、羨ましくて、自分もやってみたいと思ったから。楽しくなりたいと思ったから。

自分がアイドルを始めたのも、そんな単純な理由からだった。

 

でもその気持ちに見ないふりをして、義務感だけが強くなっていた。

そんな自分に素直になれるよう、正面から言葉をぶつけてくれた親友がいた。手を差し伸べてくれた仲間がいた。

そんな恩人とも言える二人は今、苦しんでいる。

一人は、抱えている事情を受け止めきれず、彼女自身から目を逸らしてしまっている。一人は自責の念に駆られ、心が押し潰されている。

……これでいいのだろうか?

 

 

――いいえ、いい筈がないわ……!

 

「……にこ、悪いけど許可できないわ」

 

「はぁ!? なんでよ?」

 

怪訝な表情を浮かべ、不満げに見つめるにこ。

彼女の気持ちもわかるが、今この申請を認めるわけにはいかないのだ。

なぜなら――

 

 

 

「――名前、これだけじゃ足りないもの」

 

 

 

**

 

 

 

――希の部屋

主が不在のマンションの一室にて、希に介抱された彩牙は一人、片手腕立て伏せをしていた。

鍛錬を行う彼の肌に幾つもの汗が浮かんでは、床を汚さぬように敷いたダンボールの上に落ちていき、換気のために開けた窓から入り込む風が火照りつつあるその身体を冷やしていく。

そんな彼をテーブルの上から見つめるザルバは目を細めながらも、口を開かずにいた。

 

強靭な肉体で早く治癒しつつあるとしても、仮にも深手を負った身体で快復前にこのような負担をかけることなど、本来は避けるべきだろう。

だが彩牙は、やらずにはいられなかった。身体を苛め抜き、無心になりたかったのだ。

自身の過去……罪のこと、海未のこと、魔戒騎士としての資格。ベッドの上でじっとしていると、余計なことを考えてしまいそうだった。

一時的な逃げでしかないとしても、そうせずにはいられなかった。

 

 

――ガチャリ

 

「……む……」

 

『帰ってきたようだな』

 

玄関から鍵の開く音が聞こえてきた。

この部屋の主が――希が帰ってきたのだ。

汗を拭き、インナーを着込むと同時にリビングの扉が開かれた。

 

「ただいま……って、彩牙くん、もしかして治りきってないのにまた筋トレしてたんと違うん?」

 

「ああ。でも換気はしていたし、床も汚さないようにしてたから問題はないさ」

 

「そういう問題じゃないんよ……」

 

勘が鋭い希は、リビングに入った瞬間に彩牙が鍛錬していたことに気付いた。

彩牙のどこかズレた言葉――本心を誤魔化すための意図的なものだが――に呆れた表情を浮かべる希は、不満げに口を開いた。

 

「せっかくお客さんを連れてきたのに、それじゃ余計に心配かけさせてしまうやん」

 

「……客?」

 

希の言葉に疑問符を浮かべる彩牙。

希が自身の身体を横にずらすと、そこには彼女の背に隠れるように一人の客人がいた。

その姿を見て、彩牙の表情は驚愕に染まった。

何故ならそこにいた客人とは、忘れようにも忘れられない、彼が最も守りたいと思い、そして自身の過去故に身を離れた人物――

 

 

「……海未……?」

 

「……お久しぶりですね、彩牙くん」

 

園田海未だったのだから――

 

 

 

 

 

 

「それじゃあ二人とも、ゆっくり話したってな」

 

彩牙と海未の前に紅茶の入ったティーカップを差し出し、そう言い残して自室へと引っ込んでいく希。

そしてリビングにはテーブルを挟んで彩牙と海未だけが残された。

数日ぶりに向き合う二人だがその間に漂うのは再会の喜びではなく、戸惑いによるぎこちなさだった。

 

「……希の所に、いたのですね」

 

「ああ、危ないところを助けられてな……希に聞いたのか」

 

「はい、彼女なら何か知っているかと思って……まさか一緒にいたとは思いませんでしたが……」

 

「……そうか……」

 

「……」

 

それっきり会話が続かず、二人は黙り込んでしまった。

――言葉が続かない。お互いに聞きたいことが、かける言葉があったはずなのにそれが出てこない。

いざ目の前にすると、言葉を上手く形にすることができなかった。沈黙が続く中、ようやく先に口を開くことができたのは海未だった。

 

「……彩牙くん、何か悩み事があったのではないですか?」

 

戸惑いがちに問いかけたのは、彩牙が抱えているかもしれない“何か”に関する問いかけだった。

彩牙が姿を消す数日前から感じ取っていた違和感。“何か”に思い悩む彼の姿に、助けになりたいとあの頃から思っていた。

穂乃果の心が折れたあの日も、希からそのことについて話を聞こうとしていたが、直後に起きた事件によって今まで聞けずにいた。

 

「……いや、そんなことはない。俺は――」

 

「だったら! どうして急にいなくなったんですか……!?」

 

彩牙の言葉を遮るように、声を荒げる海未。

テーブルがガタンと揺れ、カップの中身が波打ち、驚きの表情を浮かべる彩牙。

そこには瞳を潤ませている海未の姿があった。

 

「ひょっとしたら初めて会った時みたいになってるかもしれないって……どれだけ心配したと、思ってるんですか……!」

 

「海未……」

 

穂乃果の心が潰れ、これまで壊れることのなかった幼馴染三人の仲が大きく崩れた上、μ’sが瓦解してしまって皆との絆が崩れてしまった。

そんな中、突然姿を消してしまった彩牙。いくら気丈に振る舞っていようとも、その心中には不安が積み重なり、彩牙と対面したことでついにそれが決壊してしまったのだ。

そんな海未を前に、彩牙は静かに口を開いた。

 

「……すまない。俺は……」

 

一度そこで言葉を区切り、深く息を吸うと決意したように口を開いた。

 

「……俺には、資格がないんだ」

 

「資格……?」

 

「魔戒騎士としての資格が……俺にはない」

 

意を決したように話した彩牙の言葉を、海未はよく理解できなかった。

魔戒騎士の資格がないとは、どういうことなのだろうか。

海未の知る限り、彩牙は幾度も人々をホラーから守ってきたはずだ。自分も何度か助けてもらったし、この間だってμ’sの皆を助けてくれた。

確かにあの時の彩牙は恐ろしく感じるほど鬼気迫るものがあり、特に真姫やにこに至っては拒否感すら抱いていたが、それだけで資格がないと思うものだろうか……?

 

「わかりません……彩牙くんはこれまで私たちを守ってきてくれたじゃないですか。それなのに資格がないなんて……」

 

「人を殺していてもか?」

 

――え?

海未は今、彩牙が何を言ったのか理解できなかった。

人を殺した?誰が?――彩牙が?

 

「昔の記憶を少し思い出したんだ。そこで俺は、この手で人を……!」

 

そう語りながら険しい表情を浮かべ、自分を戒めるように血が滲む勢いで拳を握りしめる彩牙。

そんな彩牙を前に、海未は彼の言葉を理解できなかった。

――いや、正確には理解できないのではなく、それを受け入れることができなかったのだ。

彩牙が人を殺したなど、そんなことが――!

 

「……嘘、ですよね? だって、あなたはそんな人じゃ――!」

 

「嘘じゃない!! ……本当なんだ……!」

 

思わす声を荒げ、海未の言葉を遮る彩牙。奇しくも先程とは真逆の光景だった。

苦々しく表情を歪め、くるりと背中を向ける彩牙の姿に、海未はかける言葉が見つからなかった。

彼の抱える悩みの――苦しみの支えになりたいと、そう誓ったはずなのに。その実態を前に気圧され、何もできない自分が情けなく思った。

穂乃果の時と同じように――

 

「……わかっただろう?俺はもう、君と一緒にいない方がいい」

 

絞り出すように口にする彩牙を前に、海未は何も言うことができなかった。

 

 

 

 

 

 

「……本当に、これでよかったん?」

 

憂いのある表情を浮かべ、手付かずのティーカップを片付けながら語りかける希。

対する彩牙はマンションを後にする海未の姿を窓から見下ろしながら口を開いた。

 

「……ああ。人殺しの俺に、彼女といる資格はない」

 

「そんなことあらへんよ!彩牙くんは人殺しなんてする人やない! それに海未ちゃんの気持ちだって――」

 

「なら俺のこの記憶は何なんだ……!なぜ人を殺した光景が浮かび上がる……!」

 

「それは……」

 

思わず言葉に詰まる希。

オルトスから話を聞かされた時から、彼女は彩牙が人を殺めたということは信じていなかった。きっと何かの誤解なのだと、そう思っていた。

だが今、こうして彩牙と対面して、蘇った記憶に悩み苦しむ彼の姿を前にして、その思いは揺らぎ始めていた。

もしや本当に、記憶を失う前の彩牙は人を殺めてしまったのか――その考えを打ち払うように首を振り、話題を切り替えるように口を開いた。

 

「……これからどうするつもりなん?」

 

「……さあな……」

 

そう語る彩牙の背中は、どこまでも孤独なように見えていた。

だが希は、かける言葉が見つからない。彩牙を信じるという思いに疑いを抱いてしまった今、どんな言葉をかけてあげればいいのかわからなくなっていた。

 

 

 

**

 

 

 

「……それで?話って何?」

 

――いつものファストフード店。

そのテーブルの一つでドリンクを手に、訝しげに呟いたのは真姫だった。

そんな彼女とテーブルを挟んで向き合うのは凛と花陽。真姫に話があると呼び出した二人だったが、ドリンク片手に言い澱んでいるようだった。

 

「もしかしてアイドルの話? 前にも断ったけど私は――」

 

「ううん、違うの。そのことじゃないの」

 

真姫の言葉を否定しつつも、言葉にするのを迷っている様子の凛。

花陽が心配そうに見つめる中、しかし覚悟を決めたのか、手にしていたドリンクを一気に飲み干すとその勢いに任せるように口を開いた。

 

「凛ね、あれからもう一度考えたんだ。……希ちゃんや彩牙さん、魔戒騎士のことを」

 

その言葉に、真姫の眉がピクリと反応した。

彼女にとってその話題はあまり聞きたくないものだったからだ。

 

「真姫ちゃんやにこちゃんは彩牙さんに関わらない方がいいって言ってけどね、やっぱり凛にはそう思えないんだ」

 

「……それは何? 助けてもらった義理?」

 

「……うん、それもあるよ。彩牙さんが来なかったら凛も海未ちゃんもあの時、死んじゃってたかもしれないもん」

 

あの時――レギオンに攫われた時や、カミラに襲われた時、彩牙が助けに入らなければ彼女たちはこの世にいなかっただろう。そのことに恩義を感じている部分は確かにある。

でも、それだけではない。

 

「でもね、凛は思うんだ。凛たちを助けてくれた彩牙さんや希ちゃんは、一体誰が助けてくれるんだろう、誰が守ってくれるんだろうって」

 

独りで生きていられる人間などいない。

凛も花陽も、そして真姫も、誰かに助けられ、守られることで生きている。

しかし、人々をホラーから守る彩牙は、そして希は、一体誰が守ってくれるというのか。

自分たちを守ってくれる彼らが誰からも守られないというのは、あんまりな話ではないのか。

 

「だから凛は彩牙さんのことを嫌いになれないし、希ちゃんだって助けてあげなきゃって思うよ!今の希ちゃん、きっと寂しい思いしてるもん!」

 

あの日以来、希が楽しそうな表情をしているところを凛は見たことがない。

魔戒法師として戦っていることが明かされ、受け入れられず、メンバーとすれ違う希はどこか悲しげな雰囲気を纏っていた。

そんな姿を見続けるのは我慢ならなかった。友達がこれ以上苦しむ姿を見せつけられるのは嫌だったのだ。

 

「……わ、私も……凛ちゃんの言う通りだと思う。彩牙さんのこと、怖いって思っちゃったけど私たちを助けてくれようとしたわけだし、希ちゃんの選んだことも受け入れてあげなきゃって思うよ!」

 

凛に追従するように、花陽も自分の意見を――彩牙と希を受け入れるべきという意志を顕わにした。

元来心優しい花陽には、誰かを拒絶するなどということはできなかった。それが自分たちを助けてくれた相手や、大事な友達であるのなら尚更だ。

それに加えて、ホラーと戦う道を選んだ希が自分と重なって見えたからだ。勇気を出してμ’sに入る道を選んだ自分と、あの時自分の背中を押してくれた凛と真姫のように、彼女が選んだ道を受け入れてあげたいと思ったのだ。

 

そんな二人を前に、視線を落とした真姫は静かに口を開いた。

 

「……彩牙さんには関わるべきじゃない。私はこの考えを曲げるつもりはないわ」

 

それに対する真姫の答えは、無情にも変わることはなかった。

そう簡単に考えを変えることはできない。本心では友達思いだからこそ、危険な戦いを続ける彩牙には関わるべきではない。それだけは譲れない。

悲しげな表情を浮かべる二人の視線を浴びながら、「でも」と呟いた真姫は再び口を開いた。

 

 

「……希のこと、認めてあげなくちゃいけないのかもね」

 

「真姫ちゃん……!」

 

その言葉に、凛と花陽の表情は花が咲いたように明るくなった。

正直なところ、納得しきれている訳ではない。希にはすぐにでも戦いから身を引いてもらいたいというのが本音だ。

だけど希は既にホラーと戦う道を選んだのだ。おっとりしているように見えて、自分の選んだ答えは簡単には曲げない強かさを知っている。その反面で人との繋がりを誰よりも強く求め、その繋がりを守りたいと思っていることを真姫は知っている。“誰かさん”と同じ、面倒くさい人間であることを。

だからこそ、そんな希を自分たちが守ってあげなくてはいけないのだ。人一倍繋がりを求める彼女から、それを奪ってはいけないのだ。

 

納得できなくても、受け入れきれなくても、認められずに突き放してしまえば、きっと希は孤独に押し潰されてしまう。

大事な友達をそんな目に遭わせるわけにはいかなかった。

それに、穂乃果も――

 

 

「……あら?」

 

「絵里ちゃんと……にこちゃんから?」

 

その時、三人同時にスマートフォンが震えだした。

何事かと取り出してみると、そこに映し出されたのは以前も使ったボイスチャットの着信。絵里とにこからの呼び出しだった。

互いに顔を見合わせ、三人はボイスチャットのアプリを起動し、その着信に応じた。

 

 

 

**

 

 

 

「――そこまで」

 

――早朝、園田家の道場。

日舞の稽古の最中、手を叩いて海未の演舞を止める母。

だがその目は普段の厳しくも優しさを秘めたものとは違い、心の内を射抜くような鋭さが表れていた。

そんな視線を浴びながら海未は母の前に座り、俯きながら母の言葉を待った。

 

「海未さん、舞に精細さが欠けています。心に雑念があるようですね」

 

「……はい、申し訳ございません。私は――」

 

「――彩牙さんと穂乃果さんのことで悩んでいるのではなくて?」

 

自らの言葉を遮るように放たれたその言葉に、海未は思わず目を見開いて母を見つめた。

対する母は一片たりとも動じることなく、先程からと同じ心を射抜くような視線で静かに海未を見据えていた。

話してごらんなさい。と口にすることなく目で語りかける母に、海未は少しずつ口を開き始めた。

 

「……わからなくなってしまったのです」

 

神父に懺悔する信者のように、海未はゆっくりと語り始めた。

己の過去に直面し、アイデンティティを見失って悩み彷徨う彩牙と、己が招いてしまった事態に絶望し、心が潰れてしまった穂乃果。

苦悩と絶望の淵に立たされた大切な二人に何と言ってあげればいいのか、何をしてあげればいいのかわからなくなってしまったことを。

 

二人が抱える苦しみを理解しているからこそ、下手な励ましができなくなっていたのだ。

人を守ることを誇りにしていた彩牙の姿を知っていたからこそ、人を殺めたという記憶に苦しむ彼の苦悩を理解していた。自らが見出した夢を原動力に突き進んでいた穂乃果の姿を知っていたからこそ、その夢が原因で惨劇を招いてしまった彼女の絶望を知っていた。

もし自分が彼らの立場にあったら――そう考えただけで背筋が凍る感触を抱いたからこそ、海未はどうすればいいのかわからなくなっていた。

 

「――海未さん」

 

そんな思いを抱く海未の告白を、母は静かに受け止めた。

大事な友を救うための道を見失ってしまったという海未の前で、彼女はそう呟いて一呼吸入れると静かに、それでいて芯の通った声色で口を開いた。

 

 

 

「本当は、どうしたいかなんて決まっているのでしょう?」

 

その言葉に、海未は驚きの表情で母を見つめ返した。

母は穏やかな声と表情を崩さぬまま、言葉を続けた。

 

「お二人にかける言葉が見つからないのではなく、かけたい言葉はあるけどそれがお二人の助けになるのかわからない――違いますか?」

 

その言葉に、海未は息を呑んだ。

――図星だった。

そうだ。本当は言いたいことがあった。言ってあげたい言葉があった。

だけどそれが本当に二人のためになるのか、かつての彩牙の時のように逆に追い込んでしまうのではないか。

海未はそれを恐れていた。

 

「――大丈夫ですよ」

 

そんな海未の不安を打ち消すように、母は穏やかな微笑みを浮かべた。

 

「あなたは人を一番に思いやることのできる優しい子です。例え言葉が厳しいものであったとしても、そんなあなたの想いが相手に届かないことなどありません」

 

「そう……でしょうか、私は――」

 

「それに――」

 

 

 

 

 

「信じているのでしょう?彩牙さんも穂乃果さんも、必ず立ち直れることを」

 

その言葉に、海未はハッとした。

そう、どんな言葉をかけるべきか悩むということは、裏を返せば再び立ち直れることを信じていることだ。立ち直れないと思っているのなら、そもそもどうするべきかなど悩まない筈だ。

それに自分は知っていたはずだ。どんな困難を前にしても、挫けそうになっても、諦めずに立ち上がってきた穂乃果の姿を。

自分は決めたはずだ。彩牙を信じ、彼の支えになることを。今支えずして、一体いつ支えるというのか。

 

そんな決意を新たにした海未を前に、母は今一度問いかける。

 

「海未さん、道は見えましたか?」

 

「――はい!」

 

そう答えた海未の表情は、先程とは打って変わって力強い意志に溢れていた。

 

 

 

**

 

 

 

その日、海未は普段よりも少し早めに家を出た。

真っ先に彼女が向かったのは音ノ木坂――ではなく、小さい頃穂乃果たちと三人でよく遊んだ公園だった。

よく見知った、在りし日の思い出が蘇るその場所には先客がいた。

 

「――海未ちゃん」

 

「おはようございます、ことり」

 

そこにいたのはことりだった。

他でもない、海未が彼女を呼び出したのだ。話したいことがあったために――

 

「朝早くにすみません。ことり、聞いてほしいことが――」

 

「海未ちゃん! ことりのお話、聞いてくれる……?」

 

海未の言葉を遮るように、ことりが話を切り出してきた。

普段からは想像できない語気の強さと必死な表情を前に、海未は話の舵取りをことりに譲ることにした。

話したいことがあるのは、自分だけではなかったのだ。気を落ち着かせるように息を吐くと、ことりはゆっくりと口を開いた。

 

「……ことりね、あれからもう一度考えたんだ。穂乃果ちゃんになんて言えばいいのかなって、穂乃果ちゃんはなんて言うのかなって」

 

その言葉には聞き覚えがあった。

穂乃果の様子を見に行った帰りに会った時も、同じことを言って悩んでいたことを海未は覚えている。

 

「でもね、どれだけ考えても答えは見つからなかった。どうすればいいんだろうって考えたらどんどん行き詰っちゃったんだ」

 

「……それで、どうしたのですか?」

 

海未が尋ねると、ことりはそれまで話していたのが嘘のように押し黙った。

顔を俯かせ、表情が窺えない彼女の姿に哀しげな視線を向ける海未。

しかし――

 

 

「――“南さんの想いというのはその程度なのか”」

 

その言葉に、海未はことりに向けていた哀しげな視線を驚きのものに変えた。

元のは誰かの言葉だったのだろうその話し方には聞き覚えがあった。そう、今は彼女の下を離れている彼のものに――

気付けば顔を上げていたことりの表情は、絶望に打ちひしがれるそれではなく、かつての穂乃果や彼のような勇気に溢れていた。

 

「以前彩牙くんに言われたことを思い出したの、本当にやりたいことを簡単に諦めるなって」

 

ことりが思い出すのはアキバでの路上ライブの時だった。

ホラーに狙われ、ライブを中止しようかと考えた時、彩牙はやりたいと願うことをそう簡単に諦めるなと語った。

 

「それでもう一度考えたの。どうしたいんだろう、何がしたいんだろうって」

 

「……それで、どうしたいのですか?」

 

先程と同じような問いを、もう一度投げかける海未。

今度は顔を俯かせることもなく、ことりははっきりと言葉にした。

 

 

「――ことりは、穂乃果ちゃんと一緒にいたい。穂乃果ちゃんと、海未ちゃんと、みんなと一緒にスクールアイドルを続けたい!」

 

「ことり……」

 

「たとえ迷惑だとしてもいい、穂乃果ちゃんに嫌われたっていい! この気持ちは、想いは!誰かに決められたものじゃない、ことりだけのものだから!」

 

それは単純なこと。見方によればただの我儘のようにも見えるだろう。

だけど、これがことりのやりたいことなのだ。誰かに強制されたわけではない、嘘偽りのない彼女の願い。

――穂乃果と、皆と一緒にスクールアイドルを続けたい。例え否定されることがあろうとも、この想いだけは譲れない。

そんな思いの丈を叫んだことりを前に、海未は――

 

「……ふふっ」

 

「海未ちゃん……?」

 

思わず、笑みを零していた。

予想外の反応を目の当たりにして首を傾げることり。ひとしきり笑った後、笑い声を抑えきれぬまま海未は口を開いた。

 

「ごめんなさい、馬鹿にするつもりはないんです。ただ可笑しくて……」

 

「どういうこと?」

 

「だって、ことりも私と同じことを考えていたんですから」

 

その言葉に驚きの表情を浮かべることり。

そんな彼女の手を取り、海未は優しく語りかける。

 

「私も同じです。私も穂乃果やことりと、μ’sのみんなと一緒にスクールアイドルを続けたいのです」

 

それは海未の願い。

奇しくもことりが抱いていたものと同じ、単純で、それ故にどこまでも純粋な願い。

二人揃って同じ願いを抱いていたことが可笑しくて思わず笑みが零れる。それを語る海未の表情は、それを聞くことりの表情は、とても晴れやかなものだった。

 

「迷惑でもいいのです。穂乃果には迷惑をかけられっぱなしなのですから、偶には私たちが迷惑をかけてあげましょう」

 

「……うんっ!」

 

今一度、願いを叶えるために決意を新たにする二人。

それと同時に、二人のスマートフォンから着信音が鳴り響いた。揃って鳴り響いたことが気になり、スマートフォンを取りだして画面を覗き込む。

すると、二人の表情は段々と綻んでいった。

 

「……どうやら、私たちだけではないみたいですね」

 

 

 

***

 

 

 

海未「大切だから、大好きだから」

 

海未「離れたくないから、一緒にいたいから」

 

海未「だからこそ、私たちはこの言葉を送ります」

 

 

海未「次回、『友達』」

 

 

 

海未「友達だから、想いをぶつける時がある」

 

 

 

 







魔戒指南
『店長不在のため、誠に勝手ながら無期限休業とさせていただいております』




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第19話  友達




今回は割と短めです




 

 

 

 

 

 

 

「……んぅ……」

 

――朝。

カーテンの隙間から漏れる陽光を浴び、目を覚ました希。

寝惚け気味な頭を起こし、ぼうっとしながらカーテンを開けると朝の日差しが暗かった部屋を照らしだし、夢現だった意識を一気に覚醒させていく。

そのままリビングへ――行こうとしていた足を止め、今は彩牙を匿っていたことを思い出す。

流石に年頃の娘がこんな寝起きの格好で異性の前に立つなど恥ずかしいというレベルの話ではない。とりあえずは人前でも平気な程度のラフな服装に着替え、髪も軽く結い上げる。

鏡を見て問題ないことを確認すると、改めて寝室を後にしてリビングに足を踏み入れる。

 

そこでふと、希は違和感を抱いた。家の中に人の気配が全くしないのだ。

普段ならばいざ知らず、今は彩牙を泊めているのだ。それで人の気配がしないというのはあまりにも不自然だった。

自分以外の人の気配が――彩牙の姿はどこにも見当たらなかったのだ。

 

「……彩牙くん?」

 

ふと視線を動かせば、そこにはテーブルに置かれた一枚の置手紙。

それには一文だけ記されていた。“見回りに行ってくる”と。

彩牙は、こんな早朝からエレメント浄化の見回りに出かけたのだ。昨夜だって街の見回りに出かけていたのに、仮にも病み上がりがこんな早朝から出かけて体力が持つのかと心配になる。

 

だがその一方で、そうする理由もわかってしまう。

……何かしていないと落ち着かないのだ。じっとしていればしているほどあれこれ考え込んでしまい、思考の渦に呑み込まれてしまう。今の自分や彩牙ならば尚更だ。

だから多少無理をしてでも何かをしていなければ気が狂ってしまいそうになる。

彩牙にとってそれはホラーの討滅――魔戒騎士の務めだ。たとえ己にその資格がないと思っていても彼にできること、考えつくことはそれしかなかったのだ。

 

「………ん?」

 

その時、家の中にベルのような音が響き渡った。

それは何度も聞き覚えのある慣れ親しんだ音――自分のスマートフォンの着信音だ。

何かと思い、スマートフォンを開いてみるとそこには一通のメールが届いていた。

差出人は――

 

 

 

「……えりち……?」

 

 

 

**

 

 

 

――穂むら。高坂家の住まい。

その一角、穂乃果の部屋の前に海未は立っていた。

この扉の向こう側に心が潰され、引き籠ってしまった大切な幼馴染がいる。

しかし、それも今日までだ。

 

「お姉ちゃんのこと、よろしくお願いします」

 

隣に立っていた雪穂がそう呟くと、彼女はとたとたと階段を下りていく。

彼女の――家族の想いを心に刻み、海未は大きく深呼吸をし、気合を入れるように頬を叩いた。

そして決意を新たにし、扉を一気に開いた。

 

「――穂乃果!」

 

――返事は、ない。

部屋の仲は以前来た時と同じ、カーテンが閉め切られて薄暗く、ベッドの上に毛布で覆われた山が――穂乃果が蹲っている姿が確認できた。

元気が取り柄だったころとは正反対な痛々しい姿。だがそれを前にしても海未の心は揺らぐことはなかった。

むしろ予想の範疇なのだから。

 

勇ましい足取りで部屋に乗り込んだ海未は、まず真っ先にカーテンを全開にした。薄暗かった部屋に陽光が差し込み、明るく照らし出す。

そして間髪入れずに、穂乃果を覆っている毛布を剥ぎ取った。

 

「……何の用なの」

 

毛布を剥ぎ取られ、露になった穂乃果は海未を見上げた。

もし普段の彼女であれば、ここで寝惚けながら愚痴の一つや二つでも言うだろう。だが今の彼女の表情は、言葉は、虚無そのものだった。

だがそれでも海未は臆しない。それどころか生気に満ち溢れた笑顔で口を開いた。

 

「出かけますよ、穂乃果!」

 

 

 

**

 

 

 

――どうして自分はこんなところにいるのだろう?

ぼんやりとした頭で穂乃果はそう思った。

押しかけた海未によって部屋から引っ張り出され、雪穂と母も交えて強制的に身嗜みを整えられた彼女が連れてこられた場所。そこは――

 

「くっ……い、意外と難しいのですね」

 

秋葉原にある、ゲームセンターだった。

賑やかに鳴り響く音楽と輝かしい照明が、暫く暗い部屋に籠っていた穂乃果の五感に容赦なく突き刺さる。こんな風だったかな、と過去に訪れた時との感じ方の違いに戸惑っていた。

そして彼女を連れだした海未はというと、クレーンゲームに躍起になっていた。

慣れていないのか、ぬいぐるみを直接クレーンで持ち上げようと悪戦苦闘し、上手くいっていなかった。

 

「……こ、ここまでにしておきましょうか。さて、次は何をしましょう」

 

やがて諦めたのか、負け惜しみに近いような台詞を吐いて海未は穂乃果の手を引いてゲームセンターの中を探索する。

手を引かれながら穂乃果は思う。どうして海未は自分をここに連れてきたのか。

どれだけ考えても、彼女の真意がわからない。

 

「――あ、来た来た!」

 

その時、見知った顔が現れた。

クラスメイトの三人――ヒデコにフミコ、そしてミカの三人だ。一年の頃から仲が良く、スクールアイドルを始めてからはファーストライブの頃からあれこれ手助けしてくれたことを覚えている。

休日に三人で遊びに来てたのだろう。

 

「久しぶりじゃん!いきなり学校に来なくなったから心配してたんだよ!」

 

「そうそう、怪我したとか病気になったとか噂になってたんだよ!」

 

「おまけにμ’sは活動休止になっちゃうし、学校中大騒ぎなんだから!」

 

「あ、うん……ごめんね……?」

 

詰め寄ってきた三人に圧倒され、後ずさる穂乃果。

質問攻めにされてはいるが、不快な感じはしなかった。自分のことを案じてくれているのが感じ取れたからだ。

それと同時に、“自分なんかのこと”を案じさせてしまっていることに罪悪感を感じた。

 

「まあ、思ってたよりは元気そうで安心したよ。……さ、折角だし遊んでこうよ、園田さんも行こう?」

 

「ええ、是非とも」

 

そうしているうちに話はどんどんと進み、気付けば一緒に遊ぶことになっていた。

ヒデコに手を引かれ、戸惑いを抱えながら為すがままの穂乃果。海未はそんな彼女を穏やかな微笑みで見つめ、ついていく。

彼女たちが目を付けたのはのはダンスゲームだった。筐体が二台並んだ、対戦が可能であるゲームセンターお馴染みのものだった。

 

「負けないよ!私これ得意なんだから!」

 

「う、うん」

 

そして気付けば、穂乃果とミカが対戦することになっていた。

流されるまま筐体の前に立たされ、戸惑いの表情を浮かべる穂乃果。海未の方に視線を向けると、彼女は楽しそうな表情で穂乃果を応援していた。

――やはり、海未の真意がわからない。

 

そんなことを考えている間に、曲が流れ始めた。

軽快なメロディに乗って、画面に矢印のリズムアイコンが流れ始める。

慌てて前を向き、構えると――

 

 

 

――1,2,3,4! 1,2,3,4!

 

そこには、在りし日の光景が広がっていた。

どこまでも広がる青空の下、屋上に響き渡る海未の声。

それに合わせてダンスの練習をする穂乃果とことり。やがてそこに花陽と凛と真姫が加わり、にこが自分のキャラを披露して、絵里と希が優しげに見守っている。

九人のスクールアイドル――μ’sの姿がそこにはあった。

そこにいるメンバーたちは、誰もが楽しそうだった。ことりも海未も、花陽も凛も真姫も、絵里も希も。

そして穂乃果も――

 

「穂乃果!始まってるよ!」

 

「え……あ、わわっ……!」

 

慌てるようなヒデコの声に呼び戻され、穂乃果は我に返った。

気付けば隣の筐体に立つミカは既にリズムに合わせてステップしており、穂乃果は完全に出遅れていた。

追従するように慌ててリズムに合わせてステップを踏む穂乃果。ヒデコとフミコの声援が響く中、海未は優しげな視線で穂乃果を見つめていた。

 

 

 

 

 

 

「……海未ちゃん。どうしてこんなことしてるの」

 

ヒデコたちと別れた後、穂乃果と海未はクレープ屋を訪れていた。

かつて彩牙やμ’sのメンバーと訪れたその場所でクレープを食べる中、穂乃果はそう呟いた。

 

「私なんかのためにこんなことする必要なんてないよ……私、みんなを不幸にしちゃうんだよ。なのにどうして……?」

 

それは、海未に連れ出されてから穂乃果がずっと気にしていたことだった。

今日一日連れ回されて、海未が穂乃果を元気づけさせようとしていることくらい、わかっていた。

しかしそんな資格は自分にはないと、穂乃果は考えていた。自分が何かをすれば、それは回り回って他人に不幸をもたらしてしまう。そうでなくても周りが見えず、迷惑をかけてしまう。

だから自分は何もしない方がいいのだ。誰にも関わらない方がいいのだ。その筈なのに海未はこうして関わりを繋げようとしている。

海未にとって迷惑になる筈なのに――それが穂乃果にはわからなかった。

 

そんな穂乃果を横目に、海未は怒ることも悲しい表情を浮かべることもなく、優しげな笑みを浮かべながら口を開いた。

 

「実はもう一つ、連れていきたい場所があるんです」

 

 

 

**

 

 

 

「……海未ちゃん、ここ……」

 

海未に連れられた場所を前に、穂乃果は愕然とした表情で呟いた。

そこは音ノ木坂学院――その講堂だった。穂乃果が潰れる前、ライブをしようとしていた場所。ファーストライブを行った場所。

そして、μ’sが始まった場所。

 

「覚えていますか?μ’sがまだ私たち三人だけだったころの、あのファーストライブを」

 

「……忘れる訳、ないよ。 思えば海未ちゃんはあの時、衣装をものすごく恥ずかしがっていたよね、なのに私無理矢理させちゃって……」

 

思えばあの頃から自分は周りに迷惑をかけていたと、穂乃果は思った。

海未がその最たる例だ。彼女はスクールアイドルをやることを羞恥で拒否していたのに、無理矢理巻き込むような形でやらせてしまった。

自分はいつもそうだ。相手がどう思ってるかなんて考えもせずに、あれこれ巻き込んできていた。

そんな自己嫌悪を起こす穂乃果に対し、海未は彼女に背を向けたまま口を開いた。

 

「……そうそう。何故こんなことをしているのかという、先程の質問ですが――」

 

その言葉に、穂乃果は身構えた。

今まで迷惑をかけた分、彼女には自分を責める権利があると、そう思って――

 

 

 

「――穂乃果と一緒にいたかっただけなのです」

 

「え……?」

 

思いもよらない言葉に唖然とする穂乃果を前に、振り返った海未は穏やかな表情で口を開いた。

 

「穂乃果と一緒にいたい……そして、穂乃果と一緒にスクールアイドルを続けたいのです」

 

迷うそぶりを少しも見せずにはっきりとそう口にする海未の姿に、穂乃果は戸惑った。

何故そう思えるのだろうか。自分と一緒にいて、自分が掛ける迷惑を一番被ってきたのは海未のはずだ。

ホラーに初めて襲われた時も、学園祭の時も、ホラーに操られた時だってそうだ。自分が余計なことをしたせいで、迷惑などとは生温い事態を招いてしまったのだ。

なのに何故、そんなことを言えるのだろうか。

 

「穂乃果も同じでしょう?」

 

「え……?」

 

海未の言葉に、穂乃果は愕然とする。

そんなことはない。自分はそんなことを思ってはいけない。いけないのだ。

 

「ヒデコたちとダンスゲームをしていた時、凄く楽しそうでしたよ」

 

――いけないはず、なのに。

ダンスゲームの対戦をしていた時、穂乃果は楽しいと思うより、戸惑いの感情が強かった。

だがそれは穂乃果の勘違いだった。彼女自身は気づかなかったがあの時、ダンスを踊る穂乃果の表情には僅かながら確かに笑顔が浮かんでいたのだ。

その姿を海未はこの目でしかと見た。そして確信したのだ。

穂乃果の心は完全に潰れてはいなかったことを。だから海未は、自信を持って言うことができる。

 

「不幸になるとか、迷惑になるとか、そんなものどんと来いです。それよりも穂乃果と一緒に真新しくて、輝かしい景色を見たい……それが私の願いなんです!」

 

――だから穂乃果、一緒にスクールアイドルをしましょう。

そう語る海未に、穂乃果は呆気にとられる。そして次第にゆっくりと、その顔がくしゃりと歪み、涙が浮かび上がる。

それは海未の我儘だ。心が押し潰され、弱りきった相手に自らの願望を押し付けるなど、傲慢にも程があるだろう。

だがそれでもいいと海未は思う。我儘だろうと傲慢だろと上等ではないか。それこそが海未の本音、心からの願いなのだ。

本音の一つや二つぶつけられずして、どうして親友だと名乗れようか。

 

そして穂乃果は、それを受けてはいけないと思った。自分がいては、更なる迷惑や不幸をもたらしてしまうと。

だがその一方で、その言葉を嬉しく感じる自分も確かに存在していた。歌うことが、踊ることが、海未やことりと――皆といることが嬉しくて、楽しくて、どうしようもなく求める自分が確かに存在していた。

そして一度芽生えたその想いはふつふつと大きくなり、抑えきれなくなる。しかし残った理性がその願いを封じ込めようとする。

 

「駄目だよ……だって、また迷惑かけちゃうよ?周りが見えなくて振り回しちゃって……不幸にしちゃうんだよ……?」

 

それに海未は、優しく答える。

 

「言ったでしょう、迷惑も振り回されるのも慣れっこだと。それよりも穂乃果が見せてくれる景色を見たいのです。私もことりも、μ’sのみんなもそう思っています。

 

 

 

 

 

 

 ――そうですよね、みんな!」

 

――え?

穂乃果が呆然と呟くとともに、舞台袖から人影が現れる。

凛と花陽と真姫と、絵里とにこと、そしてことりが現れ、海未の隣に並んで穂乃果と向き合った。皆、穂乃果を責めるような表情は浮かべておらず、海未と同じような優しい笑顔を浮かべていた。

その中でことりが一歩前に出て、口を開く。

 

「穂乃果ちゃん、私ね……実はフランスから留学の誘いが来てたけど、断っちゃったんだ」

 

「えっ……!?」

 

穂乃果の口から驚きに満ちた声が漏れる。

留学の誘いが来ていたこともそうだが、それを蹴ったとあっさり言い放ったのだ。混乱するなというのが無理な話だ。

他のメンバーたちも気持ちはわかると言わんばかりに笑みを浮かんでいた。

 

「だって、穂乃果ちゃんと海未ちゃんがいないんだもん。μ’sのみんなとスクールアイドルができなくなっちゃうんだもん。我儘でも今、私のやりたいことがそれなの」

 

それはことりの我儘だ。

だがそれでもいいと、我儘でもいいと彼女は思ったのだ。

自分の心に嘘をつき、縛り付けることの方がもっと辛いのだから。この数日、穂乃果が何と言うのか恐れるあまり彼女と向き合わず、言いたいことを言えなかったことでそれを強く実感した。

 

「……あの時、叩いちゃってごめんね。穂乃果ちゃんは自分のことがすごく怖くなって、あんなこと言っちゃったんだよね」

 

そしてそれは、穂乃果も同じだ。

あの日、穂乃果の身体を利用してホラーが彼女たちに牙を剥いた時、穂乃果は自己嫌悪に陥るあまりそれまでの全てを否定した。

だがそれは彼女の本心ではない。ホラーを招いてしまったという罪の意識が、スクールアイドルを続けたいという彼女の本心を覆い尽くしてしまったが故に飛び出してしまった言葉なのだ。

 

だからことりは、この言葉をかけるべきだと思ったのだ。

彼女の我儘であり、穂乃果が本当に望んでいることでもある、この言葉を。

 

「穂乃果ちゃん、一緒にスクールアイドルをやろう。ヤダって言っても聞かないよ」

 

 

 

 

 

「――だって、私は穂乃果ちゃんと一緒にやりたいもん!」

 

そう語ることりの表情は晴れやかな笑顔だった。

それは彼女の言葉が嘘偽りない本心であり、例え拒否されたとしても押し通す我儘であることを意味していた。

それに対する穂乃果は、震える唇で口を開いた。

 

「……いいの……? 私、また突拍子もないこと言ってみんなを振り回しちゃうよ……?」

 

「もう慣れちゃったし、それくらい我慢するわ」

 

「その方が穂乃果ちゃんらしくて楽しいニャ」

 

不安に満ちた穂乃果の言葉を、真姫と凛が肯定する。

皆を引っ張ることができるバイタリティは、穂乃果の美点であると。

 

「夢中になって、周りが見えなくなっちゃうかも……!」

 

「むしろ夢中になれないようないい加減さでアイドルをするなって話よ」

 

「周りが見えなくなっちゃうのは、私も同じだよ」

 

にこと花陽が、夢中になることの正当さを説く。

好きになり、夢中になるということは真剣さの裏返しであると。

 

「私の行動一つで、みんなを不幸にしちゃうかも……!」

 

「そんなことはないわ」

 

穂乃果が抱える最大の不安、自分の行いが周りに不幸を招くのではないかという不安。

それを穏やかに、且つ真正面からばっさりと否定したのは絵里だった。

 

「私はあの時、あなたの手に救われたわ。変わることを恐れない穂乃果の勇気は人を不幸にするものなんかじゃない、人を笑顔にするものよ」

 

かつて責任感のあまり自分の心を氷に閉じ込め、μ’sと対立して壁を作っていた絵里。その氷を溶かしてくれたのは穂乃果の勇気だ。

好きなことに全力で打ち込み、自分を偽らない穂乃果の姿が絵里の心に手を伸ばし、その閉じ籠っていた心は救われた。

だから今度は、自分が手を差し伸べる番なのだ。

 

「もう一度聞くわ。穂乃果、あなたはどうしたいの?」

 

そう言って手を差し伸べる絵里を前に、穂乃果の唇が、瞳が、心が震える。

もう、抑えられなかった。罪悪感と絶望で抑えつけられていた本心が溢れ出す。コップから溢れ出す水のように、止めようとしても止められない。

それは涙として、言葉という形を成して現れる。

 

「……いいの、かな……私、みんなと一緒にいて……スクールアイドル、やってもいいのかなぁ……!」

 

嗚咽を繰り返しながら本心を――本当の願いを口にした穂乃果。

想いを言葉にするということはそれを本心であると自分に認めた証。穂乃果はこれまで抑え込んでいた本心を今、はっきりと自覚したのだ。

そして一度自覚してしまえば、それを誤魔化す術はない。

 

「私、スクールアイドルをやりたいよ……海未ちゃんとことりちゃんと……μ’sのみんなと一緒にスクールアイドルやりたいの! 例え我儘でも、誰かの迷惑になるとしても、やりたいよ!続けたいよぉ!!」

 

激情と、涙と共に吐き出される穂乃果の本心。

それは彼女の心からの願い、嘘偽りない心の叫び。ただの子供の我儘と言ってもいいそれが、穂乃果の本当の願いだった。

そんな彼女の手を、海未とことりが優しく包み取る。

 

「さっきも言ったでしょう。私たちも自分たちがやりたいからやっているだけなのです。だから、穂乃果もいいんですよ」

 

「一緒に我儘を通して、私たちだけの景色を見に行こう!」

 

「うん……うん……!」

 

涙混じりの声で何度も頷き、海未とことりに抱きつく穂乃果。

他のメンバーたちはその姿を穏やかに見守るとともに、心から安堵していた。

彼女の心にスクールアイドルを続けたいという想いが残っていたこと。彼女の心は死んでおらず、こうして再び起き上がることができたことに安心したのだ。

しかし、これで終わりではない。μ’sの名前の由来になったのは、歌を司る九人の女神。

そう、あと一人足りないのだ。

 

 

「……――」

 

その時、ふと何かを感じ取ったように辺りを見回す絵里。

その視線の先には、半開きとなった講堂の扉があった。

まるでついさっきまで誰かが覗いていたかのように。

 

 

 

**

 

 

 

「……穂乃果ちゃん、もう大丈夫そうやね」

 

誰もいない音ノ木坂の廊下を、一人歩いている少女がいた。

――希だ。彼女は今日、絵里から呼び出されてつい先程、講堂にて穂乃果が仲間たちの手で立ち直る姿を外から覗いていたのだ。

その光景を目にした希は安堵していた。あの日、μ’sが活動を休止し、魔戒法師のことで彼女たちとの距離が離れてから、心が折れた穂乃果のことを案じていたのだ。立ち直らせてあげなければいかないと、そう考えていた。

 

だが希が何かするまでもなく、他の仲間達――海未やことりをはじめとしたμ’sのメンバーたちによって穂乃果の心は立ち上がることができた。

だから希は、もう自分の助けは必要ないと考えていた。自分がいなくてもμ’sは大丈夫なのだと。

魔戒法師として生きることを決めた自分は、もうここには必要ないのだ。“こちら側”に引き戻そうとした絵里の手を取らなかった時に、それはもう決まっていた。

かつてオルトスが言ったように、魔戒に生きる者と一般人は一緒に入られない――だから、希は皆から自分の記憶を消してここから去ろうと考えた。

 

 

 

「――希」

 

――しかし、そんな希を呼び止める声が廊下に響いた。

振り返った視線の先にいたのは日本人離れしたスタイルと金髪碧眼を持ち、今日彼女をここに呼び出した張本人――絵里だった。

絵里は振り返った希を困ったような笑顔で見据え、口を開いた。

 

「どこに行くの?これからライブに向けての練習があるのよ」

 

「え……?だってウチは、もう……」

 

絵里の言葉に、希は呆然とした。

絵里が今日呼び出したのは、自分がいなくても八人でやっていけるということを見せるためではなかったのか?あの日、手を取らなかった自分に対する別れのためではなかったのかと、そう思ったのだ。

そんな希を前に、絵里は呆れたように肩をすくめた。

 

「……やっぱりね。自分はもうμ’sにいられないとか、そんなこと考えてたんでしょ」

 

「だって……ウチ、あの時えりちの手を……」

 

μ'sに――戦いとは無関係な世界に帰ってきてほしいという絵里の手を、希は取ることができなかった。

咄嗟ではあっても、光がある世界よりも闇の中で生きる世界を選んだのだ。

だから自分はもう、μ’sという光の中には戻れないと思っていたのだが――

 

「希は、本当にそれでいいと思ってるの?」

 

「え?」

 

「このままμ’sを抜けてもいいなんて――本気で思ってるの?」

 

心の内を見透かすような眼差しで見つめる絵里。

その視線と言葉を受けた希は言葉に詰まる。

……仕方がないのだ。一度差し伸べられた手を取らなかった自分が、今更どの口で言えるというのか。

そんな希を前に、絵里は一呼吸吐くと口を開いた。

 

「……本音を言うとね、私は戦いなんて止めてすぐにこっちに戻ってきてほしいと思ってるわ」

 

「……」

 

「でも希は、また戦いに行くんでしょうね。あなた、変なところで頑固だものね」

 

「……そうやね。ウチはどうやってもホラーとの戦いに行っちゃうんや。そうするって決めたんやから、だから……」

 

そう、希はホラーと戦うことに決めたのだ。自らの力で、大切なものを守るために。

だから自分はもう、μ’sには居られないのだ。

あそこに、自分の居場所はもう――

 

「――嘘。μ’sを抜けるなんて、できないこと言うものじゃないわよ」

 

そんな希の考えを、絵里は真正面から否定した。

きっぱりと、しかし穏やかに。

 

「……そんなこと、ないよ……ウチは、ウチは決めたんよ……」

 

「ええ、決めたんでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 ――どっちもやり遂げるんだって」

 

絵里の言葉に、希の脳裏にあの決意が蘇る。

かつて魔戒法師とμ’sのどちらを取るのか選択を迫られた時、絵里とにこに相談したことを。

あの時、絵里は言った。「本当にしたいことは何なのか」と。

そして希は決めたのだ。魔戒法師とμ’s、どちらも捨てずにやり遂げることを。

あの決意を抱いた理由、それは――

 

「あの時迷ってたのは、μ’sをどうしても捨てたくないから――そうでしょ?」

 

――そうだ。

あの決意を、我儘を通すと決めたのは、μ’sを捨てたくないから、μ’sが好きだったから。

だからみんなを守るために魔戒法師として戦うことを決めた。居場所を捨てたくないからμ’sを続けることを決めた。

だけどその決意は揺らいでしまった。絵里の手を取れなかったから――自分が、臆病だったから。

 

「もう一度聞くわよ。 ……希の本当にしたいことって、何?」

 

あの時と同じ問いかけを、投げかける絵里。

それを前にした希は手を胸に当て、自らの抱いた想いを――本当の願いを心の内で反芻し、不安と共に唇を震えさせながら口を開いた。

 

「……ウチは……μ’sを続けたい、もっとみんなと一緒にいたい……」

 

「……」

 

「でも、それと同じくらいに魔戒法師を続けたいって思ってる……みんなを守りたいって思ってる……!えりちたちが望んでなくても、それがウチのやりたいことなんや!」

 

希には、捨てられない。

μ’sも魔戒法師も、どちらかを選んでどちらかを捨てることなどできないのだ。

魔戒法師として皆を守りたい、けれども幼い頃から探し求めてきた居場所を手放したくない。それらは彼女の我儘だ。我儘だからこそ、その想いは強い。諦められない。

だからこそあの時、希はどちらもやり遂げると決意したのだ。

 

「――あんたそれ、本気で言ってるの?」

 

その時、新たな人物が現れた。

歳に似つかわしくない小柄な少女――にこだ。

絵里の隣に立つ彼女は、鋭い視線を希に向けていた。魔戒法師のことを明かした時と同じ、非難めいたものだ。

あの時の希はその目に気圧され、碌に答えることができなかった。

――だが今は違う。希は目を逸らすことなくしっかりと向き合い、口を開いた。

 

「……うん。ウチはμ’sも魔戒法師もやめない、やめたくないんや」

 

「私、言ったわよね。死んじゃうかもしれないって」

 

「……そうやね、ウチだって死ぬのは怖い。けどそれ以上にみんなを守れなくなるのはもっと怖い。だからウチは魔戒法師をやめない」

 

 

 

 

「生きて――みんなとスクールアイドルを続けるためにも、ウチは戦うよ」

 

自らの想いを言葉にした希を、にこと絵里はまっすぐに見つめる。

ひょっとするとまた非難されるかもしれない。だがそれでもいいと希は思った。

この我儘は絶対に曲げない。今度こそこの想いは曲げないと、そう決めたのだから。

 

「……勝手にしなさい」

 

くるりと、踵を返すにこ。

険しい声色の彼女にいささかの不安を抱いたが――

 

「……怪我」

 

「え?」

 

「怪我すんじゃないわよ。特にアイドルは顔が命なんだから、怪我なんかしたら承知しないわよ」

 

「――! うん!」

 

希の熱意に、にこは折れた。

彼女は理解したのだ。何を言っても希は考えを曲げるつもりはないと。

勿論、戦うことに思う所はある。だが一方で、その気持ちもわかってしまうのだ。

好きだからどうしても諦められない、捨てられない。にこがアイドルを好きであるのと同じように、希もμ’sが好きであり、それを守りたいと思っているのだ。

だから希は魔戒法師として戦うことをやめない。μ’sが好きだから、皆を守りたいと思っているから。

それを止めることなど誰にもできないのだ。

 

「さあ、戻りましょう。みんなの――μ’sのところに!」

 

差し伸べられた絵里の手を取る希。そこに最早迷いはない。

彼女はもう二度と迷うことはないだろう。この手を放すことも、戦うことに迷うことも、もうないだろう。

己の想いを見つめ直し、向き合い、そして貫き通すことを決めたのだから。

 

 

――彩牙くんも、きっと……

 

そして、己にできたのだから、彩牙も自分自身と折り合いをつけることができる。

そんな確信を抱いたのだった。

 

 

 

 

 

 

「「――希ちゃぁぁぁぁん!!」」

 

「わわっ!?」

 

絵里とにこと共に講堂へ――μ’sの下へと戻ってきた希を出迎えたのは、涙声で抱き着いてきた凛と花陽だった。

二人分の重みを受けて慌てるも、嗚咽を漏らしながら抱き着く二人の姿に母性に似た愛おしさを覚え、二人を覆うように抱き返す希。

凛と花陽は涙交じりの声で語る。「戻ってきてくれてよかった」と。「これからは自分たちが希の居場所を守る」と。

そんな二人の言葉を受けて、μ’sに戻ってきたのは間違いではなかったと希は思った。自分がいることに涙を流すほど喜んでくれる者がいたということを実感したのだ。

ここから去ろうとしていた自分に手を伸ばしてくれた絵里とにこに、改めて感謝の念を抱くのだった。

 

「……希、やっぱり戦うのね」

 

そんな希を、真姫はじっと見つめていた。

彼女は凛と花陽より一歩下がった立ち位置で、希を見つめていた。

色々な感情が織り混じったような視線を向ける彼女を前に、希は凛と花陽を優しく退けるとその前に立った。

――思えば、初めてホラーと戦ったあの夜も真姫はこんな視線を向けていた。戦ってほしくないと、戻ってほしいと。

真摯な想いであるからこそ、希は自分の本心をもう一度彼女に示す。

 

「……ごめんな、真姫ちゃん。やっぱりウチ――」

 

「一つだけ約束して!」

 

そんな希の言葉を、真姫は遮った。

語気を荒くした彼女の表情はその反面、今にも泣き出してしまうかのように瞳を潤ませていた。

そして溢れんばかりの想いを少しずつ汲みだすかのように、先程とは打って変わって静かに口を開いた。

 

「……絶対に帰ってくるって約束して。私たちは……μ’sは絶対に欠けちゃダメなんだから、ここが帰る場所なんだってこと、忘れないで」

 

――真姫もわかっているのだ。

希は魔戒法師として戦うことをやめるつもりはないことを。幾ら止めようとしても、彼女の決意は揺るがないことを。絵里やにこと共に講堂に戻って来た時の彼女の目を見た瞬間に理解したのだ。

だからこそ、真姫は希に願った。希の帰る場所はここに――μ’sにあるのだと。

ホラーと戦い続ける道を選んでも、魔戒法師としての道を歩むとしても、彼女の帰る場所はここにある。自分たちは希の帰りを待ち続けているのだと。

それを忘れないでいてほしかったのだ。

 

「……勿論!ウチは絶対μ’sから出て行ったりせえへんよ」

 

そして、その願いを希が断る理由はなかった。

魔戒法師として戦いながらも、μ’sに居続けることを決めたのだ。一度は揺らいだその決意も、今ではより強固なものとなり最早揺らぐことはなくなった。

だから真姫の願いを拒絶する理由などどこにもなく、寧ろ自分から願い出たいほどだった。

 

「――希ちゃん」

 

そして最後に穂乃果が現れた。

海未とことりに支えられるように歩く彼女の姿は、感情の赴くままに大泣きしたせいで目元と鼻の辺りが真っ赤に腫れ、鼻をすすり、涙の跡が残り、目は充血しているという酷い有様だった。

しかし、その表情に陰はない。

かつてのように太陽のような晴れやかな笑顔を浮かべ、高坂穂乃果はそこに立っていた。

 

「また頑張ろう。もう一度、みんなと一緒に!」

 

「――うん!」

 

互いに手を取り合う穂乃果と希。

片や自己否定によって、片や己に生じた迷いにより一度はμ’sを離れた二人だったが、こうして再び戻ってきた。

一度はバラバラになっていたμ’sが、再び一つになった。その現実は、この場にいる全員にとって何物にも代えがたい勇気へと繋がるだろう。

再び転ぶことがあったとしても、自分たちは必ず立ち上がることができると――

それを示すかのように、絵里は高らかに声を上げる。

 

「さあ、ライブまで時間はないのだから気合入れていきましょう!特に穂乃果はずっと引き籠っていたんだから厳しくいくわよ!」

 

「うん!みんな、ファイトだよっ!!」

 

「うん!穂乃果ちゃん!」

 

「競争なら負けないニャー!」

 

我先にと言わんばかりに屋上に向けて駆け出していく穂乃果。

その後を慌てて追いかけていくことりに続いて一人、また一人と講堂を後にしていく。

そして希もその後に続こうとした時――

 

「――希」

 

希と共に最後まで残っていた海未が、彼女を呼び止めた。

振り返った先、穏やかでありながらも真剣な表情を浮かべる海未の姿を前に、大事なことを思い出した。

――そう、もう一人いたではないか。

胸の内にある言葉を、かけてあげるべき人物が。

己が道に迷う男が。

――海未がその帰りを待つ少年が。

 

「行きましょう、彩牙くんのところに……!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――それは、一瞬のことだった。

 

「――え?」

 

意気込み、彩牙の下へと向かおうとした海未。

その身体を蜘蛛の糸のようなものが幾重にも巻き付き、一瞬のうちに拘束したのだ。

唖然とする希が蜘蛛の糸を目で辿っていくと、そこには腹部が髑髏になっている蜘蛛のような物体がステージの壁に貼り付き、髑髏の口から糸を吐き出していた。

 

――魔導具だ。

何故?誰が仕掛けたのか?どうして今まで気が付かなかったのか?疑問が浮かんでは消えていき、混乱に包まれた希の目の前で、同じように呆気にとられた表情の海未の身体が引き摺られていく。

それを目の当たりにした希は我に返り魔導筆を取り出すが、それを凌ぐ速さで糸は海未の身体を巻き取っていき、あっという間に魔導具の下に到達してしまった。

 

『娘を返してほしければ追ってこい』

 

魔導具からくぐもった男の声が響くと同時に強烈な光が海未の身体ごと包み込み、希は反射的に目を閉じた。

そして光が一際強く輝き、その輝きが止むと海未の姿も、彼女を捕らえた魔導具の姿も忽然と消えていた。

 

「――海未ちゃぁぁぁん!!」

 

慟哭にも近い希の叫びが、誰もいない講堂の中に響き渡った――

 

 

 

**

 

 

 

――虹の番犬所

一人、純白のソファに座り込む主――神官オルトス。

彩牙などが訪れた時は大抵くつろいでいる彼女は今、手に持つある物を見つめていた。

“それ”を見つめるオルトスの表情は普段のそれとは違い、無感情と言っても過言でない程に値踏みするような視線だった。

何度も何度も――それこそ日が昇って落ちるまでのように繰り返し見つめ直し、やがて確信を得たかのように“それ”から視線を外した。

 

 

「……なるほどのう。そういうことか」

 

一人呟くオルトスは“それ”――“木箱”を忌々しそうに見つめた。

 

 

 

***

 

 

 

ザルバ「判断を人任せにしようって奴は、どうも気が知れんな」

 

ザルバ「他人の言いなりになるってことを認めてるんだぜ?俺様には我慢できないな」

 

ザルバ「そんなことで納得なんざできるわけないのにな」

 

 

ザルバ「次回、『傀儡』!」

 

 

 

ザルバ「それは本当に、お前の意志で決めたことか?」

 

 

 

 







魔戒指南

『主人公どこ・・・・・・?』




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第20話  傀儡




第一部 決戦:前編





 

 

 

 

 

 

――時は、海未が攫われる少し前までに遡る。

 

「ぐっ……!」

 

秋葉原の路地裏に、力なく壁に寄りかかる人影があった。

――彩牙だ。

大粒の汗を流し、荒く呼吸を繰り返す彼は、見るからに憔悴しきった様子を見せていた。

身体が十分に回復しきっていない早朝から休む間もなくエレメントの浄化を繰り返したことにより、体力を限界間近まで失っていたのだ。

 

――胸の動悸が収まらない。息を吐き、吸う行為そのものに苦しみを感じる。膝が笑って上手く立てず、腕に力が入らない。

疲労困憊という言葉すら生易しい状態になっても尚、彩牙は浄化をやめようとはしていなかった。

 

――自分に休む暇はない、その資格もない。自分が犯した罪を考えれば当然のことだ。

この程度では贖罪にもなり得ない。このやり方しか知らない自分は、文字通り全身を使い潰してでも犯した罪を償わなければならない。

そんな強迫観念にも似た想いが彩牙を突き動かしていた。

 

それが原動力となり、彩牙は再び歩き出す。

崩れ落ちそうになる足腰に必死に力を籠めながら、自分の罪を償うために。

 

「――ぅ、あっ……?」

 

しかし、想いに身体がついていかないこともある。

足がもつれ、バランスを崩し、倒れこむ彩牙。

だがその身体は地面に衝突することはなく、浮遊感と共に制止した。

 

「ちょっとお兄さん!しっかりおし!」

 

そこには、彩牙の身体を支える中年女性の姿があった。

必死に呼びかける女性の姿をおぼろげな瞳で見つめる彩牙は、ある既視感を抱いていた。

 

――どこかで会ったことがある気がする。

……そうだ。確か高坂さんや海未たちと行った、あの店の――

 

 

 

 

 

 

「――ここは……」

 

『ようやく起きたか』

 

目を覚ました彩牙は、椅子に座らされていた。

視線を動かせば、そこはかつて海未たちと訪れたことのある、あのクレープ屋だった。

そして屋台から意識を失う前に見た中年女性が現れたことを目にしたことで、彩牙は彼女がこのクレープ屋の店主であることを思い出した。

 

「ほら、これでも食べて元気をお出し」

 

そう言って中年女性――クレープ屋の店主が渡してきたのは、以前彩牙が訪れた時にも食べた抹茶のクレープだった。

有無を言わせない言葉と共に渡されたクレープを一口かじると、ほのかな苦味と控えめな甘さが口の中に広がっていく。

 

「……俺のこと、覚えていたのですか」

 

「娘と同じ年頃の女の子に囲まれた色男だったからね。しかしあんなにフラフラでどうしたんだい、あの女の子たちの誰かに振られでもしたのかい?」

 

「……いえ、そういうわけでは……」

 

――そうだ。自分には誰かに好かれる資格も、誰かを好きになる資格もないのだ。

そんな想いを胸に、自らを戒めるような険しい表情を浮かべる彩牙の姿に、店主は神妙な眼差しを向ける。

 

「……まあ、無理にはとは言わないよ。色々込み入った事情もあるだろうしね」

 

「……すいません」

 

「ただ年長者のお節介を言わせてもらうならね、何か悪いことしたと思ってるならちゃんとそれを言葉にしなきゃいけないよ」

 

「言葉に……ですか」

 

「そうさ、言葉ってのは人が持つものの中で最も大切なんだ。言葉がなけりゃ自分の気持ちを相手に伝えるなんてできっこないだろう? 悪いことをしたなら謝る、助けてもらったなら感謝する、困っている人がいたら助言する。そうやって人と人は繋がっていくものなのさ」

 

「………」

 

「それともう一つ言わせてもらうなら、あんまり自分を責めるんじゃないよ。何があったかは知らないけど、お兄さんが自分を責めて、傷ついていく様を見たくないって人がいるんだからね。 ……たとえそれが、どんなに重い罪を犯した人間だとしても、ね」

 

奢りだからゆっくり休んでおいき。と言い残し、店主は再び屋台の中に潜り込んでいく。

その姿を見つめながら、彩牙は自問自答を繰り返す。

――自分が責められる様を良しとしない人間がいる。そんなことが本当に――自分のような大罪を犯した人間にあるのかと。

少なくともコテツは決して許しはしないだろう。それに何よりも自分が自分を許せそうにないのだ。

 

――どれほど心配したと、思ってるんですか……!

 

だがその一方で、海未の言葉が頭をよぎる。

あの時の海未は彩牙の身を案じていた。突然いなくなったことに不安を抱き、涙まで流すほどに。

……彼女は、自分のことを許すというのだろうか。罪を償おうとする自分の姿を、良しとしないとでもいうのか?そんな都合のいいことが――

 

 

 

――“都合がいい”?

自分のことが許せない筈なのに、何故そんなことを考えた?

――まさか……自分は、彼女に許されたいと思っているのか……?

 

 

 

 

『………む。小僧、一大事だ』

 

思考の渦の深みに嵌りかけていた彩牙の意識を、ザルバの声が引き戻した。

ハッとするように我に返り、ザルバに視線を向ける。

 

『微かな邪気と共に嬢ちゃんの反応が途絶えた』

 

「―――! ホラーか!?」

 

『わからん。俺様の分身の反応が消えたということは結界に捕まったか、あるいは――』

 

――あるいは、何かしらの術で妨害されているか。

そしてそんな芸当が可能であるのは彩牙の知る限り二つしかない。

一つは番犬所。彩牙に対する人質と考えればわからなくもない。

そしてもう一つは――

 

「そう、私だよ。黄金騎士」

 

「――! 貴様!!」

 

たった今脳裏に浮かんだもう一方の可能性――闇法師が、前触れもなく彩牙の前に現れた。

突然の襲来に身構え、剣を抜こうとする彩牙を前に闇法師は動じることなく腕を突き出した。

その手には、一枚の闇色の魔戒符が握られていた。

 

「巫女に会いたいのだろう?会わせてやろう」

 

「なにを―――!?」

 

その言葉の真意を問う間もなく、闇法師の持つ魔戒符から闇色の光が放たれた。

その光に包まれ、彩牙の身体と意識は闇に堕ちていった――

 

 

 

**

 

 

 

「――海未が攫われた!?」

 

――音ノ木坂、屋上。

海未を除いたμ’sが一堂に揃うその場所に、悲鳴のような叫びが辺りに響き渡った。

あの後、希は講堂で起きた出来事――海未が攫われたことを皆に話した。恐らくホラーか法師が関わっていることも。

 

「どうして……折角みんながまた戻ってきたのに……!」

 

「なんで……なんで海未がそんな目に遭わなきゃならないのよ!」

 

折角μ’sが復活したと思った矢先の事態に皆、戸惑いと憤りを隠せないでいた。

どうして海未がそんな目に遭わなければならないのか、どうして自分たちに手を出してくるのかと。

 

――もしかして、海未ちゃんを人質に……?

 

攫われた理由に心当たりがないわけではないが、今はそれを説明する暇は希にはない。

――最も、そうでなくても説明できるかと問われたら否なのだが。

どちらにせよ、希は戸惑っているわけにはいかない。彩牙にも連絡を入れたようとしたのだが、どういう訳か携帯はおろか、ザルバを介する通信すらも通じなかったのだ。

希は、これまで浮かべたことがあるかないか、というほどに鬼気迫る表情で口を開いた。

 

「とにかく、ウチは海未ちゃんを助けに行くからみんなはここに――」

 

「その話、ちょいと待ってもらうぞ」

 

その言葉を遮ったのは“希を除き”、聞き覚えのない声だった。

声のする方へ振り向くと、そこには一人の少女がいた。

音ノ木坂の制服を身に纏い、絹のようなきめ細やかな純白の髪と透き通るような白い肌を持つ美しい少女だ。そんな幻想的な雰囲気を持つ少女が、“屋上の入り口からは正反対の”フェンスに身体を預けてこちらを見据えていた。

音ノ木坂にこんな生徒がいただろうかと、誰もが不思議に思った。

 

一方、希だけはその少女を目にした途端警戒心に包まれた。

なにせその少女は紛れもなく、虹の番犬所の主である神官オルトスであったのだから。

番犬所の命に背いた自分は彩牙と同じく追われる身だ。となればオルトス自ら自分を捕らえに来たのかと警戒するのは至極道理であった。

だがオルトスはそんな希の警戒心など無視するかのように、悠然とした仕草で歩み寄っていく。

 

「……何の用ですか……!」

 

「まあそう構えるでない。そのようなことをする尺がないことくらいお主もわかっておろう?」

 

「っ……」

 

「東條希、指令じゃ。緊急かつ極秘のもの、何よりもこれを果たすことを優先せよ」

 

そう言ってオルトスが手渡してきたのは、一枚のメモ用紙だった。

罰則やら何もなく言い渡される突然の指令に戸惑い、そして何故指令書ではなくただのメモ書きなのか疑問に思いながらも、渡されたメモ用紙の内容に目を通していく。

 

 

「―――――え」

 

そこに記されていた内容に、言葉を失った。

口が半開きになり、冷汗が流れ、目が見開かれる。驚愕に包まれた希の脳裏は混乱に埋め尽くされていく。

何故、どういうことなのか。そんな言葉が希の頭に駆け巡っていく中、オルトスは冷徹さを持って口を開いた。

 

「呆けている暇はないぞ。事は一刻を争う、直ちに――」

 

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 

オルトスの言葉を遮ったのは、焦るような穂乃果の叫びだった。

オルトスの冷ややかな視線を浴びて思わず怯んだが、それでも勇気を振り絞って口を開いた。

 

「あの、今海未ちゃんが……私たちの友達が悪い人に捕まっちゃってるんです!ううん、ひょっとしたらその人はホラーかもしれない!」

 

「……だとしたら、何じゃ?」

 

「お願いします!希ちゃんを助けに行かせて上げてください!大事な用があって、それが急がなきゃけないってことはなんとなくわかるけど、それでも!」

 

「私からもお願いします!我儘なのはわかっているけど、それでも私たちは友達を失いたくない! ……友達を守れなかったなんてそんな思い、希にさせたくない……!だから……!」

 

「「「「お願いします!!」」」」

 

穂乃果、そして絵里に続き、μ’s全員がオルトスに頭を下げる光景を、希は呆けた表情で見つめていた。

――嬉しかった。皆が海未の身を心配してくれることが、自分の心を案じてくれていることが。友を案じるその優しさこそ、希が守りたいと思ったもの、手放したくないと思ったものだ。

だから――これだけは確認しておかなくてはいけない。

 

「……一つ、ええですか?」

 

「なんじゃ?」

 

「ウチと彩牙くんの“望み”、あれってまだ生きてますか?」

 

「お主ら次第じゃな。お主らが魔戒騎士、魔戒法師である限り」

 

――ああ、それだけ聞ければ十分だ。

彼女は何も、約束を違える気など最初からなかったのだ。自分たちが騎士や法師の使命を放棄すれば海未は助からない。彼女はそんな当たり前のことを言っていたに過ぎないのだ。

だから希は確たる意志でこの言葉を言うことができる。

 

「――わかりました。この指令、受けます」

 

「ちょっと、希!?」

 

「アンタ、何を考えて――!?」

 

その言葉に驚き、掴みかかろうとする絵里とにこをやんわりと制する希。

希のあまりにもな落ち着き様に疑問を抱いた彼女たちを前に、穏やかな表情で口を開いた。

 

「大丈夫、海未ちゃんはきっと“この先”におるよ。そうでなくても必ず手掛かりがある」

 

「……それ、本当なの……?」

 

「もちろん! 知ってるやろ、ウチの占いはよく当たるって!」

 

真姫の懐疑的な視線にも臆することなく、はっきりと答える希。

それだけでこの場の全員が理解した。希の今の言葉に、嘘偽り、強がりは一つもないのだと。

海未を助けることができると、そう確信していることを。

そんな中、穂乃果が一歩前に出ると静かに呟いた。

 

「……練習の準備、しておくから」

 

「え……?」

 

「絶対、無事に帰ってきてね。海未ちゃんと一緒に!」

 

「――うん! まかせとき!!」

 

 

 

**

 

 

 

「――――っ!ここは……?」

 

闇法師の繰り出した光に呑み込まれ、意識を取り戻した彩牙。

彼の姿は先程までのクレープ屋のある裏通りではなく、見覚えのない薄暗く広い空間にあった。

周囲を見回す彼の目に映ったのは、仄かに照らされた床と、天から吊るされた赤い幕。そこはまるで劇場の舞台のようだった。

もっとも、果てが見えないほどに広く、客席はほとんど見えないという異常さがあったのだが。

 

そして何よりも違和感を抱いたのは、肌にピリピリと突き刺さる異様な空気だった。

――意識を失う前の状況を察するに、ここは十中八九結界の中だ。恐らくあの闇法師が作り出し、自分をここへ閉じ込めたのだろう。

 

となれば、何か仕掛けてくるに違いない。魔戒剣を手に周囲を警戒していると、突然暗闇の中に一筋の光が差し込んだ。

その光――スポットライトが照らしだしたのは、今まで全く見えなかった客席だった。

たった一席だけを指し示すように照らされたスポットライトによって露になったもの、それは―――

 

 

「――海未!!」

 

意識を失い、鎖で客席に拘束されている海未の姿がそこにはあった。

それを目の当たりにした途端、先程まで抱いていた警戒心は鳴りを潜め、一心不乱に彼女の下へと駆け出す彩牙。

行方知れずとなった海未が目の前にいるのに、周囲をゆっくり警戒する暇がどこにあるのだろうか。

そして、その中間に差し掛かったとき――

 

『――小僧!上だ!!』

 

ザルバの叫びと同時に、上から降りかかる強烈な殺気。

咄嗟に飛び退くと、間髪入れずに目の前に剣を振り下ろしながら人影が降り立った。もし一瞬でも遅れていれば斬り裂かれていたことだろう。

そしてその勢いを殺さぬまま、人影は剣を振るって襲い掛かる。彩牙も魔戒剣を抜き、人影の振るう剣を防ぎ、弾いていく。

一撃、二撃と剣を打ち合い、仕切り直すように人影が飛び退くと、どこからともなく差し込んだスポットライトが人影を照らし、その正体を露にした。

 

「――コテツ……!」

 

「……ちっ。あともうちょいだったのによ」

 

――そこにいたのは魔戒騎士、コテツだった。

彩牙を仇と憎む彼は唾を吐きつけるように表情を歪め、サングラス越しでも隠しきれないほどの憎しみの感情を彩牙に向けていた。

そして彩牙もまた、怒りの感情をコテツへぶつけ返す。

 

「お前……! 何の真似だ!」

 

「言わなくたってわかるだろ、テメェを斬るに決まってんだろ」

 

「お前こそわからないのか!海未がそこで捕まっているんだぞ!」

 

「どうせ死んじまう命なんだ、知ったこっちゃねえよ。………まあ安心しな、テメェを斬った後、責任もって苦しまないように殺してやるさ」

 

「貴様……!!」

 

コテツの言葉に怒りで身を震わせる彩牙。

それは、その言葉だけは到底看過できるものではなかった。

自分が罪人であろうと、コテツの師を殺した男であろうと、それだけは――海未を手にかけることだけはどうしても我慢できるものではなかった。

たとえそれが魔戒騎士としての掟、正しく為さねばならぬことだとしてもだ。

――気づけば、彩牙は憤怒に満ちた表情でコテツを睨みつけ、魔戒剣を向けていた。

目の前にいるコテツと、同じような表情で。

 

『おい、落ち着――』

 

「黙っていろ、ザルバ!」

 

ザルバの声を黙らせる彩牙。

一歩前に出ると魔戒剣で円を描き、ガロの鎧を召喚した。

対するコテツも同じように一歩前に出ると、カゲロウの鎧を召喚した。

 

一歩、また一歩と踏み出していく両者。

スポットライトに照らされた金と灰色の狼の間には、最早語り合う言葉はなかった。

あるのはただ大切な者を奪い、そして奪おうとする相手に対する深い憎悪。

そして、歩みが早足に、早足から駆け足に変わった時、肉薄した両者はそれぞれの得物を“敵”へと振るうのだった――

 

 

『『オオオォォォォォォォォォッ!!』』

 

 

 

**

 

 

 

「……ここやね」

 

――同じ頃。

オルトスからの指令を受けた希はとあるマンションの中にいた。

そこは何の変哲もない、どこにでもあるようなマンションだった。

――希の目の前にある扉の向こうから伝わってくる、異様な気さえ除けば。

 

――何なん、これ……ここが本当に、“あの人”の住まいなん……!?

 

扉の向こうから漂ってくるのは、ホラーの気配のような邪気であるわけではない。

それよりも重々しく、生々しい……謂わば人間の憎悪そのものが溢れ出ているようだった。

扉越しでも伝わるほどに濃厚な憎悪を前に、思わず息を呑み、尻込みする希。

吐き気がこみあげ、今すぐこの場から逃げ出したくなってしまいたくなる。そんな気持ちを抑え込んだのは友を――海未と、そして彩牙を助けたいという想いだった。

 

一歩踏み出し、ドアノブを捻ってみる希。

鍵はかけられていないようだが、扉は固く閉ざされていた。恐らくは術で封じられているのだろう。

だが、これくらいならば容易に想像できていた。

 

「ええと……確かこう……やったよね」

 

懐から一枚の札を取り出すと、扉の真ん中へと貼り付けた。

こんな時に使えとオルトスから渡された魔戒符だ。一歩後ろに下がると指先で陣を描き、法力を籠めて魔戒符を指差した。

すると指に共鳴するように魔戒符が光り始め、その表面に描かれた紋様が浮かび上がった。

そして――

 

「わっ……!?」

 

ポン、と弾けるような音と共に魔戒符は粉々になり、うっすらとした煙を上げながら扉が開いたのだ。

ドアそのものが壊れてしまっていないか微かな不安を抱きつつ、希は閉ざされていた部屋の中へと足を踏み入れた。

 

――思ってたよりも、見た感じは普通やね。

 

玄関と、それに連なる廊下は、物がほとんどないことを除けば至って普通のそれだった。

しかし、見た目は普通であることが却って空気に漂う憎悪を強調しており、肌に貼り付くような不快感を抱かせた。

そして廊下の奥――リビングに続くと思しきドアを開けた時、その先にある光景を目にした希は息を呑んだ。

 

「っ……これは……!」

 

そこに広がる光景は、マンションのリビングとはかけ離れたものだった。

薄暗い部屋中を埋め尽くす、用途がわからないものから作りかけのものまでの様々な魔導具。本棚一杯に詰められ、読みかけのものが至る所に放置されている魔導書。その中には見つめてはいけないと本能が訴えかけるような危険なものまでが幾つもあった。

そこは御伽噺に出てくる魔法使いの住処と呼んでも差し支えない場所だった。それもまともな部類ではない者の――だ。

 

――いけない。こんなところで気圧されてたらあかん……!

 

頬を叩き、気を取り直してリビングの中に足を踏み入れる希。

迎撃用の魔導具などをうっかり起動してしまわぬよう、細心の注意を払いながら目当てのものを探していく。

……そのうちの最たるものである、海未の姿はここには無いようだった。彼女の気配が微塵も感じ取れなかったのだ。

しかし落胆する暇も、必要もない。たとえ姿が無くても手掛かりがある筈だと信じていたのだ。

 

そんな中、希の視界に一冊の魔導書が映りこんだ。

たまたま視界に入っただけなのに、どうしても意識を逸らすことができず――逸らしてはならないと本能が訴えかけ――それを手に取った。

その魔導書の表紙には指令書に使われる魔導文字とは違う、全く見たことのない文字が記されていた。魔界に関する文字であることは確かなのだろうが、希ではどうやっても中身を読むことができない。

オルトスならば読めるかもしれない――そう思い、魔法衣の懐に魔導書を仕舞おうとした。

 

「――あれ、何か……?」

 

その時、魔導書の中から、折りたたまれた一枚の紙が落ちた。

その紙を拾い上げ開いていくと、露になったのは一枚の地図だった。この辺一帯が記されたその地図には、幾つか丸が付けられていた。

丸が付けられた地点のことを思い浮かべながら目を通していくと、彼女の意識はある一点の丸に釘つけになった。

その丸が付けられた場所は、彼女が良く知る場所だった。大切な思い出が詰まっており、守りたい人たちがいる、その場所は――

 

 

 

『……そこに、誰かいるのですか……』

 

「っ!? だ、誰!?」

 

突然部屋の中に響いた、くぐもったような男性の声。

この場を守る番人かと周囲を警戒する一方で、希はその声に奇妙な感覚を抱いていた。

どこかで聞き覚えがあるような……そんな思いを抱きながら声の出所を探していくと、彼女の視線は机の上に辿りついた。

綺麗な女性の写真や幾つもの紙が散らばる中、そこにいた声の主は――

 

 

 

**

 

 

 

――……!………!

 

――何でしょう……

折角寝ていたのに何か聞こえて眠れません……

これは……人の声と……金属の音……?

なにか金属をぶつけあうような……まるで、刀を打ち合うような……

 

――!!…………!!

 

――まだ聞こえますね……

まったく、人が静かに寝ているのに静かにできないんでしょうか……?

少しは気を遣って……――

 

 

 

 

 

 

 

 

…………あれ?

そもそも私はいつ寝たんでしたっけ……?私は寝る前、何をしていたんでしたっけ……?

ええと……私は、たしか……――

 

 

――海未ちゃぁぁぁぁん!!

 

 

――そうだ……!

私はあの時、音ノ木の講堂で何かに捕まって――!

 

 

 

 

 

 

「――――っ……! こ、ここは……!?」

 

意識を失う直前の記憶を取り戻し、跳ね起きるように意識を取り戻した海未。

しかし起き上がろうとするも、意志に反して彼女の身体は微動だにしなかった。

視線を下に映せば、そこには劇場の椅子に縛られた自分の姿。困惑に包まれながらもなんとか脱出しようと身を捩らせるも、彼女を縛る鎖はびくともしなかった。

何故こんなことになったのか定かではないが、意識を失う前の状況から察するにホラー絡みの碌でもないことだけは確かだ。

どうにか脱出できないかと途方に暮れる中――

 

 

――ガ、キィィィィィ………ン………!!

 

「え……!?」

 

辺りに響く金属音。

そういえば意識を取り戻す前、この音と何かの叫び声に意識が誘われたことを思い出した。

そして再び響く金属音と叫び声。刀が打ち合う音に似ているそれの正体を探すべく、周囲に視線を向けるとそれはすぐに見つかった。

 

そこには、スポットライトで照らされた、とても広大な舞台があった。

その場で火花を散らして剣の舞を踊っていたのは、くすんだ金と灰色の、二頭の狼。

金の狼が振るった剣を、灰の狼の剣が宙に弾き飛ばす。距離を取った灰の狼がブーメランのように投擲した剣を、金の狼が殴り飛ばす。

互いの剣が宙に舞い、無手となった二頭の狼は拳を繰り出す。金の狼の拳が灰の狼の顔面に吸い込まれ、灰の狼の拳が金の狼の鳩尾に吸い込まれる。

よろめき、たたらを踏むも相手へ向かう足を止めようとしない狼たちの下に互いの剣が還る。そして、力強く握ったそれを、目の前の敵に向けて振り下ろす――

 

『――サァイガァァァァァァァァ!!』

 

『――コォテツゥゥゥゥゥゥゥ!!』

 

鍔迫り合い、怒りに満ちた互いの名を叫ぶ二頭の狼――

そこでは黄金騎士ガロと灰塵騎士カゲロウ――村雨彩牙とコテツが、憎悪に満ちた死闘を繰り広げていたのだ。

 

「彩牙くん……なんで、どうして……!?」

 

海未はその光景に我が目を疑った。

彼女の記憶では、彩牙はコテツの師を殺めたという罪の意識に苛まれ、自信も覇気も何もかも喪失していたのだ。

だがこれは何だと言うのか。

目の前でコテツと戦っている彩牙は、彼に対する怒りや憎しみを隠そうとせず、それらの感情に従うまま剣を振るっていた。鎧越しで、離れている海未にはっきりと伝わるほどに。

一体何が彩牙をあそこまで変えてしまったというのか――

 

「――見物だろう?私怨に満ちた剣を振るう騎士の姿は」

 

「――――っ!?」

 

――な……!?この人、一体どこから……!?

 

その時、一人の男が前触れもなく海未の隣に現れた。

黒いローブに身を包んだ男――闇法師だ。音もなく現れたことと、彼の纏うどす黒く濁った気配を前に海未の頭は驚愕に包まれ、その心は闇を恐れる本能的な恐怖に竦みあがった。

そんな彼女の様子に満足したのか、闇法師は愉快そうな声色で口を開いた。

 

「少し手を加えてやるだけで怒りに囚われる……まったく未熟で、それゆえに御しやすい」

 

「……! 彩牙くんたちに何をしたんですか……!?」

 

「簡単なことだ。復讐に燃える者には仇を、空っぽな者にはその心を狂わせる囚われの姫を用意してやっただけのことだ」

 

「囚われの……? っ――!」

 

その言葉にはっとした海未は、改めて今の状況を思い返す。

意識を失う前の光景、そして拘束された自分の姿……囚われの姫とやらが誰のことを指しているかなど、火を見るより明らかではないか――

 

「よく想われているではないか。お陰で事が容易に進んだよ」

 

「……何故ですか。何のために、こんなことを……!」

 

愉快そうで、それでいて見下しているような闇法師の姿に、憤りに満ちた瞳をぶつける海未。

人を影で操り、その様を見て悦に浸るなど、どんな理由があったとしても許せることではないのだ。

しかしその義憤も――ローブの下からこちらを見下ろす闇法師の姿を前に、引っ込むこととなった。

 

「――何故かだと? 我が復讐のために必要だからだ。奴らも、そして貴様も」

 

「………!」

 

先程までとはうって変わり、冷徹な声色の闇法師。

ローブの中からうっすらと浮かんだ闇法師の瞳を見た海未は戦慄し、思わず息を呑んだ。

世に対する絶望と失望がごちゃ混ぜになったかのような虚無感と、人間という生き物に対して消えることのない復讐の炎が燃え上がるという、相反する二つの感情が浮かんでいたのだ。

一体何があれば人間がこんな眼をするのか――海未は戦慄した。そしてそれ故に気づけなかった。

自分たちが必要だという、その言葉の意味に。

 

「さあ見るがいい――我が復讐のために怒りに囚われた騎士の姿を」

 

「――! 彩牙くん……!」

 

 

 

 

 

 

火花が舞う。

金の剣と灰の剣――牙狼剣と灰塵剣がぶつかり合い、ソウルメタルの火花が舞い散り、暗闇を照らす。

ぶつかり、弾かれた牙狼剣をガロは渾身の力で抑え込み、再び振り下ろす。カゲロウは手元から浮かびかけた灰塵剣を握りしめ、振り上げた。

間髪入れずに牙狼剣と灰塵剣がぶつかり合い、再び火花が舞い上がり、そして同じように弾かれる。

 

先程と違うのは、剣が手を離れて互いの背後に飛んでいき、床に突き刺さったことだった。

無手となった二人だが、闘志は微塵もなくなってはいない。剣だけではない、その身そのものが武器なのだ。

ガロが拳を繰り出せば、カゲロウの胸に吸い込まれていく。カゲロウが手刀を繰り出せば、ガロの鳩尾に突き刺さる。

息が止まり、吐きそうになるのを堪え、ガロは頭突きを叩き込む。視界が乱れ、焦点が合わなくなる中で、カゲロウは回し蹴りを叩き込む。

殴る、蹴る、騎士という名には程遠い、泥臭い戦いがそこにはあった。

 

『う、お……りゃあぁぁぁぁぁ!!』

 

カゲロウの繰り出した拳を、姿勢を低くして避けたガロの腕が絡めとる。

まずい――そう思う暇もなく、ガロに背負い投げられたカゲロウは、渾身の力で床に叩きつけられた。

背中から伝わる衝撃に痺れるカゲロウ。そこに追撃を加えようと飛びかかるガロの腹部に、カゲロウは咄嗟に蹴りを叩き込む。

カゲロウの脚で吊り上げられたガロは、そのまま巴投げのように蹴り飛ばされる。飛ばされた先で床を何度も跳ね、腕を突き出して体勢を立て直したガロはその場で突き刺さっていた牙狼剣を握りしめ、床から引き抜いた。同様にカゲロウも体勢を立て直し、床に突き刺さっていた灰塵剣を引き抜いた。

 

そして、再び剣を手にした二人の騎士は、雄叫びと共にぶつかりあった。

 

『俺が憎いか!あの女を殺そうとする俺を!!』

 

『ああそうだ!海未を手にかけるというのなら、例え修羅に堕ちても貴様を殺す!!』

 

『言うじゃねえか!だったら俺は鬼になってやるさ、テメェという修羅を殺す復讐の鬼になぁ!!』

 

剣が弾かれ、振るわれる。また弾かれ、振るわれる。

何度も、何度も、剣の打ち合いが繰り広げられ、ソウルメタルの火花が金と灰の鎧を赤く照らす。

その最中、カゲロウは灰塵剣を双剣態へと変え、怒涛の連撃を繰り出していく。息をつく暇もなく繰り出される二刀流の嵐を前に、ガロは段々刃を捌ききれなくなり、徐々に劣勢に追い込まれていく。

そうして徐々に崩れ始めた均衡は、遂に決定的な時を迎えた。

 

『ぐっ―――――!!』

 

床に向かって弾かれた牙狼剣が、床と、灰塵剣の一振りによって挟み込まれたのだ。

剣を封じられたガロ。カゲロウはその隙を見逃さなかった。

残ったもう一振りでガロの身体を切り刻み始めたのだ。

何度も何度も斬り裂かれ、鎧を構成するソウルメタルの粒子が火花となって宙に舞い、その下に包まれる彩牙の血が飛び散り、真っ白な周囲の床を赤く染めていく。

 

切り刻まれていくガロだが、彼の瞳から闘志は消え去っていなかった。

己の身を斬り裂いていく灰塵剣を掴み、奪い取り、後方へと投げ捨てた。

得物を奪い取られ、動揺で一瞬怯んだカゲロウ。ガロにはその一瞬だけで十分だった。

頭突きを叩き込み、間髪入れずに顎に掌底を叩き込む。平衡感覚を失い、よろめくカゲロウに掴みかかり、床に押し倒したのだ。

 

マウントポジションを取ったガロは拳を叩き込んでいく。

切り刻まれたお返しと言わんばかりに何度も叩き込み、鎧を砕き、肉を潰し、その拳をコテツの血で赤く染めていく。

そして傍で突き刺さっていた牙狼剣を手に取り、逆手に持ち切っ先をカゲロウへと向ける。

睨みつけるように赤い瞳を向けるカゲロウ。

 

――こいつを野放しにしておけば海未がまた危険に晒される。今、やるしかない――

そんな暗い意志と共に、牙狼剣を振り下ろす。

真っ直ぐ振り下ろされた牙狼剣は、その先にあるカゲロウの喉元に――

 

 

 

 

 

 

 

「――彩牙くんっ!! だめぇぇぇっ!!」

 

 

 

***

 

 

 

海未「それは、どこまでも深い絶望」

 

海未「それは、激しく燃え盛る憎悪」

 

海未「それら陰我を、影から操る者がいた」

 

 

海未「次回、『暗黒』」

 

 

 

海未「闇が、そのベールを脱ぎ捨てる」

 

 

 

 







魔戒指南


・ 謎の魔導書
とあるマンションの一室で希が見つけた魔導書。
古く難解な文字で記されており、希では読むことができない。

【読んでしまえば戻れない】


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第21話  暗黒



第一部 決戦:後編

今回で第一部は区切りとなり、断章に当たる話を投稿してから第二部に入ります。
またしばらくお待たせすることになるとは思いますが、お楽しみいただければ幸いです。


 

 

 

 

 

 

休日の音ノ木坂の廊下を、一人走る少女がいた。

それはこの学校の副会長・東條希。ここの生徒である彼女がいること自体は何もおかしくはなかったが、その姿は一生徒としては異彩なものだった。

 

第一に、彼女の服装は制服でも練習着でも、普通の私服でもない。紫色のコートにいささか露出の多い姿――魔法衣を纏っていたのだ。

そしてその表情は学校にいる女子高生にしてはあまりにも険しく、集燥に駆られたものを浮かべていた。

まるで、戦場に向かおうとしている戦士のように。

 

『……もう少し、近いですよ!』

 

「うん!」

 

その場に響き渡る、男性のような声。

何処から発せられたのかもわからない、金属音混じりのその声に希は全く動じることなく、当たり前のように返事をしていた。

 

彼女は走る。

友を助けるため、友を守るため。

友を呪縛から解放するために――

 

 

 

**

 

 

 

真っ直ぐ振り下ろされた牙狼剣は、その先にあるカゲロウの喉元に――

 

 

「――彩牙くんっ!! だめぇぇぇっ!!」

 

――突き刺さる直前で、ピタリと止められた。

その場に響き渡った第三者の叫びが、ガロの――彩牙の中から激情の熱を奪い去り、冷水を打ったように我に返る。

ガロの鎧が解除され、同時にカゲロウの鎧も解除される。そして顔を上げた彩牙の視線の先には、客席に縛られ、涙を浮かべ、悲痛な表情を向ける海未の姿があった。

 

「やめて……お願いだから、やめてください……」

 

涙と共に、ポロポロと懇願を呟く海未。

――自分は今、何をしていたのだろうか。

怒りと憎しみに支配され、あろうことか海未を理由に罪を重ねようとしていた。こんな有様を見せて、何が守りし者だというのか。

我に返った彩牙は己の所業に慄き、力なく海未の下へ歩み寄ろうとした。

 

 

「――いけない娘だ。あともう少しだったというのに」

 

しかし次の瞬間、彩牙の表情はまたも怒りで塗りつぶされた。

海未の隣に立つ闇法師が、彼女の肩をがしりと掴み、その首元に魔導筆を突きつけたのだ。

彩牙はすぐさま駆けつけようとするが、「動くな」と闇法師がそれを手で制する。

 

「貴様……海未を放せ!!」

 

「……いいぞ、その表情だ」

 

くつくつと、満足そうに頷く闇法師。

魔導筆を光らせ、いつでも海未の命を奪うことができると脅しをかけるその姿に、彩牙は激しい怒りと、手出しできない自分への憤りを抱いていた。

 

 

「さて、彼女を放してほしければ……わかっているな?」

 

「……何が望みだ……!」

 

「灰塵騎士を斬れ」

 

その言葉に、反射的に振り返る彩牙。

その視線の先には、床に倒れ伏し、こちらを射殺さんばかりに睨みつけるコテツの姿。

彩牙の視線が、意識が、海未とコテツの間を行き交う。

 

「何を躊躇う。その男は貴様だけでなくこの娘も手にかけようとしたのだぞ?その男がいなくなり、この娘も助かる。迷う理由なぞどこにある」

 

「っ…………!」

 

闇法師の誘いに、表情を歪ませる彩牙。

――少なくともつい先程まで、自分は正にそう信じてコテツと刃を交えたのだ。

それが魔戒騎士どころか人の道まで外れていることすらも、頭から転がり落ちて……

 

「元よりお前はこちら側の人間だ。その男の師を殺め、怒りに身を任せて剣を振るう……魔戒騎士と名乗るには程遠い、ホラーに近しい人間なのだ」

 

「ちがう、俺は……俺は……!」

 

「違わぬさ。くすんだ鎧がその証、血に汚れたお前は決して守りし者にはなれぬ」

 

「……!」

 

 

 

「さあ……その男を斬り、お前もこちらへ堕ちてくるがいい……」

 

闇法師の言葉が、誘惑が、水を濁らせる絵の具のように、罪に苛まれる彩牙の中に侵食していく。

――やるしかないのだ。

このまま躊躇っていては、海未は闇法師に殺されてしまう。コテツを放っていけばいつか海未に手をかける。

自分は既に両手を血に染めていたのだ。ならば今更もう一人斬ったところで何が変わるというのだ。

コテツを斬ってしまえば海未は助かるのだ、何を迷う必要があるのだ。

――そうだ。そのためなら闇に堕ちることくらい――

 

 

 

「……………なにを……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――何をいつまでもうじうじ迷っているのですかっ!!」

 

――その時。

凛とした叫び声が、辺り一面に響き渡った。

 

「………海未……!?」

 

その叫びに我を取り戻した彩牙。

振り返れば、そこには魔導筆を突きつけられながらも凛とした表情を崩さず、彩牙に檄を飛ばす海未の姿があった。

涙は流しているものの、そこには命を握られている恐怖も、堕ちかけていく彩牙への哀しみも感じさせてはいない。

あるのはただ、彩牙へとぶつける想いのみ。

 

「あなたがこれまで戦ってきたのは何のためですか! 罪滅ぼしのため?……違うでしょう!!」

 

「過去に人を殺した――それが何だというのです! たとえそれが真実だとしても、あなたがこれまでしてきたことは変わりません!」

 

「私を、みんなを、沢山の人々を守ってきた、守りたいから戦ってきた……! そんなあなたが闇の人間だ、魔戒騎士失格などと……悲劇のヒーロー気取りも大概にしなさい!!」

 

「誰かに許されなければ戦うこともできない……あなたはそんな人間ではないでしょう!」

 

それこそが、海未が彩牙に伝えたかった想い。

彩牙はこれまで、彼女を、皆を、多くの人々を守るために戦ってきた。たとえ人を殺したことが事実だとしてもそれだけは揺るがない。

罪を犯した者が人を守ってはいけないなどとと誰が決めた。人を守る資格などどこにあるのだ。

――許されることが無くても、人を守っていいではないか。

そんな想いと共に、海未は叫ぶ。

 

「立ち上がりなさい!村雨彩牙!! 黄金騎士ガロともあろう者が――」

 

 

 

 

 

「“私たち”たった二人を、守れずしてどうするのですか!!」

 

海未の檄が、言葉が、想いが、彩牙の中に染み渡っていく。

その澄み切った想いは、泥のように澱んだ彩牙の迷いに差し込んでいく。

さながら、暗闇の夜を照らす月の光のように――

 

 

「まったく、野暮な真似をする娘だ」

 

「あうっ……!」

 

そんな海未の頭を乱暴に掴み、魔導筆を首筋に突きつける闇法師。

魔導筆の先端に灯る光が、彼女の白い肌をじりじりと焼いていく。

だが肌を焦がし、焼かれる痛みを前にしても、海未は凛とした表情を崩さず、彩牙へ向ける視線を少しも揺るがせることはなかった。

その瞳を、彩牙は真正面から受け止める。

――不思議と、心の中は落ち着いたままだった。

 

「さあ、このままこの娘を血の色に染め上げてもいいのか?」

 

彩牙は、手の中の魔戒剣を力強く握りしめた。

そしてその視線は、闇法師に頭を掴まれこちらを見下ろす海未の視線とぶつかりあう。

互いの視線が交差する中、彩牙は静かに口を開いた。

 

「――海未、俺を信じてくれるか」

 

「―――はい……!」

 

『何を』と尋ねることもなく、彩牙の言葉に迷うことなく頷く海未。

それを見届け、深呼吸した彩牙は――

 

 

 

 

 

 

 

握りしめた魔戒剣を、闇法師と海未目掛け、全力で投擲した。

 

「―――――ッ!?」

 

その瞬間、闇法師は驚愕に包まれた。

渾身の力を籠めて放たれた魔戒剣は山のような軌道を描き、弾丸の如き勢いで迫りくる。

咄嗟に魔導筆を握る腕を海未から引っ込めたと同時に、闇法師と海未の間に魔戒剣が轟音と共に突き刺さった。その様はまるで地に落ちた雷のようだった。

そしてその直後、闇法師の瞳に映ったのは、魔戒剣を投擲した直後に距離を詰め、拳を振りかぶる彩牙の姿だった。

 

「ウゥゥオォォォォォッ!!」

 

咆哮と共に放たれた拳は、虚を突かれた闇法師の身体へと確かに叩き込まれ、その身を海未の傍から叩き飛ばした。

そして入れ替わるように海未の傍へと立った彩牙は、彼女を縛る鎖を斬り払い、その身体を抱き起した。

彩牙の瞳に、涙を浮かべながらも満面の笑みを浮かべた海未の表情が写りこむ。

 

「……すまなかった、海未。不甲斐ないところを見せてしまったな」

 

「いいえ、信じていましたから。彩牙くんなら必ず、また立ち上がることができると」

 

「……ありがとう」

 

思わず笑みを零し、表情を綻ばせる彩牙。

互いに憑き物が落ちたような表情で見つめあう彩牙と海未。そして静かに瞼を閉じ、深く息を吸い、再び顔を上げた彩牙の表情は鋭いものへと変わり、海未の身体を庇うように彼女の前へと立った。

向かう先には、体勢を立て直した闇法師――

 

「もう、迷いませんね?」

 

「ああ、覚悟は決めた」

 

(ま、惚れた女にあそこまで言われちゃ立ち直らずにはいられんだろうさ)

 

(……そうだな、その通りだ)

 

ザルバとの念話に頷き、闇法師をまっすぐ見据える彩牙。

その瞳に、迷いは一片たりとも浮かんではいなかった。

 

「……確かにお前の言う通り、俺は過去に人を殺め、両手を血で染めたのかもしれない。俺に魔戒騎士の資格はない……それも正しいのかもしれない」

 

「だが俺は戦う。例え騎士の資格がなくても、罪に穢れても、罵られることがあっても、俺は魔戒騎士であることをやめない」

 

「贖罪のためじゃない。誰が何と言おうとも、人々の命を、明日を、夢を守るため、大切な人を守るために戦う!なぜなら俺は……」

 

魔戒剣を天に掲げ、円を描く。

黄金の輪から差し込む光が、彩牙の全身を包み込む――!

 

 

 

『――俺は守りし者……黄金騎士・ガロだ!!』

 

迷いなく、高らかに宣言する彩牙――否、黄金騎士ガロ。

その背を見つめる海未は見た。

見間違いか、目の錯覚か――しかし彼女の瞳は確かにそれを捉えたのだ。

 

 

――くすんだ金色をしていたガロの鎧が一瞬、だが確かに――澄んだ輝きを放っていたことを。

 

 

 

それと同時に、彩牙の脳裏にある光景が過った。

コテツの師を殺める瞬間の記憶――その光景がノイズと共に消えていく様を。

それと代わるように、ある光景が浮かび上がってくる。

ガロとは異なる鎧を纏う自分、突き飛ばされる自分の身体。入れ替わるように斬り捨てられ、崩れ落ちていく白い魔法衣の男。絶叫と共に届かぬ手を伸ばす自分。

そしてそれを闇の中から見下ろす、見覚えがあるような男の姿――

 

 

 

「……当てが外れたか。だが――」

 

幻滅したかのような闇法師の呟きに引き戻されるガロの意識。

それと同時にガロの背後に現れる気配――いや、殺気。

その正体は――

 

『――村雨彩牙ァァァ!!』

 

カゲロウの鎧を纏ったコテツが、ガロに斬りかかったのだ

だがその様子は明らかに異常な姿だった。獣のような息吹を上げ、赤い瞳はまるで血が沸騰しているかのようにギラギラと燃え上がっている。そしてそれに呼応するかのように、首元のゾルバの瞳は赤く輝き、その身から発せられる赤黒いオーラがカゲロウの全身を包んでいたのだ。

その姿を目の当たりにしたザルバは、驚いたように口を開いた。

 

『こいつは……そうか、そういうことか! あれはゾルバじゃない、そっくりに作られた魔導具だ!』

 

『なんだと!?』

 

『あれは身に着けた者の怒りや憎しみを増幅させる魔導具だ!陰我を呼び寄せてしまうような禁じられたシロモノだぞ!』

 

振り下ろされた灰塵剣を牙狼剣で受け止める中、ガロは思案する。

コテツが己へ向けていた異常なまでの殺意は間違いなくこれが原因だ。元々抱いていた疑惑や怒りが魔導具によって際限なく高められ、確信と殺意に昇華されていたのだ。

そしてこんなことを仕組んだのは、今この状況を見てほくそ笑んでいるであろうあの男――闇法師しかいない。

 

『ウゥゥゥゥゥガアァァァァァァァァッ!!』

 

『っ……! こ、のっ……!!』

 

とはいえ、まずはこの状況を何とかしなくてはならない。

魔導具によって完全に理性のタガが外されたのか、灰塵剣に籠められる力はどんどん増していき、圧し潰されかねない勢いだ。

受け流そうにも自分の背中には海未がいる。そんなことをすればどうなるかは火を見るよりも明らかだ。

かといって鎧を纏った今では、彼女を抱えて跳ぶこともできない。

一体どのようにしてこの場を切り抜けるか――

 

 

 

 

 

 

「――彩牙くん!!」

 

ガラスが砕けるような音と共に響いた、自らを呼ぶ声。

その瞬間、カゲロウの腕に巻き付いた、淡い紫色の光の鞭。

それはすぐに解かれてしまったが、灰塵剣に籠める力に確かな隙が生まれた。

その隙を見逃さず、牙狼剣で灰塵剣を斬り払う。がら空きとなったカゲロウの胴体に、ガロの拳が叩き込まれる。

一切の容赦なく放たれた拳に、カゲロウの身体はくの字に曲げられる。呻くように息を吐くと共に鎧は解除され、コテツの姿が露になる。

 

その時、ガロの横を乱入者が通り過ぎた。それはガロ、そして海未もよく知る人物だった。

紫を基調とした、少々露出が多い魔法衣に身を包んだ少女――東條希だ。

彼女はコテツの目の前に辿りつくと、首元のゾルバにそっくりな魔導具目掛け、あるモノを叩きつけた。

 

 

『――コテツ!そのような紛い物に惑わされてどうするのですか!!』

 

それは――正真正銘、本物の魔導具ゾルバだった。

ゾルバが彼を模した魔導具に触れた瞬間、彼の口から赤い魔導火が溢れ出し、魔導具の中へと吸い込まれていく。

すると魔導具の全体に亀裂が走り、内部から焼き尽くされたかのように砕け散ったのだった。

 

「っ――――――、ぁ……!」

 

その瞬間、がくりと糸が切れたかのように崩れ落ちるコテツ。

魔導具の支配から逃れ、意識を失った彼の首元には、彼の相棒である魔導具ゾルバが元通りに鎮座していた。

 

それと同時に、ガロの瞳にあるモノが映りこんだ。

こちらをつまらなそうに見下ろし、魔導筆を操る闇法師の姿だ。

それを目にした瞬間、ガロは即座に動いた。

 

『希!二人を頼む!!』

 

「うん!!」

 

闇法師の下へ、観客席の中を駆け上がっていくガロ。

それと同時に闇法師の術が発動し、魔導筆で描かれた陣から無数の光の矢が放たれる。

それらを牙狼剣で斬り払い、勢いを止めることなく駆けていくガロ。打ち漏らした矢も、希が張った防壁によって防がれ、海未とコテツに届くことはなかった。

 

駆け上がり、ガロは一気に距離を詰めるべく椅子を蹴り、宙に高く跳びあがった。

そして牙狼剣を振り上げると、咆哮をあげ、落下のスピードに乗せて闇法師へと振り下ろす――!

迫りくるガロと牙狼剣を前に、闇法師は海未と希とコテツ、そしてガロの姿を一瞥すると、静かに呟いた。

 

 

 

「潮時か」

 

その直後、闇法師に振り下ろされた牙狼剣。

その衝撃は暴風となり、劇場中に吹き荒れる。

あまりの風圧に身体を背ける海未と希。そして衝撃が収まった時、彼女たちが目にしたのは――

 

 

 

 

 

闇法師の寸前で牙狼剣を止められていた、ガロの姿だった。

 

『なっ……!? なぜだ……何故あなたが……!?』

 

牙狼剣を止めたのは、術を発動した魔導筆――ではなかった。

それはソウルメタルで作られた、魔獣を打ち倒すべき牙――魔戒剣。

ガロにも見覚えがあるその魔戒剣を握る闇法師は、先程の風圧で深く被っていたフードがめくり上げられていた。

フードの下に隠され、露になったその素顔。その正体は――

 

 

 

 

 

 

『どういうことなんだ――“大和さん”!!』

 

――元老院付きの魔戒騎士、鬼戸大和だった。

 

ガロの慟哭にも近い問いかけを前に、彼は眉一つ動かすことはなかった。そして牙狼剣を受け止めていた魔戒剣を斬り払い、ガロの身体ごと弾き飛ばした。

弾き飛ばされ、宙で姿勢を直し、着地するガロ。

鎧越しでも戸惑いを隠せない彼に向け、大和は静かに口を開いた。

 

「わからんか?見ての通り、全て私が仕組んだことだよ。この街にゲートをばら撒いたのも、コテツに魔導具を取りつけたのも、その娘を攫ったのも全て、な」

 

『なんだと……!』

 

「……やっぱり、本当に大和さんやったんですね」

 

「ふ……そうか、オルトスの差し金か。気付かれるのが思ったより早かったな。 ……となると、“見た”のだろう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私がコテツの師――零士を殺した瞬間をな」

 

『なっ……!』

 

なんてことの無いように言い放たれた衝撃の事実に、言葉を失うガロ。

視線を希に移すと、彼女はコクリと頷き、険しい表情のまま口を開いた。

 

「……ウチが見せられた映像は、大和さんがでっち上げた偽物やったんよ。それに気づいたオルトスさんからの指令で大和さんの家を調べたら……」

 

――見つかったのだ。

大和がコテツの師を殺めたという、本物の記録を収めた魔導具を。大和に囚われていた魔導具ゾルバを。

そしてゾルバの導きにより、彼女はこの場に来ることができたのだ。

 

「偽りの記憶も仕込んで上手くやっていたところだったが……やれやれ、こんな形で破綻するとはな」

 

可笑しくてたまらないのか、邪悪な含み笑いを零す大和。

自分たちの記憶の中とはまるで異なる彼の姿に戸惑いを抱き、大和が本当に闇法師の正体であることを余儀なく実感させられる。

そして同時に……怒りの炎が沸き上がる。

 

『……なぜだ。何故あなたほどの騎士がこんなことをする!! 俺に魔戒騎士の在り方を語ったことも、希に法師としての稽古をつけたことも……俺たちを助け、共に戦ってきたことも!全て嘘だったというのか!!』

 

それでも、信じたくなかったのだ。

海未の命を救うために力を貸すと誓ったこと、コテツと戦った際に仲裁に入ったこと、希に法としての道を諭し、彼女に稽古をつけたこと。そして――共に戦い、時に自分たちの命を救ってくれたこと。

その全てが嘘だったなど――

 

「……忘れたのか?私は確かに言ったぞ。

 

 

 

 

 

 

 ――人間に守る価値などない、とな」

 

『………!!』

 

――それが、答えだった。

正真正銘、大和はとうに闇に堕ちてしまっていたのだ。

初めて顔を合わせた時から――いや、それ以前から。大和は人間を憎み、守りし者の使命を放棄していたのだ。

優秀な魔戒騎士としての顔を見せていた裏で、街中にホラーを放ち、人々の命を――!

 

 

 

『………ふざけるな! あなたの――いや、貴様のせいで一体どれだけの人が犠牲になったと思っている!守るべき人々をホラーに売り渡す……魔戒騎士を名乗る資格がないのは貴様の方だ!!』

 

「ならば、どうするというのだ?」

 

『貴様の狂った陰我、今ここで俺が断つ!たとえ貴様を斬ることになっても!!』

 

咆哮と共に、大和に向かって駆け出すガロ。

距離を詰め、その手に握る牙狼剣を――怒りの刃を掲げ、人々を苦しめる邪悪へと振り下ろす。

だが迫りくるガロ、そして牙狼剣を前にしても、大和は微塵も悠然とした態度を崩すことはなかった。

 

「いいだろう。我が真の力、その一端を見せてやろう」

 

そう呟くと同時に魔戒剣で床を叩き、イブの鎧を召喚する大和。

波紋のように広がった光の輪から鎧のパーツが飛び出し、大和の全身に纏われていく。

海のように蒼く輝くイブの鎧――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――その全身に亀裂が走り、膨大な闇が噴き出すと同時に砕け散った。

 

『なにっ!?』

 

爆発したかの如く噴き出した闇の勢いと飛び散った鎧の破片を前に、ガロの脚はその場に縫い付けられた。

鎧を纏っても尚、吹き飛ばされぬように足腰に力を入れ、踏み留まるので精一杯だった。同様に希もまた、海未と意識を失ったコテツを守るため、防壁を張って耐えていた。

 

『――小僧!!』

 

ザルバの声に反応できたのは、幸運としか言えなかった。

闇の中から突如放たれた、重く鋭い一撃。それを咄嗟に翳した牙狼剣で受けることができなければ、身体を吹き飛ばされていただけでは済まなかっただろう。

海未と希の悲鳴と心配そうな眼差しを浴びる中、ガロは油断なく闇の中を見据えた。

――そして闇の勢いが収まり、晴れた先に佇むモノの姿が露になった。

 

『――っ!? あれは……!』

 

それは、彼らが知るイブの鎧とは似て非なるものだった。

所々かつての姿を思わせる部分はあるものの、全く異なる姿をしていた。

海のように蒼く荘厳な鎧は、一点の光も届かない深海のようなどす黒く禍々しい漆黒の鎧に。澄んでいた金の瞳は、濁りきった輝きのない金に。手にしていた音叉のような大剣――波紋剣は、歪で禍々しい形状の二又の大剣――暗黒剣に。

そして、その身を形作るソウルメタルは反転し、生物的な質感の闇の金属――デスメタルへと変貌していた。

 

それは魔戒騎士でありながら、魔戒騎士に非ずモノ。

闇に堕ちた騎士の象徴。闇に魂を売った騎士の為れの果て。

それは最早、波紋騎士イブではない。

その真の名は――

 

 

 

 

――暗黒騎士・威武(イブ)!!

 

 

『――っ! なっ……!』

 

それは一瞬のことだった。

瞬きをする間もなく、まるで瞬間移動のようにガロの目前へと距離を詰めたイブ。

想像を絶するスピードを前に反応が遅れたガロの胴体に、暗黒のオーラを纏ったイブの拳が叩き込まれた。

 

殴り飛ばされたガロの身体は観客席の椅子を幾つも貫き、粉砕していき、やがて舞台の真ん中へと叩きつけられた。

辺りに椅子の残骸が散らばる中、ガロはふらつきながらも立ち上がる。その先には、悠然としながら歩み寄ってくるイブの姿があった。

 

『どうした?私を斬るのではなかったのか?』

 

『っ……! だま…れっ……!!』

 

牙狼剣を強く握りしめ、斬りかかるガロ。

だがイブはそれを暗黒剣で受け止める――までもなく、軽く払った程度でガロの身体ごと弾き飛ばしたのだった。

よろめき、姿勢を正し、再度斬りかかるガロ。しかし何度やっても、その刃がイブに届くことはなかった。

 

『……足りん。 その程度では全く足りんぞっ!!』

 

『ぐっ――!!』

 

身体に纏っていた暗黒のオーラを、爆発したかのように噴き出すイブ。

爆風の如きそれを真正面から受けたガロは身体を大きく崩し、どうにか姿勢を持ち直そうとするので精一杯だった。

――故に、反応が遅れた。

暗黒の爆心地から突き放たれた暗黒剣の切っ先が、ガロの肩を貫いたのだ。

 

『ぐああああぁぁぁぁぁっ!!』

 

「彩牙くん!!」

 

肩を貫かれたガロの絶叫が、辺り一面に響き渡る。

暗黒の噴出が収まり、その姿を露にしたイブは手にした暗黒剣でガロの身体を持ち上げる。

宙に吊られたガロ。その足元に鮮血が滴り落ちる姿に、海未は叫ばずにはいられなかった。

 

『弱いな……その程度の力で私に勝つつもりだったのか?』

 

暗黒剣を握る力が強くなり、その刃はガロの肩に更に深く沈んでいく。

 

『人間を守る――そのようなことに固執しているようでは、未来永劫私には勝てぬ!』

 

『ぐうぅっ!!』

 

『今からでも遅くはない、こちら側に来い。下らぬ使命など捨て、大いなる力と共に人間どもを滅ぼすのだ! お前にはその資質がある……!』

 

 

 

 

 

 

 

 

「――下らなくなど、ありません!!」

 

辺り一面に響いた、凛とした叫び声。

その場にいた全員が、その声の主へと視線を向ける。そこには防壁を張る希を押し退けるかのような勢いで身を乗り出す海未の姿があった。

彼女はイブの禍々しき姿と暗黒のオーラ、邪気に染まったその眼差しに臆することなく叫ぶ。

 

「人を守ることのどこが下らないというのですか! たとえ迷いに囚われても、復讐に囚われても、堕ちかけても、彩牙くんたちは人を守ることを忘れたりはしなかった!」

 

――そう。

彩牙が罪の意識に囚われた時も。

希が己の進む道を迷った時も。

コテツが復讐に囚われた時も。

その形が変わることがあっても、彼らは決して人を守ることを忘れようとはしなかった。

それができたのは――

 

「みんなを、大切な人たちを守りたいと思っていたから……! 本当に下らないのはその想いを忘れ、人を滅ぼそうとするあなた自身です!!」

 

 

 

 

 

『……そうだ、その通りだ』

 

海未の思いの丈を受け、呻きながらも呟くガロ。

彼は自らを貫く暗黒剣の刃を握りしめると、渾身の力を籠め始める。

イブは少しずつ動くガロの身体に暗黒剣を深く沈ませようとするが、その刃は微動だにしなかった。

 

『俺たちの力は……人々を守るためのものだ! それを忘れるどころか、人を滅ぼそうとする力などに、何の意味がある!!』

 

『ぬ――!』

 

『俺は貴様を倒す! 人々の命と明日を守るために――俺自身の誇りにかけて!!』

 

その瞬間、ガロの身体が強く輝き、貫いていた暗黒剣を一気に引き抜いた。

よろけるイブの身体に、すかさず叩き込まれるガロの鉄拳。

殴り飛ばされ、姿勢を正すイブの瞳に映ったもの。それは緑の瞳でこちらを睨み、見据えるガロ。

 

その姿は――透き通るような黄金の輝きが、鼓動するかのように点滅していた。

 

『ならば証明してみせよ! 貴様の言う使命とやらが真に価値あるものか!!』

 

その言葉と同時に一瞬で間合いを詰め、暗黒剣を振るうイブ。

対するガロも待ち構えていたかのように牙狼剣を振るい、二振りの剣がぶつかり合う。

そのエネルギーは金色と闇色の衝撃波となり、辺り一面に襲い掛かる。

 

「っ……! 海未ちゃん!ウチから離れたらあかんよ!!」

 

「は、はい!」

 

それは戦いを見届ける海未と希にも例外なく襲い掛かる。

吹き飛ばされないようにと必死で踏み止まるが、もし希が防壁を張っていなかったらそれだけでは済まなかっただろう。それだけのエネルギーが、戦いの中心にはあった。

――それ故に、そちらに注意が向いていたために気付かなかった。

 

彼女たちの後ろから、コテツの姿が消えていたことに。

 

 

 

ぶつかり合っていた牙狼剣と暗黒剣は、弾かれるように離れ、そしてまた一度、二度と剣戟を繰り返す。

そのたびに衝撃波が発生し、互いの身体を内側から破壊せんとばかりに襲い掛かる。戦いの中心――発生源だからこそ、その影響もこの場の誰よりも大きかった。

剣を打ち合うたびに発生する闇色の衝撃波が肩の傷口にぶつかる度に、燃え上がるような熱と激痛がガロの――彩牙の脳に襲い掛かる。

だが痛みに悶える暇も、気を失うような余裕もない。傷口の熱よりも、この胸の内に灯った炎の方が、何倍も熱く燃え滾っているのだから――!

 

『オオオォォォォォォォッ!!』

 

『ム――!』

 

咆哮と共に振るわれた牙狼剣が、暗黒剣を大きく弾く。

がら空きとなったイブの身体にすかさずガロの蹴りが叩き込まれ、その身を大きく吹き飛ばした。

宙で身体を捻って姿勢を直し、危なげなく着地するイブ。そこに追撃を仕掛けたガロが飛び込み、牙狼剣を振り下ろす。

一撃、二撃、三撃と、次々に振り下ろされる牙狼剣は途切れることなく暗黒剣へ叩き込まれる。その怒涛の連撃にダメ押しを加えるべく、牙狼剣を大きく振り上げ、渾身の力と共に一気に振り下ろす―――!

 

『――甘いわぁっ!!』

 

しかしイブ――鬼戸大和は、かつては長い間戦い続けてきた優秀な魔戒騎士だった男だ。

牙狼剣が振り下ろされる瞬間、腕の甲で暗黒剣の刀身を強く擦り合わせると、闇色の炎をその刀身に纏わせた。

 

――烈火炎装だ。

闇色の魔導火は瞬く間に暗黒剣からイブの全身に広がり、その炎の灯りは漆黒の鎧をより禍々しい姿へと浮かび上がらせる。

そして魔導火を纏った暗黒剣の斬撃は、牙狼剣を振り下ろすガロへと容赦なく叩きこまれ、その身を大きく吹き飛ばした。

 

吹き飛ばされ、背中から床に叩きつけられるガロ。

すぐに起き上がろうとするも、一瞬で距離を詰めたイブによって両肩を踏み抑えられ、床に縫い付けられる。

そして魔導火を纏った暗黒剣の切っ先を、ガロの顔面目掛けて容赦なく振り下ろした。

 

『っ――!』

 

首を捻り、間一髪のところで暗黒剣を躱したガロ。

だが当然その一突きだけで終わることはなく、イブは暗黒剣を引き上げると、何度もガロの顔面目掛けて振り下ろす。

息をつく間もなく迫るそれらを寸でのところで躱し続けるガロ。このままではいずれ限界が訪れ、顔面を貫かれると同時にその身を魔導火で焼き尽くされてしまう。

そんな危機感を抱いたガロは、辛うじて自由だった脚を思い切り蹴り上げ、がら空きとなっているイブの背中に叩き込もうとする。

 

『な――!?』

 

しかし、イブはそれを読んでいた。

視線を向けることなく、背中に迫っていたガロの脚を難なく掴み取ったのだ。

それに驚く間を与えられることもなく吊り上げられ、そのまま宙へと投げ飛ばされるガロ。

そして隙だらけとなったその身体へと、イブの振るう暗黒剣が迫りくる。

――身を捩って姿勢を直すことも、牙狼剣を振るうことも間に合わない。海未と希の悲鳴が聞こえる。

このままガロは暗黒剣によって斬り裂かれ、その身は闇色の魔導火によって焼き尽くされてしまうことだろう。

 

 

 

 

 

 

――そう、“このまま”ならば。

 

『ム、グッ―――!?』

 

突如、イブの背中に走る衝撃と痛み。

何かが刺さったかのようなそれを受け、振り返るイブ。その視線の先には自らの背に突き刺さる一振りの剣があった。

ブーメランのような形状をした、灰色の剣を握るのは一人の騎士。炎の意匠を有する、灰色の狼の鎧を纏った騎士。

燃える炎のような赤い瞳には正気の色が浮かび上がり、まっすぐにイブを見据えていた。

 

『……テメェ、よくも今まで人のことを好き勝手にやってくれたな!!』

 

魔導具の呪縛から解き放たれ、正気を取り戻したコテツ――灰塵騎士カゲロウの姿がそこにあった。

 

『――猪口才な!』

 

『ぐうぅあぁぁぁっ!!』

 

苛立ち混じりの雄叫びと共に振るわれるイブの腕。そこからバーナーの如き勢いで放たれた闇色の魔導火が、カゲロウの身体を吹き飛ばす。

魔導火に包まれ、鎧ごと身を焼かれながら床を転がるカゲロウ。うつ伏せに倒れ伏し、鎧が解除されて火傷を負ったコテツの姿が露になる。

都合のいいように操られ、そこから解放されるも奇襲が呆気なく破られ、仇に一矢報いることもできずに返り討ちにあったコテツ。

哀れとも言える彼の姿を見下ろすイブだが、その瞬間気付いた。

 

 

 

――うつ伏せになったコテツの口元が、僅かに吊り上がったことに。

 

 

 

気付いた時には遅かった。

再度振り返ったイブの瞳に映ったのは、コテツが稼いだ時間により体勢を立て直したガロの姿。

腰を深く落とし、ぐぐぐと膝を折るその姿は、まるで力を溜めこむバネの様。

そしてその例えに違いなく、溜め込んだ力を一気に解き放つ――!

 

『ウウゥゥオオオォォォォォッ!!』

 

咆哮と共に弾丸の如く飛び出したガロ。

その手にまっすぐ構える牙狼剣はまるで弾丸の先端のように、勢いに乗せてイブの左肩を貫いた――!

 

『ぐっ―――!』

 

鎧を、肉を、骨を貫かれ、夥しい血を流すイブ。

左肩から先の感覚が薄れていく中でもイブは僅かに仰け反るだけで、その脚は強く踏み止まっていた。

この程度の負傷、かつての頃から幾度となく経験しているのだから。

 

『う、おっ……!!』

 

イブの身体の奥底から放たれた闇の波動。

猛烈な勢いのそれはガロの身体を仰け反らせ、イブの身体を貫く牙狼剣すらもその身から押し出すほどのものだった。

そしてがら空きとなったガロの胴体に右手を押し当てたイブは、零距離で闇の波動を叩き込むのだった。

 

吹き飛ばされ、床を転がるガロ。

勢いが収まり再び立ち上がるも、零距離で受けたダメージは体の内側まで深く侵食しており、鎧が解除されて満身創痍の彩牙の姿が露になる。だがその瞳から未だ闘志は失われていなかった。

同じように立ち上がったコテツもまた、力強い目でイブを睨み、魔戒剣を構えている。

 

そして最後に、イブの鎧が解除されて大和の姿が露になる。

牙狼剣に貫かれた左肩は夥しい血で赤く染まり、力なく垂れ下がった左腕の指先からは血がポタリと滴り落ちていた。

自らのその姿、彩牙、コテツ、希、そして海未を無感情な視線で一瞥すると静かに口を開いた。

 

「少し、遊び過ぎたようだな」

 

そう呟くと同時に魔導筆を携え、空を切るように撫でると、大和の背後に裂け目が出現した。

その先は真っ暗な空間が覗いており、どこに繋がっているのか定かではないが、その意図だけはこの場の全員が理解した。

 

「逃げる気か!」

 

「させるか!」

 

撤退を阻止すべく駆け出す彩牙とコテツだが、大和は慌てることなくゆったりと堂々とした動きで裂け目の中に入りこんでいく。

そして振り返ると、彩牙と――海未を一瞥し、不敵な笑みを浮かべた。

 

「そう急くな。お前たちとの戦いに相応しい舞台は別に用意する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ―――女神の調べが響く時、また会おうではないか」

 

その言葉を最後に大和の姿は裂け目の向こうへと消え、裂け目はファスナーのように閉じられた。間に合わなかった彩牙とコテツは、共に苦虫を噛み潰したような表情で舌打ちをするのだった。

それと同時に術者が消えたことにより結界がその姿を保てなくなり、劇場のようなその空間は崩れていく。

そうして露になった現実の世界は海未や希にとって見慣れた景色――音ノ木坂の講堂だった。

 

「……戻ったの……ですか?」

 

「……そうみたいやね」

 

戸惑うように辺りを見つめ、ほっと息をつく海未。

自分が知っている場所というのは、それだけで心が落ち着くものだ。あのような劇場に似た異常な空間にいるよりは何倍も良いし、日常に帰ってこれたという安心感を抱く。

 

 

「くそっ……」

 

形はどうあれ戦いが終わり、魔戒剣を鞘に納める彩牙。

その視線は、同じように鞘に納めるコテツへと向けられる。コテツもまた、サングラス越しの視線を彩牙へと向ける。

向かい合う二人の騎士。その間には沈黙が走っているが、先の結界の中でのような怒りと殺意に満ちた空気ではなくなっていた。

やがて、その胸に何を思ったのか、コテツが背を向けて講堂を後にする。彩牙はその背中から目を離すことなく見つめ続け、そして言葉をかけることもなかった。

希や海未は何か言いたげな視線を向けていたが――言葉をかけてはいけない気がすると、彩牙は思った。

 

確かにコテツは彩牙へと並々ならぬ憎悪と殺意を向け、彼を殺そうとした。

だがそれは殺された師の仇を取りたいが故だった。それが勘違いで、しかも思考を誘導された結果であり、あまつさえ魔導具に良いように操られていたとあっては。

コテツの心を占める絶望と後悔は、如何ほどであろうか――

 

 

 

 

 

「――こっちだよ!」

 

「さっきの凄い音、まさか希……!?」

 

コテツが立ち去ったのと入れ替わりに、講堂の外から響いてきた声。

扉が開け放たれ、雪崩れ込むように足を踏み入れたのは海未と希を除いたμ’sのメンバー。

彼女たちは講堂の中を見回し、希と彩牙、そして海未の姿を視界に収めると、一斉に駆け出した。

満面の笑みと、涙を浮かべながら――

 

「――海未ちゃぁぁぁぁん! 無事でよかったよぉ!!」

 

「大丈夫!? どこも怪我してない!?」

 

「大丈夫ですよ。二人とも、心配かけましたね」

 

真っ先に駆けつけた穂乃果とことりが、海未に思い切り抱き着いた。

涙が溢れ、顔がくしゃくしゃに歪むが、二人はそれを隠そうとしなかった。

希から話を聞いた時、二人の頭の中には絶望の二文字が浮かび上がった。二人ともホラーに襲われた経験があり、穂乃果に至っては憑りつかれて利用されたのだから連れ去られたことが何を意味するのかは身を持って知っていた。

それ故に海未が無事に戻ってきたことは、彼女たちの胸中に溢れんばかりの歓喜をもたらしたのだ。

海未はそんな二人の幼馴染を優しく抱きとめ、微笑んだ。

 

 

「希……おかえりなさい」

 

「……うん、ただいま」

 

絵里は涙を掬い上げながら、希を迎えた。

――帰ってきた。

希は確かに約束を果たし、帰ってきたのだ。海未を助け、自分たちの――μ’sの下に。

それだけでいい。それだけで――絵里の心は晴れ渡っていた。

二人は、互いの手を固く握り合った。

 

 

「………」

 

そして彩牙と、にこと真姫の間には沈黙が流れていた。

気まずそうな複雑な表情を浮かべ、視線を僅かにそらすにこと真姫と、そんな二人から目を離さずにじっと見つめる彩牙。

微かな緊張が互い中に走る中、彩牙は――

 

「――すまなかった」

 

深々と、そして一切の淀みもなく、頭を下げていた。

 

「今回、海未が攫われたことは俺の責任だ。俺が不甲斐ないばかりに彼女を危険な目に遭わせてしまった。 許してほしいなどは言わない――すまなかった」

 

そうして言葉を締め、頭を下げたまま微動だにしない彩牙を、にこと真姫は動揺を隠せない表情で見つめていた。

関わるべきではないと評した男の姿から、先程とは違い視線を外すことができなかった。

 

「真姫ちゃん」

 

「にこちゃん」

 

そんな彼女たちを、諭すかのように凛と花陽が呼びかける。

深く息を吸い、吐き、覚悟を決めたかのように表情を引き締めると――

 

 

「――こっちこそ、ごめんなさい」

 

返されたその言葉に顔を上げる彩牙。

その真っ直ぐな瞳を、二人は避けることなく受け止める。

 

「私たちだって同じよ……傍にいたのに何もできなかった」

 

「なのにその始末をあなたや希に任せっきりにして……関わるべきじゃないとか言っておいて、虫の良い話よね」

 

彼女たちも悔やんでいた。

彩牙に――魔戒騎士に関わるべきではないと言っておきながらも、いざとなったら彼に頼らざるを得ない自分たちの不甲斐なさ、都合のいい時だけ頼ろうとするその虫の良さを。

その上で彼に謝らせてしまう――そんな醜態をこれ以上晒すのは耐えられなかった。

 

「……凛たちの言ったこと、少しはわかる気がする。アンタたちはアンタたちで一生懸命頑張ってるのに、それを私たちの都合だけで拒絶するってのは違うのかもね」

 

思えばあの時もそうだ。

穂乃果の身体を操ったホラーに襲われた際、彩牙は多くの傷を負いながらも自分たちを守っていた。なのにあの時の自分たちは戦う彩牙のことを恐ろしく思い、危険だとしか思わなかった。

そして今も全身傷だらけになりながらも彩牙は海未を助け出した。

そんな彼に送るべき言葉は、拒絶のそれではない。

 

「だから、その……――」

 

 

 

 

「「――ありがとう」」

 

ぼそりと、絞り出すように呟かれたその言葉。

だが真っ直ぐな視線と共に確かに伝わったその言葉を受け止め、彩牙は思う。

――自分が守るべきものは、確かにここにあるのだと。

 

 

「――彩牙くん」

 

彩牙に呼びかける海未。

振り返った彩牙の視線の先には、穏やかな笑顔でこちらを見つめる海未。その横には、そんな二人を暖かく見守る希の姿があった。

――こうして彩牙と海未が落ち着いた形で向き合うのは、希の家で会った時以来だ。

あの時は互いに満足に言いたいことも言えず、絶望に包まれていたが今は違う。互いに内に秘めたものを乗り越えた二人は、穏やかな表情を浮かべていた。

 

――海未は思う。

言いたいことは、結界の中で全て出しきった。ならば後は、自分が言うべきことは一つだけだ。

本当ならもう少し後で言うべきなのだろうが……構いはしない、言ってしまおう。

この数日間、この一言を言いたくて言いたくて堪らなかったのだから――

 

 

 

 

「おかえりなさい」

 

「――ただいま」

 

 

 

**

 

 

 

――数日後。

音ノ木坂学院にてスクールアイドルによる一つのライブが行われた。

それは活動再開を宣言したμ’sによるライブ。これまでのような煌びやかな衣装とは違い、彼女たちが纏うのは何の変哲もない音ノ木坂の制服。

だが彼女たちの堂々とした佇まいときらきらと輝く笑顔が、ただの制服をスクールアイドルらしい衣装として昇華させていた。

 

奏でられる曲目は、『START:DASH!!』

μ’sの始まりの曲であり、かつてこの講堂で行われた初めてのライブで歌った時は、彼女たちと穂乃果のクラスメイト三人以外には直接披露されることのなかった曲。

それが今は、講堂を埋め尽くさんばかりの観客の前で披露されていた。あの日穂乃果が誓った『講堂を満員にする』という言葉が現実になったのだ。

 

そんな講堂を埋め尽くす観客たちは、音ノ木坂の生徒や教師だけではなかった。

μ’sをはじめとした、生徒たちの親兄弟――親族たちの姿もあった。

ステージで踊る姉たちを輝く瞳で応援する二人の妹。娘の名を呼ぶ母と、静かに涙を流す父。

講堂の入り口ではばったり出くわした二人の母が、友人との再会に胸を弾ませていた。

 

そんな中、ステージで踊る海未はちらりと客席に視線を向けた。

隙を見計らって客席を見回す彼女の瞳に映ったのは、自分の両親の姿。忙しい身であるというのに、合間を見て来てくれたのだろう。

そしてそこには、彼の姿もあった。

ライブの空気に気圧されながらも、瞳に焼き付けようと自分たちを見つめる彼の姿に、海未は思わずくすりと微笑んだ。

 

 

――そういえば、あなたが私たちのライブを見るのは、これが初めてでしたね――

 

 

――その日。

彩牙は初めて、μ’sの――海未の踊る姿を目の当たりにした。

 

 

 

**

 

 

 

――失敗した。

岩に囲まれ、燭台の篝火のみで僅かに照らされた真っ暗な空間で、大和はそう思った。

憎悪に支配されていた灰塵騎士はその洗脳から解き放たれ、ありもしない罪に悩み堕ちかけていた黄金騎士は立ち直り、遂には巫女も奪い返された。

結果だけを見れば、今回の件で彼の目的は一つも果たすことはできなかった。

 

しかし後悔や失意、焦りといったような感情は、大和の表情には微塵も表れてはいなかった。

元々今回で全てが決まるなど、そんな都合のいいことは考えていなかった。

――まだこれからなのだ。

時間はまだ残されている。闇へ堕とすのも、巫女を手に入れるのも次の策がある。その時までは光の世界を謳歌させてやろうではないか。

 

注射器のような器具を取り出した大和は、それを力なくぶら下がる自らの左肩へと突き刺した。

すると左肩の肉がうぞうぞと蠢いては盛り上がり、牙狼剣に骨まで貫かれた傷口がみるみるうちに塞がっていった。

左拳を握っては開きを繰り返し、左腕の感覚を確かめると、自らの目の前にあるモノへと視線を向ける。

まるで仰ぎ見るかのように。まるで祈るかのように。

 

 

そこには巨大なオブジェがあった。

篝火で淡く照らされ、岩の中に埋もれるように佇むそれはまるで――

 

 

 

 

 

 

 

――まるで、女神像のようだった。

 

 

 

***

 

 

 

花陽「誰だって、間違えちゃうことはあると思うんです」

 

花陽「私も凛ちゃんも、間違えちゃうことなんて沢山ありましたし……」

 

花陽「でもそんな時だからこそ、周りのみんなが支えてくれたんです」

 

 

花陽「次回、『灯火』」

 

 

 

花陽「……孤独な人は、どうするんだろう……」

 

 

 

 







魔戒指南



・鬼戸大和

波紋騎士イブの称号を持つ、元老院付きの魔戒騎士―――というのは過去の話。
その真の姿は闇に堕ちた暗黒騎士であり、この街にホラーをばら撒いてきた闇法師の正体である。
人間を既に見限っており、守る価値はないと吐き捨てて滅ぼそうとしているが、その考えに至った経緯は不明。
彩牙とコテツを同時に相手にしても圧倒的な力で優位を崩さず、『女神の調べ』という謎の言葉を遺して行方を眩ませた。



・暗黒騎士・威武
大和が身に纏うイブの鎧の真の姿。
かつての蒼く荘厳としたソウルメタルの鎧は露と消え、今は禍々しい漆黒のデスメタルの鎧となってしまっている。
波紋剣も歪な形状の暗黒剣に、魔導火の色も闇色に変質してしまっている。
なお、これまで彩牙たちが目にしてきたイブの鎧は、大和が術でかつての姿を纏わせていたものであり、謂わば変装していたようなものである。



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断章
第22話  灯火




断章その1

神ノ牙が全く容赦のない終わり方で、ガロがいないとここまで救いのない展開になるのかと身が震えました。
拙作ではどうなるかは・・・・・・これから御覧にしていきたいと思います。

それではよいお年を。来年もよろしくお願いします。




 

 

 

 

 

 

――魔戒騎士になろうとした切欠は、仇を取るためだった。

 

●●を殺した仇を討つためには力が必要だった。魔戒騎士の力が。

だから師の下に弟子入りした。魔戒騎士になるために。

……そんな復讐心に染まった自分を何故、弟子に受け入れ、鎧を継がせようとしたのか。復讐心を鎮ませようとしたのか、もしくは鎧を途絶えさせないようにしただけだったのか――

……今となっては確かめようもないが。

 

厳しい修練にも死ぬ気で喰らいついた。どんな苦しみにも耐え抜いてきた。

全身が痛みで動けなくなることなんてしょっちゅうだった。精神を鍛える修練で危うく廃人になりかけたことや訓練用の剣でホラーと戦わされて死の淵を彷徨ったことも、一度や二度ではない。

それでも歯を食いしばり、耐え抜いてきたのは、仇を必ず討つという目的があったからだ。執念といってもいいかもしれない。

 

そしてそれが実を結び、遂に魔戒騎士になることができた。

灰塵騎士の鎧と称号、そして魔導具を授かり、魔戒騎士を名乗ることができたのだ。

――力は手に入れた。これでようやく仇を討ちに行くことができる。後は“時”を待つだけだ。

だがそれと同時に責務も生まれた。人々をホラーから守るという使命だ。

特段邪魔だとは思わなかった。自分の仇もホラーだったから奪われる側の気持ちは知っていたし、人々を守ることに悪い気はしなかったからだ。

 

……そんなある日、師が殺された。

ホラー狩りから帰った自分を迎えた、血の海の中で事切れた師。

深い悲しみと怒りが自分の中に満ち溢れ……討つべき仇が一つ増えた。

 

監視用の魔導具に映っていた、師を殺した仇は――黄金騎士だった。

そして師のツテで呼ばれた先の虹の管轄で、奴を見つけた。しかしあろうことか、黄金騎士は記憶喪失だった。

ふざけるなと思った。人の師を殺しておいて、その事を呑気に忘れていたというのか。

故に黄金騎士と剣を交え、殺し合った。ホラーの返り血を浴びた黄金騎士の女を殺そうとして、その怒りを誘った。

 

だがそれは――黄金騎士が仇だというのは、全て偽りだった。魔導具の記録も何もかも、全て偽りだったのだ。

自分は闇法師――暗黒騎士に堕ちた鬼戸大和の掌でまんまと踊らされていたのだ。

……奴が本当の師の仇であるとも知らずに。

 

何が仇を討つだ。いいように操られていたくせに。

本当に倒すべき相手を見誤り、罪のない相手を仇と憎み、殺そうとし、情けなく返り討ちにされ……これでどうやって師に顔向けできるというのか。

自分が――俺が力をつけてきたのは、こんな無様な姿を晒すためだったのか?

 

――ああ、くそ……

 

 

 

**

 

 

 

――深夜。都内某所

 

「――待ちやがれ!!」

 

街灯の寂しい灯りだけが頼りの人気のないその通りに、二つの影があった。

ただそこにあるのではなく、一方が一方を追いかける――追う追われるの追跡劇を繰り広げていたのだ。

 

一つは派手な色どりのタキシードに身を包み、ステッキを携えた男。街灯の灯りがタキシードのラメを反射し、その姿はまるでスポットライトを浴びる役者の様でもあった。

そしてもう一つは黒いコートに身を包み、サングラスで目元を隠す少年。タキシードの男とは対を成すように夜の闇に溶け込むような姿をしていた。

 

男を追う少年の手に握られていたのは、現代日本には不釣り合いなブーメラン状の剣。

少年はその剣を、その形状が物語るかのように投擲する。

男の逃走先に先回るように弧を描き、飛翔する剣。それは男の目と鼻の先を通過し、怯んだ男は思わずその場に踏み止まった。

そこに一気に距離を詰める少年。自らの下へ帰ってきた剣を難なく手に取り、男の背に向かって振り下ろす。

対する男も振り向きざまにステッキを構え、少年の剣を振り下ろす。木製のそれとは思えない強度で剣を受け止め、火花が宙を舞う。

 

「魔戒騎士……!しつこいですね、静かな夜にそんな品のない振る舞いをするものではありませんよ!」

 

「ホラー如きが一丁前に品を語ってんじゃねえよ!」

 

少年――魔戒騎士コテツが、タキシードの男の皮を被ったホラーに向けて叫ぶ。

その声色に隠しきれない怒りを剣に乗せ、何度も魔戒剣を叩きつける。

大振りで振るわれる魔戒剣と、それを受け止めるステッキが何度もぶつかり合い、火花を散らしていく。

コテツの方が優勢に見えるこの状況。だがその中でゾルバが真っ先に気付いた。

 

――いけない。このままではコテツが負けてしまう……!

 

「……ほほう」

 

剣を受け止める中、タキシードの男の口元がにやりと吊り上がる。

――この男も気づいたのだ。

今のコテツの剣には信念はなく、自らに対する怒りや苛立ちを我武者羅にぶつけているだけだと。

 

「何がおかしい!」

 

「ふふ……少し余興を思いつきましてね、とくとご覧あれ!」

 

その直後、魔戒剣を受け止めていたステッキの先端から細い光が伸び出した。

まるで糸のようなそれはコテツの額に触れると、一瞬だけチカッと輝いた。

 

「――っ!? ゾルバ!」

 

『……いえ、精神汚染の類ではありません。しかし今のは……?』

 

不意を突かれ、飛び退いて距離を開けるコテツ。

心身に異常がないかゾルバに調べさせながら、油断なくタキシードの男を見据える。

タキシードの男はぼんやりと光るステッキを面白げな表情で弄び、恭しくお辞儀をすると――

 

 

「――It’s SHOW TIME」

 

ステッキで地面を軽くコン、と叩く。

するとステッキを覆っていた光がまるで流水のように地面へ流れ、光の塊になった。

それだけでは終わらず、光の塊は上へ上へと伸びていき、くねくねとした動きで形を変え、遂には人型へとその形を変えた。

そして光が徐々に弱まり、そのカタチが露になる――

 

「な―――!?」

 

コテツは己が目を疑った。

そこに現れたのは、白髭を蓄えた白髪の老人。最早二度と会えない筈の、殺された彼の師。

――その名は、零士といった。

あまりの衝撃に思考が止まったコテツをよそに、零士はゆらりと揺れたかと思いきや電光石火の動きで距離を詰め、魔戒剣――コテツと全く同じそれを振り下ろしたのだった。

咄嗟に魔戒剣を構え、寸でのところで受け止めたコテツ。老騎士の鋭い眼差しがコテツに突き刺さり、彼の心を激しく揺さぶった。

 

「どういうことだゾルバ!なんだって師匠が……!」

 

『……コテツ、この零士は幻です!奴があなたの記憶から生み出した虚像です!』

 

「なんだと……!?」

 

ちらり、とタキシードの男へと視線を移す。

……余裕ぶった態度で、面白いものを見ているかのような愉悦に満ちた笑みを浮かべていた。

悪趣味な真似しやがって――吐き捨てるように心の中で呟いたコテツは、受け止めていた魔戒剣を渾身の力で弾き返し、お返しにと自らの魔戒剣を振り下ろす。

 

――そう、この零士は偽物、幻なのだ。

少し動揺してしまったが、何も気に病むことなど――

 

 

 

「――私を殺すのか?」

 

「―――!?」

 

びくり、と思わず動きを止めてしまったコテツ。

その隙に再び振るわれる零士の剣。何とか受け止めることはできたものの、その表情には明らかな戸惑いの感情が浮かんでいた。

――似ているどころの話ではない。全く同じだったのだ。

コテツの記憶の中の零士と、目の前にいる零士の声が――

 

「私の仇を討てないばかりか、よりによってお前が、私をもう一度殺そうというのか」

 

「っ……」

 

『惑わされてはいけません!あれはあなたの記憶から作られた幻、本物の零士の言葉ではありません!』

 

ゾルバの制止の声も、コテツには届かない。

彼の意識は完全に零士に――突然奪われ、もう二度と会えないと思っていた師に持ってかれてしまっていた。たとえそれが彼の記憶から生み出された偽りの姿と声だと頭の隅でわかっていても、感情を抑えることなどできなかった。

その師が仇を討てない自分を責め、その上己を殺すのかと問い詰める。

そんな状況でまともに剣が振るえるのか―――

 

否だ。

 

『――コテツ!!』

 

呆気なく弾かれ、宙を舞うコテツの魔戒剣。

集燥に満ちたゾルバの叫びが響き、剣を失い隙だらけになったコテツの前に、零士の魔戒剣が振り下ろされる。

……このまま終わるのか。

仇を討てず、騎士になった目的も果たせず、最後まで無様を晒したまま死んでいくのか。

そんな後悔に支配されたコテツの身体を、振り下ろされた魔戒剣が斬り裂――

 

 

 

「――ハァッ!!」

 

――かなかった。

横から現れた第三者により、零士の魔戒剣は直前で防がれ、弾かれたのだ。

後ろへ跳び距離を取った零士と、観戦していたタキシードの男は乱入者の姿を目の当たりにした。

――ボロボロの白い魔法衣に、赤鞘の魔戒剣。

そこにいたのは魔戒騎士・村雨彩牙だった。

 

「お前……」

 

呆然と見つめるコテツの視線をよそに、彩牙は向かい立つ零士とタキシードの男を見据える。

零士の方には見覚えがあった。闇法師――大和に植え付けられた偽りの記憶。その中で自分が斬り捨てた老人――コテツの師だった筈だ。

一方のタキシードの男。ザルバが邪気に反応している点から見ても、十中八九ホラーだろう。

そのタキシードの男は、無粋な乱入者である彩牙を不満げな表情で見つめていた。

 

「その姿……黄金騎士ですか。無粋な真似を……」

 

ステッキを構えるタキシードの男。

二対二。数だけで見るならば互角であるが……

 

「……やめておきましょう。ガロの相手など私には荷が重いですからね」

 

ふと、ステッキを下ろし、背中を向けて立ち去ろうとするタキシードの男。

無論それを黙って見過ごす彩牙ではない。

 

「逃がすか!!」

 

その背に向かって駆け出す――が、それと同時にタキシードの男がステッキで軽く地面を叩いた。

すると彩牙の前に零士が飛び出し、掴みかかるかのような勢いで迫ってきた。そして彩牙に組み付くと同時にその身体を強く輝かせ、光そのものになると――

 

「う……おっ!?」

 

――地の底に響くかのような破裂音とともに爆発した。

 

「くっ……! ザルバ!」

 

『……駄目だな。逃げ足の速い奴だ、印をつける暇もなかったぞ』

 

寸でのところで爆発から逃れた彩牙が追いかけようとするも、タキシードの男は邪気を感知できないところまで逃げてしまっていた。

表情を歪め、舌打ちする彩牙。

その時、自分の背後にいるであろうコテツの存在を思い出した。

 

「……あいつ、どこへ?」

 

だが彩牙が振り返った先に――コテツの姿はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――くそっ!!」

 

戦いの場から少しばかり離れた裏路地。街灯の灯りさえ殆ど差し込まないその場所に、コテツの姿はあった。

傍の壁に亀裂が走るほどに拳を叩きつけ、血を滲ませる姿は痛々しいものだった。

 

「何だよ!何なんだよ俺は!! なんでこんなに、情けねえんだ……っ!」

 

記憶から作り出された虚像という幻に惑わされ、ホラーの術中に嵌り、果てには仇だと命を狙っていた彩牙に助けられるというこの体たらく。

自分のあまりの情けなさ、不甲斐なさに憤りを隠せないコテツはその苛立ちをぶつけるかのように、嗚咽混じりに何度も拳を壁に打ちつける。

何度も何度も、己が壊れるのを厭わないように。

 

『落ち着きなさい!自分をこれ以上責めても仕方ないでしょう!』

 

「うるせぇ!黙ってろ!!」

 

ゾルバの制止にも耳を貸さず、当たり散らすコテツは壁に拳を叩きつけることをやめようとしない。

打ちつけるたびに広がっていく罅と、ぽたぽたと零れていく血。

それらはまるで、心を打ち砕かれた彼の内心を表しているかのようだった。

 

 

 

**

 

 

 

――都内、ファストフード店。

 

「――見つからないにゃあ~……」

 

「凛ちゃん、はしたないよぉ」

 

ぐでん、と空気の抜けた風船のような声を漏らす凛。

テーブルに突っ伏し、傍のジュースをストローでずるずる音を立てて吸うという年頃の女子としてはいささか見苦しい姿を晒す彼女を、気弱ながらも窘める花陽。

互いに正反対の姿をしている二人だが、一つだけ共通している点があった。

――二人とも、心身共に疲れきっていた。

それというのも――

 

「……コテツくん、どこ行っちゃったのかな」

 

あの日、様子のおかしいコテツの姿を街中で見つけて以来、二人はコテツの姿を探し続けていたのだ。

練習の後や休みの日。空いた時間を見つけては、これまで彼と出会った場所を筆頭に探し回っていた。

……だが未だにコテツ自身はおろか、その痕跡さえも見つけられずにいた。

 

無論、彩牙や希にも彼がどこにいるか尋ねた。

コテツと同じ魔戒の者である彼らならばどこにいるか、心当たりのある場所を知っているかと思ったのだ。

……しかし二人とも、コテツが普段どこに住んでいるのかも知らなかった。それどころか海未を助けたあの日以来、全く姿を見せていないらしかった。

曰く番犬所――集会所のような場所――にも全く顔を出しておらず、音信不通なのだという。

腕の立つ騎士だからホラーにやられたということはそうそうない筈――というのは彩牙の弁であったが、それでも凛たちは安心できなかった。

 

「あんなコテツくん見ちゃったら、大丈夫なんて思えないよ……」

 

「……うん、そうだね」

 

最後にコテツを見かけた時、あの時の彼の様子は素人目から見ても異常だった。

正気か定かでない足取り、光のない暗い表情、そしてはっきり伝わるほど立ち昇っていた負の感情。

あの時そのまま立ち去ったコテツを引き留めなかったことを、二人は後悔していた。

彼がなぜあのような負の感情に囚われていたのか凛たちは知らない。しかし――いや、だからこそ、あの時無理矢理にでも引き留めて話を聞くべきだったのだ。

どんな事情があるのか、自分たちが力になるかはわからない。だがそれでも彼を放っては置けない。彼の助けになりたいと思ったのだ。

――友達として。

 

「…………にゃ?」

 

――その時。

何かに気付いたかのように起き上がった凛は、窓の向こうをじっと見つめ始めた。

目を凝らし、その視線の先にあるものを見極めようとする。

そしてそれが何なのかわかった瞬間――表情を変え、脱兎のごとく駆けだした。

 

「り、凛ちゃん!?」

 

戸惑う花陽の声を置き去りに店内を駆け、店の外へ出る。

行き交う人々の姿を見まわし、店内で見つけた“それ”が人々の波の中へと消えていく姿を視界にとらえた瞬間、迷うことなくその波の中へと突入した。

行き交う人々にぶつかり、押し退け、叱られ、恨めしい視線をぶつけられても、凛は止まらずに波の中をかき分けていく。止まれない理由があった。

 

「待って……!」

 

最初は気のせいかと思った。

こんなあっさり――たまたま見つかる筈がないと。

だけど目を凝らしているうちにそれは疑念に、やがて確信へと変わっていった。

そこからはもう一瞬だった。胸が高鳴り、気付いた時には駆け出していた。

ずっと探していた。もう見失いたくない、絶対にその手を掴むんだと、その想いを胸にひたすらに駆けていく。

そして遂に――

 

「凛……!?」

 

「やっと見つけたにゃ……コテツくん!」

 

“彼”――コテツの手を、しっかりと握りしめた。

少し遅れて花陽もその場に辿りつき、突然現れた二人困惑した様子を見せるコテツ。

 

「……何の用だよ」

 

だがそれも束の間。

その一言を切欠にコテツの様子は一変した。

以前会った時のような余裕さ、不敵さは影も形もなくなり、その声は気怠そうに、表情は虚ろ気に、佇まいには無気力さを漂わせていた。

――今のコテツは、虚無に支配されていた。

 

「あ、あの……」

 

「……用がないなら離せよ、俺は忙しいんだ」

 

「―――っ」

 

最後に見かけた時とは別ベクトルで変わり果てた姿に一瞬怯んだ凛だったが、すぐに思い直す。

このままでは以前と同じだ。変わり果てた姿に動揺する余り、話しかけることもできず黙って見送ってしまったあの時と。

それではダメだ。今度こそちゃんと話をするのだと決めたのだから。

――勇気を出すんだ。

息を深く吸い、声を吐き出す。

 

「――凛たちと、その……付き合ってほしいにゃ!」

 

 

 

**

 

 

 

――とある個室型の喫茶店、一角のテーブル。

そこに凛と花陽、そしてコテツの姿はあった。

だがその様子は友人同士の団欒というには違和感があった。

 

「――お前な、テンパってたからってあれはねえだろ」

 

呆れた様子で呟くコテツの視線の先には、顔を抱えて蹲る凛の姿があった。

俯いていて顔は見えないが耳まで茹蛸のように真っ赤に染まり、隣に座る花陽は困ったような笑顔を浮かべていた。

何故このような珍妙な状況になったのか――コテツを誘う時の言葉が原因だった。

『自分たちと付き合ってほしい』――凛は確かにそう言った。白昼の大通り、大衆の前で。

傍目には女子高生が同年代の少年に告白したようにしか見えなかったのだ。そのことを自覚した途端、このようになってしまった。

 

「うぅ~……うるさいにゃ!忘れるにゃー!!」

 

羞恥が頂点に達した凛は叫び、顔を赤くしたままむくれたように俯く。

むきになった子供そのものな姿に呆れ、コテツは席を立とうとする。

 

「……用がないなら帰るぞ」

 

「ちょ、ちょっと待ってほしいにゃ!話はあるの、すっごく大切な話が!」

 

そんなコテツを慌てて引き留めようとする凛。

その姿は直前までの羞恥に悶絶していたものとは違い集燥に満ちた、大切な物を手放さんと必死に縋る少女のそれだった。

訝しげに見つめる中、それに続くように花陽が立ち上がり、真剣な表情で口を開いた。

 

「……教えて欲しいんです。コテツさんはどうして戦うのか」

 

「……知ったのか、俺が何者なのか」

 

その言葉に、花陽はコクリと頷いた。

凛や彩牙から聞いたのだ。コテツもまた魔戒騎士であると。

 

「私たち、コテツさんのことは知らないことが多いから……だから少しでも多くのことを知りたいんです」

 

「コテツくん、なんだか悩んでるみたいだから……だから凛たちにできることで助けになりたいの!」

 

「……知りたい、助けたいと。俺を」

 

「それに……友達のことをほとんど知らないなんて、寂しいもん」

 

「……友達。友達、ね……」

 

凛と花陽の言葉を噛みしめるように繰り返すコテツ。

そうしてしばらく考え込むような仕草を見せ、やがて考えがまとまったのか改めて二人と向き直り、席に着いた。

 

「いいぜ、話してやるよ」

 

「……! ほ、ホントに!?」

 

「ああ、“友達”だもんな。俺の抱えてるモン、ちゃんと全部話してやるよ」

 

その言葉にぱあっと表情を輝かせる凛と花陽。

これでコテツのことを――彼が抱えていることについて知ることができる。彼の助けになることができる。

そして何より、友達が悩みを打ち明けてくれることが嬉しかったのだ。

 

……だが、凛も花陽も気づかなかった。

そう語るコテツの声色が自嘲めいたものだったことに。その真意が何なのか。

気付いていたのは……彼の首元に下がるゾルバだけであった。

 

 

 

 

 

 

「―――とまあ、こうしていいように踊らされて今に至るってな」

 

――コテツは全てを話した。

とある人物の仇討のために魔戒騎士になったこと、師匠が殺されたこと、師匠の仇討として彩牙の命を狙い、それが黒幕によって仕組まれた罠であったこと。

そして――その過程で海未を殺そうとしたこと。

 

全てを聞いた凛と花陽はショックのあまり言葉を失い、俯いていた。

それも当然だと、コテツは思った。

友達だと信じていた者が、自分たちの友達を殺そうとしていたのだ。それも復讐という、澱んだ感情に満ちた動機によって。

そんな真実を前にショックを受けるなというのが無理な話だ。

 

――これが、コテツが全てを話した理由だった。

自分の本当の姿を――憎悪に満ちた姿を知れば、彼女たちは自分を恐れる。彼女たちの友を殺そうとした事実を知れば、自分を軽蔑し、幻滅する。

そうすればもう自分に付き纏うような真似はしなくなる。こんな愚かな男からは離れていくだろう。

その為にコテツは全てを話したのだ。

 

「これでわかったろ。俺はお前らが思ってるような善人じゃないってな」

 

そうして再び席を立ち、個室を後にしようとするコテツ。

これで自分如きを友と呼んだ心優しい少女たちを、これ以上巻き込まずに済む。

憎しみに染まり、暗黒騎士の掌で踊り続けたこんな愚か者は、彼女たちといるべきではないのだ。

後はこの扉を開け、立ち去れば全てが終わる。

彼女たちとの関係も――

 

 

 

「――待って」

 

――しかし、そうはならなかった。

ぐい、と身体が引っ張られる感覚に立ち止まり、振り返るコテツ。

そこには黒いコート――魔法衣の裾を掴み、彼を引き留める凛の姿があった。

俯いており、その表情は伺い知れないが……立ち去る前に恨み言の一つや二つでもぶつけようとしているのかと思った。

故に――

 

「……ひとりぼっちになろうとしちゃ、駄目だよ」

 

――その言葉は、コテツの思考を止めるには十分すぎた。

 

「なんとなくだけど、わかっちゃうんだ。コテツくんは凛たちの――ううん、みんなの前からいなくなる気だって。だからあんなこと話したんでしょ?」

 

「――っ。 ……それがどうした。元々独りだったのが元に戻るだけだ、何も問題ねえだろ」

 

「大ありだよ! そんなのコテツくんがひとりぼっちにならなきゃいけない理由にはならないもん!凛はそんなの絶対認めないんだからね!」

 

「わかってんのか!? 俺はお前らの仲間を殺そうとしたんだぞ!それも勘違いの復讐でな! そんな奴を許せるとでも言うのかよ!?」

 

 

 

「――そんなわけ、ないじゃないですか」

 

ヒートアップしていくコテツと凛の口論に、花陽の声が割り込まれる。

彼女の声は二人のそれに比べれば細い糸のように静かなものであった。しかし冷水を打ったかのようにその場に響き渡り、自然と二人の視線を集めた花陽は俯いていた顔をスッと上げた。

 

「海未ちゃんや彩牙さんに酷いことしたことには怒ってますし、許せません」

 

「だったら――!」

 

「でもコテツさんだって大切な人を奪われて苦しんだのに、これ以上苦しむなんて――みんなから離れて、嫌われて、独りぼっちになるなんて……そんなのは違うと思いますし、見たくありません。 ……あなたに、そんな目に遭ってほしくないんです」

 

そう語る花陽の表情は普段見せることのない、確固たる意志を秘めた凛々しいもの。

凛はそれに見覚えがあった。

あの日――彼女たちが真姫と共にμ’sに加入した日のこと。自らのアイドルへ向ける熱意を語り、スクールアイドルを始める決意を口にした、あの時と同じ表情だった。

あの表情を浮かべた花陽はこの世の誰よりも強い勇気を抱いていることを、凛は知っている。

 

「……馬鹿言うなよ。散々阿保やらかしてきた俺が、今更どの面下げてあいつらに――お前らと接しろってんだよ……!」

 

「……怖がらなくて、いいんですよ」

 

自らの行いを悔やみ嘆くコテツに、花陽が優しく諭すように語りかける。

そんな彼女の姿はいつもと同じように――否、いつも以上に穏やかな声色と表情だった。

 

「何を――」

 

「みんなはコテツさんが思ってるほど、誰かを見捨てるってことができないんですよ。 だからちゃんと向き合うことを恐れる必要はないんです。もし怖いなら私や凛ちゃんがお手伝いします」

 

 

「だから――もう一度、やり直してみませんか?」

 

花陽には、今のコテツにかつての自分がダブって見えていた。

スクールアイドルを始めることを躊躇し、一歩を踏み出せずにいた自分。あの時の自分と同じように、コテツも現状からその一歩を踏み出すことを恐れている。

だから今度は自分たちが、あの時の凛と真姫のように彼の背中を押してあげるべきなのだ。

 

「……なんだよ。 お前ら、何だってそこまでするんだよ……」

 

「……そんなの、決まってるにゃ」

 

絞り出すようなコテツの言葉に、凛と花陽は互いの顔を合わせる。

言おうとしていること――考えていることは同じだ。自分たちはその想いを原動力に彼を探していたのだから。

コテツの語る真実を前にしても揺らぐことのない――否、より一層固まったその想いを、彼女たちは言葉にする。

 

 

 

「「――友達を助けるのは当たり前だから」」

 

それだけだ。

それだけだからこそ、彼女たちは強固な意志を持っている。

コテツがどんな人間であろうと、どんな罪を犯していようと、友達であれば全力で助ける。

たったそれだけの――それでいてとても難しいことだった。

 

「友達だから――コテツくんがみんなを守ってくれるように、凛とかよちんがコテツくんを守るにゃ」

 

「………――」

 

コテツは、言葉を失った。

何か言い返そうとして――言葉が出ず、押し黙る。

わかってしまったのだ。コテツが何を言おうと、いくら突き放そうとしようと、彼女たちは決して見捨てようとせず、喰らい付いてくることを。

仮に記憶を消そうともその強固な意志を消しきれず、いずれ再び捕まる――そんな気がしてならなかった。

 

見誤っていた。

凛たちの人の好さを。意志の強さを。

彼女たちがコテツのことをどう見ているか――何もかもが彼の予想を超えていた。

 

『……コテツ、あなたの負けですよ』

 

それまで沈黙を貫いていたゾルバが、その口を開く。

喋る姿を初めて目の当たりにした花陽が目を点にして驚く中、彼は自らの想いを相棒へとぶつける。

 

『彼女たちは最早何を言っても梃子でも動きません。譲れないものがある人間の意志がどれほど強固かは、あなたが一番よく知っているでしょう?』

 

「……!」

 

『……虚勢を張るのはおやめなさい。あなたには、こんなにも素晴らしい“友”がいるのですから』

 

ゾルバの言葉に、コテツはもう一度彼女たちに視線を向ける。

そよ風のように穏やかな優しい笑顔を浮かべる花陽と、太陽のように輝く朗らかな笑顔を浮かべる凛。

――揺るぎない意志をもつ、友の姿がそこにあった。

 

「……馬鹿かよ……どいつもこいつも、馬鹿ばっかりじゃねえか……!」

 

――本当は、わかっている。

一番馬鹿なのは友を信じきれず、友を頼ろうとしなかった自分自身なのだと。

肩を震わせ、俯くコテツ。そして思い立ったように、テーブルの上にあった水の入ったコップを手に取ると――

 

「きゃっ!?」

 

「な、何するの!?」

 

――その中身を躊躇なく、自らの頭にぶちまけた。

あっという間にびしょ濡れになり、髪とサングラス、そして目元からぽたぽたと雫を垂れ流し、凛と花陽に改めて正面から向き直る。

正面からでないと駄目なのだ。ちゃんと正面から向き合わねばと思ったのだ。

 

「――凛、花陽。 俺は仇を間違えていいように操られた挙句、お前らの仲間を殺そうとした大馬鹿野郎だ」

 

「……」

 

「たぶん、俺はこれからも色々間違えちまうかもしれない。お前らに面倒を掛けさせちまう時もあるかもしれない」

 

 

 

 

 

「だからその時は――お前らが、俺を止めてくれないか?」

 

「! それって……!」

 

「勝手なことを言ってるのはわかってる。だけどダチのお前らにだから頼みたいんだ……たのむ!」

 

『私、ゾルバからもお願いいたします。 星空凛さん、小泉花陽さん。彼の友を名乗ってくださるのならば、引き受けてはいただけないでしょうか』

 

そうして深く頭を下げるコテツ。

その姿を前に凛と花陽は花が咲くような笑顔を浮かべ、彼の手を取るのだった。

 

「――もちろんです!」

 

「凛たちに任せるにゃ!」

 

そう語る凛と花陽の表情は、今日一番で晴れやかなものだった。

嬉しかったのだ。自分たちを心から頼りにしてくれることが、コテツの口からハッキリと友と呼んでくれたことが。

 

「……ありがとな」

 

コテツもまた、その口元は先程までと違って穏やかなものだった。

――思えば魔戒騎士になることを誓った時から、忘れてしまっていた気がする。

誰かを頼ること――友を頼ることは、こんなにも穏やかで安心できるものだということを。

自分を止めてくれる友がいることの心強さを思い出したのだ。

 

 

 

「……さて、そうと決まったら行かないとな」

 

「? ……どこに行くの?」

 

そして改めて席を後にしようとするコテツを、凛と花陽が不思議そうな視線で見つめる。

彼にはやらなければならないことがあった。

こうして決意を新たにした上で、どうしても成し遂げなければならないことがあった。

 

「――ケジメをつけにさ」

 

 

 

**

 

 

 

――夜。街の中。

 

「はっ……はぁっ……!」

 

人気のない路地の中を、一人の女性が走っていた。

煌びやかな鞄にハイヒール、艶やかな色気のあるドレスを纏う、所謂夜の女だ。

だが彼女の表情はその装いとは真逆の、切羽詰まったものだった。

まるで命の危機から必死に逃れようとしているかのような――

 

「おやおや。まだ逃げられるのですか?」

 

「っ!? い、嫌ぁっ!?」

 

――その通りだった。

彼女が逃げようとした先の路地から待ち構えるように、人影が地面から生えるように現れたのだ。

そこに現れたのは煌びやかなタキシードに身を包んだ男――かつてコテツと戦い、逃走したあのホラーだった。

タキシードの男はステッキを弄びながら、恐怖で腰を抜かした女にゆっくりと迫りくる。

 

「そろそろ観念しては如何ですかな?すぐにお友達の後を追わせてあげますよ。 ――私の胃の中に……ね」

 

そう語るタキシードの男は上品な笑顔を浮かべてはいる。だがその中に秘めた残虐さと暴力性を隠しきれておらず、それが女の恐怖をより一層誘っていた。

そして手の中で弄んでいたステッキをしっかりと持ち替えると、その先端を光らせ、軽く振るうとそこから無数の鳩が飛び出した。

――ぎょろりとした一つ目に牙の生えた嘴、全身に血のような赤い鱗を持つ異形の鳩が。

 

「こ、来ないで……!来ないでぇっ!!」

 

恐怖に震え、泣き叫ぶ女の下に鳩が一斉に飛びかかる。

あの鳩の群れに襲われ、生きながらに食い殺された女の連れの無残な姿が、彼女の脳裏に蘇る。

自らが辿るおぞましい末路を思い浮かべ、恐怖と絶望に染まった女は碌に身動きも取れず、ただ鳩の群れが自分へと到達するのを待つことしかできない。

そして――

 

 

「――――む?」

 

訝しげに呟くタキシードの男。

彼の目の前に広がる光景は、自らの身体の一部である鳩たちが女の肉体と魂を貪り喰らう光景――ではなかった。

そこに広がる光景は――どこからともなく飛来した銀色の軌跡が、鳩の群れを切り刻んでいく光景であった。

 

「ひ、ひいぃぃっ!!」

 

僅かに生まれたその隙に、生存本能を爆発させて腰を起こし、逃げ去っていく女。

その様を黙って見送るタキシードの男は、苛立たしげにステッキを弄ぶ。

追いかけたところで、無粋な乱入者に邪魔されるのがわかりきっているからだ。

 

「――よう。随分とお楽しみだったじゃねえか」

 

路地の影から、その乱入者がのっそりと現れる。

魔戒騎士――コテツだ。

その姿を前にしたタキシードの男は、うんざりしたような溜息を吐いた。

 

「……また貴方ですか、魔戒騎士。貴方との決着はついたと思っていたのですがね」

 

「そう言うなよ。流石にあのままじゃカッコつかないんでな」

 

そう言うと、コテツは吊り上げていた口元をきつく締め、サングラス越しに鋭い眼光を浮かべる。

そして魔戒剣の切っ先を、タキシードの男へと突きつけた。

 

「――リベンジだ。今日こそテメエを斬り捨ててやる」

 

それを目にしたタキシードの男はくつくつと笑い声を抑えきれなかった。

記憶から生み出した幻に躊躇して碌に戦えなかったような、未熟な騎士が何を強気に言うのかと。

タキシードの男には、コテツが身の程を弁えずに粋がっている子供にしか映らなかった。

 

「くくく……何を言うのかと思えば、彼と碌に戦えなかった貴方に何ができるのですかな?」

 

そう語るタキシードの男は、前回と同じようにステッキの先端に光を灯し、そこからコテツの記憶から生み出した彼の師匠――零士の幻を作り出した。

 

「コテツ……またしても私に刃を向けるのか……」

 

現れた零士の幻はコテツへと距離を詰めていくが、対するコテツは魔戒剣を突きつけたまま碌に構えようとせず、ただじっと零士を見つめていた。

その姿を前にしたタキシードの男は、やはりこうなったとほくそ笑んだ。

親しい者、大切な者に敵意を持たれ、襲い掛かられて正気を保てる人間などいないのだと。

思い出に縛られる愚かな人間と見下す中で、遂に間合いへ入った零士が魔戒剣を掲げ、躊躇することなく振り下ろした。

振り下ろされた魔戒剣は、コテツの身体を斬り裂かんと迫り――

 

 

「……よく見たら、あんまり似てねえな」

 

ぼそり、と。

そう呟いたコテツの魔戒剣に受け止められ、刃を返され、お返しにと袈裟にかけて斬り裂かれた。

呆気なく斬り裂かれ消滅していく零士の幻をタキシードの男が目を点にして呆然と見つめる中、コテツはすぐさま魔戒剣を投擲した。

暗闇の中に銀の軌跡を描いて飛翔する魔戒剣はあっという間にタキシードの男の下へと到達し、慌てて逃れようとするが――

 

「ぎゃあっ!!」

 

避けることは叶わず、その身を斬り裂くのだった。

ソウルメタルに斬り裂かれる激痛に苦しむ中、タキシードの男の真の姿が露になる。

派手な色のタキシードはそのままに、首から上が一つ目の鳩の頭になっている異形の姿。

――ホラー・アルパーの真の姿だ。

 

『な、なぜ……!?何故私の幻をいとも容易く……!?』

 

「テメエの作る幻ってのは結局ガワだけの紛い物なんだよ。中身のない空っぽのハリボテで二度も騙せると思ったら大間違いだっての」

 

『なんだと……!』

 

「折角本性を引きずり出してやったんだ、テメエもハリボテ任せじゃなくて自分の力で戦ってみたらどうだ」

 

そう言い、コテツは魔戒剣で自分を囲むように円を描き、カゲロウの鎧を召喚する。

炎の意匠をもつ灰色の鎧を身に纏い、燃え盛る炎のような赤い瞳でアルパーを睨みつけ魔戒剣――灰塵剣を突きつける。

 

『――俺が真正面から斬り捨ててやるからよ』

 

その宣言と共に駆け出すカゲロウ。

路地の中を疾風のように駆け抜けて瞬く間にアルパーとの距離を詰め、灰塵剣を振り下ろす。

対するアルパーは、ステッキで辛うじて灰塵剣を受け止める。

その際に飛び散る火花が、辺りを一瞬照らしだした。

 

『……いいでしょう。幻しか芸がないとは思わないことですね!!』

 

ぎょろりとした一つ目を血走ったように真っ赤に染め、牙の生えた嘴で吠えるアルパー。

すると灰塵剣を受け止めていたステッキが瞬く間にその形状を変え、一振りのレイピアへと変貌した。

レイピアを捻らせ、灰塵剣を打ち払ったアルパーは即座に追撃の突きを繰り出していく。連続で繰り出されるそれをカゲロウは灰塵剣で、時には腕の甲で打ち払っていく。

 

『速い……! 隙がありません!』

 

『だったらこっちも手数で勝負してやるさ! ゾルバ!!』

 

『はい!!』

 

猛攻を前にしても欠片ほども臆することのないカゲロウの声に応え、ゾルバの両目が蒼く光り出す。

それと連動するようにカゲロウの全身に蒼い炎のようなオーラが纏われていく。するとカゲロウの全身が陽炎のように揺らめきだし、まるで分身しているかのような姿を見せる。

そこから振るわれる灰塵剣もまた、分身しているかのように幾重にも重なった斬撃を繰り出していた。

 

しかしアルパーは、その何重にも重なった斬撃を前にしても怯むことはなかった。

分身しているように見えるのは単なる目の錯覚――ただの目くらましなのだと踏んでいたのだ。

自分の幻をハリボテと評しておきながらやっていることは同じこと――いや、それ以下の下らない手品ではないかと、カゲロウを見下すアルパー。

そして難なくレイピアで灰塵剣を弾き――

 

『―――な゛っ!?』

 

弾いたはずの灰塵剣の斬撃が、アルパーの身体を斬り裂いた。

何故、と困惑に包まれるアルパー。振るわれた灰塵剣は確かに弾いたのに、何故斬られているのか。

――確かに、カゲロウの振るった灰塵剣自体は、アルパーのレイピアによって弾かれた。だがカゲロウの繰り出した斬撃は、弾かれたそれ一つだけではなかったのだ。

アルパーを斬り裂いたのは、灰塵剣の斬撃の分身。アルパー自身が目くらましだと判断したそれは、確かな実体を持っていたのだ。

 

――秘剣・陽炎。

これこそ、カゲロウの鎧に秘められた力。

魔導具ゾルバの力を介することで、実体のある分身を生み出すことができるのだ。

本体から一拍遅れて揺らめくように動くその姿は、まさに“陽炎”の如き姿であった。

 

『今度はこっちの番だオラァッ!!』

 

先程とは一転し、攻勢に入るカゲロウ。

分身した斬撃によって、一振りで幾重もの斬撃を繰り出していく。

何重にも重ねた斬撃で斬り裂かれるのは最早ただ斬られるのではなく、例えるならばチェーンソーで削られる感覚に近かった。

アルパーもレイピアで迎え撃つものの、分身した斬撃の衝撃を防ぐことができず、受け止めきれずに弾かれていった。

 

『そのような小細工で……舐めないでいただきたい!』

 

アルパーの怒りが、魔戒騎士にいいようにやられてたまるかというホラーの怒りが爆発する。

アルパーのレイピアの先端に光が灯り、カゲロウに向かって突きつける。

すると弾ける音と共に、先端の光から無数の鳩が飛び出してきたのだ。

視界を埋め尽くさんほどの鳩が襲う先はカゲロウの身体――ではなく、その手に持つ灰塵剣だった。灰塵剣の刀身に鳩が自ら飛び込んでいき、その身を刃に沈めていくのだ。

――結果、“灰塵剣の刀身の半分”は、鳩の肉体で完全に埋め尽くされたのだった。

 

防ぎきれないほどの衝撃を伴う剣ならば、碌に振れないようにしてやればいい。

刀身を鳩の血肉で埋め尽くしてやれば剣としての機能を果たすことはできない。ブーメランの形状では、柄を握っている側の刀身では碌に振るうことはできないだろう。

自らの狙いが見事に決まったアルパーは剣を封じられたカゲロウに向け、レイピアの突きを繰り出し――

 

 

 

『――詰めが甘いんだよ』

 

逆に、心臓部を一突きにされていた。

 

『な、な ぜ―――!?』

 

『そういやテメエはまだ見てなかったな。俺の剣は――“二本”になるんだよ』

 

心臓部を一突きにしていたのは、双剣態になった灰塵剣、その一振りであった。

鳩の肉によって刀身の半分が潰された時、即座に分割して双剣態にしていたのだ。

自らの狙いが想定外の形で潰されたことによる困惑と、心臓部を一突きにされたことによる苦痛がアルパーに襲い掛かる。

そしてその苦しみから逃れようとするかのようにレイピアを我武者羅に振るい、更にその先端から大量の鳩を召喚し、カゲロウの視界を完全に埋め尽くした。

 

その隙にカゲロウから距離を取り、魂を削られるような苦痛に胸を抑えながらその場から逃れようとするアルパー。

カゲロウの一突きはアルパーに致命傷を与えていた。このまま放っておけば斃れることは間違いないだろう。

 

――まだ斃れるわけにはいかない。自分はまだ人間を喰い足りていない、もっとたくさんの人間を喰いたいのだ。

その為にはこの場は一度退き、適当な人間を食べて身を潜め、傷を回復させなくてはいけない。折角人間界に出てこれたのだ。もっと楽しみ、人間を食べつくしたい。

そうしてこの場から撤退するべく、振り向いたアルパー。

 

 

 

 

『―――あ?』

 

その目の前に、“死”が佇んでいた。

緑の瞳を持つ金色の狼――黄金騎士ガロが、目の前に立っていたのだ。

呆然と見つめるアルパーの前で、ガロは大きく拳を振りかぶり、大砲のような勢いと共にアルパーの顔面へと叩きこんだ。

嘴が砕け、眼球は破裂し、撃ち出された弾丸のように殴り飛ばされるアルパー。

その先には鳩を排除し、灰塵剣を構えて待ち構えるカゲロウの姿があった。

 

『おぉぉ―――りゃあっ!!』

 

気合と共に振るわれる灰塵剣の一閃。

それは殴り飛ばされたアルパーの身体をすれ違いざまに両断し、その身を宙へ溶かすのだった。

 

 

 

 

 

アルパーを討滅し、昂った気を鎮めるように深く息を吐くカゲロウ。

心を鎮め、カゲロウの鎧を解除するコテツの視線の先には、同じようにガロの鎧を解除した彩牙の姿があった。

じっとコテツを見つめる彩牙。対するコテツも彩牙から視線を逸らさずに相対し、両者の間に緊張に似た空気が漂う。

互いに視線を逸らさずに見つめあう中、彩牙に向かって歩みを進めるコテツ。

そして――

 

「―――すまなかった」

 

その言葉と共に、土下座をしたのだった。

その勢いたるやまるで地に雷が落ちたかの如くであり、額を叩きつけた地面はひび割れ、裂けた額からは血がとくどくと流れていた。

叩きつけた際に“割れて砕けた”サングラスを傍に、土下座のまま微動だにしないコテツ。

 

「誤って許してもらおうとは思っちゃいない。だけど勘違いでお前を殺そうとしたこと、海未の嬢ちゃんを殺そうとしたことにはどう詫びを入れればいいのか……これしか思いつかなかったんだ」

 

「……お前」

 

「許せないってんならそれでいい、何なら今ここで俺を斬り捨てたって構わねえ!

 ――すまなかった……!!」

 

コテツにはこれしか思いつかなかった。

どう詫びを入れれば筋が通るのか、何度も考えた。だけどこれしか――真正面から頭を下げること以外、思いつかなかったのだ。

例えそれで自分が斬られることになったとしても、自分はそれだけのことを仕出かしたのだから。

 

額を地面に擦りつけたまま微動だにしないコテツを、彩牙が見下ろす。

感情の浮かばない表情を変えないまま、彼の前で膝を折ると――

 

「――俺は、お前を許せない」

 

静かに、それでいて険しい声色でそう言った。

 

「俺のことはまだいい。だが何の関係もない海未を――たとえ返り血のことがあったとしても殺そうとしたお前のことを、俺は決して許せない」

 

当然だと、コテツは思う。

こんなことで許してもらおうなど、虫がイイにも程があるのだから。

 

「だけどお前を斬るつもりはない。 俺は魔戒騎士だ。守りし者が同じ騎士を――人間を斬るわけにはいかない。だからお前は――」

 

そこで彩牙は言葉を区切り、ゆっくりと口を開いた。

 

 

 

 

 

 

「――俺と共に、彼女たちを守るんだ」

 

その言葉にハッとしたコテツは、地面に擦りつけていた顔をようやく上げた。

そこには見下ろすことなく、まっすぐコテツを見据える彩牙の姿があった。

 

「海未を、皆を――人々を守り続けること。 魔戒騎士として俺と共に戦うことがお前の償いだ」

 

「お前……!」

 

「立ち上がれ、コテツ。 お前も魔戒騎士なら、自分の使命を成し遂げてみせろ!」

 

そうして彩牙は、コテツに向けてその手を差し出した。

その表情は険しいままではあるものの、口元が僅かに吊り上がっていた。

そんな彼の姿を前に、コテツは毒気が抜けたかのように表情を崩した。

 

「……なんだってんだよ。あいつらといいお前といい、どいつもこいつもお人よしばっかりかよ」

 

差し出された彩牙の手を取り、力を借りて立ち上がるコテツ。

そうして向かい合う二人の間には、いつかの時のような敵意は漂っていなかった。

 

「――やってやるさ。 俺だって腐っても魔戒騎士だ。お前に負けていられねえからな!」

 

「――ああ!」

 

がっしりと、力強く拳を握り合う彩牙とコテツ。

――かつて、敵同士として出会った二人。

時には手を組み、剣を交え、遂には殺し合いにまで発展していた二人。

それが今、こうして真の意味で共に戦う仲間へとなったのだった。

 

 

「―――で、だ。折角だから一つ頼みたいんだが……」

 

「……?」

 

 

 

 

 

 

 

――数分後

そこには互いに距離を取り、向かい合う彩牙とコテツの姿があった。

コテツが彩牙に耳打ちした“ある提案”を実行するために、彼らはそうしていた。

 

「――準備はいいか!」

 

「そっちこそ、今更やめるとか言うんじゃねぇぞ!」

 

最初は、コテツだけが“喰らう”つもりだった。

だがかつて暴走してコテツを殺しかけた己にもケジメをつけたいという彩牙の望みもあり、こうしてお互いに“喰らわせる”形になっていた。

 

「……じゃあ、行くぜ!」

 

「ああ!」

 

掛け声とともに、同時に駆け出す彩牙とコテツ。

互いに向かって真っ直ぐに駆ける二人は、拳を握りしめ、大きく振りかぶりながら距離を詰めていく。

そして、交差する瞬間――――!

 

 

「「ウオォォォォォォォォォ――ッ!!」」

 

 

 

**

 

 

 

――園田家、玄関

 

「ど、どうしたんですかその顔!?」

 

いつものように彩牙を出迎えた海未の、驚愕に満ちた叫びが響き渡った。

それもそのはず、彼女の目の前にいる彩牙は顔に大きな青痣を作っていたのだ。

左頬から目の真下にまで大きく広がるその痣は、切り傷などとは違う痛々しさを醸し出していた。

真っ先に考えたのはホラーのことだ。ホラーとの戦いでこうなったのかと。

だが彩牙は、何のことでもないかのように口を開いた。

 

「ああ、心配しなくていい。これはただの“ケジメ”だからな」

 

そう語る彩牙を訝しげに見つめながら救急箱の用意をする海未。

その傍らで彩牙は、同じ“ケジメ”を分かち合った仲間のことを思い浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

――同じ頃

都内の某所にある廃墟。

その場を寝床にしているコテツの顔には、彩牙と同じような大きな青痣があった。

 

「いてて……あの野郎、ホントに手加減抜きで殴りやがった」

 

俺をぶん殴れ――ケジメとして、自分が言い出したことではあった。

だが思った以上の痛みで、コテツは思わず愚痴を零していた。

「やっぱり早まったか」「いっそのことあいつだけ殴ればよかった」などとぶつぶつと愚痴を漏らしていき、一見すれば女々しいようにも見える。

 

 

 

しかし月に照らされたその表情は、憑き物が落ちたかのように晴れ晴れとしていた。

 

 

 

***

 

 

 

絵里「伝統、歴史、知恵、技術」

 

絵里「様々なモノを人は昔から伝えてきたわ」

 

絵里「でもそれは、受け継ぐ人がいなければ簡単に途絶えてしまうもの……」

 

 

絵里「次回、『継承』」

 

 

 

絵里「あなたに、想いを継がせたい人はいるのかしら?」

 

 

 

 







魔戒指南

・ ホラー・アルパー
タキシードの男に憑依したホラー。
派手な色のタキシードを纏い、一つ目の鳩の頭部を持つ姿をしている。
手にしたステッキで相手の記憶を読み取り、その人物にとって大事な人の幻を作り出し、惑わせる力を持つ。
また、ステッキをレイピアに変化させての剣術も得意とする。




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第23話  継承

大変長らくお待たせしてしまいました。今回で断章も終わりとなります。
今回はあとがきの方に今後の投稿についてお話があるので目を通していただければ幸いです。



 

 

 

 

「……はあ、どうしようかしら……」

 

――休日の音ノ木坂学園。

その生徒会室にて悩ましげにため息をつく一人の少女――絵里の姿があった。

絹のようにきめ細やかなブロンドヘアーに透き通るようなアイスブルーの瞳という、整った麗しい顔立ち。悩ましげな表情を浮かべるそれは見る者を魅了させるような美しさを晒し出していた。

もっとも、それを目にするものは今この場にはいないのだが。

 

そんな絵里を悩ませている原因、それは彼女の目の前にある二枚の紙にあった。

それには幾人の生徒の名前が記されているのだが、その全てが漏れることなく大きく×で上書きされていた。

それを見て、絵里は改めて大きなため息をついた。

 

「漫画みたいに我こそは!って名乗りを挙げる子なんていないのね……」

 

絵里を悩ませている問題――それは生徒会の跡継ぎ問題だった。

この時期、どこの学校でも話題となる生徒会の引継ぎ――それはここ音ノ木坂も例外ではなく、絵里もしばらく前から引き継ぎのために動いてはいた。

だがここで頭を悩ませる問題が発生した。生徒会長を引き継がせる人間が見つからないのだ。

 

最初は立候補による募集をかけた。

生徒会長を経験しておけば将来進学や就職活動に有利になると考える生徒もいるはずと思い、一人や二人は立候補するだろうと考えた。

……誰も立候補しなかった。元々廃校になりかけていた学校で会長をしても旨味がなく、廃校阻止になったのもμ’sの功績が大きい――と考える生徒が多かったのかもしれない。事実、その面は否定できないのだが。

 

ならばと、次はこちらから呼びかけてみることにした。

以前から絵里が『任せられるかも』と思っていた目ぼしい生徒を一年二年の区別なくリストに纏め、それぞれ真姫と海未に各学年で呼びかけてもらった。

――結果は彼女の目の前にある通り、惨敗。生徒会長を引き継ごうとする気概のある人間はいなかったのだ。

余談ではあるが、海未は「大勢の前で話すなんて私には無理です!!」と顔を真っ赤にして早々に辞退、真姫は「柄じゃないから」と言って断っていた。

 

『あの完璧な絵里先輩の跡を継ぐなんて私には無理!!』多くの生徒がそんな風な理由で断っていたと、海未や真姫は言っていた。

――そんなことないのに。と絵里は思う。

生徒会長だって自分から立候補したわけではない。他に生徒会長をやれそうな人がいないからと、先生たちに何度も頼まれては断って――最終的に自分が折れただけなのだ。

自分は皆が思っているような――自ら先頭に立とうとするような人間ではないのだ。

 

「『完璧な絵里先輩』か……本当は、そう見られるように無理してただけなのにね……」

 

本当の自分はそんな人間ではない。

どこか抜けているところがあって、怖がりで、思い詰める余り意地っ張りになってしまう――そんなどこにでもいるような人間だ。

生徒会長としての自分なんて、生徒の代表として恥をかくことが無いようにと意地を張り、仮面を被っていたに過ぎない。本当は挫けそうになったり、陰で泣いてしまったことだってある。

――だから、今のように心から笑うことができたのは本当に久しぶりだった。

 

「穂乃果たちがいなかったら、私はずっと笑うことのできない『完璧な絵里先輩』だったのかしら……」

 

ぼんやりと物思いに耽る絵里が浮かべたのは、自らも所属するμ’s――その中心でもある、高坂穂乃果だった。

彼女がスクールアイドルを始めなければ――彼女がいなければ、自分はどうなっていたのだろう。心から笑うことができず、周囲からの期待と責任感からくる重責に押し潰されていたのだろうか。

 

だから自分をそこから――『完璧な絵里先輩』から引き上げてくれた穂乃果には、本当に感謝していた。あの時差し伸べてくれた手が、自分を救ってくれたのだ。

でもそこには自分を救うためだとか、そんな大それた目的はなかったのだろうと、絵里は思う。

例えるなら、穂乃果は台風の目――巻き込んだ人々を自然と笑顔にしていくような、そんな優しい台風の中心となる存在なのだろう。

 

だから――ふと思う。

彼女のような人間が、もしも生徒会長になってくれるのなら――

 

 

 

 

 

「―――きゃあっ!?」

 

物思いに耽っていた絵里を襲ったのは、開けていた窓から吹き込んできた突風だった。

あまりの強さに悲鳴をあげながら髪を押さえる絵里の前で、ばさばさと音を立てながら大量の書類が舞い上がる。

そうして風が収まった頃、恐る恐る目を開けた彼女が目の当たりにしたのは、舞い上がった書類が辺り一面に散らばる、無残な姿となった生徒会室だった。

いけないと思い、慌てて散らばった書類を集め始める絵里。

 

「希! そっちの方おねが……い……」

 

親友の名を咄嗟に呼んで、帰ってきた沈黙に我に返る絵里。

今の生徒会室にいるのは、絵里ただ一人。彼女の親友であり生徒会副会長、そしてμ’sのメンバーで――魔戒法師の卵でもある東條希の姿は、そこにはなかった。

その理由を思い出し、ほんの少し寂しげな表情で呟いた。

 

「……そういえば、今日は親と会う約束をしてるんだって言ってたわね」

 

 

 

**

 

 

 

――同じ頃。

東京駅の改札口にて、一人の少女――東條希の姿があった。

気合を入れたであろう服装に身を包み、御洒落をした彼女は普段とは違い、そわそわとした様子で改札の向こう側をじっと見つめていた。

時折時計を確認したり、身だしなみにミスがないか再確認したりなど、非常に落ち着かない様子だ。

それは年齢の割にどこか達観したような雰囲気を纏っている彼女にしては珍しく、年相応の少女らしい姿だった。

 

「―――あっ……!」

 

やがて、改札の向こうから一組の男女が現れた。

その姿を目にした希は表情をぱあっと輝かせ、待ちきれないといった様子でその男女の下へと駆け出した。

近づくにつれ、その男女の姿がはっきりとしてくる。眼鏡をかけた男性に、髪を腰まで伸ばした女性。若々しさの残る壮年の男女であり、目元や髪色、顔立ちなど希に似通った雰囲気を持っていた。

そして二人も、自分たちの下に駆け寄ってくる希の姿を認め、笑顔を浮かべた。

 

「お父さん!お母さん!」

 

「「希!!」」

 

男女――両親の下へと駆け寄った希は、その勢いを殺さぬまま抱きついた。

対する両親もその衝撃に怯むことことなく、愛する一人娘の抱擁をしっかりと受け止めた。

――東條家が、久しぶりに一家揃った瞬間だった。

 

「久しぶりだなぁ、前より綺麗になったんじゃないか?」

 

「ええ、こっちでの生活は楽しいかしら?」

 

「うん!あのね、お父さんとお母さんに話したいことがいーっぱいあるの!」

 

そう語る希の姿は、普段の大人びたものとは全く違っていた。

それは親に甘える、甘えたがりの少女そのものだった。

 

 

 

**

 

 

 

「―――はぁ……」

 

――学校の帰り道。

憂鬱な表情でため息をつきながら絵里は一人、とぼとぼと重い足取りで歩いていた。

結局、生徒会の引継ぎは今日も進展がなかった。このままでは誰かに指名して押し付けるような形になってしまう。

絵里は、それだけは避けたいと思った。

押し付けられた仕事にはそうそうやる気など起こるわけでもないし、なによりも無理だと言ってるような相手に余計な重圧を与えたくはない。優秀だと見られ、周囲から寄せられる期待がどれだけ重く苦しいものなのか、絵里は身を持って知っていた。

 

どうにかしてやる気に溢れ、生徒会を引き継げられるような生徒を、何としても見つけなくてはならない。

しかし立候補するような生徒はおらず、呼びかけてみても自信がないと断られ続ける中で、そんな生徒が本当に見つかるのかと不安に駆られてくる。

 

――やっぱり、誰かにお願いするしかないのかしら……?

 

自分の時のように、相手が折れるまで、何度も何度もお願いする。

自分のように、心が押し潰されてしまうことを承知の上で――“押し付ける”。

学校のためにと、そんな大義名分を盾にして――

 

 

マイナス思考の深みに嵌り、周りの景色がほとんど視界に入らなくなっていく絵里。

“たまたま”人気が全くない通りを歩く彼女の前に、黒い靄が立ち込める。絵里はそれに気づかない。

まるで意志を持つかのように、黒い靄は絵里の鼻先にまで伸びる。

そして――

 

「――きゃあっ!?」

 

ぐいっと突如腕を引っ張られ、その身体を壁に押し付けられた。

『――変質者!?』と、突然の出来事に身の危険を感じ、パニックに陥った絵里は相手を振りほどこうとする。

だが自らを拘束する相手の力は強く、ビクともしない。圧倒的な力を前に碌な抵抗ができない中、絵里の脳裏に変質者に弄ばれ、無残な姿となる未来が浮かび上がる。

その光景に心は恐怖に縛られ、身体が震え、目元に涙が浮かび上がる。

このまま欲望をぶつけられ、好き勝手に嬲られてしまうのだろうかと絶望する中――

 

「落ち着け、絢瀬さん!」

 

――聞き覚えのある声が、絵里の耳に響いた。

我に返り、恐る恐ると自らを押さえつける相手を見上げると、その目に映りこんだのはボロボロの白いコートを纏った、黒い短髪の同年代の少年の姿があった。

見覚えのあるその姿に、絵里は自分を押さえつけていた相手が誰なのかようやく理解した。

 

「彩牙……さん?」

 

そこにいたのは村雨彩牙だった。

白いコートを纏った姿――魔戒騎士としての姿を晒す彼を前に、なぜ自分を押さえつけるのかと絵里の中に疑問が浮かび上がる。

それに応えるかのように、彩牙は静かに口を開いた。

 

「――見ろ」

 

くい、と彩牙が顎で示した先。それは先程まで絵里が歩いていた場所――そのすぐ傍に立つ、一本の電柱だった。

だがそれは普通の電柱ではなかった。黒い靄が立ち昇り、触手のように蠢き、怨嗟の籠った呻き声を発していたのだ。

ずっと眺めていると呑み込まれてしまいそうな……まるで獲物を待ち構え、大きく開けた怪物の口のようだった。

あれは一体何なのか――その答えは、彩牙の左手から返ってきた。

 

『あれは陰我の溜まったオブジェ――エレメントだ。陰我が溜まりきって完全にゲートが開いてやがる』

 

「ゲート……?ええと、あなたは……?」

 

『俺様は魔導輪ザルバ。 で、ゲートってのは魔界からホラーが現れてくる、文字通りの門だ。あのままあそこを歩いていたら、嬢ちゃんはホラーに憑依されていたかもしれないってことさ』

 

「わ、私が……!?」

 

ザルバの言葉――ホラーという単語に、絵里の脳裏に蘇るのは学校の屋上でホラーに襲われた記憶。

穂乃果の身体を操り、ことりを、希を、自分たちを喰おうとした異形のバケモノ。

自分があれになっていたかもしれないと聞かされ、血の気が引き、背筋が凍る。人を喰うバケモノに成り果て、人々を――穂乃果たちを襲い、喰らい、最終的に魔戒騎士に……彩牙に――希に、葬られる。

そんな悪夢のような光景が、絵里の脳裏に過った。

 

「心配しなくていい、すぐに始末するから絢瀬さんは早くここから――」

 

「……ま、まって!」

 

その一方で、絵里の中に別の想いが芽生えていた。

何故そんなことを思ったのか、絵里にもわからない。あんなに恐ろしい目に遭ったというのに、怖くて堪らないのに。

だが知りたいと思った、知らなければと思った。彩牙が、希が――彼らが、どんなことをしているのか。

どんな想いで、この世界に身を置いているのか。

 

「私も……一緒にいていいかしら……?」

 

「『………は?』」

 

重なり合った、彩牙とザルバのポカンとした呟きが辺りに響き渡った。

 

 

 

**

 

 

 

「――そう。そんなことがあったのね」

 

「うん!色々あったけど……みんなと楽しくやってるよ♪」

 

――とある喫茶店。

久しぶりに揃った希たち東條家は、個室席もあるそこでお茶をしながら一家団欒に花を咲かせていた。

話題にしていたのは希の日常のことだった。友達が増えたこと、スクールアイドルをしていること、一時はすれ違いから解散しかけたが仲直りして再び活動を始めたこと。

以前電話で話したことや、あれから新たに起きた出来事を語る希は、とても楽しそうだった。新しい出来事を語ることは勿論、一度は話したことであってもこうして両親の顔や反応を直に目にしながら語ることは、希の心を弾ませていた。

 

「しかし希がその、スクールアイドルか………よからぬ輩が近づかないかと思うと不安になるな……」

 

「あら、お父さんったら」

 

そうしてまた、朗らかな笑い声に包まれる希たち一家。

μ’sの皆といる時とはまた違う、家族特有の賑やかな空気。希はこの空気が好きだった。

幾ら仲の良い友がいたとしても、これだけは……この空気だけは、家族でなければ出せないものだった。

 

「……本当に、楽しそうでよかったわ。 電話じゃ楽しそうに話していたけど、こうして顔を合わせるまで本当かどうか不安だったのよ」

 

「昔から引越しばかりで、希には寂しい思いをさせてばかりだったからな……それだけが気がかりだったんだよ」

 

「――ありがとう……お父さん、お母さん」

 

今の希の暮らしを――彼女が友に囲まれ、楽しく暮らしていることに安堵し、噛みしめるように語る両親の姿に、希は心を震わせる。

自分のことをそこまで案じ、想ってくれていることが途方もなく嬉しかったのだ。

両親がこれからも安心していくためには、自分が健やかに、幸せに暮らしていくことなのだろうと思う。

 

 

 

 

「――それとね。今日はもう一つ、大事な話があるの」

 

だから――これからこの話をすることは、希には心苦しかった。

自分がこれから話すことは、両親の望みとはまったくの正反対にあるのだから。

だけど、話さなくてはならない。それは今日の予定が決まったときからずっと決めていたことなのだ。

それにこれからのこと、これから降りかかることを考えれば――避けては通れないものだった。

何かと思い、話を待つ両親の前で、希は鞄から“それ”を取り出した。

 

「――希、それは……」

 

「――――っ」

 

希が鞄から取り出したものを前に、両親の表情は強張った。

それは希が幼い頃、誕生日プレゼントとして彼らが与えた“お守り”――魔導筆だった。

大事な話と言って、今この場で魔導筆を出す――それが意味することはただ一つだった。

 

「――私、魔戒法師になったんだよ」

 

希の言葉に、嘆くような――その一方で予期はしていたというような反応を見せる両親。

そんな彼らの姿を前に、希はずっと疑問に思っていたことを問いかける。

 

「教えて……お父さんとお母さんは、魔戒法師だったんだよね」

 

 

 

――どうして、私を魔戒法師じゃなく、普通の女の子として育てたの?

 

 

 

**

 

 

 

「―――ハアッ!!」

 

――とある広場。

エレメントと化したオブジェから飛び出した黒い靄――陰我を魔戒剣で両断し、浄化を果たす彩牙の姿があった。

危な気なく一仕事を終え、額から伝う汗を拭う。そしてその視線は、自らの後方に向けられた。

 

「―――っ、はぁっ、ふぅっ……!」

 

そこには膝に手をつき、肩で息をする絵里の姿があった。

帰り道で彩牙と遭遇してからここまでずっとついて来ていたのだ。

――遭遇した場所にあったエレメントを浄化してから、彩牙はあちこちに点在するエレメントを巡っては浄化していた。そんな彩牙の姿を見届けたいと同行を願った絵里であったが、思っていた以上のハードワークに体力を完全に奪われていた。

 

彼女はただ彩牙についていくだけであったが、何分その行動範囲が途轍もなかった。

ある箇所のエレメントを潰したと思ったら、全く正反対の――例えるなら日本列島の北から南へ移動するようにエレメントを潰しに行くというのが続いていたのだ。

体力には自信があった絵里だが、少し汗をかいただけの彩牙を前に、彼らと自分では体のつくりが根本的に違うのだと改めて実感した。

――最も、そうでなければあのようなバケモノと戦うことなど不可能なのだろうが……

 

『……まさか根を上げずにしっかりついてくるとはな、大した根性をした嬢ちゃんだ』

 

ザルバが感心したような声を上げる。彩牙もそれには同感だった。

なにせ彼らは絵里を撒くつもりでエレメントを巡っていたのだ。いつも以上に早歩きで進んだり、わざわざ離れた場所まで向かったりするなど、体力が切れた頃を見計らって安全な場所で撒けるようにしていた。

だが彼らの予想に反し、絵里は最後までついて来ていた。流石に体力がなくなり、疲労困憊の状態ではあったが、これもひとえに彼女の意志の強さによるものなのだろう。

彩牙たちの――希のやっていることを知りたいという意志が――

 

「……」

 

――流石に、ここまで意地を見せた彼女に何もしないというのは酷な話だ。

幸いにして今日潰すべきエレメントは全て浄化した。園田家の手伝いにもまだ時間に余裕がある。

彩牙は絵里の下に歩み寄ると、ふらついて今にも倒れてしまいそうな彼女の手を取り、肩を支える。

 

「彩牙くん……?」

 

「少し休もうか」

 

まずは、休めるところを探さなければ。

 

 

 

 

 

 

彩牙が選んだのは、近場にあった公園だった。

適当なベンチに絵里を座らせ、自販機で買ったスポーツドリンクを手渡す。呼吸を整えながら少しずつ飲んでいく彼女の姿は、汗を流す姿も相まって健康的な色気を晒していた。

自身もまた、一緒に買っていた黄色いラベルの缶コーヒーを開け、啜っていく。コーヒーの苦味を埋め尽くすような練乳の甘ったるさが口の中に広がり、混沌とした味わいが彩牙の味覚を刺激する。

……次は甘くないやつを買おうと思った。

 

「……今日は、我儘に付き合ってくれてありがとう」

 

そうしていること数分後――ようやく体力が落ち着いたのか、姿勢を楽にした絵里が呟いた。

 

「魔戒騎士ってホラーと戦うだけがお仕事じゃなかったのね」

 

「ああ、ホラーの出現を防ぐためにゲートを潰す――それも俺たちの役目だ」

 

「海未の家の手伝いもしてるんでしょ?よく体力が持つわね」

 

「そうか?俺にとっては当たり前のことなんだが……」

 

日中はエレメントの浄化と園田家の手伝い、夕方に海未と剣の稽古と夕食を済ませた後、夜の見回りとホラーの討滅。そして早朝にまた海未と剣の稽古――

こんな暮らしで一体どうやって休息をとり、体力を維持しているのか……絵里には不思議でたまらなかった。魔戒騎士の身体の仕組みを解析すれば体力の心配がいらなくなるのではないか――そんな冗談のような考えが浮かび上がるほどに。

そして同時に、心配事が生まれる。

 

「……希は、こんな生活で持つのかしら」

 

「――彼女なら大丈夫だ。最近は上手く身体を休められるようになってきたし、それに毎日遅くまで見回るわけじゃないからな」

 

『ま、始めたばかりの頃は翌日ふらつくことが多かったがな』

 

彩牙たちの言葉にほっとすると同時に、一つ合点がいった。

一時期、希が練習中に上の空になっていたりフラフラしていたりすることがあったが――あれは、魔戒法師としての生活サイクルにまだ順応できていなかった故だったのだ。

事実、最近の希はそう言った様子を見せることなく、健康体そのものだった。

 

希の成長にほっとするやら寂しいやら複雑な感情を抱く中、絵里は表情を引き締め、彩牙に尋ねる。

今現在、最も聞きたいと思っていたことを。

 

「……聞いてもいいかしら?」

 

「何がだ?」

 

「彩牙さんは、どうしてホラーと戦うの? ……あんなのと戦うことに、怖いと思うことはないの?」

 

絵里は、彩牙が何故ホラーと戦うのか知らなかった。

希が戦う理由は以前本人から聞いた。μ’sの皆を守りたいが為に戦うことを選んだのだと。

では彩牙は?彼は何のために戦うのか?

ホラーを討滅することは彼ら魔戒騎士の使命だと、希は言っていた。使命感――それだけで、あのような恐ろしいバケモノと戦うことができるのか?

彩牙を戦いへと突き動かすものは何なのか――絵里はそれを知りたかった。

 

「…………ははっ」

 

「……?」

 

そんな絵里の言葉に、彩牙は昔を――戦う理由に悩んでいた頃を思い出し、僅かに頬を緩ませた。

不思議そうに見つめる絵里の視線を浴びながら、表情を引き締めた彩牙は口を開いた。

 

「守りたい人々がいるからだ」

 

彩牙の言葉に、絵里は目を見開いた。

 

「……確かに、ホラーは恐ろしい。奴らは闇の中から俺たちの心の隙を窺い、その身と心を闇に堕とそうとする。 直接対峙しても同じだ、奴らの恐怖に呑まれ、喰われることは怖い」

 

「……」

 

「だが俺が戦うことで、その恐怖から人々を――大切な人を守ることができる。ホラーを倒すことで人々の未来が、明日が守られる。だから俺は戦うことができるんだ」

 

 

 

「――そしてこの力は、そのために受け継がれてきたんだ」

 

そう語る彩牙が掲げたのは、赤い鞘に納められた魔戒剣――牙狼剣。

黄金騎士ガロの力そのものであり、象徴でもある剣。

彩牙が受け継いだ力であるそれを見上げる絵里の胸中に、ある想いが生まれた。

 

「………重荷に思ったことは、ないの?」

 

気付いた時には口に出していた。

絵里が聞いた話では、彩牙は海未の家に拾われる以前の記憶が無かった筈だ。仮に記憶を失う前はガロを受け継ぐ心構えや覚悟があったとしても、記憶を失くした彼の中にはそれらは無かった筈だ。

気付いた時には自分の中に存在し、受け継いでいた力。それに伴う戦いの運命に苦悩することはなかったのか。

その強大な力を受け継ぐことを、重荷と思うことはなかったのか――

 

「……重荷じゃない、と言えば嘘になる」

 

絵里からかけられた問いに、彩牙は静かに語り始める。

その瞳は揺らぐことなく、掲げられた牙狼剣に向けられていた。

 

「黄金騎士ガロの称号……それを未熟な俺が名乗っていいのかと不安になることも、その名を重く感じることもある」

 

彩牙は語る。

ガロはただの称号でも、黄金の鎧でもない。すべての魔戒騎士の頂点に君臨する最強の称号であり、鎧に宿りし英霊に認められた騎士のみが名乗り、鎧を纏うことが許されるのだと。

ガロを名乗り、その鎧を纏うということは――英霊たちの遺志を継ぐということ。

その身に掛かる重責は如何ほどのものであるのか――絵里は想像するのが恐ろしくなった。

 

 

 

 

 

「――だが同時に、誇りに思う」

 

「え……?」

 

――故に、誇らしげにそう語る彩牙の姿は予想外だった。

 

「確かに、先代のガロであった父はどういった経緯で、何故未熟な俺に鎧を託したのかわからない」

 

「だがどんな理由があったにせよ、父がガロの鎧を――人を守るための力を俺に託してくれた事実は変わらない」

 

 

 

「俺を信じ、未来を託してくれた――そのことが嬉しく思うんだ」

 

そう語る彩牙の横顔には、凛々しい笑顔が浮かんでいた。

力を受け継ぐということは、重責を背負うことだけではない。力を託される――それは信頼の証でもある。

『彼ならば託すに値する』――そう信じられているからこそ、力を――希望を託されるのだ。

そして今、彩牙の手元にはガロの鎧が――信頼と共に託された“希望”の象徴があった。

 

その一方で、絵里は彼の言葉を自分の境遇と――生徒会の引継ぎと重ねていた。

……自分は、信じていたのだろうか。生徒会を引き継がせなければと考えているばかりで、相手のことを――生徒会を任せられると信じていたのだろうか。

――否だ。『やれるかも』と思っていただけで、『任せられる』『任せたい』とは思っていなかった。相手のことを、信じきれていなかった。

彩牙を信じて鎧を託したのであろう彼の父が、それを誇りと思う彼が、羨ましかった。

 

「……なんだか、羨ましいわね。そう思えるのって」

 

『お前さんはどうなんだ』

 

「え?」

 

「絢瀬さんにもそう思える相手がいるんじゃないのか?」

 

――言われて、考える。

自分が信じる人。自分の想いを託したいと思える人。

深く、深く考える。自分の奥深くにある心からの想いを引っ張り出す。

そうして浮かび上がったのは、自分に手を差し伸べる一人の少女。

自分を救ってくれた、太陽のような女の子――

 

「――――あ……」

 

――いた。

たった一人、絵里が自分の想いを託したいと思える少女が。

――彼女は秀才ではない。テストでは赤点ギリギリであるし、友人の助けがなければ何もできないと自信満々に言うほどだ。多くの人間が浮かべる生徒会長像とは正反対の位置に属するだろう。

だが彼女なら――助けを借りることを躊躇わない彼女だからこそ、生徒たちを導くのではなく、生徒たちと肩を並べて一緒に進んでいくことができる。

そんな新しいカタチの生徒会ができるのではないか――そう思った。

いや、彼女ならそれができると信じられる。

 

「そっか……そうだったのね……」

 

今、ようやく気付くことができた。

自分の本当の想い。誰にこの役目を託したかったのか。

 

「……ありがとう、彩牙さん。あなたと話せてよかったわ」

 

――自分は、学校の未来を“彼女”に託したかったのだ。

台風のように周囲を巻き込みつつも皆を笑顔にできる、太陽のような女の子に――

 

 

 

**

 

 

 

――あるところに、二人の男女がいた。

彼らは魔戒法師だった。幼い頃より閑岱の地で修業を積み、法師として騎士を支え、ホラーと戦い、人を守ってきた。

その中で彼らは絆を深め、恋に落ち、愛を抱き、夫婦となった。

――しかし、良いことばかりとは限らなかった。

 

彼らは魔戒法師。ホラーと戦う者たち。

戦うとはつまり、自分たちも死ぬことがあるということだ。

組んでいた魔戒騎士、そして先輩、後輩、修業時代からの馴染みの魔戒法師。皆ホラーとの戦いの中で傷つき、斃れていった。

彼らは魔戒法師としては並程度の実力しか持たなかった故、その無力感もさることながら、自分たちだけが生き残ってしまった罪悪感にひどく苛まされていった。

 

そうして悲しみ、悩み、苦しんだ末に――彼らは挫けた。

彼らは戦えなくなった。仲間を失い続ける悲しみ、死ぬことに対する恐怖、力不足による無力感が、守りし者としての心をへし折ったのだ。

彼らは番犬所から去り、術を捨て、守りし者からただの人となった。

普通の人間として暮らしていくことは、それまでとは違う苦労が多かった。だが戦いとは無縁の場所で穏やかに生きていくことは、彼らの心身に僅かなりにでも癒しをもたらしたのだ。

 

そうして月日は流れ、彼らはその間に新しい生命を授かった。

母譲りの髪色と父譲りの色の瞳をもつ、可愛らしい女の子だった。その無邪気な笑顔は、深く傷ついた彼らの心に溢れんばかりの幸福感をもたらした。

その子こそが――

 

 

「……それが希、あなたなのよ」

 

「……」

 

そう語る両親の言葉を、希は目を見開きながら聞いていた。

自分が知らなかった両親の過去――魔戒法師として育ち、戦い、仲間を失い続け、心がへし折れたその半生。その過去は彼女が想像していたものよりも凄惨で、思わず言葉を失ってしまっていた。

自分にとっての仲間や友――彩牙や絵里、μ’sの皆。それらを失い続けてきた両親の苦悩と絶望は如何ほどのものだったのか、想像するだけで彼女の心は恐怖に震えた。

それ故に、仲間を失い続けた両親にとって新たな命を――希を授かったことは、この世の何物にも代えがたい希望になったのだ。

 

――だが一つだけ、両親には大きな不安があった。

 

「もう知ってるとは思うが……希、お前は生まれつき大きな法力を持っていたんだ」

 

「あなたは小さな頃から“この世ならざるモノ”が見えていたのでしょう?その理由がそれよ」

 

両親は語る。

希が有していた法力とは、両親とは比べものにならない――それこそ名を遺せる法師になれるであろう、というほどに強大だったのだと。

それが作用して希にはこの世ならざるモノが見えていたことを両親は知っていた。……知っていて、気づかぬふりをしていた。

その理由は――

 

「……私たちは怖かった。いつかお前が戦いに巻き込まれるのではないかと」

 

「だけど私たちの力ではあなたの力を封じ込めることはできなかった。それに逃げ出した身では番犬所を頼ることもできない。だから――」

 

 

「……だから、あの守りの術を教えたの?」

 

確かめるような希の問いに、両親はこくりと頷いた。

幼い頃の誕生日に、お守りと称した魔導筆と共に授かった守りの術。

あれは“その時”が来た時を危惧して、希が自身や大切な人を守れるようにと授けたのだ。

事実、その懸念は現実となった。この術が無ければ彼女は今こうして無事ではいなかっただろう。彼女だけではない。彩牙や真姫――μ’sの皆も。

――だが、同時に疑問も浮かび上がる。

 

「――『何故魔戒法師やホラーのことを教えなかったのか?』……って言いたそうね」

 

言おうとしていたことを読み取った母の言葉にどきりとし、息を呑む希。

母の言う通り、高い法力を有していたのなら魔戒騎士や魔戒法師のこと、ホラーとの戦いのことを教えなかったのか不思議に思っていた。

全てを教えてしっかり戦えるようにするのではなく、何故何も教えずに最低限の守りの術だけを授けたのか――希にはその理由がわからなかった。

 

 

「……お前には、何も知らずにいてほしかった」

 

「え……?」

 

「魔戒法師やホラーのことなど知らず、ただ平穏に……普通の女の子として生きてほしかったのよ」

 

平穏に、穏やかに生きてほしい。

戦いとは無縁の世界で、一人の女の子としての幸せを享受してほしい。

それが両親の願い。愛する一人娘へ抱く、ただ一つの願い。

それは人の親としてはごく当たり前の感情、だがその一方で――

 

「……つまり私たちは、お前以外の人間を見捨てるも同然のことをしたんだ」

 

「……幻滅したでしょう? 魔戒法師になった今のあなたにとって、私たちは守りし者の使命も何もかも放棄した、“魔戒法師くずれ”だもの」

 

顔も名前も知らない人間の命や未来よりも、彼らは自分たちの娘の平穏を選んだ。

それは魔戒法師としてはあってはならないこと。

守る人間を選り好みするような者は、守りし者に非ず。

戦いから逃げ出した身ではあるものの、かつては彼らも魔戒法師。そのことに対する負い目が両親の中にはあったのだ。

 

俯き、視線を逸らす両親には、希の表情は見えない。

彼らは娘を見るのが怖かった。娘がどんな目で自分たちを見ているのか、向き合うことができなかった。

怒っているのだろうか、軽蔑しているのだろうか――“逃げ続けた”彼らには、それを確かめる勇気がない。

そして僅かに見えた視界の隅で、希の口元が動き出す――

 

 

 

「……そんなことない」

 

淀みなく、はっきりとした言葉。優しさと力強さが織り混じった声色。

その言葉に思わず視線を上げた両親の目の前には、愛する娘の柔らかな微笑みがあった。

 

「そんなことないよ。 だって、お父さんもお母さんも頑張って、悲しくて、辛い思いをしても……ずっと私を守ってきてくれたんでしょ?」

 

 

「私にとってお父さんとお母さんは……世界で一番の“守りし者”だよ」

 

希は両親を責める気にはならなかった。

――責める理由がどこにあるというのか。

ホラーと対峙し、その恐怖と向き合い、自分の命どころか危うく友を失いかけた希だからこそ、両親の気持ちは痛いほどわかる。それを笑ったり軽蔑するなどできるわけがない。

そして戦いから逃げた負い目に加え、人々を守ることを放棄した罪の意識に苛まれることになっても、両親は希の平穏を――彼女を守ることを選択した。

それほどの愛を、どうして否定することができようか。

 

――だから、誰が何と言おうと、希は何度でも毅然と言える。

彼女の両親は、立派な守りし者なのだと。

 

「希……!」

 

「――ッ……!」

 

そんな希の言葉に、両親は涙を堪えるので精一杯だった。

――彼らは赦されたかったのだ。戦いから逃げ、人を守ることを放棄した罪の意識から。許されぬとわかっていながらも、救いを求めていた。

そして今、それは為された。彼らがこの世で最も守りたいと思っていた相手に。魔戒法師となり、彼らを糾弾できる立場にある愛する娘に。

これほどに心を震わせ、救いとなる出来事があるだろうか――

 

 

「……だから、お願いがあるの」

 

だからこそ、希には頼みたいことがあった。

世界で一番の守りし者だと信じている両親に、誰よりも喪うことの哀しみを知る両親だからこそ、教わりたいことがあった。

 

「私に術を――みんなを守るための力を教えてほしいの」

 

命を、未来を、希望を守るための術。

両親が守れなかった分も守っていくために、自分も含め皆を守るために、かつて両親がこれまで培ってきた全てを教わり、受け継ぎたかったのだ。

全ては、これからの未来のために。

 

 

それに対する両親の答えは――最早語るまでもなかった。

 

 

 

**

 

 

 

――夜。絵里の自室。

ゆったりとした部屋着でリラックスしている絵里の手元には、彼女のスマートフォンがあった。

ついついと操作し、その画面に映し出されたのは、ある人物の連絡先。

一瞬逡巡するも、気を取り直すようにタップし、電話を掛ける。

 

プルルルル、と電話の呼出音が耳の中で反響する。

その最中で絵里は考える。受け入れてくれるだろうか、引き受けてくれるだろうかと不安はある。

だがその一方で、彼女ならば引き受けてくれる、自分の後を継いでくれるという想いもあった。

確証は何一つない。だがきっとそうなるであろうという確信が、絵里にはあった。

何よりも絵里自身が、彼女に託したいと思っているから――

 

 

 

『――もしもし、絵里ちゃん? どうしたの?』

 

「こんばんは、穂乃果。 あのね、大事な話が……」

 

 

 

 

 

「――あなたに、お願いしたいことがあるの」

 

 

 

***

 

 

 

穂乃果「あの日、私たちの夢が一つ叶いました」

 

穂乃果「だから私たちはもう一度駆け出します!」

 

穂乃果「新しい夢に向かって!」

 

 

穂乃果「次回、『夢想』!!」

 

 

 

穂乃果「叶え!私たちの――」

 

 

 

 







突然ですがしばらくの間、お休みを頂きたいと思います。
というのもここ数話は投稿間隔がどんどん伸びていってしまい、話や文章が頭の中でまとまらず、書き溜めの執筆も全く進まないという状況に陥ってしまったのが原因です。
このまま無理無理に進めてお目汚しするよりは、章の区切りで一旦筆を休めた方がいいかもしれないと思い、このような措置といたしました。
楽しみにしていただいている方には申し訳なく思いますが、どうか長い目でお待ちいただければ幸いです。

いつになるかお約束はできませんが、第二部の一話目を投稿できるその日にまたお会いしましょう。



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第二部  ニジノツバサ -TASK OF RAINBOW-
第24話  夢想/Ⅰ


復・活!!

前回から1年以上経ってしまいましたが、ようやく帰ってこれました。
更新が止まっている間にスクスタ配信やら牙狼の新作やら色々な展開がありましたが、こちらもまた進めていきたいと思います。
相変わらずの亀更新ではありますが、今後もよろしくお願いします。
あと、今回から投稿形式を少し変えてみました。


P.S.フェス限がまったくお迎えできないのだが(血涙



 

 

――俺の自我は、背負われている時から始まった。

ゆらり、ゆらりと揺れる中、背負い紐で固定された俺が“目覚めて”初めて目にしたのは大きな背中だった。寝惚け気味で、虚ろ気な目に映ったその背中はとても大きく、ごつごつとして巌のように固かった。

……だけど同時に、温もりもあった。小さくて、風が吹いたら飛ばされそうなほど脆い身体を決して振り落とさぬようにと穏やかに揺れるその背中は、俺の身を案じる優しさと温もりがあった。

――といっても、当時の俺にそんなことはわからなかった。初めて見た世界の中で、ただ暖かい、気持ちいいと漠然と思っていただけだ。

 

暫く揺られていると、また眠くなってくる。

うつらうつらと瞼が重くなる中、遂に限界がきて夢の世界に旅立とうとしたその瞬間、その背中の主の顔がちらりと振り向いた。

――男の人だった。それなりに歳を取っているようで、皺と髭を幾らか携えたその顔は鋭く厳格な顔立ちで、それでいて慈しむような眼差しでこちらを見つめていた。

 

――その時、俺は漠然と理解した。

この人が――俺の父親なのだと。

 

 

 

***

 

 

 

第24話  夢想

 

 

 

「……はぁ、今日もダメかぁ……」

 

――ある日の夜。

人々が行き交う街の広場の一角に、一人の若い女がいた。

ギターを肩から下げ、自作の歌を奏でる――弾き語りだ。だが人の行き交いに比べ、彼女の歌に耳を傾け、足を止める者は殆ど皆無だった。

 

彼女はかつて、プロの歌手を志していた。

音楽関係の事務所に所属し、CDを出し、そこそこ売れだして小さなイベントに出演したりするなど順調に進んでいた。

しかしある悲劇が彼女を襲った。

上達しようと無理な自主練を続けるあまり、彼女は過労で倒れてしまった。命に別状はなく、無事完治することもできた――ある一点を除いて。

 

喉だ。

上達のために喉を酷使しすぎたあまり、彼女の喉は潰れてしまったのだ。

それ以降彼女は以前と同じように歌うことができなくなり、仕事もなくなり、事務所内で彼女は腫れ物のような扱いになった。

そして最終的にその空気に耐え切れなくなり、彼女は事務所を辞めた。引き留められる様なことはなく、その頃には世間からも彼女の存在はすっかり消えていた。

 

彼女の夢はそこで破れた。

だが彼女はかつての夢を忘れることができなかった。

色々な音楽事務所への売り出しや、こうした資金調達も兼ねた弾き語りによって、音楽関係者へのアピールを重ねていった。

しかし現実は厳しいものだった。以前のように歌えなくなった彼女を迎え入れようとする事務所はなかった。弾き語りも音楽関係者の目の留まることはおろか、一般人の足も引き留めることができなかった。

女手一つで育ててくれた母はそれでも彼女のことを応援してくれていたが、生活費もまともに稼げない自分が情けなく思い、罪悪感に近い居心地の悪さを抱いていた。

 

片付け、ギターケースを背負い、帰路に就く。

生気が抜け落ちた暗い表情を浮かべ、とぼとぼとした足取りで歩く彼女の耳に、軽快なポップソングが飛び込んでくる。

顔を上げ、その歌声の出所を探す。その視線が辿りついたのは、ビルの外壁に備え付けられた街頭モニターだった。そこに映し出されていたのは、お揃いの衣装に身を包んだ三人の少女たちだった。

 

『――本日は第一回ラブライブで見事優勝を飾ったスクールアイドル、A-RISEの皆さんにお越しいただきました!』

 

――スクールアイドル。

彼女はアイドル関連にはほとんど興味はなかったが、その存在は知っていた。女子高生を中心に広がっているアマチュアのアイドル活動で、中にはプロに匹敵する腕前のグループもあるらしく、芸能事務所も取り入れを検討していると聞いたことがある。

現に今、彼女以外の通行人の多くの視線もモニターの中の少女たちに釘付けとなり、そこかしこで黄色い悲鳴が上がっていた。

 

彼女の瞳に映る、モニターの中で司会者の質問に答える少女たちは、とてもキラキラしているように見えた。

その姿は輝かしくて、微笑ましくて、羨ましくて、そして何よりも――妬ましかった。

なぜ自分はあの場所に立つことができないのか、なぜ自分はこんなにも惨めなのか、自分と彼女たちで何が違うのか。

なぜ、なぜ、なぜ――――『何故』と思う感情は次第に自分を認めない世間に対する憤りに、望むままに歌うことができるスクールアイドルそのものに対する嫉妬へと変わっていき、どす黒い感情が彼女の中を満たしていく。

 

 

 

 

―――もう一度歌いたいか?

 

「えっ……!?」

 

――その時、彼女の耳に何者かの声が響いた。

男のような女のような、老人のような子供のような、奇妙な声だった。

咄嗟に辺りを見回すが、彼に声をかけた様子の人物はいない。それどころか皆モニターの方に釘付けになっていて、誰も彼を見ていない。

あんなにはっきりと声が聞こえたのに、だ。

 

羨ましいのだろう、妬ましいのだろう?思うがままに歌うことができるあの娘たちが

 

本来ならばあそこに立てたのはお前だったはずなのになぁ

 

「な、なによ……私、疲れてるの?」

 

明日はゆっくり休んだ方がいいかな――自分に言い聞かせるように呟きながら、彼女はその場を離れようとする。

 

そうしてまた今日と変わらぬ日々を過ごすのか?

 

――しかし、その声が彼女の歩みを止めた。

 

誰の興味も引かぬ曲、誰の心にも響かぬ歌。それを惰性で垂れ流し続けながら、差し伸べられることがない手をただ待ち続けるだけの毎日

 

――黙れ。

 

そんな日々をこれからもずっと続けていくつもりか?

 

――黙れ、黙れ……。

 

他者を羨み、妬み、何者にもなれぬまま、惨めに生きていくつもりか?

 

――だまれ、だまれ、だまれ……!

 

私を受け入れろ。そうすればお前を昔以上に歌わせてやれるぞ……?

 

 

 

「――だまれだまれだまれだまれっ!! そこまで言うならやってみなさいよ!私をもう一度歌わせてみせてよっ!!」

 

語りかけてくるその声に、耐えられなくなった彼女は大声で叫びあげる。

これ以上我慢できなかった。自分の心を見透かしたかのように語りかけるその声は彼女の神経を逆撫で、心を激情で支配するには十分だったのだ。

――故に、彼女は気づかなかった。

辺りに響き渡るほどの叫び声を上げたのに、誰一人彼女の方に視線を向けないという異常性に。

 

 

――よく言った

 

その声が嘲笑うようにそう言ったことに、彼女が気付けたかは定かではない。

ただ一つ確かなのは、背負ったギターケースから溢れ出した闇が彼女の身体に入り込んでくること。それが彼女という『人間』が最期に見た光景だったということだ。

 

 

 

**

 

 

 

――音ノ木坂学院・講堂

 

「――音ノ木坂学院は、入学希望者が予想を上回る結果となったため、来年度も生徒を募集することになりました」

 

全校生徒と教師で埋め尽くされたそこで壇上に立ち、生徒たちに挨拶を述べるのはことりの母――この学校の理事長だった。

彼女の語る言葉には、廃校は免れないと思われていた学校が存続できることに対する喜びと、生徒たちに学校が無くなるという寂しい思いをさせずに済んだことによる安心感が籠められていた。

 

そして理事長の挨拶の内容は、生徒たちへと直接投げかけるものになっていく。

三年生は残りの学園生活を悔いなく過ごすことを。

二年生と一年生にはこれから入学してくる後輩へのお手本となること。

お決まりの言葉と言えばそれまでだが、核心を突いている言葉でもあった。これらの言葉を守れない人間には、何かしらの形で報いが返ってくることもまた事実なのだから。

そして、その言葉で理事長の挨拶は締めくくられた。

 

「理事長、ありがとうございました。それでは次に生徒会長の挨拶。 生徒会長、お願いします」

 

そう告げるのは司会の席に座る、赤いリボンを身に着けた二年生――ヒデコだ。

彼女の言葉に応えるように席を立つ絵里。そのまま壇上へと向かう――わけではなく、彼女はその場でパチパチと拍手をしていた。これから起きる出来事を祝うかのように。

 

やがて、そんな“元”生徒会長の祝福に応えるかのように、一人の少女が壇上の袖から姿を現した。

赤いリボンを身に着け、全校生徒の視線を浴び、袖に隠れている二人の幼馴染が見守る中、彼女は演卓の前に立ち、高らかに宣言した。

 

「皆さん、こんにちは! この度生徒会長になりました、スクールアイドルでお馴染み――」

 

生徒たちの歓声を浴びる中、彼女は演卓に置かれたマイクを手に取るとそれを天高く放り投げ、危なげなくキャッチすると再び高らかに宣言するのだった。

 

 

 

「――高坂穂乃果と申します!!」

 

 

新生徒会長――穂乃果の姿を前に絵里は思う。

やはり彼女にお願いして正解だったと。二つ返事で引き受けてくれたことも、こうして新生徒会長として宣言している彼女を見たことで確信した。

彼女ならば、きっとこれまで以上に楽しくて、輝いている学校生活を作り出すことができると。そんな晴れやかな想いで、絵里は新しい生徒会長の誕生を見守っていた。

 

 

 

 

 

 

 

――この数秒後、考えていた挨拶の内容が頭の中から吹っ飛んで硬直した生徒会長を前に、絵里をはじめとした全校生徒が「本当に大丈夫なんだろうか」と不安を抱くことになるのだが、まだ誰も知る由はない。

 

 

 

**

 

 

 

「――魔導書?」

 

――虹の番犬所。

神官オルトスに呼び出された彩牙とコテツの、オウム返しのような声がその場に響き渡る。

うむ。と呟くオルトスが取り出したのは、旧魔界語で記された一冊の魔導書だった。

 

「お主ら、旧魔界語は読めるかの?」

 

「多少は」

 

「師匠に死ぬ気で叩き込まされたよ」

 

「ふむ、やはり希に探させて正解だったようじゃの」

 

二人の答えに満足そうに頷くオルトス。

話が見えず首を傾げる彩牙たちに、オルトスは事の次第を語りだす。

 

事はあの日――大和が海未を攫い、暗黒騎士としての本性を明らかにした日のことだ。

彩牙がコテツの師を殺害したという記録が納められた魔導具に改竄の跡を見つけたオルトスは大和に疑いを持った。魔導具の記録を改竄できるほどの腕を持つ魔戒法師は、大和以外にはいなかったからだ。

そして希に大和の住処の調査を命じ、そこで彼女が見つけ、持ち帰ったのがこの魔導書だったのだ。

――なお、正体を露にした大和が姿を消して間を開かずに、大和の住処は塵一つ残さず消えていたため、持ち出すことができた物品はこれのみだったという。

 

「ちなみに言うとこの魔導書は旧魔界語を読める者が読むと発狂する術がかけられておってな、全く読めないあやつを向かわせて正解じゃったわい」

 

もう術は解いてあるから安心せえよ。と軽い口調で語るオルトスに、彩牙たちは小さくため息をついた。

運が良かった風に言っているが、実の所全部わかった上で希を向かわせたということが言葉の節々から伝わってきたからだ。

 

「それで、何が記されてあったのですか?」

 

「極上に美味い赤酒の製造法が記されておったわ」

 

「何言ってんだこいつ」と言いたげな視線を向けるコテツだが、オルトスは意にも介さず平然としている。

コテツ程ではないにしろ、彩牙も同じような視線を向ける中、オルトスはその答えを口にした。

 

「大和もなかなかに厭らしいことをしおってな、魔導書の中身を無茶苦茶に改竄されておったのじゃ」

 

暗号文にされたようなものだとオルトスは語る。

それが事実だというのならば、オルトスをもってしても解読するには一朝一夕ではいかないだろう。仮にも魔戒法師としても超一流であった大和が簡単に解読できるような暗号を仕込むとは到底思えない。

しかし、それは裏を返せば――

 

『奴にとっても重要な情報が詰まっているってことか』

 

「そういうことじゃ。希は本当にいい仕事をしてくれたわい」

 

希の勘の鋭さは彩牙もよく知っている。

そんな彼女が膨大な魔導書の中からこの一冊を持ち出したという事実。それだけでも暗号の解読をする価値は十二分にあるだろう。

やるべきことは決まった。あとはこのことを希とも共有して――

 

 

「――彩牙。 お前に話しておきたいことがある」

 

その時、コテツがおもむろに話を切り出した。

彼はちらりとオルトスに視線を向けると、再び口を開いた。

 

「……俺が魔戒騎士になったのは、あるホラーを倒すためだ」

 

そう言ってコテツが取り出したのは一枚の写真だった。

「そこに写っている男がそのホラーだ」と渡された写真を見て、彩牙は目を見開いた。

 

「……お前、これは――!」

 

「見つけたら教えてくれ。頼む」

 

そう語るコテツだが、彩牙は写真から目を離せない。

この写真の中身が真実であるのならば、コテツは――

 

 

 

**

 

 

 

「――ラブライブに出ない?」

 

その日の晩、園田家の道場。

日課となっている海未との剣の稽古を終えて片付けている最中、海未の話を聞いた彩牙は鸚鵡返しのように呟いた。

はい。と海未はその詳細を語り始める。

 

曰く、事は今日の日中に起きた。

生徒会としての初仕事が一段落ついて一休みしている最中、鬼気迫る表情の花陽、凛、真姫、にこが現れ、彼女らに有無を言わせず部室に連れていかれたのだ。

途中で合流した絵里と希も交え、アイドル研究部の部室で聞かされたこと――それはラブライブの第2回大会の開催が決定したとのことだった。

 

ランキング形式の第1回とは違い投票によるトーナメント形式であり、これまで注目を浴びなかったグループでも優勝できる可能性がある――謂わばアイドル下克上なのだと、花陽が熱弁したらしい。

彼女たちμ’sは地区予選で必ずA-RISEと当たることになるという、巨大すぎる壁が立ちはだかることにはなったが、それでもやる価値はあると話が纏まりかけた時だった。

 

それまで一言も喋らなかった人物が――それこそいの一番に出場しようと言いそうな人物が、何も言わなかったことに気付いたのだ。

――穂乃果だ。

彼女は我関せずとでも言うように、のんびりとお茶を飲みながらあっけからんと言った。

 

―――出なくてもいいんじゃない?

 

それからはもう大騒ぎだ。

何故出ないのかと問い詰め、鏡を前に心理テスト紛いのことをはじめ、終いにはホラーの憑依を疑って魔導火を取り出す始末だ。

そんな周囲の勢いに圧倒されつつも、穂乃果は『みんなと楽しく歌って踊れればそれでいい』と言うだけだった。

――それがラブライブに出場しないことへの理由になっておらず、ただはぐらかしているだけなのは誰の目から見ても明らかだった。

 

「生徒会の仕事で忙しくなるから、と私たちも最初は考えたのですが……」

 

『猪突猛進を絵に描いたようなあの嬢ちゃんがそんなことで降りる筈もなし、か』

 

穂乃果は、一度やると決めたことには全力で挑むような人間だ。

絵里から引き継いだ生徒会の仕事も、スクールアイドルも、やると決めたからには変に妥協せず、全力でやりきるのが穂乃果の在り方だ。そんな彼女が『生徒会の仕事があるからスクールアイドルは妥協します』などと言うはずがないのだ。そんなことでスクールアイドルを楽しむことなど、彼女にできる筈がない。

ならば穂乃果の真意は一体どこにあるのか――

 

 

「……多分、だけど」

 

彩牙が洩らした呟きに、海未はハッと顔を上げた。

 

「高坂さんは……怖いんじゃないか?」

 

「……大会で負けることが――ではないのですよね?」

 

恐らくだが彼女は――自分が行動したせいで、何か良くないことが起こるのを恐れているのかもしれない。

その最たる理由が前大会の棄権の経緯だ。あの時の穂乃果は夢中になるあまり、自身の身体を酷使してしまい、ライブの途中で倒れ、結果としてラブライブの棄権という結果を招いてしまった。

立ち直りはした。しかしあの時の過ちが、今も彼女を縛っているのだ。

 

「……実を言うと、私も薄々そんな気はしていました」

 

そして海未もまた、彩牙と同じ考えに至っていた。

彼女と穂乃果の付き合いは長い。ことりも入れた三人は幼い頃からずっと一緒だったのだ。

そんな小さな頃から穂乃果を見続けてきた彼女だからこそ、穂乃果の抱える迷いに感づくことができた。

あの日の出来事が、穂乃果から一歩踏み出す勇気を奪っているのではないかと。彩牙の言葉でその考えは確信に変わった。

 

「明日、もう一度穂乃果と――みんなと話し合ってみます。あの時穂乃果が見せてくれた夢を、私ももう一度追いかけたいのです」

 

「――そうだな、それがいい」

 

ならば答えは簡単だ。

皆と共に夢を追いかけることの楽しさを、穂乃果に思い出させるのだ。

海未一人では難しいかもしれないが、彼女は一人ではない。ことりが、μ’sの皆が共にいる。

皆と一緒ならば、どんな逆境でも乗り越えられると信じていた。

 

 

「……それで、彩牙くんの方はあれからどうですか?」

 

穂乃果についての話が一段落ついたところで、話題を切り替える海未。

あの日――彩牙が自分の下へと戻って来た日から、彼は以前より少し変わったように見えていた。

真面目なところは変わってないのだが、張り詰めていた気が和らいだというか――肩の荷が少し降りたような印象を受けていた。

それでもこうして尋ねるのは――また色々と溜め込み過ぎないようにと思ったからだ。溜め込みすぎる前に自分に吐き出してくれればいいと、そう思ったのだ。

 

「そうだな……特に――いや」

 

「変わりない」と続けそうになった言葉を抑え、彩牙は改めて答える。

 

「少しずつだけど、記憶が蘇り始めているんだ」

 

「! 本当ですか!?」

 

「ああ。といっても本当に少しずつだけどな」

 

彩牙曰く、あれから変わった夢を見るようになったという。

そこには幼い頃や少し成長した頃の自分がいて、夢だとはっきり認識でき、起きてからもその内容をはっきり覚えていた。そして何よりも、夢の内容を「懐かしい」と思ったのだ。

彩牙は察した。いや、感じ取ったと言うべきか。

あれはただの夢ではなく、自分の過去――失われていた自らの記憶が蘇りつつあるのだと。

 

「でも、どうして……?」

 

『――恐らくだが、大和に植えつけられた記憶を“偽り”だと認識した影響だろう』

 

海未の疑問に、ザルバが答える。

大和に植えつけられた記憶――コテツの師を殺したという、偽りの記憶。

あの日までの彩牙にとって、それは自らの過去であり、真実の記憶だった。だがそれが偽りであると発覚した時、それは偽りの記憶というただの『情報』になった。

それを補うかのように、これまで彩牙の奥底に封じ込められていた彼自身の本当の記憶が呼び起こされつつあるのではないか――というのがザルバの、そして彩牙の考えだった。

 

それを聞いた海未はほっとしていた。

ずっと不安だったのだ。これまで記憶が無くとも不安がなさそうに振る舞っていた彩牙だったが、心配かけまいとそう振る舞っていただけなのではないかと。

過去の記憶という、それまでの自分を確立する全てを失った彼の心中を考えると、海未は恐ろしくなった。もし自分が同じ状況に陥ったら、自分を保っていられるのかわからなかった。

だからこそ彩牙の記憶が蘇り、彼が己のことを確立できるようになれたことを、心から安堵していた。

――そう考えると、彩牙の記憶が蘇ることを一番に望んでいたのは彼女だったのかもしれない。

 

「だから……俺は大丈夫だ。気にかけてくれてありがとうな」

 

「――はい。もしまた何か迷うことがあれば……」

 

「その時は海未にも相談するさ。今度は、必ず」

 

その言葉に穏やかな笑みを浮かべる海未。

彩牙の支えとなれることを実感し心を弾ませながら、彼女は止めていた手を動かし、片づけを再開する。

その姿を、彩牙はある複雑な思いを抱きながら見つめていた。

 

 

――すまない、海未。俺は君に嘘をついた。

だけど……どうして言えるというんだ。

君の命のリミットが迫っていること、そこから救うために必要なヴァランカスの実がまだ見つからないことを。

どうやって……打ち明けろというんだ――

 

 

 

**

 

 

 

「……ねえ、何か聞こえない?」

 

「え? 何のこと………ホントだ」

 

――夜。とある通り。

そこを歩いていたカップルの片割れの女性が、不意に足を止めてそう呟いた。

その言葉に訝しげな表情を浮かべていた彼氏だったが、耳を澄ませると微かではあるが確かに音が聞こえてきた。

弦楽器か何かを弾くような音に――声。歌声だろうか。

 

その音が無性に気になった彼らは、引き寄せられるかのように音の発生源へと足を運ぶ。

少し歩き、開けた場所に出て――そこにいた。

一人の女が、ギターを弾きながら歌っていたのだ。

さっき聞こえたのはこの歌声だったのかと納得した彼らは踵を返す――ことはなく、その弾き語りの目の前まで足を運び、彼の歌声に耳を傾ける。

 

不思議な気持ちだった。今までこの女のような路上での弾き語りは何度も見てきたが、そのいずれにも足を止めて耳を傾けるようなことはなかった。

だがこれは違う。

聴く者すべてを引き込み、虜にするような――そんな不思議な魅力がこの歌声にはあった。願うことならずっと聴いていたいと、そう思うほどに。

 

しかしどんなものにも終わりがある。

歌が終わり、ギターの音が止むと、弾き語りの女はぺこりとお辞儀をする。

それまで歌に夢中になっていたカップルは我に返り、溢れんばかりの拍手を返す。そしてそのままどちらからとも言わずに財布を取り出した。

これほど心を虜にするような歌をばっちり聴いておいて金も払わずに立ち去るのは失礼だと思ったのだ。もしここにCDも置かれていたら迷わず買っていたことだろう。

 

「――いえ、お金はいりません」

 

しかしそれを手で制したのは他でもない、弾き語りの女だった。

 

「え? でも――」

 

「代わりと言っては何ですが―――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お二人の命を頂きます」

 

「え?」と呟く暇もなく、弾き語りの女の喉から飛び出した触手がカップルの頭蓋を貫いた。

 

 

 

 



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第24話  夢想/Ⅱ

9月に入ったものの、暑い日が続いて堪りません。



 

 

 

――音ノ木坂学院・屋上

 

「――そっか。あの時ウチが持ち出した魔導書が……」

 

「ああ、解読できれば大和の狙いが掴めるかもしれない」

 

昼休みで他に誰もいない屋上に、彩牙と希の姿はあった。

友人同士の和気藹々とした会話――ではなく、その表情は真剣そのものだった。

話しているのは先日の番犬所での出来事だ。希が持ち出した魔導書のこと、その魔導書の解読をオルトスが始めたこと。

そして――

 

「……そして、その写真の男がコテツの探しているホラーだそうだ」

 

「うん。……………え?」

 

コテツが打ち明けた彼自身の事情――彼が探しているというホラーのことだ。

そのホラーが写っているという写真――コテツから借りた――を希に見せると、彼女の表情は驚愕一色に染まっていった。

 

「ちょ、ちょっと! これって……!」

 

「あいつの話では今は休眠中らしい。見つけたらすぐに教えて欲しいそうだ」

 

希の戸惑いを無視するように話を進める彩牙だが、彼女の気持ちはよく分かった。

他ならぬ自分もこの写真を見た時、彼女と同じような反応でコテツに詰め寄ったのだから。

コテツはあの時、写真のことについて何も答えなかったがその反応そのものが答えのようなものだった。

やがて希も写真が示す“真実”を察したのか、沈黙のまま写真を返したのだった。

 

 

「……言わなくて、ええのかな」

 

ぼそり、と希が呟いた。

彼女の言いたいことはわかる。この写真が示す事実――コテツのことを“彼女”に打ち明けた方がいいのではないのか、ということだ。

しかし――

 

「……俺も同じことは考えた。 だけどこれはあいつ自身の問題だ。あいつが自分の中で折り合いをつけない限りは明かすべきじゃないと思うんだ」

 

「でも……!」

 

「こればかりは俺たちが首を突っ込んでいいことじゃない」

 

隠したままでいいのだろうか、と言いたげな表情を浮かべる希だが、それを制する彩牙。

彩牙もコテツの気持ちがわかるのだ。■■だからこそ隠し通したままでいたいと、関わらせたくないと。

男のつまらない意地と言えばそれまでかもしれない。だがそれでも、コテツの意を無為にする気にはなれなかった。

希も彩牙が考えを変える気はないと察したのか、それ以上喋ろうとはしなかった。

 

 

 

――キィ

 

「希、こんなところに……って」

 

沈黙を破ったのは、屋上のドアを開ける音だった。

二人が振り向いた先でドアから顔を覗かせたのは、強気そうな赤毛の少女――真姫だった。

恐らくは希を探していたのだろうが、彼女の隣にいる彩牙の姿を認めると驚きと呆れが織り混じったような表情を浮かべた。

 

「……あなた、こんなところで何を……ていうかどうやって入ってきたのよ」

 

「? ああ、外壁を蹴って昇ってきたんだけど」

 

「………ちょっと待って、何言ってるのか……そう言えばこの間も屋上から飛び降りていたような気がするけど」

 

「これくらいの高さなら別に平気だが」

 

「……ああ、うん。疑問を持つだけ無駄ってことね」

 

彩牙から返ってきた言葉の意味を理解しようとして――真姫は考えるのをやめた。

よくよく考えればホラーという怪物と戦うのに普通の鍛え方では厳しいのだろう。だから魔戒騎士にとってはこれが普通なのだろう――と解釈することで魔戒騎士の異常なタフネスとそのメカニズムから目を逸らすことにした。深く聞いたところで多分理解できる気がしなかった。というか理解したくなかった。

 

「……まさかとは思うけど」

 

「いや、流石にウチにも無理やん」

 

もしや希までも同じレベルのタフネスさを持っているのかと思ったが、杞憂だったようだ。

……もっとも、これからどうなるかはわからないのだが。

 

「それで真姫ちゃん、ウチを探してたんやないの?」

 

その言葉で、意識が脱線しかけていた真姫は本来の用事を思い出した。

 

「あ、そうだった。 ……にこちゃんがね、穂乃果に勝負を挑んだのよ」

 

「にこっちが?」

 

「勝負……って、何故だ?」

 

真姫は語る。

どうしてもラブライブに出たいにこが、出場をかけて穂乃果に勝負を挑んだらしいのだ。

穂乃果が勝てばμ’sはラブライブには出場しない、にこが勝てば出場する。

放課後、神田明神の男坂での競争で決着をつける――とのことだ。

 

真姫の話を聞いた希は、いかにもにこらしいと思った。

思えば人一倍アイドルへの情熱が強いあの少女が、出場しないと言われたところで諦めるわけがなかったのだ。それでもμ’sの誰よりも早く穂乃果に直談判した行動の早さは流石というべきか。

 

「私は、にこちゃんはよくやってくれたと思う。希だって出たいでしょ?」

 

「……そうやね、今度のラブライブはウチら三年生にとって最後のチャンス」

 

だから出たい。

希はそう静かに語った。

けれど同時に、現状ではそれは難しいとも思う。

穂乃果が自分の心に踏ん切りをつけない限りは、出場する意義を見い出せるとは思えない。

 

メンバーの心を置いてけぼりにするようでは、希が思い描くμ’sの姿とは程遠いのだから。

 

 

 

**

 

 

 

――放課後、神田明神

 

雨が降る中、屋根の下で雨宿りするμ’sの面々の姿がそこにあった。

――学校でにこが穂乃果に挑み、この場で行われたラブライブ出場をかけた勝負。それはにこがフライングで飛び出すも途中で転んだことで勝負どころではなくなり、中止となった。

それと同時に雨が降り始め、屋根の下に避難する中でにこは呟いた。

 

――ズルでも何でもいいから、ラブライブに出たい。

 

その言葉が穂乃果の頭に響く中、にこの言葉を継ぐように絵里たちは語る。

自分たち三年生がラブライブに出られるのは今回がラストチャンス、そしてスクールアイドルでいられるのも――μ’sが9人でいられるのも、彼女たちが卒業するまでのあと半年だということを。

だから9人で頑張った足跡を残したい、たとえ予選敗退になったとしてもやる価値はあると花陽と凛、真姫は語る。

 

「……やっぱり、みんな……」

 

「出たかったんだ」と、穂乃果は心の中で呟いた。

穂乃果だってわかっていた。彼女もそれには応えたい。

だがその想いにブレーキを掛けてしまうような不安が心の中にあるのも、また事実だった。

 

「大丈夫だよ、穂乃果ちゃん」

 

そう言ったのは、優しい笑みを浮かべたことりだった。

それに続くように、海未が言葉を紡ぐ。

 

「また自分の所為でみんなに迷惑かけてしまうと、心配しているのでしょう?」

 

ラブライブに夢中になり、周りが見えなくなり、生徒会長として迷惑をかけるようなことがあってはいけない――と。

まるで心を見透かしたような海未の言葉に、穂乃果は苦笑いを浮かべた。

 

「……全部、バレバレだね」

 

海未の言う通りだった。

本当はラブライブに出たい。9人でもう一度、あの舞台に挑戦したいと。

だがいつかのように夢中になるあまり自身や周りのことが見えなくなり、迷惑をかけてしまうのではないかと不安だったのだ。

始めたばかりの頃なら何も考えず、多少の無理ならできた。だが今の穂乃果は生徒会長なのだ。何かやらかしてしまった時にかけてしまう迷惑はあの頃の比ではない。その不安が穂乃果の心を縛っていた。

 

――しかし、やはり自分の心に嘘はつけない。

 

「……でもね、やっぱり出たい。またみんなに迷惑かけちゃうかもしれないけど、一度夢見た舞台だもん……本当はものすごく出たいよ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

「……高坂さんはもう大丈夫だな」

 

彼女たちから少し離れた場所で、壁を背にした彩牙はそのやりとりを全て聴いていた。

――彩牙は、こうなることを心のどこかで予期していた。

穂乃果は強い人だ。たとえ不安と恐れに苛まれ、心が挫けてしまうことがあってもそこから立ち上がり、逆境に挑むことができる勇気を持っている。

そして何よりも、彼女には海未やことりたち――μ’sという心強い仲間たちが付いている。

だからきっと自身の不安を打ち明け、そこから立ち上がることができると信じていた。

 

――歌が聴こえる。

海未が、にこが、希が、絵里が。

真姫が、凛が、花陽が、ことりが。

そして彼女たちに続いて、穂乃果が歌う。

可能性がある限り、進み続ける歌を。目の前にある道を進み続ける歌を。

 

彼女たちは歩み始める。自分たちが信じる道を。

彼女たちはもう一度挑む。夢を叶えるために、もう二度と後悔しないために。

そんな彼女たちの行く先を照らすかのように、降り注いでいた雨がやみ、雲の切れ間から太陽の光が差し込んだ――

 

 

 

 

 

 

 

「―――――っ」

 

――それと同時に、彩牙は気配を感じ取った。

彼の傍には、一匹の犬がいた。

全身が雪のように真っ白な毛で覆われた犬だ。いつからそこにいたのか――あるいはいつでもどこにでも現れることができるのか。そう思えるほどに、その気配を感じ取ったのは突然だった。

全身真っ白なその犬だが、一点だけ他とは違う色があった。

白の中で目立つその色は、犬の口元にあった。

 

 

――赤だ。

その犬の口には、血のように赤い封筒が咥えられていた。

 

 

 

**

 

 

 

――夜、とある広場

 

その一角で、ブロックに腰を掛けながら一人の女がギターを弾きながら歌っていた。

何故歌うのか?それは歌いたくて歌いたくて堪らないからだ。女の魂から溢れ出る強い欲求が、彼女を歌へと駆り立たせていた。

そして何よりも――歌に誘われてきたエサを美味しく頂くためだ。

 

そして今また、一人の客が女の前に現れた。

客は女の歌に魅了されているのか、そこから一歩も動く気配がない。集中しているため足下しか見えないが、女の歌にじっくりと耳を傾けているようだ。

女はこれ以上ない幸福感に包まれていた。客は自分の歌声に魅了され、自分は思うがままに歌うことができる上に美味しい“食事”にありつくことができる。

これ以上の幸福が果たしてあるのだろうか。

 

歌が終わり、ぺこりとお辞儀をする。

思い切り歌った後はディナータイムだ。自らの歌に魅せられた拍手に迎えられながらの食事は格別なのだ。歌った後の一番の楽しみと言ってもいい。

今日はどうしようか。いつものように歌による高揚感を持たせたまま一気に喰らうのもいいが、偶には趣向を変えてじわじわと悲鳴を浴びながらゆっくり喰らうのも悪くない。

食事のとり方をあれこれ考えながら、お辞儀をしていた顔を上げると――

 

 

 

シュボッ――と。

女を迎えたのは割れんばかりの拍手の音ではなく、客が取り出したライターの着火音だった。

女の目の前に現れたそのライターの火は緑色にゆらゆらと揺らめき、女の瞳を照らしだす。

すると女の瞳は白く濁り、魔導文字が浮かび上がる。

――魔導火によって、自らの正体が露見されたのだ。そして魔導ライターを持つということは、この客の正体は――!

 

 

「魔戒、騎士……!」

 

「――見つけたぞ」

 

魔戒騎士――村雨彩牙は弾き語りの女の正体を暴くと即座に魔戒剣を抜き、斬りかかった。

寸でのところでそれを躱した弾き語りの女――ホラーは距離を取り、じりりと構える。

互いに出方を窺う中、先に動いたのは弾き語りの女だった。

すぅ――と息を吸い込み、一気に吐き出すように「わっ!」と叫ぶと、なんと衝撃波となって彩牙に襲い掛かったのだ。

吹き飛ばされないように大地を強く踏みしめ、衝撃波を迎え撃つ彩牙。足腰に力を籠めて耐え凌ぐ。

 

女はそこにすかさず追撃――をかけることはなく、あろうことか背を向けて走り出した。

――魔戒騎士と戦うなど冗談ではない。自分はあくまで好きなように歌を歌い、それを聴く人間を食べたいだけなのだ。まだまだ歌い足りず、喰い足りないのに討滅される危険を冒して戦うなど誰がするものか。

そんな考えの下、女はこの場から離脱するべく駆け出した。

 

「―――なっ……!?」

 

しかし、その願いは叶わなかった。

女の行く手を阻むかのように、淡い紫色に輝く障壁が現れたのだ。

 

「逃がさへんよ……!」

 

壁の向こう側に現れたのは魔戒法師の少女――東條希。

彼女が作り出した障壁はぐるりと女と彩牙を囲みこみ、さながら格闘技のリングのようだった。

もっとも、このリングにノックアウトやカウントなどのルールは存在しない。斃すか斃されるか――シンプルな結果だけが残るのだ。

 

追いついた彩牙が振るう魔戒剣が銀の軌跡を描き、女の身体を斬り裂く。

どす黒い血が飛び散る中、息をつく間もなく追撃を仕掛ける彩牙の繰り出した回し蹴りが女の首を捉え、容赦なく蹴り飛ばす。

普通の人間ならばこの時点で命の危険があっただろう。だが女はホラー、この程度ではまだまだ死ぬことはない。

起き上がり、曲がった首をゴキリと戻す女。怨嗟に満ちた表情を浮かべ、口から獣のような吐息を漏らす。

 

ウゥゥゥ………GAAAAAAA!!

 

獣の如き雄叫びと共に女の肉体が弾け飛び、その下から異形の肉体が姿を現した。

スピーカー、アンプ、ジュークボックス、蓄音機――凡そ歌を流すための機器を無作為に繋ぎ、混ぜ合わせ、無理矢理人型にしたような異形の姿がそこにあった。

 

『ホラー・ボルガノ。下手な歌をところかまわず撒き散らす騒音の元だ』

 

そう語るザルバの言葉に、魔戒剣を構え直す彩牙。

ぎちぎち、と顔と思しき部位で機械音を漏らすボルガノ。更にがちがちと歯を噛み鳴らすような音を鳴らしていき、そのペースを段々早くしていった。

すると両肩のスピーカーから地の底まで響くような爆音が発すると共に質量を持った衝撃波――呼称するならば魔音波――が放たれ、彩牙に襲いかかったのだ。

 

「ぐ―――!」

 

魔音波を魔戒剣で受け止める彩牙。

だが魔音波に秘められた衝撃はあまりにも強く、徐々に押され始めていく。

何とか逸らすように弾き飛ばした魔音波が障壁に触れた瞬間、弾け飛ぶと同時に障壁全体とその内部に地を揺るがすような衝撃が響き渡った。下手をすれば障壁が砕きかねない程の衝撃だったと、希は肝を冷やした。

魔音波に秘められた破壊力――これがあちこちに撒き散らされるようなことがあれば、その被害は看過できるようなものではないだろう。

 

「――希!! 障壁の維持に集中しろ!あれを絶対に外に漏らすな!!」

 

「うん!まかせといて!!」

 

駆け出すと同時に魔戒剣で円を描き、ガロの鎧を召喚する彩牙。

対するボルガノは小出しで音を出し、魔音波を連続で発射していく。次々と襲い掛かるそれらを、ガロは牙狼剣で弾き、斬り裂き、時に殴り飛ばしていく。

その中で気付いた。最初の一撃に比べ、連続で発射される魔音波の衝撃が軽いのだ。

一体何が違うのか――

 

『――音が違うのか?』

 

ボルガノがスピーカーから発する音――悲鳴や嘆きの叫びのようにも聴こえるそれの重さが、音の響き方が違うのだ。

最初の一発は地の底まで響き渡るほどの轟音であったのに対し、目の前で連射しているこれは全く腹に響かない。音の重厚さに比例して魔音波の威力が変動しているのだ。

だが高威力を生み出すにはそれ相応の溜めが必要になる。現に今連射している魔音波は威力さえ劣るものの連射性――弾幕の生成に優れている。

 

『一つ一つは軽いがこの弾幕……小僧、お前はどう切り抜ける?』

 

挑発するかのような声色で、ザルバが問いかける。

――決まっている。そんなもの、考えるまでもない。

 

『正面から押し通る!!』

 

視界を埋め尽くすほどの弾幕を張るのなら、その全てを斬り伏せる。

地を震わせるほどの一撃を繰り出すのなら、それを超える一撃を叩き込む。

ガロに――魔戒騎士にホラーを前にして撤退するという選択肢はない。人々を守るためならば、喜んで敵の攻撃を浴びる盾となろう。

闇に脅かされる人々を守る――この身は、そのためにあるのだから――!

 

足腰に力を籠め、魔音波の弾幕に正面から立ち向かっていくガロ。

息をつく間もなく押し寄せる魔音波を牙狼剣で斬り裂き、殴り飛ばし、打ち払い、弾幕の中を裂いていくように進んでいく。

無論、魔音波の全てを打ち落とせるわけではない。ガロの迎撃を掻い潜り、その多くが彼の身体に浴びせられていく。

一つ一つの威力は小さくても、それを立て続けに喰らえばどうなるか――想像には難くない。

 

『GI―――GA?』

 

しかし、ガロは倒れない。

弾幕を立て続けに浴び続けても尚、その身体は崩れることなく、しっかりと立ち続けていた。

そしてこの状況であっても尚、ガロは歩みを止めようとしない。魔音波の弾幕を浴び続けているのに牙狼剣を振るう勢いは衰えず、拳は力強く振るわれ、一歩一歩、着実にボルガノの下へと近づいていく。

怯むことのない力強い眼差しでこちらを見据えるガロの姿に、ボルガノは恐れを抱く。

ならば――と、魔音波の弾幕を射ち止め、ガチガチと音を鳴らして両肩のスピーカーとそれらに繋がるアンプに力を蓄えていく。手数で止められないのならば、強力無比な一撃を喰らわせるまでだ。

 

『――今だ!!』

 

それを前に、ガロは一気に駆け出した。

風を切り裂き、一筋の黄金の軌跡となって駆け抜けていく。

迫りくるガロを前にしながら、ボルガノはチャージを続けていく。そして最大威力の魔音波を放てるほどに溜まった時、ガロは目前で牙狼剣を振りかぶろうとしていた。

 

『オオォォォォォォォォォッ!!』

 

『GI――GAAAAAAAAAAA!!』

 

牙狼剣が振り下ろされたのと同時に、空間が歪みかねない程の轟音と共に魔音波が放たれ、真正面からぶつかり合った。

最大限にチャージされた魔音波と、渾身の力を籠めて振り下ろされた牙狼剣。それらがぶつかり合った瞬間、両者を中心に凄まじいエネルギーの奔流が起こり始めた。

旋風として、閃光として撒き散らされるそれは、小型の台風と呼んでも違和感がない程だった。

 

その荒れ狂うエネルギーの中心で、ガロの振り下ろした牙狼剣は魔音波と完全に拮抗していた。

魔音波の強力な一撃に対抗するため全身の力をありったけ籠めて振り下ろされた牙狼剣ではあるが、対する魔音波もボルガノの全エネルギーを籠めて放たれた一撃なのだ。早々破れるものではない。

互いに全力を籠めた一撃であるが故に、どちらも一歩も引かず完全なる均衡を保っていた。

力関係が少しずれるだけで形成が一気に変わるこの状況。下手なことをすれば一瞬で押し切られてしまうため、ガロもボルガノも全く力を緩めようとしない。

 

このままでは均衡は崩れず、ボルガノを討滅することは不可能だろう。

それどころかガロの体力が限界を迎えた瞬間、その身は魔音波によって粉々に砕かれてしまうかもしれない――

 

 

 

「――彩牙くん!」

 

――しかしそれは、ガロが一人であった場合の話だ。

希の手元から放たれた、紙細工でできた二羽の鳥。それらは彼女の張った障壁をすり抜け、荒れ狂うエネルギーの暴風雨の中をガロ目掛けて一直線に羽ばたいていく。

やがてガロの下に辿りつくとぺらぺらとその形を魔戒符へと変え、ガロの背中にピタリと貼り付いた。

 

『―――! ウ……オオオオォォォォォッ!!』

 

その瞬間、ガロの全身に力が溢れ出した。

消耗していた体力が漲り、足腰の力が、剣を握る腕の力がみるみるうちに滾っていく。まるでガソリンを満タンまで補給されたエンジンのようにガロの――彩牙の肉体が息を吹き返し、熱き生命の奔流が全身を駆け巡り始めたのだ。

 

これこそ、希が両親から受け継いだ術の一つ。

彼女の両親は法師としての実力は高くはなく、ホラーと真正面から戦い、切り結ぶことなどは不可能であった。そこで選んだのが術によるサポートだった。

魔戒符などを介することにより、ホラーと直接戦う騎士や法師の身体や術を強化する――それが彼らの編み出した術だった。

希が今用いたのもその一つだ。身体強化の術を刻んだ魔戒符を鳥のように羽ばたかせ、離れた場所からでも騎士の身体を爆発的に上昇させたのだ。

 

咆哮と共に、牙狼剣を握る両腕に力を籠める。

すると先程までは拮抗していた魔音波が押され始め、そして遂に――

 

『GA――――!?』

 

風船が破裂したかのような勢いと共に、魔音波が弾け飛んだのだ。

その様を呆然と見つめるボルガノ。自らの全てを籠めた最大最高の魔音波が正面から破られた事実を前に、思考が完全に凍結してしまっていた。

そして――そんな絶好の隙を見逃すガロではなかった。

 

『■■■■――――!!』

 

構え直した牙狼剣で、一閃。

何物にも遮られることなく放たれた黄金の一振りは、ボルガノの機械仕掛けの肉体を深々と斬り裂いたのだ。

断末魔と共に崩れ落ち、崩壊していくボルガノの肉体。脚が、腕が、胴体が崩れていき、最後に頭部だけが残った。

そしてそれすらも崩れ、消えていく――その瞬間だった。

 

……どう、して………わたし、 うたいたかった、だけ、なの……――

 

――それは、力なき魂の叫びだったのか。

ホラーに憑依され、心身共に喰われてしまった女の僅かに残された残留思念。女に芽生えた陰我であると同時に、女が抱いた純粋な願い。

最期の最期で表に現れたその思念が宙に溶けていく様を、ガロは目を逸らさずに見つめ続けたのだった。

 

 

――ウチらとあの人で、どうしてあんなにも違っちゃったんやろ。

 

そしてそれは、希も同じだった。

ボルガノに憑依された女の、最期に残った思念の叫びが希の頭の中にこびりついて離れない。

あの女も、彼女たちμ’sも、抱いていた想いは同じだった筈だ。『歌いたい』という、ただそれだけの純粋な願いを。同じ願いであるはずなのに、どうしてこうもかけ離れてしまうのかと哀しみを抱かせた。

だがどんなに純粋な願いでも、心が弱く隙が生まれればそれは陰我となり、ホラーを呼び寄せることになる。そうなってしまえばこの女のように、地獄のような苦しみを味わいながら人々に災いを振りかざす存在と成り果ててしまう。

 

故に、希は戦うのだ。

あの女のようにホラーに憑依される苦しみから解き放つために。

仲間たちに同じ苦しみを味あわせないためにも。

 

 

 

**

 

 

 

――翌日

音ノ木坂学院・屋上

 

 

「……真姫、聞き間違いでしょうか? 今……何と?」

 

そう言いながら、今自分はとても間抜けな表情を浮かべているのだろう、と海未は思った。

いや、自分だけではない。真姫以外のこの場にいる全員がそうだ。

切欠は何だっただろうか。第2回のラブライブ出場に向けて気持ちを新たにし、そのために練習を始めようとした時だ。

一人足りないことに――真姫がいないことに気付いたのだ。花陽と凛に尋ねても、放課後すぐにいなくなっていたらしく、先に屋上に向かったのだとばかり思っていたらしい。

 

何か用事でもあったのだろうか――そう話していた矢先、タイミングを窺っていたかのように扉が開かれ、真姫が現れた。

だがその表情は昨日の神田明神での意気投合の時に比べると、明らかに暗い。そして練習着に着替えようともせず壁際に蹲り、顔を俯かせていた。

もしかして気分が悪いのかも――そう思った中で真っ先に穂乃果が、次いで希が彼女に駆け寄った。

「熱中症かな?」と真姫の様子を窺う穂乃果の前で彼女は不意に立ち上がり、湧き上がる感情を無理矢理抑え込むような表情で口にしたのは、μ’sの全員にとって耳を疑うような内容だった。

 

「……言い間違いなんかじゃないわよ、言ったでしょ」

 

その言葉にいつもの気の強さは感じられず、感情を抑えきれなくなったのか、瞳を潤ませながら真姫は――

 

 

 

 

「私、もうμ’sは続けられなくなっちゃったの―――」

 

涙をポロポロと零しながら、絞るように別離の言葉を口にした――

 

 

 

***

 

 

 

――彼が生まれたのは、どこにでもあるような家庭だった。

魔戒騎士の父と魔戒法師の母の間に生まれた――魔戒の者にとっては珍しくもない家庭だった。

父と母、その家族や友人まで、多くの人々が彼の生を祝福した。

次代の騎士として、または法師として、数多くの人を守る新たな希望として。そうでなくとも健やかに、逞しく生きてほしいと願いを込めて。

 

誰も疑わない。彼がすくすくと育つことを。

誰も疑わない。彼が守りし者となる未来を。

誰も信じない。彼が人々に害を為し、苦しめようとするなどと。

誰も信じない。彼が闇に堕ちることなど。

 

 

――きっと、彼自身も。

 

 

 

***

 

 

 

真姫「少女は歌う、喜びの歌を」

 

真姫「少女は奏でる、哀しみの歌を」

 

真姫「少女は溺れる、狂宴の唄に」

 

 

真姫「次回、『夢幻』」

 

 

 

真姫「終わらない宴が幕を開ける」

 

 

 

 







・ボルガノ
元プロのミュージシャンの女、サキエに憑依したホラー。
多種多様な音楽機器を無理矢理繋ぎ合わせ、人型を模したような姿をしている。
歌を唄い、他者に聴かせることに並々ならぬ執着を抱いており、人を喰う際にも必ず歌を聴かせてから喰らうことに拘っている。
戦闘の際には両肩のスピーカーから吐き出す衝撃波――魔音波を繰り出す攻撃を用い、どんな状況であっても歌うことは忘れない。




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第25話  夢幻/Ⅰ

遅れましたが、あけましておめでとうございます。
相変わらずのろりとした更新速度ですが、本年もよろしくお願いします。

なお、今回は独自解釈が強めです。




 

 

 

剣を初めて握ったのは4歳の頃だった。

といっても当時はまだ真剣を握らせてもらえず――ソウルメタルなど以ての外で、許されていたのは木剣のみだった。

それでも幼かった俺にはその木剣が自慢の一振りで、最強の騎士の剣と同一格だった。よく振り回しては見栄を張り、「面白半分に振るうな」と父さんによく叱られた。

 

 

剣の稽古が始まったのもそれからだ。

普段から厳しい父さんだけど、この時は更に厳しくなって鬼と呼んでも差し支えがなかった。素振り、打ち込み、組手――豆や痣ができるのなんてザラだったし……正直泣いたのだって一度や二度じゃなかった。

 

だけどそれも、稽古の間だけだ。

稽古が終わった後、父さんは決まってご馳走をしてくれた。ハンバーグ、カレー、ラーメン……俺はそれが楽しみで、辛い稽古も頑張ってこれた。

中でも一番の楽しみは、食後のアイスだった。このときは普段厳つい父さんも顔を綻ばせていて――後で知ったことだけど甘党だったらしい――その顔を見るのが大好きだった。

 

 

――今になって思うと、あの父さんの笑顔は甘いのが好きだっただけじゃなくて、俺が喜んでいるのが嬉しかったんじゃないかと、そう思うんだ。

 

 

 

***

 

 

 

第25話  夢幻

 

 

 

――今にして思えば、その日は家中の空気が違っていた。

出迎えてくれた和木さんやリビングにいたママの私を見る目が、憐みの感情を帯びていたことに、私はちっとも気づけなかった。それよりも次のラブライブに向けて、新しい曲を考えようとか、振り付けは大丈夫かなとか、スクールアイドルのことで頭が一杯だった。

 

でも、しょうがないじゃない。折角穂乃果がやる気を出して、もう一度みんなとまたラブライブに挑めるようになったんだもの。

少しくらい浮かれてもいいなんて――そんなの、言い訳にしかすぎないし、今となってはどうしようもないんだけど。

 

ようやく家の中に漂うその空気に気付けたのは、夕食の時だった。

いつもは仕事で遅くなりがちなパパが珍しく夕食前に帰ってきていて、久しぶりに家族揃っての夕食。いつも口数のあまり多くないパパがいつも以上に黙り込んでいるのを前に、威圧されているような錯覚がして落ち着かなかった。

 

そして―――

 

「……真姫、話があるんだが」

 

そう言って切り出されたパパの話は、私の心を一気に暗く塗り潰していった。

スクールアイドルを――μ’sを辞めろ?なんで?どうして?嫌、嫌、嫌!!

そんなグルグルとモヤモヤで頭と心が一杯になって、口が勝手に動き出していた。

……正直、何を言ったのかは覚えてない。ただ顔を真っ赤にしたパパとショックを受けたママの様子からして、相当口汚い言葉を放ったのかもしれない。

 

そのまま溢れる激情に身を任せて食堂を飛び出した私は逃げるように自室に籠り、服が皺になるのを気にも留めずにベッドの中に潜り込んだ。

……どうして、こうなっちゃったの?本当に、もうみんなと一緒にいられないの?

パパは頑固で自分の考えを簡単に曲げないから、こうして籠っていたところで何も好転しない。そんなことわかってるのに、心も体も全く起き上がろうとしない。

 

――全部夢ならいいのに。

これは悪い夢で、目を瞑ってもう一度開けたら夢が醒めていて、これまで通りμ’sでいられたらいいのに。

そうよ……こんなの、きっと悪い夢よ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミ   ツ   ケ   タ

 

 

 

**

 

 

 

「――西木野さんが、μ’sを抜ける?」

 

――園田家の縁側。

夕食を終え、夜の見回りに出かける前にと話をしていた彩牙と海未。

その中で海未から切り出された言葉を、彩牙は呆然と鸚鵡返しのように呟いた。

 

「……はい、本人がそう言ってました。お父上からスクールアイドルを辞めて勉強に専念するようにときつく言われたようです」

 

『ほう、あの気の強い嬢ちゃんにしては意外だな』

 

「そうだな……そういうタイプではないと思っていたが」

 

彩牙やザルバがそう思うのも当然だった。

彼らが知る西木野真姫という少女は上級生を前にしても臆することなく意見をぶつけ、自らが納得できない理不尽に対しては一歩も引かずに異を唱える――そんな我の強い人物だ。

そして真姫がスクールアイドルを――μ’sを、友と共に歌うことをどれだけ愛しているのかも知っている。

故に、そんな彼女が親に反対された程度で自分の意志を曲げてしまったのが、彼らにとっては意外だったのだ。

 

――だがそれは、あくまで彩牙とザルバという外野からの視点だ。

海未は違う。彼女には、彼女しか知らない真姫の姿があった。

 

「……以前、聞いたことがあります。真姫は元々、ピアニストになることが夢だったと」

 

いつだったか子供の頃の夢で盛り上がった時、真姫が一度だけ話してくれたことがあった。

中々渋っていたが穂乃果や凛に押し切られ、白状されるような形で語ったかつての夢。

それを語る真姫の表情が心なしか愁いを帯びたものになっていたことを思い出し、あの時の彼女は無意識に助けを求めていたのではないか――今になってそう思うのだ。

 

「大病院の一人娘……ピアニストの夢が医者に変わるのも不思議じゃないか」

 

それだけならば何も珍しくはない。

しかしただ夢が変わっただけならば、ここまで話がややこしくなることはない。

少なくともμ’sを辞めることを泣きながら辛そうに告げることなどなかっただろう。

 

『あの嬢ちゃんにまだ音楽に対する未練があったってことか』

 

だからこそ、一度は終わりかけていた音楽への情熱を取り戻させてくれたμ’sの存在は、真姫にとっても救いになったのだろう。自分の中で燻っていた音楽を、心のままに解き放てることができたのだ。

だがそれも、医者になるという夢――家族の期待も背負ったそれに、押し潰されようとしている。

 

「いっそのこと医者の夢を諦める――なんてことはできないか」

 

「……それができないからこそ、あんなに泣いていたのだと思います」

 

医者になるという夢も、真姫にとっては音楽と同じくらい大事なものなのだ。

家族が好きだから――家族の期待に応えたいと思っているから、家族と同じ夢を追いかけている。医者の夢を捨てるということは、真姫にとって家族を捨てることと同義なのだ。

だからこそ真姫は涙を流したのだ。夢を守るためには、夢を捨てなければならないという残酷な現実に。

本当は、どちらも捨てたくはないのに。

 

「――真面目……なんですよね、結局」

 

憂いを籠めた瞳で、海未はぽつりと呟いた。

 

 

 

**

 

 

 

――学校からの帰り道。

そこを真姫は一人で、重い足取りで歩いていた。それに比例するように、彼女自身の表情も暗く、憂いを帯びたものだった。

理由は明白だ。スクールアイドルを――μ’sを続けられなくなってしまったから、放課後に学校にいる意味もなくなってしまったのだ。

 

「……この道、こんなに広かったかしら……」

 

あまりにも静かで、つい独り言を零してしまう。

先日までは――μ’sに入ってからは――そう思うことなどなかったのに。一緒に帰っていた凛と花陽がいなくなっただけで、何度も通った道が全く知らない場所に思えて仕方がなかったのだ。

 

凛の騒がしさが懐かしい。

落ち着きのなさに呆れつつも、いつも元気一杯なあの声が聴けないだけで、こんなにも気分が落ち込んでしまう。

花陽の暖かさが恋しい。

いつも一歩引いているものの、あの包容力がないだけでこんなにも心がささくれ立ってしまう。

彼女たちだけではない、μ’sの皆といないだけでまるで別世界に迷い込んでしまったような錯覚を抱いていた。

 

――どうしてこうなったのだろう。どうすればよかったのだろう。

答えの出ない問いかけを繰り返しては落ち込み、また問いかける――この繰り返しを何度行ったことだろう。

こんなうじうじした自分が嫌になっていた。いっそ何も考えられなくなれば楽になれるだろうか――そんな願望さえ芽生えてしまう。

 

 

 

「――あ。 着いちゃった……」

 

そうしているうちに自宅の目の前に辿り着いていたことに、真姫はようやく気付いた。

夢遊病にでもかかったかのような虚無感と共にふらふらと歩み寄り、玄関のドアを開けようとして――ドアノブに触れることを躊躇していることに気付いた。

 

「……なによ。自分の家なのに、怖がることないでしょ」

 

気負うことはないと言い聞かせながら、真姫はドアノブを捻り、玄関を開いた。

 

 

 

「ただい――ま……?」

 

自宅に足を踏み入れた真姫は、得も言われぬ違和感を抱いた。

……静かすぎるのだ。普段から騒がしくはなく静かな家であるが、それを踏まえても静かすぎる。何と言うか、人の気配が全くしないのだ。

見た目こそは我が家ではあるが、まるで全く知らない世界に迷い込んだような――そんな錯覚を抱くほどに。

 

「……パパ、ママ……?」

 

おそるおそる足を進める彼女が辿りつき、その目に留まったのはリビングに繋がるドアだった。

開けてはいけない、この先にあるモノを見てはいけない――そんな警鐘が心のどこかで鳴り響くも、それに反して誘われるように真姫の手はドアノブを捻り、扉を開いていく。

 

 

「―――――ッ!?」

 

リビングに入った真姫は、己の目を疑った。

彼女が覚えている限り、この家は高級感のある置物や額縁などが飾られてありながらも、悪趣味さを感じさせない落ち着いた雰囲気の造りだった筈だ。

それがどうだろうか。床や壁一面中に傷痕が走り、辺り一面には家具だったと思われる何かの破片が飛び散っている。

まるで、獣か何かが暴れたような――そんな有様だった。

 

「な、なによ、これ……? パパ……ママ……!?」

 

脚が震え、視界が揺れる。

日常の象徴とも言える我が家の変わり果てた姿に――突如現れた非日常の姿に、真姫の心は大きく揺さぶられる。

そしてふらふらと両親の姿を探し求めるように彷徨う彼女の目に飛び込んできたのは――想像を絶する光景だった。

 

「―――ひっ……!?」

 

それを見つけた真姫は恐怖に表情を歪め、尻餅をついた。

彼女が見つけたそれは、人間の死体だった。――いや、果たして一目でそれを人間だと判断することができるだろうか。

原形を留めてはいなかったのだ。バラバラにされた身体のパーツがあちこちに散乱し、顔をはじめとしたほとんどの部位が元の形がわからない程に潰されているという惨い有様だ。

 

――そして、気付いてしまった。

その死体が、人間2人分であったことに。

見覚えのある赤い髪と、眼鏡が見えていたことに。

 

「―――! お、ぅえぇっ……!!」

 

その正体に気付いてしまった真姫は猛烈な吐き気に襲われ、抑えようとする間もなく胃の中身を吐き出した。

胃の中身が空っぽになっていく感覚と共に床と彼女の顔が吐瀉物で汚れていく中、あまりの衝撃に頭痛が鳴り止まない頭で彼女は問いかける。

何故?どうして?誰がこんなコトを!?――思考が滅茶苦茶になった頭では考えがまとまらず、更なる混乱が彼女を襲う。

 

 

 

――これは、あなたが望んだことでしょう?

 

「―――ッ!?」

 

そんな彼女に語りかけたのは、幼い少女の声だった。

“何処か聞き覚えのある”その声の主は、家具だった瓦礫の物陰から更に語りかける。

 

この人たちはあなたから大切なモノを奪おうとしたじゃない。訪れるかもわからない将来なんてもののために、あなたがどんな思いをするかも考えもせず

 

「………!」

 

頭が痛い、目がちかちかする、吐き気も止まらない。

心臓が締め付けられるような苦しみに意識も落ちてしまいそうなのに――なぜかその少女の声だけは何よりもクリアではっきりと聞こえ、頭に――心の中に響き渡っていく。

身体と心を苛むどんな苦しみよりも――それが真姫にとって何よりも気持ち悪かった。

 

あなたは少しでも思ったはず、『こんな人たちいなければいいのに』って。だからわたしが代わりにやってあげたの。本音を晒すのに臆病なあなたの代わりにね

 

「……ふざけないで!!知ったようなこと言わないで!! あんたに私の何がわかるって言うのよ!!パパとママを返してよ!!」

 

声を張り上げることができたのは、殆ど偶然のようなものだった。

自分のことを見透かしているような口ぶりの少女の声に、この惨劇を望んだのは自分だと騙るその言葉に、恐怖と苦しみよりも怒りが勝ったのだ。

少女の言葉を必死に否定するような真姫の叫びを前に、少女の声は含むような笑い声を浮かべる。

 

わかるわよ。 だって―――」

 

そうして瓦礫の物陰から現れた、声の主。

その姿を目の当たりにした時、真姫は今度こそ言葉を失い、頭が真っ白になった。

――見覚えがある、なんてものじゃない。

小さな身長に、今より少し長く伸ばした赤毛の髪。可愛らしさと品を備えた紫の瞳。

そこにいたのは、幼い頃の――

 

 

「わたしは―――あなただもの」

 

 

 

そう言って『真姫』は、にっこりと微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

がばり、と悲鳴と共に起き上がる真姫。

汗を撒き散らし、髪を振り乱しながら起き上がった彼女の視界に入ったのは、自らが腰かけるソファをはじめとした高級感のある家具が整然と並ぶ、普段と変わらぬ自宅のリビングの光景。

呆然としたまま辺りを見回す真姫の前でリビングの扉が開かれる。

そこにいたのは――

 

「あら、真姫ちゃん。帰ってたのね」

 

「……ま、ま……?」

 

自信と同じ髪を持つ女性――真姫の母だった。

 

「……悪い夢でも見ちゃったのかしら? 冷えちゃうからすぐに着替えないと風邪ひいちゃうわよ?」

 

五体満足で健康体そのものな彼女は、乱れた髪で汗に濡れた真姫の姿に心配そうな視線と言葉を掛けながらタオルを渡すと、自らも着替えようとリビングを後にした。

そんないつもの母の姿に、真姫は呆然としたまま呟いた。

 

「……夢、だったの……?」

 

自らが目にした、あの思い出すのもおぞましい光景は全て夢だったのかと。

それだけならばただの夢だとほっと胸を撫で下ろして安堵していたのだろうが、真姫にはどうしてもそう思うことができなかった。

変わり果てた二人の姿、鼻孔で感じた鉄臭い血の匂い、胃の中身が空っぽになっていく嘔吐感、その全てを夢と片付けるには余りにも現実味がありすぎた。

理性では夢で片付けたいのに本能がそれを許さない――そんな相反した感情に、真姫の心はぐちゃぐちゃに掻き乱されていった。

 

 

 

 

――そんな真姫の姿を、『真姫』は鏡の中から邪悪な笑顔で見つめていた。

 

 

 

**

 

 

 

――真姫がμ’sを抜けると言ったあの日から、数日が経った。

あの時の言葉通り、翌日から真姫が練習に参加することはなかった。屋上に来ることはおろか、アイドル研究部の部室に来ることすらもなくなってしまっていた。

真姫が来なくとも、彼女たちは練習を続けていた。だがそれまで真姫が居た立ち位置は誰も埋めることはなく、ぽっかりと空いたままになっていた。

 

まるで彼女たち全員の心を表しているかのように。

 

 

 

「―――もうやだ!! 凛、こんなの耐えられないよ!」

 

そんな中、遂に我慢の限界を迎えたのは凛だった。

人一倍周囲の空気に敏感な彼女のことだ。真姫がいなくなったことにより暗く沈んだ空気に、それを無理矢理取り繕うとした空気の歪みに耐えられなかったのだろう。

癇癪を起した子供のように泣き叫ぶ彼女を宥めながら海未は思う。

いつかこうなるとは思っていた。凛がはじめにこうなっただけで、皆この取り繕ったような暗い空気に限界を感じていたのだ。

それだけ真姫がいなくなったことは、μ’sの心に暗い影を落としていた。

 

「……真姫の様子はどうなのですか?」

 

「うん……あのね、やっぱり相当参っちゃってるみたいで、私たちだけじゃなくてクラスのみんなとも避けるようになっちゃったんだ……」

 

まるで昔の真姫ちゃんに戻っちゃったみたい――という花陽の言葉に、一同の表情に影が差す。自分たちだけではなく、真姫自身もまた今の現状――μ’sを続けられなくなったことに強いストレスを抱いていたのだ。

……それも同然だ。あの日真姫が流した涙を見れば彼女自身が一番納得していないのは明白だ。その上ラブライブに向けてもう一度歩き出そうとした矢先の出来事となれば、精神的なダメージも相当なものだろう。

 

このままでいい筈がない――と海未は思う。

真姫の父親の気持ちもわからなくはない。大事な一人娘が跡継ぎとして成功できるか否かが懸かっている大事な時期だ。時間を無駄にさせたくはないという想いは、同じ跡取り娘だからこそ己の両親からも感じ取っていたし、よくわかる。

だからといって真姫の気持ちを――涙を流すほどにμ’sを続けたかったという想いは、到底見逃すことはできない。

その想いは、ここにいる全員が同じはずだ。

 

やはり会いに行かなければいけない――真姫の父親に。

自分たちの想い、そして真姫自身の想いを伝えるために。彼女と一緒にもう一度夢を追いかけるために。

その事を告げようとしたとき――

 

 

「……それとね、その……私の気のせいかもしれないけど……」

 

花陽の言葉がそれを遮った。

だがその声色に自信はなく、表情も言うべきか言うまいか迷っているようだった。

「大丈夫だから、話してみて」と絵里が優しく促したことで意思が固まったのか、ゆっくりと話し始めた。

 

「……真姫ちゃん、だいぶやつれてるというか……怯えているみたいなの」

 

「無理矢理勉強させられてるんじゃないの? 虐待よ虐待」

 

不機嫌さを隠さないような声色でにこがぼやく。

この中で真姫の父に対して一番悪感情を持っているのは彼女だろう。真姫をμ’sから奪われただけでなく、スクールアイドルを丸々否定されたようなものなのだから。

 

「いえ、それはどうでしょう。仮にも医者の跡継ぎとなるのですから、そのような不養生に繋がるような真似を今からさせるとは思いませんが」

 

「そうだよ、それに今日だって……」

 

 

 

 

 

 

――とある授業の最中。

花陽は授業に身が入らないでいた。教師が話す今度の試験で出るという歴史の解説も、ほとんど耳に入らないでいた。

理由は一つ、真姫のことが気がかりだったのだ。教科書からチラチラと彼女に視線を向けることを止められずにいた。凛も同じ気持ちなのか真姫の様子を窺っているが、彼女の席からは精々後姿しか見えないだろう。

 

では花陽から見えている真姫の姿はどうか。

――真姫は顔を俯かせていた。ノートをとる筈の手は微動だにせず、目元が垂れた前髪で隠れているため視線をどこに向けているのか――そもそも起きているのかどうかすらわからない。

 

「……――、………」

 

疲れてるのかな――そう思い心配そうに眺めていると、何かが聞こえてきた。ぼそぼそと、何か呟くような音だ。

耳を澄ましてみると真姫の方から聞こえているようだった。目を凝らせば口元が僅かに動いているのがわかった。

その姿を訝しげに見つめている中、段々とその呟きは大きくなっていき――

 

「――いや、やめて……わたし、わたしは………!」

 

 

 

 

 

 

「――嫌ぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」

 

絶叫の如き悲鳴をあげ、勢いよく立ち上がったのだった。

顔中に脂汗を浮かべ、艶やかな髪は乱れ、息も絶え絶えで憔悴しきった顔面蒼白の真姫。

教師を含めたクラス中の全員が驚きと共に見つめる中、彼女は呆然とした表情で立ち尽くし、周りを見渡す中でぽつりと呟いた。

 

「………ゆ、め……? また……?」

 

「に、西木野さん……?大丈夫かしら……?」

 

「……すい、ません……大丈夫です、何でもないですから……」

 

そう言って席に着く真姫。

だがその言葉とは裏腹に彼女の震えは止まらず、青白い顔のまま「大丈夫」と呟き続けていた。そんな姿から花陽は目を離すことができず、もはや授業に意識を向けることは全くできなかった。

 

 

 

 

 

 

「……ちょっと、それ、ヤバイなんてもんじゃないでしょ」

 

花陽の話を聞いた面々は、皆一様に青ざめた表情を浮かべていた。

にこの言うように話の中で出てきた真姫の様子はどう考えてもまともな精神状態ではない。事態は、彼女たちの想像以上に深刻だった。

 

「クラスのみんな――私と凛ちゃんも心配したんだけど、「大丈夫」って言うばかりで……」

 

「そのまま帰ってしまったのね?」

 

絵里の言葉にこくんと頷く花陽の目元には涙が浮かんでいた。

この中で一番辛いのは彼女と凛だろう。一番近くにいるのに何もしてやれないという無力感に苛まされているのだから。

それが彼女たちの中で「どうにかしなければ」という想いをより一層強くさせる。

 

 

 

 

 

「―――真姫のお父上に、会いに行きましょう」

 

静かに響いた海未のその言葉に、皆の視線が集まった。

 

「真姫の身に何が起きているのかは正直わかりません。しかし彼女をこのまま一人にしてはおけないことだけははっきりしています。 ……だからせめて、真姫の居場所を――μ’sを取り戻しましょう」

 

「……それ、いいね!」

 

海未の言葉に真っ先に同意する穂乃果。

それからも彼女に続くように、この場にいたμ’sの全員が同意の意を示す。

 

「そうと決まればどこに話せばいいのかな?」

 

「病院はどうかにゃ? 真姫ちゃんのお父さんってお医者さんなんでしょ?」

 

「いえ、仕事中に関係のない電話をするのは迷惑だわ。ここは家の方に話すべきね」

 

 

皆がこれからやるべきことを話し合う。真姫の心を救うために、彼女の笑顔を取り戻すために。――彼女ともう一度、共に夢を追いかけるために。

 

そんな中、希の心にはある懸念が浮かんでいた。

不安と言ってもいいそれを抱えた彼女の脳裏には、昨夜の出来事が思い返されていた――

 

 

 

 

 

 

「おぬしら、最近どんな夢を観たか覚えておるか?」

 

彩牙と共に番犬所に呼び出された希は、オルトスのその第一声に疑問符を浮かべた。

口ぶりから察するに将来の目標や希望――ではなく、寝ている時に観る夢の方だろうか。眠りが浅いと観ることがあるとか、起きた途端に内容が思い出せなくなるとかはよく聞いたことがある。

言われて思い出してみれば、そういえば昨日は何かしらの夢を観たような気がするとぼんやり思った。ほとんど思い出せないが、誰かの胸をわしわしして、それがこの上なく心地良かったということだけは覚えていた。

 

だけど何故いきなりそんなことを言い出すのかと疑問に思う。隣の彩牙もまた同じことを思ったのか、訝しげな視線をオルトスに向けていた。

 

「夢とは不可思議なものでな、全く意味不明な内容かと思えば未来の出来事を予知しておったり、心の深淵に潜む本性を浮かび上がらせたりしておる。人間の中でも御することのできぬ、未来永劫未知の領域だと思うのじゃよ」

 

はあ、とオルトスの話に耳を傾けながら、希は心の中でぼんやりと相槌を打った。

それと同時に気付いたことがある。オルトスは話の本題に入るまでの前置きが長いのだ。その内容も本題に関連したこともあれば、全く無関係のものだったりもする。要は彼女の気分次第で適当に変えているのだ。

彩牙はもう慣れたのか、話半分に聞いているような感じであった。

 

『まわりくどいな、さっさと本題に入ったらどうだ?』

 

「せっかちな指輪め、年寄りに敬意を払おうとは思わんのか」

 

ぼやきつつも気だるげであった姿勢を起こすオルトス。

本題に入るサインだ――そう察した希、彩牙は姿勢を正し、表情を引き締める。

 

「先に言うたように、人間の見る夢とは稀に心の深淵――内なる魔界へと繋がることがある」

 

「内なる魔界……?」と聞き覚えのない単語に首を傾げる希の横で、ザルバがその問いに答える。

それは全ての人間が自らの内に抱える、自分だけの魔界。心の深淵の奥底に潜んでおり、他者はおろか当人自身でさえも知覚することは通常不可能な領域である。

個人によって異なる世界が広がる領域ではあるが一つだけ共通点がある。魔獣たちが住まう魔界――真魔界へと繋がっているのだ。

だが真魔界に繋がっているといっても、ホラーが内なる魔界に出ることはよほど深い縁が結ばれてでもいない限り不可能なのだ。よしんば出られたとしてもそこから人間界に出ることは不可能であるし、魂がその場にいなければ人間を喰うことも憑依することも不可能なのだ。

 

「だが何事にも例外というのは存在しておる。オブジェをゲートにすることができぬ代わりに内なる魔界に侵入し、夢をゲートにするホラーがおるのじゃ」

 

『……なるほど、“アンプゥ”か。そんな反則技ができるのは奴だけだな』

 

 

「そのホラーが現れたと?」

 

「幸いにもまだ憑依はされておらぬようでな。奴は標的にした人間の内なる魔界に潜んだ後は繰り返し悪夢を見せ、魂を弱らせることで憑依できるようになるのじゃ」

 

「……悪趣味だな」

 

反則技――確かにその通りだと希は思う。

自分たちはオブジェに溜まった陰我を浄化することでホラーの出現を防いでいるというのに、そんな反則技を使われては防ぎようがないではないか。

それに悪夢を見せるというのも気に喰わない。ホラーは基本的に人間の命や尊厳を平気で踏みにじる相容れぬ存在ではあるが、件のホラーはじわじわと嬲ることを楽しんでいるようであり、彩牙が吐き捨てる気持ちも理解できた。

 

「とはいえ猶予はないぞ。奴に目をつけられた人間も既に何日か経過して弱っておるじゃろうて。憑依されるまでの間に見つけだし、アンプゥを討滅せよ」

 

『しかし見つけたところでどうするんだ? 奴は内なる魔界にいるんだろ?』

 

それももっともだ。

ザルバ曰く、内なる魔界は文字通り人間の心の深淵に存在しているというではないか。そんなところに潜んでいるとなれば、どうやって侵入すればいいのか見当もつかない。

結界ではあるまいし、心の中に入り込む方法など――

 

「安心せい、手はあるでな」

 

 

 

**

 

 

 

少しばかり日が傾き始めた頃、とある場所にいた彩牙は希からの電話に耳を傾けていた。

彼女の話を聞くその表情は険しく、内容の深刻さを物語っている。

 

「――そうか、西木野さんが……」

 

『花陽ちゃんの話聞いてな、ウチ嫌な予感がして……』

 

希の話を要約するとこうだ。

――昨夜の話に出てきたホラー・アンプゥに、真姫が狙われているかもしれない。

確かに花陽の語った真姫の様子は、ザルバとオルトスの語ったアンプゥの特徴と一致している。もしそれが事実であるのなら真姫の精神は相当追い詰められている状態であり、オルトスの言う通り残された猶予はあまり残されていないようだった。

 

「……皆にこのことは?」

 

『話してへんよ、これ以上不安にさせたくあらへんし』

 

「それに」と希は続ける。

 

『今、真姫ちゃんを連れ戻すためにどうやってパパさんを説得させるか――って話してるところなんよ。 ……ホラーなんかの所為で台無しにさせるわけにはいかへんよ』

 

「……そうだな」

 

真姫を想い、あれこれ話し合う海未の――皆の姿が思い浮かぶ。

友のために困難に立ち向かおうとする彼女たちの想いを、無駄にするわけにはいかない。そのためにも真姫が本当にホラーに狙われているのであれば、何としても救わなくてはいけない。

 

「――わかった、今回の件は俺に任せてくれ。アンプゥの方は俺がケリをつける」

 

『え……!? そんな、ウチも一緒に――』

 

彩牙の言葉に反論する希だが、そういうわけにはいかない。

希にはより大事な役目があるのだから。

 

「知られたくないこともあるだろう。希は、彼女の帰る場所を守ってくれ」

 

『―――っ』

 

希の声が詰まる。

真姫がアンプゥに狙われているのであれば、彼女が知られたくないことを知ることになるかもしれない。

もしそうなれば無事討滅できたとしても希と真姫の関係は壊れてしまうだろう。その反面自分ならば軽蔑されることになってもどうとでもなる。

――こればかりは希にやらせるわけにはいかないのだ。

 

『…………わかった。真姫ちゃんのこと、お願いな』

 

「任せろ。そっちも頑張ってくれ」

 

『ありがとう。 ………ごめんな』

 

己の心情を気遣ってくれたことによる感謝と、彩牙に重荷を負わせてしまう不甲斐なさ。

その相反する感情の籠った言葉を最後に、希からの通話は終わった。

 

 

『ただの嬢ちゃんたち同士の問題かと思ったら、面倒なことになってきやがったな』

 

「だがやることは変わらない。準備を進めるぞ」

 

――そう、たとえどのような展開になろうとも、自分たちのやることは変わらない。いつだってシンプルだ。

そう思いながら、彩牙は己が先程までいた場所――大きな病院を見上げながら、その場を後にした。

 

『世の中何がどう繋がるかわからない――これも因果かね』

 

 

 

 



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第25話  夢幻/Ⅱ

今回はちょいと短めです。


 

 

 

「――君の経過を診る度に、人体の常識というものが崩れそうになるよ」

 

清潔・滅菌が徹底された真っ白な診察室。

上半身を露にした彩牙の前でこの西木野総合病院の院長――真姫の父は呆れたようにそう呟いた。

重傷を負って倒れていた彩牙の手術の執刀、治療、そして主治医としてその後の経過観察を行っていたのは他でもない彼だった。今日もこうして退院後の彩牙の傷の具合を診るための定期検診を行っていたのだ。

そんな彼がこうして頭を抱えている姿に、彩牙は疑問符を浮かべていた。

 

「順調に治っているのであれば何も問題ないのでは?」

 

「……いいかね君、普通の人間は生死の境を彷徨うほどの大怪我を負って一週間もしないうちに退院はおろか傷が塞がるようにはできていないのだよ」

 

おまけにあれだけの重傷で後遺症が全くないなど――というぼやきも彩牙には届いていないのか、不思議そうに首を傾げていた。

そんな身体も思考も常識外れの患者を前に、真姫の父は気を取り直すように息を整える。

 

「ともあれ、経過は問題ない。これならもうここに来なくても大丈夫だろう。 ――生傷が日に日に増えているのは気になるがね」

 

最期の呟きに耳が痛くなりながらも、「ありがとうございます」と頭を下げる彩牙。

あの日死にかけていた自分の命を繋ぎとめ、現世に踏み止まらせてくれたのは他でもないこの人なのだ。“彼女たち”に起きている騒動の原因の一人であるとはいえ、それとこれとは話が別だった。

――そう、思えば今日ここに来たのは定期健診を受けるだけが目的ではなかった。

 

「……そういえば、俺が世話になっている園田家の跡取り――海未がスクールアイドルという活動をしているようなのですが――

 

 

 

――先生の娘さんも参加している、とか」

 

 

 

**

 

 

 

――その日は、良く晴れた日だった。

秋晴れの下、見上げる西木野邸の姿は見た目以上に大きく見えた。自分たちがこれから挑もうとしている、立ち塞がる『壁』が如何に強大で堅牢であるのかを表している――そんな錯覚を抱かせているほどに。

その圧に呑み込まれそうになり、いけない――と首を振る。今日ここに来た目的を思えば、こんなところで二の足を踏んでいるわけにはいかない。

 

「それにしても、直接会うことができたのは幸運だったわね」

 

絵里の言う通りだ。

海未自身、ここまで簡単に真姫の父に会うことが叶うとは正直思ってもみなかった。

真姫の父からしてみれば、自分たちは娘をワケのわからない道に引き摺りこんで勉学を妨害し、将来への障害となる――極端な言い方をすれば悪い虫の類だ。

そんな相手からの申し出を受け、直接話をする機会を設けてくれるなど――少なくとも最初のうちは会うことはできず、何度かコンタクトを取る必要があるだろうと思っていただけに、この展開は想定外だった。

 

「案外、話の分かる人なのかな?」とことりが言うが、楽観視はできない。

話を聞いてくれるからといってこちらの望みに応えてくれるとは限らない。むしろ真っ向から言い負かされて望みが潰えてしまう可能性だってあるのだ。

それに、危惧することはもう一つある。

 

「もしここで真姫のお父上を説得することができなかったら……」

 

「打つ手が無くなる――やね」

 

仮に説得に失敗すれば、再び話に応じてくれる可能性は限りなく低い。それどころか聴く価値はないとして門前払いにされ、説得することはできなくなってしまう。

そうなれば真姫をμ’sに連れ戻すことは二度と叶わなくなってしまうだろう。それだけは何としても避けなくてはいけなかった。

 

「……大丈夫だよ」

 

静かに、それでいて力強い呟きに、皆の視線が集中する。

そこには普段の朗らかさは鳴りを潜め、凛々しく真剣な表情の穂乃果の姿があった。

そんな彼女と視線を交わし、互いに頷き合う海未。彼女の勇気を受け取り、最初の一歩を踏み出した。

 

 

――帰ってきてください、真姫……

私たちには――あなたが必要なんです!

 

 

 

**

 

 

 

――その日は、良く晴れた日だった。

気持ちいいほどの秋晴れの下、街中を歩く真姫の心はその空模様に反して暗く濁り、澱みきっていた。

父親からの言いつけによりスクールアイドルを続けられなくなった――だけではない。それを境に見るようになった悪夢により、精神を磨りきらされていったからだ。

 

はじめに見た両親の惨殺死体――あれはまだ序の口でしかなかった。

自分が殺される夢。

皆から『裏切り者』と罵倒され、蔑まされ、汚物のように扱われる夢。

よくわからないモノに辱められ、人としての尊厳を奪われる夢。

医者になることができず、両親から生まれたことを否定される夢。

憎しみに駆られたμ’sの皆が、両親を殺す夢。

 

数多くの悪夢が昼夜・状況を問わずに襲い掛かり、真姫の精神は限界寸前だった。

正直、こうして外を出歩くことさえ苦痛であった。道行く人の顔や晴れ模様の空を見る度に、『なぜ自分ばかりがこんな目に』という不快感が沸き上がるのだ。向こうが悪いわけではないとわかっているのに――だ。

それはμ’sの皆に対しても同様だった。彼女たちの顔を見る度にもやもやとした感情が沸き上がり、自己嫌悪に繋がっていく。だから学校でもなるべく彼女たちと顔を合わせないようにした。彼女たちを嫌いになりたくなかったし、これ以上惨めな思いをしたくなかった。

 

そんな真姫がこうして外を出歩いているのは、ある人物に会うためだ。

誘いが来た時、最初は断るつもりだった。会いたい気分ではないから――顔を合わせてしまえば八つ当たり気味に恨み節をぶつけてしまいそうになるから。

だが知らない仲でもなく――仮にも助けられたこともあり、どうしても会わなければいけないと有無を言わせない勢いで詰め寄られた結果、真姫が折れたことでこうして会うこととなったのだった。

 

そうしてしばらく歩いた頃、待ち合わせ場所となっていた公園に辿り着いた。

休日の真昼間にしては珍しく子供の姿も見かけない中、時計の下に待ち合わせ相手が――

 

「……来たか。 待っていたぞ、西木野さん」

 

「……そこ、嘘でも今来たところって言うべきじゃないの」

 

 

――村雨彩牙が、そこにいた。

 

 

 

**

 

 

 

それは、何の前兆もなくやってきた。

自らの心身を苛む悪夢によって最悪な目覚めを迎えた朝、真姫を出迎えたのは母の声ではなくスマートフォンからの着信音だった。ごちゃごちゃと纏まらない思考のまま見覚えのない番号からの着信――今にして思えばあまりにも不用心だった――に出ると、その相手こそが彩牙だったのだ。

 

「どうしても大事な話がある。二人で会えないだろうか」

普通ならばこんな下心満載な台詞に応えることなどなかっただろう。だが彼女自身でも驚くことに、真姫はその誘いをあっさりと受けた。

悪夢に苛まれた上に寝起きだったためまともな思考回路をしていなかったからかもしれないし、彩牙の言葉から邪な感情を感じ取れなかったからかもしれない。――無論、彼がそんな人間ではないことくらいは知っているが。

 

 

そんな経緯で彩牙と会った真姫は今、屋根付きの休憩所の下で彼から手渡された缶ジュースをちびちびと飲みながら、周囲を見回す。

――やっぱり、あまりにも人気がない。確かにこの公園はあまり人が来ないことで知られているが、それでもここまで人の気配がないのは珍しい。

そのまま隣の彩牙に視線を向ける。彼はこの状況に何の違和感も抱いていないのか、平然とした表情で缶コーヒーを飲んでいる。

そんな姿を見て心に浮かんだ言葉が、ぽろりと真姫の口から零れる。

 

「……それで、何の用よ」

 

ここへ向かう途中から、真姫はずっとそのことを考えていた。

実を言うと思い当たる節がないわけではない。自分がμ’sを抜けたことは海未から聞いているだろうし、大方そのことについてなのだろうと思っていた。

――そう考えていながらこんな捻くれたような言い方をする自分に、嫌悪する自分もいる。

 

「μ’sを――スクールアイドルを辞めたようだな。親に言われたから、と」

 

やっぱりそのことか――と、心の中でため息をつく。

そして続けて言うのだ、『自分の気持ちに素直になれ、やりたいようにやるべきだ』と。

正直なところ、余計な口出しをしないでほしいと思っている。自分がどんな思いでμ’sを抜けることを皆に告げたのか知らないくせに、わかったようなことを言わないでほしい。

――そんな思考にまた嫌悪する。

 

「――が、まあそのことは海未たちが何とかするだろう」

 

「…………は?」

 

だからこそ、その言葉に真姫は呆気にとられた。

心配する必要など何もないとでもいうようにあっけからんと言い放つ彩牙は、飲み干した缶コーヒーを手摺の上に置き、真姫の方へと振り向いた。

僅かに険しくなったその表情に、真姫は慄くと同時に既視感を抱く。

確か……彼がこういう表情をするときは――

 

「俺が聞きたいのは――西木野さん、最近悪夢を見るようになったんじゃないか?」

 

「……な、なによ……それ」

 

「例えば――親や友が殺される、辱められる、生まれたことを否定される……それも何度も、時間や場所を選ばずに――な」

 

「……!」

 

「図星のようだな」と言われて、真姫の心がびくりと跳ね上がる。

何故そこまで知っているのか。μ’s経由で最近の様子から推理したにしても、何故悪夢を見ていること、その内容まで知っているのか。

そもそも――何故、そんな訳知り顔で話しているのか。

 

「単刀直入に言おう。 ――西木野さんはホラーに狙われている。人界に現れるためのゲートとしてな」

 

「…………は? な、何言って……!?」

 

「このまま放っておけば西木野さん自身がゲートになり、ホラーに憑依される――そう言ったんだ」

 

その言葉に背筋が凍り、肩をぎゅっと抱きしめる。

――私がホラーになる?あの醜い化け物になる?なんで?どうして?

本能のまま人を喰らい、時には自分たちにも襲い掛かってきたホラーの姿が脳裏に浮かび、自分もそれに成り果ててしまうという恐怖と絶望が真姫を支配していく。

 

「なんで……? なんで私なのよ!?」

 

『さあな。奴がどういう趣味嗜好でお前さんを選んだのかはわからんが……“運が悪かった”としか言えんだろうな』

 

「なによ、それ……そんな適当な理由でどうして私が! ……わたしが……!」

 

 

「――だからこそ、こうしてここに呼んだんだ」

 

絶望を遮るような力強い言葉に、顔を上げる真姫。

全く揺らぐことのない力強い眼を向ける彩牙の姿がそこにはあった。

 

「俺が守る。西木野さんがホラーにされる前に必ず奴を斬る」

 

 

 

 

「だから先に謝っておく。―――すまない」

 

「え」と言う暇もなく、真姫の腹部に鈍い衝撃が走った。

震える視線を下に向ける。彩牙の手に握られていた魔戒剣の赤い柄が、真姫の腹を突いていた。

なんで、と疑問が浮かぶ中、真姫の意識は闇の中に落ちていった。

 

 

 

 

 

 

――素早く済ませよう。

意識を落とした真姫の身体をベンチの上に寝かせた彩牙は、懐から金の縁が付いた平面の水晶を取り出した。

レンズのように光が屈折しているそれを横たわる真姫の胸の上にそっと置くと、今度は魔戒符を取り出して水晶の上に翳した。すると水晶の表面に魔戒符に刻まれた印と同じ紋様が浮かび上がり、それに呼応するように魔戒符の印も淡く光りだした。

 

「これで準備は整ったか」

 

『ああ、いつでも嬢ちゃんの中に飛び込めるぜ』

 

 

これが、今回の指令にあたってオルトスから渡された魔導具だった。

曰く入心の術――闇斬師が用いる心の中に入り込む術――の術式をアレンジして魔導具として組み込み、内なる魔界へと侵入できるようにしたものだと云う。

ただし制限がある。一つ、対象が意識を失っていなければならない。二つ、侵入できるのは人間の魂のみで魔導具の――ザルバの意識は入ることができない。そのための前準備として、人払いの結界を張った公園を準備したのだ。

そして三つは――

 

「内なる魔界で魂が消滅すれば現実の肉体も死ぬ……か」

 

『怖気ついたか?』

 

「まさか。いつもと変わらないだろう」

 

敗れることがあれば己は死に、守ろうとした人も死ぬ。

いつもと変わらない単純明快な答え。違いはその場が現世か否か、それだけの話だ。

魔戒符を己の額に貼り付け、真姫とは向かい側のベンチに腰掛ける彩牙。

魔戒符と水晶から放たれる光が段々強くなっていき、それに応じて彩牙の意識もゆっくりと落ちていく。

 

「こっちのことは任せたぞ」

 

『あいよ。精々気張ってきな』

 

 

 

**

 

 

 

「「「――お願いします。どうか真姫さんと一緒に活動させてください!!」」」

 

――西木野家のリビングに通された、真姫を除いたμ’sメンバーたち。

彼女たちは今、向かいのソファに腰を掛けている男性――真姫の父に対して深々と頭を下げていた。

娘と同じ年頃の少女たちが一斉に頭を下げて懇願する光景を前に、彼は最初から見せていた威圧感を抱かせるほどの毅然とした態度を微塵も崩すことはなく、眼鏡の下から感情の読み取れない視線を向けていた。

 

「私たちには、真姫ちゃんが絶対必要なんです!」

 

必死な表情を浮かべた穂乃果の言葉を浴び、真姫の父はその必死な姿に胸を打たれる――なんてことはなく、微塵も動じる様子を見せなかった。

 

「……申し訳ないが、真姫には医者になるために勉強する時間が必要だ。無駄なアイドル活動如きに割ける時間はないのだよ」

 

「ごときなんてひどいニャ!」

 

「そうよ!真姫だって続けたいって泣いてたのに――!」

 

真姫の父の冷酷なまでの言葉に憤る凛とにこ。

感情を爆発させる二人を窘める絵里を横目に、海未は幸先の悪さを感じ取っていた。

真姫の父は思っていた以上に強敵だ。穂乃果の必死な訴えはおろか、凛とにこの怒りにさえ感情の動きを感じ取らせない。その瞳の奥で自分たちにどのような印象を抱いているのか――それこそ娘の友人には相応しくない無礼な少女たち、と冷徹な評価を下しているのかもしれないのだ。

そんな中、真姫の父はゆっくりと、静かな声色で口を開いた。

 

「君たちの話は聞いている。廃校になる母校を守りたいがためにスクールアイドルを始めたと。 ……妻の母校でもあるし、その想いを無下にするつもりもなかったからこれまでは黙認してきた」

 

「っ! でしたら――!」

 

「そして廃校は無事に阻止された。ならば真姫がこれ以上スクールアイドルを続ける意味が一体どこにあるのかね?」

 

 

 

「――改めて聞こう。将来のために必要な時間を犠牲にしてまで、真姫がスクールアイドルを続ける意味があるのかね?」

 

 

 

**

 

 

 

「―――っ、ぐっ……!」

 

意識が引き戻されると同時に、全身に掛かる浮遊感と落下する感覚。

意識が覚醒した彩牙の目に映ったのは、淡い光に包まれながらもどこまでも深く、底の見えない奈落のような空間と、その中で落下していく自分自身だった。

ここは、真姫の内なる魔界へと繋がる道。

深淵へと続く奈落を落ちていく彩牙は最初こそ戸惑う様子を見せたものの、すぐに平静を取り戻し、抵抗せず身を任せるようにその道を進んでいく。

 

――そして、その道は不意に終わりを告げた。

前触れもなく現れた地面を前に体勢を翻し、着地の姿勢をとる。

衝撃もなく難なく着地――ずっと落下していたとは思えないほどに――した彩牙は、改めて周囲を見渡す。

 

「……ここが、西木野さんの内なる魔界か」

 

一見すると、遊園地のような場所だった。夜の闇に包まれた中を装飾や外灯の灯りが淡く照らし出しており、現実の遊園地と大差ない光景だった。

唯一、決定的に違う点があるとすれば、本来あるべき遊具やアトラクションが舞台のようなものにすり替わっていることだった。その内容も様々で、家のリビングをはじめコンサートホール、学校の教室、屋上、神社、砂浜と多種多様だ。そして天高くに存在する白い輝きを放つ月のような球体が、それらを淡く照らしていた。

その中で、ブザー音と共にリビングの舞台が照らされる。その舞台の上には、見覚えのある赤毛の少女とその両親と思しきマネキンが立っていた。

 

『なんだ、一位じゃないのか』

 

『残念だったわね、でも真姫ちゃんは学校で一番勉強ができるんだもの。ピアノができるよりずっとすごいわ』

 

『そうだな、この間も塾の全国選抜に残ったし――真姫はえらいな、これなら将来は立派な女医さんになれるぞ』

 

『……うん、真姫ね、将来はおいしゃさんになるの――』

 

 

「これは……?」

 

その光景に視線を奪われる中、また別の舞台が照らし出される。

今度は学校の屋上が舞台で、赤毛の少女の他に眼鏡の少女、ショートカットの少女、サイドテールの少女、ベージュの髪の少女――そして、青い長髪の少女のマネキンが立っていた。

その舞台で演じられるのは、勇気の一歩を踏み出した眼鏡の少女と、彼女に続くように新しい一歩を踏み出す二人の少女の姿。

また別の舞台では、神社にて決意を新たにする9人の少女たちの絆が演じられていた。

 

「……なるほど。これらは西木野さんの記憶か」

 

これらの舞台は、真姫の記憶の結晶。彼女のこれまでの人生の中で特に印象に残った記憶が舞台という形になったものなのだ。

彼女自身が印象深いと自覚している記憶もあれば、中には自覚のないまま印象深いと心に刻まれている記憶もある。そうして混在しているのがこの多くの舞台だった。

そして舞台のマネキンたちは、真姫の記憶を演じている役者であった。

 

 

「―――なんだ?」

 

訝しげな表情を浮かべる彩牙。

それまで真姫の記憶を演じていたマネキンたちが一斉にその動きを止めたのだ。

何があったのかと一拍を置いた直後、今度は一斉に首だけが彩牙に向かって振り向き、眼球を赤く光らせながら彼の下へと襲い掛かり始めたのだ。

 

「奴が操っているのか……!?」

 

彩牙という異物を排除するために、アンプゥが真姫の心を乗っ取って操っているのか、それとも彼女自身の世界による異物を排除するための自浄作用なのか、真実は定かではない。

だが確かなのは、この襲い来るマネキンの軍勢を乗り切らねばならないこと、そしてどちらにせよ猶予はあまり残されてはいなさそうということであった。

 

「全く、骨が折れる……!」

 

そしてもう一つの問題は、これらのマネキンはあくまで真姫の記憶の一部であること。下手に斬り捨てようものなら彼女の心にどんな悪影響をもたらすのかわからないが故に、手加減せざるを得ないことだ。

ぼやきながら守りの型を構えた彩牙は、襲い掛かるマネキンたちを迎え撃つのだった――

 

 

 

 



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第25話  夢幻/Ⅲ

 

 

 

――なんだろう。何か聞こえる……

何かに呼ばれているような……ずっと眠っていたいのに、起きなくちゃいけないような……そんな声が、聞こえるような……

……誰の声……?すごく聞き覚えがあるような……

 

 

 

 

 

「――――ぅ……こ、ここは……?」

 

むくり、と目を覚ました真姫はおぼろげな意識のまま呆然と辺りを見回す。

真っ暗な空間。その中で一つだけポツンとある自分が横たわるベッド。

――そして、その遥か頭上で月のように浮かび上がる真っ白な球体。

殺風景な風景に何故こんな所にいるのかと考えを巡らせた時、激しい頭痛が真姫を襲い始めた。

 

「うっ……あああああっ……!」

 

それと同時に、真姫の脳裏に直前の記憶が駆け巡る。

――公園で会った彩牙。

――自分がホラーにゲートとして狙われていること。

――そして、彩牙の手で気絶させられたこと。

 

「―――っ、なに……なんなのよ……!?」

 

蘇った記憶と共に完全に覚醒した意識の中、真姫は混乱に支配されていた。

何故彩牙はあんなことをしたのか――わからない。

何故ホラーに狙われるのか――わからない。

そもそもここは一体どこなのか――わからない。

わからないことばかりで自分だけが置いてけぼりにされている現状に、真姫の心は不安と恐怖で締めつけられていた。

 

 

 

『―――あれぇ? 来ちゃったんだ?』

 

「っ!? だ、誰!?」

 

突然響き渡る、自分以外の声。

――いや、“自分以外の声”というのは少し語弊があった。

聞き覚えのあるなんてものではない。何故ならその声は、他でもない――

 

「―――私……?」

 

暗闇の中から輪郭が形取り、浮かび上がるように現れたモノ。

――水色のドレスに身を包み、赤毛の髪に愛くるしくも知的な笑みを携えた幼い少女。

それは紛れもなく、幼い頃の姿の真姫自身だった。

 

『そう、わたしは『真姫』。他でもない『わたし』自身だよ』

 

「え……えっ……!? 何が、何がどうなってるのよ……!」

 

『あーっ! その顔、覚えてないって顔ね。つれないなぁ、夢の中であんなに会ってるのに』

 

「夢……? 何を言って……っ!?」

 

再び、何かを思い出そうとするように真姫を襲う頭痛。

その中でぼんやりと浮かび上がったのは、彼女を苦しめる悪夢の最後に決まって出てくる“何か”。

人の姿をしていたアレの笑顔が、何故か目の前の『真姫』と重なるような気がして――

 

『……まあいっか。それよりほら、あれを見て!』

 

そう言って『真姫』が指差した先で、暗闇の中で一つの映像が浮かび上がった。

古い映画のように所々ノイズが走っているその映像に映っていたものは、真姫の心を締めつけるのに十分すぎる代物だった。

 

 

『――真姫はえらいな、これなら将来は立派な女医さんになれるぞ』

 

『……うん、真姫ね、将来はおいしゃさんになるの――』

 

――よく覚えている。

小学生の頃のピアノの発表会。当時の私よりもお姉さんだった子たちも出ていたコンクールで2位に入賞した日のこと。

あの日の帰り道、私の心はこれ以上ないほどに跳ね上がっていた。お姉さんたちもいた中で2位になれたことがとても誇らしくて、みんなが褒め称えてくれるのが子どもながらも嬉しくて、パパとママの驚く顔を早く見たくて仕方なかった。

すごいねって、自慢の娘だって、抱きしめてくれるのが楽しみで、わくわくしていた。

……でも現実はそうじゃなかった。

パパもママも私がピアノを上手になるとか、コンクールで入賞するとかには興味なかった。

それよりも勉強ができてテストで良い点を取ることが、お医者さんになれるようになることの方に価値を見出していた。

だから私は――賢い真姫ちゃんは、ピアニストになりたいなんて言っちゃいけないんだってわかった。この家で上手く生きていくためには――無駄に傷つかないようにするには、パパとママの望まない夢は持っちゃいけないんだと、そう思った。

 

 

『――ひどいよね、パパもママも。『わたし』は褒めてもらいたかったのに』

 

「―――っ!」

 

過去の映像に意識を奪われていた真姫の耳元で、『真姫』が囁く。

慰めるようなその声色自体は優しいはずなのに、肝が冷えるような形容し難い“何か”に真姫は心臓を鷲掴みにされるような感覚を抱いた。

 

『でも『わたし』は賢いから泣いたりしなくて、パパとママが喜ぶように我慢したんだよね。それからもずっと、パパとママが望む賢い真姫ちゃんでいるように、我慢して我慢して……

 

 

 

我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して――』

 

 

 

『――ぜんぶ壊したくなったんだよね』

 

「っ! ち、ちがっ……私は――!」

 

『違わないよ?『わたし』のことならなーんでも知ってるんだから。パパやママのことを憎んでいたことも、我慢して良い子を演じていたこともぜーんぶ』

 

『――だから、せめて夢の中でめちゃくちゃに壊したかったんでしょ?』

 

真姫の脳裏に、最初に見た悪夢の光景が蘇る。

荒れ果てた自宅、その中で原形を留めない姿に変わり果てた両親。

――あれらが全て、自分が望んだもの……?

 

『……いいんだよ。我慢しなくていいの』

 

震える真姫の頬に手を添えた『真姫』が語りかける。

その声はこれまで聞いたどのものよりも優しく、慈愛に満ちた声だった。

 

『『わたし』がずっと我慢してきたのも、頑張ってきたのも知ってるんだもの。素直になって、溜め込んでいたものを吐き出しちゃおう?』

 

「……すなおに……やりたいこと……」

 

『真姫』が語りかける度、その言葉の一つ一つが真姫の心に沁み渡っていく。

その感覚がこの上なく心地良く、どうしてこんなに優しくふわふわした声に最初は覚えていたんだろうと、靄がかかったような感覚に思考が埋め尽くされていく。

――『真姫』の瞳が妖しく輝いていたことに気付かないまま。

 

『わたしと一緒になって今までやれなかったこと――夢でしかできなかったことをやるの。『わたし』を縛るものを全部壊しちゃって、優しい世界を作るのよ』

 

「いっしょに……ぜんぶ……」

 

『そうすれば『わたし』はもう我慢しなくていいの、素直になってやりたいことをやれるんだよ』

 

 

 

『――さあ、一つになって、終わらないパーティを始めましょ?』

 

くすくすと嗤う『真姫』の囁き――悪魔の囁きが、真姫の思考を――心を塗り潰していく。

昏く澱んでいて、その一方できらきらふわふわと夢心地のようなモノに包まれていく中で、これから『真姫』と一体となって壊していくものに想いを馳せる。

両親、家、病院、ピアノ、音楽、学校、友――

 

 

 

――共に笑い、悩み、苦しみ、時には対立もした、かけがえのない友。

自分の“想い”を引き出させてくれた、何よりも大切な八人の少女たち――

 

 

 

――真姫ちゃん!――

 

 

 

 

 

「――――駄目っ!!」

 

靄のかかっていた思考が一気に晴れ、真姫自身の意識が覚醒する。

ばちん、と弾ける感覚と共に『真姫』の浸食が遮断され、肩をぎゅっと抱きしめながら真姫は自分がやろうとしていたことに心身を震わせていた。

 

「駄目……それだけは駄目……!」

 

 

 

『―――どうして?』

 

そんな真姫を、『真姫』は呆然と見つめながらそう呟いた。

――いや、呆然、と評するには語弊があった。『真姫』の表情には何の感情も浮かんでいなかった。驚愕も、戸惑いも、怒りも何もない、能面が張り付いたような無表情そのものだった。

 

『わたしと一つになればもう我慢しなくて良かったんだよ? 『わたし』を縛るものを全部壊して素直になれるところだったのに……どうして拒むの?』

 

「……違う! 私が望んでいるのは――!」

 

 

 

 

――バリィンッッ!!

 

息絶え絶えながらも真姫が自分の真意を吐露しようとした時――世界が割れた。

ガラスの割れる音と共にこの世界――内なる魔界に開いた穴。その穴から一つの影が躍り出て、瞬く間に駆け抜けてその手に握る刃を『真姫』に向けて躊躇いなく振り下ろす。

それを前にした『真姫』は腕を真っ黒な異形の影へと変貌させ、振り下ろされた刃を受け止める。がきん、と想像から離れた音と共に火花が飛び散り、この世界への闖入者の姿を照らしだす。

 

「――ようやく見つけたぞ。 貴様がアンプゥか!」

 

『ッ、魔戒騎士……!?』

 

――魔戒騎士・村雨彩牙の姿を。

 

『『わたし』の記憶の残滓がたくさんいたのに、この心の深淵に辿り着けるはずが……!』

 

「その答えなら簡単だ。その記憶の残滓とやらが湧いてくる所を辿っていったんだからな」

 

とはいえ、流石に容易にとはいかなかった。

無限に湧き続けるのかと思うほど大量のマネキン――記憶の残滓を前に迂闊に手を出すことができなかったのだから無傷では済まなかったのだ。決して無視はできない負傷と痛みが彩牙の身体――魂を蝕んでいた。

――しかしこの剣を握る手を緩ませることも、意志が挫けることもない。それどころかこの世界に巣食う魔獣を必ず討つという信念となり、漲る力となったのだ。

 

魔戒剣を振るい、『真姫』の触腕が打ち払われる。そうしてがら空きとなった幼い身体に蹴りが叩き込まれ、真姫の下から引き離された。

――彩牙の蹴りに躊躇と呼べるものは存在していなかった。たとえ可憐な幼い少女の姿をしていたとしても、それが知人の姿を模っていたものだとしても、それは狡猾な魔獣が己を騙るために着込んだ化けの皮であり、彼女に対する侮辱でしかないからだ。

 

「――遅くなって、すまなかった」

 

「……彩牙、さん………」

 

呆然と見上げる真姫の視線を背中で受け止めながら、彩牙の視線は動かない。

その先には真っ黒な影の触腕を蠢かせながら、可憐な顔を憎悪と怒りで歪ませた『真姫』――彼女の皮を被った魔獣の姿があった。

 

『なんで邪魔するの!? 『わたし』を解放してあげようとしたのに、わたしと一つになれば周りからのしがらみに縛られて苦しむことはなくなるのに!』

 

「なんだ、そんなことか。 ――西木野さん」

 

「え?」と呆気にとられたように呟く真姫の視線を浴びながら、彩牙は語る。

 

「ここに来るまでの間、すまないが君の過去を覗き見する形になった。 ……だから、奴が言っていたことも全て知っている」

 

「………」

 

「その上でさっき言おうとしていたことを……君の想いを奴に――君自身にぶつけてやれ」

 

「私の、想い……」

 

真姫の胸の内に、先程形になりかけた想いが再び浮かび上がる。

先程は意識が動転していたこともあり、しっかりとした形になることも、はっきりとした言葉にすることもできずにいた。

だが今なら。冷静になり、自分を見つめ直す余裕が生まれた今ならば、その想いを――自分の望みをはっきりとした形にすることができる。

深く息を吸い、吐き、頬を叩き、表情を引き締めた真姫は自らの脚で立ち上がり、遠く『真姫』を見据えて立ち向かった。

 

 

「……私はね、パパとママには苛々してたわよ。いつも勉強のことばっかりだし、将来の夢は決めつけるし、高校だって元々はUTXにしようと思ってたのにほとんど無理矢理音ノ木坂にさせられたんだもの。 ……俗物って思ったことだってあるわ」

 

「でも、でもね……憎いなんて思ったことは一度もないわ。望んでいた言葉が貰えなかったとしても、私の意志を縛るものであっても……頭を撫でてくれたパパの手は、ママの笑顔は、私のことを心から想ってくれたものだもの!」

 

「私は――そんなパパとママが大好きなんだから!!」

 

軽蔑と尊敬、怒りと愛情。

相反する感情を抱える彼女のことを笑うものなど、どこにいるだろうか。

その矛盾を受け入れ、抱えることこそが――人間らしさと言えるのだから。

 

「それとね、散々人のことわかってるようなこと言ってたけど……私がいつそんなこと頼んだのよ!散々気持ち悪い夢を見させておいて、パパとママにμ’sのみんな――私の友達を壊そうなんて、そんなの絶対に許さないんだから! ――あなたなんてお呼びじゃないのよ!!」

 

 

「――というわけだ。 人の心を土足で踏み躙る下衆にはご退場願おうか!」

 

真姫の想いを――怒りを乗せた魔戒剣を振るい、駆け出す彩牙。

彼と、真姫の想いが籠められた叫びを前にした『真姫』はその愛くるしい表情が見る影もないほど憎悪で歪ませて――まるで獣のような相貌に変え、片腕だけでなく両腕を影の触腕へと変貌させて駆け抜ける彩牙へと振るった。

 

『――どうして逆らうの!! わたしを呼び寄せたのは『わたし』だったのに!』

 

顔に向かって振るわれる触腕を、彩牙は半身捻り、魔戒剣で受け流すように受け止める。刃と触腕の間で火花が散り、そこから更に身体を捻って受け流していた触腕を斬り落とす。

その隙を縫うように足下を狙った触腕を、今度は床を蹴って躱す。着地と同時に通り過ぎた触腕に魔戒剣を床に縫い付けるように突き刺し、そのまま足を止めずに突き進んで触腕を二つに裂き、適当なところで両断する。

 

『すべてが夢だったらよかった――そんな『わたし』の陰我がわたしを呼んだ!!』

 

『真姫』の両足が両腕と同じように触腕と化し、襲い掛かる。

彩牙は足を止めぬまま、踊り狂う二本の触腕と斬り結んでいく。やがて触腕同士が交差した瞬間を見逃さず、魔戒剣で二本纏めて刺し貫いてそのまま両断した。

 

『だからわたしが夢にしてあげようと――悪夢に包んであげて、わたしが生まれるための揺り籠(ゲート)になる筈だったのに!!』

 

遂には頭部を除いた『真姫』の全てが不定形の影となり、その全身から無数の触腕が伸びて彩牙に襲い掛かる。視界を埋め尽くすほどの触腕を前に彩牙の脚は止まり、そのまま降り注ぐ触腕の中へと呑み込まれていった。

彩牙を呑み込み、真っ黒な壁となった触腕を――自らの勝利の象徴を前に『真姫』の表情は愉悦に歪む。

 

――しかし、それが続いたのは一瞬だった。

黒い壁の中に違う色が現れた。金色の線が一筋、二筋と、まるで裂くように浮かび始めたのだ。

 

まさか、と『真姫』が思った時には既に遅かった。

壁を斬り裂き、その中から飛び出してきたのは黄金の鎧に身を包んだ彩牙――黄金騎士ガロだった。

驚愕に包まれて固まる『真姫』を前に、ガロは咆哮と共に牙狼剣を振るう。

『真姫』の首が跳ね飛ばされ、床に落ちると同時に影の身体の崩壊が始まる。

驚愕に染まった表情のまま固まった『真姫』の首――どうしてこうなったのか、最期の瞬間まで理解できなかったということを語っていた。

 

『――お前は、彼女の心を甘く見過ぎたんだ』

 

その呟きを最後に首の崩壊も始まり、あっという間に崩れ去っていった。

そうして『真姫』――ホラー『アンプゥ』はこの世界から追放されたのだった。

 

 

 

 

 

――そして世界は暗転する。

 

 

 

**

 

 

 

「――わかりません」

 

真姫がスクールアイドルを続ける意味があるのか――

静かに、それでいて有無を言わせぬ圧が籠められた真姫の父の言葉に対してμ’sの皆が――それこそ穂乃果までもが押し黙った中、その沈黙を破る声が響き渡った。

――海未だ。

全員からの視線を浴びる中すっと立ち上がった彼女は、真姫の父をまっすぐに見据える。値踏みするような鋭い眼差しを正面から受けながら、小さく息を吐いて心に立った波風を落ち着かせる。

 

「――改めてお目にかかります。 園田家の娘、園田海未と申します」

 

真姫の父の目が細くなる。

海未の家――園田家はこの辺りでは名の知れた家だ。武道に舞踊――各々の界隈でも数々の功績を挙げてきた紛れもない名家だ。

その跡取りである彼女が家の名を名乗った――その意図が、真姫の父の意識を向けた。

 

「私も真姫――真姫さんと同じように家の跡取りとして育てられ、私もそのつもりで日々稽古に励んでいます。 ……それでも、このままでいいのか、用意されたレールに沿って歩くだけで本当にいいのかと――思い悩むことは少なくありません」

 

「……」

 

「親に不満があるわけでも、逆らいたいわけでもありません。……上手く言えないけど、立派な跡取りになる夢と、それとは違う自分の可能性を追いかけたい夢――矛盾していますけど、そんな想いが私の中にはあるんです」

 

「……真姫も同じだと、そう言いたいのかね?」

 

「はい」と頷く海未。

他のメンバーたちも同じように頷く中、海未は胸に段々と熱が灯っていくのを感じた。

 

「知人にも親の跡を継いだ方がいて、彼らはその選択を後悔していませんでした。……他に選択肢があったとしても必ずその道を選ぶと、そうも言っていました」

 

海未の心に、同居人たる彼の姿が浮かび上がる。

彼も海未と同じだ。親から継いだものがあって、その道を歩むことを選んでいる。記憶を失っているのに、他にも選択肢はあったのかもしれないのに――それこそ光に満ちた、もっと安らかな道を選んでも良かった筈なのに。

 

「私は彼らの様にはなれませんし、まだどれか一つかなんて決められません。どれもが大切で、きっと真姫さんも同じ想いで、だから―――」

 

 

 

つぅ、と頬を流れる涙を感じた。

 

「――私たちに時間をください」

 

頭を下げる海未を、静かに見据える真姫の父。

そんな彼女に倣うように他のメンバーたちも立ち上がり、同じように頭を下げる。

 

「一人でも欠けたら駄目なんです。 みんな大事だから、自分の心に嘘をつきたくないから、ちゃんと行動したいだけなんです」

 

 

「もう二度と諦めたくないから――後悔したくないから!」

 

 

 

**

 

 

 

「―――起きたか」

 

目を覚ました真姫を出迎えたのは、彩牙のその一言だった。

身体を起こし、手を、腕を、脚を、顔を、身体のあちこちをペタペタと触る。秋の公園で眠っていたにも拘らず、意外なことに肌寒さは感じなかった。

辺りを見回し、目に入った時計から気を失ってからそれほど経っていないことを悟る。

――そして、眠っていた間に起きた出来事に想いが巡る。

 

「……『アレ』は、夢だったの?」

 

「ああ、だが現実でもある。 君の中にホラーが潜んでいたことも、君を苦しめていたことも、討滅されたことも。……君の過去を覗き見したことも、全て」

 

「そう……」

 

言われて思い出す。

あの世界――彩牙曰く真姫の心の中では、彼女の過去の記憶が浮かび上がっていた。

真姫が目にしたのは映像の形であったが、彩牙も何か別の形で目にしたのだろうと思い至る。つまりは過去のアレやコレ、下手すれば誰にも話したことのないことまで見られた可能性も――

 

 

「――すまなかった」

 

そんなことを考えていると、不意に彩牙が頭を下げた。

突然のことに目を丸くする真姫の前で、彼は頭を下げたまま微動だにしない。

 

「ホラーを討つためとはいえ心の中に土足で踏み入り、あまつさえ過去を覗き見した。 ……俺も奴と同罪だ」

 

「………」

 

「許してほしいなどとは言わない。望むのならどんな罰でも受けるつもりだ」

 

真姫は過去の記憶を覗かれた。

本来ならば己の中に秘めておくべきものを、どんなに心を許した相手でも勝手に覗くことなど到底許されないものを、不可抗力であったとはいえ見られてしまった。

他者の心に土足で踏み入る――彼自身の言う通り、やっていることはホラーと同じだった。

そして、それに対する真姫の答えは――

 

 

 

 

 

「顔を上げて。 ――私ね、やっぱりあなたのこと嫌いみたい」

 

「……」

 

「人のこと気絶させて、勝手に過去を覗いて――それを一方的に謝って罰は受けるだなんて、身勝手なんだもの」

 

――言葉に反して、真姫の口調と心は穏やかだった。

怒りも湧き上がることはなかった。そのことを不思議に思いつつも、心のどこかで納得している自分もいる。

それはきっと――

 

「あなたが全部悪いみたいなこと言って、黙ってればいいのに……ホント、馬鹿みたいに真面目で――そっくりなんだから」

 

それはきっと、彩牙の意志が一つのものに集約されているから。

ホラーを討ち、人々を守る――そのシンプルな考えが、彼の全ての行動原理になっている。そのためならば例えこの身がどんなに穢れようと――背中に指を差されようが構わない。

犯した罪に対しての罰は甘んじて受けるのだと――どこまでも真面目で、まっすぐだったのだ。

そんな姿が真姫の大事な友に――海未と重なった。思えば彼女も同じくらい真面目で、目の前のものから目を逸らさず、まっすぐに立ち向かう人だった。

だからかもしれない。彩牙個人のことは嫌いでも、彼を憎んだり排除したいという気持ちにはならなかった。

 

「罰が欲しいっていうなら言ってあげるわ」

 

そして罰を受けるというのなら、彼に告げることはこれしかなかった。

 

 

「――私や海未……みんなのことを、これからもずっと守り抜いて。そしてあなた自身も死なないで、生きること」

 

「――海未のこと悲しませたら、今度こそ絶対に許さないんだから」

 

 

「――わかった。約束する」

 

そう語る彩牙の表情が本当に海未そっくりで、真姫は思わず顔が綻んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――そういえば今日、海未たちが西木野さんの父上に直談判すると言っていたな。君とスクールアイドルを続けることを許してほしい、と」

 

「…………えっ? え、えっ!? はあっ!?」

 

――故に、突然放たれたその言葉に理解が追いつかず、真姫の思考は混乱で埋め尽くされた。

 

「ちょうど今頃から会う約束をしてたと言っていたな。 ……急げば間に合うんじゃないか?」

 

「え、いやっ!ちょっ!? ~~もうっ!!そういうことは早く言いなさいよ!!」

 

そうとわかればじっとしてはいられない。

マイペースな彩牙に憤りつつも、真姫は急いで我が家に向けて走り始めた。

両親と――そして、μ’sの皆が待っているであろうあの場所へ。

 

 

 

「――がんばれ」

 

「―――そんなの、言われるまでもないわよ!!」

 

 

 

――ありがとう。

 

 

 

**

 

 

 

『――私たちに、時間をください』

 

『一人でも欠けたら駄目なんです。 みんな大事だから、自分の心に嘘をつきたくないから、ちゃんと行動したいだけなんです』

 

『もう二度と諦めたくないから――後悔したくないから!』

 

 

 

「――っ……!」

 

急いで家に帰ったら、リビングから話し声が聞こえていた。

ドアの前で耳を澄ませているとパパの声と、海未や穂乃果に絵里――μ’sのみんなの声がした。――本当に、みんな来てくれていた。みんなが私のために――私とスクールアイドルを続けたくて、パパと直接話してくれている。それを思い知る度に、涙が止まらなくなる。

――そっか、こうすればよかったんだ。「勉強できてるんだからいいでしょ」とか捻くれたポーズをするんじゃなくて、彩牙さんも言ってたように素直な気持ちをありのままぶつければよかったんだ。

 

「……真姫ちゃん」

 

ふと横を見ると、小声で話しかけてきたママがいた。

……そういえば、ママは最初からスクールアイドルをすることに反対してなかった。

昔はパパと同じように勉強の方が大事だなんて言ってたけど、最近はあまりそんな言葉は聞いてなかった。……どんな心境の変化があったのかはわからないけど、少なくとも今のママは私が選んだ意志を大事にしてくれてるみたいだった。

 

――がんばってね。

 

ママの口がそう動いたのを見て、決意が固まった。

ドアを思いっきり開けて、リビングの中に躍り出る。パパの、みんなの驚いたような視線が私に一斉に集まった。……こうして注目も浴びると少し気恥しいな、なんて少し呑気な考えも過った。

その中で海未が一番早く気を取り直して――

 

「真姫………μ’sを続けたいですか?」

 

――うん。

みんなが伝えてくれた想いを、私もちゃんと言葉にしなくちゃ。

私は、パパの下に駆け寄って――

 

「パパ!お願い! 私、どうしてもμ’sを続けたい!勉強だってちゃんとします!医学部だって絶対受かってみせるから! お願いだから………」

 

 

「――私、μ’sを続けたいの……!」

 

――足にしがみついている形になってるから、パパの表情はわからない。

正直、パパがこれからなんて言うのか、考えるのは怖い。

でも後悔はない。私の素直な気持ちをちゃんとパパに伝えることができたんだもの。

 

 

 

 

 

 

「……真姫」

 

――パパの声。

静かで抑揚がなくて、怒ってるのかどうかもわからない。

でも恐れちゃダメ。――ううん、恐れる必要なんてないんだ。

 

「思えば今まで、ここまでして何かをやりたいと言ったことはなかったな。 ――私は、ピアノにしろアイドルにしろ、将来に不必要なものをやる意味はないと考えていたが……お前を見て、この子たちを見て、それは間違っていたのかもしれないな」

 

「パパ……?」

 

「好きなことに全力で、夢中になって取り組む――確かに、私にもそういう時期はあった。 私には音楽のことはわからないが、お前たちが本気だということはよくわかったよ」

 

「っ! それじゃあ――!」

 

穂乃果の――みんなの表情が、華が咲いたように綻んだ。

それって、つまり――

 

「だがお前の言う通り、勉強を疎かにしないことだ。医大に必ず入ると約束できるなら――私からはもう何も言わないよ」

 

「……! うん、うん!約束する! だって私は――パパとママの娘なんだもの!!」

 

――パパが満足そうにこくりと頷いた。

パパに認めてもらえたことが嬉しくて、涙が止まらなくなって。そうしたら「真姫ちゃん!!」って叫んで穂乃果がぶつかるように抱き着いて来て、そうしたらみんな続くようにして私の下に集まってきた。

「よかったね!」、「ほっとしたわ」、「当然よね」――みんな思い思いの言葉で喜んでて、それがまた一段と嬉しくて自然と笑顔になっちゃう。海未が一歩下がった場所から目線を向けて微笑んで、それがまた嬉しかった。

 

 

「真姫」

 

そうしてみんなにもみくちゃにされてる間に、パパはリビングの入り口まで移動していた。

ドアノブを片手に振り返ったパパは、滅多に見ない穏やかな笑みを浮かべて――

 

 

 

 

「――いい友達を持ったな」

 

「―――! うん!」

 

 

 

 

 

 

『――スクールアイドルという活動しているようなのですが……先生の娘さんも参加している、とか』

 

『……ふむ、確かに事実だが――アレにはもう必要のないことだ。続ける意味はもうないだろう』

 

『どうでしょうか。 少なくとも彼女たちは諦めていないようですが』

 

『……続けることを認めさせろとでも言うのかね?』

 

『――まさか。俺はそんなことを言える立場じゃありませんよ』

 

 

『――ただ、彼女たちが話をしたいと申し出てきた時はそれに応じて、話を聞いてほしいのです。認めるかどうかはそれから決めていただければいい』

 

『私がそれに応える義務があるのかね? それにその子らも、私に会いに来るとは限らないのではないか?』

 

『勿論、どうするかは先生に任せます。認めないというのであれば、それは彼女たちの熱意がその程度のものだったということです。 ……しかし――』

 

 

 

『友が待っているのだから――彼女たちは必ず来ます』

 

 

 

 

 

 

――そして現在。

ドア越しに聞こえる娘とその友の和気藹々とした話し声を背に、彼はぽつりと呟いた。

 

 

「……本当に、いい友達を持ったな」

 

 

 

**

 

 

 

――その日の夜、園田家。

夕食を終え、後片付けをしていた彩牙と海未。二手に分かれて手際よく、黙々と作業を進めていく――なんてことはなく、その日の出来事などを話題に会話を弾ませながら行うことが主流になっていた。

そんな彼らの今日の話題は他でもない、真姫がμ’sに復帰したことにあった。

 

「――そうか、西木野さんは戻ってこれたんだな」

 

「ええ。『みんなのおかげ』って、照れくさそうに話してました」

 

「私たちも泣いちゃってたんですけどね」と少し照れ気味で話す海未。そんな彼女に泡を綺麗に流した皿を手渡しながら、彩牙は思いを馳せる。

――正直に言ってほっとしていた。彼にできることはあくまでホラーの討滅のみであり、彼女たちの問題解決は自分の領分ではないことは重々承知であったが、それはそれで心配だったのだ。多少の根回しはしていたとはいえ、結局のところ上手くいくかどうかは彼女たち自身に懸かっていたので無事に解決して一安心だった。

その気持ちが表に現れ、小さくホッと息を吐いたことに彩牙自身は気づいていない。

 

海未はそんな彩牙を横目に水気を拭き取った皿をことりと脇に置き、ふと、その話題の中で出てきたあるフレーズを思い出した。

そしてなんとなしに、口を開いてみた。

 

「そういえば真姫のお父上と話した時、将来の夢についてお話ししたんです。 ――といっても私自身、まだどれか一つを選べるようになれてはいないんですけどね」

 

「夢、か――」

 

「それで思ったんですけど――彩牙くんの夢って、なんですか?」

 

――問われて、彩牙は言葉に詰まった。それでも食器洗いの手を止めなかったのは、戦いに身を置くが故の癖なのだろう。

この家に来たばかりの頃は今が精一杯で考える余裕もなかったし、魔戒騎士であることを思い出してからは人を守ることが全てで、夢についてなど考えたこともなかった。

改めて考えてみる――魔戒騎士としてホラーから人々を守る――というのは生き方であり、己に課した使命だ。夢、と言われるとどうもしっくりこなかった。

それでは自分の夢とは何なのか――?心の片隅に何かが引っ掛かっているような感覚はするのだが、それは記憶を失う前に抱いた夢なのか、そもそも一体何なのか彩牙にもわからなかった。

 

 

「――わからない。考えたこともなかったからな」

 

「そうですか……でも、彩牙くんならいつかきっと見つけられると信じてます。その時は私にも教えてくださいね」

 

「――そうだな、その時は楽しみにしててくれ」

 

そこでふと、彩牙は思った。

彼もまた、海未と同じようになんとなしに口を開く。

 

「……そういえば、海未の夢はなんなんだ? さっきはいくつかあるみたいなことを言ってたが」

 

「私のは……そうですね――」

 

立派な跡取りになる夢、アイドルの高みを目指す夢――

そこまで考えて、ふと頭の中に新しい映像が過る。いつだったか穂乃果の部屋で読んだ漫画のワンシーン、数奇な運命に翻弄された主人公とヒロインが苦難の果てに再会して愛を誓い合う場面。当時は恥ずかしくなってそこで読むのをやめてしまったが――何故か今になってそのシーンが鮮明に浮かび上がり、ヒロインの姿が自分に置き換わっている。

そして主人公の姿は―――

 

 

 

 

「な、なっ、ななぁっ……!? ち、ちがっ!わたっ、私は――!!」

「ど、どうした!?」

 

突然顔を真っ赤にして小刻みに震え、壊れたラジオのように支離滅裂な言葉を発し始めた海未。震える手から零れ落ちた皿を慌てて受け止め、豹変した彼女を困惑の表情で見つめる彩牙。

そんな二人の様子をテーブルの上から眺めていた、魔導輪から一言。

 

『……青いな』

 

 

 

***

 

 

 

健やかな少年に成長した彼は、剣を手にしていた。

父の跡取りとして、立派な魔戒騎士となるためだ。その実現のために彼は日々鍛錬に励んだ。

どれだけ厳しい修行を課せられても彼は泣き言一つ吐かなかった。それは自分への期待や愛情の裏返しであることを、聡明な彼は理解していたからだ。

そしてそれに応えるように、彼は才覚を伸ばし、周りからも一目置かれる存在へとなっていった。

 

そうして修行を続けたある日のこと。

様々な偶然が重なって魔導筆を手に取ったとき、高度な術を発動させた。彼には騎士としての才能だけでなく、法師としての才能も宿っていたことが発覚したのだ。

その後、「軽い気持ちで手を出しても中途半端な技になるだけだ」という周囲の反対を押し切り、彼は魔戒騎士であると同時に魔戒法師でもあるという道を選ぶのだった。

 

 

全ては人々を守るために。

その為に必要な力は一つでも多い方がいいと、そう信じて。

 

 

 

***

 

 

 

ザルバ「因果応報という言葉を知っているか?」

 

ザルバ「善き行いは善き結果に、悪しき行いは悪しき結果になって自分に返ってくるという意味だな」

 

ザルバ「だが善き行いをしたからといって、必ずしも報われるとは限らないぜ?」

 

 

ザルバ「次回『応報』!

 

 

 

ザルバ「それは本当に善き行いか?」

 

 

 

 




魔戒指南


・ ホラー『アンプゥ』
内なる魔界を経由して人間の夢をゲートにするホラー。直接魔界から現れて人間に憑依することができず、憑依先に悪夢を繰り返し見せることで精神を弱らせ、夢と現実の区別ができなくなったタイミングで憑依する。
真姫に狙いを定め、悪夢を見せて彼女の精神を追い詰めていった。
憑依される前に倒すには、標的にされた人間の夢の中に入りこまなければいけない。


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