胡蝶の夢 (CHAOS(1))
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01話

 美沙斗さんとの死闘を制したのは、俺ではなかった。

 美由希の『閃』。

 

 数多の剣士たちの理想の果て。

 あらゆる技術の到達点とも言える境地。

 そこに辿り着いた美由希の一撃で、長年に渡る因果の決着がついたのだ。

 

 その直後に現れた黒服の男、おそらくは龍の構成員。

 置かれた爆弾を前に、助けよう、助かろうと廊下に出た。

 

 完全に壊れてしまった膝は、美沙斗さんとの戦闘直後ということもあって、思うように動かない。

 

 容赦なく時間が進む。

 この爆弾をどのように処理すべきか。

 

 放り投げるべき?

 それとも抱えて少しでも周囲への影響を減らすべきだろうか。

 

 今、俺が扉を開けて、部屋に入リ扉を締める、その永遠にも等しい瞬間に爆発すれば、おそらくは誰も助からない。

 入らなければ犠牲は俺一人ですむだろう。

 しっかりと考えていたわけではない。

 だが、その場の咄嗟の判断を下した俺は……。

 

 自ら助かる可能性を放棄した。

 そして爆発。

 閃光、爆音、そして迫り来る爆炎。

 

 意識が無理やり切り替わったのだろうか。

 神速の世界は、自身の死を確実に予感させた。

 

 だがこれで良い。

 これで誰も死にはしない。

 死ぬのは俺だけで充分だ。

 

 

 俺の意識は途絶えた。

 

 

 

 

 

 天井がある。

 目を覚ました俺が最初に見たものは、壁から天井まで真っ白な部屋と、体中に巻きつけられたチューブ。

 点滴の針が二の腕に深々と突き刺さっていた。

 

 部屋の大部分が機械で満たされている。

 どうやら、と言うよりどう見てもここは病院のようだ。

 

 ――だが何故?

 

 疑問に思う。

 俺はあの爆発によって死んだのではなかったか。

 

 それだけの爆発はあったはずだ。

 それとも命からがら助かったのか?

 

 とりあえず考えることよりも、どんな薬品が入っているのかも分からないチューブの元栓を締め、注射針を取っていく。

 いや、おそらくは適切な判断なのだろうが、どうにもこう医学というものは性に合わない。

 膝の手術といい、これまで恩恵を受けてきた上で、非常に身勝手な印象だとは自覚している。

 フィリス先生に聞かれたら泣かれるな、この感想は。

 

 縛られる物の無くなった身体で、まず此処が何処なのかと疑問に思い、ベッドから降りようとした瞬間に、膝がガクッと崩れ落ちた。

 そして痛み。

 鈍く、全身から。

 

 慌てて足を見ると、ヒョロっと言った形容が相応しい、肉が少しも無い"それ"が目に付いた。

 愕然とする。

 これではまるで、八十の年寄りの脚だ。あるいは老鶏か。

 

 足腰は剣士として、いや、人としての全ての動きの要だ。

 そして、その前に、俺は一体どれだけ寝ていたというのだろうか。

 この衰え具合では、少なくとも一月や二月ではないだろう。

 

 あまりの衝撃に愕然とする。

 くらくらする頭を振り、筋力の全く無くなった震える足を必死に叱咤し、ドアを開けて廊下に出る。

 見たことのない病院だった。

 

 少なくとも普段世話になっている海鳴総合病院ではないだろう。

 こんな時でも錯乱しない自分に苦笑し、同時に自らの行ってきた鍛錬の正しさが実証された様で少しだけ誇らしかった。

 肉体はともかく、精神では効力が持続しているらしい。

 

 

 

 歩くこと約一分。

 距離にして二十メートルだろうか。

 兎にも角にも壁づたいに歩くと、廊下を医師達が慌てて走っている。

 一体何があったのだろう。

 もしかしたら植物状態のような重病患者が目でも覚ましたのかもしれない。

 そう思って医師達が通り過ぎるのを待っていると彼らは俺の前に立った。

 

「“不破”恭也君!大丈夫かね!」

 

 第一声がそれだった。

 何が大丈夫か尋ねる前にとりあえず、"大丈夫だ"、と言う間も無く、ナースさんたちに肩と足を支点に担がれ、病室へ戻されてしまった。

 どうやら……重病人とは俺のことだったらしい。

 俺は抵抗する力も無くかつがれ、病室へと向かいながら、ぼんやりとそんな事を考えていた。

 

 

 

 

 

――其は現実か幻か――

――其は夢か現なのか――

――二つは近く、余りに遠く――

――コインの表と裏のように――

――人は其を胡蝶の夢と言ふ――

 

 

Triangle Heart the third Second story

胡蝶の夢

written by CHAOS in 2004.08.19-22

 

 

 

 

 

 ガチャリ! と大きな音を立ててドアノブが回された。

 俺の個室に入る三人の人。

 一般人よりも遥かに濃密な気配を弛緩なく抑えている事からも、一流の武術家であることが分かった。

 何よりもその顔には見覚えがあった。

 

「美沙斗さん……」

 

 声を掛ければ、美沙斗さんは息を呑んだ。

 確かに、俺たちは殺しあった仲だ。

 あの爆発の中、二人とも良く生き残った物だと、心底思う。

 

「恭也……大丈夫かい?」

「ええ、起きたときこそ驚きましたが、今は落ち着いてます。

 ……ところでそちらの方は? とても懐かしい人に似ていますが」

「おいおい恭也君……、美沙斗は覚えていて僕は忘れてるとは……。まあ仕方がないか。ずっと寝たきりだったんだからね。似ていると思われただけでもマシか。御神静馬だよ。思い出してくれたかな?」

 

 御神静馬……。

 もし本気で言っているなら何という性質の悪い冗談だろうか。

 そんな事はありえないのに。

 

 あの思い出すのも忌わしき爆弾テロによって、御神と不破は僅か四人を残して絶えたはずだ。

 もしこれが本当だというのなら、これほど嬉しいことはないのに……。

 

 はっ、と苦笑する。

 馬鹿な夢を見るのは止めよう。

 

「では、そちらの方は一臣さんですか?」

「おお、良く分かったね。まあ静馬さんの次と来れば俺なのかな」

 

――――全く以って、酷く馬鹿げている。

 

「……美沙斗さん、これは一体どう云う訳ですか?」

「ん、どうかしたのか? ああ、まだ事態が呑みこめていない訳だね。それも仕方がない。あんなことがあったんだから。それじゃあ私が話すとするよ」

 

 美沙斗さんは、一旦言葉を切ると、どうか心を強く持って聞いて欲しい、と注意した。

 この体だ。今更どんな話があっても驚かない自信はある。

 

「恭也君、君は今から10年以上も前に、身を呈して私たちを救ってくれた」

 

 十年以上前――いったい何のことだ?

 自分の身体を見ると、まだチャリティーコンサートからそう年月が経っているとは思えない。

 勿論、筋肉が削げ落ちているから、一年ほど寝たきりだったかもしれない。

 

 だが鏡に映る自分の顔は普段見ていたものと大して変化はなかった。

 極端に痩せている位だ。

 だとすれば明らかに十年以上前というのは可笑しな話だろう。

 

 俺は笑おうとした。

 だが、笑みの表情を作る前に、止まってしまう。

 

 自称一臣さんが静かに頭を下げた。

 記憶に残る特徴的なまでの太い足が、ビッチリとズボンに巻きついている。

 

 ――待て、一体この人はどこまでソックリさんなのだろうか?

 身に纏う気配といい、外見的特徴といい、これが冗談だとすれば手が込み過ぎている。

 そもそも御神不破流の独特な気配を、真似できるようなことが本当に出来るのだろうか。

 

「ありがとう、恭也君。キミのお蔭で俺は琴絵と無事に結婚を迎えることが出来た。君には感謝してもし足りない」

 

 良く見れば――

 頭を上げたその顔は、確かに笑っていて、そしてその頬は濡れていた。

 

 一体何が本当なのだろうか?

 一体何が嘘だというのか?

 

 信じたいと本能は言い、

 ありえないと理性は叫ぶ。

 

 視界は目の前の事実を受け止め、

 記憶はそれを拒んだ。

 

 もし目の前に居るのが本物だというなら。

 あの辛くも楽しい日々は何だったと言うのか。

 

 

――――分からない。

 

 

 考える事を放棄する。

 全ては情報を手に入れてから。

 こちらは今、一切のカードを持たない状態なのだ。

 ダウンも、ベッドも、コールも。全てはそれからだろう。

 

「全く……何が何だか…………」

 

 ふと見た窓の外には溢れかえらんまでの桜の花…………。



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02話

 改めて見れば不破家は果てしなく広い。

 果たしてどれほどの敷地が有るのか。

 ゆっくりと敷地内を歩けば、それだけで一日の暇を潰せそうだ。

 

 かつて、御神と不破の家が表向き名士としての顔を持っていた事を思い出した。

 車椅子を押され不破家の門まで来ると、既に待ち構えていたのか一人の初老の男が静かに頭を下げた。

 

「お久しぶりです、恭也様」

「呼び捨てで構いませんよ、玄さん」

 

 応えてからこの人の名前を思い出した。

 排他的な側面を持つ不破の家にあって、数少ない信用された使用人の一人。

 名前を完全には思い出せないが、皆から玄さんと呼ばれていた。

 

 常に着物を着て、庭の掃除やらを手際良くこなす人だった。

 美影さんに重用されていた気がする。

 

「玄さん、とりあえず中に入ろうか。それと温かい飲み物でも」

「はい、御当主。恭也様のお部屋も片しておきましたので、お使い下さい。それでは恭也さん、これからはどうかワシを使ってやって下さい。一度助けられた命、今度はワシが返す番です」

 

 玄さんは軽業師のような軽い足取りで門へとくぐって行った。

 後姿が本当に嬉しそうで、やっと自分は不破家に帰ってきたのだと、そう自覚することが出来た。

 

「それじゃあ恭也、中に入ろうか」

「はい」

 

 美沙斗さんの声と共に、俺の座る車椅子はゆっくりと進んだ。

 

 

 ○

 

 

 10畳ほどの広さだろうか。

 部屋には美沙斗さんと一臣さんがいる。

 静馬さんは本家の方に報告に行くらしい。

 去り際に夕食は一緒にしよう、と言っていたのを思い出す。

 いかにも和室然、といった俺の部屋は、何年も使われていないとは思えないほど、塵一つ無い。

 一臣さんが言うには、

 

「そりゃまあ、電話が来て使用人全員で掃除してたからね」

 

 だそうだ。

 俺は柔らかい、二枚重ねにされた座布団の上に座る。

 直接固い床に座るには、少々肉がなさ過ぎる。

 実は座っているだけで貧血が起きるときがある。寝たきりの状態が続くと、血圧が低下してそうなるらしい。起立性低血圧というそうだ。

 

 さて、絶対安静の筈の自分が意識を取り戻してその日の内に退院したのには訳がある。

 まず、不破にも病院ほどではないが医療関係の器材はある。

 お抱えの医師も居る。

 だが、俺自身が意識を取り戻した、というのが何よりも厄介なのだ。

 植物状態となって寝ている者に危険は無いから、いかなる外敵も目を付けることはない。

 だが、それも目を覚ましてしまえば脅威の対象の一つとして見られることになる。

 病院という閉鎖的な空間の中では、防衛ははるかに難しくなる。

 結果、結界の存在すら考えられる本家へと早々に帰ることが決定した――というわけだ。

 

 

 

「さて、一体どこから話せばいいかな?」

 

 正面。

 美沙斗さんが真っ直ぐにこちらを向いて訊ねる。

 記憶が混乱していると言い、これまでの経緯を話して貰うことになったのだ。

 

「それでは、俺が倒れる……そうですね、半月ほど前からお願いします」

「分かった。所々抜ける場所は他の人にも聞いてもらおう」

 

 そう言って、美沙斗さんは思い出すように瞳を閉じ、ぽつりぽつりと語りだした。

 

 

 

 ……灰色の曇った空が頭上を覆っていた。

 薄暗く、今にも一雨がきそうな天気。

 6月の梅雨時らしく、空気は湿気を帯びて生暖かい風が肌に纏わりつく。

 梅雨時は嫌いだ……。

 日本で一番嫌な季節とも言えるだろう。

 恭也は視線を空から前へと移した。

 左手には大きな屋敷。右手には普通の一件家屋が並んでいるそこは不破の本家だ。

 家は恭也にとって現当主・不破一臣叔父と、御神琴絵伯母との結婚式の準備に追われている。

 式を不破の本家で行うのは、一臣さんが当主という地位にあるためだ。

 もし御神側で開くことになれば、それは同時に不破が当主を失うことになる。

 ……のだそうだが、まだ幼い恭也にそこまでは理解できていない。

 実際の所がどうであれ、二人の結婚が恭也にとって嬉しくないわけも無く。

 ただ、その前準備にもなると自分が暇だ、という以外に問題はない。

 門を中心に人はごった返しているし、邪魔になるくらいなら警備を兼ねて散歩をしよう、と思い立ったのが既に30分も前のこと。

 ただ意味もなく歩くくらいなら、トレーニングとして走った方が躰に楽だったりする。

 

 

 

 退屈さに溜息をつき、恭也は仕方なく二週目になる散歩を続行することにする。

 本当なら一周するのに30分できくはずが無いのだが、門の中を通っていたりすれば話は別になってくる。

 ぶらりぶらりと歩き続ける。

 外壁越しに抑えられながらも充足した気配の数々。

 一部の琴絵さんを狙っていた男の人たちだけが妙に荒れているが、それも式が始まってしまえばどうという事は無いのだろう。

 

『本当に……幸せになって欲しい』

 

 皆が口をそろえてそう言う。

 それは士郎にしても静馬にしても同じらしく、二人を見る目は温かい。

 長い間、ずっと体を患っていたために、一臣との結婚も延び延びになっていたという。

 それが明後日に結婚する。

 二人の仲は既に新婚と変わらないが、それは言わぬが華という奴だろうか。

 思わず苦笑を漏らした。

 そのまま歩き続けていると、目に入るものがあった。

 前方には小さな箱を幾つも抱えて忙しそうに動き回る一人の男。

 ……おかしい。

 何がおかしい?

 違和感の正体はなんだ?

 気づけ。気付かなきゃいけない。

 この背筋を震わせる悪寒の正体は何なのか。

 一体どんな違和感が俺をここまで追い詰めるのか……。

 

「ああ、そうか…………そうだったのか」

 

――――違和感。

 

 男の服装。そして何故門から離れたこんな場所にいるのか。

 凍えるような、わずかに漏れ出した殺気。

 

「少し考えてみれば分かることじゃないか……」

 

 ――刺客。  ならば己に出来る事は何だろう。

 恭也は気配を殺していきながら思考をめぐらせる。

 他の人に知らせる?

 それとも自分一人で戦う?

 自分の体格に合わせた小太刀は持っているし、戦うことは可能だろう。

 他の人間に知らせている間に爆弾が仕掛けられている可能性もある。

 さて、どうしようか。

 そう考えたとき、不意に男が振り返った。

 気配を殺しきれていなかったのか。

 一瞬目を見開き、次の瞬間には嘲笑が浮かぶ。

 それはこちらを格下として見た、という事だ。

 

――上等っ!

 

 湧き上がる、自分自身でも自覚していなかった闘志。

 子供であるという特長を活かして、気付かない振りをする、という選択肢を選ぶつもりにはなれなかった。  歩みを走りに変え、ぱちりと小太刀のホルスターを外した。

 

 相手まであと、10歩という距離だった。



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03話

 ……いい加減昼飯の時間か。

 一度母屋に戻るのも良いかもしれない。

 ゆっくりと車椅子を走らせる。

 少々外を走りすぎたせいか、躰がほんの少し重くなっている。

 今の躰にはその小さな差異がキツイ。

 ……早く元の躰にまで戻したい。

 一日の休みを取り返すのに三日掛かる、というのが通説だと言うのに。

 このままでは治すのに半年、治してから一年半掛かってしまう。

 ……良い方法は無いだろうか? 

 例えば霊的治癒。

 それも人からして貰うのではなく、自らが呼吸法などを習得してしまえば完治の日も近くなる筈だ。

 これは俺の霊力自体があまり無いらしいが、運が良ければ成功するかもしれない。

 例えば美影さんの怪しい薬。

 その種類は媚薬といったものから細胞分裂抑制剤および分裂回数異常増幅(すなわち不老)まで。

 もしかしたらの話だが、体重増加剤のようなものが有ってもおかしくは無い。

 ……いや、副作用が怖すぎるな。

 止めておこう。

 母屋に着いたら流石に車椅子は使えない。

 廊下は硬い板張りだからまだ何とか可能だが、和室ばかりの部屋では流石に畳が駄目になる。

 

「恭也、昼食の準備が出来たよ?」

「あ、琴絵さん。……すみません、お待たせしました」

「いや、今から探しに行く所だった。肩を貸そう」

 

 そう言って琴絵さんは俺の脇に肩を掛けると、ゆっくりと先導してくれる。

 二日目だと言うのに、既に慣れ始めてしまっている自分が恨めしい。

 心に有るのは申し訳なさだけで、恥ずかしさは消えかけていた。

 琴絵さんは外廊下の中ほどにまで来ると一旦立ち止まり、こちらをじっと見つめる。

 なんだろうか、と思う間もなく、琴絵さんは口を開く。

 落ち着いて、少し言葉少なげだった。

 

「君の負傷を申し訳なく思いながらも、私は、君の行動に感謝している。

 ありがとう。そして済まない」

「……いえ。俺たちは家族です。護りたいと思ったのは当然の考えでしょ? 

 それに……こちらこそ、これから迷惑をかけると思います」

「それこそ、家族だろ?」

 

 琴絵さんは笑う。

 俺は歓迎されているのか。

 俺はここに居ていいのか。

 すこし、嬉しい気分だった。

 再び琴絵さんは俺を引っ張って廊下を進む。

 昨日夕餉を取った場所ではない。

 

「ここは?」

「食堂だ。昼は大抵一度に作るから食堂の方が良いんだ」

「なるほど」

 

 がらりと戸を開けば、中華特有の匂いが漂ってきて、

 これは、麻婆豆腐か? 

 流石に昼食時にはマナーどうたらこうたら言うつもりもないのか、食堂はざわめいている。

 学校の食堂を思わせる広さに対し、利用者は少ないのだからそれだけ広々と使えるようになっている。

 

「さあ、恭也。頂くとしよう」

「はい」

 

 こうして俺は最近とみに長い一日の半分を終えた。

 匂いだけが麻婆で、俺の食事はお粥だった。世界はどこか間違っている。

 

 

 

 昼食後、一人縁側でゆっくりする。

 なんと言うか、心が落ち着くのだ。

 これでお茶でも飲めば最高なのだが……んー、何か大切なものを忘れている気もするが、やはり今一番必要なのはお茶だろう。

 食堂まで戻ってお茶を取るか、と迷う俺の前を、いかにも怪しげな(わざとだろう)静馬さんがいた。

 

「あれ? 静馬さんじゃないですか」

「どうかしたのかい?」

 

 こんな所まで妙にさりげなく怪しさ一杯だ。

 一体何をしたいのか理解が出来ない。

 

「いえ、朝から美沙斗さんとはっちゃけてましたし、俺を美影ばあさんに売り渡したりして、今頃保身のために宗家の方に戻っているのかと」

「恭也くん……きみは結構辛辣だね」

 

 静馬さんはどこか悲しそうだ。

 いじいじとしゃがみこんで、土に“の”の字を書いている。

 はて……何か悪い事を言っただろうか? 

 全て事実のはずなんだが……

 

「くぅーん?」

「お、久遠じゃないか」

 

 静馬さんが一瞬で立ち直って、嬉しそうに言う。

 なんと言うかタフな人だ。

 昔は自分の事を「俺」と言っていたが、最近は当主としての貫禄が出てきたようだ。

 剣腕だけじゃなく、身に纏う雰囲気もそれっぽいものだ。

 

「久遠、おいで」

「……久遠、俺のところに来ないか? 静馬さんは腹黒いからやめておいた方がイイ」

 

 俺と静馬さんの二人に呼ばれて久遠は困ったように俺達の顔を見回す。

 そして結局──

 

「久遠……何故僕のところには……」

「すみませんね、静馬さん」

「う、ううう……」

「くぅ~ん♪」

 

 久遠はご満悦のようだし問題はないだろう。

 

 

 

「それでだね、恭也くん」

「はい?」

「くぅん?」

 

 静馬さんは一瞬で立ち直った。

 …………なんと言うか本当にタフな人だ。

 

「これから翠屋に行かないかい?」

「遠くないんですか? 遠かったら車椅子だし、結構問題あるんですが」

「くぅ~ん、くん」

 

 慣れない車椅子の移動は人が思っているよりもはるかに重労働だ。

 それに悪いのは足だけじゃなく全身の体重が、筋肉が無いというのも問題がある。

 だがまあ、今の翠屋に興味があるのも事実だ。

 

「その心配は要らないよ。車も通らない安全な道があるしね」

「それじゃ……お願いします」

「くぅーん♪」

 

 ……どうでも良いが、何故久遠が俺の後に続いて返事をする……。

 いや忘れよう。

 それより、父さんは本当に働いているんだろうか? 

 実は一日中客のようにうろついていたりしていないだろうか? 

 いや、あれでも結構真面目に──そんな訳がない──心配だ……。

 客とのいざこざで喧嘩をしたりしないだろうか? 

 いや、そもそも客に出すシュークリームを食べてしまうかもしれない。

 いや、作りかけのクリームを食べつくして廃業に……

 俺は車椅子に乗ってするすると走らせる。

 

「さあ、直ぐそこだよ」

 

 そう言われて、ここに来てから初めて外に出ることになった。

 

「急ぎましょう!」

 

 

 

 車椅子で走ること10分ほど。

 駅から近めの商店街の端に「洋風喫茶・翠屋」はあった。

 名前の通りの緑色のテントは変わらない。

 少々大きくなっただろうか? 

 それでも記憶にある「翠屋」とその外装は酷似していた。

 

 カラーン♪ 

 

 カウベルが一度大きく、柔らかい音を鳴らした。

 

「いらっしゃいませー」

 

 中から元気な母さんの声。

 

「あれ、恭也くん」

「家族なら、呼び捨てで良い、かあさん」

「そう? じゃあこれからはそうするね?」

「ああ」

 

 いつまでも他人行儀だと調子が出ない。

 今は父さんの存在もあるし、そうそう真雪さんみたいに羽目を外すこともないだろう。

 

「さて、恭也くん、流石に店内で車椅子は厳しいから、外にチェーンかけておくよ」

「あ、はい。お願いします」

 

 静馬さんはそう言ってちょちょっと車椅子を持ち上げて運んでいく。

 ……結構重たいはずなんだが、まるでコンビニで買った帰りのビニール袋並みの持ち方だったな。

 気にせずどんどん行こう。

 御神の剣士はいろいろ非常識なものだ。

 

「じゃあ恭也くん……、カウンターで良い?」

「はい」

 

 壁に手をつけばゆっくりでも歩くことが出来た。

 しかし、と店内を見回す。

 外見もさほど変わっていないという印象だったが、中はそれ以上に変わらない。

 一部だけ宴会用に使える大きな場所の面積が増えたという感じだろうか? 

 立案者及び店長が同じなのだから、そうなるのも自然なのかもしれない。

 椅子に座ると冷たい水が出される。

 

「なに飲む?」

「……アイス宇治茶大盛で」

「バカヤロウ、ここは洋風喫茶だぞ?」

「……父さん、貴方に言われたくないですね。第一どうやってこんな綺麗な人をたらしこんだ?」

「嫌だ、恭也ったら♪」

 

 バシィッ!! 

 

「ゲハァッ!」

 

 母さんの照れ隠しの一撃が父さんの背中を強打した。

 父さん……不破随一の剣士が死に掛けるなんて情けないぞ。

 まあそんな一撃を受け止めるところも凄いが、かあさん何気に神速でも見切れない一撃だ。

 

「ゴメンね、次は一応用意しとくわ。今日のところは別ので」

「じゃあアイスティーで」

「了解」

「……ヒュー……ヒュー」

 

 父さん、うるさい。

 

 カラーン

 

「し、士郎さんどうしたんだ!?」

 

 車椅子を駐車──だろうか? ──してくれた静馬さんは店に入るなり慌てて父さんの身体を抱き上げた。

 そして父さんの拳。

 

「ぐおっ」

「男に抱き上げられるのは性じゃない」

「士郎さんっ! 助けてくれた人にそんな事をするのは私許せませんよ」

 

 うん、父さんがいてもいなくても、我が家は女性に頭が上がらないのは変わらないらしい。

 ぺこぺことかあさんに頭を下げる父さんの姿は滑稽に見えた。

 その横で殴られた恨みか、静馬さんは父さんを憤然と見下ろしている。

 その気持ちは分からないでもない。

 

 

 

「はい、どうぞ。おかわり欲しかったら言ってね」

「いただきます」

 

 琥珀色の液体を透過する厚めのグラスには結露した水滴が雫となってテーブルを濡らす。

 店内は昼食後という、昼休み中な為か結構な人が入っている。

 ランチタイムなのか、盆を持ったアルバイトさんと思わしき女の子が

 忙しく歩き──走るのはご法度──回る。

 

「翠屋スペシャル一つでーす」

「歌うたいご用達ノド潤おしセット入りまーす」

「漫画家ご用達・スタミナ馬車馬セット大盛です!」

 

 ……良く分からないメニューが威勢良く店の中に響き渡る。

 そして父さんはというと──

 

「スペシャルシューお持ち帰りと翠屋ランチで1580円になります。

 ありがとうございました」

 

 信じられないことに仕事を真面目にこなしていた。

 これは幻視か? 

 それとも幻術か? 

 ヤバイ……体が震えてきた……ありえない……

 

「おい静馬、そろそろ代わってくれ」

「士郎さん、前回もそう言ってさっさと終わっただろ? 桃子さんのためにも頑張らなきゃ」

「あぁ……愛する桃子、弱く儚き俺を許してくれ……」

 

 そう、それでこそ俺の知る不破士郎の姿に一致する。

 この情けなき仕事の姿。

 父さんに合う仕事はまさに護衛位のものだろう。

 

 バリバリッ!! 

 

 なにやら強力なスタンガンに似た電気系の音が聞こえた。

 

「…………」

「く……お……ん……ぐふっ…………」

「くぅん」

 

 なぜ、その鳴き声だけで仕事をしろ、と言っているように感じるのか。

 父さんは真っ黒になって倒れ伏した。

 ……? 

 客が気付いていない。

 いや、気付いているが何もおかしな事はないと食事なりお茶なりを楽しんでいる。

 つまり、これは日常茶飯事だという事か。

 

「士郎さん、だから、仕事をしようって言ったのに……」

 

 静馬さんの言葉が虚しく店内に響いた。

 

 

 

「さて、じゃあ帰ろうか」

 

 静馬さんがそう言って、散った父さんの灰を集める。

 そして、

 

「桃子さん、お湯もらえます?」

「はーい。はい、どうぞ♪」

 

 湯気噴き出るヤカンを持ち出してきて、静馬さんが受け取る。

 ヤカンを傾けると、空気の温度が上がるほどの熱湯が灰にかかった。

 待つこと十秒ほど。

 シュワシュワと出来上がるソレ。

 

「ふー、酷い目にあった。まったく久遠め、手加減を知らない」

「まだ封印中だそうですから、手加減が利かないんでしょう」

 

 ま、手加減するなといって置いてあるんですが。

 そう静馬さんは父さんに聞こえないよう、口だけを動かしたのを見てしまった。

 

「恭也くん? さあ、帰ろう」

「は、はい」

 

 天使のように嗤う静馬さんに対して、俺が頷きしか返せなかったのは、果たして俺が悪いのだろうか? 

 

 

 

 店を出て、ゆっくりと空を見ながら帰ると、時間は既に4時半。

 水平線に近い空は既に赤く染まり始めている。

 母屋の縁側に座布団を敷いてもらって、ぼんやりとお茶を飲みながら座り続ける。

 時折柔らかく吹く風を感じたり、ゆっくりと姿を変える空を見たりして暇を潰す。

 元々、暇は嫌いではなかった。

 毎日が息も詰まるような鍛錬尽くしの日々。

 いつしか慌ただしい日々の中に潜むゆったりとした時間が好きになっていた。

 そしてそれは此処に在り、今の状況はそれを楽しむ事を許してくれている。

 

「ああ……幸せだ……」

 

 どうせ数日が経てば動けない事に苛立たしさを感じるようになるのだ。

 今の内に楽しむということは後々のストレスを考えると必要だろう。

 重ねてあった座布団を移動させ寝転ぶ。

 ひさしの裏と空とが丁度半分ずつ視界に見えている格好だ。

 心は穏やかで、耳は風で動く木の葉の音さえ聞き漏らさずに捉えている。

 

 ……ォン!

 

 何だ? 

 風の切る音。

 不破や御神の家ならば慣れ親しんだ、素振りの音だろうか? 

 本当ならもう少しごろりとしているのだが、どうやら早くも退屈してきているらしい。

 車椅子に乗り移って音のする場所へと向かう。

 そこには薫さんがいた。

 ランニングを終えた後の素振りなのか、肌からは湯気が立つほどに汗が噴き出て、それでも動きを止めることは無い。

 思わず、頭に血が昇った。

 

「──薫さん!」

「恭也くん?」

 

 喉が痛んだ。肺と心臓が暴れだす。

 大丈夫だ、大丈夫だ、直ぐに収まる──っ! 

 

「! ……ふぅ。良いですか、焦って怪我をすれば元も子もありません」

「そげな事はわかっちょる!」

「いいえ! 薫さんは解っていません。それは知ってるだけです。……そう、剣を握りたくても握れない苦しさ……、高みを望めないと知った時の絶望。貴女は何一つ解ってはいない……」

「恭也……くん…………」

 

 薫さんは素振りをやめた。

 だらりと腕をおろして、木刀がカラリと音を立てて倒れる。

 その顔に浮かぶ驚愕は、一体何を思っての事なんだろうか? 

 薫さんは動く。

 ゆっくりと、幽鬼のように力なく。

 こちらに近づき、何故か抱きしめられた。

 

「……薫さん、どうかしたんですか?」

「すまない……うちは──、うちは軽率な事を言うた」

 

 抱きしめられる腕が痛い。

 震える体が心に痛い。

 そう、薫さんだって、あれだけの無茶をしていたらどうなるか知っている。

 知っていても、やってしまいたく、やらなくてはいけないと思うようになる理由があるんだ。

 

 

 それはかつて父さんを失った時の俺のように────

 

 

 薫さんは来たときと同じ様に、ゆっくりと腕を離した。

 そして力なく笑った。

 

「うちは強くなりたい」

「…………」

 

 俺は何も返すことが出来ない。

 

「誰よりも! 何よりも!」

「…………」

 

 かつての俺と同じ事をこの人は想っているのに。

 

「守れるだけの力が欲しい! 

 自分だけじゃなく、誰かを守れる力をうちは────」

「…………」

 

 俺は、俺は────

 

 

「うちは欲しい────ッ!」

 

 

 

 

 

 ──其は鏡か其は幻か──

 ──其は合わせれば二つにして一つ──

 ──其はコインの表と裏のように──

 

 ──昏き獣が叫ぶ──

 ──力が欲しい──

 

 ──昏き獣の王が叫ぶ──

 ──力が欲しい──




更新
手直しがしたいけど、見なかったことにします。


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04話

「はぁ……ちょっと偉そうだったかな」

 

 薫さんは先程お風呂に向かった。

 ゆっくりと汗と疲れを流してくるらしい。

 しかし……さっきは強く言いすぎた。

 相手が薫さんじゃなかったら喧嘩になったって不思議じゃ無かった。

 

 空は赤く紅く燃えている。

 先程寝転んだ縁側にまで戻り、もう一度転ぶ。

 流石に、今度は前回のようにゆったりとしていられなかった。

 流れていく雲を見ながら、これから俺と薫さんとのポジションを決める。

 あれほど彼女が感情を表に出したのは、過去の俺と今の薫さんがダブって見えるから。

 

 薫さんに技術を教える人はどういう訳かいない。

 そして過去に力を求めた俺は、その想いのあまり潰れた。

 今の薫さんはまだ助かる余地がある。

 今の俺には再び高みを目指せる未来がある。

 

「まあ要するに、俺は薫さんが潰れないように見て、

 俺自身も強くならないといけないって事だな」

 

 なに、トレーニングメニューは今夜にでも暇つぶしがてら考えよう。

 今度こそ薫さんもしっかりと聞いてくれるだろう。

 

「恭也ー、晩飯食うぞー」

「父さん……」

「おう、飯だメシ。めし喰うぞ」

「そんな連発しなくてもわかるから」

「うるせえ、行くぞ」

「……ふぅ」

 

 また今夜の食事も五月蝿くなるんだろうか?

 

 

 

「士郎さん」

「ああ、今度は俺の番だね、あーん」

「いや、士郎さん流石に麺でそれは伸びるかと」

「静馬さん……はい……」

「一臣。今日は嫌な予感がする。やめておくぞ」

「……わかった」

「恭也兄さん」

「お兄さん」

「おにーちゃーん、今日こそなのはのを――」

「やれやれ、恭也、どうやら修羅場みたいだね」

「…………? ……ババア!」

「誰がババアだい!」

 

 ふと声をかけられたかと思うと美影ばあさんが隣にいた。

 本当に隣に。すぐ隣に。およそ3センチほど離れて。

 美影ばあさんはこちらに流し目を送ると(しつこいようだが外見は30ほど)

 ニヤリと笑った。禍々しかった。

 美影ばあさんは士郎へと向き直る。

 腰を抜かしそうな父さんの姿は初めて見たが、かあさんは何故か平然としている。

 

 ……why?

 なるほど。殺気をピンポイントで放てるからだな。

 殺気さえ感じなければ美影ばあさんほど上品そうに見える人間も少ない。

 長い艶のある髪といい(体型は着物に似合わない。着物は平坦な体に合う)、実に生き人形を思わせる美麗さがある。

 

「士郎言っておいたね?」

「昨日の今日だろっ!?」

「……言っておいたね?」

「はい……」

「良し、後で道場来な」

 

 ガクガクと、いや、カチカチと歯を鳴らす父さん。

 果たして俺はどれほど恐ろしい人に暴言を吐いているのだろうか?

 それを考えると思わず背筋と言わずうなじと言わず心胆から冷えた。

 

「さて、美由希、命、なのは。少しその役を私に譲って貰えるかな?

 なに、今日だけさね」

『……はい』

「いい子だ。さあ恭也、なに喰らう?」

「自分で食べます」

「士郎ォォォォオオ――――!」

「俺が何をしたーーー!」

 

 ――もう本当に、本当に何がなんだか……

 

 

 

「ふう、少し、夕食は苦手だ」

 

 夕食特有の豪華な料理が並んでいるのは良いが、今の自分は常といっていいほどお粥三昧。

 喧しさから逃げるようにして自室へと入る。

 窓を開いて外を眺める。

 

「……っと、薫さんのメニューでも作っておくか」

 

 足りないのは主に足腰。

 鋭い振りに耐えるだけの絞られて、密度の高い筋肉が出来ていない。

 このままじゃ靱帯を痛めるし、関節も危ない。

 走りこみと階段駆け。

 それと明日は型を確認して貰おうか。

 慢錬(まんれん)でじっくりと型をなぞればもう少し良い動きが出来る筈だ。

 少なくとも俺の知る薫さんはそれが出来る人だった。

 目を瞑り記憶を辿れば剛健というイメージを中心に、全力で太刀を振るう薫さんが浮かぶ。

 

「問題はまだまだ多い、か……」

 

 そう呟いた時、ゆっくりと障子が開いた。

 中からは金色の毛を生やした狐、久遠の姿。

 

「くおーん、くおーん? 何処いるのー?」

 

 廊下に聞こえてくる那美さんの声。

 仕方なく廊下まで出る。

 

「すいません、恭也さん。久遠見ませんでしたか? あ、子狐なんですが」

「久遠、那美さんが探しているぞ」

「くぅ~ん?」

「久遠っ、もう、勝手に出て行ったら心配するでしょー。すみません、お騒がせして」

「いえ」

 

 頭を下げようとする那美さんを止める。

 そんな大層な事じゃないし、そもそも今朝も布団の中に入っていた。

 那美さんは恐縮した後、久遠を呼んだ。

 

「久遠、おいで。ほら」

「…………」

 

 久遠は那美さんに近づくどころか、俺に身体をこすり付ける。

 ピシリ、と音を立てる勢いで那美さんの表情が固まった。

 何か、ヤバイ予感がする。

 こう、沸点到達直前の火山のように…………

 

「久遠、おいで」

「…………くぅーん」

 

 ふるふると、久遠は首を振ると次の瞬間――

 

 ポンっ!

 

 久遠が変化をした。

 まだ不完全らしく耳も尻尾も隠せてはいないが、少女の姿に変わったのは確かだ。

 那美さんがパクパクと口を開いて慌てている。

 どうやら、この状態に驚き、何とか説明しようとして出来ないのだろう。

 これはこちらが声をかける必要が有りそうだな、と思った時、不意に激痛。

 息が詰まる。

 

「ぐっ――! ……ぁぁ、あぁ、アァあ!」

「ちょっ、恭也■■、■■■■■■」

 

 聞こえない。

 耳にはこびり付いたように耳鳴り。

 だと言うのに心臓の鼓動音だけがやけにうるさい。

 

 ……ドクン……ドク……ドックン!

 

 不整脈。

 胸に手を当てて掻き毟る。

 全身に力が入り、少しでも痛みをやり過ごそうとする。

 手にふにゃっとした感触。

 

 ――久遠の手だ。

 

「…………なに? 収まった……」

「だ、大丈夫ですか恭也さん!」

「……ええ、どういうことかは分かりませんが、急に治りました」

 

 訳が分からない。

 まるで先程までの苦しさや痛みが夢だったかのようにそっくり消えている。

 とりあえず判っているのは、

 

「久遠、ありがとな」

 

 いまだ話すことが出来ない久遠はコクリと頷いた。

 

 

 

 本当にすみません、と那美さんは頭を下げた。

 どうやら、今回の俺の急な不調は精神的な負担からだと思っているようだった。

 勿論そんな事はない。

 元々俺は久遠のことも、封印のことも、そして過去に何が起こったのかさえ知っている。

 今の久遠は言うなら不完全体。

 それ故に言葉を話すことも出来ない。

 

 後、3,4ヶ月もすれば祟りを祓うか、再封印する必要がある。

 と、まあそんな事を那美さんに説明したらまた面倒なことになる訳だが。

 だが、先程の痛みはまあ、永い眠りから目覚めた直後という理由があるが、急に収まったのは何故なのか。

 

 ……久遠に関係があるとは思えないがなあ…………。

 俺は久遠を膝の上に乗せる。

 頭を撫でると気持ち良さそうに目を細めた。

 髪はさらさらと手触りが良く、普段綺麗に手入れをされているようだった。

 強くなりすぎないよう気をつけて、優しく頭を撫でてやる。

 

 那美さんが、あああああ、と落胆の色を帯びた声を上げていた。

 ……何故なんだろうか?

 きっと、俺では到底分からない深い事情があるのだろう……可哀想に。

 何か手伝えれば良いのだが、不思議と声を掛けても無駄なような気がする。

 まあ、ここは直感を信じよう。

 

「久遠ー、恨むからねー」

「は? どうかしたんですか?」

「あ、いえいえ! 何もありませんよ~!」

 

 怪しい……酷く怪しいのだが声を掛けられない。

 ふと、「お前はそんな所が駄目なんだよ」と赤星の幻聴を聞いた。

 数日前まで唯一無二の親友も、今じゃ赤の他人か。

 ――良い事ばっかりじゃないって事かね。

 

 

 

 そろそろ眠りに就こうかという時だった。

 障子一枚隔てた二階の廊下の先で、ゆっくりと近づいてくる気配に気付いた。

 気配は三つ。

 静かに耳を澄ます。

 仮にも不破の本家。

 廊下はかなり長く、その端の方からのため途切れ途切れにしか聞くことが出来なかった。

 

「命ちゃん、いいの、■■■なんてしちゃって……」

「なのは、こう■■のは■■■喋ら■い方が良いわよ。

 さあ、久遠、あなたは■■に入って辺り■■■てい■ね」

「くぅん」

 

 流石と言うべきか、命の声が一番捉えづらい。

 話す場合でも、いかに必要な相手以外に聞かれないか。

 その方法と必要性を無意識に知っている。

 しかし、何故この三人が、俺が寝るような時間に訪れる必要があるのか。

 

 ――ゾクリ

 

 背筋が凍えた。肌があわ立ち毛が逆立つ。

 ヤバイ。何がヤバイのか分からないがやば過ぎる。

 そう、これではまるで獣に狙われたときの獲物――

 躰に上手く力が入らない状態であろうと、何とかここから退避しなくてはならない。

 

 この場は危険だ、逃げなくては。

 震える足を叱咤して起き上がる。

 その時再び廊下から声が聞こえてきた。

 

「美影さん……」

「こんばんは。そろそろ子供は寝る時間よ? 早く大きな自分の部屋に戻ったらどうかい?」

「それでも……通して下さい。私は美影さん、お兄さんの所へと向かい、共に朝を迎えるのです」

「それは……できない相談だねぇ」

「くぅん!」

「はっ、久遠。この私が、不破美影があんたの対策をしていなかったとでも!?」

「そんな……雷(いかずち)が……」

 

 ……何か知らないが逃げた方が良い。間違い無さそうだ。

 こっそりと、繋ぎ戸を開く。

 空き部屋から空き部屋へと、気配を絶ってゆっくりと進む。

 廊下では絶え間ない戦闘音が聞こえてきた。

 

 ――くぃっ、くぃっ

 

「っ――!」

「兄さん、私です、美由希です」

 

 なんだ、美由希か……。

 そう安堵の息をつくと、美由希に睨まれた。

 

「なんだ、ではありません。それより兄さん、随分と困った様子ですね」

「ああ。何故か全く判らんのだが、人の部屋の前で命となのはと久遠、三人で美影ばあさん相手に戦闘を繰り広げていてな。恐ろしくて寝れたもんじゃない」

「私は、兄さんさえ良ければ……」

 

 楚々、といった動作で、美由希が寄添っていた。

 そして気付いた瞬間には腰と背に手が回っている。

 

「さあ、兄さん、どうぞここへ。さあっ!」

「あ……ああ…………」

 

 なんと言うか気迫に圧倒されて頷くことしか出来なかった。

 

「お前はそんな所が駄目なんだよ」

 

 うるせえよ。

 

 

 

「…………不覚だ」

 

 目覚めるなり俺は、呆然と呟いていた。

 躰にいく箇所かにかかる重みに、不満に思って顔を顰めながら、右腕を見る。

 目と鼻の先に、俺の腕を枕にして眠る美由希の姿がある。

 今のポジションが心地良いのか、それともいい夢でも見ているのか、

 頬がかるく緩んで、微笑している。

 

 訳もなく――――胸が高鳴った。

 

「いやいやいやいや……」

 

 とりあえず声を出して否定しておく。

 俺は別に美由希に惹かれてなんか……いない筈だ。

 考えを振り切って少し深呼吸。

 別の違和感へと意識を向ける。

 

「お兄さん……」

「おにいちゃ……くぅー」

「……くぅん」

 

 久遠は布団の上、足と足の丁度真ん中で丸くなっている。

 命は横に寝ていたが、同年代でもかなり高めの身長のため、布団から半分ほどがはみ出ている。

 そしてなのはは――――

 

 どうやら、寝相が悪いのはここでも変わらないらしい。

 どうやったのか部屋の一番端で丸くなっている。正直少し寒そうだった。

 

 だが、だ。

 一体どうやって気配を感じさせずにここまで近寄ったのだろうか?

 少なくとも昨朝のように、堂々と布団の中で久遠が眠れるほどの油断は無かった。

 部屋に入った瞬間に、いわゆる結界のような物を持ったまま寝たはずだった。

 その結界に触れること無く近寄れる人間なんて、これまでなら美沙斗さん位のものだったはずなのだが……

 

「――そりゃ、私がしっかりと手引きしてやったからね」

「――――ッ!?」

 

 驚いた。それはもう本当に。

 流石は美沙斗の母、もとい美影ババア。

 恐らく、何も言われなかったら殺されてても気付かなかっただろう。

 これは既に人の域を超えた所業だ。

 生き神には一生なれないだろうが、生き妖(あやかし)になら既になっているかもしれない。

 失礼だね、と美影ばあさんは言った。

 

「それで、何の用ですか? 貴女は確かに遊ぶ時は異様なまでにはっちゃけますが、それでも人の起床直後に訪れるような性格じゃない。それだったらついて来る人もいませんしね」

「鋭いね。そういう子は好きだよ。なんせ話が早く済んで良い。今日、昼ご飯食べたら私の部屋に御出で(おいで)。大切な話をしよう」

「分かりました」

 

 それじゃあ、というと次の瞬間には美影さんは気配を消して出て行った。

 目で見ていても、集中していないとその場にいる事さえ気付かない程の穏行だった。

 ……恐ろしい。

 

 

 

 美影ばあさんがいなくなってから、三十分ほどが経った。

 俺の体内時計に狂いがなければ、5時半といった所だろう。

 例え躰が変わっていても、意識が変わっていなければ習慣は消えないようだった。

 美由希が身を震わせた。

 ぱちり、と目を開けると視線が合う。

 途端ににこりと笑顔。

 こちらが照れてしまうような透き通った笑みだ。

 

「おはようございます。兄さん」

「おはよう、美由希。

 ……ん? そう言えば気付かなかったが、何でお前不破の家で寝てるんだ?

 お前御神で暮らしてるんじゃないのか?」

「ええ、そうですよ? 高校入学を機に、こちらから学校に通うことにしました。

 私の部屋はここですので、いつでも来て下さいね」

 

 なんと言うか……行動力のある奴だな。

 こちらの方が学校に近いんだろうか?

 まあ、こちらとしても毎日顔を合わすのは嬉しい。

 特別気にすることもないだろう。

 

「それでは兄さん、これから朝の鍛錬がありますので」

「ああ、頑張れよ」

 

 そう言うと、美由希は重苦しく、そしてわざとらしくため息を吐く。

 鋭い眼つきで睨まれた。

 

「鍛錬のためには着替えないといけません。

 それとも兄さん、貴方は嫁入り前の私の裸体を見ていくつもりですか?

 責任さえとって頂けるでしたら、私は幾らでも結構ですが……」

「スマン!」

 

 冗談じゃない。

 慌てて部屋を出る。

 ついでに一言。

 

「美由希」

「はい?」

「今日はありがとう」

「……どういたしまして!」

 

 

 

 それから自室に戻ってゆっくりとした後、朝食を取った。

 朝の食事風景はいつも通りだった。

 ここでは言いたくも無いし、割愛しよう。

 ただ、また静馬さんが壊れた、とだけ。




直さない
ぜったいに手直ししないぞおおお!


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05話

 いつも通りという、少々げんなりとする程のけたたましい朝食を終えて、自分の部屋へと戻った。

 禅をするなどというなら兎も角、ただぼーとしているのは苦痛だったので、不破流の技について書かれた書物を一冊持ってきた。

 畳にごろりと横になる。

 どうせ文字は一々解析しなければ行けないほど古いものだった。

 新たな技を覚えるのに深い興味があった。

 きっと、難しくても退屈することだけは無いだろう。

 

 

 

「なるほどな」

 

 そう呟いて、俺は下半身に比べて遥かに早い回復を見せている腕を振るった。

 まだまだ腕は細かったし、また関節も強く力を篭めただけで痛みを訴えるが、

 それでも意思の半分ほどには動いてくれる。

 それで充分だった。

 書物のタイトルだけを目通ししていた時、鋼糸についての欄が有った。

 後々なら小太刀の技について知りたかったが、今の躰なら非力でも効果がある鋼糸術を知りたかった。

 ゆっくりと読んでいく内に、絡めて斬る、捕縛する、という以外にも使い道が有る事が判る。

 銃を相手にした時、絡めた鋼糸を引っ張って照準を外す、という事なら恭也も考えたことがあった。

 だが、上には上が居るらしい。

 それによって同士討ちをさせる方法が。

 普通なら障害物になる筈の木々の枝を使い、多角からの攻撃を可能にする方法。

 同時に片手で五本操りながら、更に小太刀を振るう方法が、少々ぼやかして書かれてあった。

 事細かく書かないのは、きっと感覚は自分で掴めという事と、説明のしようのない感覚があるからだろう。

 ……などと考えることは出来ても、

 実際にやってみなければ分からない物だ。

 身体を動かしたいなあ……なんて考えて古い古書、不破の鍛錬書を閉じた時。

 視界の端に有り得ない物が映った。

 ふわふわと浮かんでいるそこは二階の高さだ。

 そんな所に人が居ていい訳がない。

 …………『人』? 

 

「十六夜さんっ!!」

「あらあらまあまあ」

 

 十六夜さんは驚いたように口に手を当てていたが、正直口調からはそんな様子は受け取れなかった。

 宙に浮く体と同じ様に、こちらの感情もふわりと受け流してしまう。

 少し照れたような表情をすると、そのままこちらへとやって来て隣に座った。

 きちりと正座をすると、そのまま頭を下げた。

 

「こうしてお会いするのは初めての事ですね。神咲一刀流至宝、霊剣十六夜と申します」

「不破真刀流、小太刀二刀術不破恭也です」

 

 お互い暫く頭を下げて、ゆっくりと上げる。

 そして十六夜さんが笑った。

 俺も同じ様に笑った。

 なんでこんな普通に相手できてるんだろうかという、疑問が混じった笑みだった。

 多分、きっと、恐らく────十六夜さんは自分の特異性を誰よりも理解しているだろう。

 そして、その特異性が他人にとってどう取られるのか、という事も。

 正直、俺も初対面のときは驚いた。いや、驚愕と言ったほうが正しかったかもしれない。

 現にあれほど、現実離れした話を好んでいた美由希でさえ、開いた口が塞がらなかったのだ。

 いや……あいつはどちらかと言えば「優しさ」の或る物語が好きだったか。

 少しだけ意識をここでない遠い世界へと移していると、見守る様にして十六夜さんはこちらを見ていた。

 そう、優しく、微笑(え)みを浮かべて。

 少し恥ずかしかった。

 そして心が優しくなっていくのを自覚した。

 

「……恭也様」

「はい?」

「何も理由を聞かず────薫を宜しくお願いします」

 

 そう言って、十六夜さんは挨拶の時よりも長く頭を下げた。

 宜しく? 一体何の事を言っているのか。

 十六夜さんの瞳には光が宿っていない。

 だが、その双眸には意志の強さを感じさせられた。

 ──俺に一体何が出来るというのか。

 ──十六夜さんは何を望んでいるのか。

 分からない。

 一体何の事を言っているのか、まるで分からない。

 だが、最初から返事は決まっていた。

 

「俺に出来ることなら」

 

 十六夜さんは、俺がこれまで知る中で、最も綺麗な笑みを浮かべた。

 ……頬が何故か熱かった。

 

 

 

「あー…………駄目だ。何だか調子が戻らん」

 

 とりあえずそう呟いてみたが原因は判っている。

 全て十六夜さんが原因だ。

 なんと言うかあの人は空気みたいにふわふわしているのに、その癖どこか存在感があって全てを包み込んでしまう。

 これはだが恋愛感情とは全く違うものだ。

 全てを包む優しさ……俺は実の母こそ知らないが、こんな感じを母性愛と言うのだろうか? 

 まあ、悪くは無かった。

 その十六夜さんは薫さんが探していることを知って、「あらあらまあまあ」とどこかへ飛んで行った。

 きっと、"かくれんぼ"でもするのだろう。

 …………多分。

 

 

 

 梁に釘で掛けられている掛け時計を見る。

 時刻は10時ちょっと。

 美影ばあさんとの約束までは、まだ時間もある。

 さて、どうしようか、という段になって、ばたばたと走る足音を聞いた。

 

「こら──!! くおーん、芝で遊んできたんならお風呂入りなさーい!!」

「くぅ──ん!!」

 

 ドタドタドタ……バタバタバタ……ドタドタ……ドテッ! 

 

「きゃっ! ……も~~~~っ、くお────ん!!」

 

 恨めしそうな声を上げたかと思うと、突如として烈火と怒りの炎を滾らせる那美さん。

 何だか般若みたいな顔が想像できて、思わず身震いしてしまった。

 ガラッ! と障子が開かれる。

 

「久遠! 逃げたって駄目だからね!」

 

 仁王立ちで、想像通り般若の顔をしていた那美さんと目が合う。

 ……酷く気まずい。

 むしろ俺が逆の立場だったら自殺しかねない。

 とりあえず、なんと答えれば言いか分からないので、無言で通す。

 

「…………」

「あっ、はれっ!? 恭也さん?」

 

 どうやら、久遠が部屋に入って来たものと思ったらしい。

 だが、狐の久遠に障子を閉めるという事が出来たかどうか、那美さんは判別が着かなかったのだろうか? 

 冷静に思考する俺の前で那美さんは顔を真っ赤にして照れ、とうとう顔を俯かせてしまった。

 指をもじもじと合わせている姿などを見ると、思わず意識して抑えてきた「いじめっ子」の嗜好が出てきてしまう。

 

「那美さんどうかしたんですか? 俺に何か用でも?」

「いえ、そういう訳じゃないんですよけど……」

 

 ちらちらと上目遣いに見上げてくる姿は、いじらしいほどに可愛い。

 頬がぴくぴくと痙攣しそうになるのを抑えつけながら続ける。

 

「そうですか? それにしては、障子を開ける時の速さは普通じゃ無かったですよ?」

「うう……ち、ちょっと力が入ってしまって」

「そうですか。じゃあ力が入るほどの急用だったと。どうぞ、心を楽にしてお話下さい」

「ううう……」

 

 那美さんは唸ったまま身動きをしなくなった。

 もしかして言いすぎたか? 

 そう心配になった時、コソコソと部屋に入ってくる久遠を見つけた。

 どうやら逃げ通せたと思っていたらしいが、入ってきた瞬間毛を逆立てると、そのまま後ずさりを始める。

 瞬間! 

 那美さんの首が、いや、"首だけ"がそのまま180度曲がった。

 

「きしゃ────!!」

「く、くぅ~ん!?」

 

 ドタドタドタドタ……

 バタバタバタバタ……べちゃっ

 

 ………………

 放って置こう。

 一瞬だけ止めようかと考えたが、結局俺はため息を一つついて、お茶を飲むために部屋を出た。

 

 

 

 お茶を入れてもらうと、そのまま裏手へと廊下を歩く。

 ぐるりと家を回って真裏へと来れば、美由希と夜桜を楽しもうと行った桜と、薫さんが普段鍛錬に使っている場所が見える。

 空はよく晴れていて、青空と真っ白な雲との調和が綺麗だった。

 直ぐ傍には枇杷の木があった。

 まだ季節には早く、代わりに薄緑の葉っぱが春を感じさせてくれる。

 ひさしのお蔭で太陽の光が直接目に入る事もなく、真っ黒なシャツが吸い込む陽気はぽかぽかと気持ちよかった。

 ああ……春だ……。

 4日も前には既に夏が近づいていた。

 だと言うのに俺は今、春を満喫している。

 ……不思議な話だった。

 正に珍現象。未だにこうしてくつろぎながらも、心のどこかは信じられないでいる。

 前の暮らしも楽じゃなかったが、それでも思い出と温かみがある。

 

「……それはここも同じか」

 

 一体何の因果か、俺の良く知る人の多くはこの屋敷内だけで事足りている。

 後は……そうだな、レン、晶、フィアッセと言った所か。

 忍たちは海鳴にいるんだろうな。晶も親御さんの元を離れないだろうから、海鳴だろう。

 レンはもしかしたらこちら側と思っていたんだが、アメリカに渡ったのか──

 

「恭也くん?」

「薫さん。こんにちは」

「こんにちは……で良いのかな?」

 

 確か、日本じゃ10時を越えたらそれで良かったかと。

 へえ、それは知らなかった。

 薫さんは十六夜を手にして、道場の方からやって来た。

 固められた土の上に足を適度に開くと、

 そしてキン、と綺麗な音を立てて鞘から抜き放つ。

 

「見てて……くれるかな」

「どうぞ」

 

 俺には分からない、霊力を練っているのだろう。

 少々大げさに、独特な呼吸法をしながら黙想している。

 かっ、と目を開いたと思うと、裂帛の気合で十六夜を抜き放った。

 

「──はっ! つぇい!」

 

 ……木刀の素振りよりも随分と安定している。

 だが、薫さん自体にはまだ変わった所が見えなかった。

 ランニングも昨日の今日の話だ。そう変わるものじゃない。

 じゃあ一体何が……。

 なるほど。昨日と違う物が確かにあった。

 “十六夜”だ。

 恐らくは、真剣を持つが故に。

 そして霊力を込めるが故に。

 何よりも、“十六夜”の中にいる十六夜さんの存在が大きいのだろう。

 気合と共に繰り出す斬撃は中々なものだった。

 

 ── 一際鋭い一撃と共に残心。

 

 きっと、“十六夜”を手放せば昨日とさほど変わらないだろうが、それでも拍手をするだけの物は見せてもらった。

 必要なのは“真剣を持つ本番”にどれだけ力を出せるかなのだから。

 薫さんは十六夜を鞘に収めると、こちらの左に座った。

 恐らくは無意識なのだろうけど、それは戦いに身を置いている人間にしか分からないものだ。

 まあ、二刀を遣う不破には対して差が無いわけだが。

 

「や、ありがと。ちょっと気恥ずかしいな」

「いえ、昨日より格段に良くなっています」

「そっか……やっぱり気持ちの問題かな……」

「どうかしたんですか?」

 

 そう訊ねると、薫さんは少し顔を朱に染めると、何でもない、と首を振った。

 どうやら余り聞かれたくないらしい。

 まあ、俺に女性を全く理解できないのはわかっている。

 これ以上考えることに意味は無いのだろう。

 十六夜さんはどうやら出てくるつもりは無いらしい。

 ただ、その霊剣がくつくつと笑っているような気がするのは、気のせいだろうか? 

 と、昨夜考えたトレーニングメニューを渡していないことに気付く。

 ポケットを探ってみるが見当たらない。

 元々会う予定も無かったから、持ち歩くのを忘れたらしい。

 

「恭也くん、どげんしたとね?」

「いえ、昨夜約束のメニューを考えて書き留めたはずなんですが、どうやら忘れたみたいです。

 夕食前にでも、もう一度会えますかね?」

「うちは構わんよ」

 

 即答だった。

 息をつかせる暇も無かった。

 それほどまでに早く上達したかったのだろうか? 

 それを考えると流石に悪い気がしてくる。

 

「お急ぎなら今から取ってきましょうか?」

「いや、構わない! また夕刻に会おう」

 

 やっぱり即答だった。

 しかも何か焦っている。

 本当に、何がなんだか……。

 

 

 

 太陽が昇り、同時に風が強くなってきた。

 夕方か夜には雨が降るかもしれないが、お蔭で暑い思いをしなくて済む。

 俺は右脇に置いていた急須を取ると茶を一口。

 少しだけ、薫さんも心を開いてくれるようになった(その理由は判らないが)。

 聞いておくなら、今かも知れない。

 

「……薫さん」

「ん?」

 

 どうかしたのかい? と瞳が語っていた。

 気遅れしないように深呼吸を一つ。

 一息に言い切ってしまう。

 

「自己治癒のために、霊力の使い方を教えてくれませんか?」

「──っ!」

 

 予想外の事だったためか、薫さんは大きく目を見開いた。

 

「俺も、心は薫さんにそう変わらないんです。強くないたい。

 昨日よりも今日、今日よりも明日、少しでも誰かを守れる力が欲しい」

「そうやとしても…………」

 

 やはり無理か……。

 吐きそうになったため息を慌てて抑え、そのまま空を見る。

 頭上では風が強い。雲が忙しく流れていくのが見えた。

 元々、自己治癒以外に殆んど霊力について望んではいなかったのだが。

 霊力というのは門外不出の秘伝のような物なのだろう。

 素直に諦めよう。

 そう思った時、薫さんがこちらを見る。

 瞳は、真っ直ぐと──

 

「──恭也くんはうちに剣を教えてくれる。それやったら、うちも何かお返しせんとな」

「じゃあ……」

「うん、うちこそ、宜しく」

「宜しくお願いします」

 

 これで少しは目指す場所に早く辿り着けるかもしれない。

 そう思うと、自然と笑みが浮かんでいた。

 

「あ…………」

「──? どうかしましたか?」

「いやいや! 何でんなか。何でんなかよ……。恭也くんは気にせんでいい」

 

 こうなったら絶対に譲らない。

 過去に、家族が取った行動と同じ物であった為に、その事が分かった。

 きっと聞いても無駄なんだろう。

 はぁ。

 そうため息を心の中だけでついて、俺は"講義"をお願いすることにした。

 

 

 

 ──其は薄き刃────其は脆き心──

 ──薄く脆くそして斬れる──

 ──合わせ三本の心の刃──




共通ルートはあと5回の更新
神咲家ルートがさらに4話分ぐらいの過去ストックがあります。


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06話

 霊力が圧倒的に少ないらしい。

 それは即ち、俺自身がつい先日まで何年という年月寝たきりだった事に原因が有るらしいのだが、正直こちらにそんな覚

 えは無いのだから困ったものだった。

 

 ――とりあえず習ったのは呼吸法だけ。

 

 だが、霊力と体力には綿密な関係が有るらしく、呼吸法だけでも随分と違うらしい。

 場所は美影さんの部屋。

 呼び出すだけ呼び出して、その本人が来ていなかった。

 8畳という意外な広さの美影さんの部屋は、床の間といい、掛け軸といい、とにかく"和"をいっぱいいっぱい主張している。

 畳は小まめに変えられているようで畳特有の匂いが部屋に薫る。

 

 ここなら、集中することが出来るかもしれない。

 呼吸法に慣れるのに必要な、集中力が――。

 

 一度息を止める。

 そして、その瞬間に生じる思考の停止に相まるようにして、呼吸法について教えられたことを実践する。

 

 吸う。吐く。吸う、吐く。

 大きく吸って……体の中を整えるよう意識する。

 ただそれの繰り返し。

 

 無駄な雑念は禅や盆栽で――――

 

「何か忘れてると思ったら盆栽だ!!」

 

 ぐぁ……雑念だらけだ……。

 

「盆栽がどうかしたのかい?」

 

 また気配を消して直ぐ傍にまで潜んでいたのかと思ったが、そんな事は無かった。

 そもそも壁を背にして座っていたため、隠し扉でも使わない事には障子を開けないといけない。

 ただ、“障子を開ける”というハンデさえも、美影ばあさんにはまだ生ぬるい気がして。

 それ故に、普通に外から声を掛けたのが少し不自然に感じた。

 すっ、と障子が開く。

 ――その奥に見える、一つの“ボロ雑巾”。

 

「っ――!?」

 

 ボロ雑巾は血に濡れていた。そして、丁度人くらいの大きさ。

 質感も皮膚と服に見えなくも無い。

 馬鹿な息子を持つと疲れるねえ、なんて美影さんは独り言を呟いたけど、きっと気のせいだろう。

 父さんは今日も翠屋に行っている筈だ。

 

 ――それに仕事をサボるくらいなら死んでも構わないだろう。

 うん、何も問題は無い。あれは『父さん』じゃなかった。

 そして、『不破士郎』がそこまでのなまくら者なら誰も必要としないだろう。

 うん、考えにほころびは無い。

 

「さて、と。待たせちゃったね。話をする前にお茶でも飲もう」

「頂きます」

 

 どうせ長くなるからね、と美影ばあさんは笑った。

 ポットがあるらしく、急須(きゅうす)にお湯が注がれていく。

 どうやら、味には少々うるさいらしく、温度は熱湯という程でも無さそうなのが、立ち上がる湯気の少なさから判る。

 ほらよ、と湯呑みを渡された。

 随分と分厚くて、外装も凝っていて、それが高級品だと分かる。

 

「落とすんじゃないよ。それ一つで5万もするんだから」

「ぶっ――!」

 

 口に含む寸前だったから良かったものの、もう少しで吹き出す所だった。

 まじまじと湯呑みを見つめる。

 ……これが、5万? 

 

 丸い湯呑みは、だが円柱形なだけでは無かった。

 丁度、持ち手になる所はX型になっていて滑りにくく、

 さらに分厚い焼きは、お茶の熱さを手に感じさせないし、冷えにくい。

 さらに、蓋までついている。

 

 だが、これが5万……。

 最高級ので今度呑んでみるかい、なんて、空恐ろしい事をこの人は言う。

 もちろん大きく首を振って断った。冗談じゃない。

 ……まあ、興味が無いかと言われればそうじゃないんだが…………。

 

 ずずず……と音を立ててお茶を飲む。

 少し行儀が悪いが、最初の一杯は音を立てた方が美味しく感じられる。

 湯呑みにこれだけお金を出すのだから茶葉も玉露なのだろう。

 素直に美味しかった。

 

 

 

 美影ばあさんは湯呑みをガラステーブルの上に置いた。

 そこら辺は和洋折衷なのか、明治を思わせる。

 着物を着こなしながら、ピシリとした背筋で正座する姿は、凛とした美しさがある。

 視線は真っ直ぐとこちらを見る。

 

 俺も同じ様に視線を返した。

 目を見ればその人の性格などがある程度分かるという。

 だが、美影ばあさんの瞳には、吸い込まれそうな程の広さしか、感じ取ることが出来なかった。

 

「さて、呼び出した理由は他でもない。恭也、あんた、薫ちゃんに剣を教えるのは止めときな」

「っ! ……何故ですか?」

「問う前に少しは考えた方が良い。もし間違ってたら、その都度訂正してやるから」

「…………」

 

 剣を教えるのを止めなければ"いけない"理由。

 最初に思い浮かぶのは、御神や不破の抱えてきた闇について。

 誰かを護る為と、何かを護る為と常に人を殺めてきた剣。

 

 それが御神であり、不破の姿だ。

 悪と戦っていれば正義という訳じゃない。

 悪と戦っていても、人を殺す限り如何なる言い訳も通用しない。

 人を殺すのは――――確かな悪だ。

 

「そうだね。御神や不破について考えるとすれば先ず其処が出てくる。じゃあ他には? 他には無いのかい? この我らが一族の持つ異常はどうなる? 

 ――異質で、異常で、異様で。

 ――異色で、異形で、異端な一族」

 

 瞳は真っ直ぐに俺を射抜く。

 それが怖い。

 真っ直ぐと、そんな自らの異常性全てを言えるこの人が恐い。

 狂っている。

 狂(ま)がっている。

 

 この人は、明らかに犯しい。

 平然と、整然と、どうしてこんな事を言えるのか。

 本能がかき鳴らす警笛。

 先程まで感じた広い海のような瞳には、同時に、海らしく、深い闇が在る事に気付いた…………。

 

 

 

 冷えだしてきた茶の残りを一気に飲み干す。

 多めに入れてくれたのは幸いだった。

 喉は酷くカラカラで、唇も湿りが丸っきり無かった。

 目の前の化け物は、

 人すら逸脱したような、俺の血の繋がる祖母は、

 何故か寂しそうに微笑(わら)って、お茶を一口飲んだ。

 

「それだけかい?」

「え――?」

「私が教えるなと言ったのは、そんな事じゃない。彼女はそんな汚さを知っていても、誰かを守るために力を求める子だよ?」

 

 ……なるほど。

 それなら確かに、先程の応えは、答えになり得ない。

 ならば、一体何が、教えることを止める理由となるのか。

 御神や不破の持つ危険性じゃないとすれば――――薫さんの危険性? 

 

「分かったかい?」

「いえ。薫さんに直接影響が与えられるという事かなと」

「分かっているじゃないか。うちや御神はね、とても敵が多い。あんたが倒れたように。でも、それはずっと以前から有ったし、あんたが寝たきりになってからも幾度か有った」

 

 一息。

 そこには先程までの恐ろしさを感じさせない。

 一体、どちらがこの人の本当の姿なのだろう? 

 

「御神や不破の存在を知っているというだけで、その情報欲しさに襲われることも或る。御神や不破の技を使うというだけで、殺されるなんて事もありえるんだ」

 

「――恭也、あんたはその責任が取れるのかい?」

 

 果たして俺は、どうすれば良いのだろう? 

 本当に薫さんに剣を教えない方が、彼女に対して幸せなのだろうか。

 彼女は力が欲しいと叫んだ。

 誰かを守るための力を。

 その為に、俺が剣を教えることは果たして悪いのか。

 だが、そうすれば彼女自身に命の危険が迫る可能性が出てくる。

 

 ――その問いは直ぐには答えられない。

 

 少なくとも、本人に聞くまでは。

 

 

 

『それとね、恭也。薫ちゃん達は訳あってうちら不破が擁護してるんだ。理由は本人が話すまで待っといた方が良いねえ』

 

 はぁ……とため息を吐きながら、障子を閉めた。

 手には5万もする湯呑みを持たされ、廊下に出れば微かに肌寒い風が吹く。

 空は薄暗く、分厚い雲に覆われたせいで、夕陽を窺うことも出来ない。

 一度自分の部屋に戻り、メニューを書いた紙を持ってから、そのまま屋敷の裏側へと回る。

 まだ、薫さんは来ていなかった。

 今は、来なければ来ないで良かった。

 その間に考えることが出来るのだから。

 

 

 

 どうやら『たち』という言葉から推測するに、神咲家は何らかの問題を抱えているらしい。

 ……と言っても、分かるのはそれ位の話で、原因となるとまるで分からない。

 ただ、前の世界との関係が何らかの形である以上、自分の知っている部分が有るかも知れない。

 

 神咲一灯流本家当代――神咲薫。

 神咲楓月流本家当代――神咲楓。

 神咲真鳴流本家当代――神咲葉弓

 

 神咲家は主に表と裏に分かれ、裏では日本最高峰の退魔組織を樹立。

 組織力維持のために当代の移り変わりは極早く、それぞれが特徴となる武器を持つ。

 三人は従姉妹、はとこの関係にもあり、年の順だと葉弓さん、薫さん、楓さん。

 本参家は関係も良いが、傍流となると一枚岩では行かない……といった所か。

 考えられるのは今の所、御家同士の騒動が有力な訳だが、こればかりは本人たちに聞くしかあるまい。

 結局、そこに行き着くと、この考えには余り意味が無いことに気付いた。

 全く、お笑い種だな……。

 少し、美影ばあさんとの話で心が疲れているのかもしれない。

 それとも体が疲れているからそんな気がするのか。

 体も心も重たかった。

 すこし、横になる。

 眠りは直ぐに訪れた――――。

 

 

 

 …………。

 ……さわさわと、頭を撫でられている。

 剣士特有の少し節ばった関節と、女性特有の手のひらの柔らかさ。

 病院で寝たきりだったせいで、随分と長くなった髪がもてあそばれている。

 散髪屋なんかで感じる、頭を触られる心地よさ。

 ひたすら後ろへと手を流して撫でられている。

 その触り方が優しくて、少しだけ、心がほぐれる。

 不破の家にいるようになって気が緩んでいるのか。

 昔は……頭を撫でられるような余裕すら無かった。

 自らを刃物のように研ぎ澄まして、近寄る物を警戒し続ける。

 それが常だった。

 目を開く。

 雪のように白い肌。

 日本人形を彷彿とさせる整った顔と墨のように黒い髪。

 薄暗い空の下、ぼんやりと浮かび上がる一人の顔。

 顔は真横を向いていた。

 

「おはようございます、恭也兄さん」

「……おはよう、美由希」

 

 後頭部に感じる弾力は……膝枕をされていたらしい。

 漢のマロンだ。

 よく見れば、視線の先には服を持ち上げる結構豊かな胸が――

 ガバリ! と跳ね起きる。

 女性ばかりと住んでいたのだから、それがどれだけ失礼な行為か分かっている。

 こちらの思惑に気付いていない美由希は、急に起き上がった事に不服そうな顔をしていた。

 堪ったものではない。

 気付かれたが最後、尊厳が傷つけられることこの上ないだろう。

 

「…………恭也くん……」

「薫さん!?」

「っ――。少し、型でも見た貰おうかと思ったけど、後にすることに……しよう。それじゃあ美由希ちゃん、また」

 

 気付かなかった。

 薫さんは少し悲しそうにとぼとぼと歩いて行った。

 きっと、強さを求める今、この時間が薫さんに取ってとても大切な物だったに違いない。

 後を追おうかと思ったが、美由希に止められる。

 

「折角時間を作って頂いたのですから、無碍にするのは憚(はばか)れます。

「いや、しかし……渡しておくべき物が有ってだな…………」

「兄さんは、私と一緒ではつまらないのでしょうか?」

「いや……分かった。また、後で良いだろう、それは」

 

 目を潤ませて、上目遣いに言われては断ることが出来なかった。

 ええい、優柔不断な俺め! 

 全く、前までの美由希とは性格が違っているからやりにくい。

 もしかしたら、美沙斗さんや静馬さんだけでなく美影ばあさんの影響も受けているのだろうか。

 あ、想像したら貧血が…………

 美由希ががしりと抱きしめてくれる。少し恥ずかしい。

 

「兄さん、大丈夫ですか?」

「ああ、大丈夫だ……」

「それと、私は私です。誰かに強要された訳でもなく、こう在りたい、と思った結果ですので」

 

 ……だから人の考えを読むなよ。

 

「桜……綺麗ですね」

 

 美由希は俺の視線を流して一本の桜に視線を向ける。

 ソメイヨシノの大木。

 既に満開にまで花開いていた。

 どうやら、今日、明日が見納めらしい。

 ただ一瞬のため咲き誇る桜の華は、その桜色の花びらは、ハッとさせられる。

 これも見納めかと思うと、少し残念だ。

 だがきっと――

 

「消えゆく定めゆえ美しい……」

「今夜、見ような」

「はいっ♪」

 

 

 

 9時前。

 そろそろ風呂に入ろうかと準備をして廊下に出ると、電話が鳴った。

 昔ながらの黒電話。リンリンとけたたましい鐘の音が響く。

 近くには誰も居ない。仕方ないと受話器を上げる。

 

「はい、もしもし」

「――恭也!? ねえ恭也なの!?」

 

 一拍息を呑んだ後、酷く興奮した声。本人は気付いてないのだろうが、甲高さに顔を顰める。

 だが、その声色には忘れられない優しい響きがあった。

 

「フィアッセ……か?」

 

 その名前を、俺は忘れるわけが無い。

 いつだって傍にいた。いつだって頼れる人としていた。

 歌を唄って、想いを紡いで。

 真っ直ぐ前を向いて、どれだけ悲しくても前に進める。

 

「恭也!」

 

 ――――だからこそ、俺は彼女を助けたいと、心から思ったのだ。

 

 

 

 その一言を後に、フィアッセの口から零れたのは、言葉じゃなかった。

 不明瞭で、不鮮明で。

 ただ心を訴えてくる、凄絶な音。

 胸を打たれた。想いを伝えるのに多くの言葉は要らないと、そう教えられた気分だった。

 受話器の奥から、今はしゃくりあげた声が聞こえる。

 良かったと、繰り返し、繰り返し…………

 

「フィアッセ……」

「なに?」

 

 堪らず、声をかけた。

 だというのに、言うべき言葉が見つからない。

 何を言ってやるべきか、なんと言ってやれるのか。

 胸の中にあるのは、懐かしい声への安堵。

 そして、泣かしたくないという焦燥。

 感情は一つも言葉になってくれない。

 掛けたい幾百の言葉は、喉にまで競りあがって、それでも口から出てくれない。

 想いを伝えるのに言葉は必要ないと、フィアッセに教えられたばかり。

 万感の想いを籠めて、一つの言葉に集約させた。

 

「ただいま」

「ッ――――! ……おか、え、り。おかえり!」

 

 まだ涙声で。

 それでもはっきりとフィアッセは、俺に言葉を返してくれた。

 

 

 

 それから一時間ほど、俺たちは互いの現状を報告しあった。

 涙は収まり、今は明るい笑い声が聞こえてくる。

 

「そうか……。来週の終わりに帰ってくるんだな?」

「うん、今はツアーの途中だから。それが終わったら、直ぐ行くからね」

「じゃあ、お休み」

「おやすみ」

 

 チン、と受話器を置く。

 急に廊下は静かになって、独り溜息を吐いた。

 ……良かった。

 御神の歴史が変わったように、不破の歴史が変わったように、

 フィアッセの在りえた歴史もまた変わっていた。

 父さんが生きていた時から薄々考えていた事。

 度重なるフィアッセの事件でも、最も大きなショックになったアルバートさんへのテロ。

 父さんが死ぬはずだった事故は、しかし未然に回避されたらしい。

 御神と龍との関係。だが今は、それ以上にフィアッセの無事が嬉しかった。

 世界中を忙しく回るクリステラソングスクールの面々。

 楽しい想いと歌声を、フィアッセもまた贈っているらしい。

 

「本当に、良かった……」

 

 そう遠くない過去の記憶。

 不運な事故の連続を、自分のせいだと思い込んだフィアッセ。

 黒く鴉羽のように濡れた背に生える羽。

 忌わしいルシファーを冠する羽の名が、フィアッセの心を蝕んでいた。

 いつも楽しそうに、だというのに少し遠慮した様子で唄うフィアッセの歌は傷ましい程に優しかった。

 何故そこまで気に病むのか。

 父さんが死んだのはフィアッセのせいじゃないのに。

 決してフィアッセのせいじゃないのに――――! 

 ……そんな想いはもう過去として消え去った。

 在りえた一つの可能性。新しく拓かれた一つの現在。

 その中心に俺は立ち、そしてこの現状に感謝している。

 

「にいさーん、早く花見を始めましょう?」

「分かった、今行く!」

 

 だから今だけは。

 胸に残る一抹の不安を忘れて。

 精一杯に楽しむ事にしよう。



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07話

「それじゃあまずは一杯……」

「いや、俺は……」

「一杯は呑むのが作法という物だよ、恭也……」

「俺は未成年ですよ? ……わかりました」

 

 三月も後半が半ば。

 明かりの少ない都会からは少し離れた場所、夜空には満天の星空が浮かぶ。

 所々にある雲は月光に照らされて姿を魅せ、それもまた風流。

 そして何よりも――

 頭上にそびえる桜はあまりに美しかった。

 

 

 

 風は静かに、優しく静かに吹き付けて髪の毛と桜の木を揺らす。

 柔らかく。

 桜の華は月光に照らされ、その妖艶な桜色を魅せてくれる。

 浮き上がる花弁。その中心でひっそり息づく花粉。

 全てが病的で、それ故に儚さを感じて止まない。

 夜桜の小さな宴に集まったのは美由希、美沙斗さん、一臣さんの三人。

 父さんと静馬さん達は部屋の中で酒を楽しむらしい。

 俺自身も、夜桜を見るのには静かな方が好ましかった為、あまり大勢は要らないと思っていた。

 ……だが、酒はどうかと思う。

 御神や不破の人間は決まって酒豪が多い。遺伝的な物なのだろう。

 俺もまた例に漏れることは無く、酔う事の無い人間だった。試した事は無いが、正体を失くすには多量のアルコールが必要になるだろう。

 だが、味が分からない。

 アルコール独特の臭いと味は口の中に含むと咽そうになる。

 お猪口に並々と注がれた日本酒を見て、大仰に顔を顰めてみるのだが、美由希を初めとしたメンバーに気にした様子は無い。

 観念して口に含んでみた。

 

「…………美味い」

 

 さっとした口あたり。喉ごしも良く、安物特有の臭さなど微塵も感じられない。

 耳ざとく俺の言葉を聞いていたのか、一臣さんがにこやかに笑う。

 

「だろ? 東北の方の名酒らしいよ。俺はあんまり知らないけどね」

「確か……『静海』だったと記憶している。綺麗な水と空気、最高の素材が揃って作られているんだろう」

 

 なるほど。ざるの父さんには勿体無く、そして味の分からない俺にも勿体無い一品だ。

 視線を手元から桜に戻す。と、その前に美由希の姿が目に映った。

 

「……? 兄さん、どうかしましたか?」

 

 右手には透明に、そしてカットがされたグラス。中にはこぼれかねない量の『静海』が入っている。

 愕然とした。何故美由希が酒を呑んでいるのだ。

 ――が、それ以上に憤慨なのが、実の娘が大酒食らっている姿を咎めようともしない美沙斗さんに対してだ。

 

「美沙斗さん、どうして止めさせないんですか。まだ美由希は16の未成年ですよっ!?」

「私もその年には酒を嗜んでいたが、何とも言われなかったよ? なあ、一臣」

「まあ、姉さんは法律ギリギリで結婚しちゃう人だしね」

 

 驚きというか、呆れというか。

 規律には煩そうだと予想していた美沙斗さんの、まさかの言葉。

 美沙斗さん自身もイケる口なのか、グラスを傾ける。

 

「そうだった……そもそも本当に結婚まで何も無かったのか実に怪しいですしね」

「なっ、何を言うかっ! 私たちがそんなふしだらな……ゴニョゴニョ……」

「母さん……」

「美由希っ! 違うんだ、そんな目で見ないでくれ、私は、私はっ――――!」

 

 美沙斗さんには損な役回りになってもらって悪いが、やっぱりこういう優しい人だと分かって心から安心する。

 人を殺すなんて似合わない、修羅に生きるなんて不釣合いな性格。

 だからこうして御神が、不破が生き残って、その為に会えない人も出来てしまったが、許して貰うとしよう。

 月村忍という少女、ノエルという女性。嘗ては秘密を打ち明けてくれた彼女達。

 城島晶という一人の少女。一度は心荒み暴力に明け暮れたというアイツは美由希との出会いが無い今、果たしてどんな成長をしているのか。

 もし、この躰が今よりも動くようになって、もう少し時間に余裕が出来たら、一度海鳴に行ってみるのも良いだろう。

 

「さあさ、美味しかったんならもう一杯」

「いえ、それは遠慮――っ!?」

「兄さんには口移しの方が良いんじゃありませんか?」

「そうか、それは失念していたな」

「ちょっ、ちょっと待ったー!」

 

 夜は更け、空は闇の濃さを増す。

 それでも星々の明かりは変わること無く、そして二人から逃げる俺の足が止まる事も無かった。

 

 

 

 三日が経った。

 鍛錬と修練と練磨の日々。

 新たに身につけた一つの呼吸法。

 剣を振るい戦場を駆けながら息を整える不破のそれと違い、神咲の呼吸法は実にゆったりとしている。

 共通点は無心になること。

 だが、それに目を瞑る必要はない。

 スポーツをして身体を動かしている時でも人は雑念を捨て無心になる事が出来る。

 目を瞑るのはあくまでイメージを持たせる為。それによって開始が容易になる。

 指のつま先。そこに至る血液と神経を探り脳に刻み付ける。

 親指をゆっくりと曲げながら、新しい血液を送りつけるイメージ。呼吸を吸う。

 人差し指をゆっくりと曲げる。酸素と霊力を消費した古い血液を心臓へと戻すイメージ。呼吸を吐く。

 午前過ぎの陽射し。その温もりを躰に取り込めて行く。

 線の細さで目を開きながら、外部からの情報も同時に取り入れる。

 雑念を捨て、自身の内部へと意識を注ぐ。

 肺と心臓を始点にゆっくりと熱が広がっていく。

 それはじわじわと。それはゆらゆらと。

 人肌に温めた湯で、身体を温めていくように。

 

「いい調子だね」

「……、……ありがとうございます」

 

 目を開く。

 呼吸は"不破のそれ"に戻して、声の方へと顔を向ける。

 青みがかった髪。肩を少し越えた辺りまで伸びた長さ。

 闘う者に特有の鋭さを持った瞳。

 何よりも空気が凛と張り詰めていて、慣れた者にとっては心地好い。

 

「どうかした?」

「いえ、回復が目に見えて早くなってきたんで、これも薫さんのお蔭だなと」

「うちの力と違うよ。恭也くんの精神統一が凄いから……うちは、本当に触りを教えただけ」

 

 薫さんが顔を伏せた。

 何故そんな辛そうな表情をするのか、俺には解らないし、軽々しく口にしてはいけない。はばかれる雰囲気があった。

 そして、そういう薫さんこそ、驚くべき速さで剣術の腕を上げていっている。

 踏み込みの確かさ。振り腕の確かさ。

 意図的に集中しなければ直らない部分が少しずつ修正――いや、矯正されて行っている。

 それらは主に、御神の技量が有るからこそだ。

 御神、不破に伝わる斬という基本形、徹という応用形。

 徹一つ取っても多くの者が完全な位に立っているが、それを一族以外の者が体得するには巻島館長で三十年掛かる。

 徹というのは云わば"剛"の境地なのだ。

 西洋科学的に、最も力の伝達が理想的に伝わらせる技法。それが徹に当たる。

 一点より波状に衝撃を浸透させる。

 剣道の達人が、老人が扱う技は"柔"。

 およそ、普通に鍛錬を続けていれば一生涯繰り出すことの出来ない一撃。

 御神・不破の本当の凄さは、そこに至る技量を意図的に教える事が出来たその一点に尽きるのだ。

 

「……薫さん」

「ん? どげんしたとね、恭也くん」

「そろそろ、薫さんの鍛錬に移るとしましょう。今日は有り難う御座いました」

「いや、有り難う。それじゃあ次はうちの番だね」

 

 ――――宜しくお願いします。

 

 お互いが頭を下げて、再び空気は張り詰めた。

 例えるならは引き絞った弓の弦。

 たゆまず、揺らぎもせず、引き締められている。

 

「……始めっ!」

「疾っ――――!」

 

 歯の隙間から漏れ出た呼気。

 小さな砂利を踏む音と共に、円い軌跡を腕に、剣先に、足捌きに描きながら、舞う様にしてその剣舞が始まった。

 

 

 

 一撃一撃はあくまで軽やかに、踏み込みは柔らかく。

 だが、受けてみれば分かるだろう。

 その一撃がいかに重く、いかに危険か。

 常に円を描きながら往なし、かわし、避ける。

 柔の防禦法……それが空手における流水の役割だろうか。

 更に一歩改良を重ねてみた。

 あくまで踏み込みの多くを善しとせず、重力に従って加速をつける。

 膝の柔軟さ、周りに必要な靭帯及び筋肉の強度。

 薫さんが完全にマスターし、実戦に使える様になるには後一年、といった所。

 

 ――――やはり、基礎体力が急務か。

 

 以前の美由希ならば聞いただけで躰が云う事に従っただろう。

 それだけの密度日々走り、日々小太刀を振らせてきた。

 薫さんにはまだ少し早い。だが、無理に鍛えすぎても疲労だけが溜まる。

 いつだって思う。

 

 ――人を鍛えるというのは、本当に難しい。

 

 

 

 三十分ほどが過ぎた。

 昼食までは後三十分ほど。

 薫さんの動きは少しずつ疲労の蓄積と共に無駄が多くなってくる。

 思考は胡乱になりながらも、雑念が芽生え、無心という最高の状態から離れていく。

 本当に目指したいのはこの更に一歩先、疲弊のし過ぎで無駄が省かれた動き。

 

「凄――っ!」

 

 ではあるのだが、流石にそれは高望みと言える。

 やはり筋力。柔軟で、濃密で、可動性に優れ同時に強度が高い。

 体が出来上がる前にそんな事をさせては身体を痛めるだけだ。

 あの時の、俺の右膝のように。

 

 目を膝へと向ける。鈍い痛み。

 幻痛という奴だ。

 長い間共に在り続けたが為に、その怪我自体無かった事になった今でも脳は誤解している。

 ならばこれは――例えるなら魂が痛んでいるのか? 

 

「さて、そろそろ終わりましょうか」

「そうかい? ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 

 ふー、と大きく息を吐く薫さん。

 肉体面よりも細かやかな注意が必要だった精神面で疲れているのか、余り汗を掻いている様には見えない。

 一応、とタオルは投げ渡す。

 

「どうぞ」

「ありがと。しっかし、恭也くんに見て貰ってから、十六夜に言われたよ」

「……何と?」

「剣筋が定まってきたって。それと計算されて鍛錬項目が組まれているから無茶をしない様にだって。ほんと、十六夜ももうちょっとうちを信頼してくれても良いと思うんだけど」

 

 怒ったように、僅かに口の先を尖らせる。

 普段の真面目さとのギャップが反則的に可愛らしい。

 

「……オホン」

「――――?」

 

 気を取り直して。

 過去に幾代もの先達の業を見てきた十六夜さんに褒められたのは嬉しい。

 小太刀と比べれば不慣れな長刀の鍛錬。

 基本は同じとはいえ、一抹の不安があった。

 

「薫さんは真面目ですから。逸る心を諌めようと思ったんじゃないんですか?」

「そうなのかな……確かにうちは、少し焦っちょる。少しでも早く一人前の退魔師になりたい。寝る時だってそんな事を考えてる自分がいる。でも、もう大丈夫だと思っちょるよ」

「それは何故?」

「うちには恭也くんみたいな立派なお師匠さんがついたからね」

 

 にっこりと、笑顔に連れて長い髪が揺れる。

 むー、あー。

 こういうのは反則じゃないだろうか? 

 顔が熱い。照れる。こういうのは、凄く困る。

 こう、見栄もはったりも何も無しに信頼されているというのは、とてつもなく恥ずかしい。

 

「こちらこそ、霊関係について、全面的に信頼させてもらってます。ありがとう御座います」

「あ、あはははは……」

 

 どうやら薫さんも解ってくれたらしい。

 言っている方は本心だからどうっていう事は無いが、言われている方は堪ったものではない。

 気恥ずかしくて顔を直視していられないのだ。

 

「それでは、今日はこの辺りで終わるとしましょうか」

「そ、そうだね。うちも良いと思う」

 

 互いに一礼。

 頭を上げて、気を抜いたように顔の力が抜ける。

 

「それじゃあうちはクールダウンを兼ねて軽く一周してくる」

「はい、くれぐれもお気をつけて」

「うん」

 

 薫さんは軽い足取りで館の裏へと向かって行った。

 

「ふう……」

 

 溜息を吐(つ)いて立ち上がる。

 躰に視線を向けて手を握ったり開いたり。

 かなり、調子が戻ってきた。

 体重は一気に跳ね上がり、平均を少し至らぬ程度。

 筋肉こそ無いが、普通に歩くだけなら支障はない。

 そろそろ、極々軽い運動を初めて良い頃だろう。

 

 

 

 

――君は知れ――

――真 か 嘘か――

――嘘 が 真か――

――それらは大して変わらぬが――

――ならばこそして意味を知れ――




原作のとらハって……今考えるとめちゃくちゃ……三点リーダ……の多い作品でしたね……


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08話

 ――という訳で、散歩をする事にした。

 例え万が一にしろ、億万に一つの可能性にしろ、一人になって襲撃を掛けられては抵抗すら出来ずに殺されてしまうだろう。

 薫さんが走って行った逆の方向、道場から玄関に向かってゆっくりと歩く。

 敷地内からは出ない。それが最低条件だ。

 

 砂利を踏みながら空を見上げ、風の柔らかさを感じる。

 陽射しはぽかぽかと暖かく、昼寝には持ってこいだ。

 若葉のように淡い緑の葉を付け始めた木に目をやったり、散歩というのは結構視線が忙しい気がする。

 

 驚いたことに、昨日から春休み。

 そういえば今日は食事が終わってから美由希の姿を見ていない。

 何か有ったのだろうか。

 そう思った時、重厚な玄関門を叩く音が聞こえる。

 

「頼もー、じゃないし……うう、美由希ちゃんとは会えんし、うちどないしたらええんやろ……頼もー!」

「…………」

 

 聞いた事のある声だ。

 そんな筈は無いと否定しながらも、口元には笑みが浮かんでくる。

 かみ殺そう、勘違いだった時が余りに惨めだ。

 そう思いながらも、足は自然と速まって、玄関へと向かう。

 

「頼もー! ちょう、ほんま誰もおらんのやろうか? 桃子ちゃんは翠屋やろうし……」

 

 この家にはチャイムといった物が無い。

 無料で交換してくれる電話すらいまだ黒電話なのだから、そこら辺の時代遅れは徹底している。

 いや、まあ携帯電話だとか、ゲインベルグ社製の鋼糸だとか、そういった面は常に最前線だが。

 桐の箪笥とか、家具を主にして時代掛かっているのは否めない。

 観音開きになっている門をゆっくりとした動作で開く。

 

「たの――――え?」

「いらっしゃい」

「あ……君、は。……恭也くん?」

 

 何故俺の名前を知っているのか?

 だけど、今はそんな事はどうでもいい。

 俺が会いたいと願う人は、いつも――不思議と傍にいる。

 だから俺は、一つ覚えのように繰り返そう。

 

「お帰り、レン……」

「た、ただいまですっ!」

 

 記憶にあるものと違う、少しぎこちなく、かしこまった笑顔。

 それが悲しいといえば、悲しかった。

 

 

 

 レンを連れてとりあえず館裏へと戻ってきた。

 レンは小さなバッグを一つ提げているだけで、大きな荷物は全て配達らしい。

 既に我が家として機能し始めた不破家。

 俺はレンにお茶を用意した。

 会話はゆっくりと進む。

 食事の時間はいつもならばそろそろだと思うのだが、今日に限ってみんなを呼ぶ声は無かった。

 自己紹介を済ませると、レンは俺の事を知っていたと言った。

 

「うち、士郎さんから恭也くんの話、時々聞いてて。それで……うちだけやないって、うちも心臓の病気があったんですけど、戦ってるのはうちだけやないって……。勝手なんですけど、励みにさせてもろてました」

「いや……寝てただけなんで、あんまり言われると恥ずかしい。でも、退院おめでとう」

「ありがとうございますー」

 

 ――笑顔。

 こうして少しずつ互いの内心を語っていく内に、いつしか以前の様に互いの胸の内を晒し出せる様な、そんな仲に戻れるんだろうか?

 とても難しいように思う。

 だけど、不可能だとは思わない。

 以前出来たという事は、今度も出来るかもしれないという事だから。

 

「士郎さんですけど、恭也くんの事かなり気にしてたみたいですよー?」

「ほう? あの父さんがな……あんまり、想像できんが」

「いえいえー。そんな事ないです。士郎さん恭也くんの事話す時、いっつもちょっとだけ顔伏せて……」

 

 父さんが……か。

 レンには悪いのだが、本当に想像できない。

 いや、この前の道場の事を考えれば、少しは信憑性が持てる。

 だけど、できれば。

 我ながら矛盾した思いだと理解しているが。

 あの人には――――俺みたいな事で気に病まないで欲しい。

 他人の迷惑を考えない無茶苦茶で、それでも最後にはみんな笑っていられる。

 そういう強さに俺は憧れたのだから。

 まあ、全く気にしないならそれはそれで怒ったんだろうが。

 ぐ~~。

 自分の物とは違う、可愛らしいお腹の音がした。

 レンの顔は火がついた様に赤くなる。

 視線をあっちやこっちやと忙しく動かし、落ち着きがない。

 もじもじとさせた手が可愛らしかった。

 

「そろそろ昼飯の筈なんだが……。一度、行ってみるか。俺も腹が空いた」

「は、はぃぃ~……」

 

 情けない声。

 恥らっているのだろう。

 でも、お腹を空かせるだけの元気があると分かって、少し嬉しかった。

 

 

 

 今日の料理番は玄さんだった。

 恐るべき技量で瞬く間に料理が出来上がっていく。

 火の使い方は豪快にしてこまやか。

 例えるならレンの早さに晶の巧みさと言った所か。

 流石玄さん。他の人ならありえないと思える事も、不思議と納得させてしまう物が在る。

 五人単位の大皿が五つ。他の人たちは各々外で食事を取ってくるらしい。

 料理が後れた理由もそこにあったとか。

 

「ほえ~。あの人前々から思っとったんですが、むっちゃ巧いですなー。うう、うちショックや……」

「いやいや、やっぱり年季が違うだろ。ああ、そういえばレンの料理か……また食いたいな」

「……また?」

「いや……、気のせいだろう」

「うちで良かったら是非とも。腕振るわせてもらいます」

「ああ、楽しみに待ってる」

 

 だがまあ。

 その前に普通の料理をそろそろ食べても良いとは思うんだがな…………。

 色々と気を使って貰っているのは理解しているのだが、やはり毎日雑炊やおかゆでは物足りない。

 色々な歯ごたえ、独特な風味と味わい。それらが楽しみたい。

 今も香ってくる海苔の香ばしい匂いも確かに良いのだが……。

 

「恭也くん、どうかしたん?」

「いや、頂くとしよう」

「はい」

 

 今日の所はレンも雑炊のようだし、我慢するとするか。

 ステンレスの鈍い光を放っているスプーンを手に取って雑炊をかき込む。

 玉子と出汁の味、そしてご飯自体の甘味が有って何とも表現しがたい独特な味わいがある。

 

「これは……ガラで味を出してるんやろうか……」

「…………。……昆布も使っている」

「ほあ……。隠し味ですか。恭也くん味覚良いんですね」

「…………ご馳走様」

「早いっ!」

「食事には時間を掛けない方なんだ」

「あんまし躰にはようないですな」

「悪いが主義だ。それに量を摂らないと時間が保(も)たない」

 

 ずずず、と煮出された番茶を飲む。

 それともこれは麦茶なのだろうか?

 大量生産されたよく分からない程に薄まったお茶は学校の食堂を連想させた。

 

「……ごちそうさまでした」

「お茶が無いな。要るか?」

「あ、どうもですー。少し多めにお願いできますか?」

 

 マグカップに茶を入れる。

 レンは直ぐ口に付ける事はせず、テーブルの下に置かれてあった鞄をまさぐる。

 中からはアルミ箔の薬が出てきた。

 一、二……全部で七種類ほどある。錠剤が六に粉末剤が一だ。

 毒々しい紅色、主に白色。錠剤は見ているだけで厭なイメージを持たせる。

 レンは随分と手馴れた様子でそれらを粉末剤の袋に入れていく。

 こちらに気付くと、レンは気まずそうな顔をした。

 

「いや、これも後二ヶ月なんです。後遺症とか出たらあきませんから……」

「そうか……。治す為、なんだからな」

 

 何も言える事は無い。

 頑張れ、とは少し違うような気がする。

 レンはお茶を含むと、次に薬を口に入れた。

 じっと見ていた事に気付いた為か、ぎこちない笑み。

 配慮が足りなかっただろうか?

 やはり、自身が不健康である所を見られて喜ぶ人間などいない。

 それが強がる癖のあるレンなら、尚更の事だっただろう。

 俺自身、人に配慮が足りないというのは自覚している。

 この過ちを次は繰り返さないようにしよう。

 そうすれば何時か、限りなく人に不快な目に会わす事も無くなるんじゃないか。

 先は随分と長そうだ。

 

 

 

 食事を終えてからはのんびりとしていた。

 二人でそのまま二階に上がり、談話室に座って階下を眺める。

 外は三割ほど散って若葉が見え始めたソメイヨシノが見えた。

 レンも春休みらしい。

 元々手術の為に、他の人間よりも少し早めに休みを迎えたそうだ。

 裏庭で干された布団を見て顔をほころばせている。

 料理と洗濯が好きだというのだから、レンは家庭的だ。

 母さんも翠屋で働く日々だから、随分と助かっていただろう。

 はて、そうなるとこの小間使いさんの多い屋敷で、レンはそんな事をしているのだろうか?

 …………目に浮かぶ。

 パリッと乾いた沢山のシーツで小さな体が埋まってしまっている。

 毛の先だけが出ていてもふもふと動くのだがシーツはくちゃくちゃと丸まったままレンを――――

 

「恭也くん?」

「む……」

「ずっとうちの顔見て、どうかしなはったんですか?」

「いや。…………少し、顔色が悪いな」

 

 本当はレンの事を考えていただけだった。

 だが、誤魔化す理由を探そうとしてみると、レンの顔色が悪い。

 妙に血の気が無かった。

 レンが微かにたじろぐ。

 

「そ、そないですか?」

「ああ。どこか、体調は悪いんじゃないのか?」

「いえー、大丈夫ですよー」

「…………」

 

 レンには悪いのだが、余り信用は出来ない。

 前の世界では心臓の病気はなんとも無かった筈だ。

 それが今手術を受けたという。

 海鳴に行っていたというから担当はフィリス先生ではないかと思うが、それにしたって前の世界よりも悪くなっているという事か……。

 

「あっ……」

「っ――――!」

 

 思った矢先だ。

 レンの躰がふらりと揺れたかと思うと、次の瞬間には倒れ始めていた。

 ゆっくりと、コマ送りのようにレンの頭が落ちていく。

 背もたれも肘掛もない椅子はレンを支えてくれない。

 世界には色が付いたまま。

 それでもいつもよりも格段に速く動いてレンを受け止めた。

 記憶にあるレンよりも手術後で軽い筈だというのに、痩せ衰えた体には強い衝撃になった。

 

「――――っ!?」

 

 鈍い痛み。

 レンが異常とも思える強さで腕を掴んでいる。

 苦痛で顔が歪んだ。

 だが、果たして手を振り解いても良いものなのか。

 レンの顔は蝋のように白い。

 か細い体が呼吸と共にかすかに上下している。

 

「うちは、ほんまに、だ じょう で から……」

「……馬鹿が」

 

 舌打ちしていた。

 何故こんなにも、倒れてまで無理をしようとするのか。

 息もほとんど絶え絶えで、まともに焦点の会わない目でこちらを必死に見やり。

 こんなにまで自らを偽って、人を偽って何になるというのか。

 こんな、こんな――――っ~~~~。

 

 

 

   ――その痛みは知っているんだ――

 

   ――その辛さは知っているんだ――

 

 

 これはきっと、父さんを失った時と似ている。

 直ぐ傍にいた人が消えたという消失感と、よく似ている。

 無傷であろうと、元気であろうと気遣ったあの時の俺と、本当に良く似ているんだ――――。

 その時の行動は相手を気遣っての物だった。

 皆が心の支えを失って不安定な状態に陥っていた。

 だからこそ、俺が少しでも力になれればと。

 本当は、その思いさえも焦りから来ていたと知らず。

 そんな俺と、目の前で苦しそうなレンと、一体何が違うのだろうか?

 俺は護りたいと、俺の家族を護りたいと思って無茶をした。

 ならばレンは一体何を望んでいるのだろう。

 俺達を安心させて、その末で自らが苦しんで、それでも望む物とは一体何なのだろうか?

 解らない。

 俺にはレンが考えている事を少しも理解できない。

 だが、やはりする事が似ている以上、望みの性質も似ているのだろう。

 

「…………馬鹿が」

 

 果たして溢した言葉は、一体どちらに向けての物だったのか。

 

 

 

 レンの部屋は一階にあるとさきほど聞いた。

 誰かに助けを頼むのが一番早いのだが、生憎と近くに気配がない。

 皆、一体何をしているというのか。

 横たえたレンをゆっくりと背負う。

 

「う…は…だいじょ……ぶ……努力しょ、はもう……いや、や」

「っ!」

 

 仕方が無かったとはいえ、この一言は聞いてはいけなかった気がする。

 これはレンの核心とも言えるものだろう。

 本人は墓まで持っていく気だったかもしれない。

 少なくとも、俺ならば人に言う事は無い。

 ならばこのまま誰にも話さず、そっと胸に秘めておくべきか。

 否。

 断じて否。

 俺が核心に触れたというのなら、それだけの謝罪にあたる事をしなければならない。

 足を踏ん張る。

 まだ自重を支えるのがやっとの枯れ枝は鈍い動きしか返してくれない。

 ふらつきながら、一歩一歩足元を確かめて歩く。

 

「……ふっ……ふっ……」

「は、ぁ……は、ぁ……」

 

 動きと共に胸に圧力がかかり、勝手に肺の空気が漏れ出る。

 同時、揺れが苦しいのか苦悶の呻き。

 

「……ふっ、う、ふっ……」

 

 階段を降りる。

 俺よりもはるかに低いレンの身長が助かった。

 段差の途中でレンの足を引きずる事は無かった。

 

「ふっ……ふ~~」

 

 ――降り切った。

 今の世界に目覚めて以来、人並みに動けない体では限界が近いらしい。

 息が切れるのは兎も角、視界が歪み始めた。

 春先と云うのに溢れ出る多量の汗。

 粘りの利いたそれは目に入るとかなり痛い。

 だというのに拭う事すら出来ない。

 背負い直してもう一度だけ気配を探る。

 ……居ない。くそっ、一体何を!?

 

「兄さん、どうかしたんですか?」

「……良い所に来た。レンの調子が悪い。部屋にまで運んでくれないか」

「了解」

 

 美由希の返事は簡潔で、即決だった。

 相変わらず気配を消して行動するのは注意しておくべきだったが、この際は目を瞑ろう。

 

「よっと」

 

 すっと背中が軽くなる。

 美由希は直ぐさま、迷うこと無く屋敷を進む。

 俺と違ってどこに部屋が有るのか知っているのだろう。

 美由希の後を、俺は意識をつなげながら辛うじて着いて行った。

 

 

 

 部屋というのはその人の特性を良く表すという。

 それは事実なのだろう。

 同じ間取りでありながらレンの部屋は柔らかく、そして物が適度に配置されている。

 少なくとも布団と鍛錬道具だけの俺の部屋とは違う。

 その部屋の端、レンが布団の中で眠っていた。

 美由希は居ない。

 医師には電話で連絡しておきます、とそれだけ言って館を出て行った。

 最近窺えなかった美由希の表情に隠された僅かな焦り。

 それが分かっただけでも、まだマシと言った所か。

 レンの調子は悪くない。

 先ほどと比べるとよっぽど呼吸が安定しているし、顔色も戻ってきている。

 それよりもヤバイのが俺だ。

 御神の呼吸法も神咲の呼吸法も効果が無い。

 視界は相変わらず一定としないで居るし、平衡感覚が割りと危険状態。

 耳鳴りと星の明滅。

 嘔吐感までついて回るのだから、         

         俺の方がよっぽど重態か。

 

「っ――――!」

 

 今一瞬、意識が跳んでいる。

 ヤバイ。

 ああ、美由希が居なくて良かった。

 あいつにこんな弱みを見せると、堪った物じゃない……。

 …………。

 …………。

 ……。

 

 

 

    ――お師匠――

    ――何だ、その師匠ってのは――

    ――うちにとって恭也くんは魂のお師匠なんです――

    ――……勝手に言ってろ――

    ――はいっ! うち、尊敬してるんで!――

 

 

 ……それは一体いつの事だったか。

 今となっては幻に消えた、過去の思い出。

 レンが母さんを頼って家に来てから、そう時間は経っていなかったような気がする。

 お師匠と呼ばれる事に最初は違和感を感じて、いつの間にかそれに慣れ始めて。

 そして今では恭也くん、だ……。

 それもまた良いのかもしれないが、寂寥感を覚えてしまうのは何故だろうか?

 俺自身が一度たりともレンに何かを教えた事は無いというのに。

 随分と、勝手な想いだ。

 

「…………」

 

 身を起こした。

 直ぐさま時計を確認してみる。

 倒れたのは僅か十分ほど。

 それでも体は幾分か動ける程度にまで回復してくれていた。

 レンは薬の影響か眠り続けているし、部屋は寝息だけが響く。

 だが、いつ容態が変わるか分からない。

 結局、医師が来るまでの間、俺はここから動けないのだろう。

 

「はぁぁぁあっ――――」

 

 ――息吹。

 空手や中国拳法でも使われるそれは、当然御神流でも取り入れられている。

 言ってしまえば呼吸法の一つだ。

 確か、一臣さんが息吹の達人だったか。

 一度取り替えられた体内の空気を、今度は神咲流の呼吸法へと切り替えてみる。

 吸う、吐く。吸う、吐く。

 無心になるという事。

 これは酷く難しいのだ。

 

『至人の心を用うるは 鏡のごとし。

 おくらず、迎えず。

 応じて、蔵せず。

 ゆえに よく物にたえて 傷つかず。』

 

 仏教が本だっただろうか。

 涅槃(ねはん)へ至る境地、それが無心ということになるとか。

 難しい事は解らない。

 俺はまだ、そこまで達観できていないからだろう。

 現に俺は、レンの寝息一つ、呻き一つで随分と心を乱している。

 

「……お師匠?」

 

 ふと、懐かしい呼び方をされた気がした。

 薄目だった目蓋を開く。

 レンが身を起こしていた。

 

「恭也くんも武術できるの?」

「……ああ、少しだけなら」

 

 気のせいだったか。

 いかんな。

 俺にとって、一月前まで繰り広げられてきた世界は余りに重い。

 だからこそ、今という現実を受け入れる事を出来ないでいる。

 人は今を生きている。

 だが、過去を忘れて生きて行けるほど、強い生き物じゃない。

 

「……難しいな」

「え?」

「いや、それよりも、調子はどうだ? 一度倒れたんだ、横になっていた方が良い」

「うちはほんま、大丈夫です。確かにちょーっと気分悪ぅなってもうたけど、心配は要りません」

 

 知らない人間が見たら騙されそうな演技。

 ああ、やはり。……とても難しい。

 レンはこうして倒れた直後でも、自分は大丈夫だと強がって見せる。

 俺にはレンを助ける事が出来ないのだろうか。

 塞ぎ込んでしまった心を、過去に受けた痛みを癒してやる事は出来ないのか。

 

――うちにとって恭也くんは魂のお師匠なんです――

 

 ……いや、そんな訳がない。

 たとえ、あの時の全てが夢だったとしても。

 俺は――――夢の中に生きていた俺達の心だけは本物だと。

 そう、思っていたいのだから。

 

「レン」

「は、はい? そんな怖い顔して、どうかしました?」

「……努力賞とは、一体何の事だ?」

 

 賭けだった。

 ゆっくりと、レンの表情が強張り、再び愛想の良い笑みに戻る。

 

「さあ。うちにはよう解らんです」

「お前が倒れながら言っていた言葉だ。横浜で、何があったんだ? ずっと、ずっと気になってた」

「恭也くん……っ! あんた、一体……」

「俺の事は良いんだ。今はまだ、とりあえず。それよりもレン、話してくれないか?」

 

 知りたいと俺は願っているのか?

 レンの心の奥をまさぐり、傷口を掘り返すような事を善しと思っているのか?

 分からないでいる。

 俺自身、聞くべきなのか、時に任せるべきなのか迷っている。

 時間は確実にレンを癒していってくれるだろう。

 

 なにしろ、間もなく術後の心臓は完治して、心配なく全力を出せるのだから。

 だが、それでは過去を拭えないのだ。

 今動けたとしても、過去に動けなかったという事が、いつまでも影になって残る。

 例えば、この治った、怪我さえしていなかった右膝が訴えかける幻痛。

 この痛みは、過去の苦しみは、今のように後遺症が無い状態であろうとも、決して消えてはくれない。

 

 だからこそ――俺は全てを聞いて、そしてレンの思いに報いたい。

 これはきっと俺自身のエゴだ。

 今考えた事も恐らくはこじ付け。

 本当の気持ちは別の所にある。

 家族を救いたいという、それだけを優先させた願い。

 切願して、願望して、切望して、そして何よりも渇望している。

 

 ――あの日、父さんの死を前にしてから。

 

「…………」

「…………」

 

 沈黙が続いた。

 空気は重く、互いの想いが拮抗する。

 暫く続き、根負けしたようにレンが溜息を吐いた。

 

「……解りました。恭也くんは案外しつこいんですなー」

「それだけ、俺にとって大切なんだよ」

「え――――?」

 

 茫然とした表情のまま、ゆっくりとレンは語り始めた。

 

「うちの心臓は、昔は本当に弱くて。毎日が真っ白い病室の中で、窓の外に映った景色だけが変わって行って」

 

 それに良く似た想いは知っている。

 初めて膝を砕いた時の、病院の白さ。

 全ての原因を、自らが起こした失敗を忘れろと、塗り潰されるような潔白さ。

 後悔すら消され、悔恨すら赦してはくれない。

 何としてでも治すと、強迫観念のように心の穢れを赦してくれない。

 幼い頃からずっと居たレンは、果たしてどんな想いで窓の外を見ていたのか。

 

「そんなうちは何かが出来ればそれで凄いって。周りには看護婦さんとか、お医者さんが常に手助けして、それで出来たらすごいすごい。うちはそんなの、耐えられへんかった……」

 

 周りでは皆が出来ている。

 自分ひとりが出来ないでいるのに、それでも頑張ったから良いと赦される惨めさ。

 結局何一つ成し遂げさせてくれない儘なさ。

 赦されるという事は、空虚さに似ている。

 何をしても反応がないのと、良く似ている。

 努力賞。

 その言葉に、どれだけの意味が隠されているのか。

 その一片を、感じ取れた気がした。

 

「うちはもっと出来た! 出来たんやっ! 一人で走って! 一人で動いて! もっと全力で、心配もされんと…………出来たはずなんや」

 

 最後にそれだけを呟いて、レンは静かに泣き始めた。

 顔を歪めて、声一つ出さず。

 

「ならば、これからは全力ですれば良い」

 

 気付けば口を開いていた。

 

「俺は、絶対に止めないから。もう、治ったんだろう?」

「あ……」

 

 近づいて、いつかしたように柔らかく頭を撫でる。

 ふわふわと柔らかい感触。

 触っているだけでこちらの気持ちが優しくなるような、そんな感触。さらさらで艶やかな髪。

 

「俺は、黙って見ていてやるから。……レンが全力で頑張ってる事を、ちゃんと認めるから。……忘れろとは言わない。でも、引きずってほしくは無いんだ。頑張って、頑張って。限界が近づいたら、今度は頼ってくれ。心配したくない」

 

 レンは驚いた顔をした後、胸に顔をうずめて泣いた。

 今度は叫ぶような声を上げて。

 

「うわあ゛ああああああ――――――――っっ!」

 

 その姿を。

 俺には流せなかった涙を。

 俺は愛おしいと思った。



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09話

   ――恭也くん――

   ――ん?――

   ――お師匠って呼んで、ええですか――

   ――……勝手にしろ――

   ――はい♪ 勝手にしますー♪――

 

 

 

「……理不尽だ」

「お師匠、我慢ですよ」

「…………何故『俺』が診察を受けねばならん」

「それはまあ、倒れたからとちゃいますか?」

 

 くそ、美由希の奴め。

 まさかレンではなく、俺の主治医を呼ぶとは……。

 ぬかったわ!

 

「くそっ、くそくそっ!」

「はい、口を大きく開けてください」

「~~~~~!」

「んー、異常ないみたいですね。疲労困憊、って奴でしょうか。とりあえず点滴でも打っておけば良いでしょう」

 

 それじゃあお大事に。

 言い残して初老の主治医は俺の部屋を後にした。

 

「美由希の奴め……」

「まあまあ、お師匠もまだまだ本調子とちゃいますし、倒れたんなら丁度良かったんでは?」

「確かに、な」

 

 そう言われるとそうかも知れないが、巧く嵌められた気がして腹立たしい。

 まったく、静馬さんと美沙斗さんはどんな教育をしたんだろうか。

 親の顔が見て見たいわ!

 ………………。

 ……あ、駄目だ。

 無茶くちゃ過保護に育てられてるイメージしか出てこない。

 気配を消すのは美沙斗さん譲りというか、美影ババアの技術だし、あの悪乗りは静馬さんから受け継いでいるようだしな。

 となると、それを逆手に取る方法は無いだろうか……。

 

「お師匠ー。いい加減うちの話無視してどっか行くの止めてくれませんか?」

「む、すまん。で、何だと?」

「異常が無いようでしたら、少しうちの荷物整理手伝ってもらえんでしょうか?」

「構わない。で、どこにある」

「それが……」

 

 

 

 どさりと玄関に送りつけられた段ボール箱。

 ダンボールには黒い猫のプリント。

 荷物に比べて余りに玄関が広い為歩くのには全く以て邪魔にならないのだが、一つ一つが重いのか平積みにされている。

 

「で、これを運べば良いわけか?」

「はい。海鳴総合病院に行ってた間、暇やったんでお願いしたんですが……」

「了解っ――――!」

 

 持ち上げようとして、失敗する。

 ドサッ、と石畳の上に荷物が落ちた。

 ……三十キロはあるぞ、一体何が入ってるんだ?

 

「レン、……中には?」

「うち、ちょっと読書が趣味でして……」

 

 それは美由希の趣味では無かっただろうか?

 

「よっと、ま、まあ運ぶとするか」

 

 足が少しふらつく。

 腰を入れて持たないと、今の俺ならば大変な事になりそうだ。

 たっぷりと時間を掛けてレンの部屋にまで運ぶ。

 

「ふっ、ふっ、ふっ……」

 

 繰り返し。

 

「ふっ、ふっ、ふっ……」

 

 繰り返し。それを四度。

 全てを運び終えた時には春先にも拘らず、シャツがぐっしょりと濡れていた。

 息が切れて動悸が激しい。明日は確実に筋肉痛で動けないな……。

 

「おおきにです。これ、タオル」

「ああ、ありがとう」

 

 受け取ろうと思ったら、レンがそのまま額にタオルを当てて汗を拭いてくれる。

 恥ずかしく顔を振るのだが、レンも中々に強情な性格だ、決して離れようとしない。

 俺が諦めるまでこうしているのだろうか?

 そう考えると莫迦らしくなって、抵抗するのを止めた。

 

「ル~♪」

「……ご機嫌だな」

「もちろんです。師匠はうちの為に働いてくれたんですから」

 

 何か矛盾しているような気がするのは気のせいか。

 む……、う、む。

 まあ、特定できないという事はさほど重要でもないという事だろう。

 俺は何気なくダンボールの梱包を解いた。

 

「ちょっ、何しとるんですか!? あーーー、ダメェェェぇぇええ!」

 

 信じられないくらい鋭い動きで突き飛ばされた。

 これほどの力が有るのなら俺が運ぶ必要は無かった筈だ。

 躰が畳みの上を滑りながら、俺は大した抵抗もせずに飛ばされるままになる。

 バイクなどから飛び降りる時もそうなのだが、こう云うのは抵抗すればする程に被害が大きくなるのだ。

 ザー、と顔が擦れる事ゼロコンマ数秒。

 停止した顔の上に、ぱさりと本が覆い被さった。

 

「あぁぁああああ!」

「――? それほどに恥ずかしがる必要があるのか?」

「うぎっ!」

 

 手に取って見るとどうという事のない、料理の本だった。

 しかも、空白には小さな可愛らしい、恐らくはレンの字で幾つもの注意書きがされている。

 

「うう、師匠に乙女の純潔がぁぁぁああ!」

「いやいや! 何を言ってるのか丸っきり理解できんぞ」

「鍛錬を人に見せんのと同じで、うちの秘伝がー、ぬーすーまーれーたぁぁああ!!」

 

 もう、知らん。というより騒がしい。

 俺は理解するのを諦めた。

 レンには悪いが少し寝ていて貰おうか。

 

「ぎゃっ!」

「赦せ」

 

 ああ、やっと落ち着いてお茶が飲める。

 ズズズズズ……。

 

 

 

 レンの部屋でシュールにお茶を楽しんで、今日から日課にしようと思っている散歩を続ける事に。

 労働の後は軽い運動をすると疲労が消えるのだ。  いつもは道場の方にばかり歩いていたから、今日は逆側から歩き始める事にした。

 そこで、信じられない物を見た。

 

 惚れた。

 

 荒々しく伸びた枝ぶりに。

 猛々しく色濃い緑に。

 雄雄しく佇む奥深さに。

 その全てに目を奪われた。

 五葉松。手はつけられていない。

 雨に曝され、風を受けながらもしなやかに成長した姿は、俺が盆栽をしていなくとも心惹かれていただろう。

 高さは四十センチほど。縦横二十センチ幅の鉢に窮屈に納められている。

 

 ――見蕩れた。

 

 俺ならばこの松に対してどの様に手を加えるか、そればかりを考え始める。

 まず、鉢を変えるだろう。

 松自体の素晴らしさに反して、鉢は少々小さくなりすぎている。

 できるなら手を加えたくない。

 だというのに、自分の思うがままに形を変えたい。

 うずうずと、背筋に疼痛が走る。

 欲しい。

 何としてでも、こいつが欲しい!

 

 

 

 とりあえず走った。

 玄関に向けて全力疾走。

 この際、お前走れなかったんじゃないのか、という意見は無視しよう。

 靴を脱ぎ捨て廊下へ。そのまま駆け足で美影ばばあの部屋に入る。

 

「きょ、恭也、どうしたんだい?」

「裏庭の盆栽をくれ!」

「――――は?」

「道場と! 反対側の! 庭に放っとかれてある! 五葉松のことだ!」

「あ、ああ……松ね。うん、恭也が望むなら私は構わないよ?」

「そうか! それは! ありがとう!」

「…………」

 

 俺は感激の余り美影婆さんの手を取り上下に振っていた。

 美影婆さんの様子が少しおかしい。

 ああ、もしかして我を忘れて強く振りすぎたのだろうか? 心配だ。

 

「ふむ、裏の盆栽ねぇ……」

「何か、問題が?」

 

 意味深に何度も頷かれる。

 真逆、今更になって貰えない等と言うんじゃないだろうか。

 この人なら在り得る。ただ俺を困らせたいが為だけに!

 

「失礼だねぇ。そんな事じゃないよ」

「じゃあ何が?」

「いや、あれは誰の物でも無い。そんなら、不破の家にある以上、あれは私の物って事になる。さて恭也、問題だ。ここで私なら果たしてどんな行動に出る?」

 

 だから言ってるだろう!

 渡さないと言い出す――――

 

「そうだねぇ。交換条件と行こうか」

「む……」

「そんな嫌そうな顔するんじゃないよ。別段悪い条件じゃないんだから」

「そうか……」

「条件その一。私に対するババアと言うのは止めときな。せめて美影さん、とでも呼ぶと良い」

「……了解」

「条件その二。今度の土曜日にでも、私とどっか出かけよう。和菓子とか食べてさ」

 

 思っていたよりも、軽い条件だ。

 というよりも、この程度で済むのなら、こちらからお願いしたいくらいだ。

 いや、決してお願いなどするつもりはないが。

 

「了解した。美影さん」

「あ……」

「む、どうかしたのか?」

「いや、良いねえ。響きが実に良い」

 

 美影さんは少し様子が犯しい。

 口元で切り裂いたような笑みは、整った顔と相まって怖気が走るくらいに怖い。

 焦点は合っていない。虚空を見つめたまま我が身を抱いている。

 嫌な予感がする。

 極々身近に、こんな感じに程好くトリップする人間を一人知っている。

 

 ――かあさんだ。

 

「それでは失礼する」

「んなっ!」

「ではな、美影さん」

「――――くふぅ!」

 

 ピシャン。

 障子を閉めた途端、その奥でドサリと倒れる音がした。

 急に具合でも悪くなったか?

 ……真逆な。美影ババアに限ってそんな訳があるまい。

 俺は手に入った盆栽を思い、いつもよりも遥かに軽い足取りで庭へと向かった。

 

 

 

 ふむ、実に好い。

 なんとも心落ち着く黄昏であるかな。

 黄金に染まる太陽を受けて、なお存在を明らかにする『春風』。

 悪いが、本当に申し訳ないが、かつて手を入れてきた如何なる盆栽でも敵わないだろう。

 早速手をつける、などという事はせず、まずは原状の確認から始まる。

 枝の別れから葉の先々まで見据え、脳内でシュミレートしていく。

 ……と、ガヤガヤと騒がしい声が聞こえる。

 視線を向けると、一門の人間が帰ってきた所らしい。

 騒がしくありながらも実に楽しそうに、お互いを励ましながら自分たちの部屋へと戻っていく。

 それはかつて、一度は俺が望んだ姿だ。

 多くの友と共に業を高め、精神を研ぎ澄ます。

 だが、今の状況ではそれも叶わぬ夢と散りそうだ。

 父さんと静馬さんの対決。

 あの日、彼らは俺に対しどんな行動を取った?

 歩くのにさえ難儀を覚え、苦痛に顔を歪めていた俺に対し、彼らは何をしてくれたというのか。

 あまつさえ、よく分からない呼称と共に逃げ出す始末。

 

「黒……いや、違うな。昏き獣の王……だったか」

 

 その呼び名の意味は分からない。

 父さんや静馬さんも呼ばれていた。

 どの道、訊いたところで意味のない、詰まらない事なのだろう。

 

 ……まあ良い。

 こんな俺でも慕ってくれる人間はいる。

 フィアッセは喜んでくれたし、那美さんはあの時だって俺を手伝ってくれた。

 レンは再び俺を師匠と呼んで慕ってくれ、ならばこれ以上何を望むというのか。

 これで良い。

 高望みのしすぎは、足もとが疎かになる。

 両手で抱えて、丁度、護れるくらい。

 だけど、俺はこの両手で護れる限り、命賭けて、この矜持に誓って、きっと護り切る。

 

 ――――護りきって、みせるさ。

 

 さあ、鍛錬を始めるとするか。

 

 

 

 と思ったのだが、夕食だとレンに捕まった。

 昼間の一撃は記憶に無いらしい、我ながら上手く行った。

 疲れてたんだろ、体を休めろよ、と気休めを言って食事室に。

 既に皆が準備を終えて、待っていた。

 

「……遅れました」

「いやいや、構わないよ。夕食くらいゆっくりくつろいで食べよう」

「すんませーん」

 

 それぞれ残った席に座る。

 最近の指定席。上座と下座の丁度中間。

 静馬さんは今日も主賓――御神家だからな――として上座に座っている。

 砕けるにも幾分か節度を持って。

 その緩やかで、しかし清涼な空気が心地好く感じた。

 

「それでは」

 

 いただきます。

 手を合わして食事が始まる。

 何故か、今日の食事は豪勢だった。

 鯛の尾頭付きや近海の刺身、静馬さんや父さんたち成年者には酒付きという状態だった。

 

「今日はえらい豪勢だな……何か祝い事でも有ったのか?」

「士郎さん、レンちゃんの退院祝いでしょう」

「なるほど。レンちゃん、おめでとう」

 

 静かな声で祝言を述べたのは琴絵さん。

 父さんは言い掛けたところに割り込まれ、憮然とした表情だ。

 

「うち感動です……。うう、こないに好く思ってくれてるなんて、うち、うちっ!」

 

 声を震わせ顔を覆うレン。

 右手には目薬が。

 前々から思っていたのだが、こういう事にかけてレンはかなりの演技派だ。

 みどり亀印のスリッパは一体何処から出しているんだろうか。

 きっと永遠に解らないんだろうな…………

 そんなこんなで恒例の夕食、静馬さんは“愛”も変わらず壊れてお話にならないので割愛。

 美沙斗さんも同様。

 いい加減俺も慣れてきた為か無視していると、実は誰一人意識を向けていなかった事に気付く。

 どうやら常習犯らしい。

 

「一臣、食べさせてやろう」

「いや、俺は……」

「私が食べさせたいんだ。……駄目か?」

「いや、少しも悪くないぞ、喜んでいただく!」

 

 一臣さんと琴絵さんは結構上手く行ってるみたいだ。

 表向きに見れば不破家の当主である一臣さんが実権を握っていそうなのだが、その実、裏の支配者は琴絵さんなのかもしれない。なんと言うか言葉少なげに、だというのに完全に手玉に取っている気がする。

 

 っ――――!

 

 何だか、背筋が震えてくる。

 これ以上考えない方がいい様だ。

 くわばらくわばら。

 

 

 

 ……パチンとスイッチを入れる。

 夜闇に落とされていた道場の半分だけに電灯が点く。

 壁に立てかけられている、畳の上に寝かされている、数々の木刀真剣摸擬刀。

 その中でも命が使うような極々軽い木刀を二本手に取る。

 

 ォン……

 

 振ってみた。

 躰に馴染んだ物と違いかなり軽く、重心の位置も少々手前にありすぎる。

 が、それでも今の身体を考えれば十二分。

 むしろ軽すぎる事で負担が減るくらいだろう。

 それに、なによりも。

 勝手が違えど、躰は細けれど、まだ心は業を覚えている。

 呼吸を整え黙祷。

 道場全てを心眼で見通す。

 左の壁まで四歩。右は……遠いな、十八歩といった所か。

 身体を落として軽く素振り。

 力は要らない。まずは、眠り続ける細胞を起こしてやろう。

 優しく、飽くまでも優しく。

 正面から、

 

「シッ!」

 

 袈裟に、

 

「セィア!」

 

 薙いで、

 

「ツェィ!」

 

 切り上げる。

 

 ――残心。僅か四撃で、心臓はバクバクと忙しなく暴れている。

 まだ早いか。まだ速過ぎるか。

 震えだす手を見る。僅か四撃。

 

「はっ――――」

 

 哄笑が漏れ出た。

 悔しい、とにかく悔しい。

 日々苦労して、誇れるだけ鍛え上げた躰は何処に行ったのか。

 膝を壊し、ならばと血を吐くまで走りこんだのは何だったのか。

 朝も、昼も、夕方も、晩も、深夜でさえも……。

 全てが無駄になってしまったのか。

 歯を、噛み締めた。

 弱気になるのは良くない。

 その代償と云うかのように膝は治った。

 父さんに会えた、静馬さんに、琴絵さんに、一臣さんに。

 本当なら会えなかった命にも会えた。

 何も悲観する事ばかりじゃない。

 

「薫さんにも言ったことじゃないか……」

 

 全くどうかしている。

 気を取り直し、鍛錬を再開する。

 今度は、無茶はしない。

 落ち着けと言い聞かし、道場をゆっくりと歩く。

 一番基本となる送り足。

 どうせ体は一から作り始めないといけないのだ。

 そこに至るまでの鍛錬も一番の基礎から始める方が良いだろう。

 小太刀を構えて道場を一周。その後足捌きは歩み足に変える。

 

「随分と性が出てるね」

「薫さん……」

「君はもう少し休んでいた方が良いと――――うちは思う」

 

 真っ直ぐな視線だ。

 恐らくは本心なのだろう。

 心配してくれている事に感謝しながら、俺は首を横に振る。

 

「何故?」

「薫さんと似たような理由です。俺も、力が欲しいんですよ」

「…………うちは君の事がよう分からん」

「よく言われます」

 

 父さんにもよく言われた事だ。

 お前の考えている事はよく解らん。およそ子供っぽくないからなー、誰に似たんだか。

 余計なお世話だ。父さんに似なかったから、俺はこうなってるんだよ。

 

「薫さんも汗を流しますか?」

「そうだね。うちも偶には、最初から確認し直そうか」

「いいで――――」

「お兄さん! 薫さんばっかりに稽古をつけるなんて、贔屓です!」

 

 命だ。

 道場の入り口で仁王立ちしている。

 その姿は幼いながらも威風堂々としていて、どちらかと言えば琴絵さんを連想させる。

 身長は140ほど。両手に小太刀を持つ姿は子供ながらも剣士のように見える。

 

「一臣さんは何気に押しが弱いからなぁ……」

「は?」

「どうかしましたか?」

 

 二人して聞いてくる。

 何気に息がぴったりと合っているな。

 

「それよりもお兄さん」

「なんだ」

「私にも教えて下さらないですか」

「構わないが御神流じゃないからな」

「それでも結構です。私はお兄さんに師事したいだけですから」

 

 うわ。命め、何の臆面もなく言い切るとは……。

 無茶苦茶恥ずかしい。

 おまけにこんなに真っ向から頼まれてしまうと無碍に断る事も出来ない。

 そんな事をしたら薫さんを教えている以上、不義の人になってしまう。

 真逆、ここまで見越しての行動じゃないだろうな。

 

「――――」

「…………?」

 

 感情が読めない……。

 くそぅ。まあ良いさ。どうせこうなったら返事は決まっている。

 

「それじゃ、宜しく頼む」

「こちらこそ宜しくお願いします!」

「…………」

「厳しく行くからな」

「私も不破当主の娘、少々の事ならやりこなす自信は有りますから」

「…………」

「…………あの、薫さんどうかしましたか?」

「う、うちも改めて宜しくっっ!」

「は、はい……」

 

 薫さんも妙にやる気を出している。

 俺も負けていられないな。

 何故か火花を散らしている薫さんと命を不思議に思いながら、俺は一度やる気を入れた。

 天井を越えた遥か天蓋の空。

 瞬く星々は鮮やかに、

 薄っすらと照らす月は刃のように細かった。

 

 

【挿絵表示】

 




挿絵はかつてとらハの二次創作にてお世話になった慣太郎氏からいただきました。


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10話

 痛み。

 筋肉の悲鳴で目が覚める。

 飛び上がり、それによってもう一度激痛。

 一瞬にして脳が覚醒した。

 恐らくは、酷使した筋肉は傷つき、ボロボロになっている事なのだろう。

 

「朝……か」

 

 呟いて起きる。

 空はまだ暗い。午前四時半、近頃特に起きる時間が早くなってきた。

 もはや病院で目覚めた時のように、体を起こすだけで息を切らすような事はない。

 もっとも、この二三日、筋肉痛が休まる事もないのだが。

 それもこれも、やっとの事筋力トレーニングを再開できる様になったからだ。

 

 障子を開ける。

 伸びをしながら寒気に身を震わせる。

 あと三日で四月。

 布団は薄めの物に変わっているし、昼にもなると暖気はかなりの物だが、やはり朝は寒い。

 寝巻きを着替え部屋を後にする。

 今日は――フィアッセが帰ってくる日だ。

 

 

 

 洗面台で顔を洗いながら思う。

 帰ってくるという表現は正しくないのかもしれない。

 何せ、フィアッセは喉を壊す事もなく、ティオレさんと競演も果たしているのだから。

 だけど、俺は敢えてフィアッセが帰ってくるのだと思いたい。

 顔をタオルで拭きながら思考を続ける。

 

 足は道場へと真っ直ぐに。

 俺が寝ている間、フィアッセは何度も不破の家に訪れていたのだと聞いた。

 そして美由希や父さん達に会い、病院にも訪れていたらしい。

 まあ、俺は寝ていた為に記憶は無いわけだし、そもそもにしてここが本当に現実なのか、まだ受け入れられていない。

 

 ――都合の良い夢。

 

 ある時に目が覚めて、寂寥感と共に惜しいな、何て思う可能性だってあるのだ。

 

「おはようございます」

「おはようございます、薫さん。……今日も俺の負けですか」

「教えを受ける身としては負けられんかんね」

 

 道場に入ったと同時に薫さんの挨拶。

 今日は俺の方が早いかと思ったのだが、そんな事はない。

 薫さんは俺が道場に来る前から常に準備をしているらしい。

 誰かに師事する者として当然とも言えるのだが、薫さんのそういう確りとした所は気持ちいい。

 

 何せ――他の場所と違い、俺の目覚めは特に早いものだから。

 本当だったら薫さんだってもう少し眠っていたい筈なのだ。

 その薫さんは、ほんの軽いウォーミングアップだけ終え、今は道場の隅で正座している。 そしてお互いと、道場への一礼の後、すっと立ち上がった。

 

「それじゃあ、始めましょうか」

「お願いします」

 

 今日も同じ様に、いつも通りの鍛錬が始まる。

 何時しか俺は、薫さんにコーチとして認められたようだった。

 

 霊剣十六夜が空を斬る。

 重い風の斬る音。受けた刀ごと断ち切られるような一撃。

 踏み込みは強く、そして鋭い。

 仮想の敵に対し道場内をかなりの速度で走り回りながる。

 

 十六夜からはかすかに霊力を感じ取れる。

 朝は霊力を使った鍛錬。

 昼はゆっくりと筋肉に酸素を送り込むようにして走りこみ。

 夕方に鉛入りの真剣で型の練習。

 始めてから一週間を越えた。

 

 ゆっくりと造り変えられてゆく細胞の一つ一つ。

 より柔軟に、より強靭に。

 筋繊維の一本から皮膚に至るまで。

 二の腕がまず一回り大きくなった。

 大幅な握力の増大が目に見えて分かる。

 

 踏み込みに、平行移動に安定性がついてきた。

 体力が付き始まると同時に、鍛錬の密度も濃さを増す。

 始めてから今日まで一週間。

 もう一週間もすれば無駄な筋肉も大分落ちている事だろう。

 実の所、先が楽しみだったりする。

 

「いやぁあぁぁぁ!!」

 

 本当に頑張る。

 表情は真剣そのもの。

 額から流れる汗も気にせず、振りかぶり方、足の出し方、それらを気にしながらも最速の一撃。

 剣先に至るまで駆け巡る重厚な霊力。

 姿を見せ始めた朝陽が道場に射しこみ、飛び散る汗がきらきらと輝く。

 

 張り付いた前髪、しっとりと流れる長い髪。

 凛々しい顔立ちと放たれる気迫に満ちた声。

 少しだけ、悪戯がしたくなるのは悪い癖という奴だ。

 気を煉る。

 呼吸を絡めて膨れ上げさせ、密度を伴って――――殺気を叩き付けた。

 

「っ――――!? ツェェイヤァァアアアッッッ!」

 

 ――燐光。

 十六夜から発された光は一気に開放され、驚愕に顔を歪めた薫さんの手によって体現する。

 振り被られた十六夜。

 凝縮された霊気を見て確信する。

 当たれば死ぬぞ、これは。

 腰は半身に、直ぐにでも飛べるよう踵を浮かしてはいるが、果たして避けれるかどうか。

 

「薫! 落ち着きなさい!」

 

 鋭い声と共に、十六夜からの光が急速に消えていく。

 十六夜さん、感謝しますよ……。

 振り被ったまま茫然自失といった様子の薫さん。

 口をあんぐりと開けている姿からは普段の凛々しさは一片も感じられず、少し面白かっ――――

 

「恭也君!!!!!!!!!」

 

 ――――訂正。

 少しも面白くないです。

 鬼か悪魔かと思われる強烈な表情で睨まれている。

 並の人間ならこれだけで尿を撒き散らして気絶しているだろう。

 恐るべし薫さん!

 

 

 

 ……そういう訳で説教のお時間です。

 俺は正座、薫さんは仁王立ち。組まれた腕が凛々しくて良い。

 十六夜さんは薫さんの後ろで「あらあらまあまあ」なんてのほほんとした顔で左右に飛んでいる。

 後ろだけを見ていれば少しも緊迫感がない。

 だが、目の前の人物は違う。

 どうやらご立腹のようだ。悪戯が過ぎたらしい。

 

「……なしてあげな事したと」

「むう」

 

 何気に本気で怒っているのか、鹿児島弁で話されている。

 額を見ればピクピクと青筋が痙攣していて、実に恐ろしい。

 正直に話すべきだろうか。面白半分、本音半分で薫さんの実力が見たかったと。

 いや、何も莫迦正直に総てを話す事も有るまい。

 

「薫さんの成長を見たかったんですが……すみません……」

 

 謝罪の気持ちは本心から。

 正座のまま頭を下げる。

 

「あっ、いや……その、そんなに真っ直ぐ謝られるとこちらが……別にうちは恭也くん……ゴニョゴニョ」

 

 薫さんは赤面してよく分からない小さな声で呟いている。

 とりあえず、許されたらしい。

 頭を上げる。視線が合う。

 

「――っ、うちはちょっと、顔を洗ってくる!」

「行ってらっしゃい……」

 

 走るは神速。

 あっという間に薫さんは道場を出て行ってしまう。

 もしかして、薫さんは体調でも悪かったんだろうか?

 そんな時に殺気をぶつければ過敏に反応するのは当然だ。

 しまったな……許しては貰えたが、もう一度後で謝っておいた方が良いか……。

 その時、押し殺した笑い声が聞こえる。

 

「十六夜さん?」

「いえ、少し薫の姿がおかしかった物で。しかし、そうですか、薫が……」

 

 十六夜さんは顔をほころばせてくすくすと笑っている。

 思わず見惚れるような優しい笑みだった。

 

「はい? 薫さんがどうかしたのですか?」

「恭也様……はぁ。薫も、どうやら苦労をしそうですねぇ……」

「――――?」

 

 十六夜さんは時に不思議な事を言うな。

 元々霊剣として存在しているからだろうか?

 それとも外国の方と云うのに原因があるのかもしれない。

 ともかくとして。

 

「大丈夫だと思いますよ?」

「それはどうしてでしょうか?」

「薫さんの傍には、いつだって十六夜さんが居ますから。俺も、十六夜さんみたいな人が傍にいれば無茶が減って良いんですけど」

「っ――――!」

 

 半分は本音で、半分は冗談交じりに言った言葉に対し、十六夜さんが息を飲んだ。

 ……むう、十六夜さんまで真っ赤に。

 季節代わりの風邪か? いや、そもそもにして霊剣が風邪を引くのか……分からん。

 

「おにーちゃーん。朝ご飯の準備できたよー」

「そうか、直ぐ行く! それでは十六夜さん、俺はこれから食事を摂りますが、霊剣の方はどうしましょう」

「あ、それでは母屋の方に運んで頂けますか?」

「喜んで」

「あぁ……」

 

 十六夜さんはうっとりとした声で霊剣十六夜の中に入っていく。

 まったく――――最近不思議な事ばっかりだ。

 

 

 

 いただきます。

 朝食は厳(おごそ)かに、そして静かに始まった。

 カチャカチャと食器と箸の音だけが部屋に響く。

 ふっくらと炊けたご飯とベーコン付きの二目目玉焼き。

 海苔と梅干とサラダが一つ、和食の料理が膳に並ぶ。

 ご飯を口に入れると水気と僅かな粘り、そして甘さが感じられる。

 よく炊けた美味しいご飯だ。

 

「恭也、醤油」

「はい」

 

 父さんに醤油注しを渡す。

 そのついでに皿に置かれてある梅干を一つ。

 

「しかし、恭也は回復が早いな」

 

 琴絵さんが感慨深い様子で言う。

 確かにまあ、十年ぶりに目覚めて一週間で動けたのは、自分ながら異常な回復速度だ。

 それもまあ、時折してくれる那美さんの霊力治癒と、呼吸法が有ってこそなのだが。

 神咲の人には本当に頭が上がらない状態だ。

 

「お兄さん、おかわりはどうですか?」

「ああ、頂こう」

「……どうぞ」

「命ちゃんばっかりずるいよー」

「ふん、こういうのは早い者勝ちって昔っから決まってるのよ、なのは」

 

 碗に飯を入れるかどうかで可愛く言い争っているなのはと命。

 

「ああ命、父さんにもご飯を装ってくれないか?」

「お父様はご自分でどうぞ」

「――――っ!? きょ、恭也君! 俺のたった一つの楽しっぐぇ! ごあ! ぐあぉ……」

 

 地獄の叫びかと思うように低く苦しげな呻き声。

 

「煩いよ、一臣」

 

 美影さんだ。

 文字通り“素振りも見えなかった”のだが、多分美影さんがやったんだろう。

 一臣さんは倒れこむ事すら出来ず悶えている。

 手を当てている所から見て、恐らくは肝臓か。

 徹でも込められていたのだろうが、下手したら死に掛けるぞ。

 

「……一臣」

「ああ、琴絵……俺はもう駄目だ。せめて最後はお前の柔らかな太ももの上で……」

「親という漢字は木の上に、立って、見ると書く。子供同士の話に嫉妬するような男を、私は旦那とは認めない」

「あうあうあうあうあうあう……」

 

 何だか、一臣さんが哀れだ。

 憐憫の情がひしひしと向かって行くのが感じられる。

 

「さあ、飯を続けよう」

 

 とりなす様に美沙斗さんが言う。

 今日は静馬さんとやらしー事にならないんだな。

 飛んできた鋼鉄製の箸のせいで、その言葉が口から出ることは無かった。

 というより美沙斗さん、照れ隠しにそんな物投げないで下さい。

 

 

 

 食事を終えて、朝の貴重な時間を盆栽「春風」の世話をする事にする。

 前ならば食後直ぐの鍛錬も出来たのだが、昨日試してみて死に掛けた。以後気をつけよう。

 そういえば薫さんは朝の走りこみに行ってしまったな。

 ……少し話がしたかったのだが、仕方あるまい。

 

「……ふむぅ」

 

 気分を入れ替えて目の前に集中する。

 ギシリ、と安物のパイプ椅子が音を立てる。

 まだ快調と言えない躰の為用意してもらった物だ。

 浅く腰を沈めながら、視界の先、切るべきか否かの新たな芽がある。

 手なずけられた自然ではなく、荒々しさに惚れた鉢だけあって、手を着けるべきかどうか悩む所だ。

 睨めっこをしながら目を瞑り想像してみる。

 ……うむむ。手を加えない方がここは良いか……。

 

「兄さん」

「美由希か……どうした?」

「いいえ。兄さんが鍛錬以外で熱中している様子でしたから」

 

 何だかそれだと俺が鍛錬以外に興味が無いように聞こえるな。

 勝手に納得している美由希には一言言っておく必要があるかも知れない。

 俺は釣りも趣味なんだ、と。

 ――っと、話しかけようと思ったのだが、口を閉じた。

 美由希は何やら真剣な様子で春風を見つめている。

 ふむふむと頷くと、こちらを見てにこりと破顔。

 

「盆栽も、中々の物ですね」

 

 ………………。

 頭が一瞬、真っ白になった。

 いつもの記憶だと、枯れているだの、年より臭いだのと言われていたのだから、この一言は強烈だった。

 驚いて顔を見回す。

 瞳には嘘を言っているようには思えない。

 本音なのだろうか?

 本心から言っている……それが解ると同時、ふつふつと喜びが湧き上がってくる。

 

「そうか……、漸く解ってくれたんだな!」

「に、兄さんっ!?」

 

 抱きしめていた。

 嬉しくって頭をなでなで。長く伸びた墨のような髪はさらさらと柔らかく指先にほどける。

 髪を櫛いてやりながら、背中を撫でる。

 そうかそうか。ようやく、漸く美由希もこの良さが…………

 何故か、美由希が暴れた。

 

「全くもう! 兄さんにはデリカシーが欠けています!」

「む」

「もう少し女性というものを考えて下さい」

「むう」

 

 真っ赤な顔をして、よっぽど恥ずかしかったのだろうか?

 俺たちは兄妹だというのに……いや、今は違ったんだな。

 

「美沙斗さんが言ってたぞ」

「な、何と……?」

「お前、実は俺の――――」

「失礼します!」

 

 美由希が空恐ろしい速度でその場を後にした。

 むう……。

 やはり美沙斗さんの言葉は勘違いだったのか。

 しかし、脱兎の如く逃げられるとは、俺も嫌われたものだ。

 

「ふぅ……」

 

 恋人になるとか、そういう事を別にして、美由希に嫌われているなら少し悲しいかな。

 

 

 

 

実/マコトと虚ろの二面世界

此方と其方の二つの世界

二つは一つ 一つは二つ

水面/ミナモに虚ろぐ月世界

目を凝らせ

心眼を見極めよ

鏡の世界は似て異なる物よ

 



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11話

  ――――ぎしり、と関節が軋んだ。

 口から漏れ出そうになる呻き声を、歯を食い縛って耐える。

 腕立て伏せを始めて十五回目、早くも肉体は限界を訴えた。

 

「……ふぅっ!」

 

 どしゃりと潰れるのではなく、仰向けに寝転がる。

 ガチガチに凝り固まった筋肉は思い通りに動いてくれないが、何とか道場の片隅に移動できた。

 短い呼吸。火傷するように熱く、浅く早い。

 顔からは多量の汗が噴き出ている。

 傍から見れば真っ赤な顔をしている事だろう。

 苦笑しようとし、その余裕も無く、息を必死に整えながら精神を落ち着ける。

 

ダン!

 

 床板に付けていた頭が揺さぶられるような振動。

 続いて小さく、高く聞こえる風の斬る音。

 午前の時間、鍛錬に精を出しているのは何も俺一人に限った事ではない。

 一臣さんもまた、道場で汗を流している。

 

「執ッッ!」

 

 放たれる一撃は異様なまでに速い。

 相手をしているのは不破家でも中ほどに位置する中年の男性、武光さん(だったと思う)なのだが、少々押され気味の状態が続いている。

 時に激しく踏み込みながら、視線や肩の動き、殺気の一つ一つで陽動を掛けるという、非常にハイレベルな鍛錬になっている。

 拍手の一つでも送りたくなるような好い斬り合いだ。

 俺が武光さんの代わりに立ったとすればどうなっているだろうか。

 …………三合目に力負けして斬られ死ぬ、と言った所か。

 幾らなんでも、体力面で劣りすぎている。

 まともな勝負にすら成ってくれないだろう。

 

「ありがとうございました!」

「ありがとうございました」

 

 二人の斬り合いが終わった。

 巧く誘導した一臣さんが一本を取った。

 退いて行く二人を後に、また新たな斬り合いを重ねる。

 道場は一瞬の停滞もなく活気に包まれ、研鑽を重ねる場と成っている。

 一臣さんがこちらに気付いたのか、手を振って近づいて来る。

 武光さんは他の人の相手をするようだ。

 

「恭也君、体の調子はどうだい?」

「筋肉痛が結構酷いので、超回復でも待って今日一日これからは休むつもりです」

「へぇ……随分と科学的な鍛錬に詳しいんだね」

「まあ。単純な体力をつけるには科学的な論理が近道ですし」

「良い事を言うね。目的の為に最高の手段を選ぶ――皆に言って聞かせたいよ」

 

 暗殺術というのは何も技術だけではこなせない。

 計画性とどこかで齟齬が起きた時の柔軟な思考、冷静な判断力。

 まあ、今となってはそれらの資質も使われる事が減っているようだが。

 

「一臣さん」

「どうかしたかい?」

「ええ。鍛錬を続けて下さい。俺はそれを見て勉強させて貰います」

「……りょーかい。まったく、兄さんにも聞かせてやりたいよ」

 

 小さく苦笑を浮かべて一臣さんが少し離れる。

 腰に差した小太刀二本を一瞬だけ確かめ、次の瞬間神速の抜刀を見せる。

 ――速い!

 見えるのは柄の部分だけで、その先ともなると目に追えず、軌跡だけが残像のように残っている。

 限りなく最速、限りなく最高。

 これでもう少し間合いが広ければ、と心から思う。

 だが、本当に戦うつもりなら、その抜刀に合わせた小太刀を用意しているのだろう。

 そこら辺は抜かりが無い筈だ。

 一臣さんはその後も、不破家の当主に恥じない動きを俺の為に披露してくれた。

 隣で命が眺めていたのは、多分関係ないだろう。

 

「命! 父さんは格好良かったかい!? ああ、愛しの琴絵にも見せてやりたいなあ」

 

 うん、多分。

 

 

 

 命が鼻で笑いながら出て行ったのを眺め、どかりと道場の外に一臣さんが座る。

 入り口の段差なので通る人の邪魔になりそうだが、しばらくはその様子も無さそうだった。

 時間を決めて鍛錬をしているのだろうか。

 そんな事を考え、俺はその横に座り一臣さんを眺める。

 彫りの深い顔。短めに切り上げられた髪。

 赤星にもう少し深みを足したら、こんな感じになるのだろうか。

 足は長いし、若い頃は結構もてたと思う。

 その一臣さんはあれだけの運動の後にも息を乱した様子も無く、額に浮き上がる汗を拭うだけだ。

 呼吸法と、鍛錬によって造り上げられた膨大で莫大なスタミナ。

 不破家の当主という肩書きは伊達ではない、か。

 そういう所も、少し赤星に似ている気がする。

 

「凄かったです。随分と参考になりました」

「そうかい? そう言って貰えると嬉しいよ」

「腕の速さも然る事ながら、重心移動が凄い。確実に相手の動きに対応できる……」

「…………その年で、そこまで判るんだから、凄い……」

「そうですか?」

 

「ああ。俺の時は兄さんや静馬さんに掛かって行っては負けて、我武者羅だった」

 

 想像する。

 俺が父さんに突っかかって行った時を、熟練だけを上げた様子。

 どんなに考えて、どんなに頑張っても、傍から見れば猪突猛進にしか見えない内容。

 でもそれは、今思えばとてもいい経験で――――。

 でもさ、と一臣さんは続ける。

 

「一番悔しかったのは、琴絵の奴に勝てなかった事なんだよな」

「琴絵さんに、ですか? 確か体が弱かったと思いますが……」

 

 莫迦言っちゃあいけない、と真顔で怒られた。

 

「琴絵の奴は確かに体は弱かったけど、剣の腕も弱いなんて思っちゃいけない。そりゃあもう、鍛錬のときなんかは運動できる時間が少ないからって鬼気迫る集中力でさ」

 

 何だか、そういう所レンと似てるな。

 レンも練習時間は少ないし、殆ど見せてくれなかったが、実力は凄かった。

 

「今でこそ何とか勝てるようになったけど、無茶苦茶だよ」

「はぁ……」

「五分間しか戦えないからとか言って、三分以上神速使ってるだぞ? 一体どんな化け物だって話だ」

「それは…………」

 

 琴絵さん、あなた何物ですか? 本当に化け物ですか?

 というよりも、五分なんてリミットは意味があるんでしょうか?

 

「まあ、無口で、優しくて、頑張って。だからこそ俺は勝たなきゃいけないって思ったんだけど。それで、初勝利の後晴れて求婚だ。お蔭でずっと結婚できなかったんだ。体弱いから結婚が遅れたって話、あれは嘘だぞ?」

 

「懐かしい話してるね、一臣」

 

 ――――ソレハ、突然ニヤッテキタ。

 

「うおっ、琴絵!?」

「――――っ!?」

 

 いつの間にか、一臣さんの背後を取った(当主だぞ?)琴絵さんは、首元に飛針を突きつけている。

 背筋が凍えた。俺ならば百回殺されても気付かなかっただろう。それほどの速さだ。

 辺りを凄まじいプレッシャーで覆っている琴絵さんは、だけど、少し様子がおかしかった。

 一臣さんの言葉に、顔を真っ赤にさせて照れている。

 そのギャップが少し可愛らしい、そう思った。

 ちくちくと飛針の先が一臣さんの肌をつつく。

 

「まだまだ、負けてないよ?」

「分かった。俺の負けです」

 

 一臣さんは琴絵さんの顔色に気付くこと無く、両手を挙げて敗北宣言。

 何と言うか、のろ気は別の場所でやって下さいって気分です。

 お腹一杯です。

 ごちそうさまです。満腹さまです。

 

「……恭也」

「は、はいっ?」

 

 突然矛先がこちらに向いてきた。

 なにやら良くない予感。

 

「君も、あまり恥ずかしい話を聞きだすんじゃない」

 

 わざとらしく振りかぶられた、飛針を持った右手。

 なにやら、良くない予感。

 

「俺は何も――――っ~~~~!」

 

 振り下ろされるのを、経験が伝える。

 これまで培ってきた勘は衰えていない。

 片手を上げながら集中――――速い。

 もう片手は鋼糸を掴み――――だから速いって。

 頭の上に鋼糸を張って――――はや。

 

「ぐおっ!」

「恭也君っ!?」

「しまった…………予想外だ」

 

 予想外じゃないですよ……。

 薄れ行く意識。

 囮だった右手をまんまと騙されて防いだ俺は、本命の左拳をしたたかに脳天に受ける事となった。

 ――――最悪な気分だ。

 暗転。

 

 

 

 温かい……。

 後頭部に感じる温かさが、気絶から目覚めて最初に思ったことだ。

 これまで何度か感じた、優しさを感じられる弾力を伴った感触。

 頭が気持ち良い。これは何の感触だっただろうか……。

 

 

『――♪ ――――♪ ――~~』

 

 

 ふと、聞こえる筈のない歌声を聴いた。

 柔らかな、俺がまだ随分と小さい頃から聞いていたフィアッセの歌声。

 だとすると、この弾力は?

 触ってみた。

 

「キャッ!」

「くぅ~ん?」

「な、何でもない、何でもないよ、久遠」

 

 聞き覚えのある那美さんの声。

 柔らかな太股の弾力。

 ということは、だ。焦るのはいつでも出来る、冷静になって考え――――られるか!

 飛び起きた。

 直ぐさま正座して頭を下げる。

 悪気は無かったとは言え、人の足を触るなんてのはふしだらだ。

 

「すみません!」

「いえいえ、こちらこそ……」

 

 何故か那美さんまで頭を下げる。

 不審に思って顔を上げると、真っ赤な顔で「役得でしたから……」なんてよく分からない事を呟いている。

 一体何の得をしたんだろう。

 俺には面倒な役目ばかりを押し付けてしまったようにしか思えないが。

 久遠がぴょんと跳んで、正座する俺の足へと乗ってくる。

 頭を撫でるとこそばそうに身を伏せる。

 

「恭也さん、私、お茶淹れて来ますね」

「あ、お願いします」

「任せといて下さい」

 

 那美さんはまったりとした空気を壊さないよう、静かに立ち上がると部屋を出る。

 障子越しに鼻歌が聞こえてくる。

 よっぽど俺が気絶している間に良い事が有ったんだろうなぁ。

 心が和やかになるのを感じながら、久遠の毛を撫でる。

 よく手入れされているのか、さらさらと滑るような手触りだ。

 

「気持ち良いか、久遠」

「……くぅー」

 

 眠たいのかも知れない。

 かすれる様な声で返事する久遠は膝の上でゴロゴロと丸くなる。

 柔らかな体は膝をも温かくして、とても心地好い。

 トタトタと廊下に那美さんの足音が聞こえるのと、久遠の寝息が始まるのとはほぼ同時だった。

 すっ、と障子が開く。

 神咲の良家で育ってきた為か、父さんの様に足で開けるような事もなく、盆を持っていたから一度膝をついている。

 料亭でしか見られないような入り方に、少し心が騒いだ。

 最近騒がしすぎたからだろうか、落ち着いた対応をされると心に来る物がある。

 置かれた盆から湯呑みを取り、何も考えず一口含む。

 途端、舌の上を走る熱さと痛み。

 

「熱っ!」

「く、くぅん!?」

「だ、大丈夫ですか!? すいません!」

 

 がしっと顔を掴まれて、まじまじと見られる。

 その隣、久遠は随分と驚いたようで、毛を逆立ててこちらを見上げている。

 那美さんと瞳が合うと、恥ずかしそうに目線を逸らされた。

 

「私、本当にドジで……。目を閉じて、口開いて貰えます?」

「こうですか?」

「あー、赤くなってます。すみません……えいっ」

「――――?」

 

 目を閉じていたって分かる。

 指の感触だ。

 口の中を霊力で治癒されている。

 かつて膝でお世話になった方法だが、真逆舌の火傷まで面倒見られるとは思っていなかった。

 痺れていた筈の舌に、春の日差しを思わせる温かさを感じると共に、火傷は跡形も無く消え去っていく。

 

「はい、もう目を開けて頂いて結構ですよ」

「ありがとうございます」

「いえいえー。お茶ってもう少しぬるめに入れる物なんですか?」

「八十度くらいが一番良いらしいですね。まあ、沸騰するのと違って判りづらいですが」

 お茶の事なら任せて欲しい。

 素晴らしさを語らせて貰おうと思ったのだが、ふと雰囲気を察して止めておく。

 それよりも飲む方を楽しもう。

 

 

 

「それじゃあ、腕見せてもらえますか?」

「はい」

 

 袖を捲って腕を出す。

 長年寝ずっぱりだったかららしく、真っ白な肌。

 浮き出た静脈の青さが不健康さを際立たせる。

 そして、その中でも一際色素のない部分がある。

 手首から二の腕へと上る様にあるそれは、かなりの傷痕だ。

 俺自身には覚えが無いのだが、これが過去、琴絵さんたちの結婚式前に戦った証なのだそうだ。

 那美さんが腕に手をかざすと、瞳を閉じて眉を寄せる。

 かなりの集中力がいるらしい。

 乱すわけにも往かず、どうしても所在無げに視線を漂わせてしまう。

 再び眠りについた久遠の姿だとか、目の前に映る那美さんの姿だとか。

 時間と共に、ゆっくりと腕に疼痛と熱が走る。

 切り傷が治りかけていく時特有の痒みは、以前膝の治癒をして貰った時の感触とは違った。

 怪我の種類とも関係が有るのだろうか。

 那美さんは深く息を吐くと、上目遣いに俺を見上げる。

 上気した頬と潤んだ瞳が、かなり色っぽかった。

 

「傷痕とかも消せるんですけど、どうしますか?」

「…………少し、待って下さい」

「はい」

 

 考える。

 以前と同じ様な質問。

 前の俺ならばその場で必要無いと答えるだろうが、今度の怪我は俺自身に覚えが無い。 つまり、この腕の怪我に対して何の思い入れも存在していないのだ。

 同時に、この傷には俺以外の人間の思い入れがあるだろう。

 一臣さんや琴絵さん、父さんだって、俺が倒れた事に対して大きな影響を受けている。

 どうするべきか。

 以前の俺ならば、今の俺ならば――

 何より、「高町恭也」ならどう答えるべきか。

 

「……やっぱり、このままで結構です。人が見たら目を背けるような物だろうし、俺にとっても見ていて気持ちのいい物じゃないけれど――――この傷と引き換えに救えた物が有るのなら、消したくないですから」

「勲章、って奴ですか?」

「そんな良い物じゃないですけど」

「……そうですか。じゃあ、このままにしておきますね」

 

 ……これで良い。

 以前の俺ならこうしただろう。

 今の俺でもこうする。

 「高町恭也」である限り、誰かを護って出来た傷は、不細工な勲章に他ならないのだか 本当に、不細工な物なのだけれど。

 そう答えた俺に、那美さんは嬉しそうに笑みを浮かべてくれた。

 理解された事に少しだけ、胸が震えた。

 

 

 

 カラーンとお馴染みのカウベルの音を聞く。

 ドアを開けた途端に店内の喧騒が耳に入り、翠屋の繁盛振りを思わせる様だ。

 

「いらっしゃいませー、あら、兄さん!」

「む、美由希か……今日は手伝いか?」

「ええ。――父さんも御一緒だったんですか」

 

 人間、接客商売をしていると化けるものらしい。

 家では俺に次ぐらいに感情を出さない美由希だというのに、今は惜しみない笑顔を見せている。

 何より、それを作り笑いだと思わせない技術が凄かった。

 店でも無愛想だと怒られる俺とはえらい違いようだ。

 

「あら、兄さんだって顔を作り変えるくらい造作もない事だと思いますよ?」

「だから人の思考を読むな!」

 

 殴った。それも全力で。

 避けられると癪だから、貫を使った。

 

「あうっ」

「おおっ!」

 

 痛そうな悲鳴を上げるのが美由希。

 貫を使用したのを見抜いたのか、感嘆の声を上げたのが静馬さん。

 

「美由希! 大丈夫か!?」

 

 駆け寄ってきたのが「美沙斗さん」だ……。

 何てタイミングが悪い。

 美沙斗さんは俺が殴った所を見ていたのだろう。

 大丈夫かい、なんて言いながら美由希を抱きかかえ、背中からは怒気を揺らめかせている。

 と言うか、美沙斗さんの翠屋エプロン……かなり新鮮だ。

 手足が長く機能美のある美沙斗さんは、エプロンを着てもかなり似合っている。

 何よりも、普段静かな印象を受けている為にギャップが大きかった。

 

「ああ、今日の美沙斗も格別だなぁ……」

 

 認めたくは無いが、こんな感じ。

 なにやら壊れる一歩手前の静馬さんは、ふらふらと吸い込まれる様にして美沙斗さんに近付き……そのまま深淵の闇に吸い込まれた。

 

 ドフッ!

 

「ぐふぉっ! 恭也くん……謀ったな!」

 

 好い加減その勘違いを直して欲しい物だ。

 襟を掴まれてズルズルと路地裏へと連れ込まれる静馬さん。

 襟を掴んで路地裏へと連れ込むのは美沙斗さんだ。

 狂気じみた表情は、廃ビルで戦ったあの日を彷彿とさせて、体が勝手に震えた。

 カラーンと、来た時と同じ様にカウベルが鳴り、それが余りにも場違いに店に響く。

 ――が、客はいつも通りのようにそれぞれお茶を楽しんでいる。

 翠屋って、以前よりも随分と変わったなあ……

 以前はそもそも、晶やレンでさえ遠慮して店では喧嘩なんてしなかったのに。

 客が慣れているから良い物の、少々問題があるように思う。

 

「それでは此方へどうぞ」

「了解」

「ご注文は?」

「アイス宇治茶大盛で」

「ありません」

 

 言われた。言い切られた。

 メニューを答えた瞬間、即答された。他の客に使っていた接客態度も無くなっている。

 何もそこまで断定しなくても良いのに。

 ……美由希は意地悪だ。

 

「買ってきたわよー」

 

 かあさんの声だ。

 素晴らしい。ナイスだ。

 流石は母か、流石は翠屋店長か。

 父さんをシュークリームで落としただけは有る。

 美由希を見つめて言う。

 

「アイス宇治茶大盛で!」

「…………畏まりました」

 

 深く溜息を吐いて、美由希が離れていく。

 途中にぼそぼそと、兄さんが壊れていく……なんて理不尽な事を聞いた。

 放っておけ。



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12話

 午後四時五分 ・イングランド便。

 電車の駅でお馴染みの掲示板がパタパタと回転するのを眺めながら、フィアッセの搭乗手続きを待つ。

 空港に共に来たのは父さんと美由希だ。

 父さんは空港に来るのも久しぶりだと、さっさとエレベーターに乗って飲食店の方に向かう。

 どうせ美味くないのだから、ムッツリした顔で帰ってくるのだろう。

 流れ続けるテレビをぼんやりと眺める美由希。

 他にも何人かが、同じようにして到着ロビーで暇を潰している。

 辺りをうろうろとする者、出口をひたすらに凝視する者。

 俺の場合は後者だったりする。

 電話越しだけでしか知らない「現在」のフィアッセ。

 果たして、「今」のフィアッセと記憶のフィアッセとの違いは何処まであるのか。

 容姿は、性格は、はたまたもっと大きな、根本的な違いはあるのか。

 土壇場にきて緊張しているらしい。

 心臓が鳴り響き、少々やかましい。

 もし叶うならば――――

 

 俺の知るフィアッセよりも尚明るく、尚悩み少なく在って欲しい。 

 ガー、と扉が開いた。

 息を呑んで集中する。

 最初に、続々と日本人観光客の帰りが出てくる。

 扉が閉まり、停滞。

 周りに立っていた何人もが出てきた観光客の相手をしているのを横目に見ながら溜息を吐く。

 入国手続きにでも手間取っているのだろうか?

 いや、歌手として世界を飛び回っているのだから、随分と手馴れているだろうし。

 何より、彼女は日本語が話せるのだから意思疎通に問題はない筈だ。

 再び扉が開く。

 

「きょーやー!」

 

 『フィアッセの声』が俺の名を呼んだ。

 しかしその実、目に見えるのは初老の身体、フィアッセよりも低い身長――

 頭が痛くなってくる。

 

「親子だからって、声真似が巧すぎます、ティオレさん」

「あら、もう少し反応が有った方が嬉しいんだけれど……。随分と冷めてるわねえ、恭也」

「…………」

 

 無理やりに思考を切り替える。

 ティオレさんのおふざけには限がない。

 今はそれよりもするべき事を、最善を選択するとしよう。

 

「お久しぶりです、ティオレさん」

「ええ、久しぶり。病院で見た時よりも随分と背が高くなって……少し士郎と似てきたわね」

「あまり嬉しくありません。それで、フィアッセは?」

「ええ……あの子はねぇ……」

 

 何故そこで一旦切る。

 目を伏せて言いにくそうにする態度は、まるでフィアッセの身に何かが起こった様で――――

 

 出口を逆走して、安否を確認しようかと思って、止める。

 代わりに、全力でフィアッセの気配を探る。

 空港という人の多い場所。

 だが、それが何の障害になると云うのか。

 探す。

 フィアッセの気配を、一欠けらさえ見落とさないように。

 

「検査官の人にサインねだられて……有名になるのも困ったものね?」

「―――はい?」

 

 ティオレさんはのん気に、やっぱり若い娘の方が目に付きやすいのかしら、なんてぬかして……

 それは、ティオレさんの擬態が並々ならないからだろう、と突っ込んでやりたくなった。

 ともかく、無事なのが判り、ストンと力が抜ける。

 俺もまだまだ精神鍛錬が足らない。真逆、この程度で心を乱すとは。

 フフフ、と底意地の悪い笑みをこぼすティオレさんだった。

 そうだった。何より問題があれば、実の親であるティオレさんがここまで平然としているわけが無かったのだ。

 

「兄さんも、まだまだね」

 

 美由希にまで言われる始末。

 早く。

 フィアッセよ、早く来てくれ。

 

 

 

「校長先生……。もう少し規律に則った行動を――――!!」

 

 未だに入国手続きで四苦八苦しているだろうフィアッセを待つ俺の前。

 ティオレさんを叱責する一人の女性がいる。

 黄色が強い金髪。鋭い少々吊りあがった瞳と、理知的そうなフォルムの眼鏡。

 甲高くなりそうな声を無理やり、強烈極まりない理性で抑えていそうな女性。

 クリステラソングスクールの教頭、イリア・ライソンさん。

 ティオレさん個人のマネージャーや、生徒の管理なんかも一手に引き受けている敏腕マネージャー。

 だが、ティオレさんの勝手気ままな行動には苦心しているらしい。

 薄くひかれた化粧の下には、疲れた顔がある。

 疲れるのも仕方がない、と同情する。

 ティオレさんのような人を相手にするには、イリアさんは少々真面目に過ぎるのだ。

 学園全体に見れば嫌な仕事を一手に引き受けている、なくてはならない存在だろうが……出来れば別に、ティオレさん専属の相手が必要な気がする。

 労働基準法なんて言葉を知らないであろうイリアさんを少し憐れに思うのは、一時の間違いでは無いだろう。

 のらりくらりと逃げるティオレさんを前に、いい加減イリアさんも限度を越えかけている様だ。

 ギリッ、と似つかわしくない、歯軋りの音が聞こえた。

 ティオレさんを見る。

 瞳はこう語っている。

 

 ――少し、やり過ぎたかしら?

 

 殺気が迸る。

 今にも地団駄を踏みそうなイリアさんは、しかしそれでもギリギリ踏み止まっている。

 何ていうか、凄い人だ。

 ギロリ、とこちらを睨まれた。

 お前もこの騒ぎの一翼を担っているのか、という凶眼だ。血走ってて正気の瀬戸際か。

 精神力を総動員させて、平然とした表情を作り、流す。

 このまま見て見ぬ振りも出来ないので、眼前まで行って、真っ直ぐに目を見つめる。

 

「イリアさん、お疲れ様です」

「あ――――いえっ! こちらこそ取り乱しまして失礼しました」

「改めて自己紹介を、不破恭也と申します」

「……イリア・ライソンです。以後、どうかお見知り置きを」

 

 随分と日本語が流暢な人だ。

 ティオレさんと云い、アイリーンさんと云い、クリステラソングの面々と接していると、外国人に日本語が通じる物なのだと誤解しそうになる。

 イリアさんがツイっとメガネの位置を調整すると、そこには既に辣腕マネージャーの顔があった。

 

 

 

 ティオレさんが今度は美由希を相手に話し掛けているのを良い事に、イリアさんに今後の予定について教えて貰う。

 イリアさんはハンドバッグの中から電子手帳を取り出すと、軽く一度頷いて、

 

「校長先生共々、不破さんのお宅に訪問させて頂きます。後のコンサートなどによる予定は一切が未定……」

「未定、ですか?」

「未定です」

 

 はあ、と溜息が一つ。

 イリアさん自身は満足していないのだろう。

 だが、俺としては嬉しい事だ。

 元より家族同然にこの数年過ごしてきた。

 いつかはツアーに出る事も覚悟していたが、それでも、物寂しい事に変わりはないのだから。

 

「まあまあ、良いじゃない。残り少ない命、最後くらいはゆっくりと、ね?」

 

 ティオレさんの言葉にハッとなる。

 海鳴を中心に開く事が決まったチャリティコンサート。

 それが、ティオレさんの最後の舞台になると、聞かされていた。

 皆の前で見せる姿とは違う、本当に疲れきった表情。

 時間軸的な違いはほとんど無い。

 つまり、ティオレさんはあと一年ほどで――――

 

「何を言ってるんですか! 先日医師から百歳まで生きる健康体だって言われたばかりでしょうに!」

「やっぱり、私も孫の姿が見たいから……それじゃあ恭也、私は士郎と会ってくるわね」

 ――は?

 ティオレさんは手を振って歩き始める。

 好々爺然とした姿は、注意深く見ないと何処にでもいるおばさんに思えるだろう。

 俺は手を振り返し、その姿を見送り……記憶の差異と向き合った。

 イリアさんの方へと振り向く。

 いささか困ったように目を逸らされた。

 

「病気、治ったんですか?」

「はい……。コンサートを終えるに連れて本来なら疲労が蓄積されるはずなのですが、校長先生の場合は例外らしく、益々盛んに……」

「信じられん……」

「私は、校長先生なら在りえるかと、最近思うようになりました」

 

 はぁ、と溜息を二人して吐く。

 ――ティオレさんには、敵わないな。

 

 

 

「――少し、失礼」

 

 イリアさんとの会話を中断して、扉の方へと意識を向ける。

 既に、前回の搭乗者が出てきてから五分が経過している。

 そしてその一枚の向こう側から、一人の気配を感じたのだ。

 フィアッセだと思う。

 記憶にある物よりも、確りとした感じの気配。

 それでも、感じられる優しさは変わってない。

 扉が開く。

 雪のような、白のポスターカラーを流したような、真っ白い服。

 柔らかな光を見せる金髪。

 

「恭也ー!」

 

 聞きたかった声で、聞きたかった相手に、そう呼ばれた。

 

「フィアッセ!」

 

 呼び返す。

 力強く、自分はここに居るのだと、教えるように。

 ドン、と飛んで来たフィアッセを受け止めて衝撃。

 倒れないよう踏ん張って、柔らかく抱き締める。

 大きくなったねと、耳元に声。

 柔らかく包み込むような、安心させる声。

 フィアッセも記憶にある姿よりも更に大きく、成長している。

 頼りなかった精神に、一つ壁を乗り越えた強さが出来ている。

 

「ただいま、恭也。……帰って来たよ」

「お帰り、フィアッセ。……また会えて、本当に良かった」

 

 目を瞑る。

 今、少しだけ。

 こうしてフィアッセがいるのだと実感したかった。

 ギュッと抱き締められる。

 俺の腕に、フィアッセの感触が返り、そこに紛れもなく居るのだと感じる。

 本当に―――

 

「ゴホンッ! お二人とも、一体いつまで抱き合ってるつもりですか?」

「イリア――――っ!」

「ッ――――!」

 

 弾けるようにして離れる。

 顔が熱い。鏡を見なくても解る、きっと真っ赤だ。

 フィアッセの顔を見れば、同じ様に赤かった。

 深呼吸をして、一気に跳ね上がった心拍を整える。

 全く、イリアさんにも困った物だ。

 もう少し優しい気付かせ方も有っただろうに。

 ジロリと睨んでみるのだが、イリアさんには効いた様子も無い。

 どうして俺の周りの女性はこうも強いのだろう。

 ―――ああ、イリアさんはティオレさんに鍛えられてるからか…………




過去作品の投稿で、「永全」という作品も掲載を開始しました。
永遠のアセリアというゲームとのクロスオーバーになります。


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13話

 場所を喫茶店に移り、俺とフィアッセ、美由希にイリアさんが向かい合わせに座る。

 なんと言うか、とてつもなく女性比が高いな。

 まあ、家に帰っても、これまで男は俺一人だったのだ。

 問題は別に無いだろう。

 しかし、だ。

 

 ソファを始めとした家具の重厚さは評価できる。

 それは机に然り、コーヒーの入ったカップに然りだ。

 店員の態度は親切で丁寧。広い店内は開放感がある。

 ここまでは文句の付けようが無い。

 しかし、だ。

 

「何故」

「アイス宇治茶がある訳無いでしょうに」

「しかし翠屋にはだな」

「兄さんが来るまでありませんでした」

「くっ――――!」

 

 隣に座った美由希が一々人の文句に口を挟む。

 元々茶々を入れるのが好きだったが、こんなに性格は悪くなかった。

 やはり長い間師事していたというのも関係があるのだろうか……。

 少しずつで良いから性格改善の余地がある。

 俺が密かに決心していると、楽しそうにフィアッセが笑う。

 俺としては嬉しくない事だったのだが、傍から見ていて面白いのだろう。

 見ればイリアさんも小さく笑みを作っている。

 

「恭也と美由希、仲いいんだね」

「これを見て、そう思うか?」

「うん。だって、息がぴったり合ってるし」

「そうですね。私の目に見ていても仲の良いように思えます」

「……気のせいだ」

 

 わざとらしく溜息を吐いて、コーヒーを一口含む。

 ……不味くは無いが、決して上手くもない。

 むしろ値から考慮すると家具代としての割合が高い気がしてくる。

 流石はコーヒーの青山といった所か。

 砂糖とミルクを少しずつ入れて、好みの味に変える。

 本当に美味いと思えるもの以外の飲み方は、一貫していた。

 

「歌の方は美味く行ってるのか?」

「うん! 最近はアイリーンとか、ゆうひとかと一緒に唄ったりしてるんだけど、今度紹介するね」

「ああ……フィアッセと共演するんだから、歌の方は上手いのか、二人とも」

「巧いよー、アイリーンは“若き天才”とか、ゆうひは“天使のソプラノ”とか呼ばれてるし。私も負けてられない」

 

 ゆうひさんと、アイリーンさん、か。

 どうやら友好関係は変わっていないらしいが、歌に対しての自信はついているらしい。 記憶にある引っ込み思案な性格は見受けられない。

 きっといい歌い手になっているのだろう。

 

「士郎、これで王手ね。ふふふ、楽しかったわ」

「…………いや、俺は諦めない」

「諦めなさい」

「真逆。それこそ冗談はよし子ちゃんだ」

「時代を感じさせる物言いね」

「隙あり!」

「悪いのだけれど、見せただけよ」

 

 後ろで何やら言い争っている。

 王手なんて言ってるが、将棋じゃない。チェスでも無い。

 むしろ会話の応酬なのだが、父さんの方が分は悪そうだ。

 まあ何にしろ、騒がしい二人と無関係の人間を装って眺める。

 

 耳を澄ませていれば分かるが、どうやら不破家での待遇を話しているらしい。

 二階建てで屋敷と言うに相応しい敷地内、果たして何処で寝るのか、という事について。

 ティオレさんは一階の案を強硬に主張。

 逆に父さんは二階に寝てくれと譲るつもりは無いらしい。

 しかし、それほどに議論するほどの内容だとは思えないのだが――――

 

「二人とも今年もやってる……」

「フィアッセ、今年もってどういう事だ?」

「例年同じ事をしているという事です、兄さん」

「またどうして?」

「ママと美影って仲良くて……それで……」

 

『そこ』で言いよどむのか。

 まあ大方の予想は出来た。

 つまり、父さんの考えに支持した方が得策だという事だ。

 

「父さ」

「私はティオレさんの考えに賛同します」

 

 美由希だ。

 絶妙なタイミングで、出鼻を挫く瞬間に、美由希がはっきりと言う。

 発声練習でもしてきたかのように澄んだ声はティオレさんの口元に勝利の笑みを浮かばせる。

 同時に父さんの絶望的な表情。

 理解できる。というよりも、予想してしまったのだ。

 美影(ババア)さんと、ティオレさんの最強タッグ。

 きっと、不破御神の両家で被害が収まる事は無いだろう。

 さっと、顔から熱が引いて行き、同時に冷や汗が滲むのを認める。

 叫んでいた。

 

「反対だ! 断固として拒否!」

「――へぇ、そう。恭也は私に味方してくれないのね」

 

 ティオレさんに見つめられただけでゾクゾクと背筋が暴れるが、無視する。

 明日の為に今日を犠牲にする生き方をしてきた。

 家の平穏を護る為に、貴重な時間を喰い潰して力を得た。

 今更過去を捨てる訳にも行かず、今更後には退けず。

 じっと目線を合わす。

 

「ふぅ……仕方が無いわね。士郎もいい息子を持ったものねぇ」

 

 ティオレさんが溜息を吐いてそう言ってくれる。

 平静を保った表情のまま、心の中で安堵する。

 …………助かった。

 あと十秒遅かったら、こちらが目を逸らしていたかも知れない。

 

 ウォォォォォオオオン! なんてエンジンが咆哮を上げながら道路を疾走していたのが三十分前。

 法定速度を三倍ほどに超越した運転手の名をティオレ・クリステラという。

 何故こんなスピード狂になったのかと問うと、不破士郎のせいだと言う答えが返ってきた。

 ふらふらと車から降りて深呼吸を数度。

 山の麓でバスを下りた心境に近い。

 後から降りた人間は、運転手を除いてほぼ全滅状態と言えるだろう。

 助手席からふらふらと降りたのがイリアさん。

 どことなく目の焦点が合っていない。危険な状態だった。

 

「校長先生……次からは私が運転を……うぅ!」

 

 吐き気を抑えようとしているのか、息を止めて顔を背ける。

 真っ青な顔色は病的なまでに酷い。

 

「ふー、酷い目に会ったぜ……」

 

 そういう父さんの表情から窺えるのは、疲労の色くらいの物だ。

 元々精神力はタフだし、慣れがあるのかもしれない。

 何より、ティオレさんの言う通りなら、あの乱暴な運転を教えたのは父さんという事になる。

 

「父さんのせいだろ?」

「違う! 騙されるな、俺の目を見ろ、嘘を吐いているように見えるか?」

「……………………、見えるな」

「莫迦息子め!」

 

 地団駄を踏むのはガキの証拠だ。

 父さんは父さんらしいが故に、俺から信頼を得る事は無いだろう。

 多分死ぬその時まで。

 次に下りてきたのはフィアッセだ。

 空港では綺麗に櫛梳かれてきた髪が、よれよれになっている。

 溜息のように一言。

 

「ママの運転は、上手なんだけどね」

「フィアッセ、レーシングに転向するよう進めてくれ」

「無理だよ。ママは趣味でしか運転しないし」

 

 趣味とは、悪戯という事だろうか? 

 それなら頷ける。同乗者に地獄を見せるのだ、最高の冗句だろう。

 ……嫌な思考だ。忘れよう。

 最後に下りてきたのが美由希。

 一人だけ平気な顔で下りてくる。

 バン、とドアを閉める姿は、悔しいが様になっている。

 

「さあ、行きましょう」

「分かってる」

 

 本当に、どうやって、あの空間で平静としていられるのだろう。

 美影さん、一体どういう訓練をさせたんですか? 

 ――溜飲一つ。

 現実逃避に浸りたい心境で門を潜る。

 静かな門内。

 まるで、門一つを隔てて別世界だ。

 出来ればこの静かな空間で在って欲しい。

 

「恭也君」

「薫さん……」

 

 静かで落ち着いた人に出会えた。

 背後でがやがや言っているのと対比されて、少し感動する。

 素晴らしい。

 美由希も口数は少ないが反抗的で困る。

 うん、ありがたやありがたや。

 

「きょ、恭也君、いきなり人を拝むのは一寸……」

「ああ、すみません。少々気が滅入ってしまった様でして」

「ああ、ティオレさんの事か……うん、確かにあれは疲れる」

 

 納得したとばかりに頷かれる事三度。

 どうやら薫さんも苦労しているらしい。

 よくよく考えてみれば、人をからかうならば真面目な性格の人の方が面白い。

 薫さんはティオレさん達からすれば絶好の獲物だっただろう。

 目と目が合うと、それだけでお互いの苦労が通じ合うような気がした。

 

「はぁ……」

「ふぅ……お互い、苦労してるなあ」

「恭也ー。あれ、薫? 久しぶりー」

「フィアッセ! 久しぶり。変わりはなか?」

「うん。元気にやってるよ。薫は?」

「うちも問題なか」

「そっか」

 

 言葉を交わすフィアッセと薫さん。

 俺が昏睡している間に交流があったのだろう。

 傍目にも実に仲が良さそうだ。

 

「ところで薫」

「ん、どげんしたと?」

 

 フィアッセが薫さんに近づいてぼそぼそとやり取りを始める。

 次第に剣呑な空気を纏い始める。

 一体何を話しているのか。

 時折、うちは負けん! や薫には、だのという言葉が聞こえてくる。

 もしかして仲が良いと思ったのは勘違いで、本当の所ふたりは険悪なのだろうか。

 

「お、お二人は仲が悪いんですか?」

「そげな事なかよ!」

「そうそう、恭也は心配し過ぎ!」

「…………そうか、俺の勘違い……」

 

 …………似てる。

 なのはを前にしたレンと晶。

 この二人の姿がダブって見える。

 まだ断定は出来ないが、二人の仲は余り良くないのだろう。うん、多分だが。

 

「兄さん」

「ん、美由希か、どうかしたのか?」

 

 気配が無いのには好い加減慣れた。

 要は相手が間合いに入らなければ良いのだから。

 美由希が如何に気配を殺そうとも、飛び道具以外で殺される事は無いだろう。

 訊ねた俺に、美由希は上品に頷く。

 

「ええ、お婆さまとティオレさんがもう直ぐ会われるみたいだから、念の為に報告に」

「そうか……分かった。見に行ってくる」

 

 気の滅入る報告だった。

 出来る事ならば、目を背けたまま仮初の平穏に浸っていたかったというのに。

 最近特に溜息が多くなった。

 気苦労が絶えないからなあ、などと愚痴りながら、母屋へと足を運ぶ。

 フィアッセと薫さんの話し合う気配が背中へと届いていた。

 

 

 玄関を上がって客間に。

 と云っても対談していたらこちらの胃が持たない。

 遠巻きに様子を眺めるだけなのだが見つかれば呼ばれるだろう事は確実だ。

 他にも気配を絶って、という考えもあるが、相手は一騎当千の美影さんがいるのだ。

 気配を消す事が神業なら、探る方も神がかっているだろう。

 

「無理、かな?」

 

 諦めた方が良い気がしてきた。

 想像するだけで背筋に薄ら寒い感覚が這い登るのだ。

 実際に行動する時には胃に穴が開いてるかもしれない。

 止めよう。

 踵を返す。来た道をそのまま帰り、玄関へ。

 その時、ガララ、と扉が開いた。

 

「あ……」

「恭也、私のテクニックはどうだったかしら?」

 

 向こう側にいたのはティオレさんと美影さん。

 二人して楽しそうに笑いながら玄関へと入ってきた。

 ティオレさんのわくわくと期待した眼差しを受けて、生きた心地がしない。

 この場合お世辞を言うべきか……いや! 天狗になって今後も乗せられたら困る! 

 しかし機嫌を損ねると――――ああ、どうすれば良いんだ。

 

「ティオレの運転じゃあ、辛かっただろうさ。私はもう二度と乗りたくないね」

「美影……貴女は昔からそう言って私の運転をけなすんだから」

「あの……」

「真実だよ。全く、わたしやぁあんたの車に乗ってから運転手雇う事にしたんだ」

「あの……」

「運転手って、玄さんのこと? 美影は人使いが荒いから」

 

 黙ってこっそり退散できないだろうか? 

 気配を殺さず、だが揺るがさずに一歩引く。

 …………、気付いていない。

 会話に熱中する余り、周りに対して意識が飛ばない様だ。

 助かった。

 そう気を緩めた瞬間、

 

「恭也?」

「どこいくんだい?」

「いや、そんな事言わせないでください」

「なんだ、お手洗いかい。行ってきな」

「もっと堂々と、ね? 恭也も男の子なんだし」

 

 冗談じゃない。

 会話に熱中する所か、一杯食わされた気分だ。

 そそくさと厠へと歩きながら、一心に願う。

 神仏を問わず、善悪を問わず。

 二人の悪さだけは何とかして下さい、と。

 

 無理。

 

 ――そんな無慈悲な幻聴を聴いた気がした。

 

 

 ……結局、二人の魔の手から逃れる事は不可能だった。

 根掘り葉掘り、有る事無い事言わされて聞かされて、精神が夥しく疲弊した。

 夕食という事で開放されたのも束の間。

 日常に穏やかな時間が流れる事は無いらしい。

 恭也、茶。自分で入れたらどうだ。うるせえ! 煩いのは父さんだ。

 といった会話を続けること一分ほど、かあさんにじろりと睨まれた俺はとりあえず大人しく。

「今夜はふふふ……」なんてかあさんの言葉を聞いた途端、父さんは哀れに思えるほど震えだした。

 今夜、何か恐ろしい事が起こるのかも知れないが、触らぬ神に祟りなし。君子危うきに近寄らず。

 聞かなかった事にしておくのが一番だろう。

 結論付けると、和解の証として茶を淹れる。

 

「……んー、てめえ、一人だけ上等な茶葉使ってるんじゃないだろうな」

「莫迦を言うな。同じお茶缶から違う茶葉が出るわけ無かろうに」

「分からん。なんせ俺の息子だからな」

「俺の父親は魔術師か?」

「いや、剣士だな」

 

 ……堂々と剣士を名乗るのは父さんらしいと言うか。

 これ以上の会話は水掛け論になりそうだったので、こちらから譲ってやる事にする。

 そこらにして置きなさい、とかあさんに視線を送られたことだしな。

 

「臆したか」

「――――」

 

 ギリ、と歯が鳴るが、我慢だ、我慢。

 当然のように、こちらに注目が集まっている。

 大人気ないのは一人で充分だ。

 

「桃子ー、見たか俺のつ――」

「久遠ちゃん」

「くぅん♪」

「ぎゃぁぁああぁぁぇぃぁあああああぁぁぉぁぁぁあああぁぁぁ!」

 

 …………充分だ。

 

 

 夕食を終えて。

 薫さんが型の練習をするのを見届けてから裏庭へと回る。

 薄暗い、母屋の光だけに照らされた裏庭の中、浮かび上がるようにしてフィアッセが立っている。

 ぼんやりと空を眺めていた。

 視線の先を追うが、星空が見える訳でもなく、特別何か際立つような物は見当たらない。

 

「フィアッセ」

「恭也……? どうしたの、こんな時間に」

「散歩だ」

「そっか……」

 

 フィアッセはもう一度、空を眺める。

 そして気が済んだのか、こちらを向く。

 何かを言いたいのか深呼吸して、ゆっくりと口が開いた。

 

「恭也にね、知っていて欲しい事が有るの」

「む、何だ?」

「うん。私の翼……恭也には昔、見せたよね?」

「ああ……」

 

 HGS……正式名称『高機能性遺伝子障害者』。

 能力者には特有のリアーフィンというものが現れる。

 フィアッセ自身は無理をして語った事は無いが、ルシファーと呼ばれるそれは、躰に対して良くないらしい。

 フィアッセはこちらを不安そうに見上げてくる。

 

 ――――そして、光と共に漆黒の翼が背中に生えた。

 

 出現と共に、幾枚かの羽が空を舞う。

 ふわりふわりと舞う羽は、本当に質量を持っているようで。

 余りにも幻想的な、数回しか見たことが無い光景に、俺は、目を奪われている。

 

「…………」

「…………」

 

 沈黙。

 フィアッセは、俺の答えを待っている。

 拒絶か、許容か。

 何気ない日常を愛する者にとって、HGSの存在は排他的な扱いを受けてきていた。

 だからこそこんなにも不安そうに、真っ直ぐとこちらを見つめてくるのだろう。

 

 それは本当に、本当に――――

 

 苦笑を漏らす。

 どうして俺の身近な人間はこうも容易く俺を信用するのだろうか。

 裏切られた傷は決して癒えないと云うのに。

 存在すら認められない辛さを、誰よりも知っている筈だと云うのに。

 小さな頃に親ぐるみで会った、それだけの筈の俺に、どうして――――

 レンにしても、フィアッセにしても。

 買いかぶり過ぎなんだと、自嘲する。

 だがまあ、期待されるのは嬉しいし、そもそも、答えはいつかと変わらない。

 

「綺麗だ。何度見ても、フィアッセのそれは、綺麗だな」

「ッ――――! うん、うん! ありがとぉ……」

 

 皿のように目を見開いて。

 フィアッセは次の瞬間、

 にこりと綺麗に笑う。

 嬉しくて、信じられなくて。

 それでも期待していたと云う様な。

 それは、

 その笑顔は―――




次回更新は幕裏(いわゆる外伝)を挟んで、神咲ルートを更新していきます。

切りが良いので、感想とか評価とかありましたらお願いいたします。


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幕裏の物語
幕裏01話「語り部は美沙斗」


語られる事なき幕裏の話

 

「語り部は美沙斗」

 

 

 

 

 その日、医師からの電話があった。

 長い間世話になりながらも、あまり話すことの無かった初老の男の医師だ。

 男は電話越しにくぐもった声で言う。

 

 

――不破恭也が目覚めた、と。

 

 

 

 

 

 駆けつける自分の足が遅い。

 速く、もっと速く。

 制限速度の倍は出して走った車もあまりにも遅かった。

 

 静岡県、御神宗家から車で30分ほどの場所にその病棟はある。

 治る見込みの無い患者、感染の恐れのある者。

 そして眠りの王子。

 

 そんな、一般病棟では既に対処が出来なかったりベットの問題で空きがなかったりする

 患者がそこには集まる。

 走る。

 院内であろうとはやる気持ちはなお早い。

 後ろをついて来る静馬さんと一臣が泣き言を言った。

 

「早く会いたいと少しでも思わないんですか!?」

 

 返事を期待しない。

 いや、その必要すらない。

 結局後に続く者がいてもいなくても、私は一秒一瞬でも早く再会を果たしたいと思ったのだから――。

 

 

 

 

 

 病室に辿り着けば直ぐ後ろには静馬さんと一臣がいた。

 それでこそ私の夫と弟だ。

 ガチャ、とノブが大きな音を立てた。

 

「美沙斗さん……」

 

 彼は呆然と呟いた。

 口を開き、目を見開く表情からは、信じられない――それだけが伝わってくる。

 きっと月日の流れが、そして自分の状況が解っていないからだろう。

 私は恭也の目覚めが現実であった事を素直に喜んだ。

 思わずも、目が潤み始めた。

 

「恭也……大丈夫かい?」

 

 自分の声は震えていないだろうか?

 恭也を安心させる事が出来ているだろうか?

 恭也は頷く。今驚いていたというのに直ぐに平静さを取り戻したらしい。

 信じられない胆力だ。

 

「ええ、起きたときこそ驚きましたが、今は落ち着いてます。……ところでそちらの方は? とても懐かしい人に似ていますが」

「おいおい恭也君……、とまあ仕方がないか。ずっと寝たきりだったのだからね。似ていると思われただけでもマシか。僕だよ、御神静馬だ、思い出してくれたかな?」

 

 

 静馬さんが苦笑して答えた。

 当然だ。

 私は覚えていて、静馬さんを覚えていないなどと言うのは在り得ない筈なのだから。

 だが、私の考えとは裏腹に恭也はその顔に不審の色を翳らせていく。

 

 暫くの沈黙の後、恭也は一臣さんですか、と問うた。

 なるほど。

 一時的なタイムトリップにより、記憶にある顔と、今の顔とがすぐに結びつかなかったのだろう。

 それなら理解できる。

 

 考える私の隣では、一臣が涙ぐみながら頭を下げた。

 恐らく、あの時最も恭也の不幸を悲しみながらも喜んだのは弟の一臣だろう。

 あの日以来、当主となった弟の頑張りぶりは目を見張るものがあった。

 

「全く……何がなんだか」

 

 恭也の呆然として声が、何故かいつまでもリフレインして耳に残った。

 

 

 

 

 それは忘れることすら出来ない、十年以上前の話だ。

 忘れるにはあまりに辛く、悔やむにはあまりに身勝手。

 狂った桜、サクラさくら…………。

 空を舞う桜の華と、地に滴るおびただしい血液。

 俺はその光景を、一生忘れることなど出来ないだろう。

 そう、絶対に――――

 

 

 その日は護れなかった日だ。

 その日は俺が護りたかった奴が、逆に俺を護って目の前から消えた日だ。

 

 狂ったサクラと、壁に突き刺さる折れた小太刀だけがやけに印象深かった。

 俺は様々な思いを篭めて、その日を悔恨の日と呼ぶことにした。

 

 

 

 俺がその全てを見届けたのは、その全てが終わった後だった。

 その日の俺は、不破の家で行われる弟の一臣と、御神で長い間世話になって、だというのに何の恩も返せなかった御神琴絵の結婚式の準備に追われていた。

 仕方ねえなあ、なんて文句を言いながら、それでも俺は笑っていた。

 正直な所、御神や不破の家は年寄り連中が嫌いだったが、それ以上に二人のことは大切だった。

 不破の長男に生まれた。

 人を殺すことでしか役に立たない技術で天才と呼ばれた。

 人から距離を置く技術。人の内心を見透かす技術。

 精神干渉法、情報操作法。

 そんな事ばかりを覚えていく俺にとって、全ての心を赦せるのは、本当にごく僅かだった。

 だからだ、俺は文句を言いながら、そのくせ誰よりも浮かれていた。

 自分でもその日の大半は笑ってた記憶ばっかりだし、一つ50キロはあろうかって段ボール箱も軽々と二つ三つ持って移動していた。

 

 不意にだ、金属同士が打ち合う音が聞こえてきた。

 そんな事は本来在り得ない。

 めでたい日に真剣でやりあうなんて、素振りならともかく、それも道場外で。

 

 かっと頭に血が昇るのと同時、背筋は逆に冷えた。

 その時初めて、俺は自分自身の浮かれと、迂闊さを呪った。

 走る。早く、速く、疾く!

 

 門を潜るなんて事はしない。

 不破という一門ゆえに、非常用の脱出路は幾つか有った。

 その内で最も最短距離を選び走る。

 

 急いだ筈だった。だというのに戦闘は既に終わっていて、早くもざわめきが有った。

 先に着いていた静馬が振り返る。

 その顔は真っ青だった。

 

 静かに首を横に振る。

 今度こそ俺は体という体が冷えきった。

 力の入らない身体を叱咤して、俺はその惨状を目の当たりにする。

 

「恭也ァァァァァァァアアアアアアアアアア!!!!」

 

 ――――自分の声はどこか遠かった。

 

 

 

 

 

 聞きなれたカウベルの音色が店に響く。

 それは来客か、はたまたお勘定を済ませたお客さんが鳴らす音だ。

 私は厨房から僅かに覗ける穴へと目を向ける。

 レジでは私の夫である士郎さんが接客をしている。どうやら来客のようだった。

 

「…………?」

 

 違和感。

 何がおかしいのか解らないというのに、頭に引っかかったそれはいつまでも残る。

 士郎さんの様子が、どこかぎこちない様に見えるのは気のせいだろうか?

 自問して、そんな筈は無いと首を振る。

 私が――結婚して以来常に傍に居続けた私が、違和感を気のせいだ等と片付ける訳には行かない。

 

「松っちゃん、ちょっと厨房お願いね? すぐ戻ってこれると思うから」

「ちょっ、店長!? ランチメニューでこの忙しい時にっ――――!」

 

 ベイサイドホテル以来の付き合いの松っちゃんが悲鳴を上げるけど、心の中で詫びいてカウンターへと向かう。今はそれ所じゃないから。ゴメンね?

 

「……士郎さん」

「ん? 桃子、どうした?」

 

 何気ない様子で士郎さんがこちらを振り返る。

 だけど、その表情にはいつもみたいな飄々とした様子が失われている。

 何か有ったんだ……さっきの電話?

 

 ついさっき、士郎さんの携帯電話で何かを話していた。

 仕事中だけど、不破家という特殊な家庭の事情でマナーモードにしていれば問題ないと言っている。

 士郎さんの様子が変わったのは、多分それから。

 

「士郎さんこそ、何かあったんじゃないんですか?」

 

 士郎さんは少しも顔色を変えないで、逆にまじまじと私の顔を見回した。

 きっと、傍目から見ていれば私が杞憂だったと、信じ込んでしまう様な反応。

 でも士郎さん。

 本当に何も無いのなら、どうしてあなたはそんなにも泣きそうに、不安な顔をしているんですか?

 

「…………」

「――――」

「…………はぁ、桃子には、敵わないなあ」

「それは、士郎さんが選んだ妻ですから」

 

 私は空気を軽くする為に、少しだけ茶化して笑う。

 士郎さんは、ふっと疲れたように息を吐くと、次にはあけっぴろな笑みを向けてくれた。



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幕裏02話「語り部は一臣」

 

 ――果たして俺は何に対して不信感を抱いたのだろうか?

 

 

「私たちが駆けつけた時には、二人ともが倒れていた」

 

 

 美沙斗姉さんが話を括る。

 それと同時に恭也君が唸り、ふむと一度頷く。

 何という落ち着いた姿だろう。

 

 八年という“記憶”、十八歳の“肉体”。

 だが、この精神力は成年し、苦労と辛酸を舐めた者でしかつかない様なレベルだ。

 黒く分厚い服。

 

 その一枚下には見るも無残に痩せ細った躰がある。

 恭也君は手を幾度か握る。

 動作はまるで自らの肉体を確認している様に思える。

 考えてみれば小さな頃から大人びた子どもだった。

 

 兄さんと並んでいれば口調は穏やかで、言葉数は少なく、それでいて節々からは優しさを感じた。

 よく、どちらが親なのかと揶揄したものだ。

 あの頃から恭也君はこんな姿だっただろうか?

 

 ――そんな気もする。

 

 恭也君なら不思議ではないと、そう思う自分がいる。

 単身俺と琴絵を――――いや、御神と不破のみんなを守ってくれた恭也君ならば在り得ると、思っている自分がいる。

 

 そうだ。

 恭也君が如何に落ち着いていても、それは悪い事ではない。

 むしろ精神的成長が有ると云うのなら、俺たちはそれを喜ばなければならない。

 

「失礼します」

 

 思考に没頭していると、玄さんが断りを入れて部屋に入ってくる。

 この人の名前を俺は知らない。

 唯いつからか玄さんと呼ばれていて、俺も気にせず玄さんと呼んでいる。

 

 料理は出来るし、植木の整理も手早く仕事は速い。

 いつも和服を着て鳶のような軽い足取りでいつも歩いている。

 玄さんは俺達の前にそれぞれ違った飲み物を置くと退室した。

 恭也君は牛乳をちびちびと、まるで子どもの様に飲む。

 

 その姿に、異常に安心した。

 おかしな話だ。

 子どもっぽい姿に違和感を感じながらも、そう在るコトに安心するなんて。

 

 ――――なるほど。

 

 つまり俺は、この時点で恭也君を大人と認めてしまっているらしい。

 士郎兄さんの事をいつ話し出そうか。

 そう思うと俺は、暗雲な気持ちを抑え、苦笑しながら時期を窺う事にした。

 

 

 

 

 不破恭也兄さんが私を、そして大切な家族を護った。

 私はそう言われて育った。

 主に言い聞かせたのは美影お婆様だった。

 

 和室に遊びに行った私に対して、お婆様は短く、何度か教えて下さった。

 幼い頃の記憶――――余りにも小さすぎて、私には余り恭也兄さんの記憶が残っていない。

 ただ、笑った時の笑顔がとても優しくて。

 

 ほんの少し目が怖くて、何かの拍子に泣いた私を撫でてくれた。

 頭に触れる手のひらは、今の私でも敵わない位にゴツゴツと力強そうで、私は困った表情ではにかむ兄さんの表情を見て、泣き止んだのだ。

 それは、何と色あせて、今更全てを思い返したいと望みながら、手に入らない甘美な記憶なんだろう。

 

「三年五組御神美由希、お母さんから電話が着ています。至急職員室まで――――」

 

 何だろうか?

 私は慌てて机を立ち上がる。

 卒業式を数日後に控えた教室は喧騒に包まれていて、クラスの何人かは私に視線を向けてくる。

 

 その時授業をしていた国語の教師に軽く頭を下げると私は廊下に出る。

 一体何の用だろうか。どちらにしろ、余り良いニュースとは思えない。

 御神の家柄を考えると襲撃が入ったのか、はたまた学校の近くに襲撃者が待ち受けているのだろうか?

 

 人の居ない廊下は伽藍としていて、自分の押し殺した足音が響いている。

 トクン――

 

「あれ?」

 

 一体どういう事か、私の胸は何かを暗示するように一度だけ大きく跳ねた。

 

 

 

 学校に入った一本の電話。

 それを元に、私は学校から全力で走り続けている。

 黒に近い濃紺のセーラーは動きを阻害するし、学生鞄は走るのに酷く適していない。

 

 兄さんがようやく目覚めたのに――――

 ようやく目覚めてくれたというのに。

 私は何故、こんなにもゆっくりと走っているのだろう。

 

 あと一歩前に、更に一歩分速く。

 ペースを考えない疾走は逆に息を乱して、呼吸はかすれてとても熱い。

 それだも、私はペースを落としたくなかった。

 

 少しでも甘える事を許してしまえば、二度と兄さんに会えないような気がして。

 二度と、面と向かって顔を合わすことが出来な気がして。

 

 ……嫌だ。そんな事は許せない。

 二度と会えないなんて想像しただけで私の背筋は寒くなる。

 一度救われたこの命。

 

 今度は私が護るんだ。

 あの日の手のひらの暖かさ。

 はにかむ笑顔の優しさと、私たちを護って倒れたという事実。

 

 もつれ掛ける足を気力だけで支えながら角を曲がる。

 ここから二百メートル走れば不破の表門が見えてくる。

 兄さんにもう直ぐ会える。

 

 そう思うと少しの間だけ、息切れが止まる。

 門を潜る。兄さんの部屋は昔から少しも変わっていない。

 私は息を整え、兄さんに無作法を指摘されないようゆっくりと階段を上がる。

 

 早く会いたいとそれだけを望みながら――――

 

 

 

 私の足は障子の前で固まった。

 忘れられていたらどうしようか。

 いや、そもそもにして私の想う兄さんですらなかったら?

 心が凍りつく。

 

 障子一枚を隔てた向こう側、果たして待っているのは歓喜か、絶望か。

 私はすっと障子を開いた。

 

 いつから気付いていたのだろうか。

 恭也兄さんはこちらを見て微笑を浮かべている。

 

 ――何故だろう?

 

 胸からこみ上げてくるよく分からない感情に、私は涙しているらしい。

 変わらない。

 私の記憶にある最後の光景と、兄さんは変わっていない。

 

 その姿は身長が伸びてしまっている。

 その姿は余りにも細く弱々しい。

 だけども、それでも――――ここに居るのは、紛れもなく恭也兄さんに違いない。

 

「兄さん、本当に……恭也兄さんなんですね」

「ああ、美由希……ちょっと変わったな」

 

 はにかんだ笑み。

 兄さんは逆に少しも変わってない。

 私が一体、どれだけ、心配……したと――!

 気付けば走っている。

 兄さんの胸に顔をうずめ、胸に浮かんだ想いを躊躇せずに吐き出す。

 

「恭也、兄さん。恭也兄さん――ッ! ……良かった。もう、無茶はしないで、兄さん、と、話せないなんて、もう私、耐えられないよ」

 

「すまない……、すまなかった。もう大丈夫だ」

 

 背中を優しく撫で擦られる。

 手のひらは温かくて。

 記憶に残る感触よりも少しだけ、骨ばっていた。




次回からは神咲編と読んでいたストーリーに進みます。
忙しくなっちゃったので、タイミングを見てガガッと更新予定!
しばしお待ちを!


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神咲編
神咲編 01話


 目覚めと共に鍛錬が始まる。

 呼吸を始めとした、主に霊力を交えた鍛錬が普段するもの。

 

 だが、今日は少し別のメニューを始める。

 静かな道場の中で、俺と薫さんは対峙する。

 

 瞳は真っ直ぐ、一瞬の隙さえ許さないと相手の目を見る。

 気迫は上々。揺るがない剣先は並々ならぬ精神力を窺わせる。

 俺は無手で手を出さず、殺気だけを放つ。

 

 じわりと噴出す粘り気のある汗が、額をゆっくりと流れる。

 腕を動かす訳でもなく、身体を動かす訳でもなく。

 ただ気配だけの戦闘。

 イメージトレーニングという言葉は正しくない。

 

 気配で人を殺す事は出来ないが、ある程度精神を揺り動かす事は出来るのだから。

 疲弊し、磨耗していく精神を無理やり立たせ、戦闘可能な状態へと組み立てる事は非常に困難な物だ。

 それを考えると、薫さんの気配は荒く、だけど骨組みの確りとした物だった。

 

 基本を押さえ、何度も反復してきた物だけが得れる剣気。

 殺気ではなく、薫さんは何処までも純粋な闘気に溢れている。

 恐らくは幼い頃からの賜物であり、十六夜さんのお蔭なのだろう。

 

「くっ……」

「…………」

 

 声を上げたのは薫さん。

 主に霊を相手にしているだろう彼女にとって、俺の様な人間の殺気は辛いだろう。

 だが止めない。

 

 俺には神咲一灯流について教える事は出来ないのだから。

 忌まわしき血に濡れた剣か、刀の使い方を教える、それ位しか出来る事は無い。

 そして、今の薫さんが求めているのは純粋な力だ。

 如何にすれば鋭く斬れるのか、速く動けるのか、気で圧されないのか。

 それだけならば、今の俺でも充分に教えられる事だ。

 

「…………」

 

 相手の剣気に対して威嚇、陽動。

 そして気を収め、相手の注意が散漫になった瞬間に、これまでで最大の殺気を叩きつける。

 

「あ……」

「大丈夫ですか? お疲れ様です」

「……うちは大丈夫。ありがとうございました」

「ありがとうございました」

 

 フー、とお互いが息を吐く。

 張り詰めていた心が恐々と元に戻っていくような感覚。

 そして鍛錬の終わりに安堵して、二人して笑みを浮かべた。

 

 


 

知り得た事実と 知り得ぬ事実

真逆と マコトは紙一重

震え奮える ココロとカラダ

帰り戻らぬ 過去への想い

ただ一つ

願わずには イラレズ

 


 

 

 用意していたタオルで汗を拭き、クールダウンに柔軟体操を終える。

 早朝訓練の性質上、食事にはまだ随分と余裕がある。

 それぞれ一旦着替えて、お茶でも飲みながら話をしようという事になった。

 

 道場を離れて自室に戻り着替える。

 姿見に映った自分の線の細さに顔を顰めるが、それでもまだマシになった。

 軽い運動なら行えるようになったのだから、随分と好調な回復なのだろう。

 

 だが、と思う。

 嘗ての俺ならば、膝を壊していても多くの動きをカバーできるだけの筋力があった。

 血を吐くような、嗚咽するような鍛錬を重ねて造り上げた躰が、確かに在ったのだ。

 

 ……今日は四月一日。新学期までは後六日。

 記憶の中では山籠りをしている筈だった。

 

 一日三千本の打ち込みと合間の筋力トレーニング。

 美由希と二人でこなした逃げ出したくなるような山篭り。

 その想い出が架空の物になると逆に、俺は御神不破存続という物を手にした。

 未だに戻れるような気がして仕方が無く、しかし戻りたいのかと言われればそうでもなく。

 

 ……中々に気難しい自分の感情を制御できないでいる。

 溜息。考えても仕方がないことだと気付き、少し気分が暗鬱となる。

 窓でも開けて、部屋の空気と共に感情も入れ替えようと窓際に寄り――――

 

 空に浮かぶ十六夜さんに目があった。

 

「あらあら、まあまあ」

「…………おはようございます」

「おはようございます。恭也様は朝が早いのですね」

「薫さんには負けますよ」

「ふふふ、薫は起きた時、実に眠そうにしているのですよ? それでも、朝の鍛錬があるって、熱心な事です」

「それは……知りませんでした。道場に行くときにはいつも気を引き締めていましたから」

「あらあら。また薫に怒られるような事を言ってしまったかもしれません。この事は内密に」

「……了解です」

 

 確信犯じゃないだろうか。

 楽しげに笑う口元を押さえて、ふわふわと十六夜さんが漂う。

 

「それじゃあ失礼します」

「はい。それでは」

 

 薫さんが待っているだろう。

 この事が顔に出ないよう、少し気を引き締めて、再び道場へと戻る。

 背後では未だに、ふわふわと質量を感じさせず宙を舞う、十六夜さんの気配があった。

 

 

 

 開け放たれた道場の横、足を放り出しながら並ぶ。

 分厚い湯呑みは、茶の温度を手にまで伝えない。

 少々軽さに欠け、また剣以外では金銭感覚の庶民的な俺でも、良い買い物かも知れないと思った。

 

 傾け、口に入った茶の味と香りを楽しむ。

 渋味と甘味の混じった味に満足しながら湯呑みを置く。

 口を開くのは今後の事。

 

 本来なら高校を卒業している年である俺。

 大学を卒業して社会人として動く筈の薫さん。

 よくよく考えてみれば俺は小学校すら出ていない事になる。

 

 もちろん、この年になって小学校からやり直すつもりは毛頭ない。

 経歴詐称になろうとも、高校までは卒業した事にして貰う。

 その事を話すと、薫さんが苦笑した。

 

「正直な所、勉強の方は大丈夫かい?」

「英語は書けなくても話せますし、日常生活に必要な情報は持ち合わせてると思いますので」

「そうか……ううん、益々……」

 

 そこで言葉を切られる。

 言いたい事は分かっている。

 一体どうやってその知識を得たのか、と云う物だ。

 

 だが、俺には説明のしようが無い。

 訊かれたなら兎も角、そうでない限り口外するのは避けたかった。

 何かが、決定的に決まってしまうだろうから。

 

「どげんしたとね?」

「いえ……自分が何故こうして此処に居るのか。それについて考えてました」

「そうか。うちも考える事がある」

 

 そこで一息。何かを覚悟したように顔を上げる。

 

「……そろそろ、話すべきかも知れんな」

「何を、ですか?」

 

 空気が急激に凛と張り詰める。

 静かで、重く。真面目な話なのだろう。

 薫さんは持っていた湯呑みを置く。

 

「うちが此処に来たのは今から六年前の事じゃ」

 

 それは知りえなかった過去。

 美影さんに聞こうにも、本人の口から聞くべきだと言われた、一つの謎。

 

 何故神咲家の当代である薫さんが此処に居るのか。

 那美さんは、久遠は関係が有るのか。

 十六夜さんが意志を込めて“宜しく”と言った意味は何なのか。

 

 力を求めた訳。

 記憶にある姿よりも遥かに弱かった剣技。

 それはこんな言葉で語られ始めた。

 

「その年、神咲家は滅亡した」

 

 




現在ありがたいことにライトノベル作家として生活できております。
締切が近く、あまり余裕がないので、感想の返信などできておりませんが、とても励みになっております。
ありがとうございます。


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神咲編 02話

 ――――真逆。

 それが最初の感慨だ。

 いや、神咲家が何かしらの問題を抱えていたのは理解していた。

 そうでもなければ繋がりを、言って良いほど親身で無かった不破家に、神咲家の当主が住む筈が無いのだから。

 だが、と思う。

 神咲家が滅んだ。

 それが一体どれだけ大それた事か、そちら側に疎い俺でも理解できる。

 日本最大の退魔組織。

 九洲を拠点とした三大流派。

 傍流亜流を含めれば、日本の三分の一は神咲家が占めている筈だ。

 それが―――滅びた。

 もしや、と思ったのだ。

 御神、不破を襲う筈だった結婚式場に設けられた爆弾。

 その主犯である龍の企みを、この俺が破った時点から、全ての歯車は狂っていたのだから。

 だから思った。だから考えた。

 神咲家が滅亡したのは、龍の仕業ではないのか、と。

 

「本当に醜い……うちにはとても信じられん事実」

 

 その語る表情の痛み。

 辛酸を舐め尽した痛みと辛さ。

 

「だけど、美影さんに調べ尽くして貰った事実は一向に変わりが無い」

 

 瞳に浮かぶ復讐にも似た冷たい怒り。

 

「事実なのじゃろう。うちは、心当たりが有るから……それだけに赦せん」

 

 侮蔑と、嘲りを、混沌と混ぜ合わせて凝縮したような、絞り出された声。

 幾度かの瞬きの後、薫さんは俺の方を向きながら、その後ろに在る何かを見据えて言い放つ。

 

「下らん出世欲に狂った神咲のヒヒ爺どもめ……。何時か、うちが制裁を加える」

 

 それは、考えていた予想とは違う言葉だった。

 だが薫さんは真剣に、神咲家の老害に対して怒りを抱いている。

 握り締められた拳が抑えきれない激情を表す様に、ブルブルと震えている。

 それだというのに、俺は心のどこかでホッとしている。

 龍でなくて良かった。

 俺が八門両家を救ったせいで、神咲家の人たちが死んだ等、到底許せそうに無かったから。

 そして大部分を占める辛酸を舐めるような胸のしこり。

 一つの悲劇が無くなったと云うのに。

 御神と不破が残っていると云うのに。

 世界のどこかでは悲しみに暮れる場所がある。

 その事実が鬱々と胸の中で残っていた…………。

 

 

 道場の中に湿っぽい空気が流れている。

 いつものしんとした張り詰めた物とは違う、どこか遣り切れない感触。

 薫さんが参ったなという顔で苦笑し、頭を掻いた。

 

「うん……そういう事で、うち等はそれまで下宿していたさざなみ寮から、不破家にお世話になっとる」

「そうですか……。難しい事は、何も言えませんね……」

 

 こう云う時は話す側も、話される側も、どうしても対応が難しい。

 父さんが死んでから何度か言う側に回った筈だが、その時どんな答えられ方が良かっただろうか?

 ……分からないな。いつでも割り切っていたから、気にした事も無かった。

 ああ、でも父さんが死んで最初の頃。

 一つ二つそういう言葉があった。

 

「そうですね、一つだけ」

「ん?」

「…………だからって薫さんが責任を感じる事は無いんですよ?」

 

 言ったのは誰だったか、今はもう、覚えていないけれど――――

 

「本当かい?」

「はい。今はそう思えないかもしれないけれど、薫さんが自分の道を決める方が、絶対に大切ですから。きっと皆、そう言います」

 

 確かにあの時、俺はこの言葉に救われたんだ。

 剣を持つと言った美由希を鍛えようと思った。

 自分の膝の分まで、美由希が望むならば強くしてみせようと思った。

 それはもう叶わないけれど。

 今は新たな可能性が見えてきたけれど。

 ……それでも、こうして胸に残っている。

 祖母ちゃんと、掻き消える様な声で薫さんが呟いた。

 

 

 茫然とした様子で家族の顔を思い浮かべているらしい薫さんを置いて、その場を立つ。

 当然薫さんが気付いていないわけも無く。

 それでも今は一人の方が良いと判断したのだろう。

 お互いに軽く頭を伏せて、その場を後にする。

 

「……ふぅ、知ったのは良いが、軽くない」

 

 そう、決して軽い事じゃない。

 本当なら俺が口出しするのもおこがましい事だ。

 見ていられなかった、と言うのが現実の所なのだが。

 道場を出て母屋に。

 その途中で、命の姿を見かける。

 良い頃合だし、特別朝が弱いって事も無い命だから、朝の鍛錬をしに来たのだろう。

 

「兄さん」

「ああ、命か。おはよう」

「おはようございます。今日の鍛錬は終わりましたか?」

「ああ。命はこれからか?」

「いえ、兄さんを朝食にお呼びしようと思いまして」

「そうか、感謝する。……薫さんだが、今は呼ばなくていいだろう。お腹が空いたら来るだろうし、来なかったら一人前置いといたら良い」

「そうですか」

 

 命は何やら急に機嫌が良くなった。

 一体何が嬉しいのか理解できないが、恐らくは食事を早く食べれる事が嬉しいのだろう。

 腰を少し越えた辺りしかない命に引っ張られて歩く。

 すっ、と障子を開けるといつもの面々で食事を取った。

 

 

 自室で鋼糸の鍛錬に励む。

 一本を操る事は容易く、二本までは普通。

 三本を越す鋼糸を自在に操るとなると、既に御神流の中でも抜きん出ているだろう。

 

「しっ!」

 

 呼気と共に繰り出す両腕。

 先端についた錘に沿って鋼糸が蛇のように疾る。

 一本、二本……三本は無理か。

 意識を集中していても、同時に全ての動きを把握するのにはまだ慣れが足りない。

 何よりも、指一本で細かい動きを与える頭の回転がまだまだ鈍い。

 反復練習を繰り返すことによって無駄な思考が削ぎ落とされて行くだろうから、問題は無いが。

 こうか……?

 こうだろうか。

 試行錯誤を繰り返すも、そう簡単に巧く行く訳もなく。

 十の指で操れた著者は、家事能力の達人だろうと邪推する。

 何せ同時並列思考が必要だからな、あれは。

 

「しっ、せっ、やっ!」

「精が出るねぇ」

「美影さん?」

「ああ、邪魔するよ。鋼糸の練習か……私も幼い頃はやったもんだ。三日少しで一本くらい増やして、結局一月で八本使えたかな」

「早いですね」

「まあね。女は地の力じゃどうやっても男連中に勝てないから、細かな業に長けるって訳だ」

 

 なるほど。

 無理に筋力をつけるよりも、業を伸ばして対抗する方法を選んでいるわけか。

 美影さんは懐から鋼糸を取り出すと瞬時に手を振る。

 風を斬る僅かな音がしたかと思うと、練習用に持ってきていた木の枝が絡め取られ、斬り放たれた。

 …………凄い。

 今更ながらにゆっくりと枝が畳に落ちる。

 切断面は糸特有の滑らかさがある。

 ごくりと飲み込んだ嚥下音が、随分と大きく耳に聞こえる。

 

「一番苦労するのは意外にも薬指でね。柔らかくしておかないと他の指まで曲がってコントロールが利かなくなる」

「なるほど」

「後は指毎に使う号数を変えたり。――まっ、創意工夫の余地は幾らでも有るって事だね」

「………………」

 

 脱帽する。

 簡単に言ってくれるが、口ほど簡単に出来る物じゃない。

 こうして三本操るのにさえ苦心するのだ。雲の上の話に聞こえてくる。

 

「俺に……出来るでしょうかね」

「さあねぇ。結局の所努力次第だよ、才能は二の次。邪魔したね、精々頑張りな?」

 

 言いたい事だけを言って、美影さんは来た時と同じ様に、気ままに部屋を後にした。

 残された俺は、視界から消えたのを確認すると、枝を観察してみる。

 高摩擦高強度である鋼糸は、のこぎりの様にどうしても切り口が荒くなるのだが……そんな風には見えない。

 やはり技術。

 持っている鋼糸の材質は同じもの。

 美影さんの言う通り、鉛のつけ方一つにしても工夫が行われているのだろう。

 努力努力。

 三月を前提に俺も頑張ってみるか……。




精神と時の部屋を使いたい


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神咲編 03話

 場所を移って一階の物置。

 鍛錬は結局三本目に成功する事も無く終わった。こういうのは感覚的な物だから、一度コツさえ覚えれば早いのだが、早々上手く行かないのが常だ。

 少し鍛錬の事からは離れようと、物置に収められている小説に目を通してみる。

 時代小説から始まりミステリーへと続く。これで本棚が一つ。

 SFが暫く続くと知識系の雑誌などに変わってくる。主には料理だろうか。

 

「ふむ……やはり剣客商売などは一度読んで置くべきか……」

「きょうや」

「む、久遠か……。久しぶりだな、その姿は」

「かおるがあんまりなっちゃいけないって」

「そうか。薫さんが言うのだから何か意味があるんだろう」

「うん、くおんもおもう。みんな言うから」

 

 小さな久遠は素直に頷いている。

 動く度に尻尾が右に左にと揺れて、本棚の埃を払っているが…………

 

「久遠、あまり汚れるとまた風呂に入る必要が有るぞ」

「うー。お風呂きらい」

「そうか、じゃあ出来るだけ汚れないように気を付けろ、な?」

「うん」

 

 パタパタと喜びを表すかのように尻尾が揺れる。

 右に左に。その度に本棚に詰まった埃へとぶつかり、毛並みを汚していく。

 

「……久遠、一緒に表に出ようか」

「うん!」

 

 物置から出て廊下。

 最近特に暖かくなってきた空気を感じながら歩く。

 久遠は付かず離れず、短い足で一生懸命に後へと続く。

 ……微笑ましい。

 つっかけを履いて盆栽の様子を見に行く。

 命名『春風』。

 愛しの盆栽。だと云うのに未だに手をつけられない……。

 じっくりと眺める俺に、

 

「きょうや、木がすき?」

 

 久遠が聞いた。

 

「む……そうだな。好きと言えば好きだ。こうして見ていると心が落ち着く」

「くおんも好き」

 

 久遠の好きは意味が違うだろうに。

 そう思ったが口には出さない。

 何より、純粋にそう云える久遠の考えは、共に居て心が和む。

 

「きょうや……」

「どうかしたか?」

「れいりょくが……ちょっとおかしい」

「む…………久遠には判るのか」

「うん、きょうやのは、いっしょじゃない」

「――――?」

 

 いつも通り椅子に座る俺の膝、久遠が飛び乗る。

 手でペタペタと腹を触ると、ん、と云って目を閉じる。

 ピリッ、と肌に電気が通った。

 外的要因による腹部の急収縮で身体を丸まりながら、苦悶の声を出さないよう自制する。

 油断していたから、少し痛かった。

 息を止めて、痺れをやり過ごす。

 

「だいじょうぶ?」

「……あ、ああ。次からは前に言ってくれると嬉しい」

「それじゃあだめだって、いざよいがいってた」

「何故?」

「みがまえると、こうかがないって」

「そ、そうか……それじゃあ仕方が無い。ありがとな、久遠」

「うんっ!」

 

 ビリビリビリ……。

 次こそ手加減無しに雷を撃たれて、俺は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 呼ぶ声が聞こえる。

 暗い視界。気絶していたのだと気付くのに少し時間が掛かった。

 全身の隅々まで神経を通して、体調を調べると、腹部が痛かった。

 

「痛っ、うぅ」

「恭也君っ、気付いたと!?」

「あ……ええ」

 

 頭を振って意識を確りとさせる。

 目を開けば、覗き込むようにして薫さんの顔がある。

 明らかにホッと息を吐くと、何だか申し訳無さそうに視線を逸らされた。

 

「久遠が悪い事した。ただあいつは嬉しかっただけで、悪意は無かったんやと思う。ほれ久遠、お前も謝らんとね」

「……ごめんなさい」

 

 横から聞こえる久遠の声。

 落ち込んでいて、普段の明るさが形(なり)を潜めている。

 片腕をついて身を起こし、

 

「構わないから。謝ったのなら、問題は無い」

「すまんね、恭也君……」

「いえ、薫さんもそう気にしないで下さい」

 

 伏せられた顔が酷く落ち込んでいるように思えてならない。

 目元を隠す長い髪のせいで表情が見えないが、真面目な性格だから本気で気にしているのだろう。

 腹をさすって疼痛を堪えながら起き上がる。

 足の先にまで注意深く神経を張り巡らせるが、後遺症は感じられなかった。

 むしろ、気だるさの様なものが消えている。

 他の人に見られた訳でも無いし、恥をかいた訳じゃない。

 問題は無かったという事にしておこう。

 

「で、久遠。なしてこげな事を?」

「きょうや、からだおかしい。いざよいもいってた」

「十六夜が?」

 

 薫さんの顔が訝しげに歪む。

 目を瞑り、暫く唸るようにして思案する。

 体がおかしいという言葉と、久遠の行動を、自分の知識と照らし合わせているのだろう。

 俺は久遠の頭を撫でながら、薫さんの言葉を待つ。

 久遠は気持ち良さそうに頭を腕にこすり付けてきた。

 すっ、と薫さんの目が開く。

 いまだ迷いを抱えながらも、真っ直ぐとこちらを見る。

 どこか奥深くまで見通されそうで、躰が勝手に身構えた。

 すまない、と謝罪が一言。

 

「十六夜に聞くのが一番なんじゃろうけど、少し恭也君、調べさせて貰えんか?」

「え、ええ。構いませんが……」

「服はそのままで良いから、後ろを向いてくれると嬉しい」

「はい」

 

 言われた通り後ろを向く。

 机と膳と、二枚重ねの座布団に座りながら、物置にあった本が目に付く。

 倒れたとき一緒に持って来てくれたのかと嬉しく思っていると、両肩に感触を感じる。

 身動きをすると止められた。

 事情が飲み込めないが、随分と真剣らしい。

 久遠の言葉といい、自分の躰には気付いていないだけで、何処か問題が在るのだろうか?

 

「落ち着いてくれるのが一番良いから」

「はい」

「ふ――――」

 

 呼吸音。

 調息とも取れる長い息吹をしてから、薫さんが集中していくのが解る。

 手のひらが僅かに熱を持つ。背中の空気がどこか温かくなった気がする。

 ドクン、ドクンと聞こえてくる自分の心音。

 薫さんの霊力が、俺の霊力に触れるていくのが感じられた。

 触れられた手がゆっくりと場所を移動していく。

 まるで聴診器を当てた医者の手探り。

 

「……うん、多分だけど、間違いないと思う」

「分かりましたか?」

「ああ。でも説明する前に、十六夜に詳しい事を聞いてみる」

「そうですか」

「ちょっと待ってて」

 

 言って、薫さんは俺の部屋を出て行く。

 ちらりと見えた横顔は、どこかこわばって見えた。



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