尾道茶寮 夜咄堂 (加藤泰幸)
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おすすめは、お抹茶セット五百円(つくも神付き)
第一話『青織部沓形茶碗 その一』


 六月の出来事だった。

 若月千尋は、門の先にそびえる二階建ての木造建造物と、周囲の風景を仰ぎ見ていた。

 青々と茂る木々はその建物を覆い、板壁の所々にはツタが絡まっている。

 夏を目前にした緑の主張は実に鮮烈で、千尋の目を奪うのと同時に、今が青葉の季節である事を感じさせてくれた。

 緑の隙間に見える板壁は遠目でも分かる程に古く、モダンなデザインのガラス窓からも、往年の雰囲気がにじみ出ていた。

 

 そう。雰囲気を持ち合わせてはいる。

 だが、そこに感動はない。

 

 見た所、築五十年以上は堅いだろうか。

 ガラス窓にはカーテンが掛かっていた為に、中の様子を伺う事はできなかったが、内装の程度にも大よその察しはつく。

 然程期待はしていなかったものの、父の遺した不動産がここまで古びていたのかと思うと、千尋は無意識のうちに嘆息を漏らした。

 

 見方によっては、レトロで風情があるとも言える。

 和物のアニメにでも出てきそうな、趣味人好みの建物だ。

 だが、市場価値としては、ただの古い木造建造物相応なのだろう。

 その上、ここまでくる為には、千光寺(せんこうじ)山の石段を、たっぷり十分(じゅっぷん)は上がる必要がある。

 当然、駐車場なんて代物は備わっていない。

 千光寺山やその麓に広がる尾道(おのみち)の町が観光地区である事を差し引いても、この建物は二束三文にしかならないだろう。

 生前の父が教えてくれた『古い茶房』という説明からして期待はしていなかったのだが、これは流石に古すぎる。

 それが『茶房・夜咄堂(よばなしどう)』に対する、千尋の第一印象だった。

 

「………」

 眉を顰めながら、視線を門に移す。

 門には『夜咄堂』の文字が書かれた菖蒲色の暖簾が垂れ下がっていた。

 夜咄堂は、一階に洋室の喫茶スペース、二階に茶室の備わった茶房だと聞いている。

 なんでも、お抹茶セットを所望する客には、茶室で茶を()てたそうだ。

 生前の父は、日々この門を潜って出勤していたのだろう。

 その光景を想像すると、切なさが喉から這い出てきそうな気持ちになる。

 

(……行くか)

 切れ長の瞳を一度伏せるが、すぐに前を向く。

 千尋は、なおも周囲を見回しつつ、門を潜った。

 

 

 

 

 

 ――父、若月宗一郎の死因は、外傷性ショック死だった。

 

 仕事の帰りに石段で足を滑らせて転んでしまい、その時の打ち所が悪かったらしい。

 その日は酷い嵐で、確かに足元は滑りやすかった。

 どうせ嵐の日に来る客はいないのだから、無理して出仕しなければ避けられた死だろう。

 葬儀に来てくれた父の旧友も『宗一郎が仕事熱心でなければ』と嘆いてくれた。

 その見立ては、二重の意味で正しい。

 もう一つの意味を、千尋は誰にも話したくなかった。

 

 

 

(……なんて木だろうな。これ)

 途中、見知らぬ木の前で立ち止まる。

 枝に向かっておもむろに手を伸ばしてみると、同時に風が吹いて枝が揺れる。

 枝の先端が指を弾き、小さな痛みが走った。

「つっ……」

 頭を掻きながら、両手をポケットに突っ込んで、また歩き出す。

 もしかすると、これは父の怒りなのかもしれない。

 なにせ、自分はこれから夜咄堂と店の備品を売るつもりなのだから。

 

 

 

 玄関に向かいながら、父の最期を思い出す。

 警察に聞いた所によると、発見された父の亡骸は、茶碗の入った木箱をしっかりと抱えていたらしい。

 大方、転びそうになった時に、受け身を取る事よりも茶道具を守る事を優先したのだろう。

 父が仕事熱心でなければ、仮に転んだとしても、茶道具を守って死ぬような事はなかったはずだ。

 それ程、父は茶房の経営に執心していた。

 それには、父なりの理由があったのだ、と千尋は理解している。

 

 千尋は幼い頃に、祖父母も母も『事故』で亡くしていた。

 唯一の保護者である宗一郎は、男手一つで自分を育てる為なのか、随分と仕事に打ち込む人だった。

 その熱心さ故か、公私混同を防ぎたい父の意向で、千尋は夜咄堂に近づく事を許されずに今日までを過ごしてきた。

 その為に、父と交流する時は、あまり長い方ではなかっただろう。

 とはいえ、それも自分を想っての事なのだ。

 その証拠に、仕事から離れた時の父は、愛情を持って接してくれたと思っている。

 聞き分けが良かった千尋は、父に反抗する事もなく、ただ寂しさを胸に押し込んで今日まで生きてきた。

 

 だから、茶道具を守った父の行動を恥じる気持ちはない。

 亡くなった時の状況を話したくないのは、茶道に関わりたくないからである。

 仕事とはいえ父が執心し、そして死因となった茶道と茶道具を、千尋は面白く思っていなかった。

 すなわち……店や茶道具をわざわざ残しておく理由を、千尋は持ち合わせていないのである。

 入学したばかりの大学を休み、葬儀後の事務処理に忙殺されるうちに、四十九日は過ぎてしまい、気がつけば梅雨も間近だ。

 ここにきてようやく、遺品の管理に手を付ける事にした千尋は、今日はその下見に来ていたのだった。

 

 

 

 大事な茶房や茶道具を売れば、おそらく天国の父は嘆くだろう。

 その姿を想像すると、強い寂寥(せきりょう)の思いに襲われる。

 父を思い出して悲しいと思える余裕が出てきたのは、つい最近の事だ。

 日々の生活の最中、事ある毎に、以前はここに父がいたのだと実感し、

 溢れ出ようとする慟哭を抑える日々を、千尋は送っていた。

 

 酒や煙草に強ければ、酒で現実逃避したり、煙で涙を隠す事もできただろう。

 だが、まだ十八歳の千尋には、そもそもそれらを嗜む事はできない。

 

 

 

 

「……まあ、ええことよ」

 酒煙草の代わりにそう呟いて、辿り着いた玄関の鍵を開ける。

 それは、幼い頃より千尋の心を守り続けてくれた言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 第一話『青織部沓形茶碗(あおおりべくつがたちゃわん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 玄関は小動物の鳴き声のような音を立てて開いた。

 店内は薄暗く、カーテンが陽光を殆ど遮っているようだった。

 ゆったりとした足取りで中に入ると、木の床が僅かに軋む音がする。

 

(ここが喫茶スペース、ね)

 徐々に暗さに慣れてきた目で、店内をぐるりと見渡す。

 一階の中央には木製の机が並んでおり、出入口の傍には会計用の棚がある。

 棚の裏は台所に通じているようだった。

 店の奥に階段を見つけたので、早速二階も見てこようと足を掛けた所で、不意に下半身の態勢が乱れた。

 

「うわっ!?」

 慌ててもう片方の足で踏ん張り、かろうじて転倒を回避する。

 何事かと足元を見れば、足を踏み入れた段が水で零れていた。

 どうやら、ここで足を滑らせたようだった。

 暫し、忌々しげに濡れた段を見下ろすが、大して気は晴れない。

 

「……まあ、ええことよ」

 口癖で災難を洗い流し、今度は足元を確認しながら二階に上がった。

 すると、障子に覆われた和室が見つかる。

 和室の上には大掛かりな水墨画が飾られていたが、色が薄くて何が描かれているのか分からない。

 大層な構えである事を踏まえると、ここが茶室なのだろう。

 確かめてみようと一歩近づいた所で、そこで、ふと思い至る。

 

(……待てよ。さっきの階段を濡らしていた水……)

 何故、父がいない夜咄堂の中が濡れているのだろうか。

 亡くなった日に水で零れていたとして、今日この日まで蒸発していないわけがない。

 思いつく答えは一つ。

 この水は今日零されたもの……すなわち、何者かが店の中にいるのだ。

 

(いや、まさか……この先に泥棒がいるとか……)

 

 ……思わず、身震いしてしまう。

 既に何か盗られてしまったのなら、まだマシな方。

 『仕事』をしている所を目撃でもしようものなら、襲われる可能性も十分にある。

 そうして、気を張り詰めていたからだろうか。

 ずざっ、と畳が擦れるような音。

 室内から聞こえてきたそれを、千尋は聞き逃さなかった。

 

 

 

「!!」

「お客様、ですか?」

 物音の後に、少女のような声が聞こえてくる。

 身構えていなければ、変な声を出して驚いてしまったかもしれない。

 警戒しているのは向こうも同様のようで、声はどこか不安交じりだった。

 

「いや、客じゃないけれど……えっと、店員さん……?」

 思わず首を傾げる。

 相手の言葉から察するに店員のようだが、店員を雇っているという話を聞いた事はない。

 玄関には鍵が掛かっていたし、父が亡くなったままで二か月営業を続けるというのも妙な話だ。

 だが、どの様な事情であれ、泥棒よりはよっぽど良い。

 

「ううん。店員と言えば店員のような、そうでもないような……」

 障子が開かれ、煮え切らない返事と共に、中から少女が出てくる。

 その全身を目の当たりにして、千尋はつい呼吸を忘れてしまった。

 

 少女は高校生くらいの顔つきに見受けられた。

 くりっとした黒い瞳と、横一文字に結ばれた真紅の唇の持ち主。

 黒の着物を纏っていて、流水と鳥のような模様の刺繍が施されていた。

 髪は黒く肩まで伸びていて、青いとんぼ玉の髪飾りをしている。

 

 が、何よりも千尋の目を惹いたのは、雅趣(がしゅ)な出で立ちよりも、黒髪の方だった。

 黒髪は艶やかで、見つめていると、吸い込まれてしまいそうな錯覚を覚えてしまった。

 

 

 

 

「……髪にゴミでも付いています?」

「あ、いやいや」

 慌てて頭を横に振って、視線をずらす。

 想定外の遭遇に、まだ混乱は収まっていない。

 

「えっと……俺は千尋と言います。君の名前は?」

「銘……あ、いえ、名乗る程の者では」

「いや、そこは名乗ってほしいんだけれども」

「強いて言えば、店の皆様からは『黒いの』呼ばわりされています」

 黒髪の少女は小さく口を膨らませながら腕を組む。

 彼女が自分の名を口にしない理由は分からなかったが、とりあえず夜咄堂の関係者ではあるようだった。

 

「はあ。黒いのさん」

「その呼び方は止めてください」

「それじゃ、なんと呼べば良いかな?」

「……そうですね。なんと呼ばれたら良いんでしょうか」

 真剣な表情で聞かれる。

 埒が空かない。

 

「分かった。呼び方の件は置いとこう。

 で……貴方はここの店員さんなのかな?」

 もう一度同じ質問を投げかける。

「多分、そういう事になりますね。ここで働いていますし」

「でも、さっきは『そうでもないような』って」

「お給金は頂いていないんです。だから、店員という言葉が適切なのか、よく分からないんですよ」

「給料、出ていないの?」

「はい」

「給料も貰わず、お店で何してたの?」

「そこなんですよね。宗一郎様が二か月程お姿を見せなくなったんです。

 なので、ずっとお店でお待ちしているのですが……何かご存じありません?」

 少女は困惑した様子で、そう尋ねてくる。

 だが、千尋としては返答どころではなかった。

 

 

(まずい。これはまずいよ、父さん……!)

 付近の柱を掴み、唐突に訪れた眩暈を必死に堪える。 

 未成年の少女にコスプレ紛いの格好をさせて、給料も出していない。

 その上『様』の敬称を付けさせ、軟禁状態ときたものだ。

 未成年者略取。

 誘拐罪。

 新聞一面。

 あってはならない言葉が、次々と浮かびあがる。

 父に限ってはその様な人間ではないと思っていただけに、衝撃はひとしおだった。

「もしもし、大丈夫ですか? もしもーし?」

「う、嘘だ嘘。まさか父さんが、父さんが……」

 心配する少女をよそに、千尋はまだ現実に戻ってくる事ができない。

 

 

 

 

「おーい、なーにやっとるんだぁー?」

 不意に、階下から男性の声が聞こえてきた。

 すわ、警察か。

 肩を跳ね上げながら振り返る。

 階下には、やはり着物を纏った中年の男がいた。

 白髪交じりの黒髪で、鼻髭を蓄えたどこか風変わりな男だった。

 とりあえず、警察の類ではないように見受けられる。

 

 

「おや……その顔、その切れ長の目!」

 男がドタトタと階段を駆け上がってきた。

「宗一郎の若い頃にそっくりだ! 間違いない、息子の千尋だろう?」

「そうですが……」

「こいつは愉快だ。生き写しじゃあないか! ウッヒャッヒャッ!」

 男は甲高い笑い声を上げながら、千尋の肩を平手で叩いてきた。

 痛くはなかったが、親子が似ているのがそれ程面白いのだろうかと不思議に思う。

 同時に、今はそのような疑問よりも、他に聞くべき事があると思い至った。

 

 

「はあ。それで、貴方は……いや、貴方がたは何者なんです?」

「何者? なんだ、宗一郎の奴、何も話しとらんかったのか。ヒャッヒャッヒャッ!」

 男がまた笑った。

 少女の傍に回り込んで頭上に手を乗せると、ようやく男の笑い声が止む。

 口の端に淡々とした笑みを携えながら、男は真っ直ぐに千尋を見据えて、こう告げた。

 

 

 

 

「私は……とりあえずオリベとでも呼んでくれ。こいつは黒いので良いや。

 私達は、この店の茶道具の付喪神(つくもがみ)だよ」



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第一話『青織部沓形茶碗 その二』

 一階に下り、四人掛けの机を挟んで二人に相対した千尋は、父が亡くなった事を説明した。

 感情が昂らないように努めたが『亡くなった』と告げる時だけは、微かに言葉が震えるのを抑える事はできなかった。

 

 

「そうか。宗一郎は死んじまったのか……」

 オリベと名乗った男は、しみじみとそう呟くと、暫く何も言わずに天井を仰いだ。

 その隣に座る少女は何も言わなかったが、沈痛な面持ちを浮かべている。

 二人とも、父とは友好的な関係だったのだろう。

 詳しく聞きたくはあるが、ひとまず、それはそれで良い。

 もっとも気になるのは、自称『付喪神(つくもがみ)』とは、どのような存在なのかだ。

 

 

「悲しんでいる所悪いけど、次は俺が話を聞いても良いでしょうか?」

 身を乗り出しながら、オリベに声を掛ける。

「……うむ」

「先程貴方は、付喪神と名乗りましたよね」

「いかにも」

「それは、ええと……何と言ったら良いのかな。……ご冗談ですか?」

「なんだ君。もしかして付喪神を知らんのかあ?」

 悲しみ顔から一転、オリベの口ぶりがひょうきんなものに戻った。

 切り替えが早いのだろうか。

 それとも、感情を隠すのが上手いのだろうか。

 

「付喪神くらい知っていますよ。物が妖怪に化けたもの、ですよね」

「随分ざっくりしとるな」

「一般的な認知具合としてはこんなものでしょう」

「この店の主の息子なんだから、君が一般的では困る。

 宜しい。君に英知の一端を披露しようではないか」

「あ……はい」

 仰々しい物言いに、思わず力が入る。

「この黒いのが」

 がっくりと力が抜けた。

 

 

 

「オリベさん、面倒な事はいつも私に押し付けるんだから……」

 少女はオリベにジト目の一瞥を向ける。

「まあまあ、誰かが説明しなきゃいけない事じゃないか。

 それにお前さん、こういう事は自分できっちりやらないと、気が済まないだろう?」

「それはそうですが……なんだか乗せられている感じが」

「なら、東雲(しののめ)ドーナツ店の抹茶ドーナツを付けよう」

「任せて下さい」

 乗せられた少女は力強く握り拳を作った。

 堅く清楚な第一印象だったのだが、どうにも間の抜けた所があるようだ。

 

 

「ええと、千尋様、でしたね?」

 少女は千尋に向き直る。

「そうだけれど、様は余計だよ」

「このお店を継がれるのですから、そう呼ばせてください」

 先程のオリベの言葉も同様だが、この少女の言葉にも引っかかるものがある。

 オリベは判断が難しいが、この少女は確実に、自分が店を継ぐ為に来たものだと勘違いしている。

 その誤解を解こうかとも思ったが、まずは二人の素性からだと思い直し、千尋は口を挟まずに耳を澄ました。

 

「さて……まず付喪神とは、百年を経た道具に宿る精霊のようなものです。

 神と名は付いていますが、その実はそれ程大したものではないのですよ。

 むしろ神様によって作られると言いますか……

 本物の神様が、道具に魂を与える事で、精霊が宿るのです」

「百年で道具に宿るの? でも、それじゃあ……」

「ええ、言いたい事は分かっています。それでは精霊がたけのこみたいに次々生み出されますよね」

 きびきびとした口調で、少女は説明を続ける。

 

「人間が道具を愛用すると、道具には強い気力が注入されます。

 気力と、神様の与える霊が融合する事で、道具には付喪神が宿るのです。その気力が満ちるまでの期間の目安が、およそ百年。

 なので、長年愛用される茶道具には、比較的付喪神が宿りやすいのですね」

「それじゃあ、世間一般の古い茶道具にも、付喪神が宿っているわけ?」

「いえ。余程強い気力を宿さなくては付喪神にはなりませんので、一部の茶道具のみですね。

 加えて言えば、高名故に飾られたり、財として扱われる名物よりも、

 日頃から用いられて、気力を浴びやすい安物の方が、付喪神と化しやすいでしょうか。

 さて、ご理解頂けましたか?」

「でも、それだけで君達が付喪神だと信じろと言われてもな……」

 

 千尋は訝しみながら二人を見る。

 それの何が面白いのかオリベはニヤニヤと笑い、一方の少女は自分の説明で十分だと思っていた様で、千尋の言葉に困惑している様子だった。

 おそらくは、二人の外見も、自身が抱く印象に影響を及ぼしている。

 着物という出で立ちは少々珍しいが、二人の顔付き体付きは、人間そのものだ。

 これが異形の生命であれば、驚愕しつつも、人ならざる者という言を信じる事ができただろう。

 

 

 

「特技の一つや二つ見せれば納得するだろう。ほれ」

 オリベがおもむろに片手を掲げてみせた。

 一体何を始めるのかとオリベを見やれば、掲げられた彼の手の前では、陶器の置物が机を飾っていた。

 家を模している置物で、頂点は鋭く尖っている。

 その尖りを見た瞬間に、これからオリベが取る行動が千尋の脳裏に浮かんだ。

 『危ない』と声を掛ける前に、オリベの手は全力で置物に振り下ろされ……そのまま、机ごと貫通してしまった。

 置物も机も全く破損していない。

 衝突音も一切聞こえなかった。

 だというのに、オリベの腕は間違いなく机の下にある。

 すなわち……彼の腕は、物理法則を無視して『透けた』事になる。

 動揺しつつ、中腰になって机や置物を調べたが、特に細工も見当たらない。

 明らかに、人間のできる事ではなかった。

 

「!!」

「どうだね。信じたか?」

 目をひん剥いた千尋とは対照的に、オリベはしたり顔だ。

「この通り、私達は見た目は人間でも、その実は精霊、付喪神よ。

 実体を持って物に触れる事も出来るし、むしろ普段はそうしているがね」

「……まさか、本当に……」

「本当も本当さ。付喪神とは良いものだぞ。この力を駆使すれば、色々と面白い悪戯が……」

「オ・リ・ベさん?」

 少女が、オリベを強く睨みつけた。

 オリベは肩を竦めて茶目っ気たっぷりに舌を出す。

 

 だが、二人のやり取りは、千尋の中には入ってこない。

 千尋は、先程の超常現象にまだ目を瞬かせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「これが私。青織部沓形茶碗(あおおりべくつがたちゃわん)だ」

 店の奥から持ってきた白木地の木箱を開けながら、オリベがそう告げる。

 中から取り出された茶碗は、青というよりも緑青(ろくしょう)色だった。

 色合いは相当くすんでいて、素人目にも古い茶碗である事が見て取れる。

 

「これがオリベさん……」

 触って良いものか分からず、千尋は顔だけを近づけて茶碗を凝視する。

 

 妙。

 

 色の次に気になったのは、茶碗の妙な意匠だった。

 茶碗の胴には、幾つもの丸と線で描かれた幾何学模様が描かれている。

 珍しい模様だったので、オリベの着物に描かれた模様と同じであるとすぐ気が付いた。

 これもまた、彼が青織部沓形茶碗の付喪神である事を示すのだろう。

 更に特徴的なのは、茶碗の歪みだ。

 縁から、胴から、腰から、何から何まで歪んでいて、

 茶を飲む時には、どこから口をつけて良いのか皆目見当がつかない。

 これ程までに歪んだ茶碗を見るのは初めてだった。

 千尋が持つ茶碗のイメージは、装飾は程々に留められて古びた趣きのある、所謂『侘びた』ものだ。

 だが、この青織部沓形茶碗はその真逆を行っている。

 躍動感に満ちた旋律的な姿態は、千尋のイメージをばっさりと切り捨てるものだった。

 オリベの軽い性格にもどこか似ている辺り、付喪神は茶道具に似るのかもしれない、とも思った。

 

 

「……妙な茶碗ですね」

 直球で感想を述べる。

 同時に、相手を傷つける言葉かもしれないと気が付いた千尋は、その失態に微かに眉を顰めた。

「ヒャッヒャッヒャッ! 妙と言われてしまったよ」

 だが、オリベは千尋の言葉を笑い飛ばしてくれた。

 やはり、なかなかに飄々とした男なのであった。

 

「……オリベさん、よく笑いますね」

「そうかね?」

「そうですよ。……ところで、この茶碗が織部というから、貴方もオリベさんなんですか?」

「まあ、そんな所だね。本当は別に銘があるんだがね。

 ああ、銘とは、茶道具としての名前といったものだよ」

「銘の方は名乗らないんですか?」

「これでも二百年以上生きているからね。人から人へと渡り続けたが、その過程で、銘が伝わらない事があってね。

 それからは、自分の銘等どうでもよくなってしまったよ。

 なので、私の事は織部茶碗のオリベと呼んでくれるかね」

「なるほど。じゃあ……そっちの黒いのさんの銘は?」

「だから、黒いの呼ばわりは止めて下さいよ。私に銘はありません」

 話を振られた少女は、不快感を露わにした言葉を返した。

 片方の頬も、ぷくりと膨らんでいる。

 

「銘がない茶道具もあるんだ」

「ええ。その結果が『黒いの』です。ああ、もう、宗一郎様ったら……」

「父さんがどうかしたの?」

「十五年程前かな。この子が付喪神として目覚めた時に、宗一郎が『黒いの』呼ばわりしたんだ。

 それ以来、呼ばれ方はずっと『黒いの』さ。

 茶の湯にも茶道具にも造詣が深い宗一郎だ。彼が銘を付けても良かったのだが、

 あいつ『それは製作者の特権だ』と頑なに拒否したものでな」

 千尋の問いにはオリベが答えた。

 彼は両手を胸の前で打ち鳴らすと、更に言葉を続ける。

 

「そうだ。この際、千尋が名を付けてみるかね?」

「いや、俺こそ銘を付けられるような知識は……」

「銘ではなく名だよ。あだ名だ。

 黒いのでは呼び難いのも事実だしな」

「はあ」

 煮え切らない返事と共に少女を見る。

 想定外の提案だったのか、少女は黒髪を揺らしながら顔を背けかけたが、

 結局は千尋に向き直り、不安げな表情を浮かべつつも小さく頷いてくれた。

 

「ふむ……」

 千尋は腕を組む。

「………」

「黒子」

「却下です」

 即答された。

「じゃあ黒美」

「却下です」

 即答。

「黒「却下」」

 最後まで言う事すら叶わなかった。

 

「……命名の程度が宗一郎様と変わらないですね」

「そう言われてもな……」

 急に命名という無茶振りをされても、妙案を捻り出せるものではない。

 これは腰を据えなければならないと、千尋はじっと少女を見つめて思考を巡らせる。

 

(女の子っぽい名前なら適当に付けられるけれども……

 何か由来があるものにしてあげたいな。

 とすると、やっぱりこの黒が……ふむ……)

 

 少女全体に向けていた視線を、黒髪に収束させる。

 吸い込まれてしまいそうな錯覚を受ける、艶やかな黒髪。

 単に黒いのではなく、見る者を引き込むような黒。

 そんな色合いを示す言葉を、千尋は一つだけ知っていた。

 いつだったか、父が自宅で飾った事がある植物の種子。

 

「……ヌバタマ」

「はい?」

「名前だよ。ヌバタマって名前。これでどうかな」

「ヌバタマと言うと、ヒオウギの黒い種子でしたっけ?」

「ああ、知ってるんだ」

「ええ。宗一郎様が茶席で用いた事がありますから」

 もしかすると、そうして使用済みとなったものが家に来たのかもしれない。

「……しかし、ヌバタマですか。濁音のせいか、なんだか粘りがありそうでパッとしませんね。

 植物の名を使っている分マシな気はしますけれども……むう……」

「考え直そうか?」

「……いえ」

 少女が横に首を振る。

 

「まだ不満はありますが、黒いのよりは良いですから。では改めまして……」

 少女が、いや、ヌバタマが小さく咳払いする。

「ヌバタマです。これから宜しくお願いしますね。千尋様」

「……様は止めてくれないか?」

「では、千尋さん?」

「そんな所だな。宜しく」

 ヌバタマが白く小さな手を差し出した。

 その手を握ろうとして……ふと、千尋はそのやり取りに違和感を覚え、逡巡(しゅんじゅん)した。

 

「………」

「……? どうしました、千尋さん?」

 

 ヌバタマが顔を覗き込んでくる。

 どこからどう見ても、人間にしか見えない少女だ。

 だが、違う。

 今、自分が名を付けた少女は、人間ではない。

 彼女は茶道具の付喪神なのだ。

 今日ここへ来たのは、その茶道具や店を売る為なのだ。

 宜しく?

 すぐに売却してしまうというのに、自分は、何を宜しくするつもりなのだ?

 良い所に売却できるよう、宜しく取り計らうとでも?

 すぐに売り飛ばしてしまう茶道具を相手に、一体、何を和気藹々としているのだ?

 

 

 

 

「……君は」

 オリベの一言が、千尋を逡巡から引き戻した。

「君は、この店をどうしたいのだね?」

「!!」

 内心を見透かされたのだろうか。

 狼狽ぶりを隠せず、千尋の表情は凍り付く。

 

 

 

 

「俺は……」

「ごめん下さいな」

 千尋の言葉が遮られる。

 声は、夜咄堂(よばなしどう)の玄関から聞こえてきた。



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第一話『青織部沓形茶碗 その三』

「やあやあ、シゲ婆さんじゃないか! これはようこそいらっしゃいませ!」

 聞こえてきた声に反応したのはオリベだった。

 彼が勢いよく玄関を開ければ、そこには小柄な老婆がいた。

 皺にまみれた顔付きだが、温和で優しそうな印象を醸し出している。

 老婆はゆっくりと、だが矍鑠(かくしゃく)とした足取りで店内に入ってきた。

 

「宗一郎さんが亡くなったと聞いた後、ずっとお店が閉まっていたから、閉店したと思っていたんだよ。

 でも、千光寺(せんこうじ)のお参りの帰りに、駄目で元々と思って立ち寄ってみてね。

 そしたら、なんだい。玄関が半開きだったものでね」

「それで声を掛けられたのですな。いやはや失敬。宗一郎がいないのに店を開くわけにはいかなかったのです」

「ごめんなさいね。それよりシゲお婆ちゃん、また千光寺にお参りですか? あまり無理はしないで下さいね」

「なになに。歩けるうちはなるべく歩いた方が良いのさ」

 シゲ婆さんが、オリベやヌバタマと会話を交わす。

 そこに入れない千尋が一歩下がって様子を伺っていると、視線に気が付いたシゲ婆さんが声を掛けてきた。

 

「ところで……お兄ちゃんは、新しい店員さんかい?」

「あ……いえ、なんというか……千尋と言います。若月千尋。宗一郎の息子です」

「おやまあ、お兄ちゃんが千尋ちゃんかい!」

 シゲ婆さんの声が華やぐ。

 千尋を見つめる彼女の目が、明るく輝いた。

「生前の宗一郎さんから、話はよく聞いていたよ。

 内気だが優しい子がいるってね。

 ああ、ああ、ああ。確かに目元が宗一郎さんそっくりだ。

 そうかい、お兄ちゃんが……そうかい……」

「……あっ」

 歓喜に満ちていたはずのシゲ婆さんの瞳が、一瞬で揺れた。

 涙が零れる事を厭わず、しかし声を漏らさずに咽び泣く。

 ヌバタマが近寄ってきてシゲ婆さんの肩を優しく抱いたが、当の千尋はただ狼狽するだけだった。

 

「……ごめんねえ。千尋ちゃんの顔を見たら、宗一郎さんを思い出しちゃってね。

 ああ、千尋ちゃんは何も悪くないんだよ。ごめんねえ……」

「……はい」

 そう言う他ない。

 千尋は、やり場のない視線を泳がせつつも、想いを巡らせた。

 父は、おそらく慕われていたのだろう。

 父と老婆の間にどのような交誼(こうぎ)があったのかまでは、千尋の知る所ではないが、

 千尋は老婆との面識がない以上、おそらく交誼は、夜咄堂(よばなしどう)で育まれたものだろう。

 

 そう思うだけで、その光景を想像する事は出来ない。

 千尋は、夜咄堂の日々を知らないからだ。

 四十九日の後も、なお老婆に嗚咽をさせる程の、夜咄堂での二人の交流を知らないからだ。

 

 

 

「千尋ちゃんや」

 シゲ婆さんが名を呼んだ。

 涙は止まっているが、声はまだ震えていた。

「良かったら、お薄茶を一服頂けないかい?

 私はね。宗一郎さんが二階で()ててくれるお薄茶が大好きだったんだ」

「お薄茶?」

「薄味に点てる抹茶の事ですよ」

 ヌバタマが教えてくれる。

「ま、抹茶……? 俺がですか?」

 その先の言葉が出ない。

 自分は、お茶を点てる為にここにきたわけではない。

 そもそも、お茶なんて一度も点てた事がない。

 作法も点て方も、何も知らないのだ。

 知らないのだが……

 

「む、むう……」

 なおも口籠ってしまう。

 父の為に泣いてくれた老婆の頼みを断る等、到底できる事ではない。

「もちろん構いませんよ」

 そこへ、代わりにオリベが返事をした。

「お、オリベさん!?」

「ただ、宗一郎から、この子は茶道の心得がないと聞いております。

 ですので、私が補佐しながら点てさせますが、それでも宜しければ」

 オリベの提案に、シゲ婆さんは頷いて返事をした。

 それを受けるや否や、オリベは振り返ると、千尋に向かって親指を突き立ててくる。

 

 

「……俺が、点てるんですか」

 選択の余地はない。

 かくして、若月千尋は、生まれて初めて茶を点てる事になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 茶室の裏には茶道具用の小さな物置があった。

 物置から茶道具を取り出し、オリベに指示されるがままに、茶道具の一部を六畳の茶室に並べる。

 だが、それらを使った経験は一度もないし、そもそも道具の名前さえも分からない。

 壁に掛けた軸の文字だって、変体仮名で読む事ができない。

 何もかもが分からず不安は募る一方だったが、それを口にしても、オリベはただただ笑い飛ばすだけだった。

 

 準備が整ったら一度退室し、先にシゲ婆さんを茶室の中に入れる。

 先程まで泣いていたからだろうか、すれ違ったシゲ婆さんの瞳にはまだ憂いの色が見えた。

 茶室の端に敷かれた赤い毛氈(もうせん)の上にシゲ婆さんとオリベが座った所で、抹茶が入っている棗と青織部沓形茶碗(あおおりべくつがたちゃわん)を手にして、千尋が中に入る。

 これは、事前にオリベから説明を受けた作法だった。

 

 

 

(ええと、まずは釜の前に茶碗と棗を置いて……)

 わざとスローペースで歩きつつ、オリベの言葉を思い出す。

 時間稼ぎだけではなく、緊張からも、千尋の足取りは重くなっていた。

 彼もシゲ婆さんの隣で控えてくれてはいるが、極力、助言は避けるとの事だった。

 すなわち、事前説明を全て思い出すつもりで取り組まなくてはならない。

 素人である事は断っているのだから、多少失敗しようと構わないと言われているのだが、なるべくなら醜態は晒したくなかった。

 

(次に……なんだっけ、この、水を入れる器……建水(けんすい)

 これと、柄杓(ひしゃく)を持って……あれ? 柄杓は、どこに置くんだっけ?)

 早くも手前を忘れてしまった。

 必死に思い出そうとするが、所詮は付け焼刃だ。

 だが、オリベの言葉の代わりに、柄杓を釜に掛けている光景が浮かんでくる。

 記憶のどこかに転がっていた茶道のイメージでは、そうなっていた。

 

(そうだ、きっと釜の上だ。蓋を開け……「あっつぅっ!??」

 素手で釜の蓋を掴んだ瞬間、炭火で十分に熱せられた釜の熱さが、蓋を介して手に伝わってきた。

 思わず叫び声を上げながら手を引いてしまう。

 

「ち、千尋ちゃん……」

 驚いたシゲ婆さんは中腰になりながら声を掛けてくる。

「ご、ごめんなさい! 大丈夫です! 大丈夫……」

 なんとか苦笑を作って、そのシゲ婆さんを制する。

 だが、平静を装っても心中の狼狽は凄まじい。

 今の失敗で、オリベの説明が全て頭から吹っ飛んでしまった。

 

(あれ? 蓋は素手で取っちゃいけないんだっけ?

 いけないよな。だって熱いんだもん。

 それに、蓋を取ったとしても、その後どこに置けば……

 あ。挨拶! どこかでなにか挨拶しろとか言われてなかったっけ?

 あと、抹茶とお湯はどっちを先に入れれば?

 あれれれれ……?)

 

 千尋の動きが止まる。

 もう、何が何だか分からない。

 ただ思うのは、一体何故こうなったのか、という事だけ。

 その答えなら、すぐに分かった。

 茶道なぞに関わるから……

 

 

 

 

「千尋」

 

 

 

 

 オリベの声が聞こえた。

 春風の如き、暖かく嫋々(じょうじょう)とした声だった。

 

「釜の蓋を開ける時は、右の腰に付けた帛紗(ふくさ)という布を使いなさい。

 後は、抹茶をお湯でかき混ぜれば、作法はどうでも良いよ」

「あ……はい」

 

 不思議だった。

 ただその一言で、気持ちが落ち着いた。

 相変わらず正しい手前は思い出せず、このまま再開しても、おそらくは何もかもが誤りだろう。

 だが、今はそれを醜態とは思わなかった。

 それよりも酷い姿を晒したからだろうか。

 あるいは、オリベの言葉で開き直れたのだろうか。

 答えは分からなかったが、今は深く考えない事にした。

 

 不思議なもので頭の中が空になると、凛として張り詰めた空気が、茶室から退散したような気がする。

 むしろ、感じるのは緊張とは対極に位置する安らぎだった。

 自分の呼吸の音さえも感じられるくらいに、気持ちが穏やかになる。

 質素な作りの茶室だからこそ、心を煩わせるものがない。

 長閑(のど)やかに。

 うららかかに。

 初夏の新緑の囁きさえ、聞こえる気がした。

 これが、和なのだろうか。

 そんな事を考える余裕さえ出てきた千尋は、お薄茶をすぐに作り上げる事ができた。

 

 

 

 

 

「どうぞ」

 お薄茶の入った青織部沓形茶碗をシゲ婆さんに差し出した。

 それを受け取ったシゲ婆さんは、一礼の後、茶碗を煽る。

 

 

 ――千尋の意識が遠のいたのは、その一瞬だった。

 

(あれ……?)

 

 今、確かに視界がぶれた。

 

 そう感じたのは、シゲ婆さんの方で何かが強く瞬いたからだ。

 光のようなものを受けて、全身が揺さぶられるような感覚。

 体の芯から揺さぶられるような感覚。

 だが、その揺さぶりは決して不快なものではない。

 優しく、心をあやされるような揺らぎ。

 何が起こったのだろうと考えた瞬間には……もうその揺らぎは収まっていた。

 

 

(なんだ、今の? 確かに何かが光って、揺れて……)

 違和感の正体を探ろうと、シゲ婆さんの方を向く。

 だが、毛氈の上に座っているシゲ婆さんとオリベがいるだけで、変わった様子は見受けられない。

 ――否。

 一つ、大きく変わっている事があった。

 光の件ではないのだが、それを一時的に忘れさせる程の変化が、そこにはあった。

 一口飲み終え、茶碗を膝の上に置いたシゲ婆さんの顔が、喜色に満ちていたのだ。

 

 

 

 

「ありがとう、千尋ちゃん。おいしいお茶だよ。それに、懐かしいねえ」

「懐かしい、と言いますと……?」

 突然の笑顔に驚きながらも、千尋は尋ね返す。

「実は宗一郎さんも、よくこの青織部で一服点ててくれたのさ。

 それを思い出したら、なんだか懐かしくなってね」

「………」

「でも、悲しい記憶じゃあない。暖かな記憶だよ」

 シゲ婆さんは目を細めて言葉を続ける。

 

「千尋ちゃんも知っているだろうけど、宗一郎さん、普段は真面目で物静かな人でしょう?」

「ええ。確かに……」

 頷きながら、父と過ごした日々を思い出す。

 自分から会話を振って場を盛り上げる事はない、寡黙な父だった。

 日常で交わされていた父との交流は、千尋が学校で起こった出来事の話題を振り、父はそれを幸せそうに頷いて聞くのが主だった。

 

「でもね。茶席ではそんな事はなかったのさ。

 いつも面白い話をしては、私を楽しませてくれたよ」

「父がですか?」

「そうだよ。こんな話があったね。

 宗一郎さんが若い時に、古道具屋で茶碗を買ったらしいのさ」

「はい」

「店主が口のうまい人でね。

 『本来は数十万円もする茶碗だが、未来の名茶人の為に半額に負けよう!』

 とか言われたもんで、一も二もなく飛びついたそうなんだよ」

「……その話、なんとなくオチが見えましたよ。安かったんでしょう」

「おや。じゃあ、本当は幾らだったと思うかい?」

「一万円くらい?」

「百円さ。缶ジュースだって買えやしない。

 あの時は、この青織部の形の様に怒りが波打っていましたよ、とか言っちゃってさ」

 シゲ婆さんが呆れたように言う。

 予想を大幅に下回る値段と、シゲ婆さんの口ぶりが面白くて、千尋は思わず吹き出してしまった。

 

「ははっ、それは酷いですね。……知らなかったな。茶席って、そんな冗談飛ばしても良いんだ」

「お堅い席ならともかく、気心知れた仲だからかもしれないねえ。

 私は、宗一郎さんのお茶の、そういう所を好んでいたよ。

 自由気ままで、形に捕らわれない。それこそ、まるでこのお茶碗みたいだねえ」

 

 シゲ婆さんが手元の青織部沓形茶碗を見下ろしながら言う。

 その表情には、もう一片の哀しさも見受けられなかった。

 ただただ、在りし日を懐かしむ温和な笑みだけがあった。

 

 千尋は、暫しその笑みに魅入られる。

 一杯のお茶。

 一つの茶碗。

 この二つで、哀しみが拭われたのだ。

 これが、茶道の力とでも言うのだろうか。

 ただ茶を飲むだけが、茶道ではないのか。

 ……これが、自身が嫌っている茶の世界なのか。

 

 

 

「……千尋ちゃんも、そんな宗一郎さんの自由な血を受け継いでいるわね」

 シゲ婆さんが視線を掛け軸に移した。

 つられて千尋も掛け軸を見上げる。

 何度見ても、やはり千尋には書かれている文字は読めない。

 

 

「祖死父死子死孫死……普通は、茶席にこんなお軸は飾らないものよ」

 シゲ婆さんの声は、笑み交じりだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一服を終えたシゲ婆さんが、料金を払って店を去る。

 その背中が見えなくなるや否や、千尋はつかつかとオリベに食って掛かった。

 

「オリベさんっ!」

「なんだねなんだね、そんなにカッカしちゃってからに」

「当たり前でしょう! なんて軸飾らせるんですか!」

「これの事ですか?」

 二人の横で、今日使った茶道具を整理していたヌバタマが軸を広げてみせる。

 書かれている文字がシゲ婆さんの言葉通りなら、とんでもない事だ。

 祖死父死子死孫死。

 死という文字が使われているだけで、縁起でもない。

 その上、この軸を使ったのは、父の鬼籍入りに嘆いている人をもてなす席なのだ。

 まさかオリベが、自分でも読めない軸を飾らせるわけもあるまい。

 

 

「いやいや、祖死父死子死孫死。良い言葉じゃないのさ」

「どこがですか! 死ですよ、死!」

「その通りだ。人は必ず死ぬ」

 凛とした声が返ってきた。

「む……」

 唐突に貫録が篭ったオリベの語りに、千尋の勢いは遮られてしまう。

 

「必ず死ぬのなら、歳の順に死ぬべきではないか。

 まず祖父が亡くなり、次に親が亡くなり、その次は子。そして孫。

 これが逆になってしまえば、必要以上の哀しみが訪れる」

「………」

「それとも何かね。お前、宗一郎よりも先に亡くなりたかったのかね?」

「むう」

 言葉に窮する。

 その様な事、好むはずがない。

 一人残った父が、どれだけ悲しむだろうか。

 そう解釈すれば、あの軸は確かに正しい死に方を書き表していると言えなくもない。

 シゲ婆さんも、茶碗や抹茶だけではなく、軸の影響も受けて、父の死に踏ん切りをつける事ができたのかもしれない。

 ただ、それを認めてしまうのはどうにも癪だった。

 

 

 

 

「むうう」

「ははは! まあまあ、そう小難しい顔をする事もあるまい!

 この店で働く気なら、笑顔は欠かせないぞ」

「!!」

 唐突に切り替わった話題に、千尋の唸り声が引っ込んだ。

「とはいえ、千尋は店を売却するつもりのようにも見える」

「………」

「さて……もう一度聞こうか。君は、この店をどうしたいのだね?」

「ち、千尋さんっ、それは本当なのですかっ!?」

 二人の会話にヌバタマが割って入る。

 彼女は、千尋の胸中は察していなかったようで、オリベの言葉に目をひん剥いていた。

 

 そうなのだ。

 売却問題は後回しにできない。

 目を瞑り、夜咄堂と茶道具へ想いを巡らせる。

 

 正直に言えば……まだそれらに好感は抱いていない。

 父の死因が茶道である事には変わりがないし、茶道具の良さもはっきりとは分からない。

 特に、茶道に対しては、父の件以外でもまだ思う所があった。

 

 だけれども……

 

 

 

 

「そう、ですね」

 ゆっくりと目を開く。

 シゲ婆さんの笑顔が、心中で瞬いた。

 

 彼女を笑わせた茶道、そして茶道具。

 それらを良く思えない事に変わりはないのだが、自分が知らない魅力が詰まっているのも事実なのだ。

 

 

 

 

「俺の学費、父さんが出してくれていたんです」

 茶道に対する複雑な感情が、切り口を変える。

「でも、これからは自分で学費を稼がなくちゃいけなくなりましてね」

「ふむ」

「そんなわけで……当面の間、ここを経営してみようかと思います。

 売る事はいつでもできますしね」

「うむっ」

 オリベは歯を見せて笑い、深く頷いた。

 つられて、千尋の頬まで緩んでしまった。

 

 

「ああ、良かったあ……。

 千尋さん、改めて、宜しくお願いしますね。

 絶対、宜しくお願いしますね!」

 ヌバタマも、顔色を明るく輝かせる。

 天真爛漫な、見ていて気持ちの良い笑顔だった。

 

「はいはい。宜しくな」

「それじゃあ、宜しくの証です」

 ヌバタマがまた右手を差し出してきた。

 千尋もまた僅かに躊躇してしまうが、今度は理由が異なる。

 相手が少女である事に気恥ずかしさを覚えたものの、結局千尋は彼女の手を握り返した。

 その手は暖かく、人間の手と何ら変わりがなかった。



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第二話『軟派野良犬ドーナツを喰らう その一』

 夜咄堂(よばなしどう)を経営すると決めてから、いくつか判明した事があった。

 

 一つ目は、夜咄堂には居住ができるという事。

 一階台所の奥には、何も置かれていない六畳の和室があった。

 畳は古く、小さな窓が一つあるだけの部屋だが、大学生が一人暮らしをするには不足はない。

 付喪神(つくもがみ)達は、休息したい時は自分の茶道具と一体化するそうなので、彼らの部屋を用意する必要もなかった。

 難点としては、風呂が無い事が挙げられるが、商店街にある銭湯を使えば解決できる問題だ。

 これまで父と住んでいたアパートは、一人で住み続けるには少々広すぎる点も踏まえて、

 家賃を節約する為に、千尋はアパートを引き払って夜咄堂に住み始めた。

 

 二つ目は、夜咄堂の料理は千尋でも作れるという事。

 飲み物は業務用を出すだけで済むし、軽食もサンドイッチや菓子屋から仕入れるカットケーキ等と、手の込んだものはない。

 その上、ヌバタマが給仕を担ってくれるお陰で、千尋は台所に専念できるのだから、

 事務上の手続きを除けば、食材の仕入れを整えるだけで夜咄堂は営業を再開できた。

 

 最後に三つ目が……そうして再開に漕ぎ着けても、夜咄堂には客が来ない事。

 喫茶店として利用する客は、過去最多でも一日五組で、誰も来ない日さえある。

 茶室で抹茶セットを注文する客に至っては、あの後もう一度シゲ婆さんが来てくれただけだった。

 それについてオリベに聞いてみれば、昔もそう繁盛してはいなかったが、まだ常連客がいたと言う。

 すなわち、夜咄堂が営業再開した事が知れ渡れば、客足が伸びる可能性がある。

 時間の問題でもあると解釈し、千尋はこの三つ目を深刻には捉えなかった。

 

 それよりも、店が暇な今のうちにやるべき事がある。

 そう考えていた千尋は、しかしそれが一筋縄ではいかないと、すぐに思い知らされるのであった。

 

 

 

 

 

 シャカシャカと、茶筅(ちゃせん)が抹茶を泡立てる音が響く。

 今の茶室に流れるのは、その茶筅の音と、釜の水がたぎる音のみ。

 ただただ穏やかな、和の音。

 雑音なき空間に流れる一定の音程が、実に心地良い。

 ……はずなのに、千尋の心は、茶室の音とは対照的に大いに乱れていた。

 

 

「……どうぞ」

 泡立て終わると、隣に座るヌバタマに向けて茶碗を差し出す。

 茶碗を持つ右手の手首の感覚は、少し鈍くなっていた。

 先程から、十杯分は茶筅を振り続けている為だ。

 人間とは体の作りが違う為にそれを全て飲み干せるヌバタマは良いのが、作る千尋はたまったものではない。

 

「頂戴致します」

 ヌバタマが頭を下げて茶碗を受け取り、早速一口飲む。

「お服加減は如何でしょうか?」

「大変結構……」

 ヌバタマがにっこりと微笑み、そして……

「……では、ございません! 底にダマがたくさん残っているじゃありませんか!」

 笑顔が一変、眉間が曇る。

 首を激しく左右に振った彼女は、茶碗を突き返してきた。

 

 

「え、ええっ? 相当念入りに茶筅を振ったのに……」

「まだまだですよ。漠然と振っています。茶碗の底の抹茶を溶く事を意識して下さい。

 それに泡立ちも中途半端だし、お湯の量だって五口分くらいありました。

 いくら付喪神が無尽蔵に抹茶を飲めるからって、量はきっちり守りましょう。

 三口分です。三口分。多すぎても少なすぎても、味が落ちます!」

 ヌバタマが矢継ぎ早に問題点をまくし立てる。

 いずれも、もう何度も指摘された事だ。

 自身が至らなかったとはいえ、いい加減嫌気が差してきた千尋は、溜息をつきながらその指導を聞き流す。

 しかし、これこそが、千尋がやるべき事なのであった。

 

 

 

 

 

 茶を()てられるようになりたい……そう言い出したのは千尋である。

 とはいえ、茶道も茶道具も、未だに好きにはなれない。

 それでも茶道を学ぼうするのは、シゲ婆さんを笑顔にした茶道の魅力を知りたいが為。

 因縁と興味の板挟みにはなるが、それだけ、先日のシゲ婆さんの笑顔は眩かった。

 そして理由はもう一つ。

 何よりも、夜咄堂を経営する以上、一服を所望する客に失礼がないよう、最低限の手前を覚えたいからである。

 

 千尋の茶道志願には、ヌバタマが応えてくれた。

 茶道歴百年を軽く超えるオリベ程ではないが、ヌバタマにも茶道の心得がある。

 ヌバタマは当初、オリベからの指導を勧めたのだが、オリベは面倒臭がって稽古を一切付けようとはしなかったのだ。

 そこで、仕方なしにヌバタマから稽古を付けて貰うようになった。

 千尋は当初、それを役得と密かに喜んでいた。

 なにせ、彼女は掛け値なしの美少女だ。

 人間ではないにしても、一緒にいて悪い気はしない。

 

 

 

 

 しかし、いざ始まった稽古は、内心浮かれる千尋を散々に打ちのめした。

 覚えるべき事が山積しているのだ。

 立ち方、座り方、足の捌き方、茶道具の持ち方。

 礼の仕方、挨拶の仕方、それらを覚えて、ようやく一服点てるまでの手前に入る。

 この手前がとにかく難儀だった。

 どれだけ覚えても次の課題が出てくる為に、千尋は相当参っていた。

 しかも、今学んでいる事は最低限というのだから、気持ちは落ち込む一方だ。

 役得どころか、今では少々息が詰まる気さえしていた。

 

 その稽古も、今日で三日目になる。

 この日、一時間の予定で行われていた稽古は、既に二時間を過ぎていた。

 千尋が失敗を繰り返す為の延長なのだが、一時間を過ぎた頃から失敗は更に増加した。

 その理由を、千尋は自覚している。

 彼にはこの後、日課になっている予定がある。

 だが、このままでは予定時刻に間に合わず、気持ちが急いているのだろう。

 

 

 

 

 

「そうそう、茶杓を持つ時も……」

「な、なあ、ヌバタマ?」

 おそるおそる、ヌバタマの言葉を遮る。

「なんでしょうか? まだお話の途中なんですが……」

「そろそろ上がりたいんだけれど、良いかな?」

「半端はダメです! 今日覚える予定の所まで、きっちりやりましょう!」

「いや、でもなあ……」

「いけません。一度妥協したら今後もズルズルといっちゃいますから。

 完璧なお手前を覚える為にも、もう少し頑張って下さい。ねっ?」

「お前、凝り性だよな。

 付喪神にも血液型があったら、絶対A型だぞ」

 片手で頭を抱えながら、ヌバタマの顔を煙たそうに見て言う。

「わけが分からない事言って誤魔化そうとしても駄目です!

 そうそう、菓子器も冷えていなかったじゃないですか」

「そ、そんな事言ってたか?」

「言っていました!」

 

 千尋の記憶にはなかった。

 ヌバタマが言っていたというのなら、そうなのかもしれない。

 だが、失敗続きで気持ちが弱っている千尋には、そう簡単に割り切れない。

 むしろ、知らぬ事まで指摘された気がして、理不尽にさえ思えてしまう。

 とうとう、千尋の我慢は限界に達してしまった。

 

「……冷やし忘れたくらい、どうだって良いじゃないか!

 ああ、もう、やめにしよう」

 ヌバタマに許可を取らずに、立ち上がる。

 足は大分痺れていたが、時折崩していたので、身動きはとれそうだった。

「ち、千尋さん?」

「俺、用事があるんだよ。じゃあな」

 突然の起立に唖然とするヌバタマを残し、茶室から飛び出す。

 勢いそのままに一階に下りると、客がいないのを良い事に、オリベが客席で千尋の私物の漫画を読んでいた。

 

 

 

「おや? 稽古はやっと終了かね?」

「無理やり終わらせました。ちょっと出てきます」

 苛立ちを隠さずにそう言い残し、千尋は外へと出て行く。

 

 そして、一階にはオリベが残る。

 千尋の背中が見えなくなると、オリベは漫画を机に伏せた。

 ふらふらと椅子をたゆたわせながら、彼はぼそりと呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

「……本人は隠しているつもりのようだが……またあそこか、ね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第二話『軟派野良犬ドーナツを喰らう』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千光寺(せんこうじ)山の外見は、山というよりも丘に近い。

 標高がそれほど高くない上、伐採されている区画が目立つ為だ。

 緑もそれなりに生い茂ってはいるのだが、野放図に自然が広がる野山とは大きく異なる。

 切り開かれた箇所には民家や観光施設が建っており、その間に無数の石段が伸びている。

 そしてその一角には小さな墓地があった。

 当然ながら観光とは無縁の墓地は、いつも人気(ひとけ)がなく、山の麓の商店街とは対照的に静まり返っている。

 稽古を途中で抜け出した千尋の姿は、その閑静な墓地にあった。

 陽が落ちる前に若月家の墓を掃除するのが、父亡き後の千尋の日課になっていた。 

 

 

 

 

「……これでよし、と。なんとか間に合ったな」

 墓を拭き終えて、額に浮かぶ小さな粒を腕で拭う。

 それから、一つ大きく息を吐いて墓を見つめ、感慨に浸る。

 墓に相対していると、墓石の傍に父がいるような錯覚を覚えた。

 墓の清掃よりも、この気持ちを感じに来ているのかもしれない、と千尋は思っている。

 

 だが、感慨に浸る理由は父だけではなかった。

 墓石は、父宗一郎だけの物ではない。

 墓石には千尋の知らぬ先祖……更には祖父母と母の名も刻まれている。

 祖父母は千尋が産まれる前に亡くなっているし、母は物心付いた頃に亡くなった。

 すなわち千尋は、三人の人となりを殆ど知らない。

 そんな三人を強く意識するようになったのは、父が亡くなった時だった。

 そこには……茶道が絡んでいる。

 

 茶道具を守った宗一郎の死因は『茶道』とも言えるのだが、それは一度や二度の話ではない。

 茶道を嗜んでいた千尋の祖父母は、茶席で痺れた足をもつらせて頭を打ち、父と同じく外傷性ショックで亡くなった。

 千尋の母も、締め切った茶室でうっかり長く稽古をしているうちに、一酸化炭素中毒に罹って亡くなった。

 すなわち、宗一郎の死をもって、千尋の近しい親族は茶道で全滅した事になる。

 茶道で一家全滅。

 それこそが、千尋の茶道への因縁だった。

 

 だから、シゲ婆さんが笑ったという理由で茶道を始めだしたのには、自分でも戸惑っている。

 因縁と、興味。

 二つの間で、千尋の感情は揺れ動いていた。

 

 

 

 

 

 

「……まあ、ええことよ」

 家族への想いに蓋をして、水桶と雑巾を水場に戻しに歩く。

 その代わりに脳裏に浮かんでくるのは、残してきたヌバタマの顔だった。

 

 

 

(熱くなって強引に出てきたけど、ヌバタマには嫌な思いさせたかな……)

 少しだけ、胸が痛い。

 千尋は、自分の言動で相手が不快感を抱くのを、何よりも嫌っている。

 嫌っているというよりは、怖がっているのかもしれない、とも思っている。

 

 十五年前、当時は何事なのか全く理解していなかった母の葬儀。

 覚えているのは、悲嘆に暮れる父の姿。

 あの時、おぼろげに思い至った気持ちは、今でも千尋の行動理念として根付いている。

 傷ついた人を見ると、自分も苦しい。

 だから、自分を押し殺してでも、人を傷つけたくはない。

 無難に、ただ無難にやり過ごせるのなら、何事も耐え忍んできた。

 

 ならば、茶道の稽古も耐え忍ぶべきなのか。

 それは少々苦しい、と千尋は思う。

 ヌバタマには悪いが、やはり茶道を好きになれそうにない。

 とはいえ、お茶を点てられなければ、店は続けられないのだ。

 

 

 水桶と雑巾を戻し終え、空を仰ぎながら呟く。

 降り注ぐ陽の光からは、暖かさよりも暑さを強く感じる。

 どこか、とてもとても遠い所で、虫が鳴いていた。

 もう、夏が近い――

 

 

 

 

 

「お店やめれば、解決するのかな……」

 

 

 

 

 

「おうおう、夜咄堂なんか売っちまえよー」

「だ、誰だ!?」

 突然掛けられた声に反応し、千尋は声を張り上げた。

 慌てて周囲を見回すが、人の姿は全く見当たらない。

 ただ、いつの間に墓地に入ってきたのか、雑種犬が一匹いるだけだった。

 

 

 

【挿絵表示】

 

 

 

「なぁんだ、ロビンか。まさか今の、お前が喋ったんじゃないだろうな?」

 犬に近づきながら、冗談半分で声を掛ける。

 

 茶柴系統で小太り気味の雑種犬、ロビン。

 ここ千光寺山や商店街に居つく野良犬として、町の人々から可愛がられている犬である。

 千尋も、街中を闊歩するロビンの姿は、これまでに幾度となく目撃している。

 まるで歩くトーストのような、こんがりとした犬だ。

 千尋が近づくと、ロビンは舌を出しながら顔を上げた。

 

 そして……

 

 

 

 

 

「んでさ、店売った金で車でも買ってナンパに使わない? 俺はりきっちゃうよー」

 

 トーストは、はっきりと人の言葉を喋った。



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第二話『軟派野良犬ドーナツを喰らう その二』

「犬が喋った……?」

「犬じゃねぇよ。ロビン、ロビン」

「いや、そこはどうでもいいが」

「それじゃあ、他に問題でも?」

「問題というか、どうして犬が喋るんだよ」

「喋るのが悪いのか。分かった、喋らねえよ。I don't speak Japanese.私日本語シャベリマセーン」

「え、英語まで喋るのか……」

「おいおい、そこは『日本語喋ってるじゃないか』と突っ込むところだぞ」

 

 犬と漫才を繰り広げる。

 人間と漫才をする機会でさえそうあるものではないのに、よりにもよって犬。

 極めて珍しい体験ではあったが、千尋の心中はそれ程掻き乱されていなかった。

 付喪神(つくもがみ)と既に遭遇していた事で、非現実的な出来事への免疫ができているのかもしれない。

 ただし、付喪神よりは喋る犬の方がよっぽど奇妙に感じられた。

 その上、ナンパに行きたいだの、夜咄堂(よばなしどう)を売れだのと言い出すのだから、奇妙極まりない。

 

 

 

(待てよ。この犬、もしかしたら……)

 ふと、閃いた。

 犬が喋るという最大の謎をいったん棚上げし、千尋は屈み込む。

 近づいて顔をまじまじと観察しても、やはりただの犬にしか見えない。

 だが、見た目は何の変哲もないのは『彼ら』も同様だったはずだ。

 

「ロビン。もしかしてお前、夜咄堂になにか関係があるのか?」

「おっ、察しが良いな。Yes,I am.」

「英語はもういいから。やっぱりそうなのか」

「ああ。俺も付喪神だよ。普段は普通の野良犬を装ってるけどな」

「そうか。付喪神か……」

 同じ非現実的であれば『彼ら』付喪神や夜咄堂と何かしらの関係があるかもしれない。

 そんな千尋の閃きは、大方当たっていた。

 だが、夜咄堂に関係はあっても、付喪神その者とまでは思っていなかった。

 千尋はなおもロビンを見つめながら、片方の眉を顰める。

 

 

「でも、オリベさん達の見た目は人間だけれど、お前は犬だよな?」

「オリベのおっさんから聞いてないのか? 付喪神っつったって、みんな人間の形じゃないんだよ。

 人間の形を成すもの、俺みたく動物の形を成すもの、他にも魑魅魍魎(ちみもうりょう)の形を成す事だってある。

 俺だって人が良かったんだけれど、こればっかりは運次第なもんでなー」

「化け物になる場合もあるのか……」

「滅多にないらしいけれどな。少なくとも俺は見た事ない。

 まっ、魑魅魍魎にでもなろうものなら、人の世で生活する事も困難だし、犬でもまだマシだったぜ」

「なるほど。……しかし、本当に付喪神なんだな……」

「そういう事だ。大いに敬いたまえ」

 ロビンが無駄に鼻息を鳴らした。

 その鼻先に右手を差し出してみると、ロビンはすかさず前脚を差し出してくる。

 だが、千尋の手に触れる直前で、彼はまた大きく鼻息を鳴らして前脚を引っ込めた。

 

「フゴッ!? おい馬鹿千尋、お手やめろ。反射的にやっちまうじゃねえか」

「やっぱり犬じゃないか」

「犬じゃないの。つーくーもーがーみ!」

「分かった分かった。……でも、やっぱり違和感があるな」

「現実を受け入れろよなあ。まだ付喪神と信じられないのか?」

「いや、それは信じるさ。近所の野良犬と思っていた奴が付喪神だったんで、違和感があるってだけだ。

 ああ、ちなみに……」

 千尋は会話を切ろうとしない。

 この犬に聞いておきたい事はいくらでもあった。

「お前の他にも、野良犬の付喪神っているのか?」

「いたら、なにかまずいか?」

「町中に普通に潜んでいたら、ちょっと怖いってだけだ」

「いや、いない。そもそもこの町の付喪神は、夜咄堂の二人と俺だけだぜ」

「分かった。で、なんでお前は夜咄堂で暮らさないんだ?」

「それはだな」

「犬だと不都合があるのか?」

「おいおい、ゆっくり喋らせろよ。さっきから質問づくで疲れちまうぜ」

「そうは言われてもな……」

 千尋は渋る様子を見せながら腕を組む。

 夜咄堂の二人にならいつでも話は聞けるが、相手が野良犬ではそうもいかないからだ。

 

「んじゃ、歩きながら話してやるから、着いてこいよ」

 ロビンはそう言うと、千尋の返事を待たずに、商店街に繋がる石段の方へと向かっていった。

 千尋も大股でロビンの後を追いかけて石段を下りる。

 

 

 

「まずな。全ての付喪神が夜咄堂で暮らすという前提が間違ってるぜ?」

 ロビンはとことこと歩きながら話を再開した。

「そりゃあ俺達は、宗一郎が手に入れた茶道具の付喪神さ。

 だが、俺達にだって自由ってものはあるし、宗一郎も夜咄堂で働く事を強制しなかった。

 オリベのおっさんや黒いの……ああ、お前はヌバタマと呼んでいるんだっけか?

 あいつらはその上で、夜咄堂で働きたがったし、俺は別にやりたい事があったから店を出たってわけさ」

「ヌバタマって名前も知ってるんだな」

「当り前よ。千尋の名前だって知ってただろう?

 昨日、たまたまお前がいない時に夜咄堂に立ち寄って、最近の出来事を聞いたもんでな」

「そっか。で、ロビンのやりたい事って何なんだ?」

「おー、それそれそれ。今日、千尋に声を掛けたのは、俺のやりたい事関係でな」

 ロビンが首だけで振り返った。

 見た目は犬でも、中身は付喪神だからだろうか、普段の長閑(のどか)な雰囲気とは異なって緊張感が漂っている。

 その緊張感と溜めを作るような仕草に飲み込まれ、よっぽどの事情があるのかと、千尋は身構えてしまう。

 

 

 

 

 

「俺はな……」

「俺は……?」

「JCにお腹撫でて貰いたくて、野良犬になったんだ」

「は、はあっ!?」

 思わず声がひっくり返った。

 

「JCだぜ、JC! JKはダメだ。俺のストライクはJCまでだ!」

「いや、お前な……」

「そんなわけでさ。ちょっとJCがたむろしてそうな所に散歩しようぜ。

 海沿いにドーナツ店があっただろ。あそこが良いや」

「ち、ちょっと待て! 突っ込みたい点はいくつかあるが、ちょっと待て!」

「こまけぇこたぁ気にするなよ。

 そうそう、ヌバタマから聞いてたんだが、稽古の調子が上がらないんだろ?

 俺に着いてきたら、茶道の極意を伝授してやるぜ」

「……む、むう?」

 千尋が唸る。

 

「だからよ。ナンパ手伝ってくれよ。喋れる奴がいると便利なんだよ」

 ロビンは低い声でそう言うと、また千尋の答えを待たずに先へと歩き出した。

 一人取り残され、悩む事十数秒。

 

 結局、千尋の足は前へと踏み出された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海の近くに建つ東雲(しののめ)ドーナツ店に着く頃には、夕方になっていた。

 爽やかな態度で出迎える店員に千尋も相好(そうごう)を崩したが、しかしそれは、ショーケースの中身によって消し飛ぶ。

 閉店間際のドーナツ店には在庫が殆どなく、案の定、千尋の好きな味は全滅していた。

 まあええこと、と気を取り直して、仕方なく適当な味のドーナツを五つ買って店を出る。

 店の前ではロビンがお座りをしていたので、紙袋を鳴らして合図をし、一緒に海沿いの芝生公園へと歩く。

 結局、JCはいなかった。

 

 

 

「野郎とドーナツかあ。あーあ」

「文句言うならドーナツやらないぞ」

「千尋坊ちゃん、冗談きついぜ?」

「変な呼び方やめろ。そもそも、犬がドーナツ食べて良いのか?」

「だから犬じゃなくて付喪神だっての」

 軽口を叩きあいながら、ベンチに腰掛けて犬とドーナツを食べる。

 シチュエーションはともかく、ベンチから望む光景は悪くなかった。

 爛々と輝く夕陽が、西の海の島々に吸い込まれるように沈んでゆく。

 海上に引き伸ばされて映る夕陽は、黄金色の道のようにも感じられた。

 暖かさから暑さへと移行する、ほんのりとした気候に包まれながら、暮れゆく陽を眺め続ける。

 

 小さい頃は、絶景というものを目の当たりにしても、特に感動を覚えはしなかった。

 こういうものを良いと思えるようになったのは、いつ頃からだろうか。

 何故そう思うようになったのだろうか。

 そんな事を考えているうちに、隣のロビンはドーナツを平らげていた。

 

「おい、おかわりくれよ」

「馬鹿言うなよ。お前は一個だけだ」

「でも、五つくらい買ってただろ?」

「目ざといな……これはお前のじゃないんだよ。それより、茶道の極意って何なんだ?」

「あー、あれ? あれね。あー」

 明らかにはぐらかそうとする口ぶり。

 その先の言い訳を聞くまでもなく、千尋は嘆息した。

 

 別に、何が何でも茶道の極意を知りたかったわけではない。

 店の経営が絡んでいようと、茶道は茶道。

 家族の死という因縁がある限り、好感は持てない。

 

 その上で溜息を付いた理由は、シゲ婆さんの件を知りたいからだ。

 それに、もう一つ――

 

(……熱心に教えてくれているヌバタマにも、悪いしな)

 

 

 

 

 

「……ま、いいさ」

 肩を竦めながら、手にしているドーナツの最後の一欠片を頬張る。

 

「んぐ……っと。そこまでお前を信じていたわけじゃないし、別に極意なんか分からなくても良いよ」

「あーあー、あー! そのなんだその言い草。極意はある! ええとな、ええと……」

 ロビンは突然周囲を見回し始めた。

 どうやら、その辺りから極意を……否、言い訳を探しているようだ。

 

(駄犬……)

 これ以上付き合っていたら陽が暮れてしまう。

 もう帰ろうと、千尋はベンチから立ち上がる。

 

 ――ロビンが鼻息を鳴らしながら視線を止めたのは、その瞬間だった。

 

 

「あっ。あれでいいや! あれだ、あれあれ!」

 ロビンが公園の中央に向かって吠える。

 駄犬の湿った鼻の先には、集会用の大型テントが二つ並んでいた。

 テントの前には、筆文字の書かれた看板が掲げられている。

 千尋はテントに向かって歩きながら、目を凝らして看板の文字を読み上げた。

 

 

「ええと……野点(のだて)席、お気軽にご一服、どうぞ……?」



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第二話『軟派野良犬ドーナツを喰らう その三』

「はあ~。これが野点(のだて)席か……」

 

 毛氈(もうせん)の敷かれた長椅子に通された千尋は、ゆるゆると辺りを見回して野点席の光景に見入った。

 水屋(みずや)はテントの中に設けられていて、薄茶も和菓子もそこから客席へと運ばれている。 

 遠目でテントを見た時には風情に欠ける気がしたものの、係りの者は皆和服を纏っているし、

 長椅子の傍では、二メートル以上はあろうかという、大きな朱塗りの傘が添えられていた。

 茶釜や、釜の炉となる風炉(ふうろ)も飾られていて、これはこれで和の風情が醸し出されている。

 それらが、茶室の緊張感ではなく、開放感のある屋外の風に包まれている。

 野点とは、野の天然空間と、茶の洗練された空間が融合した、実に不思議な世界だった。

 

 陽が大分落ちていて、もうすぐ茶席も閉じるからだろうか。他に客はいなかった。

 この世界を一人締めできたのなら、少しは気分良く茶も飲めただろう。

 だが、客はおらずとも、千尋は一人ではなかった。

 

「野で茶を()てる。すなわち野点ってこったな。たまにどこかの流派がこの公園でやるんだよ」

 千尋の傍に座るロビンが、千尋を見上げながら言う。

「おい、他の人に聞かれるぞ。喋りたかったらワンワンで我慢しろ」

「ワンワン」

「それで良し」

「ワン」

 

 

 

 ロビンをたしなめた所に、ちょうど菓子器を運ぶ役の()()しが来た。

 おっとりとした顔つきの中年の女性で、身のこなしもどこか緩やかである。

 彼女は、慣れた手つきで、陶器の菓子器を長椅子に置いてくれた。

 その菓子器の上に乗っていたのは、和菓子であって、和菓子ではない。

 ……そこには、紫陽花(あじさい)が花咲いていた。

 

「……綺麗だ」

 千尋は思わず感嘆の言葉を漏らす。

 菓子器に乗っていたのは、寒天の生菓子だ。

 小さな立方体の寒天が、白あんの周りに無数に付いている。

 寒天は青色、紫色、桃色に彩られていて、夕陽の中では輝いてさえ見えた。

 六月という季節に相応しい、見ているだけでも清涼感を感じる菓子だった。

 

 

 

「紫陽花、という名前の和菓子です。そのままですねえ」

 点て出しが、ほんのりと笑って名を教えてくれる。

「そうか。紫陽花の季節ですもんね」

「ええ。梅雨が来て花が散る前にお召し上がり下さい」

「ははっ。そうさせて頂きます」

 女性の冗談に思わず笑顔になりながら、菓子器を手に取る。

 瞬間、指先に訪れた感覚に、千尋は思わず目を見開いた。

 

「冷たい……」

「あら、冷たすぎましたでしょうか?」

「いえ、そういうわけでは」

 千尋は自分の指先を見つめながら呟く。

「これ、もしかして器を……」

「ええ。冷やしておきました。ではお茶をお持ちしますので、ごゆっくり……」

 

 去り行く女性を呼び止めて、何故、と聞きたい気持ちに駆られる。

 だが、答えは既に体感していた。

 指が心地良いのだ。

 夕方とはいえ、六月中旬の陽気はほのかに暑い。

 その熱気を、指先に伝わる冷気が相殺してくれる。

 冷たさは実にささやかなものであったが、心まで涼しくなった気がした。

 

 紫陽花を頬張ると、白あんの重い甘味が味覚を支配した。

 口内で潰れるように広がる触感も心地良く、美味という他ない。

 千尋は上機嫌になりながら、遺された菓子器を見つめた。

 自然釉(しぜんゆう)にのみ頼った武骨な装飾で、ざらついた素地は分厚い。

 素朴な姿だからこそ、鮮やかな紫陽花を引き立ててくれる、良い備前菓子器(びぜんかしき)だ。

 残念ながら、千尋にはその菓子器の良さが分からない。

 だから、というわけでもないのだが、千尋は菓子器の意匠とは別の事を考えていた。

 

 

(……もしかして、この心地良さの為に、ヌバタマは器を冷やせと言っていたんだろうか……)

 菓子器を見つめたままで、今日の稽古を思い出す。

 稽古の不調と日暮れへの焦りに気分を悪くして、店を飛び出した事を思い出す。

 ヌバタマの稽古には、それなりの理由があったのだ。

 だというのに、自分は感情に任せるままに行動し、彼女の心中を慮ろうとしなかったのだ。

 

 彼女は、怒っているだろうか。

 もしかすると、もう稽古を付けてくれないだろうか。

 そうだとしても、謝らなくては……。

 

 

 

 

「なっ、なっ。俺が言った通りだろう?」

 自責の念に駆られている所へロビンがまた喋り出したが、聞き流す。

 しかし、続けて発せられた言葉については、そうはいかなかった。

 

「おっ……おい千尋。偽JCがいるぜ。見た目だけ十五歳の女がいる」

「随分な言い草ですね」

 ロビンの言葉に対して、やや離れた所から返事が返ってきた。

 聞き覚えのある、穏やかで、それでいて芯の強い声。

 声の主を視界に捉える前に、誰が発したものなのか分かってしまった。

 

 

 

 

 

「ヌバタマ……」

「探しに来たんですよ。もう」

 視線の先にいたヌバタマは、露骨に顔を背けながらそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ヒャッヒャッヒャッ! ロビンが茶道の極意と来たか。ウッヒャッヒャッ!」

 一日の営業を終えた夜咄堂(よばなしどう)に、オリベの甲高い笑い声が響く。

 客席で寛ぎながら今日のロビンとの出来事を話すと、オリベは腹を抱えながらひたすらに笑い続けた。

 

 

「……あいつ、やっぱり極意なんか知らないんですか?」

「そりゃあそうだよ。茶道具の付喪神(つくもがみ)だからって、最初から茶道を極めているわけじゃない。

 その点、あいつは生まれてすぐに野良犬になったんだから、知っているわけがないさ。

 ロビンは犬型で、当然茶道なんかできないから、そこは、まあ、可哀想かもしれんが」

「むう……」

 楽しそうなオリベとは対照的に、千尋は口をへの字に曲げる。

 行き当たりばったりの言動から察してはいたのだが、改めて『あいつは茶を知らぬ』と言われれば、やはり面白くはない。

 

「俺、あいつにドーナツも奢らされましたよ」

「ほう。大方、女の子を探しに連れられたついでだろう?」

「当たり。よく分かりましたね」

「その趣味は嫌いではないからね。私もいつか同行したいものだ。ヒャッヒャッ!」

 オリベがまた笑う。

 だが、今度はその笑いはすぐに引っ込んでしまった。

 千尋の隣に座るヌバタマが、嗜めるようにぎろりと睨み付けたからだ。

 それを受けたオリベは、大きく開けた口をすぼめて、誤魔化すように口笛を吹き始める。

 

「まったく、オリベさんったら」

「ははは。まあ、まあ……」

 この子も、なかなかに苦労性のようである。

 そんな事を思いながらヌバタマをなだめると、彼女は視線を露骨に逸らしてきた。

 やはり稽古の件で怒らせたのかもしれない。

 だがその割には、顔色には怒気が見られなかった。

 

 

 

「そうそう、まあまあ、そう怒ってはいかんぞ。

 それに、良いじゃないか。極意とまではいかないが、千尋は和敬清寂(わけいせいじゃく)を少し学んだのだから」

「和敬清寂……?」

「うむ。茶道の心得とされる禅語だ」

 オリベの口調が真剣なものになる。

 千尋も居住まいを正し、頷いて言葉の先を促した。

 

「和敬清寂とは、調和。敬愛。清廉。静寂……とまあ、そんな言葉の集合体だな。

 四文字一つ一つが茶道と深く関わっているのだが、千尋は今日、そのうちの和を学んだのだよ」

「和……調和、ですか。具体的には?」

「うむ。千尋は今日、偶然見つけた野点席で、器の冷たさに感じ入ったそうだね」

「はい。その……」

 ちらとヌバタマを横目で見ながら、言葉を続ける。

「……ヌバタマの稽古にも、ちゃんと意味があったんだな、と思いました」

「うむ。その様に相手の意を理解しようとするのが和だ。

 ヌバタマも、千尋が店を飛び出した後『どうしたんだろう』とおろおろして、千尋を気に掛けていてな。

 結局、いてもたってもいられずに、探しに出かけたのだが、これもまた和だな」

「オ、オリベさんっ!」

 今度は声を上げつつ、ヌバタマがまたオリベを睨みつける。

 だが、オリベはまるで子供の様にアカンベエを返し、その表情のままで千尋に向き直った。

 

 

 

「千尋や。話の続きだがね」

「真面目な話でしたらその顔は止めて下さい」

「うむ」

 止めてくれた。

「この子は確かに付喪神だし、茶道歴も長い。

 だが、まだまだ生後十五年。心はそれ相応なのだ。

 だから、お前の事情を考えられずに自分の調子で稽古を進めようとした。

 お前もまた、ヌバタマの意図を理解しようとせずに、稽古を飛び出した」

「………」

「だが、互いの立場や考え方を理解しようとすれば、つまりは『和』の心があれば、問題にはならなかった。

 これが、今日お前が学んだ事だ」

「和、ですか……」

 言葉をかみ締めるように何度か頷きながら呟く。

「要するに、相手を気遣えって事ですよね。

 話を聞いただけだと、そう難しそうじゃないんですが……」

「ああ。だが実践するとなると、これが極めて難しい。

 茶道の極意とは、当たり前の事なのかもしれんな。

 当たり前の事を当たり前にこなせてこそ、本物の茶人というわけだ」

「……なんだか、深い話ですね。オリベさん、ただ漫画読んで笑うだけの人じゃなかったんだ」

「そうだろう? 千利休の言葉をパクったからな! ヒャッヒャッヒャッ!」

 どうにも、よく分からない人なのであった。

 

 

「ま、そう深刻に捉える事はないぞ」

 オリベが笑うのを止める。

「二人とも若いんだから、多少の衝突はあるさ。

 でも、後からちゃんと相手を思いやったのだから、今はそれで良い」

「……はい」

「ヌバタマは、千尋を心配して探しに出た。

 千尋だって、ほれ。あの紙袋こそが思いやりの証だろう?」

 オリベが、会計棚に置いた紙袋を指差した。

 

 

 

「そういえばあの紙袋、どこかで見たような……」

「ああ……あれだよ。……海沿いのドーナツ店」

 ヌバタマの疑問に、千尋はぶっきらぼうな口調で答える。

 同時に、ヌバタマが何度も顔を背ける理由が分かったような気がした。

 あれは、やはり怒りではなかったのだ。

 今まさに、自分が感じている感情……気遣いからくる照れ臭さなのだ。

 

 

「その……稽古抜け出して、悪かったからさ。お詫びにドーナツ買ってきた。

 俺とオリベさんが一個ずつ。ヌバタマは抹茶味を二個な」

「に、二個も!」

 ヌバタマの声が喜色に満ちた。

 対照的に、顔付きの方は神妙で、千尋に折り目正しく頭を下げる。

「お土産、ありがとうございます。

 ……私もごめんなさい。何か大事な用事があったんでしょう?」

「……そうだな。女の子のナンパ程じゃないけどな」

 笑って答える。

 だが、行き先は教えない。

 

 

 他の者ならともかく、オリベとヌバタマに教えるつもりはなかった。

 家族を全滅させた茶道に対して、複雑な感情を抱いてる為に、口外したくないという事情はある。

 だが、それだけではない。

 父の死を未だに悲しんでいると知られると、ヌバタマらが自分自身を責めるのではないか、と千尋は思っていた。

 他の家族はともかく、父は茶道具を守って亡くなっている。

 その死を自分が嘆いていては、茶道具の付喪神である二人が気に病むかもしれない。

 だから、千尋は、笑って答える。

 

 

 

「ほら、ドーナツ食べようよ。コーヒー入れるからさ」

 それよりも今は仲直りだ、と千尋は思考を切り替える。

 だが、ヌバタマは面白くなさそうに頬を膨らませた。

 その行動の意が分からず首を傾げると、ヌバタマはビシッと指を突き立ててきた。

 

「千尋さん、そこはお抹茶を点てるからさ……でしょう」

「ええっ? 仕事以外では勘弁してほしいんだけれど……」

「日中のお稽古も半端でしたから、その続きにちょうど良いですよ」

「あれ、まだ終わってなかったの?」

「もちろんです。もちろん終わってはいませんが……」

 ヌバタマが言葉を切る。

 膨らんでいた彼女の頬が、ゆっくりと萎んだ。

 

「……ドーナツに免じて、それは明日にしましょうか」

 ヌバタマは、ようやくにっこりと微笑んでくれた。

 やはり、役得かもしれない。

 気がつけば、千尋も似た様な笑みを浮かべていた。



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第三話『水葵蒔絵螺鈿棗 その一』

 梅雨が始まった。

 

 夜咄堂(よばなしどう)にも降り注ぐ雨は細やかで、耳に届く程々の音は聞いていて心地良い。

 庭の池で鳴く蛙の鳴き声も、まだこの時期は(やかま)しくなく風情がある。

 静かな、静かな入梅。

 

 窓を開けていても雨が中に振り込んでこないので、今日の夜咄堂は、一階の窓を開け放って営業していた。

 していたのは良いのだが……客はこない。

 六月下旬の雨空は、外を行く人の足を鈍くさせ、夜咄堂には今日も今日とて閑古鳥が鳴いている。

 やはりこれは雨のせいなのか。

 或いは、単純に店が不人気なのだろうか。

 どちらにしても、これでは困る。

 生活費に大学の学費、それに付喪神(つくもがみ)達の給料だって払わなくてはいけない。

 父宗一郎の代では、付喪神達に必要な物は父が随時購入していたそうだが、

 千尋はどうにも、金銭を施さないのは落ち着かず、自分の代では給料……というよりは小遣い程度の金を支払う事にした。

 

 しかし、このままでは給料どころの話ではない。

 父の貯金もあるにはあるが、働かなければ数年で使い切ってしまう額だ。

 結局は、店自体を何とかしなくてはならないのだ。

 

 この日千尋は、優しい雨に叩かれる庭の紫陽花を眺めながら、漠然と店へのテコ入れを考えていた。

 だが、具体案が何も出来上がらないうちに、彼の思案は押し流される。

 発端は、ヌバタマの頼み事だった。

 

 

 

 

 

「映画です! 話題の超大作です! 一緒に行きましょう!」

「超大作、ねえ」

 

 ヌバタマが胸を躍らせながら差し出したチラシに、千尋は一応目を通した。

 顔立ちの整った白人の男女が映った映画のチラシで、書かれている煽り文から察するにラブロマンスもののようだ。

 なんでも、全米で大ヒットを記録した映画らしく、近所の映画館でも近日公開されるらしい。

 千尋は全く興味がなかったのだが、時折テレビのCMでも見かけた事はある。

 おそらくは、ヌバタマが言う通りの話題作なのだろう。

 

 むしろ、千尋に興味を抱かせたのは、ヌバタマの入れ込み具合の方だ。

 映画が好きという話を聞いた事はなかったし、仮にそうだと知っていても、こうも懇願してくるヌバタマの姿は意外だった。

 思えば稽古の時も熱心だし、興味がある事への熱意はひときわ強いのかもしれない。

 そんな事を考えていた千尋は、ふと、その熱意が篭った視線が自分に向けられているのを思い出し、難しい顔を作って彼女を見た。

 

「……なんでそんなに観に行きたいんだ?」

「なんでって……だって世間で話題なんですよ。興味湧きませんか?」

「別に。意外とミーハーなんだな」

「むう……で、行くんですか? 行かないんですか? 来月ですけれども」

 拗ねかけるヌバタマであったが、すぐに話を戻してくる。

 

「行かないよ。ちゃんと給料は払ってるんだから、一人で観てこいよ」

「人間と一緒じゃないと不安なんですよ。宗一郎様は時々連れて行ってくれましたよ?」

「父さん、また変な勘違いされそうな事を……」

 片手で頭を抱えながら、視線だけをヌバタマに向ける。

 

 ヌバタマと出かけるのは、千尋とてやぶさかではない。

 商店街へ一緒に買い出しに出かけた事も何度かある。

 だがその時に、周囲から随分と視線を向けられている事に気が付いてしまったのだ。

 それはおそらく、ヌバタマの着物が目を引いているのだろう、と千尋は思っている。

 その上、着物を纏うのは、見た目は十五歳かそこらの美少女ときたものだ。

 目立つのも、無理もない。

 それでも、買い出しであればまだ許容はできるのだが、流石に映画館はハードルが高すぎる。

 

 

 

「駄目駄目。ヌバタマ着物だから、映画館なんか行ったら無茶苦茶目立つだろ。俺そういうのは嫌だよ」

「千尋さんだって、今も着物を着ているじゃありませんか」

「俺は仕事中しか着ないもん。外に出る時は着替えるよ」

「千尋さんはそれで良いのでしょうが、私の着物は付喪神の証のようなもの。着替えるわけには……」

「そうそう、着替えないで宜しい。というわけで映画は行かないからな」

 ハッキリと断り、手のひらで壁を作ってみせる。

 少し胸が痛むが、仕方がなかった。

 

 目立つだけなら、まだ我慢すれば良いのだ。

 千尋が懸念していたのは、必要以上に注目される事で、付喪神の存在が世間に知れ渡る可能性だった。

 付喪神。人ならざる知的生命体。

 否、生命という言葉には疑問符が付くが、むしろ知的『非』生命体の方が、世間に知られれば大騒動になる。

 世に知らしめないのが本当に正しいのだろうかと考えた事もあったが、少なくとも父は秘匿していた。

 そこで千尋も、この件に関しては父の方針を踏襲し、付喪神の存在はひた隠しにすると決めたのだ。

 

 だが、ヌバタマは千尋の思惑を知らない。

 彼女はまだ何か言いたげだったが、取りつく島がないと察したようで、結局はすごすごと退散していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第三話『水葵蒔絵螺鈿棗(みずあおいまきえらでんなつめ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 退散したヌバタマは、会計棚の付近で何かを弄り始めた。

 千尋は横目でその様子を伺おうとしたが、窓際からでは会計棚上の備品が邪魔になってよく見えない。

 

(……さっきの映画の断り方、ちょっとキツかったし、いじけてるのかな)

 どうにも、気になる。

 いてもたってもいられなくなり、立ち上がって直接会計棚を覗く。

 ヌバタマは会計棚の上にティッシュを広げ、そこに何かしらの茶道具を置いていた。

 

 

 

「ヌバタマ。何してるんだ?」

「私を乾燥させてるんですよ」

「お前を乾燥……?」

 言葉の意味がよく分からない。

 ヌバタマに近づいて間近で茶道具を見ると、それは抹茶容器の黒い棗だった。

 

「はい、私です。……あ、もしかして千尋さんには話していませんでしたっけか。

 水葵蒔絵螺鈿棗。私はこの茶器の付喪神なんです」

「そう言われれば、初耳だな」

「うちの物置は湿っぽいから、梅雨の時期は使わなくても外に出さないと、なんだか落ち着かないんですよ。

 特に棗は漆器で水気に弱いですから。なんでしたら、手に取ってみます?」

「良いのか?」

「構いませんよ」

 気前の良い返事を受けて、棗を手に取る。

 

 片手に十分収まる程の大きさで、百年物とは思えない程に光沢がある黒漆塗(くろうるしぬり)

 確かにこの光沢は、ヌバタマの艶やかな黒髪に近いものがある。

 漆塗の上には、蒔絵が散りばめられていや。

 流麗な肥痩(ひそう)の線で川が描かれていて、板金で作られた六本の水葵と螺鈿の花が、その上をたゆたっている。

 平安の雅な世を凝縮したような装飾が、小さな棗いっぱいに広がっている。

 品格に満ちた端然とした造りは、まさしく和の塊。

 

 ……なのだが、やはり千尋には、その良さが分からなかった。

 

 

 

 

 

「……ふむ。これ、やっぱり良い棗なの?」

「それはそうですよ。なんせ国宝――」

「国宝っ!??」

 声を張り上げてしまう。

 そんな逸品を手にしているのが怖くなって、慌ててティッシュの上に棗を戻す。

 

 確かに百年物の茶道具は、その年数だけで価値が生じる。

 だが、国宝とはいくらなんでも想定外だった。

 そもそも、国宝が地方の小さな茶房にあると、誰が想像……

 

「あ、あれ? 待て待て。うちに国宝があるっておかしいだろ?

 普通は国宝って、美術館だか国だかが保管するもんじゃないのか?」

「……ええ、国宝じゃありませんよ。そうだったら良いんですけれども」

 ヌバタマは大きく嘆息する。

 

 

 

「話には続きがあるんです。

 これは、国宝の八橋蒔絵螺鈿硯箱(やつはしまきえらでんすずりばこ)を作った尾形光琳(おがたこうりん)作の棗……の写しです」

「ええと……国宝の硯箱を作った尾形さんが、棗も作ってて、更にそれを写した物?」

「それで合ってます」

「なんだその、友人の友人の隣人みたいな繋がりは。

 写した人は有名人なの?」

「有名だったら今頃美術館入りですよ」

 また、ヌバタマが嘆息する。

 

「なんだか、元気がないな」

「ええ。……自分の格はちょっと気にしてるんですよ。

 歴史はオリベさんの半分しかありませんし、出自も所詮は写し。

 本物の水葵蒔絵螺鈿棗は、ちゃんと美術館に展示されているんですよ」

「なるほど。そりゃ確かに、劣等感を抱くかもしれないけど……」

 頷きながら、もう一度棗を手に取る。

 

 

 

 だが、改めて見ようが、やはり千尋には良さが分からなかった。

 とはいえ、それを伝えてしまうのも気が引ける。

 嫌いな茶道具にお世辞を言いたくはなかったが『棗』はともかく『ヌバタマ』には励ましの言葉の一つや二つ、掛けてやっても良い、と千尋は思った。

 それでは、何と言ったものだろう。

 強いて言えば、ヌバタマの髪と同じ、吸い込まれてしまうような黒漆塗には見所を感じる。

 だが、技術的見地を持ち合わせていない千尋には、その良さを言葉として表現する事が出来なかった。

 

 

 

「その……うん、いい棗だと思うぞ?」

「……ありがとうございます。そう言って頂けると嬉しいです」

 結局、気休めも良い所の言葉しか出てこない。

 ヌバタマは笑ってくれたが、全く力の篭っていない笑みだった。

 これ以上、どう持ち上げれば良いのか。

 千尋が思い煩ったその時だった。

 

 

 

 コンコンッ……

 

 

 

「「……あれ?」」

 千尋とヌバタマの言葉が重なる。

 玄関から聞こえてきたその音が何を意味するのか、理解するのに暫しの時間を要してしまった。

 それというのも店が暇なせいだ、と千尋は内心言い訳をしながら、玄関へと向かった。

 

 

 

 来客、である。



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第三話『水葵蒔絵螺鈿棗 その二』

 千尋が慌てて玄関を開けると、若い女性がいた。

 肩まで伸ばした茶髪はさらりとして美しく、纏っているレディーススーツも整っている。

 やや釣りあがり気味の目は、それらの美しさを引き締めてさえいた。

 どこか品格を感じさせる雰囲気の持ち主である。

 

「こちらは茶房、よね?」

「いらっしゃいませ。はい、茶房・夜咄堂(よばなしどう)でございます。

 どうぞ、中へお入り下さい」

「良かったわ。民家の様にも見えて、躊躇しちゃって」

「看板も目立ちませんもので申し訳ありません。お好きな席へお掛け下さい」

「ありがとう。もしかすると、和室……というより、茶室もあるかしら?」

「そうですね。二階に茶室がございますが……」

「それは良かったわ。門構えからそんな雰囲気を感じたものだから。そちらで頂いても良い?」

 女性客は温和な笑みを浮かべる。

 だが、柔らかいその笑みとは対照的に、声は溌剌としていた。

 

「茶室ではお抹茶セットしかお召し上がり頂けませんが、それでも宜しければ」

「むしろ、それが良いわ。是非、お願いします」

 

 他に客はいないし、断る理由はない。

 千尋の部屋で漫画を読んでいたオリベに店番を頼んでから、女性客を二階へと連れて上がる。

 手早く準備を終えれば、客を茶室に通して、早速茶席が始まった。

 まずは和菓子を振る舞う……そこまでは、シゲ婆さんが来た時と同じ流れ。

 

 その流れが変わったのは、和菓子を食べ終えた女性客が、茶花が飾られている床の間を見た時だった。

 

 

 

 

 

「今日のお花は、紫陽花(あじさい)で?」

「ええ。庭に咲いている玉紫陽花を飾らせて頂いております」

 女性客の問いには、茶室の入り口付近に座している席主(せきしゅ)のヌバタマが答える。

 本来は、茶を点てている千尋が兼任するべきなのだが、千尋にはまだそこまでの技量はない。

「成程。手入れが行き届いているわね。花入れは唐津焼(からつやき)のようだけれど……」

「あ……はい、その通りです」

「そう。良い朝鮮唐津だわ。滴る藁白釉(わらはくゆう)が美しい」

 

 千尋は思わず、茶杓(ちゃしゃく)を取ろうとする手を止めてしまった。

 シゲ婆さんの時に交わされた会話と言えば、とりとめもない雑談だけだったが、この女性客は違う。

 茶道具に対する会話の応酬。

 これは茶席のイロハであったが、茶道に縁がなければ知りえない事でもある。

 すなわち、この客は大なり小なり、茶道をかじっている可能性が高い。

 その上、茶道具への鑑定眼まで持ち合わせているようだ。

 今日飾っている朝鮮唐津花入の良さについて、以前オリベから聞いた事があったが、オリベはこの客と同じ事を言っていた。

 

「そう言えば、自己紹介していなかったわね」

 女性客が千尋に向かって微笑む。

「私は、町外れで骨董品店を営んいる秋野という者よ。

 職業柄、茶道具には少々興味があるの」

「あ……こちらこそご挨拶が遅れまして。若月千尋です」

 

 慌てて頭を下げながら、秋野を改めて見る。

 落ち着いた大人の女性、といった風貌ではあるのだが、その落ち着きを突き破る要素がある。

 爛々と輝いて、その存在を強く主張している瞳だった。

 彼女の瞳を見ていると、それだけで自分にも活力が宿る気がする。

 品格と溌剌さを併せ持った、魅力的な女性だった。

 

 

 

「随分お詳しいと思いましたが、骨董品を扱っておられれば、ごもっともですね」

 後方のヌバタマが会話に加わってきた。

「詳しいなんてとんでもないわ。まだまだ勉強中の身よ」

「ご謙遜なさらなくとも」

「ううん、謙遜なんかじゃないわ。あくまでも『今がそうだ』と思っているんだから。

 いつかは本物の目利きになって、お店も扱う品も、一級にしたいものね」

「それは良い目標ですね。特に茶道具は、お持ちになった方のお名前で評価が変わる事もありますし。

 本物の目利きになれるよう、応援しております。

 ……あ、千尋さん。手が止まってますよ?」

「おっと……」

 ヌバタマに催促されて、右手で茶杓を取る。

 もう片方の左手では抹茶の入った棗を取るのだが、その時にふと、ヌバタマの事を考えた。

 今日の棗は、先程まで乾かしていたばかりの水葵蒔絵螺鈿棗(みずあおいまきえらでんなつめ)

 すなわちヌバタマだ。

 落としでもしたら、後でどれだけ怒られるか分ったものではない。

 慎重な手つきで、習っている通り、茶杓を握り込んだ右手で棗の蓋を開けようとする。

 ……事故とは、そういう所にこそ潜んでいるものだった。

 

 

「それは!」

「わ、わっ!?」

 唐突に秋野が声を張り上げる。

 その声に驚き、早速棗を落としかけてしまうが、どうにか堪えた。

 

「お、驚いた……秋野さん、どうしました?」

「もしかしてそれ、水葵蒔絵螺鈿棗じゃないの?」

「そ、そうですが……あ、でも写しです」

「写しか……それもそうよね。現物は美術館に入っていたのよね……はあ」

 小さな溜息が零れ、表情が曇る。

 だが、それでも彼女はまたすぐに目を輝かせ、膝を前に押し出して前進した。

 

「そうだ。順番が前後しちゃうけれど、先に棗を拝見しても良いかしら?」

「どうぞどうぞ。正規のお茶席ではありませんし」

「ごめんね」

 秋野との間に棗を置くと、彼女はかじりつくようにして棗を見つめ始めた。

 正面から。

 右から左から。

 下から上から。

 蓋の中も、棗の底も。

 蒔絵の流水の流れに沿うように、隅々まで凝視している。

 彼女の評価が気になって、千尋はつい背筋を伸ばしてしまった。

 鑑定番組で鑑定結果を待つ依頼者も、同じ心境なのだろうか。

 そう考えた所で、自分よりも緊張している者がいる事を思い出し、ちらと背後を見る。

 案の定。

 その人物……ヌバタマは、もはや戦々恐々といった様子だった。

 

(それもそうだよな。骨董品屋に見られているんだもん。

 格に劣等感がある上、評価まで低かったらなあ……)

 

 ヌバタマの気持ちを思えば、青ざめてしまうのも無理はない。

 だが、茶室にいる限り、ヌバタマは答えを耳にしてしまう。

 適当に理由をつけて、ヌバタマを退席させようかと思ったその時に、

 秋野は棗から顔を離し、毛氈の上に戻ってしまった。

 

 

 

 

「無理を言ってごめんね。十分に拝見させて貰ったわ」

「いえ、無理だなんて……」

「でも、それだけの価値はあったわ。良い棗よ」

 秋野は片目を瞑り、人差し指を突き立てながら言う。

 

「華やかな装飾に、世界の凝縮。そんな元の棗の良さを見事に写しきっているわ。

 手入れも相当入念のようね。傷もなく、保存状態も良好。

 作り手も、持ち主も、丁寧な仕事をしていると見たわ」

「そんなにも良い物なんです?」

 そう尋ねたのはヌバタマだ。

 聞こえてくる喜色に満ちた声から、ヌバタマの心境はおおよそ理解ができる。

 

「ええ。良い物よ。

 いつ頃作られた物かは分かる?」

「百年ちょっと前ですね」

「明治か大正といった所ね。ふむ……」

 秋野はまたちらと棗を見たが、今度はその視線をすぐに千尋へと移した。

 

 

「千尋君。初対面でこんな事を言うのは、甚だ失礼だとは分かっているわ。

 分かっているのだけれど……それを承知で、一つお願いがあるの」

「……なんでしょうか?」

 

 千尋は首を引き、相手の様子を窺うように聞き返す。

 確認の言葉とは裏腹に、秋野の考えには予想が付いていた。

 

 それは、元々千尋が考えていた事でもある。

 急場凌ぎではあるが、生活費の足しにはなるだろう。

 店だって、茶道具が一つ無くなっても続けられる。

 ヌバタマにとっても、寂れた茶房で働くよりは良いかもしれない。

 全てにおいて、良い選択のはずだ。

 

 はずなのだが――

 

 

 

 

 

 

 

「この水葵蒔絵螺鈿棗を、譲ってもらえないかしら?」

 

 秋野の言葉に、理由の分からぬ漠然とした動揺を覚える。

 それはやはり、千尋が予想していた通りの言葉だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……なるほどねえ。あの棗を譲ってほしい、か」

 オリベが鼻髭を弄りながら頷く。

「返事は保留にさせて貰いましたよ。二、三日してまた来るそうなので、その時に回答します」

「うむ。確かに即答は難しいかもしれんな」

 

 夜の夜咄堂でかわされる、男二人の話し声。

 あまり好ましい状況ではないのだが、二人で話しておきたい事だから仕方がない。

 この日の営業を終えた千尋は、オリベと一階を掃除しながら、今日のあらましを話していた。

 ヌバタマには二階の掃除を頼んでいたのだが、今日は茶室も使ったので、少々時間を要するだろう。

 ヌバタマも交えて話すのは、彼女の気持ちが固まってからにしたかった。

 

 

「で、秋野さんとやらは美人だったのかね?」

 オリベの声は、口調も言葉の中身も軽い。

 先程から、あまり話を深刻に受け止めているようではなかった。

「……まあ、大人の女性といった感じの美人でしたが」

「ヒャッヒャッヒャッ! それじゃあ代わりに私を買ってくれんかなあ」

「適当な事言わないで下さいよ。大問題なんですよ?」

「はいはい。で、その大問題にはどう答えを出すのだね?」

「それなんですけど、判断はヌバタマに任せようと思います」

 ヌバタマがいる二階を見上げながら、千尋は言う。

 

「ただの茶道具なら話は別ですけれど、水葵蒔絵螺鈿棗には、ヌバタマが宿っていますから。

 いくら夜咄堂の茶道具とはいえ、俺の一存で決めてしまうのは横暴かと思います」

「優しいもんだね」

「そうでしょうか?」

「我々は所詮道具。私も多くの人の手を渡り歩いたよ。

 なので、そう深刻に捉えなくとも良いとは思うが……ま、あくまでも私の考えだ。

 まだ夜咄堂での生活しか知らぬヌバタマは、違う考え方をしているかもしれんしね」

「ええ。秋野さんが帰った後から、ずっと悩んでいるみたいです」

 

「うむ。……で、君はどうしたいのかね? いてっ」

 オリベが鼻毛を抜きながら聞いてくる。

「さっき言ったじゃないですが。判断はヌバタマに任せますよ」

「そうではない。『どうする』ではなく『どうしたい』と聞いているのだよ。

 やっぱり、売って生活費の足しにでもしたいのかね?」

「………」

 

 答え難い問いだった。

 正直な所……ヌバタマだけでなく、自分も気持ちは固まっていないのだ。

 状況を考えれば売るのが良いだろうし、元々はそうするつもりだった。

 では売ろう……と決断できないのは、やはりヌバタマの存在が引っかかっているからだ。

 

 

 

 

「……ヌバタマの様子、見てきます」

 

 結局、千尋はオリベの問いには答えない。

 掃除もそこそこに、彼は二階への階段を上っていった。



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第三話『水葵蒔絵螺鈿棗 その三』

 二階に上がると、水屋(みずや)の障子が開いていた。

 茶室には入らずに水屋へ足を進めると、やはりヌバタマがいる。

 開かれた出窓の木枠に手を掛けて、雨の降る夜空を眺めているようだった。

 中へ入ってくる風が彼女の髪をふわりと揺らしている。

 緊張感のある、それこそ茶室の中のような雰囲気が、彼女を包んでいた。

 

 千尋が水屋の前まで来ても、ヌバタマに気が付く様子はない。

 声を掛け難い気がしたので、一階に戻ろうかとも思ったが、足場が少し緩い事に気が付く。

 踏み処が悪かったのか、動くと床が軋みそうなのだ。

 物音を立てつつ逃げるように去るのは、少々無様かもしれない。

 

 

「あー……ヌバタマ?」

 結局、千尋は思いきって声を掛けた。

「千尋さん」

 ヌバタマが振り返りながら微笑む。

 その笑顔には、どこか力がない。

 

「どうするのか決めたのか?」

「……まだ迷ってますよ。難しい話ですよねえ」

「そりゃそうだよな」

 そう言いながら、ヌバタマの傍まで歩く。

 窓から夜空を覗けば、一面の群青色で、当然ながら星は一つも見えなかった。

 まだまだ、雨空の日は続くようである。

 

 

「結論でなくても良いんだけれど……どちらかというと、どうしたいんだ?」

「……秋野さんの所に興味があります」

 聞こえる声は、僅かに小さくなった。

「……もちろん、店に愛着はありますよ。付喪神(つくもがみ)になって十五年、ずっと過ごしてきた店ですから。

 でも、今回のお話は好機なんです。本来私は売り物ではありませんから、こんな話はそうそうありませんし」

「そうだな。うちにいるよりは、秋野さんみたいに向上心がある人に持ってもらった方が、格も上がるよな」

「あ、いえ……」

 ヌバタマが慌てて首を横に振った。

 大方、店を悪く言ってしまったとでも思ったのだろう。

 だが、当の千尋が笑っている事に気が付くと、それにつられるように、ヌバタマもはにかんだ。

 

 

「……昼間に話しましたよね。私が、自分の格を気にしているって」

「ああ、聞いたな」

「映画の件も、そこから来ていると思うんです」

「………」

「流行……特に人間の女の子が夢中になっているものに、私弱いんです。

 そうして、自分に箔を付けたいのかもしれませんね」

「………」

 千尋は、なおも夜空を見上げ続ける。

 

 

 

 金銭状況、茶道具に対する愛着のなさ、ヌバタマの将来。

 売る理由を挙げるならば、この三つだろう。

 千尋が物言わずに考えていたのは、その真逆に位置する売らない理由……それは、ヌバタマの必要性だった。

 

 夜咄堂の営業におけるヌバタマの影響は大きい。

 彼女が給仕を勤めてくれているお陰で、仕事量というよりは、精神面で楽をさせてもらっているのだ。

 茶道の稽古においても、彼女には大いに世話になっている。

 それに、オリベが気にするなと言っても、ヌバタマを売るという行為には抵抗を覚えてしまう。

 

 二つの選択を、心中でせめぎ合わせる。

 ヌバタマと話して、気持ちが整理できたのだろうか。

 日中相当悩んだというのに、結論はあっさりと下された。

 それは、自分にしては珍しい結論かもしれない。

 

 千尋はすっとヌバタマを見た。

 

 

 

 

 

「ヌバタマ」

「なんでしょうか」

「……映画、来月だったよな」

「え、ええ」

「つまり、お前を売ったら観に行けないわけだ」

「そうですね」

「……来月、一緒に行くか?」

「はい……?」

 ヌバタマがきょとんとする。

 やはり、どういう事なのか、ハッキリと伝わっていないようだった。

 照れ臭くて遠まわしに言いたかったのだが、これでは仕方がない。

 

 

「その……なんだ。俺はやっぱり、棗の良さとか分からないし、うちにいても格なんか上がらないよな。それは分かる」

 頭を掻いてそっぽを向きながら、千尋は語る。

「分かるんだけれども……うちも、ヌバタマがいないと困るんだ。

 だって、お前がいなくなったら、俺とオリベさんの二人だけだろ?

 それじゃあ、一時凌ぎの金が入ってきた所で、店が潰れるのは時間の問題だ。

 だから、まあ……必要って事だよ」

 

「千尋さん……」

 ヌバタマが顔を伏せながら呟く。

 伏せられた表情は、曇っている気がしてならなかった。

 

 自分でも、ヌバタマには悪いと思っている。

 普段なら、店や自分の都合は押し殺し、ヌバタマの希望を尊重する所だった。

 だが、そうしなかったのは何故だろうか。

 生活が懸っているからか。

 ヌバタマが人間ではなく付喪神だからか。

 或いは――

 

 

 

「ありがとうございます、千尋さんっ!」

 ヌバタマが、顔を上げる。

 露わになった彼女の瞳は、きらきらと眩く輝いていた。

 名前だけは付喪『神』のくせに、ヌバタマこそ神様でも見るような瞳をしていた。

 

「お、おうっ?」

「そのお言葉があれば、私、やっていけます」

「でも格は……」

「解決しません。でも、頑張れます。

 私は道具ですから、人間から必要と言ってもらえるのが、何よりも嬉しいのですよ」

「……秋野さんも、お前が必要なんだぞ?」

「もちろん秋野さんの気持ちも嬉しいですよ。

 でも、千尋さんの方が嬉しいんです。

 お店や宗一郎様の意思を継がれている千尋さんに必要とされる方が、もっと嬉しいんです」

「……あっ」

 不意打ちが千尋を襲う。

 ヌバタマから両手を掴まれてしまった。

 照れ臭いうえに、バツも悪い。

 ヌバタマの期待程、大層な気持ちで店をやっているつもりはなかった。

 

 

 

「……本当に……本当に、ありがとうございます」

 にっこりと、微笑まれる。

 反則も反則、レッドカードものの笑顔だ。

 顔を真っ赤に染め上げながら、鼓動する心臓を必死に抑えようとする。

 茶道具相手に何を照れているのだか。

 そう自分に言い聞かせ、落ち着こうとしているうちに……ふと、今回の件はまだ解決していない事に気が付いた。

 

 

 

「……でも、秋野さんには悪いな」

 声のトーンを落としながら言う。

「ご希望にお応えできないから、ですか?」

「うん」

「それなら、付喪神に任せて下さい。なんとかなるかもしれません」

 

 ヌバタマは手を放すと、ぐっと握り拳を作ってみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 約束の日になった。

 この所続いている雨は未だに止む事を知らず、蛙の声はこの数日で合唱に発展した。

 窓を閉め切った茶室にまで届いているのだが、決して雑音ではない。

 六月という季節を何よりも強く感じさせる鳴き声は、四季を感じ取る事を重要視する茶道には相応しい。

 

 そんな席で、水葵蒔絵螺鈿棗(みずあおいまきえらでんなつめ)を用いて()てられた一服を口にした後で、棗は譲れないと聞かされた秋野は、大きく嘆息した。

 

 

 

「ううん、やっぱり無理かあ」

「大変申し訳ありませんが……」

 風炉(ふうろ)の前に座した千尋は、深々と頭を下げる。

 秋野は両手を左右に振る事で、気にするなという仕草を取ってみせたが、

 それでも彼女の表情からは、まだ未練が感じらる。

 

「しかし、惜しいわ。本当に惜しい」

「そんなに良い棗と思って頂けているのですか?」

 席主のヌバタマが尋ねる。

「この前も話したけれど、もちろんよ。

 ……私のお店、今は小さいの。

 だからこそ、お店と棗、一緒に成長できると思ったのだけれど」

「……そうですか。ありがとうございます」

 

 その言葉を耳にするなり、千尋は神経を尖らせる。

 事前にヌバタマから『ありがとうございますを合図にする』と聞かされていたのだ。

 合図とだけ聞かされても、何の合図なのか皆目見当がつかない。

 その疑問は当然投げかけたのだが、返ってくる答えは『当日分かる』だけだった。

 当日のお楽しみとは、少々落ち着かないものだが、千尋はそれ以上真意を尋ねようとはしなかった。

 

 そして、ようやく訪れたその瞬間。

 ……それは、痛烈な違和感の始まりでもあった。

 

 

 

 

 不意に、千尋の視界が弾ける。

 強い閃光を感じ、眼前の風炉が揺らめいた。

 目に映る茶道具は、まるで水面に映したかのようだが……

 否。

 茶道具が揺らいだのではない。

 これは、自身の意識が遠のいた為に生じた揺らぎだ。

 即座に気が付けたのは、これを一度経験をしていたからだろう。

 

(この感覚……前に……)

 

 唐突に訪れた揺らぎを、千尋は忘れてはいない。

 初めて夜咄堂に来た日の出来事だから、良く覚えている。

 シゲ婆さんが茶を啜った瞬間、同じように強い光と視界の揺らぎを感じた。

 そう思ったのも束の間、やはり前回同様に、違和感の潮はすぐに引いてしまった。

 

 一体、今の感触はなんだったのだろう。

 前回は、この後何をしただろうか。

 確か、シゲ婆さんの顔を見たはずだ、と記憶を掘り起こす。

 

 

(確か前回はシゲ婆さんを見たら、悲しんでいたはずのシゲ婆さんが笑って……あ……)

 同じように、客である秋野を見る。

 愛惜の表情を浮かべていた秋野の顔が……変わっていた。

 シゲ婆さん同様に、笑っていた。

 梅雨模様とは対照的な、晴れ晴れとした、見ている方が気持ちよくなるような笑顔が、そこにはあった。

 

 

 

 

 

「ううん。良いのよ」

 千尋とヌバタマの顔を交互に見てから、秋野が言う。

 

「確かに棗は欲しかったわ。でも、茶道具は用いてこそよ。

 骨董品店で客を待つよりは、今日のように茶室で用いられた方が、棗にとっては幸せだと思う」

「そうかもしれませんね」

 ヌバタマが笑いながら同意する。

 そこからは、戸惑いや狼狽の色は全く感じられない。

 ヌバタマは、今の異変に気が付いていないのだろうか。

 いや、その様な事はないはずだ。

 おそらくは、ヌバタマが言う『合図』とは、揺らぎの合図だったのだろう。

 彼女は確実に、何かを知っている。

 

 

 

「それに、千尋君を見ていて、思った事があったの」

「あ、はいっ?」

 考え込んでいる所へ、話を振られた。

 裏返ったような声になってしまったが、とにかく返事をする。

 

「千尋君、まだ茶道を始めて間もないでしょ?」

「……恥ずかしながら、その通りです」

「始めたばかりだから、なのかしらね。

 確実にお茶を点てようという、慎重堅実なお点前だったわ。

 実際、頂いたお茶も凄く美味しかった。

 ……まるでその棗みたいなお手前。そう思える程にね」

「棗みたいな手前……?」

「そう。……私ね。なによりも、棗のお手入れが行き届いている所に惹かれたの。

 古い茶道具なんだから、価値も大事だけれど、使用に耐えうる事も重要だもの。

 そんな、堅実で本質を大事にしている所、貴方にそっくりよ」

「………」

「このお店、そして何よりも千尋君が持つべき棗だと思えば、もう未練はないわ。

 千尋君、ありがとう。結構なお手前でした」

 

 秋野が改めて笑う。

 一片の偽りも感じられない、見事な笑顔だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日々是好日(にちにちこれこうにち)……それが私達付喪神の能力です」

 

 秋野の退店後、ヌバタマは待ち構えていたようにそう告げて、他に客のいない客席に腰掛けた。

 むしろ、何事だったのかと自分から聞こうと思っていたのだから、都合が良い。

 無駄口を挟まずに彼女に面して座ると、ヌバタマはそれを待って言葉を続けた。

 

 

「私達は、ただの付喪神ではありません。茶道具の付喪神として生まれました。

 一般的な付喪神には、人間に雑に扱われた恨みを晴らすべく、付喪神と化した者も多くいます。

 でも、茶道具の付喪神は違う。例外なく皆愛用されて付喪神になりました。

 その恩を返すべく、茶道具の付喪神には、非実体化以外にも特別な能力が備わっているのです」

「それが日々是好日とやら、なのか?」

「その通りです」

「なんだか聞き覚えがある言葉だな」

「元々は禅語ですから、ご存じでもおかしくはありませんね」

「そっか。毎日良い日……とかそんな意味なのか?」

「意味は少しばかり違いますが……今回は、禅語としての説明は割愛しましょう。

 それよりも、付喪神の能力としての意味、です」

 ヌバタマは一度言葉を切って、ちらと二階を見るような仕草を見せる。

 だが、すぐに千尋に向き直り、澄んだ声で言葉を続けた。

 

 

 

「これは、茶道具、お抹茶、空間……総じて、茶道の良さを実感して貰える能力です。

 茶道の良さって、普通の方だとなかなか感じ難いものだと思うんです。

 千尋さんも、茶道具の説明を受けても、良さがまだよく分からないのではありませんか?」

「まあな」

「ゆくゆくは分かるようになって下さいね」

「気が進まないなあ……」

「そこは進んで下さいよ」

「そう言われてもな……それより、良さが伝わらないから、何なんだ?」

 千尋が面倒臭そうに尋ねると、ヌバタマはポンと手を打った。

 

「良さが分からない……でも大丈夫なんです。そこで、この日々是好日ですよ!

 確かに、茶道の良さなんて、ある程度場数を踏まなければ分からないものなんです。

 でも、この日々是好日を発動させる事で、それが容易に理解できるようになるんです。

 具体的には、その席で持て成されているお客様の感受性を一時的に豊かにし、

 茶道の良さを深く感じ入ってもらえる能力です。

 他の付喪神にはない能力ですよ。茶道具。茶道具の付喪神だけの能力です!」

「なんだか通販番組みたいな語りだな……」

 頬杖を突きながら、淡々と突っ込みを入れる。

 

 だが、内心では日々是好日に少々の衝撃を覚えていた。

 どうやら、この能力を用いれば、誰でも茶道の良さが分かるらしい。

 シゲ婆さんや秋野も、茶道の良さを通じて、それぞれの煩いを乗り越えたのだろう。

 すなわち、滅多にできない体験を提供できるのだ。

 閑古鳥の鳴いている夜咄堂を、これで立て直せるかもしれない。

 大々的に『癒しの茶室』等と看板を掲げると、付喪神の存在がどこかで漏れてしまう可能性はある。

 なので、そこを加減する必要はあるが……手間が掛かろうと、解決できない問題ではない。

 もちろん、ヌバタマらが首を縦に振ってくれればの話ではある。

 しかし、光明は確かに見えた。

 

 

 

「それにしても、千尋さん、なんでそんなに茶道に興味を持ってくれないんですか?」

「え? あ、ああ……」

 ヌバタマの不満そうな言葉に、適当にお茶を濁す。

 付喪神には言えない理由があるのだ。

 

「……まあ、ええ事よ」

「ちっとも良くありません! ほら、お客様が来るまでお稽古しましょう。

 映画のお返しみたいなものですから、遠慮しないで良いんですよ」

 ヌバタマが勢い良く立ち上がった。

 どうにも、本気のようである。

 それを悟るや否や、千尋も遅れて立ち上がり、ヌバタマから視線を切らずに後ずさった。

 

 

 

「お稽古、お稽古! 逃がしませんからね!」

「か、勘弁してくれよ……!」

 

 

 かくして、ドタバタの茶番劇が始まる。

 客は来ずとも、こうして夜咄堂は日に日に賑やかな茶処と化すのであった。



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第四話『5.8742諭吉 その一』

 相も変わらず、梅雨空の日が続いている。

 雨の勢いは日に日に本格的となっているのだが、風が強い日が少ないのが、せめてもの救いだろうか。

 稀に風が強くなろうものなら、夜咄堂(よばなしどう)の薄く古い板壁は、ぎしりと嫌な音を立てていた。

 これまでが大丈夫だったのだから、どうという事はないと、オリベは自慢げに言うのだが、

 今後も倒壊しない保証はないし、客とて、落ち着いて店を利用出来ないだろう。

 

 ……問題は、その客自体がこない事なのではあったが。

 

 

 

 

「全員、集まったな」

 集合の声に応じ、夜咄堂の一階に集まった面々を、千尋は神妙な顔つきで一瞥した。

 面々とは言っても、オリベとヌバタマの二人だけなのだが、とにかく一瞥した。

 前もって何も話していないので、二人の付喪神(つくもがみ)は顔を見合わせ、肩を竦めあっていた。

 当然の反応だが、呼び集めた理由はこれまでに何度も匂わせている。

 事前説明は不要だろうと判断した千尋は、ズバリ核心から語り始めた。

 

 

 

「本格的に、夜咄堂の経営が厳しくなってきた」

「おやまあ」

「それはそれは」

 静かながら熱の篭った千尋の語りとは対照的に、付喪神達の反応は淡泊だ。

 

「おやまあそれはそれはって……本当に苦しい状況なんだぞ。

 学費、生活費、給料、店舗運営費、それに加えて諸経費が諸々」

「ごめんなさい。でも私達にはよく分からない話で……。

 あ、もちろんお店に来るお客様が少ない事態には憂慮していますよ?」

 ヌバタマがそう言って胸に手を当てた。

 もっともな言い分ではある。

 確かに付喪神に金の話をしても、分かってもらえるものではない。

 千尋としても、本当に二人に期待しているのは、同情ではなく、これから話す事であった。

 

 

 

「分かった。俺としても出費でなく収入の話がしたいしな。

 結局は、お店が繁盛すれば解決する問題なんだ」

「ごもっともです」

「そこで……今日は二人から、お店を繁盛させる為の意見を募ろうと思う。

 お金周りや細かい事は気にしなくて良い。

 お客様に来てもらう方法を思いつけば、とにかく教えてほしいんだ」

「なるほどなるほど」

 オリベが頷き、自信満々に挙手をする。

「ならば、経験豊富な私に任せておきなさい。名案があるぞ」

「はい、オリベさん」

「美人のお姉ちゃんに限り、私が接待するのだ。

 さすれば皆メロメロになって常連に」

「次いってみましょうか」

「ち、千尋ぉ?」

 接客方法の検討は面白そうだが、この案には下心しかない。

 オリベを歯牙にもかけず、今度はヌバタマを見る。

 それを受けた彼女は少し逡巡(しゅんじゅん)する様子を見せたが、おずおずと切り出した。

 

「ううん……あんまり自信がないのですけれど……」

「良いよ。言うだけ言ってみて」

「料理の研究、とかどうでしょうか?」

「つまり、新メニューって事か」

 ふむ、と首を引いて頷く。

 

「ええ。もっと若い人に受けそうなものを増やすんですよ。

 パンケーキとか、女の子に人気らしいですよ?」

 ヌバタマが嬉しそうに提案する。

 千尋にとってはパンケーキもホットケーキも変わりないのだが、彼女の言う通り、実際に人気があるのも理解はしていた。

 

「悪くはないが……それは、どちらかといえば、常連確保の為の案だな。

 根本的な客の入りを改善しなくちゃいけないんだ」

「なるほど、そうですよねえ」

 ヌバタマも理解はしてくれたようで、すぐに引っ込んでしまう。

 

 

 

「……ちなみに、千尋は妙案を持ち合わせていないのかね?」

「あ、それです。その絡みで、二人に聞きたい事があるんです」

「ほうほう。なにかね?」

「これも常連確保案ですが……日々是好日(にちにちこれこうにち)を使えないかな、と」

「ふむ?」

 オリベがうやむやに頷く。

 同意ではなく、もう少し詳しい説明を求められていると察した千尋は、なおも言葉を続ける。

 

「日々是好日を使えば、茶道の良さをハッキリと伝えられるでしょう?

 普通の人は茶道の良さなんて分からないから、その分、未知の感動を味わってもらえると思うんです。 

 そうすれば常連になってもらえるし、口コミ効果もあると思うんだけれど」

「うむう……それは難しいかもしれんな」

 オリベが鼻鬚を弄りながら渋い返事を返す。

「そうなんですか?」

「日々是好日は、本当に茶の癒しを必要としている人にしか効果がないのだよ。

 必要であれば、相手がその必要性を自覚していなかろうと効果が生まれるが、

 そうでなければ、無意味なのだ」

「そっか。上手くいかないもんだなあ」

 

 ならば、できる事はもう一つしかない。

 本来なら、もっと早くこれを始めるべきだったのかもしれないが、何分面倒臭い。

 その上、梅雨の時期にやるのだから、億劫この上なかった。

 しかし、他に手段はなく……

 

 

 

 

「ビラ、配るか」

 千尋は重々しく呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第四話『5.8742諭吉』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 尾道市で人通りが多い場所といえば、やはり商店街だった。

 尾道駅と繋がっており、千光寺山の南部に沿うように伸びている上、

 名物のラーメン店も多数並んでいる為に、地元の者のみならず、観光客もよく行き交うスポットとなっている。

 千尋とて、普段の買い出しだけではなく、商店街にある銭湯にも連日通っており、お世話になり通しの場所だった。

 立ち並ぶ建物には古いものが多く、昭和の香りを感じさせる通りではあるが、それが情緒を生み出している。

 来るものに、なにか懐かしさを感じさせてくれる通り。

 

 千尋達がビラを配っているのは、そんな場所だった。

 

 

 

「茶房・夜咄堂ですー」

千光寺(せんこうじ)山にあるお店ですー」

「和室でお抹茶も召し上がれます。宜しくお願いしますー」

 

 当たり障りのない言葉を掛けつつ配るビラは、順調に受け取ってもらえていた。

 雨が降っている事も踏まえれば、アーケードがある商店街以外の選択肢は考え難かったのだが、一応他にも駅構内等の選択肢はあった。

 想像以上に減っていくビラを考えれば、その選択肢から商店街を選んだのは正解だったと言えよう。

 

 だが、千尋の頬には赤みが差していて、声もどことなく抑え気味だ。

 理由は一つ。今日の出で立ちである。

 長着袴(ながぎはかま)足袋雪駄(たびせった)

 勤務中と同じ和装は、嫌でも通行人の目を引く。

 ただただ恥ずかしくて仕方がない千尋であった。

 

 

 

(やっぱり注目されるよなあ。その為に着たんだけれど……)

 とにかく、知人が通りかからない事だけを祈りながらビラを配る。

 店が評判になるのならともかく、自身に妙な噂が立ってはたまったものではない。

 殆ど通っていない大学には知人も少なく、その方面では問題ないだろう。

 だが、中学や高校の知人ならば、周囲に幾名か住んでいるはずだ。

 然程友達が多くない千尋だったが、それでも不安なものは不安なのである。

 

(恥ずかしいのは我慢するとしても、付喪神の事も考えると、目立ち過ぎるのはなあ。

 ……それにしても、二人は恥ずかしくないのかな)

 

 ビラを配り続けながら、横目で付喪神達を見る。

 老若関わらず、女性を見かけては気軽にビラを配っているオリベはともかく、

 ヌバタマの表情からは、多少の羞恥が感じられた。

 オリベが女性にばかり配るからか、それとも少女が和服を着ているからか、

 特に男性からビラを求められる事が多いようで、羞恥の理由には幾分それも含まれるだろう。

 

 しかし、顔は赤らめても動きは機敏で、積極的なる姿勢が見受けられる。

 夜咄堂の事を最も考え、最も意欲的に活動しているのは、彼女のようである。

 その点、千尋はと言うと『店』という言葉よりも『金』という言葉を先に思い浮かべてしまう。

 幾分恐縮してしまうが、こちらはこちらで背に腹変えられぬのだから仕方がない。

 

 

 

 それにしても、と思う。

 この二人は、どうして夜咄堂で働いてくれているのだろうか、と思う。

 青織部沓形茶碗(あおおりべくつがたちゃわん)と、水葵蒔絵螺鈿棗(みずあおいまきえらでんなつめ)は、父宗一郎の物……今では、遺産を受け継いだ千尋の物だ。

 千尋の物なのだから、千尋の店で働くという理屈も、分からないでもない。

 しかし、それは義務ではないし、千尋も勤労を強要した事はない。

 ロビンが夜咄堂から離れて活動しているのだから、付喪神という存在が店に縛られるわけでもないのだろう。

 給料だって雀の涙なのだから、二人が夜咄堂で働く理由が、千尋には分からなかった。

 

 

 

 

(俺だったら絶対働かないけれど……「のわっ!?」

「おっと、失礼」

 考え事をしていたからだろうか、通行人の男性にぶつかりかけて、つんのめってしまう。

 転びはしなかったが、ビラが飛び散ってしまった。

 ビラ配りに集中していなかった事を内省しながら、前屈みになってビラを拾おうとした瞬間であった。

 

「ワンッ!」

「あ……ロビン!」

 ふらり、と毛達磨が現れる。

 ロビンは千尋に向かって笑うように舌を出してみせると、落ちたビラを咥え、突如走り出してしまった。

 コモドドラゴンのようなみっともない動きではあったが、太っていても犬は犬なのか、すぐに遠くへと行ってしまう。

 一瞬、何事なのかと固まってしまった千尋であったが、やや遅れてから、走り難い雪駄で慌ててロビンを追いかけた。

 

 

 

 

「おい、ロビン待て! それを返すんだ!」

「ワン、ワンワンッ!」

「ワンワンじゃないっての!」

「んじゃ、ニャアニャア」

 多少追いかけると、ようやくロビンがニャアニャアと鳴きながらビラを離した。

 ひったくるようにしてそれを拾い上げた所で、細い路地裏まで駆けてきた事に気が付く。

 周囲には、人影はまったく見当たらない。

 どうやら、何か用事があって呼び寄せられたようだ。

 

 

「ったく、もう……一体何がしたかったんだよ、お前は」

 袴を汚さないよう、膝裏を手で押さえながら中腰になる。

 視線を合わせられたロビンは、ワン、と一度吠えてから喋り出した。

 

「決まってるじゃん。お前と話したかったから、人がいない所に誘い込んだんだぜ」

「はあ? 話?」

「お、その冷酷に見下すような瞳、良いじゃないのさ。

 JCの好みじゃないかもしれんが、もうちょい上のお姉ちゃんならキュンときそうだ」

 へらへらとしたロビンの言い草に、顔が強張っていた事に気がついて、つい目を瞑る。

 切れ長の瞳は、時々ロビンの言うような表情を作り出してしまうのが困りものだった。

 

 

「で、話って何なんだよ。ビラ配りの最中だから、手短に終わらせてくれよ」

「おう。それにも関係するんだよ。なんでもお前、夜咄堂に客が来ないんで苦労しているそうじゃないか」

「耳が早いな」

「まあな。……でだ。俺に素晴らしい提案があるんだが、試してみる気はないか?」

 

 ロビンは、不遜な笑みを浮かべながらそう言った。



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第四話『5.8742諭吉 その二』

「お姉さん、注文お願いしますー」

「こっちも注文お願いー」

「あぁん、プウちゃん可愛い!」

 

 夜咄堂(よばなしどう)に、幾多の人の声が響き渡る。

 千尋の声でも、オリベの声でも、ヌバタマの声でもない。

 他ならぬ、客の声である。

 

 

 

「本当にうまくいっちゃったよ……」

 

 客席から聞こえてくる活気ある声に、千尋は未だに戸惑いつつも、溜まっている注文を台所で片づけていた。

 一つ一つは大した調理ではないのだが、とにかく数が多い。

 調理に専念して、接客をオリベとヌバタマに任せていなければ、到底捌ける状況ではなかった。

 とはいえ、むしろ忙しいのは二人の方だろう。

 なにせ、付喪神(つくもがみ)達が見なくてはいけないのは、客の様子だけではないのだ。

 

 

「なっ、なっ。俺の言った通りだっただろー?」

 台所に入り込んでいるロビンが偉そうにのたまう。

 付喪神とはいえ、体の造りは犬。

 甚だ不衛生な状態なのだが、仮に客が台所を覗いても、今なら苦情の類は寄せられないだろう、と千尋は思う。

 

 

 

 

「まさか、お前の言う犬カフェが、こんなに客を呼び込むとはな……」

「知り合いの野良犬で可愛い奴をフル動員したからな。これくらいは当然だぜ」

「トリミング代も馬鹿にならなかったけどな」

「俺へのご褒美も忘れるんじゃないぞ?」

「はいはい……」

 次々と生じる出費に嘆息するが、あまり憂慮はしていない。

 この調子なら、トリミング代は今日の売上だけで取り返せるだろう。

 接客中の犬達は夜咄堂で飼っているのではなく、あくまでも野良犬なので、連日のシャンプーは欠かせないが、それでもまだお釣りは来る。

 それ程に、ロビンの提案した夜咄堂犬カフェ化計画は成功していた。

 店内に犬がいる事をあらかじめ説明した上で、一階に五匹程犬を解き放っただけで、客が殺到したのだ。

 それも、多くは若い女性客。

 今日も既に、全ての席が若い女性客によって埋められていた。

 恐るべきは口コミ効果である。

 

 

 

 

「千尋さん、注文入りました。

 サンドイッチ二つと、ホットコーヒー二つですー」

 空いた食器を手にしたヌバタマが台所に入ってくる。

 そこで、千尋の足元に転がっているロビンの姿を見つけた彼女は、眉を思いっきり顰めてみせた。

 

「おいおい、女の子がそんな怖い顔するなよ。一応見た目はJCなんだからもったいないぜ?」

「ふざけないで下さい! 普段お店を手伝わないばかりか、犬だらけにしておいて……」

「分かった。じゃあ今からでも手伝うよ。俺も接客してくれば良いかな」

「駄目です! ロビンさんに女性の接客をさせちゃ、何をするか分ったものじゃありません」

「俺のストライクはJCだけだから安心しろって」

「馬鹿犬!」

「でもごめんな。お前は『生後』十五年でも『生産後』は百十五年だからNGだ」

「駄犬!!」

 散々にロビンを怒鳴り散らす。

 それからヌバタマは表情を一変させて、それこそ犬のような懇願の目つきで千尋を見上げた。

 

 

「ねえ、千尋さん」

「ああ……まあ、言いたい事に予想はつくが、なんだ?」

「お店、やっぱり元に戻しましょうよ。

 千尋さんの生活が大変なのは、私も理解しましたけれど……。

 お給料だっていりませんし、映画も我慢しますから」

「むう……」

 ヌバタマが泣きそうな声で訴える。

 視線を合わせるのが辛くて、千尋は顔を背けながら唸る事しかできなかった。

 

 

 ヌバタマの言いたい事は重々分かる。

 茶を愛するヌバタマにとって本当に重要なのは、一服を所望する客なのだろう。

 しかしながら、客が増えたとはいえ、二階で抹茶セットを注文する客は皆無なのである。

 仮に増えたとしても、雰囲気が一変した一階の喧騒は、茶室にまで影響を及ぼすだろう。

 その上、犬の世話なんて仕事が加わったのだから、憂鬱になってしまうのも無理はない。

 

 しかし、この人気を捨て去り難いのも現実だ。

 元の夜咄堂に戻れば、また常に金策の日々となる。

 同程度の集客案さえあれば、戻すのもやぶさかではないのだが、容易に代案が見つかるのなら苦労はない。

 

 

 結局、何も言えずに視線を逸らし続ける。

 そこへ、客席から店員を呼ぶありがたい客の声が聞こえてきた。

 

「あ……呼んでるみたいだな。今度は俺が行ってくる」

「千尋さん! 話はまだ終わってません!」

「じ、じゃあな。ヌバタマは少し休んでなよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 逃げるようにして客席に向かうと、四人掛けの机に座っていた若い女性客が手を上げていた。

 近くにはオリベもいたが、彼は別の客からの注文を受けている最中で、手が離せないようだった。

 代わりに千尋が小走りで近づこうとするが、足元で眠っていた白雑種犬を蹴飛ばしかけて、歩調を狭める。

 喫茶スペース内の雑種犬達は、眠るなり、客と遊ぶなり、自分の尻尾を追いかけるなりと、各々が自由に過ごしていた。

 自由気ままな犬達に、まるでロビンが増えたような錯覚を覚えながら、ようやく客席へと辿り着いた。

 

「お待たせ致しました」

「注文決まりましたから、お願いできますか?」

 女性客が丸いレンズの眼鏡を整えて、お品書きを見ながら優しげな声で言う。

「はい。お伺い致します」

「ええと……ダージリンティーと、ショートケーキ。あと、ワンちゃん用おやつジャーキー」

「ありがとうございます。すぐにご用意致します」

「あと、写真もお願いできますか?」

 そう言って、恥ずかしそうにスマートフォンを差し出す女性客の膝上には、チワワ犬がいた。

 ロビンの知犬の中でも珍しい犬種で、夜咄堂でも現在一番人気の犬である。

 聞く所によれば、父の代では夜咄堂の店内撮影は禁じられていたそうだが、犬カフェとなってはそうもいかない。

 なによりも、膝に犬を乗せて幸せそうに笑っている女性に、否定的な返答をするのは気が引けてしまった。

 

「はい、お任せ下さい」

 笑顔を浮かべて素直に頷き、女性からスマートフォンを受け取る。

 距離を取って千尋が構えようとした……その時だった。

 

 

「ヒャインッ!!」

「わ、わわっ!!」

 最初に蹴飛ばしかけた犬に足を引っかけてしまった。

 犬はすかさず逃げてくれたので、それは良い。

 良くないのは……体を九十度回転させてしまった千尋である。

 

 

 

 ッデェンッ!!

 

 

 

 横転し、背中と尻に鈍い痛みが走る。

 両手で客のスマートフォンを持っていた為に、顎を引いて致命傷を守るのが精いっぱいだった。

 床が抜けたりしなかったのは、せめてもの救いだろう。

 

 

 

 

「ま……まあ、ええことよ……」

 

 千尋は、力なく呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜咄堂の閉店業務は、普段ならすぐ終わってしまう。

 殆ど汚れなかった店内を掃除して、殆ど増えなかった洗い物を終えて、殆ど減らなかった食材を点検するだけ。

 連日、三十分もあれば終わってしまう仕事だったのだが、今日は違う。

 客が帰り、そして野良犬達が野に帰った後に残されたのは、大量の犬の毛にまみれた店内と、後回しにしていた洗い物、そして空になった冷蔵庫だった。

 ただし、嬉しい仕事も一つ程増えている。

 店内清掃を付喪神達に任せた千尋は、本日の売上を帳簿に記すべく、自室で金勘定をしていた。

 

「ひぃ、ふぅ、みぃ、よぉ……と。ふふっ……」

 みっともなく頬を緩めながら、手元の札束を何度も何度も数え上げる。

 諭吉さんが二人、一葉さんが三人、英世さんが二十五人。

 他小銭諸々で、しめて5.8742諭吉。

 無論、夜咄堂始まって以来の大繁盛である。

 たった一日の売上だけで、学問を五回程すすめる事ができる。

 思わず、偉人様方に拝みたくなってしまった。

 

 

 

 

「千尋さん、ちょっと宜しいですか」

 早速帳簿に向かい合った所で、扉の外からヌバタマの声が聞こえた。

「ああ、入って良いよ」

「失礼します」

 静かな声とともに、そっと扉が開かれる。

 中へ入ってきたヌバタマの表情は、日中同様に冴えていなかった。

 

「掃除、もう終わったの?」

「いえ、そちらはまだですが……お店の事でお話が」

「ああ」

 そう言われれば、うやむやにした話があったのを思い出す。

 どうにも、逃げられる話題ではないようだ。

 しかし、諭吉力を失ってしまうわけにもいかない。

 どう説得したものかと考えながら、部屋の片隅に置かれていた座布団を差し出すと、ヌバタマはぺこりと頭を下げてそこに座した。



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第四話『5.8742諭吉 その三』

「……店の方向性の事だな」

「はい。どうしても、元に戻すつもりはないのですか?」

 やはり、日中と同じ事を言われる。

 しかし、彼女の瞳は、日中のそれとは少しばかり違っていた。

 日中に懇願された時のような、同情心を煽られるようなものではなく、憂愁(ゆうしゅう)に満ちた寂しそうな瞳をしていた。

 もしかすると、彼女の中では既に諦めがついているのかもしれない。

 ならば千尋としても、これ以上お茶を濁すわけにはいかなかった。

 腰を据えてヌバタマに向かい合う決心をして、千尋はゆっくりと返事をする。

 

「……そうだな。代案があれば考えるが、生活を考えればこのままいくしかないな」

「そう、ですよね」

「落ち付いて抹茶を点てられないのが、そんなに嫌か?」

「そうなのですが……私が点てられないだけなら、我慢できます」

 ヌバタマがふるふると首を振る。

「何よりも、宗一郎様のご意思を継げないのが、哀しいのです」

「……父さんの、意思?」

 その名を聞くだけで、身が引き締まった気がした。

 じっとヌバタマを見つめながら、言葉の続きを催促する。

 

 

「宗一郎様の代では、常連のお客様も確かにいましたが、やはりお店が繁盛しているとは言い難い状態でした。

 それもそうでしょう。千光寺(せんこうじ)山の中腹と、行き難い場所にある茶房ですし、お店だって相当古びています。

 お出しできる物も、ありきたりなものばかり。

 強いて他のお店と違う点を挙げれば、茶室が備わっているというくらいのものですから」

「………」

「それでも、宗一郎様は店の方針を改めようとはなさいませんでした。

 そのお抹茶と和菓子だけではなく、茶の湯の良さ自体を、皆様に感じて貰いたかったからです」

「………」

 

 引き込まれるように、ヌバタマの話を黙って聞く。

 父は、家庭に仕事の話を持ち込まなかった。

 仕事と息子。両立させようとしていた父の、せめてもの気遣いだったのだろう。

 それだけに、父がどの様な思いで仕事に取り組んでいたのか、千尋は殆ど知らない。

 先日、シゲ婆さんに茶室で話して貰った時もそうだったが、ヌバタマの言葉にもまた、初めて知る父の一面があった。

 

 

 

「何故、それ程までにお茶を大切にして下さるのか、伺った事があります。

 私達は茶道具。茶道を愛するのは当然の事ですが、宗一郎様はそうではないのですから。

 ……そう。あの時の宗一郎様は、優しい瞳でこう仰いました」

「……ん」

「誰かが、自分の茶で笑顔になってくれる。

 ただただ、それが嬉しいのだよ……と」

「………」

「私は、そのお気持ちを継ぎたいのです……」

 ヌバタマが、一度言葉を切る。

 顔を伏せながら、それでもしっかりと千尋の耳に届く声で、その先は告げられた。

「……それが、付喪神(つくもがみ)の定めでもあるのです」

 

 

 

 つまりは。

 それが、ヌバタマらが夜咄堂(よばなしどう)で働く理由でもあるのだろう。

 付喪神の遺伝子に、それほどまでに強く、至高の一服を振舞いたいという気持ちがあるのだろう。

 或いは、持ち主の気持ちに応えたいという気持ちかもしれない。

 いずれにしても、理屈ではなく、本能が、夜咄堂で働く事を求めているのではないか、と千尋は思う。

 

 茶道を好まない千尋には、手放しには理解できない感覚だ。

 茶道は、千尋の全てを奪ったのだから、無理もない。

 しかしながら千尋は、やはり茶道が縁で新しい生活を迎えてもいる。

 理解はできないが……無碍(むげ)にはできない。

 それに自分はともかく、ヌバタマらにとっては大切な事なのだ。

 なのであれば……。

 

 

 

 

「……父さんの方針、か。

 父さん、そんなにお茶やお客様を大切に思っていたんだな」

 しみじみと呟く。

「もちろん、それはそうでしょう。 

 ただ、お金の事はどうでも良い、というわけでもないようでした。

 ……私どもがお給料を頂いていなかったのにも、理由があるのですよ」

「生活が苦しいからだろ?」

「少し、異なります。千尋様の為です」

「俺の?」

 帰ってきた予想外の答えに、思わず早口になる。

 

「ええ。……宗一郎様は、私が働くようになってから間もなく、一度私に頭を下げられたのですよ。

 お前達の茶は大事に守っていく。その代わり、給料を出す余裕はない。

 その分は、息子の為に割り当てたい……と」

 

 ヌバタマが、高い声でそう言う。

 父の宗一郎とは全く異なる、女性特有の声だ。

 発せられた父の言葉とて、真似たわけではないのだろうが、威厳ある父の口調とは似ても似つかない。

 だというのに、彼女の声が父の声に感じられて、仕方がなかった。

 不意に、胸に熱いものがこみ上げて、ヌバタマに背を向けながら目を瞑る。

 

 

 

 

「父さん……」

 小さく、最後の肉親の名を呼んだ。

 

 父は、かくも自分の事を想ってくれていたのだ。

 保護者であれば当然であるとは、千尋も理解している。

 しかし、当然の、ありきたりの想いだろうと、千尋にはそれが嬉しくてたまらない。

 そして、その父はもうこの世にいないのだと思うと、それが悲しくてたまらない。

 張り裂けそうな想いを感じながらも、堪えなくてはならない、と思う。

 

 墓に布団は掛けられない。

 それでも志になら掛けられる。

 

 今は、嘆いている時ではないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……で、今日から野良犬達は不要ってわけか?」

「そういう事になった。野良犬達にはお前から宜しく伝えておいてくれ」

「うへえ。面倒臭いなあ……まあ、良いけど……もぐっ」

 

 

 翌日。

 野良犬達を管理する為、夜咄堂を意気揚々と訪れたロビンを待っていたのは、犬カフェ終了のお知らせだった。

 投げやりに振られる尾は、彼の煩わしい心情を表しているのだろう。

 だが、ロビンは嫌とまでは言わない。

 昨日、彼にせがまれた通りに、二千五百円の高級肉をご褒美として与えていたのが、功を奏したようだった。

 

「そんな良い肉、俺だって食えないんだからな。少しは味わえよ」

「もぐぐぐぐっ? くちゃ、もぐもぐもぐ」

「食ってから喋れ」

 ロビンの頭をぽんぽんと叩いてから、立ち上がる。

 

 ふと、少し離れた所で、ヌバタマがにこにこしながらその光景を眺めているのに気が付いた。

 ヌバタマの後方の客席には、昨日とはうってかわって、客は誰一人としていない。

 表の看板に『犬カフェ終了しました』と書いただけで、夜咄堂はまた元の暇な茶房へと逆戻りしてしまった。

 それでも、この少女は満足そうなのだ。

 父も、同じように笑ってくれているだろうか。

 感傷に浸りながら、千尋はヌバタマに向かって手を掲げた。

 

 

 

「なんだ。嬉しそうだな」

 片目を細め、苦笑しつつ声を掛ける。

「はい。宗一郎様が欲された茶房に戻りましたので」

「随分と父さんを慕っているんだな」

「なんだ千尋。嫉妬か?」

「煩い」

 茶々を入れてきたロビンを、先程よりも少し強めに叩く。

 漫才コンビのような二人に、今度はヌバタマは控えめな声を立てながら笑った。

 

「ふふふっ。仲が宜しいようで」

「ヌバタマも止めてくれ。そんなんじゃない。

 ……しかし、なんだな」

「はい?」

 ヌバタマが笑顔のままで首を傾げた。

 そう。笑ってくれたのだ。

 先日とは打って変わって、見る者を幸せにする笑顔が、そこにはあるのだ。

 

 

「誰かが、自分の茶で笑顔になってくれる。ただただ、それが嬉しい……か。

 父さんの気持ち、少しは分かる気がするよ」

「ですが、今はお客様はいませんが……」

「客はいなくても、お前が笑顔だろう?」

「あ……」

 ヌバタマが、はっと目を見開いた。

 だが、その目はすぐに細められる。

 彼女は、両手の前で手を組みながら口を開いた。

 

 

「……千尋さん。ありがとうございます」 

「それより、お店の事、また考えなきゃな」

 照れ隠しにそっぽを向きながら、そう呟く。

 それはそれで重要な問題なので、ヌバタマも頷いて同意の意を示してくれた。

「ええ、そうですね。なかなか難しそうですが……」

「簡単に解決しちゃ、苦労はないからな」

 犬カフェをやめたというだけで、集客問題については何も解決していない。

 生活が懸かっているのだから、捨て置けない問題なのだ。

 それを考えると、正直な所、気が滅入る千尋であったが……。

 

 

 

「どうしようもなくなったら、茶道具、何か売るからな」

「ええー……千尋さん、それはやめましょうよ」

「付喪神が宿っていない奴にするから安心しろ」

「宿ってなくても駄目ですよ。むうう」

 ヌバタマが不機嫌そうに唸り声を漏らす。

 とはいえ、一体どうしたものか。

 千尋が思案に暮れようとした、その時だった。

 

 

 

 

「すみません……」

 玄関から声が聞こえた。

 顔を向けると、客と思わしき女性が中を覗きこんでいる。

 どうにも、見覚えがある顔。

 記憶を掘り起こしてみれば、すぐに思い出す事が出来た。

 特徴的な丸眼鏡を掛けたその女性は、昨日接客した相手だった。

 

 

 

「あ、はい。いらっしゃいませ」

 慌てて女性に駆け寄りながら、ヌバタマにロビンを手のひらを払うような仕草を見せる。

 それだけで彼女は意を察してくれたようで、ロビンを台所へ追い回してくれた。

 犬カフェ終了を告げているのにロビンがいては、どうにも都合が悪い。

 

「今日は随分空いているみたいですけれど、お休みですか?」

 女性客が店内を覗き込みながら訪ねる。

「いえ、営業しております。ですが、犬カフェは……」

「あ、そっちは良いんです。もちろんワンちゃんはワンちゃんで可愛かったですけれど」

 眼鏡の女性客はそう言うと、口に手をあてがいながら笑った。

 

 

「……でもそれ以上に、店員さんが親切に接してくれたのが嬉しくて」

「!!」

「だから、今日は純粋にお茶を頂くつもりで、友達と来ました」

 

 一瞬、言葉を失った。

 しかし、すぐに相好(そうごう)を崩す。

 本当の集客とは、そういう事なのかもしれない。

 深い感謝の気持ちと共に、千尋は頭を下げた。

 

「ありがとうございます。今日はごゆっくりとお寛ぎ下さい」

 

 

 

 

 

「あ、その声!」

 

 だが。

 

 頭を下げきった所で、随分と甲高い声が聞こえてきた。

 眼鏡の女性客の声でも、ヌバタマの声でもない。

 当然ながら、ロビンでも、千尋の部屋で漫画を読んでいるオリベの声でもなかった。

 一体誰の声なのかと思いながら、ゆっくりと頭を上げた千尋の正面には、やはり眼鏡の女性客がいる。

 

 ……そして、先程までは気が付かなかったが、彼女のすぐそばに、もう一人女性がいた。

 

 

 

「私の声が、何か……?」

 視線の中心を、もう一人の女性客に向けながら尋ねる。

 随分と身長が低い女性で、ぱっと見は中学生のようにも感じられた。

 だが、視線を全身から顔へと移せば、十分に大人びた顔付きである事が分かる。

 おそらくは、自分と同等か、やや年上といった所ではないのだろうか、と千尋は判断した。

 腰の辺りまで伸ばした茶髪が目を引く、紛うことなき美人であった。

 

 

 

 

「やっぱり、千尋じゃないの。こんな所で何やってんだお前……?」

 長髪の女性は、親しげに千尋の名を呼ぶ。

 名まで呼ばれたのだから、おそらくは何らかの面識があるのだろう。

「はあ」

「……その返事、まさかアタシの事、忘れたんじゃないだろうな?」

 

 女性がツカツカと詰め寄ってきた。

 顎を思い切り上げて、千尋の顔を真下から見上げるようにして声を荒げる。

 身長の割に、随分と威圧感のある人だった。

 

 

 

「岡本だよ! 大学の先輩の岡本知紗!」

「……あっ!」

 

 千尋は、はっと目を見開いた。



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第五話『七月三重殺 その一』

「オリベさん、ヌバタマ。

 こちらは、大学のサークルの先輩、岡本さんです。……多分」

「やっぱり忘れかけてたな、お前」

 千尋に紹介された女性……岡本知紗は、その千尋をジト目で睨みつけた。

 それから、どうしようもない、と言わんばかりに大げさに肩を竦めてみせる。

 

 岡本は日頃から、今のようにあけすけな女性なのだろうか、と千尋は思う。

 千尋は岡本の人となりを全く知らなかった。

 顔と名前さえ忘れかけていたのだから、当然といえば当然かもしれない。

 サークルの先輩でありながら、彼女の事を何も知らないのには理由がある。

 なにせ、千尋はろくにサークルに通っていなかった。

 彼がサークルに入って間もなく、宗一郎が亡くなった為である。

 

 

「大体さ。岡本じゃなくて、ちーちゃんで良いって言ったじゃないの」

「あれ、そうでしたっけ?」

「じゃあ、今からそう呼んでな」

「いや、いきなりそんな事言われても……」

 岡本のノリを上手にあしらえず、閉口する他ない。

 親しくないのにあだ名で呼ぶ事にも、開放的な彼女への接し方にも、どちらにも戸惑ってしまった。

 相手が良いと言っているのだから、機嫌を損ねない為にも応えるべきかとも思ったが、

 異性をいきなり下の名前で呼ぶのは、なかなかに踏み越え難い一線だった。

 

 

 

「千尋君、ちょっとそこをどきたまえ!」

 そこへオリベが、千尋を押しのけて前に出てくる。

「わっと……何するんですか、オリベさん!」

「うるさい! こんな美人な先輩がいるというのに、何故紹介しなかった!」

「いや、俺も忘れていたもので……」

「うるさい! 日頃、茶を教えている恩義を忘れてしまったのかね、君は!」

「教えてくれているのは、もっぱらヌバタマですが……」

「うるさい! 私がヌバタマだ!!」

 無茶苦茶なのであった。

 

「なんだか、面白いおじさんだね」

「おっ、おおっ? それはなんとも嬉しい言葉!」

 だが、岡本はそのやり取りに興味を示してくれた。

 オリベはキリリと表情を引き締めて、岡本と、彼女の対面に座った同伴の女性に対して、大げさに会釈をする。

 

「いやはや、不祥の弟子がお世話になっていたようで。

 私、千尋の茶の湯の師、オリベと申します。

 ちーちゃんも、眼鏡のご友人さんも、以後お見知り置きを。

 ああ、もう呼んでしまいましたが、私もちーちゃんと呼んでも宜しいかな?」

「オリベさんだね。カッコ良い苗字じゃない!

 もち、ちーちゃんでオッケーだよ。宜しくな! はっはっはっ!」

「ヒャッヒャッヒャッ!」

「はっはっはっはっはっ!!」

「ヒャッヒャッヒャッヒャッヒャッ!!」

 一体何が面白いのか、二人とも声を揃えて笑いだした。

 同伴の眼鏡の女性も、笑い声こそ立てていないものの、彼女は彼女で二人の様子を楽しそうに眺めている。

 一体、何がそんなに面白いのか、千尋には理解できなかったが、ひとまずは客が気分を害していない事を良しとした。

 

 

 

 

「大学……そういえば千尋さん、学生でしたっけか」

 馬鹿笑いをする二人をよそに、ヌバタマがそう尋ねてくる。

「うん。市内の大学にな」

「言われてみれば、全然学校に行っていませんでしたね」

「ああ、まあ……夜咄堂(よばなしどう)を開くのに、色々と忙しかったからな」

「そうでしたか。でも、もうお店は再開できましたし、通学されても良いと思いますよ。

 お抹茶も、私やオリベさんが点てても良いわけですし」

「……そうだな。そろそろ良いか。大して客も来ないしな」

 そう言って苦笑する。

 悲しい理由に虚しい笑いであった。

 

「お客様が来ないのは困りますけれどもね。

 ちなみに、サークルとは何なんです?」

「ああ、ヌバタマはよく分からないか」

 ふむふむと頷きながら、千尋も客席に腰掛ける。

 同じくヌバタマも腰掛けるのを待って、千尋は説明を始めた。

「さて……何と言ったものかな……。

 そうだな。サークルとは、学校内で同じ趣味を持つ人が集まる会、って所かな」

「なるほど。それは話に華が咲きそうですね。東雲ドーナツ店サークル、なんかもあるんです?」

 ローカル色ここに極まったサークル名をヌバタマが口にする。

 指で輪を作りながら、恍惚感に満ちた表情を浮かべている辺り、今の彼女の脳内は想像に難しくなかった。

 

「いやいや、そういうものじゃなく、一般的な趣味というか……

 例えば、俺と岡本さんは陶芸サークルなんだよ」

「ほう? 陶芸が好きだったのかね、千尋は」

 オリベが笑うのを止めて、会話に加わってきた。

 サークルに入った経緯を岡本の前で話すのは気が引けたが、勘違いされても困る。

 視界の隅に岡本を入れ、反応を伺えるようにしながら、千尋は肩を竦めた。

 

 

 

「陶芸は別に好きでも嫌いでも……」

「どっちでもないのに入ったのか。ちーちゃん目当てか?」

「オリベさんじゃないんですから。入学式の日に、岡本さんが無差別に勧誘していたんです。

 それに運悪……あいや、まあ、とにかく捕まったんですよ。

 で、『幽霊部員でも良いから』と言われて、とりあえず入ったわけです」

「なんだ。面識はあったんだな。だというのに、こんな奇麗な人を忘れるとはけしからん」

「いやー、だって仕方ないよ」

 オリベの問いには岡本が答える。

 

「だって、千尋、一度もサークル活動に参加していないんだもん。

 ま、それは良いよ。学校に聞いたら忌引きらしいし、大変だったそうじゃない。

 ……でも、これからは問題ないわけだ」

 彼女は千尋の方を見ると、楽しそうに口の端を上げてみせた。

 

 

 

「そんなわけで、明日辺りにでも、講義の前に部室に来いよ。

 お前にゃ、ちょっと頼みたい事があるんでな」

 岡本がキシシ、と笑う。

 ただただ、嫌な予感に駆られる千尋であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第五話『七月三重殺』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千尋の通う大学は、尾道の郊外にある。

 

 尾道駅前からバスで約三十分、トコトコと揺られ続けて早朝の大学に辿り着いた千尋は、物珍しそうに周囲を見回しながら歩いた。

 特に目につくのは、鮮やかな赤煉瓦の校舎。

 そして、校舎に沿って広がっている、少々濁りながらもそれが情緒を生み出すダムだろうか。

 だがすぐに、この時期にそんな初々しい事をやっているのは、入学直後に長期欠席した自分だけだと思い至ってしまい、

 気恥ずかしさを表に出さないように心掛けながら、校舎を迂回して部室棟の方へと向かった。

 

 まだこの日最初の講義が始まるまでには時間があるからか、道中は殆ど誰とも擦れ違わない。

 それはそれで少々寂しく思いながら、千尋は部室棟……の中には入らず、更にその裏へと向かう。

 部室棟の裏にして、大学敷地内の端。

 ようやく辿り着いた千尋の目的地は、学生達の目から隠れるように、ひっそりと佇んでいた。

 

 

(ここが陶芸サークル部室……か)

 

 千尋は、自身の眼前にそびえる建物を見上げた。

 校舎からも部室棟からも離れている、陶芸サークル部室。

 彼が視線を部室の横に移せば、煙突が備わっている巨大な窯が見えた。

 まるで怪物のように広げた口に、釉薬や絵付けの施された素地が入ってくるのを待ち続けている、立派な窯。

 これこそが、部室孤立の理由。

 焼成時の内部温度が千度を軽く超える、この怪物の危険性を考慮し、陶芸サークル部室は離れた位置にある。

 

「勿体ない代物だよなあ」

 ぼやきながら部室の玄関を開ける。

 中に入ってすぐ横に掛けられていたホワイトボードには、所属部員の名前が書かれていた。

 

 芸術学部 美術学科三年 岡本知紗。

 経済学部 経済学科一年 若月千尋。

 以上。

 

 たった三行の文字が、なんとも寂しく感じられる。

 これだけ立派な窯があるのだから、部室が完成した当時は、もっと部員で賑わっていたのかもしれない、と千尋は思う。

 だが、昔がどうであれ、今の部員は二人だけ。

 しかも、実質あの窯を使っているのは岡本一人しかいないのだ。

 

 無論、千尋自身がサークルに出れば、焼け石に水ではあるが利用者は増える。

 ただ、陶芸にそれ程興味がない千尋にとしては、できる事ならサークル活動に時間は取られたくなかった。

 勿体ないとはいえ、それはそれと、千尋は窯の事を忘れて部室の中に足を踏み入れた。

 

 

「よう、来たか。幽霊野郎」

 椅子に腰掛けて待ち受けていた岡本が、大層な挨拶を送ってくる。

 色が大分くすんだジャージをまとっていたが、おそらくは作業用なのだろう。

 ぺこりと会釈をして部室を見回すと、床や壁、作業台のあちこちに土がこびり付いている。

 お世辞にも綺麗な部室とは言い難いのだが、岡本はその汚れを気にする様子を見せない。

 それどころか、どっしりと作業台に腰掛けて煙草を吸い、まるで我が家のように振る舞っていた。

 

「幽霊部員を否定はしませんけれど、幽霊でも良いと言ったのは岡本さんですよ」

「そうだっけか? そうだったかも。はははっ」

 岡本が軽く笑う。

 あけすけというよりは、ずぼらな人なのかもしれない。

「で、頼みたい事って何なんです?」

「いきなり本題かよ。もうちょっと『素敵な部室ですよねー』とか、言う事あるだろうに。

 まあ良いや。ちょっとこれを見てくれよ」

 冗談めかしてそう言いながら、手にしていた煙草を灰皿に押し付け、傍に置いていた徳利を差し出してくる。

 反射的に受け取ってしまった千尋は、持ち上げるようにしてその徳利を見た。

 

 釉薬(ゆうやく)は掛かっていない徳利は、首が鶴の嘴のように長く造られていた。

 実に素朴。だが雑に非ず。

 素朴の中にも変化を求めようとしたのか、炎の当たりの違いで生み出される濃淡が特徴的だった。

 

 

 

「これ、どう思う?」

 岡本が言葉を短く切って尋ねる。

 もう、彼女は笑っていなかった。

「……岡本さんが造ったんですよね?」

「そ」

「良い徳利だと思いますよ。釉薬がなくても綺麗ですし、歪みもありませんね」

「あれ? お前詳しいな。陶芸は素人じゃなかったっけ?」

「いや……なんというか……」

 なんとなく、返事に窮してしまう。

 思ったままを口にしただけなのだが、的外れな事を言ったわけでもないようだった。

 脳裏には、付喪神達の顔が浮かび上がってくる。

 彼らから受ける日々の稽古の際には、その時に扱っている茶道具の説明を受けている。

 それなりに見る目が備わっていたのは、付喪神達の指導の結果なのだろうか。

 自覚はしていなかったのだが、それなりに身について知いた識に、千尋は自分でも戸惑っていた。

 

 

 

「とはいえ、まだまだ駆け出しって所だな。そんな大したもんじゃないんだよ、これ」

 千尋に構わず、岡本は嘆息した。

 だが、千尋の眼には特に欠点の見当たらない立派な徳利に見える。

「……お店なんかに置いても、見劣りしなさそうですけれど?」

「いやいやいや。底は微妙に高さがブレてるから、いざ使うと落ち着かないよ。

 それに、胴の膨らみも気に入らないね。

 プロの陶芸家は、こう……シュパッ! とさ。奇麗な形に作るんだよ」

「はあ。シュパッ……そんなものですか」

「そうだよ。あ、煙草良い?」

「構いませんよ」

 許可を得た岡本は、ポケットから新しい煙草を取り出して火をつけた。

 フィルターが取り払われた、両切りのピース。

 相当に煙草を吸う証でもある。

 全く咽る様子もなくそれを一度吸い、窓の方を向いて吐き出す。

 そのまま窓の外を眺めながら、彼女は早口で語り出した。

 

 

 

「スランプなんだよ。あたし」

「この出来で、ですか?」

「そだよ。もう全然駄目。両親が陶芸家で、その影響を受けて、陶芸は子供の頃からやってたんだよ。

 自分で言うのも何だけれど、センスがあるのかもね。中学、高校の頃は、なかなかの物を作っていた。

 ……でも、大学に入った頃から調子が落ちてるんんだ」

「………」

「三年になった今じゃ、もう酷いったらありゃしない」

「……なるほど」

「そこで、だ」

 岡本が千尋を見上げた。

 

 

「千尋には、スランプ脱出を手伝って欲しいんだよ」

「スランプ脱出……? いや、そういうの、俺には無理ですよ」

 千尋は大げさに首を捻る。

 確かに幽霊部員ではあるが、自分にできる事なら応えたい、とは思った。

 だが、ずぶの素人でもある自分には、的確な助言等、到底できるはずがない。

 厭うのではなく、憂慮するような表情を浮かべると、岡本は千尋の心情を察したのか、手を横に振った。

 

 

「あー、違う違う」

「はあ」

「別に助言をくれとか、作業を手伝ってくれとか、そういう事を頼みたいんじゃないんだ。

 気分転換に、ちょっと晩飯でも付き合ってくれってだけの事だよ」

 

 そう言ってもう一度煙草を吸った岡本は、歯を見せてニヤリと笑った。



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第五話『七月三重殺 その二』

 尾道の商店街に並ぶ店々は、衣料品や日用品の個人経営店が多い。

 それらの店は仕事と生活が密着している為に、陽が落ちれば早々とシャッターを降ろす所も多く、

 初夏の月明かりが港町を照らす頃には、商店街はじわじわとその形姿を変えていた。

 

 夜に姿を変えるのは、店舗だけではない。

 雑踏と共に町を歩く人々の顔ぶれは、地元の者よりも観光客が多かった。

 夜の商店街を歩く人々は、昼の人々と比較すると、意気揚々と町を闊歩(かっぽ)している。

 皆、観光地の夜に気分が高揚しているのだ。

 気温は徐々に高まっていて、夜とはいえ、静かな熱気が身体に纏わりつくのだが、

 その熱気もまた、彼らの気持ちを昂ぶらせているのだ。

 

 観光地とはいえ、田舎町でもある尾道では、人々の夜の行き先は決まっていた。

 居酒屋、もしくは食事処。この二つに絞られる。

 その中でも、特に多くの人が向かっているのが、食事処……それもラーメン屋である。

 醤油と瀬戸内の魚のダシで作ったスープに、背油が大量に浮かんだ尾道ラーメンこそが、この町最大の名物だからだ。

 店によっては、店外に長蛇の列を成す事もあるのだが、決して名ばかりの名物ではない。

 さらりとした舌触りながら、濃厚な味を口内に広げてくれる尾道ラーメンは、

 地元の者もしばしば好んで食べており、千尋や岡本も例外ではなかった。

 

 

 

 

「……で、なんで私達も誘われたんでしょうか?」

 商店街の端に位置する、カウンター席オンリーの狭いラーメン屋『しげ』。

 その店の暖簾を始めて潜ったヌバタマは、割り箸を手に取りながら、感じていた疑問を口にした。

 彼女の表情には戸惑いの色が浮かんでいるが、仕方がないかもしれない。

 なにせ、ヌバタマと一緒に外食をしに出かけるのは、これが初めてなのだ。

 付喪神は、食事を摂ろうが摂るまいが活動できる。

 ただ、味覚は存在しており、食事の喜びを感じる事はできるので、日々の三食は千尋と共に摂っていた。

 誰かと一緒に食べる方が、千尋としても楽しいのだ。

 ただし、それはあくまでも家庭内での話だ。

 これまで付喪神達と外食をした事がなかったのは、難問を解決できなかったからに過ぎない。

 それ即ち、金銭事情。

 頭の痛い問題は、いつでも千尋について回るのであった。

 

 

「俺だけ良い物食ってちゃ、気が引けて旨く感じられないんだよ」

 手をひらひらと躍らせながら、離れた席のヌバタマに返事をする。

 彼女との間には、オリベと岡本が座っていた。

 

「でも、お邪魔しちゃって申し訳ない気もしますが……」

「良いって良いって。岡本さんも、賑やかな方が良いって言ってくれてるし」

「もぐもぐっ……そうだぞヌバタマ。食べないというのなら……もぐ……お前の分は私が貰うが? ぷはあっ!」

 間に座るオリベが、先に出てきたチャーシュー麺大盛り、餃子、生ビールを胃に叩き込みながら言う。

 あまりにも激しい大喰らいっぷりに、千尋とヌバタマはただ唖然とするばかりだったが、

 同じく生ビールを煽っていた岡本は、楽しそうにオリベの背中を平手で叩いた。

「はっはっはっ! オリベのおっちゃんは面白いなあ!」

「ヒャッヒャッヒャッ! そうだろう、そう……んぐっ!? ゲホ、ゲホッ!! く、苦しい、叩かな……」

「はっはっはっはっはっ!!」

「んぐ、んぐぐぐぐーっ!!」

 

 

「はははははっ!」

「おっちゃんと姉ちゃん面白いなあ!」

 二人の掛け合いに、居合わせた他の客が笑い声をあげた。

 十人も入りきらない狭さの店なだけに、その笑い声は壁に響いてこだまする。

 気が付けば、他の客のみならず、千尋やヌバタマも笑っていた。

 暖かな、実に暖かな空気であった。

 

 

 

 

 

「お待たせしました。尾道ラーメンです」

 そこへ、店員がラーメンを持ってくる。

 中学生くらいの顔付きの、大人しそうな少年だった。

「はは……あ、そこに置いといてくれるかな」

「はい……のわあっ!??」

 店員の声がひっくり返った。

 ひっくり返ったのは店員の声だけではなく、ラーメンの器であり、そして……

 

「わわっ!??」

 慌てて身体を捻ったのが功を奏し、正面からのラーメンの直撃というみっともない姿は免れた。

 だが、千尋を守るようにしてラーメンに向かい合った上着の裾が、ぐっしょりと濡れてしまう。

 上着の下に着ていたTシャツ越しに、熱気と湿気がじわりと漂ってきた。

 

「も、もも、申し訳ありません!!」

「ああ、良いよ。ええことよ。おしぼりだけ、もう一つ貰えるかな」

 猛烈な勢いで謝る店員の言葉を制し、苦笑しながら人差し指を立てる。

 店員は言葉を失ってしまったようだが、今一度なよなよと頭を下げ、店の奥へとおしぼりを取りに行ってくれた。

 これ位の幸薄には慣れているし、『しげ』の店員に必要以上に気を遣わせたくはなかった。

 この店は、千尋と全く無関係ではない。

 接点は、カウンターの奥にいる店主だった。

 

 

 

「千尋ちゃん、ごめんよ。本当に大丈夫かい?」

「気にしないでよ、シゲ婆さん。洗濯すれば良いだけだし」

「でもねえ」

「じゃあ、また今度夜咄堂に来て、お茶を飲んでくれるかな。そのお返しが一番嬉しいよ」

「……千尋ちゃんは、ほんに良い子ねえ」

 カウンターの奥で調理に勤しんでいた店主、シゲ婆さんは、顔の皺をくしゃりと歪めて微笑んだ。

 

「さっきの店員さん、随分幼いですね。お孫さんですか?」

 オリベを叩くのに飽きた岡本が、シゲ婆さんに尋ねる。

「そうだよお。浩之と言ってね。まだ中学三年生なのよ」

「じゃあ、お店の手伝いなんだ。偉いなあ」

「手伝いというよりは、修行かねえ」

 シゲ婆さんが、微かに目を細める。

 

「まだ先の話だけれどね。高校を卒業したら、お店を継ぎたいと言ってくれているのよ。

 だから、今のうちにお店に慣れさせようとしているんだけれど……」

「まだまだこれから、と?」

「そういう事。おっちょこちょいでねえ」

「……へえ」

 そう呟いたのは千尋だった。

 シゲ婆さんとの間に広がっているラーメンの湯気を眺めながら、感慨深そうに頷く。

 ほんの少しだけ、浩之という少年に興味が湧いた。

 千尋の場合は、成り行きで夜咄堂を継いでいるので、動機や意気込みは全く異なる。

 しかし、若くして店を預かるかもしれないという立場には、少なからず親近感を感じる事が出来た。

 

 浩之少年も、奮闘している。

 同じ未成年ながら、店を預かろうとしている。

 ラーメンの湯気の中に、浩之少年が映ったような錯覚を覚える。

 だが、その浩之少年はすぐに、茶筅を振る自分へと姿を変えていった。

 

(い、いや……何を考えているんだ、俺は。店の経営だけならともかく、茶道まで頑張らなくても……)

 慌てて、ぶんぶんと顔を横に振る。

 一体何事なのかと横目で見やるヌバタマらの視線が、少しだけ痛かった。

 

 

 

「だけどねえ。心配はしとらんのよ」

 シゲ婆さんが、新しく麺を茹でながらしみじみとそう言う。

 続けられた言葉に、千尋はまた視線をシゲ婆さんへと移した。

 実に穏やかな……初めて千尋が点てた抹茶を飲んだ時のような、優しげな顔が、そこにはあった。

 

「祖母馬鹿かもしれんけれどね。

 あの子は……ちゃんとやれるようになるよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 岡本との食事は、ラーメン屋の一軒で終了した。

 調子に乗ったオリベが、居酒屋への梯子を提案したのだが、一行の中には未成年及び外見未成年が若干名いる。

 提案をあえなく却下され、なおも駄々をこねようとするオリベは、ヌバタマに引きずられて夜咄堂(よばなしどう)へと帰って行った。

 一方の岡本は、飲酒量が多少嵩んだ為に、海沿いで風に当たって酔いを醒ますと言い出した。

 その話を聞いて、岡本を一人にする程、千尋も薄情ではない。

 構わないで良いから、と苦笑して断る岡本に強引に付き添い、二人は酔っ払いが路上に正座する夜の商店街を歩いて、波止場に向かった。

 

 

 

「いやあ、それにしてもオリベさん、随分食ってたなあ」

 歩き出してすぐに、岡本が口を開く。

「ラーメン替え玉三杯に、ビールも三杯だっけ?

 締めにおにぎりまで頼んで、人間の胃袋じゃないみたいだなあ」

「いやはや……全くです」

 歯を見せながら苦笑いをする。

 付喪神の胃袋です、とは言えなかった。

 

「……で、どうでした? 気分転換とやらは出来ました?」

「ん? ……うん、一応は出来たよ」

 岡本の返事は暗い。

 彼女の眉は微かに顰められていた。

「出来たけど……良い作品が作れる気はしないな」

「そう簡単にはいかないものですね」

「結局、飯に付き合ってもらったばかりで悪かったな。……あ、煙草良いか?」

「またですか。どうぞ」

「飯の後には欠かせないんだよ」

 手の甲を前面にしたVサインを作って笑いながら、V字の上に煙草を添えて火を付ける。

 千尋と岡本、二人しか歩いていない夜の商店街に、煙草の火の明かりが灯った。

 岡本の体が歩行運動で揺れるたびに、蛍のような明かりもまた上下運動を繰り返す。

 

 

 

 

「千尋。お前、良い奴だよな」

「……突然何を言い出すんですか」

 全くもって不意打ちの一言だった。

 一瞬口籠ってしまい、生じた間の後に絞り出した声は、どこか早口になってしまう。

 

「いやさ。殆ど面識のない先輩の飯に、文句も言わずに付き合ってくれてるじゃん」

「文句を言えば、付き合わずに済んだんですか?」

「いや、言おうと言うまいと付き合わせた」

 横暴なのである。

 

「……でも、なんで俺なんです? 昨日の友達もいるじゃないですか」

「恵の事だね。確かに恵は友達だけれど……今回は、お前が陶芸サークル部員だから、付き合ってもらったんだよ」

 岡本が煙草を一気に吸い上げ、短い煙草は瞬く間に燃えカスと化した。

 それを上手に携帯灰皿で救い上げた彼女は、真っ直ぐに前を向きながら言葉を続ける。

 

「あたしさ。子供の頃から陶芸やってたのよ。

 両親がどちらも陶芸家でさ。ああ、別に跡を継ぐ為強要されてたんじゃないぞ。

 そこは自分からだな。働く両親の姿に憧れて、自分から轆轤(ろくろ)を回したいと言い出したんだよ」

「サラブレッド、って奴ですね」

「……どうだろうだな。

 ただ、両親が作る器は間違いなく凄かったよ。陶芸で飯も食えていたのが、本物の証さ。

 あたしだって、先々はそうありたいと思っている。それで、かれこれ十年は陶芸尽くしの日ってわけ。

 ……友達と擦れ違い続ける十年でもあったけどね」

 

 千尋の心臓が、小さく、だが強く鼓動した。

 危うく漏れる所だった吐息を口の中で押し殺し、首を横に向ける。

 隣を歩いている小柄な先輩が、更に小さく見えたような気がした。

 夜の商店街には、二人の靴が地面を叩く音だけが鳴り響いていた。

 

 

 

「とんでもなくマイナーな世界だからね。陶芸をやる友達なんか一人もいなかった。

 恵みたいな普通の友達はいっぱいいたよ。決して友達自体がいないわけじゃない。

 でも、同好の士はなし! 中学、高校、大学に入ってもなし!」

「大学も……ですか。俺が入部する前も、陶芸サークルでは一人だったんですか?」

「そうだよ。……だから、陶芸で繋がった友人は、千尋が初めてなんだよ」

 岡本の声がにわかに高くなった。

 それだけで彼女の機嫌の良さが窺い知れる。

 対照的に千尋は、気まずさのあまり視線を落としてしまった。

 喜んでくれている所に申し訳ないのだが、自分は幽霊部員なのだ。

 陶芸に全く興味がない、ただの頭数なのだ。

 

 

「あの……」

「分かってるよ。興味がない幽霊部員だってんだろ?」

 岡本は、そう言いながら前へと駆け出した。

 いつの間にか二人は商店街を抜けていて、彼女の前には防波堤が広がっていた。

 夏の海の潮風を感じられる位置まで駆けた彼女は、くるりと踵を返す。

 

 

 

 

 

「それでも、良かったんだ」

 海を背景に、岡本は笑った。

 潮風に吹かれて消えてしまいそうな、寂しい笑みだった。

 

 

 

 

 

 

「……岡本さん」

 千尋は岡本を見据えた。

 彼女の寂しげな姿には、見覚えがある。

 記憶残っている、一番古い光景。

 そして、自分の行動原理となった光景。

 岡本の姿が、母の葬儀の日に見た父の姿と、ダブって見えた。

 

 力になりたい。

 その場だけの言葉ではなく、行動で彼女を激励したい。

 感情がふつふつと沸き立つのが、自覚できた。

 サークル活動に参加するようになれば、おそらくは喜んで貰えるだろう。

 だが『同志』にはなれない。

 それだけでは、本気で何かに打ち込む者として、彼女の熱意を理解してあげられない。

 

(俺が打ち込める事……)

 

 千尋は僅かに顔を伏せる。

 一つだけ、思い辺りがあったのだが、それで良いのかと自分を制止した。

 茶道。

 シゲ婆さんらを笑わせ、一見しただけでは分からない秘めたる魅力を持つ文化。

 夜咄堂での日々の中で、茶道に対する興味は、日に日に膨らんでいた。

 そしてそれは、千尋の家族を全て奪った文化でもある。

 好悪入り混じった複雑な感情は、未だに解き解す事が出来ない。

 

 だが。

 

 だが、と千尋は思った。

 何かに打ち込む事で、彼女を元気付ける事ができるかもしれないのだ。

 誰かが笑ってくれるのなら、本懐だ。

 そう誓ったのだ。

 宜しい。

 構わない。

 取り組んでみようはないか。

 ――茶道、やってやろうではないか。

 

 

 

 

 

「……その。俺、上手く言えないんですけれど」

 真っ直ぐに、力の篭った瞳で岡本を見つめる。

 彼女もまた、千尋の瞳を見返してくれた。

 

「頑張りましょう。お互いに」

「お互い?」

「お互いです」

 一度、言葉を切る。

「陶芸サークル、俺、ちゃんと行きます。

 でも、岡本さんの熱意までは理解してあげられないかもしれない」

「千尋……」

「できる事なら、熱意まで理解したいんです。

 道は違っても、何かに打ち込んでいる者同士でありたいんです。

 岡本さんはもちろん陶芸。そして俺は……茶道かな、と」

 いざ最後の一言を口にすると、胸が痛んだ。

 これから自分は、家族を奪った茶道に打ち込むのだ。

 だがそれは、決して岡本を理解する為だけではない。

 茶道の魅力への興味は、確実に沸き上がっているのだ。

 

 

「昨日、オリベさんが言いましたっけか? 俺の店、茶室でお抹茶を点てているんですよ。

 とはいえ、前準備もなく父の店を継いでいるものでして、もう苦労の連続です」

「………」

「でも……茶道って、面白いみたいなんですよ。

 どこがどう、とは上手く言えないんですけれども……」

「ん」

「そんなわけで、俺、夜咄堂と茶道を極めます。

 だから、いつか……」

「いつか?」

「……いつか、先輩が自信を持てる器を焼いたら、それをお店で扱わせて下さい」

「……千尋」

 岡本が、顔を伏せる。

 五秒か、十秒か。

 まだ長く伏せていたかもしれない。

 だが、自身の長い髪をかき上げるようにして、彼女は前触れなく顔を上げた。

 

 不意に現れた岡本は、夜闇を照らすような笑顔を浮かべていた。

 

 

 

 

 

 

「ちーちゃんは、諦めるぞ」

 突然、わけの分からない事を言われる。

「え?」

「お前にちーちゃんと呼ばせるのは諦める!

 その代わり、いつか先生と呼ばせるからな!

 陶芸の岡本大先生だ! 覚悟しておけよ!」

 

 ぐっと親指を突き立てられる。

 何とも賑やかな先輩ができたものだ。

 だが、悪い気はしない。

 

「……はい!」

 千尋は負けじと、親指を突き立て返すのであった。



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第五話『七月三重殺 その三』

 防波堤に座って揺らめく水月を見ているうちに、岡本の酔いは醒めてしまった。

 何気なく振りかえれば、商店街のネオンはいつの間にか数が減っている。

 歓楽の夜も、もう間もなく静寂の夜へと移り変わる。

 夜の帳が降り切らないうちに帰ろうという話になり、駅まで歩く岡本に千尋は同行した。

 ……その最中の出来事だった。

 

「……あれ?」

 異変に気が付いたのは、千尋だった。

 シゲ婆さんの店の窓が開け放たれ、そこから明かりが漏れている。

 ポケットからスマートフォンを取り出して時刻を確認すれば、午後十時を軽く過ぎている。

 千尋の記憶が確かなら、シゲ婆さんの店はもう閉店する時間だった。

 

「シゲ婆さんの店、まだやってる……」

「掃除でもしてるんじゃないの?」

「ですか、ね」

 二人で首を傾げあいながら、店の前まで歩いた。

 物音を立てないよう、ゆっくりと顔を持ち上げて中を覗く。

 店内ではカウンター付近の照明だけが灯っていた。

 そのか細い光の中で、人影が忙しなく麺生地を捏ねている。

 忘れるはずもない、数時間前に見た顔だ。

 人影は浩之だった。

 

 

 

「なんだ。浩之君か」

「閉店後の修行、って所かな」

「そうでしょうね」

 岡本に同意しながら、更に窓際に歩み寄る。

 せっかくだから、一言くらいは激励の言葉でも掛けていこうと思う。

 

 片手を掲げ、気軽に声を――

 

 

 

「やあ、浩……」

 

 ――掛けられない。

 口が、手が、体が固まってしまう。

 千尋に身動きを許さなかったのは、他ならぬ浩之の姿であった。

 

 

 

 

「………」

 隣の岡本も、浩之に目を奪われてしまう。

 二人の視線の先にいる浩之の顔つきは、ラーメンをひっくり返した時の頼りない表情とは似ても似つかない。

 目を見開き、汗を迸らせ、地面をしかと踏みしめる。

 鬼気迫る表情を浮かべ、血涙振り絞らんばかりの勢いで、幾度も幾度も生地を押し潰す。

 今の彼に似た姿を、千尋は他所で何度か見た事がある。

 

 仁王。

 

 その様は、まさしく寺院の守護神たる金剛力士だ。

 大地を踏みしめ、害をなさんとする者を睨み付ける。

 小柄の中学生の浩之とはかけ離れた体格の大男だ。

 

 だが、浩之の風格はまさしく仁王そのもの。

 千尋は、胸を震わせながら、なおも浩之に視線を奪われる。

 彼から目を逸らす事ができない。

 寺院を守る仁王の如く、いつかこの店を継ぎ守る為、彼は戦っているのだ。

 

 ふと、シゲ婆さんの言葉を思い出す。

 ちゃんとやれるようになる……あの信頼の一言は、浩之の姿勢を知っていたからだろうか。

 例え、今は半人前でも、失敗をしようとも、一心不乱に目標へと向かい続ける姿を知っていたからだろうか。

 無論、本心はシゲ婆さんに聞かねば分からない。

 だが、千尋にはそう思えて仕方がないのだ。

 それはきっと、浩之の姿が自身の琴線に触れているからだろう。

 自分より三つほど年下の中学生の姿に、千尋は一人の人間として、強く惹かれていた。

 

 

 

 

 

「……千尋」

 沈黙を破ったのは、岡本だった。

 

「帰ろう。早く」

「……岡本さん?」

 彼女の短い言葉に反応して、顔を覗き込む。

 夜闇の中で、彼女の両の眼は爛々と輝いていた。

 

 

「今日は付き合ってくれてありがとな。

 ……やるべき事が、やっと分かった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから数日が経った。

 大学への通学を再開した千尋の生活は、にわかに忙しくなった。

 日中は大学に通い、帰宅してからは夜咄堂(よばなしどう)で働く日々。

 入学直後に忌引きで学校を休み、スタートラインがぽっかりと欠けている千尋には理解できない講義が多く、必然的に相当な自習が必要となった。

 帰宅後も、仕事の他にも、家事全般や習慣となっている墓掃除、更には茶道の稽古もちょくちょく組んでもらっている。

 こうなってしまうと、他の用事はなかなかに入れ難いものがあるのだが、

 千尋は、そこへ更にもう一つ、日々の予定を捻じ込んでいた。

 

 

 

 

「……っぷふぅー、っと!」

 岡本が、素潜りから上がってきたかのように息を吹き出す。

 どうやら、轆轤(ろくろ)を回して取り組んでいた成形が終わったらしい。

 部室の隅で陶芸入門書を読んでいた千尋が近づくと、岡本はにんまりと笑って、取り上げたばかりの素地を掲げてみせた。

 土を練り、素地として成形し、釉薬を塗り、そして焼く。

 いずれの工程も重要ではあったが、器の形に直接影響する成形は、岡本が自身の課題として取り組んでいるものだった。

 

「へへっ。どうよ?」

「ううん……何分、勉強不足なもので、素地の良し悪しまでは……」

「ふむ。まあ、それもそうか」

 岡本の手の中にある素地は、茶碗のように見受けられた。

 彼女に話した通り、素地の良し悪しが分からない千尋には、それが如何ほどのものなのか、とんと分からない。

 だが、分からずとも推測する事ならできる。

 満ち足りた笑顔を浮かべている岡本を見る限り、これは良い出来なのだろう。

 岡本は、ふふん、と鼻を鳴らして素地の底を覗き込んだ。

 

 

「まあ、悪くはないんだな……高台、つまりは底だな。

 底と胴のバランスが綺麗に取れたし、胴だけ見ても均等だ。

 後は乾燥させて、素焼きして、釉薬(ゆうやく)ぶっかけて、焼くだけ。

 最終的な出来は焼いてみにゃ何とも言えんが、多分、ごくごく普通の無難な茶碗が焼き上がるよ」

「普通、ですか? その割には満足しているように見えますけれど」

「ああ、満足も満足。大満足だよ」

 岡本はそう言うと、素地を板の上に置いて、空いた手でジャージのポケットを弄った。

 だが、目当ての品の煙草は、ジャージではなく私服のポケットの方に入っている。

 手応えのなさから、すぐに煙草がないと気が付いた岡本だったが、それでも彼女は満足げな表情を崩さず、頬杖を付いて千尋を見上げた。

 

 

 

「あたしさ。スランプって言ったじゃない」

「ええ。そう聞いていましたが」

「あれ、違うんだ。スランプなんかじゃなかった。

 ……単に、あたしの技量不足なだけだったんだよ」

 岡本の声が早口になる。

 真剣な話の時は早口になるのが、彼女の癖のようだった。

 となれば、ふらふらと聞くわけにもいかない。

「ふむ……」

 先の発言を促すようにそう言って、千尋も傍の椅子に腰掛ける。

 

 

「あくまでもあたしの推測なんだけれどさ。多分、技量は今も昔も大差ない。

 大学に入ってスランプだと思うようになったのは、多少は見る目って奴が備わってきたからかもしれないね」

「それじゃあ、この茶碗の出来も、今までと大差ないって事ですか?」

「そうだよ。……でも、それで良いんだ」

 岡本は深く頷いた。

 千尋の方を向いていたが、千尋というよりは、その奥にある何かを見通すような視線だった。

 

 

「両親のようになりたいとか、立派な器を作りたいとか言える技量じゃないんだもん。

 今は、ただ日々研鑽して、自分に造れる物を作り続けるだけ。

 そうだと気がついたら、なんだか気が楽になったよ」

「……成程」

 合点がいった千尋は、先日の夜を思い出す。

 閉店後もただただ訓練に明け暮れる、浩之の凄まじい姿を思い出す。

 岡本が現在の心境に至ったのには、浩之の影響が大きいのだろう。

 なにせ、まだまだ修行中の身なのだ。

 結果を気にする事なく、ただただ研鑽を積めば良いし、そうするべき時期なのだ。

 浩之も。

 岡本も。

 そして、自分もそうだ。

 至らない所は山ほどあれど、ただ、一つの茶に前向きに取り組み続けるべきなのだ。

 

 

 

 

 

「……俺、店がありますから、そろそろ帰ります」

「おお。付き合わせて悪かったな」

「一応、部員ですからね」

 そう言って、はにかみながら立ち上がる。

 岡本に手を振って分かれ、部室から出た千尋は、降り注ぐ初夏の日差しに思わず目を瞑ってしまった。

 殺人的なまでにぎらつく日差しは、空を見上げるのも困難なくらいに眩い。

 これからの猛暑を予感させる、太陽の輝き。

 だが……今は、この眩さが心地良かった。

 

 

「……さて。帰ったら稽古か」

 力強く前を見据え、大股でキャンパスを闊歩する。

 千尋の心中は、火が掛かった釜の如く、七月の日差しによって徐々に沸騰していった。



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第六話『置筒竹花入 その一』

 季節が、猛っていた。

 

 連日空を覆っていた梅雨の雨雲は完全に姿を消してしまい、

 眩い程の陽光を遮るものは、今はもう空には何も浮かんでいない。

 上からは直接、そして下からはアスファルトの照り返しで、夏の陽は人々を包むように燦々と輝いていた。

 なんとか逃れようと日陰に入った所で、次に頭を悩ませるのは瀬戸内海の影響だ。

 港町特有の湿気が作り出すサウナのような空気からは、屋外にいる限り逃れようがない。

 更には不思議なもので、それ自体には何も暑さも篭っていないというのに、

 あちらこちらから聞こえてくる蝉の鳴き声は、体感温度をぐいぐいと引き上げてくる。

 

 陽と、風と、音。

 あらゆるものが、情熱の季節の到来を告げていた。

 

 

 

「しかし、こりゃあ酷い暑さだな」

 夏の猛りに苦しめられているのは、千尋とて例外ではない。

 日課の墓掃除に来ていた千尋は、濃紺の空を恨めしそうに見上げたが、そうした所で日差しが弱まるものでもない。

 次からは、帽子を被ってくるなり何なり、日光の対策をしてこよう……そう思いながら視線を前に戻せば、そこには若月家の墓がある。

 今日の掃除の仕上げとして柄杓で水を掛ければ、僅かに水飛沫が飛び散るが、それが心地良い。

 ほんの少しだけ気分を良くして、彼は墓に刻まれる名前を見つめた。

 

 

 

「父さん」

 ……とつとつと。

「父さんが亡くなってから、俺の生活は……随分と変わったよ」

 言葉を噛みしめながら、千尋は語る。

 付喪神(つくもがみ)達や、夜咄堂(よばなしどう)を始めて出会った人々の顔が心中に浮かぶ。

 だがそれらはすぐに消えてしまい、その後で湧くように出てきたのは、父の姿だった。

 皆は、目元が特に似ているというのだが、千尋にはその自覚はない。

 千尋の心中に居座っている父は、キツい目つきの自分よりも、よっぽど優しげな瞳でこちらを見ていた。

 

 

「夜咄堂に来たら、いきなり付喪神なんかが出てくるんだもん。

 父さんも、仕事を家庭に持ち込まないようにしていたんだろうけれど、

 流石にこんな大事は、教えておいて欲しかったなあ。

 ……でもね。新生活も、悪くはない」

 ちらり、と斜め後方を見やる。

 視線の先……千光寺(せんこうじ)山の中腹には、夜咄堂がある。

 

 

「正直言うとね。最初は茶道を始めるのには抵抗があったよ。

 なんせ、父さんや他の家族も、茶道に奪われたんだからね。

 ……今でも、茶道に対しては複雑な気持ちだよ。

 それでも茶道を始めた理由は幾つかあるんだけれど……やっぱり、シゲ婆さんの笑顔が印象的かな。

 お客さんが、笑ってくれるんだ。楽しんでいるんだ。ついさっきまで泣いていたのにさ。

 何がそんなに良いのか……それが気になって、茶道は続けているよ」

 

 そう告げて、墓に深々と頭を下げる。

 父の姿が、夏の蜃気楼のように揺らぎ始めた。

 頭を上げて墓に背を向けると、その揺らぎは一層強まり、もう表情を読み取る事ができなくなる。

 

 

 

 

「でも……」

 誰もいない墓地を歩きながら、千尋は呟く。

 

「……でも。どうせお店をやるなら、父さんと一緒が良かったな」

 

 

 

 

 口の中にしか響かない、消えてしまいそうな声だった。

 父を亡くしてから約三ヶ月。その間、千尋の胸から悲しみが消えた事はない。

 だが、どうにもその思いは、まだ本物ではないのかもしれない。

 

 それは、生活の安定に関連している。

 父を亡くした直後は山のような事後処理に追われていたし、

 事務処理が一息付くと、入れ替わるようにして夜咄堂の経営に忙しく取り組んだ。

 夜咄堂が落ち着いた今では、大学通学を再開している為に、やはり暇とは言い難い。

 

 だが、これからは違う。

 

 大学生活が落ち着けば、ようやく暇ができるようになる。

 気持ちが落ち着けば、父の死を強く感じるようになる。

 何物にも遮られずに襲い掛かってくる事実を、直接感じるようになる。

 父と店を経営したかったと思ってしまうのは、その前触れなのだろう。

 千尋は、そう分析していた。

 

 

 

 

「……じゃあな。父さん。

 あまり長く外出すると、付喪神達が心配するしね」

 

 そう言い残して、墓地を後にする。

 耳に届くのは、どこか遠くから聞こえてくる蝉の鳴き声だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第六話『置筒竹花入(おきづつたけはないれ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お目怠(めだる)うございました」

「はい。大変結構でございました」

 稽古の締めの挨拶を受けたヌバタマが、にこにこと笑いながら返事をしてくれる。

 千尋の言葉もヌバタマの返しも、余程の事がない限りそう発すると決まっている、お約束の挨拶だ。

 だが、お約束の割には、ヌバタマは本心から笑っているように見受けられた。

 

 

「さて。次は私が一つお()てしましょう」

「あれ? 今日の稽古はもう終わりじゃないのか」

「稽古じゃありませんよ。純粋に、一服しましょうという事です。下で点ててきますね」

 一時間の正座をものともせず、すっと立ち上がったヌバタマが階下に下りる。

 確かに、台所でお湯を沸かして作るのであれば、稽古でもなんでもない。

 合点がいった千尋は、炭火で熱くなっている釜から離れ、毛氈(もうせん)に胡坐をかいて待つ。

 暇潰しに天井の板の節目を心中でなぞっていると、ヌバタマは茶碗を手にしてすぐに帰ってきた。

 

「はい、どうぞ」

「サンキュー」

 軽く礼を述べて茶碗を口につける。

 殆ど粘り気のない、さらりとした薄茶が喉へと流れてきた。

 後から感じられる淡い苦みも、実に心地良い。

 一般的に苦いと認識されている濃茶とは異なる、薄茶独特の清涼感と少々の苦みは、稽古の緊張を適度に解してくれた。

 日常的に飲むような事こそなかったが、美味であるとさえ千尋は思っていた。

 

 

「ふう。ごちそうさん」

「いえいえ。お粗末様です」

 ヌバタマはなおも笑っている。

 考えてみれば、今日は稽古の最中も笑っている事が多かった。

 別段、笑顔が珍しいわけではなかったが、どうにも目について仕方がない。

 

 

「……なんだよ。さっきからニコニコしちゃって。何か良い事でもあったのか?」

「ええ、千尋さん絡みで」

「俺? 俺、何かしたっけか?」

「はい。この所、千尋さんが随分とお稽古に熱心なようで、嬉しいのです。

 基礎の基礎ですが、お薄茶点前だって、もう完全に覚えてしまわれましたし」

「……一ヶ月程稽古すりゃ、誰だって覚えるさ」

「そうかもしれませんが、千尋さんが前向きに取り組まれるようになったのが、大事なのですよ。

 何か、心に期す事でもあったのですか?」

 

 あった。

 岡本を励ましたくて、更には客を笑顔にする魅力を知りたくて、茶道に取り組んでいる。

 だが、それをそのままヌバタマに話してしまうのは憚られる。

 別にヌバタマを気遣っているわけでもなんでもなく、単に自身が気恥ずかしいだけではあるのだが。

 

 

 

 

「……特には」

 結局、ぶっきらぼうな言葉を投げかける事しかできない。

「あら。それでは気紛れですか?」

「どうだろうな」

「どうだろうって……夜咄堂の主人ともあろう方が、いつまで経ってもそれではいけませんよ」

 ヌバタマの表情に困惑の色が見え始めた。

「別に構わないだろ。興味が湧かないんだよ」

「興味が湧かない? こんなにも楽しさに満ち溢れているというのに!」

 なんとも大袈裟な語り。

 だが、彼女は本心から驚いているようであった。

 その証拠に、すぐに居住まいを正したヌバタマは、正座したままでぐいと千尋に近づき、睨みつけるように顔を凝視してくる。

 間に畳の縁を挟んだだけの超至近距離に、思わず千尋は上半身を逸らしてしまう。

 しかし、ヌバタマがその分顔を寄せてくるので、二人の距離は離れない。

 間近で見るヌバタマの白い肌と、吸い込まれるような黒髪、そして赤く小さな唇。

 三色が作り出した美しい少女に、反射的に手を添えてしまいそうになった。

 

 

 

「な……なんでしょうかね、ヌバタマさん?」

 動揺を隠そうとするあまり、言葉遣いが畏まる。

「なんですか、ではありません。良いですか?

 茶道とは単にお抹茶とお茶菓子を味わうものではないのです」

「お、おう」

「茶の道の名の如く、禅の世界にも通じる精神性を、茶を通じて歩める、尊い行いなのです。

 いえ、もちろんそれだけではありませんよ?

 茶道具の良さに感じ入ったり、亭主が客を気遣ったり、

 日の本の美しさが凝縮された世界に心を浸したり……

 他にもまだまだ、茶道の良い所は山ほどありますよ。

 だというのに、興味が湧かないとはどういう事ですか!」

「わ、分かった。分かったら、少し離れよう。な?」

「……あえっ?」

 間の抜けた返事。

 言いたい事を一通り口にして落ち着いたのか、互いの吐息が感じられる程に顔を近づけていたと気が付いたヌバタマは、

 頬を一瞬で真っ赤に染め上げ、弾き出されるようにして後方へと下がると、露骨に視線を外してきた。

 

 

「あ……! も、申し訳ありません!! つい……」

「ああ、いや、うん。気にしないで。言いたい事は分かったから」

 

 千尋とて、恥ずかしさに変わりはない。

 だが、自分まで慌てふためくわけにはと、見た目には冷静を装って頷いてみせる。

 

 ――しかし。

 

 

 

 

(……いや。分かっちゃいない)

 

 ふと、自身の言葉を振り返る。

 ヌバタマの言う通りなのだ。

 茶道の良さは知りたいのだが、まだ理解には至らない。

 理屈では、ヌバタマが言うような良さがあるとは認識できる。

 だが、千尋自身はそれを良いと感じた経験はないのだ。

 

 無意識のうちに、家族の死が邪魔をしているのだろうか。

 確かに茶道は父をはじめとした家族を奪っている。

 その事実が、茶道の良さに抵抗を与えている可能性も否定はできない。

 

 もしくは、単に実感する経験が少ないからかもしれない。

 この先何度も茶を点て、客の笑顔を見れば、良さが分かるのかもしれない。

 幾多の良器を目にし手にする事で、茶道具の良さが分かるのかもしれない。

 

 或いは、道具が重要なのかも、と思う。

 元々そのような印象を持ってはいたのだが、いざ仕事にすると、茶道具には高価な物が多い事に気が付く。

 茶道の良さが、物の価値に感じ入る事だとすれば、茶道が一般的に馴染みが薄い観点としても合点がいく。

 

 結論は……どうにも、この場では出そうにはない。

 それに、まず答えを出すべきは、未だに顔を背けているヌバタマへの対応だ。

 この気まずい空気をどうやって元に戻したものか。

 ある意味では茶道の良さよりも頭を悩ませる問題であったが、有難い事に、程なくして答えは階下からやってきた。

 

 

 

 

 

「お~い」

 間延びした男性の声。

 二人が茶室の入口に視線と移すと、声の主のオリベは、軽快な足取りで茶室へと入ってきた。

 オリベには階下を任せていたはずなのに、どういうつもりなのだろう、と考えた所で、

 つまりは、その階下絡みで上がってきたのだろうか、と千尋は思い至る。

 案の定、千尋の姿を認めたオリベは、手首を軽く振って手招きをした。

 

 

「千尋や。お客さんがお前と話したいそうだ。

 稽古が終ったのなら、手伝ってくれんかね。

 この間の、眼鏡の女の子だよ」



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第六話『置筒竹花入 その二』

 手すりを掴みながら階下に降りると、窓際の席に座っている女性が、ひらひらと手を掲げて合図を送ってきた。

 夜咄堂(よばなしどう)に来てくれるのはこれで三度目なので、顔だけはもう覚えているのだが、問題は名前だ。

 会釈をして近づきながら、一度だけ耳にした彼女の名前をなんとか思い出す。

 

 

「いらっしゃいませ。恵さん、でしたっけか」

「あら? 名前を話した事……ああ。知紗が教えたのね。

 ええ。水谷恵と言います」

「分かりました。水谷さんですね」

「別に恵で良いのに。……って、これじゃあ知紗みたいね。ふふっ」

 水谷が口元に手を当てて小さく笑う。

 岡本とは対照的な、温和で柔らかな雰囲気の女性だった。

 知性を感じさせる眼鏡と、ロングスカートの出で立ちからも、そう感じるのだろう。

 

 

「お気持ちは嬉しいのですが、水谷さんと呼ばせて頂ければ幸いです」

「分かりました。それでは水谷でお願いね。三回も来るんだから、私から名乗るべきだったかしら」

「いえ……ところで、それ程お店を気にいって頂けたのですか?」

「ううん。そうねえ。お店というよりは……」

 水谷が喋りながら片目を瞑る。

「……千尋君が気になるかしら」

「お、俺が……!?」

 思わず、素の口調が飛び出してしまう。

 狼狽えようが面白かったのか、水谷にはくすくすと笑われる始末だった。

 

 

「ふふふっ。そう、千尋君が。だって、知紗の大事な後輩なんですもの」

「………」

 どうやら、男性としてという意味ではないようである。

「知紗ね。サークルに後輩が出来た時は、毎日のようにその話をしていたわ。

 ちょっとヒョロヒョロしていて頼りないだの、でも誠実そうだだの。

 初めてのサークルの後輩が凄く嬉しかったみたいね」

「……いやはや」

「あまり千尋君の話ばかりするものだから、少し妬けちゃったくらいよ。

 ……でも、良かった。本当に良かったわ。

 私は陶芸は分からないから、あの子の話し相手すら務まらなかったんですもの。

 千尋君。良かったら、今後も知紗の力になってあげてね」

「……はい」

 先日の岡本との会話を、ちらと思い出した。

 控え目に、だが確固たる意志で頷く。

 水谷は目礼を返し、それからその目を窓の外へと向ける。

 

 

「それと、もう一つ。私、花が好きなの」

「花、ですか」

 千尋も窓際まで近づいて、庭を眺める。

「ええ。このお店のお庭に咲いている花も目当てなのよ」

 

 庭の手入れは殆ど付喪神(つくもがみ)達に任せていて、千尋は触った事がなかった。

 近くにありながら縁遠い夜咄堂の庭に咲いているのは、殆どが茶花だ。

 ツバキ、ナデシコ、ワレモコウ。

 アサガオ、ムクゲに、タマアジサイ。

 他にも、大きさも彩りも様々な夏の茶花が、庭の隅にある澄んだ池を彩るように咲き誇っている。

 改めて見てみれば、然程花に興味のない千尋でも、思わず嘆息が零れそうな光景だった。

 

 

 

 

「千尋君。知ってるかしら?」

 知らない、とつまらない返しを思いついたが、流石に口にしない。

 水谷は、遠い目で庭を見つめたまま、言葉を続けた。

 

「茶道というよりは、植物学の方面から知ったんだけれどね。

 お茶で使うお花って、地味な花が多いのよ。

 ……いいえ、地味というよりは、山野草というべきかしらね」

「ふむ」

「どの流派でも、洋花はあまり使わないらしいわね。

 その理由までは分からないけれど……私にとって大事なのは、山野草が用いられているって事。

 このお店のお庭に咲いている花も、茶席で使うのかしらね。山野草が多いのよ。

 だから、ここは私のお気に入り」

「なるほど。登山して見に行くよりは楽ですからね」

「……ううん。私の場合は、ちょっと事情があるのよね」

 水谷の声が、僅かに陰った。

「私ね。あまり、脚が強くないの。子供の頃に交通事故に遭っちゃって」

 

 そっと視線を水谷に移せば、彼女はなおも庭を見つめ続けていた。

 物静かな雰囲気こそ変わりはなかったが、彼女の瞳には憂いが感じられる。

 

 

 

「ロープウェイが無かったら、このお店に通うのも辛いかも。

 ……だから、登山して山野草を眺めたりとか、ちょっと難しいわ。

 本当は、そうしてみたいんだけれどね」

 座ったまま、じっと庭を……否、庭の奥にある幻想の野山を見つめる水谷。

 彼女の口から出たのは、甘受の言葉だった。

 言葉も仕草も儚げな水谷は、まさしく、座れば牡丹を地で行っていた。

 

 千尋は思わず、そんな彼女に見惚れてしまったが、気づかれないうちに視線を庭に戻す。

 夏の陽光に照らされた茶花達は、相変わらずすくすくと咲き誇っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「のっびのっび~♪ 育ってきたぜワッレモッコ~♪」

 

 その日の夕方の事である。

 

 開け放っている窓の外から、凄まじく音程を外したオリベの歌声が聞こえてきた。

 たまたま客がいないのが幸いであったが、或いは、客がいないからこそ歌っているのかもしれない。

 が、どちらにしても歌を聞かされる千尋はたまったものではない。

 文句の一つでも言ってやろうと、雪駄を履いて庭に出ると、オリベは庭の花に水を与えながら歌を口ずさんでいた。

 

 

「オリベさん、その奇妙な歌を止めてくれませんか」

「奇妙とはなんだね。ワレモコウの成長を祝う素敵な歌ではないか」

「前言撤回します。その奇妙な声を止めてくれませんか」

「君は人を気遣うくせに、私に対しては、時々とても失礼な事を言うね」

 オリベが顔だけ振り返って口を尖らせる。

 本気で拗ねているわけではないようだし、そんな人だと思ったからこそ、千尋も憎まれ口を叩いている。

 まだ一ヶ月少々の付き合いなのに、不思議とオリベには、遠慮なしにものを言う事ができた。

 

「はいはい。……で、何をしていたんですか?」

「ワレモコウのお世話だよ。なんせ、そのうち茶室で用いるからね」

「茶室で……?」

 思わぬ言葉に反応して、オリベの肩越しに花を覗き込む。

 初めて名を聞くその植物は、濃紫の葡萄のような花を携えた茶花だった。

 見ようによっては毒々しくもある花の下の茎は、ススキにも似た背丈をしている。

 橙色の夏夕空に向かってぐんぐんと背を伸ばしていて、活力のある花のように感じられた。

 

 

 

「これを茶室で、ですか。誰か知り合いでも来るんですか?」

「いや。今日来ていた恵ちゃん、だったかね。彼女の事だ。

 なんでも、夜咄堂を気にいってくれているそうじゃないか。

 また来てくれるだろうから、その時に茶室に案内すると良いよ」

「なんでまた。別にお抹茶には興味がないようでしたが?」

「向こうに用事がなくても、こっちにはあるのだよ。

 ……彼女は、日々是好日(にちにちこれこうにち)を必要としている」

「あ……」

 思わず、息を飲む。

 その存在を知って以来、今日まで目にする機会のなかった付喪神達の能力、日々是好日。

 一般人の感覚では分かり難い茶道の良さを、限界まで感じてもらえるこの能力が必要だと、オリベは言っているのだ。

 

「能力の意味は、忘れちゃいまいな?」

「ええ。対象者の感受性を引き上げて、茶の良さを感じてもらう、とかなんとか」

「そんな所だな。……恵ちゃんは癒しを必要としている。

 我々付喪神には、それが分かるし、分かったからには癒してやりたいのだよ。

 別に、構わんだろう?」

「………」

 少しだけ、考える。

 水谷の必要としている癒しが何なのか。それは千尋にも大まかに推測できる。

 悩みが解消できるのなら、そうしてあげたいと思うし、日々是好日には何かしらの副作用もないようである。

 なのであれば、答えは決まっている。

 

 それでも千尋が思案したのは、自身の腕の方だった。

 日々是好日の効果には、疑う所がない。

 しかし、従来通りであれば自分が茶を点てる事になるが、それで良いのだろうか。

 ヌバタマの言葉を借りれば、まだ基礎の基礎を覚えたばかりなのだ。

 何か粗相をして、茶席を台無しにしてしまわないだろうか。

 その可能性に一度気が付いてしまうと、次々と嫌な可能性だけを想像してしまう。

 水で茶を点てはしないか。

 清めていない茶碗を使ってはしまわないか。

 茶碗をひっくり返してはしまわないか。

 不安要素は、止め処なく溢れ出た。

 

 

「ちなみに、当日は私が補佐しよう」

 そこへ、オリベが言葉を付け足した。

「補佐……ですか」

「うむ。千尋の腕も心配ではあるが、それはそれだ。

 そもそも能力を使う為には、私かヌバタマがいなくてはならないからね」

「……ふむ」

 千尋の心中を知ってか知らずかの言葉に、少しだけ安堵する。

 

 考えれみれば、初めてシゲ婆さんに茶を点てた時も、オリベの一言で落ち着く事ができた。

 普段は頼りない男なのだが、茶事となれば話は別。

 オリベと一緒ならば、上手くやれるかもしれない。

 

「ちなみに、野郎が来た時はヌバタマに任せるからね。

 私が手伝うのは、女性が来た時だけだ」

 やっぱり、上手くやれないかもしれない。

 

 

 

 

「……はぁ。ま、良いですよ。それではお願いします」

 結局、千尋は嘆息しながらも頷く。

 店の主の承認に、オリベは手にした水差しを無造作に投げて拳を握った。

 

「よぉーし! 恵ちゃんの為に一肌脱ぐとするかあ!」

「あっ、物を手荒く扱わな……あれ?」

 オリベが投げた水差しを手に取りながら、千尋は小首を傾げた。

 先程まで気が付かなかったが、オリベが使っていた水差しは、陶器だったのである。

 

「この水差しは焼き物ですか?」

 水差しは、何の装飾も施されていない土瓶であった。

 武骨というよりは、単に造りが荒いだけの土瓶で、汚れも酷い。

 だが厚さだけは相当なもので、オリベの杜撰な扱いにも全く堪えた様子は見受けられない。

 

 

「ヒャッヒャッヒャッ!それは水差しというよりは、水注(みずつぎ)だね。

 茶席に、水を入れておく為の容器、水指(みずさし)があるだろう?

 その水指に水を継ぎ足す時に、この水注を使っているじゃないか」

「あ、もちろん水注は分かります。……でも、なんで庭で水注を?」

 千尋の問いに、オリベはにやりと歯を見せて笑ってみせた。

 

「これはロビンだよ。この土瓶の付喪神がロビンなのだ。

 ドビンがロビンになっちまった、ってわけだな。

 茶には興味がないから土瓶は好きに使ってくれ、と言われているのでね。

 こうして、有効活用しているのだよ。ヒャッヒャッヒャッ!」

 

 なんとも酷い扱いなのであった。



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第六話『置筒竹花入 その三』

 水谷が夜咄堂(よばなしどう)に来たのは、ちょうど一週間後の、暑い昼下がりだった。

 こうも暑いと常連客の足は遠のくばかりだし、多少入り組んだ所に店がある為に、偶然見かけて涼みにくるような一見客もいない。

 今日も、客は午前中に二組に来ただけだ。

 こんな日なのだから、おそらく午後になっても水谷は来ないだろう。

 そう高を括っていた為に、麦わら帽子を被った水谷が玄関を開けた時は、千尋は酷く慌ててしまった。

 

 

 

「や……これは……いらっしゃいませ。すみません、準備が……」

「あら。今日はまだ開店していなかったの?」

「ああ、えっと、店の事ではなく……と、とりあえず席へどうぞ。冷たい水をお持ちします」

 そう言って水谷を中へ案内しつつ、オリベに目配せをすると、千尋の意を察した彼は二階へと上がっていった。

 茶室の準備は、このままオリベに任せておけば問題ないだろう。多分。

 安堵した千尋が水を運んでくると、水谷は窓際の席に座っていた。

 窓を開け放ってはいるものの、今日は殆ど無風で、極楽の余り風に期待はできない。

 それどころか、窓際の席は少々日差しが厳しく、むしろ寛ぐには適さない席だ。

 それでも彼女が窓際に座る理由は、一つしか思い浮かばない。

 彼女は、山野草を眺めるのが本当に好きなのだろう。

 

 

「今日も茶花目当てですか?」

 ことり、と音を立てて水の入ったグラスを置きながら尋ねる。

「ええ。……あ、ううん。もちろんお店の食べ物や、千尋君とお話する事も楽しみよ?」

「それはありがとうございます。……ところで、その食べ物なんですが、今日はお勧めがありまして」

「何かしら」

「宜しければ、二階でお抹茶セットでも如何ですか?

 お茶ですから当然暑くはありますけれど、意外とすぐに冷えるものですし、茶花も飾っていますよ」

「お抹茶……」

 水谷はぽつりと呟くと、千尋の顔を見上げてきた。

 眼鏡の奥の目尻が、すぐに下がる。

 麦わら帽子を脱ぎながら、水谷は小さく頷いた。

 

「それじゃあ、一服頂こうかしら」

「では、こちらへ」

 

 

 

 

 

 水谷を連れて階段を軋ませると、階上からは釜が煮立つ音が微かに聞こえてきた。

 茶室へと入れば、部屋の隅に備えられた釜の隙間から、湯気がほっそりと伸び始めている。

 毛氈(もうせん)も、掛け軸も、そして掛け軸の下に飾られた『今日の』主役である花と花入れも、準備は万全だ。

 おそらくオリベは、準備を終えて、隣の水屋に控えているのだろう。

 手早く用意できる電気炉を用いた事を差し引いても、この短時間で見事なお手並みという他なかった。

 

「どうぞ、中へ」

 水谷を毛氈の上に案内してから一度退出すると、案の定水屋にはオリベがいた。

 言葉は交わさずに親指を突き立てあって挨拶を交わしてから、必要な茶道具だけを手にし、もう一度茶室へと戻る。

 入室の挨拶を交わそうと座した所で、水谷が全くこちらを見ていない事に気が付いた。

 

(……心、ここにあらず、って所か)

 内心苦笑しながら中に入る。

 視線を花に奪われていた水谷は、それでようやく千尋に気が付いた。

 

 

 

「あら、千尋さん。ごめんなさい、お花に見入っていて……」

「いえいえ、お気になさらないで下さい」

 優しく笑いながら茶道具を風炉(ふうろ)の前に置き、千尋もまた掛け軸の下に視線を移す。

 

「今日のお花は……わざわざ説明するまでもありませんかね」

「ふふっ。ワレモコウね。お庭に咲いていたものかしら」

「ええ。オリベさんらが毎日お世話していたものです。茶席に飾ったワレモコウも悪くはないでしょう?」

「そうかもしれないわね。花入れに飾ると、また違って見えるわ」

「その花入れは、置筒竹花入(おきづつたけはないれ)と言います」

 昨日覚えたばかりの花入れの名を口にする。

 竹製の相当すすけた花入れだが、それも当然の事。

 オリベから聞いた話によれば、桃山時代に作られた四百年物で、この店一番の古株の茶道具なのだ。

 花入れの正面には、鉈で垂直に切り落としたような跡があった。

 なんでもこの跡が、置筒竹花入の見所らしいのだが、千尋には良さが分からない。

 その為に、この先の役目はオリベに頼んでおり、背後から折良くオリベの声が聞こえてきた。

 

 

 

「ようこそいらっしゃいませ」

「オリベさん。どうもお邪魔しています。素敵なお花に花入れね」

「ヒャッヒャッヒャッ! そいつはどうも。特に花入れには、少しばかり逸話があるのですよ」

「どんなお話かしら?」

「興味があらば、お話しましょう」

 オリベが小さく頭を下げ、正座したままでずいと茶室内に入ってくる。

 

「実はその花入れ、桃山時代の武将が作ったとの逸話が残っているのです。

 残念な事に武将の名前までは伝わっておりません。

 ですが、逸話は事実。その証拠が、花入れの正面の切り落とした跡ですな」

「この跡が……?」

 水谷はまじまじと切り落とした跡を見つめる。

 

「普通の茶人であれば、このような武骨な面は造らないでしょう。

 戦の一端が焼き付けられたような、この豪快な切り落としこそが、戦場を駆け回った者の証。

 他には一切の飾り気がない、文字通り竹を割ったような潔さの花入れです。

 ……私はこの、武将の魂が具現化されたような花入れが大好きでしてな。

 見ているだけで活力を分けてもらえるのですよ。

 戦場を生き抜き、動乱の世を駆け抜けた生命力が、この跡には宿っている気がするのです」

 

「なるほ……」

 

 

 

 

 水谷の言葉が、掻き消された。

 

 いや、千尋がそう錯覚しただけなのかもしれない。

 なにせ、オリベの解釈と同時に茶室が眩い閃光で満たされ、一瞬ながら気が遠のいたからだ。

 この『力』を受けている彼女も同じ感覚を受けているのだろうか、と思いながら水谷を強く見つめて、視界を整える。

 日々是好日(にちにちこれこうにち)

 その力を認識しながら目にするのは、これが初めてだった。

 

 

 

 

「……我も、こう、ありたい」

 揺らぎと閃光が収まるのと入れ替わりに、水谷はそう呟いた。

 自身の言葉を噛み締めるような、ゆったりとした、だが力強い言葉だ。

 

「ワレモコウの名の由来ですな」

「山野草、好きですから」

 水谷は笑顔で頷く。

 胸に両手をあてがいながら、彼女は更に言葉を続けた。

 

「こうありたい……の『こう』とは、一体何を指しているのかまでは分かりません。

 もしかすると、見る者それぞれの心の中に答えはあるのかもしれませんね。

 ……そうだとすれば、私は今、こう感じたのです。

 私も、こうありたい……この花と、花入れのようにありたい……」

 言葉に溜めを作りながら、水谷は千尋の方をを向いた。

 眼鏡の奥に潜む水谷の瞳は、発せられた言葉同様に、爛々と輝いていた。

 

「生命力に満ち溢れるこの花のように、強く生きたい。

 そして、この花入れを作った武将のように、躍動したい。

 もっと、もっと体を強くして、いつかは山野草を見に行きたい。

 ……千尋君、オリベさん。ありがとう。なんだか元気が出てきたわ」

「……それは、良かったです」

 

 微笑みを返しながら、ちらと席主のオリベを見る。

 茶の良さを深く認識できる能力、日々是好日の存在を認識すると共に、千尋は内心でその能力に舌を巻いていた。

 ただ自分が説明しただけでは、これ程の感動を水谷に与える事は叶わなかったであろう。

 この男達、付喪神との生活が日常と化した為に錯覚していたが、やはり彼らは人ならざる存在なのだ。

 人智を超えた存在と能力。

 千尋にとっては、それは謎に満ちつつも、実に頼もしいものだった。

 

 

 

 

 

「……さて、一服差し上げますね。お茶席はここからが本番ですよ」

 

 釜の方を向き、気持ちを落ち着ける。

 千尋の前では、どっしりとした姥口釜(うばぐちがま)が、物言わずに居座っている。

 しかしながら、蓋の隙間から立ち上る湯気は、まるで自身の出番をせがむかのようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 水谷が帰ったのを見届けると、千尋は二階の水屋に向かい、今日使った茶道具を洗い始めた。

 釜や茶碗といった、洗っては拭くだけの茶道具は、清めるのに然程手間はかからない。

 面倒臭いのが、抹茶の入っている(なつめ)の手入れだ。

 何よりも、抹茶を元の容器に戻すのが面倒臭い。

 茶漏斗(ちゃじょうご)を使って、零さないよう慎重に戻す……そんな時に、不意に背後から肩を叩かれた。

 

 

「ち、ひ、ろ、くんっ!」

「のわっ!??」

 

 思わず手にしていた容器をひっくり返しかけるが、辛うじて落とさない。

 あからさまに眉を顰めながら振り返れば、そこにいるのは案の定オリベだった。

 千尋のしかめっ面に恐縮する様子もない彼は、にやにやと笑いながら、板張りの床にどっしりと胡坐をかいた。

 

 

「今日の茶席、なかなか上手く出来たじゃないか」

「……それはどうも」

 素直に頷いた後で、以前の自分ならば、頑なに否定していたかもしれないと思う。

 難色を示す程でもなくなったのは、やはり茶道に取り組もうと思うようになったからだろう。

 そこまで考えて、千尋はふと、思い至った。

 

 

 

 

「……ところでオリベさん。一つ聞きたい事があるんですが」

「ほう、何かね? 遠慮なく聞いてみたまえ」

 オリベが膝の上で頬杖を突きながら頷く。

「さっきの日々是好日で、水谷さんが感動してくれましたよね」

「そうだったね。上手く感じ入ってくれたようで良かったよ」

「そこなんです」

 茶漏斗を手離し、オリベの瞳を真剣に凝視する。

 オリベの瞳に自分が写っている事を視認しながら、千尋は更に話を続けた。

 

 

「日々是好日は茶道の良さを感じられる能力……との事ですけれど、茶道の良さって、一体何なんでしょう?」

「………」

「水谷さんも、そして以前オリベさんと茶室でご一緒したシゲ婆さんも、茶道の良さを感じてくれました。

 自身の境遇に適した感銘を茶道具から受けた……それは分かります。

 他にも、良い所が山ほどあるのも、ヌバタマから聞かされましたし、分かります」

「……ふむ」

「……でも、俺自身が、それらを良いと感じた経験は、ないのです。

 教えて下さい。茶道の良さとは……そして、それを感じるには、どうすれば良いのでしょうか」

「答えるのは、容易い問題だ」

 オリベが、普段よりも低い声で言う。

 胡坐に頬杖という自由極まりない恰好ではあったが、声色には真剣味が篭っていた。

 

 

 

 

「……だが、おそらく私が言葉で説明しても、やはり納得はできんだろう」

「なら、どうすれば良いかだけでも」

「茶を点て続ける事だな」

 オリベはあっさりとそう言ってのけた。

 

「教えておこう。良い茶人の席であれば、日々是好日は使う必要がないのだよ。

 それは即ち、能力を使わずとも、客に茶の良さを感じ取って貰えるからだ。

 あの能力は、確かに客の感受性を豊かにする。だが、茶席の本質を変化させるものではないのだ」

「つまり、俺が良い茶人になれば、自ずと良さを悟れると?」

「左様」

「………」

 

 千尋は、沈黙した。

 オリベの言っている事は理解できるのだが、やはりまだ漠然としている。

 何を以てすれば、良い茶人となり得るのだろうか。

 それに、基礎の基礎を学んだばかりの自分が、それ程の域に達するには、どれだけの年月を要するのか。

 いずれも霧の中を模索するような話である。

 だが、珍しく教えてくれたオリベに不満を口にするのは憚られて、疑問を吐露できない。

 

 そうして、気難しい顔をしながら黙り続けていると、オリベがまた肩を叩きながら立ち上がった。

 

 

 

「強いて助言をすれば、千尋はもう、その答えを知っているはずだ。

 単に経験が少なく、身に付いていないだけだ」

「俺が……知っている?」

「だから、深く案ずる事はない。ただ茶の道を歩き続ければ、自ずと掘り起こせるさ」

 その言葉に、幾らかの安堵を覚える。

 ひたすらに取り組めば行き当たるのならば、考える方で頭を悩ませずに済む。

 それはそれで良いとして、オリベが自分の不安を読み当てたのには、内心舌を巻いた。

「……オリベさん、時々俺の心を読みますよね」

「何年生きていると思っておる。若造の考える事くらいお見通しよ。ヒャッヒャッヒャッ!」

 

 相変わらずの甲高い笑い声。

 だが、癪な笑いではない。

 むしろ今回に限っては、凝り固まっている頭を解して貰った気がした。

 オリベの言う通りならば、随分と気は楽になる。

 仕方なし。

 千尋の口の端は、そう物語らんばかりに緩んでいた。

 

 

 

 

 

「ま、そういう事だ。精進したまえよ」

「……それしかないようですね」

「私も漫画にでも精進してくるとしよう。ヒャッヒャッ!」

 

 オリベはそう言い残すと、袴の埃を払いながら階下に去って行った。

 千尋も立ち上がり、階段の傍まで歩いて彼を見送る。

 オリベの姿が見えなくなり、水屋に戻ろうとした所で……千尋は足を止めた。

 

(あれ? 今……)

 今、目に入った光景に何か違和感があった。

 顔を動かさず、眼球をぐるぐると回して視界を隅々まで舐めまわすように見る。

 とはいえ、然程物が置かれていない廊下だ。

 違和感の答えは、すぐに見つかった。

 

 

 

 

(この水墨画……)

 千尋の目は、茶室の上に飾られた水墨画で止まった。

 色が薄い為に、何の絵なのか分からなかった水墨画の色味が、今では濃くなっているのだ。

 濃くとはいっても、まだ純粋な墨汁で描かれたほどの濃さではないが、何が描かれているのかは辛うじて理解できる。

 野山と思わしき場所を、数名の人間らしき生物が昇っている絵だ。

 水谷にも、このように歩いてほしいとの意を込めて、オリベが入れ替えたのだろうか、と千尋は考えた。

 

(……いや、でも、茶席でこの水墨画の話はしなかった。

 特に意味もなく、水墨画を変えたんだろうか。

 そうだとしても、薄くて良さが分かりにくいな……)

 

 暫しオリベの意図について考え込んだ後、千尋は肩を竦める。

 先程、茶の道を歩き続けば行き着くと結論付けたばかりの事だ。

 

 

 

 

「……そのうち、この水墨画の良さも、分かるのかもな」

 自分に言い聞かせるようにそう呟き、千尋は水屋へと戻って行った。



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第七話『唐津合宿 その一』

 岡本知紗の運転するレンタカーは、車も信号も少ない山間の直進道路を走っていた。

 彼女の隣に座る千尋の髪は、開け放たれた車窓から入り込んでくる風に晒されていたが、あまりそれを気には留めなかった。

 南国の海をバケツですくい、思いっきりぶちまけたかのような濃紺の空が、窓の外には広がっている。

 風を切りつつ空だけを眺めていると、車が空を走っているような錯覚を覚えた。

 風を体で感じられる夏だからこその錯覚だ、と千尋は思う。

 見知らぬ土地の風景に旅情緒を感じるのも良いが、こうして季節を感じるのも悪い気はしなかった。

 そもそも、見知らぬ土地とは言っても、山間部が占める割合が大きい広島と、今走っている佐賀の山間の風景には、

 然程変わりがないのだから、わざわざ視線を水平に向けて注目する必要はないのだ。

 

 

 

「唐津まであと三十分って所かな。千尋、腹減ってるか?」

「まあ、それなりには」

「そっか。母さんが昼飯用意してくれているはずだから、もうちょっと我慢な」

「お昼まで申し訳ありません」

「ハハッ。私が誘ったんだから気にするなよ」

 

 岡本は前を向いたままで、にかっと歯を見せて笑う。

 なんともありがたい話だが、考えてみれば、人の家でご相伴にあずかるのは初めての事かもしれない。

 未だ見ぬ昼食への期待に胸が高鳴ったが、どうにも、それは千尋だけではなかったらしい。

 

 

 

 

「いやー、私達までお邪魔しちゃって、本当に申し訳ない!

 昼食はイカだろうかね。イカでいいか、なんちって。ヒャッヒャッヒャッ!」

「イカって唐津の名産品なんですか? 私、食べるの初めてです。

 イカ味ドーナツなんかもあったりするんでしょうか……?」

 後部座席の二人、オリベとヌバタマが頬を綻ばせて会話に加わってきた。

「ははは。流石にイカ味のドーナツはないかなあ。

 ……な、千尋。

 ヌバタマちゃんって、名前も格好も、考えてる事も変わってて可愛いな」

「そうですかね。はは、は……」

 面白そうに笑う岡本に、同じ笑顔でも千尋は苦笑しか返す事が出来ない。

 自分が名付けたのですよ、と言うわけにはいかないし、付喪神(つくもがみ)だから和服なのですよ、とも言えない。

 格好に関しては、尾道駅で待ち合わせた時の岡本の驚きようと言ったらなかった。

 この真夏に、和服姿で旅行に加わろうというのだから、事情を知らなければ無理もない話だ。

 

「あ……ラジオ、付けますね」

 少しでも話題を逸らせるようにと、カーオーディオのつまみを捻る。

 スピーカーからは、砂嵐音の後、夏の甲子園の地区予選の結果を伝える声が聞こえてきた。

 

「ほほう。沖縄はもう代表が決まったのか。

 第一回の頃に比べると甲子園も盛り上がるようになったなあ」

 今度はオリベが妙なことを口走る。

 余計な事を言わないように、との意を込めてジト目で後部座席を睨みかけたが、

 和気藹々とした二人が目に映ってしまったもので、すぐに怒る気も失せてしまった。

 

(いやはや……二人を連れて来たのは、浅はかだったかもな)

 仕方なしに、密かに内心で嘆く。

 なんとも、心労が絶えない旅行になりそうである。

 

 

 

 ――今回の件の発端は、二週間前の岡本の提案だった。

 夜咄堂(よばなしどう)にやってきた岡本が、注文したアイスティー片手に、陶芸サークルの夏合宿を提案してきたのだ。

 なんでも、陶芸をやっている岡本の両親は佐賀は唐津住まいだそうで、そこで陶芸を体験する事ができるとの事である。

 つまりは、夏合宿と言うよりも、岡本の実家に遊びに行くようなものだ。

 おそらくは、岡本からしてみれば、陶芸の話ができる後輩を得た事で、テンションが上がっての提案なのだろう。

 だが、男女二人して、片方の実家に遊びに行くのだ。

 千尋からしてみれば、妙な勘違いをされる気しかせず、気乗りがする提案ではなかった。

 

 ではどう断ったものか……そう考えた所で、話を聞きつけたオリベとヌバタマが、参加したがったのである。

 大学のサークルとは全く関係のない二人だ。

 それもまた難しいと断りかけたのだが、ふと千尋は思い留まった。

 考えてみれば、確かに他にも参加者がいれば、妙な勘違いはされずに済む。

 加えて、僅かな賃金しか与えていない二人の希望なのだから、可能ならば叶えてはあげたい。

 そうして千尋の中の天秤に釣り合いが取れた所で、岡本が諸手を上げて賛成した為に、話は決まったのであった。

 

 

 

(とはいえ……二人を長時間連れ出すのは、やっぱり拙かった。

 どこかで下手打って、正体がばれなきゃ良いんだけれども……)

 

 皆には分からぬよう、口の中で小さく嘆息をする。

 そんな憂慮とは無関係に、博多駅で借りた車は、一路陶芸の町へと向かうのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第七話『唐津合宿』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あらあらー、本当に大勢で来てくれたのね。いらっしゃいー」

 唐津の町の端に位置する岡本窯。

 その庭先で出迎えてくれた岡本の母は、娘と同様に小柄で、

 しかしながら、娘とは対照的におっとりとした雰囲気を持つ女性だった。

 

「こんにちは。若月です。後ろの二人はオリベとヌバタマと言います」

 岡本の半歩後ろで、ゲストを代表して千尋が頭を下げる。

「知紗から話は聞いているわー。はじめまして。知紗の母です」

 ひとまずは歓迎してもらえているようで、胸を撫で下ろす。

 事前に不安に感じていたのは、やはりオリベとヌバタマの存在だった。

 宿泊に関する連絡は全て岡本が担ってくれたのだが、

 付喪神達については一体どのような説明をつけたのだろうか。

 ささやかな疑問を抱きつつも、今はそれよりも挨拶だと思い直し、千尋は話を続けた。

 

「それにしても、今回は大勢でお邪魔しちゃって、すみません……」

「良いのよー。普段は私とお父さんだけで静かなんだもの。賑やかで嬉しいわぁ。

 それよりも、この子がお世話になっているそうで、ありがとうね」

「いえ、お世話になっているのは俺の方です」

「ありがとうねぇ。気遣ってくれるのは嬉しいわ。

 でも、本当はうちの子の方が迷惑を掛けているはずよ。

 だって、昔からそうなんだもの」

 思わず苦笑してしまう千尋であった。

 どうにも、お見通しのようである。

 

「お母さん、あたしの話はどうでも良いから! それよりお父さんは?」

「まだ工房にいるわ。午前中には終わる予定だったけれど、調子が良いみたい」

「ん。分かった」

 その言葉を受けた岡本は、一行に目配せをして歩き出した。

 千尋らは、岡本の母に一礼をして後を付いていく。

 

 岡本の家は、五部屋程ありそうな二階建ての木造民家だった。

 家そのものは標準的な日本家屋のようだが、庭が随分と大きく作られていて、

 陶芸の原材料と思わしき名詞が書かれたポリバケツが、庭に無数に置かれているのが特徴的だった。

 敷地内には他にも、登り窯や大型の物置が見受けられる。

 岡本が向かったのは、その物置の方だった。

 

 

 

「ここ、物置兼作業部屋な。普段はお父さんがいるんだけれど……」

 物置……否、作業部屋の戸の前で立ち止まった岡本は、だんだんと声量を落とした。

 それから、物音を立てずに戸を僅かに開いて、そっと中を覗く。

 それに続くようにして千尋も中を覗くと、大柄な中年男性が背中を向けて椅子に座っていた。

 ここからではよく分からないが、おそらく何かしらの作業に勤しんでいるのだろう。

 その証拠に、岡本は戸から顔を離すと、大げさに肩を竦めてみせた。

 

「駄目だな。集中しているみたいだから、挨拶は後にしよう」

「ふむ。一介の茶人として、是非とも陶芸家には挨拶しておきたかったが、作業中とあらば仕方あるまい」

 オリベの言葉に、千尋とヌバタマも同意して頷く。

 オリベは更に、思い出したように言葉を続けた。

「……ところで、合宿とは何をする予定だったのかね。やはり、陶芸を?」

「うん、その予定。一泊二日で焼成までってのは無理だけど、せめて轆轤(ろくろ)くらいはね。

 ただ、今はお父さんが使っているから無理だね」

「それならば、終わるまで待つとしようか」

「そうは言っても、調子が良いと夜まで作業する事が多いからなあ。……そうだ」

 岡本は軽く手を叩いた。

 

「ただ待ってるのもなんだし、昼を食べ終わったら、夕方まで市内観光でもしようか」

「わあ、行ってみたいです!」

 ヌバタマが目を輝かせて大きく頷く。

 千尋も、着いた早々に陶芸というつもりもなく、異論はない。

「よかよか。唐津は面白か所が多かよー。そうやねえ……」

 岡本がわざとらしく方言を使いながら、指を折って数を数えた。

 

「まずは唐津城。寺沢広高って戦国武将が建てた城だな。

 それから絶景の松林がある虹の松原。唐津バーガー食いながら周っても良いなあ。

 後は公開されている窯元を巡っても良いし、市内を単にぶらついても良い。

 あ、そうそう。文禄・慶長の役で建てられた、名護屋城の跡地もあるぞ。

 ざっとこんな所だが……千尋。どこにする?」

「俺が決めて良いんですか?」

「あたしはいつでも来れるしな。どこでも良いぞー」

「ふむ……」

 肩に掛けたバッグを担ぎ直し、少し考え込む。

 窯元は、帰って来てから見れるのだから、無理に行かなくても良いと思う。

 市内を歩いたり、景色を見に行くのも悪くはなかったが、どうせなら何か学べる所が良かった。

 そうなると残る選択肢は二つ。唐津城か名護屋城跡地だ。

 どちらでも良かったのだが、後に聞かされた分、名前が頭に残っていた名護屋城跡地を選んだ。

 

 

 

「それじゃあ、名護屋城跡で」

「よし。決まり! それじゃ、昼食ったら早速出かけるか」

「岡本さん、今日運転してばかりですけれど、大丈夫なんですか?」

「飯食えばどうって事ないって。ほら、家の中入ろう。

 昼はオリベさん大正解! イカ刺らしいぞ」

 岡本はそう言って、景気よく三人の肩を叩いて家の中へと入って行った。

 残された三人は顔を見合わせ合ったが、やがて、誰からともなく笑いだし、岡本の後を追ってイカ刺へと向かったのであった。



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第七話『唐津合宿 その二』

 九州とはいえ、北部に位置する佐賀は、広島と然程気温の差がない。

 月は七月、大暑の時期。

 この季節の太陽の照り付けは厳しく、外を歩くだけでもうだるような暑さに襲われてしまう。

 Tシャツにジーンズというラフな格好をした千尋でもそう感じるのだから、

 それ以上の厚着をしていては、たまったものではない。

 とはいえ、この猛暑の中、それほどの厚着をする人間はそうそういないものだ。

 ……人間ではなく、付喪神(つくもがみ)ともなれば、話は別ではあったが。

 

 

「暑い……」

 ヌバタマが気怠そうに呟く。

 先程から、彼女は何度も似た言葉を口走っている。

 額から噴き出る汗を何度もハンカチで拭い、暑さを口にして、それでも彼女は皆と一緒に歩いていた。

 

 名護屋城跡は丘陵上にある為に、駐車場を降りてから二十分程、開拓された丘を歩く必要がある。

 道中は木々が日光を多少遮ってくれるのだが、それでも和服を纏っているヌバタマには耐えがたい暑さのようである。

 和服姿なのはオリベとて同様であったが、彼に至ってはむしろ溌剌とした足取りだった。

 付喪神も歳を重ねればそうなるのだろうか。或いは単にオリベが暑さに強いのか。

 何にしても、オリベは放っておいても良さそうだが、ヌバタマはそうはいかない。

 

 

「なあ、千尋。大丈夫かね……?」

「……そうですね」

 千尋に近づいてきた岡本が、耳打ちするように声を掛けてきた。

 その一言だけで、彼女が言いたい事は分かる。

 同じ事を憂慮していた千尋は、バッグから先程売店で買ったばかりのミネラルウォーターのペットボトルを取り出して、ヌバタマに駆け寄った。

 

「ヌバタマ、飲むか?」

「うう……頂きます」

 力なく頭を下げたヌバタマは、素直にペットボトルを受け取った。

 喉を鳴らしつつ口にすれば、あっという間に中身はカラになってしまう。 

 改めて顔色を覗き込めば、彼女の表情には幾分生気が戻っているように見えたが、一時凌ぎにしかならない事は千尋にも分かる。

「……着替えるか? 俺と同じような服装なら、その辺でも売っていると思うが」

「前にも言いましたが、これは着替えたくありませんもので」

「そうは言ってもなあ。じゃあ、車に戻るか?」

「いいえ。行きます」

 やや強情な程にそう言ってのけられれば、千尋も口を挟めなくなってしまう。

 だが、まだ彼女の為にやれる事は残っている。

 少々恥ずかしくはあるのだが……万が一を考えれば、そうする他なかった。

 

「ん」

 怒ったような声を出して、ヌバタマに手を差し出す。

 何の事なのか理解ができない彼女はきょとんとして千尋を見つめてきた。

 そんな彼女から視線を外し、千尋は投げやりに喋る。

「お前、フラフラじゃないか。転ばないように、手を握っておけよ」

「……千尋さん」

 暫し、間ができた。

 だが彼女は、弱弱しくも微笑んで、千尋の手を握ってくれた。

 

「お世話になります。ふふっ」

「なんだよ、その笑いは……」

「いえ、別に」

「……行くぞ」

 ヌバタマを先導するようにして、千尋は先に歩き出した。

 半歩遅れて着いてくるヌバタマは、なおも力強く手を握ってくれている。

 そうしていると、千尋も少しは安心ができたが、ヌバタマの体調が快調したわけではない。

 

 ふと、これ以上体調が悪化したらどうなるのだろう、と千尋は思った。

 無論、苦しむヌバタマを放っておくつもりは毛頭ない。

 ただ単に、付喪神の体の成り立ちが気になり、ヌバタマの様子を気に掛けつつも考え込む。

 人間であれば、体調悪化の行く先にあるのは生命の終焉だ。

 だが、彼女は生命ではない。

 付喪神には、生命同様の死という概念は存在していないのだろうか。

 だとすれば、この世はいつしか、付喪神であふれ返ってしまう事になる。

 彼女達は、一体どこへ行くのだろうか……

 

 

 

 

 

「ウヒャア! こいつは凄いね!」

 そうして、思慮に暮れている最中だった。

 不意に、前方から声が聞こえてくる。

 顔を上げてみれば、林を抜けたオリベが少し前に立っていた。

 ヌバタマと顔を見合わせあい、手を離して二人して駆けてオリベに追いつく。

 オリベと肩を並べれば、彼の言葉の意味する所は千尋にもすぐに分かった。

 

「……これは良い見晴らしだ」

 思わず、感嘆の溜息が零れる。

 

 

 林を抜けた先は丘の一端となっていた。

 視界に広がるのは唐津の大地、そして海。

 群青色の雄大な日本海は、瀬戸内の海とはどこか違うような気がしたが、その答えまでは千尋には分からなかった。

 だが、その考察も一瞬の事。すぐに意識は景観へと向かう。

 唐津の海と夏青空が、遥か彼方で水平線となって融合している。

 雲一つない、どこまでいってもただただ青い世界。

 丘陵の上を吹き抜ける風に撫でられた事も手伝って、千尋は暫し、暑さも忘れてその雄大な光景に見入ってしまった。

 

 

 

「凄い。本当に……」

 ヌバタマも隣で息を飲んでいた。

 疲労に変わりはないだろうに、心なしか、彼女も表情が和らいでいるように見受けられる。

 内心で安堵しながら振り返れば、最後尾を歩いていた岡本もやってきた。

 

「皆。あの辺りが陣跡だよ」

 岡本が丘陵の下に広がっている林を指差した。

 つられるようにして指の先を見るが、視界に入るのは見えるのは木々のみだった。

 陣跡を連想させるものは見つからず、千尋はなおも目を凝らして指の先を見ながら尋ねる。

「見た目、林みたいですが……」

「ま、そうだね。陣跡と言っても大抵は石碑が残っているだけなんだ」

 岡本は苦笑しながら、なおも次々と林を指差していく。

 

「あそこが伊達政宗の陣跡でしょ。で、あそこが徳川家康。小西行長とか前田利家はあっち。

 後ろの方にも、まだまだ沢山陣跡があるんだよ」

「城跡の周り、陣ばかりですね。これなら陣営毎の行動もここから把握できたんだろうな」

「そうだね。なんだか将棋の盤面を見ているような気分だ」

 岡本が目を狐のように細めながら言う。

 確かに、この全知の光景は岡本の言う言葉に近いかもしれない。

 感じ入ったように頷いて視線を海に向けると、今度はオリベが言葉を掛けてきた。

 

 

「ところで千尋や」

「はい?」

「一応、陶芸サークルの合宿なんだから、私からも一つ教えておこう。

 豊臣秀吉が企画した文禄・慶長の役だが、実は陶芸や茶道にも深く関わりがあるのだよ」

「そうなんですか? 知らない話だな……」

 話の先を催促するようにして、オリベを見る。

 軽さを感じさせない、かといって真剣味も感じられない、つまりは締まりのない通常の表情でオリベは言う。

 

「最初から出兵に織り込み済みだったのかどうかは知らんが、

 朝鮮に出兵した各武将は、現地の陶工を日本に連れてきたのだよ。

 ここ唐津の焼き物も、連れてきた陶工の手によって発展した、と言われている。

 ほれ。朝鮮唐津とか聞いた事ないかね?」

「ええと……」

黒飴釉(くろあめゆう)と、白っぽい藁灰釉(わらばいゆう)が掛かった唐津焼だよ」

 岡本が助け舟を出してくれる。

 そう言われれば、陶芸サークルの部室で読んだ雑誌に、そんなものがあった気がしないでもなかった。

 

「ああ。多分、分かります」

「あれも、朝鮮の陶工によって作られていったものだろうね。

 何分、生まれる前の事なので真意の程は分からないが」

 オリベはまた微妙な事を口走り、にっと歯を見せて笑った。

 どうにも、ヌバタマはともかく、彼には発言の綱渡りを楽しんでいる節が見受けられる。

 何か釘を刺しておこうかとも思ったが、その前に、一緒に話を聞いていたヌバタマが先に口を開いた。

 

 

「戦が発端となって、陶芸が発展し、更には茶器を扱う茶道にも影響が及んでいった、というわけですね。

 風が吹けばなんとやら……といった所でしょうか。オリベさん、面白い話をありがとうございました」

 無垢な笑みを浮かべながら、小さく頭を下げる。

 それから彼女はすぐに、千尋と岡本の方に向き直った。

「千尋さんと岡本さんも、こんな素敵な所に連れてきて下さって、ありがとうございます。

 私、ここまで頑張って上ってきた甲斐がありました」

 

「あ、ああ」

「いやいや、どういたしまして」

 そう言われ、先程と同じ笑みを向けられれば、千尋も岡本もとも笑うしかない。

 更にはそこにオリベも加わって笑いだし、名護屋城跡の一角には、小さな笑いの塊が出来上がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 名護屋城跡の見学を終えた一行は、市内の商店街を散策する事にした。

 流石に暑さが堪えたので、陽を避けられるアーケードがある所に行こうという岡本の判断なのだが、

 市街地に帰ってきた千尋らを待ち受けていたのは、アーケードが取り払われた商店街だった。

 周囲を歩く人に聞いてみれば、なんでもアーケードの老朽化が著しい為、岡本が尾道にいる間に取り払われたらしい。

 

 そんな事もある、とあっけらかんと言ってのける岡本を皆で睨みつつ、一行は付近の唐津焼の店に足を踏み入れた。

 

 

 

 

「ほお、これは大したものだ」

 店内で最初に驚嘆の声を漏らしたのは、オリベだった。

 やはり、茶碗の付喪神である為に、何かしら思う所もあるのだろうか、

 店中の棚を所狭しと覆っている唐津焼の数々に、オリベは何度も頷きながら店内を回り始めた。

 それに続くようにして、ヌバタマもやはり表情を輝かせながら売り物を眺めて歩く。

 彼らにとっては、この店は宝石箱のようなものかもしれない。

 未だに陶器の良し悪しは分からない千尋だったが、付喪神達が思い入れ深い事は十分に伝わってくる。

 

 

「この店では、市内の大抵の窯で焼かれている陶器が売られているんだよ」

 一方、入り口付近で千尋の傍に残った岡本は、やや自慢げな様子でそう語り出した。 

「へえ。古い物じゃないんですね」

「陶器と言っても骨董品ばかりじゃない。むしろ主に流通しているのは現代作家の物だからな」

「そうか。そうでないと、岡本さんの両親なんかも仕事になりませんよね」

「そういうこった。もちろん、うちの両親の物も置いてあるぞ。ええと……これだな」

 岡本はそう言うと、近くの棚から、刺身を盛るのに適したような向付を手に取ってみせた。

 千尋は顔を近づけて凝視したが、彼には他の向付と変わらないように見えてしまう。

 

 

(……分からないなあ。違い、全然分からない)

 内心、悔しげにぼやく。

 やはり、これも見る者が見れば、違いは一目瞭然なのだろうか。

 オリベが言う通り、茶道を突き詰めて、茶道の良さが分かるようになれば、自分にも分かるのだろうか。

 

 千尋はこの所、そうして茶道の良さについて考える事が多かった。

 元々、茶道への僅かな興味で始まった夜咄堂経営が、いつの間にか千尋の中で大きな割合を占めるようになったが故の事である。

 無論、今でも茶道が家族を奪った事実も忘れてはいない。

 それでは一体、今の自分にとって茶道とは、良いものなのだろうか。悪しきものなのだろうか。

 正直な所、それは彼自身にも分からなくなっていた。

 どちらに転んでも、矛盾に陥るような気がして、答えを出す事ができなかった。

 しかし、強いてどちらであるかと言われれば……良いものなのかもしれない、と思う。

 日常において、茶道の比重が肥大している為に感じている感覚なのかもしれない。

 

 

 

 

「ところでさ、千尋」

「あ……はい。なんでしょうか?」

 岡本の言葉が千尋を思案から引き戻した。

 返事を返すと、彼女は一歩千尋に近づき、声を小さくして話を続けた。

 

「お前さ。ヌバタマちゃんとデキてるの?」

「はい……?」

 思わず、聞き返してしまう。

 だが、意味は十分に理解できる。

 ゴシップ事が好きな第三者から見れば、そう邪推してしまうのも理解はできる。

 だからこそ、彼女の質問には毅然と答えなくてはならなかった。

 

「……別に。あの子はただの店員です」

 人ではありませんが、と説明できれば、なんと楽な事か。

 事情を知ってもらえれば、素直に理解してもらえるはずなのだ。

「本当にか?」

「本当です」

「じゃあ、言葉を変える。お前はあの子をどう思っているんだ?」

「………」

 

 そう言われて、反射的にヌバタマに視線を移す。

 天真爛漫とした表情で唐津焼の数々を眺める彼女の横顔は、贔屓目抜きでも可愛らしい。

 多少、融通が利かない点もあるにはあるのだが、その根にあるのは善良な心と茶道への愛情だ。

 間違いなく、良い子であるとも思う。

 総じて、魅力的であると言っても差し支えはないし、千尋もその魅力には好感を持っている。

 では、愛しているのだろうか。

 否。

 ラブではない。

 自身の感情は、ライクだと思う。

 そう感じているのは、やはり彼女が人間ではないからなのだろう。

 では、人間だったらどうなのだろうか……という考察に移りかけ、千尋はそれを途中で強引に断ち切った。

 深く考えすぎて、今の関係が壊れるのが、恐い気がした。

 

 

 

 

 

「……良い子だと思いますが、それだけです」

「へえ、ほお、ふうん」

 岡本はわざとらしく頷いてみせる。

 明らかに何か言いたげな反応を見せられては、放ってはおけない。

 

「なんですかその反応は」

「いや、ちょっと残念だな、と思ったのよ」

「残念?」

 小首を傾げながら、岡本の言葉を繰り返す。

「そ。……お前さ。自分で気が付いてないかもしれないけど、時々凄く寂しそうな顔するよ」

「………」

 思わず、自身の頬に触れる。

 思い当りは……ない事も、ない。

 

 岡本の指摘は、付喪神達には悟られまいとする感情の事だろう。

 すなわち……父の死を嘆いている時の事だ。

 人前では見せまいとしている感情だが、知らず知らずのうちに暗鬱としていたのかもしれない。

 

 生活が落ち着いて、父がいないと実感する時間が増えたから、そうなっているのだろうか。

 千尋の周囲は、大いに賑やかである。

 しかし、どれだけ和気藹々としようが、そこに父はいないのだ。

 

 

 

 

「理由は……まあ、大方の察しは付くよ。

 だから、あの子がそれを埋めてくれればな、と思ったんだけどさ。

 ……そっか。脈なしか」

 

 岡本はそう口走り、千尋を残して店内を回り始める。

 だが千尋は、なおも動かない。

 動いたら、涙が零れ落ちそうな気がした。



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第七話『唐津合宿 その三』

「はっはっはっ! そりゃあ、和服じゃ暑かったろうに!

 ほら、夕食は出来ているから、たくさん食べてエネルギーを蓄えておきなさい!」

 

 岡本の実家に帰って、初めて顔を突き合わせた岡本の父は、豪快な男だった。

 ずんぐりむっくりとした体格に、愛嬌のある顔付きと顎髭という、山男のような風貌の彼は、

 岡本同様に気持ちの良い笑いを炸裂させて、帰宅した一行を屋内の居間へと案内してくれた。

 そこでは既に夕食の準備が整っていて、テーブルの上では所狭しと色鮮やかな料理が並んでいる。

 夕方までの観光を終えて、腹を空かせて帰ってきた千尋らにとっては、なんとも堪らない光景だった。

 

 しかし、そこで最も千尋の目を惹いたのは、料理ではなく、テーブルの中央にどっしりと居座る(かめ)だった。

 サッカーボールくらいの大きさの甕には、漆塗りの蓋がされていて、更にその上には金属の柄杓が乗っている。

 何が入っているのか、という意を込めて岡本に目配せすると、彼女はしたり顔で頷きながら甕の蓋を開けた。

 

 

 

 

「これは酒甕だよ。お父さんが作ったんだ。飲みたい奴が柄杓を使って注ぐんだよ」

「ほう。これはなんとも魅力的だね!」

 岡本の説明に、オリベの方が手を叩きながら絶賛する。

「どの辺りが見所なんですか?」

「ふむ、酒が飲めない千尋君には、まだ分からんかもしれんなあ。

 無論、甕自体も非常に良いものだが、何よりも一席に甕が一つという状態が良いのだよ。

 皆で、皆で一つの甕を使って酒を酌み交わしあう。

 さすれば談話にも花が咲き、場がいっそう盛り上がる。

 実に乙なものとは思わんかね?」

「なんとなく、分かるような気がします」

 千尋は素直に頷く。

 飲んだ事はなくとも、酒席の高揚感なら何度か経験した事がある。

 あの独特の空気が、この小さな甕に詰まっているような気がした。

 

「はいはい、若月君とヌバタマさんは、未成年だからこっちねぇ」

 そこへ、岡本の母がペットボトルの麦茶を持ってくる。

 とはいえ、半日日光の下を歩いてきた身にとっては、これはこれで好ましい。

 笑顔で会釈をして席に着き、早速夕食が始まったが、これが実に盛り上がった。

 

 無論、料理や酒が美味である事も盛り上がりの一因ではあるのだが、それよりも人に尽きる。

 オリベ、岡本は当然ながら、岡本の父も非常に饒舌かつ社交的な人物で、会話が途切れる事がない。

 どちらかと言えば多弁なヌバタマでさえも、口を挟む間が掴みにくい程に、彼らは喋り続けた。

 これは、共通の話題の影響が大きいのだろう。

 すなわち、陶器である。

 

 

「そうか、スランプじゃあなかったのか!」

「うん。ああだこうだと悩んでいた自分が恥ずかしいな」

「ヒャッヒャッヒャッ! それも若さゆえの特権!」

 陶器を中心に据えた話題は、唐津焼、夜咄堂の器、陶芸サークルと、

 陶器に関するテーマをぐるぐると周回しており、

 今はまた陶芸サークルの話題に移り変わっていた。

 話から察するに、岡本は陶芸の調子が出ない旨を両親にも相談していたようなのだが、

 それが勘違いであったと先程説明を受けた岡本の父は、嬉しそうに自身の膝を叩いて笑っていた。

 

「はっはっはっ! それじゃあ、今度帰省した時には、進化した知紗の器を見せてもらわないとな」

「ま、良いけど。背伸びするような出来じゃないし、ありのままを見てもらうよ」

「ほほう。知紗も少しは大人びたような事を言うようになったな」

「なにさそれ」

「いやいや、感心しているのだよ?」

「あたしだって今年で二十一歳なんだからね。少しは成長していますよだ」

「そうでなくっちゃ困る。はっはっはっ!」

 

 また、岡本の父の笑い声がこだまする。

 いつしか、会話に加わらなくなった……否、加われなくなった千尋は、

 その代わりに頬杖をついて笑みを浮かべながら、その声を聞いていた。

 三人の中で一番声が大きいのは、この岡本の父だろう。

 だが、決して耳障りな声ではない。

 外見同様にどこか包容力を感じさせる、暖かい声だ。

 その声を受ける岡本も目尻を緩めている辺り、親子の仲が窺い知れる。

 この上なく、微笑ましい光景だ。

 

(俺の父さんは、俺の前ではこんなに笑う人じゃなかったな。

 ……でも、優しかった。その一点じゃ、この人と変わりない)

 

 岡本の父を眺めながら、しみじみと実父宗一郎の顔を思い返す。

 シゲ婆さんの言う所によれば、父も茶席では良く笑う人だったのだ。

 今ではもうその機会はないが、一度で良いから見てみたいものだった。

 

 

 

 

 

「……千尋さん?」

 ふと、隣に座るヌバタマに声を掛けられた。

「あ……なに?」 

「いえ、その……」

 ヌバタマは一度顔を伏せかけるが、すぐに千尋を直視する。

「なんだか寂しそうな顔をしていましたが、何かありましたか?」

 彼女は、場の空気と千尋の様子、両方を伺うようにして小声でそう聞いてきた。

 

 思わず、はっとさせられる。

 気が付けば、表情に浮かんでいた笑顔は、哀愁のそれへと形を変えてしまっていた。

 どうやら、唐津焼の店で岡本に指摘された件は、事実のようだ。

 

(こんな事じゃいけないな。……無用な心配をかける)

 つい、感情を表に出してしまった事を反省する。

 無用な心配をさせる位なら、堪えるべきだ。

 努めて明るい声を出しながら、千尋は顔を横に振った。

 

 

 

「いや……俺も酒が飲めたらな、って思っただけだよ」

「そうでしたか。でも二十歳になるまではいけませんからね?」

「はいはい。分かってますよ」

 軽口を叩きながら、肩を竦めてみせる。

 

 まあ、ええことよ。

 

 自身の口癖が、心中で幾度か反芻された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 千尋が布団から身体を起こしたのは、午前一時過ぎの事だった。

 やはり他人の家、他人の寝具という慣れない環境が原因なのだろうか、

 どうにも眠りにつきにくく、一時間程目を瞑った末に、一度起きて気分転換しようと考えた為である。

 割り当てられた和室の客間では、相部屋のオリベが豪快ないびきをかいて熟睡していた。

 彼もまた、本来の自分の寝床である青織部沓形茶碗(あおおりべくつがたちゃわん)がないというのに、なんとも図太いものである。

 

 さて、起きたとはいえ、深夜に他人の家の中を徘徊するわけにもいかない。

 仕方なしに家の外に出ると、少しだけ涼しい風が千尋の身体を撫でた。

 どうやら、室内よりも外の方が気持ちが良い。

 気分を良くして夜空を見上げれば、日中の天気そのままに雲は一つもなく、満天の星空が瞬いている。

 広がる絶景に、千尋は暫し見入ってしまった。

 尾道の夜を、こうも美しく感じた事はあっただろうか。

 自分はないのだが、他の者……特に、観光客なら尾道の夜の方が美しいと言うかもしれない、と千尋は思う。

 どちらが優れているというわけではない。

 観光地の夜とは、特別なものなのだ。

 

「……奇麗なもんだな」

 独り言を呟きながら、何をするでもなく庭をぶらぶらと歩く。

 そうしているうちに、星空だけではなく、作業部屋からも光が漏れている事に気が付いた。

 一体何事かと、足音を立てないよう心掛けて近づくと、ちょうど作業部屋の内側の方から戸が開かれた。

 

 

 

 

 

「やあ、若月君じゃないか」

「あ……どうも、こんばんわ」

 中から出てきたのは、岡本の父だった。

 ぺこりと頭を下げつつ彼を一瞥すれば、粘土がこびりついたエプロンを着用していた。 

 状況から察するに、おそらくは作業中だったのだろう。

 

「どうやら、寝付けないみたいだね。はっはっ」

 岡本の父は、親しげな声でそう言いながら笑った。

 ずばり図星を指されてしまい、千尋もまた苦笑しつつ頷いてみせる。

 

「ええ。少し気分転換でもしようと」

「そうかね。だったら、私の職場を見てみるかい?」

「良いんですか?」

「構わないよ。どうせ明日も轆轤(ろくろ)体験で見てもらうし、ちょうど一区切りもついたしね」

 そう言われてしまえば、無理に遠慮するのも悪い気がして、提案を受ける事にした。

 

 通された作業部屋の中には、千尋の所属する陶芸サークルの部室と大差ない光景が広がっていた。

 壁には陶芸関連の本棚が立ち並び、部屋の中央には作業台と轆轤。

 そして適度に散らかり、汚れている部屋だ。

 陶芸家の工房は皆こうなるのか、それとも岡本家の血筋なのか、千尋には分からなかった。

 

 

 

 

「ちょうど、所属している茶道の流派から、近々開く茶会用に菓子器を頼まれていてね。

 その為の作業中だったんだよ」

「茶道の流派……茶道もされているんですか?」

 意外な言葉に、千尋は思わず尋ねてしまう。

 

「仕事にも通じる所があるからね。

 確か若月君も、経営している喫茶店でお茶()てているそうじゃないか。

 つまりは、君と同じ立場だな」

「いや……俺はそんなに立派なものじゃありません。

 オリベさんに教えて貰っている、我流のようなものですから」

「はっはっはっ。茶の道を歩いている事には変わりあるまい。お互い頑張ろうじゃないか」

 岡本の父が、またあの人を安心させる笑い声を立てる。

 千尋も頬を緩め、小さく笑んでみせた。

 それと同時に、ふと、思い到る。

 

 

(そういえば……茶道をやっている人と話す事って、あまり無いな……)

 

 なおも笑い続ける岡本の父の顔を見ながら、千尋は考え込む。

 この人ならば、自身が抱える問い……『茶道の良さ』に何かしらの助言をくれるかもしれない。

 オリベは、茶道に取り組み続ければ良いと言っていたし、一応はそのつもりでもある。

 しかし、それと並行しながら、多くの人の見解を聞いてみたい気持ちもある。

 千尋の意思は、すぐに決まった。

 初対面なのに、そのような質問をして良いものなのかとも思ったが、

 それでも尋ねてみる決心が付いたのは、岡本の父の人柄が成せる事なのかもしれない。

 

 

 

 

 

「ところで……一つ、お伺いしても良いでしょうか」

「お。何かね?」

 笑うのを止めた岡本の父は、付近の椅子にどっしりと腰を降ろしながら聞き返す。

「初対面でこのような事をお伺いするのは無粋かもしれませんが……」

「構わないよ。何でも遠慮なく聞きなさい」

「……では。茶道の良さとは、何なのでしょうか?」

「うん……?」

 岡本の父は首を傾げた。

「分かりにくかったでしょうか。あ、つまりは……」

「いや、分かる。ちょっと待ってくれ」

 岡本の父は平手を突き出して、千尋の補足を制した。

 目を瞑り、人差し指をこめかみに当てて、思考し続ける。

 無理に考えて頂かなくても……そう言おうかとも思ったが、

 その機を伺っているうちに、岡本の父は目を開いた。

 

 

 

「これは、君の求める答えではないかもしれない。

 あくまでも私が、自身の立場で感じた答えだが、良いかい?」

「はい。もちろんです」

「それじゃあ、答えよう。ああ、そこに掛けなさい」

 岡本の父は近くの椅子を指差してくれた。

 遠慮なく腰掛けて対面すると、それを待っていたかのように、岡本の父はまた語り出した。

 

「茶道は総合芸術……そんな言葉を聞いた事、あるかい?」

 ヌバタマ辺りが似た事を言っていたような気がする。

 はっきりとしない記憶を表すかのように、曖昧に頷いてみせる。

 

「そうか。……私はそれが答えだと思うのだよ」

「はい」

「例えば、私が仕事で手掛ける物もある茶道具。

 古い物だと、現代品とは比較にならない程の値打ちがつく事があるよね」

「ええ」

「茶道具は、その品自体が持っている芸術性だけではなく、

 品が刻んできた歴史が、値打ちに加えられる事があるんだ」

「そう言われれば……骨董品屋の方から、そんな話を聞いた気がします」

「うん。……それこそが総合芸術という事だ。

 一つの概念に、複数の価値が備わっているのだね」

 その言葉にも、思い辺りがある。

 今日、名護屋城跡でオリベが語ってくれた歴史と陶芸の関わりと、同じようなものではないだろうか。

 岡本の父の考えがすんなりと頭の中に入ってきて、何度も頷きながら話に耳を傾け続ける。

 

 

「茶道には陶芸や歴史の他にも、植物学、建築、書、哲学、造園、料理……

 数え上げればきりがない程の、様々な芸術が含まれている。

 その幾多の良さ、すなわち総合芸術こそが、茶道の良さじゃないのかな。

 はっはっ。なんだかずるい答えだね。茶道に関わるもの全てが茶道の良さと言っている様なものだ」

「あ、いえ。凄く参考になります」

 千尋は深く頷く。

 岡本の父の言っている事は、十分に理解できた。

 まさにその言葉通りの経験をした分、同意もできる。

 

 だが……。

 

 

 

 

 

 

 

(でも、シゲ婆さんらが感じてくれた感動。

 あれを総合芸術の賜物と言われると、何か違う気がする……)

 

 新たな疑問が、浮かび上がってくる。

 それを改めて岡本の父に問うのは、彼を否定しているようで流石に気が引ける。

 自分で考えるしかないのだが、すぐに答えがでるものでもない。

 それに、あまり頭を使い過ぎれば、余計眠れなくなってしまうような気もする。

 どうやら、結局『茶道の良さ』という自問に、唯一無二の答えを弾きだす事ができるのは、まだ先のようである。

 

 

 

 

「色々と教えて下さってありがとうございました。参考にさせて貰います」

「気にしないでくれよ。それより、明日があるんだから無理はしないようにね」

「そうでした。明日は陶芸を教えてもらえるんでしたね。ちょっと緊張します」

「いやいや、人に教える機会なんかそうそうないから、それは私も同じだよ。

 さて、私もそろそろ休むとするか」

「それでは自分も」

 

 千尋に向けられた笑顔と声は、最後まで暖かった。

 岡本の父に一礼をした千尋は、まっすぐに寝床に戻る。

 布団の中で目を瞑って、先程の問答を思い出していると、然程時間を要さぬうちに、問答が途切れ途切れになりだした。

 ようやく訪れた睡魔に逆らう事なく、千尋の意識は徐々に鈍り、そして……。

 

 

「……父さん……」

 

 それが、自然に出た言葉なのかどうか、眠りかけている千尋には分からない。

 それとほぼ同時に彼の意識は完全に絶たれ、ようやく安息が訪れる。

 かくして、唐津の夜は過ぎゆくのであった。



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第八話『本音 その一』

 鼻歌が、聞こえる。

 夏の陽気を連想させるような、アップテンポで気を高ぶらせるような鼻歌だ。

 鼻歌の主の機嫌の良さが伝播してくるようで、聞いている方としても気分が良い。

 その発生源のヌバタマが、上機嫌を隠そうともせずに軽やかな足取りで机や窓を磨く姿を、

 千尋は会計棚で頬杖を突きながら眺めていた。

 

 彼女の機嫌の良さは、もう一週間程続いているだろうか。

 仕事に関しては基本的に律儀でお堅いヌバタマが、

 今のように鼻歌を歌ったり、時折突然思い出し笑いを浮かべたりする事もあったのだから、機嫌の良さは相当なもののようだ。

 

 その理由を、千尋は理解していた。

 直接聞いてはいないのだが、自室のカレンダーに、勝手に『予定』を書き込まれているのだから、分からないはずがない。

 その予定を約束をしたのは当の千尋なのだが、未だに少々の抵抗を覚える予定でもある。

 しかし、こうも当日を待ち遠しくされてしまっては、話は別だ。

 彼女との予定に対する抵抗が徐々になくなっているのを、千尋は薄らぼんやりと自覚していた。

 

 

 

「……ヌバタマ」

 窓を拭く彼女を呼ぶ。

 くるりと身を翻して近づこうとした彼女を手で制し、距離を保ったままで千尋は話を続けた。

「映画。明日だな」

「そうですね。もうずっと楽しみにしていました!」

「おい。ガッツポーズして雑巾振り回すんじゃない」

「あっ……えへへ、ごめんなさい」

 ちろっと舌を出して謝ってみせる彼女に、千尋は目を細める。

 これだけはしゃいでくれているのだから、少々目立ってしまうのは我慢せざるを得ない。

 正直に言えば、彼女と出かけられるのは千尋も少し嬉しいかもしれない。

 否、まあまあ、嬉しいかもしれない。

 否否、相当嬉しいかもしれない。

 なんとも、現金なものである。

 軽佻浮薄(けいちょうふはく)っぷりを自覚しつつも、感情を抑えるのはなかなかに難しいものだった。

 

 

(まあ、付喪神(つくもがみ)という存在がバレさえしなけりゃ何の問題もないし。

 むしろ、可愛い子とデートできて……

 ……ん? ……デート?

 い、いやいや、違うだろう。何考えているんだ俺は)

 

 その文言が自然と浮き上がってきたのは、先日の唐津合宿で岡本と話した事の影響だろうか。

 デートの文字が、そのまま千尋の脳裏に居座ろうとする。

 大げさに首を左右に振ってそれを振り払い、千尋はまた口を開いた。

 

 

 

 

「ところで、ヌバタマは映画館には一人で行けるよな」

「行けますが……一緒に行かないんですか?」

「明日は大学があるし、その後に野暮用もあるからな。

 現地集合した方が都合が良いんだけれど、構わないか?」

「そういう事でしたか。はい。それなら大丈夫です。ただ……」

 ヌバタマが雑巾を机に置き、一度は制したのに近づいてきた。

 千尋の前まで来て、ぐいと顔寄せてくる。

 千尋はその分のけ反りながら、切れ長の目で彼女を見下ろした。

 

「む、むう……なんだ?」

「野暮用って、何ですか?」

「野暮用は野暮用だよ。聞くのが野暮ってもんだよ」

「千尋さん、夕方頃になるとふらっと出歩く事が多いですよね。それですか?」

「………」

 

 図星であった。

 基本的に毎日出かけているのだから、気づかれても仕方はないのだが、

 どうやら、行先まではまだ隠し通せているようで、焦りと同時に安堵も覚える。

 自分の言動で、誰かに負の感情を与えたくはない。

 その為にも、行先だけは絶対に教えられないと、改めて千尋は誓う。

 次からは、もっと気を付けて出かけよう。

 そう胸に刻んで、彼は肩を竦めてみせた。

 

 

「……俺にも色々あるんだよ」

「むう。詳しく教えてくれないんですか?」

「ああ、駄目。お前だって俺に隠し事の一つや二つ、あるんだろ?」

「そ、それは……」

 彼女は明らかに目を逸らした。

 同時に、挙動不審な程に瞳があちこちを向いている。

 

(お……本当に何かあるのか?)

 千尋は物珍しそうにヌバタマを見つめる。

 言い逃れのつもりで発した言葉だったのだが、どうやら変な所を突いたようだ。

 何を考えているのか分からないオリベなら十分にあり得る話なのだが、ヌバタマに隠し事があるとは意外だった。

 一体何なのか、突き詰めてみたい衝動に一瞬駆られてしまうが、止めておく事にする。

 ヤブヘビで、また自分が追及されてしまう可能性もないとは言えないし、

 付喪神の少女に出来る事など、たかが知れている。

 おそらくは、隠れてドーナツを食べている程度のものだろう。

 

 

 

 

 

「ま、いいさ。それより明日は現地集合。オッケーな?」

「あ、は、はい。分かりました」

 ヌバタマが慌てて頷く。

「あとな……」

「まだ、何か?」

「ああ」

 千尋は、一度言葉を切った。

 

 ヌバタマの内緒とは別に、気になっている事が一つある。

 これも聞くつもりもなかったのだが、殆ど無意識のうちに言葉が漏れてしまった。

 言葉を切ったのは、やはり聞くのを止めようかという躊躇だった。

 

 千尋の脳内に幾多の小さな千尋が募り、会議が開始され、即座に終了する。

 議長席に座っている千尋は、力強く親指を突き立てていた。

 つまりは『聞いて良し』である。

 

 

 

「ああ、そのな……」

 平静を意識して声を出す。

「はい」

「……ヌバタマはさ。俺と出かけるの、楽しいか?」

「………」

 問いを受けた彼女は、目をぱちぱちと瞬かせた

 だが、それはゆっくりと細められていく。

 黒い瞳からは、一切の世辞が感じられない。

 紛う事なき本物の笑みだけがあった。

 

 

 

「はい。それはとても」

 小さく首を傾けながら、ヌバタマはそう言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第八話『本音』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 当日は、早朝から生憎の雨空だった。

 傘を差せば問題なく凌げる程度の降雨量なので、交通には支障がないのだが、

 それでも屋外での予定を控えていた千尋にとっては好ましいものではない。

 大学の講義が終了しても未だに滴る雨に、少しばかり憂鬱になるが、気が滅入った所で雨が止むものでもない。

 仕方なしにバスに乗って尾道駅前まで戻り、雨で滑ってしまわないよう重々気を付けながら、千光寺(せんこうじ)山の墓地を目指して歩く。

 父の墓を掃除しに行く途中に、自分まで石段で滑って怪我をしてしまっては、笑い話にもならない。

 

 

 

「……それにしても、人が多いな」

 その道中、町を行く人々を眺めながら、ぽつりと独り言を零す。

 先程から千光寺山の石段に差し掛かったのだが、上がる人、下がる人、どちらも絶え間なく視界に入ってくる。

 いくら観光都市とはいえ、雨の日にそれだけ観光客がいるとは思いもしなかった。

 その理由がなかなか分からない千尋であったが、石段を下る父母と子供一人の親子連れとすれ違って、ふと閃いた。

 

 

(あ。もう七月末か……夏休みなのか)

 合点がいった千尋は、親子連れの背中を見下ろしながら、一人で頷いた。

 大学生や社会人は別としても、高校生以下は既に夏休みに突入しているのだから、人が増えるのも当然の話だ。

 誠に残念ながら、夜咄堂(よばなしどう)の客数には殆ど影響がない為に、これまで気がつかなかったのだが、

 世間では、観光シーズン真っ只中なのだ。

 

(子供連れって事は、家族旅行か……)

 

 立ち止まって振り向くと、親子連れはもう遠く離れていた。

 だが、彼らが発する楽しげな話し声は、まだ微かに千尋の耳に届く。

 きっと、彼らは僅かな夏の日を満喫しているのだろう。

 実に微笑ましいものだ。

 思わず頬の筋肉が緩んだが、すぐにそれはもの寂しさに変わる。

 

 ……もう、自分は彼らのような経験はできないのだ。

 できる事と言えば、ちょうど今からやる予定の、墓掃除位のもの。

 だが、それでも良いと思う。

 若月家の墓を清め、父らが眠る墓石に対面している時は、寂しさを忘れる事ができる。

 それは逃避だと、千尋は自覚していた。

 家族を懐古する範疇を超え、亡き人に囚われすぎていると、自分でも思っていた。

 それでも、止められないのだ。

 理屈では分かっていても、寂しさを埋めるものが他にないのだ。

 

 

 

 

 自分への嘆息を零し、千尋は歩調を速めて墓地に足を踏み入れた。

 山の下の商店街等ならまだしも、観光地でもなんでもない墓地には、普段から人気(ひとけ)がない。

 その上、雨まで降っているのだから、今日は千尋の他には誰もいないようだった。

 千尋とて、片手に傘をさした状態では掃除しにくい事この上ない。

 それでも、彼は墓を清めたかった。

 決意新たに深く頷いて、早速若月家の墓掃除に取り掛かる。

 墓の汚れを拭き取り、供え物を取り換え、今日は水拭きを割愛して、時間にして五分少々。

 しかしながら、片手の塞がった無理な体勢でそれらを行った為か、掃除を終えた時に額には汗をかいてしまっていた。

 滴る汗と跳ねた雨水を、持参のタオルで拭ってから、千尋は墓石を改めて眺めた。

 毎日掃除をしているのだから、殆ど変りはないように見受けられたが、達成感は十分に得られた。

 

「……ま、こんなもんか」

 もう一度、頷く。

 日頃であれば、この後で少しばかり父との想い出に浸るのだが、今日はそうもいかない。

 ふう、と息を付いて腕時計を見れば、ヌバタマとの約束の時間が大分近づいていた。

 慌てる必要はないが、道草を食う余裕もなさそうだった。

 何が起こるから分からないのだから、早く切り上げようと、墓から離れようとしたその時だった。

 

 ――何かが、起こってしまったのは。

 

 

 

 

 

「あ、いたたたああっ!!」

 雨雲をつんざくような、痛々しい女性の悲鳴が墓地を駆け抜けた。

 思わず声のした方を見れば、それは墓地の入口から聞こえていた。

 誰かが、微かに体を震わせながら蹲っている。

 反射的に駆け寄った千尋は、傍に辿り着く前に、それが知人である事に気が付いた。

 

 

「シ、シゲ婆さん!!」

 途中から傘を投げ出し、蹲っているシゲ婆さんを抱え起こす。

 彼女はうっすらとした苦笑を携えていたが、表情が震えている。

 何かしら、痩せ我慢をしているのは明白だった。

 

「シゲ婆さん、どうしたの!?」

「あ、あら、千尋ちゃん……お参りに来たんだけれど、ちょっと足を滑らせてね。少し休めば大丈夫よ」

「大丈夫なわけないじゃない。あんなに大きな悲鳴を上げて!」

 声を荒げながら、しかしシゲ婆さんを支える腕は慎重に動かしながら、

 彼女をじっと観察すれば、下半身の震えが特に激しいように感じられた。

 目立った外傷はないようだが、脚を捻ったか、或いはもう少し大きな怪我を負っているかもしれない。

 

 千尋は、ちらとヌバタマの事を思った。

 だが、彼女との約束は瞬く間に霧のように消え去ってしまう。

 ヌバタマには悪いが、それどころではない。

 心中でヌバタマに一言謝ってから、付近に落ちていたシゲ婆さんの傘を、当人に持たせる。

 それから、なるべく刺激を与えないよう、そっとシゲ婆さんを抱え上げてみれば、彼女の身体は子供のように軽かった。

 

 

「ち、千尋ちゃん……?」

「救急車はここまで上がってこれないと思う。悪いけれど、山を下るまでちょっとだけ我慢してね」

 有無を言わさずにそう言いきると、千尋はシゲ婆さんを抱えて墓地から出た。

 下山するまで、十分か十五分か。

 完全に下りきらずとも、車が上がってこれる所まで行けば、救急車を呼べる。

 そう長く無理な体勢を強いる事はないだろう。

 千尋は足早に、千光寺山を下りだした。



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第八話『本音 その二』

 シゲ婆さんの件が落ち着くまでには、相当時間を要してしまった。

 

 シゲ婆さんを抱えて適度な所まで下り、救急車を呼んだのは良いが、救急隊員に後を任せてしまうわけにもいかない。

 病院まで同伴し、診療中にシゲ婆さんの家族に連絡を入れた時点で、一時間が経過していた。

 その間、ヌバタマとの約束を忘れていたわけではない。

 ヌバタマの事は常々気にかけていたのだが、連絡手段を持たない彼女には連絡の取りようがないのだ。

 無意識のうちに貧乏ゆすりが出て、それに気がついては足を止め、感情を表に出さないように改める。

 何度もそれを繰り返しているうちに、ようやくシゲ婆さんの家族が到着し、一緒に聞かされた診療結果は軽傷……単なる捻挫であった。

 

 千尋ちゃんありがとう、と拝むように感謝してくるシゲ婆さんや、孫の浩之、それにシゲ婆さんの息子夫婦と、

 一家全員から何度も頭を下げられ、しまいには謝礼をさせて欲しいと懇願さえされたが、千尋はそれを固辞した。

 特別な事をしたつもりはないし、今はそれよりもヌバタマだ。

 一家を振り切るようにして病院を飛び出した彼は、タクシーで映画館へと直行した。

 そうして、大幅に遅刻しながら映画館に着いた頃には……もう上映は終了していて、次の客が入場した後だった。

 せめてヌバタマに謝ろうと、会場を歩き回ったのだが、着物姿の少女はどこにもいない。

 あれだけ目立つヌバタマを見落とす事は、考えられない。

 とすれば、彼女の居場所は一つ。

 千尋はかぶりを振って、重々しい足取りで夜咄堂(よばなしどう)への帰路に着いた。

 

 

 

 

 

「……ただいま」

 擦れたような声を出して、夜咄堂の玄関を開ける。

 声に張りがない理由は、気まずさだけではない。

 雨中の千光寺(せんこうじ)山を、シゲ婆さんを抱えて下り、病院に同伴し、

 更には、診断結果の不安とヌバタマを待たせている焦りに耐え続けていたのだ。

 心身共に大いに疲労していたが、まだやるべき事は残っている。

 照明が灯っておらず、薄暗い店内を覗き込むと、窓際の席に、ヌバタマがぽつんと一人で腰掛けていた。

 どこか、声を掛けにくい雰囲気が、遠くからでも伝わってくる。

 千尋は顔を伏せかけたが、意を決すると、小さく息を吸いこんでからヌバタマへと近づいていった。

 

 

 

「ああ、その、ヌバタマ……?」

「………」

 彼女は、無言で顔を上げた。

 そこにある表情を目にして、千尋は強い緊張を覚える。

 

(うん。そうだよな……)

 これまで彼女が見せた事がない猛烈な憤りが、そこにはあった。

 その憤りが瞳に宿り、強く、限りなく強く千尋を見据えていた。

 どうやら、弁明できる状況ではなさそうだ。

 それに、そもそも千尋は、弁明という選択肢を選ぼうとは思っていない。

 形だけではなく、謝罪の意をしっかりと込めたつもりで、千尋はゆっくりと頭を下げた。

 

 

「ヌバタマ、すまない」

「……約束。ど忘れでもしましたか」

 ヌバタマが、やっと口をきいた。

 垂れた頭の上から聞こえてくるそれは、思っていたよりも抑制が効いていた。

 しかし、冷たい。

 淡々と言い放たれたその言葉からは、単なる怒声以上の怒りが伝わってくる。

 千尋は、なおも頭を下げ続けた。

 

 本来なら、弁明をするべき瞬間なのかもしれない。

 ここで、シゲ婆さんを助けていたと言ってしまうのは容易い。

 しかしその話をすれば、どう誤魔化そうとしても、自分が墓地に立ち寄っていたと知られる可能性が高い。

 そうすれば、今度はヌバタマを悲しませてしまう。

 未だに、茶道で父を亡くしたと気に病んでいると、悟られてしまう。

 この期に及んでも、自分の意を押し隠そうとするのはどうだろうか、とも思った。

 それでも、口にするわけにはいかない。

 何故ならば、これは幼い頃に築かれた、自分の行動……

 

(いや)

 

 ……ふと、思い留まる。

 

(本当に、行動原理だからなのか?)

 

 一瞬、胸が強く疼いた。

 猛烈な違和感と共に、強い孤独感を感じた。

 一体何だったのだろうか。

 だが、感情を分析するような余裕はない。

 今、気持ちを向けるべきは、約束をすっぽかされた少女なのだ。

 

 

 

 

「……何も言わないんですね」

「本当に、すまない」

 呆れたような口調のヌバタマに、もう一度謝る。

「いい加減、頭を上げて下さい」

「しかし」

「上げて下さい」

「………」

 許すから上げろ、というわけでもなさそうだった。

 有無を言わさぬ彼女の口調に、千尋はやむを得ず従う。

 すっと頭を戻して……千尋の胸は、もう一度強く打たれた。

 

(あ……)

 思わず、言葉が漏れそうになる。

 呼吸が途切れて、表情が固まってしまう。

 自分を強く睨みつけているヌバタマの瞳には、今にも零れそうな程に溜まっているものがあった。

 

 

 

 

「……楽しみに、してたんです」

 ヌバタマは言葉を噛みしめるようにそう言った。

 涙を零さないように、慎重に喋っているようにも感じられた。

「うん」

「流行り物だからだけじゃありません。

 ……千尋さんと出かけるのを、楽しみにしていたんです」

「うん」

「だから……」

 ヌバタマの声が、掠れる。

「……だから、残念です。本当に。千尋さんには失望しました」

「……うん」

 

 千尋は、三度頷いた。

 他に、何ができようか。

 哀しみに満ちたヌバタマを前に、彼は頷く他なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヌバタマは、もう何も言おうとしなかった。

 何も言えなかったのかもしれない。

 それ以上言葉を発すれば、滴が頬を伝いそうな程に、彼女は涙を溜めていた。

 物言わずに窓の外を眺め続けるヌバタマに対し、もう一度深く頭を下げた千尋は、店の外へと出て行ってしまった。

 それと入れ替わるようにして、台所の方から木がきしむ音がする。

 ヌバタマは、視線の端を音の方にくれたが、またすぐに外を向いた。

 彼女の様子を伺うかのように、そっと台所の扉を開けて中から出てきたのは、オリベだった。

 

 

 

「いやあ、随分と派手にやっていたようだなあ」

「………」

 オリベの口調は、普段と変わらない飄々としたものだった。

 ヌバタマは彼を無視したが、それに関係なく、オリベはヌバタマの向かいに腰掛ける。

 だが、オリベもまたヌバタマを見据えようとはせず、椅子を軋ませながら外の景色に視線を向けた。

 そして訪れる、暫しの沈黙。

 雨打つ音だけが、夜咄堂に響き続ける。

 やがて、先にオリベの方が口を開いた。

 

 

「……千尋の事が、嫌いになったかね?」

「……いえ」

 ヌバタマの声は、消えてしまいそうな程に小さい。

 彼女は首を横に振り、顔を伏せた。

 

「そうかね。ならば良かった」

 オリベの声が僅かに喜色ばむ。

「オリベさんが喜ぶ事じゃありません」

「いいや、そんな事はないよ。しかし、嫌いじゃないなら、どう思っているんだね?」

「少し、失望しています」

「ほう。どういう所に?」

「……単にど忘れしたんじゃない事は、分かります。

 何か、私に言えないような理由が……あったんだと思います」

 ヌバタマがとつとつと語る。

 二人は、なおも対面せずに会話をかわし続けた。

 

 

「……でも、約束、破られたんです。

 言えない理由があったとしても……言って欲しかった」

「なので、失望したと」

「………」

 ヌバタマがまた沈黙する。

 だが、オリベにはそれだけで、彼女の意が十分に伝わったようであった。

 彼は椅子を軋ませるのを止めると、ヌバタマに向き直った。

 一方のヌバタマは、やはりオリベの方を見ようとはしない。

 それでもオリベは構わずに、彼女の前で人差し指を突き立てた。

 

 

 

「ヌバタマ。先程、電話があった」

「………」

「シゲ婆さんからの礼だったよ。初めは何の事かは分からなかったがね。

 どうも話を聞いている限りでは、シゲ婆さん、墓地で転んで足を捻ったらしい」

「え……?」

 ヌバタマが、息が漏れるような声を出した。

 反射的に持ち上がった顔には、狼狽の色がはっきりと映っている。

 

「ああ、ああ、怪我は軽い捻挫らしいから気にしないで良いだと。

 とは言っても、年齢が年齢だし、心配ではあるがね……。

 で、ちょうどそこに居合わせた千尋が救急車を呼んで、病院まで同伴してくれたそうだ。

 その事に対する礼の連絡で、私まで何度も何度も謝られてしまったよ」

「!!」

 ヌバタマは、体を跳ね起こした。

 激しく椅子を鳴らしながら立ち、上半身で圧し掛かるようにして机に手をかける。

 瞠目(どうもく)する彼女の口は、微かに震えを伴っていた。

 

 

「そ、それって……もしかして」

「うむ。千尋はシゲ婆さんを助けていて、約束に遅れたのだろう」

「な、なんで……」

 それだけ口にして、頭を左右に振る。

「なんで、そう話してくれなかったのか……かね」

「………」

「千尋はね。我々に気を遣っているのだよ」

 オリベの声は、厳かだった。

 ヌバタマを励ましているようにも、たしなめているようにも聞こえる、威厳ある声だった。

 

 

「どうも千尋は、普段から足繁く墓地に通っては、故人を偲んでいたようだな。

 寂しがるのも無理もない。なんせ、まだ宗一郎が亡くなって三ヶ月ちょっとだものな。

 その上、千尋にとって宗一郎は最後の肉親だ。

 時折表面に出ている通り、あれは相当悲しみに耐えていると思うよ」

「それは、なんとなく分かります……」

「……だがね。千尋は、その心境を知られたくないようだ。

 いや、決して嘆いている事が恥ずかしいというわけではない。

 問題は、宗一郎の死因にある」

「………」

 ヌバタマはオリベを見つめる事で、先の言葉を催促する。

 一方のオリベは、値踏みでもするような目つきでヌバタマを見つめたが、

 やがて彼は、言葉をかみ締めるように続けた。

 

「……知っての通り、宗一郎は茶道具を守って死んじまった。

 それを未だに嘆いていると、茶道具の付喪神達は立場がなくなる……という事だ」

「そんな」

「茶道具の存在がなければ、宗一郎は生きていた。

 付喪神達が、そのように自身を責めてしまうかもしれない。

 ……千尋はそう考えて、気を遣っているつもりなんだろうね」

「………」

「ヌバタマ?」

「……分かりません」

 ヌバタマが、ぼそりと呟く。

「そんな……板挟みになるような事までして……

 一人で強がって……ひた隠しにして……

 悲しいのに……なんで……誰にも頼らないの……」

「全くだねえ」

 

 

 オリベは呆れたように頭を抱える。

 それから、彼は立ち上がって、おもむろに夜咄堂の窓を開けた。

 外に降り注ぐ雨は徐々に勢いを増していて、降雨の音が店内に響き渡る。

 いつの間にか勢いが強まった雨の音は、まるで急流の濁音のようだ。

 

 暫し、二人して何も言わない。

 雨音だけが聞こえる夜咄堂に立ち尽くす。

 オリベは雨空を見上げ続け、ヌバタマは呆然と俯き続けた。

 そうしているうちに、雨音に新たな音が混じった。

 それに気が付いたオリベは、ゆっくりと振り返る。

 

 

「……涙雨、だな」

「え……?」

「お前さん、自分で気が付いとらんのか?

 泣いとるじゃないか」

「あ……」

 オリベの指摘を受け、ヌバタマは自身の頬に手を宛がった。

 そうして触れる事で、彼女は、涙が伝っていた事にようやく気が付いた。

 放心のあまり、気が付いていなかった彼女は、慌てて瞼を押さえる。

 

「私……」

「千尋の為に泣いていたのだろうね」

「……はい」

 静かに肯定する。

 それから彼女は、夜咄堂の玄関へ向って歩き出した。

 

 

「……ヌバタマ」

 オリベが、背中越しに声を掛ける。

 先程よりも、凛とした声だった。

 

 

「入れ込むと、後が辛いぞ」

 

 

 ヌバタマは、僅かに足を止める。

 だが、何も言わない。

 ただ小さくオリベに会釈をして、彼女は夜咄堂を出て行った。



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第八話『本音 その三』

 陽の長い夏といえど、雨雲に覆われていてはそうもいかない。

 ヌバタマが夜咄堂(よばなしどう)を出た時には、周囲には照明が少ない事もあって大分暗晦(あんかい)としていた。

 やはり雨のせいか、少し肌寒ささえ感じる気候へと変わっていたが、ヌバタマは一切に構わず、傘も持たずに石段を駆けた。

 付喪神(つくもがみ)としても雨に濡れる事を苦手とする彼女だったが、今はそれどころではなかった。

 墓地は、夜咄堂からは然程離れてはいないので、あまり長く走らずとも着くのだが、何分足元の見通しが悪い。

 何度も転びかけながら、ようやく墓地に辿り着いて、濡れた髪を振り乱しながら機敏に周囲を見回す。

 若月千尋の姿は――やはり、若月家の墓の前にあった。

 

 

「千尋さんっ!」

 雨空を劈くような声。

 悲鳴のような声。

 千尋は、ゆっくりと振り返る。

 死人の如き動きだった。

 

「……なんで、ここが?」

「シゲ婆さんから、電話がありました。……話を聞きました。

 それにオリベさんも、普段からここにいたんじゃないのか、って……」

「……そうか」

 千尋はそれだけ答える。

 身のこなしとは対照的に、千尋の声はどこか明るかった。

 小さな声ではあるのだが、そこには悲壮感は籠っていない。

 その代わりに、何か達観したような雰囲気が漂っている。

 乾いているとも言えるだろうか。

 ヌバタマよりも、むしろ千尋の方が、人ならざる存在感を放っていた。

 うらぶれた墓地には、豪雨が千尋の傘を叩く音しか流れていない。

 ヌバタマは、恐る恐る千尋に歩み寄りながら口を開いた。

 

「千尋さん……」

「うん」

「私……私、その……千尋さんに酷い事を……」

「ああ、そんな事かあ」

 千尋は、綺麗に微笑みながら首を振った。

 

 

 

 

「……まあ、ええことよ」

「……!!」

 

 

 

 

 息が、漏れた。

 

 ヌバタマの喉から、小さな息が切れながら漏れた。

 

 怒り。

 

 みるみるうちに表情に浮かんだのは、赤色の感情だった。

 

 大股で一歩、彼女も力強く足を踏み出す。

 

 キッと千尋を見上げた彼女は、怒りながら涙を流していた。

 

 大粒の涙がぽろぽろと零れた。

 

 零れる涙が、雨と交る。

 

 涙雨がヌバタマの顔をくしゃくしゃにする。

 

 彼女は、それも憚らずに口を開いた。

 

 

 

 

「よくありませんっ!!

 もう、いい加減にしてくださいっ!!」

「………」

「そうして、何でも自分だけで背負い込むの、止めて下さい!

 もっと……もっと、千尋さんの事……私達に教えて下さい!!」

「ヌバ、タマ……」

「辛い事があるなら、別け合えば良いじゃないですか!

 助け合えば……ひっく……良いじゃないですか……!!

 だから……だから……えぐっ……

 もっと私達の事、信じ……くだ……ひっく……」

 

 ヌバタマの声が、しゃくり喘ぐようになった。

 涙はなおも零れ続け、それに比例するかのように声が声ではなくなる。

 ただただ、嗚咽だけが漏れるようになる。

 少女の綺麗な瞳が、涙で押し潰された。

 

 それでも彼女は目を瞑らない。

 千尋から視線を外そうとしない。

 それは、千尋もまた同様だった。

 乾いた瞳で、ヌバタマを見下ろし続ける。

 

 ……だが。

 不意に、千尋の手から力が抜けた。

 傘は、風に飛ばされるようにして後方へと転がっていった。

 彼は、それに構う素振りを見せない。

 ゆっくりと。

 互いの気持ちを確かめるような速度で、千尋の手はヌバタマの背中へと回された。

 

「……!!」

「……ごめん、な」

 雨音に掻き消されそうな、小さな声。

 顔を寄せていなければ、聞き取れないほどの声。

 

「怖かったんだ」

「………」

「怖かったんだ。本当は……

 相手を気遣ってたからじゃ、ない。

 自分の事ばかり、考えていたんだ……」

 千尋の声が、水気に浸される。

 彼が目を閉じると、涙が頬を伝う。

 ヌバタマを抱く腕は、酷く冷たかった。

 

「誰かが、どこかに行くのが怖かった……

 嫌われるのが、怖かった……!」

「嫌うわけなんか……」

「怖かったんだ……ずっと、怖かったんだ……!

 大事な人に嫌われて、皆がこれ以上どこかに行くのが……怖かったんだ……!」

 本音が、漏れた。

 体が、腕が、声が震えている。

 全てを曝け出しながら、涙と共に全てを打ち明けた。

 

「千尋さん……」

 ヌバタマは、ぽつりと主の名を呼んだ。

「……私は……」

 それから。

「……私達は……」

 彼女も、ようやく目を瞑る。

 

「……もう、大丈夫ですから。

 辛かったですよね……一人で抱え込んで。

 でも、もう……もう、大丈夫、ですから……」

 ヌバタマは、力強く千尋を抱き返した。

 千尋の胸の中で、優しい声を掛ける。 

 

 ……涙雨は、まだ止もうとしない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌日、千尋は大学を休んだ。

 そこまでしなくても、と恐縮するヌバタマを笑い飛ばし、二人は朝から映画館へ行った。

 上映開始から少々日が過ぎている事と、朝一番の上映に駆け付けた事もあって、

 他に客は殆どおらず、周囲からそれ程視線も集める事なく、二人は映画を観る事が出来た。

 とはいえ、千尋は映画の内容をあまり覚えてはいない。

 心を許した者と、同じものを楽しむ。

 ただそれだけで、心が十分に満たされて、映画には集中していなかったのだ。

 しかし、その浮つきが、その後に支障をきたす様な事はなかった。

 

 

 

 

「それにしても、面白かったですねえ。本当に面白かったです」

 

 ヌバタマが、先程から何度も同じ言葉をまくし立てている。

 

 映画を見終えた二人は、近くの喫茶店で休息を取っていた。

 当然の如く、会話の中心となるのは映画の感想なのだが、

 ヌバタマは、映画自体はともかく、感想語りは二の次三の次としていた。

 だからこそ、中身のない感想の連発である。

 それでは、一体今の彼女の最上位に付けているのは、何なのか。

 

「ううん、それにしても、このドーナツ美味しいですねえ……」

 彼女が、片手を頬に当てて顔をほころばせる。

 花より団子とは良く言ったものだった。

 

 

 

「好きなだけ頼んで良いからな。昨日のお詫びだ」

 彼女の向かいに座る千尋は、そう言って肩を竦める。

 すると、ヌバタマは困ったように眉を下げて、顔の前で手を左右に振った。

「お詫びだなんてとんでもないです。昨日は私こそ、何も知らずにごめんなさい」

「いやいや、俺の方が」

「私が」

「俺が」

「私が」

「「……ぷっ!」」

 譲り合いの末、顔を揃えて吹き出してしまう。

 千尋は、それ以上の笑いを必死に堪えながら、注文品の抹茶を啜った。

 

 

 

 

(それにしても、なあ……)

 

 それにしても。

 千尋は今日、何度もその言葉を思い浮かべていた。

 とにかく今日という日は、それにしても心が躍ってしまう。

 自分でも異常だと思うような浮かれ具合なのだが、嬉しいものは嬉しい。

 人ならざる者、付喪神。

 その少女に、こうも暖かな感情をもたらされるとは思いもしなかった。

 

 これまでの、相手の反応を伺っては感情を押し殺していた自分が、必ずしも間違っているとは思わない。

 だが、それに意固地になりすぎて、不明であった事は事実だ。

 昨日、正直に告白した事でやっと気が付けた、自分の殻に籠り続ける事も問題だ。

 

 要は、加減なのだろう。

 相手を想う。

 その考え方を根本に据える事には、何の問題もない。

 その為に、どう気遣うのか。

 或いは気遣わないのか。

 互いの距離も踏まえながら、最も適した行動を取る。

 それこそが、本当に相手を想うという事なのだろう。

 いつだったか、オリベが教えてくれた、和敬清寂(わけいせいじゃく)の、和。

 どうやら、まだまだそれを極めるには至っていないようだ。

 

 

 

 

 

(……相手を想う……か)

 

 抹茶をテーブルに戻しながら、眼前の少女をちらと見る。

 付喪神の少女は、視線に全く気付く様子はなく、肩を左右に揺らしながらお品書きを眺めていた。

 

 ヌバタマに対して、特別な想いを抱くようになったのを、千尋は否定しない。

 元々、魅力的な少女であるとは思っていた。

 それに加えて、彼女と共にいるだけで、胸が暖かくなるようになった。

 全てを打ち明けても、もう怖くはない。

 ライクなのだろうか。

 ラブなのだろうか。

 先日、唐津で自問した問いを、もう一度思い浮かべる。

 天秤は……ふらふらと揺れて、いくら眺めても落ち着こうとはしなかった。

 

 

 

「千尋さん。お言葉に甘えて、追加注文しても良いですか……?」

 ヌバタマがお品書きをぱたりと閉じ、上目遣いで尋ねてきた。

 今は、この暖かな一服を純粋に楽しもう。

 思い悩んでいると、せっかく頼んだ抹茶の味が落ちてしまうではないか。

 

(……そう。うまいんだよな、これ)

 視線を一瞬だけ抹茶に移す。

 おそらくはアルバイトが()てたのであろうが、これまで口にしたどの抹茶よりも美味しい気がしていた。

 その理由ならば、おおよその見当がつく。

 やはり、ヌバタマの存在が大きいのだろう。

 もしかすると、これが茶の良さというものかもしれない。

 心の安息と共に喫する抹茶。

 考えてみれば、これ程美味なものも、そうそうないだろう。

 まさか、その良さを喫茶店の一服で知ろうとは、思いもよらなかった。

 

 

「あの、千尋さん? 千尋さーん?」

「ああ。分かってる」

 千尋は考えるのを止めた。

 眼前にいる、安寧を齎す少女の瞳に意識を移す。

 

「なんでも好きなのをどうぞ」

 にこりと笑って頷く。

 ヌバタマは、鏡写しの如く笑い返してくれた。



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第九話『夜咄堂の真実 その一』

 茶室とは、静寂の空間ではない。

 

 茶筅(ちゃせん)を振る音。

 釜の湯がたぎる音。

 抹茶が喉を流れてゆく音。

 亭主と客が交わす会話。

 必要不可欠な音だけでもそれだけある上に、その他にも室内外から、

 鳥の鳴き声や虫の音色、風や雨といった気候の偶発的な音も流れてくる。

 

 それらに留まる事なく、他にも幾多の音が流れているが、いずれも余計な音ではない。

 和を感じ、そして四季を感じる事ができる音だ。

 安らぎを与えてくれる、馳走のような音だ。

 ……しかし、これまでの千尋は、その音をあまり好んではいなかった。

 凛とした空気を生み出す音を聞けば、自分が茶の湯の中にいるという事実を嫌でも自覚してしまう。

 その都度、茶道との因縁を思い浮かべてしまい、心が沈んでしまう。

 必要以上の緊張感を覚えるからか、手前も稽古通りにはいかなくなってしまう。

 

 ……それが、以前の千尋と茶室の関係だった。

 

 

 

 

「どうぞ」

 ゆったりとした口調と共に、千尋は薄茶の入った茶碗を差し出した。

 銘がなければ付喪神でもない、近代になって焼かれた安物の京焼。

 万が一割れても良いようにと稽古用に用いている物だが、

 鮮やかな絵付けが施されていて、気分を大いに高めてくれる、用の美を備えた茶碗だった。

 

「うむ」

 それを受けたオリベが、茶碗の側面に口を付ける。

「お服加減加減いかがでしょうか」

「うむ」

 同じ言葉を吐いたオリベは、茶碗を膝の上に付ける。

 その口ぶりは、普段の飄々とした様子とは打って変わって威厳に満ちている。

 彼は、千尋の目を見つめて暫し沈黙し……溜めを作った後に、大いに相好(そうごう)を崩してみせた。

 

 

 

 

「大変結構でございます。……いや、本当に良い茶だ。腕を上げたな、千尋」

「ははっ。それはどうも。でもまだまだです」

 同じく笑みを浮かべ、首を左右に振って見せる。

 とはいえ、本心はそうでもない。

 腕を上げた……と大言を吐くまでには至らないのだが、

 内心では、少しはマシになったかもしれない、とは思う。

 

 

(……悪くは、ないな)

 小さく息を吐き、柄杓を手にして使った分の水を釜に足しながら、物思いに耽る。

 まだ、茶道ラブと言えるような程度ではない。

 だが、少なくとも嫌いではなくなった。

 まあ、好きともいえる。

 素直にそうは言えないのだが、内心では確実に好感を持っていた。

 

 きっかけは、先日のヌバタマとの一服だ。

 心を許した者との一服は、かくも暖かく、そして癒されるものなのだと知ったあの日。

 以来、千尋は茶道に悪印象を抱かなくなっていた。

 すると、これまでは気になっていた茶室の音が、自身の心をかき乱さなくなった。

 荒波に揺さぶられる船中の様であった千尋の心中は、

 春風にあやされる揺り籠へと様変わりを遂げていた。

 手前がマシになったのは、その心境が生み出す集中力のお陰なのだろう。

 

 

 

 

 

「これも私の指導の賜物かねえ」

 オリベが何度も頷きながらのたまう。

 千尋は思わずジト目で彼を睨み付けた。

「オリベさんに教えてもらったの、これで三回目位だと思いますが」

「ヒャッヒャッヒャッ!! そうだったっけか? そうだったかもなあ!」

「そうですよ。まったくもう……」

「それじゃあ、ヌバタマのお陰ってわけか」

「む……」

 思わず声が漏れ、手前が止まりかける。

 

 会話の流れから察するに、ヌバタマの稽古のお陰、と言いたいのだろう。

 だが、一瞬妙な事を想像してしまった。

 墓地に入り浸っていると教えたのがオリベだとしたら、

 先日の出来事を出歯亀されていても、おかしくはないかもしれない。

 であれば、先程のオリベの発言は、仲が深まったからこその冷やかしとも解釈できる。

 

 

「……まあ、毎日稽古して貰っていますから」

 暫しの間の後、ぶっきらぼうな口調でそう言う。

 日々の稽古も間違いなく糧となっているのだから、決して嘘はついていない。

 

 動揺を隠すかのように、目を細めてオリベを睨めば、彼は前傾姿勢になっていた。

 膝の上に肘を乗せ、口元に手を宛がって、目をぎょろぎょろと見開いて観察するかのように千尋を見ている。

 言葉の真意を確かめるべく、手前の中から動揺を見つけ出そうとでもしているのだろうか。

 今にも、口の端を上げて、からかうような笑いを浮かべられそうな気がしてしまう。

 重圧に耐えかねて視線を外そうとしたその瞬間……オリベは身を引いた。

 

 

 

 

「……そうか。稽古の成果か」

 オリベは、そう言って目を瞑った。

 頬は緩み、目じりは僅かに下がっている。

 笑みを浮かべてはいるのだが、千尋の思っていたような冷やかしの笑みではなかった。

 落ち着きのある、千尋の返答にどこか満足しているような笑い。

 予想外の反応に、千尋は今度こそ手前を止めて、オリベに見入ってしまった。

 

 

「オリベさん……?」

「お前が立派に育ってくれる。これ程嬉しい事は、なかなかあるものではない」

 オリベは、千尋の呼びかけには答えなかった。

 妙な雰囲気を漂わせたまま、彼はその後も暫く目を瞑り続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第九話『夜咄堂(よばなしどう)の真実』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 この所、夜咄堂の買い出しは千尋の仕事になっている。

 食材ならばネットで発注する事も出来るのだが、そこには夜咄堂の事情が関わっていた。

 悲しいかな、客の入りが不安定な夜咄堂では、大量発注が基本となる通販で食材を購入しても、消費しきれない可能性がある。

 加えて、注文から到着までの時間差という問題もあった。

 もう少し夜咄堂が繁盛すれば解決できる問題なのだが、無い袖は振れない。

 そこで仕方なしに、大学への通学を再開した千尋が、帰宅途中にスーパーで買える食材を調達しているのである。

 

 この日も、夜咄堂への石段を上がる前に、千尋は商店街のスーパーに立ち寄った。

 買い物と同時に、店内でひと時の冷房を満喫していた彼が再び路上に足を踏み入れれば、茹だるような熱風に覆われてしまう。

 時刻はもう夕方だというのに、一向に気温が下がる気配がない。

 季節は八月、灼熱の月。

 仕方ないとは重々承知しているのだが、やはりこうも暑いと気が滅入るものだった。

 

 

 

「ワンッ!」

 不意に、ズボンが引っ張られる。

「ん……?」

 眉を顰めながら足元を見れば、引っ張っていたのは雑種犬のロビンだった。

 暑さに呆然としていて、駄犬の接近に気が付かなかったようである。

 

 

「なんだ、ロビンか。久しぶりだな」

「久しぶりって程でもないぞ。ひと月ぶり位じゃんか」

 周囲に人がいないのを良い事に、ロビンがまた街中で喋る。

 

「あれ。そんなもんだっけか。このひと月で唐津に行ったり、色々あったから、錯覚してるのかな」

「あーあー、それそれ! お前達だけで出かけるなんて酷いじゃないか!

 俺も唐津行きたかったぞ。イカ刺食いたかったぞ」

「犬がイカ刺食って良いのか……」

「んじゃ、唐津バーガーとかでもさ」

「それもタマネギが入っているだろう」

「千尋は分かっていないなー。気持ちだよ、気持ち! 俺も皆と一緒に何か食いたかったの! フゴッ!」

 ロビンは喚きたてながら鼻息を鳴らす。

「でもお前、夜咄堂の犬じゃないだろ?」

「あー、ショックー。超ショックー。ロビンもう立ち上がれないー」

 そう言うと、ロビンは地面に這いつくばってしまった。

 まるで、暑さで溶けたアイスクリームのような、一切のやる気を感じさせない姿形。

 怠惰(たいだ)此処(ここ)に極まったものである。

 

(別に、こいつを無視して置いて行っても良いんだが……)

 茶色いアイスクリームを見下ろしながら、千尋は首を傾げる。

(ま、付喪神(つくもがみ)というくくりで考えれば、ロビンが拗ねるのも分からなくもないか。

 ……埋め合わせ、するかな。せっかくだから、お土産も買って帰りたいし)

 

 

 

 

「あー、もうダメー。動けないー」

 ロビンが、なおものたまう。

「分かった分かった。お詫びにドーナツでも買ってやるからさ」

「おっ! ホントか!?」

 千尋の一言に、ロビンは跳ね起きた。

 動けないという言葉はどこへやら、二本足で立って腰を振りながら妙な踊りを始める始末である。

 苦笑一発の後、踊る犬を置いて歩き出せば、ロビンも慌てて四本足に戻って後を追いかけてくる。

 歩いていれば、流石に幾らでも人とすれ違うもので、それ以上ロビンとは口をきかず、そのまま海沿いの東雲ドーナツ店に辿り着いた。

 

 店の前で『待て』の意を込めて掌をかざせば、ロビンが了承のひと鳴きを返してきた。

 ワンというよりはヒャンと聞こえてくる、気の抜ける鳴き声である。

 脱力しつつも店の入り口を潜ろうとした瞬間、千尋の目が止まった。

 遠目では良く分からなかったが、ドーナツ店のテラス席に知った顔がいたのである。

 

 

 

 

 

 

 

「やあ、浩之君じゃないか」

「あ、千尋さん!」

 千尋から声を掛けられたシゲ婆さんの孫の浩之は、跳ね上がるように立ち上がった。

 勢い余って彼の膝がテーブルを突き上げてしまい、卓上に置かれていたブラックのアイスコーヒーが危うく零れそうになる。

 

「わっ、と……」

「大丈夫?」

「はい。それよりも先日はお婆ちゃんを助けて……」

「ああ、いい、いいよ。本当にそれはもういいからさ」

 彼の反応を察していた千尋は、全て言わせないうちに両手を掲げてその先を制止する。

 浩之は戸惑った様子を見せたが、深々と頭を下げて礼を締めてくれた。

 

 

 

 

「それより、浩之君もドーナツを買いに?」

「あ、いや、僕は……」

 浩之が頭を掻きながら視線を泳がせる。

 よく考えてみれば、卓上に置かれているのはアイスコーヒーのみで、おやつを買いに来たという風ではない。

 それでは何なのだろうと思いながら浩之を凝視すれば、彼はますます視線を遠退かせた。

 しかし、彼の視線は店内だけには向けられない。

 代わりに千尋が店内を覗けば、少女がドーナツを吟味しているようだった。

 ショートカットの可愛らしい少女で、浩之と同年代のように見受けられた。

 

「先客だね。知り合い?」

「その、知り合い、というか、親しくはあるんですが、ええと……」

 浩之の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。

 海上で暮れゆく陽よりも赤いのではないか、という程の染まり具合。

 それだけで、大方の推測はできる。

 千尋の表情には、自然と小さな微笑みが浮かんだ。

 

「なるほどね、デート、良いじゃないか。せっかくの夏休みだし、楽しい事もしたいよな」

「えっと……はい。ありがとうございます」

 浩之はそう言ってはにかんだが、同時に片方の眉を顰めてみせた。

「ただ、スイーツデートはちょっと苦手なんですよね。

 あの子がどうしても行きたいというもので、今日は付き合いでして」

「そっか。なかなか上手くいかないものだね」

「ラーメンデートなら、僕も喜んで付き合うんですが」

「どっちも良いじゃないか。今度は俺にもJCとデートさせてくれ!」

 唐突に、後方からロビンの声が聞こえた。

 千尋の顔が一瞬で引きつるが、浩之は声の主が理解できていないようで、きょろきょろと辺りを見回す程度の反応しか見せなかった。

 考えてみれば、彼は犬が喋るという前提を持ち合わせていないし、聞こえてきた中年男性のような低い声は、明らかに千尋の声でもない。

 声の主が理解できないのも、無理はなかった。

 しかし、この先も気が付かないとは限らない。

 浩之同様に周囲を見回すふりをしつつ、後方を向いた瞬間に強くロビンを睨み付けて釘を刺す。

 どうにも、長居は不要の様である。

 

 

 

「それじゃあ、俺はドーナツ買うからこれで」

「あ、千尋さん、お願いが……!」

「うん?」

 足を踏み出しかけた千尋は、その動きを止める。

 浩之はそんな千尋の顔色を窺うように、おずおずと、しかし言葉は濁らせずに続きを発した。

 

「僕、少しでも千尋さんに喜んでもらいたいんです。

 良かったら、今度、千尋さんのお店にお邪魔しても良いでしょうか……?」

「………」

 千尋は、即座に返答しなかった。

 おそらく、その言葉の真意はシゲ婆さんの件の礼だろう。

 しかし、自分が悉く謝礼をかわしているもので、遠まわしな言い方をしてきているのだ。

 その気遣いを更に拒んでは気の毒だし、浩之の言う形式なら自分も恐縮せずに済む。

 実に気持ちの良い子である、と千尋は思う。

 背後で、自身の体に住み着いているノミを取っている犬とは大違いだ。

 

 

 

 

「うん。いつでもおいで。楽しみに待ってるよ」

 ならば、これ以上拒む理由はない。

 それに……と思う。

 それに、せっかく茶道に好感を持てるようになったのだから、茶でもてなしたいではないか。

 

 千尋は、にっと笑ってみせた。



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第九話『夜咄堂の真実 その二』

「んで、当日の菓子を買い出しに付き合わされる……ってわけかね。面倒臭くてかなわんなあ」

「まあまあ、オリベさん。千尋さんがせっかくやる気を出してくれているんですから。良い事ですよ、良い事!」

 愚痴を零すオリベに、弾む声でそれをなだめるヌバタマ。

 対象的な二人を引き連れて、千尋は商店街を歩いていた。

 夜咄堂(よばなしどう)で出す和菓子は、商店街の一角にある古びた和菓子屋にて調達している……のだが、千尋はその店を見た事がない。

 他の食材ならともかく、ある程度の知識を要する和菓子となると、千尋が買うには不安が残る。

 その為に、和菓子の調達はヌバタマに任せきりになっていたのだ。

 

 

 

(やる気……か。随分な心境の変化だよなあ……)

 二人の前を歩き続けながら、ふとヌバタマの言葉を気に掛ける。

 茶道に好感を持った途端、自分で和菓子まで選びたいと思うようになったのだ。

 まさに別人の様だと、我ながら深く感じ入ってしまう。

 それから、ちらと振り返って、その変化の原因を見やる。

 

「……なにか?」

「いや、なんでもない」

 

 後ろを歩くヌバタマと視線が合うと、彼女は小首を傾げながらも微笑んでくれた。

 一方の千尋は慌てて前を向き、小さく首を横に振る。

(いやいや、いやいやいや)

 小さく胸が高鳴ったのを、必死に押し流そうとする。

 ヌバタマの事は、後回しに――

 

 ――否。

 その感情は、後回しにして良いのだろうか?

 何故、深く考えようとしないのか?

 ヌバタマに抱いている感情を、はっきりとさせるべきではないのか?

 次々と自問が湧きあがった。

 だが、処理しきれない。

 とても、気持ちを整理する事ができない。

 やはり今は考えるのを止めようと、感情を押し殺すように歩調を速めれば、程無くして一行は和菓子屋に辿り着いた。

 

 

 

 

「ごめんくださーい」

 店の前で先頭を代わったヌバタマが暖簾を潜る。

 彼女の快活な声に呼応するように、人の良さそうな若い男性店員がカウンターから出てきた。

「これは夜咄堂さん。いらっしゃいませ」

「いつもお世話になっています」

「こちらこそご愛好ありがとうございます。今日は随分と大所帯で」

「ええ。店長の千尋さんと、サボリ魔のオリベさんです」

「だーれがサボリ魔だね」

 オリベが間延びした口調で突っ込みを入れると、男性店員は声を立てて笑ってくれた。

 

「ははははっ。随分と仲が宜しいみたいで。皆様、今後ともよろしくお願いします」

「はじめまして。こちらこそ宜しくお願いします」

 千尋は軽く会釈をしてそう答えてから、カウンターの中に視線を移した。

「で……そちらが和菓子、ですか?」

「ええ。和菓子の中でも生菓子と呼ばれるものがそちらです」

「ふむ……」

 中腰になってカウンターの中を凝視する。

 

 無論、生菓子の存在は知っている。

 ロビンと初めて会った日に見た紫陽花の生菓子は、再現度が高くて息を飲んだものだ。

 自分から、客に出した事も何度かある。

 

 だが、今回は違う。

 自分が生菓子を頂くわけではないし、用意されたものを出すわけでもない。

 浩之を自分の手でもてなす為、生菓子を選びにきているのだ。

 そう考えながら吟味する生菓子は、普段よりも鮮明に、そして細部まで見て取れるような気がした。

 

 白餡、黒餡。寒天、水飴、みじん粉にぎゅうひ……。

 様々な原材料によって作られている生菓子は、いずれも美しい。

 皆、季節を模した形に整えられていたが、一際目を引いたのは半透明の寒天だった。

 

 

 

「これは、奇麗ですね……」

 思わず感嘆の息を零しながら、寒天に目を奪われる。

 その寒天は、金魚蜂の形をしていた。

 口の付いた水色の球体寒天の中に、二匹の金魚と藻が浮かんでいる。

 口の周辺は絞られていて皺になっているのだが、それが良い。

 見事という他ない、金魚鉢の再現となっているのだ。

 夏の一頁をそのまま縮小化した一品は、なかなかに千尋の胸を打ってくれた。

 

「金魚鉢。まさしく夏の風物詩だな」

 同じくカウンターの中を眺めるオリベが、満足げに頷く。

「千尋ももう知っているとは思うが、茶席で出す菓子は季節を模したものが主なのだよ。

 この季節なら、金魚鉢の他にも、青空だったり、朝顔だったり、そんな所だな」

「まるで芸術品ですよね。凄い再現度だ……」

「うむ。だが菓子だけではないぞ。

 季節の茶花は当然の事、茶道具も季節の意匠が施されているものを、茶席では用いる。

 茶室全体で季節を、言うなれば物語を作り上げるのだな」

「その一部のお菓子にも、季節の要素は欠かせない、というわけですね。

 そんなわけで、その金魚鉢は私も良いと思います。

 特に美しい作りですし、きっと喜んでもらえると思いますよ」

 ヌバタマが胸の前で両手を合わせながら補足する。

 

「ふむ……」

 もう一度、千尋は呟いた。

 

 確かに、目の肥えた二人ならず、自分の目も引いたこの生菓子は、見事な出来という他ない。

 目を瞑って、後日もてなす事になる浩之の顔を思い出そうとする。

 すると、彼に関する最も新しい記憶……ドーナツ店の前での出来事が浮かび上がってきた。

 中学生ながら、彼女とスイーツデートという、なんとも羨ましい……

 

 

(……待てよ)

 

 

 不意に、記憶が一時停止した。

 そう言えば、自分もつい先日、喫茶店でヌバタマと暖かいひと時を過ごした。

 だが、あの時の自分と、先日の浩之とでは、何かが決定的に違っている気がする。

 

 相手が人であるか付喪神(つくもがみ)であるか。

 相手に抱いている好意の種類はどのようなものなのか。

 それがデートなのか否か。

 違う。そんな事ではない。

 違うのは、自分と浩之個人の事だ。

 ……そうだ。

 間違いない。

 あの日の彼は……

 

 

 

「……いや」

 千尋は腰を起こしつつ、視線をカウンターから切った。

 

「浩之君へは、別のお菓子を出すよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 浩之が来店したのは、彼と出くわしてから五日後だった。

 相も変わらず続く猛暑、まずは冷たい飲み物を振る舞って一息ついた所で、

 幸か不幸か、この日も客がいない店内をゆるりと案内すると、彼は案内するもの一つ一つに驚嘆してくれた。

 茶道具やら庭やらに加えて、年季の入ったといえば聞こえは良いが、単に古いだけの椅子や机、

 更にはちょっとした装飾品にまで感じ入ってくれると、自分で調達したものではないとはいえ、千尋も気分が良かった。

 

 だが、もてなすのは千尋の方だ。

 一通りの案内を終えた後で、二階での一服を提案すると、浩之はこの日初めて顔色を曇らせた。

 

「お抹茶……ですか」

「うん。苦いのは苦手かな?」

「あ、いえ。むしろ好きですよ。……そうですね。ではお願いできますか?」

 明らかに微妙な反応。

 だが、それでも彼は千尋の提案を受け入れてくれた。

 何か気を悪くしてしまっただろうかと、千尋は内心戸惑ったが、今更止めようというわけにもいかない。

 かくして、茶室の釜からは湯気が立つ事となった。

 

 

 

 

「茶室でお茶を頂くの、初めてです」

 茶席が始まると、浩之はそう言ってはにかみながら、きょろきょろと部屋の中を見渡した。

 緊張感よりも好奇心が勝っているようで、意外と図太い所があるのかもしれない。

 千尋はつい、自分が初めてこの部屋に足を踏み入れた頃を思い出しながら、風炉(ふうろ)の前に座した。

「実は俺も、お茶を点てるようになってまだ三ヶ月くらいなんだよ」

「そうなんですか?」

「うん。父さんが急死して、思わぬ形で店を引き継いでね」

「あ……」

「気を遣わなくて良いよ。辛くないとは言わないけれど、楽しくもやっているからさ」

 言葉を失いかけた浩之に笑いかける。

 

「そうですか。その……頑張って下さいね」

「浩之君もね。お互い、なんとか店を盛り立てたいものだね」

「はい! ……あの。ところで……」

 不意に、浩之が居住まいを正した。

 千尋も、意識は手前に集めつつも、視界の空気が変わった事を悟る。

 

 

「お茶って、お菓子も出るんですよね?」

「そうだよ。お茶を頂く前に食べて貰うんだよ。

 そうすれば、お菓子の甘みとお抹茶の苦味が、お互いに引き立つ……って事らしいね」

「………」

「そんなわけで。……オリベさん、お願いします」

「はいよ」

 茶室の外から、声の主のオリベが中へと入ってきた。

 浩之の前に座して、菓子器を差し出す。

 浩之が覗き込むようにして見た菓子器の中には……。

 

 

 

 

「……お煎餅?」

「そう。見ての通りのね。どうぞお楽になさってお召し上がり下さい」

 ぺこり、と頭を下げながら千尋が言う。

 言葉にこそ動揺は出していないが、内心では少々の緊張を覚えながらの発言だった。

 

 もしかすると、自身の見通しはてんで間違っているものかもしれない。

 余計なお世話で、良い生菓子をだす機会を逸したかもしれない。

 それでも千尋は、どうしても浩之と出会った時の光景が、気になっていた。

 

 

 

「でも、さっきお菓子の甘みって……」

「それなんだけれどさ。もしかしたら浩之君、甘いものが苦手じゃないかなって思ったんだ」

「………」

「ほら、ドーナツ屋の前で会った時に、スイーツデートが苦手って言っていたじゃないか」

「ええ」

「それに、飲んでいたコーヒーもブラックだったみたいだし。

 だから、甘いお菓子よりも、お煎餅とかおかきとか、そういう物が良いかな、ってね」

「……千尋さん」

 浩之が、千尋の名を呟いた。

 視線をゆっくりと、茶道具から浩之に移す。

 緊張の頂点。

 そこに待ち受けていたのは……はちきれんばかりの笑みを浮かべていた浩之だった。

 

 

 

「ありがとうございます。お察しの通り、甘いものって苦手なんです」

「……そっか。なら良かった」

「それで、お茶と言われて抵抗も覚えたんですよ」

 どうやら、微妙な反応の正体はそれらしい。

 深い安堵のあまり、無意識のうちに息が漏れそうになったが、手前の最中とかろうじて堪える。

 

「……千尋さんのお気遣いに感謝です。いただきますね」

「い、いや、ははは……」

 

 だが、表情までは抑えきる事ができない。

 緊張の糸が緩むと、それによる張りを失った表情が緩んでしまった。

 それに呼応したように、浩之が歯を見せて笑い出した。

 こうなると、千尋ももう抑えは利かない。

 憚る事なく、千尋まで大きな笑い声を立てる。

 

 茶室には瞬く間に、二人の笑い声が広まる。

 

 

 

 

 

 ……しかし。

 

 

 

 

 

 部屋の隅で、オリベが目を瞑った。

 いつもならば真っ先に笑い出しそうな彼は、神妙な表情を浮かべながら、

 千尋らの気づかぬうちに、茶室から出て行ったのであった。



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第九話『夜咄堂の真実 その三』

「それにしても、彼の好みを見事に見抜いたものだな」

 オリベの言葉は、大いに感嘆に満ちていた。

 表情に浮かぶ笑みも、日頃の悪戯っ気溢れるものではなく、素直な感心の笑みである。

 夜咄堂(よばなしどう)から出ていった浩之の背中が見えなくなると、千尋はそんなオリベを見ながら首を竦めてみせた。

 

「いや……たまたまです。浩之君との会話の中に、たまたま判断材料があっただけですよ」

「仮にたまたまだとしても、私達の勧めを安易に受けなかったのは見事だよ」

「……まあ、確かに、話の流れは生菓子でしたね」

「うむ。私も本気であれで良いと思っていたよ」

 オリベがそう言って何度も頷く。

「分かります。俺もあの美しさには惹かれましたもん」

「それでも流されはしなかった……か。

 男子三日会わざれば刮目して見よ……とはよく言ったものだな」

「それって、ええと……」

「短期間に、よくもまあ成長したものだ、という事だよ。

 ……なんぞ、心境の変化でもあったかね?」

「………」

 

 あった。

 またオリベの心中を察するような問いに対し、今なら心からそう思える。

 ヌバタマとの一服があったお陰で、ドーナツ屋での浩之が心から寛げていない事を思い出せた。

 ヌバタマとの一服があったお陰で、自分の好みに走らず、相手の事を考えた茶席を作る事ができた。

 つまる所……これが気遣い……おもてなしというものなのだろう。

 相手に楽しんでもらう為に趣向を凝らしつつも、そこに溺れようとはしない。

 常に相手を中心に添え、その為には己を隠し、或いは曲げる事こそが、おもてなしなのだろう。

 更に言えば、客が浩之という事も良かった。

 純朴な彼は、型を外した茶席に顔を顰める事はなかった。

 夜咄堂を案内した時も、本心から楽しんでくれたから、千尋も気分良く彼をもてなせた。

 

「……それだよ、千尋」

 オリベが、頷いた。

 

 

「以前にも教えたね。和敬清寂(わけいせいじゃく)の和。

 それこそが、茶道の良さだ」

 あっ、と千尋は声を漏らしそうになった。

 知りたいと常々思っていた茶道の良さ。

 それが……

「それが……答えだったのですか……」

「うむ」

 オリベは腕を組みながら頷く。

「そもそも和敬清寂の四文字は、かの千利休が四規として定めたという説もある。

 茶の極意といっても差支えがない言葉だが……その中でも、和。これが大切だ。

 いや、無論どれが欠けてもならない。その中で、私は和を重要視しているというだけだがね」

「……言わんとする事は、分かります。体験して、心から同意できるようになりましたから」

「やはり体で覚えるに越した事はなかったようだね。

 相手と和を成せば、当然相手を敬えるようになる。

 清い心と道具で、相手をもてなそうと思えるようになる。

 その経験が、いつしか閑寂の心を作る。

 和は、多くの心に通じている。無論、全てが和から派生しているわけではない。

 しかし、和の心さえ忘れなければ、道を大きく踏み外す事はなかろう」

 そう言い切って、オリベは天を仰いだ。

 

 

 

「これで、私も安心して、あの力の話ができるよ」

 

 

 

「あの力……?」

 突然の言葉をオウム返しにしながら、改めてオリベを見る。

 笑んでいたはずの彼は、いつの間にか眼を鋭く細めていた。

 茶席で時たま見せる、茶に対する真剣な表情に似ていたが、どこか違う。

 彼の瞳を見つめていると、外見よりも心中を見つめ返されているような気になる。

 一体、彼は……

 

「……別の力って、一体……?」

「夜咄堂には、とある力が備わっているのだよ。

 これを説明する前にお前が成長してくれて、良かったよ。本当に良かった」

「あ、あの……言っている事が、よく……」

「ついてきたまえ」

 オリベは千尋の問いに答えずに踵を返して歩き出した。

 そんな彼を呆然と見つめていた千尋だったが、オリベが階段に足をかけた所で、ふと我に返って慌てて後を追う。

 階段を上がりきると、オリベは茶室の前で顎を上げていた。

 更にその先を追いかける千尋の視線は、一点で停止する。

 

 

「水墨画……」

 

 

 そこにあったのは、茶室の上に掛けられた水墨画。

 取り換える暇等なかったはずのそれは、以前よりも更に色濃い絵となっていた。

 だが、描かれている内容自体は、以前と変わっていないように見える。

 何かが、おかしい。

 自動的に水墨画の絵が描き足されたとでもいうのか。

 それが、夜咄堂の能力とでもいうのだろうか。

 だとしても、そんな能力に、何の意味があるのだろうか。

 

「千尋」

 オリベが、振り向いた。

「この水墨画が完成した時、私達付喪神(つくもがみ)は、天に召されるのだよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 周囲の空気が、凍りついた気がした。

 真夏だというのに、猛烈な寒気が背中を駆け上る。

 この感覚は……そう。

 物心ついてからは一度だけの経験だけれども、忘れるはずがない。

 今年の春、父の訃報が届いた時と、全く同じだった。

 

 

「天に、召されるって……」

「言葉の通りだよ。……順を追って説明しよう」

 オリベはそう言うと茶室の中へと入って、まだ片付けていない風炉(ふうろ)の前に座した。

(入って……良いのかな)

 千尋はふと、考え込む。

 気になったのは、階下で客に備えているヌバタマだった。

 オリベは、付喪神が天に召されると言った。

 その括りならば、ヌバタマも含まれるのではないだろうか。

 

 正直に言えば……オリベの先の話を聞くのが、怖い。

 話を聞く前に、ヌバタマを見ておきたい気がする。

 しかし、ここでオリベから目を離しても、それはそれで取り返しがつかなくなるような気がする。

 暫しの葛藤の末、千尋は後ろ髪を引かれる思いをしながらも、茶室に入って毛氈(もうせん)に座した。

 

 

 

「……どうぞ」

 千尋が考え込んでいる間に、オリベは茶を()てていた。

 誘われるがままに、出された青織部沓形茶碗(あおおりべくつがたちゃわん)を手に取る。

 細やかな気泡が整然と敷き詰められた、美しささえ感じる点て具合だった。

 思えば、オリベの茶を喫するのはこれが初めてであった。

 

「ほら、飲まんか」

「……頂戴致します」

 オリベに急かされて、茶碗を煽り……

 

「ん……!?」

 千尋は、思わず体を震わせた。

 

 喉から流れ込んでいく熱い液体は、菓子がないというのに、苦味の中に淡い甘みを含んでいた。

 それが体の奥に流れ込んでいく毎に、痺れが全身を駆け巡るような錯覚を覚える。

 それは、決して嫌な感覚ではない。

 熱さが意識を覚醒させ、敏感になった意識は茶の味を全て拾い上げる。

 百歳に渡って茶道を極めてきたオリベと、百歳に渡って幾多の茶人に用いられてきた茶碗。

 そして、やはり百歳に渡って品質を追い求められてきた抹茶。

 まさしく、歴史の具現化とも言える一杯が、千尋の手の上乗っている。

 水墨画の件の前振りがなかったら、至高の味に思わず茶室から飛び出してしまいそうでさえあった。

 

 

 

 

「う、うあ……」

「ハハッ。今頃私の点前を知ったかね」

 言葉を失った千尋をオリベは笑い飛ばしたが、普段とは異なる穏やかな笑い声だ。

 オリベは笑いながら、ゆっくりと体を回して千尋に正対した。

 

「……さて。まず最初にこの夜咄堂の事を説明しておけば、話は早かろう。

 私が造られるよりも前の事だが、この土地は茶道具の塵塚だったのだよ」

「塵塚?」

「ゴミ捨て場の事だ。不要になった茶道具が、ここに捨てられていたのだよ。

 物には百年経てば魂が宿る。なのでその前、九十九年目には捨ててしまおう……と、

 嘘か誠かは知らぬが、それ位古い茶道具が捨てられていたと聞く」

「つまり、茶道具の付喪神の発祥の地だったという事ですか?」

「発祥とまでは言わんよ。確かに似た発祥物語はあるが、尾道の話ではない。

 だが、捨てられた茶道具達の怨念が募る土地であった事は、間違いなかろう」

「……全然、知らなかったな」

「当然だ。話していないからな」

 オリベは飄々と言ってのける。

 重い話をしているはずなのに、なんとも大したものである。

 

 

「だが、とある偉い坊さんが、そんな道具達を見捨てなかったのだよ。

 お坊さんは、皆が成仏する為の施設を作ってくれたのだ。

 それがこの夜咄堂なのだ。当然今の店が当時からあったわけではないよ。

 店は屋号を変え、商いを変え、何度も建て替えられている。

 それでも、坊さんがこの土地に込めた力は残っていて、付喪神はここから天に行く事ができるのだ」

「水墨画については?」

「急かすな急かすな。しかし坊さんは一つだけ条件を付けたのだよ」

 オリベはそう言って一息ついた。

「茶道具は、あくまでも茶道具。

 その使命を全うしなければ天に召されてはならない……とな。

 道具の使命。それはつまり……」

「……日々是、好日……」

 千尋がかすれたような声で、その力の名を呟く。

 

 この部屋で、何度も見せられた奇跡。

 茶の良さを引き立て、客に幸福を与える力。

 千尋を、茶の道へと連れ歩いた能力。

 あの力が……

 

 

 

 

「左様。無論、人間に茶の良さを知ってもらう事が最大の目的。

 だがあの力は、我々が天に召される唯一の手段でもあったのだ。

 ……そして、この茶室で人が癒される度、茶室の水墨画には知らぬうちに筆が重ねられるようになっておる。

 その絵が完成する時……それこそが……」

「……付喪神が、天に召される時……」

 

 それだけ呟くのがやっとだった。

 思わぬ話に足が震え、立ち上がろうと腰を持ち上げる事さえできない。

 

 先程まで見ていた水墨画の色は、以前と比べれば相当濃くなっているような気がした。

 あとどれだけの人を癒せば、水墨画は完成するのか。

 そもそも、何を以てして完成とするのか。

 父はその話を知っていたのか。

 天に召されれば、やはりもう会う事はできないのか。

 聞きたい事を挙げていけば、キリがない。

 

 たただだ混乱に見舞われる脳内の糸を必死に解し、その中から、ようやく一つだけ問いを抜き出す事ができた。

 つまりは、この問いこそが自分にとって一番大事なのだろうか。

 その答えを出さぬままに、千尋は思いの丈をオリベにぶつけた。

 

 

 

 

「その話は……ヌバタマにも言える事なの?」

「……そうだよ。今、夜咄堂に茶道具がある付喪神全てに適用される話だ。

 ヌバタマも、お前の前から姿を消す事になる」

 

 オリベは、はっきりとそう言ってのけた。



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第十話『依々恋々 その一』

 翌日、夜咄堂(よばなしどう)一階に募った面々に、明るい表情をする者は一人もいなかった。

 オリベは全てを達観したかのように物静かで、普段の騒がしさは微塵も感じさせないし、

 ヌバタマは、千尋が夜咄堂の真実を知ったと聞かされてから今に至るまで、ずっと俯いている。

 千尋とて不安げな様子は隠す事が出来ず、招集を受けてやってきたロビンは気怠そうであった。

 窓から入ってくる、夏の蒸し暑い風も、雰囲気の重さの一因なのだろう。

 じわり、と額に浮かぶ汗が、緊張感からくるものなのか、それとも気候のせいなのか、千尋には区別がつかなかった。

 

 

 

「まず、確認したい事がある」

 ロビンが到着するや否や、最初に口を開いたのは千尋だった。

 二人と一匹の顔をゆっくりと見回し、最後のオリベの所で視線を止め、彼に語りかけるつもりでじっと見つめる。

 意味もなく溜めを作ったのではない。

 意識してそうしなければ口を噛みそうな程に、千尋は酷い緊張を覚えていた。

 水墨画の話を聞いた時には体が震えたが、その震えがずっと体の中で暴れているような気がした。

 だが、耳を閉じても事態は改善しない。

 それよりは事実を知っておくべきだと、彼は必死に声を絞り出した。

 

「……次に日々是好日(にちにちこれこうにち)で客をもてなせば、付喪神(つくもがみ)達は皆現世を去り、天に召される。

 それは間違いないよな?」

「うむ」

 返事をしたのはオリベだった。

「だとしたら……もてなさなかったら……

 お抹茶セットを止めてしまえば、その話はなくなるんじゃないのか?」

「それはそうなのだが、もてなさずにはいられないのだ」

 間髪入れずにオリベが首を左右に振る。

 

「と、言うと?」

「理由は二つ」

「うん」

「いずれも我々の都合ではあるのだが……

 まず、日々是好日で客を癒す事は、我々が天に召される唯一の手段なのだよ。

 付喪神には、死というものがない。

 客を癒さねば、我々は永久に現世で生きる事になる。

 まあ、それを良しと考える者もいるかもしれんがね」

「………」

「そしてもう一つ。客を癒す事は、我々茶道具の付喪神の本能なのだよ。

 茶を、日々是好日を必要としている人間がいれば……我々は、どうしても癒したいのだ」

「……どうやら失礼な提案をしたみたいで」

 その理由を聞かされては、千尋に口を挟む余地はなかった。

 

「いやいや、千尋が謝る必要は全くないよ」

 オリベは淡々と言ってのける。

 だが、そこへロビンが口を挟んだ。

「おいおい、待ってくれよ。例外ってもんを忘れないでくれよ」

「ロビン……どうした?」

「おう、いいかよく聞け千尋。

 俺は茶道具としての本能が薄いんだよ。だから夜咄堂でも働いちゃいねえ。

 天に召されるなんてまっぴらごめんだぜ? もっとJCと遊びたいんだよ」

「そう言えば……お前だけ残るとかできるのか?」

「いや、できねえ。その時夜咄堂で管理している茶道具の付喪神は皆召されちまう。

 だから俺は反対だぜ。まだまだ遊び足りないんだ」

 ロビンがワンワンと騒ぎ立てながら主張する。

 普段なら流してしまうロビンの言葉だが、この日ばかりは千尋も、ロビンの一言一句を噛み締めた。

 

 

 

(……そうだ。俺も反対だよ)

 心から、強くそう思う。

 唇の内側を、人知れず噛み締めた。

 

 付喪神達のお陰で、茶道に興味を持てた。

 付喪神達のお陰で、孤独ではなくなった。

 気が付かないうちに、彼らの存在は千尋にとって欠かせないものになっている。

 

 そんな付喪神達との別れの辛さだけではなく、やり場のない思いも千尋を苦しめていた。

 最後の客を迎えるのに反対ではあるが……こればかりは主張するわけにはいかないのだ。

 それは決して、付喪神の反応を気にするあまりの事ではない。

 オリベの話によれば、これが付喪神が天に召される唯一の手段なのだ。

 すなわち、最後の客を迎えないのであれば、付喪神に半永久的に現世で働いてもらうという事を意味するのだ。

 同じ付喪神のロビンからならまだしも、結局は他人である千尋からは、到底口にできない提案だった。

 

 

 

 

「なあ、ヌバタマはどうなんだ?」

 不意にロビンがヌバタマに話を振った。

「お前さんも、この世に未練があるだろ?」

「………」

 ヌバタマが、ふっと、思い出したように顔を上げる。

「この間俺がエサ貰いに行った時に、話してくれてたじゃないか。

 映画、凄く楽しかったって。

 もっと面白い所に行ってみたいって。

 千尋と出かけたいって、言ってたじゃないか」

「!!」

 千尋は思わず息をのんだ。

 彼女は、その様な事をロビンに話していたのだ。

 感情を吐露した翌日の映画に対して、そうも思ってくれていたのだ。

 

 ならば……。

 それならば、ヌバタマの答えは分からない。

 現世を、夜咄堂での生活を選んでくれるかもしれない。

 千尋は、胸が強く高く鼓動するのを自覚しながら、答えを求めて視線をヌバタマに向ける。

 

 その先にあるヌバタマの黒い瞳には……強い意志を感じさせる光が差していた。

 

 

 

 

「ロビンさん」

 ヌバタマが、静かに口を開く。

 

「これは私達の定めです。

 最後のもてなし、賛成に決まっているではありませんか」

 

 

 ヌバタマは、一切の躊躇なくそう言い切った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十話『依々恋々(いいれんれん)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「はぁーん、やだやだやだやだ。やだーーっ!」

 ロビンが煩い。

 彼が庭先で駄々っ子のように体を転がすと、ただでさえ土埃で汚れている体は、まるで泥団子のような様相を呈してきた。

 草花のない所で転がっているだけまだマシかもしれないが、どうにも視界に入って鬱陶しい。

 気分転換で庭に出てきた千尋にとっては実に迷惑な存在なのだが、

 この犬と顔を合わせる機会もあと数回、下手をすればこれが最後かもしれないとも思えば、

 流石に追い払うような真似はできなかった。

 

「なんだよ、まださっきの話か?」

 千尋は呆れた様な声を投げかける。

「おう。それ以外になにがあるってんだよ」

「俺はその話題、暫く忘れたいんだけどな」

「現実逃避はよくないぜ? ちゃんと正面から捉えなきゃ」

 つい先程まで駄々を捏ねていたくせに、鼻を鳴らして偉そうにのたまう。

 思わずしかめっ面になってロビンを睨みかけるが、確かにロビンの言う通りでもある。

 首を左右に振ってやり場のない感情を発散し、千尋は庭の一角にある池の傍まで歩いた。

 澄んだ池の中では、色取り取りの水中花が雄々しく生息している。

 夏の熱風がどれだけ厳しくとも、水の中ならば、文字通りどこ吹く風なのだろう。

 

 

「おやおや。俺がいなくなるのがそんなに寂しいか?」

 ロビンもようやく転がるのを止めて、千尋の傍に歩みながら声をかけてくる。

「アホ」

「つれない奴だなあ。俺はお前の事嫌いじゃないってのにさ」

「どうせ、たまにドーナツ買ってくれるからだろ?」

「ご明察」

 楽しそうにひっひっ、と息が詰まったような笑い声を漏らす。

 思えば、この犬は出会ってから今に至るまで、一度もおどけた態度を崩していない。

 オリベでさえ、茶道に関わる話になれば真剣になるというのに、ロビンは一貫してこのままだった。

 

 

 

「……お前は、毎日楽しんでるなあ」

「おう。楽しい事したくて夜咄堂を出たからな。そう宿命づけられてるんだよ」

「宿命……?」

「そうそう。なんせ俺は……あーーっ! 噂をすれば!!」

 ロビンが唐突に喚いて、庭の隅で頭を抱えた。

「な、ななな、なんじゃああああこりゃあ?」

「煩いぞ。どうした?」

 呆れつつも彼の付近に目を凝らせば、土瓶が乱雑に転がされていた。

 その様たるや、奇遇にも泥の中で転げ回ったロビンと瓜二つである。

 

「その土瓶、お前なんだっけ?」

「そうだよ! あーあー、あー! なんでこんな扱いなんだよ!」

「お前が『適当に使って良い』って言ったんじゃないのか?

 オリベさんからそう聞いた記憶があるぞ」

「適当って言ったって、程度ってもんがあるだろうによお!

 由緒正しき星野焼が台無しだぜ。トホホ……」

「星野焼……聞いた事がないな」

「ああ。さっきの宿命にも関わるんだがよ……」

 ロビンが土瓶を鼻で起こしながら、力ない声で語り始める。

 

「福岡は八女(やめ)。その名の通り美しい星が見える山村、星野村。

 そこで江戸時代に焼かれた夕日焼の土瓶。それこそが俺なんだ」

「夕日焼? さっきは星野焼って言ったよな」

「星野焼の別称みたいなもんだ」

 ロビンが、まだ星も夕日も見えない昼空を見上げながら言う。

 

「星野焼には夕日が浮かび上がるんだよ。

 酒を注ぎ込む事で、土色の濃い器が輝き、それは夕日のような黄金色と化す。

 そうして酒まで黄金のように輝いて見えるって寸法なんだな。

 金の酒だぜ? 考えるだけでワクワクしてこないか?」

「酒は飲めないけれども、なんとなくは伝わってくるよ」

「だよな、だよな。

 黄金の酒……まるで『楽』という漢字を凝縮したようなもんだぜ。

 そんな星野焼だからこそ、俺みたいな道楽者が生まれたって寸法よ」

「ふむ……つまり、お前は茶器としての使命よりも、現世を楽しむという焼き物の成分が強いって事か」

「そういうこった。残念ながら俺は単に星野で焼かれた土瓶なんで、夕日を作り出せはしないんだよ。

 それでも同じ土を使っているからな。この世を楽しまずにはいられないんだ。

 ……千尋。そこん所、お前はどうなんだ?」

「と言うと?」

 発言の意図が分からず、ロビンの問いを繰り返す。

 

「俺は、楽しみたいという本音を隠さずに生きている。

 だが、お前は……どうなんだ?

 さっきの席で、お前の本音……そもそも意見というものを聞かなかった気がするが?」

「………」

 

 

 

 意外と、注意力がある犬だった。

 ロビンの言う通り、自分の本音を抑え込んでいる。

 今度ばかりは、そうするより他ない。

 そう思い込んでいたのだが……

 

(……本音、か)

 ロビンから視線を外して、池の前に屈み込む。

 ふと、足元に小石が落ちていたのに気が付いて、それを拾い上げると、おもむろに池に投げ込んだ。

 落下地点から広がり、水中花のせいで微妙に歪む波紋を眺めていると、その波紋の中心にヌバタマの姿が浮かんできた。

 無論、幻想だ。

 だが、無意識のうちに彼女の顔を思い浮かべているのだ。

 それを自覚すると、胸が苦しくなった。

 

 付喪神がいなくなるのは、千尋にとって好ましい事態ではない。

 働き手がいなくなるのだから、夜咄堂はおそらく畳まざるをえないだろうし、

 ようやく興味が持てるようになった茶道も、教えてくれる人がいなくなる。

 それに、父を亡くした直後の様に、また一人暮らしに戻ってしまうのも辛い。

 付喪神には他に選択がなく、引き留める事ができないのも苦しい。

 

 だが、いずれも千尋をもっとも苦しめる問題ではない。

 ようやく、その事実に気が付けた。

 この苦しみの大元にいるのは、ヌバタマだ。

 もう二度と、彼女と会えなくなる。

 その喪失感は急激に強まり、みるみるうちに千尋の心を支配していった。

 

 

 

 

(……どうして、ヌバタマがいなくなると苦しいんだろうか)

 

 どうして、こうも苦しいのか。

 何故、こうも寂しく感じるのか。

 ……これまでにも、別の問いからその『答え』を想起した事はあった。

 ただ、その都度様々な可能性が邪魔をして『答え』には辿り着けなかった。

 

 それでも。

 

 それでも、今回は違う。

 別れ際という状況が、自分を開き直らせてくれたのだろうか。

 或いは、心中で絡み合った糸を、たまたま解しきれたのだろうか。

 理由までは分からずとも、千尋はようやく『答え』に到達できた。

 

 

 

(本当は、自分でも薄々分かってはいたさ)

 

 すっと立ち上がる。

 天を仰げば、視界は雲一つない碧空に覆われている。

 相変わらず猛威を振るう日光に、額にはじわりと汗が滲んだ。

 

 

 

(そう……分かっていた。

 ……俺、ヌバタマの事が好きなんだ)



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第十話『依々恋々 その二』

 瀬戸内の海に、陽が沈む。

 悠然とした落日によって、深く濃い青色の海は、黄金色に変わりつつあった。

 ロビンの言っていた夕日焼とやらも、この海と同じように染まっているのかもしれない、と千尋は思う。

 日中は海上を行き交っていた漁船は大分姿を消しており、今確認できるのは、間延びした汽笛を鳴らしている渡船だけだ。

 人々の生活の香りが徐々に薄らぎ、静寂を迎えようとしているひと時。

 その穏やかな瀬戸内とは対照的に、防波堤に腰かけて海を見る千尋の心は大いに揺らいでいた。

 

(……さて。どうしたものかな)

 心中で呟きながら、物思いに耽る。

 思い返されるのは、ただただ、一人の少女のみであった。

 ヌバタマ。

 吸い込まれてしまいそうな艶やかさの、美しい黒髪の少女。

 ヒオウギの種子にして、万葉集の枕詞でもあるその名は、名付け親である千尋の胸を支配していた。

 

 

『これは私達の定めです。

 最後のもてなし、賛成に決まっているではありませんか』

 

 

 今朝の話し合いでそう告げたヌバタマからは、揺るぎない決意が感じられた。

 抹茶を守る棗の付喪神(つくもがみ)として生まれてきた影響で、生真面目な性格をしているのは分かる。

 だから、定めに従おうとする気持ちも十分理解はできるのだが、それにしてもあそこまできっぱりと態度を示されるとは思わなかった。

 千尋とて、残って欲しい気持ちをぶつけるのはやぶさかではないが、あのヌバタマが心変わりするとは到底思えない。

 

 

 

 

 

「本音をぶつけた所でなあ……」

「本音がどうかしたって?」

「っ!?」

 背後から唐突に声を掛けられ、反射的に振り返る。

 だが、振り返りつつも声の主が誰なのか、見当がついていた。

 甲高く、それでいて余裕と落ち着きに満ちた、人柄そのままの声の持ち主であるオリベは、

 歯を見せて笑いながら、スタスタと防波堤に歩み寄ってきた。

 

 

「オリベさん……俺を探しに来たんですか?」

「うんにゃ。ただの散歩だよ。よっ、と」

 オリベが防波堤に飛び乗る。

「出不精のオリベさんが散歩だなんて珍しいですね」

「だろう? 自分でもそう思うね。ヒャッヒャッ!!」

 快笑一発の後、オリベは胡坐をかいて海を見た。

 随分遠くを見ているようだったので、視線の先を追いかけたが、水平線が伸びているだけで特別変わったものはない。

 それでも、オリベは瀬戸内の遥か遠くをじっと眺め続けていた。

 

 

 

 

「……あとどれだけ、この世界にいられるかも分からんからな。

 半生を過ごした町だ。今のうちに、しっかり目に焼き付けておこうと思ってな」

「……そうでしたか」

 千尋は静かに頷く。

「なんでしたら、席を外しましょうか?」

「いや、気にしないで良い。むしろ話しておきたい事もあるしな。

 なぁに、単なる老人の思い出話だよ。……この町の話だ」

「尾道の話、ですか」

 そう口にして、千尋も胡坐をかく。

「ああ。お前、尾道は好きかね?」

「そりゃあ、まあ、好きですが」

「勝ったね。私は大大だぁい好きだよ!」

 オリベは両手を大げさに広げ、好感度の度合いを示してみせた。

 子供っぽくもオリベらしい仕草に、千尋はつい苦笑いする。

 だが、笑われても気にする事なくオリベは話を続けた。

 

 

 

「百年以上を過ごした町だし、夜咄堂(よばなしどう)だってあるから、そりゃあ愛着は沸く。

 だが、贔屓目抜きに良い町だよ。ここは。

 そのもっともたる理由が、この瀬戸内海よな」

「この小さな海が、そんなに良いんですか?」

「小さいから良いのだよ」

 オリベは嬉しそうにそう言ってのける。

「小さい海だというのに、大海に負けない魅力がここには詰まっている。

 生命や自然、美しい風景といった要素は当然の事、

 陸地には、この海があるからこそ築かれた港町としての歴史がある。

 その歴史や光景に惹かれた、幾多の文化人達もいる」

「………」

「いや、文化人だから良いというものじゃないさ。

 海と共に生きる人々や、その人々の日々の営み……

 他にも、数えきれない程の魅力が、この小さき海に詰まっているのだ。

 まるで、総合芸術たる茶道の様ではないか」

 オリベはそう言い切り、にっと歯を見せて笑ってみせた。

 笑顔を浮かべたままで、彼はなおも喋り続ける。

 

「……私達がいなくなったら、店を売り飛ばそうがお前の自由だ。

 千尋の人生は、千尋のものなのだからね。

 ……だが、もしも夜咄堂を続けてみようという気があるのなら、

 私達に代わって、この素敵な海と共に生きる人々を、お前に癒し続けて欲しくてな」

「……俺が、ですか」

 千尋の声が、少し沈む。

「うむ。他の誰でもない、お前だよ」

「……自信が……」

 

 千尋の声が沈む。

 夜咄堂を続けるのなら、大学と二足の草鞋を履かなければならない。

 それだけでも困難だし、茶道の手前もまだまだ未熟だ。

 

 その上、更に大きな問題を抱えている。

 自分は、たった一人の少女の心を見抜く事ができないのだ。

 ヌバタマの気持ちが分からないのだ。

 他の誰よりも大切に想っている人なのに、どうしても理解できないのだ。

 そんな自分に、どうして人を癒す事が……

 

 

 

 

「千尋」

 

 

 

 

 オリベが、名を呼んだ。

 落ち着きを与えてくれる、穏やかな声だった。

 初めて出会った時にも、そんな声を掛けられた気がした。

 

 

 

「自信を持ちなさい。自信を持ち、自分の気持ちに従って行動しなさい。

 そうでなければ、以前のお前に逆戻りではないかね」

「オリベさん……」

 茶の湯の師の名を呼び返す。

 二百年以上を生きた付喪神の男は、静かに微笑んでいた。

 

「お前が今案じている事など、大方の察しはつくさ。

 そうして相手の心を図ろうとするのは、とても大切だよ。

 自分の気持ちに従うのは大事だが、相手を気遣う事も忘れてはいけない」

「………」

「相手を想いつつ、自分というものを出す。

 その為には、中間点を探らなくてはならない。

 人の付き合いも、茶道も、どちらにしても言える事だ」

「難しい、ですね……」

「うむ。難しい。だが……」

 

 オリベは千尋を見つめてきた。

 それから逃げる事なく、千尋も彼を見つめ返す。

 助言を受けたとは言え、不安はまだ拭い去る事はできない。

 たった一つの助言で不安がなくなるのなら、楽なものだ。

 だが――

 

 

 

「難しいからこそ、面白いのだよ。

 頑張りなさい、千尋」

「……はい!」

 

 ――だが、挑戦する事は出来る。

 千尋は、勢い良く頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 オリベよりも先に夜咄堂に帰る頃には、もう夜になっていた。

 一階でヌバタマに帰宅の挨拶をするなり、茶室に入る。

 帰るなり二階でがさごそとやるものだから、ヌバタマが何事かと様子を見に来た。

「どうなされました? 閉店後の掃除なら終わりましたけれども」

「いや、そうじゃなくて、これから茶を()てようと思って」

「時間外にお客様がお見えになるんですか?」

「そうでもなくて、なんと言うか……」

 言葉に窮した千尋は、手元にあった茶碗を、ぶっきらぼうにヌバタマへと突き出した。

「ヌバタマに、一服点てようと思って」

「……そうでしたか」

 ヌバタマは頭を下げ、茶室に入ってきた。

 着物を畳に擦らせながら、そっと毛氈に座す。

 

 単に一服を振る舞うだけなら眼前にある茶道具を即座に使用すれば良かったが、

 千尋は一度退室して部屋前で挨拶を交わし、改めて中に入った。

 これは、単なる茶飲み雑談ではないのだ。

 

 

 

「お楽に」

 釜の前で万事を整え、ヌバタマに気を楽にするよう勧める。

 同時に千尋も小さく息を吐き、僅かに手を止めて窓の外を見た。

 

 そこに映る山間部の景色には明かりがなかったが、遥か遠くには細々と輝く星が見えた。

 よくよく耳を澄ませば、最近少し弱まってきた蝉の鳴き声も届く。

 立秋も過ぎ、夏は少しずつ終わりに近づいている。

 

 春と、夏。

 この二つの季節は、付喪神と……ヌバタマと共に過ごしてきた。

 それでは、秋は。

 冬は。

 来年は、どうなのだろうか。

 共にありたい。

 いつまでも、ヌバタマと暖かき茶を点てたい。

 その想いを胸に、千尋は口を開いた。

 

 

 

「帰ってくる時に、ロープウェイに乗ったよ」

「あら、良いですね」

「うん。時間も時間だし、大分空いていたよ。独り占めできた」

「羨ましいものです……しかし、どうしてまた?

 お金も掛かりますし、石段を上がって来るのと時間に違いはないと思いますが」

「それはそうなんだけれどさ。外で偶然出くわしたオリベさんと、尾道の町の話をしてね」

「ええ」

「それで、尾道の良さを聞いているうちに、この町を眺めてみたくて……ね。綺麗だったよ」

「随分と月並みなご感想ですね」

 ヌバタマがくすりと笑う。

 今朝こそ珍しい表情を見せたが、今茶室にいるのは普段通りのヌバタマだ。

 千尋も苦笑しつつ、茶碗に抹茶を入れる。

 

「でもね。オリベさんの言を借りるんだけれども……

 綺麗なのは町並みだけじゃなく、人々の営みも、なんだな。

 町中には、民家や飲食店の明かりが見えたし、

 海に目をやれば、仕事を追えて帰ってくる漁船の明かりも見える」

「ふむ」

「なんと言ったものかな……」

 一度、手前を止める。

 

「……皆、単なる照明ではあるんだ。

 だけれども、その灯りが、この港町で働く人の活力の輝きみたいに見えてさ」

「なるほど。千尋さんも随分と多感になりましたね」

「そうかもね。……変かな?」

「いえ。素敵な事だと思います」

 

 

 ヌバタマのその言葉に、千尋は顔を上げる。

 そこにいた彼女は、茶花のような笑みを浮かべていた。

 小さく。

 決して派手ではなく。

 しかし、そこからは彼女の意思がはっきりと読み取れる。

 心から、自分が感じ取った事を賞賛してくれているのだ。

 不意に、ヌバタマを抱き寄せたい衝動に駆られる。

 その気持ちを辛うじて抑え、千尋は茶筅を手に取って、茶碗の中の抹茶を掻き混ぜだした。

 

 

 

 

「……オリベさんは、もうちょっと散歩して帰るって。最後にこの町を見ておきたいらしい」

「急にふらりと出かけたと思ったら、そうでしたか」

「百年以上尾道に住んでいたらしいし、感傷に浸る気も分からないでもないな」

「そうですね。私も、どこか出かけてみようかな」

「……そっか。やっぱり、ヌバタマも現世に残る気はないんだな」

 茶筅を振る自分の手を凝視しながら呟く。

 ヌバタマはその端にちらりと映る程度なのだが、気持ちは完全にヌバタマへと傾けられていた。

 ここからが。

 ここからが、本番だ。

 逸る気持ちを抑えるかの如く、千尋はひたすらに茶筅を振り続けた。

 

 

「……ええ。そのつもりです」

 ヌバタマの声色が変わる。

 何者も寄せ付けようとしない、凛とした声に変わる。

 表情を伺う事はできなかったが、声を聞くだけで大方の想像はつく。

 

「それがさ。……俺にとっては辛いんだ」

「そうかもしれませんね。人手も足りなくなりますし」

「いや、そういう事ではなく」

 ようやく、茶筅を振るのを止める。

 茶碗を手にすると、抹茶の熱気が伝わってきた。

 極限に達した緊張を、その熱気で幾分誤魔化しながら、ヌバタマに向き直る。

 すっと茶碗を差し出しながら、千尋は口を開いた。

 

 

 

「ヌバタマがいなくなるのが、辛いんだ。

 オリベさんがいなくなるのも、ロビンがいなくなるのも寂しい。

 ……でも、ヌバタマがいなくなるのは、辛いんだ」

 

 かくして、賽は投げられた。



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第十話『依々恋々 その三』

「……別に私がいなくとも、どうという事はないでしょう?」

 ヌバタマは流し目で千尋を見た。

 それと同時に、差し出された茶碗を手にして煽る。

 薄茶が喉を通過した途端、彼女は目を瞬かせながら、茶碗を膝の上に預けた。

 

 

「お服加減は?」

「美味しい……」

「そうなるようにと思って、()てたからかな」

 使った分の水を釜に戻しながら言う。

 

「最近さ。手前に対する心構えがちょっと変わったんだ。

 稽古でも、ただ定められた挨拶をするんじゃなく、相手の目を見て、相手の事を考えながら挨拶をかわす。

 手前の時も、常に相手の視線や気持ち、状態を意識する。

 不思議なもので……相手の事を考え続けた結果、自分の手前の誤りに気がつくようになってさ。

 今回も、気持ちが手前に反映されて、茶の味が変わったのかもしれない」

「それは良い事で」

「そう思えたのは、ヌバタマのお陰だ」

 茶碗を受け取るべく……否、もはや茶碗はどうでも良かった。

 ヌバタマと話す為、彼女に相対した千尋は、じっと相手の瞳を見つめる。

 彼女もまた、千尋の何か思いつめた様子を察したようで、小首を傾げながら真っ直ぐに千尋を見つめ返した。

 

 暫しの沈黙。

 釜がたぎる音だけが、微かに耳に届いてくる。

 先にその釜の音を上書きしたのは、千尋の声だった。

 

 

 

「ヌバタマのお陰で、相手を想うという事を知った。

 ヌバタマのお陰で、相手を想う一服の良さを知った。

 それが、凄く心地良いんだ。

 だから、つまり……」

「はい」

 ヌバタマが相槌を打つ。

 消えてしまいそうな声だった。

 

「……その心地良さを、失いたくないと思った。

 だから、ヌバタマがいなくなると、寂しいのではなく、辛いんだ。

 この心地良さは……愛しさからくるのだと思う」

「………」

 

 ヌバタマは何も言わずに目を瞑った。

 

 彼女の心情は、やはり千尋には理解できない。

 だが、もう後戻りはできないのだ。

 胸が、経験した事のない速さで鼓動する。

 血の気が顔に上り、口が震えそうになる。

 ヌバタマを想う気持ちが、痛烈な緊張となって全身を駆け巡る。

 

 ――だというのに、不思議なものだ。

 その先の言葉は、自分でも驚く程、淀みなく口にする事ができた。

 

 

 

 

「難しい問題は山積みだけれど、その上で言わせてもらう。

 現世に残って欲しい。一緒に夜咄堂(よばなしどう)を続けて欲しい。

 ヌバタマと、この町で静かに息づきたい。

 ……ヌバタマの事が、好きなんだ」

「……そうでしたか」

 ヌバタマが目を開ける。

 身じろぎもせず、瞼だけが静かに持ち上がる。

 彼女の声は、清流のように澄み渡っていた。

 

「……正直に申し上げれば、大いに困惑しております。

 まさか……まさか付喪神(つくもがみ)が、人間に想いを寄せられるだなんて。

 ただただ、恐縮するばかりです。私なんかに、もったいない……」

「そんな事は」

「千尋さん」

 ヌバタマの言葉が千尋を遮る。

 赤い唇が、小さく動いた。

 

 

 

 

「私は付喪神です。子を成せないかもしれない」

「それはそれで、静かな日々を送れるさ」

 

 

「狭い世界しか知らない世間知らずの身。ご迷惑だってお掛けします」

「一緒に学ぼう。それだって幸せだ」

 

 

「……流行好きです。我侭言うかも」

「多少なら、可愛いものだよ」

 

 

 

 

「千尋さん……」

 もう一度、ヌバタマは千尋の名を呼んだ。

 

 か細い、そして柔らかい声。

 今朝の有無を言わさぬ力強さは、そこにはない。

 心なしか、口の端が緩んでいるようにも見えた。

 彼女は、笑っているのだろうか。

 そうあってほしい。

 それはすなわち……。

 

 ……千尋が、笑顔を願うのとほぼ同時だった。

 

 ヌバタマは手のひらを畳につけると、顔が見えなくなる位に頭を下げた。

 そして――

 

 

 

 

 

「申し訳ありません」

 告げられた一言は、千尋の胸を切り裂いた。

 

 

 

 

 

「やはり私は、現世には残れないのです」

 ヌバタマが、頭を下げながらはっきりと告げる。

 まただ。

 また、あの揺るぎない声。

 付喪神の定めというだけでは咀嚼できない、ヌバタマの決意。

 何故、それ程の決意を持っているのだろうか。

 先程の思わせぶりな様子は、何だったのか。

 

 分かっている事といえば、一つだけ。

 ……千尋は、振られたのだ。

 

 

 

「……その」

「いや、良いよ」

 今度は、千尋がヌバタマのを遮った。

 腰を上げれば、足が崩れ落ちそうになる。

 それを必死に堪えながら立ち上がったが、その間もヌバタマは顔を上げない。

 

「当然だ。君が天に還る唯一の手段を奪おうとしているのだから。

 申し訳ない。……本当に申し訳ない。

 言い難い事を、言わせてしまった……」

「………」

「謝ってどうなるものでもないけれど……すまない……」

 

 力なく頭を振る。

 彼女への罪悪感は本物だが、ある意味では千尋には関係ないものだった。

 断られたのだ。

 振られたのだ。

 失恋したのだ。

 答えが出た以上、過程が何であれ、答えは覆らない。

 そう考えるから、ヌバタマの話を聞く事に意味はない気がした。

 それに、それは互いに辛いものでもある気がした。

 

 

 

「本当に悪かった。

 ……俺も、決めたよ」

 千尋は、ヌバタマに背を見せる。

 

「使おう……日々是好日(にちにちこれこうにち)を。

 それを必要とする人の為に」

 

 そう言い残して、茶室を出た。

 結局、ヌバタマは最後まで頭を上げなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヌバタマに告白してから数日。

 その間千尋は、鬱屈とした気持ちで日々を過ごしていた。

 

 振られた痛手も大きかったが、ヌバタマの気持ちを思えば気持ちは一層沈んだ。

 告白を断らせた上に、その相手と同じ屋根の下で暮らし、働かなければならない。

 彼女は、自分とは比較にならない程の居心地の悪さを感じているはずなのだ。

 その証拠に、彼女は自分を避けるように日々を過ごしているし、接触すれば反射的に顔を伏せられてしまう。

 その都度千尋は、猛烈な罪悪感に苛まれた。

 暇ではあるが、その分気楽に働けたはずの夜咄堂。

 千尋と付喪神達の仕事場は、たった一つの茶席を経て、針の筵へと姿を変えたのだ。

 だが、それだけではなかった。

 千尋を塞ぎ込ませている理由は、もう一つ残っていた。

 

 

 

(……ふう)

 重い溜息を付き、窓際に立って外を眺める。

 目に入るのは夏の青空と、青々とした夜咄堂の庭。

 そして緑の奥に微かに見えている門から玄関までの通路。

 もう一つの理由は、その通路を通る者……すなわち客にあった。

 

 決して、客足に悩んでいるわけではない。

 二階でのお抹茶セットを所望する客が、いつ現れるのか。

 そして、その客は何かを思い煩っているのか。

 すなわち……日々是好日を使い、付喪神達と別れる瞬間。

 その時が、いつ訪れるとも分からぬ為に、千尋は塞ぎこんでいた。

 

 針の筵は自業自得なのだから、受け入れなくてはならない。

 だから、それ自体は辛くとも、許容はできる。

 本当に辛いのは、むしろその筵が取り払われる瞬間だ。

 振られようもヌバタマには好意を持っているし、オリベやロビンも大切な存在だ。

 そんな付喪神達との別れが、この先突然訪れるのが辛いのだ。

 

(でも……皆にとっては、これが現世から解放される唯一の手段。

 それに、ヌバタマも望んでいるんだから……な)

 もう一度、俯きながら溜息を零す。

 そうして、一時的に視線を外側から外していたからからだろうか。

 不意に玄関が開かれるまで、千尋は来客に気が付かなかった。

 

 

 

 

「お邪魔するよ」

 開扉の音と共に、中年男性の声が聞こえてくる。

 来客を見落としていたか、と思いながら顔を上げつつ、同時に妙な懐かしさを覚えた。

 

 いつだったか、聞いた事がある声。

 どこかで、聞いた事がある声。

 不思議な安堵を与えてくれる声。

 その声の主は……玄関の前で朗らかに笑っていた。

 

 

 

 

「え、っ……」

「久しぶりだな、千尋。暫く見ないうちに大人びたみたいだ」

「とう……さん……?」

 ……若月宗一郎。

 骨と化し、若月家の墓で眠っているはずの父が、そこにはいた。

 

 

 

 

「え……? え……? あ、え……えっ……?」

 言葉を発する事が出来ない。

 狼狽の音だけが、千尋の口から漏れる。

 玄関前に立っている和服姿の男は、間違いなく自分の父だ。

 だが、父が亡くなっているのもまた間違いない。

 納骨まで済ませたのは、他ならぬ自分自身だ。

 ならば、父に良く似た誰かなのだろうか。

 否、それもない。

 親戚はもういないし、赤の他人ならば自分の名を知っている説明が付かない。

 だとすれば、一体……。

 

 

 

「そうだな。すまない。お前が驚くのも無理はないな」

 父の顔をした男は千尋に近づいてきた。

「なんせ、私は亡くなっているんだ。常識ではここにいる説明がつかない。

 ……だがな。夜咄堂に足を踏み入れてから今日に至るまで、

 お前は、常識外の出来事を何度も目にしてきたのではないか?」

「あっ……」

「ああ、別に私が本当は付喪神だったというわけじゃないぞ。あくまでも例えだ」

 慌てて言葉が付け足された。

「世に言うだろう? 現世に未練があって化けて出た……と。

 あれは意外と、結構起こり得る話でな。

 私もあれと同じなのだよ」

「それじゃあ、本当に……?」

 歯が打ち鳴らされかけた。

 だが、必死に堪えて言葉を紡ぎだす。

 ここにいるのは、本当に……

 

 

「ああ、お前の父さんだよ。……ただいま、千尋」

「………!!」

 激情が、喉まで駆け上がってきた。

 声を張り上げて、父の名を呼びたい衝動に駆られる。

 しかし、そうするわけにはいかない。

 遠慮や気遣いはなく、千尋のプライドが衝動を抑えた。

 せっかく、大人びたと言ってくれたのだから、感情的な姿は見せたくない。

 溢れでる感情を制御し、千尋ははちきれんばかりの笑顔を浮かべて、その人の名を呼んだ。

 

「……お帰り。父さん」

「うん」

 

 それ以上は何も言えなかった。

 だが、それで良い。

 言葉なぞ発せずとも、笑いあっているだけで、互いの気持ちが伝わるような気がする。

 それが、家族というものなのだ。

 

 

 

 

(あれ? でも……)

 

 ふと、思い至る。

 父の喜ぶ気持ちは、確かに分かる。

 だが、一つだけ分からない事があるのだ。

 

 

 

 

「父さん、聞いて良いかな?」

「うん、言ってみなさい」

 父は、穏やかな口ぶりで質問を許可してくれた。

「さっき『未練があって化けて出た』って言ったよね。

 父さんの未練って、一体何なの?」

 

 そう尋ねながら、幾つかの答えを想像する。

 茶道具を守って亡くなった父だ。やはり、店絡みなのだろうか。

 或いは、何か自分に伝えなくてはならない事等があるのだろうか。

 まさか、現物的な未練ではなかろうが……。

 

 ……だが。

 父から告げられたのは、そのいずれでもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「未練とは、お前の事だよ、千尋」

 先程と変わらぬ、穏やかな口ぶり。

 父は、自分の瞳を見据えながら、理由を話してくれた。

 

 

「確かに、お前は随分と大人びたように見えるよ。

 でも……本当にお前が立派に成長しているのか、私は気になって仕方がない。

 特にお前には、自分を押し殺しすぎて、相手に壁を作ってしまう所があるからな。

 それが、私の未練なんだ。

 絶命の直前まで、お前の成長を案じていたんだ。

 だから、茶席でその答えを見せて欲しい」

「え、っ……」

 掠れたような声が漏れる。

 父の言葉の意味が、脳裏に浮かんでしまう。

 父が現れた瞬間よりも大きな狼狽が、千尋を襲う。

 

 だが、そんな千尋に構わず、父は言葉を続けた。

 

 

 

 

 

 

 

「この店を経営しているという事は、お前も茶道を始めたのだろう?

 お抹茶セット、頂けるかな」



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第十一話『泪 その一』

 夏風が、ぴゅう、と茶室を吹き抜けた。

 暑かろうという事で開け放たれた茶室の窓からは、木々が夏風に煽られて揺らいでいるのが見える。

 未だ終わらぬ夏を謳歌するかの様に枝葉を伸ばしている木々の姿からは、風情ある季節を感じる事ができた。

 その景も、この日が見納めかもしれないと思うと、毛氈に座したオリベは感傷的な気分を覚える。

 そう、この日で終わらせなくてはならない。

 上座に座る、かつての夜咄堂の主人、若月宗一郎を安心させて最後の仕事を成さなくてはならない。

 それが、付喪神である自身の定めなのだから。

 

 

(……とはいえ)

 

 茶室に入室した千尋を見つめながら、オリベは僅かに唇を噛み締める。

 確かに、千尋は大いに成長してくれた。

 しかし、本当に一人でやっていけるのかと問われれば、オリベもそうだと断言はできない。

 何分、彼はまだ茶道歴二ヶ月少々と、駆け出しも良い所なのである。

 だというのに、この茶席、オリベとヌバタマは客席に座している。

 千尋の成長が見たいという宗一郎の要望を受け、手前の補佐は一切行わない事になったのだ。

 日々是好日(にちにちこれこうにち)の発動だけは別であったが、容易な茶席にはならないだろう。

 千尋一人で取り組む上に、父と再会したという精神の高揚や、最後の茶席という重圧が、千尋にはあるのだ。

 平常心でに宗一郎をもてなす事ができるのか、少々の不安が残ってしまう。

 

 

 

「……お楽に」

 千尋が膝横の畳に指を付いて一礼した。

 その動きはぎこちなく、声も硬く聞こえてくる。

 ちらと隣の宗一郎を見れば、案の定、緊張感に満ちた顔付きで、ただでさえ鋭い目を一層細めていた。

 寛いでいるとは言い難い、千尋を監視でもするかのような顔付き。

 千尋の成長を確かめたいが為の緊張なのだろうが、そんな状態だからこそ和ませねば、もてなしとは言えない。

 宗一郎を迎えての茶席は、オリベの不安的中と共に開始された。

 

(良くないな……)

 空気の硬さを感じながら、千尋をなおも見つめる。

 彼と風炉(ふうろ)との間には、ヌバタマの本体である水葵蒔絵螺鈿棗(みずあおいまきえらでんなつめ)と茶杓が置かれていた。

 千尋はそれぞれ袱紗で清めたが、手つきには微かに震えが見受けられた。

 

(……良くない)

 もう一度、同じ言葉を脳内で呟く。

 千尋の張り詰めた心が、一畳越しにひしひしと伝わってくる。

 これ程までに彼が緊張している茶席は、初めてなのではないか、とオリベは思う。

 夜咄堂(よばなしどう)に来た初日、シゲ婆さんに突如一服振舞う事になった時よりも、緊張しているかもしれない。

 あの時は一声掛ける事で緊張を解したが、今日もそうするわけにはいかないのだ。

 それでも辛うじて手前が成立しているのは、日々の練習の賜物だろうか。

 だが、その賜物も、どれだけ持ってくれるか分からない。

 

(千尋、焦るな。お前が仕損じれば、何も始まらぬのだ……)

 激励の言葉を宿らせたかのような、熱い視線を千尋に送り続ける。

 日々是好日は、客の感受性を豊かにし、茶道の感動を引き立てる能力だ。

 だが、素になる感動がなければ、幾ら感受性が豊かになろうと意味がない。

 上手にもてなして良い茶席にしなくては、何も始まらないのだ。

 このままでは、宗一郎は成仏できない。

 自分達も、天に還る事ができない。

 絶対に失敗は許されない茶席なのだ。

 千尋とて、その事は重々……

 

 

 

 

(……いや)

 

 ふと。

 思い至ってしまった。

 

(焦りではなく、迷いなのか?)

 

 思わず、息が止まる。

 眼球だけを左右に振り、上座の宗一郎と下座のヌバタマを見る。

 

 

 

 

(この茶席で仕損じれば、宗一郎は成仏できない。

 言い換えれば、幽霊ではあるが、宗一郎とまた暮らせるという事だ。

 否、それだけではない。

 むしろ影響を及ぼしているのは、こっちか?)

 

 左右に振った視線を、ヌバタマの所で止めた。

 物音を立てず、身動ぎもせず、彼女はただ静かに千尋を見つめていた。

 ここ数日、千尋とヌバタマが顔を合わせたがらないのは、オリベも察している。

 その理由にも、大方の察しは付いていた。

 おそらくは、千尋は振られたのだろう。

 さすがは律義者の棗とでも言おうか、この黒髪の少女の茶道に対する情熱は自分以上だ。

 彼女が、客のもてなしを放棄して、現世に留まる選択をするとは思い難い。

 千尋とて、聞き分けがない男ではないから、一度はヌバタマの選択を甘受した事だろう。

 

 

 

(……甘受はした。そう、想定しよう。

 ……だが千尋、お前は……むっ?)

 

「あっ……」

 不意に千尋が、手にしていた青織部沓形茶碗(あおおりべくつがたちゃわん)を落としかけた。

 刹那、全身を駆け巡るような緊張感に見舞われる。

 『本体』が破損でもすれば、その痛覚は自分にまで伝わってくる。

 

「……っと」

 だが、堪えた。

 なんとか千尋が両手で支えてくれ、事なきを得る。

 

(ひ、冷や冷やさせおる……)

 内心、大いに安堵する。

 だが、茶席の空気が乱れてしまった事実は変えようがない。

 そしてそれは、オリベが抱く疑惑を大きなものに成長してしまった。

 

 やはり、と思う。

 千尋とて、一度はヌバタマの答えを受け入れたであろう。

 しかし、突然訪れた最後の茶席に戸惑ううちに、失敗という選択が湧き出たのかもしれない。

 この茶席が失敗に終わろうと、日々是好日を使う機会は次の客に持ち越すだけだ。

 だが、それまで多少の時間はあるだろう。

 その間に、ヌバタマが心変わりするかもしれない。

 現世に残ると言ってくれるかもしれない。

 好意を、受け入れてくれるかもしれない。

 

 彼は、その可能性を見出してしまったのだろうか。

 

 

 

 

(……千尋……お前は……)

 オリベは、目を瞑った。

 

(お前は……和敬清寂(わけいせいじゃく)の和を学んだ。

 その心をもってすれば、宗一郎も安心する事が出来るだろう。

 この茶席、多少間違いはあろうとも、その心を見せ付けてくれるものだと思っていた。

 だが……お前の中の天秤では、その心よりも、宗一郎とヌバタマの方が重いのか?

 焦っているのではなく、迷いが……その天秤の揺れが、手前に表れているのか?)

 

 

 

 

 

「……大変失礼致しました。……お手前、続けさせて頂きます」

 

 千尋の声が聞こえてきた。

 瞑っていた目を開ければ、茶碗を畳に戻した千尋が、宗一郎に向き直って頭を下げている。

 その言葉の本意は、もはやオリベにさえも分からない。

 

 

 

 

(千尋。お前は……どちらを選んだのだ?)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 第十一話『(なみだ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 青織部沓形茶碗に入れた抹茶と湯を、茶筅で掻き混ぜる。

 その千尋の手前を、オリベはしっかりと見据えていた。

 

 茶筅捌きとは、容易に見えながら事の外難しい。

 茶筅の振り方が甘いと、抹茶がダマとして湯の中に残ってしまうし、水面にきめ細かい泡を立てる事もできない。

 かといって入念に掻き混ぜて良いものでもなく、あまり長く取り掛かっては湯が冷えてしまうし、見た目も美しくない。

 茶道の稽古を始めた頃の千尋が、毎回何かしらの失敗を犯していた事を、ヌバタマから聞いていたオリベは知っている。

 だが、今の彼は違う。

 ここ最近の稽古に対する熱意は目覚しく、良い抹茶を()てる事も多いようだった。

 その手前さえ発揮できれば、とオリベは思う。

 

 

(その手前さえ、発揮できれば……)

 千尋の手前を見つめるオリベの顔が渋くなる。

 手前はたどたどしく、見ていて気になる多々点もあるが、短い茶道歴を踏まえれば、空気に呑まれて崩れるのも無理はない。

 しかし、それならば、まだ良いのだ。

 その失敗ならば、まだ千尋の気持ちだけは、宗一郎に伝わる。

 

 しかし、学んだ手前を発揮しようとせず、あえてダマを残すなり何なりの失敗を犯せば、茶席は台無しになる。

 茶が茶席の全てではないものの、軸となる重要な要素である事に変わりはないのだ。

 仮に千尋が、わざと失敗するつもりなら、この茶だとオリベは睨んでいた。

 だが、手前を見ているだけでは、千尋の真意は分からずじまいだった。

 そうこうするうちに、千尋は茶を点て終え、宗一郎へと茶碗を差し出した。

 

 

「どうぞ」

「うむ」

 宗一郎は厳格な口ぶりで茶碗を受け取った。

 この一杯で見極めようという彼の気持ちが、オリベにも伝わってくる。

 いよいよ、問題の瞬間が来る。

 この一杯で、千尋の真意が分かる。

 そして、全てが決まる。

 

 宗一郎は悠然と茶碗を煽った。

 彼の顔が茶碗に隠れ、喉仏が唸る。

 千尋が。

 オリベが。

 そしてヌバタマが。

 皆が、宗一郎の顔に視線を集める。

 

 やがて、彼の顔から茶碗が離れ……

 

 

 

 

 

 

「……お服加減、如何でしょうか?」

「大変結構でございます」

 

 

 

 宗一郎は、笑んでいた。

 お約束の掛け合いの声も、社交辞令ではない、実に穏やかなものだった。

 

(千尋……)

 オリベの表情も、また緩む。

 千尋を疑った事を恥ずかしく思いつつ、同時に彼を深く誇りに思う。

 この子は、立派に成長してくれた。

 宗一郎が亡くなったと知ったあの日から、この遺児の力にならなくてはと思っていた。

 やがて自分達付喪神が去っても、一人で生きていけるよう、心を教えなくてはと思っていた。

 その為に、幾つかの助言はしてきた。

 それらを全て吸収し、人として、茶人として、千尋は立派に育ってくれた。

 これ程までに嬉しい事が、他にあろうか。

 二百云十年生きてきて、これ程の感動がどれだけあっただろうか。

 茶道具青織部沓形茶碗は、人を癒す為に作られた。

 しかし、付喪神オリベは、この日の為に生み出された。

 

(そう思える……私は、心よりそう思えるよ。千尋。

 よくぞ、見事茶を点ててみせた……これでもう、私は現世に悔いはない)

 

 

 

 ……そうして感動に浸っているうちに、茶席は拝見の時を迎えた。

 使用した一部の茶道具を客に見せ、銘や概要を説明する時間である。

 一度千尋は離席しており、畳の上には水葵蒔絵螺鈿棗と、その棗を仕舞う布の仕覆(しふく)、そして茶杓が飾られていた。

 水葵蒔絵螺鈿棗を用いた意図は、オリベにも十分に理解できる。

 たとえ季節の物ではなくとも、客に関係した茶道具を用いるのは、茶席ではままある事だ。

 今回は、客ではないものの、ヌバタマがいるという事で、水葵蒔絵螺鈿棗を用いたのだろう。

 青織部沓形茶碗を用いた理由も同様だ。

 

 ただ、分からないのは、茶杓であった。

 まず、オリベはその茶杓に見覚えがなかった。

 すなわち、夜咄堂の物ではなかったのである。

 茶杓は薄く作られていて、力を入れて握れば折れてしまいそうにも見える。

 だが、歪みなく真っ直ぐに削られているからだろうか、か弱さよりもむしろ力強さを感じさせる茶杓だった。

 しかし、遠目の外見からでは、これがどの様な茶杓なのか、どうしても分からない。

 これを尋ねぬままに最後の茶席が終わるのは、少々悔しい気がしてならなかった。

 

 

「宗一郎」

「……分かりました」

 自身の胸に手を当てながら、前主の名を呼ぶ。

 彼との付き合いは、もう三十年程になるだろうか。

 その仕草だけで、宗一郎は意を汲んでくれた。

 そうこうしているうちに、和服を整えた千尋が茶室に戻ってくる。

 茶道具を挟んで千尋が座すなり、オリベは落ち着いた口調で声を掛けた。

 

 

 

 

 

「大変結構なお茶席でした」

「……どうも、ありがとうございます」

 宗一郎が喋るものと思っていたであろう千尋は、一瞬戸惑う様子を見せるも、すぐに頭を下げた。

「ところで、今日のお茶尺は」

「泪を写したものでございます」

「泪……?」

 千尋の言葉を繰り返す。

 泪の名ならば、無論知っている。

 オリベのみならず、茶人ならば誰もが知っている茶杓の代名詞とも言える品だ。

 その名と、この茶席の関連性を考えようとした所で、千尋が話を続けた。

 

 

「もちろんご存知かとは思いますが……泪の茶杓とは、かの千利休最後の作です」

「うむ」

「晩年の千利休は、豊臣秀吉との関係が悪化し、蟄居・切腹を命じられています。

 その蟄居の際、利休は京から堺へと向かったのですが、

 親交ある者達は、皆連座を恐れて、利休を見送ろうとしませんでした。

 ですが……」

「古田織部と、細川忠興。二人の例外がいるね」

「その通りです」

 千尋は深く頷く。

「二人の弟子の見送りに感激した利休はそれぞれに別れの茶杓を送りました。

 そのうち、古田織部に送られた茶杓……これが、泪の茶杓と言われています。

 今日の席では、大変恐縮ではございますが……その泪の写しを用いさせて頂きました」

「ふむ……」

 オリべは目を皿の様にして、茶杓を見つめる。

 言われてみれば、この実直な佇まいは泪に似た所がある。

 それでは、一体どこでこれを……という疑問が湧き上がったが、すぐに答えが思い浮かんだ。

 いつだったか、尾道の骨董品店の女主人を、日々是好日で癒したと聞き及んでいる。

 思いつく限りの可能性ではあるが、おそらくはその縁で調達したのだろう。

 

 

「この茶杓には……」

 千尋がなおも説明を続ける。

「この茶杓には、私の想いを込めました。

 泪……これは実に寂しく、そして強い茶杓だと、私は思うのです」

 声が、小さくなった。

 それでも彼は、オリベをしっかりと見据えながら語り続けた。

 

「かの古田織部は、総黒漆塗の筒箱に穴を開け、そこに泪を入れて位牌代わりに拝んだそうです。

 なにせ、師千利休との別れの茶杓なのです。

 連座をも恐れぬ程に敬愛した師なのですから、さぞや深い悲嘆に暮れた事でしょう。

 泪という名からも、悲しみはひしひしと伝わってきます」

「うむ。つまりそれが千尋の気持ちと……」

「半分は」

「半分……?」

「古田織部は、日々を過ごすだけではありませんでした。

 利休亡き後の茶人達の先頭に立ち、彼は幾多の文化を築きあげてきました。

 それこそ、オリべさんもそのうちのお一人ですし」

「む……」

「……それこそが、私の残り半分の想いです」

 

 千尋は、皆を見回した。

 笑んでいた。

 夏の日差しの如く眩しい笑みが、千尋の顔にはあった。

 

 

 

 

「皆がいなくなっても、大丈夫です。

 私は、一人で立派に夜咄堂を経営し、生きてみせます。

 ですので……どうか、ご安心下さい」

 

 たった、一つ。

 たった一つの道具で、溢れ出る想いを表現できる。

 千尋の用いた泪は、まさしくその例であった。



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第十一話『泪 その二』

 決意こそ表明したものの、千尋は内心猛烈な焦りを感じていた。

 薄茶を口にした父が微笑んでくれた点を踏まえれば、緊張から仕損じた序盤の失敗は多少回復できたのだろう。

 だが、まだ肝心の日々是好日(にちにちこれこうにち)が発動していない。

 手前こそ全て自分でこなしているが、ここぞという時にはオリベが日々是好日を発動してくれる事になっていた。

 そのオリベが力を使うと宣言しないのは……すなわち、ここまでの手前の中で、成長したと思ってもらえる火種を起こせていないのだ。

 

 

 

「……それでは、失礼致します」

 そうこうするうちに、とうとう拝見を終えてしまった。

 やはり駄目だったのかもしれない、と消沈しながら頭を下げる。

 

 駄目ならば、おそらくは次の客が来るまで、日々是好日の使用を持ち越すのだろう。

 すなわち、ヌバタマらともう暫くは一緒に暮らせるわけである。

 嬉しくないと言えば、嘘になる。

 だが、別れの辛さを堪えて茶席に臨んだのだ。

 骨董品屋の秋野に頼み込み、泪の茶杓の写しを調達してまで、臨んだのだ。

 ここまでくれば、何としてでも茶席は成功させたかった。

 

 おそらくは、ヌバタマが未練を見せたのならば、自分とてここまでの決心はできなかった、と千尋は思う。

 彼女は、付喪神の定めに殉ずる意思を毅然と示し、自分の想いも受け入れてはくれなかった。

 それならば、千尋とて決心できる。

 ヌバタマの確固たる意思の理由までは分からずずとも、尊重はできる。

 愛した人だからこそ、彼女の想いを大切にしたいと思える。

 その決意が結果に繋がらなかったのかと思うと、面目がなかった。

 

(ヌバタマ、本当にすまない……本当に……っ?)

 自身の至らなさを感じながら、上目遣いで皆の様子を伺うように頭を上げる。

 各々の表情が視界に入り……千尋は、思わず目を白黒させた。

 

 

 

 

(笑って、いる……?)

 皆、笑っていたのだ。

 父宗一郎のみならず、オリベもヌバタマも、目を細めて自分を見つめていたのだ。

 満ち足りた、何の不満も感じさせない顔をしていたのだ。

 笑顔の理由が分からず、呆気に取られて目を瞬かせる。

 もしや。

 もしや、これは……

 

 

「千尋」

 父から名を呼ばれる。

 穏やかな、あやすような口ぶりだった。

 一瞬、自分が赤子に戻ったかのような錯覚さえ覚えた。

「……私は、幸せだよ」

 

 ただ、それだけが告げられる。

 同時に、父の姿が幻影のように大きく揺らいだ。

 

 まさか。

 

 瞬時に思い浮かべる事ができたのは、その一言だけだ。

 視界が瞬く間に白に染まる。

 眼前の茶杓が眩い光に包まれて、視界が揺らぐ。

 もう何度も経験しているのだから、何が起こったのか理解はできる。

 だが、唐突に過ぎる。

 別れを惜しんでから『この力』は発動するものだと思っていた。

 慌てて立ち上がろうとするが、態勢が崩れてしまって動けない。

 そして、千尋の動揺が収まらぬうちに……日々是好日は収束してしまった。

 

 

 

 

(今のは……っ!?)

 ようやく平衡感覚を取り戻した千尋は、同時にはっとさせられた。

 先程まで毛氈(もうせん)の上に座していた三人が、消えている。

 一秒にも満たない、ほんの僅かな間のうちに、忽然と姿を消しているのだ。

 

 理由は、分かっている。

 それでも千尋は、弾かれたように立ち上がった。

 確認しなければ、気が済まなかった。

 茶室の窓から外を覗き込み、次に茶室を飛び出して隣の水屋(みずや)を一瞥する。

 どこにも人影がないと分かると、今度は一階へ駆け下りた。

 階段を踏み外しかけながらも堪えて着いた一階客室は、日頃よりも殺風景な気がした。

 その客席にも、台所にも、自分の部屋にも、誰もいない。

 最後に、玄関から外に出て庭や門を一瞥したが……答えは、同じだった。

 

 

「皆……皆、本当に……」

 

 いつしか荒くなっていた息を整えながら、茫然自失となる。

 気の抜けた表情のままで、店内に戻って階段を上れば、嫌でも目に付くものがあった。

 茶室の前に飾られた水墨画。

 付喪神達の働きを現すその絵は、墨が色濃く用いられている。

 茶席の前には、もう少し色が薄かったのを、千尋は確かに確認していた。

 はっきりと読み取れるようになったその絵には、中年の男と少女、そして一匹の犬が山を目指している姿が描かれている。

 今ならば、この完成された絵画の意味が分かる。

 そして、皆に何が起こったのかも分かる。

 

 

 

(……俺は、父さんをもてなせたんだ。

 だから、父さんは成仏して消えた。

 付喪神達も、最後の仕事を終えて、天に召されたんだ。

 この絵の様に……)

 

 ようやく、千尋はそれを認めた。

 力ない足取りで、茶室へと入る。

 不思議と、寂しさは沸いてこなかった。

 それよりは、突然訪れた別れに唖然とするばかりだった。

 もう少し、別れを惜しむなり何なりの猶予があるものだと思っていた。

 それが、一言の挨拶もなく、日々是好日が発動したのだ。

 

 もう誰もいない、がらんとした茶室。

 それに似た空虚感が、千尋の胸を支配していた。

 

 

 

 

「……随分、あっさりしてるじゃないか」

 ぽつりと、言葉が零れ落ちた。

「もうちょっと、何かあるものだと思ってたんだけれどな……」

 なおも呟き、茶室を後にしようとする。

 

 だが、振り返ろうとした千尋の視線が、途中で止まった。

 先程は動揺するあまり見落としていたが、毛氈と畳の間に、白い封筒のようなものが挟まっている。

 下座側なので、ヌバタマが座っていた辺りだった。

 近づいて拾い上げれば、やはり封筒だった。

 表側には達筆な筆遣いで『千尋さんへ』と記されている。

 今日の三人のうち、自分をさん付けで呼ぶ者は一人だけだ。

 すなわち、これは……

 

(ヌバタマから、なのか……?)

 

 茶室に立ち尽くしたままま、中身を破らないように封を切る。

 中には、一通の手紙が残されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 拝啓

 

 処暑の候、未だ続く暑さのみならず、私共付喪神の事でお心を砕かせてしまっているものかと存じます。

 ただでさえご迷惑をお掛けしているというのに、このような形で最後の言葉を残す重ね重ねの失礼、何卒ご容赦下さいませ。

 千尋さんにはお伝えしたい事がございましたが、どうしても、自分の口からは言えなかったのです。

 

 

 千尋さんが夜咄堂にお見えになった日の事、今でもしばしば思い出します。

 突然宗一郎様のお子様が現れただけでも驚いたのに「店を売るつもりでは」とオリベさんから聞かされた時は、心臓が飛び出るかと思いました。

 結局千尋さんはお店を続けられましたけれども、心変わりを防ぐ為に、日々のお稽古では茶道の良さを知って頂こうと必死でした。

 

 

 でも、その日々が楽しかったのです。

 お稽古だけではありません。

 お店の為にお客様を呼び込んだり、映画に連れて行って下さったり、唐津にまで同行させて頂いたり。

 千尋さん過ごした日々は、宗一郎様の代にはない刺激に満ちた毎日でした。

 いいえ、宗一郎様の代が楽しくなかったというわけではありません。

 千尋様とご一緒する日々においては、千尋様ならではの楽しみがあった、という事です。

 

 

 とはいえ、よもや愛の告白までされるとは思ってもみませんでした。

 ……嬉しかった。

 所詮は茶道具である付喪神を、それ程までに想って下さるとは、夢にも思いませんでした。

 面と向かっていないからこそ告げられる事ですが、告白を受けてからというものの、

 ことある毎に千尋さんの言葉を反芻しては、一人高揚し、暖かく、そして切なくなる気持ちに浸っておりました。

 その感情を表に出さないようにするには、随分と苦労したのですよ?

 

 

 さて、もうお察しの通りかとは存じます。

 お伝えしたい事とは、千尋さんの告白に対する私の気持ちです。

 本当は、千尋さんの事、深く深く慕っておりました。

 自分を押し殺してでも他人を気遣う優しさに、好意を寄せておりました。

 それでいて、その分脆く寂しげな本当にお姿を、支え続けたいと思っておりました。

 千尋さんのお気持ち、お受けしたかったのです。

 できる事なら、あの日に戻って首を縦に振りたい。

 愛しています、とお答えして、千尋さんの胸に飛びつきたい。

 心より……千尋さんの事を想っていたのです。

 

 

 でも、それはできませんでした。

 お気持ちをお受けして、最後のお客様がお見えになるまでの僅かな時を、共に過ごそうかとも思いました。

 お返事をする直前まで……いえ、お返事をしてからも、そうありたいと思っておりました。

 

 しかし、無理なのです。

 私は気持ちが強くありません。

 一度お気持ちをお受けしてしまったら、きっと、そのまま現世に残りたくなる。

 曖昧な返事をして、千尋さんに未練を持たせてしまったら、私まで崩れてしまう。

 だから、返事をしてから現在に至るまで、毅然とした対応をさせて頂きました。

 

 

 それが、茶道具の掟であり、本能なのです。

 私達は、人に良き一服を味わって頂く為に存在している。

 人の心を癒す為に、存在している。

 悩みました。

 胸が張り裂けそうになる気持ちを抱えながら、悩みました。

 それでも……私は、最後のお客様を癒す選択をしました。

 だって……だって、私は、茶道具なのですから。

 

 

 こうして一方的に気持ちをお伝えする事、非常に失礼なものだと存じています。

 私が一方的に言いたい事を言っても、千尋さんはお返事ができないのですから。

 その点、心よりお詫び申し上げます。

 

 でも、伝えたかったのです。

 茶道具としての宿命と釣り合う程に、千尋さんの事を慕っていたのです。

 この気持ちをどうしても伝えなければ……私は、きっと、最後の茶席で泣き出してしまうでしょうから。

 

 

 

 千尋さん、これまでありがとうございました。

 どうか、お元気で。

 

 敬具

 

 八月某日

 

 ヌバタマ

 

 

 

 

 

 

 

 

 嵐のような哀情が千尋に襲い掛かってきた。

 立つ事さえままならず、畳に崩れ落ちてしまう。

 その畳を握り拳で何度も叩きながら、千尋は泣き喚いた。

 

 相愛だったのだ。

 ヌバタマは、好意をもってくれていたのだ。

 そして、最後の瞬間まで自分を気遣ってくれていたのだ。

 だというのに、それらに気づいてやる事ができなかったのだ。

 

 ただひたすらに、後悔の念に苛まれる。

 泪は、止め処なく溢れ続けた。



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第十一話『泪 その三』

 肌寒い日が続くようになった。

 夜咄堂(よばなしどう)の庭に咲く紅の紅葉は、吹き付ける秋声によって大分散っている。

 立冬はとうに過ぎ、もう間もなく小雪の時期となる。

 夜咄堂の薄い板壁では、やがて到来する本格的な冬にどれだけ抗えたものか、分かったものではない。

 客室は当然の事、自室も何とかせねば、風邪を引いてしまうだろう。

 自分が倒れては店も開けられぬ、さて暖房器具はどうしたものか……

 と、千尋はその様な事を考えながら、庭で落葉の清掃に取り組んでいた。

 落葉は庭中に撒き散らされていて、それはそれで風情があるのだが、茶花と同化してしまい、互いの良さが打ち消されているのであった。

 

 かき集めた落葉を一旦袋に纏めはしたが、中から数枚を見繕い、庭の一角に掘られている塵穴(ちりあな)に入れる。

 塵穴はゴミ箱ではなく、集めた木葉等を敢えて入れておく為の穴だった。

 千尋が調べた所によれば、茶室の庭にはよくあるもので、茶室に入る前に心の塵を落とす、という意が込められた穴らしい。

 付喪神(つくもがみ)達がいる頃には全く気に留めなかった存在だが、自主的に茶道を学んでいく中で得た知識だった。

 

 

 

 

「よう、やってるなあ」

 ちょうど掃除を終えた所で、門の方から声を掛けられた。

 振り返れば、女っ気のないジーンズにジャンパー、それからマフラーを纏った岡本知紗がいた。

「岡本さん、これはいらっしゃいませ」

「おう。今朝は冷えるなあ……。中入るぞー」

「今は誰もいませんから、お好きな席にどうぞ」

 

 そうして、二人して店内に入る。

 注文されたホットココアを出すと、岡本は楽しげに足を振りながら両手でココアのカップを掴んで飲んだ。

 低身長もあいまって、まるで子供のようなその仕草に、千尋は隠れて苦笑する。

 これでいて、小規模な陶芸コンクールで入選した腕の持ち主なのだから、人は見かけによらないものだ。

 

「最近陶芸の調子、良いみたいですね」

「こないだのコンクールか? はっはっはっ! どんどん褒めて良いぞー!」

「次は入選より良い成績残して、賞金稼いで下さいね。それで焼肉でも行きましょう」

「お、お前なあ……」

 調子に乗った岡本が、がくりと脱力する。

 彼女は机に腕をついたまま、ジトリと睨んできた。

 

「そういうお前こそ、相変わらず店儲かってないみたいじゃん。もうちょい頑張れよ」

「いやはや……何分一人なもので、お店の宣伝にまで手が回らなくて……」

「ま、もうちょっと慣れれば、上手くやれるだろうさ。サークルには無理に顔出さなくて良いからな」

「お気遣い、どうも。……ホント、いい加減なんとかしなきゃ拙いんですよね。

 いつまでも父さんの遺産で赤字補填できるものじゃありませんし」

 そうボヤキながら、千尋も椅子に腰掛ける。

 

「茶道具売ったり、店たたんだりする予定はないの?」

「ええ。それだけはありません」

「だろうな」

 岡本は嬉しそうに口元を和らげて頷くと、ココアの残りを飲みだした。

 対面の千尋は、何をするでもなく、頬杖を突いて庭を眺める。

 夜咄堂には、ココアを啜る音と、千尋が椅子を軋ませる音だけが静かに響いた。

 ただ、秋の一時が過ぎてゆく。

 やがて先に口を開いたのは、ココアを飲みきった岡本だった。

 

 

 

「……オリベさんと、ヌバタマちゃん、突然辞めたって言ってたな」

「そうですね。二人とも訳ありで」

 岡本の方を向かずに、千尋は頷く。

 

「それじゃあ、その訳が片付いたら、帰ってくるのかな?」

「どうでしょうかね」

「なんかさ。不思議な連中だったよな」

「………」

 千尋は返事をせず、また黙って頷いた。

 

「もちろん、名前や格好もそうなんだけれどさ。

 なんというか、世間ずれというか、神秘的な雰囲気というかさ」

「……言わんとする事は、分かります」

「うん。……上手く言えないんだけれども、とにかく不思議な人達だったよ」

「………」

「案外、人間じゃなく、妖怪だか神様だか……いや、茶室の茶道具にちなんで付喪神なんかだったりしてな!」

 岡本は、からっとした口調でそう言ってのけて、勢い良く立ち上がった。

 

 千尋は首だけを回して、視線で彼女を追う。

 冗談めかしてはいるが、彼女は薄々気がついていたのかもしれない、と思う。

 ならば、はっきりとさせた方が、彼女も支えが取れて気分が良いだろう。

 しかし、千尋はその選択をせずに、真実を胸の内に秘め続けていた。

 

 そのうち、新たな付喪神の宿る茶道具を手に入れる機会があるかもしれない。

 それが口外しない最大の理由ではある。

 そしてもう一つ、彼は微かな可能性を信じていた。

 何の根拠もない可能性だ。

 ただの願望と言った方が適切である。

 それでも、千尋は信じたかった。

 いつの日か、皆が帰ってくる事を、信じたかった。

 

 

 

「さてと。そろそろ帰るわ」

 岡本の声が、千尋を現実に引き戻す。

 彼女はそう告げると、ポケットから小銭を出して机の上に置いた。

「あれっ、随分早いですね」

「お前に小遣い恵みに来たようなもんだし。じゃな」

 

 岡本はニッと歯を見せて笑い、足早に帰っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 また一人になった千尋は、何をするでもなく椅子に座り続けていた。

 付喪神達がいなくなってからというものの、こうして一人静寂に浸る時間は随分と多くある。

 その間に、店の宣伝方法を考えるなり、大学の勉強をするなりしても良かったのだが、

 この静寂そのものを好いていた千尋は、他の事に時間を割こうとしなかった。

 

 少しだけ、期待をしている。

 背後でオリベが笑い。

 庭でロビンが吠え。

 横でヌバタマが稽古を強いる。

 皆の声が静寂を破るのを、少しだけ期待している。

 

 だが、当然ながら期待はいつも空振りに終わっている。

 この日も、適当な所で沈黙を終えた千尋は、深く溜息をついてココアのカップを手に取ろうとした。

 すると、机の上にはココアのカップだけではなく、マフラーも残されている事に気がついた。

 岡本の物だと思い、窓の外に目をやったが、既に岡本の姿は見えない。

 追いかけようかとも考えたが、店の門を出れば、上下に伸びた石段にすぐ行き着いてしまう。

 上か下かの二択になれば、岡本を発見するのは難しい。

 結局、千尋は岡本を追わなかった。 

 気づけば取りに来るだろうし、来なくても明日渡せば良い。

 そんな事を考えながら、ココアのカップを台所に運ぶ。

 他にやる事もないので洗い物を済ませようと、蛇口の栓を開けようとした所で、玄関の扉が軋む音が聞こえた。

 

(早速取りに来たかな……)

 千尋は小走りで客席側に出た。

 それから、玄関の傍にいるであろう岡本の顔を覗き込もうとして……彼は、固まってしまう。

 そこにいたのは、岡本でも、他の客でもなかった。

 

 

 

 

 

 

「な……なんで……?」

「こ、こんにちは……」

 顎を引き、上目遣いで恥ずかしそうに千尋を見つめる少女が、そこにはいた。

 赤い唇に整った顔立ち。

 光琳(こうりん)模様の刺繍が施された黒の和服。

 そして、射干玉(ぬばたま)色の髪。

 ただでさえ特異な出で立ちな上に、強く想いを寄せた人だ。見紛うはずがない。

 玄関の傍にいたのは、間違いなく、ヌバタマその人だった。

 

 

 

「えっ? どうして……どうしてヌバタマが、ここに?」

 慌てふためきながら、ヌバタマに駆け寄る。

 無論、彼女と再開できたのは嬉しい。

 しかし、彼女が再び現れた事に対する混乱が、嬉しさを上書きしていた。

 これは夢幻の光景か。

 そうでなければ、自分が知らずのうちに死んでしまったのか。

 或いは……

 

「……実は、その……お仕事が終わっていませんでしたもので」

 ヌバタマは気まずそうに、おずおずと告げる。

 そう。或いはその可能性が考えられた。

 父を癒し損ねた為に、日々是好日(にちにちこれこうにち)が不発に終わっていれば、ヌバタマが現世にいる説明が付く。

 しかし、日々是好日は確かに発動していたし、水墨画も完成していた。

 新たに湧き出る疑問に、千尋は首を大きく傾げてしまう。

 

「でも、ちゃんと仕事は果たしただろ?

 その証拠に水墨画は完成していたぞ。それに、皆いなくなったし……」

「うむ。その仕事は済ませたが、新しい仕事ができたという事だよ」

 ヌバタマの背後から、懐かしい声が返事をしてくれた。

 ヌバタマがいる理由は分からないが、彼女がいるなら、彼もいてもおかしくはない。

 もったいぶったような足取りで、ヌバタマの背後からオリベが出てきても、今度は然程の動揺は感じなかった。

「オリベさんも……」

「なんだね。大して驚いとらんなあ。つまらん」

 オリベは不満タラタラな様子で口をすぼめる。

「オリベさんもいるという事は、ロビンも?」

「あったり~。いぇーい!」

 返事は、庭から聞こえてきた。

 反射的に窓の外を見れば、丸々と太った雑種犬が二本足で立ってはしゃいでいた。

 だが上手く体勢を保てないようで、暫しふら付いた後、無様に転げてしまう。

 そんな事ができる犬は、千尋の知る限りではこの世に一匹だけだ。

 相変わらずまぬけなロビンに 千尋は思わず苦笑してしまう。

 皆、何も変わっていない。

 あの頃のままで、帰って来てくれたのだ。

 しかし。

 しかし、と千尋は思う。

 

「しかし……新しい仕事とは?」

「それなのですが……あの茶席で、宗一郎様と入れ替わりに、他の方を悲しませてしまいましたもので……」

 ヌバタマが、なおも遠慮しがちに答えた。

「他の方……」

 千尋は思わず、彼女の言葉をオウム返しにしてしまう。

 だが、誰を指しているのかは千尋にも分かる。

 あれだけ泣いたのだから、分からないはずがない。

 

 

「そうです。ええと、その……千尋様の事です。

 ……私達は確かに、天に昇りました。

 しかしその天で『人間を癒すはずの茶道具が、あれだけ人間を悲しませるとは何事か』と、

 茶道具に霊を込められる神様から、私が随分と怒られてしまいまして」

「………」

「そんなわけで、追加のお仕事を終わらせるまで、現世に逆戻り……

 オリベさんとロビンさんも、連帯責任で現世に戻ってきたというわけです」

「追加のお仕事というと、悲しませた人を……」

「ええ。その方を癒すお仕事です。つまり……」

 

 ヌバタマが顔を伏せる。

 一方の千尋はヌバタマから視線を切る事ができなかった。

 切ってしまったら、彼女の姿と共に、先の言葉さえもが消えてしまいそうな気がした。

 それだけは、嫌だ。

 もう絶対に、彼女を失いたくない。

 心臓が猛烈に猛る。

 体が微かに震えてしまう。

 彼女の言う仕事とは……

 

 

 

「つまり……千尋さんが天寿を全うされるまで、癒して差し上げるのが、私の仕事なのです」

「……ん」

 ヌバタマは、顔を伏せたままでそう言ってのけた。

 一方の千尋も、そっけない返事しかできない。

 溢れ出る感情を、言葉にできなかったのだ。

 

 また、ヌバタマと暮らす事ができる。

 自分を慕っていると、手紙で告げてくれた彼女と暮らす事ができる。

 共に茶を点てる事もできるのだ。

 

 気が付けば、千尋は足を一歩前に踏み出していた。

 感極まってしまって言葉は出てこないが、行動で示す事ならできる。

 目の前にいる、ヌバタマの小さな肩を、両手でゆっくりと抱きしめ……

 

 

 

 

 

「そんな事より!」

「ありゃ?」

 ……抱きしめようとした千尋の手は、空を切った。

 ヌバタマは千尋の手を掻い潜ると、足早に階段の方へと向かった。

 首だけで振り返りながら、彼女は怒ったような口調で言葉を発する。

 

 

「そんな事より、早速二階でお稽古しましょう!

 どうせ千尋さん、私達がいない間は、お稽古サボっていたんでしょう?

 今日からは、私がみっちりと指導して差し上げますから!」

「お、おう……」

 なんとも、つれない対応。

 互いの好意を知る前の、稽古熱心なヌバタマと何も変わっていない。

 稽古熱心なのは良いのだが、もう少し好意を表に出してくれても良い、と千尋は思う。

 頭を掻きながらヌバタマの後を追ったが、その最中に、ふと気が付いた。

 

(……いや……出ていないでもない、か……)

 前で自分を待つヌバタマの頬は、真っ赤に染まっていた。

 初々しい事この上ない。

 だが、それで良いではないか。

 時間は、これから幾らでもあるのだ。

 

 

 

 

 

「……それじゃあ、一服差し上げるとするかな」

 千尋の溌剌とした声が響く。

 霜月の小寒い夜咄堂は、暖かい三つの笑い声と一つの遠吠えに包まれていくのであった。



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番外編
番外編『ロビン散策記 犬のおまわりさん その一』


「フヘッフヘッフ! ワンッ!!」

 

 船の上にごろりと這い蹲った俺が、そんじょそこいらのJCならイチコロの鳴き声を漏らす。

 必殺悩殺セクシーボイスの効果は絶大だったようで、案の定、俺を取り囲んでいる向島のJC三人組は、

 「キャー!」「かーわいいー!」等と、キンキンキラキラ黄色く心地良い歓声を、俺の耳に届けてくれた。

 

 掴みさえ良けりゃあ、あとは容易い。

 さあどうぞお好きになさって、との気持ちを込めて、一層腹を突き出してやれば、

 JC達は腹をモサモサザクザクと撫でてくるのだが、これが何とも心地良く、ひと撫で毎に俺のコーフンを煽ってくれる。

 若く柔らかい手。子供ならではのエネルギッシュな声。

 おお、これよこれ。この感触の為に俺は夜咄堂を出たのだよ。ワン。

 それでいて、彼女達の手つきには暴力性というものがない。

 なにせ、動物を扱う時の加減というものを弁えるようになったお年頃なのだ。

 これがJSだと「わあわあワンワンわあワンワン」と、毛をむしらんばかりの勢いで撫でてくるものだ。

 かといって歳くってりゃ良いってもんでもなくて、JK以上では、俺のコーフンをここまで掻き立ててはくれない。

 これこれ、これこそがJCの良さなのよ、と、トロリトロトロと悦に浸りつつ、

 なおも寝転がる俺の視界の奥に、俺達を羨望の眼差しで見つめる、大学生くらいと思わしきアンチャンが映った。

 ハハァン、大方アンチャンも同じように撫でられたいのだろう。

 でもダメだかんね。残念無念また来年、ワンコに産まれて出直しといで。

 悦楽と優越感がグルリグルリと絡まり、俺はこの世の幸せを独り占めしたかのような心地で、船とJCに揺られ続けた。

 

 

 

 ――渡船、ってもんが尾道にはある。

 本土側の尾道市街と、本土から三百メートル程離れている向島を繋ぐ三隻の船が、それぞれ一日百往復程、セッセセッセと海上をひた走っているのだ。

 向島側にとっては重要な交通手段だし、もちろん本土側にとっても有用な船なもんで、客には地元の奴らが多い。

 今現在、俺の腹を撫でてくれているJC三人組も、向島に住む少女達で、休日は大抵三人揃って本土に遊びに出かけている。

 長年の経験でその事をチャーンと知っている俺は、本土側の船着場に張り込んで、JC達が向島に帰る時に同乗しているって寸法だ。

 千尋の奴は俺の事を駄犬だのなんだのと馬鹿にするが、尾道に来て十八年、地元の皆々様から愛されている俺ともなれば、渡船の乗務員とも顔馴染みで降ろされる事もないんだもんね。

 向島に着くまで、約五分。

 何者にも邪魔をされない、短くも至福のひとときを、俺はマンキツしていた。

 

「フッヘフッヘフッヘ、フゴッ!」

「ロビンって本当に人懐っこいよねえ。ねえねえ、うちの子にならない?」

 俺のチャーミングな鳴き声に気分を良くしたのか、三人の中でも一等可愛い子が、今度は俺の頭を撫でながらユーワクしてくる。

 発育も一番良くて、少女らしからぬくびれた胴回りが目を引く、それはそれはミリョク的な子なのだ。

 

 鎖に繋がれた生活というのはちょっとご勘弁頂きたいものなのだが、この子のお誘いとあらば一考の余地はある。

 まず、飼い主としては申し分なし、これぞまさに本懐である。

 家も昔ちらっと見た事があるが、十分な広さの庭付き一戸建てであった。これも良いとしよう。

 あとは……これだけの美人ちゃんなのだ。もしかすると、この子も『あの一族』なのかもしれない。

 ともなれば、この子や家族に流れる血には、品格というものがちゃーんと染み込まれているはずだ。その点も良し。

 

 ただ、これだけ好条件が揃っても、鎖を乗せた天秤を用いれば、やっとこさっとこ釣り合う状態だ。

 さてさて、これはどうしたものだろうかね。

 いや、やはり俺にも野良としてのプライドというものが……

「ねえねえロビーン。おうちにおいでよー」

 なおも甘ったるい声が、俺のチャーミングなふわふわ耳を支配する。

 はいっ、行きます、決定。ペットになっちゃうもんね。

 シュタッと跳ね起きた俺は、ついに見つけた主と主従のお手を交わそうと、右前脚を差し出し……

 

「あ。着いたよ」

「おやつにパン買ってこうよ! お腹空いちゃった」

「そうだね。ロビン、ばいばーい!」

 

 ……差し出して、見事に空を切った。

 

 

 

 渡船が向島に到着するや否や、JC三人組は未練のミの字も見せずに立ち上がり、足早に渡船から降りていったのだ。

 あの大学生のアンチャンも、そんな俺を見て、プククと笑い飛ばしながら去っていく。

 ぽつん、と一匹寂しく取り残される可哀想な俺。

 いと、かなし。

 瀬戸内の風に吹かれ、黄昏れたい気分に駆られてしまうが、これを本当にやっちゃあ乗務員のオッチャンがぶったまげる。

 正体だけはキッチリ隠さにゃあ、ナンパどころの騒ぎじゃないのだ。

 致し方なく、トボトボとした足取りで船を降りた俺の体は、降船の瞬間にぐいと後方に引っ張られた。

「ギャインッ!??」

 尻尾が動かず、だというのに前に進もうとしたもので、地面に大の字に倒れてしまう。

 何が起こったのか理解が出来ないままに体を起こそうとするが、まだ尻尾が動かない。誰かに握られているのだ。

 いくら可愛く賢く逞しくクールでホットなナイスガイのロビンちゃんで通っている俺と言えども、尻尾を握られちゃあ怒っちまう。

 ぐるる、と歯をむき出しにして振り返ったその先には……

 

 

「べうべう……」

 着物を着た五歳くらいのガキンチョが、俺の尻尾を握っている。

 ガキンチョは、哀愁に満ちた瞳をまっすぐに俺に向け、その瞳同様の寂しげな口調でこう言った。

 

「べうべう……カカさま、どこにもおらん……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 番外編『ロビン散策記 犬のおまわりさん』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴンゴン、とエンジン音を刻みながら、渡船が本土側へと去るのを見送る。

 段々と遠のくエンジン音の代わりに聞こえてくるのは金属音。とはいっても、皆大好きお金の音なんかじゃない。

 船着場からちょいとばかし離れた所に建っている造船所から聞こえてくる、緩やかなリズムの金槌の音なのだ。

 

 この造船所は、なんでも戦前からこの向島にデデーンと居座っているらしい。

 千光寺山から見ても造船所のクレーンは目立っていて、夜にはライトアップなんかしちゃったりする、島のシンボルみたいなもんだ。

 島に住む牛乳屋のオババが、戯れに聞かせてくれた昔話によれば、

 戦時中は、ジャンジャンジャカジャカとパチ屋宜しく、それはもう景気の良い音を打ち鳴らしていたらしい。

 それというのも、立地の問題が大きいのだろう。

 尾道の近隣都市の呉には、戦時中、呉鎮守府なる海軍拠点があった。

 これを略すると、クレチン、となんだかヒワイな響きがする言葉になってドキドキしちゃうんだけれども、

 肝心の海軍拠点は、そんなおちゃらけとは対照的にガッチガチのマジモンだから、

 近隣に位置する向島造船所の景気が良かったのも、自然の流れと言える。

 

 

「べうべう……」

 同じく船を見送っていたガキンチョが、また不安そうな声で呟いた。

 降船してから今に至るまで、こいつがずっと俺の尻尾をぎゅっと握り続けるもんだから、さっきから痛くてたまらん。

 その上、べうべう等と奇妙なあだ名を付けやがって。

 これだからJC以外は困るのだ。

 もう唸りたくて唸りたくて仕方がないのだが……

 声同様に、不安の塊の様な顔を見せられちゃ、優しい俺としては、どうにも気後れしてしまうのだ。

 

 

「べうべう……カカさま、どこ?」

「ワンッ!」

 そんなの知るかい。せめて名を名乗れ。

「なまえ、おぼえておらぬ……」

「ワ、ワンッ!?」

 偶然の会話成立に、思わず声がひっくり返ってしまう。

「カカさま、カカさま、どこ……」

「ワフン」

 知らんがな。そもそもどこに住んでいるんだよ。

「やしき……やしきのばしょも、おぼえておらぬ」

「!?」

 

 二度も続けば、偶然とは思い難い。

 と、同時に、俺の頭ん中の電球にピコーンとあかりが灯った。

 くるりと首を回して、ふんふんとガキンチョの匂いを嗅げば、案の定、人間の香りが全くしない。

 いや、人間云々でなく、何の香りもしないのだ。

 こいつぁ、この世の奴じゃあない。

 だから、俺の心中も読み取る事ができたんだろう。

 かといって、夜咄堂には他には付喪神はいないから、その線でもない。

 時代がかった着物や喋り方を考えりゃあ、大方、随分昔に死んじまって成仏できない幽霊って所だろうかね。

 

 

 

「名前を聞いても分からない、おうちを聞いても分からないってか。

 はぁー。これがJCなら喜んで探すのに協力してやるんだがなー」

 相手が幽霊であれば、喋っても支障はない。

 面倒臭そうに鼻息を鳴らしながら、俺はそう言ってのける。

「じぇーしー?」

「じょしちゅーがくせーだよ。お前とは年齢も性別も違う、ステキな子達だ」

「それ、カカさま?」

「アホちん」

 脱力しながらも、突込みを入れる。

 よもや、この俺が突っ込み側に回ろうとは、ガキンチョの天然パワーとは恐ろしいものだ。

 

 さて、それにしてもどうしたもんだろうか。

 本気を出してブンブンと暴れれば、振り解くのは造作もない。

 なので、逃げようと思えばいつでも逃げられるんだが、

 さっきも言ったように、ガキンチョがあまりにも不安そうな顔をするもんで、逃げるのもちょっと宜しくない。

 となれば、答えは一つ。

 こいつのお母さん……多分、そいつも幽霊なんだろうな。

 それを探し出してやる以外にはない。

 突如降りかかった面倒事に、俺はやれやれとクールに頭を振りながら、ガキンチョの顔をもう一度見た。

 くりくりとした目付きに、やや高めの鼻。

 頬はガキンチョらしくぷっくりと丸いが、白い肌には少なからずの気品を感じる。

 おかっぱの御髪もしっかりと手入れされていて、乱れがない。

 いわゆる一つの美少年ってやつだわな。これならば、母親も美人なんだろう。

 

「子持ちは完全にストライクゾーン外なんだが……まあ、美人に感謝されるのなら、悪い気はしねーなー」

「すとらいくぞーん……カカさまか?」

「ノウ。お前の母親を探してやるって言ってんだよ。ほれ、離さんかいな」

 

 そう告げて尻尾を震わせると、ガキンチョはようやく手を離した。

 ようやく自由を得た尻尾を、ブンブンと二度、三度振ってリラックスした所で、くるりと体を回転させて通りの方へ歩き出す。

「探しに行くぜ。着いてきな」

「……うん!」

 ガキンチョはタドタドしい足取りながらも、俺に平行して歩きながら、言葉を続けた。

 

「のう。べうべう」

「そのべうべうって呼び方は止めろ。ロビンって名前があるんだ」

「べうべう、かたじけない」

「……ロビンだ」

「べうべう」

 いつの間にか、ガキンチョは笑っていた。

 気分屋はこれだから困るのだ。

 俺は歩調を速めながら、通りをズシズシと進んでいった。



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番外編『ロビン散策記 犬のおまわりさん その二』

 向島とはどのような島なのであるか。

 一言で島と言っても、周囲一面を海に囲まれた絶海孤島で、殺人事件でも起こすにはもってこいの島から、

 ビルが立ち並びネオンはキンキンキラキラと輝く、そんじょそこいらの本土の町では到底太刀打ちできない程に発展した島もある。

 大きさだって大中小と様々だし、有人無人の違いだってある。

 それ程に数多く溢れる島の一つ、この向島を一言で例えれば、静かな島、だろう。

 船着場に隣接している通りは、本土の商店街以上にシャッターが降りている店が目立つし、島民にもジジババは多い。

 島の中心部まで向かえばそれなりに発展はしているのだが、所々には、隆盛の跡と言わんばかりの物寂しさがあるのだ。

 だが、あくまでも一言で言えば静かなのであって、二言、三言でより詳しく説明すれば、この島の魅力はザクザクと掘り出すことができる。

 

 

「ガキンチョ。この通りに見覚えはないか?」

「ない……」

 通りを我が物顔で歩く俺と、その横をとぼとぼ歩くガキンチョ。

 まるで従者のようなガキンチョは、俺の問いに力なく首を横に振った。

「そっかー。今は寂れているように見えるかもしれんが、戦前は大いに賑わった銀座通りらしいぞ。

 なんせ本土との玄関口だからな。尾道市外の好景気の影響をもろに受けたんだろう。

 ちっちゃな通りに米屋が三件も並んで、それが全部まともに営業できてたんだから、すげーなー」

「それほどにか?」

「おう。聞いた話だけどな。……ま、今じゃこの通りだが」

 

 この通りから活気がなくなったのは、割と近年の事だ。

 戦後、交通の便が発達して、少し足を伸ばせば何でも安価でホイホイ手に入るようになったからか、

 この通りの店々は、時代の進行と共に景気を悪化させたようで、昔に比べれば多くの店が暖簾を下ろしているらしい。

 それでも「不景気なんの!」と、未だに営業を続けるタクマシイ店も幾つか残っていて、それらの店は未だに昭和初期の面影を残している。

 昭和といえば、本土側の商店街の方も同じなんだけれど、向こうは昭和中期後期の懐かしさを醸し出す通りだ。

 一方のこちらは、殆どの人間は本や映像なんかでしか見た事がない、昭和初期の幻想的な古さを醸し出している。

 ちなみに、見た事がないのは、あくまでも人間の話ね。

 俺は、当時は別の都市にこそいたが、その頃の日本の風景を見知っているのだ。

 昭和を知る男、ロビン。

 ううん、なかなかいい響きじゃないのさ。

 マドロス姿で波止場に前足を掛ける俺。

 うん、なかなか絵になっているじゃないのさ。

 

 

「べうべう……?」

「フゴッ? あー、あーあー。なんでもないー」

 ガキンチョの一言で現実に引き戻された俺は、周囲を見回しながら言葉を続ける。

「この辺りは、昔から見た目が変わっちゃいない建物も多いが……本当に見覚えはないんだな?」

「うん」

「んじゃ、お前は結構昔の幽霊なのかねえ」

 ガキンチョと前方を交互に見ながら、更に歩く。

 すると、道の先に、見知った牛乳屋の看板が見えてきた。

 

 

 

「お。ガキンチョ、ちょっと休憩していくぞ」

 そう一方的に告げて小走りになり、巨人の口みたいに開かれている牛乳屋のバカデカ入口を潜る。

 すると、店の奥からタイミング良く、ここを経営している恰幅の良いオババが笑いながらやってきた。

 御歳七十歳。未だに元気に店先に立ち続ける、健康の塊のようなオババだ。

 このオババは、もはやそれが素顔なのではと言いたくなる程に、いつもしわくちゃの笑顔を浮かべているので、俺はなかなかに気に入っている。

 

 

「あらあら、ロビンちゃんじゃないかい。今日は向島までお散歩かい?」

「ワンッ!!」

「そうかい、そうかい。あんたは相変わらず元気だねえ」

「ワン、ワンワンッ!!」

 オババは人間だが、いつも俺と会話をした気になって勝手に話をグイグイ進めてくる。

 とはいえ、大体会話が成立してしまうのは、やはり年の功という奴なのかもしれない。

 戦前の造船所の話のみならず、その昔瀬戸内の王者だった村上水軍の話とか、色んな昔話を聞かせてくれるのだ。

 なかなかに面白い話が多くて、俺はよくオババの話を聞きにこの島へと来ている。

 

 それに、俺が遊びに来ると、いつも水なり食い物なりをくれる所も良い。

 何かを恵んでくれるたびに、俺が心中で密かに付与しているロビンポイントを、もうこのオババは三百ポイント程集めているだろうか。

 三百ポイントもあれば、夜咄堂の古い茶道具と交換できるんで、今度ヌバタマに黙って、何か見繕ってこっそり持ってきてやろうかね。

 

 

 

「さて、せっかく来たんだから、少しばかり休んでいきんさい……おや?」

 この日も、早速休息を提案したオババは、俺の背後にいる人影に気がついた。

 どうやら、ガキンチョは人間にも見える類の霊のようである。

「ロビンちゃん、後ろの坊やはどうしたの?」

「ワン、ワンワンッ!」

「そうかい、ロビンちゃんのお友達かい」

 オババ、それはハズレだ。

 ただのやっかいもんなのだ。

 

「坊やも中に入りなさいな」

「うむ」

 ガキンチョは素直に頷いて中に入ってきた。

「珍しい格好の坊やだねえ」

「きっかいだろうか……?」

「いやいや、変じゃないよ。可愛いって事さ。

 坊やにも何かあげようか。牛乳でいいかい?」

 オババはガキンチョの返答を待たず、牛乳瓶ケース五つ分の高さはあろうかという、これまたバカデカな冷蔵庫に手を掛ける。

 ヴヴヴ、と低く小さなモーター音を鳴らす冷蔵庫の中には所狭しと牛乳瓶が詰まっていて、オババはその中から一本を取り出した。

「……なにかくれるのか?」

「そうだよお。牛の美味しいお乳だよお」

 オババは間延びした口調でそう言って、ガキンチョの頭をぽんぽんっ、と軽く二回叩く。

 それから、腰を屈めてガキンチョと目線の高さを合わせると、緩慢な動作で牛乳瓶の蓋を開けて手渡した。

 想像以上の冷たさだったのか、ガキンチョは一瞬目を皿のように丸くしてしまう。

 

「ほら、飲んで良いんだよ」

「……うむ」

 ガキンチョはおそるおそる中身に口をつけ……そして、にぱっ、と顔色を輝かせた。

「あまい!」

「おや、そうかい」

「とてもあまい……こんなの、はじめてのむ……」

「ほんに変わった子だねえ。ほら、どんどんお飲み」

「うむ。かたじけない」

 深々と頭を下げ、なおも牛乳瓶にかぶりつくガキンチョ。

 うぐぐうぐうぐと、牛乳を喉に押し込むような勢いで飲んでいる辺り、うまさ炸裂濃厚味なんだろう。

 羨ましさのあまり、俺はだらだらと涎を零しながらガキンチョの喉を見つめていた。

 

 というのも、十年以上もこの店に通いながら、俺はオババから牛乳を貰った事がない。

 犬に人間用の牛乳を与えてはいけない、という事で、オババは飲み物ならば水しかくれないのだ。

 新鮮な水は、俺みたいな放浪者にとってはなかなか得難いもので、もちろんそれはそれで嬉しい。

 夜咄堂に行けば幾らでも飲めるもんだけれど、いつも世話になっていちゃあ格好がつかないしね。

 だから、水は水でありがたいのだが……やはり、できるものなら、牛乳の方が良いのだ。

 

 

 

「ワン、ワンワンッ!」

「うむ。あまいぞ、べうべう」

「クゥーン……」

「べうべうもほしいのか?」

「ワンッ!!」

「だめだ、やらぬ」

「フゴッ!!」

 牛乳をせがむも、ラグビー選手の如く牛乳瓶をしっかと防衛されて見事に撃沈してしまう。

 致し方なく、今度はオババに向けてダメモトで、悩殺牛乳欲しい光線を目から発射する。

 しかしオババが、ニコニコしながら俺に用意してくれたのは……いつも通り、ただの水だった。

 俺は犬ではないのだ。

 誇りは高くないが付喪神なのだ。

 牛乳だって飲めるのだ。

 それが主張できればどれだけ良い事か……がっくりとしょげながらも、俺は器に入った水をぴちゃぴちゃと舐める他なかった。

 

 

 ゆっくりしていってや、と暖かな言葉を残してオババが店の奥に戻っていくと、ガキンチョは妙に早口で話しかけてきた。

「いいひとだ……」

「おう。牛乳くれない所だけはダメだけどな。

 今でも向島で暮らしている人達は皆そうだぜー。

 激動の時代を乗り越える知恵とタクマシさ、そして助け合う優しさを持っているんだ」

「うむ。やさしい」

 ガキンチョが、また表情を緩める。

 えくぼを作りながら、丸い目をぺちゃりと細めているその表情は、まあ、その、確かに愛らしくはある。

 だが、駄目だかんね、俺のストライクゾーンはJC。お前は性別も年齢も違うんだかんね。ケッ。

 

 

 

「その締りがない顔、なんとかしろよ。牛乳飲んだらさっさと行くぞー」

「カカさまさがしに?」

「そうだよ。俺様が協力してやってんだから、ありがたく思えよー?」

「かたじけない。ぐびっ」

「牛乳を飲みながらの心無いお礼、どうもありがとう」

「でも、カカさまはどこに?」

「それについちゃあ、考えがある」

 俺は自慢げに鼻を掲げながら言葉を続けた。

「高見山といって、それは見晴らしが良い山があるんだ。そこから探すのが良いかもしれん」

 高見山は、島の南東部に位置する標高三百メートル程の山だ。

 ここから犬とガキンチョの脚で向かうにゃ、相当しんどい場所ではあるんだが、見晴らしの良さは超一級。

 なんせ、村上水軍が物見に使った山だそうで、高見という名もそれに由来するのだ。

「母親の霊がいるなら、多分家があった場所だと思うんだよな。

 ただ……お前、本当に何も覚えてないんだよな?」

「うむ……」

「だよなあ。そんなら、無駄足になる可能性の方が高そうだな。

 ……いや、待てよ」

 

 ふと、思いついた。

 

 鼻息が当たる位までガキンチョに顔を近づけ、その顔付きをじっくりじわじわと観察する。

 突然の事に不思議そうに目をパチクリさせるガキンチョは、始めに感じた通りに、なかなか良い顔の作りをしている。

 そうだ。

 この顔付き、見覚えがある。

 性別が違うから、分からなかったんだろうか。

 渡船で俺をユーワクしてくれたJCに似ているのだ。

 だとすれば、このガキンチョも『あの一族』なのかもしれんぞ。

 

「……おい、ガキンチョ」

「なんじゃ?」

「お前の母親の居場所、分かったかもしれん」

 そう言うのと同時に、俺の心臓はファイアーダンスのようにズンドコ鼓動した。

 昔、オババから聞いた話が本当なら、これはドえらい事になるかもしれんのだ。



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番外編『ロビン散策記 犬のおまわりさん その三』

 牛乳屋を出た俺は、ずばずばとした足取りで来た道を戻っていった。

 ガキンチョが追いつけていないのは頭では分かっていたが、どうしても体が急いてしまう。

 

 道中、大正時代から営業が続いている、ヌバタマとほぼ同い年のパン屋の傍を通る。

 ちらと横目で中を覗けば、渡船に乗っていたJC三人組が、お小遣いと相談しながらパンを吟味しているようだった。

 本来ならば、またもやJCと戯れていくのだが、今はそれも後回しだ。

 足早に通りを抜けきると、右手には船着場と白板壁の小洒落たバスの停留所が見える。

 一方、更に直進すれば沿岸沿いに道が伸びているのだが、俺はその道を行った。

 すると、然程歩かないうちに、こじんまりとしたプレハブ小屋が視界に入る。

 ようやく、目的地にご到着ってわけだ。

 

 

「べうべう、まて、またぬかぁ」

 程なくして、ガキンチョが息を切らしながら追いつく。

「よぉし、やっと来たなー。整列!」

「ひとりなのに……?」

「気分だよ気分。ハイ、整列! ピピーッ!」

 ガキンチョがやむなく、足場を踏み固めるような仕草を取る。

 同時に、俺も緊張が少しだけ収まった。

 こうして一息ついておかねば、この先何か起こった時に、冷静に対処できないかもしれない。

 俺は、その危機感を示すように、一層低い声を搾り出した。

 

「よし、整列したな。我々はこれより文殊菩薩の下に突撃するのだ」

「それ、カカさま?」

「いいや、仏様だな。あそこに小屋があるだろう。あの中に仏様の像があるんだよ」

 

 そう告げ、くるりと踵を返してプレハブ小屋に接近する。

 入口の引き戸が半分空いていたので、鼻で強引に押し開けようとするが、どうにも立て付けが悪い。

 その上、中の埃が鼻先を掠めて、どうにも息苦しくてたまらんのだ。

 へぐへぐと鼻息を鳴らしながら必死に引き戸と格闘していると、後ろからガキンチョが手を貸してくれて、ようやく中に入る事が出来た。

 

 

 

 

 プレハブ小屋は畳三畳程の狭さで、その一角を文殊菩薩像やら仏具やら提灯やら座布団やらが、

 「ここは俺の場所なんだからね、ケッ!」と、啖呵を切るようにして占めている為に、

 俺とガキンチョが入っただけで、プレハブ小屋は非常に窮屈になってしまう。

 肝心の文殊菩薩は、小屋の最奥に設置されていて、流石は仏様とでも言おうか、実に穏やかな顔付きで俺達の方を向いていた。

 

 ……そう。俺達の方を向いているのだ。

 

 

「あっちゃあ……やっぱり向きが変わってたか」

「べうべう、どうした?」

「ん? ああ。誰かが菩薩様を弄っちまったようなんだ」

 はぁー、と深く溜息を付き、菩薩様に近づきながら話を続ける。

 

「実はな、ここの文殊菩薩様は、俺達の方を向いていちゃいけないんだ。

 本当は、海の方をキリッと見つめているんだよ」

「どうしてまた?」

「こいつは大昔に、海から偶然引き上げられた像なんだ。んで、この場所に奉られる事になったんだが、

 その時に『おそらくは海難事故者を見守って下さっていたのだから、海に向けて奉ろう』って事になって、

 引き上げ時に向いていた方向……すなわち海の方を向いて祭るようになったんだよ。

 ……ふごっ。重いな。おい、また手を貸してくれよ」

「うむ」

「慎重にやるんだぞ? 倒したら取り返しつかねえからな」

 どっしりと台に腰掛けている菩薩様の角度を少しずつ変え、鼻を埃で真っ黒に汚しながらも、ようやく向きを変える事に成功する。

 どうやら、この『二度目』は大きな問題が起こる前に解決できたようだ。

 

 実は十年程前にも、菩薩様の向きが変わってしまった事があったのだ。

 おそらくは、前回も今回も、菩薩様の経緯を知らない奴が勝手に触れたんだろう。

 向きが変わった所で何も起こらないのなら、俺だってこうも神経質にはならない。

 だが……前回は、何かが起こっちまったんだ。

 具体的に言えば、死傷者こそ出なかったものの、突如として自然災害や海難事故が立て続けに発生したのだ。

 もはや祟りと言える程の頻発っぷりに、島民が皆頭を悩ませていた。

 常に笑顔を浮かべる牛乳屋のオババでさえも、梅干みたいにシワクチャの難しそうな顔をしてたっけな。

 そんな中、島民の誰かが、文殊菩薩の向きが変わっている事に気が付いて、

 もしや……と思いつつも、今回の様に向きを変えた所、ようやく事故は収まったってわけなのだ。

 

 

 

「でもべうべう、カカさまは……?」

 像の向きを変え終えると、ガキンチョは不安げな表情でそう尋ねてきた。

「分かってるさ。……ガキンチョ。お前、自分が幽霊って事は理解できているか?」

「ゆうれい?」

「それも分かんねえか……ああ、面倒くせえ……」

 ぽりぽりと後ろ足で頭を掻きながらも、どこまで説明したものか考え込む。

 ここまで来たんだ。最後まで面倒見てやんなきゃな。

 

「そうだな……今、お前が向きを変えた菩薩様があるよな。

 この菩薩様は、お前を鎮めてくれる像だったんだよ」

「うむ」

「だけど、誰かが向きを変えちまったせいで、封印が解かれたんだろう。

 ……このまま解かれっぱなしだったら、母親が見つからない寂しさで荒らぶって、天変地異を引き起こしていたかもしれん」

「べうべう、よくわからぬ……」

 ピイピイ言うんじゃないやい。

 俺だって、ガキンチョ相手に、なんと言ったら良いのか分かんないの。

 

「泣きそうな声出すんじゃねえ。外に出りゃあ分かるさ」

 そう告げて鼻を大げさに振ると、ガキンチョは口をとんがらせながらもながら外に出た。

 続いて俺もプレハブ小屋を後にした……まさしくその瞬間の出来事だった。

 

 

 

 

 

「べうべう、ういてる……」

 ガキンチョの体が、何の物音も立てず宙に浮き上がった。

 まるで、それが当然の動きとでも言わんばかりに、ガキンチョは止まる事無く空へ上っていく。

 そんなガキンチョを見上げると、ガキンチョの更に上から差し込むギラギラの陽光が俺の瞳を支配し、思わず目を瞑りかけてしまった。

 薄目になりながらも、何とかガキンチョの姿を目に焼き付けようとするが、それも次第に薄らいでしまう。

 ガキンチョの姿自体が、段々と透明になってきたのだ。

 

 

「べうべう。ねえ、べうべう……ういているぞ……?」

 ガキンチョが太陽を見上げながら聞いてくる。

「還るべき所に還ろうとしているんだ」

「かえるところ……」

「おお、天だ。文殊菩薩は当分俺が見守ってやるから、安心しろよ」

「……うむ」

 何の事だか分かっていないだろうに、ガキンチョは不安のない声でそう言った。

 

「……べうべう、なにやら、あたたかい……」

 姿だけではなく、ガキンチョの声までが薄れていく。

 だが、例え消えてしまいそうな声でも、俺にはハッキリと伝わっている。

 ガキンチョの声は、安心しきったものに変わっていた。

 俺には馴染みがないが、この声ならば知っている。

 母親に抱かれた様な声を、ガキンチョは出していた。

 

「やあ、カカさ……まがみえ……カ……さま……よかっ……」

 いよいよ、声が聞こえなくなる。

 姿も、殆ど消えかかってしまう。

 ……空を見上げ続けていたガキンチョが振り返ったのは、その瞬間だった。

 

「……べう……う……ありが……う……」

「……達者でな」

 そして、ガキンチョは消えた。

 太陽よりも眩い笑顔を残して、シュパッと跡形もなく消え去っちまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

「………」

 ガキンチョが消え去ってもなお、俺は空を見上げ続けた。

 別に、感傷に浸っていたわけではない。

 俺が浸るわけなんかねえ。

 考えていたのは、オババが聞かせてくれた昔話。

 オババの得意な、村上水軍の昔話の中の一つだ。

 

 

「村上水軍の子……か」

 ぼそりと呟き、高見山を見上げる。

 

 オババの店で高見山の話をした時に、ふと思い出したのだ。

 向島と村上水軍の関わりは、高見山だけではない。

 その昔、向島にはそれはそれは美しい少女がいて、村上水軍の一門の側室として迎えられたそうなのだ。

 その少女のみならず、少女の家系はノッポな鼻の見目麗しい者ばかりで、その血が脈々と受け継がれているのか、向島には美形が多い……

 と、どこまでが本当なのかは分からないが、とにかくそんな事を、オババが俺に話してくれた事があった。

 

 正直、眉唾ものの話ではあるが、俺をユーワクしてくれたJCをはじめとして、

 向島には実際可愛い子が多いもんなので、俺はあながちハズレちゃいないと思っている。

 あのガキンチョも、まあ、顔は良い部類だ。

 もしかすると、ガキンチョは、美しい少女の血縁者……実子かもしれない。

 俺はガキンチョの身元にモーレツな確信を抱き、この文殊菩薩の下へと駆けつけたのだ。

 

 

 さて、まだ二つ疑問が残るな。

 何故、ガキンチョの素性に確信を抱けたのか。

 仮にそれが当たっていたとして、ガキンチョと文殊菩薩に一体何の繋がりがあるのか。

 実は、オババの話には、続きがあるんだよ。

 

 

 村上水軍に嫁いだ少女は、無事男子……つまりガキンチョを産み、母となった。

 ま、それは、めでてぇ話だな。

 すくすくと成長した子は、ある日、お寺がある本土側へ、母と一緒に法事で出かけたらしい。

 となると、足が必要になるが、言うまでもなく水路の出番だ。

 だが、いくら海と共に発展してきた村上水軍とはいえ、時代は日本中世。

 天候予測や航海技術は現在とは比べ物にならず……海難事故は避けられないものだった。

 そう。かの村上水軍でさえもな。

 母子の乗る船が、この瀬戸内で沈没してしまったらしいのだ。

 僅か三百メートルの、小さな小さな海峡で、だ。

 

 そうして母子の魂は、儚くも瀬戸内に散った。

 オババから聞いていたこの話。

 そして、ガキンチョ美形一族疑惑。

 この二つがピーンと一本の線で結ばれて、ガキンチョはオババの話に出てくる子だと直感したってわけだ。

 

 ここまで話しゃあ、文殊菩薩との関わりについても、もう察しは付くだろう?

 文殊菩薩は、海難事故で亡くなった奴を見守ってくれている。

 そして、ガキンチョは海難事故で亡くなった可能性がある。

 そこに接点を見出したって訳だが……ガキンチョが昇天した事実を踏まえりゃ、これもハズレちゃいないようだ。

 むしろ、母子の事件がきっかけで、文殊菩薩は設置されたのかもしれねえな。

 なんせ、母子は豪族なんだからさ。

 なんとも、可哀想な物語ってわけなのだ。

 

 

 

 

「……まあ、ええことよ」

 いつだったか、千尋が口にしていた言葉をパクる。

 高見山を見上げていた顔を下ろし、俺はまた通りを歩き始めた。

 

 大体さ、JCしか認めない俺が、ガキンチョに想いを馳せる事が変なんだよね。

 ま、そりゃ……たまにはガキンチョと戯れてやっても良いけれど、いつまでもしんみりするのは、俺らしくもないってもんよ。

 

 そう結論を出せば、もう後は早い。

 さて、俺のJC達は、まだパン屋にいてくれているのだろうか。

 俺は普段よりも大股になって、昭和初期の香りプンプン通りをグイグイとまかり通るのであった。



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番外編『ロビン散策記2 ここは猫の細道じゃ その一』

 猫という生き物が、イヤでイヤで仕方がない。

 奴らが人間に媚びている姿を見る度に、悔しさのあまり鼻息がフゴフゴと漏れてしまう。

 だというのに、この尾道には、とにかく猫が多く生息していて、海沿いだろうが商店街だろうが山の路地だろうが、

 あちこちでウヨウヨと「俺の町だぜ、俺の町だぜ」と言わんばかりに行きかっているのだ。

 

 鬱陶しい事この上ないのだが、仏様の如く寛大なロビンちゃん、それだけならまだ我慢をしようじゃないか。

 しかし、その俺でさえも許せない事がある。

 奴ら猫どもめ、人間の中でも、特にJCに可愛がられているのだ。

 俺がJCに媚びている所へ猫が通りかかると、JCは俺をほっぽらかして、一同に猫の方へと駆け寄ってしまうのだ。

 いや、ほっぽらかされるのも悪くはなく、リビドーをガシガシと刺激する何かがあるのだけれども、

 それはそれ、猫への怒りは猫への怒りで、フツフツとナンダテメーバカヤロゲージが溜まって仕方がないのだ。

 

 そんなわけで猫がイヤな俺は、町中で猫を見かけた時には、必ずちょっかいを出している。

 この日も、夜咄堂(よばなしどう)の近くの石段手すりを、ハチワレのハナクソ柄した子猫がシャキシャキ歩いている所を見かけたもんだから、

 コイツでちょっとばかしストレスを発散してやろうと、イカツイ顔を作ってワンワンと吠え立ててやった。

 すると子猫は、小さな体をいっそう縮め込ませて、冬の木枯らしにでも耐えるかのようにブルブルと震えはじめる。

 俺から逃げ出そうと、手すりの上を歩きもするんだが、それにあわせて俺も動いてやれば、

 子猫は石段に降りて逃げ出す事もできず、もはやいっさいなす術なしなのだ。

 いやはや、愉快ソーカイ、気分は最高。

 そうして暫く子猫をからかい続けていたのだが、幕引きは、ペチンとしたオツムへの衝撃と同時にやってきた。

 

「フゴッ!?」

「フゴッ、じゃありません。なにやってるんですか!」

 俺をひっぱたいた奴のツラを拝もうと振り返れば、仁王立ちして俺を睨みつけているヌバタマがいた。

 その一瞬の隙に、子猫がダバダバダバッと逃げ出すのが横目で見えたのだが、逃走状態に入られれば、ダルダルのチャーミングなお腹を持つ俺では追いつけない。

 俺は暫くの間、子猫とヌバタマを交互に見たが、やがて子猫の姿が完全に見えなくなると、怨めしげにヌバタマを見上げて吠え立ててやった。

 

 

 

「ワンッ! おい、せっかく良い所だったのに、なんで邪魔すんだよ」

「猫を苛める事のどこが良いんですか。可哀想じゃないですか」

「いいの! 猫どもめ、俺からJCを奪うんだぜ? 絶対に許せんのだ」

「なんですか、その理由は……。ロビンさん、ちょっと店に来て下さい。お説教します」

 ギロリ、とヌバタマに睨みつけられてしまう。

 こいつは時たま、俺に常識を語ろうとするのだが、これがとにかく長くてかなわん。

「げげっ? やだよ説教なんて。悪いが逃げ……」

 犬の耳になんとやら。

 踵を返して逃げ出そうとした俺は、しかし、ヌバタマが手にしていた木の箱を目にして、ピタリと動きを止めてしまう。

 別に箱の一つや二つ、気にせずに逃げてしまえば良いのだが、上部と正面に金属の取っ手が付いたその長方形の箱には見覚えがあった。

 だが、一体何なのかまでは思い出せず、正体が気になって、逃げる気がサッパリと失せてしまったのだ。

 

「……っと、それ、なんだっけ?」

 確か、茶事で使う道具だったのは覚えている。

 用途までは思い出せないが、名前は、ええと、タンなんとか……タン、タン……牛タン……。

短冊箱(たんざくばこ)ですよ」

 ヌバタマはまだ俺を睨みながら答える。

「あ、牛タンじゃなかった」

「はい?」

「いや、こっちの事ー。何に使う道具だっけか?」

「携帯用の茶道具一式ですよ。これがあればどこでもお茶ができるんです」

「おお。それそれ。さすがヌバタマは茶道に精通しているなあ。尊敬するぜ」

「そ、そうですか? えへへ……」

 ヌバタマは照れ笑いを浮かべた。

 なんとも、ちょろいもんだ。

 

 

「で、そんなもんを持って、どこか外でお茶会でもしようっての?

 真夏だってのに、よくやるもんだなあ」

「さすがに外ではやりませんよ。千尋さんの先輩の岡本さんって方が、この先に住んでいるんです。

 前に話しましたよね。唐津合宿に同行させて下さった方なんです。

 その岡本さんが「遊びにこないか」と、私を誘ってくれたんですよ。

 私、人間のお友達って初めてだから、凄く嬉しくて」

 ヌバタマはそう言うと、空いている手を自身の胸元に当て、幸せそうに微笑んだ。

 そういやコイツ、人間の女の子に憧れているもんな。

 唐津旅行に関しては、取り残されて悔しい思いもあるんだが、こうも微笑まれれば、こちらはスネにくい。

 

「それは結構だが、お友達と短冊箱と、何か関係あるのか?」

「ええ、岡本さんの家で一服差し上げようと思って。人間って、そうするものなんでしょう?」

「……色々突っ込みたい所だが、お前がそれで良いなら、良いだろうさ。

 ただ、ちょっとは気を使ってやれよ。家の中とはいえお茶は熱いんだ」

「分かっていますよ。三献茶(さんけんちゃ)のつもりで()てます」

「なら良いんだが」

「ところでロビンさん、お暇でしたら店番してくれませんか?」

 ヌバタマは、思い出したようにそう言った。

「やだよ。千尋かオリベの爺さんがいるだろ?」

「千尋さんは買出しにでていますし、残るのはオリベさんだけだから、心配なんです。

 女性のお客さんが来られたら、ナンパとかしそうで……。

 その点、ロビンさんが興味があるのは、夜咄堂には来そうにない年頃の子じゃないですか」

「まあ、そうかもしれん」

「だからロビンさんなら、ある意味安心なんです。

 特別な事はしないで良いんですよ。オリベさんを見張ってくれているだけで良いんです」

「JCが来ないんじゃ、なおさら嫌だよ。あかんべえ」

 べろん、と舌を出して、キゼンと拒否の姿勢を示す。

 普段から出しっぱなしのような気もするが、とにかく示す。

 大体、犬の形を成して生まれた俺に、夜咄堂の仕事なんかムリムリ、ぜーったいムリなんだかんね。

 

 俺が夜咄堂で暮らさないのは『店よりも、他の楽しい事に準じたい』という付喪神としての本能ありきではあるのだが、

 同時に『仕事ができない俺がいても、どうしようもない』という気持ちも、幾分かは含まれている。

 そりゃ、俺が店先で愛想を振り向くだけでも、お店が大繁盛するのは分かってるよ?

 だけれども、それは完全にワンワンの仕事なのだ。

 俺は、犬の形こそしているが、付喪神。

 付喪神としてのプライドが、それは許さないのだ。

 JCとたわむれてこそ、俺は俺でいられるものなのだ。

 

 

 

「……そうですか。それは残念です」

 ヌバタマが、途端にしゅーんと落ち込む。

 コイツも、俺の境遇を知っているから、店の仕事を強くは頼んでこないのだ。

 とはいえ、こうも気落ちされれば、俺だって少しは考える。

 そう。落ち込んでいる今こそ、付け込むチャンス。

 夜咄堂で一番うるさいコイツの機嫌を取っておけば、

 今後、ちょっとくらいヤンチャしても、怒られずに済むはずなのだ。

 だが、店の仕事をするつもりはない。

 他に、労力を要せずに、ヌバタマに喜んでもらえそうな事といえば……。

 

 

「ま。あれだな」

「はい……?」

「店番は断るが、その岡本って人の家に行くまでなら、同伴してやってもいいぜ?

 お前だって、道中の話し相手がいた方がいーだろ?」

「……ロビンさん」

 ヌバタマは、まだしょぼくれた顔付きで俺を見下ろした。

 その顔が、相好を崩すまでの間、僅か一秒。

 相変わらずチョロいヌバタマは、ガキの様に首を大きく縦に振ってみせたのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 番外編『ロビン散策記2 ここは猫の細道じゃ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヌバタマは、よりにもよって猫の細道を歩いて、岡本とやらの家に向かった。

 猫の細道とは、夜咄堂付近から、麓の神社まで伸びている、二百メートル程の坂道だ。

 道の周囲には、山の斜面に合わせて建てられた木造家屋や石垣がギチギチに並んでいて、

 その家屋周辺を、青々と茂った木々がビッシリと覆いつくしている。

 木々は、家屋だけでなく空まで覆わんばかりに密集しているものだから、

 どこを見渡しても自然に囲まれているという、なかなかにゴキゲンな細道なのである。

 

 さて、ではその道のどこが『猫』なのか。

 別に、この道に特別猫が多いわけではない。

 これには理由が二つあある。

 立ち並ぶ木造家屋には、猫をモチーフにしたような店舗が幾多も並んでいる事が一つ。

 そしてもう一つは、この通りには猫のオブジェが多いのだ。

 石畳の配置で猫の顔を表現したり、猫の絵を描いた看板を掲げたり、板壁に猫の絵を描いたり。

 そんなニャゴニャゴまみれの中で、もっとも目につくのが『白猫の置物』だ。

 猫の絵が描かれた、福石猫(ふくいしねこ)なる置物がまんまるいあちこちに置かれているもので、

 ここを歩いていると、常に猫に囲まれているような気になってしまう。

 ただに人間ならば、それはなかなかにおもしろスポットだろう。

 でも、俺がここを歩くと、それはそれはいやーな気持ちを覚えてしまうのだ。

 

 そんなアヤシゲでクルシゲな道を、ヌバタマはちびちびと下り歩く。

 なんせ、コイツが手にしている短冊箱の中には、茶碗や(なつめ)に限らず、

 茶事の際に使用する水を入れておく水差(みずさし)や、不要な水を流すための建水(けんすい)等等、重い陶器がギッシリ詰まっているのだ。

 歩調が緩むのは仕方がないにしても、こんな道をいつまでも歩くと思うと、気が滅入って仕方がない。

 

 

「おいヌバタマ。なんでこんな道通るのさ」

 と、ヌバタマの横で口をとんがらがせながら、俺はぼやく。

「なんでって……ここが一番近道ですし。岡本さんのアパートは神社のすぐ傍なんです」

「だからってさあ、猫の細道はないだろ? どこを見ても、猫、猫、猫! あーあー、もうやんなっちゃうぜ」

「何故ですか。猫、凄く可愛いじゃないですか」

 ヌバタマは頬にえくぼを作りながら言う。

「いいや! 奴らは、猫撫で声で人間に媚びるイヤな奴らなんだ。

 この間だって、俺がJCに可愛がってもらっている所に現れて、JCを横取りして行きやがったんだぜ?」

「それって、そもそもロビンさんが先に媚びているじゃないですか……」

「カー、ペッペッ! フゴッ!!」

 

 ヌバタマの突っ込みを、タンと鼻息で吹き飛ばし、俺は急く気持ちを表すかのように半歩前を行く。

 天気は快晴、お江戸晴れ。

 眩い木漏れ日は、スポットライトの様に福石猫を照らしていてる。

 なんでもこの福石猫は、日本海で厳選した丸石に対して、半年以上かけて塩抜きと三度塗りをした上で、神社でお祓いを受けてようやく完成するらしい。

 それだけジックリコトコト手間暇を掛けて産み出しているせいか、陽光の中の福石猫は、まるで本物の猫のように感じられる。

 そんな福石猫に囲まれるだけではなく、この日は、本物の猫も随分と多く見かけている気がする。

 先程から、石段やら塀の上やらに陣取っている野良猫どもが、俺達を迎え入れるかのようにヨウコソ視線を向けてきやがるのだ。

 普段なら片っ端から追い払ってやる所なのだが、そうすればヌバタマを怒らせて、本末転倒に終わってしまう。

 仕方なく、キュートな瞳をギロリと細めて睨みつけるだけに留め、俺は細道を三分程歩いた。

 

 そう、三分もだ。

 

 いくらヌバタマの歩調が遅いとはいえ、ここはたった二百メートルの道だ。

 普通に歩けば、一分程でかるーく通過できるのだ。

 時間もさる事ながら、特に俺が疑問に感じたのは目に入ってくる風景だ。

 猫の顔が造られている石畳を三回は見たが、俺の記憶が確かならば、この石畳は一か所しかないはずなのである。

 ふと、ヌバタマの事が気になって横を向くと、ヌバタマもようやく異常さに気がついたようで、怪訝な表情を浮かべていた。

 

 

 

「……なんだか、さっきから同じような道を歩いている気がします」

「それに随分と時間が掛かってるよな」

「ええ。もっと短かった気がしますが……あら?」

 ヌバタマは、喋りながら首を傾げた。

 視線が家屋の板壁に向かっていたもんだから、それを追いかければ、その先には板壁に貼り付けられた看板があった。

「なになに……この先猫の……猫の細道……!?」

 読み上げながら、俺は思わず声を裏返してしまう。

 この先って……それじゃあ、今歩いている所は一体なんだってんだ?




活動報告の方にも書きましたが、先日、ネット小説大賞が発表され、
お抹茶セットが見事受賞……すなわち、書籍化確定しました。
応援して下さっていた皆様、本当にありがとうございました……!
時折自信をなくす事もありましたけれども、皆様に読んで頂いて、
そして書き続けて、本当に良かったと思っております。

具体的なスケジュールや作品の今後等は色々と不透明になりましたが、
お話できるようになり次第、随時活動報告にてご連絡したいと思います。


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番外編『ロビン散策記2 ここは猫の細道じゃ その二』

「この看板、見覚えがあります。細道の入口に掛かっている看板です……」

 ヌバタマが青ざめながら呟く。

 こいつの言う通りなら、俺達は入口に戻ってきちまったって事だ。

 だが、猫の細道はほぼ一本道。

 どんなアホでも問題なく通過できる道のはずなのだ。

 とすれば、俺の頭の中には一つの過程が浮かび上がってくる。

 俺達は『誘われた』のかもしれない。

 何者が、どこに誘おうとしているのかまでは知らねえ。

 だが、平常にあらず。それは間違いない。

 そう思い至るのと同時に、全身をゾクゾクがザワザワと駆け巡った。

 

 

「おい、冗談じゃねえぜ。帰ろう!」

「ま、待って下さい! ダメです!」

 振り返ろうとした俺を、ヌバタマはキツい声で制した。

「一体何がダメなんだよ! 明らかにおかしいぜ、これは!」

 俺も声を荒げながらヌバタマに抗議する。

「おかしいからこそ、です! もしもこの道が人間界以外に通じているのなら、振り返りはご法度です」

「……チッ! 見るなのタブーってやつか」

「ええ。異界に通じる道で振り返る事は、私達付喪神(つくもがみ)でも禁じられています。

 大抵は、その道を作り出した者の手によって、酷い目に遭わされますから」

「高位な神さんならともかく、俺達付喪神は非力だなあ。茶席から離れりゃ、ただの人間と変わりねえ」

 はぁぁぁ、と深く溜息を零す。

 だが、そうした所で事態は改善しない。

 俺達がやるべき事……いや、できる事と言えば、この道を進んで、状況を把握するだけなのだ。

 

 ヌバタマとアイコンタンクトを取って、互いの意思を確認した俺達は、やむなくまた石段をスタスタと下りだした。

 その最中、相変わらず陽光が降り注いでいるにも関わらず、全く暑くない事に気が付く。

 むしろ、得体の知れなさに対する寒気が、大気となって俺達を包んでいる気さえした。

 一体、いつから暑さが消えうせていたんだろうか。

 おそらくは、暑さが消えたその瞬間から、俺達は異界に誘われていたんだろう。

 それに、細道に陣取る猫の数も増えてきたような気がする。

 皆、相も変わらず俺達に視線を向けているのだが、今となっては、そのヨウコソ視線は酷く不気味に感じられる。

 あーお、あーお、と俺達を煽るように鳴き声を上げる奴もいて、フユカイまりない。

 

「なんだか、猫が増えていますね……」

「こいつらも、ただの猫じゃないのかもなぁ」

 それだけ会話を交わして更に進む。

 すると、道の奥に人影が見えてきた。

 近づくにつれ、その人影の風貌はハッキリと見え出したのだが……案の定、ロクなもんじゃあなかった。

 そいつは成人男性程度の身長で、一切柄のない真っ白な着物を纏っている。

 そして、肝心の顔は……見えなかった。

 あろう事か、これまた白い猫のお面を付けているのだ。

 目の部分はつり気味に穴が空けられていて、赤い隈取が施されている。

 首にはこれまた赤のチョーカーを巻いていて、その外観はまるで福石猫(ふくいしねこ)のようだった。

 

「最悪だぜ。また猫かよ……」

 もう、コイツの正体が何だろうと、気を遣うような余裕はねえ。

 俺は、お面野郎の耳に届くのも厭わず、はっきりと不快感を口にしてやった。

 それを受けたお面野郎は、何も物言わずに俺を見つめながら、こちらへ一歩足を踏み出してきた。

 さてさて、鬼が出るか蛇が出るか。

 猫以外なら何でもこいってんだ、コンチクショーめが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ロビンだな」

 お面野郎は、招き猫みたいに手を丸めて、それを俺に引っ掛けるような仕草を取りながら、尋ねてきた。

 何を考えているのか探ろうと、お面の穴の奥に隠れているであろう瞳を見つめようとするが、逆光でどうにもよく見えない。

 仕方なしに素直に頷けば、お面野郎は俺達に背を向けて前に進み始めた。

 つまりは、着いてこい、と言いたいのだろう。

 

「ヌバタマはどうする?」

「不気味ですけれど……私も行きます。戻るわけにもいきませんし」

 ヌバタマは前を見据えながらそう返事をした。

 俺も、ヌバタマも、この事態が恐ろしいわけではない。

 どちらかといえば、気味が悪いとか、落ち着かないとか、そんなバクゼンとした不安なのだ。

 得体が知れないのはお互い様だし、そもそも俺達には『死』ってもんがないんだもんね。

 もちろん、場合によってはそれに準ずる状態になってしまうのかもしれないが、そんな目に遭わせられる身の覚えはねえ。

 二人してお面野郎に着いていくと、神社が視界に入ってきた。

 バカデカい岩が飾られている、まごう事なき麓の神社だった。

 ようやく脱出する事が出来たのだと、俺は内心胸を撫で下ろしたが、すぐにそれは勘違いだと気が付かされた。

 お面野郎が神社の横から境内に入ったので、それに続けば、境内には何十匹も猫がたむろしていたのだ。

 皆で円状になって、ヨウコソ光線を収束させたヨウコソレーザーをを放ちながら、

 俺達を出迎えるかのように並んでいるその光景は、明らかに異様なのである。

 その上、神社の正面入り口である鳥居は、妙に発達したクスノキによって覆われていて、出入りができなくなっていた。

 普段の神社のクスノキはここまで生い茂っちゃいねえし、そもそも鳥居の周辺には生えちゃいねえ。

 似た場所だが、違う場所。

 それを悟るのと同時に、ここがパーティー会場なのだと俺は気づいた。

 だが、パーティーの主催者は、お面野郎でも、取り囲む猫でもないようだ。

 境内の中央では、やはり和服のフサフサ白髪男が、俺達に背を向けて、上半身を丸めながら立っていたのだ。

 長着こそお面野郎と同じ白地だが、朱色の随分とゴージャスな羽織を纏っている。

 見るからに、こいつがボスのようだった。

 

 

 

「地主神様。連れて参りました」

 お面野郎が、ゴージャスにそう声を掛ける。

 地主神。

 お面野郎は、今、確かにそう言った。

 偉い奴だろうとは思っていたが、まさかそこまでとは。

 地主神……すなわち、この尾道という土地そのものが具現化した存在が、このゴージャスなのだ。

 こりゃ言うまでもなく、高位の神さんだ。

 そのゴージャス地主神が、何故俺を呼び寄せたのかは分からねえが、そんな神様の機嫌を損ねてもロクな事はない。

 なんせ、あっちは土地で、こっちはちっぽけな茶道具の付喪神。

 しかも神とは名ばかりの精霊みたいなものときたもんだ。

 しっかりヨイショして、元の場所に戻してもらわなきゃな……。

 

「お前がロビンか」

 ゴージャスは緩慢な動作で振り返りながら、そう声を掛けてきた。

 声は随分としゃがれていて、白毛も相まって老齢である事を感じさせる。

 さてさて、下手(したて)下手(したて)と……。

「ええ、私めがロビンでございま……げえっ! なんだお前!!」

 地主神と対面して、俺は思わず声を荒げてしまった。

 地主神は……人間の顔の作りをしていなかったのだ。

 ピンと伸びたヒゲに、ギョロリと瞳孔が開いた金色の瞳。

 そして、ライオンのように雄雄しい毛並み。

 背後から見てもフサフサだとは思っていたが、それもそのはず、顔中……いや、素肌全てが白毛に覆われていやがる。

 あろう事か、こんにゃろ、猫の顔をしていやがったんだ。

 ああ、もう、最悪だ、最悪の日だ!

 さっきから猫猫猫猫猫、しまいにゃ猫のドン、猫神様だ!!

 

「猫のドンではない。尾道のドン、地主神様じゃ」

 地主神が気難しそうに言う。

 あ、さすがは地主神。考えている事分かるのね。

「地主神のくせに、なんで猫の姿なのさ」

「お前さん、自分の体を見て、ものを言っとるか?」

 ごもっとも。

 地主神の中にゃ、動物体の奴もいるって事か。

 

「それよりロビン。お前呼ばわりとは失礼だろう。ワシの機嫌を取るつもりではなかったのか?」

「猫顔となりゃあ話は別だ。その地主神様が何の様だよ。けっ!」

「ち、ちょっと、ロビンさん! 失礼ですよ!」

 ヌバタマがキツい口調でたしなめるが、知ったこっちゃねえ。

 ぷい、とソッポを向くと、地主神は重苦しく腕を組みながら話を続けた。

「今日はお前に天罰を与えるべく、呼び寄せたのじゃ~」

 天罰という割には、語尾が伸びていて随分と軽い口調だった。

 だが、瞳孔はなおも細まっていて、顔付きには怒りの気配を感じさせる。

「天罰って、なにさ?」

「犬叩き棒で、お尻百叩きじゃ」

 怒ってるのかふざけているのか、分からねえ奴だ。

 

「くだらねえ罰だが、それでも、受ける謂れはねえ。

 一体俺が何をしたってんだよ」

「身に覚えがないとは言わせんぞ。ワシはちゃーんと見ておる。お前、猫を苛めているではないか」

「そりゃそうだけれど、だって、猫が俺からJCを奪うのが悪いんだぜ?」

「だまらっしゃい~!」

 地主神が、俺の言葉を遮るように怒鳴りつける。

 老齢のせいか、あまり声量は大きくなく、威厳も大してなかったが、

 地主神に呼応するかのように、周囲を取り囲む猫どもがニャアニャアと鳴き始めて、こちらの方がうるさかった。

 

「ああ、うるせえ、うるせえ!」

「皆、お前に怒っておるのだ」

「だからって、猫苛めただけで天罰じゃあ、世の中天罰だらけだぜ!?」

「それだけではない。お前は今日、決定的な罪を犯してしまったのだ。

 ……ワシの子を苛めるという大罪をな」

 その言葉を受けて、反射的に今日の出来事を思い出す。

 今日苛めた猫は……俺の記憶が間違っていなければ、ヌバタマと会う前に吠えてやった、あのハチワレ子猫だけだ。

 つまりは、アイツがはずれクジだったって事か。

 

 

「ち、ちょっと待って下さい、地主神様!」

 そこへ、ヌバタマが口を挟んできた。

「確かにロビンさんは猫を苛めています。ですので、百叩きに異論はありません」

「そこは異論を持ってくれよ」

「自業自得でしょう! ……ですが地主神様。私は何もしておりません。私は先に帰してもらえませんでしょうか?」

「イヤじゃ」

 地主神は楽しそうに首を横に振り、ヌバタマの提案を叩き斬った。

「監督不行き届きじゃ。ヌバタマ、お前もお尻百叩きじゃ」

「ふ、ふえっ……!?」

 ヌバタマの顔がようやく凍りついた。

 ヘヘン、ざまあみろってんだ。

 そうそう、お前の監督が悪い!

 躾がなってないんだよ、ヌバタマは!

 ……あれ? 俺変な事言ってるかな?

 まあ、良いか。

 

「しか~し、ワシは優しい神様じゃ」

 だが、地主神は「待っていました」と言わんばかりの、楽しげな調子で言葉を続ける。

「ワシとて、なるべくなら折檻はしとうない。

 そこで……お前達に一つ機会を与えよう」

 地主神は、もったいぶるかのように俺達の顔を見回す。

 俺の心中で、ドコドコドコドコとドラムが鳴り、それに続いて、ジャン! とシンバルが叩かれる。

 それに合わせたのかどうかは定かではないが、地主神は力強く腕を突き出した。

「ロビン、ヌバタマ、どちらか……ワシを楽しませてみよ。

 そうすれば、何もせずに開放してやろうではないか」

「なんだそりゃ! 結局はお前の気分じゃんか!」

「ワシゃ偉いんじゃ! 当然じゃ!!」

 地主神は地団駄を踏むように憤って主張する。

 なんて地主様だい、まったく。

 お陰で、なんとも面倒臭い事になっちまったもんだ。

 

 だが、向こうの方が格上なのは事実。

 言う通りにしなけりゃ、俺達のお尻はおサルの如く真っ赤になっちまう。

 さてさて、どう楽しませたものだろうか。

 楽しむ事にかけりゃ得意中の得意だが、楽しませる、となると、むう。

 ここにJCを連れてきて、接待させるわけにもいかないし……。

 

「ロビンさん、大丈夫です。楽しませればお咎めなしなら、なんとかなります」

 ふと、隣のヌバタマが自信満々にそう言ってのけた。

 何か妙案があるのか、と尋ねるつもりでヌバタマの方を見る。

 だが、口にして確認せずとも、コイツが言いたい事はすぐに分かった。

 

 ヌバタマは、短冊箱(たんざくばこ)をそっと地面に降ろしたのだ。



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番外編『ロビン散策記2 ここは猫の細道じゃ その三』

 じぬしがみ(地主神)は興味深そうに短冊箱(たんざくばこ)を眺めていたが、やがて、おもむろに指を鳴らした。

 すると、何も置かれていなかったはずの地面に、六畳の畳と湯の沸いた茶釜、それに風炉(ふうろ)がパポーンと現れる。

 なんとも羨ましい能力だ。もしかしたらJCも生み出せるのかもしれねえ。

 ま、JCはともかく、 ここに、ヌバタマの持っている短冊箱内の一式を加えれば、もう茶を()てる事ができるのだ。

 どうやら、地主神も乗り気らしい。

 

 ヌバタマは、俺に向かって力強く頷くと、その畳の上に座してモクモクと茶事の準備を進めた。

 無論、犬の形を成している俺では何も手伝えない。

 だというのに、俺の運命はヌバタマの点てる茶に懸かっている。

 そのジレンマに、俺はイライラを募らせていた。

 そりゃ、何もしないで助かるのなら、楽で良いさ。

 しかし……助かるとは限らないのだ。

 なにせ、ここはよばなしどう(夜咄堂)ではないのだ。

 茶の良さを引き立てるにちにちこれこうにち(日々是好日)が使えないのだから、純粋にヌバタマの技量を以ってして、地主神を癒さなくてはならないのだ。

 果たして、こいつはヌバタマの茶で喜ぶのだろうかと思いながら、横目で地主神を一瞥する。

 地主神は、口元をゆるりと緩ませてヌバタマを見つめていて、俺なんか気にも掛けていないようだ。

 そりゃ、付喪神(つくもがみ)の茶を喫する機会なんて初めてだろうし、楽しみな気持ちも分かるよ。

 でも、俺だったら抹茶はごめんだね。

 俺も付喪神になりたての頃に抹茶を飲んだ事があるが、あれはとにかく熱いのだ。

 何度飲んでも同じ熱さなのだから、たまたま熱かったのではなく、そういう決まりなんだろう。

 人間でさえ簡単には三口で飲み干せないと思われる熱さで、舌が弱い犬にとっては、相当辛いものだった。

 ……いや、待てよ、おい!?

 だとすると、猫の形を成した地主神の舌なんか……!!

 

 

 

「おい、ちょっと待てヌバ……フゴッ!?」

 ヌバタマに声を掛けようとした所で、不意に首根っこを掴まれた。

 横を見れば、いつの間にか俺の傍に来たお面野郎が、首を抑えていやがったのだ。

「土地神様は『どちらか』と仰った。

 ヌバタマが茶を点てるのならば、お前は助太刀無用だ」

「ちょっと助言するだけだよ。良いだろ?」

「それも駄目だ。喋るのは自由だが、助言と判断すればこれで叩く」

 お面野郎はそう言うと、しゃもじのような板切れを取り出した。

 墨で『犬叩き』と書かれているもんだから、馬鹿でもわかる。

 これが、犬叩き棒ってやつなんだろう。

 

「……分かったよ。助言と思ったら、それで叩くといいさ」

 俺は暫し考え込んだ後、ヌバタマに向かって、ワン、と吼えた。

 ヌバタマがちらりとこちらを向いたのを確認すると、俺は意を決して、声を張り上げた。

「おおい、ヌバタマー。早く帰ってドラマでも見ようぜ。ほら、石田三成の立志伝」

「………?」

 ヌバタマは、小さく首を傾げた。

 それもそのはず、ヌバタマとそんなドラマを見た経験なんか、一度もないのだ。

 とはいえ、これ以上突っ込んだ話をしようものなら、犬叩き棒が飛んでくる恐れがある。

 俺に出せるヒントはこれが精いっぱい。

 ここに来る前に、ふとヌバタマと話していた事を思い出したのだが……石田三成には、三献茶という伝説があるのだ。

 なんでも、石田三成が寺小姓をしていた時に、豊臣秀吉が鷹狩りの帰りに寺で休息したらしい。

 秀吉をもてなす事になった三成は、秀吉が喉が渇いているのを察して、状況に応じて熱さの違う三杯の茶を点てたのだ。

 結果、秀吉の好感を得た三成は、秀吉に仕える事になる……というお話だ。

 その事をヌバタマが思い出せば。

 その一心でヌバタマを見つめ続けると、暫しの後、ヌバタマは小さく目を見開いた。

 加えて、口の端を得意げに緩ませやがる。

 これは、もしかすると気づいてもらえたかもしれない。

 

 

「お~い、準備はまだか?」

 そこへ、地主神が急かすような声を掛けてきた。

 はいはい、犬は黙って退場しますよ。

 フゴッ、と鼻息を漏らして一歩下がると、ヌバタマも準備を再開し、程なくして茶事は始まった。

 

 青々とした夏の木に覆われた野点席。

 そこへ差し込んでくる陽光は、ヌバタマの手前を眩く照らしていた。

 釜からもくもくと立ち上がる湯気は、はるか頭上で夏空を彩る入道雲のようにも見えた。

 なんとも、清々しい光景だ。

 短冊箱に入っている茶道具はいずれも安物のようだったけれども、

 人間の余計な文化が入ってこないこの地主神の空間で用いるのならば、粗末な道具というよりは素朴な道具に感じられる。

 

 ワビサビって言葉は、なにやら哲学的な響きがして、俺にはイマイチどういうものなのか分からないのだが、

 おそらくは、こんな清々しく素朴な茶事を差すのだろう。

 大して茶道を学んでいない俺でも、良い雰囲気だという事は、なーんとなく伝わるんだかんね。

 ま、これで猫が畳を囲んでおらず、客も猫顔じゃなければベストなんだけれども。

 

 その肝心の客……客畳に敷かれた毛氈(もうせん)に座す地主神は、ヌバタマの一挙手一投足を見守っていた。

 なかなか興味は引けているようだし、ヌバタマの手前ならミスもないだろう。

 唯一の懸念点である猫舌の件も、しっかりと伝えておいた。

 万事万端、我らに隙なし。

 流石の地主神も、この一服の後なら、大きく出られないはずだ。

 帰り際には、地主神にオナラの一発でもかまして、やり返してやろうじゃないのさ。

 と、そんな事を考えているうちに、ヌバタマはもくもくと手前を進め、もう茶を点てていた。

 

 

 

「ほう。これがお抹茶かい? お茶なら飲んだ事はあるが、お抹茶は初めてだよ」

 差し出された薄手の夏茶碗を手にした地主神は、熱さを気にする素振りを見せず、興味深そうに茶碗の中を眺めている。

 よしよし、どうやらちゃんと温く仕上がっているようじゃないのさ。

「ええ。お薄茶と言いまして……そうですね。お気軽に頂ける抹茶、とでも言いましょうか。お召し上がり方は……」

「大丈夫、分かるさ。たまに人間が美味しそうに飲んでいるのを眺めているからね」

「地主神様のお口に合えば良いのですが」

「さて、どうだろうねえ。それじゃあ早速頂くよ」

「どうぞ」

 静かにそう言ってヌバタマが頭を下げると、地主神はゆったりと煽った。

 よしよし、いいぞ。熱さで即座に口を離す様子もねえ。

 これで俺達は解放される……!

 

「お服加減、いかがでしょうか?」

 ヌバタマが味を問う。

 それを受けた地主神は、茶碗を畳の上に戻し……

 

 

 

「ぬるいっ!!!」

「「えっ?」」

 

 俺とヌバタマの声は、見事に重なってしまった。

 いや、いやいや。

 温いって、あれっ? えっ?

 

 

 

「あ、あの……申し訳ございません。加減したつもりでしたが、ぬるすぎたと……?」

 ヌバタマが慌てふためきながら尋ねる。

「いやいや! なんで加減なんかするんだい! 茶ってのは熱いものだろう!

 それとも、この気持ち悪いぬるさがお抹茶なのかい!?」

 一方の地主神は、いかにも不満げに口を尖らせながら言ってのけた。

「い、いえ、もちろんお抹茶も熱いものですが……

 その、大変失礼ながら、地主神様は猫舌では……?」

「見た目が猫だからって、ワシを馬鹿にしているのかね? 熱いものはむしろ好物さ」

「そ、そんな……。……ロ、ロビンさんっ!」

 一瞬絶句しかけたヌバタマは、ギロリと目を尖らせて俺を睨みつけてきた。

「そんなもん知らねえよ! だって見るからに猫じゃん! 猫なのに猫舌じゃないって、変じゃん!」

「それじゃあロビン。お前は犬の形を成しているが、犬と同じものしか食べないのかね?」

「あっ、なんでも食えるわ。それもそうだ。地主神の言う通りかもしんない」

「それに、この辺りはラーメン屋ばかりだろう? その香りを頂いているうちに、むしろ熱いものは好物になってね」

「な~る。神様って香りを頂くんだったっけ。そういや神社の近くにもラーメン屋あるしなあ」

「なに納得しているんですか!」

 ヌバタマが声を張り上げて俺を怒鳴りつける。

 だが、怒鳴られた所で事態が好転するわけでもない。

 ヌバタマの声を聞き流しながら、おずおずと地主神の顔を覗き込めば……。

 

「どうやら、百叩きは決定じゃな」

 まあ、そうなるよなあ。

 よし、とにかく逃げよう、そうしよ……

「キャインッ!?」

 逃走を決意するのと同時に、お面野郎がまた俺の首根っこを猫掴みして、ケツを引っぱたきやがった。

 ケツに走った痛みに反射的に振り返れば、空いた手には犬叩き棒。

 犬叩きの文字に何かしらの念が込められているのか、走った痛みは電撃のような一撃だった。

 おいおい、この痛みが、あと九十九回もあるの……?



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番外編『ロビン散策記2 ここは猫の細道じゃ その四』

 にゃぉん、と背筋がむず痒くなる鳴き声がしたのは、まさしくその瞬間だった。

 一同が振り返ると、俺達が来た道に一匹の人影……いや、猫影が見える。

 その影が近づいてくると、段々と顔付きが見て取れるようになったのだが、俺は思わずゲゲゲッ、と声を漏らしそうになった。

 そいつは、鼻の付近にハナクソのような黒ポチ柄がある子猫。つまりは、地主神の子がここにやってきたのだ。

 この段になって、コイツが顔を覗かせる理由……想像に難しくないな。

 俺が身動き取れなくなってから来るんだから、本当に本当にイヤな奴だ!

 

「気分が悪いぜ、ヌバタマ」

 俺は首根っこを掴まれたままで、畳の上のヌバタマに声を掛ける。

「あの子猫が、どうかしましたか? 確かロビンさんが苛めていた子ですよね」

「おう。そして地主神(じぬしがみ)の子だ。このタイミングであいつが現れたって事は、あいつも俺のケツを叩くに決まってる!」

「そうだったら全然痛くなさそうですし、むしろ可愛い気がしますが」

「関係ねえ! この棒念が込められてて、むちゃくちゃ痛てえんだ! フゴッ!!」

 ヌバタマとアレコレ言い合っている間にも、子猫はトコトコと俺達に近づいてくる。

 そして、ついに俺の傍までやってきて……

 

「あれっ?」

 

 子猫は、俺をスルーして更にその奥の畳に上がった。

 皆が注目し、地主神も物言わずに行動を見守る中、子猫は、地主神が畳の上に置いた茶碗に顔を寄せる。

 俺の角度からでは、一体子猫が何をしているのかは見えないが、ピチャリピチャピチャと水を弾くような音だけは聞こえてきた。

 おい、おいおい?

 これって、つまりは……飲んでるの?

 ヌルヌル判定されたお抹茶、お前が飲んでるの……?

 

「ウミャア~」

 子猫は、俺の心中に回答するかのように、甲高い声で鳴いた。

「おお、おお……うまいか、我が子よ」

 その鳴き声を聞いた地主神は、口元を緩めながら子猫を撫で上げる。

 いかつい顔して、随分な猫撫で声だ。

 一方の子猫も、抹茶をあらかた飲み終えると、ピョン、と身軽な動きで地主神の膝の上に飛び乗るのだから、親子仲はどうやら良いらしい。

 

「そうか。お前にはちょうど良かったかあ」

 地主神はなおも子猫を撫で続けながら、お面野郎に向けてアイコンタクトを送ってくる。

 それを受けたお面野郎はようやく俺から手を離しやがった。

 おお、痛かった、痛かった。

 これ以上お面野郎の傍にいたら、何をされたものか分かったもんじゃない。

 俺は掴まれていた所を解すようにブルブルと体を振りながら、すぐにヌバタマの傍へと移った。

 

「ヌバタマ。お前の茶、ワシには(ぬる)すぎたが、我が子にはちょうど良かったようだ」

 地主神は自身のヒゲをピンピン跳ねさせながら、そう告げる。

「しかし、地主神様にはご満足頂けず、大変……」

「良い、良い。わが子の機嫌が直ったのなら、それで良い」

「おお。んじゃお咎めなしか。よいよい!」

「真似をするでない! お前は何もしていないだろうに!」

 地主神はギロリと俺を睨んで、キツーい言葉を浴びせてきた。

 そこを突かれれば反論の余地はなく、俺はシュルシュルと小さく縮こまってしまう。

 地主神は呆れたように肩を竦めると、子猫を畳の上に戻して、のっそりと立ち上がった。

 

「今回だけじゃ。今回だけは不問に処す」

「と、地主神様……!」

「おお、やっぱりか。話分かるじゃん!」

 俺達は思わず歓喜の声を漏らす。

 嬉しさのあまり、ちょいと前脚をヌバタマに向けて突き出せば、

 ヌバタマは珍しく、ノリノリで俺の脚とハイタッチを交わしてくれた。

「良かったですねえ。ひやひやしましたよ……」

「ま、俺は最初から大丈夫だと思っていたけれどな」

「調子にのるでないぞ、ロビン。今後も我が子を苛めるような事があれば……分かっておろうな?」

 そこへ、地主神が釘を刺してくる。

「へいへい。俺もケツタタキはイヤだからな」

「それら良い。それとヌバタマ」

「あ、はいっ!?」

 ヌバタマは反射的に居住まいを但し、地主神を見上げた。

 それを受けた地主神は、嬉しそうに目を細めると、それこそ我が子に掛けるような、穏やかな口調でこう言ったのだった。

 

 

「温かった事は温かったが……お前がワシを気遣ってくれた事だけは、嬉しく思う。

 またそのうち、今度は熱い抹茶を()てにきておくれ」

「……はい、地主神様!」

 

 ヌバタマは、にっこりと笑ってそう言ってのけた。

 これにて、一件落着って奴だな。うん。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 空間を元に戻しておくので来た道を戻るように、と地主神に言われた俺達は、

 猫どもの合唱のような見送りの挨拶を背中に受けて、地主神の間を去った。

 にゃあにゃあとうるさい鳴き声をいつまでも聞くのがイヤでなので、

 ヌバタマに先行して足早に歩くと、程なくして、猫の細道の出口に辿り着いた。

 来た道を戻ってきたので、当然ながら夜咄堂側に出てしまったのだが、大した問題ではない。

 やっと地獄のような世界から抜け出せた喜びに、俺は大きく背伸びをしながら天を仰いだ。

 いつの間にか、ギラギラと降り注ぐ陽光は、殺犬真夏日気温を生み出している。

 思わず口を空けてハアハアと体温を調節しちまったが、その行為は普段よりも気分ソーカイであった。

 

「ああ、帰ってきたんだなあ~」

 ぐいっ、と背伸びをしながら陽光に浸る。

 と同時に、ケツにほのかな痺れがまだ残っていることに気が付いた。

 まったく、とんでもない目に遭わされたもんだ。

 一発で済んで、本当に良かった良かった。

「一時はどうなる事かと思いましたねえ……」

 気が付けば、俺に追いついたヌバタマが背後で頷いていた。

 彼女の手には、俺達を窮地から一応救ってくれた短冊箱(たんざくばこ)が握られている。

 それを見た俺は、ふと、ヌバタマには用事があった事を思い出した。

「おいヌバタマ。お前、こんな所でのんびりしていて良いの?」

「と、言いますと?」

「岡本って人の家に行く予定だったんだろ? 俺はもう疲れたからエスコートはパスするぜ」

「……ロビンさん……」

 ヌバタマは返事をせず、おもむろに短冊箱を置いた。

 それから、顔を伏せながらグイグイと俺に近づいてくる。

 俺の方が小さいもんだから、傍まで来ると、ヌバタマが俺を見下ろす形になって、表情を読み取る事ができた。

 

「うわっ、ナマハゲみたいな顔」

「誰がナマハゲですか!! そもそもロビンさん、今回の件について少しは反省しているんですかっ!?」

「なんで反省しなきゃなんないんだよ。職権ランヨーした地主神の方が悪いぞ!」

 ぶっきらぼうにそう言い放って、後ろ脚で耳を掻いてみせる。

 自分の子供が苛められたからって、親が出てくる奴があるかいってんだ。

 いや確かに、大人が子供を苛めたようなものだけれども、そこで親がケツ拭くのは過保護って話だよ。

 うん、俺は悪くない。

 悪いのは、ぜーんぶ猫なのだ。

 

「ロ・ビ・ン・さ・ん……」

 そこへ、ヌバタマがドスの聞いた声を浴びせてきた。

 あっ、あっあっ。

 君、なんともこれはマズい。

 今は冗談とか一切通じないぞ。

 やばい、やばやばだぞ。

 

 

「や、やだなあ。冗談に決まってるだろ、ジョーダン。以後気をつけるよ……」

「ふざけるんじゃありません!!」

 ヌバタマの怒声が響き渡った。

 まるで雷のようなその一言に、俺は反射的にヒャン、と鳴いて尻尾を丸めてしまう。

「ひ、ひい! 怒鳴るなよ……」

「怒鳴るに決まってるでしょうが! ちょっとお店に来てもらいます!」

「やべえ」

 その言葉を受けるや否や、俺は駆け出した。

 本気だ、本気。

 今日のヌバタマは本当に怒っている。

 普段怒らない奴が怒るとなんとやら。

 捕まれば、お尻百叩きよりも辛い、説教の責め苦が待ち受けているかもしれない。

 スタコラサッサと飛ぶように石段を下って逃げるが、背後にはなおもヌバタマの気配があった。

 

「待ちなさい! 止まりなさい!!」 

 振り返っちゃいないから視認はできないが、声はすぐ後ろから聞こえてくる。

 ヌバタマめ、草履履きのくせに、俺と大して変わらない速さで追いかけてきているのだ。

 やべえ、やべえ、と同じ言葉を繰り返しながら猛然と逃げ続ける。

 

 ふと、そんな俺の視界に一匹の猫が入ってきた。

 十数段先の石段でノンキに昼寝をしてやがる、随分とフトッチョな黒猫だ。

 これが普通の道なら、ひょいと交わしてやりゃあ済む話だ。

 だが、ここは幅が狭い石段なのだ。

 今からでは到底回避はできない。

 ああ、なおも猫が迫る。

 さて、どうする、俺。

 逃げるには蹴飛ばすしかねえ。

 あいつはただの猫だ、地主神のお叱りは受けないだろ。

 ならば……いや、しかし……むむむっ……

 

「わ、分かった、止まるっ!!」

 熟考の末……俺は雄たけびと共に、速度をじわりと緩めた。

 急接近していたヌバタマは俺に躓きかけたが、ギリギリの所で上手く歩調を合わせて堪えてくれた。

 結局、猫まで残り三段という所で、俺はようやく制止する。

 同時に、ヌバタマがムンズと俺の首輪を掴みにかかった。

 

「い、いてて! 首苦しい!」

「逃げなければ良かっただけの話です。さ、行きますよ!」

 

 ずるずると半ば引きずられながら、俺はヌバタマに着いて歩く。

 その最中、ちらりと背後を振り返れば、フトッチョ猫は、流石に俺達の騒動で目を覚ましたようで、眠たそうではあるが開かれた目をこちらに向けていた。

 まあ……いいさ、今回だけは勘弁してやる。

 今回だけな、今回だけ。

 それに、開放された直後に猫を苛めてちゃ、地主神の子じゃなくとも、地主神の怒りを買いそうだしな。

 

 

 

「ウナ~オ」

 フトッチョ猫が、俺を見つめながら、トロそうな鳴き声を漏らした。

 応援の声だったのか、嘲笑う声だったのか、猫語を解さない俺には分からない。

 そんな、意図不明の鳴き声を浴びながら、俺は説教フルコースへの石段を上るのであった。



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番外編『老人の絵本 その一』

 人間、誰にだって間違いはある。

 勘違いや伝達ミス、ついうっかりで何かを間違えるのもよくある話だろう。例えば、料理をする人だったら、砂糖と塩を間違えたことが一度はあるだろう、と若月千尋(わかつきちひろ)は思う。

 だから、湯と水を間違えることだってあるのだが……客席に正座する黒髪・黒和服の少女は、間違いに気がつくなり、嬉々として指摘してくるのだった。

 

 

「千尋さん、今のは駄目ですよ。茶筅(ちゃせん)通しは水ではなくお湯。基本中の基本ですよ?」

「あっ、そうだったな。わかってはいるんだけれど……」

「ええ。さすがにこれくらいは分かっていてくれないと。他の動作に集中してて、失敗しちゃいましたね。そういうわけで、もう一度最初からお茶を()てましょう!」

「き、今日はこれくらいにしない? そろそろテレビで日本シリーズがさ……」

「いーえ、もう一回! 今月は『ミスがなくなるまでやる』って標語を掲げたの、千尋さんですよ?」

「……余計なこと言ったな、こりゃあ」

 

 

 頭をかきながら、その少女、ヌバタマの顔をちらりと覗く。

 その視線に気がついた彼女は、肩先で揃えられた艶やかな黒髪をふわりと揺らして微笑みを返してきた。

 贔屓目を抜きにしても、可愛らしいといえるだろう。

 でも、今日ばかりは勘弁してよ、と千尋は思うのである。

 二階の茶室で本格的なお抹茶セットを出す和風カフェ『茶寮・夜咄堂(さりょう・よばなしどう)』の主として、茶道の稽古は重要なものだと認識している。でも、流石に今日だけは茶道から離れたかった。待ちに待った広島カープの日本シリーズ第一戦が、間もなくテレビ中継されるのだ。これを見逃すわけにはいかないと、放送開始の一時間前には稽古が終わるよう予定を立てていたのだが、ヌバタマが言う標語のことをすっかり失念していた。

 

 

 

「……じゃあさ、続きは野球を見終えてからにしない?」

「駄目です! 集中力切れちゃいますよ。それに、録画もしてるんでしょう?」

「そりゃそーだけれどさ。やっぱりリアルタイムで見たいんだよ」

「お稽古の方がずっと楽しいと思いますよ」

「しかし、そこをなんとか」

「だーめ! ささ。千尋さん、ガンバです!」

 ヌバタマが両手でガッツポーズを作り、稽古の継続を催促してくる。

 この茶道熱心すぎるところが珠に傷なのだけれども、尾道(おのみち)から出ることが殆どないヌバタマにとっては、今が数少ない楽しみの時間なのである。あまり邪険にするのも気が引けてしまった。

「……まあ、いいさ」

 額に手を当てて首を横に振りながらも、結局は稽古再開の為に立ち上がる。

 同時に出てきた言葉は、何かを諦めた時に出てくる口癖ではあったが、それを発した口角はにやりと上がっていた。

 

 

 ――今年の春に千尋は、最後の肉親である父を、茶道絡みの事故で亡くしている。

 天涯孤独となった彼が、父の遺産である夜咄堂で出会ったのは、茶道具の付喪神(つくもがみ)達……少女の姿をしたヌバタマに、おっさんのオリベ、そして犬のロビンだった。

 父だけでなく、他の家族も茶道絡みで亡くしている千尋にとって、茶道は受け入れがたい文化だった。しかし、付喪神達との交流や、客に茶道の良さを感じてもらえる不思議な力『日々是好日(ひびこれこうじつ)』のお陰で、やがて茶道を受け入れられるようになったし、過剰に相手の反応を気にしてしまう自分の性格も変えることができた。

 口癖だって、以前とは変わっている。

 いや、文言自体は何も違いはない。ただ、以前は自分の意見を押し殺す為に発していた口癖が、いつしか、相手の事情を理解しようと発する前向きなものになっていたのだ。

 そうだ。俺は成長しているのだ。稽古くらい、どうということは……、

「あ、千尋さん! 腰に付けた帛紗(ふくさ)、裏表逆ですよ!」

 ……まだまだ、どうということはあるようであった。

 

 

 

 

 

 稽古は、その後三十分程続いた。

 ようやくノーミスで茶を点て終え、ヌバタマが稽古の終了を告げると、千尋は突風のように茶室隣の水屋に駆け込み、使った茶道具を清めてしまった。

 それを終えると、板がきしむ階段を小走りで駆け下り、洋風の喫茶スペースと厨房を抜けて、自室に入るや否や、早速テレビを点ける。

 試合は三回表で、また両チーム無得点だった。どうやら見所はこれからのようである。胸を撫でおろしつつ、ようやく一息つく。

 そんな千尋の前に、すっと湯呑が差し出されたのは、試合が三回裏に入った時だった。

 

 

「千尋さん、お疲れ様です」

「ん。サンキュー」

 ゆったりとした手つきで湯呑を差し出してくれたヌバタマに、軽く礼を告げて受け取る。

 お茶の稽古の後に、またお茶を差し出された格好だが、重い抹茶に比べれば煎茶は飲みやすく、緊張感から解放された今の千尋にはちょうどいい味だった。

「私もご一緒していーですか?」

「別に構わないけれど、お前、野球のルール分かるの?」

「分かりませんけれど、楽しんでいる千尋さんを見るのは楽しいですから」

「……変な奴」

 そうは言うが、拒みはしない。

 ヌバタマは軽快な足取りで台所に戻り、自分の分の湯呑とおはぎが二個乗った菓子器を持ってきてから、隣に正座した。

 

「千尋さん、カープ、大好きですねえ」

「まーな。別にカープだけじゃないぞ。高校もメジャーも、野球は全部好きだ」

「熱心で良い事です」

「お前の甘い物好きには負けるけどな」

 湯呑と菓子器が置かれたちゃぶ台の上で頬杖を突きながら、呆れ笑いと共に呟く。

 それを受けたヌバタマは、頬を僅かに赤らめたが、平静を装ったような抑揚のない声を返してきた。

「わ、私は普通ですよ」

「いやあ、相当好きな方だと思うぞ?」

「そーいうことを言う人には、おはぎあげませんから」

「ごめんごめん。でも、食べたかったら二つとも食べていいぞ」

「えっ、本当ですか!! ……あっ」

 にぱっ、と表情を輝かせたのも一瞬のこと。

 とうとう好みを顔に出してしまったヌバタマは、そっぽを向いてしまった。

「一個で十分です!」

「ははっ。別に構わないのにさ」

「もう、千尋さんなんて知りません!」

 

 

「そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。……あ、そうだ。この菓子器って備前焼(びぜんやき)だよな?」

 いつまでもからかうのも、かわいそうだ。そんな気持ちで話題を変えると、ヌバタマは渡りに船と言わんばかりに話に乗ってきた。

「あ……ええ、そうです。千尋さんも備前焼くらいは判断できるようになりましたね」

「これでも、少しは成長しているからな」

「それじゃあ問題です。備前焼は何県の焼き物ですか?」

「岡山。お隣だろ?」

「正解です。次は少し難易度を高くしますよ。第二問。備前焼の陶芸家としては初の人間国宝となった、備前焼中興の祖と言えば誰ですか?」

「なんだその問題。分かるわけないだろ」

「残念ー。答えは金重陶陽(かねしげとうよう)です」

「お前の『少し』はおかしいぞ」

 

 

 千尋の苦情を受け付けず、ヌバタマは「まだまだですね」と言わんばかりに人差し指を振ってから、その指をおはぎに伸ばし、小さな真紅の唇をめいいっぱい広げて頬張った。

 千尋も嘆息しつつ、彼女に続いておはぎを食べる。どうやら、今日で賞味期限を終えた店の商品だったようで、あんこは少しばかり固くなっているが、それでもずっしりとした甘みが口内に広がる。

 それから、空となった菓子器に何気なく触れる。陶器の絵具ともいえる釉薬(ゆうやく)を一切用いていない備前焼は、元の素材である土の感覚を楽しめる焼き物とされている。この菓子器も例に漏れておらず、指先にはざらついた器の感触が伝わってきた。

 残念ながら、まだ茶人として駆け出しである千尋には、この器がどれほど良い物なのか、触っただけでは判別できない。

 ただ、無骨なまでに厚く作られた器は、不思議な頼もしさと落ち着きを与えてくれる気がする。

 答えは分からないけれど、自分なりの感想を持てるようになっただけ、少しは進歩しているのかもしれない。

 

 

 

「その菓子器、気に入りました?」

 おはぎを食べ終えたヌバタマが、身を乗り出しながら尋ねてくる。

「気に入ったって程じゃないよ。ずっしりしてるなあ、とか思ってただけ」

「どんな窯で焼いているんでしょうかね。備前なら日帰りで行けますから、いつか、皆で窯元見学とか行きません?」

「まー、そのうちな」

 そっけない返事をするが、悪くはない、と思う。

 面倒くさがりのオリベに、ノラ犬状態のロビンは行きたがらないだろう。でも、家族旅行みたいで楽しくなりそうな気はするのだ。

 じゃあ、彼らをどの角度から誘ったものだろうか。

 それを考えているうちに真剣になってしまったようで、無意識のうちに目をつぶって集中したのだが、それが良くなかった。

 

 

「あ。さっき点が入ったみたいですよ」

「え? ……あ!」

 広島の選手の打球が、どうやらスタンドインしたらしい。しかも、打ったのは千尋の贔屓の選手だ。

 だが、千尋が顔を上げた時にはリプレイも終了して、次の選手の打席になっていた。

「……見逃した」

 あれまぁ、とちゃぶ台に上体を崩し落とす。

 せっかく点が入ったというのに、素直には喜べない千尋であった。



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番外編『老人の絵本 その二』

 夜咄堂の茶室でお抹茶セットを欲しがる客は、あまりいない。

 なので、一階の客への対応が普段の仕事となるが、この仕事は二種類に分けられる。

 喫茶スペースで接客を担当するのは、オリベとヌバタマの付喪神ペアだ。もっとも、オリベは面倒臭がって千尋の部屋でサボりたがるし、接客が好きなヌバタマも、オリベに文句こそ付けるけれども、最後には自分で全部こなしてしまう。なので、オリベが働くのは店が忙しい時くらいだろう。

 そしてもう一種類の仕事、厨房の担当は店長の千尋である。提供する飲食物は、菓子屋で仕入れたケーキや、注ぐだけのジュースといった極めて簡素なものだけれど、衛生面で万が一が起こってもいけないから、他人には任せられない仕事だ。

 だが、千尋も暇な時は厨房には立たない。彼の場合はサボっているわけではなく、暇を見ては自室でやらなくてはいけないことがあるのだ。

 

 

「ヒャッヒャッ……」

「……えっと、マルクスが……ううん……」

「ヒャッヒャッヒャッ! スウェーデンって! スウェーデンだって!」

「……むう」

 ノートに向かい合ってうんうん唸る千尋の声を、オリベの笑い声がかき消す。

 千尋はペンとノートを離し、勢いよく椅子から立ちあがると、室内で寝転がって漫画を読んでいるオリベにツカツカと詰め寄った。

 

「ちょっと、オリベさん!」

「ヒャッヒャッ! あ、千尋。どーかしたかね?」

「勉強してるんですから、少しは静かにしてくださいよ!」

「あー、すまんすまん。じゃあ厨房で読むとするか」

「そーしてください。俺、テスト近いんですよ」

「でも千尋。勉強とやらが終わったらお前も読むといいぞ。このギャグがな。スウェーデンがな……ぷくく……」

 軽く頭を下げるものの、すぐに漫画の内容を思いだしたようで、鼻ヒゲごと口を緩めてしまう。

 左右非対称の色合いで幾何学模様が描かれた和服を纏うオリベは、その見た目同様に、いつも自由気ままなのだ。

 

「まったく……。百年以上生きている付喪神がそれじゃあ、威厳も何もあったもんじゃないですよ?」

「私は自由を愛する織部焼(おりべやき)の付喪神だから、これでいーのだよ」

「はいはい。それより早く出てってください」

「なーんじゃい。相変わらずお堅い奴だなあ」

 口をとがらせながら、オリベは漫画を片手に部屋から出る。

 やっと静寂が訪れると思ったのも束の間、しかしオリベは、千尋が椅子に戻らないうちに、扉の隙間からひょいと顔だけを覗かせた。

 

 

「……まだ、何か?」

「千尋。喫茶スペースにいるお客さんがいるのは知っとるかね」

「大学の岡本(おかもと)先輩と、初見のお爺さんですよね。注文の品は出しましたけれど、追加注文でもあったんですか?」

 追加注文があれば、厨房の仕事に戻らなくてはいけない。

 なので、そう確認はしたものの、早口気味のオリベの声には、何か別の問題の可能性がうっすらと漂っていた。

「いや。なんだか言い争うような声が聞こえる。その二人じゃないだろうかね?」

「まさか」

「だが、ヌバタマの声じゃないぞ。様子を見てこようかね?」

「……いえ、俺が行きます」

 早口で返事をする。

 無意識のうちに大股になりながら、オリベの横を抜けて喫茶スペースに通じる扉に手をかけた。

 もうその時点で、確かにヌバタマではない喧騒が耳に届いてくる。奥歯を噛みしめて顔をこわばらせつつ、思いきって喫茶スペースに入ると、そこには案の定の光景があった。

 

 

 

 

「だーかーら! あたしがスマホいじるのを止める権利、じーさんにはないっての!」

「お前の為を思って言っとるのに、何を言うか!」

「何があたしの為なのさ!」

「そんなもんタプタプ弄っていると、頭まで機械じみるんじゃ! 食事中くらいはしまっとれ!」

「だから、言ってるじゃん! 百万歩譲って機械の頭になるとしても、あたしの勝手だっての!!」

「なんじゃとチンチクリン!」

「じーさんの方が低いじゃん! スーパーチンチクリン!!」

 互いの顔がくっついてしまいそうな距離で、岡本千紗(ちさ)と男性老人が怒声をぶつけあっている。

 岡本は成人していながら女子中学生並の低身長だが、老人もほとんど身長差はない。言葉遣いが子供じみている事もあって、傍から眺めれば、どこか微笑ましくも思える口喧嘩だった。

 でも、店の主がこの事態を放っておくわけにはいかない。ヌバタマも二人の前でオロオロするばかりだから、ここは千尋が出る他なかった。

 

「二人ともちょっと落ち着いてくださいよ」

「なんじゃい! 店長はあっち行っとれ!」

「そーだぞ千尋! スマホ爺を懲らしめてるんだから、邪魔するな!」

 息の合った反論を受けてしまい、思わず後ずさりしてしまいそうになる。

 勢いに飲み込まれて反論の材料を無くしかけてしまったが、ふと、ヌバタマが一層不安そうな表情を浮かべているのが、視界の隅に見えた。

 

「いやあ、でも……」

「なんじゃい! まだ邪魔をするか!」

「ほら……女の子が困ってますよ?」

「……むう?」

 老人は唐突に唸り、次第にばつの悪そうな表情になって目を逸らした。

 泣いてこそいないものの、あわあわと口元を震わせているヌバタマを目にして、冷静さを取り戻したのだろう。

 狙いどおりではあったのだが、どこか拍子抜けさえもするクールダウンだった。

 やがて老人は、ポケットから千円札を取り出して二人掛けテーブルの上に置き、木の床を強くきしませながら玄関へと向かった。

 

「……チンチクリン! 説教はまた今度だ」

 それだけ言い残して、玄関の扉が乱雑に閉められる。

 ようやく安堵の息を漏らした千尋は、隣でまだ不安げな表情を浮かべているヌバタマの肩を優しく叩いた。

 それでやっと、ヌバタマも小さいながら笑顔を浮かべてくれた。

 ヌバタマは、これでいい。

 よくないのは、もう一人だ。

 岡本が外の向かってアカンベエをしているのを目にした千尋は、今度は口調を強めて声をかけた。

 

 

「……岡本さん、何やってるんですか!」

「何って、アカンベエ」

「そうじゃありませんよ! もう……言いたい事、わかるでしょう?」

「そりゃーわかるさ! でもな、千尋! ちょっとあたしの話も聞いてくれよ!」

 岡本はそう言うと、肩をいからせながら、座席にどっしりと腰掛けた。

 陶芸サークルの先輩がこう言っているんだし、千尋としても事情は聞いておきたいところだ。

 他に客もいないから、遠慮なく彼女の対面に腰掛けると、岡本はそれを待ち受けていたかのように口を開いた。

 

「今の爺さんな。スマホ爺だ」

「なんか、さっきもそんな事言ってましたね。あだ名なんですか?」

「そーだよ。本名は迫田(さこだ)……とか言ったかな。あたしのアパートの近くに住んでいる爺さんらしいんだけれどさ。歩きスマホとか、歩きゲームとかしている奴を見つけると、すぐに口やかましく怒鳴りつけてくるんだよ。あたしのアパートには学生が多いんだけれど、大抵の住人はスマホ爺に怒鳴られてて、いつの間にかそんなあだ名が付いてるのさ」

「じゃあ、さっき口論になっていたのも、それが理由ですか?」

 二人のそばに立っているヌバタマが会話に加わってくる。

「そのとーり! 店内で弄ってる時まで怒られる道理はないっての!」

「でも、歩きスマホは危ないですよ」

「そーだとしても、怒鳴るのはないだろ。じーさんってのはこれだから嫌だねえ」

「なるほど。そういう事でしたか……」

 顎に手を添えながら、千尋は窓の外を見た。

 

 

 季節の花が咲く庭の先には、もう迫田の姿は見えなかったが、それでも千尋は迫田に想いを巡らせた。

 岡本のいう通りなら、マナーにうるさく我も強い老人。それが迫田だ。

 だが、本当にそれだけの人なら、うろたえるヌバタマを見ても引きさがらないんじゃないだろうか。

 迫田の言動には、何か理由があるような気がしてならなかった。



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番外編『老人の絵本 その三』

 翌日の夕方、千尋は買い出しの為に、ヌバタマと商店街へ向かっていた。

 この頃はめっきりと秋めいてきて、この時間に吹く風は大分冷たい。両手をポケットに突っ込みつつ振り返ってみれば、夜咄堂のある千光寺山では、紅葉が目立ち始めていた。

 赤に黄色に橙に。艶やかな色をした木々は、まだ変色していない多数の緑葉の中で、その存在を強く主張している。

 

 でも、肝心の夜咄堂は、そうはいかない。

 千光寺山と隣接している商店街付近から、店を探そうとしても、こちらは完全に木々の中に埋没してしまっている。

 これじゃあ、お店に客が来ないのも無理はない。

 特大の電光掲示板でも掲げたら、もうちょっとは繁盛するだろうか。

 冗談半分でその光景を想像したが、隣を歩くヌバタマが真っ赤な顔で反対する姿もセットで浮かんで、千尋はつい苦笑してしまった。

 

 

「千尋さん、一人で笑ったりして、どうしました?」

 ふと、そのヌバタマが顔を覗き込むようにして尋ねてくる。

 電光掲示板で夜咄フィーバー、とでも言えば、実直なヌバタマのことだ、本気で受け取ってしまうだろう。

「いや……紅葉って、ちょっとだけ彩られても綺麗だな、って思ってさ」

 とりあえず、別に思っていた事を口にする。

「なるほど。千利休のアサガオみたいですね」

「利休のアサガオ……と言うと?」

「あら、この話は知りませんでしたか? 千尋さんもまだまだですね」

 ヌバタマが自慢げに人差し指を振る。

 ちょっと悔しいけれど、茶道の知識では彼女が大先輩なのだから、仕方がない。

 千尋は仏頂面気味で、ヌバタマに言葉を返した。

「まだまだで悪かったな。教えてくれよ」

「ええ、もちろんです。ある時、千利休の庭で、それは美しいアサガオが咲いたんです。そこで利休は、豊臣秀吉を『アサガオが美しく咲いたので茶でも飲みながら見ませんか?』と誘ったんです。秀吉は大喜びでやってきたんですけれど、なんと、庭のアサガオは全部花が刈られていたんですよ。当然、秀吉はガッカリしながら茶室に入ったんですが……」

「アサガオが一輪だけ飾られていた、とか?」

「もう! 答えを先読みしないでくださいよ!」

 ヌバタマが小さく頬を膨らませながら言う。

 

「ははっ。悪い悪い。つまり、一輪だからこそ美しさが際立つ、ってことか」

「もちろん、アサガオがいっぱいあったら、それはそれで綺麗だったと思いますよ。派手好きなオリベさんやロビンさんだったら、そっちが好きそうですね」

「ヌバタマは、どっちがいいの?」

「私は一輪の方が好きですから、千尋さんと同じ、ちょっとだけ紅葉派です!」

 ヌバタマはそう言うと、軽い足取りで、その場でくるりと回ってみせた。

「なんなんだよ、その変な派閥は」

 千尋も突っ込みはするものの、同じ嗜好だと嬉しそうに言われれば、それはもちろん嬉しい。

 ただ、その感情を表に出すのは恥ずかしくて、照れ隠しにポケットの中のスマートフォンを取り出したが、すぐにはっとしてポケットに戻してしまった。

 

 

 

「……すまほ、でしたっけ。それ」

 それを目ざとく見つけたヌバタマが、回るのを止めて、おずおずと尋ねてくる。

「ああ、そうだな」

「確かこの前、岡本さんとお爺さんが喧嘩する原因になった機械ですよね。危ない道具なんですか?」

「使い方によるかな。岡本さんが店で使う分には問題ないと思うんだけれどなあ」

「なら良いんですけれど……でも、お爺さん、随分と怒っていましたよね」

 少し安心できたようで、ヌバタマの声の調子が普段どおりに戻る。

 

「そうだったなあ。何か、理由があるのかもな」

「私達で力になってあげられれば良いんですけれど……」

「そう考えるのは、茶道具の付喪神の定めのせいなのか?」

「いえいえ、おもてなしとは関係なく、純粋にそう思うんですよ。ねえ、何かしてあげられませんでしょうか……?」

「ん。そうだなあ……」

 すがるような瞳で見つめつつ尋ねてくるヌバタマに対して、千尋は後頭部をガサガサと掻きながら考え込む。

 

 これは、まあ、厄介事といって差支えない件だ。

 岡本の話を聞く限り、迫田老人は相当頑固な人のようだし、仮に力になるにしても、何をどうして良いのかまったく見当がつかない。

 それに、人の感情に深く踏み込んでいくのは、考えものではあるのだが……、

 

「……はあ。まあ、いいさ」

 深い溜息と一緒に、口癖が零れる。

「と、言いますと?」

「仕方ないな、って事。お前に付き合うよ」

「千尋さん……!」

 ヌバタマの表情が、紅葉のようにぱっと明るくなった。

 本体である棗同様に、しっかり者な性分をしたヌバタマからすれば、迫田のことが気になって仕方がないんだろう。

 だったら、自分も力になってやるしかない。

 家族であるヌバタマが気になると言うのなら、千尋の答えもそれ一つなのだ。

 

 

 

「千尋さん、なんだか最近、頼もしくなった気がしますよ」

 ヌバタマがヨイショしてくる。

 まあ、悪い気はしない。

「そんなに褒めるなって」

「事実ですもの。頼りにしてます!」

「し、仕方ないな。俺に任せてお……のわっ!?」

 調子に乗って口の端を緩めたところで、歩道の段差に足を引っかけて転びかけた。

 なんとか転ばずに踏ん張ったけれど、なんともまあ、無様なものである。

「……前言撤回です。千尋さん、やっぱりドジ」

「むう……」

 ヌバタマがくすくすと笑う。

 ばつが悪くなった千尋は、そんな彼女から逃げるようにして、足早に商店街を進むのであった。



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番外編『老人の絵本 その四』

 買い出しは、殆ど時間はかからなかった。この日はいくつかの調味料を買いに来ただけで、店で出す菓子や飲み物を補充する必要もなく、スーパーを一軒回るだけで済んだのである。

 スーパーを出ると、また冷たい風が吹き付けてくる。ちらとヌバタマを見れば、少しばかり体を縮れこませているようだった。

「これくらいの買い出しなら、次は付き添わなくていいよ」と軽く声を掛けると、ヌバタマは屈託のない笑みを浮かべて「千尋さんと出かけたいのです」と返してくる。

 慕われるのは嬉しいけれど、ちょっとばかりこそばゆい。

 無意識のうちに速足で帰路に着いた千尋であったが、スーパーを出て間もなく、その足はヌバタマによって止められてしまった。

 

 

「……千尋さん、アイスですよ。アイスクリームのお店がありますよ!」

 ヌバタマが大きな声を出しながら、千尋のコートを引っ張る。

 さっき掛けてくれた慕いの言葉よりも、張りがある声だ。

 まあ、甘味だけには勝てないものなのだ。

 ついつ乾いた笑いを浮かべつつ、ヌバタマが見つけた店を見れば、横幅三メートル程の小さなスペースのアイスクリーム屋が、他の店に挟まれる……というよりは、潰されるようにして建っていた。

 もちろん、幼い頃から通っている商店街だから、そこにアイスクリーム屋があるのは千尋も知っている。

 しかし、立ち寄った事も気に掛けた事も、一度もない店だった。

 

「アイスか。ヌバタマ、ここ来た事はあるの?」

「いいえ。宗一郎(そういちろう)様の代には買い出しに出る事はありましたけれど、お給金は頂いていませんでしたから。欲しいと言ったら宗一郎様が買って来てくださいましたし」

「父さん、パシりじゃん」

「面倒見が良い方、と言うべきですよ。……それで、千尋さん、その……」

 ヌバタマは途中で言葉を切り、やや顔を伏せつつ、千尋と店を交互に見始めた。

 なんともまあ、分かりやすい反応なのである。

 

「……もうすぐ冬だってのに、よくアイスなんか食べたがるなあ。一つだけだぞ」

「さっすが千尋さん!」

 その場でぴょんぴょん飛び上がるヌバタマを抑えつつ、改めてアイス屋に向き直る。

 店舗の正面には、店内への入口とテイクアウトの窓口があって、店内には細く狭いカウンターの座席が並んでいる。テイクアウト窓口に注目すると窓ガラスにメニューが張り出されていた。

 上から順に、バニラ、チョコレート、抹茶、ストロベリー、そして瀬戸田(せとだ)レモン、塩アイス。いずれもお手製と思われる写真付きである。

 

「瀬戸田レモンと塩アイスって、何なんでしょうか?」

 同じくメニューを見ながら、ヌバタマが呟く。

「尾道住んでるのに、知らないのか?」

「基本、お店に篭りっきりでしたから」

「そっか。ええと……瀬戸田レモンってのは、尾道と愛媛を繋いでいる『しまなみ海道』の一角、生口島の瀬戸田って所で採れるレモンを使ったアイスだな。確か、日照時間が長いから美味しいレモンが採れるんだ」

 途切れ途切れながらも、なんとか記憶を掘り起こして説明をする。

「おおー。千尋さん、物知りですねえ」

「それほどでも……」

「それで、塩アイスは何なんです?」

「ん? あー、えっと……」

 

 が、今度は言葉に詰まってしまう。

 塩の入ったアイス、くらいの事はもちろん分かる。この塩も、しまなみ海道のどこかの島で採れたはずだけれど、島名をど忘れしてしまったのだ。

 島名は塩のCMで有名だったはずだが、だからこそ、ヌバタマ以上に千尋自身が気になってしまう。

 こうなれば、文明の利器に頼る事にしかない。

 ポケットからスマートフォンを取り出して、モニターをタプタプする事十数秒。

「……あっ! 思い出した!! は・か・た・の」

「店の前でなーにをしとるんじゃあっ!!」

 千尋の言葉が、店内から聞こえた怒声にかき消される。

 驚くあまり、ついスマートフォンを落としかけたが、なんとか空中で掴んだ。安堵の域を漏らしながら店内を見ると、そこには先日知ったばかりの顔があった。

 

 

 

「あ、えっと……迫田さん?」

「あんちゃんは、この間の喫茶店の店長か」

 テイクアウト窓口から千尋達を睨んでいるのは、他でもない、白くなりだした眉を思いっきり吊り上げた迫田老人だった。

 よくよく彼を見てみれば、店名がプリントされた鮮やかな色合いのエプロンを付けている。

 可愛らしい恰好が意外と似合っている、なんて考えてしまうけれど、今はそれどころじゃない。

 その感想を意識の隅に追いやりながら、千尋は小さく会釈した。

「はい。夜咄堂の店長の若月千尋と言います」

「若いな。いくつじゃ?」

「もうすぐ十九歳になります。大学生です」

「学校に行きながら店を持つとは偉い……と言いたいが、そういうわけにもいかんな」

「と、言いますと?」

「すまーとほんじゃ。そんなもん外で弄ってたら、人にぶつかるだろうが」

 ぎろり、と手元を睨みながら迫田が言う。

「あ……は、はい、そうですね。すぐ、しまいます」

 

 彼の勢いに半ば気圧されながら、スマートフォンをポケットに戻した。

 とんだタイミングで顔を合わせてしまったものだ、と内心唸りながら、千尋は迫田の顔色を伺ったが、まだまだ笑顔が戻る様子はない。

 それでも、せっかく会えたのだから、電子機器を嫌う理由に探りを入れるチャンスではある。

 千尋は、迫田の表情の変化に注意しながら、ゆっくりと話を切り出した。

「あの……ところで迫田さん?」

「なんじゃい」

「迫田さんって、なんでスマホ……」

「それがなんじゃい!?」

 スマホ、と聞いただけで、また迫田がぷんすかと両手を掲げて怒る。

 これじゃあ、探りを入れるなんて到底無理な話だ。

 ちら、と斜め後ろのヌバタマを見やるが、彼女も難しそうな顔をして千尋を見返してくるだけだった。

 さて、どうしたものか……、

 

 

「おじいちゃん……」

 ふと、そこへ子供の声が聞こえてきた。

 振り返ると、五歳くらいの大人しそうな男児が、涙目になって迫田を見上げていた。

「おや、さっきの坊やじゃないかい。ベソかいてどうかしたかい?」

 迫田が猫撫で声で言う。

 先ほどまでの頑固老人はどこへやら、彼は優しげな瞳を男児に向けていた。

 だが、その瞳は何かを捉えたようで、彼はすぐに小首を傾げた。

 

「……おや、さっき買っていったアイスはもう食べたのかね?」

「ううん。……えぐっ……落とした。信号で、車に驚いて……えぐっ……」

「なるほど、そういう事かね。よしよし、じゃあ代わりのアイスをあげよう」

「ん……お金、お母さんにもらってくる」

「そんなのいらんわい。確か塩アイスだったな。ちょっと待ってなさい。ああ、危ないから横断歩道は一緒に渡ろう」

 迫田はそう言うと、慣れた手つきで塩アイスを用意し、店外に出てきた。

 それを男児にそっと手渡し、空いている方の手を握って「さあ、行こうかね」と声を掛けると、彼は男児と一緒に商店街の奥へと歩いて行った。

 

 そして、店の前には千尋とヌバタマだけが残される。

 突然の豹変に、二人は唖然としたままで口を挟めなかったが、見送る迫田の背中が小さくなったところで、やっと千尋が先に声を出した。

「……迫田さん、むちゃくちゃ子供に優しいな」

「ええ。別人かと思うくらいでした」



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番外編『老人の絵本 その五』

「……ところで千尋さん。あれ、何でしょうか?」

 先に迫田から視線を切ったヌバタマが、いつもよりは、やや狼狽の色が残る声で店内を指差す。

 その先、入り口付近のカウンターには、店外から差し込む日差しに照らされるように、本が置かれていた。

 近づいて手に取ってみると、二十ページほどの横長の絵本だった。表紙には手足が生えて顔のあるりんごが描かれていて「りんごくんのぼうけん」と題してある。

 

「絵本、みたいだな」

「なんでアイス屋さんに絵本があるんでしょうかね」

「さあ」

 首をすくめて答えながら、本の中身を流し読む。

 りんごくんが、やさい王国に届け物をするという話で、やさい王国の正体は八百屋だったという、オチているのかいないのか、よく分からない話だった。

 ヌバタマも千尋の隣で中身を眺めていたが、感想こそ口にしないものの、彼女の頬はほっこりと緩んでいる。

 だが、千尋はストーリーよりも別のところが気にかかった。

 この絵本、どうも紙が貧弱なのだ。ページは市販のボール用紙で作られているようである。それに、最後のページを開いても奥付がなかった。

 

「この本って、もしかして……」

「ええ。お爺ちゃんの手作りなんですよ」

 聞き覚えのない声が答えを返した。

 顔を上げると、三十代くらいの女性店員がニコニコしながら千尋を見つめている。そばかすが目立ったが、しかしそれが素朴な魅力を醸し出している女性だった。

「あ……勝手に読んだりしてすみません」

「ううん。そうして読んでもらえた方が、お爺ちゃんも喜ぶから」

「お爺ちゃんと言うと……さっきの迫田さん、ですよね?」

「そうよ。店をほっぽって子供に付き添ったあの人が、私のお爺ちゃん。ちょっと無責任よねえ」

 女性は苦言を呈しながらも、軽やかな足取りでカウンターから出てきて、絵本の前に手を出した。

 千尋が反射的に絵本を手渡すと、彼女は遠い目をしながら、一ページ、一ページをゆっくりとめくりだす。

 

「お爺ちゃんね。絵本を作るのが趣味だったんだ」

「これもお爺さんが作ったんですね。上手ですし、ほんわかしていて、いいですね」

 と、ヌバタマが嬉しそうに言う。

 しかし、千尋は腕を組みながら、女性を見つめる。

 絵本よりも、彼女の言葉が気になる。どこかしら、引っかかるものがあるのだ。

 

「ふふっ、ありがと。さっきも見てのとおり、お爺ちゃんは小さい子が大好きでね。私が小さい頃はよく絵本を作っては読み聞かせてくれたわ。ううん、私だけじゃない。近所の子にも作ってあげてね。評判は良かったし、お爺ちゃんの読み聞かせがまた上手だったから、お爺ちゃんに会いたくて遊びに来るような子もいたわ」

「あの迫田さんが、ですか」

「意外よね」

「あ、いや……」

 自身の失言に、千尋はつい目を逸らしかける。

 だが、女性はまったく不快に思っていないようで、内心胸をなでおろした。

 

 

「お爺ちゃんが近所でよく言われていないのは分かってるわ。と言うより、場合によってはお爺ちゃんが迷惑になるだろうから、私からも注意しているんだけれど、なかなか……ね。ごめんなさいね」

「いえ、迫田さんが正しいですから」

「ううん。半分くらいは八つ当たりなのよ。……二十年くらい前からかしらね。お爺ちゃんの絵本が、好まれなくなっちゃったのよ」

 女性はそう言って千尋らに背中を見せると、パタリと本を閉じてカウンターに戻した。

 なぜだろうか。

 その背中は、どこか小さく見えてしまった。

 

「……もう、絵本の時代じゃなくなっちゃったの。子供は外で遊べるゲーム機に大熱中。それはそれで楽しいし便利だし、良い物だと思うわ」

「そうですか? 情操教育には今でも絵本だって必要だと思いますけれど」

 千尋はやや大げさに被りを振った。

 さっき読んだ絵本だって、話の面白さはよく分からないけれども、ヌバタマが笑っていたのだから、きっと純粋な心には響くはずだ。

 それに、物のよしあしは、媒体には影響されないはずだ、とも思う。

「ありがとう。でも……」

 女性はなおも振り返らずに、重々しく天井を見上げた。

「……お爺ちゃん、それでもめげずに絵本を作っていたわ。でも一度、子供からはっきり言われちゃったのよ。『ゲームの方が面白い!』ってね。……あの時の茫然としたお爺ちゃんは、見ていられなかったわ」

「そんな……」

 ヌバタマが絶句するような声を漏らす。

「それ以来ね。お爺ちゃんが、ゲームとか、近年だとスマホなんかにも目くじらを立てるようになったのは」

「そう、でしたか……」

 千尋も、それ以上の言葉は繋げなかった。

 

 これまで笑いかけてくれた者に、首を横に振られたら。

 いつもそこにあると思っていた笑顔が、消えてしまったら。

 迫田の心境を想像するだけで、胸に切なさが吹き荒れてしまう。

 絵本を作らなくなってしまうのも、無理はない。

 だが、それでも、老人は子供には愛情を持って接していた。

 彼は、寂しくてたまらないのだ……。

 

 

 

「……千尋さん」

 ふと、ヌバタマが目を微かに潤ませながら、服の裾を引っ張ってきた。

 千尋は、彼女を励ますように、大きく、そしてゆっくりと首を縦に振る。

 

「そうだな。俺達が……」

 

 俺達が、あの力を使って癒してあげよう。

 

 その言葉を途中で飲み込んだのは、近くにいる女性店員に、力を隠す為だけじゃない。

 力を使えば、迫田に絵本の良さをもう一度認識してもらう事はできるだろう。

 でも、同じような事を言われれば、また彼は傷つくかもしれない。

 

 迫田の心に踏み込むあと一歩……。

 その答えは、唐突に千尋の頭の中に湧いて出た。

 

「……あの人の力も、借りなきゃな」

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「なんじゃい。わしを締め出す気か」

 門前に出している、店案内用の小さな黒板を見た迫田老人の言葉は、意外にも喚き声じゃなく、どこか投げやりなものだった。

 

 考えてみたら、迫田がそう勘違いするのも無理はない。彼を茶室に招待したのに、黒板には「本日貸し切り」の文字が書かれているのだ。

 確かにこれは失敗だったと反省しつつ、千尋は手にしていた竹箒を板壁に立てかけ、頭を下げた。

「あー、いえいえ、これは他のお客様に向けたもので。迫田さん達はどうぞ、店内にいらして下さい」

 そう告げて、右手を門の奥へ伸ばし、迫田……そして、同伴している彼の孫娘を招く。

 

「ふん。こいつが『どうしても行こう』と言うから来ただけなんじゃ。別に帰っても構わんのだが……」

「お爺ちゃん、そう言わないで。せっかく夜咄堂さんが、お爺ちゃんの為にお茶を出してくれるって言うんだから」

「……茶を飲んだら、さっさと帰るからな」

 苦笑する孫娘に表情を見られないよう、迫田はぷいとそっぽを向く。

 子供っぽい仕草に、つい千尋まで笑みを零してしまうところだったが、なんとかそれは堪えた。

 こんな人だからこそ、絵本で子供を笑顔にしてきたのかもしれない。

 

 スマホ爺の裏の顔を認識しつつ、千尋は二人を先導して夜咄堂の中へと入っていった。

 四人掛けのテーブル二つと、窓際の二人掛けテーブルが二つ、それにカウンターでいっぱいになってしまう一階は、お世辞にも広いとは言えない。

 だが、瀬戸内海や尾道大橋、それに千光寺山の麓から山頂に伸びるロープウェイを一望できる景色だけは自慢で、狭さを引いてもお釣りがくる魅力がある。

 だが、この日用事があるのは、二階である。

 

 床板をきしませながら二階への階段を上がりきった千尋は、すぐ傍にある茶室を一瞥した。

 ()(じく)に花入に花、それに、部屋の中央に垂れ下がっている鎖と、鎖に掛かっている釜。必要な物は既に揃っている。

 目だけを動かして、茶室隣の水屋(みずや)を見ると、中から顔を出しているオリベが親指を突き立てていた。

 どうやら、準備に抜かりはないようだった。

 

 

「どうぞ、お二人はこの中へ」

「なんじゃここは。茶室かね?」

 千尋に続いて二階に上がってきた迫田が、物珍しそうに室内を覗きながら尋ねてくる。

 迫田の孫娘には事前に説明をしていたとはいえ、彼女も、おそらくは滅多に見ないであろう茶室には興味があるようで、同じように室内を見ていた。

 

「ええ。実は、今日は迫田さんにお抹茶セットを振舞いたくて。せっかくだから茶室で頂いてもらおうかなと」

「ふぅん。古めかしい事をするの」

「お嫌、ですかね?」

「そうは言うとらん」

 迫田は相変わらずぶっきらぼうにそう言い、室内に入って緋毛氈(ひもうせん)の上に正座した。

 孫娘もそれに続くと、千尋は廊下に正座し、二人に頭を下げてから障子を静かに閉めた。

 

 障子を隔ててではあるが、一人になると、階下の様子が気になってしまう。

 だが、今頃は台所で料理に取り組んでいるヌバタマがなんとか(・・・・)してくれるだろう。

 それよりも、まずは自分が迫田をもてなさなくちゃいけない。

 千尋は小さく深呼吸して、水屋に他の茶道具を取りに行った。



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番外編『老人の絵本 その六』

 季節によって、釜の扱い方は大きく違ってくる。

 暖かい季節では部屋の隅に風炉という台を置き、風炉の中で炭を燃やして釜を掛けるのだが、寒い季節になると風炉は置かない。代わりに、畳の一部に炉と呼ばれる穴と炭火を設けて、その上に鎖で吊るされた釜がくるのだ。

 理由は、単純明快。気候に合わせて客と火の距離を調整する為である。これもまた、茶道の気遣いの一つなのだ。

 先日の稽古で、この事をヌバタマから聞かされた千尋は膝を打ち……だが、暫し考え込んだ後、細い目を一層細めて、露骨に嫌な顔をした。

 つまりは、風炉用と炉用、二種類の点前を覚えなくちゃいけない。

 それが嫌というわけではない。夏までの千尋ならともかく、今なら望むところだ。

 ただ、スタートに戻る感が、なんともしんどいのである。

 

 

「座る位置とか、柄杓の捌き方とか、全然違うもんなあ。上手くできるかな……」

 茶室の前で小さくぼやきながら、これから見せる点前を脳内でシミュレーションする。

 炉手前の稽古は、まだ取り組みだしてから一か月程度。不安は残るけれど、ここまで来たらやるしかない。

 

「千尋。そろそろ」

 横で控えているオリベが声を掛けてくる。

 菓子を出し、そして「力」を使う為に、彼はこの茶席には欠かせないのだ。

「ええ。宜しくお願いします」

 オリベに一礼をしてから居住まいを正し、静かに障子を開ける。

 畳六畳の茶室は、真ん中に炉が掘られている。春夏の頃は正方形の畳で覆っていたスペースだ。

 炉の真上にある釜は、蓋の隙間から濃い煙を立ち昇らせている。その煙の向こう側に敷かれた緋毛氈の上では、迫田と孫娘が正座をして千尋の方を見ていた。

 茶事の始まりの挨拶をして、千尋は茶碗や抹茶容器の棗を手にし、茶室へ入って釜の前に正座する。

「なかなか、暖かいもんじゃの」

「今朝は寒かったので、炭は、気持ち強めに燃やしています」

 迫田へにこやかに返事をして立ち上がり、今度は余分な水分を捨てる為の建水や柄杓も持ってくる。

 

 

 そうすれば、いよいよ茶事の始まりだ。

 まずは、茶碗や茶杓、棗といった茶道具を清める。拭くのではなく、清めるつもりで、一つ一つ気持ちを込めて扱っていく。

 その後で、棗の中に入っている抹茶を茶碗に移す。大別すれば、茶を点てるまでの手順は、この二つに分けられる。

 柄杓を薙刀のようにくるりと回し、釜から湯をすくって茶碗に移せば、後は茶筅で攪拌して薄茶を点てるだけだ。

 その間に、オリベが客の前に茶菓子を運び終えている。

 迫田は相変わらず仏頂面ではあったけれど、ケチは付けずに食べてくれた。

 ここまでは、よし。

 なのに、自分がミスするわけにはいかない。備前焼の茶碗に湧き始める気泡を凝視しながら、千尋は一心不乱に茶筅を振り……なんとか、お茶を点て終えた。

 

 

「どうぞ」

 まずは正客である迫田に向けて一声かけ、茶室の中央に茶碗を置く。

 それをオリベが迫田の前に移すと、迫田は小さく頷いて茶碗の中身を喉へと流し込んだ。

「お加減、いかがでしょうか」

「……ちょっと熱いが、まあ、ええわい」

「恐縮です。……宜しければ、そのお茶碗の話をさせて頂けませんでしょうか?」

「好きにせい」

「それでは、お言葉に甘えまして」

 また迫田に一礼をするが、話の前に、まずは迫田の孫娘へも茶を点てて差し出す。

 それを運んだオリベと、一瞬だけ目が合うと、彼は目配せをしてみせた。

 どうやら、オリベも準備は万端のようである。

 オリベが茶碗を運び終えた後で、湯が冷めないよう釜に蓋をしてから、千尋はこの日の為に覚えてきた口上を述べた。

 

 

「今日、お二人が使っているお茶碗は、備前焼と言います。その名の通り、お隣、岡山県の備前市を中心に焼かれている焼き物ですね」

「うむ」

「実は、備前焼にはある特徴があるんです。これは、緑釉……茶碗の絵具のようなものですが、緑釉を掛けないんです。他の焼き物とは違って、粘土を焼くだけで作っているんですよ」

「味気ない茶碗って事か?」

 迫田が頬を歪め、早口気味で尋ねてくる。

「まあ、そう見られてしまうのも無理はないかもしれません。備前焼は日本六古窯の一つでもあり、約千年の間、そのスタイルを崩さずにやってきました。なので、華やかな色合いとは無縁の焼き物なんです。……でも、私はそれで良いと思います。備前には備前の良さがあるんですから」

「………」

「この茶碗は、何よりも土の良さを感じる事ができる。そして焼き加減からくる色むらという自然の美しさを楽しめる茶碗です。それに、とても硬くて実用性にも優れている。もちろん、他の焼き物には他の焼き物の良さがあります。そして、備前には備前の良さがあるんです」

 そう告げて、迫田が目の高さで掲げている備前茶碗をじっと見つめる。

 柿色をしたそれは、上部と下部で色むらができていて、どこかおどけたような土味を見せている。

 表面は、見た目どおりに硬く焼き締められていて、迫田が今の場所から落としても割れる事はないだろう。

 

 

「新旧は、関係ありません。焼き物にはそれぞれの良さがあるんです。……それはきっと、焼き物に限った話じゃありません」

 最後にそう言いながら、備前焼特有の良さを強く意識する。

 同時に、物言わずに茶碗を見つめている迫田、彼の持つ悩みを、備前焼に照らし合わせていく。

 茶の良さと、客の悩み。

 そして、客をもてなす千尋と、付喪神の存在。

 これこそが、夜咄堂と店の付喪神に備わる不思議な力……『日々是好日』の条件――

 

 

 

「この茶碗にも、良さが……」

 ぼそりと呟いた迫田の顔が揺らぐ。いや、揺らいだように見える。

 同時に、備前茶碗を中心として暖かな光が広がり、それはすぐに消えてしまう。

『日々是好日』……それは、客の感受性を著しく高める効果を持ち、そうする事によって、千尋と付喪神が作り出した茶道の良さを、深く感じてもらう為の力だ。

 不可思議な状態は瞬く間に収束し、茶室の空気は元に戻ってしまう。

 だが、力を発動する前と比べると、大きな違いが一つある。

 その違いがちゃんと生じたかどうかを、千尋は真っ先に確認し、そして一安心した。

 気難しそうな顔をしていたはずの迫田が、昔を懐かしむような温和な表情になっていたのだ。

 

 

 

「備前には備前の良さ、か……。わしが描いてきた絵本にも、それなりの良さが、あったのだろうか……」

 迫田は、ゆっくりとした口調で、何かを噛みしめるように語る。

 備前焼の良さが転じて、絵本の必要性という迫田の悩みを解消してくれたのだ。

「私のような若輩者には、迫田さんの絵本を云々とは言えません。ただ……」

 千尋は、心穏やかに語る。

「………」

「迫田さんの絵本で育った方は、お隣にいますよ」

「……隣に?」

 

 迫田の首が、そよ風で流されたかのように横を向いた。

 隣に座る迫田の孫娘もまた、同じ様に迫田を見ていた。

 何を語るでもなく。

 何を訴えるでもなく。

 二人の視線が交差する。

 

「……ふっ」

「……ふふふっ」

 笑い声が漏れたのは、どちらからだっただろうか。

 一度零れてしまえば、それは湯に溶ける抹茶のように、茶室中へと浸透していくのであった。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 茶事を終えた迫田は、すぐに階段を下りなかった。

 満足げな表情で階段の前までは来たのだが、ふと立ち止まると、おもむろに天井を仰いたのだ。

 どうしたのか、と迫田の孫娘が話しかけてもすぐには反応を示さず、やがて振り返った彼は、力なく視線を床に落とした。

 

「お爺ちゃん、本当にどーしちゃったの?」

「……ちょっとな。考え事をな」

 消えてしまいそうな声を漏らし、迫田はまた前を向くと、一段、一段、ゆっくりと下りながら話を続けた。

「わしの絵本は、何も卑下する必要はないものだ……ゲームやらすまーとほんにも、そして絵本にも、それぞれの良さがあるからな……」

「なら、もっと元気出したらいーじゃない」

「……わしは、そう思う事ができたし、実際そういうものだとも思えるようになったさ。……でも、子供達は違う。また絵本を作ったところで、受け入れられないんじゃないか、と思ってな」

「……なるほど」

 

 彼女から、迫田を励ます言葉は出てこなかった。

 千尋は、それを意外とは思わない。自身もまた、迫田に声を掛けようとはしなかった。

 二人とも、分かっている。

 その事で迫田をもう一度励ますのは、自分達の仕事ではないのだ。

 

 

 

「さて、帰るかの」

 迫田は語るのを止めて、階段を下りるペースを速める。

 一階に戻り、そこから玄関へと歩を進め……られない。

 物理的にも、そして心理的にも。

 狭い一階では、ヌバタマと十数名の客がぎっしりと詰めかけて、階段を取り囲むように立っていたのだ。

「こ、これは……?」

 突然の出来事に、迫田は唖然としながらも声を漏らす。

「迫田のお爺ちゃん、ありがとうございます。……そして、ごめんなさい」

 男性が、群衆の中から一歩前に出て迫田に頭を下げる。

 その姿を認識した迫田の目は、僅かに大きくなった。

 

「あんたは……もしかして、清水さんところの坊ちゃんかい?」

「ええ。十五年……いや、二十年ぶりくらいですよね。小さい頃はよく絵本を読み聞かせてもらいました、清水のボンです」

「あ、ああ……だが、ありがとうとは?」

「迫田さん、これまでありがとう、今後も頑張って……って事です」

 清水はそう言いながら、他の面々を見渡す。

「考えてみたら、わざわざ絵本を作ってもらっていたのに、お礼なんてその場だけでしたから。だから今日は、迫田さんに可愛がってもらった皆が集まって、お礼を言う為のパーティーを開こうと思って、お店を貸し切らせてもらいました」

「皆……? あ、ああ……本当だ。本当に……」

 

 清水同様に、集まった人々を一瞥した迫田の口元が震える。

 暖かかな目つきで迫田を見守るこの人々は、皆、迫田の絵本で成長したのだ。

 時間は、経ってしまったかもしれない。

 それでも、確かに迫田は、受け入れられたのだ。

 

 

「でも、俺だけは、謝らなきゃいけません。……もう一度言います。ごめんなさい」

 清水が、また頭を下げる。

 それを受けた迫田は、背伸びをするようにして清水の両肩を叩き、そっと首を横に振った。

 どうやら、上手くいったようである。

 千尋がヌバタマをちらと見ると、彼女は目端を緩めてアイコンタクトを送くってきた。

 迫田の孫娘に協力してもらい、皆で手分けして、当時の子供達を集めるのは、対象者の引っ越しや就職もあって、容易な事ではなかった。

 特に、迫田のトラウマのきっかけとなった、絵本を批判した少年……清水を探してくるのには、苦労した。

 それだけに、千尋としても、この成功には大いに安堵できるものだった。

 ……いや、千尋やヌバタマだけではない。

 

「じーさん。……あー、えっと……」

 人垣の中から、ひときわ小柄な女性が割って前に出てくる。

 照れくさそうに頭を掻きながらも、しっかりと迫田を見つめるその女性……岡本千紗は、少しだけ首を前に倒した。

「お前さん、この間の」

「ああ。岡本ってんだ。……その。話、聞いたんだ。あたしも物作りは好きだからさ。じーさんが辛かったのは理解できるよ」

「そうか。お前さんも……」

「でもさ。いいもんは、いつでもいいもんだと思うよ。今だって、じーさんの絵本、欲しがる子はいるんだからさ」

 

 

 

 岡本がそう言うと、清水の下半身に隠れるようにして、まだ五歳くらいの女児が前に出てきた。

 清水が、俺の子です、と話して女児の背中に触れると、それに弾かれたかのように、女児は迫田の目の前まで来る。

 女児の胸元では、古い絵本が抱きしめられていた。

 

「お爺ちゃん。この絵本、お爺ちゃんが作ったの?」

 女児は上目遣いで迫田に尋ねた。

 千尋は、その答えを事前に聞いている。

 迫田が批判された、あの時の本だ。

 

「……そうだよ。お嬢ちゃんのパパが、お嬢ちゃんくらいの頃、作ってあげた本さ」

 迫田は、優しく諭すように語る。

 だが、彼の瞳は大いに潤んでいた。

「とっても面白かったよ! また、続き、描いて!」

 元気にそう言い切った女児は、にぱっ、と笑顔を浮かべる。

 一方、迫田の顔は、もうくしゃくしゃになっていた。

 ぼろぼろと涙を零し、皴まみれの顔は大いに歪んでいる。

「……わしは……まだ、わしは、必要だったんだな……」

「お爺ちゃん、泣いてるの……?」

 女児が不安げに、迫田を揺らしながら尋ねた。

 その不安が、迫田にも伝わったのだろう。

 彼は、まだ涙を止める事はできなかった。

 それでも、頬を緩ませ、そして――

 

「いや、大丈夫、大丈夫だよ。……ああ、続きを描こう。いつまでも、描き続けるさ……」

 泣き笑いの顔で、はっきりとそう誓ってみせた。



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猫と茶会と花吹雪(つくも神付き)
第十二話『曜変天目茶碗 その一』


 白猫が、勝手に店に上がり込んだ。

 門前の掃除を終えた若月千尋(わかつきちひろ)が店の玄関を開けると、いつの間にやら現れた白いノラ猫が、千尋の足元をにゅるりとすり抜けて、先に店内へと入ったのだ。

 我こそは家主。そう言わんばかりの堂々とした振舞いに、千尋はつい固まってしまったが、すぐに両手で追い回す。

 白猫は鋭い眼光を千尋に向けたが、特に抵抗する事もなく店の外へ出ていってくれた。

 

 

「こんな侵入者もいるんだな……」

 去りゆく猫のお尻を眺めながら、どうでも良い関心をする。

 ここ尾道(おのみち)は、確かにノラ猫が多い都市として有名だけれど、今の侵入は初めての経験だった。

 もしかしたら、よくある事なのかもしれないけれど、茶寮(さりょう)夜咄堂(よばなしどう)で暮らし始めて、まだ半年も経っていない千尋には、その答えは分からない。

 着物の埃を払って一階喫茶スペースに入り、木製手すり付きの南窓から外を眺める。

 庭にも小ぢんまりとした門の付近にも、もう白猫の姿は見当たらなかった。

 窓から見えているのは、千光寺(せんこうじ)山から見下ろす尾道の街並みとロープウェイ、それに群青色の瀬戸内(せとない)海と向島(むかいしま)。普段と変わらない……だが、どこか安らぎを覚える風景だけだ。

 

 それにしても、人間を怖がらない猫だった。この町の猫は皆そうだ。

 山中の石段からひょろりと抜けた先にある公園なんかでは、観光客が猫を撫でているのをちょくちょく目にする。

 夜咄堂も、何か猫にあやかった宣伝をすれば繁盛するだろうか。安易に猫カフェにするつもりはないのだけれど――

 

 

 

「千尋さん、外なんか眺めてどーしました?」

 ふと、窓際のテーブルを拭いているおかっぱの少女が尋ねてきた。

「うん? 何か猫を使ってお店を宣伝できないかな、って」

「例えば、どんな?」

 清掃の手を止めずに、少女はなおも聞いてくる。

「猫グッズをたくさん店に置くとか」

「可愛らしいですけれど、お金、かかりそうですね」

 纏っている黒い着物が汚れないよう、小袖を支えてテーブルを清めていた少女――ヌバタマは、顔を上げつつ息を零した。

 名前の由来である艶やかな黒髪がさらりと揺れて、嘆息でさえ美しく思えたけれども、そんな感想の代わりに、千尋は他の宣伝方法を投げかけてみた。

 

「猫カフェにする、ってのも考えたけれど、ヌバタマ、店の雰囲気が変わるの嫌だろ?」

「お気遣いありがとうございます。そうですね。今の落ち着いた雰囲気が好きです」

「だよなあ。じゃあ、猫の形をした新メニューを考えるとか」

「千尋さん、凝った料理を作れるんですか?」

「……難しいな」

 反論の余地はない。首を横に振って客席に腰掛け、切れ長の目で店内を眺める。

 

 

 

 ――亡くなった父から受け継いだ夜咄堂は、千光寺山の中腹に位置する古民家を改装した、木造二階建ての喫茶店だ。

 大正時代から、そのまま切り取ってきたかのような素朴な店構えや、窓からの景色こそ良いけれど、石段を五分ほど上がらなきゃ辿り着けない立地が問題になっているのか、客がいない時間は長い。

 出費を切り詰める為に、厨房奥の空き部屋で暮らしているお陰で、どうにかこうにか、生活ができるくらいの稼ぎを保てている、といったところである。

 でも、このままの収入じゃいけない。先日収めた大学一年後期の学費は膨大で、店の売りあげだけでは、到底支払えなかったのだ。その時は仕方なく、父が遺した貯金を切り崩したけれど、残金で今後三年間の学費を払うのは厳しいだろう。なんとかして、店を繁盛させなくちゃいけないのだ。

 

 

「私も何か考えてみますよ。頑張りましょうね、千尋さん!」

 ヌバタマが力強い声で励ましてくれる。

 人間(・・)ではない彼女には、金銭問題の深刻さは今一つ伝わっていないんだろう。

 でも、それで良い。これは自分が考えるべき問題だ。

 それよりも、ヌバタマの前向きさを少しは見習うべきかもしれない。どうしても支払えなかったら、大学を辞めて店の経営に専念すれば良いだけなのだ。

 

「まあ、ボチボチとな」 

「ボチボチじゃ駄目です。バリバリ!」

「はいはい、バリバ……うん?」

 ヌバタマの奥……窓から見えている門付近に、人影が見えた。

 千尋の反応を受けて振り返ったヌバタマも、すぐに来客に気がついたようで、雑巾を戻しに厨房へと向かう。残った千尋が玄関前に立つと、扉は程なくして音を立てて開き、短髪の男が中へと入ってきた。

 

 

 

「いらっしゃいませ……」

 男を目にした千尋の声は、尻すぼみになってしまう。平静な表情を装ったけれど、うまくいった自信はない。

 男は、強面だった。

 短く刈り揃えられた髪と、こけた頬、そして視線の先を突き刺すような鋭い三白眼の眼付き。三十代前半くらいだろうか。

 それだけなら、ドラマに出てくるような敏腕刑事なんかを連想したかもしれない。

 だが、高価そうなストライプのスーツと、エナメル質の靴、そしてサングラスが、刑事のイメージを正反対のものに塗り替えていた。

 

「……ん」

 男の返事は唸り声のような低音で、アウトローイメージが一層加速する。

 いや待て、この男が何かやったわけじゃない。外見で判断しようとした自分を戒め、それでも硬直しそうな体を必死に動かして、男を客席に案内しようとしたところで、男の背後に、もう一人男がいるのに気がついた。

「や。千尋君」

諏訪(すわ)さん。いらっしゃいませ」

 後から入ってきた男は、常連の諏訪幸太(こうた)だった。

「お店、開いてる?」

「ええ。ご覧のとーりです」

 顎ヒゲを撫でながら、親しげに挨拶する諏訪の振舞いに、どこか安堵を覚えてしまう。

 諏訪は普段どおりの長髪にラフなジャケットといった、普段どおりの外見だったのだが、その見慣れた格好にも、安心できたのかもしれない。

 

「商店街で、友人とばったりでくわして、ちょっと喫茶店で話でもしようかって事になってね」

「と、言いますと、前の方が?」

「うん。なあ、春樹(はるき)

 諏訪の言葉を受けて、男は無言で首を縦に振る。もしかしたら気のせいかもしれないというくらい、小さな動きだった。

 

「そうでしたか。初めまして。夜咄堂の店長の若月千尋と言います」

「……小谷、春樹」

 コミュニケーションを遮断するかのように、最低限の反応だけが返ってくる。

 諏訪の友人とはいえ、やっぱり怖い人なんだろうか。

 千尋が対応に苦慮していると、背後の諏訪が、苦笑いしながら小谷の背中を叩いた。

「おい、春樹。もーちょっと愛想良くできないのか? 千尋君、反応に困ってるぞ」

「……む? これでもそのつもりだが」

「いーや。怖い」

「むう」

 男がうなだれる。強面で落ち込まれるとギャップがあって、年上とはいえ、どこか可愛く見えた。

「すまないね。こいつ、この見た目な上に凄く口下手なんで、勘違いされやすいんだ」

「口下手」

 つい、ぽかんと口を開けてしまう。

「あと、ファッションは趣味らしい」

 ……まあ、趣味ならば仕方がない。

「悪く思わないでくれ。あ、適当な席に着かせてもらうよ」

「い、いえ。お席もご案内せず、すみません」

 

 

 二人が窓際の席に座るのを見届けて、千尋は厨房に入る。

 ちょうど出てくるところだったヌバタマを制し、コップをトレイに載せて戻ると、小谷が顔を思いっきり近づけてメニューを見ていた。

「……お抹茶セット」

「あ、はい。ご希望であれば二階で()てますが」

「……いや。それより、茶菓子は君が?」

「それは、商店街の和菓子屋さんで仕入れたものですが」

「むう」

 小谷がまたうなだれる。代わりに小谷が話を続けた。

「春樹は、和菓子屋を営んでいるんだよ。向島にある店だから、行った事はないかな?」

「そうでしたか。すみません、あまり向島に行く機会がなくて……」

「用事がないと、そーなるよな。一度行ってみると良いよ。赤備(あかぞなえ)って店だ」

「是非そうさせて頂きます。小谷さん、良いですか?」

「……うむ」

 小谷が不愛想に頷く。でも、もう怖くはない。

 

「今日はその和菓子の事で……まあ、ちょっと相談があるそうでね」

 なにやら、言葉を濁している気がする。なら、立ち入らない方が良いだろう。

「でしたら、どーぞごゆっくりと。見ての通り閑古鳥ですから。……小谷さん、今度お邪魔しますね」

「うむ」

 それから、ホットコーヒーの注文を二つ受ける。

 その間も小谷は、お抹茶セットのページを、難しそうな顔で見つめ続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 千光寺山の石段を降るヌバタマの足取りは軽やかだった。

 商店街の工芸品店に器を買いに行くだけなのに、こうも喜んでもらえると、千尋もつられて頬が自然と緩んでしまう。

「ただの外出なのに、そんなに楽しいのか?」

「ええ、とっても!」

 髪をひるがえし、くるりと振り返ったヌバタマが、はきはきと答える。千光寺山の鮮やかな紅葉を背景にした彼女は、なかなか絵になっていた。

 

 

「だって、先代の宗一郎(そういちろう)様の時代では、出かける事自体あまりありませんでしたから」

「父さんが、出かけるのを禁止してたの?」

「そうじゃありませんが、なんとなくそんな空気だったんです。私は人間社会を知らない付喪神ですから、何か変な事するかもですし、無難ではあったと思います」

「じゃあ、今は無難じゃないってわけか」

「危ない綱渡りかもしれませんね。ちゃんと見張っていてくださいよ?」

 ヌバタマは軽口を叩くと、また前を向いて軽快に歩く。

親しみを感じてくれるのは嬉しい事だ。……でも、本当に付喪神(つくもがみ)が問題を起こってしまったら、どうしたものだろうか。

 

 ――付喪神。

 約百年間、大事に扱われた茶道具には人間の気力が移る。そこへ神が魂を吹き込む事で生まれるのが、人知を超えた生命体、付喪神だ。

 客をもてなしたいという本能を備えた彼らは、父の代から、茶道具としても、人手としても、夜咄堂を支えてくれている。

 ヌバタマも覚醒してから十五年間、ずっと父を支えてきてくれたらしい。

 

 それだけ生きていれば、おそらく下手は踏まないだろう。時たま、茶道や茶道具に人間離れした興味を持つ癖はあるけれど、そこからバレる事もないはずだ。

 安心して良いはずなんだけれども……万が一が起こってしまうと、大事になるのだ。

 

 

 

 そんな緊張感を抱きながら歩くうちに、目的の店に着いた。

 商店街の角際に位置するこの工芸品店には、何度か来た事がある。

 中国地方産地の焼き物を多く扱っている店だが、これまでは興味本位で覗いただけで、品物をちゃんと見た事はなかった。

 

「ちょっと、見て回っていいですよね?」

「はいはい、ご自由に……あっ、おい」

 当初の目的を覚えているのかいないのか、ヌバタマは千尋の返事を待たずに、陳列された器を物色し始めた。

 

 取り残された千尋も、苦笑いを浮かべつつ、入口付近の器を眺める。

 紅葉の絵付けが施された抹茶茶碗やマグカップの前には「宮島焼(みやじまやき)」と張り紙がしてあった。

 最近になって、大学の陶芸サークルにも本腰を入れ始めた千尋ではあるけれども、宮島焼とは初耳である。

 張り紙に書かれた説明書きを読むと、厳島(いつくしま)神社を擁するあの宮島の事らしい。厳島神社の砂を粘土に混ぜた、縁起物の焼き物だそうだった。

 

 

 

「こんなのもあったんだ。凄いなあ」

 手を滑らせないよう、慎重な手つきで茶碗を取ろうとする。

 ――そうして、何かに集中すると、他が見えないのが千尋の悪いクセだった。

 こつり、と物音がするのと同時に、服の裾に何かが当たった感触を覚える。

 振り返ってみると、背後の棚に置かれていた縦長の花入が倒れかかっていた。

 

「わ、わわっ!!」

 慌てて手を差しだし、花入はすんでのところで受け止められる。

 ……ただし、受け止めたのは千尋の手ではなかった。

「おー、危ない。ギリギリのところだったな」

 千尋の代わりに花入を受け止めた男性が、にかっと歯を見せて笑う。

 歳は二十代後半といったところだろうか。長髪の人懐っこそうな男だった。

 

 

「すみません。助かりました」

「いーって、いーって。それより、気ぃつけてな」

 男はひらひらと手を振りながらそう告げ、店外へと出ていった。

 追いかけて、もう少し改まったお礼をするべきだろうか。だんだんと遠くなる男の広い肩幅を見ながら千尋が躊躇していると、店内から声が聞こえてきた。

 

「あらお客様、どうかしましたか?」

 ぱたぱたと足音を立てて駆け寄ってきたのは、エプロン姿の妙齢の女性だった。

 さっきの男性と大差ない歳かもしれない。軽くウェーブのかかった髪で、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

「さっき、品物を倒しかけたんですが、今出ていったお客さんが受け止めてくれて……売り物にすみませんでした」

 頭を下げつつも、女性の胸元に何か付いているのに気がつく。「立島真樹子(たてしままきこ)」と書かれた名札だった。ここの店員なのだろう。

 

「倒れていないのでしたら大丈夫です。お気になさらないで下さい。それよりお買い物ですか?」

「ちょっと、抹茶用の茶碗を頂こうかと」

「あら、お茶をされるのですか」

「一応は……ああ、でも、ちゃんとしたところで習っているわけじゃないんです。喫茶店をやっているもんで、茶碗もそこで使うものでして」

「抹茶を出される喫茶店、良いですね。お茶菓子も美味しく頂けそうです」

「そう言って頂けると嬉しいです。千光寺山の中腹にある夜咄堂って店なんですけれど、知りません?」

「あ……ごめんなさい。実は私、東京に住んでいて、最近の尾道の事はあまり……」

 なにか、引っかかる言葉だった。

 だがその疑問を形にする前に、店員の立島は話を続ける。

 

「元々は尾道に住んでいたんですよ。実は近々結婚するんですが、地元で式を挙げたくて帰省してるんです。その間だけでも実家を手伝っていまして」

「それはおめでとうございます」

「ふふっ。ありがとうございます。尾道にいるうちに、夜咄堂さんへも遊びに行きますね。さて、喫茶店で使うお茶碗でしたら……」

 立島はきびきびとした足取りで、店の奥へと進む。後を追うと、彼女は陳列棚の最奥で止まり、黒茶碗を手のひらで指した。

「落ち着いた茶碗も良いですけれど、今はこんな物を使ってみるのも、話題性があって良いかもしれませんね」

「これ、どこかで見たような……」

 首を捻りながら、茶碗を手に取る。

 漆黒の茶碗の中には円が無数に描かれていて、円の周囲は瑠璃色の光彩を放っていた。

 顔の近くに持ってきて眺めると、視界の大部分を茶碗に占領されたせいか、円が宇宙で輝く星のようにも感じられる。

 見る角度を少し変えるだけで、輝き方が変わるのが印象的な茶碗だった。

 

 

曜変天目茶碗(ようへんてんもくちゃわん)、と言います。最近有名になった種類の茶碗なんですよ」

「あ。テレビで見たな! 確か、すごく高いんですよね」

「確かに国宝になっている物もありますけれど、これは安価な方ですからご安心下さい。曜変天目茶碗と言いましてもピンからキリまで、ですよ」

「曜変天目茶碗ってそんなにあるんですか。国宝の数点だけかと思ってました」

「いえいえ。国宝以外にも、名家伝来の物、海外の大学教授が産地踏査の際にに買った物……もちろん中国にもありますし、それに現代日本の陶工さんだって再現を試みて、今この日も新しい窯変天目茶碗が生み出されています」

「日本でも、ですか?」

「ええ。……実は、まだ作る為の技法は完全には解明されていません。それでも、この輝きに魅せられた人達が作り続けているわけです」

 

 その気持ちは、分からなくもなかった。

 まだまだ茶碗を見る目が弱い千尋でも、吸い込まれるような輝きを感じるのだ。

 陶芸を職とする人々ならば、追いかけたくなるものなんだろう。

 例えそれが、届かぬ星を追うような事だとしても……、

 

 

「曜変天目茶碗! 良いですねえ」

 来た。

 浸っているところに、茶道具狂人がやってきた。

 会話を聞きつけたヌバタマが、喜び勇んで加わってきたのだ。

 

「あー……ヌバタマも知っているのか?」

「当たり前じゃないですか! 窯の火加減によって、偶然、もしくは人工的に現れる虹の様な円模様が特徴的なお茶碗です。元々は『窯で変わる』と書いて窯変ですが、この輝き具合から、星の総称である曜日の『曜』の字が充てられたんです。国宝級の茶碗は南宋時代の中国で焼かれた物ですね。天目の由来も、中国の天目山といわれています。この山で修行した禅僧が持ち帰ったとされ……」

「わ、分かった、分かった!」

 茶道具の話題とあらば、放っておけばいくらでも語るのがヌバタマだ。話を強引に打ち切ると、彼女は不満げに頬を小さく膨らませてしまった。

 

「なんだか、仲が宜しいようで」

 立島が愉快そうな声で言う。

「それはどーも。……ちょっと苦労していますけれども」

「苦労とはなんですか! お茶碗の勉強も、お茶には大事なんですよ」

「そーいう話じゃないっての」

 千尋が突っ込みを入れると、立島は今度は声を立てて笑った。

 なんだか恥ずかしい思いをしてしまったけれど、茶碗自体は悪くない。

 結局、当分の節約生活を自分に言い聞かせ、千尋はその曜変天目茶碗を二つ購入したのであった。




・書籍化に伴い千尋とヌバタマの関係が若干後退しております。
・骨董品屋の秋野が諏訪という男性に変わっております。

大変恐縮ではありますが、上記ご了承の程お願い致します。


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第十二話『曜変天目茶碗 その二』

 尾道市の本土側から、数百メートルの瀬戸内海を隔てた先にある向島に行くには、二種類の方法がある。

 まずは橋を通過する陸路だけれど、千尋はここを通った経験がなかった。

 父が生きている頃から向島へ行く機会が少なかったのが理由の一つだが、その数少ない機会の際には、もう一つの手っ取り早い方法……つまりは渡船を、今回同様に使っていたのである。

 

 この日、千尋とヌバタマが船着き場に到着すると、ちょうど着岸した渡船が、船尾のランプウェイを下ろしていた。

 乗り込む車を横目に、千尋らも徒歩で渡船に乗る。他の乗客は、二人組の男女の高校生と、三人組の男子高校生。そのうち何名かは自転車で直接乗り込んでいた。渡船は生活の手段なのだ。

 人懐っこい笑顔の老船員がランプウェイを引き上げると、いよいよ出港となる。

 船員に数百円の運賃を直接手渡した二人は、むき出しになっている座席に腰掛けて、瀬戸内海を眺めた。

 耳に届くのは、船が海を切り裂く音と、渡船のエンジン音だけだ。

 確か、前回もそうだった。最後に渡船に乗ったのは二年前。遠縁の親戚の結婚式に参加する為で、あの時は父も一緒だった。

 

 もう隣に父が立たないのは、もちろん寂しい。

 でも、その代わりに、この半年でいくつもの新たな縁に結ばれた。

 ヌバタマらとの新生活もそうだし、今から向かう小谷の和菓子屋だってその一つだ。

 諏訪が褒める和菓子には、もしかしたら夜咄堂を繁盛させるヒントが隠れているかもしれないし、強面に反して純朴そうな小谷自体にも興味はある。

 

 

「……千尋さん?」

 ヌバタマが不安そうな声を掛けてくる。

 思い出が、顔に出てしまっていたのかもしれない。

「ちょっと父さんを思い出してたんだ。昔、一緒に乗ったな、って」

「いつ頃の話なんですか? 良かったら聞かせてください」

「二年前かな。……でも、昔話は今度にしよう。もうすぐ向島に着くしね」

 

 五分間の船旅は、思い出話をするには少々短い。

 着岸後、今度は船首のランプウェイを使って島に降り立ち、木造建築の多い古い通りを歩く。

 シャッターが下りた建物が多く、それらには大抵、看板が掛かっている。

 今でこそ客も歩行者もいない静かな通りだけれど、昔は活気のある商店街だったのかもしれない。

 

 

 和菓子屋赤備は、通りの端にあった。看板こそ和菓子屋らしく木製だったけれど、店自体は比較的新しいモルタル塗りだった。

 中に入ると、二組の客が棚の商品を眺めている。冷蔵ケースの中では、色とりどりの生菓子が鮮やかに咲き誇っていた。

「すみません。こちら、小谷さんのお店ですよね」

 レジ前に立つ初老の女性店員に声を掛けると、店員は大きくゆっくりと頷いた。

「私、若月といいまして、小谷さんの知り合いなんです。よかったら、ご挨拶をと思いまして……」

「あらあら。それでしたら、どーぞ中に」

「お仕事中では?」

 と、ヌバタマ。

「もちろん仕事中だけれど、むしろ最近は新作に詰め込み過ぎでねえ。『春ちゃん、気分転換したら?』って勧めても聞かないのよ。だから、ちょうどいいわ。休憩室にいると思うから、ご遠慮なく」

「はあ、どうも」

 

 

 新作がなんの話だかよく分からないけれど、勧められるがままにレジ裏の通路に進む。

 休憩室と思われるソファとデスクが備わった部屋はすぐに見つかったが、中には誰もいなかった。

 店員に確認しようかと思ったが、奥の厨房から物音が聞こえたので、そっちに行ってみると白衣の小谷がいる。

「小谷さん、遊びに来ました」

「……! ま、待った!」

 小谷が素早く振り返りながら声を張りあげる。

 声量よりは、小谷の勢いに気圧されて千尋が足を引っ込めると、小谷はあわあわと押し返すような仕草を見せた。

 何か理由があるのだろう。千尋らが素直に厨房から出ると、それに続いて小谷も出てきた。

 

「す、すまない……厨房は料理人しか入れない結界……先代の父の教えなんだ」

「こちらこそ勝手に入ってすみません……」

「……いや」

 小谷は更に何か言いたそうだったけれど、結局、言葉の代わりに休憩室の方へ手を差しだした。

 差されるがままに休憩室に入って、随分と使い込まれたソファに腰掛けると、待っていたと言わんばかりに、小谷は頭を下げてきた。

 

 

「……さっきはすまない。……茶道でも扇子(せんす)を区切りにし、境界線を作るだろう?」

「確かに、稽古の前の挨拶で、そんな事をしていますけれど……」

「そんな事をって……千尋さん、前に教えたでしょう? あれは、相手との立場の違いを線引きしているんです。相手を敬う為に、挨拶の時に置く場合もありますね」

 と、ヌバタマが解説してくれる。そう言われれば、初めての稽古の時にそんな話を聞いた気が、しないでもなかった。

「それにしても、小谷さんもお茶をされるんですか」

「……少しは。……道具の中でも、扇子は好きなんだ。……ちょっと勿体ない道具だけど」

「勿体ない、ですか?」

「扇子は、基本的に線引き道具だ。……暑くて扇ぐ人はあまりいない。絵や文字が書かれていても、見る機会がないんだ」

「ああ、分かります! もったいないですよねえ!」

 ヌバタマがオーバーに同調すると、小谷は満足げに笑ってくれた。

 なんだかんだで喋ってくれるし、ちょっと怖いけれど、笑ってもくれる。

 いざ話しだせば、ちゃんとコミュニケーションを取ってくれる人なのだ。

 

 

 

「なるほどねえ……小谷さんの扇子も、何か書かれているんですか?」

「……有名な茶人の名言が。桜田門外(さくらだもんがい)の変の井伊直弼(いいなおすけ)、大名茶人の松平不昧(まつだいらふまい)公」

「井伊……ああ、井伊ですね。井伊」

 適当に相槌を打つ。

 井伊ナントカという人が桜田門外の変で死んだのは知っていたけれど、下の名までは覚えていなかった。松平何某に至ってはまったく知らない有様だ。

「いい扇子だよ。家の方に置いている。……今度見るかい?」

「ええ、是非。それだけ茶道にも詳しいなんて、尊敬します」

「……全然だ。……そうだとしても、本業がさっぱりじゃ本末転倒だ」

 小谷はそう言うと、重苦しい溜息を零した。

 なんの話かは、おおよその察しはつく。気が付けば、ヌバタマも「千尋さんから」と言わんばかりに目配せをしていたので、千尋は僅かに身を乗り出して口を開いた。

 

「レジのお婆さんが、新作に詰め込み過ぎって言ってましたよ。その件ですか?」

「……そう。うまくいかないんだ」

 小谷は小さな声で言う。心をどこかに置いてきたような声だった。

「……新作というより……特別な注文でね。結婚式の引き出物用の和菓子なんだが、妙案が出てこない」

「季節や慶事を模したものではいけないんですか?」

「特注だし、一捻りしたくて。……試食してみるかい?」

「はいっ、是非!!」

 威勢よく手を挙げて返事をしたのは、甘党のヌバタマだった。

 だが、すぐに男性二人が生暖かい目で見ているのに気がつき、おずおずと手を下げる。

 小谷は苦笑しつつ厨房に戻り、すぐに生菓子が載った皿を運んできてくれた。鯛を模した赤味が印象的な生菓子だった。

 

 

「それじゃあ、召しあがれ」

「どうも」

「頂きますー!」

 生菓子を切る為の黒文字(くろもじ)を手にした二人は、さっそく鯛を割く。

中には濃厚な黒餡が入っていた。口に含んで舌で押し潰すと、餡と甘味……いや、それだけじゃない。

 味の重みからくる満足感までもが口内に染み渡る。非常に出来の良い生菓子だった。

 

「美味しい! 小谷さん、これ最高ですよ! 私いくらでも食べられます!」

「ヌバタマは甘味ならいくらでも食べられるだろ……でも俺も同じ感想です」

「……ありがとう。……生菓子は、父に徹底的に仕込まれたからね。……特に餡。小豆は国産、それも産地が田んぼレベルで分かる国産を使っている」

「国産ってそんなに大事なんですか」

 ヌバタマが尋ねる。

「国産云々というより、産地が分かる事によって、特質を理解できるのが大事だね。……その特質に合わせて、機械じゃなく手で炊き上げるわけだ」

「こだわって作っているんだ……」

「……丁寧・堅実を心掛けているよ。あとは、アクにもこだわっている。アクは全て取るのが一般的なんだけれど、これは外国人の舌も考慮したもので、昔はアクを残していたらしい。……依頼者からは、参加者は全員日本人だと聞いているから、あえてアクを残して古き良き餡を目指したり……あとは……いや……」

 

 

 好きな事なら舌が回るのか、小谷は矢継ぎ早に語り続けたが、ふと、途中で電源が切れたように黙ってしまった。

 喋り過ぎた自分に気づいて、恥ずかしくなったのだろうか。理由は分からなかったけれど、代わりに千尋が言葉を挟んだ。

「それだけ手間をかけているのに、どこがいけないんですか?」

 小谷は静かに顔を左右へと振る。

「……普通すぎる。本当はもっと冒険しなきゃいけないんだ」

「普通……駄目なんですか?」

 と、ヌバタマ。

「駄目というわけじゃないが、他にも……いや、愚痴だな。忘れてくれ」

 小谷は、はっきりとそう言ってのけた。

 どうにも、あまり良くない時にお邪魔してしまったような気がする。

 会話も潮時だったので、今日はここでお暇する事にし「また今度買い物に来る」と告げて店を出る。

 ヌバタマが話を切り出したのは、船着き場へ歩き出して、すぐの事だった。

 

 

「……力に、なりたいですよね」

「うん?」

「小谷さんの力に、です。何に詰まっているのか分かりませんでしたけれど……凄く困っているようでした」

 活舌の良い声だった。声同様に、黒く大きな瞳には力が篭っている。

「そうだったな」

「ねえ、力になってあげましょうよ、千尋さん」

「ううん……」

 千尋は腕を組みながら唸った。

 

 おせっかいにならないかな、という心配がある。

 人の悩みに対しては、千尋としては多少思うところがあるのだ。茶道を始める前の自分なら、深入りした結果、小谷に迷惑をかける可能性を恐れただろう。

 今では、恐れは克服している。でも、気を遣わなきゃいけないのに変わりはない。

 関わらないのが、一番楽。

 関わらないのが、一番無難。

 だけれども――

 

「どうでしょうか?」

「……まあ、いいさ」

 ボリボリと頭を掻きながら、投げやりに言う。

 昔は、自分を押し殺す為に使っていた口癖だった。

「いいさって、どっちなんです? どうでもいいさ? やってもいいさ?」

「……言わなくても分かるだろ、そんなの」

 そう答える千尋の口の端は、くっきりと上がっていた。

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 立島真樹子が、本当に夜咄堂に遊びに来てくれた。

 その日の午後は客が少なく、自室で趣味の野球雑誌を眺めていたところ、ヌバタマが「この間の女性が来ていますよ」と喜び勇んで教えに来たのだ。

 身だしなみを整えて客席に出ると、確かに四人掛けテーブルに知った顔があった。それも二人。

 立島真樹子の向かい側には、先日彼女の店で、花入をナイスキャッチしてくれた男性が座っていたのだ。

 

「立島さん! それに、この間の……」

「来ちゃいました」

「おー、俺も来たぞー!」

 立島と男性は、にこやかに返事をしてくれた。

 立島が近々結婚するという話を踏まえれば、二人の間柄にも予想は付く。千尋がぺこりと一礼すると、頭を上げるのを待ち構えて、男はにっと歯を見せた。

 

 

「真樹子の婚約者だ。(ゆたか)と呼んでくれ。名字で堅苦しく付き合うのは嫌なんだ」

「豊さん、ですね。ここの店主の千尋です」

「うん。店主、今日は花入を割らないようにな」

「うっ、それは……」

「はっはっ! 冗談だ。それよりも若いのに店持ちなんて凄いな。頑張ってな」

 豊は腕を組みながら笑った。なかなかに気持ちのいい男だった。

 

「店持ちなのは豊さんもでしょ。……あ。彼、和菓子職人なの。結婚したら東京で店を持つのよ」

「東京で……豊さんこそ、凄いじゃないですか」

「……俺は恵まれただけだよ。それより、良かったら茶室で一服、いいかな?」

 恵まれた、が意味するところは分からなかったけれど、それよりもお茶だ。

 今日は運良く、午前中に諏訪が来て、茶室での一服を所望済だったので、使っていた道具を少しは流用できる。一も二もなく頷いた千尋は、ヌバタマに一階の番を頼んで、二人を二階へと案内した。

 

 

 

 ――夜咄堂の二階には、六畳の茶室と、茶事の準備をする為の水屋(みずや)がある。

 当然、客が入るのは茶室だけだ。客席側に敷いた緋毛氈(ひもうせん)に二人が座した後で、水屋で準備を整えた千尋が入室し、早速茶事に取り掛かった。

 だが、今日はどうにも調子が悪い。茶を点てるのには支障がないけれど、釜の蓋を倒したりといったドジを、何度か踏んでしまう。

 それでも二人の客は、全く気にする事なく、茶室の空気を楽しんでくれているのは幸いだった。

 いや、客が寛大だったわけで、こんな調子じゃいけない。そんな反省の念を抱きはするが、反省会は後回しだ。

 千尋はただただ目の前の茶に集中して、ようやく二人に茶を出す事ができた。

 

「お茶をどうぞ」

「頂戴致します」

「おー。ありがと」

 差し出した茶碗を二人は煽り、そして顔を見合わせて笑い合った。

 なんとも、お似合いのカップルなのである。

「いやー、うまいな。千尋君はお茶を始めてどれくらいになるんだ?」

「半年ほどでしょうか」

「半年!? たった半年で、店もお茶も、ちゃんとできるようになったのか?」

 空いている手を強く握りしめながら、豊が言う。

 確かに、驚かれるのも当然の話かもしれない。それが成せたのは、付喪神という裏技のお陰でもあったのだが……さすがに裏技を口走るわけにはいかない。

 

 

 

「元々は亡くなった父の店で、基盤はありましたから。心強い従業員もいますし」

「それでも大したもんだよ。自分で店を背負っていく気概がなきゃ、できないぜ」

「豊君も見習わなきゃね」

 と、立島が言う。

 豊は何も返事をしなかったけれど、神妙な顔付きをしていた。

 なにかあったのだろうか。聞いた方が良いのだろうか。

 点前(てまえ)を止めて考え込みかけたが、結局は豊の方が、ゆっくりと口を開いてくれた。

 

「……俺さ。さっきも言ったけれど、店を持てたのは恵まれただけなんだよ。要はパトロンだ」

 豊が、どこか呆れたような口調で言う。

 彼の手は、未だに強く握りしめられていた。千尋まで体に力が入ってしまう。

 

「俺、元々は尾道の和菓子職人だったんだよ。仕事観の違いで家族とトラブって、東京に駆け落ちしてね。そこで、もう一度和菓子職人として修行していたんだ」

「ええ」

「そしたら、修行先の大旦那さんが、俺の和菓子を『独創的だ』と気に入り、独立の為に色々と助力してくださって、今に至るってわけさ」

「豊さんの和菓子が評価されたわけですね」

「そーいう事になるが……。普通はさ、長期間、和菓子も経営も勉強した上で、店を持つもんだ。それが、運良く評価されたお陰で、三十歳手前で東京に店を持つ事になったもんで……ま、ちょっと自分の和菓子に自信がないってわけだ」

 豊は、また歯を見せて笑う。

 階下で見せた表情と同じなのに、今度は力がないような気がしてならなかった。

 

 

「千尋君は、不安とかないのか?」

「ないわけじゃありませんが、俺は一人じゃないですから。大事な二人の従業員と……あと、たまに遊びに来る犬が、支えになってくれています」

「大事な人達みたいだな」

「家族の様なものです」

「家族……か」

 豊の深い嘆息が、茶室に行き渡る。

 しまった。そういえば、家族とトラブったらしいじゃないか。

 地雷を踏んでしまった様で、千尋は慌てて話を変えた。

 

「そういえば……この間、向島の赤備という和菓子屋に行ったんですよ。あそこの店長さんも若いのに頑張っていますし、何か参考になるかも……」

「兄貴の店に……兄貴、元気なのか?」

 豊がはっと顔を上げた。

 先程までの消沈ぶりとは対照的に、顔色は良かったような気がするけれども、よく分からない。なにせ、彼はすぐに顔を背け、立ち上がってしまったのだ。

「い、いや! 兄貴なんか……! 悪い、今日はもう帰る!」

「豊君、ちょっと!」

 豊が茶室を飛び出すと、立島も慌てて膝を起こす。

 彼女は立ち上がる前にためらう素振りを見せたものの、結局は深々と頭を下げ、豊に続いて出て行ってしまった。

 

 

 

 残されたのは、突然の退室劇に唖然とする千尋だけである。

 一体、今の豊の反応は何だったのだろうか。

 ……いや、ちょっと考えれば、察しが付く。

 豊はおそらく、小谷春樹の親族なのだ。

 つまりは、小谷春樹と喧嘩か何かをして、東京へ出たんじゃないだろうか。

 

「……あっちゃあ。やっちゃったな」

 自分をとがめるように、側頭部をピシャリと叩いて溜息を付く。和菓子職人と言われた時点で、なぜピンと来なかったのだろう。もうちょっと、考えていれば……、

「千尋さーん!」

 ふと、元気な声と共に、階段をパタパタと駆け上がる音がする。

 慌ただしく茶室に入ってきたのは、下の番を頼んでいたヌバタマだった。

「……豊さん達、出ていったよな?」

「凄い勢いで退店されましたが、それよりも! これ、この、すまーとほん?」

 ヌバタマの手には、一階に置いていた自分のスマホが握られていた。

 それが、手の中でブルブルと震え続けている。着信中のようだった。

 

「あっ。貸して」

 ヌバタマからスマホを受け取ると、モニターには「和菓子屋 三笠(みかさ)」と表示されている。父の代から贔屓にさせてもらっている、商店街の和菓子屋だった。

「はい、若月です」

「ごきげんよう。三笠だ」

 老齢の三笠氏の声が耳元に届く。元々落ち着きのある語り方をする人だったけれども、少し電話が遠いのか、今日は特に声が小さい気がした。

「突然電話してすまないね。話しておく事があって」

「どうされました?」

「実は……近々、店を畳むと決めたもんでね」

「……そう、ですか」

 

 それだけしか言葉を捻り出せない。

 体調不良からくる隠居の可能性については、前々から聞いていた話だった。ついに決断したというわけだが、分かっていても、その宣告は残念でならない。

「悪いなあ、千尋君。本当にすまない……」

「お気になさらないでください。それよりもお体をお大事になさらないと」

 そこに相手がいるかのように、千尋は左手を横に振りながら話す。

 とはいえ、少しまずい事になった。

 千尋の父は、店で出す物には一切妥協しない人で、そんな父が見出した三笠老人の和菓子は、超一級品だった。

 代わりを務められる和菓子店なんて、そうそうあるわけがないのだ。その辺のデパートで仕入れてきたところで、味の違いは明確だろう。

 その悩みを声には出さないように努めていたのだが……年の功で察したのか、それとも元々提案するつもりだったのか、三笠老人は謝るのをやめると、一変して明るい声で話を続けた。

 

 

 

「それでだね。もちろん決めるのは君だが……実は、代わりに推薦したい和菓子屋があるのだよ」

「えっ、本当ですか?」

「向島の赤備という店だが、知っているかね?」

「……小谷さんの店ですよね?」

 縁深い名が出てきて、千尋はつい早口で確認してしまう。

 ついさっき、口走った店名なのだ。縁とはどこまでも続いているものである。

 

「左様。あそこの先代、(たすく)君とは知り合い……いや、熱いライバルだったのだよ」

「なんだか、燃える間柄だったんですね。意外だな」

「おやおや、何を言うかね。私だって昔は……いや、昔話はどうでもいいね」

 三笠は苦笑し、なおも語る。

「肝心なのは匠君だ。彼は私の子ほどの歳だったけれども、熱意を燃やすのには些細な事だった。互いに相手の和菓子を研究し、高め合ったものだよ。……残念ながら匠は早死にし、今は三十歳そこそこの息子さんが店長だが、彼もいい和菓子を作る。私に言わせれば、ちとまだ堅実すぎるところはあるが、それでも他店よりよほどいい」

「ああ、やっぱりそうなんですね」

「やっぱりとは?」

「実は最近、その小谷さんと知り合ったんです。言われるとおり、美味しい和菓子でしたから」

「なるほど。こりゃ、私がでしゃばる必要はなかったな」

「いえ、もちろん三笠さんの気遣いも嬉しいです。ありがとうございますね」

「気にする事はない。……夜咄堂、頑張りたまえよ。私も引退はするが、困った事があればいつでも力になるよ」

 三笠老人は満足げな声でそう言った。



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第十二話『曜変天目茶碗 その三』

「いやー、奇遇だなあ。俺、ちょうど腹が減ってたんだよ。ワンッ!」

「はーいはいはい……」

 犬が、喋っている。

 周囲に人がいないからと言って、外でペラペラとくっちゃべるのは、雑種犬型付喪神、ロビンの悪い癖だった。

「いつか思わぬところで聞かれてしまう」と前々から何度も言い聞かせているが、ロビンは話を聞かない。

 千尋も最近では、注意も返事も億劫になってしまい、適当に流しがちになっていた。

 

「……そんな事より、お前が渡船に乗っているとは思わなかったぞ」

「向島は俺の散歩圏内だからな」

「さすがはノラ犬」

「犬じゃない! 付喪神ー! 形が犬ってだけで、俺も付喪神なの!」

 やかましく喚きながら、ロビンが鼻で膝をぐいぐい押してくる。

「それよりお前、本当に付喪神だとバレないようにしろよ? 渡船だって、運賃どーしたんだよ」

「おー、渡船のおっちゃんは顔なじみだからなー。ノラ犬のフリしたらタダで乗せてくれるのさ」

「……やっぱり犬じゃん」

「フゴッ! 今のは言葉のあやだよ! ワンッ!」

 

 

 変な鼻息を鳴らすロビンから逃げるように、足早に和菓子屋「赤備」を目指す。

 船中でロビンに、うっかり目的地を話してしまったのはまずかった。

 和菓子の買い付けを邪魔されるだけなら、まだいい方だろう。小谷の店に迷惑をかけたり、正体がバレたりする事だけは避けなくちゃいけないのだ。

「なーなー、待てってさー。和菓子和菓子ー!」

「お前の好物はドーナツだろう……」

「ドーナツも好きだけど、和菓子も好きなんだよ」

 ロビンが贅肉を揺らしながらドスドスと追いかけてくる。どうにも、撒くのは難しそうだった。

 

「行くの、やっぱり明日にするかな」

「甘いぜ千尋。延期するならするで、俺も当分船着き場に張り込むぜ」

「……分かった。せめて、店の中に入ろうとはするなよ?」

「おー、当たり前じゃーん」

 ハアハア舌を出して笑うロビンにそう言われたところで、不安しかない。

 しかし、赤備には行かなくちゃいけない。他に良い店はないのだ。

 諏訪を巡る不思議な縁に思いを馳せつつ、店の近くまで来る。

 休憩中だろうか、外で小谷が背伸びをしているのが見えた。

 

 

 

「ワンワン! 甘い香りだ! ワンッ!」

「あっ、バカ!」

 突如駆けだしたロビンに怒鳴ったが、もう遅い。

 声こそ小谷には届かない距離だったのに、瞬く間に小谷の傍まで到達してしまう。

 じゃれつく様な真似こそせず、小谷の前をぐるぐると周回するだけだったが、それでも小谷は突然の襲撃に驚いたようで、一歩後ずさるのと同時に、被っていた白帽を落としてしまった。

「こら、駄犬!」

 ようやく追いついて、手で強めに払う。

 叩くつもりはなかったのだけれど、勢い余った平手はロビンの尻に当たってしまい、駄犬は「ヒャン!」と悲痛な声で鳴いて、来た方向へと逃げ出してしまった。

 ちょっと、悪かっただろうか。

 考える事一秒弱。

 ちーっとも悪くない。

 仮にロビンが怒ったところで、好物の東雲ドーナツ店特製抹茶ドーナツを与えれば、機嫌は一発で直るのだ。

 

 

「……今のは?」

「あー……あはは。なんかノラ犬に懐かれちゃって」

 それよりも、今は小谷だ。会話は聞こえていなかったとは思うけれど、念の為に場を取り繕おうと、落ちた小谷の帽子を拾う。

 手で埃を払っているうちに、帽子の内側に刺繍された名前が見えた。

「小谷、豊……」

「………」

「ご家族の帽子ですよね」

「……むう」

 帽子を渡すと、肯定とも否定とも取れる唸り声が返ってきた。

 しかし、千尋にはもう答えは分かる。やっぱり、二人は家族だったのだ。

 詳しい事情は聞かずに、お茶を濁して退散するべきだろうか……。

 

 

「小谷さん」

 無意識に、穏やかな声が漏れた。

 頭で組み立てた理屈とは正反対の言葉が、脳裏に浮かんでいる。

 なんとも、おせっかいなものだが……まあ、いいさ。

「実は、豊さんとは先日会いました。ご存知かもしれませんが、尾道に帰ってます」

「……知っている」

「ご家族と仲が悪い話も聞きました。……おせっかいだとは分かっています。でも、もし俺で力になれる事がありましたら、是非」

 

「……むう」

 また、小谷が唸る。しかし、今度は首を縦に振りつつの声だった。

「本当に、無理はしないでいいんですよ?」

「大丈夫だ。……何故だろうな。君は、なんだか喋りやすいんだ」

 三白眼の目を細めてそう言うと、小谷はゆっくりとした足取りで、船着き場への通りを歩きだした。

 黙って千尋も着いていくと、かなり遠目だけれども、視界には対岸の千光寺山が入った。舞台造りの千光寺や、寺の隣にある大岩も確認できる。

 少しだけ、意識が小谷から風景に移る。

 この美しさは、通りに活気があった頃から変わらないのだろうか……。

 

 

「……豊は、弟だ」

 小谷の告白に、千尋は意識を彼に戻した。

「……七年は会っていない。……小さいの頃は二人して『親父みたいに立派な和菓子屋になろう』と息巻いていた。実際、中学に入った時……二十年ほど前から、実際に手伝いだしたよ。八年前に親父が病死するまでは、ね」

「………」

「……親父が死んで、すぐだった。豊が『兄貴の和菓子は古い。もっと斬新な和菓子を作りたい』と言い出したのは。俺はそれを不安に思った。俺達は激論をかわし……やがて、殴り合いの喧嘩になり、あいつに大怪我をさせてしまった。『二度と帰ってくるな』と暴言も投げかけて、ね」

「方針の違い、ですか」

「そう言ってもらえると、まだ聞こえがいいね」

 ちら、と小谷が振り返って苦笑する。

 いつの間にか、二人は船着き場前のバス停まで来ていた。白ペンキで塗られた小さい家を待合に使っているバス停で、映画の舞台としても有名な所だった。

 

「……豊は、本当に家を出た。行き先と事情が分かったのは一年後。豊を追って上京した恋人の立島さんからの手紙だった。……豊は立島さんとの結婚を考えていたが、大黒柱の父を亡くした事で『今のままでは先がない』と、仕事に不安を覚えたらしい。それが、すれ違いの理由だったんだな」

「………」

「千尋君は、他にどんな話を聞いたんだい?」

「東京でお店を持つ事になった。あと、こっちで式を挙げる為に帰省している、と」

 

 本当は、もう一つ聞いている。

 豊もまた、兄と同じ様に、自分の和菓子に悩んでいると。

 でも、それは簡単に話しちゃいけないような気がした。

 

 

「そうか……」

 小谷はバス停前のフェンスに腰を預け、静かに瀬戸内海を見つめる。

「豊さんに、会わないんですか?」

「……会えるわけないよ。散々に追い出してしまったんだ」

「それじゃあ、式にも出ないんですか……」

「立島さんは『怒っているのはポーズ』と、密かに誘ってくれているが、無理だ。……引き出物が不調だと話しただろう? あれも、立島さんから依頼された物なんだ。これを機に仲直りして欲しいという計らいだろうね」

「いいアイディアじゃないですか」

「……俺も、せめて引き出物を祝いの言葉に変えたかった。でも、無理なんだ。……ようやく、気がついたよ。俺は怖いんだ」

「………」

「父の和菓子には、堅実なだけじゃなく創意があった。俺が堅実さを、豊が創意を引き継いだ形になったけれど……豊が正解だったんだね。俺は、挑戦する気持ちを持てない。……昔から何も変わっていないんだ、俺は。豊だって許してくれないさ」

 

 そうか。

 そうだったのか。

 ようやく、小谷が抱えていた悩みを知る事ができた。でも、そこを乗り越えなくちゃ、いつまで経っても仲直りはできない。

 誰かが、小谷の……いや、この兄弟の背中を押してあげなきゃいけないんだ。

 

 

「大丈夫ですよ。小谷さん」

 小谷の落ち込んだ声と釣り合いをとるかの様に、明るい声で千尋は言う。

「千尋、君?」

「きっと、仲直りできます。大丈夫ですから」

 はっきりと、そう言ってのける。

 それでも、小谷から返ってきたのは、消えてしまいそうな苦笑だった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 夜咄堂の周囲は、夜になると人の声がしなくなる。

 商店街に隣接した、俗にいう夜の街、新開(しんかい)地区でさえ、他の都市の歓楽街と比べたら静かな方だろう。千光寺山にある夜咄堂の周囲から声が消えるのも当然である。

 しかし、夜咄堂の中は違う。店先のアンティークランプにほのかな照明を灯した夜咄堂では、千尋とヌバタマ、そして共に暮らすもう一人、中年男性の付喪神のオリベが、膝を突き合わせていた。

 

「ヒャッヒャッヒャッ! 人間とは難しい生き物だなあ!」

 ひととおりの説明を聞いたオリベは、甲高く笑った後で、緑青色の抹茶碗を煽った。

「笑い事じゃありませんよ!」

 ヌバタマが強い口調でたしなめる。

「ああ、分かっている、分かっている。キリッといこう、キリッと」

 薄茶を飲み干したオリベは、幾何学模様が描かれた茶碗をテーブルに戻し、茶碗と同じ模様をした和服の袖を翻して腕を組む。

 普段はふざけてばかりなのに、真面目になると、なかなかに雰囲気がある男なのだ。

 

 

「いや、しかしね。勇気をもって、えいやっ、と和菓子を作っちまえば解決するもんだと思うんだがね」

「そういうのは、蛮勇と言いませんか?」

 と、千尋が尋ねる。

「義があれば勇気 になるさ。彼には弟と仲直りしなくてはならない義がある。その目的の為には、思い切って挑戦しても構わない……いや、するべきだと思うよ」

「なるほど……」

「……と、昔のえらーい人が言っておった。ヒャッヒャッ!」

 ちょっと感心したら、これである。

 呆れる二人をよそに、オリベは残った抹茶を一気に飲み干したが、鼻下のヒゲに薄茶が付いてしまい、いっそう締まりがなくなった。

「ヒゲ、ヒゲ」

「おっと、こりゃ恥ずかしい」

「オリベさんの格言、いつも他人のふんどしですよね……」

 ヌバタマが口をとがらせながら言う。

「まーまー。だが、実際そうするべきだと思うよ。この織部(おりべ)茶碗として百年、付喪神になってからも百五十年程人間を見てきたから、人というものが少しは分かる」

「その割にはこの間、店先で観光客の女の子を口説こうとして、撃沈してましたよね」

 ヌバタマの突っ込みに、オリベは瞬く間に顔をひきつらせた。

「み、見ていたのかね? あれはナンパではない!」

「みっともないから、あれほどやめてと言ってるじゃありませんか! 罰として明日の掃き掃除はオリベさんです!」

「聞いてくれヌバタマ。店を案内しようとしてだね」

「駄目です!」

「ぎゃふん」

 オリベはわざとらしく、ひっくり返るような仕草をしてみせた。

 それにしても、少々脱線が過ぎている。千尋が閑話休題と言わんばかりに居住まいを正すと、ヌバタマもそれに倣った。

 

 

「……話を戻しますが、俺は小谷さんの力になりたいんです」

「私もです。そこまで深い事情とは知りませんでしたから、今は特にそう思います」

「ふむ……具体的には、どうしたいんだね?」

 オリベは鼻ヒゲをちりちりと弄りながら言う。

「小谷さんには、新しい和菓子に挑戦できるようになってもらいます」

「弟さんに謝る件はどうする」

「和菓子の問題さえ解決すれば大丈夫です。弟さんを理解できなかった昔とは違う……そう実感できれば、謝れる様にもなるかと。……これは、三笠さんに協力してもらおうと思います」

「和菓子屋の老人だね。……なにか、考えがあるようだな」

「ええ、まあ」

「分かった。しかし念の為に、もう一手用意するべきではないかね?」

「もう一手……? ああ!」

 答えは、すぐに思いついた。

 

 

 ――夜咄堂と、付喪神。

 ここ尾道に、人知れず息づいているその二つには、ある力がある。

 茶寮と茶道具の精霊だからこそ成せる力。

 それは……、

「『日々是好日(ひびこれこうじつ)』を、使うんですね」



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第十二話『曜変天目茶碗 その四』

 板張りの階段が軋む音がする。

 三人目の客を先導して階段を上がった千尋は、客に気づかれないように小さく深呼吸しながら、茶室の前に座した。

「失礼します」

 茶室の障子をそっと開け、体を横に引いて三人目の客、小谷春樹を中へ通す。

 彼は茶室内を見るなり息を飲みこんだようだったけれど、それは既に中で待っていた小谷豊も、同じだった。

 

「……豊」

「兄貴! 何でここに……」

 狼狽の色は、明らかに小谷豊の方が大きかった。

 兄そっくりの三白眼で、七年ぶりに再会する兄をしっかりと見据えている。だが、その目はすぐに、隣に座るもう一人の先客、立島へと向けられた。

「真樹子。お前の仕業なのか? お前がどうしてもと言うから来たが……そういう事なのか?」

「違います、豊さん。私が頼んだんです」

 真樹子の代わりに、千尋が答える。

 茶室中央の炉を挟んで、豊が睨みつけてきたが、千尋は怯まずに言葉を続けた。

 

「私が立島さんに頼んで、連れて来てもらったんです。もちろん、春樹さんを呼んだのも私です。立島さんはただ事情を知っているだけです」

「千尋君、余計な事しないでくれ。俺は兄貴なんか……」

「豊君。お願い、話を聞いて」

 立島が豊を諭すように、静かに頼み込む。

 二人を茶室で和解させる……その提案に立島が賛同してくれたのは心強かったし、現に今も、彼女の一言で豊はトーンダウンしたようで、渋々ながらも腰を戻した。

「春樹さんも、どうぞお座りください。話の前に、まずは一服差しあげますので」

「……むう」

 

 春樹も動揺していないわけじゃなかったけれど、反論はせず、豊の隣に座った。

 なんとか最初のハードルは超えたが、まだまだこれからだ。

 水屋に戻って必要な道具を手にした千尋は、改めて茶室前に座して一礼した。

 

 

「一服、差しあげます」

 茶事の始まりを宣言しつつ、この後の流れを頭の中で整頓する。

 

 ――実のところ、茶を振舞うまでの流れは、そう難しいものじゃない。

 まずは、今日これから使う道具を、客の前で清めてしまう。

 次に、抹茶と湯を茶碗に入れ、茶筅(ちゃせん)でかき混ぜれば、もうお茶が点つ。

 最後に、もう一度あらかたの茶道具を清めて、撤収するだけだ。

 もちろん、細かい手順や注意点は存在するのだけれど、千尋では頭が追い付かず、大別した流れを確認しているに留めている。

 慣れた点前なら、いちいち考えずとも良い。だが、秋冬の季節だけ使用する()の点前は、まだ始めて間もないのだ。

 

 

「お楽に」

 釜の前に座して、客にリラックスするよう告げつつ、失敗を恐れるのを止める。

 それから決められた点前通りに、抹茶容器の(なつめ)茶杓(ちゃしゃく)を、腰に付けた帛紗で清める。

 点前と並行して、何度か雑談じみた会話を持ち掛けたけれど、小谷兄弟は殆ど反応を示さなかった。やっぱり、簡単に打ち解けてもらえる件じゃない。

 だが、千尋とて抜かりはなく……いよいよ室内の空気が重くなったところへ、一の矢が入ってきた。

 

「お菓子でございます」

 菓子器を手にしたヌバタマが茶室に入り、今日の茶菓子の白饅頭を出した。

 やや大き目の作りで、一口で食べるのは難しいが、黒文字で切る程のものでもない。お菓子をどうぞ、と一声掛けると、三人はまず半分を直接口にした。

 ……そして、殆ど咀嚼しないうちに反応は表れた。

 

「お、おい兄貴、この味は!」

「……ああ。親父の餡だ」

「兄貴か? 兄貴が作ったのか?」

「……俺じゃない。しかし、親父とはどこか違う様な」

「お二人とも、さすがですね」

 千尋は小谷兄弟に向き直りながら言う。

 

「今日の饅頭は、お二人の父の味を再現致しました。商店街の三笠さんに、特別に作って頂いたものです」

「三笠のじっちゃん……そっか。長く会ってないけれど、元気だったんだな」

「お元気ですけれども、店は近日閉められるそうです。なので無理なお願いでしたが、事情を話すと快く引き受けて頂けました。……お二人の父と三笠さんは、昔は互いによく研究しあったそうですね。完全再現とまではいかないが、近いものができた……そう聞いていますが、お味はいかがでしょうか」

「……決まってんだろ! うまいよ、最高だよ! 俺には作れねえ味だよ!」

「……豊」

「それに、うう、親父……」

 悪態をついた豊の声が、次第に声が小さくなる。

 その先を代弁するように、今度は春樹が、残った饅頭の断面を見ながら言った。

 

「……本当に、懐かしい。それに、内面の三色餡。白砂糖で作った餡を鮮やかに染めてある。見た瞬間、地味な白饅頭が一気に華やぐ……俺にはない創意だ……」

「これを作った時に、三笠さんはこう言いました。三色がまるで小谷一家みたいだ、と。中央の黒餡目指して、外側二色の兄弟も頑張れ、と」

「親父を……」

「目指して……」

 小谷兄弟は、二人して食べかけの饅頭を見つめ続けた。

 だが、それだけだ。何か感じるものはあった様だけれど、それ以上動く事はない。やっぱり『日々是好日』で、最後の一押しが必要だ。

 

 

「お茶、ご用意しますね」

 千尋はそう告げると、今日の茶碗……曜変天目茶碗に抹茶を移した。

 抹茶の香ばしい匂いを感じつつ、湯も入れて、茶筅で茶を点てる。

 まずは、底の抹茶を溶かすように。

 その後で、湯面に気泡を作り出すように。

 早すぎず、遅すぎず。

 点前への緊張を悟られないように。むしろ、魅了するように。

 ヌバタマに習った茶筅捌きを、どこまで実行できているのか、自分では分からない。

 ただ、できあがった、渋みのある薄茶は、見た目にはそれなりの様に感じられた。

 

 

「お薄でございます。恐縮ですが、春樹さんの分ができるまで、お待ち頂けますか?」

「……おう」

 豊の同意を得たところで、ヌバタマが茶碗を彼の前まで運ぶ。

 それと並行して、もう一碗の曜変天目で茶を点てて、すぐに春樹にも茶を出した。

 立島には待ってもらう事になるけれど、協力者の彼女には事前に「待ってほしい」とだけ説明していた。

 

「どうぞ」

 千尋の一言を合図に、二人は茶碗を煽る。

「……お二方、お服加減、いかがでしょうか」

「大変結構でございます。……このお茶碗は?」

 答えたのは、春樹の方だ。

 この一言を待っていた。茶事とは、一方的に客をもてなすだけじゃない。その日の茶道具に関する会話をしなくてはいけないのだ。

 その点、茶道の経験がある小谷なら、このタイミングで茶碗について聞いてくると思っていた。

 そして、この説明は……『日々是好日』には欠かせないものなのだ。

 

「曜変天目茶碗でございます。最近、立島さんのお店から購入した物でして」

「そうでしたか。綺麗ですね。吸い込まれるような黒と水滴模様だ」

「ええ、本当に。……春樹さん。この模様は、狙って作れないと、ご存知でしたか?」

「……なんとなく、聞いた事があるような、ないような」

「天目茶碗には、長い歴史があります。中国の宋代には既にあったそうですから、ざっと千年でしょうか。その歴史がありながら、未だに狙えないのですよ。……でも、世の陶芸家は諦めず、曜変天目茶碗に挑む。私は、そこには勇気があると思います」

「勇気……?」

「ええ。陶芸家にとっては茶碗一つでも大事な収入です。失敗すれば、その一つを台無しにする可能性があるのに、挑んでいるのです」

「………」

「それは、単に珍しい器を作りたいだけじゃないと思うのです。言ってみれば、陶芸の歴史への挑戦ではないでしょうか。……私は、それを勇気だと思うのですよ」

 小谷春樹に茶碗の良さを語りつつ、兄弟の悩みに思いを馳せる。

 

 これもまた『日々是好日』発動には不可欠だ。

 客の悩み。茶道具の良さ。千尋が作り出す良き茶席。最後にトリガー役……茶室隅に控える付喪神、すなわちヌバタマ。

 この四つの条件が揃う事で、夜咄堂に込められた能力『日々是好日』は発動するのだ。

 

 

 

「勇気か。俺は……」

 どこか諦めさえ漂う春樹の姿が揺らいだが、錯覚だ。

 彼を中心として、茶室の中に白い光が広がっていった。

 同時に、心をゆりかごであやされるような暖かみを感じ……それらは、一瞬にして消滅してしまう。

 事情を知らぬ者は、ほんの一瞬、めまいだか眠気だかが訪れた、くらいにしか思わないだろう。

 しかし、確かに発動した『日々是好日』は、そんなものじゃないのだ。

 

「……いや、俺も、勇気を持たないとな!」

 春樹の声は、活気に満ちていた。本当に彼は口下手だったのかと思う程だった。

 これこそが『日々是好日』の力。

 能力が発動すると、客の感受性が急激に高まる。そのお陰で、普通なら分かりにくい茶道具の良さを理解してもらい、最終的には、その良さが客の悩みを払拭する。

 茶寮・夜咄堂でだけ使える、奇跡の力なのだ。

 

 

「なあ、豊」

 春樹が変わらぬ声で弟を見つめると、対する豊も、憑き物が落ちた様な表情で視線を返している。どうやら、能力は兄弟それぞれに発動したようだった。

「兄貴……」

「立島さんに……いや、もう真樹子さんと呼ばなきゃな。彼女に事情を聞いてから、俺はずっと、お前に言いたかった事がある」

「ああ」

「お前の不安を汲み取ってやれずに、すまなかった。二人きりの肉親なのに……兄なのに……本当に悪かったと思っている」

「兄貴、俺は……」

 豊の言葉が尻切れトンボになる。言葉の代わりに、彼は下唇を噛んで顔を伏せた。

 

「いや、いいんだ。許して貰えなくても、仕方がない」

 春樹が寂しそうに微笑んだ。

 寂しさが、伝わったのだろうか。豊ははっと顔を上げた。

「違うんだ、兄貴! 俺も……ずっと兄貴に謝りたかった……!」

「そうか。……なあ、豊。……結婚おめでとう。幸せにな」

「兄貴ぃ!」

 豊の涙腺が、一瞬で崩壊した。体当たりでもするかのように春樹に抱き着き、春樹もまたそれを受け止める。

 

 彼らの姿は、大いに心を揺さぶってきた。千尋まで感極まりかけたが、目頭を抑えて涙をこらえる。

 確かにこれは千尋の絵図どおりだ。だというのに、どうしてこうも涙が押し寄せるのだろう。

 ふと、オリベの言葉が頭に浮かび上がる。

 

 ――人間とは難しい生き物だ。

 涙の理由も、それなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 小学校に入って間もない頃、映画を観に行く父に強引に着いていった記憶がある。

 父は「お前が観ても分からない」と言ったが、それでも父の真似をしたかったのだ。

 通好みのレトロな映画を流す映画館で、シアタールーム以外の場所も全体的に薄暗かった気がするが、なにぶん昔の事でうろ覚えだ。

 映画のタイトルや内容に至っては、もう殆ど思い出せない。父の忠告どおり、よく理解できなかったのも一因だろう。

 ただ、一つだけ覚えているシーンがある。

 あれは、そう――

 

 

「へえ……秋晴れの花嫁行列か。綺麗に撮れていますね。なんだか良いものを見た気がします」

「おやおや、千尋も情緒ある言葉を吐くもんだね」

「むう……いけませんか?」

「ヒャッヒャッ! 良い事、良い事! 成長が嬉しいのだよ!」

 オリベの甲高い笑い声が、夜咄堂の一階に響き渡った。

 一応は褒められたのだろうけれど、なんだか、子供が作文を発表した後のような恥ずかしさを感じて、千尋はつい舌を出してしまう。

 そんなやり取りが面白かったのか、小谷春樹は苦笑しながら、花嫁行列の写真を二枚、三枚とテーブルに並べていった。

 秋の紅葉の中、静かに微笑む白無垢の立島はとても美しい。私服姿を知っているからだろうか。知人の花嫁姿は、普通の花嫁よりも三割増しで綺麗に感じられた。

 

 

「でも、春樹さんも式に参加できて良かったですね」

「……ん。短い期間だったけれど、七年ぶりに一緒に暮らす事もできたしね」

「もう東京に戻ったんでしたっけか。ちょっと、寂しいですね」

「……これからは、会おうと思えばいつでも会えるさ。それだけじゃなく、互いに切磋琢磨もできる。これも、千尋君が茶席で勇気づけてくれたお陰だよ」

「いや、俺なんて……」

「心から、感謝している。ありがとう」

 小谷が深々と頭を下げてくる。

 本当に大した事はしていないのに、なんだか申し訳ない気がした千尋は、テーブルの隅に置かれた紙袋に話を振った。

 

「そうだ。引き出物と同じ和菓子、作ってくれたんでしたっけ」

「……ああ、そうだったね」

 小谷が紙袋の中から、小さなプラスチップパックを取り出した。包まれているのは、取白い餡子の球体だった。

「丸い」

「……うん、頑張って丸くした」

 千尋のストレートな感想にも、小谷は真剣に答えてくれる。

 

 

「……玉の岩だよ。千光寺の玉の岩を知っているかい?」

「聞き覚えはあるんですが……なんでしたっけ」

「……千光寺の隣には大岩があって、そこに玉のような岩が乗っているんだ」

「ああ、大岩は分かります。でも、玉までは見落としてたな……」

「……実はこれには昔話があるんだ。今の玉岩は近年乗せられたものだけれど、昔は本当に光る岩が乗っていて、瀬戸内海を行く船を照らしていたそうだ」

 子供に語り聞かせるような口調で、小谷は言う。強面の分だけ釣り合いを取るような、優しい声だった。

「それを欲した船乗りが海に落として、尾道には『玉の裏』という別称が付いたそうだし、千光寺という輝かしい名の由来にもなった……ただそれだけの昔話だよ。でも、千光寺に関する物なら、引き出物には最適だと思ってね。なんたって千光寺は、縁結びのパワースポットとして知られている」

「山頂には出会いの広場とかありますもんね。なるほど、面白い事考えましたね」

「まだまだ、親父には程遠いけれどね」

 小谷は謙遜しながら、プラスチックの蓋を開ける。

 

 

「……お一つどうぞ。千尋君にも良縁が来るといいね」

「俺、まだ十九歳ですよ?」

 そう答えながら、口の中に放り込む。舌で押し潰すと餡子の濃厚な甘みが、一瞬にして口中に広がった。

 それを押し留めて堪能するように、何度もゆっくりと咀嚼する。これなら、普通に売り出しても、きっと人気商品になるだろう。

「……まだ未成年なのか。大人びているから、もうちょっと上かと。それなら、俺の方が先にならないとな」

「小谷さんには、恋人は?」

「……いないさ」

 口下手だけれども、彼は心優しい人だ 。恋人くらいいてもおかしくなさそうだが……そうだとしても、今は仕事がしたいのだろう。

 いや、他人事じゃない。考えてみれば、自分だって、今は色恋沙汰より店の経営について考えなきゃいけない時期だ。なんとも世知辛い……。

 

 

 

「皆さん、お待たせしましたー!」

 ヌバタマが元気よく厨房から出てくる。

 彼女が運んできたトレイには、人数分の薄茶が載せられていた。

「おー、ご苦労さん。うむ。なかなか良い泡立ちだねえ」

「オリベさん、感心してないで皆さんに回してくださいよお」

「ヒャッヒャッ! りょーかい!」

「あ、俺も手伝うよ。和菓子用の黒文字取ってくる」

 自身の今後に思い悩んで、付喪神達にばかり働かせるわけにはいかない。

 かくして、和気あいあいとした秋の一時が始まるのであった。



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第十三話『凛とした影の人 その一』

 口から洩れる吐息が、めっきり白くなってきた。

 白いのは吐息だけじゃない。小雨の降る瀬戸内海上には、対岸の向島を隠すような白い朝霧が浮かび上がっている。

 随分寒くなったものだ、と思うけれど、それも当然だ。十一月も既に折り返している。

 海に面している尾道とはいえ、冬は冬。決して暖かくはなく、千尋は手袋をした手で傘を握って、商店街奥のコンビニへ牛乳を買いに出かけていた。

 朝食代わりにしている牛乳を切らしていたのは迂闊としか言えない。寒風吹く早朝の買い物は考えものだったけれど、なんだか飲まなきゃ一日が始まらない気がするのだ。

 

 

「寒いな……」

 当たり前の事を呟くが、嫌な寒さじゃない。

 千尋は、冬はあまり嫌いじゃなかった。皆が非活動的になるからだ。

 むしろ静かになるよりは賑やかな方が好きだけれど、人のいない町を独り占めするような気分も嫌いじゃない。

 現に今も、朝から散歩する人はあまりおらず、不思議な高揚感を覚えながら、一日の始まりを迎えている。

 もっとも、少ないのは人に限った話だ。人以外にでくわすのは、ままある。

 

「そう。例えば犬とか……」

「あん? なんか言った?」

「別に」

 短く返事するのと同時に、先導するように商店街を歩くロビンを睨む。

 まさか、朝っぱらからロビンと出くわすとは思わなかった。

 分かっていれば出かけなかったのに、と悔やむが、もう遅い。なんせこいつときたら、出会えばいつも……、

「なーなー、ところでさ、千尋」

「ドーナツ、買わないからな」

 きっぱりと言い放つも、ロビンはこたえた様子もなく、アホみたいにハアハア舌を出している。

「ヘヘヘッ、そうケチケチすんなよ。ほら、東雲ドーナツ店に行こうぜ」

「こんな時間にドーナツ屋は空いてないぞ」

「しかしそこをなんとか。ペロペロしてやるからさ。ペロペロ」

「やめろよ、おい。第一、なんとかしようがないぞ」

「んじゃー、開店まで待とうぜ。開かぬなら、開くまで待とう、付喪神」

「諦めましょう、付喪神。の方がいいんじゃないか?」

「やーだよー」

 

 

 どうにも、今日のロビンはしつこい。

 単なる雑談相手なら、それも悪くはないんだけれども、こいつは和菓子屋の小谷に飛びついた前科がある。

 コンビニに行くまでに撒いてしまった方がいいかもしれないが、ロビンに悪い気もする。

 さて、どうしたものか。千尋がこうして考え込むたびに、脳内では小さな千尋達がやいのやいのと緊急会議をはじめ、ヒゲを生やした議長千尋が結論を下す。

 議長は、親指を下に突き立てた。

 

 逃げちゃえ!

 

 会議が終わるや否や、千尋は傘を差したままで駆けだした。

 真っすぐ商店街を駆ければコンビニに着くけれど、そうはせずに横の細路地へと抜ける。

 出遅れたロビンの気配をまだ後方に感じたので、更に別の細路地を走り、道路を渡って山側に走る。

 傘を差したまま走ったせいか……いや、おそらくは運動不足だろうか、大して走らないうちに息は切れてしまったけれど、浄土寺(じょうどじ)山の麓にある図書館辺りまで、なんとか逃げきる事ができた。

 

 息を整えながら後ろを見るが、ロビンが追ってくる気配はなかった。

 普通に鬼ごっこをすれば負けていたかもしれないが、不意打ちが成功したんだろう。

「なんとか……撒いたか……ふうっ」

 大きく息をつきながら、上半身を起こす。

 あと少し落ち着いてから、別のコンビニに行こう。そう決めた千尋は、図書館のひさしで雨宿りしようと足を前に踏み出し……その動きを、すぐに止めてしまった。

 

 

 人が、いたのだ。

 図書館に寄り添うようにして、赤い傘を差した女性が歩いている。

 白を基調としたロングスカート姿で、腰 辺りまで伸びた黒髪を一本縛りにしている。顔立ちはすらりと高い鼻を中心として均等に整っていた。

 一言で言えば綺麗な人だったのだが……あくまでも一言、だ。

 全体的に、憂いに満ちているのだ。特に瞳が印象的で、ヌバタマのようにくりくりとした大きな瞳じゃないのに、深みを感じさせる。

 その憂いが美しさと相まって、女性は幽霊画のような雰囲気を醸し出していた。怖いくらいに綺麗、と言うのが一番適切かもしれない。

 

「おはようございます」

「あ……おはよう、ございます……」

 平然とした挨拶を投げかけられる。思っていたよりも温和な声だった。

 慌てて千尋が一礼する頃には、女性はもう背中を見せ、図書館前の坂を上がっていた。

 その足取りもまた、しずしずとしていて、力が篭っていない。緩やかな坂道なのに、上りきれないんじゃないかとさえ思わせる足どりだった。

 なんだか気になってしまった千尋は、彼女が坂を上がりきるのを最後まで見届けてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「千尋さん、幽霊って怖くありませんか?」

「お前は自分がなんだか分かっているのか」

 すがるように近寄ってきたヌバタマの第一声を、ばっさりと切り捨てる。

 それでもヌバタマは不安げな様子を崩さず、帰宅した千尋がカウンター席に腰掛けるまでの間、傍から離れずに話を続けた。

 

「私は幽霊じゃありませんよ!」

「似たようなもんだろ。別に怖がる必要ないと思うぞ」

「だからって幽霊と仲良しってわけじゃないんですよ。特に恨みつらみを持った霊は、何をするか分からないんです」

「なんでそんな心配をしてるんだよ。店に幽霊でも出たのか?」

 カウンター上に備えているコップに、買ってきたばかりの牛乳を注ぎながら尋ねる。

 それを飲み干す間に、ヌバタマはマガジンラックから新聞を持ってきて、カウンターの上におずおずと広げてみせた。

 新聞なんて取っていたかな、首を傾げながら紙面を覗き込むが、すぐに答えは分かった。

 購読しているものじゃなく、無料配布されている地域新聞だった。見覚えのある風景写真がいくつも載っていて、なかなかに地元民の目を引く紙面である。

 

 

「今朝のです。ここ、読んで下さい」

 ヌバタマが青い顔をしながら紙面を指差す。

「えーと、町の人々?」

「尾道の人達に、最近の出来事を尋ねるする欄です。そこの一番最後の人……」

「ああね」

 頷きはするが、目を滑らせ気味に読む。「尾道に幽霊?」なんて小見出しが載っていて、白服黒髪の美しい女性が、浄土寺山周辺で突如姿を消す怪奇現象が起こっているらしい。更には「あの人に会いたい」という、寂しげな声を聞いた者もいるそうだ。

 多分、インタビューを受けた人自身、本気で言っているわけじゃないだろう。噂だと分かっていて楽しむ類のものなんだろう、と思う。

 

 しかし、千尋は途中から真剣に読み始めた。そう切り捨てられない事情があるのだ。

 まず、非科学的な存在をを否定できない。なんたって、付喪神と生活を共にしているのだ。

 加えていえば……いや、こっちはこじつけだ。印象的な出来事があったもんで、無意識に結び付けているだけだとは思うのだが……場所と幽霊の外見は、今朝の女性と一致する。

 

 

 

「……まさかね」

「そんな事言って、本当に幽霊がいたらどーするんですか?」

「今のまさかは……いやそれより、別にいたって、ヌバタマが遭遇すると決まったわけじゃないだろう」

「あ、えっと……それは……」

 ヌバタマが、思いっきり言葉を濁した。

 上目遣い気味で、続きを言いかけては止めてを何度か繰り返すあたり、言いたくないというわけではないようだが……。

 よく分からないけれど、まずは話を聞こうと、千尋がカウンターに腰掛けなおした時だった。

 

「いやいや千尋よ。その話、あながち噂と言い切れないのかもしれないぞ」

 楽しげな声と共に、オリベが厨房から出てくる。

「あ。ただいま、オリベさん」

「うむ、お帰り。私が頼んでおいた漫画雑誌は?」

「そんなもの頼んでいないでしょう」

「ヒャッヒャッ! そーだった、そーだった!!」

 いつもの笑い声を元気よく披露しつつ、隣のカウンター席に座ったオリベは、千尋に向き直る。

 すっと、右手の人差し指を立てながら、彼は悪だくみでも語るかのように話を切りだした。

 

 

「お前が帰ってくる前に、私もその新聞を読んだのだがね。実は、浄土寺山周辺には、ある昔話があるのだよ」

「はあ」

「昔々、あの山の浄土寺で、法要の際にお膳が無くなる事件が多発してな。妖怪だか化け物だかの仕業じゃないかと噂になり、殿様が弓の名手に退治を命じたらしい。寺にろうそくをびっしり並べ、昼間のような明るさになった寺の広間に、名手と繕。そして息を飲む人々。刹那……ろうそくの炎がふらと揺らめいたっ!!」

 ぱちん、と指を鳴らして、オリベは語りに勢いを付ける。

 そんな子供だましでも効く人には効くようで、背後では、ヌバタマが微かに肩を震わせた気配があった。

 

「揺らめきに反応した名手が、天井に弓を放つと『ギャオッ!!』と悲鳴が聞こえたんだ。天井からは血がしたたり、それが寺の外の方へと続いた。侵入者が天井を伝って逃げたのだな。名手が血痕を追うと、山奥の洞窟まで続いていた。中に入ると、一切の照明がない暗がりのはずなのに、ふと、二つの光が浮かび上がる。下手人の目玉だ。下手人は力を振り絞り、鋭い爪で名手に襲い掛かったが、名手はそこを見事に射抜いた! ……そして、断末魔をあげて動かなくなった下手人。それはなんと、ばかでかい猫だったらしい。……そんな昔話だよ。浄土山寺の化け猫退治だ」

「ほら、ほらほらほらっ!!」

 話が終わるのを待っていたかのように、ヌバタマが泣きそうな目で見あげてくる。

 

「やっぱり、何か怖いのがいるんですよ!」

「幽霊と化け猫は別物だろ? 大体、オリベさんのは単なる昔話だよ」

「あうう……そうかもしれませんけれど……行くんですよ、今日」

「今日?」

「はい。今日はお店がお休みだから、私、浄土寺に出かけるって言ってたの覚えていません?」

「あー、そう言われれば……」

 確かに、今日はどこかの寺に出かけると言っていた記憶がある。寺の敷地内に由緒ある茶室がそびえているそうで、それを見学に行くと言っていたはずだ。

 やっと、ヌバタマが怖がっている理由に合点がいく。だからと言って、ここまで怖がらなくても良いんじゃないかな、とは思うけれども。

 

「……つまり、幽霊に出くわすのが怖いと。昼間だから大丈夫じゃないの?」

「うー。でも……千尋さんも一緒に来てくれませんか?」

「俺っ? なんで俺まで……」

 せっかくの休みなのに、なんで付き添わなきゃいけないんだろう。

 

 やや長めの黒髪をわしゃわしゃと掻きながら、面倒臭そうにヌバタマの目を見たが、それが、いけなかった。

 黒く大きな瞳で、雨に濡れる捨て犬のように見つめられては、千尋に抵抗する術はない。

 本日二度目の脳内千尋会議が一応開かれたけれど、議長の判決はあまりにも早く下された。

 

 

「……まあ、いいさ」

 口癖を放ち、露骨に目を背ける。

「やった! 千尋さん、ありがとうございますー!」

 ヌバタマが歓喜を爆発させ、千尋の両手を強引に取ってぶんぶんと上下に振ってきた。

 それがやたら恥ずかしく、今度は上体ごと背けたのだが、そんな様をオリベに笑われてしまって、一層恥ずかしさが込み上げる千尋なのであった。 



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第十三話『凛とした影の人 その二』

 朝から続く小雨が、浄土寺の庭の紅葉を叩いている。

 だというのに、紅葉の周りに敷き詰められた苔や白小石には、あまり落ち葉がなかった。

 拝観料を払って入る庭だけあって手入れが行き届いているのだろう、と感心しながら、千尋は板張りの廊下を歩く。

 よく磨かれた廊下からは、足に張り付くような冷たさが伝わってきたけれど、どこか心地良い冷たさだ。

 寺中に漂う線香の香りも相まって、気持ちが引き締まるような気さえした。

 

 

「千尋さんは、露滴庵(ろてきあん)を見に来るのは初めてでしたっけか?」

 先を歩くヌバタマが、首だけで振り返りながら尋ねてきた。

「今から見る茶室だよな。もちろん初めてだけれど」

「でしたら、どんな茶室か教えて差しあげますよ」

「別にいいよ。茶室の前に説明書きくらいあるだろ?」

「いーえ、事前に知っておいた方が良いんです!」

 嬉々とした声で言う。つまりは、話したいのだ。

 千尋とて駆け出しの茶人ではあるし、嫌じゃない。

 

「まずは露滴庵の歴史からご紹介しましょう。なんと! 元々はあの豊臣秀吉(とよとみひでよし)伏見(ふしみ)城にあった草庵でして、本願寺(ほんがんじ)、向島の順で移設された後、ここ浄土寺に落ち着いた代物なのですよ。本願寺に移設した人は不明ですが、向島へは、広島・浅野(あさの)藩の御用商人である天満屋(てんまんや)が移したそうです」

「あの、デパートの天満屋?」

「それとは別の天満屋さんです。向島に自分の庭園があるので移したそうですが、最終的にはその天満屋さんが、浄土寺に寄進してくれたのです」

「由緒ある茶室じゃないか。どうしてそんなもの、寺にくれたんだ?」

「もちろん、茶室にふさわしいお寺だからです。浄土寺は聖徳太子(しょうとくたいし)が開創した国宝のお寺ですからね」

「……尾道には凄い寺があるんだな」

「有名なお寺なのに、今更なにを言ってるんですか。ほら。あれがその露滴庵ですよ」

 

 

 ヌバタマが前を向き、T字路になっている渡り廊下の外を指差す。

 そこには、高さ三メートル程の築山があった。茅葺の茶室は山の上に建っていて、山の周囲には美しい白砂敷、蘇鉄に紅葉に松、それから岩が所狭しと敷き詰められていた。

 綺麗な茶室だ、というのが率直な印象だ。

 庭には紅葉が少なく、艶やかというわけではなかったけれども、むしろそれが自然な美しさを作り出している。

 遠目ではあるけれど、茶室にも汚れの類は見えず、四百年物の割には茅葺も整っている。もしかしたら、近年修理したのかもしれない。

 そんな奥ゆかしい美しさを放つ茶室が、優しい小雨と共に、千尋達を出迎えてくれたのだ。

 

 

「……雰囲気、あるな。中へはどこから入るんだろう」

「あ、中には入れないんです。何年か毎に、茶会の為、一般公開されるそうですが」

「そうなのか。ちょっと残念だな」

「私もです。内装は、利休(りきゅう)の弟子である古田(ふるた)織部好みの燕庵(えんなん)を写したものらしいですから、歴史的価値は高いですよ」

「燕庵って?」

「京都にある茶室です。多数の窓が特徴的な茶室なんですが、ええと、なんという種類の窓だったか……」

 小袖を口に宛がって、考え込む。

 その答えは、すぐに聞こえてきたが、ヌバタマが発したものではなかった。

 

 

色紙(しきし)窓。二つの窓の中心を外して、上下に並べた窓の事ですね」

 左側の廊下から、静かな語り口をした女性が近づいてくる。

 その姿を見た千尋は、あっ、と叫んでしまいそうになった。

 目尻を下げて微笑んでいるその人は、今朝、図書館の近くで見かけた白服の女性だったのだ。

 

 

「そう、そうです。色紙窓! ああ、つっかえが取れました。ありがとうございます!」

「いいえ。……すみません、突然話しかけたりして。私、お茶をやっていまして、お二人の話し声につい嬉しくなってしまって」

 ぺこり、と頭を下げながら女性は言う。

 こうして近くで見ると、二十代前半といったところだろうか。話し相手であるヌバタマの外見は明らかに年下なのに、女性は柔らかな物腰を崩そうとはしなかった。

「わあ、お茶! 私達も……あっ、私ヌバタマと言います。こちらは千尋さん。私達もお茶が大好きなんですよ! ねえ、千尋さん?」

「あ……えっと。はい、そうなんです」

 ヌバタマの声に背中を押されるようにして頷くと、女性は「良い事です」と言わんばかりに、緩やかに首を傾けてみせる。

 

 こうして接すると、幽霊や化け物らしさは欠片もない。落ち着きのある可憐な女性だった。

 勝手な疑惑が晴れるのと同時に、彼女からも茶室の話を聞いてみたい気がする。駆け出し茶人の千尋でも、それほどに気持ちが揺り動かされる茶室であった。

 

 

 

「ええと、あなたは……」

「あ、シズク、と申します」

 多分、下の名前だろう。随分と綺麗な響きだ。

「シズクさん。確か、今朝お会いしましたよね。図書館の前を散歩していたみたいで」

「ええ。奇遇な事もあるようで。……このお寺や露滴庵が好きで、いつもこの辺りにいるのですよ」

「そんなに、良い茶室なんですね」

「特に茅が見事で。今日のような空模様の下では、屋根先から滴り落ちる一滴一滴の露が映えて見えます。……まさしく露滴庵ですね」

「滴る露……ですか」

 

 その言葉を受けて、もう一度茶室を見る。

 千尋には、滴まで視認できなかったけれど、想像ならば容易にできた。

 天候さえも綺麗に見せる茶室。三英傑が一人、豊臣秀吉が使うに相応しい、歴史ある茶室。

 こんな茶室が尾道にあったのだと思うと、なんだか嬉しくなってきて、自然と口元まで緩んでしまった。

 

 

「あの……千尋さん?」

 ふと、ヌバタマが声を掛けてくる。

「シズクさんとは、お知り合いだったんですか?」

「え? あー、うん。今朝、ちょっとな」

「いいなあ。私もお茶友達と知り合いたかったです」

「挨拶させて頂いただけですよ。……それに、お茶友達でしたら、今からだって」

 シズクは前髪を払うように整えると、わざわざヌバタマに正対してから言う。

 ヌバタマの瞳が大きく見開かれるのには、殆ど時間はかからなかった。

 

「ほ、本当ですか?」

「ヌバタマさんさえ宜しかったら。私もお茶友達は欲しいわ」

「はい、是非是非! やったぁー!」

 ヌバタマがぴょこぴょこと飛び跳ねた。今日は喜んでばかりの奴だ。

 しかし、彼女もすぐに、場所に相応しくない行動だと自覚したようで、ばつが悪そうに笑顔を苦笑いに変えた。

 

「……えへへ、ごめんなさい。良かったら、どこかで落ち着いてお話でもしませんか?」

「そうだな。立ち話というのもなんだし。どこか喫茶店でも……」

 同調しながら、候補になりそうなお店をいくつか思い浮かべる。

 ……いや、考え込む必要なんかない。最適の喫茶店が、一件あるじゃないか。

 ふと、気がつくとヌバタマも同じ事を考えていたようで、弧を描いた目が物語っている。

 そっちからどうぞ、と言わんばかりに目配せをすると、ヌバタマはこれ見よがしに両手を広げながら口を開いた。

「シズクさん、良かったら私達のお店に遊びに来ませんか? 二階に茶室がある喫茶店なんです」



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第十三話『凛とした影の人 その三』

 夜咄堂を前にしたシズクは、意識を奪われた様な表情で、暫く店を仰ぎ続けていた。

 店が持つモダンな雰囲気に見とれてくれているのだろうか。

 それなら、気持ちは分かる。かくいう自分も、初めて目にした時には同じように見とれていた。

 気に入ってもらえましたか、なんて声を掛けようかとも思ったけれど、その前にシズクは店を眺めるのを止め、待たせて申し訳ないと言わんばかりに、小さく会釈を送ってきた。

 

 

「どーぞ、こちらです」

 シズクの前を行き、薄暗い店内へと足を踏み入れるが、中からの反応はない。

 オリベが留守番していたはずだけれど、多分、本体の青織部沓形茶碗(あおおりべくつがたちゃわん)と一体化……ありていに言えば、昼寝しているのだろう。

「私、飲み物入れてきますね」

 最後尾にいたヌバタマが、シズクの横をすり抜けて厨房に向かいながら言う。

「頼むよ。ええと、シズクさんは飲み物はどうします?」

「どうも。なんでも構いませんよ」

「じゃあ、コーヒー三つ」

「分かりました。あと、オリベさんは……」

「起こさなくてよし」

「ですよね」

 ヌバタマは即座に頷いて厨房の中へと姿を消した。女性好きのオリベをシズクに会わせたら、せっかくの時間がしっちゃかめっちゃかにされるというものである。

 

 

「手持ち無沙汰にしちゃってごめんなさい。少し待ってくださいね」

「いえ。全然暇なんかじゃありませんよ」

 そう言うシズクは千尋に視線を合わせず、外にいる時と同じ様に店内を仰ぎながら返事をした。

 ここまで感じ入ってもらえるとは予想外で、なんだか随分とむずがゆい。

 口は挟まず、しかし先導するようにして四人掛けのテーブル席に着くと、シズクはまだ店内を眺めつつも、千尋に続いて対面に腰掛けた。

 

「気に入って頂けたみたいでなによりです」

「なんだか自宅に帰ってきたかのように落ち着きます。……あの、失礼な事をお聞きしても?」

「多分、気にしませんよ。どうぞ」

「千尋さん、まだお若いようですけれど、経営されているというのは本当ですか?」

「一応は。亡くなった父から譲り受けただけですけれどね」

「お父様が……亡くなられた、のですか。それはお気の毒に……」

 シズクの声が沈む。知らぬ人の事なのに、はっきりと落ち込んでくれる人だった。

 

 

 

「あー、まあ、大丈夫ですよ。半年くらい前の事ですから。それにいつまでも悲しんでると、天国の父が成仏できませんし。……ところで、シズクさんもお茶をやってるんでしたよね」

「あ、はい」

「シズクさんは、なんでお茶を始めたんです? やっぱり学校茶道がきっかけとか?」

「それでしたら……実は、さっきの露滴庵に関係があるんです」

 シズクが、遠くを見つめるような目をしながら言う。

「何年前でしたでしょうか。もうはっきりと覚えていませんけれど、ずっと、ずっと昔の話です。露滴庵で、ある男性と知り合ったのですよ」

 思い出が、ゆっくりと語られる。彼女が気分良く話しているのが伝わってきて、千尋は余計な口を挟まずに話に聞き入った。

 

 

「あの頃の私、ちょっと悩みがあったんです。自分探し、みたいなものですね。私の存在価値はなんなんだろう……って。その答えを教えてくれたのが、茶室と男性だったんです。ひょんな事で知り合ったその男性が露滴庵の良さを語ってくれて、それに自分を照らし合わせてみたら、自分らしさというものが分かった気がしました」

 その感覚は、千尋にもよく分かる。

 まるで、茶道具の良さで客の悩みを解消する『日々是好日』じゃないか。

「……その出来事のお陰で、お茶にも興味を持てるようになって、取り組みだした、というわけです」

「なるほど。その男性には感謝ですね」

「そのとおりですね。……実は、浄土寺山によく行くのも、その方と再開したいという気持ちが幾分かは」

 シズクはそう言ってはにかんだ。

「幾分?」

「ええ」

「本当に?」

「あ、あの……」

「絶対に本当?」

「……本当は、大半です」

「ははっ。やっぱり」

 千尋が声を立てて笑うと、シズクは恥ずかしそうにはにかみ、それから目をつぶって、ぽつりと呟いた。

 

「本当に素敵な方で。……凛とした影の方でした。実直な人で、性格が見た目にも出ていたのですよ。いつも背筋が伸びていて、夕日で地面に落ちる影まで凛としていたのです」

「凛とした影の人……」

「ええ。……もう一度、あの人に会いたい」

 

 

 シズクは思い出に浸るように瞼を閉じる。

 ふと千尋は、瞼に隠された瞳の事を考えた。

 初対面の時に憂いを感じた瞳。その理由は「あの人に会いたい」という気持ちだったのかもしれない。……そうだとしたら、彼女の瞳は憂いを帯び続けるんじゃないだろうか。なにせ、思い出せないくらい昔の話みたいなのだ。

 ならば、なんとかして、彼女を励ましてあげられないだろうか。

 

 ――そう思いかけて、ふと気になった。

 あの人に、会いたい?

 ちょっと待て。それじゃまるで……そうだ。ヌバタマが見せてくれた地域新聞の記事と同じ言葉だ。浄土寺山周辺で聞こえる、謎の声そのものじゃないか。

 千尋から暖かみが消えうせ、一瞬で背筋が凍りついた。そういえば、シズクの外見も噂と一致するのを忘れていたが、まさかそんなはずは……、

 

 

 

「お待たせしましたー!」

 唐突に響いたヌバタマの明るい声が、思考を押し流す。

 トレイを手にしたヌバタマが、そこからコーヒーカップをシズクに渡すと、シズクは幽霊とは思えない優しげな笑顔で頭をさげた。

 そうだ。やっぱり考え過ぎだろう。こんないい顔をする人が、幽霊のはずがない。

「それじゃあ、頂きますね」

「お二人ともどうぞ。……あ、千尋さん。さっき、天井が揺れませんでした?」

「天井が?」

 千尋もコーヒーカップを受け取りながら、天井を見上げる。

 夜咄堂の板張り天井は、少なくとも現時点では微動だにしていなかった。

 

「いや、俺は気付かなかったな。話に集中してたからかもしれないけれど……シズクさんは気付きました?」

「いいえ、私も分かりませんでした」

「ですよね。……厨房は揺れたのか?」

「はい。こっちはガタガタ……いや、トタトタ、って感じで」

「地震かな」

「足元は揺れていませんでしたよ。天井になにか……あ、いえ……」

 何かを言いかけたヌバタマが、慌てて口をつぐんだ。

 多分「鼠か何かがいるのでは」と言いかけたのだろう。

 飲食店として好ましくない状態だから、客のシズクに聞かせるわけにはいかないのだ。

 しかし、本当に鼠がいるのなら説明は付く。夜咄堂の薄い天井板だったら、そんな音もするだろう。これは、一度業者に見てもらった方がいいのかもしれない。

 

 

「あの、もしかしたら……」

 ふと、シズクが声を掛けてきた。千尋とヌバタマが同時に彼女を見ると、息の合った視線に狼狽したのだろうか、シズクは僅かに体を引いて首を横に振った。

「……いえ、やっぱり、なんでもありません」

「はあ」 

「それより、お話は変わりますが……二階にお茶席があるのでしたよね。コーヒーを頂いた後で、拝見しても宜しいですか?」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 茶室の拝見希望を受けた時から、千尋はある決意を固めていた。

 コーヒーを飲み終える頃を見計らって「胃が許すなら見学だけじゃなく一服どうでしょう」と提案すると、彼女は躊躇なく頷いてくれた。

 そうなると、茶室を準備しなくちゃいけない。

 普段なら、茶事が大好きなヌバタマに任せるところだけれど、この日はヌバタマが準備に立ちあがる前に、千尋が先に階段へ上がった。

 

 理由は、一つ。シズクの悩みを知っている自分じゃなければ『日々是好日』に適した茶道具を選べないからだ。

 昔の自分なら、おせっかいだと考えて、こんな事やらなかっただろう。

 いや、今でも、人の心に踏み込むのは危険だと思っている。

 けれども彼女は……強く、とても強く「会いたい」と思っているのだ。ならば、励ましたいじゃないか。

 

 

 千尋は二階の水屋へ進んで、まずは時間が掛かる釜を取りだした。

 茶室に釜を運び、炉内の炭に点火した後で釜を掛ければ、次はいよいよ、能力の為の茶道具選びとなる。

 意気込んで茶室を出た千尋は……しかし、茶室の上に飾られた、描きかけの水墨画を目にして、ふと足を止めた。

 

 ――本当に『日々是好日』を使っても大丈夫だろうか。

 夜咄堂の付喪神達は『日々是好日』を使った結果、今年の夏に一度消滅している。……いや、天に還ったというべきだろう。

『日々是好日』によるもてなしは、茶道具の付喪神にとって責務でもある。それを一定数こなす事によって昇天できるのだ。

 今、眼前にある水墨画は、昇天までの『メーター』だった。能力を発動させると水墨画に絵が描き加えられ、完成した瞬間が『メーター満杯』という事らしい。

 

 でも、昔の話だ。

 今いる付喪神達は、水墨画を完成させて天に還ったけれども、神様の計らいでこの世に戻ってきて、自分が生きている間は一緒にいられるようになっている。

 となると、メーターである水墨画も不要だ。……そう思っていたのだが、答えは違った。

 付喪神が帰ってくるのと同時に「またメーターを貯めろ」と言わんばかりに、水墨画は白紙に戻ってしまったのだ。

 

 付喪神達にも、その理由は分からないらしい。

 不気味ではあるのだけれど、特に害はない様なので、結局千尋達は『日々是好日』を使い続ける事にした。

 本音を言えば、やはり理由は気になるけれど、今はそれよりもシズクの方が大事だ。

 

 

 

「……さて、道具か!」

 懸念を振り払うように声を強め、水屋に戻って、茶道具を収納している押入れを開けた。

 そして現れる幾多の茶道具や収納箱と相対する事、数十秒。

 ぴん、と来たのは、古ぼけた竹花入(はないれ)だった。

「父さんの花入……か」

 間違っても落とさぬよう、そっと取りだしながら呟く。

 オリベからの又聞きだけれど、この花入には父と母に関する由来があるのだ。

 これなら『日々是好日』が使える。そう確信して、竹花入を茶室の(とこ)に置く。

 客の前を通って庭の茶花を積みに行くのは気が引けたので、花は廊下の花入に差したものを流用した。他の茶道具も並べ清める頃には、釜の水は大分温まったようだった。

 

 

「千尋さん、まだでしょうか?」

 それを見計らったかのように、ヌバタマが階下から顔だけを覗かせて、様子を見に来る。

「今、終わったよ。シズクさんの相手、続かないか?」

「いーえ。ずっと盛りあがってます」

 張りのある声だった。とはいえ、お茶を待たせすぎるのも……という事だろう。

「じゃあ、シズクさんを茶室に案内してくれるかな」

「はい。あ……お茶菓子はいらないそうです。そこまで気を遣わせたくないみたいで」

「分かった。別にうちは構わないんだけれどな。あー、あと、日々是好日を使うよ」

「あら……シズクさん、何か悩みがあったんですか」

「みたいだな。……ま、後で話すよ。同席、宜しくな」

「はい。頑張りましょーね!」

「おう」

 話を終えて水屋に入り、茶碗やら棗やらを手にする。

 入席の連絡が来るまでの間、千尋は少しだけ、シズクの事を考えた。

 

 ――彼女の正体は、未だによく分からない。

 確かに噂と一致する点は多いし、非科学的な存在も実在する以上、本当に幽霊だったりするのかもしれない。

 でも、それならそれで構わない。仮に幽霊だとしても、彼女は手を差し伸べるに足る、良い人じゃないか。

 それにしても、半年前に比べると、随分と他人に興味を持つようになったものだ……。

 

 

 

「準備、できました」

 ヌバタマの声が、千尋の思考を止める。

 おう、と軽く返事をして茶碗を手にすると、もう考えるのは茶事だけだ。

 茶室の障子を開けると、客席のシズクがこちらを向いて微笑んでくる。茶をたしなんでいるだけあって、体をまったく動かさないきれいな座り方だった。

 

「一服、差しあげます」

 挨拶を交わし、釜の前に歩いて点前を進めていく。

 最近ではようやく炉点前にも慣れてきて、シズクと茶道具の会話をしながらでも、特に慌てることはなかった。

 だが、唯一の例外は存在する。件の竹花入に話を振られた瞬間だ。

 

 

「ところで、本日の花入について伺っても?」

「ああ、これはですね……」

 言葉では平静を装いながらも、頭をフル回転させて、必死に情報を引き出す。

 それと同時に、茶室の入口に座すヌバタマに目で合図を送ると、彼女も承知しているようで、すぐに目礼が返ってきた。

「……一重切竹花入。今は亡き父が大事にしていた花入ですが、ちょっとした逸話がありまして」

「あら。どんなお話でしょうか」

「この花入、元々は私の母が大事にしていたものでした。母も私が小さい頃に亡くなったのですが……実はその際、父はこれを売ったのですよ。花入を見ていると母を思い出すからだそうです」

「そんな……」

「ですが、ね」

 シズクの声は沈んでいたが、その分だけ千尋は陽気に言う。

 

「悲しみが癒えた頃になって、父も手放したのを惜しんだそうです。方々探したけれども見つからず……しかし、諦めずにいたある日。ふらりと入った骨董品屋で花入と再会し、即座に買い戻したそうです。奇遇にも、その日は母の七回忌だそうでした」

「良かった。そうでしたか」

「それから亡くなるまでの間、父は花入を特別大事にしていたそうです。再会する運命だったと思うんですよ。……これは、父だけの話じゃない。そこに運命というものがあるのなら、誰だって、会いたい人にもう一度出会えると思うんです」

 そう告げるのと同時に、シズクの悩みに思いを馳せる。これで、条件は全部満たした。花入の良さと、彼女の悩みがシンクロし『日々是好日』が発動……、

 

 ……しなかった。

 

 不思議に思いながら、再度視界の端にヌバタマを捉えるが、彼女も訝しんだ表情をしていた。

 ヌバタマはちゃんと能力を発動させようとしていたみたいだし、悩みと良さも分かっている。茶席や点前にも大きなミスはないはずだ。

 やっぱり、条件は全て満たしているはずなのだが……長らく考え込んで、ふと、千尋は思い至った。

 

『日々是好日』は、人間の感受性を際立たせる能力だ。

 しかし、相手が人間じゃなかったら? 例えば……幽霊だったら、能力は発動しないんじゃないだろうか――

 

「きゃっ!?」

 突然、ヌバタマが茶席にふさわしくない声を漏らした。

 理由は、千尋にも分かる。足元に明確な揺れを感じたのだ。ヌバタマが言っていた揺れとは、これなのだろう。鼠か、あるいは地震かもしれない。

 シズクにも気を付けてもらおうと、千尋が素早く顔をあげると……いなかった。ついさっきまで客席に座していたはずのシズクが、姿を消していたのだ。

 

「し、シズクさんは?」

「え……あ、あれ? ええーっ?」

 ヌバタマも気がつかなかったようで、裏返った声を張りあげる。

 シズクは確かに消えた。これもまた噂と合致する。

 本当に、彼女は幽霊なのだろうか……?

「やっと、捕まえました……」

 床下から、シズクの声がする。

 千尋が体をこわばらせるのと同時に揺れは止み、一呼吸の間をおいて……シズクが、畳から出てきた。

 まるで土をかき分けて芽を出す植物のように、上半身だけがぬうっ、と浮かびあがってきたのだ。

 

「――っ!」

 ヌバタマが息を飲みんだような声を出して立ちあがる。千尋も殆ど同じような状態だった。茶室に、普段とは性質の違う緊張感が走り……、

 ……そしてその緊張感は、階下から聞こえてくる声によって破られた。

 

 

「おぉ~い! お客さんかね~」

 間延びした声と共に、オリベが階段を踏み鳴らして茶室に入ってくる。

 そして、シズクの異様な姿を目にした彼の表情は、瞬く間に驚きの色に染まっていったのだが……なぜだろうか、そこには喜びの色が混じっていた。

「ややっ、シズクじゃないか!」

「ああ、やっぱりオリベさんもこちらに。ご無沙汰しています」

「ヒャッヒャッ! 何年ぶりだろうか……それより、畳に埋まって何しとるんだ?」

「一階と二階の間が揺れたので、もしかしたらと思って透明化して様子を見たのですが、案の定でした」

 シズクはそう言うと、泥沼からでも抜け出すように下半身を持ち上げて、茶室に戻ってきた。すると、彼女の手元があらわになり……そこには、白猫が抱かれていた。

「雪之丞、邪魔をしたらいけないと言ったでしょう?」

「ニャゴッ!」

 

 雪之丞と呼ばれた猫は、低い声で返事をしながら、シズクの手の中で大いに暴れる。

 驚いたシズクが手を緩めたのか、猫はそこから抜け出しいぇ、素早く階下まで逃げてしまった。

「あっ! もう……。様子を見に来たみたいで……本当に、困った子です」

「ヒャッヒャッ! なんだ、雪之丞も一緒だったか」

 オリベが親しげに笑う。

 どうやら、二人は知り合いの間柄と見て、間違いはないのだろう。でも、今何が起こっているのかまでは、千尋にはさっぱり分からない。

 

 

「あ……あの。宜しければ、事情をご説明頂けませんか? シズクさんは幽霊さんじゃないんですか?」

 理解できないのは、自分だけじゃないらしい。

 ヌバタマが誰に対するでもなくそう切り出し、千尋も同調するように頷くと、オリベがにやにや笑いながら答えてくれた。

「ああ、浄土寺山の噂と照らし合わせていたのかね。灯台下暗しというやつなのかねえ……。この女性は、幽霊でもなんでもないんだよ。なあ露滴庵の付喪神、シズクよ」



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第十三話『凛とした影の人 その四』

「嘘はついていないのですけれども、大変失礼致しました」

 シズクが、また緋毛氈の上に正座しながら言う。

 オリベも同じように客席の端に座したので、千尋とヌバタマも対面の畳に座ると、シズクはそれを待ってから話を続けてくれた。

 

 

「さて、どこから話しましょうか。あっ、まずは自己紹介ですよね。オリベさんの言われたとおり露滴庵の付喪神、シズクと申します」

「今日見た茶室の……どーりで、詳しいはずですね」

「あの時は自画自賛みたいになって申し訳ありません」

「いえ。ところでシズクさんは、あそこで何をしていたんですか?」

「そちらでしたら、お話した事に偽りはないんです。……そうですね。あの方との件も含めて、昔の事からお話ししましょうか。……あっ、お抹茶、頂きますね」

 すっかり忘れていた抹茶碗を手に取ったシズクは、慣れた手つきで口にする。手首が折れ曲がっていない、綺麗な扱い方だ。

「あ……お服加減いかがでしょうか?」

「大変結構でございますよ。……さて、落ち着いたところで」

 視線が、千尋に届く。

 シズクは、自分だけをただ真っすぐに見つめていた。

 

 

「……実は私、人間を恨んでおりました」

 その一言に、千尋は思わず目を見開いた。

 しかし、シズクの口調はこれまでどおり柔らかいのにすぐ気が付き、緊張を解く。

 そんな千尋を更にほぐすかのように、シズクはゆっくりと語ってくれた。

 

「ご存知のとおり露滴庵は、内装非公開の茶室です。数年毎に特別な茶事で公開されることもありますけれども……でも、私は辛かった。茶室として生まれたのに、どうして使ってくれないんだろう……なんで、皆遠くから見ているだけなんだろう……毎日そう嘆き、人間を恨んでいたのです」

「……嘆く気持ちの方は、分かる気がします」

 ヌバタマが唇を噛みしめながら言う。

 それでも、当のシズクは温和な表情を崩さなかった。

「そうして人を恨み続けたある日、私は今の身体を得ました。茶道具の付喪神ならば茶人の気力を得て付喪神になるのですけれども、そうではなく、一般的な道具のように、人を恨む力によって付喪神になったわけですね」

「………」

 

 

「……ですけれども、身体を得て間もない頃、あの方にお会いしたのです」

「下で聞いた男性、ですね」

「ええ。……あれは露滴庵が茶事で一般公開された日でした。戯れに、客に紛れて人間を観察していたのですが、随分と楽しそうに内装を見ている男性がいたのです。色紙窓も、段差のある落天井も、貴人の間を示す黒漆の床框も。……正客よりも熱心だったもので気になって、茶席の後で思い切って声を掛けたのですよ。『あんなに大物ぶるばかりの茶室の何が良かったんです?』って、自虐的に。……ふふっ。そしたらあの方は……」

 シズクが、一度言葉を切った。

 そこに大切な宝物でもあるかのように、胸に手を宛がう。

 一呼吸置いてから、先の言葉は出てきた。

 

「……あの方は『勿体ぶるのが良い』と言ってくださったのです。勿体ぶるのは、文化的、歴史的な価値があるからだ。確かに日常使いの方が、物は生きるのかもしれない……でも、物の価値はそれだけじゃない。姿を残し続けるからこそ価値がある場合もある……そう、言ってくださったのです」

「それが……下で言っていた『自分探し』と、その答え……」

「そのとおりです。……男性とは、その後も一度だけ会いました。しかし、以降は寺に顔を見せることがなくなり、現在も、あの人の凛とした影を追い求めているのです」

 

 

 話は一段落したようで、シズクが小さく息を付く。

 千尋には、彼女の慕う気持ちがなんとなくわかった。

 自分は、まだそんな人と出会ってはいない。

 でも……似た思いを寄せ合っている人々ならいる。夜咄堂の付喪神達だ。

 父を亡くした時に、心の支えになってくれた彼らは、家族のように大切な存在だし、向こうもそう思ってくれている。

 

「なるほど。お話は分かりました。……でも、そう言ってくれれば良かったのに。凄く驚きましたよ」

「ごめんなさい。夜咄堂に案内して頂いた時点で、付喪神をご存知か、或いは付喪神そのものだと予想はできたのですが……確信はできませんで、下では全て話せませんでした」

「それもそうか。……ああ、夜咄堂は知っていたんですね」

「はい。男性を探す最中で、先代の宗一郎さんやオリベさんと知り合いまして。あの頃はヌバタマさんは、まだ生まれてなかったようですね」

「まだロビンも生まれる前の話だな。ヒャッヒャッ!」

 オリベが笑いながら膝を打つ。何が面白いのだろうか、と思ったが、面白くなくても笑うのが彼なので、いちいち追究はしなかった。

 

 

「あー、そう言えば、前にロビンが『この町の付喪神は自分達だけだ』と言ってましたけど、生まれる前の交友なんで、知らなかったのか」

「私も知らない名前ですから、そうなのでしょうね。……それに、近頃の私は、浄土寺山からあまり離れませんから、知り合うきっかけもありません」

「具合でも悪いとか?」

「そのようなものかもしれませんね。天寿です」

 シズクは、さも当然の如く淡々と言ってのけた。

 

「付喪神が昇天するには、仏教を学んで徳を積む必要があります。その点、茶道具の付喪神は、徳の代わりに人をもてなし続けることで昇天しますよね」

「それも夜咄堂のように、特別な力がある場所が必要と聞いています」

「ええ。……ですが、私にはどちらの選択肢もありませんでした。まず、寺に置かれていたので、仏教の知識は自然と身について学ぶ必要がありませんでした」

「なるほど」

「かといって、付喪神としての生まれ方が違うからか、人をもてなしても効力はなかったのです。……そこで、見かねた茶道具の神様が『茶道を学ぶ』という特別な課題を与えてくださったのです。……実をいえば、あの人に会いたい、人間界に留まりたい気持ちもありましたが、課題を無視するわけにもいきません。そうして茶道を学び続けて何年でしょうか……今では、もう十分学んで、昇天してしまう程です」

 

「シズクさん、いなくなっちゃうんですか……」

 ヌバタマが寂しそうな声を出す。

 だが、シズクは首を縦にも横にも振らなかった。

「そうしないと、私達は天に還れません。そうでしょう?」

「それはそうですけれど、せっかく会えたのに……」

「ヌバタマさん、ありがとう。でも、あとほんの少しだけ、一緒にいられますよ」

「えっ?」

「茶道を学び終えた時点で私の身体は消滅しかけましたが……やってみるものですね。強く拒否の意思を持つことで、この世に留まれました。本体の露滴庵がある浄土寺山から大きく離れると、気力がもたなくなるのは難点ですけれど。……一つだけ。私には、たった一つだけ心残りがあります。それまではここに残ると、今も神様に抗っているのですよ」

 

 

 答えは、聞かずとも分かった。

 それでも、聞かなくちゃいけないと思う。話の流れがそうなっているからじゃない。その人を口にする事が、シズクにとっての活力になるような気がしたのだ。

「凛とした影の人……」

「はい。もう一度だけ会って話せれば……いえ、話せなくとも。一目見るだけでも、私にはもう思い残しはありません」

 

 シズクは静かに微笑みながら言った。

 どうして笑うのだろうか。

 一目だけだなんて。

 思い残しはないだなんて。

 どうして、寂しいことを言うんだろうか。

 それほどまでに、その人の影を追い求めているとでも?

 切なさが言葉になって喉からこぼれかけて……しかし、それは出てこない。

 

「シ、シズクさん!?」

 ヌバタマが悲鳴にも似た声をあげる。

 シズクの体が、無数の光球を纏いながら、突如薄らぎ始めたのだ。

「今日は、もう限界みたいです」

「限界って、まさか、もう天に……」

「いえ、しばらく休めば大丈夫なはずです。……また会えますから」

 シズクの体は、なおも薄らいでゆく。もはや輪郭は認識できなくなっていた。

 

「どうして、そうまでして夜咄堂に……」

「どうして、ですか? どうしてでしょうね」

 体の変化もいとわず、ふと、シズクは考え込む。

 彼女と、本当にまた会えるんだろうか。余計な事を聞いてしまったんじゃないだろうか。

 自身の発言を顧みた千尋が、前言を撤回しようと考えた瞬間、シズクの続く言葉が零れ落ちた。

「……きっと、誰かに聞いてもらいたかったのです」

 日常会話のような、のほほんとした返事。

 ……そして、その一言と共に、彼女の姿は消え去ってしまった。

 

「オ、オリベさん! シズクさん、消えちゃいましたよ!」

「……多分、大丈夫だろう。我々が天に還った時には、一瞬で消え去った。消え方が違う。一時的に露滴庵に戻っただけのはずだ」

 うろたえるヌバタマを安心させるかのように、オリベは抑揚の利いた声で言う。

 言われてみればそのとおりで、千尋も内心胸を撫でおろしはしたけれど、心中には別の感情が渦巻いていた。

 

 ――彼女の最後の望みは、このままじゃ成就しない。

 半日も活動できないほどに消耗している上、浄土寺山からも遠出できないんじゃ、人探しなんてろくにできないはずだ。

 第一、突然会えなくなった探し人が、まだ尾道にいるのかどうかも怪しい。加えて言えば、彼女があとどれだけ現世にいられるか……タイムリミット問題もあるのだ。

 そう。このままならば。

 

「……今度会えた時には」

 千尋が、ぽつりと呟く。

 強い決心を胸に秘めながら立ち上がり、窓の外に広がる尾道の光景を一瞥した。

 

 今度会えた時には、もっと話を聞かなくちゃいけない。

 それは、哀愁に浸る為じゃない。

 だって、その人のことをもっと知らなきゃ、代わりに探せないじゃないか。

 この町のどこかに、まだいるのだろうか。

 いまだ見ぬ、凛とした影の人は。



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第十四話『一期一会 その一』

 あれはちょうど一年前、高校三年の十二月に聞いた話だ。

 師走、という言葉の語源を、言語歴史が好きな友人が語ってくれたのだ。

 師匠も走るほど多忙な時期、という説が有名だけれど、四季が果てるという意味の四極(しはつ)とか、年が果てるという意味の年果(としは)つが転じたものだ、という説もあるらしい。

 学会ではどの説が有力と教えてもらっただろうか、今ではよく思いだせない。

 しかし、我が家に限っては「師も走る」はないんじゃないのかな、と思う。

 

 

「ヌバタマー。オリベさんどこにいるか知らない?」

 階段を小刻みに軋ませて一階に下りるなり、テーブル拭き掃除中のヌバタマに声を掛ける。

 だが返事を聞く前に、口をへの字に曲げるヌバタマの表情で、おおよその察しは付いてしまった。

「ごめんなさい、逃げられました……。さっき『女の子ひっかけついでに漫画を立ち読みしてくる』って言って」

「どーりで見つからないと思ったら……今日はミーティングって言ってたのになあ」

「二人だけでやりますか?」

「そうだな、始めよう。……あの人見てると、今月は師走というより、師ナンパとか、師漫画って気がしてくるよ」

 客席に座り、テーブルに突っ伏しながらボヤく。

 それが許されるほどに、この日の夜咄堂に客はいないのだ。

 

 

 ――師走である。

 大学は休みに入るが、どうにか留年は回避できそうなところまでこじつけた。

 さあ、今度は他のこと手を付ける番だ、と意気込みはしたものの、いざ時間ができると、やるべきことの多さに気が滅入ってしまう。

 まずは、集客。

 笠地蔵カムヒア! というほど酷くはないけれども、客足はいまいち伸びていない。

 夜咄堂を経営し始めて半年以上こんな状態では、さすがに千尋も焦りを覚えるようになってきた。

 ……でも、これはまだ解決する可能性があるから、マシである。

 

 箸にも棒にもかからないのは、シズクの件だ。

 あの日以来、シズクは一度も顔を見せに来ない。

 こちらから浄土寺に足を運んでも、やっぱり見つからない。

 オリベは大丈夫だと言っていたけれど、やはり一ヶ月も姿を見ないと不安になってくる。

 もしかしたら、店に来ようとしたが、その時に気力が尽き果てた、なんて可能性もあるんじゃないだろうか……、

 

 

「ねえ、千尋さん。聞いてます?」

「あ……すまん、なんだっけ」

「集客案ですよ。一つ、良い案を思いついたんです」

 ヌバタマが両手を組んで、目を輝かせながら言う。

 千尋もいったんシズクの件を棚上げして、椅子に深く腰掛けなおした。

 

「で、どんな案なんだ」

「お茶会を開くんですよ。夜咄堂で!」

「へえ。お茶会か」

「知人を呼んで終わり、みたいなものじゃなく、本格的に開催するんです。夜咄堂はお抹茶の喫茶店だと多くの人に知ってもらえば、人気が出るかと!」

「ふーむ……」

 ずっしりと腕を組み、ヌバタマの言う状態をシミュレーションしてみた。

 

 現時点での夜咄堂のウリといえば、瀬戸内の絶景と、茶室くらいだ。

 でも、千光寺山には他にも喫茶店があって、絶景は夜咄堂だけのものじゃない。

 とすると、残された茶室を使うのは悪くない気もする。

 それで集客に成功しても、増えるのはお茶に興味がある客だけだろうから、いきなり大人気店に! なんて事はないだろう。

 でも、少数とはいえガッチリ掴めるのは悪くない。……いや、そもそもそんな選り好みができる状況でもないのだ。

 

 

「……悪くないかもな」

「でしょう、でしょうっ!?」

 ヌバタマが自分の案に小さく拍手する。多分、集客どうのでなく、茶会を開ける方が嬉しいのだろう。

「ただ、俺、お茶会って、開くどころか参加した経験さえもないんだよ。何を準備して、何をやればいいんだ?」

「それはもちろん、私達が補佐しますから。まずお茶会といっても、お茶を飲むだけの席じゃないんです。お炭の準備を拝見して、懐石料理を頂いて、お濃茶(こいちゃ)を頂いて、最後にお薄茶を……」

「あっ、駄目だ、駄目。そんなにたくさん覚えられないよ」

「これは完全にやる場合です。お薄茶を頂くだけの席でも立派なお茶会ですから、それで良いと思います。新しい点前を覚えたりしなくても大丈夫ですよ」

「なんだ、驚かせるなよ」

「でも、簡単というわけでもありません。いいですか……」

 ヌバタマはそう言って立ち上がると、カウンター裏の棚から紙とペンを取り出して「準備」の文字を書いた。

 

 

「一度に全部教えても混乱しますから、今は準備の話だけ。お茶会は、本番と同じくらい準備が大切なんです。まずはお茶会の主題を決めなきゃいけません。季節に応じたお花見とか、その年の釜始め……つまり、初釜とかですね。そんなのが主題になります」

「行事に合わせて、お茶を頂くってわけか」

「はい。主題が決まったら、今度は道具決めですけれど、何でもいいわけじゃありませんよ」

 ヌバタマは「準備」の下に、次々と文字を書き連ねながら言う。

 掛物(かけもの)、花、花入、香合(こうごう)敷帛紗(しきぶくさ)、釜……そんな項目が二十は並んだだろうか。

 そんなに無理に書かなくても、と制そうとも思ったけれど、紙と格闘するヌバタマの口は大いに緩んでいて、千尋は口を挟めなかった。

 

 

「……はい、お待たせしました。お茶会ではお薄だけでも、これだけの道具が必要になります」

「……これ、本当に全部揃えるの?」

「はい。これら一つ一つに、主題とか、お客様との関わりを持たせなきゃいけません。いいですか、千尋さん。お茶会は、開くんじゃないんです。作るんです。抜けがないように組み立てるんです」

「頭が破裂しそうだな……」

「破裂するくらいでいーんです。一生懸命考えた方が、楽しいじゃないですか」

 ヌバタマが弧を描いた目で言う。

 見慣れた表情とはいえ、今でも時々、彼女の笑みには、はっとさせられる。

 薄暗い夜咄堂に、突如咲いた花のような笑顔で、先の言葉は続けられた。

 

 

「我々としては、どうすればお客様に喜んで頂けるのか考える楽しみがあります」

「お前、そういうの好きそうだしな」

「お客様としても、道具の意図をあれこれ想像しながら亭主と話すわけです。そうしたら、お茶席での会話にも深みが出てくると思いません?」

「……そう、だな。そうかもなあ」

 

 話を聞く限りでは、色々と面倒臭いのだろうな、とは思う。

 まだお茶を始めて一年にもならない自分がやる事じゃない、という気もする。

 だと言うのに、ヌバタマの言葉は妙に千尋の好奇心を揺さぶってきた。

 お店の宣伝ができればそれで良かったのに、まったく困ったものである。

 

 

「やってみるか。お茶会」

「オリベさんも同意してくれればですけれど、是非やりましょう! ……ふふっ」

「どうかしたか?」

「いえ。千尋さんも変わったなと。最初に会った時はお茶なんか嫌ってたのに」

「ほっとけ」

 口をとがらせながら、立ち上がる。

 からかわれるのは恥ずかしかったし、用事もあったのを思いだしたのだ。

 

「ちょっと出てくる」

「あら。どちらへ?」

「小谷さんの赤備で年末年始のお茶菓子買っとかないと。留守番宜しくな」

「いってらっしゃいませ。あっ、お茶会の時期や主題は常々考えておいてくださいね。これが決まらないと、何も始まりませんから」

「季節ネタでいいんじゃない? 四月頃に花見茶会、みたいにさ」

「結果としてそうなるにしても、そうする意図が大事ですよ。だって……」

「あー、分かった分かった」

 

 軽く手を振って、夜咄堂の玄関を開けようとする。

 すると、玄関のガラスにうっすらと映った自分の顔が目に入った。

 ……この男、無意識に笑っているじゃないか。

 別に気にする相手はいないのに、また恥ずかしくなってくる。

 師走の寒風も相まって、千尋はこの上なく顔をしかめて、店を出るのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 この日の赤備には、年末年始用の商品がずらりと並んでいた。

 お餅やら、新春用の生菓子やら、おはぎやら……そして、その中に混じった「花びら餅」を目にした千尋は、我が目を疑ってしまった。

 半透明の薄い餅でピンク色の餡を挟んだ、いかにも新春らしい紅白柄の餅で、そこまではいい。

 一体何を考えているのか、細く切ったゴボウまで一緒に挟んでいて、それが角のように餅からはみ出ているのである。

 

 商品傍にあるポップの説明書きを見ると「硬い物を食べて、齢も固める」という理由で、平安時代の新年行事として振舞われた餅が由来で、今では茶道用の菓子らしい。

 面白いものを考えつくもんだ、と思いながら餅を眺めていると、以前と同じく、初老の販売店員が声を掛けてきた。

 

 

「あらあらこの前の! いらっしゃい。あの時は春ちゃんをありがとうねえ」

「こちらこそ、春樹さんにはお世話になっていますから」

「謙遜しなくてもいいのよお。春ちゃん、調子が出てきただけじゃなく、豊ちゃんとも仲直りしたんだよ。それもこれも、坊やのお陰だってね。春ちゃんからちゃーんと聞いてるよ」

 どうやら、小谷からは買い被られているようだった。

 大したことしていないのになあ、なんて思っているところへ、店員は手招きして「春ちゃんに会って行きなさい」と誘ってくれる。

 むげにするのも気が引けて中に入ると、ちょうど応接室から出てきた小谷春樹と鉢合わせした。

 

 

「……お、千尋君。……遊びに、来たのか?」

 いつものとつとつとした口調で、しかし好感の色をにじませながら小谷が言う。

「いや、まあ、なんというか……」

「……ああ。また亀井の婆ちゃんか……でも、断らないでくれてどうも。さ、中に」

 小谷の誘いを受けて応接室に入り、ソファに腰掛けると、小谷はすぐに緑茶を振舞ってくれた。

 湯呑を両手で握るだけで、空風で冷えきった体に熱が戻ってくる。

 

「気を遣わせちゃいましてすみません」

「……いいんだよ。最近は、どうだい?」

「夜咄堂が、ですか?」

「あ、うん」

「それが、いまひとつなんですよね。お茶会でも開いて集客できないかな、なんて話はでてきましたが」

「……考えたな。夜咄堂ならではだね」

「ですけど、まだなーんにも決まってないんです」

「……じゃあ、生菓子も未定かい?」

「それもこれからでして。あっ、良かったら小谷さんに作ってもらえないかな……」

 今思いついた事だったが、妙案だと思う。小谷の腕なら全面的に信頼しているし、なんの問題もないだろう。

 

「……ふむ」

 小谷は重々しく頷くと、何も言わずに立ち上がって、厨房へ行ってしまった。

 ソファに腰掛けて室内をおもむろに見回していると、小谷はすぐに盆を手にして戻ってくる。

 盆の中を覗き込むと、桜の形をした生菓子が菓子器に載っていた。こっちの方がよっぽど花びら餅っぽい。

「……これ、生菓子」

「分かりますよ」

「どうぞ、食べてくれないか」

「そんな。本当に気を遣わないでくださいよ」

「いや……是非。春用のお茶菓子の試作テストを兼ねているから」

「……でしたら」

 

 

 そうまで言われたら、断るのも悪い。

 まずは目で楽しもうと、菓子器に乗った生菓子を見つめれば、桃色の主張が強烈で実に目を引いた。

 食べてしまうのがもったいない気もしたけれど、思い切って一口で頬張ってしまうと、この前食べた引き出物同様に、これまた美味い。

 ケチのつけようはどこにもなかった。

 

「……どうだい?」

「んぐ……っと。ごちそうさまです。いけますよ、とても美味しいです!」

「見た目は?」

「見た目も最高だと思いますよ。鮮やかですし、お茶席ではめだつと思います」

「……だったら、五十点だな」

 小谷は難しい顔をして頭を左右に振った。

「五十点……? 見た目も味もいいのに、ですか?」

「ああ。菓子としては良くても、お茶菓子としては駄目だ。……めだちすぎるんだよ。和菓子と菓子器は、人間と衣のようなもの。……どちらかが過剰にめだつと、もう片方が死んでしまうからね」

「そんなもの、なんですか」

「……お茶会で俺の和菓子を求めてくれるのは、嬉しいよ。……でも、まずはテーマを決めた方がいい。その後で、付随する菓子器を先に決めるんだ。……菓子だけじゃない。花にも、抹茶にも言える。……最後に、俺がふさわしいか考えてみてくれ」

 

 

 小谷が重々しく語る。

 短い言葉が多い小谷にしては随分と多弁で、それだけ千尋の心にも響いてきた。

 茶会は主題一つが、まるでドミノ倒しのように幾多の要素に絡んでくるのだ。ヌバタマが重要性を解こうとしたのも理解できる。

 

「……頑張れよ」

「はい」

 身じろぎもせずに、はっきりと返事をする。

 同時に、主題という課題が改めて圧し掛かってきたのを、千尋は感じ取っていた。



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第十四話『一期一会 その二』

 夜咄堂に帰った千尋は、少し早めに店を閉めてしまい、ヌバタマと一緒に浄土寺山へと向かった。

 店を出た辺りで、空からはちらほらと雪が降り始めている。どうりで寒いはずだった。

 暖かい自室で主題を考えたかったのだけれど、もう一つのやるべきこと、シズクの件が気になるのだ。

 

 それは、安否を確認したいというだけの話ではない。

 シズクが消えたあの日、千尋は心中に沸いた気持ちをヌバタマに打ち明けた。

 シズクの代わりに、凛とした影の人を探す……そんな私案を口にすると、彼女は一も二もなく同意してくれた。

 ただ、ヒントは少ない。まずはシズクと再開しないと、何も始まらないのだ。

 

 

 黒ずんだコンクリートのガード下を抜けて図書館の前に出る。

 初めてシズクを見かけた場所だったが、この日は、冬休み中の小学生が図書館に入って行くのを見かけただけである。

 多分そうだろうと思っていたので、あまり落胆はなかった。

「……いないみたいですね」

「そうだな」

「浄土寺まで行きますか?」

「今日はいいかな……」

「いや、来んさいや」

 二人の会話に、突然広島弁が加わってきた。確実に自分よりも年長と思われる、低く太く、そしてどこかしゃがれた声だ。

 しかし、周囲に人気はない。目を細めて注意深く観察したが、塀の上に座っている猫を見つけただけだった。

 まるで人間のように眉をひそめ、じっと自分を見つめている。何か訴えかけるような……、

 

 

「……今の、もしかしてお前か?」

「おう。ワシよ」

 声に合わせて猫の口が動く。

 千尋は狼狽することもなく、むしろいっそう目を細めて猫を観察した。

 動物に突然話しかけられるのは、もう付喪神のロビンで経験済みだし、それにこの猫には見覚えがある。

 まじまじと見てみれば、記憶違いじゃなかったと確信できた。シズクが茶室下から引っ張り出した雪之丞、とかいう猫なのだ。

 

 

「この前店に来ていた雪之丞だよな?」

「ああ、本当だ! あの……私、付喪神のヌバタマと言いますが、あなたも付喪神なんですか?」

「ほうじゃが、ワシの話は後よ。いいから来んさい」

 猫は早口でまくし立てると、塀から飛び降りて坂道を上りだした。

 事情は分からないが無視するわけにもいかない。

 ヌバタマも同じ考えだったようで、何も言わずに後を付いていくと、すぐに浄土寺に辿り着いた。

 

 降雪にも関わらず、本堂前には参拝者が何人か見受けられる。

 浄土寺は『露滴庵』だけじゃなく、何やら仏像やら仏画やら、門やら宝庫やらと、重要文化財の塊らしい。見るべきところは山ほどあるのだろう。

 

 

 

「こっちじゃ」

 雪之丞は本堂前を通過し、更に多宝堂の前も抜ける。先の階段を進んだ先には、寺の境内ながら小さな神社があった。

 木々に囲まれていて、寺の中にあって特別閑静な場所だけれど、人影が見える。寄進の石柱にもたれかかるようにして、シズクが立っていたのだ。

「シズクさん!」

「あら……千尋さん。それに、ヌバタマさんも。どうしてここに?」

 シズクは背中を起こしながら言った。聞こえてくる声は以前よりも小さい気がする。

「シズクさんを探してたんですよ。そしたら、雪之丞……ですよね? この白猫さんが案内してくれたんです」

 と、ヌバタマ。

「そうでしたか。雪之丞、ありがとう」

「……引き合わせるつもりはなかったんじゃが、この小僧ら、ちょいちょいシズクを探しに来るもんじゃけえ、うっとーしゅうての」

 雪之丞は吐き捨てるように言うと、千尋をじろりと睨みつけた後で、賽銭箱の上に飛び乗り、あぐらをかいて座った。

 まるで人間のような仕草に少しばかり興味は沸くけれど、それよりも先に、シズクにするべき話があるのだ。

 

 

「あれからお店に来ませんでしたよね。……体を保つのが、つらいんですか?」

「ええ、まあ。……それより、私を探していたとか」

「そうなんです。ちょっと、お話がありまして」

 こほん、と咳ばらいをしてから、シズクに向き直る。

 察しがついていないのか、シズクにかしこまった様子は見受けられなかった。

 

「シズクさんが探している人。俺達が代わりに探そうと思うんですよ」

「千尋さん達が……?」

 澄んだ、しかしどこか困惑した声が返ってくる。

「はい」

「そんな。大丈夫ですよ」

「俺達の方が探しやすいと思うんです。移動制限はないから、尾道中を探せますし。だから、その人の話をもっと聞こうと思って、シズクさんを探していたんです」

「……なぜ、千尋さん達が探してくれるんですか?」

「ああ、まあ……」

 

 理由を聞かれるとは思っていなかった。

 つい言い淀んでしまい、雪降る空を見て言葉を探す。

 いや、確かに自分でも「なぜお節介を」と思うことはあるのだ。半年前に比べれば、本当に他人の悩みに顔を突っ込むようになった。

 大きな理由としては、社交的なヌバタマの影響だろう、とは思う。

 彼女の前向きさには、相手の心に飛び込む勇気を教えてもらったし、今でも引っ張られっぱなしだ。

 だが、改めて自問自答してみると、答えはそれだけじゃないのに気がついた。

 

 

 

「……ヌバタマにはヌバタマの考えがあるでしょうが……俺は、気になったから」

「………」

「気になって、心に深く突き刺さっちゃったら……もう、放ってはおけないんです。シズクさんだけじゃない。俺とシズクさんの問題なんです」

「優しい方なのですね」

 シズクは、なぜか笑いをこらえるようにして言った。

 隣に立つヌバタマも同じくニヤニヤとしていて、ちょっと恥ずかしい。

「変、ですかね」

「そんなことはありません。……ああ、でも、宗一郎さんも優しい方でした。親子ですね。目元が似ていますが、性格も少し似ているかも」

「むう……」

 いよいよ照れてしまい、睨むようにして目を細めながら視線を外す。動揺すると目を細めるのは千尋の癖だった。

 

 

「ふふふっ……でも、ありがとうございます」

「別にお礼なんて」

「……嬉しい。心から、嬉しいです。お言葉に甘えさせて頂きます」

 シズクは安心しきった声でそう言うと、静かに微笑んだ。

 彼女の穏やかな雰囲気と相まって、思わずどきりとしてしまうが、動揺が伝わった様子はない。

 というのも、シズクは千尋の反応を気にせず、ポケットから古ぼけたベンジン懐炉を取り出したのだ。

 よくある市販の物で、真鍮製の本体はかなりくすんでいて、じっと見つめても、見る者が映ったりはしなさそうだった。

 

 

「これは、あの方に頂いた物です。人間の道具はよく分からなくて、もう暖かくはならないのですが……探す時に使えますでしょうか?」

「どうかな。……市販の物で名前も書かれていないから、決定的なヒントにはならないかもしれませんね」

「そうだ。その人の名前は分からないんですか」

 ヌバタマが尋ねる。確かに聞いておきたいところだった。

「ええ。あの人と会ったのは二回だけですし、名前も聞きそびれているんです。……実は、記憶も大分曖昧になってきて、顔もはっきりと思い出せないんですよ。おそらく、ここ数年、たびたび本体に戻っているからでしょうね」

「………」

「でも、あの日起こった事は覚えています。今日のみたいな細雪ではなく、外出も困難な大雪の日の事でした……」

 そう呟いと、シズクはそっと胸元で回路を抱きしめる。

 既に失われた懐炉のぬくもりを思い出すかのように、彼女は言葉を紡いだ。

 

 

「……初めて出会った日に、再会の約束をしたのです。『露滴庵』をどう思うのか、もっと話を聞いてみたくて。ですが、約束の日はあいにくの大雪。あの人は来ないだろう、そう思っていたのですが……来てくれたのですよ」

「わあ……」

 ヌバタマは、かすかに頬を赤らめながら聞き入っている。

「傘を差しても横から吹きつける雪風でしたから、雪だるまみたいになっていました。でも、笑いながら来たのです。それどころか、防寒していなかった私にこの懐炉を渡して『寒いからこれで暖を取るといいよ』って」

「素敵な人ですね……それだけ、シズクさんに興味を持ってくれていたんでしょうか」

「違うと思います。私はあの人に何もできていませんでしたから。……だから、そうまでして来てくれた理由を尋ねたんです。そしたら、これは信念だと。一期一会が好きな言葉だと。出会いを大切にするから、約束は必ず守ると。……なんでも、お茶に関する仕事をされているそうで、その繋がりで持たれた信念だそうです」

 

 一期一会。

 当然、千尋も耳にしたことがある言葉だし、茶道に関連する言葉だとも知っていた。

 でも、それ以上は何も知らず、この言葉だけでは、人探しのヒントにはし辛そうだ、と思う。

 もう少し話を掘り下げられないかと、質問を続けようとしたけれど、それは出来なかった。シズクの身体は、先日のように光球を伴って、消えつつあったのだ。

 

 

「シ、シズクさん!」

「ごめんなさい。ちょっと、疲れました……。今回は遠出していませんから、少し休めば戻れるはずです。困ったことがあれば、雪之丞に……」

 シズクは笑いながら言った。

 笑っていられるような体調ではないのだろうに、それを表に出さずに言った。

 彼女の辛さが伝わってきて、千尋はそれ以上呼び止められず……結局、シズクは、再び姿を消してしまった。

 

「……話は終わったかの?」

 そして、後に残された者が口を開く。

 ずっと賽銭箱に座っていた雪之丞は、機敏な動作で飛び降りて、千尋らに近づいてきた。

「さ。人探しするけえの。陽が沈まんうちに探しまわんと」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「ワシはまだお前らを認めとらん。ただのガキじゃ」

 先行して坂道を下る雪之丞が、また早口で言う。

「じゃが、シズクの力になれるもんは限られとる。つまり、お前らは消去法じゃ。決して見込んだのと違うけえ、悠長に構えずキリキリ探してもらうけえのお」

 その檄には、千尋ら二人に有無を言わせぬ勢いがある。

 もちろん、感情も高ぶっているのだろうが、この猫は純粋に押しが強いような気もした。

 

「雪之丞さんは、付喪神でしたよね」

 一緒に後を歩くヌバタマが、また確認する。

「ああ。そう言うたじゃろ」

「でも、尾道の付喪神って、オリベさんとロビンさんと、あと私しかいないと思っていたんで、おかしいな、って」

「ヌバタマが生まれる前に、夜咄堂にいたとかじゃないか? シズクさんもそうだったろ」

 千尋が見解を口にすると、前を行く雪之丞は、尾を面倒臭そうに左右に振りながら言葉を付け足した。

 

「小僧の言うとーりよ。ワシがいた頃は、オリベとロビンのバカ犬しかおらんかった」

「その割にはロビンさんから、雪之丞さんの話を聞いたことがないんですよ」

「ワシゃ、長く尾道を離れとったけえ、まだそうだと勘違いしとるんじゃろ」

「同じ付喪神なんだし、会えばいいのに」

「そもそもロビンとはソリが合わん。あいつもワシを煙たがっとるからじゃろ。もっとも、夜咄堂はたまーに様子を見に行っとる。最近代替わりしたのも知っとるよ」

 そういえば以前、店に入ってこようとした白猫を追い出したのを、千尋は思いだす。

 あの時と同じ猫だったかどうか自信はないけれど、目つきの悪いところは似ていた気がする。

 雪之丞が自分を認めないのは、偶然にも観察されていたからかもしれない。

 

 

「……ほれ、そんなことより町に来たぞ」

 車道が見えたところで、雪之丞が立ち止まる。ここからはお前らが前に出ろ、と言いたいのだろう。

 

 ――さて、どうしたものだろうか。

 今日いきなり探しに行くつもりはなかったので、いざ探せと言われても、どこからどう手を付けて良いのか皆目見当がつかない。

 手がかりと言えば「茶道関係の仕事」に「一期一会が信念」に、他には「雪の日に女性にベンジン懐炉を手渡した」くらいのものだ。

 まさか、こんな事を無差別に聞き込むわけにもいかない。

 だと言うのに雪之丞は、シズクが消えた早々に「その男を探す」と言い放っている。その際に千尋は「すぐには無理だ」と断ったけれど、返ってきたのは言葉ではなく、足元への猫パンチだった。

 そんなに痛くなかったけれど、雪之丞に延々と叩かれ、結局は勢いに飲み込まれて、言われるがままに人探しを始めた始末である。

 

 

「……ヌバタマ。どーしようかね」

 ヌバタマに顔を寄せ、小声で相談する。悠長な話を聞かれちゃ、また殴られてしまいそうなのだ。

「うーん。千利休に関する場所でもあれば、手がかりになりそうなんですけれども」

「利休が?」

「利休の高弟、山上宗二(やまのうえそうじ)の伝書曰く、一期一会は利休の言葉だそうです。もし言葉だけじゃなく、利休という人も好きなら、ゆかりの地に足跡を残しているかも」

「だけれども、そんな場所はなし……か。了解。せめて茶人関係の場所を攻めよう。先行してくれるか?」

「分かりました」

「雪之丞の相手は俺がするよ」

「あまり叩かれないように、ご注意を」

 

 

 

 まずは近くから、ということで、ヌバタマが最初に向かったのは、付近の住宅地内にある地蔵尊と古井戸だった。

 これまた利休の高弟で、織田信長(おだのぶなが)に反旗を翻したことでも有名な荒木村重(あらきむらしげ)が尾道に隠遁していたらしく、古井戸は村重が使っていたものだそうだ。

 歴史深い場所けれど名高くはなく、現に千尋も、道中にヌバタマが教えてくれるまでは知らない場所だった。

 だからだろうか、いざ古井戸に着いても参考になりそうなものはなく、それから一行は転々と市内を歩いていまわった。

 

 まずは、尾道茶道史黎明期の茶人、内海自得斎(うつみじとくさい)が住んでいたとされる山脇(やまわき)神社付近。

 更には、茶室がある爽籟軒庭園(そうらいけんていえん)

 結果は、どちらも空振りである。爽籟軒庭園ではもしやと考え、事情を伏せて係員に聞いてみたけれど、困惑しながら「そんな人は知らない」と言われるだけだった。

 

 その間も雪之丞は「はよ見つけんか」とボヤいたり、千尋を小突いてきたりと、大いに急かしてくる。

 千尋だって見つけてあげたかったけれども、雪之丞はそれ以上……もう、ここまでくると焦っているようにも感じられた。

 

 

 

「……さて、次はどうしましょうか」

 爽籟軒庭園を出るなり、ヌバタマが難しい顔をして言う。

「露滴庵絡みでは、何かないの?」

「露滴庵以前建っていた海物園(かいぶつえん)跡が向島にありますけれど……」

「向島か。行けば完全に夜になりそうだな」

「それに、当時を思わせるものはほとんど残っていないので、無駄骨に終わる可能性もあります」

 ヌバタマの説明を受け、千尋は腕を組んで考え込む。

 すると、そんな千尋の足を、また雪之丞が小突いてきた。

 

「なんじゃい。次に行かんか」

「次も空振りだと思うよ。また明日にしようよ」

「いーや、行くんじゃ。はよせえ」

 雪之丞が苛立ちを隠さずに言う。もう、こんな問答を何度繰り返してきただろうか。

 この頑固な猫に現状を理解してもらうのは、なかなかに難しい。千尋はつい頭を抱えてしまいそうになったが、その前にヌバタマが、雪之丞との間に割って入った。

 

 

「雪之丞さん、どうしてそんなに急いでるんですか?」

「そんなもん、分かっとるじゃろ。シズクには時間がないんじゃ」

「私達も分かっています。でも、落ち着いて考えないと見つけられそうにないんです」

「ほいじゃけど」

「急がば回れ。お茶と同じですよ。『早くお茶を出さなきゃ』と焦っても、棗を倒して抹茶を零してしまったら、かえって時間がかかります。ねっ?」

「……むう」

 棗の付喪神ならではの言い分には、雪之丞も反論ができないようだった。

 ヌバタマが励ますように雪之丞を撫でようとするが、雪之丞はそれをかい潜って拒否する。

 しかし、自分への対応のように猫パンチを浴びせる事はなかった。ちょっとだけ悔しかったけれど、とりあえずはよしとする。

 

 

「じゃあ、今日は帰りましょう。……そうだ、雪之丞さんも夜咄堂に来ませんか? 昔はいたんですよね」

「断る」

 即答である。

 振られたヌバタマは、少しだけ悲しそうに目を伏せた。そのせいだろうか、雪之丞は取り繕うように、すぐに言葉を続けた。

 

「確かにワシは夜咄堂におったが、店に思い入れはない。それよりも本体の茶道具が持つ性質が強いからじゃ。……お前の知り合いにも、そんな付喪神がおるじゃろ」

「犬型のロビンさん……」

「ほうじゃ。あいつの本体は、酒で黄金色に輝く焼き物、星野焼(ほしのやき)じゃけえ、楽という性質が強い。ノラになったのも、快楽に忠実だからじゃ」

「本体……そういえば、雪之丞さんの本体は?」

「それよ。ワシの本体は『一期一会』の掛け軸じゃけ。偶然にも探している男の好きな言葉と一緒じゃの。……一期一会。意味は分かるの? その性質があるから、ワシは夜咄堂には戻れんのよ」

 

 雪之丞はさも当たり前のように言うけれど、千尋の頭の中ではうまく繋がらない。

 一期一会。つまりは『出会いを大切に』ってところだろう。

 でも、夜咄堂に戻らない理由との関連性は、見出せないのだ。

 

「ううん、なんだかよく分からないな。どんな繋がりがあるのさ」

 ストレートに疑問を投げかける。

 雪之丞は反射的に千尋に向き直って口を開こうとしたが、動きは途中で止まってしまった。

 尾もだらんと垂れ下がっている。一般的な猫の場合、どんな感情の時に見せる反応だったろうか。多分、マイナス的な感情のような気がする。

「……まあ、ええことよ。また明日、探すけえの」

 そう言い残すと、雪之丞は体をしなやかに弾ませて、瞬く間に去ってしまう。

 陽は、もう半分以上落ちていた。



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第十四話『一期一会 その三』

 翌日、千尋はすぐに人探しに出かけようとはしなかった。

 大学の陶芸サークルの先輩である岡本千紗(おかもとちさ)が、外国人の友達を連れて夜咄堂に遊びに来たいそうなのだ。

 岡本には大学で世話になっている上に、店の常連でもあるのだから、断るわけにはいかない。

 来店の三十分前には和服に着替え、水屋で茶道具を確認していると、オリベがひょいと顔を覗かせにきた。

 

「おや千尋。年末営業は昨日までじゃなかったのかね」

「そうなんですが、岡本さんが友達を連れてくるんで、臨時営業です」

「ほほう! 女の子かね!」

 オリベがうきうきと肩を揺らす。みっともないことこの上なかった。

「そこまでは知りませんよ」

「あとで様子を見に行くから、そのつもりでな」

「来なくて構いません」

 

 しっしっ、と手を振ったが、オリベは無視して水屋に居座り、先程まで千尋が見ていた押入れを眺め始めた。

 すると、軽口を叩いていた彼の表情に、段々と真剣味が生まれてくる。

 どの付喪神にも言えるのだが、茶道となればみんな真面目なのだ。

「なるほど、それで今日使う茶道具を選んでいたのかね」

「ええ、まあ」

「私はてっきり、茶会の道具を考えていたのかと思ったよ」

「茶会の件、ヌバタマから聞いたんですか」

「うむ。面白いではないか。茶寮としてはこの上ない宣伝になるし、お前にとってもいい勉強になるだろう。いつやるつもりかね?」

「未定ですけれど、四月かなと。五月になったら、炉点前から風炉(ふうろ)点前に戻るでしょう? そしたら、点前を覚えなおさなきゃいけませんし」

「かといって、三月では準備が間に合わんだろーしな。夜咄堂の茶室なら、そうさな……最大五人を計五席だろうかね。小規模だし、四月開催でもいいだろう」

「三月だと、準備は間に合わないんですか?」

 不安の篭った声で尋ねると、オリベは深刻な様子で頷いた。

 

 

「当然じゃないか。まずは人手をかき集めんといかん。当日はお点前さんに、会話役の亭主、裏で茶を点てる水屋と、それを出す点出(たてだ)し……ああ、そうそう。もちろん受付も必要になるな」

「五役……って事は五人か。夜咄堂の店員数じゃ、足りないですね」

「むしろ、まだ増やしたいな。特に水屋が忙しくなる。今のうちから友人に助力を頼みなさい。……それに、客だ。集客の為の茶会なのは分かるが、まずは、その茶会の客を集めなくてはいかん」

「それもそうですよね。……一般的な流派だと、どうやってるんでしょうか?」

「一度に数十人をもてなす大寄せなら、大体は門下の者に声を掛けているな。小規模の茶事だと、まあ、知人を呼ぶのが主だろう」

「今回は小規模、ですよね。大学の友達なんかに来てもらえば大丈夫かな」

「それでも構わないが、宣伝効果がある者にしないとな。あと、茶道具の会話をする正客は、お茶が分かる人に頼んでおきなさい。ちゃんと案内状も書くように」

「……まいったな」

 ふう、と重い溜息を零し、虚ろな目で茶道具を一瞥する。

 想像以上にやるべきことが山積みで、面白そうではあるけれど、気も重かった。

 

 

 

「ヒャッヒャッ! 今からそんなに疲れてどーする!」

「でも、店を宣伝する為とはいえ、ちょっとやることが多すぎて」

「おや、本末転倒になっとらんかね? 宣伝も期待できるが、あくまでも来てくれる方々をもてなす茶事なのだ。パパッとできるものではない」

「あ……はい」

 言われてみれば、確かに見誤っていたかもしれない。

 まずは茶事ありきで楽しんでもらわないと、集客には至らないだろう。

 提案者のヌバタマも、集客より茶席自体を大事に考えているようだった。

 自身の心構えの甘さに嫌気が差す。でも、千尋はもう溜息をつきはしなかった。

 

「まー、気持ちが篭っていればなんとでもなる。客の事を思う気持ちがあれば、ね。ヒャッヒャッヒャッ!!」

「……頑張ります」

「そーしたまえ。分かっているだろうが、まずは主題からだぞ」

 やることが沢山あり過ぎて、頑張ると言う他ない。

 でも、前を向く姿勢こそが大切だ、と言わんばかりに、オリベは背中を強く叩いて激励してくれた。

 それを意気に感じ、オリベが去った後も茶道具とにらめっこを続けていると、袖に入れていたスマホが不意に振動する。岡本からの電話だった。

 

 

「はい、若月です」

「あたしあたしー」

「詐欺みたいな名乗り方はやめてくださいよ。どうかしましたか?」

 電話先の岡本に突っ込む。いつもの事だった。

「おー。もうすぐ着くから、店暖めといてよ」

「暖房利かせてますから大丈夫です。暑がりの岡本さんでも、冬は寒いんですね」

「いや、あたしは寒いくらいでいーんだけどさ。マーシャがすっごい寒がってるもんで。じゃ!」

 

 

 おそらくは外国人の友達の名前だろう、等と思いながら、スマホをしまって一階に下りる。

 手持ち無沙汰に備品の雑誌を眺めていると、内容がほとんど頭に入らないうちに、夜咄堂の玄関が開かれた。

「よーよー、お待たせー」

 あっけらかんとした声と共に、中学生くらいの背格好の岡本が入ってきた。

 勝手知ったる彼女は、千尋に案内する間も与えてくれず、四人掛けの客席に遠慮なく座ると、ニット帽を取って中の長髪を手串で整え始めた。

 

 一方、岡本に続いて入店した外国人の女性は、目を輝かせながら自分を見つめていた。

 ……いや、それにしては視線が合わない。どうやら見つめているのは、自分の和服のようだった。

「……えっと、キャンユースピーク、ジャパニーズ?」

「あ。挨拶せずにごめんです。日本語大丈夫ですよ。マーシャです。よろしくですよ」

「若月千尋です。どうも」

 どことなく片言ではあったが、日本語は通じるようで、安堵しつつも返事をする。

 マーシャと名乗ったその女性は、達磨のように服を着込んでいたが、そこから覗かせる褐色肌が千尋の目を引いた。

 髪はしっとりとした黒のショートボブで、瞳は緑のようである。

 年齢は自分よりやや上だろうか。何分外国人なので測りにくい。どこか、活発そうな雰囲気を持った女性なのは確かだ。

 

 

「千尋。マーシャだ」

「さっき聞いたばかりです」

 岡本はいつも人の話を聞かずに、同じ話を繰り返す。

「どうも。マーシャです」

 マーシャは、二人のやり取りに苦笑しながら着席した。

「マーシャさんまで……」

「ふふっ。今日はお店開いてくれてありがとうです」

「いえいえ。あ、飲み物どうしましょうか。コーヒーでも……」

「ありがとうございます。でしたら、二階に茶室があると聞いていますから、お茶頂きたいです」

 マーシャは、はにかんで言うと、ちらと岡本を一瞥したが、すぐ自分に向き直った。

「私、アメリカに住んでるですが、父が日本人で、昔から故郷の話を聞いていたんですよ。それで、日本に興味があったです」

「今日は、それで遊びに来たんですか? 思いきりましたね」

「今回もそうですが、数年に一度、父の実家に帰っていますから。……千紗と知り合ったのは、四年前でした。父と千紗の父が知り合いでして」

「ほら、あたしの親は佐賀の唐津で陶芸工房やってるじゃない。マーシャがそこを見学しに来た時に、知り合ったのよ。んで、それ以来、いろんな所に連れてってるわけ」

 岡本の補足を受け、夜咄堂に来たがった理由に納得がいった。なら、夜咄堂はうってつけの喫茶店である。

 

 

「他にも、福岡や広島のスタジアムとか連れて行ってもらいました。ベースボール好きなので、楽しかったです」

 マーシャが肩を躍らせながら言う。野球ならば、千尋も好きだ。話に乗ろうとして……しかし、ふと引っ掛かりを覚えた。

「あれっ? 今は、野球やってないですよね?」

「スタジアムを見るだけでも楽しいですよ。その土地のベースボール事情に触れた気がするですから。……屋外なので、寒くて長居できませんでしたけれどね」

「マーシャは、アリゾナの州都フェニックスって所の出で、すっごい暑い地域なんだって。だから日本の寒い冬には、まいってるわけさ」

「それで、前もって電話したんですね」

「そーいうこと。ほら千尋、茶室の準備急いで。暖かい飲み物! ハリーハリー!」

「はいはい、っと」

 

 

 急かす声に背中を押されながら、先に二階に上がる。

 とはいえ、もう茶室の準備はできているのだ。道具は揃っているし、茶室中央の炉の中では、炭火が赤々と燃えあがり、真上に掛かっている釜を熱している。

 これが夏になると、釜の場所が変わる。

 風炉と呼ばれる台を客から離れた場所に置き、釜もそこに移して熱気から遠ざける……付喪神達から茶道を学ぶようになって、割と早い段階で教えられた知識だった。

 

「……いや、待てよ」

 一階に戻ろうとしたが、ふと、その教えが引っかかった。

 確かに炉なら暖かいだろうけれど、あれだけ着込むマーシャには、それで十分だろうか。

 もうちょっと、してあげられることがあるんじゃないか。

 広島どころか、日本在住でもないマーシャに茶を振舞うのは、今日が最初で最後かもしれない。

 でも、そんな彼女だからこそ、できる限りのことをしてあげたいのだ。

 

 

 

「しかし、炉は動かせないしなあ……」

 ぶつぶつとぼやきながら、水屋に足を運ぶ。

 中をぐるりと見渡した千尋は……これまで一度も触れたことがなかった物に目を付けた。

 水屋の隅に火鉢が置かれていて、釜を乗せるにはうってつけの五徳(ごとく)まで備わっているのだ。

 もしやと思い、茶室に運び込んでから炭を移し、釜を乗せるとピタリと収まった。

 

「うん。いいじゃないのさ」

 点前で使うと聞いたことはなかったけれど、間違っていたところで正規の茶席じゃないし、それよりもマーシャに暖まってほしい。

 これでよし、と自分を信じて二階に下りる。退屈させていないだろうか、と心配だったけれど、一応は問題なかった。

 厨房奥の部屋から這い出てきたオリベが、二人の相手をしていたのだ。

「やーやー千尋君! 岡本さんだけじゃなく、こんなに可愛い子もいるというのに、なんで私を呼ばなかったのだね」

「オリベさんがナンパ始めるからですよ……」

「ヒャッヒャッ! こりゃ手厳しい!」

「でも千尋さん当たりです。海を見に行こう言われました。寒いから行きませんけど」

 マーシャの笑み交じりの発言を受けてオリベを睨むが、それ以上の苦言は呈さない。

 彼女も面白がっていたようだし、オリベにはこれから骨を折ってもらわなきゃいけないのだ。

 

 

 オリベに菓子を頼んで、自分は岡本とマーシャを連れて茶室に上がる。

 質素な空間だというのに感激するマーシャが落ち着くのを待ってから、茶事を開始した。

 ……そして、すぐに焦りを覚えてしまった。

 

 点前が、分からないのである。

 畳下にスペースを設けて釜を入れる従来の形式ではなく、高い火鉢の上に釜を置いたせいで、釜への柄杓の掛け方が分からないのだ。

 また、ドジを踏んでしまった。マーシャが暖まることばかり考えていて、自身の点前に考えが至らなかったのだ。

 額から冷や汗が湧き、自分でも驚いてしまうほどにボタボタと流れだしたが、必死に心を落ち着けながら釜に対峙する。

 こうなったら、なんとなくでも切り抜けるしかない。

 

 

「お菓子をどうぞ」

 意を決したところで、オリベの声が聞こえる。

 入室した彼が菓子を勧めると、岡本は遠慮なくパクついたが、マーシャは違った。両手で口を覆い、不思議そうに火鉢を見つめ続けていたのだ。

「ねえ、チヒロさん?」

「なんでしょうか」

「私も、ちょっとだけ茶道分かります。でも、茶道で火鉢使うの知りませんでした。これ面白いですね。勉強なります」

「……いや、実は正しい茶道具じゃないかもしれません」

 点前を進めながら答える。

 勉強になる、とまで言われれば、ごまかすわけにもいかなかった。

 

 

「あら。でしたら、なんで火鉢を?」

「この方が暖かいかと。ただ、それだけです」

「チヒロさん……」

 何を思ったのか、マーシャがじっと見つめてくる。

 恥ずかしいけれど、客から目を逸らすのも気が引けて、彼女を視界の隅に入れていると……突然、視界が揺らいだ。

 いや、それだけじゃない。暖かな光が部屋に満ちていく。

 まったく自覚していないのに『日々是好日』が発動したのだ。

 一体何がどうなって……そんな疑問を処理できないうちに、能力は消えていき、また普段の茶室に戻ってしまう。

 

 

「……ありがとうございます。チヒロさん」

 マーシャの声が、千尋の意識を覚醒させる。

 はっと顔を上げて彼女の顔を見ると、マーシャはえくぼを作りながら、拍手を送っていた。

「寒いの我慢して、夜咄堂に来て良かったです。たった一度来ただけでも、大切なこと、勉強できました。火鉢の心遣い、嬉しいですよ」

「それは、いや、どうも……」

 火鉢によって『日々是好日』が発動し、日本の冬に苦労するマーシャの悩みを解消したということなのだろうか。

 客室の隅にいるオリベをちらと見ると、何度か小さく頷いていたし、多分これであっているんだろう。

 やっと状況を理解しつつも、意図せぬ発動にはいまだに戸惑っていて、ろくな返事ができない。

 そんな自分を、褒められて照れていると勘違いしたのか、次客席に座る岡本がケラケラと笑い飛ばす。

 ますます反応に困り小さくなっているところへ、マーシャは言葉を付け足した。

 

 

「ふふっ。チヒロさん、ジョー・ディマジオみたいですね」

 今度の言葉の意味は、まったく分からないのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 岡本とマーシャの姿が玄関の奥に消えるなり、オリベは大笑いしながら背中をバシバシと叩いてきた。

「ヒャッヒャッ! 驚いたね。『日々是好日』が発動したではないか!」

「驚いたのは俺ですよ。能力は意識しなくても発動するんですか?」

「何を言っておる。お前が初めて店に来た時もそうだったろう。もっとも、あの時は運良くだったが、今回はちゃんと実力を発揮しての発動だったな」

「言ってる意味がよく分からないのですが……」

「そうかね? ま、とりあえず座りたまえ」

 そう言ってオリベは四人掛けテーブル席に腰掛ける。袴の裾を直しながら千尋も続くと、オリベはビシッと指差しながら話を続けた。

 

 

「お前も知ってのとーり『日々是好日』はこの店で、付喪神が同席しなければ発動しない力だ」

「あとは、お客さんの悩みと、それを解消できる茶道具の良さを知っておくこと。……そして良い茶席にすること」

「うむ。それらさえ満たしていれば、能力を使おうと意識せずとも発動するのだ。一流の茶人であればよくあることだよ」

「一流……ですか」

「うむ。一流なら、良い茶席になるのは言うまでもない。だが、それだけではないぞ。客の悩み……というよりは、どんな客が参加するのかをしっかり把握できているから、自然と悩みにも行きつきやすい。解消できる茶道具の良さも然りだ」

 

 今回、自分がそれに該当したという事なのだろう。

 それで一流だとうぬぼれるほど、千尋も軽くはないけれど、褒められているのだから気分は悪くなかった。

 確かに半年前と比べれば成長しているかも、くらいには思う。昔は、抹茶を棗に移す道具の茶漏斗を、逆に缶に移す時に使うようなミスもしたっけか。

 

 

「……俺も、ちょっとは成長してたんだ」

「そうだな。今回特に良かったのは、何よりも客をもてなそうとする気持ちだった。あのマーシャちゃんとかいう子、海外在住なら、もううちに来る機会はないかもしれんよな?」

「ええ、おそらくは……」

「でもお前は、手を抜かずに全力でもてなそうとした。だから火鉢に行きつけたわけだ。……うむ、これこそ一期一会だな」

「あっ……」

 突然出てきた最近のキーワードに、千尋は息を飲みこむ。

 吐息だけじゃない。自覚はしていないけれど、多分表情にも同様の色が出たんだろう。オリベは何かを察したようで、更に話を続けた。

 

 

「一期一会。分かるかね?」

「ええ、少しは。……最近、縁がある言葉ですから」

「ならば良い。ま、茶道に関わらず有名な言葉だからな。元は千利休の言葉だが、桜田門外の変でも有名な井伊直弼が広めた言葉でもある。それがなければ、茶人の間でしか語られない細々とした言葉だったかもなあ」

「へえ。井伊……」

 オリベの言葉を繰り返す最中、ふと既視感を覚える。

 一期一会だけじゃない。井伊直弼という言葉も、最近どこかで耳にしていたのだ。

 あれは、確か……向島の赤備だ。諏訪の店で聞いた言葉だ。

 

 

「それに、諏訪さんの仕事も茶道関係……」

「ん? どうした。何をぶつぶつ言っておる?」

「いえ! すみません、ちょっと用事があります!」

 テーブルに両手をついて立ち上がると、千尋は洋服に着替えずに店を飛び出した。

 石段を一気に駆け下りて車道まで出る。このまま車道と商店街を横切れば船着き場に着くけれど、そうはせず左に曲がって浄土寺に急いだ。

 

 シズクの体調が良ければ、彼女を連れて行ってあげたかったのだ。

 もう限界が近いのは千尋にも分かっている。だから事前に裏を取っておくべきかもしれないけれど、千尋は自分の推測に強い確信を抱いていた。

 途中、大きめの十字路で信号に引っかかる。早く赤信号になって車が止まりますように、なんて念じながら車道を眺めていると……唐突に、前を横切ろうとした車が急ブレーキをかけた。

 思いが通じたのか? なんて考えてしまうけれども、信号はまだ切り替わっていない。

 何事かと周囲を見渡すと、すぐに答えは見つかった。白猫が車道に飛び出した為の急ブレーキだったのだ。

 その飛び出した白猫は、どこかを痛めたのか、びっこを引きながら千尋側の歩道に避難している。雪之丞だった。

 

 

 

「雪之丞、大丈夫か!」

 足をもつれさせながら駆け寄るが、出血はない。

 雪之丞自身も苦しそうじゃなかったけれど、忌々しそうに自分の後ろ足を見ていた。

「ちっ、足を少しだけ捻ってしもうたな。なに、一晩寝れば治る程度じゃ」

「本当なのか? 動物病院に行った方がいいんじゃないか?」

「大丈夫と言っとるじゃろうが。それより、人を探さにゃいかん」

 雪之丞は気丈にそう言うと、やけに大股になって立ち去ろうとする。

 千尋は慌てて、そんな彼に並走した。

 

「待て待て。もしかしたらその人が見つかったかもしれないんだよ」

「なんじゃと! 本当か!」

「ああ。それでシズクさんを誘おうと思ったんだけれど、もう実体化してるの?」

「まだじゃな。もう半日くらい休まんと無理じゃろ。じゃけえワシは、その間に人探しに出かけとったんじゃ」

「もしかして、それでひかれかけたのか?」

「ほうじゃが」

 呆れたような口調で言われるが、呆れたのはこっちの方だ。事故に遭いかけるほどに、シズクに入れ込む理由が、どうしても分からない。

 千尋は、唐突に雪之丞の脇下に手を入れて、自分の目線まで持ち上げた。

 ふわりとした毛触りと、生き物の暖かな体温が手に伝わる。付喪神とはいえ、やはり体の作りは猫そのものなのだ。

 

 

「フニャッ!? に、にゃんじゃ。下ろさんか!」

「雪之丞、俺の話を聞いてくれ。本当に事故に遭うところだったんだぞ。少しは落ち着けよ」

「ほうじゃが、シズクの為に……」

「お前、なんでそんなにシズクさんに入れ込んでるんだ?」

「………」

 雪之丞は、すぐには喋らない。

 だが、手の中でもがくのもやめたので、そっと地面に戻す。雪之丞はアスファルトの歩道をじっと見つめながら、口を開いた。

 

 

「……シズクにゃ、命を救われたんじゃ」

「命を……?」

 首を傾げながら、雪之丞の言葉を繰り返す。

「ああ。ワシは、付喪神になって間もなく、夜咄堂を出たんじゃ。ワシの本体は『一期一会』の掛け軸じゃけえ、それに沿って、掛け軸背負って日本中を流れては、他の町の付喪神と交流しとったんじゃよ。夜咄堂に残ったところで、猫じゃけえ、茶は点てられんからの」

「流れてって、渋いんだな」

「どうじゃろうかの。……じゃが、ふらっと尾道に帰ってきた時に、ドジって掛け軸が破れかけての。……付喪神は責を果たせば天に還る。これは死じゃのうて永遠の生のようなもんじゃ。じゃが、破損して道具として成立しなくなれば、魂は完全に消滅する。こっちが、人間で言う死じゃ。ワシはその危機にあった」

「そこでシズクさんに助けられたのか」

「ほうじゃ。ワシを見つけたシズクが、人間のふりして寺のもんに掛け合って、寄贈ついでに直してもらえての。お陰で復活できたが、シズクには恩ができた。特にワシは一期一会を大事にするけえ、他所の土地にも夜咄堂にも行かず、浄土寺でシズクの話し相手になっとるんじゃ。かれこれ、もう三年になるかの。……夜咄堂に戻らん理由も分かったじゃろ? シズクの傍にいてやりたいんじゃ、ワシは」

「なるほど。確かに命の恩人……か」

 浄土寺の方を見ながら、雪之丞に相槌を打つ。

 しかし、千尋はまだ首を傾げていた。

 

 

「でも、一期一会って『一生に一度の出会いだと思え』って事だろ? シズクさんとの交流を大事にするのは分かるけれど、何年も大事にするもんなの?」

「フン。少しは見込みがあると思うたが、まだまだ青いのお」

 雪之丞は首を横に振りながらボヤく。どこか笑み交じりの声だった。

「ええか。ワシは一期一会の本当の意味は『何度出会っても、初心の気持ちで接する』ということじゃ思うとる。じゃけえ、シズクにはいつまでも本気で恩を返すんじゃ。……言うは易いが、難しいんじゃ。いつかどこかで、気の緩みや妥協が生まれそうになる。それを抑え込んで、接するんじゃ」

「……義理堅いんだな、お前」

「フン」

 鼻息を鳴らす雪之丞に苦笑しつつも、彼の言葉は千尋の胸に響いていた。

 まるで、茶道を体現するような言葉なのである。もしかすると、この言葉は、人探しのヒント以外にも使えるかもしれない。そう、例えば茶会とか……、

 

 

「それより、人探しじゃ。どこのどいつなんじゃ?」

「あ、そうだな。まずはそれを確認してこないと」

 ぽん、と両手を打って本題に立ち戻る。

 しかし、千尋の推測が正しければ、彼のいる場所に猫は入れないだろう。

 さて、どうやってこの頑固猫を説得したものか。もしかすると、人探しや茶会の主題探しよりも、難題かもしれない。

 猫の目のように増えゆく課題に、つい頭を抱えてしまう千尋であった。



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第十四話『一期一会 その四』

 向島の赤備は、この日も営業していた。

 年の瀬になっても随分仕事熱心なのだな、と感心するけれど、よく考えてみれば今はかき入れ時なのかもしれない。

 そんな時期に、仕事以外の話をするのは少し気が引けてしまったが、これだけはどうしても確認したい。

 千尋が意を決して赤備の玄関を潜ると、タイミングよく、店内では小谷春樹が商品を陳列していた。

「……おや。千尋君。この前来たばかりなのに」

「どうも。ちょっと今日は別にお話がありまして……」

 小谷の顔色を伺うようにそう言いながら、目だけを動かして店内を一瞥する。

 他に客はいないようだし、切り出すなら早い方が良さそうだった。

 

「お忙しければまた今度伺いますけれど、どうでしょうか」

「……大丈夫。奥へ行こうか」

「ああ、そんなに長時間お邪魔するつもりはないんで、ここで大丈夫です!」

「……そうかい?」

 小谷は釈然としない様子だったが、陳列する手を止めて向き直ってくれた。

 やっぱり、この人じゃないだろうか。

 彼と交流してまだ日は浅いけれど、実直な性格は理解しているし、その一面はシズクの言う「凛とした影」にも合致する。

 それに、彼の仕事は茶道にも関係している。あとは、いくつかの状況証拠と一致するかどうかだった。

 

 

「えっと……小谷さん、前に、井伊直弼の名言が書かれた扇子を持っている、って言ってましたよね」

「うん」

「その扇子、なんと書いてあるのか教えてもらえませんか?」

「……一期一会、だけど」

「……っ!」

 思わず声が漏れそうになったのを、必死に押し留める。

 やっぱり、自分の推測は間違っていなかった。扇子を見てもらう機会がないのは残念とまで言っていたのだから、きっと彼が好きな言葉なんだろう。

 とはいえ、あと一つ確信を突いておきたい。

 千尋は、両手にぐっと力を込めながら、その先の言葉を口にした。

「ありがとうございます。……もう一つ、お話が。実は今、人を探しているんです」

「うん」

「その方の情報は少ないんですが、ええと、何年前になるのかな……多分、十五年ちょっと前ですが、本土の浄土寺にある露滴庵という茶室で、一人の女性と知り合ったそうです。その後で、ベンジン懐炉を女性に渡したそうで……」

「なんでその話を!」

 小谷は、千尋の声をかき消すかのように叫んだ。

 実際千尋は、その勢いに飲み込まれて口を止めてしまったが、その代わりにじっと小谷を凝視する。

 彼もすぐに、動揺が表に出たのに気がついたようで、平静を取り戻そうと顔を伏せだした。

 しかし、その目は明らかに泳いでいるのだ。

 もしかすると、シズクとの間に何かあったのだろうか。だから、シズクをもう一度訪ねないんだろうか。

 そこを詮索するのは野暮な気がして、口にはできない。

 けれども、少なくとも彼は、不義理をとおすような人ではない、と思う。

 

 

 

「……すまない。大声を張りあげたりして」

「いえ。何か思い当たりがあるんですね?」

「……そうだね。まさか千尋君が、ベンジン懐炉の話を知っているとは思わなかった」

「今度、その女性と引き合わせたいんです。いつになるかは分かりませんが、お時間頂けませんでしょうか」

「……分かった。よろしく頼むよ」

 小谷は、弟の名が刻まれた帽子を取り、深々と頭を下げた。

 どうやら、シズクの件はなんとかなりそうで、両手の力がふっと抜けてしまう。

 でも、もう一つ小谷に話さなくてはいけないことがある。まだ、オリベにもヌバタマにも報告していないけれど、きっと認めてくれるはずだ。

 そんな確信を胸に抱き、千尋は握り拳を作って、なおも話を続けた。

 

 

「それはそうと、お茶会の主題を決めたんです。時期は四月ですから、表向きは花見茶会でいいんですけれど、それだけじゃないです。……一期一会を、自身への主題に掲げたいと思います」

「俺の扇子と同じ言葉だね」

「当日のお客様をもてなす気持ちの表れですけれど、それだけじゃありません」

 脳裏に、雪之丞の姿が思い浮かぶ。

 彼のように、真摯に、そして愚直に向き合えるだろうか。

 答えは分からない。でも、やるしかないのだ。 

 

「その後来て頂いた時にも、同じ気持ちでもてなしたい。そんな願いを込めて、一期一会です」

「……悪くはないと思うよ」

「そう言って頂けると助かります。それで小谷さんには、二つお願いがあるんです」

「ふむ?」

「一つは、暫定の提案ですけれど……当日のお菓子。器はまだ決めていませんけれど、やっぱりこれは、小谷さんにしか頼めないんです」

「……うん」

「そしてもう一つ……もしも当日、手が空くのでしたら、正客になって頂けませんでしょうか」

「……俺が、か」

 小谷は難しそうな顔をして、口篭ってしまった。

 

 無理もない話をしている、とは分かっている。

 当日の朝は菓子の搬入で忙しくなるのに、その上、一つの席の良し悪しを左右する正客を頼んでいるのだ。

 だが、他に頼める者は見つかりそうにないのだ。正客は茶道に精通していなきゃ務まらないし、千尋には学校茶道やら正規の流派やらの人脈もない。

 断られるだろうか。それでも仕方がないだろう。

 いつの間にか、小谷と同じような顔をして、じっと彼を見つめてしまう。だが、長く続かなかった。 先に、小谷の口から息が噴き出たのだ。

 

 

「ぷっ……まるでにらめっこだな」

「あ、いや、これは失礼を……」

「いいよ」

「え?」

「お菓子と正客。受けるよ。正客の方はちょっと自信がないけれど、千尋君が本気なのは伝わってきたし、お世話になっている。……俺で良ければ、力になるよ」

「小谷さん……!」

 感動する千尋の前に、小谷の右手が差し出された。

 それを反動つけて握り返そうとしたは良いが、目測を誤って空振ってしまう。

 

「あらっ」

「……千尋君、ドジ?」

「……たまに言われます」

 しばしの間の後、赤備には二人の笑い声がこだまするのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 夜咄堂には、私室が千尋の分しかない。

 もちろん、余分な部屋が一つしかなかったという事情もあるが、付喪神のオリベとヌバタマは、本体である茶道具に戻って休める為である。

 とはいえ、彼らも閉店後はずっと休むわけではなく、茶室で茶を点てるだの、洋室で本を読むだのして過ごしている。時には千尋の部屋でくつろぐことだってある。

 最近はその三番目……千尋の部屋で過ごす機会が、めっきりと増えてきた。

 

 

「ヒャッヒャッ! スウェーデンだって、スウェーデン! ヒャッヒャッ!」

 オリベがうるさい。

 付喪神でも寒いらしく、炬燵に両足を突っ込んで、先ほどからずっとテレビのコントに爆笑している。

 あまりにも娑婆っ気がある行動に、本当にこの人は付喪神なんだろうか、と突っ込みたくなるのだが、そうしたところで笑って流されるのがいつものオチだ。

 

「ワンワン! 食い物は! できればドーナツで!」

 ロビンもうるさい。

 ノラのくせに、最近は夜になるとたまに裏口から入ってきて、暖を取ろうとしている。

 さすがに炬燵に入れるのは汚いので、炬燵の近くに専用のマットを敷いてやったのだが、隙あらばすぐ炬燵に入ろうとする。

 

 

 厄介者二人に呆れつつも、千尋は特に苦言を呈することなく、メジャーリーグの情報誌をパラパラと眺めていた。

 まだ一つだけ、解決していない事がある。マーシャが言い残した「ジョー・ディマジオ 』が何を意味するのかが分からないのだ。

 千尋とて同じ野球好きだし、有名なメジャーリーガーだとも知っていた。引退後に新婚旅行で広島に来た時には、打撃指導もした選手だ。

 しかし、彼と自分の接点には思い当たりがない。なので、わざわざネットで取り寄せた古い情報誌を見ているのだけれど、答えはいまだに見つからなかった。

「おい千尋や。このお笑いコンビのDVD、買ってくれんかね」

「オリベさん、現代慣れしすぎでしょう……」

 苦笑しながら、答えの載っていない雑誌を閉じて、自分もテレビを見始める。

 

 ――この喧騒は、そう嫌じゃない。

 生前の父とは、ずっとすれ違っていた。

 すべては千尋の勘違いだったのだけれど……それが分かったのは、父の遺品を処分しようと夜咄堂に来た日だった。

 もう、父との時間は戻ってこない。ただ、代わりの時間なら作っていける。

 家族のように思っている付喪神達とのひと時が、まさしくそれだったのだけれど、この気持ちを口にはしない。

 ヌバタマならまだしも、オリベやロビンに話せば、悪乗りされるのは目に見えていた。

 

 

 

「はーい、お茶ができましたよー」

 厨房にいたヌバタマが盆を抱えて入ってくる。

 盆の上には薄茶入りの抹茶碗が三つと、ロビン用のホットミルク皿が一つ。それに東雲ドーナツ店のドーナツが、大皿に四つ乗っていた。

 それだけならいつもの間食セットなのだが、この日は他にもある。塩に黒豆、それから塩昆布が少量乗った皿と箸。更には穂先が長い茶筅も添えられていた。

「これ、おつまみってこと?」

「いーえ。ぼてぼて茶です。ご存じありませんか?」

 ヌバタマはそう言いながら、茶碗を一つ手に取った。

 

「まずはこれに、黒豆と昆布を入れてください。その後で、茶筅の先に塩を付けてお茶を点てる。すると白い気泡が点って、ぼてぼて茶になるんです。出雲松江藩の大名でありながら一流の茶人でもあった松平不昧公が、飢饉の際に城の蔵を開放して、民に振舞ったお茶とされています。もうすぐ今年もおしまいですから、由緒あるお茶で健康祈願ってわけですね」

 

 松平何某。これも赤備で小谷から聞いた名前だった。

 まったく知らない茶人、まったく知らない話だからこそ、これを機に胸に刻む。

 一歩、一歩、成長しなくちゃいけないのだ。

 なんたって、四月には茶会が控えているのだから。

 

 

 

「シズクさんの探し人も見つかりましたし、あとはお茶会だけです。それに向けて、勉強しましょうね!」

「ああ。そうだな」

 意中を察したかのようなヌバタマの力強い励ましに、素直に頷く。

 いつかは、立派な茶人になれるだろうか。

 いつかは、多くの人を笑顔にできる茶人になれるだろうか――

 

「フゴッ! ドーナツ、うひょー!」

 しみじみと感じ入っているところへ、ロビンのさもしい声が響く。

 思わずため息を零しながらも、ロビンにドーナツを取り分けてあげたところで、ふと、玄関の方から何かを叩く音が聞こえた。

「あれ? 今、外で音がしたよーな……オリベさん、聞こえました?」

「さあ。私はテレビに集中してたから」

「あ、はい」

 オリベに確認した自分を内心責めながら、立ち上がる。

「私も聞こえた気がしましたけれど、見に行くんですか?」

「うん。さすがにお客さんじゃないだろうけど、気になるし」

「それじゃあ私も」

 

 

 同じく立ち上がったヌバタマを連れ立って、真っ暗な喫茶スペースに出る。一階と玄関の電気のスイッチを入れてから玄関を開けたが、外には誰もいなかった。

 一歩、足を踏み出せば、年末の冷たい風が体を撫でる。

 この風が、玄関を叩いたんだろうか……、

 

「こんばんは」

 消えてしまいそうな声が、近くから聞こえてきた。

 目を凝らしてみると、消えてしまいそうなのは声だけではなかった。

 夜の暗がりと、少しずつ消えゆく体の為に気がつかなかったが、シズクがすぐ傍にいたのだ。

「シズクさん! もう大丈夫……」

 いや、大丈夫なわけがない。体の輪郭が無くなってきているじゃないか。

 きっと、実体化するなり、すぐに夜咄堂へ来たのだろう。

 

 

「……雪之丞から、聞きました。あの人を見つけて頂いたそうで」

「ええ。今度シズクさんが実体化した時に連れて来ます。体調が良ければ明日にでも!」

「ありがとうございます。……でも、明日は無理みたいですね」

「じゃあ、一週間後くらいで?」

「それも、難しそう。……ごめんなさい、最近浄土寺から離れすぎたからか、力がめっきり弱まって。……春まで休めば、あと一日だけは……」

 シズクの力ない言葉を受けて、千尋は無意識のうちに唇を噛んだ。

 もう、本当に限界が近づいている。

しかし、春といえば……最高の機会があるじゃないか。

 

 

「シズクさん。その人は、四月に夜咄堂で開く茶会に来てくれます。だから、もし間に合うのでしたらその日に」

「分かりました。日付が決まったら雪之丞に伝えてください。……きっと、行きますから」

 シズクの体が、また薄らいでいく。

 閑静な冬の夜闇と同化していく。

 ふと、ヌバタマの小袖が、冷たい夜風の中でなびいた。

 消えゆくシズクに詰め寄ったヌバタマは、両手でシズクの手を取って声を掛けた。

 

 

「シズクさん、一つだけ教えてください」

「ヌバタマ、さん?」

「どうして……どうして、何年もその人の事を、待ち続けられたんですか?」

「もう話したとおりよ。……私の価値を認めてくれた。……優しく接してくれた」

 記憶をたどるような、とつとつとした語り。

 しかし、不意に彼女の声に、疑問符が加わった。

「あら? ……ああ、そうね……今、気づいたわ。……だから、私は……」

「シズクさん!?」

「私、は……」

 

 最後の言葉は、はっきりと聞き取れなかった。

 ヌバタマの両手からシズクの手が消え去り、ぽん、と両手が合わさる音がする。

 シズクが、春までの眠りについたのだ。

 

 

「ヌバタマ……」

「………」

 消えてしまった感触の余韻に浸るかのように、ヌバタマは手をほどこうとしない。

 ただ、満天の星空を見上げて、切なそうな声を漏らした。

「私にも、大切な人はいます。オリベさんにロビンさん、もちろん千尋さんもですし、先代の宗一郎様もそうでした」

「……ああ」

「宗一郎様が亡くなった時は、二月ほど帰りを待ちました。だからシズクさんの気持ちは分かるつもりです。でも、記憶が薄れるくらい、何年も待ち続けた経験はなくて」

「それで、シズクさんが待ち続けた理由が気になった、ってわけか」

 ヌバタマの傍に歩み寄り、彼女の横顔を目だけで追う。

 ヌバタマの黒く大きな瞳は、なおもまっすぐに夜空へと向けられていた。

 

 

「千尋さん、知ってました? か細い光ですけれど、天の川って冬でも見えるんです」

「いや。初耳だ」

「……一期一会って、織姫と彦星みたいですね」

「言われてみれば、そうかもな」

 千尋も、年の瀬の星空を見上げる。

 星の見方を知らないから、どこに天の川があるのかは分からない。

 それでもどこかで、再会を待ち続けているのだろう。

 

 ――春まで、あと三ヶ月。



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第十五話『茶筅供養 その一』

 暖かくなり始めた三月の風が、千光寺山の尾根を撫でるように駆け昇っている。

 自室の窓から見える木々にも、いつの間にか緑が戻っているし、先日は黄色いモンシロチョウも見かけた。

 春の気候に誘われて、その辺りをぶらりと散策してみたいものだけれど、千尋はこのところ、殆ど外出していない。

 理由は、卓上で格闘している紙にあった。

 

「ん? ……また、間違えたか!?」

 紙上を流れる筆ペンが、宛名のところでピタリと止まる。

 慌てて招待客一覧を取り出しながらも、答えは薄々分かっていた。

 それでも確認したかったのは、これ以上招待状を書き直したくないからで……本当に宛名を書き損じたと分かると、千尋はぐったりと卓上に突っ伏してしまった。

 

「また書き損じたんですか?」

 傍にあるちゃぶ台の上で、ノートに向き合っているヌバタマが苦笑する。

 千尋は無言で頷き返し、書き損じた紙を乱雑に丸めてゴミ箱に放り投げた。

「あら。はしたない」

「これくらい、いーだろ。ちょっと気疲れしてるんだよ。……パソコンやスマホに慣れ過ぎたかな」

「なんでしたら、私が代わりに招待状を書きましょーか?」

「いや、俺がやる。頑張るよ。ヌバタマはそのまま、茶道具の草案作りを頼むよ」

 そう言って、新しい用紙を取り出しはするものの、もう一度筆ペンを握る気は、なかなか起こらないのである。

 

 

 ――茶会まで、あと一月となった。

 準備は大分進んでいて、一番の課題である正客も、思いの他すんなりと決まった。

 諏訪に相談し、彼の骨董品店に張り紙をさせてもらったのだが、それを見た地元流派の茶道家が面白がって、協力を申しでてくれたのである。

 一席分の正客は決まり、他の席も茶道家の伝手で埋まったお陰で、千尋の友人で穴埋めするような事態にはならずに済みそうだった。

 開催側の人員不足については、まだ完全にはクリアできていないけれど、諏訪や岡本といった仲の良い常連に手伝ってもらえそうなので、解消の見込みは立っている。

 

 しかし、他にもやるべきことはある。

 そのうちの一つ、案内状に取り掛かっているのだが、これが意外と手間だった。

 参加者には約束こそ取り付けているが、礼儀として案内状も出すべきものだそうで、千尋は数年ぶりに筆ペンを握っている。

 しかし、一切の修正が効かない筆ペンは、思っていた以上に精神を消耗し、集中力は限界にまだ達していたのである。

 

 

「……茶道具の方は、どうなんだ?」

 気分転換に椅子から立ち上がり、ヌバタマの手元を覗き込む。

 頑張ると言った傍からの中断に、ヌバタマは眉をひそめかけたものの、卓上でノートを滑らせて見せてくれた。

 

 

「軸は一期一会。茶碗は未定……あれ。主役の茶碗は未定なのか?」

「茶事の主役はお軸の方ですよ。茶碗は茶事の後にわざわざ飾りますから、こっちが主役と思いがちですけれどね」

「そっか。この一期一会は、雪之丞の本体とか?」

「いーえ。あれはお寺で保管されていますから使えませんよ。夜咄堂にも同じ言葉の軸があったんです。雪之丞さんがいなくなった後で、宗一郎様がまた買われたのでしょう。せっかく考えた主題と同じ物があって良かったですね」

「ん。そーだな」

 相槌を打ちながら、更に続きを読み進めていく。

 

 未定なのは半分ほどで、他の項目には、古天明(こてんみょう)やら家元やら、貫禄のある漢字がつらつらと並んでいた。店の茶道具については一通り説明を受けているし、どの茶道具を使うつもりなのか、一応は理解できる。

 しかし、読み進めるにつれ、千尋の表情は段々と険しくなっていった。

 

 

「いかがですか? まだ埋まってない道具もありますけれど……」

「……よく、分からないな」

「分からないことはないでしょう? ちゃんと説明した道具ばかりなのに」

「そーじゃなくて、茶席にふさわしいかどうかが分からないんだ。いや、ヌバタマが選ぶ道具だし、基本的には問題ないと思うんだけど……」

「ありがとうございます。でも、最後は千尋さんが吟味しなきゃダメですからね?」

「やっぱり、そうだよなあ」

「これはあくまでも草案です。ちゃんと吟味して、千尋さんの創意を出さなきゃ駄目です。夜咄堂の主は千尋さんなんですから」

「どんな道具なのかは調べておくよ。多分、大丈夫だ」

 

 

 草案を力なくヌバタマに返すと、彼女は対照的に、嬉々として再度ノートに向かった。

 知識と創意を持っていれば、彼女のように楽しく思えてくるのだろう。

 千尋も宣言どおり、知識に関しては勉強して補うつもりだ。

 しかし、創意とやらは、どうすれば作りだせるんだろうか。そもそも、創意の定義とはなんなんだろうか。

 

 

「ヌバタマ。創意……」

「さあ、残りの茶道具も考えないと!」

「なあ、創……」

「一席目の正客さんは地元の茶道家さんですし、お棗も広島繋がりで地元の一国斎(いっこくさい)作に……いえ、桜に縁のある物も捨てがたいですし……」

「………」

「どれにしたものか、嬉しい悩みですよねえ。えへへっ」

 

 ヌバタマが筆を躍らせながら、千尋の声を何度も上書きする。

 鼻歌まで歌って、なんとも気分良さげなのだ。

 自分の世界に完全に浸っているところを邪魔するのも悪い気がして、結局千尋は、案内状に戻るしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

「今更、私が稽古をつける必要があるだろうかね?」

 と、オリベは私見を述べながら、手にしていた漫画を机に伏せた。

 閉店後に、千尋の部屋で漫画を読んでいた彼に稽古を申しでたところ、返ってきたのがこの一言だったのである。

 ちゃんと自分の目を見ながら言ってくれているし、決して面倒臭いから頷かないわけではなさそうだった。

 

 ――千尋の茶道稽古は、閉店後にほぼ毎日行っている。

 稽古をつけてくれるのは基本的にヌバタマなのだが、月一度くらいの頻度で、オリベが気まぐれに見てくれる日もあった。

 それはそれで構わないと思う。

 オリベの方が熟練しているとはいえ、ヌバタマの稽古にも不足は感じないし、やっぱりおっさんよりは、女の子に教えてもらいたい。

 だから、これまでに一度も稽古を乞うた経験はなく、今更頼むのはなんだか気まずかったけれど、それでも千尋は忍んで頼んだのだ。

 

 

「今は、茶会用の稽古をしているんだったね」

「ええ、まあ」

「だったら、基本的には過去の稽古のおさらいだ。ヌバタマでも不足はあるまい」

「そうなんですが……オリベさんにも仕上げに見てほしいというか」

「ふむ」

 値踏みするような視線と共に、オリベが頷く。

「よろしい。そこまで言うなら、一度見ようじゃないか」

 いつもの馬鹿笑いもなく、オリベと立ち上がった。

 二人して二階に上がるが、すぐに茶室と水屋に別れる。水屋に向かった千尋は手早く道具を準備し、稽古の用意は整った。

 

「いつでもどうぞ」

「はい」

 茶室の前で返事をしたけれど、まだ開始の礼はしない。

 千尋はいつも、稽古の前に深呼吸をして、頭の中で手順を確認している。

 まずは足を踏み入れ、炉の前に座し、それから……それから……、

 ……なぜだろうか。今日はあまり集中できない。

 かといって、いつまでも立っているわけにもいかず、千尋は茶室前に座した。

 多分、なんとかなるとは思う。基本的な点前はもう完全に覚えていると、ヌバタマも評しているのだ。

 それでもオリベに頼んだのは、どこか漠然とした不安が千尋の胸にあるからだ。

 創意への悩みが、点前にまで及んでいて、一度はオリベに見てもらっておいた方がいい気がしたのだ。

 

 

 

「一服、差しあげます」

 一礼の後、稽古が始まる。

 まずは水指の前に移動して座り、手にしている棗と茶碗を置く。

 更に他の茶道具を持ってこようと立ち上がった……その時だった。

「お、わっと!」

 あろうことか、袴の裾を踏んづけて転びかけてしまう。

 たたらを踏みながら辛うじて踏ん張ったけれど、点前以前の失態だった。

「おや、大丈夫かね?」

 オリベが他人事のように声を掛けてくる。

 あまりにも淡々とした語りだが、冷たさというよりも、案の定といた雰囲気が漂っていた。

「な、なんとか」

「なら良かった。茶会を前に怪我でもしたら問題だからね。まだ続けるかね?」

「いえ。やっぱり、もういいです」

 

 

 どうにも、集中できない。

 肩を落としながらオリベの前に正座すると、オリベは逆に足を崩して、思いの他、優しい声をかけてくれた。

「まーた、ドジを踏んだね」

「面目ないです。集中したいんですが、なかなか」

「いーや。ある意味では集中できている。ヌバタマも言っておるが、お前さんのドジはいつも、何かに集中するあまり、他が疎かになってのことだからね」

「でも、さっきは他に集中していたことなんて……」

「あるさ。自分の創意が分からず、そればかり考えてるんだろう?」

「あ……」

 

 千尋は言葉を失い、金魚のようにパクパクと口だけを動かした。

 ずばり、心中を見抜かれている。

 付喪神として生を受けて百五十年以上と言っていたはずだが、それだけ生きれば人の心を見抜くなんてたやすいんだろうか。普段はふざけていても、さすがである。

「千尋の部屋で創意の話をしていた時に、裏で茶筅供養の準備していたから、たまたま聞こえていたんだよ」

 なーんじゃい。

 

 

「じゃあ、俺が言い損ねた言葉まで聞いていたんですね」

「左様。……創意とはなんぞや。実は、これ自身は実に簡単な問題なのだよ」

「それを知りたいんです。……是非」

 背筋を伸ばしながら、真剣な声で頼み込む。

「率直に教えてやろう。創意とはお前のことだ」

 ふと、オリベの目つきが、鋭くなったような気がした。

 

「俺……ですか?」

「そうだ。……茶会には主題がある。創意もそれにある程度沿う必要はあるのだが……あまり主題を意識しすぎてもいけない。でなければ、判を押したように同じ茶事、同じ創意になってしまうからね」

「まあ、それは確かに」

「そこでお前だ。……創意とは若月千尋自身なのだよ。お前の心にある感情、それがそのまま創意になるのだ。……詰まるところ、自分が何者であるのか自覚できていなければ、自分の創意は見つからんだろうな」

「………」

 

 言葉がひねり出せず、体は段々と強張ってしまう。

 オリベの言わんとするところは、なんとなく分かる。

 でも「自分が何者か」なんて考えたこともない。

 理屈は分かったのに、答えは遠ざかって、どんどん泥沼に飲み込まれるような気がしてしまうのだ。

 

 

 

「参考までに、オリベさんの創意を教えてもらえませんか?」

「自由、だな」

 即答だった。

「知ってのとーり、私は自由な形状を持つ織部茶碗の付喪神だ。形式に囚われず、良かれと思うようにするのだよ」

「俺も、その考えは悪くないと思うんですけれど……」

「だからといって、それがお前の本質とは思えない。……お前はお前の創意を見つけなさい。こればかりは私も手助けできない。自分との闘いのようなもんだからね」

「……はい」

 重苦しいながらも、返事をする。

 しかし、自分をどう知ればいいんだろうか。

 途方に暮れて溜息一つ付こうとしたその時……外から何か鳴き声が聞こえた。

 いや、大方の見当はつく。夜咄堂にやってくる動物は、あの二匹のどちらかしかいないのだ。

 

 

「オリベさん、今……」

「何か聞こえたね」

 やっぱり、聞き間違いじゃない。

 茶室の小さな窓から下を覗けば、軒先に掛かったランプがロビンを照らしていた。

 

「ロビンじゃないか。どーしたんだ?」

「ワン! ワンワンッ! おい千尋、たーすけてくれー!」

「助けてって、どうしたんだよ。他の犬にでもいじめられたか?」

 しかし、こちらを見上げてワンワン吠えるロビンには、外傷の類はないようだ。

 千尋が不審に思っていると、ロビンは鼻息を鳴らす癖を一発かました。

 

「フゴッ! 違うよ、違うよ。人間の女の子を助けてほしいんだよー!」



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第十五話『茶筅供養 その二』

 茶道具には、消耗品もある。そのうちの一つが、茶筅だ。

 茶を点てる際に穂先が折れたり、長期間の使用で穂先が広がりすぎた茶筅は使い物にならない。

 点てる時だけじゃなく、茶碗の中で清めもする道具なので、劣化しやすい一面もあるだろう。

 

 そうして使えなくなった茶筅は捨てずに取っておき、茶筅供養をする。やり方は流派によって様々だが、寺で念仏をあげてもらうケースが多いらしい。

 だから、夜咄堂のやり方では、供養になってないんじゃないだろうか、と千尋は思う。

 オリベが「気持ちが篭っていればいい」と言ったとはいえ、裏庭に置かれた一斗缶の中で茶筅が燃える様は、供養というよりは、たき火か火遊びのようである。

 

 

「……いや。せめて、気持ち気持ち」

 ただ燃えるのを見ているのも暇なので、両手を合わせて目を瞑ってみる。

 初めは戯れだったのに、いざやってみると、茶筅を使ってからの日々が不思議と蘇った。

 段々と千尋も本気になり、これまで客を癒してくれたことへの謝辞を、頭の中で何度も唱える。

 だが、それも数分で終わり、また手持ち無沙汰になった千尋は、間もなくやってくるロビンのことを考えた。

 

 ――ロビンの言い分は、こうである。

 なんでも、自分を見かけるといつも撫でてくれる、ロビンお気に入りの中学生の女の子がいるのだが、最近その子に元気がないらしい。

 ロビンが「どうしたの?」と声をかけるわけにもいかず、かといって犬に悩みを打ち明けてももらえず、ただ消沈する姿を見るばかり。

 そこで白羽の矢が立ったのが千尋だった。なんとか女の子を店まで連れてくるので、一緒に元気づけて欲しい、というのだ。

 正直なところ、断っても良かった話ではある。

 しかし、普段のドーナツをねだる時とは違い、珍しく真剣に頼み込むものだから、つい安請け合いをしてしまったのだ。

 

 

 

「千尋さん、来ましたよ」

 ヌバタマが裏口を開けるのと同時に、声をかけてきた。

「あれ、もうか。どーやって連れてきたんだろう」

「女の子……山越さん、って子なんですけれど、ロビンさんが鼻で押すような仕草を見せるんで、面白がってされるがままに歩いたら、夜咄堂に着いたそうです」

「犬に誘われ古民家喫茶か。女の子からしたらミステリアスかもな」

「ミス、テリ……?」

「横文字あまり分からないんだっけか。神秘的、ってこと」

「実際、私達は付喪神ですから、その感想は当たっていますね。どーしますか」

「俺が会ってみるよ。ヌバタマは茶筅を見ててくれるかな」

「分かりました」

 ヌバタマとすれ違って裏口から厨房に入り、更に客室スペースへと抜けると、三つ編みを結った女の子が、窓際の席でロビンの手を握って遊んでいた。

 他には客はいないし、あの子で間違いないだろう。

 

 

「どーも、いらっしゃいませ」

「あっ、店長さん? ごめんなさい、まだ何を頼むか決めてなくて……」

 女の子は慌ててロビンを離し、テーブルの上のメニューに視線を移す。

 その瞳には、どこか力が篭っていないような気がした。

 ロビンの言う「元気がない」とは、こういうことなのだろうか。

 

「いいよ、そのままで。和服のお姉ちゃんが、店に寄っていくように勧めたんでしょ?」

「はい」

「今日は他にお客さんもいないし、ロビンと遊んでていいよ」

「ありがとうございます。なんだか不思議な感じのお店ですね。……あ、ロビンっていうんだ、この子。お店の犬なんですか?」

「うーん。一応、そうなる……のかな」

 ノラを気取ってはいるが、ちょくちょく夜咄堂には遊びに来るし、本体の水注も店に置いてある。

 だから曖昧ながらも肯定したけれど、ロビンとしては気にくわないようで、千尋の発言を耳にするや否や、軽い体当たりをぶちかましてきた。

 

 

「ワウッ!」

「わっ! やったな、駄犬!」

「ワン、ワンワンッ!!」

 なおもぶつかってくるロビンを、なんとか払いのけようとする。

 しかしロビンは食いさがり、みっともないじゃれ合いになってしまった。

 とにかく引き離そうと、必死に抵抗すること、しばし。

 ……気がつけば山越は、生き生きとした目つきで笑っていた。

 

 

「あははっ、犬と本気で喧嘩してる」

「あ……いや、これは……」

「店長さん、かっこいいのに子供っぽいですね。でもロビンちゃんかわいそうですよ」

「……はい」

 よりにもよって、中学生の女の子から、子供っぽいなんて言われてしまった。

 がっくりと肩を落とす千尋とは対照的に、ロビンはしたり顔で、舌を出しながらこっちを見ている。

 どうやら、山越を笑わせる為のダシに使われたようだ。

 

 

「……まあ、いいさ」

「え? なにがですか」

「いや、こっちの話」

「そうですか」

 山越は笑うのをやめて、力のない瞳に戻った。

 隣にいるロビンも消沈したのが、気配で伝わってくる。

 ……これじゃあ、駄目らしい。

 そんなに落ち込んでしまう出来事とは、なんなんだろう。

 千尋は膝を落として目線を合わせると、努めて優しい声をかけた。

 

「なんだか、元気がないね。嫌なことでもあったの?」

「あ……その、キーホルダー、無くしたんです」

 ちょっとだけためらう様子を見せたが、山越は意外にすんなりと話してくれた。

「キーホルダー? 大事な物だったのかな」

「はい。ガラスの宝石が付いているキーホルダー。……子供っぽいですよね」

「大事な物に、大人も子供も関係ないさ」

「ありがとうございます。……それをバッグに付けていたんですど、バッグを落とした時に取れちゃって。そしたらそれを、ノラ猫がくわえて持って行っちゃったんです」

「フゴッ!?」

 ロビンがひときわ強い鼻声を鳴らした。

 あまりにも激しかったもので、話の最中であるにも関わらず、反射的にそっちを見てしまう。

 ロビンは鼻にしわを寄せて、明らかに怒っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「許さねえ! その猫、絶対に許さねえ!」

 横を歩くロビンがぎゃんぎゃんとわめきたてる。

 周囲に人影はないけれど、こうも騒がれたら不安を覚えてしまう。喋らないようにと何度も注意したけれど、ロビンは聞く耳を持たなかった。

 それどころか、尾をピンと突き立てて、早く早くと言わんばかりに千尋の前に出る始末だ。

 が、ロビンは行き先を知らないので、結局は千尋の足元に戻ってきてを繰り返している。怒っても、間の抜けたところは何も変わっていないのだ。

 

 

「そう怒るなよ。そもそも、犯人……いや、犯猫か? そいつのところに行くんじゃなく、協力者の所に行くんだから」

「フゴッ! なんで怒っちゃ駄目なのさ!」

「協力してもらえないかもしれないじゃん」

「フゴッ!」

 何度も鼻息を鳴らすロビンと共に、浄土寺への緩やかな坂道を行く。

 ……どうせ乗り掛かった舟、ロビンたっての希望で、千尋はキーホルダーを探すことにした。

 

 しかし、問題なのは探し方だ。

 どんな猫に取られたのか、山越は覚えていなかった。それが分かっていれば、どこかの飼い猫の可能性もあっただろうし、何かしら手は打てただろう。

 だが、分からない。これはシズクの探し人よりも難しいかもしれない。

 持っていったのが猫というのも、ついていない。ロビンは犬語しか分からず、猫に聞き込んで糸口を掴むこともできないのだ。

 どうしたものか……千尋は少し考え込んだが、答えはすぐに思いついた。

 猫語なら、猫に頼めばいいだけの話なのだ。

 

 

 

「おー。ここだ、ここ」

 訪れた千光寺の門の前で、千尋は一度立ち止まった。

 線香の香りが、ここまで漂っている。どこか気持ちが引き締まる香りだ。

 これを毎日嗅いでいる彼は、どんな気持ちで日々を過ごしているんだろうか。

 

「おー、行こう行こう! 嫌だと言っても協力させるぜ!」

「してくれるといいんだけどなあ……」

「で、誰なんだ? 寺の坊さんか? それとも仏様に天罰を依頼するのか?」

「なんじゃい、やかましい」

 低く渋い声がロビンをたしなめる。

 門の影から、声の主の雪之丞がぬらりと現れた。

「ゲェーッ! ゆ、雪之丞!?」

 ロビンが大声を張りあげる。

 さすがに叫べば人が来るかもしれない。千尋は強めにロビンの頭を叩いたが、それも気にしないほど、彼はうろたえていた。

 

 

「おう、ワシじゃ。久しいの」

「お、お前、尾道に帰ってたのか? いつから?」

「ずっと前じゃ。昔みたいにお前をシバきに行っても良かったんじゃが、野暮用があっての」

「そ、そーか。なんだか知らねーけど、そのまま野暮ってていーんじゃないかな」

「どうしようかのう。またお前が悪さをするなら、シバきに行こうかのう」

「あわわ」

 明らかに恐れた様子のロビンは、鼻をピスピスと鳴らしながら千尋の後ろに隠れる。

「協力させる」と豪語していた彼の面影は、みじんも残っていなかった。

 

 

「カッカッカッ! 相変わらずじゃのー。……いやな、千尋。ワシら昔からずっとこんな感じなんじゃ。ロビンが店の菓子を盗み食いしたり、悪さする度にワシがシバいてな」

「まあ、手を焼く気持ちは分かるな」

「義理を重んじるワシと、楽しいことが第一のロビン。多分、元々相性が悪いんじゃろな」

「あー。やっぱり、相性悪いのか」

「で、今日はどうしたんじゃ? シズクならまだ目覚めんぞ。茶会の日に来るよう、茶室本体に語りかけたけえ、返事はなくとも伝わってはおる」

「いや。今日はシズクさんとは別件で、お前に頼みがあってさ。えっと……」

 

 

 切りだそうとして、口ごもる。

 そんな関係だというのに、受け入れてくれるだろうか。

 でも、今更帰るわけにもいかず、千尋は難しい顔をしながらも話を続けた。

「ロビンの知り合いの女の子が、ノラ猫にキーホルダーを持っていかれたんだ。その猫を探したいんだけれど、協力してくれないかな」

「嫌じゃ」

 雪之丞はそっぽを向く。

「まあ、そう言われる気はしたけどさ」

「分かっとるんなら、諦めい。ワシゃこいつの性根が好かん。協力する義理もない」

「……しかし、そこをなんとかさ」

 なおも食いさがる声は、千尋のものじゃない。相変わらず千尋に隠れつつではあるものの、まっすぐに雪之丞を見据えながら、ロビンが言ったのだ。

 

 

「女の子がさ、ほんとーに困ってるんだよ。大事なキーホルダーらしいんだよ」

「……ほいで?」

「その子、いつも俺を可愛がってくれるんよ。だから、俺、力になりたいんだよ。頼むよ、雪之丞」

「……ふむ」

 雪之丞は、門の前の石段にどっしりと座り込み、眠っているように目を細めた。

 おそらくは再考してくれているんだろう。

 ロビンの行動は、言ってみれば、雪之丞のシズクへの義理にも似ている。

 それが雪之丞の琴線に触れたんじゃないか……そう思っていると、雪之丞はぴょんと石段から跳ね起きて、千尋達の横をすり抜けてしまった。

 

 

「ワ、ワンッ! どこに行くんだ?」

「どこって……お前達が頼んだんじゃろが」

「雪之丞! ……で、でもお前、俺のこと嫌いなんじゃ」

「あー、嫌いじゃ! ほいじゃけ、さっさと終わらせたいわ! はよせんか」

 ぶっきらぼうに言うと、ぷい、と前を向いて、雪之丞は歩き出した。

 こいつは、そういう猫なのだ。

 

「良かったな、ロビン」

 足元のロビンに声をかけるが、返事もせずに茫然としている。

 それでも、無意識の行動だろうか、彼の尾はぶんぶんと左右に振られていた。



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第十五話『茶筅供養 その三』

 猫の町・尾道には、猫に関わるスポットも多い。

 千光寺山の麓にある(うしとら)神社付近から、夜咄堂近辺までの小路には、それらが特に密集していて「猫の細道」とまで呼ばれている。

 数千体の猫グッズがある美術館や、猫を模したアクセサリーショップ、猫の絵が描かれた板壁や、地面に石を埋め込んで作られた猫の絵……

 とにかく、猫、猫、猫尽くしの小路である。浄土寺方面に向かうにはちょうどいいので、千尋もこれまでに何度も通ったことがある道でもあった。

 雪之丞が向かったのは、その細道である。

 麓側入口、板壁付近で雪之丞が「アーオ」と一鳴きすると、艮神社の境内から、キジシロ猫がぬるりと出てきた。

 雪之丞が低い声でニャゴニャゴ言いながら歩み寄る。多分、聞き込みをしてくれているんだろう。

 

 

「ワンッ! 頼むぜ、雪之丞」

「少し黙っとれ! ……ニャゴ、ニャゴニャゴ」

 急かすロビンに一喝し、雪之丞はなおも話を続ける。

 その間、千尋は板壁の絵を見ていた。十匹ほどのディフォルメされた猫が描かれているのだけれど、どの猫も絵の具が剥げ落ちている。

 長年風雨に晒されて、こうなったみたいだけれど、どれくらい経てばこうなるんだろう。

 なんせ、千尋が小さい頃は、まだ尾道は猫の町といわれていなかった。この絵もそんなに昔からあるわけじゃなさそうなのだ。

 そもそも、尾道が猫の町になったのは、いつからなんだろうか……、

 

 

「分かったぞ」

 雪之丞が話を切りあげて、のそのそと戻ってきた。

「情報屋のフジはさすがじゃの。案の定じゃった。この辺りでは有名な、悪猫のダオって黒猫がおるんじゃがの。そいつが、それらしき物をくわえとったらしい」

「よし、じゃあそいつをぶっとばそう! どこにいるんだ?」

「ダオは縄張りを持たず、いつもそこいらをほっつき歩いとるんで、特定はできん。多分どこかで悪さをしとるんじゃろうなあ」

「じゃあ、悪さしそうな場所を探そう!」

「そんな場所、知らんわい。千尋、どうするんじゃ?」

「今度は、ダオって猫がどこにいるか聞き込んでくれないかな」

「まあ、それしかないの」

 

 

 一行は、猫の細道を前進した。

 山中に伸びているこの道は大部分が木々に覆われていて、青さが宿ってきた三月の葉と、その隙間から差し込む陽光は、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。

 確かここは、猫の細道という通称以外にも、尾道イーハトーヴ、なんて呼び方もされていたはずだ。

 かの有名な作家、宮沢賢治が作り出した理想郷……イーハトーヴ。

 いわれてみれば、幻想的なこの小路には、適した名前かもしれない。

 そこを喋る猫が先導して歩くものだから、道を抜けたら、猫の事務所か、注文の多い料理店にでも迷い込むような錯覚さえ覚えてしまった。

 だが、そんなことはなく、ちゃんと夜咄堂付近の石段に抜ける。

 その先の仏塔や広場で雪之丞が鳴くと、その都度猫が現れたので聞き込んでもらったけれど、いずれも空振りだった。

 

 そうこうするうちに、次第に陽も落ちていく。

 もしかしたら情報屋のフジのところに、新しい情報が入っているかもしれない。

 雪之丞の発案で、スタート地点である艮神社に戻ってみたが、それが幸いした。猫の絵が描かれた板壁で、爪を研いでいる黒猫がいたのだ。

「あっ、悪猫!」

 真っ先に気がついたロビンが叫ぶ。

 反射的に体を動かしたのは雪之丞で、彼は素早く黒猫に詰め寄った。

 なるほど、こうやって板壁の絵の具は剥げ落ちていたんだな、なんて関心をしていたのは、千尋だけだったようだ。

 

 

「間違いない、ダオじゃ。ニャゴッ!」

 雪之丞が出会い頭に、ダオの鼻へ猫パンチを一発見舞う。

「フギャッ!?」

「ニャゴッ!」

「フギャフギャッ!?」

 ダオも一度は反逆的な姿勢を見せたが、雪之丞の二発目で完全に怯んでしまった。

 それからは雪之丞のペースで、ダオを抑え込みながらニャゴニャゴと声をかければ、ダオは暴れることもなく、素直に返事をしているように見える。

 

 

「やっぱりそいつか? キーホルダーはどこだって?」

 興奮気味にロビンがまくし立てながら近づき、千尋も後に続く。

 話は終わったのか、雪之丞はなおもダオを抑えつつ、千尋らの方を向いた。

「おう。こいつじゃ。光物なんで玩具にしようと取ったらしい。でも飽きてしもうて、この辺のでかい猫にあげたそうじゃ。……あっ!」

 向き直った時に力が緩んだのか、ダオが雪之丞の手をすり抜けて神社の方へと駆けた。

 途中で一度だけ立ち止まり「ダオーウ」と大声で鳴いた後、また駆けだして、その姿はすぐに見えなくなってしまう。

 

 

「……嘘はついてないからな、じゃと」

「見つかったと思ったら、また猫探しか……」

 同じことの繰り返しになってしまって、気が重い。

 雪之丞も、尾を力なくだらんと下げている。

 ただロビンだけが覇気を前面に押し出して、力強く足踏みしていた。

 

 

「よし! じゃー今度は、でかい猫を探そう!」

「続きは、明日にせんか? この辺りは照明がないけえ、暗くなると危険じゃ。こういう時は、急がば回れじゃ」

 シズクの人探しに成功した教訓からの発言だろうか、雪之丞がしたり顔で言う。

 千尋も同調して頷いたが、ロビンは解せぬようで、首を傾げていた。

「なんでだよ! 急がば急げだよ! 探そうぜ!」

「でも、俺もちょっと疲れたよ。それに、店も長くは空けられないしさ」

「じゃあ、雪之丞だけでも!」

「言うたじゃろ。危険なんじゃ」

「フゴッ……」

 いつものロビンの鼻息が、どこか悲しそうに響く。

 しかし反論はなく、結局一行は解散したのである。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 夜咄堂に、風呂はない。

 だが、銭湯で済ませれば解決する問題だ。当時の千尋は家賃を削減する為、承知の上で店に引っ越している。

 商店街中央にある銭湯は、ライトグリーンのペンキが風情を生み出していて、昭和の印象が強い尾道商店街ではよく映える。

 夜咄堂からは片道十五分なので、立地も悪くはない。……冬になるまでは、そう思っていた。寒い日は急いで帰らないと、湯冷めしてしまうのだ。

 完全に考え足らずだったのだけれど、かといって夜咄堂に風呂を増築するような余裕もない。

 小走りで帰宅路を行きつつ「どうしたものだろうか」と考えるのは、慣例行事にさえなっていたが、最近ではその機会も減っていた。

 多分、寒さが大分薄らいだから、問題を気にしなくなっているのだろう。そして冬にはまた後悔するのだ。

 

 

「……もうすぐ四月か。夜咄堂に来て、初めての春だな」

 商店街の細路地を、防犯用のペンライトで照らして歩きながら、物思いにふける。

 春に控えた茶会が終われば、すぐに初夏。夜咄堂に来てから一年が経過する。

 だから、今回の茶会は一年の集大成といえなくもないだろう。

 

 この一年で、嫌いだった茶道に向き合えて、茶人としてのスタートに立てた。

 点前や道具も少しは覚えて、技術や知識が身に着いた。

 それらに関しては、成長したかもしれない。

 ……でも、言い換えれば、教科書どおりの茶道を覚えただけ。創意に関しては、まったく考えてこなかった。

 このまま創意を持たずに茶会を迎えるわけにはいかないけれど、一体どうすればいいのか分からない。

 思い悩みながら歩くうちに、千光寺山の石段を上がり始め、夜咄堂はだんだんと近づいていた。

 夜咄堂と猫の細道に分岐する、石畳の三叉路に差し掛かった時に、犬の遠吠えが耳に届いた。

 

 

「今の、ロビン……?」

 脱力感が充満した鳴き声だ。間違いない。

 聞こえてきたのは猫の細道の方だった。固定照明がない猫の細道は、日中以上に異世界への入口の様相を呈していて、足を踏み入れるのはちょっとばかり気が引ける。

 それでも鳴き声が気になって猫の細道に進むと、さほど歩かないうちに、細道を行ったり来たりするロビンの姿が見つかった。

「お前、夜になにやってるんだ?」

「あっ、千尋!」

 ペンライトに照らされたロビンは、普段にも増して土埃にまみれていた。

 返事は聞かなくとも、それだけで大方の予想はつく。

 同時に、ロビンの想いの深さが、新たな疑問として浮かび上がってきた。

 

 

「でかい猫探し、か?」

「おう」

「でもお前、猫語分からないんだろうに」

「そーだけどさ。じっとしてられないんだよ。……今んところ、猫は一匹も見つけてないんだけれど、この辺うろついてりゃ、何か見つかるかもと思って」

「……一体、なんでそこまで」

「ワンッ! そんなの、決まってんじゃん」

 ロビンが、舌を出しながらトコトコと近づいてくる。

 足元まで来た彼は、眠そうな瞳で千尋を見上げながら、続きを口にした。

 

「あの女の子は、俺を可愛がってくれるんだよ。だったらその気持ちに応えたい。ただそれだけの、捻りもなんもない理由だよ」

「見つけられないかもしれないのに?」

「そーだな。結果として見つからないかもしれねー。でもさ、そうしたいんだよ。俺にできることがあれば、少しでもやっておきたいんだよ」

「……ロビン」

 

 俺にできる事があれば。

 その一言を聞いた千尋は、ぐわん、と横っ面を殴られたような衝撃を受けた。

 必ずしも見つかるとは限らない。でも、行動をやめてしまったら、何にもならない。

 だから、失敗を恐れてはいけないのだ。

 ただただ、相手のことだけを考えて取り組むべきなのだ。

 

 

 

「……ロビンに教えられるとは、思わなかったな」

「あん。なにが?」

「こっちの話だよ」

 中腰になってロビンの頭をワシャワシャと撫でる。

 それから千尋は、猫の細道の奥へペンライトを向けた。

「猫探し、俺も手伝うよ」

「ち、千尋!」

 

 ロビンが元気よく足元にすり寄ってきたが、ズボンに泥をこすりつけられてしまう。

 口元を歪めながらロビンを払いのけて、千尋も猫の細道を歩き始める。

 草むら、塀上、石段の影……あらゆる場所にペンライトを向けて、まずは二往復程するけれども、一匹たりとも猫は見つからなかった。

 

 それでも、千尋とロビンは探すことをやめない。

 加えてもう一往復。せっかく銭湯に行ってきたのに、首筋が汗ばんでくる。

 更にもう一往復。石段のアップダウンに、明日の筋肉痛の予感が漂ってくる。

 ……やっぱり見つからない。もしかしたら見当違いのことをしているのかもしれない、と思う。しかし、それでも二人は、でかい猫とやらをひたすらに探し続けた。

 

 

「ハアハア、ハア……ったく、どーなってんだよ。猫の細道なんだから、もっと猫がいてもいーだろうにさ。ハア」

 息が荒くなってきたロビンが、周囲を見回しながらもぼやく。

「いても、警戒されてるのかもしれないな」

「なー、千尋。でかい猫ってヒントはあるんだから、そこいらの店で聞き込んだらどーだ?」

「無理だよ。この時間はどこも閉店してる」

 そう言って、ちょうど近くに会った店の入口をペンライトで照らす。

 近所ということもあって、何度か訪れた経験がある所だった。

 

 

「ここは?」

「猫グッズがある美術館だよ。福石猫も売られてるんだ」

「福石猫ってなんだ?」

「知らないのか。尾道の町中で、招き猫の柄をした石を見かけたことがあるだろ? あれは、園山春二(そのやましゅんじ)さんってアーティストが作ってるんだ。日本海で取ってきた丸石を半年くらい水抜きして、招き猫の柄にして、最後に麓の神社でお祓いを受け……て……」

 

 ふと、自身の説明に引っかかりを覚える。

 福石猫は、確か千体以上は点在していたはずだ。デザインも大きさもバリエーション豊かで、中には人間の赤ん坊ほど大きな物もある。

 ……でかい猫。もしかしたら!

「ロビン、こっちだ!」

 

 ひらめきが走るのと同時に、石段を一目散に駆け下りる。

 ちら、と後方を見てロビンがついてきているのを確認しつつ、猫の細道を抜け、艮神社の鳥居近くまで下りてきた。

 鳥居の先には広場があり、その先には境内があるけれども、今回用事があるのは、手前の広場の方だ。

 浄土寺山に行く時に、艮神社をショートカットするのだけれど、その際に目にしたことがある。記憶が確かなら、広場の一角には……、

 

 

「あれだ!」

 ペンライトが、ひときわ大きな福石猫を捉えた。

 自身もそこに近づきながら、福石猫を中心にしてペンライトの光を旋回させると、微かな反射がある。猫の形をしたキーホルダーの反応だった。

「ワンッ! おい千尋……」

「ああ。キーホルダーだ」

「確かにでかい猫にあげちゃいたが……ちくしょう、あのダオって悪猫、意地悪しやがったな」

「見つかったから良しとしよう。ほら」

 ロビンをなだめつつ、キーホルダーを手に取ろうとする。

 だが、千尋の手は途中で止まってしまった。

 

「どーした、千尋?」

「……見てみろよ」

「フゴッ!?」

 間近でキーホルダーを凝視したロビンが、裏返ったような鼻声を漏らす。

 ガラスの宝石が埋まっていたと思われる目の部分には、ぽっかりと穴が開いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「なるべく早く連れてくるから」と言っていたロビンが、約束どおり山越を連れてきたのは、翌日の夕方だった。

 玄関に顔を覗かせた山越だけなら問題はないのだけれど、この日は少々の客が入っていた為に、ロビンまで上げるわけにはいかない。

 ヌバタマに店番を頼んだ千尋は、カウンター下の棚で保管していたキーホルダーを袖に入れて、山越へ歩み寄った。

 

「やあ、いらっしゃい」

「こんにちは。……またロビンに引っ張られちゃって」

「変な犬だよねえ、本当に。……でも、奇遇だね。今日は渡しておきたい物があるんだよ」

 変とはなんだ、と言わんばかりにロビンが鼻で小突いてくるが、無視して玄関の外に出る。

 袖に突っ込んだ指先は、無意識のうちにキーホルダーの目の穴に触れていた。

 ……正直なところ、大いに心配ではある。キーホルダーが見つかったとはいえ、完全な状態ではないのだ。

 それでも、彼女は喜んでくれるだろうか。ロビンの執念は、実るのだろうか。

 微かに眉をひそめつつも、千尋はキーホルダー取り出した。

 

 

「確か、キーホルダーをなくしてたよね」

「はい」

「それって、もしかして、これのことかな」

「あっ、これ……」

 山越は目を丸くしながら、キーホルダーをそっと手に取った。

「ロビンが見つけてきたんだよ。……残念ながら、見てのとーりで、その時には既に欠けてたんだけどさ」

「……そう。ありがとうね、ロビン」

 

 山越は振り返って中腰になると、ロビンの頭をゆっくりと撫でた。

 二度、三度、四度と、何度も何度も。

 大好きな女の子に、こうも労われている。

 ……だというのに。

 ロビンは喜ぶことなく、むしろ捨て犬のような目つきで、山越を見上げていた。

 

 

「……残念、だったね」

「見つかっただけでも嬉しいですよ」

「ロビン、偉いよね」

「はい。感謝しています。でも……」

 山越は、顔を見せぬまま言う。

「これは、貰った物だったんです。……転校しちゃった大事な友達が、お別れの時にくれたんです」

「それが、宝物の理由だったんだ」

「だから、友達に申し訳なくて……」

「………」

 掛ける言葉が見つからずに、千尋は黙って少女の傍へと歩いた。

 慰めたところでアクセサリーは元に戻らない。罪悪感は、払拭のしようがないのだ。

 

「あっ……」

 ふと、ロビンが少女の手からすり抜けた。

 優しく撫でてもらいながら、どういう了見だろうか、と思うが、答えはすぐに分かった。

 ロビンと、視線が合ってしまう。身じろぎもせずに、熱い瞳で自分を見上げてくる。

「ロビン……」

 普段は饒舌な付喪神の名を呼ぶ。

 今は山越がいるから喋らないけれども、それでもロビンの気持ちは伝わってきた。

 わざわざ自分を見つめるのだから、自分にしかできない頼みごとがあるのだ。

 

 自分にしかできないこと。

 すなわち、夜咄堂の主にしかできないこと。

 それが分からないほど、千尋も鈍感じゃない。

 

 

 

「……一つ、提案があるんだ」

 視線をロビンから山越に移し、静かに語りかける。

 まだ、道具は見繕っていないけれど、なんとかなるだろう。

 それよりも、大事なのは気持ちの方だ。

 ロビンが昨晩、そう教えてくれたじゃないか。

 

「……なんでしょうか」

「良かったら今度の日曜、またお店に遊びに来ないかい? 二階の茶室に案内するよ」



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第十五話『茶筅供養 その四』

 買ったばかりの茶筅を容器から取りだしたのは、山越が来る日の朝だった。

 まだ抹茶に触れておらず、竹の香りがする茶筅を手にしていると、気持ちが晴れ晴れとする。

 いや、気持ちが良い理由は、もう一つある。

 この茶筅こそが、千尋の意気込みの表れでもあるのだ。

 

 ――茶筅には、複数の種類がある。

 一見同じように見えるけれど、特に違いが出ているのは穂先だろう。

 水気の強い薄茶を点てる時には穂先が細い物を、逆に粘り気のある濃茶の時には太い物を使うのが一般的で、千尋が買ったものは穂先が細く……加えて、穂数も多い物だ。

 

 ヌバタマから聞かされたところによると、なんでも江戸時代では、貴人をもてなす為に穂数が多い物を使っていたらしいのだが、千尋の意図はそこにはない。

 高価でも穂数が多い物を選んだのは、抹茶を溶きやすいから、の一点のみである。

 山越は、多分抹茶を飲んだことなんてないだろう。

 だから、少しでも美味しい抹茶を飲んでほしいのだ。

 

 

「……えっと、糊を落とすんだっけか」

 茶筅の底に付いていた糊を水で落としながら、ふと、物思いにふける。

 

 この茶筅で、まずは今日、山越に茶を点てる。

 来月になれば、初めての茶会だ。その日も大活躍してもらうだろう。

 それ以外にも、常連の諏訪や岡本に対して、茶会にも案内したシゲ婆さん対して、いまだ見ぬ客達に対して。

 この茶筅で、どれだけの客に茶を点てるのか、まだ分からない。

 ただ、どこまでいっても今の気持ちは大切にしたいと思う。

 ただただ、良い茶を点てたい。そのスタイルは、キーホルダーを探していたロビンに教えられたものだった。

 何よりも大事なのは、道具でも点前でもなく、茶なのだ。

 

 

 

「ワンッ! おはよーさーん!」

 ロビンの声がする。

 はっと我に返って振り向くと、ロビンが二本足でフラフラながら小躍りしている。

 周囲に人間がおらず、なおかつ気分が良い時にだけ披露する、奇妙なダンスだった。

「そーしてると、お前、ぬいぐるみかなにかみたいだな」

「おっ、かわいいってことか?」

「犬らしくない、って言ってるんだよ。それより今日は水屋から出るんじゃないぞ」

「しかしそこをなんとか」

「なんとかって、お前……」

 散々説明したのに、この犬はまだ諦めきれないらしい。

 どうしても山越を『日々是好日』で癒す場面に同席したいと言うのだが、茶室は当然のこと、本来は営業時間中に店内に上げるのもマズい。

 そこで「じゃあ声だけでも」という折衷案で、茶室隣の水屋で聞き耳を立てることだけは許可したのだった。

 こうも食い下がるほどに、ロビンは山越の事を想っているのだろう。

 

 

「……呆れた奴だよ、本当にさ」

「キシシ。誉め言葉と受け取るぜ。それより、約束の時間が近いんじゃねーの?」 

「うん、そーだな。下を見てくる。お前は本当に出るんじゃないぞ」

「はいはーい」

 不安を抱きつつも一階に下りると、約束の時間まではまだ三十分もあるのに、山越が席に着いていた。

 時間を伝え間違えただろうか、なんて思いながら声をかけると、山越は丁寧にお辞儀をして「十分前から来ていました」と、お辞儀同様に丁寧な口調で言った。

 今日を楽しみにしてくれていたのか、それとも彼女の性格なのか。考えてみれば、特に茶に興味を持っているわけじゃないのだから、後者だろう。

 

「ごめんね、まだ茶室の方は準備できてなくて」

「大丈夫です。私が勝手に早く来ただけですから」

「急いで終わらせるよ。待ってる間、カウンターのお姉ちゃんに、好きな物頼んでね」

 そう言ってヌバタマの方を向き、目配せすると、彼女は目礼を返した上で厨房に入った。多分、茶事で半東を頼んでいるオリベに声をかけにいったのだろう。

 二階に戻り、急ぎ準備を終えていると、やっぱりオリベが手伝いに来た。二人で取り組めば作業は十分そこそこで完了したので、すぐに山越を茶室に案内する。

 

 茶筅が入った茶碗を、いつもどおり床に置く。

 ここで一礼すれば茶事の始まりだけれども、千尋はその前に茶筅を見つめた。

 さあ頼むぞ、今日の主役さんよ。

 

 

「……一服、さしあげます」

 視線を山越に戻し、挨拶を交わす。山越は作法が分からないようで、大げさに頭を下げて返礼してくれた。

 やっぱり、山越に茶道の経験はない。

 加えて言えば、まだ中学生なんだから、道具のお堅い話をするのも、どうかと思う。「一点」を除いては、割愛していいだろう。

 千尋は、あえて口調を砕きながら、点前を進めた。

 

 

「こんな所でお茶を飲むのは、初めて?」

「はい。そもそもお茶を飲むのも初めてで……」

「確かに、俺もこの仕事をするまで、飲んだことなかったしなあ」

「でも、いい気分転換になるかと思って。その為に誘ってくれたんですよね? ありがとうございます」

「……まあ、そんなところなのかな」

 当たらずとも遠からじ。適当に言葉を濁しつつも、一つの確信を得る。

 やっぱり、山越はまだキーホルダーの件を引きずっている。

 ならば、あの日、ロビンが目で懇願した『日々是好日』を使う他ない。

 横目で茶室入口の方を見れば、菓子器を手にしたオリベがちょうど入室し、山越に菓子器を差しだした。

 彼にも話はとおしている。準備は完全に整ったのだ。

 

 

「ところで、これは何か知ってるかな?」

 茶筅を清めようと手にしたところで、山越に尋ねる。

「はい。お茶をシャカシャカする道具ですよね」

「うん。茶筅っていうんだ。……実はね。この茶筅は穂先が折れることもあるんだ。そうして使えなくなった茶筅は、茶筅供養といって炊きあげちゃうんだよ」

「そんな。まだ使えばいいのに」

「お客さんの前で使うのは失礼だし、それに……」

 ぴたりと手を止める。

 先日、山越が口にした、キーホルダーと友への想い。

 それらを、脳裏に強く浮かべながら、千尋は先を口にした。

 

「……供養は、感謝の気持ちだからね」

「感謝、ですか……」

「どんな道具も、いつかは必ず壊れる。むしろ、ちゃんと供養として送りだせるのは良いことだよ」

「………」

「茶道具にはね。魂が宿っている。……だから、茶筅も本気で送りだすんだよ。これまでお客さんの為にお茶を点ててくれてありがとう……ってね」

 

 優しく語り終えるのと同時に、揺らぎが訪れた。

 暖かな光を伴う『日々是好日』の変化は、一瞬で過ぎ去ってしまう。

 そのわずかな間で、茶道具の良さは客に伝わるのだが、今回はどうだろうか。

 若干の不安も感じつつ目にした山越は……歯を見せて笑っていた。

 

 

「……私も、感謝の気持ち、持たなきゃいけませんね」

「キーホルダーの事かい?」

「はい。……このキーホルダーのお陰で、引っ越してしまった友達を思い出せていましたから。……だから、今までありがとう。もう大丈夫だよ、って」

 背筋をまっすぐに伸ばし、山越は元気な声で言う。

 これまでの彼女とは違う、覇気に満ちた語り方だった。

 

 

「これからは、キーホルダーがなくても、友達のことは忘れません。ずっと……ずっとです!」

「うん。いいと思うよ」

 にこやかにそう言って、中断していた点前を再開しようとする。

 隣の水屋から、ガサゴソと壁をこする様な物音が聞こえたのは、その矢先だった。

「あれ? 今、変な音しませんでした?」

「気のせいじゃないかな。……じゃなきゃ、誰かが盗み聞きしてたりしてね」

 千尋は、いたずらっぽく笑ってみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「フゴッ! ワンワン、ワンッ!」

 水屋に戻るなり待ち受けていたのは、毛達磨による歓喜の体当たりだった。

 和服に毛を付けられてはたまらないもので、中腰になって近寄せまいと押し返すが、それでもロビンは喜びはしゃぐのを止めなかった。

「よくやった、千尋! 見事な『日々是好日』だ!」

「と言っても、お前、見てなかったじゃないか」

「いやー、分かるんだよ、それが。あの子の喜ぶ声だけで、どんな茶席だったのか想像はつくよ」

「想像力豊かな奴だな」

「そんなに褒めるなって」

 皮肉も皮肉と捉えずに、ロビンは二本足で立ちあがって胸を張る。

 だが、すぐにバランスを崩してコロンと転げる様は、なんともみっともないものであった。

 

 

「おお、いてて」

「アホチン」

「……でもさ、千尋。俺は本当に感謝してるよ」

 お尻を抑えながら、ロビンは真面目な声で言う。

「感謝されるようなことはしてないよ」

「いーや。してくれた。これできっと、あの子も悩みを吹っ切れる。前に踏み出せるよ。……ありがとうな、千尋。これもお前が立派にもてなしてくれたお陰だ」

 ハアハア舌を出して喋るロビンの姿自体は、いつもと同じようにコミカルなものだ。

 でも、姿形がどのようなものであれ、彼の言葉は真剣そのものなのだ。

 言葉の内容だけで、そう感じているわけじゃない。真心が篭っているからこそ、ロビンの気持ちは千尋の胸に響いたのだ。

 

 

「……いや。ロビンのお陰だよ」

「俺が? 俺、お茶点ててないぜ」

「そーじゃないさ。……お前、愚直なまでにキーホルダーを探してたよな。あれでちょっと思うところがあって、さ。色々と参考にさせてもらったよ」

「なんだか知らねーが、役に立ってたのか」

「ま、今回はな」

「よし! じゃー、ご褒美くれ! ドーナツ!!」

「………」

 ちょっと褒めると、これである。

 ドーナツの代わりにデコピンをくれてやろうと指を出すと、さすがのロビンもその先を察して水屋から飛び出してしまう。

 そのロビンと入れ替わりに、両手を袖に突っ込んだオリベが、鼻歌を歌いながらやってきた。

 

 

 

「やあ、千尋。ロビンが慌てて飛び出したが、何かあったのかね?」

「いつものことですよ」

「ヒャッヒャッ! そーかね。相変わらず仲が良いなあ!」

 顎を上げながら声高らかに笑うと、オリベはどっしりと畳に胡坐をかいた。

 それから、手のひらを下げるような仕草を見せるので、誘われるがままに千尋も正座して相対する。

 オリベは頬杖を突くと、歪んた頬の側の口角をニッと上げてみせた。

 

 

「今の席は良かったぞ、千尋。茶を始めた頃とは天地の差だ」

「そうですかね」

「点前を覚えたのは当然の事、仕草も自然体だった。茶もきれいに点っていたし、客との語りも文句なかった。……だが、何よりも創意が見て取れた」

「え……? 道具の組み立て、あれで良かったんですか?」

 正直、そこはほとんど考えなしだった。

怪訝そうに尋ねると、案の定、オリベは手を横に振ってみせる。

「いやー、茶道具の組み立て自体は適当だったね」

「ですよね」

「しかし、創意とは組み立てだけではない。……お前はあの席で、わざわざ穂数が多い茶筅を選んでいたね。私はそこに感じ入った。ただただ良き茶を点てようという気持ちが見て取れた。……実は、そんな茶人が過去にもいたのだよ。上林竹庵(かんばやしちくあん)は知っているかね? 戦国時代の茶人だ」

 気持ちが、創意になるのだろうか?

 疑問には思ったけれど、とりあえずはオリベの問いに応えようと、首を横に振る。

 

 

「いいえ。上林って苗字は、どこかで聞いた気もしますが」

「竹庵は製茶を生業としていたし、現代でも一族の者が老舗の茶問屋をやっているから、それで聞き覚えがあるのだろう」

「ああ、そっちかもしれませんね」

「でだ。ある日、千利休が竹庵の茶事に参加したのだよ。だが、天下の大茶人に茶を点てる興奮か、それとも緊張からか……竹庵は茶筅を倒してしまい、同席していた利休の弟子達に白い目で見られたそうだ」

「……なんか、想像すると心が痛いです」

「似た経験あるもんなあ。……だが似ているのはこの先も同じだ。散々な内容だったのに、利休は茶事後『竹庵こそ天下一の茶人』と評したらしい。疑問に感じた弟子が理由を尋ねると『彼は点前を披露したかったのではない。ただただ私に美味しいお茶を点てようと奮闘していた。その心こそが天下一なのだ』と答えたそうだよ」

「心こそが……天下一……」

「なあ、千尋。私には、お前と竹庵がダブって感じられるよ。客を一心に思うところも、ついでにドジを踏むところも、そっくりじゃないかね」

 

 オリベはしみじみと語り、嬉しそうに千尋をまじまじと見つめてきた。

 ドジはともかく、創意の件も含めて、褒めてもらっているのは間違いない。

 つまり、これは……、

 

 

 

「……俺の茶は、上林竹庵に似ている。そこに創意がある、と?」

「そのとーり」

「でも、道具の組み立ては……」

「さっきも言ったじゃないか。道具の組み立ては、あくまでも創意が作り出した一要素なのだ。その創意とはお前自身……すなわち、客を想う気持ちなのだ」

「………」

「客をひたすらに想う。それこそが、若月千尋であり、若月千尋の茶でもあるのだ」

「それで、良かったんだ……」

 

 先程の茶事で茶筅を扱った右手を見つめながら、考え込む。

 正直なところ、上林竹庵と同じ茶だと言われても、ピンとこない。

 むしろ歴史上の茶人に失礼な気さえする。

 しかし「若月千尋の茶」という言葉だけは、妙にしっくりと心に馴染むものだった。

 まったく答えが見つからずに、ウンウン唸っていたというのに、なんとも不思議なものだけれど、自分自身の再認識のようなものなのだから、見つけてしまえば違和感はないのかもしれない。

 

 

「……ともかく、これで来月の茶会は、なんとかなりそうですね」

「うむ。……そうだな。千尋も茶会を開くまでになったのだなあ」

「なったのだなあ、って、前から決まってたじゃないですか。何を今更」

「ヒャッヒャッ! そーだった! ……主題は一期一会だったかね?」

「ええ。名目上は花見茶会ですけれどね」

「そうか、一期一会か。……良き一会があるといいな」

 

 オリベは呟くようにそう言って、音を立てずに立ちあがった。

 もう、話は終わったのだろうか。

 続いて千尋も立とうとしたところで、オリベは背を向けながら語りだした。

 

 

 

「……私にも、良き一会があったよ」

「………?」

「昔の話だ。私とて付喪神になった頃は、歪んだ茶碗に劣等感を抱いていたのだ。ある骨董品屋で、それはそれは端正な茶碗と並べて売られていた時期もあったから、なおさらだったね。……だが、そこで私を買った一家の子が、歪んだ私を見て楽しそうに笑ったのだよ」

「オリベさん……?」

「その一家と出会えたことで、これが私の存在価値なのだと教えられたのだ。懐かしいな、あの頃が。……もう、記憶の彼方の出来事だ」

 

 急に思い出話なんか始めて、一体どうしたのだろうか。

 話自体は、なんだか良い話っぽいのだけれども、オリベが語り始めた理由が分からない。

 きょとんとしてオリベの背中を見つめ続けたが、どこか寂しそうな背中だった。

 その背中は水屋の出入口へ向かい、廊下を出たところで、足が止まる。

 くるりと振り返ったオリベの顔には、はちきれんばかりの笑みが浮かんでいた。

 

 

「ヒャッヒャッヒャッ! ま、出会いを大事にってことだ! それじゃー千尋、後片付けはよろしく。私も負けじと一期一会、ナンパでもしてくるとしよう!」

 これである。

 がっくりと崩れ落ちつつ、心配したのが馬鹿らしく思えてきた。

「ちょっと、オリベさーん」

「ヒャーッヒャヒャッ! じゃーあねー!」

 すたこらと廊下を駆けて去ってしまい、水屋には千尋一人が残される。

 思わず溜息さえ零れてしまったけれども、嫌な気はしなかった。

 彼らがいるから日々が楽しいし、店も経営できる。そして茶会も開けるのだ。

 

「……もうすぐだな、茶会」

 立ち上がって、水屋の出窓から外を眺める。

 近くの林にはえている桜の木では、蕾が今にも目を覚ましそうに膨らんでいた。

 シズクも、ちゃんと目を覚ましてくれるだろうか。

 上手く、小谷に引き合わせられるだろうか。

 ……良き茶会に、できるだろうか。

 胸の鼓動は、少しずつ強くなっていた。



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第十六話『花見茶会 その一』

 桜の花びらが春風に流されてふわふわと舞っている。

 庭の小さな溜池にも落ちているけれど、まだ数は少ない。本格的に埋め尽くされるのは来週末だろう。

 茶会の準備の手を止め、茶室の窓から桜を眺めていた千尋は、胸の鼓動が異様に高まるのを抑えきれなかった。

 いくら事前に準備を整えたところで、桜の具合だけは運次第だ。

 その上、今日の題目は花見茶会なんだから、咲いているのといないのとでは、天地の差がある。幸運というべきだろう。

 でも、その幸運がプレッシャーになっている。準備も天候も桜も良かった。しかしお点前が駄目、となってしまえば、全てが台無しになってしまうのである。

 自分は、どちらかといえば緊張する方だし、また何かドジを踏んでしまう可能性だってあるだろう。その光景を想像するだけで、背筋がピンと伸びてしまう。

 この調子じゃ、お茶会まで三時間、ずっと緊張のしっぱなしだ。これで、本当に良いお茶が点てられるんだろうか……。

 

「千尋さん、何してるんですか?」

 柔らかな声が、背後から聞こえてきた。

 振り向けば、ヌバタマが炉の中で炭を整えている。

「あれ。いつ入ってきたんだ?」

「ちょっと前からですよ。全然気づきませんでしたよね。どーせ、今日は上手くいくかな、とか考えていたんでしょう?」

「……お前に見抜かれると、なんだか悔しいな」

「千尋さんは心配性ですからね。それくらいは分かります。自信を持って、どーんと構えてください」

「いや、しかしなあ」

「それだけのことをやってきたんですから。茶道歴一年弱とはいえ、もう一人前の茶人ですよ」

 ヌバタマは手を止めると、千尋に向き直って、太陽のような笑顔を見せた。

 釣られて、自分まで笑いかけたけれども、本当に笑いはしない。その前に、当のヌバタマの笑顔に、雲が差したからだった。

 

 

「……どうした? 急にそんな顔して」

「私は、何もしていないな、と思いまして」

「そんなわけが……」

「あるんですよ。シズクさんの人探し……私、シズクさんの力になりたいと思っていたのに、何もできませんでした。全部千尋さんが解決しちゃいました」

「……だからって、他にも」

「他も同じです。集客だってそう。常連さんに助力を頼んだのもです。あとは……」

「なあ、ヌバタマ」

 強引にヌバタマの話を遮り、彼女の前に正座する。

 座る前にワンテンポ間を作りつつ、それでいて動きに明確な切れ目がない、川の流れのような座り方。ヌバタマが最初に教えてくれたことだった。

 

「お前は、もっと自分に自信を持っていいと思うぞ」

「でも……」

「でもじゃないさ。最終的に俺が美味しいところを持っていっただけで、縁の下で頑張ってくれたじゃないか。そもそも、俺にお茶を教えているのもヌバタマだろ?」

「そう言われれば、そうかもしれませんね。……しかし……」

「まだ何か?」

「あ。そういう意味のしかしではなく、なんというか……」

 ヌバタマが、くすりと笑った。

「……千尋さん、大人になりましたね」

「なんなんだよ、急に」

「ふふっ。前とは比べ物にならないくらい、頼もしくなったと思うのですよ。お茶のお陰でしょうかね?」

「このところ犬と猫を追いかけまわしてばかりだったから、ピンとこないな……。ま、誉め言葉として受け取って……」

 

 ふと、彼女の言葉に引っ掛かりを覚える。

 前とは比べ物にならない?

 それじゃ、以前は……、

 

「……誉め言葉なのか? ヌバタマ」

「ご想像にお任せしまーす」

 ヌバタマが今度こそ、天真爛漫な笑みを浮かべながら言う。

 まったく、やってくれるじゃないか。

「……言ってくれるじゃないか」

 目を細めながら嘆息するが、同時に体が軽くなったような錯覚を覚える。

 一呼吸で、体内の余計な緊張が抜けてしまったのだ。

 ……ヌバタマは、そのつもりで言ってくれたのだろうか? いや、違う。彼女の笑みには、裏の気配なんか微塵も感じられない。

 

「……気が合う、って事なのかね」

「え? 何がですか?」

「こっちの話だよ」

「怪しいですね。教えて下さいよ」

 ヌバタマは千尋の腕を掴み、なおも食い下がる。

 突然触れられてびっくりしてしまうけれど、払いのけるわけにもいかない。

 ただ一方的に腕を揺らされて、その都度、茶会とは別の緊張に苛まれてしまう。

 

 

「ねえねえ、千尋さんってば!」

「ほ、本当になんでも……ああ、そうだ、それより面白い話があるぞ」

「とか言って、話をすり替える気じゃ……」

「本当だってば。ヌバタマはさ、ディマジオを知ってるかい? ジョー・ディマジオ。アメリカの昔の野球選手なんだけどさ」

「はい……?」

 ヌバタマにとっては訳の分からない名前が突然出てきたせいか、彼女はきょとんとして手を止めた。

 ようやく拘束が解かれた腕を引きながら、内心、大いに安堵する。

 

「そのディマジオさんが面白いんですか? ああ、面白い顔とか?」

「いや、顔はむしろ二枚目だな。マリリン・モンローの旦那さんでもあったし。そうじゃなくて、この人がさ……」

 マーシャの一件を思い出しながら、千尋は語る。

 茶会の準備の合間を縫って、あの後もディマジオについて調べ続けた結果、遡ること一週間前、ついに答えを見つけたのだ。

 その名を茶室で咄嗟に思い出したのは、偶然じゃない。なにせ、彼は……、

 

 

「おぉーい、シズク達が来たぞー!」

 ふと、階下からオリベの声が割って入ってくる。

 二人は思わず顔を見合わせ合ったが、ほんの一瞬のことだ。

「話の続きは……」

「ああ。また後でな」

「楽しみにしてます。さ、行きましょう!」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 一階にいたのは、オリベとシズクだけじゃなかった。

 助っ人を頼んだ諏訪と岡本も到着済みで、岡本は何やら楽しそうにシズクに話しかけているし、諏訪も時折、岡本に相槌を打っているようだった。

 二人とシズクは初対面だけれども、これなら何の問題もなくやれそうだ。

 そもそも、岡本は社交的な性格だし、諏訪も大人の男性だ。案ずることはなかったのだろうけれど、こうして目にするまでは、ちょっとだけ心配だったのだ。

 

 

「皆さん、おはようございます」

「おー、千尋! いやー、今日は晴れて良かったなあ!」

「いたっ! ちょ、ちょっと……」

 千尋が挨拶するや否や、真っ先に駆け寄ってきて肩をグーで小突いてきたのは、岡本だった。

 大学の陶芸サークルの先輩である彼女は、茶会の相談を持ち掛けると「よくあたしを頼ってくれた」と、先程と同じように肩を叩いてきたのを、ふと思い出す。

 ちょっとだけ痛いけれども、逃げようとは思わない。嬉しそうに肩を叩く彼女の反応が、千尋としてもまた嬉しかったのだ。

 

「まあまあ、それくらいで……」

 代わりに、もう一人の助っ人の諏訪が間に入ってくれる。

 彼も岡本と同様に、普段からたまに店を手伝ってくれるのだけれど、その時の諏訪はいつも、今みたく、さりげなく気を遣ってくれている。

「ええ、なんでさ、諏訪っち。一緒に千尋を叩こうよ」

「千尋君、叩いていいかな?」

「諏訪さんに叩かれると本当に痛いんでやめて下さい」

「だよね」

 諏訪はにこやかに笑いながら、近くの客席に腰かけた。

 一方の岡本は、今度はヌバタマに絡み始める。やっと解放された千尋は、窓際の席でやりとりを眺めていたシズクの前まできた。

 

 

「千尋さん、おはようございます」

「ええ、おはようございます。……ゆっくり休めましたか?」

「お陰様で。どうもありがとうございます」

 そう言って頭を下げるシズクの動きは、随分と緩慢なように見える。

 聞いていた話どおりなら、彼女の体は今日一日しか持たないのだから、無理もない話ではある。

 しかし、表情そのものは決して暗くはない。むしろ頬には朱が差していて、瞳もこれまで以上にいきいきとして見える気がする。

 この調子なら、きっと持つだろう。

 今日の三席目に正客として呼んでいる、小谷の顔を見るまでは、きっと。

 

 

「三席目の話は、雪之丞から聞いていますよね?」

「ええ。でも、それよりはまず、ちゃんとお茶席をこなさないと。だって、千尋さんの初めてのお茶席ですもの」

「そうですけれど、俺、初めてって説明しましたっけか」

「それも、雪之丞が。……ふふっ。あの子ったら、毎日のように千尋さんの話をするんですよ。気に入られたみたいですね」

「……意外だな」

「真面目な人が好きなんですよ、あの子は。……私もそうです。好きですよ、千尋さんのこと」

「恐縮です」

 

 違う意味とはいえ、なかなか痛烈な一言に、つい視線を逸らしかける。

 だが、すぐに今日が最後なのだと思い立ち、瞳をまたシズクの方へと戻した。

 そう、最後なのだ。

 静かに微笑んでいる彼女を見れるのも、今日までなのだ。

 千尋もまた、シズクのことが「好き」だからこそ、最後という事実は切なさに姿を変えて、胸に押し寄せてくる。

 でも、どうにもならないのだ。気持ちを据えるしかない。

 

 

 

「……俺、今日のお茶会は、一生忘れないと思います」

「私もです。……明日が来ようが、尾道を離れようが。今日のお茶会と、千尋さん方にして頂いたことは、きっと忘れません」

 二人の瞳が交差する。

 だが、すぐにシズクの視線は千尋の背後へと移った。

 振り返ると、いつの間にか雑談を終えていたヌバタマと岡本は着席して、千尋を見ている。

 ちょうどオリベも、景気付けのお薄茶を人数分盆に乗せて、厨房から出てきたところだった。

 これから、始まるのだ。

 この六人で開く、初めてのお茶会が。

 

「あー、えっと……俺が何か言えばいいのかな?」

「千尋さん、お願いします」

 と、ヌバタマ。

「分かったよ。じゃあ……みんな揃いましたから、今日の打ち合わせを簡単にしておきましょうか」

「よっ! 待ってました、お点前さん!」

「オリベさん、茶化さない」

 ジト目で突っ込みながらも、頬を緩めて全員を見回す。

 

「えーまずは、今日はみなさん、早くから本当にありがとうございます。水臭いかもしれませんけれど、心から感謝しているんですよ」

「いいってことよ」

「岡本さん、どうも。……さて、各々にはやって頂きたい事は説明済みですけれども、共有の為にも、もう一度話しておきますね。まず、お点前は全席、俺が担当します。で、お客様と話して頂く亭主役にはオリベさん」

「承った。安心して茶筅を倒されよ」

「倒しません」

「ヒャッヒャッ! で、次は?」

 

「この一階での受付は、岡本さんにお願いします。次の席の方が待機されますので、何かあれば上まで取り次いでください。お白湯も出して頂きますよ。水道水は使わないで下さいね。酒処の西条で汲んだ名水を用意していますから、そちらを沸かして」

「あいよ」

 

「水屋で、正客以外へのお茶を点てたり、お菓子を並べたりするのは、ヌバタマと諏訪さんにお願いします。本当はもっと人数をかけたかったんですが……」

「一席最大五人の小さな席ですから、なんとかなりますよ。ねっ、諏訪さん」

「うん。分担して必要な作業から取りかかれば、大丈夫だと思う。安心していいよ」

 二人とも、千尋よりずっと茶道歴が長いのだし、言葉どおり信頼していいだろう。

 二人に目礼して、千尋は最後に、背後のシズクを見た。

 

「で、水屋のお茶やお菓子をお客様に出す点出しがシズクさん。これも一人だと大変ですけれど、いけますか?」

「大丈夫です。その為に来たのですから」

「よろしくお願いしますね」

 

 力強い返事に成功を確信し、千尋はもう一度全員を回した。

 さて、この先はどうしたものか。

 ……ちょっとクサい気もするけれど、やっぱり言っておくべきだろう。

 鼻頭をぽりぽりとかきながら、千尋は話を続けた。

 

 

「それと……みなさんに、言っておきたいことが一つ。今日は花見茶会という名目でチケットを配っていますけれど、俺はもう一つ、自分なりの主題を持っています。……一期一会。その気持ちを持ってお客様に接すれば、俺のような駆けだしでも、何かができるんじゃないかと思うんです。……同じ気持ちを、皆に持ってくれとまでは言いません。でも、もし良かったら、胸のどこかに留めておいてください。……そうすれば、みんな笑える。そんな気がするんです」

 

 そう言い切って、深々と頭を下げる。

 一つの拍手が耳に届いたのは、頭を下げるのとほぼ同時だった。

 ヌバタマの方から聞こえたような気がしたけれど、すぐに続いた全員の拍手にかき消されて、答えは分からなくなる。

 ゆっくりと頭を上げた千尋は、まだ鳴りやまない拍手に負けないよう、珍しく大きな声を出した。

「それじゃあ、みなさん、一服差しあげましょう!」



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第十六話『花見茶会 その二』

 正規の茶事において、正客と会話をするのは、基本的には亭主である。

 そもそも形式上は、亭主が茶事の主催者なのであって、普段、点前と会話を兼任する千尋のやり方は、今日の席においては好ましくないのだ。

 千尋としては、正規のやり方でも異論はない。

 正しいのならそうするべきだし、そもそも、点前で頭がいっぱいで、茶道具の名や由来をすべて覚える余裕はないのだ。

 だが、それでも千尋が興味を持ち、自主的に調べていた存在がある。

 

 ――広島に拠を構える上田宗箇(うえだそうこ)流。

 それが、この日の正客……福部という男が師範代を務める流派の名だが、千尋は聞いたことがなかった。

 会話をしないとはいえ、さすがに現状のままでは失礼に当たる。

 事前にヌバタマに教えてもらったところによると、広島藩浅野家の家老、上田宗箇が開祖で、弓や乗馬の構えに取り入れられた武家茶らしい。

 千利休・古田織部の系譜に連なり、被爆も乗り越えて今日に至る、由緒ある地方流派とのことだ。

 

 しかし「由緒」という点が、どうにも引っかかってしまう。

 自分が、オリベやヌバタマから習っている茶は、いわば我流なのだ。

 福部と、クセの強いオリベは、どんな会話を交わすのだろうか。その時に、流派の違いによる食い違いが出ないだろうか。

 もうすぐ自身が入室して茶を点てるというのに、緊張はどこへやら。千尋は聞き耳を立てながら、茶室の障子を開けて、中の客に一礼するオリベを見つめていた。

 

 

 

「皆様、ご入室されましたでしょうか……されているようですね。本日はどうも、このような山中の茶室へようこそお越し頂きました。誠にありがとうございます」

「いえいえ、こちらこそお招き頂きましてありがとうございます」

 真剣なオリベの声は聞き取れたけれど、それに続く、茶室内からの正客の声はかろうじてしか聞こえない。

 だが、ゆったりとして落ち着いた語り口なのは、分かる。貫禄がありそうだ。

 

「先日までは天気も不安定で、亭主としては心配でしたが、今日は晴れて何よりです」

「ええ、まったくですね。お庭の桜も拝見しましたよ。実にお見事でした。知人の骨董品屋で開催のポスターを見かけて以来、どんな所なのかとずっと楽しみでした」

「左様でしたか。この様な殺風景な店で申し訳ありません」

「いやいや、そんなことは」

「本日は皆様、上田宗箇流の方々でしたね。武家屋敷を再現した拠点・和風堂は、柱の向きが持つ意味一つにまで、こだわりを持っていると聞いております。一方の夜咄堂では、物足りないかもしれませんが」

「いやいや……」

 

 福部が困惑しているのが、はっきり分かる。千尋も同じ気持ちだったからだ。

 これはいくらなんでも、卑屈すぎやしないだろうか。「そんな所に案内するとは失礼」なんて解釈もできるじゃないか。

 オリベに気付いてもらおうと、一歩足を前に踏みだした……その時だった。

 オリベの口角が、にやりと上がったのは。

 

「ですが、お茶だけは良いものをと、こだっております」

「おや……」

 オリベの明るい一言に、正客の声にも穏やかさが戻った。

 いや、もっといえば、安心を覚えたような声にも感じられる。

 ……そうか。

 もしかしたら、オリベは、わざとへりくだったのかもしれない。

 何分、今日の客達にとって、夜咄堂は未知の茶寮だ。

 そこで単に「良い茶を」と当たり前の話をしても、未知への不安は払拭できないかもしれない。

 でも、へりくだった上で茶をアピールすれば、お茶は本当に良いものだと感じられる。

 それにこれは、自分の創意……「竹庵の茶」そのものじゃないか。

 

 

「そう言われれば、下で頂いたお白湯も大変美味しかった。あちらにも、こだわっているのでしょうか?」

「後で改めてお話致しますが、西条から汲んだお水です」

「なるほど。お酒処の銘水ですね」

「ええ。しかし、残念ながらお酒はお出ししませんぞ? ヒャッヒャッヒャッ!」

「ハッハッ! それは残念だ!!」

 二人の笑い声を皮切りに、どぉ、と茶室が沸きあがった。

 いつだったか「茶席の会話は、亭主と客の共同作業」という話を聞いたことがある。

 キャッチボールと同じで、互いが気を遣わないと、成り立たないのだ。

 へりくだって客を安心させたオリベ。

 単に持ちあげるのではなく、創意を見抜いた上で、持ちあげた正客の福部。

 これが、一流の茶人同士の会話というものだろう。

 

 

「さて、それでは早速ですが、一服差しあげたいと思います」

 オリベが横目でチラリと自分を見て、茶室内へと入った。

 今度は、自分の番だ。

 先程のオリベと同じ所に正座して挨拶し、茶室へ足を踏み入れる。

 緋毛氈に座していた客は、上から順に、穏やかな雰囲気の中年の男性、中年女性、それに続く三名は若い女性だ。

 みんな、落ち着きのある着物を纏っていて、その道の人であることが見て取れる。

 いざ、お点前が始まっているのに、こうして冷静に客を見ることができたのもまた、オリベのお陰だろう。

 雑談で暖まった客達は、次の発言を期待するようにオリベを見ているから、重圧を感じずに済んでいるのだ。

 

 

 

「お楽に」

 茶道具の準備を整え、客に一礼を交わす。

 福部は微笑みを携えながら礼を返すと、オリベに向き直った。

「早速ですが、床の掛物は?」

「一期一会。大徳寺(だいとくじ)宗満(そうまん)和尚の筆でございます。春らしき言葉も良かったのですが、この一言には意味を持たせまして」

「なるほど。お伺いしても?」

「もちろんですとも。何分、今回の茶事はほとんどの方が初対面です。しかし、一生に一度の機会とは考えておりません。何度お招きしても、初対面のつもりで尽くしたい……その原点の茶会として、こちらを選びました」

「つまりは、今後ともよろしく、と」

「ヒャッヒャッ! 左様でございます!」

「ええ、こちらこそ。実に朗らかで雰囲気のお席ですからね」

 

 盛りあがる二人は、なおも茶道具の会話を続けていく。

 点出しのシズクも、よどみない流れるような足捌きで入室し、菓子器を出した。

 菓子器に乗るは、今朝、シズクよりも早く小谷春樹が持ってきてくれた生菓子、桜。

 以前千尋が試食させてもらった物を改良した、今日の為の特注品である。

 

 

「こちらのお菓子は?」

「桜。地元の和菓子屋『赤備』で作ったものでございます」

「どれ……おお、ほのかに苦みのある餡が美味しいですね。作りも美しい」

 福部の声が一つ高くなる。

 千尋は試食していないけれども、きっと、あれから更に味をあげたのだろう。

 何もかもが上手くいっている。後は自分次第だ。

 改めて心を落ち着け、湯と抹茶の入った茶碗に、茶筅を差し入れた。

 多少動きが派手になろうとも、しっかりと抹茶を解くことだけを考えて、茶筅を振る。

 そうして完成した薄茶が行き渡ると、福部はゆっくりと口に含んだ。

 

 

「……お服加減、いかがでしょうか?」

「大変結構でございます。……少し、いいかな?」

「はっ……」

 福部の言葉は、お約束の一言だけで終わらなかった。

 想定外の会話に、緊張しながらも返事を捻りだす。

 なにかマズいことをしただろうか……。

 顔をこわばらせながら福部を見ると、彼はにっと笑ってくれた。

「本当にいいお茶です。心から思いますよ。ありがとう」

「……こちらこそ、ありがとうございます」

 

 返事は、それで良かったのだろうか。

 答えは分からない。そもそも考える余裕がない。

 この上ない誉め言を受けてしまい、気を抜けば頬が緩みそうになる。それを引き締めるので、いっぱいいっぱいだからだ。

 

 これで、良かった。

 お茶を、楽しんでもらえたのだ。

 正客に、笑ってもらえたのだ。

 

 

 

 ――それからの出来事は、千尋も全部は覚えていない。

 シズクが他の客にも茶を出したこと。

 茶道具をしまう最中も、オリベが場を沸かせ続けたこと。

 拝見用に清めて並べた茶碗が、春の光に照らされて輝いた気がしたこと。

 高揚を抑えるのに必死で、覚えているのはその三つくらいだった。

 

「……お目怠(めだる)うございました」

 全ての点前を終え、退出の挨拶を交わして障子を閉じる。

 抑え込んでいた感情が一気に爆発したのは、それと同時だった。

「――っしゃ!」

 呼吸のような声が、口の中で爆発する。

 一席目……無事、終了である。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 続く二席目も何事もなく終えた千尋は、水屋で弁当をかきこんでいた。

 少人数で開く茶事なので、一席一席の間は十分時間を空けているけれども、それでもさすがに食事を味わう暇はない。

 現に一階の待合では、小谷ら次の客が既に待機していて、つい先程、茶室へ案内する為にシズクが下りたところだ。

 

「……千尋さん、次ですね」

 割烹着姿のヌバタマが、次に出す菓子を整えながら声をかけてくる。

「小谷さんと、シズクさんの件か?」

「ええ。小谷さんには、シズクさんのことは話したんですよね」

「茶会の後で会ってあげて欲しい、とね。でも、いきなりだとお互い緊張しそうだから……」

「シズクさんに案内してもらうついでに顔合わせ、ってことですね」

「当たり」

 にやりと笑い、弁当箱に残っている最後の卵焼きを頬張る。

 

 特にシズクにとっては、長らく待ち望んだ末の再会だ。

 さすがに案内する客と長々雑談に興じるようなことはないだろうけれど、一言二言くらいは、懐かしむような会話を交わしているかもしれない。

 いや、もしかすると、感極まって泣いたりしていないだろうか? だとすると案内に支障がでるかもしれない。岡本が気を利かせてくれているだろうか。

 

 

 そうして、階下のことをあれこれ考えているうちに、階段を踏み締める足音が耳に届く。

 そららはすぐに隣の茶室に吸い込まれていき、ただ一つだけが水屋へと近づいてきた。

「お待たせしました。案内、終わりました」

 平然とした声と共に、シズクが中に入ってくる。

 動揺の色はまったく感じられない。あくまでも今は茶事に徹する気なのだろう。

 さすがは露滴庵の付喪神、彼女もまた、茶道にかけては本気なのだ。

 

「それじゃ、挨拶してくるよ。千尋、食べ終えたな?」

「はい」

 オリベが立ちあがると、千尋も茶碗を棗を手に取って続く。

しかし、水屋を出る前にシズクへ歩み寄った。なにせ、これから彼女は、小谷に菓子器や茶を出すことになる。一言くらいは、今の気持ちを聞いておきたかった。

 

 

「小谷さん、どうだった? あの人だよね?」

「……それが、その」

 シズクは困ったように小首を傾げる。

 とはいえ、三席目が迫っているのは彼女も承知のようで、腑に落ちない声ながらも、続きはすぐに語られた。

「……違います」

「違う?」

「短髪の男性のことを差しているのですよね。確かに面影はありますが……あの方は、違う方です」

「え? ええっ?」

 思わず大声を出しかけてしまい、慌てて声量を落とす。

 小谷ではない?

 条件がピタリと揃っていたのに、別人?

 いや、面影があるのならば、記憶が薄らいでいるだけの可能性もある。

 でなきゃ、他に同じ条件の人がいるだなんて……、

 

 

「千尋、驚くのは後だ。客を待たせるわけにはいかんぞ」

「あ……は、はい」

 まだ戸惑いながらも返事をすると、オリベは千尋とシズクを一瞥して、茶室前へ挨拶に行った。

 千尋も動揺を鎮めようとするけれども、なかなか気持ちは切り替わらない。

 しかし、すぐに自身が入室する番となり、茶室の前で一礼をする。顔を上げれば、床の傍に座している和服の男性は、間違いなく小谷春樹だ。

 一体、何がどうなっているのだろう。なおも集中できず、硬い動きで釜の前に座して点前を始めると、すぐにオリベが話を始めた。

 

 

「いやー、実は皆様。本日のお席のお菓子は、正客様の小谷さんに作って頂いたのですよ。小谷さん、本日は何から何までありがとうございます」

「……大したことは」

 片手をそっと横に振って、小谷が謙遜する。

「本当に感謝しております。本日のお軸の一期一会……この言葉も、現在点前をしております若月が、小谷さんに教えて頂いた言葉だそうで」

 どうやらオリベは、自分が集中できていないのをすぐに見抜いたのだろう。

 なので、疑問を解消して点前に集中できるよう、道具の話に併せて、事実確認をしようというのだ。

 

「……私も好きな言葉なので、このお軸は嬉しいですよ」

「いい言葉ですからね」

「まったくです。この言葉が書かれた扇子も持っていますよ。……父の遺品ですがね」

 どくん、と心臓が鼓動した。

 何か、大きな勘違いをしていた予感に囚われる。

 でも、おかしい、そんなはずはない。

 小谷は確かに、ベンジン懐炉の話にうろたえていたのに……。

 

 

「よろしければ、そのお話、伺っても?」

「……ええ。一期一会といえば井伊直弼ですが、父は、店の屋号を赤備にするくらい井伊直弼が好きでして」

「春樹さんも、お好きなのですよね?」

「……父、小谷匠の影響です。父は八年前に急病で鬼籍に入りましたが、短い闘病中、自分が交わしてきた一期一会の話をしてくれました」

「ほう」

「それが心に残っていて、私も好きなのです。例えば、あの浄土寺にある露滴庵で知り合った方の話とか印象に……いや、失礼。脱線が過ぎますね」

「いやいや、こちらこそ失礼なことをお聞きしてしまいまして! それはそうと、このお軸を書いたのは……」

 オリベはそれ以上探るのをやめ、大きな声を出して茶道具の話を始めた。

 

 これまでの席よりも明らかに大げさな語り方だが、そうせざるを得ないのだろう。

 ……なにせ、音が聞こえたのだ。

 小谷が語り終えるのとほぼ同時に、廊下で何かが落ちる音が、千尋の耳にまではっきりと届いた。それをごまかす為の声なのだろう。

 誰が立てた音なのかは、千尋にも分かる。

 今、廊下にいるのは、一人だけなのだから。



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第十六話『花見茶会 その三』

 階段の傍に立ち、三席目の最後の客を見送り終えるや否や、水屋に向かう。

 三席目の最中、釜を見続けていた千尋には、シズクの表情を伺うような余裕はなかったけれども、大方の察しはつく。

 

 ――やはり、件の人物は小谷春樹じゃなかったのだ。

 ああ、どうして突き詰めて確認しなかったのか。

「あなたがベンジン懐炉を渡したのですね」とまで、小谷に聞かなかったのか。

 後悔しても、もう遅い。

 いや、遅いのはそれだけじゃないはずだ。

 再会を試みるのも、年単位で遅すぎた。

 凛とした影の人は、小谷春樹の父。

 すなわち……故人なのだ。

 

 

「シズクさん、大丈夫!?」

 短く、そして強く声を発して水屋に入る。

 そこには、苦しそうに胸元を抑えて屈むシズクと、それを囲むように見守るヌバタマに諏訪の姿があった。

「諏訪さん、お願いが」

 諏訪の姿を認識するのと同時に、千尋はすぐに判断をくだす。

「下に行って、次のお席の用意が遅れると伝えてください」

「シズクさんの体調が悪いからだね? でも、それよりは救急車とか……」

「いえ、休めば落ち着く持病だと聞いているので大丈夫です。少しの間、岡本さんの手伝いもお願いできませんか?」

「分かった。そうしよう」

 常連の諏訪といえど、この件だけは知られちゃいけない。

 神妙に頷いて水屋から出た彼に頭を下げ続け、その気配が無くなってからようやく頭を起こした千尋は、シズクの傍に駆け寄って顔色を覗き込んだ。

 

 

「シズクさん!」

「……亡くなっていたのですね。あの人は」

 シズクは消えてしまいそうな声で呟き、背中を壁に預けた。

 それと同時に、また彼女の輪郭が薄らいでゆく。

 思わず自分の目を擦ったけれども、それには変わりがなかった。

 猛烈な絶望感が湧きあがってくる。

 いや、彼女が感じている絶望感とは比べ物にもならないだろう。

 シズクの気力は、もう尽きてしまうのだ。

 

 

「茶会の途中なのに……ごめんなさい……」

「そんなこと言わないでください、シズクさん! 消えないでください!」

 ヌバタマがシズクに抱き着くようにして肩を揺する。

 涙交じりの声には、当事者でない千尋さえも、ドキリとしてしまう。

 しかし、それでもシズクは力ない笑みを浮かべ、ゆっくりと顔を横に振った。

 

「ごめんなさい……もう……無理みたい……だって……」

「だってじゃありませんよ。シズクさん! ねえ!」

 ヌバタマはなおも説得を続けながら、千尋とオリベの顔を見た。

 上目遣いで口元を震わせ、何かを請うているのは伝わってくる。

 でも、千尋は口を開けなかった。

 だって……彼女の心を繋ぎ止めていた人は、いないのだから。

 その事実が、もっともショッキングに伝わってしまったのは、自分の詰めが悪かったせいなのだから。

 そんな自分から、シズクに「頑張れ」とは、どうしても言えないのだ。

 

 

 

「……せめて、匠さんという名が分かっただけでも……良かった……」

「シズクさんっ!」

 ヌバタマの悲痛な声が響く。

 だけれども、寂しげな笑顔を携えた彼女の体は、ますます消えかかっていた。

「ヌバタマ……もう、限界だ」

 オリベが、そっと目を伏せる。

 本当に……、

 本当に、もう……、

 

 

「何を言っとるんじゃ、シズク!」

 ――怒声が、水屋に響いた。

 

 声の主の雪之丞は、出窓付近の木に登っていた。

 そこから店内に飛び込み、ただシズクだけを睨みつけながら近づいてくる。

「シズク! 消えちゃならん。少なくとも茶会が終わるまでは持ちこたえんさい!」

「雪之丞……」

 シズクは、音もなく手を伸ばした。

 

「ごめんね……でもあの人は、もう……」

「お前に言われんでも分かっとるわ!」

 雪之丞が一喝する。

 だというのに、なぜだろう。彼の瞳は悲しみに満ちていた。

 

 

「ええか、シズク。死んでしもうたもんは、どうしようもない。……じゃがな。お前は何度も語ってくれたじゃろが。きれいな月の日も、星明りの見えない日も、毎夜毎夜、飽きもせずに……その男が好きな言葉を」

「一期、一会……」

「ほうじゃ、一期一会じゃ。その男に会いたいのは、単に茶室の価値を見出してくれただけじゃないじゃろ。その気高き心に共感できたからじゃろ!」

「………」

「じゃったら、今日の茶会はやり遂げんと、その男が泣くじゃろうが……ワシは……ワシは……ワシの大事なモンが、そんな不義理をするのは、許さんけえの!」

 雪之丞が目に涙を浮かべながら主張する。

 もはや、言葉尻は悲痛な叫び声と化していた。

 

 シズクはそれに言葉を返さず、雪之丞もまた呼吸を整えていて、僅かな間ではあるが水屋に静寂が訪れる。

 皆、雪之丞の言葉を反芻しているんだろうか。

 少なくとも、千尋はそうだった。

 雪之丞の熱い友誼に胸を打たれるのと同時に、大事なことを思いだす。

 そうなのだ。

 この席の主題は、一期一会なのだ。

 ここでシズクが抜ければ、茶会は人数的に続行が難しくなる。

 それは、単に茶会が中止になる、というだけのことではない!

 

 

 

「……俺、この半年で、いくつか出会いがあったんです」

 千尋の声が、静寂を破った。

「まず印象的だったのは、小谷さんとの出会いかな。……今日来ていた息子さん、小谷春樹さんって言うんです。お父さんと同じ和菓子職人さんで、今日の和菓子も作ってもらいました。……その春樹さん、実は弟さんと喧嘩別れして十年になるけれども、仲直りできたんですよ」

「あの方が……」

「はい」

 彼女の傍で正座しながら頷く。

 間近で見るシズクは、相変わらず虚ろげだった。

 それでも、彼女の力は必要だ。次の席を開く為には欠かせないのだ。

 

 

「その後で、シズクさんや雪之丞と出会いました。……親友からもらったキーホルダーを大切にしている女の子とも知り合いました。不思議とね、みんな、人間関係で悩んだり困ったりしてたんですよ」

「………」

「……でも、思うんです。大事な人がいるからこそ、悩むんだと。人との繋がりって、素敵なことなんだなと」

「人との、繋がり……」

「だから、一期一会の主題を掲げたこの茶事も、中断するわけにはいかないんです。……シズクさん。もう少しだけ、力を貸してください。……一期一会の茶事を成立させるという、新しい希望を、どうか持ってください……」

「……千尋、さん」

「はい」

 シズクは、ゆっくりと体を起こし、居住まいを正して千尋の名を呼んだ。

 

 それに相対し、じっとシズクを見つめる。

 彼女は口元に手を宛がい、くすり、と笑ってみせた。

 何気ない、ごく当たり前の仕草。

 だからだろうか、不思議と現実感のある笑いだった。

 

 

「今日の和菓子……春樹さんが、作られたのですよね……?」

「えっ? あ、ええ……」

「落とした場合を考えて、多めに注文されていますよね?」

「はあ。まあ」

「じゃあ……お茶会が終わっても余っていたら……頂けるかしら……」

「……シズクさん!」

「もしかしたら……あの人の名残が、残っているかしらね」

 

 段々と、彼女の体に輪郭線が戻ってくる。

 声に、生気が戻ってくる。

 シズクはゆっくりと、とてもゆっくりとした動きながら……立ち上がった。

「皆、ごめんなさい。あと二席……頑張れます。よき一会の為に、頑張りましょう」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 茜色をした太陽が瀬戸内に沈んでいく。

 幾多の文豪達を虜にした日没に見とれかけながらも、千尋はすぐ気持ちを切り替えて、一階の清掃に戻った。

 なにせ、茶事とは違って今度こそ人手が足りないのだ。

 諏訪と岡本に後片付けまで手伝ってもらうわけにはいかず、後日の礼を約束して二人は帰したので、人手はオリベとヌバタマ、そしてシズクの三人だけだ。

 もっとも、シズクは体に力が入らなくなってきたらしく、茶道具を扱っている最中に消滅されても困るので、窓際の席に座って休んでもらっている。

 

 

「シズクさん、お体の方はどうですか?」

「掃除が終わったら、余り物の和菓子で一服だからな。私に食われたくなかったら頑張るのだぞ。ヒャッヒャッ!」

 ヌバタマとオリベが、清掃しながら声をかける。

 シズクは何も言葉を返さず、腿の上で丸くなっている雪之丞を撫でながら、ただ黙って微笑んだ。

 あの後の二席を乗り切れて、今は余韻で残っているだけで、もう姿が消えるのは時間の問題らしい。

 

 限られた時間を、シズクは。

 そして彼女の友は。

 どのような気持ちで、過ごしているんだろうか。

 

 

「ごめんください」

 ふと、低く落ち着きのある声が聞こえてきた。

 玄関から聞こえてくる声の主を、千尋は知っている。

 そうだ。この男を呼んでいたのだ。

「小谷さん」

「……やあ。お疲れ様」

 茶事中と変わらぬ和服姿の小谷春樹は、小さく手を掲げながら店内に入ってきた。

「今日は和菓子に正客に、大変お世話になりました」

「先にお世話になったのは、こっちだからね。結構なお点前だったよ」

「ありがとうございます。実はそれなりにドタバタしてたんですけれども、なんとかなりました」

「お客さんが増えるといいけれどね。……ところで」

 小谷はゆっくりと顔を動かして店内を見回し、その視線をシズクのところで止めた。

 

 千尋が呼んだのだから、当然ではある。

 しかし、会話中にシズクが消えてしまったら大問題だ。

 無礼は承知で、体調不良を理由に戻ってもらうべきだろうか……。

 

 

「小谷春樹さん……ですね」

 だが、先にシズクが声をかけた。

 言葉を受けた小谷も、まっすぐに彼女の前へと歩いてゆく。

 もう、なるようにしかならない。

 夜咄堂の三名は顔を見合わせあったが、結局、少し離れた所から二人を見守った。

 

「……確か、点出しの。……そうでしたか。あなたが」

「ええ。……春樹さんのお父さん……匠さんには、大変お世話になったものでして」

「……随分とお若い。十五年以上前の話として聞いていたので……あ、いや……」

「ふふっ。良いのですよ」

 シズクは穏やかに笑い、そっと雪之丞の背中を撫でる。

 

 

「ごめんなさい。体調が優れないもので、座ったままで……。でも、こうして見るとあの人の面影を感じます。顔だけじゃなく、凛とした佇まいも。……きっと春樹さんも、あの人と同じく真面目な方なのですね」

「……私は、どうだか。ただ、父は真面目に過ぎました。死んだのもそれが理由で」

「あら……」

「亡くなる数年前から体調が優れなかったのに、仕事をしたがって検査をせず。ガンが見つかった時には手遅れでした」

「病にかかったのは、いつの話でしょうか?」

「……九年前。……シズクさんの話は、病床で聞いています。今日は、父の残した言葉を伝えに来ました」

 

 やはり、又聞きだったのだ。

 自身の失態を改めて思い返し、顔から火の出るような思いをするも、視線は小谷からそらさない。

 気のせいだろうか、彼の背中は普段よりも伸びているような印象を受ける。

 シズクの言葉の影響を受けて、見ているからだろうか。

 或いは、小谷は意図的にそうしているのだろうか……。

 

 

 

「……父は、あなたと会うのが楽しかったと言っていました」

「私と……? 私、何もしていないのに」

 シズクは困ったように俯き、はかなげに身じろいだ。

 ふと、そのまま彼女が消えてしまいそうな錯覚を覚えてしまう。

 それほどまでに、シズクは困惑しているようだった。

 

「……いえ。あなたの純粋な人柄に触れると、心が洗われると」

「それは、私の方が感じていたことですのに」

「……似た者同士、なのでしょう。……だというのに、二度しか会わなかったと聞いています。……今思えば、私達に気を遣ってかもしれません。当時、私と弟は思春期真っ盛りな上、母は既に病死していましたからね」

「ふふっ。それもあの人らしい」

 

「……ええ。それともう一つ。シズクさんの印象も聞かされています」

 一呼吸間を置いた小谷は、今度は明らかに背筋を伸ばした。

 やはり。

 これは、彼の気遣いなのだろう。

 

「……瀬戸内の穏やかな空気から生まれた露が、茅葺屋根をつたる滴となり、陽光を反射させて庵を飾る……」

「………!」

 ふと、雪之丞が膝から飛び降りた。いや、それよりも先にシズクが動いたのかもしれない。彼女は弾かれたように立ち上がり、声にならない声を漏らした。

 すっと。

 一条の滴が、彼女の頬を伝って落ちる。

「露滴庵のような、美しく物静かな方だった……亡くなる前日の、父の言葉です」

「ああ。ああ……小谷さん。私は……私は……」

 涙声のシズクが、支えを求めるかのように両手を突き出し、一歩、二歩と小谷に歩み寄る。

 その白く美しい手は、春樹の頬に触れる……直前で止まった。

 人差し指が流れるように動き、自身の涙を拭う。

 笑顔は、その動作から遅れてやってきた。

 

 

「……春樹さん、今日の茶会で、あなたに会えて良かった……。ありがとう。あの人の面影を、ありがとう……」

 かすれた声で、シズクが言う。

 窓から差し込む夕日は、彼女の影法師をまだ床に落としていた。



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第十六話『花見茶会 その四』

 シズクが天に昇ったのは、日付が翌日に変わってすぐのことだった。

 千尋とオリベ、ヌバタマの三人が見守る中、彼女は「また遊びに来る」とでも言わんばかりに、軽く手を振りながら、自然と消えていった。

 千尋としては当然寂しいのだけれども、一方のシズクが笑顔で去ったのは、決して死ぬわけじゃないからだろう。

 オリベとヌバタマとは、何十年後かに、また天界で会えるのだ。……雪之丞が、シズクの最後を見届けずに夜咄堂を去ったのも、それと同じ理由からかもしれない。

 彼は、あれから二度と姿を見せには来なかった。シズクが天に還れば、また旅がらすの日々ということなんだろうか。これもまた、寂しい気がする。

 

 

「シズクさん、最後まで美しい人でしたね。あーあ、私もあんな大人になれるでしょうか……」

 降り注ぐ春の陽光とは対照的に、前を行くヌバタマが、暗い表情でボヤく。

 見た目だけなら、まあ、かなわなくはないかもしれない。

 しかし、茶道具の話題になると、人が違ったように語りだす一面を知っているだけに、諸手をあげて励ますような気は起らなかった。

 ちら、と右隣を見れば、オリベも似たような事を考えているのだろう。声をかみ殺してくっくっと笑っている。

 一方の左隣では……ロビンがボケっと、気の抜ける面を浮かべていた。多分、こっちはハナから聞いておらず、食べ物の事を考えているのだろう。

 

 

 ――あれから二週間。

 夜咄堂の面々は、珍しく全員で外出し、向島ののどかな歩道を歩いていた。

 道端に立っている桜はもう完全な葉桜に変わっていて、五月が近いことを千尋に教えてくれる。

 

 良い春だった、と思う。

 あれから何度か、茶会の噂を聞いてやってきた、という客とも巡り合えた。

 茶会自体も、この上なく思い入れがあるものになった。

 でも、全ては桜と一緒に、過去の出来事と化してゆく。

 新たな客に何度でも来てもらえるよう、そして新たな茶席で喜んでもらえるよう、また奮闘の日々となるのだ。

 

 

 

「千尋。帰りにドーナツな」

 船着き場でまたもや出くわし、勝手に合流したロビンがフンフンと鼻を擦りつけながら言う。

 いつもはバッサリと切り捨てるけれど、今日くらいは大目に見ても良いだろう。

 なにせ、今日の目的地を教えてくれた小谷春樹から、言われているのだ。少しでも大勢で墓参りしてくれた方が、父も喜ぶと。

「……じゃあ、一個だけな」

「あー、千尋さん、ズルい! 私の分は?」

 くるりと振り返ったヌバタマが、頬を膨らませながら言う。

 

「ズルいって、犬と張り合ってどうするよ」

「むうう。だって……」

「俺だって小遣いは限られてるんだから駄目だよ。来月野球観戦に行く分がなくなるしさ。そもそも、自分の小遣いはどうしたんだよ」

「あれはもう、駅近くのプリン屋……あ、いえ」

「プリンが、どうしたって?」

「なんでもありませーん」

 ほとんど言ったも同然だけれども、突っ込まないのが優しさかもしれない。

 

 

「あ、そうです。ねえ、千尋さん?」

 そんな周知の状態を理解しているのかいないのか、ヌバタマは大げさに手を打ち鳴らしながら言う。

「今度は何だよ」

「野球で思い出したんです。茶会の朝、野球選手の話をしかけましたよね。あれ、なんだったんですか?」

「ジョー・ディマジオのことか」

 そういえば、最後まで説明していなかった。

 今度は、ヌバタマが話をすり替える為に、話を切り出したというわけか。

 

 

「一期一会は世界共通って話だったんだよ、あれは。もう五十年以上前の話なんだけれど、そのディマジオって選手が、ある時、ちょっと体を痛めちゃったんだ」

「大変。入院しないと。……ああ、病院でお茶を頂いたとか?」

「そーいう話じゃないよ。でも、ディマジオは無理をして試合に出続けたんだ。当然みんなは心配する。休養を勧める。……でも、ディマジオは首を横に振ったんだよ」

 ネットで見た、ディマジオの見目麗しい写真を思いだしながら千尋は語る。

 もちろん、マーシャは「顔が似ている」と言ったわけじゃないんだけれども、なんだかディマジオには悪い気がしてならなかった。

 

「そして、こう言ったんだ。『今日、ここで自分を観るのが最初で最後のファンもいるだろう。その人の為に試合に出るのだ』って。……これって、一期一会だろ?」

「確かに、そのとーりだな。海の向こうにも千尋がいたわけか」

 話を聞いていたオリベが興味深そうに頷きながら言う。

「大げさな言い方、やめてくださいよ。ディマジオに悪いです」

「むしろ時系列では、ディマジオんが元祖ですから、日本にもディマジオさんがいた、と言うべきですかね。……あ、でそれより先に、一期一会を広めたのは……いえ、待ってくださいよ。そもそもこの考え方は……」

 ヌバタマはヌバタマで、延々と元祖を求めて遡ろうとする。

 墓参りを前にどっと疲れた気がしたけれど、あまり嫌な疲れじゃない。

 まあ、いいさ。

 

 

 

 その後も、取り留めもないことを語り合っているうちに、すぐ墓地に到着する。

 小谷家の墓を見つけると、千尋はポケットに入れていたベンジン懐炉を取り出し、墓前に供えてから手を合わせた。

 小谷匠は、シズクの想いを知らずに、逝ってしまった。

 今日はその報告に来たつもりだったけれども、墓の前で目を閉じていると、なんだか余計なことをしている気がした。

 きっと、気持ちは同じ。

 又聞きの話だけれども、そんな気がしてならないのだ。

 

 

「おい、まだ参るのかよ。ワンッ!」

 ロビンに吠えられて、現実へと引き戻される。

 千尋は目を細めて、足元の雑種犬を睨みつけた。

「うるさいな。色々と思うことがあるんだよ」

「そんだけ拝みゃあ、じゅーぶんだろ? 早く帰ってドーナツ食おうぜー!」

 ロビンは前脚をやんやと掲げ、墓地から去ろうとする。

 

 

 ――何かの陰がロビンを捉えたのは、その瞬間だった。

「ニャゴッ!」

「キャインッ! い、いてえ! チクショウ、なんだ……あああっ!?」

 陰に殴打されたらしいロビンは、患部の頭を抱えながら悪態をつこうとして、すっとんきょうな声を張りあげる。

 影の正体は、大いにいきりたっている雪之丞だった。

 

「ゆ、雪之丞っ!」

「墓前でなんじゃ、その態度は。しっかり拝まんかい!」

「だ、だって俺、縁もゆかりも……」

「なんじゃあ!?」

「うひい」

 雪之丞にすごまれ、ロビンは頭抱えたままの二本足で墓地から飛びだした。

 放っておいて人に見られると困るのは、みんな分かっている。嘆息一発の後、すぐにオリベとヌバタマが後を追い、墓地には千尋と雪之丞が残された。

 

 

 

「……はあ」

 頭が痛いけれど、確認することがある。

千尋はあの日のように、そっと雪之丞の脇の下に手を突っ込み、自分の目の高さまで掲げて相対した。

「フニャッ? おい、離さんか!」

「雪之丞、お前……尾道から出て行ったんじゃないのか?」

「誰が出て行く言うたんじゃ」

「だって、一期一会を求めて旅するのが、お前の本能なんだろう」

「それはそうじゃ。じゃが……おい、離せと言うとるじゃろ!」

「だって猫だし」

「形は猫でもワシゃあ漢なんじゃ! 愛玩動物扱いはやめんか!」

 雪之丞が、まるでロビンのような抗議を口にする。

 それ以上愛でるのもかわいそうで、言われるがままに地面に戻すと、彼はギロリと一睨みしながら話を始めた。

 

 

「……義理じゃ」

「義理? 俺に?」

「おう。……シズクの件では世話になったからの。しばらくは尾道に残って、恩を返さんとな」

「そんなの、別にいーのに」

「なんじゃい。邪魔か」

 雪之丞が吐き捨てるように言う。

 だが、声に怒気は感じられない。

 むしろ、つまらなさそうというか……寂しそうとも取れる声だった。

 義理自体は、嘘じゃないだろう。でも、理由は他にもあるようだ。意外と寂しがりな猫なのかもしれない。

 

 

「いーや。大歓迎だよ」

「……ふんっ! ほれ、行くぞ」

 雪之丞は尾をフニャフニャとくねらせ、歩きだした。

 かくして、夜咄堂には新たな仲間が加わったのである。



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