Bloodborne:The Previous Night (水原 日助)
しおりを挟む

ありふれた最期

道端に転がるアイテム。
違う。あれは死体だ。人だったものだ。
彼らは初めからああだった訳ではない。彼らもまた母の胎から生まれ、育ち、そしてここで死んだのだ。
彼らにだって、語るべき過去があった筈なのだ。
死人に口など、ありはしないのだが。


深く暗い闇の中を、揺らめく無数の炎たち。

冷たい金属を引きずって発される不快な高音、不揃いな靴音、呪詛にも似た唸り声。その音源達がすっかり暗くなった街の中を練り歩く。

 

 

ここはヤーナム。血と医療の街。奇妙な風土病「獣の病」に侵され、かつての繁栄は街並みの中にだけ見出せる。

 

「獣の病」。

 

それは人が変態し獣になるという、なんとも奇怪で、故におぞましいものである。

ごわついた体毛で覆われ、鋭い牙と爪が生え、瞳は溶け、肉体の形状すらも変わり果てる……

この度を越した超常の類である病を前に、住民達が始めた事は、その疾患者を狩り出す事だった。

松明で闇を照らし、農具や猟銃で武装し、獣と化した人を狩り、炎で焼く。自警と呼ぶには余りにも仰々しく、どころか過ぎた行為であるが、しかし止める者は誰もいない。

それもそうだ。誰もが「獣の病」を恐れているからだ。

夜はどの家も門を硬く閉ざし、息をひそめて日の出を待つ。それがまだまともでいるヤーナムの住民の夜である。しかし彼らは「獣の病」どころか、狩りをする住民すらも恐れている。何故か? それは彼らの容姿を見ればわかる。腕から頬まで荒々しい体毛が走り、不自然に腕は伸び、闇を覗き込むその瞳は溶けている。

 

獣を狩る彼らも既に、その獣と同じに成り果てている。

 

だが彼らは互いを傷付け合う事はなく、今夜も街の闇を照らす。どこからか聞こえる呻きを目指し、刃物を引きずり歩くのだ。

 

 

その群から少し離れた闇の中に、黒い服装の男が1人、息を殺して立っている。

蜂起した住民ではない。その風貌は彼らとは明らかに異なる。汚い服も着ていなければ、粗末な凶器も持っていない。

頑丈に縫合され、しかし運動を阻害しない軽やかな黒ずくめの服装。

顔を隠しつつ目だけを露出した覆面、羽にも見える鍔を持つ帽子。

農具の面影もあるにはあるが、しかしそれよりも明らかに巨大で堅牢な右手の刃物。

磨き上げられた銃身に刻まれた装飾と、美しい木目から質の高さが窺える左手の短銃。

 

彼は狩人だった。

この街を這いずる住民とは違う、有り合わせの武器に頼らず、「獣の病」の疾患者を狩るべく鍛えられた武器と肉体を持つ男だった。その目は未だ溶けておらず、闇の中から行進する群衆を静かに見据えている。

 

「……酷いものだ」

 

男が呟く。見慣れたつもりでいたものの、しかし何度見ても同じ感想を抱いてしまう。彼が幼少より見続けてきた光景。炎によって照らしだされる血と狂気の色。気を保たなければ引きずり込まれてしまいそうになるそれらの色を見つめて、闇から闇へと走る日々。

 

群衆が遠くの角へと消えていく。それから暫くして、男は闇から月下へと出た。街を照らす月と炎の光は、同じ光源であるものの、それぞれ異なる印象を抱かせる。

ぱちぱちと燃える焚火の音とは別に、金属と靴の音が聞こえた。先程の群衆とは別方向。それも随分と近い。

それを聞き取るや否や、男は素早く建物の間の闇に紛れ、再び身を潜めた。だが、今度はその行動が無駄だとすぐに悟った。

 

見えた住民達はわずか5人だったが、犬を連れていたのだ。その犬も皮膚の一部が剥がれ内側の肉が見え、瞳もすっかり溶けているにも関わらず、獰猛性はむしろ猟犬よりも高い。視覚よりも嗅覚に頼り、異なる臭いを嗅ぎ分けて吠える。いくら気配を消そうとも、臭いを消すにはそれなりの用意がいる。生憎それが出来る程の余裕も道具も持ち合わせていなかった。

 

「仕方ない……」

 

男はそう言うと、静かに道へと歩み出た。住民とは違う乱れない靴音が響き、目の前の一団に届く。

住民は口々に何かを発したが、それよりも先に吠えた犬が、一直線にこちらに向かって駆けてくる。血混じりの唾液を舌から垂らし、鋭い歯をぎらつかせる。

男は一切狼狽えない。迫る獣を静かに見据え、右足を半歩下げる。右手の異質な凶器を握る力が強まり、革手袋が持ち手との摩擦で音を発する。

既に犬は目前まで迫っていた。荒い息遣いが石畳の道を叩く爪音に混じってもなお、明白に聞き取れる程の距離。

突然、犬の姿勢が下がる。全ての足に力を入れ、ぐっと重心を落としたのだ。

跳躍。

犬は顎を大きく開いて牙を剥き出し、男の喉笛に食らいつき、噛み切るつもりだった。

 

だが、それは叶わず、道端に血を吹き出して転がる破目になる。

 

男は犬の跳躍を見越し、待ちの姿勢を取っていた。間合いに入った瞬間を見逃さず、下に構えていた右手の刃物を左上へと切り上げ、迫る犬の腹から胸を削り取ったのだ。

 

振り上げられた刃物、それは大きな鋸だった。

一般に用いられるものよりも分厚く、荒々しい。木を切る為ではなく、肉を削る事を目的として作られた獣狩りの鋸だった。

 

衣服に赤黒い血が飛び散ったが、男が気にする様子はない。その目は既に、奥の住民達を見ていた。また口々に声を荒げる。驚きか、それとも怒りか。いずれも変わり果てた醜い風貌に似合わない人間的な感情の籠もった声色だった。

4人が農具を振りかざして、こちらに向かってくる。残る1人はその場に留まり、持っていた猟銃を構えた。

5対1。

だがこんな状況はよくある事だった。

男は右手の鋸を下ろし、リラックスした姿勢を取る。短銃を持つ左手を握り直し、迫る4人とその奥の1人を視界に収める。

 

男が動く。

ゆっくりとした足取りで、右斜め後ろへと下がり始めた。それに合わせて住民達も動く。大きく広がり、4人で取り囲もうとする狙いのようだった。

だが、それは男の狙い通りでもあった。

住民達が広がりきる前に立ち止まった男は、素早く左手を前へと出す。あらかじめ狙いを定めていた左目の前まで短銃を持ち上げ、躊躇なく引き金を引いた。乾いた爆発音が街並みに反響する。

その直後、左から数えて2番目の住民の頭から、血と脳漿が飛び出した。男の突然の停止と爆発音、隣の住民の跳ねた頭に驚いた3人は、包囲の動きを止めてしまっていた。その目線の先には膝から崩れる仲間。男を見てはいなかった。

 

その一瞬を狙い男が踏み込んだ。

銃の反動を殺すよりも先に、前へと大きく踏み込み、一気に距離を詰めたのだ。男の動きに3人は反応出来ない。

まだ状況を理解しきれていない右から数えて2番目の住民を、男は鋸で裂いた。胸を横一文字に裂かれた住民は悲鳴を上げる。血が迸る。その悲鳴によって思い出したように現状を把握する住民達だが、しかし男は止まらない。攻撃の後すぐさま重心を落として踏み込み、住民の間をすり抜けた。

その先には、依然狼狽える猟銃を持った住民がいた。

仲間の間から突然に現れた男の姿に焦り、ろくに照準もつけぬまま発砲する。男はそれを読んでおり、地を這うように深く姿勢を落としてそれを回避、さらに距離を詰める。

ここで男は、姿勢を戻しながら右腕を振りかぶった。

鋸を振るには明らかに遠い。だというのに、男は腰を捻り、左肩の上まで振りかぶる。

男の右手は、持ち手の手前を掴んでおり、親指が不自然な位置にあった。握り込むのではなく、持ち手の背に這うように飛び出た金具に触れていた。

住民との間合いは依然遠い。しかし男が親指で金具を押し込むと、鋸と持ち手の接合部を支点としてせり上がり、鉈が現れた。鋸の峰にあたる部分には、鉈が仕込まれていたのだ。

男は右手を滑らせて持ち手の終わりまで持っていった。武器の変化、持ち手の移動によって刃の位置が大きく変わる。鋸では足りなかった距離が、完璧な間合いとなった。

男が鉈を振り下ろす。住民の右肩から刃が入り、左脇腹へと抜ける。その間にあった猟銃を支えていた左手は、刃の通過と同時に断ち落とされた。

振り下ろした勢いをそのままに、左足を軸とした後ろ回し蹴りを住民の腹に打ち込む。血と空気を口から吐き出しながら吹っ飛び、壁に叩きつけられる。

男は遠くでたじろぐ残りの住民へと目を移し、右手の鉈を再び鋸へと変形させた。農具を構えてじりじり下がる2人の住民と、裂けた胸を押さえて悶える1人。

 

「あと3匹」

 

男の声は小さすぎて、街に響く事はなかった。

 

 

 

最初の会敵から暫く経った今なお、神経は張りつめたままだった。

銃声と悲鳴を聞きつけた群衆から隠れるように歩き回り、その都度邪魔になった住民を殺傷する。音を立てずに殺す事が最良ではあるものの、獣の肉体と生命力を前にしてはそう上手くもいかない。複数を相手取る事になれば、否応なく音も気配も出てしまう。そんないたちごっこも初めてという訳ではなかったが、しかし今夜の事態は初めてだった。

男以外に音源がいたのだ。

それも随分と派手な。遠く離れた場所であろうと、反響して聞こえてくる程の大きな破壊音だった。

 

「何だ……?」

 

間髪入れずに響き渡る銃声、叩きつけられる肉の音、絶叫。その音の元へと、自然に足が向いていた。興味本位であったが、如何せん初めての事だったので、確かめずにはいられなかった。

暫く歩みを進めると、死体が転がっていた。胸が潰れ、血と肉片、骨の欠片が道一杯に広がっていた。

死体など探さずとも見つかるが、この手のものはあまり見ない。胸の傷は貪られて出来た訳ではない。殺傷だけを目的として、かなりの速度あるいは質量のものによって生じた傷であるように見えた。

 

「狩人がいるのか……?」

 

自分以外にも狩人がいる。そんな事は知っていたが、しかし出会う事は驚く程になかった。かつては多くいたらしいが、今となっては望むべくもない。こうして今まで夜を彷徨ってきたが、一度として会う事がなかったという事実こそがその証であろう。

だからこそ、興味が湧いた。自分以外の狩人というものに、男は一度会ってみたくなった。

この死体はまだ新しい。そして、自分以外の音源の正体というのも、おそらくその狩人だろう。そう予測した男は、死体の先へと進んだ。

 

そこから先は、凄惨な有様だった。

 

砕けた道と壁、弾痕。辺り一面を彩る血と肉の赤。馬車も格子も獣も、みな等しく歪み、ひしゃげ、潰れている。一体何をすればこんな事になるのか、男には想像がつかなかった。

むせ返りそうな血溜まりの中を慎重に進んでいくと、その先の潰れた複数の死体の中、血まみれの人影が、墓石に手を掛けて佇んでいた。

その背中には、ヤーナムの獣狩りを統括する組織「医療教会」の証である聖布が見て取れた。どうやらこの人物が音源、別の狩人のようだった。

 

ふと、人影の頭が動いた。こちらに振り返ったようで、肩で息をしながら声を紡ぐ。

 

「獣ばかりだ……人など最早残っていないではないか」

 

声色から性別は男だと判断した。目深に被られたフードに遮られて、顔を見る事が出来ない。

 

「お前は人か? 違うな、血の臭いがする」

 

この空間の中で、血以外の臭いなど認識しようがない。この狩人はそれに気付きもしないのか。

 

「獣は狩らねばならぬ。それが我らの使命なのだから」

 

影がゆっくりと立ち上がる。左手は力なく垂れ下がり、左足は引きずるようだ。だがその足で、血の上を踏みしめて、こちらに顔を向ける。

僅かに見えたその瞳は、既に溶けきっていた。

右手は側にあった不自然な墓石を掴む。それはまるで墓石に持ち手がついているような、ともすれば鎚とも呼べるようなもので、血濡れたこれこそが、あの死体と傷を作った正体だった。

 

「だから私が、貴様らを叩き潰してやる!」

 

そう吠えると同時に狩人は、驚くべき速度でこちらに向かってきた。傷を負っているであろう左足など一切気にする素振りも見せない。右手に持たれた墓石の鎚は手放される事なく地面を引きずり、石同士が擦れる音を響かせる。

男は面を食らっていたが、目前に迫る危機にすぐさま切り替え、迎撃の姿勢を取る。相手は1人、それも手負い。だが、そう考えない方がいいだろう。半端な住民などとは比べ物にならない程危険な存在だ。現にここまでに敷き詰められた死体全てが、彼によって作られたのだから。今まで感じた事のない程の危機感を前に、男は神経を集中させる。

狩人は構わずに突進してくる。そして目前に迫った時、身体が捩じれた。

 

――来る!

 

男は後ろへと飛び退いた。その僅か前を、石の塊が空を切る。右下から振り上げられた墓石は、地面を削りながら、近くに転がっていた死体諸共巻き上げて、男を叩き潰そうとした。

巻き上げられた死体は吹っ飛び、壁に叩きつけられて赤い花を咲かせる。その後少し遅れて下に落ち、ぐちゃりと音を立てて潰れた。

男はと言うと、戦慄していた。あんな満身創痍の状態で、あれ程の破壊力を出せるとは。まともに食らえば、どころか、掠っただけでもまずい。

 

荒い呼吸を続ける狩人を前に、男は攻め手を考える。

狩人の攻撃は確かに脅威だが、しかし大振りで、連続ではない。一度外せば大きな隙が出来る。しかしそんな見れば誰でもわかるような弱点があってもなおここに立っているという事は、その隙を埋める手を持っている、あるいは物ともしない強靭な肉体を持ち合わせていると考えた方が良い。

現状あるとすれば、後者だろう。あの状態であれだけの動き、生半可な攻撃は通用しないかもしれない。

 

ともなれば、要求されるのは、確実に仕留められる一撃。

 

幸い狩人の動きはわかり易い。搦め手の欠片もない、突進からの重い一撃。あれだけの質量の物体を振り回しているものの、しかしやはり本調子ではないのだ。引きずる以外の持ち方が出来ないものなど、武器とするには不足過ぎる。つまり今の狩人には、あれを持ち上げられる程の力はない。ならば動きなど見え透いている。

 

狩人の攻撃は依然続いているが、しかし男は軽やかに回避し続けている。

一撃、また一撃と避ける度に、狩人の攻撃は切れを鈍らせていく。血が噴き出す程に歯を噛み締めている事から、苛立ちも混じり始めている筈だ。

 

「忌々しい……」

 

狩人の声がけたたましい破壊音に混じって男の耳に届く。

 

「どうして貴様ら獣というのは、そうも跳ね回るのだ……」

 

がぎり、と硬いものを砕くような音と共に、狩人の口から白い欠片が血と共にが吐き出される。歯だ。狩人の歯が噛み締めるあまり砕けたのだ。

なおも狩人の声は続く。

 

「煩わしいのだ! 我が物顔でのうのうと!」

 

また空振った狩人の攻撃と共に、ぶちん、と大きな音が鳴った。狩人の右腕から血が噴き出す。皮膚が、筋肉が千切れている。なのに動きは止まらない。生じている筈の痛みに悲鳴も上げない。狩人の身体を動かしているのは、最早獣への怒りだけだ。

 

怒りは力を与える。その力は猛々しいが、しかし鈍く、大雑把だ。殺意程の切れも、計算高さもない。ただ溢れる感情のままに、絶えず湧き出す怒りのままに、手当り次第に力を放出する。

力は振るうものであって、振り回されるものではない。そして振り回される力は、実にみすぼらしく、そして雑味に溢れている。

 

――勝機は、今だ。

 

男はわざと動きを鈍らせた。

それを隙と捉えた狩人の口角が上がる。今まで以上に大きく振りかぶり、一撃の元に叩き潰すつもりだろう。全身の筋肉と骨の軋みがこちらにも聞こえてきそうな程だ。

 

「死ねっ! 獣が!」

 

狩人が吠える。獣のように。溶けたその瞳に映るのは目前の男で、宿すのは怒り。

五体が千切れ、肉塊になる様を想像し、大きく歪んだ口からは鋭く尖った犬歯が覗く。

狩人は勝利を、狩りの成就を確信した。

 

それこそが、男の望んだ隙となった。

 

素早く上げた左手の短銃が火を噴き、水銀と血の混ざった弾丸が射出される。それは男の狙い通りに狩人の右肩に突き刺さる。

速度が最大に達する前の狩人に叩きつけられた水銀の弾丸は、不安定な重心を崩し、振りかぶる動きを止めてしまった。

重心のずれが姿勢までも崩し、狩人の右膝を挫く。無防備になった腹部めがけて、距離を詰めた男の右腕が突き出された。

 

内臓攻撃。

腹部を突き破り、内臓を掴み上げ、捩じり切るように突き放す。脆い内側を直に攻撃する、言うまでもなく強力な一撃である。

 

悲鳴と血を一緒に吐きながら、狩人が石畳の上を転がる。その右手から墓石が離れ、重い音を立てて道へと落ちた。

夥しい死体の中、最後に立っていたのは、男ただ1人だけだった。

 

 

 

狩人を狩った。

いままで獣となった人間ばかりを狩ってきたから、この体験も初めてであった。手袋越しに伝わる血の暖かさと粘つきが、そのまま心に絡みつくようだった。

 

だが、男がその感触に浸り切るよりも早く、異変が襲った。

吹き飛ばされた狩人の遺体が、がくがくと震えはじめた。

 

「まさか、生きているのか……!?」

 

内臓に直接攻撃を加えられてなお動けるなど、獣でもそうあり得る事ではない。しかし男のこの予想は、少しだけ違った。

 

生きてはいた。だが、変態したのだ。

 

肉体が悉く裂け、千切れ、それを繋ぐように肉が膨れ上がる。

軋むどころか折れた骨が、みるみる太く、大きく、形を変えていく。

形の定まり切らない肉から既に白い毛が生え始め、自らの血によって赤く染められていく。

やがて肉の膨張は収まり、五体を形成し始める。

動物の後ろ足のように関節が2つある足。

長く鋭い爪を持った、細く血濡れた腕。しかし左腕だけが異様に大きい。

内臓すらも詰まっていないのではないかと思える程に痩せ、肋骨が浮き出た胴体。その背から生える血染めの白い体毛。

無数の牙を持つ狼のような顔と、鹿のような角。

 

先程まで人だった狩人は、いままで男が見た事もない、巨大な異形の獣へと変態した。

 

巨大な獣は、不自然に発達した左手を支えに立ち上がった。ゆらりと、血を滴らせながら。

男は、その獣と目が合った。無数の眼全てが、男の瞳の奥を覗いていた。

その次の瞬間、獣は吠えた。

悲鳴にも似た、甲高い叫びだった。

 

「そんな風に吠えるのだな……」

 

男はそう呟いたが、獣は返答などしない。

代わりに左腕を、天に向かって振りかざした。

 

――まずい……!

 

男は咄嗟に後方へ下がろうとしたが、遅かった。

男のいた位置へと叩きつけられた巨大な左手は、石畳どころかその下の地面すらも吹き飛ばした。その飛び散る破片が、正面から男を打ち付ける。咄嗟に両手で庇ったが、破片の勢いを殺す事は出来ない。左側頭部、右肘、左脇腹、右太腿に破片が衝突する。そのまま背中から石畳の上に落下し、肺の中の空気を全て吐き出してしまった。全身の痛みと呼吸出来ない苦しさの中でも、寝ている訳にはいかず、なんとか動かせる左手を支えに、よろめきながら立ち上がる。視界の左半分が見えない。右手はもう力が入らず、左脇腹は焼けるように熱い。右太腿は脈打つ毎に激しい痛みが主張してくる。

もう一歩も動けない。ここに立ち尽くす事しか出来ない。

近付いてくる足音の振動によろめきながら、それでも左手を上げる。握られているのは、父から受け継いだ短銃。霞む視界に映る無数の眼を目掛けて、引き金を引いた。

 

だが、弾丸は発射されなかった。当然だ、狩人を仕留めたあの時から、排莢と装填をしていないのだから。

 

獣の左手が、無造作に男を掴みあげる。その握力で全身の骨が軋み、あるいは折れ、男は力なく呻き声を上げた。

男の左手から短銃が落ちる。それに気付かず、どころか気にする様子もなく、踏み出された獣の一歩によって、情けない音を出して足の裏に消えた。

獣が男を目の前まで持ち上げて、無数の眼でその顔を見た。

男は口から血を垂らしながら、消えるような声で言った。

 

「なんだよ……お前が、獣じゃあないか……」

 

獣は短く、しかし強く吠えると、男を建物の上へと投げ飛ばした。

全身で風を着る感覚の後の、僅かな無重力の中。男には何も見えていなかったが、しかし思い出している事があった。

 

木々の緑。

焚火の熱。

くすんだ街並み。

銃声。

父親。

血。

獣。

 

今まで見てきたものと、何も変わりはしないじゃないか。

男は毒づいたが、それもそうだ、ついぞ一度として、このヤーナムから出た事などなかったのだから。

一度くらい、外を見てみたかったな。そう思いながら、無意識に目を開けていた。

 

霞んだ視界のその向こう。そこには、星々の輝きがあった。

赤、あるいは白、緑。

強く光ったと思えばすぐに消えたり、弱くても絶えず光り続けたり。

まるで誰かに囁くように穏やかに、あるいは訴えるように力強く、明滅し渦巻く光の群れ。

目まぐるしく変わる数多の輝きを見て、男はこう呟こうとした。

 

「これが、宇宙(そら)なのか……?」

 

しかし、そう言える程の気力など残っていなかったし、下水道に叩きつけられて死んだから、声など出しようもなかった。



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。