北の盾たる己が身を (黒頭巾)
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黄巾の乱
仕官


別作品書くのに疲れたから息抜きに。
関羽に兄は居ない。いいね?


赤い髪が一際目を引くその少女は、自慢の白馬を股にかけて悠々山地を登っていた。

腿で締め、緩め。緩急を必要に応じて繰り返し、通常ならばまず不可能な急斜面をポクリ、ポクリと上がって行く。

 

この山の中腹に、彼女の友が住んでいた。

 

「李師は、居るかな」

 

呟いた言葉がざわめく木々に掻き消され、空気に溶ける。

ふわりと山頂からの吹き下ろしが後ろで一つに束ねた髪を撫で、馬の尾のように波打たせた。

 

暫く進み、中腹に付く。

 

途中で切れたような異様な段差の断面に、家が一軒建っていた。

赤い馬と、雨を凌げる程度の住居。妙に生活感のある山小屋というのが、表現として正しいのだろうか。

 

馬から降り、手綱を引く。家の脇に立てられた二本の棒にうち一つそれを括りつけると、彼女は静かに二つ戸を叩いた。

 

「李師」

 

「入ったらどうだい、伯圭」

 

姓は李。性別は男。年齢不詳。

怪しさ満点の男の屋敷に、伯圭と呼ばれた少女は戸を引きながら半身を入れる。

馬に載せてきた幾ばくかの食糧を運び入れ、彼女はすっと辞儀を正した。

 

「李師、私は門下書佐から遼西郡の郡太守になった」

 

「それはおめでとう。そして、今回もありがとう」

 

狩りでは絶対に手に入れることができない穀物を運んできてくれる伯圭は、彼にとっても非常に稀な来訪の嬉しい部類に入る客である。

他は、仕官しろだの何だのとごねてくる高官の使い走りだから、余計に。

 

「私の元に来て、知恵を貸してはくれないか?」

 

「私は別段栄達など望んでいないし、晴耕雨読の生活を営めればそれでいい―――と、言った筈だ。それにも関わらず君が再びそれを口に出したということは、何かがあるんだろうね」

 

史記と銘打たれた書物を傍らに置き、李師はゆったりとした怠け姿を保ったままに目で先を促した。

 

「袁家が来るぞ。山を焼いて燻り出しに」

 

「私は獣扱いかい?」

 

「滅多に山を下りないのだから珍獣だろう。ともかく、あなたの名声を袁家は手に入れようとしている」

 

嘘か真か、彼の祖母はかの『登竜門』李膺であると言う。

誰かが意図的にぼやかしたかのようなそんな不確定極まりない噂だが、火のないところに煙は立たない。そう思った袁家が調べたところ、どうやら『そう』であったらしい。

 

「今までも何回か手酷く断っただろう。刺客が放たれたことも一度や二度では片付かない筈だ」

 

「それはそうだ。だが、彼女らは畑の肥料になっているよ」

 

『温和な顔で毒を吐く』と父親の李瓚に評された李師には、とびっきりの護衛が居るらしいと言うのが、専らの噂だった。

肥料になっているという物言いからするとソレはどうやら正しいらしいが、その護衛がいくら強くとも火には勝てない。

 

「時々知恵を貸してくれればそれでいいんだ」

 

血統重視のこの中華で、彼女は父方の血が厭しいが為に色々と苦労をしてきた。

李瓚以外の李一門の中で登竜門に唯一『才有り』とされたこの男の手を借りれば、豪族をまとめるのも円滑に行く。

 

名声と、能力と。それを兼ね備えた彼は、男であることを差し引いても尚一目置かれる隠者だった。

 

「務めは?」

 

「無役。衣食住は保証するが、それ以上はしない」

 

李師は、史記を暗記することに費やしていた頭をほんの少しばかり使い、黙る。

名声も出世もどうでもいいが、山を焼かれるのは少し困ってしまう。何せ、彼の愛読する史記も燃えてしまうのだから。

 

護衛たる少女に運ばせるというのもあるが、そんなことをすれば護衛が護衛でなくなってしまうのだ。

彼女は到底、受け入れはすまい。

 

「潮時か」

 

「つまり!」

 

「無役。私と護衛の衣食住を保証する。これを履行してくれるならば誓ってあなたに知恵を貸す」

 

念願の、軍師を手に入れたぞ!

そう叫びたくなる自分を懸命に抑えながら、伯圭は震える声で次の言葉を繋いだ。

 

「では、降りてくるんだぞ?絶対だぞ?」

 

「ああ、降りる。屋敷の用意ができたら使いでも何でも寄越してくれ」

 

既にうきうき調子で山を下りていく伯圭に辟易しながら、李師は軽くため息をつく。

祖母から戴いた、複製本の史記。まだ三十四週しかしていないのに、この山を下りることになろうとは思っていなかった。

 

「李元礼の孫でなければ、こんなことにはならなかったのかな。いや、そうでなければ歴史を知ることなどできなかったし、史記も手元にないからどっこいどっこい、なのか?」

 

卵が先か鶏が先か。そんな慣用句が頭を過り、過った頭を左手で掻く。

伯圭。というか、公孫瓚。彼女がまだ幼かりし頃、相談にのったばかりにここまでズルズルきたのか。

 

珍しくした善行が災いを呼んだのか、珍しいからこそ災いを呼んだのか。

どちらかは解らないが、自分は割りと理不尽な目にばかり合っているような感が、彼にはある。

 

「……全く、何故こうも世の中は私に厳しいのかな」

 

北方戦線で戦い、罹病したのをいい機会に戦災孤児を拾って隠者となったら、また災いが降ってきていた。

 

だが、北方戦線に行かなければ戦災孤児を拾うことはない。罹病したかはわからないが、どっちにしろ自分は隠者となっていただろう。

隠者となり、それを貫こうとすれば口が辛辣になる。辛辣になれば刺客が送られてくるだろうし、それを防ぐことは自分にはできない。

 

つまり、災い第一号と言える北方戦線に行かなければ、自分は死んでいるのだ。

 

「複雑なものだ、全く」

 

ごろりと背を板を敷いた床に預け、李師は一つ欠伸をこぼした。

寝たいときに寝れる生活も、今日明日明後日で終わり。そう考えるとこの虚しい午睡がとてつもなく魅力的なものに見えてくる。

 

そのまま怠惰な睡眠の世界に突入しようとした、その時。

 

血抜きを終えた熊の死骸を引き摺りながら、頭から綸子を生やしたが如き少女が戸を叩いた。

 

「嬰、戻った」

 

「熊は食べられないかな」

 

一瞬で断りを入れ、俊敏な挙動で身を起こす。

熊なんぞをひょいっと家に突っ込まれたら、もはや寝ている場合ではなくなってしまう。

 

そんなことだけは、御免だった。

 

「嬰、楽しい?」

 

「ん?」

 

「楽しそう」

 

取り敢えず熊は街に売りに行くことにした二人が夜食の準備に入った時、紅髪の少女は呟いた。

 

「……そうかな」

 

「そう」

 

家事を終え、配膳まで終えた紅髪の少女にお礼を言うでもなく、李師は食事に手を付け始める。

 

「嬰、頼られたら断われない。頼られたら、嬉しい。だから動く」

 

「嫌だな、恋。私ほど怠惰且つ頼られることを嫌う人間も居ないよ?」

 

「嘘」

 

一言で否定され、李師は軽く怯んだ。

この戦災孤児だった少女には、家事のいろはを教えてそれっきりだというのに、いつの間にやら色々覚えてくる。

 

我流とはいえ武術もそうだし、真実をピシャリと言い当てる慧眼もそうだ。

 

「嫌いなら、相談に乗らない」

 

「……まあ、兎に角引っ越しだ。使者が来たら、ということになるけどね」

 

怠惰で居たいが、人の役に立つのも吝かではない。二律背反の穴を突いたご尤もな指摘を受け、李師はそういえばといったように話題を逸らす。

郡太守・公孫伯圭。彼女がどのような道を辿るか、どこまで位を上げていくかは未だ未知数だが、一つだけわかることがあった。

 

たぶん、自分は彼女の為に働くことになる。何せ、人材が居ないのだから。

 

「……わかってるなら、逃げればいい」

 

「野垂れ死ぬのは御免こうむりたいね」

 

身体が頑健な彼女とは違い、彼の身体は丈夫ではない。旅をすれば道中で死ぬ部類であり、自身もそれを理解していた。

 

「……恋、お願いがある」

 

「何かな?」

 

「武器、欲しい」

 

腰に履いていた骨剣を見せ、その刃の溢れ具合をよくよく見えるように火にかざす。

なるほど、使い込まれただけに壊れかけの惨状ではある。が、決して使い潰されたような印象は受けなかった。

 

恐らく、何回も研ぎ直して使ったのだろう。有り余る膂力を懸命に調整し、力でねじ殺すのではなく技巧を凝らして敵を制す。

計らずとも、彼女の狩りはそのような鍛練になっていた。

 

「何でもっと早く言わなかったんだ?」

 

「大事にしてっていったから、大事にした。恋、頑張った」

 

「物事には限度というものがあってだな……全く」

 

ポリポリと濃紺と黒を混ぜたような髪に埋もれて頭を掻きつつ、李師は軽くため息をつく。

 

「伯圭の元で一手柄上げる。それの報奨金でとびっきりを買ってやるさ」

 

「うん」

 

「それまでは私の履剣で我慢してくれ」

 

李家に伝わる―――と言うほどのものではないが、祖母から戴いた業物の直剣。

彼女の天然物の並外れた膂力に適うかどうかはわからないが、手先が不器用な彼が必死で作った骨剣よりは幾分かマシなはずだった。

 

「嬰の護身、は?」

 

「宝の持ち腐れという先人の偉大な偉大な言葉があり、適材適所という言葉もある。私が狙われたら、得物を持っていても抜く前に命が絶えるさ」

 

「ん。恋が護る」

 

実際彼は、馬にも乗れない。剣を使えない。槍も、弓も、全てがてんでダメである。

 

それとは反対に恋と呼ばれた紅髪の少女は馬はもちろん、剣も槍も弓も独学で境地に達するほどの使い手だった。

 

「よろしく。まぁ、保護者が被保護者に護られるっていうのも、おかしな話だが」

 

「適材適所」

 

「違いないな」

 

軽く笑い、恋は何を笑ったかもわからずにキョトンと首を傾げる。

仕官する、十日前のことだった。



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規定

「伯圭。人材は集めないのかい?」

 

「……何だ、いきなり」

 

相変わらず斜め右後ろに綸子を生やした被保護者を連れながら、李師―――本名不詳―――は字を呼び捨てにしながら問うた。

 

と言うか、この時点で既に主に対する態度ではない。彼は二年間の間変化のない無役の相談役。眼の前の伯圭はかなり出世して郡太守。

天と地ほどとは言えないが、その身分には梢と地ほどの差がある。

 

血筋からすれば、李師が天で伯圭が地だが。

 

「私は郡太守だぞ?」

 

その一言には、彼女の野心の無さと己に対する自信の無さが滲み出ていた。

彼女の中に非凡な物はあるが、どうにも己を過小に自己規定するきらいがある。

 

それが、何事も卒なくこなせる彼女の才幹を『全てにおいて一流半』と言うものに縮こめてしまっていた。

 

(産まれの差と言うものかな)

 

厭しい、厭しいと言われれば、誰しもが良い思いは抱かない。そう言われれば、反骨精神旺盛であったり、自信のあるものは反発するであろう。

だが、彼女は従順で善良だった。悪く言えば卑屈だった。

 

それがこの強固で矮小な自己規定に繋がっているのならば、それは彼女の父母の教育が問題であろう。

 

「しかし、だ。小役人を募集するときに小役人の適性しか持ち合わさない者しか採用しなければ、いずれ困るのは君だと思うんだが」

 

「大人物というのはそこらに転がっているものではないし、何よりも役人にその人材を宛てがっても才気を持て余すだけだろう」

 

「大は小を兼ねると言う。例を挙げるならば、かの漢の三傑たる韓信は知事になり、穀物役人になっても過不足なくこなした。彼女は間違いなく大将軍の器があった。だろう?」

 

韓信と言う、謂わば教養が豊かではないものでも知っている広義な例を挙げた。

彼はここで、反応を見たと言っても良い。

 

『それは韓信だからだ』と返したら、自己規定は難攻不落だろう。しかし、渋れば僅かに期待がある。

 

彼女の、自身に対する期待が。

 

「それはそうだがな……」

 

「君は郡太守では終わらない。今は一流半でしかないが、精励を積めば一流になれるだろう」

 

ピクリと、伯圭の眉が動いた。

褒められることに慣れていない。そんな反応であり、脆い感情が僅かに透けて見える。

 

押せば崩れるが、崩す気などは毛頭ない。

 

「人材とは、名士のことだろう」

 

「名士を受け入れろとは、言わない。君の生い立ちからしてそれは難しいだろうからね。

が、利用くらいしてみたらどうだい?」

 

伯圭は、名士嫌いだった。

と言うより、偉ぶった名士が嫌いだった。

 

能力のない名士は、偉ぶらない。偉ぶることができないと言い換えてもいい。

名を売ることのできていない状態で偉ぶることは、自分の将来を潰すことになる。

 

『有名ならば威厳、無名ならば傲慢』。そして、伯圭にとっては劣等感補正が掛かって全てが偉そうに見えていた。

 

当然、優秀さとプライドの高さは比例する。プライドばかり高いのも居るが、そう言った類は親が徹底的に叩き直すので極小数でしかない。

 

偉そうな癖に無能という評価は、基本的に『一というより優秀でプライドの高い対象』がないと成り立たないのである。

 

「お前は偉ぶらないよな」

 

「肩肘張るのも、案外と疲れるものだよ」

 

基本的には名士にあるまじき低姿勢である彼は、基本的には舐められない。それは偏に彼が有名だからであり、祖母がそれに輪を掛けて有名だからだった。

 

「それに、私の名声の九割五分が祖母からの一言で構成されているからね。威張れもしないと言い換えても良い」

 

「名士の件は、考えておく。私も彼女等が嫌いな訳じゃないからな」

 

拗らせかけていた割りには、やはり素直なところがある。

そう思いながら、李師は一礼して静かに場を辞去した。

 

「お節介?」

 

「うん。自覚はある」

 

これから、世は乱れる。そこを生き抜くには彼女は優し過ぎるし、甘すぎるのだ。

人材も、少ないに過ぎる。

 

「郡太守と言えば、かなり良い地位だ。彼女はもっと効率的に人材を集められる筈だし、ここで集めておけば後々困らない筈なんだが……」

 

「嬰も、優しい」

 

「なるべく平和に怠けていたいからね」

 

出来うる限り働きたくない彼からすれば、主体となる人材が自分しかいないこの現状をどうにかしたかった。

今、彼女の下には末端となる人材しか居ない。それで良いというのならばそれでも良いが、この戦乱が間近な国で郡太守を務めている以上、巻き込まれることは免れないだろう。

 

「私は言った。後をどうするかは彼女次第だし、彼女がどうするかまでに口を挟む気はない」

 

「なんで?」

 

「私は本を読んでいればそれでいい。だが、働かなければ食っていけない。だからここに来た。来た以上、食わせてもらっている以上は助言はするが、それだけでしかないんだよ」

 

つまり、やることはやるが超過勤務はしない、ということだった。

人材が必要なのではないかと言う予測を汲んで提言したのも、偏に『楽をしたいから』である。

 

このままでは近々、また自分は戦場に立つことになってしまうし、幽州は散々に荒らされることになってしまうのだ。

 

「……やる気、ない?」

 

「生命を維持する程度にはあるさ」

 

つまり積極性はないということを暴露しつつ、李師は早々にその場を辞す。

後世、『野心と積極性に大いに欠ける』と言われただけあって、彼の挙措には浮世離れしたような感があった。

 

「そうだ。君の武器を買いにいこう」

 

唐突に、李師は掌に拳を打ちつけながら閃く。

どうにも、彼は今の今まで忘れていたらしい。

 

「…………あ」

 

言われた本人も忘れているから、どこからもツッコミが入らなかったのが主な原因なのかもしれなかった。

元々一日を庭に舞う蝶をぽけーと見ながら過ごせる恋と、わざわざ加工した椅子に揺られながら史記を読んで一日が終わる李師。

 

狩りをしなければならなかった山での生活とは裏腹に、彼等の生活には武器というものが縁遠かったのである。

 

鮮卑が来て、その結果として伯圭が郡太守となる十日前までは。

 

鮮卑が来て、伯圭が馬に、李師が揺り椅子に車輪をつけた手押し車に乗って郡境まで出征。

五千と五百の睨み合いの末、負けたのは五千の方だった。

 

「……嬰は、何したの?」

 

「あの鮮卑の頭目は、元々競争相手でしかなかったからね。離間の計を使って相討たせたのさ」

 

彼がやったことと言えば、噂をばら撒いて仲違いさせ、程よいところで退いて内乱を誘発。互いが疲れ切ったところに五百の兵で奇襲を仕掛けたに過ぎない。

 

恋は人差し指と中指で器用に矢を掴んだり、剣で弾いたりしていただけだが、それでも彼女の武威は幽州のその道の心得がある者の中で著名なものとなっている。

 

「敵を嵌めたいなら敵が望むように動いてやればいいし、敵を思うように動かしたいならそう動くようにしてやればいい。何故か皆、そうはしないようだが……私はそこらへんに躊躇が無いんだ」

 

愛しい揺り椅子が破損したことを思い出しつつ、李師は軍御用達の武器屋に向けて足を向けた。

区画整理はまだ済んでいないし、やるかどうかすらも危ういが、ともあれ郡の要職についている人間や御用達の店は政務府の周りに集中している。

 

故に、帰宅途中でも少し足の運ぶ方向を変えればすぐに武器屋に向かうことができた。

 

「何が欲しい?」

 

「……壊れないの」

 

武の天稟を持っていない李師には皆目わからないが、彼女は天才という部類に入る傑物らしい。

 

彼は、彼女にそんな才能などを期待していない。ただ善く育ち、善く学び、然るべきところに嫁いでくれれば何も言うことがないと思っていたのである。

 

彼は彼女に文字を教えた。家事も教えたし、料理の秘伝も教えた。

軽い護身術が記された竹簡もあげたが、それは本当に『無防備で危ないから』という老婆心からだった。

 

文字も料理も吸収が早かったが、所詮は努力で到達できる一流にしかなっていない。なら、武術もそんなものだろう。

 

その見通しの甘さは失望でも何でもない。この世で平和に生きていくには名声も能力も要らない。ただ、そこそこ全てできれば良いのだ。

無表情ながら誰よりも優しい彼女には戦場に立たせなくないと思っていたから、無意識的にそう規定したのかも知れない。

 

が、その見通しの甘さを裏切って彼女は恐ろしく強くなった。

 

武術を学んで二日で、玩具のような骨剣で城下の武芸大会を勝ち抜いてしまう。

 

踏み込む。

左で殴る。

右で斬る。

 

初期の型であるこの三動作をひたすら繰り返し、恋はひたすら勝ち進んだ。

 

その大会の中には、引退した羽林―――皇帝のエリート親衛隊―――も居たし、幽州の元武術師範もいた。

 

それを尽く一太刀一拳で気絶させ、彼女は賞金だけとって帰ってきたのである。

 

同じことを繰り返しているだけなのに勝てないというのは、名将の用兵に見られる現象だった。

彼女の武技は、最初期からそれほどのものだったのだろう。

 

「壊れないの、か」

 

「うん」

 

戦場だろうがどこだろうがとことこと着いてくる彼女を引き離すのは、もう不可能。不和のある敵に離間はかけられても、人を疑うことを知らない恋には離間は無意味でしかないのだ。

 

ならばもう諦め、死なないようにしてやることだけが彼の出来ることだった。

 

「店主、壊れない武器はないか?」

 

「武器屋が言うことではありませんが、形ある物は皆等しく壊れるものですので……」

 

非常にご尤もな説に大きく頷き、少し困り顔の店主に頭を下げる。

我ながら頭の悪い質問だと、彼は言った端から理解していた。

 

「ですが、壊れにくい物ならばあります。しかし―――」

 

「しかし?」

 

「どうにも、その……重いのです。隕鉄を使っているので、強度は心配要りませんが、持ち上げられないと言う難点がありまして」

 

店主は、たははと言うような虚しい笑い声を上げる。

数十年に一度降るか降らぬかの隕鉄を買い、己の全てを懸けて打った武器が誰も持てないとは、ご愁傷様としか言えなかった。

 

「だが、打ち終えたあとはどうしたんだ?」

 

「店の者八人がかりで運び、そこに」

 

指さされた先にある戟は、床に自重で以って凹ませ、めり込ませながら突き立っている。

通常の戟よりも構成部品が多いことが却って更にその重量を増やしていることが容易にわかった。

 

「これは、新しい武器だな」

 

「私は、方天画戟と言っております。穂先での突き・斬り、月牙での薙ぎ・払い・打ちの全てが出来る万能武器であり、この月牙で巧く受ければ敵の攻撃の衝撃を逃し、攻防一体の設計になって……おりました」

 

過去形なのは誰も持てないからか、或いは持てても機敏に使い分けられないからか。

机上の空論と言う言葉が脳裏を過った李師の服の裾を、じーっと方天画戟を見ていた恋が引いた。

 

「持って、いい?」

 

「持てるのかい?」

 

「……、……うん」

 

「無理はしない方がいいと思うんだが」

 

「できる」

 

一つ首を傾げ、その後に頷く。

熊を引き摺ってこられるあたりに彼女の怪力を感じていたが、流石にこの化け物戟はどうかと聞かれれば、即答できない。

 

何せ、ただ床にめり込んで立っているだけでも威圧感が凄まじいのだ。熊も勿論威圧感があるが、この戟は他と隔絶している。

 

手を潰したら目も当てられない重傷になるだろうし、他の武器を使っても充分強い。

方天画戟を触っている彼女にそのことを言おうとした瞬間、方天画戟が床から抜けた。

 

「……いい」

 

片手で軽々持ち上げ、外に出て風車の如く振り回した挙句に、恋は再び小首を傾げて不思議がる。

周りから向けられた奇異の視線に気づいたのか、店主から向けられた畏怖の視線に気づいたのかは、解らない。

 

「嬰、買って?」

 

しかし、彼女がとった行動は『おねだり』であり、それでしかなかった。



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客将

公孫伯圭は、悩んでいた。

《君は郡太守では終わらない。今は一流半でしかないが、精励を積めば一流になれるだろう》

 

《名士を受け入れろとは、言わない。君の生い立ちからしてそれは難しいだろうからね。

が、利用くらいしてみたらどうだい?》

 

相変わらず柔らかく、温和な語調を崩さない彼の言った言葉が、脳の中で反響する。

 

「私が、一流に……?」

 

産まれの悪さが、呪いの如く思考を縛っていた。

どう足掻いても、光の当たる道を歩く堂々たる名家の連中や、名士には敵わないのだと。

 

どうせ、己は平凡なのだと。

 

そう言った矮小さに閉じ込めるような自己規定が、彼女の翼をもいでいた。

 

《この国の、皆を笑顔にしたいんです》

 

廬植の塾に通っていた頃。

卒業式で廬植に将来の夢を尋ねられた時に桃髪の少女が吹いた大真面目の法螺を聴いて、その場に居合わせた卒業生たちは一様に馬鹿にして笑った。

 

そんなことが出来るわけがないというのもあったが、何よりもその問いは不可能な物を含んでいる。

 

ただ一人笑わず、『頑張りなさい』と諭した廬植を除けば、伯圭だけは笑わなかった。

 

桃髪の少女―――劉備と友達であったからでは、ない。

その理想を尊いと思ったからでも、ない。

 

皆が笑っているその光景を見た彼女が初めに思ったのは羨ましさだったのだろう。

 

羨ましかったのだ。己の夢を見ることができ、それを恐れげもなく口に出すことができる彼女の大きさが。

 

「私は、何をしたいんだ?」

 

廬植には、『故郷で孝廉に受かり、役所に務めたいと思います』と、そう言った。

 

そう答えられた彼女は少し哀しさを目に宿らせて、少し頷く。それだけだった。

 

あの時、何を伝えたかったのか。何が哀しかったのか。それは今までわからなかった。

 

しかしあれは、夢が見れないことへの哀れみと、それを変えることのできなかった己に対する虚しさだったのでは、ないか。

 

「私は……」

 

目の前には、積まれた仕事がある。

配下には、『登竜門』李膺に『昨日と明日を善く見透す』と評された傑物がいる。

自分には、郡を治める権限がある。

 

「……私にしか出来ないことも、あるんだな」

 

武略は李師に及ばない。

武勇は呂布に及ばない。

政治は袁家の田豊に及ばない。

器量は劉備に及ばない。

 

だが、遼西郡を良くしていけるのは、今のところは自分だけなのだ。

それが権力とか、権限とかでしかなくとも、自分はこの土地を良くすることができる。

 

その為には、何が必要か。

 

自分風情はここでいいと、留まることではない。

一歩ずつしか進めないならば進めないなりに、着実に歩んでいくことこそが必要とされているのだ。

 

「さあ、進むんだ」

 

殻を破って、一歩一歩。

 

そんな彼女の執務室に、とある乱入者が現れた。

 

「公孫遼西太守!」

 

「な、何だ?」

 

どうにも、今一締まらない。

決意の場面に水をさされたどころか頭から浴びせられたに等しい所業を無意識にせよ受けておきながら、怒りもしないのが彼女の美点だった。

 

だからこそ、非常勤も真っ青な勤労頻度且つ勤労意欲皆無な男にタダ飯食わせておきながら何も言わないでおけるのだろう。

 

「客将として自らを売り込んできた者が居りまして」

 

「通してくれ。人材は広く求めるべきだしな」

 

彼女の思考は、だいたいが甘さを残した寛容さで出来ていた。

 

名士であろうとなかろうと、仕えてくれるというならば適切な役につけて遇する。

 

尤も、この客将は非常に優秀でありながら名士でもなく、頼りになること甚だしいから『誰であれ適切な役につけて』と言うのはいい。

防諜対策としては非常によろしくないが、この場合は良かった。

 

客将となるべく戸を叩いた彼女の名は、趙雲。字は子龍。

 

普通は客将として自分を売り込んでくる人間は郡太守風情には売り込みに行かないことを考えると、当たりも当たり、大当たりの人材だと言える。

 

「あなたが公孫伯圭殿ですな?」

 

通された客将候補の姿を見て早々伯圭―――公孫瓚が見たのは、槍だった。

いや、突きつけられたわけではない。ただ、売り込みに行く相手に武器を持ったまま来るというところに、彼女は僅かにこの人物の破天荒さを掴む。

 

「ああ。そう言うあなたは……二又に分かれた槍から察するに、常山の昇り龍殿か?」

 

ああ、優秀そうだ。

だけど、あの非常勤と同じような匂いがする。

 

つまり、自分の仕事を補佐してくれるような人材ではない。そんな気がした。

 

「如何にも。鮮卑の軍五千を奇略を駆使して撃破し、先日また勇名を上げられた郡太守殿に、我が槍を預けられるか見定めに参った。ともあれ、私が見定めるまでの間客将として使っていただきたい」

 

「わかった。だが、奇略は私が考えたのではない。李師がやったことを覚えていてくれ」

 

先ず、趙雲は『ほう』とばかりに公孫瓚を認めた。

彼女は、常に慇懃無礼ではあるが決して弁えられない質ではない。つまり、無礼ではあるが礼を知らないわけではない。

 

それがわざと礼を失した、品定めをするような言動をしている。

即ち、彼女は公孫瓚を試していた。

 

このくらいで怒るものならば、それまでだと。

だが、公孫瓚はそれをさらりと受け流している。咎めるでも無く、功を誇るでもなく、事実のみを述べていた。

 

(面白味はないが、懐の深い御仁のようだ)

 

面白味がないとは言っても、硬すぎるわけではない。

これは当たりかな、と。公孫瓚が彼女を見た時に思ったことを、彼女も公孫瓚を見て思っていた。

 

「ほう。登竜門に才を認められし、彼女の孫ですか」

 

一般的に知られている定型文に頷き、公孫瓚は客将として認可する旨の書類と仮の住居としての兵舎を与える。

身分証明書と、住居。どちらも無くてはならないものだった。

 

「それだけではないが、そうだ。客将として軍事に関わるのは明後日から。軍事の責任者の厳綱、あと副官の単経に挨拶しておくようにな」

 

「奇略の主が李師だと言うのに、彼が責任者ではないのですか?」

 

「非常勤だからな。訊けばわかる」

 

解せぬとばかりに顔を疑念に染める趙雲をさらりと流し、公孫瓚は無言で地図を渡す。

厳綱と単経は調練場に、李師は自宅に居るはずだった。

 

「非常勤とはこれ如何に」

 

サボり癖のある自分ですら、役を割り当てられたら部所には行く。

それが非常勤と言うならばわかるが、指し示されたのは政務を司る府を囲むように建てられた住宅街。

 

つまりは、自宅ということになる。

 

ブツブツと呟きながら、彼女は厳綱の元へと顔を出した。

 

「私は趙雲。字は子龍。これから客将としてお世話になる故、軍務の責任者足る厳綱殿・単経殿両将に挨拶に参った次第」

 

「これはこれはご丁寧に。儂が厳綱じゃ」

 

「単経です。よろしくです」

 

白髯の老翁に、怜悧な印象を受ける実務家の副官。

爺様と歳の離れた姪のように見える二人に挨拶をし、軽く今まで回ってきた諸勢力の世間話をした後、趙雲は気になっていたことを切り出す。

 

「李師と言う方は、非常勤だと小耳に挟んだのですが……これはどういう意味でしょう?」

 

「そのままじゃ。彼は無役の相談役に過ぎんからの。伯圭様から指揮を取るよう依頼された時のみここに顔を出す」

 

「それで果たして、兵は言うことを聞くのですか?」

 

趙雲の疑問は、尤もだった。

兵の調練に将が立ち会い、監督するのは何も彼等を鍛え、己の兵の進退に対する緩急の腕を錆び付かせない為だけではない。

 

己の色に染め上げ、兵卒の信を得る為と言うのもかなりを占めるのだ。

 

「あの若いのは負けませんからな。出てこないということすら、何やら神秘的な物を感じる一因にこそなれ、不信を抱く一因にはならんのでしょう」

 

その一般論も好々爺ぜんとした笑みを浮かべる厳綱の言葉に否定される。

 

「どういう御仁なのですか?」

 

「武将というより、書庫の管理人が天職といったような平和な顔です」

 

少し言葉尻に悪意のある単経の一言に、鷹の目をした智将と言った風貌が瞬く間に消え去った。

残ったのは、理知的な相貌と顔の輪郭くらいなものである。

 

「……わからんな」

 

彼女は二又に分かれた穂先が特徴的な名槍龍牙を左の肘で挟み、細い右手の指を顎に当てていた。

もうすぐ確認できるから考える必要などはないのかもしれないが、今すぐわかるからといって考えるのをやめては将とは言えない。

 

武人であり、将としての資質を持ち合わす彼女は、自然とその癖がついていた。

 

「李師殿、伯圭殿から顔を見せておく様にとの助言をいただきましたので参りました。この戸を開けていただきたい」

 

ただの寂れた感じの一戸建て。ただし庭付き。

そんな印象を受ける家の扉を、趙雲はリズミカルに四回叩く。

 

できれば顔を見ておきたいし、この遼西郡でちらほら民衆の話に上がっていた護衛の腕とやらも見てみたい。

 

「……誰?」

 

僅かに門が開かれた隙間から漏れる誰何の声は、明らかに男のものでは無かった。

 

「趙雲、字は子龍」

 

本日三度目の名乗りを上げ、趙雲は扉の隙間からこちらを除く赤紫の瞳を類似の赤眼で見返す。

 

「知らない。知らない奴は、入れない」

 

「今日より客将として禄をはむ故、知らぬも当然でしょう。それに、誰と話すにせよ最初は知らない奴ではありませんか」

 

「……それもそう。でも、だめ」

 

「何故?」

 

「前に三日寝なかった分を、今寝てる。起こしたくない」

 

変な身体の構造をしているのかと、趙雲はそう考えた。

指揮に過失を見せないまま三日寝ずに指揮できるが、それ以上な休眠と怠惰を要求する。

 

戦いには向いているが、少々歪な私生活であろう。だが、武将は勝つことが職務であり、私生活を規則正しく営むことはそれに含まれていない。

 

「では、また伺わせていただく。李師殿は、いつ頃起きられるか?」

 

「あと一日で起きて、二日間読書と写本で体調を整え、それから」

 

つまり、再起動には三日掛かるわけだった。

いや、寝ている時間を合わせたら四日だろう。

 

「承知した。出直して参る」

 

「……ごめん」

 

「いや、こちらが事前に連絡しなかったこともある。お気になさらぬよう」

 

礼を一応弁えている彼女は、ここは一先ずおとなしく退き下がる。

 

しかし、まだ見ぬ人物に対する期待と高揚感は、更に増していた。

 



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騎射

「兵を再編してみたんだ。幽州突騎から、私なりに選りすぐって」

 

趙雲来訪の二日後。李師は早速呼び出されていた。

 

公孫瓚は、漢でも最精鋭と言える幽州突騎―――騎射用ではない突撃用騎兵の司令官を兼ねている。

というよりも、彼女は元々幽州突騎の一員だった。

 

その経験が郡太守となるにあたって買われ、更にはその軍歴と戦功の多さもあり、幽州突騎三千の指揮官となったのである。

傍から見ればこの上に兵を再編して何をしようというのかと思うかも知れないが、幽州突騎は半私兵化していると言っても、私兵ではない。

 

要約すれば『嵐に向けて備えた方がいい』というようなことを言われた公孫瓚は、やっと私兵を備え始めていた。

 

来たるべき乱に向けて私財を擲って兵と武器を揃えている曹操・袁紹からすれば遅きに失すというものだが、やらないよりはマシであろう。

 

「適当な指揮官が必要になりますね」

 

「うん。取り敢えずこれ、お前に預けるよ。適当に揉んでやってくれ」

 

李師は、我が耳を疑った。

働け。まさか働かないことを条件に入った軍でそう言われるとは思っていなかったのである。

 

彼の頭の中で、自分の半ば隠居ぜんとした歴史びたり生活がガラガラと崩れ落ちるような光景が脳裏をよぎり、粉塵と共に風に乗って消えていた。

 

「それは、どういうことですか?」

 

「正直すまないとは思っている。だが、その、何だ。突き上げが酷い。お前は右を向けと命令すればことさら左を向くような人間だから『働け』と言う陳情は通さなかったが、こう……他からすれば派手なところだけ持っていくような感じだからな」

 

李師は、ムッとした。

そんな右を向けと命令すれば左を向くような捻じ曲がった根性はしていない。

そう反論しようとして開きかけた口が、右斜め後ろの被保護者の言葉で快刀乱麻に叩き斬られる。

 

「……伯圭、よく見てる」

 

「それはどういう意味かな?」

 

「……違う?」

 

無邪気故の痛烈な皮肉に口を噤み、李師は黙った。

この口達者な男を黙らせられるのは、この被保護者の天然発言しか存在していない。

 

今のところは、だが。

 

「……兎に角。私は別にやりたくてやったんでもありません。派手なところだけ持っていくと言いますがね、私にとっては派手さなんてものは厄介な重荷を更に背負わされるようなものなんですよ」

 

「それはわかっている。しかしまあ、自分よりもやる気も信念もない奴が自分より優秀だと言うのは認められないものなんだ」

 

認められる彼女が言ってもあまり説得力を持たないが、彼は殆ど瞬時に『それはそうだろう』とわかる。

何せ、右斜め後ろに立っている被保護者こそ、そんな風に妬みを買っていた。

 

自分のことには無関心だが、この被保護者の受けた悪辣な扱いを、過保護な彼は忘れることはない。

 

「恋も大変だったんだな」

 

「……恋は、やる気も信念もある」

 

「えぇ?」

 

割と本気で虚を突かれ、李師は古今稀に見る間抜けな声を上げた。

それは少なくとも、後世の人間から見たならば想像の出来ようのない、真に間の抜けた声だった。

 

「お前、私が師匠をつけようかと提案した時に、『別に武術に拘りはない』と言ってたじゃないか」

 

「……ん」

 

原文ママにすると『……いい』ではあるから拡大解釈のきらいがあるものの、だいたい彼の解釈は合っている。

彼女に武に対しての拘りはないし、武に対しての信念もない。

 

しかしそれは、ただ手段に対して拘らず、信念を抱かないようだけであった。

 

「……でも、嬰は恋が護る。だから、どっちもある」

 

貴方を護るという結果には拘るけど、手段に対してやる気も信念もありませんよ。

だいたいこんな感じな恋の言葉に、彼はまた黙る。

 

他者はもとより親兄弟すらとも一線引いたような付き合い方しかしていなかった彼にとって、この被保護者は線の引けない存在。

 

それに対して、やっと捻り出した答えがこれだった。

 

「世の武人が聴いたら怒るだろうね」

 

「おい李師。それはそのまま自分に返ってくることに気づいているか?」

 

極めてご尤もな突っ込みの後、公孫瓚は溜息をつく。

彼は手放したくない。しかし、だからと言って一般論で反感を抱いている他の者を追放しては暴君も甚だしい。

 

「ともかく、幽州突騎を預ける。揉んでやってくれ。つまり、定期的に働いて欲しいんだ」

 

「……定期的に」

 

「嫌ならまあ、私も諦めるよ。ただ、城下にはとどまって欲しい。相談したいこともあるんだ」

 

こういう下手に出た提案や懇願に弱い質の李師は、頭を掻きながら頷いた。

 

「わかりました。無役から常設部隊の指揮官となるなら、それに見合った勤勉さは示します」

 

「あ、ああ、ありがとう!」

 

権謀術数とは程遠い誠意からの懇願を、己の怠惰の為に無碍にできるほど冷血ではない彼は、受けた。

そして、それを聴いた客将がふらりと選抜・志願兵の中に紛れ込む。

「それに、ほら。もし万が一の時に自分の戦術の癖を呑み込んでいる軍がいたら心強いだろ?」

 

「私はその『万が一』の時が来ないように動きたいのですがね」

 

客将ならではのフットワークの軽さを持つ彼女は、この決断を後に後悔したのか、むしろよくやったと褒めるような気持ちで見ていたのかどうかは定かではない。

しかし、元々彩色過多な彼女の世界がより面白味に満ちたものになったことだけは確かだった。

 

 

そして、翌日。

 

「三年。いや、四年。うまくいけば五年。あと、五年は働かずに暮らせる筈だったのになぁ……」

 

「……」

 

一応腰は低いと言っても彼が人間関係に無頓着だったこその、謂わば人災に対して一通り愚痴をこぼすと、李師はさっさと思考を切り替えた。

無役だから、怠けていても許される。だが、役割が割り当てられた以上は働かねばどうにもならない。

 

と言うより、任せられて受けた以上は最低限の働きを見せなければならないだろう。

まあ、あくまでも最低限に留まってはいたが。

 

「……私兵か。中々に魅力的な響きだが、いざ管理するとなると面倒が生ずるな」

 

「……どうするの?」

 

「騎兵を預けられたら、騎兵として運用するさ。まあ、騎兵と言ってもやることは騎射だがね」

 

徹底的に被害を避ける作戦思想を持つ彼からすれば、突撃はあまりよろしいものではないのである。

最近鐙という物が発明されて騎兵が槍を持って突撃・乗り崩すと言う戦法が流行っているが、それは馬にも人にも被害が大きすぎると言うのが彼の持論だった。

 

「突撃は否定しない。だが、少数で突撃するには適切な機会と投入箇所を見極めなければならない。

いや、別にそれ自体はいいんだ。機会を作れるから。だが、折角育てた精鋭をすり潰していけるほど我が郡太守殿は豊かではないからね」

 

「……だから、騎射?」

 

「一射離脱で敵に被害を強いるか、脚を活かした補給線の切断。これが出来れば、いいんだが」

 

「……恋、騎射得意」

 

「君がいいと言うなら、頼りにしたいよ」

 

前線と戦場には連れて行きたくはないが、馬にも乗れない男が騎射を教えられる訳もない。

ここは、またしても彼女に頼るべきであろう。

 

「……ん」

 

赤毛の駿馬を曳きつつ、恋はいつものように右斜め後ろに付き従った。

彼女の愛馬は仔馬の時から甲斐甲斐しく育ててきた赤兎馬と呼ばれる、この燃えるような赤毛の駿馬だが、彼に愛馬はない。強いて言うならばいつも腰掛けている背もたれ付きの揺り椅子に車輪を付けたものがそうだと言える。

 

「それにしても恋は動物を育てるのが上手いな」

 

「……そう?」

 

「誰が育ててもこうはならないさ」

 

一日に千里(414.72キロメートル)というのは疲労などを加味すれば記録はかなり落ちるだろうが、瞬間的な速度は千里を余裕で走れる程度にはあった。

具体的に言えば、通常時は一回柏手を打てば一尺ほど進み、持久力を無視して本気を出させれば一回柏手を打ったら二尺と言うのも不可能ではないのである。

 

敵からすれば、通常の馬よりも遥かに―――乗せている騎手の軽さを差し引いて三倍くらいの―――通常時速度を誇る癖に、距離を詰めたいと彼女が思った末に『そうした』ら、さらにその二倍。

 

通常の騎兵の六倍速で恋―――本名呂布―――が突っ込んでくるわけだった。

まあ、方天画戟を持つ以上は速度は衰えるだろうが、軽い弓ならば理論上は問題ない。当てられるかはともかくとして。

 

弓とあの化け物方天画戟とでは比較対象がおかしくも思えるが、この際は無視する。

 

そんな話をしながら歩き、久しぶりに調練場に姿を見せた彼がいの一番にとったことは、太陽の光を眉の上にあてた手で持って防いだことだった。

 

「えー、君たちの臨時ではない常設指揮官になった、李瓔。字は仲珞」

 

名の瓔も、次男をあらわす仲を除いた字の珞も、真名の嬰里も一様にくびかざりをあらわす。

意味合いとしては、魔除けと言うところが強い。彼に魔を感じたのか、彼の周りに魔が集うことを察したのかは今となってはわからないが、彼の固有名詞はくびかざりと魔除けで統一されていた。

まあ、基本的には李師で良いし、恋には舌の動きが拙かった時に教えた『嬰』で通っているから一々意識する必要はないであろう。

 

「私が求めることは、君たちが死なないことだ。古今どんな名将ですら兵を率いながら一兵も死なせなかったということはないが、私としてはできればそうありたくはない。つまり、死なせたくはない。無論私も最善を尽くすが、諸君らも死なない技術と戦い方を学んで欲しい」

 

豊かな濃紺の髪に埋もれた頭を掻きながら、彼は柄にもないことを言ったことを自覚する。

少なくとも誰も死なせたくはないなど、死地に赴かせる用兵家とか、将とか言う類の呪われた人種が言って良い言葉ではない。

 

死なせたくはないのなら、戦わせなければいいのだから。

 

「……じゃあ、馬に乗れる者は一先ず彼女から騎射のやり方を教わってくれ。弓術の心得がないものは田国譲、君が。私はこういうことに疎いから余計な口を挟まずに見ていることにするよ」

 

彼は訓練において必要な、意見を押し付けた上で導くだとかの適性にかけていた。

 

つまり、他人に言葉を尽くしてわからせようという気力と気概にかけているのだと言える。

じゃあ恋はどうなんだと言われれば、彼は『訊かれたことを一意見として返しただけ』というだけだし、つまりはそういうことだった。

 

「……騎乗」

 

精鋭たる幽州突騎の中から選ばれ、或いは自主的に李師の元につきたいと言い出した兵だけあって、流石に彼等の動きは速い。

そして、殆どの兵からすれば初対面であろう恋の指示に一回の厭や不満を見せないのも、また見事であった。

 

「……恋は、呂布。字は、奉先」

 

保護者に習って僅かばかりの自己紹介を終え、恋は方天画戟を地面に突き立てた後に背中に挿した短弓を左手に持つ。

 

「まず、見せる。次に、直す」

 

ナチュラルに『私の方が騎兵として優れている』という発言をしてしまうあたり、僅かながらこの二人は似ていた。

自分の才能に無頓着なところとかは、特に。

 

まあ、ここに集まっている兵は先の戦や先の先の戦を見ているが故に『そんなことはわかっている』とばかりに華麗に受け流している。

それは悪気はないことはわかっているし、事実隔絶とした差があるのがどれくらいと明確に言えないほど漠然とした差が開いていたからであった。

 

「……刃の、付け根」

 

灼熱に燃え盛るような馬に跨った恋は、軽く馬を慣らしながらその場から離れる。

 

狙う的は、方天画戟。その刃の付け根。

 

「……」

 

何も気負うことなく、恋は赤兎馬を走らせた。

いつものようにやればできる。そんなことすら考えない。

 

擲られた意思無き斧鉞の如く突き進む彼女の心に漣は無い。

 

馬蹄のみが場を鳴らし、疾駆する。それが最高速に達した瞬間、戟が撓んだように後方に振れた。

 

「おぉ……」

 

騎射は、当然ながら不動の体で立って矢を放つよりも命中率に著しく劣る。上下に揺れるし、何よりも景色の変遷が目まぐるしい。

戟の付け根に狙って当てることなど、まずできない。それを彼女はやったのである。

 

そして、彼女は皆が驚嘆にどよめいているときには既に反転していた。

戟の付け根に突き立った矢を見ている彼等の視界を赤い影が遮り、過ぎ去った時にはその矢は真っ二つに割れていた。

 

全く同じところに、騎乗したまま射ち込む。

 

あまりの絶技にどよめくこともできず、兵たちは文字通り言葉を失った。

 

「……これを、やる」

 

無理です。

兵たちの思考は、この時再び一致した。



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黄巾

黄巾の乱。

 

これはそもそも、黄巾が先に荊楚の地で兵を集めさせていた馬元義を洛陽に送り込み、中常侍の封諝、徐奉等を内応させることによって内と外から蜂起するよう約束したが、信徒の一人である唐周が他の宦官達に密告した事で蜂起計画が発覚し、潜入していた馬元義が車裂きにされたことからはじまった。

この内部と外部からの襲撃による洛陽攻略計画を知らされた帝は三公や司隸に命じ、宮中の衛兵や民衆を調べさせ千人余を誅殺。張角捕縛の命を下したのである。

 

これに対して黄巾側は教主である張角を天公将軍に、張宝、 張梁をそれぞれ地公、人公将軍として兵を集め、これに対抗した。

 

これに対して漢側は皇甫嵩等の進言によって党錮の禁を解き、官界から追放されていた清流知識人が黄巾賊に合流するのを防ぎ、且つこれを登用する。

また宮中の倉の銭と西園の馬を出し人材を募り、盧植を張角がいる冀州方面へ、皇甫嵩と朱儁に豫州潁川方

面へと、それぞれ黄巾の勢力が強い所へ派遣した。

 

そして、この黄巾賊の一斉蜂起に対して意見を求め、加えて預けていた私兵の仕上がりを見るべく公孫瓚は李師を呼び出す。

 

しかし。

 

「伯圭殿、面白いことがわかりましたぞ」

 

来たのは、呼ばれていないこともないが指名したわけではない―――つまり、一団としては呼んだが個人としては呼んでいない趙雲、字は子龍であった。

 

この槍を取っては無双の使い手である豪傑は、怠けるという一点で問題児な李師とは違った意味で問題児だと言えるであろう。

 

端的に言えば、さらりとごく自然に慇懃無礼なのだ。

 

「面白いこと?」

 

「ええ。不謹慎からも知れませぬが、伯圭殿も興味があるかと思いまして」

 

不謹慎。そう言うからには面白いながらもどこかに裏があるのかと勘繰り始めた公孫瓚の耳に、思いもよらない言葉が囁かれた。

 

「実は、まだ噂のたぐいでしかありませんが…………」

 

「が?」

 

「ほう、よほど気になられるようですな」

 

癖者らしいニヤニヤとした不敵な笑みを浮かべながら、趙雲は肝心の話題に手を付けない。

そしてやられた側であるこの公孫瓚、この割りと無礼且つ非常識な対応を受けても怒っていないのである。

 

そこらへんに人としての変な気の長さがあるのかもしれないし、或いは少なくとも我儘の度合いだけでは他を圧倒する袁紹と付き合ってきたからこその免疫なのかも知れない。

 

まあ兎に角、ただの凡人ではないことは確かだった。

 

「李師殿が真面目に働いていた―――と言うよりは、熱心に働いていた時があるようなのです」

 

「ソレは嘘だろ」

 

勤勉さとかそういった物を纏った李師を到底思い浮かべることのできなかった公孫瓚は、一瞬でその噂を否定する。

その真面目且つ勤勉に働くところが家臣としてどうかと思うが、それは彼なのだから仕方なかった。

 

「それはそうでしょうが、では伯圭殿は李師殿が右斜め後ろの定位置に奉先殿を連れていない光景を思い浮かべることができますかな?」

 

「……無理矢理景色ごと記憶から消せばできなくも、ない。うん」

 

明らかに自信のない解答に我が意を得たのか、趙雲は意気込んで次の言葉を繋ぐ。

 

「所詮人間の想像力などその程度のものです。それとも伯圭殿は、李師殿がああなる前の姿を知っておられるか?」

 

「いや……」

 

彼女が李師を初めて見かけた時は、身長が今より首二つ分小さかった恋―――呂布を右斜め後ろの定位置に連れて市街を歩く姿である。

 

当然ながら、どこかに怠惰が見え隠れしていた。

 

「と言うより、正直なところ李師は将としての自分が嫌いだろう」

 

「今は。その頃は好んでいたとはいかずとも、積極的ではいたようです」

 

嫌いだとわかっていても彼以上の用兵巧者がいない現状、他のものに全権を渡して兵を無駄に死なせるわけにもいかない。

非常に心苦しいが、彼はそこらへんの葛藤を知ってか出兵が近くなるとふらっと自分の前にゆるい姿を現してくれるので、いくらか軽減されては、いる。

 

「……もっと詳しくわかるか?」

 

「調べろと仰せならば」

 

李師が登城したという報告により、二人は話を切り上げた。

興味で人を探っていいのかと言う是非が、公孫瓚の脳裏に去来する。

 

その疑問と複雑な感情を隠す術を知らず、それであるが故に彼女は僅かに寡黙になるくらいでしかその類の物を押し込めなかった。

 

「……私たちには出撃の勅令は下らないのかな?」

 

やっとこさ口を開いたのは練成された私兵の成果を見た時であった。

 

「遼西は一応鮮卑方面の最前線ですから、そこから兵を引き抜くわけにはいかない。無論、かかってくる敵にはそれなりの対処が必要でしょう」

 

公孫瓚配下の―――と言うよりは彼女が維持費を出している彼の私兵が騎射と陣形の再編・突撃と言う目まぐるしい変化をしている様を見ながら、彼女と李師は眼下を土煙を立てながら疾駆する精鋭を眺める。

 

黄巾の精鋭は冀州と豫州と荊州。豫州と荊州はともかく、冀州は南下すればすぐの距離にあった。

 

「……他の郡の兵に比べて経験不足にならないかな」

 

「強い敵と戦ったからって強くなるものではありません。日々の訓練と指揮官への信頼、あとは旨い飯こそが兵を強くします。

更に言えば、戦は金を浪費する物ですから、ここで我々が参戦しないということはその分の費用が浮くということだとも言えるのではないですか?」

 

李師は、恐ろしく平和な様子で目を蕩かせながら温和に答える。

 

少し南に行けば大戦乱が起こっているというのに、彼の脳は驚くほど機能していなかった。

 

彼の手は、それほど長くない。そして、この世すべてで戦いが根絶されたことなどないと知っている。

 

だからこそ、公孫瓚が生み出せたこの平和な一時を軍内で一番満喫できていた。

 

「……む、確かに」

 

「これは何も悪いことではない。寧ろ平和で宜しいじゃありませんか。特に、遼西郡で蜂起した民が居ないというのは非常にいい」

 

平和がいいのは、彼女にもわかる。そもそも彼女の目指すところは手の届く範囲の平和なのだから、戦わなくとも不満はない。

だが、問題なのは袁家である。

 

冀州の渤海郡に根拠地を持つ袁紹は、乱が起こるや否や僅かな親衛隊を率いて洛陽の何進の府へと参入し、曹操等と共に中央でその権勢と名声を高め始めていた。

 

「あいつ、ただの行動主義の馬鹿じゃなかったんだな」

 

「人間誰しも、取り柄というものがあるものですぞ」

 

趙雲、乱入。

訓練を繰り返すにつれてやはりというか、必然的に頭角を表してきたこの客将は、現在階級はともかく実力的に見れば三席の地位にある。

地位からすれば枠外もいいところだが、実際のところの階級が枠外に近いのは李師も同じような感じだった。

 

「己の行動に対して後先を考えないと言うのは思い切りと決断力に富んでいるということになりますし、一度決めたら容易に覆さないというのは戦いに必要な意志の強さにつながります。まあ、まかり間違えばただの頑迷で我儘だということになりかねませんが」

 

「人間が社会において勝ちを拾えるのは、何も一概に長所のおかげだとも言い切れない。短所が敵の長所を打ち消し、勝因となることもあるのさ」

 

面白味を感じた猫のような笑顔で毒を吐く女と、温和な顔のままに毒を吐く男に挟まれた公孫瓚は一歩後ろに下がり、何かにぶつかる。

 

自分の物よりも僅かに暗い深みのある紅色に、褐色の肌。

剥き出しの肩、腰、大腿部には茨を思わせる刺青が這っている彼女の手には、軽く振るえば敵を絶命させるほどの鋭さと重量を持つ方天画戟。

 

「い、いつからそこに居た?」

 

「……さっき」

 

先程まで眼下にいた筈の彼女が、角の定位置である右斜め後ろに視点を定めることなく立っていた。

 

視点を定めることが無いのは集中させることによって生じる視界の狭まりを防ぐ為らしいが、傍から見たら虚空を見てぼけーっとしているだけである。

 

案外と、少しくらいぼんやりとしていた方が護衛に向くのかもしれなかった。

 

「……嬰、どう?」

 

「良い仕上がりだ。逃げ足も早そうだし、色々な場面に使えるだろうね」

 

「……ん」

 

彼女が問うたのは、部隊の仕上がり。主に彼女に一任されていた個人的な技術の向上に加え、暇な時に教えていた部隊としての運用までもがそれなりに様になっている。

 

元々彼女の呑み込みはいい。一芸万芸に通じるとはよく言ったものであるが、彼としてはそんなことを学ぶよりも平和な技能を学んで欲しかった。

 

尤も、彼は自分の思考を相手に押し付けることを嫌う都合上そうは言えないのであるが。

 

「趙子龍、君から見ては?」

 

「一射離脱に於ける離脱速度と、突撃時の破壊力は申し分ないと考えます。ですがまあ、私としては一射離脱を常とするより蝶のように舞うことで敵を撹乱することを常としたいものです」

 

「だが、できなくは無いだろう?」

 

「無論」

 

「では、さしあたっての問題はないわけだ」

 

呂布が得意な破壊力・機動力重視の騎馬民族の血を引いていることがよくわかる一射離脱戦法と、趙雲の掴みどころのないような言動の如き退いては突っ掛かり、退いては突っ掛かりという翻弄の動き。

これを、彼はさしあたって二隊の内一隊ずつに教え込んでいた。

 

「今は五百人。後五百人増員できないこともないが、どうする?」

 

「強いて言うならば弩兵が欲しい。誘引しても伏兵が居なければどうにもならないからね」

 

そう言った瞬間、李師の顔が嫌悪に歪む。

基本的には温和そうな笑みと大人しそうな表情を崩さない彼には珍しい、明確な嫌悪の顔だった。

 

「り、李師、私、何か拙いことを言ったか?」

 

「……いや」

 

少し黙り、李師は公孫瓚の問いを否定する。

彼の顔を歪ませたのは、持病の自己嫌悪であった。

 

「趙子龍」

 

「はっ」

 

「兵たちに労いを頼むよ」

 

「承知」

 

ただならぬ雰囲気を察し、趙雲は普段のからかいと皮肉で織り交ぜられた口調を鞘に納める。

公孫瓚にこれまた珍しく供手の礼を行い、李師は静かに城を辞した。

 

彼は、ただ歩く。呂布は、ただ着いてくる。

 

この無言こそが、この二人の刻んできた時間の長さを表していた。

 

「……嫌なものだ」

 

揺り椅子にも座らず、李師は庭の樹のもとに寝転ぶ。

彼は元々屋敷の中にある庭に昼寝に都合の良い樹を植えていた。

 

この植えた樹の元で寝ているとき、彼はたいてい己の行動に対しての矛盾であるとか、能力と性格の齟齬であるとかに悩んでいる。

 

呂布は、ただ側で座っていた。



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布石

「平和とはいいものだね、恋」

 

「……ん」

 

いつもの会話が、庭の樹の下で行われていた。

彼の手元には、無字の竹簡と刻み刀。カリカリと漢字を彫っていき、そこに後で文字を書く。

怠惰で万事不器用な彼にしては、慎重且つ丁寧にやっていた。

 

「中平一年、黄巾賊蜂起す。潁川・荊楚・河北を中心に広まり、世を揺るがす……と言うのは、不敬かな?」

 

「……敬意、いる?」

 

世を揺るがすと言うのは、現在この地を治めている漢帝国というものが、民の蜂起で崩れかけていることを表している。

敬意が足りないと言えば、足りない言葉遣いだとも言えた。

 

呂布からすれば、そんな些末事はどうでも良いのであろうが。

 

「彼等唱える、『蒼天已死 黃天當立 歲在甲子 天下大吉』、と。帝、衛兵民衆約千人を誅殺し、首謀者捕縛の命を下す」

 

眠気を刺激される声でぶつぶつと呟きながら、李師は竹に歴史を刻む。

読み終えた後の趣味のようなものであった。

 

「……嬰」

 

「何だい?」

 

「烏丸から、書が来てる」

 

差し出された竹簡を手に取り、ぼんやりとした眼が理知の光を帯びる。

 

睡眠と本を友とする隠者の眼が、戦場を俯瞰する軍師の眼へと変貌した。

 

「……やはり、種は撒いておくものだ」

 

使わないに越したことはなかったし、これは和平への布石も兼ねている。

しかし、まさか潁川で幽・冀・并の三州の刺史を統べる征北将軍をやっていた時に撒いた種を、一郡太守の一指揮官となっている状態で収穫するとは思っていなかった。

 

「時々こういう風に敵に備えることを忘れてない自分が嫌になるなぁ、全く」

 

首と頭の付け根を掻きながら、李師は書きかけの歴史年表もどきを乾かすべく天日に晒し、新たな竹をカリカリと彫り、文字を書く。

 

しばらくして書き終えた竹簡を呂布に渡し、呂布が滞在している烏丸の手の者に渡し、それはおよそ三日の時を経て烏丸の大人たる丘力居の手に渡った。

この一事で、後に起こる戦いの帰趨は決したと言っても良いであろう。

 

黄巾の乱に付随する大反乱は彼の掌の上だったとは言い切れないが、少なくともこれからはじまる北の反乱は彼の掌の上であることは疑いは無かった。

 

「……これから、どうなる?」

 

「私は神じゃない。そんなことはわかるべくもなし、さ」

 

片目を瞑り、肩をすくめ。飄々としたような語調が、いたずらっぽく笑んだ彼から漏れる。

彼のわかることは、狭い。少なくとも本人はそう思っているし、己の判断に対しても非常な慎重を以って再確認し、やっと判断を下していた。

 

勿論それは傍から見れば瞬時に的確な、しかも未来を見てきたかのような指揮をしているように見えるのだが、本人からすれば瞬時に、つまり一発でわかるわけでは、ない。

何度も確認し、定義し、結論を出しているのである。

 

「……でも、わかる」

 

「わかることがわかるだけだよ、恋。私は全知全能ではないから、わからないことはわからない」

 

そして、李師は目を瞑った。

 

もう既にこの国の命脈は尽きている。このような大規模な、しかも軍閥ではなく民衆が主導となった反乱を起こされた国に、未来はない。

歴史上、民衆こそが支配者を決めてきた。支配している側はそれをどうにも理解していないが、民に支持されないで興った国などありはしない。

 

国を真っ二つに割るような争乱中、勝ったのは必ず民心を掴んだ方だった。故に乱世と呼ばれる時代に生きる群雄たちは懸命に民の心を取らんと試みる。

 

改革や、善政と呼ばれた物は富国強兵という命題でもあろうが、実際は民の心を取るべく行われた。

 

だが、一旦王朝として成立してしまうと権力者は虚傲に陥る。己の力のみで統一し、この王権は血で受け継がれる神聖不可侵なものであるのだと。

 

漢の高祖は農民だった。劉氏など別に神聖でも何でもなければ、天に選ばれたのではなかった。

劉邦は、民に選ばれた。劉氏の王権は、民に承認された。ならば民に叛かれた今は、その王権は既に亡い。ただ弁論と積み重なってきた血脈の歴史と伝統に依存するだけであり、支えるべき幹はただ空洞があるのみである。

 

支配している側が従で、支配されている側が主なのか。或いは主従関係と言うものは互いが互いに錯覚し合っている時のみに存在しうるのではないか。

民は自分の錯覚から目覚めた。ただ、劉氏のみが錯覚したままでいる。

 

(上で民を食い潰して踏ん反り返っている奴らは実のところ自らの足場を崩しているに他ならず、支配していると錯覚しているに過ぎない訳か。それならこれほど滑稽なこともないということになる)

 

いずれ民自身が、完全に解き放たれる時が来るのか。いや、最初は誰しもが解き放たれていたはずだ。それが今は縛られているということは、自らがそれを望んだということだろう。

 

つまるところ、歴史は繰り返すのではないか。民は己に降り掛かる強権とか王権とかを弾いて自ら支持する指導者を決め、その指導者に支配されることを望む。

その指導者が豹変したならば再び民はそれを弾く。

 

民こそが、主。本質的にはそういうことになるのだろうか。

 

「恋。私は割りと危険人物なのかもしれないな」

 

「……今更」

 

歩く戦術兵器に危険人物であることを告白し、今更だと答えられる。

傍から見ても傷つくこの状況。彼にとっては恋は歩く戦術兵器ではなく愛しい娘か妹のような存在である為、下手をすればそれ以上に傷ついた。

 

「い、今更……」

 

「……恋と嬰は、一緒」

 

歩く戦術兵器と怠け癖のある全自動敵殲滅機は同類ですよ、という感じなことを平然と言え、しかも否定することが極めて困難だという異常事態。

この異常人が二人集まっていることを李師よりもはっきり自覚しているにもかかわらず、呂布はどこか嬉しそうに彼に抱きつく。

 

基本的に彼女は無口で無表情ではあるが、その行動の率直な為に思考がかなり読みやすい。

今回も、指向が殺人と言う方向に向かっているということなどに嫌悪すらせず、ただただ親愛な家族と同類だと言うことが嬉しかった。それだけなのだろう。

 

「私は君に、そうなって欲しくなかったんだけどね」

 

「……恋と一緒、嫌?」

 

犬が自分の所有物を所有するときのように頭を擦りつけていた彼女は、どこか眼に孤独と淋しさを浮かばせながら上目遣いにそう問うた。

 

こんな眼をされては、彼が強く言えるわけもない。元々強く言う気もなかったが、更にそれが重なる。

 

「いや、そもそも私が嫌だのと言うことではないさ」

 

二本の触覚のようにピンと天に向かって立っている二房のアホ毛を僅かに揺らしながら、呂布は甘えるように眼を閉じた。

親に向ける親愛の情の表し方も、漠然と恋い慕っている男に向ける親愛の情の表し方も、彼女は知らない。というより、怠惰な男を親に持った為、兵法よりも武術よりも礼儀よりも何よりも大切な情操教育そのものが頭の中に入っていないのであろう。

 

だから、彼女は抱き着いた。本能的な警戒までをも解いて、本当の意味で無防備になった。

無防備だ無防備だと、本当の意味で警戒心の希薄な男に常日頃言われている彼女には、野性の勘のような警戒網がある。

 

それを無理矢理に、彼女は温もりの中で解いた。

 

「……恋、一緒に居たい」

 

「お前がそう望む限り、私は一緒に居るよ」

 

「ん」

 

限りない温かさと優しさを込めて口に出された言葉に無邪気なまでの全幅の信頼を置き、呂布は身体から十全に力を抜く。

無駄な力が入ってなければ、すぐ動ける。背面から狙撃されたら木が、正面から狙撃されたら自分の身体が盾になる。

 

近接戦では、素手でも二桁は大丈夫。

 

そんな緻密で一途な計算が行われているとも知らず、李師はただただ頭を撫でた。

彼女には、親が居ない。寂しがり屋で情の深く、愛に飢えている彼女は自分と言う不器用な質の男ではなく、器用で包容力のある両親に愛されているべきなのだろう。

 

が、戦災で生き残ったところを拾ったのは恐ろしく親というものの適性にかける自分だった。

ならば、出来る限りはしようというのが李師の考えの基幹にあった。

 

(……お前の親の代わりになれているかは、わからないが)

 

代わりになるなど馬鹿げている。個人個人に代役などはなく、代役に見える存在を得てもその中にはどこか空虚があるのだろう。

ならば彼女が感情を行動以外で表に出さないのは、出せないのか出さないのか。或いは己の見通しの甘さからなのか。

 

その気になれば自己弁護はできる。他者からも弁護はもらった。仕方なかったのだと、そう言われた。

 

しかし、尤も納得できないのは己なのである。

つまるところ軍の将帥というのは人の屍を積み重ねて階段とすることでしか生の道を歩めず、自然と大の為に小を切り捨ててしまうのだ。

 

殺した人の数は数万。救った人の数は一人。これでは到底釣り合いが取れないし、そもそも人の命を天秤にかけて釣り合わせるという思考そのものが間違っている。

 

(どうにも思考は迷走しがちだな。結局のところ確定しているのは私が大量虐殺を効率で割った解答が自然と湧くろくでなしだということだろうが……)

 

自分の手では人を殺してはいないが、自分の手は確かに人の血に濡れていた。

 

「…………嬰、嫌?」

 

「ん?」

 

「ここに居るの、嫌?」

 

葛藤とか、懊悩とか。そういったもので己を苛む彼を、彼女は見たくなかった。

 

嫌だと言ったら、担いででも逃げる。追跡してきたら全員殺す。苦しませる種を持ってくる奴は全員刈り取る。

それで彼が悩まなくなるなら、彼女は喜んでやるに違いなかった。

 

「……私がここから居なくなったとする」

 

呂布は、頷く。

彼女は馬鹿ではない。言わんとしていることくらいは理性でわかるし、その前に鋭敏な勘がそれを伝えた。

 

彼は、出来得ないであろう過程の話をしている。

 

「居なくなったら、どうなるだろう。私が居なければ烏丸とも交戦状態になるかもしれないし、冀州から黄巾賊がくるかもしれない。そうすれば遼西の民は殺され、戦災孤児がまた増える。公孫伯圭は勝てるだろうが、これを防ぐには身体が足りない。つまり、私の所為でまた死ぬ者が増えるわけだ」

 

人を殺さない程度に怠けるのが彼の限界だった。

一度も関わり合わなければ、良い。代わりとなる人材がいれば、いい。国家の為とか言う抽象的なものの為ならば、怠けてもいい。

 

「ただ、己の減罪の為に民を見捨てたくはないなぁ」

 

それが原因で、けっきょく戦場に立ち続けなければならないのだろう。大局的に見たならばただの無駄な抵抗をした大量虐殺者でしかなくとも、命が目の前で喪われるのならば怠けてていられるとは思えなかった。

 

「……嬰」

 

「ん?」

 

「恋も、戦う」

 

「…………私としては、お前には戦って欲しくはないのだけどね」

 

どうやらその意志は硬いらしい。

静かなため息とともに、李師は平和の終わりが狭るのを否が応でも感じずには居られなかった。



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群星

烏丸の族長丘力居は、その文をたしかに受け取った。

黙したままさらさらと読み、その鬼謀にある種の畏敬すら感じた彼は、ある一点で目を止める。

 

整然とした理論と理屈、予測で紡がれた文章の末尾は、非常に私事的な物で締められていた。

 

『まだ墓はあるか』、と。

 

彼は少しその削れた墓石の下で仲良く眠っている二人のことを考え、目を瞑る。

 

事務と責務による返事を書く彼の脳裏には、見事な赤毛が残っていた。

 

奴のやる気というものをなくしたことに関しては、あの二人は歴史を変えたのかもしれない。その生に意味があったかはわからないが、少なくとも役割はあったのだろう。

 

どこぞの怠け者の如き考えを頭の片隅で行いながら、丘力居は手を止めた。

 

彼の返信が着いた三日後、都合よく檄文が発せられる。

 

冀州に残存戦力を結集させた黄巾賊と、決戦を行う。諸郡の太守は兵を率いて諸州の刺史の下に集い馳せ参じよ。義勇兵、正規兵問わず国を憂いる者達の加勢に期待するところ大である。

 

名義は、典軍校尉の曹操。既に俊英を謳われている傑物であった。

 

未来の英雄豪傑、数多の将星が一堂に会したと言われるほど豪華な面子を集めての決戦は、こうして幕を開けることになる。

 

「伯圭殿、筮竹も占卜もできない私がするのも変ですが、一つ予言を残して行きましょう」

 

そういう類の物を全く信じていない彼が、別に大したことでもないような温和さを持つ声色で言うと、得も知れぬ諧謔見があった。

何と言うか、一事が万事お前が言うなと言わせられる男なのである。

 

「聞かせて欲しい」

 

「別に大したことではありません。冀州同様幽州でも烏丸族を巻き込んだ喧嘩が―――そうですね、張角の代わりに張純という女性を旗頭にして二ヶ月以内に起こります」

 

眠気を堪えているような穏やかな眼に、片方はだらりと、もう片方は頭に添えられた手。

その姿は、喧嘩を予言するには相応しい緩さと怠さを持っていった。

 

「喧嘩ぁ?」

 

「ええ、十万人単位の」

 

到底、叛乱を予告したとは思えないほど軽い発言に、公孫瓚は絶句する。

というよりも、十万人単位の喧嘩と言う発言を呑み込み、理解するまでに時を要したといったほうが良いかもしれない。

 

ともあれ彼女は、ド肝をぬかれた。

 

「喧嘩って、叛乱じゃないか!?」

 

「そうとも言います」

 

「ど、どうすればいいんだ?私が冀州に行って、お前が残って対処するか?」

 

公孫瓚は、当然の如く焦りを見せる。

この背後には、冀州で黄巾賊との決戦があるが故に各地の太守は兵を纏め、或いは預けて参集するようにとの典軍校尉曹操からの通達が行われたことが背景にあった。

 

典軍校尉とは所謂西園八校尉に於ける一員であり、序列としては四位に当たる。

一位から三位までが前線に出るわけもない宦官の蹇碩、実質の現場の長である虎賁中郎将袁紹、現在董卓と共に涼州で戦っていた鮑鴻であることを考えると、自然これまでの冀州・潁川方面の対黄巾賊総司令官であったのは袁紹。そのブレーンというかブレーキ役は序列三位が辺境に行っている以上、曹操だったであろうことは容易に想像がついた。

 

つまり、この通達は曹操が献策し袁紹が認可した正式なものであることがわかる。

 

それまで己の地が叛乱の震源地ではなく、余震すら感じなかった他の郡太守を含む者達は無視して日和見を決め込んでいた。

しかし今回の一手で、彼等は穴蔵から出てこざるを得なくなったのである。

 

幽州は『内部が乱れている今、烏丸鮮卑ら異民族がなだれ込んでくるかもしれない』という尤もな理由で傍観していた。

これには黄巾の乱が起こった直後に叛旗を翻した馬一族と羌族という実例があったから、かなりの説得力がある。

 

だが、その説得力の裏の本音には、『ただでさえ疲弊しがちな戦力をすり減らしたくない』という私心がないとは言えなかった。

戦略的には兵力を内部の叛乱を鎮圧することに注力させることがよろしかろうが、そんなことなど見ている暇がないほど一部の最前線にいる太守たち、兵たちは貧しかったのである。

 

では、遼西はどうか。これを語るには先ず、黄巾の乱に際して戦場と鳴った潁川郡から大量に知識人、人材が逃げ出したことこそが重要だった。

 

逃げ出した人材は、徐州や荊州に逃げる。だが、徐州はともかく荊州も叛乱軍が蛮居していて気が気でない。

そこで知識人たちは一様に震源地である冀州を通って北を目指した。

 

そこには、清流派の源流とでも言うべき登竜門の孫が居り、なおかつ彼は征北将軍として民を一人も敵の凶刃にかけることなく撤退させ、二十万人を三万で破った名将と言うではないか。

人材たちは遼西に向かい、そこで呑気に平和を謳歌している李師を見、やけに腰の低い君主を見た訳である。

 

公孫瓚の遼西は、丘力居の烏丸と対しながらお互い様子見の体を崩さないからある程度マシな、つまり内地の一郡と変わらないような財政だが、彼等を得てから精力的に財政再建と費用の無駄の削減に取り組んだ。どんぐりの背比べだった一郡は、他に酷いのを探せばすぐに見つかる程度まで発展したのである。

 

隗より始めよとばかりに手を出した奴が楽毅だった、と後世笑い話にされた公孫瓚の内政面の人材は、充溢した。

 

この内政に優れた人材等は袁家の治める渤海郡に見向きもしなかったことが後世疑問視されているが、それは誰かが動いたのだろう。

 

証拠が無い為に立証することはできないが。

 

長くなったがつまり、公孫瓚の遼西郡は財政状況がマシになってしまったばっかりに出兵義務を負ってしまったのである。原因を作った奴は嘆いていたが、そんなことは知ったことではない。

 

「……で、落ち着かれましたか」

 

「ああ」

 

「つまるところ、私は適当に黄巾の乱を鎮圧せねばならない。伯圭殿は叛乱を鎮圧せねばならない。そういうことです」

 

ここで一つの疑問が生じた。

この男、さきほど言っていた。『張角の代わりに張純を』、と。

 

「張純を捕まえてしまえば解決するじゃないか」

 

「なんの罪があって?」

 

「叛逆しようとしてるんだ。探せば証拠なんかあるだろうし……言いたくはないが、この国は冤罪でも人を殺せるような緩さがある。殺せとまでは言わないが、拘禁くらいは妥当なんじゃないか?」

 

一般論である。

叛乱を起こさない為には起こす本人の首を斬ればいい。

 

それはまあ、その本人が抱いた叛意が叛乱と直結するのならば、正しいと言えた。

しかし、これは違う。漢という国の失政が、叛乱を後押ししているのである。

 

「まあ、それはそうですが、これは私の推論でしかありません。

それに、それでは庭の草を引き抜くのに倦んで根を残して切ったようなものです。張純と言うのは謂わば時代と言う暴れ馬に跨らされた騎手に過ぎません。張純が捕まると叛乱が起こらないというのは、等号で結ばれることはないでしょう」

 

「そ、そうかな?」

 

「はい」

 

ポリポリと頭を掻いているような、しかも到底軍師や将になど見えない人間にそう断言されても説得力がないに等しい。

だが、公孫瓚はサラリと信じた。この素直さが彼女の美点でもあり、欠点でもある。

 

「……えー、そうだ。何で張純が叛乱を起こすってわかったんだ?」

 

「昨年の、韓遂と辺章の乱。あれで彼女は名誉を傷つけられました。だからです」

 

彼の予想は、三種の情報を多く基盤にしていた。

 

一に、出来事。二に、環境、三に性格。出来る限り集め、想像で補填したこれらを以って彼は予想を建てている。

 

「名誉を傷つけられただけで、叛乱までいくかな」

 

「彼女は己の才能を誇り、それを恃むに大なるところがあると聴く。よって彼女にとっての名誉というものは私や貴方にとっての名誉とは意味、存在そのものが違うと考えられる」

 

それに、現在の漢には叛乱を望む気風があった。彼女が最初にその気を懐かず、ただ気を苛立てるだけであっても周りがそれを広げ、導くだろう。

 

「……名誉を馬鹿にするわけではないが、己の才能と沽券を実績ではなく武力でもって示そうとするのは、些か以上に馬鹿らしいな」

 

「伯圭殿。戦争が起こる理由は、九割がた同じなんだ。わかるかい?」

 

「……偶発的なものと、いうことか?」

 

「それもある。が、それは原因であり理由ではない。つまり、私の言いたいのは戦争と言うものは『九割がた後世笑われるような理由で起こった』ということさ。つまりこの黄巾賊の蜂起自体がそうだ。黄巾の乱自体が、舞妓を偶像とする信者たちの為に起こりました。とは書けないだろうし、時代がそうさせたとはいえ、事実としてはそうであるわけだからね」

 

彼がここで言葉を濁したのは、或いはそれが死者に対する嘲弄であるかも知れない。

誇大妄想や、野望。そのようなものの為に何万にも殺すなど、笑われてしかるべきだという認識が彼にはあった。

 

しかし同時に、それに乗せられて死んだ兵士たちにも思いを馳せてしまったのである。

 

「舞妓?」

 

そんなことは初耳だった公孫瓚は、思わずといった様子で訊き返した。張角と言えば何やら聖人・異能者めいた強さと医術を持った女だと言うではないか。

 

自然その容貌は多分に仙人的な脱俗の混じったものを想像していたのだが、舞妓であればもっと華やかで俗な印象を受ける。

 

「そう、舞妓。彼女等は漢に対する反抗心などさほどない。ただ間と時代が悪く、世論という羊を導く牧童になってしまったのさ。

勿論、導いているのは牧童自身ではなく道と言う名の時代の流れだが」

 

止まろうにも道そのものが動いているので引き返すことができず、逆走しようにも世論と言う羊が己の後ろについて来ているが故に難しい。

彼女等三人に許されたのは破滅の道を進み続ける、それだけだった。

 

「……じゃあ、巻き込まれたのか?」

 

「わからない。人望があったらすべからく国への叛逆や変革を期待され利用されかねないほど失政を積み重ねたこの国でも、本人が断り続けている限り、これほど武闘派な集団蜂起は起こらないだろうし―――一言くらい言ったかもしれない。言わなかったかもしれない」

 

人格という細部までわからず、情報が職業と環境に留まっている以上は、細かい発言や思考など言行録でも掴まない限りはわかりようはずもない。

予測はできるが、それはあくまで予測の範疇から出るものではないだろう。

 

「じゃあ、子龍を此処に置いているのは」

 

「一応、念の為と言ったところかな。あちら側に万夫不当、一騎当千の猛者が居るとも限らないし……彼女もその旨を話したら了承してくれたことだしね」

 

こうして彼は、策の詳細を一本の竹簡にまとめた物を公孫瓚に託して曹操発案人材閲覧会場となった冀州の本営へと出征した。

これからの天下を騒がせる数多の将星が集う中、黄巾賊側も張角・張宝・張梁を総大将に、一度は官軍を大破した波才を実戦部隊の長にし、荊州南陽から張曼世率いる主力部隊、他に徐・青の二州からも各部隊を集結させんとする。

 

天下に数多生まれ落ちた英雄豪傑たちが、今まさに集おうとしていた。



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水鏡

「義勇軍?」

 

「……ん。会う?」

 

「会うだけなら何の害もない。無視すれば関係に齟齬を生ずる。会ったほうがいいんじゃないかな?」

 

李師は『今更義勇兵がなんのようだと言うのか』とでも言うような懐疑的な発声をした名目上の総大将である公孫越にそう提案し、字を仲圭とする彼女は懐疑を僅かに収めて頷いた。

 

呂布は、別に反論することなくそれに首肯を返す。

会うだけなら何の害もないと言うが、会った者がこちらに対して一方的な敵意を持っていたら、それは害になるだろう。

 

そんな簡単なことがわかっているのか、いないのか。軽く欠伸をしているその姿からは何も読み取れることはなかった。

 

暫くその場でぼーっと考えていた恋は、思考を打ち切る。

これまでもこれからも、目に見える害意は自分が砕き、目に見えない害意は彼が何とかしてくれるのだ。

 

それに、これでは単なる杞憂に過ぎない。最初から疑ってかかるのもよろしくはないだろう。

 

「……会う」

 

「ありがとうございます!」

 

公孫の旗。恐らくはそれにつられてきたであろう義勇兵の長は、嬉しさを顕にして呂布の後へ続いた。

 

その後ろからは、黒髪と赤髪。あと二人の幼女。

呂布はその野生の肉食獣のような鋭敏な勘で以って、己の後ろについてくる五人の実力を読み切る。

 

一人目は、一般人より少し強い程度。二人目は、強いには強いが苦戦するほどではない。三人目も同じで、四人目五人目は恐らく李師と同じかそれ以上の武技しか持たない。つまり、鎧袖を一触させるまでもなく対処することができた。

 

二人目と三人目が同時にかかってきたら攻めあぐねるだろうが、それも李師を背後に抱えていたらの話である。

 

今の時点では背中を見せていても充分に余裕があった。

 

「……こっち。公孫仲圭が待ってる」

 

「総大将は紅蓮ちゃん?白蓮ちゃんは?」

 

「……公孫伯圭は来てない」

 

まさかの呼び捨てに鼻白む様子も見せず、桃色の髪をした少女は白蓮と紅蓮と―――即ち、公孫姉妹の真名を口にする。

この事で、呂布は彼女が公孫姉妹の知り合いであることを脳に保管した。

 

何故か、真名は知っていること自体は許される。そうでなければ人前で連呼できないし、使い道がほとんどなくなってしまうから、なのだろう。

 

故に、呂布は真名を預けたり預けられたりしていない公孫姉妹の真名を知識としては知っていた。

一人目と二人目までが案内した幕舎に入った当たりで、ようやく彼女は安心する。

 

彼女としては、李師と呼ばれている家族を護れればそれで良い。他のことに頓着することは無いし、頓着しなかった結果どうなろうがそれは彼女の良心が悔やむことにはなり得ないのだ。

 

公孫越がどうなろうが、知ったことではないのである。

それだけに、この三人目四人目五人目の行動が謎だった。

 

「あの、李仲珞さんはどこにいらっしゃいましゅか?」

 

「……何で?」

 

この二人が幕舎の前で止まっていることを考えれば、割りとすぐに導き出すことが出来る結論である、李師への用事。

それを予想していた呂布は、すぐさま問いを返す。

 

それに答えたのは、三人目の武人然とした黒髪の女性だった。

 

「彼女等は李師殿の友の弟子らしく、彼を尊敬するところが篤い。どうか会わせてやってはもらえないだろうか」

 

「…………恋が決めることじゃない」

 

「それは当然だ。だから、伺いを立てていただきたい」

 

親しい仲になるとムキにもなりやすいが、見ず知らずの相手の前で感情を爆発させるほど、黒髪の女性は子供ではない。

今回別に腹に据えかねることがあるわけでもなかったが、その見ず知らずの人間に対する丁寧さをいかんなく発揮したと言っても良いであろう。

 

呂布は、彼女等三人を取り敢えず彼の起居する幕舎の前まで連れていって、問うた。

 

「……名前、は?」

 

敢えて幕舎の前で名を問うたかと言われれば、その声色を李師に効かせるべきだろうと思ったからである。

彼は一挙手一投足から心理と性格の洞察を始め、それらが積み重ねるにつれてその精度を高めるといった心理把握の技術があった。

 

一方はハキハキとした、もう一方はどこかに怯えのある声色であることを彼に訊かせ、呂布は幕舎の中へと足を踏み入れる。

 

「知り合い?」

 

「知り合ってはいない。が、知ってはいると言ったところか……まあ、通してくれ」

 

「……ん」

 

頷き、幕舎の内部と外を区切っている垂れ幕を、呂布は静かに脇に寄せた。

 

「……入ってもいいのか?」

 

「……いい」

 

諸葛亮、龐統の順で幕舎の中へと入った後、黒髪の武人が己の愛用であろう青龍偃月刀を呂布に向かって預けるように突き出す。

呂布は腰に剣を佩いているものの、長物を持っているわけではない以上、招待された彼女もまた持っている訳にはいかないと感じたらしかった。

 

「預けてもよろしいだろうか?」

 

「……うん」

 

青龍偃月刀を預かった後に丸腰になった黒髪の武人に己の佩剣を渡し、いつもの定位置ではなく不思議そうに剣を受け取った彼女の横に立つ。

それは呂布なりに、その礼儀と気配りに敬意を表した形でもあった。

 

「私は関羽。字は雲長。貴殿は?」

 

そのことに気づいた黒髪の武人が名を尋ねようとし、先んじて自ら名乗る。

 

呂布もそれに応えるように名を告げた。

 

「……呂布。字は奉先」

 

主のおもり同士が名を交わし合っている間、幼女二人と男一人の間は沈黙が空間を占領している。

 

一方は師から聴いた話と外見がかけ離れていることに戸惑いながらも尊敬の念を薄らせることなく佇んでおり、一方は何を話したらいいかわからないというような社交性の無さを露呈させていた。

 

「……さて、伏龍・鳳雛と謳われた君たちの師匠とは司馬徳操で間違いないかな?」

 

「ひゃ、ひゃい!」

 

髪を掻き上げるように手を動かしながら、最低限の情報を確認した李師はぼんやりと思考の海へと身を埋め始めていたのであろう。

その次に言い放った言葉は、外見と中身がかけ離れていることを百万遍の言葉よりも如実に伏龍鳳雛の二人に示した。

 

「……ここに居るということは、冀州というところまでは読めていたのかい?」

 

なんの脈絡もない言葉に、関羽は一瞬頭を傾げる。

呂布はいつもの如くぼんやりとしており、諸葛亮と龐統はハッとしたような表情でその驚きを顕にしていた。

 

冀州が最終決戦の地になる。だからこそ、劉備率いる義勇兵五百はあちらこちらに赴かずこの場を固守することで諸将の集結と会合を待っていた。

 

「……はい」

 

とても神算鬼謀たる予測の正確さを併せ持つ指揮官とは思えない温和な、悪く言えば覇気も押し出しの良さもない顔を見上げ、恥じたように俯く。

ここで諸葛亮は、一回傍らに座る龐統を見てから頷いた。

 

(こちらを見くびっていたことを恥じた、か。明敏だが人の感情に疎い、と言ったところだろう。司馬徳操は教育者ではあるがその性質は雑味のないところを好む。

まあ、限られた人員の中で学べばそうなるな)

 

司馬徳操の水鏡女学院は、人の住まぬ湖畔のほとりにある。

それは一種の人材の純粋培養を助け、一方で頭でっかちになる可能性をも助けてしまう。

別に彼女らが頭でっかちである訳ではないし、司馬徳操は頭でっかちになることを防ごうとするだろうが、学び舎から出たら即戦力として数えられるのかと訊かれれば疑問符が残った。

 

並みの智謀の士ならば才能の差で押し切れるから問題はないが、経験を積むことで彼女らの才能を追い越したらならば、話は別だろう。現に己はそれほど誇れる才も持たないが経験によってその差を補えているはずなのだから。

 

そして恐らく、智慧に優れるがその使い方と配慮を知らない。百戦錬磨の智者であったならば、己の感情の挙措を読ませない筈だった。

 

俯いたことでこちらを噂だおれだと感じ、それを恥じたことが。

傍らに座る龐統を見たということは自信をなくしたのか、主導性を取ることに確信を失ったのか、諸葛亮よりも龐統が優れており、それが諸葛亮の自覚するところなのか。

 

どちらにせよ、諸葛亮の人物鑑定眼は今の時点では外見というものに先入観を抱くらしい。

 

一動作の積み重ねで、心理はさらさらと読み取れる。日常生活に於いてはともかく、戦場にあって心理戦で敵を嵌めてきた百戦錬磨の元征北将軍の本領発揮だといえるだろう。

 

「うーん、黙られてはこちらも覚りようがないな。用というのは何だい?」

 

「……李仲珞殿の、目指すべきところを聴きに参りました」

 

「そんなに畏まらなくても、良いんだけどね」

 

「いえ、自分より優れた智者に会う場合は敬意を払えと師から言われているので、どうかご容赦くださると幸いです」

 

どうにも敬語というのに慣れない李師は、ぽりぽりと頭を掻きながら胡座から右の膝のみを立てた。

諸葛亮が敬意を払うならば相当だと、僅かな信頼をいだき始めた関羽の眉がぴくりと上がる。

 

認めた人間には基本的に本質的な性格である甘さが目立つ関羽に眉をひそめられるほど、彼は行儀が悪かった。

 

「……目指すべきところ、ねぇ」

 

言っていることは朧気にしかわからないものの、何やら彼の能力が優れているらしいということはわかる関羽が、その見透すような眼差しと侮られがちな風貌に隠された智慧がわかってしまった諸葛亮と龐統が。

 

呂布以外の視線が集まったことに対して困ったような顔をして頭をかくと、李師は常日頃思っているところをぽつりと吐露する。

 

「私はまあ、一定の平和かな。次代の子等が私みたいに敵に勝つ浅ましい策を練らずに済む、何年何十年かの平和」

 

「永遠では―――」

 

殆ど反射と言った様子で口を開いた関羽に視線が集中し、彼女は顔を赤くして縮こまった。

彼女の中には、彼女の主である桃色の髪をした少女の理想がある。

 

それは『みんなが笑って暮らせる国』と言う、目の前の彼と類似したものだった。

違いと言えば、桃色の髪をした少女が範囲を、彼は時期を明確に指定していることであろう。

 

「永遠ではない。と言うよりも、私たちは永劫生き続けられはしないし、平和を完璧に維持する制度を作れたとしても、それは時の経過と共に劣化するだろう」

 

「……すみません」

 

余計な口を挟んだことを反省しつつ、どこか永遠の平和というものを諦められない自分が居る。

そのことを自覚し、丁寧に説明してくれたことに感謝しながらも、関羽は理性と本能の間で悩んでいた。

 

「謝ることはないさ。疑問というものは抱いた瞬間に氷解させなければ、蟠りを生むものだからね」

 

ひらひらと手を振りつつ、李師は最後までなんの感情の変化も見せることなく温厚柔和な表情を崩していない。

本来彼が血の気が多い訳でも、他者に積極的に関わろうとしない質でもない為、内心が読みにくいというのもある。

 

しかし、今の時点では腹の探り合いでは彼に一日の長があることは確かだった。



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対陣

黄巾賊二十万に、各地から集まってきた義勇軍・地方軍を糾合した官軍十五万が相対する。

後漢の治世内ではほとんどありえないほど大規模な対陣に、李師は公孫越が大将という名目で私兵の騎兵五百、弩兵五百。更には郡の管理下歩兵二千と、主に弓と剣で武装した義勇兵五百の計三千五百を率いて参戦していた。

 

将としては本人に呂布と関羽・張飛。軍師には伏龍・鳳雛が居り、人材には事欠かないが兵が足りないという状態に陥っている。

 

「中々様になってきたな」

 

「それはそうですが……お世話になっても良かったのですか?」

 

「五百増えたくらいで自壊するような脆弱な補給線はしていないさ」

 

こうは言ったものの、彼はただの義勇兵の集団であったならば袁紹の本営に預けてしまっていただろう。

彼が食わせてやっているのは、戦力として数えてもプラスになり、将の面々が極めて優れていたからだった。

 

桃色の髪をした少女こと劉備には現実味がかけているが、人を集める独特の雰囲気がある。

今義勇兵の訓練の督戦としている関羽は勇武と智略に安定して優れた物を持っており、張飛はこと武力に関しては関羽を凌いでいた。

諸葛亮は補給線の補強など雑務を的確且つ効率的にこなす事務能力の高さが光り、鳳雛はこと軍事的な才覚に於いては諸葛亮を越える。

 

さっさと隠居したい彼からすれば、できればこの義勇兵の集団を取り込んでしまいたかった。

 

三軍は得易く一将は得難し。この言葉が、彼の動きのモトとなっている。

 

「気に病むなら戦場で返してくれ」

 

「はい」

 

その一言で目に決意を湛えた関羽は、本当に真面目である。その真面目さと誠実さが変な方向を指すこともあるが、だいたい手放しでも見ていられる安定感があった。

 

「諸葛亮、私は別に功を立てようとは思わない。君たちにその気があるならば便宜を図ってもいいが……」

 

「いえ、私達も功を望むこと激しい訳ではありません」

 

「主に問わなくともいいのかい?」

 

「もう承認されたことですし、私たちはあくまでも客分ですから」

 

体よく謝絶され、『永遠ならざる平和の為とは、まだ言い切れないようですが』と諸葛亮が漏らした一言を聴いた李師は、またまた考える。

謙虚さを見せれば、一般的には名声を上げたり、こちらに信頼を抱かせたりすることができた。しかし彼女らには土台となる名声の元がない。

 

元がないものは上がらないし、名声の元がない以上は某かの奇行・善行・武功を得なければならないのである。

そして諸葛亮は、独立するつもりならばここではともかく名を売っておかねばならないことを知っているはずだった。

 

どのようなことをしても名を売る。それは元手のない、つまりは金穀糧秣や名声といった有形無形の財産のない、されど野心や理想を遂行せんとする勢力に必要不可欠な行為なのだ。

 

強い。頼りがいがある。義に篤い。何でもいいが、主にこの三種だろう。

 

従順に見せて一郡・一州の支配権を一任され、民心・人心を掌握したところで裏切ると言うのもあるにはあるが、独立勢力を裏切って独立勢力を創るのでは彼女らの思想に反するし、何より外聞が良くない。

 

腐っている国―――例えば漢―――を『この国では平和は維持できない、統治能力に欠く』と言って裏切るならばわからなくもないのだが。

 

「桃香様と話されて、如何でしたか?」

 

「先ず道を知ることだと考える。一州を任せても有能な部下がいる限りは過欠を見せないだろうが、いきなり要職につけるよりは下からコツコツと経験を貯めていった方が彼女の為にはいいんじゃないかなと、私は思う」

 

一晩語り明かしただけあって、その眼には僅かな眠気がある。

その言葉は己にも通じるところがあるが、諸葛亮と関羽は己の主のことをキチリと考えてくれていたことが嬉しかった。

 

「君たちはどう思うんだい?」

 

「……私は、自身が補佐することによって道を作っていこうかと思っていました」

 

「私には、腹案と呼べる物すらありません。ただ、実現に向けて尽力しようと思ったのみです」

 

つまるところ、劉備は神輿だったわけである。彼女たちの拠り所であり、目指すところであるが、己は特に何もしない。

ご利益があるは定かではないし、下手をすれば重いだけとなりかねなかった。

 

「主君を俗に触れて怪我させたくないのはわかるが、神輿にするのはあまり良くないんじゃないかな……と言っても、私が口出すべきことではない、か」

 

揺り椅子に細い柱を通して横に車輪を嵌めた二輪車の上で膝を立てながら、李師は僅かな自己嫌悪と共につぶやく。

 

「要らない言葉を吐くのは私の悪い癖だ。君たちの乗り越えてきた苦難も知らず、偉そうに言うべきではなかったな」

 

李師は珍しく立てた膝を戻して姿勢を正しながら、忘れてくれと、懇願するように頭を下げた。

 

「どうにも私は意見を押し付け過ぎる」

 

後ろで車輪が転げて椅子から滑り落ちるのを支えている呂布からすれば、『言わない時と言う時が極端で、しかも強く言ってやった方がいい時に言わないことの方が多い』というようなことを思うが、それは彼女が言うことではない。

 

何せ、彼女こそが恐らくこの中で最も口数の少ない人間なのである。

 

確かに彼の忠告は字面だけ見ると批難するところが多いかもしれないが、言っていることはそこそこ正しい。全部正しい訳では、勿論無いが。

それに、ゆっくりと紡がれる言葉の端に他者への気遣いと真心があった。

 

彼はよっぽど嫌いな奴に相対しない限りは、ただ貶めるようなことは言わないだろう。

 

「……いえ、正しいと思います」

 

「そんなことはないさ。私の意見に惑わされるは良くないし、私としても本意ではないんだ。人は自由意思によって行動すべき生き物なのだからね」

 

かなり落ち込んでいる諸葛亮と、真面目に悔やんでいる関羽。

別に彼も、説教する気は無かったのだ。

 

ただ彼女等が無意識的に気になっていると察せられることを表面に出しただけであるし、己に説教する器量も立場も能力もないことを彼はその正誤はどうあれ承知しているのだから。

 

「……とにかく、私の言うことなんか虫の羽音くらいなものさ。何か五月蝿いなというような感じで、終わりでいい。どう捉えるも君たち次第だし、君たちがやってきたことを責められるのは君たちしか居ない。私はまさに門外漢、と言ったところかな」

 

強いて言えば彼女等が動くにあたって迷惑をかけられた人々も含まれるだろうが、それは今言うべきことではない。疲弊した相手に畳み掛けるのは戦争だけで充分である。

 

そして、最後に混ぜた渾身のジョークに誰も笑わないことへの虚しさを感じつつ、彼は姿勢を正して見送る義勇兵とその将達を背景に、揺り椅子車と呂布と共にその場を去った。

 

「……恋、私は自重することにするよ」

 

「…………考えて、言うべき時は、言う。言わない時は言わない」

 

「うん」

 

彼も別に、考え無しに次から次へと口に出しているわけではない。考えた結果を言った後に再考してみると、後悔する時があるだけである。

 

考え無しではないが、根が善性に偏っている為に余計なことを言うことがあるのが悲しいところか。

 

「……思考を切り替えよう。本来私は己の怠惰で悠々自適な、そして歴史三昧な生活を目指していたはずなんだ」

 

「…………」

 

わざわざ堂々と働きたくないでござる宣言をし、気を取り直したことを示すように先程とは逆の膝を立てた辺りに、彼の先程の助言に対する本気さと悠々自適な生活に対する執着が覗えた。

 

呂布は、ただ黙っている。

 

「恋、我々は新たなる歴史の潮流に立ち会っているのかもしれないな」

 

「……うれしい?」

 

「歴史好きとしては、少々たまらない物がある」

 

当事者にはなるべくなりたくないが、歴史が刻まれる瞬間が見たい。つまりはそういうことだった。

 

知恵はあるが主体性がなく、才能はあるが野心がない。

名士にありがちな懐古も漢への帰属意識もなく、その判断はなるほど正しいが常人が割り切れない物を割り切って進んでいる。

直接関わったものから嫌悪はあまり受けないが、傍から見るだけならば嫌悪の対象となるのだ。

 

嫌いな奴に好かれようとする努力を怠るその性格が、いつか―――

 

呂布がほんわりと頭に浮かんだそんな言葉を打ち消す。

椅子の背もたれの上部の左右両方向についている押手の片方から手を離し腰に佩いた剣の柄を撫で、再びカラカラと押し始めた。

 

自分がわかっていることくらい、彼もわかっているだろう。

 

何せ、何処かの偉い人に『昨日、明日を善く見通す』みたいなことを言われていたようなことを公孫瓚から聴いた、気がするのだから。

 

「見渡す限り将星の群れ。これは天下が乱れるわけだ」

 

「……これから?」

 

無言で頷く彼の顔は、感情が二律相反する複雑なものだった。

 

歴史を刻むことのできる人物を目の当たりにできた嬉しさと、腐り切った平和とは言えそれを崩す野心家たちの群れ。

 

そしてその群れの中に、自分も居る。

 

「さて、恋。お前は軍に所属している身としてここに居るわけだろう?」

 

「……?」

 

「忘れてもらっちゃ困るなぁ。親衛騎五百の指揮官じゃないか」

 

「……わかってる」

 

親衛騎の指揮官ではあるが、公孫瓚とか漢とかに仕えている気がない彼女からすれば、自分はただの私兵集団の指揮官の武将であるという自覚しなかった。

 

「少し後方を撹乱して、輜重隊を潰してきてくれ。位置は容易に予想できる」

 

暇を持て余した公孫越が何かないかと彼に問い、いつもなら『我慢の時です』と返す彼が『なら後方撹乱でもして敵の士気を下げましょう』と提案し、およそ半刻(約七分)も掛からずに敵輜重隊の移動路を予測。それを公孫越の名で虎賁中郎将袁紹に上申。典軍校尉曹操の認可を受けた作戦である。



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自身

当分の間20時更新になります。遅れるときは割烹で。


一部は曹操と袁紹。

二部は曹操と李瓔。

三部は司馬懿と諸葛亮。

 

彼がやってきた外史での二世紀の中国と言えば、各地に英雄が散らばり、魅力的な将星が数多く登場した人気の時代であった。

 

ゲーム化もされ、ドラマ化もされた。アニメ化すらもされている。

 

だいたい『主要人物』というもので三部にわかれたその数十年に渡る戦乱の歴史は、後漢末期、黄巾の乱を端に発していた。

 

三部は遺された軍師同士の智略合戦。

二部は、優秀な血族武将と五大将軍を揃えた『覇者』対『神謀』率いる三将―――突撃専門の部将・華雄と、知勇兼備の名将・趙雲、彼にのみ仕えた天下無双・呂布という、この時代最高峰の武将たちの戦い。

そして一部では、多くの英雄が頭角を現してから曹操と袁紹の戦いを書いていた。

 

自分は今、そこに居る。いや、来てしまった。

決して安心できるような状況でも何でもないから、本を読んだりディスプレイを見たりして傍観者を気取ったりすることなどできないし、性別も一部変わっているが、それを差し引いても尚憧れた英雄たちに会えるというのは彼の心を踊らせている。

 

特に今は、黄巾の乱の最終決戦。各地に散らばって本来一同に介すことなどないはずの綺羅星のごとき英雄豪傑がこの冀州の一郡で、山と川を挟んで対峙しているのだ。

 

英雄的颯爽さというものしかない物語上の戦場とは違う、生の怖さと残酷さのある戦いを経験してきたからか、彼の純粋な『会いたい』と言う思いは警戒心にその何割かを占められている。

 

(孫策、孫権、袁紹。やっぱり大勢力を築く人間は英雄的な威があるものなんだな……)

 

単純に英雄豪傑という人種が軒並み美女美男であるこの世界に感謝する訳ではないが、そのお陰で彼はかなり歴史に名を残す者とそれ以外を―――反則めいた方法とは言え―――識別できるようになっていた。

 

勿論その名前が知れればなるほど、威があるなと言えるが、見てすぐ脳内にある名前と姿が合致するというわけではない。

何せ女体化しているし、男のままでも多少なりとも変化している。

 

まあ、孔明の扇、関羽の青龍偃月刀、張飛の蛇矛、呂布の綸子と言ったものが著名な、見ればひと目でわかるトレードマークは保持されているようなので有名所は苦労しない。

 

三國無双とか、そういうメディアを知っていればわかる程度の武将ならば、特徴だけで見分けることが出来た。流石にビームは出さないが、遠目から見るだけでそれとわかる。

 

(李瓔は居るのか?)

 

後ろに黒くてデカくて武人な呂布が居れば確定―――というよりも、この世界ならば綸子と方天画戟を持った男か女かがいればだいたい李瓔……なはずだった。

 

後は、赤兎馬を持っていたりすれば本当に呂布である為、呂布をつけていけば李瓔がいるということになろう。

 

しかし、公孫越の陣を見てみても綸子もなければ赤兎馬もない。方天画戟も、ない。

 

(本人は唐突に呂布とか出してくるけど、それは創作物での話だろ……あと、帽子とか?)

 

ボスラッシュの面では趙雲を超強化して繰り出してきたり、本陣に華雄を突っ込ませたり、危機が迫った瞬間に呂布をプレイヤーの操作キャラの後方に出現させたりと魔術めいたことをしているが、別にこの世界でも史実でも李瓔が魔術を使えるわけでもない。使えていたらあんなに呆気なくは死ぬはずがないのだ。

 

「何をしてるんだい?」

 

穏やかな、味のある声。

戦場で味方を督励し、敵を威圧するような声ではないが、深みのあるような印象があった。

 

「い、いや、その……」

 

どこかやる気のなさそうな、如何にも戦場に居なさそう『らしくない』男に後ろを取られた彼は、怯む。

視察の許可はもらっているが、ここまでジロジロ見ていては別なことを疑われても仕方がなかった。

「まあいいさ。見たいなら好きなだけ見ていったらいい。責任者は公孫の旗の立ってるすぐ側の幕舎に居るよ」

 

「お、おう……」

 

答えに窮したことに何を感じたのかは分からないが、僅かな情報を与えると共にその男は去っていく。

 

最初の『見ていくといい』でかなり権限がある将なのかと―――例えば公孫越なのかと思ったが、幕舎に居ることを明言するあたり違う、ということか。

だが、一武将であることには変わりないのか、或いは実際は何ともない思わせぶった一般人なのか。

 

それはわからないが、彼の名を掴めるような特徴や情報は得られなかった。

 

「訊けばよかったかな……」

 

でも、探しているのは曹操のライバルたる智将。史書に『その頭は本人の肉体が活動を停止している間にも策謀を練っていた』と書かれている以上、喰わせ者的な印象が似合う、気がする。

 

北郷一刀。天の御遣いと呼ばれる彼は、自軍の誰よりも早く、後の強敵との邂逅を果たした。

 

「あれが、天の御遣いと言う人物か……」

 

傍から見ても遠目から見ても異端な服装をしているのに、本人はその異端さに気づかない。

意識はしている。しかし、疎いといったところだろうか。

 

潁川で司馬徽と共に学問に励み、卒業式で貰って以来、揺り椅子の小物入れに突っ込まれていた帽子を久々に出す。

呂布のことが心配で、居ても立ってもいられない。命令したのは自分なのに、である。

 

(華雄が居れば、安心なんだが)

 

手綱さえ握っていたらその突撃に偏重した全能力を遺憾なく発揮してくれる征北将軍時代の属将は、今は居ない。

確か下賤の身だからとか何だかで百将だった彼女を、引き立てた。

 

突撃に移る時の統率力には目を見張る物がある。そう感じた己の目に間違いはなく、彼女は手綱さえ握っていたら結果を出してくれた。

 

「……いや、独立行動させるのは危険か。どっちにしろ、恋に行かせることになっていたのかな」

 

心配だ。戦の最中にあってもこのような焦燥感と心配に襲われたことがないほどに、心配だ。

 

仕方ないから、寝転がる。意識を落とし、寝たふりをする。

 

というよりも、成功を信じて待つより他にないのだ。目を瞑って心の動揺を抑えるより、他にない。

 

いつも寝たらすぐに作動を止める脳は、何回も繰り返した補給線切断のシミレーションに動いていた。

 

一方、珍しく彼を焦らせ、心配させている呂布はといえば。

 

「隊長、もう少しで李師殿の攻撃指定地点につくと思われます」

 

「…………」

 

天性無駄な緊張というものをしないタイプなのだろう。

ぽけー、と。戦の前とは思えないほどのリラックス振りを見せていた。

 

それが兵たちにとっては頼もしくもあり、心配でもある。

彼女の保護者は確かに常に行儀悪くぽけーとしているが、戦になると行儀の悪さはそのままに幾分か目つきが鋭くなった。

 

彼等は、油断しているままに彼女が死にはしないかと気が気ではなかったのである。

 

「……あった」

 

方天画戟を脚と馬腹の間に挟むと、長距離狙撃用の鉄弓を周りの兵が止めるまでもなく引き絞り、呂布は何の狙いも定めずに放った。

 

少なくとも、そういうふうに見えた。

 

「……退けば殺さない。退かなければ殺す」

 

放たれた矢が向かった方向、即ち前方でざわめきが起こる。

見ているぞ、という威圧なのか。或いは適当に偉そうな奴を見繕って狙撃したのか。どちらなのかはわからないが、木と距離という防壁に守られた前方に、輜重隊が居ることは確かだった。

 

「お前ら、官軍か!」

 

「……官軍?」

 

「幽州遼西郡太守、公孫伯圭殿が一軍だ。輜重を置いて速やかに退けばよし、退かねば力づくにでも奪わせてもらう」

 

どうにも軍―――というより、集団に属している認識の薄い呂布に代わり、彼女の副官がそれに答える。

漢になど忠誠を誓っておらずとも、体面を取り繕わねばならない時があることを、副官はよく知っていた。

 

「誰がやるか!そもそもお前ら官軍が―――」

 

輜重隊を率いる隊長らしき男が反論を叫んだ瞬間、両軍を阻んでいた木の防壁が彼と彼の周りにいた兵卒の頭部を圧し潰した。

 

「……なら、死ぬ」

 

距離の防壁を一息に詰め、木の防壁を一薙ぎで切り飛ばして武器に変えたのは、呂布。

決定事項であるかの様に告げられた死と、圧倒的な武。

 

終わりを告げる死神の鎌のように、再び方天画戟が振るわれた。

 

フォン、と。軽く空気を鳴らすような音と共に、首が三つ四つ空を飛ぶ。

この二動作で、彼女は己が視界に入れる分の戦場を支配した。

 

木を纏めて薙ぎ倒し、やる気の無さそうな軽い一振りで二、三人の首を跳ねる存在に誰が挑み掛かる。

誰が、この災害のような武威を止める。

 

皆が一様にそう思い、皆が一様に隣を向いた。

将を失ったが故の指揮系統の混乱と、予想外の武威による混乱。更に、彼等は戦闘部隊よりも練度に劣る輜重隊である。

 

先ほどのやり取りから察せられるように士気は高いが、それは不満というものによって生じた突き上げのようなものでしかない。

 

誰もが感じる程度の不満を災害に出会した時にも尚意識して持てたならば、それは凡人ではなかった。

人間は先ず、不満より何よりも生命の意地を優先する生き物なのであろう。

 

「ば、化け物だ……」

 

どうにもならない差を感じ、士気をあっという間に霧散させた輜重隊の兵たちは、三々五々になって逃げ始めた。

もはや、彼らにとっての官軍は酒の肴代わりに不満を叩きつけることのできる対象ではなく、明確にして純度の高い恐怖として存在している。

 

千人の輜重隊は五百の騎兵の姿を見るまでもなく、たった一人の武威を見て逃げ出した。ならば、呂布がすることは一つである。

 

「駆け、弓構え」

 

馬を通常速度から全速力の三分の二の戦闘速度へ転換し、呂布は逃げ散る黄巾の賊徒を指した。

 

「撃て」

 

言葉が漏れた瞬間には実行に移されているという素晴らしい練度を見せながら、隣郡や異民族に向けて幾度となく繰り返した騎射が逃げる者の背中を捉え、放たれた矢がその鼓動を止める。

 

ばたばたと斃れていく敵の速度に合わせて馬の速度を落とし、距離を保ちながら呂布は更に駆けた。

 

「二回目。撃て」

 

五百が二回攻撃したからといって、正確無比に千人すべてが矢に貫かれて屍となるわけではない。

ある者は矢を受けても死なないだろうし、当たらなかった者もいるだろう。

 

故に隊列も何もなく逃げ散る彼等は、二百程にまでその数を減らすに留まっていた。

 

「反転。第一・第二・第三部隊が輜重を運びつつ撤退、第四部隊が警護」

 

第五部隊の百騎を己の供回りに残す旨まで聴いた五百騎は、四百と百の集団にわかれる。

呂布と副官を含んだ第五部隊は狭い山道に陣取り、残りの兵は狭い山道を引き返し、元居た林道へと輜重を運び込む。

 

その光景を見た副官は、呂布に向けて鋭く問うた。

 

「不徹底ではありませんか」

 

「……?」

 

「輜重を運び込むことを優先するならば追撃は要りませんし、後顧の憂いを断つことが目的ならば殲滅し切るべきです」

 

少し考え、呂布は静かに頷く。

彼女なりにこの後のことを考えてやったことだが、兵を用いることのみで考えればどうやらそれは悪手でしか無かったようだった。

 

「……目的、ある」

 

「ならよろしいのですが」

 

何の目的もなしにただ失敗するよりは、何かを考えて失敗したという方がマシである。

その目的が何なのかまでは、この副官にはわからなかったが。

 

「敵が来たら、逃げる。恋がここに居て、殿」

 

「失礼ながら、お一人で戦われるのでは用兵とは言いませんぞ」

 

「勝てる戦、だから」

 

兵の被害もなしにやり遂げた以上、それに何らかの付加価値を付けたい。

それが用兵の本道から離れていようが、呂布という人間がなるべき姿となる道として見れば確実に正しいのだから。

 

「……恋も、布石にする」

 

「そうですか」

 

一礼して部隊の指令に戻る副官を目で追うことなく、呂布はただただ前を見つめた。



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才能

「隊長。味方が強奪した輜重の三分の一を運び終えたようです」

 

呂布は、ぼんやりと前を見つめていいた。

纏まって逃げた戦闘員千人と、別方向に逃げちった人夫千人。二千人で運び込もうとしていた物資を、四百足らずで運ばねらばならない。

 

単純に人数のみで測れば作業効率は五分の一になるが、実働人数で測れは三分の一。

馬があることも考えれば、僅かに遅れていると言える。

 

「……襲われた?」

 

正確に時間まで計算している呂布の見かけに寄らない明敏さに驚き、副官はその自分を窘めた。

外見が当てにならないのは、人気のない私塾の教師か研究者といった男が補給線を予測と二度の偵察によって看破し終えた時点でわかっている。

 

「いえ、役割の差でしょうと思われます。急がせますか?」

 

「いい」

 

戦闘員が万能なはずもなく、輜重隊には輜重をいかに速く運ぶかのノウハウがあり、戦闘員には巧く戦うためのノウハウがあるのだ。

力だけあっても、コツが足らない。今の四百騎の現状は、それであろう。

 

「焦ると、失敗する。のびのび」

 

「はっ」

 

どこまでも透けて見えそうな蒼い空に、一朶浮かんだ白い雲。それをぼんやりと見つめ、呂布は風に二本の綸子めいた触覚を靡かせていた。

 

(気張りはするが、気負いはしないのか)

 

無駄な力が、抜けている。固定された意志などはなく、柔軟性のみが顔を覗かす。

 

常にぽけーっとしていたから考えもしなかったが、この隊長は以外と色々考えているのかもしれない。

 

李師は常に何かを考えているからぽけーっとする時は本当に何も考えていないが、呂布は動くときは何も考えておらず、その逆なのではないか。

 

自然が荒れ狂うとき、その天災に意思はない。呂布は、それと同じようなものだった。

 

「来た」

 

いつの間に索敵へと思考をシフトさせたのか、呂布は眼前に僅かに見えるか見えないかの粒を見据える。

次第に人の形をとっていくそれは、一刻も経たずに副官の視界にも入った。

 

「どうなされますか」

 

「……?」

 

「迎撃を成されるのならばその準備を、突っ込むのであればその準備をさせます」

 

伝騎や索敵による発見ではないせよ、現在第五部隊は下馬して馬共々伏せっている。

数の少なさもあって発見は困難なはずだし、奇襲も可能な筈だった。

 

「残った輜重をそのまま、下がって迂回」

 

「一人で相手を?」

 

「……ここは、通れて二人」

 

狭隘な通路に騎兵を連れてきたのはその為か、或いは今回の目的を達成するにあたって部下はいらないのか。

 

「足止めして、後ろから。一斉射後の一押しでいい」

 

「了解しました」

 

犠牲を出さない程度の奇襲と、大地を彫刻刀で真っ直ぐ彫ったような狭隘な山道での混乱誘発。

 

「恐れられたら、有利になる。だから、勝つ」

 

「なるほど」

 

決戦兵団とも言えるこの五百騎は、紅い。赤備えと言うべき派手な軍装を、更に血で塗装して勇名とする。

 

全ては、勝利の為。

 

方法は些か以上におかしいが、背後に輜重を見せて犯人を明確に示すのは有効な手だし、狭隘な山道で―――片方は一人だとはいえ―――挟み撃ちされるのは辛い。

 

「敵は二千。恋で一万、百騎で千騎。一万少しこっちが勝ってる」

 

二回の異民族との戦いで勇戦したからこその兵士への訓示を言い放ち、呂布はすぐさま出立させた。

 

「一万は嘘では?」

 

最後に残った副官が己の馬を曳き、呂布に問う。初めての檄にしてはうまいが、それにしても法螺を吹きすぎだと思ったのである。

 

「……ほんとは三万」

 

絶句した副官は、何はともあれ一礼して乗馬した。

一騎当千とは言うし、現にそのような豪傑は史実上数多く居る。

 

だが、三万人を殺せるような武勇を持つ人間など存在するものだろうか。

 

そんな疑念を抱いた副官は、不敬な考えを排して指揮に専念せんと意識を集中させた。

 

「…………」

 

そんな副官の心の動きに頓着することなく、呂布は輜重の中にあった干し肉の匂いを嗅ぐ。

毒があるかないかを確かめるには、彼女の鋭敏な嗅覚か毒味かの二つしかない。そう言われるほどの優れた嗅覚を持つ彼女から見て、この干し肉は安全だった。

 

引っ張り出して食べ、引っ張り出して食べ。挑発代わりの行為がただの食事に変わるまでには一刻もかからず、その間を埋めるようにして敵軍が迫る。

 

「おい小娘」

 

「……?」

 

「お前が輜重隊を全滅させた官軍に居た化け物って奴か?」

 

もっしゃもっしゃと干し肉を頬張っている呂布から、返答はない。

する気がないのかもしれないし、食っている最中には話さないという彼女の意外な―――保護者とは違う―――行儀の良さが反映されていたのかもしれなかった。

 

だが、この二千の軍勢の指揮官たる鄧茂にはそれはただの無礼に見える。黄巾三十万を束ねる三渠帥の下の五大将軍の一人である自分が直々に問い質しているのに、無視というのは何事か。

 

「おい、こいつなんだな!?」

 

「ひ……!」

 

輜重隊の生き残りを引っ張ってこさせ、鄧茂は更に確認を急いた。

神経質な質である彼にとって、不確定なままに仕掛けるのは好ましくないのである。

それが例え好機であろうが、その好機を作った、或いは発生した原因がわからねば動かない。

 

つまり、彼は堅実だが柔軟性に欠けていた。

 

故に、輜重隊の生き残りの怯えに過剰に怒りを覚える。

 

「早く言え」

 

「そう、です……」

 

敵を前にして呑気している呂布を見て、鄧茂は再び頭にきた。

はっきりと容姿が視認できる程度の距離とは言え、二千を前にしてぼんやりの物を食べているのも気に食わないし、それが自分たちのものだということも気に食わない。

 

「奴を殺すなり動けなくするなりして未だ奪われていない輜重を取り戻せ。今直ぐだ!」

 

間合いは百歩。己の軍は黄巾の中でも精鋭の二千。敵の背には鉄弓が、地面には突き刺さった戟がある。

 

「怯めば被害を増やすばかりだということを意識しろ。屍を乗り越えて突き進むのだ!」

 

号令と共に進む黄色の集団を横目で捉え、呂布は食いかけの干し肉を呑み込んで悠々立ち上がった。

左手には、件の鉄弓。矢を滑り止めがわりの包帯を巻いた手で持ち、狙いを定める気もないように番える。

 

「垂直とはな!」

 

上に向けてではなく、空気抵抗など知らぬとばかりに垂直に構えられた弓を見て、鄧茂は嗤う。

所詮は近接戦闘に強いだけの戦闘の素人。数を揃えれば充分に圧し切ることができるだろう、と。

 

確かにそれは正しい。個の武では並ぶ者がない彼女の対処法は、物量を叩き付けて疲弊させるしかなかった。

 

尤もそれには、一般兵四万を草埋めにして一騎当千の武人を五人向かわせる、精鋭二万の命と一騎当千の武人三人を捧げる、一騎当千の将を十人揃えて連携させる、と言うろくでもない選択肢のいずれかを取らねば実行不可能なのであるが。

どちらにせよ彼女の命を絶つには無数の命が失われなければならないし、彼女を屠る刃に滴った血の数万倍を流血で贖わねばならない。

 

彼女が生涯で流すであろう血はごく普通な分量だが、流させる血はその万倍にも上るのである。

 

そして、この無敵の猛将が放った開闢の嚆矢は、五人分の命と流血を要求した。

ただの一矢が先頭に立って進んでいた勇士の腹を甲ごと貫き、後続の兵一人の甲と胸骨を穿って命を奪う。

 

「怯むな、突き進め!」

 

表現するにはあまりにも簡単な異常事態が繰り返され、五人目がどうと倒れ伏した瞬間に叫ばれた檄を打ち消さぬような小さな声で、されどよく通る無感情な声音で呂布はポツリと呟いた。

 

「あと、二十本」

 

 

少なくとも、先頭に立った百人は死ぬ。

明確にそれを告げ、粛々と射殺―――もはや死刑と言っても良いかもしれない―――が実行されていく様を見て、二千を千九百五十人にまで減らした兵たちは背筋に死神の手をつっこまれたかの如くゾッとした。

 

進めば死ぬ。ほんの百歩の間合いを詰めるのに、百人の命と血を欲すこの化け物は、何なのか。

地獄に住む羅卒と言えども、一歩進む代わりに人命を要求したりなどはすまい。

 

しかも、二列縦隊の内の左列五人、右列五人と言ったように機械的に五人の命が失われていく。

四人とか、六人とか。僅かな誤差や失敗があればまだ救いがあった。しかし、化け物は正確無比に命を刈り取る。

 

矢が尽き、弓を捨てた。そうわかった瞬間、死への行進をしていた兵たちの士気がやけくそ気味に上がった。

確定された死より、まだ希望が持てる方がいい。運命が同じところに帰結しようとも、用意された死に突き進めるほど彼等の精神は太くなかったのである。

 

まだ、まだ希望が持てる。そう判断して士気を上げた右列先頭の兵士の頬を、烈風が撫でた。

 

矢では、ない。なら、何なのか。

 

屍体と血で塗装された道を虚しく踏みしめながら彼は進み、頬を撫でた烈風の発生源に疑念を抱いたまま命を絶やす。

 

右列の三人と、彼を含んだ三人はまだ幸せだったのかもしれない。

何せ、確定された死を乗り越えた先に待っていた確定された死を知ることなく死ねたのだから。

 

「あと八本」

 

手に持つは、手戟。持ち運びが容易な『打つ』とか『投げる』為の戟だった。

ただし、彼女の場合は投擲モーションの視認が不可能に近い。速い。ただそれだけである。

後ろを振り返り造反しようとした兵の頸骨が手戟に絶たれ、喉を突き破って二人目へと至り、頸骨と喉の通過順序が逆とは言え更に突き進んで三人目の喉に深々と突き刺さり、止まる。

返っても死ぬ。行っても死ぬ。どこに行こうが死ぬのならばと、黄巾の兵はせめて避けられる可能性のある前を向いた。

 

矢で五百人、手戟で三十人。まだ千四百七十人。

それでもなお、近接戦闘に持ち込めば何とかなるかもしれないという不確定な希望と、もう二度と会わないためにここで仕留めたいという願望が、彼等の死の行軍を支えている。

 

呂布は、特に何の感慨も持たずに地面に突き立った方天画戟を引き抜いた。

 

彼女としては今までの狙撃戦で結構減らしたつもりでは、ある。

しかし、まだ向かってくる敵を見て少し思うところがあった。

 

三万といったが、あれはのべだった。瞬間的な殲滅力では己よりも千人の軍が勝るし、効率的であろう。

 

三万を殺せることと、自分一人で戦力が三万上がることはイコールではないと、彼女はだいたいそんなことを感じていた。

 

「……あとで、謝る」

 

あの副官の言い分は、正しい。呂布一人では三万を殺せるかもしれないが三万の代用品とはならず、精々百とか、五十とかの戦力にしかなく、数学的に見ればさほどでもない。

 

持った方天画戟を斧のように振るい、一先ず四人ほどを物言わぬ屍に変える。

 

(―――恋は、将になった方が役に立てる)

 

個人の武は戦局を変えられるかもしれない。だが、それでも一介の将と同じ権限を与えられたに過ぎなかった。

 

ならば、己も将になる。そして、前線で働く。

 

二重で戦局を変えられれば、二倍くらい役に立てることができると、彼女は考えた。

 

保護者が己の戦才をさほどの物でもないと自然に意識しているのに続くように、呂布も己の武才から離れる。

役に立てることが嬉しいのであって、彼女には武を極めるのはさほど嬉しいとは思えなかった。

 

「後方から圧迫し、山肌を包囲網の一翼とせよ。この戦いが隊長の御手の上にあろうと、我らも役者の一人なのだからな」

 

考え中の呂布にだいたい三百人ほどを撃殺された黄巾賊が怯み、先ほどと状況を逆転させたのを好機として、副官率いる百の騎兵が二連斉射の末に斬り込む。

 

呂布に一歩ずつ進んでいた黄巾が呂布が一歩進む度に一歩ずつ下がり、崩壊しかけてきたところで退路を絶つ。

 

自身が先頭になって勇猛果敢に攻め込むところにも、この副官の有能さが伺えた。

 

「隊長の狙いを崩すな。何人かは逃がしてやれ」

 

右往左往するしかない敵兵を草でも刈るように討ち取っていく味方を諌め、副官は己の隊長に視線をやる。

 

呂布は、一つ頷くだけだった。



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適宜

「……何で動かないのかねぇ」

 

「さあ……」

 

隣で行儀悪く座っている男が漏らした疑問の念に首を傾げることで答え、公孫越は疑問を深めた。

 

「李師殿は、思い浮かぶところはないのですか?」

 

「いやぁ、どうも」

 

彼の提出した作戦計画は、大雑把に言えば敵前衛の精鋭部隊を釣り上げて敵の連絡線を切断。包囲して殲滅するというものである。

突っかかってくればあの手この手を尽くして包囲網の原型に引き釣りこまれるのだが、来ない以上はどうしようもない。

 

(何故突っかかってこないのか。一部隊を迂回させているのか、それとも……)

 

後ろをぽーっとついてくる呂布に原因があるとは露ほども知らず、李師はその場を辞して幕舎へと戻った。

 

動かないならば練り直し。特に作戦にこだわる気も理由もないが、動かない理由は知りたい。

 

「そう言えば、恋」

 

「……?」

 

「お前、数日前に敵陣を視察していたが、あれから敵の動きがおかしいと思うんだ。何かしたのかい?」

 

別に特に隠す気もなかった恋は、ぽつりぽつりと喋り出す。

 

効率的に敵を怯ませるために輜重隊の兵員を囮に一部隊を釣り、左翼の主将たる鄧茂と少数の兵を逃がしたこと。

 

それは正しく効果を発揮し、中央部・右翼が順次戦闘に入っているのに対して、左翼は異様なまでの静けさを保っていた。

 

「……なるほど」

 

頭に乗った帽子に手をやり、団扇のようにパタパタと襟元を扇ぐ。

これは己の見込み違いであったし、そもそも前提条件と作戦計画の指向が間違っていた。

 

「もう一度偵察し、作戦を変えよう。恋、兵を貸してくれ。少し外出する」

 

「……危険」

 

「私が危険を犯すことで死ぬ兵が幾らか減るなら安いものさ」

 

「嬰は」

 

彼女が敬愛し、恋慕するところ篤い保護者と居るときのぽわぽわとした雰囲気から、抜き放たれたように鋭気が満ちる。

刃のような鋭さは彼を害する物ではないが、圧迫するようなものではあった。

 

「……死ぬの、嫌じゃないの?」

 

「できるなら、あまり死にたくはないな」

 

どうにも警戒の足りないところがある彼女の保護者は、一事が万事無頓着なところがある。

それは物に対する執着であったり、どこか透けているような、傍観しているような主体性のなさとなって表れていた。

 

「…………恋は、死んで欲しくない」

 

「私も死にたくはない。というより、護衛を連れて行くと言ったじゃないか」

 

「……何で恋じゃないの?」

 

そう言われると、私情があったと言う事実を認めざるを得ない。

彼は戦場では殆ど冷酷なまでに割り切れるが、何だかんだ言ってまだまだ悩んでいる。

 

彼女には、人を殺して欲しくはなかった。他の親の子供に他人を殺すことを強いている己が言えたことではないとわかっているが、その嫌悪感が拭いきれていないのである。

 

理屈でわかっているからこそ戦場で彼女を含む親衛隊を戦力に含み、私情に流されはしないのだろうが、傍から見たらブレているように見えるのは寧ろ当然だと言えた。

 

「……恋の方が強い」

 

「でもお前は指揮官だろう」

 

「副官がやる」

 

いつの間にやら現れた赤兎馬の尻に李師を持ち上げて無理矢理掛けさせ、一瞬で後頭部から落ちそうになったところを鞍に跨った呂布が前から引っ張って支える。

 

「……じゃあ、頼むよ」

 

「ん」

 

剥き出しの下腹部と腰の辺りに手を回し、体重を前に預けて落下を防ぐ。

頭以外は無用の長物と言われただけに、彼の馬術のできなさっぷりは凄まじい物があった。

 

赤兎馬は悍馬であるが、認めた主には従順な賢い馬である。だからこそ呂布の一呼びで駆けつけるし、どんな無茶な命令でも粛々と実行に移す。

その忠誠は自然呂布の忠誠の対象である彼にも向いており、出来る限り落ちないようにと配慮しながら歩いて―――走ったら確実に落ちる程度の技量しか持たないことを、賢いこの馬は一目見た時から理解していた―――いるのだが、それでも落ちた。呂布が支えて事なきを得たが、落馬した。

 

乱世の将らしからぬ馬術の拙さと同等に、その護身術や武技も稚拙極まりない。

街のゴロツキに絡まれた末の喧嘩で、呂布には止まって見えるような拳を回避行動をとらなかった―――というより、避けることすら出来なかったのである。

 

武力全般と生活能力が無いどころかマイナスに届きそうな代わりに、別の能力が人並み以上。そんな歪さを、彼の能力は多分に含んでいた。

 

「おお、揺れない」

 

「……」

 

そこそこの馬の疾駆する程度の速度を出しながら、なるべく馬体を揺らさない。

馬術初級者の頃からこんな高等技術を強いられれば、上達するのも無理からぬこと……なのだろうか。

 

ともあれ、彼女の騎射の巧みさはこの騎乗時の揺れの少なさに影響するところが大きかった。

 

「すごいな、恋は」

 

「……ん」

 

ルビーとガーネットの間の子のような瞳に嬉しさを湛えつつ、呂布は一つ頷く。

敵情視察の巧みさも、彼の戦いには不可欠と言う訳ではないが必要だった。

 

「んーむ、編成が入れ替わってるね。前は前衛に精鋭が集中していたが、今は彼等は後衛に居る」

 

「……どうなるの?」

 

「さあね」

 

この時点で、彼の頭には敵の作戦とその対処法が浮かんでいる。

それを誤魔化した理由は単純だった。些か以上に残酷な、されどそれ以上に有効なものだったのからである。

 

「恋はどう思う?」

 

「……全員弱いから、あんまりわからない」

 

強弱の差が大雑把な、つまり『雑魚』『ちょっと下』『対等』『強い』くらいしかない、しかも上二つに出くわしたことのない彼女からすれば、この世のすべてがどんぐりの背比べ状態でしかない。

 

兵は一撃で死んで、すぐ逃げる。

精鋭は一撃で死ぬが怯みにくい。

将はやっぱり一撃で死ぬ。

猛将は強いけど敵ではない。

 

彼女の敵は目前に居る人間ではなく、内部に溜まる疲労とかそういうたぐいの物でしかなかった。

 

「面白いのは、前衛の方が士気が高く、後衛の方が士気が低いことだね。練度と士気は比例するはずだから、こんなことは稀有だと言っていい」

 

「……わかった?」

 

「ああ、もう大丈夫だ」

 

軽く返し、恋の頭の上に乗せた顎を元の位置に戻す。

肩に手を掛けて背伸びをするという結構無理しての偵察をしていただけあり、その成果もあった。

 

「逃げよう」

 

「ん」

 

さらさらと受け入れた呂布が逃走に向けて馬腹を締める。

わかりましたとばかりにゆっくり走り出す赤兎馬は、揺らさないことを心掛けて全力を出せないことが不満だった。

 

勿論、これから全速を出せる機会はいくらでもあるのだが、それをわかっていても思うところあったのである。

 

「……いい子」

 

首を撫でる動作と共にもらった主の労りの言葉を嘶きで返し、赤兎馬は徐々に速度を緩め、ピタリと脚を止めた。

背の上から二人分の重みが消え、かわって地上に重みが戻る。

 

尤も、大地からすれば総重量は変わらないし、一人増えたところでどうとでもなる程度のものでしかないのだが。

 

「さあ、恋」

 

「……?」

 

「ここには君が初戦から五度にわたって奪ってきてくれた兵糧や矢がある。武器も、ある。これらを有効に使わせてもらうことにしようか」

 

何言っているのかまではわかるが、何をやるかはわからない。

そんな空気を漂わせつつ、呂布は曖昧に頷いた。

 

現在の戦況は、四分と六分。中央部は圧しており、右翼部は圧されている。左翼部は戦闘にも入っていない。

少数の兵を以って大兵に正面から突っ込む愚挙を行う訳にはいかないが、中央の本営よりの督促を無視して戦わない現状を続けるわけにもいかなかった。

 

「董卓軍と会談しよう。できれば手を貸してもらいたい」

 

「……包囲殲滅は?」

 

「あれはやめた」

 

公孫越と同じく、勿体無いと彼女も思う。あれをやれば名が売れるし、効率的に敵を殲滅できるのだ。

 

「……いいの?」

 

「昨日正しかった作戦が今日正しいとも限らないし、明日有効かどうかも定かではない。私の提案する作戦は明日の作戦だ」

 

「包囲殲滅は?」

 

「仕掛けてきたら、今日まで有効だ」

 

―――もっとも、仕掛けては来ないだろうがね。

 

頭に乗せた帽子で再び襟元を扇ぎながら、李師は公孫越の元へと向かう。

姉の相似形のような素直さを持った公孫越は、彼の上司としては充分に合格点が貰える能力をしていた。

 

「……兵舎を増やす?援軍の宛でもあるのですか?」

 

彼の提案は、兵舎の増設。元々予備として必要分プラス百ほどは折り畳んで持ち運んでいたが、更に足りないと言うのである。

材料として奪ってきた物資があるものの、公孫越には解せない点が色々とあった。

 

まず、姉の公孫瓚からの援軍はない。それに異民族からの援軍だとしても距離が離れすぎ、他州を通って来ることは不可能。

 

つまり、集められるだけの戦力はここに全て集まっていると言える。

 

「ない。が、やっていた方がこれからの為だと思うんだ」

 

「……ふーむ、作戦案でもお有りで?」

 

無駄なことはしないし、兵舎を増やせば偽兵に使えなくもない。

ポピュラーなものは旗だが、兵舎でも騙せることには騙せた。

 

まあ、コストの問題で殆ど実現させられることはないが、未だ包囲殲滅に未練を残している公孫越からしても偽兵という策は有りな案に見える。

 

どう機能させるかはわからないが、素人の集まりである黄巾には示威として有用だろう。

 

「作戦というより詐術とかの類かな」

 

「詐術、ですか」

 

「奇術とも言うかも知れません」

 

これは偽兵ということであっているのかな。

 

公孫越は姉とは僅かに色の違う髪を指で弄りながらそう予測し、首肯した。

 

「わかった。やっておく」

 

「あと、中陣の董卓軍に戦力を借りたい。伝手は有るが、許可をもらえるかな?」

 

「どうぞ」

 

何をするかが予想できるが、それがどうつながるか予想できない以上は反論する意味もないし、姉の知恵袋であるこの男には手綱をつけない方がいい。

この方法に反対な一族や古参の武将も居るが、公孫越は姉と同じような考えをしている。

 

それでこそ、名代を任されたというところもあった。

 

「作戦案に関して今は言えません。防諜関係が、どうにも」

 

「それはこちらの不手際ですから、謝るには及びません。李師殿は自分のできることに専念なさってください」

 

「ありがとうございます」

 

お互いに一礼して別れ、公孫越は手元にある詳報を読む。

 

『公孫瓚、張純軍二十万を大破、首謀者を斬獲。幽州牧へと内定せり』

 

姉の身を案じ、残ろうとした己に言った『大丈夫だ、問題ない。策があるからな』という言葉は、法螺ではなかったということになる。

 

「持つべき物は無欲で怠惰な深謀遠慮なる部下、か」

 

公孫越が李師が辞した方向を見て言ったとホボ同時に、公孫越の前を辞した李師も公孫越の方を見て一つ感嘆を吐いた。

 

「持つべき物は話しのわかる上司だな」

 

呂布はそれに対しては特に何も言わず、適当なところに突き立てていた方天画戟を引き抜いた。

 

 



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冀州の戦い・前編

戦闘は三日目に入った。

相変わらず中央部と右翼は軍をぶつけ合っており、互いに互いの綻びと疲労を誘っている。

 

なんの変哲も鮮やかさもない戦いだが、互いが急増連合軍であることを考えれば当然であった。

 

中央部の先陣が崩れそうになれば予備兵力を投入することで黄巾側の疲労を狙い、黄巾側は信じるところ篤い精鋭部隊を後方に待機させ、一般人に毛の生えたような部隊を投入して敵の先陣の疲労を誘う。

 

敵に綻びが見えたら、中央部は袁紹と曹操の直属部隊での連携を以って綻びを崩壊に変え、黄巾は前衛が疲弊し次第精鋭部隊を投入。豊富な物量を集めての戦闘に移るつもりだった。

 

中央部は烏合の衆たる前衛が既に壊滅、曹操と袁紹が直属部隊を投入して敵陣を崩しにかかっているが、周囲の部隊との連携が取れず、一息に潰走させるとまではいかなかったのである。

 

右翼部は逆に官軍方が疲労の極に有り、ただ一人袁術配下の孫家軍が権限を全く与えられないままに優先していた。

 

そして、左翼部。

 

「敵陣前衛部、動き出しました!」

 

「兵力は!」

 

「およそ七万!」

 

前衛の素人集団が突出してきたということになるが、それにしても七万というのは巨大である。

目の前に立つだけで腰を抜かしてしまうような数の暴威がそこにはあった。

 

「どうされますか、李師殿」

 

「七万と言っても、狭隘な左翼部の地形上七万全てをこちらで相手にする訳じゃない。右は川、左は山。進撃できる部分は狭いものさ」

 

軽い谷のような地形をしている左翼部は、峻険な地形上歩兵が整然と進撃できる部分は限られる。

山と川に囲まれ、平地に彫刻を施したような大軍の進退の難しさが官軍左翼部前衛たる公孫瓚軍が唯一保持する優勢であった。

 

「田予」

 

「はっ」

 

義勇歩兵、強弩隊、親衛隊、後方に公孫越の騎馬隊と董卓軍からの援軍。

四段に分かれた編成の内、李師がいるのは二番目の強弩隊と親衛隊の間であった。

 

「強弩隊を前に出し、射程に入り次第一斉射撃。百五十人を横並べに三連射。次発装填して更に連射。三連射したら五歩後退」

 

「はっ」

 

気が急いてか、射程に入ってもいない状態で走ってくる敵軍を悠々と見つめる李師の表情に、動揺とか恐怖とかいうものは見当たらない。

そのいつも通りの行儀の悪さが彼への安心となり、兵たちが一先ずの安堵を抱く。

 

「まだですか、李師殿」

 

「ああ、まだだ」

 

安楽椅子に車輪を通したいつもの椅子に行儀悪く座りながら、李師は切羽詰まった弩兵隊長の言葉を軽くいなした。

走って迫られると、やはり辛い。心理的抑圧は歩いて迫られるよりも勝るし、しかもそれが自軍の何倍もの数なのである。

 

弩兵の沈黙と焦燥への堪えは、ただ一人への信頼によって成り立っていた。

 

「もう来ますぞ!」

 

「まだ有効射程には入らないさ」

 

そう言いつつ、李師は別なことを考え出していた。

敵軍は矢や弓にかけているのではないか。素人の大軍とは言っても軍事指揮官はそこそこの者を送り込んでいるだろう。

 

ならば何故敵は撃たないのか。それ恐らく、捨て駒たる前衛に割くほどの弓も矢もないからでは、ないか。

 

「今だ、撃て」

 

考え込むのを一旦止め、李師は激烈とは程遠い冷静さで号令を下した。

田予もそれに頷きを返し、百五十本の矢が一直線に飛んでいく。

 

敵の前面が倒れ、それにつれて後に続くものも倒れて押し潰すというような稚拙極まりない光景を見た李師は、再び穏やかに命令を下した。

 

「斉射はじめ」

 

矢が放たれ、肉を貫く音が中央部と左翼部を区切る川と左翼部よりも更に左にある山の峰々に木霊する。

もはや戦いは一方的といってよく、戦場を狭隘部に固定した李師側に傾いていた。

 

しかし、兵たちの疲労は貯まる。殺していくのも無感情でできるわけではないし、改良されているとは言っても弩を引くのも楽ではない。

斉射と斉射の感覚はだんだんと開き、そのぶん黄巾が前進してきていた。

 

「兵たちも疲労しているようです」

 

「そうだろうな」

 

相変わらず姿勢の悪い大将に報告を上げた田予は、次の言葉を静かに待つ。

兵舎を作ったりしたのは何のためなのか、それは己にはわからない。しかし、何かあるはずなのだ。

 

「報告!敵軍は前衛と後衛の間が伸び切り、徐々に距離が離れてきている模様です!」

 

「ごくろうさま。もう一つ仕事を頼んでもいいかい?」

 

「はっ?」

 

三連射ごとに五歩後退しているが為に、前衛たる公孫瓚軍は徐々に圧し込まれている。

そんなことは誰の目にも明らかだし、それこそ彼の狙うところだった。

 

「華雄隊に連絡。敵前衛と後衛の間を一斉射撃で怯ませた後に、左側面から右に向けて敵を分断せよ、と」

 

「はっ」

 

華雄隊と義勇歩兵は、斉射の繰り返しの結果で三十歩下がったあたりから左への兵の延翼を阻む山を迂回し、敵の左側面に回り込んでいた。

敵の前衛の陣形は、十字。突出してきた為先頭が伸びているが中陣が厚く、後ろの精鋭部隊と繋がっている。

 

「突破の後にはそのまま味方中央部の方へと進出して川沿いに逆走。左翼部主攻の突進を助けてくれ」

 

「はっ、確かに」

 

駆け去った伝騎を目で追い、一刻ほど経った後に李師は頭を掻きつつ命令を伝えた。

 

「敵の後方が脅かされ次第親衛隊が正面に、義勇歩兵が分断された敵部隊の側面に突撃。退路は絶つな。逃がしてやれ」

 

「はっ」

 

一騎が更に左側面に伝令に向かったと同時に、華雄隊へと伝令が着いた。

 

「おぉ、やっとか!私たちはただ突撃して、敵陣をぶっ壊せばいいんだろ?」

 

「はっ。敵陣の接合部、その後方を突破の後に逆走、味方の突撃を掩護してほしいとのことです」

 

「わかったわかった」

 

確かに伸び切っているのを確認し、華雄は全員に乗馬を命ずる。

彼女の頭には、目の前の敵を粉砕すると言う獰猛な意志のみが充溢していた。

 

「総員、一斉射の後に突撃だ!」

 

総勢二千の涼州騎馬隊が、一斉射で怯まされた指定された接合部に喰らいつく。

ガリガリと言う音が聴こえそうなほどに強烈に削っていかれ、黄巾の左翼部の将―――鄧茂は素早く命を下した。

 

「突撃した部隊は挟み込んで殲滅してやればいい!我々は側面をとっているも同じなのだぞ!」

 

対応は遅れたが、それは正しい。接合部を砕こうとしているということは、両脇腹を見せながら背を向けた前衛と槍を向けている後衛を相手にするに等しいのである。

 

普通ならば怯み、戸惑う。両脇からの挟み撃ちを恐れて脚が止まる。

 

否、止まらざるを得なくなる。

 

「何故止まらん!敵は猪武者の華雄ではないか!」

 

「それが、厳密に接合部ではなく挟み撃ちを潰す為に後衛の先陣を横から襲っている状態で隊列の再編成に時間がかかり、しかも奴ら止まりませんもので……」

 

報告と同じく、華雄は何も考えずに突き進んでいた。

罠があろうがなかろうが、それごと粉砕して噛み破る。もっとも、指定された地点に罠があったことは今までにない。

 

しかし、『目の前の敵を殺して進む』ということに専念できた彼女は、気が狂ったかのような猛進ぶりを見せた。

 

「殺せ殺せ!何重の防御陣だろうが得物を前に振るえば敵が死ぬ。敵が死んだら進み、また敵を殺せばいいことだ!」

 

戦術的近視眼の為に罠にかかりやすく、また戦略的には言うまでもない彼女には物事を考えさせない。その職人芸の様な突撃の巧さにのみ期待し、用いる。

 

董卓軍で将としての仕事を求められていた彼女は、久しぶりに突撃することのみに専念することができていた。

 

「敵左翼部の分断に成功しました」

 

田予の統率と李師の攻撃タイミングの見計らいの適切さで以って『前進癖』がつくのを待っていただけあり、分断されたことに気づかない六万人ほどが前進し、後衛が再編成の為に後退したことで完全に分裂する。

 

「流石華雄、恐怖を無視する癖は変わっていない。いや、寧ろ鋭さが増したか」

 

「敵は随分簡単に分断を許しましたな?」

 

「元々使い潰す気だったことも、あるんだろうがね」

 

受けてみないとわからないが、あの突撃の凄まじさには特筆すべきものがあった。

再編も大変だし、恐慌を収めることも、必要だろう。

 

「どうなさいますか?」

 

「最後に三斉射した後に弩兵を下がらせてくれ」

 

部隊には疲労の影があるが、田予の指揮には鈍ることのない鋭さと巧妙さがあった。

 

三斉射の後に前に出たのは、呂布率いる親衛隊。

 

「疾駆しつつ敵中央部に一点斉射。そのまま空いた点に突撃して敵陣を崩してくれ」

 

「……ん」

 

任せろとばかりに頷きを返し、呂布はひらりと赤い巨馬に跨る。

翳す旗は、真紅の呂旗。

 

駆け出した五百騎に公孫越の二千の騎兵が続き、二千五百の騎兵が百歩ほどの間合いをたちまちのうちに詰めた。

 

「中央」

 

黒い鏑矢が高らかな音を立てながら敵の左翼前面の中央部に居た兵士三人を貫通して突き刺さり、五百本の矢が先を争うように中央部へと放たれる。

 

一点に五百一本の矢が集中し、隊列がズタズタに引き裂かれた部位を、方天画戟が傷を更に広げた。

 

公孫越の騎馬隊は千ずつに分かれて呂布率いる親衛隊が二つに引き裂いていく兵たちを押し込みにかかり、これを後方へと押し戻す。

 

騎兵の突撃など受けたこともなく、脚を使い通しだった彼等に抵抗するような余力はなかった。

 

一人が背後を振り返り、後方に控えていた同部隊の兵士が逃げ始めていたのを視認した時、もうすでに後衛との距離を百五十歩ほど離された前衛部隊の前面敗走が始まった。

 

「よし、義勇歩兵を後方に迂回させ、突っ込ませよう」

 

「もう動き出しております」

 

「そいつは重畳」

 

「あと、華雄隊が側面への圧迫と射撃を終えて帰還しました。いかがされますか?」

 

「予備兵力として手元に置いておきたい」

 

「はっ」

 

田予の指揮の元、援護射撃を行いながら味方の騎馬隊の後を弩兵が続く。

義勇歩兵が後方に回り込み、呂布が前から、地形が左右から挟んだ包囲殲滅がなろうとした時、彼は静かに命令を下した。

 

「義勇歩兵に連絡」

 

「包囲網を縮めさせる、ですか?」

 

側に控えた強弩部隊指揮官の田予は、確かめるように己の指揮官に問う。

奇略はないが堅実で機を見逃さぬ鋭さと、緩急自在な用兵の巧緻さがある。そして何より、味方の犠牲を最小限にとどめようとしているこの指揮官を、田予は好意とともに支えようとしていた。

 

その為の先読み、だったのだが。

 

基本的に姿勢はともかく真面目な表情を崩さなかった李師の顔が、少しいたずらっぽく笑う。

 

「包囲網を解いて、逃がしてやれ、と」

 

 



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冀州の戦い・後編

包囲網を解き、敵を逃がす。

 

李師が言った言葉は、田予を僅かに混乱させた。

 

「親衛隊・華雄隊・義勇歩兵にはこの竹簡を頼む」

 

「わかっておられるとは思いますが、包囲網を解いては敵兵の頸に匕首を突きつけておいたのをわざわざ離してやるようなものなのではありませんか?」

 

「正しい。しかし、ここで残りの五、六万人を殺しても敵には三万の予備兵力がある。しかももうそろそろ再編成も終わるだろう。

我々の包囲網はどのみち断ち切られる運命にあるのさ」

 

だから早期に兵を引き上げさせるというのはわからなくもないが、それでも敵の精鋭三万が生きているのは変わらない。

これをどうするのかと思いつつ、田予は三騎の伝令を走らせた。

 

「兵の形は水に象る……という言葉がある。これと私のとった戦法は全く違うが、字面だけなら似ていなくもない」

 

「と、言いますと?」

 

「人は水が持つような流動性を持っている、ということかな。こちらが流れを作り、彼等が向かった先で蓋をし、包囲網は成った。

謂わば、逃げようとする勢いを堰き止められた訳だ。どこを見ても逃げ場はなく、河に行っても溺死。そこにいきなり逃げ道が現れれば人はそこに活路を見出して殺到し、氾濫する」

 

そして、氾濫した水たちの向かう先には隊列を整え終えた三万の黄巾の精鋭たちが居る。

 

「流されるか、水そのものを絶ってしまうか。彼等はどちらを選ぶだろうね」

 

「……最初から、このつもりで」

 

「兵がない。なら、作る。人は作れないが、集団戦闘を押し流し、破壊する為の勢いならば作れるという訳だ」

 

氾濫した水は、怒濤の如き勢いで味方の陣に殺到していた。

そこには呂布率いる親衛隊が勢子でもするかのように後ろにピッタリと付き、このまま行けば勢いそのままに雪崩込める。

 

山沿いに居る義勇歩兵も川沿いに居る華雄隊も共に両脇から襲い、三方向から敵を叩くことが可能だった。

 

「しかし、水を殺されるとはどういうことでしょうか?」

 

「雪崩込んで来る敵を押し止めるために、我らは矢を放った。そういうことさ」

 

つまりは、味方を撃つ。そういうことなのだろう。

 

「それでは、そうされた場合策は失敗するのでは?」

 

「やっこさん、私達より兵力があるばっかりに幅のある平地に陣を構えているからね。完全に堰き止めることなんかできやしないだろう」

 

流れの激しい河と山の間という狭隘部に陣を構えたからこそ、七万と言っても一度に向かってくるのは十数人だった。

しかし彼等黄巾賊左翼部の本営は大軍故に、割と開けた地に陣を敷いている。

 

「どちらにせよ、変わりはしないと?」

 

「いや」

 

端的にそれだけ返し、李師は僅かに乾いた喉を水で潤した。

 

敵が撃てば、敵前衛を降伏させやすくなると共に中央部・右翼部に相互不信の種を巻くことができる。

撃たなければ、敵の潰走で終わるだろう。

 

その為に彼は、呂布を前面に押し出させた。

 

士気の低い原因は、呂布の噂が蔓延しているからだということに気づいたからである。

恐らく呂布が出くわしたのは敵の精鋭部隊だったのではないか。そして、出くわした部隊の生き残りは緘口令を敷かれた。

 

しかし隠し通せるものでもなく、同陣にいる後衛の精鋭部隊の各員には伝わる。だが、離れていた前衛には届かなかった。

 

否、元々は精鋭部隊が前衛を務め、一挙に覆滅さしむるつもりだったのだろう。それが呂布という暴威によって崩され、本来後衛であった素人集団と位置を変え、作戦を変えるのに三日掛かった。こんなところなのだろうか。

 

どちらにせよこの場合重要なことはただ一つ。

 

敵の後衛が呂布を恐れること甚だしく、思わずといったような抜け駆け行為で味方を撃つ公算が極めて高い、ということだった。

 

だが、ここまで基本的に的中していた彼の予測は、ここで初めて裏切られる。

 

敵の左翼部総司令官である鄧茂が、重度の呂布恐怖症に掛かっていたということが、彼の予測がハズレたことの要因だった。

 

鄧茂からすれば華雄によって乱された三万の再編を終え、包囲されている味方部隊を助けるべく号令した瞬間に包囲が解けたのである。

 

当初何事かと思った彼には、この時側近と笑語するだけの余裕があった。

 

相手の指揮官も案外だらしない、とか、こちらの動きを予測したのではないか、とか。色々と予想を立てていたのである。

 

そしてその後、救援しようとしていた味方が怒濤の如き勢いで向かってくるのを目にして危機に気づいた。

 

「このままでは我々は味方に引き裂かれてしまうではないか!」

 

その怒声は、どう動こうが変えようのない現状に叩き込まれたことへの苛立ちと恐怖であったろう。

例えるならば、左に行こうが右に行こうが槍衾があるようなものだった。死ぬかは分からないが致命傷は負う。

 

「しょ、将軍!あれはぁ!」

 

側近の言葉が、動揺していた彼の耳朶を打った。

どうするか。その問いがどうどうに巡っている彼は、割りと簡単にそちらに意識を割かれる。

 

「何だ!」

 

「あの、赤い部隊の先頭に立っているのは……」

 

一際目立つ巨馬と、綸子のようにぴょこんと立った二筋の髪。

手に持つのは、彼等に恐怖を植え付ける原因となった長大な戟。

 

待ち受けていた槍衾が、死神の鎌に変わった瞬間だった。

 

「前方より迫ってくる敵部隊を迎撃せよ!」

 

「将軍、ですが―――」

 

「奴らはもともと信仰心も何もない烏合の衆。それが裏切ったのだ!裏切り者と敵が混ざって突っ込んでくる以上、こちらがとるのは迎撃であろうが!」

 

李師が恐怖に負けて『誰かが抜け駆けで』やると思った射撃は、非常に統制の取れた形で実行に移される。

将自身が抜け駆けてしまったと言ってもよかった。

 

何も知らない前衛の兵は、味方の陣に駆け込めば助かると信じて疑っていない。

弓を構えているのも敵に応戦する為だと疑っていなかったし、その頼もしさがより一層の加速になる。

 

「撃てぇー!」

 

恐怖に駆られた鄧茂の声が各部隊長に伝達され、各部隊長から各下士官に、下士官から兵卒へと伝達された。

そして、一万にのぼる矢が哀れな前衛の兵士たちに殺到した訳である。

 

これは彼にとって誤算だったにせよ、致命傷ではなかった。そして、策同士の歯車がズレたわけでもなかった。

 

逃げ込もうとしていた味方に助けてもらおうとした仲間が射たれたのを視認した前衛の兵たちには、止まろうとした者も居る。

しかし自分たちがこのまま進めば撃たれるなどとは知りもしない、後に続く残り五万の兵が止まる訳もなかった。

 

未だ脚は止まらない兵たちの方が多く、鄧茂の本営と言うべき三万の軍勢はその陣形を人の波によって崩されてしまっていたのである。

 

一定の行動に対する統制を保つ為に陣形が有り、統制を保っていない軍ほど脆いものもない。

そして、この脆さをはいはいと見逃してやる程、三人の現場指揮官は優しくはなかった。

 

「突撃」

「華雄隊と連動、敵の側面を襲う!」

 

「一人残らず踏み潰してやれ!」

 

 

逃げ惑う敵前衛の兵を矢避けにしながら呂布率いる親衛隊がたちまちのうちに前衛を、関羽を先頭にした義勇歩兵と華雄率いる涼州騎馬隊が敵側面を切り崩す。

 

ただでさえ前方より迫ってくる味方部隊に陣形をズタズタにされた挙句、川沿いに右方面から迂回してきた華雄隊、山沿いに左方面から迂回してきた義勇歩兵、正面から放たれた矢の如く突っ込んできた呂布隊に三方向から挟まれた黄巾賊三万に最早活路とよべるものは無かった。

 

二刻も掛からぬ掃討戦の末に敵将鄧茂はその首を華雄の大斧によって知らぬままに撥ねられ、組織的抵抗と呼べるものは脆くも潰えさる。

 

そして。

「貴様らは我らに負け、今また貴様らをご丁寧にも撃ち竦めてくれた味方の抵抗も潰え、死のうとしている!」

 

華雄は渡された竹簡に書いてある通りのタイミングで、出来うる限りの声量で全軍に響き渡るように怒鳴る。

 

ここらへんが、締めだった。

 

「武器を捨てよ!諸君らは元々罪のない農民。抵抗するからには容赦をする訳にはいかないが、わた……李仲珞殿は諸君らの罪を己の功績に換えても贖い、免罪を勝ち取るであろう!」

 

今まで味方と思っていた人間から裏切られ、殺し合っている相手から降伏という慈悲をかけられる。

明らかに異常事態と言うべき現状を、ただしく認識できた人間などは極少数でしかなかった。

 

しかし現状が極めて拙く、このままでは自分たちが死ぬということは彼等にもわかっている。

 

「降伏の意思ある者は、武器を捨てろ!」

 

馬鹿でかい声が戦場の喧騒を打ち消し、その後に硬質な物体が地を打つ音がカラリと鳴る。

降伏の意思を示した三万人の黄巾賊を囚え、壊滅した左翼の面倒を董卓軍に押し付けた後に、公孫瓚軍は粛々と撤退を開始した。

 

「将軍。では、私たちはこれにて本営と合流させていただきます」

 

「ああ、ご苦労さま。華偏将軍」

 

「御戯れを」

 

常はまず見られないほどの非常な礼儀の良さが彼女の抱く敬意の篤さを如実に感じさせられた、『猪突猛進』を体現したかのような銀髪の猛将が一礼して去る。

涼州牧である董卓の一将としてその武名と悪名を鳴り響かせている彼女らしからぬしおらしさは、噂でしか彼女を知らない田予の目をも驚かせるものだった。

 

「……実際と噂とは、掛け離れているものですか」

 

「いや、彼女はやさぐれていなければあんなものだと思うけどね」

 

常時バーサク状態な猛虎が猫になったくらいの差が、田予の聴いていた華雄と実際見た華雄との差にある。

先程見たある意味自然とすら思えるほどの見事な従順さと、戦場での頭の構成物質が二、三個落ちたかのような勇猛さの乖離っぷりが、年若ながら雪の如き白髪を持つ彼女の頭を混乱させていた。

 

「田国譲。貴女も疲れているようだし、ここらで一度休息といこう」

 

「お気遣い、感謝します」

 

「うん」

 

退出した田予の代わりに入ってきた呂布が己の指揮官を見た頃には既に、彼は休眠モードに入っていた。

 

左翼を崩され、脆い側面部からの攻撃を許すはめになった黄巾賊がどうなったか。

それは最早、誰が聴くまでもなく明らかな結末になったとしか言いようがなかった。



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反董卓連合軍
売買


「これはこれは、敵軍十万を僅か四千で打ち破った詭計百出の智謀の師、戦陣に有れば戦う度に兵を増やしてくる魔術を弄す魔術師殿ではありませんかな?」

 

「そういう貴女は北辺の雄たる公孫幽州様の配下にあっても随一の武勇の士、敵軍二十万に対しても一歩も怯むことなく突撃していった常山の昇り龍、趙子龍殿じゃないか」

 

出会って早々、悪戯っぽい笑みと温和な笑みによる皮肉の浴びせ合い。

義勇軍の将帥たちにも趙雲という将と相対するのは初対面では無いとはいえ、今までの彼女と今の彼女を同一人物として印象を掴もうとするにはあまりにもあんまりな光景は、最早公孫瓚陣営の諸将たちからすれば見慣れ、聞き慣れたものであった。

 

射撃、応射、反撃、終結。

 

現在第二段階にあるから残るは皮肉を一回分応酬させるだけか。

ぽけーっとしている呂布を除いた全ての公孫瓚陣営の諸将がそう予想したのとは裏腹に、趙雲は返しの皮肉を鞘から抜き放たずに留め置く。

 

彼女も、疲れていた。要はこの皮肉の応酬も相槌や挨拶と同じようなもので『やらねばならない。が、やらなくても困らない』程度のものでしかない。

 

尤も、彼女は楽しくてやっているところが多分にあるのだが。

 

「……その皮肉のキレの鈍さ。先輩たる李師殿も、苦労なされたようで」

 

「後輩たる君も弁説が回っていないところを見ると、苦労したようじゃないか」

 

そして、彼も趙雲が退いた以上は無用な追撃を仕掛ける気にはなれないし、ならない。

お互い敵と戦うことに疲れていたし、味方の対応にも疲れていたのである。

 

「……ええ、まあ」

 

「…………そうかい」

 

お互いどこかに陰を背負い、そのまま近くの酒屋に直行しようとしたところで、趙雲は陰を落としていつもの己らしさであるノリの良さと腰の軽さを全面に押し出して李師に問うた。

 

「ところで、その方は?」

 

「わかりきった質問だろうに」

 

「それはそうです。ですが、わかりきった質問をわざわざするのもまた、人生の楽しみというものでしょう」

 

「義勇軍。君の好きな理想を形にしようとする、私とは違った視野の広さを持つ―――まあ、英雄の卵だよ」

 

度合いは?

半熟……いや、未熟かな。

 

クソ真面目に失礼なことを話しつつ、趙雲は己の元気パラメータとも言うべき舌の回りっぷりが徐々に回復しつつあるのを感じている。

 

どうにもこの世には馬の合う人種という者と合わない人種という者が居て、己は馬の合う人種しか好かれないし好くことのできない質らしいということを、趙雲はこの時既に気づいていた。

 

「なるほど、やはり私の抱いた印象は正しく、風化に風化を重ねて原型すらない李師殿とは根っこから違うというわけですか」

 

「後輩。奢ってやらないぞ」

 

無論本気ではない笑いを浮かべながらの軽い脅しに、趙雲は著しく恐懼した体で拝むような真似をする。

半笑いとも言うべきその口調は、常に違わず余裕綽々とでも言うべきものだった。

 

「おお、怖や怖や。『震ただ恐懼して落涙止まらざるあるのみ』とは、この先輩たる李師殿の暴挙に震え慄く私にこそ相応しい言葉でありましょう」

 

「君には相応しい言葉はたった四文字さ」

 

軽く肩を竦めながら間髪入れずに次なる一射を用意している辺りに、彼の頭がただたんに戦闘に特化された脳筋思考ではないことが伺える。

もっとも、彼の主君である公孫瓚が聴けばこんな皮肉を考えるような頭はいらないから、もう少しマシな勤労意欲を寄越せと言うだろうが。

 

「ほう、如何に?」

 

「『自作自演』。これだろうね」

 

「それはそれは殺生な。話は戻りますが、財力暴力を傘にきた先輩による言論統制は暴君圧政への道、ではありませんかな?」

 

「偶には私にツケるだけではなく、自分で払えということだよ。趙子龍」

 

立て板に水とも言うべきさらさらとした皮肉の効いた台詞の応酬を繰り返す公孫瓚陣営の双璧と言うべき、猛将と智将のコンビを遠巻きに見て、他の将たちは肩を竦めた。

 

片方は常よりも更に激しい小悪魔的な笑みを、もう片方も常と変わらぬ温和な笑みを浮かべている。

互いが嫌いあっていない以上は無理矢理止めさせるわけにもいかないし、その方法もなかった。

 

「見目麗しく、淑やかな女性の懐に負担をかけさせないのも男の甲斐性というものでしょう」

 

「見目麗しいのは、認める。しかし淑やかな女性というものは己の性別と容姿による優越を理解していても口には出さないものだと、思うんだけどね」

 

借款という事実を突きつけてくる智将に対して、突きつけてきた本人が絶対にできないであろう容姿の誇りを以って躱す。

李師はこれに対し、躱した先に常識と節度と言う、到底に似合わないような罠を仕掛けて牽制した。

 

「これはこれは、李師殿は腹が黒い女性が好みと仰られるか。これは私も、必死に炭でも飲んで腹を黒くせねばなりませんなぁ」

 

「白々しいとはこのこと、だろうね」

 

巧みな話題の切り替えと、台詞に漂う感情的陰翳の彫りの深さ。

その二点に感嘆と呆れを表しながら、李師は帽子に手をやりつつ降参の意を示す。

 

これ以上なお続ける為の論陣は張れるが、張っても周りがハラハラするだけということを彼は知っていたし、退き時の大切さを彼ほど知り抜いている男も珍しかった。

 

「残念ながら、小官にはその言葉が誰を指しているのかは理解いたしかねます」

 

「よく言うよ、本当に」

 

頭に乗せていた帽子を左手に移した李師は、それをひらひらと風にはためかせて終戦の合図とする。

その女性らしい艶美さと柔らかさを損なわず、なお且つ賢さと眼端の利くシャープさを端的に表すような顎で行き先を軽く示した。

 

どうやら、良い酒屋は既に目星を付けているらしい。

 

「手が早いものだ」

 

「名店を知らぬは人生の損、知ってて行かぬは更に損と申します」

 

李師が歩き始めた途端に慇懃無礼に深々と頭を下げる。

手だけはしっかりと行き先を示しているあたり、この趙雲という将のしたたかさも生半なものではなかった。

 

「……まあいいさ。行こう」

 

「流石は名将、決断に富んでおられる」

 

「口の減らないものだなぁ、君も」

 

「これはこれは……」

 

口調や態度からして思いっ切り慇懃無礼の生きた見本のくせして、こういう時には弁えて一歩半下がりながら追従する抜け目のなさ。

 

立ち回りがうまい人間はどこに行こうが居るものだと、李師は頭を掻きながら独りごちた。

 

無論、右斜め後ろの定位置には変わらず呂布がふらりと着いてきている。

 

「では、我らが暫定主・公孫伯圭殿の幽州牧就任を祝って」

 

「これから世がろくでもない戦いの渦に巻き込まれないことを祈って」

 

そうして乾杯した二人と虚空を見つめる一人の愛武器である内の戟と槍の内の槍の方―――龍牙は酒屋の壁に立て掛けられていた。

趙雲はそのままいつでも愛槍龍牙を手に取れるように壁際に、一番入り口に近いところに腰に剣を佩いただけの呂布とが李師を挟むようにして座っていた。

 

ちなみに両手に花というべき状態にある彼は、『持っていても抜く前に死ぬから』と帯剣すらしていない。

 

所謂この両手に花というべき状態は、闇討ちや不慮の事故対策である。

 

「あぁ、戦の後のメンマと酒は最高、というべきでしょうな」

 

「……奇特なものが好きだね、常山の昇り龍殿も」

 

「メンマの良さがわからぬ人間は人生の八割を損していると断言できますぞ、私は」

 

初手からメンマと酒で我が世の春を謳歌している趙雲。

 

舶来の茶葉の重さを目算と勘でちまちまと量り、容器と水を熱したものをコツコツと用意している呂布。

 

呂布が茶を淹れ終わるまで手持ちに水しかない李師。

 

一応共に飲みに来ているにもかかわらずまるで統一性のないあたり、公孫瓚陣営の主力メンバーのフリーダムさが伺えた。

 

「……できた」

 

僅かというには長く、長いと言うには短すぎる時間で差し出された茶の匂いを嗅ぎつつ少しずつ李師が口にし始め、一刻(二十分)後。

 

先程まで心底うまそうに飲んでいた李師が差し出した空の杯に、肉を食べ終わった呂布が二杯目を注ぐ。

三人がそこそこ満足し始めたあたりで、本題の口火は切って落とされた。

 

「……でだ。この飲みの誘いには、何らかの裏があると私は思っているんだが」

 

「ご明察」

 

黄巾の乱は全く、収まらない。しかし、州を跨いだ組織的抵抗は基本的に収まったことに気を良くした漢帝国は軍事費の拡大を嫌って西園八校尉を中核とした連合軍の解散を宣言。各州の牧の権限を拡大することによって各勢力の征討行為に任せたのである。

 

更には、この命を下した劉宏―――諡号は霊―――が直後に崩御。彼女の子の劉弁を支持する 何皇后と、劉協を支持する董太后との間で後継争いが起こった。

人民が蜂起し、内乱が起こっている時に民を哀れまず、また対策をとらず、己の利益を図る為に骨肉相食む争いを国費を投じて味方を作り、諸侯を招いて盛大に火花を散らせ始めたのである。

 

この諸侯を招こうとする劉弁派の首魁である虎賁中郎将袁紹の動きに危機を感じた劉協派の宦官の蹇碩は、何進を暗殺しようと図ったが失敗し、結局劉弁が今上帝として霊帝の跡を継いで即位した。

 

劉協派を粛清し外戚として権力を握った何進は、更に十常侍ら宦官勢力の一掃を袁紹と図る。

 

しかし、何進の権力の源である何皇は宦官から賄賂を受けていたのでこれを許可せず、宦官側もしきりに何進に許しを乞うた為、計画は進展しなかった。

 

だが宦官を許した何進は逆に宦官に暗殺されたという。

誰が蠢動したかはわからないが、李師は袁紹が計ったのだと思っていた。本来ここで一番得するのは袁紹の筈だったからである。

 

袁紹は計画通りに宮中に兵を進め、宦官を老若の区別なく皆殺しにし、帝をその手に収めようとしたの、だが。

 

十常侍が帝とその妹・劉協を宮中よりさらって逃げ、それが何故か董卓に保護されたのだ。

 

「……伯圭殿は『勝手にやっていてくれ。私には権力を得るよりも民の不安の種を除く方が重要だ』と言い残して早々に幽州に帰られましたからあまり被害はありませんでしたが、他の諸侯はぽっとでの田舎者に名をなさしめる為に工作金と兵とを浪費したわけですからな」

 

「舶来の交易船に買い付けに行くと、茶葉を買うつもりでいる鵜の目鷹の目の客が茶葉をねらって入ってくる。ところがそういう者は買えないで、ふらりと入ってきた者が茶葉を買ってしまう。これが世の中の運不運というものさ。まあ、今回はどちらが真に不運だったのかはわからないが……」

 

「欲がない器は広いからこそ、狙われている物は入りやすいのでしょうな」

 

何故例えが茶葉なのかはわからないが、あり得ることなのは確かである。現に都ではそれが起きた。

 

洛陽という店が客を呼び込み、呼び込んだ客たちに対して帝という品物を売りに出すと言う。

興味本位で押しかけていた客候補はそれを得る為の買い手となり、公孫瓚という誰もが羨む品に興味をいだかなかった客候補は自宅に帰った。

 

周りの買い手は馬鹿な奴だと思いつつ競りを続け、遂には乱闘になり、結果董卓という誰よりも遅れてやってきた無欲な客候補が品物を偶然手に入れてしまったわけである。

 

「……手に入れた物は、民を苦しめることしか脳のない、屋台骨が腐っている疫病神だったわけだ」

 

別に漢などどうでもいい呂布が頷き、そこまで無頓着ではない趙雲がぎょっと驚く。

 

まだまだ、夜になるには早かった。

 

 



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臣従

「……まあ、その屋台骨の腐っている疫病神でも利用価値はあるのではありませんかな?」

 

「腐臭のする神輿を担いでまでの価値があるとは思えない。まあ、これは私がこの国を嫌っているからということもあるだろうが……」

 

彼は本来、自己のコミュニティーで完結してしまうタイプの非社交的な人間である。

関われば厄介だなと思う人間と積極的に関わろうとは思わないし、嫌っている存在や自分を嫌っている存在をアクティブに動いて理解しようとも思えない。

 

謂わば彼は元来の性格とは別に、その日常生活の暮らし方によって内向的な気質が備わっていしまったのだ。

 

第二の天性と言えば、わかりやすいかもしれない。ようは、努力で本来の性格とは別な性格が塗り加えられたのである。

 

「なるほど、あなたは漢がお嫌いで?」

 

「嫌いではなく、意義がない」

 

舶来の茶葉を使って淹れた、透き通るように赤い色をした液体を少し口に含み、李師は少し考えた。

 

どう言ったら伝わるか。

彼がこう考えるのは、理解してくれる親しい友人と話す時くらいである。

 

「……つまり、国家と言うのは人が営む為の方便の一つだと、私は思っている」

 

「方便」

 

「そう。元来人は一人で生き、それが繁殖の為に家族と言う小集団を形成し、その家族と言う小集団が利便の為に集まって邑となった。邑は何故国となったかと言えば、それは自衛の為だろう」

 

儒教的な思想と国家に対する自然な敬服を備えていた趙雲には新鮮な論理であった。

というよりも、このような論理は口にするだけで不敬罪であり、私塾などではまず学べない。教えていることがわかれば二度と口が利けないようになるか、二度とこの世の土を踏めないようになるかの二者択一である。

 

彼女は勿論今まで信じてきた物を否定されたような思いはあったが、個人的に『面白い』と思っている人間と関わるときは気が長くなることも手伝ってこれを自然に抑えられていた。

 

「自衛の為に税を払う。官吏は払われた税で国の福利厚生を充実させ、軍を組織して国民を外敵から守る。この関係が本来あるべき姿な訳だと、私は思うんだ」

 

「つまり福祉どころか軍が外敵から国民を守れていないこの国は、国としてあるべきではないと?」

 

「うん。そういうことになるね」

 

馬鹿が内地で権力闘争の為に馬鹿やっているときに異民族を必死に防いでいるのは北端・南端の州牧であり、権力闘争の為に着服・使用される金は本来それらの州牧の為に使われるべき援助金だと言える。

 

それを宦官が何だ、董卓が何だ、袁紹が何だという面子の張り合いに使われては戦いが立ち行かなかった。

 

涼州では都に召し出され、相国となった董卓の代わりに任命された涼州牧が討たれ、再び大反乱。

 

司隷郡は諸侯の爪弾きにされ、悪政を敷いているらしい董卓。

 

并州牧袁紹は元領地である渤海郡に侵攻してきた黄巾賊の頬を金で引っ叩いて己の上司である韓馥の鄴に攻め込ませ、彼女を討たせた上で占領された鄴に侵攻。黄巾賊を降して并州・冀州を実質的に手中に収めている。

 

曹操は兗州で基盤を固めた後に地元の名士である陳宮の紹介や潁川名士の荀彧らの伝手で人材を集め、青州に逃げていた黄巾賊の精鋭を旗下に容れていた。

 

孫家を擁す淮南袁家―――袁術は豫州牧となり、それを足掛かりに揚州の劉繇を孫家を以って圧迫。

 

蜀に左遷された劉焉は漢中の民間宗教の教祖である張魯を取り込んで独立の風を見せ始める。

 

荊州の劉表は逃げてきた文化人の保護と豪族の粛清に努め、中央集権的な独立体制を確立。

 

徐州の陶謙は黄巾賊を手名づけて敵対勢力の領土へ物資の略奪に向かわせるという世紀末ぶり。

 

一番ヤバイそうな戦闘民族に囲まれた幽州が一番世紀末でないという恐ろしい状況が、中華で現出していた。

 

「こういうような国内情勢じゃあ、国としてあるのかすら微妙な線だが……」

 

「まあ、あるとすればよいでしょう。ことあるごとに何かの名分に使われるのは間違いないのですから」

 

「違いない」

 

并州・冀州という中原への出入り口をガッチリ固められ、『いつでも経済封鎖できますよ?』とにこやかに手を差し伸べられている幽州には、人材も来ない。黄巾の乱時に逃げてきた劉馥・杜畿・韓浩で打ち止めであろう。

 

「義勇軍も近々荊州に行くらしい」

 

「まあ、伸び代がありませんからな」

 

「それもある。が、劉玄徳殿はどうも、一地域の平和で満足してはくれないらしいんだ」

 

その為に、統一できそうな大勢力に力を貸す。恐らくは、そんなところだった。

 

「ほぉ……気宇の壮大なお方だ」

 

「君も好きだろう、そういう人物の方が」

 

「はて、これは異なことを」

 

「誤魔化さないでもいいさ。君は公孫伯圭に君主としての魅力を感じていない。そうだろう?」

 

一瞬笑いの消えた彼女は、軽い溜め息と共に再び笑顔を取り戻し、酒の杯を軽く呷って目の前の卓へ置く。

 

「……お気づきでしたか」

 

「まあ、彼女は英雄豪傑から見たら魅力ある君主とは言い難いところがある。特に君のような―――伊達と酔狂を行動原理に据えそうな人種からすれば、そうだろう?」

 

「そうですな。しかし私は、あなたに興味がある」

 

姿勢を正し、趙雲はいつになく語気に丁寧な物を見せながら口を開いた。

 

「あの張純が起こした乱で幽州の不穏分子は一掃され、異民族の中に居た非共存派と表面化された上に一掃されました。これは、仕組んでいたことでしょう?」

 

「それは正しい。が、私は叛乱と言うどうしようもなく損害しかない事態に、可能な限りこれからの乱の種たちに便乗してもらっただけさ」

 

騒乱の種を纏めて掘り起こし、一気に殺してしまう。

口で言えば簡単であるが、彼は平和を長引かせる為に数多の乱の種を発芽する前に炙り出し、その悉く葬ったのだ。

 

「残酷な方だ。いや、本質的にはそうでないかもしれませんが、やるときは残酷なまでにそれを徹底する人間。私はそう思っていますが、どうですか?」

 

「そう。私は残酷で卑劣な人間さ」

 

舶来の茶を飲みつつ、李師は趙雲を直視していた目を逸らす。

炙り出し、殺すことで異民族との戦いは、こちらからが仕掛けない限りは向こう二十年はなくなった。内乱も、最早幽州で起こることはない。

 

その二十年の平和の為に、それを阻害するもの悉くが土へと還ったのである。

 

「いや、別に責めているわけではないのです。自覚があるならば結構」

 

「自覚してなきゃこんなことやってられやしないよ、後輩」

 

趙雲は、このことに憤りも何も覚えなかった。純粋に、不予の事態を己が引き起こしたが如き鮮やかさで処理してみせた彼の手腕に興味を感じたのである。

 

「それに、先程の思想。あなたは民を主に、王を従にという考えを持っておられる。これは中々に斬新だと言えるのではないですかな?」

 

「斬新であっても実を伴わないものほど質の悪いものもない。

―――で、本音は?」

 

べらべらと前置きを話している彼女に付き合うのもいいが、たまには腹を割って話すのも良い。

そう考えた彼は、いつになく率直な言い方で真意を問うた。

 

「うむ。私は世にも珍妙な性格をしたあなたがどう進むかとの末を特等席で見届けたくなりましてな」

 

特等席でというところが、如何にも彼女らしい。一般と同じ線にあるを良しとせず、野次馬根性を多量に含むが野次馬で終わらない気概を持つ。

 

己の人生をかけるに足る道楽を探しているような享楽的なところが、彼女にはあった。

 

「私はあまり、今居る英雄たちと関わる気はないんだけどね」

 

「そんなことはわかっています。現にあなたは、あの黄巾討伐の最終戦でもどの群雄とも顔繋ぎをせず、義勇軍とも積極的に関わろうとはしない。曹孟徳殿からの祝賀会の誘いも公孫仲圭殿を立てて断った。

公孫仲圭殿はあなたが己を尊重し、立ててくれていることを謙虚だとか思っておられるが、あなたのはただのものぐさですな」

主に彼が指揮をとった左翼の戦いで発生した敵左翼の崩壊が全軍の崩壊を招いたということもあり、戦の事後処理の最中、曹操は勝利をもたらした功労者を探し始めていたのてある。

 

公孫越、董卓ら様々な名が上がったものの、結局彼女はその優れた臣下たちに探らせて公孫越陣営が主導権を握っていたことを突き止めた。

 

彼の他の姉妹が軒並み曹操に仕えていたこともあり、彼の姉が『ああ、あの不肖の弟なら公孫伯圭に仕えているらしいですよ』と言ったことで完璧に狙いを定められたのである。

少勢力の一指揮官が全体の戦況をひっくり返したという異常事態に対し、彼女は一応という形で隣にいた天の御遣いに尋ね、『有り得る』と返答をもらった瞬間にその名分で彼を私的な宴会に招こうとした。

 

雄大で覇気のある、激烈な意志が見て取れるような文字で書かれたそれを見て、彼は頭を抱える。

 

「尊重しているところもあるさ。私は公孫家の古参の臣から疎まれているらしいと、耳に囁いたのは君じゃないか」

 

「それもそうですが、本音はただ面倒くさかっただけでしょう?」

 

その後、彼は黴と埃で朽ちかけていた『文』とか言うものに対する技能を引っ張り出し、『私は公孫伯圭様の一家臣に過ぎません。才覚は比するも愚かしいことですし、我が主君はそこまで狭量ではありませんが、范雎と同じ轍は踏みたくありません。そも、主君が赴かぬ場所に勝手に赴くのは不敬云々』というもっともらしい言い訳を並び立てて、逃げた。

 

曹操はそれを見て、『能力や戦功に対して十全に報いられていないのに、忠義に篤い。見事な将ではないか』と感心することになったが、そんなことは彼も予想していない。

 

そして、これだけの戦功を立てても私兵と給料が増加された程度で一向に役職の昇進することのない彼を少し哀れみ、且つ上の見る目のなさを憎んで引き抜こうとしていることも、知ってなどいない。

 

『此方が礼を失していました。再び軍陣にて合間見える時まで壮健なれ』と書かれていた返事を読み、よかったよかったと胸を撫で下ろしただけである。

 

「まあ、それもある。面倒くさいというより、緊張するからだけどね」

 

曹操が買い被っているだけで、所詮はこんなものだった。

 

「とにかく、あなたの好む好まざるはどうでもよろしい。あなたに能力がある以上、あなたは負けないし死にはしない。己の為にわざと負けて自軍を死なせることができるほど、冷酷でもない」

 

「残念ながら、その通りだ」

 

「つまりあなたは、巻き込まれるべくして巻き込まれている。おわかりですかな?」

 

「わかりたくないね」

 

「そこでですが」

 

返事など無視して、趙雲は机を白い掌で思いっきり叩く。

芝居がかっているのはいつものことだが、どうやらここはひときわ演技が重要なところらしかった。

 

「小官が味方に居るのと、敵に居るのでは随分と勝率が変わってくるのでは、ありませんかな?」

 

「君は勇猛で冷静沈着な指揮官だ。しかも武勇にも優れている。戦場につくまでは兵站が、戦場についてからは指揮官の質が勝負を分けることを考えれば、君のような指揮官は得難いだろう」

 

「そうです。小官が居れば、あなたは幾分か怠けていられると思いますが?」

 

互いに暫し見つめあった後にため息をつき、片方は舶来の茶を、片方は酒が満たされた杯を掲げる。

 

「私の目標は知っているかい?」

 

「無論」

 

片目を瞑ってウインクを送り、趙雲は茶目っ気のある微笑みを浮かべた。

 

それも、一瞬。

すぐに真面目な顔に戻り、彼女の顔は真面目なものへと移り変わる。

 

「永久ならざる平和の為に」

 

「永久ならざる平和の為に」

 

カチリと、二つの杯が音を鳴らした。



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情報

袁紹につくか、董卓につくか。


幽州の騎兵は、精強である。

光武帝が冀州南戀県で王郎率いる邯鄲の兵と戦った時、そのあまりの兵力の強大さに敷いていた鶴翼の陣の両翼がポキリと折れた。

 

遂には首にあたる中央部までが潰されかけていた時、遊兵となっていた幽州上谷郡の騎兵七百と歩兵三百が矢の如くなって突撃することによって戦況を覆し、後漢書に『死傷する者従横たり』と記されている。

 

この場合の従横とは『足の踏み場もないほど』と言い換えても良いから、足の踏み場もないほど邯鄲の兵たちは殺戮された、と考えてもいい。

 

それほどの強兵が死ぬような戦を重ねているのである。天下のどの諸侯も公孫瓚を無視できないし、彼女を無視できてもその兵卒の勁烈さを無視することはできなかった。

 

「義勇軍も去り、食うに困って攻めてきた黄巾も土に還るか帰順するかを選び、再びの平和。そうなるとやはり、李師殿は怠け始めるわけですか」

 

「まあね」

 

祖母から戴いた史記をペラペラと捲りつつ、紅茶という名称が決定された茶を啜る。

交州方面から来たと言う茶葉は河水の運用網を使用されて幽州に至り、彼の手に収まっているわけだった。

 

「知っているかい、子龍。この茶と我々が飲んでいる茶は、元を正せば同じ物らしい」

 

「橘化して枳となる、というやつですか」

 

「だろうね。まだ何が違うかというところまでは、訊き出せていないが」

 

橘化して枳となる。春秋戦国時代の斉―――今で言う徐州・青州あたり―――の国の名宰相、晏嬰を源とする慣用表現である。

 

彼女が楚―――荊州・揚州・交州あたり―――の国に使者として赴いた時、意地の悪い楚王は晏嬰の目の前に、一人の罪人を偶然を装いながら引き連れてきた家臣を見て、問うた。

 

『この者は何をしたのだ?』

 

『この者は斉人で、盗みを働いたのです』

 

予めそう言うように言い含めておいた家臣の答えに満足した楚王は、更に晏嬰の方へ振り返って言った。

 

『どうやら斉人は盗みがうまいようだな』

 

この底意地の悪い問いに対して答えられなければ世に斉人というものの悪徳が広まってしまうし、晏嬰も所詮はそれまでの人としか史書に記されることはなかったであろう。

 

しかし彼女の弁舌の陰影と機知は尋常一様なものではなかった。

 

『聞き及びますところによると、橘という木は江南に植えれば橘であるが、 江北に植えると枳となるそうでございます。 葉の形はよく似ているが、その実の味は全く違うということです。 どうしてでございましょうか。これは水と土が違うからでございます。

さすれば、この斉の者は斉では盗みをしないのに、楚に来たら盗みをするようになったのは楚の水と土がその者に盗みをさせたということでございましょう』

 

この鮮やかすぎる答えを元とした故事成語たる一言をサラリと言えるあたり、趙雲はただの武一辺倒な武人ではなかった。

 

「兵の具合は?」

 

「工兵五百、歩兵二千、騎兵千に弩兵千五百。いずれもなかなかの仕上がりぶりですぞ」

 

前までの千から、一気に五千。この五倍にも達する膨張ぶりほど、公孫瓚の領土の飛躍と配下の増加を如実に示すものはないであろう。

 

一郡から、一州へ。仕事も増えたが兵も増え、権限も広がった。

一州を統括する者が刺史から牧へと変わったのは名称のみではなく、一人に任せられる権限の範囲が多量になっていたのである。

 

故に公孫瓚陣営はかねてから逃げてきていた人材を大量に吸収し、トップである公孫瓚の仕事も幾分かマシな状態になっていた。

 

「で、君はただ駄弁を重ねに来たのかい?」

 

「それも悪くはありませんな。しかし、予想通りに違います」

 

安楽椅子の上で読んでいた史記を閉じ、傍らにある机に置く。

代わりに目を向けられたのは、趙雲。青い髪と白い着物の如き服を着た美女だった。

 

「何があったんだ?」

 

「色々ありまして」

 

まず、義勇軍のこれまでの働きに報いる形で降伏してきた黄巾兵の一部を吸収して兵力を回復させ、丁重に送り出した。

謂わば、正規兵でもない為に常に先鋒や賊狩りの当て駒として使ってきた時には価値のあった義勇軍が平和と共にその価値を失った為、体よく厄介者を押し付けて追い出したのである。

 

李師としても正規兵になる気配のない勢力を留めおくのは危険であることはわかっていたし、こういう軍政のようなことを取り仕切るのは公孫瓚ら内政関係の官吏であることを推奨していたから特に反抗はしなかった。

 

そして、単経・田偕ら能力には欠けるが古参である将を各郡に振り分け、その上に行政官の側面が強い郡太守を例の逃げてきた名士に任せ、私兵といいつつ主力な李師の軍を増員した訳である。

 

無論公孫瓚直属の白馬軍を公孫越と厳綱の元に付けさせたが、それはあくまでも非常用でしかないものだった。

 

尚、正式に任官した趙雲や厳綱・単経・田偕らは皆等しく階級を上げたが、李師に沙汰は下っていない。

 

単経・田偕らの反対があったのが主原因だと言われるが、実際のところは彼自身のものであることは言うまでもないだろう。

 

「一州で二万、外に動かせる兵力がその内一万、自由に動ける兵力がその内五千というあたり、経済力があまりあるとは言えませんな」

 

「まあ、屯田をはじめてから一年も経っていない。仕方ないさ」

 

黄巾賊を五万人ほど民として加えたとはいえ、彼等に与えられたのは荒れ果てた土地。耕さねば何物も生み出せない。

結果を出すにはあと一、二年の歳月が必要だった。

 

「あと一年あれば、兵も更に精強になったでしょうに……残念ながら、平和は終わりです」

 

「……袁紹が董卓を討伐するとでも言い出したのか?」

 

「驚きましたな。その通りです」

 

「そりゃあわかるさ。私は怠け者だが、見える物を理解する程度の頭はあると自負している」

 

つまり、現在の状況から自然と察せられる事象の推移は順序立てて予想することができる。

 

「檄文が届き、伯圭殿は私を召し出した。しかし嫌われ者の私の元へ赴こうとする者がおらず、奇特者の子龍が来た。違うかな?」

 

「合っております。では、そのままでもよろしいから登城なさるよう」

 

儀礼には最低限の気しか使わぬ街の隠者というべき格好を上から下まで視線を移動させて視認しつつ、趙雲はくるりと身を翻した。

 

言うだけ言って颯爽と去っていく趙雲の後を追うように李師が立ち上がり、呂布もまたゆっくりとそれに続く。

 

向かうところは、州府。幽州の軍政両輪の中心である、小振りな城だった。

 

「……お、来たな」

 

「まあ、来いと言われれば来ますよ」

 

郡太守の時は怪しかったが、流石に州牧に対しては敬語を使わざるを得ない。

そんな認識とともに、彼らしからぬ敬語つきの言葉が飛び出した。

 

「そこに座ってくれ」

 

示された席は、公孫瓚のすぐ近く。即ち、かなり上席と言えた。

 

(参ったな)

 

軍権を縮小された古参の将や、逃げてきた名士たちに純粋な能力の差から本来得るべき地位を奪われた官吏からの視線が痛い。

自分がどういう状況下にあるかは知っていたが、嫌っている人間を解きほぐそうとも思っていない彼の弱点が、この場では露骨に出ている。

 

名士とそれ以外との地位的格差はだいたい能力的格差と同一だと言えたが、それに比例して確執も大きい。

彼女等には元々公孫瓚に仕えていたということから生ずる縄張り意識が強すぎるのかも知れなかった。

 

「で、この度麗羽―――あ、袁紹。袁紹から董卓打倒の檄文が届いた訳だ。これについてどうするか、諸君の意見を聴きたい」

 

「考えるまでもないでしょう。あの涼州人が悪政を敷いているならば、それを除いて糺すのが漢の臣下というものです」

 

単経の言った言葉は、その場のそれ以外の意見を封じ込めるが如く鳴り響く。

確かに、董卓が悪政を敷いているという事実はこの幽州にまで聴こえていた。これを交通の要衝で情報の入りやすい冀州を領有している袁紹が掴んでいないわけがないし、掴んでいるならば何事かの行動を起こさないはずがない。

 

「少々よろしいですかな?」

 

「なんだ、子龍?」

 

「いや、董卓が悪政を敷いているというのは事実なのかと。そう思いましてな」

 

会議開始から半刻保たずに突っ伏して睡眠形態へと変化している李師以外の全ての参加者がその前提を崩すような言葉に顔を見合わせ、唸りを上げた。

噂による下地と、袁紹の檄文による盛り付け。この二つによって、この会議はそもそも『董卓は悪政を敷いているか』ではなく『悪政を敷いている董卓をどうするか』という方向へと向かっている。

 

この辺りに、趙雲はきな臭いものを感じていた。思考の方向を操られ、固定されたような気がしたのである。

 

「悪政を敷いている董卓の姿を直接見たわけでもないのに噂だけで『悪政を敷いている』と決定づけるのは如何なものかと」

 

「しかし、善政を敷いているとの噂もない。もしも何者かが噂を巻いているとするならば、両者が混在してしかるべきだろう」

 

情報操作をするならば、操作されそうになったもう一方も自然動くものだ。

混在してしかるべきではないかという意見は、まったく間違っていないといえる。

 

「あれな言い方ですが民は常に順当さを好みます。田舎者が善政を敷いているというより悪政を敷いていると言った方が順当ですし、何より広まりやすいのではありませんかな?」

 

これに対して趙雲が言ったのは、善政を敷いているとの噂は有るには有るが過小に過ぎているのではないか、ということだった。

実際のところは、これが正しい。あるにはあるが、覆い潰されていたのである。

 

「だからこそ、混在してしかるべきではないかと言っているのだ。全く善政を敷いているとの情報がないのは、それが事実でないからとしか思えぬではないか」

 

「それが逆に妙ではありませんか?」

 

「妙?」

 

諸事婉曲的な発言でやり込めることを好む趙雲は、更に頭を巡らせて攻め方を変えた。

 

理論から感覚へ、である。

 

「そうです。本来ならば事実はどうあれ董卓は悪政を敷いている噂をなかったことにしたいはずではありませんか。善政を敷いていると噂を流すとか、口封じをするとかやりようはあるでしょうに、悪政を敷いている噂のみが蔓延している。これは都合よく情報が封鎖されているのではありませんか?」

 

「馬鹿な、そんなことできるわけがないであろうが」

 

「我らは袁紹陣営の領土に他の領土との交流を遮られている。充分に有り得る線だと思いますが」

 

ちなみに、これも正しかった。実際に袁紹は情報を遮断し、幽州に向かう商人たちに噂を広めるように申し伝えていたのである。

 

もっとも、この戦法は袁家の金があればこそのものだったが。

 

「……李師、どう思う」

 

「あぁ?」

 

寝ぼけ眼を擦りながら、吃驚したのと何なのかを問うのを混ぜたような言葉が口から漏れ、李師は突っ伏していた姿勢から軽く上体を起こした。

 

「……うん?」

 

「お前はこの檄文に対して何を思う?」

 

帽子を外して頭を掻きながら、辺りを見回す。

完璧に寝ぼけている彼に対して公孫瓚はあくまでも怒らず、繰り返し声を掛けた。

 

「正しい事実に沿った行動が正しいとは限らない、ということでしょう」

 

起きて三秒くらいで、李師の意識は覚醒した。

これは後ろに立つ呂布が驚くほどの好タイムであり、普段寝起きと寝る前は何を言ってもいまいち鈍いような反応しか返さない彼からすれば有り得ないようなことなのである。

 

無論、公孫瓚が知る訳もないが。

 

「正しい事実とは何だ?」

 

「董相国が悪政を敷いていないということですよ」

 

「どうやって確かめた?」

 

「百聞は一見に如かず。元部下の娘を洛陽にむかわせました」

 

直接見させた、ということだった。

このものぐさが己から遠く洛陽くんだりまで行かせたことに驚き、公孫瓚は顎に静かに手を当てる。

 

「……正しい事実に沿った行動が正しいとは限らない。つまり、董相国に与するのはよろしくない、と?」

 

「民はあくまで悪政を敷いていると思っているし、董相国は内外に敵を抱えた状態です。純戦術的に見ても勝てるとは思えませんし、戦略的に見れば既に負けています」

 

あまり気の進まなそうな李師の弁論が、会議の場を一気に白けさせた。




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袁紹

「まず、袁紹のとった手から説明します」

 

一枚一枚、障害を取り除いて己の防壁に変える。

 

敵を称えるような質ではない彼にも、今回の戦略は見事の一言に尽きるものだった。

 

「まず、彼女はどのような人間だと思われますか?」

 

「まず、直情的で気が短い。思慮が浅くて尊大で、自らの意思に反するものを排除するところ執拗な、阿諛追従を好む人間じゃないのか?」

 

つまり、感情的になりやすい短気というたちであり、馬鹿で傲慢。暴君めいた気質を備え、佞臣を招きやすい。

公孫瓚が言った印象の正確さは友として散々迷惑を掛けられてきた経験によるところが大きく、よく見てこざるを得なかったからだと言える。

 

しかし、傍から見た李師の印象はそれとは違っていた。

 

「短絡的で直情的な人間ではありません。いや、普段はそうかもしれませんが、怒れば驚くべき遠大さと生来の気宇の壮大さを、自分の意思に沿う進言を積極的にとることで凄まじいまでの推進力を得ることになるのです」

 

「いやに高い評価だな」

 

決して自分に向けられることのない彼の激賞に嫉妬を覚えながら、公孫瓚は僅かな棘を含ませて呟く。

それは彼女らしからぬ毒であり、目敏い単経たちを喜ばせるものだった。

 

「彼女の多くある短所は、この際董卓陣営に対してなんら益を齎していません。人と人とが戦う時はその者が持つ長所のみでなく短所が勝因となることもあることは歴史が証明していますが、この目で見ることになるとは思っていませんでした」

 

噂という無形の刃を董卓陣営に対して突きつけ、民の意思という無形の味方をつけ、諸侯がそうなるように誘引する。

短気で我儘な彼女は、今や稀代の謀略家となっていた。

 

「無形の刃、無形の味方。それが実を誘引し、目的を達成させる。見事なものです」

 

「……で、私に麗羽の方につけ、と言いたいのか?」

 

腕を組んで考えながら、公孫瓚は李師を見据える。

彼が戦になると異様なまでの冷淡さを発揮するのは知っていたが、いざ大義や正義と言うものを踏みつけている自覚もなしに蔑ろにしているところを見ると、彼女は心穏やかに入られなかった。

 

「そちらの方が賢いと思います」

 

「だが、私は何の罪もない人間を袋叩きにする企てに嬉々として参加する気にはならない。董卓陣営につきたいし、できなければ中立がいい」

 

模範的な優しさと寛容さを持つ彼女からすれば、常識的な反応を取らざるを得ない。

即ち、袁紹の私欲から発した軍旅に加担し、無実の少女を殴りつけたくはないという善性の発露が、彼女の言葉の根幹にある。

 

「ですが現実面、抗しても術がありません」

 

「黙れ李仲珞!」

 

あくまで国家を運営し、一州の兵権の全てを掌る者としての最適な判断を期待する李師には、李師なりの考えがあった。

正直なところ、彼は己の手の長さというものを見切ろうとしている質なのである。

 

つまり、幽州の民を守ると言うのならばそれだけに専念すべきだろうという目的意識が道義的・感傷的な感情を否定した。

 

だが、他の人間から見たならばそれはただの非情に過ぎない。やらねばわからないことをやろうとしない臆病と怠惰と、自己保身から出たものだと見える。

 

「貴様には正義と言うものを尊ぶ意志がないの!?

情も正義もない貴様にはわからんだろうが、人には守るべき道理があるのだ!」

 

単経の言う、正義。正義という言葉が今まで何百万人の標として死へ誘ってきた。

彼には正義と言うものが殺人の方便に聞こえる。

他人を殺して守るべき道理があるのか。殺さずに済む他者を殺し、己の自尊心と良心を満たすことが、どれほど愚かしいことか。

 

或いはそれは、己に向けたものかも知れなかった。

彼も他人を殺し、数多くの物を守ってきている。その守ってきたものが正義という実益を伴うものでは無いだけで、本質的にはわからない。

 

こちらが数年の平和を得る為に、何万人を殺したことか。

 

己が無意識に嫌悪を向けたのは、もしかすると己なのかもしれない。

己の取る行動が、己の嫌悪に値する。

 

(……私が言うべきことでもないな)

 

それに、単経が言う様に公孫瓚の行動も正しいのだ。人は基本的には公人としての職務に個人の都合と心情を加味させるべき時以外には加味させるべきではないが、この局面はただ一人を大勢が壮大な謀略と武力を以って嬲ろうとしている非常時。

 

軍が民の虐殺を命令されたら、その将は良心に沿ってその命令を受けぬべきだろう。

この場合も、そうは言えるのではないか。

 

「公孫幽州殿、あなたが正しいのかもしれません。この場合は、判断に人の情が介在すべきだとは、私も思う」

 

その上で自分は、幽州のみをとって他を切り捨てた。守れるものには限りがあるし、人の手には届く範囲というものがある。

 

自分ならば、そうはしない。自分の両手を合わせても、幽州の民と董卓陣営を抱えることはできないのだから。

しかし、彼女ならばわからない。

 

「後の憂いを断つためにも、旗幟は鮮明になさるべきでしょう。旗幟を曖昧にして良い目にあった者はいないと、歴史が証明しています」

 

「……いいのか?」

 

単経の激論によってもたらされていた沈黙を破り、公孫瓚はすまなさげに問うた。

君主としての自信のなさが、ここにもある。

 

「あなたが慰撫し、慕われている民でしょう。問うて、説得し、意識を共有すれば或いは軍を動かせるかもしれません」

 

袁紹の工作によって彼女の意思の通り以外に軍を動かすことは極めて困難となっていた。

民は董卓こそが悪の首魁だと思っているし、将兵もそう思っている者が多い。

 

公孫瓚や上層部が董卓こそが正義だとわかっていても、その意識が末端まで共有され、納得させなければどうにもならない。

軍を動かすには、兵の士気と民の支持が要る。

 

それを失った軍隊が勝ちを収めた結果は歴史になかった。

 

「では、勝算はあるか?」

 

「董卓が内部の不穏分子を処理しきれば、二割。このままでは一割」

 

「そ、そんなに低いのか?」

 

「外から圧し潰される公算の方が高いのですから当たり前です。因みにこれは馬騰が連合に参加すれば更に確率が落ちますから……まあ、実質は不穏分子を処理しきって一割でしょうか。頑張って下さい」

 

私はやらん。

言外にそう漏らした彼の肩を、二人の手が掴んだ。

 

「李師殿、逆境はあなたに不思議と似合う。腕の見せ所ですな」

 

「李師。すまないが、働いてくれ」

 

「…………」

 

完璧に喜んでいる趙雲と、気に病んでいるような公孫瓚。

 

李師は単経らの鋭利な視線と肩の重みに耐えかねて肩を落とし、思わずといった形でため息をつく。

彼の頭は、逆境に陥ったことを機敏に察知していた。

 

そして皮肉なことに、この時既に彼の頭は怠惰を貪る堕落形態から勝率を必死に上げるべくシミュレートに勤しんでいたのである。

 

「……まず、敵を減す」

 

「誰を?」

 

議場での会議が終わり、数日後。

趙雲を招いた彼は、いきなりポツリと喋りだした。

 

「私はなるべく戦いたくない。だが、相手が闘争を欲している以上それは無理だ。なら、せめて楽をしたい」

 

道理だな、と趙雲は思った。

懇願して翻意するような相手ではないし、第一翻意するような相手ならばここまで周到かつ深遠に用意をしないであろう。

 

世に出る原因も、袁紹。

今働いている原因も、袁紹。

 

袁紹という存在は、彼にとっての鬼門らしい。

 

「幸いにして各村の代表を集めた集会で公孫瓚が説き伏せてくれた為、軍は動かせる。これを利用しない手はなかったから、勝率は現在無いわけではなくなっているわけだ」

 

(幸いにしてと思うあたり、戦いたくないという己の願望を他者の懇願で押し込めているのでしょうなぁ)

 

案外と冷淡さを見せるところもあるが、本来この男も相当なお人好しなのだ。

その内面の複雑さを好意を含んで見てきた趙雲は、僅かな憐憫と敬意を以って彼を見ていた。

 

「子龍」

 

「は」

 

「連合の中で最も手強いのは袁紹だ。二番目は?」

 

相変わらず高い袁紹の評価に驚きつつ、趙雲は顎に手を添えて思考を巡らす。

彼女も馬鹿ではない。寧ろ目端の利く方だった。

 

彼女の判断は、案外と頼りになる。

 

「さぁ……袁紹の智嚢である曹兗州殿か、彼女の従姉妹である袁豫州かのどちらかでしょうな」

 

曹兗州こと曹操の英明さ、覇気の強さは天下に鳴り響いているし、戦も上手い。内政もうまく、何より無類の戦略家である。

袁豫州こと袁術は大兵力という巨体に孫家という牙爪を備え、その武威は揚州をも切り取らんとしている程だった。

 

「間違いなく曹兗州の方だろう。私の母・李瓚は私に『世の中は今に乱れるだろう。天下の英雄のなかで曹操に過ぎるものはいない。張孟卓は私と仲が善いし、袁本初はそなたの親戚ではあるけども決して彼らを頼るな。必ず曹殿に身を寄せよ』といい残された。曹兗州とはことを構えたくはない」

 

「………ん?」

 

少し面白いことに気づいた趙雲は、顎に手を添えたそのポーズのまま何事かを考えた後に、軽い調子で問う。

 

「……袁家と血の繋がりがお有りで?」

 

「私の父方の祖父、つまり祖母・李元礼の夫が袁家一門だった。祖母とは仲が良いとは言えなかったらしいが、それでも二人は夫婦の務めを果たして父・李瓚を儲けた。そしてその父の子である私もまた袁家の血を引いていると言えなくもないんだ」

 

中々に選良と言っていい―――いや、貴門と言って差し支えない血だと、趙雲は面白味を感じながら頷いた。

だがしかし、その選良同士の血から産まれたのがこの怠惰な男なのだから、貴門の血というのも案外宛にならないのだろう。

 

「貴門の血は退廃と怠惰を呼ぶ。それはあなたに於いても同じですが、どうやら変わり種のようだ」

 

「人類上の変わり種である君には言われたくないな、子龍」

 

言葉と共に突き出された竹簡を受け取り、趙雲はくるりと宙に放った。

ジャグリングでもするかのような軽業は見事なものであったが、彼女が持つ物はジャグリングに使われていいようなものではない。

 

「で、これはどうするので?」

 

「曹兗州を封ずる一書だ。丁重に、且つ厳重に送り届けてくれ」

 

あの短時間で封ずる一手を思いついたのかと驚きつつ、まあさもあらんと納得するような気持ちも、彼女の中にはある。

ジャグリングを止めて竹簡を左手に掴み、趙雲は軽く肩を竦めながら皮肉を吐いた。

 

「私にとって伝騎は、ちと荷が軽すぎますな。単経や田偕ならば、適任でしょうが」

 

「ならそうしてくれ。私はいつになく忙しいし、何より両者とはあまり関わりたくはない」

 

「よーく、わかりました」

 

単経も、田偕も、心の底からどうでもいい。

そういう気持ちが手に取るようにわかる彼の反応に、大仰な手振りを帯同させながら頭を下げる。

 

(皮肉も通じないほど無関心というのも、如何にもらしいというか……まあ、仕方ないのでしょうな)

 

人間関係に無関心と言うのか、あくまで受動的に徹すると言うのか。

こちらから寄っていけば基本的には拒まないが相手に拒まれた時にその相手との関係を無造作に捨ててしまうようなところが、彼にはあった。

 

現に近寄った己はその毒棘のある人格も含めて許容され、端から嫌悪があった単経・田偕の類は人格的にはまず平均と言っていい人間であるが、完璧に彼の積極性と興味を失わしめている。

 

人格的には己よりはるかにマシであろうと思われ、事実そうなのにそうなった。

 

(難儀なことだ)

 

軽くため息を付きながらも含みのあるような笑みを絶やさず、趙雲は公孫瓚の元へと向かう。

無論、この竹簡を適当な人物に授けて曹操に届けさせるようにと言うのが目的だった。



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戦略

「単経たちは喜んでいるようですな、李師殿。あなたの、思惑通りに」

 

「いや、私は彼女等を喜ばそうとしたわけではないさ」

 

僅かな余裕と、疲労。

それらを滲ませながら、李師は軽く肩を竦めた。

 

「公孫伯圭の反抗期作戦ですか。どうにも語呂が良くありませんな?」

 

「言わないでくれ。そこまで考えている暇がなかったんだ」

 

従順な質である公孫瓚は、治世の君としてならば極めて良質な器を持っている。だが、いつまで経っても『李師が言うなら正しいんだろうな。理屈も通ってるし』では良くない。

 

自分の意志で、李師の意見を跳ね除けるような強さがなければ乱世で生き抜くことは難しいのだ。

 

「それにしても、あなたが己から動くとは意外ですが、タネはどうしたのです?」

 

「彼女の生い立ちは、そりゃあ悲惨だった。身分の卑しさの為に周りによってたかって虐められてたものさ」

 

「…………なるほど、董卓と己を重ねたわけですか」

 

李師は受動的な人間であるということは、諸歴史学者の一致する見解である。

彼は主導で乱を起こそうとはしないし、軍事行動を起こしたことがない。一見主導的に見えても裏、或いは前後する出来事への対策として行われた物がほとんどであり、それは彼の野心のなさと双璧を構成し、アキレス腱とでも言うべきものになっていた。

彼が主導的に動くことはない。何者かが動き、ドミノでも倒していくようにそれが結果的に彼に結びつく。

 

今回彼が一見主導的に動いたのも、その例から漏れぬものだった。

 

「……まあ、彼女は私にとって教え子のようなものだからね。成長させてやりたい親心のようなものが、あるわけだ」

 

「単経のこともありますしな」

 

「うん?」

 

本気で眼中になかった人間特有の疑念と驚きをごっちゃにしたような呻きを上げ、李師は適当に頷く。

 

「あぁ、そうだね」

 

「まあよろしいですが、時に目の前の小石を見ることを覚えられたほうが良いと思いますぞ」

 

「ああ、覚えておく」

 

手をひらひらと振ってこれからも考える気がないことを如実に示し、彼は執務に戻り、趙雲は練兵場へと戻る。

 

その、直後のことであった。

 

「李師様、お客です」

 

「客?」

 

取り敢えず使用人には通すように言ったが、正直なところ候補者が居ない。家中の者であれば使用人は実名を言うだろうし、如何にすれ違いざまとはいえ不審者を趙雲が素通りさせるとは思えない。

 

さあ誰だ。

 

そう思った彼が応接間へ足を運ぶと、そこには既に二人の女性が鎮座していた。

 

(あれは華雄じゃないか)

 

この時点ですでに嫌な予感しかしない彼は、黙って彼女らの前に座る。

それを見計らってと言わんばかりに、二人が同時に頭を下げた。

 

「無能非才の身にどうか智慧を、お貸しいただきたく存じます」

 

「お願い致します」

 

「…………」

 

帽子を右手でもって外し、左手で頭を掻く。

どうすればいいか思案するときの、彼特有の動作であった。

 

「えー、董卓軍の名将たる張左将軍と、同じく董卓軍の驍将たる華偏将軍。どうなされましたか?」

 

「敬語はやめていただきたいのです、李師殿」

 

華雄からの懇願にも似た頼みに圧され、ひとつ頷く。

彼は、彼を無邪気に頼ってくる人間を無碍に放逐させることができるほど冷血ではなかった。

 

そして、ついつい世話を焼いてしまう。結果として、巻き込まれる。

 

彼の人生はこれによって成り立っていると言っても良い。

 

「で、二人は僅かな供回りだけ率いて幽州に来た。それはわかる。冀州牧の印綬を持ってきてくれたんだろう?」

 

「はい」

 

田偕をして内密に董卓軍に味方する旨を伝え、その一環として冀州牧の印綬を要求した。

これは民を納得させる為であり、袁紹という大義を身に纏った敵と戦うには必須であることを重ねて趙雲に説明させ、公孫越をして冀州牧に任ずることになったのである。

 

だから印綬を運ぶためにこちらに使者が来ること自体は変ではない。むしろ歓迎すべきことだ。

 

しかし何故、主戦力たる二人が来るのか。そこが彼にはどうにも解せない。

 

「……何故、お二方が来られる?」

 

「敬語はやめていただきたい」

 

「来るんだい?」

 

さっさと辞儀をただして敬語を直させる華雄に代わり、口を開いたのは張遼。字は文遠。官職は左将軍で真名は霞。

 

董卓軍一の宿将にして智勇兼備の名将というべき将軍である。

 

「知恵を借りたいんや。単刀直入に言うと、ウチらと一緒に汜水関に来てほしいねん」

 

「……いや、私も北方から袁紹を威圧しその補給線を絶たしめるという役割があるんだけどね」

 

彼の立てた作戦の概ねは、『楽して勝とう』というものだった。

 

自分たちは異民族に攻められたと偽って不参加を決め込む。

袁紹も馬鹿ではないから主力の一部を冀州に残さざるを得ない。

ここで烏丸の頭目丘力居に并州を攻める素振りをしてもらう。

冀州に残す部隊とは別な一隊を、袁紹は并州にも残さざるを得ない。

必然的に、動かない曹操にも手を打たねばならないから、ここも兵を分けることを強いられる。

 

ここで袁紹軍の兵力は悪くても三分の二まで、良ければ半減する。半減しても四万あるが、十万よりはマシだった。

そして、ここではじめて公孫越が冀州牧の任辞を受け、袁紹へ冀州の返還を要求する。

袁紹は、経済面においても軍事面においても断らざるを得ない。

公孫瓚が袁紹の非を鳴らし、攻め込む。ここで袁紹は『偽の勅令である』というかもしれないが、それは容易に対処が可能だった。

それと同時に烏丸の頭目丘力居も、并州に攻め込む。

董卓軍は連合軍を引き付け、兵糧が尽きるのか、冀州が併呑されるのを待つ。

 

勝った。連合軍解散。

 

殆どが『せざるを得ない』状況に追い込んでいるあたりに彼の戦略家としての手腕の一部が垣間見れるが、これには成功条件があった。

 

まず、冀州牧の印綬を得ること。これがなければ公孫瓚は冀州に攻め込めず、大義の得ようがなくなる。

そして第二に各勢力の行動を調整して連携を円滑化させ、不測の事態に対しては高度な柔軟性を持って臨機応変に対処できる調整役を得ること。

これは、李師こと李瓔があたる。

ハズだった。

 

因みに他の面々は単経は軍事面から一歩踏み出すと思考の硬直を招く公算が大であり、田偕は異民族を蔑視している為論外。唯一それができる厳綱は重病で激務に耐えられるとは思えない。

董卓軍の面々では張遼がその任に耐えるが、連合軍に攻められる為に外部との連携が困難。

 

趙雲ならばできなくもないが、階級が低いし軍歴も浅い。諸将の賛同は得られないだろう。

 

「……そんなことは知っとる。宦官のお歴々が作戦計画立てた奴がおらんと心配やー言うて煩いんや。だからまあ、形だけやな。断ってくれてええで」

 

「え?」

 

驚いている華雄を他所に、張遼はざっくばらんにそう打ち明けた。

董卓陣営は一枚岩ではない。己の弱みを吐き出したことこそが公孫瓚陣営に対しての誠意であり、彼女の上に立つものが無能ではないことの証左であろう。

 

「……賈文和殿は涼州一とも言われる智者。それがなんの動きも見せないとはおかしいと思っていたが」

 

内部抗争と、司隷を含む河内の政務。忙殺されるには充分過ぎる程の質量と密度を含んだ重石だった。

 

このような仕事を一手に引き受けざるを得なければ、当然外部からの目に見えぬ悪意などに鈍化せざるを得ないだろう。

 

「それにしても、まだ河内・司隷には内政官の任に耐える名士が居たはずだ。後知恵だが、彼等彼女等に任せてしまうことはできなかったのか?」

 

「……奴らは逃げました。涼州の蛮人の下風になど立てぬと言って」

 

華雄の言葉に、思わず彼は頷いた。

さもありなん。そう言えるだけの説得力が、その言葉にはあったからである。

 

涼州とは、古来脈々と受け継がれる叛乱の震源地。最前線と言えば聞こえはいいが、漢民族というよりは異民族の血の方が濃いとすら言われる僻地でしかない。

彼自身は征北将軍として并・幽・冀の三州の兵を統合し、野心に燃える南方の豪族等も糾合して戦ったことがあるから差別意識はないが、中原から出たことのないような名士たちからすれば、涼州人たる董卓に仕えるなどその血と気位が許さないのも無理はなかった。

 

(だから袁紹陣営が充実してきたのか。このことも考えてこの度の反董卓の檄を発したとすると、袁紹の知謀は深く、広い。或いは何も考えてないが故に、感情と自陣営の欠損部を補えたのか……わからないが、そう上手くはいかなそうだな)

 

一先ず二人を『考える時間をくれ』と下がらせ、件の征北将軍時代の部下を指を鳴らして呼ぶ。

背後に呂布がいない時、天井裏には彼女が居るのが通例だ。

 

今回も、それを裏切ることはないだろう。

 

「お呼びでしょうか」

 

「袁紹の策略で董卓陣営に赴くことになるもしれない。参加諸侯に対する情報を集めてきてくれ」

 

「はい―――」

 

陰謀渦巻くこの戦乱の世。

誰が仕掛けたかを特定するのは難しいができないこともないだろうと、李師は静かに考えた。



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空白

年が明け、186年1月。

本来は新年祝賀の式典の主催者であるべき公孫瓚が幽州内の意思統一と軍の目的意識の統一に奔走し、単経・田偕らが真面目に取り組んでいる時、公孫越と李師は袁紹領である并州と幽州領の境にまで来ていた。

 

結局のところは豪族連合国である公孫瓚陣営で、李師は孤立を囲っている。

豪族という名士から見ればくだらない誇りと縄張り意識に塗れた人間たちと、その理解者であり領袖である単経・田偕たちが彼に功績を独占されることを望まなければ、彼は豪族たちの力を借りることができない。

 

当初はこの消極的ボイコットによって自分たちの都合を通そうとしていた彼等も、李師が彼等の誇りや意地を心の底からどうでもいいと判断し、『理解を得なくても勝てる』とばかり豪族等の兵力を必要とせずに勝ち続けていることがわかると、この消極的ボイコット作戦を止めた。

 

つまり、名士と豪族の全面対決に入ってやろうと試みたのである。

 

名士側の領袖は、本人には不本意ながら李瓔。参加者は新参者が多く、韓浩・劉馥・杜畿など彼個人の名声によって公孫瓚陣営に加入した者と、審配ら最前線の指揮を任される指揮官。それに李師軍団の構成員と言うべき呂布と趙雲と田予。

 

豪族側の領袖は単経と田偕。構成員には王門・李雍・范方・文則・鄒丹・関靖ら、百を超える豪族達が名を連ねる。

 

整理すると、こうなった。

 

名士派には李瓔(全軍総司令官)、田予(全軍副司令官)、韓浩(降兵宣撫・民政担当)、劉馥(財政・築城担当)、杜畿(後方支援・兵站担当)、呂布(親衛騎隊長)、趙雲(私兵統括)、審配(漁陽太守)。

 

豪族派の領袖は単経(冀州方面司令官)、田偕(并州方面司令官)、王門・李雍・范方は并州方面司令官直卒の部隊を率い、文則・鄒丹・関靖らは冀州方面の部隊を率いる。

 

中枢神経と末端神経が正面衝突しかけていることが、公孫瓚陣営の最大の弱点だった。

両者の溝からなる対立は袁紹陣営や曹操陣営にも見られたが、お互いに尊重し合っているところがある為に決定的なところまでは進んでいない。

 

だが、公孫瓚陣営は袁紹・袁術による情報操作や扇動によりその溝が更に深く掘り下げられている。

更には戦意過多・能力過小の単経と戦意過小・能力過多の李瓔こと李師の相性は最高に悪かった。

 

李師にとっての戦いとは純粋に数値と心理学的な物だが、単経にとって戦とは何よりも必勝の信念が肝要なものであり、その信念に欠けながらも敗けることのない彼は憎悪すべき対象でしか無かったのである。

「公孫越殿、では状況に応じて高度な柔軟性を以って臨機応変に対処するようお願いします」

 

所謂名士派に属する公孫一族である公孫越と、李師は親しい。というよりも、自分と親しもうとする人間と彼は親しかった。

 

これは別に彼が己に阿る人間を好むとか、そういうこととイコールではない。純粋に人付き合いが苦手で、向こうから声をかけてくれないとどうにも初対面の人間とは打ち解けられないのである。

 

だからこそ公孫述・公孫続は豪族派に、公孫越・公孫範は名士派に流れた。

単経も、『私は遼西の豪族、その元締めなのだから向こうから来るべき』というスタンスを崩さず、それに対して李師が『関わり合いたくないならそれでいいや』と放置していた結果によってこうなっている。

 

親しい人間以外には心を開かない閉鎖的なところと個人の誇りとか矜持とかに付き合おうとしない性質が、彼の人間関係に齟齬を生んでいた。

 

「そちらこそ、御武運を。言わぬようにとのことでしたが、あなたが家中で疎まれておられることに対し、姉は色々と手を回しておられます。帰ってこられる頃には、幾分かマシになっているかと」

 

并州と幽州の州境まで送りに来てくれた公孫越に一礼しつつ、李師は帯同する呂布と趙雲と田予を含む五千の兵と輜重を帯同して并州をしずしずと抜けていく。

彼は、この出兵には反対だった。幽州から司隷に至るまでの補給線の構築は困難であるし、何よりも袁紹が五千もの兵をやすやすと素通りさせるとは思えない。

 

しかし、纏まった兵力がなければ援軍にはなりえない。そこをどう解決するか、彼は悩んでいたのである。

 

出発する、前までは。

 

「……そう巧くいきますかな?」

 

「いく、筈だ。少なくとも理論上、我々が通る道は戦力の空白地となっているからね」

 

援軍には纏まった兵力がなければならない。

纏まった兵力は敵性地帯を抜けられない。

 

この二つの難問にすっかり頭を悩ませてしまった彼を単経ら豪族派がニヤニヤと面白げに見つめ、公孫瓚が『やっぱり援軍はやめよう』と助け舟を出そうとした瞬間、彼は閃いた。

 

「補給線の構築を放棄した以上、恒久的にこの道を確保する必要はない。少なくとも并州を抜けるこの十五日間の間に敵の戦力が空白、ないしは希薄であればいいわけだ」

 

袁紹本軍に并州軍が合流せんと進発したと時を同じくして州境に待機させていた五千の軍に進発を命じ、并州に待機した敵の予備兵力を烏丸の侵攻によって北に貼り付け、予め曹操の不参加を喧伝することによって冀州方面―――南に貼り付ける。

中央部の兵力を限りなく薄くし、もっとも重厚な兵力を保持していた中央部を突き破って進むという魔術めいた方法が、彼の言う『戦力の空白化による一定期間の間の道の借用』だった。

 

「とは言いますが、結局董卓袁紹の軍との衝突は避けられないではありませんか」

 

「もっともな懸念だね。しかし、それには及ばない」

 

赤兎馬に騎乗した呂布の後ろに乗っているというなんとも情けない格好を晒している李師は、常の温和な体を崩さずにふわりと喋る。

およそ武将らしからぬ風貌は、彼の特徴の最たるものだった。

 

「その頃袁紹は董卓軍の出城を攻めている。補給線の構築と、その確保の為に、ね」

 

「つまり、集結した連合軍は真っ直ぐ汜水関には向かわない、と?」

 

「そりゃあ、後ろで蠢動されたんじゃ戦にならない。そう、田豊や沮授あたりが進言するだろう」

 

事実、彼の言う事は当たることになる。

真っ直ぐ汜水関に向かおうとした袁紹を諌め、田豊が補給線の構築を提言。『雄々しく華々しい戦いには下準備が肝要です』ということで、補給線の構築に邪魔となる城を囲み、或いは攻めていた。

 

これが後方に曹操という不確定要素を抱えていない状況だったのならば、或いは一直線に汜水関へと驀進したことだろう。

しかし、曹操の不戦は領地の関係上、『行けなくはないが補給線が細くなる』ことを意味していた。

 

その細くなった補給線は、切断することが容易である。

史実ならば幾重にも作れたであろう補給線は、曹操によって一本に絞り込まれてしまっていた。

 

「そこまで折り込んで曹兗州を?」

 

「位置的要素・人材的要素・物質的要素。この三点に於いて曹操陣営という存在が脅威ならば、これを不活性化さしめれば敵は位置的要素・人材的要素・物質的要素の三種において浅からぬ傷を負う。子供でもわかることさ」

 

結果だけ見れば、袁紹は補給線の構築を後回しにして遮二無二汜水関へと赴き、公孫瓚陣営と董卓陣営との合流を防ぐほうが良かったと言える。

だが、この時の一般的な見方からすれば公孫瓚陣営が地理的にも人員的にも有効な援軍にはなりえないこと。

 

これを加味すれば、田豊のとった術策は決して間違ったことではなかった。

 

現にこの時、『公孫瓚陣営は援軍足り得る』と読み切れたのは、『あの魔術を弄す李仲珞ならば何とかするだろう』と見ており、その為の工作に乗らざるを得なかった曹孟徳ただ一人だったのだから。

 

そして彼の魔術と称されたこの策は『援軍として赴く』。ただそれだけの為のものであり、補給を董卓に任せっきりにしていては到底正規の策とは言い難い。

尤もこれは董卓側に物資的余裕があり、地理的暴虐に抗しがたい彼としての窮余の策としか見ていなかったのだが。

 

「……よぉこれたな、自分」

 

一応、指定された十五日後に指定された地点で待機していた張遼の第一声がそれだったあたり、彼の行軍方法が当時の常識を破壊しているものだというところが伺えるだろう。

 

尤もこの策は胡散臭すぎて、なお且つリスクと指揮の難度が高すぎて誰もやろうとしないようなことを思いつき、よくもまあやり遂げられたものだという『奇策』に類していた。

補給線の構築を投げ棄てるのは悪しき先例となりかねず、できれば彼はこれをやりたくはなかったのである。

 

「あ、いやいや!違う違う」

 

窮地を救ってくれたことに対する礼より、異次元から味方が現れたかのような自体に対する驚きが先に立ってしまった張遼は、慌てて首を横に振った。

 

「ありがとう、ホンマに。この恩は一生忘れん」

 

「味方するよう言い出したのは公孫幽州様です。私はその実行者に過ぎません」

 

「それでも、な。北から牽制してくれるだけでも有り難かったんやけど、こっちには伝わらへんから……正直、目に見える形で来てもらえば、兵たちの士気も違ってくるんや」

 

あくまでも己を実行者に徹し、李師は公孫瓚の意思に拠るところが多いことを明確にしめす。

彼からすればこの征旅における驍名も悪名も、あくまで帰するところは公孫瓚という一個人であり、その帰する名をいかに高いものにするかが己の手腕として問われていると、彼は思っていた。

 

しかし実際のところ公孫瓚の名は彼女自身の行動によってしか上がりようも下がりようもなく、ここで精妙な巧緻さを以って得た驍名と負けっぷりによる悪名は彼に帰する。

そして董卓陣営の好意というべき感情もまた、彼に帰するのだ。

 

ここは彼が軍の体系と君主と臣下の体系とを同一視していたからこその錯誤であり、彼が望むところが己の名を上げるような意思に欠けるからである。

そしてこの征旅が更に彼の名を高めることになり、一旦埋もれた彼の名を世の人々の意識に再度植え付けることになろう。

 

なにせ、今回隠れ蓑というべき総大将を担ぐことはできないのだから。

 

「ほな、こっからはウチらの縄張りやからな。苦労はあんましないと思うで」

 

「そう有りたいものです」

 

彼と呂布が乗る赤兎馬と、張遼が乗る黒捷。

稀代の名馬二頭が馬主を並べて董卓陣営の最前線となるであろう汜水関に到達したのは、186年1月下旬のことであった。

 

汜水関。中原と呼ばれる広大な平野を紐で括ったように狭くなった通路に壁を差し込んだかの様な狭隘な地形に設けられた関である。

 

この関は本来、それほど壁は高くもなかった。董卓陣営が『袁紹と戦うことになる』と判断した時に応急的に補修され、大した仕掛けもないままに壁を積み上げて防御としていた。

 

董卓陣営の主力である騎兵が展開しにくいものの、守るには易く攻めるには難いと言えるだろう。

 

公孫瓚陣営の援軍を加えた董卓陣営は、一先ずここで連合軍を迎え撃つことになるであろうことは誰の目にも明らかだった。

 

 



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分断

「まあ、誰の目にも明らかだからこそ良い手であり、読み切れる手な訳だ」

 

186年2月初旬。

軍議の席上で提言すべき主将を張遼に迎え、華雄から伝わっていた黄巾の乱における功績で作戦を一任された李師は発言した。

 

「……無難な手、ということですか?」

 

「そうだね、華雄」

 

未だに華雄は敬語を使う癖が抜けず、その敬語を使う華雄という異常事態に慣れない張遼が円卓の中心からギョッとした目を華雄にやる。

 

面白い。趙雲と類似の思考回路を持った彼女の抱く思いは、八割がたがそれだった。

 

「本来籠城戦とは援軍の宛が……外部から援軍が来て、包囲軍を蹴散らせる状態になるまで引き篭もりつづけるというのが常識な訳だが、我らに援軍は無い」

 

「せやろな」

 

袁紹・袁術は言うまでもなく、曹操は不動、劉表は二股、劉焉は漁夫狙い。馬騰は参加。

騎兵だけで城攻めは無理だが、俊足を活かして各城同士の連絡線をズタズタに切り裂き、兵力の集中を妨げている。

 

董卓軍は総動員すれば八万。劉焉対策に二万、馬騰の所為で一万が遊兵と化し、肝心の汜水関には三万、虎牢関に一万、都に一万。

 

連合軍は袁紹軍が四万から五万。袁術軍が四万くらい。劉表から一万、他五万の十五万ほど。

 

わかりやすく詰んでいるというのが、董卓軍の現実だった。

 

「だから、少しずつでもいいから削る。機動力を活かした、野戦でね」

 

「……でも、間違って袁紹とかと出会してもうたらどうするん?」

 

「位置は掴んでいる。田都尉には道が頭に入っている。袁紹の行軍速度と、最低でも四万もの大軍を通せるだけの道の少なさを計算すれば、まず出会すことはないさ」

 

四万もの大軍を通せるだけの、道。つまり殆どがそれ用に整備されたものを通ってしか袁紹は汜水関に到達することが難しいということである。

 

「発言しても宜しいでしょうか」

 

「どうぞ」

 

品の良い女史と言うべき風格と気品のある白髪の女性は、田国譲。田都尉と呼ばれた李師の副官と言う任を果たす女性だった。

 

「1月27日に工兵を用い、四万の大軍を通せるだけの道を岩を以って封鎖しました。このことから、袁紹の行軍速度は大幅な遅れを余儀なくされると考えられます」

 

「実際のとこは、どんくらいになると思うん?」

 

「最低でも五日。少なくとも漢の正規軍として動いていた頃の冀州軍ならばそれくらいかかるかと」

 

袁紹の配下は精強な騎兵である并州兵と強弩を得意とする冀州兵。麴義なるものを登用し、重歩兵と槍兵を用いた複合陣を敷くとも聞く。

彼が用いている工作兵というものは、袁紹が持つところではなかった。

 

「彼女等の当初の予定通りに通過できるのはどの諸侯かな?」

 

「山東の酸棗諸侯ならば、ほとんど全員が可能でしょう。檄文の草案を作成した橋瑁、劉岱、孔伷、張邈・張超の兄弟、袁遺。各一万から八千の兵を所有しています。総勢五万の大軍とはいえ、指揮官は五人。同一の道を通るとは考えられません」

 

「念には念を入れよう」

 

地図を示し、幾つかの道を指で示す。

そこは、一万程の軍を通せるだけの幅と整備具合を持っている十本の道内の、四本だった。

 

「陽人に待機させている工作部隊に連絡して、これらを塞いでくれ。早急に頼む」

 

「はっ」

 

田予が頷き、その場を後にする。

残されたのは、何がなんだかわからないと言わんばかりの表情をしている華雄と、説明を欲しがっているような張遼。

 

李師は、帽子を取り何回か首元を扇いだ。

説明することが多いと、その分時間を喰う。

 

時間を喰えば、休めなくなる。そのことが彼の不満といえば、不満だった。

 

「えー、まず。敵軍が適当なところを突っ切って汜水関に到達することは不可能なんだ」

 

「そりゃまあ、輜重とかあるしな」

 

騎兵と言う機動力に優れた兵科を使っていることもあって、彼女たちに『道を塞いで進撃を止める』という発想はあまりない。

これには輜重とか、そういった物を担当していたのが賈駆であることも関係する。

 

後方担当と機動力のある実戦部隊。この二つに分けるのが董卓軍の軍制だった。

地形は調べはするが、現場少し程度であってこんなにも精密に道や何やらを知って戦うわけではない。故に、『橋を探せ』とか『浅瀬を探せ』とかいうことになるわけである。

 

李師には地形図と地図というものを合わせた三次元空間を頭に叩き込んでいる部下を探し、見つけた為、戦う時はあらかじめ予定のようなものを組んでいた。

というより、予定を組まずにその場で対応できるほど兵力に余裕がないとも言える。

 

「故に、完全ではないにせよ脚は止められる。いきなり三万で十五万を相手にするのは勝機がないから、現在三つに―――五万・五万・五万に分断させているわけだ」

 

「うん」

 

「その三つの内の一つを更に五分割して各個撃破する。正確に言えば、三万対一万。道が集まり、敵の集結予定地であろう陽人で、これを五回繰り返す」

 

曹操がいたら、これも叶わなかった。

彼女は兗州牧として酸棗諸侯の内の二人に強い影響力を持っており、橋瑁が檄文を発したのも曹操が味方につくことを計算に入れてのもの。

 

曹操を不動の体にできなければ、彼は六万の兵を率いた曹操と三万で対峙することになっていたのである。

 

「敵は核を欠いて纏まりに欠ける。道を塞がせることによって行軍にズレを生じさせ、陽人の地にて迎え撃つ。彼女等には、ここで退場していただこうか」

 

酸棗諸侯は完全に曹操の指揮下に入ったわけではない。兗州牧になってから日の浅い彼女の指揮下にある言い切れるのは、陳留太守時代の部下と私兵のみ。

 

彼女自身が率いる兗州軍は参戦しない。もっと言えば、曹孟徳という個人を取り除くことで分断作戦の勝率が八割上昇した。

 

「工作兵が封鎖し終えるのは三日、といったところかな。それまでに各部隊は出撃準備を終えていてほしい」

 

「どんくらい引き連れていくん?」

 

「どれほど防衛に振り分けても、この作戦が成功しない限り勝機はない。ここは、三万ほど連れて行くべきだろう」

 

「大胆やな……ま、五千くらい残しとけばええんやな?」

 

「ああ」

 

五千人残そうが一万人残そうが、主力部隊を外での邀撃に振り分けている最中に汜水関の壁に取り付かれればどうせ負ける。

ここで五千人残したのは、不安による内応を抑える為だった。

 

「こうなってみると、君たちが河内の王匡を籠城戦の末に粉砕して以来全く動かなかったことがありがたい。向こうはもう、野戦をする気がないと思っているだろう」

 

「籠城戦を基幹に据えると、敵は思っているのでしょうか?」

 

「ああ、恐らくね」

 

この華雄との会話の後、三日後。

工作部隊から道の封鎖に成功したとの報告を受け、編成を終えた董卓軍は出撃する。

 

張遼が率いる二万と、華雄の五千。李師・田予・呂布・趙雲の五千からなる三万の軍が余裕を持って通れるだけの道を選んで進み、三万の軍が十日ほどかかる道を田予の部隊運用の見事さによって三日に短縮させて進んでいた。

 

通り一辺の索敵ではわからない有効且つ最短距離を取れる道をとれたからこそ、工作部隊の待機していた陽人に素早く集結することができたのである。

 

「明命」

 

「はい」

 

長い黒髪に、背骨よりも長いであろう薄刃の剣。

カタナという名称を持っているそれを背負った工作部隊の長は、呼ばれるや否や即座に姿を表した。

 

「最初はどこから来るか、わかるか?」

 

「はい」

 

情報部隊の隊長も兼ねている彼女からすれば、事前に指示されていなくともこのようなことが訊かれることはわかる。

 

既に掴んでいた『どの道をどのくらいの速さで』進んでいるかという情報、それに事前の偵察を兼ねさせることによって、彼女は極めて正確な情報を割り出すことに成功していた。

他勢力の―――例えば孫家の隠密に比べると戦闘能力には欠ける所があるが、彼女の諜報網の管理能力は卓越している。

 

李師に仕えていた父親と同じことを繰り返して鍛練してきたのだから、戦闘や暗殺、警護ではなく情報専門になるのは自明の理とも言って良かった。

 

「東郡の橋瑁が巳の刻の方にある間道から三刻後に、劉岱殿が十刻後に進撃してまいります」

 

「わかった。他もわかり次第伝えてくれ」

 

「はい」

 

スッ、と地面に染みるように姿を消した明命の情報を元に作戦を整え、傍らに控える呂布の方向を見てポツリとつぶやく。

 

「では、一刻で布陣し、二刻の間は休息。五刻の間に敵を殲滅し、残り二刻で敵に備えるとしようか」



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算段

場面転換が時ではなく、物理的な距離によるものです(多分はじめて)ので、大きく行間をとってます。


「華琳様、董卓軍は打って出たようです」

 

猫耳を付けたフードを被った幼い少女の報告を聴き、華琳と呼ばれた少女は机に肘を立て、頬杖をついた。

 

「予定戦場はどこだか、わかる?」

 

「いえ、打って出る為の用意をしているとの情報から予想しただけなので……」

 

投げかけた問いに対する謝罪を掌を見せて遮り、彼女は長安付近の地図を見る。

到底正確とは言えない『だいたい』のものだが、地名と主な地形くらいは現地に赴かずとも知ることができた。

 

「……麗羽の計画によれば、もう汜水関に到達できていて良い筈。そうでしょう?」

 

「はい。ですが、計画と実戦との間には少々の誤差があるものです」

 

猫耳フードのもっともな意見に頷きながら、華琳は更に脳内で思考を巡らす。

現在の連合軍は、分断されていると言っても良い。打って出たということはこれが人為的且つ作為的なものだという証左だと言えた。

 

しかし、証拠はない。予想に過ぎないし、董卓軍は戦場での勇者は多いが諜報や戦略眼に欠ける将ばかりである。

 

華雄は贔屓目に見ても『極めて好戦的。戦術においては近視眼的発想で危機を招きやすく、戦略においては言うまでもない』と言うべき能力をしており、唐突に敵の急所を狙い始める優秀さはあるが猪突猛進であると言う印象は拭えない。

張遼は別に戦術的な近視眼を患っているわけではないが、戦場に立った時の状況に応じて最善を尽くすタイプで、状況を己に応じさせることはしなかった。

 

賈駆にはその眼があるが、渉外ならぬ渉内で多忙に過ぎて戦略的な動きを出来るとは思えない。

 

董卓は知らないが、君主自らそのようなことができるならばここまで酷い状況には追い込まれていないだろう。

 

なにせ、この一ヶ月で噂は更にエスカレートし、『帝を傀儡にしている可云々』から『帝を好き勝手にすげ替えている』ということになっていた。

漢王朝の威光を完全に潰し、帝の勅による停戦と大義の消失を防ぐ一手。即ち、長期戦になっても董卓陣営は有利になることがない。

袁紹と袁術。この二人が持っている金の力と流通の力を駆使すれば、このような噂をばら撒くことなど容易であろう。

 

そこまで考えた華琳の耳朶を、扉を叩く音が軽く打った。

 

「入りなさい」

 

「華琳様、失礼致します」

 

素早く許可を与えた主に一言断りを入れながら入ってきたのは、薄い青色の髪をした女性。

姓は夏侯、名は淵、字は妙才。真名は秋蘭。

 

華琳こと曹操がもっとも頼りにする二将、その片割れである。

 

「どうかしたの、秋蘭?」

 

「青藍殿より伝騎が参りました。酸棗諸侯連合は五手に分かれて陽人へ進撃中」

 

姓は衛、名は茲、字は子許。真名を青藍という彼女は、激しい弁論を好まず、俗世の名声も求めない人柄であった。

だがそれだけに名士として名高く、曹操が初めて陳留を訪れた際に衛茲は「天下を平定する人は、必ずやこの人だ」と最高の評価を下す。

曹操も衛茲を異才の人物と認め、以後数度に渡り訪問して大事を諮った。

その後、衛茲は家財を提供して曹操の挙兵を支援し、曹操軍最初期を支えた兵五千を率いることができたのである。

 

謂わば彼女は、曹操という一個人に好意と敬意を持ち続けた人物なのだ。

だからこそ、彼女は情報を曹操に教えたのであろう。

 

「五手?」

 

「はい。五万もの大軍を通せるだけの道が落石で悉く封鎖され、騎兵を放っても他の道を見つけることができなかったために、五手に分かれて陽人の平野で落ち合うとのこと」

 

やられた、と。

衛茲を慮る曹操は、己が中立という立場にあることも忘れてそう臍を噛んだ。

 

「あの男、やはりやる」

 

「李仲珞、ですか」

 

夏侯淵が言った、一人の男の姓と字。

送られた一筒の竹簡。そこに書いてある文が、彼女のプライドを以って彼女の動きを止めたのである。

 

『あなたの歩む道とは、無実の罪を着せられた弱者を多勢で以って嬲るが如き道ですか?』

 

説得ではない。説諭でもない。ただ、人の心理を知り尽くしているが故の一文だった。

曹操という人物の心を、ただの一回の文のやり取りで読み切っていることを示す、一文。

 

「彼は登竜門に認められた人傑です。侮るべからざる存在かと思います」

 

「あら、男嫌いの貴女がそう言う程の人物なのかしら?」

 

猫耳付きのフードを被った幼い少女、荀彧が男を嫌っているのは周知の事実である。

彼女の男嫌いと言う性癖は知識の明度を曇らせているが、それでもなお有能なのが荀彧という王佐の才を持つ軍師だった。

 

荀彧には、男嫌いと言う俗にとらわれている。

知識の明度を高めるのは俗にとらわれぬ明晰な視点であると、曹操は考えていた。

 

彼女自身もまた、有能な人材は女が多いという常識と侮りに囚われている自覚がある。

 

「か、からかわないで下さい、華琳様!」

 

「からかってなどいないわ。それ程のものかと、思っただけよ」

 

衛茲。衛子許。青藍。自分を認めた、古参の人間。

 

「青藍様は、生き抜いてくれるでしょうか?」

 

「彼女は最期まで彼女として生き、死ぬでしょう」

 

荀彧の言う通り生きていて欲しいが、彼女は死ぬだろう。力戦をし、主を守ろうとして遂に斃れるのだ。

彼女は、そういう人間だ。

 

「人には相応しき、生と死を」

 

夏侯淵の言に首肯を返し、曹操は執務室の椅子から立つ。

 

「諜報は続けなさい」

 

臣下二人に背を向け、曹操は執務室より私室に向かう。

彼女の背には、悼みと誇りが渦巻いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「被害はどうだい?」

 

「騎兵が五十三人、歩兵が百二十二人、弩兵が二十一人。四万人殺しているにしては、上々でしょうな」

 

敵を一ヶ所におびき寄せる。

だが、敵が集結し終わるのを待つ必要はない。敵が集結しようとするルートを想定して各個撃破し、休養を挟んで連戦を避ける。

この場合敵と味方が同数ならざるといえども敵は五つの集団に分かれているのだから、こちらは一集団で以って敵の一個集団ずつを時間差をかけて撃っているに過ぎなかった。

これだと三倍の兵力で敵とあたる事になるから勝率は極めて高い。

 

彼の作戦思想は、常に簡素でシンプルである。

 

楽して勝つ。味方の被害を抑えて勝つ。この二つだった。

 

「戦いを四回繰り返しているが、戦う度に休んでいるし、戦力差は三対一で、士気も上がっている。次もどうやら勝てそうだ」

 

「時間差をつけての各個撃破、ですか。どうやらあなたは後世模範とされるべき用兵例を、現在進行形で作っておられるようだ」

 

「人殺しの手腕を以って、後世模範とされたくはないな」

 

圧倒的多数で戦えば味方の消耗はほとんど考えなくていいことなど、誰もがわかることだろう。

だが、逆境を『誰でもわかる理屈』が通る状況に変えることは誰しもができることではない。

 

(誇りや傲慢を、持っても良さそうなものですがな)

 

相変わらずの姿勢の悪さで床几の上に座っている李師を見て、趙雲はやはり面白いものを感じた。

己は槍術に長ける。その槍術は己の才と努力によって培い、他者の血を吸って高められてきたものだ。

 

己はそれを恥としない。槍の腕には誇りと、他者を何ぞとも思わぬ傲慢がある。

 

「私は過去も今も、用兵術なんか学んだことはないんだ。ただ史書を読んでいただけで、最初に戦場に立ったのも経歴作りのお遊びさ」

 

彼の戦歴のはじまりは、親心による『経験積み』であった。

為政者として腕を振るうには、現場の心を、辛苦を知っていなければならないというのが『登竜門』李膺からの李家の伝統であり、彼の姉も妹もこなしてきたものである。

 

本人からすればお遊びではないが、周りからすればそう見られかねないことを皮肉り、李師はそう言う表現を用いた。

 

「ほぉ」

 

「まあ、味方は負け、私は撤退を取り纏めなくてはならなくなったが、それ以後も私は戦う気が無かった。兵法書を戴いたことはあるが、私は一読もしていない」

 

あくまで将になりたいと思ったことがあるわけではない。為政者になれる才幹もない。

祖母の李膺からは史書を、母の李瓚からは兵法書をもらい、結果として前者からもらったものばかりを読んでいたのである。

 

「所謂天才、という奴ですか」

 

「いや、惰才さ。結果的に歴史を通してそれを学んだのかも知れない。叡智の結晶から不純物のみを抽出して飲み干した訳だ」

 

右の人差し指で髪とほぼ同一の色をした濃紺の帽子をくるくると回し、左手でくしゃりとそれを掴む。

 

「だが、帰ったら読んでみるのも悪くはないかもしれないな」

 

「前に進もうという気概は素晴らしい。ですが、戦う前に戦った後のことを話すのは些か性急に過ぎるというものでしょう」

 

何故かわからぬ不吉な予感を感じつつ、趙雲はその前進思考を減衰させない程度にやんわりと諌めた。

彼に珍しくやる気を見せ、戦の後のことを話し始める。このあたりに、無形の恐ろしさを感じたのである。

 

「そうだった」

 

面白げもなく、苦笑もせず。あくまでも比較的真面目な顔を崩さずに彼は前を見た。

四万人の屍体が重なった陽人の平野からは兵卒の精神の休養に悪いと言って前進して離れ、彼が予定戦場として再度選んだのは前に広がる凹んだような臼状の地形。

 

一万の張邈軍が集結予定地であろう陽人に着くには通らねばならないこの土地は、次善の予定戦場として彼が目をつけていたものだった。

 

張邈軍が進んでいる道は険しく時間差をつけるに容易であり、味方が布陣する箇所は平地に繋がっているが故になだらかで兵の進退が容易。

前に険阻を、後ろに平地を。真ん中を落盤でもしたかのように凹ませればこの地形が完成する。

 

「射線が直線的な弩兵を前列に、緩やかな弓兵を後列に。敵がこの地を通過しようと中央部まで到達してきた瞬間斉射を行い、射線を一点に集中させる」

 

「騎兵はどうなさいますか?」

 

「張将軍の騎兵には後方遮断のために繞回運動を取らせる。親衛隊は下馬して射撃に加わり、華雄隊は予備兵力として待機。敵は地形的に進む方が容易だが、進めば進むほど密集せざるを得ない。密集すれば効率的に射撃が行える。退くには難しいが、険阻な地形を越えても先には平野で待ち受ける騎馬隊。一応これが全容だ」

 

田予の問いに答えつつ、他の諸将が抱くであろう疑問も氷解させた彼は、胡服の大腿部に設けた袋に突っ込んでいた帽子を取り出し、被った。

 

「この戦いは、次勝つ為に敵を殺すと言う類の戦いだ。勝っても戦局が大きく変わるわけじゃあない。勝率が一割ほど上がるだけに過ぎないし、その一割にしても敵の動きによっては消されてしまうこともあり得る」

 

戦う前の指揮官に語りかけているとは思えないほどの不景気さを纏う言葉には、流石に彼も不味さを感じたのか。

姿勢を正し、軽く机を叩きながら続きを話す。

 

「純軍事的に勝つ為の算段は、実のところもう付いているんだ。だから皆、責任とかに囚われることなく気楽にやってほしい。ここでしくじっても、何ら自分を攻める必要はないんだからね」

 

会議の為の机、その横に立てられた日時計をちらりと見て話を切り上げた李師は、帽子に手をやりながら良いとは言えない威勢で、静かに言った。

 

「じゃあ、そろそろはじめるとしようか」

 

諸将が各部署に散り、側には呂布と田予のみが残される。

 

第五次陽人戦い、或いは陽人近郊の戦いとして一つに纏められる反董卓連合最初期の戦いの幕は、こうして切って落とされた。



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壊滅

「敵、張邈隊一万の軍勢は、辰の刻方向からこちらに向かって一路南下しつつ有り。敵中陣までの距離は二十里、接触予定は二刻後になると思われます」

 

「ご苦労様、明命。あとは休んでおくように」

 

「はっ」

 

僅直に頭を下げ、明命と呼ばれた黒髪の少女はその場を辞そうと試みる。

実戦となると何もできないのが歯痒くはあったが、彼女も、彼女の父が姉と共に働きを幾度も第一の功として激賞されたこと知っている身。

 

不満はないが、無念があると言うのが本音だった。

 

「どうしたんだい?」

 

「私に兵を率いて―――いえ、一兵卒でも構いません。戦いに加わることをお赦しいただけませんか?」

 

天下無双の天然無口、戦術能力に秀でた酔狂な皮肉好き、職人のような寡黙さを持つ歩く地形図、虎か猪なのに借りてきた猫のようになってしまう突撃騎兵。

 

家族めいた緩さのある己の周りに集まった個性豊かな面々にはない、純粋なまでの生真面目さと竹を割ったようなハキハキとした溌剌さが彼女にはある。

呂布はおそらく本人としては真面目だが、時折とてつもなく抜けているような所があるので彼の中での真面目には該当していない。

 

(今回、親衛騎の出番はない予定なんだが……)

 

好意を無碍にするのも、よろしく無い。

ならば、答えを誤魔化して話題転換。それしかなかった。

 

「明命。君はもう少し私から学ぶべきだな」

 

「それは、何をでしょうか!」

 

聴き用によっては酷い言い草に聞こえるが、その持ち前のハキハキとした物言いから溢れる彼女の生真面目さと純粋さがそれを中和していた。

その純真さに眩しい物を感じつつ、彼は指を一本立てながら軽い語調を崩さずに言った。

 

「それは、適度に怠けるということさ」

 

「むむっ」

 

ぺたりと布一枚敷いただけの石で凸凹とした地面に正座で座るという地味に凄まじい芸当を見せている周泰の生真面目さを親の如き視線で慈しみつつ、李師は彼女の父である周安が聴いたら無言で娘の耳を塞ぐような、極めて余計なことを言い出している。

 

隠密にも気分転換による集中の精度の濃密化が必要だという論法からすれば、強ち間違っていないのだが。

 

「君の亡くなった父上―――灯命からは学ばなかっただろう?」

 

「はい、初耳です!」

 

亡父と四人の姉からただのその武勇伝めいた伝説を聞かされてきた年の離れた五女、末妹こと周泰は尊敬に目を輝かせながら全身を耳にするような拝聴ぶりで耳を傾けた。

 

因みに言うまでもないが、灯命とは彼女の父の真名である。

周家の真名には光と関係する一文字に、『いのち』であることは、彼の中では周知の事実だった。

 

国は違うが、周一族の真名に必ず付く命は通字のようなものなのだろう。

知ったからとて、許可されない限りは呼ぶことは許されないのだが。

 

「彼は極めて優秀な間諜だったが、根を詰め過ぎるきらいがあった。それは君にも受け継がれているようだが、時には休むことも仕事だよ」

 

「むむっ」

 

如何にも『悩んでます』とばかりに組まれた腕に、田予以上呂布以下の胸が乗る。

この場には『そう言ったことに興味の湧かない』李師と、『蝶の羽ばたきを目で追っている』呂布と、『戦の前は特に頭の中にあるデータを整合させる』田予しか居なかった為になにも起こらなかった。

しかし、長い黒髪と金メッキの張られた鉢金、薄紫の目に整った顔立ちという相当に見事な造形を持っている周泰が取るには、そのポーズは中々に危ういと言えるであろう。

 

「わかりました。周幼平、頑張って怠けます!」

 

「……頑張ったら、怠けてない」

 

何事にも全力で取り組む真面目さを持つその人格そのものが怠けるという事象には向いていないのか、周泰は三秒とかからずに墓穴を掘った。

そして、二秒とかからずに呂布に突っ込まれる。

 

彼女は自分が魔術めいた予測の正確さを持たず、陰影鮮やかな皮肉屋でもなく、隠密の如き特殊技能を持たないが故に常識的な範疇に類する人間だという自負があった。

その自負は、自然とツッコミに転嫁される訳である。

 

「恋は、常識人。だから、自然に怠けてる」

 

「いや、君は働く時と働かない時の差が極端なだけだろう」

 

「あぅぁぅ……難しいです」

 

殆どの発言がブーメランとお前が言うなであるというツッコミ不在の恐怖の―――更には全員がその恐怖を認識もしていない中、その全員にちゃっかり含まれている田予が静かにツッコミを入れた。

 

「皆さん、非凡から程遠い私から見れば常識人とは別な存在であると思いますが」

 

「そんなことありません!」

 

「いや、それはないな」

 

「……ない」

 

忍者、魔術師、天下無双、そして人間GPS。

この四人の内の誰が一番常識人であり、一般人に近いのか。

それは、後世の歴史家たちも意見を分かれさせるところであろう。

 

しかしながら、全員常識人とも一般人とも似つかないという点においては、後世の歴史家たちも意見を一致させるところだったことは明記しておく。

そしてまた、この男一人と女三人の中で蔓延していた共通認識が、『この軍の幹部は皆どこかおかしい。自分以外は』と言うものであったこともまた、触れておく。

 

一方その頃、残りの緩さのある李師軍団の新旧幹部の二人はと言うと、ブーメランとお前が言うなを頻発、というよりは連発させるような世紀末を現出させることもなく、至って真面目にこれからの展望を話し合っていた。

 

「結局のところ、私たちは勝てるのか?」

 

短く纏められたとは言え、やはり目を惹く銀髪に、軽装の鎧。両手でやっと抱えられるような槍に大斧を付けたような重武器を地面に突き刺し、華雄は左手を内側から外側に振って隣に居る趙雲に問う。

 

「ほぉ、貴官が李師殿の敗北の心配をするとは思いませんでしたな」

 

「からかうな。そりゃあ私だって李師様の戦の巧さを疑っているわけではない。しかし、あの方も無敵ではあるまい。

なにせ、前と後ろに鷹の目が付いているが、それを足元に向けることを知らないような方だからな」

 

過去を認識し、未来を見て歩いているが、現在に仕掛けられた罠や窪みであっさりと転ぶ。

華雄の言葉は、非常に的を射たものだと言えた。

 

「どうやら貴官は騎兵だけではなく、弓を扱っても一流のようで」

 

「戯言はいい。で、貴様はどう思う」

 

迂遠な会話と皮肉を交えたやり取りを好まないこともあり、軽く貧乏揺すりをしながら華雄は更に詰めて問う。

彼女の気性を呑み込んだのか、趙雲は流石に皮肉と迂遠な話術の矛を収めて直線的な考察と言論に切り替えた。

 

常に場を引っ掻き回しているような印象を持たれ、実情としてそれが正しいのが彼女という人間だが、なにも相手と引き際を見極められないということではないのである。

 

「まあ、戦術的にはまず負けないでしょう。戦略的にも、自由な裁量が許される限りは負けないでしょう。しかし、彼は政略に疎い。政略から戦略を崩され、戦略の崩壊が戦術的勝利の価値を無為にすることはあり得るかと」

 

一つの綻びが全軍の綻びを招く。戦史に多く見られる事例であり、純軍事的な勝利の結晶が全体的な勝利と完全に等号で結べない要因だった。

 

「正直なところ、な。私はこの戦線の勝利は疑っていない。勝つまではいかなくとも、負けないだろうさ。だが、西南の劉焉と西北の馬騰に負けることはある。だろう?」

 

「自軍の力を信用しておられぬので?」

 

「所詮奴らは亀のように城に籠もるしか能のない将だ。果断さにも機敏さにも欠けているし、内応しないとも限らない」

 

公孫瓚と同レベルかそれ以上の人材欠乏の病を抱える董卓軍からすれば、『戦意においても戦術能力に関しても二流以下』な将をその場所に降りかかるであろう危機に応じて振り分けなければならなかったわけである。

 

公孫瓚とは毛並みが違うとはいえ、董卓は明るい赤毛をした彼女と立場では等号。

賈駆も同じく内政面・謀略面に偏っており、やる気において李師とは天と地ほどの差があるとは言え等号。

趙雲と張遼は守勢と攻勢の、巧緻と速攻の違いはあれど、能力的にはほぼ同一。

華雄と呂布とは、突撃における戦力集中の巧さと個人的な武勇という違いはあるが『優秀な戦闘督励者』ということで類を同じくし、いずれも良い指揮官の下では良く働く。

 

内政官と情報面を担当してくれる人材が居ない分、董卓陣営の方が人材面では劣弱と言えた。

 

もっとも、公孫瓚陣営の内政官と情報面を担当してくれる人材、戦闘指揮官と督励官は一個人に忠誠を誓っているのであって陣営に忠誠の指向を向けているのではないのだが。

 

「まあ、袁紹を撃退すれば我らの勝ち。戦闘指揮官としてはそれでいいのではありませんかな?」

 

あくまでも戦略的見地を持たず、戦術能力に特化した指揮官でしかない趙雲らしい明確且つ単純な意見に頷きそうになりながらも、華雄はあくまで思考を止めない。

彼女は元来、馬鹿ではないのである。少し血の気が多くて粗忽なだけであり、天性の勘のようなものがあった。

 

「それはそうだ。しかしだな―――」

 

「趙子龍様、出撃のご用意はお済みですか!」

 

何事かを言おうとした華雄の言を意図的ではないにせよ遮り、伝騎の気張った声が敵の接近を告げる。

顔を見合わせ、軽く肩をすくめて立ち上がり、二人の指揮官は軽く身体を動かしながら幕舎を出た。

 

「出撃用意は既に完了していますぞ。指示は?」

 

「『敵が進軍中である道の出口で騎兵を以って此れを迎え撃ち、程々に戦って逃げよ。釣り終えれば濃緑の旗の内部に駆け込んで反転、待機せよ』とのことです」

 

「了解了解。精々派手に釣り上げるとしますかな」

 

先の張純の乱で血を吸い過ぎ、これまでのものとは異なる形に鍛え直した龍牙を肩に掛け、白馬に跨がって場を後にする。

指示を的確にこなす。それが己の役割であり、勝利への一番の貢献になるのだと、彼女は肌で理解していた。

 

「いいか諸君。いつも通り、適当なところまで叩いて、やられてやる。うまく逃げるように」

 

悪戯っぽい笑みを浮かべながら、趙雲はいつもの皮肉と諧謔を混ぜたような独特の口調で訓示をたれる。

二又から中央の一本に集うような三又に変化した長槍でもって行く先を指し示しながら、趙雲隊二千は進撃を開始した。

 

そしてその勇姿を見ながら、膝を抱えて蹲りそうな女性が一人。

 

「……あいつはいいよな、いつも先陣を切れて」

 

「はぁ」

 

己の副官であり、ブレーキ役である彼女を振り返りながら、華雄はポツリと呟く。

 

「私も先陣を切りたい」

 

「将軍は先陣を切るというより、終盤の優勢を決定づける―――切り札。李師殿にとっては、そのような位置づけなのでありませんか?」

 

「……むむむ」

 

彼女の気分が寧ろ良くなるような言葉を選んで宥めると言う口の巧さを持った副官の苦労は尽きないであろうが、彼女の副官が言ったことはだいたいあっていた。

彼は華雄の破壊力をピンポイントに集中させ、ないしは十全に発揮させる為に『大斧』の役割しか与えようとはしていない。

 

彼女の役割は他の部隊が入れた切れ込みを繕われる前に取り返しのつかないものになるまで引きちぎることであり、切れ込みの入れられた大樹を一撃で叩き斬ることである。

 

ならば普段から大斧を振るえと言えばそうだとも言えるが、大斧を常に振るっていては肝心の切断したい時に力が抜けてイマイチな切れ味しか持てないこともあり得た。というよりは、その公算は大だと言えた。

 

言うまでもなく、趙雲は槍である。突き、引き、また突く。

手数で敵の隙を作り、或いはその動きを誘引する。

 

そんなテクニカルな動きを、彼女は呼吸をするように部隊に適用することができた。

 

この時もまた、彼女の役割は変わらない。

突いてやり、隙を作る。

向こうが反撃したら慌てて引き、逃げて釣る。

 

攻めに執心して脇が甘くなった敵は、左右からの弓に撃たれるわけだった。

 

「何だ、勝算もないのに挑んできたのか?」

 

張邈は、少しの安堵を含んだ声で傍らに控える妹の張超に話しかける。

董卓軍への敵意はあるが、それは袁紹という親友に対しての義理を多分に含んだものでしかなく、張邈は自ら前線で槍を振るうほどの士気の高さは持ち合わせていなかった。

 

「所詮は田舎者でしょう。一万に二千そこいらで挑むなど愚の骨頂です」

 

プライドの高い典型的な名士である張超の心強い返答を聴き、張邈はそうだな、と胸を撫で下ろす。

彼女は戦を好まない。巧くもないという、自覚もあった。これまで戦ってきたのは衛茲という優秀な、武将と軍師を足して二で割った様な有能な部下が居たからである。

 

「衛子許様より、伝令です」

 

「おお、勝ちつつあるのだろう?」

 

「敵の逃げっぷりが怪しいので、一旦退いて陣を立て直したい、と」

 

逃げる敵を見て追撃戦に移ろうとした兵を纏め、その本能とも言える行動を収めるのは如何に練達の指揮官であっても至難の技。

それを簡単なことのように提案できるあたりに、この衛茲という女性の才幹の見事さがわかった。

 

「何故衛子許殿はたかが二千の逃げる敵を恐れられるのか?」

 

「崩れるのには違和感がないが、周辺の地形に怪しさがある、と」

 

臼のような凹みがある地形に自分たちは進撃している。

高低差を表す壁となっている周囲は木々に阻まれて伏兵のありそうな森。

 

「もっともだろう。青藍の良きようにするように伝えてくれ」

 

血気盛んな妹が問い質してくれたことに感謝しつつ、張邈は重厚さを崩さずに現場の将に決断を委ねた。

 

その決断を委ねる旨を伝える伝騎が一往復し終えると共に、完全に追撃態勢に入っていた張邈軍が伸びた戦線を収集すべく後退を始める。

その進退の見事さは、流石というべきだった。

 

が。

 

「敵が逃げた。隊列を組み直せ」

 

逃げている軍の将とは思えない命令が飛び、敗走に移っていた兵がものの半刻(約十分)と掛からずに追撃態勢を整える。

 

「逃がすな、前進!」

 

それは衛茲が一万の軍の戦線の収集を完了より速く、逆撃態勢を組むのとは比べ物にならないほどに速かった。

騎兵の脚を活かした展開の速さと、中華でも相当に腕の立つ部類に入る将自らからが鋒矢の尖鋭に立つことによる破壊力の増加。

 

張邈軍の後退運動が敗走の色をその整然さに混ぜ始めるのは、そう遠いことではないであろう。

 

「落ち着きなさい。数では勝っているのですから、反転して迎撃。今まで我々は勝っていたことを、忘れてはなりません」

 

衛茲は指で一々指し示しながら命令を下し、全軍の補修を終えて張邈軍は逆撃に転じた。

この逆撃が決まれば敵の二千は壊滅的な打撃を受けるであろうと確信するほど連携の取れた各部隊の反撃に、今まで押しまくっていた趙雲率いる二千は脆くも崩れて潰走に入る。

 

(おかしい)

 

騎兵は、守勢に弱い。そんなことはわかっているが、完全に逆撃を決める前に、それも極微小な気を外されて流された。

そんな違和感が、彼女にはある。

 

「全軍、追撃速度を緩めなさい」

 

「また、ですか?」

 

何かがおかしいと思った。確信はないことがもどかしいが、彼女の将としての嗅覚には明確におかしいと感じる箇所がある。

 

何故ここで足止めをしようとしているのか。足止めにはぴったりな地形だし、敵の集結を遅らせれば敵の利するところが大きい。

ならば、何故利するところが大きいのか。何をすればもっとも、利するところを巨大に膨張させることができるのか。

 

それは、各個撃破。

 

つまり、他の四諸侯の部隊はすでに壊滅しているのでは―――

 

そう勘付いた瞬間、趙雲率いる二千は千九百に数を減らしながらも指定された旗を越して逃げ込んだ。

敵は険阻な道を歩み、疲労した脚を更に酷使している歩兵である。騎兵の逃げ足に敵うはずもない。

 

「斉射三連。一点に矢を集中し、敵の脚を止める」

 

数瞬遅れて前衛部隊が指定された旗から先を伸ばした先にできる一点に脚を踏み入れ、牙門旗と共に現れた濃緑の伏兵たちが一点に集中して放った無数の矢が彼等を文字通り薙ぎ倒した。

 

李師の指示に、田予の運用。二者の名人芸が噛み合い、敵前衛部隊の二千は三斉射の後にほとんど壊滅の憂き目に合う。

 

「後方におられる張太守に連絡。ここは私が防ぐ故、お退きください、と」

 

光を反射しない、のっぺりとした濃緑の色をした鎧を装備した弩兵隊が両脇から現れた。

即ち嵌められたことに気づいた衛茲にそう言い含められた伝騎が一礼してその場を後にしようとした瞬間、二騎の伝令が彼女の元へと息も絶え絶えに到着する。

 

「張旗を掲げた敵騎兵部隊、後方に来襲!完全に退路を絶たれました!」

 

「華旗を掲げた敵騎兵部隊、我らの中軍を完全に分断。我らは前後に分断されてしまいました!」

 

前方は死の射線交差地点。

後方は精鋭騎兵部隊。

 

最早戻ることも逃げることも不可能な状況で、前衛部隊を全滅させた矢地獄を見て潰走を始めた味方を徐々に追い込むように、濃緑色の弩兵隊は射線によって包囲の輪を縮めていく。

 

敵の総大将からの降伏勧告が大々的に叫ばれ、三々五々に武器を捨て、蹲って降伏する者も多い。

 

そして、目の前には総大将の所在を表す牙門旗。

 

(一か、八か)

 

傍らに控える親衛隊を、馬に乗りつつ振り返る。

彼女のとれる手の中で、逆転の目が残されているのはこれしかなかった。

 

「敵中突破によって敵の総大将を屠る。着いてきてくれるものだけ、着いてこい」

 

彼女に従ったのは、潰走している軍の中でも恐慌に呑まれることなく、また降伏勧告にも応じることなく沈着さを保っていた親衛隊の、ほぼ全員。

彼等彼女等は衛茲個人に熱烈な忠誠を誓っているが故に、この状態でも逃げるという考えを持っていないのであろう。

 

二百に満たない兵は死兵となり、前方に押し寄せる趙雲隊に喰らいついた。

 

この時、射線の管理と維持を命ぜられていた田予が弩兵隊の再編を命じている。

この所為で味方から放たれる矢が援護程度のものとなり、趙雲隊が前に出ても全く問題がないほど同士討ちの危険がなくなっていたのだ。

 

衛茲は、そこを衝く。

 

「どうなさいますか?」

 

「通してやれば良い。ご予約なされていたお客さんのご注文に対応できないほど、李師殿は愚鈍ではなかろうさ」

 

死兵を相手にする馬鹿らしさを知っている趙雲は、あっさりと陣を真っ二つに割らせながら、何かから逃げるようにそのまま前進した。

 

『敵は最後、将を中核に突撃してくるだろう。君たちは案内してくれるだけでいい』

 

彼の予想通りに推移した戦場で、彼の指示を無視するのは未来の啓示を無視するに等しい。

 

おかげで、被害は軽微。もっとも、死兵の突撃で五十人程は討たれただろうが―――

 

「敵一部隊、突出」

 

「予想通りだな。再編を終えた弩兵隊は、待機しているかい?」

 

「はい」

 

趙雲隊があっさりと突破されつつある光景を見て、呂布率いる親衛騎と側仕えのように控えている周泰が武器に手をかける。

臨戦態勢。しかし、彼は床几の上で右の膝を立て、左の脚で片胡座を掻いたまま動かない。

 

右手も立てた膝の上に顎を乗せる為のクッションとして置いたまま。左手はだらりと垂らしたまま。

 

「射撃用意」

 

戦の最中でも珍しい程の鋭い声色。

だらりと垂らされていた左手は天に向かって伸ばされ、振り下ろされるのを待っていた。

 

一秒。

二秒。

三秒。

 

射程に誘き寄せる為の速度計算、部隊の編成。そして、味方に矢が当たらぬ角度計算。全てを終えた男の腕が振り下ろされると共に下された命令が、機を逃さぬ激しさを垣間見せる。

 

「今だ!突出してきた敵部隊の先端部に一点射撃をかけろ!」

 

敵突出部隊の陣形は紡錘陣。将らしき女性が先頭に立ち、趙雲隊と本陣との何もない間隙を裂いて驀進していた。

死兵となった彼等彼女等は手強いとはいえ、所詮は二百の兵と一人の将。矢を受ければ死ぬし、左右合わせて千の弩兵が作り出す射撃の集中点に突っ込めば、逃れられぬ死が待っている。

 

精神が物量と理論を乗り越えることは敵わず、二百の勇者は屍となった。

この二百の全滅は即ち、酸棗諸侯の壊滅を示すものでもあったのである。

 

先頭切って戦った趙雲隊の被害は275。

敵を分断した華雄隊の被害は503。

後方を追い討った張遼隊の被害は102。

そして、弩兵隊と親衛騎の被害は零。

 

張邈軍の被害は10,000の内、9764。

 

全体での戦いで見ると、2,434の死傷者で38,234人を討ち、9,308人を捕らえた陽人の戦いは、この一斉射撃によって幕が下りた。



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結界

董卓軍は、戦勝気分に浮かれていた。

なにせ、五万人を二千人と少しの死傷者で葬り去ったのである。それを成し遂げた李師という軍師と智将を足したような人間の鮮やか過ぎる勝ち方の手並みは、誰もがこれからの展望に明るいものを感じざるを得ないほどのものだった。

 

だが、しかし、これに危機感を抱く人間が居た。とうの李師その人である。

 

都から『帝に拝謁して官位をもらいますか』と言う旨を含んだ戦勝祝賀会への招待状が来たあたりで袁紹・袁術の臭いを感じ取り、『今は戦時中ですので致しかねます』と言う旨を書いて送り返した後、李師は諸将を招集した。

 

速攻と猛攻を巧みに切り替える攻撃的な用兵を得意とする、集まった中でも攻めにおいての巧緻さでは他の追随を許さない指揮官、張遼。

 

偽装退却と防御に、陽動。様々な変則的な動きを部隊に精密に伝え、連動させることのできる李師にとっての必須な指揮官、趙雲。

 

戦争における使い方が突撃・突破・突進しかないが、その三種にかけては凄まじく苛烈な指揮と戦力の集中の巧みさを持つ決戦兵力、華雄。

 

戦術の指示に部隊の動きを連動させるプロであり、『地図要らず』とまで言われた名人田予。

 

呂布が定位置に控え、張遼に属する涼州の諸将の居ない円卓を広く使いながら五人が座り、一人がその後ろに立つ。

「我々は先だって五万の敵軍を敗走に追い込んだ。だが、諸君らが思うほどには楽観視はできない」

 

口火を切ったのは、当然ながら李師。主な将の顔にも浮かんでいる楽観と希望に冷水をぶっかけるように、冷厳な現実を浴びせかけた。

 

「何故ですか?」

 

わからんことは反射で訊くタイプである華雄の問いに頷きを返し、李師は普段の姿勢の悪さを崩すことなく喋り始める。

 

「つまるところ、この一連の戦いで戦術的には楽になったと言えるだろう。だがしかし、今まで我々が重ねてきた勝ちと言うのは、戦略的には何の価値もないんだ。故に、実のところ勝率はあまり上がっているとは言えない」

 

「敵を五万減らしたのですぞ?」

 

「でも、それだけだ。敵には十万の新手が居る」

 

ざっと十万なだけで実質は十一万とか二万とか。しかも統一された意志のもとに動く軍隊であり、各個撃破した酸棗諸侯の如き鮮やかな分断戦術は使えない。

彼の言いたいところは、気を抜くなというところであろう。勝敗を決めるのはこれからであって先の戦勝ではないのだ。

 

「我々がここに張り付けられている以上、戦略的には極めて不利だ。なにせ劉焉と馬騰が防衛線を突破して都に着いたらこの汜水関の戦略的価値は喪われ、戦術的に勝とうが負けようが関係のないという虚しいことになりかねない」

 

「つまり?」

 

「敵はただゆったり攻めるだけで勝てるが、こちらはどうにかして敵を敗走させた後に引き返し、劉焉と馬騰に侵攻を諦めさせなければならないということさ。もちろんこの間に汜水関は失われてはならない」

 

張遼の問いに慈悲も何もない現実を突きつける形で答え、李師は浮かれた感じの抜けた面々を一望して膝に腕を乗せ、枕代わりにしながら呟く。

 

「城に待機していた兵を併せて三万五千あった兵力の内、戦死は五百人ほど、戦傷がその三倍ほど。現状軍務に復帰したのは千人ほど。つまりこちらは千人を失いながら四万人を討ち、一万を虜とした。それは素晴らしい。が、油断も楽観もできないことを心に刻んでおいてくれ」

 

馬を失った者は騎兵として使い難いであろうし、腕を失えば弩兵としての任に耐えないであろう。

前者はともかく、負傷者で復帰できなかった者は、後者のようなものが殆どだった。

 

「で、作戦は如何に?」

 

「ない。ただひたすら耐えて敵の糧食が尽きるのを待ち、尽きたら反撃してこれを討つ。

三万で十万そこいらの敵を討つのは不可能じゃあないが、その後のことを考えるとそう投機的な勝負には出れない」

 

蜀の主軸・精兵たる東州兵と、涼州の騎兵。これを併せれば八万は下らない。

董卓軍の各地に分かれた戦線に配置された戦力を糾合すれば兵力は回復するだろうが、劉焉がどれくらいの速さで侵攻してくるかも未だわからないのである。

 

北と南だからこそ距離の暴力を利用した各個撃破も可能だが、洛陽に押し寄せてきた場合は纏めて相手をすることになるのだ。

腹背に槍を受けている状態で戦えば、勝利を得ることは難しいだろう。

 

「つまり、急げば我々の勝率が下がるが全体の勝率は上がる。時間を稼げば勝率は上がるが全体としては敗ける。我々としては可能な限り他の戦線と連絡を密にして機を測らなければならない」

 

「まあ、定期連絡は来とることやしな」

 

現在は、という注釈がつくことになるが、北部戦線と南部戦線から定期的に連絡は入っていた。

その内容が良いものとは言い切れないが、その情景からタイムリミットのようなものは感じ取れる。

 

彼の戦が限界まで味方の被害を減らすことであるということを考えれば、それは極めて真っ当な戦略だと言えた。

 

「野戦は避ける。が、必ずしも戦わないわけではない。こちらの主力はあくまで騎兵なわけだからね」

 

これの状況は、彼としては不本意であったろう。

彼は天の御使いが居た本来の歴史においては弓兵・弩兵といった機動力に劣る守勢型の兵科を専門としていた。

 

彼の生涯を通じての敵であった『歩兵を率いさせれば天下一』こと曹操に、その配下の中でも最優であった夏侯淵を置いて『弩兵を率いさせれば天下一』と激賞されたところを見れば、その用兵における弩兵の重要さがわかるというものであろう。

 

彼の被保護者であり親衛隊の隊長である呂布が『騎兵を率いさせれば天下一』と謳われたからこそ、史実においての彼が騎兵というカードを全てそちらに振り分けてしまったこともあるのだろうが、ともかく彼は弩兵が欲しかった。

将に関しては最早諦めの心がある。しかしながら、弩兵があと五千、いや、三千。

 

二千でもいいから増えていたら、戦術の幅は広がるのだ。

 

「ともあれ、こちらが最初から主導権を握るのはここまでだ。ここからは受け身に立ち、仕掛けてきた手を利用して主導権を拝借する。無茶な突出はせずに、私の指示に従って欲しい」

 

彼の心胆からの願いに、一同が頷く。

無茶な突出、無許可の突出。それが全体の戦線崩壊を招くことくらい、ここに居る面々には理解できていた。

 

「つまるところウチらは抑え役に徹して、ちまちま矢ぁ射って機を待つってことでええんやな?」

 

「少なくとも当分は」

 

先の戦からはや十日。周泰は既に部下を冀州に出立させ、袁紹軍の行動を探っている。

表面的にはまだ戦場に敵軍を迎えてすらいない両軍の戦端は、水面下で静かに切って落とされていた。

 

 

連合軍の大凡の場所を探ってきていた周泰が汜水関に帰還したのは、この軍議から二日後のことである。

 

 

「……敵の隠密が強く、こちらの隠密は相当な被害を出しています。三人一組で向かわせることでこれは何とかなったのですが、全体の一割が既にやられました」

 

「外部に出すのは危険、か」

 

「はい……」

 

孫家の隠密は強い。

それは前々からわかっていたことであり、こちらも認識していたことだった。

 

しかし、聴くのと実際とではどうにも乖離が見られるようである。

 

「敵の張った結界は兵、民、隠密を利用した三重のもので、敵の勢力圏に入るとまず見つかることになるらしいのです」

 

「……冀州に行かせた面々は?」

 

「逃げ帰ってきています。その、無理だと」

 

勝てないから逃げるというあたりに僅かな情けなさを覚えながら、周泰はひたすら頭を下げた。

警護と暗殺を得意とする孫家の隠密頭が強いということは知っている。だが、彼女の隠密も木偶ではないのだ。

 

そりゃあ諜報と破壊工作が専門であり、戦闘を専門とする訳ではないが、いざという時の警護のために戦闘訓練も積んでいる。

 

その上で、敵と遭遇しないように細心の注意を払うようにとの薫陶を受けているはずなのだ。

 

だが、汜水関から冀州に通じる道に件の結界を張られてしまうと突破は困難に過ぎる。

 

その結果、逃走という手段に繋がった。

 

「それはよかった」

 

「はぃ?」

 

「その隠密が死なずに良かった。これからは防諜に専念してくれ」

 

彼の認識としては無理なものは何をしても無理なのだから、できることをやればいい。

それが防諜ならば防諜に専念して欲しいし、防諜も無理ならば工作に専念して欲しかった。

 

「防諜は、どうかな。できないならそれを前提に作戦を立てておくが―――」

 

「やり遂げてみせます」

 

予想外の言葉に意表を突かれながらも、周泰は速やかに命令を受領して実行に移す。

彼女は司隷の各地にばら撒いていた五百人ほどの隠密を集結させて汜水関の各所に散りばめ、兵たちの警備位置を効率的に転換させることによって結界を張る作業を開始した。

 

熾烈極まる諜報戦は、この時に一先ず形勢が決まったと言える。

 

そして、結界が張りはじめられた翌日。一大暗闘が、汜水関にて繰り広げられた。

 

李瓔、趙雲、張遼、華雄、呂布。

諸将が睡魔にかられ、尽くそれに身を委ねた丑三つ時。

 

太陽が昇って後に来る連合軍が来る前の前哨戦とも言える戦いが、闇の帳を切り裂いて開始されたのである。

 

(……読まれていましたか)

 

壁に身を凭れ掛けさせて身体と精神を休めていた周泰は、城に僅かに響く足音に意識を覚醒させた。

 

結界が完成したならば汜水関に侵入することは不可能とは言わずとも、困難に極まることになろう。

その点を読んでいたのか、集結させようとする動きに勘付かれたのか。

 

そこまではわからないが、周泰にわかることは敵の目的の候補となる二つだった。

 

「嬰様の暗殺か、情報の蒐集か」

 

諸将は強い。隠密に討たれるほど弱くはない。しかし、首から下が何の役にも立たない男は、あっさりと暗殺に倒れる可能性がある。

首から下が役に立たないとは思っていないが、すぐに死にそうということは認識している彼女は一先ずという形で李師の下に赴こうとし、止まった。

向こうには呂布が居るはずだ。呂布を越える護衛など居りはしないし、自分が合流してもどうにもならない。

 

ならば敵が情報蒐集してくると見て、配下の動きに縦糸を織るべきだろう。

横糸となる戦闘法は、もう伝えてある。縦糸となるのは指向性。その横糸に縦糸を織り込んで何を織り出すかということだった。

 

「幼平様、如何致しますか」

 

「情報蒐集を阻みます。師匠と警護兵を指定した場所に誘導してください」

 

もう戦闘が始まっていることを示す僅かな物音を聞きながら、周泰は結界の縮小を命令する。

それは恐らく、極めて正しい判断であった。




一刀歴史情報(寿命編)

ハム(〜222)
李瓔(〜213)
呂布(〜215)
趙雲(〜215)
周泰(〜215)
華雄(〜215)
曹操(〜220)
夏侯惇(〜220)
夏侯淵(〜213)
荀彧(〜214)


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暗闘

呂布は、むくりと上体を起こした。

軽く柔らかい布を使った胡服状の寝間着に包まれた身体は、ものの二秒とかからずに覚醒する。

 

横で目隠しを巻きながら無警戒に爆睡している男と、同じ生物とは考えられない程に彼女のそういった感覚は優れていた。

 

「…………」

 

この男を起こすか、起こさないか。起こしても戦力にはならないが、逃がすことはできる。

しかし、逃がしてふらふらと歩き回らせてもどうせ死ぬような気も、しなくもない。

 

寝ている時と起きている時の反応の差を鑑みても何の差も見られないが、それでも回避行動くらいは取れるかもしれなかった。

 

「嬰、起きる」

 

「……あと十刻」

 

一日の約八分の一を追加の睡眠時間として要求した李師の驚嘆すべき怠惰っぷりはいつものことであったが、この時ばかりは真っ当な要求であると言える。

なにせ、まだ太陽が昇るには早い丑三つ時なのだから。

 

「だめ」

 

「……あと九刻、いや、七刻。四刻でもいいから寝かせてくれ」

 

完全に言葉が眠そうで朧気なものであることに一種の安堵と日常的な温かさを感じながら、呂布は明確に拒絶した。

 

「だめ。起きる」

 

「……今何時?」

 

「まだ暗い」

 

正確な時間がわからない呂布の解答に返す言葉も持たず、遂に呂布の分の布団をも引っ張りながら身体を布団に包み、更に惰眠を貪ろうとした瞬間、呂布は李師を起こすことを断念する。

 

足音が近い。もう起こそうとする努力よりも、敵を殺す努力に精励すべきだった。

 

もちろん、近づいてくる足音は常人どころか練達の兵士にもわからぬほど極微小なものである。

それを苦もなく察知できるあたりに、呂布の常人離れした能力が伺えた。

 

「……うるさい」

 

ヒタヒタヒタヒタ。そんなに足音を鳴らせば李師が起きる。

いっとき前までは己が起こそうとしたことを棚に上げ、呂布は可能な限り小声で、目の前の隠密に伝わる程度に呟いた。

 

部屋に入ってきた瞬間に距離を詰めて首を左手で鷲掴み、肺への酸素供給を絶って、殺す。

血の臭いで李師を不快にさせることなく殺すには、これが一番手っ取り早い。

何より、死した後の遺留品が一つに纏まってくれれば、処分もやりやすかった。

うっかりすると首の骨を折ってしまうから力加減が重要だが、その力加減は彼女の得意とするところである。頸骨を折ることなく気道のみを潰し、すみやかに敵手を絶息させた。

 

もっともその絶息は永遠に続くものだったが。

 

「……!」

 

無惨に殺された同僚の屍体を見て無言の気合を放った後続の三人と、天井からの二人。

剣と暗器で武装した精鋭五人を血の一滴も流すことなく制圧し、呂布は念の為に李師の無事を確認する。

 

「……」

 

暗闘の物音など意に介すことなく、彼女の保護者は未だ睡眠の揺籃に揺られていた。

頭を使うのも疲れるし、何よりも宦官という寄生虫が臆面もなく己を呼び出そうとしたことが、彼の精神の疲労を誘っていたのだろう。

 

もしこれが一連の策謀ならば袁紹はその楽天的で周到な君主という評価の陰に、誰から気づかれることのない『人類史上屈指の謀略家』という名を冠すに相応しかったが、これは単なる偶然の一致であった。

 

一先ずの、脅威は去った。

そう判断した呂布は四半刻(五分)に満たない時間を活用して寝間着を脱ぎ、彼女の保護者が買ってくれた特徴的な革の戦闘装束に身を包む。

 

次なる来訪者が訪れたのは、それからすぐのことであった。

 

「隊長、李師殿は無事ですかい?」

 

「馬鹿だなお前。形だけでも隊長の心配も―――」

 

他と比較しなくとも良質だとわかる美声だとはいえ、彼女がうるさいと形容したあの侵入者より数百倍はうるさい二人組が顔を出し、襟元引っ張られて肉体言語で窘められる。

 

そしてこの辺りで、李師の意識は睡眠の揺り籠から叩き落とされていた。

 

「李師殿も隊長も、ご無事で何よりです」

 

脳天に強かに打ち下ろされた拳を軽く喰らい、形式とばかりに痛がっている二人から更に一歩前に出つつ、副官たる彼は僅直さを崩さず安堵を伝える。

 

それを見た二人もついでとばかりに姿勢を正し、辞儀を正しながら主君の言葉を―――形式上は主君ではないが―――待った。

 

「…………何があった?」

 

「……侵入者」

 

呂布の言葉は常に簡潔さを失わない。一言に要点を含ませ、問われたことを的確に示す。

 

「…………なるほど」

 

彼女の装束、三人の持つ武器から滴り落ちる血。

呂布の努力が無になったことを彼は悟り得なかったが、散乱する五人の死体とそれらの非常事態を思わせる光景を視認したあたりで意識を覚醒させた。

 

といっても、常の明敏さがあるわけではない。まだ鈍いし、不審者に名を呼ばれたらうっかり立ち止まってしまうほどには意識の明度が沈んでいる。

 

「……で、私は何をすればいいんだい?」

 

「寝てていい」

 

「死人と同室になるのは、墓の下だけにしたいものだな」

 

相変わらず言葉の端に冗談とも皮肉ともつかないものを漂わせている李師の意志を明確に汲み取り、四人の卓越した戦士は無言の内に決断した。

 

「高順が後ろ、成廉が右、魏越が左、恋が前」

 

各員一様に了解を返し、武器を構える。

兵卒とは思えぬ武技の平均値を誇る親衛騎においても一際見事なものを持つ四人が前後左右を固めれば、千くらいならば無傷で李師を護衛しきれるという自負があった。

 

流石に呂布でも、千人が一斉に護衛対象を狙って矢を放てば負傷は避けられない。百人くらいならば何とかなるかもしれないが。

 

「李師殿。次回の戦で吾々の出番はありますかね?」

 

「全力を尽くさないと勝てない以上、精鋭を遊ばせておくほどの余裕を、私は持ち合わせていないな」

 

彼は兵の練度を軍隊機動の精密さに対する期待値には含むが、兵力差を覆す値としては含まない。

つまり、『呂布は一騎当千。だから一人で千人に勝てる』という計算式は彼の中で成立しないのである。

 

特定の個人の、或いは集団的な戦闘能力の非凡さに凭れ掛かることはしなかった。

それは彼の個人的な拘りかもしれないし、将としての矛盾かもしれない。

 

「なら何故前回使ってくれなかったんです?

吾々は百で千に勝てる。こいつは誇張であっても虚構ではないと思いますが」

 

いつもの彼ならば二秒のところを十秒かけ、鈍化した思考に鞭を入れるでもなく、彼は暫しの沈黙の後に口を開いた。

 

「私は個人や特定の部隊の非凡さ、優秀さを基盤にして作戦を立てたくはないと思っている。誰でも出来るようなことを非凡な部隊に任せれば被害は減るし、非凡でなくとも想定内に収まるわけだからね」

 

「なるほど。その結果吾々には回す役が矢を放つという誰でも出来るようなことだった、と」

 

「そういうことになる」

 

李師はとりあえずといった形で魏越が呈した疑問の前者に答え、李師はあまり活性化しているとは言い難い頭を回転させる。

「それに、君。君たちは『君たちなら強いから百倍の敵に勝てる。だから行ってこい。策は特にない』というような将を正気で担げるのかい?」

 

「少なくともあなたが言い出したら、吾々は何かの策かと思って担いでしまうでしょう。敵を騙すには、まず味方からとも言いますから」

 

「過度な信頼は事故の元だと、私は思っている。指揮官の頭の中身を疑うのも部下の仕事さ」

 

頭の動作が鈍いなりに冗談と皮肉のスパイスを利かせて答えを返す李師に、刃は迫ることはなかった。

敵の隠密も勝てない奴に挑むほど無能ではないし、あくまでも彼の暗殺は副次的な目標に過ぎなかったのである。

 

「おぉ、しぶとく生きておられましたか」

 

「そちらも相変わらず、殺しても死にそうにないことだな」

 

「当たり前でしょう。なにせ私は李師殿が何をやらかすかを見届けた後に二百まで生き、孫に『この婆いつ死にやがる』と厄介者扱いされながら好きな時に死ぬと決めておりますからな。戦死は柄ではありません」

 

「私ほど大人しく、温和で敬虔な人間もざらにはいない。君が三百まで生きたとしても、見届けるどころかやらかすところを見ることすらできないさ」

 

「ご冗談を」

 

角を曲がった先で三叉槍を担いだ趙雲と出会した末に皮肉をやりとりし、彼は皮肉をさらりと流して一行のメンバーに加える。

この時点で二千人が大挙して襲ってきても問題ない警護体制になっていることに、李師以外の誰もが気づいていた。

 

「それにしても皆様は忠義に厚いものですな」

 

「……少し、息が切れてる。子龍も大概」

 

部屋の割り当て的に真反対の距離から、五番目に駆けつける。

しかも、身嗜みを整えた末で。

 

「子龍、素直じゃない」

 

反論を封じる一手を放った末にほとんど完封で口達者な趙雲を黙らせ、不用意に嘴を突っ込んできたことを軽く後悔させるという偉業を達成した呂布は、その偉業に気づくことなく辺りに意識を飛ばす。

 

彼は楽毅の如き軍事能力と言われているが、彼女から見れば耿弇と岑彭を混ぜたような人物に見えた。

 

耿弇は光武帝二十八将の第四位。二十一歳の初陣から三十一歳で引退するまでほぼ常勝不敗。名門の御曹司という出自ながら、前線で騎馬隊を率いて各地を転戦。四十六郡を平定し、陥落させた城は三百。

敵群雄の一人、斉王・張歩との戦で方面司令官を務めた時は、情報操作を多用して五、六万の兵で二十万の張歩軍を壊滅させ、光武帝から国士無双・韓信の二代目と評価されている。

岑彭は光武帝二十八将の六位。もとは新王朝に仕えた地方役人。

水が関わる戦場に強く、光武帝の兄の一人と姉、その子供達を討ち取った。

その罪滅ぼしか、新王朝崩壊後、光武帝に仕えてからは征南大将軍として、敵が争って降伏してくる仁将として活躍した。蜀の公孫述軍が誇る水軍も完封。

また神出鬼没な軍の運用から『所向無敵(向かうところ敵無し)』と

歴史書に表現された最初の人物でもあった。

 

名門の御曹司でありながら最前線に立ち、不用意とは言え騎兵を率いて未だ不敗、というよりも負ける光景が浮かばない陸戦における指揮の卓越さ、引退の迅速さは耿弇に似ている。

幽州の河賊を束ねて兵站運用に活かし、水軍として運用。水のそばで戦う時は殆ど確実に大勝することの出来る運用の巧みさを持ち、陸路水路を適確に組み合わせた神出鬼没ぶり、無敵っぷりは岑彭に近かった。

 

何よりも岑彭に似ていると思うのは、その最期が暗殺に終わる可能性が極めて高いであろうと感じさせるところである。

岑彭はまともに戦ったら勝てないと見られ、逃亡奴隷を偽った敵の刺客に討たれた。

 

恐らくは、彼もそうなると理性は言う。

だが、同時に彼は不敗で、なおかつ不死の存在であるという信仰があった。

 

何倍の敵軍に囲まれても何やら愚痴を言いながら生き延び、死んだと思っても頭を申し訳無さげに掻きながら戻ってくる。

そんな幻想が現実であろうと信じる心と、幻想は幻想であろうということは歴史が証明しているということ。

 

彼の内にも蟠居している矛盾が、呂布の内部にも住んでいた。

 

「私たちはどこに行けばいいのかな?」

 

「とりあえず周幼平殿と合流し、親衛騎の面々を加えれば問題はないでしょう」

 

まだ目覚めきっていない彼の問いに、クリーム色と金髪を溶かして混ぜたような髪を持つ高順が答えた。

軍という大集団を率いるには最適な人格は、隠密との戦いに向いているとは言い難いらしい。

 

「では、そうしようか」

 

ポツポツと、親衛隊が集まり始めている。

大集団となっても城内での進退に困る可能性があるから小集団にわけて敵の撃退に向かわせているが、所在がないというのは彼としても不安らしかった。

 

「……こういう時は、下手に動かない方がいい」

 

「一人の時は?」

 

今言おうとする原則を、自ら現在破るような愚を彼女は犯さない。

その信頼があったからこその読み取りに、呂布はこくりと頷く。

 

「ん。位置、掴まれる」

 

武の階梯を登り、上層に至った極一部のものならば彼の不用心で不用意な足音から場所を掴むなど容易だった。

 

「なら、お前もわからないんじゃないのかい?」

 

「?」

 

匂いでわかる。

別に意識して口に出していないわけではないが、呂布は目の前にいる影を見て口をつぐんだ。

 

チリン、と。鈴が鳴る。

 

武器を構え、相対し、勝ち目がないと悟って逃げた孫呉の隠密の、それは僅かな残滓だった。

 

そして、明朝。

誰もが予想していなかった一軍が、汜水関に姿を見せることになる。



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援軍

夏侯淵の髪で見えない方の目はどうなっているかは、読者諸兄の妄想にお任せいたします(原作では普通)。


未完成での組織でも、指揮系統の取れていない個人の勇戦によって組織だった少数の襲撃を凌ぎ得る。

そのことが―――周泰にとっては甚だ不名誉ながら―――証明された、昨晩の暗闘。

どうやら幾人かの隠密は先の戦闘の終わりに際して軍に紛れることで潜り込んでいたらしいことを報告された李師は、少し考え、結果的には少し笑ってそれを流した。

 

素性はともかく、もう既に全員の挙措に隠密の影がしないことを報告した徹夜明けの周泰を労って休ませた、一刻後。

 

彼の側にあるのは呂布だけであり、警護兵が執務室というべき部屋の扉の両脇に居る。

周泰が暗闘に疲れ切って睡魔に負けたその時に、城壁で一定の緊張感と使命感を維持していた兵卒の一人がそれを発見した。

 

砂塵。

 

百万遍の言葉にもまさる程に明確な、敵襲の知らせである。

 

「敵軍来襲ッ――――!」

 

暗闘があったことは、既に一兵卒に至るまで知れていた。

これは汜水関にある指揮官の殆どが兵卒に隠しだてをするよりは知らせた上で対応を促す形の指揮官であったというよりは、動員した警備兵の殆どがそれを知っているからであろう。

 

情報を封鎖するにも、封鎖する為の堤に穴が開きすぎていたのだ。

 

ともあれ、彼等は暗闘を知っている。故に朝夜問わずに攻め立て、疲労させる『よくある手』だと判断した。

 

その報告は良く整備された軍隊組織にありがちな迅速さでもって上層部に届き、その上層部が機敏に動いて警戒態勢を臨戦態勢へと変更させる。

砂塵から見るに、四千から八千。それなりの大軍だが、それほどでもない。

 

ここまで統一した行動を取っていない連合軍だからといってここまで酷くはないだろうという一抹の疑念が各指揮官の脳にはこびりついていたが、疑わしいからといって臨戦態勢を整わせないわけにもいかない。

 

索敵網・諜報網の再編に奔走していた周泰がその活動を停止したが為に、外部に対する索敵網が硬化したままである。

結界を張るために集結させたが故に、その索敵網は糸の一本たりとも外部に垂らそうとしていなかった。

 

「……それにしても、計算が狂ったな。明命の情報によれば、袁紹は陽人で連合軍を再編している筈なんだが」

 

「再編にあぶれたのか、先鋒としての任を課されたのか」

 

「前者はともかく、後者はないな。昨夜の内に攻めかかれば、揺らぎはしただろうけどね」

 

城壁の一際高い望楼に設けられた指揮所で胡座を掻きながら、李師は大して良くもない目を凝らす。

索敵網もなく、騎兵を出すのも死ねというような物。となれば目視でしか、敵の旗の見分けようがない。

 

「……黒地に青の鎧。旗は夏侯。夏侯淵」

 

どういう目をしているのか。

一同の驚きを意に介さず、呂布は伝えるべき情報を伝えて横を向いた。

 

正しい判断は、正確な情報のもとにのみ成り立つ。

情報を得るのは己の役割であり、それを元手に判断するのは李師の役割だった。

 

「……曹操の双璧の一枚目、夏侯妙才か。一体何の為に来たのやら」

 

「攻めに来たのでしょう」

 

「だとしたら私の眼が節穴だったことになるな」

 

趙雲の言う通り、人物を見誤ったというのは認めるべきだろう。指揮官は常に仮定よりも不愉快な現実を直視して生きていかねばならないのだから。

 

だが、李師には不可解だった。今更曹操が動くのは、如何にも不自然なのである。

今動けば酸棗諸侯を見殺しにしたとの謗りは免れないし、それどころか風見鶏であるという罵倒も受けるのは必然だった。

 

それに曹操は果断即決の人柄であるように、彼には見えていた。

 

(いや、この際現実のみを見るべきだろうな)

 

曹操が動いたとしても、今の状況ならば対処ができる。兵力の元手になるであろう酸棗諸侯は既に居ないのだから、戦術の明度を同レベルのものに維持することを心掛ければ、単純に勝つことができるのだ。

 

それほどまでに兵力差とは恐ろしいものであり、決定的なものなのである。

 

「止まったな」

 

こちらの三万がちょうど展開できる程度の距離まで進んで止まり、『襲ってください』とばかりに無防備を晒している夏侯淵隊四千。

それは攻めようとはしていないが、挑発しているようにも見えた。

 

「李師様、私が少し行って粉砕してきてもよろしいでしょうか!」

 

「だめ」

 

華雄からの出撃要請を却下しながら、李師は意図の解らない眼下の軍を見据える。

後続を待つなら、ここまで来る必要がない。それをわからない夏侯淵でも、ない。

 

なら何故ここまで進出してきて、止まるのか。そこが、彼にはわからなかった。

 

「敵軍から、一騎出てきます!」

 

警護兵がわかりきっていることを報告し、一先ずといった感じで望楼に集っていた諸将が頷く。

出てきた一騎は、見たところ武器も持っていない。鎧というべき軽い装備に身を包み、馬に乗っているだけだった。

 

「……夏侯淵」

 

「御本人か」

 

感嘆と驚きを込めて、李師は呟く。

 

黄巾との最後の戦いの後に文を持ってきたのが夏侯淵だっただけに、呂布の記憶にはその青と白を基調とした外見が強く印象に残っている。

となれば、彼女が見間違うはずもなかった。

 

「李師殿。夏侯妙才殿が目通りを願っております」

 

「会おう」

 

門外で、しかも丸腰で待つ人間を待たせる趣味は彼にはない。

彼女が関に近づきすぎて見えなくなった時点で、彼は拠点としていた望楼から下りている。

 

謎を解明するという目的も有り、その判断は速かった。

 

「姓は夏侯。名は淵。字は妙才。この度は天下にそれと知られた智将たる李師殿に目通りを許されて光栄に思います」

 

極めて礼儀正しい口上を述べ、夏侯淵はゆっくりと頭を上げる。

李師がそもそも長身ではないこともあり、その身長は僅かに彼を越していた。

 

「こちらこそ、知勇兼備の名将たる夏侯妙才殿に会えて光栄です。この度は如何なる御用向きで?」

 

本来の歴史では、『李瓔は智に偏っている。曹操は勇に偏っている。夏侯淵はそれらの均衡が最もとれている』と言われた彼女は、それを知る天の御遣いから『基本的な能力も性格も器も変わらない』と隠れて評されている。

つまるところ、彼女ほど知勇兼備という形容が合う将も中々居なかった。

 

「礼と恩を返しに来た、というところです」

 

一片の暗さもない誠実さで頭を下げ、この世界で屈指の名将たる夏侯淵は自然な動作で手を組み合わす。

それは敬意の表れであり、一時的にせよ彼の下に突くことを受け入れた者の嘘偽りのない挙措だった。

 

「私は君たちの主君の同志を殺した。恩とは無縁で、仇ですらある。そうではないかな?」

 

「それは違います」

 

一拍も無き、否定。僅かの感情も覗かせず、夏侯淵はあくまでも冷静にこれに答える。

もとよりこれは、予想していた問いだった。

 

「何故?」

 

「確かに衛子許―――青藍は我らの友であり、主の同志でありました。ですが、彼女も戦う以上は死を覚悟の上でしたでしょうし、卑劣な謀略で斃れ、闇討ちされたのではない以上は恨む筋合いはありません」

 

「正々堂々の戦いで死ぬことが、彼女の名誉だと?」

 

「名誉ではなくとも、本懐ではあったろうと思います。己の死を壮烈に彩って喜ぶ趣味は私にも、彼女にもありませんでしたが、剣に生きる以上は剣に死にたいとは思っていたでしょう。尤も、これは個人の主義主張であるのですが―――」

 

武人の誇りなどとは無縁の性格をしている彼には理解できないであろうことを、夏侯淵は噛んで含めるように説明する。

剣に生きる以上は剣に死ぬというのは、彼女が誰かの死を明快に理解する為に抱いたものであるか、それとも骨髄にまで根付いたものなのかはわからない。

 

しかし、そのような思想もあることは、確かだった。

 

「わかった。では、恩とは?」

 

「我が主の道を違えさせず、その事業と夢とを汚さずにいてくれたことに対して、恩という言葉を用いました」

 

彼が発した布石、『あなたの歩む道とは、無実の罪を着せられた弱者を多勢で以って嬲るが如き道ですか?』という一文。

彼としては他者の誇りを守ったという意識はない。ただ、刺激したら動くであろうと予想できたが為にとった行動に過ぎない。

 

「それは君たちの主が高潔だったからだろう。私が言わずとも、そうなっていたさ」

 

「そうでありたいものです」

 

一見してみると肯定で、その実は反問。

彼女は弁舌もまた、巧みだと言えるであろう。

 

暗に彼女は、彼のお陰であるという論法を崩していなかった。

 

「あなたの意志はどうあれひと押しとなったことは確かなのですから、吾々としてはそれに応えたい。風見鶏と呼ばれるのも、不快でならないことですから」

 

「負ければ逆賊と謗られる。それでも敢えて道を貫くことを選ぶ、と?」

 

この時点で薄々、李師は曹操が本気だということに気づいている。

この問いはダメ押しというか、お節介と呼ばれる類のものだった。

 

「己の道と夢とを目先の利益に釣られて穢すことに比べれば、逆賊の汚名を被ることなどは数百倍もマシだと私は考え、主の意を得ました」

 

「それは誇り、かな?」

 

「私にとっては、矜持です」

 

髪に隠されていない片眼から放たれる鋭角の視線がその潔癖さと内に秘めた激烈さを偲ばせ、それを冷静と自己管制が覆い隠す。

なるほどと言いたくなるほどの、名将に相応しい矜持の高さを持つ人格だった。

 

「では、助けてほしい。正直なところ、現状を鑑みるにこれほど嬉しいことはないんだ」

 

「無論のことです」

 

裏切りはしないだろう。裏切るとしても正面から堂々とし、途中で寝返るようなことはしまい。

僅かに話しただけでそこまで洞察できるほど特徴的であったし、隠しだてをしようとしないような話しぶりからも、わかる。

 

それに、隠された野心というか、己の器を限界まで突き詰めてみたいという心がちらりと見えたのが、将の器には留まらない能力の深さと広さを伺わせていた。

彼女流に言えば己の能力に誇りを持つ者はそれを粗雑に使い、貶めるようなことはしないということだと確信させていたのである。

 

「では、また後ほど伺わさせていただいてもよろしいでしょうか」

 

「ああ。だが、敬語はいらない。私も指揮権を預けられているだけであくまでも援軍の将。同格の将に敬語を使われるほど、私は大した人間じゃないからね」

 

「では、そうさせていただく」

 

一礼し、門外に待たせた馬に乗って一度振り返り、夏侯淵は軽く会釈して部下のもとへと去っていった。



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墓碑

到着の後に軍容を整え、宛てがわれた部屋を起居するに相応しい場所へとすべく僅かな手直しを加えながら、夏侯淵は一人で部屋にいた。

彼女は基本的に社交的と言っても良い。人間関係に粗雑さを見せないし、渉外役としても有能さを見せる。

 

しかし、それは交流を好むこととイコールではないし、内面を全てさらけ出してしまえるような相手を持っているわけでもない。

 

彼女には敬愛すべき姉が居るが、肉親だからこその遠慮と配慮とが、その複雑な内面を表に出せない要因となっていた。

 

同僚も配下もそれを何となく察し、彼女の私室に入ってくることはない。だからこそ彼女は何回か扉を叩かれたことを、僅かな驚きで向える。

 

側近中の側近である典韋すら滅多に叩かぬ扉。それを叩く者は何者か。

 

さしあたり、この軍に知り合いも居ないし友も居ない。心当たりも、有りはしなかった。

 

「やあ」

 

開いた扉の先には、いまいち知性とか、颯爽さとかを見出し難い容貌をした男。

整ってはいる顔立ちだが、一際目立つわけでもない。しかし、温かみのある雰囲気が彼の身体を覆っている。

 

彼のことは、知っていた。

 

「李師殿か」

 

「如何にも。入ってもいいかな?」

 

「拒む理由もありません」

軽く頭を下げ、半開きの扉を開ける。

敵軍五万を過小な犠牲でもって悉く葬り去った智将を、夏侯淵は敬意で以って静かに迎えた。

 

「ありがとう。あと、敬語はいい」

 

「これは、失礼した」

 

少し、己は動揺したらしい。内面にも外面にも表れはしない程の微細なものだが、このような失態を犯すとはそういうことだろう。

 

静かに己の過失と心理を洞察しつつ、夏侯淵は一応持ってきた軍需品の酒と、道楽の為の杯とを見せた。

 

「貴官は、いける口か?」

 

「人世の友を拒むほど、狭量ではないつもりさ」

 

単身訪ねてきたことには触れず、李師は椅子に反対に跨る。

非公式なもの、気楽さを求めるものということかと、夏侯淵は見て取った。

 

彼は登竜門の孫。己は夏侯嬰の裔。

今どちらがより貴門なのかはわからないが、どちらも所謂貴族的な儀礼を身に着けていることは疑いない。

 

(いや、春蘭と同じ口ということも、あるな)

 

礼儀を知ろうともせずに我が道を驀進していた姉を思い浮かべ、苦笑する。

礼儀を知っててもやらないのか、礼儀を知らないのか、それはわからないが、己の敬愛する姉とかけ離れたタイプである尊敬すべき智将が同一項を持つことは、彼女にとって面白いと思えることだった。

 

「乾杯」

 

「乾杯」

 

腕を組み合わせて一杯目を乾し、戻す。

礼儀を知らないわけでは、なかった。動きの端々に気品がある。

 

「私はこちらから行くと、言ったはずだが」

 

「それでは礼を失する。同格の者に二度もご足労願っては、私は傲慢で鼻持ちにならない名族となってしまうからね。それは御免蒙りたい」

 

「そういうことならば、こちらにも非礼があったことになる」

 

問答の節目に釘を打ち、互いに謝して彼等はこれを収めた。

これから始まるのは礼儀のやり取りではなく、実を伴った言葉の撃ち合いである。

 

「正直なところ、貴官はこの戦どのくらい勝ち目があると思う?」

 

「二割」

 

もう何回もシミュレートしたのであろう。李師の解答は速かった。

 

「二割。案外と低い」

 

「期待値を抜けばこれくらいさ。蜀の東州兵が思った以上に強い」

 

「指揮官がいいのか、兵がいいのか」

 

薄く淹れた紅茶の色の瞳が鋭く光り、解答と或いは思案とを求める。

精鋭だけで勝てはしないし、名将だけで勝てはしない。そのようなことはお互いわかっていた。

 

「厳顔という攻守に優れた良将が、魏延という猛将を抑え、それを法正という軍師が管理している。中々に勝つのは難しそうだ」

 

「だが、負けはしない」

 

「ああ、負けはしない。貴女も居るし、勇将たる張遼も居る。負けることはないだろうね」

 

夏侯淵が空になった杯に酒を注ぎ、返しとして李師が彼女の杯に酒を注ぐ。

互いに容易に心を開かないからこそ、その会話は軽い鎧に包まれていた。

 

「戦略的には、劣勢。戦術的にはどうなるかわからないが……どうあれ私は貴官の指揮に従おう」

 

「それは嬉しい。曹兗州殿の旗下にあり、双璧と謳われた貴女を使いこなせるかは、わからないが」

 

酒を乾し、再び注ぐ。

悠々と互いに酒を味わい、胃に流し込んでいく時間が僅かに経った。

 

彼が訪ねてきた目的は、既に達成されているのだろう。つまり、指揮系統の統一と、感謝と。それを伝える為にここに来た。

 

「貴官は天下でも……そうだな、三指に入る用兵家だ。華琳様―――曹孟徳を一文で動かせなくし、五分させての各個撃破。見事なものだ」

 

「お褒めに預かり光栄だな。その三指の内の二人は貴女と曹兗州殿と、じゃないか?」

 

「その通りだ」

 

勇に傾いた曹操と、智に傾いた李瓔と、均衡がとれている夏侯淵。

彼女の中では、この中華において己の敬意に値する人間はただの三人しか存在し得ない。

 

姉と、主と、目の前の男である。

 

「貴官から見て、私はどうだ」

 

「というと?」

 

「私は、何だということだ」

 

軽く酒を満たした杯を傾け、夏侯淵は仄かな酔いを感じながら問うた。

己の中に蟠った疑念と、迷宮の如き複雑さが露出したと言っても良い。

 

これは相当に珍しいことであるし、少なくとも初対面ではないにせよ、それに近い相手に吐露するような人間ではないのである。

 

これは、とある一人の男が関係していた。

 

「北郷がな」

 

「それは真名かい?」

 

「姓らしい。真名はなく、名は一刀」

 

「珍妙でなくとも、異端ではあるな」

 

夏侯、など。二文字で姓となる人間も居るには居る。

だが、ホンゴウ、という響きにはどこか異国の響きがあった。

 

「それは天の御遣いかい?」

 

「そうだ」

 

別に漏らして構わないであろう情報が、夏侯淵の口から漏れる。

その天の御遣いというのは、彼女の中では大した比重を占めていない。だからこそ情報を漏らし、仮想敵に情報を与えていた。

 

「その天の御遣いは、人当たりがいい。社交性に富む、という枠に収まらない程に」

 

「羨ましいことだ。私なんかは、日々同僚との不和に悩まされているよ。単経とか、田偕とか」

 

「基本的に不用心で、貴官とは違い無鉄砲で積極的だからな。向かわれた方も、悪い気はしないのだろう」

 

言葉の端々に『自分は違う』とでも言うべき陰を忍ばせながら、夏侯淵は杯を乾す。

その動作の節々から不和の匂いを―――つまるところ、常日頃己が嗅いでいるのと同等のものを察知し、李師は黙った。

人間関係に対して偉そうに講釈を垂れることが出来るほど、己は優れた人間だと信じていなかったのである。

 

「私の姉とも仲が良い。主とも―――まあ、仲が良い。素直ではないがな」

 

「何かあったなら、訊くよ。有効策を示せるかどうかは甚だ疑わしいけどね」

 

「この中華において一二を争う智謀の持ち主も、人間関係に対しては楽にはいかないらしい」

 

「何せ、屈指の名将たる夏侯妙才殿も攻めあぐねていることなのだから、当然さ」

 

基本的には馬が合う二人の中で軽い冗談が飛び交ったのは、この時が初めてだった。

打ち解けてきたとも言えるし、互いに打算と利害を含めども理解しようとしているのが、大きい。

 

基本的には追いかけられるか、軽くやる気をなくして相手に向かって歩いているような人間関係の構築しかしてこなかった二人が、殆ど猛然と合流すべく走っているのだから。

 

「彼は貴官を恐れている。そして、私にも距離がある。恐れているまではいかずとも、避けている」

 

「私たちが同類に見えるというのなら、一体全体どこを共通項としているのか……と、いうことかい?」

 

「そこだ。私もそこがわからない」

 

口に出そうか、出すまいか。

しばらく逡巡するでもなく出たことに驚きつつ、同時に悪くないと思う自分が居る。

 

(華琳様とは、別な器か)

 

あくまでも苛烈な燎原を思わせる火の器と、静謐を保つ森か山かといった風情を持つ器。

こちらが話そうと一度思えばとことん話を引き出すような性格と、それが不快ではない風韻。

 

周りを魅せながら一生を燃やし尽くすというより、大樹となって他を堅固に支えていくと言った感じだった。

 

「我ながら、喋りすぎた。いつもはこんなことはないのだが」

 

「本音を吐露しないと鬱屈し、蟠る。毎日喋り過ぎるのも良くないが、喋り過ぎないのも良くはないんじゃないかな」

 

別に情報を引き出そうとしているわけでは、ない。

彼からすれば、夏侯淵と天の御遣いとの間は他の諸将と天の御遣いとの間とは少し違うと隠密から聴いた時にその不穏さは悟り得ているし、何よりも彼が己を警戒しているのも掴んである。

 

面と向かって『お宅の将は私を敵と見なしているようだ』と言えば、夏侯淵との円滑な協力関係の構築の妨げとなるから言わないだけだった。

だが、疑っている方からそれとなく切り出してくれたのならば蟠りはなくなる。なくなるとまではいかずとも、少なくなる。

 

少なくとも夏侯淵の態度には、今のところ敬意と観察と懊悩の意志しか見て取れないのだから。

 

「三ヶ月遅く、三ヶ月早ければ、か」

 

再び夏侯淵が口を開いたのは、三刻(一時間)が経った後だった。

その間に彼女の中で如何な葛藤のせめぎあいがあったのかはわからないが、飲み相手が口を開いた以上無視を決め込むわけにもいかない。

 

何より、この手の相手との会話は嫌いではない。

 

「……私が三ヶ月早ければ、何が起きるのか。貴官が三ヶ月遅ければ、何が起きたのか」

 

「そもそも、何を早めるか、何を遅めるか。それすらわかっていないのだろう?」

 

「そうだ」

 

断片的にしか、天の御遣いが彼女について漏らしたという言葉は夏侯淵には伝わってきていない。

彼も完全に疑ってかかっているわけではなく、少し苦手と警戒が混じっている程度な態度でしかないのだから、風聞となるには未だ青い。

 

何よりも、天の御遣いは不用意に人に対する天の知識を漏らさないという今までの評判が大きかったのである。

彼が今までやったことは讒言でもなければ予知でもなく、区画整理と警邏隊の創設、人材のリストを作っての提出といった地味な作業であり、三番目に至ってはその功績が知られてすらいないのだから。

 

「……貴女の言を聴くに、彼が警戒しているのは貴女ではないのではないかな?」

 

「どういうことだ?」

 

己を疑っているならば、夏侯淵とて嫌いようもあった。

しかし、その表現は微妙に色を異なるものにする。

 

疑っているというより、変化を好まない。それが一番しっくり来るような扱い方なのだ。

 

「これは『天の御遣い』の噂を聴き、言動を聴いた上で暖めていた例え話なんだ」

 

少し頭を掻き、姿勢を糺す。

決して侮ってならず、ヒントを探し当てることに卓越した男の、それは予言めいた予想だった。

 

「この世界が劇だとする。この世界にいる人間の全ては役者で、脇役から主役まで幅広く網羅している、と。世界と言う名の舞台の支配人は、演技の美しさと色鮮やかさを望む。

だが、吾々は台本は今やるべき一文しか読めないんだ。少なくとも、普通に生きている限りは」

 

「……だが、そうでないものも居る。私や孟徳様、貴官のように」

 

「そう。一部の目敏い役者は次にやるべき一文が読める。次の次も読めるかもしれない。しかしそれは役者としての延長線上にあることには変わりない。そうだろう?」

 

「ふむ……」

 

杯に注がれた酒を回しつつ、夏侯淵は視線と言葉とで先を促す。

 

「それで?」

 

「だが、天の御遣いは台本の全てを読める。全文を、全員分。だからこそ貴女が何をするかを知っており、それを変えようと注意深く見ている―――そうは、考えられないかな」

 

断片から全体を予測し、細部の精度を高めていくというのは彼の得意とするところであるが故に、その見方は概ね合っていた。

 

「……かも、しれんな」

 

「不本意かい?」

 

「と言うよりも、己が役者でしかないのは不満だ。どうせなら―――」

 

らしくない失言を言い放ちそうになり、夏侯淵は切り上げるように口を閉じる。

どうにも、彼と話していると口が滑った。内面が透ける、というのか。

 

不思議ではあるが、不快ではない。

 

「忘れてくれ」

 

「何も聴いてはいないから、忘れようもないな」

 

離間の計は彼の好むところではなく、決定的に非情になりきれないところに限界がある。

田豊も、沮授も。袁紹という巨人が持つ破壊力に指向性と智慧を与えている両者への信を失わせることなど、できた。

 

全知全能を以って、策と戦を両立させた上で全力を余すところなく駆使して叩き潰す曹操に、彼が明確に劣る点である。

 

「……それにしても、私はどのような死に方をするのか気になるところだ。己の意志と決意によって進んだ道の果てに死が私の命を刈り取ることを、願わずにはいられない」

 

「貴女が死ぬ時の舞台の名は、『名将の死』、といったところだと思うんだが、どうだろう?」

 

「単純ながら雅味があり、余計な装飾がない。誰かが私に死を与えるまで、その名に相応しい能力と精神とを保持しておきたいものだな」

 

空に近い杯に僅かに残った酒を傾け、夏侯淵は悪戯っぽい光をガーネットの瞳に宿しながら、返した。

 

「今、貴官の退場回の題目は決まった」

 

「是非とも、聴きたいな。あまり実現したいとは思わないが」

 

「魔術師還らず。これだろう」

 

「魔術師還る、と題目の変更を求める。私は自宅で死ぬと決めているんだ」

 

「それを言うなら私もだろう」

 

「どこで死のうが、死は死としか表せない。名将である限りはどこで死のうが名将の死、じゃないか?」

 

一本取られた。

そんな苦味と会話の楽しさが混ざった酒を、彼女は一息に飲み干した。




サブタイがこうなったら二人は死ぬ(明言)


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汜水関防衛戦

「豪華な物だ」

 

眼下に広がる金・金・金。

太陽が降りてきたように光に照らされ、輝かしき煌めきを纏っている大軍を見て、李師は慨嘆を静かに漏らした。

金箔か何なのかは解らないが、袁家の財源の豊富さが伺えるだろう。

 

些か、使い道を間違えている気がしなくもないが。

 

「私の直属弩兵は森色の濃緑、恋の騎兵は血の真紅。いざ塗装にも金がかからないを選んだものだが……あれは度外視しているな」

 

「私も姉の流用だ。黒地に塗り潰していた鎧に蒼を差しているだけ。費用もあまりかからない」

 

「馬甲にかける金なんかないって言われて、ウチは武骨な鉄色やけどな」

 

望楼上で風に靡く旗は、『緑の地に李』と『五稜星』に、『紺碧の地に張』と『鬣を奮う黒い馬』に、『黒地に蒼で夏侯』と『曹』の三旗六種。

 

膝を立てた胡座、胡座、正座。

もう一目で誰だかわかるような粗雑な座り方をした二人に、どことなく育ちの良さが滲み出る一人。

 

三人の各軍首脳は、件の望楼で階下の奮戦を見守っていた。

李師は現場でも指揮を執ることができるが、現在は来る野戦に向けての作戦立案に掛かり切り。殆ど同レベルの立案能力を持つ夏侯淵も引っ張ってこられ、騎兵専門の張遼も引っ張ってこられると、こうなる。

 

つまり、一望楼に将旗と牙門旗とが集中する、といったような感じに。

 

「こちらは典韋だが、そちらは誰が代理で督戦しているのだ?」

 

「子龍だね。有能な部下を持てるのはいいことさ」

 

「ウチんとこは郝昭やな。得意兵科は騎兵とちゃうけど、だからこその副官や」

 

遠目から見える蝶々と呼ばれる紐付き車輪の如き鈍器と、三叉の槍と普通の鉄戟。

それぞれ任された督戦官は、極めて模範的な奮戦を見せていた。

 

「左翼が、袁術。中央部が、袁紹。右翼は、劉表と袁紹軍の一部。警戒すべきは孫家と、袁紹と、新規参戦した馬騰。それくらいかな?」

 

「一先ずは、そこまで得た情報で作戦を立てるべきだろう」

 

未だ敵の陣容は、完全に知り得ない。不確定要素が、あるとも限らない。

しかし、予定を立てねば行動などできようはずもなく、予定通りにいかないからといって予定を立てないわけにもいかないのである。

 

「二人は、やりやすい敵とかは居るかい?」

 

「ウチは一武将やから、行け言われたらどこでも行く。三方面どれでもええで。ただでさえ、ウチらは連合軍をぶちのめせんやって気張ってんねん」

 

「巨獣を搦め捕るのは猟師の仕事。願わくば右翼に振り向けて欲しいものだな」

 

「では、張将軍は左翼。妙才殿は右翼に当たってくれ。私はまあ、袁紹・袁術の混成部隊六万を七千で何とかするさ。一度に全員がかかってくるわけでもないしね」

 

連合軍は、中央部(六万)が分厚い。対連合同盟軍は、中央部(七千)が薄い。

その代わり、両翼(各一万)が厚い。といっても、敵の両翼(各四万)との兵力差は三倍を越す。

 

并州から更に兵力を差っ引いたらしい、袁紹軍七万。

袁術軍五万。

劉表軍一万。

馬騰軍一万。

 

冀州戦線がどうなっているか非常に気になる、連合軍の陣容だった。

 

「それにしても、二度とこんな戦はしたくないもんだ。兵力が五倍差に近いじゃないか、全く」

 

「この際、指揮官の質では負けていないことをこそ、喜ぶべきだろう。一頭の羊に率いられた百頭の獅子は、一頭の獅子に率いられた百頭の羊に敗れると言うのだからな」

 

もう兵力に関しては諦めて優位なところを見ようと言う夏侯淵の意見に首肯し、李師は再び溜め息をつく。

一体全体、本国では何をやっているのか。働いているのかいないのか、戦っているのか、いないのか。

 

(一つ狂うと何もかもが狂ってくるな)

 

数の差と、腹背に敵を抱えている状況という戦略的劣勢を拮抗に変えるためにこそ、冀州を攻めて兵站を絶つ。

これによって敵も腹背に敵を抱え、餓えという無形の敵と戦わねばならなくなる、はずだった。

 

効率的に断つ為にこそ己が総指揮を執ろうとしていたのだが、それは妨害によって成せず。

 

頼みの綱の南北からの情報もまた、滞っている。

 

(大丈夫なんだろうか)

 

彼の現在の二つ悩みの種の内の一つである冀州戦線だが、これは思いの外うまくいっていた。少なくとも、軍事面では。

 

彼の思った以上に、公孫瓚と公孫越が戦闘指揮と豪族の意思統率において有能だったのである。

 

彼女らは現在鄴を囲みながら、冀州と并州の残存兵力と対峙していた。

この一戦に勝てば公孫瓚のもとに、冀州は転がり込むであろう。しかし、兵站線が切れていない。

 

冀州に残っている沮授が、一人奮闘している。そもそも現在の幽州には、隠蔽に隠蔽を重ねられた兵站線を切れるほど偵察に優れた人材も居なければ、地形から兵站線を予測できる人間もいない。天から見通すが如く断片情報から全体を掴む智謀を持った人物も居なかった。

 

かと言って周泰を連れてこなかったら作戦が筒抜けになりかねないし、田予は李師の脚のような存在であるが故に、抜けられると戦力が文字通り半減しかねない。

 

騎兵の探査を頻繁に行えるほど楽な戦線ではないことも、兵站線の切断を容易に行えない状況を作っている。

 

「それにしても、いつまで篭もるん?」

 

「兵站線が切れるまで、といきたいが……」

 

張遼の言葉に頭を掻きつつ答え、更に頭を回す。

その結果を口にしようとした瞬間、夏侯淵が後の先を打った。

 

「篭って既に一ヶ月だが、南部戦線の情報が虎牢関から伝わってこない。これにより、適切な時機を見計らって打って出ることが不可能になった。それに北部戦線においてもどうやら……兵站線の切断においては控えめに言っても、芳しからざる状況だ。打って出るのは近日中と考えていいだろう」

 

言葉への変換を行っていた頭の中身を文にされ、李師は肩をすくめながら帽子を振る。

何か困った時や、あまりよろしくない状態の時によく見られる光景だった。

 

「報告!」

 

「敵の軍が退いた、ということかい?」

 

「はっ。華雄将軍が出撃するか否かの判断をと」

 

どうにもわざとらしい。華雄は強いが、それは攻勢だけの話なのである。

それを読み取れる人間が、そろそろ出てきてもおかしくはない。

 

「張将軍、敵の背後を突いて適当に荒らしてきてくれ。向こうは華雄の突撃には慣れてきたらしいからね。少し味を変えてみよう」

 

「おっしゃ、任しとき!」

 

これぞ吾が本懐とばかりの身の軽さで望楼から降り、精強な張遼軍の中でも精鋭といえる三千の騎兵が城門から出ていく。

 

紺碧の張旗と、馬の旗。

 

二旗の牙門が前進するごとに敵が崩れ、華雄隊の踏み潰し、噛み砕かんばかりの攻勢とは違った理性的な攻撃の波が袁紹軍の金色と劉表軍の水色とを朱に染めた。

 

敵が体勢を立て直そうとした辺りで守勢に転じ、横からの伏兵を撃退して危なげなく帰還した張遼の攻守に安定した能力は、人材不足の公孫瓚軍にとって垂涎の的だと言える。

 

「ああ言う将が二人居れば、私も相当怠けていられるんだけどなぁ」

 

「後方の城が落ちていく様子ばかり聴くと頼りなさげだが、中々どうして董卓軍にも名将が居るものだな」

 

単純に董卓軍は守りに弱いというのが基本的な評価であるが、どうやらその認識も張遼に関しては是正すべきだという夏侯淵のからかい気味の評価に対して頷きを返し、相変わらず姿勢の悪い李師は敵軍の動向を見下ろした。

 

「申し上げます!」

 

出撃した張遼隊の再編が終わり、自身もほのかに肩あたりを上気させながら望楼に戻ってくる。

 

被害が八十人に満たないこと、敵の伏兵があり、華雄であればまず引っかかっていたであろうことを報告した後に『何故わかったのか』と問い詰める張遼に、『動きが怪しい。如何にもくさい』と李師が答えたあたりで、伝令が再び急を告げた。

 

「どうした?」

 

「敵将が一騎打ちを求めております」

 

「返答を保留して出撃した張遼隊と関の外壁の防衛部隊を再編急がせ、矢と石を補充し迎撃体勢を整えさせてくれ」

 

軍事的ロマンチズムに全く拘泥しない彼らしい、軍指揮官としての命令に脇を固めていた両者が肩をすくめて首を振る。

武将・武人として普通の神経をしていれば、敵を騙くらかすより前に一騎打ちという行為に何かを見出すはずだが、そうではないらしい。

 

「精妙巧緻な策も失敗した。このままでは落ちない。だから一騎打ちで将を削り、副次的効果として士気を落とす。策としては定石ですが、どうやら相手の意地と性格に噛み合っていないようだ」

 

「せやな。けどまあ、相手がアレやしなぁ……」

 

ただ望楼でダラダラしているのではなく、彼は最も攻勢が強大だった最初の三週間、一度も部屋に帰らず、矢が飛び交う前線で陣頭指揮を取り続けた。

その防衛戦闘における戦力集中の見事さと、一点集中射撃と斉射三連巧みに使い分け、それと華雄隊の追撃を連動させることで、敵もかなりの犠牲を被って撤退している。

 

彼らの知り得ることではないが、三週間の攻勢で反董卓連合軍は一万二千人の犠牲を出していた。

対して防衛側の犠牲は二百人に満たないという辺りに、勤勉さを顕にした彼の指揮の見事さが伺える。

 

その後の彼はと言えば、夏侯淵に防衛の総指揮を任せた。

そして二日間ぶっ通しで寝て、復帰したのである。

 

実際のところ犠牲は増え続け、馬騰を加えて十四万、涼州連合を加えて十六万になるはずだった反董卓連合軍は十二万五千にまでその生者の数を減らしていた。

 

彼の計算による戦力差は、誤差程度とはいえ実際よりも過分だったのである。

汜水関にいる者達は知らないが、馬騰の援軍として進発した涼州連合軍二万は曹操率いる五千の兵との戦いで李師のお株を奪う各個撃破で粉砕され、強制解散されるという憂き目に合わされていた。

 

ここにいる一万は、涼州連合を抜いた馬氏の主力である。

 

「幽州に帰ったら正当な休暇を要求することにしようかな」

 

「ああ、死ぬほど寝たらええよ。洛陽でも酒を浴びるほど呑ませたる」

 

「後のことは寧ろ、勝ってから話すべきだな」

 

二ヶ月間は絶対働かない。勤勉さを使い果たした男の決意を他所に、汜水関の防衛体制は田予の見事な管理・伝達によって整った。

 

あとは、一騎打ちの人選である。

 

「是非私を」

 

「防衛戦闘よりも華々しい一騎打ちをこそ、それこそ我が本懐というものです」

 

「……恋が一番強い。だから、恋」

 

「はい!」

 

「大槌を蟻を潰すのに使う必要はないでしょう。ここは私が行ってきますよ」

 

「おい魏越。お前は調子に乗り過ぎんだろうが。ここは冷静な俺がだな……」

 

選ばれた一騎打ち候補六人を並べつつ、李師は軽く後ろ頭を掻いた。

華雄、趙雲、呂布、典韋、魏越、成廉。いずれも勇猛な武人であり、前者三人は指揮官として、後ろ三人は単騎の戦力として有用な人材である。

 

指揮官の三人は顔を見合わせながら、困り顔で笑語した。

 

誰を選んでも角が立つ。

 

「全員でかかって捕らえて来いというのは駄目かな?」

 

結果、そういうたぐいのものに無関心極まりない男から、最早一騎打ちですらない男の提案がなされた。

 

「ご命令とあらば」

 

「それはちと伊達とは言えぬかと」

 

「恋はいい」

 

「それは、ちょっと……」

 

「つまらん」

 

「同意」

 

右から順に発言させていった結果、『一騎打ちに来た奴を袋叩き作戦』は二対四で却下される。

正式名は『六旗囲将作戦』だが、そんなことはどうでもよかった。

 

「ではくじを引いて決めよう。負けそうになったら逃げる。いいね?」

 

六者六様の同意と宣誓がなされ、右から順にくじを引く。

 

当たりとなる緑色のくじを引いたのは、呂布だった。

 

「恋、危険なことをやってはダメだぞ?」

 

「……ん」

 

「危なくなったらすぐ逃げて、勝てそうになっても欲をかかない。いいな?」

 

「ん」

 

一騎打ち。何故己の制御下に置けない事象に愛娘を突っ込ませねばならないのか。

そんなボヤキは、張遼のツッコミで瞬く間に破壊される。

 

「戦を八割方制御できとる自分がおかしいねん」

 

「……負けないかな?」

 

「一騎打ちで隊長がやられるとすれば、やった側はおそらく地上に存在できるかどうかすら怪しい何かだと思いますがね。

そんな生物としても爪先立ちしているような奴が、敵にいるとも思えませんが」

 

成廉の身内誇り三割、皮肉七割の言葉に頷き、李師は漸く平静を取り戻した。

城壁に敵が登ってきた時も冷静沈着さを崩さずに『予想通りだね。射撃交差地点に誘導するのははじめてだったが、案外うまくいくものだ』と言って二千人にのぼる敵の屍体を量産した男がここまで狼狽えるのは、ある意味見ものだとすら言える。

 

普通、城塞指揮官が狼狽したら部下は不信と軽蔑を抱くものだが、今回ばかりは『ああ、この男も一応人間なのか』という安心めいたものが漂っていた。

それほどまでに、この男はその冷静さを損なうことがなかったのである。

 

「……成廉、魏越」

 

「なんです?」

 

「ちょっと城門前で待機していてくれ」

 

最早何を言っても無駄だと観念し、相棒に肩をすくめて見せたあと、城門前まで降りていく。

彼等としては、敬意を抱く隊長の戦いぶりを見ることができないことだけが不満だった。



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因縁

「……関羽」

 

「ああ」

 

旧知の仲である両者は、汜水関と反董卓連合軍の陣を挟んで向かい合っていた。

彼女の強さは、関羽が一番知っている。そう言えるほどに彼女の暴威を見てきたし、数回ではあるが濃密な手合わせをしたことがあった。

 

なればこそ、関羽は一息ついて無駄な力を抜く。

 

「来い!」

 

「……ん」

 

一日千里を行くと謳われる名馬赤兎が地を蹴り、主の後ろに跨がっているおもりがないことを喜ぶように距離を詰めた。

関羽もまた、騎乗している。彼女たち義勇軍のパトロンは馬商人の張世平。馬は大量に融資してもらったし、彼女自身馬術にはそこそこの自信があった。

 

赤兎馬相手に徒歩でやるよりは、騎乗した方が幾分かマシだと判断したのである。

 

「―――ッ!」

 

戟の柄が、霞んだ。

 

そうとしか言い表せないほどの迅速さで、方天画戟の矛先が関羽の心臓目掛けて突き出される。

辛うじて反応できたのは、さすがと言ったところだろうか。

 

しかし、弾けただけ。常の関羽がするように、柄で受けることなど覚束ない。

細い鋒を柄で受けること自体絶技と言っていいが、それを軽々こなせるのが関羽であり、その関羽の防御をただの突きで崩してしまうのが呂布である。

保護者の心配を嬉しく思いながらも、呂布はどこかで思っていた。

 

この場にいる人間の全てに、一対一ならば自分は勝てると。

 

心配はしてほしい。何故なら構って欲しいから。

だが、安心もさせたい。

 

「遅い」

 

充分超反応と断言できる突きの弾きをそう評し、呂布は弾かれた勢いを利用して頭上で一回、片手で持った方天画戟を廻す。

そして、その勢いのまま関羽の右半身に叩きつけた。

 

(防御に徹しても、これか……!)

 

誇り云々、言っている場合ではない。後、何合耐えられるか。

 

そう思った関羽は、一先ず己の右半身に迫る脅威を両手で受ける。

 

遠心力を利用しているとは言え、片手で振るわれた武器を、両手で受けなければならない辺りに二人の膂力の違いが見て取れた。

 

しかも呂布は攻めにすべてを注いでいるわけではない。保護者の訓示を守り、三割を周囲の警戒に、五割を防御に、二割を攻撃に回している。

つまるところ、二割攻撃と十割防御の戦いでなお呂布は関羽を圧していた。

 

(無傷で帰らないと、だめ……)

 

息をつかせずに攻め続けてもいいが、最も堅実なのが八割防御二割攻撃である。

傷を負うと物凄く心配されるので、呂布は拾われて一ヶ月後に李師に呼ばれ、走った時に転んでから今までと言うもの、無傷無病で通していた。

料理の練習の時に傷を負うのではと思われるかもしれないが、彼女はそもそも武器になりうるものならばたいてい使いこなすことができる。

 

完璧に凶器な包丁で、自らを傷つけることなどありえなかった。

 

そして、初陣の時に血塗れで帰った時にも物凄く心配されたので、彼女は返り血にも気を使っている。

隊の者は『隊長、血塗れですね』と言われても『全部返り血』といえば納得してくれるし、そもそも『でしょうね』という雰囲気が強い。

 

だが、彼女の保護者の過保護っぷりは異常だった。

具体的に言えば、彼は呂布を無双の武人ではなく、ただの愛娘としか見ていないのである。

 

これは傍から見れば滑稽極まりなく、では何故戦に参加させるのかと訊かれればたちまち瓦解するように見える矛盾したものだが、彼からすれば矛盾していない。

愛娘は愛娘。その愛娘が自由意志によって選択した進路を、親が無理矢理変えるのは、どうか。

 

己もそれをされたが故に、常に忸怩たる後悔と無念が行動にまとわりついているではないか。

 

「……終わり」

 

五合。

つまり、方天画戟と青龍偃月刀がぶつかり合うこと五回目で、呂布は完璧に関羽の防御態勢を崩した。

 

上から見ている汜水関の諸将や兵卒たちは一人を除いて皆圧倒的なまでの武に狂喜し、向かい側にある反董卓連合軍の陣は息を呑む。

籠城戦も攻城戦も、一般兵の精神を著しく損耗させていた。

 

前者は総大将代行直々の陣頭指揮によって最大の危機を耐え切ったことで彼に対する信頼を厚くしていたものの、押し寄せてくる敵を討つ作業のような動作に単純に疲労。

 

後者は『自分が行かなくとも勝てる』という怠惰な他人任せの精神と、鉄壁に肉弾をぶつけるような攻めに辟易していたのである。

後者も前者と同じく全体が作業の如く繰り返すだけだが、死亡率が違い過ぎた。

 

対連合同盟軍の全軍は前はほぼ四万。現在は陽人での野戦と攻城戦の死傷者として千人減り、損傷率は2.5パーセント。

反董卓連合軍の全軍は野戦で打ち破られた諸侯を合わせればほぼ二十一万。曹操にやられた涼州連合、李師にやられた酸棗諸侯で約六万人が消え、攻城戦によって一万五千人ほどが消え、損傷率は35パーセント。

 

もう、少し馬鹿らしくなるほどの損耗率の高さである。

とは言え、攻城戦で死んだのは全体の4パーセントなので兵たちからすれば苦戦しているが三割減ったとは思っていない。

合流前に叩き潰された者達が多過ぎたとは言え、それでも精神的には損耗していた。

 

故に、この一騎打ちというパフォーマンスによって将を討ち取ることによって、『吾らも戦果を挙げている。敵は無敵ではない』ということをアピールし、兵たちに軍事的ロマンチズムによる士気の高揚を与えようというのが、この一騎打ちの思惑なのである。

 

軍事的ロマンチズムとは程遠いところに己を設置し、殺人動作を機構化することで兵の意識的な損耗を軽減しようとした李師とは真反対の方式だが、これもこれで有用だった。

勝てればの話だが。

 

「愛沙ー!」

 

蛇矛が、振り下ろしてとどめを刺さんとする方天画戟の矛先を遅らせる。

馬の速さに任せて突撃し、ギリギリ勢いで滑り込んだ形になるその武者からすれば、片手で矛を盾として突き出すのが精一杯。

そして、呂布の片手とその小柄な武者の片手では出力が違った。

 

「にゃ!?」

 

関羽よりも、単純な膂力では上な己が止められないことに驚き、慌てて両手で支える。

結果的に、その刃は関羽に触れる直前で止まっていた。

 

「……張飛。何?」

 

「助太刀なのだ!」

 

成廉と魏越に出撃命令を下そうとしている李師を夏侯淵が『まあまあ。奉先嬢が貴官の命を順守することを信じてやったらどうだ』となだめすかして止めている間に、二対一の戦いは開始される。

苦しげな、或いは無念気な顔をしている関羽も、一対一で勝てないことは身に沁みていた。

 

今は一先ず、勝つことである。

 

「なら、お前も死ね」

 

相変わらずの片手で、呂布は方天画戟を低く構えた。

劉備の双璧とでも言うべき二騎の武者が距離をとって構えた瞬間、赤兎馬は飛躍する。

 

厳密に言えば間合いに入るか入らないかのところで跳び、騎兵となった二騎を乗り越えて後背をとった。

 

「ッ!」

 

馬に翼が生えているのではないか。

全軍の見物者の脳にそんな感想が過ぎり、消える。

彼等としては見えない翼が生えているかどうかわからない馬よりも、一騎打ちの勝敗にこそ拘りを見せた。

 

相変わらずの八割防御二割攻撃で、呂布は二人を圧し捲る。

攻撃などしようとも思えず、さしあたりそのようなことができる隙もない。

 

そんな絶望的な戦況を見ている、汜水関では。

 

「危なくなったら逃げろと言ったのに……」

 

「危なくないと、判断しているのだろう」

 

「そう言うけどね、夏侯妙才。君はあれを見てどう思う?」

 

あれを見て、どう思うか。

今のところ、夏侯淵には呂布が余裕であしらっているようにしか見えない。なにせまだ片手だし、彼女は傍から見てもそれとわかるほど律儀に防御主体の戦い方をしていた。

 

それに、一度も全力を出していない。両手を使っていないこともそうだが、片手のみを損耗させれば経戦能力に影響が出ることを本能で知っている動きである。

 

結論、大丈夫。夏侯淵にはわかりきっており、張遼にもわかりきっており、華雄にも、趙雲にもわかりきっていることだった。

 

そして、もう李師には何を言っても無駄だと判断した夏侯淵は、慎重に言葉を選ぶ。

 

「すっとんで逃げる」

 

「だろう?」

 

「勘違いするな。貴官の大事な大事な愛娘と相対したら、だ。あの二騎相手でも、防御に徹すれば立ち回れるさ」

 

二騎相手には勝てはしないがそうやすやすと負ける気はない。

己の能力に自信を持ち、自信に相応しいだけの研鑽を積んできた夏侯淵にすら、呂布の武威は敵わないと断じられるものだった。

 

「……ん?」

 

「どうした」

 

「いや、少しな」

 

姉の愛剣・七星餓狼と同一の金属を鍛えて造られた姉妹武器とも言える弓・餓狼爪を構え、夏侯淵は狙いをつけずに無造作に一矢を放つ。

 

「?」

 

「さて、援護に行ってくるとしよう。お望み通りに、な」

 

何を狙ったのかわからない李師が、傍らの趙雲に目を向けた。

『見えるとこまでが射程範囲』と謳われるほど精密に視える呂布とは違い、視力がそこまで良くない李師は、夏侯淵が何をやったのか全くわからない。

 

説明を求められる男から説明を求められた女は、面白そうな物を見る目を変化させることなくそれに答える。

 

「御息女を狙っている狙撃手が居ましたからな。その弓の弦を射て断ち切り、狙撃を阻害してくれたのですよ」

 

「……そんなことができるのか?」

 

「できているのですから仕方ありますまい」

 

全くご尤もな意見に黙らせられた李師をチラリと横目で見つつ、趙雲は心の中で呟いた。

 

(たぶん、御息女もやってのけるのでしょうが……)

 

言わぬが花、というものである。

 

そして、呂布。

 

彼女は本当に強かった。もう、災害か何かかと思うほどに強かった。

最初の頃は、連合軍の人材の層の厚さをひけらかすように次々に呂布にかかっては矛を交え、危うくなったら他の者が助けるというようなサイクルを作ることで何とか一対十くらいで圧し始める。

 

だが、いい加減めんどくさくなったのか、呂布は後先考えるのをやめた。この場で全員殺せばいいや、と言うある種の境地に達したのである。

 

次の七秒程で、呂布は心中で保護者に謝りながら攻撃に六割を傾けた。

結果として方悦が一撃で矛と兜ごと頭を叩き割られ、穆順が盾と胸鎧ごと貫かれ、武安国が防いだ戟の柄と鎧と己の腹、それに馬の首ごと横に真っ二つにされ絶命。

 

一気に崩壊したサイクルを孫策・黄蓋・文醜・顔良が参戦して何とか六分四分にまで持ち込めているが、このままでは完璧に押し切られることは明白だった。

 

更に巧妙なのは、呂布は前半は力一辺倒に攻めていたにも関わらず、三人を瞬殺したあたりから技巧を凝らしたフェイントを織り交ぜるようになったのである。

彼女は八割防御二割攻撃のいつもの命大事な無傷スタイルに戻っていたが、構えと意識の代用品として技巧を攻撃に全部振ってきたのだ。

 

(は、やっ!?)

 

顔良が突きに必死に対応したら、それはフェイント。

周りが必死に対応してくれるからかすり傷を大量に負うだけで済んでいるが、それも長く続けば血が足りなくなるであろう。

 

とある狙撃手がそれを見かねて手を出したのは、この時であった。

その狙撃手の名は、黄忠と言う。

 

弓の神・曲張に比肩すると謳われた彼女が弓の弦を引き絞り、一瞬足りとも静止しない呂布に何とか狙いをつけた時、目敏い夏侯淵がその弦を精密に射抜いた。

 

頭をぶち抜こうとすれば気づかれるからだし、元々直接的に言えば嫌がらせが、迂遠に言えば最善を尽くして布石を打つことが得意な夏侯淵である。失敗するはずもない。

 

当然黄忠は、矢の放たれた方向である汜水関を見た。

 

「こちらだ、弓手」

 

そのことも予想していた彼女は比較的さっさと逃げ去り、汜水関の門で暇していた成廉と魏越に門を開けてもらって出撃したのである。

 

「老巧の智慧も、老獪なる一手もよいだろう。だが、私が見逃す道理もないな」

 

「……何ですって?」

 

「老巧卓抜、歴戦の将たる老黄忠殿の一手を見抜かぬ道理は私にはないと言ったのだ」

 

それとも聴き取れぬほどお歳を召されたとは、かくも老いとは恐ろしいものだ、と。

 

何故か最初から喧嘩腰―――もとい、挑発している夏侯淵と黄忠。

両者の対峙は、因縁めいたものを感じさせていた。




呂布の防御よりのスタイルは、李師が生きてる限りは変わりません。一時的に転換することはありますが。


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作法

「……さて、動かすか」

 

こいつはまたいきなりどうしたのか。

趙雲と張遼の視線が交差し、李師の後頭部という一点で結ばれる。

 

今まで呂布の安定した戦いぶりにも関わらず、一々驚きと悲鳴を上げていた男とは思えない態度に、二人は少し驚いた。

 

「子龍、騎兵二千を率いて左回りに突撃、張将軍は同じく二千を率いて右回りに突撃。田国譲率いる緑甲兵はもう裏門から山肌を通じて配置してあるから、軽く燻るだけでいい」

 

「……最初から一騎打ちなどする気はなかったのですかな?」

 

「私は夢想家でも武人でもなく、兵を掌握し勝つことを義務付けられた将軍だ。例えどんな時も、非常の備えを怠らないのさ」

 

「なるほど、あの狼狽っぷりも演技やったんやな?」

 

「あれは素だ」

 

張遼の誤解を漫才めいたやりとりで解き、二部隊が裏門から間道を通って汜水関を出る。

一回きりの奇策であった。

 

敵は、突如現れた敵にまず驚く。その後、必ず『どう出たか』を調べるだろう。

これがわかっては、汜水関の戦略的意義がなくなることと等しい。

 

だが、もう隠す必要も無かった。

 

「華雄」

 

「はっ!」

 

愛用の武器である金剛爆斧を壁に立て掛け、華雄は目を輝かせて無二の主を仰ぐ。

これまでの戦いで、彼女はやはり己を最も使いこなせるのが李師という恩人だということが身に沁みていた。

 

その忠誠心は極めて高く、死ねといえば何の疑念も抱かず死ぬ。

それほどの信頼を、彼女は彼に託していた。

 

「趙雲・張遼の両隊が姿を見せるまで、存分に暴れてきてくれ。ただし、敵陣に入ってはならない。あくまでも、突出した敵部隊を叩くんだ」

 

「安んじてお任せあれ」

 

夏侯淵が外に出ている以上、曹操兵は使えない。だがむしろ、それが良い。

卓越した指揮官である彼女を抜きにして、攻勢をかけられるなど敵は考えていないだろう。

 

何せ、唯一優勢な指揮官の質の差を自ら擲つことになるのだから。

 

「それにしても、敵の軍師も案外と甘いな」

 

「と、言いますと?」

 

「私ならばまずやらないが、負けさせて陣まで引き付けてそこを一点集中射撃で仕留めるという手がある。敵にも黄忠という弓の名手が居るのだから、その一点集中射撃に混ぜる形で狙撃してもらえば楽に勝てるだろうに」

 

割りと非人道的な意見に、華雄は僅かに顔を曇らせた。

別に嫌悪感があるわけではないが、嫌悪感剥き出しの顔で己の案を話す李師を見て愉快になれるほど、彼女の人格は屈折していないのである。

 

「……まあ、やらないか。敵に復仇の念を抱かせるような策は、上策とは言えない。やはりこうして、やられたからやり返すというのが、一番反感と疑念を買わないやり方ということか」

 

「敵が卑怯にも複数でかかってきた以上、やり返すのが人として当然の行為です。誰も咎めはしますまい」

 

「華雄。軍師という人種はこういう時、どんな手を使われようが卑怯とは思わないし、思ってはならないんだ。君は軍師にはならないだろうが、『卑怯』を『見事』と言ってやれる指揮官になれる資質がある」

 

相変わらず膝を立て、そこに腕をおいて顎枕にしているいつものポーズ。

完全に感情の平静を取り戻した、智者の姿がそこにはあった。

 

「その策を踏み越えてなお己が勝てたら、『卑怯』とは思わない。『見事』と思うだろう。負けそうになる手を打たれたからこそ『卑怯』と言われる。つまるところ『卑怯』と言うのは褒め言葉と表裏一体なんだ」

 

「なるほど……」

 

「私が兵を伏せていたのも、傍から見れば卑怯で悪辣な策さ。動いたのは連合軍よりも速いし、より卑怯で悪辣なのかもしれないな」

 

軽く自嘲気味な笑いを漏らし、李師は正座して聴く忠犬の皮を被った虎の如き将を見て、更に話す。

 

「一騎打ちと言うのは、私としては好ましいものではない。策と合理とが支配する戦場に夢想的要素を持ち込まれるのは迷惑だ。だが、将を殺していく方法としてはこれほど効率的なものもないのも、また確かなんだ」

 

まだ成長の余地がある、余白の大きい人間にものを教えるほど、彼の熱心さとやる気を呼び起こすこともない。

己では埋められない余白というものが、人にはある。その自己の余白を彩る何物かに己の考えがなれば、それはとても嬉しいことだった。

 

「兵の壁を打ち破らずして、頭を斬れる、と言うことですか」

 

「ああ。それに―――」

 

人死が少なくて済む。

究極の偽善と、彼の嫌う軍事的ロマンチズムがそこにはあった。

 

人を殺したくないのならば辞めればいい。公孫瓚は拒まないし、誰も彼を引き止めはしないだろう。

だが、辞めない。それはもう殺してしまったからということもあるが、今更大量殺戮の罪人である己が余生を安楽に過ごしていいのかという罪科の意識が、彼の心に巣食っていたからに他ならない。

 

十数万人を、殺してきた。その怨みがいずれ己を囚え、殺すだろう。

そして自分は殺されたどの人間よりも惨めな死に方をしてしかるべきなのだ。

 

その為に、安楽を求めてはならない。強迫観念に近いが、彼が辞めたいと言いながら決定的な行動を起こせない理由がそこにはある。

 

自分が死んだら、その殺された十数万人の遺族は手を上げて喜ぶだろう。愛しき人を無惨無慈悲に殺した仇が、遂に斃れたのだから。

 

兵になってほしくなかった。指揮官になど、なってほしくなかった。

他人にそれを強制しておきながら、愛娘に強制することを嫌がる。

 

途轍もないエゴイストであると、後世の言葉が今あったならば言われるに違いない。

己は殺した。兵にも、殺させた。しかし、愛娘には死んで欲しくないし殺して欲しくない。平和に、安楽に生きて欲しい。

 

暴虐に振る舞い、そこそこのところで独り立ちさせればよかったのだろうか。何故こんな大量殺戮者を護りたいなどと、愛すべき被保護者は言ったのか。

 

「李師様?」

 

「ああ、すまない。とにかく……頼む」

 

また、殺せと言った。

どう評されようが、どう讃えられようが、どう貶されようが。

己の本質は、大量殺戮の立案者と実行者と教唆犯の三つを濃縮させた醜悪なものに過ぎないのだろう。

 

「……華雄」

 

「はい」

 

「恋は、優し過ぎるのかな」

 

だから、こんな保護者でも付いてきてくれるのだろうか。

そんな忸怩たる念と、常に付き纏う自己嫌悪とを一蹴するが如く、華雄は言った。

 

「ええ。親に似たのでしょう」

 

「私に?」

 

「これは私の個人的な意見ですが、貴方様ほど悩んでおられる将も珍しいと思います」

 

「それは、君の主観だな」

 

「はい。底辺で足掻いていた私を、救っていただいた。ただそのことのみで、私は貴方様ほど優しい人間をこれから先も知り得ないと思います」

 

一礼して去っていく華雄を半ば呆然と見送り、李師は目の前の光景を直視する。

 

これから、戦いが始まる。それは己が機を選んだことによって始まるものであり、己が動かねば発生し得ない戦いである。

それはすなわち、敵も味方もこれから流れる全ての血は己が流させたという、ことだった。

 

「趙雲・張遼両隊が迂回運動を終える時刻に近づきつつあります」

 

「華雄隊を出し、一騎打ちに出ていた二人を収容。緑甲隊には合図を送らず、華雄隊のみで攻撃させる」

 

「はっ」

 

伝令がすぐさま階下へ駆け降り、華雄の元へと言上する。

華雄はすぐさま了承した。

軋みを上げながら開く門から三千の騎兵が出てくるまで、そう長い時間はかからない。

 

一方、一騎打ちに出ていた二人はと言えば。

 

「元気なことだ」

 

「止まりなさい……!」

 

「殺される為に止まるなど、御免被りたいものだな」

 

弦を切られた弓を捨て、薙刀を取り出した黄忠の水車の如き怒涛の連撃を左右の双剣で防ぎつつ、夏侯淵はチラリと背後に視線をやる。

呂布はあれより祖茂・喩渉・雷薄・梁興を討ち取りながらも、その身に一つたりとも敵の爪牙の痕跡を残していない。

 

そしてまた、僅かな疲れすら見せていなかった。

 

(私の戦況はまあ良いとして、よくもまああの豪傑連中を敵にして圧すことができるものだな)

 

上から目線とも取られかねないが、賞賛に値する武勇である。

尤も彼女が信奉するのは李師と同じ合理であって『呂布が居れば勝てる』などという夢想ではない。

 

そこらへんに、両者の気の合う原因があった。相似ではないものの、類似ではある。それが夏侯淵と李師だった。

 

「む?」

 

背後から、軋む音がする。

いや、何かが軋む自体のはおかしくはない。だが、彼女の背後にあるのは汜水関であり、それが軋むとすれば―――

 

「奉先」

 

「ん」

 

呂布は逃げ出した。

そう形容されてもおかしくないほどの速さで、赤兎馬が一騎打ちの相手たる五人から離れる。

夏侯淵もまたその場から離れるべく黄忠を軽く蹴飛ばして騎乗し、脇へと逸れた。

 

華雄率いる三千の騎兵が出てきたのはそれとタッチの差しかなく、それの穏やかな関外進出はすぐさま苛烈で獰猛な突撃へと転化された。

 

「連合軍から有り難くも教えていただいた、一騎打ちの作法に応えてやるとしよう」

 

割りと染まってきている証拠に、彼女はらしからぬ皮肉を以って部下を鼓舞する。

己一人が突っ込んでも意味はない。部下と共に駆け、その破壊力を一点にかけて圧迫の次に突破。

 

それが、彼女が戦場で学んだ突撃の呼吸というものだった。

 

「一人につき十人でかかって来ていただいた敵には、こちらも丁重に、三百人で以って返してやるのが礼儀だろう?」

 

なぁ、とでも言うようなからかいと、視線の先にある部下たちに向けられていない別な侮蔑が籠もった視線が全軍を睨めつけた後、華雄は高らかに金剛爆斧を掲げ、振り下ろす。

 

「突撃だ!一人残らず踏み潰せ!」

 

華雄の号令は、比喩でも何でもなくその場に漂う空気を切り裂き、己の為のものとした。

 

長槍を手に、剣を腰に。

 

黒い鎧に身を固めた三千の騎兵が、一騎打ちに応ずるべく突撃をかける。

無論、連合軍もただ見ていたわけではない。迎撃部隊としてすぐさま再編できた五千の兵を差し向けるが、それは瞬く間に潰乱した。

 

「こちらが丁重に一騎打ちに応えてやったというのに、誰も応じないのはどういうことだ!」

 

雷鳴の如き怒声が、指揮を執るために華雄隊に背を向けた将たちの背に突き刺さる。

何の不純物もない怒りが、華雄の力を大幅に増していた。

 

だが、怒りで力が増したからといって攻勢限界点がなくなるわけではない。

最初は一万だろうが五万だろうが破砕してやると意気込んでいた華雄隊も五刻の後にはその勢いを失い、圧され始める。

 

その敗退が演技ではないだけに、連合軍の先鋒は物の見事に騙された。

 

華雄といえば、李師の腹心であり随一の猛将である。これを討てば、勲功第一とはいかずとも、その功が大となることは間違いがない。

 

功を焦った一万ほどが突出したあたりで、満を持して趙雲・張遼の両隊がその退路を速やかに切断。

伏兵に驚き、過去のトラウマを穿り返された連合軍が退きはじめたところに、孤立した一万は更に伏せられていた緑甲兵に撃ち竦められ、己の醜態にキレた華雄隊の逆撃を喰らい、趙雲・張遼の突撃を食らって壊滅する。

 

一騎打ちの戦果は、十に満たぬ将と一万に満たぬ兵卒。

これは時間がかかる訳だと笑い合い、対連合同盟軍は悠々と汜水関に引き揚げた。

 



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前夜

李師が呂布の帰還を『危ないことをしちゃいけないと、いつも言っているだろう』という到底武将に言うべきことではない言葉で迎え、軍の再編を終えた三刻後。

 

前哨戦とも言うべき陽人の戦い以来の大規模な野戦を終えた李師等対連合同盟軍は、すっかり会議場になった上級指揮官食堂で集まっていた。

 

「それにしても、些か軽率だったのではないか?」

 

黄忠をからかっていた時の変貌ぶりを『李師一派という朱に交わり、赤くなってしまったのだ』という一言で切って捨て、夏侯淵は常の薄氷を心に貼り付けたような怜悧な相貌を僅かにほころばせる。

微笑というのか、冷笑というのか。口の端を少し上げたその笑みは、内実がどうあれ美しいのは確かだった。

 

「軽率?」

 

「裏道使ってもうたことや。あれがわからんほど連合軍も馬鹿の集まりやないやろうし……そりゃあ今んとこ戦術的には甘いけど、これ見逃す程やないやろ。見通しは大丈夫なんか?」

 

夏侯淵から貰ったような形になっている硝子でできた舶来の杯に酒を満たしながら、李師はにこやかな体を崩さずに少し笑う。

本日最大の功労者たる華雄は今、部下たちに酒を届けに行っているからここには居ない。

 

その時に切り出すあたり、張遼も中々に強かだった。

 

「また何かの策があるのですかな?」

 

面白そうな雰囲気を隠さない趙雲の方をちらりと見て、李師は好き勝手に飲み食いする面々に視線を回す。

 

呂布、趙雲、田予、張遼、夏侯淵、典韋。

いずれも武勇か、或いは指揮能力において一流の力を持つ勇者たち。そのほとんど全員から『あっと驚く奇策』の内実を明かすように求める視線を受け、李師は肩をすくめて腕を振った。

 

「悪いが、そんなものはない」

 

それは、帰ってきた華雄が一瞬『自分はなにかやらかしたのか』と怯むほどに重く、失望めいた空気が混ざっている。

ほとんど全員が思考を李師にあずけて奇策をこそ望んでいたことが、この一事にも現れていた。

 

「やはり、か」

 

「わかっていたのかい?」

 

「ああ。策は浮かばないでもないが、そんなことをするくらいならいくらでも代案として危険のないものが多々ある」

 

思考を李師にあずけていない数少ない人材である夏侯淵がある意味納得といったような感じで頷き、己が行く前と今との空気の変貌にキョロキョロしている華雄に手で示して着席を促す。

華雄は驚きと不安からなる束縛から解放されたことを感謝するように夏侯淵に頭を下げ、座った。

 

虫食いどころか前半部分が抜けてしまった話の内容は当然の如く、彼女にはわからない。

 

「……まあ、あと四日で決着をつける。その短さなら、調べられたとしても立案・実用に漕ぎ着けることはできないだろう」

 

何を軽く笑いながら、李師は己が一見したところ投機的な冒険に打って出た理由を明かす。

あと四日で決着をつけるという意味がわからぬほど、ここに居る面々は無能者ではなかった。

 

「あと四日で、とは?」

 

誰もが暗黙のうちにわかっていることを言霊として表すべく、夏侯淵が冷静に発言を促す。

それを求められることは、当然彼にもわかっていた。

 

そしてこれを言うことで、更に死者が増えることもまた、わかっていた。

 

「明日からは関外で野戦だ。敵が動いてくれたことにより、士気が下がっている。ここまで読んでの策を用意していたら私の敗けだが、幸いにもそんなことはないだろう」

 

「被った犠牲が多大過ぎる、と?」

 

「そう。罠ならもう少しうまくやるし、士気を下げるような愚は冒さないさ。古来、士気が低い軍隊が勝った試しがないことを向こうも知っているはずだ」

 

これはほとんど完全に、事実という的の中央部を射抜いている。

この一騎打ちにかこつけて袋叩きにし、それに激発した華雄辺りを釣って殺すという策は郭図発案のものであり、それだけのものだった。

 

つまり、袋叩きにして勝った後に汜水関が落ちるわけでもない。死ぬのは騎兵隊長である華雄であって防衛指揮官とその配下は健在なのである。

ただ、敵に勝てるという一時で終わっている愚策であると極限しても良い。

 

劉表の客将とでも言うべき諸葛亮や鳳統、田豊と周瑜はこの発案に『勝ったとしても得るものはなく、連鎖してさらなる戦果を求めることもできない近視眼的な策。実行すべきではないし、それを却って逆手に取られる公算が大』だと反論したが、前者二人はこれに更にこう付け加えた。

 

向こうには呂布が居る。自分たちにその強さはわからないが、ともかく強い。連合軍の将が一騎打ちを挑んだならば当然李師が応じさせるのは彼女だろうし、寄って集っても彼女に勝てなければ士気の低下に拍車がかかることになる。

 

この発言は李師の『愛娘を戦場に出したくない。だけど自由意志は尊重されるべきだし、親はそれに意見を押し付けてはならない』という反儒教めいた複雑な内面を完全に理解してはいないものだったとはいえ、結果的には正しかった。現にこうして負け、士気は下がっている。

 

こんな馬鹿な策で将を失いたくない諸葛亮としては、一騎打ちに拘泥する理由もない。関羽張飛の二人を早々に投入したのはあくまでもポーズであり、味方の内で『侮り難し』との印象を植え付けることに目的を転換した。

結果として呂布を何とか防ぎ続けた関羽張飛の名は高まったものの、それは名誉ある高まり方とは言えない。

 

呂布が圧倒的な中、何とか喰らいついた、と言うようなものなのだから。

 

ともかく、連合軍はその意志が統一されていないのである。

 

「何故でしょうか?」

 

「うん?」

 

「いえ、吾らも寄せ集め。向こうも寄せ集め。どちらも似たようなものではありませんか」

 

華雄の至極まっとうな疑問に、李師はひとつ頷いた。

 

「何故だと思う?」

 

「……こちらは三勢力で、向こうは大小二十にも及ぶ諸侯の連合だからでしょうか」

 

「だが、袁紹が主導権を握っている。細かく分かれているからこそ、その力は一層強大なものなのではないかな?」

 

董卓も公孫瓚も曹操も、全員に共通して言えることはただ一つ。一州のみしか統治下においていない勢力だということである。

 

つまり、反董卓連合軍はその名の通り、二州と半分を支配した袁紹を頂点とし、その下に大小二十諸侯が並んだ連合制。

対連合同盟軍もこれまた名の通り、対等な三勢力が横並びに三つ並び、発言権も軍権も主導権もそれに合わせて三分割された形になっていた。

 

どう考えても、前者の方が意思統一が容易に見える。

実情と相反しているところが、この世の面白いところだが。

 

「……そう言えば、そうですね」

 

「まあ、簡単に言うと主導権を握っている袁紹軍には戦略を組み立てられる人間が多いのさ。だから戦場に立ってから、つまり意見をまとめ切れなくなってからの動きに統一性がなく、戦略的・戦術的な一貫性に欠ける。更には外部からも戦略を見れる人間が入ってきたから、もう収集がつかない」

 

郭図・沮授・田豊・許攸・逢紀・荀諶。ざっと並べただけでもこれほどの数の戦略家が袁紹軍には居り、外部から諸葛亮・鳳統・周瑜が入ってきている。

誰を信任して作戦を一任するかでその戦略の色も変わってくるのだが、袁紹はどうやら気分屋らしい。

 

最初の苛烈な攻めは現場に居る田豊、続くだらだらとした攻囲戦は冀州に居る沮授、最後の一騎打ちは郭図というように、三回も方針がブレていた。

田豊流に徹されても、それが退けられて自軍の被害を嫌ってからの沮授流に徹されても、野戦に引き釣り込む郭図流に徹されても、李師の苦戦は免れない。何故なら敵は数が多い。戦略思想を一つ、徹底して取り上げられただけでも、それを打破するには何万倍もの努力が要る。

 

「一流の人材は田豊・沮授だけと少ないが、だからこそ他の連中がこぞってこの二人の足を引っ張る。引っ張って引き摺り倒しても、その先で仲良く引き摺り倒した奴等での殴り合いが始まる。袁紹軍の中身はそんなところだろうな」

 

「流石は妙才。私の代わりに戦略を立ててみないかい?」

 

「もし万が一、私の気がおかしくなって立てることになったとしても、貴官のものを打ち崩して再び立てる愚は犯さないと約束しよう」

 

いつの間にやら字呼びの仲にまで進展している二人の戦略家が軽口を叩き合い、ニヤリと笑った。

この場合、戦略・戦術というより内政と謀略に傾いた能力を持つ賈駆が現場に居ないのが却って良かったのだろう。そのお陰で初戦での戦闘の戦略・戦術構築を李師が一手に引き受けることができ、そこで董卓軍の信任を得ることができたのだから。

 

夏侯淵も自我よりも理性を優先する質であるが故に、李師の戦略を優先して誰よりも先に賛意を示した。

要は、勝つ自信を抱くに足る戦略的余裕があるからこそ袁紹軍は内輪揉めに精を出すことができ、そんなものはない董卓軍は一つに固まらざるを得なかったのであろう。

 

あとは、夏侯淵が姉の行動の尻拭いに終始していたが故に誰かを立てることが巧く、本質的には梟雄的猛々しさではなく、ある物の長所を伸ばし、短所を消すことのできる―――三代目の君主あたりならば歴史上でもこれほど最適な人物は居ないほどの能力を持っていたことも、大きい。

本人は能力に比した野心に相応しく、改革的な、或いは創造的な能力を保持していることこそを望んでいたが、彼女は予め決められた案の長所を伸ばして短所を消すことで貢献し、至って献身的に李師の案を支えた。

というより、李師の案を聴いた時に己の腹案を私心なく捨て去り、それを改良すべく思考をシフトさせることに長けている。

 

無論それは己と李師の案とが同水準のものであるから、という前提条件が付いてしかるべきだった。

 

彼女が梟雄的な能力を持っていたら、そもそもこうなることを受け入れないであろう。

本人はもちろん、気づいていない。

 

対して李師は、なんとなくそれを気づいてきていた。

同格の者に対して失礼ではあるが、軍師という曖昧な役職ではなく寧ろ参謀長として、この上なく有能だと思うのである。

 

「ともあれ、会議は終了。妙才はこれを見といてくれ。なくさないように頼むよ」

 

「謹んで承ろう」

 

最後に周りの面々を見回し、李師は頭を掻きもせずにいつもの姿勢の悪い座り方のまま、常と変わらぬ様子を見せつけながら、彼は言った。

「もちろん、勝つ為の算段はしてある。だからいつも通り、無理せず気楽にやってくれ」



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汜水関前哨戦・前編

一騎打ちで連合軍の将尽くが、少なくとも今は歴史上における呂布の引き立て役に過ぎないということを悟ったものはどれほどいるのたろうか。

少なくとも諸葛亮と鳳統と田豊、周瑜は悟ったであろう。

 

だが、そんなことを悠長に悟る前に彼女等にはやらねばならないことがあった。

 

配下の兵たちの動揺を収斂することである。

 

幸いにして。敵はこちらの数の利を誰よりもよく知っている名将。そう軽々と出てきはしないだろうし、向こうからすれば汜水関に籠もっていればまず安心なのだから出てくる理由がない。

 

連合軍は一万の兵を喪ったその日の夜の内に十里ほど陣を退かせ、軍の再編と動揺の収斂にあたっていた。

 

だが、その中にはやはり『もしかしたら華雄あたりが突っ込んでくるのではないか』と予想を立てるものも居る。

李師としては彼女を戦略予備、或いは決戦兵力と呼ばれる役割を配しているのだが、敵からすれば突撃してくるのはいつも華雄。

 

先鋒となって突撃してくるのは華雄だと、そう警戒する土台が築かれてしまうのも無理はなかった。

 

まあともあれ、華雄の兵力は大雑把に見て四千から五千くらいだと見積もった連合軍は、それなりの備えをした。実数は三千だが、突破力に関しては四千から五千と見立てられても少ないくらいなので、結果的には過小に見積もるよりも幾分か、マシになる。

 

 

しかし実際に来襲したのは、三万に及ぶ大軍であった。

西暦186年11月のことである。

 

 

「敵は鶴翼の陣形を取りました」

 

「では、こちらも鶴翼だ」

 

進出してきたが、自分から攻め立てる気はない李師がそう田予に指示すると、すぐさま左右が開いて翼となった。

 

中央部は李瓔、左翼は張遼。右翼は夏侯淵。兵力的には五分の一ほどの勢力が堂々と布陣して、進出しながらも待ち構えている光景を見て、田豊は頭を悩ませる。

 

これではこちらに勝ち目がある。今まで勝ち目が無かったものを、汜水関に籠もっていれば勝てるものを捨てて進出するだけの理由が、敵にはあるのか。

それが、田豊にはわからなかった。

 

「何を悩んでおられるの、元晧さん」

 

「何故敵は野戦に打って出たのかと言うことを、考えておりました」

 

「そんなことはどうでもいいでしょう?

穴蔵にこもっていた熊が出てきたのですから、これ幸いと討ち果たすべきですわ!」

 

それはそうだろう。しかし、何かが臭う。

野戦で以って少数で大軍を破るという戦術家にありがちな美意識と夢想に、敵が囚われたとも思えない。何せ、これまでの行動からしてそんなものとは対極にあるということが、彼女にはわかっていた。

 

「麗羽様、ここは一旦―――」

 

「全軍、前進。数の利を活かし、一息に揉みつぶしてしまいなさい!」

 

献策とも言えぬ疑念を呈さずに終わったことを喜ぶべきか、悲しむべきか。

現場の指揮から外され、幕僚となった田豊は、不安げな目線で前を見つめるのみであった。

 

袁紹の判断は、単純ながら正しいはずなのである。三万を相手に策を警戒して退いてはこんどこそ連合軍は崩壊するし、対陣したら敵が野戦陣地を構築し始めるだろう。

もう構築し終えたならば攻めないという選択肢もあるが、増加する戦力を手をこまねいて待つことなど、いまの諸侯にはできないのだ。

 

(選択肢が、一つしかない)

 

つまり自分たちは戦略的優位を保有しながら戦術上では崖の端にまで追い込まれている。そうではないのか。

不吉な予感とは裏腹に、一日目の戦闘は平穏な小競り合いに終わり、二日目になってようやく全戦線に渡って開始された。

 

「敵歩兵軍団接近、子の刻方向!」

 

「いよいよ、はじまったな」

 

寄せ集めとは思えないほどの素早さで、連合軍は鶴翼から鋒矢の陣形に切り替わる。

二日目の作戦方針は、まずは中央部を突破し、一気に決着をつけようというのものだろうか。

 

「よし、例の歩兵を横陣に展開。婉曲させて衝撃を受け流し、弓兵に掩護させろ」

 

「はっ」

 

さらさらと陣形が変わり、敵の突撃の衝撃でひしゃげたかの様に横形陣が曲がった。

半円のようになって抵抗する李師指揮下の歩兵部隊は、槍と盾とで武装している。つまり、完全に盾役として使われることが編成された時点で決定していた。

 

「戦局が安定しました。敵歩兵軍団、停止。李師様、圧し返させますか?」

 

「いや、こちらも半弦陣を整理。盾と槍とで防御に徹し、その防御陣の隙間から弩兵隊に攻撃させよう」

 

五万ほどの軍を相手にするはずが、七万ほどを傾けられている。

つまり連合軍は私の首にそれほどの値をつけたということか―――

 

そんな悠長な考えをなんの緊張もなく口から漏らし、田予と呂布に心配そうな目を向けられて、李師は黙る。

別に心配してほしいと思ったわけではなく感想として喋ったもので、それは謂わばジョークだった。

そのジョークが、恐ろしく下手なのが彼なのであるが。

 

戦線の維持に意識を傾け、的確に掩護と補填の指示を下していく傍ら、李師は次なる一手をいつ実行に移すかを考えていた。

 

圧し込まれているように見えるのは、とても良いことだろう。だが、一日目からの兵たちの疲労を考えれば長時間維持できるとも思えない。

 

「予備の歩兵は、あとどれくらい居る?」

 

「現在防いでいるのが千五百。残りは二千となっております。弩兵の射撃と防衛戦闘に徹させることによって未だ被害は微小ですが、すでに戦闘が開始されてから二日。疲労も溜まり始めているかと」

 

「なら、そろそろかな」

 

何故この時機に裏道があることを知らせるような形で奇襲をし、息をつかせる間もなく野戦に踏み切ったか。

それは、戦術的な理由というよりも彼が得意とする心理学的な要素が濃いであろう。

 

「華雄率いる予備隊以外の騎兵を八部隊に分け、呂旗を掲げて突撃させろ。派手な宣伝も忘れないように」

 

「……なるほど」

 

田予を通過した命令は濾過されたかの如く整然と、雑味なく実行に移された。

如何に策を講じても、部隊運用の名人たる彼女が居なければ十倍という馬鹿みたいな戦力差を前にして互角になど戦えはしない。

 

もっとも彼女も部隊運用の名人がいても戦えず、策を次々に立案する智将が居なければ十倍という馬鹿みたいな戦力差を前にして互角になど戦えはしないと、思っている。

 

互いが互いの価値を認め、十倍という戦力差をロマンチズムのメガネを通して見ていないところに、この組合せの秀逸さがあった。

 

「出撃用意完了」

 

「ただちに出撃させてくれ」

 

勿論、八部隊全てに呂布がいるはずも無い。アタリは一部隊のみである。

だがしかし、もうその旗を見るだけでも連合軍の意気は挫けた。

 

彼等彼女等は、昨日一万の兵を殲滅させられた後に行われた撤退戦において、門近くにまで追撃を行った五部隊が彼女一人に悉く撃退されていく様を見ていたのである。

殺した物が馬か牛ならば向こう三年は食うに困らないほどの肉を量産していく彼女を見た者は、昨夜出た夜食で滅多に食えない肉料理を他者にくれてやるほどの衝撃と恐怖を受け、明確な殺戮を齎す死と暴虐の化身を崇めるような気持ちすら感じていた。

 

結論として、呂布と相対することは彼等の中で死と直結したのである。

昨日ではなく一昨日起こったのだということが、尚更それを助長した。

 

経験から発する憎悪混じりの恐怖は一日を経て、死の象徴という形で記憶となっている。

 

あわせても千に満たない八方向から呂布に突っ込まれた二万の歩兵軍団は、八方向悉く綻び、崩れる。

単騎の戦闘能力を戦術に組み込むことを首肯することはできないが、それを元手にした名前だけで怯ませ、恐慌状態に陥らせることはどうやら良いらしかった。

 

彼の心理の迷宮を様々な言行から復元した、後世の歴史家は自ら造ったその迷宮の中で彷徨う。

その末にわかったこともあったし、その考察は的を射ていることもあったが、これに関しては明確な答えが出なかった。

遂にはそれは、人の行動とその原理を明確に言葉にすることができないことの証左として使われることになるのである。

 

ともあれ、二万の歩兵軍団は呂布という人間の持つ価値と戦術的な価値と有機的に結合した李師の智略で以って潰乱した。

そしてそこに、まだかまだかと出番を待っていた華雄が一点集中射撃を殆ど零距離で放ちながら捨身としか思えない勢いで突っ込む。

 

突っ込んだ瞬間弩しか持ってないという異常事態にも関わらず、最早撥ね飛ばしているのではないのかというほどの凄まじさが、華雄隊の犠牲を減らしていた。

 

前衛部隊は四千の被害を李師に、二千の被害を同士討ちで喪って撤退。

馬蹄に踏み潰され、恐慌にあてられた兵が転んだ兵を地面として踏み敷いて逃げた結果である。

 

「華雄隊を突撃時の円運動に合わせて下がらせて趙雲隊を出せ。一当てし、敵の後ろを叩いて敗走を潰走に変えて敵陣を乱す」

 

「華雄隊を下がらせ、趙雲隊を前に出す。歩兵第一集団から第五集団は右方向に、第六集団から第十集団は左方向に、趙雲隊は前方に直進し、華雄隊は敵左側面を侵しながら円運動によって右に突き抜け、歩兵第六から第十集団の撤退を同時に掩護させ、両部隊を撤退させよ。歩兵第一集団から第五集団は潰乱した敵に目もくれず動けば充分に間に合うはずだ」

 

要旨は述べられているがそれでもアバウトな命令を正確に理解し、田予は適切に噛み砕いて指示を下した。

まさしく彼女は、巨大な頭脳を持つ巨人を歩かせる為の掛け替えのない脚であったのである。

 

だが、この攻勢に移ることが許可された二日目において最も勇戦したのは、左翼の張遼であった。

彼女は常に、忸怩たる思いを抱えていた。

 

援軍の将にばかり負担をかけ、友軍の弱さが更にその負担を加速度的に増させている。

自分は戦争以外能がない。ならば野戦において、誰よりも働くしかないではないか。

 

名将にはありがちなことだが、張遼は己の部隊の末端、一兵卒に至るまでこの決意を行き渡らせていた。

故にその士気は三軍中最も高く、その指揮ぶりはこの時、英雄的颯爽さを極めている。

 

「全軍を二百から三百の兵からなる小集団にわけ、順次突撃。突撃し終えた順から更に次の部隊を突撃させ、常に攻勢の手を奪ったるんや」

 

その凄まじき攻勢は、袁術軍の名将たる紀霊をしてこう評された。

 

『奴ら、気が狂ってやがる』

 

正しく恐怖と言う二文字を斬り捨て、満身を勇気と報恩の念で満たした一万は、暴風雨となって袁術軍をズタズタに斬り刻む。

 

ただしその暴風雨の風は騎馬であり、雨は矢であったが。

 

「撤退しつつ陣形を立て直せ。側面に重歩兵を配置して勢いを殺してしまえば、奴らは側面からの三百たらずで突っ込んでくる自殺者の集団に過ぎん」

 

紀霊がそう命令し、鉋で幾度となく削られたように磨り減ってしまった袁術軍が再編を計った瞬間、張遼は鋭く命令した。

 

「全隊、集結して紡錘陣形!」

 

突撃が止み、嵐の後の静けさの中で袁術軍は安堵する。

陣形の再編が終われば、すぐさま反撃に転ずることができる。そうすれば奴らも最期だ。

 

そんな言葉が出る前の気の緩んだ間隙を、張遼は貫く。

 

「今や!」

 

烈迫の気合いが陣を切り裂いたが如く、馬の旗が敵陣へ進む。突撃前の騎射によって再編を阻害された袁術軍は真っ二つに切り裂かれた末に一万からなる、抜き用のない楔を叩き込まれた。

張遼は、全騎の持つ力を一点に叩きつける方法を知っている。

 

「敵の一部が後方に迂回せんとしております。このままで、退路が絶たれる可能性があります」

 

「ひたすら直進して前の敵を突き破った後、後ろに反転してやりゃあええねん。ただひたすらに前を片付けることだけ考えるんや」

 

あれは陽動だと、張遼は一目見て判断していた。動きに鋭気がなく、その脚は鈍い。将の指揮ぶりにも活力がなく、後方を扼して突進を押し留めようという腹であることは明確だった。

 

馬の旗と共に自ら陣頭に立ち、張遼は紀霊率いる二万の軍を真っ二つに切り裂き、張勲率いる二万の軍をもその爪牙にかけた。

中央部をへの攻勢が収まったが為に、両翼への攻めが苛烈となっている。

そのことを示すような兵力の集中策を個人的な戦術能力と兵たちを束ねる統率能力によって見事に破砕してのけた張遼は、間違いなく勇将の名に相応しかった。

 

だが、所詮は一万である。攻勢にも限界が有り、兵の体力にも限りがある。

張遼の名を勇将として人々が記憶するところとなったのは、突破できるというとこで孫家の兵に止められた時の判断であった。

 

「退くで。逆撃態勢は崩さず、来た奴は遠慮なくぶっ殺したれ」

 

攻撃だけでないと証明するかのごとく、張遼隊は整然と退いていく。

袁術軍はこの戦いで六千の兵を喪い、張遼隊は一万の兵のうち八百を喪った。



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汜水関前哨戦・後編

ここで少し、時を戻す。

 

李師が中央部から攻勢を仕掛けてきた二万の軍を撃退し、両翼への圧迫が強力になった時。張遼がまだ小集団による暴風雨の如き戦いを繰り広げていた時、夏侯淵隊は何をしていたのか。そして李師は、ただ兵の再編の後にサボっていただけなのか。

 

それは単純で、明快なことだった。

 

防御戦闘からの攻勢及び相互掩護。それだけである。

 

「……さて、反攻作戦でも行うか」

 

現有戦力のすべてを使って攻勢をかけた張遼とは正反対に、夏侯淵は巧妙な縦深陣を敷き、弩兵と歩兵とを組み合わせることで被害を最小限に抑え、可能な限りの出血を敵に強いていた。

 

だがそれも、敵の攻撃の中心が隣の中央部に向かっていたからこそ出来たことである。

百ほどの犠牲で二千ほどの出血を強いた後、夏侯淵は兼ねてからの作戦通り反攻作戦に打って出た。

 

『一日目の戦闘の後、二日目には中央部が圧迫されるだろう。その攻撃を、私は凌ぐ。その後に、敵は遊兵と化した攻撃戦力を左右に裂くだろう。その瞬間、編成が終わらない内に攻撃に展じ、敵に出血を強いてくれ。あくまでも攻勢によって、だ』

 

あくまでも攻勢に拘った理由を、作戦の草案を渡された夏侯淵は理解できる。

こちらの攻勢に辟易させ、防御態勢をとらせねばならない。それは中々に難しいが、でないと勝ちに繋がらない。

 

(それにしても、面白い発想の逆転と、言うべきだろうな)

 

普通大敵を打ち破るには堅陣から突出させ、その堅なるを自ら破らせてそこを討つのが定石だった。

であるのに李師は敢えて堅陣をとらせ、そこから打ち破ろうとしている。

 

定石を無視していることが奇策と思うような無能ではない。事実今までの作戦は兵法に理に適っていた。

 

大軍を打ち破るには各個撃破こそ望むべきだろう。大軍を一挙に覆滅するような手腕は、魔術と呼ばねばならない。

 

「まあ、魔術を使えるから魔術師と呼ばれている訳だ。実績ある者を疑うには、己が実績をこそ立てるべきだな」

 

「秋蘭様、敵軍が迫ってきています」

 

肘掛けに肘を立てて軽く笑いながら独語していると、典韋が新たな敵の来襲を告げる。

敵軍は袁紹軍三万。後ろには馬騰軍一万、劉表軍一万。計五万相手に、彼女は一万程度で勝利を掴まねばならない。

 

だが、怯みはない。中央部の七万に対する快勝は、両翼の士気を更に上げていた。

そして、夏侯淵自身も向こうが結果を出したならば、こちらも期待には応えなければならないという捻くれた喜び方で喜んでいる。

 

「袁紹軍か。馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ただ直進されるだけだからこそ、大軍の威容が目立つ。案外無能ではないのかもしれんな……」

 

相変わらず、何故か口調に毒がある李師一党に染められかけている曹操軍の双璧は、一党の首領と同じような評価を袁紹に下した。

奇策にはしって負ける馬鹿ではない。正道であるからこそ小細工も効かず、大軍であるからこそ正道で強い。

 

正道を制すのは奇道であり、奇道を制すのは正道である。正道の用兵家としては、袁紹は無敵に近いのかも知れなかった。

 

李師は奇道であり、曹操は正道。夏侯淵はニュートラルといったところだろうか。

だが、曹操は戦略において正道なだけであり、戦術的には奇道である。

 

双方の資質を持ち合わせた場合、袁紹と相性が悪いのか、良いのか。

少なくとも李師と袁紹の相性はお互いに最悪であろう。

 

戦術的巧緻さを無視しての物量戦が李師の不得手。

戦術的巧緻さを張り巡らされて、正道を崩されれば袁紹の不得手。

 

はてさてどうなるものかと、傍観してみたい気もしてきていた。

 

「どうしますか?」

 

「全面攻勢に移る」

 

典韋の問い掛けに、夏侯淵はそのニュートラルな頭を奇道よりに切り替えることもせずに働かせる。

作戦の考案に関しては正奇智勇の均衡が取れていることが、実行に際しては正奇智勇を切り替えることができるのが彼女の何よりの武器だった。

 

「一口に袁紹軍といっても、内実は派閥の巣食う集合体。騎兵は并州軍、弩兵は冀州軍、歩兵は青州軍だ。現在向かってくるのは歩騎の二兵科。袁紹軍に加わってすぐで功に焦る両者の連動が、速やかであろう筈もない」

 

弓を手に持ち、床几から立って腕を左から右に横薙ぎに振るう。

大仰なその動作は、正の猛将。正と勇に錘を載せてやり、彼女は僅かに均衡を崩した。

 

「その隙を突いて切り崩す」

 

夏侯淵隊一万は縦深陣を解き、全軍を二つに分けて行動を開始する。

後衛として残る片方は弩兵と弓兵を中核とした部隊、前衛として敵陣を切り崩す部隊は騎兵を中核とした機動力と突破力に重きを置いた部隊。

 

言うだけで実行できるほど下士官に恵まれていない夏侯淵からすれば、一々口を出して弱点を剥き出しにしてやり、そこに戦力を集中せねばならない。

 

「衡、覇。私が弓で指定した地点に突撃せよ」

 

「承知致しました」

 

覇と呼ばれた少女の名は、夏侯覇。夏侯淵の―――というより夏侯惇と夏侯淵の双子に新たに加わった七人の一門の内の、一人だった。

厳密言えば従姉妹であり、妹ではない。しかし、衡・覇・称・威・栄・恵・和は曹操と言うよりも、どちらかと言うと夏侯淵を主と慕っている。

 

故に彼女はその意思に応え、将来子飼いの指揮官となりうるであろう能力に期待しながらも、あくまでも中級指揮官、ないしは下士官として従軍させていた。

一族だからといって経験を積む前に大任につけるとろくなことにならないというのが、彼女の主義である。

 

「兵は如何ほど?」

 

「一人二千だ」

 

夏侯衡は五千、夏侯覇は八千、夏侯称は三千、夏侯威は七千、夏侯栄は四千、夏侯恵・夏侯和は参謀。

それくらいが最高の能力を発揮できるラインだと、彼女は誰にも言わないが考えていた。

 

己は、どうだろうか。

 

(華琳様も仲珞も、多々益々弁ず、というやつだろう。私も、そうありたいものだが……)

 

己を見るには、自分の眼は不純に過ぎる。

後で仲珞にでも訊いてみるかな、と。夏侯淵は一人で呟き、驚いた。

 

「この夏侯妙才が誰かに相談したいと思うとは、随分とほだされてきたと見える」

 

だが、嫌ではない。

 

そんなことを考えながら、中央部をちらりと見る。

再編中の敵軍に対し、兵たちの集結地点を見抜いて厭らしく一点集中射撃を行っている以外は、不動。だからこそ、こちらとしても戦い方があった。

 

「まずは、そこだな」

 

放たれた一矢に続くように、二千騎を率いた夏侯衡が突撃する。

続く一矢で、夏侯覇が待ち兼ねたとばかりに吶喊した。

自身と言う名の楔を打ち込むことに成功した二隊を三千の直衛騎を突撃させて素早く圧し込み、微細な連動を破砕して分断する。

 

最初の獲物は、青州歩兵であった。

 

「分断した青州歩兵に、射撃を集中させろ。騎兵は一時放置し、歩兵の前進運動の頭を叩く」

 

最早呼吸の如く行える斉射三連を三セット喰らわせ、堪らぬとばかりに潰走していく青州歩兵の背中を踏み躙る夏侯覇の血気盛んな姿を見つつ、直衛騎を収容し始めた夏侯淵の元に、予想の範疇にある報告が届いた。

 

并州騎兵が遅まきながら前進を開始したのである。

彼等はどうも、青州歩兵が矢を叩きつけられている間に射線に突っ込めば自分たちも二の舞いになると判断したらしい。

迂回しようにも魔術のタネをせっせと仕込んでいる最中の李師が率いる不動の中央部が邪魔となり、逆に回り込もうとしても青州歩兵が邪魔をする。

 

彼等は、狭い地形を利用した夏侯淵の連動阻止に見事に引っ掛かったと言ってよかった。

 

身動きが取れず、立場上退く訳にも行かず、止まる。

 

「戦術的には正しい判断だが―――」

 

ニヤリと笑い、夏侯淵は夏侯覇を戻すようにとの旨を言い含めた伝騎を放った。

 

見捨てれば、尚更間隙が広くなるのではないか。戦略においてはというより、これからの袁紹軍にとっては悪手でしか無い。

 

突撃してくる騎兵は、収容し始めたら弩兵が無力になるとでも思っているのだろう。

 

確かにそれは正しい。しかし、騎兵の前でそんな腹を晒すような真似をするわけがないではないか。

 

「姉様。擬態を解きますか?」

 

「どうせ死ぬ。ならば、夢を死ぬまで見せてやれ」

 

「はっ」

 

夏侯恵の問いに凄絶な美しさを湛える笑みで応え、夏侯淵は腕をすらりと揚げた。

収容し始めたように見えた騎兵がさっさと分裂して退路を絶ち、弩兵が崩した体を装った備えを埋める。

 

「この斉射で、勝負は決まる」

 

元来激情家なところがある彼女を覆っている氷に亀裂が奔り、熱された意志が兵たちを奮い立たせた。

歩兵の掩護なしに騎兵の前に立つのは、自殺行為。ちゃんと指示に従えば勝てるとわかっているが、恐怖と無縁でいられないのが兵である。

 

そんな彼等彼女等を、夏侯淵はその命令一つで恐怖から一時的にせよ解き放った。

恐怖に竦むタイミングも、どこで喝を入れてやればいいかも、夏侯淵には天性の資質でわかっている。

 

それは正しく、兵たちに届いた。

 

「弩兵、斉射三連!」

 

急に止まれなかった騎兵を、三重に放たれた矢が薙ぎ倒す。

斃れた屍体を咄嗟に乗り越えられるのは流石だが、それが騎兵隊の突撃を遅らせた。

 

「次発装填。右方向に射線を集中させろ」

 

「左方向はどうなさいますか?」

 

「緑甲兵が射線を向けている。心配は無用だ」

 

この頃には、李師は敵の第二陣を射撃でつつき過ぎたが為に突撃を喰らい、百ほどの犠牲を受けている。

突撃を喰らったお礼として半数をハリネズミか、馬蹄の下敷きにして撃退したが、彼としては兵の疲労を嫌い始めていたのだ。

 

つまるところ夏侯淵は李師の手が空いた時に、その絶妙な進退の見事さでクロスファイアポイントに誘引していたのである。

この誘引に気がつなかければ李師もそれまでだが、彼女は李師の視野の広さを信頼していた。

 

ツーカーの仲という奴なのか、息を合わせるように交差射撃は正確無比に敵の命を奪い、精鋭で鳴った并州騎兵を槍を合わせる前に殆ど壊滅せしめている。

 

「全隊前進」

 

「はっ!」

 

夏侯恵の敬意にあふれた声を背景にし、夏侯淵はまるで戦闘をこなしたことが夢煙の中であったかのような整然とした陣形で次なる敵に向かう。

縦深陣に引っ張り込んで討った敵は二千。射殺した者は五千。騎兵で殺戮した者は二千。後は殲滅しきれず、逃さざるを得なかった。

 

次の一万にぶつかるには、九千弱の兵は過分に過ぎる。

 

「敵軍、突撃してきます!」

 

「旗は」

 

「馬。牙門旗がないところから、馬超の手勢だと思われます!」

 

「ほぉ……」

 

思わず背筋がぞくりとそばだつほど色気のある声色で溜め息とも感嘆ともつかぬ声を上げ、夏侯淵は猛禽と評された己の獰猛さを一片のみ出した。

 

「ならば一年の先達としてのせめてもの手向けだ。青二才に用兵の何たるかを教えてやるとしよう」

 

今まで働いていなかった歩兵を前に出し、李師の騎兵に脇を固めさせて弩兵を後ろに格納し、更にその後ろに夏侯覇の騎兵を隠す。

夏侯淵の迎撃態勢は、馬超が考えるよりも遥かに早かった。

 

「突撃態勢を取り次第、覇の隊を右回りに迂回させて敵を半包囲し、集中射撃を浴びせて殲滅する。弩兵は歩兵の作る防御壁から散発的に射撃を行い、突撃を多少なりとも阻害せよ」

 

指示通りに部隊が動き、脚が鈍化した瞬間を縫って夏侯覇が後部との連絡線を切断する。

その瞬間歩兵の後ろに隠れていた弩兵が両翼として、両脇の騎兵が両翼として展開した位置から夏侯覇の掩護を開始した。

 

馬超隊三千は八割の犠牲を被り、命からがら落ち延びる。

 

この犠牲を以って、二日目の戦いは終結となった。



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汜水関決戦・壱

「目標。敵軍中央」

 

「狙点、固定!」

 

二日目に引き続いて攻めに出た李師は、田予の力を借りて横陣形をとった敵に向けて射線を束ねる。

この一点集中射撃が、両翼に対する攻撃の合図だった。

 

「撃て!」

 

号令一下、頭上と左右斜めと正面から一点を目指して三千の弩と二千の弓が敵の中央を切り崩す。

 

三日目の戦いは、二日目における立場を逆転させた形で発生した。

 

「親衛騎、突撃。敵中央部に空いた穴の補填を阻害し、広げてくれ」

 

「……ん」

 

待ち侘びたと言わんばかり、呂布率いる親衛騎が数十倍の敵にも怯まず、果敢に突撃をかます。

数の差を嘲笑うかのような突撃ぶりに怯んだのは、逆に敵の方だった。

 

「田豊様。このまま呂布の突撃を許せば、我が軍は中央突破を許してしまいます。中央突破を許せば―――」

 

「分断される。わかっているわ」

 

この突撃能力を持っている敵と相対するからこそ、横陣形をとったのである。

李師と夏侯淵はもうどうしようもないが、騎兵―――張遼と華雄は止められるはずなのだ。

 

そして同じ騎兵である、呂布も。

 

「麴義の隊を前に出して対応させなさい」

 

「昨日敵がやったように、弩兵を背後につけて掩護させては?」

 

「あれは訓練してるからできるのよ。できても急造な私達では、突撃で焦った冀州兵が麴義隊を背後から撃ち殺すことになりかねないわ」

 

練度の差という苦い物を感じつつ副官の祖鵠にそう答え、田豊はすぐさま頭を振る。

 

「とにかく、迎撃!」

 

「はっ」

 

その指示と僅かに時間差をつけて用意された盾と槍による防御陣を見た呂布は、すぐさま馬首を返して横腹を麴義隊に向けた。

後ろに弩兵が居ないことを、彼女はそのすぐれた視力で認識したのである。

 

ならば、突っ込まずとも鈍重な重歩兵からは逃げることができた。

突撃せざるを得ない理由とは、要は横を見せたり後ろを見せたら追い打ちを喰らうというところだけなのだから。

 

「田豊様、麴義の左に布陣した高幹隊が突破されました。高幹様は呂布の脇を固めていた男のうち一人に討たれ、戦死。包囲陣は崩壊しました」

 

「中央突破を許すことに比べれば易い。目標を固定して欲を出さず、防いで消耗戦を強いなさい」

 

「承知いたしました」

 

敵は、何を考えているのか。

それに、指揮官の限界を逸脱した武勇とそれに伴う恐怖を加味すれば華雄よりも突破力が有りかねないあの呂布隊を、こんなにも早く使ってしまっていいのか。

 

(明日が本番、ということかしら)

 

田豊が頭を必死に働かせている時、あくまでも温厚柔和そうな顔を崩さない李師は華雄と趙雲を呼び出していた。

 

「子龍。あの正面の麴の旗がある陣に本気で仕掛けて、物の見事に負けてくれ。華雄。君もだ。撤退時の指揮に関しては、趙雲の言うことをよく聞くように」

 

「委細承知」

 

「はっ」

 

二隊合わせて四千ほど。これを無為に磨り潰せば、敗ける。

多大な責任を背負わされたにも関わらず、趙雲はいつもの頼もしげな調子を崩さず大仰に頷き、華雄の手綱を握ることを了承した。

 

李師としては、敗退の演技が演技でなくなってもよい。ただ、犠牲は可能な限り減らしたいのである。

故に、趙雲を指揮官とした。

 

華雄を加えたのは、軍師以外に『あの呂布が避け、華雄すら突破できなかったと思わせる為』であり、軍師に『明日何かしてくると思わせる為』。

 

更には、一点集中射撃を自重する。自重し、明日が本気であることを先の読める人間にそれとなく悟らせる為だった。

勿論、悟らせたからとって本気でそれは信じないだろう。しかし、警戒はする。その警戒が、明日には必要なのだ。

 

 

 

「秋蘭様。李師様が劣勢に陥り、こちらもまた優勢であるとは言えません。どうしますか?」

 

「敵が強い。無理もないな」

 

「秋蘭様!」

 

「そう怒鳴るな」

 

典韋を宥め、夏侯淵は肘掛けを指で何回か叩く。

彼女としても、こんな無様な戦いを己がしていることが腹立たしい。が、作戦なのだから仕方なかった。

 

「それにしても、敗けるのがこれほど難しいとはな……」

 

「じゃあ、勝ちましょうよ……」

 

「いや、ここは仲珞に倣って引き分ける。攻勢中断、一時撤退」

 

目の前の青二才の攻勢を軽々凌ぎ、黄忠の老巧卓抜な指揮による挑発と誘引を一顧だにせず持ち場に戻る。

穴だらけの攻勢を見た夏侯覇が出撃を願い出る度に押し留め、まるで見当違いな、されど被害が少なく済み、敵の攻勢を鈍らせるポイントに突撃させながら言った一言が、彼女の今日の気持ちを如実に表していた。

 

「夏侯妙才に青二才と老人が引き分けるなど、己は何があったのかと後世の冷笑の的にならぬようにしたいものだ……」

 

この引き分けが布石になったならば、それはいい。しかし、引き分けさせておいてただ敗けるのは御免被りたいというものである。

しかもそれが、己が目論んだ戦でないならば、なおさら。

 

だがしかし、この戦の総指揮は、勝つと言ったら勝つ奴だし、自分でも勝つことができないであろう男なのだ。

疑ってはいなかったが、こんなことを冗談にしても呟くものではない。配下に良からぬことを企ませることにも、なりかねない。

 

「流琉」

 

「はい?」

 

「今のは冗談だ」

 

そういうことにしてくれ、という語気を何となく察し、真名を呼ばれた典韋は静かに一つ頷きを返す。

 

三日目の戦いは、両者の攻守を逆転させながらも、両軍に過小な被害と硬直事態とを齎した。

しかし、この日にはすでに勝負が決まっていたことを、連合軍は後に苦い思いを味わいながら知ることになる。

 

そして、その夜。

 

「また夏侯妙才殿と呑まれるので?」

 

「ああ。話が合うし、戦略もわかる。話していて学ぶところもあるわけだし―――何より、誘ってきたのは向こうだ。私を責めるのはおかしいんじゃないかな」

 

「別に責めてはおりませぬ。鈍いなと言っているだけです」

 

「あぁ?」

 

本気で何かに注力している間に虚を突かれた時に出る間の抜けた声が、李師の口から漏れた。

 

「向こうは曹操軍だというのに、やけに主に好意的ではありませんか?」

 

「あぁ、男が嫌いらしいね。奴さんの陣営は」

 

というよりも、女が好き過ぎて男の地位を相対的に低くしているというのが実際のところであろう。

曹操は限りなく女好きに近いニュートラルだが、その筆頭軍師がタカ派もタカ派、その中でも更に過激派なので、ほとんどの男からは曹操一派も全員がそうであろうと見られていた。

 

「つまりですな。私が言いたいのは―――」

 

「のは?」

 

「……無粋なのでこれ以上は。ともあれ、互いに良い年をした男女が夜更けまで共に居るということでできる風聞はよろしくないのではありませんかな?」

 

心の底から不本意という顔をしながら、趙雲はやる気無さげにそう提言する。

政治的センスと、味方に嵌められるという感覚がないのが彼の弱点であることを、これまでの言動から趙雲には容易につかむことができた。

 

「何故?」

 

「単経がまた五月蝿く言うでしょう」

 

「私は公人として働いている間に私人としての友誼を優先せるようなことはしていない。向こうも、それくらいわかるだろう」

 

「私は常ならばこのようなことに口を挟まず諌めもせず、却って油を注ぐ人物でしょう。この私が無念を噛み締めてそう言っていることを加味し、どうかご一考いただきたい」

 

確かにそうだな、と。李師は一人で頷く。

趙雲ならばそうでなくともそれらしく騒ぎ、偽情報を確定情報の如く騒ぎ立ててしかるべきだった。

 

「……どうすればいいかな?」

 

明らかな政戦能力の欠如を思わせる丸投げな問いに、趙雲は李師が執務をしていた机を叩いて大仰に述べる。

 

「単経を殺しなされ。別に私は夏侯妙才との伝手を作ることを諌めているわけではなく、政敵を放置することを諌めているのです。権力を握り、公孫伯圭殿の信頼を盾に邪魔者を排除なさい。それが主の最良の道です」

 

「……単経は別に、罪をおかした訳じゃないだろう。それに、嫌いだからといって殺すのは良くない」

 

はぁ、と溜息をつき、趙雲は白い帽子を取った。

彼女の頭には、既に次善の策も用意されていたのである。

 

「罪をおかさぬ以上は、排除なさらないのですな?」

 

「ああ」

 

「わかりました」

 

一礼して去っていく趙雲の面白げな笑みが、彼の眼に映ることはなかった。



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汜水関決戦・弐

泥舟様、にゅ様、黒扇様、超腹様、砂布巾様、鴻鈞道人様、評価ありがとうございます。
黒扇様、十評価いただき光栄であります。

感想を書いていただけた十一人の方、感謝です!


「妙才、ご苦労様」

 

「あぁ、そちらこそ」

 

杯の飲み口が合わせられ、軽いながら硬質な高音が鳴る。

三日目の戦いを終えて、この二人は昨日以来になる雑談の席を設けていた。

 

人と関わるのが下手だのなんだのと何だかんだと周りに言われていても、一度快諾した誘いを今更断るのは人間関係に齟齬を生む。

そんなことくらいは、彼もわかっていた。

 

「それにしても君は昨日今日の巧妙果敢な戦いで将として引退し、戦歴を終えても名将と言い表されるべきだろうね」

 

「それではただの一発屋に過ぎん。これからも継続して結果を残してこそ、その証は真に私に纏う」

 

珍しく酒を飲み乾すことなく、夏侯淵は飲み口をその白く細い指で以って軽く掴み、ゆっくりと酒を撹拌させている。

杯の底で円を描くような一定の周期を持つ運動が、彼女の基本的な几帳面さを表していた。

 

「どうしたんだい?」

 

「いや、今日は長く飲みたい気分なのでな。悪いが、付き合ってくれ」

 

「まぁ、指揮に関わらない程度までなら良いさ。明日は、どうせすぐに終わる」

 

常に、夏侯淵は破目を外さない。酔い過ぎそうになる前にさっさと撤退し、次回の約束を取り付けて自室に帰るのである。

だが、一見したところ今夜のように容易にわかるほどに節制したりはしなかった。

 

「……こうして飲むのも、あと何回になるかな」

 

ほんの僅かな寂寥感と共に、夏侯淵は舶来の硝子で出来た杯をゆっくりと回す。

中身の酒と外枠の硝子とが灯りを反射して煌めき、宝石の如き美しさを湛えていた。

 

「祝勝会で一回、劉焉を打ち破ればそこでまた一回。行軍中にも何回か機会はあると思うけどね」

 

「勝つのは既定事項なのだな」

 

陽だまりのような温和さで、割と辛辣な予言をした李師を口の端だけで笑いながら見た後に、夏侯淵は慢心をたしなめる意味も込めて念を押す。

彼は慢心などとは程遠いところにいるが万が一が頻発し、致命となりうるのが戦である以上は言わずにはおれない。

 

「ああ。前にも言ったけど、この戦いは明日で終わる。私は連合軍はこの三ヶ月間、想像を超えた動きをしたことがないという要素を見て野戦を仕掛けようと思えた。

他の不安要素と言えば敵に野戦において卓犖とした戦術指揮官がいて、私が粉微塵に打ち破られることだったが、そんなことがなかった以上は問題はない」

 

形のいい左眉を少し上げ、夏侯淵はまた少し酒を飲んだ。

違和感が、ある。つまるところ彼はこんなことを言うような男ではなく、こんなことを言うような将ではない。

 

己の能力に全幅の信頼の自信を置くのも、良かろう。しかし、それは己のような人格の型を持つ輩がすることであって彼には相応しくないと言えた。

 

「本音は」

 

「将は誰よりも勝利を信じ、勝利を疑わなければならない。いつもいつも疑っていたから、偶には全知全能を傾けた作戦案を信じてみた」

 

「らしくはないな。それはそれでよろしいことだが」

 

「自覚はしている。それに、冗談だよ」

 

「才能の殆どが軍事面に傾いている人間が、軍事に関わる冗談など言うものではない。境がまるでわからん」

 

一見できなそうな発言した者ならば冗談だと笑い飛ばすこともできる。

しかし、他の者はともかく発言者にはできそうなことを冗談だと全く笑えない。

 

「才能がないかな」

 

「それ以前に、感性に欠ける」

 

軽口を叩き合いながら酒を注ぎ合い、暫くしてから夏侯淵は問うた。

 

「で、どこからが冗談だ?」

 

「そんなことがなかった以上問題はないというところが、冗談だ。問題となりうる不確定要素はまだまだある」

 

「それではわかりようもない。九割真実だということだろう?」

 

今までの展開が掌の上で、卓犖とした戦術指揮官を恐れていたところは真実。

後者はともかくとして、前者は恐ろしいまでの先読みをせねばなし得ないであろう。

 

「この乱世の趨勢は、どこまでわかる」

 

「わかるところまでしか。この舞台だけが唯一無二の劇場だったらわからなくもないが、他の場所にも舞台はあり、劇場となっている。自分が関わっていないところの予測は難しいかな」

 

つまり、情報が入っていれば予測はできるが現場に居なければ誤差は修正できず、正確無比とは言い難い。

彼がコントロール下におけるのは、直接触れて、知れて、介入できるところだけだった。

 

「なるほど、まだ人間か」

 

「失礼だな。私は生粋の人間さ。今制御できているのは、汜水関近辺の戦域だけなんだよ?」

 

「敵には軍師も居ると思うが、それでもか?」

 

「私としては、素人の行動の方が読み難い。軍師はある程度は思考的な共通項がある以上、条件を科して自由度を狭めれば制御できないこともないのさ」

 

つまり彼の思考は如何に敵の行動の自由を奪い、こちらが動いてほしいと思う理想的な形と現実でとった行動とを擦り合わせることに特化している。

 

「敵には回したくないものだ」

 

「それはこちらの台詞だよ、妙才」

 

夏侯淵の軽く芝居がかった台詞に大仰な動作で返し、李師は少し酒を含んだ。

毎回ながら、美味い。飲む相手がいいのか、飲む相手が用意する酒がいいのかはわからないが。

 

「それより、意外だな」

 

「何がだ?」

 

「君は私と戦うことを喜ぶと思っていた。戦争狂とまではいかずとも、己が認めた相手と戦うことを喜ぶ人間だと」

 

様々な面で均衡の取れているのが、夏侯淵という人間である。

 

用兵家としての理性は速やかに楽に勝つことを望み、本能は認めた強敵と戦うことを望む。

武人としての理性は細かいことに囚われずに如何に敵を射殺するかを考え、本能は強敵と死力を尽くして戦うことを望む。

 

均衡が取れているだけに、『戦いたくもあり、戦いたくもないな』というような台詞がくると彼は予想していた。

 

「私は別に軍事的夢想に囚われているわけではない。犠牲なくして楽に勝つのが役割だが、強敵と戦えば高揚するし、やるからには徹底的に、持てる能力の限りを尽くす」

 

「もっとも厄介な相手となりうるな、それは」

 

「お褒めいただき有り難いな。老人と青二才に不覚を取った私も、まんざら捨てたものではないということか」

 

老人老人言われている黄忠は彼女と九歳差であり、青二才青二才言われている馬超は一歳差である。

 

彼女には、まだ二十歳だと感じさせない貫禄のようなものがあるから馬超を『青二才』といってもなんら違和感がなかった。

 

「二十九は、老人かな」

 

「まあ、この場に集った将の平均年齢を上げてることは確かだろう?」

 

「私も二十九だけどね」

 

ついでに、恋は青二才より下である。

そして、彼女が居たらこう突っ込むであろう。

 

『嬰は、もう三十』、と。

 

「そうだったのか」

 

「何歳に見えた?」

 

「二十八か、七だな」

 

二、三歳若く見えると言われる容貌が、外見上は魔の三十代への侵入を果たしていた。

 

更に言えば、彼は別にサバを読んだわけではない。単純に恋とボンヤリ過ごしていた時間が長きに過ぎ、年齢を意識するのをやめていたのである。

 

「……別に私は敵が二十九だから老人と形容したわけではないぞ。ただ、奴を馬鹿にしたかっただけだ。二十九は人間としてはまだ若いうちに入ると考えんでも、ない」

 

「無理しないでもいいよ」

 

「すまん」

 

誰しも年齢には触れられたくないものなのにも関わらず、さらりと踏み入ってしまったことを夏侯淵は素直に謝った。

割と早いうちから子供を産み、産ませるこの時代に於いては、三十というのはかなりの重みを持っている。

 

つまり、下手をすれば自分の親と二、三歳差ということもあり得てしまうのだ。

 

「君の親は今何歳なのかな?」

 

「母が四十と少し、父がまあ、うん」

 

「父が?」

 

「……若い。それ以上は訊くな」

 

この辺りで、李師は『夏侯家の家長は母なのだな』と悟る。

家長が男ならば母が若い。家長が母である以上、父が若い。

 

別に法則として定まり、決まっているわけではない。しかし、武人としての才幹と美貌を併せ持つものが容姿に衰えを見せにくい以上、彼女等が若い燕を捕まえるのは当然と言えた。

 

つまり、李師と誤差はあれどだいたい同程度の年齢だと思われる。恐らくは、だが。

 

「……まあ、それならしかないだろう。二十くらいになった娘からすれば、親なんか爺婆にしか見えないものさ」

 

その法則でいけば、後二歳で恋から爺さん呼ばわりされかねないという事実が待っている。

しかし、彼の中ではそんなことは綺麗に抜け落ちていた。

 

その後も用兵や敵の挙動、今日の戦いについての検討のようなことをした後、夏侯淵はそう言えばという形で切り出す。

 

「それで、明日の作戦を―――」

 

そこまで言い終わり、夏侯淵は突如として言葉を切った。

次いで手に大腿部から取った投擲用の手戟を持ち、投げる。

 

「覇、出て来い」

 

「……はい」

 

いきなり自分が居る方向に向かって手戟を投げられても、全く動じずに酒を飲んでいる李師の様に感心しながら、夏侯淵は敢えて怒りの体を作った。

 

「盗み聴きとは、感心せんな」

 

「……すみません」

 

今になってようやく後ろに人がいたことを気づいた李師の顔が少し驚きに包まれる。

無論、手戟にはただ単に反応できなかっだけであった。

 

「まあまあ、そう怒らなくてもいいだろう。何か報告があったのかもしれない」

 

「報告するという理由があるならば正面から入るべきだ。盗み聴きすべき必要を持つ報告などはない」

 

極めて真っ当な譴責で李師の擁護を退け、夏侯淵は夏侯覇に何故盗み聴きをしたのかを問い質す。

もとより冷静な質だけに、その誰何の声は底冷えするほどに怖かった。

 

「……それはその、今日御二方の指揮が芳しくなかったので、何かあったのかと」

 

「貴官に心配されるようなことは起こっていない。何を心配しているかは、知らんがな」

 

出て行った夏侯覇を見送り、夏侯淵は静かにため息をつく。

 

「今日はどうも、飲めるような空気ではないようだ」

 

「それには同意する。私もそれとなく諌められたし、問題だと思われている、らしいな」

 

「厄介なことだ」

 

念の為にしたためておいた作戦案を渡した後、李師は腕を上げて背伸びをし、頭にいつもの帽子を被った。

 

「じゃ、今日はこれくらいでお暇させていただこう」

 

「明日の夜はどうする?」

 

飲むか、飲まないのか。

相手の意思を尊重するような夏侯淵の問いを受け、李師は茶目っ気たっぷりにウインクをしながら答えた。

 

「明日の夜は、祝勝会さ。二人では飲めないだろうね」

 

「……それもそうだ」

 

互いにニヤリと笑いあい、その場で杯に残った酒を飲み干してその場で別れる。

 

四日目。対連合同盟軍最後の戦いが起こる日が、静かにその帳を落とした。

 

 




感想・評価いただけると本懐です。


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汜水関決戦・参

明けて、四日目。

西暦186年九月二十二日。反董卓連合軍と対連合同盟軍は、距離という壁を挟んで向かい合っていた。

 

両陣営の醸し出す空気は重く、沈んでいる。

兵士という生物に備わった、ともすれば将よりも鋭敏な流れを悟る感覚が、それとなくもうこの戦いが終わりに近づいていることを感じているのかもしれなかった。

 

両陣営の対峙ははや半年に及んでいる。反董卓連合軍からすれば半年であり、対連合同盟軍からすれば約八ヶ月。

その長い時期をすべて戦争にかけた虚しさを、自覚する者は誰もいない。ただ兵士は、今を生き残ることを考えている。

 

己が命を懸けて戦う場を、虚しさとして捉えられるものは居なかった。虚しさを感じるとすればそれは戦が終わったあとであり、家族のもとに帰った後である。

 

「隊長、李師の大将はどうしたんですかね」

 

「……?」

 

呂布はその表情として出にくい性質を持つ面貌を成廉に向け、傾げた。彼女としては、李師はいつも通りにしか見えなかったのである。

 

「いや、二十万に三万で攻勢を掛けて圧すっていうのは凄いですよ。巧みな指揮と、巧緻な戦術機動です。でも一昨日は弱らせるに留まり、昨日は凡戦。今日は我々に左翼を攻撃しろと来た。知恵の泉が枯れたとは思えませんが、何があったんですかね?」

 

「……何もない」

 

紫に近い赤髪から生えた二本の触覚を風に揺らし、呂布は静かに頭を振った。

何もない。その意味を、成廉は理解しかねている。

 

それを悟ったのか、呂布は更に口を開いた。

 

「恋たちは、最精鋭」

 

「だからこそ、攻撃に使うべきではありませんかね。素人考えですが、中々に正しいと思うんですが」

 

「……ん。敵も味方も、そう思ってる。それが、大事」

 

恋は、『なるべく被害を出さぬ様に左翼に展開して陽動突撃を敢行してくれ』としか伝えられていない。

作戦の全体像を知っているのは李師と、夏侯淵。そして張遼の各軍の責任者だけであろう。

 

だが恋には、そう命ぜられただけで彼の考えを把握することができた。

 

「……嬰は恋たちを主攻に見せかけた陽動に使って、右翼の夏侯淵を最先端にした斜陣で右翼を半包囲。華雄で崩して横形陣の弱点をつくつもりだと、思う」

 

呂布は、李師から作戦を訊いたわけではない。李師も、呂布に言ったわけではない。

少なくとも前の李師は呂布に作戦をぺらぺらと話し、その思考とやり方、使える場面を合わせてその才能の畝を耕していたのだが、呂布が兵士として働くに際してぺらぺらと喋るのをやめたのである。

 

それはあくまでも呂布は兵士の一人であり、軍の指揮官ではないからだった。作戦を伝えるのは軍の指揮官だけとか決めたならばそれを徹底すべきだという彼の原則は、愛娘が兵士となった時にも適応されている。

呂布もそれはわかっていた。彼女としても敬愛してやまない保護者が、『あの人は身内を贔屓にする』と言われるのは嫌だった。故に、呂布はコツコツと武勲を上げて親衛騎の指揮官として相応しい武技を持っていると証明し、その任についたのである。

 

「……なるほど、横形に隊列を組んだ兵士は機敏に回頭することができないし、側面・或いは斜めから仕掛けられると脆さを露呈させることになりますな」

 

「恋たちは、引き付けて敵の前進を抑制。敵の名将の視線を釘付けにすればいい」

 

「何故それを李師の大将に言わないんです?

身内びいきもありますが、私としてはあなたは一万くらいなら動かせると考えてるんですが」

 

呂布は、今でも親衛騎の隊長だった。彼女の武勇が輝き過ぎ、用兵家としての才能を周りは認めていない。

認めていないというか、そんなものはないと思っている。

 

そんなことはないということを薄々勘づいているのが趙雲であり、田予だった。

 

李師は兵法というか、経験談的なものを教えるにつれて彼女の中に大量虐殺者見習いの才能を見出し、自由意志を尊重すべきだと言いつつも本を買ってやるだけで、結果として口を噤んでいる。

指揮官として相応しい態度とは言えないし、ついつい話してしまうこともあるのだが、親としてはごく一般的にダメな父でしかないことを、この話は証明していた。

 

誰でも自分の娘を、大量虐殺者にしたくはない。

そのことを、呂布も感じている。保護者は、自分が用兵家となることを望んでなどいないことを、彼女は作戦案を考えている途中の思考を―――つまり頭の中身を口からボロボロと出し、その時に呂布が側にいた時の『しまった』と言わんばかりの表情で理解していた。

 

彼は自由意志を尊重すべきだと言う教育方針だが、本音では戦ってほしくなどないのであろう。

 

「嬰には、用兵家は必要ない」

 

「…………まあ、そうですな」

 

将軍と軍師を兼ねているような男である。考えて行動する用兵家よりも、現場で調整・実行してくれる指揮官が欲しい。

呂布は、それに徹していた。

 

「それに」

 

「あ、まだあるんです?」

 

「……能力は、実績で見せる物。弁説でじゃ、ない」

 

極めてごもっともな正論に、遂に軽口叩くのが趣味のような成廉も黙る。

弁説では言えても、実行できるとは限らない。実行できる能力を持っていることを実績で示し、その実績に比肩する地位を貰うのが正しいということは、彼にはよくわかっていた。

 

「隊長、私も仰る通りだと思います」

 

「……ん」

 

高順の同意を得て、呂布は感情を表に出さないままに頷く。

保護者とは違い、誤解されがちだが頑張って理解してもらおうとする彼女は、部下が自分をわかってくれることが嬉しかった。

 

「ですが、今回の戦いで将の首を上げたのですから、昇進は確実でしょうな」

 

彼女がとった首は将の首を七、兵の首は数えるのが馬鹿らしい。

突撃の巧妙さでもその用兵家としての才幹を僅かに見せてはいたが、前者の功が派手であり、わかり易かったのである。

 

「それは、受けない」

 

「実績は報われるべき、ではないのですか?」

 

「敵将の首は殆ど恋一人で取ったから、だめ」

 

用兵家として立てた功よりも個人としての功が大きい。

ありえないことではあるが、超人的な武勇を持つ呂布だから仕方ないとしか言えなかった。

 

「個人の武勇で出世できるのは、ここまで。もう少し身につくまで、ここで頑張る」

 

「そういうことでしたら、我等としても異存はありません」

 

「お金は、ちゃんと配る」

 

隊として動くより呂布が呂布として動いた方が強いという都合上、親衛騎の武勲は霞むのである。

もちろん李師は私財でそれに報いているが、呂布も自分の功で得た金銭を分配することや、他の隊への移籍の便宜を図ることで報いていた。

 

結果としてこの親衛騎は李師の護衛ということで自分から望んで来た者と、呂布を超えてやると息巻く者と、負けて呂布に忠誠を誓った者に分けられるということになったのである。

 

「私は要りません。隊長は隊長の為に、その金をお使い下さい」

 

「……二人は?」

 

「いただけるものはいただきますとも」

 

清教徒的な廉直さと金銭や野心に踊らされない潔癖さを持った高順は、鎧兜を揃えることくらいしか金の使い道がない。

そもそも武勲という臨時給与に頼らずとも、彼の生活には支障はなかった。

 

成廉と魏越は色々なところで金を使う為、普通に貰う。

基本的に後者が多く、なおかつ『金の為にやっている』ことが多いのが普通の軍であるところを、『やりたいからやっている。でも金が有ればなお良し』と考える人種が多いのが李師の私兵の特徴だった。

 

だから基本的に、忠誠心も士気も高い。

 

「二人も、金を派手に使うのはやめたほうがいい。老後に困るぞ」

 

「堅実ですな、副隊長は」

 

「謹厳実直に廉直を足した概念を人にしたような方であられるからな。我等が副隊長殿は」

 

別に仲が悪いわけではない三人のやり取りをぼんやりと聴き、暫くして呂布はひょいっと立ち上がる。

 

空に、鏑矢が打ち上がっていた。

 

「開戦」

 

「はっ」

 

「おうさ」

 

「やりますかね」

 

呂布の騎兵は、敵左翼部に向けて進発する。

その行軍は迅速であり、練度と士気の高さを表していた。

 

「敵は前日の麴の旗の将の如き堅陣を敷いているようです。どうなさいますか?」

 

「騎射」

 

「はっ」

 

全員が弓を構え、次発の矢を唇で挟む。

両手放しで馬に乗るという猛将タイプの指揮官の必須技能を、親衛騎はいとも容易く使っていた。

呂布の練兵は、極めて有効なものだったのである。

 

「斉射」

 

四日目の戦いは、呂布の斉射によって始まった。

 

斉射して後、再び装填して放ち、装填して放つ。

夏侯淵の得意とする迅速極まりない斉射三連とは精度が違うが、呂布はその五分の一ほどを実戦で運用できていた。

 

「やろうと思えばできるもんだな、うちの隊長も」

 

「軽口を叩くなよ、成廉」

 

「おりゃあ隊長の手腕を認めてんのさ。あれは三年か五年経てば李師の大将の副将どころか、対抗馬にもにもなれるぜ?」

 

「今大事なのは今の隊長がどこまでやれるか、だろ」

 

「なんだ、つまらん奴だな」

 

「ありがとよ」

 

皮肉に彩られた会話を窘める役の高順が各隊の連携を整えているのを傍から見ながら、成廉と魏越は軽口を叩く。

もはや彼等から、こういうたぐいの会話を取り上げるのは不可能だとすら言えた。

 

「狙点、左翼中央部に一点集中」

 

呂布の命令が各隊に速やかに伝達され、軽口を叩きあっていた二人も息を合わせて狙点を合わせる。

こういう言い方は彼女は好まないかもしれないが、李師の弟子だけあって使い時が巧かった。

 

「撃て」

 

敵陣の一角を突き崩し、すぐさま乗り崩しに入る手腕は、高順が思わずハッとするほど保護者に似ている。

比べればまだまだ稚拙だが、それにしても見事だと言えた。

 

「隊長、突撃した後はどうなさいますか?」

 

「注意を引きつける」

 

攻勢限界点と引き返せなくなるギリギリの線で、呂布は趙雲仕込みの鮮やかな逃げっぷりを見せた。

暴れるだけ暴れて、整然とした体を隠しながら、如何にも敵の逆撃で崩されたと言わんばかりに退いたのである。

 

これは案外うまく行き、呂布の首という最大の武勲に釣られた兵が多く居た。

しかも攻めに行って敗退した左翼のみならず、中央部までもがわずかに突出してしまうという結果を生む。

 

殆どの者の視線は、自然と左翼部に集中していた。

 

何をしてくるのか。

何が目的なのか。

あいつが無駄な手を打つわけがない。

 

そんな警戒と、先を読むことの困難さ、困難だからこそ読んでやるという軍師たちの誇りと矜持が、その戦術の一端であろう呂布隊の動きに集中した。

最強部隊を陽動に使うはずがない。だが、奴ならばやりかねない。しかし、奇をてらうだけで終わりかねないことを奴はするか。

 

様々な思考と予想、彼の成してきた実績の全てが、軍師たちの目を現実の風景を認識することから未来の光景を認識することへと移す。

 

そして呂布隊の攻撃から一刻後、魔術が炸裂した。

 

「敵軍が斜行運動を行い、我が軍右翼を旋回して半包囲、前方斜め方向から攻撃を開始しつつあります!」

 

思考の海に埋没していた名将と軍師の眼よりも速く、凡人である兵士がそれを見つける。

そのこと自体が、彼の心理的トラップの所在を表していた。

 

「右翼の隊列を整え直し、全軍で時計回りに移動して逆に包囲しなさい!」

 

「駄目です!重装備の我が軍がその機動を終える前に、右翼が壊滅してしまいます!」

 

田豊は、ここで気づいた。

他の名将も、軍師も。将としての能力に優れたもの全てが、これと類似する報告で思考の海から引っ張り出された。

 

一日目の劣勢を保ちながらの小競り合いは、二日目の攻勢を誘発するため。

二日目の攻勢を誘発したのは、逆撃を喰らわせて出血を強い、こちらの機動力が鈍る横形陣を取らせる為。

三日目に凡戦を演じたのは、こちらの方針を消耗戦に固定させて機動力を改めて削ぎ、更には『何故凡戦を演じたのか』と疑わせる為。

 

名将・軍師以外の意識は武名名高き呂布隊に割かせ、名将・軍師には何故呂布隊を動かしたのかと疑わせる為。

そして、四日目の攻勢を防ぐ術を、無くす為。

 

「麴義相手に趙雲と華雄が負けたのも、その為か……」

 

あの堅陣は、有効である。

そう示し、実施させる為。

 

「田豊さん、策は―――」

 

「麗羽様。この戦は負けです。殿は私が務めます。一刻も早く冀州へとお帰りになり、再起をお計りください」



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汜水関決戦・終

トウセツ様、暇人@黒様、タラコス様、コイクチ様、野々と様、評価いただき幸いです。
コイクチ様、野々と様。十評価感謝感激であります!

十件を超える感想、感謝です。アイデアを刺激されたおかげで、手早く書けました。


田豊が隠し立てをせずにそう献策した時、右翼部では最後の反攻が行われていた。

 

李師の心理的トラップで敵の対応を不可能に近いほどに鈍化させ、田予の部隊運用の見事さで右翼部を半包囲すべく全軍で展開を終えた対連合同盟軍三万は、凄まじい攻勢をかけている。

 

今までの李師は智将とでも言うべき冷徹さと先読みで以って敵の手から己の手を出すことなく落下させ、それを拾ってきた。

しかし今、腕ごと引き千切ってやるかのような猛攻を仕掛けていたのである。

 

「華雄、行け!」

 

「はっ!」

 

一点集中射撃と斉射三連で局所的優勢を決定付け、李師はいつになく声を張って彼の最も信任する矛を投擲する。

夏侯惇よりは破壊力に劣るが、機動力に於いては勝る華雄隊五千は、味方騎射隊七千と弩兵隊八千の掩護を受けて突撃を開始した。

 

「いいか。敵右翼部はこちらに撃ち竦められ、数を四万にまで減らしている。こちらは三万。攻撃にしているのは二万。向こうの二分の一だが、敵のまともに参加している兵力は五千に満たない。吾々は四倍の兵力で以って四分の一を蹴散らせば良い。

今までこの華雄隊は己の数倍の敵に突撃し、勝ってきたのだ。四倍の兵力で、負ける筈もない」

 

配下の兵の士気を鼓舞し、彼女は彼女らしい言葉で突撃前の台詞を切る。

 

「大軍に区々たる用兵など必要ない。ひたすら前進し攻撃せよ!」

 

地を揺らすような咆哮と共に、華雄隊は数量的には八倍の敵に突撃を敢行した。

滅茶苦茶な理屈を言ってもなんとなくそれらしく聴こえるのが、彼女の才能であろう。場の勢いにのせるのが巧みなのである

 

「用意してあるな!」

 

「はっ。ですが、四倍の張りを持たせては、如何なる弩も一射で壊れてしまいます」

 

「問題ない。吾々は突破力をこそ必要としているのだからな」

 

前衛たる彼等二千が手に持つのは、四倍の張りを持たせた弩。

矢は既に装填してあり、今にも壊れんばかりの軋みを上げている。

 

こんな張りを持たせた弩が放たれれば、敵兵を鎧ごと撃ち抜くのは疑いがなかった。

 

「撃てッ!」

 

最早お馴染みの一点集中射撃が行われ、前衛二千の放った矢が敵兵の鎧を撃ち抜いて薙ぎ倒す。

 

「弩を捨て、総員近接戦闘用意!」

 

龍の咆哮をまともに喰らった如く斃れ伏す敵軍を前に、華雄は一際大きく叫んだ。

 

「金鎧は目立つ。目の前に見えた金色は全て殺せ!」

 

華雄は猛進する。薙ぎ倒された敵を馬蹄に踏み敷き、斧の刃で全てを斬り殺していた。

正面に対抗する為に堅牢な隊列を組んでいたことが仇となり、まともな方向転換もできない敵軍を突き崩すなど、華雄からすれば草を刈るほどに容易である。

 

半ばまでを半刻(十分)たらずで突き崩したあたりで、華雄の視界に纏まって抵抗しようとする一軍が見えた。

 

纏まって陣を固めているならば突き崩せる。

 

獰猛な笑みを浮かべつつ更に猛進すると、その一軍は呼応するように前進を開始した。

防御に徹していては止められない華雄隊を逆に攻め、撃退して後撤退する。

 

劉表軍の客将である劉備の配下である諸葛亮と鳳統が土壇場で立てた策が、それだった。

敵はひたすらに猛進してくる。逆撃を喰らわせて攻守を転換させることも容易ではないが、背中を見せれば更に血を流すことになるのだ。

 

華雄からしてもこれは想定外なことであったが、敵となる劉表軍八千からしても想定外なことが起こっていた。

侵攻速度が速過ぎたのである。

 

弩が破壊に追い込まれることを覚悟しての四倍張りの一点集中射撃で屍と変わった者は三千よりは下でも千は下らない。

彼らを突破するのに必要な時間も、諸葛亮と鳳統は精密に計算して逆撃態勢の構築の一助としていた。

 

その誤差が、モロに出たのである。

しかし、そこで脆くも崩れてしまうほど諸葛亮と鳳統は甘くはない。

時間に誤差が出たとわかった瞬間に何とか計算をやり直し、時間を詰めて逆撃態勢を整える。

 

結果として、諸葛亮と鳳統は自軍の集結と統率、逆撃態勢の構築を短時間で終わらせることによって李師と夏侯淵から感嘆を得た。

しかし、それはあくまで己の局地的な戦術的劣勢を覆しえるものに過ぎず、全軍の崩壊は防げない。

 

「ごく局所的な戦術的には正しい判断だ。些か遅きに失するが、自軍の保全としては正しい」

 

「見事だが、もう遅いな」

 

弩兵と弓兵を統率して敵の展開を阻み、敵の堅陣を脆弱な斜め前と横部から突き崩していた二人の将が、別の場所で同時に、殆ど同一の事象を見て、褒める。

 

最早勝ちは揺るがない。横から突入した華雄隊が損耗しても、斜め前から突入した張遼隊が敵の堅陣を打ち崩すのだ。

 

だが、できるだけ被害は出したくはない。

その彼の意思を実行し、死者を減らすことができるのは、彼等ではなく最前線に立つ華雄なのである。

 

彼女は能動と機動性に富んだ速攻に定評があるが、その反面迎撃戦となるとやや粘りに欠けていた。

この大陸の将では夏侯惇に近く、攻勢に強い猛将だと言えよう。

 

この逆撃をいなせるのは、夏侯淵と張遼。わざと退いてカウンター逆撃を喰らわせてやるのが、趙雲。

意に介さずにも突撃して無理矢理突破するのが夏侯惇な為、誰もが正面衝突めいた光景を一瞬後の光景として幻視していた。

 

その時である。

 

「構うな、敵に突破させそのまま前進だ」

 

「迎撃はなさらないのですか?」

 

「後ろの夏侯淵に擦り付けてやろう。吾々はただただ前進するのみだ」

 

受け流すというような芸当を持ち合わせることもない華雄は、突撃に合わせて自軍を左右に突撃させて真っ二つに割ることで対処した。

少ない兵力を、更に細分化したのである。

 

「とは言っても、合流地点を決めていなかったな……」

 

機敏で能動的な用兵を持つと言っても、まだまだ危機に対応出来るだけでその後の危機を招きやすい思慮の浅さを露呈させ、華雄は咄嗟にとった左右分割をどうするかと考え、咄嗟に思いついた。

 

一度敵の横に突撃させ、そこから敵を避ける為に左右に突撃させた。ならば、一方はそのまま左に抜けて敵の後背に回り込み、もう一方はそのまま右に抜けて敵の前方に回り込み、それぞれ斜め方向から突入。その交差地点で方向転換して斜行突撃から直進突撃に切り替えれば合流できるのではないか。

 

「取り敢えず将軍が突撃なされば、向こうも合わせるでしょう」

 

「ならそうしようか。もう少しで敵右翼は崩壊する。ここは放っておいてこちらは右回りに、分割された別働隊は左回りに斜め方向から突入して中央部で合流しよう。伝令を送れ」

 

「はっ」

 

結果的に、この気がおかしくなったとしか思えない用兵は華雄の常軌を逸した突破力と敵の士気の低さと潰乱ぶりから成功する。

一度左右にわかれた華雄隊は、敵中央部で合流。多少の混乱はあったものの概ね大過なく再度の直進突撃に入れた。

 

問題は、逆撃をした筈がその標的を喪い、計らずとも突撃態勢に入ってしまった劉表軍八千であろう。

彼女等は、動揺した。突撃してくる猛獣を迎撃しようと前に出たら、そこには猟師がいたのである。

 

凡将ならば、これに動揺して寧ろ退く。だが、鳳統は敢えて直進した。

下がっても被害が出る。下がった後に突破しようとしても被害が出る。

 

ならばこの機会をむしろ活かすべきではないか。

総員が覚悟を決めて突撃してくる様を、一方的に射殺し、掩護する役に徹していた筈が迎え撃つ側に立たされた両者はこう評した。

 

「あれは手強いし、将も軍師も非凡だ。まともに戦いたくはないな。

妙才なら、合わせてくれるだろう」

 

「なるほど、死兵だ。まともに相対する愚は避けるべきだな。

仲珞ならばいなすか、或いは解くか」

 

緑の鎧の軍と、黒に青の装飾を施した鎧の軍。

両軍の隙間を縫って突破しようとした諸葛亮の前に広がったのは、尖端がぶつかる前に左右に旋回していく敵という、どこかで見たような光景だったのである。

 

「包囲し、正面から射撃しているから懸命に生きようとして死兵になる。ここは逆に一部を解いて脱出させ、その地点に射撃を集中させれば『交戦する』ことよりも『逃げる』方が生存率において勝ってしまう。死兵の交戦意志が生存欲求によるものである以上、彼等は必ずその脱出できる地点に先を争って飛び込むはずだ。そこを狙う」

 

「お得意の心理的罠を仕掛けていると見える。合わせてやるのが最善、だ」

 

左右にわかれた二軍は、お互いの目的を読み切ったが如き見事な連携で再展開し、密集すれば辛うじて脱出できる程度の穴を開けた。

 

ここで散開した後に密集し、敵陣を強行突破すれば、勝てる。

 

そう思った鳳統は素早くその旨を伝達した。

対抗策は残されている。そのように見えたのである。

 

「駄目です!兵が我先にと敵の包囲陣の欠損部分に飛び込んでいきます!」

 

更に悪辣なことに、李師は最初の数百人には矢を放たなかった。

 

これによりあたかも『脱出できる安全な地点ですよ』と実演してみせる。

こうなると、もう兵たちは一直線に欠損部分に突撃した。

そして結果として、凄まじい密集隊形をとってしまっていたのである。

 

「敵の密集部分に一点集中射撃を行え。なるべく正確に、効率的にだ」

 

「斉射三連。敵の密集部分の中央に、仲珞は射撃を集中させるに相違ない。吾々のやるべきは周りを的確に打ち崩すことだ」

 

矢が横殴りの雨のように降り注ぎ、おそらく正面から戦えばただでは済まなかったであろう八千の軍は忽ちその総数を減らした。

劉表軍は実に六割の被害を出し、潰走というべき体をとって荊州に命からがら落ち延びることになる。

 

この戦いで、反董卓連合軍の右翼は壊滅した。

左翼の袁術は負けたと見て脱兎の如く逃げ出し、呂布隊の紡錘陣形をとっての突撃で一割の損害を出して撤退。

残っているのは、中央部で頑強な抵抗を続けている袁紹軍のみであろう。

 

「追撃致しますか。今なら劉表軍を殲滅することも苦ではないと思いますが」

 

「余分なことに戦力を裂く余裕は、吾が軍にはない。ここは袁紹を捕らえることに注力し、確実にそれを達成することが肝要だ」

 

「わかりました」

 

兵たちの疑問と焦燥、無用な突出を抑える為に敢えて彼の取らないであろう策を提言した趙雲が一つ頭を下げてその場を辞した。

あくまで形式的にも、選択肢を外して無用な行動を止めなければならないことを、彼女はよくよく理解している。

 

無論、それが自分らしくはないということも。

 

「伝令!」

 

「どうした?」

 

それからしばらく頑強な敵の中央部を半包囲して攻め続け、趙雲隊を後方に回り込ませて敵の脱出に備えようとした時、赤い装甲を纏った親衛騎の内の一人が本陣へと駆け込み、歓喜と興奮を言葉の節々に滲ませながら息を整えた。

 

「吾ら親衛騎、敵盟主袁紹を二刻の並行追撃の末に捕らえました」

 




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種子

一連の戦いでの対連合同盟軍の死者は、約三万五千の内の四千。

反董卓連合軍の死者は、約二十五万の内の十万。降伏者は三万五千。

 

内訳としては陽人の戦いにおいて五万を、この汜水関の戦いで五万を。それぞれ失ったことになる。

更に、袁紹軍の残存戦力の三万が降伏。

 

キルレシオにして1対33という凄まじい大勝を齎した男は汜水関に帰る前、安堵したような顔で一言呟いた。

 

「……なんとか、勝てたな」

 

側で聴いていた趙雲からすれば汜水関を出る前はともかく出てからは極めて論理立てた戦闘の連続で、無駄な戦闘を一回もすることなく、無駄な流血を起こすことなく、最後は勝つべくして勝ったと言う印象が強い。

既に周りの者は降伏者の武装解除と袁紹軍幹部の禁錮を終えた兵たちが口々に興奮冷めやまぬ勢いで今回の一連の戦いの趨勢と明かされた魔術のタネについて喋っている。汜水関に帰れば、酒でも飲みはじめるだろう。

 

案の定、帰ってきた汜水関にいる人間は疲れを忘れた兵士と絶望感に浸る捕虜と、己がこの歴史的な戦勝に関われたと言う喜びを噛み締める将と、このどこか陰鬱な感じな総司令官に分かれていた。

 

「捕虜は丁重に扱ってくれ。あと、食事も出してあげてくれ」

 

「りょうかいしましたぁー!」

 

気楽な感じで厨房に走っていく華雄を目で追い、無言で食べ物を頬張っている呂布と『吾、快なり』とでも言うかのように酒を飲む張遼を視界に入れ、隣にあって静かに料理を食べている田予を見て、猫と戯れつつ飲みやすい酒を飲んでいる周泰を見る。

いずれも、陰鬱な表情とは程遠い。

 

「何処に行かれるので?」

「花を摘みに」

 

凄まじくテンションの低い受け答えに対して皮肉を仕込むほど空気の読めない女ではない趙雲は、さり気なく呂布に視線をやって押し留めた。

 

一人になりたい時も、ある。

 

内面が入り組んでいる人間ならば、特に。

 

(思想家であり、将であったのがその複雑さを構成している。その内面の複雑さは魅力としてある、が……)

 

その内面の複雑さが、能力の全てを発揮させることを阻んでいるのではないか。

戦勝に高揚している心を酒で冷ましながら、趙雲は一人ごちる。

 

「……難儀な方だ」

 

恐らくは稀代の戦争の名人でありながら、誰よりも戦争を倦んでいる。誰よりも犠牲を、死を嫌っている。誰よりも、戦争の愚劣さを知っている。

 

その難儀な方は、兵たちが喜んでいる様を見物しながら人気のない場所を探していた。

まだ酔いきっていない何人かの兵が慌てて礼を示して敬意を表すが、それを手で抑えてただ歩く。

 

誰よりもこの勝利の栄光を誇り、その余光と言うべき歓喜と興奮を得るべき男は、ひたすらな陰鬱さと嫌悪を己に篭めて歩き、誰もいない庭で胡座をかいた。

「……十四万、か」

 

一人に、二人の兄弟と親が居たとする。

悲しむのは四人。怒るのは四人。五十六万人もの人間が、少なくともそれくらいの人間は自分に怒りと怨みと憎しみを向けているのだ。

 

この上で、まだ殺す。

 

小さな五稜星の金印が付いた帽子で顔を覆い、李師は後頭部で手を組んで枕代わりにごろりと寝転がった。

 

「いつになく、沈鬱な顔をしているのか?」

 

「妙才、君は空気を読めるのか読めないのかわからないな」

 

少し離れた縁側に腰掛けているのは、月に照らされた蒼の名将。

彼が伝えなければならないことがあると考え、探そうとしていた人物である。

 

「で、魔術どころか奇跡を起こした李仲珞殿はこんなところで何をしておられる?」

 

「大量虐殺をした私には天が雷を落としてくるかもしれない。他人を巻き添えにしたくないから離れてみたのさ」

 

「この世界がそんな便利な仕組みで動いているものだったならば、戦争等は起こらん。大量虐殺者が裁かれないから戦争を起こそうと思うのだろうな」

 

雷を任意に落とせるならば、まず魔術師と言って良いが、彼にそんな力はない。この世のどこにも、そんな力を持ったものは居ないのだ。

 

「それでもやはり、戦争は起こるさ。平和は、多少なりとも長引くだろうけどね」

 

「全く以って、人間というものは度し難い。だが、だからこそだという、気もする」

 

傍から見たような意見を聴いて目を瞑り、李師は大地に投げていた身体をゆっくりと起こす。

 

「私はぜんたい、流した血に値するだけの何かをやれるのだろうか……」

 

「貴官ならば、やる気と己の行動に対する一貫した明確な指針があればやれる。尤も、その席の座り心地は悪いものだろう。

なんなら私が担いでやっても良いが」

 

ともすれば謀叛の誘いのような文言を呑み込み、再び聴かなかったことにした李師は、頭の中身を切り替えた。

もうあまり時間がないのだから、やれる時にやれることをやっておくべきであろう。

 

「穏やかな誘いじゃないな」

 

「ああ、『全てが掌の上などという』質と感性のない冗談の意趣返しなのだから、それは当たり前だ」

 

「その冗談は計らずも冗談ではなくなったわけだが?」

 

「それを問うか。意趣返しだと言っただろう?」

 

髪に隠れた片眼を野心で妖しく光らせながら限りなくグレーに答える彼女に眉を顰めつつ、李師は目の前のあらゆる均衡が―――恐らくは野心と覇気と才能までもが―――取れた戦友の字を呼んだ。

 

「妙才」

 

「うん?」

 

「私は君を友だと思っている。君が私をどう思っているかは知らないが、忠告として聴いてくれると幸いだ」

 

字を呼び捨てにし合っているだけでそう判断しても良さそうなところを、彼は持ち前の慎重さと冷静さであくまでも一歩ずつ踏み締めるような形で進んだ。

 

無論、夏侯淵からすれば彼は珍しく素を見せながら語らえる貴重な人間である。

友であると、言っても良かった。

 

「では、智略豊かな友の忠告として聴かせてもらおう」

 

「……捕虜と袁紹軍の幹部から情報を収集した。袁紹軍の卓抜した情報工作には、商人が関わっていたらしい」

 

「それで」

 

「袁紹が頼んだ結果、勿論対価を要求されたらしい。しかし、普通土地に縛られている商人が何故、都合の良い情報を他の領内に効率の良く信じさせることができたんだ?」

 

行商人であろうと、当時は思っていた。しかし、訊き出した『噂を広め始めた時』と『広まるまでの時』が符合しない。

どう考えても行商しながら進んだ場合到達できない地点に、到達できないであろう時に噂が及んでいる。

 

これは定期的に周囲を探らせていた周泰からの情報であり、極めて信憑性が高かった。

 

「……おかしいと言えば、おかしい。しかし、商売よりも移動を優先させたならば無理はあるまい?」

 

「君もわかっているはずだ。噂を広めるには長期間滞在せねばならないということを」

 

「なら、どういうことになる?」

 

「商人が横で繋がっているのではないか、ということさ。勿論全員ではないが、一部の行商人と一部の店を構えた商人の間には、見えぬ紐帯が結ばれている。だからこそ、こんなにも迅速に噂が広まった」

 

一聴すれば、ただの夢想であろう。商人が横で繋がり、特定の家の為に働いているなど。

だが、事実として噂の広まる速度が速すぎた。広まった後、鎮火しようにもできないほどに根強く、執拗な物を短期間で植え付けられるとも思えない。

 

「彼等は少なくとも今は、袁紹に全面的に協力している」

 

「ふむ」

 

「兵数と装備の質は、二州で賄えるものではなかった。経済的な援助も受けている。恐らくは、だが」

 

夏侯淵は、首を傾げた。

確かにその証拠があるならば、商人達が袁紹を援助していた理由として頷ける。

だが、それが何故脅威であるのかと考えれば、彼女はいまいち掴めなかった。

 

別に謀略に疎いわけでもないが、詳しくもないのが彼女なのである。

政戦両略を過不足なくこなせるが、謀略を僅かに苦手としていた。

 

「……袁紹が負けた以上、彼等からすれば大損だな。横の繋がりは脅威だが、多少なりとも勢力は削げるだろう」

 

「いや、おそらく―――」

 

ここで一つ頭を振り、李師は己の口を閉じる。

 

「すまない。憶測で物を言うところだった」

 

「周泰が汜水関から離れていたのは、それを調べていたのだな?」

 

「ああ。だが、肝心な証拠がない。むやみに君の思考を膠着させるのは、宜しくない」

 

この一言を境に、またまた話は入れ替わった。

というよりも、一つ前の話題に戻ったといったほうが良いかもしれない。

 

「仲珞。もし貴官が国を作るとしたら、どのような国を作る?」

 

「構想はあるんだ。考えるのは好きだからね」

 

「是非、聴かせてもらおうか」

 

現在の漢は、皇帝による血統を第一にした世襲制である。

李師の思想は、その一人が民を治めるという現在の体制に疑問を呈すものだった。

 

「つまり貴官は、民は民によって治められるべきだと、そう言うのか?」

 

「災害が起こったならば個人の所為。悪政を敷いたら個人の所為。善政を敷いても個人の功績。こういう政治体制は、決して臣民の精神上よろしいと言えるものではないと思う」

 

「誰もが個人の所為にできる、ということか」

 

あれが起こったのは皇帝の所為。あれが起こったのは皇帝の所為。全てがそれで解決するのは明快ではあるが、思考を狭めて己の頭を帽子置きにしてしまう可能性を孕んでいる。

民が民を治めれば、少なくとも己の行動すべてが結果はどうあれ己に帰ってくるのだから、言い訳はできなかった。

 

それでもなお、他人の所為にするかもしれないのが人というものだと、夏侯淵は思うが。

 

「うん。私の理想とする国家は支配者が被支配者に制御され、被支配者が支配者を選ぶようなものなんだ。

宮廷に篭っては見えない物や聴こえない意見が直接政治に反映されればそれは素晴らしいことだし、更に言えば行うことによって民が恩恵や迷惑を被る政治というものは本来、民によってこそ運営されるべきだ」

 

「理屈は正しい。思想としても新鮮であり、創造性に満ちている。しかし、欠点が美点を上回っているな」

 

夏侯淵が挙げたのは、五つである。

 

一。どうやって支配者を選ぶか。

二。支配者を選べるだけの能力が民にあるのか。

三。選んだ支配者を代える手段を民に持たせなければ結局のところ元に戻るのではないか。

四。手段を与えたとして、支配者がそれに従うのか。

五。そもそもこの思想を民は理解できるのか。

 

取り敢えず挙げただけではあるが、彼の理想は穴だらけも甚だしかった。

 

「一と三に関しては思いついてある」

 

「ほぉ」

 

「一に関しては一人一人に候補の中から誰を選ぶかを各村で訊いてもらい、一番多く選ばれた人間を支配者にする。三に関しては、一定期間でもう一回その選びをすればいいだろう?」

 

「二と四と五は」

 

「私は思想家じゃないんでね」

 

拗ねているというよりも、自分の能力の限界を嘲るように、李師は肩を竦める。

彼はその行動で、別に否定して穴を突くだけが能ではない夏侯淵に、意見を求めたとも言えた。

「二と五に関しては私も有効策を見いだせない。なにせ、教養の底上げなど一朝一夕にできるものではないからな。が、四に関しては思いつく」

 

「是非」

 

「軍事権と政務権をわけて一人ずつに統括させ、その支配者がさらに両者を統括する形を取る。その支配者が民が選んだ代表に支配権を渡さない場合は、軍事権をもってこれを討つ。武断的ではあるし穴だらけだが、これくらいか」

 

「難しいな」

 

「ああ、国とは理想を柱にして成り立つものだからな。たった二人で国の基礎となりうる柱を作ろうというのだから、難しいに決まっている」

 

「それはそうだ―――ん?」

 

ここでようやく、李師は自分が謀叛とも取れる発言を乱発していることに気づいたのである。

 

「夏侯妙才……」

 

「すまない。だが、論を交わしたかっただけだ。許してくれ」

 

陰鬱なものが和らいだ李師の顔を見て僅かな笑いながら、夏侯淵は手に持っていた酒杯を渡した。

 

「飲もう。なにも折角の祝勝会を、寝て過ごすこともない」

 

そう和やかに誘いつつ、夏侯淵は一人先程の商人の件を思い出す。

 

(恐らく、か)

 

恐らくその商人が結託していたのは袁家ではなく、最終的により多くの利益を占めた者だ。

それは恐らく、蜀の劉焉。と言うよりは、その配下の謀将たる法正だろうか。

 

これを己に伝えた李師の心は測るでもなく純粋な心配から来ているのだろう。

 

(仲珞。私は謀略などで斃れはしない。お前もだ。この私がお前のような用兵の芸術家に首輪を嵌められて鎖に繋がれるのではなく、薄汚い謀略によって死ぬなど、矜持が許さん)




春蘭「竜頭蛇尾もいいところではないか!」


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投降

天下の情勢について、触れておく。

この半年以上かかった反董卓連合軍対対連合同盟軍の戦いで、主要な各勢力は等しく消耗し、小勢力は兵の数割という回復不可能なダメージを受けて滅亡した。

 

戦前の二大巨頭である董卓軍は劉焉に後背を突かれて長安を陥落させられた上に捕虜にされ、袁紹軍は諸侯に対する影響力と名声、広大に過ぎた領土の一部を失い、更には主君と主力部隊をまるごと捕虜にされている。

 

曹操軍と公孫瓚軍も軍を消耗させ、すぐに侵攻できるほどの力はない。人的損失はさほどでもない袁術も武具兵糧を投げ捨てて逃げ散ったが為に征旅が困難。

 

劉焉軍もなんだかんだで頑強に抵抗した董卓軍防衛部隊による守城戦で数を減らされ、更には内部にまだ爆薬を抱えているような状況だった。

天下に突出した勢力が消えてしまった日より、二日。

 

劉焉に長安をとられたとの急報が、激戦の末で蓄積していた疲労を癒やしていた汜水関の将兵の脳髄を貫いたのである。

 

「予想より速かったな」

 

「予想しとったんなら、なんで予め対策しとかなかったんや?」

 

「どうにもならないからさ。わかっていても、吾等が勝つには一昨日が最速だったんだ。わかることと、防げることは違う」

 

やっぱり全部できるというわけではないのか、と変に納得する張遼の表情は明るいが、やはり暗さが見え隠れしていた。

兵たちの手前そう振る舞わざるを得ないのだから、将軍と言うのは大変な職業だといえるであろう。

 

まあ、感情がダイレクトで表情に反映させられる張遼とは違い、両隣で共に円卓を囲んでいる二人は基本的に自然体でそれができていた。

 

片方は血の気も多いが冷静であり、野心家ではあるが自制心に富む。

もう片方は敵対視した者にはとことん無視と不干渉を貫くが、基本的には包容力とでもいうべきものがあった。

 

「で、内容は?」

 

「董卓と賈駆を捕らえた。こちらも捕虜としている兵が居るから、これら二人と袁紹軍の軍兵を交換しようと」

 

「こちらは三万と幹部七人、むこうは一万足らずと幹部二人。釣り合わん取引だな」

 

感情と大義というものを撤廃したような夏侯淵の捕虜交換に否定的な感想に、張遼は口をへの字にして微妙な顔をする。

彼女としては勿論この捕虜交換に応じて欲しいのだが、この二人の意見が応じたくはないというものならば抗す術がない。

 

何せ袁紹を捕らえたのは呂布で、降伏に追い込んだのは夏侯淵と華雄と己。

第一功は勿論作戦立案者の李師だが、第二功は陽動を完璧にこなした上で敵盟主を捕らえるという手柄を上げた呂布。第三功で華雄と張遼と補佐に徹していた夏侯淵が並ぶのだ。

 

華雄は実質はともかく名目は董卓軍なので、発言権としては李師勢力、董卓軍、夏侯淵勢力となる。

 

つまりどうなるかは、李師の発言にかかっていた。

 

「私としては、この捕虜交換を受けようと思う」

 

「おぉ!」

 

「まぁ、妥当だな」

 

理由としては三つある。

 

まず、彼等の主兵力は借りた董卓軍の軍兵であるということ。

 

次に、補給が途絶えて矢があと一戦で払底しそうな有り様であること。

 

最後に、この戦いがあくまでも董卓を助けるという題目で行われているということ。

 

「これら三つの条件から、袁紹達は返す。勿論、条件に入っていない武装と物資は吾々がそのままいただけばいい」

 

「それに関してだが、少しいいだろうか」

 

「どうぞ、夏侯将軍」

 

悪そうな笑みを浮かべた夏侯淵が挙げた手をチラリと見て、李師は少し不穏なものを感じながら発言を許可した。

三者同地位を掲げている癖に担がれてしまっているあたり、彼の足元と脇は甘いとしか言えないであろう。

 

「郿と敖倉、滎陽に董卓軍の補給物資が貯まっている。これを余分な警備兵ごといただいてしまおう」

 

「確かに条件には入っていない。が、許可が無いのに占領される前に引き上げられるかな?」

 

「ウチ、一応補給担当も兼ねとるから最速で運んでこれるで」

 

敵にみすみす軍需物資を与える気もない三者としては、この提案はできるならばしたいことだった。

 

こうして一先ず返答を先延ばしにし、張遼が郿・敖倉・滎陽へ向かう。

敵は長安を占領しただけで周りにまで手を回していないことが、この際上手く働いた。

 

勿論、最上は各地に分散して軍を差し向けて無制限に領土を広げて貰い、各個撃破することだったのだが。

「それにしてもこれは、嫌がらせに近いな」

 

「露骨過ぎるな、その表現は。布石を惜しまぬ、とでも言っていただこう」

 

敗けたからといって、すべてを諦める必要もない。復仇戦をするにせよ力を溜めるにせよ、軍需物資と兵員は多くいればいるほどよいのである。

 

こうして長安以東、汜水関以西の董卓軍の余剰兵員と物資を糾合した汜水関駐留軍はその兵力を四万にまで回復させ、矢や金穀糧秣が倉庫で唸りをあげているという―――少なくとも兵力と物資の上では一大勢力となった。

これは仕方ないことだが、ここまで上手く行っては民間の為の物資と最低限の警備兵には手を付けないという都合上、全てを渡さない訳にはいかなかったのが画竜点睛を欠く。

 

焦土作戦をすれば軍事的勝利から董卓の次代政権を復権をなすこともできたのだが、それは三将とも望むことではなかった。

李師は野心がなく、夏侯淵はどうでもいい人間の為に働く気がせず、張遼の忠誠の対象はあくまでも董卓に向いている。

 

なにより、軍事的勝利は政治的勝利を得る為の一因でしかなく、逆はありえないことを三将は知っていた。

焦土作戦は、少なくともそれを行った土地で軍事的勝利を得られるかもしれないが、政治的勝利に得ることは極めて困難となる。

 

そもそも徴収や焦土作戦をできる性格ではない李師と、あくまでも計算で行うことに否定的な夏侯淵と、感情的に無理な張遼の方針が一致したのは幸いであった。

 

「敵は長安に篭った五万。勝ち目は?」

 

「九割勝てる。が、戦わないからこの数字に意味はないんじゃないかな」

 

城攻めに奇策は通じない。少なくとも軍事的な働き掛けは物理的な防御力がそれを阻む。

城攻めとは心を攻めることではあり、如何に効率的に敵の心に孤立と敗北感を植え付けるかが鍵だった。

 

心理戦ならば一日の長があるこの男に夏侯淵が尋ねたのは、ある意味必然と言える。

 

「勝てると言う気構えでいくのと、負けると言う気構えでいくのとでは結果が大きく異なることもある」

 

「それもそうだ」

 

何となく会話が終わった二人の間に沈黙が満ち、しばらく互いに頭の中で未来を予想すべく筆をとった。

結果的にその予想図を描き終えたのは、夏侯淵が一足速かったのだろう。

 

彼女は目の前に話し相手が居たことを思い出したように唐突に、口を開いた。

 

「そう言えば、貴官は未だ不敗なのだろう?」

 

「小競り合いを含めれば七十三勝二引き分け、かな。敗けてはいないが常勝というほどは勝ててもいないし―――不敗というのが正しいのかもしれないね」

 

「それにしても凄いものだと、私は思うが」

 

基本的に彼は手堅く敗け難い状況を作って奇策を以って敵を不利に置き、心理戦でこれを討つ。

 

孫子の虚実編にあるような兵法を、彼は好んでいた。

 

例えば、先に戦地に処りて敵を待つ者は佚し、後れて戦地に処りて戦いに趨く者は労す。

要は先に戦場に到着して敵を待ち受ける方はユトリがあり、後から戦場に駆けつける方は余裕が無く苦しい戦いを強いられるということだが、彼はその迅速な行軍で、陽人でも汜水関でも常に待ち受ける側に立った。

 

そして、実際兵を動かすときには『善く戦う者は、人を致して人に致されず』を守り、自分が主導権を握っており、他人に引き回されることがない。

引き回されるように見えてもそれは『能く敵人をして自ら至らしむるは、之を利すればなり』、つまり敵が動くに相応しい利益を態と見せ、誘引している。

最後の斜行移動による片翼包囲戦法にしても、奇策に見えるが『攻めて必ず取るは、其の守らざる所を攻むればなり。守りて必ず固きは、其の攻めざる所を守ればなり』、『攻めて必ず成功するのは、敵が守っていない所を攻めるからだ。陣地を必ず守り抜くのは、敵が攻めることの出来ない所にいるからだ』という原則を守っていた。

 

「虚実編の実行者と、言うのかな」

 

「うん?」

 

「言い換えるなら、巧妙に隠した落とし穴の上に金貨を置いておくような用兵だということだ」

 

元々軍人志望ではなく、よって孫子を読んでいない彼からすれば、虚実編などは知る由もない。彼は歴史家になりたいのであって、思想家や兵法家になりたくはないのである。

 

「私の用兵をそう評したのは君で二人目だ」

 

「ほぉ、一人目は誰だ?」

 

「張然明殿さ。この漢には勿体無いほどの見事な御老人だった」

 

檀石槐と愉快な六人の仲間たちが侵攻してきた時の征北将軍であり、涼州三明の二人と共に異民族の侵攻を迎え撃った。

現在三人とも存命しており、全員が男であったことでも知られる前時代の名将たちである。

 

「御年幾つになられる?」

 

「征北将軍になった時に七十とかだったから、今は八十とかじゃないかな。勿論、まだ御老人の時は停止していないよ」

 

「易京の戦いを境に、隠棲されたのであったな」

 

他の涼州三明も引退し、そして李師は征北将軍を辞めた。

前の征北将軍が次の征北将軍に従うという異常事態を引き起こさなければならない程に、その当時の漢は切迫していたのである。

 

「まあ、易京の戦いは私の二引き分けの内の一つだ。撤退に追い込めたから勝ちと言ってもいいのかもしれないが、血を流し過ぎた」

 

「五十万を五万で引き分けに持ち込めるのだから大したものだろう」

 

「その大したものはその後、敢え無く牢に叩き込まれたがね」

 

易京の戦いで檀石槐が流れ矢にあたって死ぬと、六人の仲間たちは分裂して異民族同士での抗争が再び幕を開けた。

つまり、傑出した軍指導者は不要になったのである。

 

「狡兎死して走狗烹らるというのは、漢の通弊だからな」

 

韓信からはじまった、伝統とも言って良い。

歴史的に見れば軍事的に傑出した指揮官は敵があってこそ喜ばれるが、敵を討ち破った後は掌返しで殺されていた。

 

「そして私はなんだかんだあってやる気が尽き、引退した。そんなところさ」

 

易京の話をしたあたりで、彼の頭は別な方向に回転を始めていた。

あそこには、北に向かって設営された防御陣地が無数にある。

 

それと同じ様なものを南側にも作れば楽に袁紹に対抗できるのではないか。

袁紹と精鋭三万を返すにしても、対策は立てなければならない。その為には易京の重要さを敵が認識していない事が必要だった。

 

「失礼致す」

 

入ってきたのは、趙雲。字は子龍。三叉に別れた槍を巧みに操る撤退戦の名手である。

 

彼女に続くのは、焦げ茶色の髪をした不敵そうな女性。将官クラスを集めた会議では、見たことのない人物だった。

 

「こちらの方が気になりますかな?」

 

「まあ、見たことのない顔だからね」

 

不敵そうなところは君にそっくりだよ、とは言わない。

類は友を呼ぶのかとも、言わない。

 

趙雲相手ならばともかく、別に初対面の人間に軽口を叩くほど社交的でもなかったのである。

 

「こいつは麴義と言うのですが、主に仕えたいと申しましてな。捕虜の癖に大口叩く身の程知らずですが、一応連れて参りました」

 

「大口叩くとは存外趙子龍殿も口が悪い。ワタシはただ能力に対して正当な評価を要求しただけだと言うのに」

 

ああ、曲者だ。一目見て、一言聴いただけでそれとわかる曲者だ。しかも趙雲とか成廉とか魏越とかと同類だ、と。

自分のことを棚に上げ、李師はそう確信した。

 

「ワタシを用いませんか、李師殿。あなたが敗けない限りは、ワタシは忠誠を誓いますよ」

 

「極めて辺境的な発想だな」

 

「御理解いただけているようで何より」

 

辺境、と言った時の口調に納得があっても侮蔑がないことに疑問を持ちつつ、麴義は芝居がかった調子で首肯する。

彼女は涼州西平郡出身の人物である。はじめは馬騰に仕え、韓遂に敗けた馬騰を見捨てて韓遂に仕え、その後韓遂の画策した叛乱が鎮圧されるとその鎮圧に来ていた韓馥に己を売り込んで仕えた。

その後は韓馥の双璧として張郃と共に活躍し、韓馥が袁紹に冀州を取られるにあたって自ら叛乱を起こして袁紹を迎えている。

現在も同僚となっている張郃は一応最後まで裏切らなかったことを考えると、彼女の裏切り癖は異常と言えた。

 

こんな危険人物は早々に殺されそうなものだが、彼女は精強な歩兵と弩兵を率いている。

更には、指揮能力に長けていた。

 

その能力は三日目の戦いで―――元々退く前提であったとはいえ―――華雄の猛攻と趙雲の巧緻極まりない誘引をものともしなかったところに表れているし、田豊が『あいつならば華雄の猛攻を防げる』と信用したことにも表れている。

 

その袁紹軍の勇将が、また敗けた主を見限って主を代えようというのであった。

 

「この女、四回裏切っております。尻軽もいいところですが、どうなさいます?」

 

趙雲の明らかに面白がっているような言葉に、李師は軽くため息をついてこれに応じる。

この手の人間の扱いは、彼には慣れていた。

 

「麴義には重歩兵の指揮を任せる。弩兵も現有戦力は己の判断で指揮していい。速やかに兵を纏めて編入するように」

 

「ワタシにそこまで任せるとはまた、破格ですな」

 

「ああ。私は敗けようと思ってはいないからね」

 

刺青が入っているから一目でわかるが、彼女には異民族の血が入っている。

異民族の思考は、漢人とは違うのだ。

 

強い者にこそ忠誠心を懐き、その忠誠心は強い者が強い者である限り減衰することがない。時には己の身を擦り減らし、危機に晒すかのような不屈の勇戦を見せる。

 

漢人の忠誠は『名誉、信念、信義』を源泉とするが、彼女のような人物は『強者』のみ。

 

強い者には犬のように従う。強者の為ならば悪名も嬉々として被る。

だが、強者が弱者になればあっさり裏切る。彼からすれば、はっきりしていてわかりやすい。

 

と言うより、信念とか信義とかいう概念的なものを強烈に信奉する者が理解し切れない彼からすれば、異民族系の思考を持つ彼女はやりやすかった。

 

「では、敗けない限りは忠誠の限りを尽くさせていただきます」

 

「ああ。君の受け持つのは歩兵。戦場の主役だ。勇戦如何によって勝敗が決まるとも、言っていい」

 

敗ける原因となるのは君かもしれないけどね、と軽くプライドを擽るようなことを言ってやり、ムッとした麴義に手を差し出す。

 

「君の勇戦、期待しているよ」

 

「応えましょう」

 

 




檀石槐「お前を叩きのめしたのはこの檀石槐だ。次に叩きのめすのはこの檀石槐だ。覚えておいてもらおう」

張奐「貴官は自己の才能を示すのに、弁舌ではなく実績を持ってすべきだろう。 他人に命令する前に自分には出来るかどうかやってみたらどうだ!」

皇甫規「すみません。食事の途中だったもので」

段熲「おぉ、撃ちまくれ!ここで死んでも無駄死ににならんぞ!」


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幻想

「さて、そろそろ返事をしようか」

 

「そうだな」

 

郿・敖倉・滎陽の三城を中心とした地域から兵を民の迷惑にならない程度に、軍需物資を全て引き上げた汜水関での合同訓練が終わり、充分に統一された動きができるようになったところで、半年以上彼等の住居であった汜水関を後にし、彼等はより長安に近い虎牢関に移動していた。

 

これは情報収集にも利便性があったということもある。

ならば何故今まで連合軍を迎撃してからかなりの日にちがあったにも関わらず動かなかったのかと訊かれれば答えは単純。

 

もし万が一敵が引き返してくることがあったならば、汜水関を落とされた挙句に後背を突かれてしまう。

この可能性が、彼等の行動に慎重さと冷静さを与えていた。

 

既に董卓軍の兵には董卓と賈駆とが囚えられたことを告げ、南方戦線が崩壊したことも告げている。

多少なりとも逃亡兵が出ることを予想していた首脳部に反して、逃亡兵は居なかった。

 

彼等董卓軍からすれば、到底勝てないような戦に勝たせてくれた男が居るというだけで無形の安心感を得られていたのである。

犠牲が少なくなるような戦い方しかしないし、何よりも開戦前よりも兵力が増えた。

 

これなら董卓と賈駆とを救い出すべく戦っても勝てると言う確信が、兵たちの無邪気な心にはある。

 

脱走しやすい虎牢関までの行軍でも、あくまでも逃亡兵は出なかった。

 

「私が書きましょう。これでも常山では『人の心を動かす文を書く』との評を受けておりますぞ」

 

「うん。宛先に喧嘩を売る時になったら君に書いてもらうことにするよ」

 

喧嘩を高値で売りつける才能に富んだ撤退戦の名手の自薦を退け、李師はぐるりと周りを見回す。

適任な人材が、田予くらいしか見当たらない。

 

その時、一本の手が天に向かって掲げられた。

 

「では、ワタシが。これでも教養が深い方だと言う自負がありまして」

 

「お前の教養は敵の対抗心を煽る為のものでしかないのに、よくもそんな偉そうに自薦できたものですな」

 

「そちらこそ、喧嘩を高値で売りつけることしか能がない癖して名文家を名乗るなど痴がましいとは思わんかね?」

 

趙雲と麴義という、同一型の人間が皮肉と毒を織り交ぜて弁論の火花を散らしているのを見て、李師は傍らの呂布を振り返る。

 

「彼女等には困ったものだね、恋。君はああ言う人間になってはいけないよ」

 

「……ん」

 

「わたくしめが考えまするに、大将も同じ様な人間だと思いますが」

 

「そう言うお前さんもな、成廉」

もう呂布を除けば、己に返ってくる言葉しか吐いていないという異常事態の中、夏侯淵と張遼は面白いものでも見るように肘をついて観戦体勢に入った。

本当にどうしようもないブーメランが数回飛び交ったところで、謹厳な咳払いが場を圧す。

 

「皆様方の仲がよろしいのは大いに結構。しかし、会議中は真面目にやっていただきたい」

 

『規律』と『秩序』の二語を守護霊の如く背後に掲げた抑え役のお陰で、この場は何とか収まった。

 

「なんや、終わりかい。もっと見てたかったんやけど―――」

 

「張将軍」

 

やっと収まった火に油を注ごうとする張遼を一言で羽交い締めにし、高順は黙る。

彼は本来、あまり喋る人間ではなかった。喋らなければどうにもならない状況が、増え過ぎただけで。

 

「で、返事の件だ。一応、再び議題を確認するが、これは吾々の出した捕虜交換に応じる旨を記した返事に対して、敵方が軍を互いに布陣させた状態で代表者と護衛を出して交換するということになった。これに対して同意の返事を出すか、異を唱えるか。誰が返事を書くのか。各指揮官の意見を聴きたい」

 

発言権のある参加者は、張遼、華雄、李師、趙雲、夏侯淵。

護衛として呂布、成廉、魏越、高順、典韋、郝昭、胡車児。

 

諜報に出ている周泰を除く殆どの首脳が、この部屋に集まっていた。

 

「李師様」

 

「明命、なんだい?」

 

「お知らせしたいことが」

 

隠密らしからぬ扉からの入室に皆が僅かなりとも驚いている。

普通の周泰だったならば己がその空間を作り出したことに対して何らかの自責と、反省とを示すはずだった。

 

それがないということは、切羽詰まっているのか。

 

「皆、少し席を外す」

 

珍しく真面目な顔をした一同が一様に頷き、神妙に送り出す。

離れの部屋まで歩いていき、辺りを見回した周泰が招きいれた部屋は、物置。

 

納められている物体が防音代わりになるであろう、狭い空間であった。

 

「調べろと言われたことを、調べてきました」

 

「うん」

 

彼が周泰に命令した調べ物は、三つ。

 

商人の横の繋がりについてと、その人員の洗い流し。

 

何故劉焉はそこそこの兵力で守っていたであろう長安を迅速に落とせ、しかも董卓を囚えられたのか。

 

董卓とその軍は無事であるか。

 

いずれも容易に調べがつくことではなく、結界の維持を蒋欽に任せた周泰が直々に探っていたのである。

 

「一つ目ですが、横の繋がりがあることはわかり、大元締めもわかりました。ですが蜀との繋がりとなると、わかりませんでした。商人連合、といったものでしかなく、出身地もバラバラです」

 

「大元締めというのは?」

 

「張世平、という大商人です。諸侯からの借金の用立てもしています」

 

その名をしっかりと頭に入れ、李師は一つ頷いた。

 

「だが、事実としてその商人連合は情報を広めるのに尽力したわけだ」

 

「はい。ですが、袁家からの報酬目当てだということもありえます。というより、その公算大です。袁家はその当時は一大勢力であり、顔を繋ぐことは極めて高い利益を生み出したはずですから」

 

あくまでグレーであり、普通ならば疑いの眼など向けようもない。

なのに何故、自分はここまで気にかかるのか。

 

何処かで仕組まれたような違和感を覚えたというのは、間違いではない。しかし、その仕組み人は袁紹である可能性もある。

 

「ですが、気になるものを見つけました」

 

思考の海に埋没仕掛けていた李師を引き上げるように、周泰は遠慮がちに声をかけた。

 

「張世平の手の者である行商人たちが、二年ほど前から銅の加工品を諸州から続々と弘農に運んでいました。いずれもそれほどの量ではないのですが、集めると相当な量になります。既に蔵を五つ埋めるほどの量がありました」

 

「銅の、加工物」

 

「はい。気になった理由としては、張世平はそれほどの銅細工を何に使うのか、ということです。細々運んだのは盗賊に会わぬためだと説明もつきますが、張世平は武器とか馬とか、そういったものを主に扱います。前々から銅造りの細工物を扱ってはいましたが、いずれも人気で売り残る類のものではありません。少しおかしいと思い、報告させていただきました」

 

一つ目の結果を聴き終えた彼はしばらく、李師は思考に耽っている。

そらは傍から見ていた周泰がどれだけ話しかけても無反応で貫き通すほどの集中ぶりであり、結果として周泰は一刻(二十分)ほど待ちぼうけをくらうこととなった。

 

「……あぁ、すまない。二つ目を聴かせてくれるかな?」

「あ、はい。えーと、董卓軍に内通者がいたのです。司徒の王允といって、帝の信任厚き御方だとか」

 

「なるほど。だから長安は即刻陥落したのか。董卓たちが囚えられたのも、それでは仕方ないな」

 

一つ目に比べれば遥かに短い思考時間の後、李師は次を促す。

最後の情報は、彼女にとって極めて容易な侵入行為の末に掴めていた。

 

「無事です。董仲頴様、賈文和様は身辺の警護をする自軍の兵とともに監禁されており、兵卒たちも暮らしぶりに不便あれども苦痛は感じていないとか」

 

「そうか……」

 

どこか上の空な李師と共に物置から出て、周泰は部屋の前で呂布に警護を引き継ぐまで随行し、消える。

暇があれば、結界の引き締めをやっておく。この勤勉さによって、結界は本来以上の防諜対策になっていた。

 

「……嬰、大丈夫?」

 

「ああ」

 

完璧に上の空な李師が椅子に座ったのを音で察知した首脳部各員がちらりとそちらを見て、視線を反らす。

 

明らかに何か考えているときのぼんやりとした、だが基本的には穏和な相貌を鋭く引き締めたような表情を、彼はしていた。

 

(王允は政権の掌握と董卓という政敵の追放の為に手を組んだ。だが、劉焉がその為に出兵したとするのは利益がない。劉焉の兵は長安を占領しながら再び出て、その城壁の外に布陣し、司隷を王允に任せる旨を結んだ。つまり占領が目的ではなく、当然ながら袁紹の援護が目的でもない。ならば何があるんだ?)

 

王允、劉焉、袁紹。

三者が組んだ結果行われた今回の戦で、得をしたのは間違いなく劉焉だと、彼は思っていたのである。

 

でなければ劉焉が動く理由がない。領土を広げ、経済圏を広げたら更に利益を上げられる。更に言えば帝を担ぐこともできた。

 

(……商人同士の横の繋がりは無形のものだ。無形の繋がりを使って、無形の情報という武器を造り上げたのだから、この際物質的な利益を求めたものではない、と考えた方がいいだろうな。おそらく私も他の諸侯も気づかなかった理由はそこにある。無形より有形をこそ望む気風が今は強い―――その心理を利用したと考えれば、どうか)

 

無形を以って無形を造り、結果的には有形と成す。

そういう思考をしていると考えれば、どうか。

 

この一手は何を齎し、何を睨み、何を望んだものか。

経済面はどうか。今は何が足りないのか。

経済面だけにとらわれては思考が固まる。軍事面は、政治面は。

 

最近無休で稼働している彼の頭は、疲労に屈することなく答えを弾き出した。

 

(……なるほど、そういうことから。だから銅と、都と帝を必要とした。しかし、それでもなお実を求めることはできなかった。求めていないのではなく、求める時期ではないと判断した。最終的な目標は―――いや、憶測でしかない。迂闊に口を出せば、却って災いを呼び込むことになるな)

 

この時期に敵の長期的な戦略を断片的な情報からほぼ正確に掴んだのは、その長期的な戦略を立案し、実行している人物以外では彼のみであろう。

彼もまだ、細部まで完璧に掴んだわけではない。絵の断片を情報で掴み、推理と憶測の連鎖で枠と中身を埋めていっただけだった。

 

しかしそれは、霧に包まれてぼんやりとしたものであっても枠と要旨は踏み外してはいなかったのである。

この時彼は、この情報を夏侯淵なり誰なりに伝えるべきであった。しかし、彼はこれが一割の真実と二割の推理と七割の妄想から出てきた幻想物であることを理解していたし、自分の思考を自分で信じかねている。

 

夏侯淵の手にこのことを記した竹簡が渡るのは、これより三年後、『私が死んだら開いてくれ』という添え文が付いてのことであった。



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無形

結果的に捕虜交換に関しての条件を全面的に呑み、両軍は長安近郊に十五余里に渡って布陣した。

 

いつでも戦い始められるようにという攻撃的な陣形を互いがとっていたところに、敵愾心と士気の高さが伺える。

 

だが、そんな中でもあくまでもお祭り気分を崩さず、皮肉と諧謔に彩られた会話を投げ合っている陽気な奴等がいた。

 

モラルの高い曹操軍ではない。

主が囚えられ、いざとなれば力づくでと構えている董卓軍でもない。

それは言うまでもなく、李家軍である。

 

「おい魏越、聴いたか」

 

「何を?」

 

昼間っから賭け事に興じている二人の間に、緊張感が漂っていた。

勝つか、敗けるか。それによってどちらが今夜の酒を奢るか決まる。

 

財布が豊かとは言えない二人にとって、この賭けはともすれば実戦よりも真剣で、切迫したものだった。

 

「捕虜交換の会見に行く人員が、決まったらしいぜ?」

 

「まあ、三軍の代表者が全員行って殺されましたじゃあ、こっちもろくな抵抗ができないままお陀仏だろうしな。

で、誰だ?」

 

「聴いて驚くなよ。李師の大将に随員として夏侯の嬢さんが付いていくことになったんだ」

 

生活に関わる緊張感を漂わせながら、精鋭と名高い熟練兵揃いの呂布軍でも挙げた首が最も多い―――勿論隊長たる呂布を除いて、だが―――魏越と、いつも一人差ぐらいで魏越に上回れている成廉は自らの所属軍の主将をすぐさまネタにする。

 

もう、敬意の欠片も見られない扱われ方だが、彼等も本心では尊敬はしていた。

戦えば必ず勝つ。しかも、犠牲を可能な限り少なくして、だ。

 

古今の名将だということも、わかっている。

だが、李家軍内に流れるお祭り気分と緩い雰囲気が縦よりも横の連帯感を生み出し、普段は彼等のような百将でも大将と軽口を叩き合えるような空気が蔓延していた。

 

有事になれば横の連帯感を結束に変え、縦の繋がりを従順に守る。

要は、李家軍にはメリハリがつき過ぎていた。

 

「どう見ても李師の大将は夏侯の嬢さんを随員に従えるようには見えんな。逆ならなんの違和感もないんだが」

 

曹操軍だったら一撃で不敬罪になるところを、周りを囲んだ呂布隊の精鋭たちは笑って済ます。

別に殊更馬鹿にしたとも思えないし、理不尽に馬鹿にしているのではない。

 

李師と夏侯淵を比べれば、誰の目からしても本当にそうにしか見えなかったのだ。

 

「そりゃあ俺だってそう思うさ。あの二人を並べるんなら将軍と一官吏、上官と部下、姫と従者。こんなところが精々さ。勿論前者が夏侯の嬢さんで、後者が常に大将だ」

 

「違いないな。そもそもうちの大将はあんまり冴えた顔してないんだから仕方ないがねぇ……」

 

魏越の尤も過ぎる評価に、周りの兵もどっと噴き出す。

二十万を三万で破るような智将には到底見えないことは、この場にいる誰もが認めていた。

 

「で、成廉」

 

「あ?」

 

「お前さんの敗けだな。酒、きっちり奢れよ」

 

話すのに夢中になっている成廉とは違い、きっちりと考えながら賭け事に精励していた魏越は自分の勝利を盤面に示し、口元の右端を上げてニヤリと笑う。

 

「チッ、抜け目ない奴だな」

 

「そういうお前さんは人のいい奴だよ」

 

毒を吐きながら賭けに使っていた盤上遊戯を片付け、愛用の弩と剣を持って二人はゆっくり伸びをしながら立ち上がった。

 

「さぁて、うるさい高順のおっさんが来る前に武器の整備でもしに行きますかね」

 

「まあ、こっちは終わらせた上で賭け事に興じてたんだがね」

 

「抜け目ない奴だな、重ね重ね」

 

ぶつくさ言いながら整備に向かう二人を見送り、それを笑いながら見ていた麴義と趙雲が軽く笑いながら呟く。

 

「あの二人は大将を駄目な部下か、手のかかる奴かなんかだと思ってるんじゃないか?」

 

「部下とは思ってないでしょうな」

 

瞬時に否定してきた趙雲の意図を掴みかねて麴義が彼女を振り返ると、その顔には人をからかうことを生き甲斐にしているような見事な笑みが浮かんでいた。

 

「何せ主が呂布隊に入れるとは思えぬ。はっきり言わせてもらいますが、呂布隊に主が入れるなど、天地がひっくり返っても無理という類のものでありましょう」

 

「違いない」

 

仲が良いんだか悪いんだかわからない二人は、こことは真逆の空気が流れているであろう幕舎が建っている方角を見た。

 

ともあれ。一触即発の状況の中で一刻前に片方から四人の、もう片方から二人の人間がちょうど中央に建てられた幕舎に向かい、入っている。

 

軍代表三人衆の内、くじ引きの結果で決まった李師と夏侯淵と、その護衛である呂布と典韋。

蜀軍からは、法正と呉懿。

 

六人が入るには広すぎる幕舎の中で、四人と二人は向かい合っていた。

 

「李瓔。字は仲珞」

 

「夏侯淵。字は妙才」

 

「姓は法、名は正。字は孝直と申します」

 

実務にあたる三人が極めて無愛想な挨拶を交わし、互いに捕虜解放の刻限と互いの兵に攻撃させない旨を徹底させることを誓う。

誓いなどなんの枷にもならないが、形式としては必要だった。

 

「それにしても、優勢な兵力と地形、兵站を持ちながら吾等と剣を交えず対等に盟を交わすとは貴官も奇特なことだ」

 

「私には天下に名高き名将を二人も、一度に敵に回して勝てるだけの力はないのです」

 

異相と一言で表される相貌をにこやかに崩し、法正はあくまでも恐懼の体を作って答える。

これは彼女の本心であり、最も恐れるところだった。

 

彼女の計算では対連合同盟軍は勝てない筈だったのである。だから兵力の損耗を抑えながらゆっくりと進んでいた。

七倍近い兵力を、己の兵の損耗を抑えながら目標を達成すると言う計画から途中で力攻めによる強行突破に切り替えざるを得ないほど迅速に撃退したこの二人を。そして、友軍として前後から圧迫する役割を担っていた涼州連合を少数で破った曹操を、彼女は要注意人物として認識している。

 

三人が同じ陣営で同じ戦場に立てば、いくら優位な数を持っていようが無駄でしかない、と。

 

「ほぉ、一人ならば勝てると?」

 

「いえ。そういうことではなく、戦いたくはないと言っているのです」

 

戦うとしても、十倍の兵力でやる。

 

だのに、たかが一万しか勝っていないのに仕掛けるはずがなかった。

 

彼女にはこの二人と曹操とを相討たせる策がある。

最終的な勝者は疲弊しきり、しかも排除しやすいものでなければならない。

 

勿論、相討ちになってくれればいうことはないが、その為にもまずは国境を接させないこと。これによって円滑な関係改善と同盟を防ぎ、その間に火種を作らねばならない。

 

その後も円滑に進んだ交渉を終えても、李師は基本的にこの会見中は職務的な発言の範疇を一度も超えたことがなかった。

彼には終着点と出発点はわかる。どこを通るかも、少しはわかる。

 

しかしその道中で何が起こるかまでは全く予想できていなかった。

これは彼が仕掛ける側ではなく仕掛けられる側だったことが大きい。

 

受動的立場にある者は、動いた物に対してしか反応することができない。彼がこの時点で全てを、つまり不確定要素と各諸侯の動きを明察し、完全に当てられていたら、それは正に全知全能を備えていると言ってよいだろう。

 

しかし彼の全知全能はあくまでも神のそれとは違っていた。わかる範囲までしかわからないし、不確定要素がいつ起こるかなど予想できようもない。

 

だが、自分から積極的に謀略を仕掛ける気はない。自分にはその才能が欠落していると、というよりはそういう暗闘からは無縁で居たいという感情があった。

別に自分の憶測を全面的に信じてしまう程には自信を持っていない彼としては、決定的な証拠を掴むまでは動く気はない。

 

本質的に彼の性格は能動ではなく受動なのである。何かが起こったのを受けて動くことしかしないし、できない。第一、遠く蜀に居る人間が謀略を仕掛けてくるから主導で動く。着いて来いなどと言って着いてくるほど、彼の部下は盲目的ではない。

 

幽州と蜀では、距離がある。

彼は不本意ながら用兵によって謀略を打ち破れ、法正が謀略によって自分を打ち破れることができた。

 

しかし、用兵と謀略では射程が違う。謀略は無形を動かせば刃となるが、用兵は人と物資とを現地まで持っていかねばならない。

 

それに陰謀論などという歴史は、信じたくない。対策ができないし、関わりたくもない。向こうから関わってきたらまあ動くとしても、こちらから好きこのんで近づきたいとも思わない。

 

物理的に不可能だし、精神的には忌避したい。彼の『警戒はするが不干渉』という方針は、だいたいこのような思考の動きによって構築された。

 

「……あいつは何を狙っているのか、貴官はわかるか?」

 

「想像でしかないけどね」

 

捕虜交換の刻限までの僅かな時間をそうして潰すべく、珍しく酒は抜きで二人は座って向かい合った。

 

「……まず、敵の狙い。これは現在流通している質の悪い五銖銭を質の良い、信頼の置ける貨幣に変えることだと思われる」

 

「貨幣に信頼が置かれれば現在の物々交換主流の一般市場も大商人達が乗り出しやすく、なる。だが、銅はどこから出てくるのだ?」

 

「一時的に、弘農から。いずれは銅の名産地に移る」

 

「巴蜀と漢中か」

 

「いや、恐らくは荊州もだ」

 

恐らくは余人が聴けば更々とは流せないであろう会話が立て板に水を流すような速さで噛み砕かれ、相互の信頼のもとに理解される。

漢中も巴蜀も銅の名産地にであり、荊州もそうだった。

 

しかし、経済圏を握るのが劉焉の狙いである以上は己の領地から出る銅でもって独占させるのが筋であろう。

それに荊州を組み入れるのであれば、何らかの連合を組もうとしているであろうということは明敏な夏侯淵にはすぐさま理解できた。

 

そして、その先も。

 

「となると司隷は邪魔になるな」

 

如何に権威が落ちようと、この国の中心は洛陽・長安を有す司隷。

荊州と蜀が提携して経済圏を構築するならば、旧来の司隷を中心とした経済圏とぶつかり合うことになる。

 

「だから、涼州だ」

 

「なるほど、道理で捕虜が少ないわけだな」

 

司隷を統治するならば、董卓の勢力はその残滓も残しておく必要はない。残せば害悪にこそなれ、益にはならない。

内応させた理由がそこにあるならば、単なる領土欲で済んだ。

 

しかし、周囲には死体を埋めたであろう若々しさもない。捕虜も少ない。

必然として、計算に合わない一万ほどは涼州に帰ったということになる。

 

「董卓の元にいた涼州勢力の残党を利用し、司隷を荒廃させる。元々彼等に政治能力はない。縮まる経済圏と、広まる新進気鋭の経済圏。どちらが有利かは言うまでもないだろう?」

 

「更に言えば、長江の水運を利用とするとも、考えられるのではないか」

 

陸路よりも、水路。速く、既存の権益がないのは後者の方である。

 

「それには気づかなかったな」

 

「私も今、己ならばどう経済圏をどう築くかと考えてわかった」

 

表には見えない分、袋叩きにされにくい。例え連合を組まれても経済圏を握れば、封鎖することによって瓦解させることが容易であるし、その場合盟主となるべき袁紹は軍事的な信頼をなくしているのだ。

 

「一見した所そうでもなかったが、中々に根が深い」

 

「ああ。だが、どうなるかはまだわからない。確かに司隷は惨憺たる有り様になるにせよ、私にはどうしようもない。わかったからといって手は打てないし、手が打てないからどうしようもないのさ」

 

「怠惰ととられかねんな、それは」

 

「私は不本意ながら用兵家だ。門外の謀略にまで対策を立てろなんて言ったら、もうこんな仕事はほっぽりだすね。だいたい、何故私が一から百までやらなきゃならないんだ?」

 

「その気持ちは、わかる。謀略には謀略家こそが対処すべきだ。だが、わかった以上放置するのも良くはない」

 

酒を飲んでもいないのに学術論文の如き愚痴を聴かされることに辟易しながら、夏侯淵は聴き役に徹する。

あと二刻の辛抱だった。



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休暇

「……いかない、の?」

 

「行かない。何も考えたくない。何もしたくない」

 

疲弊し切った李師は、呂布の問いに三種の否定で以って答えた。

行軍路を拓かせる為の作戦立案、各個撃破の為の作戦立案と実行、汜水関籠城戦でタイミングを見極める為の観察と、最前線に立っての勇戦。野戦に際しての心理的罠の構築から、謀略の存在探知。

 

彼は、心身ともに磨り減っている。故に己の援軍という立場を利用し、董卓と賈駆の相手は総大将たる張遼にさせれば良いと思っていた。

 

「……疲れた?」

 

「うん」

 

彼は本質的には怠け者だとしても、職務上科せられた仕事は勤勉とはまでは言えないまでも最低限こなし、結果としてみれば給料の何倍も働いている男である。

この反応はらしくないと言われるかもしれないが、彼からすればこれは自分の管轄ではない。

 

捕虜交換はやりきった。円滑に進み、両軍の捕虜は交換された。

袁紹たちは一足先に冀州に帰り、対連合同盟軍の面々は汜水関で一月待つ。代わりに袁紹は対連合同盟軍の領地の通行を認め、それに危害を加えない。

 

捕虜にされたことで自尊心を傷つけられ、その結果敵愾心を剥き出しにしていた袁紹が冀州に向かって去ってからまる三週間。李師はひたすら引き篭もっている。

 

飲み会の誘いがあっても自室に招くという体たらくで、彼は三週間前まではその身に多少なりとも備わっていた勤勉さと勤労意欲を、本当に投げ捨てていた。

 

無論、ただ寝ていたわけではない。彼もただ三週間を寝て怠けて過ごせるほど脱俗的な人間でもないので、夢の歴史家への第一歩となる歴史書を戦いの推移と裏話を巧みに織り交ぜながら書き、それを酒を持ってきた夏侯淵に見てもらって推敲している。

それか或いは呂布に対して兵法と用兵について語っていた。

 

「恋、私はまだ戦いに負けたことがない。何故だかわかるかい?」

 

ある時、料理用の装束を身に着けてせっせと調理に励んでいる呂布を見ながら床に寝転び、唐突に彼は問いを投げる。

 

「……戦いが、巧いから?」

 

世の年頃になった娘に邪険に扱われる父親から見たらその健気さに泣き、嫉妬するほど羨むに違いない。

 

呂布はあくまでも、人が良かった。唐突かつ無茶振りな質問をそこそこ忙しい時に投げつけられても、ちゃんと考えて答える。

 

非常にできた娘であった。

 

「いや、要は私は勝ち目のない戦から逃げ続けてきたのさ。戦の腕はそうでもないが、逃げて逃げて、勝ち目が出たらのこのこと顔を出すことにかけては熟練だ。みっともないが、これが一番だよ」

 

勿論、夏侯淵が言った通り彼は戦が巧い。

曹操が戦う前に有利に持ち込み勝つことが巧いのに対し、彼は戦略的劣勢を戦術的勝利で覆すのが巧かった。

 

曹操は正道の用兵家であり、李師は邪道の用兵家であると言える。

これは彼が戦略的劣勢を戦術的勝利で覆す快感に囚われている訳ではない。単純にそうする為の権力がなく、やりたくもない戦いの為に欲しくもない権力を得ようとも思わなかったからだった。

 

彼としては極力戦いたくはないが、どうせやるならば先の反董卓連合軍の如く敵の何倍もの兵力で戦いたいのである。

 

またある時は、こう言った。

 

「恋。指揮官は常に切り捨てる側にあることを、忘れてはならない。切り捨てた戦術的単位には家族が居て、死ねば悲しむ者が居ることも、忘れてはならない。これを忘れなければ、君は愚将にはならないだろう」

 

何故こんなにもしたがらない話をしているかと問われれば、彼はこう答えたであろう。

 

『彼女は功を立ててしまった。だから大量虐殺者見習いから、大量虐殺者予備軍になってしまったのさ』、と。

この言葉は一見すれば呂布を疎んじているように見えるが、実際に彼の言った言葉には己に対する忸怩たる思いと呂布に対する罪悪感、愛娘が最も入って欲しくない道に自分を追って入ってきてしまったことに対する無念が色濃く滲んでいた。

 

袁紹を捕らえた功は並ぶ者がない。彼女に地位を以って報いねば、他の者に報いることもできない。

私兵軍団の長としても、公孫瓚軍の軍事責任者としても、彼は呂布の指揮兵力を増やし権限を広げなければならなかったのである。

 

だからこそ、彼は今更ながら彼女の才能の畝を耕し始めた。愛娘に死んで欲しくはないし、味方を大量に殺す将にもなって欲しくはない。

 

だが、この時彼は同時に思っている。

敵を殺す名将と、味方を殺す愚将。評価や名声を得るのは前者の方だが、本質的には同じなのではないか。

 

つまるところ大量に殺すのは間違いがなかった。その対象が敵か、味方かというだけで。

 

自分は何をやっているのかという馬鹿らしさと、その馬鹿らしいやり取り如何で死ぬ人間が変わる恐ろしさと、そんな状況を作る戦争というものの愚劣さ。

 

それら三種が、彼のやる気を一層下げる原因となっていた。

 

「……恋」

 

もう名前を呼ぶだけで何を求めているかわかる呂布が紅茶を淹れ、無言でひょいと差し出す。

李師は、それを黙って一口飲んだ。

 

汜水関にいるのも随分になる。そして、幽州を留守にして随分になる。

今の同僚は気が良く有能だが、向こうに帰れば誇りと意地で己の実力のほどを糊塗した者しか居ない。

 

別に見下す訳ではない。夏侯淵と比べれば田偕や単経などは取るに足らないと百人に訊いたら百人がそう答えるに違いないし、現に実力としては比べるまでもなく明らかであった。

 

彼は単経や田偕が軍事的才能に乏しいからこのような倦みを感じるのではなく、彼女等がやけに己に張り合ってくるからこそ倦んでいる。

正直なところ、公孫瓚に仕えるのは良い。まず優秀だし、道義的精神に富んでいた。

 

だが、同僚の質の悪さが彼女への好意と義理とを曇らせる。

公孫瓚に対しての好意と義理とが、直接忠誠心というものに結びつくわけではないということを、彼は自身が置かれた状況で理解せざるを得なかった。

 

そして、己も気をつけねばならない。部隊管理と幹部同士の調停を、誰かに一任して円滑化させる。

 

ここに至ってあくまでも自分ではできないだろうと自身で思ってしまう程の彼の対人交渉能力の拙さが、この状況をつくる一因となっている。そんなことはわかっていた。

しかし、己としては彼女等のようにやる気と名誉欲に満ち溢れて敵を殺したくはないのである。

 

それに、彼も聖人ではない。好き嫌いはあるし感情もあった。

 

『仲良くすればいい』と言われ、更にはそうした方が全体として良いとわかっていても人である以上はそう動けない。

別に自分から動いて仲良くなりたいわけではないし、縺れた感情の糸を解きほぐせるほど、彼は対人交渉能力に優れているわけではなかったのである。

 

そのことを彼は、一先ず夏侯淵に話すことにした。

この三週間の中ではじめて、風呂以外の用事で部屋外へ出る。

 

本当に私生活ではどうしようもない男であった。

 

「相変わらずの不機嫌さだな、仲珞」

 

「ああ、まあね」

 

向かったのは、夏侯淵の私室。律儀に毎日訪ねてきてくれる夏侯淵を逆に訪ねてみてその怜悧な相貌を見ても、瞳に妖星の如き野心は浮かんでいない。

彼女はただ単純に、己が敬愛と友愛と畏敬との三種の感情を寄せることのできる友人と、残り少ない時を重ねたかった。

 

次会う時は敵なのか、味方なのか。どちらにせよ己の心は指向こそ違えど同一の高揚に包まれることだろう。

 

敵ならば、己と同格かそれ以上の用兵家と技巧を競い合える喜び。

味方ならば、心強く信頼できる友を僚友として得られる喜び。

 

どちらでも良いが、前者の場合であれば最早二度と酒を酌み交わすことはできないことも充分に有り得た。

 

「そう言う君は、いつも通り楽しげだね」

 

「ああ。私は貴官と飲むことが楽しいと感じている。不思議なものだが、な」

 

古くは酒を酌み交わしながら職務上の話をするに留まり、今となっては厨房を借りて料理を作ってやり、それをつまみに様々話す。

「私も、見目麗しい女性と二人で飲むことを自ら望むとは思っていなかった」

 

「ほぉ、貴官にしては珍しい言い草だな」

 

恐らく夏侯淵は生物学上女に分類される人類の中でも、こと美しさで言えば上位に食い込むことは間違いがなかった。

無論美しさというのは主観が多分に含まれ、明確な基準がないものだから詳しくは分からない。

 

そんな客観視は一先ず置き、彼女からしても自分は男から好かれるということは経験上把握している。

故に己の容姿は男を惑わすに充分であり、よって美人と言われる部類なのだろう、と。

 

彼女は今まで己の能力を己で定め、その定めた能力に追いつくために奮励した。

そして結果としてその規定を少し超える程の能力をその都度身につけ、更に上を目指している。

 

己の行動と努力によって誇りと自信を持った彼女にしては珍しく、他人の評価を自己の評価に移植してきていた。

自分の能力の限界は自分で決めるという既定路線を、初めて外したわけである。

 

余談だが、彼女は愛娘・皮肉屋・苦労人とバラエティー豊かな女性陣と関わってきた李師にとって初めてとなる冷静沈着な常識人な女性だった。

いつまで経っても彼の中では幼かった印象の抜けない愛娘、女性と娘の中間のようなのが二人。

 

この三人の誰よりも、夏侯淵は落ち着いて見えた。早い話が歳上めいた貫禄があったのである。

 

年齢はさほど変わらない筈なのにもかかわらず、その美貌を怜悧さで染め上げて固めてしまう夏侯淵は幾分かは成熟している印象があった。

彼女の姉は皮肉屋と苦労人より少し幼い感じに見えなくも、ないが。

 

「私も女性の美しさくらいは判別できるさ」

 

と言っても彼の女性の振り分けは、趙雲は美しい、呂布は可愛く、夏侯淵は綺麗といった、語彙の欠片もない漠然とした分類に限られた。

まさしく、味も素っ気もないといえるだろう。

 

「まあいい。容姿などは、取るに足らないことだ」

 

「その通り」

 

取るに足らぬと思いつつ、夏侯淵は己に驚いていた。

いつも容姿を褒められれば、僅かに口の端が上がる。すなわち、外面だけを見られたような不快感と所詮こいつもかという侮りが心を覆う。

 

だが不思議と、嫌ではなかった。

 

(友だから、なのか)

 

敬愛する姉は、支えるべき身内であって友ではない。

敬愛と畏敬の対象たる曹操は、仰ぐべき主であって友ではない。

 

友愛と言うものを、彼女は知識として知っている。

主たる曹操と衛茲は―――華琳と青藍とは、間違いなく友愛で結ばれていた。

 

姉と主とも、感じたことがなかった繋がりが、結ばれている。

そう考えると面白いし、且つ笑えた。

 

主の友を殺したとわかっているにも関わらず、その犯人たる男と、友を喪った主の臣下が友誼を結んでしまう。

友誼を奪い、それを下地に新たな友誼を作ると言うのは如何にも用兵家らしいではないか。

 

彼が曹操と衛茲の友誼を死別という形で剥奪せねば、己とは会っていないに違いなかった。

この世で起こる何事も犠牲の上で、成り立っている。

 

これまでそれは己ではなかったとはいえ、いずれは己にその役が回ってきてもおかしくはない。

 

ここまで考えて、彼女は静かに頭を振った。

犠牲の羊に饗されるなど、考えたくもない。

 

「吾々は人格の底にまで、用兵家という流血の色を染みさせている。そうは思わないか?」

 

「思わなかった時はないよ。私が生きているのも多くの味方と、敵を殺したからこそ、なのだからね」

 

郿宇城にあった舶来の赤い酒を飲み干し、夏侯淵は自分が作ったつまみに手を伸ばす。

 

李師が『流した血に値するだけの何かが、自分にはできるのか』ということを考え、自分が『如何に生者を殺すか』という後ろ向きな考えを常に負って戦っているのに対し、彼女はそれほど自己嫌悪と自己矛盾に苦しんでいるわけではない。用兵家としての自分を受け入れているし、その罪の深さも理解していた。

 

しかし、彼女の考えは『戦いに参加する人間は己を含めて皆死ぬ可能性を背負っている。この状態から如何に生かすか』という前向きな考えで戦っている。

 

そこら辺の思考的な違いが、殆ど同一の能力を持つこの二人の将の戦闘意欲や戦争中の行動に影響してくるはずであった。



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易京防衛戦
易京


反董卓連合軍と対連合同盟軍の戦いは董卓がその根拠地を失い、各地の諸侯が等しく疲弊する形で終わった。

 

夏侯淵の指揮下で戦っていた旧董卓軍の一部は彼女に随行することを望み、夏侯淵は七千ほどまで増加した自軍と集積物資の三割を率いて兗州へ帰還。

華雄は当然といった感じで董卓勢力が瓦解した以上は李師に仕えることを望み、それに釣られる形で張遼と董卓と賈駆が李師と共に幽州へ向かう。

 

彼の私軍という形で率いられた二万四千の軍は袁紹の勢力下にある并州を通り、公孫瓚の支配下にある冀州の一部に入った。

 

河間郡易県から南が袁紹勢力であり、北が公孫瓚勢力である。

結局漢王朝からの命令によって鄴を放棄せねばならなかった以上、暗黙の内に領有を許されたこの一郡より北が公孫瓚勢力の生存圏であり、易県が最前線になることは疑いがなかった。

 

常山、中山、河間、章武。公孫瓚の秀でたところはないが堅実で有効な指揮の元に四郡を制圧した単経等は鼻高々だったであろう。

何せ軍事的政敵は勝つことが不可能に近い場所に追いやったわけであるし、この功は実際に巨大なものであった。

 

しかし、尾鰭が付いて三十万にまで膨れ上がった実数二十万の軍を二万とされた三万の軍で李瓔が打ち破ったと言う報告が齎された時、その熱狂は憎悪に転換する。

 

何故あいつはやる気も信念も無いのにこうも勝つのか。

彼女等もその才能を認めていないわけではない。認めざるを得ないからこそ、憎悪を抱いていた。

 

結果として李師は、公孫瓚に頼みこんで冀州河間郡等四郡の軍事権をもらい、自身は袁紹軍によって県城が焼き払われた易県に駐屯を開始する。

戦乱が収まったとは言えない。ならば袁紹軍が攻めてくる可能性を考えるべきだった。

 

その場合、自分の虚名がそれを抑制する。二十万で汜水関を攻めて遂に落とせなかったのだから、それ以上の要塞を作ってやれば攻めては来ないであろう。

 

常山、中山、章武は山に囲まれて兵の運用が困難を極め、攻められるならば辺境と都会を結ぶ広大な道のある河間こそがその矛先を向けられることとなる。

そして河間には易県があり、そこには易京と呼ばれる要塞跡地があった。

 

現在の防衛拠点である易城の機能をそこに移す。

鮮卑との戦いに際しての大規模な土木工事により、冀州と幽州の道は馬も通れぬ峻険な物しかなかった。

 

常山、中山、章武も同じような工事を施され、『攻められても侵攻されるのは幽州で終わり』という、北を見捨てるような漢の政策が、却って南からの侵攻を防ぐ為のこれ以上ない盾となっていることは皮肉としかない。

 

北から南に行くにせよ、南から北に行くにせよ、大軍を通すには塞ぐように設置された易京を通る他ない。

易京は現在放棄され、代わりに政務のやりやすい易城が選ばれている。というか、選ばれていた。

 

しかし軍事面を担当する彼としては易京に入り、周囲を圧して虚名でもって侵攻を抑制することを選ぶ。

 

易城の警備を冀州の豪族である審配に任せ、四郡の政治を担当する韓浩と折り合いをつけ、劉馥に要塞と都市の再建を頼んだ。

 

都市が焼き払われたことによって流民となった易城の民を人夫として雇い、都市と防御機能を複合した平和の為の示威要塞を構築する。

 

幽州の豪族であって、己が持つ幽州の権益さえ無事ならば文句は言わない単経等から横槍はない。このことも、彼の気持ちを楽にしていた。

 

趙雲から言わせれば『権力に群がり、振りかざそうとする嫌な輩が居ないから気が楽なだけでしょうに』ということになるが。

 

ともかく漸くの工事期間を経て要塞跡地が兵たちを収めうる住宅群と外壁の集合体となった西暦187年三月七日、李師率いる二万四千の軍は易京に入った。

 

まだまだ望楼も建っていない要塞もどきだが、かつて利用された上に加工・拡大されられた砥石のように凹んだ地形を巻き込み、更には河と道とを兵站線とする巧妙さは、劉馥の手腕の見事さを物語っている。

 

彼女は一から要塞を作ることと、大地に己の痕跡を残すと言う特徴を持つ土木工事に奇妙な充足感と渇望を覚えていた。

 

その結果、賈駆の仕事が大いに増す。

 

「建設予算が足りないんだけど、どうするのよ」

 

「何故私に持ってくるんだい?」

 

「あんた、一応要塞を含む四郡の軍事司令官でしょうが。軍需物資を使うには許可と説明が必要なのよ」

 

董卓と同じ部屋に住んで要塞内の補給と管理を一手に引き受けている司隷を一人で支えていた後方支援と統治のプロである賈駆が、この時の彼の陣営に入っている。

 

これまで色々と苦心してきた兵站の維持や何やらの苦労から解放されたのは嬉しいが、説教を受ける回数が増したのは彼にとって喜ばしいことでは無かった。

 

「備蓄品は足りてるし、屯田と後方の審配によってこの要塞の兵は一年後には自給が可能になるでしょうけど、銭が足りない。備蓄品から糧秣を銭代わりに配ることを人夫たちは了承してくれたから、配らせることを許可して。これが書類。はい、筆」

 

「はいはい」

 

ぱらぱらと書類を一見し、さらさらと要塞司令官としての署名をし、判を押す。

これで面倒な手続きが終わってしまうあたり、賈駆の能吏としての能力の高さがあった。

 

「あと、漁陽郡から広がる商売網の一部をこっちに回して塩と鉄を恒久的に補給できるようにするから許可を。あと、鍛冶屋を招いて頂戴。矢を使うし、都市としての機能を優先させるんだから、生産機能も欲しいわ」

 

生産機能といっても、弩と弓と矢を作る職人を招き、要塞内に職人街を作るといったところでしかない。

本格的な生産体制を組み入れるには、まだこの要塞は成熟していなかったのである。

 

旧来、鮮卑の侵攻に耐えるために街ごと囲んだ城壁を補修しただけの為、広さと城壁の高さと放棄された街の残骸の利用価値には目を引くものがあった。

しかし、まだまだ新たに加えた場所や空き地の区画割りすら完全に済んでいるわけではないという問題が静かに鎮座している。

 

一先ず兵の家族や耕作地を求めている先の流民となった易城近辺の民と黄巾投降兵を迎え入れ、更には兵たちに屯田をさせて農業区画は定まっているが、それでも五割でしかない。

 

商人なども集まり、全体の二割を占める商業区画もぽつぽつとできている。城郭都市としては完成しつつあったが、それに伴う費用が凄まじいのが玉に瑕だった。

 

「鍛冶屋といったら……そうだな。恋の方天画戟を造った職人とその弟子を招いてみて、伝手を頼んでみるよ。その商売網に関しては少し待ってくれ。洗ってから判断する」

 

「わかったわ。すぐに決められることじゃないものね。でも、なるべく早くお願い。計画と実施の擦り合わせをなるべく早く行わなきゃ、いざという時に使い物にならないの」

 

賈駆は決済を下してもらった書類を回収し、自室にそれぞれの担当者を呼んで実行の許可が下りた旨を示す。

権謀術数、都特有の風通しの悪さが鼻につく洛陽を一人で支えていた賈駆からすれば、この要塞は天国と言って良かった。

 

何しろ、風通しが良い。

 

「……あぁ、平和だ」

 

「如何にもさようで」

 

兵たちに配ってなおも余った反董卓連合軍との戦いで得た戦利品と将としての名声で、彼は平和を買ったのである。

 

不本意に血を流して得た物資を血を流さない為に使うというのが如何にも彼の思想にあっているのか、最近の李師は例の『帰ったら云々』を忘れたように勤勉だった。

 

それが忠誠心からではなく、平和への願いから来ているところがまた、単経等には気に食わないのであろう。

 

「敢えて訊ねますが、主は公孫瓚殿に仕えておられるので?」

 

「私は伯圭が維持している平和に仕えているのさ。彼女が自分から侵攻を企てて平和を崩せば、私は去る」

 

あくまでも守戦に立つ。それが彼のスタンスだった。

汜水関に援軍に行ったのも本心からの行動とは言えないし、辞めようかなと思ったのも一度や二度ではない。

だが、取り敢えず彼は敵の侵攻を防ぐ盾として、味方の侵攻を阻む盾として、その巨体を四郡に渡って寝そべらせている。

 

ここではいはいと辞めるには、彼は給料を貰い過ぎた。

 

「そうでしょう。私も忠臣に仕えるよりは曲者に仕えたい。何せ、曲者は傍から見るには面白いことこの上ないものですからな」

 

「私はちっとも面白くないがね」

 

暗に『君という曲者を見ても』という前文をちらつかせる李師の意図を故意でなく無視し、趙雲は笑いながら彼へ返す。

 

「それは己のことですから当然でしょう。謂わば、主は客観視が足りないのでは?」

 

「よく言うよ、全く」

 

久びさに彼は溜息をついた。本心から自分は曲者だと思っていないくせして、他人を曲者扱いするから困る。

 

「……で、主は珍しく私の提案に乗って下さった。いや、私は提案を蹴らず、半分は乗って下さった。それはつまり、そういうことでよろしいので?」

 

「違う。私が言いたいのは伯圭の側から忠臣を退けるのをやめろ、ということさ」

 

こと実績から見れば、李師ほどの忠臣は居ない。

彼は常に能力相応かそれ以上の責務と課題を与えられ、常にそれに応えた。黄巾の迎撃、張純の乱の鎮定、反董卓連合軍の邀撃。

 

それの行動において得たのは戦争において心強いが、彼の望む隠棲と平穏とは無縁無用のものである。

 

だが、その行動とは裏腹に彼の内面は忠臣とは言い難かった。

一族である公孫越、公孫続らは当然として、関靖、単経、田偕等が公孫瓚を盟主として仰ぎ、忠誠と敬意を以って接していることは疑いがない。

 

寧ろ彼女等の李師を嫌い、恐れる気持ちは正しいものだったであろう。

彼女等は嫌悪というフィルターを通してではあるが、彼の公孫瓚個人に対する忠誠心の乏しさを悟り得ていた。

 

内面的にはむしろ、彼女等の方が忠臣だといえることを彼ほどわかっている人間も居ない。

彼は己の中で個人に対する忠誠心のようなものが育まれていないことを誰よりも速く悟り得ていたのである。

 

「単経、田偕を排除し、関靖を失脚させて幽州の実権を握る。いいですか。公孫瓚は凡人ならばいくらでも収めることのできる大器ですが、貴方はそれに収まりきらないのです。彼女はともかく、周りが貴方の存在を許しますまい。やらねばやられるのはこちらの方ですぞ」

 

この公孫瓚評は、趙雲が武一辺倒、指揮一辺倒な尋常な指揮官とは異なった慧眼と感性を持っていることを表していた。

公孫瓚は確かに優秀で、寛容である。その器は巨大なものかもしれない。しかし、異才奇才を納めうるものではなかった。

 

異才奇才は枠にはまらないから異才奇才なのであって、それを収めるにはそれ用の器が必要である。

凡人を統御する器とでは用途が違う。酒杯に飯を盛るようなものであった。

 

現に異才奇才の代表者と言える彼の下には変人しか集まっていないし、人格的にはマシでも能力的には尖り切ってしまっている。

 

周泰や呂布も、公孫瓚には収まらない類の変人であることに変わりはなかった。

 

「いいさ。そうなったら私は晴れて隠居する。君たちも……そうだな。妙才。妙才に紹介するよ。彼女は私より遥かに優れた人間だ。生き残る確率も上がるだろう」

 

ここで同僚が出ない辺りに彼の孤独があり、他の君主が候補として出ない辺りに彼の夏侯淵への評価の高さがある。

 

その孤独は半ば自業自得だが、自業自得に陥らせたのは招いた公孫瓚であることを考えれば一概に自業自得とも言い切れない。

謂わば不幸なすれ違いと、認識の誤りが生んだ結果、歪が生まれていると言えた。

 

「私は貴方に忠誠を誓っているのです。貴方を如何に扇動するかというのが、私の生き甲斐となりつつ有りまして」

 

「後者はともかく、前者は冗談か何かかい?」

 

彼としては、趙雲は面白がって後ろから着いてきているような認識だったのである。

彼女の口から出る言葉と煽りから見れば殊勝に過ぎる忠誠心とやらを自分に向けているなど、到底思っていなかった。

 

「私は別に個人に対する忠誠心を持たぬ曲者ではありません故、冗談ではございません」

 

「意外だな。吾々はあくまでも協力関係であった筈が、いつ変化したのやら」

 

「それは曲者でもない私の忠誠心を捕えた貴方がお悪い」

 

いつもの軽口に、微量の緊張がある。

それを感じつつ、李師は口元に紅茶で満たされた杯を運んだ。

 

 



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適任

「なあ、北郷」

 

「なんだ、春蘭?」

 

天の御遣いと、夏侯惇。

扉の隙間から眼だけを覗かせている二人の視線の先には、全体的に青い女性が酒を回しながら一人で飲んでいる姿があった。

 

背中を向けているから表情は分からないが、雰囲気的に溌剌さに欠けていることだけは確かであろう。

 

「秋蘭はどうしたんだ?」

 

「春蘭にわからないことが俺にわかるわけないだろ……」

 

「……だろうな」

 

いつもならば取り敢えず殴りかかってきそうな返答を敢えて選んでみても、夏侯惇の反応は鈍い。

それほど妹が心配なのかと考えれば、麗しい姉妹愛だと言えた。

 

傍から見れば、違和感しか感じない反応ではあったのであるが。

 

「それか」

 

「それか?」

 

「俺達には見えないものが見えてる、とか?」

 

何言ってんだ。馬鹿かこいつ。

 

露骨にそのような色が浮かんだ夏侯惇の眼を見て心の中で『お前が言うな』と感じつつ、北郷一刀は口を開いた。

 

「だって向かい側に杯があるだろ?」

 

「変なことを言うな、北郷!」

 

あくまで静かに、されど怒鳴る。

割りと難易度の高い行為を達成した夏侯惇は、少し納得しかけた己の心を戒めた。

 

亡霊かなんかと飲むほど、吾が妹は飲み相手に苦労しているわけではないと、思う。

 

再編と酸棗諸侯が抜けた後の兗州の不服従を示す豪族を踏みつぶし、中央集権化に邁進する主は置いておいても、まず、自分。

あと、典韋。夏侯衡も夏侯覇も夏侯称も夏侯威も、と。

 

ぞろぞろ挙げてみた辺りで、夏侯惇は気づいた。

 

「なあ、北郷」

 

「何?」

 

「お前、秋蘭が同僚と飲んでるところを見たことがあるか?」

 

「ない」

 

主、姉、部下。

挙げた中にいるのはこれだけで、同僚が居ない。いや、妹自身が望んでいるのならば姉の夏侯惇としてはいいのだが。

 

「……あのさ、俺なりに妙才さんを評するなら」

 

「人の妹を勝手に評すな!」

 

「あ、はい」

 

極めて真っ当に見えるお叱りをいただき、北郷一刀は黙る。

よく考えてみたら少しおかしいのだが、夏侯惇の言葉には謎の説得力があった。

 

「で、なんだ?」

 

「はぁ?」

 

「評を聴いてやろうというのだ。わからんか」

 

いつもの如き理不尽を軽く受け流しつつ、北郷一刀は一先ず夏侯惇を引っ張って廊下の角を曲がる。

距離をとってから、彼は『あくまでも私見だけど』という念を押してから喋り出した。

 

「社交性はあるけど、一線を引いてるのかなー、と思って」

 

「つまり?」

 

「知り合い以上友達未満を量産できるけど、一緒に飲むほどの友達を積極的に作ろうとしない、みたいな」

 

彼のこの評はあっている。実際夏侯淵は諸将や同僚に対抗意識と嫉妬心を燃やしている荀彧とも、ぽんやりとした独特の雰囲気を持つ程昱とも、残念な感じするが優秀で真面目な郭嘉とも、仲は悪くない。

しかし、良くもないのだ。

 

すなわち、社交性に富むが選り好みが激しい。

 

「あいつは少し、本音を出さないところがあるからな」

 

「春蘭とは真反対なんだな」

 

無言の鉄拳を喰らい、北郷一刀はうずくまる。

痛いことには痛いが、妹と同じく―――と言うよりはより深く沈んでいた夏侯惇がいつもの調子を取り戻したのは嬉しかった。

 

繰り返すが、痛いことには痛い。しかし、こうでなくては夏侯惇ではない気がする。

 

そんな微妙な感情と純粋な好意が、彼の身を捧げての元気づけを生んでいた。

 

「どうしたものかな」

 

珍しく悩むような春蘭を元気づけるべく、そして将来の決裂という悲劇を避けるべく、北郷一刀は念を押すようにそっと諭す。

 

彼は確かに夏侯淵を警戒していた。というよりも、今もしている。

歴史が歴史のままに動くとは限らないことは彼とてわかっているが、知っているということが彼の眼にフィルターをかけていた。

 

攻守、文武に優れた名将。彼女が配下である以上はその評価が正しければ正しいほど、彼女が強ければ強いほど、彼が愛する主にとっていい結果を産むはずである。

 

だが、夏侯淵は結局のところ名将として生まれ、忠臣として生き、謀叛人として生を終えた。

この歴史ではどうかわからないが、彼女は『覇王の部下に一人王の器あり』と評された通りに目的も不明瞭なままに謀叛を起こす。

その後侵攻してきた魏の討伐軍の前衛部隊を打ち破り、返す刀で侵攻してきた蜀軍を撃破。一将を自ら討ったところに流れ矢を左鎖骨の下に受けて致命傷を負い、漢中に帰還してその生涯の幕を閉じる。

 

その解釈は様々だが、悲劇的な、と、彼は思った。

しかし、口には出さない。夏侯淵の気性は掴みかねているものの、『貴方の生涯は悲劇ですね』と言われて唯々諾々としているほど誇りのない人物には見えなかったのである。

 

とは思いつつも幾度か言おうとした彼だが、李師がこれを聴いたならばやはり止めたに違いなかった。

 

彼女の気性からして、巻き込まれて強いられたことですら『己の決めたことだ』と強弁するであろう。

自分の生涯を川に流れる木の葉ではなく、それに追従する水でもなく、流れを作って逆に操ってやりたいと思うような高い矜持を持つ人間になりたいと思っていることを、李師は勘づいていた。というより、それらしいことを喋られていた。

 

あとはお得意の想像と心理洞察による補填である。

 

「話し合ってみた方がいい。何かあるにつけ、キチンと話を聴いた方が、絶対にいいよ」

 

ともあれ彼は、なるべく決裂を防ぎたい。欲を言えば、曹操一代で天下国家を築いてほしい。

人材には去って欲しくないし、寧ろ有為の人材は恨みや因縁を捨てて召し抱えさせたいとも考えていた。

 

「お前は本当に世話焼きだな、北郷」

 

「いや、俺は……」

 

色々と理由が交錯する内情を素直な善意と捉えられ、少し怯む天の御遣いの後ろから、一人の少女が姿を現す。

 

鮮やかな金髪に、覇気に満ちた碧眼。

 

「何をしてるのかしら?」

 

現在最も忙しいであろう、兗州牧の姿がそこにはあった。

 

「あぁぁ、華琳様!これは……そう。これは何でもないのです!」

 

曹操は領地に土着していた自分に恭順していない豪族―――つまり、酸棗諸侯についていった軽率者を根こそぎ李師率いる各個撃破の牙に貫かれた為、新たな秩序構築からやり直さねばならなかった。

 

つまるところそれは中央集権化の第一歩であるのだが、加害者が名士対豪族の仲裁に四苦八苦している公孫瓚勢力に所属している武将であるところに皮肉というものがある。

 

結局のところ公孫瓚勢力では名士対豪族の対立をその火種となっていた李師がその権益を犯さない冀州へと赴くことによって決着した。

割りと瞬間的に邪魔者を排除する曹操に比べて公孫瓚のこの苦労っぷりはすなわち、『甘いか甘くないか』の差であろう。

 

公孫瓚としては幽州で戦を起こしたくない。だからあくまで融和を望み、同じく戦を起こしたくない李師が南に去って事なきを得た。

曹操の場合は恭順していない豪族は厄介者でしかないと判断し、抜本的な、つまりは領内でも血を見ることを厭わない強硬的な姿勢で片っ端から踏み潰す。

 

どちらが正しいのかはわからないが、少なくとも人間的にまともなのは公孫瓚の方であった。

邪魔な奴は後々火種になる。だから殺すというふうな思考をすぐさま実行に移せるところは、曹操の天下人としての器を示している。

 

一概にどちらが間違っているのかとは言えないが、公孫瓚が望んでいるのは幽州という特定地域の平和であり、曹操が望んでいるのは天下であるところに思想と行動の正しさの基準があると言えた。

 

「華琳様はお疲れでしょうし、疾くお休みください。なあ、北郷!」

 

「あ、ああ!」

 

「あら、気遣っているのかしら?」

 

面白げな笑みを見せながら、曹操は誰何の手を休めない。

重臣と一応重臣が廊下の一角で喋っていることが、気になっていたのである。

 

「それより!」

 

「何?」

 

「それよりさ。兗州の支配は、どうかな」

 

「楽よ。一流の掃除人が邪魔者を一掃してくれたお陰でね」

 

と言ってもその中には、彼女の盟友もいた。

その恨みを持たず、口にも出さない辺りに彼女の彼女たる所以があった。

 

「動員兵力は三万を数えるし……そうね。一先ずは敵国の弱なるところ叩き、誘い出された強なるを天地人と合わせて討つ、という方針で進むと思うわ」

 

『高度な柔軟性を維持し臨機応変に』並に大雑把な方針だが、軍事行動に移る直前まで敵を明かさないのは用心であり、無策ではない。

敵となるのは、先ず袁紹の冀州。政変が起きれば或いは司隷。

 

一先ず彼女は、袁紹の没落によって支配が緩んだ青州に手を伸ばすつもりであった。

 

「で、何をしていたのかしら?」

 

話を逸らしたと思えば、その逸し先の話が終わった機を見計らって本道に戻す。

まあまず、機を逃さない敏活さがあるというべきであった。

 

「……秋蘭には飲み友達もいないのかなという話を、しておりまして」

 

「人の不名誉な噂を安易に広めないでくれ、姉者」

 

流石にうるさくなったのか、それとも一区切りついたのか。

腕を組みながら、怜悧な目に姉に対する敬愛を宿らせた夏侯淵が後ろから突如現れる。

 

「私にも飲み友達くらいはいる。ここには居ないだけだ」

 

無言で酒を飲んでいたとは思えないシラフっぷりを誰も訝しむことなく、曹操以外の二人が殆ど同時に疑問を投げた。

 

前者は誰何で、後者は確認だという違いこそあるが。

 

「おお、誰だ?」

 

「李瓔だろ?」

 

李瓔と呼んだ瞬間、夏侯淵の薄水色の眉がピクリと上がる。

別に怒鳴るほど気分を害したわけではないし、そこまで短慮ではないが、不快なことは確かだった。

 

「……一刀。呼び方」

 

「あ……ごめん」

 

「私に言うべきことではなかろう。初対面で夏侯淵妙才と言われたから貴官の知識の差異は認識していたが、人を呼ぶならば姓と字で呼ぶことだ」

 

一々区切って紹介したら姓名字を連結させられた経験のある彼女としては、苦言を呈す権利がある。

 

曹操から窘めは入っていたものの、夏侯淵は僅かにくどくそれを諌めた。

真名ほどではないにせよ、姓名を呼び捨てにするのは敵に回した相手くらいなものである。

 

「そうだぞ北郷。いい加減学べ」

 

趙雲ばりのブーメランを投げた夏侯惇で、この呼び方問答は終わった。

まあ、天の御遣いからすれば身に『字』という風習が染み付いておらず、更には歴史上の人物として呼ぶ時は姓名で呼ぶのが普通だったのである。

 

それを今更是正しろというのも難題な気もした。

だが、この後の彼がこの手の間違いをすることはなかったあたり、彼も中々に勤勉だと言えた。

 

「で、秋蘭。件の李師を見定めることはできたのかしら?」

 

「はっ」

 

「あなたからすると、どの役職が適すると思うのかしら?」

 

この次に言った夏侯淵の言葉に、さしもの曹操も驚きを隠せなかった。

李師が夏侯淵の内面を洞察することに優れていたように、彼女もまた洞察することに優れていたのである。

 

「太史令か、北郷の提案した兵法学舎の名誉教授ならば、確実に召し抱えることがかないましょう」

 

太史令は歴史を記し、今までの史書を公務で読める役職。

名誉教授は、実質無役。

 

つまるところはそういうことであった。



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猶予

八割方完成しつつある易京要塞及び内部都市は、戦乱の内とは思えないほどの順調な発展を遂げていた。

これは公孫瓚の平時における統治の巧さもあったし、彼の軍事的名声―――つまりは未だ敗けたことがなく、十二倍の敵すら退けたというもの―――が巨大であったことを示す。

 

政治に関して彼は無能ではなかったが、公孫瓚の方が才幹と努力の双方においてはるかに勝り、彼の『政治というものは無ければ困るが、自分から触れたくはない』というスタンスが彼の軍事一辺倒な能力値と名声を生んでいた。

 

その姿勢がストイックな名将として評価されたのか敵の数が日々増加し、実際には七倍、伝わった時は十倍、今は十二倍。

人というのは本当に派手な話が好きなのだと、李師は思う。

 

人の噂などあてにならないさ、と思っている彼の元に、一番信頼できる情報元こと、周泰が現れたのは西暦187年八月七日のことであった。

 

「李師様、夏侯妙才殿が袁紹方の青州十余城尽くを陥落させ、曹操が青州黄巾党を降伏さしめたとのことです」

 

「驚くには値しない知らせだね」

 

「はい。ですがこれで河北制覇に先んじたのは曹孟徳様、ということになります」

 

公孫瓚が冀州の半分と幽州。

袁紹が青州の半分と冀州の半分と并州。

曹操が兗州。

陶謙が徐州。

黄巾党が青州の半分。

 

今は少し勢力図が変化したとはいえ、これら五勢力を中心にして、李師は諜報網を築くようにと命じている。

件の謀略の根源たる蜀も気にはなるが、距離の暴虐が邪魔をした。

 

つまるところ、鮮度が命な情報をいち早く仕入れても易京に着く頃には腐っている。

そういうことが容易に有り得た。

 

故に彼は謀略の全容を暴くことを一先ず諦めた。遠きを見すぎ、近くの脅威に対応できなくては阿呆もいいところである。

 

「妙才に手紙を送っているんだが、今回は君が届けてくれるかな?」

 

「あ、元々文通はしていたんですか」

 

本当に仲が良いんですね、という感心半分驚き半分の言葉に、向こうから送ってきたものを返しているだけさ、と李師は答えた。

周泰からすれば仮想敵国の将軍と文通などやって欲しくはない。それはまあ美しい友情だとは思うが、その美しさは好意という眼鏡をかけて見ているからそう見えるのであって、悪意という眼鏡をかけて見ればどう映るかはわからないのである。

 

敵国の将軍と内通しているのだとも、とられかねない。

 

「中身を拝見しても?」

 

「いいよ」

 

書いてあるのは夏侯淵の無事を喜ぶのと、ごく平凡な日常の話と、軍事論と、また飲みたいね、ということくらい。

具体的な内容が一欠片もない、雑談文と言っても良い。

 

そして何より、彼女が挙げた勝利に対しての言葉がなかった。

 

「勝利に関してはなにか書かれないのですか?」

 

「私は友が生き残ったことを喜ぶことはできるが、人殺しを賛美することはできない。彼女も私の戦術を褒めこそすれ、勝利を喜ぶことはない。それでいいんだよ」

 

周泰は、一つ頷く。

以心伝心のような感覚共有を前提とした、おかしな関係だと思った。

 

(暗黙の内に互いのことがわかるのが、友というものなのでしょうか)

 

彼女にはそう言い切れるだけの友は居ない。彼と夏侯淵が重ねた時よりも遥かに長い時を重ね合った友はいるが、そうであると断言はできない。

友愛の深さと繋がりの深さとは、過ごした時間の量よりも、質とか本人同士の相性とかに左右されるのだろう。

 

少女はまた一つ学び、夏侯淵に文を届けた。

受け取った彼女は読んだあと少し笑い、『らしいな』と呟いただけだったという。

 

彼女からの返事が易京に届くのはそれから二ヶ月後のことだが、その三週間後に移った後の易京要塞に話を戻す。

 

易京要塞の建設と、それに伴う街の区画割りから外壁の補修工事は概ね巧くいっていた。唯一の懸念だった商人たちの素性についても周泰による洗い流しによって蜀勢力との関与が確認されていない新進気鋭の若手商人たちと大手の商人を招き入れ、件の呂布の方天画戟を造った職人とその弟子らが移住するに相応しい環境を整えたのちに招待した。

 

弩兵の一斉射撃によって敵兵をなるべく効率的に、迅速に殺傷できるように造られた要塞の壁面には、数千の穴が開いている。

これは防御力を僅かに下げるがその何倍もの攻撃力を手に入れることができるという物であり、弩兵を多く揃えた李家軍が籠ってこそのものであった。

 

彼の私軍というべき最前線を守る部隊は千人補充し、総勢二万五千。張遼、趙雲、華雄、呂布の四分隊に分けてこれを統率し、副司令官として田予がこれらの部隊の管理と運用を担当。李師が作戦の立案と指揮を担当することで各員の仕事範囲を狭めて雑味を濾過することで各員が果たす仕事の精度の高さを実現していた。

 

「何の手紙ですかな?」

 

「妙才からの手紙。軍旅の中でも返事をくれるとは律儀なものだね」

 

内容としては、己の身を案じてくれたことに先ず礼を返し、李師の出世には一切祝賀の言葉を書かずに彼の人格的欠点と立場によってとるべき配慮、更には外敵ではなく後方にも注意を払う旨を記した後に『そちらも御健勝であれ』と締められている。

 

「ほうほう、仲のよろしきことで」

 

実に内容の八割が心配と忠告であることを、趙雲は軽く笑いながらからかった。

 

「あぁ。友を得られたのは良いことさ」

 

皮肉を軽くいなされた趙雲は肩を竦め、手に持つ槍をくるりと廻す。

彼女からすれば、夏侯淵と彼の関係が宜しいのは極めて嬉しいことであった。

 

一に、叛乱の嫌疑をかけられる可能性が上がる。

二に、夏侯淵の身に不慮の事態が起こった時にこちらを頼ってくる可能性が高くなる。

三に、からかいの種が増える。

 

まさに良いことづくめ。良いことの欲張りセットであった。

 

「編成は張文遠に八千、私に五千、呂奉先に四千、麴義に四千、華雄に四千。全軍の統括を主がなされ、全軍の運用を田国譲がなさる。これでよろしいか?」

 

「それで問題ない。さしあたり、君を呼び出した理由としては、君の隊に配属された新兵千を率いて訓練に向かってほしいということなんだが、どうかな?」

 

「了解致しました。まあ、熟練兵どもの足を引っ張らない程度には鍛えてきましょう」

 

一礼して新兵の訓練に出掛けていく趙雲を見送り、一旦閉じた手紙を開く。

 

『貴官の人となり、平和を楽しむを好み、軍旅を疎み、己が権力を欲する蔑み、政柄に寄る無用を嫌う』から始まり、『傍から見るに政治に於いて健やかに立つ一主を、その名声と軍事能力において凌いでいる様』とつなげ、『貴官が好くものを嫌い、疎む事柄が来ることを待ち、蔑むを尊び、嫌うを好いている人間が普通であるが如く考えられ、己というものに対する存分の配慮の後に行動されるがよろしい』で終わる文章は、彼の欠点とその死角を埋めるような忠言であった。

 

「……どうしたものかな」

 

二万五千の軍は冀州四郡の防備には必要不可欠である。

 

名声などは血筋と行動に付いてきてしまった邪魔な付録であるが、これまた平和の維持に少なからず役立っているし、軍事的な能力は呪詛のように自分に纏わりついて離れてくれない。

 

ならば締めの一文こそを守り、刻んでおくべきだった。

 

平和を嫌って乱を好み、軍旅を起こす状況が来るのを歓迎し、権力という腐臭のする物を尊び、政治権力でもって乱を発するを好む。

つまるところはこういう人間が殆どだと考えなければならない、と彼女は言っていた。

 

「あまり、考えたくはないことだな」

 

どちらかと言えば中原に近い曹操以外の河北諸侯の軍事行動は、彼の篭もる易京に軍事的な要路を完全に封鎖されていることもあって停止している。

彼はこの平和を望みながらも悠久のものだという希望と夢想を捨て、己という要石と精密な均衡のもとに成り立っていることを理解していた。

 

だが、物がわからない人間に軍旅を起こされては仕方がない。自発的な侵攻は公孫瓚が許すまいが、反撃ならば許可されているのである。

 

この制度自体は悪くないが、そんなことはいつものことだった。

要は、どのような法や制度も使う者たちや解釈する者の性根と性格によっては悪くもなるし善くもなる。

 

「……まあ、いいさ」

 

豪族連中の出番をなくしてやれば出しゃばってこない。戦功の独占と非難されるのは癇に障るが、下手に外征をして大量の血を流すことに比べれば些細なことだ。

 

そういう考えをしている彼は、気づかなかったのである。

 

汜水関での完敗と青州での敗戦が合わさって『袁紹は戦が下手』との噂が民の中で流れたが為に、実質的に彼の派閥が要職から末端までを占める冀州四郡の統治機構と彼の軍事力を恃んで難民となって入ってきているなど。

彼は軍事を担当している以上は政治に口を挟まないようにしていた。

 

それでも当然のようにまわってくる街の活性化と整備などの仕事は給料の為にやる。やらねばならない。

 

しかし、この手の軍人系統治者がやりがちな『軍事力増強の為の政治』に一切手を付けず、『民の暮らしの安定化、活性化の為の政治』に終始していた。

このことは彼の兵が僅か易県の城の敗残兵千人しか増員されていないことを見れば一目瞭然であろう。

 

彼のこの姿勢は他の政治系名士たちに好まれ、彼女等は全力を以って繁栄の為の内政に打ち込むことができた。

 

難民の増加と共に易京の城壁は拡大を続け、人口は既に幽州一の都市である漁陽を越していたのである。

これはやはり、交通の要衡であることが大きかった。

 

難民の受け入れと住宅の区画割り、城壁の拡張が終焉を迎えた時、祭りのような気持ちで才能と体力を注ぎ込んで易京の繁栄に尽くした政治系名士たちも流石に己の行いを省みる。

 

軍部を無視しすぎた、と。

彼女等からすれば、幽州で働いていた時は軍人たちがうるさかったので計らずもストッパーがかかっていた。

しかし、政治に口を挟む気がない男がトップに立ち、配下も根こそぎ政治的野心に乏しい人間の集団と、自分勝手な豪族連中では毛並みが違う。

 

彼は本当に、何も言わなかった。言うべきではないと本気で信じ切り、軍政・商業担当の賈駆と農業関係の韓浩と土木関係の劉馥に全てをぶん投げて呂布とたわむれ、趙雲と皮肉を言い合っていたのである。

 

口を出さないと言ってもどうせ口を出してくるから、どうせなら向こうから言い出すまで待とう、と言っていた結果が維持費だけの軍隊と拡張と繁栄を続ける都市になり、三蔵を埋め尽くした宝物は一蔵を残すのみ、六蔵を満たした穀物は残り二蔵。

金に物を言わせて迅速且つ大盤振る舞いに開発を続けた結果、過半以上が内政と建設に消え去っていた。

 

「増兵なされては如何でしょうか?」

 

「文和に訊いてくれ」

 

韓浩と劉馥が神妙な顔をして提言した結果、判断は賈駆に丸投げされる。

軍隊の維持費が馬鹿にならないことを賈駆に散々愚痴られていた身としては、これは当然のことだった。

 

そしてその結果、賈駆は言う。

 

「張機という南陽出身の内務官が医術にすぐれているらしいので招いたのと、医術の研究させる為の環境作りに余剰の軍事費は予備を残して消えたわ。増兵は来年ね」

 

内政費用を切り詰める気が全くない彼女としては、これも当然のことであった。

 

世の諸侯が軍事費を集める為に内政費用を削っている中、易京だけが逆の様子を示す。

これが『民に優しい、徳のある御方』という名声に繋がるなど、平和を楽しんでいる彼には思いもよらないことだった。



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血筋

夏侯淵は右筆というものを置かず、いつも公文書も私文も己で書いていた。

更には、身の回りの世話をする人間も典韋しか置かず、それも戦で自分が動けない時に茶を淹れてもらうというような瑣末事しかやらせない。

 

漢の将軍が階級を上昇させるごとにその軍事能力に陰りを見せていたのは、何でも他人任せにして自分でやるという思考を放棄してしまい、それが結果的に戦場にも現れてしまったからだと思っていたのである。

 

自分のことは自分でやるという信念は、彼女の館が漢の功臣の家系らしく古めかしい貴族的なものであるにもかかわらず、使用人を置かないあたりにも現れていた。

 

部下に任せればいいところも、大事なところは積極的に自らが指揮をとる。謂わば外見と雰囲気に不釣り合いなほど面倒見が良かった。

 

彼女の姉は私生活は使用人に丸投げしているが、こういう面倒見の良さは変わらないのである。

劉邦と言う名の駄目君主の御者として色々世話を焼いていた夏侯氏の血の特質なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

 

だが、それよりも何よりも彼女の精神として『他人に自らの何事かを任せる』ということができなかった。

別にワンマンというわけではなく、意見は求める。しかし、彼女の軍には彼女よりも優秀な人間が居なかった。

というよりも、戦略の為に戦術を活用したり、視点を変えてみたりする人間が乏しかったとも、言える。

 

姉の軍にはそういう軍師系、副将系の人材が付けられているところを見るに、曹操からすれば『夏侯淵は一人で全ての役回りをこなせる』というような判断であろうと推測された。

 

ワンマンを好む好まざるかかわらずに結果的にワンマンにならざるを得ないのは彼女の友も同じだが、彼女は別にそういうところを似せようとして似せているわけではないのである。

 

(……公孫瓚は疑わないだろうが、優しすぎるのが欠点だからな。あいつがそれに付け込んでいるとも、とられかねん)

 

返ってきた手紙に書いてあった『忠告ありがとう。軍縮はできないけどこちらとしても不穏に見える動きは慎むよ。だけど私の主は寛容で温和なできた人間だから、君の思う最悪は起きないと思う』、という旨を見てため息をつきながら、夏侯淵は左の頬から眼までを手で覆った。

 

ともかく、性格と能力の矛盾、功績と野心の矛盾で誤解を招きやすい彼を何とかこちらの利益にも、あちらの損益になる形でもなく押し止めなければならない。

 

(……私も馬鹿なことをする)

 

方面軍司令官兼北方総督として考えるならば、趙雲辺りを抱き込んだ後に互いの家臣に対して離間を用い、冀州四郡と幽州を切り離して独立勢力とし、冀州四郡を安泰させて不可侵の盟約を結び、袁紹の冀州十郡を手中に収める。

その後に并州を獲り、河間郡以外の三郡の旧袁紹領たる冀州十郡を交換し、幽州を滅ぼす。

 

公孫瓚と李師の間が信頼で結ばれていようが、公孫家に流れる血は豪族であり、公孫瓚は更に父の身分が低い。

如何に能力があろうが本質的には同格である為、連合の体をとらなければ国を円滑に維持できないのが弱点だった。

 

何にせよ、名将を斃すには搦手でいくのが妙手だと古来から決まっていた。

 

「この夏侯妙才が、甘くなったものだ」

 

決して苦くない苦笑を漏らし、文を書き切って外に出る。

青州から冀州へ。戦地を移しても、彼女の戦いは精彩を欠くようなことは全く無かった。

 

甘くなった夏侯淵の用兵は、更に鋭さを増しているのである。

 

「秋蘭様、あと四郡。如何に攻略致しますか?」

 

「公孫瓚とは接しないように徐々に締め上げる。もう楔は打ち込んだ。抜かりはしない」

 

朝歌、魏、広平、陽平。

三日で五百里、六日で千里と謳われた疾風怒濤の電撃戦でこの四郡を落とし、平原、清河を調略で降伏させ、既に名将としての声望を得ている彼女の名は曹操軍随一の将として否が応でも高めている。

 

あとの四郡にもそれぞれ付け入る隙となる城に楔を打ち込み、あとはどこから料理をするか、だった。

 

現在の彼女は魏郡鄴で政務と軍務を取り仕切っている。

まだ完全に夏侯淵に任された冀州を含む河北の基盤が固まったわけではないが、袁紹の本拠地である鄴を電撃的に落としたが故に豪族たちが靡き始めていた。

 

時間が経てば経つほど袁紹から豪族は去っていく。夏侯淵の側に立つ豪族は増えていく。

 

仕掛けられるならばここらだろうと、彼女は冷徹に思考を巡らせていた。

 

「公孫瓚の直属兵力は四万だったな」

 

「はい」

 

「易京の兵力は二万五千か」

 

時は西暦188年二月。汜水関決戦から約一年半が経っている。

あれから千人ほどしか増員していないのは、おそらく政治面の状況もあった。純粋に資金が足りなかったということもあるだろう。

 

しかし、だ。その軍政面の担当者である賈駆は兵力の増強の必然性について知っている筈だ。

それを知ってなお資金難に陥らせるほど無能ではない。

 

(遠慮、というべきだろうな。そもそも人口が違うのだから、俯瞰すればそんなものは無用と言えるが……やはり人が相手である以上俯瞰風景だけでも駄目、か)

 

曹操直卒の青州黄巾党を含む精鋭は五万。

夏侯惇に二万、夏侯淵が私兵と預けられた曹操軍の一部、豪族たちを含めて四万。

 

冀州の統治を円滑に行えている現状、来年辺りには自分の兵力は六万を越すであろう。

豪族の突き上げにあって君臣ともに互いに遠慮している状況と言えるのが公孫瓚陣営であり、それは多かれ少なかれ曹操陣営以外の内情だとも言ってよかった。

 

「秋蘭様、あの……良かったのですか?」

 

「うん?」

 

「いえ、その、河北を攻めるということは……」

 

易京に居る友を攻めることになるのでは、この上司思いの部下は言ったのである。

現に曹操は彼女に二択を与えた。河北を攻めるか、徐州を攻めるか。

 

曹操としては荒廃した青州をその内政手腕で復興させなければならないわけだが、兗州もそれほど豊かではない。

陶謙の徐州か袁紹の冀州かを攻め取り、その広大且つ豊潤な大地を得なければ財政基盤はいつまでも定まらないままだった。

 

その結果、第一に衰弱した袁紹が治める冀州。

第二に、名だたる将が皆無と言っていい徐州。

 

司隷に攻め入るという選択肢は二ヶ月前まではあったが、涼州の董卓軍残党が引き返してきて荒らし回っている今となってはその選択肢はない。

今の曹操は、水準的な土地と荒れた土地とを領している。

 

ならばその均衡を取るためには、豊かな土地が必要だった。

 

「私は勿論、彼と戦いたくはない。しかし、天下を征服するにはどのみち戦わなければならない。なら、己で討つ。それならば一刻も早く、敵の数が少ない内に叩くのが得策というものだ」

 

しかし、まだ矛を交えるには己の軍は散文的な韻を踏み過ぎている。

 

「……どうせならば、袁紹を利用させてもらうとしよう」

 

「はぃ?」

 

「奴等も打って出ることは疑いようがない。ならば、そうだな」

 

口の端のみを上げ、怜悧な相貌が冷酷な色を帯びた。

彼女としては、私軍として一本化されている李師の軍が羨ましい。

 

豪族と呼ばれる者たちを抑えつけるには、血筋と武力が要る。

清流派の巨頭である李家と四世三公の袁家の間に生まれた父・李瓚から継いだ彼の血筋は劉氏かその分家以外では比類ないほど高貴なものであり、その武力としては呂布や趙雲、それに何よりも自身の卓犖とした指揮能力と智略があった。

 

彼の配下に審配を頂点にした牽招等の冀州豪族が黙って従っているのはその実績と血筋が物を言っているのが大きく、公孫瓚の元で豪族が好き勝手やっているのも彼女の血筋が問題である。

 

能力よりも名声を、名声よりも血筋を優先させるのがこの国の根幹にある以上は仕方ない。

更に言えば、公孫瓚の配下にいる豪族が何やら蠢動を収め得ないのも、李師率いる名士・冀州豪族群に駆逐されるのではないかという恐れからだった。

 

袁紹も血筋的には李師と殆ど同一で、彼の持つ指揮能力を大軍に代えて豪族連中の頭を抑えていたのである。

彼女の陣営にはまだ沮授や田豊や張郃などの主力豪族が残っているものの、末端の日和見豪族たちは夏侯淵に寝返った。

 

夏侯淵が不利になれば有利になった勢力に寝返るであろうから、これほど信義的信頼にも、能力的信用にも値しない連中は居ない。

 

「田豊も沮授も張郃も、その名を轟かせた名将だ。巧くやってくれることを期待しよう」

 

その二週間後、袁紹軍出撃の報が鄴城に齎される。

予定戦場は梁期。豊かな草原が広がる魏の別名を冠す土地であった。

 

ここで、夏侯淵率いる北方征討軍四万と袁紹軍五万がぶつかり合う。

 

 

「敵には、後がない」

 

夏侯衡は五千

夏侯覇は八千

夏侯称は三千

夏侯威は七千

夏侯栄は四千。

 

そう夏侯淵に評された五人の将は、それぞれ三千の兵を率いて参戦していた。

夏侯淵の直衛部隊である五人の子飼いが率いる軍勢と鍾会率いる援軍のみが曹操軍であり、残りの兵力はすべからく袁紹軍から寝返った豪族たちの私兵で構成されている。

 

「必ず激烈に、苛烈に。しかも周到に攻めてくるに違いない。幸いなことに―――」

 

ちらりと冷笑を籠めた視線を前方に向け、夏侯淵はその視線に現れた感情と同じく冷たく笑った。

 

「―――彼等が最前線で戦ってくれるという。これを利用して敵の出方を見て、疲労を誘う。私の命令があるまで動かぬように。鍾士季。貴官もだ」

 

「はっ」

 

深い紺色をした髪をした鍾会と、全体的に色鮮やかな髪色をした子飼いの指揮官たちが了承の意志を示してこれを容れる。

 

鄴を捨てた袁紹の新たな本拠となった邯鄲と、夏侯淵の本拠となった鄴。

その中間にあるこの梁期は、その大軍を展開するにうってつけな地形であることを利用され、数刻後に血と悲鳴とで塗り潰されようとしていた。

 

「将軍、前衛の呂曠・呂翔隊が袁紹軍に突撃を開始致しました!」

 

独断専行、無断突出。

豪族を戦場に引っ張っていった時にありがちなことが、夏侯淵の下で起こったのはこれが初めてではない。

 

彼女は今まで、態と彼等に対して軍規による締め付けを緩めていたのである。

 

「戦果も挙げられないのに、好んで骨を折るとは勤勉なことだ」

 

伝騎が一礼して去っていくのを見送りながら、夏侯淵は皮肉げに笑いながら床几の肘掛けに腕を乗せた。

 

「どうなさいますか?」

 

「何を、だ?」

 

「呂曠・呂翔隊に続き、豪族たちの私兵が突撃態勢に入っています。押し止めなければ、吾々は無為に全兵力の3分の1を失うことになりかねません。更に言えば、奴等の中に内応者が居るとも限りません。ここは本軍を前進させて援護するか、制止させることが必要かと思いますが」

 

鍾会のもっともな意見を手で制し、夏侯淵は肘掛けに立てた手に頬を置く。

彼女からすれば、馬鹿には好きにやらせればいい。裏切る素振りがあるならば、より苛烈な状況下に叩き込んでやればいいのだ。

 

「もっともな意見だが、無用のことだろう」

 

「曹兗州様の統治に奴等が不要なことはわかります。しかし、さしあたり勝つ為には彼等の兵力は必要なのでは、ありませんか?」

 

「必要だ。だが、一度痛い目を見てもらわなければこちらとしても御しようがない。裏切った以上は、恩よりも恐怖と死による統御を望んだと解釈してもいい。ここで負けさせ、二日目に収集をつけて順次使い潰す」

 

日和見に性根の腐った裏切り者にはとことん冷徹な夏侯淵の予想通り、この豪族たちによる一大攻勢は簡単に弾き返される。

夏侯淵はそのまま整然と十里後退し、陣形を再編して豪族たちに『勝手に突出した挙句敗けた』という詰問を行い、次はないという恐怖によってその統御下に置いた。

 

『孫子』九変篇に曰く、将に五厄あり。必死は殺され、必生は虜にされ、忿速は侮られ、廉潔は辱しめられ、愛民は煩さる。凡そ此の五つの者は将の過ちなり、用兵の災なり。軍を覆し将を殺すは、必ず五厄を以てす。察せざるべからざるなり。

 

必死となった彼等がどうなるかは、この文が如実に示している。

 

 

そして明けて二日目、劣勢の中にある夏侯淵軍と優勢の中にある袁紹軍の激突がはじまった。




呂布(異民族)
趙雲(危険人物・冀州人)
田予(冀州名士)
張遼(亡命者・并州人)
華雄(亡命者・并州人)
賈駆(亡命者・涼州人)
董卓(亡命者・涼州人)
麴義(亡命者・涼州人)
審配(冀州豪族)
劉馥(潁川名士)
韓浩(潁川名士)
高順(并州人)
成廉(異民族)
魏越(異民族)


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亡命

「呂翔様、呂曠様、討死!」

 

「焦触様、張南様、敗軍の中で行方知れず!」

 

「蘇由様、蒋奇様が顔良・文醜に討たれ、配下の兵たちは潰走状態に入っております!」

 

「顔良・文醜隊の勢い凄まじく、前線から援軍要請が届いております!」

 

悲報と言っていいこれら四報を、夏侯淵は一言で押し流した。

 

「彼女等の兵には、気の毒なことをした」

 

本人達の安否など気にも掛けず、必要最小限な犠牲で不確定要素と邪魔者を排除し、敵軍を疲労させるという布石を打った夏侯淵は、再び十二里ほど下がる。

豪族の私兵の死傷者は既に四千にものぼっているが、袁紹軍の死傷者は千もない。

 

圧倒的に負けていると、言っても良かった。

 

しかし、これは実情と大きく異なっていたのである。

彼女が行ったのは、和を乱す不確定要素と内通を約束した裏切り者の始末。

 

その際に、『戦には必要な一手で、絶対に出るであろう犠牲』となることを豪族に押し付けていた。

即ち彼女は、死ぬまで戦う役割を頼りにならない連中に押し付け、頼りになる本軍を温存している。

 

夏侯淵は『命は皆平等』という人道主義者ではない。どうせ殺すならば死んでもいい者たちを差し向けることで全体的な犠牲を抑えるというのが将の仕事だと割り切っていた。

 

これは彼女が『縦繋がりの中央集権的国家』を目指す者達の一員であり、公孫瓚や李師のような『横繋がりの上に代表者が立つ国家』を目指していないからであろう。

 

簡潔に言うなれば、専制と連合の違いであった。

 

どうせ殺すならば、自軍の兵を損耗させて殺すよりは敵の刃にかかって死ぬ自軍の兵の役割を代わってもらう。

『自軍の兵を勝つ為に使い、できるだけ多く生還させる』将としての冷徹さが、彼女の極めて正確な判断を齎していた。

 

「敵軍の精鋭部隊は、吾等の不穏となりうる豪族たちと血を血で洗う激戦を二日にわたって繰り広げている。三日目となる今となっては疲労は蓄積し、とても今までのような戦い方は望めん」

 

三日目まで統制の取りにくい将とその私兵を磨り潰すような指揮振りをとっていたのは、彼女にとっての自軍である曹操軍の兵を一人でも多く生還させるという職責を果たす為である。

 

「敵の攻勢限界点は以前より遥かに近く、その攻撃も弱い。各員は防御戦闘に徹し、私の命令が来しだい反攻。勝っている内は感じない疲労を剥き出しにしてやれば吾等の勝ちだ」

 

各将たちが各管轄の軍に散り、指揮を執るべく本営を去る。

三日目、冀州袁家が余力を振り絞った最後の戦いが幕を開けた。

 

田豊の指揮の元、顔良・文醜が先鋒として突き進み、沮授と張郃が両翼となってこれを掩護する。

 

袁紹軍は二日にわたって全力の攻勢をかけながら未だに夏侯淵の巧みな兵力投入によって曹操軍自体にはまるで触れることができていない。

しかし、彼女等からすれば大いに勝ち、敵将の首を討っているということになっていた。

 

あと一押しで、勝てる。

それが袁紹軍の考えであった。

 

「押せ押せ押せぇ!」

 

「麗羽様の為に、頑張ってください!」

 

文醜と顔良が自ら得物を振るって突撃してきている。

その報に夏侯淵が接した時、彼女が思ったのは『そこまで来たか』というところだった。

 

中央部の将たる田豊に自ら陣頭に立ち、突撃するように言われたとするならば敵の疲労は思ったよりも遥かに重いのではないか。

 

誘いにするにしても、将自ら陣頭に立つのはここ一番。敵陣の破断と突破を目論むときである。

 

「第一陣は左に斜行して右に流し、第二陣は右から突入してきた敵を左に流せ。無用な乱戦を避け、足止めと敵の速度の減衰に徹するのだ」

 

夏侯淵には今攻撃に移る気は全くない。故にまともに応戦し、乱戦することを避けていた。

勢いを左から右へ、右から左へ受け流す。

 

これだけ言えば簡単だが、夏侯淵はどの部隊を進めてどの部隊を下げるかを一々指示を出さねばならなかった。

 

田予に預けている部隊運用というのも兼ねなければならないからこそ、夏侯淵の仕事が過大になる。

 

仕方ないことではあるが、彼女の負担は馬鹿にならなかった。

 

「将軍、敵軍の勢いは凄まじい物があり、既に五陣中三陣が突破されております。何か手を打ちませんと……」

 

「敵は四陣に随分と手こずっているようだな」

 

「はっ、それがどうかなさいましたか?」

 

第四陣はそれほど堅い部隊ではない。堅さで言えば第二陣が勝っていた。

敵の勢いが明確に落ちてきている。夏侯淵は充分な確信を以ってそれを悟った。

 

「第四陣に伝令、突破させた後に左右から挟撃せよ、と」

 

敵の侵攻速度によっては本営がそのまま突撃を喰らいかねない指示を、夏侯淵は下す。

敵は攻勢限界点に達しつつあると、彼女が戦場で経験してきた知識が囁いていた。

 

「敵の脚が止まりましたぁ!」

 

「押し返せ」

 

騎兵は攻撃に強く、防御に弱い。

その頼みの綱の攻撃能力までもが疲労と損耗によって磨り減り、突撃の何よりの武器である速度を殺された文醜・顔良隊は脆く、三方からの包囲攻撃で夥しい犠牲が現出していた。

 

「鍾士季に連絡。敵右翼部隊の攻勢に区切りがつき次第攻勢に転じ、これを討て。その後に伸び切った敵戦線の側面を付け、と」

 

夏侯淵が敵の突出した中央部を簡単に料理し始めても、右翼と左翼は未だ防御戦闘に徹している。

練度の低い味方を連れて戦う今回の戦闘は鮮やかさではなく、血を血で洗うような凄惨さこそが必要なのだ。

 

故に夏侯淵は長期戦を選ぶ。結果としてそれは正しかった。

 

張郃の指揮する敵左翼一万は容易に崩れるさまを見せないものの、沮授の指揮する右翼部隊一万には綻びが見え始めている。

中央部は、言うまでもない。

 

夏侯淵は決戦を強いた。何故強いることができたか。戦略的勝利を既に収めていたからである。

曹操が下絵を描き、現場で夏侯淵が完成させた戦略的勝利は、戦術的勝利を得て解決できるようなものではなかった。

 

そこら辺に、今回の戦いにおける袁紹の敗因がある。

 

そこからの夏侯淵の攻勢は苛烈と巧緻さを極めた。

まず、敵中央部と左翼の連結部に夏侯衡を突撃させて分断・包囲し、左翼部隊を指揮する夏侯覇には徐々に中央部から距離を離すように誘導させる。

更には敵右翼部隊を打ち破り、右回りに突進してきた鍾会の掩護に夏侯称を向かわせ、敵が完全に崩壊する寸前にまで追い込み、彼女は三千足らずの部隊の長を呼んだ。

 

「栄」

 

「はい!」

 

「薄くなった敵中央部を強行突破し、田豊を討て」

 

夏侯衡に左から崩されないように左翼に均衡を傾け、更には鍾会の右翼に均衡を傾けさせる。

その後に、一隊を以って両翼を切り落とした敵を破断。

 

田豊が討たれ、袁紹が顔良・文醜に連れられて逃走し、最早軍の体をなしていない袁紹軍は個々に退却を始めていた。

 

「追撃なさいますか?」

 

「各員適宜対応せよと言っておけ。何でも私が決めていては、成長のしようがない」

 

頭を預け切っていては、いつまで経っても成長がない。

勝ち戦で無用な被害を出すことがあることは、彼女の友の好む歴史が証明している。

 

しかし、一方で思うのだ。

将に成長が見られなければ、その能力の無成長による継続的な被害が馬鹿にならないと。

たまには自ら考えることも必要だと、夏侯淵は判断したのである。

 

この判断に接し、各司令官はそれぞれ追撃に移った。

 

武官における至尊の座を得ようとする野心家である鍾会は許可がなくとも追撃に移るつもりであったから、その移行は速い。

彼女の軍は右に回頭して敗走する沮授の頭を抑え、これを討った。

 

一方の左翼は、命令通りのことを忠実に再現することに注力していた夏侯覇の僅かな逡巡もあって追撃に移る速度が鈍い。

これを見逃さなかったのは、この絶望的な敗走の中でも勇戦していた張郃らしい機敏さだと言える。

 

張郃はただ、退き時を知らないからむざむざ残っていたわけではなかった。

夏侯覇隊に騎兵による突撃を仕掛け、その後に天下随一と謳われた冀州の弩兵による斉射を撃ち込んで右に回頭。

夏侯淵が袁紹を捕らえるべく出撃させた夏侯威隊の側面を喰い破って主の逃亡を救い、自身は邯鄲に通ずる道に籠もるべく後退した。

 

袁紹が逃げても、最早天下の形勢に変化はない。それよりは敵対勢力となりうる兵力を削る。

 

これを易々と逃す夏侯淵ではなく、張郃の部隊はその追撃によって部隊の二割を失った。

 

しかし、邯鄲に通ずる要路を抑えることに成功した張郃に、夏侯淵は素早く攻撃を加える。

 

 

「高覧」

 

「はっ」

 

「徴集兵を一部隊ずつ後方に下げ、撤退させよ。私が殿となる」

 

その動きを未然に察知した張郃は、勝つことを諦めて時間稼ぎに徹することを手早く決断した。

 

矢が蝗のように飛び交う射撃戦が行われた後、隘路での乱戦がはじまる。

張郃がここで稼いだ五刻によって、袁紹は完全に逃げ延びることに成功していた。

 

開戦してすぐに副官である高覧にそう命令を下した為、邯鄲への道に逃げ込んだ時に居た八千の兵は既に彼女の私兵四千のみとなっている。

 

「高覧、本初様は逃げられただろうか」

 

「吾等が戦っているときに逃げ出した主のことなど知りませぬ」

 

「高覧」

 

軽くたしなめ、張郃は殆ど絶望的な戦局を見て、佩剣の柄を二度叩いて呟いた。

 

「私は冀州の豪族だ。袁家の先代様に父が犯した罪を許していただいた恩に応えるべく、これまで袁家に尽くしてきた。今更、袁家以外を主と仰ぐことはできない。

だが、他の者ならば別な道の歩み方もあろう」

 

「儁乂様―――」

 

「高覧、貴官に指揮権を委ねる」

 

自害しようとしている。

そう悟った高覧は、剣の柄に掛けられた右手をそっと押し留めた。

 

「いけません、将軍。袁家以外に主を戴けないならば、また別な道があろうと小官には思われます」

 

「汝南に行けるわけもなかろう?」

 

「いえ、汝南ではありません」

 

袁家の本籍は、汝南にある。

高覧の言っているのがそれだと先回りした張郃は打ち消されたことに驚きつつ僅かに頭を回し、気づいた。

 

「河間の、易京か」

 

「はい。将軍が治められていた地も、そこより程近い鄚。民情を考えれば粗略には扱われぬと思いますし、何より易京を中心とした冀州四郡を治められる李仲珞殿は袁家嫡流の血をひかれるお方。

更には戦をしては未だ不敗、政務を執れば民に恵恤を施す徳のある御仁です。旧敵とはいえ、彼は袁家への侵攻を行いませんでした。窮鳥を撃ち殺すような方ではないかと」

 

彼は幽州の豪族が企てた袁紹領侵攻作戦に一貫して反対を示し、遂には公孫瓚と共にこれを差し戻したという。

敵の弱味を突くのが常套であり、自身もそれを董卓に対して行った袁紹陣営としては覚悟をしていたのだが、彼は侵攻作戦を企てるどころか却下した。

 

これはただ単に『働きなくない。いや、べつに働くのはいいが無用無益な戦で兵を殺すことできない』ということであり、信義でも何でもなかったが、世の人々にすれば美談となるらしい。

元々、『董卓は悪政を敷いていなかったのではないか』という出処不明の噂に、『不敗』と『善政』という真実で名声を得ていたから、土台があってこそなのかもしれないが。

 

とにかく、李師は幽州豪族たちの『弱いから叩こう』という作戦とも言えぬ作戦を一から百まで丹念に矛盾点と不可能な点を指摘し、兵站から実戦に至るまでの計画の曖昧さをその無駄に回る頭脳を駆使して面と向かって論破してみせたのである。

 

論破しなければ止めそうになかったからこその論破であったが、これは更に幽州の豪族との間隙を深く、広いものとした。

護衛として同行した趙雲が笑うか煽るかしているだけという無礼極まりない態度だったことも、あるかも知れない。

 

ともあれ単経が『兵などの命よりも、領土と利益をこそ望むべきだろう』と言った後、この問答の最後となる、

 

『この世で最も惨い死に方とは、なにか。この世で最も唾棄すべき人の殺し方とは、なにか。それは無能な指揮官が立てた無用無益な作戦に従い、その中で死に、殺すことです』

 

という返しから、

 

『それは吾々の立てたこの作戦が無用無益であり、なんの実も枠も伴わず、兵を殺すだけのいきあたりばったりな作戦だということか』

 

という問いに対しての、

 

『そう言ったのが、聴こえませんでしたか?』

 

というやりとりは最早民の笑語の的となるほどに有名になっていたのである。

 

このことから、彼が無用な戦とそれに伴う犠牲を何よりも嫌う、優しい人間であることは冀州に知れ渡っていた。

 

「……わかった。亡命しよう」

 

故にこの判断は、同じく民を安んずることを望む張郃にとって当然とも言える判断であったろう。

 

西暦188年、二月十四日のことであった。




差としては、

夏侯淵……味方(その後の去就が定かではないものは除く)の死者を抑える

李瓔……死者を抑える為に勝ち方を選ぶ

って感じです。


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旧知

張郃たちは、一路易京を目指して駒を進めていた。

四千の兵の先導をする彼女の道選びは的確で、しかも迅速である。

 

この冀州上四郡が元は袁紹の領土であることが、彼女等にとって大きなプラスに働いていた。

要は、全ての土地に地元民レベルかそれ以上の土地勘を持つ田予ほどではないにせよ、土地勘がある。

 

行く先々で民の自発的な施しを受けながら、敗軍は粛々と易京を目指して進んでいた。

 

「ここの民は皆笑顔ですね、儁乂様」

 

「兵役がなく、税も安い。両者共に戦をしていないからこそだろうが、漢にはなし得なかったことだ。統治者の腕がいいのだろうな」

 

最初は警戒されたものの、李瓔に仕えるべく易京を目指していることを話せばどこの邑でも饗応を施してくれたのである。

 

「士卒の心を捉えるもの、よく民の心も捉える、か……不敗である軍事指導者は、また善き政治指導者になりうるのかもしれませんね」

 

一度だけ志願兵の募集があったものの、兵として受け入れられたのは十分の一にも満たぬ千人。

他の領土が、例えば袁紹が村々から徴兵して戦っていたのとはえらい違いであった。

 

更にはその軍の少なさを民が危惧していないことが、高覧には意外だったのである。

 

「儁乂様、何かお悩みのようですが……」

 

「いや、吾ながら浅はかなものだと思ってな」

 

「失礼ながら、袁本初様は吾々を見捨てて冀州から逃げ去りました。儁乂様は最後まで忠義を尽くしたと、小官は思いますが」

 

軽く首を横に振り、張郃は睡たげな眼を僅かに開けた。

彼女は戦歴は十二からはじまり、二十四まで続いている。

 

高覧は十六からはじまり、二年しか経っていなかった。

 

「袁本初様には話していなかったが、私は雁門と易京で李仲珞様と共に戦ったことがある。あの頃には老将軍と段将軍と皇甫参軍が居て、更にそこに李仲珞様が居られた。私は一兵卒に過ぎなかったが、その私ですらこの方たちの元ならば敗けないと、死が無駄にはならんと確信したものだ」

 

「涼州三明と、李仲珞様が共闘されたのは噂に聴いております。雁門というのは……」

 

「北方進行作戦に繋がる、雁門の撤退戦でな。吾々は指揮官が逃げたこともあって、その場の最高責任者であった主簿の李仲珞殿を戴いて戦うことになった。風采の上がらない、それどころか馬にも乗れない文官の如き風体をした李仲珞殿を笑い、吾が身の不運を呪った。不慣れな指揮官を戴いて戦うことほど、兵の命が容易く刈り取られることもない」

 

しかし、雁門の一般人は一人の犠牲者も出さず、それどころか彼に任された千人のうち一人とかけることなくやり遂げたのである。

逃げ出した指揮官を囮にして、如何にも何かあるようにして整然と退く。

 

彼が親に『戦場を見てこい』と強制された先の職場で、いつもどおりの成り行きで指揮を執ることになった最初の戦だった。

 

「だが、李仲珞殿は指揮下に容れた人間を一人も殺すことなく撤退戦を成功させ、辺境に配置された全兵力の七割が屍となった北方侵攻作戦でも、あの方の部所だけは勝った。最後に殿を務めなければ、損害は二割を越すことはなかったろう」

 

「それほどの、用兵巧者だったのですか?」

 

「ああ。だからこそ、最古参の吾々からすれば易京で数十万の敵を迎え撃った時も全く敗ける気がしなかった。現に、十倍の戦力差をもってしても李仲珞殿から『不敗』の二つ名は奪えなかったのだから、その判断は正しいということになる、が」

 

その後、道は別れる。

李師は宦官に嵌められて獄中に叩き込まれた末に隠居し、張郃は袁紹に仕えた。

 

「袁本初様が謀略に手を染めた時に。出兵時ではなく、あの時に私がお止めすればこうはならなかったのではないかとも、思う」

 

張郃には、二つの柱の如き誓いがある。

国軍とは国を守る為にあり、国とは民だ、ということ。

そして、武官は政治に口を出すべきではない、ということ。

 

これら二つは李師と呼ばれる前の李瓔の姿勢から学んだことだが、彼女はこうも思う。

謀略に染めた手は、いずれは自らを貫くのだ、と。

 

そして臣はそれを無理矢理にでも押し止めなければならないのではないか、と。

 

「今更ながら知り得た臣の本道を守ることをしなかった私が新たな主を得ようとしている。これを浅ましいと、私は思う」

 

「ですが、それは……」

 

高覧の弁護を軽く手で制し、張郃は背を凭れかけていた壁面を押すようにして空を見た。

 

「こうして、一つずつ罪とあやまちを積み重ねていくのが、指揮官というものなのだろう」

 

ゆっくりと立ち上がり、張郃は前を見つめる。

易京要塞が、見えていた。

 

一方その頃易京では。

 

 

「豪族というのは何故人の命よりも自分の権益を優先させるんだ?」

 

「それは豚に何故お前は豚なのか?と問う程度には無益で、無意味なことでしょう」

 

平行を行っていた論戦に爆薬と火と油とを突っ込み、ご丁寧に起爆させた完全放火性能を持つ趙雲は、あくまで人を喰ったようなスタンスを崩さずに問いに答える。

 

趙雲は、今日も今日とて通常運行だった。

 

「と言うよりも、君の言いぶりも良くない。少しは敬意を払ったらどうだ」

 

恐ろしい程の『お前が言うな』を、李師は趙雲に投擲する。

彼も単経に敬意などは持てそうもないし、顔も見たくない。見てしまったら道を変えるか、顔を逸らしてやり過ごすであろう。

 

嫌いなものはとことん嫌い、別に理解を求めようとしない彼の気性は、ほとほとああ言う手合いと相性が悪かった。

 

「失礼ながら、私は敬意とはそれに値するだけの人物にのみ払われるものだと思っておりましてな。小官の意見は、間違っておりましょうか?」

 

「単経の真似をするな。仕事をしたくなくなるし、気分が悪くなるじゃないか」

 

内容・語気・形式・声色をすべて揃えた後半部分の台詞を聴くに連れて表情を歪めながら、李師はひらひらと手を振る。

今まではどうでもいいだけだったが、『兵の命よりも己の権益が大事』と公言したあたりでその無関心は明確な嫌悪に変わっていた。

 

「後者はともかく、前者は元々でしょうに」

 

「私は最低限の仕事はこなしているさ。それすらしたくなくなると言っているんだ」

 

「おお、温厚柔和、政戦両略に一流の腕を併せ持つ御方が申したとは思えぬほどの酷き言い草。この趙子龍、噂と実物の落差に思わず落涙を禁じませぬ」

 

「よく言うよ、本当に」

 

話していても見ていても飽きないともっぱらの噂である皮肉と愚痴の応酬を終え、二人は同時に黙りこくる。

聴こえる足音は、災いの証。

 

「おさらば」

 

「待とうか」

 

窓から飛び降りようとした趙雲を逃がすものかと掴んだ瞬間、ばたりと執務室の扉が開いた。

 

「予算案のことなんだけど、募兵による増員は後回しで良い?」

 

初手経費削減を提言したのは、賈駆。字は文和。真名は詠。この冀州四郡の影の大元締めというべき辣腕なる官吏である。

 

「袁紹が滅びて冀州・青州・兗州を曹操が手に入れた今、増員しないと侵攻に耐えられないということを鑑みて増員が決定したと、私は聴いた覚えがあるんだが……」

 

「アテがないわけではないし、それに―――」

 

ジロリと底冷えのする視線で睨め回され、趙雲と李師は背にはしる冷気を身体を震わせた。

何か怒られる気がすると、この二人の本能は悟っていたのである。

 

「―――あんた等がやらかしたから、配慮がより必要になったのよ!

予算はまあ、減らされなかったからいいけど」

 

「だが、私としては兵の命よりも己の権益を拡大するというような言い草は許すわけにはいかなかった。ここは譲れない」

 

「言い方ってもんがあるでしょうが!」

 

後から見れば至極ごもっともな意見を言いながら、賈駆は思った。

 

自分もその場に居たら、似たようなことを言っているだろう。程度の差と彼の持つ生来の、嫌いなものに対する毒舌ぶりが更にその『似たようなこと』に辛辣さを加えたとはいえ。

 

「そうですな。豪族連中も悪いが、李師殿もお悪い」

 

「あんたもよ!」

 

「おぉ、心外な」

 

所詮後知恵に過ぎないと言っても、こうやって自重やら何やらと組織力学を駆使した保身を学ばせなければ大過を招く。

この予算が減らなかったのだって、公孫瓚が骨を折ってくれた結果であろうし。

 

「あのね。私達……まあ仮に李家軍とでもするけど、李家軍は異色なのよ」

 

「異色?」

 

「幽州の豪族から見たら、宿敵の異民族と信用ならない他国人と馬の骨でしかない亡命者の連合体でしょう?」

 

そもそも李家軍と称せる辺りに異色さが滲み出ていた。

更には称せて違和感がないあたり、割りと救いようがない感じに。

 

夏侯淵も彼以上の権限と軍を持った上で上四郡を抜いた冀州に駐屯し、政治と戦争を独自に判断して行っている。

しかし、それはあくまでも曹操軍の一将帥としてしか見られない。

 

「それは夏侯淵が主と同郷とか一門で周りを固め、身内とかを曹操のもとに残しているから。だからそういう目ではあまり見られないの」

 

「私は無責任に、己の権益を拡大する為に兵を殺す彼女等よりも亡命者とか、他国人とか、異民族とかの方が信頼できるんだけどね」

 

彼の親は死に、姉や妹は揃いも揃って曹操陣営についていた。

身内は敵、周りは異物、そして有能。

 

疑われるすべての要素を兼ね備えながら、彼は今までただ実績のみでその忠誠を示してきている。

 

「もうこの疑いはどうしようもないからいいわ。だけど、せめて不干渉でいて」

 

「私だってできれば関わり合いになりたくはない。向こうが突っかかってきたり、無用無益な出兵案を出すからこうなるのさ。一応言っておくが、私は最初は彼女等に悪意も好意もなかったんだ。あくまでこの間隙の端緒は向こうにある。

そもそも何だ、近頃の豪族なんていうのは、無駄に誇り高いだけで兵のことなんかちっとも考えてない奴等じゃないか」

 

「申し上げます!張郃と言う方が、亡命を申し込まれておりますが……どうなさいますか?」

 

張郃。

豪族に対する怒りが消え、李師の頭にあったのはどこかで聴いたような名前だった。

 

「華雄」

 

「ハッ、なんでしょうか!」

 

お前どこから来たと言わんばかりの複数の視線に貫かれながら、華雄は僅直に姿勢を正して李師の前に跪く。

戦がないと実質兵の訓練しかやることがない彼女は、無軌道且つ無規則に要塞内の見張りと警邏をやっていた。

 

偶然、呼ばれた時に近くに居たのである。

 

「張郃って、どこかで聴いたことがあるんだが、君は知ってるかい?」

 

「主公が最初に率いられた千人隊に私と同じくらい所属していた同僚です。儁乂がどうかなさいましたか?」



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二雄

「……文和。董仲頴と文遠を呼んでおいてくれ」

 

「あんたが何考えてるかはだいたい予想がつくけど、別に私たちに気を使う必要はないわ。私たちは袁紹が憎いのであって、袁紹の近親者や配下が憎いのではないの。現に今、ボクはあんたに仕えてるし、霞―――文遠もそうでしょ?」

 

「あぁ、そう言えば私は袁家の一門だったね」

 

袁紹のごとく偉ぶるでもなく、怠けながらも篤実に結果を出してきた李師は、忘却の彼方に投げ捨てた己の家系図を引っ張り出す。

 

袁紹の母の妹が、李師の父の妻。

彼の血筋はかなり良く、清流派からすれば血筋に正統性のある劉氏、潁川李氏、淮南袁氏、潁川陽氏、冀州袁氏となっていた。

 

潁川李氏の次男坊が李瓔こと李師であるが、彼の姉の李宣と妹たちは庶流―――つまり、政略的な意味での正妻である袁氏の血をひいていない、所謂恋人との間にできた子である。

 

一応李宣は長女であり潁川李氏の棟梁だが、漢において重視される官位・実績・名声・血筋の四点に於いて勝っていた弟がいる為、対外的にはまったくそう見られてはいなかった。

妹たちは兄ではなく姉を支持しているが、それは内部のことであって外部から了承と理解を得たわけではないのである。

 

そもそも、腹違いとは言え姉たちが『一門同士で戦うのは止めましょう』と一言も言ってこないあたりに、彼の支持されてなさが伺えた。

 

「忘れてたの?」

 

「身内とは疎遠なんでね」

 

嫌いな奴に好かれようとは思わない。理解したくない人に理解される必要もない。

翻れば、嫌われている奴に好かれようとは思わないというような彼の思考は、まったくの例外を許さずに身内にも適応されている。

 

彼にとっての家族は父ではなく祖母であり、母であり、自分に充分に注がれなかった分の愛を注ぐように可愛がり、保護し、育てている呂布であった。

 

幸いなことに、呂布は注がれた愛をより多くの敬愛と思慕によって明確に愛を示してくれる善良な性格をしていたのである。

もっとも、保護者が被保護者に求めてもいない才能の幅と枠を大きく越してしまっていたが。

 

「……まあ、いいわ。とにかく気遣いは無用よ。そこまで私たちは狭量じゃないの」

 

「君たちを馬鹿にしたようになった。すまない」

 

「いいのよ。無断で動かれるよりは遥かにこちらの心証も良くなるんだから」

 

そのまま一礼して仕事に戻っていく賈駆を見送り、李師は趙雲と華雄に視線をやった。

現在呂布は大幅な増強を受けた自身の赤備え軍団を前身部隊の練度にまで引き上げるため日夜訓練に励んでいる。

 

結果として、能力と忠誠心はともかく人格的にはまるで信用の置けない趙雲が護衛となっていた。

華雄を随行させるのは、張郃と顔見知りだからというところが大きい。

 

「子龍は居残り、華雄、来てくれ」

 

「護衛はこの趙子龍に任されたのではないのですかな?」

 

「私は君を信用しているし信頼もしているが、決定的にこの場面には合っていない」

 

華雄は操縦が容易いという美点があるし、導火線に火をつけない限りは冷静で人格的にも信頼できる。

その導火線が短く、更には場所がわかりにくいのが玉に瑕だが、そんなことを言っていられるほど彼の軍は人材豊富なわけではない。

 

万単位で別働隊を率いることのできる指揮官が居ない。

軍師が居ない。賈駆は、ということになるかもしれないが、アレは『勝運がないからボクは辞めたの』ということらしいので軍師が居ない。

武力と指揮能力に優れた人間は何故か多いが、基本的に性格に難があった。

 

敬語を遥か彼方へと投げ捨てたような性格をしている趙雲・張遼・麴義。

この中で一番マシなのが張遼だが、彼女は彼女で酒呑みである。いや、全員酒呑みなのだが。

 

田予はこの時代の将には珍しく頭脳派であり護衛はこなせず、護衛をこなせて真面目であるブレーキ役の高順を一箇所に固定するとそこかしこで宴会が始まることは間違いがない。

周泰は基本的に屋根裏から軒下に居るし、結界の維持と情報の整理を担当しているから除外。

 

結論、呂布が一番ということになる。

なっていたのだが、彼女にも仕事ができてしまった。

 

「明命、張儁乂の情報を教えてくれ」

 

「はっ」

 

華雄が『どこから来た』という視線を浴びせ掛けられた時にした破砕音も無く、周泰は密やかに現れる。

流石は隠密とでも、言うのか。彼女の存在が幽州の豪族たちに気づかれていないのも、この静けさに一因があった。

 

「姓は張、名は郃。字は儁乂。鄚を本拠とする河北の名門河間張氏の嫡子として延熹7年に産まれ、現在24歳。軍歴はその半生に渡り、初陣は指揮官の逃亡し、文官時代のり……嬰様の雁門撤退戦。その後第三次易京攻防戦での戦功でり……え、嬰様が征北将軍になられてからは華雄将軍と共に指揮官として仕え、嬰様が解任された第六次易京攻防戦を終えてからは家を継ぐために鄚に戻られたとか」

 

「そんなに真名を呼ぶのが辛いなら、別に無理しなくていいよ?」

 

「い、いえ。慣れないだけです」

 

真名を許した相手に李師様李師様と呼ばれるのは初めての経験であった彼が面白がって放置していたから、周泰は今の今まで『真名を呼ばれるが真名を呼ばない』という関係を是としてきていたのである。

 

最近、その理由を問い質した李師に真名を呼ぶことを約束したばかりに、彼女は若干しどろもどろになっていた。

まあ、最後に言った時は流石に慣れ、スラリと言えていたようではある。

 

「鄚と言えば……易京の喉元か」

 

「はい。護民の精神を持つお方であったようで、先の梁期会戦においても民間からの徴収兵を真っ先に逃し殿を務められたとか」

 

「ありがとう」

 

張郃と聴いた時点でぼんやりと、儁乂と聴いた辺りではっきりと思い出してきていた彼だが、この情報で完全に張郃という人物を思い出していた。

 

華雄と張郃という、将器を持っていそうな人材を抜擢するにあたり、彼は問うた。

 

『何故自ら志願して兵となったのか』、と。

 

「さて、君はなんて答えたか覚えているかな?」

 

「私は『このまま真面目に働いても食っていけないから』、儁乂は『民を守るのが彼等から税を徴収している豪族としての義務だから』だったような気がします」

 

いつもの派手な鎧ではなく、黒を基調とした乗馬しやすい胡服を着た華雄が頭を傾げ、その言葉に連れて李師は己が張郃をすぐに思い出せなかった理由を悟る。

 

「君の理由が強烈すぎたんだな」

 

「はぁ?」

 

この華雄の一言で、李師は漢王朝の施政の拙さを明確なリアリティと共に知った。

当然それは強烈な記憶として残っており、張郃の古き良き支配者世代を思わせる一言が僅かに霞んでしまったのである。

 

彼は一兵卒として働いたことがなく、文官が序列に従って兵を指揮したら才能を示したのでいきなり指揮官から、といったような異色の出世を果たしていた。

 

華雄は所謂叩き上げで、張郃も叩き上げ。公孫瓚も張遼も麴義も叩き上げと言えるし、趙雲はあちらこちらで傭兵稼業をしていたから叩き上げと言えなくもない。

呂布もまた、出世スピードが尋常ではないが叩き上げだと言える。

 

軍務についてから指揮官しかしてません、というのは曹操とか袁紹とか袁術とか劉焉とか劉表とか、配下で言うならば夏侯姉妹とか、田豊とか沮授とか審配とか、所謂金のある名門出身や豪族出身が多い。

 

張郃は、豪族でも数少ない一兵卒からの叩き上げだった。

 

「張儁乂と言えば袁家の宿将にして名将、といった印象が強かったが……よし、思い出した。行こう」

 

「はっ」

 

記憶の書庫に情報という名の鍵を挿し込んで回し、中身を引っ張り出す。

既に応接室に通されているであろう張郃に会うべく、李師は後ろに帯剣した華雄を引き連れて歩いて向かった。

 

執務室と応接室は、さほど離れていない。別に構造上しかたない理由があるわけでもなく、『あまり長い距離をフラフラされると李師がサボるから』という建設的な理由しかない。

正直、応接室以外の内装に凝っている金もなかったのである。

 

「亡命を、ということですが……武将としてか、民としてか。

将軍。まずはその辺りを聴いてもよろしいでしょうか」

 

李師が無防備であることを見て佩剣を外し、立って恭しく礼しながら高覧の剣ごと預けようとする張郃の配慮を手を翳して断りながら、李師は向かい合うように腰を下ろした。

 

それを見た張郃とその副官である高覧も、続いて腰を下ろす。

 

「吾々は敗残の身。私の身は司令官殿にお任せし、この上は如何に処置されようとお恨みは致しません。しかし、部下の処置はどうか寛大に願いたく思います」

 

どちらを採択するも、どう処分するも己の身を預けるという潔い発言に、李師は一拍の間考えて判断を下した。

 

「わかりました。将軍は袁本初の元にあって名将の誉れ高き御方。あなたの行動の自由と人として持つべき権利の全ては私が保証しましょう。

あなたさえよろしければ、一先ず令下の軍と共に客将待遇で遇したいと思います。勿論、一市民としての生活を望まれるのでしたら、私は易京なり鄚なりに住居を用意しますが……」

 

「いえ、客将待遇という話を謹んで受けさせていただきたい。しかし、降将の元に共に降ってきた兵を集めるのは謀叛の恐れがあると思われます。気を払った方が良いのではありませんか」

 

降将の謀叛に対しての恐れと可能性を降将が指摘するという珍妙な光景を華雄が眉を顰めて見る。

確かに彼の判断は純軍事的・組織的にはよろしくない判断かも知れないが、それを降将が指摘するのは極めてまれなことだと言って良い。

 

もっとも、李師からすれば清廉さと実直さを持つ張郃の人格を見れば偽造降伏などしようもないし、したところで軍事的にも政略的にも意味があるとは思えない。

 

袁紹がこの偽造降伏を画策したとすれば、敵前逃亡をする必要がなかった。

曹操が―――というよりは北方司令官である夏侯淵は偽造降伏を企むような気質ではない。

 

軍事的に成功しても戦略的には、政略的にも、気性的にも合致しない。

 

「私は、将軍は謀略に手を染める人間ではないと思っています」

 

「それは有り難いことですが、より一層、御身に気を遣われるように進言させていただきます。そして、敬語は無用です。嘗て仰いだ主に敬語を使われるほど、私は大した人物ではありません」

 

こうして張郃が亡命してきたことは、李師が気を利かせて彼女を旧領である易京要塞城壁で連結された、喉元にあたる鄚の軍事権を移譲したことで河北に広がることとなる。

これによって張郃に続けとばかりに淳于瓊等が夏侯淵の追撃に散々に打ちのめされながらも旧袁紹領の軍需物資や兵員を吸収して鄚へ駆け込み、鄚で張郃が預かる兵力は一万を瞬く間に越した。

 

河北を二分する勢力となった公孫瓚と曹操の戦いの幕が切って落とされるのは、そう遠いものではない。

識見を持つすべての人間が、それを肌身に感じていたのである。

 

 

 



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易京の戦い・前哨戦(壱)

曹操軍対李家軍。

明らかに勢力同士の対決構造としておかしいが、不思議と違和感のない両軍の戦いは互いに互いを得難き友と思う二人が同時に発した、この言葉によってはじまった。

 

「子龍」

 

「士季」

 

同じ時間、別の場所。

互いに属将の字を呼び、両者は僅かに違う言葉を発する。

 

「君の兵の練度を見せてくれ」

 

「貴官の兵の練度を確かめてこい」

 

これに対して二人の指揮官はどこでその調練をやるかを上司に問い、二人の指揮官は異口同音にこう答えた。

高陽だ、と。

 

 

夏侯淵はこの時期鄴を離れ、武遂に令下の八割の軍を集結させて豪族を威圧し、河間郡南部への調略によって袁紹に味方していた豪族を寝返らせることで最前線を鄚に固定。

 

親友との争覇戦という、想像しただけで気が沸き立つような戦を前に、彼女は己の持つ全知と全能を傾けて軍の編成と情報収集、訓練に勤しんでいたのである。

政務も担当しているが故に基本的に篭もりきりにならざるを得ない夏侯淵に代わり、専ら鍾会が訓練の任にあたっていた。

 

李師は軍事関係しかやることがなく、張郃の望みを叶えるべく公孫瓚に許可を得て客将待遇から正式に部下とし、ついでに袁紹軍残党の意思統一を任せた為、実質的には無役となっている。

 

最も忙しかったのは、淳于瓊らが手土産代わりに持ってきた物資の数々を惜しみなく投入して内政に勤しむ文官とその統括たる賈駆であった。

 

他の軍事担当者も地図を作ったり辺りの地形に慣れさせたり、ただ走らされたりという様々な方法で兵士を鍛え上げ、『一斗の汗が十斛の流血を防ぐ』とばかりにただひたすら訓練に訓練を繰り返させ、自分も参加していたりしている。

次の戦争の為のモラトリアムである平和を、流血を少しでも防ぐ為に使わなければならないということの虚しさは、当人達がまったく気づいていないことだった。

 

こうして李師は馬車に、趙雲は白馬に、鍾会は黒馬にのって高陽へ赴く。

李師が高陽に着いたのは四月七日、鍾会が高陽に着くのは四月九日。

 

武遂から高陽への距離と易京から高陽への距離は同等である。

同等の距離を進みながらも二日の差が出たのは、田予の地形把握と李師の指揮の卓抜さが大きかった。

『三日で五百里、六日で千里』と謳われた夏侯淵の疾風怒濤の進撃に勝るとも劣らない程度には、彼も行軍速度に気を遣っていたのである。

 

そして高陽とは、遮蔽物のない真っ平らな高原であり、練兵をするに相応しい良い地形だった。

互いの勢力圏がここらへんを境に曖昧なのを利用し、両軍とも大軍の進退が自在なここで練兵を行おうとしていたのである。

 

「……目の前に敵軍が居る、だと?」

 

「はっ。旗は李と趙。三色の地に五稜星の牙門旗があることから、敵将李瓔直々に訓練の督励をしているのだと思われます」

 

鍾会は遅れた結果、先手を得る機会を得た。

そう言うとおかしな話ではあるが、事実として彼女は偶然とは言えども後の先を得たのである。

 

(……仕掛けるか)

 

普通、仕掛けない。だが、敵は奇略縦横の不敗の名将。それに何よりも、これについては夏侯淵の命令が下されていた。

 

『観津は領土の境。李家軍と出会すこともあるかもしれないが、向こうはこちらから手を出さない限りは手を出してこない。挨拶の使者でもやってやり過ごすことだ』

 

現に、国境線代わりの柵の修理に来ていた夏侯淵率いる四百と視察に来ていた李師隊五百が出くわした時、将がのこのこ出てきて互いに会釈し、世間話をして何事もなかったかのように去るといったような珍事も起こっている。

 

最前線では、このような遭遇戦未満はよくあることだった。

 

(だが吾等は一万二千、敵は五千。全体としては吾等七万、敵は三万三千から五千。戦力差的にも今は寧ろここで仕掛け、数の優位で以って押し切り、李瓔の首を挙げるべきではないか)

 

鍾会は俊英を謳われた齢十九の将である。攻防ともに巧妙果敢な指揮ぶりを見せ、全体的には夏侯淵の下位互換と言っても良い優れた能力を持っていた。

 

特に梁期の戦いでは張郃に翻弄されてまんまと逃げられてしまった同格の夏侯覇に比べて、彼女は敵一翼の将である沮授を討ち取っている。

 

だが、彼女には悩みがあった。それは出世の困難さについてのものであり、己の野望についてのものである。

彼女は将として、武官としてより高みに昇りたい。それには夏侯淵と言う能力・貫禄・信頼・功績の四点において己を凌駕するいささか以上に大きな壁が有り、それを越すには尋常一様な功を立てているだけでは無理だと言わざるを得なかった。

 

だが、名将の誉れ高き李瓔を討ち取れば、どうだ。公孫瓚勢力が攻め込まれなかったのはあの男が易京という天険により、その実績と名声とで敵を恐れさせ、味方を纏めていたからではないか。

 

(彼亡き易京を陥とすことは容易い。戦争の帰趨を決めるのは装備でも要害でもなく、将の質なのだから)

 

この思考をした彼女は、伊達に俊英と言われてはいなかったろう。

幽州の豪族たちがそう考えているように、易京さえあれば敵を跳ね返せると考えている者がこの世には多い。

 

だが、彼女は戦の帰趨を決める条件として否定される項目に、自身が優位に立っている原因である『数』をいれるべきだった。

敵との兵力差というものは戦略的優勢に立つためには必要不可欠なものだが、戦術的には却って敗北の要因ともなりかねない。

 

自身の優位を信じるような気持ちが強いことが、この一事を彼女の視界から失せさせている。

 

(たとえ陥とせずとも、何らかな手段を講じて戦略的に無価値な物にしてしまえばいい。だが、易京とは違い、李瓔という男は動く。ここで始末しておいた方が、いいのではない か。いや、その方がいい)

 

北郷一刀が居たら、止めた。『兵力差が戦力の決定的差ではないことを教えてくれるような奴に、たかが兵力で勝っているだけで仕掛けない方がいい』、と。

 

夏侯淵が居たら、止めた。『不意討ちをするのは結構だが、失敗した時に惨めだぞ』と、戦術的見地と戦略的見地を敢えて排した、であるからこそ伝わりやすい方法で。

 

だが、両者は居ない。だから、鍾会は仕掛けた。

 

「全隊、訓練中止。敵要塞司令官、李瓔を討つ」

 

「鍾将軍、夏侯都督の命を無視なされるのですか?」

 

「将、軍に在っては、君令も受けざる所有りと言う。その場に合わせて臨機応変に対処してこその将だ」

 

一応納得して引き下がった副官に全隊に敵と戦うことを伝えさせ、半刻の後に鍾会は素早く前進を開始する。

だが、この時既に彼女の敵となる李師は敵の来襲を察知していた。

 

特にタネがあるわけではない。単純に、周泰の隠密が報告したのである。

 

「……仕掛けてくるかぁ」

 

「どうなさいますかな?」

 

「戦略も何もない、ただの戦術同士を戦わせるような戦はやりたくないな。第一、こちらの戦力は有限なんだ」

 

彼は戦術で何倍もの大軍を破ってきたが、別に好きでそうしてきたわけではない。

初めて指揮を執った時からそうしなければ勝てなかった。だから、そうせざるを得なかった。

 

戦略家としての彼は、ごく正当かつ真っ当な考えを持っている。

愛娘にまで『嬰は邪道の極みだから、強い』と言われてしまう戦術で戦略を覆す邪道っぷりは、色々と過酷な条件のもとに辛うじて成立する勝利を引っ張り込むか細い糸を掴む為に過ぎなかった。

 

「よし、逃げよう」

 

「一戦もせずに逃げられるので?」

 

「そう。逃げる。必要のない戦いは、避けるのが賢明だ」

 

彼からすれば、これは無意味極まりない戦いだった。

そもそも、ここで一万二千を葬ってもどうにもならない。勝てるには勝てるが、被害はおそらく千から五百を彷徨う。

彼が野戦を行うのは、それを強いられた時と強いられたことを利用して敵の戦略や攻勢を瓦解させる時だけだった。

 

「……だが、手は打っておこう。鄚の張将軍と淳于校尉に連絡。鄚より南方五十二里の森林部にそれぞれ五千ずつの兵を率いて伏せ、私の到着を待つように、と」

 

「万が一でそれほどの備えを為さりますか?」

 

「仕掛けられた以上は、退いてもらわなければならない。察知してくれれば万々歳、察知してくれなければ少し痛い目にあってもらわなければ、ね」

 

こうして、荷物を纏めて乗せた輜重隊を先頭にして李師率いる五千の軍は素晴らしく迅速な判断のもとに逃げることを選択する。

 

舞い上がる砂塵に逃げられたことを悟った鍾会は、まともに抗されるよりは追撃戦の方がやりやすいと判断してあっさりと追撃に踏み切った。

 

こうなると、もはや戦は追いかけっこのような様相を呈してくる。

 

一日経っても追いつけない逃げ足の速さに辟易しながらも、鍾会は二日目で敵を捕捉した。

 

「軽騎兵千を出して敵の背後を討ち、その脚を止めよ!」

 

「軽騎兵二千で迎撃。蹴散らしてしまって構わない」

 

連続で仕掛けて脚を止めてやろうと判断したが為に却って少数で仕掛けねばならなくなった鍾会に対して、李師はその二倍の兵力で迎撃を行わせる。

 

迎撃側の指揮官は三叉槍を縦横に振るう曲者、撤退戦の名手である趙雲。

 

「李師様、敵軽騎兵が退いていきます!」

 

「軽騎兵を最後尾につけてくれ、追撃は無用」

 

李師は思わず溜息をついた。

敵の指揮官には、大局観がある。おそらくは僅かな兵力で幾度も襲撃を仕掛け、疲労と消耗を誘っておいて追いつく頃には必勝とする。

 

戦いは長期間続くよりも、終わり始まりが繰り返されることの方が疲労を誘う。

 

「敵も有能だな、まったく」

 

「また来ます!」

 

案の定というか、恐らくは先ほどとは別の軽騎兵部隊が仕掛けてきた。

予想ができても逃げるより他にない。逃げて逃げて逃げ続けて、油断を誘って叩く。

 

最終的に勝っていさえすれば、中途で一本取られようが取り返せるのだ。

 

逃げ始めてから一日、追いつかれてから三刻。

そろそろ、件の地点が朧気ながら見えてくるころであろう。

 

「よし、軽騎兵隊を撃退したら反転。敵全軍を迎え撃つ」

 

幸いにも、まだ距離にはそこそこの余裕がある。

向こうも走る勢いのまま、無策無謀に突っ込んでくることはしない性格をしていると、李師はこの追いかけっこのような戦いの中で掴んでいた。

 

整然と陣を整える敵の前で己も陣の解れを直し、両翼に千ずつ配置して鶴翼の陣形を取る。

 

色々と因縁のつくことになる二人の、最初の対決が始まろうとしていた。



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易京の戦い・前哨戦(弐)

「あぁ……平和が終わる」

 

「もう終わっております。目と思考は現実を見ておられるのですから、さっさと愚痴をおやめなさい」

 

現実たる戦闘を真面目に指揮を執ることで直視していることを示し、思考もこれからの戦闘をどう運ぶか、どうケリをつけるかを考えている。

愚痴っているのは、一年ほどしか続かなかった平和を懐かしんでいた。

 

乱世に生きる人間や、野心に燃える人間、天下をその掌に収めようとしている人間からすれば彼の齎した怠惰で内政に注力し、軍をただ訓練をするしかは他にない様は退屈でしかないであろう。

 

だがしかし、彼としてはまた再び平和を齎す戦略を考えなければならなくなった。

 

「……次はどうやって、平和へと漕ぎ着けたものかなぁ」

 

「逆らう敵を一人残らず潰しておしまいなさい。対抗できる人材を取り込むか、殺すか。そうすれば貴方が斃れるまでは平和は維持されるでしょう。貴方の生きている間は平和です。実務は誰かにお任せになり、歴史研究なりなんなりすればよろしいでしょう」

 

平和を求めているのに、人を殺さねばならない。

趙雲はこの世の中の矛盾を矛盾のままに取り込んでいる。

その上で李師の中の矛盾を鋭く刺突し、彼女は不敵に笑いながら三叉の槍を大地に刺した。

 

彼に仕えると決めるまで二又だった槍を何故三叉に変えたのかは、誰にも語られていない。

本人が無意味にそういうことをする質ではないことを考えれば、何かしらの理由があるのだろう。

 

しかし、彼女はそれを全くと言っていいほど話さなかった。

 

「はぁ……」

 

「何ですか。人の顔を見て、態々顔を逸らしてから溜息をついて」

 

心の底から嘆息したとばかりの彼のため息を聴き、趙雲は軽く首を傾げて悪戯っぽく笑う。

実際に実行されれば越したことはないが、こうしたやり取りを楽しむこともできるのが趙雲という人間の味だった。

 

「君が言うことはまったく正しい。いや、過激だが本質的には正しいさ。だが、私にはできない。悪いね」

 

「よくおっしゃることで」

 

『悪いね』までは本音だが、『悪いね』からは冗談の茶目っ気の色が見える。

趙雲は地面に突き刺した槍を引き抜き、肩に担ぎながらふわりと一度あくびをした。

 

「それにしても、今回の用兵はあなたらしくはありませんな」

 

「誰らしく見える?」

 

「さぁーて、近いところで言えば張文遠の輪風陣が近い。ですが、あくまでも防御である以上、攻めの用兵と必ずしも同一視はできませんな」

 

彼のとっていた陣形は、鶴翼。それは既に両翼が押し返され、中央部を底に緩やかにカーブを描く横陣形へと無理矢理変化させられている。

 

正面には重歩兵と弩兵で防御陣を三重に作り、内部は重騎兵と軽騎兵が忙しなく、しかし一定の律動と規律を守って行動していた。

 

「田国譲。敵は横に十五、縦に二の地点に攻撃を集中させている。先ほど開いた横二十三地点の補填が終わり次第、敵を迎えてやってくれ」

 

「了解しました」

 

先程敵に突破された地点を重騎兵が駆け、敵部隊を三方向から攻撃して殲滅。

空いた隙間に右方向から来ていた重歩兵が入り、弩兵が再びその後ろにつく。

 

「よし、今だ」

 

一点が塞がれた瞬間、新たに敵の攻撃ポイントとして定められた場所の重歩兵が右斜めに崩れた。

その先には第二陣があり、その防御線は薄弱である。自分たちが李師を討ち、恩賞に預かろうとする欲が彼等を猛進させていた。

 

その部隊に待機していた樊稠隊が左側面から右へ突き抜け、第二陣の重歩兵が前方から有機的に結合されているが如く極めて密接に連動し、瞬く間に突入した部隊を葬り、第一陣の防御線前まで押し戻す。

続いて突入しようとした部隊はその光景に怯むが、後方に押されては止まることができる訳もなく、敢え無く二方向からの殺し間に吸い込まれては敗れた。

 

「こちらが敗けている、か」

 

「傍から見れば勝ちですが、本質的にはそうでしょうな」

 

なんども陣を突き崩され、その度に罠を仕掛けてこれを討つ。

その後に勇戦してこれを支える。

これだけ見れば、敗軍一歩手前の状況とは見えなかった。

 

「劣勢にあるのは確固とした事実だ。これもまだ完成ではないし、何よりも誤差が大きくなってきている」

 

彼の目算と部隊の破壊力が釣り合わず、一回行う度に微量の誤差が生じている。

その誤差を埋める為に、更に誤差が生じ―――といったように、本来対夏侯淵として、つまるところは大軍対大軍の戦法として生み出されたこの防御法は、この五千という寡兵では運用するに無理があった。

 

「妙才の戦略的な機動を防御に転用したのが悪かったのか、急ごしらえの横陣で戦ったのが悪かったのか」

 

「というよりは、樊稠隊の破壊力が足りず、小勢で運用するには向かないのでしょう。主の愛娘や華雄ならば―――っと」

 

ここで真面目に検討していた趙雲も、おかしなところに気づく。

 

テストもしていない新戦術をあたかも勝てると思って使用したかのようなところ。

 

悔恨の言葉を話すときの、表情と声色。

 

あまりに呆気ない、敗けに対する諦めの良さ。

 

「……主。主はこの戦法を取れば、元から徐々に不利になることを知っておられた。違いますかな?」

 

「敵が有能でいてくれてよかったよ」

 

味方をも欺く罠を、彼はあっさりと敷いていた。

 

「どれくらいで追いつかれるかを調整する為に、田国譲の力も借りた。軽騎兵が来ると思っていた。分割し、連撃でくることもわかっていた。

何せ、私の首に釣られた敵だ。騎兵を全騎投入するよりも、脚を止めて決戦に引きずり込み、トドメは自分で刺したいと思うだろう。そこを僭越ながら利用させていただいたというわけさ」

 

夏侯淵は散発的に、しかも戦力の集中を行わずに自分と戦おうとはしないだろう。

五千の兵で以って李師が高陽に居るとわかり、首を挙げたいと思えば七万近い全軍を率いてくるはずだった。

 

このことから彼はこの戦いが仕組まれ、意図されたものではなく遭遇戦だと理解し、遭遇戦で自分の首に釣られた敵の性格を追撃されている間洞察し、その用兵からも読み取り、掴む。

 

「敵は己の能力に比した自信を持つ、地位と栄達を求める型の野心家だ。己の立場を強化するために己の働きを際立たせようとようと、利に合わせながらも可能な限り目立つ用兵をしていたからね。更には、功を焦っている。これは理由は定かではないが、おそらくは妙才という有能極まりない用兵家の才を見たからだろう。兵の動かし方に彼女の風韻があるし、攻防において柔軟だ。

だからこそ、私を殺して妙才よりも派手で、確固とした戦功を立てようとしている」

 

「相変わらずの洞察眼で。ということは、敵の力量を測り終えられたのですかな?」

 

「ああ。敵は圧すことができるが圧し切れはしない。だから、圧してくれればそれでいいこの防御陣を選んだ」

 

五稜星の形に加工された金を側面に付けた黒い帽子を頭から外し、団扇のようにして首元を扇いだ。

 

久しぶりの用兵とあって、彼もどうやら緊張していたらしい。

変に人間味のある男だと、側で見ていた趙雲は面白げに微かに笑う。

 

そちらを好奇心と呆れを半々に含んだ眼差しで見て、李師は帽子を頭の上に戻した。

 

「圧してくれなければ、勝てたとしても被害が増える。変な言い方だが、有能な敵に圧された挙句に潔く負けた方がだらだらと戦って勝つより損害は少なくて済むのさ」

 

「それには、指揮官が撤退戦に耐えうるなら、という前提が必要でしょう?」

 

「それはそうだ」

 

肩を竦め、趙雲は肩に担いだ槍を片手に持ったまま馬に跨る。

 

「背後は安んじてお任せあれ」

 

「いつもいつも、悪いね」

 

「評価されていると解釈しておきましょう」

 

徐々に不利になり、李師はそれを察知して崩れる前に殿部隊を残して退く。一見すれば『有利なのに退いた』となるが、有能な敵将ならばこちらの表面上の意図に気づくはずだった。

 

こちらはなにせ、徐々に不利になってきているのだから。

 

「それにしても、主も人が悪い。人を騙す怪しげな術でも知っていらっしゃるので?」

 

「己の能力に自信を持つ人間を騙すには、自分の目論見が巧くいったと錯覚させること。その上で、相手の目論見を超えない程度の一手を打つこと。そして、功名心に燃える敵を騙すには極上の餌を背伸びすれば届く程度のところに設置すること、さ。要は望む時に望む物を用意して、誘引すればいい。心理学の問題だね」

 

趙雲が殿部隊の指揮を執り、李師が逃げる。

これは鍾会にとっては充分あると考えていたことであり、敵が優秀なればこそそう来るであろうと思っていたことだった。

 

「鍾将軍、何故敵は退いたのでしょうか?

敵は吾々の攻撃を撥ね返し続けていたではありませんか」

 

「敵もどうやら気づいた。徐々に不利になってきていることに、な」

 

「と、言いますと?」

 

「こちらが両翼に圧迫を加えて鶴翼から横陣への変更を強いた。そのことによって敵の防御線は徹底を欠いたのだ。最初から横陣をとっていれば、まだ持ち堪えられたのだろうかな」

 

それにしても見事な指揮ぶりだと、鍾会は内心で慨嘆する。

機動防御、とでも言うのか。一列として構成した防御線の内部に機動部隊とでも言うべき騎兵隊を置き、少数の兵力でも持ち堪えられるように工夫がされていた。

 

「敵は退いた。追撃をして一息に揉み潰し、不敗の魔術師殿に最初で最後の敗北を味わわせてやろうではないか!」

 

士気の上がった部隊を巧みに動かし、趙雲率いる殿部隊を撃ち減らしていく鍾会に、遂に趙雲も戦線を崩して敗走する。

ただし、その勇戦は七刻(三時間半)に及び、その堅牢さと風に揺れる柳葉のような受け流しの巧さには鍾会も舌を巻いた。

 

だがその必死さこそが、退いていく総大将を逃がそうとする何よりの証左に見えたのである。

 

「敵の逃げ脚は正に疾風、か。夏侯都督とは正反対だな」

 

軽騎兵だけに、逃げ脚が速い。

そして重歩兵を率いていながら、李師も異常なまでに逃げ脚が速い。

 

その速さは夏侯都督こと夏侯淵に比肩するが、進撃と退却というベクトルの違いが彼女等の笑いの種となっていた。

 

「李瓔の智略の泉も、この平和で涸れたと見える。ここは一気に追撃だ!」

 

「はっ!」

 

李師は逃げる。逃げて逃げて逃げまくった。

それを鍾会は、半日掛けて追い続ける。大軍であることが、その追い脚を却って遅くしてしまっていたのである。

 

「敵、捕捉!」

 

完全に釣られ、目前の功名に目が眩んでいるように見える鍾会だが、彼女はこれでも鄚より南方四十里までがギリギリの追撃ラインだと判断していた。

そこまで行けば、確実に敵の逃走成功してしまう。だからこそ、その直前で捕捉したことを喜んだ。

 

「よし、弩兵―――」

 

嬉々として命令を下そうとした、その瞬間。

その地点は、鄚より南方五十二里に達していた。

 

「李仲珞様をお救いするのだ。全隊突撃!」

 

「敗軍たる吾等を受け入れてくれた恩、返すは今ぞ!」

 

張郃が右から、淳于瓊が左から鍾会軍一万の横腹を突き、何故か現れた華雄が敗走から反転攻勢をかけようとしていた中央部を掩護する。

 

何故、伏兵として配置された張郃と淳于瓊に加えて華雄までもが居るのか。

それには、単純な事情があった。

 

そもそもこの両者を伏兵として李師が選抜したのは、亡命してきた彼女等の発言権を増させる為という理由の他にも『機動力的に鄚からしか掩護を頼むことはできない』という距離の問題があった。

 

戦略上、或いは戦術上は大した距離ではないが、一刻も速く来てもらいたい以上はそうする他なかったのである。

 

華雄は、張郃と共同訓練の為に鄚に来ていた。そして、当然のように張郃に着いてきた。

 

「李師様、ご無事で」

 

「いや、何故君が此処に居るんだい?」

 

「細かいことは気になさらぬよう。私もものの役には立つと思いますが」

 

ならば、と。

疲労の溜まっていた趙雲隊がそのまま鄚に逃げ去り、代わって華雄隊が李師の直衛を務めることとなる。

 

伏兵が現れた時点での兵力差は鍾会隊一万対李家軍一万八千。

趙雲隊が退いた時点での兵力差は、鍾会隊九千対李家軍一万五千。

 

兵力差は、逆転した。



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易京の戦い・前哨戦(参)

「報告が遅いな」

 

「そうですね」

 

武将としての仕事よりも、督軍として全軍の管理や調整を担当するようになった典韋が相槌を打つ。

典韋としては、鍾会を常日頃から懐疑的な眼で見ていた。

 

確かに優れた能力を持っているが、欲が深い。更にはその欲を元にして道を誤りかねないところがある。

 

尤も彼女は能力的にも人格的にも批判を受けることが極めて稀という一流の武将だった為、未だ一軍の指揮を副官としてしか執っていない彼女はその辺りついて夏侯淵に話してはいなかった。

 

自分から見て可能性があるからと疑って掛かるのは、冤罪と何ら変わらない。

更にはそれを元に上官に注意を喚起しようものならば、それは誣告や讒言そのものではないかと、思う。

 

「仕事熱心な方ですから、兵の訓練に専念しすぎているのでは?」

 

「それにしても、だ。一日中訓練するわけにも、いくまい。これは何かあったと考えるべきではないか」

 

「李家軍が仕掛けてきたという可能性は、こと立地的には考慮に入れられますが……」

 

李師は無言で殴り掛かるほど好戦的ではない。一発殴ろうとして拳を振りかぶれば、それより遥かに重い一発を顎に喰らうことは覚悟せねばならないが、それもこちらが死んだり再起不能になるほどのものではなく、その場から逃げなければならない程度な威力でしかない。

 

つまるところ敵は、攻撃的な性格ではなかった。

 

「あっても、逆だろう」

 

「逆、とは?」

 

「あの魔術師殿が鍾士季の前に、小勢で現れたら奴は辛抱が利くかということだ。奴ならば、その不敗神話に己が終止符を打とうと、するのではないか」

 

容易に想像がつきかねない光景に頷こうとした己を掣肘し、典韋は敢えて敬愛する上官に異を唱える。

何でもはいはいと頷くだけでなく、異なる視線を提供することが必要だと、典韋は李師と夏侯淵の会話を耳に挟んで身に刻んだ。

 

「ですが向こうは豪族の連合体。誰かが偶然出会し、結果的に戦闘になったとも、考えることができるのではないでしょうか?」

 

「それもそうだ。しかし吾々としてはどちらにせよ、やることは一つしかないわけだ」

 

「敵との戦闘が開始されたことが杞憂であれ、定期連絡の遅延についての詰問に来たということで名目も立ちます。秋蘭様が直々に赴かれますか?」

 

「覇を行かせる手もあるが、対抗心を燃やしている相手に対抗心を燃やしている相手を説得役としてぶつける程、人事的な失態はあるまい。私が行くしかないだろうな」

 

軽く首を回して身体をほぐし、夏侯淵は都督となって以来お世話になりっぱなしの椅子から腰を上げる。

 

「供回りの二百騎を私が率い、後続として覇と威の一万。それでいい」

 

「ですがそれでは、即応的な援軍としては不適当なのではありませんか?」

 

「功を焦って突撃してくるような思慮の浅い豪族ならば、鍾士季の敵ではない。そして、李師が相手ならば引きずり込まれて敗けている。私の役割は一刻も速く『夏侯淵が来た』という報を仲珞の耳に届けて追撃を断念させることであって、大軍を以って決戦を行うことではない」

 

保身には無関心だし、平和に溶けて埋もれてしまいそうな性格をした男だが、確実にこちらに対して諜報の網を張っている。恐らくはこの武遂付近に、周泰自身が居るのではないか。

 

「出陣の場面だけを見せ、十里程一万と二百を率いて進む。敵の諜報員は必ず、一刻も速く伝えようとするはずだ」

 

情報は鮮度が命。より速く届ければ届けるほどその正確さは減衰することがなく、対策も立てやすい。

周泰率いる隠密はおそらく天下で一二を争う情報収集能力を持っていた。

 

「一人で進むより、大軍であった方が行軍速度は鈍い。確実に十里も進めば、吾々は越される。あとは、二百騎を率いて救援に赴く。正しかった報せを偽情報に変えてやれば、仲珞とて察知できんさ。

何せ、人間らしいからな」

 

「李師殿が察知でき、対抗してきたらどうなります?」

 

言い出したらキリがない。しかし、そう軽々と笑い飛ばすこともできない。

心理戦にかけては他の追随を許さない敵と読み合いをするとは、無明の闇を探り、複数の扉から正解のものを探し当てるほどの困難さを伴う。

 

だが、李師は言っていた。『正しい判断は正しい情報と、正しい分析の上にのみ成り立つ』、と。

 

彼はその情報を周泰という人材を駆使して収集し、断片から全容を復元してのける優れた分析力で以って常に隙のない正確な判断をする。

 

「人間の前に自称を付けてやるさ」

 

そう言い切ったものの、内心ではやはり不安があった。

彼は異常な先読みの深さを持つくせに、『知っている範囲しか知らないさ』と言っていたが、それは人間である以上は当然のことである。

 

彼の真に異常なところ、その根幹は知っている範囲に対する読みと解析の深みが誰よりも深く、そして細やかなこと。

別にわからないことを何もない状態から予想できる超能力を持っているわけでは、ない。

 

「ですが……」

 

しかし、出陣の場面だけを見せると言っても情報の断片を見せることに変わりはなかった。

もし万が一、行軍速度や夏侯淵の気性からそう読んだとしたら。

 

殺しはすまいが、捕虜にはする。いや、捕虜にするなどと言う不名誉を夏侯淵が望むまいと正確な分析をした李師は、それを大兵で以って討ち滅ぼすだろう。

 

典韋のともすれば疑心暗鬼めいた心配はそこにあった。

 

「流琉」

 

「は、はい!」

 

典韋が補佐官として着任した時は鋭利な刃の如き智性に彩られていた柘榴石の瞳には、嘗てとは幾分か違った丸みを帯びた智性が宿っている。

人は変わるの具体例のような眼差しが、典韋に向けられていた。

 

不器用ながら包み込むような優しさは変わらないが、その温度が変わっている。

 

「確かに私は武将として戦う分には間違っている。しかし、奴は武将ではない。特有の誇りも元から持ち合わせていない、当代きっての心理戦の巧者だ」

 

「だから秋蘭様も一個人として相対する、と言うことですか?」

 

「武将は戦う時、将の思考とそれに従って為される動きをこそ見ている。向こうは敵味方の将兵の心理的変貌を見ている。つまりは土俵が違うと言えるだろう」

 

それに気づかなければ土俵に上がれず向こうに不戦勝をくれてやることになるし、土俵に上がっても新米と巧者の戦いとなることは明白だった。

 

「まぁ、こんなことは二度とやらないさ。こんな戦い方は所謂邪道で、彼はともかく私が二度やるべきことではない」

 

やれるとも、思えない。

弱気を見せるわけにはいかない以上は発声するわけにはいかなかった言葉を飲み込む。

これは奇を衒っただけで、一度やれば二度は使えない。向こうも二度目は計算に入れてくることは間違いは無かった。

 

「それに、鍾士季殿が勝っていないとも、限りませんし」

 

「仲珞が小才子に敗けるほどには有り得ることだな。どちらがより有り得るか、賭けてみてもいいぞ?」

 

別段悪意はないが、当人が居れば顔を紅潮させて怒る程の辛辣な皮肉を漏らし、夏侯淵は総勢一万二百の軍を率いて出陣する。

一万というのが、一日中で高陽の鍾会に辿り着くことができるかできないかを彷徨うギリギリの数だった。

 

尤も、途中からは二百騎で向かうから半日ほどは短縮することは可能だろう。

 

この頃鍾会は軽騎兵で李師が指揮を執る趙雲隊を捕捉、未完成の機動防御に悩まされようとしていた。

つまり、夏侯淵が如何に速かろうが高陽に到着することができるのは半日後。即ち、張郃と淳于瓊と華雄から、李師を討ち取れるとウキウキしていた横っ面を殴られ、鄚より南方五十二里の辺りで潰走している時である。

 

そんな具体的なことは神ではない夏侯淵には知りようがないが、彼女には確信があった。

鍾会は敗けているという、確信が。

 

 

一方。半日後。

本来ならば高陽に居るべき鍾会が居らず、夏侯淵が舌打ちをしながら足跡を辿って急進していた頃。

 

鍾会隊は追撃、優勢からいきなり三方から挟まれて数の差を覆され、劣勢から壊滅へ急落しつつある。

 

「どこまでやりますか?」

 

「さあね。手を出してきたら死ぬとわからせることも有りだし、逃がしてやるのも有りといえば有りだ。取り敢えず、今のところ私という窮鼠は猫を噛むことにするさ」

 

右翼は極端な近接戦闘に付随する乱戦によって戦況の優位化を得意とする張郃の手によって乱戦状態となり、鍾会の手からは離れてしまっていた。

左翼は豪胆且つ粘り強い用兵を持つ淳于瓊に面で圧され、点で貫かれている。

 

中央部は遠距離から弩を撃つに留まっているが、これが中々に曲者だった。

要は、態と退却できるようにしてやっていたのである。

 

無論、退いたら後ろから類稀なる破壊力を有す華雄隊が嬉々として猛追することは疑いがない。

 

「あくまでも敵には物理的な圧迫を与えることを避け、心理的に壊滅か全滅かの二択を強いる。更には心理的圧迫を加えて判断能力を低下させ、敵の抗戦能力を削ぐ。敵の優秀さはその敏活な指揮ぶりにあるわけだから、それを封じてしまえばいい」

 

「自由選択権が却って、向こうに対する威圧と敵指揮官の混乱を生むということでしょうか?」

 

意外と冷静なところもある突撃専門の戦略予備隊の将帥の言葉に頷きつつ、李師は姿勢悪く座ったままに戦局を見た。

 

「まぁ、そうだね。人は得てして単一の決断を強いられるより、複数から選択する方が困難なものさ。それが、人の命がかかった物ならば尚更だ」

 

「李師様はどちらをお望みでしょうか?」

 

「私は三番目かな」

 

聴いた中には無かった選択肢に頭を傾げ、華雄は反射的に疑問を投げる。

 

「三番目?」

 

「敵の降伏だよ。そうすればこれ以上戦わずに済むし、第一、楽でいい」

 

左翼は圧され、右翼はコントロール不能。中央部は最悪の二者択一。

 

鍾会の頭は、処理落ち寸前になっていた。

 

「退けば右翼が取り残され、左翼は反転した瞬間に頭を叩かれて壊滅。中央部は華雄に潰される。かと言って、進めば全滅……」

 

完全に敵将の管制下に置かれた戦況を見やり、鍾会はあまりにも悪辣な心理攻撃にぼそりと呟く。

 

「卑劣な……」

 

「それには同意致しますが、そんなことを言っている場合ではありません。どうなさいますか?」

 

「援軍の宛もない。退却を選ぶしかない、が」

 

目前の敵は守勢に巧みな趙雲ではなく、攻勢に苛烈で守勢に粘りがない華雄。

ここは後退しての退却を選ぶよりも中央部を突破し、前進して敵から逃れるべきではないか。

 

絶妙としか言えない李師の『華雄隊は射撃に徹すること』という守勢、或いは消極的攻勢に類する命令が鍾会の判断能力を更に低下させていた。

 

(これは寧ろ好機なのではないか。前進して中央部を突破し、この追撃の目的を貫徹すれば勝利を得られるかも、しれん。少なくとも後退するよりは勝ち目がある)

 

伏兵に脅かされて守勢となってしまったが、再び攻勢に転じれば勝てる。

いや、可能性がある。

 

「……総員、後退」

 

「はっ」

 

だが、彼女はこの可能性を蹴った。この可能性という名の悪魔に踊らされ続けて追撃させられた結果が、これではないか。そういう気持ちが、彼女にはあったのである。

 

この判断は、すぐさま敵たる李師にも伝わった。

 

「敵、後退します。如何なされますか?」

 

「儁乂と淳于仲簡にはそのまま両翼を討つようにと。華雄は追撃して敵の背後を討て」

 

「はっ」

 

僅直に命令を受領し、この一年の平和の中で幾分か理性的になった彼の腹心たる将帥は瞬く間に目の前の敵に喰らいつく。

そのまま蹴散らすように猛追していく華雄と入れ替わりに、僅かも息を切らしていない周泰が駆け込んだ。

 

百里近くを走破してきたとは思えない程の整然とした調子に驚く李師を視界に入れて少し首を傾げ、彼女はさっと跪いて頭を垂れる。

 

報告時の定形であった。

 

「北方都督夏侯淵が武遂より出陣しました。数、およそ一万」

 

「流石妙才、機敏だ。敵は援軍を頼んでいるようには見えなかったが……擬態だったのかな?」

 

「いえ、連絡がないことに不審を抱いたからこその征旅であると思われます」

 

少し考え、李師はすぐさま決断する。

迷っている必要などないし、威嚇に注力する必要もない。だが、疑問点が一つあった。

 

それを問い質そうとした瞬間、さらなる急報が李師の元へと舞い込む。

 

砂塵を見ただけであるらしいから信憑性をもつ具体的な数はないが、所属不明の五千ほどの一軍が前方五里にまで迫ってきているという報であった。

 

「明命、敵はどの兵科が中心だった?」

 

「弩兵と歩兵です」

 

「……よし、退こう。華雄隊にも伝達を」

 

おそらく妙才は少数の騎兵を以って迅速に到来。援軍の存在を敵に告げ、背後にある大兵力を以ってこちらを威嚇。己が情報からの推理の最悪に備える癖を利用し、撤退させようと考えていることだろう。

 

見事なものだと素直に思った。

 

(無用な犠牲を好まない私では、希望的観測で攻撃を続行しないと見たか)

 

この騎兵と後続との切り離しも、証拠なき予想に過ぎない。夏侯淵の心理を把握するには、それなりの用意と精密な情報が要る。

そして、今手元にある情報では『妙才ならばギリギリできなくもない』と判断できてしまった。

 

更には、このまま雪崩込むように夏侯淵と戦ってしまっては易京の二万近くという膨大な遊兵を作ったまま戦うことになる。

それは用兵上、非常によろしくないことだった。

 

「華雄隊を収容し次第、易京へ帰城することでよろしいでしょうか」

 

「副司令官のよろしいように」

 

最後の最後で一杯食わされたような気分になりつつ、李師は帽子を顔に乗せて日光を遮る。

これからはそう簡単に勝ちをつかめないであろうことを、彼は肌身に感じていた。

 



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検討

李師の全軍が先鋒たる華雄から川上から川下へと舟が下るようにしずしずと退いていく光景を賞賛の眼差しで見た後、傍らの典韋を顧みる。

 

「流琉。あれが名将だ。退くべき時に退き、進むべき時に進む。目的を達成すれば疾く退く。これを逆しまにすれば兵は無用に死し、逆しまにせねば謗りを受けることはないだろう。

少なくとも、これを体現している仲珞から学べば愚将にはならない」

 

「はい」

 

凄まじい皮肉と毒を込めての一言の後、夏侯淵は目の前に跪く鍾会にちらりと視線をやった。

軽く溜息をつき、彼女はそのまま鍾会を見やる。

 

鎧の左肩口は斧に削り取られ、背中に何本か矢が刺さっていた。

正に見本となるべき敗軍の将というべきであろう。

 

「鍾士季。私としては仲珞と同じく貴官に二択を与えることができる。言い訳を述べた上で裁きを待つか、それとも何も言わずに謹慎し、裁きを待つか。結末が相似形だということでは類似した選択を二度もぶつけられてご苦労なことだが、どちらがいい?」

 

「言い訳は致しません」

 

「ならば謹慎して裁きを待て。貴官の麾下の軍は―――」

 

言いかけて苦笑し、夏侯淵は軽く首を振った。

曹操軍の一軍は一万二千。夏侯淵は都督としての任を全うするにあたり、臣下としては異例の五軍を率いていたし、曹操は直接指揮下として五軍を、夏侯惇は一軍を、援軍としての鍾会も一軍を率いている。

 

正確には、鍾会は一軍を率いていた。今でも形而上は率いている。故にこの表現は正しくもあり、著しく間違ってもいた。

 

「麾下の一隊は、私の軍に組み込む」

 

全員が死んだとは思えないが、実情としてここに居る鍾会軍は僅かに千二百に満たない。

曹操軍は十二の千人隊で一軍、四の千人隊で一軍の分隊。

 

夏侯淵に手も足も出ずに領地から叩き出された冀州豪族を併呑した李家軍は五千人で一分隊となり、それが呂布(五千)、趙雲(五千)、華雄(五千)、張遼(五千)、麴義(五千)、張郃(五千)、淳于瓊(五千)で七個連なって三万五千の一軍となっている。

 

まあ、淳于瓊隊は張郃隊の指揮下に、張繍隊が張遼隊の指揮下に入るので、厳密に言えば横並びに七個あるわけではない。

最低でも二部隊に易京の出城の守備を任さねばならないところを見れば、野戦兵力として運用できるのは三万がいいところであろう。

 

実に鍾会軍の九割を占める一万人が未帰還となったこの戦いで、李家軍が失ったのは千人未満。

全体で見れば十二軍の内の一軍を曹操軍は壊滅させられ、李家軍は全体兵力の三十五分の一を補充の宛がないままに失った。

 

この回復能力の欠如が、李家軍最大にして致命の弱点と言っても良いであろう。

 

「……はっ」

 

下がった鍾会を見送りもせず、夏侯淵は床几の肘掛けを白魚の指でトントンと叩いた。

他の幕僚や一門も軍の指揮に去り、夏侯淵自身も騎乗して千五百ほどの小集団は後続の一万に合流する。

 

その後武遂の城につくまで、夏侯淵は剣呑さを表に出さないものの、常にない険しい雰囲気を醸し出していた。

 

「流琉」

 

「はい、秋蘭様」

 

「軍の再編を覇に任せ、吾等はそのまま鄴に向かう」

 

旧都督府がある鄴には曹操が陳留から移住し、政権の基幹とその軍の殆どをこの地に移している。

汝南や潁川に対徐州、対南陽、対司隷の兵力として二軍を残している為、鄴には五軍が駐留していた。

 

「敗戦の報告をなされるにしても、自身でなさるのですか?」

 

「他にも様々理由はあるが、一先ずはそれだな」

 

調子に乗った公孫瓚勢力が仕掛けてくる可能性もある。しかし、夏侯淵は最前線司令官たる李師の性格的にそんなことは有り得ないと確信していた。

戦術的勝利を得る為に戦争を起こす質ではない。可能な限り戦いを避け、目標を達成するのが李師流である。

 

もっとも、夏侯淵自身は攻勢に転じた彼を一度しか見ていないし、あくまでもそれは防衛戦内での転換であって純然たる攻勢ではなかった。

 

「一先ずは先に敗戦した旨を伝えるべく伝令を発たせた。吾々が着く頃には、華琳様の耳に入っているだろう」

 

実際として、この報告を二人の到着前に受けた曹操は一時呆然としたという。

 

直前まで赫々たる武勲を挙げ、自身もその能力を認めていた鍾会という将帥をして兵力の九割を失うような大敗を経験さしめるとは、と。

 

しかしその呆然とした自失はすぐさま戦士としての高揚に変わった。

敵は手強い。だからこそ打ち砕き、従属させる意義がある。

 

大敗を伝える伝令が最後に付け加えた『後に夏侯都督も参られます』という言葉を受け、曹操はその麾下にある将帥軍師の類いを招集した。

 

夏侯淵の力量を疑うわけではないが、今更ながら己の不徹底さに気づいたのである。

攻めるならば可能な限りの大兵力を以って攻めねばならない。夏侯淵に別働隊を与えたのは袁紹相手ならば勝てると思ったからであり、自身も統治の制度化と制度の円滑化、豪族の討伐による中央集権化を計らなければならなかったからだった。

 

それが八割方うまくいった今、遊兵を作る愚を犯すべきではい。

 

一先ずは、かの公孫瓚の領土と己の領土を隔てている盾の如き忠臣を討つ。討ち、麾下に加えれば夏侯淵や己に比肩する用兵巧者を得ることになるのだ。

 

そうすれば三つの方面軍を編成することも、適う。自身の配下は粒揃いだが、独自の判断で戦略を描ける将は夏侯淵くらいなものである。

 

夏侯惇と双璧を謳われているが、局所的な戦術指揮官としても、戦略家としても夏侯淵の方が一枚上手だった。

 

まあ、その夏侯淵が太史が適役だと評したのは、少しばかりおかしいが。

 

数時間後に着いた夏侯淵の謝罪と、敗けたとはいえ有為の人材である鍾会の罪をどうか減じてやれないかという嘆願を受けた後、一旦将舎で休ませる。

 

兎にも角にも、夏侯淵という北方都督として北の戦いの全権を握っている存在の健全な体調と意見が、次の議場には必要だった。

 

 

 

明けて四月十二日。

全軍を十二に分けた軍団の内の一つが壊滅したと言う事態に接して集まった諸将は、夏侯淵が冀州に残した五軍団と防衛に派遣されている二軍団と、壊滅した一軍団を除く残り四軍団の長と軍師たち。

 

第一軍団(楽進)、第二軍団(李典)、第三軍団(于禁)、第七軍団(夏侯惇)、第八から第十二を率いる夏侯淵。

第四(程昱)、第五(郭嘉)の守備軍団の長は欠席、第六軍団(鍾会)は壊滅。

 

李家軍での曹操軍の一軍団に相当する分隊が五千で、それも七個しかないところを見ると、その有利不利は戦う前から明らかであった。

 

曹操直轄の五軍の内の三軍と、夏侯惇軍団。更には曹操の軍師である荀彧を加えた七人が、この作戦室には集まっている。

 

「先の戦いで第六軍団(鍾会)が壊滅したのは、諸君等も知るところでしょう。この敗北で吾々は初めて、手痛い敗北と言うものを味わわされたことになったわ」

 

今までも常勝不敗であったわけではない。局所的な戦闘を放棄したり、純粋に敵に上手をいかれたりということで敗北は両手の指ほどは経験していた。

だが、それで発生した被害はほとんどが三桁、しくじっても夏侯惇の四桁が精々で、五桁の大台に載せられたことはなかったのである。

 

ここに居る殆ども、一回の戦闘、一回の敗北で五桁の犠牲を出すことなど想像していなかった。それほど曹操軍は適度に負けを織り交ぜて慢心を引き締めつつも勝っていたし、敵という敵が存在しなかった。

 

別に不思議ではないことだが、遂にその壁が現れたということであろう。

 

「先ずは、戦闘詳報を秋蘭から聴き、敵の動き、こちらの敗因。更には如何にして勝つか。それについて意見を出し合っていきましょう」

 

その場に居た全員が首肯し、真名を呼ばれた夏侯淵がその場に立った。

 

「四月九日、吾が軍が訓練中の、敵軍五千に接触。これを千載一遇の好機だと判断した第六軍団司令官は全隊に訓練の中止と前方の敵との開戦を宣言しました」

 

敵と発声するに僅かな言い淀みを見せた夏侯淵については誰も咎めることなく、その短時間でとったにしては上出来な詳報に耳を傾ける。

 

「ですがこの動きを敵は察知し、逃走。時間的にも距離的にも膨大な追撃の後に捕捉し、騎兵で数度に渡って後方を脅かした所、反転。迎撃態勢をとってきた為こちらも陣形を再編してこれにかかり、巧妙な防御戦闘を行う敵を徐々に圧していき、打ち破ったようです。

殿を残して敗走した敵を追っていったところ両脇から伏兵が現れ、暫しの抗戦の後、今度はこちら側が敗走した、と。このようになっています」

 

「巧妙な防御戦闘とは、どのように巧妙なのだ?」

 

聴き終わり、すぐさま質問を発したのは夏侯惇。詳報を滔々と述べていた夏侯淵の姉であった。

 

「騎兵と重歩兵を巧みに使い分けていた、と」

 

「まるでわからんではないか」

 

全員の意見を代弁したような言葉を、夏侯惇は吐く。

使い分けてどのように戦っていたのかを当然夏侯淵も訊こうとしたが、鍾会はどうにも明確に表現することができなかった。

 

それはその後に叩き込まれた経験が痛烈すぎたからかもしれないし、表現することが本当に困難だったのかもしれない。どちらにせよ、わからないという結果は同じである。

 

「どのような陣形であったとしても、結果的に圧し切ることに成功している以上は然程注意を払う必要はないのではありませんか?」

 

折り目正しく礼儀正しく、曹操直轄の三軍に於いてもっとも堅牢な守りと粘り強さを兼ね備える楽進が同僚の失態を庇うようにそう提言した。

彼女にしても情報の不正確さに不満はあったが、自分の初陣の記憶が綺麗さっぱり戦っている最中が抜け落ちていることを考えると、そう責める気にもなれなかったのである。

 

「沙和もそう思うの。できなかったことをとやかく言うより、わかっていることを検討していくべきなの」

 

同僚の沙和こと于禁の賛同も得、この『巧妙な防御戦闘』についての話題はたち消えた。

寧ろこの検討においての問題は、敵の策が極めて単純で見抜けなくもないものだということであろう。

 

「なんで、士季ほどの将がこないな罠にかかったんやろか」

 

姓は李、名は典、字は曼成。真名は真桜。発明家としても名高い彼女からすれば、極めて単純で陳腐な罠に掛かったことが不思議だった。

この敗走による誘引は極めて古典的で、これは所謂『よくある手』である。

 

この『よくある手』に引っ掛かることは誰しも経験するのだ。曹操も、夏侯惇も、夏侯淵も、楽進も、于禁も、李典も、一度ならず引っ掛かったことがあった。

だからこそ警戒し、罠ごと噛み千切ろうとする約一名を除けば用心深くもなる。

 

後知恵というものだが、李典にはその辺がどうも納得できなかった。

その疑問に顔を見合わせる諸将の中で、夏侯淵が一人静かにこれに答える。

 

「この場合、寧ろ士季ほどの将なればこそ、罠にかかったと考えるべきだ」



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妖怪

夏侯淵の逆説的な一言に、皆の視線が集中する。

 

「それはどういうことかしら、秋蘭?」

 

主の問いに対し、夏侯淵は一礼してこれに答えた。

 

一流の将帥だからこそ合理的で完璧な計算による判断を繰り返し、結果として相手に読みやすさを与えてしまう。

もっと言えば合理的且つ常道を踏まえた指揮官ほど優秀で、その優秀さであるが故に心理が読みやすい、ということだった。

 

「敵の兵の動かし方から次動を読むのが用兵だけれど……敵はそれから将の心理と兵の心理を読み、それによって戦場を制御下に置く、ということ?」

 

「はい。これは私も様々考え、一応対抗策のようなものも見出してはいます」

 

流琉、と。

扉の前で警護をしている典韋を呼ぶと、薄い緑色をした髪の小柄な少女が現れる。

夏侯淵が対策を思いついた原因となる少女は、列席の諸将の常とは違う張り詰めた真剣な雰囲気に少し怯みつつ、滔々と話しをはじめた。

 

「あるところに、サトリという妖怪がいました」

 

その妖怪は所謂心を読める類の能力を持っており、それはそれは恐ろしい姿をしていた、らしい。

ある日、森に木を切りに行っていた樵が恐ろしい姿を妖怪と出会してしまったのである。

 

『なんと恐ろしい妖怪に出会ってしまったものか』

 

樵が声に出さずにそう考えていると、その恐ろしい妖怪は耳元まで開いた口を動かし、牙を覗かせながら喋りだしました。

 

『お前、なんと恐ろしい妖怪に出会ってしまったものか、と考えているだろう』

 

樵は驚きました。それは今自分が思っていたことそのままだったからです。

『そんな馬鹿な、と考えたな?

何故考えていることがわかるのだ、と考えたな?

まさか、と考えているだろう。そのまさかさ』

 

立て続けに三つの考えていることを当て、樵は思わず後退ろうとしました。

考えていることを立て続けに当てられるということが怖かったのです。

 

『ならば考えることをやめれば、か?

その程度で無心になれれば苦労はしないさ。おっと、逃げるなら足元に気をつけろよ?』

 

無心になろう、無心になろうと考えながらも後退ることをやめることのできなかった樵は、その妖怪の忠告を無視して下がり続け切株に躓いてしまいました。

その拍子に樵の手からは唯一の武器である手斧が離れ、偶然サトリの方へと飛んでいきます。

 

これには流石のサトリも驚き、すんでのところで手斧を避けたものの、『心に思わないことをするとは恐ろしい奴め』と考えながらその場から逃げ去ってしまいました。

 

「流琉、ご苦労」

 

ペコッと頭を下げながら扉の外に去っていく典韋を見送り、夏侯淵は視線を議場で卓を囲んだ諸将の方へと戻す。

殆どの人間が『なるほど』という顔をしているところを見ると夏侯淵の意図は正確に伝わったようだが、彼女は更に念を押した。

 

「ここで注目して欲しいのは、このサトリという妖怪が超能力の範疇ではなく、己の発言・行動による誘導によって導き出しているような節があることだ」

 

「つまりこれと似た敵はこちらの初動で心理を読み、読んだように見せる返し行動で誘導。後の先を取られた時点でこちらの行動を制御下にいれてくるということ?」

 

「そうだ」

 

軍師の荀彧は少し笑みを浮かべながら、夏侯淵の評価が過大であることを断定する。

男嫌いが昂じて男の人材への差別と蔑視に繋がってしまった彼女からすれば、そのような戯言をそう軽々と信じるわけもなかった。

 

更に彼女は敵将李瓔の姉である李宣と親しく、公孫瓚陣営と戦うに際して情報も仕入れてきていたのである。

 

「弱曰く、そう大した人物でもないらしいけど?」

 

「ほぉ?」

 

別に怒るほどではないが又聞きで友が馬鹿にされたことについては一定の苛立ちを感じた夏侯淵は、女尊男卑の精神というフィルターを付けがちな自陣営の風潮を僅かに憂いた。

 

彼女自身はそんな馬鹿げた差別をする気はないが、とにかく影響されやすい姉と歴史的な統計上の問題で男を低く見がちな主、その権化のような荀彧という三巨頭がいることもあり、一定の距離をおいている。

 

後者はともかく、前者二人は敬愛すべき存在だった。だが、その嗜好と考え方にまで迎合する気は毛頭ない。

 

「自分の身の回りのこともできない、弓は引けない、馬は乗れない。剣も振れないし、清流派の巨頭の孫にするには不適当も甚だしいほど儒学にも否定的だし、読むものといえば史書。では頭はどうなのかと言われれば孫子も呉子も、必須の論語も暗記ができずにギリギリで、太学にも退学すれすれの成績だったのよ?」

 

漢で尊ばれる学問は、先人たちが記した書物の暗記が基本となっていた。

故に暗記が苦手、というかそもそもかけた時間が物を言う暗記でやる気に乏しい李師が真面目にやっている学生たちに敵うはずもなく、常にギリギリの低空飛行。入学した時もスレスレ、退学にされかけるのは日常茶飯事。

 

一応最初の頃は経歴だけを見て漠然と尊敬していた荀彧も、成績や李宣からの虚構が一切ない話を聴くにあたりその感情のベクトルは逆しまになっていたのである。

 

「まあ、それは正しいだろう。世間一般の水準から見れば大した人物ではない」

 

「でしょう?」

 

「だが、趙括の例もある。別に暗記ができればできるほど戦がうまいわけではないし、弓や剣や馬ができなくとも指揮を執ることに支障はない。

その姉は確かに一般の規範においては仲珞などとは比べようもない、比べられたならば塵と城の如き差があるのだろうが、非常たる戦に常時における才を当て嵌めるのは如何なものかな」

 

趙括という『生兵法は怪我の元』を体現し、『知っていることとできることは違う』と教えてくれる人物を例に挙げ、慢心を窘めた。

夏侯淵は彼と飲んでいた時に聴いたことがある。

 

『私は戦う前に敵の慢心や油断を誘うことに全力を尽くす』、と。

 

警戒されるのではなく、油断されて舐められることを喜ぶ、戦場では実利一辺倒のというのが李師という男だった。

 

「つまるところ、彼の素行や人格や外見はそうは見えないかもしれん。しかし実績においてこの大陸で彼に比肩する将は居ない。檀石槐と戦い、北からの暴威の盾となっていた男が吾々の壁となって立ちはだかっている、わけだからな」

 

「……そんなことはわかってるわ」

 

「ならばいい。無用に相手を侮れば、無用の人死を招くだけだ。統計上女性の方が能力的に優秀だからと言って、男が女に才において勝ることがありえないなどとは言い切れないと考えていた方が賢明だろう」

 

用兵の才が欠片もなく、更には血統的劣等を持つ李宣からすれば李師などはろくに役にも立たない、そして豊かな才能の鉱脈を持ちながら採掘しようともしない弟だったのである。

更には李家伝統の黒髪を受け継いでいるのがよりにもよって己や妹たちではなく、弟であることもその劣等感の礎となっていた。

 

李宣は弟に学問において勝ち、李瓔は姉に戦争において勝つ。

分担としてはよろしいことだが、李宣は学問で李瓔に勝ったことを誇り、李瓔はそれを悔しがるでもなかったこと。そして、李瓔が戦争において大功を立てても別に誇りもしなかったことに比べ、李宣はその才能の劣等を悔しがり、兵法書などを読み漁ったことがこの仲の悪さを呼んでいた。

 

必死に兵法書を暗記した自分が功を立てず、半分怠けながら史記をぺらぺらと読み、論語を枕に寝ているような男に負ける。

 

自信家としても姉としても、軍人志望だったことからしても李宣は弟が嫌いだった。

そして弟の李瓔は『嫌いな人間に好かれようとは思わないし、理解を求めようとも思わない』というスタンスから別に理解を求めようとも思わなかったし、そこがまた癇に障ったのである。

 

その割りには、彼女の弟評は正鵠を射ていたが。

 

「秋蘭。対策とは?」

 

人物評と能力評を終えた曹操が対策を求め、促す。

馬を並べて戦ったのは夏侯淵のみであるし、実際に刃を交えたのも夏侯淵と鍾会。

 

その分析の細やかさからしても、対李師の第一人者としては秋蘭こと夏侯淵が適当だった。

ならばその対策を求めるのも、無理からぬことであろう。

 

「無心で無軌道な、斧を使うことです」

 

ここまで言われれば、誰しもがわかった。

 

一発で『あぁ、なるほど』と言う顔をしたものの、発言を控えた曹操とは違い、口に出したものも居る。

 

「なるほど……春蘭様ですか。適任ですね」

 

「凪、それはどういうことだ?」

 

あまりにも正直過ぎる楽進の一言に、夏侯惇は威圧感たっぷりに真名を呼んだ。

この場にいる人間では、夏侯惇以外のすべての人間が夏侯淵の言葉に理解している。

 

この人の考え方は読めない、と。

 

「彼の天敵は恐らく袁紹ですが、姉者でもまあ、問題はないでしょう」

 

「おい、秋蘭。どういうことだ、それは?」

 

「そうね。何も考えないことに於いて、吾が軍には春蘭に勝る人材はいないでしょう」

 

全員が全員、明言を避けてスルーに徹し、夏侯惇の疑問を他所に投げ続けた。

 

「秋蘭。あなたの指揮下から第六軍団を外し、代わって第七軍団を加えるわ。先陣として易京に攻め入り、その縄張りを調べておきなさい」

 

「はっ」

 

「補給計画を早急に構築し、後陣として私も進発します。以上、解散」

 

解散の令に従ってその場を辞した時、彼女の意識は既に内に篭っていた。

 

あの稀代の用兵巧者と、戦いたい。戦いたい、勝ちたい。

 

(できるのか、お前が)

 

敵と満足に言い切ることもできず、自ら勢力を興す気概のない己が。

 

器量はある。能力もある。野心もある。己に無いのは気概であり、独創性だった。

自らの脚で立ち、歩み、曹操どころか姉とすら刃を交えなければならないという現実を知って、独立という道から一時は目を逸らしたのである。

 

己の脚で立つのはいい。歩くのもいい。だが後者がよろしくなかった。

 

だが、器はある。

 

(豪族を糾合することもできず、かと言って苛烈さを見せることもできぬ公孫瓚よりも、だ)

 

少なくとも自分は袁術よりは優れている。袁紹よりも優れている。

暗い感情に満たされながら、夏侯淵は自分を嘲笑った。

曹操が一代の英傑であることは間違いがない。その独創性と行動力は他の追随を許さないだろう。

 

仲珞が自分の器に対する明言を避けたのは、こういうことなのではなかったか。

つまり自分が国を支配しても、中心となるのは長安だ。

 

特に合理性のある理由という理由はなく、先人たちがそうあったから、そうすべきだという変な従順さである。

 

その暗い感情を持て余しつつ、夏侯淵は内心で己を客観視した。

 

少なくとも現在においては公孫瓚も袁術も袁紹も己より勝る。漢の臣下であることから脱却し、独自の生存圏と勢力圏を築いたということで、勝る。

 

(これは嫉妬というものだな)

 

何故あの李瓔と言う有為の人材を召し抱えておきながら他人の顔も立てようとするのか。

自分からすればそんなことはどうでも良い。ぐちぐちという人間が居れば、宴会の席に一度に集めて首を纏めて斬ってしまえば良いことだ。

 

形はどうあれ頼っているのだからその人物の動きやすいように注力する。それが夏侯淵の人の使い方というべき、ものだった。

 

(つまるところ私は友に忠誠を強要したくはないが、忠誠の対象となっている公孫瓚に対しての嫉妬がある。いや、公孫瓚に忠誠を誓ってはいないのかも、しれないな)

 

何故お前はそんなにも不自由に甘んじているのだと怒鳴りつけたいような気持ちがある。

何故こいつの邪魔にしかならない奴を平然と跋扈させておくのかと怒りたい気持ちがある。

 

和を尊ぶのは勝手だが、常に貧乏くじを引いているのは間違いなく彼だった。

 

(人ありきではなく、平和ありき、だからだろうな)

 

一定の結論を出し、夏侯淵は一路武遂を目指す。

争覇の時が近づいていた。



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二将争覇(序)

「明命、高陽にこの図面通りの陣地を築いてくれたか?」

 

「はいっ、万全です!」

 

対鍾会戦が終わり次第、次の戦いの準備をせねばならない。

戦後処理と言う名の埋葬が終わると、彼は直ぐ様訓練場として地形や何やらを調べていた高陽に周泰率いる工兵隊三千を向かわせた。

 

彼の全軍が嫌に少ないのは、この工兵隊を抱えているからと言う裏事情もある。

しかし、彼の勝利には必ずと言ってよいほどにこの工兵隊が絡んでおり、いわば縁の下の力持ちのような存在だと言えた。

 

「子龍、準備は」

 

「出来てはおりますが……」

 

周泰が工事をはじめた辺りで麴義隊を、三割終わらせた辺りから張郃隊と淳于瓊隊を、八割終わらせた辺りから呂布隊を、終わるやいなや趙雲隊と華雄隊を。

全軍の殆どとなる計三万に上る大軍が、高陽という平地に集結することになる。

 

易京という技巧と智慧を凝らして造り上げた要塞がありながら、そこに拠らずに前線防御を行うことを、趙雲は理解しかねていた。

 

「何故ここで待ち受けないか。疑問に思っているだろう」

 

「まあ、そうですな。ここは早々落ちないでしょうから、敢えて新造した陣地群に篭もる必要もないように思えまして」

 

「それはそうだ。しかし、吾々としてはここで是非とも、日を稼がねばならないのさ」

 

鍾会の独走を呼び水にした曹操軍の侵攻があるであろうことを考えに入れていた李師が立案した勝利の為の目標は三つ。

 

一、これ以上進撃が不可能なほどの損害を与えて撤退に至らしめる。

 

二、曹操を討ち取り、後継者争いを引き起こす。

 

三、兵站線を継続的に切断し、その供給を停止させる。

 

籠城戦では大被害を与えることはかなわないし、三を目標にするならばともあれ時間稼ぎが必須。

 

援軍のない籠城戦が勝利を齎した試しがないことを、彼は歴史から学んでいた。

故にこの一戦で三つの目標に対して歩み寄り、戦果と敵の動きに応じて採択する。

 

「まあ、よっぽどなことがない限りは第三案だね。そう簡単には勝てないだろうし、歴史の先導者を殺す趣味はない。それに何より―――」

 

「楽でいい。わかっております」

 

面倒な戦いなどを極端に嫌う彼の口癖となっている『楽への追求』を、趙雲は何回も聴いていた。

兵站線を継続的に切断するにしても何にしても、出撃せねばならないというならば吝かではない。

 

しかし、どこまで戦うのか。そこが問題なのである。

そのことを趙雲が彼に問うたのは、自軍を率いて高陽に構築された複合陣地群に布陣を終えたところだった。

 

「敵の本隊が来るまで野戦は続ける」

 

「野戦ではないでしょう、これは」

 

ジグザクに交錯した張郃・淳于瓊・趙雲・麴義の四個の陣地で一本のラインを構築しておき、本営を後方において華雄・呂布隊を予備として待機させる。

地形を利用し、掘削と設営を繰り返して城を造ったようなものだった。

 

「それにしても、あの夏侯妙才も己の実力と野心とを試したいならば早々に独立してしまえば良い物を。踏ん切りがつかぬから吾々が苦労することになる」

 

割拠している群雄と比べても何ら遜色ない能力と野心を持ち合わせているが、現状その野心よりも忠誠心が勝っているし、出処が不明。

趙雲からすれば、あの曹操軍随一の将には是非とも独立してもらいたいのである。

 

そうすれば、この男も踏ん切りがつく気がしなくもなかった。

 

「まあ、基本的には忠臣だからね。彼女。心で二律相反を起こしているだけだとは思うし、例え独立してしまっても忠誠心は曹孟徳殿に向いているのさ」

 

「なら何故あのようなことを主にはペラペラと話すので?」

 

態とそうしたような失言が多く、明らかに謀叛を示唆するような発言をした後に李師に窘められるのがサシの飲み会での日常だったことを、趙雲は何故か知っている。

 

その野心が鬱屈としたような彩りを帯びていることも。

 

「彼女には露悪的なところがあるからね。『疑われて一生を喰い潰すくらいなら本当にやってやろう』と言う拗ねたような考えから野心が目覚めて、かと言って殆ど絶対の忠誠心は捨てようもなく鬱屈としている感じ、ではないかな。曹孟徳という傑出した指導者への憧れを拗らせたとも言っていい。

まあ何はともあれ、誰しも身に憶えのない嫌疑をかけられるのは嫌なもんだ」

 

「直接訊かれたので?」

 

「私がそう思っているだけさ。君が信じるかは君の自由だよ」

 

恐らく本人よりもその心理状態に対して詳しいこの男が言ったことは、まあまずだいたい合っていた。

最初は普通に忠臣、曹操に必要とされて能力を高めてからは矜持を持った忠臣、嫌疑の目に晒されてからは野心も兼ね備えてしまったのであろう。

 

「ご忠告なされたので?」

 

「他人の屈折した心理迷宮の内面を引き摺り出すほど、私は無神経じゃないんでね。君にも一応話したのは、彼女が危うくなった時に止めてやってほしい、と言う考えからなんだ」

 

したのならば更に面白いことになるとばかりに目を輝かせる趙雲の視線に対して少しおどけたように肩を竦めてみせ、李師は一転して真面目な様子で口を開いた。

 

偶然ではあるが、この頃夏侯淵も別ベクトルとは言え同じような心配をしていたことを考えると、何かしら波長が噛み合っているところがあるのかもしれない。

まあ、何にせよどちらもぼんやりとにせよその未来図を八割方把握しておきながら、直接に言い暴くことができていない。

 

もっとも、互いにそれらしいことを臭わせることはやっていたのであるが。

 

「私がそうするとお思いですかな?」

 

「君の独立教唆癖と矛盾しそうで矛盾しない義理堅さは直接の上官たる私に向けられていると信じている。まあ、誰も彼もを煽って回っているわけでもないだろう?」

 

「ご明察、恐れ入る」

 

忠誠心の置きどころが『勢力』ではなく『個人』なだけであって、一見すれば不逞な輩である趙雲という存在は、そう見れば常にまともな進言を繰り返している。

 

『主を震わす者身危うく、功天下を蓋う者賞されず』

 

韓信という稀代の軍事的才能を持った将に対して、蒯通はこう言って独立を示唆した。

野心の無さと才能の豊かさは韓信に勝るとも劣らないと思っている趙雲としては、結局のところこの男が隠居を望んでも果たせないと思うのである。

 

第一、名前が巨大過ぎた。誰が己の領土に翼の生えた心を読める虎の生存を許すだろう。

どうせこうなるなら、自身で天下を取ってしまえとも思った。別に天下を取ることを強制はしないが、一先ずは独立して戦いを避ける権利を得ることだと、考えている。

 

まあ、それもこれも望まぬ方向・考えぬ方向からのアプローチを趙雲は行っているわけだった。

 

「子龍、妙才曰く、私は李牧に似ているらしい」

 

「なるほど」

 

先程の不意打ちを詫び、改めて戦端を開くことを宣言する文書の最後に、『不謹慎ながら、守戦の名将たる貴官と戦えることを嬉しく思う』と書かれている。

流石に戦争中は手紙のやり取りをするわけにもいかない夏侯淵からすれば、これができる範囲で最大の忠告だった。

 

守戦の名将とは、司馬遷が史記の『廉頗藺相如列伝』において、李牧を評した言葉である。

 

これが一目見ただけで連想してくれると判断した夏侯淵も夏侯淵であるし、その意図を正確に見抜けた李師も李師だった。

 

「確かに姓も始まりの地も、似ておりますな。そして同じく、今の立場も」

 

「まぁ、私は守備くらいしかやったことがないからね。軍事的才能には一枚も二枚も劣るだろうが、偉大な先人に例えられるのは面映くもあるし、嬉しくもある」

 

ひょいと石を投げ、易河が一瞬波紋を表して再び戻る。

出陣前に、彼はよくこの河畔に来ていた。

 

「私は貴方の才能は先人たちに劣る物ではないと、信じているのですがね」

 

「信じるのは君の勝手さ。私としてはそうは思えない、というだけで」

 

いつものとぼけたような受け答えの中には緊張はなく、無用な気張りというものもない。常に温和な面持ちを崩さぬ、どこか『この将についていけば死にはしない』と感じさせるような無形の安心感というものが漂っている。

これは生来の物でもあるだろうが、やはり今までの実績によるところが大きい。

不敗の驍名を別段誇るでもなく、かと言って卑屈になるでもなく。李師が常に姿勢の悪い自然体でいることが、趙雲にとっては安定して信頼の置ける状況を代名詞となりつつあった。

 

「自信を持ちなさい。そして何より、野心を持ちなさい。あなたならばこそやれることもあるのですからな」

 

「いや、まあ……敗けない自信はあることはあるんだ。問題はこの戦いに果たして意味があるのか、そう言うことでね」

 

歴史的意義で見れば、どうだろうか。たしかにここで勝てば、幽州は守られるだろう。だが、それは戦乱の時代における根本的な解決にはならない。

曹操には後方を固めるということで幽州は必須だろうし、天下統一時に既得権益を残さない為にもこの侵攻は必要だった。

 

つまるところここで防衛しても後には何の役にも立たない。それどころか無用な戦死者をだし、この戦乱の解決を遅らせることにもなりかねない。そこのところは争いが起こった時代のすべての諸侯にいえることだろう。

 

「降伏という手は、ないのですか?」

 

「それは伯圭が決めることだ。まあ、無理だろうけどね」

 

曹操陣営のやり方は既得権益の否定と豪族の排除。こちらは豪族の寄り合い世帯。相いれないし、横並びの支配構造を取っている以上は君主の一存で決められることなど皆無に近い。

各個が協力しているだけで、公孫瓚が彼女らの上に立てているのは偏に、既にあってなきがごとしのものとなりつつある漢王朝からの『幽州牧』という地位があるから。

 

曹操のように強力な家臣団も居ないし、『邪魔だ』と言って豪族を排除するという覇気もない。意志と力量のどちらが欠けていても改革は為せないのに、物理的にも精神的にも不足している始末である。

 

自分たちを見捨てるなと突き上げられれば、とても見捨てられたものではないだろう。

 

「それに、私は一応伯圭から給料をもらっている身だ。その分は働くさ。超過勤務はごめんだけどね」

 

「相変わらずで安心いたしましたぞ。指揮下にいるものからすれば、如何に悩んでいようが表には出さずにいてほしいと思うものですからな」

 

内面の揺らぎに関係なく、李師の頭は戦争を如何に勝つかということに回るのだから、それに関しては趙雲は心配などしてはいない。問題は、表に出ないかである。

 

「さて、行こう。恐らく私が着いた三日後辺りに、妙才は高陽に到達するはずだ」

 

「ちと速すぎはしませんか?」

 

「これでも周りに気を使っているんじゃないかな。行軍速度と兵数の兼ね合いをとって、なるべく大兵力を率いてくるつもりだろうし」

 

 

この言葉は、現実となる。

 

西暦188年四月二十八日、両軍は高陽で向かい合った。

 

「撃て!」

 

「射撃開始」

 

名将同士の戦いは、ごく初歩的な動きと反応を以って始まったのである。



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二将争覇(壱)

夏侯淵。

李瓔。

 

どちらも弓兵・弩兵を基幹にした軍を持ち、苛烈な攻撃よりも慎重な戦を好む、犠牲を少なくすることを心掛けるような指揮官である。

それであるが故にどちらも猛攻を避けて様子見に徹し、二刻経った頃にはどちらも望まない微量ながら消耗戦のような様相を呈していた。

 

「どうにも戦局は動きそうもありませんが、どうします?」

 

「どうするもこうするもないさ。こちらは上、向こうは下。このまま射撃戦を続けても、陣の配置的にこちらが有利だし、防備用の柵と壁を張り巡らせているからこちらから動く必要もない。ここは待つことだ」

 

数個の丘陵の上に土壁と柵の陣地を構築することによって地形的な優勢を得る。

矢や弩を放つには、必然的に見上げて撃つよりも見下ろして撃った方が効率的だった。

 

李師は地形と工兵を最大限に活用し、野戦の枠を借りた要塞戦のような守りの戦を行っている。

 

李師が守りの戦にかけては当代切っての名将であることを、夏侯淵も知っていた。

野戦と言えば姉の破壊力を存分に利用できると判断していたが、こうなった以上は要塞に対する攻略戦と見て思考を切り替えるより他にない。

 

二刻で敵の優位点を看破し、夏侯淵はさらさらと軍を退く。

 

「敵は複数の陣地を有機的に結合させ、どこを攻めても射線を三本交錯させるような仕組みとなっている。流石は仲珞。見事なものだ」

 

「要塞を攻略するには普通一点に集中させ、一点から全体を崩すこと。敵は全体の陣地に万遍なく兵力を置かねばならず、こちらは集中させることができるというのが有利な点だけど……」

 

要塞を攻略するには三倍の兵力が必要。

敵は約三万、こちらは約七万。空中から敵要塞を俯瞰できない夏侯淵と荀彧とすれば、一度攻めないと構造はわからない。構造がわかった以上は対策を立てるべきだが、李師の非凡さがこの陣地群に現れていた。

 

要は、一箇所の陣地にかかる兵は面として限られているので、兵力差が活かし切れないのである。

もっと言えば、昼夜を問わず攻め入ることしか兵力の使い道がない。

 

「実戦指揮は平凡だけど、陣地建設の腕は見事なものじゃない」

 

「その平凡な指揮で二倍の兵力差をかすり傷一つ負うことなく撥ね返していることにこそ、私は瞠目すべきところがあると思うが」

 

床几の肘掛けに左腕を置き、夏侯淵は思考を巡らせた。

敵の思考と動向を読み、更にはそれが繋がる戦略思考を読み解かねばならないのである。

 

「……どう、するかな」

 

「どうもこうも、一点に集中して攻めればその点においては三面の攻撃を以って相対されるのだから、全戦線にわたって攻勢を仕掛ければいいんじゃない?」

 

「その通りだ」

 

あっさりとそれを認め、夏侯淵は更に脳に血を廻す。

一点集中による全体の崩壊を誘発させることを定石とするならば、その定石を派手に叩き壊してきたのがこの陣地構築だった。

 

つまるところ李師は、敵に愚策を取ることを強いている。強いていると言うよりは、愚策を良策とならしめている。

 

荀彧の発想転換の柔軟さも、彼女が凡百の徒ではないことを示していた。

普通ならば一息に一点から全体を崩すべく攻めかかり、強かな打撃を喰らっていても、おかしくはない。

 

(一点を集中して攻めるのが、何故良いか。それは敵が面を守らねばならず、その力が均一になっていることが前提としてある)

 

だが、分散して万遍なく配置されている筈の力が一点に集約して用いられれば、それは即ち攻勢に対して攻勢を以って相対していることになる。

 

更に地形は一方的に李師に味方している、というよりは李師が味方にしているのだから、兵力の優位さを有効に使えないことを加味すれば有利は李師の方にあることは間違いがなかった。

 

李師の巧妙さの第一は間違いなく心理洞察の深さと広さであるが、第二はその力を集中させること、第三は地形と設営を戦術に組み入れることの巧みさであろう。

 

(つまるところ兵力の優位さを完全に、とはいかずとも四割ほど活かす為には全面にわたって攻勢を仕掛けるより他にない、ということか)

 

後の先をとられた。

こうならない為に迅速に進軍してきたものの、李師はそれすらも計算に入れてきたのだろう。

 

この己の迅速さは、一度見せた。一度見せたものを計算に入れないはずがない。

 

「なあ、秋蘭」

 

「何だ、姉者」

 

「陣地からの射撃は無視してしまって、この際敵の牙門旗目掛けて全軍で突撃してしまえばいいのではないか?」

 

これがもっとも、李師の恐れるところであった。

彼女等の兵は後詰もあり、補給の宛もあろうが李家軍は現在補給の宛がない。

 

突撃してくれば、必ず被害が出る。

敵は更に数倍単位で多量な血を流すであろうが、李家軍としてはそんな消耗戦よりも限られた戦力を使い回して何とか敵に対抗しなければならなかった。

 

この『敵にも犠牲を与えるが味方には更に数倍の血を流させる』という一見としての愚案が、こと李師を踏み潰すことに関しては正しかったのである。

全体としての被害は敵味方ともに増えていたかもしれないし、ここに居る全員が各所の陣地から包囲網を敷いた敵に殲滅されていたかもしれないが、李家軍に一撃で致命傷を負わせることは確実だった。

「それではこちらの被害は二万に上ることになっても一万を下ることはないのよ。確実に敵将の首を取れるのならともかく、初期から仕掛けるにはあまりにも投機的すぎるでしょう。それに陣地を無視して突撃したら包囲殲滅の網にかかるじゃない。馬鹿なの?」

 

「何だとぉ!?」

 

「姉者。兵に対して死ねということが吾々の仕事ではあるが、全軍の半分かそれ以上を死者に変え、その更に半分を負傷者に変えてまで敵に勝つことはあまりよろしくはなかろう。別な解決策もだろうし、何よりここで殲滅しきらねばならない、ということでもない。吾々としては彼にここを通してもらい、更に易京を明け渡してもらえばいいのだからな」

 

夏侯惇にとっての戦いとは単純である。自身そのものも主たる曹操の刃に過ぎず、その刃は敵を斬り裂けば良い物だった。

しかし、その刃は常に主の腰にあるものではない。

 

夏侯惇は決して敵を舐めているわけではない。この敵が屈指の用兵家であり、それを打ち破れば天下への道が明確になる。

ならば自分自身を使い潰しても、敵の胸に刃を突き立てればそれで良かった。

 

「そういうものか」

 

「そうだ。有能な敵は、味方にすれば心強いものだしな」

 

「男をぉ!?」

 

うーむと言う伸びた返事と共に頷いた夏侯惇と相反するような悲鳴を上げた荀彧をチラリと見て、夏侯淵は髪に隠された眉を顰める。

この矮躯の軍師は、この固定観念を捨て去ればまた一皮むけるだろうに、と夏侯淵は感じていた。

 

「嫌よ、そんなの!

ただでさえあの全身精液男が居るのに、華琳様の元にまた男が増えるなんて、耐えられないわ!」

 

「じゃあ私が貰う。それなら文句はないだろう」

 

顰めた眉がピクリと上がり、冷徹な思考回路に熱が走る。

別に彼女の偏見を否定し切るわけではないし、寧ろそう言われている北郷には哀れみが湧くが、一緒くたにしては欲しくなかった。

 

「それなら。責任持って管理してね」

 

「それと」

 

「な、何よ?」

 

髪に隠された方の眼が尋常ではない覇気と妖気を放っていることに怯みつつ、荀彧は辛うじてそう返す。

才能においては認めることは認めているが、彼女の中での常識的に受け入れることを八割方否定しているのが彼女の過欠だった。

 

「全身精液男とやらと仲珞を一緒にしないでもらおうか。前者もそこまで言われるほどのことはしていないし、後者はそもそもそのようなこととは無縁な性格なのだからな。

そも、貴官の側に居た男がそうであったからと言って全ての男に才能がないと判断するのは視野狭窄もいいところだぞ」

 

にこやかに笑って釘をどころか槍を刺して、夏侯淵は続いての思案に戻る。

後の先をとった仲珞は、こちらの行動を制限してきた。故にこの局面では一先ず鎖に繋がれて、はいはいと従うしか無いだろう。

 

しかし、全体的に彼が何を目指して易京からこの高陽くんだりにまで来たのか。それを解明し、適切な手を適切な時機に打てば主導権を奪い返せるはずだった。

 

「敵の狙いは、何だと思う?」

 

「か、各個撃破か兵站線の切断じゃないの?」

 

あるにはあるが使い慣れず、表に出し慣れないこともあって曹操より僅かに出力において劣る覇気を余すことなく叩きつけれられ、完全に怯んでいた荀彧に何事もありはしなかったとばかりに話しかけ、返ってきた答えに首を傾げる。

 

「だが、各個撃破とは基本的には兵力が同等か敵が勝る時にこれを策を以って裂き、自軍以下となった敵を討ち破っていく。これが定石だし、吾々を各個撃破したいならばもっと別な策を弄してくるのではないか」

 

「なら、閉鎖して守りに入った要塞からは出撃しにくいということで今の内に兵站線を脅かす。だからここで主力部隊を引きつけている、とか?」

 

「有り得ることだ」

 

一人で何でも決め過ぎると配下や僚友がやる気を無くすよ、と李師に言われたこともあって夏侯淵は心理戦に徹し、荀彧という偏見と頑固ささえなければ完璧な軍師に実際の戦闘において目指すところの意見を聴き入れていた。

 

「私直卒の三軍団の内、第十一軍団を兵站の警護に回そう」

 

「一軍団を回すの?」

 

言外にやり過ぎではないかと咎める荀彧に対して首を振り、夏侯淵は静かにこれに答える。

 

呂布や華雄、張遼と言った破壊力を持ち合わせる諸将が襲撃してきた場合では一軍団(一万二千人)でなければ抗し切れない、と。

 

この時点で戦線に参加しているのは六軍団。その内五個が夏侯淵の指揮下にあり、夏侯惇の黒一色に統一させられた鎧を纏う一軍団がこれに加わっていた。

 

第八、第九は夏侯淵の指揮下にあって両翼の如き役割を果たし、直卒の三軍団の内第十は荀彧に任せ、第十一は兵站警護、第十二は変わらず。

 

戦略予備一軍団、兵站警護一軍団。残りの四軍団で、この陣地群を攻略せねばならない。

 

「兵力の集中が地形的にも、また陣地の配置的にも効率的ではない以上、全体的に攻勢を掛ける。点ではなく、面でな。

第八軍団は敵最左翼の陣地を、第九軍団は第八軍団と隣接する陣地を攻めよ」

 

第八軍団の指揮官たる諸葛誕と第九軍団の指揮官たる毌丘倹が謹んでこれを受け、五千人足らずが守る陣地に攻勢をかける。

敵が凡戦という形をとり、こちらに徹底して情報を与えてこない以上は予測のしようがない。

 

「なお、第十軍団は予備隊とし、私の直卒軍団も同様とする。下手に二軍を複合させれば、混乱をきたすことにもなりかねん」

 

常の心理戦においては主導、戦闘においては受動というスタンスを忠実に履行している李家軍に対し、第一次攻撃が開始された。



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二将争覇(弐)

「敵軍、第一陣地及び第二陣地に攻勢を開始いたしました」

 

「流石に定石の固定観念による罠に乗ってはくれないか」

 

田予の落ち着いた語調で、苛烈な敵部隊の攻勢が告げられた。

 

要塞を攻めるならば一点に火力と兵力を集中する。この固定観念に敵が捕らわれてくれれば彼としては最低限の犠牲で最大限の消耗を強いることができた。

しかし固定観念というものは何かしらの理由と合理性があって固定されたものだと、多くの将が理解していない。このことを知らずに一定の基準と法則性を以て動いてくれれば、李師としては嵌め殺しやすい。しかし敵将は夏侯淵。攻防柔軟で均衡の取れた、曹操軍切っての名将である。

 

簡単に嵌め殺せるならば今まで彼女は常勝でも不敗でもないが常に最終的には勝つといった用兵の巧みさを見せられるはずもなく、彼の半ば不発が了解済みの罠は見事に解除された。

 

「そう簡単には、いきませんようで」

 

「まあ、織り込み済みでもあったんだがねぇ」

 

予想を裏切りはしないが、裏切ってほしかったのが李師の本当のところである以上、彼としてはこれからの展望の峻険さとそこを歩むことへの困難さに嘆息を禁じ得ない。

趙雲の一言はこの一局面において放たれたものだが、これからの全局面にも言えることだろう。

 

「敵の騎兵部隊が第一陣を完全に包囲せんとしております」

 

「成廉、魏越の両戦隊に迎撃させろ」

 

直接指揮を執る呂布隊と華雄隊のうちの二部隊を裂いて迎撃に回し、陣地と陣地の間を断ち切って攻勢をかけている陣地を完全に包囲せんとして毌丘倹が差し向けた騎兵部隊を叩かせた。

 

最精鋭たる赤備えを兵力の利を活かせない狭隘部で運用していくのが彼の基本方針だが、現在ぶつからせた総数としては三倍からの開きがある。

 

「勝てるかな?」

 

僅かに手持ち無沙汰な李師は、赤備えの指揮官たる呂布に話を振った。

彼としては、夏侯淵とまともに戦う気はない。彼女がコントロールを放し、独立させて行動している部隊の判断ミスと突出を丹念且つ精密に把握し、叩く。

 

これによって彼は序盤を優位に運ぼうとしていた。

 

「……成廉と魏越なら、一人で五百人までなら大丈夫」

 

「君は?」

 

「……恋は片手で、五千人。赤兎に乗ったら、一万人」

 

「なるほど」

 

あながち間違っていない言い振りに溜息をつき、李師はひたすら敵の動向を伺う。

攻撃に晒されてる前衛は麴義と張郃。いずれも堅実な指揮と攻撃の無理のしなさで一線級と言っていい指揮官だった。

 

「成廉、魏越両隊が敵騎兵部隊を撃退した模様です」

 

「撤退させてくれ。あと、恋」

 

「……?」

 

戦況の情報についての統制と部隊管理・運用を行っている田予が手元に持つ百騎は、選りすぐりの強さと馬術の巧みさを併せ持つ精鋭である。

赤備えでも最強クラスの一隊を引き抜いてこの副司令官の警護と情報の伝達に回しているあたりに、彼の重点の置きどころが垣間見えていた。

 

「側面の警護にあたっていた騎兵部隊を翼として伸ばそうとし、撃退された今となっては敵側面は脆弱だ。敵はそれを憂慮し、自軍の後陣から増援を送ってくるだろう。残りの赤備えを率いてこれの側面を撃ち、破ってくれ」

 

「ん」

 

その返事と共に、天下無双の武を汜水関にて知らしめた呂布は血のような毛並みを持つ愛馬に騎乗する。

髪と馬と瞳、双方の色から紅さが目立つ一騎が軽く乗騎を駆けさせながら前方へと進みでると、一匹の獣の如く、赤備えが前に出た。

 

「行く」

 

簡潔ながら適切な指示とともに、赤い獣が地を踏み締める。

目指すは与えられた獲物の居場所。目的は獲物の喉笛。

 

そのまま駆けること速やかなる機動と凄まじい威圧感を以って、呂布隊は尖端の圧倒的な破壊力を敵陣の側面を固めるべく動いていた一部隊を粉微塵に打ち砕いた。

 

それに狼狽したのは諸葛誕。荊州諸葛家の長男である。

荊州諸葛家の才女二人は水鏡女学院を卒業した後、長女は孫策に、次女は劉備に仕え、彼は姉二人と同じ水鏡女学院に入るわけにもいかず、フラフラと諸国を漫遊していた。

 

この漢という国は、荀彧の精神そのもののような国である。というよりは、荀彧の精神が漢という国そのものとも言えるが、ともあれ統計上女性の方が歴史に名を残していることから女尊男卑という言葉が相応しい。

 

ともあれ己の才に全く自信の持てなかった彼は、曹操陣営に身を投じて下士官の任務に従事していた。

 

姉は虎、妹は龍、長男は狗。

 

そう評したのは誰だったか。彼にとってプライドというようなものは持ち合わせがなく、同じような境遇にあった毌丘倹と共に飲み屋に行っては愚痴をこぼし合い、仕事を真面目にこなしては酒を酌み交わす。

 

そんな生活もまあ良しとしていた彼を拾ったのが汜水関から帰還し、得た物資で以って私兵を集めていた夏侯淵だった。

彼女はとにかく影響されやすい姉を持った反動か、世の中の気風に逆らうことを厭わないような性質がある。

 

彼女は曹操軍が排男迎女の気風に染まり切ることを恐れていた。この気風が広まり切れば、いずれ男の有為の人材を損なうことになるのではないかと思っていたのである。

 

誰とは言わないが、『姉は登る権利すら与えられなかった鯉、弟は滝を登ったはいいが湖底に身を潜めてしまった蛟龍、妹は姉の類似型』と評されたとある名家に通じる何かがあった。

 

彼女としては同レベルの才能を持った両者を選ぶ時、男が男だからと言って排斥される風潮を好まない。

それに、一勢力の全ての人間が一色に染まる必要もないと、夏侯淵は思う。全てが一色に染まってしまえば、他の色が必要とされた時に苦しむことになる。

 

何よりも、せっかく才能とやる気を持ちながら下士官で終わってしまうようなことがあってはならなかった。

 

結果的に毌丘倹と諸葛誕は夏侯淵の私兵部隊へ引き抜かれる。

その後は私兵部隊の副官として充分な功績と経験を積んだあと曹操に改めて仕え、一軍団を任される身となった。

 

当然ながら才能にも、忠誠においても疑うところはない。

ただ一つ欠点を上げるとすれば、不測の事態に弱く、咄嗟の対応力に欠けるところであろう。

 

そこを、彼は李師に突かれた。

 

「敵の用兵を見るに、堅実で派手さはないが凡将の良くするところではないものがある。しかし、対応が鈍い」

 

「良くわかるものですな」

 

「だから一番高いところに陣を構えているのさ。心理と癖を読まないことには、効率的な撃破は望めないからね」

 

第八軍団(諸葛誕)に痛撃を与えて速やかに去った赤備えを収容し、再び突出しそうになったところを叩き、怯んだところを更に叩く。

 

攻勢を強めれば呂布と華雄のいずれかを差し向け、叩く。

 

「妙才はともかく、他の敵には勝ちを拾える隙がある。そこを叩いて妙才からは逃げる」

 

「なるほど、意地の悪い」

 

機動防御を大方実践し始めてきた李家軍の機敏且つ効率的な戦い方を見ているのは、何も指示を下している彼だけではなかった。

猛禽と評された、彼の親友も見ていたのである。

 

「火消し屋か何かとも見紛うべき働きぶりだ。こちらが火を噴いて敵の陣地を焼き尽くそうとすれば、その前に出先を叩かれる。守備職人とも言えるな」

 

「褒めてるの、それ?」

 

「褒めているさ」

 

こちらが、と言うよりも夏侯淵の配下たちが動こうとすればその出先を取られるのはよろしくなかった。

 

あと、自分の直卒を三個目の陣地攻略に動かしたのに無反応というのも、よろしくない。せめて何かしら反応を起こしてほしい。

 

「やはり、役者が違うな」

 

「どんぐりの背比べみたいなもんじゃない。まあ、一つ頭抜けてるのは確かなようだけど?」

 

今の戦術機動の見事さを見ればまあ目を見張るべき点がないでもないと考えざるを得ない荀彧である。

まあ、やり込められている二人が女ではなく男であることも、その適切な―――と言うよりはマシな―――評価を下すにあたって一役かっていた。

 

「それにあの赤備えの将は強いわね。退くべき時に退いて、進む時は全く躊躇いがない。罠をきちんと看破して、深追いもしないし退き過ぎもしない。華琳様に献上したいくらいだわ」

 

「……」

 

「何よ」

 

何でこいつは見る目は常人より遥かに、非凡の中でも更に優れているのに男の才を見る目は湯煙に曇ってしまうのか。

「まあ、やっぱり女性だからでしょうね」

 

「フッ」

 

これが嘲笑の見本品ですと名札を付けたいくらいの見事な嘲笑を漏らし、夏侯淵はこの世界の教えの不便さを思った。

固定観念、打破すべし。そう唱えた曹操の思想は全く正しい。

 

幼少のみぎりより教えられていたことを必然極まりないと思ってしまうことこそが、この固定観念と言うものの恐ろしさだろう。

 

「敵機動部隊の足を止める部隊が必要だ」

 

何故か優越感に浸っている荀彧の夢の泡を突いて弾けさせるように、夏侯淵は現実と言う名の針を放った。

 

優秀な人間は一癖も二癖もあるというのは、この世の摂理であるから仕方がない。

 

曹操は同性を好む。姉は猪突を好み過ぎる。己は元からあった自己と後から備わった自己との矛盾がある。

李典は謎の発明品を多々開発する趣味を持ち、荀彧は漢帝国の典型的なエリートの通癖を内包し、程昱は睡魔に対して脆弱であり、郭嘉は豊かな構想力による性的興奮によって己をショートさせてしまうことが多々あった。

 

敵を見てみても趙雲・麴義は曲者でしかなく、田予は影に溶け込んでしまいそうなほどに寡黙で地味。

 

肝心の友も放っておけば黴と埃を友として朽ち果ててしまいそうな怠け癖があった。

 

(私はマシな方かもしれんな)

 

友とその幹部たちの癖が感染ったのか、夏侯淵は見事なブーメランを投げる。

マシな方となれば田予であり、癖がない人材といえば楽進や于禁、呂布や華雄くらいなものだった。

 

人格的に臭味がなく、異様な才を雍している人間が如何に貴重か。それがよくわかる。

 

「私が行こう!」

 

「却下」

 

決定的に足止めに向かない人材だということをよく知っている荀彧がその自推を蹴り、残った指揮官として荀彧が一軍団を率いてこれに向かった。

 

「すまんな、姉者」

 

「待つのは性に合わん」

 

後に残されたのは、お守りの妹とお守りされる姉だけであった。



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二将争覇(参)

「敵、出てきます。荀の旗」

 

「なるほど、兵法の理にかなった見事な行軍。人材豊富なことだ」

 

兵法のあらゆる理にかなった行軍で整然と進み、第八軍団と第九軍団の間で止まった一万二千人の軍は獲物が来るのを待ち構える猟師の如く待ち構えていた。

 

「李師殿、どういたしますか?」

 

「あの軍団が健在なままでは、非常に困る。可及的速やかにご退場願おう」

 

敵の一軍団を遊兵化させたと言えば聴こえは良いが、こちらの三分の一に当たる二分隊一万も動かせなくなる訳である。

それは現在の戦況上極めて痛く、一気に不利へと傾けられるかもしれないものだった。

 

「では、赤備えを?」

 

「いや、後ろの第四陣を守っている趙雲隊を前に出して諸葛の旗の敵を攻撃させ、華雄隊を第二陣へ、呂布隊を第一陣へ。趙雲隊は敵が鋒矢の陣を取り次第退かせるように」

 

「はっ」

 

「まあ、隘路に誘い込まれてくれるほど容易くはない。そこを利用させてもらおうか」

 

収容した呂布隊を迂回させつつ、李師は一際高く築かせた本陣から戦況を見やる。

一万二千が窮屈にならぬように選んだ場所選びの見事さを利用してやるのが、この際最も有効な手だった。

 

 

「敵、接近!」

 

「旗は?」

 

「趙。恐らく、趙雲隊だと思われます」

 

なるほどねぇ、と荀彧は敵の狙いに対して予想と対策を立てる。

趙雲と言えば撤退戦の名手。この人選から考えられることからすれば、『攻撃されても最小限の犠牲で済むから』か、『偽装撤退によって敵を引き摺り込みたいから』。

 

「全隊、逆さ鶴翼」

 

両翼をいつでも前に出せるようにしながらも、鋒矢の陣に偽装して趙雲の後背を討てばよい。

そうなれば敵はこちらが突撃してきたと思うだろう。趙雲が退却を初めて誘引しようとするのに合わせてこちらも一回退き、敵が再突出した瞬間に陣形を鶴翼に変化させてこれを包囲殲滅する。

 

「敵、鋒矢の陣を取りました!」

 

「よし、騎射隊は左に回頭して荀彧隊に斉射、しかる後に後退」

 

後方を突き、反撃を喰らう前に退き、という嫌がらせのような用兵をそれなりに楽しんで繰り返していた趙雲は、優美な三叉の槍を軽く回しながら指示を下した。

敵は今のところ、李師の予想通りに動いている。

 

「敵、後退!」

 

遊弋していた地点から趙雲隊に喰らいつく為に隘路へ近づき、今更にもう少し誘引すれば引きずり込めるという絶妙な地点で、荀彧は機敏に軍を後退させた。

 

もう少し、もう少しで。

 

そう言って突出したくなる、絶妙な地点とタイミング。

彼女が他者を馬鹿にするにふさわしい能力の持ち主であることが、この一事でも表れているであろう。

 

「なるほど、巧妙なことで」

 

「敵、後退。もう一度、敵の鼻先に餌をちらつかせますか?」

 

予め指示が下されていなければ間違いなく再び突っかかっていった。

そんな感想を余裕という名の思考の余白に書き込みつつ、趙雲は一先ず主たる李師の指示通りに動く。

 

「前進。ただし、逆撃を喰らったならば逃げ散れるように程々に」

 

「はっ」

 

逃げていた趙雲隊四千が手慣れた様子で反転し、再び敵に向けて一歩を踏み出し、それに合わせるように荀彧は鋒矢の鏃を前へ開いた。

 

趙雲隊は急に止まるわけにも行かないし、趙雲自身に止まる気がない。

趙雲は第十軍団(荀彧)に進むし、第十軍団(荀彧)は趙雲へ向かう。

 

お互いが近寄ろうとした為に、必然的に先程までの追いかけっこのような戦闘とは接触までの時間が大幅に短縮された。

 

つまるところ趙雲隊は、開きつつある三方からの包囲網の真っ只中に足を踏み入れてしまったのである。

 

「吾が軍は包囲されてしまったようです!」

 

見事な迅速の用兵にあっという間に取り込まれてしまった自軍を悲観したように、趙雲の副官は不敵な笑みを一度たりとも崩したことのない指揮官にその危機を告げた。

 

「慌てるな」

 

不敵な笑みは、絶えていない。まだ戦えるし、危機であっても致命ではない。

そのような確信をいだかせる言葉が信頼する指揮官から吐かれ、たちまちの内に恐慌から立ち直る自軍の幹部たちを見て苦笑しつつ、趙雲はちらりと左右と、後方を見る。

 

「誘い込んだのは吾等で、誘い込まれたのは、奴ら。これはほんの僅か後ろにあの男が居る限りは不変だとすら言える」

 

後方には、横に並べた三色の地に五稜星。

左右には、第一陣・第二陣の防衛部隊と合流させておいた華雄隊・呂布隊。

 

「反転して、袋叩きにしてやるとしますかな」

 

「のこのこ巣から出てきた猫の頬を引っ叩いてやるとしよう」

 

「……退路を塞いで、袋叩き」

 

趙雲、華雄、呂布。それら三隊が突入箇所から時計回りに巴状に挺進し、一気に包囲網を締め上げる。

それに気づいた第八軍団(諸葛誕)と第九軍団(毌丘倹)が連動してこの包囲網の一角を打ち崩さんとするが、これに応ずるように麴義・淳于瓊の守備隊がそれぞれ攻囲されている軍に向けて打って出ることでこれを押し留めた。

 

これにより、荀彧は自身の兵力のみでこの一万四千による包囲網をなんとかせねばならなくなったのである。

これを見た李師は、伝令にこう言い含めて趙雲に放った。

 

「敵はこちらが守備隊を出したことに対して僅かの思案の後に決断し、両翼を下げて翼を延ばし、再包囲してくるだろう。呂布・華雄の両隊は敵が両翼を下げ次第地形に対して沿う様に展開。敵が包囲網を構築する余地を無くし、遠距離からの一点集中射撃で指揮系統を鈍化。しかる後に包囲網を縮小するように」

 

この指示が伝わり、趙雲が両翼を構成する両将に伝えた一拍後、荀彧は極めて真っ当な解決策を見出す。

 

「防衛部隊が出撃したなら、陣地からの射撃を考慮する必要はないわ。両翼を下げて、延翼運動をした後に陣地の小山沿いに展開して再包囲しなさい!」

 

しかしそれは真っ当でありすぎた。普通ならば成功し、逆に敵軍のおよそ三分の一に当たる趙雲・華雄・呂布隊を殲滅できていたかもしれない。

しかし、それは制御下に置かれた戦場での、予想の範疇での行動に過ぎなかった。

 

「……本当にサトリ妖怪の類ではないかと疑いを抱く程度にはお見事な手並みで」

 

両翼を下げてしまったが為に射撃の良い的になりつつある敵には当然、李家軍のお家芸となりつつある攻撃方法が叩きつけられることとなる。

 

「目標、敵中央部。狙点、固定!」

 

「撃て!」

 

一万四千による包囲網の内面を構成する五千人の弩兵と中間部を構成する二千人の弓兵がただ一点に向けて全方位からの射撃を叩きつけられ、荀彧軍は潰乱した。

 

「後は、じわりじわりと追い込むだけ、と……」

 

「趙分隊司令官!」

 

「どうした?」

 

「包囲網の後方より、敵が突撃してきています!」

 

第十一軍団は兵站線の警護。第十二軍団(夏侯淵)は第三陣の、第八軍団(諸葛誕)は第一陣の、第九軍団(毌丘倹)は第二陣へ攻撃を仕掛けている。

敵の予備兵力は黒一色の第七軍団(夏侯惇)のみ。

 

李師はこの包囲網を構築するに当たって、牽制の終わった麴義隊の一部を狭隘部に集結させて防壁とし、第十軍団(荀彧)の退路を塞ぐと共に敵予備兵力への備えとしていた。

重歩兵と槍兵による密集陣形によって堅固な守りとしていたのである。

 

これによって敵予備兵力が突撃してきても多少なりとも時間を稼ぎ、包囲網を解除するとともにそれらの防御部隊を自陣に帰還させて再び硬直状態に持ち込む。

 

ここまで緻密に、順序立てて計算していた李師の計算が、この時隔絶とした破壊力を前に破綻を来たした。

実行者は夏侯惇、発案者は夏侯淵である。

 

「……してやられているな」

 

「まあ、あの方に戦術で勝てる人間はそうは居ないでしょうからなぁ」

 

「それもそうだ。仲珞の計算は正確過ぎるし、それに更に余裕を持たせることに成功させている。よっぽどの計算違いがない限り、その場の応急処置でなんとか修正してしまう。魔術と言うのは言い得て妙だし、現に凄まじいものだ」

 

が。その計算は現在『兵力』という実数値上の限界によってその余裕を豊富に保有することが許されていなかった。

 

「姉者に連絡」

 

「はっ、なんと?」

 

「遮二無二突撃せよ、と。詳しいことを命令したら長所が削がれる。単純に、これだけがいいだろう」

 

夏侯淵から、夏侯惇へ。

よく知っているが故に、その計算の緻密さと苦境の中に居る友の弱みを悟ることが、彼女には出来たのである。

 

「なるべく生け捕りにせよと、お伝え致しましょうか?」

 

「私は公人としてここに居る。貴官の気遣いはありがたいが、将である以上、私情は挟めんよ」

 

そう。戦う以上は己の持ち得る全知全能を傾け、全身全霊を以ってこれと対す。

 

「付け加えるならば、その大剣で以って敵将を討ち取るべし、だろうな。生け捕りにせよと言うのは、良くない」

 

「……はっ」

 

その命令を受け、黒一色に染め上げられた長槍騎兵軍団が突撃を開始した。

夏侯惇としては妹の心情を慮れば生け捕りにしたい気もある。

しかし、妹が公人として毅然と決断を下したのであれば、己が私情を忖度するのは却って侮辱というものだった。

 

「元譲様」

 

「何だ?」

 

「敵は少数ながら地の利を得、堅固な備えを以って構えております。迂回なさいますか?」

 

ここで迂回していれば、当然時間が稼げたのである。しかし、この猪突猛進を誇りとするような指揮官と、その配下の判断は常軌というものを逸していた。

 

「吾が軍の辞書には後退とか迂回とか、そういったまどろっこしい言葉は乗っておらん」

 

「そうでした」

 

結果として、曹操軍最強の名をほしいままにしている第七軍団は、鎧袖一触とばかりに後方防備の麴義を突き破ったのである。

 

「華雄隊を突破し、呂布隊を叩き、桂花の奴を救ってやり、趙雲隊をぶち抜けば吾等の勝ちだ。奮えよ!」

 

正気とも思えない発言を正気と思わせるほどの突破力を、この部隊は持っていた。

元々守勢において粘り強さにかける華雄隊を貫き、止めに入った赤備えを砕き、包囲網に貫通孔を開けたまま趙雲を真正面から小細工する時間も与えず大破させる。

 

矢は尽く弾かれ、例え槍衾に串刺しにされようが侵攻を止めない黒色槍騎兵の軍団に辟易し、或いは恐怖し、最後の防衛線も突破された。

 

この、『矢が効かない』と言うのは精神的なものではなく、物理的な理由がある。

彼等彼女等は迂回や後退を考えていない。直進と突撃、敢闘と猛攻のみを求められていた。

 

結果、正面部分の鎧が厚くなった。必然として、後方や側面は紙同然。守ったら敗けのその特色は、まさに夏侯惇が指揮する為だけにあった。

 

「敵陣、突破!」

 

「よーし、では偉大なる敵将とやらの首を拝みに行くとするか」

 

そのままの勢いで突破しようとし、更に馬速を速めた第七軍団の前方に、二千程にまで数を減じた一部隊が立ちはだかる。

 

「殊勝だな、吾等の正面に立とうとは」

 

「どうなさいますか?」

 

「無論直進する。追いつかれる前に敵将の首を挙げんと、敗けるのはこちらだ。そもそも、吾等は全体では敗けているのだからな」

 

ただの猪武者ではないところも垣間見せつつ、夏侯惇は再び自ら前線に立った。

敵には旗も何も無い。歩兵や何やらを置き去りにし、ただ追いつこうとしてこちらの側面から正面に回り込んできたのであろう。

 

敵は二千、こちらは一万。数の上では有利であるし、個人の武がおかしい呂布でもない。疲労度の上でも有利である。

しかし、敵には中々に侮り難い闘気があった。

 

「そこを退け!」

 

「行かせるかぁぁあ!」

 

両軍に於いて最強の矛の役割を果たす両者の咆哮とが大気を切り裂いてぶつかり合い、剣と斧とが散らした火花を号砲に、互いの牙が折れ砕けんばかりの激闘が始まった。




華雄
攻撃124
防御56
機動91

夏侯惇
攻撃130
防御15
機動78


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二将争覇(終)

華雄隊と、夏侯惇の第七軍団。どちらも攻勢に強く、防御に使うには適さない特化した能力を持つ部隊である。

戦力差五倍の両軍のぶつかり合いは、『どちらもひたすら前に進む』という、突っ込んできたダンプカーがアクセル全開で正面衝突するような凄まじさがある情景が展開されていた。

 

「一歩でも前に出て、一兵たりとも突破させるな!」

 

「進め進め!一歩前に歩むたびに、勝利が三歩近づいてきているのだぞ!」

 

互いが互いを『攻撃対象』として見たが故に、攻撃対攻撃という他に類を見ない対決が、お互いほぼノーガードの上で繰り広げられている。

 

必然的に、両軍の被害は加速度を増して積み重なっていた。

半刻で千、一刻で二千。機動力を活かした巧妙な指揮ぶりで、華雄隊は自軍の四倍の出血を敵に強いていたが、ただひたすら猛進するという夏侯惇の指揮ぶりには巧緻を巡らしすぎては却って劣勢にすらなりうる。

 

正確な指向性を持った、或いは持たされた軍がひたすら突っ込んでくるという恐怖を力戦で撥ね返しながら、華雄は自ら武器を振るって前へと進んだ。

部下に不利な戦いを強いている以上は、自分が先頭に立って進まねばならない。

 

進む時は先頭、退く時は殿。

 

指揮能力が充分に備わった今でも守っている、彼女の将としての骨格とでも言うべき信条である。

 

五倍の戦力差による猛進を一刻の間喰い止めつつもその圧力の前に圧されつつある華雄の奮戦は、後方よりの一報によって盛り返した。

 

「後方より味方が!」

 

「誰だ!」

 

「赤備え、呂布隊です!」

 

前述の通り、第七軍団(夏侯惇)の軍は後退・迂回を考えていない為に鎧の装甲が前方に偏重している。馬甲も背後・側面から攻撃を受けることを考えていない為、殆ど装備されていない。

 

背後から強襲した呂布隊の突撃を殆ど無防備な背中から受け、被害はほとんど一方的に夏侯惇側に積み重なりつつあった。

 

「将軍、どうなさいます?」

 

ちらりと横目で副官を見て、夏侯惇は目の前の激戦から一時的に意識を離して考える。

 

このまま無理矢理にでも進めば、自軍は確実に壊滅する。しかし、目の前の二千騎足らずを打ち破れば敵将の首に届くのだ。

 

「総員突撃、敵を崩した後に反転して退却」

 

「はっ」

 

一方、李師は突如として彼が集中的に管制する戦場の外から夏侯淵が斧を投げてきたことを悟り、対策を講じていた。

この常識外れの攻撃力を組み込んで再計算を終えた後に第四陣と第五陣に伝騎をやり、張遼・張郃の両将が無傷の軍を率いて第七軍団(夏侯惇)の側面部を脅かさせたのである。

 

これによって再包囲してやり、兵員を殺すことによって突破力を減衰させるのが彼の狙いであった。

 

更には、先ほど犯したマイナスの計算違いを補うように、プラスの計算違いが起こった。

 

その火種は、包囲網を構成していた華雄以下騎兵達が本隊の盾となるべく急速に北上してしまったが為に、荀彧の撤退を許してしまった華雄隊の歩兵達に燻っていた。

 

自分達がここで右往左往と見苦しければ、彼等彼女等の敬愛する華雄軍という物自体が統制の執れぬ部隊と見られ、華雄の折角の勇戦が差し引いて見られてしまう。

 

「吾等が将軍の、勇名を辱めるな!」

 

己等の失態で司令官の名を穢してしまう危機感と、機動力に劣るという一事で役に立てなかったという口惜しさ。

包囲網の維持として置いていかれた副官の胡軫が率いる華雄分隊の残兵二千はその怒りと焦りと口惜しさを力に代え、自軍の何倍もの大軍である第七軍団に狂的な士気を以って突撃を敢行した。

 

この感情の激発が、更に連鎖反応を呼ぶ。

 

元々桁が違う強さを持つ呂布率いる赤備えが、『この危機に役に立たないで何故最強部隊などと名乗れようか』と遮二無二包囲を縮めて突き進んだ。

 

この結果、一瞬前までは猛攻を仕掛けていた両脇からは敵の援軍、背後からは用兵とは無縁の動機から発した士気の高さを保持する華雄・呂布両分隊。

 

第七軍団は攻勢に強く、守勢に弱いという特色のどちらもこの戦場でさらけ出し、あっという間に劣勢から潰走に陥ったのである。

 

これに対して荀彧隊が背後を脅かすが如き動きを見せた為、第七軍団は約二分の一の被害で留まって撤退した。

 

「敵の背後を討ち、退路を絶った上で孤軍とする。第一陣・第二陣に連絡して背後に騎兵部隊を回り込ませろ」

 

主目的は、敵陣地の攻略。

この乱戦となった戦場においても主目的を見失わない夏侯淵の狙い澄ましたような指示が下される。

 

ここまでやり込められるとは流石に考えていなかったが、姉の進撃に付随する華と破壊力とをうまく利用し、こちらの優位たる兵力差を活かした攻めをすると言うのが、彼女の当初からの目的であった。

 

一方、可能な限り敵に出血を強いることが目的である李師側も、もうこの時だいたい達成しつつある。

 

陣を固守するよりはここは兵力の損耗を抑えるべきだと判断した彼は、最前線の二部隊に撤退を命じた。

もしこの時、呂布なり華雄なりが手元にいれば夏侯淵も動かなかったであろう。

 

しかし、この時の李師は手元の戦力を払底しきっていた。

 

ともあれ戦線の収拾をつけなければ、戦いようもない。

 

「淳于瓊隊の守っている第二陣と麴義の守っている第一陣の後方に、妙才は騎兵を迂回させて後方を突き、退路を遮断してくるはずだ。ここはもう渡してしまった方が後々やりやすい。

第三陣は妙才の直卒部隊に一撃を加え、その展開を阻害するように」

 

両守備隊を下げ、防衛線を第二線まで下げる。

 

夏侯淵側の被害は第七軍団(夏侯惇)が八千、第八軍団(諸葛誕)が二割に当たる二千五百、第九軍団(毌丘倹)がこれまた二割に当たる二千五百、第十軍団(荀彧)が九千、第十二軍団(夏侯淵)が千。

 

李家軍側は華雄隊がその三分の一を喪い、他の分隊も無傷というわけにもいかずに出血し、計四千二百人が戦死、或いは重傷。

 

二万三千人を殺す為に四千人が戦死し、李家軍の残存兵力はいよいよ三万のラインが切れるか切れないかを心配するところまで来ていた。

 

夏侯淵軍は人的被害を、李家軍は物質的被害を多大に被り、この高陽の戦いは幕を閉じたのである。

 

「……なんとまぁ、拙い戦をしたものか」

 

「被害は四千、陣を二つ失う。まあ、味方の喪失だけ見たら敗北でしょうな」

 

兵員の被害の八割が夏侯惇の突撃。

はなから野戦築城を行わずに野戦を挑んでいれば、総兵力の三割が死んでいてもおかしくはなかった。

 

「敵の被害はどれくらいかな?」

 

「……確認している暇も、ありませんでしたからなぁ」

 

実際のところ敵の被害は全別働隊六個軍団の内の三割、二軍団相当を喪うというものであり、序盤から中盤の現場の指揮では夏侯淵の命令を受領して戦う第八・第九・第十一を無視した李師のワンサイドゲームだと言える。

 

だが、指示を受領した第七軍団には計算を完全に破壊され、第十一軍団には二陣を取られた。

勿論それが他の軍団を利用しきったものだったとはいえ、その調理の見事さは流石としか言えない。

 

「一歩間違えれば負けていた。いや、端から勝ってなどいないわけだが」

 

四千とは、ほぼ一分隊に匹敵する規模である。

曹操軍にとっての一万二千を失ったと同じ衝撃を、彼は強かに食らっていた。

 

更には今回、自分は現場の勇戦によって計算の誤りを補正され、何とか生き長らえている。

とても勝ったとはいえないし、まともな戦だとも言えなかった。

 

「まあ、神でない以上は仕方ありますまい。対策も、次戦う時までに考えておかれることですな」

 

全知全能を持っているわけではない。彼は彼の全知と全能を尽くして指揮をしているに過ぎないし、周泰という耳目を徴用していることからも、これはわかる。

 

どうにも全知全能の存在だと錯覚しかけていた趙雲にとって、このしくじりは錯覚を解く良い切っ掛けとなっていた。

 

「もう原案は出来ているさ。あんな突撃は、二度と喰らいたくはないからね」

 

「……左様で」

 

だがしかし、してやられてすぐに対策を思いつくこの様を見るに、やはりそう錯覚しそうになる。

 

そんな錯覚に頭を悩ませている趙雲の横で、李師は現実と戦っていた。

四千を失い、華雄が負傷。再編も必要だし、この際合併も視野に入れねばならない。

 

「……ここを引き払おうか」

 

そして、易京に篭って敵の兵站線の延長を強いる。

今回兵力を失ったことで兵站線の警護にも万全を期す、ということはできないはずだった。

 

「はぃ?」

 

まだまだ戦える陣地を敢えて放棄するという彼の発案に趙雲が言葉を失いかけたとき、一方で夏侯淵もあまりの惨状に言葉を失いかけていた。

 

「三割か……」

 

ある程度の犠牲が出ることは覚悟の上の行動であったし、その覚悟よりも更に旗色が悪そうであったからこれを逆用して李師の首を獲ろうともした。

 

李師が要塞めいた野戦築城に引き篭もっており、なお且つ地形を完璧に把握した上で策を練っているとはいえ、この被害はそれらの理由で誤魔化せるようなものではなかったのである。

 

「桂花、平凡な実戦指揮に見事にしてやられたようだが、感想を聴こうか」

 

「……侮ってたわよ。でも、次は勝つ」

 

「姉者はまあ、もう防御に関しては仕方ない。私も効果的には攻めることができなかった。お前は侮っていた。三者が三者ともやらかしてたというこの惨状をどうするか。それがこれからの議題だ。敵陣の半数を陥落させたとはいえ、兵力差は縮まってしまったのだからな」

 

「面目ない」

 

復仇戦に向けて策を練る荀彧と、あっさりと己の非を認める夏侯惇。

二人のアクの濃い軍団長を抱え、夏侯淵はふと閃いた。

 

敵は自分たちが再編によって追撃が不可能となるこの機に、退くのではないか。

 

(わかっても、実行できねば意味もない、か)

 

高陽の戦いは、遥か北へと場を移す。

この高陽で彼女らを苦しめた陣地群が応急用のものでしかないことを知るまでには、さほど時間を必要としなかった。



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決戦(序・趙)

易京要塞。

十五本の望楼による監視によって敵の位置を多角的に把握し、城壁上部に開けられた一万個の弩口による一斉射撃で殲滅することを作戦思想として造られた完成した要塞である。

 

攻勢防御とでも言うべきこの思想は、中に強力な機動部隊がいることで更に効果を発揮した。

敵が射程から外れても、迂回してからの強引な突撃による押し込みによって無理矢理要塞に備え付けられた一万の弩を無形の戦力として扱うことができる。

 

攻城兵器に対しては八門備え付けられた弩砲で破壊することが可能な為、正しく難攻不落と言っていい決戦要塞だった。

 

「この要塞は難攻であるし、今のところは継続して不落だと言える。何故だかわかるかい?」

 

作戦会議の議場で、李師は軽い口調のままに諸将に問う。

また来たのかよ、というげんなりした表情は、そのままであるが。

 

「未だ攻められたことがないから、でしょう。攻められないものを、陥させるわけがありませんからな」

 

「その通り」

 

命からがら、というわけでもないが、そこそこ手痛い被害を与えられて逃げ帰ってきたというのが―――兵たちは勝ち逃げだと思っているが―――李家軍の最終段階での現状である。

一年間たっぷり掛けて再編を終え、更には働き詰めだった身体と脳を休め、李師は再びその怠惰に傾いた活力をとり戻していた。

 

夏侯淵の進言で、曹操軍は更に万全を期すことに、即ち負った傷を療養した後に再び攻めることになったのである。

 

このモラトリアムを利用して李師側も志願兵を募って兵を補充し、その兵力を常備上限たる三万にまで回復させることに成功していた。

 

「敵はまあ、一回は正当に攻めてくるだろう。何せ防諜を徹底させているし、攻められたことがない。情報を得る為にも、必ず一度仕掛けてくる」

 

「そこで手痛い一撃を加える、と」

 

「そうだ。どうにも伯圭から指示が途絶えがちだから明確な行動指針を打ち出すことはできないが、そうなる」

 

侵攻が不可能なだけの損害を与えて撤退に至らしめるか、兵站線を切断して敵を撤退に至らしめるか。

目指すところは一つだが、通る道を選ぶのが彼の仕事だと言える。

 

実際に、一度は前者の案を採用して撃退した。

これは運の要素が強かったとは言え、間違いのない事実である。

 

「敵の大将、曹孟徳は士卒の心を得た名将だ。万が一ここで討ち取ってしまえば、多くの者がここを怨みの場所とするだろう。後継者争いを誘発するより先に、家臣たちが『仇を討つまでは』と結束してしまうこともあり得る。だから吾々としては、曹孟徳を討つことはできない。長期的に怨みを持たれるようなことをすれば、どんな手で来るかわからないからね。

と言っても、いざ攻めてこられるまでは勝つ算段などつけようもないわけだが」

 

「では、捕虜はどうです?」

 

「そちらはいい。しかし、出来るとも思えない。だから私としては義理を果たす為に、大量殺戮に勤しまねばならないわけさ」

 

後方から指示が飛んでこない以上は、彼としてはここで抗戦しておくしか選択肢がない。勝手に捨ててしまえば取り返しが付かないし、決定が遅れるのは連合制を敷いている以上はあり得ることだ。

遅れているからといってどうこう文句を言えたことではないが、彼としてはさっさと降伏してもらいたい。

 

降伏する為にもさしあたっての勝利が必要な訳だが、それは良い。しかし何の展望もないまま無為に兵士の命を散らすようなことは、彼の本意ではないのである。

 

勿論『万が一』には備えているが、もはやその『万が一』が起こったとしても不思議ではない。

 

「それにしても、この世の中には酔狂者の多いことだね。これから始まる戦いは私が仕える主の身の安全を保証させるための戦いだ、と言っても誰一人として逃げようとはしないんだから」

 

「公孫伯圭殿も、為政者としては有能です。更には貴方は名将だ。命を懸けるには相応しい存在に見えることでしょうよ」

 

六分四分で降伏し、公孫瓚とその一門にとって有利な条件で降ることを容れさせるのが彼の役割だった。

とかく既得権益を破壊し、旧権力者の残滓をも一掃するような曹操のやり口の矛先が公孫瓚に向かぬように、確約させねばならない。

 

「戦う前から降伏が決まっている、だのに戦わせなければならない。私は恐ろしいほどの愚行を強いているのだと思う。いや、戦争そのものが愚かしいんだけどね」

 

「世の忠臣という存在がやってきたことは、いつもそれです。少なくとも後世の人々は、その戦いを馬鹿馬鹿しいとは思わんでしょう」

 

たった一人の命が、この冀州四郡と幽州の民と兵の暮らしを支えてきた。その命の持ち主は確かに苛烈なまでの決断力に欠ける所があったが、それは事実なのである。

 

その支えてくれた命を守り、安全を保証させる為にはなんとしても勝たねばならなかった。

外交折衝という方法もあるが、そうすれば必ず豪族たちは吾々を守れと口喧しく言うだろう。

現にその『現状維持のままなら降伏する』というふてぶてしさすら感じられる文言を、曹操は一蹴した。

 

李師は公孫瓚に義理を感じているが、今まで反目し合っていた豪族たちをも守ってやろうとするほどお人好しでもない。

 

勝った後の交渉で、一応問うてみようとは思っていたが。

 

「戦い、勝ち、降伏する。最低でも硬直状態に持ち込み、この要塞を堅守せねばこの工程は踏めないだろう」

 

「まあ、公孫伯圭殿は他人より多くのものを背負い込みながら捨てることを知らない御方ですからな。吾々としても見捨てる訳にもいかず、難儀なことです」

 

豪族たちが主導権を握っている以上は無理からぬことだが、外交に全く頼ることができないのが李師としては不満でもあり不安でもあった。

既得権益を持っている人間からそれを奪おうとした時の抵抗と執着は持たぬものから見れば軽蔑と言うよりも滑稽味すら感じさせるほど慌てふためく。

 

そしてどんな手段をとることすらもいとわなくなるのだ。

 

「親の代まで持っていた権益を手放すのがそんなに悔しいのか。妙才辺りならばそんなことを言ってあっさりと否定しそうなものだが、私としてはわからなくもないね。誰だって元から持っていたものを、手放したくは無いものだ」

 

「しかし、守ってやる気もない、と」

 

「ああ。別に私は豪族の既得権益の擁護者ではなく、この乱世で多少なりとも平和というものを感じさせてくれた公孫伯圭殿の身の安全を確保する為に戦うのさ」

 

惰性で戦っている訳ではなく、一回勝って降伏に条件を捩じ込む余地を作り、後はさっさと降伏する。

最期まで殉ずるなどという気はさらさらないし、配下を殉ずるなどという馬鹿げた自己陶酔に付き合わせる気もない。

 

撤退に追い込めればよかったが、それもかなわないならば各個撃破によってこちら側の手強さを見せつけ、その後に曹操自身を破って『このまま攻めれば犠牲が募るばかりだ』とわからせれば、彼としては良かった。

 

続いて発言したのは、情報統括を一手に引き受ける周泰である。

 

「敵軍は流石に全てを元通りにするとは行かなかったようで、第六軍団(鍾会)と第十軍団(荀彧)を統合して新生第六軍団とし鍾会を司令官に、第十軍団司令官の荀彧は第十一軍団の司令官になりました。

こちらに向かってくるのは第一・第二・第三・第六・第七・第八・第九・第十一・第十二の九軍団。総勢十万八千と推測されます」

 

兵力差、実に三倍。指揮官も一流揃いで二流とよべる指揮官は居らず、しかも雪辱に燃えている人間が二人もいるのだ。

 

「本懐だな。吾々はそこまで評価されている、と言ったところか」

 

「……やり過ぎ、た?」

 

珍しく普段の口調に戻った華雄と、ぽけーっとした様子のままに首を傾げる呂布に、緊張はない。勝たないまでも負けない戦い方をできる指揮官の元で働いていることが彼女等の揺らがぬ士気のものとなっている。

 

作戦会議と言っても、実質的には発表の場であることがこの二人の内面の信頼に表れていた。

 

「副司令官。教本を配っていたが、いつでもできる程度には、なっているかな?」

 

「ご命令とあらば、いつでも出来るようにはしております。貴方の司令の元戦い、私も最近ようやく部隊運用に自信が持てるようになってきました。期待には、応えさせていただきます」

 

田予の落ち着いた声が僅かに誇らしげな、そして半分程冗談の色を帯びている。

部隊運用の天才というべきこの人材が居なければ、李師の起こしてきた奇功と勝利は鮮やかさと光輝を失っていた。

 

あるいは、負けていたかもしれない。

 

「麴義、君には防衛戦闘の指揮を執ってもらう」

 

「任せていただきましょう」

 

「子龍と張文遠殿は出撃に備えて要塞内で待機。儁乂殿と淳于仲簡殿も同じく待機していただきます」

 

歩兵指揮官としても弩兵指揮官としても優秀な能力を持つ冀州出身の二人は守城・攻勢に加わることができるように待機させ、退却戦が巧い趙雲と速度に破壊力を乗せた攻勢に定評のある張遼が逐次に突出して敵を悩ませる機動戦力。

 

「はっ」

 

「お任せを」

 

「引き受けましょうぞ」

 

「任しとき」

 

最も破壊力を有す二隊の所在は、未だ明かされてはいない。

 

「……嬰、恋たちは?」

 

「君たちには一日目の戦闘の後に東門・西門から出撃し、敵の左右に回り込んでくれ。主として、二日目に働いてもらうことになる」

 

軍議内の内容としての大半を占めるそれぞれへの役割分担を終え、李師は常日頃から悪い姿勢を正しく整えながら頭の上に乗せた帽子を取る。

 

「元々、戦略的には勝ち目のない戦いだ。吾々としては戦術的に勝利を重ね、多少なりとも条件をつける余地を見出す。敵はこの易京が陥ちなければ、私が利用した并州からの道を使って別な方向から侵攻してくることだろう。

先ずはここで勝ち、別な方向からの野戦兵団を打ち破って勝つ。敵の攻め手を挫き、この易京要塞の戦略的価値を高めることが一連の戦いで必要なことなんだ」

 

長期的視点から見て、この防衛戦は無駄でしかなかった。戦えば戦うほど磨り減り、二度に渡って同時に侵攻してくれば防ぎ切れない。

 

「勝って、条件を呑ませる。全軍を相手にすることなく、各個撃破で決着をつける。要塞も守らなければ勝ちようがない」

 

最初から戦略的敗北が決まっている第二の戦いが、一年のモラトリアムを経て始まろうとしていた。

 

 

 



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決戦(序・魏)

「降伏勧告は拒否、ですか」

 

「ええ。元々期待してはいないけれど、ね。こちらの差し伸べた手を払った以上、全力を以って戦わせてもらうわ」

 

降伏したいと愚痴っている親友の姿を幻視しつつ、夏侯淵は納得した。

 

この戦略的劣勢をわからぬほど奴は馬鹿だとは思えないし、こちらの求めるところも知っているわけだから降伏するにしても、もっと簡素な条件に留めるはずだろう。

 

「目前の仲珞と敵の間に、離間を仕掛けては如何でしょうか」

 

「離間?」

 

敵となるからには全く容赦をしない質の夏侯淵は、曹操が彼の用兵術の鮮やかさを目の当たりにする前に素早く戦略的有利を積み重ねることにした。

用兵術の鮮やかさを目の当たりにすれば、恐らく自ら決戦することを望む。

 

そうなる前に勝ちを決めておきたかった。

 

「敵は恐らく、前線に意見や意志を伺わずにこの外交折衝を開始し、終えたと思われます。そこを付けば、彼を失脚させることも可能なのではないでしょうか」

 

前線からすれば、防衛線を維持することは不可能だとわかっている。易京道以外に大軍が通れる道がないとしても、危険を冒せば兵力を敵防衛線の小穴を突き破るようにして幽州に兵力を結集させることができる。

 

先程までの外交折衝は、その現実認識能力を著しく欠いているとしか思えなかった。

 

「公孫瓚は矢の雨の中で盾を捨てるような無能ではないでしょう?」

 

「連合制を敷いている以上は、主が信じようが無意味かと。頭がどう考えようが手足が動かねば意味がないのと、同じです」

 

頭が信じようが、末端が信じなければ援軍を出しても却って敵を利することになりかねないし、君主自ら外交折衝に赴くことができない以上は教養と能力がある、つまりは豪族出身の外交官に任せるしかない。

 

更には自身が出陣しても名代となる人材に欠ける。

 

名士という型の人間を排斥した影響が、ここで強かに働いていた。

 

「なるほど、有効かもしれないわね。噂を広まるのを待つ、ということかしら?」

 

待つということも勝つ為には必要。果断速攻を得手とし、待ち構えるを苦手とするとはいえ、曹操はそのことをよく知っている。

趣味や嗜好のために有効な策を捨てるようなことを、彼女は滅多にしなかった。

 

「ただ座して待つは、御気性にそぐいますまい。一軍を以って幽州に直接侵攻されれば、いかがでしょうか」

 

「一方で本拠を突かしめ、もう一方は易京の李家軍を塞ぎ、策を以って紐帯を断つ。見事な策ね」

 

大軍の利を最大限に活用した一策である。

ただ兵力に物を言わせた力攻めをするのではなく、大兵力を複数の戦術単位として同時運用するというのは、如何にも夏侯淵の気宇の壮大さを示していた。

 

各個撃破の好機を敵に与えるかもしれないものの、その危険を補ってあまりある程の戦略的有利がある以上、この策は極めて有効だと言える。

 

「はっ。更に付け加えるならば、敵の豪族たちは仲珞が態と吾が軍を通したと思うでしょうし、そうは思わずとも頼りないと思うと考えられます。

義理を果たす為に戦うであろう仲珞と度重なる讒言を信じぬ公孫瓚の紐帯は先ず見事なものですが、中間から絶ち切ってしまえば自然とその紐帯は霧散するかと」

 

「『曾参人を殺す』とは、いかなかったものね」

 

『曾参人を殺す』とは、春秋戦国時代の名著、戦国策に載っている逸話である。

費という街で曾参と同姓同名の人物が人を殺した。

ある者『曾参が人を殺した』と曾参の母に伝えたが、母は『あの子が人を殺すはずがない』と取り合わない。

ところが同じ事を三度目に言われた際、 ついに信じてしまい、逃げ出そうか悩み出してしまったのである。

 

人と人との信頼関係が『距離』と『風聞』というものを挟んだ際に如何に脆いものかを示す皮肉な逸話だった。

 

「結果的にだけど、公孫瓚はあの稀代の用兵巧者を手元に置いておくべきだったわね。豪族との仲が悪いならば彼を餌にして暴発させ、それを口実に討滅してしまえばよかった」

 

その内紛によって一時的に外敵の侵攻を招いたかもしれないが、永続的に内紛と混乱、不信の種を孕んでおくよりは長期的に見れば遥かにマシであろう。

 

「国が滅びる時とは必ずしも外敵の侵攻によるものではなく、それを端緒に発した内乱に拠るものである所が過半を占めています。確かにその方が良策でしょう」

 

「えぇ。でも、所詮は後知恵ね」

 

頬杖をついて強敵との戦いに闘志を燃やす曹操の隣で、夏侯淵は燻り続けている火を露わにした。

彼女の聡明な眼には、既に公孫瓚勢力の敗亡が見えている。

 

その経過を一字一句正確に述べることはできないが、己の献策によって起こる事象は想像がついた。

 

(あらゆる外敵に対して鉄壁無敗を誇った要塞も、遂に内側から崩れ去る、か。眼が付いているものならば、それを予期し得ているはずだ)

 

先日送られてきた書簡には、『次に届く書簡は私の訃報が届いたら開けてくれ』というような内容が書かれていたのである。

 

(お前も、ここで死ぬか。それもいいだろう。主に殉ずるを咎めはしない。しかし、らしくはないな)

 

或いはこちらに勝ち、勝った上で降伏する気か。敗亡が決まっているにも関わらず、最後まで足掻く人種ではなかった。

 

(そうだ。そちら方がいい。無駄死にを強いることのできる男ではないし、なによりお前がこの劇場から退場すれば、この先の劇がつまらぬことになる)

 

劇場を賑わす名優には、最期の最後まで名優であるべきだという無言の期待と重責が課せられる。

その期待を裏切ってくれるな、と。

 

用兵家として夏侯淵が望むのは、勝利と死。

私人としての夏侯淵が望むのは、敗北と生。

 

(私は最初から敗けることを望んでいるとでも言うのかな)

 

公人としての己と私人としての己とが矛盾を起こしていることを面白がり、夏侯淵は自らに問うた。

敗北と死とは必ずしも同一ではない。敗北したとて死なず生き、最後の最後で逆転勝ちを収めた高祖という例もいるではないか。

 

ここで自分が敗けてやらずとも、仲珞は運次第では生きることができる。

 

(いや、戦うからには勝つべきだ)

 

そもそも、勝てると決まったわけではない。勝てるとわかりきっているわけではない。

 

(不敬も甚だしいぞ、夏侯妙才)

 

勝ちと敗けとはコインの裏表のようなもので、用兵家とはそのコインの回転数を操作して何とか表面を出そうとする人種なのだ。

勝ち敗けとは、一回の読み違いと一瞬の油断で決まる。

 

勝ちたいならば、雑念は捨てるべきなのか。或いは雑念を保持したまま戦うべきなのか。

 

少なくとも猛将と言われるに相応しい姉は前者であり、戦っている間にも用兵術以外のことを考えている李師が後者だった。

 

(人それぞれ、ということだろうな)

 

「秋蘭」

 

思考の泡を覇気がこもった鋭利な声が弾けさせ、彼女の視界が色を帯びる。

思考に耽っている時の無色のような空間から、曹操軍の最高幹部が居並ぶ軍議の場へ。視界は静かに移り変わった。

 

「はっ」

 

「貴方の案を採用するわ。一先ず全軍で押し出し、その夜の内に別働隊と本隊とで分ける。一押しして陥ちるようならばそのまま押しても良し、陥ちないならばそれでよし。野戦に引きずり込んだほうが、兵力の優位を活かしやすい。違う?」

 

無言で瞑目し、一つ頷く。

親友と戦う趣味はないが、用兵家としてはむしろ本望ではないか、と。

 

一分子も損なわれぬ友誼と畏敬に相反するように、高揚が鎌首を擡げ始めていた。

 

「桂花、説明を」

 

「はい、華琳様。易京要塞は十五本の望楼と繁栄の極みにある街二つ分を囲った城壁で武装された巨大な城郭都市として機能しています。

これは軍事的警戒の一環として道を封鎖するにとどまらず、人々の通行を保証するといったような意味を含んでいるので、経済的に無関心だというわけでもありません」

 

「寧ろ経済と軍事を両立させるが為に造られた要塞、ということか」

 

頭が弱いが馬鹿ではない夏侯惇が荀彧の発言の要旨を取る。

その立地の良さには、諸将も納得するところだった。

 

「ええ。武装については良くわからないわ。密偵や間諜の中に潜り込ませて帰ってきた者が居ないことから、かなり厳重な警戒態勢を強いていると、考えられるわ」

 

「外から見て弱点は無いのか?」

 

「私たちは北上して攻めるから南門が主戦場ということになるけど、門に向かうに連れて萎んでいくような地形の南門に比べて、西門が平坦で、一番攻め易い地形だったわ。并州道から都に出る道があるからなんでしょうけど」

 

「ならばそこを攻めればいいのではないかと思いましたが、桂花様が提案なされないのを見ると、何か難しい点でもあるのですか?」

 

夏侯惇の問いに対して返ってきた明らかに含みのある答えに対し、李家軍では先ず見ない、人種・真面目に分類される楽進が敬意を込めて丁重に問い、説明を求める。

 

この良く言えば個性豊かな曹操軍の面々においても、その貴重さは替え難いものがあった。

 

「迂回に時間が掛かるし、三人が並べる程度の道に入ったら殆ど直線。そこを守っているのは親衛隊隊長の呂布よ。三人で勝てるの?」

 

「無理ですね」

 

養父に良く似たやる気のなさ、養父に良く似たぼんやり気質、養父に良く似た突出した才能。

この三種が一芸の天才というものの人格的な骨格なのかと勘違いしてしまいそうなほどに似た人格構造を持つ二人は、敵にする分には恐ろしいの一言に尽きる。

 

誰でも起こる計算違いを指揮能力でプラスマイナスゼロにできる親に、力技で無かったことにする娘。

 

戦争というものが『如何に相手よりミスをしないか』という本質を持つ以上、この組み合わせは脅威でしかない。

何せ、滅多にしないミスを向こうがしても即座に自身の指揮でプラスマイナスゼロにされ、更には呂布がやってきて向こうのプラスにされてしまうのだから。

 

「……ねぇ、秋蘭」

 

「何だ」

 

荀彧の問いかけの猫なでっぷりに激しく嫌な予感を感じながら、夏侯淵はつとめて優しく返事をした。

 

「あの二人、引き離せない?」

「あれは離れん。何せ奴は仲珞が中華全土を敵に回そうが後ろから付いていくような懐きっぷりだからな」

 

『えー、男に?』とでも言わんばかりの微妙な顔をしている荀彧の男性蔑視癖は、これでもマシになっている。

それでもなお、戦場でスイッチできる程度には、だった。幼少からの教育・経験恐るべしである。

 

「第一、それはお前は華琳様から離れられるのか?と問うようなものだぞ」

 

「ごめんなさい。無理難題もいいところだったわ」

 

「わかれば、いい」

 

この互いの情報戦に於ける責任者の能力差によって情報不足が祟っている曹操軍がこの後何をもって情報を知ることになるか。

それは誰にもわからなかった。



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易京要塞攻防戦(壱)

「これは、壮観ですなぁ」

 

「できれば二度と見たくは無かったけどね」

 

眼下に広がる人の群れ。易京道に収まりきらないほどの軍が、整然と陣を整え始めていた。

趙雲はこれほどの数の人を見るのは初めてであり、李師はかれこれこれで三回目。

 

一回目は易京要塞司令官兼征北将軍として、二回目は援軍の将として。

 

そして三回目の今は、再び易京要塞司令官としてである。

 

「今度は潰す、と言う確固たる意志が感じられるの思いますが、主は如何です?」

 

「奇遇だね。私もそう見えるよ」

 

公孫瓚を見捨てることはできない。部下を見捨てて俗世の生活に逃げることもできない。

己の引退願望と周りのしがらみが恐ろしい程に噛み合っていない彼は、静かにため息をついた。

 

「今まで私は往生際悪く敗けなかったが、今度こそ不敗の名を返上することになりそうだ」

 

自覚のある

往生際の悪さほど質の悪いものはない。

どこかの誰かがそう言っていたな、と思いつつ、趙雲は頭に載せた純白の帽子を外す。

 

普段は全体を現すことのない青色の頭髪が日に照らされ、サファイアのようにつややかに光った。

流石は自他共に認める美人、といったところであろう。戦争などという身体に悪いことしかしていないのに、その美貌は衰えることを知らない。

 

「まあ、それはともかくとして。私は思うのですが、ここで勝ってしまえば、敵は求心力を失うのではありませんか?

そこに吾らが乗り込み、占領してしまえば天下を狙うことも叶いましょう」

 

「戦に敗けたからと言って離反するのは豪族であって民ではない。民が権力者に反抗するには身近で別な権力者が必要なんだ。現に袁紹は敗けたが、離反したのは豪族であって民ではなかっただろう?」

 

現に一部の民は未だに袁家の治世を懐かしんでいた。尤もそれは、袁家直轄領の民のみと言う、面積にすれば僅かな者達だが。

 

「……なるほど、そういった報告が上がっておりましたな」

 

「要は、民は利に聡くないのさ。どこかの誰か等と違ってね」

 

敵のほうが味方よりはるかにマシという異常事態を毛程も異常と思わない李師の発言に頷きを返し、趙雲はパタパタと帽子で胸元を扇ぎながら口を開く。

 

「となると、公孫伯圭殿は果たして無事で居られますかな?」

 

「正直、そこまで面倒は見切れない。私は超人ではないし神ではないから、この局面をどうにかするだけで精一杯なのさ」

 

戦の巧さと予測建ての巧みさを見ると勘違いしてしまいがちだが、彼はこれでも人間だった。

これまで起こしてきた『異常なこと』は自分よりも相手が多くミスを犯してくれたからこそ為せたことであり、自分の力などそのミスを可能な限り無くし、相手のミスを誘う程度のものでしかない。

 

そのことを、彼は誰よりも知っている。

 

「それにしても、隠居をしにお逃げにならないので?」

 

明らかにからかいの色を含んだ問いに眉一つ動かさず、李師は手に持っていた己の帽子で城壁を三度叩いた。

何かを祓ったような、そうでもないような。意味があるのかないのかわからない動作である。

 

「俗世に出るとしがらみがあっていけない。ここ何年かで私を頼り、命を預けてくれる人間が何人もできた。私が望んだことではないにせよ、私としては一旦これを背負った以上は軽々と投げ出す訳にはいかないんでね」

 

「部下と、上司。見捨てて逃げることができるほど、目的にひたすら邁進することのできる、まことに素晴らしい人格者ではなかったわけですか」

 

恥も外聞もなく目的にひたすら邁進することのできる人間を素晴らしい人格者と言う辺り、趙雲の奇妙な心情が伺えた。

元々彼女も根っこでは善人であるから、この在り方は好ましい。しかし、だからこそ後手後手に回るのだろうという気もする。

 

何にせよ、趙雲としては『責任と義務の人』と化した彼を支えるのが仕事であった。

例えその頭に『必要最低限な』が付くとは言えども。

 

「可能な限りで最善を尽くすのが私の人格さ。逃げればいいと人は言うが、後悔の種をばら撒きながら逃げるようなことはしたくはない」

 

「わかっておりますとも」

 

右手で帽子を持ったまま恭しく一礼し、趙雲はさらさらとその場を辞す。

彼女も暇してるわけではない。いつもにしても今にしても、どうにか暇を作って皮肉を叩きに来ただけなのだ。

 

「どうにかして攻城兵器を破壊し、予め伏せておいた二隊を使って射程内に引きずり込んで出血を強い、陥ちないという印象を決定づける。その後に別働隊を撃破し、六対四の硬直状態に持ち込み、条件を呑ませる。言うだけなら簡単なもんだよ、全く……」

 

後頭部をポリポリと掻きながら、眼下に広がる敵を見据える。

今居る城壁の一画には所謂司令部はなく、ここに来たのはただの趣味だった。

 

敵軍を、間近で見たかったのである。

 

「……帰るか」

 

そう言って身を翻した瞬間、身を凭れかけていた城壁の出っ張りに矢が突き立った。

誰のものであるかは言うまでもない。

 

「こんなことを出来るのは天下にも五人と居ないんだろうしねぇ……」

 

それにしても、この辛うじて旗と幕舎が見える程度の距離から目標を寸分違わず射抜くなど大したものだと思う。

 

「恋と、黄漢升と、黄公覆と、あとは妙才と。この世には人材が溢れていることだ」

 

矢に籠められた意味をチラリとそちらに目をやった後に判断し、李師は少し笑った。

お互い死ぬことなど考えていないのか、或いは死に場所を他に定めているのか。

 

戦う前に『迂闊な行動をするな』とは。

 

(殺す気はないが、流れ矢での戦死ということも有り得る、か)

 

できるならば生け捕りにしたいが、それは行き過ぎというものだろう。

できるとも、思えない。

 

最善を尽くしても最善の結果には届かないとなると、次善で留めるより他にはない。

 

「さぁ、やるとしようか」

 

望楼に登り、李師はいつもの如く姿勢悪く座った。

最善を尽くすならば、拘っている余裕もない。

 

「作戦を一部変更。一日で膠着状態に持ち込む」

 

「では、一日目から既に西門より華雄・呂布の両将を出撃させますか?」

 

破壊力抜群の二人を組ませて、一局面の優位を得る。一局面の優位から全戦線の優位を得て、戦いをこちらのペースにのせる。それが彼の大雑把な作戦構想だった。

 

「いや。華雄と淳于仲簡を西に回し、張儁乂を左翼、張文遠を右翼に」

 

「では、やはり右翼方面から崩すおつもりですか?」

 

両張と呼ばれ、双璧とでも言うべき張郃と張遼。どちらも万能に攻防そつなくこなせる名将だが、前者が防御寄りであり、後者が攻撃寄りだと言える。

 

作戦構想の細部のみを変え、外枠は変えない。それが今回の戦闘における彼のスタンスであることを、田予は静かに問い質した。

 

答えとしては、彼の茶目っ気たっぷりなウインクと少し笑うような一言が返ってくる。

 

「そういう体を取る」

 

「わかりました。配置を組み直します」

 

「頼むよ」

 

さらさらと小刀と毛筆で竹簡に何事かを書き、周囲に待機している伝令に伝えた。

この一動作で正確に機能する管理システムを維持し、運用できるのがこの田予という高級軍人を思わせる名人芸の持ち主の名人たる所以であろう。

 

極めて有能ながらどこか地味だが、決して欠かすことはできない存在だった。

 

「さて、どうくる」

 

一つの長方形の机の左側面に田予、趙雲、呂布。右側面に張郃、張遼、麴義が並んで座っている。

 

その左側面と右側面に挟まれた狭い一辺に面するように置かれた椅子に、李師は姿勢悪く座りながらそうこぼした。

 

そこに周泰が駆け込んできたのは、西暦189年5月13日のことである。

 

「報告。敵、衝車と雲梯を後方より持ち出して来ました。恐らくは攻城にかかるものと思われます」

 

「ほぉ、手早いな」

 

着陣して二日目。早々に攻城戦を開始するというところに、敵の意気の上がりようが伺えた。

 

「どうなさいますか?」

 

「引き付けて撃つ。今回の戦いの前半は、これに尽きる」

 

「では、一点集中射撃の用意を致しますが、よろしいでしょうか?」

 

「ああ、頼む」

 

司令官と副司令官、立案者と実行者。頭と脚。

 

「やけに会話が弾んでおりますなぁ、あの二人は」

 

そういう関係である二人の会話が常よりも多いことを目敏く察知した趙雲が、正面の麴義に話し掛ける。

麴義もまた、無用な緊張とは無縁な人物である。すぐさまそれに気づき、誰かが反応するのを待っていた。

 

「副司令官は張り切っておられる。ワタシなどの持ち場の入れ替えにしろ、常に無い精度と迅速さだったからな」

 

「そこの二人」

 

呂布の後方に控えていた高順にピシッと釘を刺され、趙雲と麴義は押し黙る。

どうにもやりにくい相手というのが誰にでもいるものだが、この二人にとっては高順がそれだった。

 

「えー、吾々は戦略的には既に敗けている。更には常に受け身であり、城に篭ってしまった以上は主導権はあちらにある。何もかも負けているという認識を持っている将らも、居るだろう。しかし、勝っている点もある」

 

「それは?」

 

「情報、さ」

 

易京要塞攻防戦と言われる戦いは、この一言から始まった。



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易京要塞攻防戦(弐)

「先ず、敵はこちらの作戦を完全に読むことはできない」

 

「ほぉ、断言なされますか」

 

曹操軍は十万を越すが、工兵という情報収集・破壊工作・陣地建設の専門家は居ない。この時の諸侯にすべからく言えることだが、工兵という概念そのものに乏しい。

 

寧ろ、騎馬民族との戦いで設営と柵の構築の鈍さに危機感を覚えた彼が創設した新兵科であるため、どこからどこまでをやるのかという区画もちゃんと定まってはいなかった。

 

本来は定めるべきなのだろう。しかし、彼が戦いの最中に工兵という概念を創ってそれを大いに使い、結果として野戦築城と守城戦の末に、敵の盟主である檀石槐が腹に折れた槍の穂先か矢かなんかを喰らって戦死。

残る六人の指揮官の内、個性的な面々の調整役を務めていた魁頭に全戦力を叩きつけた挙句に一点集中射撃で戦死に追い込み、その軍を四散させ、離間の策をバラ撒いて分裂させることでやっと終わった。

 

そして兵科を整理しようと思ったら宦官に『戦果を報告せよ』と言うことで都に出頭するようにと呼び出されて牢に叩き込まれたのである。

 

結果的に、彼は助かった。

 

副将として共に赴任していた司馬防が偽の襲撃を報ずることで釈放に追い込み、結果として官職を奪われた末に『都に近づくことを禁ずる』という有り難い褒美付きで、 一市民となった彼は娑婆に出れたのだ。

 

司馬防は彼の祖母と親交のあった―――と言うよりは一方的に李膺を慕っていた人物であり、その彼女の孫が利用された挙句にむざむざ殺されるなどという結末を迎えることを看過し得なかったのであろう。

尤もその善意の八割は、彼の挙げた業績が軍事面でも傑出した才能を示していた李膺を思わせるものだったからこそだった。

 

要は、祖母の威光である。そもそも彼が李膺と縁も何もない存在だったならば司馬防は洛陽令と言う重職を蹴ってまで副将として赴任しようとはしなかったろう。

 

司馬防はこの後、彼の目前の敵である曹操を北部尉に推挙。その名声を築く礎となったのだから、そこには少し面白味があった。

彼女は八人の子を遺したが、二年前に没している。

 

その死は李膺からはじまった旧時代の終わりを告げるようであった、らしい。

己の親の死をも文学的感受性に富んだ表現で捉えたのは、どこかの誰かに似通った気風を持つ次女だった。

他の姉妹たちが曹操のもとに出仕しても一人孤立を楽しむような風も、どこかの誰かに似ている。

 

まあ、即ち働かない、穀潰しの類いなのだ。

 

ともかく、彼の罷免と同時に工兵という兵科は解体され、彼が率いていた軍は再び編成し直されてから各地に飛ばされた。

その為の時間がある訳もなく、彼が使っていた工兵部隊の長の娘である周泰が馳せ参じた後も『諜報活動・破壊工作・情報工作・建設』など多岐に渡る使い方をされている。

 

つまりその改革を途上で叩き斬られた彼の工兵に対しての認識は『戦争の事前でとにかく役に立つ』というものでしかなかった。というよりも、そうでしかなかった。

尤も、彼の一口で言う工兵部隊も、既に諜報と建設の二つに管轄を分けているのだが。

 

「敵には正確な情報が無いんだ。これを得る為には、仕掛けてくるより他にない。

曹兗州殿が如何に戦に強くても、知りもしないことを何の証拠もなしに察知し、信ずることはできない。こればっかりは、言い切れる」

 

情報と言うものを天下の諸侯や将帥の中でも最も重視している将である李師には、一つの信条と言うものがあった。

 

『正確な判断は正確な情報と正確な分析の上にのみ成り立つ』というものである。

 

これは信条ではあるが、非現実的な存在を除けば極めて現実に近い信条だと言える。

つまるところ未来を知っていない限りは、情報の欠損が彼の策の全容を理解することを阻むことは疑いが無かった。

 

「では、こちらとしては最初の一撃で主導権を握り、そのまま渡すことなく二日目に持ち込む、と?」

 

眠たげな目を僅かに開きながら、張郃は問う。

大軍相手に、それも曹操軍相手に主導権を握ることの困難さと、それを維持する苦難を、彼女は身に沁みて知っていた。

 

「いや、一撃を加えた後は貸してしまう。要塞が動くならばともかくとして、今のところは唯一の手札である華雄・淳于瓊の両隊をそう軽々に、つまるところは主導権の維持の為に使う訳にはいかない」

 

「ほな、一日目は後手後手に回るんか?」

 

後の先を取ってひたすら敵を翻弄する李師の戦のスタイルが気に入りつつある彼女としては、それは些か面白くない。

しかし、面白くないからといって異論を述べるほど近視眼でもなく、放置するほど諦めは良くない。

 

結果として、このような問いかけにとどまったのである。

 

「いや、そう決まったわけではない。一日目に食い止め、二日目に攻める。そして膠着状態に持ち込み、防衛出来るだけの守備隊を残して敵の別働隊を待ち構える。これが基本構想だけど、必要になったらまた借りる。戦は生き物だし、思わぬ好機があるかもしれないからね」

 

「簡単に仰るものですなぁ……」

 

趙雲の言い草には、額面通りの呆れとその呆れ以上の高揚が含まれていた。

何だかんだで、この男も不敵である。そのような見ていて面白いところ認識するのが、彼女の楽しみだった。

 

「実際のところ、主導権を握ることに固執すれば攻め手に柔軟性を欠くんだ。私にしても、主導権を握り続けているのではなく、こう……」

 

夏侯淵からなんとなく貰ってから愛用の品になりつつある硝子の杯を持ち上げ、李師は静かに卓上に置く。

 

李師自身の手が届くか届かないかの範囲に置かれた硝子の杯は、横から差す日光に照らされてキラキラと燦めいていた。

 

「私が手を伸ばせばギリギリ届き、敵は無理して手を伸ばさなければならないところに置いているのさ。

迎撃が主なこちらとしては、一度取ってしまえば取ろうとして近づいてくる相手を見つけることが出来るし、対処もできる。無理して手を伸ばしたならば、その手を斬ってやることもできるわけだ」

 

「まぁた、心理的な罠ですか」

 

「そうだね。まあ兎に角、継続しなければ即座に崩壊する防衛側と違い、敵は攻撃側だ。一息つくこともあるし、息をつかずに攻めると言っても攻撃部隊と後備えとの入れ替えもある。いくらでも取り返すことは出来るさ」

 

机の方から外の光景を見る姿勢に切り替え、それと時を同じくして彼はすぐさま頭を戦闘用に切り替える。

易京要塞攻防戦は、李師の目の前で開始されようとしていた。

 

「攻城兵器は重い。人と人とが足並みを揃えて進むようにはいかないものだが……見事なものだな。殆ど直線に進んできている」

 

「……敵、床弩及び強弩群の射程内に入りました!」

 

のんきな感想を呟く彼を追い立てる様に、伝令が望楼へと敵の行動の経過を伝える。

一つ頷いた彼が指定したのは、地を揺らして進む五機の雲梯の内の右から三番目の一機と五番目の一機。

 

僅かに突出してしまっていることが、彼の目には映っていた。

 

「敵の最東の雲梯から数えて三番目と、五番目の雲梯に床弩を撃ち込んでくれ」

 

「南門に備え付けられた床弩は二門です。それを同時に使用なされるのですか?」

 

「威嚇には丁度いいさ」

 

その一言で、要塞はようやくその機能を発動し始めた。

床弩が動き、狙いを定める。

 

後は司令官の命令を待つだけというところで、李師は語気を荒らげずに命令を下した。

 

「撃て」

 

床弩から放たれた二本の矢が雲梯の折り畳まれた梯子部分を貫き止まり、その機能を停止させる。

これに驚いたのはその三番目と五番目の雲梯を護衛していた兵たちであろう。

彼等彼女等は一先ず突き立った矢の重みで中程から圧し折れそうになっている雲梯から避難せねばならなかった。

 

「この床弩など、本当によく作れたものだな」

 

「まあ、春秋戦国時代の末期には魏で攻城兵器として使われていたとか。その事実を踏まえれば、あながちおかしくはありますまい」

 

「それを吾々は魏一帯を本拠とする敵に、守城兵器として使っているわけだ。この世には鮮やかな皮肉が多いものだね」

 

少し後ろを向きながら話す彼を、再び伝令が急かすように飛び込んできて中断させる。

 

「次発装填、完了!」

 

「目標は二番目、四番目。撃て」

 

敵のそれが一般的な雲梯の二倍の速度を持っていようが、七機までなら取り付くまでに確実に破壊できるという理論値が出ているが、やはり実戦となると遅れが出ていた。

 

実際に敵の雲梯は二倍には達していなくとも速かったし、守り側は僅かな焦りもあって遅かったのである。

「はぁ、費用が……」

 

発射される度に一機が破壊され、兵たちが下で歓声を上げる中で賈駆はそう呟いた。

一発ごとに消費される矢にかかる費用を考えれば、彼女は無邪気に喜んでいる気にもなれなかったのである。

 

「あと何発残っています?」

 

五機を完全に破壊した後に、李師は溜息を五回ほどついた賈駆を呼び出して、何故か敬語でそう問うた。

戦いが始まる前の期間、即ち補給やら装備の更新や補填やらで奔走していた時ならばともかく、今となっては補給を総括しているの彼女を呼び出しても問題はないと考えたのである。

 

「ここにはあと四発。東西北の床弩のものを含めれば、二十七発残ってる。北門の物は運搬してきているから、まだ焦らないでいいわ」

「費用的には、どうでしょうか」

 

「赤字よ。当たり前じゃない。だけど、この床弩は維持費も使用費も馬鹿にならないんだから、この機に大いに使いなさいよ。遠慮してもどうせどこかに消費期限がきて、廃棄することになるんだから」

 

現に一本が消費期限が来て廃棄、そこから学んで消費期限が近い計十七本を試射として試させているから、彼女の言は極めて真っ当だった。

維持費も馬鹿にならないくせに役に立たないより、維持費も使用費も馬鹿にならないが役に立つ方が運営者としてはいくらか気が楽なのである。

 

経営は楽にならないが。

 

「まあ、敵のほうが赤字であることだけは確かでしょう。何せ改良されたらしい雲梯の第一陣が全滅したのですからな」

 

「あのね。運営は赤字競争じゃないの。黒字競争なのよ。わかる?」

 

「ごもっともで」

 

カツカツの運営をしている彼女からすれば、低税率で一国と戦うということ自体が馬鹿げている。

経済規模も違うし、税率もあちらの方が高い。故に得られる税収などは天と地ほどの差があり、その限られた中で国境守備という広い地域の軍備と経済を回さねばならない。

 

経済から見ても勝ち目が無いのが、曹操の戦略が壮大さと緻密さとを共存させている良い証左だった。

 

「敵、雲梯の残骸を自軍の脇に寄せて梯子を持ち出してきました。正攻法に切り替える模様」

 

「数は?」

 

「凡そ五万。旗は諸葛、毌丘、李、于。左翼部隊・右翼部隊から二軍団を差し向けたものと思われます!」

 

「射程内に入ったのは?」

 

「毌丘の旗の将があと僅かで射程内に入ります」

 

先程とは違う伝令の報告を聴き、李師は田予の方へと振り向く。

一つ頷いた田予に頷きを返し、彼は再び前を向いた。

 

「副司令官、強弩群に連絡。毌丘の旗に、射線を集中せよ」

 

「報告が入ってきた時からはじめ、既に終えております」

 

「では、初使用だ。どこまで使えるかはわからないが、やってみようか」

 

城側から見て右側、即ち西側から攻めかかり、順次攻め上げて数で押す。

攻城戦というものが基本的に無機物を有機物で突破する形を取る以上は、この手法が一般的なものだった。

 

「狙点、固定」

 

「撃て!」

 

城壁上部に開いた総数一万に登る僅かな孔の内、最東に設置された二千の孔以外の八千の孔から、八千の矢が弩から撃ち下ろされる。

 

それは、恐らくと言う言葉をつけなくとも、この時代の最大の効率的な殺傷力を持った強弩群が、その力を発揮した瞬間だった。



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易京要塞攻城戦(参)

「敵、混乱しています」

 

二回目の斉射で全軍を三分の一にまで撃ち減らされた第九軍団の様相を、物見の兵は単純ながら的確に表した。

敵は混乱している。或いは、潰乱しつつある。

 

「子龍、出撃。だが、いつでも退けるように手緩く攻めるんだ。恐らくは第七軍団辺りが猛進してくる。猛進してきたら一旦退き、止まった辺りでもう一度吠え掛かれ」

 

「なるほど、意地の悪い」

 

「君に感化されたのさ」

 

皮肉気な笑みを浮かべる趙雲に皮肉を返しながら、李師は呂布を隣に立たせて下の光景を見下ろした。

夏侯淵に忠告されたが、呂布が居れば問題はなかろうという判断である。

 

戦争には滅法強いが本体はそうでもないというのは、この時代において特異と言える特徴だった。

女性社会の影響を色濃く受けて将軍は女性なので、強い。

 

男の将も基本的には一兵卒からコツコツと成り上がったクチなので、強い。

 

初めて戦った頃から指揮官だった彼には必要とされなかった武勇だが、この時代においてはほとんど必須の物だったのである。

 

「……子龍、じゃれかかった」

 

「そうだな……と、来たな」

 

隣の呂布の的確な表現に苦笑しつつ、趙雲隊に横撃を食らわせようとする敵には強弩群で牽制の一撃を喰らわせていく。

数回の牽制と掃滅の後に、李師は目標の敵が来るのを悟った。

 

威圧するように光る、黒。

曹操軍どころか中華でも最強の攻撃力を誇る、第七軍団である。

 

「よし、銅鑼を」

 

「はっ」

 

田予に指示を出した後、戦場においても良く響く銅鑼の騒がしい音が響いた。

 

「さて、続いて吾々の得意技でも見せてやるとしますかな」

 

「逃げる振り、ですか?」

 

「その通り」

 

あの黒猪が相手では、逃げる芝居も命懸け。

そんなことを思いつつも、趙雲隊はじゃれかかった相手から離れ、騎兵の機動力を活かして素晴らしい速度で逃げ始める。

 

それを受けた夏侯惇は、別に趙雲隊の殲滅が目的ではない為にその逃走を黙認した。

そしてすぐさま、負傷者の収容と残兵の牽引にかかる。

 

その時を見計らって、趙雲隊は再び押し出した。追ってこないのを織り込み済みにしておいた彼女の指揮の元、趙雲隊は手馴れた動作で速やかに反転を成功させる。

 

「そら、吠え掛かれ!」

その吠え声は、馬蹄と矢とが付随していた。

『深入りはしない』という無用な自重からとどまったが為に守備に弱いという欠点を曝け出し、趙雲隊の馬蹄と矛先にかかって陣を乱す。

 

この脆さには、負傷者の収容と残兵の牽引ということに意識を割いてしまったいた事が大きく関係していた。

 

「怯むな、反撃しろ!」

 

だが、夏侯惇も並の将帥ではない。総合的に見るならば趙雲を凌駕する練達の指揮官である。

各部隊を奮起させることによって趙雲隊と本隊との間に隙間を作り、すぐさま陣形を再編。

 

その攻撃力を逆撃に乗せて趙雲隊に叩きつけんとした。

 

「副司令官。退かせてくれ」

 

「はっ」

 

その準備を終える三寸前に、李師が動いた。届くまでに一寸、趙雲隊が動くまでに一寸。

的確に機を見ていた彼の命令は、極めて精密な形で実を結ぶ。

 

夏侯惇の第七軍団が、あと僅かで届く位置に逃げ去ってしまった趙雲隊に釣られて突出してしまったのでる。

 

「全隊右回頭。味方に射殺されては洒落にもならん」

 

「例の、踊りですか……」

 

飽き飽きするほどやらされたのだから、少しは役に立てなければ採算に合わない。

要塞の強弩群の射線ギリギリで左に逃げたり右に逃げたりとを繰り返してきた李家軍には手慣れた、そして吐き気がする程に繰り返さねばならなかった行動は、趙雲の命令一つで整然と実行された。

 

そこに取り残されたのは、突出した第七軍団だけである。

 

「今だ、撃て!」

 

趙雲隊の動作で敵を巧みに誘引してのけた李師は、するどくその命令を下した。

これからの野戦で、あの第七軍団は脅威となる。その脅威を何とかする術を彼は思いついていたが、自軍より大きいのならばその方法を使っても甚大な被害を出すことは避けようがなかった。

 

両翼から攻城隊が出た時、彼が真っ先に思いついたのが無傷の中央部の最先鋒たる夏侯惇を誘引する。これであった。

 

「第二射、装填完了」

 

「目標変更。李の旗の敵、第二軍団」

 

「目標変更、了解致しました」

 

第六軍団は三分の一程の被害を負いながら素早く退き、その隙を縫って第六軍団が近づいて負傷兵の回収と残兵の牽引を果たしている。

彼のやるべきことは追い打ちによって更に敵を打ち減らすことよりも、趙雲隊の帰還を援護することだった。

 

「狙点、固定」

 

「撃て」

 

元々退きつつ趙雲隊の帰還を阻害する動きをしていただけに、第二軍団が負った被害は軽い。

それでも指揮官の李典としては追撃と阻害行動を止める充分な理由になり得る。

 

第一に、味方の士気が下がっていた。機を見て逃すこと無き敵の将帥が友軍を機械的に殺戮している様を見て悠々と構え、更に猛進できるほど兵は強くなかったのである。

 

この戦いにおける被害は甚大だった。死者こそ五千あまりと多くないものの、重軽傷者は実に一万二千人にのぼっている。

毌丘倹が死傷者織り交ぜて三分の二をこの戦いで運用することが不可能になり、夏侯惇も死傷者織り交ぜて三分の一が運用不可。

他の軍をポツポツと被害を受け、一回の総攻撃によるものとは思えないほどの被害が、曹操軍には出ていた。

 

その報告を受けた曹操は既に認識していた情報不足と言うものの恐ろしさよりも、敵将の巧妙過ぎる機を視る目に対して高揚と興奮を隠し切れていない。

 

あの将が欲しい。力づくでもこちらに加えたい。

初めてナマで見た彼の用兵に対して思うところがそれであったところに、彼女の人材に対する執着が伺える。

 

「司馬家と言い、李家と言い、何故手に入らない者が尽く次子で、それも天下に冠たる才能の持ち主なのかしら」

 

「次子は嫡子に振り回され、思慮深くならざるを得ません。智者が多いのも、そこら辺に理由があるのではないでしょうか」

 

天下に冠たる才能の持ち主なのかまでは、わからない。しかし、この世界における現在の法則としては次子が思慮深い人物であることが多かった。

 

例えば、絶賛ニート中の病弱な司馬家八令嬢の一人もその頭の回転の速さと慎みの深さで知られている。

字は仲達。次子だった。

 

後は、呉の孫策の妹、孫権。彼女も内政を良くし、軽率な行動を取らないことで知られている。

字は仲謀。次子だった。

 

最後に、目の前の魔的な威力を持つ要塞を作り上げた当代切っての用兵巧者にしてニート志望。

字は仲珞。次子である。

 

あと、次子の証である『仲』こそ付かないものの、夏侯淵。双子の妹ということになる彼女も次子だった。

 

「仲珞、孫権、司馬懿。嫡子、或いは長子に注目が行くのがこの世の常ですが、案外と次子も侮れません」

 

「貴女も次子だけどね、秋蘭」

 

孫権はともかくとして、名の『瓔』は木と首飾り、真名の『嬰』はそのまま首飾り、なら連想に従って首飾りに使う『珞』に次子の証である『仲』を付けて終わりでいいや、と李師は字を決めている。

司馬懿にしても姉が『達』を付けているから一文字確定。次子だし弟子でもあるし、師匠に倣って『仲』でも付けるか、と決めていた。

 

そして罪深いことに、この時点で三女から八女は字に『達』を使わねばならないことが確定する。

更には長子であることを示す『伯』、次子であることを示す『仲』と姉二人が使ってきた為に三子であることを示す『叔』、『季(四子)』『顕(五子)』『恵(六子)』『雅(七子)』『幼(末っ子)』と続けざるを得なくなった。

 

つまり訳すと司馬家の一郎、司馬家の次郎という捻りも無い字を使わざるを得なくなったと言える。

 

ともあれ、そんな適当なネーミングセンスしか持たない次子軍団には珍しく、夏侯淵の字は妙才。姓の夏侯と並べると口に出して言いたくなるほどの優れた語感を持つ字である。

 

姉の夏侯惇の字は、元譲。

 

夏侯元譲と、夏侯妙才。

ネーミングセンスと言う努力では身につかない技能を生まれつき高水準で持ち合わせていたとしか思えない素晴らしすぎる字の選び方であった。

 

「なるほど、そうでした」

 

そんなこんなで、自分が夏侯惇の妹であることはともかく、次子であることを忘却しがちな彼女である。

その忘却をそのまま言い表すわけにもいかず、彼女は一先ず流すことにした。

 

彼女とその姉のネーミングセンスは素晴らしいが、彼女の同門である夏侯覇らはそうでもなかった。

例の生まれた順を示す一字に、権。それで全てを片付けたのである。

 

捕捉だが、曹操の字は孟徳。孟は長子を表すから、彼女は長子であることがわかる。

彼女の次子ならば違う字になっていたのであろう。次子なのに孟徳という字を己に付けるのは、些か以上に社会の規範を逸脱していると言えた。

 

「まあ、次子問答はもういいわ。被害は?」

 

「二回の斉射で攻城部隊第一陣の内、兵員約八千が死傷。同時に出撃してきた敵の迎撃に向かった第七軍団が四千あまりの死傷を、救出に向かった第六軍団が無傷で負傷者の収容に成功いたしました」

 

ほとんど反射的に叩きに向かってしまった第七軍団(夏侯惇)の判断は正しかったであろう。

 

頼みの綱の攻城兵器が破壊され、たったの一斉射で軍の三分の一が物言わぬ骸と成り果てた。この状況に置かれて半ば恐慌状態にあった軍団を二回目の斉射が襲い、更には趙雲隊が城門を開いて突出。

毌丘倹の第九軍団はまともに刃を交える前に壊滅の危機に接していたのである。

 

それの救ったのが、夏侯惇の第七軍団の猛進だった。

夏侯惇が先頭に立って進んで来るにつれて趙雲隊は素晴らしい逃げっぷりを見せて第九軍団(毌丘倹)から去る。

 

これを夏侯惇が牽引するように退かせようとしたところに趙雲隊が引き返してきてもう一度突っ掛かり、守勢に弱いという弱点を的確についた後に、城からの銅鑼で再び退く。

 

態勢を整えるまでの時間を的確に読んでの退却命令に従い、趙雲隊はさらさらと退きはじめた。

 

結果的に夏侯惇は李師が教唆し、趙雲が実行した『あと一歩』の策に引っかかったのである。

 

「一万七千人が死傷と言うのはやはり、痛いわね」

 

「情報と言うものを過小に見積もりすぎたのでしょう。幸いにも半数以上が負傷で留まっておりますし、力攻めは避けられた方が良いかと」

 

「ええ」

 

さて、次はどうするか。

攻城戦という奇策の入れる余地のない戦いは、一日という時間を瞬く間に溶かしていった。



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幕間

この人は変な人だ、と。常々呂布は思っていた。

ぽけーっとしているが決して馬鹿ではない呂布にとって、彼の側で護衛として働いている時に聴く言葉や会話の一つ一つが、彼女の糧になっていたのである。

 

あくまで、彼が施した教育は漢に帰化させる為の洗脳的なものではなく、君たち鮮卑族から見たらおかしいだろうけど、という認識を挟んだ上でのものでしかなかった。

 

李家軍の内部において異民族、特に鮮卑や烏丸は多いが、その多くが漢に帰化している。と言うよりも、周りの漢人に合わさなければ生きていくことが難しかった。

 

しかし呂布は、基本的には野放しに育っている。

それは個人の資質を尊重する保護者がそのスタンスを貫き、色々選択肢を与えることしかしていない結果なのだが、彼女はあくまでも漢民族的な視点しか持たない李家軍の他の諸将とは違っていた。

 

彼女は、生まれた土地で育まれた風土を己の人格形成に役立てていたのである。

 

或いは彼女がこの中で一番異端な考えを持っていたのかもしれない。

保護者の李師に忠誠心と言うものが微量しかないことと、そもそも忠誠心などと言うものの概念が無い鮮卑の血を引いた彼女には、忠誠心という存在を理解することが困難だった。

 

忠誠心などと言う仰々しさと華美に満ち溢れた単語が、彼女が保護者たる李師に付き従う理由ではない。それは、忠誠心と言うものを理解していないにも関わらず、そのことだけはわかっている。

 

城壁をアテもないようにふらふらと徘徊する李師にトコトコと着いて行きながら、呂布はぼんやりとそんなことを考えていた。

 

「恋。易京要塞は強大無比な要塞だ」

 

「……うん」

 

「僅かばかりながら自給自足もできるし、街も囲い込んでいるから矢にも苦労しない。資材も潤沢だし、兵糧も向こう三年は保つ。敵が仕掛けてきても正面から陥ちることはないだろう」

 

「……うん」

 

誰もがわかり切ったことから話を切り出す時、大抵彼は何かしくじっている。

そのことをよく知っている呂布は、大人しく聴き役に徹することにした。

 

「しかしだね。この難攻不落は大きさに支えられ、内部は敵が侵攻しにくいようになっている訳だ。大きければつまり、その、あれだ」

 

「……迷った?」

 

「いやぁ、こう……私が方向音痴なわけではない、ハズだ。敵軍の侵入に備えて道を複雑にしたのが私のまともな方向感覚を狂わせているんだろう」

 

「……迷った。わかってた」

 

語尾から疑問詞が取れ、断定形へと変化する。

呂布は、案外容赦が無かった。

 

「どこ、行くの?」

 

「兵站統括府」

 

「……何で、階段登ったの?」

 

「いや、角を曲がったら部屋がなかったからさ……」

 

兵站統括府には李師はよく顔を出す為、出発点である自室から角を一つ曲がって直ぐのところに、わざわざ方向音痴を慮って作られた。

なのに真逆に曲がってしまうこの体たらく。

 

生活に必須とされる能力の適性が皆無というよりも、絶無と言って良いであろう。

 

「ま、まあ。とにかく案内を頼む」

 

「……こっち」

 

方天画戟を振り回す時に滑らないように、弓を引く時に指が切れないように。

くるくると器用に包帯で巻かれた褐色の手が李師の竹簡より重いものを持ったことがないような手を掴み、引っ張った。

 

自分の城で、それも己が縄張りをした城で迷子になる人間もそうはいないだろう。

ある意味貴重な才能の持ち主であり、手を離したらふらふらとどこへやら行ってしまいそうな保護者を、呂布は懸命に牽引した。

 

「ここ」

 

兵站統括府、軍事統括府、技術統括府、諜報統括府。

四つ府の長の城内でのヒエラルキーは李瓔に次ぎ、それぞれ賈駆、趙雲、馬鈞、周泰が長官を務めている。

 

今回用のあるのは、兵站統括府であった。

 

「迷ったでしょ」

 

「否定はしない」

 

開口一番、賈駆は彼の自室から歩いてすぐの兵站統括府内でそう問いただす。

彼女が李師呼び出したからこそ、牽引しながら―――というより、頭以外無用なこの男を運んで来てくれた呂布に対しての感謝があった。

 

「奉先、お疲れ様」

 

「……」

 

フルフルと無言で首を横に二回振り、呂布はいつもの護衛としての待機状態に戻る。

ぽけーっとしているようにしか見えないが、全方向からの奇襲に備えるならば意識を一点に集中させていてはとっさに反応することができないという合理的な理由からの態度だった。

 

「で、これから敵はどう来ると思うの?」

 

「そういう兵站統括長官の賈文和殿はどう考えているんだい?」

 

待機状態になった呂布から目を逸らし、

賈駆は目の前の茫洋とした男にこれからの展望を問い質す。

彼女としては、これからの展望の見立てがなければ易京内の生産工廠をどう動かしていいかわからなかった。

 

賈駆は勝運が無い為に廃業したものの、元軍師である。これからの展望を読むくらいならば勝運のなさは関係ない。

決定的なところで不確定要素で読み違えたり、不運で作戦の根底をひっくり返されたりするだけで、彼女自身は洞察眼に優れていた。

 

「土竜戦法か、一隊を以って本拠の薊を突くか、じゃない?」

 

「私も同意見だ。しかし、前者は考慮に入れなくとも問題ない」

 

怪訝な面持ちをする賈駆は、この易京と言うとし全域に張り巡らされた水路を思い浮かべ、笑う。

なるほどという思いが、強かった。

 

「易河を引き込んでおいてよかったよ。敵の土竜戦法に対して頭を悩ませすに済むからね」

 

「長期の籠城の為の生活用排水路がうんたらかんたらと言っていたのに、結局は軍事にも利用する辺り流石、と言っておくわ」

 

「ありがとう」

 

経済担当の賈駆の皮肉なのか褒めているのかわからない一言を好意的に捉えて返事を返し、李師は自分の思考の卑しさにため息をついた。

兵の生活環境を整えてやらなければ、士気は維持できない。城というものがそうやすやすと陥ちるものではない以上、内部の反乱と兵の士気を維持するのが守将である彼の役目である。

 

籠城戦とは如何に士気を低下させないかというのが、命題なのだ。

その思考と民の生活環境の改善とを合併させてしまった己の卑しさに辟易しながら、更に一つため息をつく。

今のところは士気は維持できているし、上昇させることもできた。

 

だが、彼には先行きが不安でしかないのである。

 

「別に政治が出来ないわけでもないのならば、なおさら。なおさら、独立なされれば如何です?」

 

どこから来たと言いたい程の穏行の見事さで、趙雲はするりと現れた。

彼には別に曹操や夏侯淵のように構想力と実行力に富んだ有能な政治家としての才幹はない。

 

しかし、案外その面の才能もないこともないのではないかと、趙雲はこの頃思っている。

そもそも血筋的に言うなれば李家は文武両道と言っていいし、袁家は内政畑。才能が血筋で決まるとは思えないが、決まる可能性があると考えれば武と文が三対七くらいになる方が正しい在り方だった。

 

それに、彼は馬鹿ではない。賈駆の内政手腕に全てを預けてしまっているから目立たないが、時々漏らす言葉にはその道のセンスも感じられていたのである。

 

「今日も元気だね、子龍。私としては喜べばいいのか、虚しさを抱けばいいかわからないな」

 

「えぇ、お陰様で無傷の帰還でございますとも」

 

いつも通りの、皮肉の応酬。

 

易京攻防戦の戦勝から一夜が明け、彼の配下の高級士官たちはぼちぼち起き始めていた。

趙雲は割りと早起きな質である為、ここまでふらりと顔を見せに来なかったことが不思議だと言える。

 

「あと、私に政治の才能は無いよ。言うこととできることには、一千里からの距離がある」

 

ともあれ李師は趙雲が自分に政治的センスを見定め、期待しているような思惑をなんとなく察していた。

その上で彼は彼自身の信条を守る為に、それとなく諭す。彼自身、自分の才能と言うものを認めたくないと思っているのである。

 

軍事的才能と、曲者に対して特効を持つ人徳、高貴な血筋と高い名声に、民の支持。

乱世に名を為そうとしている人間ならばどれか一つでも欲しいと足掻く物を備えておきながら、彼はそれを無視していた。

 

大量虐殺に秀でた才能を持っていても何も誇れはしないし、曲者を引き寄せたいとも思わない。高貴な血筋はもう仕方ないが、高い名声など災いを呼ぶものでしかない。大量虐殺者が民の支持を受けるなど、ただの笑い草だろう。

 

自分が殺した他人の血と屍の上に作った支持など、彼にとっては恥でしかなかった。

 

「あと、主。馬鈞殿の新発明。連弩改三とかいう代物の配備がようやく完了しましたぞ」

 

「ああ、ご苦労様」

 

連弩というものを発明したのは、幽州にいた頃の諸葛亮。

それを五倍の性能にしてやると豪語した馬鈞が二次改装したものを連弩改、元戎と呼ばれる自動装填装置が付いた代物を付けたのが連弩改二である。

 

この連弩は凄まじく、一点集中射撃には向かない物の防御用としては文句のない性能だった。

ただし、乱戦に弱い。すぐに壊れる。

 

その弱点を何とかしたのが、この改三だった。

 

彼女は配備されていた弓を複合合成弓にして再配備し、城に床弩を設置し、強弩の射程を強化し、連弩を改良し、鎧の防御力を増加させている。

他にも水車や新式の織機などを考案し、河北の経済の中心地となりつつある易京から得られる利益の二割を投入しているだけの働きは、していた。

 

「まぁ、それは宜しい。今日は如何がなさいますので?」

 

「打って出る。曹兗州殿は軍を下げた。こちらの展開もしやすいというものだし……そうだな。やりようによっては更に地の利も得ることができる」

 

「地の利?」

 

易京要塞前方には先日の攻防戦で戦死した五千人あまりの屍はない。大軍を擁している敵からすれば、屍であれ何であれ展開を妨げるものは排除しておきたいのであろう。

 

そう、趙雲は考えていた。

 

「……残骸?」

 

「その通り。さあ、出撃だ

左翼は張儁乂、右翼は張文遠。恋は中央部、子龍は本軍として私の直属に。麴義は左翼に展開して張儁乂の助力を頼む」

 

易京要塞は道を塞ぐように広がり、築かれている。

道の幅はちょうど三万から四万の軍を展開するのに適したものであり、元々地の利は防衛側にあった。



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驟雨

易京という都市は李師の持つ軍事的な防衛思想を経済面に貼り付けるようにして作られていた。

即ち、道の幅はちょうど全軍に等しい三万から四万の軍を展開するのに適したものであり、元々地の利は防衛側にある。

 

ここを目一杯に使って包囲を防ぐように布陣したのは、夏侯淵が進発してすぐのことであった。

 

「もう少し時を待ち、夏侯淵の別働隊が本隊と距離を離してからにした方がよいのではありませんか?」

 

常識的な献策を行ったのは、田予である。

彼女の言うことは尤もで、純粋に勝つことを目的にしているならば極めて真っ当な意見だった。

 

それが夏侯淵が相手でなければ、という前提が付くが。

 

「妙才は三日で五百里、六日で千里を駆ける疾風の名将だ。なるべく早くこちらの戦局を打破しなければ拙いことになる」

 

「ここを無視して迂回路を取るならば、最初に迎え撃つのは笵陽の郭図、胡安の逢紀、易城の審配ですが……」

 

審配。姓が審、字が正南、名が配。袁家の三羽烏―――というよりは三馬鹿とでも言うべき郭図、逢紀と共に、張郃、田豊、沮授らとの折り合いが悪かった袁家の佞臣である。

 

だが、袁家最後の砦とも言うべきこの易京要塞に来て以来、高覧曰く『どこかで落馬でもし、打ちどころでも悪かった』のかと思われる程の変貌ぶりを見せていた。

 

その変貌ぶりを見せてからあげた実績で公孫瓚領の冀州四郡を統括している彼女ではあるが、内政手腕には疑問符はつかない。同僚たちからは懐疑の眼差しで見られているし、その前に信じられないことに、という言葉を付けるべきだが、公正で廉直であり、私財を擲って民の為に尽くしている。

だが、それを補って余りある負の実績を、彼女は持っていた。何せ一度は主家を滅亡させているのである。

 

それが全て審配の所為ということではないにせよ、その内の何割かは確実に彼女の所為だった。

 

「どうにも信頼できない迎撃先ですな。審正南殿は郭図・逢紀等と組んで袁家で好き勝手に振る舞った方です。鄴を守っていた時は夏侯妙才殿の電撃戦に敗れております。

内政手腕はともかく、人格と軍才において的確であるとは思えませんが、主はどう思いわれます?」

 

「さぁ。審正南からは、一応『多勢に無勢の場合は降伏しますので援軍は無用』と言う書状が来てるけどね」

 

李師からすれば、この書状の存在が解せない。態々わかりきったことを一々通達することを彼は望んていないし、他の城将に対しても『死ぬまで戦う、なんて考えなくていい』ということを口頭で伝えている。

 

どうにもこの一枚の書簡が、彼には解せなかった。

 

「事前連絡とは、結構なことで」

 

明らかな苦笑と皮肉の色が濃い笑みを浮かべ、趙雲は三叉の槍をくるりと廻す。

何だかんだで義理堅い性格である彼女にとって、守れと命ぜられた城を明け渡すなどはただの背信行為でしかない。

 

少なくとも、彼女にとってはそうだった。

 

「いや、降伏自体は正しい判断だ。勝てない戦いなどするもんじゃあない。というより、城将が勝てない戦いと見て降伏した場合、その責任は上司である私と、そのまた上司である伯圭との責任にあるのさ」

 

「と言うと?」

 

何だかんだで根はいい人な趙雲は相手を見定め、認めて忠誠を誓ったからには主に対して信義を重んじる漢的な思想を持っている。

故によっぽどなことがない限りは城将の降伏は城将の裏切り行為であり、器量や心根的にも決して褒められたことではないと思っていた。

 

「そりゃあ負けるような戦いしなければならない状況まで手をこまねいてみていたからに決まっているだろう?

この場合は援軍に割く兵力がない状況にまで追い込まれた私が、そもそも最初に城将たちを裏切っている。君の言い草は、珍しく正しくはないな」

 

「でしょうかね。貴方の思想は都合の悪い部分を他人に適応せず、都合の良い部分を自分に適応していないように見えますが?」

 

自分も同じ状況だというのに、まだ一応の義理を果たす。彼の論理を彼に適応すれば、こんな不利なこと極まりない戦いなどしなくて良いはずだった。

 

他人にとって都合の悪い部分は見逃し、自分にとって都合の良くなる部分は棚に上げる。

怠惰で堕落を好む割りには自分に厳しい、というよりは他人に甘いのが彼の人格的な特徴だった。

 

「矛盾していると言われ続けてはや十年。一貫性がない男だと言う、自負はあるんだ」

 

「まあ、よろしい。しかし、貴方は個人としては明け透けで人が良すぎますな。公人としては褒められるべき所もあるのですが」

 

「ありがとう」

 

「私は褒めてはおりません」

 

いけしゃあしゃあと礼を言ってくる脇の甘い男に対して、趙雲は皮肉気な笑みと真剣味とを撹拌したような表情で窘める。

 

「降将に対するおおらかさも程々にした方が身の為だと言わせていただきましょう」

 

袁家からの降将である張郃・高覧・淳于瓊・郭図・逢紀・審配。この六人が指揮する軍に単身で、更には丸腰で閲兵に望んだのはその無警戒さの現れだった。

張郃・高覧・淳于瓊は一旦降った以上は信任を得るべく奮闘する型の人間であり、郭図・逢紀・審配はその度胸と謀叛気がなかったからこその無事だと言える。

 

しかし、目下北進してくる曹操の最大の敵であろうこの男の首を持って投降しようと考える者も居るかもしれなかった。

その可能性を考え、思いつけるだけの頭を持ちながら見て見ぬふりをするのが、保身や護身に無関心を貫いている彼の特徴であろう。

 

「まあ、私の私事などどうでもいい。最初は攻勢をかけることになる」

 

「主にとってはともかく、他の者にとってはどうでもいいと言いきれるものではないと思いますが……まあ、よろしい。まともな指揮振りに期待させていただきましょう」

 

この時の李家軍には、地の利があった。彼等は全軍を余すところなく展開できるのに対して、敵は二分の一ほどしか展開できない。

結果的に戦う兵数は一対一となった訳であるが、李家軍には予備兵力と言えるものが西門から出撃させて予め伏せておいた華雄・淳于瓊の五千ずつしかないのに対し、曹操軍は四万ほどの潤沢な予備兵力があった。

 

「敵、動きません。どうなさいますか?」

 

「まあ、そうだろうね」

 

田予の報告を受け、李師は帽子を頭から外して首の辺りをパタパタと仰ぐ。

敵にしてみれば、夏侯淵が薊を直撃するまでの時間を稼げれば良い訳であり、戦略的勝利は既に得ている。

 

ここで要塞内に引き篭もっていた敵を撃滅しに動かないという決断を下せることに、曹操の戦略家としての手腕があらわれていた。

 

「後の先は、取れませんようで」

 

「だが、敵も先手は取れなかった」

 

曹操は果断速攻の用兵家。

李瓔は巧緻鉄壁の用兵家。

 

攻めを得意とする者が守り、守りを得意とする者が攻める。易京攻防戦から続いた野戦は、互いの得手を封じる形で幕が開いた。

 

「どうします。主は攻めは苦手でしょうに」

 

今回も本営の統率を務める趙雲が、事前に予想立てがあったとは言ってもやはり苦しい現状を口に出す。

李師は、守りが巧い。どちらかと言うと攻めが下手。

 

この噂が色々拡大解釈された末に広がり、彼が攻めには精細を欠くことは敵も味方も周知の事実だった。

 

「私は攻めは苦手だとは一言も言っていないよ。曹兗州殿より倍する兵力差があれば、打ち崩せるさ」

 

「三分の一の手駒では?」

 

「打ち崩せないだろうね」

 

「情けないことを仰らないでほしいものですなぁ」

 

「別に勝てないとは言っていないさ。勝機は、あることにはある。

副司令官」

 

李師が田予に声を掛けた数瞬の後、綺麗な鶴翼の陣形を維持したままに李家軍は三倍の敵に対して進軍を開始する。

 

相変わらず易京道の幅を目一杯に使っていて、綻びがない。

 

「包囲してしまうのは、無理そうね」

 

「はい。見事な部隊運用です」

 

その綻びの無さに感嘆の息を吐いたのは、曹操だった。

彼女は奇攻を得意とするが、奇攻とは用兵の正道を無視することではないと知っている。

 

故に敵の進撃を誘い、その両翼に綻びが生まれればその部位を一気に突き崩して包囲してしまうつもりだった。

 

「敵、停止。重歩兵を盾に、弩兵を内にして射撃を開始するようです」

 

「迎撃せよ」

 

心酔している相手に対しての態度と、軽蔑している生物に対しての態度とでは天と地ほどの差がある荀彧からの報告に、曹操は短くそう命令する。

中盤の混戦ならばともかく、序盤の射撃戦では自分が一々口を出さなくとも現場で対応可能なことだと、彼女は判断していた。

 

「華琳様。暫くはこのままに?」

 

「ええ。敵が動きを見せるまでは、このまま戦闘を続行。消耗戦になればこちらの勝ちとなることだし、無理に動くことはないわ」

 

向こうは一人が三人を倒さなければならないのに対して、こちらは三人で一人を倒せば良い。

敵味方共に犠牲が等しくなる射撃戦は、彼女も望むところだった、が。

 

(敵がわかっていないはずもない、わね。何故速攻を掛けないのかしら)

 

速攻では守りに入った自分に勝てないと踏んだから、消耗戦を嫌ってこちらから仕掛けることを強いているつもりなのか。

或いは、前面に意識を集中させておいて伏兵で横撃を喰らわせるつもりか。

 

彼の軍歴は『圧倒的に多数な敵軍に対する領地防衛』ではじまり、それに終始している。攻めが下手というよりは、経験が浅いのだろうか。

 

(一流の敵を相手にするにはやはり、ここまで悩まなければならないのね)

 

まさかただの消耗戦を始めたというだけで勘繰らねばならない敵と相対せるとは、思っても見なかった。

それに、自分が敵の長所を潰す為に己の長所を捨てなければならない羽目になるなど。

 

そう思った曹操の眼に、二万から三万ほどの黒い雨が眼に入った。

 

「敵の面火力は横並びに並んだ敵が斉射してくるとして精々八千、こちらは連弩を使えばその四倍の三万二千。次発装填の速さで六万四千。

敵に矢の雨を降らせてやるんや!」

 

張遼の右翼から始まった射撃は中心の呂布隊、左翼の張郃隊と連動していき、合計で三万本を越えようと言う量の矢が降り注ぐ。

 

後の一戦を除けば先を考える必要が全くない李家軍の、『盾を構えねば歩けもしない』と謳われた連弩の猛撃の始まりだった。



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憂鬱

最高硬度を誇る楚鉄を鍛えて造った盾を構えれば矢の雨も槍も物ともしない重歩兵を盾に、連弩を持った弩兵が気が狂ったかと思う程の量の矢を雨のように降らせ、李家軍は百に満たない犠牲で敵軍に一万にも昇る負傷者を出していた。

 

連弩には威力がない。だが、無視して進めば死ぬ。

その程度の威力しか出さないことで馬鈞はコストの削減を計っていた。直接敵を射殺するのは強化複合弓や、強弩と言った兵器である。

 

連弩はあくまでも敵の行動を阻害するためのものに過ぎず、よって矢も粗悪な廉価品が使われている。

 

故に残りの矢を計算して李師の戦術決定に役立てるべく、そして無用な消費を抑えるべく従軍している賈駆は、今のところ平静だった。粗悪品だし、値も安い。

 

彼女が初めて溜息を付いたのは、敵の負傷者が三斉射で八千を越え、敵が盾を頭の上で構えはじめた辺りだった。

 

「やめなさい、やめなさい……!」

 

彼女の願いはただ一つ。比較的軽微な経済的損失でこの戦いが終わることである。

戦争をしているから、易京内の経済は急速に回っている。利益も出ている。しかし、それでもなおこの戦争は長期にわたっても問題のないことではなかった。

 

易京道を封じられ、戦の渦中にあるということが経済的な流通を妨げている。それが賈駆の悩みの種となっていた。

 

「よし、いい感じだ」

 

「……計算通り?」

 

「うん。あと一回斉射を喰らわせ、強弩で一気に薙ぎ払う。これで、敵も動くだろう」

 

尊い人命が曹操軍で三千、李家軍で二十人ほど永遠に喪われることで継続されてきた我慢比べも、そろそろ終わりに近づいている。

 

彼のとった作戦は、例によって例の如く心理的な物だった。

 

つまるところ、『自軍が物力において有利である』という正しい認識を『錯覚なのではないか』と誤認させ、心理的抑圧と不信を植える。

更には雨のように降る矢を『盾を構えれば防ぐことができる』と認知させ、その認知を覆す。

 

この二回の事前認識の覆しによって、敵には不信と恐慌が渦巻くに違いない。何せ、向こうは農兵が多いのだ。

 

職業として兵をやっている人間というものはまず自分の身体を自分でコントロールすることから始める。それから更に己の心理をコントロールすることに移る。

そうしなければ指揮官の指令を待つ前に己の心身の挙措によって勝手に動いてしまう。

 

しかし、農兵は違った。そんなことをやったこともないし、やるべきだとも思っていない。

 

「目の前で相対している敵将は優秀だ。その敵将の後ろに立っている曹兗州殿もまた、優秀極まりない。私などが勝てるのは、一般兵に対してでしかないのさ」

 

「おお、仰る。鍾会、荀彧、夏侯淵、夏侯惇、毌丘倹、李典。名だたる敵将をどのような形にせよ連破してきた御方の言とは思えませんな」

 

肩をすくめておどけてみせる李師に、趙雲は皮肉気な笑みを浮かべる。

これまで戦っては必ず敗けず、戦略的にはともかく戦術的には全体が敗れても、戦力が如何に開いても彼が受け持った一区画においては必ず五分と五分以上に持ち込んでいた。

 

「前者二人は有利なところに引きずり込んでの、妙才には避戦を貫いて全体の読みで勝っただけだし、夏侯惇には強かな逆撃を被った。以下二人は籠城戦でだ。連破してきたという表現を使うには、陳腐に過ぎる」

 

「どのような形にせよ、勝ちは勝ちです。大声で触れ回っても構わないと思われますが?」

 

「私は、人殺しの手腕で誇ることをしたくはないのでね」

 

功名心と名誉欲など欠片も持ち合わせていないあたりに、彼の彼たる所以がある。

 

例えば趙雲がこのけしかけに乗った李師を目の当たりにすれば、珍しく驚きに顔を染め抜くことになるに違いない。

この乱世に向いている才能の豊かさと乱世に向いていない我欲の乏しさが趙雲の眼にかなったのだから、この趙雲の苦労と煽りは自分で買い込んだものだと言えた。

 

「二斉射、終了。一段目の弩兵の武器の換装、終わりました」

 

「一点に狙点を固定することなく、面で敵を圧す。二段目の弩兵はそれぞれ相対している敵に天頂方向に、一段目の弩兵は前方に向けて斉射三連。そうすれば何かしらの動きが見えてくるはずだ」

 

田予の報告に対して、まず指示の内容を、次いで採択する手法を、最後に予測をつけて指示を下す。

私人としてならともかく、公人として、即ちサトリめいた能力を持つ将帥としてその異才を発揮している時は何を考えているかわからないということに定評がある彼にとって、己の目的と手法とを明確に口に出すのは円滑な指揮統率において重要なことだった。

 

敵としては、これほど嫌らしい命令もない。将は天頂方向から矢を降らすだけが敵の能ではないことを知っているが、兵は目の前の天頂方向からの矢に対応するだけで精一杯。

 

盾を二枚備えているわけでもないし、天頂方向から矢が来ているのに敵は別な方向から射撃してくるかもしれないから前に構えろ、とは言えない。

いつか射撃が前方から来るとわかっていても手の打ち様がないのである。

 

「準備完了」

 

「撃て」

 

放物線を描いて天頂方向から飛来する連弩から放たれた三万二千本の矢と、直線軌道を描いて前方から飛来する強弩からの八千本の矢。

 

全軍の二分の一近くが弩を装備しているという極端な編成をしている李家軍の優位を活かした二本面からの猛射が、天頂方向からの射撃に対抗することに意思を向けていた曹操軍に襲い掛かった。

無論曹操軍も盾を構えた重歩兵をして直線軌道を描いての射撃に備えている。しかし、李家軍には威力と射程に重点を置いて改良された強弩と、もとより他の短弓とは威力も射程も桁違いの強化複合弓を惜しみなく配備されていた。

 

少数は、精鋭でなくては意味がない。精鋭の扱う武器は、最上でなくては活かしきれない。

 

李師の人命第一の姿勢が装備の向上に繋がり、李師の農兵を使うことに対しての忌避感が、この戦闘を職に据える精鋭の外骨格を作っている。

李家軍が李家軍と呼ばれる所以が、そこにあった。

 

この前面の兵を薙ぎ払うような射撃は、当然ながら物理的な衝撃を齎す。即ち前面の重歩兵の大半が骸と化したのである。

 

この光景を眼にした農兵たちは、もはや平常心では居られなかった。

その平常心にしても、戦場という異常の中での平常、ということでしか無い。それにしても、農兵たちがこの自軍が装備において負けている中での我慢比べに耐えられそうもないのは確かである。

 

現にこの時、曹操の本営には三騎の伝令が駆け込んでいた。

 

「華琳様。最前線の第三・六・九軍団から攻勢に転ずる許可を戴きたいとの伝令が入っています。如何がなさいますか?」

 

これを応対し、意見を取りまとめて曹操に言上したのは第十軍団を徐晃に任せた荀彧。

謂わば彼女が、李家軍での田予が受け持っている役割の片割れを受け持っていることになる。

 

「このまま続ければ、敵の疲労も蓄積する。今はこちらが圧されていても、五刻も後になればこちらに均衡が傾くことになるのは必定だけど……やはり心理的な抑圧と操作ではあちらが上、ね。

認めると返しなさい。どうせ仕掛けざるを得ないのだろうなら、せめても主導権は奪い返す気でいかなければならないわ」

 

主導権。

この言葉を曹操が口にしたとほぼ同時刻、李師はこの言葉を口にした。

 

「さて、敵から貸していただいた主導権を投げ返してやるとするかね」

 

彼は開戦前に、戦において重要な主導権と言うものを扱う心得についてこう談じている。

 

『私が手を伸ばせばギリギリ届き、敵は無理して手を伸ばさなければならないところに置いているのさ。

迎撃が主なこちらとしては、一度取ってしまえば取ろうとして近づいてくる相手を見つけることが出来るし、対処もできる。無理して手を伸ばしたならば、その手を斬ってやることもできるわけだ』

 

敵は、主導権を握っていた。しかし、今回李師がその主導権を奪おうとせずに意地悪く立ち止まっていたから、主導権を握ったまま迫ってきた。

敵が待ちの姿勢を捨てて迫ってきた時点で、握っていた主導権は李師側に戻ってきている。

 

このことに、曹操は気づいていた。

 

『自分が強いた』状況下から、敵が自分の行動を強いてきたことを。

 

敵はどう迎撃してくるのか。

曹操が考えているのはそれだったが、これは敵のとった鶴翼の陣形と、敵将の思想から生まれた固定観念だと言える。

 

戦争というもので持てば有利になる主導権を、投げ返して来る者が居るとは思っていなかったのだ。

これが夏侯淵ならば、気づいていたであろう。しかし、曹操は李師が用兵の常識範囲内でありながら、常識外に見える行動を取ることを知らなかった。

 

夏侯淵には馬首を並べて戦い、相対して知略を尽くして戦った経験がある。

能力の差というよりも、対戦相手を如何に知っているかの差だと言って良い。現に李師も、曹操に対しては心理戦を仕掛けていなかった。

 

お互いに様子見の体が、色濃く宿っていたのである。

だから李師は敢えて自分の意志を見透かさせるように騎兵の速さを活かした速攻を使わず、また鶴翼という迎撃の陣形をとった。

 

次に李師が下した命令のタイミングは、彼の将としての最大の武器である『眼の良さ』を存分に活かしたものだった。

 

敵が強弩と強化複合弓によって射竦まされている状態から一転して攻勢を仕掛けようと戦力を集中、突出させようとした瞬間に、彼はそのポイントに向けて射撃を集中させたのである。

 

「今だ、撃て!」

 

陣形の隙、戦の流れ、敵の意図。

 

彼が見る凡人と変わらぬ風景の中に、軍が映ればこれだけ見えるものが増えると謳われた李師の真骨頂が、この戦の序盤で早くも現れていた。

 

謂わば彼の行ったことは、甲羅にこもっていた敵が出ようと頭を出した瞬間に横っ面を引っ叩いたに等しい。

強かに逆撃を被り、雪辱に燃える鍾会のもとで反抗に転じようと試みた第六軍団の行動は、兵力集結を行った部位を踏み潰されて頓挫した。

 

この瞬間に、主導権の在り処は時が戻ったが如く一つ前に巻き戻される。

 

李家軍は、曹操の当初の狙い通り攻勢に転じたのだ。

もっともその行動には、あくまでも変化した敵の狙いを阻害するという嫌らしさが付き纏っているのだが。

 

「成廉・魏越の両戦隊に、敵陣の左右を突かせてくれ」

 

「はっ」

 

田予が伝令を送ると、呂布隊の両翼が千騎ずつを率いて前進した。

中央部に固まり、更にはその固まりを一点集中射撃で踏み潰された敵の薄弱な両脇を突く。

 

鍾会と言う優秀な指揮官の元で、一見何でもないように見せている敵陣の隙と穴が風景的な欠落として見えているとしか言えないような正確さで、彼の攻勢は急所を捉えた。

 

「敵陣を左右両脇から包み込み、一斉射。それで突破が可能になるはずだ」

 

「……一押しなら、恋が行く」

 

直属集団の三千騎を率いて先鋒とは名ばかりの本陣護衛に従事している呂布は、我が出番とばかりに自推する。

これまで、自分の武を彼の戦術に対する計算に入れられていない、即ち代替の効く手駒でしかないという自覚のあった呂布からすれば、こういう誰でも出来るような機会でコツコツと働いていくことが習慣化していた。

 

つまるところ、李師は用兵の理想である『属将に誰を使っても勝てるような策を立てる』ということに頭を悩ませ、隷下の将に苦労をかけないようにしていたのである。

呂布にはそれが誇らしくもあったし、少し悲しくもあった。

 

「いや、いい」

 

「……恋でも、できる」

 

張遼は一翼を任されている。張郃も一翼を任されている。華雄と淳于瓊は予備戦力として重宝されている。麴義は重歩兵の統率で使い回されている。趙雲はいつも彼の策の中核を担っている。

 

『この将だからこそできる。この将でしかできない』というような配役はないが、個性に応じてある程度の役が決まっていた。だが、呂布に割り当てられるのはいつも誰でも出来るような任務でしかない。

 

呂布は、自分を道具や駒と同一視して使って欲しかった。将としての信頼が欲しかった。

 

「今回、私は恋の力に頼らなければならない。頼らなければ勝つことが難しい。だから、温存しているんだ。君にしかできないことを、こなして欲しい。いいかな?」

 

「……恋、使って欲しい。嬰に、いっぱいいっぱい、使って欲しい」

 

頭から伸びる二本の触覚めいた髪を嬉しげに揺らしながら、呂布は飼い主に懐いている仔犬のように李師の身体に自分の身体を擦り寄せる。

実際は虎か狼かの類いだが、その人懐っこさは仔犬だった。

「あぁ、使わせてもらう」

 

わしゃわしゃと真紅の髪を撫で付け、李師はその面貌に深い自己嫌悪をにじませる。

自分の娘までをも、利用しきらねばならない。

 

利用しきる為の策が簡単に思いつくことも含めて、彼は己が心底憎らしかった。

 

「…………副司令官。手筈通りに」

 

「はっ」

 

敵の突出を牽制する鶴翼から、鋒矢へ。

嘗て荀彧が使った攻撃法を、李師は殆ど完璧な形で実行した。




恋(従属型依存形):憂鬱→がんばる
李瓔(独立型不羈形):憂鬱→自己嫌悪

同じような起点でもこの差である。


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相似

夏侯淵は、腕を組みながら易城の外観を見物していた。

彼女は既に迅速な行軍を以って昨夜のうちに一城を、朝駆けで一城を陥落させている。

 

郭図と逢紀を含んだ兵を捕虜にするわけにもいかず、殺し尽くすわけにもいかない。

故に、易京方面に逃がしてやっていた。

 

「どうにも、敵は手応えがありませんな」

 

「まあ、敵は全ての戦力を易京方面に集中させている。後方の模様など、構ってはいられないのだろう」

 

到底軍人には見えない李師とは違い、まさに叩き上げというべき雄偉な体格を持つ諸葛誕の漏らした慨嘆は、少し酷というものである。

敵には人材がいない。まず、前線指揮官に李師を起用するのは良い。だが、戦略を見れる参謀が居ないのだ。

 

(私が公孫瓚ならば、曹孟徳の悪評を広め、豪族はここで勝たねば族滅の危機に瀕すと脅し、ここに引っ張ってくる。時間を稼げるし、邪魔者を排除できるのだ。一石二鳥、というものだろうが……)

 

援軍を送らないのは間違いではない。李家軍とその他の諸侯の軍とでは練度が違う。

李家軍とは田予という神経を介して李瓔の魔術を限りなくそれに近い形で現実に発現させる為に訓練を積んでいる職業軍人であり、肉片と細胞の集合体である。

 

そこに中途半端な部隊を連動させれば、却って全体の戦力が落ちることにもなりかねない。

 

というよりも、そうなる。李師に手間をかけさせることなく付いていける指揮官でないと、李師の精密巧緻な戦術を鈍化させることになるのだ。

 

(そのような指揮官が、居るわけもないか……)

 

李師もそれを薄々わかっているのだろう。曹操軍がそれぞれの軍司令官に大きな裁量権を与えているが、李家軍にはそれはない。

全てを己の管制下に入れ、敵に付け込ませる隙を限りなくゼロにしている。

 

話を書くのは李師で、その脚本に沿って動かすのが田予。

趙雲も張郃も張遼も華雄も、演技に磨きをかけることもできるがアドリブは許されないのだ。

 

「戦局はどうなるでしょうか?」

 

「多少苦戦はするが、敗けはしない。本気を出せば勝つだろう」

 

主語を敢えて省いた夏侯淵は、その余裕そうな笑みとは裏腹に少し頭を悩ませている。

 

『途中で反転して、援軍に来てくれないか?』

 

正攻法で抜けないと改めてわかり、別働隊として出立した時。

天の御使いの北郷一刀に、夏侯淵はそう頼まれていた。

 

彼は曹操の誇りと矜持を重要視し、滅多にこの未来を予期したような発言をしない。

それだけに、夏侯淵は驚きだった。疑っている自分にそのような重要な任務を振り分けることも、含めて。

 

過程がわからないが、結果はわかる。些か以上に眉唾ものな発言だが、李師ならばやりかねないという予測は、自分も持つところだった。

 

「反転しなければ、どうなるか……」

 

滅多に予言を使わぬ天の御使いがそれを前提に己を頼るということは、反転しなければ己の主に対して不利益が生ずるということだろう。

 

死ぬのか、と。ポツリと思考の隅でそのような予想が浮上した。

不思議なことでもない。国も、人も。時を経れば死に、肉体は滅ぶ。

 

だが、彼女は曹操という矮躯の中にはち切れんばかりの覇気と英気を満たした存在の死を想像したことがなかった。

 

(その前に、私が死ぬ。そう思っていたのかな)

 

おかしみと共に笑いがこみ上げ、僅かに慌てて咬み殺す。

全ての人間が生まれた順に死ぬというわけではない。それを知っているはずの己が、曹操と言う傑物を前にして忘れ去ってしまっていた。

 

自分が死に、主が死に、姉が死ぬ。

ぼんやりと、夏侯淵はそうだろうなと思っていた。

 

自分は恐らく、二人を見送ることはないと。心の何処かでそれを悟っていたのだろう。

年の順で言えば、姉が己の一刻前に、主たる曹操がその三年後に死ぬべきだ。

 

死にたがりと言うわけではないが、己が平和をぼんやりと過ごす風景が見えない。

姉は、見える。主のも、見える。

 

姉は皆に好かれ、明るさを振りまいて戦乱に疲れた者の心を癒やすだろう。主は才気溢れる為政者として、その才能の全てを傾けて治世に望み、戦乱に疲れた国そのものを癒やす。

 

だが、自分のものは見えない。戦死するような光景ならば、見えるのだが。

 

「将軍、どうなされましたか?」

 

「……いや。敵に降伏を勧告する使者を、送ってくれ」

 

易城を守るのは審配。来て見て陥ちた二城を守っていた逢紀や郭図と同類か、それ以下である。

同性に対してはまともな人物眼を備える荀彧曰く、『審配は独り善がりで無策である』。

郭図は同郷の好で別に悪くは言っていないが、逢紀に関しては『向こう見ずで自分勝手である』と評価を下していた。

 

そしてこの評価は、大体あっている。

今回もこの例に洩れなければ良いのだが、と。夏侯淵は期待と落胆とが相俟った微妙な思いで易城を見ていた。

 

降ればそれは喜ばしいことだろう。兵も死なずに済むし、後に反転することを加味すれば攻城戦は望むものではない。しかし、攻城戦にならなければ、どうか。

恐らく己は落胆する。敵の意気地のなさと情けなさと、何だなんだと言いつつもそれと対極に立たざるを得なくなった男と刃を交えることの出来ない無念さに。

 

結果的に、この整合しない武人と将との意識とプライドのせめぎ合いは無用に終わる。

 

『敵将は名将の夏侯淵だ。降伏を拒否すれば彼女によって城を陥落させられ、吾々はここで死ぬだろう。だが、吾々は戦う。多少なりとも時間を稼げれば、吾々が全滅したとしても李師殿にその分の猶予が生まれる。降伏することはできない。御使者殿はどうかご理解の上、お引き取り願いたい。

最早、弁舌を以って語るべき時ではないのだから』

 

それが、己の仕えた袁家が完全に滅びるかもしれないという事態を受け入れ、亡国に瀕して覚醒した審配の決断だった。

 

「見事な物だ」

 

意志と作戦が連動しているかはわからないが、取り敢えず夏侯淵は審配を褒めた。

 

審配は、礼節を以って降伏勧告の文書を遇した上で厳然と拒否し、送り返してきた。これだけで賞賛に値すると、夏侯淵の中の感傷的な部分が囁いたのである。

 

作戦を考える彼女の頭のもう半分で、ふと疑問が生じた。

 

(仲珞が死ねば、彼の配下はどうなるのだろうか)

 

目の前の審配のようなことを、彼の幹部たちは進んで引き受けるに相違ない。

殺した相手に一丸となって立ち向かうのだろうか。しかし、李家軍というものが一個人の才能・名声・人望というものを三本の支柱としている以上、瓦解は避けられないように、ないしは死んだ人間を担ぎ続けるように彼女には思える。

 

つまるところ、李師が死んでも兵権を司る者としての軍司令官の職権は誰かが受け継ぐ。だが、あくまでも首領は李仲珞で、名称は李家軍なのだ。

 

突出した個人によって発足し、維持されてきた組織などそのようなものだろう。なら、曹操軍はどうか。

曹操なればこそ忠誠を誓う者も居る。

と言うよりも、そちらの方が主流だ。

 

となれば組織構造が似ていると言わざるを得ないだろう。一本の柱を切り倒せばすぐさま崩れる手抜き工事であるという点で。

 

夏侯淵は、そこまで思いを致して目を外した。

少なくとも、それは勢力の長が考えるべきことで一構成員に過ぎない己が考えることではないと思い至ったのである。

 

李師は好きで勢力を築いた挙句に率いた訳ではないからいい。それにしても曹操がどうするのか。

それに対して打ち出されるであろう反応と対策を、夏侯淵は傍観するように楽しみにしていた。

 

 

一方、その頃。

攻勢に転じようとした敵の横っ面を引っ叩いて攻撃に打って出た李師は、予想通りの戦局の硬直の中に居る。

 

樊稠隊が千人から四百人にまで討ち減らされた。

張繍隊千人が李通隊五千に包囲された。

 

これらに代表される戦況の報告と苦戦の体は、李師の予測の範囲内である。しかし、それにしても曹操と言う敵将は有能だった。

李師はこの有能さに迅速且つ適確に手当してまわり、右翼部隊と左翼部隊の補填と中央部の陣形を整え、敵の防御陣を突破している。

 

その度に引き返すというその行動は一見すれば極めて無駄な物に見えたが、後日の戦闘の為に必要となる戦闘の繰り返しだった。

 

「より多くの殺戮の為に。より多くの殺戮の為に。私は吾ながら、極めて非人道的なことを考えているものだ」

 

「……来るから、仕方ない」

 

呂布にはこの李師が持つ悩みの深さとか、重さとかを真に理解しているなどとは思っていない。

異民族出身であり、その教義を血で以って受け継いでいる彼女からすればこの悩みを抱く彼がわからないのである。

 

殺されるのは弱かったから。死ぬのは弱いから。そもそも侵略してきた敵を殺すのに、何の逡巡と懊悩があるのか。

敵と認識した生命を刃で刈り取ることになんの躊躇いも抱かないのが、呂布の冷淡なところだった。

 

「恋。そもそも私のこの抗戦に歴史的意義はない。謂わば私は個人的な義理の為に兵の生命を浪費させているわけだ」

 

「……?」

 

「これは極めて、質の悪いことだ。わかるかい?」

 

「……でも、皆は嬰の為に戦ってる」

 

「そんなことはないさ」

 

「……なら、何の為?」

 

この問いに、李師は答えることができなかった。答えることができないということ自体が、彼がつらつらと目を通してきたこの世の事象の中で目を逸らしてきたものを射たことを示している。

 

李家軍の幹部も兵卒たちも、別に公孫瓚勢力の存立の為に命を懸けているわけではない。自分達を引き連れて戦い、ある程度の期間の安寧と勝利、暮らしの豊かさを与えてくれた彼に付いていけることを喜び、その目的の成就に命を懸けていた。

 

「…………恋も、そうなのかい?」

 

「……恋は、はじめからそう。だから、わかる」

 

薄々わかっていたことを肯定され、李師は思わず溜息をつく。

別に他人の思考や忠誠心の指向性をどうにかしようとは思わない。

 

だからこそ、この忠誠心の指向性を聴いた自分が何の役割をも求めてはいなかった呂布を軍事的に利用する様を心の底から嫌悪した。

 

「動機は?」

 

恩返しという理由ならば、李師はそんな物はいらないと一刀両断に切り捨てただろう。何せそのトリガーを引いたのは自分なのだから。

しかしその答えは、李師の予想の斜め上を行っていた。

 

「……嬰と、一緒に居たいから」

 

「ぇえ?」

 

「……ずっと一緒に居たいから、どこにでも付いていきたい。だから、ここにも来た」

 

そう言い切った後、呂布は少し考えて言葉を繋いだ。

 

「……恋が来たいから、来た。嬰が心配だから、来た」

 

「そんなに、私は頼りないかな?」

 

「ん。弱い」

 

正面に向かい合うように座っている位置から右回りに移動し、李師の隣にぺたりと座り込む。

紅の髪が丈夫さに定評のある深緑の服に触れ、呂布は凭れるように身体を預けた。

 

「……だから、恋が護る」

 

親しい一つの命を守る為に、より多くの命を供物に捧げる。

やっていることが同一であると理解した李師は、自分の罪深さを瞠目しながら謝した。

 

謝って済むことではないが、彼はそうせずには居られない。

静かに一つ撫でてやり、彼は目先の軍を見やる。

 

その視界には、殺さねばならない敵が灰褐色に映っていた。



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俯瞰

5837様、マスラヲ様、十評価感謝です!
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戦闘一日目の、夕刻。

 

北郷一刀は、微妙な違和感と歯痒いような思いを抱いていた。

やれるべき手は打った。だが、未来を知っているという程度で、同時代の将を―――戦略的にはともかく戦術的には―――悉く打ち倒してきたあの化物じみた名将に食い下がれるかどうか不安だったのである。

 

彼は未来を知っているということを甘く見ていた。即ち、その破滅的な威力を軽視し、相手が受ける衝撃を軽視していたのである。

 

彼にはこの戦いの詳細な経過は見えない。だが、ターニングポイントはわかる。そして、結末もわかる。

だからこそ、彼は苦悩していた。

 

「華琳」

 

「何かしら?」

 

疲弊し、戦線が凹凸と亀裂を生じていたが為に収集と補填を計ったのは、敵も同じ。

謂わば、明日の朝までのほんの僅かな休息と言うべき時間である。

 

その時間にまで戦の話題を持ち込むことは彼としては本意ではなかったが、どうしても聞いておきたいことがあった。

 

「敵は何をやってたんだ?」

 

「左翼の戦線を乱戦状態に、正面の戦線では一部を突出させ、退かせという行動の繰り返しで硬直化させる。その上で右翼から半包囲しようと攻勢をかけてきたのよ」

 

右翼の指揮官は張遼。後に左右大将と謳われる張郃・張遼の片割れ。

勿論これは、北郷一刀が知っている歴史であってこの世界の歴史であるとは限らないが。

 

まあ何はともあれ、この時点でも張遼は攻勢と騎兵の統率にかけてはこの時代屈指の指揮官であることに変わりはない。

 

「正直なところ、これは読めていたわ。張郃は攻勢と言うよりは守勢からジワジワと圧していく型の指揮官だし、正面の敵は最初はともかく途中からは派手さが目立った。一番地味に見えた右翼が、本命だと」

 

「それこそが陽動、ということは?」

 

「あるかも、しれない。だけど、こちらと違って敵は兵数に限りがあるし、公孫瓚勢力を救うにはこの戦線を一日でも速く、一人でも犠牲を少なくして勝たなければならないのではないかしら。

それに、敵は目一杯にこの狭い道を使い切って布陣している。当然それは包囲作戦を前提にしたものだと考えるべきだわ」

 

それはそうだと、北郷一刀もそう思う。しかし、どうにも解せなかった。

 

いや、自分の歴史の知識が案外宛てにならないことは知っている。夏侯淵は忠実な臣下だし、反董卓連合軍の董卓側に曹操が参加した。この戦いが起こる時にせよ、十年単位のズレがある。

そして、この時点で鍾会や毌丘倹が居る。何よりも主要武将が女である。

 

夏侯淵の件で『最終的な帰結点を鵜呑みにした上で人を見るべきではない』とわかり、反董卓連合軍の件で『別に歴史の知識が絶対というわけではない』と、北郷一刀にはわかっていた。

 

易京道の戦い。曹操対李師の最初の戦いであり、赤壁と並ぶ曹操の珍しい敗北の一つ。

徐栄と対戦した反董卓連合軍での戦い、馬超と対戦した渭水の戦い、周瑜と対戦した赤壁の戦いと並び、『曹操の戦術ドクトリンは迂回急襲。正面切っての戦いは苦手』と言われるようになった一因である。

 

「それに、中央突破を狙ってきたら来たでこちらもやりようがあるでしょう、一刀。春蘭が予備で暇を持て余しているのは、その為なのだから」

 

「なるほど」

 

遊兵を作らず、暇を持て余している隊を敵の戦術への対策に使う。

兵力差というものを活かしきっているのが、曹操の曹操たる所以だった。

しかし、この活かしきっていることはその反面、職人的な巧妙さとは無縁になっている。曹操も決して、この職人的な巧妙さで李師に負けるものではない。

 

だが、曹操は技巧と技巧を戦わせるよりは己の優位を活かし切ることを選んだ。

戦略的には真っ当であるが、戦略的な真っ当さが戦術的な勝利に直結するとは限らない。北郷一刀はそこまではわかっていなかったが、素人だからこそ『大軍で技巧を踏み潰す』という戦法が何やら良い物には見えなかったのである。

その大軍が大軍で有るが故の攻勢の単純さと守勢の重厚さを逆用されるのではないか。

 

その無形の不安が、彼の更なる個人プレーを生んだ。

あくまでも基本戦略に適った形であるが、その独走ぶりは見る者が見たならば眉をひそめざるを得ないものであったろう。

 

結果的にその所為で李師の脅威に抗し得なくなれば、北郷一刀は非難を免れない、どころでは済まない。

成功したとしても、北郷一刀に対しての賞賛は表立つことはない。

 

謂わば何の利益もない行動であった。

 

 

だが 北郷一刀が演義と言うレンズで拡大し、実際に見て幻影を膨らませてしまった当人こと李師は、その『大軍が大軍で有るが故の攻勢の単純さと守勢の重厚さ』を逆用するどころかそれに圧倒されてしまっていたのである。

 

「人的な損害は?」

 

「……三千。なんとまぁ、拙い戦いをしてしまったことか」

 

「物的な損失はね。三分の一よ、三分の一。矢が三分の一も消えたの。後の残りは五十万本。一年近くかけて弩と弓に使う矢を統一し、粗悪品も利用する為に連弩も作ったわ。でも、もう籠城戦に切り替えても三ヶ月は保たないの。わかる?」

 

「わかるさ。元々今日明日で正面の敵の決着をつけ、その後に南門から出て妙才を叩く。矢は保つという計算になっているだろう?」

 

「それはそうよ。でも、今日は全く勝てるような気配がなかったじゃない」

 

「ああ。今日は決着をつける気がなかったからね」

 

呂布が七回出撃したものの、鍾会も巧みな指揮で戦列を再編。維持し続けていた。

彼が中央部の曹操隊に至るまでは第六軍団(鍾会)と第十軍団(荀彧)、どこから降ってくるかわからない第七軍団(夏侯惇)、後は曹操の親衛隊をどうにかせねばならない。

第二軍団(李典)と夏侯淵が残していった第十一軍団が左翼、第三軍団(于禁)、第九軍団(毌丘倹)、第一軍団(楽進)が右翼を務めている。

 

第九軍団(毌丘倹)は先の攻城戦で大被害を被ったために、第一軍団(楽進)が追加で右翼部隊に籍を移していた。

 

「ともあれ、二日目だ」

 

彼は真の意味での全知全能を備えた神ではなく、自分の全知全能を尽くしてこの絶望的な戦いに活路を見いだそうとしている。

これまでの戦いで作戦が概要を読み取られていることなど、李師が知り得ることではなかった。

 

李師は、これまでで現れている敵の行動から事象を読み取るより他に、未来を知覚する術を持たなかったのである。

 

「……それにしても、ギリギリの賭けだな」

 

「いつになく弱気ですなぁ、主」

 

「いつになく絶望的な状況だからね、子龍」

 

唐突に背後に現れた趙雲の白い装束の袖と肩とに血が点々と微細な斑模様を作っていた。

神速の槍技は、間合いに入った瞬間に敵の急所を抉る。切断するのではなく突くのだから、べっとりと返り血が付くはずもない。

 

故に、優美な三叉の槍を振るって暴れ回ったあとの趙雲の服は、決まってこのような斑模様に染められていた。

 

「取り敢えず、生還おめでとう」

 

「当たり前です。私はこんな鉄火場ではくたばりません。床の上で布団にくるまりながら、孫に『やっと厄介払いできる』と泣いて喜ばれながら死ぬと決めておりまして」

 

がっしりと握手するほど感傷的でもなく、それほど暇でもない李師と趙雲は適当な場所に腰を下ろす。

李師は頭が、趙雲は腕が疲れ切っていた。

 

「この戦いは、至難ですな。だからこそ面白いとも言えますが」

 

「いつになく趣味が悪いじゃないか、子龍」

 

趙雲がこんなことを口にしてしまうあたり、敵の手強さが伺える。

これまで戦ってきた相手とは格が違う、攻めと守りの質と密度の濃さ。それが趙雲を疲労させていた。

 

それに敢えて突っ込むことなく、酒を一杯注いでやる。

それを渡した後に同時に飲み干し、趙雲は殆ど同時にニヤリと笑った。

 

「いつになく絶望的な状況だからこそ、それを覆すのを見物する楽しみがありまして」

 

「見物、か。私が愚痴を付いているのがそれほど見ていて楽しいかね」

 

「如何にも楽しい。命を懸けてやろうと思うほどには、貴方は己の義務に忠実な方ですからな」

 

疲労を余裕と皮肉の笑みで覆い隠しながら、趙雲は愛槍龍牙を肩に掛ける。

 

「主。良い機会であることですし、私の真名を捧げさせていただきます」

 

「随分、唐突だね」

 

「まあ、この戦いが今までのものとは違うということを、この身で知ってしまったもので」

 

苦笑しつつ、趙雲は、背中を見せたままに真名を告げた。

それに対して李師は、静かに己の真名を預ける。

 

「では」

 

「ああ」

 

さらりとした別れの挨拶を交わし、趙雲は己の隊に戻った。

 

疲労の色が濃い各指揮官の脳裏に過ったのは、一つである。

 

負けないことを目指す籠城戦ならばともかく、勝つことを目指す野戦はそう長くは保つものではない。

 

二日目までしか、実力の全てを発揮できない、と。

 

そして、二日目。血を血で洗うような激闘と評された、易京攻防戦の終幕までの道を、両軍は加速度をつけて下りはじめた。

 

 

「我が方の兵器が?」

 

「はい。敵がやけに前線を上げて来たのは、昨夜の内に行われた作業を邪魔されない為かと」

 

二日目の朝を迎え、全軍に飯を食わせた曹操は、改めて敵陣を見て臍を噛んだ。

完全に、敵に利する行動をとってしまった。それが一局面においては必要であり、兵の犠牲を減らす為のものであったとしても、である。

 

「射撃開始!」

 

「撃て」

 

曹操と李師が殆ど同時に射撃命令を下し、二日目にして最終日の幕は上がる。

この時点で李師がとったのは、如何にも彼らしい作戦だった。

 

「敵の射撃、殆ど即席陣地にて防ぐことが出来ています!」

 

伝令の喜ぶような報告を聴き、田予は軍の運動を統御しながらその沈着な眉をピクリと上げて驚きの声を上げる。

 

「初めから野戦を挑まなかったのには兵力の漸減の他に、これもあったのですか」

 

「そういうこと。敵の遺棄した兵器までも利用して、何としても敵の攻勢を防ぐんだ」

 

元々、両翼を含んだ最前線は一日目の開戦時よりも随分上がった。

このこともあり、更には一日目の記憶から必然的に曹操軍は苛烈に攻め立てざるを得なかった。

 

「敵の軽騎兵部隊、吾が軍左翼方面の間隙に回り込みつつあります」

 

「こちらも成廉、魏越、曹性、樊稠の四戦隊の出撃用意。差し当たって最大戦力を叩きつけたいところだが、一先ずは曹性と樊稠の両戦隊で迎撃させてくれ」

これも一応は李師の計算通りだが、李師の計算を超えるだけの鋭さと破壊力を、遺棄した兵器の隙間に曹操は叩きつけてきたのである。

「李典隊より、軽騎兵部隊が急進!」

 

「そら来た。向こうはそりゃあ一万ほど軽騎兵が居るかもしれないが、こちらにはなけなしの二千しかいないんだぞ、全く……」

 

前回の戦闘で、李家軍の二千からなる軽騎兵部隊は千八百にまで減っていた。

一方で敵の一万からなる軽騎兵部隊は二千人程減っていたが、これは兵の強さもさることながら、成廉が考案した『天地人』制の功績が大きい。

 

騎射担当を一人、馬上戦闘担当を二人。馬上戦闘担当の一人が正面から牽制し、敵の背後にもう一人が回り込む。

戸惑ったところを後方から騎射担当がとどめを刺す。謂わば、総数では勝てないから一対一からなる微小な戦闘単位を三対一に持ち込むことで何とか勝とうという苦肉の策だった。

 

「どうなさいます?」

 

「仕方ない。成廉、魏越の両戦隊を迎撃に向かわせてくれ。ただし、迎撃だ。こちらの射線に誘引して、戦力低下を防ぎながら敵の迂回行動を阻害するんだ」

 

両翼に遺棄された兵器を並べて簡易の防壁とした李家軍に対し、兵力差を全力で叩き付けてくる曹操軍。

三刻におよんだ射撃戦の後に、正面の敵に李師が返しで叩き付けたのは火力だった。

 

彼の直接指揮する中央部を急進、左翼を徐々に上がらせ、右翼を防衛に専念させたのである。

 

「鍾会の部隊に、射撃を集中せよ」

 

この命令が、序盤の防戦の終わりを告げていた。

 




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迫撃

「鍾会の部隊に、射撃を集中せよ」

 

第六軍団は、思い返してみると不運なことこの上ない軍団であった。

指揮官の鍾会は決して無能ではなかったが、相対する指揮官が悉く彼女の能力を上回る。即ち、ことあるごとにしてやられていた。

 

今回の命令にしてもそうである。李師の下した命令は単純なものであったが、叩きつけられた火力とその火力を叩きつける投射速度は尋常でなかった。

 

「密集するな!」

 

一刻の内に天頂方向と前方からのべ五万の矢を叩きつけられ、鍾会軍は戦列を乱して後退する。

密集隊形を崩して散開し、射撃による被害を防ごうとしていた。

 

その判断は正しい。固まっていては弩による射撃の餌食になるだけだし、ここで突破されても敵が第二陣の突破に要する時間の間で軍を再編し、後方を扼してやる自信が、彼女にはある。

だが、そんなことなど李師はとうに読んでいた。敵が有能であると言うのは、一日目で嫌というほどに知っていたのである。

 

「恋、東から五番目、深さは三番目。そこが指揮の中心点だ」

 

巧みに散開しながらも、部隊の統一性を失わない第六軍団の核がどれであるか、李師には見ることができた。

そして、そこに自軍における最大戦力を投擲したのである。

 

「敵、赤備え。猛進してきます!」

 

「五百から更に百単位の少集団に分かれ、敵の突撃を受け流せ!」

 

その指示が伝達される前に、それを聴いた副官が目の前まで迫る赤備えを見て『間に合いません』と返す前。

 

選りすぐりの千騎からなる呂布が、視界に入った。

 

「居た」

 

その呟くような声を聴いた瞬間、鍾会は剣を抜いて呂布に斬り掛かる。

獰暴なる巨獣に補足され、追い詰められたかのような。底冷えのする殺気に当てられてしまったのである。

 

結果的に、その一撃は防がれることは無かった。かと言って、呂布の肉体に傷を作ったわけでもなかった。

 

「弱い」

 

殷周の伝説にしても、光武帝の伝説にしても、強者とされる武人は敵と打ち合う。何合、十何合分の体力を使い、敵を見定めてからそれに合わせた一撃を喰らわせるのである。

だが、呂布はそんなものは体力の浪費でしかないと断じていた。

 

彼女が目指すのは多対一における強さでもなければ、勿論一対一における強さでもない。

不特定多数にいつ、どのような方向から襲われても何とかなる強さである。それには量を物理的に捌いていく速さが必須だった。

 

天下無双など、通過点に過ぎない。結果的に一対一において不敗であっても、目的を達成できねば意味はない。

 

武人として道を歩む者ならば誰もが羨む才を持ちながら、呂布はそれに対して誰よりも無頓着だったと言えるであろう。

ともあれ、保護者の方は如何に敵を効率的に殺戮していくかということを突き詰めてしまい、被保護者の方は如何に敵を迅速に処理していくかということを突き詰めてしまった。

 

彼女がこの開戦してから二刻という短時間で既に五十人の命を天に還していることも、その特徴が表れている。

 

「敵将鍾会、呂奉先殿が捕えたり!」

 

鳩尾に方天画戟の石突を叩き込まれて気絶した鍾会を縛り上げた高順が高らかに音声を張り上げ、全軍に動揺が奔る。

攻勢に転じてからたった二刻で、敵の第一陣を突破したのか。

李師は、攻勢が下手なのではなかったか。

 

敵味方は等しくそのような思いを抱いたが、別に鍾会が捕虜になった瞬間に第一陣が突破された訳ではなかった。

総攻撃を命令し、それが結果として第六軍団の秩序無き潰走に繋がったのは午前九時十三分のことだったのである。

 

「敵陣、突破ぁ!」

 

歓喜と達成感に満ちた伝令の報告を聴きても、李師は表情を弛めなかった。ノリが悪いとか、兵卒のこの感情について嫌悪を示したとかそういうことではなく、単純に軍を引き締め直さねばならなかったからである。

 

「直ぐに次の敵が来るぞ」

 

その一言で狂騒のような歓喜の渦が収まったところに、彼の統率力の高さがあった。

要は、兵の一人一人に至るまで『この人の作戦に従っていたら間違いはない』と言う信仰を集めうることに成功していたのである。

 

名将という称号が味方に何らかの、即ち『不敗』や『常勝』などの信仰を抱かせる者に対して与えられる以上、これはこの戦場にいるどの指揮官にも言えることだった。

 

「軍旗確認。敵、荀彧隊。吾が軍の接近に伴い円形陣を編成しつつあり」

 

「両翼を延ばして三面包囲。距離は詰めずに、射撃に専念して敵の厚みを減らす」

 

「呂布様、成廉様、魏越様、帰還なされました!」

 

「待機。その三隊はまとめて運用する。両翼は?」

 

「依然、硬直状態にあります」

 

その報告を聴いて続行するようにと指示を出し、李師が一息ついた瞬間。

戦局は再び鳴動する。

 

「敵、荀彧隊の一部が突出。吾が軍の正面を攻撃しております。恐らくは中央突破狙いですが、一部ならばじきに攻勢限界点に達します。無視なされますか?」

 

「荀彧はそれをこそ望んでいる。私と前に対局したことを逆用して、呼び水ではないと偽装しようとしているのさ」

 

前回の戦闘とは、高陽の戦いを指す。

この戦いで荀彧は今と同じく迎撃の任務に付き、攻勢に転じて趙雲・呂布・華雄に包囲された末に敗れていた。

 

同じ様な演出をしてやれば、今度は別な手を使うか、或いは違う手で来るのかで戸惑いを生む。

それが、荀彧の仕掛けた罠だった。

 

「なるほど、心理的な罠ですか」

 

「そういうこと。ならばこちらは迎撃の斉射の後、全軍反転。趙雲を殿にして陣形を維持したまま、易京方面へ逃走する」

 

「逃走、ですか?」

 

「そう。ただし、ゆっくりと。しかも、整然と」

 

反計、と言うのか。敵の仕掛けた罠と類似型の物を、李師は荀彧に投げ返す。

恐らく、敵の突出は本気だった。李家軍を圧し戻し、攻勢を断念させる。或いは副次的に突破も目論んでいるかもしれない。

 

詰まるところ、李師は一見退路がなさそうな罠に嵌められていた。

進めば崩せず、止まれば断たれ、退けば撃たれる。軍隊の行動が極論を言えば『進む』『止まる』『退く』しかない以上、李師の選択はないに等しい。

 

「選択肢はない。だが、敵の選択肢を潰してやればどうかな」

 

進めば崩せずは、敵が円形陣をとっているから。

止まれば断たれは、中央突破をされるから。

退けば撃たれるのは、敵が後背に追撃を掛けてくるから。

 

それら三種を何とかする術を、李師は咄嗟に思いついたのである。

 

「李家軍、退いていきます!」

 

「追撃を―――」

 

これを見た荀彧は、『退けば撃つ』を実行に移そうとした。実際に、紡錘陣形に再編を終えているあたり、彼女は優秀な統率力を有している一軍に相応しい将帥であると言える。

しかし、自分が利用した『先の戦いの記憶』が、彼女に牙を剥いていた。

 

殿、趙雲。

追っていった結果、どうなったか?

 

ここで自分が突破されれば、本当に後がない。

 

「いや、突出部隊を収容して円形陣に再編して防御を固めなさい」

 

「敵、突出部隊を一翼で包囲!」

再編が四割まで終わりかけ、突出部隊を収容しようとした瞬間に、荀彧の元に急報が入った。

 

 

「呂布隊、全速で突入してきています!」

 

 

一翼包囲と急進。この時一翼包囲を実行したのは麴義である。騎兵と歩兵が乱雑に戦い合う乱戦に引き摺り込み、時間稼ぎと混乱に徹していた張郃が指示通りに差し向けた部隊であった。

 

部隊としての破壊力ならばともかく、個人としての強さでは比類なき呂布である。その推進力と突破力は凄まじく、忽ちの内に荀彧の本営に迫った。

この時李師も趙雲隊を前進させており、完全に攻撃に専念している。

 

この機を待っていた者が二人居る。一人は謂わずとしれた曹操である。

彼女は自ら右翼の指揮に乗り出し、張遼隊を一部隊に一部隊をぶつけて僅かに左斜め後ろ、即ち中央部の方へ後退させ続けると言う巧妙にして精緻な指揮ぶりを見せた。

 

これにより、張遼率いる右翼部隊を徐々に左へ、左へと誘引していたのである。

 

これにより、お得意の迂回急襲が可能となった。

しかも、計算通りの完璧なタイミングで。

 

「春蘭。あなたは中央部から右回りに迂回して敵右翼の横腹を突き抜け、そのまま敵中央部を打ち砕き、敵将を捕えて私のところへ運んで来なさい」

 

この命令を受けた夏侯惇は、やっと出番が来たかと勇躍し、右側面に回り込んでいた。

張遼は、この迂回してきた第七軍団に思いっきり横腹を突かれかけていたのである。

 

この迂回に目敏く気づいた張遼は、李師に問うた。

 

ここで自分が食い止めた方がいいか、右翼部隊は回避に専念した方がいいか。

食い止めれば、確実に張遼は死ぬ。それほど桁の違う攻撃力を持っていることを、この場の誰もが知っていた。

 

だが、その死の未来を前提に張遼は問うたのである。

 

『敵も下がるだろうから、呼吸を合わせて回避に専念せよ』

 

李師からの命令はこれだった。つまり、中央部が壊滅する羽目になる。

張遼からすれば、これは予想外だった。

 

中央部が曹操まで後一歩にまで迫っている以上、自分がこの破壊力を引き受けて減衰させた上で右翼部隊の指揮権を趙雲なりに渡し、呂布隊のみで突破させるべきだ、と。

そういう指示が出されるであろうことを彼女は―――変な言い方になるが―――期待していた。

 

だが、指示はそれとは間逆である。

 

「どうされますか?」

 

「もっかい訊き返す暇はないし、ここは策があることを期待して退くっきゃ無いやろ」

 

このような半信半疑の体でも、張遼の指揮は冴えていた。

彼女は敵の右翼部隊と呼吸を合わせて自軍を件の陣地にまで後退させることに成功したのである。

 

一先ずこれで、右翼部隊の危機は去った。そして危機が形を為したのような軍団は、矛先をそのままに標的を李家軍本営へと向けた。

 

「張遼隊には躱されたが、問題ではない。吾等が本営を直撃すればいいのだ。本営が躱しても、乱戦となっている左翼部隊は躱すことはできん。一翼が崩れたならば、そこから半包囲してやればいい。

吾等の矛先で何を砕こうが、砕けば即ち吾等の勝ちだ!」

 

夏侯惇率いる第七軍団の前には、李師・趙雲・呂布の三者が率いる本軍が、紡錘陣形で横腹を晒したままに横たわっていた。

 



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急転

Shadow様、Dieちゃん様、十評価感謝です!
春彦様、九評価ありがとうございました。


「そら、おいでなすった」

 

勇躍して驀進してくる夏侯惇率いる第七軍団の姿をちらりと横目で見つつ、李師は危機感に乏しい声音でそれを迎えた。

前線で指揮を執っている趙雲と、李師に命ぜられて前線から李師の側へととんぼ返りしてきた呂布は、気が気ではない。彼は個人としては慎重な性質だが、指揮官としてはよく博打のような手を打つ。

 

博打と言っても勝算と計算に基づいた博打なのだが、彼を見るものからすればそう見えた。

詰まるところ、この誘引の策にしても敵に勝算と己を殺す機会とを与えている。

 

自分すらも囮にしてしまうところに、彼の指揮官としての冷徹さが垣間見えていた。

計算を間違えれば死ぬが、その死に役を他人に押し付ける気にもなれないという甘さも、そこには垣間見えてもいたが。

 

「副司令官、手筈通りに」

 

「第一分隊は盾を側面部より迫る敵に向けて五十歩前へ、第二分隊は同じく盾を構えて右に十歩、前に十五歩」

 

李師が予め各部隊の配置と陣形を詳密に伝えていたことが、この際は田予の実行に対する名人芸を下支えしている。

この名人芸こそが李師の『用兵の芸術家』と呼ばれる戦術の冴えの屋台骨となっていることを踏まえれば、それを更に支えているのが李師の事前の対策案だと言うのは僅かなおかしみがあった。

 

各分隊に司令を下し、命令系統を再統合させる。

紡錘陣形は円形陣へと変貌を遂げ、あと僅かで打ち破ることができた荀彧隊から僅かに後退した。

 

「……何、したの?」

 

「治水工事さ」

 

この戦術を使えるということ自体が、李師の戦術能力の非凡さを表している。

 

彼は夏侯淵の用兵を、猛禽に例えた。天から両軍の動きを俯瞰し、弱点を看破して飛来して襲う。

 

別に本当に飛来して物理的に敵味方の動きを俯瞰できているわけではないが、夏侯淵は俯瞰できていた。

だからこそ、猛禽に例えられたのである。

 

では、李師はどうか。彼はそう友を評した時に、返事で何と例えられたのか。

彼は、巨人に例えられていた。普通用兵家の動きを見下ろして俯瞰し、優れた知性で動きの出先を読み、手に持った戟と斧とで敵を両断する。

 

『上に在る者』として例えられている彼の真骨頂が、この『治水』と言えた。

 

「あれは謂わば濁流だ。人の小細工など容易く押し流し、粉砕する。だから、受け流してしまえばいい。その濁流を引き裂き、細分化させて受け流すんだ」

 

敵の突進の破壊力が集中している真正面ではなく、僅かに右に逸らした部分に重量のある鎧と盾で武装した盾兵を配置して、その怒涛のような勢いを二つに受け流す。

盾兵の壁で円形陣に沿わせて勢いを殺し、再び配置した重歩兵で受け流す。

 

「副司令官、第三分隊を第六分隊の後背に。第四曲線を更に緩やかに。このままで破断される」

 

「はっ」

 

敵の勢いを殺し切れなかった場合は微細な修正を加え、無理矢理に計算を整合させていく。

この指示を下す李師の戦場全体を包み込み、支配する巨人の如き怪物じみた視野と知覚。そして、言われたことを即座に実行することのできる田予の運用能力。

 

「第六分隊に第八分隊を合流させて破断点を補強。第七曲線に敵が向かったらわざと破断させて通し、件の第三分隊を差し向けて分断」

 

「はっ」

 

趙雲隊と呂布隊の計九千が作り出す渦の中に、八千の第七軍団が分断され、逸らされて呑み込まれていった。

 

圧倒的な破壊力は、様々な破断点を作り出している。

しかし、破断させきる前に李師が逐次に兵力を補填。強化して撥ね返す為、辛うじてこの戦術は巧くいっていた。

 

「あの攻撃力は反則だな……っと、そろそろ第八曲線の内に沿うようにして本陣に通してやってくれ」

 

「はっ」

 

八門金鎖の陣にベクトルを掛けて敵を分断、強制的に迷路の中に引き摺り込んで殲滅。

李師が創り出した戦術は、兵の疲労と卓越した洞察力と俯瞰するような把握能力、更には実務における名人芸が必要である。

 

他人に再現できるかどうかはともかくとして、兵たちにも何をやっているかがわからないのがこの陣形の維持の難しさを示していた。

と言うよりも、敵味方で何をやっているかが辛うじてわかったのが曹操のみ。他の指揮官は突撃が成功したと思ったら、そのまま停滞してしまったように思えたのである。

 

「……来た」

 

五百騎が、盾兵の作り出した壁に沿うようにして李師が膝を立てて行儀悪く座っている碧い戦車が鎮座する本営へと突っ込んできていた。

それを元から知っていたのが李師であり、いち早く察知したのは呂布である。

 

本営には彼女と赤備えの五百騎が李師の乗る戦車の盾になるように半円形の陣を敷いていた。

 

「やっとか!」

 

七回に渡って分断に分断を重ねられ、まともに矛を交える前に八千騎の黒色槍騎兵は62騎にまでその数を減らしている。

別に残りの7938騎が全滅した訳ではないが、彼等も彼等で将を見失い、左右から槍で叩かれた挙句にどこかの破断点を見つけるまでは、延々と主将たる夏侯惇を探してこの鉄の渦潮を回り続けるより他にない。

 

詰まるところ、第七軍団は戦術単位としては機能しなくなっていた。

 

この夏侯惇の一言には、致死級の罠こそ勘で避けていたものの、同じ様な場所を延々と彷徨わされたと言う、妖術か何かを使われたかのような不思議体験が如実に現れている。

 

この不思議体験は、かなりの流血と疲労を伴った。だが、最終的には夏侯惇は迷路を走破したのだから凄まじい。

李師としては、致死級の罠にさっさと嵌って欲しかった。その為に何箇所かに敷設しておいたのである。

 

それを尽く躱されては、無念無念という他なかった。

 

「恋、八倍差なら勝てるかい?」

 

「……同数でも勝てる」

 

「なら、頼むよ。できれば捕えてきてくれ」

 

五百騎対六十二騎。珍しいことに、多数派が李家軍で少数派が曹操軍である。

両軍は主将の激突からはじまり、そして終わった。

 

夏侯惇は退路を絶たれていた。任されたからには己の身を賭してでも成し遂げなければならないと言う忠誠心と意識の高さが、この際は李師には有り難かったのである。

おかげで楽に退路を絶てたし、良将なればこそ突撃の途中で反転して戻るなどという自殺行為めいた行動は取らなかった。

 

彼にとって、突撃専門の第七軍団は不確定要素である。読んでもなお、それを上回る破壊力で軍を打ち砕く反則集団だった。

だから、丹念に潰してしまう。これから詰みにいく作業に、彼等の存在は邪魔なのだ。

 

「呂布か。つまり、吾等の突撃は読まれていたのか」

 

「……ん。誘引した」

 

「下手な方法を取れば、前方と側面からの挟撃で壊滅していた。それでも賭けたと、言うことか」

 

「荀彧は、亀にした。賭けてない」

 

誘引した後に思いっきり、二度にわたって引っ叩く。故に攻勢がトラウマとなり、現に今の行動にはとかく積極性を欠いていた。

 

「……連動してないなら、個別に撃つ。基本」

 

異なる軍が連動するには、基本的にはその異なる軍が同じ指針と同質力の積極性を持たなければ連動にならない。

李師は謂わばやりやすい相手をひたすら殴りつけることによって、やり難い相手の足枷としたのである。

 

正々堂々たる戦を好むものからすれば姑息に過ぎるが、彼からすれば勝つ為に必要なことでしかなく、それ以外の方法を採れば犠牲が増えた。

 

そして、与し易い敵を叩くことを孫子は勧めているのである。

 

「なるほど。だが、私もただで討たれる気はないぞ」

 

「……殺さない。捕まえる」

 

実力が伯仲していれば、死闘になりやすい。そして、死闘になれば殺すことなく捕まえることは難しい。

謂わばこの呂布の発言は、『あなたは私に勝てません』という意味を含んでいた。

 

本人としては、『言われたからやる』くらいな気持ちしかないが、要は言葉の意味などは受け取り手が決めることである。

 

「舐めるな!」

 

斜めから掬い上げる様に振るわれた七星餓狼を、騎乗した呂布は正確に軌道を読み取って弾いた。

 

常人ならば見切るどころか残像を捉えることすら難しい一撃を、呂布は当然のように捉えていたのである。

 

弾いた勢いそのままに、呂布は先ず方天画戟を軽く左に一振りして夏侯惇の持つ七星餓狼を叩き落とした。

そして、そのまま物干し竿でも振り回すようにして右に叩きつけて夏侯惇の愛馬の首の骨を圧し折り、騎手すらをも落馬させる。

 

 

刃を交えたのは一合のみ。しかも、片手。

 

 

愛剣は叩き落とされ、肋骨を何本か折られ、落馬させられ。

それが一瞬の内に起きた夏侯惇の顎の下に、方天画戟が突きつけられた。

 

「舐めてない。恋は、やれることしか言わない」

 

その言葉が先の己の言葉に対する返事だと気づいたのは、落馬の衝撃から立ち直った時である。

無論、その頃には彼女は縄で手首と肩を縛られ、見張りの女兵士六人に囲まれていたのだが。

 

「ご苦労様」

 

「……別に苦労してない。嬰の方が、苦労してる」

 

肉体労働をしている被保護者よりよ、頭脳労働をしている保護者の方が疲労の色が濃い。

先程の夏侯惇対策は、予想以上の体力と気力を彼から奪い去っていた。

 

「そんなことはないさ。本当に」

 

「それにしても、夏侯惇対策などと言うのは流石に法螺吹きだと思いましたが、本当に出来ていたのですなぁ。この趙子龍、感心致しました」

 

後退しつつの陣形の再編の為に本営に引き返してきていた趙雲の言葉に、李師は皮肉と疲労に彩られた笑みを見せながら軽く答える。

 

「法螺じゃあないさ。私はできることしか口にしない主義でね」

 

「では、勝てますかな?」

 

声色に微量の疲労と笑いとを含みながら、趙雲は後方を一瞥した後に問うた。

 

「何やら、突破はできそうですが」

 

「突破ができれば敵の本陣だ。このまま行けば勝てるし、いけなくとも負けはしない」

 

「と言うと?」

 

「別に私は自分の作戦を絶対視している訳じゃない。うまく行かなかった時の保険もかけてある」

 

結果的に。彼の作戦は読まれていた。

過程はどうあれ、結果的には読まれていたのである。

 

「敵陣、突破!」

 

「ん?」

 

三軍団を何とか撃退した李家軍中央部の前には、新たな壁。

 

楽進。右翼の補填に回っていた彼女は、『敵は中央突破を狙ってくるかもしれない。その時は君の判断で本陣と敵の間に割って入って、華琳を助けてくれないか』という天の御使いのアバウトな予言に従って準備だけはしていた彼女が、曹操の指揮で無理矢理割り込んできたのである。

 

「全部隊、凹形陣に展開。一兵足りとも本陣に通すな!」

 

護り切り、防ぎ切る。

その意志に満ちた指令が隅々まで行き渡り、疲労した李家軍を迎え撃った。

 

勝った。

 

まだ策の一つを残している天の御使いは、この時確信を持ってそう感じる。

 

 

 

 

だがこの時既に、楽進が抜けた右翼には、五千騎の兵が迫っていた。

 

「華雄様。正面に、敵右翼部隊」

 

伏兵としてようとして姿を表さなかった華雄は、戦場の空気を吸う。

そして、怒声と共にそれを一気に吐き出した。

 

「―――打ち破れッ!」



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突破

華雄隊は、この時をこそ待っていた。彼女が出撃を許可される場合は、二つ。

 

一つ目は、李師が敵の本陣を直撃した時。二つ目は、右翼部隊に致命的な欠損を見せた時。

 

周泰率いる物見を一刻に一度放ち、李師直属の伝騎に出会した彼女は、『やるべき』と見て進撃を命じたのである。

 

「華雄様。正面に、敵右翼部隊!」

 

「―――打ち破れ!」

 

彼女が右翼部隊の穴を更に抉ってこじ開けていた時、本陣と第十軍団(荀彧)を突破してきた李家軍の間に入り込んだ楽進によって、完全に李師の脚が止められていた。

実質的に、彼女の手に曹操の命と勝敗の如何がかかっていた訳である。

 

「あれ、華雄だけやん」

 

「そうですな。どうやら李師殿が投入を決定されたようです」

 

夏侯惇の突撃を回避すべくギリギリのところで後退し、陣形を立て直し終えた張遼は、呆れたような、驚いたかのような声色でつぶやいた。

彼女の内心は、七割の感嘆と三割の疑念で構成されている。

 

七割の感嘆の内の半分は夏侯惇を捌き切るどころか壊滅させた手腕、もう半分は華雄隊の投入のタイミングの巧妙さ。

そして、三割の疑念は伏兵として配置されていた片割れである淳于瓊隊が投入されなかったことだった。

 

「淳于瓊は居らへんな」

 

「はぁ。遅れているだけか、また何か仕込んでいるのではありませんか?」

 

「まぁ、後者やろうけど……」

 

なら、何を読んで李師は淳于瓊を伏せたままなのだろう。

張遼が悩むのは、それだった。

 

「将軍。吾々も攻撃を開始すべきでは……」

 

「あぁ、せやな。はじめよか」

 

今にも駆け出しそうなほどに躍動感に溢れた馬が描かれた旗が風を孕んで靡き、全体の二割を失った張遼隊四千が突撃を開始する。

 

敵右翼部隊を取り巻く状況は、一刻前までの李師に似ていた。

側面から最大の破壊力を持つ部隊が突入し、正面から更に敵が攻め寄せる。

正面からの敵には第三軍団(于禁)、側面から的には第九軍団(毌丘倹)が対応したことが、似ていて非なるところだった。

 

第九軍団は、一日目に損害が多かったが為に二日目の戦いに参加せず、疲労を一切感じていない新鮮な部隊である。

この新鮮な部隊の横腹に、同じく疲労を一切感じることなく力を溜めていた猛虎が噛み付いた。

 

張遼と華雄は、この時李師の管制下から離れている。と言うよりも、李師の管制範囲がこの時、一時的に収縮していた。

役割分担をしている敵軍の動きに一々対応していたが為に、彼の指揮能力が僅かに鈍化していたのである。

 

李師は独善的な指揮官ではなかった。個々の司令官の意見をよく容れたし、その到底人の上に立つ者とは思えない風貌に現れている温和さで包んで統御している。

彼の頭は戦略と言う大枠を諦め、戦術方針という外枠を定め、枠内にある空白を各指揮官の適性と部署を加味して何とか曹操に対抗していた。

 

彼の初めての対戦相手であり、個人的に見れば最も苦戦したと言う実感のある檀石槐は、五人の才能がある族長と一人の軍師を自分の作戦に引き摺り込んで無理矢理にでも実行させている。

この方法は配下の才能よりも己の才能が上だと信じ切っており、なお且つその自己認識が正しかった檀石槐だからこそ出来ていたことで、檀石槐の将才を認めていた李師には到底できそうにもなかった。

 

だが別に、総指揮官がやっていることは誰であろうと変わらない。要は部下にどこまでの裁量を任せるかの問題だと言える。

 

猛烈な攻勢と、鉄壁の守り。左右両翼の戦線の配慮と伏兵への突入指示。これらを処理し、適確に捌き続けただけでも大したものだが、人である以上は限界があった。

一晩寝ても肉体的・精神的な疲労が全快するわけではなく、彼の頭は休眠期に入ったのである。

 

今働かせても赫々たる成果は挙げられない。ならば機に全力で乗じることができるように休む。

彼から見れば最低限の、平均以上の能力を持つ将からすれば極めて困難な、常人からすれば何の奇も衒わない指揮振りを、彼は頭を休めながら二倍近い敵を食い止めつつ篤実に続けていた。

 

華雄は、李師の指示が無いことに対して予め伝えられていた指示を実行に移す。

即ち、自分がすべきだと思ったことをその全力を傾けて実行したのだ。

 

「敵陣、亀裂を生じつつあり!」

 

「そのまま直進して敵の側面に雪崩込め!」

 

半刻も経たずに敵の右翼部隊を突き崩した華雄の突進に、突進に付き従ってきた兵自身が驚きつつ現在の状況を報告した。

それに対する華雄の命令はシンプルである。曹操の首元に斧を突きつけ、降伏条件を受け入れさせる。その為に突き進み、敵陣を切り開くのが華雄のすべきことだった。

 

突撃すべき一点を正確に見定め、突破する。

簡単に見えて、誰でもできることではないことを、華雄は整然とやってのけた。

 

「正面また別の敵が!」

 

「何?」

 

この突撃を受け止めたのは、李師の本軍を凹形陣で防いでいる楽進ではなく、敵軍左翼に居るはずの第十一軍団である。

乱戦の中で徐々に圧し込まれつつあった李典が第十一軍団の半数を急進させ、ごっそりと―――仕方ないとはいえ―――防御力を中央部の防御に持って行かれた右翼部隊の補填としていたのだ。

 

しかし、この部隊は間一髪で間に合わなかった。

華雄を右翼部隊と中央部の間で、しかも陣形を立て直す間もなく迎え撃つことになったのである。

 

最早曹操軍の各指揮官が各個に正当な判断を下して戦線維持と巻き返しを計っていた頃、この惨状に追い込んだ『統一性のある攻勢』のタクトを持っていた人物もまた、各指揮官の判断に任せて戦略的な思考に耽りはじめた。

 

李師は、どうにも自分の手が読まれているような気がしてきていたのである。

 

この思考は後に効果を発揮するが、彼が現実世界の攻勢に対処すべく思考を復帰させるまでの一刻を、外枠内の判断を任された各指揮官はどうにか乗り越えなければならなかった。

 

『どうなされますか』

 

各指揮官は、副官からの異口同音の問いに頭を悩ませる。

結果として、最初に、されど同時に判断を下したのは華雄と張郃だった。

 

「突撃。今退いても得る物は何もない」

 

「敵の最左翼の一隊を圧迫し、そこから麴義隊を突入させる。こちらの防御力が薄くなった以上、半包囲をしてしまえるのだからな」

 

二隊が攻勢に意志の指向を傾けた瞬間、張遼と呂布と趙雲の行動も決した。

積極攻勢に出た二隊を、掩護する。

 

「攻勢続行。それしかないやろ。あの奇略縦横の指揮官が居らんでも、機を見逃さんくらいの能はウチ等にもある」

 

張遼の一言はかなりの謙遜であったが、同時に今までの攻勢が李師の指示ありきで進んでいたことを端的に表していた。

 

張郃と麴義が提携して半包囲を六割がた成功させ、張遼と華雄が態勢を整えつつあった右翼部隊を二方面から圧迫していた時、哀れなベレー帽をしわくちゃにしながら戦線維持と攻勢をこなしていた李師は閃いた。

 

「敵の参謀は私より読みが深い。恐らくは私の初動から作戦を読み、対処をしている。その上でここまで何ら私の行動を阻害することなく、目的の達成のみを阻害してきたのだから、忍耐力もある。しかし、読みは私より粗い。知識と作戦への洞察はとても私の及ぶ所ではないが、経験が浅いのか、詰めが甘い。後手後手に回りすぎている」

 

側近の『こいつより優秀な参謀が居るのかよ』と言う恐怖の眼差しを気にすることなく、李師は対策らしき案を七個ほど滔々と述べる。

その異様な光景を中断させたのは、呂布の鎮静を促す一言だった。

 

「……どうする、の?」

 

「敵はわかっていた。ならば先手を打つはずだ。ここまで敵の読み通りならば―――そうだな。明命」

 

「はいっ!」

 

李師がさらさらと書いた書面を周泰に渡すと、周泰は速やかにその場を発つ。

最早、李師の中ではこの戦争の帰趨は敵との競争の帰趨によるものだった。

 

「恋。華雄に一言伝えてきてくれ」

 

「……なんて?」

 

「後背に敵部隊が急襲してくるだろうから、一隊を以って背後に気を配っておくように。更には、前面の敵をいつでも破断できるように急襲と退却を繰り返して薄弱化を計れ、と」

 

「わかった」

 

人中に呂布が在り、馬中に赤兎が在る。

この伝令行で謳われただけに、呂布の行動は怪物じみた勇猛さと氷の様な冷静さに彩られていた。

単騎で楽進隊の前の射程ギリギリを横切り、赤兎馬を疾駆させて第十一軍団を後ろから前に穿き、容易く華雄隊に到達した。

 

この伝令の為の道を阻んで撃殺されたのは百名に昇る。

まるで無人の野を行くが如き、と評されただけあって、呂布は汗一つかくことなく華雄に伝言を口頭で伝えて馬首を返した。

 

「帰るのか?」

 

それを受け取った華雄は、思わずといった面持ちで、吾ながら馬鹿げた問いだ、と後に己が述懐することになる問いを投げた。

 

「……嬰は、心配性」

 

呂布はそう答え、元来た道を汗一つかくことなく、その身に傷一つ追うことなく、返り血を浴びることもなく帰ってしまったのである。

 

呂布から伝えた旨を聴いた李師は、一つ頷いてちらりと右翼方向を見る。

 

「そろそろかな……」

 

「と、言いますと?」

 

「いや、吾が友がね」

 

懐かしみを漂わせた語気で李師が田予の問いに答えたのと時を同じくして、もうもうとした砂塵が李師の視界に入ってきた。

 

「夏侯妙才殿ですか」

 

「ああ。でも、いやに兵数が少ないな」

 

他人事のように呟く李師には僅かながら心の余裕が生まれていていた。勿論それは油断に結びつきかねないものだが、李師は戦ってこの方油断したことがないという、自分の才能に信頼を置かないこと甚だしい男である。

 

きっちりと、対策を張っていた。

 

「華雄隊を前に退却させてくれ」

 

「はっ」

 

旗と銅鑼を組み合わせて下した指令は、華雄の元に届いた襲撃報告と殆ど同じ時に届いた。

 

「将軍。後背から、敵接近」

「流石に速いな」

 

右翼を中央部を守る盾とすると、華雄隊はその盾に鋒から刃の付け根までを突っ込んだ槍のようなものである。

本陣からの旗の連絡を見て、華雄はすぐさま突撃に転じた。

 

要は追いつかれる前に敵をぶち抜いてしまえばよい。

 

「総員、後ろを見るな。活路は前だ!」

 

右翼という盾を、華雄は慣れない波状攻撃に晒しすことで、今に至るまでその強度を下げ続けている。

波状攻撃が拙くとも、その破壊力は尋常では無かった。

 

「敵陣、突破ぁ!」

 

「よし、突き進め!」

 

目の前に、曹の牙門旗。勝ったと思ったその瞬間。

 

「将軍、側面から!」

 

華雄は強かに逆撃を被る。

 

「何だ!」

 

「楽進隊です。どうやら敵に突破を読まれていた模様」

 

「敵は、機動性を含む攻勢が下手なのではなかったか?」

 

「その筈ですが、現に吾が総司令官殿は攻勢に於いても尋常ではないではありませんか」

 

その表現は正しくもあり、間違ってもいた。楽進は本当に機動性を含む攻勢が苦手なのである。

この楽進隊を用いた逆撃を喰らわせたのは、波状攻撃から突破地点を読み切っていた曹操であった。

 

その頃、猛追していた夏侯淵の前にも一隊が立ち塞がっている。

右翼を突き崩して夏侯淵の頭を塞ぐように動いたその部隊は、張遼隊であった。

 

 

華雄と曹操、張遼と夏侯淵。両者が無言の内にぶつかり合った時、李師の左手が静かに天頂方向を指し、垂直にまで下ろされる。

 

パタリと旗が靡いた瞬間こそ、この戦いの帰趨が決した時であった。

 

「指令は下された。敵を挟撃する好機は今ぞ!」

 

李家軍最後の予備隊たる淳于瓊隊が、曹操軍最後の予備隊に向けて後背から襲いかかる。

謂わば、夏侯淵は華雄の後ろをとっていた。その華雄の背後を守るように張遼が立ち塞がり、夏侯淵の背後に目掛けて淳于瓊が牙を剥いたのである。

 

この時既に、曹操に叩きのめされた華雄隊は劣勢から潰走へと移りつつあった。

 

「何とか―――計算通り、かな」

 

それを見た李師は、一人呟く。

彼は曹操が華雄隊の横腹に痛打を喰らわせた時点で策を実行に移していた。

それを実感したのは、彼の攻勢を四刻にわたって受け止め続けている楽進であろう。

 

彼女は、曹操に抽出した後に再編したが為に薄くなった両翼に、敵が攻勢をかけていることを察知した。

 

「両翼に二隊ずつ、突破力のある小隊が喰い掛かり、綻びを作ってきている。敵はこの綻びから兵を突撃させて点とし、四点を繋いで面として圧してくるつもりだろう。

中央部から迅速に兵力を割いて四点の綻びを紡げ」

 

この命令は、速やかに実行に移される。防御に長けた楽進の四点が必死で開けた穴は紡がれ、最早再突破も望めない。

両翼への攻勢の対処が完了し、凹形陣の中央部が僅かに薄くなった、その瞬間だった。

 

「呂布隊、突入してきます!」

 

「ッしまった!」

 

楽進は、悟った。

この期に及んで踊らされた、と。

 

「延ばした両翼を縮小させて中央部に厚みを取り戻させろ!」

 

「駄目です。右翼はともかく左翼は乱戦状態にあり、間に合いません!」

 

その返答を聴いた瞬間、楽進は馬から叩き落とされて気絶した。

呂布隊三千と、趙雲隊三千とが穴を抉じ開けて無理矢理に突破口を開いてきたのである。

 

「敵陣、突破……!」

 

中軍にあって突っ込みながら指揮を執っていた李師は、感嘆と感動を混じえたその声を聴いて、一つだけ言葉を発した。

 

「全軍、敵の牙門旗まで前進」

 

 



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邂逅

「私は敗けた、ということね」

 

全軍に停戦が命ぜられたのは、西暦百八十九年、五月十六日のことであった。

疲労の極みに達しているとは言え六千の軍に包囲された曹操が、自分の負けを認めて停戦要求を飲んだのである。

 

半包囲態勢に置かれていた左翼も、夏侯淵の指揮の元に再建されつつあった右翼も、軍が粉々にされた兵の集団が虚しく漂うばかりの中央も、皆等しく矛を収めて易京から南十五里のラインにまで後退して陣形を再編した。

 

そして李家軍も、まさに乱戦という名が相応しい戦線を収拾。何とかかんとか軍の再編を終えて易京へと戻る。

 

この会戦での曹操軍の被害は死傷者四万。李家軍の被害は死傷者一万二千。

だいたい二分の一を喪った曹操軍と、三分の一を喪った李家軍。これだけ見ればどちらが勝ったのかわからないという惨状だったが、実際的には『曹操軍が僅かにつんのめり、そのつんのめった分』程度で李家軍の勝ちだと言えた。

 

負傷者の収容と応急的な治療に三日を掛け、李師が会談を申し込んできたのは五月十九日のことである。

 

「……少なくとも、私は敗残者であることに変わりはないわ。この会談は受け、そこで撤退の案件なり、賠償金なり、捕虜の返還なりを話し合うことになりそうね」

 

変に律儀なところがある曹操は、実のところこの時に易京に攻勢をかけていれば勝てた。

李師は疲労の極みにあり、頼みの綱の頭脳も粥の様にふやけ切ってしまっている。更に、この会戦で兵員の三分の一を喪っており、先ず先程の如き乾坤一擲の戦法には出られないことはわかりきっていた。

 

だが、曹操は停戦の申し入れを守っている。一度交わした約束を破るなど、己のプライドが赦しそうになかったのである。

 

 

そして、明けて五月二十日。当然のように敗者として易京に向かう準備をしていた曹操のもとに、急報が齎された。

 

 

「降伏の使者として参りました、李瓔と申します。曹兗州殿にお目通り願いたいのですが……」

 

後ろに呂布を従え、どうにも冴えないような風貌をした男が曹操軍の本営を訪ねてきたのである。

無論、曹操軍の高級将校たちはその報に接して各指揮官が指揮する部隊から離れて見物に行った。

 

自分たちが敵わなかった敵将を見たい。それは決して感情の発露として不自然ではなく、ごく自然なものだと言えよう。

しかし、そこで目にした物は『智将』や『名将』と言うにはあまりにも相応しくない冴えなそうな男の姿だった。

 

(失望してるのかな。それとも、期待などされてはいなかったのかな)

 

李師は、好意的でもなければ害意を抱いているわけではない、首を傾げているような疑念の視線に晒されている。

彼は自分の容貌が『英気と覇気に満ちて人の上に立つ風格を有す』などと言われた檀石槐の如きものではないことを自覚していた。

 

故に、この様な『え?』みたいな視線には慣れていたのである。

 

「仲珞」

 

直前まで刃を交えていた者達とは思えないほどフレンドリーに、夏侯淵は極めて無防備な肩に左手を置いた。

自軍の高級将校たちの疑念に背中を押されたこともあり、また単純に再開を祝したかったこともあり、夏侯淵はさらさらと視界外から近づいてきたのである。

 

「あぁ、久しぶり」

 

「見事な戦だった。私としては、してやられた側に立ってしまったことのみが、心残りだがな」

 

久しぶりに会えたからか、また遠慮のない限りなくグレーな―――つまり、勝ちたかったのか李師側に付きたかったのかがわからない発言をしている夏侯淵の前で遠慮なく肩を竦めた。

 

そのことを察したのか、夏侯淵は僅かに眉を顰めておどけて見せる。

要は、夏侯淵のこの発言は李師を前にしてしまったからこそポロリと出てしまっていたのだった。

 

「そちらも迅速極まる行軍だった。ただ……」

 

「ただ?」

 

「ただ、君の軍はいやに数が少なかった。何かあったのかい?」

 

李師はこの時、自軍の惨状と敵軍の惨状を作り出したのが己だということを目に見て、自分の罪の深さを自覚してしまっている。

正直なところ、彼は英雄特有の陶酔や勝利の美酒に酔えるような性格ではなかった。故に、謂わば他者が巧みに自己の中で逸らしている責務と罪をまともに受けてしまった、というわけである。

 

この上、自分の目の届かない所で自分関連の出来事で人が死んでいるという事実を、彼は受け入れる義務があると思っていたのだ。

 

「易城の審配が苛烈に抵抗してな。動きを止める為に一軍に包囲させるより他になかった」

 

彼と配下の将の評価は、戦闘に関して安定性のある張遼以外は彼を含めて総じて低い。

『思考に手脚が伴わない』李師、『思考に独創性が欠片もない』田予、『武を頼み過ぎる』呂布、『危険人物』の趙雲、『実力に自信を持ちすぎ』な華雄、『水賊上がり』周泰、『融通のきかない』張郃、『忠誠心に期待できない』麴義、『退き時を知らない』淳于瓊、『勝ち運がない』賈駆、『意志と能力に欠ける』審配。

 

全てに禰衡曰く、と言う頭言葉が付くものの、これはだいたい合っている。それを上回る長所と使い時の巧さが、この評価を不当なものへと変えていた。

 

「へぇ」

 

「何だ、貴官の差配ではないのか?」

 

「いや、私としては抵抗よりも君を領内奥深くにまで誘い込むことをこそ期待していた。最初、君が反転してくるとは思っていなかったのでね」

 

彼の作戦案の最善としては、中央突破で曹操を捕らえる。捕らえたら和議を呑ませてそれで終わり。

捕らえられなかったならば敵が要塞攻撃を不可能な打撃を与え、全軍の三分の一ほどを残して直ちに反転。領内奥深くにまで侵出した夏侯淵の補給線を絶ち、飢えたところで叩く。

 

これが、李師の作戦だった。故に彼は配下の城将たちの降伏をおおっぴらに認可してしまったのである。

審配の猛戦は夏侯淵が反転攻勢をかける場合は良いベクトルに傾いた。

 

もし夏侯淵が反転攻勢をかけようとしなかったとしても、審配の猛戦は変わらない。彼女は審配の守る易城と李師の率いる軍で挟み撃ちに合わせたことだろう。

どちらにせよ対応できるように周到に配置しておいた―――と言うよりは味方の勇戦に期待できない為に次善の策を常に取らざるを得ないことが大きいが、それが却って李師の作戦における柔軟性を生んでいた。

 

「予想していなかったのに、対処はできたというのか?」

 

「どうにも、私の思考が読まれている気がしてね。張った罠を発動させず、かと言って回収もせずに放置しておいたのさ。土壇場で気づいて、何とか発動させたというわけだ。

あと、反転は君の意志じゃあ無いんじゃないかな?」

 

李師は、夏侯淵の気性を知っている。夏侯淵が最初から『曹操は李師に敗ける』とわかっていたならば、敢えて補給を無視して一路薊にまで進撃し、敵の意表をついて速やかに降伏させたことだろう。

 

退嬰的な、即ち負わせられた傷を治すような動き方は、夏侯淵らしくないものだった。

負わせられた傷はそれ以上の傷を負わせて刺殺を測るのが夏侯淵と言う指揮官の癖である。

 

だからこそ、李師は当初の計算に夏侯淵の参戦を入れていなかった。

故に、土壇場での対応と言う形になってしまっている。

 

「相変わらず異常な柔軟性と洞察力だな。恐れ入る」

 

「で、私をやすやすと超えていった参謀は誰だい?」

 

「天の御使いだ。私に入れ智恵し、華琳様の危機を救わせようとしたのはな」

 

髪に隠されている方の眼が妖しい虹彩を持ち、両眼ともに閉じられた。

いつもの左腕と右腕を鳩尾の直ぐ下辺りで組んだ姿をしている夏侯淵の前で、李師は帽子を取って頭を掻いた。

 

「……参ったと同時に嬉しくもあるな、これは」

 

「ほぉ……是非、内情を聴かせてもらおうか」

 

「参ったのは、単純に智恵比べで敗けたから。嬉しいのは容姿・能力・年齢の全て完全に下位互換となった吾が身では、曹兗州殿の勧誘の対象には、万が一にもなり得ないことさ」

 

李師はどこかで見ていたのか、と。夏侯淵はすんなりと理解した。

どこかで、という表現は正しくないであろう。彼女は状況を整理し、天の御使いと李師とが顔を合わせる機会があることが黄巾征伐時のみであることを推理し終えていた。

 

そしてその邂逅が外見を物色し、内面をこじ開けるにまで至らなかったということも。

 

「能力はともかく、完全に下位互換ではないな」

 

「へぇ?」

 

未来を知っているのが能力と直結するのか、という疑問に関しては夏侯淵は未だ回答を出せていない。

結果的に見れば未来を知っている無能と小才子とでは前者の方が能力としては高いと言えよう。

 

しかし天の御使いは無能ではないし、抜群の、それも多種多様の人物に対する人望があるし、未来知識もある。

李師には癖者に対する圧倒的な人望と、未来知識はないがそれに等しい洞察眼と推理力を持っている。

 

正規の能力で表すならば間違いなく後者が優れていることは疑いがないが、未来知識とやらも侮れないと、人を見る時に感情を排す質の夏侯淵は判断していた。

 

智恵に関しては、前者が集積された智、後者が積み上げていく智という種類の違いがある。

限界も見えていない現状では比べることは困難だが、間違いなく言い切れることが一つあった。

 

「声はお前が上だ。人それぞれだと言うかもしれんが、味がある」

 

「それは随分と主観的だね」

 

「その通り。私の好みだ」

 

顔は比べるに『如何に異性に好かれるか』という実績を必要とするし、それでは確実に李師は負ける。

頭の中身も異端と言う点では同類項で括れるが、前者が知識のフィルターに視線を通してしまって膠着しがちなのに対して、後者は儒教という誰もが掛けるフィルターすらなく、柔軟性と洞察力に富む。

 

どのように育てたらこの様な異端児に成長するのか、夏侯淵は大いに興味があった。

しかも、彼を育てたのは実益を尊ぶ宦官ではなく、儒教を重んじる清流派の領袖。どうなればこうなるのか、皆目見当がつかない。

 

そこまで話したところで、どこかで『どうせそうだろうな』と高を括っていた彼女は、そう言えばという形で切り出した李師が自分の意志を汲んだことを悟る。

 

「君の姉は健在だよ。捕えておいて、なんだけどね」

 

「姉者は牢を壊さなかったか?」

 

「牢に入れなかったけど、代わりに入れた客室の備品が壊れたよ。大暴れだったからな」

 

「寝相か」

 

「ご明察」

 

最初から殺す気など毛頭ない李師が、曹操の将を意図的に殺すはずも無い。作為的な行動の中に殺されてしまった将も居るが、捕虜を処刑するほど馬鹿ではないと、夏侯淵は確信していた。

故に、夏侯淵は敢えてそこには触れなかったのである。

 

そのことは、李師もわかっていた。だからその意思を理解し、汲んだ上で自分から切り出したのである。

 

「では、案内しよう。そろそろ準備も終わる頃だ」

 

「有り難いね。こういう厄介事は、一刻も速く処理するに限る」

 

今まで刃を交えていたにしては自然すぎる会話を刃の代わりに交えつつ、二人は曹操の元へと出頭した。




李瓔
親愛←夏侯淵、華雄、趙雲、張郃、陳慶之、田予、李牧、呂布
親愛→夏侯淵、華雄、堯帝、趙雲、張郃、田予、呂布

嫌悪←荀彧、鍾会、単経、檀石槐、田偕
嫌悪→単経、田偕


曹操
親愛←于禁、郭嘉、楽進、夏侯淵、夏侯惇、許褚、荀彧、程昱、典韋、李典
親愛→于禁、郭嘉、楽進、夏侯淵、夏侯惇、関羽、許褚、荀彧、程昱、典韋、李典

嫌悪←袁術、袁尚、張飛、馬休、馬岱、馬超、馬鉄、馬騰
嫌悪→孔融、楊修、左慈


夏侯淵
親愛←夏侯惇、毌丘倹、諸葛誕、曹操、典韋、李瓔
親愛→夏侯惇、曹操、李瓔

嫌悪←鍾会、黄忠
嫌悪→なし


呂布
親愛←魏越、高順、成廉、檀石槐、李瓔
親愛→李瓔

嫌悪←鍾会
嫌悪→なし


鍾会
親愛←なし
親愛→曹操

嫌悪←なし
嫌悪→夏侯淵、李瓔、呂布


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問答

そうそう が なかまにしたそうに こちらを見ている!


「はじめまして。天下に冠たる名将と会えて、嬉しく思います」

 

「えぇと、はい。その、こちらこそ」

 

出頭して早々礼節に則った遇し方をなされ、やけに戸惑っている李瓔に対して、曹操は穏やかに声をかけた。

内心では、無論戸惑いと困惑がある。しかし、それを表に出さないのが彼女のプライドというものだった。

 

「降伏とは、私に降伏を勧めに来たということなのかしら?」

 

「いえ、私が降るということです。私自身はどうなろうと構いませんが、部下たちの命と一つの条件を飲んでいただければ、捕虜を無傷で返還し、易京を明け渡します」

 

そちらの方が、しっくりと来る。

己が敗者だという、生まれてこの方初めてと言っていい感覚に、曹操は対処の術を知らなかった。

 

しかもその敗北を味わわせた存在が、窮鳥の如く懐に飛び込むことで勝ち逃げしようなどとは。

 

「降伏。公孫瓚への忠誠心は、もう無いのね?」

 

「元々義理で戦っていました。ここで一度勝ったからには、もう義理を果たしたと思います。無論、この一勝を以って条件を呑んでいただければ、のことですが」

 

忠誠心と言うよりは、給料に対する義理と公孫瓚個人に対する親しみによって戦っていた李師である。

勢力に対しての忠誠心など持ち合わせているはずもないし、個人に対する忠誠心も同じだった。

 

「条件とは?」

 

「公孫伯圭の助命」

 

「呑むと思うの?」

 

ほんの二週間程前に外交折衝を打ち切ることなく続ければ、この程度の条件は無血で容れられたことだろう。

だのに、結果的に見ればこのざまになっていた。

 

「思います」

 

「一旦払われた手を、再度差し出すほど私は優しくはないわ。長期的な展望を持てない盲を拓かせるのは、現実。あなたはその現実を個人の技量によって何度か防いでしまっていたわけだけれど」

 

「正直なところ、上層部が個人の技量を恃むことと私が侵略を阻んだことは別の問題でしょう。私は何とか自己の責務を全うしていただけで、それが当然であり不変だと思うのはあちらの勝手というものです」

 

李師が齎した戦術的な勝利に胡座を掻くのは、胡座を掻いた者の責任であって勝った者の責任ではない。

戦術的な勝利は長期的な戦略・政略の材料に過ぎないのである。

 

それを彼は誰よりも認識してきたし、認識をするように問題提起をしてきた。それを認識しなかったのは単経等であろう。

 

「では、改めて問いましょう。何故この時期に降伏するのか。何故私が降伏に対する条件を容れると思ったのか」

 

「一旦、こちらから払った手を再び差し出させるには、やはり差し出さねばならない状況を作らねばなりませんでした。つまり、戦術的な勝利によって戦略を多少なりとも頓挫させなければならなかったのです。

それに、貴女に何らかの条件を飲ませるには、戦って意志を示すこと。そうではありませんか?」

 

即ち、それによって易京要塞の価値を釣り上げて条件を引き出さなければなかった。

 

更には、彼から見た曹操は戦いを好む。

人格としてそうなのか、或いは政略や謀略による決着よりは、という程度なのかはわからないが、彼女に翻意させるには戦争しかない。そういう確信を、彼は得意の洞察によって

それも、堂々とした意志と智略のぶつかり合いを好むというのが李師の洞察だった。

 

「私は、一個人としてはあなたの勝ち逃げを許したくはない。もう一度戦い、勝ちたい。けれど、今の私では無理でしょうね」

 

「もう一度戦えば、私はこの地に躯を晒すことになるでしょう。戦略的敗北は、戦術的な勝利によって覆すことなどできないものなのですから」

 

傍から見ていた夏侯淵はこの時、己の意思を抑えつけることに苦心している。

彼女は、言いたかったのだ。

 

『お前が言うな』、と。

 

いや、別に李師の発言は妄言ではない。極めて真っ当な発言であり、あまりにも当たり前だから表立って賞賛されることはなくとも、有能であり、夢想家でないことがわかる発言である。

 

しかし、この男は先立って戦術的な勝利によって戦略的劣勢を撥ね退けて見せたではないか。

 

(普遍的な、即ち常識と言うものは誰しもが当てはまるものではないな)

 

李師が『戦術的な勝利によって戦略的劣勢を撥ね退けることができる』と断言したならば、殆どの兵は素直に信じるだろう。

だが、素人が『戦術的な勝利によって戦略的劣勢を撥ね退けることができる』と断言したならば、それは蔑視の対象でしかない。

 

戦術レベルにおいて傑出した物を持っている者には、常識が通じない。

加えて、その異常さを当人が傍から見た上で『異常なことだ。二度とやりたくないし、やるべきではない』と判断しているのだから質が悪かった。

 

(いや、先立って常識を乗り越えた男に常識を当てはめることが既に愚かしいのか)

 

一先ず思考に区切りをつけた夏侯淵は、目の前の戦術を好む天才戦略家と戦略を好む天才戦術家の問答に視線を移す。

能力を入れ換えたらちょうど良いと、思わないでもなかった。

 

「正当な思考ね。では、何故あなたは私に勝てたのかしら?」

 

「運が良かったのです。それだけではありませんが、とにかく、運が良かった。だから、何とかここで話すことができています」

 

「あなたの戦術の腕は私のそれと戦略的劣勢を覆しうる程の差があるから。そうではないの?」

 

「私は、根性悪く穴に潜んで用意をし、機を伺っていました。最初からまともに戦えば、私に勝ち目などなかったでしょう」

 

押し問答の色を帯びつつある会談の場は、一応の勝者が己を評価せず、敗者が勝者の能力を高く評価するという、些か以上に奇妙な情景を示している。

 

この李師の形式を重視するような奥ゆかしさを曹操は好ましい物だと思ったが、彼は本気で勝因を『八割が運、一割五分まで部下の勇戦、残り五分が戦術』と思っていた。

一片の不運が襲わなかったわけではない。一回の失敗をも犯さなかったわけではない。

 

それを乗り越えたのは、張郃・張遼・呂布・趙雲・華雄・麴義らの勇戦に拠る所が大きかったのである。

 

「……まあ、これ以上の追及はよしましょう。その降伏を容れなければ私はこの易京から北に進めないでしょうし、他者からの評価と自己評価に乖離があるのは何もあなただけでは無いもの」

 

「有り難い仰せです」

 

曹操が言った乖離とは、己の実力を高く見積もり過ぎている者の何と多いことかということだった。

能力が豊かに備わった人間は、成功する。成功すればするほど自信が備わり、それがともすれば過信に繋がる。

 

己を全く評価せず、やれることとやれないことを弁えている稀有な人格だと、曹操は心中で李師を高く評価していた。

 

「……条件は呑みましょう。どのような形になれ、公孫瓚の命は取らない。かと言って私は、あなたの命も取る気もないわ。私は、偉大な敵将には敬意を示す。

勿論、あなたもそれに値する」

 

「身に余る評価、恐縮です」

 

「でも、役に立ちそうにない豪族は潰すわよ?」

 

念押しと言うように、曹操は問う。彼女の権力基盤が名士の優遇にある以上、名士を優遇してこなかった幽州の豪族を取り込むわけにもいかなかった。

土地はいくらあっても困らないし、優遇に値しない者に任せる気にもならないのである。

 

「……ああ、無論あなたの部下の豪族は免除することになるから、名簿を渡して欲しいのだけれど?」

 

「張郃、審配の両名のみなので、名簿も速やかにお渡しします。それ以外に、私が申し立てることはありません」

 

「あら、薄情なのね」

 

「私は彼女等を好きにはなれませんし、庇う気にもなれません。私の手は親しい者を防ぐのに手一杯でして、嫌いな者を庇うほどには長くはないのです」

 

嫌いな人間に出会したら、目も合わせないという歪な子供っぽさを持っている彼にとって、嫌いな人間は終始嫌いなままだった。

つまり、幽州の豪族に好感などは微塵もない。むしろそれに数倍する嫌悪がある。

 

嫌いな奴は嫌い。理解されようとも思わないし、理解しようとも思わない。

子供が野菜を嫌うレベルのこのスタンスは、彼の人格上の明確な欠点だと言えた。嫌いでも折り合いをつければ、曹操にもある程度は抵抗し得たはずなのである。

 

遠ざけはしないが、自分から関わろうとも思わない。できれば一生関わりたくない。

 

まあ、どこかで破局していた可能性と、戦乱の長期化による犠牲の拡大の可能性が高すぎることを考えれば、結果的に見ればよかったのかもしれなかった。

 

「これからは勧誘なのだけれど、いいかしら?」

 

「はぁ」

 

自分より有能な奴がいるから問題ないと思っていた李師、凄まじく間の抜けた声を出す。

彼の中ではこの後、呂布と共に隠居するのが望ましかった。隠居して、歴史の傍観者になりたかったのである。

 

「私の部下になる気はない?」

 

「……私が、ですか?」

 

「あなた以外に誰が居るの?」

 

李師は、困惑した。彼としてはここで勧誘されるなど思っても見なかったことであるし、望んでもいないことだったのである。

 

『知ってたな』とばかりの視線を向けられた夏侯淵は、口をへの字にしながら、ちらりと視線を逸らしてどこかを向いた。

知っていても対処できないことがあると、夏侯淵は知っている。

 

曹操の人材好きは病気のようなもので、夏侯淵が言ってどうにかなるものでは無かった。

 

「えーと、私の作戦を読み切った参謀が居るではありませんか。智恵比べで私が負けた以上、頭以外は無用な私が役に立てることはないと思うのですが……」

 

「あれは知っていたの。読み切ったわけではないわ」

 

「……どちらも似たようなものでは、ありませんか?」

 

「違うわ。と言うよりも、私の自慢の将帥を手玉に取ってのけたあなたが欲しいの。能力の優劣などは問題では無いのよ」

 

能力の優劣よりも見せた能力を求められては、李師としては先立って使用した拒否の口実を押し通すことはできない。

彼は新たな口実を探して頭の中で狂奔し、見つける。

 

「私は生来の怠け者でして。職務を滞らせ、国に害を為すことは必定です」

 

「なら、普段の仕事は免除してもいいわ。要は適材適所の問題だと考えればいいんだもの」

 

「私は男です。職場で孤立するというのは、もう味わいたくはありません」

 

「秋蘭の元に就けるから心配はいらないわ。階級の等しい同僚は、皆男よ。ねぇ、秋蘭?」

 

無言で頷いた夏侯淵を見て、李師は相当悩んだ。

 

戦争はしたくない。働きたくない。この独自の空気に馴染めるとは思えない。

 

この三つが彼の就職拒否の柱だったのである。

その内の二つが解消されてしまっては、本音を言うより他になかった。

 

「私はもう、人殺しをしたくないのです。血を流させるのも、流すのを見るのも御免でして」

 

「他者が血を流すのを見たくないならばあなたは私に仕えるべきよ」

 

「何故?」

 

「あなたがこちらに加われば、天下の統一が少なくとも五年は早まることでしょう。五年間縮まったことによって、流される血の量は大幅に減る。そうではない?」

 

「何も天下の統べるのが単一政体でなくてはならないということもないでしょう。南北なりに分かれても平和は作り得るはずです」

 

「単一の政体でも内乱は起こる。それが複数の政体であったらその数だけ内乱が起こる確率が上がり、更には内乱への介入という名目による戦争が起こる。統一政体でなければならないという発想は斬新だけれど、小康状態を作り出すだけよ。

私の統一に、力を貸しなさい。あなたが今まで殺してきた人間よりも多くの人間に、平和による幸せを与える為に」




りえい が なかまになった!

りえい は ボックス13 に てんそうされます!


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漢の興亡
結成


白エビ奇行様、白創様、十評価ありがとうございました。本当に嬉しいです。

キングダムヨーゼフ様、評価感謝致します。


「どうした、秋蘭」

 

「姉者、声量を落としてくれ」

 

典型的な『頭が痛い』というポーズを取る妹に対し、捕虜解放で帰ってきた夏侯惇は心配そうに問うた。

彼女は、声が大きい。彼女の妹が落ち着いた、声量から言えば小さい方に部類される声なのに対し、夏侯惇はよく通る声をしている。

 

それは軍人としては得難い資質だと言えたが、この際はそれが恨めしかった。

 

一方。

 

「……大丈夫?」

 

「うん、大丈夫」

 

こっちの頭痛持ちは、声量的にも最良にして最優の護衛たる呂布に護られて歩いていた。

 

この頭痛持ちとなった二人は、別に仲が良すぎて頭痛が伝染したとかいうわけではない。

ただ、再開を祝して一杯やっていたら飲み過ぎ、二日酔いに陥る羽目になっただけである。

 

「飲み過ぎとは、珍しいな」

 

「……飲み過ぎ、珍しい」

 

夏侯惇と呂布が、僅かに離れた場所で同じような感想を口に出した時、この二組は鉢合わせた。

 

「……やぁ」

 

「……あぁ」

 

二日酔いの二人が元気なさげな挨拶を交わし、曹操から掛かった招集に応ずるべく足を進める。

二万五千ほどの残存李家軍が二つに分断され、張遼、曹性、樊稠らが第十軍団となり、旧第十軍団の残存兵力と第六軍団とが合併して第六軍団として復帰。

 

今回の招集は、李師が降伏したということを皆に知らしめるとともに、第十軍団となった李家軍のもう半分を李師が率いることの発表式のようなものだと言えた。

 

「これで第十・第十一・第十二・第十三の四個軍団が君の指揮下に入ったわけだが、感想は?」

 

「第十軍団は現在数を減らしている第一・第二・第三軍団の代わりとして、華琳様の指揮下に入る。数は変わらんさ」

 

対李家軍で負った傷は浅いが広い。損傷していない軍はいないと言って良いし、負傷が癒える迄にも時間が掛かる。

目下最大の障害である李家軍を降伏させて冀州四郡を平定したと言っても、すぐさま幽州に進撃できるわけではなかった。

 

「数と言うと?」

 

「質は比べ物にならない、ということだ」

 

旧第十軍団の司令官は荀彧。曹操軍内部の李家軍被害者の会というべき存在の領袖である。

被害者の会と言うからには一度となく敗れていることが条件であり、即ちそれは指揮官として李師より劣ることを示していた。

 

「それほど差は無いと思うけどね。あったとしても、思考の柔軟さの差さ」

 

「ああ、せいぜい泰山ほどの差だな」

 

登ることができたら仙人になれるほどの霊峰と名高い山の名を挙げられ、李師は軽く苦笑する。

別に己が荀彧に勝っていると公言する気はないが、劣っていると言う気にもなれない。正直なところ、かなり与し易い相手だった。

 

「おい呂布、今度太刀合え」

 

「……なんで?」

 

「強くなりたいからだ。お前は私より強いだろう?」

 

「……めんどくさい」

 

「わかっている。毎日じゃなくていいぞ」

 

「……やるって言ってない」

 

それぞれの後ろから付いてくる者達の愉快な会話を聴きながら、李師と夏侯淵は目を見合わせて肩を竦める。

夏侯惇は致命的には恨まれない性格をしているし、よっぽどなことがない限りは他者を恨まない性格をしていた。

 

今まで何杯も煮え湯を飲まされてきたことから、李家軍被害者の会に入っても良さそうだが、彼女はさらりと恨みというものを飲み下してしまっている。

天性がそうなのかもしれないし、恨みや怒りが長続きしない質なのかもしれなかった。

 

その点では、自分に対する好悪の情を『無関心』で貫き通す呂布を除く二人―――李師と夏侯淵の方が、怒りはともかく笑顔の中に他者への嫌悪を溜め込む質だといえるであろう。

 

「恋、太刀合ったらいいじゃないか。大剣の使い手で彼女の程の者はそうは居ないと思うぞ。たぶん」

 

「たぶんとは何だ、おい」

 

呂布とは別の意味で、李師も他者の強さの判別に対しての鈍さがあった。

殆どの人間が自分より弱い呂布と同じく、されど真逆に、彼より強い人間しか見ていないのである。

 

その目は『速い』『凄い』と言う幼児並みの感想しか抱くことができなかった。

夏侯惇は速いし凄い。呂布も速い凄い。よって、どちらが強いかと訊かれれば、彼は頭を捻るしか無いのである。

 

「……なら、そうする」

 

「今日の軍務が終わったらだぞ」

 

すかさず日時を指定してきた夏侯惇の方をぼんやりと見つめ、呂布は一つ頷いた。

 

「ちゃんと来い。わかったな?」

 

「……わかった。待つ」

 

「よし。よし」

 

何故か既に満足げな夏侯惇をちらりと見て、呂布は正面に視線を戻す。

基本的に李師の後ろに付いていき、李師が寝れば隣で寝て、本を読めば本を読む。それが呂布の行動スケジュールだった。

 

いっつも引っ付いているというのは護衛としては完璧だと言えるが、李師からすれば他者とのコミュニティを持って欲しいと思っている。

たが、それは他者とのコミュニティを自分から持とうとしないこの男が心配することでは、断じてなかった。

 

要はいつものブーメランである。

 

「……お前と呂布には、軍務はないだろう」

 

頭に響かない程度の、そして姉が気づかない程度の小声で、夏侯淵はツッコミを入れた。

軍務が終わったらと言うが、李家軍の面々は基本的には自軍の維持をすればよい。呂布の赤備えの維持は、『いつも二人で行動しているなら』と気を使った曹操の配慮で代行の任を授けられた高順がやるので、実質的にこの二人は無役なのである。

 

「恋には騎兵の調練とかがあって、私はそれを見るのさ。別に私に見る義務はないけど、流石に自分の軍は監督する。これが一応の軍務かな」

 

「なるほどな。必要最低限のことは言われずともやるのか」

 

「有事に働くことを条件に給料を貰っている。給料を貰っているに相応しい能力を保有していることを、時々は示さなければ査定に響く」

 

「いつもの怠け癖だと思われて放置されるだけだと思うがな」

 

第十三軍団司令官兼河間・渤海両郡太守。冀州で屈指の豊かな都市である南皮と、彼が一から造り上げた易京を含む両郡から生まれる税収を第十三軍団の維持として使っていいと許可され、李師には司法権と内政権を配下に委譲することが許可されていた。

一軍団一万二千と言う単位の維持と他の軍団の補充という切実な理由で彼の軍が半分に引き裂かれたことを差し引き、過小な表現を使っても、破格の待遇だと言える。

 

まあ、内政権は劉馥や韓浩にぶん投げ、司法権は賈駆に任せてしまい、軍権は趙雲に任せているから彼はいつまで経っても無役だった。

 

そんな話を交えつつ、夏侯淵と李師は曹操軍の仮の大本営となっている方城の広間へと足を踏み入れる。

方城は守護天使が勤労意欲に目覚めた審配が夏侯淵の猛攻を耐え抜き、ついぞ抜かせなかった易城の北にあった。

 

李師の領土となった河間郡ではなく、既に涿郡に位置しているこの城を態々攻め落として大本営に選んだことにも、曹操の気遣いが見て取れるであろう。

要は、『保証したことは守る』という、些か過激な意思表示だった。

 

「あなたが居ない公孫瓚軍は、些か以上に腑抜けて見えるわね」

 

方城の広間に設置された大本営に足を踏み入れ、諸将が集まってからの一言目が、これである。

この一言を最初に持ってくるあたりに、曹操の気質が伺えた。

 

「不意を突かれたのでしょう。易京が抜かれるとは、思っていなかったでしょうから」

 

「まあ、固定観念ほど恐ろしい物はないということかしら」

 

「固定観念を覆せば容易く裏をかけます。敵が持っていれば有り難く、味方が持っていれば崩すべきです」

 

方城を守っていた田偕の醜態は、李師をよく知っている夏侯淵にすら『こいつ等本当にあいつと同じ公孫瓚の部下なのか?』と疑念を抱かせるに充分な物だった。

ともあれ、李家軍の力を借りることなく、易京と同じく『城』というものにカテゴライズされる建造物とは思えないほどに容易く方城は陥落させられている。

 

「―――では、李仲珞。あなたを河間・渤海両郡の太守に命じ、その権限を部下に委譲することも認可します。更には易京駐留軍団を正式に我が陣営に組み込み、第十三軍団とする。戦乱を最効率で収める為、普段の働きには期待しない分、有事の際には励みなさい」

 

「謹んで拝命します」

 

「当分は北方新領土の総督たる夏侯妙才の指揮に従うように」

 

簡素に過ぎる儀礼の後に、軍司令官の印である印綬を受け取り、李師は正式に十三人の軍司令官の一人となった。

ここからは、ただの作戦会議である。

 

「任命式は終わり。作戦会議をはじめるわよ。桂花」

 

「はい」

 

大雑把に地名が記され、筆で大雑把に勢力分けをされた地図が卓上に広げられ、四隅に重石が載せられた。

曹操は、元々任命式などする気はなかった。任命する旨を書簡に書いて、印綬を使者に届けさせて終わり。態々呼びつけることもないし、それで良いだろうと思っていた。

 

しかし、作戦会議が開く必要に迫られたこともあり、ついでに任命式を行った。

謂わば、本来ならばそれだけで一儀式になりうるそれは、前座にされていたのである。

 

「易京が陥落したことを知ったのか、荊州勢力が北上を開始しました。宛から出陣して、一路許昌へと向かっています」

 

宛から許昌へ。北東にひたすら進めば到達するだろうし、ただ移動するだけならばこの方城から南進して許昌へ帰るよりも早く敵が許昌へと到達する。

この軍に対して如何に対処するかが、目前の敵の対処よりも急務だった。

 

「北と南で牽制するのが、大領土故の距離の暴虐を活かす上でも、敵の戦力を集中させないと言う戦略的にも最も有効だ。これまでもちまちまと牽制してきてはいたが、いよいよ拙いと思って仕掛けてきた、というわけだろう。

数は?」

 

「わからないわ。大軍、とだけ」

 

不特定の敵の兵力に頭を傾げる十二人の指揮官と一人の参謀と、一人の君主。

その悩みにかかった霧を払うように、李師は相変わらずの姿勢の悪さをキープしたまま挙手し、発言の許可を得てから口を開いた。

 

「敵の動員兵力は六万。荊州の軍が総勢八万だから、ほとんど全軍だと言えるだろうね」

 

「何故わかる?」

 

「私もただ寝て過ごしていたわけじゃない。諜報網を河北から江東や巴蜀に敷き直したりと、色々有事に備えているのさ」

 

夏侯惇の問いに手早く答え、李師は昆陽の地を指差す。

思わず、と言うか。相変わらず心理誘導に卓越した腕を持つこの男の動作に、十四人の視線がその地名に集中した。

 

「敵は昆陽・舞陽・定陵の三城を点として、それを繋いで面に。これを占領したと見ている」

 

「点のみを攻め取るのでは、反撃にあって負けた時に崩れるのが速い。しかし、面にすればある程度強固な抵抗ができる。こちらが反転してくるのを敵は待っている、ということかしら」

 

敵の作戦目的は、あくまでも公孫瓚勢力の救援である。

放置しておけば許昌を突かれるから引き返すのは仕方ないとして、この場合は敵が何を思っているか、どう敵を崩すかが重要だった。

 

「はい。故に、この場合は奪還の手を伸ばすのではなく父城・臨潁・西平に兵を送って三点で囲み、面に延ばして糧道を断つ。面をより大きい面で囲み、敵の作った面を浸食して点としてしまえば、戦わずして三城は我が方に帰す訳です。敵はそれを防ぐには三城の何れかを陥として他の二点を点に戻さなければならない。

つまり、我が方としては西平と父城に堅守を命じ、臨潁に全軍を集結させれば良いのではありませんか」

 

「西平と父城を攻められたら?」

 

「城というのは一日二日で陥ちるものではありません。西平か父城を囲んだ時点で敵の面を構成していた兵力が崩れるので、定稜を攻めても邀撃されることはない。更に索敵を密にして敵の伏兵を警戒すれば、むしろこの城を餌に敵を誘引できます」

 

この時点で曹操の優遇しすぎの人事に不満を持っていた人間も、地図を見ただけでさらさらと作戦が出てくる李師の戦才を認めざるを得なかった。

 

彼が喋っているのはあくまでも戦術だが、その洞察の鋭さと対策の迅速さは目を見張る物がある。

 

喋りすぎた、と悔やんでいる男を除いて、他の諸将はその作戦案の是非を真剣に討議していた。

 

「何故、李師殿はこの地図を見ただけで敵の基本戦略がわかったのですか?」

 

「敵の軍師は水鏡女学院出身の二人でね。この面占領は、私が秦の応侯の戦略を戦術に補修して、水鏡先生こと司馬徳操に教えた物なのさ。

まあ恐らくは、その短所も長所も使いどころも、私が一番よく知っている」

 

軍議は、一決した。




孔子に論語
自分より精通している人にわざわざ教えること。
類義語:釈迦に説法


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魔剣

「軍務が終わったらと呂布には言っていたが、随分遅くなってしまったな」

 

「むぅ」

 

妹にそう言われ、夏侯惇は頬を膨らませるように不満を露わにした。

戦争が始まれば、当然ながらそれに対する用意が必要となる。

 

李師もお陰で暇ではなかったし、各軍司令官も忙しかった。当然ながら、自軍の再編を目指している夏侯惇も忙しかったのである。

 

これが、本来ならば半日で終わるはずだった仕事が夕刻にまで縺れ込むという現象の元となっていた。

 

「待っていてくれているだろうか」

 

「呂布にも呂布の予定がある。難しいのではないか?」

 

「まあ、そうだろうな」

 

それでも諦めきれないのか、約束の地として指定した練兵場に足を運びながら夏侯惇は一つため息を付く。

心無しか、足が速い。焦っているのかもしれないし、いつものように気が急いているのかもしれない。

 

練兵場に着く前に、夏侯淵は異変に気づいた。

兵たちが個人の技量を磨いたり、将たちが稽古をつけてやったりつけられたりするこの練兵場。許昌のとは大きさも便利さも違うが、使用用途としては同じ筈である。

 

だが、そこには一心に打ち込むような人の動きではなく、何かを遠巻きに見つめながら片手間で稽古をするような感じがあったのだ。

 

「どうした、秋蘭」

 

弓使いという職種上、夏侯淵の方が夏侯惇よりも目が良い。

夏侯淵が夏侯惇にはわからない何かを見ている時は、だいたいこう問うのがこの二人の常だった。

 

「案外、義理堅いのかもしれないな。親の言うことを聴いているだけかもしれないが」

 

「うん?」

 

ポツリと漏らした台詞を聴きながら、夏侯惇はさっさと練兵場に足を踏み入れ、夏侯淵もそれに続いて足を踏み入れる。

将校専用のスペースの際に、壁を背もたれにして座り込んだ二人が待っていた。

 

「おぉ、来ていたのか」

 

「……恋は、やれることしか言わない」

 

夏侯惇を殆ど瞬時に馬から叩き落として捕縛した時に言った口上をそのまま使い、呂布は胡座をかいていた姿勢のままに隣で片方の膝を立て、片方の脚は地面に伸ばして寝ている男をゆさゆさと揺らす。

 

「……あぁ、来たのかい?」

 

「ん」

 

そのまま永遠に時が停止していても一向に違和感のない李師の睡眠体勢が崩れ、胡座をかいた観戦体勢に移り変わる。

軍務とは一概には言えないが、そこそこ真面目に働いていただけに、彼は体力回復、即ち趣味と実益を兼ねて睡眠を貪っていた。

 

「義理堅いのだな、お前の愛娘は」

 

「義理を持つに至るまで、果てしないけどね」

 

同じく隣に腰を下ろして観戦体勢に入った夏侯淵が胡座をかいた李師に声を掛け、酒と杯を横流す。

 

「手際がいいね、君は」

 

「これが楽しみで付いてきたのだからな。当然だ」

 

夏侯惇が大剣『七星餓狼』を正眼に構え、呂布が方天画戟を右手に持ってだらりと垂らした。

周囲の兵士たちも鍛練を一時取りやめ、呂布と夏侯惇の立ち合いを見物し始める。

 

この二人の戦いは初めてというわけではない。しかし、見た者が少なく、更にはその少数の内の殆どが戦死している以上、ぼんやりと『夏侯惇が負けた』という結果が伝わるのみだった。

 

どう負けたのか。どれくらい打ち合ったのか。

 

そこらへんに、兵士たちの興味があった。

 

「無構えか。姉者には悪いが、武の階梯に於いては呂布の方が数段上だな」

 

「そういうもんかね」

 

「そういうものさ」

 

夏侯惇が正眼に構え、更には意識を張り詰めて呂布に対処しようとしているのに対して、呂布はあくまで自然体のまま。

常にぼーっとしている呂布は、戦いに於いてもぼーっとしている。

 

彼女の眼が鋭角を帯び、緊張の霧を纏うのは李師の前くらいな物だった。

 

「私には武のことはわからないから、心理的な洞察から言わせてもらうとだね」

 

「拝聴させていただこう」

 

「夏侯惇は守ってしまっている。彼女の気質が攻撃である以上、これは少し拙いんじゃないかな。武の階梯とやらに差がある以上、得意なことで勝負を仕掛けなきゃ勝てないと思う」

 

「呂布の強さを百とすれば、姉者の強さはまあ、六十二程度だろう。呂布が攻めに三十、守りに七十を傾けていることを考えれば、守備に徹するのは強ち間違いではない。だが、それは理屈でしかないからな……」

 

本人の気質と性格と練度というものがある。

気質と性格は攻撃よりで、練度も攻撃の方が高い。というよりも、夏侯惇は守りに徹した戦いなどをしたことがない。敵の攻撃を弾いたり防いだりはしても、あくまでもそれは攻めの継続の為の、接着剤としての行為である。

 

防御に徹しては、六十二の実力も三十ほどにしかならなかった。

 

「お、恋が仕掛けた」

 

「仕掛けた瞬間、終わったがな」

 

月牙を攻撃に使って戟を振るい、弾かせたところを石突で七星餓狼を弾き飛ばす。

一合だけしか刃を交えず、片手であしらわれたのは前回と同じことだった。

 

「流石に強い」

 

「そうなのかな?」

 

「読み物ではないんだ。本当に実力に差があれば伯仲すらせずに決着がつく。今のは、それだろう」

 

勘違いされがちだが、呂布は手加減して片手で戦っているのではない。護衛として戦う以上、咄嗟に反応する為に片手を空けているのである。

武人というよりも護衛としての己を優先する呂布は、弓以外の武器は片手で扱っていた。

 

「お、今度は君の姉から仕掛けたね」

 

「敢え無く弾かれたがな」

 

夏侯惇は決して弱くない。李師が三百人居ても一人で殺し切れるし、一騎当千といっていい武力を持っている。

それを赤子の様にあしらう呂布の凄まじさを、観客たちは改めて理解した。

 

「……埒が明かん」

 

「うん?」

 

「あれでは何の稽古にもならん、ということだ。姉者は攻撃に専念できていないし、かと言って防御に徹し切れていない。半々、と言った感じだな」

 

ぶつくさと呟きつつ、夏侯淵は酒と杯を李師に押し付けて前へと歩を進める。

何だかんだで姉が大好きな彼女にとって、姉が巧いやり方を知らないと言うのはいささか以上に歯痒いものがあった。

 

「……姉者、選手交代だ」

 

「むっ、まだやれるぞ」

 

「それは知っている。だが、効率的ではなかったのでな」

 

肩で息をする姉の利き腕に手をやって一旦下がらせ、呂布に一礼して剣を構える。

 

片手に一つ、もう片手に一つ。

 

青紅と倚天。餓狼爪という弓を主武器にする彼女が選んだ、近接戦闘用の武器だった。

 

「……交代?」

 

「ああ」

 

がんばれー、と気楽過ぎる声援を送る李師と、不承不承ながら観戦すべく七星餓狼を鞘に収めた夏侯惇。

更には『妹の方の将軍の実力はどのくらいなんだろう』と興味深げに試合を見ようと集まってくる兵たちの前で、二人は静かに向き合う。

 

(ほぉ)

 

呂布の意識の指向に気を配り、あることに気づいた夏侯淵は静かに左回りに歩き始めた。

呂布の視線が注意してもわからないほどの僅かな苛立ちを帯び、ただ立っているようにしか見えない無構えが徐々に雌伏する虎の如き体勢へと変化する。

 

その瞬間、夏侯淵は李師の方へと横っ跳びに跳躍した。

 

「……っ」

 

それに対する呂布の反応は、脊髄反射と言っても良いであろう。

彼女は尋常ではない速さで右脚を前に出し、滑るように李師と夏侯淵の間に割り込んだ。

 

これは最早、本能レベルの行動だと言える。李師に武器を持った者が近づくと、呂布は無理矢理にでも割り込む。

たとえ危害を加えないとわかっていても、保護者の全く持ち合わせていない分の危機察知能力を持った被保護者は、非常に敏活に反応してしまっていた。

 

「やはりな」

 

夏侯淵のからかい混じりの確信の言が漏れるのと同時に、呂布の瞳が昏い焔で満ちる。

 

割り込んだ呂布による一振りを双剣で受け流し、呂布の逆鱗を態と掠めた夏侯淵はあたかも暴風のように襲い来る突きと斬撃をいなしながら後退した。

彼女が止まったのは、二十五歩地点。彼女の一跳びでは詰めることができず、呂布の一跳びなら瞬時に戻れる地点である。

 

「……」

 

如何な歩法を使ったのか、殆ど体勢を崩すことなく僅かに後退した呂布の瞳から焔が消えた。

と言っても、常の静謐さを取り戻した訳ではない。彼女は、瞳に焔を宿していた時も静謐だった。

 

自動迎撃装置を備えた魔剣が、危機が去るとともにその本性を覆い隠したように名剣になる。

見た目も変わらない。中身も、無論それが本性なのだから変わらない。

 

それが、一番しっくりくる表現だった。

 

「降参だ」

 

防御に徹する為に攻撃を誘ったら、思わぬ物が返ってきたことに楽しみを覚えつつ、夏侯淵は双剣を両方共を鞘に納める。

 

それに応じるように方天画戟の切っ先が下り、呂布の臨戦態勢が警戒態勢にまで下がった。

 

(仲珞が攻撃的な性格だったら、この二人は戦略を根底からひっくり返しかねんな)

 

彼女がこの打ち合いで感じたのは、それである。

そもそも呂布は白い布のような存在なのだ。何物にも染まるし、染まったあとはそれ以外に染まりようがない。

 

李瓔という男が兵を駒として見るような冷徹さと野心的な攻撃性を持つ人間だったならば、呂布はさしずめ魔王の右腕として敵対者を裁断していったことだろう。

 

李瓔が、敵を呂布が殺せるだけの人数まで減らす。或いは、殺せるだけの隙を作る。

呂布が、その『死ぬまで敵を殺してこい』と言われたら直ちに履行しかねない、異様なまでの忠実さと文字通り死を厭わない勇敢さによって殺す。

 

これで勝ててしまうのである。

 

だが、李瓔という男は攻撃性というものに対しては正当防衛という枠からそれ以上の発展性を見出さない男だった。

過剰防衛にはならず、正当防衛にしても甘い。そんな穏やかな男が染めようともしなかったから、呂布は緩やかにその風韻と薫陶で染まっていったのだろう。

 

「秋蘭、何故あんなに打ち合えたんだ?」

 

少し乱れてしまった髪を李師に撫で付けられ、一層乱れていく赤髪を気にすることなく擦り付ける呂布。

大型犬と飼い主が戯れているような光景を温かい眼差しで見つめていた夏侯淵の背後から、夏侯惇が声をかけた。

 

この二人の実力は、総合的には伯仲している。だのに、夏侯淵のみが十数合打ち合えたのが、夏侯惇には不思議だったのだ。

 

「単純なことだ、姉者。私は確かに呂布を百とすれば六十二の実力だが、すべてを防御に回してしまえば、呂布が攻撃に回すのは二十から三十。私でも充分に打ち合える、というわけだ」

 

「なるほど……なら、私は防御を捨てて息もつかせず攻めまくればいいわけか!」

 

「ああ。ある程度手加減してくれていることだしな」

 

唖然とする夏侯惇を励ますように肩に手をやり、夏侯淵は未だに痺れたままの手を握る。

李師が寿命以外で死ねば、どうなるか。

 

考えたくはないな、と。彼女は一人つぶやいた。



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退避

七十七話。特に何があるわけでもないが、ここまで続いてきたことに自分ごとながら驚いてます。
何より驚きなのは毎日投稿がそこそこ続いていることですが。

なっとうごはん様、評価ありがとうございました。


親は戦場の盤上戦闘において、養父は戦場の盤外戦闘において、自身は戦場の別個の戦闘において、こいつはもしかしたら無敵なのではないか、と思われている呂布は、潁川郡の地を踏むのは二回目である。

 

一度目は、李師が放り込まれた洛陽の牢獄を叩き壊そうとして徒歩で西進していた時。

二度目は、今。

 

一度目は司馬家八令嬢と涼州三明に物理的な力によって止められてしまったが、二度目の今は最早阻める者は居なかった。

 

「それにしても、何かしらの因縁すら感じるな、これは」

 

西平・父城・臨潁の三城を囮として使うにあたり、民間人を敵軍に気づかれぬように許へと撤退させよ。

中々に無茶振りなこの命令が、李師の曹操軍としての初めての仕事であった。

 

籠城戦となれば、その災禍は民間人にも及ぶ。易京の様な規模の違う城郭都市ならばともかく、西平・父城・臨潁の三城のような小城ではその可能性が高い。

それを慮っての、一時退去だった。

 

「……因縁?」

 

「私の初陣は民間人の退去でね。上官が戦に負けた挙句に逃げてしまったから、物資や家財を運ぶ余裕すら持たせてあげることができなくて、随分と恨まれたもんだよ」

 

だが現在は、家財や物資を運ぶ余裕すら持たせてあげることに成功している。

命あって物種というが、その後に命を繋いでいくためには家財や物資が必要なのだ。

 

そこらへんをわからなかった辺り、嘗ての李師は些か以上に箱入りであったと言える。

まあ、彼が暮らしに苦労しない都暮らしではなく、そのことがわかっていたとしても家財や物資の持ち出しは不可能だっただろうが。

 

「……そのあと、は?」

 

「自腹で補償した。殆ど自業自得だが、呂氏春秋を買う為に貯めていた金やら、報奨金やら給料やらが吹き飛んだよ」

 

祖母にそれとなく諭されて補償した結果、彼の私財は払底した。だが、その分の名声と華雄と張郃からの忠誠心を手に入れている。

後者はともかく、名声よりも呂氏春秋が欲しかった李師は、その噂を聴くたびに呂氏春秋を思い出しては給料から生活費を差っ引き、指折り数えて金を貯めていたのであるが。

 

「……災難。でも、自業自得」

 

「本当にね」

 

赤兎馬に乗った呂布を隣に、武装された蒼緑の馬車に乗った李師は溜息を付いた。

 

彼にして見れば軍という存在は民間人の暮らしを守る為にある。呂布もこの価値観を共有している。

だからこそ、このような会話が出てきた。本来ならば『命があり、見捨てられなかっただけマシ』で済んでしまうのである。

 

それが辺境の現状だった。その頃の李師は都上がりで知らないことだったが。

 

「……逃げた上官は?」

 

普通敵前逃亡は死罪なのだが、一応形式だけ止めた李師に思いっ切り囮にされた挙句捕虜にされたのである。

自分の行動で破滅の道を歩み始めたとはいえ、可哀想にとしか言いようがなかった。

 

「上官は民間人を守る為に犠牲になったのだ……と、言うことになった。というか、した。多分昇進したんじゃないかな」

 

「……物は言いよう」

 

「然り」

 

彼の上司は都に栄転し、執金吾にまでなっている。

それはその上司が無能ではないことを示しているし、李師の適当な報告書が一人の潰されかけた未来を救ったことも示していた。

 

潰れそうなところを利用したのも、この男であるということを無視すればただの善人である。

 

「それにしても、恋。恋が敵だったら、どう動く?」

 

「……恋なら、逃げる」

 

「どうして?」

 

「兵力で負けてる。それに、もう北から引き離した」

 

ただの武力バカではないことを示しつつ、呂布はくるりと横を向いた。

 

「兵力差を覆すのは、異常なこと。嬰は?」

 

「私も逃げる。戦略目的を達成した以上、留まっている理由がない。更には、恋の言った通り大軍に寡兵が勝つのは異常なことだ」

 

「……これ、演技?」

 

「まあ、だろうね。こちらが決戦を辞さないような風を出して、敵を退かせる。戦略的勝利を納めれば、戦術的に血を流さずに済むことの一例かな」

 

戦略的勝利は、既に収めている。しかし、敵も戦略的に目的を達成している。

痛み分けという形になるが、李家軍という盾が曹操軍のものになってしまったことを見れば、曹操軍の勝ちだった。

 

戦術レベルの戦いは発生せず、直接に刃を交える為に必要な小規模な戦略的勝利は曹操軍の物、それを誘発した中規模な戦略的勝利は荊州軍の物、北と南で挟み撃ちされている現状に一石を投じるという大規模な戦略的勝利は曹操軍の物である。

 

中規模な戦略的勝利を確実に維持する為には、荊州軍はここで退くしか方策はなかった。

更には、ここで戦術的勝利を納めても戦略的には何にもならない。

 

「……着いた」

 

「民間人を優先させ、吾が軍は城外で一時的に待機」

 

比較的黄巾の乱において戦果に包まれなかった河北の大都市易京並かそれ以上に繁栄している許昌に着き、李師は馬車の中で一息つく。

潁川郡は黄巾の乱において壊滅的な打撃を被った土地だった。

 

現在の李師の政治的な幕僚となっている低コスト建設が大好きな劉馥、低コスト農業が大好きな韓浩と言った面々は潁川郡の戦乱を避けて平穏な土地に逃げてきた口である。

 

潁川郡出身の名士と言えば、曹操軍で言えば、新進気鋭の荀彧、程昱、郭嘉等三人と、後は一昔前とは言え李瓔。劉備軍は諸葛亮や龐統などの荊州名士が中核になっており、孫策勢力は潁川から逃げた人材と揚州名士。

 

他の土地にも逃げてきた潁川名士が居り、その質の高さと量の豊富さは嘗ての潁川の教養的な意味での繁栄を思わせた。

そして、主要なメンバーが軒並み曹操に仕えている辺りに、彼女の蒐集癖の貪欲さを伺わせる。

 

「収容完了」

 

「ご苦労様、副司令官」

 

冀州豪族と冀州名士、更には并・涼州の辺境での叩き上げの連合軍が李家軍。

潁川名士と地方の有力者、叩き上げの連合軍が曹操軍。

荊州名士と幽州の在野の人材の連合軍が劉備軍。

揚州豪族の連合政権が孫家。

 

一番名士を優遇しているのが曹操軍であり、中途半端が劉備軍、豪族を優遇しているのが孫家だった。

結果として李師の抜けた公孫瓚軍は、豪族の連合政権としての堅さをより増している。異物が取り除かれた為に結束が増したパターンである。

 

「仲珞」

 

「うん?」

 

声をかけられるまで気配がないことに定評がある夏侯淵に後ろから声をかけられ、李師はふらりと振り向いた。

許昌の門でずっと待っていたのだとしたら暇なのだろうし、機を見て来たのならば流石と言える。

おそらくは、後者であろうが。

 

「お前、敵は退くと思っているだろう」

 

「ああ。君は違うのかい?」

 

「いや、全く同意見だ。しかし、いつになく吾が軍は消耗していることを考えると、信じ切る気にもなれん」

 

左腕を切り落とした挙句に入ってきた新参者にはわからない実感を論理に乗せて、夏侯淵はポツリとこぼした。

 

「と言うと?」

 

「何処かの誰かさんが、強烈な一撃を三回連続で叩き込んでくれたお陰で、常設の十三個のうち三個が再建中、三個が練成中。実質的に精鋭と呼べるのは七個軍団、八万四千人しかいないのだからな」

 

「なるほど。ただ削る為だけに仕掛けてくる可能性も、あるのか」

 

「そうだ」

 

被害を被ったが現役兵で補充された第一に、そもそも無傷の第四・第五。夏侯淵の第十一・第十二、元李家軍の第十、李家軍の第十三。理想的な練度を持っているのがこの辺りであり、他は訓練中であったり新兵が多かったりと問題がある。

無事な二個軍団が動かせない以上、質と量をかけた稼働戦力としては荊州軍と殆ど同一であると言ってよかった。

 

「今更言うまでもないが、準備を怠るなよ」

 

「怠らない、怠らない」

 

「で、被害は?」

 

逃亡兵やら何やらの実数を掴む為にも、更には他の軍団の再建が終わった後の補充の為にもその問いを投げた夏侯淵の耳を驚かせる報告が、李師の口から放たれた。

 

「零。なし。私は逃げるのは巧いんでね」

 

「敵に出会さなかったのか?」

 

「敵の射程外から一方的に射撃したら逃げてくれた。嬉しいことさ」

 

強弩も強化複合弓も射程に秀でた武器であり、李家軍の鎧は軽く丈夫である。理論上はそれを活かせば損害はゼロにできるが、それには入念な索敵と適切な判断力が必要不可欠だった。

 

必ず敵に見つかる前に見つけ、敵が攻める前に攻めなければならない。そして、追撃を喰らわないように迅速に逃げなければならない。口にするには簡単だが、これが常にできれば奇襲という戦法は生まれないであろう。

 

「民を率いていたのに、よくやれたな」

 

「率いる前に一部隊に奇襲を仕掛けて、偽情報をばら撒いておいた。それで一箇所に集めて誘導し、笊になった警備網を悠々突破できた―――つまり、道を貸してもらったのさ。私が并州から董仲頴の治める司隷に援軍に言った時と、タネは同じだね」

 

「使い回しとは、強かなものだ」

 

ゲリラ戦や兵站破壊作戦を行わせたら恐らく天下無双の指揮官である李師の原点は、民間人を率いての撤退戦である。

 

如何に敵を誘導するか。

如何に敵と出会さないか。

如何に敵を無傷で叩くか。

 

この難しい宿題を上官からパスされたが故に、彼の行軍や撤退戦、守勢に於ける用兵は攻勢よりもなお一層秀でていた。

 

故に、彼女が三日後に与えた命令は極めて適正を心得たものだったと言えるだろう。

即ち、敵の補給部隊の撃滅である。




血なまぐさいの書いてると日常を書きたくなり、日常書いてるとネタが尽きて血なまぐさいのが書きたくなる。
感想ではなくメールでお願いしたいのですが、こんな日常が見たい的なのがあれば、是非いただければ幸いです。


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切断

敵を撤退に追い込む、ないしは決戦に追い込む為に適宜手段を取られたし。

態々前線にまで出てきている途上の本隊からそう指示が下り、李師と夏侯淵は額を突き合わせて悩んでいた。

 

「大雑把な指示だな」

 

「詳細な指示が必要ないと思われているのだろう。能力を認められているということだ」

 

李師が漏らした言葉に対し、夏侯淵は怜悧な眼差しをその文面に向けながら答える。

現場まで出張っていって直接指揮を執るタイプである君主、即ち何かと裁量を任せがちな中華の君主らしくない君主である曹操からこのような大雑把な指示しか出されない。

 

そこにこの二人の能力に対する曹操の信用というものが伺えた。

 

「で、どうするんだい?」

 

「退かせるか、進ませるか。先ずはそのどちらを採るかだろうが……」

 

退かせるならば兵站線を切れば良い。進ませるならば後方の城を陥として退路を断てば良い。

だが、後方の城を陥とすには中入りと言う戦術を採用することが必要となる。

 

この中入りが、曲者だった。

 

「失敗の公算が高いだろう、これは」

 

「まあ、土壇場での純粋な中入りは成功しないと歴史が証明しているからねぇ」

 

『中入り』という戦術は、対陣している敵に対して一部の兵力を使って敵陣の弱点を、あるいは思いもらなかった地点を奇襲することで敵の虚を突くことを言う。

実際問題としては、前面の敵を迂回して、というのが多いが、イメージとしては敵正面に注意を集めておいてその隙に別の意外な方向から攻撃する、という戦法なのだ。

 

しかしこれ、失敗の公算が高い。そして難易度が極めて高い。

 

まず、敵に気づかれたら敵中で袋叩きに合う。これが大前提としてあり、故に『バレない程度の、だが戦力として機能する程度の戦力』をその場に応じて判断して抽出しなければならない。

 

そもそもこの実施面の準備においても高度で精練された戦術眼が必要とされるし、実行面においても主目的を優先して他の要素を必要に応じて引き離すという決断力が必要だった。

 

即ち、難しい。これに尽きる。

 

「なら、兵站線を破壊することにするか?」

 

「私としてはむしろ、この際中入りをしてみようと思う」

 

戦略的には慎重派、戦術的には投機的。

後世の人々からまたしても矛盾しているという評価と共にそう言われた李師である。この戦術の選択は、ある意味では当然であった。

 

「……待った。作戦を当てたい」

 

「わかった。待とう」

 

意外なことに、言動にそぐわず李師よりも更に慎重派だった夏侯淵からすれば、危険極まりない中入りの作戦案など考案していない。

今回の場合はそれが却って既成の案に囚われない柔軟さを生む。

 

夏侯淵は、考えた。

李師の採る作戦案はもう既に絞れている。このことはアドバンテージの大なるところだし、ここから彼の視点と思考を借りて考えればいい。

 

「狙いは宛だろう、仲珞。違うか?」

 

「正解。まあ、敵にはそう見せないけどね」

 

ものの数秒で、明敏な答えが夏侯淵の僅かに笑っているような口元を綻ばせ、漏れた。

敵は、これほどまでに李師の性格を知らない。あくまでも彼は慎重派の将帥であり、投機的である戦術を好まないと思っているだろう。

 

「先ず、輜重隊を討つ。これを数回繰り返し、敵に固定観念を与える。そして、中入りに切り替えるわけか」

 

「もう一工夫、する」

 

「と言うと?」

 

「宛は敵の一大補給基地で、敵もその重要性を理解しているということさ」

 

諒解したような、李師の意地の悪さを皮肉るような笑みを夏侯淵は浮かべた。彼女にはこの時点で、どのような策に出るかがわかっていたのである。

 

「では、そちらは任せよう。正面の敵部隊の意識の誘引は任せてもらって構わない」

 

「ああ、任せるよ」

 

こういう敵の急所を抉る様な戦いぶりは李師の得意とするところであり、敵の意識を惹く巧妙な部隊運用と実戦の管理は夏侯淵が得意とするところだった。

 

李師は田予、呂布、趙雲の三人と周泰を含む緑甲兵七千を連れてその日の夜に両軍が対陣する臨潁を後にする。

七千という兵力の選択も見事であったし、元々有事に備えて情報収集を怠らなかった用心深さも流石だと言えた。

 

李師は陸路で臨潁から西進しつつ南進し、劉備軍の占領下にある昆陽を過ぎ去って南下。

更には雉の地の補給基地まで二日で着き、そこから僅かに南の博望の地にある予山で兵馬を休ませつつ、情報収集を行っている。

 

「補給部隊が次に進発するのは、三日後。それも、大部隊となっています」

 

「それは運がいいことだね」

 

周泰の報告を受け、李師は素晴らしく他人事めいた感想を呟いた。

規則性を予め調べさせ、その規則に則ったことを確認してから対策を行う。

 

李師の兵站線の見極めは、今のところ外れたことがなかった。

 

「自分で調節して出てきた癖に、面白いことを仰りますなぁ」

 

「それだとしても、当たるのは運だよ。星」

 

予山についてからこれまでも、李師はちょくちょく補給物資を強奪している。

謂わば、極微量な複数回同時に行うことによって七万の兵員への供給を行っていた補給線を丁寧に切断してきた。

 

この丁寧な切断によって絶たれた補給線は十五を数え、無事な物は五に満たない。

 

奪われた補給物資は保存用の壷に入れられたまま予山の峰々に保管されている。

もちろん、これらで溜め込まれた物資は七千の将兵の腹を満たす為の食用にも使っていた。

 

しかし、安易な切断と発見を許さない為に分割させられた二十本の補給線で七万の兵員の腹を満たしていたのである。単純計算でも十五本抑えてしまえば五万弱の兵員を養えるだけの物資が手に入ることになるし、事実としてそうだった。

 

彼らには全部で何本の補給線があるのかはわからないが、奪った兵糧の物量とその割合から推理することで大凡の数を掴んでいたのである。

 

そして七千の緑甲兵は、自軍の八倍にも及ぶ物資を食い潰せるほど大飯ぐらいではなかった。

 

「運。運とおっしゃいますが、あなたは十五の補給線を単純な予想と事前調査によって突き止めておられる。敵の補給線が何本あるかは知りませんが、この際の問題はその当てた数。

十五本悉くを的中させておいて、運が良かったはないでしょう」

 

「当たるも八卦当たらぬも八卦。戦なんてその要素が八割を占める。勝ち運がなかったら如何に優秀であろうが意味が無いのさ」

 

身近に賈駆という例があるが故に、趙雲は一時納得した。どんなに優秀でも、あれほどに運がなくてはどうしようもない。

なにせ、やることなすこと裏目に出てしまうのだから……、と。

 

その予想が正鵠を射ていたとしても、襲う前に唐突に駆け足になって過ぎ去ってしまうかもしれない。或いは、どこかで道を間違えて迷ってしまうかもしれない。

 

不確定要素といったものを発生させるのが運ならば、それを取り除いてくれるのも運なのだ。

 

「さて。吾々はこの隙に東進。予山に蓄積された物資を堵陽を通過して西平の邑に運びこむ」

 

「一日で運び込むことができるから良いとして、その後はどうなさるので?」

 

荷物がなくなっているから足が軽くなるとはいえ、一日で西平から予山に引き返して次の日に戦う、と言うのはあまりにも寸詰まりな計画であると言える。

更には兵たちにも余裕がなくなるし、敵も輜重隊につける警護の兵を増やしているはずなのだ。

 

「いや、こちらの護衛兵は千人しかつけない。本隊はこのまま予山に潜伏して博望で迎え撃つ」

 

「それでは護衛兵が途中で敵軍に襲われるのではありませんかな?」

 

「いま、敵の軍の殆どは宛に居る。真逆の方向に回せるだけの兵力はないし、舞陽から敵が来てもその前に西平を守っている徐晃が落ち合うことになっているから問題はないさ。たぶん」

 

負けない用兵と守勢における巧みさに於いては楽進と双璧と言っていい人材である。時々勇を誇るようなところもある陣頭型の勇将であり、次に軍団が増設された際の軍団長として筆頭で名前が上がる程の堅実さを持っていた。

 

城を任せてもいいし、陣地を任せてもいい。要は使い勝手のいい武将だといえる。

 

「たぶん?」

 

千人の護衛兵と輜重隊を率いて西平へと向かう高順を見送り、李師は一つため息を付いた。

七千以上の兵数を率いていくと確実に気取られ、商人を使って兵站を確保しようとすると敵に確実にバレてしまう以上はこの寡兵で戦うより他にないとはいえ、何故曹操軍という『物量を一戦場に集結させ、物量差を以って優位を得る』という陣営に加入しても己は相変わらず寡兵で戦っているのか。

 

そこら辺に、彼は己の馬鹿さ加減を感じずにはいられなかった。

 

「たぶん。最悪の場合、燃やしてしまっても構わないと言ってある」

 

「まあ、渡さなければいいわけですからなあ」

 

「そういうこと」

 

基本的に李師は兵力差で勝つということができない。別にできないわけではなかったが、何故かそうなったのである。

戦えば勝たないまでも、敗けない。しかし、戦略的には勝ったことがない。数で敗け、状況に敗け、戦術で勝って最終的には引き分けか勝ち。もはや宿痾であったこのパターンを打破すべく戦略的な働きをしていた、少なくとも、彼はそのつもりだった。

 

しかし、ここで気づいたのである。

 

何故、戦略的な優位を占めるために戦術的な不利を覆さなければならないのか、と。

もしかして自分は、恐ろしいほどにバカバカしいことをしているのではないか、と。

 

「恋は、そこら辺についてどう思う?」

 

「……ん。今更」

 

ぽけーっとしているながら割と要点を踏まえた考えを持っているのが呂布という人間の表と裏の差であった。

彼女ほど李師の用兵の華麗さや鮮やかさを無視して『邪道だな』と極めて正当な目線で見ている人間もいないであろう。

環境に恵まれていないからこそ彼の用兵策は変な形になってしまったこともわかっているが、『正当な用兵策』というものを教わっていた呂布からすれば正道の戦略を得るための邪道の戦術とは何かというような気持ちがある。

 

そもそも、正当な戦略とは正当な戦術で勝てるようにするためのものであるはずなのに、そのために邪道な戦術を使うとは何事か。手段と目的が逆転しているとすら言えるのではないか。

 

確かに李師は現在一人で荊州を荒らし回り、劉備軍の残留兵力たる一万から二万を七千の兵で相手にとっていた。しかし、彼は常に千対七千であるとか、二千対七千であるとか、即ち常に兵力差に於いて圧倒的な差を戦術レベルで作り出してから戦っている。

 

故に呂布も苦言を呈することは滅多にないが、あくまでもこれは彼のみが可能な個人プレーのたぐいであると認識していた。詰まるところは彼にしかできず、自分にとっては参考にしかならない。

弟子のような感じでもある彼女は、己にできることとできないことを明敏且つ正確に分類していた。

 

「本当に、今更」

 

 

 

 



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権利

夢を、見ていた。

 

赤毛というよりも紫に近い髪をした父と、時々姿を見せる燃えるような紅髪をした母。その二人と複数の召使いと一つの大きな家に住んでいる。

 

ぼんやりと思い出される、自分が血の色を瞳に写さないまでの記憶。父に関しては記憶というものが欠落しているし、母に関しても怯えるような視線と線の細い顔の輪郭が思い出されるだけでしかない。

 

だが、彼女には一つだけはっきりとしている感覚と記憶があった。

 

あの時には、戻りたくない。それだけは、確信を持って言える。

 

「……」

 

傍らが、冷たい。

本人的にはロクでもない夢を見て半ば無理矢理に自分自身を覚醒させた呂布は無造作に張り巡らせた意識の網を引き上げ、傍らに右腕を垂らした。

 

三年前まで隣にあった温もりは無いが、伸ばした指先にそれが触れる。

 

「恋、変な夢でも見たのかい?」

 

「……ん」

 

呂布が十五歳までは同衾していた。しかし、彼女がむくむくと成長していることに、更には李師がそれに対して全くの無頓着であったことに危機感を覚えた隣人が間違いが起こらないようにと隔離を勧めた。

この結果、李師には特になんの感傷もなく、呂布には半身が欠落したような寂しさとともに有事以外の同衾禁止を受け入れている。

 

だが、こういう時は別だった。

 

「……いい?」

 

「いいよ。おいで」

 

無頓着さを巧みに利用する形で、呂布は幕舎の中とはいっても久しぶりの同衾をするべくモゾモゾと動いて李師の布団に潜り込む。

朝の光が見え始める程度には時の経った時刻。二度寝するには遅すぎる時間であるにもかかわらず、李師の全細胞は貪欲なまでの睡眠による沈黙を求めていた。

 

しかし李師は、これまでの結果からして己の欲求よりも呂布のメンタルケアを優先させる傾向に有る。

この時も、その姿勢はつらぬかれていた。

 

「どうした?」

 

「……恋の我儘だから、寝てていい」

 

「予想されうる原因が私にあるかもしれないなら、そういうわけにも行かないさ」

 

単純な持ちやすさの都合上、一番腕を回し易い腰に手を回し、赤紫と深い紅を足して二で割ったような髪の上に顎を乗せる。

機嫌に合わせてピコピコと角度を変える触覚めいた二房の髪はご機嫌と不安の間を行き来していた。

 

恋が保持しているあの頃の記憶での精密で詳細な記憶といえば、初めて会った李師に『私は君の両親と、その仲間たちの仇にあたる。仇を取ろうと思うかい?』と、鞘ぐるみの剣を渡された後に問われたことくらいなものである。

 

霞がかかったような、昏い瞳が彼女の心奥深くに未だ残っていた。

 

「今は、恋は幸せ」

 

「今は、ね。過去も相当に大事だと思うけど」

 

「過去の積み重ねが、今」

 

だから己は復讐というものを考えない。復讐というものを考えるまでもなく、この戦術能力において狂っている男を殺せば、この世に自分と同類が居なくなる。

 

そういう存在を見つけた時に殺意と言うものが消し飛んでしまったように、その瞳に親以上の親近感を抱いてしまったように。

それを喪うのは、彼女にとって耐え難い苦痛だった。

 

呂布は実の親に、それほどの親近感を憶えていない。母は愛の代わりに怯えと恐れを注いだし、父は常に家に居ない。

不器用な、だが怯えも恐れもない、愛を側に居ることで注いでくれた李師は、親以上の存在なのであろう。

 

「皆は、恋を怖いって言う」

 

狂った強さ。

そう、彼女は齢を二桁にする前に評された。

 

凄まじい、ではない。有り得ない、でもない。

狂った、と言うところに彼女の武の本質がある。

 

凡人というものの武における限界が、百だとする。英雄と呼ばれる人種の限界が、二百。

百五十程度ならば、『凄まじい』で済む。

 

二百を超えれば『有り得ない』。

それを超えれば、それは何かが破綻していた。

 

「嬰は、恋より弱い。恋は、嬰より弱いやつ、見たこと無い」

 

「まあねぇ」

 

申し訳程度に持っていた将軍時代の剣も、呂布に渡してしまっている。

剣補正で十程度あった物も、補正を無くせば元に戻るのだ。

 

要は、彼は恐ろしく弱い。呂布が本気になれば赤子の手をひねる様に殺すことができる。

 

そのことを、李師は良く知っているはずだった。何せ一番彼女の狂った強さを目の当たりにしてきたのである。

勝てないということと、その異常性。それを理解した上で、李師は頭をポリポリと掻いた。

 

「……何で、怖くないの?」

 

「じゃあ。恋は、先ず武人なのかい?」

 

無言で、首を振る。

武人などと言うカテゴリーにカテゴライズされる類ではないと、彼女は周りの反応で理解していた。

故にどちらかと言えば猛獣か、怪物の類だという自覚がある。

 

何よりも、武人としても誇りも意志も、彼女は持ち合わせていなかった。

 

「恋は、先ず恋だ。そして私にとっては、腰までしかない小さな女の子さ。いつまでも、ね」

 

「……その時でも、恋は人をいっぱい殺せた。虎も、殺せた」

 

「かもね。でも、自分の裾を掴んで離さないような子を、怖がるのは少し心情的に無理があると、私は思うな」

 

他人は先ず自分の狂った強さに目をやり、三つの反応を示した。

 

恐れる。

怯える。

利用する。

 

これらいずれも、最終的には彼女の元を去った。単純な強さというものが突き詰めると異様な恐ろしさを放つものだという事を、関われば関わるほどに理解してしまったのだろう。

 

「それに、だ。他人の手を汚させることを職業にしている私のほうが、ざっと千倍もおぞましい。そうは思わないかい?」

 

半ば予想していた答えに頷きもせず、否定もせず、呂布は無言で李師の胸元に自分の頭をこすりつけた。

こんなことは訊かなくてもわかっている。李師は自分を恐れない。

 

『君には誰よりも私を殺す権利がある』、と。李師は時々思い出したように言った。

出会った時。年齢が二桁の台に載せた時。十六を超えて一人前になった時。決まって、呂布と言う狂った強さを持った娘の頭を下手に撫でながら。

 

思わず苦笑しそうになったのを、憶えている。

殺されそうになったから、殺した。他人にはそれを認めるくせに、自分には認めない。殺す権利などという物騒な物を、自分を対象とする時のみに認めている。

 

半分のおかしみと哀しみを込めて、彼と会ってからの呂布は全く抵抗する素振りすら見せない彼に代わって敵を殺し続けていた。

李師は、やめろとは言わない。やれとも、言わない。

 

ただ、見られないようにと細心の注意を払っても、それをした後には見透かしたように悲しい目で自分を見て、一つ頭を撫でる。それだけだった。

 

「巧くいかないな」

 

「……嬰、下手」

 

寝癖の付いた髪をどうにかしようとして、更に悪化させた李師を呆れと嬉しみを込めた複雑な声色で制止し、自分で直す。

 

自分を見る為の鏡などある訳がない。明るさと闇が七と三くらいの値で同居している幕舎の中で、無論手探りな直し方である。

それでもなお、李師よりはマシな仕上がりだった。

 

「恋がくっきりと見えるということは、これは起きなきゃ駄目かな」

 

「……少なくとも。寝てていい時間とは、言えない」

 

はぁ、と溜息を付き、李師は呂布を身体から離して伸びをする。

あぐらをかきながらするそれには、怠惰と厭戦気分が蔓延していた。

 

「あぁ、今日も元気に人を殺す稼業に勤しまねばならないわけか。特に今日はどちらにしても万の台に載せることになるだろう。憂鬱なことだ」

 

「……とんだ厄日」

 

「毎日が、かな?」

 

「そう思えば、そう」

 

人を殺すことは一般的な倫理観から見れば悪行であるが、悪行であることとやりたくないことであるということはイコールではない。

 

要は人の性格の差、気の持ちようであることを、呂布は不器用ながら示そうと頑張っていた。

 

「私はそうとしか思えない」

 

「……そう言うと思ってた」

 

「別に私の倫理観を押し付ける気はないが、恋はそうは思わないのかい?」

 

「恋の厄日は嬰の命日。だから、今日は厄日になるかもしれない。けど、他の奴が死んでも、どうでもいい」

 

「恋、人の生命に軽重はないんだよ?」

 

もっともらしい親らしく、李師はよっぽど理論的常識と心情的常識を完備している娘に講釈を垂れる。

そんなことはわかり切った末に呂布が結論を出していることはわかっているが、親としてはそうやすやすとその認識を認めるわけにもいかなかった。

 

「なら、嬰は単経を救う為に恋が犠牲になっても、いい?」

 

「いや、それは、ほら。そう言うことではなくてだね」

 

「……生命に軽重はないのは、一般論。でも、一般論は矛盾する。

嬰は間違ってない。だけど、恋も間違ってない」

 

人は生命に軽重はないと言う。だが、私人レベルから見ても見ず知らずの他人よりも己の友や妻の生命を優先させるだろう。

さらに、彼の生きている戦争という現実においては有用な指揮官の生命は一斤の黄金よりも貴重であり、兵の命は石ころほどの価値しかない。

 

認めたくないそれを理解しているからこその言葉だが、平時は理想を、戦争では現実をと言うように理想と現実の狭間で悩みながら生きている李師とは違い、呂布は本質と現実に生きていた。

李師の理想家、と言うよりは現実を見過ぎた為に理想に傾きがちな思考を呂布は好ましく思っていたが、時としてその齟齬を突く。

 

意地が悪いというより、理想は現実にならないから理想だ、と言うことを理解した方がいっそのこと楽であることをわかっていたからこその親切だと言えた。

 

「嬰。現実を見て、厭という程に認識しながら理想を夢見るのは、生き難い」

 

「……娘にまでそれを言われる私は何なんだろうね」

 

「……夢想家。それか、矛盾人」

 

「ご尤も」

 

自分の背もたれになりながらも天に聳える二本の触覚を潰しては手を離し、元に戻った触覚を潰しては手を離し、ということを繰り返している男に『楽な生き方』ということを勧める娘は、半ば諦めていた。

 

この男、何故か口では楽をしたいといいながら茨の道に突っ込んでいくような性格をしている。

 

方向音痴もここに極まれり、だった。



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中軸

不毛だ。

目の前の、と言うには遠すぎる光景を見た趙雲が感じたのは、先ずそれだった。

 

ピョコンと天に向かって伸びる一房の毛を、掌で優しく潰す。

潰しては離し、また聳える。

 

「不毛な作業をなさることで」

 

「目の前に毛はあるけどね」

 

己が最も信頼する指揮官の皮肉気な笑みに苦笑で返しつつ、李師は何処か蝶を思わせる白装束に身を包んだ趙雲に向かって手をあげた。

今まで縁側の猫の如く大人しく、親の不毛な行為に付き合っていた娘の肩から手を離し、肘を顎の辺りまで上げる。

 

やぁ、とでも言うような、常の挨拶の行為だった。

 

「星。準備は?」

 

「言うまでもなく、私はできる女。昨日の内に終わらせておきましたとも」

 

「それは御苦労」

 

高順の補給部隊が味方の城に無事に入城したという報告を受けた後、趙雲は独自に敵の輜重隊を襲い、これを敗走させている。

謂わばこれが、今回のタネなのだ。

 

「嬰殿。今日なさるので?」

 

「ああ」

 

誰かの台詞ではないが、戦には機というものがある。それを逃せば勝利は掴め得ないし、掴め得たとしても十全であることは有り得ない。

 

その機を見るための眼を持っている人間は、良将と呼ばれていた。

機を逃さず、その機に応じて自分の行動を差し挟む。

 

だが、良将と呼ばれる者達には一段階上の存在がいた。

名将、と呼ばれる存在である。

 

彼ら彼女らは機を掴んでもその機に己の行動を応じさせない。機を自らの行動に応じさせるのだ。

 

良将が機に応じて動くまでには僅かながらのモラトリアムがあるが、名将が機を自らの行動に応じさせるにはそんなモラトリアムなど存在しない。ゼロコンマ一秒の隙の中に、自分自身を躊躇なく叩き込む。それでしか名将と呼ばれることはできなかった。

 

この趙雲は、名将の卵である。今は大局的な名将の素質こそあれど現場の判断能力は良将たるに甘んじている。

そして、膝に乗せて不毛な行為に付き合わせている呂布は、機を見るに敏、というレベルではない。

 

戦機を測るのが比類無く巧みだった親譲りの戦術眼を、天性備えていた。

 

「……今回は恋も指揮する」

 

「いやぁ、それには及ばないんじゃないかな」

 

「戦では、他の人と平等に扱う。そう言った。恋は、二千の指揮官」

 

この戦機を測るに比類無い戦術眼を、李師は態と鈍らせようとは思わない。それは親の勝手でこの選択肢を狭めることに他ならず、彼の意志と理念に反する。

 

だが、今この台詞を聴いて後悔していないと言ったら嘘になるだろう。つまるところ、彼はこの世で一番罪深い『仕事としての効率的な人殺し』に関与させたくなかった。

もう関与していると言ったらそれまでだが、『自分の意志に拠る決定によって敵と味方が死ぬ』という状況に彼女までをも引き摺り込みたくなかったのである。

 

「結局のところ、あなたも理想とはかけ離れた人間らしい人間だ、ということなのでしょうな」

 

「負け惜しみに聴こえると思うが、私は理想を体現した人間は人間ではいられない、と思っている。人間味にかけるとも、ね。つまるところ、理想の体現者とは誰とも関わりのない、荒野の世捨て人の如き生活を営む人間でしかありえないのさ」

 

「その荒野の世捨て人に、なりたいのでしょう?」

 

「今ある関係を切ってまでなりたいとは思わない。私が居なくなれば歓喜に咽び泣く人間も居るが、その逆も居る。違うかな?」

 

「私はその代表格だといえるので、その答えを待っていなかったと言えば、嘘になります」

 

少なくとも田予も李師の全幅の信頼のもとにそのパーツとして能力を振るうことに喜びを見出しているし、趙雲は当事者ながら何かの劇を見るかのようにこの男の生き方を楽しんでいた。

呂布は李師がどうなろうが黙って付いていくだろうが、彼の元で三十数回に及ぶ戦いを生き抜いてきた最古参の兵卒たちは他の指揮官のもとで戦うことを喜ばないであろう。

 

張遼が引っ張って行ったのは己の麾下であり、基本的に李家軍は李仲珞と言う男の軍事的才能と人格によって結合しているところが大きかったのだ。

 

趙雲や張郃や淳于瓊や華雄などの分隊司令官は一軍団の指揮官としても不足を来さない能力と見識を保持していたし、近頃では審配もその列に加わる。

一万五千と言う一軍団における一分隊などは三千に過ぎず、旧李家軍こと第十三軍団などは有能な指揮官の多さから二千まで減衰していた。

 

趙雲、張郃、淳于瓊、華雄、審配、呂布。麴義と郝昭は張遼に付いて行った為に二千で済んでいるが、空気を読んで分裂に応じた張遼等がいなければ誰かを無理矢理にリストラせねばならないハメになっていたのである。

 

「分隊の司令官が優秀過ぎるのも、難しい物だね」

 

「使わずに居るのはまさに勿体無いと言うもの。さりとて二千と言うのは戦術単位として機能するかしないか、というところですからな」

 

趙雲は李師にしか槍を預ける気はないし、張郃と淳于瓊と審配は袁家の宿将たる実力と意志を持った有能な指揮官。華雄と呂布は言うまでもない。

一軍団、一万五千人。この重みに耐え、被害を抑えて最大限の戦果を叩き出せる指揮官を四人、卵を二人。

彼は抱えてしまっていた。

 

「指揮官の個人的な技量をあてにしたくは、ないんだ。もちろん味は引き出すが、頼り切ってはならないと思っている」

 

「私には撤退を任せ、華雄には追撃を任せ、張郃は不利な戦局を凍結させ、淳于瓊には突撃を任せ、審配には正当な守りを、呂布には遊撃を。そして田予には全軍の意思疎通を。見事な人材配置ですが、規模が小さすぎるのが難点でしょう」

 

「君たちを活かしきるには、それぞれ五千から八千の兵が要る。そうすれば第十三軍団は私の直衛を併せれば最低でも四万、最高で六万四千。一家臣が持つには些か多過ぎる兵力だね」

 

「だが、器はある。違いますかな?」

 

曖昧に笑み、大人しく親の弄くり回しに耐える様子もなく耐えている呂布の頭をくしゃくしゃと撫でる。

心情的には認めたくない、しかし出来るという自己認識があった。

 

それが彼に、趙雲への回答を止まらせる原因となっている。

 

「……まあ、よろしい。本音が聴けたならばそれで上々、と言うべきでしょう」

 

「そのくらいにしてくれて助かるよ」

 

「では、私は行くとします。吾々が城を獲り、外を見れば敵しか居ない、という様なざまには陥らぬよう頼めますかな?」

 

ここに居る趙雲の兵は、千に満たない。されど彼女の隊が抜ければ、荊州奥深くに食い込んでいる李家軍は五千弱にまで減少する訳である。

 

敵が防衛戦力を結集させてくるならばその数は一万に及ぶ。

つまるところ、彼はいつも通り約二倍の兵力差を小手先で何とかせねばならなかった。

 

「どうなろうと、君を見捨てるようなことはしないさ。己の右腕を切り取るようなものだからね」

 

「私が、右腕ですか。自分で言うのも何ですが、不穏な物質で右腕を構成してよろしかったので?」

 

「信用ではなく、信頼できる。能力も、性格もね。なんだかんだ言っても私は、君を頼りにしてきたんだ。今までも、これからも」

 

「ね、熱烈な告白ですな。まあ、期待には応えさせていただきますが」

 

後ろで一つに括った蒼髪の上に白い布冠の如き帽子を冠り、趙雲は仄かに上気した顔を隠す様に一礼してその場を去る。

基本的には趙雲を軸にした戦術を、つまり偽装撤退からの逆撃、逆撃からの逃走、ないしは反撃という戦術を得意としてた李師とすれば、ここで趙雲を手放すのは痛い。しかし、攻防柔軟で応用力のある彼女は、別働隊の指揮官として相応し過ぎた。

 

別な軸を得る為に腐心した挙句、李師は趙雲という指揮官が持つ駒としての便利さを再認識すると共にやっと別な中軸を得ることに成功したのである。

 

「……さーて、敵の罠にかかりに行こうか」

 

「……ん」

 

「はっ」

 

「御意」

 

「了解です!」

 

残った指揮官たる呂布と審配、もはやその存在が持つ重要性から半身のようなものである田予と耳目と影を担当する周泰を率い、李師は五千弱の兵を率いて敵の一大兵站護衛部隊に突っ掛かりに行く。

無論、それは『進行方向を遮った後の迎撃戦』であり、『誘った側が攻めねばならない』という李師らしい戦の組み立て方を守ってはいたのだが。

 

便利な将にして、戦術の中軸を為す趙雲が別働隊を率いている今、李師がどのような戦をするのか。

李家軍の分隊司令官から一兵卒までが、それに静かな注目の眼差しを向けていた。




要約:趙雲は戦術の起点。


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逆手

「李家軍……では、なく。第十三軍団は無事でしょうか?」

 

「戦をしている以上、無事ではないだろうな」

 

僅かに苦笑し、夏侯淵は典韋の発言をひとまず受け流した。

考えを纏めるまでもなく、彼女は李師に信頼をおいている。やれると言ったからには、やってのける男であると。

 

「奴はそもそも、やると言ったからやれるのではない。やれるからやると言うのだ。勝算のない戦いから逃げ、勝ち目が出てきてから戦いを始める男だからな。こちらが職務を全うしている限りは、むざむざやられはしまいよ」

 

「敵は兵站を幾度となく切られれば、必ず大規模な補給部隊を囮とした決戦を挑みます。勝ち目があろうとなかろうと、作戦目的を達成させる為には挑まざるを得ない、ということになるのではありませんか?」

 

面白げな光を漂わせた夏侯淵の琥珀の瞳が典韋の矮躯を優しく撫でる。

教育しがいがあるし、教育の結果が出つつある。

 

人を育てるのは面白いものだ、と。夏侯淵はそのような面白味を感じていただけだったのだが、どうやら典韋には伝わらなかったらしかった。

 

「す、すみません!」

 

「何故謝る?」

 

「出過ぎたことを、言いました」

 

「出過ぎていない。流琉の言うことは全く正しいし、聴くべき点を含んでいる。だが、一層分だけ、浅いな」

 

作戦目的を達成させる為には『せねばならない』。

そんな強制力を持つ条件を、李師が放置するわけがない。必ずこれを利用して、敵を殻から引き摺り出す。

 

「……と、言いますと?」

 

「この場合、結果は同じだ。しかし、主導者が逆だろう」

 

「諸葛亮が誘き寄せられ、李師殿が誘き出す。だけど―――」

 

それは、作戦目的にそぐわない。

李師の作戦目的は、あくまでも兵站線の切断の筈だ。

その思考の枷に囚われた典韋を、夏侯淵は優しく諭す。

 

「流琉。何故兵站を狙うのだと思う?」

 

「それは、敵を餓えさせる為です」

 

「では、何故兵站線を断つ?」

 

それは、敵を餓えさせる為。

同じ答えを求めるほど、自分の主は愚かではないことを典韋はよくよく承知している。

 

常識というものから半歩ズレて歩くのが李瓔という男なのだと、典韋は目の前の名将から聴いたことがあった。

それを、踏まえれば。

 

「兵站線を断つのは、線を束ねた出発点が城という殻を被っているから。そしてその殻を破れない理由は、多数の軍兵がその中に居るから……」

 

「つまり?」

 

「宛という殻を、攻め落とす気なのですか?」

 

「攻め落とすことは、しまい。何らかの小細工で殻を内部から突き破らせる。その為に距離を稼ぎ、時間を稼ぐ。仲珞の考えはそんなところだろう」

 

「……秋蘭様は、最初からわかっていたのですか?」

 

「わかったのは途中からだ。取り返しがつかないということも、同時にわかってしまったがな」

 

一気に送らねば、経済が破綻する。

一気に送れば、釣り出される、

 

生真面目に、自分の能力を誇張することなく適切に、あけすけに見せる。

一言で言えば『迷宮』とか『複雑』とかで言い表せる彼女の性格は、このような誇張を嫌い単純さと真実を好む面も持ち合わせていた。

 

「野戦で相対するときは、敵が一万から一万五千。仲珞が五千。二倍から三倍なら、奴ならば何とかできるだろう」

 

この一言で雑談を終えて、夏侯淵は目前の敵に絶えず揺さぶりをかける作業に戻った。

 

(あくまでも、これは予想だ)

 

明敏な指揮を執りながら、夏侯淵の頬が自然と緩む。

 

(一体、どちらが釣り上げたのか、だな)

 

友が齎す戦の結果が、今はただただ楽しみだった。

一方でその頃、李師こと李瓔も似たようなことを言っている。

 

趙雲が居ない、ということは、荊州軍の中で既成事実となっていた。

趙雲にあの派手な白装束を脱がせ、指揮を執る時は一般兵の如き鎧装備に甘んじている。

 

基本的にこの世界の指揮官という類の人間は、独特な衣装を好む。

呂布は弱点である腹が剥き出し、趙雲は蝶の翅の如き紋様の袖が特徴的な白装束。李師は足首までの長い脚絆と、深緑の上着に深緑の帽子。

 

これら三人の衣装に防御性能が皆無なことは言うまでもないが、とにかく見れば一発でわかるのが、著名な将帥の内で暗黙の了解となっていたのである。

 

「一大兵站基地である宛から、敵はこの博望を通って対陣している自軍へと送り届ける。周泰の報告で裏付けが取れた以上、これは既成事実だと思っていい」

 

審配と田予と呂布を前に、李師は田予が作ったおおまかな地図を広げて論じていた。

これからの作戦説明、と言うべきであろう。

 

「敵の旗は、諸葛、張。諸葛亮、あとは張飛が出張ってきている。いわゆる、義勇軍の頃からの古参の二人だね」

 

「能力に見合っての差配なのでしょうか?」

 

すっかり病床に伏してしまった劉表の後を継いでいるのは劉備なのだ。

自然とその母体である義勇軍の構成員たちは出世を重ねているし、若手を抜擢したりもしている。

 

李師の不安はその抜擢された若手の中にとんでもない計算違いを引き起こすだけの能力を持った人間がいることなのだが、荊州は平和な土地だった。基本的に戦は起きない為、訓練を見るより他にない。

 

計算違いを引き起こしても対応可能なように、余白を残しておくことでしか対応はできなかった。

 

「やはり人として、苦楽を共にしてきただけに身内びいきがあることはあるだろうけど、この大陸でも屈指の将であることは確かだよ」

 

「では、第十一軍団(夏侯淵)と対陣している龐統、関羽あたりも、ですか?」

 

「そういうことになる。が、龐統らは対した問題じゃあない。我々として前から進んでくる敵を何とかすればいいわけだ」

 

この一見楽観が過ぎるように聴こえる発言を窘めたのは、意外にも田予である。

今まで李師の言葉を問いによって確認していた審配は上司に忠実すぎるところがあり、反対意見を叩きつけるよりは命令を粛々と実行に移す。

 

戦場においては得難い剛直さだと言えるが、ともすれば佞臣と取られかねないところが、彼女にはあった。

 

「ですが、夏侯淵殿の第十一軍団と第十二軍団、残してきた我が軍の半数を合わせても四万に満たない数。一軍をもって夏侯淵殿を封じ、余力を以ってこちらの後背を突く、というようなことに、なりはしませんか?」

 

「敵は居て七万。兵力差は二倍だ。

私は何とか出来た。曹孟徳も何とかした。妙才なら何とかするだろう」

 

殆ど無邪気なまでの圧倒的な信頼が、この作戦の前提にある。

気が合うから、というよりは、同質・同量の信頼と信用を互いに置いているからこその、リンクぶり。

その後幾つかの質疑と作戦の公開を経て、五千弱の李家軍は博望に布陣した。

 

博望。

周囲に山、森を完備した平野地帯であり、豊かな自然を持つ火計にうってつけの地形である。

李師が陣取った箇所はよく生い茂った森が拓かれた平野部であり、お誂え向きの野戦場だとも言えた。

 

「敵軍、我が軍前方二十里まで進出しつつあり」

 

そう知らせたのは、その快足で物見に行っていた周泰である。

彼女は李師の耳目であり、彼女なしでは李師は常に正しい判断を下せる、とはいかなくなるであろうことは必定だった。

 

「輜重は?」

 

「目算ですが、七万の兵が二ヶ月は食べていける分の量が積まれているものと考えられます」

 

「偽装だね」

 

「は?」

 

あまりにも瞬速の看破に、思わず自分を殺したくなる程の粗相をおかしてしまった周泰が自己嫌悪に陥っている間に、李師はご丁寧に解説を述べる。

 

諸葛亮は慎重派の指揮官であり、戦歴を見るに、奇策も使うが賭けを好まない。そんな彼女が戦うとわかっていてそんな大荷物を持ってくるはずがない。

 

持ってくるにしても、自分たちを駆逐するのと補給を行うのを同時にこなそうとは思わないだろう。戦略目的を二つ抱えるというのは、相当に無理のあることなのだ。

そして、彼女は明確にこちらの撃滅を目指している。他にも道はあるのにもかかわらず、態々博望を選んだのがその証拠だった。

 

「……博望にこなかったら、どうなさるつもりだったのですか?」

 

「宛をとるだけ、かな。少なくとも短期的に前線に兵糧や軍需物資が行き渡ることになり、戦略的には負けていた」

 

「この博望での迎撃は、博打だったのですか?」

 

「ああ」

 

周泰の驚き混じりの問いに、李師は平然と頷いた。

 

諸葛亮であれば念入りに諜者を放ち、敵の位置を掴んでからそこに布陣をする。

 

李師と、諸葛亮。よく似た戦い方をする二人の、大きな差異がこの一時に現れていた。

 

李師は平然と投機的な手を打ち、八割の技巧と二割の運で成功させる。

諸葛亮は、投機的な手を嫌う。堅実に攻め、五割の技巧と五割の理論で成功への道に自分を乗せる。

 

どちらが良い指揮官であるかは定かではないが、大軍で寡兵を討つ指揮をするならば諸葛亮が、寡兵で大軍を穿つ戦をするならば李師に適性があった。

 

「さて、陣地構築は?」

 

「完成しています。いつ攻められても応対できるかと」

 

「では、待機。来たら迎撃してやるとしようか」

 

そのまま寝てしまいそうなリラックスぶりを示す李師を見て、傍らに立つ呂布と目を合わせ、肩をすくめる。

 

剛胆というかなんというか、へんに図太いところがあるのもまた、李瓔と言う男の一側面だった。



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突撃

今回のあらすじ:呂布は、突撃を繰り出した!


「どうですか?」

 

曖昧な問いの中に僅かな焦燥を混ぜて、諸葛亮は収集をつけるまでもなく整った前線から呼び出した張飛に問うた。

戦いは既に一日を経て、二日目へと突入している。一万五千の軍は、五千足らずの軍とまともに戦えてすらいなかった。

 

指揮官を呼び出せる程度には収拾をつけるまでもないのに、まともに戦えてすらいない。

 

この矛盾の発生源は、李師のとった戦法にあった。

 

「敵は柵と土塁から矢を撃ってくるだけだし、挑発しても乗ってこないのだ」

 

「……困りましたね」

 

この一日半、李家軍はいつの間にやら築いた陣地に引き篭もって雨のように矢を降らせることに徹している。

無論こちらも矢を射てはいるが、疲労も溜まるし、何より時間経過とともに味方が死んでいくという凄惨な光景に耐性のない新兵が主力なだけに、時間経過での消耗は精神面においても肉体面においても劉備軍の方が多量だった。

 

「いつの間にあんなものを?」

 

「戦闘に使う兵と、工作兵を兼ねた兵を従軍させているのではないでしょうか」

 

これは事実であって事実でない。現在展開している李家軍の内、二千人は後方支援集団である。

つまり、編成的には工作兵が四割。戦闘員が六割なのだ。

 

左翼に千、中央に千、右翼に千。防壁があるとは言えども、ぺらぺらにも程がある、一点集中で攻撃されれば負けの博打のような布陣。

それを、李師はこの時とっている。

だが、諸葛亮がそんな内情を一々知っている訳ではない。そもそも連弩という兵器を惜しみなく使っていることもあり、矢の数で敵の数を測る、ということもできないのだ。わかる訳もなかった。

 

「野戦陣地の攻略を急がせましょう。あれをどうにかして誘引すれば数の優位を活かせます」

 

「遠距離射撃戦は、終わりなのだ?」

 

「そうなります。敵の備えは応急的なもので、配置と構成の鬼畜ぶりに反して耐久性は脆いので、五千の歩兵に工兵を護衛させて破壊しましょう」

 

この動きを、李師は僅かな誤差はあれど読み取っている。

もう少し早いと思っていたのが、肩透かしを食らった格好であるが。

 

「恋に連絡。半ばまで崩された時を見計らい、敵の破壊部隊を食い破れ、と」

 

「機に関しては委任する、でよろしいのですか?」

 

「恋が指揮官をやるといったからにはそれくらいはする。元々悪運と機の洞察に関しては私を超えるんだ。うまくやるさ」

 

敵に損害を与えるというよりは味方の損害を防ぐ陣地構築と『この手の戦』に慣れているが故に、李家軍の死傷者は百に満たない。

 

別に敵を殺したからといって有利になるような状況ではないが、被害の少なさは李師を安堵させ、安堵した己を憮然とさせるに充分だった。

 

「予想より被害が少なくてよかった、という言葉ほど指揮官の根性の悪さがにじみ出る言葉はないな」

 

「何故ですか?」

 

「人が死ぬのを見過ごしている。わかっていてなお殺している。こう思った人間がろくな死に方をしないことは請け負いだ」

 

勝っているのに何故か落胆したように、あるいは失望したように、つまりは憮然としたように前面の戦局を見る李師を横目で見やり、田予はへんてこな、しかし己の才幹を余すところなく使い、欠点を補充してくれる主を補佐すべく隷下の伝騎に指示を下す。

 

このような愚痴が敵にでもなく、実行者たる部下にでもなく、それを命じた主にでもなく、ただ彼自身にのみ向けられているあたり、彼の内向的な性格をよく示していた。

 

田予が後に書き残すことになる、そして極めて的を射ている一文である。

 

「副司令」

 

「はっ」

 

「左翼の恋が陣地から出たら、吾々は審配を先手にして速やかに撃って出る。右翼にも伝令をやっていてくれ」

 

何をする気か皆目検討をつかないが、構想能力を欠きながら実行能力のみを持つ人間が疑いを立てるほど馬鹿なことはない。

これまでの実績と信頼とで、田予は整然とその指示に従った。

 

「撃って出た後は、各自いつでも戦線を纏められる程度に、自らの裁量で動くようにと」

 

「拝命しました」

 

この頃には、呂布に下した指示が彼女のもとに渡っている。

この指令を受けた呂布は一つ顎に手を当て、極一般的な矢による防戦をこなしていた。

 

その気になれば呂布が敵の工兵の指揮官を射抜けることを加味すれば、これは虎が獲物に向かって跳躍する時を待っているが如き有り様だとわかるであろう。

 

ともあれ呂布は、陣地がその機能を失う僅か前、半壊するまでひたすら待った。

 

そしてその時に、中央と右翼が盾を構え、陣地から出て攻撃に転じたのである。

 

この形勢の急激な変遷によって生じた敵の心理的動揺と、心理的動揺によって生じた意識の空白を、呂布は見逃さなかった。

 

半分壊した陣地を全壊させるか、味方の掩護に回るか。

散々に悩まされた陣地を半分壊したからこそ敵が悩んだ、間は三秒。

 

「突撃」

 

その隙を致命傷にすべく、呂布は半秒とかからずに決断した。

 

簡潔な命令は、より一層簡潔な結果を生む。

工兵部隊を守っていた歩兵は自らの守りたる土塁を迂回して急襲した呂布隊千に左脇腹から槍を突き刺され、右肩に貫き通されて壊滅した。

 

連絡系統を物理的に破壊され、心理的空白を突かれ、飛翔するが如く迅速な騎射を三度にわたって喰らった五千は、主将と中級指揮官を七人、下級指揮官を十五人喪い、指揮系統が再建できなくなるまで踏み潰され、二千にまで躙り減らされて敗走する。

 

「馬速を落として追撃。敗走する敵を盾にして、矢を除ける。敵陣に着いたら殺してもいい」

 

敵を盾にして、更なる戦果を上げる。

黄巾討伐で李師が見せたのと殆ど同じ戦術を、呂布はところを変えて再現してみせたのだ。

 

呂布は簡単そうに見えて凄まじい難易度を誇る、突撃という戦術の名手だった。

敵の弱いポイントを探り、それを超える破壊力で抉る。

 

先ず探ることが困難であり、破壊力を集約させるのも至難である。

しかし呂布は破壊力にかけては大陸一の戦闘能力を持っていたからこれで代用できたし、何よりも天性、機というものが肌でわかった。

 

養父は敵陣の隙が見え、義娘は機がわかる。

養父は機を作る為の隙を作ることができ、義娘はその機を極めて効率的に活用する。

 

卓越した馬術で、千騎は敗走する二千人に殆ど密着するほど接近した。

 

「弓構え、箭番え。遥か前方に射ち下ろす」

 

前方に居る生物は、全て敵。

故に、呂布隊には誤射というものが存在しない。全力で敵を狙えば、誰かしらが死ぬ。

 

東洋のヘラクレスとでも言うべき万能の武器適性を持つ呂布も、ここぞとばかりに敵の中級指揮官を狙撃することに注力した。

 

中級指揮官を殺せば、小隊を踏み潰していくだけで片付く。

殺しやすく、なるのだ。

 

「弓から戟に持ち替え。もう、突き殺していい」

 

未だに秩序を保っている敵に接触する寸前に、呂布は矢と弓を背にある筒に戻して赤兎馬と自分の腿に挟んでいた方天画戟を手に取った。

 

馬上の乱戦で、南の兵は北の兵に敵わない。

南船北馬、という奴である。

 

騎馬民族たる鮮卑・烏丸とそのハーフで構成された呂布隊を相手にするのは、劉備軍では荷が勝ちすぎた。

 

敵の騎兵を十秒と経たない内に二十人余りを叩き落とす。

次いで歩兵を赤兎馬で轢き殺し、踏み潰し、圧し殺す。

更には方天画戟で斬り殺し、突き殺し、裂き殺す。

 

瞬く間に百を超える屍が量産され、そして攻勢限界点が見えてきた。

 

「退く」

 

「えぇ?まだやれますよ?」

 

こちらも既に二十人程を血祭りに上げている成廉が訝しげに問い掛け、三騎一組で敵を還付無きまでに叩きのめしていた他の騎兵たちも訝しげに、今まで背中しか見せていなかった呂布を見た。

 

「……いいから、退く」

 

「はい、了解」

 

説明も何もない撤退命令に従い、呂布隊は敵の右半身に背骨が砕けるほどの一撃を加えて、未練タラタラに引き揚げた。

この撤退命令が数秒遅れていたら、呂布隊は諸葛亮が急場で作り上げた重層的な罠の中に引きずり込まれていただろう。

 

一連の突撃で敵を半死半生に追い込んだ呂布も見事であるし、慌てずに罠を構築して包囲殲滅しようとした諸葛亮も尋常なものではなかった。

 

されど、今回はそれを眼だけで文字通り見抜いた呂布に軍配が上がったといえる。

 

結局敵の一翼を完全に崩壊させるには至らず戦線を三里ほど下げて立て直した。

 

勝負はまだまだこれからであり、今は体力を使うような場面ではない。

そのことを、呂布は敏感に感じていた。

 

「……これ以上の攻撃は無用。三里下がって戦線を立て直す」

 

「了解」

 

勝負はまだまだこれから。

おそらく嬰は、この後動く。

 

呂布の確信に近い予想はこの後、見事に報われることになった。

 

 



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崩壊

呂布が三里下がったことにより、戦線を立て直したのは何も彼女の部隊だけではなかった。散々に崩され、乱された劉備軍左翼部隊も、敗走してきた味方を後方に回している。

 

後方に回した二千は長期にわたって―――後方から常に、近しい距離で馬蹄が響いている―――恐怖心を煽るような状況に晒され、恐慌状態にあった。

実数としては突撃で僅かに数を減らした呂布隊の二倍の数を保持していても、心情を加味すればその二千は使い物にはならない。

 

少なくとも、今のところは。

 

そして呂布の突撃をまともに喰らい、恐慌状態にある友軍を見てしまった劉備軍の左翼部隊も半ば恐慌状態の一歩手前であった。

 

荊州兵は反董卓連合以来、戦を知らない。それは諸葛亮の外交の巧さや内政の巧みさに起因するところが多く、概ねその能力は褒めてつかわされるべきであろう。

 

しかし、北の異民族と戦い続け、挙句の果てには反董卓連合で諸侯の兵を敵に回して粉砕し、天下一の人材の質と量を誇る曹操軍を撃ち破った李家軍を相手取るには荷が勝ちすぎるというものだった。

 

李家軍は中級指揮官から下級指揮官に至るまで、身体を張る。そしてなおかつ生き残る。

訓練で『狙われるから』という理由で呂布にひたすら叩きのめされ、趙雲に槍術や逃げ脚の秘訣やら何やらを学んだ彼等彼女等はしぶとかった。

 

敵の勢いが強ければ、全軍が崩壊しない程度に逃げ、怯んだところを周りと連携して数の利で叩く。

卑怯卑劣と罵られても無理からぬ程の生存能力と連携、そして生命力を持っていた。

 

全軍を構成している一個小隊や一個中隊までもが密接に連携し、有機的に結合している。

恐らく天下で最も激戦を潜り抜けてきた李家軍の、最精鋭といえる彼等彼女等は劣勢と苦戦の連続で、訓練度というものが跳ね上がってしまった悲しい人種だったのだ。

 

そしてそのことは、最高指揮官も変わらない。

 

「副司令、第五・第七を右旋回、第八・第十一を左旋回。敵の突撃を受け流す」

 

「はっ」

 

盾と槍を構えて威圧し、誘導し、移動によって受け流す。

 

戦いの中で新たに閃いた、『流体防御』とでも言うべき『受け流す、勢いを削ぐ、射撃』の三連鎖で、李師は最小限の被害で最大限の効率を叩き出していた。

 

敵の騎馬隊も強いが、破壊力は夏侯惇程ではない。大袈裟で体力の消耗の激しい流動を使わなくとも、流すくらいは簡単にできる。

 

「今だ、撃て」

 

田予による優れた指揮系統の統率により、手首を僅かに上げた後に下げるという動作とともに下された命令は極微量のタイムラグを経て実行に移された。

その微量のタイムラグを、経験によっておおよそ計算に入れていた李師による微修正は見事に功を奏し、彼が思い描いたとおりに騎馬隊が弩兵によって薙ぎ倒される。

 

殆ど奇跡的なまでの部隊運用と、その部隊運用を計算に入れた指揮ぶりは現在まで無謬のものだと言えた。

田予はまだまだ余力を残しており、普段から寝て過ごしている李師は言うまでもない。

 

だがこの時、李師が一回の戦いに一度はやらかす計算ミスが、彼の意識が右翼の防御法の管制に向かっていたことを利用する形で、審配率いる前衛部隊を襲っていた。

 

要は、活動を停止した呂布隊の左翼と、受け流しによって僅かに逸れた右翼の間隙を縫って張飛・黄忠の両隊が左右に展開。

審配は前面を含む三方向を囲まれることとなったのである。

 

「将軍、吾々は三方向を囲まれてしまいました。これは、隊を下げたほうがよろしいのでは……」

 

「落ち着かんか、馬鹿者」

 

審配は部下の意見を無視する型の指揮官であり、極めて真っ当な論理と戦術で敵に相対する。

つまりそれは奇策や不意を突かれることに弱く、奇策によって不意を突かれた場合はどうしようもないという欠点を露呈させる特徴でもあった。

 

現に彼女は夏侯淵に不意を突かれた時はあっさりと邯鄲という難攻不落の要害を渡してしまい、予め李師に『来るよ』と予言されていた時は易城という小城を守り通している。

 

覚醒したからといって能力的なバラつきが変わるわけではない。これまで黄忠・張飛が率いる三倍の敵に対して互角の戦いを演じていた審配も、不意を突かれては負けるかに見えた。

 

しかし、彼女は生来の愚直さと真っ当な論理と戦術を駆使してこれに抵抗したのである。

 

この稼いだ時間が、李師の計算ミスを李師が修正する為の時間となった。

 

「……なるほど、してやられたなぁ」

 

「敗け、ですか」

 

驚くほどにその言葉が嘘っぽく聞こえたことに内心驚いた田予は、口元を左手で抑えて思考を切り替える。

これほどあっさりと死にそうな男も居ないが、不思議と敗けて焦っている光景がそぐわない男もまた、居ない。

 

今までの数多くのミスを覆してきたその修正能力に希望を掛けながら、田予はちらりと横を見やった。

 

焦るべき状況にもかかわらず、全く、焦っているようには見えない。

姿勢も、至って悪いままである。

 

「敵が有利なこの状況……これを逆用できるんじゃないか?」

 

一瞬だけ瞳に鋭い知性が宿り、周囲の人間が息を呑んだ。

どんなに姿勢が悪くとも、どんなに怠惰であろうとも、李師は当代屈指の名将である。そのことを再認識したものが、この時意外に多かった。

 

「よし、恋と合同して、敵を叩こう」

 

「よろしいですが、いつ伝騎を送られたのですか?」

 

「少し前に。包囲されるかな、という前兆があったのでね」

 

その命令を渡した伝騎が三騎、呂布へその命令を届けている間にも、李師は床几に肘を付き、頬を掌に凭れかけさせながらぼんやりと思考を巡らせていた。

 

「いや、予定を繰り上げれば何とかなる。たぶん」

 

何事かを指折り数え、左の掌に右の拳をぽん、と打ち付ける。

閃いた、という典型的なポーズをとる間に、李師はこの孔明の罠が招いた危機的な状況をどうにかする策を思いついていた。

 

「どうなされるので?」

 

「恋の動きに合わせて、逃げる」

 

「では、後退の合図を送られますか?」

 

「いや、逃げるのは後ろじゃないよ」

 

何食わぬ顔で前面の審配隊を崩しつつある正面の敵陣を指差し、李師ははたまた博打を打つ。

 

「右翼に連絡。次の突撃を受け流した後に敵中央を目指して進撃。なるべく敵陣を崩していくように、と」

 

「……なるほど、了解致しました」

 

「敵陣の中央を突破し、退却する。審配隊は直衛に組み込み、統合した後に私が直接指揮を執る。後方支援集団の武装化は?」

 

「既に完了し、我が軍の中央部、その最後尾に続いております」

 

後方支援集団と言っても、精鋭と言える程度には強い。

期せずして予備兵力を確保しておいたことになる李師は、軽く一つ頷いた。

 

退却。それも、現在の認識では敵城とされる城郭に。

趙雲が巧くやっているかは、五分と五分。それを承知で、李師は成功すれば被害を最小に抑えることができる一手を打った。

 

「失敗していれば、どうなさいます?」

 

「趙雲たちを回収して逃げるさ。まあ、抜け目のない彼女が失敗しているとも、思えないがね」

 

審配隊を後退させた瞬間、右翼が斜め方向に猛烈に前進を開始する。

それを見た諸葛亮は中央突破の意図に気づいたのだが、ここで一つの選択と一つの悩みに迫られた。

 

敵を包囲して殲滅するか、右翼と左翼を中央に集めて堅陣を築くか。

これが、選択。

 

なぜ敵は中央突破の態勢を取ったのか、というのが悩みである。

 

順序で言えば、彼女は選択を迫られたことに先に気づき、ついで悩みの種の在り処に気づいた。

しかし順序で言えば、この二つは逆になるべきであろう。

 

諸葛亮は既に味方の中央で敵中央を兵力の差を活かして包囲している。これを広域で実行するには、敵の意図を見抜いて対処せねばならない。

 

呂布という突撃をしたら貫いている、というような行動と結果が癒着している槍を李師が持っている以上、敵の狙いが中央突破からの逃走にあるのならば包囲して軍の密度を薄くしてしまうのは敵を助けてやるようなもの。

 

中央突破があくまで突出した前衛を掩護し、こちらの中央部を破断させるつもりならば諸葛亮は更に大きな包囲網で敵を囲んでやればよい。呂布という存在が居ても、すぐさま再構築出来るだけの技量はある。

 

突き破っても突き破ってもその都度直し、じわりと締めていけば勝てるのだ。

 

どうするか、という決断を、諸葛亮は瞬時に出せなかった。瞬時に出すには経験が足りなかったし、何よりも彼女は受け身のままだった。

 

李師は包囲された、即ち受け身になった瞬間に主導権をひょいっと奪い返したが、諸葛亮はその専守防衛的な性格もあり、奪い返せなかったのである。

 

「軍師殿!」

 

「何かありましたか?」

 

「敵左翼、我が方の左翼と中央の間を突破。後方に向けて繞回進撃を成功させつつあります!」

 

思わず耳を疑う報告だった。

余りにも速すぎる。このようなことが起こらないように包囲に向かわせていた黄忠・張飛の両隊には伝騎を通さぬ様にと翼を目一杯広げるように申し付けていた筈である。

 

あの二人の仕事に、粗相があるとは思わない。ならば、敵はこうなることを予想していたということなのか。

 

じわりじわりと水面下でこの作業を進めていた諸葛亮は、その綿密さと隠蔽でもって李師が自身で対抗できる程の時間的余裕を与えなかった。

しかし、伝騎を放つ程度の時間的余裕がある程度前に、気づかれてしまっていたのである。

 

それでも防ぐことは、出来なかったのだが。

 

「こちらの左翼に連絡を。突破されて混乱している部位は一時的に指揮を放棄。指揮系統の正常な部隊で繞回進撃する敵の後方を襲え、と」

 

「はっ!」

 

その伝騎が本陣を出たと入れ違いに、悲鳴のような勧告が諸葛亮の居る本陣を鳴動させた。

 

「軍師殿、右翼にお逃げ下さい!」

 

風を切り裂くように、呂布隊が無防備な背中に突撃を開始する。

 

「狙いはこちらの本陣のようです!

速く、お逃げを!」

 

振り向いた視線の先には、真紅の旗が靡いていた。

目と鼻の先ではないが、最早そうなるのも時間の問題であろう。

 

ぐっ、と。

荷物のように抱きかかえられ、諸葛亮はそのまま馬に乗せられてひた走った。

 

「突撃、来ます!」

 

後ろ備えの崩壊の一寸前に、悲鳴のような報告が諸葛亮の耳朶を打つ。

負けたのだと、彼女はこの時理解した。



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才能

「暇ですなぁ」

 

「戦で忙しないよりは、ずっとマシさ」

 

諸葛亮率いる荊州軍の中央部を突破し、追撃してきた一翼を強奪を終えた宛からの一軍と呂布の左翼、李師の本隊で壊滅させた李師は、なんとなく閉じ込められたような感じのある現状の打破への道を探っていた。

 

宛を奪うことは敵の糧道の元を絶ったということに他ならない。だが、宛は敵の勢力に挟まれている。

 

北には李傕・郭汜の旧董卓軍の勢力が犇めき、南と東は先に交戦した劉備軍を擁する劉表軍。西には劉焉軍。一軍を食わせるためには過分な程の食料と養う為の剣や弓矢には事欠かないが、連絡線が機能していないのが問題だった。

 

「私は祭りが好きでしてね。安泰もよろしいが敵中に居る以上は戦を交えたいと思うのですよ」

 

「君は気楽でいいねぇ」

 

「細かく考えることは、あなたに任せているのでね。何せ、右腕ですので」

 

李師は明後日の方向を向いて溜息を付く。

布陣している敵の後方の城を奪い、更には退路も残してやった。

軍学的に正当さと戦略的な優位を尊ぶならば退却を選ぶだろうし、退却をすれば曹操軍がここまで進撃してくる。

 

「そう巧くいきますかな?」

 

「前方に敵、後方に敵を抱えた、ないしは対峙している味方。この状態で退却せずに前進すれば、待っているのは死さ。背水の陣とも、言えなくもないが」

 

背水の陣は、敵に策略がないとわかっているときにのみ使える死力を振り絞らせる戦法なのだ。

李師が前回とった戦法の師は、韓信である。

 

本隊で敵の出撃を誘い、少数の一隊で敵の出撃拠点を陥落させる。

井陘の戦いにおける戦い方を抽出し、応用したのが博望の戦いであった。

 

要は敵を城から引き離して空き家を奪うという、調離虎山の計である。

 

「あなたはやったでしょうが」

 

「あれは退却方向に敵が立ち塞がっていただけだよ。寧ろ後退に類する行為だと、言えるだろうね」

 

「物はいいようですなぁ……」

 

兵法の初歩を極めて芸術的にやってのけた李師は、城について物資の確認と分配を賈駆に、軍事関連の全権を血が騒いでいるままの趙雲に、城の固めを審配に預け、周泰にこの宛城が陥落した要因を広めるようにと指示を下し、寝た。

戦争した後、李師はとてつもなく眠くなる。呂布は腹が減る。趙雲は血が騒ぎ過ぎる。

 

故に李師は果実を二つ程胃に入れて糖分を補充した後に三日三晩の間一回も起きることなく惰眠を貪り、呂布は三斤の肉と四斤の雑穀を平らげて李師の寝室に護衛も兼ねて引き篭もった。

敵の約三分の一強を壊滅させた別方面に狂った力を持つ二人がその機能を完全に停止させていたとき、諸葛亮は諸城の固めと内通者の炙り出しに腐心している。

 

宛城が陥落したのは、内通者が居たから。

 

その事実を周泰によって広められた諸葛亮は内部調査に乗り出さなければならなかったし、宛に居を構えた戦略兵器と戦術兵器の父娘に対しての備えを再編しなければならなかった。

細かいことまで自分でやる諸葛亮の性格を読み切っていた李師は、情報を広めることで確実に諸葛亮の動きを止めることができると確信を持っていたのである。

 

だからこそ、彼は今の今まで爆睡して英気を養っていたと言えた。

 

「明命は?」

 

「宛の陥落を味方に伝えに行きましたぞ。援軍の派遣も、同時に」

 

「援軍?」

 

どうにも寝起きで頭が回り切っていないと見える李師の惨状に頭を抱え、趙雲は語尾に呆れを含めて優しく諭した。

 

「夏侯妙才率いる友軍が、近くに居りましょう」

 

「援軍かぁ。行くのはともかく、もらうのは初めてかもしれないな」

 

「…………」

 

趙雲は、そう言えばそうだと思い直して押し黙る。

李家軍の、というよりも李師の基本的なスタンスが不本意ながら刻み込まれた『孤軍奮闘』である以上は、援軍をもらえる―――直接的なものにしろ、間接的なものにしろ―――のは、珍しい。

 

「兵法に曰く、籠城戦というものは後詰めがあってこそ、だと言う。私はもっぱら籠城戦を得意としてきたが、その原則にことごとく反してきた訳だな。今思えば、の話ではあるが」

 

「仕方ありますまい。環境に恵まれなかったのですから」

 

その環境の恵まれなさと原則を無視せざるを得ない苦しい状況下で、よく不敗を貫けたものだと、趙雲は珍しく真面目に感心した。

劣悪な環境に変な形で能力が適応し切ってしまったのがこの李師であり、だからこそ思っていることとやれることが食い違う。

 

戦術で戦略は覆せないと、李師は思っている。しかし、何回か覆している。

籠城戦は後詰めがないと勝てないと、李師は思っている。しかし、敗けたためしがない。

 

「恵まれてはいたと思うけどなぁ」

 

「嘘をおっしゃいますな」

 

「傍から見たらそうなのかも知れないがねぇ」

 

胡座を掻き、李師は城壁に背を凭れ掛けさせて目を瞑った。

彼の計算では、諸葛亮はまだ動かない。と言うより、城攻めをしようとはしないだろう。

 

李師が籠城戦に平均以上の定評を持っている指揮官だということを、諸葛亮は知っている。そのことを李師は知っていたから動かなかったし、諸葛亮も彼に予想されていることを承知で動かなかった。

 

ここで動かないのが、諸葛亮だと言えるであろう。珍しく博打を打って敵を撃滅しようとしたらあべこべに三分の一を叩き潰された揚げ句城を落とされ、軍需物資を根こそぎ奪われる。

 

この状態でもう一度賭けに出る、諸葛亮ではなかった。

 

「警戒は続けつつ、明命を待とう。あぁ、明命が居ないのだから、警戒はより厳重に、ね」

 

「委細承知。お任せあれ」

 

警備・諜報の要である周泰が居なければ、必然的に他の城郭守備兵の負担が増す。

更には、野戦に撃って出るという選択肢がなくなっていた。

 

「と言うよりも、単騎で敵の勢力圏を突破していけるのかね?」

 

「やれると言ったからには、やれるのでは?」

 

「私としては、もちろんそうなって欲しいが……」

 

その頃、周泰は馬にも乗らずに単身で敵の勢力圏を横断している。

赤兎馬に乗るならばともかく、普通の馬に乗るくらいならば走った方が速いという駿足の持ち主である周泰は、追手を物理的に振り切り、槍を使って河を跳び越しながら先を急いでいた。

 

そんな彼女が得意とするのは接近しながらの居合であり、踏み込んだ瞬間には斬られていると言われるほどの精度と速度を誇っている。

幼い頃からの子飼いというべきこの二人は、共に秀でた所を伸ばされ、欠点を咎められることもなく成長していった。

 

結果、身体能力や適性が一方面に特化してしまったと言えよう。

 

これは彼にとって本意ではなかった。

知識を授けて能力を伸ばすのは選択肢を増やすことに繋がると思っているから、『血腥い教師などは無用無益で有害でしかない』と悟りつつも教えているのに、結果としてその行く先を狭めている気がしてならない。

 

教え子がそう選択したとはいえ、その一因を作ったのではないか、という忸怩たる思いが、彼の中には常にある。

 

「……娘同然の教え子を、戦場に送り出す教師ほど、度し難い存在はない。そうは思わないかい?」

 

「そう言えば、北伐で名を上げ、追放処分される前は教師でしたな」

 

「だからこそ、『李師』の名で通っている。痴がましいと思わないでもないのだけどね」

 

華雄、司馬懿、周泰、張郃、呂布。

司馬徽の教導が李師のそれを手本にしたものであることを考えれば、諸葛亮、龐統らもそうであろう。

 

ともあれ彼の教導の手腕は祖母譲りだと言って、遜色はなかった。

 

「恋」

 

「……?」

 

「私は、君の道を狭めたかな?」

 

「……元々、一本道」

 

そこそこ気を使い、呂布は李師の問いを受け流す。

道を狭めたことは、確かだ。なにせ李師を死なせたくない、自分より早く死んで欲しくないという思いが呂布の道を決めたし、その為の手段たる武力も、武術書から無駄な虚飾を省いて要点を抜き出し、無理なく無駄なく呂布を理屈で以って育て上げた李師による所が大きい。

 

放っておいても強くなったであろうが、怪物が化物になるには李師の一押しがあらねばならなかった。

その点では、狭まったとも言えるのだが。

 

「嬰と、同じ。才能が、道を決めた」

 

「そうかぁ……」

 

望まれていない才能などほとほと余計なものだな、と李師は慨嘆した。

自分の軍才は心の底から要らないし、棄てられるならば棄ててしまいたい。

才能というものに人生が左右されるのは仕方ないとしても、それで決められるのはよろしくない。

 

「まあ、常人からするならば才能がある、ということはやっていて楽しい、やっていて苦痛ではない、ということと等号で結ばれるものです。左右されるのは仕方ないことでしょう」

 

全身レバー。

後世そうやってネタにされるほど、趙雲はクソ度胸に恵まれた豪胆な人間であった。

 

趙雲は、李師が一日目の戦いをダラダラとこなしている間に予め上から縄をたらさせて自身を含んだ全軍の半数を登らせている。

内と外からの奇襲によって一気に陥とすというのが、彼女に授けられた策だった。

どのくらいかと言われれば、この宛 城攻略において、城内で混乱を自ら起こしながら平然と城の中で職務に精励していた程に、である。

 

唯一混乱を起こさない、と決めた東門の門番を副官と共に務めていた彼女は、慌てて逃げてきた城主にこう問われた。

 

『叛乱か』、と。

 

それに対して彼女は、少しも慌てずにニヤリと不敵な笑みを浮かべてこう返したのである。

 

『敵襲だよ』、と。

 

これはもう天性、敵をだまくらかしたり危険の中に身を置いて力戦奮闘することに特化しているとしか思えなかった。

 

「君は楽しいのかい?」

 

「己の働きで勝ちを掴むのも勿論楽しいですが、何よりあなたの作戦が戦えば戦うほど精度と修正力を増していくのを見るのが楽しいですな」

 

李師深くため息をつき、肩を落とす。

宛城は、静かに佇んでいた。

 



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使者

兵站線を脅かすか、と。李師は唐突に考えついた。

自分は何故いまさら、二段回程前の行動に立ち返ろうとしているのか。それを穴埋めしていく作業が、瞬時に彼の脳裏を支配した。

 

諸葛亮の内政手腕は見事な物である。彼が寝ていた三日間で敗残の軍の集結と統合を終え、その後二週間で完全な再編と内通者の洗い出しを終えた。

 

その間、内通者が居るという噂を利用して不穏分子を粛清していると言う情報も入ってきている。

 

諸葛亮は将帥でなく、軍師なのだ。そう悟ったのは、それからだった。

 

李師は戦いに政治を持ち込まない。勝敗による勢力の浮沈すらも、持ち込まない。

見るのは己と敵のみであり、持ち込むのは兵の生命のみである。

 

純粋な才能の量と質、運の良し悪しによって己が敗けなかったのではないのだと、李師はこの時はっきりと自覚した。

 

つまり、自分は百ある能力の全てを人を如何に効率的に殺し、味方の被害を利用するかという非生産性しかない行為に注ぎ込んでいる。

だが、軍師や君主は政治を考える。考えなければ、そうは呼ばれない。だから、考えなければならない。

 

今まで敵としてきた全ての人間は、八割と二割、ないしは六割と四割の割合で自分と相対してきたのだろう。

更に、その二割、ないしは四割は生産性のある政治という物だった。だから、非生産性しかない戦という行為を遂行するにあたって邪魔になった。

 

戦いに勝つには、先にある生産性よりも目の前にある非生産性を直視し続けて歩まねばならないのではないか。だからこそ、己は他人の意識の穴に付け込み、その脚を払って敗けずに居られたのではないか。

 

戦争の前は、百と百。戦場についてからは、百と八十か、百と六十。

将と将の戦いが戦の本質であると言う言葉を当て嵌めるならば、自分が敗けなかったのは、そういうことではないか。

 

軍師ではなく、将軍である李師は、ぼんやりとした風貌を崩さずにその考えを頭の中に沈めた。

 

韓信も、白起も、李牧も。皆政治を戦に絡めず、その結果、政争に殺されている。

彼女等は戦場に於いては無敵であり、平時においては無防備であったのか。

 

趙の李氏の血を継いでいる身としては、その性質に血脈の因果を感じずにはいられない。

 

「恋。地図を持ってきてくれないか?」

 

「……ん」

 

床の上で半身を起こしただけと言う怠惰な格好で、膝の上の被保護者の触覚めいた髪を弄っていた李師は、膝の上から重みが消えたことを感じつつ溜息をつく。

 

平時にただ考え事をしているだけでも、味方の殺戮を援護する手段を考えついてしまう己の罪深さとは如何程か。

考えるならばともかく、実行に移してしまえることがまた度し難い。

 

「……地図」

 

「あ、うん」

 

宛に、指を置く。

敵の補給路に目星をつける時は、やはり地形が記された地図が必要だった。

 

彼は神ではない。何もかも知っていて、その上で作戦を立てる、というわけにはいかなかった。

 

「明命が帰ってきて、三日になるな?」

 

「ん。往復二日、速い帰還」

 

既に動いていたと言う夏侯淵に報告を上げ、周泰はその後更なる迅速さを以って宛に帰還。報告を上げた後に汗を流し、速やかに休眠している。

堪え性があり、一つの職務に精励し始めると自身の限界を超えて働ける周泰だが、その反動としてそれが終わった時に一気に負荷が来た。

 

故に、李師はわざわざ問うたのである。

 

「なら、今から私の指定した箇所に一部隊は出撃。明命には宛以北の情報収集を行うように伝えてくれ」

 

「ん。出撃、どこ?」

 

幾つかの地名を挙げると、それを呂布が竹簡に彫り、手を叩いて密偵を呼び出す。

それを渡せば、速やかに周泰のもとに行き渡るようになっていた。

 

「主、趙子龍です」

 

「どうぞ」

 

入ってきたトラブルメーカーを見て、李師の頭ははたまた歴史方面へと回転する。

常山出身のこの曲者の姓は趙。そして常山は戦国七雄の趙国の故地でもある。

 

案外と、この槍士は趙と縁ある人物なのかも知れなかった。

尤も、各地に劉氏が腐るほど居るように、趙氏も腐るほどに居る。

 

例え合っていようが、それがどうした、で終わるのだが。

 

趙の李牧、李左車と続いた趙の名族李氏も、潁川に引っ越してしまった訳であるし、信憑性がある訳ではなかった。

 

「許昌より、使者が来ております。お会いになりますか?」

 

「会わなければならないだろう、それは」

 

「では、今すぐ通しますかな?」

 

「星。察してくれ」

 

「わかっておりますとも」

 

それが昼頃になっても起きてこない主への皮肉であることは間違いがなく、投げられた方はその皮肉に一々怒る程狭量でもない。

 

いつものような会話を交わし、李師はさらさらと将としての装束である動きやすい胡服に着替え、掛けていた帽子を収まりの悪い黒髪に乗せる。

 

「さて、人選は任せるよ、恋」

 

「嬰。恋が、行っていい?」

 

「無理をしないなら行っていいよ。手勢は?」

 

「五百騎」

 

「まあ、順当なとこだね」

 

別に荒らす(?)だけなのだから、五百騎では過分とすら言えた。

呂布が李師の心配を見透かしてこの兵数を選択したということになるならば、彼女も中々の眼を持っているということになるだろう。

 

「じゃあ、任せた。星、護衛を頼む」

 

「安んじて、お任せあれ」

 

槍を室内で持つわけにもいかず、腰に剣を佩いているだけの趙雲が李師の斜め後ろにつき、呂布がそれを確認して離れて行く。

 

呂布が逆方向に進んでいく姿をちらりと振り返って見ながら、李師はぽりぽりと後頭部を掻いた。

 

「何の用かな?」

 

「さぁ?」

 

「私は味方の捷報だと思う。さしずめ吾らに下される次なる指令は、宛以北の調略を任せる、ではないかな」

 

「決着が付くには、速すぎはしませんかな。敵も鳳雛と謳われた傑物ですぞ」

 

現に並び称される臥竜こと諸葛亮には、李師が一度してやられている。

彼の再構築の素早さで撃ち破れた物の、油断できる相手ではないであろう。

 

そのことを、趙雲は聴いただけながら意識していた。

寧ろ、聴いているだけだから良いのかもしれない。

 

殆どの従軍者が、あの後の諸葛亮の罠を逆手に取った逆転劇に目を奪われてしまっていた。

魔術的な、芸術的な蠱惑さを持つ李師の用兵に酔いしれては敵を見誤ると、趙雲は自分に刻み込んでいる。

 

彼の用兵は、危機を同質量の好機に変える、ということを容易に為す。だからこそ、兵たちはどんな危機でも『李師殿ならば勝てる』と楽観して、その場で逃げることなく戦うのだ。

 

この戦線の崩れにくさと士気の低下のしにくさは、同時に危機感の欠如にも繋がりかねない。

美点は欠点を産む。この場合、李家軍の兎に角堅いという美点は危機感の欠如という欠点を産んでいた。

 

趙雲は、その空気に誰よりも染まっているように見えて客観視しているところがある。

この辺り、彼女はただの戦術屋ではなかった。

 

「傑物だから退き時を間違えない。そして妙才は、可愛げのかけらも無い速攻果断の用兵には定評がある。一度腹背に一撃加え、敵の逃げ足を早めさせたのではないかと、思うんだが」

 

「それには吾等が勝っているとの確信が必要でしょう。攻撃用と対陣用では、軍の編成も変わるのですから、周泰が来陣する前に悟っていなくてはならないのでは?」

 

「私の指揮なら二、三倍と城一つを何とかして敵の後方を扼すと、思ってそうではないかな。自惚れかもしれないが、現にそうなっているわけだし」

 

「……有り得ますなぁ。それを計算に入れて陣を組めば、追撃も容易で、更には効率的に終わりましょう」

 

一通りの予想を立て、李師と趙雲は広間へ入る。

許昌からの使者、と思しき女性が、恭しく礼を取っていた。

 

「単刀直入で悪いと思うが、用向きは何だい?」

 

あまりこういう礼儀に通じているわけではない李師は、使者の前に立ちながら用向きを問うた。

彼の礼の無さはその容貌と合間ってその使者を面食らわせたが、そこは曹操に見込まれて使者の任に預かっただけあって、対応力は素晴らしかった。

 

才能さえあればいい。煩雑な礼儀など必要ない。

常々そう言っている程の人材マニアに仕えているだけあり、彼女もその考えを受け継いでいた。

 

更には、容貌。

 

使者はこれまで李師を見たことがない。見たことがないが、実績とその指揮の鮮やかさは知っている。

故に容貌怪異な大男であるとか、峻烈な巌の如き声を想像していた。

 

しかし、無駄な重さがなく、水に浮きそうな軽さと陽気さのある声である。顔は見る者が見れば良く見えるという所謂普通の顔で、特に美男でも醜男でもない。

将軍というよりも、駆け出しの学者のなり損ないのような感じがあった。

 

「これを」

 

「うん」

 

己が両手で捧げるように差し出した竹簡に李師が一通り目を通すと、何故か斜め後ろで覗き込むように読んでいた趙雲が笑う。

 

「まぁ、そんなとこだろうね。ご苦労様」

 

予め想定していたような口ぶりに僅かな驚きを覚えつつ、使者は速やかにその場を辞した。



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保身

李師来たれり。

その報告を受けた豪族たちは、皆一様に戦慄した。

 

李師と言えば戦ってこの方負けたことがないという不敗の男である。

 

更にはその配下にはその槍技から『神槍』の渾名を献られ、『進むも退くも自在なり』と謳われた局地戦における戦術の名手、趙雲。

 

矛は交える前に、弓は弦を引く前に、討たれるという天下無双の『人中』、呂布。

 

異様なまでの粘り腰と決して戦局を投げ出さない敢闘精神に、堅牢極まりない守りと隙無き攻めが持ち味の『袁家の宿将』、張郃。

 

粘りには欠けるものの、常軌を逸した勇猛と異常なまでの闘争心で敵陣を打ち砕くまで止まらない、『李家の斧鉞』、華雄。

 

先行して入った二人と、荊州軍主力撤退したこと契機に宛に入った二人。

分裂した張遼・麴義、易京を守る淳于瓊等の欠員は居るものの、そこらに割拠するだけの豪族が敵う相手ではなかった。

 

呂布隊のみが赤であるものの、濃緑の甲と戎服を着たこの一軍団は充分に豪族たちを威嚇するに足る効果がある。

 

 

名前だけで勝てるようになったら、楽でいい。

 

 

そういう思考から李家軍と言うものの中核は生まれた。

それが今ようやく実を結び、李師はまさに向かう所敵無しの快進撃を続けていたのである。

 

命令が彼の元に届いた次の日には宛周辺の二城は陥落、それ以後も南方の最前線における一大拠点となった宛を審配に任せて順調に北進していただけに、この報告は曹操を驚かせた。

 

「第十三軍団の動きが止まった?」

 

「はっ。西顎、雉周辺の六城を十日の内に陥落させ、あと一歩のところで宛以北が平定されるというところで、進軍が停止しましてございます」

 

自身も前線に出て指揮を執るタイプの君主である彼女は、李師が博望で諸葛亮の処理速度をその執拗なまでの兵站破壊によって低下させている時には既に夏侯淵と合流している。

結果的には敵が見事な逃げっぷりを見せて退き始めたものの、夏侯淵が常に優位に戦局を進められたのは彼女の来援がほぼ確実視されていたか、と言うのが大きかった。

 

「桂花」

 

「はい、華琳様」

 

元々曹操軍が北上したのは公孫瓚に恨みがある訳ではない。

彼女は単純に、南北に挟まれている状況の打破を目指したかった。

 

先ず、曹操軍の支配領域は徐州、豫州、青州、兗州に、冀州の半分。

所謂中原という地域を占めているのだが、一方で北に公孫瓚、南に孫策と劉表、西に李傕等を抱えている。

 

単純な面積で言えば曹操軍の支配領域は孫策が殆ど手中に収めようとしている揚州や、劉表の手にある荊州の半分程でしかない。

黄巾賊や流民、更には元々の人の多さがあって農業生産高はこれら二州を圧倒するが、三面を囲まれていてはどうにも身動きが取りづらいというのが本音だった。

 

西は内乱の一歩手前と言った状態だが、自分が軍事行動を起こす素振りを見せると途端に固まる。

 

南の二州の内、揚州は孫家と袁家と豪族が三つ巴の戦いを繰り広げているからこちらに手出しはしてこないが、荊州は劉表を中心に纏まっており、劉表の慎重だが好機とあらば突いてくる狡猾さもあって侮れなかった。

 

北は割りと好戦的な夏侯淵に『内から崩すこと』を勧められ、天の御使いに名指しで配下に加えることを勧められる李師が居る。

 

勢力と勢力との争いで保っている均衡を個人が支えていたことが驚きであるが、このような事情から曹操軍は冀州制圧にも全軍を出動させることは出来ず、結果的に何もしなかった公孫瓚に冀州の半分を渡してやることとなった。

 

だが、このまるで誰かが誂えたような天秤が壊れる。

その兆候はあったとはいえ、劉表が病床に伏してしまったのである。

 

これを逃さず、曹操は北伐を開始して、負けた。

南方に蠢動する敵勢力に気をとられたとはいえ、巧妙な野戦陣地によって数敵優位をほしいままにしていた自軍が負けたことに変わりはない。

 

この野戦陣地の見事さと、退き際の鮮やかさ。

 

曹操は南方に蠢動する敵を見過ごし、或いは領土の過半を失うとしてもこれを叩き、屈服させる為に殆ど全軍を動員し、戦術的にまたもや敗けた。

だが、李師はあっさりと抵抗を諦めたのである。それは彼女の戦略が李師に抵抗を諦めさせるほど秀逸なものだったこともあるし、何よりも彼が敢闘精神豊富な将らしい将ではなかったからであった。

 

李師は『曹操が出てきたからには南はなんとかケリをつけたのだろう』と考えていたし、事実それはその通りだった。だが得た安全とは短期決戦におけるものであり、彼が亀のように引き篭もって劉表なりに後方をつくように諭せば打開可能なものでしかない。

 

あくまで指揮官としての彼に外交までやれというのは酷な話であったろうが、賈駆あたりに頼んだならばよっぽど巧く話をつけられていただろう。

そうすれば、易京には未だ公孫の旗が掲げられていたかも知れない。

 

曹操が李師と直接戦う前から得ていた戦略レベルの一勝が、戦いを経て、敗戦を経てもなお機能していたのである。

 

そしてそのことを、曹操が最もよく知っていた。だからこそ、この疑問は謂わば必然性を帯びて荀彧に投げられた。

 

「……李師は、こんなところで止まる男ではないでしょう。何故、半月で八城を陥とした程度で止まったのかしら?」

 

城とは平均的な能力の将が同数で攻めれば陥ちることは先ず無く、三倍で漸く陥ちる。

平均以上の将が二倍で攻めかかって苦戦しつつも二ヶ月程度で陥とし、三倍ならば一ヶ月以内に陥とすであろう。

名将ならば、更に速くなることはおかしくない。

 

だから曹操は、移動も含めて二日に一城と言うスピード狂の如き速度で李師が城を立て続けに八つ抜いても、激賞はすれども驚きはしない。

 

寧ろ、兵馬を疲れさせることなく運用する腕には感嘆すら憶える。

だが、半月間ひたすら引き篭もると言うのはどうにも解せないと言うのが心情だった。

 

「華琳様、あの男は城攻めは宛が初めてだと聴きます。幾ら野戦や防衛戦が巧みであろうと、やはり人には得手不得手があるもの。次の城を陥とす手立てが見つからず、攻めあぐねているのではありませんか?」

 

初陣は撤退戦、次は一敗地にまみれた漢の大侵攻作戦における殿、次は檀石槐との野戦と守城戦が五十数回にも及び、漢将としての最後の一戦で攻めに転じ、檀石槐を撃破。

その後は敵に策を用いて兵を用いずに瓦解させ、牢屋に叩き込まれて放逐。

 

公孫瓚の麾下ではもっぱら防衛戦と守城戦、迎撃戦を主とし、攻めに転じたことは数える程もない。

 

初の城攻めで立て続けに八つ抜くということもあまり無いが、百回近く戦ってきて城攻めが初めて、と言う将も中々いないであろう。

 

「……攻めあぐねる程の城に出くわして、正直に攻めあぐねる程、李師は素直な男かしら?」

 

「では、調略に精を出しているのでは?」

 

極めて真っ当な答えを返す荀彧と、どうにもしっくりこない曹操が頭を悩ませていると、横から怜悧な声音が正解を告げた。

 

「援軍を待っているのですよ、華琳様」

 

「援軍?」

 

「ええ。正確に言えば、外様ではない援軍です」

 

怜悧な声音の主こと夏侯淵は、友への僅かな苦笑と共に説明をはじめた。

 

新参者があまり目立っては同僚との協調性を乱し、いずれは公孫瓚勢力にいた頃と同じような末路を辿ることが確定である。

 

その辺りを加味し、李師は曹操の一族を旗頭にしていき、自身の功を譲るつもりだと、夏侯淵は考えていた。

 

「李師らしからぬ政治的配慮ね。あの男、政治もできるのかしら?」

 

「これは賈駆の知恵でしょう。苦労人ですし、その辺りには過敏でない程度に鋭利な神経を持っております」

 

主に兵站に主眼を置いて戦う李家軍に、明確な枷をつけることなく好き勝手やらせることができ、なおかつ破綻が無かったのは賈駆の力によるところが大きい。

 

そのことだけでも曹操の眼鏡に適うのには充分であったが、更に巧妙な政治的配慮を行えるとあらば会ってみたいという気持ちが強くなってきてた。

 

「……では、子脩を行かせましょう」

 

子脩。姓は曹、名は昂。子脩は字である。

若すぎる程に若い曹操には頼りになる血族として曹洪、曹仁等がいるが、この曹昂は直接血の繋がった妹であり、彼女が殊の外可愛がっている将帥見習いであった。

 

曹一族の証と言うべき金髪を持った彼女は、曹操より三歳ほど若い。

援軍を率いさせるには若すぎるが、幼いが故に女尊男卑の思想に染まり切っていない。更には性質は素直であり、李師の用兵を尊敬する所が厚かった。

 

主従ともに気を使い合った結果、夏侯淵が三万の兵を率いて宛近郊まで送り、監軍兼護衛として典韋をつけられた曹昂率いる一万の兵は宛に到着することになる。

 

曹昂と典韋は、宛に到着して賈駆の歓待を受けた時に背筋に寒い物を感じたものの、特に不快感を覚えることなく彼女の苦労人故の細やかさを併せ持つ歓待を受けていた。

 

ただ、何故か漠然とした不安感がある。

そのことを勘付いたのは、魯陽付近の前線に出ており、挨拶の為に引き返すように賈駆から勧告を受けた李師だった。

 

「何かやったのかい?」

 

「何もやってないわよ。ボクは歓待しただけ」

 

「じゃあ、私の所為かな」

 

「そうじゃない?」

 

政治的配慮が足りないにも程があり、公孫瓚勢力に居た頃にはその足りなさが積もりに積もり、賈駆でも打破できない程に深い溝ができてしまっていた李師である。

 

その鈍感さを改善させることは不可能に近いにしても、賈駆は何とかテコ入れをしていかなければならなかった。

実際、李師が波に乗って計三週間で宛以北の平定を終えようとした時も慌てて待ったを掛け、調略に切り替えさせている。

 

この戦線での軽快な一勝が、後に災いを呼びかねない。

 

そこらへんの感覚が、まるごと欠如しているのだ。

 

故に賈駆の反応は、至極当然な風諫と言うべきものであろう。感覚が欠如しているならば、少しずつ埋めて行くしかなかった。

 

「で、どうすればいい?」

 

「援軍を連れて、城を陥とす。でも、できればトドメは譲ってやった方がいいわ」

 

「バレないように?」

 

「バレないように」

 

「楽な戦だからいいが、こういう保身の為の工夫で戦いを長引かせることはしたくないな」

 

「保身の為の工夫をしなかったら冗談抜きで戦乱が三十年は長引くの。我慢しなさい」

 

「私がそれ程の存在かなぁ……」

 

自分の能力と名声に興味がなく、したがって無関心である。

賈駆の謀臣としての働きは、宛の戦いから始まったと言って良かった。



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三年

別に『そして三年が経った』とか言う訳ではありません。単純に一章から三年経った、ってことです。

そしてこの話でこの章は終わりです。


「城を攻めるにあたって、攻め手は二択を強いられる。それは何と、何か。わかりますか?」

 

「持久策を採るか、短期策を採るかでしょうか」

 

巨城、と言うべきであろう。

魯陽の城を眼前に、李師は援軍としてやってきた金髪の幼い将に授業のようなことをしていた。

 

教える、ということが性に合っている。

司馬懿、周泰、呂布と、立て続けに、それも少なく見積もっても有能と賞するに足る人間を一対一で教え育んできた李師は、極めて腰が低いこの主君の妹の頼みを受けて、敵城の前で実戦そのものの教育を授けていた。

 

「持久策を採るか、短期策を採るか。確かにそれは選択すべきことではあるが、今考えるべきは二段階ほど広域的な発想に属するよ」

 

「……攻めるか、攻めないか、ですか?」

 

「その通り」

 

攻めるか、攻めないか。

将という人種が無限の軍勢を自在に、更には無制限に操ることができない以上は必ず必要とされる最初の選択である。

 

敵の惰弱を攻め、敵の堅なるを避ける。

孫子の兵法を読んだわけではないが、李師はこのことを今まで常に戦術レベルで実践しようと試みて来た。

 

戦略レベルで実践できるには、彼の権限や裁量は大きい物ではなかったからである。

 

「戦争には、目的がある。城や砦、或いは軍というのは敵が特定の目的を達成することを邪魔するためにあるのだから、基本的には城攻めと言うのは宜しくない。敵の思惑にうかうか乗ってしまう、ということだからね」

 

「なるほど」

 

一字一句聞き漏らすまいと言うような、全身で聴くような姿勢に司馬懿を思い出しつつ、李師は更に言葉を選んだ末に城を指差した。

 

「戦と言うのは、私にとっては敵に勝ったと思わせるまでがそれだと言えるんだ。勝ったと思わせて、こちらの思惑に乗せれば、八割方勝ったも同然だ、ということだね」

 

だが、城攻めにこれは通用しない。城に籠もっている時の敵の思考は、退嬰的な色を帯びる。

退嬰的な色を帯びた敵を勝利への高揚に塗り替える為には、相当な骨折りが必要なのだ。

 

だから李師はこれまで城攻めをしてこなかった。と言うより、しないで済むようにしていた。

 

だが、制圧作戦となると城攻めをせずにはいられない。向かう敵も馬鹿ではなく、こちらが制圧作戦に撃って出ていることは知っている。

野戦には当然出てこないので、李師は極めて真っ当な攻めを繰り返して半月程の時間と二百程の被害をかけて八つの城を陥として行った。

 

今回はその応用編と言うか、改変である。

 

「だが、今回はこちらから動かねばならない。だからこちらとしてはまともには攻めないつもりです」

 

「では、どうするのですか?」

 

「自落させます」

 

李師が腕を一つ上げると、呂布が矢と弓を持って曹昂の前に進み出た。

これからやることを、実演して見せるためである。

 

「ここに弓と矢が一つずつあり、矢にはとある手紙が括り付いております」

 

李師の声に合わせて見せた後に呂布はつかつかと城に歩み寄り、無造作に矢を放った。

おそらくは天下でも有数の弓の名手である呂布に手抜かりはなく、矢は狙いを違わず城壁の上へと着弾する。

 

単純ながら

 

「さあ、三日待ちましょう」

 

「三日?」

 

「はい。三日待てば自ずと陥ちます」

 

援軍としてやってきた意味を掴みかねている曹昂を、にゅっと気配すらなく出てきた賈駆が典韋共々一際大きな幕舎と案内した。

貴人の応対は専ら賈駆がしているらしいと言うことは、典韋が目敏く気づいている。

 

夏侯淵に言い含められていることもあって、典韋は曹昂に援軍の意義はただその数と曹一族が態々来たということにあるということを素直に打ち明けた。

曹昂の気性を考えれば、隠すよりも率直に行ったほうが良いと考えたのである。

 

実際、姉と言う天才を見続けてしまったが為に自分の能力にそこまでの評価をしておらず、なおかつ経験による固執もない曹昂は素直にこれに首肯した。

 

姉は時々唐突な人選ミスをやらかす。

しかし、軍を率いる者を見誤ることはしない。如何に一族といえども、この援軍が重要な意味を帯びているならば夏侯姉妹や曹洪、曹仁らに指揮を任せるであろう。

 

このことを考えれば、わかっても良さそうなことだ。

曹昂は気が付かなかった己を自戒しつつ典韋の労を労い、おとなしく三日間を過ごすことにした。

 

そして実際に、三日後。李師は李家軍を自身のものと張郃のものとの二手に分けて北と西から攻め上がる素振りを見せ、東を曹昂隊に直撃させることで殆ど抵抗を受けることなく陥落せしめたのである。

 

「援軍が欲しい程度に苦戦している、という見せかけで、功を独占しない為、更には援軍を無心しなかったのは野心を疑われない為。やはり、如何に名将言えども外様とは気遣いが必要なのね」

 

「名将だからこそ、身の処し方には慎重を期すのです。無能非才の人間が野心を持っても警戒されませんが、能力があれば僅かな疑いでも警戒を産むものですから」

 

「私は一門としてそこのところに気を遣い、溶け込ませていかなければならない、と」

 

曹操は自分が男を好きになり、娘を産むということを想像できない質であった為、野心を抱いた時より妹である曹昂を後継者と定めた。

許褚、典韋を夏侯姉妹に預けて育成させているのも、次代の側近としてこの二人に期待をしているからに他ならない。

 

その後継に関して曹操は未だ自分の意見を漏らしたことはないが、半ば配下の諸将の間ではそれに近しい物だという見解が流行っていた。

 

典韋のこの意見も、曹昂をただの一門衆ではなく後継者候補だと思っているからである。

 

曹操がこの援軍の任を任せたこと自体が戦闘力ならば間違いなく、権勢においても何れは外様最強格になるであろう李師との顔繋ぎである、とも考えられた。

 

一方、李師もただ慣れぬ政略の為に待っていた訳ではない。周泰に宛近郊の地理を調べさせ、次なる戦の為の布石を幾重にも打っていたのである。

 

先ほどの城攻めも、その一つであった。

自分が急に退いたと言うことは、敵方にも疑問符を抱かせたことは間違いがない。この疑問符を、『調略が終わるまで一時矛を収めた』という風に解釈させる。

 

故に彼は態々買った紙に『手筈通りに』と書き、それを括った矢を巨城と名高い魯陽の城に射込んだ。

彼がこの世で最も籠城経験のある武将であることは疑いがない。

 

その豊富な経験と天性の勘は、当たり前にして真理を彼に教えている。

即ちそれは、『城というのは、外部から陥ちるよりも内部から陥ちることが多い』ということだった。

 

故に一時矛を収めた李師が来たということは、と錯覚させる。

 

更にはこの魯陽の城の末路を、城兵を敢えて解放してやることで知らしめる。これで宛以北の城の内部はガタガタになるのだ。

 

「明命」

 

「はいっ!」

 

呼べば出てくる隠密に戦の最中は曹昂の護衛に付くようにと命令を下す。

 

「あ、あと、これを」

 

「おー、子午谷に関しての報告書か。もう終わったのかい?」

 

「頑張りました!」

 

えっへん、とばかりに胸を張る周泰をわしゃわしゃと撫でてやり、その姿が殆ど一瞬で消えたのを確認した李師は賈駆を呼び出して移動する旨を告げた。

自落する城などは、それほど急がずとも自然と己の手に落ちてくる。別に急がずとも良いことが、李師が賈駆に賓客と言うべき援軍への気遣いの仕方を問う、と言った『余計なこと』をさせる猶予を持たせていた。

 

「で、どうかな?」

 

この問いは、彼女に任されている分野に於いてはこの移動を是とするか、ということである。

別に非とすると言うならば、李師は言われる分だけ待つ気があった。そしてその余裕も作っていた。

 

「一日は待ちなさい。まだ若年だし、慣れない戦に疲れも溜まっているはずよ」

 

「わかった」

 

「あとこれ、子午谷を通った場合の兵站に関しての計画書。目を通しておきなさい」

 

短時間に子午谷についての資料を二つも受け取った李師は、このあとすぐにこれらを並べて目を通すことになる。

 

実に三年前からなる因縁と決め事に終止符を打つ時が、刻一刻と近づいていた。



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休息

「……戦い続けるという事もなく、平和のまま過ぎることもなく、だね」

 

「戦い続けては兵が疲弊する。兵が疲弊すれば、敗けを生む。敗けが積もれば滅亡を生む。善く戦い、善く政務を布く。これが我が軍の基本方針だ」

 

朝っぱらから、曹操の配下の中でも名うての用兵家である二人は向き合いながら呑んでいた。

九月下旬に宛一帯の連戦を終え、宛に楽進と曹昂を残して曹操軍は撤退している。

 

そしてこの二人は、北方戦線に於ける司令官と最前線の都市の領主であると言う立場上、遥か冀州へととんぼ返りしていた。

 

と言っても、公孫瓚勢力は動かない。夏侯淵も動かない。

互いに国力を増強させ、民力を休養させることが重大時となっている。

 

少なくとも、曹操勢力から見れば公孫瓚勢力の不動の姿勢はそう見えた。

 

「公孫瓚は国力を増強させ、外交による合従で活路を見出そうとしているのではないか、と言うのが許昌で三軍師が導き出した推論だ。北方に長く居たお前は、どう考える?」

 

北に公孫瓚。東は海で南は劉表と劉備。西は李傕と郭汜。これらを合従した場合により優位な立場に立ち、南からの脅威を一掃する為の戦力を溜めているのではないか、と言うのが、乏しい情報の中から荀彧・程昱・郭嘉の導き出した答えだった。

 

「と言うよりも、私に情報を求めなかったことが驚きだね。別に私が推論において秀でている、と言うつもりはないが、敵方に居る将を降らせたら最初にすべき事じゃないのかい?」

 

「お前は何だかんだで最後まで尽くしたからな。忠臣にそのようなことを訊くのは却って不利益を招く、と考えた。あるいは気を遣ったのだろう」

 

「義理は果たしたつもりだから、私は訊かれてもいいんだけどね」

 

彼は義理堅い。しかし、未練は残さない。果たしたと見たらすっぱりと割り切るようなところがある。

 

その異端とも言うべき非儒教的な発想を理解しきれている人間が乏しいと言うのが、現状だった。

 

「だから私が訊いている。訊かれなければ訊かれないで、お前は疑問を持つだろうからな」

 

「説明ありがとう」

 

易京に押し掛けている形になる夏侯淵としては、ここで李師から情報を聞き出して対策を練らねばならない。

現地に居た人間ほど、確固たる情報源はないのである。

 

「私としては、烏丸と鮮卑が暴れているから動くに動けないのだと思う」

 

「恐らく、北と南に半分ずつ兵力を振り分けていると言うことか。だが―――」

 

何故、今まで大人しくしていた鮮卑や烏丸が暴れ出したのか。

そこが、異民族との付き合いの浅い夏侯淵の抱いた疑問だった。

 

「私には経験も知識もないからわからないが、異民族との付き合い方を変えた。私としては、お前の話を聴く限りはこれが最も妥当だと思うのだが、違うのだろうな」

 

「うん。恐らくこれの直接的な原因は、恋と私が居なくなったからじゃないかな」

 

「お前と呂布が、か」

 

「うん。まぁ、半ば半神めいて崇められている恋はあの通りだし、私も間接的な物を含めれば鮮卑は十二万人、烏丸は二万人ほど討っている。彼女等からすれば疫病神みたいな物だったのさ」

 

智においての最強と、武においての最強。

この二人に加え、ひたすら戦い続けてきた李家軍と言う最精鋭と、中華一の要塞。これを喪った公孫瓚勢力は、半ば離反しつつあった冀州四郡を完全に放棄して幽州に引き篭もっている。

 

冀州豪族や名士といった余所者を排除したこと、共通敵だった李師が敵側に回ったこともあり、豪族たちは公孫瓚の元で一枚岩となりつつあった。

その固めぶりは見事な物であり、一見失墜した武威は元通りになったかに見える。

 

しかし、問題は内部ではなく外部で起きていた。

 

烏丸と鮮卑が待ってましたとばかりに侵略、というよりも略奪を始めたのである。

 

「なるほど、半神と疫病神が厄介払いされたから来た、と言うことか」

 

明らかに暗くなりつつある李師の暗さを払拭するように叩いた軽口も不発に終わり、夏侯淵は僅かに目を目の前の男から逸らした。

 

意識も逸したかったが、そうも行かない。そして、このまま溜め込まさせておくのも宜しくない。

 

「どうした」

 

基本的には限界を越しても溜め込む質である李師の愚痴と後悔の引き出しを開ける。

完全に酔っている時にこれをやると、予め用意しておいた学術的な指南書か論文かと聴き間違えるほどの精密さと重厚さを備えた愚痴、或いは自己嫌悪を吐露し始める為、タイミングとしては今が一番良いという判断であった。

 

「……私としては、降ったことをかなり後悔している。ここまで読み切れなかった。冷静に俯瞰すれば読めた筈なのに、目の前の難事に意識を向けるばかりでその先を考えていなかった」

 

「ああ」

 

「その先を加味した上で考えると、私は積極的に裏切って公孫瓚勢力を曹操陣営に無理矢理編入させる。ないしは上の命令を無視して独自外交によって私が伯圭の元に居ると言う状況を維持したままケリを付けなければならなかった」

 

「そうだな」

 

「となると私は、自身の名誉と個人的な主張の為に大局的な判断を誤った、ということになるのではないかな」

 

酔う前と言えども素面ではないという、最も愚痴を引き出しやすい状態の李師の意見を一通り聴き終え、夏侯淵は杯を空にしてから一息でバッサリと切り捨てた。

 

「結論から言わせてもらえば、後悔と自己嫌悪の結果、己を恃み過ぎているな、仲珞。思い上がっている、とも言うが」

 

思い上がりと言うような口調ではない。

ふんぞり返っているというよりは、地面に手の指が付きそうなほど背中を曲げてしまっている。

 

語気から伝わる内面と、性格的な洞察から思い上がりが言うほどないことを悟りつつ、夏侯淵は敢えてその抱え込みがちな性格を突き刺した。

 

「……思い、上がり?」

 

「そうだ。お前は自身が万能でも全知全能でもないことを知っているが、過去を見ている人間が全知になれることを知っていない。と言うより、自らを戒めたいが為に忘れてしまっている」

 

立ち会わせた現場においての考えついた最善が、未来から見れば至愚である。

そう思われることも、また実際にそうであることもこの歴史の中には多々あった。

 

「まず、お前は何だ?」

 

「私は、将、かな」

 

「そこで一応、や不本意ながら、を付けないお前は好きだぞ」

 

その時の自分の命令を信じ、命を懸けた者が居る。

彼は時が成長と劣化を与えるものだということを知っていた。だからこそ、今の自分を否定したりすることを全く躊躇わない。

 

だが、彼は過去は滅多に否定しない。過去に将として戦場に立っていた時、将なった自分を非難することはあるが、否定することは滅多に無いのだ。

 

だからこそ、今回は相当に重症だといえる。

 

「まず、お前は将として立っていた。ならば外交という物をすべきは後方に居る文官であり、お前ではない」

 

「…………私が敵を一番理解していたと、思うけどね」

 

「ならば、お前は圧倒的多数の敵と相対している趙雲に、『お前が一番敵を知っているのだから外交によってケリをつけろ。だが負けるな』と命令するか?」

 

「……いや、しない。できない」

 

「良識ある者ならば、そうなる。そもそも論になるが、お前は敵に勝つ為に全力を注がねば勝ち目すら見出だせない状況に居たのだろう?」

 

「いや、だけどね?」

 

なおも抗弁しようとする李師の前に手を翳して黙らせ、夏侯淵は二つ目の択を紐解いた。

 

「二つ目だが、これは無理だ。吾々はお前を公孫瓚から引き離す為に遥々遠征したのだ。外交折衝において、譲歩する気は全くなかった。一度は退いたかもしれないが、二度三度と来たことだろう。その時お前は防ぎ切れるのか?」

 

「それは無理だ。あの一戦で物資が尽きた。物資が無くては戦はできない」

 

「ならば、早期に決着がついたのはむしろ喜ばしいことだ。今お前が降ったことで、李家軍三万と曹操軍十数万の命が助かったのだからな」

 

理屈は理屈だが、『人が死ななかったからいいじゃないか』ではなく、『人が死ぬ数がマシになったからいいじゃないか』というところに、李師は素直に頷けないものを感じている。

 

そもそも、人とは人の手によって死ぬべきではない。誰もが生きる権利を持っているはずで、その権利を奪うことが最もこの世で愚かしく、許されざる行為なはずだった。

 

「君の理屈には頷けないところもあるが、私が思い上がっていたことはわかった。私はすべきことをしたし、これ以上すべきだ、と思うのは他者を貶めることになる、ということだね?」

 

「如何にも、鮮卑や烏丸を相手取るのは公孫瓚の仕事だ。お前が仕えていた主君は、それくらいやってのけるだろう?」

 

「ああ」

 

やれることと、やれないこと。できることと、できないこと。

現実を見る分には異様に冷静で一部の好きも無いような冷徹な判断を下すくせに、彼は過去の行いを省みるときにどうも厳しすぎるきらいがある。

 

「……それにしても、だ。鮮卑や烏丸には義理というものが無いのか?」

 

「義理なんてものは、こちらが考え出した理屈だよ。彼女等はもっと本質的に生きている。

つまり、生きるか死ぬか。戦うか戦わないか。洞察した結果、歯向かえば死ぬ様だったら犬のように服従し、それが過ぎ去ればまた牙を剥く」

 

「本質的に違う思考を持っているからこそ、卑劣にも見えるに節操なしにも見える、と」

 

「うん。正直なところ、彼女等にも悪気はないと思うよ。ただ、こちらと文化や習慣が違う。強い者こそが正義なんだ」

 

李師の説明を聴き、夏侯淵は一つ頷く。

知らないでいるより、知っていた方が良い。

 

この学ぶ姿勢がすぐに、ところをかえて役に立つことになろうとは、この時まだ彼女は知らなかった。

 

 



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次子

今回の粗筋……オマエモナー


「ということだから、敵が退こうとした時に叩き、進もうとした時に退く。戦略的な勝利はこの戦術論では覆せないが、戦略を側面から輔弼することは可能だ。この理論は用兵上の要訣であり、口で言うことが簡単なものこそが極意であることを示している。

この極意は天性のものが経験で磨かれることによって君たちに備わることになるだろう。しかし、私としてはその天性とは誰にでもあるものだと考えているんだ。詰まるところ、どんな天性でも本人の磨き方次第、ということだね」

 

心持ち背筋を伸ばしながら教鞭をとっているも李師がそう話すと、彼の前に立っている数十人の歳若い少年少女たちが一つ頷く。

その謹直さに苦笑しつつ、李師はポリポリと頭を搔いて話の続きに―――と言うよりも、兵法書ではなく地形図と駒を使った授業の締めに入った。

 

「私としては、努力次第で才能の差が完全に何とかなるなどと気楽な台詞を吐く気はない。歴史で度々証明されているように、用兵というのはこの世で最も才能が物を言う世界だ。だから、熟練の将が素人に負けるということも往々にして起こる。そんな事態を可能な限り起こさない為にするのが、経験と努力と思考における柔軟性だ、ということを憶えていてほしい」

 

才能。一言で言えばあまりにも残酷なものがあるその一言を、李師はあまり好まない。しかし好悪で現実を歪め、その歪んだレンズで物を見ることが如何に愚かしいことかも知っているだけに、この言葉を用いざるを得なかった。

 

だから、蒼衣青髪がその冷静さを象徴しているかのような氷肌玉骨の美女に、このような言葉を吐かれるのだろう。

 

「お前の性格を知っている私からすれば才能がうんたらなどと言うと違和感が凄まじいが、不思議と嫌味や自分誇りには聞こえんな」

 

「この手の才能に関して、自分を誇ったことなど一度もないんでね」

 

「らしい言い草だ」

 

じっくりと淹れた紅茶の如き深い茶色の瞳を閉じ、口元を片側だけ上げる独特の笑みを見せたのは、夏侯淵。李師とは正反対ともいうべき性質と好みをしている箇所が多々ありながら、何故か馬の合う彼の友であった。

 

その目を閉じながら口元を片側だけ上げる笑いには、ともすれば皮肉などの嘲りや風諌などが含まれているように見える。というより、そういう方にしか見えない。

目を開けていたら瞳の色も相まって悪戯っぽい笑みであるという色がより増すのだが、本当にこういった笑みを見せる時の彼女は基本的に目を閉じていることが多い。さらに言えば、あまり笑わない質であるためにその常に何事かを皮肉っているような笑みが記憶に残る、というのもあった。

 

彼女は確かに美人だが、美人は美人でも動物的美貌である呂布・趙雲・夏侯惇・楽進らとは違う。

 

(鉱物的な、というのかな)

 

動というより静であり、挙措による魅力よりも、ただ佇んでいる方が美しい。

彼には文学的な才能が乏しいからうまい言い回しではない。が、前者が動いている時のほうがその美しさを輝かすことができるのに対し、後者は動かない、即ち愛嬌が無い方が一際その美貌が際立つのだ。

 

この感想から導き出したのが、この『鉱物的』という表現だった。

 

「で、何しにきたんだい?」

 

「いや、出仕していない時は何をしているのかと思ってな」

 

基本的に有事以外にも出仕するが、鄴に出仕しても庭に植えられた木の下で爆睡しているこの男。決まって出仕、出仕、休み、出仕、出仕、休み、の韻を踏んで日々を暮らしている。

夏侯淵の北方統治ははや二ヶ月に達したところで基幹とすべきシステムの構築を終えているし、それによって各城主に素早く情報を伝達・大規模攻勢に打って出ることができた。

 

実際に役に立ったことはないものの、備えあれば憂いなし、と言う。

 

ともかく、各城から一人ずつ人質と連絡要員も兼ねた人員がこの北方都督府たる鄴には集まっていた。

李師は別に人質というわけではなく、ただ単に夏侯淵の副将だからという理由でここに居る。易京は審配に任せ、内政関連の出来事は宛で募集した下働き文官の中から抜擢した費禕に任せ、彼の主な配下は鄴に集まってきていたのである。

 

これは公孫瓚勢力の彼に対する感情的な撃発によって戦端を開く、ということを防ぐ他にも名誉と節義を重んじる降伏した李師と公孫瓚を戦わせたくないという配慮からであった。

特別扱いだ、といえばそうなのかもしれないが、能力が特別であるし何よりも公孫瓚と戦えばまたあの愚痴と自己嫌悪のフォローをせねばならなくなる。

 

形式に乗っ取るあまり実利を失うのは、思考の硬直化と言うものだった。そもそも形式というのは無いよりもあったほうが良いと先人が判断したからこそ出来たものであるはずなのである。

それを『形式だから』と無闇矢鱈に重んじる人間には、柔軟性がないのだと言えた。

 

「ご覧の通り、物好きな教え子たちに戦術戦略を教えているよ」

 

「物好きな、か。目の前にその道の名人がいるならば一つ話を聞いてみたいと思うのが人だろう」

 

「……そんなものかね」

 

李師はこの人を教えるということを、公孫瓚に易京を任されてから―――と言うよりもある程度広大なスペースを使うことが許可されてから複数人にやっている。

 

彼が尊敬するところが厚い李膺も同じようなことをやっていたが、より親切になったのが彼のこの自宅を開放しての学舎だった。

 

「教師はお前だけ……では、なさそうだな」

 

「武芸は星、内政は賈駆、馬術は成廉。恋も馬術で私は戦術基礎、華雄が攻勢戦術、張郃が守勢戦術、馬鈞が作図工学。あくまでも有志でやっている感じだね」

 

「ほう、金はいくらとっているんだ?」

 

「教育というものは誰しもが人生上の選択肢を広げるために受ける権利を有しているんじゃないのかと、私は思っている。だから、取らないさ」

 

数年前までは都にいた、高額を払った名家の子弟たちを学問に励ませていた兵法家たちが歯噛みして悔しがりそうな台詞をほざきつつ、李師は適当に案内をはじめた。

 

夏侯淵は仕事をサボらない。昼ごろに来たということは、昼までに己に課せられた仕事を今終わらせたということなのだろう。

 

「ここが今各地から集まっている教え子たちの居住地」

 

「……ここは、お前の屋敷ではなかったのだな。やけに大きいから、らしくないとは思っていたが」

 

李師が思い上がっているのではないか。

ここ鄴に彼が空き家を十軒ほど潰して無駄にデカイ屋敷を建てた事に対し、曹操軍の中級指揮官たちは曹操にその才能を愛されている新参者に対しての嫉妬と共に、密かに囁いたものだった。

 

上級指揮官である夏侯惇は別にそこらに関してはなんの感想も持たず、荀彧らは別に趣味は人それぞれだと考えている。

曹洪は倹約家でもありながらそう言った派手趣味にも一定の理解を示すために好意的な見方に改め、曹仁もそれに釣られる形で見方をマイナス方向には変えなかった。

曹操は別に臣下の私生活に一々口を挟むほど狭量ではなかった為に特に反応を見せず、夏侯淵や楽進は首を傾げたという曰く付きの邸宅に、こんな裏事情があったとは。

 

夏侯淵はさして驚きはしなかったが、それでも意外なのは確かだった。

 

「私の家は、ほら」

 

ひたすら空き家十軒ほどを潰して作った巨大な学舎を外周をつたっていくと、そこには小屋というべき質素極まりない家がある。

昼寝用の縁側と木を備えた庭だけが小屋に似つかわしくないが、その本体は三人が暮らせるか暮らせないかという程に小さかった。

 

「これだよ」

 

「如何にも、お前らしいな」

 

「だろう?」

 

これが人間の格というもんさ、とまたも自分を小さく見積もったような発言をする李師を窘めるように一瞥し、夏侯淵はちらりと横目で天下屈指の群雄である曹操の十三人しか居ない軍団長の家を見遣る。

 

庶民が住んでいるならば『分不相応』というような感想も出ようが、名士としては質素だと言えた。曹操軍の軍事力における実質的なナンバーツーであるということも加味するならば、少し異常である。

 

中級指揮官たちが危惧することも無理はないことに、現在人材の層の厚みからしても、動員兵力からしても、軍団長個人の力量からして李師は曹操軍のナンバーツーなのだ。

曹操直轄の三軍・四万五千に次ぐのが、李家軍の一万五千に旧李家軍の第十軍団を足した三万。それに五千人ほど劣るものの、比すると言えるのが北方で再建中の夏侯淵軍団。

再建が終われば四万にまでなるが、夏侯淵はわざと自軍の再建のために使われる軍費を他の大被害を被った軍団に譲っている。

 

彼女は曹操からの信頼も厚く、家中においても最古参に入るがゆえに中級指揮官たちの非難と反感を買いにくい自分が李家軍を取り込んだように見せている。

 

これで夏侯淵の軍は元の四万に、内訳は兎も角戻っていた。

 

「で、少し話したいことがある」

 

 

「ほぉ?」

 

趙雲が槍術を教えている広い庭まで歩き、李師は都合よく用意された二つの切株の内の一つに腰掛けながら、夏侯淵にも着席を促す。

特に表立ってそれに抵抗する意味もない彼女としては、割りと素直にそれに従った。

 

「ここには司隷とか、色々なところから集まってきた人間が居る。殷の裔も居るし、今星と撃ち合っている阿鴦なんかは、私に付けられた将の娘だしね」

 

単刀直入な切り出しで、夏侯淵は要件を悟った。

つまり、逃げてきた黙っていてくれ、ということだろう。

 

「文欽のか」

 

「うん」

 

敢えて要件から外すことで己が理解したことを示すと共に、他に挙げられた人名また有能だが性格的に難がある将を、と夏侯淵は思った。

自分が李師の頼みに従い、敢えて無視した前者に代わって名を挙げた後者こと文欽は、文稷の妹だった。文稷は旗揚げの時から曹操について武勇を誇った人格者であるが、文欽の勇はあまり著名ではないがそれに勝る。

 

戦術的にも拙くはなく、寧ろ優秀である方に属するが、性格的に難があった。

武勇を鼻にかけて計算高く、次女でありながら長女である文稷よりも高位に立とうとした為に疎まれている。才能的には文欽が勝る所が多いものの、彼女にはとにかく敵が多かった。

 

素行も良いとは言えず、上にも反抗的である為に評判も悪い。同僚からの人気もなく、上司からの受けも悪い。有能な厄介者、といった感じであろう。

今回の人事も、李家軍と言う外様に厄介者を押し付けようという風が強かった。

 

「お前の周りには野心的な、野望が高い人間が多いな。所謂、有能な厄介者揃いだが、有能さは群を抜いている奴ばかりだと言うのは運命すら感じるな」

 

「ああ。君も含めてね」

 

「まさかその代表格であるお前に言われる時が来ようとはな……」

 

殷の裔と言い、文欽と言い、こいつの周りには次子が多い。

 

次子とは謂わば嫡子の代用品、世を拗ねた捻くれ者が多いのも確か。

その捻くれ者からしたら、李師のような非主流派の頭領の元が居心地が良いのだろう。

 

自分の主も次子だからということで、才能の多寡に関わらず嫡子とはなれなかった。

同じ経験をしているという認識も、その居心地の良さの元である。しかし、彼は非主流派、つまりアウトローに好まれやすい性格をしているのではないか。

 

だいたいこのようなことを、自分をひとまず棚上げして思った夏侯淵は、また怜悧か口元を綻ばせて微笑した。

 

(つまり私も非主流派であり、同じ穴の狢という訳か)

 

そこまで自嘲気味に思ったところで、夏侯淵は信じ難いことを耳にしてその思考をふっ飛ばすことになる。

 

その一言とは、これだった。

 

「嫌だなぁ。私は人畜無害な無能者さ」

 

「笑止」

 

脊髄反射で否定され、李師は口をへの字にして黙り込む。

背後に迫る、白い影。

 

「まあ、私から見れば御二方は大して変わりのない狢ですな。私こそ、その人畜無害には相応しいと思いますぞ?」

 

横並びに座っている二人の肩にほぼ同時に手を置きながら、汗一つかいていない趙雲が極彩色の諧謔と共に現れた。

 

「星、お前が言うな」

 

「いい諧謔だ、趙子龍」

 

何となく染まってきた感のある夏侯淵を横目で見つつ、李師はいつも通り天を仰いだ。

 

(非主流派に、好かれやすいのかな?)

 

いやそんなことはないだろう、と。

李師は現実を目を曇らせたままにそう判断した。




殷の裔……殷王(司馬叩)の後裔。
文家の阿鴦……所謂文鴦。趙雲の再来と言われた。


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提案

「だが仲珞。私が黙っているのは別に構わんが、結局これは先延ばしにしかならないのではないか?」

 

長い脚を組みつつ、切株から李師の家で有る小屋にある揺り椅子に腰掛けながら、夏侯淵は極めて真っ当な意見を友に呈した。

彼は政治的なセンスを無意識的にわざと鈍化させている節がある。

 

無意識ながらわざとと言うのは矛盾があるようだが、彼の心理を当て嵌めればそれは成立した。

つまるところ彼は政治から離れていたい。しかし軍権と言うのは、とかく政争の具になりかねないものである。

 

そのことを歴史を学んだ李師は理解しているが、理解したくない。この理解しているということが彼の政治的なセンスが全くない訳ではなく、寧ろ鋭敏だということを示しているが、感情的な嫌悪感が現実を見る目を損なっている。

彼は自分は何でもない一軍人だ、と思おうとしていた。更にはこの一軍人だ、という自己認識に不本意という感情がつくため、彼はそれに気づくことがない。

 

自分の心理を剥き出しにすることは、難しい。李師は敵の心理を読むことに長けるし、自己認識もまず悪くない。

だが、嫌悪感に自己認識が塗られ、自己認識に不本意と言う蟠りが塗られ、その上に更に現世の立場が塗られている。

 

「先延ばしは先延ばしでも、引き受けてやると言ってしまったからね。私は一旦吐いた言を曲げる気はないよ」

 

この一言にしても、そうだった。先延ばしは政治的なセンスの無さと鈍さを露呈しているが、一旦吐いたことを曲げないということは政治にしても生きて行くにしても必要なことである。

信用とか信頼とか言うものが必要だという事を、彼は肌で知っていた。

 

投獄された辺りで、察したのかもしれない。だから彼は自分の職業である軍人としての信用とか信頼とか言うものを得る為に義務は果たしている。

義務を果たし、なおかつその上を望んではいない。嘗て疑われて牢に叩き込まれたことで、政治家の血を受け継ぎ、軍人として名声があることがいかに恐ろしいかを肌で感じたのか。

 

兎に角彼は、元来の天性か、ないしは第二の天性による政治音痴だった。

 

「そういうことではない。お前が正直に―――そうだな、殷裔を召し抱えたいといえば譲るだろう。あの方は人材に対して執拗ではあるが、人材に対して狭量ではないしな」

 

「狭量ではないことは知っているし、恨みを抱かないこともわかる。だが、その執拗さを周りが知っている心配だ。それに私は、何かと疑われる立場にある、らしいじゃないか。主君が欲しがっていた人材を横から掻っ攫うというのは、どうかな。疑われることは別にいいし、軍権や領地を奪われるのはいいさ。だけど、後ろから槍を突き出されたくはない」

 

曹操は器が大きい。私人としての好悪を個人レベルに留めている努力をしているし、公人としては才能に対して公平である。

人材の蒐集癖も相当なものであり、召し抱えた人材を馬車馬の様に働かせるが、よっぽどなことがない限り理不尽な扱いをしない。

 

欠点としては、気に入った人材に対しての甘さがある。散々痛い目に遭わされた李師の才能に惚れ込み、実動部隊の三分の一と元々の所領を与えてしまっている。

 

死ぬ程の目に遭わされ、自分の計画を邪魔をされ続けながら、更なる大きな権限を与える形で許すその姿は器が大きいと言えるが、やはり周りからの危惧が生まれる。

曹操は寛容であり人材に甘い。李師が公孫瓚に再び口説かれて叛乱をしても、曹操はまた引き込みに動くであろうということを、家臣たちはありありと予想できた。

 

李師には、他の誰にもない才能がある。その才能に、曹操が惚れ込んでいる。そして降伏者を対して限りなく甘やかしている。

 

李師は己を討てた。討てたが討たなかったのだから、これは勝利した上での降伏であると言うのが曹操の見方だが、臣下からすれば早々寛容にはなれたものではない。

 

李師の才能を否定しているわけではない。寧ろ評価しているからこそ、曹操がこれから作る権力の保全の為に危惧の目で見ているのである。

 

「……まぁ、華琳様は甘い。君主としては公平だが、人材を愛すのはあくまで人として、だからな。かなり、というより相当に甘い。が、それが人を見る目を曇らせる、ということにはならない。

そのことをどうも、皆は忘れがちだ。だが、華琳様はどうも後継者に関しての思案を投げ出しがちだ。ここらが、主と臣の認識における差異なのだろうな」

 

曹操は自分が君主であることを前提として見ている。己が不老不死だと考えている訳ではないが、彼女はどうもそこらへんを忘れがちだった。

 

自分が、治める。

だからその為に有用な人材たちを、集める。

極端に単純化すれば、曹操の思考回路はそうなる。

 

集めた有用な人材たちを遺産とすることが国の為だと思っているが、曹操も人間だった。

自分しか使えない人間も居るし、その有用な人材たちは国の為にはなるが、後継者の為になるとは限らないという発想が抜け落ちている。

 

そこらを補完しているのが、荀彧だった。

 

「私が裏切らないと、曹兗州殿は見ている。家臣たちは、それは曹兗州殿が居てこそだと、思っている。そういことかい?」

 

「そうだ。そして、私もそう考える」

 

なぜなら、自分もそうだから。

曹操の器量は尊敬している。自分の一段上の発想力と企画力を持っている。

だが、その子がその発想力と企画力を持つとは限らない。その時に自分は、頭を下げるのを良しとできるのか。

 

李師は才能と野心が釣り合っておらず、釣り合うだろうと思われることによって、或いはその才能によって野心を隠しているのではないかと思われることによって、二代目になれば排除されるだろう。

そして自分は、己の器量に収まりきらない人材を誅殺していく様な事態になった場合、素直に頭を下げるのを良しとできるとは考えられない。

 

「……そりゃあ私は伯圭を裏切ったけど、主君との義理を出来る限り守っていくつもりだよ?」

 

「勘違いするな。私が言っているのは、そう言う型に当て嵌まる人間が居る、ということだ。お前はそうではないが、そう見られる」

 

そして私は、その型に当て嵌まる人間だ。

 

自分の言った一言に付け加えるように、夏侯淵は心中で一人ポツリと零した。

 

僅かに苦笑して、夏侯淵は瞑目する。

曹操は別に病弱というわけではない。が、慢性的な頭痛を抱えていた。

 

李師は十二年、夏侯淵は二年。

順当に行けば曹操より、この二人は速く死ぬ。

 

だが、順当に行かないのがこの世界の原理だった。

 

「お前は自分よくよく見直した方がいい。自覚し、少しくらいは誇れ。それが俗らしく、却って警戒心を削ぐことになる」

 

「人殺ししかしていないからねぇ、私は。もっと生産的なことに対して才能があるなら、誇ることもできるんだけど」

 

「偽りでいい。才能には野心と矜持と、驕りが付き纏うものなのだからな」

 

夏侯淵には才能と同質量の野心と、それよりも高い矜持を持っている。他者を貶めないが、殊更褒め称えもしない。更には自分を高く評価してもいない。

 

だが、その高い矜持が却って疑いを逸らさせる要因となっていた。

 

才能と、野心と矜持。夏侯淵を見る人間は目に見える野心が無くとも、その高い矜持で彼女を理解することができる。

だが、李師の矜持は民を巻き込まないというところに終結する。しかも、それを実に巧くやるので全く見ることができない。

 

つまり、民に巻き込まない為に努力しているというより、偶然に偶然が重なって常に民を巻き込まずに戦っている、という様に見えるのだ。

 

才能はある。だが野心も矜持のようなものも見られないと言うのが、不釣り合いな印象を与えていた。

 

「驕り、野心を抱く李仲珞か……柄じゃないね」

 

「まあ、そうだな。失言だった」

 

「いや、失言じゃあないさ」

 

「私が言いたいのは、その人殺しの才能の多寡で栄達を望めるのが今の世だ、と言うことだ。そのことを、頭の片隅にでも置いておけ」

 

「うん」

 

窘めるのも忘れない夏侯淵に心強い物を感じつつ、李師はゆっくりとその場から腰を上げる。

彼としては、ただフラフラと彷徨って切り株からここへ来たのではない。

 

方向音痴と言われればそうだが、流石に目の前の建物に着けないほどのものではなかった。

 

「話は代わるが、司隷攻めの作戦案を考えてみたんだが……」

 

「ほぉ、見せてもらおうか」

 

やはり、ある程度暇にしていた方がよく働く。

働きたくないならば、働かせず、自分から動くのを待つと言うような人の用い方をした許した曹操と、それを提案した夏侯淵の眼はやはり非凡だった。

現に李師は今、必勝の作戦案とでも言うべき腹案を複数、夏侯淵の目の前で開示している。

 

「……なるほど、実質的には五方向から、こちらは三方から同時に攻め込むのか」

 

并州方面に迂回してから南下、許昌からそのまま西進、宛を経由して敢えて遠回りをして子午谷から不意をついての北上。

敵の兵力をひとつに纏めないように鮮卑や羌と言った異民族が乱入した時を狙い、実質的には五方向から討つ。

 

長安政権にとっては日常茶飯事な異民族の乱入と言う自然災害のような出来事を陽動にすることによって時間差をつけることで自軍の損耗を抑えられ、こちらが策動したという証拠を残さずに済む。

 

何せ、異民族が来る日程を予想しただけで策動していないのだから。

 

功を争わせるような形にすれば、士気も上がるし角も立たない。欠点としては兵力分散の愚を犯すことだが、これも陽動を挟むことでカバーしている。更には、全軍は巨大に過ぎるので、分散出撃した後に長安まで合同進撃した後に合流した方が機動面においても秀でていると、言えた。

 

勿論それには高い練度と相互の連携が必要不可欠ではある。

だが、不本意ながら長江以北の主要な戦いの全てに参加し、そこを生き残るための効率的な訓練によって強化され続けた李家軍ほどではないものの、曹操軍の練度も高い。

 

この作戦は練度と指揮官の質の二点において、実行可能な筈だった。

 

「配役を予想するに、北が華琳様。軍団長の何れかに正面、私たちが南から、か」

 

「正解」

 

薄水色の髪に隠されていない方の眼が少し不審に歪み、夏侯淵はそれ以後暫し口をつぐむ。

 

彼女が感じた不審とは無論彼の作戦立案・指揮能力に関するものではない。人格的な面に疑いを抱いたわけでもない。

 

ただ、どうせ行かねばならないとはいえ、李師が自分を含む軍の出動を推してくる。ないしは自分から自分を推すような作戦を立案すると言うことがらしくないように思えた。

野心的な、つまり自分を初めとした曹操軍の前線指揮官などが作った、と聞かされれば素直に頷ける。しかし、李師らしくないといえば、らしくなかった。

 

「理由、わからないかい?」

 

「心当たりはない。お前は漢帝国に忠誠心や感傷を憶える性格ではないし、な」

 

「勿論、そんなものはない。だけど、今回は私らしくない動機で私は動いている」

 

「…………ふーん」

 

色々と考えを巡らせ、李師の思考の終着点から経路を辿る。

李師の作戦は、三路を攻める者全てに平等に功を挙げる機会があった。つまるところ李師は功を欲しているのか、ないしは長安・洛陽と言った都を自分の手で陥としたい。

 

「ああ、なるほど。やはりお前はお前だな」

 

「いやまあ、この作戦は褒められたものじゃないけどね」

 

「陥とす算段はあるんだろう?」

 

「ある。多分、楽に勝てる」

 

「ならいい。私の名で、この作戦は出しておこう。そうした方が、より良いだろうしな」

 

全部言わずとも悟り、了承してくれた友の度量に『流石』という念を濃くしつつ、李師は一言だけ感謝を口にした。

 

「ありがとう」

 

「私にも責任のあることだ。と言うよりもこれは、私たちにのみ責任があることだ。気づかなかったことを恥じるとしよう」



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新米

次世代の風を感じさせる、91話です。


李師はいつものように暇していた。

と言っても彼にとってはこの暇こそ望んでいたものであり、特にその『何もない』と言うことに対して文句を言う気にはならなかったのであるが、彼の頭はどうにも休ませていると、何事かをふと思い付い付くような構造になっているらしい。

 

「私の作戦を破った……何だっけ」

 

「御使いですかな?」

 

「そう、御使い。あれ、謹慎は解かれたんだろうか」

 

破ったと言うより、読まれた。

そう表現したほうが適切な事態は、彼と曹操勢力の最後の決戦に於いて起こっている。

 

曹操勢力には李師の作戦を読み切った者が居た。その所為で彼は三刻(四十五分)ほど予定を遅らせて戦線の再構築と戦力投入のタイミングを秒単位で調節しなければならなかったのだが、未だにあの見事な読みっぷりは彼の頭から離れてはいない。

 

こちらが打った一手からあそこまで洞察されたことは初めてであったし、あれほど修正に時間を喰わされたのは檀石槐以来である。

まさか本当に未来を知っているとは知る由もなかった李師は、その智略を讃えたものだった。

 

だが現在、彼は謹慎していると言う。

 

「……解かれてる」

 

「なら、従軍はするのかな。勿論今回は絶対に私が行くけど、正直彼が居れば私は要らないと思うんだが」

 

李師は敵が一手動けば八手先まで読むことができた。勿論状況によりけり、というものではあるが、確実にあの時二手ほど先を行かれていたのである。

 

つまり、十手先を読める人間が割りと低い立場でくすぶっているということになる。

 

「そのことについてなのですが」

 

にゅっ、と。

どこからともなく塀を無視して現れた周泰が、許しを得た後に李師の正面に腰掛けた。

 

右には呂布、背後は木、左は趙雲と言う鉄壁の護衛体制に、隠密が加われば最早不測の事態など起こり用もない。

 

槍を肩に掛けてその場から立ち、いそいそと教え子に自らの槍術を叩き込むべく出発した趙雲を目で追いつつ、周泰は辞儀を正して調べてきた結果を述べた。

 

「あのですね。御使い様は良く似た別世界を知っておられるようなのです」

 

「良く似た?」

 

「はい。そこでは名の知られた武将が男が女に、女が男になっておられるようでして」

 

「つまり、彼からすればここは女が男に、男が女になっている、と。面白いね」

 

妄言としか取れない報告に、明らかに興味が無さそうな呂布と、眉を動かす程度には興味を示す李師。

この二人からすれば、呂布は女で李師は男である。産まれた時からそうであるし、出会った時からそうだった。

 

容易に想像がつくものではないし、つくのは最早人ではない。

 

「他に差異とか、そういうものは無いのかい?」

 

「能力的な差は、誤差程度の物らしいです。今のところ、御使い様が見た諸将は一様にこの性反転の法則が適応されているようで、どこまで正しいかはわかりませんが、信じるならばそうなります」

 

取り敢えずは、信じて何の害もない。

そう判断したから周泰は持ってきたのだろうが、暇してた李師としては目の前にいる二人の義娘めいた存在がどうなるか、という推測をすることに思考の注力をはじめている。

 

心理的に自分の性別が反対だということは中々受け入れ難いが、どうせ聴いてしまったならば楽しもうと言う、李師の珍しいポジティブシンキングであった。

 

「御使いの反応を思い出すに、身体的な、或いは服装的な特徴は受け継がれるのではないだろうか。後は、武器とか」

 

「あ、真面目に考察するんですか」

 

フーン、と受け流されそうな情報だっただけに、周泰は驚く。

正直なところ、彼女が調べているのは御使いの交友関係などであって過去の来歴では無いのである。

 

興味がないと言えば嘘になるが、彼女は間諜としてそこらへんをわきまえていた。

 

「…………恋は男になっても生えてそうだよね」

 

「……?」

 

いきなり興味を無くしていた話題を振られ、呂布はコテン、と首を傾げつつ李師の方に向き直る。

基本的に虚空を見つめて意識を分散、全方向からの襲撃に対処すると言う警戒態勢をとっている呂布は、話を聴くときのみ僅かに隙ができた。

 

と言っても、城壁に針を通した程度の微細なものではあるが。

 

「触角」

 

よく自分が弄り、なおかつ御使いと初めて呂布が顔を合わせた時に向かった視線の先を思い出しつつ、李師は一先ずの推論を述べた。

 

この時点で、彼の中で別世界の呂布は形作られていなかったし、形作る気もなかったが、特徴が反映されていることを考えれば、赤髪と刺青、後は触覚。

ついでに方天画戟と赤兎馬も、候補に加えて良さそうだった。

 

「……嬰は、女になっても帽子被ってそう」

 

「あぁ、かなりの確率で有り得るね」

 

「もはや肉体の一部みたいな感じですから、大いに有り得るかもしれません」

 

これと言って身体的特徴に恵まれていない周泰の想像に苦労しつつ、飼い主一人と飼犬一人、飼い猫一人の団欒は根本的な話題を変えることなく変遷した。

 

「だが、彼の中のものと今のでは、確実に歴史は変わっている、気がする」

 

「何故、わかるのですか?」

 

「彼は、私が降ってきた時にかなり意外な顔をしていた。つまるところ、私が曹操勢力に所属しているのは、彼の予想の中にはなかった。多分、私は易京攻防戦が終わった時に死んでたんじゃないかな。予想に過ぎないが、そんなことを考えていたような気がする」

 

「なるほど、流れ矢に当たるとか、暗殺とか、択に関しては豊富ですからね」

 

並み居る名将たちに比べて、李師はぶっちぎりで武力が低い。それを補ってあまりある指揮能力と智謀があるが、普通ならば考えられないような死に方をすることが簡単に予想できた。

 

「……暗殺からも、流れ矢からも恋が守る。嬰は、死なない」

 

確実にマイナス方向に振り切れている感情を立ち昇らせる呂布に怯みつつ、周泰は無言で頷く。

元々、呂布は犬は犬でも忠誠心が犬、と言うタイプなのだ。

 

気質が犬というわけでもなく、実力が犬というわけでもない為、飼い主たる李師が現世からフェードアウトすれば、割りとどうなるかわからない。

 

特定の対象以外の諸事に無関心であり、義理より感情を優先させる。

そして武勇は虎か龍か、と言った物だった。

 

「いやまあ、死んだんだよ。たぶん。となると、この後の歴史はどうなるのかな」

 

「…………」

 

呂布は、黙った。

別世界にしろ何にせよ、その死を想像したくはなかったのである。

 

そして何より、寿命と言う殺害不可能な要因で死ぬ以外の死を李師が辿った場合、それは八割くらい自分の失態だ、ということに彼女の中ではなる。

 

普段はともかく、生死が関わるととかく病み気味な恋からすれば、それは決して軽く流せるものではなかった。

 

「恋は、どうする?」

 

拗ねた―――ように見える―――呂布に話題を振りつつ、李師は思考を巡らせる。

彼にとって歴史を組み替えられたら、などは面倒くさくて実行する気もないことだが、想像することにおいては極めて楽で、楽しい。

 

今で揃っている情報をピースに全体像を想像する、というものは彼が戦で大変不本意ながら重用しているスキルであるが、彼のこのピース埋めの迅速さと精密さのルーツは、やはり歴史書漁りにあったと言ってよかった。

 

「……殺した奴を、殺す」

 

「復讐か。その後は?」

 

「……その血族を、殺す」

 

「……次は?」

 

「……所属してる国を、潰す」

 

「生産性がないね」

 

「求めてない」

 

九割九分九厘本気で言っている呂布と、九割九分九厘冗談だろうと思っている李師の間で微妙な齟齬が発生している様を見つつ、周泰は若干顔を引き攣らせながら目を背ける。

 

言い方は悪いが、後付け良心回路を破壊された呂布が復讐に動くと言うのは、個人的な戦闘能力と集団を指揮する能力に富んだ殺戮兵器を野放しにするようなものである。

 

バッチリ執念深さを実の父母から受け継いでいる呂布を制御できるのが李師だけな以上、周泰からすれば全く笑えたことではなかったのだ。

 

力が山を抜き、気が世を覆いそうな武力と、精鋭。後は一見すれば李師より更に天才性が見え隠れする指揮能力。

李師自身に武力を測ることが出来ないために彼は笑っていられるが、わかる者からすれば少し洒落にならない。

 

そして、単騎でその戟にかけた敵兵の数が軽く五桁に乗せてきた今となっては、最早単騎でもできそうだった。

何がとは、言わないが。

 

本気にしていない李師の右腕を引っ張りながら頭を撫でられている姿を見ればそうは見えないが、そうなのだ。

 

「で、明命は?」

 

「仇を討ったら、九江に買って田畑でも耕そうかなと、思います」

 

「前半部分以外は安心できる答えだね」

 

まともな神経した数少ない幹部である周泰のまともな答えに頷きつつ、李師はポツポツとピースを埋め始めた、その時である。

 

「李師様ー!」

 

門が大音声とともに物理的に揺れ、李師の思考の泡が弾けた。

この猪突しそうな勇ましい声は、まごうことなき李家軍の切り込み隊長兼決戦兵力。

 

字も真名もない、ただの華雄だった。

 

「こっちですよー!」

 

「おお、周泰も居るのか。珍しいな」

 

華雄の大音声に思考の泡を炸裂させられて思考的な大ダメージを受けた李師と、より一層身を入れて警護に励んでいた呂布が華雄に対応できる訳もなく、結果として常識人代表の周泰が対応する、ということになった。

 

異端共に囲まれた常識人は苦労を買い込む、の好例であろう。

 

「な、何だ、華雄か……」

 

「はい、華雄です」

 

鎧姿ではなく、胡服。

戦場で目にすることの方が多い華雄の姿を驚きつつ、李師は塀を乗り越えてやってきた彼女ともう一人の方へ目を向けた。

 

「後は、王子全か。どうしたんだい?」

 

戦場でも日常生活でも基本的に服装が変わらない呂布と周泰と違い、華雄はこまめに服装を変えている。

その変化に戸惑ったものの、流石に教え子の顔を見間違えるほど戸惑ってはいなかった。

 

十歳から十五歳までの男女を五十人、李師は自分の家の何倍もの広さを持つ大館に住まわせている。

同性で分け、更に同姓で固めてわかりやすく区画を作り、更に部屋の前に名札をたらさせる徹底ぶりだが、それでもなお部屋を間違えたり喧嘩したりといった騒ぎは尽きない。

 

基本的にそれらの喧騒を聴きながら、李師は平穏を願って惰眠を貪っているのである。

 

「ほら、ご存知だっただろうが」

 

「は、はい」

 

お揃い、と言うべき格好をした王双は、悪戯っぽく笑った華雄に小突かれて少し恥ずかしげに俯いた。

彼女からすれば、李師は雲の上のそのまた上というべき存在であり、憶えていてもらえたとは思っていなかったのである。

 

何の貴門の出身でもなく、名士とも縁がないにも関わらず、李師が気さくに付き合ってくれることを知っている華雄からすれば今更驚くべきことではないが、彼は血筋だけなら無駄に良い。

 

四世三公の袁家と、清流派の領袖たる登竜門の李膺の血を引いている以上、男という点を除けば彼は典型的な都系エリート。

そもそも異民族を養子にしているあたりで毛並みが違い過ぎるが、なおも気後れする程度の権威と気品があると信じられていた。

 

そんなものはないし、幹部も豪族の張郃と名士の賈駆以外は軒並み名士でも豪族でもないただの人。そして異民族と辺境出身が多い。更に輪をかけて人格的問題児が多い。

 

彼がそういった名士重用の気風に触れないで祖母に『好きなことを好きなだけやりなさい。儒教が面倒くさいならばやらなくて良いし、名士との付き合いが面倒ならばやらなくてよろしい』と断言されて歴史と墨家論の中に埋没して育っただけあって、彼の思考回路は極めて異質だった。

 

「李師様。この王双、齢は十五。ですが既に六十斤の大薙刀を片手で自在に操り、鉄芯の入った弓矢、流星鎚を巧みに扱うことができ、何よりも攻撃に転ずる時の指揮ぶりには瞠目すべきところがあります」

 

「……六十斤って、どれくらい?」

 

「米俵の四分の一程です」

 

全てを呂布にぶん投げていたが故の生活感のなさを露呈させる質問に律儀に答えつつ、華雄は素早く本題に入った。

 

「この王双、私の側仕えとして此度の戦を経験させたく思います。許可をいただけるでしょうか?」

 

 



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不戦

西暦190年の夏。

易京攻防戦から宛迎撃戦に至るまでの一連の戦争から一年のモラトリアムをおくことで内政機関を充溢させた曹操は、許昌に荀彧と程昱を残して司隷へと発した。

 

北回りに鄴から林慮へ侵入する曹操軍の先鋒は夏侯惇。中軍は曹操。後軍に徐晃。軍師は郭嘉。

 

正面の陳留から中牟へ侵攻するのは于禁・楽進・李典の三羽烏。

 

南回りに宛から梁へと向かうのは、都督夏侯淵の三軍。先鋒は李瓔、中軍は夏侯淵、後軍は毌丘倹と諸葛誕。

 

威風堂々たる軍勢は陳留で一旦集結し、それぞれの拠点に進軍。各自報告を送って日時を定め、敵が北の国境へと異民族討伐に行ったところに一斉になだれ込むと言う恐ろしいまでの正攻法である。

 

この正攻法を李師が立案し、なおかつ実行できるというところに、彼の本道が正攻法型の将であるということが表れていた。

そもそも袁家自体が正攻法を得意とするのだから、この特徴を血筋的に考えればなんのおかしさもない。

 

だが、出生と血筋を塗りつぶした経歴だけ見るとおかしいと思えるあたりに、李師の異常性が伺える。

 

何せこの男、全体兵力で勝った試しがない。勝っていた時もあったが、自分が担当した戦線では負けていた。

その癖、彼のみがマトモに戦えていたのだが。

 

「戦争に臨むことに関してはまっったく、嬉しくないが、あれだね。己が信じて止まない兵力差絶対の法則を適応できるのは嬉しいね」

 

「どの口が言うのやら」

 

尽く兵力差を引っくり返して勝ってきた男が言うと、信憑性がないというレベルではない。最早冗談にまで昇華されていそうな気すらする。

ツッコミ役と化してきた趙雲が皮肉たっぷりな口調でツッコミ、呂布が無言で首肯した。

 

李師はそのことに軽くショックを受けつつ、賈駆が整備した軍事用道路をガラガラと進む己の四輪車の肘掛けを人差し指でタンタンと鳴らす。

 

馬に乗れない、という李師の弱点を補強しているのがこの四輪車であり、馬車だった。

 

「それにしても、あれですな。軍事用道路というものは整理するまでは面倒ですが、してしまえば極めて有用なものですな」

 

趙雲も、この宛迎撃戦の後に工兵を用いて態々作ったこの道路の有用性を認めている。何せ、明らかに軍の足が速いのだ。

 

夏侯淵も李瓔も行軍の迅速さには定評のある指揮官だから、極めて速く見える。

しかし、別に急がせているという訳ではなかった。だが、明らかに速くなっているのである。

 

「当たり前じゃない。ボクは必要なとき以外は無駄なことはしないし、する気もないんだから」

 

「……矛盾してる」

 

「していないわよ。やっていること全部が必要なことだったら、角が立つし警戒を生むでしょ?

必要なときとそれ以外を見極めて無駄なことと有用なことを判断してやっていくの。それがまあ、保身ね」

 

呂布の明確なツッコミに対し、苦労人ならではの智恵を披露する賈駆は、軍事用道路の出来栄えを見て少し誇らしげに胸を張っていた。

 

何だかんだで、この賈駆も内政屋。己の有能さと先見の明が証明されて、嬉しくなかろうはずがない。

 

親の許可を得て従軍を許可された王双を連れ、先陣を意気揚々と務めている華雄。

それに後軍として残りの三千の指揮を預かっている張郃を除いた幹部たちが招集されている李師の本軍にて、李師は影に溶け込みそうな程に存在感が希薄な副司令官に声をかける。

 

「副司令」

 

「はっ」

 

「予定通りに、頼むよ」

 

「お任せを」

 

審配と淳于瓊が易京付近でお留守番しているが故に計七千しかいない李家軍は、田予の巧みな指揮でするすると間道へと三つに分かれて姿を消していく。

 

華雄、張郃、李師。

 

三者に率いられた軍は、目的地たる梁に着く前に忽然とその姿を消した。

 

「秋蘭様!」

 

「何だ、流琉」

 

李家軍から百里程離れてゆるゆると進んでいく夏侯淵の本軍一万五千に、その報告が届いたのは三刻後のことであった。

 

「索敵に出していた斥候から、李家軍が忽然と消えてしまったと言う報告がやってまいりました。行軍速度を速めた可能性もあるので更に範囲を拡げさせていますが……」

 

「無用だ。はじめた、ということは最早奴らは見つからないだろう。すぐに探して見つかるほど容易い相手ならば、昨年あれ程の苦戦はしなかった。

こうなれば予定通り、我らはただひたすらに梁に敵の眼を張り付ければいいのだ」

 

あくまでも典韋は幹部ではなく、護衛を兼ねた副官のようなものである。

割りと上下関係の区切りに厳しい夏侯淵は、毌丘倹や諸葛誕くらいにしかこの事を伝えてはいなかった。

 

「事前に連絡があったのですか?」

 

「あった。だが、今ということまで決まっていたわけではなかった」

 

だからこそ、夏侯淵はゆるゆると、更にはより防御的な隊列を取って進んでいたのであろう。

 

そのことに得心し、典韋は一つ頷いてその場から下がった。

 

梁の城まではもう、五十里もない。

北に戦力が分散しているとはいえ、李傕らの長安政権もいい加減気づいている筈である。

 

「さて、被害を避けて楽に勝つか」

 

残りの五十里を一日で詰め、陣地を構築。

梁の城を遠巻きに囲い、夏侯淵は敵を緩く締め付け始めた。

 

城を攻めず、心を攻める。敵は西涼出身者が多く、守城の経験者が少ない。

原野での勇者は、壁内でその活発性を負の方向に向けることが多々あるのだ、と。

 

二十そこいらで初めて城の守りの任を与えられ、のべ七十の城と陣地を一つの失陥すらさせること無く、更には民に危害を加えることなく守り切った守城戦の雄と話している内に、夏侯淵が気づいたことだった。

 

彼が大枠としての攻め手に出たのは宛を獲る時だけ。後は徹底的に相手を叩き出すことに注力している。

 

本人に面と向かって言ったら、史書では『何々被攻。不抜』の六文字一行で終わる程度のことさ、と言うに違いないが、非攻不抜の男、と言って良かった。

 

「さて、どう攻めるのやら」

 

そこが、気になる。

宛は内部潜入させてからの撹乱、それ以降は正攻法。

奇策というほどの奇策が無いのが城攻めであるが、その過程には奇策が織り込まれる余地があった。

 

人が死ぬことに対して楽しみにするのは不謹慎だ、と李師に言われかねないが、どうにも楽しみですらある。

 

圧倒的な、そして血生臭い現実を料理していくのが戦であるが、李師の戦は血抜きされている、と言うのか。

一種の現実ではあるが、現実ではないような気もする魔術的な面があるのだ。

 

本人からすれば、甚だ不本意であろう。

 

その不本意に染まった憮然とした面を想像することの容易さに、夏侯淵は意地悪く笑いを零した。

 

 

一方、今回も奇策を用いることを期待されている李師はというと、予め採るべき道決めていたこともあり、迅速な行軍で一路子午谷を目指している。

 

「何故子午谷なのですか?」

 

七千の軍の分散進撃。

やれると思い、何回か易京で試したことを実地でなお試している李師は、この時初めて設定した目的地の意義を訊かれた。

 

質問者は先行して索敵と警戒を行い、逐次帰ってきては報告してくれている周泰である。

別に遠いことに対して文句を言うわけではないが、ふと気になったという体であった。

 

「それはまあ、いきなり長安を狙えるからかな」

 

要は速さだよ、と。

周泰自身も身に沁みて解っている速さの重要さを李師が重要視した結果、こうなったのだろう。

 

周泰が納得したのをチラリと横目で見て、趙雲は口の端を皮肉げに上げて問いを投げた。

 

「ですが、長安は敵の本拠地です。いきなり攻めかかるのは無謀に類することではありませんかな?」

 

「星。私は楽して勝ちたい。だから一々支城や関を攻めて勝つよりも本拠を直撃した後に降伏させた方がいい、と思ったのさ」

 

「ですが、敵も異民族の来襲があったとはいえ、都を空にはしますまい。現にそれなりの、つまるところは二、三万の守兵が居るとの情報もありますぞ」

 

「星。二万六千人の守備隊が居るのは私も知っている。それなりに手は打ったし、味方を最大限に利用できたという確信があって子午谷を目指しているんだ。まぁ、苦労はさせないよ」

 

また何かやったのか。

趙雲の顔がその呆れとも感心とも取れるものへと変化し、への字に結んだ口元から溜息が溢れる。

 

その溜息は目の前で種明かしをされないとわからない自分の不甲斐なさに向けたものでもあった。

 

それを知ってか知らずか、呂布は趙雲の方を向いて声をかける。

 

「……子龍」

 

「何ですかな?」

 

「……長安は、都。物資が入りやすいように、道が整備されてる」

 

誰でもわかっている知識を訥々と話す呂布に、趙雲はしばしの思案の後に問いを返した。

 

「…………それがどうかなされたので?」

 

「物資が入るなら、人が入る。人が入るなら、情報も入る。情報が入るなら、流すこともできる」

 

極めて常識的な思案と確固たる前提を積み上げて、呂布は李師の戦略を読み切っていたのである。

奇策とは結果的に見たものであり、実のところ李師は真っ当な判断と手段しか取っていないことを、呂布はよくよく知っていた。

 

「……戦の要は、情報。一片の流言や虚報は、巧く使えば三軍に勝る。個人の武とか戦術は、これに勝てない」

 

「よくわかってるね、恋」

 

「ん。常識」

 

常識の範疇の外に居る二人が常識を語っている途上。

集合地が、見えてきた。



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欠陥

駐屯軍二万七千の内一万二千を率いる李傕は北に異民族の迎撃に向かい、同じく一万二千を率いる郭汜は迅速に報告が上げられた曹操軍の侵攻の迎撃に。

 

長安は、残る三千足らずの兵が守っているだけに過ぎなかった。

言うまでもないが、これは李師の策略である。

 

八割の誠、二割の嘘。

敵を騙すにはこの配分が重要であり、現にこの場合も異民族の侵攻も、曹操軍の侵攻も真実だった。

故に、その進撃速度と規模に、嘘を混ぜる。

 

三方向から攻め寄せ、一路旧都洛陽へと向かっている曹操軍の規模を水増しし、その進撃速度をわざと鈍らせた。

 

そのことによって郭汜に対応させる時間的余裕を―――錯覚とは言え―――与え、的確な手を打たせる。

この場合の的確な手とは、後方都市の防衛部隊を再編成し、前線の後詰めとすることだった。

 

その後詰めが出発したという報告を受け、李師は子午谷を一気に駆け上る。

友軍を可能な限り利用しきり、個人プレーによって戦局を一気に引き寄せるのが李師の得意とするところであるが、この場合はただ利用した訳ではなかった。

 

第一に、長安が獲られたとあらば敵は本貫地である涼州への道を断たれたことになり、士気が低下する。

第二に、後方都市であり兵站基地である長安を獲れば、兵站線の元手を断つこととなる。

第三に、敵情報線を分断することができ、それによって敵の連携を崩すことができる。

 

李師の一手によって、この侵攻戦は既に残党狩りの様相を呈し始めてきていた。

一つの戦術で、味方の戦略を完璧なものとする。

 

味方を利用したが、利用された以上の利益を全体に与えることができるのが、戦略的に優位を得た『戦術家』李瓔の真骨頂だった。

 

「……まともに戦う気は、なかったのですかな?」

 

「ない。その意義も意味もない。だから、楽に勝たせてもらう」

 

嘗て激闘を繰り広げた汜水関も陥とすこと無く越えてしまい、守ろうとした洛陽すら越え、長安にまで来てしまったことに何らかの感慨も見せず、李師は一言だけ命令を下す。

 

「かかれ」

 

極めてやる気のない李師号令一下、四日で子午谷に着き、そこから一日で辿り着いた長安は三刻の戦闘の後に陥落した。

 

子午谷の奇謀と言われた李師の急襲作戦は、百人に足らない被害と五日という時間を生贄に、李傕・郭汜連合の首都である長安と言う情報線と兵站線の中心地を得ることで完結したのである。

 

趙雲・華雄ら武闘派はこの『取れる物を取った』という手応えも歯応えもない戦いに肩透かしを喰らったが、彼女もひたすら流血と闘争を望むものではない。

 

本当の戦は、荒れに荒れまくった長安内ではじまった。

 

「賈主簿、商業区画の割り振りが終わりました」

 

「賈主簿、宮廷の復興費に関して董車騎将軍殿が相談をしたいと……」

 

「賈主簿、山賊が長陵近郊に潜んでいるとのことです」

 

「賈主簿、灌漑用路が破壊されております。復興を」

 

「商業区画の割り振りが終わったら馬鈞の弟子たちの工業を中心に拡充、宮廷の復興費は劉曄に任せてあるからそちらに、山賊に関して周泰に精密な場所を調査させて華雄に叩かせて。灌漑用路は韓浩に。街道の整備は?」

 

殆ど一息に連弩の如く浴びせかけられる報告に、賈駆は極めて冷静に対処する。

それは血を一滴も流さないが、精神力と体力を搾り取っていくような耐久性を試す戦い。

 

何故、ここまで長安近郊は廃墟めいているのか。

それは李傕と郭汜は、一枚岩ではなかったから。この一言に尽きた。

 

このことを聴いた賈駆は、より一層その警戒心と慎重さを厳とした。李傕と郭汜は嘗て董卓配下の一将軍であったこともあって、その性格も仲の良さも知っている。

涼州人らしい蛮性を残した性格と、貪欲な物欲。共通項の多い性格的な類似と、幼い頃よりの友人同士という深い繋がり。

 

その二人が争うとは、権力というものは、どうにも独占したくなるものらしい。

 

危機管理能力に定評のある賈駆としては、その決裂の呼び水となった権力という魔物に戦慄を禁じ得なかった。

より一層、周りを見て身を慎まねばならない。

 

そのことを身に沁ませつつ、賈駆は次々に『最低限の生活を維持する程度の』設備を整える。

 

何故最低限かと言えば、勿論理由があった。

 

出費を抑えつつ曹操軍の官僚たちの出る幕を増やし、潜在的な李家軍の支持者を増やす。

 

渇いていた時に得た水と、ある程度余裕のある時に得た水。

同質量の水であるが、有り難いと思うのは圧倒的に前者なのだ。

これによって支持層を増やし、潜在的な味方を増やす。更には曹操軍の官僚たちにはまっさらに整えた状態で渡すことであくまでもこちらは外様としての身の程を知った『準備の為の下請け』であることを示す。

 

実に巧妙に隠蔽しつつ、賈駆は精力的に働いていた。

 

「街道の整備は三割ほど出来ております。しかし、李傕らの内戦で殆ど壊滅的な被害を受けておりまして……」

 

「軍用道路ではなく、民間の商業用のものを優先。工兵隊千人を回して復興に当たらせて。元手が少ないんだから、増やさなきゃはじまらないわ」

 

「はっ」

 

一通り指示を終えて、賈駆は休まず歩いて軍事的な中枢である城外の幕舎へと向かう。

そこには、珍しく前線に出ていないが故に暇している李師と、護衛の呂布が詰めていた。

 

各将はそれぞれ千人ほどを率いて賊を討伐、ないしは帰順させている。

この長安に居る常備兵は、李傕時代と変わらずに三千人ほどだった。

 

もっとも、城内には高順率いる赤備えの憲兵隊百人しか居らず、残りは城外に駐屯している。

これは李師が現皇帝たる劉宏に『司隷郡に入ることを禁ず』と勅を下された為であった。

 

司隷郡にはもう入ってしまったから仕方ないとして、せめて都には入らないよ、と言うのが李師の精一杯の誠意だったのである。

 

「やぁ」

 

「単刀直入に言うけど、董承があなたを恐れてるわよ」

 

挨拶すら返さず、賈駆はズバッと切り出した。

彼女は危機管理の為に基本的には直言を避け、それとなく悟らせるような言い方を好む。

 

だが、李師の政治権力を求めず、粛清をできないような人格をある意味で信頼しているが故に、彼女は李師に対しては容赦がなかった。

 

「……え、私は何もしてない筈なんだけど?」

 

「動かないってだけで不気味なのよ。現皇帝には引け目もあるし。

ボクからすればまあ、自業自得といったところだけどね」

 

李師は漢で将軍してる時に馬車馬のように働かされ、檀石槐にやっとのことで勝った瞬間に都に呼び出されて投獄。

司馬家を中心に固まった清流派の残党がそれを痛烈に非難した為、辛くも生命は拾ったものの、恩賞も貰えず都を叩き出され、それどころか司隷郡からすらも叩き出されている。

 

彼は『恩賞は別にどうでもいいと言い。牢獄も殺人犯にとっては寧ろ当然』と言う、ある種脱俗的すぎる感想を持っていた。

 

これは、彼があくまでも思想書として呼んだ墨家の『一人殺せば罰せられるのに、将が万人を殺して功を誇るのはおかしい』と言う一文を痛烈に実感したからであるが、墨家ではない宦官や濁流派に所属する武将には理解ができないことだったのである。

 

更には彼は、恨みを長時間持続させる天性に欠けているが故に、理不尽な扱いを受けたということを忘却の彼方に葬り去ってしまった。

だが、政争を専らにしている都の政治家からすれば、恨みは死んでも忘れないものである。

 

彼女等は李師が長安を占領してすぐにその勅を撤回、と言うよりは上書きしようとしたが、李師がそれを断った。

 

彼としては、皇帝の命令は史書に記されるべきものであり、それは撤回したりすべきものではない、と言った正論を吐いてこれを断ったのであるが、本心が『都になど近づきたくもない』と言う政治嫌いから出たことは間違いがない。

 

「君は嘘を付いている」

 

「……な、何を根拠に?」

 

呂布と囲碁を打ちつつ、李師は賈駆をチラリと見てその言葉に混ざった虚偽を看破する。

正直なところ、彼は基本的に面と向かっては騙されない。第三者を介せば騙されることはあるが、少なくとも騙そうとしている人間を視認している内は確実に看破することができた。

 

「皇帝は引け目なんて感じないよ。私に行ったことに対して引け目を感じる様な殊勝な性格だったら、天下がこの惨状になった今、とっくに自殺しているだろうしね」

 

「……お、温和な顔して、過激なこと言うわね」

 

有効な政策を打てなかったことに対して、李師は批判したわけではない。自分ができないことを、批判する気に彼はなれない。

 

ただ、国を憂うる人間は居たのに、それを用いなかったことに対して義憤を感じていたのである。

清流派の弾圧も良い。濁流派にもまともな政略眼を持った人間はいただろうから、その人物を用いればよかった。

 

だが、耳触りの良いことしか言わない臣下のみを近づけようとしなかったことに対して、李師は批判をしている。

 

「民の貧困を尻目に売官で稼ぐ。反乱未遂が何回か報告されている中でこんなことをするということは、悪いけどまともな神経をしてないね。大方心配していたり引け目を感じているのは側近だろうし、それも保身の為だろう。

そもそも今の惨状を見て宮廷の復興費を要求する辺り、度し難い。私はどうにも、慕う気にはなれないな。正直に言って会いたくもない。誰かの保身の為に、なんで私が利用されなきゃならないんだ?」

 

「あのね。漢は腐っても鯛なのよ。利用価値があるし、好んで反感を買いたくはないでしょう?」

 

政略嫌い、政治嫌い。その癖自分が利用されそうだということは割りと敏感に気づく。

半ば説得を諦めながら、賈駆は別方面から攻めた。

 

「嫌だ。政略なんぞに利用されるのはまっぴらごめんだ。それに君の理論に当てはめれば、曹兗州様よりも先に謁見するのは臣下の分を越えたことじゃあないのかな?」

 

「……まあ、それも一理あるわ。でも、相手の心象を良くするのも臣下の務めなの。と言うより、誰もがあなたみたいに先が読める訳じゃないのよ。腐敗してても続いているのだからいいや、と思うのが貴門の人間。わかってるでしょ?」

 

「わかってるけどね。絶対こうなると予想した人間は居たし、それを遠ざけたのは確実に帝だ。私は嫌だ。会いたくない」

 

と言いつつ、賈駆は思った。

この男、わざわざ慣れないことに智恵を絞り、『皇帝は命令を覆すべきではない』というまともな反論の陣を築いてから感情を表に出す辺り、手に負えないわけではない、と。

 

恐らく個人の好き嫌いで他人に迷惑がかかることを知っているからこそ、このような陣を築いたのだろうが、そこら辺が致命的に甘い。

 

上に立つ者は、普段がマトモならば一部において我儘でも許容されるということを、知らないのだろう。

 

だからわざわざ断る理由も作ってしまっていて、それが結果的に政略的な一手に踏み込んだという結果になってしまっていた。

 

となれば、賈駆がすべきことは擦り合わせ。要はいつものことである。

 

「……あなた本っ当に、漢への忠誠心とか帰属心、ないのね」

 

「民があっての国だ。民に塗炭の苦しみ味合わせる国に、存続すべき価値はない」

 

李師の人格における致命的にして最大の弱点、政治嫌い。

基本的には優秀な指導者である李師のこの穴を埋めるのは、たぶん自分の仕事だろう。

幸いにも断る理由に悩む必要は無いのだから、後のやることと言えば言い方と言い回しに気を使うくらいな物だった。

 

「わかった。じゃあ、ボクが何とかする」

 

「……言い過ぎた。参内した方がいいのかな?」

 

こちらが折れると思わず折れてしまう辺り、人がいい。

だが、良く良く考えてみると、この儒教的礼儀における素養が皆無、と言うよりも絶無と言ったほうが適切な男が参内するのは、殆ど確実に反感の嵐を買うことになる。

 

「ボクが、何とか、するの。いい?」

 

「あ、はい」

 

十三歳ほど歳下の少女に凄まれる奇策縦横の将、三十三歳。

宮廷政治家、賈駆の胃は中々に丈夫に出来ているようだった。



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七手

目の前で、百人隊二つがぶつかり合い、絡み合う。

演習故に矢は使えないが、だからこそ乱戦になった時の指揮振りを試されるというような側面をもつこの実戦演習は、『費』の旗の百人将の勝ちで終わった。

 

これで、三位決定戦は終わりである。

 

「次は?」

 

「王双隊と文淑隊ですな。まあ、決勝まで残ったのは自明の理、と言ったところでしょう」

 

「身びいきありで?」

 

「身びいきせずとも自明の理は自明の理です」

 

攻撃の王双、守りの文淑。

李家軍の幹部が目を掛け、育てている片方が攻め抜いて勝つか、もう片方が守った末に粘り勝つか。

それは、華雄と趙雲の代理戦争のような様相を呈してきていた。

 

「華雄はどう思う?」

 

「まだ勝てないと思われます。誰かが手綱を取らなければ、好き勝手攻めて攻勢限界に達してしまいますから、勝ち目は無いとは言えませんが、あるとも言えません」

 

嘗ての猪突猛進ぶりからは想像もつかない冷静な分析に、張郃の眠たげな目が感心に染まる。

李師の人材育成は、ただ教えるだけではない。指揮に従わせ、命令を実行させる内に自然と学ばせるような、自分で自分を変更させていくような方策も、彼は好んで用いていた。

 

「星は?」

 

「文淑は攻勢に転ずる時節を逃し、遅れることがありますので、底を突かれれば危ういでしょうな」

 

彼女らしく短所と長所を見極めたような分析に僅かな笑みを見せつつ、李師は少し頷く。

彼は祖母ほどではないが、人を見抜く目に長けていた。

 

それは教育を一人一人その人用に変えていけるという柔軟性と相俟って、彼の教師としての適性を確実に高めている。

李師は、自分がわかる範囲であればその才能を見抜くことができた。この場合は政治であり、戦術眼であり、戦略眼であった。

 

「まあ、王双も文淑も晩成する。今は拙くても寧ろ当然と言うものさ」

 

「わかりますので?」

 

「まあ、早熟か晩成か、後は平均か、くらいにはね」

 

因みに人物鑑定の適切さと厳しさから『登竜門』と謳われた李師の祖母、李膺は何歳で全盛期、何歳で落ち目になるかまでを当てることができた。

 

政治・人物鑑定では全く勝てないと断言できる、一昔前の怪物であろう。

その怪物を一面では遥かに超えているのが、李師という男なのだが。

 

「李師様、私はどれですか?」

 

素直で率直な華雄の問いに触発される形で噴出した疑問と、それに伴って李師に集中した八つの瞳に肩をすくめ、李師は隣で矛を構えて微動だにしない呂布を抜いた四人の評を述べた。

 

「何故だか知らないけど、私が見たところ君たちは軒並み晩成型だよ。文和は死ぬまで智恵が衰えないだろうし、儁乂は更に円熟味を増すだろう。星は元々悪かった性格がさらに悪化して手が付けられなくなるだろうし、華雄は角が取れて攻防における柔軟さが増すと、思う」

 

「……恋は?」

 

「全盛期がわからないから例えようが無い」

 

「じゃあ、あんたはどうなの?」

 

賈駆の問いに対して少し困ったような表情を浮かべた李師は、帽子を外して何度か首元を扇ぐ。

言い難いのか、言いたくないのかはわからないが、彼にとってあまりよろしくない評であろうことは確かだった。

 

「私ではなく、祖母曰く、七十前半まで伸びて、そこから五年維持できて低下していくらしい。今はまだ、若造だね」

 

「では、向こう四十年はあなたの天下、ということですかな」

 

「四十年も経てば私を超える用兵家などごろごろ産まれるし、育つさ」

 

明らかに何の確証もない適当な予測に対してやり返したのは、いつもの如く賈駆であった。

 

「三百年経ってやっと現れるかどうか、よ。あんたみたいなのがそうホイホイと産まれるわけ無いでしょ?」

 

「何故、三百年?」

 

「古学では三で一周り、百で永遠。永遠が三順しても出てこない、ってことよ」

 

なるほど、と納得してみせた華雄と、教養の豊かさに舌を巻いた趙雲とは違い、この時の李師は予言の場面に出会したような奇妙さに包まれていた。

 

「あるかもね」

 

「何が?」

 

「いや、三百年後の話さ」

 

王双が圧し、文淑が退がる。

じわじわと変わっていく戦況を見下ろしながら、李師はポツリと呟いた。

 

「……あのね。今のは皮肉よ?」

 

「知ってるさ。だけどこう、有り得そうじゃないか?」

 

この会話から約三百年後である西暦484年に、彼と同レベルの戦術能力を持つ女性が産まれる。

弓も馬も剣もてんで駄目で、一戦士としては使えないというところまで共通している彼女は、白一色の軍を率いて中華を駆け抜け勇名を馳せ、『今仲珞』と謳われることになるのだが、そんなことは今の世の人々で知る人は一人を除いていなかった。

 

そしてまた、このことに関して考える時間を、天はこの時李師に与えなかったのである。

 

「り―――嬰様!」

 

李師こと李瓔の名の瓔と、真名の嬰は発音的には共通していた。

未だに尊敬する主君の真名を呼ぶことに慣れていない周泰がそれを口に出そうとすると字を除いたフルネームを呼んでいるような錯覚がある。

 

そんなどうでもよいことを考えていた李師は、次の報告を聴くにあたってその暇な時特有の無駄な思考の泡を弾かれることとなった。

 

「李傕と郭汜の連合軍がこちらに向かってきています。李傕は武関方面から、郭汜は涼州方面からこちらへと進んでおり、潼関で合流するつもりのようです」

 

「思ったより速かったな。本軍と北軍と南軍は?」

 

「本軍は虎牢関で、北軍は壷関で足止めされています。南軍は目下捜索中です」

 

攻めを苦手とする北軍が最初の関門で邪魔されており、本軍は流石の進行速度で洛陽の喉元まで剣を突きつけている。

 

報告出来なかった南軍は、梁近辺を相変わらずの快速で駆けずり回っていると、周泰は推測していた。

だが、隠密は考えを述べることを求められない限りは現実のみを報告すればよい。考えという名の幻想は伝えるべき現実を曇らせてしまう。

 

その隠密の心得を忠実に実行している周泰は、李師が打った手を知っていた。

彼女は工兵部隊の長でもあるからである。

 

「君は北軍と本軍の姿を見たのは?」

 

「十日前になります」

 

「砦の破壊は?」

 

「九つの砦は全て、九割までならば破壊し終えています。今撤収させても、砦としての役割は期待できません」

 

李師は、長安を陥としてから数日経つと、何を思ったか計一万四千の兵が守っていた長安から潼関に掛けての九つの砦を、『今の内に壊しておこうかなぁ』とか言いつつ、兵器と奇襲でもってまともな被害すら出さずに全て陥落させ、その破壊を命じた。

と言うよりも、その砦を構築していた木や石をバラして長安の復興に回してしまっていた。

 

実質的に、郭汜が逃げ込んだ敵の潼関からこちらの最西端の拠点である長安まで遮るものはなく、よって攻め込まれれば一気に長安での決戦となる。

このことを危惧し、『使える砦はないか?』というような質問だということを予想しつつ現実を答えた周泰であるが、自分の報告に対する李師の反応に意表を突かれた。

 

「なるほど、なら問題はないな」

 

「は、はい?」

 

意表を突かれた周泰を見て、李師は少し首を傾げる。

彼としては、防御施設を壊すからにはそれなりの算段を構築した上での判断であると思っていたし、そのことを皆が勘付いていると思っていた。

それを今更首を傾げられ、逆に驚いたと言うのが本音であろう。

 

「れーん」

 

「……?」

 

おいでおいでと手をこまねき、李師は元々近くに居た呂布を更に引き寄せた。

半ば己の役割を解している呂布は、頭の中で次なる戦いへの編成を終え、ぽつりと訊ねる。

 

「先手、叩く?」

 

「うん。明日、王双、文淑の百騎ずつに、君の赤備えから二百騎。五百騎で敵が集合する機を狙って叩いてきてくれ」

 

「わかった」

 

粛々と命令を受諾して連れてきた自らの軍千人の元へと去っていこうとする呂布に右手を掴まれて引き摺られながら、李師は残った諸将に割りと陽気に声を掛けた。

 

「まあ、手は打ってあるし、今打った。経過も確認したし、不安はほぼほぼ無い。いつも通り、死なない程度に頑張ろう」

 

戦う前よりも勝った後の方が疲れ、うんざりしたような顔をしている。

趙雲によくそう言ってからかわれる彼は、今回も今回とてその例外から外れてはいなかった。

 

ずりずりと引き摺られるように呂布に付いていく李師は、ちらりと後ろを確認して諸将が自軍の元へと帰ったのを確信して、深くため息をついた。

 

(経過を確認したのが十日前と言うのはいい。計算通りだし、うまくいっているといえるだろう。だが、それからがわからないと言うのが若干不安だ。もっと逐次的に、見た時にすぐ伝わるような報告機構があれば、と思うのは求め過ぎというものだな)

 

そんな便利アイテムや便利スキルを保持していない彼としては、周泰が集めてきた情報を自らの推論で埋めていくという難題に挑み、完遂せねばならない。

 

戦略面では勝てない、と言うどうしようもない状態から脱却し、戦略面は任せ切りでいい、と言うところまで改善されている。

つまり、李師の推論が二割ほど間違っていても曹操の戦略が補ってくれるのだ。

 

だが、だからと言ってそれに胡座はかけない。二割ほどの余裕があるならば、自分がいつも通り推論を完成させれば死傷者はその二割分だけ減るだろう。

より完成度を極め、純度を高めればそれ以上も狙えなくもない。

 

環境的な変化でも、彼が目指す所は『なるべく戦わずして勝ち、戦うとしても死者を減らす』ということである。いくら戦略戦術を高めても死者零人と言う完成に辿り着けていない以上、彼の頭脳的苦労はちっとも減らなかった。

 

(明命はよくやってくれている。最善を尽くしてくれているのだから、私としても七手読みで止まっているわけにも行かないか……)

 

愚将は目の前の事象すら読み切れず、凡将は目の前の事象の対処に汲々とするあまり次を読めない。

良将は一手先を読むことができ、名将は二歩先を行く。

後は完全に状況と運、その場の閃きに頼り切ることになるが、李師は基本的には七手先まで読めた。

これは曹操や夏侯淵や龐統と同一であり、この域にまで達した将が相対せば、後は精度と密度と視野の広さ、読み違えた時の応急措置の巧みさと決断の速さが勝負を分ける。

 

李師は精度と応急措置が巧みであり、曹操は密度と視野の広さで他を圧す。夏侯淵は決断の速さと精度に秀でている。

 

ここから一歩先に踏み出そうとは思っていなかったし、そうする気もなかった。

 

「恋。私が勝てば、平和が到来するのは早くなるかな?」

 

「……少なくとも、敗けるよりは」

 

早くなる。

そう暗に含めた呂布の言葉に対して、李師は己の額に手を当てることで応えた。

 

「…………恋。業腹だが、この一戦だけ、私は味方を生かすことと同じ階梯で敵を殺す為の策を考えてみることにするよ。正直今までもそうしてきたが、これを受け入れた上で更に深めていこうと思う」

 

「……恋も目の前の敵を殺してる時、兵を用いて殺すことを考えられる。

二つのことをこなすのは、恋も出来た。嬰は、もっと広くなれると、思う」

 

不器用ながら懸命に応援してくれている呂布を愛おしく思いつつ、李師は取っていた帽子を頭にのせる。

 

「嬰は、生かすことも、できる。きっと、殺すことを考えた分だけ、生かすことも巧くなる。恋とは、そこが違う」

 

自分は人を生かす為に殺すのではなく、殺す為に殺している。

その自覚がある呂布は、少し李師に嫌われることを覚悟で差異を述べた。

 

生かそうとする李師と、殺そうとする呂布。両者がやっていることに変わりはないが、姿勢が違えば結果も異なる。

 

そう言いたげな呂布の頭を撫で、李師は少しの寂寥と温かな愛情を込めた瞳で彼女を見、言った。

 

「恋も、殺すことで多くの者を生かせているさ。私としてはこんなことを君に言いたくないし、巻き込んでしまった自分を正直殺してやりたいが、将となればそれを受け入れてしまう罪深い人間だ。それに比べれば恋は遥かにマシだし、少なくとも殺すだけの人間じゃあ、ないよ」

 

「巻き込まれてない。自分から足を踏み入れた。嬰は、抱え込みすぎ」

 

「それは、言われた」

 

「なら、直す」

 

今にも空に飛んで行ってしまいそうな凧を離そうとしない子供のように、恋は李師の手を掴み続ける。

 

世界の何物よりも何者よりも、呂布はこの温もりが好きだった。




信奈で山崎の戦いを書いてる人居ないかなーと思ってハーメルンで検索したら、居ないんですね。

誰か書いてくれないかなー(露骨なチラ見)


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両断

呂布は、一日の準備期間と半日の雌伏を経て、雷光のように敵陣に向かって突撃を開始した。

 

彼女には独特の嗅覚があるが、かと言ってそれに頼り切っているわけでもない。

ただ、彼女は機敏さを失わない程度の慎重さと情報収集を経て、兵四百を率いて敵の頭をひっぱたいたのである。

 

合流し、再編成しようとする時は基本的に城内で粗方を決めてしまうことが多かった。そうした方が敵の襲撃を減らすことができ、たとえ襲撃を受けても致命傷にはならないからである。

 

だが、李傕と郭汜が引き連れてきた軍は、長安近郊の九つの砦を守り切れなかった残兵を含めれば三万にも上った。

とても一関に収まり切るものではないし、収めたとしても整列どころではなくなる。

 

故に郭汜は関近郊の原野に全軍を集結させ、付近の民から略奪して補充した兵糧を積んだ輜重隊を帯同させて李傕を待つようにして布陣した。

 

それが、裏目に出た形になる。

 

馬蹄が地を踏みにじる音が響き、郭汜の軍兵は疑問を抱いた。

李傕が合流した今となって、これから合流してくる勢力があるのか、と疑問に思ったのである。

 

しかし、いつであろうが人は基本的に楽観論に走りがちな生き物だった。李傕が合流したのだから、他からも来ておかしくはないだろう。

 

そのような甘い夢を抱いた兵士たちが一応上司に報告した辺りで、その五百ほどの騎兵は既にその姿がハッキリ見える程度に迫っていた。

 

実数は四百であるが、そんなことは彼等にはわからない。

だが、こちらの全軍から見れば少数の軍勢だ、ということは理解できる。

 

あんな小勢で、しかけはすまい。

 

その甘い観測と夢が木端微塵に破られたのは、どうやら奴等は止まる気がないらしい、ということがはっきりしてからのことだった。

 

馬は急には止まれない。自然、ある程度速度を緩めるというプロセスが必要になる。

 

目の前の小勢は、どうやらそのプロセスを踏む気が全く無いようだった。

 

敵襲だと誰かが叫び、誰かが応じる。

その驚きが全軍に伝わる前に、更なる驚きが全軍を揺らがせた。

 

「り、呂布だ……」

 

生と死を象徴するかのような白と黒とで分かたれた革服に、血で染めたような紅髪。

装備は方天画戟と、赤兎馬。

 

剥き出しの下腹部と肩に絡みつく様に彫られた刺青が視認できるようになって、前衛を受け持っている筈の郭汜軍が呂布の突入箇所から内部に撓でいくように凹型を取ってしまったのである。

 

「呂布が来たぞぉ―――!」

 

武名にそれ以上の実が伴っていること程、恐ろしい物はない。武名で竦み、竦みつつも刃向かおうとする者は名に勝った実に討たれることになるのだ。

 

呂布は、一度の減速もせずに敵陣中央に吶喊した。

方天画戟が振るわれる度に無数の生命が天に昇り、肉体が物言わぬ肉塊へと還る。

 

呂布の進行路を避けるように凹んだ陣を、彼女はその突撃の巧みさと圧倒的な武力で以って真っ二つに斬り裂く為に前進した。

自身の気狂いのような武を錘にし、指揮系統の統一がなされていない李傕と郭汜の軍はなす術を持たない。

 

誰もが、好んで死にたくはない。その感情を薄らがせ、集団として操る為に指揮系統と言うものがある。

それがない以上、指揮官は兵たちが自発的に斬殺され、轢殺されることを望むことを期待し、指揮系統の統一への時間を稼がねばならない。

 

西涼兵は勇猛であるが、馬鹿ではなかった。誰もが呂布の頭を抑えて時間を稼ごうとはせず、誰かが稼いだ時間を有効に使って側面を突こうとしたのである。

 

結果、誰も呂布の道を阻めず、時間も稼ぐことは出来なかった。

 

一刻(十五分)の戦闘で、呂布に率いられた百人隊の混合部隊は赤身と脂身を斬り分けるように容易く、軍という単位を右から左へ斜めざまに綺麗に両断する。

 

この戦果は、追従した高順・文淑・王双の三将も驚くほどであった。

彼等彼女等には、軍とはこのように容易く両断できてよい物なのかとすら、考える余裕がある。

 

「奉先様、これよりどうなさいますか?」

 

「左に反転して、突破しつつ退く」

 

右よりも、左の動揺が大きい。

理由はわからないが、呂布の瞳にはそれがくっきりと写っていた。

 

「突撃」

 

奇襲とは言え、凄まじい戦果を挙げた呂布はそのまま敵の混乱している一部分に突撃の尖端たる己を叩きつけ、これを粉砕しつつ退却を果たす。

 

ただの武力ではなく、それに精妙な戦術眼が付随しているからこその戦果であると、理解できた者は少なかった。

 

呂布がこの二刻半の戦いで殺した兵の数は三桁に乗り、討ち取った将校は両手の指に余る。

その武神としか思えない武勇を見ては、戦術の精妙さは霞んでしまう。

 

呂布が『所詮強いだけ』としか思われないのは、この辺りも関係していた。

 

「……被害は」

 

「十に満たずと申します」

 

思ったより多い。

呂布は口に出さなかったが、心で静かに述懐した。

 

矢は殆ど放たれず、放たれたとしても自分に集中し、その全てを払い落としている。

騎乗戦闘で敗けて死ぬなど、少し鍛え方が足りないと言わざるを得ない。

 

「高順」

 

「はっ」

 

「帰ったら、鍛え直し」

 

西涼兵も強い。しかし、騎乗されぬように不意を打った。

なのに、十という被害は多すぎる。馬に乗っていたならば馬術を駆使すれば槍も避けられるし、逃げることも出来る。更にはわざわざ突破口は己が開いてやっているのだ。

 

「ご不満ですか」

 

「ん」

 

「私は、よくやっていたと思いますが」

 

「よくやっていても、死んだら意味がない」

 

道理である。道理であるが、誰でもその道理に首肯できるとは思えない。

馬術というのは幼い頃からの経験が物を言うし、何よりも勘とでも言うべき天性の資質が必要とされる。

 

呂布は騎兵としても、剣士としても、更には槍兵としても、戟兵としても、弓兵としても有能極まりない。意外なことに、彼女は育てようとしないから特化型なだけで、本質的には万能型だった。

 

恐らく船を漕がせても書を書かせても一流にこなすであろう天才に、高順は天才といえる李師の代わりの凡才の心得のようなものを教えるのが自身の役割だと思っている。

 

呂布は鍛え方もうまい。現に兵たちはメキメキと強くなっているが、限界というものを無視して鍛えようとする傾向にあった。

 

最初から限界を決めてかかってはならないものの、限界を超えられることを前提で指導されては、兵たちの体力が保たない、ということにもなりかねない。

 

「奉先様、誰もがやればできるというわけではないのです」

 

「……?」

 

その辺りを根気強く諭しつつ、高順はこんこんと説明を始めたが、そんなことは呂布にはわかっていた。

 

自分と同レベルの才能を持っている者は、居ない。誰も彼も、方天画戟を振るえば容易く殺せる者であり、その中で僅かにマシな者が豪傑として名を高める。

 

正直なところ、彼女にとってはどいつもこいつも一振りで死ぬという認識でしか無かった。

関羽・張飛は時間をかけねばならないが、殺せる。

 

だから、差というものがあまり身に沁みてわからない。それだけだが、それはあまりにも大きかった。

 

「……あんまり、わからない。嬰は、見限ってなかった」

 

教える腕の巧さが同一であるという気はないが、やり方を真似れば少しは近づける。

 

「見限ってはいませんが、伸ばす方向と伸ばす力の込め方を調節しています。奉先殿も、一方向だけではなく他方を伸ばすことを考えられてみれば如何でしょうか」

 

「……なら、やめる」

 

高順の進言に頷きつつ、呂布は言葉を翻した。

李師から聴き、更に見聞を深めた後に鍛えようと思ったのである。

 

天才にありがちな己の意見に対する頑固さというものが無く、柔らかいのがこの義娘と養父の持ち味だった。

 

追撃を受ける心配がないほど叩きのめしたからか、四百騎からなっていた奇襲隊の脚は軽い。

この二人が喋りながら馬を駆けさせているのも、この脚の軽さを表していた。

 

「……意外と、近い」

 

「皆の脚も軽いですから」

 

生き道とほぼ同じくらいの時間で長安郊外の本陣に着き、呂布はさらりと赤兎馬から降りる。

本陣ではまるで昨日までのような平和な空気が流れているが、どこか兵たちの動きに機敏さがあった。

 

別に李師がそうしろ、と言ったわけではないだろう。

古強者の集まりである李家軍は、李師が各指揮官に戦闘が近いことを告げれば、その指揮官たちから自然とその空気が伝わるようになっているのだ。

 

その伝達の速さと兵たち個人の練度の高さが、李家軍の強さの秘訣であることは疑いがない。

 

そのことを一挙手一投足の動作で感じつつ、李師が暮らす幕舎に着いた恋は、血が滴る方天画戟を地面に突き刺して足を踏み入れた。

 

「……嬰、ただいま」

 

李師は、指揮官の能力と状況を加味すれば決して無茶ではないが、一般的に見れば無茶な命令を下したことに悩んでいたのである。

それだけに、呂布がいつものように帰ってきてくれたことが嬉しかった。

 

だが、生還してくれたことに対する嬉しさを、戦わせた者が露わにするのはどうなのか。

その悩みが、彼の微妙な表情を形作ったといえる。

 

呂布や幹部連中ならば、『いつものことだ』と笑えもするが、その顔は一般的に照らし合わせればよろしく無かった。

 

「おかえり。死者は?」

 

無事で良かったよ。無茶させてごめんね、と言う副音声をそれとなく察知した呂布は、少しのおかしみを憶えた。

素直になれないというか、素直になってはならないと言うような自己規定をしているのだろう。

 

「……八人。これが、名簿」

 

そこまで読み取って呂布は被害を報告し、姓名と住所を伝える。

李師が戦死者に対して自腹で生活費を出していることを、この聡い娘は知っていた。

 

「ありがとう」

 

「ん」

 

「あと、おかえり」

 

少し嬉しげに首を傾げ、呂布はこくりと頷いた。



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遅滞

一日で二話書くのは疲れると思った今日この頃。
次あたりで決着かなー、と。


呂布に一回の突撃で陣を崩されたことに懲りたのか、李傕と郭汜の軍再編は慎重を極めた。

 

先ず、全軍を潼関に押し込める。

その後に一隊一隊編成し、五隊をひとつにして外に出す。

 

もう呂布が来ないことを知っている者から見れば滑稽にすら思える光景だが、それだけ李傕と郭汜は呂布を恐れていた。

何せ、殺せない。本人を殺せる気がしないし、その上に立つ男も無能とは程遠い男である。

 

李傕と郭汜は如何に敵を殺すか、と言う非建設的ながら建設的な思考ではなく、如何に自軍の利を利用するかと言う消極的思想に立って考えなければならなかった。

 

その光景を、周泰率いる隠密から聴いた李師は眉を顰めた。

敵は無用の恐れを抱いているわけであるが、むしろ小勢を小勢と侮る方が手痛い打撃を受けやすかったろう。

 

こちらの陣構築の時間を稼ぐためとはいえ、呂布の突撃で李傕、郭汜の脳に慎重さが刻みこまれてしまったのだとすると、時間を稼がずに侮らせたほうが良かったのではないか。

 

兵力差が隔絶とし、敵が全く侮らないというのは曹操軍との戦いと同じであるが、李師は今更ながらそのことに対して閃いた打開策の穴を探していた。

 

「どう思う?」

 

「知らないわよ。ただでさえ建築で忙しいんだから、ボクをこんなことを理由に呼び出さないでよ」

 

参謀が居らず、総司令官以外には現場指揮官しか居ない。

そんなアンバランスな構成をしている李家軍で、唯一参謀になり得るのがこの賈駆である。

 

李師は智略に優れているとは言っても神ではない。

他人の視点、というものを見逃すことも往々にして有り得る。

 

それに備えて、賈駆はよく呼ばれていた。

 

「と言うより、逆に考えたらどうなの?」

 

「逆?」

 

「いつもやってるじゃない。危機を好機に変えるっていう、アレ。慎重さを逆用して好機に変えてみなさいよ」

 

ピタッ、と。

李師の行動が一瞬完全に停止した。

 

比喩ではない。賈駆の前で、李師は完全に停止したのである。

 

「……そうか、そうだな。これは寧ろ好機だ」

 

流石に人間であり、李師も長安と砦九つを陥とすための奇襲十連戦に疲れていた。

 

その結果として思考が僅かに鈍っていたのだが、この瞬間にそれは完璧に無くなった。

李師は、寧ろ困難な初歩に立ち返ったのである。

 

「……じゃあ、ボクは戻るわよ」

 

「ああ、ありがとう」

 

地図を取り出してブツブツと言っている姿は不審者にしか見えないが、その頭は恐らく誰よりも―――少なくとも、この瞬間は―――速く回っているに違いない。

 

その回転の速さにかけて、賈駆はその場をあとにした。

 

そして。

 

「敵軍がやってきた」

 

ついにその時がやってきたとき、李師はむしろ晴れやかな様子で諸将を見回す。

その顔には自信があり、閃きがある。普段の様に不景気な顔をしていないという点があるものの、彼の変化は寧ろ普段よりも信頼感が増す原因となっていた。

 

「吾々としては時間を稼ぐ。これだけでいいんだよ。私はそのことを忘れていた」

 

「無理に撃退しようとしていた、と?」

 

「そう。苦労を買い込もうとしていた。馬鹿らしいことさ」

 

だからこんなにも明るいのか、と、確認のように問いを投げた趙雲は思う。

この男、基本的に戦うことと面倒なことが嫌なのだ。その二つが重なっているといえば、もはや憂鬱しかなかったのだろう。

 

しかし、怠けられる余地が出てきたとあらば話は別だった。

 

「星」

 

「はっ」

 

「巧く敗けなくていい。如何にもなにか有りげな、素人の敗け方をしてきてくれ」

 

趙雲と言えば、李師の作戦のトリガー役であるということは天下に知れ渡っている。

それにかかわらず敵を誘導し、嵌められるのが趙雲の用兵の巧みさというものだった。

 

それを敢えて、李師は禁じた。

 

「敗けるのは簡単でしょう。が、敵は釣れませんぞ?」

 

「釣れたら困る。何の備えもないからね」

 

肩をすくめて備えが無いことを公言する李師の意図を読み、趙雲はニヤリと笑みを見せた。

人を喰ったような作戦が好きであり、自身の性格からして人を喰ったようなものである趙雲としては、この策は好みだったのである。

 

「なるほど、何かある、と思わせ続けるわけですな?」

 

「実際は何もない。が、私はともかく、君は底意地が悪いから『やるからには何かがある』と思われがちだ」

 

「ハハハ、逆でしょうに」

 

「逆の逆は表だよ、星」

 

いつものようにブーメランを投げ合っている二人を傍から見て、華雄は不敬だな、と感じつつ思った。

 

『底意地の悪さと腹の黒さではどっこいどっこいだろう』、と。

 

「まあとにかく、星はわざと敗けてくれ」

 

「お任せあれ」

 

「恋は右翼に回り込む素振りを見せて、陣の中に戻ってくれ」

 

「……ん」

 

「張郃は恋の陽動が終わったら逆方向に同じような陽動を」

 

「承知いたしました」

 

一通りの指示が終わったあと、李師はやけにそわそわしている華雄の方に視線をやる。

そわそわしているのを見られた恥ずかしさと、役目があることを悟ったが故のやった、とばかりの反応を同居させながら、華雄は尻尾があればそれを振っていそうな機嫌で李師を見た。

 

「華雄は待機」

 

「……り、李師様。私に、その出番は」

 

「ある。敵に決定打を与える為に、君は温存しておきたい」

 

明らかにがっくり来ていた華雄に役割を割り振り、李師は予備兵力となりがちな猛将をフォローする。

この華雄、強い。他国に仕えていれば余裕でエースの座を勝ち取れるくらいには強い。

 

だが、とにかく防御に難が有り、受動的立場になると攻め手が途切れるのが弱点だった。

そこのところを意識して投入するタイミングを計ってやるのが、李師の役目である。

 

「では、出撃命令を受けた時には必ず敵を撃ち破ってみせます」

 

「ああ、それに関しては全く心配していないよ」

 

破壊力ならば夏侯惇や張飛と言った、攻撃のことしか考えていないような猛将に並ぶ。

華雄を用いるにあたって、李師は『華雄が突破できない』ということに疑いを抱いたことはなかった。

 

突破できるところに投入しているからである。

 

だが、その辺りを発言していないがために、華雄は奮起した。

敬愛する主君からの信頼ほど、生一本な武人気質である華雄を発奮させるものはない。

 

そのことを恐らく李師は知らないだろうが、適確に利用する形になっていた。

 

「では、星。先陣は任せた」

 

「疾く、参ることに致します。そちら様に、負けたくはありませんしな」

 

不敵に笑ってから悠々と馬を駆けさせていく趙雲は、馬上でちらりと華雄を一瞥してから手勢を率いて敵に戦を仕掛ける。

 

これにより、自分たちが仕掛けることになると思って疑っていなかった李傕・郭汜軍は虚を突かれる形になった。

だが、この二人も馬鹿ではない。可能性があることに対しては一応の警戒をしていたし、無かったとはいえ夜襲にも慎重過ぎる程に対策を施している。

 

趙雲と言う非凡な指揮官であり、同数であったとしてもそう容易くは抜けないような防御陣を敷き直し、李傕・郭汜は己の軍の特徴である騎馬による機動力と突破力を殺してまで完璧に近い防衛陣を構築していた。

 

「これはこれは、大層な物を」

 

趙雲はその堅さに苦笑しつつ、被害が出ない程度の波状攻撃を仕掛けては退き、仕掛けては退く。

 

呂布が与えた恐怖が尋常ではないということを、これほど見事な形で表されては釣るのも苦労する。

 

釣らないで良い、と言われてなければ相当頭を悩ませていたことだろう。

 

(まあ、釣らねばならないわけではないのだから気楽なものだ)

 

機敏に仕掛け、サッと退く。

それを繰り返しながら、趙雲は敵を引き込まない程度に巧く、釣らない程度に下手に撤退を完遂させた。

 

次は、呂布の番である。




先発:趙雲
中継ぎ:張郃
抑え:華雄

恋は先発完投型。投手にするとこんな感じですね。


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合撃

今回のテーマ:分進合撃による包囲殲滅


李傕・郭汜の連合軍に呂布が与えた恐怖と言うものを、李師は過少に見積もっていた。

これに関しては『読み切れないとは珍しい。案外抜けている』とも言えるし、『実際に相対して初めてわかることだ』とも言える。

 

この場合の前者は彼の敵となり、まだ呂布との対戦経験がない龐統がこれにあたり、後者は李師の管制下におかれた呂布による突撃という恐怖体験を味わった曹操や荀彧、夏侯淵などがこれにあたるだろう。

 

とにかく、李師は檀石槐の突撃の恐ろしさは知っていても呂布の突撃の恐ろしさは知らなかった。

この二人の突撃の恐ろしさは殆ど等号で結んでも良いものであったが、李師からすれば呂布は可愛い娘でしかない。

 

戦場には出るし、最前線にも出る。しかし、刀槍は振るえないし弓も引けないから指揮に専念する、というのが李師のスタンスである。

 

本人としては、味方を効率的に殺して敵を破るという職業上、刀槍が振るわれ、流れ矢が飛び交うところに出るべきだという自覚があった。

が、それは流石に自重していた。

 

自衛能力が欠如している男が前線に来られても足を引っ張るだけだし、足を引っ張るならまだしも死ねば全軍が崩壊しかねない。

 

その感覚が、彼にはあった。

これは彼に敵対する者にとっては、苦戦を招く原因となる。殺せば戦が勝ちで済む敵が分厚い障壁に守られているからである。

 

だが、しかし。

 

彼が戦死したりということが起こった後に、対象の生命活動が停止するまで活動を停止しない赤くて三倍な無双武将に執拗なストーキングをされることを考えれば、あながち不幸とも言えないのが敵対者たちの不幸だった。

 

閑話休題。

 

兎に角彼には、恐怖がわからない。というより、呂布を目にして怖いと思ったことがない。

呂布が反抗期に入れば即死レベルだと言う程の実力差がありながら、その実力差が広大過ぎていまいちその凄さや怖さがわからない。

 

これは彼にとって今までプラスに働いてきたが、今回ばかりは読み違いを招いた。

 

「……何故通りかかっただけで崩れかけるんだ?」

 

「怖いからですよ」

 

貴重なツッコミ役である趙雲が前線に居る以上は、華雄が貴重な常識枠として振る舞うより他にない。

 

華雄はそもそも常識外の住人である趙雲がツッコミ役であることがおかしかったのだ、と思わないでもなかったが、彼女も充分に常識外の住人である。

 

いつものように、見えないところでブーメランが華麗に宙を舞っていた。

 

「怖い?」

 

左眉を顰めて首を傾げ、李師は本気で訝しむ。

呂布が突っ込んでくるのは、彼にとって仔犬がじゃれついてくる程度の恐怖しかない。つまり、その行動に恐怖などはないと言ってもよい。

 

「何が?」

 

故に、李師はまるで理解できないような体で華雄に問うた。

騎馬隊が突っ込んでくるのは怖い。後方で指示をしている自分でも怯むのだから、前線で受け止める兵たちの恐怖ときたらその比ではないだろう。

 

だが、その恐怖を克服、あるいは呑み込んで戦うのが兵という職業である。彼はそんな兵という職業を好ましい目で見れなかったが、好ましくないだけで敬意はあった。

 

その敬意が、肩透かしを喰らった気分である。

もっとも、肩透かしを喰らっても嫌悪はない。むしろ、それが人として当然だという、当然なものを見たような納得があった。

 

「呂布の突撃は怖いですよ。実際喰らってみると、なおわかるとは思いますが」

 

見ているだけでも通じてくるものがある、と言いたいのだろう。

突撃専門の将である華雄が言うと、何やら説得力があった。

 

「誰に似ている?」

 

「理不尽さは檀石槐に。精妙さは李師様に」

 

なるほどなぁ、と理解できるところもある。

李師が思わず黙ってしまう程に華雄の説明は妥当であり、よくよく見ればそれに似ていた。

 

可愛い娘でしかない、という個人の感覚に囚われていたが、檀石槐の突撃を強かに喰らい続け、受け流し続けた李師としては『檀石槐に理不尽さが似ている』と言われるのが一番理解が及ぶ。

 

恐怖と、畏怖。檀石槐の突撃にはあれには敵わない、と思わせるものがあった。

 

「…………深いね、君の評は」

 

「はい?」

 

「いや、何でもない」

 

華雄としては、深いと言われた理由がわからない。見たままを言っただけだからである。

 

だが、見たままを言われたとわかっているだけに、李師には感じ入るものがあった。

直線的な評価には、屈折した玄妙さが潜む。

 

理屈というものが屈折しているならば、真実も屈折としている。

しかし、真理はつねに直線的なのだ。

 

到底戦の最中に考えることではないが、彼は何やら思うことがあった。

 

逆に言えば、である。

この戦の序盤はそんな風に彼が己の内面に己の思考を埋没させても対処し切れるほどに内容というものが薄かった。

 

薄くした、と言うのが正しい。

が、敵も敵で様子見に徹するようなところがあった。李師という不敗の将の名声が、西涼出身の単純な猛将たちに無用なしがらみを与えている。

 

李傕と郭汜からすれば、汜水関で大軍を寡兵で鮮やかに破った彼の魔術を見ていた。そしてこの二人も、その時は勇戦した。

 

董卓の為でも漢の為でもなく、ただ西涼が得た権力の保全の為に。

 

だからこそ、わかっている。

李師が何も考えないで寡兵で野戦を挑んでくるとは考えられない、と。

 

ならば余計な小細工をせずに、正攻法で攻めろと言う意見もあった。

だが、李傕と郭汜は正攻法で攻めて敗けた袁紹という先例を知っている。そう軽々と攻め手に打って出ることができない。

 

「おかしいな。全く動かないというのは」

 

「悪い方向の読みが当たりませんね」

 

「うん。二回繰り返せば流石に乗ってくると思ってたんだけどね」

 

流石に疲れたのか、或いは飽きたのか。

緊張が持続しない猛将タイプの華雄は、床几にペタリと腰掛けて首を捻る。

 

悪い方向の読みが当たらず、良い方向に進んでいる。

これまで楽な戦を経験していない李師としては、これはいっそ不気味にすら思えた。

 

「主。よろしいか?」

 

訪ねてきたのは、これから敵陣に三度目の挑発を仕掛ける予定の趙雲。字は子龍。真名は星。

 

李師が様々な場面で起点にしてくる李家軍でも屈指の曲者であり、屈指の良将でもあった。

その用兵は攻防の柔軟性に富む、などと後世評されることになる。

 

が、李師からは『あらゆる場面で使えて、しかも目立った不得意がなく、失態もない。例え劣勢になり敗けたとしても、次の策に敵を引き摺り込める』と褒められた。

要は使い勝手のいい将なのである。どこで投入しても、まともに指揮系統が通じている間は攻めの起点にも守りの起点にもできる。

 

潰されると痛いが、潰される前に逃げるので完全に潰されることがない。

趙雲の有能さと使い勝手の良さに胡座をかくと足元を掬われるかもしれないため、李師はそこまでは頼らなかった。

 

彼としては、あくまで起点となる武将の一人である。

 

「やぁ。私の読みも衰えたと思わないかい?」

 

「引退はなりませんぞ」

 

「あぁ、そう。で、何用かな?」

 

趙雲は、李師を見た。

少し、違和感がある。この男に限って手を抜いたということはない。

 

つまり、何をしようとしているのではないかという懸念がある。

この懸念は、彼が凡将ならば疑念になるが、経歴上も実質的にも不敗であるから懸念で収まる。それどころか、何をする気かわからないという楽しみがあった。

 

「……何をなさるつもりかはわかりませぬが、三回目の挑発に掛かりますか?」

 

「いや。今度はわざと引きつけてくれ」

 

「と言われると?」

 

「つまり、釣ろうとしてくれ。釣れなかったら引き返して更に釣ろうとしてくれ。もういい時間だし、これをすれば、おそらくは勝てる」

 

釣り出したから、勝てるというものではない。釣り出してもその釣り出した一部から全面攻勢を招いて波に飲み込まれるが如く敗ける、ということもあり得た。

 

だが、この釣りの名手であり、その効果と限界を知っている男が勝てると言うのだ。

 

「では、やりましょう」

 

「苦労をかけるね」

 

「ならばいずれ、形で報いてくだされ」

 

李師が『私自ら下車し、君の手をとって迎えたら充分かな』などと訊き、趙雲が『帝王になったあなたにならば、是非そうされたいものですな』などと返す。

 

つまるところはいつもの会話を交わしながら、二人は別れた。

 

趙雲の兵が機敏に敵陣を強襲し、わずかに蹴散らしてすぐに退く。

 

今まで繰り返されてきた行動を仕掛け、趙雲はわざと疲れを見せたように反応を鈍化させた。

それに食い付いた前線の部隊を釣り出し、趙雲は更に退く。

 

釣り出せた部隊が帰れば、追撃する。

 

「手加減はしてやるから、本気でかかってこられよ」

 

本当に彼女がそう敵に向かって言ったのかは定かではないが、この時の戦いぶりはまさにそうであった。

 

かかっては退き、かかっては退く。

敵の鼻先を引っ掻いて逃げ、後ろを見せたら蹴りを入れる。

 

異様な苛つきを与えるこの戦法に関しては、趙雲はこの世で他の追随を許さぬ程に巧みだった。

性格と能力が噛み合っているとしか言いようがない強さが、彼女にはある。

 

「そら、追え!」

 

退けば叩き、掛かれば退く。

敵の動きに合わせた巧妙な用兵に、李傕と郭汜も苛立ちを隠せなかった。

 

と言うよりも、この二人は当事者ではないから耐えていた。だが、前線の将たちの針でつつかれ続けた神経が、既に限界を迎えようとしていたのである。

 

「そろそろ、でしょうなぁ」

 

心の底から意地の悪い笑みを浮かべ、趙雲は指揮杖代わりの槍を振った。

 

僅かに深追いし、釣りだす。

退き、叩く。

 

その行動を繰り返そうとし、趙雲は敵の動きを読み切った指示を下した。

 

敵はこちらの動きを読んでいる。攻勢に出てくることは間違いがない。敵の背を追えば、後続が側面に出てきて半包囲されることは間違いがない。

ならば、そうされよう。そうされて、逃げる。そして敵の攻勢を招く。

 

李師の本陣に敵が迫ることになるが、それくらいは計算していよう。

 

「さて、逃走開始と洒落込みますかな」

 

包囲された瞬間、趙雲は馬首を返して一目散に引き返した。

その本気の逃走に釣られ、雪崩れを打つようにして李傕・郭汜の連合軍は追撃を開始する。

 

李傕と郭汜は李師の不動を促す心理的陥穽へ、その兵と配下の指揮官たちも李師の攻撃誘発の心理的陥穽に嵌っていた。

 

彼の八手読みは僅かな嬉しい誤算を招いたものの、だいたい巧く行っていると言って良いだろう。

そんなことは、彼ともう一人、さらにあと一人にしかわからない。

 

その『もう一人』が、悠々と馬に鞭を打って潼関方面より進撃していた。

 

「軍団を三方に分けて、分進合撃による包囲殲滅。広大な戦略だが、成功率が指揮官個人の指揮能力に依存しているな、これは」

 

「秋蘭様、そんな悠長に喋っている場合ではないと思うのですが……」

 

「だが、戦術的には指揮官個人の指揮能力に依存した作戦を立てない仲珞が、戦略となると変わる。これは私としては興味深い」

 

ともすれば各個撃破の対象となりかねない。

李師が全面攻勢を招き、その攻勢をさらりさらりと凌いでいる。

 

自軍からすればこのような場合は寧ろ不意をつきやすい。しかし、誰もが寡兵でこの大軍の攻勢を凌げるわけではない。

 

(敵が有能で仲珞が無能ならば、私たちは逆に強襲されているかもしれん。まあ、そうさせなかったのが仲珞の腕なのだろうがな)

 

そんなことを思いつつ、夏侯淵は鏑矢を番えた矢を引き絞る。

 

一瞬の後のための後、遙か前方に向けて、放った。

 

『攻撃開始』

 

その命令を示す音を鏑矢が鳴る。

 

「君にしては遅かったな、妙才」

 

「持ち堪えると踏んだからこそだぞ、仲珞」

 

互いの声は聴こえずとも、何となくこの二人の間には通じていた。

 

三軍包囲の二軍目。

 

半包囲態勢をとるべく、李師と夏侯淵は翼を巧妙に拡げはじめた。




原作は違いますが軍記物としては似たような新作も投稿致しました。
そちらも読んでいただけると幸いです。


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包囲

二方面からの包囲を受けた現時点において、李傕と郭汜はようやく自分たちが時間稼ぎに踊らされていたことを自覚した。

今まで薄々と感じながら、呂布という間近の恐怖に囚われるあまり気づけなかったことに、包囲という恐怖に殴りつけられたことによって気づかされたのである。

 

だが、その自覚は些か以上に遅かったと言わざるを得ない。

戦場で包囲を担当していた夏侯淵と李師が言葉にしなかったそれを、とどめとばかりに来襲した三番目の軍の指揮官が思わずと言った形で口にした。

 

「無能者ね、反応が鈍いわ」

 

天に靡く曹の一文字。

配下の二将が完成させた器に蓋を被せるように、曹孟徳は翼を広げた。

 

これを見て、李師は勝利を確信した。この状態から引っくり返すのは、如何な名将でも不可能であろう。

李師は包囲網を縦に拡げつつ、華雄に出撃を命じた。

 

実質、包囲網の中にあって脱出すべく獣の如く暴れている敵に対して、これがトドメとなるはずである。

 

「味方は完璧な包囲網を完成させつつあります。どうやら、勝ちましたようで」

 

それに入れ替わるように、開戦より今まで延々と戦い続けていた趙雲隊が李師の本陣の直衛に入った。

 

趙雲は、戦況の報告と直衛に入る旨を伝えに来た、という形である。

 

「これで私がヘマをしても、中華でも三指に入る戦術家の二人が何とかしてくれる。やっていることは不快だが、仕事が楽になるのはいいことだ」

 

「ヘマをしてみますか?」

 

適確な指揮で包囲を維持し、縮めることで敵を追い込んでいく。

鮮やかすぎる包囲戦に瞠目しながら、趙雲はいたずらっぽく眉を顰めてそう問うた。

 

ここで包囲網を崩してしまえば、面白いことになる。つまるところ、李家軍以外の一軍に内部で暴れている西涼兵たちの破壊力を叩きつけてやれば、思わぬ波乱が起こりうるであろう。

「しないつもりだけどね」

 

その返事を受けて意を翻し、趙雲は己の問いの受け取り方を変えれば、その意味の取れる問いに誘導させた。

現時点においてゴリ押す気は、彼女にもない。

 

しないつもり、と言う返答は、彼がその誘導に引っかからなかったことを示していた。

 

「いや、そうではなく」

 

日常生活に於いてならばともかく、戦場で指揮権を握っているあなたにヘマと言うものがあるのか。

やるのか、ということではなく、あるのか、という問いのつもりにする。

 

それを受けて少し笑った李師の眼は、やはり侮れない。

侮ったこともないが、そのことを再認識しつつ趙雲は釣られて僅かに笑った。

 

だが、それを言っても恐らくこの男は謙遜をする。

そのことをわかっている趙雲は、一時的に口を噤んで前方を見やった。

 

「それにしても、呂布はよくやっているのではないですかな。戦い方は鮮やか、何よりも隙がありません」

 

「まあ、そうかな」

 

恋はよくやる。

そのことは、李師にはわかっていた。

その戦いぶりには趙雲が評したように鮮やか且つ隙がない、何よりも敵を死なせないで敵を最大限無力化するという手腕に長けている。

 

攻は己の武勇を活かし、防は己の指揮能力を活かして戦っているあたり、優秀な将であると言えた。

 

「君は恋を見て、どう思う?」

 

「李家軍の後継者として、充分な能力だと思いますが」

 

「能力、ね」

 

地雷を踏んだかな、という感覚がある。

趙雲はその踏んだ箇所はわからないものの、踏んだことはわかっていた。

 

「まだ、不足ですかな?」

 

「いや、有り過ぎる。強すぎるんだ」

 

恋は、強すぎる。

李師は心の中でそう呟いた。

 

彼女には隙がある。が、秀でたところが複数あるが故にその致命傷を隠せてしまう。

 

指揮能力も武力も、呂布という存在を構成するに不可欠な要素なのだ。

別に李師は殊更娘の美点を欠点とする気はないが、強すぎるとは思っていた。

 

「強すぎる、とは?」

 

「恋は武において並ぶ者が居ない。戦術家としても数年すれば私を越えるだろう。だから、傍から見たら強過ぎる。勿論、その強さに比例して弱いところもあるんだが、私にしか見せたことがないからね」

 

ため息をつくような語調である。

 

つまるところ、李家軍とは李師の強さと弱さのアンバランスさに惹かれ、支えてやろうという者達の成長によって力を増してきていた。

呂布は最初からその隙がない。弱さもあるが、それは李師にしか見せないのだから傍から察しようもない。

 

「本質的に孤独を好む型、だと?」

 

「と言うより、拒絶され続けてきたから拒絶されるのが怖いんだと思う。私は初めて恐れもしなかった肯定者で、同類でもあるから強みも弱みも見せてくれるが、他の人間にはそうもいっていないようだし」

 

自己承認欲求が弱く、依存性が高い、とでも言うのか。

自分の存在を支え、肯定してくれた人間にどっぷり漬かって、最終的には盲目的になってしまうようなところがある。

 

その盲目の果てに何があるのかを考えず、その承認してくれた存在に一途に尽くす。それは賞すべき一途さと言えないこともないが、呂布の場合はその果てに自分の破滅や他者の破滅があろうが構わず驀進してしまえるところに危うさと危険性がある。

 

依存性が高い人間は『依存している人間』と『自分』以外どうでもいい、と考えがちだが、呂布の場合は『依存している人間』さえ無事なら何であろうがやってしまいそうなところがある。

 

「恋は、義父離れができていない」

 

そう結論づけ、李師は戦とは別なことに頭を悩ませ始めた。

 

「それにしては、盲目的ではありませんな」

 

「私が堕落したらそれは私ではないんだよ、と言っているからね。それでも依存している感じは隠し切れていないけど、諌めてはくれている」

 

李師と呂布の関係を李師側から見れば、依存を解くにはどうすればいいのか、という題目にここ八年間挑戦し続け、敗れつつけるだけの人生である。

 

「どうすればいいかな」

 

「否定しまえばよろしいのでは、とも思いますが……」

 

趙雲には、先のことが容易に見えた。

まず、何故捨てられたかを後ろからとことこと必死について回って訊こうとするだろう。

 

それが駄目となれば、捨てられた仔犬のようにどうすればいいのかわからなくなって、無茶に無茶を重ねる。

 

無茶に無茶を重ねても死なないから、どんどんその無茶はエスカレートし、結果的に何が起こるかはわからない。

 

ともかく、依存を一方的に断ち切ってもすぐに別な依代を探せる程に呂布が器用でも移り気でもない以上、切るのは得策とは言えなかった。

 

「駄目でしょうな」

 

「だろうね。だから困ってる。と言うより、一度しようと思って本人に言ってみたんだよ。

結果的には捨てられた仔犬のような戸惑った目を向けられて、私にはできないことがはっきりした」

 

「あれですな。攻撃力も防御力も桁外れなのにも関わらず、全くこちらに害を及ぼさずに全自動で敵を殺し、身を守ってくれるのです。外すことができないことくらい我慢しなされ」

 

「人の娘をそんな物騒なものに例えないでくれるかな。それに、別に我慢ってほどのこともないんだよ?」

 

「我慢云々はともかく、あってると思いますがね」

 

話しながらも、指揮能力は全く衰えない。

華雄が敵を真っ二つに引き裂いているのを眺め、その半分に射撃を集中させる。

 

まるで軍が己の手足の延長であるがごとく操る李師は、とても頭の中で娘の将来を案じている父親であるとは思えなかった。

 

「勝ちましたな」

 

念を押し、もはや決定的となった勝利を、趙雲は敢えて口に出す。

味方の軍を使ったとはいえ、李師が目の前のことに拘泥することなく広域で作戦を練って戦えるということを発見したのは、趙雲にとっての楽しみが増えたことを示していた。

 

「……そうだねぇ」

 

相変わらず、憮然としている。

 

これほど見事に、鮮やかに勝っておきながら、全く嬉しさや達成感をあらわにしない男も珍しい。

 

人を殺すという事に対する嫌悪感に、その類いの達成感が勝てないからこんな微妙な表情になっているのだろう。

作戦を立てるときは嬉々としているあたり、戦術家としてありがちな芸術家気質であることは間違いない。

 

自分の作品を作ることには無心と才能の限りを尽くすことができるが、その作品が他人に害を及ぼすということを感じると自己嫌悪に陥ってしまう。

 

(面白い方だ)

 

憮然としている体を勝利が決定し、過去の勝利となる最後まで憮然とした面持ちを崩さない李師の顔を見て、趙雲は槍を肩に担いで笑っていた。

 

奇妙な人間というものは、同じく奇妙な性格をした誰かしらに好かれる傾向にあるらしい。

 

そんなブーメランなことを、趙雲は茶を飲んでいる李師の顔を見ながら考えている。

このブーメランな気質はどうしようもないが、それにしても見事過ぎるほどに己の手元に返ってきていた。

 

「主も、ほとほと面倒くさい性格をしておりますな」

 

「君ほどじゃあないさ」

 

潰走していく敵の追撃を許可することを求めた華雄にそれを任せ、彼はさっさと翼を広げた軍を縮めて集結させる。

まだ油断はしていないことが、この一動作にも表れていた。



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約束

六十話くらい前の伏線?回収。


珍しく、奴が居る。

そんな奇異の目で見られつつ、李師は論功行賞の場に居合わせていた。

 

一般的に、将とは己の功績や武勇、武略といったものを喧伝する。

喧伝しなければ正当に評価されないこともあるし、喧伝することで更に重く評価されることすらあった。

 

故に、各地から異色の人材を集めた曹操軍は特にこの傾向が強い。各員が他の才気溢れる同僚を出し抜こうとして切磋琢磨しているので、そうせざるを得ないのである。

 

李師は、宛城周辺での兵站切断作戦の成功、荊州勢力との交戦においての勝利、宛という前線基地の確保と言う三功を挙げ、その傑出した軍事的才能を示した。

曹操軍の諸将には、彼に対して二種類を抱いている。

 

畏敬と、疑念。

前者は主に李師と対戦してノックアウトを喰らったものに多く、後者は外見の冴えなさや曹操の厚遇に対して不満を抱く者たちだった。

 

後者の内の後者―――つまり、厚遇に対して不満を抱いていた者の内で『実力と待遇が相応しいか』と訝しんでいた者はこれら三つの功績でその侮りを修正したのだが、『降伏してきたくせに』という感情論に支配されている者は、依然不満を抱いている。

 

これは曹操が易京を巡っての攻防戦で敗けを認め、『勝者を裁く権利を敗者は持たない』として所領を安堵した上に公孫瓚が与えていた権利や権限を更に拡大して与えてしまったことも原因だと言えた。

 

この空気を察した李師は、彼に好意的な諸将―――曹一族では曹昂や曹洪、夏侯一族では夏侯淵、夏侯衡、夏侯覇、夏侯称、夏侯威、夏侯栄、夏侯恵、夏侯和、有力諸将では楽進、李典―――に断りを入れ、この三つの功績を放棄した。

 

ただ指示を下していただけの私に褒賞は要りません。ですが、血を流し、痛みを感じながらも敢闘勇戦した兵士にはどうぞ区別無く褒賞を払っていただきたい、と言った。

 

この提言を容れ、曹操は李家軍の兵へ存分に報いた。

その上で、曹昂を補佐して宛周辺を鎮定した功をして加増か財貨かのどちらかを良ければ受け取って欲しい、と自ら訪ねて述べたのである。

 

これに珍しく仰天した李師は、一先ず財貨を受け取り、ほとぼりが冷めてからこれを全て曹昂と、自分と同じく彼女を支えていた与力の将たる曹洪に渡してしまった。

 

そのようなこともあり、結局李師は自分の指揮で勝っておきながらその報酬を求めない男として著名だと言えるようになった。所謂名物男となったのである。

 

この謙虚さと身内を立ててくれる性格には曹操も更に評価を高め、その軍才だけで重用しようとした己を戒めていた。

 

才能があれば、他はどうでも良いから重く用いる。

 

これが彼女の基本スタンスであったが、それは『才能だけ見て性格を見ないということではない』、と再自覚をしたのだ。

 

結果、曹操は李師という男を軍才に於いても人格面においても信任していた。

兎に角清廉潔白で、嘘が無い。欲も少ないから曲がることもない。

 

人物鑑定に優れた曹操が下した評価は、好意的とは言え概ね合っているものだった。

清廉潔白と言うよりも脱俗願望があり、嘘が無いと言うよりも嘘が嫌いで、欲が少ないと言うよりは権力欲や財宝に対する欲がない。

 

彼の欲は、茶を飲むことにだけ向いていた。

 

「文和」

 

「何よ」

 

今回のお供は、賈駆だけである。

曹操は、護衛たる呂布はこう言った場でも李師といる時は武器を持ち込んでいいと許可を出しているが、李師はそこまで特別扱いを甘受する気にはなれていない。

 

故に、政治的なブレーンである賈駆以外、同行を許さなかった。

天井裏には誰かが居るかもしれない、と思わないでも無かったが。

 

「何か、変な目で見られている気がするんだけど」

 

「当たり前でしょう?」

 

こう言った場に顔を出しても、最も遅く来て早く帰ることに定評があった男が、まんなかくらいの速さで来ているのだから。

 

その辺りを言外に匂わせつつ、賈駆は辺りを油断なく伺っていた。

別に何があるとは思えないが、悪意や政治的陥穽に極端に弱いこの男が、そういった視線に気づかない以上、賈駆が二人分気を張るしか無い。

 

武闘派が多い李家軍の幹部で、政治的センスがあるのは賈駆と、後はとにかく抜け目がない趙雲くらいなものである。

流してでも読みさえすれば絶対に忘れることが無いという変わった特技を持つ費禕は謀略と言うより、民政と広域支配のプロだった。

 

李家軍が経営する育成機関でも、賈駆に比肩しうるのは殷裔と呼ばれている司馬家の次女くらいなもので、民政家と武闘派が多い。

 

多すぎて中堅指揮官をこなせる者を下士官止まりにしてしまう。

この辺りの活用も考えなければならないのが、賈駆の辛いところだった。

 

「珍しいな、仲珞。俄に欲しい物でもできたか?」

 

「嫌だな、知ってるくせに」

 

「それもそうだ。だが、その服は恐ろしく似合わんな」

 

「わかってるさ。言わないでおくのも、優しさだよ?」

 

相変わらず仲が良い二人が他の将を眼中にすら入れずに冗談口を叩きあっている間も、賈駆の頭と精神は休まらない。

 

『李師の所為で致命的に寿命が縮まることはなく、李師の所為で寿命が縮んだ』と、後世憐憫を込めて愛されるこの貴重な政治におけるブレーンは、あと七十五年生きることができる程度の寿命を二年ほど擂り潰して今を生きていた。

 

結果的に晩年はなんの病気にもかかることなく、八十六歳で大往生を遂げる賈駆は、ここに来るまでは九十五歳まで生きることができるはずだった。

 

来て早々、二年縮むことが確定してしまったのだが。

 

「それにしても、だらしないな。帽子を取れ、裾を垂らすな。衿をずらすな。仕方ない奴だ」

 

「いやぁ……前はよく着てたからうまく着れたんだけどね」

 

「嘘をつくな。

ほら、終わった。派手に動くなよ」

 

何だかんだで慣れない李師の世話を焼いてくれる夏侯淵にその辺りを委任してしまいながら、賈駆は一つ安堵した。

呆れながらも笑っているあたり、世話するのが満更でもないらしい。と言うよりも、満更でもなければ世話などしないだろう。

 

シンプルだからこそ美しい黒い礼服を着こなす夏侯淵を見ながら、賈駆は己も帽子を取りつつ安堵した。

くしゃっと潰せば何処にでも容れることができる李師の布帽子とは違い、箱のような帽子を被っている賈駆としては、収納先に困らざるを得ない。

 

因みに趙雲も、布帽子に近い。色も形もかなり違うが、収納先に困らないという点では合致していた。

 

取り敢えず片手に抱え、賈駆は独自に動き出す。

と言うよりも、このような社交の場では政略や派閥抗争の常になることが多かった。

 

そのことを全く理解していない男と、理解していて『浅ましい』と冷笑しつつ放置している女が政略の欠片もない雑談に精を出している間も、彼女としては休むわけにはいかない。

 

興味がなかろうが浅ましかろうが、生死を左右しかねない出来事が会話の端に登っているかもしれないのである。

 

ブレーンとしてはそうやすやすと見逃すわけにもいかないし、聴き逃すわけにもいかなかった。

 

どんな勢力にも派閥、と言うものがある。どんなに一枚岩であっても、人が感情と向上心を持つ以上は、自然とできる。

 

その派閥の構成と所属員を、賈駆は秀でた記憶力と卓越した整理の巧さでほぼほぼ正確に頭に入れていた。

 

夏侯惇や荀彧は、無所属。

于禁・楽進・李典の三羽烏による中立派閥と、程昱・郭嘉・陳宮等の河内派閥。鍾会などの若手を中心とした急進派閥に、現在最大勢力のまま独走中の夏侯淵派閥。

 

若手以外は自然とできた形になり、若手は自然とできた派閥に抗する為に形成されている。

 

李家軍は趙雲が個人の友誼から河内派閥に近く、李師が個人の友誼から中立派閥と夏侯淵派閥に近い。

 

曹操が軍機構をそのまま取り込んだ為に生まれた第五の勢力は、張遼の指揮する一軍団と李家軍の指揮する一軍団だけであり、勢力としては小さい。

が、曹操軍を現存する所属員だけで撃退してのけたことからも粒揃いであることは、誰が見ても明らかであろう。

 

夏侯淵も楽進も、そこそこ派閥と言うものがあることくらいは意識している。

そして、李師が政治音痴だということも知っていた。

 

なので、どちらも示し合わせたように取り込もうとしない。取れば派閥のバランスが崩壊しかねないからである。

 

それは各員が円卓を囲んで座り、卓上に置かれたナイフに手を伸ばしかねている光景に似ていた。

要は、現状維持を良しとしたのである。

 

「若手は、元気でいい」

 

「君と二、三しか変わらないだろうに」

 

「だが、あそこまで声高に功を誇るほどではない」

 

冷笑して、夏侯淵はわざと聴こえるようにそうこぼした。

 

浅ましい、と思う。

と言うよりも、あそこまで打算有りげに『私はこれこれこういう風に戦い、勝ちました』などと言われては、興醒めする。

 

結果を出してそれを喜ぶのは良いが、誇るのは浅ましいという感情が勝つ。

 

「だがまあ、若いと言うのは自身の行いを華麗に見つめたい、という願望があるということだからね。見せるべき花や実も無く、枯れていないのはいいことさ」

 

その辺りを察し、李師は頭を掻きながら若手の為に弁護をした。

 

彼自身は功という花も実も付けたいとは思わないが、他者への弁護と自己の意見は別にする傾向にある。

今回も、その癖が先行していた。

 

夏侯淵は、思った。

枯れているならば花も開いたということだし、実も付けたということである。が、蕾の内に花として見せ、青い内に実をつむげば、枯れているよりもなお、質が悪い。枯れるまでに為すことも全て、中途半端だということなのだから。

 

その辺りを察し、李師は夏侯淵の手を掴んで耳を近づけ、囁いた。

 

「枯れているなら花も実も付けて己の役目を完遂したということになるが、蕾の内に花と偽り、青いままで実と偽ればなお悪い。中途半端がより悪しきこと、とでも思ってるんじゃないのかな、妙才」

 

「サトリ妖怪には隠しだてできんか」

 

「八割は、君の性格を分析して推理しただけだけどね。種も仕掛けもあり過ぎる程にある」

 

「なら、私が次に言いたいこともわかっているだろう」

 

不言実行が、最も良いとは言わない。有言実行も良い。

だが、声高に叫ぶことで自らの功の小ささを糊塗することは恥ずべきことだ。

 

本当にやることをやれば、黙っていようが自然と周りは頭を下げるし評価する。

評価されていないし、されないという自覚があるから、声高に叫ぶ。

 

声を上げる体力があるならば、兵書を読め。

言葉を紡ぐ頭があるならば、戦を振り返れ。

 

「言いたいことは、こうだろう」

 

「そうだ。私は才能ではお前や華琳様には一段劣るが、そうすることで埋めてきたのだからな」

 

あまり自己評価を高く見積もらない質の夏侯淵としては、大して努力もせずに己を立てようとする人間を見ると冷笑を禁じ得ない。

 

何事も曹操という天才に一枚劣る自分自身に冷笑を向け、切磋琢磨して軍才を磨いてきた夏侯淵としては、天才よりもなお侮蔑の対象となっていた。

 

「誰もが君になれる訳じゃないさ」

 

「当たり前だ。私は華琳様には一段劣るが、あれよりは上という自覚がある。要は、気構えの問題だ」

 

呂布は、何もしないでも生きている中でコツを掴み、能力に加算していくことのできる天才。

曹操と夏侯淵は、研鑽と勉学によって己の才能を錬磨させ、一寸の無駄もなく能力に換えていく天才。

 

そう定義していた李師としては、夏侯淵の自己評価に首を傾げるところがある。

 

が、努力と研鑽で己を磨いてきた型の人間からすれば、ともすればあの光景は不快に見えるのかもしれなかった。

 

若手の論功行賞が終わり、幹部格へのそれへと至る。

最後に声を掛けられたのは、他に漏れないようにと小声で会話していたこの二人であった。

 

「李師。貴方がこの場に居合わせるのは珍しいわね」

 

やはり驚くのか、少し目を見開き、すぐに戻して曹操は忌憚のない感想を口にする。

 

これは、本当に珍しい。何か無心でもあるのかと身構えるような気もするが、やっと欲を出したかということが嬉しくもあった。

 

曹操としては、夏侯淵と李師とを両翼にして統一事業を進めていきたい。

その両翼が仲が良いのは嬉しいことだったが、ひとつ問題がある。

 

それは、李師の動員兵力が明らかに少なく、格も低いことだった。

彼は降将だったから、諸将の格付けで見れば六位か七位。一方面軍を任せることができない。

 

強権発動で無理矢理引き上げても良かったが、本人が権力を嫌っているならばどうなのか、と言う悩みもある。

 

ここで何らかの要求をしてくれれば、その引き上げが強権発動という形を取らずに済むのだ。

 

「あー、いや、その……すみません」

 

「あぁ、皮肉ではないわよ?」

 

明らかに済まなそうに後ろ頭を掻きながら頭を下げる李師に、曹操は鷹揚に対応する。

 

勝者には敬意を、と言うのが曹操のスタンスである以上、蔑ろにしたりするなどは以ての外だった。

 

「さて、求める物があるから、ここに来た。そう捉えても、いいのかしら?」

 

「はい。無心と言うのは恥ずかしながら、約束事は果たそうと思っているので」

 

時は遡ることほぼ二年半前。

反董卓連合軍と言うものが結成された時、李師は賈駆・華雄・張遼に助力を頼まれたのである。

 

『董卓を守りたいので知恵を貸して欲しい』、と。

 

「それを、私は請け負いました。ですが結果を見れば、戦略的敗北を喫して果たせずに終わっています」

 

「なるほど。それで、無心の内容を聴きましょう」

 

一戦場では完膚無きまでに勝ったが、蜀軍が手薄な背後から来襲した為に、敗けた。

李師の預かり知らぬところで企まれ、無理矢理に関与させられ、そして終わった戦いである。

 

「無心は、一つです。私が今回の遠征で上げた功全てを以って、悪名を着せられた董仲頴と賈文和両名の汚名が偽りのものであったと、帝に述べていただきたい。その為の助力と政治工作を、お願い致します」

 

 

 

 




感想・評価いただければ幸いです。


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詠嘆

約束達成(八十一話ぶり二度目)


「無心は、一つです。私が今回の遠征で上げた功全てを以って、悪名を着せられた董仲頴と賈文和両名の汚名が偽りのものであったと、帝に述べていただきたい。その為の助力と政治工作を、お願い致します」

 

李師の無心に、思わずその場は静まり返った。

その内容の難しさも去ることながら、特殊性が目を引かせていたのである。

 

帝に奏上し、その間違いを認めさせ、糾す。

 

彼は弾劾者、と言うべきであろう。

帝の言葉は絶対であり、一度発せられた言葉は何があろうが覆されないのがこの世の常識というものだった。

 

その常識を『人は間違いをする』という常識と『虚偽は暴かれるべき』という常識によって打ち崩そうという無自覚な弾劾者に対して、曹操は内心舌を巻く。

 

李師の発言には一面からのものとは言え、理と義がある。

彼の言動からするに政治的な効果を考えてのものか、どうか。

 

つまり、帝に義と理で彩られた間違いを認めさせることによって、曹操は公然とその治世を批判できる。

 

今はその程度の物だが、自分が成り代わる時にはこの弾劾は切り札になり得た。

 

帝に明確な失政があり、各地では乱が起きている。

これだけでは―――否、これほどまでしても漢王朝は倒れない。

 

だが更に忠臣を己の身の可愛さに敵に売り渡した、とくればどうか。

 

徳がない、ということになる。

 

となれば、成り代わることもだった。

 

「それは、あなたと言う人間が持つ価値や意味を加味しての無心、ということでいいの?」

 

「何の功も名もない個人の言うことが、嘘を暴ける時代ではありません」

 

李師はこの問いを、己の名声や功績を擲ってでも、弾劾を続ける気かと言う問いであると見た。

曹操はその答えを、自分の天下統一事業においての至難の課題を今まで彼が積み上げてきた物を崩してまでも解く覚悟であると見た。

 

当初の問答では認識に僅かなすれ違いがあったものの、この期に及んで互いが互いの考えに気づいたため、致命ではない。

 

李師は自分が無い知恵を振りしぼって約一ヶ月かけて考えついた『曹操に結果的に損にならない、弾劾の仕方』という物を、ほんの数瞬で読み取ってきた曹操の卓抜とした政治センスに思わず納得してしまった。

 

政治音痴とは言え、誰が、何を考え、何を求めているか、という事柄を読むのは李師の得意とするところである。

その方面から政治にアクセスし、それなりに時間を掛けて考えた案を完璧に看破されたのは、それなりに驚いていた。

 

「わかった。やり遂げましょう」

 

「有り難く」

 

曹操の興味深げなど視線に何故か寒気を感じつつ、李師は一先ずその場を去った。

ここで『私は政治は門外漢です』と布石を打って置くのも良いが、そこまでやれば周りの顰蹙を買うことになろう。

 

だが、ここで無心した以上は大して変わりはしないのかもしれない。

 

李師が振り向こうとした瞬間、緑の閃光が彼の片袖を引いた。

 

賈駆である。

 

「ちょっと来なさい」

 

「えぇ?」

 

走らない程度に速く、賈駆はこれ以上問題を起こさない内に李師を回収したかった。

これ以上放置していれば、碌でもないことになるなと思ったのである。

 

「あんた、馬鹿なの!?」

 

「いや、自覚はあるけどね」

 

舞台で言う袖、会場の隅に連行し、賈駆はまずは問い詰めた。

嬉しい、という感情はある。しかし、その嬉しさと同等かそれ以上のリスクを李師が負うことを考えれば、そう悠長に喜んでいるわけにもいかなかった。

 

先ず、敵勢力に良いように言われる可能性がある。

最初に情報戦術でこちらを嵌めてきたのは向こうだ、というのは正しい。が、劉焉勢力には情報その正論を捻じ伏せるだけの力があった。

 

「まだこっちは情報の拡散では遅れを取ってるのよ。そうやすやすと正論を通せる状況じゃないわ。漢にとって、逆賊の汚名を着させられる日も近くなったの。わかる?」

 

「それはそうだけど、そうなれば漢を潰せばいいだけじゃないかな」

 

「……漢を?」

 

賈駆は、愕然とした。

漢とは彼女にとって―――と言うより、名士層にとって絶対的な存在である。

高祖劉邦によって建てられ、一旦徳を失って王莽に滅ぼされるも、光武帝劉秀が再興した奇跡の王朝。

 

四百年もの永きに渡って、続いている。

 

それを滅ぼすなど、賈駆の着想にはなかった。

 

「うん。そもそも、民を安んじられない王朝はその存在価値がない。元々、民に支えられた者が『徳』を得て王朝を建てたんだから、これは当然の帰結だと思うよ」

 

「……でも、それは、こう」

 

正しい。

が、常識を簡単に破壊されて素直かつ迅速にその新たな常識を受け入れることが出来るほど、賈駆は先進的な思想の持ち主では無かった。

 

「まあ、皆あらかたそういう反応をする。妙才も戸惑った」

 

「逆に、受け入れたのは誰なの?」

 

「恋と曹兗州―――じゃ、ないか。曹司空様だよ」

 

恋こと呂布は、李師の教育が脳髄にまで染み込んでいるような風がある。

既存概念というものを知らないし、漢にこだわりもない。むしろ『李師を幽閉した国』という恨みしかなかった。

 

ただの武神だった存在が、素の聡明さと優れた智性、視野の広さを備えようとしている。

そんな存在に羽化しようとしているだけに、呂布が恨み最優先で動いたら、手が付けられなくなるのだ。

 

物理的に頭を抑えることができる人間がそもそも片手に余るし、制御装置である李師も『無関係な人を巻き込むな』くらいな言葉を投げるだけで止める気が薄いとなると、本格的に決戦兵器が勝手に動き回るということになりかねない。

 

実際のところ、呂布は恨み最優先で動くことはないのはわかっている。

が、最悪を予想するのが賈駆の仕事だった。

 

「……永さは、尊いことではない?」

 

「永さは尊いことだ。質が伴えば、ね。例えばだが、天候が荒れ狂った時に生贄を差し出すと言う慣習が四百年続いたとして、それは尊い慣習だといえるのかい?」

 

「…………言えないわ」

 

「詭弁だが、そういうことさ。永さに質が伴えば尊ばれる。永さばかりで質が最低だから、私は壊してしまったほうが良いと思っているんだ」

 

「じゃあ、支えるのは?」

 

「徳がない帝を、徳がある臣下が、かな?」

 

歪だろう。

李師の言いたいところはそこだった。

それは曹操一代においてはいいかもしれない。彼女ならば支えられるだろうし、王朝の弊害を除けるだろう。

 

しかし、それは一代限りなのだ。

屋台骨までが腐った王朝に曹操と言う新たな屋台骨を献上しようとも、その屋台骨が朽ちると共に再び腐る。

 

李師は別に今すぐ潰せというような過激派ではないが、王朝という権威を無条件で信じられるほど質朴でもない。

どちらかと言うと、実害を受けているだけに漢王朝の治政というものを懐疑の目で見続けていた。

 

その辺りが周りの『尊い』という感情と噛み合わず、相対的に過激派のように見えるのである。

 

「……まあ、いいわ。ボクも使うだけ使われて見捨てられたクチだし、それほど拘る理由もないもの」

 

李師は黙っていた。

賈駆のその言葉がむしろ内に向かっての決別として放たれた言葉であり、自分に対しての決意表明ではないと、この男は察している。

 

読んで欲しい時にも、読んで欲しくない時にも人の心を目敏く読み取ってしまうのが李師という人物なだけに、この辺りの反応は名人と言ってよかった。

 

暫しの沈黙にも疑問を呈することなく、賈駆の心中整理に時間をくれてやったのである。

 

賈駆は心中整理を終えた後にこのことに気づいたが、それは李師が人心を読み取ることに長けているとわかっているからであって、その沈黙の不自然さからではなかった。

 

李師はその心中整理が終わる頃合いを見計らい、その場をふらりと後にしようとしている。

話が終わったからだと言わんばかりの、それは違和感のない挙措であった。

 

「うん?」

 

ぐいっと礼服の後ろ裾を掴まれ、李師は止まる。

武芸の拙さでは他の追随を赦さない李師には到底及ばないにせよ、ある程度は武芸が駄目な賈駆が後ろから来ていることくらいは、彼にも何とか察知できた。

 

「……ありがと」

 

止められた、と言うよりも止まったと言うような李師の停止を受け、賈駆はその背中から目を逸らしつつボソリと呟く。

 

心配してくれているからこそ諌めが先に来たが、賈駆は普通に善良な人物なのだ。

素直ではないが礼も言うし、感謝も示す。

 

「まあ、約束したからね」

 

「約束?」

 

賈駆は、訝しんだ。彼女は反董卓連合軍との対戦の終盤で、捕虜交換で袁紹等と換えられるまで李師と顔を合わせたことはない。

董卓共々氐族に捕らえられそうになった時に己は李仲珞の身内だと偽り、『私たちを殺した後、手厚く葬ってくれれば、我が家が必ず遺体を手厚く引き取ることでしょうね』と氐族を脅したことはあるが、約束をしたような記憶はなかった。

 

その疑念を知ってか知らずか、李師は少し後ろに向いた。

 

「君には理不尽な謗りを受けている董卓を救ってくれと頼まれた。華雄と張遼には智慧を貸してくれと言われた。まあ、私はそれを引き受けたわけだ。頷いた以上時効にはできないし、引き受けた以上無碍にはできないさ。

もっとも君の頼みに関しては、文体から読み取っただけだけど……どうかな。これで、果たしたことになるかい?」

 

「――――」

 

賈駆は、口をつぐむ。

と言うより、噤まざるを得なかった。

 

無償の善意は疑うべきである。

それが自然に備わっていたのが権謀家としての賈駆の資質であったはずだが、この時ばかりはその善意を疑うことはできなかった。

 

疑うことなら、できる。旧董卓軍という勢力を取り込むべく、董卓と賈駆という勢力の二頭を懐柔しようとしているのだと、思える。

 

彼は冀州に根拠地がある。更に陰から勢力を伸ばそうとし、并州の元締めであり、涼州にも隠然たる影響力を持つ勢力を取り込むことで、その基盤は一層確かなものになるだろう。

 

そう読めることも、わかっていた。

 

「……あんたは充分、果たしてくれたわ。これ以上、月とボクを引き立てようとするのは、やめなさい」

 

「そう言うならば、そうする。一応、その為の発言力も貯めておいたんだけどね」

 

今まで全く栄達を望んでいなかった李師の発言力は、大きい。しかも賈駆も董卓も民政家として無能とは程遠い人物なのだから、曹操は聴き入れたことだろう。

 

「やめなさい。あんた、余計な誤解を買うわよ」

 

「…………そうかな」

 

掴んだ裾は離さず、賈駆は乱れた心を整え直す。

 

賈駆は、善意に慣れていない。今回もその特徴がよくよく出ていた。

 

「あんた、馬鹿ね」

 

照れ隠しではなく、これは割りと本音に近い。

馬鹿にしているのではないが、限りなく本音であることだけは確かである。

 

「まあね。でも、君が居るからこそ馬鹿であってもいいんだと思うけど」

 

卑怯だ、と。賈駆は権謀家にはあるまじき感想を抱いた。

 

そんな台詞を吐かれ、信頼を剥き出しにされるのは、殺し文句と言うものだろう。

 

無自覚だから、更に一層質が悪い。

 

「そうよ」

 

「うん?」

 

「馬鹿でもいいわ。好きにやりなさい。ボクが何とかしてあげるから」

 

この時点で、賈駆はもはや腹を括らざるを得なかった。

ここまで誠実に約束を履行してもらい、信頼されては応えるより他にない。

 

それに何より、嫌ではない。

 

「これからも苦労かけるね。文和」

 

「詠」

 

「?」

 

「詠で、いいわ」

 

詠か、と。

少し困ったような、少し驚いたようないつもの声が耳朶を打つ。

 

やはり、嫌ではなかった。




百話ですね。これからもこの作品と他の作品を読んでいただければ、幸いです。

感想・評価いただければ嬉しいです。
次回の更新は未定です。一週間以内にはどれかが更新されるかなーと思いますが。


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因果

許してヒヤシンス(なお、話は進んでない模様)


李師はこの日、仕事が無かった。

特別扱いと言うか、特例と言うのか。彼は基本的に毎日詰める諸将とは違い、完全に休みの日が何日かある。

この日を設けた方が突然の失踪への対策ややる気の無さの解消になるのだと考えた曹操の発想は、あっていると言わざるを得なかった。

 

休日の彼の一日は昼からはじまる。それまでずっと寝ている。

ボーッと眼が覚め、寝る。この繰り返しで昼まで起きない。

 

ずん、と軽く身体が沈んだ。

痛くはないが少しくらいは眼が覚めるような衝撃に、彼はようやく目を開く。

 

「恋、おはよう」

 

「ん」

 

背丈では、李師がまだ勝っている。胸の辺りに頬を付けた愛娘に、李師はぼんやりと声をかけた。

 

恋は、もうとっくに起きていたらしい。それがわかったのは、彼が再び目を閉じ、少しして覚醒してからだった。

 

何故わかるかといえば、服である。戦争に行く時も街を歩く時も、恋は基本的に白と黒が縦にわけられた革の服を着ていた。

 

極薄の革鎧。表現するならばそれが一番的確であろうそれに、李師はしみじみ目を遣る。

脇から胸にかけての横の急所にまるで防備がないのが気になるが、これで今まで無傷なのだから何も言えない。言うほどの理屈も実績も、彼は持ち合わせていなかった。

 

「服、なんで着てるんだっけ」

 

「……嬰が褒めてくれたから」

 

聴き様によっては割りと危ない一言を漏らした養父の意思を正確に汲み取り、恋は少し考えて答えを出した。

何故この服をここまで着続けているかといえば、幼い頃に服を買ってきなさいとお金を渡され、適当に買ってきたものを着て見たら『可愛いねぇ』と言ってくれたからに他ならない。

 

後は成長に合わせて獲物を狩り、革を剥いで臭いを取り、色を染めて縫う。

かなり高等な技術を、その手先の器用さでこなしていた。

 

最近はキツくなることが多いため、この服は十代目である。

 

「うーん」

 

「……似合ってない?」

 

「いや、可愛いよ」

 

「ん」

 

猫がじゃれつくように、恋は褒められた嬉しさそのままに抱きしめた。

ぎゅーっと抱きしめ、頬を胸に擦り付ける。

 

飼い主に懐き切った小動物のような可愛さが、そこにはあった。

身体は既に女性として成長しつつあり、その身に秘めた力は虎や熊のそれだが、気性というか気質というか、その辺りが犬なのだろう。

 

ぼけーっと、真ん中の部分を飛ばした感じなことを考えながら、李師はピコピコと忙しなく揺れる触覚を避けるようにして頭を撫でた。

赤が強い中に、ほんのり混ぜられた紫がある。そんな色をしている髪は、気質そのままに柔らかい。

 

最近、特にこのじゃれつく傾向が強い。小さく、可愛い娘だから悪い気はしないが、少し心配にならざるを得ない。

それはつまり、この娘はこれからどうするのだろうか、ということである。

 

腐った国が死にかけ、新しい国が産まれようとしている。自分はその腐った国を建て直そうとするほど酔狂ではないから、その流れに従う。

 

現在その流れの旗手は、曹操だろう。だからと言うわけでもないが、現在自分はその流れの中に居る。

幸いにしてというべきか、不幸にしてというべきかわからないが、その旗手は自分の才能をお気に召したようで、今は一軍を率いてしまっているわけだ。

 

さて、終わったらどうなるのか。歴史曰く、狡兎死して走狗烹らると言う。

走狗になった覚えは無いが、まあ多分いずれ殺すか軍権を奪われるかして自分は無力化されるだろう。外様であるし。

 

鉄槌を下すのが曹操か、或いはその二代目かは知らないがその場合、まあそれは報いということで仕方ないとして、この娘はどうなるのか。

 

うーん、とここで悩まざるを得ない。自分には友が居るし、恐らく頼めばこの娘を預かり、庇護することを拒みはしないだろう。

だがまあ、それはなるべくやりたくない。火に油を注ぐようなもので、この一事でみすみす争いの種を撒きかねない。

 

なら、どうなるか。それはまだ思いついていない。

だが、取り敢えず今はぼんやりと生きていたいから、

 

「服でも買いに行こうか」

 

と言う話になった。

 

理由としては単純に、おしゃれに気を使ってほしい。

あと、流石にこの歳になって娘に竹簡と寝間着と服と武器しか買っていないのは、どうかと思う。

 

(いや、恋が何も言わなかったからね)

 

あと、定型文のように『別にいい』と言う。

自分で自分に言い訳をするが、別に何も言わなかったからといって自分が何も買ってやらなかったと言う事実は変わらないわけだった。

 

「……服?」

 

「うん、服」

 

「別に、いい」

 

「欲しくないのかい?」

 

「……折角の休みだから、嬰と一緒にいたい」

 

「うーん」

 

このおしゃれに対する無関心さ、どうなんだろうか。

 

趙雲が居れば『主がそれを言われますか』と言うであろう。

賈駆が居れば『あんた、まず自分から見直しなさいよ』と言うであろう。

周泰が居れば、少し困ったように笑って何も言わないだろう。

 

要は、似ている。基本的にどうでもいいやと思っているところが。

 

「恋は、今日何かしたいことでもあるの?」

 

「嬰と一緒にいたい」

 

「じゃあ、一緒に何したいの?」

 

「…………?」

 

妙に積極的な李師に違和感を覚えながら、恋は一つ首を傾げた。

 

「……お昼寝と、ごはん」

 

そりゃいつもやってることじゃないか、と彼は思う。

毎日、場所こそ違えど昼には寝ている。木の下なこともあれば、部屋で寝ることもある。寝た方が頭が切り替わっていいと言いながら、きっちりと終わらせる為、特に苦情は舞い込んできていなかった。

 

ようは結果を出せばいい。そんなある意味突き放したような環境は、能力はあっても真面目さと協調性に大きく欠ける彼にとってはなかなか居心地が良い。

恋は特に仕事は無いので、トコトコとどこにでもついてくる。護衛と言うような役割らしい。

 

(強いらしいからなぁ、恋は)

 

腕の中でピコピコと触覚を揺らし、撫でられて気持ちよさげに目を細めている恋が、強いらしい。

中々に刺激的な新情報である。そんなことは知らなかった。

 

そりゃまあ、一般的な兵よりは強いのだろうと思っていたし、だから戦場に出したのだが。

 

「恋は、欲が無いね。欲しいものはないの?」

 

「嬰」

 

「はいはい」

 

間髪入れずに返ってきた答えに、李師は思わず苦笑する。

相変わらず、親離れができていない。雛の意識のまま、成長してしまった。

 

(子供なんか育てたことなんて無かったからなぁ……)

 

親離れさせるのも親の役目なら、親として失格という事になる。

育てたことなんて無かったからなぁ、と言うのは正直な感想だが言い訳にはならない。

 

どうにかならないかな、と李師は常々考えていた。

よくよく考えてみると、姉たちも父には懐いていた。だが、それはまあ歳が両手で数えられるくらいまでで、それからは親しみと言うよりも尊敬とか、そういう成分が多かったように思われる。

 

別に尊敬して欲しいわけではないが、この状態は姉たちと何かが違うと、そう思う。何となくだが、微妙に違う気がしなくもない。

 

だが、親は生きていた。今は死んだが、その時は生きていたのだ。

 

(死んでしまったから、やっぱり温もりが恋しいのかね)

 

それにしても、今更見返すとなかなか複雑な関係だと考えざるを得ない。

父親に殺されかけたとは言え、返り討ちにして、母親はまあ、直接手は下していないが実質李師が殺したようなもの。

 

それを出会い頭に正直に言って、今に至る。

儒教的には仇討ちと言う行為が正当化される関係にあるし、感情的にも正当化されると、思う。

 

「恋は、私を仇と思ったことはないのかい?」

 

「……?」

 

「いやまあ、そりゃあほら、恋の親を殺したのは私なわけだし」

 

「………………?」

 

先程よりも混乱の度合いが静かに深まったと言える恋に、李師は例えを用いて説明を試みた。

 

「平たく言えば、私が誰かに殺されたとする。恋はその人をどうする?」

 

「全部殺す」

 

あれ、この例えは微妙におかしい気がすると李師が思う前に、速やかで直接的な答えが突き刺さった。

なるほど、義理の父であっても、仇討ちはするらしい。

 

では問題は、何故それが実の父親に適応されなかったか。それに尽きた。

 

「うん、そうなんだ」

 

「ん」

 

「さて、実名は控えるけど、私は君の父親を殺したわけだ」

 

「ん」

 

先程は『誰かに』の辺りで瞳が暗くなっていたのに、今は凪いだ湖面のように冷静である。

どうなってんだろ、と李師は思った。別に彼も死にたいわけではないが、何とかこの恋の心理の謎を解き明かしたい。

 

その解き明かした先に、親離れの遅さの謎がある、かもしれなくもなかったのである。

 

「さあ、私をどうする?」

 

「……一緒にいる」

 

「……よし、わかった。私が悪かった。もうこの話題はやめよう」

 

少し、本気で見当がつかない。

別に時が経つのが少し遅いだけだろうと仮定し、時が経つのに任せることにした。

 

こちらに対する悪意や誘いを看破するのには慣れているが、この手の心理分析はとんと疎い。

 

恐らく趙雲でも賈駆でも、たぶん夏侯惇でもわかる、『愛の質と量に大きな差があるから』という答えを、李師は全く思いつかなかった。



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