贖罪のゼロ (KEROTA)
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1st MISSION 始まりの少年 -BUGS 2-
第1話 OPENING 始まり


 

 

 

 その部屋は、暗闇で満たされていた。

 窓のないその部屋には一切外部からの光が入らない。照明器具の類もなく、光源と呼べるものは部屋の中央にある電源の入ったパソコンの画面のみ。

 そのパソコンの前に、1人の男が立っていた。

 

 白衣を身に纏った男は、画面を凝視する。彼は眼球だけを忙しなく動かし、画面上の膨大な量の数値とグラフを確認していく。

 やがて念入りなデータの確認を終えると、男は口端をニィと吊り上げた。

 

「フ、フフフ……フハハハハハ!」

 

 そして彼は狂ったように笑い始める。暗闇の中に響き渡ったその笑い声は、ゾッとする程に楽しげであった。

 

「素晴らしい、実験は大成功だ! やはり、この『アダム・ベイリアル』の仮説に間違いはなかった!」

 

 髪を振り乱し、唾を吐き散らしながら、その男――アダム・ベイリアルは叫ぶ。その顔には、喜色を通り越して恍惚の表情が浮かんでいた。

 

「美しい、実に美しい! ――U-NASAの愚図共にも見せつけてやりたいよ、まったく」

 

 アダムはかつて、U-NASAにおいてとある研究の主任を務めていた、優秀な科学者であった。だが、その実験台として32人の児童を誘拐した後に殺害。2591年現在、大量誘拐殺人事件の犯人として国際指名手配されているお尋ね者である。

 

「だが、まぁいい。結果的に俺の研究は実を結んだ。今はそれを喜ぼうじゃないか」

 

 アダムは忌々しい記憶に蓋をすると、自身の『研究成果』が入っている水槽を愛しそうに撫でた。水族館にあるような巨大な水槽には無数の管が繋がっており、中を緑色の培養液が満たしている。

 

 その中に、一人の赤ん坊が浮いていた。

 

 不気味に泡立つ培養液の中で、赤ん坊は眠っているかのように目を閉じている。口には呼吸補助のためのマスクが取り付けられており、体中の至る所に電極が刺さっていた。

 水槽の淵には『EVE-325』と書かれたタグが取り付けられている。

 

「まだまだ素体の強度は脆弱だが……俺の理論の正しさはこれで証明された。後々改良を加えていけばよかろう」

 

 アダムの目が、ギラリと凶悪な光を放った。

 

「今に見ているがいい。必ず、俺の研究の成果でU-NASA(あいつら)に目に物見せて――」

 

 とアダムが言いかけたその時。

 突然彼の言葉を遮るように轟音が鳴り響き、部屋全体がまるで地震のように揺れた。思わず転びかけ、アダムは慌てて机を掴む。

 

「ッ!? 何だ!?」

 

 アダムがそう叫んだ瞬間、部屋のドアが乱暴に開け放たれた。

 彼が振り返ると、そこには重火器で武装した人間達が立っていた。その数、およそ10人前後。全員、その佇まいには隙がない。少しでも不審な動きをすれば、彼はたちどころにハチの巣になってしまうだろう。

 

「U-NASAの追手か! クソッ、まさかここを探り当てるとは……!」

 

『おっと、無駄な抵抗は考えない方が賢明だ。君は既に包囲されている』

 

 悔し気に歯噛みするアダムの耳に、聞き覚えのある声が届く。しわがれた、それでいて底知れぬ迫力のあるその声の主を、アダムは知っていた。

 

「その声――貴様、ニュートンかッ!」

 

『ご名答。久しぶりだな、ネイト・サーマン博士――いや、今は『アダム・ベイリアル』と呼んだ方がいいのかな?』

 

 その音声と共に、部屋に突入してきた特殊部隊の隊員の1人が、映像投影装置を起動した。装置が作動すると、一人の老人の映像が浮かび上がった。

 

 雄獅子を思わせるその風貌。老いてなお衰えぬ、カリスマ的な覇気。

 

 U-NASAが現在進めている極秘計画の最高責任者、アレクサンドル・グスタフ・ニュートンがそこにいた。

 

『ホログラム越しに失礼するよ』

 

 葉巻を加えた口に笑みを浮かべ、ぎょろりとした双眸でニュートンはアダムを見据えた。

 

『まずは研究の成功おめでとう、とでも言っておこうか。君の研究成果は実に素晴らしい。いやはや、恐れ入った』

 

「……」

 

 押し黙ったアダムを気にした様子もなく、ニュートンは滔々と語る。

 

『『バグズ・デザイニング』と言ったかね? まさかバグズ手術を応用して、昆虫の遺伝子を先天的に組み込んだ人間を一から造りだすとは……実に興味深い』

 

「なッ!」

 

 ニュートンのその言葉にアダムは驚き、そして戦慄した。背筋を百足が這っているかのような、ゾッとする寒気が走った。

 

 ――バグズ手術。

 それは人体に昆虫の遺伝子を後天的に組み込むことで、小さな昆虫たちの多種多様な特性を人間が使えるようする、人体改造術式の名称である。

 

 例えば、獲物を確実に仕留めるための毒針を有するハチ。

 

 例えば、体長の数倍の高さを跳躍することができる脚力を持つバッタ。

 

 例えば、自重の100倍もの重さを持ち上げる筋力を誇るアリ。

 

 バグズ手術はそういった昆虫たちの遺伝子を肉体に取り込み、薬品による人為変態によって人体を昆虫化。それによって昆虫の特性を、人間が人間大のスケールで扱うことができるのだ。

 加えて昆虫類が持つ強化アミロース皮による身体の強度や、開放血管系が肺に併用されることによる運動能力の向上によって、通常の人間にとっては過酷な環境下における活動効率の上昇など、バグズ手術には多くの恩恵がある。

 

 このように極めて有用なバグズ手術ではあるが、いくつか致命的な欠点が存在していた。

 第一に、被験者の遺伝子に適合する昆虫でなければ手術は行えないということ。

 第二に、手術の成功率は僅か30%と極端に低いこと。

 第三に、昆虫の特性を使うためには細胞分裂に伴い、寿命を削る必要があるということ。

 

 かつてアダムが研究において主任を務めていた研究とは、他でもないこのバグズ手術についてだった。そして、これらの欠点を補うためにアダムが考えた方法こそ『バグズ・デザイニング』。

 

その内容は、胚の段階から昆虫の遺伝子を組み込むことで『元から昆虫の遺伝子を持っている人間』を造りだすというもの。この方法であればそもそもバグズ手術を行わないために第一・第二の欠点は発生せず、『昆虫の遺伝子が最初から発現している』状態で生まれるため、第三の欠点もなくなる。

 

 そしてこの技術はたった今、アダム・ベイリアル自らの手で完成したものだ。それにも関わらず、なぜその結果をこの男が知っている?

 

「馬鹿な! なぜ貴様がそれを――」

 

『なに、簡単な話だ。事前に、君の体にカメラを仕掛けさせてもらったのだよ』

 

 アダムに向かって、ニュートンは何てことのないように言った。その一言で、アダムは全てを悟る。

 

「……ッ! 全て、貴様の掌の上だったというわけか……!」

 

『その通りだ』

 

 葉巻をくゆらせながらのニュートンの言葉は、アダムにとって屈辱以外の何物でもなかった。よもや、自分の行動が全て筒抜けであろうとは。これではまるで、自らが憎むU-NASAのために研究を続けていたかのようではないか。

 

『さて。これで君がただの科学者だったのなら、再びU-NASAにスカウトするところなのだが……残念ながら、君を生かしておくわけにはいかない。『アダム・ベイリアル』は危険だ。ここで消えてもらおう』

 

 顎ひげをなでながらニュートンは、鬼のような形相で自らを睨んでいるアダムにそう言うと右手をサッと振った。

 

『撃て』

 

 その指示と同時に、7つの銃口が一斉に火を吹いた。爆音とともに放たれた弾丸が、アダムの頭部を、心臓を、肺を、両手両足を貫く。

 全身を撃たれたアダムは一瞬ビクリと痙攣すると、床に崩れ落ちた。彼の体から生まれた血だまりで、白衣が赤黒く染まっていく。

 すぐさま、特殊部隊の隊員の1人がアダムに駆け寄った。手首に触れた脈拍を計り、彼の生死を確かめる。

 

「呼吸、脈拍なし――19時37分46秒。アダム・ベイリアルの死亡を確認」

 

『ご苦労。奴の研究データの回収に移行しろ』

 

 ニュートンの指示で、彼らはすぐさま室内の探索を開始した。隊員たちを尻目に、ニュートンは物言わぬ死体となったアダムに語り掛ける。

 

『君の研究は、我々が責任をもって引き継ごう。安心するといい』

 

 そう言って、彼はニタリと笑った。

 だが――

 

「ニュートン博士! 大変です!」

 

『何事だ?』

 

 パソコンを調査していた隊員の悲鳴に近い報告に、ニュートンは怪訝そうに眉をひそめた。

 

「アダム・ベイリアルの研究データが、全て消去されています!」

 

『何?』

 

 映像越しにデータを確認すると、成程確かに研究に関するデータが根こそぎ消えていた。

 

 ――つい数分前まで、データは確かにあったはず。いつの間に?

 

 ニュートンがアダムの死体を見やると、アダムの左手に何かが握られているのが目に入った。それは何かのスイッチのようで――。

 

『……してやられたようだな』

 

 ニュートンが呟いた。おそらくアダムは自らが殺されることを悟り、僅かな隙をついて事前に用意していた手段でデータを消し去ったのだ。U-NASAに、アレクサンドル・グスタフ・ニュートンに自身の研究成果が渡ってしまうなら、と自らの手で。

 

『……今すぐデータを修復。可能な限り復元した上で回収しろ』

 

「はっ!」

 

 ――データの欠損は痛手だが、致命的ではない。

 

 復元作業に取り掛かった隊員を一瞥し、ニュートンは考える。

 

 ――データの完全抹消など、事実上不可能。ある程度の基盤が復元されさえすれば、あとはどうにでもなる。

 

 それに、とニュートンは顔をあげ、水槽の中の眠ったままの赤ん坊――『EVE-325』を見つめた。

 

 ――いざとなれば、現物があるのだから。

 

 彼は咥えていた葉巻を灰皿に押し付けると、もう一度不敵に笑った。




 この度は『贖罪のゼロ』第一話を読んでいただき、ありがとうございます。

 これからも皆様に楽しんでいただけるように頑張っていくので、なにとぞよろしくお願いします。


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第2話 ENCOUNT 出会い

【バグズ2号計画概要】
・本計画は20世紀に実行された、火星の地球化計画――通称テラフォーミング計画の最終段階として実行されるものである。
・本計画は、宇宙船バグズ2号によって2599年に実行するものとする。
・バグズ2号の主任務は、大容量ゴキブリ駆除剤「マーズレッドPRO」による火星地表のゴキブリの駆除、及びゴキブリの死骸の回収である。
・上記以外に、火星における大気や土壌などの環境調査も任務内容とする。
・バグズ2号の乗組員は任務の速やかな進行のため、人体改造術式『バグズ手術』を受けることを義務付ける。
・バグズ2号艦長にドナテロ・K・デイヴスを、副艦長に張明明を任命する。
・2500年代以降に送られた無人探査機が全て連絡を絶っていることに留意し、細心の注意を払って任務を遂行すること。
                 (U-NASA・バグズ2号計画についての書類より抜粋)




 西暦2598年。

 その日、宇宙船バグズ2号の艦長であるドナテロ・K・デイヴスはU-NASAの研究施設の廊下を歩いていると、1人の少年が目に入った。

 

 小柄な少年だった。顔立ちは東洋人のそれに近いが、水色の瞳や小麦の様な黄金の髪など、所々に西洋人の特徴も備えている。

 彼は白い壁に背中を預け、床に座り込んでいた。視線は宙をぼんやりと見つめ、自分を見つめているドナテロの存在にも一向に気付く気配がない。

 

 ――こんなところに子供?

 

 ドナテロは、心の中で呟いた。彼が抱いた疑問は至極もっともなものであった。

 今現在彼がいる場所は、主にバグズ手術に関する研究が行われている区域だ。例えU-NASAの職員であっても、一般の職員は立ち入りが制限される重要区画である。そんな場所に、なぜ彼の様な少年がいるのか。

 

 彼のそんな疑問はしかし、少年の衣装を確認した途端に霧消した。その少年が着ていたのは、青単色のパジャマのような、あるいは手術着のような服。ドナテロはその服に見覚えがあった。なぜならその服は、かつてバグズ手術を受けた自分が目を覚ました時に着ていた、U-NASAの手術着にそっくりだったから。

 そして、ドナテロはそれを見て悟る。この少年はおそらく、バグズ手術の研究における何かの調査対象――あるいは実験台なのだと。

 

「そんなところで何をしているんだい?」

 

 気が付くとドナテロは、少年に歩み寄って声をかけていた。突然話しかけられた少年は我に返ると、いつのまにか自身の傍らに立っているドナテロを見上げた。少年は表情を崩すことなく――しかし不思議そうに、大きな水色の瞳を瞬かせた。

 

「だれ?」

 

「俺か? 俺はドナテロ・K・デイヴス。少年、君の名前は?」

 

 ドナテロは少年に名乗り、それから聞き返した。幼い彼を威圧しないよう、娘に話しかける時のような優しい口調を心がけて話しかける。

 その甲斐あってか、幸い少年は彼を怖がるような素振りはなかった。

 

「……イヴ」

 

 少しの間をおいてその少年――イヴが答える。

 ドナテロを警戒している様子はいないが、自分にいきなり声をかけてきた彼にイヴは少々戸惑っているようだった。

 

「イヴか、いい名前だ。それで、君はこんなところで何をしているんだい、イヴ?」

 

 ドナテロの言葉に、イヴは首を横に振った。

 

「何もしてないよ。何も、することがないの」

 

 イヴはドナテロから視線を外すと、再び目の前の何もない空間を漠然と眺めた。

 

「いまは、お休みの時間だけど……ボク、何をしていいのか分からない。だからいつも、ここでこうしてるんだ」

 

 イヴはそう言うと、それっきり黙りこくった。表情は浮かんでいなかったが、その顔はどこか達観的で、そして寂しげであった。その様子を見たドナテロの胸は、締め付けられるように痛んだ。

 

 見たところ、イヴの年齢は大体7歳前後。自分が彼と同じくらいの年齢の時には、友人たちと学校へ行き、日が暮れるまで遊びまわり、宇宙飛行士という将来の夢に思いを馳せていた。

 今となってはおぼろげな記憶だが、その頃の自分が浮かべていたのは紛れもなく、無邪気で明るい笑顔であったはずだ。

 

 それにも関わらず、かつての自分と同じくらいの年の子供が、こんなに空虚な表情をしている。その事実が、ドナテロの心に重くのしかかった。

 

 

 その時ドナテロを突き動かしたのは罪悪感か、同情心か、それとも優しさか。

 

 

「……良かったら少し話し相手になってくれないか、イヴ?」

 

 気が付くとドナテロは、イヴに向かってそう言っていた。

 

「へっ?」

 

 間の抜けた声を上げたイヴの隣に、ドナテロはスーツ姿のまま腰を下ろす。そんな彼の顔を見上げて、イヴは心なしか不安そうな声色で言った。

 

「でも、お仕事とかあるんじゃ……」

 

「今日の仕事はもう終ったから、俺もこのあとは時間があるんだ。それで、どうだい? 君さえ良ければ、俺の暇つぶしに付き合ってくれ」

 

 ドナテロは自らを見上げる水色の瞳に笑いかけた。そんな彼にイヴが迷いながらもコクリと頷くと、ドナテロは話を切り離した。

 

「そうだな……ウチの艦に小町小吉というクルーがいるんだが――」

 

 イヴは、ドナテロの話に耳を傾けた。最初こそどこか落ち着かない様子だったイヴだが、10分程経った時には興味深そうにドナテロに聞き入っていた。ドナテロの方に身を乗り出すイヴの瞳には微かに、好奇心の光が輝いているように思われた。

 

「それで、どうなったの?」

 

「ああ、結局その時はな――」

 

 しかし、その日はここで時間切れとなる。

 

「お、いたいた。イヴ、次の実験だよ」

 

「あ、先生」

 

 1人の科学者が、イヴを迎えに来たのだ。その科学者の、男性にも女性にも見えるその科学者の中性的な姿に、ドナテロは見覚えがあった。

 

「クロード博士?」

 

「おっと、これはデイヴス艦長。意外なところで会いましたね」

 

 クロードと呼ばれたその科学者は、人当たりのいい笑みをドナテロに向けた。西洋人には比較的珍しい、切りそろえられた黒髪が微かに揺れる。

 

「先生、ドナテロさんと知り合いなの?」

 

「ああ、研究がらみでね。色々とお世話になってるんだ」

 

 クロードはそう言って、イヴの頭を撫でた。

 

「先に行って始めておいて。私は少しデイヴス艦長と話をしてから行くよ」

 

「わかった」

 

 イヴは頷くと歩き出そうとし――慌ててドナテロの方に向き直った。

 

「ドナテロさん、一緒にお話ししてくれてありがとう。すごく楽しかった」

 

 そう言ってイヴは微かに、照れくさそうにほほ笑む。この時初めて、彼の無表情の仮面が崩れた。

 

 ――なんだ、子供らしい表情も作れるんじゃないか。

 

 そんな感想を抱きながら、釣られてドナテロも微笑みを浮かべた。

 

「どういたしまして。頑張れよ」

 

 ドナテロがたくましい手を振るとイヴは頷き、それから控えめに手を振り返す。それから2人に背を向けると、イヴは廊下を歩いていく。イヴの後ろ姿が角の向こうに消えるまで、ドナテロは手を振り続けた。

 

「ははは、あんなに楽しそうなイヴは初めてだ。デイヴス艦長、彼に何の話をしていたんです?」

 

「なに、クルーの話を少しな……それよりも」

 

 ドナテロは手を下ろすと、クロードに向き直る。その顔には、先ほどまでの優しい表情とは打って変わって、険しさが刻まれていた。

 

「なぜ貴方が彼に関わっている? バグズ手術研究総合主任――クロード・ヴァレンシュタイン博士」

 

 ――クロード・ヴァレンシュタイン。

 

 その名はU-NASAの職員ならば、誰でも知っているだろう。

 彼はU-NASAにおける『バグズ手術』の総合主任。バグズ2号計画の最高責任者であるアレクサンドル・グスタフ・ニュートンの右腕とまで称される人物だからだ。

 

 2598年現在、バグズ手術の成功率は35%にまで上昇している。

 僅か7年前までは30%だった手術の成功率を5%も引き上げたのは他でもない、クロードであった。

 前任のネイト・サーマン博士をも凌ぐ実力で瞬く間に総合主任の座にまで上り詰めた彼は、U-NASAに在籍する研究者の中でもずば抜けて優秀な人材だ。

 

 それを知っているからこそ、ドナテロは懸念を覚えた。

 

 クロード自らが研究の指揮をとっているということはつまりあの少年――イヴは、それだけバグズ手術において、重要度が高い研究対象であるということだから。

 

「……残念ながら、その問いにお答えすることはできません。機密事項なので」

 

 クロードの返答に、ドナテロの目の険しさが増す。その表情には、幼いイヴを過酷な実験に参加させていることへの非難が浮かんでいた。

 クロードはそれを悟り、居心地悪そうにドナテロから目を逸らす。

 

「心中はお察ししますし、私も貴方には同意見ですが……例え我々が抗議したとしても、上層部は我々を外して研究を続行するでしょう。それだけ彼はこの分野において貴重な存在なんです」

 

 ならばせめて私の目の届く範囲で、可能な限り彼に配慮した研究を進めるのが最善でしょう?

 

 クロードのその言葉に、ドナテロは閉口するしかなかった。

 有史以来、人類と共に科学技術は刻々と発展を繰り返した。しかし、新技術と銘打った華々しい進化の結晶の影には、常に何らかの犠牲が付き添う。

 

 あるいは、ドナテロが割り切ってしまえれば良かったのかもしれない。

 

 バグズ手術という名の新技術にとってその犠牲とは、ドナテロの様なバグズ2号のクルーや、施術に失敗して死んでいった名前も知らない被験者たち、あるいは先ほどまでのイヴなのだと。

 人類史の裏に積み上げられた数えきれない被害者の一人にすぎないのだから、気にすることはないのだと。

 だが、ドナテロはそう考えることはできなかった。

 バグズ2号の長として、一児の父として、そして何より――1人の人間として。

 

 2人の間に、重苦しい沈黙が流れる。

 

「――デイヴス艦長、一つ私からお願いがあるんですが」

 

 長い静寂を破ってクロードはそう言うと、ドナテロに近づいて彼に耳打ちした。

 

「時間があるときで構いませんが――またここに来て、イヴの話し相手になってやってくれませんか?」

 

「! いいのか?」

 

 ドナテロの疑問にクロードは「勿論」と頷くと、若干おどけたような口調で続ける。

 

「彼は実験動物(モルモット)ではなく、あくまで実験協力者(にんげん)ですから。我々は極力、彼に報いなくてはならないんですよ。丁度対人交流のデータも欲しかったので、一石二鳥です。それに――」

 

 そこでクロードは一度言葉をきり、どこか照れくさそうに人差し指で頬を掻いた。

 

「――年相応の表情をあの子が見せたのは、本当に久しぶりでした。個人的に、あの子の笑顔をもっと見たいんですよ。私たちは彼をこの環境から救ってあげることはできないけれど、環境を改善してあげることはできる。あの子のためにできることをしていくのが、個人として――あるいは、研究者として責任だと私は思うんです」

 

 そう言って、クロードはふわりと表情を和らげた。

 

「お願いできますか、デイヴス艦長」

 

「そういうことなら、是非」

 

 ドナテロは、そんなクロードの申し出を引き受けた。その顔から、幾分か険しさを引かせながら。

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 その日からドナテロは仕事の合間を縫ってイヴに会いに行った。彼の話し相手となり、ドナテロはいろいろな話をした。

 それはバグズ2号のクルーの笑い話だったり、自分の娘の自慢話だったり、昔の自分の思い出話だったり。ドナテロがどんな話をしても、イヴは楽しそうに彼の話を聞くのだった。

 最初のうちのぎこちなさは何度も会って話をしていくうちに打ち解けていき、いつしかイヴはドナテロに自然な笑いを向けるようになっていた。

 

 

 ――時間が過ぎるのは早いもので。

 

 

 そうして日々を過ごすうちにいつしか春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎ、そして年が明けた。

 

 

 ――西暦2599年。

 

 

 バグズ2号計画実行の日が近づいていた。

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

「おっと、そろそろ時間か。イヴ、今日はここまでだ」

 

 バグズ2号計画の実行をいよいよ二週間後に控えたその日。腕時計で時間を確認したドナテロは、イヴの隣から腰を上げた。

 イヴは座ったまま、名残惜しそうにドナテロを見上げる。

 

「もう行っちゃうの?」

 

「すまないな、この後は計画の打ち合わせがあるんだ」

 

 申し訳なさそうなドナテロに、イヴは首を振った。

 彼は聡明な子供だった。分別の良さでも、知識量でも、少なくとも同年代の子供たちよりは遥かに賢かった。ドナテロが多忙な人間であることは、もうずいぶん前から知っている。

 だからイヴは、だだをこねるような真似はしなかった。

 

「ドナテロさん、次はいつ会える?」

 

 イヴの問いに、ドナテロは顎に指をあてて考え込む。

 二週間後にいよいよ始動するバグズ2号計画。その打ち合わせや最終調整のため、この日以降ドナテロに空き時間はなかった。

 

「そうだな……地球と火星はバグズ2号で往復すると大体80日。任務も大体2ヶ月くらいかかるだろうから……大体、半年後くらいか」

 

「分かった。ドナテロさん、気をつけてね」

 

 不安そうにそう言ったイヴの頭を、ドナテロが少し乱暴に撫でた。金色の髪をくしゃくしゃと撫でる大きな掌の感触が、イヴの心の中の不安をぬぐい去っていく。

 

「当たり前だ。帰ってきたら火星での土産話を聞かせるから、それまで元気でいるんだぞ?」

 

「……うん!」

 

 大きく頷いてイヴは花のような笑顔をドナテロに向けた。

 この一年で随分イヴも変わった、とドナテロは思う。最初の頃は仮面をつけているかのように無表情だったイヴが、今ではこんなにも喜怒哀楽を顔に出すようになっている。出発前に彼が『人間らしさ』を取り戻したことが、ドナテロにとっては嬉しかった。

 

 できることなら彼ともっといたいが、打ち合わせの時間が迫っていた。イヴの頭をもう一度撫で、彼に手を振るとドナテロは去っていった。

 初めて2人が出会った時とは対照的に、ドナテロの後ろ姿をイヴは手を振りながら見送る。やがて彼の姿が見えなくなると、イヴはゆっくりと手を下ろした。

 

 まだ休憩時間中であるためか、クロードの迎えはまだ来ていない。普段ならばここで待つところだが、イヴは実験室へ向かおうと考えた。

 

「ドナテロさんが頑張ってるんだ。それなら、ボクも頑張らなくちゃ」

 

 口に出して言ったことで、その思いはなおも強まった。実験室に向かうため、イヴはクルリと踵を返した。

 

 

 

「こんにちは、EVE(イヴ)くん」

 

 

 

 その途端、イヴの視界に1人の人物が映りこんだ。その正体にイヴの目がギョッとしたように見開かれる。

 

「っ、ニュートンさん!?」

 

 いつの間にかイヴの背後に立っていたのは、アレクサンドル・グスタフ・ニュートンであった。彼は口に咥えた葉巻を吸いながら、イヴを見下ろしていた。

 

「えっと、どうしてこんなところに? 先生に何かご用事?」

 

 恐怖を押し殺し、イヴがニュートンに聞く。ニュートンには数回会ったことがある程度だが、イヴは彼のことが苦手だった。全てを見透かそうとしているかのような彼の目は、イヴの胸の奥で恐怖心を掻き立てるのだ。

 

「いや何、少し散歩をしていただけだ。老人は運動不足になりがちなのでね」

 

 そう言って、ニュートンはしわの刻まれた顔に笑みを浮かべた。ドナテロのそれと違い、見ているものを威圧するような笑みに、イヴは身をすくませた。

 

「それよりもいいのかね、EVE(イヴ)くん?」

 

「……何がですか?」

 

 ザラザラとした何かが自分の中に渦巻くのを感じながら、イヴはニュートンに聞き返す。虫の知らせとでも言えばいいのか、何か不吉な予感がイヴの脳内の警鐘を鳴らしていた。

 

「なに、実に簡単な話だ」

 

 ニュートンはそう前置きして、ゆっくりと口を開いた。

 

 

 

 

「このままバグズ2号が火星へと発った場合、ドナテロ・K・デイヴス艦長は死ぬぞ?

 それを放っておいて、いいのかね?」

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 それから二週間後の、西暦2599年2月18日。

 宇宙船バグズ2号は15名のクルーを乗せて、火星へと発った。U-NASA内でも、職員たちがバグズ2号の打ち上げ成功に歓声を上げ、同時にテラフォーミング計画の完了が間近であることを予感した。

 誰もが、世紀を跨いだ大計画の成就を、夢に見ていた。

 

 だからこそ、彼らのほとんどは気づけなかった。U-NASAの内部にたった一つ、しかし決定的な変化が起きたことに。

 ごく一部の例外を除き、U-NASAから一人の少年が姿を消したことに気付いていたものは、誰もいなかった。

 




 閲覧していただき、ありがとうございました。
 
 なお、バグズ2号の打ち上げ期日は単行本やファンブックにも載ってなかったので、一巻の小吉のセリフ『ちょうど今ごろ桜の咲いている』から逆算して決めました。

 原作で明言されたり、確認ミスが発覚したりした場合には修正します。


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第3話 GHOST WORD 亡霊からの手紙

 バグズ2号の乗組員である小町 小吉(こまち しょうきち)とゴッド・リーが艦長室に呼び出されたのは、バグズ2号が地球を発ってから7日目のことだった。

 

「何で俺ら艦長に呼び出されたんだろ? 何か悪いことしたかな?」

 

 重い足取りで廊下を歩きながら、小吉が情けのない声を上げる。オロオロという擬音がこれ以上ないほどに合う、見事なうろたえようである。

 そういえば小学校時代にクラス担任に呼び出された時もこんな気分だったなぁ、と懐かしくもどうでもいいことを思い出しながら、小吉は自らの半歩先を行くリーに声をかけた。

 

「リー、何か思い当たることない? 何かやらかしてないか?」

 

「さァな」

 

 小吉の問いに、爪楊枝を口に咥えながらリーが素っ気なく返した。通常の隊服の上にマントを羽織った強面の元傭兵は、小吉と違って全く動揺している様子はない。いつも通り隙の無い動きで、彼は廊下を歩いていく。

 小吉が大きくため息をつくと、リーは肩越しに小吉を見つめた。

 

「思い当たる節があるとしたら、むしろお前の方じゃねえのか、サムライ? 大方空腹に耐えかねて、食料(カイコガ)のつまみ食いしちまったのがばれたんだろ」

 

「ナ、ナンノコトカナ。ボクワカラナイ」

 

「……図星か、オイ」

 

「いや、違うんだ。あれは若気の至り的なやつで――」

 

 わけがわからない上に苦しい言い訳を始めた小吉に、リーは無表情のまま言い放った。

 

「冗談だ。俺たち二人が呼ばれたってことは……『あれ』のことかもな」

 

「『あれ』? ……ああ、『あれ』か!」

 

 リーの言葉に小吉が手を叩いた。思い出した、と言わんばかりの表情を浮かべ、せっかくなのでちょっとリーをからかってみることにする。

 

「この間、俺が頼んだビンの蓋をリーが開けれなかったことか! 一時間粘っても空かなかったし!」

 

「面白ェ、その喧嘩買ってやるよ」

 

「悪かった。謝るからそのナイフしまってくれ、リー」

 

 ナイフを抜いて臨戦態勢に移行したリーに謝り倒し、小吉は真面目に『あれ』の実態を聞くことにする。

 

「呼び出しの原因は、おそらくこの間の腕相撲だ」

 

「は? 腕相撲って……出発の前の夜に皆でやった、あれか?」

 

 今一つピンと来ない様子で小吉が聞くと、リーが頷く。

 彼の脳裏には、バグズ2号出発前夜に開かれた、乗組員全員に参加の大腕相撲大会の様子が浮かんでいた。上位陣の間では激闘が繰り広げられ、それなりに盛り上がった記憶があるが――。

 首をひねる小吉にリーが続ける。

 

「あの時の順位は俺が2位で、お前が3位だったな?」

 

「ああ。ついでに、1位はイチローだ」

 

「……個人的な感想だが、あいつの腕力はマジで化け物だと思うぜ」

 

 リーがポツリと漏らすと、小吉が激しく頷いた。元傭兵であるリーや、空手の有段者である小吉を始め、名だたる強豪たちを次々とねじ伏せていく最年少乗組員の構図は、見ていて軽く恐怖であった。

 

「話を戻すが……お前、艦長の順位も覚えてんだろ?」

 

「そりゃ勿論。腕相撲大会で艦長は4位だ。艦長戦はギリギリで俺が競り勝ったんだからな。忘れるはずないだろ」

 

 小吉がその時の光景を思い出しながらそう言った。滅茶苦茶アメリカンな雄叫びを上げるドナテロを日本男児な雄叫びを上げながら迎え撃ち、辛くも勝利したことは記憶に新しい。

 

「でも、それがどうしたん……あ?」

 

「気付いたか」

 

 そこで小吉が何かに気付いたように声を上げた。そんな彼に、リーは確信に満ちた声で言う。

 

「そう言うことだ。腕相撲とはいえ、部下3人に負かされる。上に立つ人間として、メンツは丸潰れだろうぜ……俺達へのお礼参りを考えたとしても、不思議じゃねえよな」

 

「いやいやいや! それはないだろ、さすがに! 大体、それならイチローが真っ先に呼ばれるんじゃないか?」

 

「どうだかな。1位を相手にやると角が立つから、俺達に狙いを絞った可能性だってある。それに、戦場じゃあよくあったぜ? ポーカーに負けた上官が後で部下を呼び出して、裏でいびるなんてことはよ」

 

「……せ、戦闘能力があるクルーのミーティングって可能性も」

 

「無ェな。それこそムエタボクサー(ティン)ヨコヅナ(イチロー)も呼ばれるだろ。第一、俺らの任務はゴキブリの駆除。火星人と戦うわけでもねぇのに戦闘の打ち合わせをすると思うか?」

 

「ぐっ……いや、でも……」

 

 小吉が反論していくが、リーはそれをことごとく一蹴する。

 次々と論破されてあーでもないこーでもないと悩み始めた小吉を尻目に、リーは足を止めた。艦長室に着いたのだ。

 

「まぁなんにせよ、まずは話を聞いてからだ」

 

 リーはそう言って、ドアの開閉ボタンへと手を伸ばした。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「単刀直入に言おう。お前たちには調査を頼みたい」

 

 執務用の椅子に腰掛けたドナテロ・K・デイヴスは、2人に向かって開口一番そう切り出した。

 

「調査、ですか?」

 

 小吉の質問にドナテロが「そうだ」と短く答える。その途端、小吉は拍子抜けしたような顔になった。

 

「? どうした?」

 

「ああ、いえ。俺『達』が予想していた内容と大分違ったんで」

 

 わざと『達』の部分を強調しつつ小吉は胡乱気な視線をリーに向けるが、当人はどこ吹く風と言わんばかりであった。

 

「で、俺たちに何を調べさせようってんだ?」

 

 華麗に小吉のジト目をスルーして、リーが言う。

 

「ああ、それについての説明はミンミンにしてもらう」

 

 ドナテロがそう言うと、彼の後ろに控えていたバグズ2号の副艦長、張 明明(チョウ ミンミン)が口を開いた。

 

「2人とも、今船内で起きている事件のことは知っているな?」

 

「事件……ですか?」

 

 一瞬戸惑ったように小吉が呟くが、その後すぐにはっとした表情になる。

 

「ひょっとして『バグズ2号の亡霊』のことですか?」

 

「……ああ、あれか」

 

 思い至った様子の小吉とリーにミンミンが頷くと、ファイルを片手に説明を始めた。

 

 地球を出発した直後から、バグズ2号ではある事件が頻繁に起こっていた。それは、船内の壁に警告文が書かれるというもの。

 

『火星に行ってはいけない』

 

『火星は危ない』

 

『皆殺される』

 

『今すぐ地球に引き返せ』

 

 そんな内容の警告文が、いつの間にか至る所に書き込まれるのだ。航行直後から起こり始めたこの事件だが、犯人の姿はおろか文字以外には痕跡を見た者すらいない。

 影も形もつかめないその不気味さから、乗組員たちには『バグズ2号の亡霊』などと呼ばれているのだ。

 

「2人には、一連の事件の手がかり――可能であれば、犯人を捜してほしい」

 

「犯人捜しですか……」

 

 気乗りしなさそうに、小吉が呟く。バグズ2号の中でこんな事件が起きているということは、当然乗組員のうちの誰かが犯人ということになる。

 バグズ2号の中でムードメーカー的な立ち位置にある小吉にとっては、どの乗組員も仲がいい友人だ。彼らを疑うような行為に、気が進むはずもない。

 

「私達としても不本意だが……私達だけでは人手が足りない。かといって、このまま事件が続くと全体の士気に関わるから、放っておくわけにもいかない。すまないが協力してほしい、2人とも」

 

 ミンミンのその言葉に、それまで沈黙を保っていたリーが口を開いた。

 

「……一つ聞きてぇんだがよ、艦長。何で俺らを選んだ? 俺達よりも頭が回る適任は他にもいるはずだろ?」

 

 納得のいく説明はあるんだろうな、と彼は言外に告げる。

 

「――経歴だ」

 

 リーの言葉に、ドナテロが重々しく口を開いた。苦渋に満ちた表情で、ドナテロは2人を見つめた。

 

「26年間イスラエルの武装勢力にいたリーと、乗組員の中では唯一の志願兵である小吉。お前たちが任務に怖気づくとは考えにくい。だから、お前たちは犯人候補から外して協力を要請することにした。情けない話だが、現状で完全に信用できるのはお前たちしかいないんだ」

 

 ドナテロの説明に「成程な」とリーが呟く。彼の言う通り、今は圧倒的に情報が足りない。しかし、待っていたからと言って、これから新しい情報が入るとは限らない。多少見立てが甘くリスキーではあるものの、ここでリーと小吉を頼った彼の判断は間違ってはいないだろう。

 

「いいぜ。やってやるよ、犯人調査」

 

「わかりました、艦長。正直、仲間を疑うのは嫌ですけど……そういうことなら、俺も手伝います」

 

 頷いた2人に対して、ドナテロは椅子から立ち上がって頭を下げた。

 

「ありがとう、2人とも――辛い役割を押し付けて、すまない」

 

 その様子に「いや、いいんですよ! 俺達にできることならどんどん言っちゃってくださいって!」と小吉が慌ててフォローをする。

 

「とりあえず、俺はそれとなく皆に聞き込みをしてみます。何か新しいことが分かるかもしれませんし……リーはどうするんだ?」

 

「俺は他の奴らとはあんまり話さねぇからな……とりあえず、艦内の要所を見回るか。犯人を捕まえられりゃ御の字、ダメでも他の奴らに見つかる前に警告文を処理できる可能性も高くなるだろ」

 

「おっし、そっちは頼んだぜ、リー! ――そんなわけで艦長、副艦長」

 

 小吉はドナテロとミンミンに向き直ると、ニッと笑って見せた。

 

「大船に乗ったつもりでいてください! 必ず犯人、見つけますから!」

 

「フン、面倒だがな」

 

 かくして、2人の犯人捜しが始まった。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「亡霊事件で気付いたことか……アタシは特にないかなー」

 

「やっぱりそうだよなー……」

 

 バグズ2号の乗組員の一人にして、小吉の幼馴染である秋田 奈々緒(あきた ななお)は言った。

 薄々予想はできていたものの、その反応に小吉は落胆の色を隠せなかった。しかし、ドナテロたちにあれだけ大見得を切ったあとだ。さすがに何もわかりませんでした、では格好がつかない。

 

「ちょっとした違和感とか、些細な事でもいいんだ。何かないか、アキちゃん?」

 

「そう言われても……っていうか、さっきからやけにこだわるな。あんた、探偵でも始めたの?」

 

「えっ!? それはー、あー……」

 

 怪訝そうな奈々緒の言葉に、少し小吉が口ごもる。

 

「あー、あれだ! この間、推理ものの古典アニメ見てたら、探偵ごっこやりたくなっちゃってさー! ほらあの、見た目は子供、頭脳は大人~ってやつ! 丁度いい事件だから、この名探偵小吉がパパッと解決してみようかなー……なんて」

 

「丁度いい事件ってなんだ。というかお前の場合、見た目はゴリラ頭脳もゴリラの迷探偵ゴリラだろうが」

 

「アキちゃん! それ俺じゃない、ただのゴリラ!」

 

 ある意味いつも通りのやりとりに、ミーティングルーム内にいたクルーたちの間にどっと笑いが起こった。

 小吉と奈々緒の会話は、乗組員間では『ジャパニーズ・メオトマンザイ』の通称でちょっとした名物だ。もっとも、当人たちはその呼び名は知らないのだが。

 

「だが実際問題、あれは解決しないと少しまずいだろうな」

 

 2人の会話を横で聞いていた顔に傷のある乗組員――ティンが、宇宙食であるカイコを食べながら会話に混ざってくる。その顔には、事態への懸念が滲んでいた。

 

「今はまだいいが、放っておくと皆が疑心暗鬼になりかねない。ある意味、小吉がやってることは俺たちにとって渡りに船じゃないか?」

 

 ミンミンと同様、ティンが心配しているのはそのことだった。火星という未知の環境下で行う任務である以上、結束が乱れるのは危険だ。有事の際に速やかに協力し合うためには、互いに信頼し合うことが不可欠。この事件は一歩間違えば乗組員間に不和を生じさせかねない危険な事態である、というのがティンの見解だった。

 

「お前もそう思うよな、ティン! ほらアキ、さっさと吐け! とぼけても無駄だ、ネタは上がっている!」

 

「あたしは犯人か!? 証拠もなしに幼馴染を疑うとかさっそく疑心暗鬼になってるじゃねーか!」

 

 ギャーギャーと騒ぎ始めた二人の横で、ふとロシア人のマリアがポツリとつぶやいた。

 

「そう言えば……あの警告文、何であんな位置に書いたのかしら」

 

「? どういうことだ、マリア?」

 

 ティンの言葉に、小吉と奈々緒も騒ぐのをやめて彼女に視線を向けた。三人に見つめられたマリアは少し困ったような表情で、「大したことじゃないんだけど」と前置きして、その疑問を口にした。

 

「あの警告文って、私たちの腰かそれよりも下に書いてあったじゃない? 何でそんなに書き辛そうな場所に書いたのか、ちょっと気になって」

 

「言われてみれば、そうだな」

 

 マリアの言葉にティンは脳裏に現場の様子を思い浮かべる。亡霊の警告文は全て船内の壁に書かれていたのだが、確かに位置は低かった。一番背が低いクルーでも、あの位置に文を書くためには身をかがめる必要がある。

 

「けど一歩間違えば目撃されるような状況で、犯人がわざわざそんな面倒なことをするかな?」

 

「確かにそうだな」

 

 メモメモ、と小吉がどこからか手帳を取り出して書き込んでいると、テーブルの向こうから声をかけた者がいた。

 

「あ、俺もちょっといいか?」

 

「テジャス! お前も何か知ってるのか?」

 

 インド人乗組員のテジャスだ。小吉が食い気味に聞き返すと、彼は少し申し訳なさそうな顔つきになった。

 

「悪い、小吉。マリアみたいに俺も腑に落ちないことがあるだけなんだ。あまり、関係ないかもしれないけど」

 

 直接的ではないものの、今はどんな情報も貴重だ。小吉が促すと、テジャスはゆっくりと話し始めた。

 

「あの文字に使われてる塗料はペンキだと思うんだが……どこから持ってきたんだ?」

 

「! そういえば」

 

 テジャスの情報に一同は顔を見合わせる。バグズ2号の備品にペンキはない。それにも関わらず、警告文はペンキで書かれている。言われるまで誰も気が付かなかったことだが、言われてみればこれはかなり奇妙だ。

 

「誰かが持ち込んだ? いや、このためだけに……っていうのは考えにくいな。リスクとリターンが釣り合わない」

 

「何だか、よくわからないことが多いわねこの事件」

 

 ティンとマリアが口々に言うのを聞いて、小吉は考える。今回の一件は何かがおかしい。今の会話で手に入れた僅かな情報を整理するだけでも不自然な点が多すぎる。

 これは――

 

「で、肝心の犯人と事件の全貌は分かったのか、名探偵?」

 

「う、うーん。これだけじゃ何ともなぁ」

 

「……この迷探偵ゴリラめ」

 

「いや、今の情報だけじゃ俺でなくても無理だろ!? 今はまだこの事件は解けません! じっちゃんの名にかけて!」

 

「使い方間違っとる! というか、それはさっきのとは別の作品でしょーが!?」

 

 実際問題、これだけの情報で犯人が特定できれば苦労はしない。というかおそらく、乗組員のなかではトップクラスに頭がいい一郎やジャイナでも無理だろう。

 

「ただ、一つ分かった」

 

 ふと、小吉が真面目な声色でそう言った。いつになく真剣なその様子に、周囲のクルーたちは口を閉じた。彼らは皆小吉を見つめ、次の言葉を待った。

 

「あくまで予想だけど、多分これをやった奴は――」

 

 しかし、その言葉が最後まで発せられることはなかった。

 

「皆、大変だ!」

 

 突如1人の乗組員が、大声でそう叫びながらミーティングルームに飛び込んできたから。

 

虎丸(フワン)! どうしたの、そんなに慌てて!?」

 

 飛び込んできたのは、陽 虎丸(ヤン フワン)。中国人乗組員である。

 肩で息をする彼に、マリアが駆け寄った。フワンの慌てた様子を見るに、何か非常事態が起こったとみていいだろう。

 ミーティングルームに、緊迫した空気が張り詰める。

 

「……密航者だ」

 

 息を荒げながら彼が言ったその言葉に、乗組員たちは耳を疑った。

 

 

 

「バグズ2号の船内に――乗組員(おれたち)の他に密航者がいたんだ!」

 

 

 

 

 




【オマケ】

ドナテロ「腕相撲大会の結果は気にしていない……………………………………………………………全然、気にしていないからな」ズーン

リー「(やっぱり気にしてたのか)」

ミンミン「…………私も、全然気にしてないから」ズーン (←15人中11位)

小吉「(こっちもか!?)」



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第4話 THE STOWAWAY 亡霊の正体

 小吉たちが密航者の目撃現場である廊下に駆けつけた時、そこには既に他の乗組員たちが集まり始めていた。

 小吉はその中にリーの姿を見つけると、彼に駆け寄る。

 

「リー! 何があったんだ!?」

 

「フン、小吉か……」

 

 振り向いたリーの顔は、小吉には若干不機嫌そう見えた。苛立たしさを押し隠すかのように、彼は鼻を鳴らす。

 

「俺はあの後見回りをしてたんだが……いきなり大当たりでな。丁度犯人が警告文を書いてるとこに出くわした」

 

 そう言って、リーが右手の親指で壁を指した。小吉たちがその方向へ視線を向けると、そこにはやはりペンキと思われる塗料で新たな警告文が書かれていた。

 

『火星には怪物がいる』

 

 ペンキで書かれたその文章はまだ半乾きで、所々から赤い雫が垂れている。その様子はさながら血が滴っているようでもあり、おどろおどろしさを感じずにはいられなかった。

 

「たまたま居合わせた奴らに伝令を頼んで、俺は奴を追ったんだが――逃げられちまった」

 

 チッ、とリーが忌々し気に舌打ちする。彼の機嫌が悪いのは、犯人を取り逃がしたことが原因のようだ。

 

「ただ、これではっきりしたぜ。亡霊とやらの正体は俺達の中の誰かじゃねェ。潜り込んでいやがった密航者だ」

 

 リーの口から改めて告げられたその言葉に、一同が息を呑んだ。ピリピリとした緊張感が、乗組員たちの間に張り詰める。

 

 ――密航者。

 

 その一言がバグズ2号の乗組員たちに与えるプレッシャーは、多大なものであった。

 もしも仮に、彼らが今いる場所が海の上であったのなら、乗組員たちの緊張もここまでではなかったのだろう。下手人をとらえて、次の港に着き次第警察に引き渡してしまえばそれでことは終わるのだから。万が一のことがあっても海という逃げ場があるし、最悪外部へ助けを求めることも可能だ。

 

 だが、ここは宇宙空間の中。次の港なんてものはなく、外へ逃げることはできないし、助けは絶対に来ない。密航者という未知の存在からの逃げ道が存在しない閉鎖空間の中なのだ。

 つまり、密航者の正体が何者であったとしても、彼らは自分たちの力で対処しなければならないということ。

 

「――だが、出発直前までバグズ2号の警備はかなり厳重だったはず。一体どうやって潜り込んだんだ?」

 

 メガネを掛けた乗組員、トシオの言葉に乗組員たちは顔を見合わせた。

 艦内の点検は入念に行われ、関係者以外はバグズ2号に足を踏み入れることはおろか、一目見ることすら難しい状況。言われてみれば、そんな状況で艦内に入り込むなど到底不可能なはず。

 それなのに、なぜ――。

 

「皆、無事か!?」

 

 その時、廊下の向こう側からドナテロとミンミンが、案内してきた乗組員のジョーンと共に姿を現した。

 三人とも息をそれなりに切らしていることから、よほど急いできたことが窺える。

 

「艦長、副艦長!」

 

 彼らの登場で、乗組員たちの間に張りつめていた緊張感が幾分か和らいだ。ドナテロやミンミンが信頼されている証拠であろう。

 

「ここに来るまでの間に、事情はジョーンに聞いた。密航者に危害を加えられたものはいないな?」

 

 ミンミンの確認に、乗組員たちは首を縦に振る。今のところ、怪我人が出ていない。その点は幸いではあるが――

 

「リー、密航者はどんな姿だった?」

 

 ミンミンが聞くと、リーは口を開いた。彼が発したその言葉は、乗組員たちを驚かせることになる。

 

 

 

「――ガキだ。身長は120cm程度。ガスマスクをつけて黒いフードを着ていやがったから、性別は分からねぇ」

 

 

 

「こ、子供?」

 

 リーの言葉に奈々緒が思わずそう漏らす。他の者たちも意外だったようで、ざわめきが広がる。しかし、リーが付け加えるように言ったその一言は、更なる衝撃を彼らに与えた。

 

「だが、ただのガキじゃねえ。恐ろしく身軽で、足が速い。闇雲に追いかけても捕まえらねぇだろうな、ありゃ」

 

「そんなに……」

 

 口元を手で押さえ、顔色をなくしたマリアが呟く。元傭兵である彼が捕まえられない程の身体能力を持った子供――それが、自分たちに襲い掛かってきたとしたら。そんな想像が脳裏をよぎり、彼女の背筋を凍らせた。

 

「艦長……」

 

 ミンミンがドナテロに向き直り、指示を仰ぐ。目を閉じ、少しの間何かを考え込んでいたドナテロだったが、やがて静かに瞼を上げると声を張り上げた。

 

「総員、注目!」

 

 廊下にビリビリと響き渡ったその声に、乗組員たちは思わず佇まいを正した。

 

「これより、密航者の捜索を始める! 全員で手分けして、艦内をくまなく探せ!」

 

 ドナテロの力強いその声は、その迫力で以て乗組員たちの不安を押し流していく。今、自分たちがするべきことは、怯えることではない。言外にそう喝を入れられたような気分になり、乗組員たちは気を引き締める。

 

「密航者は発見次第拘束、状況によっては『薬』の使用も許可する! 以上、各自行動開始!」

 

「「「「了解!」」」」

 

 ドナテロの言葉に乗組員たちは一斉に返事をすると、すぐさま密航者の捜索行動を開始した。

 そんな様子を見て、奈々緒が小吉に呟く。

 

「それじゃ、アタシ達も行こっか」

 

「あ、悪いアキ、ちょっと待ってくれ……艦長、少しいいですか?」

 

 乗組員たちが艦内に散っていく中、小吉がドナテロに話しかけると、彼は「何だ?」と言って彼に向き直った。

 

「調査してて俺、色々考えたんですけど……密航者の目的って多分俺達を()()()地球に引き返させることなんだと思います」

 

「何? どういうことだ?」

 

 ドナテロが不可解そうに聞くと、小吉が「これはあくまで俺の予想なんですけど……」と前置きして、言葉を選びつつ話し始めた。

 

「破壊工作ならこんなに目立つ真似はしないだろうし、計画を頓挫させたいなら出発前にU-NASA側に圧力をかければいい。それなのに密航者は、本来バグズ2号には置いていないはずの塗料を、わざわざ危険を冒して持ち込んでこんなことをしてる。ってことは、警告文を書くこと自体が目的である可能性が高いと思うんです」

 

「なるほど……一理あるな」

 

 小吉の言葉に、ドナテロは神妙な顔で聞き入った。ティンやテジャスの言葉を思い出し、自分の頭の中で整理をつづけながら小吉は話を続ける。

 

「警告文は俺達に地球へ帰るように……いや、俺達が()()()()()()()()()に警告している。内容自体は一見信じられないようなのも多いですけど……仮に俺達を騙すことが目的なら、もっとばれないような嘘をつくと思うんです」

 

 小吉が壁に書かれた文字に目を向けてそう言った。

 

『火星には怪物がいる』

 

 その文の内容は確かに、嘘にしてはあまりにも稚拙すぎた。もしも彼らを騙すつもりであれば、もう少し現実味のある嘘をつくべきだろう。厳重な警備をかいくぐってバグズ2号に潜り込んだ密航者が、その程度のことにまで頭が回らないはずがない。

 

「まぁ内容の真偽は分かりませんけど……少なくとも、今まで密航者は姿を隠して警告文を書き続けてきた。寝首をかかれたりしたこともないですよね。だから……あー、何て言えばいいか……」

 

 小吉が言葉に詰まり、困ったような表情で頭をかいていると、隣にいた奈々緒がポツリと呟いた。

 

「……話せばわかる?」

 

「そう、それ!」

 

 ナイス、と言わんばかりに小吉が奈々緒を指さした。

 

「七日間、密航者が俺達を傷つける機会はいくらでもあったのに、未だに誰も怪我をしていない。俺には、密航者がそこまで危険な奴には思えないんです。多分、何か理由があるはずなんです……いや、だからどうしろっていうことではないんですけど」

 

 小吉の説明は確かに筋が通っていた。状況証拠しかないために確信こそできないものの、彼の言葉には説得力がある。

 

「分かった、頭の中に置いておく。少なくとも狂人の類ではないだろうから、場合によっては説得も視野に入れて動くよう皆に伝えておく。だが、相手が説得に応じなかったり、攻撃をしてきた場合には、先ほどの指示通り拘束しろ。いいな?」

 

 乗組員14名の命を預かる艦長として、最大限の譲歩であった。小吉はそれを理解し、ドナテロに頭を下げた。

 

「ありがとうございます!」

 

「ああ。さあ、2人とも行くんだ。俺も艦内の捜索に移る」

 

 ドナテロがそう言うと小吉はもう一度礼を言い、奈々緒を伴って自身も密航者の捜索に向かった。一人残されたドナテロは、壁に書かれた文字を見て考え込む。

 

 ――密航者は身長120cm程度の子供、警備をかいくぐってバグズ2号に潜り込むだけの知能がある。

 

 彼の脳裏に一瞬だけ、一年程前に知り合った金髪の少年の顔がよぎる。彼ほど頭が良ければ、あるいは――。

 しかし、ドナテロはその思考を即座に打ち消した。そんなことがあるわけない。ただの考えすぎだろうと。

 

 頭を振って思考を切り替えると、ドナテロも密航者発見のためにバグズ2号内部の捜索を開始した。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「さっきはフォローしてくれてサンキューな、アキ。本当に助かった」

 

 バグズ2号の倉庫内に積み重なる段ボールの陰を覗きこみ、密航者が隠れていないかを確認しながら小吉が言った。

 

「んー、別にいいよ。あんたの尻拭いは慣れてるから、今更よ今更」

 

「ウホッ!?」

 

「冗談だからさっさと野生から帰ってこい、ゴリラ」

 

 小吉が衝撃を受けた表情で奈々緒を振り返るも、彼女は見向きもしないでそう言った。

 

「それに、さっきアタシが言ったのは昔のあんたの受け売り。だから、感謝するなら昔の自分にね」

 

「俺?」

 

 どうやら小吉は覚えていないらしく、頭の周りをクエスチョンマークが飛び交っている。そんな彼に、奈々緒は探索の手を休めることなく、なるべく素っ気ない口調を心がけて言った。

 

「ほら、アタシの部屋に入ってきた蛾をあんたが捕まえた時の」

 

「あ、あー! 思い出した、あの時か!」

 

 奈々緒の言葉に、小吉が思わず声を上げる。

 

 それは、まだ彼らが小学校に通っていた時のこと。蛾が入り込んだせいで家に入れなくなった奈々緒のために、小吉が室内の蛾を捕まえたことがあった。

 その際、蛾を殺すことなく窓から逃がしつつ小吉が言った言葉が「話せばわかる」だった。

 

「はは、そんなこともあったな!」

 

「まったく、蛾相手に何言ってんだか。無駄に優しいところはホント変わんないんだから、あんたは」

 

 随分昔の懐かしい記憶を思い出し、2人は笑った。一通り笑うと、小吉は何の気なしに呟いた。

 

「“情けは人の為ならず。巡り巡って自分のため”ってか。まさか、昔の俺に助けられるとはなぁ」

 

「でもさっきのあんたを助けたのは、間違いなくあの時のあんたの無駄な優しさだよ。何だかんだ言って、アタシも、それで助けられたクチだしね」

 

 小吉の呟きに、奈々緒はふと作業の手を止めると振り返った。彼女の澄んだ黒い瞳が、小吉を真っすぐに見つめていた。

 

 

 奈々緒はかつて、母親の再婚相手である父親から虐待を受けていた。暴力の痛みに苦しみ、怯え暮らす日々。そんな彼女を絶望の底から救い上げたのが、小吉だった。

 

 ――彼女の父親をその手で殺める、という行為で以て。

 

 小町小吉は確かに、秋田奈々緒を救った。

 

 それだけではない。後に発覚した父親の借金を返済するために参加することになったバグズ2号計画にまで、小吉はついてきてくれた。

 彼女の傍に寄り添い続ける義務などないのに。生存率35%のバグズ手術を受けてまで、彼は奈々緒の隣にいてくれるのだ。

 

「その……ありがとね。いっつも、アタシのことを助けてくれてさ」

 

 この言葉を、今まで一体何回口にしただろうか。そんなことを考えながら、奈々緒が言う。

 そして彼はいつだって、自分のこの言葉にはこう返すのだ。

 

「いいって。それこそ今更だ」

 

 小吉のこの言葉にも、彼女は救われてきた。

 理由はどうあれ、小吉の行為は紛れもない殺人。人によっては、彼の行いを軽蔑するだろう。

 

 それでも小吉は奈々緒が苦しい時には、共にいてくれた。

 

 辛い時には、支えてくれた。

 

 絶望の闇に飲まれそうになった時には、自らの行き先を照らす燈し火となってくれた。

 

 例え、世界中の誰もが小吉を犯罪者と蔑もうとも……奈々緒にとって、小吉はヒーローであった。

 

「あんたのその優しさはさ。何だかんだ言っていつも、どこかで誰かを助けてる。それはアタシだったり、あんた自身だったり、それ以外の誰かだったり」

 

 だからさ、と奈々緒は言葉を続けた。

 

「今回の密航者だってきっと、話せば分かる。そしたら小吉の優しさが伝わって、全部丸く収まるんだ。絶対に」

 

 確信を持ってそう言い切ると、奈々緒が笑みを浮かべた。普段はあまり見せることのない奈々緒のその表情に、小吉は思わず赤面して見惚れた。

 

「……ジロジロ見るな、バカ」

 

「んあ!? あ、ああすまん! 悪い悪い!」

 

 同じく頬を染めた奈々緒の悪態で、小吉はやっと我に返った。思いつくままに謝罪の言葉を並べながら、小吉は照れ臭さから彼女から目を逸らした。

 

 

 

「――あ」

 

 

 

 そして図らずも、目を逸らした先に彼は見つけた。ガスマスクをつけ、黒いフード付きのマントを身に纏った小柄な人物。

 

 

『バグズ2号の亡霊』――即ち密航者を。

 

 

「どうした、小吉……っ!」

 

 異変を感じ取って小吉の視線を辿った奈々緒もその姿を見て、思わず固まった。一方で密航者の方も、なぜだかすぐに逃げ出す様子もなく、じっと2人を見つめていた。

 妙に長く感じられる沈黙が、三人を包み込む。

 

「……な」

 

 実際にはわずか数秒であったその沈黙を破ったのは、小吉だった。

 

「な、ナマステー?」

 

 次の瞬間、密航者はすさまじい勢いで逃走を開始した。

 

「あっ、しまった!」

 

「何やってるんだ、バカ! 追うぞ!」

 

 奈々緒に急かされて小吉が立ち上がり、密航者から数秒遅れて2人は後を追い始めた。

 

「このアホゴリラ! 何で咄嗟に出た単語がナマステだったんだ!?」

 

「俺が聞きてぇよ! せめてアニョハセヨにしとけば!」

 

「そういう問題じゃない!」

 

 走りながら奈々緒は小吉の頭を小突いた。

 

「とにかく、話しかけてみろ! ほら、話せば分かる!」

 

「よし来た! おーい、待ってくれ君! ちょっと俺の話を聞いてくれー!?」

 

 小吉が叫ぶが、密航者は止まる気配がない。むしろ、走る速度を上げたようにすら思える。ぐんぐんと、密航者と2人の間の距離は伸びていく。

 

「あ、駄目だこれ! 話を聞く気がないっぽい! アキ、プランBでいくぞ!」

 

「諦め早っ!? というかプランAもBも知らねぇよ!?」

 

 全力で走りながらも奈々緒がツッコむと、小吉がジェスチャーで耳を貸せと伝えた。訳がわからないながら、取りあえず奈々緒は小吉に耳を寄せる。

 

「いいか、俺がこのままあいつを追いかける。その間にアキちゃんは別の道を通って奴の前に回り込んで変態しておいてくれ。んで2人で挟み撃ちの状況を作って、アキちゃんの『特性』であいつを捕まえる。あの素早さ、リーが言う通り生身でどうにかできる相手じゃない」

 

「お、おう。存外まともな作戦だな……分かった、変態すんのは死ぬほど嫌だけど、やるしかない」

 

 意外そうな顔で奈々緒はそう言うと、「見失うなよ!」と声をかけて一人廊下の角を右に曲がった。

 これでよし、と小吉は頷いて密航者を追い続ける。

 

「しっかし、速いな」

 

 誰ともなしに、小吉がぼやいた。仮にあの密航者が身長通りの年齢であったとしたら、普通ではない。まがいなりにも宇宙空間での任務に耐えれるように訓練を重ねてきた自分が全力で走っても追いつけないどころか、見失わないようにするのが手一杯などありえない事だ。

 

「追いつける気がしねえ……リーが逃げられたのも納得できるな」

 

 そんなことを口にしながら、鬼ごっこを続けること数分。ついに、その瞬間がやってきた。

 

「!」

 

 密航者が何度目かの角を曲がった先、廊下の向こう側に、奈々緒が手に注射器を握りしめて待ち構えていたのだ。

 バグズ2号の乗組員が例外なく受けているバグズ手術だが、取り込んだ昆虫の特性を本格的に発揮するためには身体の組織のバランスを崩し、肉体をベースとなった昆虫の組織で肉体を再構成する必要がある。

 彼女が今手にしているのはそのための薬品、「人為変態薬」と呼ばれる代物だ。

 

「アキ、今だ!」

 

 小吉の叫び声を受けて、彼女は手にしていた注射器を首筋に突き刺し、ピストンを押して中の薬品を自らに打ち込んだ。

 同時に、奈々緒は小さく呟く。

 

「“人為変態”」

 

 次の瞬間、彼女の体が変異を始めた。血流にのって薬品が体中を巡り、彼女の体に眠っている“ベースとなった昆虫”の遺伝子を呼び覚ます。

 瞬く間に変貌していくその様子は、さながら繭から成虫が羽化するように美しく、神秘的で、生命力に溢れていた。

 

 

 

 

――その昆虫は、唯一人間に『飼い慣らされた』虫である。

 

 約5000年程前にとあるガを改良して作られたと考えられているこの虫は、おそらく現存するすべての生物の中で最も『脆い』。

 

 餌を食すための口吻――退化して何も食せず。

 

 大空を飛ぶための翅――羽ばたけはすれど、飛ぶことはかなわず。

 

 環境適応能力――野外の草本に止まらせれば一夜にして捕食されるか、地に落ちて全滅。

 

 一切の野生回帰能力を失ってしまったこの昆虫は、自然界において最弱と嘲られることも往々にしてよくある。

 

 ――されど、その虫が紡ぐ糸は優美にして強靭。人類の歴史において改良を繰り返されたその虫は、26世紀の地球上で最も美しく、最も強い糸を紡ぐことで知られている。

 

 人と共に生き、人と共に栄え、人と共に滅びゆく虫。それこそが、秋田奈々緒のベースとなった昆虫である――。

 

 

 

 

 

 

秋田奈々緒

 

 

 

国籍:日本

 

 

 

22歳 ♀

 

 

 

168cm 54kg

 

 

 

バグズ手術ベース

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ――――――――――――クモイトカイコガ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「俺がこのまま追い込むから、蜘蛛糸蚕蛾(おまえ)特性(いと)で捕まえろ!」

 

「了解っ!」

 

 小吉の叫び声にそう返した奈々緒は、頭から櫛のように枝分かれした2本の触角が伸び、体中に純白の美しい体毛が生えていた。

 彼女が両手を合わせ、一瞬の後に離すと、手と手の間には無数の糸の束が出来上がっていた。

 

 ――古代ローマでは同量の金と同じだけの価値を持つとさえ言われた蚕蛾の糸(シルク)だが、通常は他者を拘束できる程の強度はない。人間大のカイコガが糸を紡いだところでそれは変わらず、そこまで強靭な糸を作り出すことはできないのだ。

 

 

 

 

 

 ――それがただのカイコガであったのなら、の話だが。

 

 

 

 

 

 奈々緒のベースとなったクモイトカイコガは、その名の通りクモの遺伝子を使った品種改良によって誕生した生物である。紡ぎ出す糸の強度は通常のカイコガを遥かに凌ぎ、クモのそれと同質。

 そして、クモの糸は同じ太さの鉄よりも強靭であり、鉛筆程度の太さでジャンボジェット機を止める程の強度を持つ。

 

 ――もしも仮に、人間大のクモイトカイコガが糸を紡いだのならば。

 

 その糸は自然界においていかなる者をも逃がさない、最強の拘束具となるだろう。

 

「ターゲット」

 

 奈々緒は紡ぎ出した糸をあやとりのように繰り、迫りくる密航者に狙いをつける。

 

「――捕獲!」

 

 ――次の瞬間。

 無数のクモイトカイコガの鋼糸が、密航者を捕らえんと彼に襲い掛かった。

 




【オマケ】
――小吉たちが話している倉庫の外では――

トシオ「よく見ておけ、皆の衆。あれがかの有名な“ジャパニーズ・ツンデレ”だ。普段ツンツンしてる分、デレた時の破壊力が凄い」

テジャス「なるほど……“ギャップモエ”ってやつか」

ジャイナ「これが噂の“ヒメゴト”ってやつだね」

リー「お前らみたいなのを“デバカメ”っていうんだぜ。いいから密航者探せ」


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第5話 THE PURPOSE 目的

 クモイトカイコガの糸が、密航者を前後左右から包囲する。体が小さな密航者であっても逃げられない程に、その包囲網は綿密。もはや密航者は袋の鼠――否、クモの巣にかかった虫のようなものであった。

 

「ターゲット、捕獲!」

 

 奈々緒が無数の糸のうちの一本を思い切り手繰り寄せた。他者から見れば違いが判らないが、奈々緒は一本一本の糸を把握していた。彼女が今引っ張ったのは、包囲網を縮めるためのもの。

 これで密航者をとりまく包囲網は一気に収束し、逃げ場をなくした密航者を雁字搦めに拘束する――はずだった。

 

 

  ギリッ

 

               ギリッ

 

                           ギリッ

 

 

 糸が収束を始める寸前、奈々緒の耳に何かをこすり合わせているかのような音が聞こえたような気がした。

 

 

 

                 カチッ

 

 

 

 今度は確実に聞こえた。何かがかみ合ったかのような音だ。思考が追いつくよりも早く、糸の包囲網は収束を始める。

 

 

 そして、ギュルルルルという何かの回転音の様なものが聞こえかと思うと。

 

 

 

 

 

 

 

 その直後、密航者は奈々緒の真上の天井に()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

「――なっ!?」

 

 奈々緒が驚いている間に、密航者は天井を蹴って彼女の背後に降り立つ。その速さに反して、着地音は異様なほどに静かであった。

 奈々緒が振り返った時には既にそこに密航者の姿はなく、廊下の向こうの角を曲がるところであった。角に消えていく密航者の姿を、彼女は呆然と見送る。

 

「アキ! 大丈夫か!?」

 

「あ、うん……アタシは平気……」

 

 駆け寄ってきた小吉の言葉で、奈々緒が我に返る。あまりの事態に、未だに考えが追いついていなかった。

 

「小吉……あんたあれ、どう思う?」

 

「……す、スパイダーマン的な?」

 

「否定できないのが怖いわね」

 

 苦し紛れに小吉がひねり出したその解答に、奈々緒がうめいた。彼の言葉があながち外れてはいないように思われたのだ。

 奈々緒が糸を張り巡らして標的を包囲、収束させるまでの時間は僅かに数秒。四方に張り巡らされた糸の檻をかいくぐるために密航者がとった方法は、『上方への跳躍』だった。

 天井まではざっと5、6m程の高さがある。ただジャンプをしただけでは、触れることすら不可能なはず。

 

「普通じゃない……咄嗟にそれを思い付いた判断力も、実際にそれをやってのける身体能力も」

 

 リーが取り逃がしたという時点で薄々感じてはいたが、この密航者はどうやら本格的にただの子供では――否、()()()()()ではないようだ。

 

「と、とりあえず、艦長に報告だ。さすがにこれは、動きが素早いとかそういうレベルの話じゃねえ。説得にしろ拘束にしろ、何か対策を考えないと……」

 

 小吉の言葉に奈々緒が頷き、2人は乗組員を集めてもらうためにドナテロの下へと向かった。

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

「成程……」

 

 小吉と奈々緒の報告に、ドナテロとその場にいた乗組員たちが顔をしかめた。説得ができなかったのはある程度想定内だったとしても、まさか変態をしても逃げられるとは――。

 

「すいません、艦長。私の技量不足で……」

 

「いや、気にするな。俺の見通しも甘かった」

 

 謝罪する奈々緒にドナテロがそう答える横で、乗組員の一人であるルドンが不可解そうに呟いた。

 

「だが……それほどまでの脚力を、子供が持つものなのか? どう訓練したとしても、そんな芸当ができるようになるとは思えないんだが……」

 

 彼の言葉に、その場にいたほぼ全員が頷いた。実際に自分たちがやれと言われても不可能。それを子供がやってのけるなど、逆立ちをしても無理だろう。

 

「まさか……ニンジャか!」

 

「アイエエエエ!?」

 

「ふざけてないで真面目に考えろバカ共!」

 

 悪ノリを始めたルドンと小吉の頭に拳骨を落としながら、奈々緒が怒鳴る。頭を押さえてうずくまる2人を尻目に、一人の人物が口を開いた。

 

「……バグズ手術じゃないか?」

 

 小吉、奈々緒と同じく日本国籍の乗組員、蛭間一郎(ひるまいちろう)だ。一見すると肥満体にも見えるその体を壁に預けつつ、彼は言った。

 

「バグズ手術なら、その異常な運動能力も説明がつく。バッタみてえな脚力特化の生物(ベース)なら、天井まで跳ぶこともできるだろ」

 

「! なるほど、それなら確かに……」

 

 その場にいた全員が、彼を見つめた。その視線に混じっているのは、納得と疑問が半々といったところだ。

 

「でも、どうして子供がバグズ手術なんか受けているんだ? いや、そもそもその言葉の通りだとすると、その密航者はU-NASAの差し金ってことにならないか?」

 

 全員の心中を代弁するように、小吉が一郎に聞く。バグズ手術の技術は、今現在アメリカーーつまりはU-NASAが独占しているはずだ。密航者がバグズ手術を受けているということは、必然的にU-NASAに所属している人間ということになる。

 

「知らん。だが、忍者よりは可能性はあるはずだ」

 

 一郎にそう返され、約2名が視線を逸らした。

 

「それで、一郎くん。密航者を捕まえるための、何か具体的な名案はないのかね?」

 

 下手な口笛で誤魔化そうとして奈々緒にど突き回されている小吉とルドンを眺めながら、女性乗組員のウッドが聞いた。ニヤニヤとした笑みを浮かべながら、彼女は目線を一郎に向けた。

 

「ないな」

 

「あり? 一郎くんの家って11人兄妹の大家族じゃなかったっけ? 何かないの、こう……動き回る弟たちをささっと捕まえる系のテクがさ?」

 

「忍者に間違われるほどアクロバティックな動きをする弟妹はいないからな」

 

 無表情ながらもどこか憮然とした様子で一郎が言い返すと、ウッドが肩を竦めて話し相手を切り替えた。

 

「うーん、それじゃあ……ジャイナちゃーん、何か名案ないー?」

 

「え、私?」

 

 指名されたジャイナが意外そうに自分を指さすと、「そうそう」とウッドが人懐っこい笑みを浮かべた。

 

「う、うーん……一応、ないわけじゃないけど」

 

 指名されたジャイナがポツリとそう言うと、乗組員たちが一斉に彼女を振り返った。ドナテロが「本当か!?」と聞き返すと、彼女は自信なさげに両手を振った。

 

「あの、でもこれ、成功するかどうかわかりませんし……」

 

「構わん。どのみち、今のままでは打てる手がほとんどない。やるやらないは別にしても、お前の提案を聞いておきたい」

 

 ドナテロがそう断言すると、ジャイナはおずおずと口を開いた。

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

「いたぞ! 密航者だ!」

 

「出番だ、小吉! ティン!」

 

 角の向こうから聞こえたトシオとルドンの声を合図に、ティンと小吉は目の前に姿を現した密航者に飛び掛かった。

 いきなり飛び出してきた彼らにやや狼狽えた様子の密航者だったが、例の跳躍力を使うことで辛うじて2人から逃れる。宙返りをして彼は地面に降り立ち、そのまま別の廊下へと駆け出した。

 

「これは……確かに速いな」

 

「だろ?」

 

 ティンの言葉に小吉が答えていると、2人が駆け寄ってきた。

 

「逃げられたか……」

 

 難しい顔で呟いたルドンの肩と、トシオがポンと叩いた。

 

「気にするな。奴のニンポーはヤバかったが……これで終わりだ」

 

 クイッとメガネを押し上げてそう言ったトシオの言葉を、ティンが肯定する。

 

「ああ……この先にいるのは俺らの中でも一番運動神経があるリー。仮にうまく逃げたとしても、あるのは備品倉庫だけ。完全に行き止まりだ」

 

 ――15名の乗組員を各要所に配置。交代で密航者を追わせて、最終的に行き止まりまで誘導してから可能な限り大人数で確保する。これが、ジャイナの立てた作戦であった。

 

「散々てこずった密航者をここまであっさり追い込むとは……ジャイナさまさまだ」

 

「カザフスタンからアメリカの大学まで飛び級した頭脳は伊達じゃないな」

 

 小吉とルドンが口々に言う。結果として、彼女発案の作戦は見事に成功した。本人の知らないところでジャイナの株はうなぎ上りである。

 

「行くぞ、皆。大丈夫だとは思うが、早くしないとまた逃げられかねない」

 

 ティンの言葉に3人が頷き、密航者の後を追うように廊下を駆けだした。

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 さして時間もかからず4人が倉庫に着くと、空きっぱなしの入り口を背に倉庫内にリーが立っていた。

 

「……追い詰めたぜ、密航者」

 

 リーの言葉に4人は作戦の成功を確信する。彼らが部屋の中へと入ると、そこには案の定密航者の姿があった。ガスマスクをつけているために表情は分からないが、こちらの様子を注意深く窺っているようだ。

 

「今は俺達だけだが、直に艦長や他のやつらもここにくる。お前の負けだ、ガキ。命が惜しけりゃ大人しく投降することを勧めるぜ」

 

 ドスの利いたリーの脅しにも、しかし密航者は全く反応をしなかった。こちらを見つめるその様子は、何かを思案しているかのようにも見える。

 

「……なぁ、何でこんなことをしたんだ?」

 

 小吉が一歩進み出て、密航者に呼びかけた。責めるような口調ではなく、純粋に問いかけるような口調で、彼は言葉を続けた。

 

「何でお前はこの艦に乗って、わざわざ見つかる危険まで冒して警告文を書いた? どんなメリットがあって、こんなことをしたんだ?」

 

「……みんなが火星に行くのを、止めたかった」

 

 5人の耳に、聞き覚えのない声が届いた。くぐもってはいるが、その声は女声と聞き間違える程に高い。それが密航者の声であることは、想像に難くなかった。

 

「……何で俺達が火星に行くのを止めたかったんだ?」

 

「火星に行ったら、みんなが死んじゃうから」

 

 小吉がなおも聞くと、密航者はシンプルにそう答えた。彼の今の発言は、警告文の内容と一致していた。

 

「お前が警告文に書いた『火星の怪物』っていうのと、何か関係があるのか? 怪物って何だ? 火星人でもいるのか?」

 

「……言えない。多分、言ってもみんなは信じない」

 

 微かに俯いた密航者に、小吉とティンが顔を見合わせた。

 

「お願いだから、火星に行かないで。ボクは、皆に死んでほしくないんだ」

 

 淡々とした口調でありながらも、密航者の言葉には嘆願にも似た響きがあった。乗組員たちが思わずその言葉を聞き届けたいと思ってしまう程に、彼の言葉には強い意志がこもっていた。

 

 だが、それでも彼らは密航者の願いを聞くわけにはいかなかった。

 

「――無理だ。君が、俺達のことを思ってくれていることは何となく分かる。けど俺達は……この任務をやり遂げなくてはならない」

 

 思わず黙り込んでしまった小吉に代わって、ティンが静かにそう言った。

 

 そう、彼らがこの任務から逃げることは許されない。もはや彼らは、この任務なくして生きていくことなどできないのだから。

 

 ――バグズ2号の乗組員たちは皆、金のない者たちである。

 ある者は多額の借金を押し付けられ、またある者は起業に失敗し、またある者は家族を支えるために。

 事情は個人によって違うが、彼らはU-NASAからの莫大な報酬と引き換えに成功率36%のバグズ手術を受け、人間であることをやめた者たち。多額の金を得る代わりに、任務を絶対に果たさなければならない。

 

 例えそれが、どんなに危険な内容であったとしても。

 

「……それでも、火星には行っちゃダメだ」

 

 しかしそれでも、密航者は引き下がらなかった。頑として、彼は譲らない。

 

「お金なら、地球に帰ればボクが用意できる。それでも足りなかったら、ボクが働く。だから、今すぐに地球に――」

 

「フン……埒が明かねえな」

 

「! リー……」

 

 痺れを切らしたリーが、小吉の肩を掴んで引き戻した。

 

 密航者の言葉は、届かなかった。それはそうだろう。自分たちの手に負えない程の金を目の前の幼い子供が払えるなど、誰が信じられるだろうか?

 例えそれが事実であっても……子供の苦し紛れと思われてしまうのが関の山だった。

 

「説得は無理だ、小吉。予定通り拘束に移るぞ」

 

「け、けどよ!」

 

 食い下がる小吉に、リーが「甘ぇ」と舌打ちした。

 

「俺らの任務を思い出せ。宇宙でピクニックして帰ってくるために、俺らはクソムシになったわけじゃねえだろうが……もういい、俺だけでやる」

 

 そう言うが早いかリーは注射器を取り出し、自らの首筋に突き立てる。すぐさま、リーの体は昆虫の物へと造り変えられていった。

 

 

 

 

 

 

 ――その昆虫は、数多の生物の中でもとりわけ奇怪な防衛機能を持っている。

 

 黄色の体に褐色の斑点を持つその虫は、自然界における小さな射手である。彼が放つ弾丸の名は、ベンゾキノン。

 リーの手術ベースとなったこの虫は、過酸化水素とヒドロキノンと呼ばれる物質を体内で混ぜ合わせてベンゾキノンを合成し、超高温ガスとしてそれを敵に向かって放つことで捕食者から身を守るのである。

 

 その温度――実に摂氏100℃。

 

 最大連射回数――なんと29回。

 

 体内において複数の物質を組み合わせてガスを製造する機能、そしてそれらを噴射するための機能を同時に発達させたその虫はしばしば、ダーウィンが提唱した進化論の反例として取り上げられている。

 

 その生物は僅か2cmにも及ばぬ小さな虫でありながら、その生物は驚くほどに精密で複雑な銃をその身に宿す、炎の狙撃手でもあるのだ。

 

 

 

 

 

 

 ゴッド・リー

 

 

 

 国籍:イスラエル

 

 

 

 26歳 ♂

 

 

 

 180cm 80kg

 

 

 

 バグズ手術ベース   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ――――――――――――ミイデラゴミムシ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「手加減はしねぇぞ、ガキ」

 

 そう言ったリーの頭髪は既に触角へと変化し、両腕は黄と褐色の甲皮に包まれている。完全に昆虫の特性は引き出され、いつでも戦闘を始めることが可能な状態だ。

 

 

 

「ボクは絶対に、皆を死なせない……」

 

 

 

 臨戦態勢に移ったリーに密航者が言うと、彼の顔をガスマスク越しに睨みつけた。そんな彼の感情の高ぶりを体現するかのように。密航者の腕もまた、変異を始めていた。

 

「っ! やはり、ヤツもバグズ手術を受けていたのか!」

 

 予想通りではあったが、それでも驚愕を隠しきれずにティンが叫ぶ。いつの間に薬を使ったのかは分からないが、これでほぼ確定した。

 

 やはりあの密航者は――バグズ手術を受けている。

 

 

 

 

 

 

 ――その生物種に分類される昆虫は、多くが害虫である。

 

 動物界 節足動物門 昆虫綱 カメムシ目・カメムシ亜目。

 

『カメムシ』として知られるこれらの生物は、一般的には多くが農業に被害を及ぼす害虫である。加えて彼らは、追い詰められると悪臭を放つという特性を持つために、文字通り人々からは鼻つまみ者として扱われている。

 

 だが、一体どれだけの人が知っているだろうか。そうして蔑まれているカメムシの仲間は昆虫界でも――否、自然界の中でも、とりわけ多様性に富んでいる生物群であるという事実を。

 

 陸生と水生。

 

 肉食性と植物食性。

 

 翅の有無。

 

 毒の有無。

 

 

 多くの生物種はこれらのいずれか、あるいはどちらかに該当するのに対して、カメムシ類はこれらのいずれにも該当しうる。矛盾するこれらの特性を、近縁であるはずのカメムシ科の昆虫たちは当たり前のように持っていた。それほどまでに彼らは多様であり、多彩であり、多才であった。

 

 

 数え上げていけばきりがないカメムシの仲間たち。密航者の腕に宿っているのは、その中でも一際『地中生活』に適したカメムシの遺伝子である。

 

 

 

 

 

 

 変異を一通り終えた密航者の腕は、先ほどまでのものとは一変していた。

 

 ――可愛らしい幼児の腕は成人男性程度の大きさになり、より頑強に。

 

 ――僅かに見えていた白い肌は墨のように黒い甲皮になり、より頑丈に。

 

 変態の影響で破れた服の袖口から、密航者は筋肉質な両腕を露出させていた。

 

「……絶対に、みんなを地球まで連れて帰るんだ」

 

 漆黒の両手を握りしめ、密航者は拳を打ち合わせた。

 

「例え皆を傷つけても、そのせいでどんなに皆に嫌われても」

 

 確固たる意志を込めて、彼はリーを見据えた。

 

「必ず、助ける」

 

 

 

 

 

 

 ???

 

 

 

 ベース生物

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ――――――――――――ヂムグリツチカメムシ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




【オマケ】

ミンミン「密航者の運動神経の正体はニンジャじゃなくて、実はドラえもんの秘密道具っていう可能性が」←公式プロフィールの好きなもの:ドラえもん

フワン「ありませんよ」

ミンミン「……いや、スーパーシューズという秘密道具があってだな。密航者がそれを履いてる可能性も」

ジョーン「ありませんて」



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第6話 BATTLE 交戦

『艦長! 小吉たちが密航者の追い込みに成功しました!』

 

「本当か!? 場所はどこだ!?」

 

 携帯無線機に入ったテジャスからの通信に、ドナテロが大声で聞き返した。

 

『第二倉庫です! 小吉の他にもティンとリー、トシオとルドンが現在交戦中のはずです!』

 

「ッ!?」

 

 テジャスの報告に、ドナテロが僅かに狼狽する。しかし、すぐさま彼はそれを押し隠すと、彼に向けて指示を出した。

 

「……分かった、俺もすぐに向かう! 他の皆にも知らせてくれ!」

 

 威勢のいい了解の返事と共に通信が切断された。同時に、ドナテロは廊下を駆け出した。

 

(クソッ! はめられたか!?)

 

 事前にジャイナと打ち合わせた配置では、どこに密航者が逃げてもいいように戦闘要員は比較的ばらけさせておいたはずだ。

 戦闘経験が豊富なリーやミンミン、武術の心得があるティンと小吉、肉体が強靭な一郎、ベースとなった昆虫自体が極めて強力なルドンとトシオ。

 比較的近い位置にいた小吉、ティン、リーが一緒にいるのはともかく、フロアすら別のルドンやトシオが一緒にいるのは妙だ。それ以外の乗組員がその場にいないというのも不自然すぎる。

 

(おそらく密航者は、()()()()()()()()()()()()! そして――そんな真似をするということは、奴には何らかの『手札』がある!)

 

 ドナテロには、確信があった。そしてその確信が、彼を焦躁へと駆り立てた。脳裏に次々と浮かぶ不吉な予感を押さえつけながら、ドナテロは廊下を走る。

 

(とにかく、急いで小吉たちと合流を――)

 

「艦長!」

 

 その時、後方から彼を呼び止める声が響いた。足を動かしながらドナテロが振り向くと、彼の後を追うようにしてジョーンが駆けてくるところであった。

 

「たった今、U-NASAから通信がありました! すぐに艦長と通信を繋ぐようにとのことです!」

 

「後にするよう伝えろ! 今はそれどころじゃない!」

 

「そ、それが――」

 

 足を止めずにそう言ったドナテロに、ジョーンは少し戸惑いながらも食い下がった。

 

「通信はヴァレンシュタイン博士からです! 至急、密航者について話したいことがあると……」

 

「……何?」

 

 彼の言葉に、ドナテロは思わず足を止めた。

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 ――バグズ2号の第二倉庫内にて。

 ゴッド・リーと密航者が――すなわち、三井寺歩行虫(ミイデラゴミムシ)土亀虫(ツチカメムシ)が対峙する。

 

 一見するとこの勝負、リーとミイデラゴミムシが圧倒的に優勢に見える。元傭兵のリーと超攻撃向きのミイデラゴミムシの特性は言うまでもなく相性がいい。実際、彼らが優勢なのは紛れもない事実。 

 

 しかし同時に、彼は優勢ではあれども不利であった。

 

「……知ってるよ、その虫」

 

 密航者のその言葉は、静かな倉庫の中にやたらと響いたように感じた。

 

 

(何だ? 僅かにだが、あの子の雰囲気が変わった……?)

 

 

 密航者の変化に、ティンが違和感を覚えた。密航者の口調は先程までの淡々としながらもどこか熱のこもったものではなく、どこか冷めている素っ気ないものであるように思われた。

 戸惑う彼の前で、密航者が口を開く。

 

「黄色い甲皮に、褐色の斑点。それから両手の掌の孔――ミイデラゴミムシだよね? 分類は昆虫綱甲虫目、オサムシ上科ホソクビゴミムシ科。自分を守るために、敵に高温のベンゾキノンを吹き付ける虫だったはず」

 

「なっ……!?」

 

 密航者の言葉に、小吉たちが驚愕を顔に浮かべる。

 ()()()()()()()()()()()()()()()。それも、かなり詳細なレベルで。その事実は、覆しがたいディスアドバンテージに他ならない。

 

 知識とは武器である。それが何であるのかを知っていれば事前に対策を打ち、うまく立ち回り、時として自身に都合よく利用することすら可能だ。

 今までの行動と発言から、密航者の知能が高いことは容易に予想がつく。いくらなんでも子供相手にリーが負けるとは思えないが、それでも思わぬ方法で足元を掬われないとも限らない。

 

 小吉たちが危機感を募らせる一方、自らの特性を看破された張本人であるリーに、焦りは全くなかった。彼は爪楊枝を加えた口をニィと釣り上げる。

 

「へぇ……ミイデラゴミムシ(こいつ)を知ってんのか。なら、話は早い……火傷したくなかったら、降伏することを勧めるぜ」

 

 彼のベースとなったミイデラゴミムシの最大の特徴は、超高温のベンゾキノンの噴射にある。その威力は体長1.6mmの時点でも、蛙に火傷を負わせてしまう程。刺激臭のあるガスを独特の音と共に噴射する姿から『屁っぴり虫』とも呼ばれるこの虫だが、リーが人間大でそれを行えば『屁っぴり』などという生易しいものでは済まされない。火炎放射さながらの大爆発を引き起こし、立ちはだかる敵を焼き尽くす。

 

「そんなことしないよ。ボクは火傷なんか怖くないし……第一リーさんは今、その特性を使えないでしょ?」

 

 ――だがここは宇宙空間であり、バグズ2号の艦内。逃げ場のない密閉空間の中で『火炎放射さながらの大爆発』を引き起こすなど、自殺行為に他ならない。故に、リーとミイデラゴミムシは最大の強みであるベンゾキノンを使うことができないのだ。

 この点においても、リーとミイデラゴミムシは非常に不利だった。

 

 

 

 

 

 ――が、しかし。

 

 

 

 

 

「……それがどうした、密航者? んなことは最初(ハナ)から分かってんだよ」

 

 密航者の挑発的なその言葉にも、リーは眉一つ動かすことはない。彼はすぐさま、腰のベルトからナイフを引き抜いた。

 

「手の内がばれてる? 最高のコンディションで戦えない? ……戦場じゃあそんなのは日常茶飯事だぜ」

 

 

 

 ――この程度の不利は、リーにとって何の障害にもなり得ない。

 

 

 

 ベンゾキノンのガス噴射は、リーが戦闘時に選びうる攻撃手段の中の一つでしかない。

 例え火炎放射が封じられようとも、彼には幼少期から戦場で磨かれた戦闘経験と数々の技術がある。そしてそれらの技術は、人為変態で得られる甲虫の筋力と運動能力によって十二分に威力を発揮するのだ。

 

「どうした? 構えろよ。俺は後ろの奴らと違って甘くねぇぞ」

 

 そう言って、リーは不敵に笑った。

 

 

 

 ――脅威、いまだ健在。

 

 

 

「……」

 

 対する密航者は、何も言わずにフードの内側から三本の棒状の物を取り出した。連結式らしいそれを彼が組み上げると、漆黒の手の中にはたちまち一本の長い警杖ができあがった。

 

 

 

 

 ――古今東西、世界各地で編み出された武術は星の数ほどあるが、その中でも比較的“誰が使っても脅威になり得る”武術がある。

 

 それは、槍や杖などを用いる棒術だ。

 

 ある程度修練を積まねば実戦では使い物にならない剣術や各種格闘技に比べ、棒術は「棒状の武器」さえあれば、使い手が例え素人の女子供であっても十分な脅威となり得る。

 

 実際に日本の戦国時代には、訓練を積んだ武士が竹槍を持った農民に討ち取られる例も数多くあり、この武術がいかに強力なものであるのかを如実に示している。

 

 

 

 

「三節棍か……使えんのか?」

 

 リーがやや胡乱気な口調でそう言うと、密航者はやや憮然とした口調で返した。

 

「見てればわかるよ。ボクの棒術と……ツチカメムシの力がね」

 

 その言葉に、リーは獰猛な笑みを浮かべた。

 

「面白ェ……!」

 

 そう言うと同時に、彼はナイフを構えて密航者へと躍りかかった。

 

「やッ!」

 

 警杖による迎撃を、リーは体をひねることで躱す。続けて繰り出された斜め上への振り上げは、身を屈めることで回避。同時にリーは、密航者の彼の手を狙ってナイフを振るった。密航者はそれを警杖で防ぐと、すかさず突きを繰り出す。リーはナイフを使って攻撃の軌道を逸らした。

 

「あ、ありえねぇ……あいつ、リーと互角に渡り合ってるぞ……!?」

 

 そう呟いたルドンの頬に、冷や汗が伝う。ここまでの攻撃の応酬で、既に密航者の実力の高さが窺えた。威力よりも速さを重視した攻撃を多く繰り出し、リーに攻撃させる隙をほとんど与えていない。

 実際のところはさておき、傍から見れば密航者がリーを押しているようにも見えるだろう。

 

(大したもんだな。普通なら持て余す武器を、虫の筋力で使いこなしていやがる)

 

 密航者の攻撃を回避しながらリーは思考する。この数合の打ち合いの中で、彼は僅かに残っていた密航者への『子供』という認識を、完全に捨て去っていた。

 

 

 ――棒術は確かに、素人が使っても脅威とはなる。

 

 しかし密航者のような子供であれば本来、警杖を『完全に使いこなす』ことは難しい――否、不可能であると言ってしまっても差し支えないだろう。

 なぜなら子供の背丈と筋肉量では、武器である棒に振り回されてしまう可能性が高いからだ。

 それは才能や訓練でどうにかなるものではなく、物理的な問題であった。

 

 

 だが、彼の腕に宿るツチカメムシの筋力があれば、話は別である。

 

 

 数いるカメムシの仲間の中でも特に地中生活に適応したこのカメムシは、掘削に適した強靭な前足を持っている。当然ながら人間大ともなれば、その腕力はアリやケラ程ではないにせよ、大幅に強化される。

 密航者はこの特性によって、子供でありながら自身の倍以上ある警杖を完全に使いこなしていた。

 

 自分の力量を把握し、その上で最善ともいえる戦い方を選んだ彼に、リーは驚きを通り越して感心すら覚える。

 

「やあッ!」

 

 密航者はその小さな体からは想像もつかないような威力の攻撃を、次々とリーに繰り出していく。

 

「……なかなか悪くねぇ」

 

 攻撃を躱しながら、リーが呟いた。

 

 突き、切り上げ、振り下ろし、横薙ぎ。密航者が使う技はいずれも洗練されており、威力・精度共に一級品。バグズ手術の恩恵があることを踏まえても、子供が使う棒術としては見事なものであった。

 

 

 

 

 

「けどな」

 

 

 

 

 

 ――しかしどの攻撃も、リーの体に当たるどころか掠ることすらなかった。

 

 

 

 

 

「……お前くらいの使い手なら、戦場にはゴロゴロいたぜ」

 

 鋭い突きの軌道をナイフで逸らし、リーが挑発するようにそう言った。

 

「このッ!」

 

 全く攻撃が当たらないことに業を煮やしたのか、密航者は警杖を力任せに薙いだ。力こそあるが大振りなそれを、リーは後方に飛び退くことで容易く回避する。

 そして追撃のために密航者が一歩踏み出したその瞬間。

 

「隙あり、ってな」

 

 リーは踏み出された足を目掛けて、ナイフを投げつけていた。

 

「っ!?」

 

 出足を挫く様に飛んできたナイフを、密航者は辛うじて警杖で弾く。そして同時に、彼は自らの失策に気付いた。

 密航者がナイフの防御に警杖を振るった無防備なその一瞬。その一瞬のうちに、リーは密航者の懐に飛び込んでいたのだ。

 

「くっ!」

 

 密航者が苦し紛れに警杖を振るう。しかし、姿勢を崩された上にここまで密着されては、警杖本来の威力など出せるはずもない。彼の一撃は、あっさりとリーの左手に受け止められてしまった。

 

「勝負ありだ、ガキ」

 

 静かにそう言って、彼は黄色い甲皮に包まれた右腕を振り上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――リーにたった一つ誤算があったとすれば。それは彼が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「がッ……!?」

 

 バチバチッ! という油が弾けるような音。それと同時に、リーが片膝をついた。

 

「なっ!?」

 

 小吉が驚きの声を上げる。何が起こったのか、理解できなかった。たった今まで、戦闘の流れは完全にリーにあったはずだ。なのになぜ、彼が()()()()()()()()

 

「ぐっ……! テメェ……その武器、ただの棒じゃねえな……!?」

 

 頬に冷や汗を伝わせながら、リーが唸るように言った。

 

 

 

 

 

 ――U-NASA支給、対人特殊電気警杖『スパークシグナル』

 

 

 

 

 

 U-NASAとその支局に支給される、防犯用具の一つである。その見かけはなんてことのない、ただの鉄製の棒。だがこの武器には、ある特殊な機能があった。

 

 それこそが、たった今リーを無効化して見せた電気ショックである。

 

 内部と先端部分がスタンガンと同様の造りになっているこの武器は、手元のスイッチを押すことで対象に電気ショックを与える。これを用いれば非力な研究員であっても、ある程度離れた位置から暴漢を無力化し、自らの身を守ることが可能なのだ。

 

 

 密航者が持っているものは、とある人物がそれを更に強化・改造したもの。最大電圧を上昇させ、電気出力の調整機能と組立機能が付与されたことにより、防犯用具は収納性と攻撃性に優れた『対人体改造術式被験者用』の兵器へと変貌した。

 

 

 

 

 

「最初から電撃(それ)が狙いか……!」

 

 自らを睨みつけるリーを、密航者はマスク越しに見つめた。

 そもそも密航者は、自分がゴッド・リーに白兵戦では決して敵わないことなど百も承知だった。だからこそ密航者は、チャンスを待っていたのだ。

 実力では決して勝てないであろうリーに、電気ショックを食らわせるための千載一遇のチャンスを。

 

 

 

「……ごめんなさい」

 

 

 

 密航者は小さく謝罪の言葉を口にすると、動くことができないリーの首筋に警杖を押し当て、電流を流した。

 致死性でこそないものの、その威力は人間の意識を刈り取るには十分。青白い閃光がリーの首筋に走り、彼はそのまま床へと倒れた。

 すかさず密航者は、懐から取り出した手錠でリーの両腕を拘束する。

 

「う、嘘だろ……! リーがやられた!?」

 

 トシオが悲鳴にも似た声を上げた。他の3人にとっても、目の前の光景は俄かには信じられないものであった。呆然とするのも無理はない。

 

 思わず立ち尽くす小吉たちに、拘束を終えた密航者が向き直った――その時。

 

 

 

 

 

 

  ギリッ

 

 

 

 

 

               ギリッ

 

 

 

 

 

                           ギリッ

 

 

 

 

 

 小吉の耳に、聞き覚えのある音が届いた。彼の脳裏に、先ほど奈々緒の糸を躱した時の密航者が見せた跳躍の光景がよぎる。

 あれがもし、攻撃のために使われたのならば――!

 

「気をつけろ! 跳ん――」

 

 嫌な予感を感じた小吉が叫ぶが、警告を発するには遅すぎた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

       ギ    ュ    ル    ル    ル    ル    !

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 何かが回るような音が聞こえた次の瞬間、密航者は小吉の背後にいたトシオに飛び掛かっていた。

 

「なっ――」

 

 悲鳴を上げる間もなく、警杖の電気ショックを浴びたトシオが崩れ落ちる。

 

「トシオ!」

 

 咄嗟にルドンが薬を取り出すも、密航者はすぐさま警杖を振るって彼の手からそれを叩き落とした。

 一瞬ルドンが怯んだその隙に彼の脇腹に警杖を当て、密航者は電気ショックを流し込む。一瞬ルドンの体は一瞬ビクリと痙攣すると、力なく床へと倒れこんだ。

 

「このッ!」

 

 密航者目掛けて、小吉が咄嗟に拳を振り下ろす。

 変態こそしていないものの、小町小吉は空手の有段者。その一撃が当たれば、例え人為変態をした人間であっても無傷では済まないだろう。

 

 しかし、それはあくまで『当たれば』の話である。先ほどまでリーの本気の攻撃を捌き続けていた密航者にとって、殺意のない攻撃など牽制にもならない。彼の攻撃を難なくかわすと、密航者はすかさず小吉目掛けて警杖を振るった。

 

 

「しまっ――」

 

 

 背の低い密航者を攻撃するため、慣れない態勢になっていた小吉はそれを避けることができない。苦し紛れに小吉は左手で胴体部を庇い、全身を襲うであろう電気の熱と痛みに備える。

 

 

 

 

 

「    シ   ュ   ッ   !    」

 

 

 

 

 

 しかし次の瞬間、そんな掛け声が聞こえたと同時に、密航者の手から警杖が弾き飛ばされた。

 

「っ!」

 

 驚きの声と共に密航者がそちらに目を向ける。その視線の先には、蹴りを放った姿勢のままで立っているティンの姿があった。その隙に小吉がすかさず態勢を立て直す。

 一連の僅かな時間の間に密航者の脳は回転し、ティンの繰る技術の正体を探っていた。

 

(キックボクシング? ちがう。あれは、もっと蹴り技中心の構え……)

 

 脳内で情報を照合させていき、やがて彼は一つの可能性に思い至ったのは、小吉が態勢を立て直したのとほとんど同時だった。

 

「――ムエタイ!」

 

 一秒とかからず導き出された結論に、密航者はすぐさま気を失っているルドンとトシオの襟首を掴んで後方へと跳躍した。2人の体を引きずるようにして、倒れこんでいるリーの元まで撤退する。

 

 目の前の小吉に気を取られていたとはいえ、生身で変態した自身の腕から警杖を弾き飛ばす程の威力の蹴りを、ティンは繰り出せる。先程は運良く追い込めたが、小吉もおそらくはティンと同程度の実力者であるはず。

 密着した状態で武術に精通した二人を相手取るのは分が悪い、と密航者は判断したのだ。

 

「引き際も弁えている、か……」

 

 こちらを警戒しながらもルドンとトシオの拘束を進める密航者を見つめ、ティンが呟いた。2人に手錠をかけていくその手つきも慣れたもので、瞬く間に2人は手錠で身動きを封じられた。

 運動神経がいいだとか、頭の回転が速いだとか、そう言った言葉だけでは表しきれない手強さを、密航者は持っていた。

 

「助かった。ありがとな、ティン」

 

 小吉が礼を言いながら、ティンの横に並び立った。ティンの助けがなかったら、今頃自分もあそこで手錠を掛けられていたことだろう。ティンはそんな彼に「気にするな」と返すと、自分を戒める意味も込めて警告を口にした。

 

「奴を子供だと思わない方がいい。格闘技術も、判断力も……奴の戦闘能力は、俺達と比べても遜色ない」

 

「そうだな。さっきので痛いほど理解したぜ、手加減してどうこうなる相手じゃないってな」

 

 ティンの言葉に、小吉が頷く。既に3人が倒された。本気を出さなければ、小吉とティンであっても敗北しかねないだろう。

 小吉とティンは注射器を取り出し、自身の首筋に突き立てた。骨肉が造り直される音と共に、2人の体はベースとなった昆虫の特性を反映した姿へと変化していく。

 

「2人がかりでやるぞ、小吉」

 

 変態を終えたティンは、静かに小吉にそう言った。彼の四肢は黄緑色の筋繊維と外骨格に包まれ、とりわけその両脚は、人間である時に比べると遥かに筋肉質で強靭なものへと変化していた。

 

 

 

 

 

 ティン

 

 

 

 国籍:タイ

 

 

 

 21歳 ♂

 

 

 

 179cm 68kg

 

 

 

 バグズ手術ベース   

 

 

 

 

 

   ―――――――――――― サバクトビバッタ ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「ああ……密航者を拘束して、あいつらを助けるぞ!」

 

 小吉はそう答えると、腰を落として構えをとる。彼の眼元には紫の隈取が表れ、その両腕はまるで蜂の腹部のような形状へと変化していた。鮮やかな黄と黒による縞模様は、まるで自身の危険性を敵対者に知らしめているかのようだ。

 

 

 

 

 

 小町小吉

 

 

 

 国籍:日本

 

 

 

 22歳 ♂

 

 

 

 187cm 87kg

 

 

 

 バグズ手術ベース   

 

 

 

 

 

  ―――――――――――― “日本原産” オオスズメバチ ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オオスズメバチとサバクトビバッタ……」

 

 ボクなんかで勝てるかな、と。

 

 密航者はそんなことを考えながら、足元に転がっていた警杖を拾い上げる。彼は警杖を2人に見せつけるように振り回し、それを突き出すようにして構えた。

 

「だけど、負けられない。絶対に……勝たなくちゃ」

 

 言い聞かせるように密航者はそう呟くと、彼は2人に向かって飛び掛かった。

 

 

 

 

 




【オマケ】

密航者「知ってるよ、それ――へっぴり虫だよね」

リー「おい、何で俗称の方で呼んだ」

密航者「ゴミムシの仲間に分類される」

リー「悪意のあるはしょり方やめろ」

密航者「能力は、高温のおならを相手に吹き付けること」

トシオ&ルドン&小吉「「「ぶふぁっ!」」」

リー「ぶっ殺すぞテメェら」


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第7話 TRINITY PRODIGY 三位一体

 風切り音と共に、眼前に警杖が迫る。小吉はそれを躱すと左手を体の前へと突き出し、右手をあばらの下へと引いた。

 それは空手における基本技、『正拳突き』の構え。カウンターを予感した密航者は、咄嗟に警杖で防御の姿勢をとった。

 

「はッ!」

 

 覇気のある掛け声と同時に、密航者目掛けて小吉が下段突きを放った。警杖と拳がぶつかる鈍い音が倉庫の中に反響し、空気を震わせる。

 

 殺害が目的ではないため、小吉はオオスズメバチ最大の武器である毒針は出していない。しかし、小吉自身の技量とオオスズメバチの怪力も合わされば、密航者にとってはそれでも十分に脅威であった。例えツチカメムシの特性で腕力が強化されていようとも、子供の力で防げるものではない。

 

「うわっ!」

 

 密航者は削ぎきれなかった威力を相殺するため、後方へと跳んだ。空中で一回転して地面に着地し、更に数十cm程滑ってようやくその体が止まる。

 

「くッ!」

 

 凄まじいプレッシャーが、密航者の体に襲い掛かる。彼は首を振って恐怖を打ち払うと、小吉に向けて警杖を構え直した。それを見た小吉も、再び正拳突きの構えをとる。その背後には、極東の島国で最も人を殺めている昆虫の幻影が揺らめいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アフリカに、キラービーと呼ばれるミツバチがいる。

 このハチは『キラー』の名を冠する通り、自らの縄張り(テリトリー)に侵入した者を僅か0.5秒で敵と見なし、何万匹もの大群で襲い掛かる非常に凶暴な虫である。その凶暴さたるや、1970年代までにブラジルで200人以上の人間を襲って死亡させたという報告もあるほどだ。

 

 だが、たったの数十匹で、数十万のキラービーのコロニーを壊滅させることができる昆虫がいる。

 

 それこそが、小町小吉のバグズ手術のベースとなった生物『オオスズメバチ』。日本に生息するこの蜂は、オレンジの体に黒い縞模様を持つ世界最大のスズメバチである。

 

 その毒針、極めて頑丈。標的である黒い生物が死に絶えるまで、何度でも突き刺すことができる。また、何十種類もの化学物質によって合成された毒は、26世紀現在でも完全な解毒薬が作られていない。

 

 その筋力、極めて強力。身の丈以上の獲物を易々と持ち上げたうえで時速40kmで飛翔し、巣へと持ち帰る。場合によっては、1日の間に100km以上を移動することもあるという。

 

 その性質、極めて残忍。獲物である昆虫のみならず、天敵であるクマや人間にも果敢に襲い掛かる。時として同族である他のスズメバチをも襲い、殺し合いの果てに自分たちの糧とする。

 

 アフリカではキラービー対策のためにこの蜂を使うという案も出たらしいが、ついぞ実行されることはなかった。なぜか?

 あまりに凶暴なこのオオスズメバチはキラービー以上の被害を周辺へと与え、生態系を破壊してしまうと結論付けられたからである。

 

 ――オオスズメバチ。

 

  昆虫界でも指折りの強さと凶暴性を誇る、危険生物である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――真っ向からでは、勝負にならない。

 

 密航者はすぐにそれを悟った。そもそも、彼のベースとなっているツチカメムシは、本来戦闘向きのベースとは言い難い。穴を掘るための筋力を無理やり戦闘に転用しているだけの彼が、最初から獲物を狩ることに特化したベースを持つ小吉と真正面からぶつかればどうなるかなど、火を見るよりも明らか。

 

 だから彼は、一計を弄する。

 

「ふっ!」

 

 息を鋭く吐きながら、彼は()()()()()()()。続いて密航者は跳んだ先にあった壁を足場に、小吉の背後の壁目掛けて再び跳躍。

 

(――背後に回り込んで、電撃を叩きこむ!)

 

 密航者は小吉の背後の壁に着地すると、さながら打ち出された弾丸のように小吉目掛けて飛び出した。

 

(とった!)

 

 未だに反応できていない小吉目掛けて、密航者は警杖を振りかぶった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その昆虫最大の特徴は“脚力”にある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 突如、密航者の真横から凄まじい重圧が押し寄せた。

 

 ――狩られる(やられる)

 

 密航者の本能が警鐘を鳴らす。咄嗟に彼は振りかぶった警杖を地面に打ち付け、棒高跳びの要領で自らの軌道を上へと切り替えた。

 

 直後。

 

「シュッ!」

 

 一瞬前まで密航者がいた空中を、ティンの蹴りが通過した……否、そんな生易しいものではない。彼の蹴りは、先ほどまで密航者がいた空間を引き裂いていた。

 

 密航者の腕から警杖を弾き飛ばした蹴りも相当な威力であったが、変態した状態で放たれた一撃はその比ではない。あれを受けていれば、今頃密航者の意識は闇の中へと沈んでいただろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その虫は学名をSchistocerca gregaria、和名を“サバクトビバッタ”という。

 

 バッタと言えば一般に広く知られた虫であるが、この昆虫にはいくつかの大きな特徴がある。

 その中で最も有名なものは、先にあげた脚力であろう。体躯に対して異様に大きく発達したその脚は、非常に大きな跳躍力を生む。

 その勢いの凄まじさは、人間大になれば九階建てのビルを一息に跳び越えてしまう程とも言われており、その脚力は昆虫のみならず、あらゆる生物の中でもトップクラス。

 

 おまけにその脚は可動性に優れ、跳べる方向は変幻自在。前方と真上は言うに及ばず、時として真横や後方にさえ跳ぶことがあるという。

 

 

 

 

 

 

 ――もしもその脚力を、ムエタイの達人であるティンが攻撃に利用したのなら。

 

 

 

 

 

 

 彼の脚から放たれる蹴りは文字通り『空間をも引き裂く』力を秘めた、一撃必殺の攻撃となるであろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ティンの一撃を辛くも躱して、密航者が再び地に降り立った。しかし、そこで彼は自らのミスに気が付く。

 

「あっ……!?」

 

 小吉とティンに、前後を挟まれたのだ。

 

 先ほどまでのように後方に跳んで逃げることはできない。天井や他の壁を経由して戻ろうとすれば、その隙に変態したいずれかに捕らえられるだろう。かといって、正面から打ち破るのは絶対に不可能。この状況では、奇襲を仕掛けることもできない。

 

「終わりだ、密航者」

 

 小吉が静かな口調で、密航者に言った。

 

「お前が俺達を倒すためにとった作戦の要は、不意打ちと電撃戦にあった。俺達の中で一番戦闘慣れしているリーを不意打ちで倒して、動揺した隙に一気に叩き伏せるつもりだったんだろう?」

 

 彼の言葉に、密航者の心臓が早鐘を打った。作戦が看破されている。その事実が、密航者の焦りに拍車をかけた。

 

 彼が小吉たちを倒すために立てた作戦は3段階からなる。

 

 まず真っ先に、リーを倒す。他の乗組員たちを動揺させるためだ。同時に、警杖のギミックがばれた場合、密航者が彼を倒すことは絶対に不可能だからでもある。これは成功した。

 

 次に大切なのが、トシオを無力化することである。一度変態されれば最後、彼のベースとなったとある昆虫の機動力に対抗する術を、密航者は持たない。リーと並んで密航者が警戒していた対象でもあったが、彼の無力化も上手くいった。

 

 そして畳みかける形で、残りの乗組員のうち2人を一気に戦闘不能にする。そうすれば、残る戦闘員は1人だけ。その状況まで持ち込めれば、彼にも勝機が生まれる。シンプルではあるが、それゆえに有効な作戦であった。

 

 しかし――

 

「だがお前はあの時、俺を仕留め損なった」

 

 ――結果として、彼は失敗した。そしてその代償は、自分よりも遥かに上の力を持つ者に変態を許し、しかも2人を同時に相手取るという形で払わされることになった。

 そしてそうなってしまったが最後――もはや密航者に、勝機は残されていなかった。

 

「諦めて投降するんだ。ここまでやっといて説得力はないかもしれないが……安全は保障しよう。約束する、お前が大人しくしてれば、俺達はお前に危害を加えない」

 

 小吉のその言葉は、密航者の折れかけた心には沁み入った。何ということだろう、攻撃を仕掛けた自分すら、小吉は気遣ってくれている。きっと彼は今までも、この優しさで何人もの人を救ってきたのだろう。その優しさに身を委ねてしまいたいと、そんな声が密航者の脳内に響いた。

 

 ゆえに、彼は口を開いた。

 

 

 

 

 

()()()()()()

 

 

 

 

 

 その言葉に含まれる彼の思いは、一体どれだけのものであったのか。

 彼が口にしたその一言に、ティンと小吉は鳥肌が立つのを感じた。密航者の声音から、決して揺らぐことのない固い意志が伝わった。

 

「ボクが、ここで止まっていいはずがないんだ。バグズ2号の皆の為にも」

 

 それは小吉にではなく、自分に向けて言った言葉であった。

 

 ゆらり、と。密航者は警杖を支えに、再び立ち上がる。今の彼を突き動かしているのは、勝算や闘志などという小奇麗なものではない。

 

「どんなに辛くても笑って耐える、強い人たち」

 

 ――それは、半ば呪いじみた覚悟。

 

「攻撃したボクのことも気遣ってくれる、優しい人たち」

 

 ――あるいは、尋常ならざる執念。

 

「ボクの大事な人が、大切に想っている人たち」

 

 彼の胸中にあるそれらが、勝機も勝算もなくした密航者の体を奮い立たせた。

 

『バグズ2号の乗組員たちを助ける』というただそれだけの想いが、密航者の肉体を支配していた。

 

「皆をこんな所で、死なせない! 死なせていいはずがないんだ! 絶対に――絶対に、死なせるもんかっ!」

 

 密航者は感情に突き動かされるまま叫ぶと、懐から注射器を取り出した。

 

「! しまっ――」

 

 ティンが慌てるも、既に遅い。密航者は手にした注射器を、首筋へと突き刺した。薬効成分が血流にのって密航者の全身をめぐり、瞬く間に密航者の姿を変化させていった。

 

 

 そして、その姿を見た小吉とティンは、驚愕を顔に浮かべる。

 

 

「何だ、あの姿……?」

 

 小吉が呟いた。思わず攻撃の構えを崩していることにも気づかず、彼らは刻々と変態していく密航者を見つめた。

 

 

 

 

 

 変態した密航者の姿は、一言で言えば普通ではなかった。

 

 通常バグズ手術の被験者が変態した場合には、その姿はベースとなった昆虫の姿を反映したものとなる。だが、密航者の姿はまるで()()()()()()()()()()()()()()()()ちぐはぐで、統一感がないものだった。

 

 腕は変わらずツチカメムシの漆黒の甲皮に包まれているが、そこには新たに青い斑模様が浮かび上がっていた。

 一方、先ほどまで外観的な変化がなかった両脚は衣類を破るほどに巨大化。腕とは対照的に、赤い斑模様が表れた白い外骨格で包まれていた。特徴的なのは両脚の付け根に表れた歯車のような器官で、連動し合うように嚙合わさってはギリギリと音を鳴らしている。

 他にも尾骶骨のあたりには繊維(ファイバー)を束にしたかのような尾が、肩には左右で色が違う角張った外骨格が、背中には透き通った水色の翅が形成されている。

 

 その姿は普通のバグズ手術では決してありえない、実に奇怪なものであった。

 

 

 

 

 

(――薬物過剰接種(オーバードーズ)か?)

 

 ティンは一つの可能性を重い浮かべたが、即座にそれを否定する。変態薬を大量に接種すると、被験者はより昆虫の姿に近づき強力な力を得ることができる。しかし、それはあくまでもベースとなった昆虫の特性が色濃く表れるだけだ。密航者の様なちぐはぐな姿にはならないだろう。

 

 そうなると、ティンが思いつく仮説は一つしかなかった。科学的に考えるのならばほとんどありえない、実に荒唐無稽な発想。

 だが状況証拠を見る限り、残されている可能性はそれしかなかった。

 

 

 

「まさかこいつ、ベースを――」

 

 

 

 

 

 

 

  ギリッ

 

 

 

 

 

 

               ギリッ

 

 

 

 

 

 

                           ギリッ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    ギ  ュ  ル  ル  ル  ル  ル  ル  ル  !  !

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――次の瞬間、ティンの目の前には警杖を構えた密航者がいた。

 

「ッは!?」

 

 ティンが声を上げたのと、密航者が床を蹴ったであろう音がティンの耳に届いたのはほぼ同時であった。

 

 彼が思考を巡らしていたこともあったのだろうが――速かった、圧倒的に。反射神経が優れている自負があるティンでも反応できないほどに、密航者の速度は速かった。その速度は、先程までの比ではない。

 

 立ち尽くしているティンを目掛け、密航者は警杖を振り下ろす。

 

「うぉっ!?」

 

 咄嗟に身体を横に逸らした直後、ティンの真横を警杖が薙いだ。警杖はティンの髪の毛を数本散らして地面を穿ち、乾いた音を倉庫内に響かせる。

 応戦するために、すぐさまティンは腰を落とし蹴りの姿勢をとった。しかし、それを見た密航者は逃げる様子も守る様子も見せず、それどころか自分から躊躇なくティンの足元へと飛び込んだ。

 

「なっ――!?」

 

 予想外の行動をとった密航者に、ティンは思わず攻撃を躊躇う。今この瞬間、この距離から蹴りを放てば、威力の抑えることができずに密航者を殺してしまうかもしれない。そんな思考がよぎり、彼の行動を一瞬だけ止めてしまった。

 

 そして密航者は、その一瞬を見逃さない。

 

「きゅるるるるる!」

 

 人とは思えない声を上げながら、彼はティンの軸足に真横から蹴りを叩きこんだ。サバクトビバッタには到底及ばないものの、その威力は強力。支えとなる脚に攻撃を叩きこまれたことで、ティンは態勢を崩した。

 

 すかさず密航者は警杖をティンに押しあてると、その先端部から青白い電流を放った。電撃を全身に流さたティンの口から、苦悶の声が漏れる。

 

「ティン!」

 

 小吉の悲鳴が、倉庫の中に響き渡った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歯車は、人類のもっとも偉大な発明の一つである。

 ごく単純な装置から複雑な精密機器に至るまで様々な発明において取り扱われ、減速や加速、回転や動力の分割など随所でその力を発揮する。

 その歴史は非常に古く、紀元前100年期には既に、天体観測のための機械の一部として使われていたという。

 

 

 

 

 だが、人類が歯車を使い始めるよりも遥か昔――太古の時代から、己の体に歯車を取り込み、それを生存のために活用している虫がいた。

 

 

 

 

 世界各地、どこにでもいる虫であるが、その幼虫は後脚の付け根に歯車を有するという変わった特徴を持つ。

 この歯車は跳躍を補助するための装置であり、ジャンプの直前に同調(シンクロ)させ、更にジャンプ中も30マイクロ秒というごく短時間でそれを回転させて調整を行うことで、より速く、より精密に跳ぶことができるのである。

 その速さは全長約1mm前後の時点で秒速3メートル、飛距離は体長の100倍近い1メートルにも及ぶという。

 

 

 大自然に与えられた摩訶不思議な機械機能を脚に宿すその生物の名は――ウンカ。学名を『Issus coleoptratus』。

 

 

 

 昆虫綱カメムシ目ヨコバイ亜目頚吻群に属する昆虫にして――多くのカメムシ同様、人々に忌み嫌われる農業害虫である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うおらあああッ!」

 

 小吉は密航者の注意を自分に引き付けるために雄叫びを上げながら、床を蹴って走り出した。しかし、密航者は振り返らない。

 密航者の背後に迫り、小吉は蜂の腹部の形状をとる右腕を大きく振りかぶる。しかし、密航はそれでも振り返ろうとしなかった。

 

「く、来るな……小吉ッ!」

 

 その時辛うじて意識を保っていたティンが、苦し気な声で叫んだ。

 

 

 

 

 

「おそらくそいつは()()()()()()()()()()()()()()()()! 退けッ! 何を仕掛けてくるか分からないぞ!」

 

 

 

 

 

 ――その警告がもう数秒早ければ、あるいは効果があったのかもしれない。

 だが、所詮それは『たられば』の話。結果として、ティンの警告は間に合わなかった。

 

「――!」

 

 

 次の瞬間――小吉が『動きを止めた』。

 

 

 否、自分の意志で動きを止めたのではない。的確にその現象をいい現わすのであれば小吉の『動きが止まった』であり、より厳密にいうのならば『動きを止められた』というのが正しいだろう。

 

「……! 何だ!? 体が……動かない!?」

 

 突如として、小吉の体の自由が利かなくなってしまったのだ。身じろぎ程度はできるものの、オオスズメバチの筋力をもってしても、満足に身動きが取れない。見えない何かが彼を捕らえ、離さないのである。

 

「ぐっ……!」

 

 自由の効かない体に鞭打ってティンが顔を上げて目を凝らすと、小吉の体に無数の何かが絡みついているのが見えた。

 すぐさま、ティンはその正体を察する。

 

「あれは……糸か!」

 

 小吉の動きを止めているものの正体。それは無数に張り巡らされた、極細の糸であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その虫について語れることは、そう多くはない。

 

 成虫になると鮮やかな黄色い甲皮と水色の透き通った翅を手に入れるその虫が、糸を利用することが確認されたのは1995年のこと。

 それがたんぱく質構造であることが確認されたのは2005年、実際に糸を出すことが知られたのに至っては2011年と、生物史においてはごく最近の出来事であるからだ。

 

 分かっているのは、その虫はユーカリの葉の裏側に葉の半分を覆う程度の網状の糸を紡ぎ、網の下で複数の成虫と幼虫が身を寄せ合って暮らしているということ。

 そして糸の詳しい出所は一切不明だが、この昆虫は捕食者から自分たちの身を守るための防衛装置として、糸を利用しているらしいということの二点のみである。

 

 先ほどのウンカ同様、カメムシ目ヨコバイ亜目頚吻群に属するその虫は、多彩なカメムシ目の中でも唯一、自分で糸を紡ぐ虫として知られている。

 

 謎多きその虫の名は“kahaono montana(カハオノモンタナ)”。

 

 ――オーストラリア固有種である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「くそッ! いつの間に……!」

 

 小吉が自身の体に絡まる糸の拘束を解こうと力を入れると、数本の糸が音を立てて千切れた。しかし、それだけだ。無数の糸から解放されるには、至らない。

 

 カハオノモンタナの糸は非常に細く、軽い。ゆえに強度という点は心許ないが、その分罠として活用した場合の隠蔽性は極めて高い。ましてや今彼らがいる倉庫内は照明もついていない暗所。小吉が張り巡らされた糸の存在に気付けなかったのは無理からぬことでもあった。

 

 そして強度が心許ないとは言っても、防御用に使われる糸がとことんまで脆いはずもない。何本もまとめて用いれば、カハオノモンタナの糸は即席の拘束具としての役割は十二分に果たす。

 

 

 そんな代物にがんじがらめに捕らわれてしまったとあれば、例えそれが人間大のオオスズメバチであっても、瞬時に脱出することは不可能。ある程度の時間を稼ぐことはできる。

 

 そしてそれだけの時間があれば密航者が彼を戦闘不能にするのには十分。動けないティンの手足を手錠で拘束すると、密航者は小吉へと向き直った。

 

 彼はは漆黒の両腕で警杖を大きく振りかぶり、両脚の歯車を回して身動きのとれない小吉へと狙いを定める。

 

 そして――

 

「 き ゅ る る る る る る ! 」

 

 

 

 

 

 ――ツチカメムシ。

 

 

 

 ――ウンカ。

 

 

 

 ――カハオノモンタナ。

 

 

 

 

 

 三匹の害虫の遺伝子が、囚われの小吉(オオスズメバチ)へと襲い掛かった。

 

 




【オマケ】

小吉「腕力強くてジャンプ力あってオマケに糸出せるとか反則だろ! どこにカメムシ要素があるんだよ!?」ギチギチ

密航者「……カメムシらしく、普通に臭いで攻撃しようか?」

小吉「すいませんでしたァ!」



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第8話 THE WISH 願い

 密航者が小吉の脳天目掛けて、警杖を振り下ろす。1秒と絶たずに全身を襲うであろう灼熱と痛みを予感し、小吉は思わず目を瞑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――1秒、2秒、3秒。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時間が刻々と過ぎていく。しかし、いつまで経っても小吉の体を電撃が駆け巡ることはなかった。不思議に思った小吉が目を開けると、そこに奇妙な光景が広がっていた。

 

「……何だ?」

 

 彼の視界に映ったのは、警杖を振り下ろしたままの姿勢で固まっている密航者。そして頭上まで迫りながらも、未だに自身の頭に振り下ろされきっていない警杖であった。

 

 密航者が情けを掛けたのか? 否、そんなことはありえない。既に小吉以外の四人を倒した密航者が、今更小吉だけを見逃すはずもない。

 

 では、なぜ彼は未だに無事なのか? ――その答えは実に単純。

 

 

 

 密航者の攻撃が阻まれたのである。

 

 張り巡らされた、無数の糸。その中にたった一本だけ紛れ込むようにして配置された、別の昆虫の糸によって。

 

 

 

「小吉! 大丈夫!?」

 

 事態を飲み込めずに困惑する小吉の耳に、聞きなれた声が響いた。

 

「その声、アキか!?」

 

 小吉が首だけを動かして振り向くと、そこには人為変態によって触角と体毛が生えた奈々緒が立っていた。

 右手の人差し指から一本のシルク糸を出し、それを左手で引いてピンと張っている。その糸は小吉と密航者の間に伸び、振り下ろされた警杖をすんでのところで食い止めていた。

 

「奈々緒だけじゃないぞ」

 

 と、凛とした女性の声が響いた。密航者が目を向け、扉の近くに4人の人影を確認したその瞬間、倉庫内に蛍光灯の明かりが灯った。突然明るくなった室内に、密航者の目が一瞬眩む。

 

 数秒後、光に慣れて視界がはっきりとした密航者の目には、変態して両腕が鎌状になったミンミンと、密航者に向けて防犯用の機関銃を構えるフワン、テジャスの姿が映っていた。

 

「副艦長! それに、お前らも!」

 

「災難だったな、小吉」

 

 ミンミンはそう言いながら小吉に近づくと、彼に絡みつく糸を鎌で切り払った。糸の拘束から解放され、小吉は即座にバックステップで密航者から距離をとった。

 

「サンキュー、アキ。また助けられたな」

 

「いいって。あんたが無事でよかった」

 

 それよりも、と奈々緒は警戒している様子を隠そうともせずに、密航者を見つめた。

 

「あんたも含めて、うちの戦闘員が揃いも揃ってやられてるって、どういうこと? アイツ、そんなにやばい昆虫がベースなの?」

 

「いや、ベースだけならそこまででもないんだが……通電式の武器を使う上に、手術ベースが三つもあるみたいでな。次々に新しい技を繰り出してくるんだ」

 

「っはあ!? ちょっと待て、何だそのチートは!?」

 

 小吉の言葉に、奈々緒が素っ頓狂な声を上げた。後ろで銃を構えている2人も、驚きで思わず銃を落としそうになっている。それはそうであろう。バグズ手術の複数ベースなど、聞いたこともなかったからだ。

 確かに、人によっては複数の昆虫が手術ベースとして適合する場合もある。となれば、理論上は複数の昆虫を使ってバグズ手術をすることも不可能ではないが、それはあくまでも理論の話。

 一種類の昆虫の遺伝子細胞を肉体に定着させるだけでも骨が折れるのに、それを三種類もともなると、手術が成功する度合いは限りなくゼロに近いだろう。

 

 しかしその話を聞いたミンミンはさして驚くでもなく、少し意外そうな顔をしただけだった。

 

「なるほど……そのうち誰かが考案するだろうとは思ってたけど、まさかもう実用の段階とは」

 

 けど、とミンミンが密航者に向かって言い放った。

 

「見たところ、どれも戦闘系のベースではないな。例え手術ベースを3つも持っていたとしても、これだけの人数差を覆すだけの爆発力を君は持っていない。違う?」

 

 その目には、確かな確信がこもっている。ブラフやハッタリで誤魔化すのは不可能だと悟り、密航者は作戦を切り替えることにする。

 

「……確かに、ここにいる皆を倒すのは難しいよ」

 

 ミンミンの揺さぶるような言葉を、密航者は肯定した。

 彼女の言う通り、密航者はここから全員を倒して一発逆転を決めることができるような手札を持ってはいない。それは、紛れもない事実。

 

「でも、戦って勝てないなら、戦わなければいい」

 

 ――しかし、密航者は冷静さを失っていなかった。変態薬を打ったことで感情が高ぶり、攻撃性を増加させながらも、彼の知性は健在であった。

 先ほどティンと小吉に挟み込まれた時とは違い、打てる手はまだ残されている。それを、密航者はきちんと把握していた。

 

「こっちには人質がいる。ティンさんやリーさん、ルドンさんにトシオさん。この人たちを傷つけてほしくなかったら、今すぐデイヴス艦長にこの船を地球に戻させて」

 

 

 ――人質。それが、密航者に残された切り札だった。

 

 これは本来ならば戦闘員全員を拘束し、正面から奪還されてしまう不安要素を完全に潰してから使おうと思っていた手段。だが先程はそれに固執した結果、本来使う予定がなかった薬を持ち出さなければならない程に、彼は追い込まれた。

 ゆえに今回、彼は早い段階でこの札を切った。

 

 

 

 ――だが。

 

 

 

 それを聞いても、ミンミンは顔色一つ変えなかった。

 彼女だけではなく、こちらを見据える小吉や奈々緒、他の乗組員たちも、誰一人として焦った様子がない。

 密航者は内心で首を傾げる。

 

「……もしかして、本気にしてない? 確かにボクは皆を絶対に殺さないけど、それでも――」

 

「一つ聞きたいんだが」

 

 密航者の言葉を遮るように、ミンミンが口を開いた。

 

「その人質とやらは、一体どこにいるんだ?」

 

「? 何を言って……」

 

 密航者は背後を振り向き……そして、言葉を失った。

 

 

 

 

 

「何だ? どうした、密航者……ハトが豆鉄砲を食らったような顔してよ?」

 

 

 

 

 

 そこには、ゴッド・リーが立っていた。その手にはめたはずの手錠が破られ、彼の両腕は自由になっていた。

 彼だけではない。ティン、トシオ、ルドン。念入りに拘束しておいたはずの戦闘員たちが全員、いつのまにか解放されて自由の身となっていた。

 

「う、嘘だ……!」

 

 密航者が、上ずった声で叫んだ。

 

「甲虫の筋力でも、その手錠は壊せないように設計されてるのに――!」

 

 彼らの拘束に使っていたのは、U-NASAが開発した特殊な手錠。暴走したバグズ手術被験者を拘束するために造られたその手錠は、材料に特殊な合金が用いられ、専用の鍵でしか開けることができないもの。

 

 だがその手錠は既にその役目を果たしておらず、バラバラになって彼らの足元に転がっていた。

 

(一体どうやって……?)

 

 そんな密航者の思考を見透かしたように、ティンが言った。

 

()()()()()()。そこにいるルドンの特性でな」

 

 指さしたティンにつられるようにして密航者が目を向けると、そこには変態を終えて立っているルドンの姿があった。額から長い触角を伸ばし、顎の両脇から更に生えた甲虫の顎は、ベースとなった昆虫が肉食性であることを顕著に表していた。

 

 

 

 ルドンの手術ベースとなった昆虫は、危険が迫ると『メタアクリル酸』と『エタアクリル酸』と呼ばれる2種類の酸を噴射して身を守る生態を持つ。

 この2種類の化学物質において特筆すべきは、金属に対する強い腐食性。

 変態したルドンはすぐさまこれを分泌、全員の手錠を溶かしたのである。いかに丈夫な合金であろうとも、腐食による劣化には勝てなかったのだ。

 

 

 

 

 

 ルドン・ブルグズミューラー

 

 

 

 

 

 バグズ手術ベース       “ マイマイカブリ ”

 

 

 

 

 

「で、でも! 拘束した時に、ボクは確かに貴方たち4人から薬を取り上げて――」

 

 と、その時。密航者の脳裏を、小さな違和感がよぎった。

 

(……4人?)

 

 何の気なしに口にしたその一言は、奇しくも密航者に別の事実を認識させた。

 

(――そうだ! 小吉さんにとどめを刺す直前にここにきた人は、奈々緒さん以外に4人いたはず!)

 

 そう、蛍光灯が灯る寸前に密航者が見たのは四人分の人影。ミンミン、フワン、テジャス……では、あと一人は?

 

 そこまで考えた時、密航者の頭の中で全てが繋がった。

 

「迷彩能力……! マリアさんのニジイロクワガタ!」

 

 密航者の絞り出すように呟くと同時に、彼の視界の隅で空間がぐにゃりと歪んだ。その直後、今まで誰もいなかったはずのその空間に、変態したマリアの姿が表れる。その両腕部を、金属光沢にも似た輝きを放つ眩い盾へと変化させて。

 

 

 

 

 

 マリアの手術ベースとなったニジイロクワガタが持つメタリックな色調の甲皮には、天敵から身を隠すための迷彩としての機能が備わっている。

 

 本来は木々に紛れて敵の目を欺くためのものであるが、むしろ明るい光源がある場所においてマリアの甲皮はその真価を発揮する。まるで鏡のように光を反射・屈折させることで、森林以上に高い隠密性を発揮できるのだ。

 

 

 

 

 

 マリア・ビレン

 

 

 

 

 

 バグズ手術ベース  “ ニジイロクワガタ ”

 

 

 

 

 

 

「すまない、マリア。助かった」

 

「どういたしまして。それよりも皆、体に不調はない?」

 

 ティンの言葉に、マリアは心配そうな表情を浮かべた。彼女の両手には、変態薬と医療用アルコールが握られている。おそらく、気を失ったリーたちを起こすため、気つけ薬として使ったのだろう。

 

「ああ、問題ない」

 

 気遣うマリアにティンが言うも、さすがに電撃を受けた直後ということもあって彼の足元はおぼつかない。額には脂汗が浮いている。

 

「変態した副艦長と銃を持った2人で陽動、その隙にマリアが蛍光灯の光を使った迷彩で近づく。でもって俺らを叩き起こし、変態したルドンの能力で俺達を解放、か……即席にしては大した作戦だな、副艦長」

 

 リーはそう言いながら、ティンをその背に隠すようにして立った。今の弱っている彼が再び密航者に倒され、人質になってしまうのを防ぐためである。リー本人も全快というわけではないが、最初に攻撃を受けたのが幸いして、既に戦闘が可能な程度には回復していた。

 

「中国軍時代の賜物だ。上手くいくかは賭けだったけど……成功してよかった」

 

 リーの言葉に、ミンミンがほっと安堵の息をつきながらそう言った。

 

 この作戦はかつて彼女が中国軍に所属していた際に、敵を奇襲するのによく使っていた手法を応用したものだ。もっとも最前線で軍が人質を取られた場合、大抵は敵軍諸共吹き飛ばしてしまうので人質の奪還に使ったことはなかったのだが。

 

「さて、頼みの綱の人質はもういないぞ。これが最終通告だ……今すぐ投降しろ、密航者」

 

 密航者は、自分の呼吸が浅くなっていくのを感じた。緊張と恐怖で四肢が震えるのを感じる。状況は最悪も最悪――今度こそ、完全な手詰まりであった。

 

「……それでも、諦めない」

 

 しかし、密航者はそれでも抗う。例えどんなに希望が見えなくとも。今ここで彼が諦めれば、その先には更なる絶望しかないのだから。

 密航者は警杖を強く握りしめると、刺突の構えをとった。それを見た乗組員たちも、各々迎撃のための準備をする。

 

 その空気は、まさしく一触即発。

 

 先手を取ることで少しでも優位に立つべく、密航者が足に力を入れた。彼の脚の歯車が回転を始め、ギリギリという音が倉庫内に響く。

 

「来るぞッ!」

 

 小吉の声に、全員が一斉に身構えた――その瞬間。

 

 

 

 

 

 

「総 員 、 注 目 ッ !」

 

 

 

 

 

 

 よく通る太い声が、倉庫の中に響いた。その声に、乗組員の実ならず密航者までもが思わず攻撃を中断して、声の聞こえた方へと目を向ける。

 

「艦長!」

 

 そこにはバグズ2号の艦長、ドナテロ・K・デイヴスが立っていた。

 

「遅れてすまない。皆、怪我はないか?」

 

 ドナテロはそう言いながら、倉庫の中へ足を踏み入れた。ミンミンは油断なく両腕の大鎌を構えたまま、視線だけを彼に向けて乗組員の状況を報告する。

 

「死者は出ていません。小吉以外の最初に交戦していたメンバーは一度倒されましたが、目立った外傷はなし。本調子ではないようですが、戦闘の続行も可能です」

 

「そうか……よくやってくれた、お前ら」

 

 ドナテロはねぎらいの言葉を口にすると、乗組員たちに取り囲まれている密航者に目を向けた。やや威圧的なその様子に、密航者が僅かにたじろいだ。

 

「さて……随分と引っ掻き回してくれたな」

 

「……デイヴス艦長」

 

 密航者がそう呼びかけると、ドナテロの雰囲気が変わった。表情は一貫して変わっていないが、彼の纏う空気が厳格なものから、どことなく寂しそうなものへと変わる。

 

「デイヴス艦長、か……おかしいな。俺が知っているお前は、いつも俺のことを『ドナテロさん』って呼んでくれているはずなんだが」

 

 ドナテロが優しくもはっきりとした口調でそう言うと、密航者は体を強張らせた。その一言は、ドナテロが自分の正体に感づいていなければ出てこないはずの言葉であったからだ。

 

 

 

 

 

 

 

「――そうだろう、イヴ?」

 

 

 

 

 

 

 

「ばれちゃったんだ」

 

 正体を隠し続けるのは不可能。そう判断した密航者は、自らガスマスクを脱いだ。その下から表れたのは眩い黄金の髪と、雪のように白い肌を持った少年の顔。

 

「……やはりお前だったか」

 

 見間違えるはずもない。密航者の正体はこの一年の間、ドナテロが何度も予定の合間を縫って会いに行っていた少年、イヴであった。

 

 もっとも、ドナテロの記憶の中のイヴと比べると少しやつれており、加えて水色だったはずの瞳の色はなぜか燃え盛るような紅蓮へと変わっているという相違はあるのだが。

 

「艦長、この子を知ってるんですか!?」

 

「まあな……俺の友人だ」

 

 トシオの質問にドナテロがなんてことないように答えると、イヴに向き直った。

 

「いつからボクだって気付いてたの?」

 

 イヴが聞く。その声は先ほどまでのように淡々とした、あるいは攻撃的な口調ではなく、穏やかでありながらもどこか子供らしいものだった。

 

「リーの報告を聞いた時から、薄々そんな気はしていた。確信したのはついさっきだ。クロード博士から連絡があってな。『バグズ2号に君が乗り込んでいる可能性がある』と言われたよ。お前のこと、凄く心配していたぞ」

 

「そっか」

 

 イヴの瞳が、一瞬だけ水色に戻る。今の彼の心境を表すかのような、鮮やかで優しい色だ。しかしそれも僅かな間の事で、再び彼の瞳は赤く染まった。

 

「……ドナテロさん、この船を地球に戻して。皆を死なせたくなかったら、今すぐに」

 

「駄目だ」

 

 ドナテロが即答すると、イヴは紅蓮の瞳で彼を睨んだ。イヴにとって、ドナテロのその決定はひどく非情なものに思われたのである。

 彼の非難の視線に怯むことなく、ドナテロは毅然と言った。

 

「俺達が退けない理由は二つある。一つはU-NASAから撤退の指示がないからだ。通信でクロード博士が悔しそうに言っていたよ。『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』とね」

 

 ドナテロの言葉に、イヴは頭を殴られたような衝撃を受けた。予想はついていたが、改めて言われるとその言葉は想像以上にイヴの心に重くのしかかった。

 なぜならその指示は、U-NASAが『バグズ2号の乗組員を見捨てる』と宣言したに等しいから。危険がある、などという話ではない。それは文字通り、犬死を強いることに他ならない。

 

 金がないというだけで――そんなにも彼らの命は軽いのか。

 

 イヴの心の中で、怒りと悲しみが混ざり合った暗い感情が渦巻く。こんなにも強く、暖かく、優しい人たちが、金がないというだけで虫けら同然に扱われる。それが、イヴには耐えられなかった。

 

 イヴの様子にあえて何も言わず、ドナテロは更に言った。

 

「そして、もう一つの理由は――俺達の任務に人類の命運が懸かっているからだ」

 

 ――そう、これこそがドナテロが撤退を許さない最大の理由であった。

 

「なぁ、イヴ」

 

 ドナテロは目の前の幼い少年に語りかける。赤く燃え滾る感情で塗り潰され、それでもなお真っすぐなその瞳を見つめつつ、彼は口を開いた。

 

「人類は今、ゆっくりと破滅に向かっている。決して大げさなじゃない、このままだと人類は確実に滅ぶ」

 

 ――26世紀の人類は、2つの大きな問題を抱えていた。人口増加の問題と、それに伴う急速な環境破壊である。

 

 人口の増加に伴う食糧問題や貧富差の拡大、紛争の多発は環境に深刻な被害を与えた。21世紀時点でもこれらの問題はあったが、その被害の規模は当時の比ではない。

 かつては漠然と捉えられていた島の水没や平均気温の上昇といった問題はいよいよ現実化し、人類に牙を剥いている。

 

 遠からず、人類は滅ぶことになるだろう。戦争か、環境破壊か、はたまた疫病か。どのような過程を経て破滅に至るのかは分からないが、他ならぬ人類(じぶんたち)の手によって。

 

「俺達がテラフォーミング計画を成功させられるかどうかで、数十億人の人類の命運が決まるといっても過言ではない。だから、俺達は何もせずに尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかないんだ」

 

 確固たる意志を以て、ドナテロは断言した。

 

 ――彼のその言葉、その使命感、その信念は全て正しいのだろう。

 

 イヴは漠然と思う。きっと彼の決意はどこまでも善いもので、どこまでも高潔で、どこまでも真っすぐで、どこまでも正しいものなのだろう。だがそれゆえに、イヴは彼の主張を受け入れることはできなかった。

 

 見知らぬ『大』のために、大切な『小』を切り捨てるなど。イヴに許せるはずもなかった。

 

「だったら……力づくで、連れて帰るだけだよ」

 

「そうか……」

 

 イヴがそう言うと、ドナテロは微かに目を細めて自らを睨むイヴの瞳を見つめた。燃え盛るような紅蓮の眼の中には、自分の姿が映りこんでいる。

 それからドナテロは、何かを考えこむかのように目を閉じた。少しの沈黙の後、彼はゆっくりと口を開いた。

 

「それなら、イヴ。まずは最初に俺をやれ」

 

 ドナテロの言葉に、イヴの顔が驚愕に染まった。驚いたのは他の乗組員も同じで、ミンミンは思わずドナテロの方へと振り返った。

 

「っ!? 艦長、一体何を――」

 

「例えお前がこいつらを何人倒そうが、俺がバグズ2号を引き返させることはない」

 

 ミンミンの声を遮るようにそう言うと、ドナテロは言葉を続けた。

 

「だからお前が本当に力づくで帰還させるつもりなら、俺からやるべきだ」

 

 そう言ってドナテロは両腕を組むと、仁王立ちになった。それを見たイヴは思わず身を固くする。

 

 ――ドナテロさんに何か作戦があるようには思えない。

 

 イヴは思考する。変態薬を隠し持っているようには見えず、誰かが見えないところで工作をしているわけでもない。ドナテロは完全に無防備だった。

 合理的に考えるのであれば、これ以上ない好機。バグズ2号の乗組員の中でも屈指の戦闘能力を持つドナテロを、一方的に無力化できるのだ。ここで仕掛ければ、あるいはほかの乗組員たちも動揺に付け込んで倒せるかもしれない。

 

 だが――そう分かっていても、彼は攻撃を仕掛けられずにいた。彼の中では確かに、二つの何かが葛藤していた。

 

「どうした? 早く来い、イヴ。俺を倒さずに、他の奴らを倒せるとは思うなよ?」

 

「っ……!」

 

 語気を強めたドナテロが言う。そんな彼の言葉に促されるように、イヴはゆっくりと警杖の先を彼へと突き付けた。同時に、イヴの脚の歯車が音を立てて回転を始める。ギリッ、ギリッという音が倉庫の中に不気味に響き渡った。

 

 

 しかし、ドナテロは動かない。

 

「艦長――!」

 

「止めるな、小吉」

 

 見かねて声を上げた小吉を、ドナテロがそう言って制した。その声は決して大きなものではなかったが、有無を言わせぬ力が籠っていた。

 

 やがて足の歯車がカチリ、という音と共に噛みあった。今ならば、あるいは回避行動も間に合うだろう。しかし、ドナテロはやはり動かない。彼はただ静かにイヴを見つめていた。

 

(――後ろに回り込むのを含めて3歩)

 

 イヴは間合いを測りながら、全意識を標的(ドナテロ)へと集中させる。神経が研ぎ澄まされ、全身の感覚が鋭敏になっていくのが手に取るように分かった。

 

(3歩で、ドナテロさんを倒す)

 

 機械的に、合理的に、無感情に。脳内で自らの動きシミュレートしてから、イヴは深く腰を落とした。白く頑丈な両足に、エネルギーを押し溜める。

 ――攻撃の準備は、整った。

 

 静寂が、倉庫の中に満ちた。実際はたかだか数秒、あるいはそれにも及ばない実に短い時間。されど、その静寂は永遠にさえ感じられた。

 

 

 ――そして、次の瞬間。イヴの脚に溜められた全てのエネルギーが、爆ぜた。

 

 

 

 ――1歩。

 

 イヴの体は放たれた弾丸のように飛び出した。ミンミンと小吉の間を縫うように抜け、ドナテロの前に着地する。その速度はまさしく疾風迅雷。イヴが消えたことを未だ認識できずに、乗組員たちは虚空を見つめていた。

 

 

 

 ――2歩。

 

 イヴは地面を蹴り、ドナテロの背後へと回り込む。即座に身を翻せば、イヴの瞳には、隙だらけのドナテロの背中が映った。

 ようやくイヴが跳躍したことに気付いた乗組員たちが、慌てた様子で振り向く。その動きはしかし、イヴにしてみればのろま以外の何者でもない。彼は既に警杖を上段に構え、両足に力を溜めていた。

 

 

 

 ――3歩。

 

 両脚に込められた力が、再びイヴを勢いよく撃ち出した。ぐんぐんと、ドナテロの背中が彼の目の前に迫る。

 

(――やった!)

 

 イヴは勝利を確信した。ほとんどの者は、初めて目にするイヴの高速移動を捉えることもできないでいるか、目で追えても反応できずにいた。唯一小吉だけが何事か叫んで駆け寄ろうとしているが、遅すぎる。既にドナテロは、警杖の間合いに入ってしまっている。

 どうあがこうとも、彼の攻撃を止めることはできない。

 

(これで……みんなを助ける!)

 

 紅蓮の瞳に、絶望を砕くための覚悟を決め。

 

 イヴは火花を散らす警杖をドナテロの頭へと振り下ろした。そして――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

「……!?」

 

 現実に体が追いつき、動き出そうとしていた乗組員たちは、予想外の出来事に再び動きを止めた。駆け出そうとしていた小吉でさえも、思わずその場に踏みとどまる。

 

「……な、何だ?」

 

 その構図は、つい先ほど奈々緒が小吉を警杖の攻撃から守った時によく似ている。しかし、小吉が横を見ると、奈々緒は困惑気味に首を横に振った。今回は彼女が防いだわけではないらしい。

 

 では一体なぜ――?

 

 

 

 

 

 

 

「だ……ダメだ……」

 

 

 

 

 

 

 震える声でイヴが呟いた。

 

 

「やらなきゃ……ドナテロさんを倒して、ボクが皆を助けなきゃいけないのに……」

 

 イヴの手が緩み、警杖が彼の手中から離れた。カラン、という乾いた音を立てて警杖が床を転がる。その直後、イヴは糸が切れた人形のようにその場で膝を追った。

 

「できない……ッ!」

 

 イヴの声には罪悪感と、悲しさと、悔しさがないまぜになったかのような感情が滲んでいた。その目は大きく見開かれ、心の動揺を表すかのように揺れている。

 

 機械的に、理屈的に、合理的に考えるのであれば、イヴはこの場でドナテロを攻撃すべきだったのだろう。だが、例えそれがその場において最善の行動なのだと理解していても。イヴは、非情に徹しきれなかった。

 

 なぜならば、イヴにとってドナテロは初めてできた友人であり、同時に父親にも似た存在だったから。彼と共に過ごした何気ない日常は、彼の人生の中で最も楽しかった時間だったから。そして何より、他の乗組員と違って、同じ時間を共有していたから。

 

 イヴは彼を攻撃できなかった。

 

「……やっぱりな」

 

 それまで沈黙を保っていたドナテロが口を開く。彼の顔に浮かんでいる表情は先ほどまでの厳しいものではなく、もっと柔らかく優しいものであった。

 ドナテロは振り向いて、背後でへたり込んでいるイヴを見つめた。その目は乗組員たちが未だ見たことがなかったほどに、穏やかなものだった。

 

「できないんじゃないかと思っていたよ、イヴ」

 

 ドナテロはしゃがみ込むと、イヴと視線を合わせた。そんな彼をイヴは憑き物が落ちたような表情で見つめる。

 知らぬ間に、彼の口からはぽつぽつと言葉が零れていた。

 

「火星には、行っちゃダメなんだ。あそこには、怪物がいる」

 

「ああ」

 

「すごく強くて、頭が良くて、一杯いて――残酷なんだ。見つかったら、皆が殺されちゃう」

 

「ああ」

 

「ニュートンさんが教えてくれて……ボク、ドナテロさんにも、皆にも、死んでほしくなくて……! でも、どうすればいいのか分かんなくて……!」

 

「分かってる。お前が今までやったことが全部、俺達の為にやったことだってことは。それにお前が、誰よりも優しい奴だってこともな」

 

 そう言ってドナテロは、不安そうなイヴの頭をくしゃくしゃと撫でた。3週間ぶりのドナテロのごつごつとした掌の感触が、イヴにはひどく懐かしいものに感じられた。不思議とイヴの心にあった不安は薄れていく。同時に、彼の体の変態が解け始め、徐々にその姿が人間のものへと戻っていった。

 

「でもな、もう1人で抱え込まなくてもいいんだ。クロード博士が全部教えてくれた。皆には、ちゃんと説明する。約束しよう、イヴ。バグズ2号の艦長として――俺が絶対に誰も死なせない」

 

 そう言ってドナテロはイヴの体を優しく抱き寄せた。

 

「だから、そんなに苦しまないでくれ。いつもみたいに、無邪気に笑ってくれよ。な?」

 

「う、あ……」

 

 抱きしめられたイヴの瞳から、大粒の涙が零れた。涙は頬を伝い、幾つもの雫となって床へと落ちた。堰を切ったように、とめどなく涙が溢れる。

 最初は微かに漏れるだけだった声は次第に嗚咽となり、嗚咽はやがて号泣に変わっていった。

 その様子は、まさしく年相応の子供のもの。大声を上げて泣きじゃくるイヴを、ドナテロはただ黙って抱きしめていた。

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

「寝ちゃいましたね、この子」

 

「ああ。相当精神を消耗していたんだろう。俺達に見つからないよう、7日も息をひそめていたんだからな」

 

 奈々緒の言葉にドナテロは答えると、そっとイヴの顔にかかる髪を指で梳いた。余程安心しているのか、触れても起きる気配はなかった。穏やかな顔で、すやすやと寝息を立てている。彼の体には、薄手のタオルケットがかけられていた。

 

 ――結局あの後、イヴは一通り泣きはらすと眠ってしまった。まるで、緊張の糸がプチンと切れたかのように。驚くほど速く、ドナテロの腕の中で寝息を立て始めたのだった。

 

「まぁ、しばらくは寝かせておいてやってくれ」

 

 ドナテロの言葉に、他の乗組員たちは頷く。ミーティングルームには既に、全ての乗組員が集まっていた。

 ドナテロが立ち上がると、他の乗組員たちも動き始めた。彼らは部屋の中央に置かれた大きなテーブルを取り囲むようにして座ると、正面に立ったドナテロの顔を見つめた。

 

「……先程、U-NASAのクロード博士から通信が入った」

 

 と、ドナテロは切り出した。全員が真剣そのものの表情を浮かべ、ドナテロの次の言葉を待っていた。

 

「内容は二つ。一つは、バグズ2号の亡霊――イヴのこと。こちらについては、イヴが目を覚ましたら追々説明していくつもりだ」

 

 そこで、ドナテロは一度言葉を切った。深く息を吸い、そして吐く。ざわつく心を鎮め、ドナテロは口を開いた。

 

「本題は、もう一つの方。現在の火星の状況についてだ」

 

 彼の言葉に、察しのいい乗組員たちは眉をひそめた。ドナテロの「現在の火星の状況」という言い回しと声の調子から、火星で何らかの不測の事態が起きていることを理解したからである。

 

「今から、俺が言うことをよく聞いて欲しい。馬鹿げてると思うかもしれないが、全て事実だ。それに、俺達の任務と生存に大きく関わることでもある」

 

 いつになく真剣なドナテロの口調に、誰かがごくりと喉を鳴らした。ドナテロは、皆の視線が自分に集まっているのを確認すると、重い口を開いた。そして次の瞬間、彼の言葉は乗組員たちを凍り付かせることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「火星のゴキブリが進化している。バグズ1号の乗組員たちは、例外なくそいつらに殺された。おそらく俺達も、このまま対策を怠れば――殺される」

 

 




【オマケ】密航者捕獲作戦の各自の戦果

・ドナテロ:説得を成功させる
・ミンミン:人質奪還作戦の計画
・マリア:人質奪還作戦の実行
・ジャイナ:密航者追い詰め作戦の考案
・奈々緒:間一髪で幼馴染を助ける

―――― 越えられない壁 ――――

・リー:真っ先にやられる
・トシオ:薬を出す間もなくやられる
・ルドン:薬を打つ間もなくやられる
・小吉:搦め手に引っかかってやられかける
・ティン:不意を突かれてやられる

 これを見てどう思いましたか?

ルドン「改めてみると俺達ェ……」

トシオ「……か、火星で挽回するから(震え声)」


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第9話 REASON 理由

「なるほど、こうなったか」

 

――ワシントン.D.C. 国連航空宇宙局(U-NASA)の最深部にて。

 

 バグズ2号計画の最高責任者――アレクサンドル・G・ニュートンはそう呟いた。

彼の視線の先では、最新のホログラム式のディスプレイに、バグズ2号内での戦闘の決着の様子が映しだされていた。

 

それは、イヴの体に仕込まれたカメラから送られたもの。彼の視点から映し出される映像は、バグズ2号に彼が密航してからの一連の流れをニュートンへと余すことなく伝えていた。

 

「兵器としての運用は期待できんな……土壇場で情にほだされるなど、論外もいいところだ」

 

 教育方針を間違えたかな、などと一人軽口を叩きながら、ニュートンはにやりと笑った。しかし彼の目は笑ってはおらず、不気味にぎらついた眼光を放ちながら、一心不乱に映像を見つめていた。

 

「とはいえ、能力としては一級品か。よくもまあ、たったあれだけの条件でここまでやったものだ」

 

 映像記録を確認しながら、ニュートンは感嘆する。そんな彼の脳裏には、バグズ2号出発の2週間前に、イヴに会った時の事が思い出されていた。

 

あの時、ニュートンがイヴにしたことはたった1つ。このままではドナテロが死ぬと彼の耳元で囁いただけ。ただのそれだけだった。

 

 ――だが、『ただのそれだけ』でイヴは事態を大きく動かした。

 

意図的に誘導をしたとはいえ、そこからイヴは1人で計画を立て、準備を整え、出発前のバグズ2号の厳重な警備をかいくぐり、密航して7日もの間存在を気取らせず、あまつさえ乗組員の中でも上位の戦闘能力を持つ者たちを壊滅寸前にまで追い込んだのだ。

 

「ネイト・サーマンには感謝せねばならんな。よもや我々に、これほどまでのモノを遺してくれるとは」

 

ニュートンの頭脳を以てしても、イヴがここまでの戦力となり得るとは想定できていなかった。それだけ、イヴは規格外なのであろう。いい意味で期待を裏切られ、ニュートンは歓喜せずにはいられなかった。

 

「いいぞ、EVE(イヴ)……君は人類(われわれ)にとって『知恵の木の実』だ」

 

 ニュートンは、誰ともなしにほくそ笑んだ。歪めた口の隙間から、加えた葉巻の煙を吐き出す。

 

「そして――」

 

「――『その実はニュートン一族(われわれ)がいただく』……ですか?」

 

 背後から聞こえたよく通る声に、ニュートンが振り向いた。

 

 そこに立っていたのは、黒い短髪と中性的な顔立ちが特徴の青年――クロード・ヴァレンシュタイン。端正に整った顔を露骨にしかめ、憮然とした様子でニュートンを見つめている。

 

「やあ、ヴァレンシュタイン博士。丁度いいところに来てくれた。ついさっき、日本の本多博士からスシが届いたところだ。よければ――」

 

「そんなことより、どういうおつもりですか?」

 

 茶化すような口調でそう言ったニュートンを、クロードは剣呑さが増した視線で睨みつけた。

 

「どういうつもり……とは?」

 

「とぼけないでいただきたい! なぜイヴをけしかけたのかと聞いているんです!」

 

 あくまでシラをきるニュートンに、クロードが声を荒げた。普段は穏やかな彼にしては非常に珍しいことである。

今にも胸倉をつかみかねない彼の剣幕にニュートンは肩をすくめると、悪びれた様子も見せずに口を開いた。

 

「何、簡単な実用テストだよ。8年間もの時間をかけた数々の実験と研究、それに教育と訓練の集大成を見るためのな」

 

「それらの成果が完全に出るまでには、まだ数年かかると私は報告したはずです!」

 

ニュートンの言葉にクロードが怒鳴り返した。彼は足音荒くニュートンが座る椅子へと歩み寄り、座して画面を見つめているニュートンを睨みつけた。

しかし、ニュートンはそんな彼の怒声にも眉一つ動かさない。それどころか、にやりとその口角を吊り上げてみせた。

 

「何を言っているのかね、()()()()()()()()()()()()()。見たまえよ、彼の戦果を」

 

 そう言って、ニュートンはディスプレイの中に映るイヴを指さした。

 

「小町小吉、ティン、ゴッド・リー、トシオ・ブライト、ルドン・ブルグズミューラー……私が選んだ昆虫の中でも、とりわけ強力な昆虫をベースに持つ彼らを、彼は僅かな利器と貧弱なベース、それに機転だけで制圧して見せたぞ?」

 

「そんなの、結果論でしかないでしょう!」

 

 ニュートンの言葉に、クロードが食い下がった。

 

「幼いイヴを過酷なテラフォーミング計画へと送り出すつもりですか!? ただでさえ、あの子の体に組み込まれているカメムシは肉体の強靭さを欠いている! イヴを火星に送り込むのは危険です!」

 

 矢継ぎ早にそう言いながら、クロードはニュートンに詰め寄った。

 

「『例の生物』の件もある、今すぐに撤退の指示をだすべきです! 悪戯にあの子の命を失うだけだ!」

 

 半ば怒鳴るように、クロードはニュートンに提言した。1人の研究者として、1人の人間として、ニュートンの行為を見過ごすわけにはいかなかった。

だが、当然ながらニュートンがそれを聞き入れるはずもない。

 

「ほう、これはまた愉快な――いや、滑稽なことだな」

 

 そう言って、ニュートンは必死の形相を浮かべるクロードをせせら嗤った。ジロリ、と画面を見つめていた目を動かしてクロードを見つめ、彼は口を開いた。

 

()()()()()()()()()、クロード・ヴァレンシュタイン……一体、どの口でそんな戯言をほざく」

 

「ッ……!」

 

 ニュートンの言葉に、クロードが閉口した。

 彼の脳裏に甦り、思い出されるのは忌々しく、汚らわしい――しかし、決して目を背けることの許されない、自らの過去の記憶。クロードがかつて犯した、とある大きな過ちの記憶だった。

 

「前任のサーマン博士の所業も大概だったが、君もそういう意味では同類だろう? EVE(イヴ)の心配をして善人気取りかね? それとも、情にほだされたか? いずれにせよ、これほど滑稽なことはないな」

 

そう言って、ニュートンは加えていた葉巻を灰皿に押し付けた。青い煙の筋が、次第に細くなっていく。

 

「……それは、今は関係ないでしょう」

 

 俯いたクロードが絞り出すようにそう呟く。そんな彼の様子に、ニュートンは一度鼻を鳴らしただけでこれといった言及はせず、淡々と指示を下した。

 

「いずれにせよ、撤退は許可しない。ドナテロ艦長には任務を続行するよう、改めて伝えてくれたまえ、クロード博士」

 

「……」

 

 歯を食いしばり、無言のままで立ち尽くすクロードから視線を外し、ニュートンは再びディスプレイに向き直った。

 

「――さて、賽は投げられた。知恵の実(イヴ)がもたらした知識は、良くも悪くもこの先の未来を大きく変えるだろう。もっとも、事態がどう転がるのかまでは予想できんがな」

 

 背もたれに体重を掛ければ、彼の腰掛けているイスはギッと、微かに軋んだ音を立てた。

 

「この先、君を待ち受けるのは希望か、はたまた絶望か」

 

 その身を椅子に預け、ニュートンはニタリと笑みを浮かべると呟いた。

 

「――さぁ、運命を覆して見せろ、EVE(イヴ)

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 見知らぬ土地だった。木もなく、建物もなく、見渡す限り苔に覆われた緑の平原。地平線からは青い太陽が顔を出し、地上を照らしている。環境破壊が進んだ現在の地球上では滅多に見られない、雄大の景色だ。

 

 イヴは、そんな神秘的ともいえる景色のただ中に立っていた。

 

 重ねて言うが、そこは彼にとって見知らぬ場所。そもそも、物心ついた時からU-NASAに軟禁されていたイヴにとって、見知った土地などないに等しい。けれどもなぜか、イヴはその場所を知っているような気がした。

 

「……?」

 

 誰かに呼ばれたような気がして、ふとイヴは後ろを振り返る。そして、その顔をパッと綻ばせた。少し離れたところに、彼が慕う人物を見つけたからだ。

 そこに立っていたのは、ドナテロ・K・デイヴスとバグズ2号の乗組員たち。皆が顔に笑みを浮かべ、しきりに手を振ったり手招きしたりしてイヴを呼んでいた。

 イヴも大きく手を振り返すと、彼らに向かって一目散に駆け出す。一歩、また一歩とイヴとドナテロたちの距離は縮まっていく。

 それが嬉しくて、幸せで、イヴは近づいたドナテロの胸に向かって、思い切り飛び込んだ。そして――

 

 

 

 

――次の瞬間、ドナテロの頭部が消失した。

 

 

 

 

 

「……え?」

 

 何が起きたのか理解できず、イヴが思わず足を止める。

血の気が引くとはこのことか、背筋をうすら寒い何かが走った。拍子抜けするほど呆気なく、ドナテロの体が力なく崩れ落ちる。ドナテロの体が地面にぶつかって立てた音は、妙に乾いた、それでいて生々しい音だった。

 

「ッ! ドナテロさん!」

 

 イヴが悲鳴を上げて、物言わぬ死体となったドナテロへと駆け寄った。ドナテロの体からはまるで飲料が入ったペットボトルを倒したかのように鮮血が流れ出て、苔の緑に覆われた地面を赤く染め上げていく。誰の眼にも、彼が死んでいるのは明らかだった。

 

「嫌だ、嫌だよ! 死なないで、ドナテロさん! 起きてよぉ!」

 

 悲痛な声で叫びながら、イヴはドナテロの体を揺する。当然ながら、返事はない。返事をするための口諸共、頭がなくなっているのだから。

 呼吸が浅くなっていくのがわかる。脳がじりじりと焼けるように痺れ、胸の奥を喪失感にも似た何かが這いずり回った。

 乗組員たちに助けを求めるため、イヴが泣きながら顔を上げる。

 

「み、皆! ドナテロさんが――」

 

 ――結果として彼は、更なる絶望の淵に叩き落されることになる。

 

「あ……う、嘘だ……」

 

 周りにいたバグズ2号の乗組員たちも皆、地面に倒れ伏していたのだ。それは断じて、どれ一つとして綺麗な死にざまではなく。

 あるものは首をへし折られ、あるものは胴体を真っ二つに引き裂かれ、またあるものは四肢を引きちぎられ。各々が恐怖と苦悶に顔を歪めながら、息絶えていた。

 

 その様子は、まさしく地獄絵図。惨劇以外の何者でもない。

 

「うっ……」

 

 悲しみよりも生理的不快感が勝り、イヴは吐いた。視界が涙で滲み、胃の中のものを全て出し切ってもなお、彼の吐き気は収まらない。

 

 やっと吐き気が収まった頃、イヴはふと、自分に誰かの影がかかっていることに気付く。もしかしたら、誰かが生き残っていたのかもしれない。一縷の希望を託して、イヴが顔を上げた。

 

 だが、そこにいたのはバグズ2号の乗組員などではなかった。また、更に言うのであれば――そこにいたのは、人間ですらなかった。

 

 それは、成人男性ほどの背丈をした一匹の生物だった。

 

 その姿をあえて形容するのであれば『原始人』という表現が近い。しかしながら、全身を覆う黒い甲皮、頭部から生えた触角、そして臀部から生えた何らかの器官が、彼らが霊長類の仲間でないことを如実に示している。

 

「こ、これって……」

 

 その正体を悟り、イヴの顔が青ざめた。そう、彼はこの生物を知っていた。なぜならば、これこそがイヴが最も恐れていた『火星の怪物』だったから。

 

「がっ!?」

 

 次の瞬間、イヴの体は空中に浮いていた。いつの間にか喉を鷲掴みにされて、怪物の顔と同じ高さにまで持ち上げられていた。その握力は強く、とてもではないが振りほどくことはできない。

 

「く、あっ……!」

 

 呼吸ができず、苦しそうにもがくイヴを、その生物はまじまじと観察するように見つめた。一切の感情が見えない無機質な眼で、まるで機械か何かの様にイヴの瞳を覗き込んでいる。

 

「――」

 

 息が吐きかかるほどの距離で、その生物は口を動かして何かを呟いた。同時に、イヴの喉に加わる力が一層強くなる。

 

「……!」

 

 いよいよ呻き声すら漏らせずに、イヴが声なき悲鳴を上げた。骨が軋み、ひび割れ、砕けていく音が体の中から鼓膜に響く。口から血泡を吹くイヴを、その生物は相変わらず無感情に見つめ続けた。

 

 やがて何かが潰れたような、折れたような音が聞こえたかと思うと、イヴの意識は、闇の中に飲まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うわぁっ!」

 

 自分の悲鳴で、イヴの意識は一気に覚醒した。上半身を思い切り起こしたせいで、体に掛けてあったタオルケットが床に落ちる。

 

「……って、あれ?」

 

 イヴは慌てて自分の喉元に手を当てた。ぺたぺたと何度も触って確認するが、折れているようすも千切れている様子もない。

 続けて、周りを見渡す。そこは屋外ではなく、人工建造物の中であった。

 

「夢……?」

 

 先ほどまでの光景が夢であったことを悟り、イヴは安堵の息をついた。未だに彼の心臓は早いペースで胸を叩いており、先程見た夢の恐ろしさの余韻をイヴに味わわせていた。

 

「フン。目ェ覚ましたか」

 

 背後から聞こえた低い声に、イヴは振り向いた。そこにいたのは、バンダナとマントを身に纏った強面の男性――ゴッド・リー。彼は壁に背中をあずけるようにして床の上に座り、ナイフの手入れをしていた。

 

「リーさん? あれ、そういえばボクって……」

 

「十二時間」

 

 イヴの言葉を遮るように、リーが言った。

 

「あれから十二時間程経った。その間、お前は寝コケてたわけだが……」

 

「は、半日も!?」

 

 イヴが素っ頓狂な声を上げた。緊張の糸が切れたからとはいえ、随分と長い間眠っていたようだ。

 

「ああ、爆睡だったぜ。もっとも、随分うなされてたようだがな」

 

「そ、そうなんだ……」

 

 リーの状況説明を聞いていると、イヴはふと室内が騒々しいことに気が付いた。

 

 騒がしさの原因と思われる方向へとイヴが視線を向けると、そこでは小吉を始めとした乗組員たちが何やら話し合いを行っていた――というより、どちらかといえば言い争っていた。

 

「リーさん、あれって……」

 

「ああ……丁度、お前のことで話し合ってるところだ」

 

 未だイヴが起きたことに気が付いているものがいない。おそらく、それだけ議論が白熱しているのであろう。乗組員たちはどうやら2つのグループに分かれているらしく、テーブルを挟むようにして分かれて座っている。

 

「かなり揉めてるぜ。なんせ、意見が真っ二つに割れてるからな」

 

「……」

 

 リーの言葉に、思わずイヴは俯いた。自分がしたことが間違いであったとは、決して思わない。だが、自分のせいで乗組員たちが険悪な状況になっていると知れば、罪悪感を感じるのも無理からぬことであった。

 それを見たリーが鼻を鳴らした。

 

「……と言っても、お前が気にする必要は微塵もねぇが」

 

「えっ?」

 

 リーの言葉の意味が分からずに、イヴが驚きの声を上げる。リーは気休めや慰めでそのような言葉を口にするタイプの人間ではない。七日間、乗組員たちを密かに観察してきて、イヴはそれを理解していた。だからこそ彼は、リーの言っていることが理解できなかった。

 

「あいつらが言い合ってる内容をよく聞いてみろ」

 

「……?」

 

 心底どうでもよさそうなリーに促され、イヴは疑問を抱きながらも頷いたその時、小吉が苛立たし気に声を張り上げた。

 

「だーかーらー! さっきから言ってるだろ! 『チャーハン』と『カイコガのフライ』にしとくべきだって、ここは!」

 

「……えっ?」

 

 先程とは違うニュアンスで、イヴは驚きの声を漏らした。

 

「チャーハンならきちんと野菜系の栄養もとれるし、カイコガは普通の肉レベルのたんぱく質がある! ここはがっつり行くべきだ!」

 

 小吉の力強い言葉に、彼のサイドに座っていたジョーンとフワンが激しく頷き、トシオとルドン、ウッドが「そうだー!」と賛同した。

 

「だーかーらー! それこそさっきからこっちも言ってるだろ!?」

 

 そんな小吉に、負けじと奈々緒が言い返した。

 

「シンプルに『野菜入り豆乳がゆ』と『味噌汁』にすんのが絶っっっっっ対にいいってば! こっちの方が胃に優しいでしょ!?」

 

 奈々緒の主張にマリアとジャイナが同意の声を上げ、ティンが静かに頷く。本気で耳を疑ったイヴだったが、どうやら聞き間違えではないらしい。

 

「あの、リーさん」

 

「……何だ?」

 

「皆、何について話し合ってるの?」

 

 イヴの至極もっともな疑問に、リーは深いため息をつきながら、いかにも面倒くさそうに答えた。

 

「……今日の晩飯の献立を何にするかって話だ」

 

「いや、それは聞いてればわかるんだけど……」

 

 困惑するイヴに向かって、リーは「言葉が足りなかったな」と言ってさらに口を開いた。

 

「より厳密には、()()()調()()()()()()()()()()()()()()()()についてだな」

 

 彼の言葉に、イヴは思い出した――バグズ2号に乗り込んでから、一度も食事をとっていないことに。

 

 実はカメムシ類は、基本的に飢餓への耐性が高い。種類によっては飲まず食わずで50日もの間生き続けることができるという研究結果さえ出ているほどだ。当然ながら、一週間の断食断水など屁でもない。

彼はこの特性を利用し、見つかる可能性をより低めるために、絶食状態を維持していたのだが――。

 

「艦長の話だと、イヴは大分痩せちまってるんだろ? だったら、精のつくものをがっつり食わせた方がいいって! こっちには『チャーハンの鉄人』フワンがいるから、絶対に美味いチャーハンができるぞ!」

 

「逆だ逆! いきなりそんなギトギトの物を食べたら、お腹壊しちゃうでしょうが! こっちには『豆乳の申し子』であるティンがいんのよ!? 美味しくてヘルシーで、しかも満腹になりそうな料理を作ってくれるに決まってるでしょ!」

 

「いや、俺はただ好きなものが豆乳ってだけなんだが……」

 

 ――どうやら、絶食の情報はドナテロ経由で伝わったらしい。がっつり派とあっさり派の二つに割れた彼らはそんなイヴ本人の事情などつゆ知らず、夕飯メニュー談議で盛り上がって(?)いた。

 

「お前の処遇は見ての通りだ。詳しいことは後で艦長から説明が入るだろうが……状況が状況だ。酷い目には合わねぇはずだから、安心しろ」

 

 どいつもこいつも甘ぇとぼやき、リーは手入れを終えたナイフを鞘へと納めた。

 

「ってああー!? イヴ君が起きてる!?」

 

 その時、イヴが起きたことに気付いた奈々緒が声を上げ、乗組員たちが一斉にイヴの方へと顔を向けた。その声の大きさと自分に向けられた視線に、イヴがビクリと身をすくめた。

 

「マジで!?」

 

「あ、ホントだー」

 

「俺、艦長呼んでくる!」

 

 それまでテーブルについていた乗組員たちは口々に言いながら、イヴを取り囲むようにわらわらと集まってきた。皆、非常に興味深そうな表情を浮かべながらでイヴのことを見つめている。

 

「何だ、起きてたんなら一言言ってくれりゃよかったのに!」

 

「体調は大丈夫なのか?」

 

「半日も寝てたから、心配したぞ」

 

 小吉、ルドン、ジョーンが次々に話しかけてくるも、いきなりのできごとに硬直したイヴは答えることができない。どうすればいいのか分からずにおろおろとしているイヴを見かねて、奈々緒が声を上げた。

 

「ほら、男共は下がってろ! イヴ君怖がってるでしょうが!」

 

 奈々緒が邪魔だと言わんばかりに手を振ると、数人がブーイングの声を上げた。「何だとゴリラ!」「ゴリラはどっちだこのゴリラ!」の言葉を皮切りに、イヴそっちのけで小吉と奈々緒の口喧嘩が勃発した。

 

「イヴ君、よく眠れた?」

 

 小学生レベルの舌戦を繰り広げる2人を尻目に、マリアが聞いた。明るくも落ち着きのある彼女の口調に、イヴの緊張が僅かにほぐれる。

 

「う、うん」

 

 ぎこちないながらもイヴが返事をすると、マリアは「よかった」と柔らかい笑みを浮かべた。すると、彼女の背後からひょこりと一人の少女が顔を出した。

 

「え、えっと……イヴ君? どこか痛いところとかはない?」

 

 ジャイナだ。イヴに怯えているのか、あるいは単純に子供に接するのに慣れていないのか、やや表情を強張らせながら彼女はイヴに聞いた。

 

「だ、大丈夫……」

 

 イヴが頷くと、ジャイナは安堵の表情を浮かべてほっと胸をなでおろした。イヴのことを相当気にかけていたのだろう。つられてイヴもため息をつく。

 自分を挟んで繰り広げられる微笑ましいやりとりに笑みをこぼしながら、マリアはイヴに話しかけた。

 

「色々と聞きたいこともあると思うけど……汗を一杯かいてるみたいだし、まずはシャワーを浴びて来たほうがいいんじゃないかな。風邪をひいちゃうとよくないし」

 

「あ、それもそうだね」

 

 マリアとジャイナの会話で、イヴは初めて自分が大量の汗をかいていることに気が付いた。おそらく、先程見た夢の影響だろう。着ていた衣類は不快に湿り、前髪は濡れてぺったりと額に張り付いている。

 イヴの額に浮かんだ汗を、ピンクの刺繍が施されたハンカチでぬぐいながら、マリアはティンに呼びかけた。

 

「ティン、悪いけどイヴ君をシャワールームまで――」

 

「あ、あのっ!」

 

 マリアの声を遮るように、イヴが大きな声を上げた。子供特有の高い声は予想以上にミーティグルーム内に響き渡り、喧嘩をしていた小吉と奈々緒も含めた全員が、再びイヴを見つめた。一斉に向けられた視線にイヴの心臓が跳ね上がるが、それでも言葉を続ける。

 目が覚めてから、ずっと抱いていた疑問を解消するために。

 

「どうしてボクに、そんなに優しくしてくれるの?」

 

 それが、イヴには不思議でならなかった。なぜ彼らが、こんなにも親し気に自分に接してくれるのかが。

 

「ボク、密航者なのに」

 

――自分は密航者である。任務を遂行する上では邪魔者でしかないはずだ。

 

「皆に、ひどいことしたのに」

 

――自分は加害者である。乗組員たちと交戦し、そして手傷を負わせた。

 

「なのに、何で?」

 

 それにも関わらず、この場にいる者は誰一人としてイヴに悪感情を向けていない。それどころか、気遣うような様子さえ見せている。

 

 一体、なぜ?

 

「なんだ、そんなこと気にしてたのか」

 

 その言葉を発したのは、小吉だった。彼はどこか後ろめたそうなイヴに向かって、呆れたような顔で続けた。

 

「別に気にしなくていいぜ? つーか、俺らもそこまで気にしてないしな」

 

「で、でも――」

 

「小吉の言う通りだよ。だって君、()()()()()()()()()()()()()()()? いや、あたしらも詳しく聞いたわけじゃないから、細かい部分は分かってないんだけど」

 

 奈々緒がそう言いながら「ねぇ?」と周りに同意を求めると、全員が一斉に首を縦に振った。

 

「君が寝てる間に、艦長からある程度の話は聞いたよ。イヴ君がこの艦に乗り込んだのは、私達を助けるためなんだよね? だったら、君がやったことは絶対に間違いなんかじゃない」

 

「そうそう、会ったこともない奴らのために密航するなんて、誰にでもできることじゃないって」

 

「お前のおかげで俺達も前もって危険を知ることができたしな」

 

「そもそも、お金がない私達のために命を懸けてくれたってだけでも嬉しいしね」

 

「ほら、皆もこう言ってるぞ?」

 

 小吉がニヤッと笑いながら言ったその言葉に、イヴは自分の胸がスッと軽くなったのを感じた。

 

――責められると思った。

 

――怒鳴られると思った。

 

――嫌われると思った。

 

 そうなることも全て覚悟の上で、イヴは行動を起こしたつもりだった。しかし、いざ彼らに嫌われるかもしれないという状況下におかれ、今の今までイヴの胸には重い不安がのしかかっていた。

 それが今小吉たちによって払拭され、代わりに彼の心を温かい何かが満たした。

 

「あ、えっと……」

 

 イヴは少しの間恥ずかしそうに口ごもっていたが、やがて思い切ったようにその言葉を口にした。

 

「……ありがとう」

 

「いいってことよ!」

 

 照れたようにそう言ったイヴに、乗組員を代表して小吉が返した。それから「ああ、でもお礼は艦長に言ってくれ」と、彼は言葉をつけ足す。

 

「あの人、お前のことを『本当は優しくて、思いやりのあるいい子なんだ』って何回も言っててさ。普段の艦長からは考えられないくらい必死に、お前のことを擁護してたんだ。だから、あの人にもちゃんと「ありがとう」って言うんだぞ?」

 

 小吉の言葉にイヴが力強く頷いた丁度その時。鉄製の自動ドアが開き、ドナテロを先頭にして、この場にいなかった乗組員たちがぞろぞろとミーティングルームに入ってきた。

 

「おっ、丁度いいな。ほらイヴ、言ってこい!」

 

小吉に背中を押されたイヴはベンチから降りるとドナテロに駆け寄った。

 

「ドナテロさん! ありがとう!」

 

 イヴは元気よくドナテロにそう言うと、彼の両足にギュっと抱き着いた。いきなりの出来事にドナテロが一瞬動きを止めるが、イヴに向かっていい笑顔で親指を立てる小吉を見つけ、彼は合点がいったと言わんばかりの表情を浮かべた。

 

「やっぱりお前か、小吉。イヴには言うなとあれほど念を押しただろう」

 

「まぁまぁ、いいじゃないですか艦長。減るもんじゃないですし」

 

 呆れたようにため息をついて見せながらもどこか嬉しそうなドナテロに、小吉が言った。部下に内心を見透かされた照れ隠しに、ドナテロはもう一度だけ大仰にため息をつくと、乗組員たちに言った。

 

「……全員着席。今から、イヴを交えてミーティングを行う」

 

 ドナテロの指示を受け、乗組員たちが再び席に着く。ドナテロはイヴの手を引くと、艦長用の席に最も近い位置へと座らせ、自らも席に着いた。

 全員がその場にいることを確認すると、ドナテロが口火を切った。

 

「では、ミーティングを始める――と言っても、今からするのは事実確認の側面が強いがな」

 

 そう言うと、ドナテロはイヴの方へと顔を向けた。

 

「まずは密航者、イヴの処遇についてだ」

 

 ドナテロの真剣な眼差しに、思わずイヴはピンと背筋を伸ばした。

 

「先ほども皆には伝えたが、これからイヴには『バグズ2号の乗組員として』火星での任務へと同行してもらう。地球側にも協議したが、やはり撤退は許可できないとのことだ」

 

 彼の口から告げられた事実に、イヴは落胆の色を隠せなかった。寝ている間に地球へと引き返すよう指示が出ているかもしれない、という淡い希望は断たれた。

 

 しかしイヴは、乗組員達を助けるという目的もまた、諦めるつもりはなかった。

 

 思い通りにはならなかったものの、まだ自分にできることはたくさんある。ならば自分はその状況下での最善策を打ち、目的を達成するだけ。

 

「乗組員である以上、イヴにもしっかりと働いてもらう。過度に仕事を押し付けるような真似はしないが、甘やかすつもりもない。与えられた仕事はきっちりとこなすこと。いいな?」

 

「はっ、はい!」

 

 決意と共にイヴが返事をすると、ドナテロは「よし」と言って話を続けた。

 

「さて、ではここからが本題だ。イヴ、今からお前にいくつか質問するから、答えられる範囲で答えてほしい」

 

 イヴが神妙に頷いたのを確認して、ドナテロは最初の質問を投げかけた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その言葉に、ミーティングルーム内の空気が一気に張りつめたのをイヴは感じた。普段は陽気な小吉でさえ、その顔に険しさを浮かべている。全員に注目される中、イヴはゆっくりと喋り始めた。

 

「テラフォーマー。それが、火星の怪物の名前だよ」

 

 静まり返った室内に、彼の言葉はどこか不気味に響き渡った。

 

 

 

 

 ――21世紀。火星を人類の生活圏とすべく実行された『テラフォーミング計画』により、火星には二種類の生物が放たれた。

 

 苔と、ゴキブリである。

 

 当時、火星の温度は平均マイナス58℃。北極の平均気温はマイナス34℃であることから、想像を絶する気温の低さであることがわかる。気圧が低すぎるがゆえに太陽光を吸収できない極寒の火星は、到底人間が住みうる環境ではなかったのだ。

 

 そこで科学者たちは、火星の地表を黒く染め上げ、太陽光を集めて火星の温度を高めようと考えた。

 そして選ばれたのが、ゴキブリ。過酷な環境下でもしぶとく生き残ることができ、適応し、瞬く間に繁殖していくこの生物は、この計画にはまさしく適任であった。科学者たちは彼らのエサとなる苔と共に、ゴキブリを火星へと放った。

 

 ――それが、大きな過ちであるとも知らずに。

 

 

 

 

「そのゴキブリ達が500年の間に進化した生物が、テラフォーマー。一言で言っちゃうと、『ゴキブリ人間』っていうのが一番近いと思う」

 

 説明するイヴの脳裏に浮かぶのは、夢に出てきた黒い人型の怪物。ゴキブリの特徴を残しながらも、地球のゴキブリとは似ても似つかぬ異形の生物だった。

 

 

 

 ゴキブリは、不気味なその見た目と衛生的な被害をもたらすことから人々に『害虫』の烙印を押され、淘汰されている。しかし、多くの人々は知らない。害虫と侮蔑するこの虫が、驚くべき数々の能力をその身に秘めていることを。

 

 例えば、筋力。条件さえ整えば、ゴキブリは時にカブトムシにも匹敵するほどの力をみせることさえあるという。

 

 例えば、瞬発力。諸説あるが、ゴキブリは人間大にすれば一歩目から時速320kmもの速さで走り出すことができるという。

 

 例えば、知能。昆虫でありながらエサを与えてくれる者に懐くだけの『知性』が報告されており、追い詰められればその知能はIQ340にも及ぶと言われている。

 

 

 

「そういった元々ゴキブリが持っていた能力を、テラフォーマーは人間大で使うことができるんだ。ちょうど、バグズ手術を受けた皆みたいに」

 

 その言葉に、乗組員たちは、身の毛がよだつのを感じた。

 

 バグズ手術によって、自分たちは生身の人間とは比較にならない程強靭な肉体を手に入れている。だが話を聞く限り、テラフォーマーという生物はそれと同等の――あるいはそれ以上の力を持っているらしい。であれば、それはまさしく『怪物』。何も感じない方がおかしい。

 

「は、話し合いとかはできないのか? ほら! 某SF映画みたいに、指と指を合わせてお互いにわかり合うー、とかさ!」

 

 小吉が冗談めかして言うが、イヴは首を横に振った。

 

「小吉さんは、ゴキブリと指を合わせたいと思う?」

 

「死んでも嫌だ。触りたくもねぇ」

 

「うん、そうだよね。だけど、()()()()()()()()()()()()()。あいつらも、ボクたち人間を強く嫌ってる」

 

 イヴの言葉に、乗組員たちは言葉を失った。ゴキブリ側から自分たちがどう思われているのかなど、考えたこともなかった。

 

「ボクらは遺伝子レベルで、お互いへの憎悪が刻み込まれてしまってる。だから、分かり合うのは無理なんだ。実際、20年前に火星に行ったバグズ1号の乗組員たちは皆、テラフォーマーに殺されてしまっている……ボクが知ってるのは、このくらいかな」

 

 イヴが話し終わると、乗組員たちがざわつき始めた。事前にドナテロから聞かされてはいたものの、改めて言われると応えるものがあった。

 

 ――そして同時に、恐怖を抱かずにはいられない。

 

 もしも奴らとの力関係が逆転した場合――果たして、害虫として駆除されるのはどちらなのか?

 

「全員、静粛に」

 

 不安げな表情を浮かべる乗組員たちに向かって、ドナテロは手を鳴らした。乾いた音が室内に響き、全員が再び口を閉じた。

 

「テラフォーマーについての具体的な対策は、また後で話し合うことにする。幸い、火星に着くまで時間はあるからな。それよりも今は、認識のすり合わせと情報共有を優先するぞ」

 

 ドナテロの指示で、浮足立っていた乗組員たちが徐々に落ち着きを取り戻す。完全に場が静まったのを確認したドナテロは、再びイヴへと視線を向けた。

 

「イヴ、次の質問だ。その情報をどこで知った?」

 

 ドナテロにそう問われたイヴは、困ったような表情を浮かべながら答えた。

 

「えっとね、ボクが自分で調べたんだ」

 

「……何だと?」

 

 ドナテロが思わず聞き返すと、イヴは慌てて手を振った。

 

「あ、一から十まで全部調べたわけじゃないよ!? まず最初に、ニュートンさんがボクにテラフォーマーの存在を教えてくれて、その後でボクが資料を探して調べたの」

 

「……詳しく聞かせてくれ」

 

 ドナテロにそう言われ、イヴは自分がテラフォーマーのことを知るに至った経緯を説明し始めた。

 

 

 

 遡ること三週間。バグズ2号打ち上げの二週間前のことである。ドナテロとイヴが別れた直後、謀ったかのようなタイミングで現れたニュートンはイヴに言った。

 

『このまま放っておけば、デイヴス艦長は死ぬぞ。進化した火星のゴキブリによって、彼は殺される』

 

 ――と。

 

 当然ながら、その言葉を鵜呑みにする程イヴは馬鹿ではない。しかし同時に、イヴはそれを戯言と切って捨てる程に軽率でもなかった。その場は適当に取り繕ったものの、ニュートンの言葉は、まるでしこりのように彼の心に違和を残した。

 

「だからボクはその日の夜、クロード先生の資料を漁ってみたんだ。研究総責任者の先生なら、何か知ってるかもしれないと思ったから」

 

 ――果たして、彼の予想は的中した。

 

 クロードが持つデータには、進化した火星のゴキブリ『テラフォーマー』についての詳細な情報が記されていたのだ。そしてそのデータは、皮肉にもニュートンの言葉を肯定するものでもあった。このまま何も知らずに火星への任務に赴けば、文字通りバグズ2号の乗組員たちが全滅しかねない。テラフォーマーは、それだけの危険性をその身に秘めていた。

 

 ――一刻も早く、バグズ2号の火星行きを止めなくては。

 

 それが、真っ先にイヴの頭に浮かんだこと。

 しかし同時に、それが難しいことにも彼は気づいていた。これ程までに重要な情報をドナテロ達が知らないのは、何者かが裏で情報操作をしているからに他ならない、ということに。

 

 クロードを頼っても無駄だろう。おそらく彼も情報操作を『している』側の人間だ。手元にこれだけデータが揃っているにも関わらず、乗組員にそれを伝えていないのが動かぬ証拠。意図は不明だが、彼を迂闊に頼ることは、結果的に自分で自分の首を絞めかねない。

 

 ――ならば、どうするか。

 

「それでイヴ君がとった手段が、この艦への密航?」

 

 奈々緒の問いにイヴが頷くと、また思い切ったことをしたなぁ、と言わんばかりに数人が苦笑いを浮かべた。

 

 ――自らがバグズ2号に密航し、計画そのものを頓挫させる。

 

 それが、彼の立てた計画。誰かを頼れないのならば、自分でやるしかない。そんな思いと共に、イヴは密かに準備を始めた。

 

 ――友達(ドナテロ)のため、友達の友達(乗組員達)のために。

 

 彼は全霊を賭して計画を進めていった。

 

電気警杖(スパークシグナル)とか手錠とかの道具は、二週間かけてU-NASA中の研究室から集めた。皆の細かい情報は、先生が管理してるデータを直接見たんだ。略歴とか、ベース生物とかもこの時に覚えた」

 

 イヴの説明に、小吉が納得したように手を打った。

 

「成程! だから俺達のベース生物を知って――」

 

「いや待て、小吉。こいつの話は腑に落ちねェ部分がある」

 

 しかしそこで、彼の言葉を遮るようにリーが声を上げた。自分に集まる注意を気にも留めず、リーはイヴに聞く。

 

「おい、ガキ。今更お前の言うことを疑うつもりはないが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 リーの発言に、一同がはっと顔を見合わせた。

 

「セキュリティに守られた情報の閲覧、厳重に管理されている武器の持ち出し、計画の隠蔽……とてもじゃねぇが、ガキにできることじゃねぇ」

 

「た、確かに……」

 

 ――なぜ、言われるまで気づかなかったのか。

 

 リーの言葉を聞いた乗組員達は、一様に同じ思いを抱いた。

 言われてみれば――否、言われるまでもなく、イヴの行動は明らかに子供にできる範疇を越えている。あるいは、例え大人であったとしても難しいだろう。スパイ映画の主人公ならばいざ知らず、現実でそれだけのことを実行するには相当な労力と技術が必要なはずだ。

 

「……俺もずっと疑問だったんだが」

 

 と、それまで聞きに徹していたティンが口を開いた。

 

「なぜイヴにはバグズ手術のベースが三つもあるんだ? いや、そもそも……お前が俺達との戦闘の時に見せたあの力は、本当にバグズ手術で得たものなのか?」

 

 ティンの言葉にイヴが黙り込んだ。その顔には難しそうな表情が張り付いており、何かを躊躇っているかのようにも見える。言うべきか、言わざるべきか。2つの相反する意見が、彼の中でひしめき合う。

 少しの沈黙の後に、彼は多少踏ん切りがついたような様子で口を開いた。

 

「……そうだよね。言わなくちゃ、ダメだよね」

 

 その呟きは、まるで自分に言い聞かせているかのように聞こえた。どこか辛そうな彼の様子に、小吉が慌てて口を挟んだ。

 

「い、言わなくたっていいんだぞ、イヴ! そんなに辛いことなら無理しなくても――」

 

「ありがとう、小吉さん」

 

 しかし、小吉のそんな言葉にイヴは頭を振らなかった。

 

「でもね、ボクは皆のことを全部知ってるのに、自分のことを隠すのは不平等だよ。それに……皆には知っててほしいんだ、ボクの事」

 

 そう言ってイヴはほほ笑むと、佇まいをスッと直した。それから、自身を見つめる乗組員たちの目をゆっくりと見つめ返していった。

 

「えっとね……リーさんとティンさんの疑問に答えるためには、まずボクが()()()()を説明しなきゃいけないんだ。だからちょっと不愉快かもしれないけど、最後まで聞いて欲しい」

 

 そう言うと、イヴは大きく息を吸った。一瞬だけ止めてから、肺の中の空気をすべて吐き出す。それから更に一拍置いて呼吸を整えると、イヴは話し始めた。

 

 

 

「ボクの本当の名前は、EVE-325。ボクは7年前に1人の狂人(かがくしゃ)に造られた、人造人間なんだ」

 




【オマケ】 U-NASAにて

クロード「あ、それはそれとして、スシはもらいますね」

ニュートン「えっ」


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第10話 ARE YOU HUMAN ? 人造人間

「ボクの本当の名前は、EVE-325。7年前に1人の狂人(かがくしゃ)が造った、人造人間だ」

 

 イヴの口から告げられた内容に、乗組員たちのほとんどが言葉を失った。

 

「じ、人造人間って、そんな漫画みたいなことが……」

 

 トシオが漏らした言葉にミンミンが「いや」と口を挟んだ。

 

「人工授精や再生医療、遺伝子操作なんて技術があるくらいだ。それらを組み合わせれば、人1人作り出すのはそう難しいことじゃない」

 

「ボクの場合はそれに加えて、バグズ手術もだけどね」

 

 ミンミンの説明にイヴが付け加えるようにして言うも、ほとんどの乗組員たちは首をひねった。二つの技術が結びついた融合系が、今一つ思い浮かばなかったのである。

 その一方で、ティンやミンミンを始めとした察しのいい乗組員たちは、イヴの体の秘密に思い至った。そして同時に、その顔を青ざめさせる。

 

「まさか、いや……そんなバカな……」

 

「な、何か分かったんですか、副艦長?」

 

 マリアに聞かれ、ミンミンは震える唇を動かした。

 

「バグズ手術と各種医療技術を組み合わせて造られた人造人間……まさかとは思うが、私がここから思いつく結論は、一つしかない」

 

 そう言って、彼女は確認するようにイヴの方へと向き直った。

 

「イヴ……お前が使った昆虫の力は全て、()()()()()()()()()?」

 

「そうだよ」

 

 何てことないように頷いて見せるイヴに、ミンミンは息を呑んだ。

 もしも複合型のバグズ手術と言われたのならば、彼女はさほど驚かなかっただろう。だが、先天性のものなれば話は別だ。彼はそもそも、()()()()()()()()()()()()()()。一体、どんな技術を使えばそんな芸当が可能なのか――。

 

 ミンミン同様、呆気に取られて言葉を失った乗組員たちに、イヴは自分の体について詳しく話し始める。

 

「ボクがさっき使った力は、バグズ手術で後天的に手に入れたものじゃない。『バグズデザイニング』っていう技術でね、ボクの体には先天的に昆虫の遺伝子が組み込まれてるんだ」

 

「っはあ!? 何だそれ!?」

 

 衝撃からいち早く回復した小吉が素っ頓狂な声を上げたが、それをとがめる者はいなかった。

 ベースとなる虫が複数存在しているだけでも十分に異常なのだ。それが先天性であるなどと聞かされれば、信じられないのも無理からぬ話であった。

 

「いや、思い出してみろ小吉。イヴが最初に変態した時に、何か違和感がなかったか?」

 

 未だ半信半疑な小吉たちに、ティンが冷や汗を流しながら言った。そんな彼の言葉を受け、小吉たちは記憶の中からイヴが変態していく場面を引っ張り出した。

 

 

 変態を終え、臨戦態勢に突入するリー。そんな彼に対抗するかのように、ガスマスクを被ったイヴの腕が、昆虫の特性を反映したものへと変化していく――。

 

 

「あっ!」

 

 そして、小吉はその場面における決定的な違和感に気が付いた。

 

「そう言えば、変態するときに薬を使ってない!?」

 

 なぜ今まで不思議に思わなかったのか。あまりに当然のように振る舞っていたために全く気付かなかったが、イヴは最初の変態の時に薬を使っていない。それは、バグズ手術では決してあり得ない現象。

 

 そして同時に、イヴの説明が一気に腑に落ちた。先天的なものであれば、薬を服用せずに昆虫の力を引き出すこともできても不思議はない。

 まるで、呼吸をするかのように。あるいは、指を折り曲げて物をつかむかのように。

 イヴにとって昆虫の力を使うということは、それらの行為と同様にごく簡単なことなのだろう。

 

「薬なしだと、どうしても引き出せる力は落ちちゃうんだけどね」

 

 愕然とする乗組員たちに苦笑いでイヴが返していると、テーブルの向かい側でウッドがひらひらと手を上げた。

 

「はいはーい、ちょっとアタシからも質問して良い?」

 

 お気楽な性分の彼女は、イヴの体の秘密を聞いても大して驚かなかったらしい。彼女はいつも通りの快活な声で、しかし不思議そうにイヴに聞いた。

 

「アタシはバカだからよくわかんないけどさ、今の説明じゃティン君たちの質問への答えにならないんじゃない?」

 

 飄々とした口調でありながらも、彼女の言っていることは的を射ていた。

 先天的に昆虫の遺伝子を持っていることは、確かに人間としては特例である。しかしだからといって、イヴが複数の昆虫の遺伝子を持っていることへの説明にはならないし、彼が大人に匹敵する能力を発揮できることへの根拠にもなり得ない。

 

「うん、そうだよ。だけど、その二つについて答えるには、まずはバグズデザイニングのことを説明しなくちゃいけないんだ」

 

 そんなウッドの鋭い指摘を肯定しながらも、イヴは続けた。

 

「昆虫の力を先天的に使えるようになるのは、あくまでバグズデザイニングの副産物でしかないんだ」

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 

「ネイト博士の研究所から押収できた数少ない資料によれば、バグズデザイニングのコンセプトは『優秀かつ強力な即戦力を造りだす』ことにある」

 

 U-NASAの最深部の部屋にて。

 クロードはそう言うと手に持ったファイルを軽く叩いて見せた。その中に閉じてあるのは、彼が率いる研究チームが7年をかけて調べ上げた、バグズデザイニングについての研究データだ。

 

「デザイニングの名を冠する通り、この技術は人をデザインするための技術。完全にとはいかないものの見た目や体質、果ては気質から潜在能力に至るまで、概ね設計者の意向通りの人間を造ることができます。イヴが身体能力・知能の面で優れているのは、このためです」

 

 クロードがファイルを開くと、そこには前任者の実験の犠牲となった、32名の子供たちの個表が乗っていた。

 

「ネイト博士が拉致した子供たちは、いずれも学力や運動能力に秀でた子供たちでした。その中でも、選りすぐりの子供たちを材料にイヴは造られたのでしょう。到底兵器には向かないあの気質は、後々実験がしやすいように、あえて従順になるように設計されたのかと」

 

 義憤を心の内で押さえながら、クロードが言う。

 自分にそんな感情を抱く資格がないことは百も承知だが、それでもその研究に怒らずにはいられなかった。バグズデザイニングはあまりにも、人道に反している。

 

「だが、それにしても妙ではないかね?」

 

 そんな彼の内心を知ってか知らずか、ニュートンがクロードに聞いた。

 

「その原理であればイヴは確かに優秀な素体を持つのだろうが、それでも『年相応』のものでしかないはず。だが身体能力に知性、精神年齢……どれをとっても、彼の能力は7歳児のものではない」

 

「その通りです。いかに素体が優れていようとも、それが幼ければ発達上の限界が来る。だからこそ、彼の体には昆虫の遺伝子を組み込んであるんです」

 

 胸中で燃え盛る怒りの感情に蓋をしながら、クロードは再び説明を始めた。

 

「当然のことながら、昆虫の一生は人間のそれよりも遥かに短い。つまり逆説的に、昆虫は人間よりも早く成熟する」

 

 昆虫と人。一生のうち、幼体である時間の比率がどうであるかはこの際さておき、絶対的な時間として考えれば昆虫の方が早く成長するということは疑いようがない。

 

 イヴの体に宿っているカメムシであっても、それは例外ではない。種によって差はあれ、彼らの寿命は約1年。仮に人とカメムシが同じタイミングで生まれた場合、人がやっと歩けるようになる頃にはカメムシは寿命を迎えて死ぬ。

 

「ネイト博士はここに注目した。つまり、人間の体の諸機能を昆虫並みの速度で発達させようと考えたんです。さすがに、調整は施されているようですが……」

 

 クロードは手元の資料に目を落とした。

 

「イヴの体は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。確認できた範囲だと思考・判断力、一部の運動能力、そして生殖機能が既に成人レベルに達しています」

 

「成程。それならば確かに、優秀かつ強力な『即戦力』たり得るな」

 

 クロードの説明に、ニュートンは興味深そうに髭を撫でた。大人並みの身体機能と判断能力を兼ね備え、しかも昆虫の力を使える少年兵。それがどれだけ脅威なのかは、言うまでもないだろう。生殖機能が発達していれば、補充も比較的に容易になる。

 よく考えられた方式だ。

 

「一方で精神面や学習能力は子供のままですね。もっとも、それが結果的に『献身さ』や『子供ならではの覚えの速さ』に繋がっていることを考えると、意図的に残した可能性が高いですが」

 

「随分と都合がいいな」

 

「勿論、利点ばかりではありません。この技術には致命的な欠点もあります」

 

 クロードはそう言うと、さらに言葉を続けた。

 

「当然、そんな無茶苦茶な処置を施した被検体に何の異常がないはずもない。さすがに一年で老衰ということはありませんが……放っておけば、被検体は十年と経たずに死亡する」

 

「ほう、では彼の寿命はあと三年も残されていないということかね?」

 

 愉快気にニュートンが言うが、クロードはそんな彼の言葉を一蹴した。

 

「馬鹿言わないでください、()()()()()()()()()()()()()()()()()。長寿の保証はさすがにできませんが、人並みの寿命を迎えることはできます」

 

「――では、君さえいればバグズデザイニングの欠点はさして気にならないということだな」

 

 意地の悪い笑みを浮かべるニュートンを、クロードは冷めた目で一瞥する。

 

「U-NASAに所属する科学者の中でも、この処置を行えるのは私だけですよ。おそらく、日本の本多博士やドイツのベルウッド博士でも無理でしょう」

 

「当然だ。彼らも優秀ではあるが、U-NASAにおけるありとあらゆる『科学技術』を司り、全ての技術者の頂点に立つ君と比べるのは、あまりにも酷というものだ」

 

 言外に「バグズデザイニングの実用化など考えるな」と釘を刺したつもりであったが、どうやらニュートンには若干違うニュアンスで伝わったらしい。あるいは、気づいていないふりをしているだけなのか。

 

「さすがだ、ヴァレンシュタイン博士。ダ・ヴィンチの再来とはよく言ったもの、やはりリスクを飲んでも君を登用したのは正解だったらしい。例え完成形のバグズデザイニングでも、君ほどの天才を造り出すことはできまい」

 

「でしょうね」

 

 クロードが心底どうでもよさそうに相槌を打つと、ニュートンは再び口に葉巻を加えながら彼が言う。

 

「ではついでにご教授いただきたい、ヴァレンシュタイン博士。なぜEVE(イヴ)が、複数のベースを扱うことができるのかを」

 

 おどけたようなニュートンに対し、クロードは露骨にため息をつくと口を開いた。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ボクが複数のカメムシの力を使えるのは、ボクがDNAキメラの体質だからなんだ」

 

 偶然にも地球でクロードが説明を始めたのと同じタイミングで、イヴがそう切り出した。

 しん、とミーティングルームから一切の音が消え去った。テーブルを囲う乗組員たちはほぼ一様に、聞き慣れない単語に目を点にしている。

 

「お、おい小吉……DNAキメラって何だ?」

 

「ちょっ、俺に聞くのか!?」

 

 静まり返った部屋の中に、小声で話し合う奈々緒と小吉の声が響く。しかしながら、ほとんどの者は口に出していないだけで彼らと似たり寄ったりな状況だ。

 大体の乗組員はイヴの言った言葉の意味を理解できず、頭上にハテナマークを飛ばしているか、さもなくば既に考えることを諦めているかのどちらかだった。

 

「一郎! HELP(おしえて)!」

 

「考える気がないのかお前は」

 

 いきなり話を振られた一郎が思わずそう漏らすが、すがるような小吉の視線に、渋々といった様子で話し出した。

 

 

 

 

 ――2002年、アメリカのワシントン州に住んでいたリディア・フェアチャイルドは不可解な出来事に見舞われた。

 

 それは、当時2人の子供を女手一つで育てている上に妊娠中であった彼女が、生活保護受給のためにDNA鑑定を受けた時のことだ。

 なぜかDNA鑑定が、リディアと彼女自身が生んだはずの子供たちの遺伝子情報が一致しないという結果を出したのだ。何度鑑定を受けても、結果は同じ。しかし奇妙なことに子供たちと夫との遺伝子は完全に一致していたのである。

 

 一体どういうことなのか。

 

 紆余曲折の末にリディアの全身の遺伝子情報を検査した結果、興味深い事実が明らかになった。彼女の子宮のDNAが、他の部位のものと明らかに違っていたのである。それを用いて改めて鑑定を行った結果、子供たちのDNAとリディアの子宮のDNAは完全に一致、こうして無事に親子関係は証明された。そう、全ての原因は、本人すら自覚していなかった彼女の特異な体質にあったのである。

 

 その体質の名こそが、DNAキメラ。

 

 その身の何処かに第二の遺伝子を隠し持つその希少体質は、ライオンの頭とヤギの半身、蛇の尾を持つと言われる架空の生物の「キメラ」の名をとってそう呼ばれている。

 

 

 

「本来なら1種類しか持たないはずの遺伝子を何かの理由で2種類以上持っている奴。それがDNAキメラだ」

 

 神妙な顔で聞き入る乗組員たちに向かって、一郎がわかりやすいようにかみ砕いて説明する。

 

「発生する原因は、本来双子で生まれるはずの受精卵が早い段階で合体するとか、特殊な状況に限る。本来の発生率は70万人に1人だそうだ」

 

 ――だが。

 

「さっきこいつが言ったバグズデザイニングの特徴と照らし合わせれば、そんな希少体質を造り出すのも無理じゃないだろうな」

 

「成程……」

 

 一郎が話し終わると、所々から驚嘆の声が上がった。

 

「ってことは……イヴの体には3つの違う遺伝子があるってことでいいのか?」

 

 こんがらがってきた思考を整理する意図もかねてテジャスが確認すると、イヴは彼に頷いて見せた。

 

「うん、そんな感じ。ボクの場合は腕と胴体、それから足の遺伝子情報がそれぞれ違ってるんだけど、組み込まれた昆虫の遺伝子も部位ごとに違うんだ。具体的には腕がツチカメムシ、胴体がカハオノモンタナ、足がウンカっていう感じで。だからボクは、複数の違うベースを一度に使える」

 

「……オーバーテクノロジーもいいところだな」

 

 ミンミンが思わず呻くと、他の者たちも激しく首を縦に振った。

 本来ならば最先端の技術であるはずのバグズ手術がかすんで見える程に、バグズデザイニングは高度なものであった。

 とことん進歩した科学は魔法と大差ないとはよく言うが、彼らにとってバグズデザイニングは魔法以外の何物でもない。思わず笑ってしまいそうなくらいだ。

 

「えっと、ボクについてはこんなところでいいかな? ティンさんとリーさんの疑問に答えられてるといいんだけど……」

 

「あ、ああ。ありがとう、イヴ」

 

 確認するように首を傾げたイヴに、ティンが言った。予想の斜め上をいく解答であったが、一応のところの疑問は晴れた。リーも口を出さないあたり、納得はしたらしい。

 

 ドナテロはそれを見て、深く息をついた。

 

「これで聞くべきことは大体聞いたが……イヴ、最後にもう一つだけ聞きたいことがある」

 

「なあに?」

 

 何でも聞いて、とばかりにドナテロに笑いかけるイヴ。ドナテロはそんな彼の青い瞳をじっと見つめながら、言った。

 

「お前はリーたちに『金を用意できる』と言っていたそうだが、どうやって金を集めるつもりだったんだ?」

 

 心なしか彼の声には、どこか剣呑さが感じられた。それに気づきながらも、イヴは自分が考えていた『金を集める』方法を、正直に答えた。

 

()()()()()()()()()()()()()()

 

 一切の躊躇も、迷いもなく、彼はそう言い切った。

 誰かが息を呑む音が聞きながら、イヴはどこか誇らしげに自らの考えを明かし始めた。

 

「バグズデザイニングで造られたボクの体の価値は、すごく高いと思うんだ。中国辺りに売りつければ、皆の借金を帳消しにするだけのお金が確実に――」

 

 しかし、イヴはそこから先を言うことができなかった。

 

 突然、彼の頭部に衝撃が走った。鈍い音と共に無数の星が飛び散り、その直後に涙で視界がぼやける。

 

「か、艦長!?」

 

 ティンの叫び声を聞いたイヴは、自らがドナテロに殴られたことを悟った。灼熱感にも似た痛みに耐えつつ、頭を押さえたイヴが後ろを見ると、そこには拳を握りしめたドナテロが、鬼のような形相で立っていた。

 

「――二度とそんなことを言うな」

 

 ドナテロの声は低く静かに、しかし憤怒の色を強く滲ませながらミーティングルームの中に響く。それを聞いたイヴの体がビクリと竦む。

 

「俺達は金がない連中の集まりだ。人権もない、人として認知されてすらいない――だがな、()()()()()()()()()()()()()

 

 ドナテロがぐるりと乗組員たちを見渡す。彼らがこの船に乗っている理由は、ほとんどが金が必要だからだった。事情は人によって様々だが、自業自得で金を失った者も決して少なくはない。

 

「ここにいるのは、誰よりも人であることに誇りを持ち、最底辺まで落ちることを良しとせずに抗い続けてきた奴らだけだ」

 

 万事、堕ちることは楽である。ただただ状況に流されるまま、無気力に身を委ねるだけで勝手に事態は転がっていく。

 

 だがここにいる者は皆、這い上がるために必死であがいてきた者達だ。成功率四割を下回る手術を受け、何年もの訓練に耐え抜き、宇宙で命がけの任務に臨む。現状を打破すべく、そんな茨の道を進むことを決意した人間達である。ゆえにドナテロは、彼らに対してある種の敬意を抱いていた。

 

「だが、お前の犠牲と引き換えに金を手に入れたら、あいつらの誇りはどうなる? 他人の不幸を代償に自分の幸せを手に入れたら、あいつらの決意はどうなる? お前の言う方法を実行したその瞬間に、俺達はただの畜生に成り下がるだろう」

 

 その言葉はイヴの痛みを忘れさせるほどに、彼の心を打った。そしてイヴは、自分が今怒られているのではなく、叱られているのだと悟る。それと同時に、彼の心の中に立ち込めた恐怖の感情はどこかへと消えていった。

 

「お前が俺達のために命を懸けてくれたことには、心から感謝する。だが、俺達を助けるために、お前が不幸になるようなことだけはしないでくれ。それは、こいつらに対する侮辱にしかならない」

 

「……わかった」

 

 ドナテロの言葉に、イヴが神妙に頷く。すると彼は「よし!」と言って笑みを浮かべ、イヴの頭をくしゃくしゃと撫でた。それから椅子から立ち上がると、おもむろに手を叩く。

 

「他に何もなければ、今日のミーティングはこれで終わりとする!」

 

「えっ?」

 

 ドナテロの指示に、乗組員たちは一様に拍子抜けしたような顔つきになった。てっきり、これから例のテラフォーマーの対策について話し合うものだと思っていたのだが――

 

「艦長……」

 

「ああ、お前らの言いたいことは分かっている」

 

 懸念するようなミンミンに、ドナテロが答える。

 

「だがさっきも言った通り、火星に着くまではあと32日間の猶予がある。対策を考えるのは明日からでも問題ないだろう。どのみち、やれることはそう多くない」

 

 それに、とドナテロは言葉を続ける。

 

「今日は朝から色々とあったから、皆も疲れているはずだ。今話し合うよりも、充分に休んでからの方が効果的。だから、今日のところはこれで解散とする!」

 

 あとは各自、好きに過ごしてくれ。

 

 ドナテロがそう言うと、一部の乗組員から歓声が上がり、それから各自思い通りの行動をし始めた。立ち上がって伸びをするもの、すぐに部屋を出ていくもの、座ったままで雑談をするもの……本当にバラバラだ。

 そんな彼らの様子を眺めながらこれからどうしようかと頭を悩ませていると、イヴは頭をポンと叩かれた。

 

「イヴ! 難しい話も終わったことだし、バグズ2号の中を案内してやるよ。探検しようぜ、探検!」

 

 小吉だった。イヴを見下ろしながら、ニッと笑っている。そのすぐ後ろでは、奈々緒が「小学生か」とぼやきながら、呆れた眼で彼を見つめていた。

 

「何を言ってんだアキちゃん。探検は男のロマンだろ?」

 

「いや、知らねーよ」

 

「全体的に色々と男に近いアキなら理解してくれると思ってたんだが……見込み違いだったか」

 

「上等だ、表に出ろゴリラ」

 

 今にも殴りかかってきそうな奈々緒を手で制しながら、「まぁ、真面目な話さ」と小吉はイヴに向かって切り出した。

 

「見取り図とかで知ってても、ちゃんと入ってみたり、使ってみたりしたことがない場所も多いんじゃないか?」

 

「あっ……」

 

 言われてみれば、確かにその通りだ。バグズ2号に密航している間、イヴは乗組員たちに見つからないよう、極力人が集まりそうな場所は避けていた。そのため、詳しく知らない場所も少なくない。

 

「やっぱりな」

 

 イヴの反応を見た小吉は、予想通りと言わんばかりの表情を浮かべた。

 

「でも、これからはお前もバグズ2号の一員だ。なら、使い方も知ってた方がいい」

 

「嘘でしょ!? 小吉がまともなことを言ってる!?」

 

 小吉の口から飛び出す正論の数々に、奈々緒が愕然とした表情を浮かべた。失敬な、と言いながら小吉はイヴに手を差し出す。

 

「ほら、行こうぜイヴ」

 

 イヴは頷くと長椅子から立ち上がり、小吉に手を引かれてミーティングルームを後にした。それを見た乗組員たちが顔を見合わせる。

 

「……せっかくだし、アタシ達も行ってみようか?」

 

「そうだな。小吉、俺らもついてくぞ!」

 

 そんなことを口々に言い合いながら、彼らはイヴたちを追うように次々と部屋を出ていく。気が付くと、ミーティングルームに残っているのはドナテロの他にはミンミンとリーだけとなった。

 

「どうなることかと思ったが……馴染めているようでよかった」

 

「単純だからな、あいつらは。気が合うんだろうよ」

 

 安心したように呟くドナテロに、リーが相槌を打つ。その横で、ミンミンはくすくすと笑っていた。

 

「どうした?」

 

 不思議そうなドナテロに問われ、ミンミンが「申し訳ありません」と断ったうえで、面白そうに答えた。

 

「いえ、艦長がどことなく寂しそうに見えたので、つい……」

 

――イヴに新しい友人ができたことが嬉しくもあり、同時に少しだけ寂しくもある。

 

 そんな自分の子供が小学校に入った直後のような複雑な心境を見透かされ、ドナテロは決まり悪そうな表情を浮かべた。

 

「図星か」

 

「……少しな」

 

 どこか呆れたようなリーに、ドナテロは照れくさそうな口調で言い――しかし直後、その表情をふと真剣なモノへと切り替えた。

 

「それよりもミンミン、リー」

 

 ドナテロの口調から何かを感じ、2人は視線を彼へと向けた。そんな彼らの眼を見つめ返しながら、ドナテロは口を開いた。

 

「重ね重ねで悪いが――頼みたいことがある」

 




U-NASA予備ファイル1『スパーク・シグナル』 【武器】
 元々はU-NASAの対人防犯器具で、一言で言えば杖型スタンガン。後に対バグズ手術被験者用の『武器』として改良された。
 改良にあたって組み立て式となり、更に電圧調整機能が備わった。電気信号式であり、連結状態になくてもスイッチを押せば放電が可能。



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第11話 FRIEND AND ENEMY 友と敵

 ――航海開始より、39日目。

 宇宙船バグズ2号はいよいよ、テラフォーミング計画も大詰めを迎え、一面が緑に染まった太陽系第四惑星、火星へと降り立つ。






「一応、正確には緑と黒なんだけどね」

 

 イヴはそう言うと、カイコガのフライを口の中へと放った。揚げたての香ばしさをゆっくり味わってから飲み込み、指に着いた塩を舐めとる。再びイヴが次のフライへと手を伸ばそうとしたその時、彼を背後から呼ぶ声が聞こえた。

 

「なぁ、イヴ……テラフォーマーって、全部でざっと何匹くらいいるんだ?」

 

 振り返ったイヴの目に映ったのは、部屋の隅で体育座りをした小吉だった。普段の明るい様子は鳴りを潜め、見るからに負のオーラを放っている。そんな小吉に引きずられてか、彼の座り込んでいる一角だけ妙に空気が重かった。

 

「え? えっと、確か資料だと……2億匹くらい、だったかな?」

 

 盗み見たクロードの資料に書いてあった推定生息量が確かそのくらいであったはずだ。資料のデータを思い出しながらイヴが言うと、小吉はあからさまに大きくため息をついた。

 

「……おうち帰る」

 

「そこ、幼児退行すんな」

 

 切なげな表情を浮かべる小吉の頭を、奈々緒がべしっと叩く。そんな彼女に小吉は力なく抗議を始めた。

 

「だってさー、アキちゃん。ゴキブリだぞ、しかも人型×2億だぞ? 絶っっっっっ対に無理だわー」

 

「何ぃ!?」

 

 弱音を吐いた小吉の胸元を、奈々緒がぐっと掴みあげた。

 

「お前、昨日まで散々『オオスズメバチこそ最強(キリッ)』とか『かっこいいのもオオスズメバチの特性な(キリッ)』とか言ってたじゃねーか!」

 

「いや、それは本番が近づくにつれてこう……マタニティブルー的な、ね?」

 

「お前は男だろ!? というかそれはどっちかというと事後――って、子供の前で何言わせんだ馬鹿!?」

 

「いや今のは俺悪くないでしょ!?」

 

 いつも通りよく言えば賑やか、悪く言えば騒がしく小吉と奈々緒のやり取りが繰り広げられていく。

 真剣さを今一つ欠く会話内容であるが、その実彼らのやりとりは他の乗組員たちの緊張をほぐすことに大きく貢献していた。現に、今ミーティングルームにいる乗組員たちは、決戦を目前に控えながらも皆一様に明るい表情を浮かべている。

 

「イヴ、新しいことを教えてやる」

 

 可笑しそうに小吉と奈々緒のやり取りを眺めるイヴの耳元で、トシオが囁いた。

 

「あれがジャパニーズ・リア充というやつだ。ああいうのを見たら思い切り『リア充爆発しろ!』と叫ぶんだぞ」

 

「ああ、我々にはない文化だ。よく覚えておくんだぞ、イヴ」

 

「そこ! イヴ君に変なこと吹き込むな!」

 

 嬉々としてイヴに間違った知識を教え始めるトシオとルドンに、奈々緒が怒鳴りつけた。そんな彼女に胸元を掴まれながら、小吉がうわ言の様に呟く。

 

「ないわー、人型のゴキブリとかないわー……マジでないわー……狭いうえにドアが内側に開くトイレの個室ぐらいないわー」

 

「お前もいい加減諦めろ! あと嫌いの度合いがよくわからん!」

 

 奈々緒にどんなにどやされようとも、小吉の顔は一向に晴れない。「oh、神よ……」などと言いながら小吉が1人天井を仰ぎ見ていると、彼の足元にトテトテとイヴが駆け寄ってきた。

 

「小吉さん、小吉さん」

 

「んー?」

 

 普段より幾分も低いトーンで返事をしながら彼が足元を見ると、自分を見上げるイヴと目が合った。上目遣いでキラキラとした視線を向けながら、イヴは甘えるような声音で小吉に言った。

 

「小吉さんがかっこよく戦ってるところ、ボク見たいなー」

 

「よっしゃ任せろッ! 何億匹でもかかってこいやァ!」

 

 頼りにされたのが嬉しかったのか、はたまた父性本能的な何かをくすぐられたのか、小吉のテンションは一気に元に戻った――否、むしろ逆に普段よりもテンションが上がった。「やかましいわ!」と奈々緒にどつかれても、構うことなくやる気満々で吠えている。

 やり遂げたような顔でイヴが席に戻ると、一部始終を見ていた乗組員たちから小さな拍手がわき起こった。

 

「っはー、すごいな。ゴキブリ嫌いの小吉を一瞬でやる気にさせちまった」

 

「いや大したもんだよ、ホント」

 

 驚いたような、呆れたような口調でジョーンとフワンが口々にそう言うと、イヴが照れたように笑いながら、首を横に振った。

 

「そんなことないよ。ボクはただ、一郎さんから聞いた話を応用しただけ」

 

「一郎から?」

 

 近くで聞いていたマリアが首をかしげる。不思議そうな表情を浮かべる彼女にイヴは頷いて、以前聞いた一郎の家族にまつわる話を始めた。

 

「えっとね、一郎さんの家っていっぱい兄妹がいるでしょ?」

 

 イヴの言葉に、乗組員たちが頷く。あまり皆と打ち解けようとしなかった一郎だが、弟と年齢が近いこともあってかイヴのことはあれこれと世話を焼いていた。イヴにねだられて家族の思い出話をする光景は、小吉と奈々緒の漫才に並ぶバグズ2号の風物詩の一つと化している。

 そんな彼らの会話を聞いているうちに、一部の乗組員は、知らず知らずのうちに一郎の家庭事情に詳しくなっていた。

 

「それでね、弟とか妹が注射を嫌がってる時に、お母さんが『泣かないで注射を受けれたらかっこいいよー』って褒めると、皆すんなり注射を受けるんだって。だから、小吉さんも褒めたらゴキブリ退治頑張ってくれるんじゃないかなーって思ったんだ」

 

 イヴの発言を耳ざとく――あるいは運悪く聞きつけてしまった小吉が、彼の背後で目を剥いた。

 

「ちょっと待って!? その原理だと俺、注射を嫌がる子供レベルってことにならないか!?」

 

「実際その通りでしょうが」

 

 奈々緒が小吉に正論を叩きつけたその時、入り口からブザー音が鳴り響いた。乗組員たちが音の発生源でもある入り口に視線を向けると、そこにはドナテロが立っていた。

 

「ピクニックは終わりだ、お前ら! 着陸態勢に入れ!」

 

 ドナテロが手を叩きながら声を張り上げる。

 

「これより、火星の大気圏内に突入する! 着陸直後に襲撃されることも考慮して、各自いつでも薬を使えるように用意しておくこと! いいな!?」

 

 乗組員たちはそんな彼に返事を返すと、次々に移動を始めた。イヴも皆と一緒に移動したところ、ふとドナテロに呼び止められた。

 

「イヴ。娘からお前宛に伝言を預かってきた」

 

「ミッシェルちゃんから?」

 

 小首をかしげたイヴにドナテロは頷くと、彼の青い瞳を見つめた。

 

「ああ。火星から帰ったらぜひ家に遊びに来てほしい、だそうだ。お前の絵を描いて待っている、とのことだ」

 

「本当!?」

 

 その言葉を聞いたイヴが、パッと顔を輝かせた。イヴにとって同世代で友達と言える人物は、今のところはミッシェルだけだ。言うなれば、生まれて初めての『お呼ばれ』である。これが嬉しくないはずがない。

 イヴは嬉しさのあまりにピョンピョンと跳ねた。ここまで大仰に感情を表現するのは、普段はおとなしいイヴにとってかなり珍しいことである。

 

「やったー! ドナテロさん、ありが――」

 

 とそこまで言いかけて、イヴは気が付いた。ドアの向こう側から突き刺さる、ニヤニヤとした複数の視線に。

 

「ほっほう……デートのお誘いですか、イヴくぅん?」

 

「へっ!?」

 

 悪役を絵に描いたような笑みを浮かべた小吉が言うと、イヴが頬を赤らめた。

 

「べ、別にデートとかじゃないよ!? これは、ただ一緒に遊ぶだけで……」

 

「あら? でもそう言う割には、満更でもなさそうじゃない?」

 

 慌てるイヴを面白がったマリアが追い打ちをかけると、他の乗組員たちも悪ノリしてイヴをはやし立て始めた。

 

「そりゃマリア、気になる女の子からデートのお誘いが来たとあれば、嬉しいに決まってるさ」

 

「しかも、父親公認と来た!」

 

「これはもうゴールイン直前じゃないのか?」

 

 口々に畳みかけられ、イヴの顔がますます赤く熱くなっていく。

 

「だ、だから……ミッシェルちゃんとはそう言う関係じゃ――」

 

「皆! 今こそあの言葉の出番ではないか!?」

 

 イヴの弁解の言葉を遮るようにして、小吉はさながらヒーローショーの司会のごとく声を張り上げた。

 

「俺に続いて言ってみよう! 『リア充爆発しろ』!」

 

「「「「「リア充爆発しろ!」」」」」

 

「もげろ!」

 

「「「「「もげろ!」」」」」

 

「末永く爆発しろ!」

 

「「「「「末永く爆発しろ!」」」」」

 

 この手のできごとに関して、バグズ2号の乗組員たちの団結力は極めて高い。妬みとも祝福ともつかない言葉の大合唱を浴びて、イヴはいよいよ頭から蒸気でも吹きださんばかりに顔を真っ赤になった。それを見かねたドナテロは、仕方なしに助け舟を出すことにする。

 

「お前らッ! バカやってないで早く配置に着け!」

 

 ドナテロの怒声に、小吉たちは蜘蛛の子を散らすかのように廊下を走り去っていった。その様子に呆れたようにため息をつくと、ドナテロはあうあうと悶えるイヴに声をかけた。

 

「ほら、行くぞイヴ」

 

 ドナテロの言葉に、イヴは俯きながらも無言で頷く。それを確認したドナテロは歩き出そうとして――ふと足を止めた。

 

「それとイヴ……一応言っておくが、例えお前でもミッシェルは渡さんからな?」

 

「だ、だからそう言うのじゃないんだってばぁ!」

 

 むきになって言い返したイヴに悪戯っぽく笑いかけると、ドナテロは今度こそ歩き出した。散々からかわれたイヴは火照った頬を膨らませながら、彼の背中を追ってミーティングルームをあとにした。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 イヴが乗組員として生活を共にし始めてから4日後のこと。その日、イヴが小吉と共に艦長室を訪れると、ドナテロは誰かと通信を行っている最中であった。

 最初はU-NASAへの定時連絡かと思ったイヴたちだが、どうにも様子がおかしい。通信をするドナテロの声はやや抑え気味で、まるで通信しているのを隠しているかのようだった。

 

「艦長っ! 1人でこそこそと何やってるんすか~?」

 

 小吉が艦長室内を覗き込みながら声をかけると、ドナテロは一瞬だけ体をすくませ、それからばつが悪そうな顔で振り向いた。普段は堂々としているのに珍しいな、とイヴは心中で意外そうに呟く。

 

「ちょっ、小吉やめなって……プライベート……」

 

 後ろから控えめに制止する奈々緒の声を無視し、小吉は楽し気に言葉を続ける。ドナテロの姿勢が変わったことで少しだけ見えたモニターには、1人の女性が映っていた。

 

「おや、奥さん? ほほう、こうしてわざわざ通信しているということは……お誕生日ですか!?」

 

「あっ、そうだったの!? だったら、皆でお祝いしないと!」

 

 イヴが声でそう言うと、小吉は然りとばかりに頷く。それを見たドナテロは、慌てたように口を開いた。

 

「いや、そうじゃないんだ2人とも。これは――」

 

『パパ、どうしたのー?』

 

 しかし、そんな彼の声を遮るように、室内に幼い少女の声が響き渡った。

 驚いた三人がモニターに目を向けると、そこには1人の少女が映っていた。少女はモニターにぺったりと張り付き、興味津々といった様子でイヴたちを眺めている。

 それを見たドナテロが、観念したように話し始めた。

 

「イヴには以前話したが……娘がいるんだ。本当はマズいんだが、どうしても会いたくなってしまってな」

 

「あっ、じゃあこの子が前に話してくれた……」

 

 イヴの言葉に、ドナテロが頷いた。

 

「ああ。娘のミッシェルだ」

 

 ドナテロの言葉を聞きながら、イヴはしげしげとミッシェルを見つめた。

 

「……艦長、娘さんいらしたんですね」

 

「本当だ、よく見ると似てる」

 

 小吉と奈々緒が、口々に驚きの声を上げる。幼いながらも凛々しい彼女の顔立ちには、確かにドナテロの面影がある。髪の色はドナテロのそれに比べると鮮やかだが、こちらは母親の方に似たのだろう。背後で苦笑している女性にそっくりだ。

 すると、モニターの中の少女は不思議そうに首をかしげてイヴを指さした。

 

『そのこ、だれ?』

 

「ん? ああ、そう言えば、ミッシェルは会うの初めてだったな」

 

 ドナテロは思い出したようにそう言うと、イヴを手招きしてモニターの近くまで呼び寄せた。それから彼は、初めて会った時に比べて随分と大きくなったイヴの体を持ち上げると、自らの膝の上に乗せた。

 

「この子はイヴ。父さんの友達なんだ、ミッシェル」

 

「イ、イヴです。は、初めまして」

 

 イヴにとって同世代の子供に会うのは、これが初めてのことである。緊張でガチガチになりながらもイヴが挨拶すると、ミッシェルはきょとんとした顔でイヴを見つめた。その後ろから、微笑ましそうにデイヴス夫人がミッシェルに告げる。

 

『ほらミッシェル、あなたの番よ。さっきイヴ君がやったように、あなたのお名前も教えてあげて』

 

『んー! わかった!』

 

 ミッシェルはそう言って太陽の様に明るく笑うと、イヴに向かって得意げに言うのだった。

 

『みっしぇるだよ! ねんれーは3さい! よろしくね、イヴお兄ちゃん!』

 

「っ! うん! よろしくね、ミッシェルちゃん!」

 

 ――こうして、2人は出会った。

 

 この時、イヴはまだ幼いミッシェルに何か『運命じみた』ものを感じた。と言っても、それは恋愛感情のようなロマンチックな何かではない。もっと根本的、根源的な何か。そんな何かを、イヴは彼女から感じ取っていた。

 

 その『何か』の正体が分かるのは、もう少し後のことである。

 

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 大気圏突入は順調に進み、テラフォーマーの襲撃を受けることもなく、バグズ2号は無事に着陸に成功した。着陸の完了を確認した乗組員たちは座席のシートベルトを外し、皆窓の外の景色を眺めた。

 そこから見えたのは、どこまでも果てしなく続く広大な大地。ごつごつとした岩肌には無数の苔が群がり、一面を深緑に染めている。今の地球では決してみることのできないであろう、美しい景色だった。彼らはしばし任務も、この地に潜む脅威のことも忘れ、目の前に広がる風景に見入っていた。

 

 そんな彼らを現実へと引き戻したのは、鳴り響いたブザーの音だった。我に返った乗組員たちの視線が、ブザーを鳴らしたドナテロへと注がれる。全員の意識が自分へ向いたのを確認すると、彼は指示を出した。

 

「全員いるな!? よし、配置に着け! これより大容量ゴキブリ駆除剤「マーズレッドPRO」を散布! それが終わり次第、事前に決めておいた調査隊が車で下船する! 調査隊、前へ!」

 

 ドナテロの声を受け、選抜された乗組員が彼の前に整列した。ミンミン、小吉、リー、ティン、テジャス、ジョーンだ。

 

「お前たちの任務は火星の環境調査、及びテラフォーマーの威力偵察だ! 奴らと遭遇した場合、可能であればサンプルを確保、不可能であれば無理に戦わずに撤退しろ! 必ず生きて帰ってこい! いいな!?」

 

「了解しました!」

 

 調査隊を代表してミンミンが言うと、ドナテロは満足げに大きく頷いた。

 

「よし、各自行動開始!」

 

 ドナテロの指示で、乗組員たちが一斉に動き始める。管制室に残ってレーダーを見張る者、マーズレッド散布のための準備を始める者、研究用の部屋に移動するものなど様々だ。

 

「さて、私達も出発の準備を――」

 

 ミンミンはそこまで言って、ふと言葉を切った。小吉たちが一瞬だけ怪訝そうに首をかしげたが、彼女の視線を辿って瞬時に納得する。そこには、不安そうな目で自分たちを見つめるイヴがいたのだ。

 

「……不安か、イヴ?」

 

 ミンミンがしゃがみこんで、イヴと目線の高さを合わせて聞く。するとイヴは、無言のままで小さく頷いた。

 

 元々、イヴの本来の目的はテラフォーマーと乗組員たちを引き合わせない事だったのだ。それにも関わらず、結果的に彼らをテラフォーマーの真っただ中に放り込むようなこの状況は、彼の心情としては受け入れがたいものであった。そんなイヴを安心させるかのように、ミンミンは優しく笑いかける。

 

「あまり心配するな。ジョーンの特性があれば地形的な死角はだいぶ減るし、いざとなったらテジャスの特性で逃げればいい。それに……」

 

 そこで一度言葉を切って、ミンミンは後ろに控える小吉たちを見やる。

 

「私も含めて、戦闘力が高い者を選抜したんだ。ゴキブリごときに早々後れを取るようなことはない」

 

 そうだろう、というようにミンミンが視線を送ると、小吉たちは頷いた。

 

「そうそう! だからお前はむしろ、こっちの心配をしとけって!」

 

「ああ。俺達が出張ってる間、艦長たちがいるとはいえ本艦の守りは手薄になるからな」

 

「フン、過度な期待はしねぇが……こっちは任せたぜ、ガキ」

 

「……! う、うん!」

 

 小吉やティン、リーに頼りにされたが嬉しくて、イヴは大きく頷いた。先程とは違い力強いイヴの返事に、ミンミンはもう一度笑いかけると立ち上がった。

 

「各自、物品の準備に取り掛かるぞ! 薬の散布が終わり次第、調査を開始する」

 

 ミンミンの指示で、小吉たちはイヴに手を振りながら次々と管制室を出ていった。手を振り返して彼らを見送りながら、イヴは考える。自分にできることは何なのか、バグズ2号のためにできることとは何なのかを。

 

「……奈々緒さん、フワンさん」

 

 イヴはしばらく考え込んでから、近くにいた2人に声をかけた。

 

「やりたいことがあるんだ。手伝ってほしい」

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 ――着陸からおよそ1時間後。

 

 マーズレッドの散布が終わり、バグズ2号の車庫から調査隊を乗せた六輪車が発車した。惑星探査用にU-NASAが開発した車はさすがに特注品なだけあり、舗装もされていない未開の悪路を、激しい揺れもなく走り抜けていく。

 

「……テラフォーマーの死骸は無いな」

 

 周囲を見渡しながらティンが呟いた。バグズ2号を出てから、既にかなりの距離を走っている。薬が散布されている以上、仮に効果があるのなら数匹分の死体が転がっていてもおかしくないはず。つまり逆説的に、この状況が指し示しているのは――

 

「人型ゴキブリに駆除剤は効かねえってこったな」

 

「マジかよ……」

 

 リーが平然と言い放ったその言葉に、小吉はあからさまに顔をしかめた。一応戦う覚悟はできているが、だからと言って積極的に戦いたいかと言われればまた話は別である。

 駆除剤という一縷の望みを断ち切られた小吉に、更にテジャスが悪意なき追い打ちをかけた。

 

「……なぁ、小吉。駆除剤が効かないってことは、ひょっとしてそいつらには、お前の毒も効かないんじゃ――」

 

「やめろ。冗談でもやめてくれ」

 

「す、すまん」

 

 必死の形相で言い募られ、テジャスが思わず申し訳なさそうに謝った。それを見ていたミンミンが、呆れ混じりに苦言を呈した。

 

「お前たち、もう少し緊張感を――」

 

「ふ、副艦長」

 

 しかし彼女の言葉は途中で、ジョーンの声に遮られた。彼はどこか驚いたような、意外そうな顔で前方を指さしていた。

 

「あれ……見てください」

 

 彼の指さす方へ全員が顔を向け――そして、息を呑んだ。

 

「あれは……湖か?」

 

 彼らの目の前に広がっていたのは、苔むした平原に点在する湖だった。青い水面は太陽の光を反射して、白く煌めいている。

 

「すっげえ……」

 

 小吉のその一言が、全てを表現していると言ってもいいだろう。それほどまでに、彼らの眼前に広がる光景は美しく、神秘的だった。

 

「どうします、副艦長?」

 

「……車を湖の近くに停めてくれ」

 

 運転をしながら聞いてきたジョーンに、ミンミンは少し考えこんでから答えた。彼女の指示に従ってジョーンは車を走らせ、湖から数m程離れた所でブレーキを踏んだ。

 

「よし、今から水質の調査を行う! ジョーン、変態して水中からサンプルを採ってきてくれ。」

 

「了解!」

 

 張りのある声で返事をすると、ジョーンは湖まで歩いていき、自らの首筋に注射を打ち込んだ。たちまち彼の背中には流線型の翅が生え、足はブラシのような形状に変化する。彼のベースとなった昆虫『ゲンゴロウ』の特性だ。

 

「気をつけてなー!」

 

 そう言った小吉に手を振り返すと、ジョーンは水しぶきを上げて湖の中へと飛び込んだ。湖面には少しの間波紋が広がっていたが、それも数秒で収まり、元の静けさが戻った。

 

「さて、今のうちに私たちはサンプルの採集だ。テジャスとリーは車に残って周囲を警戒、他の者で土や苔を回収するぞ」

 

「うっす」

 

 ミンミンの指示で、ティンと小吉は採集キットを片手に荷台から飛び降りた。足の裏から、苔のふかふかとした感触が伝わった。

 早速彼らは、周囲の警戒を車上の二人に任せて、サンプルの回収を始める。

 

「それにしても、全然息苦しくないのな。ここ、アンデス山脈のてっぺんと同じくらいの酸素濃度なんだろ?」

 

 小吉が足元の苔を回収しながら、隣で作業をするティンに話しかける。

 

「ああ。まだ環境は整っていないはずだが……これも、手術のおかげなのか?」

 

 不思議そうにティンが呟くと、車の反対側からミンミンが答えた。

 

「『人体改造手術』の名前は伊達じゃないということだ。イヴの様に薬なしで特性を発揮するのはさすがに無理だが、低酸素下で活動するくらいなら、変態するまでもない」

 

「へぇ……」

 

 小吉が驚いたような、感心したような声を上げた。そこから更に相槌を打とうとするも、車上からかけられたリーの声がそれを遮った。

 

「おい、お喋りはその辺にしとけ」

 

「っと、悪い。うるさかったか?」

 

 小吉が慌てて口にした謝罪の言葉に、車上からリーが「違ぇ」と返す。

 

 

 

()()()()()()()()()。無駄口叩いてると、死ぬぞ?」

 

 

 

 その言葉の意味を理解した次の瞬間、小吉たちは弾かれたように立ち上がった。即座に懐から薬を取り出して身構え、彼らはリーが見つめる方向へと視線を滑らせる。

 

 

 

 ――そこにいたのは、一言で言えば『異形』であった。

 

 

 

 それは、頭上から足先までを黒い甲皮に覆われた人型の生物。裸同然の肉体は筋肉質に引き締まっており、その右手には棍棒の様なものが握られている。頭部から生えた細い触角を揺らしながら、その生物はこちらに向かって歩いてきていた。

 

「これがテラフォーマーか……ハハ、中々マッチョなんだな」

 

 100m程先からゆっくりと迫りくるその生物の姿に、小吉が頬に冷や汗を伝わせながら呟いた。その装いは決して文明的には見えないが、それ以上に不気味だ。イヴの言っていた通り、本能的に受け付けない。

 警戒する小吉達の前でその生物――テラフォーマーは一度立ち止まる。そして、ゾッとするようなおぞましい声色で、鳴いた。

 

 

 

「  じ  ょ  う  じ  」 

 

 

 

「ッ!?」

 

 全身に鳥肌が立ち、体中をザラリとした悪寒が駆け抜ける。離れているにもかかわらず、その鳴き声は、確かに彼らの耳に届いた。身の危険を感じたティンと小吉が、咄嗟に薬を首筋に打ち込もうとする。

 

「慌てるな、2人とも」

 

 しかし、ミンミンが2人のそんな行動を制した。彼女はあくまで冷静に、構えを解かない2人に向かって言った。

 

「十分に奴との距離はある。事前の打ち合わせ通り、まずは銃火器の有効性を確かめるぞ。変態するのは奴が20m内まで接近するか、銃が効かないことがわかってからだ。いいな?」

 

「う、ウス」

 

 ティンと小吉が踏みとどまったのを確認すると、ミンミンが車上にいるリーを呼んだ。彼は短く返事を返すと、バグズ2号から持ってきた防犯用の機関銃を手に取った。荷台の上で片膝をついて銃を構えると、慣れた手つきでテラフォーマーに照準を合わせる。

 

「いつでもいけるぜ」

 

「よし、撃て!」

 

 ミンミンの号令と同時に、リーが銃の引き金を引いた。静かな湖畔に連続で銃声が響き渡り、火薬と共に大量の弾丸がばらまかれ、吸い込まれるようにテラフォーマーに着弾する。肉が抉られる不快な音と共に、テラフォーマーの体から白い脂と体液が飛び散った。

 

 ――が、しかし。

 

「だ、駄目だ! 効いてないぞ!?」

 

 

 

 ――害虫の王、死なず。

 

 

 

 弾丸の雨にさらされながらも、テラフォーマーはその歩みを止めることはなかった。弾丸が当たるたびに上半身をのけぞらせながら、しかし歩調を緩めずに車に向かって前進している。

 

「あー、こりゃ無理だな。虫だった時の名残で痛覚が無ぇのか? まるで怯む様子がねぇ。おまけに甲皮が厚くて、思うようにダメージを与えることもできねぇときた」

 

 リーは銃の引き金から指を放すと、チラリとミンミンを見やった。

 

「まだやるか? これ以上は時間と弾丸の無駄だと思うが――」

 

「いや、もういいだろう」

 

 彼の問いに、ミンミンが首を横に振った。元より、銃火器の効果が薄いは想定の範囲内。仮に銃火器で対抗できるのであれば、そもそもバグズ1号の乗組員が全滅するようなこともないだろう。

 ダメで元々、効果があれば御の字程度の試みだ。意固地になって危険に身をさらす必要もない。

 

「リー」

 

「問題ない、()()()()()()()()

 

 リーは手に持っていた銃をテジャスに渡すと、全身に巻き付けているホルダーの中から薬を取り出した。

 

「ゴキブリは高熱に弱い……つまり、俺の出番ってわけだ」

 

 彼はそう言って不敵に笑うとそれを自らの首筋に打ち込み、ミイデラゴミムシの特性を発現させる。それから彼は、両腕を迫りくるテラフォーマーに向けて突き出した。

 

「――悪いが、一方的にやらせてもらうぜ?」

 

 リーはそう呟き、掌のバルブを開ける。

 

 その直後、閃光と爆音――そして熱風がテラフォーマーに襲い掛かった。

 

「うおっ!?」

 

 着弾点からは離れているはずの車にまで余波が押し寄せ、小吉たちは思わず顔を覆った。

 

「すごいな、これは……」

 

 爆風が収まったのを見計らって顔を上げたティンが、思わずそう漏らした。話には聞いていたものの、実際に目の当たりにしたのは初めてだった。

 先程までテラフォーマーがいた場所には、煌々と赤い火柱と黒煙が立ち昇っている。

 

 過酸化酸素とハイドロキノン。それらを合成して作られた、超高温ガスであるベンゾキノンが、この爆発の正体だ。ミイデラゴミムシ最大の特徴である。

 

 人間大のスケールで放たれたガスは、火炎放射さながらの大爆発とはよく言ったもの、何も知らなければ大砲と言われても信じてしまいそうな程の威力。

 

 

「これ、サンプル確保とか無理じゃねーか?」

 

 顔を引きつらせながら小吉が言う。この威力ならば、テラフォーマーの体が爆散していたとしてもおかしくない。サンプルは生死を問わない、と事前にドナテロからは言われていたが、それ以前の問題だろう。

 

「火力が強すぎたか」

 

 構えを解きながら、リーが鼻を鳴らした。訓練時の標的は全て模型などの無生物であったため、出力の調整を見誤ったらしい。

 

「まあいい。次はもう少し――」

 

「……どうした?」

 

 突如言葉を切ったリーに、怪訝そうに小吉が聞き返したその時、テジャスが悲鳴を上げた。

 

「お、おい! あれ見ろ!」

 

 焦ったような顔で叫んだ彼の声に従い、小吉たちは再び燃え盛る火柱へと目を向け――そして、驚愕のあまりに目を見開いた。

 火花を散らしながら揺らめく炎の中に、人影が写っていたのだ。無論、その正体は何であるかは言うまでもない。

 

 

 

「じょうじ」

 

 

 

 ――害虫の王、なおも死なず。

 

 

 

 不気味な鳴き声と共に、炎のベールをかき分けてテラフォーマーが現れた。触覚や甲皮が所々焦げ付いているが、目立った外傷は見られなかった。テラフォーマーは、自分の体から発せられる煙の筋を、興味深そうに見つめている。

 

「う、嘘だろ!? あの大爆発で死なないのか!?」

 

 愕然として叫んだ小吉を始め、この場にいる誰もが予想外の事態に身動きができずにいた。

 

 ――ただ1人を除いて。

 

「へぇ……」

 

 全く臆した様子もなく、それどころかどこか楽し気な笑みを浮かべて、リーは腰のナイフを引き抜いた。その目はまるで、獲物を見つけた肉食獣のように爛々と輝いている。

 

「――面白ェ!」

 

 言うが早いか、リーは車の荷台の上から身を躍らせた。それを見た小吉が、ギョッとしたように目を見開く。そんな彼に目もくれず、リーは大地を蹴ってテラフォーマーに向かって駆け出した。

 

「よせ、リー!」

 

 ミンミンが制止の声をあげるが、引き止めるには数秒遅い。その声がリーの耳に届く頃には、彼は既にテラフォーマーとの距離を大きく狭めていた。

 

 ――テラフォーマーの弱点は、食道下神経節だったはず。

 

 間合いを詰める僅か数秒の間に、リーの頭は回転する。

 

 人型でありながら昆虫としての特性も色濃く残っているテラフォーマーは、胴体部の制御を、食道部分にある神経節に委ねている。そのため彼らは、例え頭部がなくとも活動を続けることがある。

 しかしそれは逆に言えば、()()()()()()()()()()()()テラフォーマーが胴体を動かす術はなくなるということでもある。

 

 ――となれば、やることは一つ。

 

(奴の神経節に、ナイフをねじ込む!)

 

 リーの思考が完全に固まったのとほぼ同時に、彼とテラフォーマーの間合いが完全に重なった。

 

「じょう!」

 

 腰を深く落として迎撃の姿勢をとったテラフォーマーに、リーが躍りかかった。

 




【オマケ】in水中

ジョーン「(やべぇ、出るに出られない)」







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第12話 INVADE 侵攻

 

「耐熱性……!? まさか、500年の間にここまでの進化を!?」

 

 クロードは眼前に映し出されたその映像に、驚愕の声を上げた。

 

 彼が食い入るように見つめているのは、超高温のベンゾキノンの攻撃を受けてなお平然と立ち上がるテラフォーマーの姿。

 ゴッド・リーの体内に仕込まれたカメラからリアルタイムで送信されているその映像は、500年の間に進化したゴキブリの脅威を改めて彼に知らしめていた。

 

「何を驚いているのかね、ヴァレンシュタイン博士。いかなる環境にも適応してこそのゴキブリだろう?」

 

 取り乱し、焦躁を顔に浮かべたクロードを見ながら、ニュートンが愉快気に笑い声を上げた。

 

 一般に、熱湯を始めとした高熱には弱いとされているゴキブリではあるが、種によっては熱に対する耐性を持ち合わせているものも少なくない。実際に、2009年の韓国ではオーブンで焼かれても死なないゴキブリが発見されている。

 それを考慮すれば、テラフォーマーが高温に耐性を持っていたとしても何ら不思議はないだろう。

 

「そもそも、たかだか500年でゴキブリが人型になっている時点で異常事態なのだ。高温ガスの噴射に耐えたくらいで、今更驚くこともあるまい」

 

「しかし――」

 

 ニュートンの言葉にクロードが反論しようとしたその時、ディスプレイの内の一つが、通信を知らせるアラーム音を響かせた。2人が目を向ければ、ホログラム式のディスプレイに『KOU・HONDA』の文字が表示されている。

 

「おっと、日本支局の本多博士か」

 

 ニュートンが通話開始のボタンを押す。

ピッ、というどこか間の抜けた機械音と同時に、彼らの前にはメガネを掛けた若い男性のホログラムが出現した。男性の名は、本多晃(ほんだこう)。U-NASAの日本支局に所属し、バグズ計画に携わっている研究員の1人である。

 

「ハロー、本多博士」

 

 葉巻をくゆらせながら、ニュートンは本多のホログラムに話しかけた。

 

「先日は特上の寿司をどうも。特に、あれが美味しかったよ……はて、何と言ったか――」

 

 ニュートンがどうでもいいことを思い出せずに顎鬚を撫でていると、本多は映像の向こう側で両手を机に叩きつけた。そして彼は、ニュートンの言葉を遮るように大声を上げた。

 

「そんなことよりも! 聞きましたよ、ニュートン博士!」

 

 そんな彼に向かって、ニュートンはわざとらしく肩をすくめて見せた。

 

「あんまり年寄りの耳元でがなってくれるな、本多博士……それで、「聞いた」とは何のことかな?」

 

「火星のことです! 本当に、彼らにテラフォーマーが殲滅できるとお思いですか!?」

 

 糾弾するように本多が言うとニュートンは葉巻を咥えた口をニタリと歪めた。それから、さも当然と言わんばかりに、本多に向かって言い放つ。

 

「愚問だな、本多博士。そんなこと、()()()()()()()()()

 

「なっ!?」

 

 その返答に、本多が目を剥いた。

 聞いたのは本多の方であったとはいえ、そしてニュートンの言葉は紛れもない事実であるとはいえ――それはあまりにも暴論。文字通りの歯に衣着せぬ物言いに絶句した本多に、ニュートンは「だが」と言葉を続けた。

 

「――それでもやるしかないのだよ、本多博士」

 

 そう言って、彼は口から葉巻の煙を吐き出した。いつになく真剣なその声色に本多が戸惑いの色を浮かべ、傍らに立つクロードですら意外そうな表情を浮かべた。

 

「既に人類(われわれ)は、どうしようもないほどに追い詰められている。今この時こそ、人類存亡の瀬戸際なのだ。たかだか十数人の『金のない者たち』の命と、全人類の命。どちらが重いかなど、天秤にかけるまでもないだろう?」

 

「それは……」

 

 本多が言葉に詰まる。実際のところ、ニュートンが言っていることは何一つとして間違っていない。人道的に褒められた行為ではないが、小を切り捨て大を生かすという彼の考え方は合理性の面では正しいのである。

 

 反論が見つからずに黙り込んだ本多の姿が、クロードは数日前の自分の姿と重なって見えた。気が付くと彼は、横から本多にフォローを入れていた。

 

「本田博士、今は彼らを信じるしかない。既に彼らは火星に到着してしまった。今から任務の中断は不可能だ」

 

 それに、とクロードは本多に向かって笑いかけると、自信に満ちた声で言った。

 

「彼らは君が思っているよりも、そして私が思っているよりも、遥かに強い。決して、テラフォーマー達に負けることはないはずだ」

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「……」

 

 ドナテロは腕を組みながら、管制室の窓から外の景色を眺めていた。

既に日は地平線の彼方へと沈み、空は深い藍色に染まりきっている。地球と違い街頭や民家の明かりなどない、完全な闇に閉ざされた夜だ。天空には無数の星が瞬き、幻想的な情景を生み出している。

 

「遅いな」

 

 ドナテロは険しい表情でそう呟いた。気になっているのは当然、調査隊の動向だ。

既に調査隊の帰還予定時間は大幅に過ぎているのだが、一向に彼らが帰ってくる気配がない。まず間違いなく、何らかのトラブル――十中八九、テラフォーマーとの戦闘が起こったとみていいだろう。

 となれば、自分たちは今後どう動くべきか――。

 

「皆、大丈夫かな……?」

 

 思案を続けるドナテロの後ろで、艦内作業を終えて休憩中のイヴが呟く。彼もまた調査隊のことが心配なようで、そわそわとして落ち着きがない。手に持つ飲用水のパックを弄り回し、しきりに椅子の上で足をぶらつかせている。

 

「心配ないよ、イヴ君。小吉たちが強いのは、あいつらと戦ったイヴ君がよく知ってるでしょ? そのうちきっと、ひょっこり帰ってくるって」

 

 同じように休んでいた奈々緒がそう言って、隣に座るイヴの髪を優しく梳いた。しかしその言葉とは裏腹に、奈々緒の顔にもどこか陰りがあった。

 

 ――もしも、小吉の身に何かあったら……。

 

 一瞬だけ脳裏をよぎった不吉な考えを、彼女は頭を振ってかき消した。自分まで心配になってどうする、と心の中で喝を入れ、奈々緒が不安げなイヴに再び話しかけようとした、その時。

 

 レーダーを監視していたフワンが声を上げた。

 

「艦長! レーダーに反応!」

 

 彼の声に、管制室にいた者たちが体を強張らせた。調査隊が帰還したのか、あるいはテラフォーマーが接近しているのか。

 

 皆が固唾を飲む中で、フワンがゆっくりと口を開いた。

 

 

 

「――調査隊が帰還しました!」

 

 

 

 その言葉を聞いた瞬間、全員の体からどっと力が抜けた。張りつめていた空気が緩み、全員の顔に安堵の表情が浮かぶ。

 ほっと息を吐き出しつつ、緊張で硬直した体を軽くほぐしながらドナテロが指示を出す。

 

「フワン! 車庫のハッチを開けたら、乗組員たちが管制室に集まるよう艦内放送をかけてくれ。ルドン、ついて来い。調査隊を迎えに行くぞ」

 

「了解」

 

 フワンがパネル操作をするのを尻目に、ドナテロとルドンが管制室を出ていく。彼らが帰還した調査隊を連れて管制室に戻ってきたのは、それから数分程経ってからのことだった。

 

「調査隊、帰還しました」

 

 ミンミンがそう言いながら管制室に入り、その後ろに他の面々が続く。それを見た乗組員たちはすぐに彼らに取り囲むと、口々に無事に確認し始めた。幸い犠牲者はいないようであったが、やはりテラフォーマーの襲撃にあったようで、全員が体のどこかに軽い傷を負っていた。

 

「小吉!」

 

 奈々緒が小吉に駆け寄る。彼女の心配など露知らず、小吉は走り寄ってきた奈々緒の姿を見ると、いつも通り朗らかに笑った。

 

「おう、アキ! 帰ったぞー!」

 

「『帰ったぞー』じゃない! どんだけこっちが心配したと思ってるんだ馬鹿!」

 

 奈々緒は小吉の両頬をつまむと、逆ギレ気味にぐいぐいと引っ張った。つい数時間前までは当たり前に広がっていたはずその光景がなぜか懐かしく感じられて、乗組員たちはいつも以上に明るい笑い声を上げた。

 

「ミンミンさん、調査隊の帰りがすごく遅れたけど何があったの?」

 

「……ああ」

 

 2人のやり取りを横目に眺めながらイヴがミンミンに話しかける。彼女は浮かない表情で返事をすると、いかにも答え辛そうに口を開いた。

 

「テラフォーマーの大群と交戦したんだ」

 

「なっ!? だ、大丈夫だったのか!?」

 

 トシオの言葉に、横からティンが「何とかな」と返事を返した。

 

「最初に遭遇したのは一匹だけだったんだ。そのテラフォーマーはリーが倒したんだが……」

 

「野郎、死ぬ寸前にクソをしやがったんだよ」

 

 リーが舌打ち混じりに吐いた言葉に、隣で聞いていたマリアが目を丸めた。

 

「えっと……それって、テラフォーマーの(ふん)ってこと?」

 

 彼女が念のために確認すると、リーが忌々し気に肯定した。テラフォーマーの糞と、調査隊の戦闘との関連が今一つ分からずに、マリアが首を傾げる。

 その一方で『糞』という単語を聞いたイヴはその脅威を瞬時に理解したらしく、その顔からは血の気が引いていた。

 

「それってまさか……集合フェロモン?」

 

「そうらしい。幸い今回は何とかなったが……一歩間違えば全滅していた」

 

 恐る恐るイヴの口から告げられた問いに、ティンが厳しい表情で頷いた。

 

 

 ――集合フェロモン。

 

 

 それはゴキブリの腸内に蓄えられるフェロモンの名称だ。このフェロモンにはその名の通り、ゴキブリ達を一ヶ所に呼び寄せる効果がある。地球のゴキブリ達はこれを使い、安全なねぐらの発見や自らの身の危険などを仲間に伝えるのだ。

 

 これが地球であれば、大量のゴキブリが集まってきて気持ちが悪かった、程度で済む。しかし、それがもしも火星でばらまかれた場合、どうなるのか。その答えは言うまでもないだろう。

 

「すぐにその場を離れようとしたんだが、遅かった。俺達は集まってきた100匹近いテラフォーマーに囲まれて、戦わざるをえない状況になった」

 

 その話を聞き、乗組員たちは彼らの帰還の遅さに納得した。

 

 100匹近いテラフォーマーに対し、僅か四人で戦い続けたのだ。それは遅くもなる――というよりも、それだけの数を相手にして全員が生き延びたこと自体が奇跡に近い。

 

「一応、隙を見てテジャスが能力を使ったおかげで何とか撤退には成功したが……」

 

 そこまで言ってティンが口をつぐむ。それを見たミンミンが、彼の言葉を引き継ぐように口を開いた。

 

「すみません、艦長。テラフォーマーのサンプル確保には失敗しました。撤退するので精一杯で……」

 

 申し訳なさそうにそう言ったミンミンに、ドナテロは首を横に振った。

 

「いや、気を落とさないでくれ。火星の状況が分かって、お前たちが無事だっただけでも十分な成果だ。それに――」

 

 そこで一度言葉を切ると、ドナテロはミンミンの足元にいるイヴを見つめた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。イヴのおかげでな」

 

「っ!? ほ、本当ですか!?」

 

 ミンミンが驚くと、ドナテロがそれを力強く肯定した。それを見たイヴが、慌ててドナテロの言葉を訂正した。

 

「ボクだけでやったわけじゃないからね!? フワンさんと奈々緒さんに手伝ってもらって捕まえたんだ」

 

 その言葉を聞いたリーは、イヴがテラフォーマーを捕らえた方法を瞬時に理解した。

 

「……成程、落とし穴か」

 

 感心したようにそう言ったリーに首肯すると、イヴは説明を始めた。

 

 まず、手術ベースが『ケラ』であるフワン手伝ってもらうことで、深めの穴を掘る。次に奈々緒のクモイトカイコガの特性を使って頑丈なネットを作り、穴を覆うように設置。最後に、その上から土をかぶせて穴を隠すことで、簡易式の落とし穴が完成する。

 

「こうすれば落ちた時にネットが絡まるから、テラフォーマーを捕まえることができるんだ。今はウッドさんの能力で麻酔をして、奈々緒さんの糸で縛ったうえで倉庫の中にいるよ」

 

 イヴの説明に、乗組員たちが歓声を上げた。

 

「よくそんなこと思いついたな……」

 

「やっぱお前すげえよ、イヴ!」

 

「ああ、大したもんだ!」

 

 口々に褒められ、イヴは照れくさそうに頬を桃色に染めた。イヴを取り囲んで騒ぐ乗組員たちをしばし微笑ましそうに眺めていたドナテロだったが、やがて空気を切り替えるかのように手を叩いた。

 

「よし! とりあえず、今日の作業はこれを以て終了とする! 皆、本当にご苦労だった!」

 

 ドナテロの口から作業の終了を告げられたその途端、疲労と安堵が乗組員たちの体にどっと押し寄せた。

 

 長い一日だった。表面上はいつも通りに過ごしながらも、火星という未知の環境やいつ襲い来るとも知れないテラフォーマーの脅威に精神を摩耗していた。

 そんな中で告げられた、作業の終了とドナテロからのねぎらいの言葉。今日という日を無事に乗り切れたという事実を皆が心の底から喜び、そして胸を撫で下ろした。

 

 

 

 

 

 ――その瞬間のことだった。レーダーが、悪魔の訪問を告げる無機質な機械音を発し始めたのは。

 

 

 

 

 

「艦長ッ! レーダーに反応!」

 

 フワンの悲鳴が響き、管制室の空気が凍り付いた。彼の視線の先にあるレーダーの画面には、高速で艦へと接近してくる物体を示す反応光が点滅していた。

 

乗組員は全員、管制室に集まっている。艦の外に誰かがいるなどということはありえない。即ち、レーダーが捉えている物体の正体は――

 

「テラフォーマーが接き――」

 

 フワンの警告を遮るように、管制室の窓が音を立てて砕け散った。さながら雨のごとく、粉々になった強化ガラスの破片が宙を舞う。

 そしてその向こう側から、艦内に黒い悪魔――テラフォーマーが飛び込んできた。テラフォーマーは降り注ぐガラス片の雨をその身に浴びながら、抑揚のない声を管制室内に響かせた。

 

「じょうじ」

 

 テラフォーマーの感情のこもっていない眼が、最も近くにいたマリアを捉える。テラフォーマーは彼女に狙いを定めると、勢いのまま彼女に向かって飛び掛かり、右手に構えた石製の棍棒を大きく振り上げた。

 

「マリア、逃げろッ!」

 

 ドナテロが声を上げたのと、マリアが懐から薬を取り出したのはほぼ同時だった。

 

 突如として目の前に現れたテラフォーマーに対して、マリアはあくまで冷静だった。彼女は取り出した注射器を素早く首筋に打ち込むと、ニジイロクワガタの甲皮が発現した両腕を体の前で交差させ、防御の姿勢をとった。

 

 そして次の瞬間――

 

 

 

 

 

「――きゃっ!?」

 

 マリアの体が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。何が起きたのかを理解できずにいる彼女の鼻先を掠め、テラフォーマーの棍棒が大きく空ぶる。

 

「っ――!」

 

 尻もちをつきながら唖然とするマリアの横を、何かが高速で駆け抜けた。その直後に耳に響いた、歯車が噛み合わさって回転するような音。

 

 一瞬遅れてマリアの脳は、『何か』の正体が変態を終えたイヴであることを認識した。

 

 イヴはウンカの脚力で床や壁を蹴り、一瞬の内にテラフォーマーの背後へと移動すると、警杖を持った両腕を大きく引いて刺突の構えをとった。

 

「はッ!」

 

 赤く瞳を光らせたイヴが掛け声とともに、振り向いたテラフォーマーの喉元を目掛けて鋭い突きを繰り出す。風切り音とともに迫りくるそれを、咄嗟にテラフォーマーは左手で掴むことで防御した。

 

 ――それが、イヴの思うつぼであるとも知らずに。

 

「ギッ!?」

 

 バチバチという油が弾けるような音と白い火花が警杖から迸り、テラフォーマーが短い断末魔を上げた。

 

 ――イヴの武器である電気警杖『スパークシグナル』には、電圧調整機能がついている。以前彼が小吉達と戦った時に使用した電撃は『対人制圧用』に威力を抑えたものであり、殺傷能力は低かった。

 

 しかし、今回イヴがテラフォーマーに対して使ったのは、それを遥かに上回る電圧の『標的殺傷用』の電撃。当然その電撃をまともに受ければ、いかにテラフォーマーであっても無事でいられるはずがない。

 テラフォーマーは白目を剥くと、全身から黒い煙と焦げたような臭いを発しながら床へと倒れ込んだ。

 

「マリアさん、大丈夫!?」

 

 テラフォーマーが息絶えたのを確認すると、イヴはそのまま地面にへたり込むマリアに駆け寄った。未だに放心状態であったマリアの名を呼びながら彼が肩をゆすると、彼女はようやく我に返る。

 

「あ、え? い、一体何が――」

 

「イヴが後ろから糸で引っ張ったんだ」

 

 混乱するマリアに、後ろから近づいたティンが言った。その言葉を聞いたマリアが自らの体を見れば、数本の細い糸が自分の胴体に絡みついているのがわかる。先程何かに引っ張られたように感じたのは、これが原因だろう。

 

 それを確認した彼女は顔を上げようとして――たまたま目に入った光景に、短く悲鳴を上げた。

 鋼鉄の床にテラフォーマーの棍棒がめり込んでいたのである。さながらクレーターのように床へと刻まれた破壊痕が、その威力の高さを物語っていた。

 

「あ、あのままだったらアタシ……」

 

 マリアは、その言葉の続きを飲み込んだ。仮にあのままであったのなら、今頃彼女は両腕ごと真っ二つに引き裂かれ、床の上に転がっていただろう。その情景を想像し、マリアの体が今更になって震え始めた。

 

「立てるか、マリア?」

 

「アタシの肩に掴まって」

 

 ティンと奈々緒が肩を貸し、腰が抜けてしまったマリアを立たせる。いつ追撃が来るとも分からない以上、いつまでも床にへたり込んでいては危険だからだ。

 落ち着きを取り戻し、何とかマリアが立ちあがったその時、窓の近くにいたトシオが叫び声を上げた。

 

「艦長! そ、外が……!」

 

 声を聞いた乗組員たちがすぐさま窓際に駆け寄り――そして、言葉を失った。

 

 そこにいたのは、無数のテラフォーマーだった。彼らは明かり無き夜闇の中を歩き、さながら街灯に呼び寄せられた蛾か何かの様に、バグズ2号を取り囲んでいる。

 

「クソッ! 車の跡を辿られたのか!」

 

 小吉が苛立たし気に声を荒げた。

 

「俺達がもっと気をつけていれば……!」

 

「言ってもしょうがない。今どうするかを考えるべきだ」

 

 歯噛みする小吉をなだめながらティンが言う。するとその横から、何かを考え込んでいたドナテロが意を決したように口を開いた。

 

「……俺が囮になる。その間に、お前たちは逃げろ」

 

 重々しいドナテロのその言葉に、イヴが即座に反対の声を上げた。

 

「ダメ! そんなことしたら、ドナテロさんが……!」

 

 イヴはドナテロの服の裾を掴むと、真っ赤な瞳で彼の顔を見上げながら更に口を動かす。

 

「それに、バグズ2号を捨てたら火星から逃げられないよ!」

 

「だが、このままここにいたら、どのみち全滅は免れん」

 

 まくしたてるイヴに、ドナテロはあくまで冷静に返した。

 

 ドナテロの言葉は正論だ。このままここに留まれば、遅かれ早かれ全員が殺されてしまうだろう。しかし、今ここで誰か一人が囮になれば、他の者たちが生き残れる可能性も出てくる。ならばその役目は、艦長である自分がやるべきである。

 

 理屈は理解できる。理解はできるが――納得ができなかった。

 

「――じゃあ、ボクも残る!」

 

「なッ!?」

 

 イヴがそう言うと、乗組員たちはギョッとしたように彼を見つめた。

 

「イヴ、お前何を言って――」

 

「ボクが残れば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 イヴの言葉を聞いて、乗組員たちが言葉を飲み込む。それを確認すると、イヴはたった今思いついた作戦を、手短に説明し始めた。

 

「まず艦内にテラフォーマーを誘い込んで、ドナテロさんに脱出してもらう。その後でボクが緊急用の雨戸を閉じて艦内を密閉した上で、火をつけるんだ」

 

 ――長時間の真空状態ならば、テラフォーマーの生命力でも耐えられないはず。

 

 イヴがそう続けた。

 

「酸素の濃度が薄くなった頃を見計らって、ボクは排気口を使って艦を脱出。その後で、ドナテロさんたちと一緒に皆と合流する。こうすれば、全員が助かるかもしれない」

 

「反対だ。リスクが大きすぎる」

 

 その案に真っ先に反対の声を上げたのはドナテロであった。彼は冷静に、そして的確にイヴの作戦の穴を指摘していく。

 

「その作戦だと、お前が殺される可能性が高い。雨戸を閉める前にお前が殺された場合、外に出た俺やこいつらも危険だ。加えて、仮に成功したとしても、艦内の酸素が完全に尽きる前に脱出できる保証がない。俺たち全員の命を賭けるのに、その作戦は分が悪すぎる。」

 

「ッ……」

 

 咄嗟の反論が思いつかずにイヴが押し黙った。

 

 仮に作戦通りに進んだ場合、艦内に残るのはイヴ1人――つまり、彼を守る者が誰もいないということ。イヴの戦闘能力の高さは、事前の準備や作戦があってこそのもの。あの量のテラフォーマーに襲われれば、閉鎖作業を終える前にあっさりと殺されてしまう可能性が高い。

 

 ぐっと唇を噛みしめたイヴの肩に、小吉が手を置いた。

 

「イヴ、前に艦長に言われただろ? 俺達を助けるために自分を犠牲にするような真似はよせ」

 

「で、でも! だったらどうすればいいの!?」

 

 諭すようそう言った小吉に、イヴが八つ当たり気味にかみつく。

 

「排気口は狭いから、この方法を使えるのはボクだけだ! 他の誰かが残ったら、絶対にその人は助からない! ボクがやれば、少しだけど全員が生き残る可能性が出てくる! 逆にこれ以外に皆で助かる方法なんて、他にないよ!?」

 

 今度は小吉達が閉口する番であった。子供を囮にするなど言語道断。この点について、乗組員たちの心は一致していた。しかし、彼の案を採択しないということは、確実に誰か一人を見殺しにするということでもある。では一体、どうすべきなのか。

 

 妙案が思いつかず、全員の思考が停滞しかけたその時、思いがけない人物が声を上げた。

 

 

 

「いや……ある」

 

 

 

 一郎だった。皆の視線が彼に集まり、しかしそれでもなお彼は怯むことなく、もう一度その言葉を繰り返した。

 

「あるぞ、全員で助かる方法が」

 

「本当か、イチロー!?」

 

 その言葉に、小吉が思わず一郎に詰め寄った。万策尽きかけたこの状況においては、どんなものであっても状況打開の糸口が欲しい。そんな折に投げかけられた彼の言葉はまさしく『地獄に垂らされた蜘蛛の糸』だった。

 

「ああ。しかも、イヴの作戦よりも格段にリスクは低いと思う」

 

 嬉しさと信じられないといった感情がない混ぜになったような表情の小吉に、一郎はいつも通り不機嫌そうな顔で頷いた。

 

「つっても、協力が必要だけどな……ウッド!」

 

「んー?」

 

 一郎が呼びかけると、ウッドはどこかのんびりとした返事をした。

 

「お前の特性が必要だ。協力してくれ」

 

 一郎の言葉の意味が理解できずにしばし考え込んだウッドだったが、やがて納得したかのようにポンと手を打った。

 

「あー……ハイハイ、そう言うことね。さっすがイチロー君、アッタマいい!」

 

 一郎の意図を察し、しきりに感心して見せるウッド。一方で、話が見えない乗組員たちは皆首を傾げた。

 

「なんか……よくわかんねーけど、ウッドの特性が関係あるのか? えっと、ウッドの手術ベースは確か――」

 

「小吉君と同じ蜂だよ。エメラルドゴキブリバチっていう、寄生バチの一種ね」

 

 小吉が思い出そうとして額をもんでいると、横から笑いながらウッドが答えた。

 

 

 

 ――エメラルドゴキブリバチ。

 

 一般に寄生バチと呼ばれるハチの一種であるこの虫は、特殊な毒液を使ってゴキブリの脳の逃避反射を司る部位を支配、文字通りの操り人形に仕立て上げてしまう。

 

 人形にされたゴキブリはその後導かれるように自らハチの巣へと入り込み、腹部に卵を産み付けられる。そしていずれは、生きたまま幼虫に内臓を貪られるというおぞましい運命をたどるのである。

 

 害虫の王をも操る、エメラルド色の小悪魔。それが、彼女のベースとなった昆虫である。

 

 

 

「人型って言っても、ゴキブリはゴキブリ。ウッドの能力でテラフォーマーを操って、雨戸を閉めるところだけあいつらにやらせればいい。そうすりゃ、誰かがこの艦に残る必要もなくなる」

 

 一郎の言葉に、一同が大きくどよめいた。これならば確かにイヴが残って命がけの脱出をする必要もなく、多少なりともリスクは抑えられる。

 

 ――これは、いけるんじゃないか?

 

 切羽詰まった状況であることに変わりはないが、先の展望に希望の光が見え始めた乗組員たちの顔には、少しばかり余裕の表情が生まれた。

 

「成程。それなら確かに、イヴの作戦よりも可能性は高いな……」

 

 ドナテロは一瞬だけ考えてから、ウッドの方へと視線を向けた。

 

「ウッド、頼めるか?」

 

「りょーかいしました!」

 

 ウッドはピシッと直立すると、敬礼のポーズをとった。

 

「それじゃ悪いけど、生け捕りにしたテラフォーマーを使わせてもらうよ。あ、一郎君は万が一のためにあたしの護衛をよろしく」

 

 ウッドはそう言って注射器を取り出すと、軽い足取りで管制室を後にした。その後を追うように、一郎も管制室のドアをくぐっていった。

 それを見送ってから、ドナテロは他の乗組員たちに指示を出す。

 

「お前らは裏口の車庫から30秒後に、テジャスの能力で脱出しろ。その間に、俺が集合フェロモンを使って奴らを艦内に引き付ける。ミンミン、後の指揮はお前に任せたぞ」

 

「分かりました」

 

 ミンミンの返事にドナテロは満足げに頷くと懐から注射器を取り出し、それを首筋に突き立てた。途端にドナテロの肉体は昆虫のそれへと変化していく。はち切れんばかりに筋肉が膨らんみ、彼の着ていた宇宙服は音を立てて破れた。

 

「ドナテロさん……」

 

「心配するな、イヴ。すぐに一郎たちと一緒に追いつく」

 

 揺れる瞳で自らを見上げるイヴにドナテロは笑いかけると、先程のテラフォーマーが突き破った壁へと目を向けた。そこからは既に数匹のテラフォーマーが顔を覗かせている。あと数秒と待たずに艦内に侵入してくるだろう。もはや一刻の猶予もない。

 

「さぁ行け、お前ら! また後で会おう!」

 

 ドナテロはそう叫ぶとベルトからナイフを抜き、それをテラフォーマーの腹に突き立てた。それを見たミンミンが、素早く指示を出す。

 

「総員、今すぐ車庫へ移動しろ! もたもたするな、急げ!」

 

 彼女の言葉に乗組員たちはすぐさま行動に移った。素早く、それでいて統率のとれた動きで、乗組員たちが次々に管制室を飛び出していく。それを横目で見送りながらドナテロがテラフォーマーに向き直ろうとしたその瞬間、後方から大きく自分を呼ぶ声が聞こえた。

 

 肩越しに彼が振り向くと、そこには今まさに閉まりつつある扉の隙間からイヴの姿が覗いていた。彼は大きく息を吸うと、ありったけの声でドナテロに向かって声援を送った。

 

「ドナテロさん、頑張れ!」

 

 イヴの声に、ドナテロは返事をしなかった。その代わりに彼は右手を高く上げると、親指を力強く立てて見せた。

 それを見たイヴの顔に明るさが戻ったその直後、管制室の扉は完全に閉ざされた。次にあの扉が開くのは、準備を終えた一郎たちが戻って来た時だろう。

 

「さて……待たせたな、ゴキブリ共」

 

 ドナテロは壊れた壁の穴から這い出てくるテラフォーマー達を見据えた。既に内部に侵入してきている彼らの数は数十を超え、それでもなお進行形で増え続けている。

 

 形勢はどう見ても圧倒的に不利。しかし、彼の胸中に恐怖の二文字は一切なかった。

 

「俺が相手になってやる……死にたい奴からかかって来い!」

 

 ドナテロが、ゴキブリ達に向かって咆哮する。そして次の瞬間、黒い悪魔はただ1人管制室に残った人間であるドナテロに襲い掛かった。

 

 




【オマケ】第九話オマケの続き


ニュートン「君の寿司は、特にアレだ……………………が、ガリが美味かった(震え声)」

本多「!?」

クロード「あ、ウニとエビは絶品だったよ。けど、海鮮プルコギ寿司がちょっとナンセンスだったかな……まぁ75点、ってところだね」

本多「!?!?」




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第13話 ESTRANGEMENT 乖離

 イヴたちが車庫にたどり着くと、そこには先ほどまで調査隊が使っていた六輪車が置いてあった。昼間の戦闘のせいで車体の所々に傷がついているものの、走行する分には問題ないだろう。

 

「皆、車庫のハッチが開いたら車にしがみついてくれ! 俺の特技で、包囲を突破する!」

 

 テジャスがそう言いながら注射器を取り出すと、荷台の後ろ側に飛び乗った。イヴや他の乗組員たちがそれに続く。さすがに13人も乗ると多少狭いが、悠長なことは言っていられない。こうしている間にも、テラフォーマーが近づいてきているかもしれないのだ。

 

「10秒前だ、ハッチを開けるぞ!」

 

 トシオが運転席から信号を飛ばすと、それを受信した車庫の扉が動き始めた。ゆっくりと、左右に分かれて開いていく扉。そしてその先には――三匹のテラフォーマーが待ち構えていた。

 

「発車を中止しろ、テジャス! 外にまだいる!」

 

 咄嗟に、ティンが後方のテジャスに叫んだ。

 

 地球のゴキブリは、自らに高速で向かってくるものから反対方向に逃げる性質がある。ゴキブリの尾葉と呼ばれる器官はこのためのセンサーであり、捕食者から逃れるために重要な役割を果たしているのだ。

 

 ――だが、火星のゴキブリ(テラフォーマー)は違う。 

 

 

 彼らは“死ぬことを恐れない”

 

 

 彼らは“襲うことを躊躇わない”

 

 

 例え高速の物体が迫って来ようと、それが排除すべき対象であると判断したのならば、彼らは一切の迷いなく標的に襲い掛かる。調査隊の面々は昼間の調査で、それが身に染みて分かっていた。

 

「クソッ! やるしかねぇか!」

 

 もたもたしていれば、ドナテロ達の命がけの足止めが無駄になる。そう考えた小吉が腕のアーマー部分に収納された注射器を取り出した――その瞬間。

 

 

 

 彼の後方から、テラフォーマーを目掛けて()()()()()()()()()()

 

 

 

 ズキュ、ズキュ、ズキュ、と奇妙な音が三回連続で響き、さながらビーム光線のように伸びた三本の筋が、テラフォーマーの食道下神経節を正確に貫き穿つ。

 テラフォーマー達は一瞬だけその体を痙攣させると、かっと目を見開いて地面に倒れ込んだ。

 

「このまま出して!」

 

 事態が呑み込めずに硬直した乗組員たちに、イヴが大声で言った。

振り向いた小吉の目に、両腕を前面に突き出すようにして立っているイヴの姿が映る。よくよく見るとツチカメムシの甲皮で覆われた彼の掌には極めて小さな孔が空いているのが見て取れた。

 

「早く! 他のテラフォーマーが来ちゃう!」

 

「ッ! 全員、車に全力で掴まってくれ!」

 

 イヴの声で我に返ったテジャスはそう叫ぶと、手に持っていた注射器を自らの首筋に打ちこんだ。薬の効果で彼の頭部からは触角が生え、口が昆虫の尾部の様な形状へと変化していく。やがて変態が完了したテジャスは後ろに乗り出すようにして車体に掴まると、大きく息を吸い込む。

 

 そして次の瞬間――13人の乗組員を乗せた車は、目にも止まらぬ速さで車庫を飛び出した。

 

 

 

 

 

 ――メダカハネカクシ。

 

 甲虫目ハネカクシ科に分類される約4万8000種の昆虫の中の一種である。

 

 専門家の間ではしばしば動物界全体でもゾウムシ科に次ぐと言われる『種類の多さ』や、宇宙工学的な精密さで行われる『翅の収納方法』などで話題になるハネカクシだが、このメダカハネカクシについて特筆すべき特徴はそのどちらでもない。

 

 この昆虫最大の特徴。それは、全生物の中でもトップクラスの“速さ”である。

 

 この昆虫は外敵が襲い来ると腹部から界面活性剤を分泌、ジェット噴射の様に勢いよくガスを噴射することで、水面上をウォータースライダーさながらに、滑るようにして超高速で逃げていくのだ。

 

 その移動距離は1秒の間に自長の150倍にもなるとされており、単純に人間大で計算した場合、その速度は実に時速945kmにも及ぶと言われている。

 

 

 

 

 

「う、おぉおおぉお!?」

 

 テジャスのガス噴射を推進力に、車はぐんぐんと飛距離を伸ばしていく。あまりの速さに前方から凄まじい負荷と風圧がかかり、乗組員たちが思わず目を瞑る。

 一瞬だけ滞空した車は地面へと落ち、大きな衝撃を受けながらもなお衰えないスピードで、苔むした悪路を走る。乗組員たちが目を開けていられる程度に速度が収まる頃には、バグズ2号は豆粒ほどの大きさにまで遠のいていた。

 

「な、何とか振り切ったか……」

 

 緊張が切れたのか、テジャスは安堵のため息をつきながら荷台に座り込んだ。その途端、乗組員たちからわっと歓声が上がった。

 

「すげえぞ、テジャス! あいつらを二回も振り切ったじゃねえか!」

 

 バシバシと背中を叩いてくる小吉に、テジャスは目で笑いながら首を横に振った。

 

「褒めるんだったら、俺じゃなくイヴにしてやってくれ。あいつがいなかったら、多分今頃誰かがやられてたはずだ」

 

 テジャスのその言葉に、ジャイナが思い出したようにつぶやく。

 

「そう言えば、さっきのあれって何だったの? 何か、イヴ君の手からレーザーみたいなのが出てたように見えたんだけど……」

 

「何だそれ? ビーム光線を撃つベースでも持ってんのか、イヴ?」

 

 小吉が首をひねりながらそう言うと、イヴは「違うよ」と笑った。

 

「ボクがさっきテラフォーマー達に撃ったのはこれ」

 

 そう言ってイヴが乗組員たちに向けて『それ』を掲げて見せた。乗組員たちの注目が、イヴの手に握られたものに集まる。

 

「それって……まさか水?」

 

 キョトンとした顔で奈々緒が聞く。イヴの手に握られていたもの。それは乗組員ならば誰でも知っている、飲料水を入れておくためのパックだった。

 奈々緒の言葉にイヴが頷くと、先程自分がやったことを乗組員たちに説明し始めた。

 

 

 

 カメムシ科の仲間の中には、排尿時に尿を勢いよく噴射する習性を持つ者がいる。身近な例で言えば、セミが当てはまるだろう。彼らは敵を見つけると体内の水分を外へと排し、素早く逃げられるように体重を軽くするという習性がある。

 中でもカハオノモンタナが属するヨコバイ亜目の仲間は、その勢いが一際強いことで知られている。その様子は、飛距離・威力共に昆虫サイズの時点で『水鉄砲』に例えられる程。

 

 もしもこれが人間大になったのならば――

 

「――水を弾丸として撃ち出し、文字通りの『鉄砲』として運用することもできるってことか」

 

「そういや、水鉄砲で獲物を捕まえるテッポウウオなんて魚もいるな。それの人間大・昆虫バージョンってところか?」

 

「そういうこと」

 

 ティンとジョーンが興味深そうに呟くと、イヴがそれを首肯した。

 

「本当だと、カハオノモンタナはボクの胴体のベースなんだけど、そこらへんはバグズデザイニングのおかげで融通が効くんだ」

 

 幼い頃から水泳を習っている水泳選手は、しばしば指の付け根の皮膚が発達することでまるで水かきの様になることがある。

 それは自らがおかれた状況に肉体が適応し、進化しているためであるが、先程イヴの体でも同じことが起きていた。

 

 クロードによって修正されたとはいえ、イヴの体は本質的には虫のそれに近い。変態による人体変化の補助もあり、本来ならば数年をかけて起こるはずの『進化』を、イヴは先ほどの数秒の間にやってのけたのだ。

 

 おぉ、というどよめきと共に関心の視線を向けられたイヴは、恥ずかしそうに笑った。それを見たテジャスが、イヴの名前を呼んだ。

 

「イヴ、さっきは助かった。ありがとうな」

 

「そうだ。アタシもさっきは言いそびれちゃったけど……助けてくれてありがとう、イヴ君」

 

 テジャスとマリアの2人に礼を言うと、それに触発されて他の乗組員たちも口々に感謝や称賛の言葉を発した。それを聞いたイヴはいよいよ照れくさそうに俯いたが、彼らの言葉は決して大げさではない。

 イヴのもたらした情報や行動によって、既に何度か危機的な状況を切り抜けている。彼がいなかったら、おそらく現時点でも相当な被害が出ているはずだ。そう考えると、乗組員たちは彼に感謝せずにはいられなかった。

 

 そんな荷台でのやりとりを聞きながら、運転席ではミンミンが車を操縦するトシオに声をかけていた。

 

「トシオ。運転を変わるから、変態してこの先の偵察をしてきてくれ」

 

 偵察ならお前が一番向いているはずだ、と彼女が続けるとトシオが頷く。

 

「分かりました、副艦長」

 

 トシオは運転席を譲ると、注射器を自らに打ち込んだ。変態を始めた彼の体中に黄色い縞模様が表れ、その両目はさながらサングラスの様に緑の複眼で覆われていく。背中には彼のベースの象徴ともいえる四枚の薄く細長い翅が生え、その歯はまるで肉食獣のそれのように鋭いものへと変化した。

 

 変態を完了させたトシオは二、三回だけ稼働具合を確かめるように翅をはばたかせると、目にもとまらぬ速さで車を飛び立った。

 

「……」

 

 トシオを見送ったイヴが、ふと後ろを振り返った。彼の眼には、豆粒ほどの大きさになったバグズ2号が映る。おそらくは艦に残ったドナテロたちのことを考えているのだろう、その表情にはどこか陰りがあった。

 

 乗組員たちもそれに気づくと次第に口数を減らし、ついには誰もしゃべらなくなってしまった。ガタガタと車体が揺れる音だけが響き、重苦しい空気が辺りに流れ始める。

 

(ちょっと、小吉!)

 

 そんな空気に耐えかねた奈々緒が、隣に座る小吉を小突いた。

 

(あんた、何でもいいからこの空気何とかしなさい!)

 

(お、俺!?)

 

 まさかの無茶振りに、小吉がギョッとしたように目を剥く。いいから早く、と言わんばかりにもう一度強く小突かれた彼はしばし考え込み、それから思いついたように口を開いた。

 

「あー……イヴ。少し確認したいことがあるんだが……」

 

 呟くように口を開いた小吉に、イヴのみならず乗組員たち全員の視線が集まった。

 

「さっきのあれが、ヨコバイの排尿の勢いを人間大にしたものだったってことはさ……」

 

 小吉がイヴの青い瞳を見つめた。

 

「つまり、あれなのか……? さっきテラフォーマーを倒したのは、イヴの小便だったってことでいいのか?」

 

「「「「「「デリカシーを知れ馬鹿野郎!」」」」」」

 

 周囲の乗組員がほぼ同時に、異口同音に叫んだ。

 さっきまでの照れとは違う本当の恥辱に俯き、プルプルと震え出したイヴをマリアとジャイナが慌ててフォローし、その隣で男性陣と奈々緒が小吉を一斉に袋叩きにし始めた。

 

「いだだだだだやめろアキ!? お前が言った通りあの空気何とかしただろうが!?」

 

「誰が空気を壊せって言った!? いい感じに空気を変えろって言ったんだこの馬鹿!」

 

 振っておきながらにあんまりな言いぐさではあるが、その話題をチョイスした小吉も自業自得ではある。数人がかりでボコボコにされながら小吉が断末魔の悲鳴を上げていると、慌てた様子のトシオが戻ってきた。

 

「副艦長! 向こうに……って、何で小吉が死にかけてるんだ?」

 

「気にすんな。インガオーホーってやつだ」

 

「お、おう……?」

 

 冷たく言い放った奈々緒に、トシオが表情筋をひきつらせた。オニヨメ、という単語が彼の脳裏を一瞬だけよぎるが、それを言ったが最後、おそらく自分も小吉と同じ末路を辿るのだろう。黙っていた方が賢明、と判断した彼はそれ以上深く事情を聴かなかった。

 

「それで、どうしたんだトシオ? まだ偵察に出て数分も経っていないぞ?」

 

 ミンミンにそう言われ、トシオは本来の要件を思い出した。

 

「っとそうだった……副艦長。ここから少し行ったところに、宇宙船を発見しました」

 

「宇宙船?」

 

「はい。バグズ2号に近い造形で、少し小さいものがありました。多分あれは――」

 

 トシオが続けようとした丁度その時、地平線の彼方から太陽が顔を出した。

 

 いきなり現れた青い光源に目が眩み、思わず乗組員たちが顔を逸らす。徐々に明るさに慣れた乗組員たちが目を開けると、彼らの行く先にはトシオが言った通り、見覚えのある造形の宇宙船が鎮座しているのが見えた。

 

 それを見たジャイナが、思わず呟いた。

 

「あれって、もしかして……バグズ1号?」

 

 

 

 ――バグズ1号はその名の通り、バグズ2号よりも前に造られた宇宙船である。22年前、6人の優秀な宇宙飛行士を乗せたバグズ2号は、テラフォーミング計画の進捗状況確認のために火星へと向かっていたのだが、火星に到着してまもなく消息を絶った。

 

 出発前、U-NASAからこの件は事故が原因だと教えられたが、クロードやドナテロの言葉を聞き、火星の現状を目の当たりにした今ならば分かる。おそらく彼らは()()()()()()。進化したゴキブリ、テラフォーマーに。

 

「――調べてみるぞ。もしかしたら、奴らに関する情報が残されているかもしれない。トシオとルドンは、車の見張りをしておいてくれ」

 

 ミンミンは車をバグズ1号の近くで車を停めるとそう言った。

乗組員たちはルドンと変態したままのトシオを除いて荷台から降りると、バグズ1号へと近づいた。

 

「これが動けば艦長達を待って脱出できるかもしれないな……」

 

 扉を開けるためにパネルを操作するミンミンを見ながらティンが漏らすと、隣でイヴが難しい表情を浮かべる。

 

「そうだといいけど……20年以上も放置されてるから、エンジン部分がおかしくなってるかも」

 

 イヴがバグズ1号の外壁を撫でながら言った。

 雨風にさらされ続けたためか至る所が錆付き、苔むしている。目立った損傷こそないが、地球まで問題なく航行できるかと言われると微妙なところだ。

 

「一応、修理さえすれば動かないことはないと思うんだけど……」

 

 イヴが口にしたその時、バグズ1号の扉が開錠されたことを告げる電子音が鳴り響いた。俄かに身を固くした乗組員たちの前で扉がゆっくりと左右に動き、数秒の時間をかけて完全に開き切る。

 

「……よし、入るぞ」

 

 テラフォーマーがいないことを目視で確認すると、ミンミンがぽっかりと口を開けた入り口から艦内に足を踏み入れた。他の乗組員たちもそれに続く。

 

 バグズ2号に比べると小さめに作ってある1号は、そこまで部屋数や広さがあるわけではない。少し進んだだけで、彼らは呆気なく管制室と思しき部屋へとたどり着いてしまった。

 

 管制室の中は随分と綺麗なまま残されていた。所々に経年劣化の形跡こそあるものの、埃一つ落ちていない。バグズ1号の内部はほとんど当時のまま残されていた。それを見たテジャスが、感嘆の声を漏らす。

 

「存外、中は綺麗なもんだな」

 

「――いや、そうでもないぞ」

 

 しかし、それを否定する言葉を、彼の横にいたフワンが発した。乗組員たちがフワンの方を向くと、彼は見てみろと言わんばかりに壁の方を指さして見せた。

 

「弾痕だ。あっちの壁には、どうみても不自然なへこみもある……1号の乗組員とテラフォーマーの間で戦闘が起こったのは間違いないだろうな」

 

「あ、本当だ……」

 

 彼の言葉通り、壁や床にはいくつかの銃弾の跡やひびが入っていた。それによくよく見ると、血痕と思しきもの所々に残っている。それらは、22年前にこの場所で起こった惨劇を鮮明に物語っていた。

 

 と、その時。乗組員たちの耳が、盛大な舌打ちの音を捉えた。

 

「チッ……面倒くせぇことになりやがったな」

 

 声の主であるリーは、露骨に顔をしかめながら目の前の壁を見つめていた。

 

「どうした?」

 

 ミンミンが彼に近づきながら尋ねると、リーは見てみろ、と言わんばかりに顎をクイッと傾けた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。弾痕があるにも関わらず、だ」

 

 彼の視線の先にあったのは、宇宙船内の武器を置くために備え付けられた武器棚だった。本来ならば銃火器を始めとした各種防犯用の器具で埋まっているはずだが、今の武器棚は文字通り『空っぽ』だった。銃はおろか、弾薬や整備用の備品すらも見当たらない。

 

「1号の乗組員が、銃を持って外に逃げたんじゃ……」

 

「可能性は低いな。艦内に戦闘の形跡がある以上、戦闘がここで起きたことは間違いない。仮に逃げ出せたとして、そんな切羽詰まった状況でわざわざ銃の整備用品を持ち出すとは考えにくい」

 

 マリアの推論に、ミンミンが首を横に振る。バグズ1号の乗組員たちが持ち出したわけではない。となれば、銃を艦内から持ち出した候補は自ずと1つに絞られる。リーの額に、青筋が立った。

 

「あのクソムシども……人間(おれたち)の技術を奪いやがったな……!」

 

 ――即ち、テラフォーマーだ。

 

「ははっ、笑えねぇな」

 

 小吉が乾いた笑い声を上げながら、冗談めかして言った。

 

「ゴキブリが二足歩行で、人を襲って、しかも銃まで使うかもしれないって、どこのB級SF映画だって話だよな、イヴ……ってイヴ?」

 

 小吉が返事を求めるも、彼の親友からの返事は返ってこなかった。不思議に思った小吉がイヴの姿を探すと、彼は窓際にある操縦席の椅子の上に乗り、そこからモニターを凝視していた。

 

「……どういうこと?」

 

 小吉の声などまるで聞こえていないかのように、イヴが呟く。呆然としたような表情を――というよりも、まるで事態を飲み込めていないかのような表情を浮かべた彼の顔には、血色がなかった。

 

「イヴ、どうした? 何かあったのか?」

 

 イヴの様子を怪訝に思い、小吉が彼の後ろからモニターを覗き込んだ。他の乗組員も、一度調査を打ち切ってモニターの周りに集まり始める。

 

「『TRANSMITTED(送信完了)』……って、おいおいイヴ。これはこの間、クロード博士から説明されただろ」

 

 小吉は呆れとも安堵ともつかない声で言った。驚かせるなよ、と言わんばかりの軽い口調だ。

 

「それは多分、一号のジョージ・スマイルズって人がテラフォーマーの頭を地球に送った時の――」

 

「……ッ! 違う、小吉! ()()()()!」

 

 小吉の言葉を遮るように、ティンが大声を上げた。その目はギョッとしたように見開かれている。

 下? と小吉は疑問に思いながらも目線を滑らせ、『TRANSMITTED』の下に表示されている文を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

HELLO(こんにちは),BUGS 2 CREWS(バグズ2号の乗組員の皆さん)! AND DROP DIE(そして死ね)!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 モニターにはそう表示されていた。

 

「っは?」

 

 文の意味をすぐに理解できず、その場にいる全員の思考が停止した。数秒の間、管制室には不気味な静寂が訪れる。

 

「――な、何だよこれ!? 何で、1号のモニターにこんな……!」

 

 その沈黙を真っ先に破ったのは、小吉だった。彼の脳内に混乱とも怒りともつかない感情が渦巻き、彼から冷静さを奪う。

 

「何の……いや、誰の仕業だ!? U-NASAか!? それともゴキブリ共か!? 悪趣味にも程が――」

 

「落ち着きなさい、小吉ッ!」

 

 まくしたてる小吉を奈々緒が一喝した。彼女の声に、小吉がはっとしたような表情を浮かべ、それから申し訳なさそうに頭をかいた。

 

「……悪い。取り乱しちまった」

 

「気にしないで。あんたがテンパってなかったら、多分アタシがそうなってた」

 

 小吉が謝罪すると、奈々緒がそう答えた。彼女の声も震えており、自身の中に渦巻く混乱を必死に自制しようとしているのが分かった。

 

「それにしても……何なんだ、これは」

 

 冷静であるように努めながら、ティンが言った。

 

 モニターに表示された英文の右下にはデフォルメされ、まるでゆるキャラのようになったテラフォーマーのイラストが表示されている。

 

 ふざけているとしか思えないこの一連のメッセージからは、書き手の意図が全く読み取れない。それが彼らにとっては、何とも不気味であった。

 

「まさか、これもテラフォーマーの仕業なのか?」

 

「ううん、それはないと思う」

 

 ティンが思い浮かんだ疑問を口にするも、イヴはそれを否定した。

 

「テラフォーマーは頭がいいけど、言語の体系が根本的にボクたちとは違う。だから、これは多分――」

 

 と、イヴが言いかけた、その時だった。

 

 ドンッ、ドンッ! という轟音が、外から聞こえてきたのは。

 

「ッ! 銃声!?」

 

「クソッ! やっぱ盗られてやがったか!」

 

 音の正体に気付いたリーがいち早く踵を返し、先程来た道を駆け戻る。それを見たイヴたちも、一度モニターのメッセージのことを頭から追い出し、すぐに彼の後を追った。

 

 通路をかけ、一行がバグズ1号の外へ出る。しかし奇妙なことに、辺りにはゴキブリの姿はおろか、ルドンとトシオの姿さえ見えなかった。

 

「ッ、誰もいない!?」

 

 予想外の状況に、薬を構えて外に飛び出した小吉達の動きが止まった。

 

「確かに銃声は聞こえたぞ! ルドンとトシオはどうした!?」

 

「俺達ならここだ!」

 

 キョロキョロと周囲を見渡す小吉達の上から、ルドンの声が聞こえた。

彼らが見上げると、バグズ1号の壁に足をつけて空中に留まるトシオと、彼に抱きかかえられているルドンの姿が目に入った。

 

「気をつけろ! ゴキブリ共は1号の床下に潜んでるぞッ!」

 

 ルドンの叫び声を聞き取った乗組員たちが素早くバグズ1号の下に目を向けると、今まさに床と地面の隙間から這い出ようとする数十匹のテラフォーマー達と目が合った。彼らの手にはリーが危惧していた通り、バグズ1号の備品である銃火器が握られていた。

 

「ひっ……」

 

 短く悲鳴を溢して、ジャイナが後ずさる。硬直する乗組員たちの目の前でテラフォーマー達は悠々と立ち上がると、その中の一匹が、大きく息を吸った。

 

「じょおおおおおおおおうじ!」

 

 まるで遠吠えのようなその声が、緑の荒野に響き渡った。すると、その声を待っていたかのように、平原にまばらに点在する岩陰から次々と黒い人影が表れる。

 

「う、嘘だろ……囲まれちまった」

 

 恐怖のあまりに、フワンが表情を引きつらせながら呟く。現れたテラフォーマーの数は優に100を超えていた。先刻、バグズ2号でドナテロが引き付けたのと同等――あるいは、それ以上の数だ。

 

 ――それは、紛う事なき『絶望』。

 

「生かしてお前たちを帰しはしない」という死神の嘲笑が聞こえたような気がした。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ぎじょうじ、じぎぎ」

 

 バグズ1号からやや離れた場所にある岩の上で、石造りの神輿の様なものに腰掛けた一匹のテラフォーマーがそう鳴いた。

 

 

 

 ――そのテラフォーマーの風貌は、明らかに異様だった。

 

 

 

 その個体と通常の個体との差異は頭髪がないことであったり、額に『÷』の模様があることだったりと様々挙げることができるが、決定的に違っていたのは、やはりこのテラフォーマーが()()()()()()()()()()()()()()()

 

 まるで空気を入れすぎたゴムボールの様にその腹部は膨らんでおり、胸部は脂肪の重みでだらしなく垂れ下がっている。顎の下の肉は弛んで三重顎となり、その顔は通常の個体に比べて脂ぎった光沢を帯びていた。

 

「じぎょじ」

 

 ゆったりと神輿に腰掛け、肥満型のテラフォーマーは自らの後方に控えるテラフォーマー達に目をやった。

 

「じょう」

 

 肥満型が鳴くと、その中の一体が歩み出た。その背には、既に息絶えた同胞の死体を背負っている。

 

「じじょうじ、『ぎ』。じょうじ」

 

 肥満型がもう一度鳴く。するとその個体はコクリと頷き、()()()()()()()()()()。ブチッという肉の千切れる嫌な音と共に、死体の胴体から首だけが離れた。

 それを見た別の個体が彼に近づくと、彼に何かを手渡した。

 

「じょうじ」

 

 それは、石製のナイフだった。

 その個体はそれを受け取ると迷うことなく頭部に刺し込み、まるでジャガイモかリンゴの皮をむくかのように頭部を手の中でくるくると回し始めた。やがて刃が一周したことでテラフォーマーの生首から頭蓋が外れ、その中から体液に塗れたテラフォーマーの脳が露になる。

 

「じじょう」

 

 そのテラフォーマーは頭部を両手で持ち直し、恭しく肥満型に『献上』した。肥満型はそれを左手で受けると、右手に握ったスプーンのような石器を使い、脳を掬って食べ始めた。

 

 くちゃ、くちゃ、くちゃ。

 

 不気味に咀嚼音を響かせる肥満型の背後で、テラフォーマー達は既に胴体の方の『調理』に移っているようだった。やはり石を削って作られたと思しき各種調理器具を使い、的確に胴体の肉を部位ごとに切り分けていく。その様子は、熟練の料理人を思わせた。もっとも、使っている食材はおぞましいものであったが。

 

 やがて脳味噌を食べつくした肥満型は大きなげっぷを一つすると、興味を失くしたように手中の生首を放り投げた。頭部は体液や僅かに残る脳の残骸をばらまきながら、苔むした地面に転がった。

 

 肥満型は神輿の上で、億劫そうに頬杖をつく。睥睨するは、バグズ1号の包囲網――自らの配下と、彼らに取り囲まれた害虫(にんげん)達だ。

 

「じょうじぎ」

 

 差し出された石製の皿に盛りつけられたテラフォーマーの指を口に放りながら、肥満型はニタリと嗤った。

 

 ――精々足掻け、害虫(にんげん)め。食事の余興に、ここから見ていてやろう。

 

 肥満型の浮かべた卑しい笑みは、そう言っているかのように見えた。

 

 

 

 




【オマケ】よくわかるイヴの水鉄砲の原理

小吉「成程、イヴは掌から高速で小便を出せるように一瞬で進化したのか」

イヴ「うわあああ! しょ、小吉さんのバカぁ!」ポカポカ

一同((可愛い))





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第14話 UPHEAVAL 戦線激化

「フンッ!」

 

 ドナテロが剛腕を振るい、屈強なテラフォーマーの肉体を力任せに殴り飛ばす。その個体は数mほど吹き飛ばされると壁に激突し、全身から白い脂質と体液を飛び散らせながら息絶える。立て続けに、ドナテロは近くにいた別のテラフォーマーの体を持ち上げた。

 

「おるあァ!」

 

 雄叫びと共に、ドナテロはもがくテラフォーマーの体を地面に叩きつける。彼の怪力に耐え切れず、テラフォーマーの胴体が真っ二つに割れる。ゴキブリ特有の耳障りな断末魔を聞きながら、ドナテロは両手に握られたテラフォーマーの残骸を放り投げた。

 

「ハーッ! ハーッ!」

 

 息を荒げながらも一歩も引かず、ドナテロがテラフォーマーに対峙する。チラリと彼が目線を横に向けると、そこには頭から血を流して倒れている一郎の姿があった。

 

 

 

 

 

 ――最初の内は、順調だった。

 

 一郎の作戦は滞りなく進行し、彼ら三人と操った数匹のテラフォーマーは、テラフォーマーの大群相手に、互角に渡り合っていたのだ。

 

 

 だが、ドナテロと操られたテラフォーマーによる防衛線を一匹のテラフォーマーが突破したことによって、状況は一気に悪化することとなる。

 

 彼らの攻撃を潜り抜けたその個体は、ドナテロ達には目もくれずに、後方でテラフォーマー達の指揮をするウッドに目にもとまらぬ速さで近づき、立ち尽くす彼女の体を力任せに引き寄せた。それからウッドの体を小脇に抱えると、すぐさま窓を突き破ってバグズ2号の外へと逃げてしまったのだ。

 

 こうなるともはや、手の打ちようがない。ウッドがいなくなってしまった今、テラフォーマーの補充はできない。今はまだ戦線は辛うじて保っているものの、指揮官を失ったテラフォーマー達が瓦解するのは時間の問題だった。

 

「艦長」

 

 後方から聞こえた声にドナテロが振り向くと、自らを見つめる一郎と目が合った。明らかな劣勢な状況にもかかわらず、彼は落ち着いた声で言った。

 

「俺が雨戸を閉めて火をつけます。それまで、時間を稼いでください」

 

「ッ! だが、それは……」

 

 ドナテロが僅かに躊躇う。一郎が雨戸を閉めるということは即ち、自分諸共に彼がバグズ2号の中に閉じ込められてしまうということ。自分が死ぬのはいい。だが、彼まで道連れにしてしまうのは――。

 

「艦長、『人として』じゃなく『艦長として』やるべきことを優先すべきです」

 

 一郎の強い視線が、逡巡するドナテロを射抜くように見つめた。

 

「今艦長がやるべきことは、テラフォーマーを確実に殲滅できる方法をとることです。俺が雨戸を閉めれば、こいつらは倒せる。それ以外に方法がないのなら、あなたは俺にやれと命じるべきだ」

 

 彼の顔には、強い決意の表情が浮かんでいた。それを見たドナテロは、苦々しい思いをしながらも決断を下した。

 

「……一郎、頼む」

 

「わかりました」

 

 ドナテロの言葉に、一郎はいつも通りの淡々とした口調で答えた。

 

 

 

 

 

(すまないな、一郎)

 

 心の中で謝罪の言葉を口にし、ドナテロは再び目の前に並び立つテラフォーマー達を見据えた。ウッドの能力で操ったテラフォーマー達は残らず殺されており、既に戦えるものは自分しかいない。だがそれでも、ドナテロは決して、絶望に膝を屈したりなどしなかった。

 

「どうした、来いよゴキブリ共」

 

 そう言って彼は、燃え盛る業火の中で不敵に笑う。

 

「一匹残らず、俺が駆除してやる」

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 バグズ2号の乗組員たちを包囲する、無数の屈強なテラフォーマー。その手に握られているのは、おそらくはバグズ1号から持ち出したのであろう銃器。そんな彼らを前に、ミンミンは生存のために思考を巡らせた。

 

(テジャスの能力を使えば、逃げるチャンスはあるか?)

 

 一瞬だけそんな考えが脳裏に浮かぶが、彼女はすぐさまその案を捨てた。この数相手では、テジャスの能力を使ったとしても包囲網を突破するのは難しいだろう。

 バグズ1号に籠城するのも悪手だ。それでは、バグズ2号から自分たちが脱出した意味がない。逃げ場を失って皆殺しにされるのがオチだろう。

 

(――なら、戦って勝つしか道はない!)

 

 素早く考えをまとめると、彼女は注射器を取り出しながら乗組員たちに向かって声を張り上げた。

 

「総員変態! ゴキブリを迎え撃つぞ!」

 

 言うが早いか、ミンミンは巨大な鎌に変化した両腕を振り上げて、テラフォーマーの群れへと切り込んだ。

 

 ――ミンミンの指示を聞いた乗組員たちの反応は、大きく二つに分かれた。

 

「っし、やるぞティン!」

 

「ああ」

 

 片方は、小吉やティンの様にすぐさま薬を取り出して変態をした者たち。彼らの他にはリーを始めとして戦闘適正の高いベースを持つ者がこちらに該当する。

 

 

 そしてもう一方は――

 

「う、うわあぁあああああ!」

 

「ひっ……」

 

 ――何もできずに、立ち尽くす者たち。こちらは恐怖のあまりに体が動かなくなってしまった者や、変態することでかえって不利になる者などが該当する。

 

 さて、ここで問題となるのが『テラフォーマーはこの状況下において誰を狙うのか』ということである。

 

 自然界の狩りにおいて、真っ先に狙われるのは『群れの中でも弱いもの』――例えば幼体や老体、そして手負いの個体などだ。ここに挙げた特徴を持つ標的は、少ない危険で高い見返りが望めるからこそ、捕食者に真っ先に狙われる。

 

 では、テラフォーマー達の視点で考えた場合、目の前にいる人間という『群れ』の中で『弱い』のは、「狩りやすい』のは、変態をしているものとしていない者のどちらなのか。

 

 答えは当然――後者である。

 

 

 

「く、来るな! 来るなァ!!」

 

 棒立ちになったフワンが、半狂乱で叫ぶ。しかし、相手は人の言葉を解することのないゴキブリ。彼が叫んだところで、止まるはずもなかった。

 もっとも――仮に言葉が通じたとして、彼らが害虫(にんげん)の言葉に耳を傾けるとは思えないが。

 

「じょう」

 

 テラフォーマー達は洗練された動きで人間から奪った技術である銃を構える。それでもなお、恐怖ですくんだフワンの体は動かない。

 

 震える彼に狙いを定めると、テラフォーマー達は何のためらいもなく銃の引き金を引いた。

 

 

 

 ――銃口が火花と共に発した銃声、放たれた弾丸が空を裂く風切り音。

 

 

 

 次いで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()が、フワンの耳に届いた。

 

「あ……え?」

 

 彼が地面に視線を向ければ、緑の大地に転がる銃の弾丸が目に入った。事態の処理に頭が追いつかずに呆然とするフワンの前に、トッ、と小さな影が降り立った。

 

「フワンさん! 変態して!」

 

 影――イヴはそう言うと、手にした警杖から電気を散らしながら、銃を構えるテラフォーマー達目掛けて大地を蹴った。歯車が回る音と共に苔が混じった緑色の土煙が舞う。イヴは一瞬で彼らの懐に入り込むと、巧みな手つきで警杖を振るった。

 低い位置からの長物による刺突という未知の攻撃への対応が遅れ、銃を構えていたテラフォーマー達はたちどころに電撃の餌食となって、地面へと倒れこむ。

 

 イヴは油断なく警杖を構えながら、棒立ちになっているフワンに叫んだ。

 

「早く! フワンさんの能力なら、変態すれば逃げれるかも――」

 

「きゃあああああああ!」

 

 耳に届いた甲高い悲鳴に、イヴは言葉を切って振り向いた。彼の赤い瞳に映ったのは、四肢を数匹のテラフォーマーに掴まれたジャイナだった。おそらく、手足を引きちぎることで彼女を殺そうと考えたのだろう。

 

「ジャイナさん!」

 

 イヴが警杖を構えて飛び掛かり、最も近くにいたテラフォーマーの脳天を思い切り打ち据えた。

 

 いかに強化されているとはいえ、所詮イヴの腕力は精々鍛え上げた成人男性程度のもの。テラフォーマーにとって、彼の一撃は致命傷たり得るものではない。

 だが、背後からの不意打ちという点が幸いした。驚いたテラフォーマーがギィ、という悲鳴と共にジャイナの右足から手を放したのだ。

 

 イヴはそれを見逃さず、今度は電気を纏わせた一撃をテラフォーマーに叩きつけた。

 

 全身から煙を噴き上げながら倒れた仲間の姿に、他の個体が慌てて距離をとろうとするが、遅い。

 

 警杖を大きく振り回し、イヴは次々と先端部分をテラフォーマーにぶつける。彼の黒い手の中で警杖が数回転する頃には、ジャイナを取り押さえていたテラフォーマーは残らず地に伏していた。

 

 戦闘員にまさるとも劣らない、それらの戦果。

 しかし、イヴの表情は晴れなかった――それどころか、崖っぷちまで追い込まれたかのように切羽詰まってさえいた。

 

 

(――駄目だ)

 

 

 マリアの背後に迫ったテラフォーマーの胸を水のレーザーで撃ちぬきながら、イヴが脳内にはそんな言葉が浮かんだ。

 

 

()()()()()()!)

 

 

 ツチカメムシの腕で警杖を振るい、ウンカの豪脚で蹴り、カハオノモンタナの糸で縛り上げ、水鉄砲で撃ちぬく。だがそれだけやっても、テラフォーマーの数は一向に減らなかった。

 

 こうなってくるとまず問題になるのが、戦闘能力を持たない乗組員たちの安否だ。

 ジャイナやマリアのように防御系の能力を持つ者はまだいい。だが、変態したとしても自分だけではその能力を発揮することが難しいテジャスや、変態することで逆に地上での機動力が落ちてしまうジョーンなどは悲惨だ。彼らは変態すらできず、ただ逃げまどうことしかできない。

 

 するとそんな彼らを気に掛けるがゆえに、戦闘員たちも十全の動きができなくなる。守るべき者が後ろにいるからこそ強くなれる――などというのは精神論の話。実際問題として考えた場合、混戦時において戦えない味方は、身もふたもない言い方をすれば、足手まといでしかないのだ。

 

 そして、戦闘員の動きが鈍れば押し寄せるテラフォーマーが更に増える、という負のスパイラル。早く手を打たなければ、全滅も十分にあり得る。

 

 飛び回り、跳ね回ってテラフォーマーの注意を引きつけながら、イヴは脳内で打開策を詮索する。この悪循環を断ち切るには、戦場から非戦闘員という要素を取り除く必要があった。

 

(せめて、戦えない皆をどこかに隠さないと!)

 

 必要なのは、簡単にテラフォーマーに侵入されない頑丈な避難用シェルター。だが、付近にそんな都合のいいものがあるはずもなかった。

 

(何か、何か方法が――)

 

 その時、イヴの脳内で一つの案が閃いた。襲い掛かってきたテラフォーマーの攻撃を躱してカウンターを叩きこむと、イヴは最も近くにいたティンに叫んだ。

 

「ティンさん! 少しの間ボクのことを守って!」

 

 突然の頼みに驚くティンだったが、イヴはそんな彼の反応を気にも留めず、すぐさま警杖を三つに分解すると腰のホルダーにしまい込んだ。

 それから地面に両膝をつくと、彼は黒い甲皮に包まれたその両手を使って、一心不乱に地面を掘り始める。

 無防備になった彼に慌てて駆け寄ると、ティンはイヴを守るように陣取り、迫りくるテラフォーマー達を相手に戦いを開始した。

 

「シュッ!」

 

 ティンの強靭な脚による一撃をもろに受け、テラフォーマーの体がまるで豆腐か何かのように容易く引き裂かれる。それでもなおその威力は衰えず、そのまま数体のテラフォーマーを吹き飛ばしてようやく収まった。

 

「イヴ! どうするつもりだ!?」

 

 更に飛び掛かってきたテラフォーマーを蹴りで縦に両断しながら、ティンが聞く。するとイヴは、地面を掘る手を緩めることなく彼に返した。

 

「穴を掘って、戦えない皆の退避場所を造るんだ! 地面の中なら、奴らもすぐには入り込めないはず!」

 

 地下への退避。それが、イヴが思いついた案だった。

 

 ――イヴの両腕に宿る『ツチカメムシ』の遺伝子。普段のイヴが子供としての貧弱な筋力を補うために使っているこの昆虫の力だが、本来その特性を発現させた両腕が真価を発揮するのは戦闘ではなく、掘削作業である。

 

 特にイヴのベースとなっているのはツチカメムシの中でもとりわけ地中生活に適応した種である『ジムグリツチカメムシ』。鎌か鋤のように変化したその前脚で土を掻き分け、地中深くに潜っていく能力は、数いるカメムシの中でもトップクラスと言ってもいいだろう。

 

 ――その力を駆使して、ゴキブリが容易に入り込むことのできないシェルターを地下に築く。

 

「これで避難場所ができれば、皆も全力で戦える!」

 

 イヴはそう言いながら、鋤のように鋭い形状に変化した指と掌を使い、懸命に作業を続ける。掘削を専科とするジムグリツチカメムシの筋力で、イヴは目の前の地面を見る見る内に掘り下げていった。

 

 その速度は非常に速く――しかし、それでも()()()()

 

 

 

 イヴがそのテラフォーマーの接近に気が付いたのは、視界の上隅に黒い爪先が映ったからだった。慌てて顔を上げれば、そこにあったのは棍棒を振りかぶったテラフォーマーの姿。穴掘りに集中しすぎて、気が付かなかったのだ。

 

「イヴッ!」

 

 気が付いたティンが加勢しようとするも、他のテラフォーマーたちがそれを阻む。護衛が引き離されて警杖もすぐには用意できない今、イヴは完全な無防備だった。

 

 そしてそんな隙を、テラフォーマーが見逃してくれるはずもない。

 

「じょうッ!」

 

 テラフォーマーはイヴの脳天を目掛けて棍棒を振り下ろした――

 

「させるかっ!」

 

 

――()()()()、奈々緒のそんな声が響き、テラフォーマーの棍棒には数本の細い糸が絡みついた。勢いよく振り下ろしたテラフォーマーの手からは棍棒がすっぽ抜け、明後日の方向へと飛んでいく。

 

「小吉ッ!」

 

「おうっ!」

 

 驚いて振り向いたテラフォーマーの腹に、小吉がスズメバチの毒針を突き刺した。それは、殺傷目的ではなかったがゆえに対密航者戦では使うことのなかった、オオスズメバチ最強の武器。その先端部から大量の毒液を流し込むと、テラフォーマーは口から泡を吹いて崩れ落ちた。

 

「無事か!?」

 

「怪我はない、イヴ君!?」

 

 駆け寄ってくる2人に頷くと、イヴは自分の無事の報告もそこそこに、彼らに訴えた。

 

「戦えない皆が避難するための穴を掘りたいんだ! 小吉さんたちも手伝って!」

 

「分かった! 俺達は何をすりゃいい!?」

 

 押し寄せるテラフォーマーをなぎ倒しながら小吉が聞くと、イヴがすぐさま答る。

 

「奈々緒さんには今からボクがいう物を作ってほしい!」

 

 イヴの言葉に奈々緒が頷くと、彼の横にしゃがみ込んだ。後ろを気にする様子は、全くない。それだけ、小吉のことを信頼しているのだろう。

 

「小吉さんはボクが穴を掘り終わるまで、周りのテラフォーマーを近づけないで!」

 

「よしきた任せろッ!」

 

 小吉はそう返すと、テラフォーマーの群れに飛び込んだ。小吉は空手の足運びでテラフォーマー達の間を風のように縫って動き、彼らの胴体にスズメバチの毒針を的確に突き立てていく。彼の攻撃を受けたテラフォーマーは一匹、また一匹と地面に倒れ、緑の大地を黒く染めていった。

 

「じょじじ……」

 

 攻めあぐねたテラフォーマーが動きを止める。戦闘員2人がかりの防衛布陣ともなれば、テラフォーマーであっても容易には近づけない。

 

 ――だから彼らは、作戦を変えることにした。

 

「じょうッ!」

 

 ――近づけないのなら、遠くから撃ち殺せばいい。

 

 そう言わんばかりに、黒い群れの中から銃を携えたテラフォーマーが十数匹ほど歩み出た。

 

「マズいぞ! 奴ら、俺達を撃つつもりだ!」

 

 頬に冷や汗を伝わせながら、ティンが叫んだ。彼らに至近距離での肉弾戦ならば後れを取ることはないが、遠距離から一方的に狙撃されてはさすがに彼らでも対処のしようがない。

 小吉が駆け出そうとするも、テラフォーマーたちが引き金を引く方が速かった。

 

 ドン、という発砲音と共にテラフォーマー達の持つ銃が火を噴く。勢いよく飛び出した弾丸は真っすぐに小吉達を目掛けて突き進んでいき――しかしその直後、『小吉達を庇うように』立ちはだかった2人の乗組員に阻まれ、音を立てて跳ね返った。

 

 それを見た奈々緒が、驚いたような声を上げる。

 

「マリアさん!? それに、ジャイナも!」

 

「ま、間に合った……」

 

 体の前で両腕を交差させたジャイナがほっとしたような声で呟いた。思わず手を止めたイヴに、振り向いたマリアがにっこりと笑いかける。

 

「イヴ君には何回も助けてもらったからね。今度はアタシ達の番だよ」

 

「銃の対処は任せて。マリアのニジイロクワガタの甲皮と、私のクロカタゾウムシの鎧なら――銃弾程度、弾き返せるから」

 

 マリアの言葉を継いで、普段は自信なさげなジャイナが力強くそう言った。

 

 

 ――ジャイナの手術ベースとなった“クロカタゾウムシ”は、昆虫界で最も硬いと評される昆虫の一匹である。

 

 全身を覆う、さながらボウリング玉のようなつやを帯びた黒い装甲は、とにかく頑丈。その強度たるや、あまりの硬さに鳥が捕食するのを敬遠し、昆虫標本用の昆虫針を逆に曲げてしまう程。

 もしもその装甲が人間大になったのならば――クロカタゾウムシの鎧は、装着者をあらゆる衝撃から守り通す、文字通り鉄壁の守りとなるだろう。

 

 

 

「じょう!」

 

 テラフォーマー達が手にした銃を乱射する。しかしジャイナの言葉通り、テラフォーマー達が放った銃弾は、彼女らの体に当たるたびに甲高い音と共に弾き返され、全く貫通する気配がなかった。

 

「イヴ君! 私達で食い止めていられるうちに、作業を進めて!」

 

 甲皮に覆われていない頭部を守りながら、ジャイナが叫んだ。

 

「わ、分かった!」

 

 イヴが頷いて、地面の掘削作業を再開しようとした。とその時、そんな声と共に誰かがイヴの隣まで駆け寄ると、彼と同じように地面に膝をついた。

 

「イヴ! 手伝わせてくれ!」

 

「ふ、フワンさん!?」

 

 目を丸くして驚いた様子のイヴに、フワンが普段から細い目をさらに細めて笑った。

 

「さっきはみっともないところを見せちまったからな。ここらで名誉挽回をさせてくれ」

 

 そう言って、フワンは自らの首筋に注射器を打ち込む。たちどころに彼の全身は茶色の甲皮に覆われ、その両腕はまるで野球用のミットをはめたかのように巨大化した。

 

 

 

 ――バッタ目に分類されるケラという昆虫は、自然界切っての芸達者である。

 

泳ぐ、跳ねる、走る、鳴く、飛ぶ、よじ登るなど、その技巧ぶりは一目瞭然。一方で『ケラ芸』という言葉が表すようにどれも各分野の一流には及ばず、器用貧乏の代名詞として引き合いに出されることも多い。

 

 しかし、こと穴掘りに関していえば、この生物の右に出る虫はそうはいないだろう。

 

 極めて特殊な形状をした前脚、楕円状にまとまって先端を成す頭部と胸部、筒のように細長い胴体、汚れの付着を防ぐための繊毛など、この昆虫の体には掘削に適したギミックが数多く仕込まれているのだ。

 

 これは地中生物の代表例であるモグラにも共通した特徴であり、この昆虫が土を掘るという点において非常に発達していることを裏付けている。

 

 

 

 フワンが加わったことで、掘削の速度は先ほどまでとは段違いの速度へと変化した。瞬く間に、地下のシェルターが完成していく。

 

「じじょう」

 

 見る間に深くなっていく穴にテラフォーマーは考える。

 

 接近戦は分が悪く、銃も効果がない。更に悪いことに、離れていたところにいた乗組員たちも合流しつつあり、自分たちが地上から彼らを制圧することは事実上不可能になりつつある。

 

 では、どうするべきか。

 

「じょう。じじょう」

 

 ――彼らは、確かめることを恐れない。個の不利益の上に全の利益が成るのならばそれを是とし、いかなる犠牲も厭わずにあらゆる手を試すのだ。 

 

 

 即ち――ただ次の一手を打つのみ。

 

「――じじょうじ『じ』」

 

 唐突に、乗組員たちの目の前で数十匹のテラフォーマーの背中が一斉に開いた。

 

「……はっ?」

 

 思わず間の抜けた声を上げた小吉の目の前で、テラフォーマー達は一斉に開いた背中から現れた『翅』を使って、空高く飛びあがる。

 

「飛翔能力!? こいつら、こんなものまで!?」

 

 小吉達と合流したルドンが、驚愕の表情を浮かべた。

 

 地球のゴキブリにも翅はあるもののそれらは基本的に退化しており、飛べる種であってもせいぜいが滑空する程度である。だが火星のテラフォーマーの飛翔能力は、それらを遥かに凌ぐようだ。ヴヴヴ、という耳障りで不気味な羽音と共に、彼らは青く澄んだ朝空に黒いシミを作り出した。

 

「じじじ」

 

 手を出してこない人間達を見て、テラフォーマー達は確信する。

彼らは空を飛ぶ敵に対処する手段がないのだと。あの足が太い人間ならばこの高さまで届くのかもしれないが、それも一瞬だけだ。根本的な解決策にはなり得ない。

 

「じょうじ! じょう!」

 

 ただ立ち尽くすしかない人間達にテラフォーマーたちが勝ち誇ったように鳴いた――まさにその瞬間の事だった。彼らの間を、目にも止まらぬ速さで何かが通り抜けたのは。

 

 

 

 突然、一匹のテラフォーマーが態勢を崩した。風にあおられたのだろうか? その個体は自らの体を立て直そうとして、ある違和感に気付く。

 

 どれだけ羽ばたいても、崩れた姿勢が元に戻らないことに――否、そもそも彼の背中から()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことに。

 

「――!?」

 

 次の瞬間、テラフォーマーは地面に叩きつけられていた。ぐしゃりという音を立て、その全身がひしゃげる。事切れる寸前にそのテラフォーマーの目に映ったのは、電光石火のごとく空を飛び回り、そして仲間に襲い掛かるメガネを掛けた人間の姿だった。

 

 

 

 

 

 その虫が持つ最大の武器は、いかなる生物をも凌ぐ飛行術である。

 

 急発進(アクセル)急停止(ブレーキ)後退(バック)宙返り(サマーソルト)滞空(ホバリング)旋回(ターン)

 背中から生えた4枚の翅によって、時速70kmにも及ぶ高速飛行中に繰り出されるこれらの技は、人類が最新の航空技術を駆使しても再現することができないと言われている。

 加えてこの虫は、昆虫類最多と言われる複眼、発達した大顎、そして類まれな凶暴性をも備えており、狩りの際にはオオスズメバチでさえ捕食すると言われている。

 

 

 

 その虫の名は、“日本原産”『オニヤンマ』。

 

 

 

 本能の赴くまま獲物に襲い掛かるその獰猛さと、黄色と黒の縞模様という特徴的な体の紋様から、魔物の名を冠する虫である。

 

 

 

 

 

 風切り音と共に人間大のオニヤンマ――トシオ・ブライトが空を駆け、次々とテラフォーマー達を撃墜していく。

 

 武術を収めている小吉やティン、体格のいいルドンなどとは違い、トシオ自身は戦闘員でありながら、その身体能力はあくまで非力な人間のそれでしかない。だが彼のベースとなったオニヤンマは、それを補って余りあるほどに強力だった。

 

 死角に回り込んで、急所への一撃。敵からの攻撃は、昆虫類最多と言われるオニヤンマの複眼で躱す。その性能は、まさしく攻防の両面において敵無しであった。

 

「空から攻めようとしたのは失敗だったな!」

 

 そう言いながらトシオは飛んでいるテラフォーマーの背後に回り、すれ違いざまに背中の翅を毟り取る。ただのそれだけでテラフォーマーは空に留まる術を失い、地上へと落ちていった。

 

「覚えとけ、ゴキブリ共――」

 

 トシオは飛んでいた最後のテラフォーマーに迫ると、強化されたオニヤンマの筋力で強引に首をねじ切る。

 

「空はトンボの領域(テリトリー)だ。飛んでるゴキブリなんて、いいエサだぜ」

 

 トシオは落ちていくテラフォーマーにそう言うと、すぐさま地上に向かって急降下した。ジャイナやマリアに向かって銃を撃ち続けるテラフォーマーに狙いを定めると、下降の勢いをそのままに、彼らから()()()銃を奪い取った。

 

 すかさずトシオは後退すると、それを戦う術のないジョーンとテジャスに放り投げる。

 

「2人とも、使え! 何もないよりはマシなはずだ!」

 

「すまん、助かる!」

 

 2人は銃を受け取ると、間髪入れずにそれをテラフォーマー達に向かって撃ち始めた。

 

 テラフォーマー相手に銃の効果は薄い。だが、全く効果がないかと言われれば、その答えは否である。弾幕を張ればテラフォーマーの行動を制限できるし、運よく食道下神経節に当たれば彼らを戦闘不能に追い込むことも可能なのだ。

 

 尽きるまで銃弾を撃ち続け、弾が切れたらトシオが再び補充した新しい銃へと持ち替え、また撃つ。

 それを続けることで、ジョーンとテジャスの援護は確実に効力を発揮し、僅かながらもテラフォーマーの攻め手を緩めることに成功する。

 

「あと少しだ! 全員、戦線維持に努めろ!」

 

 ミンミンが鼓舞すると、乗組員たちは各々声を上げることでそれに応えた。彼らは次々と迫るテラフォーマーを斬り、刺し、蹴り、焼き、溶かし、引き裂き、撃ち、そして防ぐ。

 それはたった10人による防衛線であったが、次々と増援が現れる無数のテラフォーマーを相手に、互角以上に渡り合っていた。戦闘員も非戦闘員も関係なく、全員が“必ず生きて地球へと帰る”という強い意志をその胸に秘め、彼らは戦い続けた。

 

 

 それから更に、永遠にさえ感じられるような、永い数分間が経過した頃。フワンと奈々緒が、ほとんど同じタイミングで声を上げた。

 

 

「よし、シェルターは完成したぞ!」

 

「こっちの作業も完了! いつでもいけるよ、イヴ君!」

 

 それを聞いた小吉は、思わず歓声にも似た声を上げる。

 

「本当か!? よしっ、これで――」

 

「いや待て、本当に大変なのはここからだ」

 

 眼前に迫ったテラフォーマーを強力な蹴りで吹き飛ばしながらティンが言った。その表情は、喜色を満面に浮かべる小吉とは対照的に、どこか険しい。

 

「そいつの言う通りだ」

 

 右手にナイフを構えたリーが、ティンの言葉に同意の声を上げる。

 

「俺達は今、10人で拮抗状態。戦闘員以外の奴らが抜けた場合、こっちが隊列を組み直すまでに数で押し切られちまう」

 

 今、彼らはイヴとフワンが作ったシェルターを取り囲み、円陣を組むような形でテラフォーマー達に応戦している。ここで問題になるのは、この円陣には小吉達以外の非戦闘員も加わっているということ。

 

 非戦闘員が一斉に避難を始め、戦闘員のみで円陣を組み直すまでの時間は、僅かに数秒。だがその数秒が命取りになりかねないのだ。

 

 

 せめて、一瞬でもテラフォーマーたちの攻勢を止めることができれば――。

 

 

 小吉が歯噛みしたその時、彼の背後からルドンが声を上げた。

 

「……一瞬でいいなら、こいつらを止めれるかもしれない」

 

「何っ!?」

 

「本当か!?」

 

 驚いたように聞き返したティンと小吉に、ルドンは「ああ」と力強く頷いて見せた。

 

「ただし、リーの協力が必要だ」

 

 そう言うと、ルドンはテラフォーマーを相手にナイフを振るっていたリーを呼んだ。リーがそれに怪訝そうな声を返すと、ルドンは声を張り上げた。

 

「俺が合図したら、奴らに向けてベンゾキノンを撃ってくれ!」

 

「そいつは構わねえが、奴らの外皮に熱は効かねえぞ?」

 

 怪訝そうに答えたリーに、ルドンは「分かってる!」と返すと、ニッと笑った。

 

「まあ見てろって!」

 

 そう言うが早いか、ルドンはまるで深呼吸でもするかのように、大きく息を吸い込んだ。それからルドンは吸い込んだ息と共に、自らの前方に向かって勢いよく、霧状の何かを吹きつけた。 

 それが程よく霧散した頃合いを見計らって、ルドンが声を張り上げる。

 

「今だ、リー!」

 

 彼の声を聞いたリーは、乗組員たちの間を射抜く様にして、テラフォーマーに向けて高熱ガスを撃ち放った。

 

 

 ルドンのベースとなったマイマイカブリは自らの身に危険が迫ると、エタアクリル酸やメタアクリル酸と呼ばれる物質を尾部から噴射して、その身を守る。

 

 これらが強い酸性・腐食性を帯びているのは以前彼がバグズ2号内で手錠を溶かして見せた通りだが、実はそれに加えて、引火性という特徴も兼ね備えている。

 

 引火性の物質がまき散らされた空間に、リーの高熱ガスが到達すればどうなるか。その答えは、言うまでもないだろう。

 

 

 

 爆音とともに火柱が立ち、最前列にいたテラフォーマーの体が吹き飛ぶ。彼らは後方にいたテラフォーマーをも巻き込んで、そのまま地面に倒れ込む。これによって、将棋倒し式に被害が拡大し、一時的にテラフォーマーの攻撃の手が大幅に緩んだ。

 

「今だ! あとは私達に任せて、シェルターまで走れ!」

 

 ミンミンが咄嗟の指示を出すと、非戦闘員は一斉にフワンたちが作ったシェルターへと走り出した。幸いにしてテラフォーマーからの妨害に会うこともなく、彼らは無事にシェルターの中に駆け込んだ。

 

「よしっ、それじゃボクは――」

 

「あたし達と一緒にここにいること」

 

 警杖を構え直したイヴがシェルターの外に飛び出そうとするも、マリアに首根っこを掴まれた。

 

「うわっ!? ちょっ、マリアさん!?」

 

 イヴはじたばたともがくが、マリアは素知らぬ顔でイヴを穴の中へと連れ戻した。すかさず他の乗組員がイヴに組み付き、彼は呆気なく取り押さえられてしまった。それを見た奈々緒は満足げに頷くと、穴の外の小吉に叫んだ。

 

「小吉! あとは任せたぞ!」

 

「ガッテンだ、アキちゃん!」

 

 サムズアップした小吉に奈々緒は笑いかけると、手に握っていた数本の生糸を思い切り引っ張った。すると、糸の先端部に括り付けられていた円盤状の何かが起き上がり、そのまますっぽりとシェルターの出入口に蓋をしてしまった。

 

 

 イヴがシェルターの制作と並行して、奈々緒に造らせていた物。それは、即席の『戸』であった。

 

 トタテグモと呼ばれる蜘蛛は糸で巣穴の戸を造り、表面を土や苔で覆うことで自らの巣を外敵や獲物から隠す習性がある。今回奈々緒が作ったのは、さしずめそれの防御力向上版と言ったところだった。

 

 円盤状に固めた土石を、防弾繊維にさえなりうるクモイトカイコガの糸でコーティングする。それで出入口に蓋をしてしまえばテラフォーマー達であっても容易には突破できず、流れ弾も防げるのである。

 

「さて、イヴのおかげで非戦闘員は離脱に成功した……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ミンミンはそう言って、当初の半分ほどまでに数を減らしたテラフォーマー達を睨みつけた。その気迫に何かを感じたのであろうか、数匹のテラフォーマーが思わず後ずさった。

 

「もしも、逃げることができないのなら――」

 

 テラフォーマーにそう言いながら、ミンミンが両腕の鎌を体の前に構える。それを受け、小吉達も各々の構えをとった。

 

「私たちは戦って生き残る(かつ)までだ! 行くぞ!」

 

 彼女の咆哮と共に、6人の戦闘員が一斉にゴキブリ達に襲い掛かる。ここに、火星での激闘の第2幕が開幕した。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 バグズ1号の管制室にて。

 

 誰もいないはずその部屋で光を放っていたモニターに、何の前触れもなくノイズが走った。数秒程してそれが収まると、そこに表示されていた文字列は、先ほど小吉達が見たものとは別のモノへと変化していた。

 

 

 

 

 

 

 

VERY GOOD(よくできました),EVE(イヴ君)!』

 

 

 

 

 

 

 

WELL THEN(それじゃあ)

 

 

 

 

 

 

LET’S START BONUS STAGE(いってみようか ボーナスステージ)!』

 

 

 

 

 

 




【オマケ】

ルドン「もう役に立たないとか言わせない」ドヤッ

トシオ「もう弱いとか言わせない」キリッ

リー「分かったから手を動かせ」


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第15話 STARVING OVATION 飢餓

「ぜりゃあ!」

 

 小吉の正拳突きをもろに頭部に食らい、テラフォーマーの顔面が陥没する。小吉が拳を引き戻せば、そのテラフォーマーは数歩ほどフラフラと後退し、バランスを崩してそのまま地面に倒れ込んだ。二、三度ほど痙攣して、その個体はすぐに動かなくなった。

 

「これで全部……か?」

 

 肩で息をしながら、小吉が辺りを見渡す。テラフォーマーの死体で一面が黒く染まった平原の中、付近に立っているものは小吉達6人だけだ。他に立っている者は――というよりも、そもそも他に動いている者が、周囲にはいなかった。

 

「そうらしいな」

 

 同じように周囲を確認していたティンが言うと、小吉は気が抜けたように大きくため息をついた。途端に全身にドッと疲れが押し寄せ、小吉はそのまま地面に座り込んだ。

 

「っはー! やっと一息つけるぜ……」

 

「フン、だらしねェ……」

 

 呆れたようにそう言ったリーだったが、かく言う彼もその顔には疲労を色濃く滲ませていた。

 彼らだけではない。ティンやミンミン、ルドンやトシオも同様に息を荒げ、額からは汗が滝のように流れていた。当然であろう。彼らは最終的に200匹にも及ぶテラフォーマーを相手に奮戦したのだから。

 

 と、その時。

 外での戦闘音が静まったことに気付いたのか、生糸の蓋をパカッと開けて、シェルターの中からテジャスが顔を覗かせた。

 

「トシオ、終わったか?」

 

「ああ。もう出てきても大丈夫だ」

 

 トシオが返事を帰すと、テジャスは完全に蓋を開いて穴の中から這い出した。他の乗組員たちも、次々とその後に続く。

 

「ん? どうしたんだ、イヴ?」

 

 ふと小吉が目を向ければ、穴の中から出てきたイヴが頬を膨らませていた。不思議そうに首を傾げる小吉に、マリアが苦笑いを浮かべながら答えた。

 

「さっき、イヴ君が外に飛び出して戦おうとしたのをアタシ達が無理やり止めちゃったから、拗ねてるのよ」

 

「……拗ねてないもん」

 

 マリアの言葉に、イヴが不機嫌そうに呟く。その子供っぽい振る舞いは、危機の連続で精神が削れつつあった乗組員たちに対する、清涼剤としての役割を果たしたらしい。乗組員たちが思わず笑いを溢した。

 

「まったく、緊張感のない……」

 

 先ほどまでの殺伐とした戦闘の雰囲気から一転、和やかな空気になりつつある一同にミンミンが呆れ混じりのため息をつきながら、彼女は後方の車を見た。

 

「ルドン、地球(U-NASA)との通信は繋がったか?」

 

 ミンミンの言葉に、車の運転席で無線機をいじっていたルドンが首を横に振った。

 

「駄目です。うんともすんとも言いません」

 

「……そうか」

 

 報告を受けたミンミンは、考え込むように指を唇に押し当てた。電波の障害か、あるいはそもそも向こうに通信を受け取る気がないのか。

 

――いずれにしても、すぐに動く必要がある。

 

 そう決断し、ミンミンは一同に向かって口を開いた。

 

「皆、ここを今すぐに離れるぞ」

 

 手を叩きながらそう言ったミンミンに、ジャイナが意外そうな顔を向けた。

 

「い、いいんですか? まだバグズ1号も調べ切ってないのに……」

 

「ああ。このままここに留まれば、またテラフォーマー達に襲われかねない」

 

 ミンミンが厳しい表情で言った。

 

 先程と同規模の襲撃をもう一度受けた場合、再び全員が生き残れる保証はない。むしろ、誰かしらが命を落とす危険性の方が高いだろう。全滅も十分にあり得る以上、ここに留まるのは悪手だった。

 

「生きてさえいれば、調査なんていくらでもできるからな。あとは――」

 

「おい」

 

 ミンミンの言葉を遮るように、リーが短く声を上げた。

 怪訝そうにミンミンがリーに顔を向けると、声を上げた張本人であるはずのリーは、ミンミンの方を向きながらも、彼女のことを見ていなかった。

 

「何だ、ありゃあ」

 

 なぜならば、彼の目が捉えていたのはミンミンではなく、()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 朝霧のベールが、夜が明けたことによる気温の上昇で生まれた風に押し流され、晴れていく。

 

 その向こう側から顔を出したのは、四角錘状の石造りの建造物――地球において、ピラミッドと呼ばれる建造物に酷似した建物だった。

 

 

 

「な、に……あれ?」

 

 それを見たイヴは、動揺を隠しきれない様子で言葉を続けた。

 

「い、いくらなんでも、おかしい……! 何であんな物が、火星に? いや、バグズ1号のモニターに表示されていた文章だって……何で、何でこんな……」

 

 呆然として、イヴがうわ言のように言う。彼同様、他の乗組員たちもまた、目の前に現れた、明らかに異質な人工物に目を見開いて驚愕し、その存在感にただただ圧倒されていた。

 

「クソッ、どうなっていやがるんだ、この星は……!」

 

 やっとのことで、小吉が絞り出すようにそう言った。テラフォーミング計画のことだけではない、色々と不自然な点が多すぎるのだ。それらはまるで蛇のようにひそやかに、それでいてねっとりと彼らに絡みつき、異様な不快感を与えていた。

 

「それだけじゃねぇ……見てみろ」

 

 小吉の横で、リーがピラミッドの中腹辺りを指さした。

 

「何やら、妙なのがいるぜ」

 

 彼の指の先にいたのは、数匹のテラフォーマー。しかし、リーが『妙なの』という表現で言い表した通り、通常のテラフォーマーとはある一点において大きく異なっていた。

 

 

「体格が、普通の個体より大きい……?」

 

 

 ピラミッドの中腹にいるテラフォーマー達は、一匹を除いて全員が筋骨隆々とした体つきをしていた。通常のテラフォーマーに比べて四肢や胴回りが太く、身長が高くがっしりとした体つきだ。

 その姿は、さながら力士のごとし。あまりの異様さに、乗組員たちが思わず息を呑む。

 

 

 だがこの時、その中でも『ある個体』がとりわけ危険であると瞬時に気付けた者は、この場にいる乗組員たちの中でも少数だけだった。

 

「何だ……あいつ」

 

 その数少ない一人であるティンは、その個体を見ると、薄気味悪さを感じながらそんな感想を口にした。

 

 

 

 その個体も体格が通常の個体よりも遥かに大きい、という点では先に挙げた力士型と共通した特徴である。決定的に違っていたのは、頭髪が一切見受けられない事と、額に刻まれた『÷』の模様。そして何より、力士型と比べてあまりに『締まりがない』その体つきだった。

 その腹部はまるで空気を入れすぎたボールのように前へとせり出し、ぶよぶよとした肉感を放っている。仮に他の個体たちを力士型と呼ぶのならば、こちらは肥満型が相応しかろうという容姿である。

 

「……じょう」

 

 石造りの神輿の様なものに腰掛け、肥満型が億劫そうに鳴く。するとその背後から普通の体躯のテラフォーマーが現れて、手にした何かを彼に献上した。

 

「げっ」

 

 それが何なのかを悟った小吉が、思わずそんな声を漏らした。

 

 それは、テラフォーマーの生首だった。首から下はなく、額から上もまた水平に切り開かれている。

 

 肥満型はそれを受け取ると、手にスプーン型の石器を持ち――()()()()()()()()()()()()()()

 

「食っ……!?」

 

 絶句する彼らを見下ろしながら、肥満型は咀嚼音を響かせて、美味そうにテラフォーマーの脳を平らげていく。彼の背後では、力士型のテラフォーマー達が仲間の手足を、まるでフライドチキンか何かのようにボリボリと貪っている。

 

 ――テラフォーマーが、テラフォーマーを喰う。

 

 その光景はとにかくおぞましく、身の毛のよだつ光景であった。

 

「うっ……」

 

 吐き気をこらえきれず、ジャイナがうずくまった。えづく彼女の背中をさすりつつ、マリアは青ざめた表情でテラフォーマー達を見つめた。

 

「共食い……な、何で、あんなことを――!?」

 

 マリアの言葉を聞き、イヴは何かに気が付いたかのように勢いよく顔を上げた。

 

「――まさか……いや、でも、それ以外に考えられない……!」

 

 何かに気付いたような彼の口ぶりに、乗組員たちが一斉に彼を見やる。皆の視線にさらされながら、イヴは脳裏に浮かんだおぞましく、忌わしい予測を口にした。

 

「……あいつら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 “カニバリズム”――いわゆる人間同士による共食い行為は今日に至るまで、様々な学問分野からの解釈がなされている。

 

 例えば地理学的には、大型の家畜などがいない地域においてタンパク質が不足することからその傾向が強まるとされ、また文化人類学においてはしばしば『被食者の力を自身に取り込む』という一種の儀式的な意味を持つとされる。

 

 テラフォーマー達の共食い行為も、まさしくそれらの要素が絡み合った結果であった。

 

 

 もしも仮に、一匹のテラフォーマーが興味本位で同胞の肉を食べたとする。

 片や、苔から得られる貧弱な栄養素のみを取り続けた個体。片や、仲間の亡骸から豊富なタンパク質を取り続けた個体。

 同じ条件下で育った場合にどちらの方が強くなるかなど、言うまでもないだろう。

 

 同胞を食らい、『動物性蛋白質』という『力』を取り込むことで、その個体はより頑強に、より強靭に育っていく。自らを高めるための絶好の手段を、彼らが見逃すものだろうか?

 

 答えは――否。

 

 結果として、共食いという行為は慣習、あるいは伝統として、彼らの社会に根差していく。

 無秩序に行えば絶滅の引き金となりかねないために、共食いは一部の者の特権となる。するとその社会の中には、食事の質を基準とした階級が生まれる。

 

 例えば、苔以外を口にすることが許されない『一般層』、同胞の肉体を食らい、強くなることを許された『戦士層』、そして体の中でもとりわけ高い栄養価を持つ“臓器”を、嗜好品として貪ることを許された『王』といったように。

 

 

 

 

 

「動物性蛋白質……! そうか、それなら奴らの体が異様に大きいのも納得できる!」

 

 イヴの言葉に、ティンが納得したように言った。

 

 タンパク質や脂質などの豊富な栄養を含むため宇宙食として導入されているカイコガであるが、実はゴキブリもそれに勝るとも劣らない栄養価を秘めている。

 特に含有されているタンパク質については優秀の一言につき、実に同じカロリーの豚肉と比較すると、その1.5倍もの量を含んでいる。

 

 ただのテラフォーマーでもあれだけ筋肉質な体つきになるのだ、きちんとした栄養を取っている彼らの肉体があそこまで練り上げられるのも当然と言えよう。

 

「――それにしても、妙だ」

 

 ミンミンがピラミッドに座すテラフォーマーたちを油断なく見据えながら、そんな言葉を口にした。

 

「奴ら……なぜ、私たちを襲ってこない?」

 

 ――それは、決定的な違和感。

 

 テラフォーマー達は明らかにこちらの存在に気付いている。それにも関わらず、彼らが攻勢を仕掛けてくる気配が全くないのである。

 

(私たちを殺すのを、諦めたか?)

 

 そんな考えがミンミンの頭をよぎるが、そんなはずはないことを彼女は十分に理解していた。先程の戦闘、バグズ2号での戦闘、昨日の調査での戦闘、どれにおいても、テラフォーマーは容赦なく襲ってきた。

 何より彼らの目は、さながら獲物を狩らんとする虎のように、乗組員たちを見つめていた。彼らが諦めたとは、到底思えない。

 

(奴ら、何かを待って――?)

 

 ミンミンの思考がそこまで達したその時、彼女の背後で何かの物音がした。

 

「ッ!? 新手か!?」

 

 ミンミンは鎌状に変化した両腕を構えながら、弾かれたように背後を振り返った。

 

 今の今まで、彼女の視界にはイヴを含めた乗組員たち全員の姿が入っていた。この事実が意味しているのは、『ミンミンの背後から聞こえた音は、仲間によって引き起こされたものではない』ということである。

 

 では、一体誰が音を立てたのか。必然、それは自分たち以外の何者か――即ちテラフォーマーによるものである可能性が高い。

それを瞬時に理解したからこそミンミンはすぐに行動に移すことができ――理解していたからこそ、飛び込んできた光景に、己の目を疑った。

 

 

 

 

 

 彼女の予想で当たっていたのは、先程の音がテラフォーマーによって立てられたものだったということ。ミンミンの背後には確かに、テラフォーマーがいた。音を立てた正体も、そのテラフォーマーで間違いはない。

 

 

 

 

 

 

 ――そして外れていたのは。

 そこにいたテラフォーマーが新手などではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「なん、だ……?」

 

 

 彼女が見たモノを端的に表現しよう。それは、不気味に膨張と収縮を繰り返すテラフォーマーの死骸だった。

 

 まるで、空気を吹き込んでは吸い出すという行為を繰り返されている風船のように。そのテラフォーマーは既に息絶えていながら、その体の形を絶え間なく変え続けていた。

 

「お、おい……見ろ」

 

 他の乗組員たちも異常に気付き、不気味そうにあたりを見渡した。

 

 同じような怪現象は、他の死骸にも見受けられた。緑の地面に倒れ伏すテラフォーマーの死骸の一部が、ミンミンの背後のテラフォーマーと同じように、膨らんでは萎む。彼らは共通して、膨張と収縮に合わせるようにして、全身の体表を蓮の実のような粒状に変化させていた。

 

 明らかに、普通ではない。

 

「み、皆ッ! 急いで車に!」

 

 咄嗟にイヴはそう叫ぶと、車に向かって走り出していた。

この現象が一体何なのか、イヴにも理解できていなかった。だが、彼の脳内では本能の警鐘がけたたましく鳴り響いていた。

 

 

 ――何が起こるのかは分からないが、絶対に碌なことにはならない。

 

 

 直感がそう告げたからこそ、イヴは躊躇いなく逃げることを選んだ。今ならまだ、間に合うかもしれないから。

 

 イヴがいち早く動き出したことで、我に返った他の乗組員たちもすぐに行動に移った。元々、彼らと車との距離はそう離れてはいない。十秒とかからずに、全員が車に乗り込む。

 

「テジャス! エンジンが懸かったらガスを全力で噴射しろ!」

 

 ミンミンが荷台に向かって怒鳴るように言った。未だに、テラフォーマーたちの死体は変化をし続けている。運転席のルドンがパネルを操作し、エンジンをかけるまでの僅か数秒がひどく長く感じられ、もどかしかった。

 

「かかったぞ!」

 

 ルドンの声と同時にエンジンの駆動音が響き、振動で小刻みに車体が震える。すぐさま、テジャスが思い切り息を吸い込んだ。それを見た乗組員たちはすぐさま荷台に掴まり、自分の体を固定する。

 

 そしてテジャスがガスを噴射したその瞬間――イヴは、見た。

 

 はちきれんばかりに膨張したテラフォーマーの体が、バスンッという空気が抜けるような音と共に〈破裂〉したのを。そしてテラフォーマーの体を突き破るようにして、中から無数の黒い粒が飛び出したのを。

 

 

 黒い物体の動きは、あまりにも速かった。

 

 イヴの感覚と思考だけが、黒い粒の動きを辛うじて捉えることができていた。時間すら置き去りにされたような、やけにゆっくりと感じられる刹那の中で、イヴの脳はその黒い粒の姿をはっきりと認識した。

 

 

 

 

 それは、無数の蟲だった。

 

 

 

 

 長い触角と翅を持った小さな虫。全身を光沢のある黒で塗られたその姿は、地球のゴキブリに瓜二つ。何の変哲もない、いたって普通の見た目をしている。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。 

 

「――!」

 

 イヴが声にならない悲鳴を上げた。まるで黒い霧のようなそれがゆっくりと、しかし確実にイヴへと向かって近づいていく。目を凝らしてよく見れば、黒虫たちの顎には肉片が、体表には白い脂身と体液がこびりついているのが見て取れる。

 それらの要素は、彼らがテラフォーマーたちの体を食い破ってきたのだと言うことをイヴに気付かせるのには十分すぎた。

恐怖が彼の全身に走る。既に黒虫は、イヴの目と鼻の先まで迫ってきていた。

 

 ――早く、早く、早く!

 

 イヴが心の中で叫ぶ。彼の願いが届いたのか、黒虫がイヴの顔面に食らいつこうとしたまさにその時、寸でのところで時間が彼らに追いついた。

 

 ふわり、という浮遊感を感じると共に、黒虫との距離が一気に離される。直後、凄まじい衝撃と共にイヴの体が浮かび上がった。振り落とされまいと、イヴは必死で車にしがみつく。

 

 地面に降り立った車は一瞬だけ蛇行しながらもすぐに安定した走行に入り、見る間にバグズ1号を地平線の彼方へと追いやった。

 

「ふ、振り切った……」

 

 荷台の縁にもたれながらほっとイヴが息を吐いた。おそらく、あと1秒でも逃げるのが遅れていれば、今頃イヴは顔面から虫に食われてしまっていただろう。そんなことを考えると、全身からは嫌な汗が噴き出した。

 

しかしそんな束の間の安心も、小吉が発した警告によってあえなく瓦解する。

 

「気をつけろ! 何か来てるぞ!」

 

 ぎょっとしてイヴが目を向ければ、後から黒い霧のようなものが迫ってきていた。まるで蜂の大群のようなそれは、風を切るように車を追いかけている。

 

「ゴキブリ!? 進化していない個体も生息していたのか!?」

 

 ティンが驚いたように言う。既に目視でゴキブリと判別できるほどに近い距離にまで、黒虫たちは迫っていた。

 

「追いつかれる! テジャス、もう一回ガスを……!」

 

「む、無理だ……」

 

 慌てたようにそう言ったマリアに、テジャスが震える声で言った。

 

「俺のガス噴射は、全力で使ったらしばらくは使えない! 次に使えるようになるまでは、まだ時間がかかるんだ!」

 

「なっ……」

 

 乗組員たちが、動揺の色を顔に浮かべた。

 

 テジャスによる車体の加速が使えない以上、速度で虫たちを振り切るのは不可能。しかしこのまま逃げ続けていたところで、いずれ追いつかれるのは目に見えている。

 

 となれば、彼らに残された手段は迎撃のみ。しかしそれは、あまりにも非現実的であろう。あの量、あの小ささを相手取るのは、いかにバグズ2号の戦闘員であっても至難の業だ。

 

「こ、こんなの、どうすれば――」

 

 乗組員たちが浮足立ったその時、一発の爆音が響いた。

 

 灼熱を帯びた一筋の光線が迫りくる黒い霧を穿ち、爆炎を巻き起こす。突然の反撃に驚いたのか、黒虫たちは滅茶苦茶な軌道を飛び回って熱から逃れようとしていた。

 

 突発的な事態を乗組員たちは飲み込めずに、大きく目を見開いた。

 

「これしきのことで一々騒ぐんじゃねェよ」

 

 声のした方を見れば、そこには仁王立ちになったリーがいた。車の後方に向かって両腕を突き出し、その掌からは一筋の煙を立ち昇らせている。

 

「戦えねェ奴らは下がってろ――()()()()

 

 鋭い目で徐々に統率を取り戻しつつある黒い霧を射殺さんばかりに見つめながら、リーが一歩踏み出した。それをみたフワンが慌てて彼を止める。

 

「ま、待て、リー! 虫の数が多すぎる! いくらお前でも――」

 

「それがどうした? 今大事なのはできるかできないかじゃねえ、()()()()()()()()だ」

 

 そう言って、リーはフワンの言葉を一蹴した。

 

「どのみち、このままじゃ全員奴らに食われて終わりだ。なら、何もしないで喚いてるより、少しでも生き延びる目がある方に賭けるほう建設的だろ? それに――」

 

そこでリーは言葉を切り、肩越しに乗組員たちを振り返った。

 

「――俺達の任務はゴキブリの駆除だろうが。人型だろうと人食いだろうと、やることは変わらねぇ。ゴキブリがいるんならブチ殺すだけだ」

 

 リーの言葉に、全員が息を呑む。その様子にリーは微かに笑みを浮かべると、再び車の後方へと向き直った。

 

「時間は俺が稼いでやる。その間に、何か考えとけ」

 

 そう言うとリーは、ベンゾキノンを黒虫たちに向けて続けざまに撃ちこんだ。テラフォーマー程頑丈ではないのか、はたまた熱耐性に乏しいのか、高圧ガスが打ち込まれるたびに黒虫たち体は壊れ、残骸が空に舞う。

 

「……リーのいう通りだ。今、俺達でやれることを考えよう」

 

 ティンが呟くと、全員が頷いた。既に全員が落ち着きを取り戻し、取り乱している者はいない。

 

「とはいえ、どうやって倒す? ただでさえ小さいうえに、あの数だぞ。普通の方法じゃ無理だ」

 

 乗組員たちにとっての最大の問題点は、黒虫たちがあまりにも小さく、そしてあまりにも多いことだ。ある程度の大きさがあればいくらでも戦いようはあるのだが、精々数cmの虫たちの大群は攻めるに難く、守るに難い。一匹一匹を相手取るのは、土台無理な話である。

 

 となれば、まとめて倒すしか道はないのだが――。

 

「……駄目だ。リーのガスは効いてるが、敵が多すぎて処理が追いついてない」

 

 バグズ2号の乗組員たちの中で最も広い範囲を攻撃することができるリーですら、黒虫が車に追いつくのを妨害するので手一杯。自分たちが手術の力を使ったところで、焼け石に水となるかさえも怪しいところだ。

 

「これが地球だったら、スプレーでも罠でも、やりようはいくらでもあるってのに……」

 

 自らの生死を懸けてまで受けた対ゴキブリ用の手術が、イレギュラーであるテラフォーマーに有効で、元来のゴキブリに近い黒虫には効果が薄いなど皮肉にも程がある。言っても仕方ないこととは知りつつも、奈々緒はそんな愚痴をこぼさずにはいられなかった。

 

 だが、彼女のそんな何気ない発言は、奇しくもこの危機的状況を脱するための切片となる。

 

「「それだ!」」

 

 ジャイナとイヴのそんな声が聞こえたのは、ほとんど同時だった。

 

 突然の大声に驚いた乗組員たちが目を向ければ、そこでは声を上げた本人たちが「閃いた」と言わんばかりの表情を浮かべていた。

 

「何か思いついたのか、2人とも!?」

 

 小吉が詰め寄るように聞くと、ジャイナが頷いた。

 

「ひょっとしたらだけど……『マーズレッド』、効くんじゃないかな」

 

 ジャイナの言葉に、荷台の上にいた全員が「あっ!」と声を上げた。

 

 

 

 

 大容量ゴキブリ駆除剤『マーズレッドPRO』。

 それはバグズ2号に積み込まれた備品であり、”本来の”バグズ計画において使われる予定だった薬品だ。

 

 テラフォーミング計画のためによりしぶとく、より強く品種改良されたゴキブリを駆除するためにU-NASAが大手の製薬メーカーに特注で作らせたそれは、おそらく現存する殺虫剤の中では最強の毒性を持つであろう一品だ。

 

 残念ながら予想以上に人間へと近づいていたテラフォーマー達には効果がないことが昨日の調査で分かり、あえなく備品庫へとしまわれてしまったそれだが――。

 

「テラフォーマーには効かなくても、()()()()()()()()()あの虫には、効くかもしれない」

 

 イヴがジャイナの言葉に補足するように付け加えた。

 

「そうか、その手があったか!」

 

「成程、試す価値はありそうだな……」

 

 乗組員たちからも、口々に賛同の声が上がった。どのみち、それ以外の妙案も思いつかない。ならば一か八かでも賭けてみる他ないだろう。

 

 そう決まってからの、彼らの行動は早かった。

 

「よし! それなら俺が、一足先に2号まで戻って準備してくる! ジョーン、悪いが手伝ってくれ!」

 

 立ち上がってそう言ったトシオにジョーンが頷く。彼を脇に抱きかかえると、トシオは背中から生えた翅を動かしながら、彼らに振り向いて言った。

 

「少しだけ持ち堪えてくれ! すぐに最大範囲でマーズレッドを散布する!」

 

 そう言い残すと、彼はギュンという風切り音を立てて、荷台から目にもとまらぬ速さで飛び立った。

 

「……あとの問題は、マーズレッドの散布までどうやって時間を稼ぐかだな」

 

 ティンが努めて冷静に言いながら、後方でガスを撃ち続けているリーへと目を向けた。一見して先ほどと何ら変わりないように見えるが、その額には大量の汗が浮かんでいる。

 

 ベンゾキノンの材料となる過酸化水素とハイドロキノンは、リーが自らの血液を消費することで作り出すものだ。先程までの戦闘に加えて、ここにきてのガスの連射。疲弊しないわけがない。

 今の彼を襲っているのは、強い灼熱感と軽度の脱水症状。肉体の限界は近かった。

 

「リー、大丈夫か!?」

 

「……どうにかな」

 

 小吉の声に、リーは疲労の滲む声でそう返した。普段なら憎まれ口が飛んでくる所だが、そんな余裕すらも今の彼にはないらしい。逆にリーだからこそ、返事を返すだけの余裕があった、ともいえるが。

 

「それよりもお前ら、戦闘態勢に移っとけ。あと数発で、俺もガスが切れる」

 

 リーの口から告げられた言葉に、乗組員たちに戦慄が走った。

 

 ――ミイデラゴミムシのベンゾキノンの最大連射回数は、ある研究によれば29回であると言われている。

 

火炎放射にも匹敵する高熱ガス29発分と考えれば凄まじいが、裏を返せば29発分のガスを撃ち尽くした場合、リーが次に特性を使えるのはある程度のインターバルを挟む必要があるということでもある。

 

 

 これが通常の戦闘ならば、数秒のインターバルなどどうということはない。だが、今の彼らにとっては数秒の隙すらも致命的。

 

 一手間違ったその先に待ち受けているのは、死だ。

 

「……トシオとジョーンがマーズレッドの散布を始めるまでの時間は、ざっと2分といったところか」

 

 黙り込んでしまった一同の中で、ティンが口を開いた。

 

トシオの速度なら、ここからバグズ2号までは1分程で移動できるだろう。そこから更に装置を準備し、マーズレッドの散布を行うまでに1分。何の妨害もなければ、2分後に散布自体は完了するだろうというのが、彼の見立てだった。

 

「……それまで、リーのガスがもてばいいんだが」

 

祈るような彼の呟きはしかし、その1分後に悪い意味で裏切られることとなる。

 

 

「チッ、ガス欠だ」

 

 ――ついに、リーのベンゾキノンが切れたのだ。

 

「……!」

 

 リーの言葉に、全員が凍り付いた。

 彼の掌の孔から噴射されるガスは既に小火(ボヤ)の規模にまで弱まり、僅かばかりの煙を吐き出す程度になっている。それは即ち、黒虫に対する防波堤がなくなったことを意味する。

 

「どうする!? このままじゃ追いつかれるぞ!」

 

 フワンが悲鳴を上げた。車の後方からは、邪魔な攻撃が止んだことで勢いづいた黒虫の大群が羽音と共に追い上げてきている。追いつかれるのは時間の問題だった。

 

「おい、あれを見ろ!」

 

 その時、車の運転をしていたルドンが前方を指さして叫んだ。荷台の乗組員たちがそちらに目を向けると、緑の平原の向こう側から、白い煙のようなモノが漂ってきているのが見えた。

 

「マーズレッド! トシオとジョーンがやったのね!」

 

 マリアが歓声を上げる。リーのガス切れという絶望的な状況下の中、それはまさしく希望の光だった。

 

「テジャス! ガスはあとどれくらいで溜まりきる!?」

 

「40秒です、副艦長!」

 

 助手席からミンミンが訊くと、テジャスがそう答えた。

 

 

 

 ――40秒。

 

 

 

 それが、彼ら全員の生死を分かつライン。実際の時間にすれば極々僅かな時間だが、今の彼らにとってはたったの40秒が、果てしなく永く感じられた。

 

「何が何でも、奴らを止めるぞ!」

 

 小吉が己を振るい立たせるようにそう言うと、足元に転がっていた防犯用の銃を拾い上げ、荷台から身を乗り出して構えるとその引き金を引いた。

 

銃火器の扱いは素人だったが、空中が黒くなるほどの数の群れが標的ならば、狙いも何もあったものではない。小吉が適当に放った弾丸達はいずれかの個体には命中し、僅かばかり黒虫たちの速度を緩めた。

 

 

 

 ――あと、29秒。

 

 

 

 バラバラと騒々しい音と共に弾をばらまいていた銃が、突如沈黙した。小吉が引き金を引き直すも、聞こえるのはカチッ、カチッという音ばかり。

 

「クソッ、弾切れだ!」

 

 小吉は、無用の長物と化した銃身を、苛立たし気に床に投げ捨てた。他に、遠距離攻撃が可能な武器は残されていない。ここに至って彼らは、遠距離から虫たちに対処するための手段の一切を失った。

 

 

 

 ――あと、21秒。

 

 

 

 その場凌ぎの弾幕も途絶えいよいよ無防備になった車に、黒虫の大群の先頭が迫る。それを見守ることしかできない乗組員たちの間をかき分けるようにして、荷台の最後尾の小吉の下へと駆けだした者がいた。

 

「アキ!?」

 

 目を見開いた小吉を無視し、奈々緒が雄叫びを上げた。

 

「来るんじゃ、ないっての!」

 

 そんな声と共に、黒虫たちに向けて何かが投げられる。

 

 ――それは、網だった。

 

 クモイトカイコガの糸を材料に編み上げられた、即席の対虫投網。急な障害物に対処すること叶わず、車に追いつきそうになっていた黒虫がそれに巻き込まれた。目が細かい網に捕らわれた黒虫たちは、逃れようと必死でもがきながらも、抵抗むなしく地面へと落ちた。

 

 

 

 ――あと、18秒。

 

 

 

「どんなもんよ!」

 

 半分やけくそ気味に奈々緒が叫ぶ。男らしすぎるその姿に、小吉が思わず引きつった笑みを浮かべた。

 

「さ、さすがね、アキちゃん」

 

「当たり前だ!」

 

 フフン、と得意げに鼻を鳴らす奈々緒の横で、ティンが警告の声を発した。

 

「次が来るぞ! 秋田さん、下がって!」

 

 

 

 ――あと、10秒。

 

 

 

 ティンの言葉通り、車に黒虫たちの第二陣が迫る。さすがに二個目は用意していなかったようで、奈々緒はティンの言う通り素直に後方へと下がった。

 

「シュッ!」

 

 そんな掛け声と共に、ティンはついに荷台に到達した黒い霧に向かって鋭い蹴りを放つ。ビシュッ、という何かが潰れるような音が鳴ると同時に黒い霧が二つに割れ、白い肉片が飛び散った。

 

 だが、所詮それは焼け石に水。到底全ての黒虫を殺しきるには至らなかった。

 

 ――あと、7秒。

 

(くそっ! 万策尽きたか!?)

 

 ティンは胸中でそんな言葉を漏らした。彼らに打てる手は、もう残されていない。いよいよもって、状況は詰みであった。

 

 彼の蹴りを逃れた黒虫が、耳障りな羽音と共に乗組員たち目掛けて飛び込んできた。

 

(せめて、7秒だけいい! 何か、何か方法を――)

 

 ティンが思索を巡らせた、その時だった。

 

 突如として、周囲に青臭さを濃縮したような悪臭が立ち込めたのは。

 

 

 

 ――例え相手がどんな生物であっても、感覚を持っている限り必ず通じる防衛手段が存在する。

 

 それは『臭い』。

 数多くの生物に対して普遍的に通用するこれを武器とする生物は、数えていけばきりがないほどに存在する。

 

 イヴのベースとなっているカメムシ類の生物も、そんな臭いを武器とする生物の一種。彼らは外敵に襲われるなどして身の危険を感じると、腹部の臭腺からカメムシ酸と呼ばれる独自の物質を放出し、敵と周囲の仲間に警告のシグナルを送るのである。

 

 しばしば『コリアンダーや青りんごを数倍にしたような青臭さ』と表現されるカメムシ酸だがその臭気は凄まじく、種によってはその悪臭によって一つの部屋が使えない程にひどい状態になった事例さえあるという。

 

 

 

――あと、5秒。

 

 

 

「どうだ……ッ!」

 

 絞り出すようにそう言ったイヴの両腕からは、気化させたカメムシ酸が放出されていた。それらが発する臭気を黒虫たちの鋭敏な触角は確かに捉え、嗅ぎ慣れないその臭いに警戒して一瞬だけその動きを止めた。

 

 それは、本当に一瞬の事。瞬きにも満たない、本当に僅かな時間のこと。だが――彼らにとってはその一瞬さえあれば十分だった。

 

 

 

 ――あと、0秒。

 

 

 

「充填完了! いつでもいけます!」

 

「よし、発射しろ!」

 

 ミンミンの声で、テジャスは大きく息を吸い込む。それを見た乗組員たちが、慌てて近くにある物に掴まった。

 

 

 その直後。

 

 

 テジャスが噴射したガスを推進力に、乗組員たちを乗せた車は、前方から迫りくる白煙の中へと高速で飛び込んだ。

 

 

 




U-NASA予備ファイル2『人食いゴキブリ(仮称)』 【生物】
《『LOST MISSIONⅡ 悲母への帰還』より》

 バグズ2号の乗組員たちが火星で遭遇した、ゴキブリにそっくりな昆虫。テラフォーマーとはまた違った進化を遂げているらしい。

 対象の肉体を捕食して脳を乗っ取り、その個体に成りすますという生態を持っている。その特性上かなり特殊な擬態能力を持っており、人体を容易く貫く硬さと皮膚に見せかけるだけの柔らかさを自在に再現できる。

 作中でバグズ2号の乗組員たちが遭遇するおよそ数時間前に、別の惑星である船団がこの昆虫に遭遇している。結果、たった1人の少女を除いてその船団は壊滅した。



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第16話 DIRTY GIRL 裏切り

 ――ワシントンD.C.『国連航空宇宙局本部』。

 

 既に多くの職員が帰宅して閑散とした廊下を、クロード・ヴァレンシュタインは足早に歩いていく。季節はまだ春先だというのに、その全身からは嫌な汗が噴き出していた。

 

 ――どういうことだ? 一体、火星で何が起こっている!?

 

 頬を伝う汗を乱暴に白衣の袖で拭いながら、クロードはエレベーターに乗り込んだ。B10Fと書かれたボタンを押すと、エレベーターの扉がガコンという音を立ててゆっくりと閉まった。

 

 

 火星でバグズ2号の乗組員たちを襲った悪夢の数々をクロードが知ったのは、つい数分前のことだった。

 

 本来ならば5分の時間をかけて火星から地球へと送られるはずのその映像は、彼が監修したイヴの特殊な体内カメラを介することで、僅か1分ほどの時差で地球へと届く。 その結果、クロードはほぼリアルタイムで火星の異常事態を目の当たりにすることとなる。

 

 ――力を求め、共食いをするテラフォーマー。

 

 ――彼らを率いる王と思われる個体。

 

 ――テラフォーマーとは別の進化を遂げた、謎のゴキブリ。

 

 

 どれもこれも、クロードの聡明な頭脳で以てしてもまるで理解のできない、滅茶苦茶な進化の結果であった。

 

 

「生物の進化は常に我々の想像を超え、そして常に現在進行形で起こっている」

 

 

 かつてニュートンに言われたそんな言葉が、クロードの脳裏に浮かび上がる。だが、そんなものは何の気休めにもならなかった。

 

 

 ――あれが進化? 違う、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 エレベーターがゆっくりと下降を始めた。その速度にもどかしさを感じながら、クロードは1人思考を巡らせていく。

 

 生物の進化に、社会の発展。分野こそ違えど、これらを促進する要素にはある共通点がある。それは進化や発展が『外界からの刺激』によって引き起こされるということだ。

 生物は己の肉体を時に身を守るために、時に獲物を狩るために、その環境という外界からの刺激に合った形へと適応させていく。

 社会もまた然り。戦争であれ、交易であれ、なんらかの形で外界と関わることで社会は新たな概念を獲得し、発展していく。

 

 つまり逆説的には、外界からの刺激がなければ生物はそもそも進化しないし、社会が発展することもしないとも言える。

 

 

 だが火星のテラフォーマーたちは、この定説を覆してみせた。

 

 

 階級、強兵、嗜好といった普通のゴキブリの社会の中では得られないはずの概念を。

他生物の体内に潜み、擬態し、そして火星では得られないはずの獲物を捕食するためのメカニズムを。

 完全に隔離され、閉鎖されていたはずの環境下で彼らは手に入れたのだ。

 

 

 チン、という音と共にエレベーターが止まり、クロードの目の前の扉が開いた。まだ開き切らない扉の隙間に体を滑り込ませるようにしてエレベーターを降りると、クロードは再び足早に歩みを進めた。

 

 重ねて言うが、これは『異常事態』である。ゴキブリが人型に進化したのは百歩譲ってよしとしよう。だが、火星という閉鎖空間において先にあげたような進化が起こるなど、まず考えられないことだ。なぜなら、火星には適応すべき外敵などおらず、関わり得る外存在もいないのだから。

 それにも関わらず、実際問題としてそれが起きてしまっているということは――

 

「――()()()が、奴らに『外的刺激』を与えたということ」

 

 そう呟いて、クロードは足を止めた。ついに目的の場所へと着いたのだ。彼が懐から取り出した自らのIDカードをスキャンすると、扉は音もなく両側に開いた。

 

 薄暗い部屋の中には案の定、無数のモニターの光に照らされながら椅子に腰掛ける、ニュートンの後ろ姿があった。

 

「ニュートン博士、これはどういうことです!?」

 

クロードの詰問の声が、暗い室内に響き渡った。しかし、ニュートンは何も答えない。

 

「あなたのことだ、既に映像は見たのでしょう? 事前に私が聞かされていた話と、あまりにも食い違いが多すぎませんか!?」

 

 彼に歩み寄りながら、クロードがそう言う。しかし、ニュートンは何も答えない。

 

「どう考えても、今の火星は異常だ! 明らかにあのゴキブリ達には、人為的な手が加わえられている!」

 

 クロードが怒声を張り上げるが、それでもやはりニュートンは何も答えない。ただじっと、モニター画面を見つめている。ニュートンのその反応に、クロードはなおも声を張り上げた。

 

「ニュートン博士、貴方は何を隠している!? それとも、これすらもラハブとやらの仕業だと言い張るおつもりで――」

 

 なおもクロードが言い募ろうとする。だがニュートンの顔を覗き込んだその瞬間に、彼はその口を閉ざした。

 

 

 なぜなら。

 

 

 ニュートンの顔に浮かんでいた表情は――未だかつてクロードが見たこともないような、強い怒りの形相だったから。

 

 

「いや……これはラハブの仕業ではない、ヴァレンシュタイン博士」

 

 ニュートンが静かに首を振った。どうやら、怒りの矛先はクロードではないらしい。怒りを押し殺したような声音で、彼は続ける

 

「――ラハブの神々は、高度な文明社会を持っていた。仮に社会発展が彼らの仕業だとすれば、テラフォーマーの社会はより高度で完成されたものになっているはずだ」

 

 ――そうであったのならば、どれだけよかったことか。

 

 ニュートンがそんな言葉を溢す。

 

 もしもテラフォーマー達が高度な社会を形成していたのなら、今頃彼は一族の悲願達成へと近づいたことに歓喜の色を浮かべていたことだろう。

 

 だが実際に目の当たりにした彼らの社会形態は、お世辞にも高度であるとは言えなかった――いや、そのような迂遠な言葉で言い表すべきではない。今のテラフォーマー達の社会構造は低俗で、野蛮で、そして予想よりも遥かに醜悪だった。

 

 力のために仲間を食らい、その身を別の生命体に貸し出し、原始的な階級の下で形成される社会。

 

 これのどこを以て、完成された高度な社会形態であるなどと言えるだろか。

 

「……不愉快だ」

 

 ニュートンが自らの胸中を正直に呟けば、クロードは驚きに目を見開いた。

 

 日頃どんなに嫌味を言おうが、皮肉を言おうが、全く堪えた様子を見せずにニヤニヤと悪辣な笑みを浮かべているニュートンがそんなことを言ったのは、これが初めてのことだった。

 

「我が一族の悲願達成に水を差し、横槍を入れ、白けさせ、台無しにする。ああ、全く以て不愉快極まる。()()()()()()()()()()()

 

 心底忌々しそうにモニター内の画像を睨みつけ、ニュートンは吐き捨てるようにそう言った。

 

「黒幕気取りの道化師め――!」

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 ルドンがブレーキを踏んだことで、大地を駆ける六輪車は一気に失速した。無茶な停止操作に勢いを殺しきれず、タイヤが地面と擦れて悲鳴を上げる。車体は進行方向に対してその体を180度回転させると、やっとその動きを止めた。

 

「全員無事か――ケホッ!」

 

 乗組員たちの安否を確認しようとしてミンミンが咳き込み、慌てて自らの口と鼻を服の袖で覆った。

 

 彼らの周囲に漂うマーズレッドはゴキブリ駆除剤とはいうものの、実際のところは強力な殺虫剤。人よりも昆虫に近い彼らは、殺虫剤の影響を普通の人間に比べて受けやすいのだ。

 

 他の面々もミンミンを真似て口と鼻をふさぐと、すぐさま自分たちが来た方向へと向き直り、薬を構えた。もしもマーズレッドが効かなかった場合、いつ黒虫たち煙の向こうからが表れても不思議ではない。そうなった場合には、自分たちの力で奴らを駆除しなければならないのだ。

 

 乗組員たちは固唾を飲んで、白い煙のその先を睨みつけた。

 

 ――1秒、2秒、3秒。

 

 時間は刻々と過ぎていく。やがて数分の時間が経過して白い煙の晴れ、一同はやっと緊張で強張らせていた体から力を抜いた。

 

 彼らの視線の先にあったのは、地に落ちた黒虫たちによって黒く彩られた火星の地面だった。大部分は既に息絶えたのかピクリともせず、まだ辛うじて生きている黒虫も弱々しく地面を転がり回るばかりだ。

 

「……マーズレッド、効果はあったらしいな」

 

 口元を覆っていた袖から顔を放しつつ、ティンが呟いた。同時に、後方から「おーい」という声が聞こえた。

 

「無事か、お前ら!」

 

 乗組員たちが振り向けば、ジョーンとトシオが慌てたように駆け寄ってくるところであった。余程急いできたのか、散布時の防護マスクをかぶったままの二人に、小吉が手を上げて応える。

 

「ああ、大丈夫だ! それより助かったぜ! あと数秒遅かったら、俺ら全員虫食い状態になってたとこだ」

 

「ちょっ、ゾッとすること言わないでよ」

 

 小吉が笑いながら縁起でもないことを言うと、横から奈々緒が彼をどついた。全員の無事が確認できてほっとしたのか、トシオとジョーンは揃って気の抜けたような声を上げた。

 

「それにしても、イヴにはまた助けられたな」

 

 元気そうな小吉達に安堵の息を吐くイヴの頭に、ミンミンがポンと手を置いた。既に変態が解けたその腕で撫でられ、くすぐったそうにしながらもイヴは否定の声を上げる。

 

「そんなことないよ。あいつらを止めてたのはほとんどリーさんだったし、ボクが止めれたのは本当に一瞬だったし……」

 

「謙遜するな、イヴ」

 

 そんな彼らの横から、ティンが口を挟んだ。

 

「その一瞬があったから、俺たちは今こうして生きているんだ。本当にありがとう、イヴ」

 

「……ど、どういたいしまして」

 

 ティンの言葉に照れくさそうに頬を染めるイヴ。その時、リーがふと何かに気付いたかのようにトシオに向けて口を開いた。

 

「……おい、メガネ。艦長達はどうした?」

 

 彼の言葉に、乗組員たちは我に返って辺りを見渡した。周囲に人影はない。ただ緑の荒原が、太陽の上りつつある地平線の向こうまで広がっているばかりだ。

 

 キョロキョロと頭を動かす乗組員たちに、ジョーンが首を振った。

 

「さっき確認した限り、少なくともこの周囲にはいない。艦長も、一郎も、ウッドも、あれだけいたはずのゴキブリも――何も見当たらなかった」

 

 彼の言葉にイヴが顔から血の気が引いた。彼の脳内で最悪の想像が広がっていく。もしも、もしも仮に一郎の作戦が失敗したのだとしたら、ドナテロは――

 

「落ち着け、イヴ」

 

 肩に置かれた手の感触に、イヴの不吉な思考が霧散する。彼が振り向くと、背後には小吉が立っていた。

 

「まだ艦長達がどうなったのかは分かんないぞ。ひとまず、バグズ2号の中を探してみようぜ」

 

 小吉の声に少しだけ落ち着きを取り戻したイヴは頷くと、クルリと体を後ろへと向けた。そこには、既に数十メートルまでの距離に近づいた、バグズ2号があった。

 

つい数時間前には自分たちが乗っていたはずの艦が、今はぽっかりと口を開けて獲物を待つ、不気味な怪物のように見えた。その威圧感にイヴは思わず飲み込み――そしてふと気が付いた。

 

視界の上隅、空の上で何かが輝いたことに。

 

「……?」

 

 不審に思ったイヴは顔を更に上へと向け、青く澄んだ空を見上げた。

 

 銀色に輝くそれは始め流れ星のようにも見えたが、徐々にそれは大きくなっていく。やがてそれがビー玉程の大きさになった時、常人よりも数倍優れた視力を持つイヴの目が、落下してくる物体の表面に書かれている文字を捉えた。

 

 

 

 

 

――『大鯉魚一三號(グレイトカープ13ごう)

 

 

 

 

 

 

「皆、逃げてッ!」

 

 イヴは自らが認識するその前に、ありったけの声を張り上げていた。

 

 

 落下物の正体は、テラフォーミング計画の進捗状況確認のために火星へと送られ、長らく通信を絶っていた無人惑星探査機の中の一機であった。

 

 惑星探査機がテラフォーマー達の手に落ちたことは既に乗組員たちには分かりきっていたことであった。当然、上空からグレイトカープが落とされたのもテラフォーマーの仕業であろうが、イヴを焦らせた理由はそこではない。イヴが焦ったのは、彼らが惑星探査機を落とした理由に気付いたからであった。

 

 惑星探査機がテラフォーマー達の手に確保されたということは、当然その中身もテラフォーマー達が手にしているということである。では、その中身とは何なのか?

 惑星探査機に備えつけてあるものは主に各種制御装置、土や大気のサンプルを回収するためのキット、そして――()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そこまで考えた時、イヴはテラフォーマー達の狙いに気付いた。即ち――

 

 

 

「――爆撃だ! このままここにいたら、皆吹き飛ばされる!」

 

 

 

 ――この時、イヴの言っていることを瞬時に理解できたのは、極数名だった。

 

 そしてその中で真っ先に動いたのは、ティン。

 

 彼は咄嗟に、足元に埋まっていた人間の頭部大の岩を爪先で掘り起こすと、その強靭な脚力で岩を上空のグレイトカープ目掛けて蹴り上げた。

 

 蹴り上げられた岩は勢い衰えることなく上空へと突き進むと、果たして落下しつつあるグレイトカープを正確に打ち据えた。直後、腹の底に響くような音と閃光が、乗組員たちを襲う。

 

「ッッ、おお――!?」

 

 多くの乗組員たちは訳も分からずに耳をふさぎ、真っ白に塗りつぶされた空から目を背けた。

 

 

――仮に惑星探査機の燃料が爆発したのなら、周囲数百メートルは火の海と化す。

 

 それが、ティンの脳裏に直感的に浮かんだ推測だった。

 

 今から逃亡を開始したところで、そんな規模の爆発から逃れる術などあるはずもない。加えて、バグズ2号を失えば自分たちが火星を脱出する手段はいよいよなくなる。ならば、惑星探査機が空にあるうちに処理しなければ、自分たちに未来はない。

 

 先ほどの行動は、そんな考えの末に起こしたものであった。

 

 賭けの要素こそ大きかったものの、結果としてその行動はまさしく現状においての最善手であり、彼は見事乗組員とバグズ2号を同時に守ることに成功した。紛れもない英断であったと言うほかないだろう。

 

 

 

 

 

 ――英断ではあったが、しかし。

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「う、おッ!?」

 

 横から押し寄せた熱気に、小吉は両脇にいたイヴと奈々緒を抱き寄せ、咄嗟に後方へと飛び退いた。それに気が付いたミンミンが振り向いたその瞬間。

 一瞬前まで小吉達がいた場所を紅蓮の炎が舐めるようにして駆け抜け、驚愕の表情を浮かべたミンミンの姿は炎のベールの向こう側へと消えた。

 

「なんッ――!?」

 

 驚く小吉をよそに炎は熱気を撒き散らしながらなおも地面を這いまわり、瞬く間にバグズ2号と乗組員たちを包囲した。

 

「お、落ちてきた破片から燃え移ったのか!?」

 

「けど、炎が大きすぎる! 苔がこんなに燃えるなんて……!」

 

 小吉と奈々緒が揺らめく炎の壁にそう漏らすと、その向こう側から声が聞こえた。

 

「お前ら、大丈夫か!?」

 

 ミンミンの声だ。小吉が無事を知らせるために炎の向こうへと声を張り上げる。

 

「こっちは無事です! それよりもそっちは!?」

 

 一瞬の間をおいて帰ってきた「怪我人はいない!」というその返事に、小吉と奈々緒がほっと胸を撫で下ろす。しかしそれもつかの間、小吉は自分たちを取り囲む炎に再び顔をしかめた。

 

「マズいな、副艦長達と分断されちまった。ツイてねぇ、まさか爆発の余波でこんな――」

 

「やられた」

 

 小吉の言葉を遮るように、イヴが言った。小吉が目を向ければ、イヴは地面にかがみこんで、手に取った何かを見つめていた。

 

「どうした、イヴ?」

 

 こちら側――小吉、奈々緒以外に唯一視認できる場所にいるティンが尋ねると、イヴが勢いよく顔を上げた。その顔には熱気のせいなのか、あるいは焦燥のせいなのか、尋常ではない量の汗が浮かんでいた。

 

「あいつらの作戦、二段構えだったんだ……!」

 

「何っ!?」

 

 驚く小吉の顔前に、イヴは手にした何かを突き出した。それは、火星の地面に生えている苔だった。炎に照らされて朱色に染まっているものの、特に異変はないように見えた。

 

 ――だが。

 

「ぐっ!?」

 

 

 イヴに苔を突き付けられたその瞬間、()()()()()()()()()彼は思わずうめき声を上げると距離をとった。同時に、イヴの言わんとすることを理解した。

 

「この臭い……まさか、ガソリンか!?」

 

 小吉の顔に驚愕の色が浮かぶ。

 

「あいつら、爆撃が防がれたときの保険に、こんなもんを撒いてやがったのか!」

 

 もしも爆発でそのまま吹き飛べばそれでよし。仮に何らかの方法で防がれたとしても、分断した上で炎の檻に閉じ込め、じわじわとなぶり殺しにすればいい。

 

「そんな、じゃあこれって……」

 

「ああ」

 

 奈々緒が言わんとしたことを察し、ティンの頬に冷汗が伝った。

 

「――俺達は奴らに、まんまと嵌められたらしい」

 

 

 

 ティンが言った次の瞬間、小吉達の周囲の地面を突き破って、一斉に何かが地表へと顔を出した。

 

 

 

「じょうじ」

 

 

 

 現れたのはテラフォーマーだった。まるで春になると庭先に生えるツクシのように、その上半身を地面から突き出している。ボコッ、ボコッという音を立てながら、黒いツクシの数はどんどん増していく。

 

「ひッ――!」

 

 奈々緒の目の前の地面が爆ぜ、にょっきりとテラフォーマーが顔を出した。突発的なそれに体が対応しきれず、奈々緒が短く悲鳴を上げた。

 

「アキッ!」

 

 テラフォーマーが右腕を振り上げる。咄嗟に小吉は彼女を庇うように前に出ると、その胴体に毒針を叩きこんだ。テラフォーマーはギィと鳴くとそのまま前のめりに倒れ込み、一度だけ体を大きく痙攣させて、それきり動かなくなった。

 

「ミンミンさん、罠だ! ボクたち、あいつらの作戦に引っかけられた!」

 

 再び変態し、警杖を構えたイヴが叫ぶ。

 

「副艦長、今すぐ合流を! 全員でバグズ2号の中へ!」

 

 黒いツクシたちに向けて蹴りを放ちながら、間髪入れずにティンが言葉を続ける。すると一拍おいて、炎の向こう側からミンミンの返答が返ってきた。

 

「――残念だが、それは無理そうだ」

 

 その返答に、思わず小吉達が耳を疑う。その目の前で一瞬だけ炎の壁が揺らぎ、向こう側にいるミンミンたちの様子が目に映った。

 

 立ち尽くす乗組員たち。

彼らを庇うように背後に回した、ミンミンとリーの後ろ姿。

そして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ッ!」

 

 ティンが目を見開いたと同時に、炎が燃え上がり、紅蓮のベールの向こうへと彼らの姿は隠されてしまった。

 

「お前達は艦内へ行って、艦長達を探してこい! その間、私たちでこいつらは食い止めておく!」

 

 ミンミンの凛とした声が、彼らの耳に届いた。

 

「で、でも――」

 

 イヴが食い下がろうとするも、リーの声がそれを遮った。

 

「どのみち、これ以外に方法もねーだろうが。第一、お前に心配されるほど俺達ゃ弱くないぜ? いいからさっさと行ってこい」

 

「そうだそうだ、さっさと行ってこいお前ら!」

 

「私達のことは気にしないで、行って!」

 

 次々と聞こえたその言葉に、ぐっとイヴが歯を食いしばった。胸の奥が躊躇いと逡巡にざわめき、それが束の間の沈黙を生み出す。

 

「……イヴ」

 

 促すようにティンが呼びかける。

 事態は動き続けている。いつまでも、何もしないでいるわけにはいかない。イヴは大きく息を吸うと、口を開いた。

 

「ありがとう、皆!」

 

 そう言って、イヴは後ろ髪を引かれる思いでバグズ2号の方へと向き直った。

 

「ティンさん、小吉さん! 露払いをお願い!」

 

 イヴの声に「任せろ!」という2人の返事が重なった。ティンと小吉は押し寄せるテラフォーマーを任せ、イヴは奈々緒を守りながら一気にバグズ2号の入り口まで走り抜けた。やがて2人の退避の完了を確認すると、小吉とティンも隙を見てバグズ2号へと駆け込み、その扉を閉ざした。

 

「……行ったか」

 

 ミンミンそう言うと、目の前の力士型に向かって両腕の大鎌を構えた。その背後で変態したトシオとルドンが力士型に向かって構えるが、リーがそれを手で制する。

 

「やめとけ、こいつはお前らじゃ無理だ。それよりも、周りの雑魚共を潰して他の奴らを守れ。こいつらの相手をしてる間、こっちは手が離せねぇからな。任せたぞ」

 

 リーの言葉に一瞬だけ躊躇うような素振りを見せたものの、2人はすぐに頷き、通常型のテラフォーマーとの交戦を開始した。

 

「では、私たちは奴らの相手か」

 

「フン……副艦長よぉ、一応聞いとくぜ。足止めなんてケチ臭ぇこと言わずに、殺しちまってもいいんだよな?」

 

「ああ、構わん」

 

 ミンミンが大鎌に変化した両腕を構え、リーがナイフを引き抜く。それを見たテラフォーマーも腰を落とし、迎撃の姿勢をとった。

 

 ミンミンは静かに、しかし明確な戦意と殺意を込めて言った。

 

「――いくぞ、リー。奴らを狩る」

 

「了解」

 

 直後2人は大地を蹴ると弾かれたように飛び出し、力士型のテラフォーマーへと躍りかかった。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 艦内に入ったイヴたち4人は、管制室を目指してひたすらに廊下を走る。彼らの足音以外に物音は全くなく、艦内は不気味なほどに静まり返っていた。

 

 ――また、テラフォーマーの死体だ。

 

 足を動かしながら、イヴがチラリと目を廊下の隅に向ければ、何体目かのテラフォーマーの死体が目に入った。

 

 すれ違いざまに見た限り、その個体にも外傷らしい外傷は見られない。それが指し示しているのは、今までの個体はいずれもドナテロや一郎によって倒されたわけではないということ。だが、外傷をあまり残さないウッドの能力では、テラフォーマーを操ることはできても殺すことはできないはずだ。

 加えて、艦内には何かが焼けたような焦げ臭さが充満していた。そこから推測できる最も妥当なテラフォーマー達の死因は――

 

「火災による酸欠、か」

 

「やっぱり、一郎さんの作戦自体は成功してたんだ」

 

 ティンの呟きにイヴが頷く。同時に、疑問を抱かずにはいられなかった。作戦が成功しているのに、なぜドナテロ達の姿が見えないのか。先程まで息をひそめていた不吉な予感が、イヴの中で再び鎌首をもたげ始めたその時、奈々緒が声を張り上げた。

 

「見えたよ、管制室!」

 

 イヴが顔を上げると、廊下の突き当りには管制室の扉が見えた。付近には、数体のテラフォーマーの死体が転がっていた。

 

 先頭を走っていた小吉はそう言ってスピードを上げ、扉の前まで一気に駆け寄った。彼は手でイヴと奈々緒に止まるように合図すると、慎重に壁のタッチパネルを操作し、扉を開錠した。

 

 緊迫した空気の中でどこか場違いな軽い電子音が鳴り、扉が両側に開いた。中からテラフォーマーが飛び出してきてもすぐに応戦できるよう、小吉とティンが神経を研ぎ澄ました。

 

 数秒後、扉が完全に開き切る。何かが襲ってくる気配はない。小吉とティンは顔を見合わせると、慎重に中へと足を踏み入れた。

 

 管制室の中は惨状であった。ここまでの道中など比にならない程の焦げ臭さと、死体の数々。廊下のものと同様、酸欠で死んだと思われる個体の死骸もあったが、胴体が引き裂かれているものや頭部が砕かれているものなど、損壊しているものも多い。ここで激戦があったことは、疑いようがなかった。

 

 そこまで確認した時、小吉は床に倒れ伏す一郎の体を発見した。

 

「一郎ッ!」

 

 小吉は声を上げると、警戒も忘れて思わず一郎に駆け寄った。他の3人もすぐに後ろから続く。

 

「おい、一郎! しっかりしろ!」

 

 小吉が大声で名前を呼ぶが、一郎は微動だにしない。急いでティンが一郎の手首を握って脈を取るも……やがて、何も言わずに首を横に振った。その様子に、奈々緒が顔を歪める。

 

 ――せっかく、ここまで一人も欠けずに来たのに。

 

 そんな思いが小吉達の中に湧き上がる。

 

「クソッ!」

 

 小吉が床を力任せに殴りつける。静まり返った管制室内に、鋼鉄がひしゃげる音がどこか虚しく響き渡った。

 

「うそだ……」

 

 呆然の表情を浮かべたイヴの口から零れたのは、そんな言葉だった。まるで靄がかかってしまったかのように、思考が上手くまとまらなかった。

 

絡まり、ほつれる無数の思考の糸の中に、イヴはふと自分の家族のことを話してくれた一郎の顔を見つけた。いつもしかめ面の彼が兄弟のことを話している時ばかりは表情を和らげていたことを、今更のようにイヴは思い出す。

 

 

 一郎があの優し気な顔を自分に見せてくれることは、もう二度とない。

 

 

 数秒の時間をかけてやっとその事実を認識した時、イヴの脚から力が抜けた。カクン、と筋肉の支えを失ったイヴの膝が床に落ちる。

 

「そんな……」

 

 痺れた脳が正常に回り始めるにつれ、イヴの中で虚しさと悲しさが入り混じった、どろりとした感情が膨れ上がった。

 

 だがそれが最高潮達する寸前、膝をついたイヴの視界の隅にあるものが映りこんだ。同時にイヴの中に湧き上がる黒い感情は、一気に別の何かで塗りつぶされる。頭に一気に血が上り、心臓がやけにうるさく胸を叩くのを、イヴはどこか他人事のように感じながら、その方向へと顔を向けた。

 

 

 

 

 

 イヴの青い瞳に飛び込んできたのは、無数のテラフォーマーの死体に紛れるようにして地面に横たわるドナテロの姿だった。

 

 

 

 

 

「ッ!」

 

 考える前に、イヴの体は動いていた。跳ねるように立ち上がると、床を蹴ってドナテロの下へと駆け寄り、その傍らに膝を折る。彼の名を呼びながらの体を揺するも、反応はない。

 押し寄せた黒い不安にイヴは我を失いかけるも、突然彼はハッとしたような表情を浮かべた。

 

「っ、そうだ! 脈拍!」

 

 イヴは閃きのままに素早くドナテロの太い腕を持ち上げると、手首に指を押し当てた。目を瞑り、指先の神経に意識を集中すると、微かにではあるがトク、トクと心臓の鼓動が感じられた。

 

 即ち――ドナテロはまだ、息がある。

 

 それを知った時のイヴの安堵は、一体どれほどのものであったのだろうか。イヴは大きく息を吐くと、張りつめていた糸がフツリと切れたかのように一気に脱力した。

 

「よ、よかった……」

 

 胸の奥から湧き上がる数多の感情の波に、イヴの瞳から涙の粒が零れた。

 

悲しみはあった。苦しみもあった。悔しさも、虚しさもあった。

 

 だがそれでも、一郎のみならずドナテロさえも失うという最悪の事態を避けられたことに、心の底から安堵した。確かに命の鼓動を感じられるドナテロの腕を、イヴは慈しむように、強く握りしめる。

 

 

 

 

 緊迫したティンの声が響いたのは、その時だった。

 

 

 

「イヴッ! 後ろだ!」

 

 彼の声に反応し、イヴは素早く背後へと振り返った。

 

 

 

 

 先程まで転がっていたはずのテラフォーマーの死体の顔が、イヴの目の前にあった。

 

 

 

 

「なっ――」

 

 驚く間もなく、テラフォーマーはイヴの首筋に何かを突き立てた。鋭い痛みが電気のように走った。刺されたそれが注射器の針だとイヴが理解したのと、その先端から液状の物体がイヴの体内へと流し込まれたのはほぼ同時であった。

 

「うぐっ!?」

 

 ビクンッ、とイヴの体が痙攣し、大きく背後に仰け反った。その直後からイヴの体はまるで何かに悶えるかのように、小刻みに震え始めた。

 

「っ、テメェ!」

 

 小吉が怒声を上げると、毒針のついた腕を振り上げ、テラフォーマーに殴りかかろうとする。それを見たテラフォーマーは焦る様子もなく、小吉に向かって何かを投げつけた。

 

 反射的に投げつけられたそれを小吉が殴りつければ、彼の針はその物体を容易く貫いた。途端に内部に詰まっていた透明な液体が周りにまき散らされた。

 

「なっ、水かこれ!?」

 

 テラフォーマーが投げつけたのは、飲料用としてバグズ2号内に設置されているただの水だった。これといって毒物が溶かしこんであるわけでも、何か特別な効用があるわけでもない、ただただ純粋な飲料水。何のひねりもなく投げつけたところで、精々数秒の足止めにしかならないものだ。

 

 だがテラフォーマーはその数秒の合間に、目的を達成していた。

 

「そんな!」

 

 奈々緒の悲痛な声が、管制室内に響く。彼女の視線の先では、まるで幽鬼が如き虚ろな様子で、イヴがテラフォーマーの隣に立っていた。その目は焦点が合っておらず、口の端からは涎を一筋垂らしている。どう見ても、正常な状態ではない。そんなイヴの様子を見たテラフォーマーは鷹揚に頷くと口を開いた。

 

 

 

 

 

「いやー、意外とやってみれば何とかなるもんだ」

 

 

 

 

 

 ――と。

 

 そのテラフォーマーは、()()()()()()()()()()

 

 

 

「正直、イヴ君が1人で近づいてきてくれるかどうかは賭けだったんだけど……イヴ君がおバカで助かったわ~」

 

「ッ!」

 

 見た目からは考えられないような軽い口調で饒舌に語るテラフォーマー。その声質、そのしゃべり方に3人は聞き覚えがあった。

 

「お前まさか……()()()()?」

 

 ティンが焦りと驚きを隠しきれない様子でそう尋ねると、「およ?」と、テラフォーマーの顔がクルリと三人に向けられた。それからぐにゃり、とその顔がいびつに歪む。

 

「……何だ、思ったより早く気付いたじゃん」

 

 茶化すような調子でそう言いながら、テラフォーマーは自らの顔面を右手で掴むと、それを力任せに引き剥いだ。まるで仮面のように剥されたテラフォーマーの顔の下から表れたのは、褐色肌の女性の顔。

 

 ドナテロや一郎と共にバグズ2号に残ったはずの、ヴィクトリア・ウッドの顔であった。

 

「ハロー、ハロー、さっきぶりだね皆の衆。元気にしてた?」

 

 ウッドは無邪気な笑顔を浮かべ、小吉達に手を振って見せた。彼女の屈託のない笑顔は、航海中にはムードメイカーとして機能していたものだったが、この状況下において場違いに陽気なその様子は、不気味以外の何者でもなかった。

 

「ウッド、あんた……」

 

「んー、どしたん? ってか、これ脱ぎにくいのなー。うわ、体液でベタベタだし」

 

 青ざめる奈々緒の前で、ウッドは自らが『着込んでいた』テラフォーマーの体をおぞましい音と共に脱ぎ捨てる。その様はまるで、蛹から羽化したばかりの成虫のよう。彼女の体にまとわりついたテラフォーマーの体液はぬらぬらとした光を照り返し、どこか艶めかしくも神秘的な様相を呈していた。

 

「ウッド! お前、自分が何したのか分かってんのか!?」

 

 業を煮やした小吉が叫ぶと、ウッドは「何言ってんの?」と言わんばかりに首を傾げた。

 

「一々言われなくたって、自分のやったことくらい理解してるさ。もう子供じゃないんだから」

 

「だったら、何でイヴにそんなことをした!? 一体、何が目的だ!」

 

 飄々とした様子の彼女に小吉が怒鳴る。するとウッドは考え込むように顎に手を当てた。

 

「目的、目的か……そうだな、あたしも回りくどいのはあんまり好きじゃないし、ここは1つ単刀直入に言ってみようか」

 

 ウッドはそう言うと人差し指をビッと立て、それを小吉へと向けた。

 

「小町小吉、及び他二名。速やかにあたしにバグズ2号を引き渡して、下船しなさい。命令に従わなかった場合、あたしの毒でお人形さん状態のイヴ君をけしかけちゃうぞ☆」

 

 ニィと口端を吊り上げたウッドのその笑顔は底抜けに明るく、それゆえにどこまでも残虐であった。

 

 

 

 

 

 

ヴィクトリア・ウッド

 

 

 

国籍:南アフリカ共和国

 

 

 

19歳 ♀

 

 

 

159cm 45kg

 

 

 

バグズ手術ベース   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     ――――――――――――エメラルドゴキブリバチ――――――――――――

 

 

 

 

 

 悪魔繰る輝翠の妖姫(エメラルドゴキブリバチ)支配(ウィンク)

 

 

 

 

 

 




【オマケ】

ウッド「とりあえず、操ったイヴ君にはメンバーの中で誰が一番好きか聞いてみようか」ドキドキ

小吉「くっ、なんて卑劣な!」ドキドキ

奈々緒「この卑怯者……!」ドキドキ

ドナテロ「」ドキドキ

一郎「」ドキドキ

ティン「……いや、最後2人は待とうか」



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第17話 MARIONETTE 意志なき意志

 ――その少女は今から19年前、南アフリカのある農村に生を受けた。

 

 そこはひどく貧しい村であった。

 土地は痩せており、農村であるにも関わらず満足に作物が収穫できない。加えて内戦の影響で村民たちの暮らしは貧しく、日々を生きるために犯罪行為に手を染めるなど日常茶飯事。とどめに衛生状態も最悪の一言に尽き、子供はおろか大人であっても5人に1人が感染症で命を落とす有様。少女の父親も、当時の先進国であれば治せたはずの感染症『ストーン熱』に罹り、この世を去った。

 

 13歳にして親を亡くした少女であったが、それもそこではさして珍しいことでもない。その国では毎日、数え消えれない程の人間が病気や、飢えや、紛争で死んでいるのだ。親を亡くした孤児など、掃いて捨てるほどにいる。少女は父の死を悲しむ前に、明日を生きながらえるための手段を考えなくてはならなかった。

 

 古い慣習によって施された女性器切除手術(FGM)のせいで売春すらできなかった少女は、何人かの親戚の間を転々とした後、死体を盗むことでその生計を立て始めた。

 ゴミを漁り、泥水をすすり、死体から剥いだ物品や、あるいは死体そのものを売り、戦火に怯えながらその日の飢えを凌ぐ。そんな生活を送りながら、少女はいつも考えていた。

 

 ――なぜ、自分がこんな惨めな思いをしなければならないのか? 

 

 日本やアメリカなどの先進国では、自分と同じくらいの年齢の少女は皆学校へ行き、友人と遊び、綺麗な服に身を包んで、毎日を笑って過ごしているではないか。

 なぜ、自分にはそれが許されない? なぜ、何もしていないのに全てを奪われる? 金がないということは、そんな当たり前の幸せを掴むことすら許されないということなのか?

 

 少女は自らの境遇を嘆き、恵まれた者たちを呪い、そして心の底から渇望した。

 

 全てを支配する力、力ある者が自らにしたように、文字通り『全て』を奪い取るための力を。

 

 あらゆる人間を等しく跪かせ、侍らせ、傅かせるだけの、強大にして無慈悲な力を。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「ふざけんな! 誰がお前の言うことなんて聞くか!」

 

『今すぐにこの船を降りろ』。

 

 ウッドが言い放ったその言葉に、小吉が声を荒げた。奈々緒やティンも言葉にはしなかったものの、その顔には強い反抗の意志が浮かんでいた。

 

 もしも彼女の要求を飲んだ場合にどうなるのかなど、考えるまでもない。おそらくウッドはイヴを連れ、バグズ2号に乗って火星を去るだろう。それは即ち、自分達はこの星から脱出するための術を失い、2億匹ものテラフォーマーが跋扈する惑星に物資もないままに取り残されてしまうということに他ならない。そうなれば、バグズ2号の乗組員たちは確実に死ぬ。

 

 ゆえに、小吉達はこの要求を飲むつもりはなく、また飲むわけにはいかなかった。自分達だけではない、今こうしている間にも、外ではリーやミンミンを始めとした仲間たちが戦っているのだ。自分達がここで要求を飲めば全員が死に、これまでの戦い、これまでの思いがすべて無駄になるのだから。

 だが――。

 

「あ、別に下りなくてもいいよ? そん時はあたしがイヴ君をけしかけて、君たちを殺すだけだしね」

 

 ――要求を飲まなければ、彼らはイヴと戦わなくてはならない。それも、密航者と戦った時とはわけが違う、明らかに正常な状態ではないイヴと、である。

 

「ウッド……あんた、イヴ君に何をしたの?」

 

 小吉とは違ってあからさまに態度に出すようなことはせず、しかし彼と同じだけの怒気を滲ませながら、奈々緒がウッドに問う。そんな奈々緒にウッドは「んー?」という気のない返事をすると、自らの右手を突き付けるように構え、その指の間に挟み込んだ注射器を振って見せた。

 

「さっきイヴ君に打ち込んだのは、これに溜めといた“エメラルドゴキブリバチの毒液”さ。昨日、テラフォーマーの捕獲を一緒にやった奈々緒ちゃんなら知ってるだろ?」

 

 そう言ってウッドが蠱惑的な笑みを浮かべた。そんな彼女の背後に、奈々緒はエメラルド色の小さな蜂の幻影を見たような気がした。

 

 

 

 

 ――エメラルドゴキブリバチの毒液。

 

 それは、ウッドのベースとなったエメラルドゴキブリバチが持つ最強の武器にして、害虫の王(ゴキブリ)をも無条件に従わせる悪魔の妙薬。

 

 エメラルドゴキブリバチの毒針から分泌されるこの物質は、獲物の神経節へと打ち込むことで神経伝達物質の受容体の活動を阻害し、対象から自由意思を奪い去る。

 こうして操られたゴキブリ達は72時間の間、遊泳能力や侵害反射を始めとした生存本能が著しく低下する一方、飛翔や反転と言った運動能力はほとんど損なわれないことが研究によって知られている。

 

 

 もしも仮に、その毒液によって人間が操られてしまったとしたら。

 

 その人間は、女王たるウッドにその全て――思考能力や命すらも差し出す、生ける傀儡と成り果てるだろう。

 

 

 

 

「まぁ要するに、今のイヴ君は人質であると同時に、自分の死も恐れない番犬も兼ねてるってワケ。ペットか家畜みたいに、どんな命令でも従っちゃうのさ――こんな風にね」

 

 ウッドはそこでイヴの方を向くと、まるで犬に命じるかのように「お座り」と言った。するとイヴはその言葉に従うようにゆっくりと膝を折ると、鋼鉄の床の上に正座した。「いい子、いい子~」などと言いながら、ウッドは目からハイライトの消えたイヴの頭をくしゃくしゃと撫でる。

 

「てめぇ……!」

 

 その異常な光景を目の当たりにしながら、小吉は怒りの形相を浮かべることしかできない。

 

 ――今ここで動けば、ウッドは確実にイヴをぶつけてくる。

 

 それを理解していたからこそ、小吉は動くことができなかった。

 

 密航者として戦った時と違い、イヴがどんな人間であるのかを知っている――否、()()()()()()()()()。だからこそ彼らは、操られているとはいえ、今の小吉達がイヴを相手に全力で戦うことはできなかった。なぜなら、大雀蜂(小吉)砂漠飛蝗(ティン)が全力を出せば、脆い亀虫(イヴ)を殺してしまいかねないから。

 

 だが、操られているイヴにとってそんなことは関係がない。彼は一言ウッドに命じられれば、躊躇なく小吉達に襲い掛かるだろう。密航者として戦った時とは違い、彼らを『殺す』ために。

 そんなイヴにとって、小吉達の優しさはただの隙でしかない。そしてそれは、文字通りの小吉達にとっては命取り。テラフォーマーをも殺す雷撃は、いかに小吉やティンであっても耐えられるものではない。故にイヴと戦うのであれば必ず全力で戦わなければならない。

 

 イヴを切り捨てるという選択はできず、しかし仲間を見捨てるという選択もできずに、彼らは立ち尽くす。そんな自分をニタニタとした笑みを浮かべながら見つめるウッドへの怒りで、小吉の硬く握りしめた拳にはなおも力が加わっていった。

 

「――秋田さん」

 

 そんな小吉の背後で、ティンはウッドに見えないよう、隣の奈々緒に何事かを耳打ちした。その内容に奈々緒が小さく頷いたのを確認すると、ティンは小吉の横に並ぶように足を踏み出した。

 

「……ウッド、なぜこんなことをするんだ?」

 

 ――相手のペースに飲まれるな。

 

 視線で小吉にそう伝えながら、ティンが言葉を続ける。

 

「お前が皆を裏切る理由が、俺には分からない。俺達が死ぬだけじゃない、お前自身が死ぬ可能性だって高くなるはずだ。なぜこんなことをする?」

 

「お、何々? 交渉人の真似事かい、ティン君?」

 

 関心を小吉からティンへと切り替えたウッドが愉快気にそう言うと、ティンが「違う」と首を横に振った。

 

「仲間である俺達を切り捨ててまで、お前がバグズ2号を確保したい理由を知りたいだけだ。教えてくれないか、ウッド。お前は、何が目的でこんなことをしている?」

 

 自らを射抜く様に見つめるティンに、ウッドが「んー……」と考え込むように手を顎に当てた。

 

「別に言う義理もないんだけど……まあいっか。特別に教えてやるよ」

 

 軽い口調でそう言って、ウッドは人差し指を立てた。

 

「あたしはある人から依頼を受けててね。その一環として、君たちには死んでもらわないといけないってワケ」

 

「……俺達を殺すように依頼されたのか?」

 

 ティンの疑問の声に、ウッドは「いや、単に邪魔なだけ」と首を振った。

 

「だから君らを殺すために、色々とお膳立てをしてたんだけど……正直、計算外だったよ。まさか1人も脱落しないなんてな。恐るべきはイヴ君、ってとこか? 判断仰ごうにもさっきから依頼人と連絡がつかないし、メンドくさいったらありゃしない」

 

 やれやれ、といった様子でウッドは肩をすくめて見せる。それから彼女は「まぁ、それは置いておいて」と言って話しを元に戻すと、手にした注射器を弄びながら更に言葉を続けた。

 

「さっきのティン君の質問に答えよっか。ズバリあたしの目的は、火星からある物を持ち帰ることにある」

 

「……ある物だと?」

 

 ティンが繰り返すように口にしたその言葉に、ウッドは「そうそう」と言って頷いた。ティンの脳裏で生存本能が警鐘を鳴らし、言い表しようのない恐怖に心臓が早鐘を打つ。そんな彼の前で、ウッドはゆっくりと口を開く、含み聞かせるかのようにその言葉を口にした。

 

 

 

 

「あたしの依頼者(クライアント)がご所望の代物は、テラフォーマーの卵鞘(たまご)さ」

 

 

 

 

「ッ……!?」

 

 彼女の口から告げられたその言葉に、ティンや奈々緒はおろか、小吉ですら怒りを忘れ、その顔からさっと血の気を引かせた。

 

 ウッドの言う依頼者というのが一体どんな人物なのかは不明だが、その依頼人がテラフォーマーの卵鞘をどのように使おうとしているか、概ね察しがついたのだ。

 

 おそらく、その人物はテラフォーマーを兵器として活用しようとしているのだろう。あるいは、人間の言うことを聞く様に品種改良して新たな家畜にでもするつもりなのかもしれない。

 いずれにしても、テラフォーマーという生物を知ったうえでその卵を欲しがっているのなら、碌でもないことに利用しようとしているのは間違いない。

 

「正気か、ウッド!? もしもその卵が孵って地球に奴らが解き放たれたりしたら、地球がどうなるか分かって――」

 

「そんなのは、あたしの知ったことじゃない。そもそもあたしはただの使いっ走りだし、文句があるんなら雇い主の方に言いなよ」

 

 声を荒げるティンを遮って、ウッドはそう言った。まるで、なぜ自分が叱られているのかを理解できていない子供のような様子で、キョトンと首を傾げながら、彼女は言葉を続ける。

 

「つーかさ、未来の地球がどうこうよりも、あたしらみたいな貧乏人にしてみればまず明日を生きるための金が必要なわけじゃん? というか、バグズ2号ってそういう連中の集まりじゃん? 今更何を怒って――」

 

 ウッドがそこまで言った時、バガンッ! という、何かがぶつかったような、あるいはひしゃげるような音が管制室内に鳴り響いた。思わず口をつぐんだウッドが音のした方を見やれば、そこには壁に拳を叩きつけた小吉の姿があった。

 

 

 

「……黙れよ」

 

 その声は静かに、しかし燃えるような激しい怒りを込めて発せられた。

 

 先程打ち付けた衝撃のせいであろう、彼の拳から一筋の紅が壁を伝って流れる。だが、小吉はそんなことを気にする様子もなく、言葉を続ける。

 

「お前が裏切った理由は分かった。この際それについては、とやかく言わねぇ。けどな――」

 

 そこで言葉を切ると、小吉は目の前のウッドを睨みつけた。

 

 

 

「あいつらの『生きようとする意志』とお前の『自分勝手』を一緒にするな! あいつらが生きる理由を、戦う理由を、お前の無責任なんかと混同するんじゃねえ!」

 

 

 

「……」

 

 何か思うところがあったのだろうか。彼の言葉に、ウッドは一瞬だけその表情を微かに曇らせた。だがそれも一瞬のこと。すぐに彼女の顔は、普段通りのへらへらとした締まりのない表情を浮かべた。

 

「……さ、無駄話はおしまいだ。そろそろ返事を聞かせてもらおうか。大人しくこの船を降りるか、それとも――」

 

 ウッドはぼうっと立ち尽くすイヴの肩に手を置くと、獲物をつけ狙う猫のように目を細めた。

 

「ここでイヴ君と殺し合うのかを、さ」

 

 その言葉に、再び小吉がたじろぐ。その動揺を読み取ったウッドは勝利を確信した。人質としてイヴを支配下に置いている以上、ウッドの優位性は揺るがない。そして彼らはどこまでも優しい(なまぬるい)、となればイヴを切り捨てるという選択肢をとれるはずがない。

 

――さぁ、要求を飲むと言え。それ以外に、お前たちに道はない。

 

 胸中でそう呟き、ヴィクトリア・ウッドはほくそ笑む。そんな彼女の目の前で、ゆっくりとティンが口を開いた。

 

 

 

 

 

「――いや、お前の要求は飲まない」

 

 

 

 

 

「……何?」

 

 ティンの口から発せられたその返答にウッドが眉をひそめる。隣では小吉がギョッとしたように見開いた目をティンへと向けるが、当人はただ真っすぐにウッドを見つめていた。

 

「……おいおい、存外冷たい奴だな、ティン君」

 

 驚きを表に出さないように取り繕いつつ、ウッドが言った。

 

「あたしの要求を飲まなきゃ、イヴ君を助ける手段はないぜ? 見捨てるつもりもないだろうに、一体どういうつもり――」

 

 真意を探るべくウッドが言葉を投げかけた、その時。唐突にティンが、流れるかのような動きでその場に屈みこんだ。

 

 ――もしもそれが攻撃行動であったのなら、ウッドはすぐに反応していただろう。盗みで生計を立てる中で磨き上げた危険察知の能力は伊達ではない。

 

 だがティンの行動には、彼女に対する殺意や敵意が全く含まれていなかった。そんなものとは縁のない、ただの屈むというだけの行為。そしてだからこそ、彼女はその直後の事態への反応が遅れた。

 

 彼の行動の意味が理解できないウッドが浮かべた訝しげな表情は、その直後に驚きの表情へと変わる。

 

 

 

 ティンの背後から()()()()()()()()()()奈々緒が飛び出したのだ。

 

 

 

 奈々緒はすかさず、ウッドをめがけて左右の指から紡ぎ出した糸を伸ばす。それはウッドの両側へを通って彼女の背後で交差し、彼女を糸の檻の中に閉じ込めた。

 

 ――しまった、と思った時にはもう遅い。

 

 鋼鉄をも凌ぐ強靭な糸によって、ウッドの退路は完全に失われていた。

 

「こ、のっ!」

 

 ウッドは咄嗟に懐から拳銃を取り出して応戦しようとするが、彼女が射撃体勢に移るよりも、奈々緒が拘束を完了させる方が速かった。

 

 ぐい、と奈々緒が腕を引くと、糸の包囲網が一気に狭まる。それは銃口の狙いを定めようとしていたウッドの全身をたちどころに絡み取り、彼女の体から一切の自由を奪った。バランスを崩し、成す術なく床へと倒れ込んだ彼女の手から拳銃が離れて床の上を滑っていく。

 

「……よし!」

 

 トンッ、という音と共に床へと降り立った奈々緒が思わずそんな声を漏らした。彼女がチラと視線を動かせば、そこではサバクトビバッタの脚力で間合いを詰めたティンが、操られたイヴを床へと押さえつけている。

 作戦の成功を確信した奈々緒は、深く安堵の息を吐いた。

 

 

 

「……えっと、あれ? 何これ、どういう状況?」

 

 

 

 そしてただ1人、事態に置いてきぼりにされた小吉は、目の前に広がる光景の意味が理解できずに、思わずそう呟いていた。先程までの怒りはどこへやら、戸惑いの色を隠しきれていないその口調は、彼の素のものに近い。直前までの緊迫した空気との落差もあって、小吉の言動は妙に間の抜けたものに聞こえた。

 

「落ち着いて、小吉。これはティンの作戦だから」

 

 キョトンとした表情で目を瞬かせている小吉に、奈々緒が手にした糸を緩めずにそう言った。「作戦?」と小吉が聞き返すと、イヴを押さえつけているティンがその詳細を明かす。

 

「ウッドがお前に気を取られている間に、俺が秋田さんに頼んでおいたんだ。『何とか隙を作るから、変態してウッドを縛り上げてくれ』って」

 

 ――どうやら、自分がウッドに対してブチ切れている間に、ティンが対策を練ってくれていたらしい。

 

 それを理解した小吉が『合点がいった』と言わんばかりに手を打ったと同時に、ティンが対照的にその顔を曇らせた。

 

「すまない、2人とも。勝手に危険な役割を押し付けてしまって……」

 

「いや、いいって。そもそもあの状況じゃそれ以外にやりようがなかっただろ?」

 

 小吉が全く気にしていないように言う。

 実際、ティンの作戦が無ければ、今頃自分達は火星に取り残されているか、さもなければ操られたイヴと戦わされているはずだ。それを考えれば、陽動をやらされたくらいどうということもない。

 

「そうそう。それに作戦も、結果的には上手くいったしね」

 

 そう言って奈々緒が手にした糸を引くと、縛られたウッドの位置が僅かにずれた。ウッドは先程までの饒舌が嘘だったかのように押し黙り、顔を伏せている。その様子に、小吉は小さな違和感のようなものを感じた。

 

「……なぁ。何か、おかしくないか?」

 

「何かって?」

 

 首を傾げる奈々緒に、小吉が続けた。

 

「いや……さっきまでこいつ、すげー喋ってたのに今は黙ってるな、と思ってさ。というか、捕まったのにもがきもしないなんて、いくら何でもおかし――」

 

 そう言いながらウッドの顔を覗き込んだ小吉は、見た。

 

 

 

 その身を拘束され、身体の自由を奪われて、完全に目論見を破壊されたはずのウッドが、血も凍るような笑みを浮かべていたのを。そしてその瞳に、未だぎらついた欲望の光を灯しているのを。

 

 

 

 

 

「動くな」

 

 

 

 

 

 ――その声が聞こえたのは突然だった。

 

 3人の背後から聞こえた低く、太いその声は、奈々緒、ウッド、小吉、ティンの誰のものでもなく、しかしそれでいて聞き覚えのあるものであった。

 

 一瞬の思考停止。その直後、奈々緒は声の主の正体に思い至った。

 

 驚いて振り向こうとした彼女の耳にチャキッ、という金属の擦れる音が届き、同時に何か硬いものが背中に押し当てられる感覚。思わず動きを止めた奈々緒の瞳には、愕然とした表情で目を見開いている小吉とティンの顔が映った。

 

「……何でだよ」

 

 小吉の口から漏れたその言葉は、まるで何か悪い夢でも見ているかのようで。それを見た奈々緒は、彼のその様子から自らの予想が的中してしまったことを悟った。

 

 

 

 

 

「何でお前がそんなことしてんだよ、一郎ォ!」

 

 

 

 

 

 ――咆哮する小吉の視線の先。

 

 そこには、ウッドが取り落とした拳銃の銃口を奈々緒の背へと押し当てる、蛭間一郎の姿があった。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 

 ――その虫が小さなその体に秘めた力は、他の昆虫には見られない特異なものだ。

 

 彼が誇るのは筋力の強さではなく、速度でも、脚力でも、猛毒でも、糸でもなく、『クリプトビオシス』と呼ばれる、防御状態。

 

 その特性は、一言で表すのなら次の言葉が最もふさわしい。

 

 

 

 

 

『  死  な  な  い  』

 

 

 

 

 

 この防御状態に入った昆虫は、ありとあらゆる災害から己の身を隔離し、死神の魔の手から逃れる、不死身の昆虫。

 

 

 200度の灼熱も。

 

 

-270度の極寒も。

 

 

 168時間のエタノール処理も。

 

 

 7000グレイの放射線も。

 

 

 真空状態も。

 

 

 

 ――例えどんな脅威にさらされたとしても、この虫は決して死なない。そして、ほんの僅かな『水』さえ摂取すれば、何事もなかったかのようにまた生命活動を営むのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

蛭間一郎

 

 

 

国籍:日本

 

 

 

18歳 ♂

 

 

 

170cm 87kg

 

 

 

バグズ手術ベース   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ――――――――――――ネムリユスリカ――――――――――――

 

 

 

 

 

 眠れる不死王(ネムリユスリカ)覚醒(リバース)

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 ドクン、という胎動の音が暗闇の中に響き渡り、その生命はまどろみの中からその意識を浮上させた。始めの内は靄がかかっていたかのように全く働かなかった思考回路だったが、次第に意識がはっきりとし始めた。

 

 ――ここはどこなのか。

 

 ふと生命は、自分の置かれた状況に疑問を抱く。何も分からなかった。自らの背後には他にも二つの生命がいるようだが、彼らはまだ眠っている。何も教えてはくれまい。

 

 生命は周囲に目を凝らしてみた。だが、そこに広がるのは闇ばかり。どんなに目を凝らそうとも、その彼方に何かが見えることはなかった。

 

 ――ここから出なければ。

 

 なぜかは分からない。だがその生命は、そうしなければならないと感じていた。そこはとても居心地がよく、とても穏やかな場所であったけれど、何かが足りない。ここは真に自分がいるべき場所では無いのだと、自らの中の本能が告げるのだ。

 

 ――この閉塞された世界より、外の世界へ。

 

 ぐい、と手を広げると、ミシッという音と共に闇の中に亀裂が入った。するとそこから、何か眩しいものが入り込んできた。その輝きに一瞬だけ生命は怯み、そして同時に感嘆した。

 

 ――何だこれは。

 

 初めて感じた外界からの刺激に、生命は自らが高揚したのが分かった。

 

 今まで闇しか知らなかった自分に、新たな概念を与えた存在。暗闇の亀裂の向こうから、それは来た。

 これはいったい何なのか、なぜこんなにも眩しいのか。分からない、何も分からない。だから――

 

 

 

 ――知りたい。もっと知りたい。

 

 

 

 そんな衝動に突き動かされるように、その生命は大きくその体を動かす。いつのまにか彼の背後で眠っていた生命たちも目覚め、その動きに呼応するかのようにその体を動かしていた。そしてその度に、亀裂は少しずつ大きくなっていった。

 

 

 ミシッ、ミシッという音を立てて、暗闇に光の傷が刻み込まれていく。

 

 

 誕生の時は、すぐそこまで近づいていた。

 




U-NASA予備ファイル3『バグズ手術における特性強化について』 【技術】
《『テラフォーマーズ 公式キャラクター生物図鑑』P102参考》

 バグズ手術を受けた被験者は、ベースとなった昆虫との親和性次第で、本来の生物よりも強化された状態で、その特性を扱うことができる場合がある。例としては『ハナカマキリの大鎌』があり、張明明は本来捕獲用のための鎌を切断武器として扱っている。ウッドの『エメラルドゴキブリバチの毒液』も同様で毒の成分が微妙に本来の物と違うため、人間に対しても毒液の効果は発揮される。




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第18話 ROLLING OVER 急転直下

「何でお前がそっちにいるんだよ、イチロー!?」

 

 小吉のそんな声が、管制室内に響く。彼の顔には強い怒りと、困惑と、そしてそれ以上の「信じたくない」という表情が張り付いていた。

 

「……」

 

 一郎はそんな小吉の声に、何も答えない。だが彼の口から起伏のない声で奈々緒へと告げられた言葉が、全てを物語っていた。

 

「……ウッドの拘束を解いて、ゆっくりと手を上げて膝をつけ」

 

 この状況下で彼がウッドの解放を要求する理由など、蛭間一郎が彼女と協力関係にあるということ以外に考えられないだろう。

 奈々緒は自らの肩越しに、一郎をキッと睨みつけた。

 

「断る」

 

 その瞬間、一郎は銃口を奈々緒の背中に強く押し付けた。背中から伝わる無機質な鉄の感触に、奈々緒が体を強張らせる。小吉が駆け寄ろうとするが、そんな彼を一郎はけん制するようにじろりと睨みつけた。

 

「動くなよ、小吉。それ以上近づけば、俺は秋田奈々緒を撃つ」

 

「ッ、テメェ……!」

 

 ――脅しではない。

 

 一郎の眼光には、そう思わせるだけの気迫が籠っていた。それを悟り、小吉は顔を歪めつつもその場に留まった。小吉に近づく様子がないことを確認すると、一郎は再び視線を奈々緒へと戻す。

 

「もう一度だけ言うぞ。死にたくなかったらウッドを解放して、手を上げて膝をつけ」

 

「……」

 

 奈々緒は、今度は何も言わなかった。その代わりに、彼女は手にした糸の拘束を緩める。それに気づいたウッドは「おっ」という声を上げるともぞもぞと体を動かし、自らを縛り付ける糸を解きに取り掛かった。その光景に、奈々緒が歯を食いしばる。

 

 彼女が一郎に言われるまま糸を緩めたのは、断じて恐怖心からではなかった。

 

 あのまま反抗したところで、自分が撃たれればどのみちウッドの拘束は解かれてしまうからだ。結果が同じならば、少しでも次に繋がるように動くほうが合理的、と考えた末の行動であった。

 

 だがその選択は所詮、最悪の中の最善に過ぎないもの。それを飲み込まざるを得ない最悪の状況まで陥ってしまったことが、彼女は悔しかった。

 

「ティン、お前もだ。イヴから離れろ」

 

 奈々緒に銃を突きつけたまま一郎が言うと、ティンは険しい表情を浮かべながらもイヴを押さえつけていた手を放した。ウッドから命令がないからか、立ち上がったイヴは襲い掛かるようなしぐさは見せず、ただぼんやりと生気のない目で虚空を見つめていた。

 

「一郎……」

 

 ティンは一郎の名を呼び、奈々緒の背後に立つ彼を見つめた。ティンの胸中に芽生えたのは彼が自分達を裏切っていたことに対する怒りや憎悪ではなく、もっと根本的な疑問。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()という疑問であった。

 

 ――どういうことだ? 確かにあの時、一郎の心臓は止まっていたはず。

 

 ティン自身が脈をとったのだ、それは間違いないと断言できる。まさか直接手首に触れておいて気付かなかった、ということもないだろう。つまり蛭間一郎はつい先程まで、疑う余地なく『死んでいた』のだ。それにも関わらず、今の彼はこうして活動を行えている。

 

「ベースになった生物の特性……か?」

 

 この不可解な状況の理由として最も妥当そうな可能性をティンは口にするが、その表情は今ひとつ釈然としないものだった。

 

「ティン君、君の考えてる事を当ててやろうか?」

 

 そんな彼に、拘束を解いて床から立ち上がったウッドが、からかうような口調でそう言った。彼女は一郎に向かって「サンキュー、一郎君。助かった」と礼を言うと、にんまりとした笑みを浮かべながらティンに言った。

 

「その表情から考えるに、大方『一回死んで生き返ることができる虫なんているはずがない』ってとこか?」

 

「……ああ」

 

 図星をつかれたティンは、一拍置いて肯定の言葉を口にした。

 

 ほとんどのバグズ2号の乗組員たちは、一郎のベースとなった昆虫を知らない。イヴが来てから多少緩和したものの彼は元々口数が多い方ではなく、むやみに他のメンバーと慣れ合うような性格の持ち主でもなかったからだ。おそらく彼のベースを知っているのは艦長であるドナテロと副艦長のミンミン、それに乗組員のデータを地球で盗み見たイヴくらいのものだろう。

 

 しかし、それにしても、『蘇り』の特性を持つ虫など、あまりにも非現実的ではないだろうか。そのような特性を持った虫など、聞いたこともない。

 

 つまり、これらのことを踏まえたうえで考えられる一郎の特性は――

 

「ティン君ひょっとしてさあ、一郎君の特性が『擬死』とかだと思ってる?」

 

「……!」

 

 自分の思考そのままの言葉がウッドの口から飛び出し、ティンの思考がピタリと止まった。「お、図星か」と呟くと、ウッドはティンに人差し指突き付けた。

 

「だとしたら、見当違いもいいとこだな。教えてやるよ、蛭間一郎の特性は、そんな陳腐なもんじゃない」

 

「おい、ウッド」

 

 得意げに語ろうとしたウッドの名を、一郎が諫めるように呼ぶ。彼の目は言外に『不必要に情報を晒すな』と彼女に告げていたが、ウッドはそんなことは気にもせず言葉を続けた。まるで自分のことのように得意げに、彼女は一郎のベース昆虫の情報を告げた。

 

「一郎くんの手術ベースになった虫は『ネムリユスリカ』。その最大の特性は擬死でもなければ蘇りでもない、()()()()()()()()()()()()ことにあるのさ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――不老不死。

 

 『死』という絶対の存在を覆す概念にして、人類がその叡智を振り絞っても未だに到達しえない、生命の超越点。

その力を断片的に使うことができる昆虫がいる、と言ってそれを信じる人は、果たしてどれだけいるだろうか。

 

 その虫の幼虫は、水分が足りない乾燥状態に置かれると、『クリプトビオシス』と呼ばれる特殊な防御状態に入る。この状態になり、その名の由来の通り自らの生命の鼓動ごと一時的に『眠る』ことで、彼らは水がない環境下であっても次に雨が降るまで命を繋ぐことができる。そして一度水を得れば、何事もなかったかのように生命活動を再開するのだ。

 

 驚くべきことに、研究者による研究が進むにつれ、このクリプトビオシスは乾燥以外にもあらゆる極限環境への耐性を持ち合わせていることが明らかになった。

 

 ある研究者は、200度の高温で彼らを燃やした。

 

 またある研究者は、-270度の冷気で彼らを凍らせた。

 

 更にまた別の研究者たちは168時間のエタノール処理を行い、7000グレイの放射線を浴びせ、真空状態に晒し、脳や神経節を除去し、果ては宇宙空間へと放逐し、考えうるありとあらゆる極限状態へと彼らを置いた。

 

 だが、何をしてもその昆虫は決して死ななかった。

 彼らはクリプトビオシスによっていずれの環境変化にも耐え、水さえ得れば何事もなかったかのように活動を再開したのである。

 

 

 その驚異的な特性を持つ虫の名は、ネムリユスリカ。

 

 

 小さな体に不滅の力を秘めた、不死鳥ならぬ『不死虫』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あはは、びっくりしてる! そりゃそうだ、アタシだってこの虫のこと知った時そんな感じだったもん」

 

 呆然としたような表情を浮かべる小吉達に、ウッドは笑い転げる。そんな彼女の様子とは対照的に、一郎は眉間にしわを寄せていた。

 

「喋りすぎだ、ウッド」

 

「あはは、悪い悪い。ほら、アニメとかでよくある悪役みたいな台詞、一回言ってみたかったんだって! それにばらしたところで対処法なんてないんだし、大目に見てちょうだい」

 

 まったく悪びれずにそう言ったウッドに、一郎は憮然とした様子で鼻を鳴らす。何を言っても無駄だと悟ったのか、彼はそれ以上何かを言うことはなかった。

 

「お前がさっき俺に水を投げつけたのは、一郎を目覚めさせるためだったのか……!」

 

 彼の脳裏に蘇るのは、先程テラフォーマーに扮したウッドに襲い掛かろうとした時の記憶。あの時に彼女が、小吉に飲料水の入ったパックを投げつけたのは、単に足止めだけを狙ったものではなかったのだ。

 

「そういうことー。まんまとあたしの策にはまってくれてどーも、小吉君」

 

 ウッドの返答に、小吉は自らの迂闊さを呪った。もしもあの時、自分が水の入ったパックを毒針で破壊していなければ、こんなことにはならなかったのかもしれない。今更どうしようもないことではあるが、小吉はそう思わずにはいられなかった。

 

「さて、それじゃあ種明かしも終わったことだし……とっととこいつら殺してずらかろっか、一郎君」

 

「ああ」

 

 ぱん、と両手を打ち合わせたウッドの言葉に、一郎が頷く。彼女の言葉に3人が身構えるも、それ以上の行動は許さないとばかりに一郎が銃を構え直した。

 

「と言うことで。よろしくね、イヴ君」

 

 奈々緒を事実上の人質に取られ、動くことすらもできない小吉とティン。そんな彼らの眼前で、それまではただぼうっと立っているだけだったイヴが動いた。

 

 腰のホルダーに三分割して入れてあった部品を取り出し、組み上げて一本の警杖とする。調子を確かめるようにそれを数度振り回してから、イヴがそれを構えた。警杖の先端から、脂がはじけるような音と共に青い火花が散る。

 

「ッ、イヴ! そんな奴の言いなりになんてなるな!」

 

 小吉がイヴに呼びかけるが、イヴの虚ろな瞳が彼の姿を映すことはない。そんな彼らに向かって、ウッドが呆れた様子で「やれやれ」と言わんばかりに首を振った。

 

「無駄無駄。今のイヴ君には、あたし以外の声は届かないよ。それじゃイヴ君、準備はいい?」

 

 わざとらしく、小吉達に見せつけるようにウッドが呼びかけると、イヴはコクンと首を縦に振った。その顔に、一切の感情を浮かべずに。

 

「クソ……!」

 

――裏切られ、人質を取られ、最後の抵抗すらも届かず。

 

 いよいよ進退窮まった状況に、小吉の口から悪態が零れた。彼の脳裏に、バグズ2号の仲間たちとの記憶が次々と浮かんでは消えていく。

 

 皆がいたから、ここまで来れた。

 

 誰か一人でも欠けていたら、ここまではこれ無かった。

 

 協力し、補い合い、助け合い、背中を預け、やっとここまでたどり着いた。

 

「クソったれが……!」

 

 あと少し、あと少しでイヴの悲願である『全員での生還』は成就する。全員でまた、母星の土を踏めるのだ。

 

「こんなんでッ……」

 

 だがその『あと少し』は――果てしなく遠い。

 

「こんなんで終わりかよ、畜生がァアアアアアア!」

 

 咆哮する小吉。その目の前でウッドは冷たい笑みを浮かべるとただ一言、イヴに命じた。

 

 

 

 

 

「殺せ」

 

 

 

 

 

 その瞬間、イヴは弾かれたように小吉へと飛びかかった。歯車の回転する音と共に、風を裂いて警杖を携えたイヴが迫るのを、小吉の目は辛うじて捉えていた。

 

「小吉ッ!」

 

 奈々緒が悲痛な叫びが、小吉の耳をつんざく。それとほぼ同時に、イヴが青白い電気を纏った警杖を上段に構えるのを、彼は見た。

 

「――ッ!」

 

 直後、小吉の右肩を衝撃が襲った。その凄まじい威力に耐え切れずに、小吉は声を上げる間もなく床へと叩きつけられた。倒れ込んだ小吉の耳に、電気の迸る音が響く。

 

 

 

 一瞬、小吉は自らが死んだのだと錯覚した。

 

 

 

 しかし彼はすぐに、電撃を受けたにしては自分の体がやけに自由に動くことに気が付いた。感電した時に独特の、全身を針で刺すような鋭い痛みもない。

 

 不思議に思い、小吉は床に手をついて自らの上体を起こした。強打した全身には鈍痛が走るが、やはり痺れたような感覚はない。不自然に痙攣している、ということもないようだ。彼は痛みに顔をしかめながらもゆっくりと立ち上がった。

 

「な、何で……!?」

 

 小吉が顔を上げると、狼狽えた様子のウッドの姿が目に入った。その顔からは先程までの余裕の表情が消え去り、強い動揺の色が浮かんでいる。その目は起き上がった小吉を映しておらず、彼の後方を食い入るように見つめていた。ウッドの様子にただならぬものを感じ、小吉は視線を自らの背後へと滑らせる。

 

 

 彼の目に飛び込んできたのは数秒前と同じ姿勢で立ち尽くしている奈々緒と、小吉に背を向けて立つイヴだった。彼は先程小吉の前で見せた上段の構えから警杖を振り下ろしたような姿勢で奈々緒の足元に立っていた。小吉が目を凝らせば、彼の手に握られた警杖は奈々緒の背後へと伸び――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「っぐ、おぉ……!」

 

 小吉が状況を把握する前に、一郎が苦悶の声と共に銃を取り落とした。その右手はまるで感電でもしたかのように不規則に痙攣しており、額には玉のような汗が浮かんでいる。彼は震える右手を反対の手で押さえながら、驚愕と混乱が入り混じった表情でイヴを見た。

 

「イヴ……まさか、お前――!」

 

 一郎が何かを言いかけるも、それを遮るように再びイヴの警杖からバチバチという音と閃光が走った。一郎は一度だけ大きく体を痙攣させると崩れ落ちるように膝を折り、そのまま床へと倒れ込む。イヴは間髪入れずに彼の横にしゃがみ込むと、一郎の両腕を懐から取り出した手錠で拘束した。

 

 呆気にとられる小吉の背後で、ウッドがまるでうわ言のように呟く。

 

「う、嘘……! こんなこと、あるはずが……!」

 

 するとイヴは、まるでそんな彼女の呟きに呼応するかのように立ち上がり、ゆっくりと小吉達の方へと振り向いた。

 

「なっ……!」

 

 それを見たティンと小吉は、ほぼ同時に声を上げた。

 

 振り向いたイヴの目。吸い込まれそうな彼の水色の瞳は、先程までの空虚な様子から一転して理性の光をたたえており、悲しげにウッドのことを見つめていたのだ。

 

 イヴは一郎に背を向けると、無言のままウッドに向かってゆっくりと歩き出した。その様子にウッドは小さく悲鳴を漏らす。

 

「ち、違う! あたしじゃない! 狙うのはあっち! 小吉君とティン君を殺せ!」

 

 青ざめた顔でウッドが命令した。しかし、イヴはその歩みを止めない。絶句しているティンと小吉の脇を通り抜けて、彼はウッドへと近づいていく。

 

「ッ……と、止まれ! これ以上、あたしの側に近寄るな!」

 

 自らの特性が効かないと薄々感づきながら、ウッドはなおも叫ぶ。そうでもしていないと、気が狂ってしまいそうだった。

 

 しかしそれでも、イヴは足を止めない。少しずつ、2人の間合いは狭まっていく。やがてイヴがあと数歩で触れることができる程の距離まで近づいた時、ついにウッドはその場にへたり込んでしまった。

 

「効いてないの……!? 何で……!? ここら一帯のゴキブリも、支配できてた毒が……!」

 

 上ずった声でそう言い、必死で後ずさりながらウッドはイヴを見つめた。その目に宿る感情は恐怖、動揺、混乱。

 いかなる者も跪かせる“エメラルドゴキブリバチの毒”で御すことのできないイヴが、彼女には子供の皮を被った得体のしれない何かに見えてならなかった。

 

「来るな、来るな、来るな――!」

 

 呪文のようにそう呟くウッドの前で、イヴはピタリと足を止めた。彼女の命令を聞いたからではない、これ以上歩かなくとも手が届く距離まで近づいたからである。

ウッドはなおも後ずさろうとして、それが叶わないことに気が付く。既に壁際まで後退していた彼女に、これ以上逃げることはできなかった。

 

「ウッドさん」

 

「ひッ!?」

 

 いきなり名前を呼ばれ、ウッドは悲鳴を上げる。イヴの水色の瞳の中に、怯える自分の姿が写りこんでいた。そんな彼女の前で、イヴはゆっくりと彼女に手を伸ばした。

 

「――!」

 

 もはや、ウッドの声は悲鳴にならなかった。咄嗟に彼女は頭を庇うように両腕を交差させると、目を固く閉じる。

 

 そして――。

 

 

 

 

 ――カチャッ、という乾いた音が彼女の耳に届いた。

 

 

 

 

「え……?」

 

 自らの予想とは随分と違った感触に戸惑い、恐る恐るウッドが目を開ける。彼女の目には、手錠の掛けられた己の手と、困ったように眉尻を下げるイヴの顔が映った。

 

「ゴメンね、ウッドさん。怖がらせるつもりじゃなかったんだ」

 

 肩透かしを食らったような表情を浮かべるウッド。イヴは彼女にちょこんと頭を下げると、すぐに踵を返して小吉へと駆け寄った。

 

「小吉さん、右肩大丈夫? さっき強く踏んじゃったから、怪我してないといいんだけど……」

 

 心配そうに己を見上げるイヴの言葉に、小吉は答えることができなかった。彼はしばらくの間口をパクパクと動かし、それからやっとのことでその言葉を口にした。

 

「……バ」

 

「バ?」

 

 イヴが小吉の言葉を理解できずに首を傾げたその瞬間、小吉はパッと顔に喜色を浮かべ、イヴのことを思い切り抱きしめた。

 

「バカヤロー! 心配したじゃねーか!」

 

「うわっ!? しょ、小吉さん!?」

 

 いきなり抱擁されて慌てるイヴの頭を、小吉はガシガシと撫でつけた。じたばたとイヴがもがくが、小吉は一向に彼を放す様子を見せなかった。やっとの思いでイヴが小吉の腕から抜け出すと、彼の隣まで移動してきていた奈々緒が驚いた様子で口を開く。

 

「ほ、本当にイヴ君……? 操られてないふりをしてる……ってわけでもないのか」

 

 元々ウッドの特性で操られたテラフォーマーを間近で見ていたこともあり、奈々緒はイヴにかけられた洗脳が解けていることに気付く。今のイヴは、どこからどう見ても正常そのもの。そしてだからこそ、彼らは不思議でならなかった。

 

「お前、一体どうやってウッドの毒を――」

 

 

「……薬効耐性」

 

 

 ティンの疑問に答えるように、低い声が部屋の中に響いた。小吉達が視線を向ければ、床に倒れた一郎が彼らを――より厳密には、イヴを睨みつけていた。

 

「イヴ……お前、俺達にまだ特性を隠してたな?」

 

 苦悶の表情を浮かべた一郎の言葉はしかし、確信に満ちていた。もう隠すつもりもないのか、イヴは静かに一郎の言葉に答えた。

 

「――“モモアカアブラムシの薬効耐性”。ボクの体に組み込まれた、()()()()害虫の遺伝子だよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 農業において被害を与える昆虫は総じて『農業害虫』と呼ばれているが、カメムシの仲間はその多くがこれに該当する。有名どころとしてはカメムシやウンカ、ヨコバイなどがいるが、それらと並ぶ害虫としてアブラムシを挙げることができる。

 

 カメムシ目腹吻亜目アブラムシ上科に分類されるアブラムシは、数いる農業害虫の中でもとりわけ嫌われている虫であると言ってもいいだろう。その理由は主に3つ。

 

 第一に、彼らは卵胎生単為生殖によって、短期間の内に爆発的にその数を増やすこと。

 第二に、彼らは作物を食い荒らすだけではなく、様々な病気を媒介してその被害を拡散すること。

 そして第三に、他の害虫よりも薬効耐性を獲得しやすく、殺虫剤の効き目が薄いこと。

 

 こと三つ目の特性について、アブラムシは他の農業害虫の追随を許さない。

 世界におよそ3000種も存在すると言われている彼らは、適応の中で人類の武器(かがくぶっしつ)への対抗手段を獲得し、26世紀に至るまで地球上の至るところで作物を食い荒らし続けてきた。

 

 イヴの体に組み込まれた『モモアカアブラムシ』は、そんな数いるアブラムシ達の中でもずば抜けて高い薬効耐性を持つ昆虫である。

 

 その抵抗力たるや、ある農場においてモモアカアブラムシの駆除に用いられ、その70%以上を死滅させた薬剤が、僅か二年後には同じ農場のモモアカアブラムシを10%も駆除できなくなってしまったというデータがあるほどだ。

 

 彼らが耐性を持つ薬物の種類は、判明している物だけで実に71種類。

 これはアブラムシのみならず、ゴキブリを含めたありとあらゆる昆虫の中でも最多の数値であり、21世紀のギネスブックはこの昆虫を『Most resistant insect(最も抵抗力のある虫)』と認定している。

 

 そして忘れてはいけないのが、この数値はあくまで21世紀の時点でのものでしかないという点。

 温暖化の影響で害虫たちの活動も活発になる中、地球上では26世紀である今日にいたるまで、様々な農薬が開発され、散布されてきた。

 

 ――もしも、モモアカアブラムシが5世紀もの間、それらの薬剤の耐性を獲得し続けていたとしたら。そしてそのモモアカアブラムシが、人間大になったとしたら。

 

 それはいかなる化学兵器にも耐え、毒を用いたあらゆる攻撃を無効化する、常人には駆逐しえない凶悪な特性を持つ怪物へと変貌するだろう。

 

 人類に抗い続け、己が身を侵す魔物への対抗手段を学び続けた、不浄の賢者(モモアカアブラムシ)

 

 それこそがイヴの体に宿る4つ目の害虫の遺伝子にして、正真正銘最後の『特性』である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ま、待てよ……そんなの、おかしいだろ」

 

 そう弱々しく声を上げたのは、ウッドだった。先程までの錯乱状態からは回復しているものの、その顔には当然ながら普段の快活さはない。

 

「イヴ君は胴体、腕、足の3か所にそれぞれ別の遺伝子を持ったDNAキメラなんだろ? それ以上の遺伝子が存在しないことはイヴ本人とクロード博士が説明したし、本……うちの依頼者も調査して、裏が取れてる」

 

 けど、とウッドは困惑したようにイヴを一瞥した。

 

「今の話だと、イヴの体には『4か所目』がある。ってことは、あたし達はまんまと偽の情報をつかまされてて、しかもその隠された4か所目っていうのがピンポイントに頭で、とどめにそのベースになった昆虫は、毒を無効化する特性を持ってたってことか?」

 

 そんな馬鹿な、と言わんばかりの表情でウッドが言う。それではまるで、エメラルドゴキブリバチの特性を持つ自分が裏切るのが、最初からばれていたかのようではないか。

 

 そんなウッドの疑問はしかし、他ならぬイヴによって否定された。

 

「それは違うよ、ウッドさん。ボクの体で遺伝子が違っているのは、前に説明した通り3か所だけ。ウッドさんたちが持ってる情報も、間違ってない」

 

「じゃあ何で!? 何でイヴ君は、4つ目のベースなんて都合のいいものを持ってるのさ!?」

 

 はぐらかすようなイヴの言葉に、ウッドが声を荒げた。一方で一郎は逆上する彼女とは対照的に、ただ黙ってイヴが続きを話すのを待っていた。

 

「……メンデルの法則、って知ってる?」

 

 自らを見つめる一同に、イヴはポツリとそんな言葉を漏らした。

 

「ボクが4つ目の特性を使える理由を説明するには、まずはこれを説明しないとね」

 

 そう言うと、イヴはどこか寂し気な笑みを浮かべた。

 

 

 

 ――メンデルの法則。

 

 遺伝子学の父、グレゴール・ヨハン・メンデルが唱えたこの法則によれば、生物は通常2個で一組の遺伝子を持っており、子供はその遺伝子を引き継いで生まれてくるとされている。

 

 具体例をあげよう。仮に『A,a』という組み合わせの遺伝子を持つ父親と『B,b』という組み合わせの遺伝子を持つ母親の間に子供が生まれた場合、考えられる遺伝子の組み合わせは『A,B』『A,b』『a,B』『a,b』のいずれかである。

 

 これがDNAキメラの場合になると、両親から受け継いだ2種類のDNAに加えて、遺伝子構造が違う部位1ヶ所につき、体が含有するDNAの種類は『A,B(ただし一部『A,C』)』と言った具合に、1種類ずつ増えていく。

 

 この形式でイヴの体を表現した場合、その遺伝子の構造式は『A,B(胴体)』『A,C(腕)』『A,D(足)』のように表すことができるのだが、ここで重要になってくのが、全ての部位に共通する『A』というDNAの情報である。

 

「バグズ手術のベースは1人につき1種。だから()()()バグズ手術の被験者は、2個が組み合わさった1つの遺伝子に対して、ベースになる昆虫のDNAが結びついてる」

 

 だけど、と言ってイヴはどこか自嘲するように笑った。

 

「前も言った通り、ボクは人造人間。バグズデザイニングで作られたボクの体では、普通のバグズ手術と違って、遺伝子の要素単位でボクのDNAと昆虫のDNAが結びついているんだ」

 

 通常のバグズ手術被験者の遺伝子構造を『A,B』&昆虫の遺伝子、とするのであれば、イヴの遺伝子構造は『A&昆虫の遺伝子、B&昆虫の遺伝子』となる。これによってイヴは部位ごとに異なる3つの特性の他に、『全身に共通する』細胞と結びついた4つ目の昆虫の特性――すなわち、モモアカアブラムシの特性を扱うことができるのである。

 

「これが、ボクにウッドさんの毒が効かなかった理由だよ。ボクの体が3種のDNAキメラだって言うのは本当だし、4つ目の特性はかなり気を配って隠したから、普通は気づかないと思う」

 

 イヴはそう締めくくると、深く息を吐いた。

 

 使いどころが限りなく少ないためにわざわざ明かす必要もなく、また万が一に使う機会があったとしても、その存在を伏せておくことでこちらに有利な展開を作り出せる。

そう判断したクロードはイヴと口裏を合わせ、モモアカアブラムシの特性を意図的に乗組員たちに隠してきた。

 

 ――まさか本当に使う機会が来るとは思わなかった。

 

 イヴはクロードの判断が正しかったことに安堵すると同時に、そんな言いようのないやるせなさのようなものを感じながら、小吉達へと向き直った

 

「その……皆には今まで黙ってた上に、心配もかけちゃって、ごめんなさい」

 

「いや、それはまぁいいけど……もしかしてイヴ君、最初から操られてなかったの?」

 

 後ろめたそうに謝罪の言葉を口にしたイヴに奈々緒が聞くが、彼女の予想に反して、イヴは首を横に振った。

 

「ううん、最初は本当に操られてたよ。モモアカアブラムシ(ボク)は一度経験した薬物への耐性は身に着けるけど、さすがにエメラルドゴキブリバチの毒に刺されたことはなかったから」

 

 ウッドが即座にイヴを戦わせようとしなかったのは、幸運だったと言える。もしも毒の注入直後に戦闘の指示が出ていれば、小吉達の予想した通り本気のイヴと殺し合いに発展していたはずだ。

 

「モモアカアブラムシの特性で少しずつ毒に耐性をつけていって……完全な耐性ができて意識が戻ったのは、本当についさっき。ティンさんがウッドさんを捕まえようとしてくれたから、解毒が間に合ったんだ。本当にありがとう」

 

 イヴがそう言って笑いかけると、ティンは穏やかな表情で「ああ」と返した。

 

 ――それはまさしく、紙一重で彼らが掴み取った命運だった。

 

 どこか一ヶ所、何か一つの要素が食い違っていたのなら、事態は最悪の結末を迎えていただろう。そうならなかったのは、彼らが全力で抗ったから。屈服することを拒み戦い続けたからこそ、彼らは微かな希望を勝ち取ったのだ。

 

「……あ、そうだ」

 

 イヴは思い出したようにそう言うと、ウッドへと駆け寄った。不思議そうな顔をする3人の目の前で、イヴはウッドの脇に立つと――いきなり、彼女の体をその両手で手あたり次第に触り出した。

 

「おぅ!?」

 

 小吉がそんな声を漏らし、ギョッとしたように目を剥く。突然のイヴの暴挙に、ティンや奈々緒はもとより、囚われている一郎さえもイヴの行動に言葉を失った。

 

「ひゃんっ!? お、おい! どこ触ってんだ!?」

 

 当事者であるウッドだけは驚きと羞恥で怒鳴り声を上げるが、イヴはそんなこと気にも留めない。慌てて抵抗しようとするが、元々壁際に追い込まれていたことと手が手錠で拘束されてることが災いして、思うようにイヴの手を払えなかった。

 

「ちょ、ちょっとイヴく――」

 

「あった!」

 

 我に返った奈々緒が止めようとしたその矢先に、イヴはそんな声を上げた。彼はウッドの腹部から4本の注射器を取り出すと、彼女に一切邪気のない笑みを向けた。

 

「エメラルドゴキブリバチの毒3本と、予備の変態薬1本。ボクが預かっておくね」

 

「へ……?」

 

 ウッドの口から拍子抜けしたような声が漏れる。と同時に、一同はイヴの不可解な行動の意味をやっと理解した。どうやらイヴは、ウッドたちから薬を取り上げたいらしい。それを裏付けるように、イヴは呆然とするウッドをしり目に一郎の方へと駆けていく。

 

「……薬なら腰のポーチだ」

 

 逃げられないと観念したのか、はたまたウッドの時のように全身をまさぐられたくないと思ったのか、一郎は素直にイヴに薬の隠し場所を告げた。彼の言う通りに腰に下げられたポーチを探れば、果たして一郎の言う通り3本の注射器が見つかった。

 

「ありがとう、一郎さん」

 

 イヴはそう言うと取り上げた注射器を懐にしまい込み、何事もなかったかのように小吉達の下へと戻った。

 

「……とりあえず艦も確保したし、外の皆の加勢に戻ろう」

 

 イヴの行動にはあえて触れずに、ティンが小吉と奈々緒に言った。何とも言えない空気を仕切り直すための提案でもあったのだが、かなり差し迫った問題でもあった。

 ウッドと一郎の裏切りを抑えたとはいえ、ここは火星。未だテラフォーマー達の脅威が去ったわけではないのだ。

 

「副艦長とリーがいるとはいえ、あの数相手だとそう長くはもたないだろう。手遅れになる前に――」

 

 ――だが、彼らは気づいていなかった。

 

 まさに今この時、ただのテラフォーマーの大群よりも恐ろしい『未知』なる脅威が、彼らに対して牙を剥こうとしていることに。

 

 

 

 

 

 バキッ。

 

 

 

 

 

 何かが割れるような、あるいは裂けるようなその音を最初に聞いたのは、小吉だった。

 

「ん? 何の音だ?」

 

 異変に気付いた小吉達が周囲を見渡す。一見して、管制室内には特に異物のような何かがあるようには見えなかった。あるものと言えば、精々テラフォーマーの死骸だけ。音の出所となりそうなものは何もない。

 

 

 ベキッ。

 

 

「……あそこから聞こえた」

 

 再び聞こえたその音を辛うじて捉え、イヴは室内のとある一角に目をつけた。それにつられて、他の面々もイヴが見つめる先へと視線を向ける。

 

 そこにあったのは、数匹が折り重なるようにして倒れているテラフォーマーの死骸だった。

 それらの死骸は先程、バグズ1号で戦ったテラフォーマー達と同様に膨らんだり縮んだりしていた――などということはなく。注視するまでもない、本当にただのテラフォーマー達の死骸だ。一見すれば、何ら違和を感じさせるものはない。

 

 だが、イヴは見逃さなかった。本当に小さなその違和感を。()()()()()()()()()()()()()()()()()というその事実を。

 

 

 ベキッ!

 

 

 一際大きな音が管制室内に響く。すると、まるでその音に呼応するかのように、突然死骸の山が崩れ、その下から異様な物体が顔を出した。

 

 

――それは、黒い楕円体の物体だった。

 

 

 粘液に塗れたそれは正面に切れ込みがあり、よく見ると微かに動いているのが分かる。さながら黒いつぼみのように見えるそれは、生きていたのだ。それに気づいた瞬間、イヴの全身を不気味な悪寒が襲った。

 

「あ、あれって、まさか……!」

 

 奈々緒の顔から、見る間に血の気が失せていく。皮肉にもウッドたちが裏切った理由を聞いていたがために、彼らはすぐにその正体に思い当たった。

 

「テラフォーマーの、卵……!」

 

 

 ―― ビ キ ッ 、 ビ キ ッ 。

 

 

 ティンのその言葉に答えるかのように、テラフォーマーの卵鞘は音を立てて蠢く。断続的に聞こえていた音は徐々にその間隔が短くなっており、その表面に入っているひびも少しずつその範囲を広げていた。

 

「まさか……もう、孵化が始まってるのか……!?」

 

 一郎が驚愕を隠し切れない様子でつぶやく。彼らの目の前で、卵鞘は不気味な破壊音と共に、いよいよその形状を変えていく。

 

「お、おい! 生まれるぞ!」

 

 小吉が叫んだその瞬間、とうとう卵鞘はその楕円の形を完全に崩壊させた。そして、彼らの目の前で――

 

 

 

 

 

その黒いつぼみは、花開いた。

 

 

 

 

 

 




オマケ NGシーン

小吉「イヴ。その身体調査、俺にもぜひ手伝わせてくれ」キリッ

イヴ「あ、手伝ってくれるの? それじゃあ、小吉さんは一郎さんをお願い!」

小吉・一郎「!?」





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第19話 DEAMONS ANABASIS 悪魔の進軍

 何かが剥がれるような、あるいは引き裂かれるような。

 

 そんな不快な音を立てながら、黒いつぼみはついに、小吉達の目の前で花開いた。

 

「……!」

 

 おぞましい光景に言葉を失う彼らの前で、卵鞘が突き破られる。卵鞘の中を満たす粘液を滴らせ、中から姿を現したのは3匹のテラフォーマーだった。

 生まれたてにも関わらず、黒い甲皮に覆われたその体は既に通常のテラフォーマーと同じだけの体格を有している。頭髪のない頭部には、まるで何かを象徴するかのようにそれぞれ『・|・』『\・/』『―・―』の模様が刻まれていた。

 

「じょうじ」

 

「じぎぎ」

 

「……ぎじょう」

 

 彼らは生まれたてであることを微塵も感じさせないしっかりとした足取りで卵鞘の残骸の上に立ち上がり、不気味な産声を上げた。まだ周囲の状況が認識できていないのか目の前の人間に襲い掛かるようなそぶりは見せず、無防備にキョロキョロと周囲を見回している。

 

 

 

 ――動くのなら、今しかない。

 

 

 

 そう判断したイヴは、すぐさまテラフォーマー達を目掛けて3本の注射器を投げつけた。ダーツのように飛んだ注射器は、彼らの眉間に突き刺さり、勢いのままにその中身を彼らの脳へと流し込む。テラフォーマー達は一瞬の間をおいて大きく目を見開くと、小刻みに体を震わせ始めた。

 

「『動かないで』!」

 

 イヴが声を張り上げれば、彼らはその体を一際大きく痙攣させ、その場に直立した。それを確認してから、イヴは油断なく警杖を構える。

 

「今のって……」

 

「ウッドさんから取り上げた、“エメラルドゴキブリバチの毒”」

 

 自らを見つめる奈々緒に、イヴが答えた。

 

 彼が投げつけた注射器は、たった今ウッドから取り上げたもの。つまりその中身は、他生物を意のままに操るエメラルドゴキブリバチの毒である。

 

 中枢神経付近に打ち込めば対象生物を容易く操れるそれを、イヴは()()()()()()()()()。この時点で既に、勝敗は決したも同然。しかしイヴは依然として、その顔を緊張で強張らせていた。

 

「……効いてるといいんだけど」

 

 そう言いながらも、イヴは心のどこかで確信めいた不安を手放せなかった。できれば外れていてほしい、と祈りながら、彼はテラフォーマーたちを見つめる。

 

 ――だが、彼の危惧は最悪の形で的中することになる。

 

「じょうじ。ぎ、ぎじょう」

 

 制止を命じられたはずのテラフォーマーが、再び動き出したのだ。

 

「なっ……!?」

 

 驚く一同を尻目に、3匹の内『・|・』と『\・/』の模様を額に持つ2匹のテラフォーマーは、自らの眉間から注射器を抜き取る。そして彼らは、あろうことかそれを床へと放り捨てていた。

 

 彼らに毒が効いていないのは、火を見るよりも明らかだった。

 

「効いてない……!? まさかこいつら、イヴと同じ薬効耐性持ちなのか!?」

 

「いや、違う! これは――」

 

 小吉の口をついて出た疑問に一郎が答えようとした、その時。

 

「……じぎ。じぎぎ」

 

 先程注射器を投げ捨てた2匹のテラフォーマーが、そんな声を発した。小吉達の視線を一斉に集めることになるが、彼らはその耳障りな鳴き声を止めることはない。むしろ、初めのうちは途切れ途切れだったその声の間隔は、徐々に短くなっていた。

 

 そしてその声が途切れなく連続で響き渡ったその瞬間、小吉達はその鳴き声の意味を理解した。

 

「じぎ、じぎギぎぎぎギぎぎィ!」

 

 それは、笑いだった。

 

 己の口角を吊り上げ、気味の悪い耳障りな声で、テラフォーマー達は確かに笑っていた。そう、彼らは()()()()()()()()、目の前の人間を。

 2匹のテラフォーマーは床に転がった注射器を、これ見よがしに踏みつぶした。その様子はまるで「こんなものが効くとでも思っていたのか」と、小馬鹿にしているかのようだった。

 

「――進化だ」

 

 一郎の口から、先程の小吉の疑問に対する答えが告げられた。一見して荒唐無稽とも思える彼の言葉はしかし、その場にいる誰もが腑に落ちた。目の前で笑うテラフォーマー達は、()()()()()()()()()()()()()()。より発達した認知能力を持っているのであろう2匹に、小吉達は自ずと警戒の色を強く滲ませた。

 

 しかし、その状況下にあってただ一人、イヴだけは他の2匹ではなく、残る1匹――額に『―・―』の模様を持つテラフォーマーに意識を向けていた。

 

(――観察、してる?)

 

 その個体は他の二匹と違って注射器を破壊することなく、自らの額から引き抜いた注射器を観察していたのだ。

 

 どんな形状で、どんな仕組みなのか。それを確かめるかのように、『―・―』のテラフォーマーは注射器を凝視する。時々角度を変えてみたり、ピストンを押してみたりと……両脇の個体に比べて静かで目立たないが、その行動がイヴには一層不気味に見えた。

 

「じょう」

 

 不意に、そのテラフォーマーは顔を上げた。どうやら、イヴに見られていることに気が付いたらしい。それまで注射器に向けていた視線が、イヴの青い瞳を見据えたのだ。 それからそのテラフォーマーは、まるでモルモットを観察する研究者のように、好奇心の視線で以て、イヴの全身を舐め回す。

 

「……じょう」

 

 数秒の後、一通りイヴの観察を終えたらしいテラフォーマーはただ一声そう鳴く。そして――一切の予備動作無く、手中の注射器をイヴ目掛けて投擲した。

 

「うわっ!?」

 

 テラフォーマーの目を注視していたイヴは、その攻撃への判断が遅れる。彼は反射のままに、注射器を咄嗟に警杖で払い除けた――()()()()()()()()()

 

「あっ……!」

 

 イヴの脳裏で、今の状況とリーと戦った時の記憶が重なる。あの時、リーは投げたナイフを囮にして、彼の懐に飛び込んできた。

 

 しまった、と思った時にはもう遅い。

 

 イヴの視界一杯に、『―・―』の模様を刻んだ黒い悪魔の顔が広がった。

 

「っ……!」

 

 回避は間に合わない。

 

 そう判断したイヴは、自身とテラフォーマーの間に警杖を滑り込ませた。直後、両手で固く握りしめた警杖越しに、イヴの腹部へと膝蹴りが叩き込まれた。

 

 時速300kmの助走から繰り出された蹴りは、軽い自動車の衝突にも匹敵する破壊力を持つ。辛うじて耐えた警杖ごとイヴの体は吹き飛ばされ、室内の壁に叩きつけられた。衝撃で肺の中から空気が一気に吐き出されてしまい、イヴは喘ぐように咳き込む。霞む目で前方を見やれば、『―・―』のテラフォーマーは満身創痍のイヴにとどめを刺すべく、駆け出そうとしていた。

 

「させるかッ!」

 

 そんな『―・―』のテラフォーマーの前に、小吉がその身を躍らせた。彼はイヴを背にするようにして立つと、突進してきたテラフォーマーを勢いそのままに投げ飛ばした。

 

「ティン! 今の内にイヴをッ!」

 

 受け身をとり、体勢を即座に立て直したテラフォーマーから目を離すことなく、小吉がティンに叫んだ。

 

「ああ!」

 

 そう答えてティンがイヴに駆け寄ろうとするも、『・|・』のテラフォーマーが、すかさずティンの前に立ちはだかり、その進路を阻む。

 

「どけッ!」

 

 テラフォーマーの頭部目掛け、ティンがサバクトビバッタの豪脚を振るう。『・|・』のテラフォーマーはその攻撃をしゃがんで躱すと、そのまま軸足に蹴りを打ち込んだ。

 

 ぐらり、とティンの視界が傾く。その腹部目掛けて、テラフォーマーは思い切り掌底を放った。

 

「がッ……!」

 

 もろに攻撃を受けてしまったティンの体はボールのように地面を転がると、壁にぶつかって止まった。ごぽっ、という嫌な音をたてて、彼の口から赤黒い液体が零れる。

 

「ティンッ!?」

 

 ぎょっとして振り向いた小吉に、『・|・』のテラフォーマーがそのまま飛び掛かった。虫の息の害虫(にんげん)より、自らに危害を加えうる元気な害虫(にんげん)の方が脅威だと考えたのだろう。

 

「くそッ!」

 

 連続で放たれる拳をいなしつつ、小吉がやむを得ずその個体と対峙したその時、今度は反対側から悲鳴とうめき声が聞こえた。

 

 拳撃の応酬の中で一瞬だけチラと視線を見やれば、地面にうつ伏せに倒れた一郎と、動揺した様子で彼の体を揺するウッド、そして彼らを見下ろす『\・/』のテラフォーマーの姿が目に入った。

 

 まずい、と小吉の頬を冷や汗が伝う。

 

 おそらく身を挺してテラフォーマーの一撃からウッドを庇ったのだろう、地面に倒れた一郎は完全に気を失っているらしく、動く気配がない。一方ウッドは、薬を没収された上に手が拘束されている非戦闘員。今の彼女たちを殺すのは、テラフォーマーにとって赤子の手をひねるよりも容易い。

 

 いかに裏切ったとはいえ、彼らもまた寝食を共にしたバグズ2号の乗り組員。助けに入りたいが、目の前の敵はそんなことを許しはしないだろう。

 

 悔し気な小吉の視界の隅で、テラフォーマーが腰を低く落とした。おそらく蹴りを放つつもりなのだろう、その黒い脚の筋肉が強張ったのが分かった。

 狙いをウッドの頭部に定めたテラフォーマーが、脚に溜めた力でもって彼女の首をへし折ろうとした――まさにその瞬間。

 

「お、りゃあ!」

 

 そんな掛け声が管制室に響き、同時に『\・/』のテラフォーマーの頭部を何かが穿った。

 

「ッ……!?」

 

 それは急所を打ったとはいえ、そのテラフォーマーにとって対した威力の攻撃ではなかった。だが自分が不意打ちを受けてしまったという事実を認識した『\・/』のテラフォーマーは、即座にウッドたちからバックステップで距離をとった。

 

「っし、今なら!」

 

 そんな声と共に、奈々緒がウッドと一郎の前に体を滑り込ませた。驚くウッドの前で彼女は自分達を取り囲むように糸を張り巡らせ、鋼鉄の絹糸による即席の結界を編み上げた。糸の頑丈性もあって、いかにテラフォーマーであってもすぐには破れないだろう。

 

「こっちは大丈夫! 小吉、目の前の敵に集中して!」

 

 奈々緒の声で我に返り、小吉は再び『・|・』のテラフォーマーへと意識を集中させた。

 

 テラフォーマーと小吉の実力はほぼ互角であり、優位にこそ立てないが劣勢に陥っているということもない。油断ならない状況ではあるが、裏を返せばそれは自分と戦っている間、この個体はティンやイヴには手を出せない。『\・/』のテラフォーマーも、奈々緒が引き付けている。

 

 これならば――

 

(――いや、待て)

 

 小吉が現状に微かな希望を見出そうとしたその時、その脳裏に黒い影の姿がよぎった。

 

()()()()()()()()()()()!?)

 

 『―・―』のテラフォーマーの存在を思い出した小吉は、後退して『・|・』のテラフォーマーと間合いを取り、素早く周囲へと目を走らせた。

 

 ――いた。

 

 そのテラフォーマーは先程投げ飛ばされ、立て直した状態から一切姿勢を変えず、ただただ戦況を俯瞰していた。その様子は、まるで将棋盤を眺めて次の一手を考える棋士のようにも見える。

 じっと室内を眺めていた『―・―』のテラフォーマーは、一言だけ何かを呟くとゆっくり立ち上がった。それから大きく息を吸い込むと、

 

「ジョオオォウ!」

 

 という、奇妙な雄叫びを上げた。

 

 その不可解な行動に、小吉達は怪訝そうに眉を潜める。だが、すぐに彼らは屋外の異変に気が付いた。

 

 先程まで窓から差し込んでいたはずの光が、一筋すらも見えなくなっていたのだ。それどころか、外はまるで夜のように暗い。

 

(夜……!? いや、さっき夜明けを迎えたばかりだったはず!)

 

 嫌な予感が胸中をよぎり、奈々緒が窓へと目を向ける。

 

 

 

 ――そこには窓ガラスにべったりと張り付いた、無数のテラフォーマー達がいた。

 

 

 

「なん――!?」

 

 あまりにも不気味なその光景に言葉を失う一同の前で、テラフォーマー達は力任せに窓を叩き始めた。管制室の中に、バン、バン、バンという音が四方八方から響き始めた。

 

 いかに宇宙空間用の特殊なガラスと言えども、数百のゴキブリの拳で延々と殴られ続けて、耐えられるはずもない。

 数秒は持ちこたえたものの、そのままガシャン! という音と共に窓ガラスは呆気なく砕け、管制室には次々とテラフォーマーたちが乗り込んできた。

 

「じょじぎ。じょーう」

 

 『―・―』のテラフォーマーが、乗り込んできた新手のテラフォーマー達に対して、何事か指示を出した。するとテラフォーマー達はそれに答えるかのように触角を揺らすと、一斉に奈々緒の張った糸の防壁へと殺到した。

 

 予想できていなかった事態に、奈々緒が驚愕の表情を浮かべる。直後、彼女たちは悲鳴を上げる間もなく、糸の防壁ごと黒い濁流に飲み込まれた。

 『\・/』のテラフォーマーは黒い球体のように盛り上がったソレを、ニヤついた笑みを浮かべながら眺めている。

 

「う、嘘だろ!? おい、アキ! アキッ!!」

 

 絶望の形相で叫んだ小吉に、『・|・』のテラフォーマーが容赦なく打ち掛かった。一瞬の隙すらも逃すまいと繰り出されるその攻撃に、小吉は幼馴染の安否を気に掛けることすら許されず再び戦闘へと引きずり戻された。

 

 彼らの攻防の横を通り過ぎ、『―・―』のテラフォーマーは無防備になったイヴへと、ゆっくり近付いていく。

 

「じょう」

 

 彼はイヴの前で足を止めると、一声そう鳴いた。後方の2匹と違って、その顔に笑みはない。ただその目には「こんなものか」と言わんばかりの、どこか失望にも似た光が灯っているように見えた。

 

「ぐっ……!?」

 

 イヴは何とか立ち上がろうとするが、回復しきっていないその体は思うように動かない。もがく彼の前で、『―・―』のテラフォーマーはただ静かに、その右手を振り上げた。

 

 そして――。

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「チッ、こいつら……狙いを俺達から小吉(サムライ)共に変えやがったな」

 

 目の前でテラフォーマー達がとった唐突なその行動の真意を見抜き、野外で戦闘を行っていたリーは不快そうにそんな声を漏らした。

 

 先程まで包囲を固めるように立っていたテラフォーマー達が突然、一斉にバグズ2号へと向かって駆け出したのだ。彼らはそのままバグズ2号の外壁に張り付くと、窓を割って次々と艦内に侵入していく。その光景に、釈然としない様子でミンミンが呟いた。

 

「……妙だな。あれだけ完璧に包囲しながら、なぜそれをわざわざ解いた……? こいつら、一体何を考えている?」

 

「さてな」

 

 リーは素っ気ない相槌を打つと、自分の考えを口にした。

 

「作戦が変更になったか、そもそもそういう作戦だったか……それとも」

 

 そこで一度言葉を切って、リーは目の前で拳を振り上げる漆黒の巨漢を見上げた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 まるでその言葉が合図だったかのように、力士型のテラフォーマーは力任せにその腕を振り下ろす。2人がそれぞれ左右へと飛び退いた直後、一瞬前まで彼らが立っていた地面を丸太のような腕が砕いた。

 

「リー! 後ろだ!」

 

 ミンミンの声にリーがパッと振り返れば、彼の背後ではもう一体の力士型が両手を広げた姿勢で立っていた。反射的にリーがその場でしゃがんだその瞬間、彼の頭上で力士型の両手が打ち合わされる。バチン、という大きな音が響いた。

 

「助かったぜ、副長!」

 

 振り向かずにそう言ったリーは両手を突き出し、お返しとばかりに力士型のテラフォーマーに高熱ガスを撃ち込んだ。

 もっとも、度重なる戦闘の中でテラフォーマーに高熱が効かないのは重々承知。故に今の一撃は、ただの目くらましでしかない。

 

 立ち昇る黒煙に紛れるようにして、リーは力士型の背後に回り込む。それからリーは掌を地面に向けると、そのままベンゾキノンを噴射した。

 

「フンッ!」

 

 ガス噴射を推力に空中へと飛びあがったリーは、そのまま無防備な力士型のうなじへと蹴りを叩きこんだ。運動神経の束が存在する頸椎を破壊することで、力士型の動きを止めようと考えたのだ。

 

「じょう」

 

 だが、それも効いた様子はなく。

 

 力士型は首周りの骨を二、三度パキパキと鳴らすと、何事もなかったかのように振り返ってリーに一瞥をくれた。

 

「これも駄目か」

 

 平然としている力士型に、リーは吐き捨てるようにそう言う。

 既に戦闘が始まってからかなりの時間が経過しているが、彼は未だに力士型に有効打を与えられていない。チラリと視線をミンミンに向ければ、彼女もやはり力士型にはてこずっているようだった。

 

 ――力士型のテラフォーマーは幼少期から動物性蛋白質を摂取し続けることで、2mを超す巨体と200kgに及ぶ体重を有している。

 その巨体から繰り出される攻撃は一発一発が速く、そして重い。まともに受ければ即死は免れない以上躱すしか対策はとれず、どうしても攻勢に出ることができないのが現状だった。

 

 力士型のテラフォーマーの攻撃を避け、気休めに効果の薄い反撃を叩きこむ。その繰り返しで、ただただ時間だけが過ぎていく。

 

「このままじゃジリ貧だな……」

 

 状況は一見して拮抗しているように見えて、その実リー達は着実に追い込まれていた。彼らの肉体は数々の戦闘を経て体力的に消耗しており、対する力士型達は未だ体力を温存していたからだ。

 

 ――このままでは、いずれ敗ける。

 

 2人は奇しくも同じタイミングで、全く同じ危機感を抱く。そして彼らの危惧は図らずも、更に戦闘が数分ほど経過した頃に現実のものとなる。

 

「はっ!」

 

 ミンミンがそんな掛け声とともに、攻撃直後で傾いたテラフォーマーの体に鎌状の右腕を振り下ろす。

 

 それが通常のテラフォーマーであったなら、ここで勝敗は決していただろう。

 

 だが相手は、テラフォーマーの戦士階級にして、通常の個体の3倍近い瞬発力と筋力を有する、力士型のテラフォーマー。

 彼はその尋常ならざる反射神経で彼女の攻撃を見切り、大鎌を側面から指で挟み込むことで、斬撃を防いだのだ。

 

「しまった――」

 

 ――己の判断の誤りに気づいた時には、もう遅い。

 

 ブチッ! という筋繊維の千切れる音と共に、ミンミンの右肘から先が、赤い飛沫を撒き散らしながら、彼女の体から離れていった。

 

「が、ぐ……!」

 

 ミンミンは歯を食いしばり、苦痛の悲鳴を何とか抑え込む。だが、それに費やした僅かな時間が、彼女にとっての正真正銘の『隙』となった。

 

「じょうじ」

 

 一瞬だけ動きを止めたミンミンに向け、力士型のテラフォーマーは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「っく……!」

 

 ――何体ものテラフォーマーを葬り去ったミンミンの武器が今、テラフォーマーによって彼女自身の命を刈り取ろうとしている。避けようにも、瞬き一つ分ほどの時間が足りない。

 その事実に気が付いたミンミンが激痛と屈辱で顔を歪めたその時、力士型の腕を一筋の熱光線が穿った。腹の底に響くような爆音と共に火炎がはじけ、力士型の手にあったミンミンの右腕は、炎を上げながら遠くへと吹き飛ばされる。

 

 ミンミンは咄嗟に地面を蹴って、力士型との距離をとった。光線が飛んできた方を見やれば、彼女の目にはこちらに向かって両掌を突き付けているリーの姿が映った。

 

「リー!!」

 

 ミンミンは彼の名を呼ぶ。

 

 それは礼を言うためではなく、かといって叱咤するためでもなく、『警告』の叫びだった。彼女の目には、完全に無防備になったリーに死角から、もう一匹の力士型が高速で彼に詰め寄っていたのだ。

 

「チィッ!」

 

 それに気づいたリーは攻撃を躱そうとするが、力士型が拳を振り抜く方が速い。

 

 力士型の拳がリーの腹を打ち、何かが砕けたような音と共に、彼の体はくの字に折れ曲がってミンミンの方へと吹き飛んだ。地面に激突したリーの体は、砂利を跳ね飛ばしながら転がると、ミンミンから数m離れた位置で止まった。

 

「しっかりしろ! リー、意識はあるか!?」

 

「問題ねェ。まだ生きてる」

 

 自らの名を呼びながら駆け寄ってきたミンミンにリーは片手を上げて応えると、軋む体に鞭打って上体を起こした。

 

「外傷は?」

 

「肋骨が数本に、左肩脱臼ってとこか。絶好調だぜ、クソッたれ」

 

 ミンミンの短い問いに、リーはせりあがってきた血反吐を吐き捨てながら答えた。

 

 咄嗟に拳と同じ方向に飛び退くことで威力は殺したつもりだったが、どうやら相殺しきれていなかったらしい。裏を返せば、ある程度威力を軽減できたからこそ、この程度の怪我で済んでいると言えなくもないが。

 

 いずれにせよ、2人の負った傷は決して軽いものではない。形勢は既に、取り返しがつかない程に傾いていた。

 

「詰んだな、こりゃ」

 

「ああ、認めたくはないが」

 

 自分達を挟み込むようにして徐々に近づいてくる力士型を見て、彼らは淡々とした口調で言った。

 

 片や片腕を失くしたカマキリ、片や満足に動くことも叶いそうにないゴミムシ。対する敵は地力でこちらに勝りながら損傷軽微。

 

 漫画でもあるまいし、この状況からの逆転は万が一にもないだろう。百戦錬磨の彼らはそれを悟りながら、しかしその目になおも闘志の光を灯し続けた。

 

「ま、だからってむざむざ殺されてやる気もねェがな」

 

 そう言ってリーは、胸に走る激痛に顔をしかめながらも立ち上がると、こちらへと歩みを進める力士型を、正面から睨みつけた。

 

 ――物心ついて以来イスラエルの武装勢力に身を置いていた彼にとって、思い出すべき走馬燈などほとんどない。

 

 事実、死を覚悟した彼の脳裏によぎったのは地球に置いてきた妻と娘のこと、そしてイヴや小吉を始めとするバグズ2号での乗組員たちとの記憶だけだった。

 

 だが、それだけでも戦う理由としては十分。リーは肩に羽織ったマントで口元の血を強引にぬぐい取ると、ニタリと獰猛な笑みを浮かべた。

 

「気に入った奴らのために戦って死ぬ……フン、最期としちゃ悪くねェ」

 

「――ああ、そうだな」

 

 リーの言葉に相槌を打つと、ミンミンは彼と背中合わせになるように立ちあがった。彼女の脳裏に蘇るのは、今の自分の原点となる記憶。

 

 どんよりと曇った空の下で全てが『緑』に染め上げられた村と、商品として出荷されていく人々、そしてそこで『国を根本から変える』ことを誓い合った幼少期の自分と、あどけない一人の少年の姿だった。

 

 ミンミンは記憶の中の少年に微笑み、そして小さく謝罪の言葉を口にした。

 

「……すまない、翊武(イーウ)。どうやら私は、ここまでらしい」

 

 

 

 ――お前は生きて、少しでもこの世界を良くしてくれ。

 

 

 

「……よし。やるぞ、リー」

 

 決意を共にした友人に別れを告げ、ミンミンは顔を引き締める。それから彼女は大きく息を吐くと、残された左腕の大鎌を力士型に向けて構えた。

 

「了解……そら、かかってきなデカブツ」

 

 ミンミンの言葉に短く答えると、リーは無事な方の右手に握られたナイフの切っ先を力士型へと向けた。

 

 その顔に浮かぶは、死地に臨む戦士の形相。自らの生存すらも計算から除外し、己の誇りに殉ずることを選んだ、気高き『人』としての意志であった。

 

 

 

「「相討ちになってでも、お前を倒す!」」

 

 

 

 そして彼らは、眼前に迫りくる黒い悪魔に自ら飛び込んだ。

 




【オマケ】孵化シーンの感想

小吉「……超どうでもいいんだが、精々デカいゴミ箱くらいの大きさしかないあの卵鞘に、どうやってあいつら3匹も入ってたんだ?」

奈々緒「ツッコんだら負けだぞ、小吉」






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第20話 COUNTER ATTACK 反撃

 現在、活動報告にてアンケートを行っています。内容は本作の第二章についてになります。1人でも多くの方の意見を聞かせていただけると嬉しいです。
 
 どうかご協力のほど、よろしくお願いします。


 現実は、苦い。

 

 どれだけ努力しようとも報われぬ者は報われない。

 

 危機的状況において好敵手が手を差し伸べるようなことはない。

 

 追い詰められて新たな力が覚醒することはない。

 

 死ぬときにはあっさり死ぬ。

 

 そして何より、奇跡などという都合のいい事象は起こり得ない。

 

 

 

 

 それを知っていたがゆえに、リーとミンミンは迫りくる死を前にしても祈らなかった。

 

 神などといういるかも分からぬ存在に、己の結末を委ねるつもりはない。例え行き着く先で、骨を折られ、肉を裂かれ、血反吐と断末魔を絞り出した末に、荒涼とした凶星にその命を散らすことになろうとも。彼らは最期の瞬間まで、自分の運命は己の手で切り開くと心に決め、抗い続けた。

 

 

 

 ――現実は、苦い。

 

 

 

 結局のところ、リーとミンミンに奇跡が起こることはなかった。

 

 神は、祈らぬ者に救いを与えない。彼らの奮戦に勝利の女神は、あるい運命の女神は、決して微笑まなかったのである。

 

 

 

 

 

 

 ――だから。

 

 

 

 

 

 

 

「下がってください、副艦長ッ!」

 

 

「下がれ、リー!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

「下がってください、副艦長ッ!」

 

 その声を聴いた瞬間、ミンミンは反射的に己の体を後方へと引き戻していた。

 彼女の眼前で力士型のテラフォーマーが拳を大きく空振る。その無防備な脇腹に、轟音と共に何かが高速で激突したのを、彼女の目は捉えた。

 

「なッ……!」

 

 ミンミンの目が大きく見開かれる。それは、先程まで自分達が乗っていた六輪車だったのだ。運転席にはジョーンが乗り込んでおり、後部の荷台には車体にしがみついているテジャスの姿も見られた。

いかに筋力が発達した力士型のテラフォーマーであっても、死角からの攻撃には即座に対応できなかった。車体の先頭部分を大きくゆがませながらも、六輪車は力士型の巨体を突き飛ばすことに成功する。

 

「うおおおおおおおおおおおお!」

 

 ジョーンが雄叫びを上げ、更にアクセルを踏み込む。すると六輪車は、今にも壊れそうな音を発しながら、よろめいている力士型に向かって再び突進した。

 

「じッ!」

 

 それを見た力士型は素早く態勢を立て直し、自らに突進してくる六輪車に向かって仁王立ちになった。直後、六輪車と力士型の巨体がぶつかり、大きな激突音が周囲に響き渡った。車体のフロントガラスが跡形もなく吹き飛び、力士型の逞しい腹筋を包む黒い甲皮にひびが刻まれる。さすがに力士型の怪力を押し切るには至らず、六輪車は力士型の巨体を数mばかり後方へと押しやったところで動きを止めた。

 

「副艦長、ご無事ですかっ!?」

 

 その光景を呆然とした様子で見つめるミンミンに、背後からそんな声が掛けられた。ミンミンが振り向くと、必死の表情でジャイナが走ってくるのが目に入った。

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

「下がれ、リー!」

 

 目の前で大きく腕を振りかぶった力士型の懐へとまさに飛び込もうとしたその時、リーの耳はそんな言葉を聞いた。

咄嗟に飛び退いたリーの横を、高速で何かが通過する。それはリーと入れ替わるようにして前に出ると、まるで力士型を挑発するように、彼の顔の周りを飛び回った。

 

「じょう……」

 

 脅威ではない――だが、目障りだ。

 

 予期せぬ乱入者にそう判断を下した力士型は狙いを変え、ブンブンと羽音をたてながら飛び回るそれ目掛けて、腕を振り下ろした。

 剛腕が風を切り、その威力に地面がひび割れる。だが、大地を叩き割ったその腕に、獲物を仕留めた感覚はなかった。

 

「どこ狙ってんだ?」

 

 背後にそんな声を聞いた力士型は、振り向きざま今度は左腕を大きく薙ぐ。常人ならば目で追うことすら難しい速さで迫ったその一撃をひらりと躱し、声の主はそのまま空中で静止した。

 

「どうしたどうした? そんなんじゃ鬼蜻蜓(オレ)は落とせないぞ」

 

 力士型の目の前で、トシオ・ブライトが口端を吊り上げながら言った。鮮やかな緑色をした彼の複眼が、太陽の光を照り返してギラリと光った。

 

「――おっと残念、また外れ」

 

 三度振るわれたその腕を宙返りで難なくいなし、トシオが小馬鹿にするように言った。いかに力士型の一撃が速くとも、回避に専念した鬼蜻蜓にそれを当てるのは至難の業。そしてどれだけその一撃が重くとも、当たらなければ意味はない。

 

 次々と繰り出される力士型の攻撃を、トシオは軽々と避けていく。力士型の意識は、すっかりリーから外れていた。

 

「リー! 無事か!?」

 

 聞こえた足音にリーが肩越しに背後を見ると、自身に駆け寄るルドンの姿が見えた。自身のみを案じているのだろう、その顔には不安そうな表情が張り付いていた。

 

「まずいな、左肩が外れてやがる。それにその血の量、内臓もやられたか……!」

 

 ぶらりと垂れて動かない左腕に、口から流れる血の筋。それを見て傷の深さを悟ったルドンの顔から、血の気が引いていく。そんな彼の様子に、リーは鼻を鳴らした。

 

「んなもんはどうだっていい、慣れっこだ。それよりもアメリカ人――こいつは何の真似だ? 加勢を頼んだ覚えはねえぞ」

 

 どこか険しさの滲む口調でリーが問う。彼の言葉は言外に、“余計なことをするな”と告げていた。あの力士型の実力を、身をもって知ったが故に。彼は仲間が無駄死にするのを、みすみす見逃すわけにはいかなかった。

 

「そうだな……だが、仲間がやられそうなのを、黙って見てるわけにもいかないだろ?」

 

 ――しかしその想いは、()()()()()

 

 微かに見開かれたリーの目を、ルドンは真っすぐに見つめた。

 

「リー、副艦長と一緒にバグズ2号まで退却しろ。奴は俺達で仕留める」

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

「馬鹿なことを言うな!」

 

 力士型の相手を自分達に任せ、バグズ2号まで撤退しろ。

 

 ジャイナの口から告げられた言葉の意味を理解したその瞬間、無意識の内にミンミンは彼女のことを怒鳴りつけていた。その気迫に、思わずジャイナが身を竦ませる。

 

「奴らはお前たちが敵う相手じゃない! それに、ここで退いたら私達は何のために戦ったのか――」

 

「だッ、だからこそッ!」

 

 ――だが、この時ばかりはジャイナも頑として譲らなかった。

 

「だからこそなんです、副艦長!」

 

 ミンミンの怒声にも負けない大きさで、ジャイナが叫んだ。普段の引っ込み思案で自信なさげな様子は影もなく、彼女の顔には凄烈な激情が浮かんでいた。初めて聞いた、同僚の叫び声。今度はミンミンが閉口する番だった。

 

「副艦長達は火星に来てからずっと、私達を守ってくれた! 艦長もイヴ君も、他の皆も……誰も、戦闘では足手まといな私達を見捨てようとしなかった!」

 

 ジャイナは興奮で涙ぐんだ目をぐいとぬぐい、呼吸を整えてから言葉を続けた。

 

「だから、今度は私達が副艦長達を守るんです。副艦長やリーが殺されそうになっているのを黙って見ているなんて、できません」

 

 それが、非戦闘員(わたしたち)の総意です、と。

 

 泣き笑いを浮かべてそう言ったジャイナを、ミンミンは愕然とした様子で見つめた。

 

「本気で、言っているのか?」

 

「はい」

 

「私達でも勝てなかった相手だ」

 

「知っています」

 

「……死ぬぞ?」

 

「覚悟の上です」

 

 ジャイナが凛とした口調でミンミンに応える。一体いつから、彼女はこんなにも強くなったのだろうか。ミンミンの脳裏に、そんな場違いな考えがよぎった。

 

「それに、大丈夫です」

 

 そう言って、ジャイナは何かを確信したような笑みを浮かべた。

 

「私達はただでやられるつもりなんて、これっぽちもありませんから」

 

 その時、背後でミシミシと何かが軋むような音が鳴ったのを、ミンミンは聞いた。嫌な予感に胸がざわつき、彼女は思わず後方へと振り返った。

 

 彼女の背後では変わらず、六輪車と力士型の膠着状態が続いていた。だがほとんど変わらないその光景にはたった一ヶ所だけ、ミンミンが最後に見た時とは決定的に違っている点があった。

 

 力士型の丸太のような両腕。それに支えられた六輪車の前輪が、地面から明らかに浮いていたのだ。

 

「じょうっ……!」

 

 ビキッ、と力士型の腕に血管が浮き上がった。すると車体の前輪が更に地面から引き離され、空中で虚しくタイヤが空回る音が響く。どうやら力士型は、六輪車を真っ向から投げ飛ばそうとしているらしかった。

 

「ぐっ……!」

 

 ジョーンが更にアクセルを踏み込む。タイヤの回転速度は最高潮に達し、後輪が砂利を巻き上げながら回転する。しかし、既に地面から数十cmばかり前輪を持ち上げられた六輪車はもはや万全の力を掛けることは叶わず、それを押さえる力士型の巨体もビクともしなかった。

 

「ッ、まずい! お前たち、逃げろ!」

 

 その様子を見ていたミンミンが、車を操縦するジョーンに向かって叫んだ。このまま膠着状態が続けば、いずれ六輪車が引っ繰り返されてしまうのは明らか。そうなれば、乗っている2人はただではすまないだろう。

 しかしジョーンは、その声を聞いてもなお逃げ出す様子を見せなかった。彼は目の前の力士型から頑として視線をそらさず、ありったけの声で叫んだ。

 

「テジャス! やれッ!」

 

「任せろ!」

 

 ジョーンの呼びかけにテジャスは応えると、大きく息を吸い込んだ。まるで火星中の大気を吸い尽くさんとするかのように、彼はありったけの空気を吸い込むと一瞬だけ息を止め――それを、全力で吐き出した。

 

 

 彼の口から吹き出されたのは、まさしく暴風だった。

 

 

 突風は砂塵を巻き上げ、彼らを取り囲む炎の壁すらも消し飛ばす。凄まじい風圧を背負った六輪車を止めきれずに、力士型の体は目に見えて後方へと押され始めた。ざりざりという音と共に力士型の足の周りの土が抉れ、それが長い線となって大地に刻まれる。既に、力の均衡は完全に崩れていた。

 

「じ、じィィ!」

 

 さすがに不味い、と思ったのだろう。力士型は悲鳴のような声を上げると、六輪車を持ち上げようとしていたその両腕にありったけの力を込め、車体の軌道を大きく逸らした。

 

 無理やり進路を曲げられた六輪車は力士型の脇を高速で走り抜け、勢い余って横転した。投げ出されたテジャスとジョーンが地面に転がり、全身を強かに打ち付けた2人の口から苦悶のうめき声が漏れる。

 

「じょう、じじ」

 

 ジロリ、と力士型は2人を見つめながら鳴いた。相変わらずの無表情だが、その様子はどこか勝ち誇っているように見えた。

 

「っぐ、あの野郎、見下しやがって……」

 

 地面に腹這いになったテジャスが、力士型を睨みながら吐き捨てた。衝撃で負った怪我から血が溢れ、彼の顔をべったりと濡らしている。そんな彼の横に倒れ込んでいるジョーンも同意の声を上げた。

 

「ああ、まったくだ。けど、これで――」

 

 だが彼はそこで一旦言葉を切ると、ジョーンはその生傷だらけの顔に、満足げな笑みを浮かべた。

 

「あのマッチョ野郎に、一泡吹かせれる」

 

 

 

 ――その瞬間。

 

 

 

 ジョーンがその言葉を言い終わるか終わらないか、というタイミングで、力士型の鋭敏な聴覚は、自らの足元で何かがひび割れるような音を拾った。違和感を覚えた力士型が視線を下に向けようとしたその瞬間、突如として()()()()()()()()()()()()()()

 

「じっ……!?」

 

 予想だにしていなかったその現象に、力士型の反応はコンマ数秒遅れる。力士型の体が、足元にできた穴に吸い込まれる。穴の口がさほど広くなかったために胸骨がつかえ、そのまま落下してしまう事態は避けられたものの、結果的に力士型はその上半身を、無防備に地上へと晒すこととなってしまった。

 

「じょうッ……!?」

 

 穴を抜け出そうと、力士型は四肢を動かしてじたばたともがく。そんな彼の両足を、何かが掴んだ。その感覚に、微かに力士型の目が見開かれる。もしも彼が仮に、地中の音を聞くことができたのならば、おそらく彼はこんな声を聴いていただろう。

 

 

「そう簡単に、逃がすかよッ……!」

 

 

 人間大のケラに変異したフワンは地中――己が用意した落とし穴の中で、決死の思いで呟く。ミット状に変化したその両手には、力士型の太い両足が握られていた。

 

 掘削能力を持つ昆虫の腕力は、総じてかなり強い。ケラもその例外ではなく、ただでさえ身動きがとり辛く狭い空間内ということもあって、力士型は両足に組み付いたフワンの腕を振り払うことができなかった。

 

「ジャイナ、今の内に!」

 

 ジョーンはふらつきながら立ち上がると、ジャイナに叫んだ。その声にジャイナは頷き、傍らのミンミンへと顔を向けた。

 

「行きましょう、副艦長。肩をお貸しします」

 

 そう言ってジャイナは、大鎌に変化したミンミンの左腕を手に取った。

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

「チッ、やっぱりかっ……!」

 

 空中を飛び回っていたトシオは、この時初めて苦々しい表情を浮かべた。その原因は、目の前の力士型の行動があからさまに変化したことにあった。

 

(こいつ、俺が陽動だってことに気付きやがった――!)

 

 先程までトシオを振り払おうと躍起になっていた力士型だったが、今はもう彼に対する行動を一切取っていなかったのだ。もはやその目は完全にトシオを映していなかった。

 

「このッ、こっち見やがれ!」

 

 何とか注意を引き付けようと力士型の後頭部を蹴り飛ばすも、無反応。どうやら、トシオが自らを傷つける手段を持たないことも見抜いているらしい。力士型はトシオの行動の一切を無視して、リーに向かって歩き始めていた。

 

「もう少し引きつけたかったが……潮時か」

 

 トシオは呟くと一気に力士型から僅かに距離を取り、そして叫んだ。

 

「今だ、やれッ!」

 

 トシオの声が響く。それと同時に、バツンッ! という、何かが千切れたような、あるいは破裂したかのような音が周囲に響き渡った。そして次の瞬間、力士型は思い切り前のめりに倒れ込んだ。

 

「じょうッ……!?」

 

 力士型は慌てて立ち上がろうとし――そしてふと、違和感に気付いた。

 

 両足が動かないのだ。つい一瞬前まで自らの体を支えていたはずの足が、今はまるで自分の体ではないかのように、どれだけ力もうとも全く動かない。

 

 その原因は、すぐに分かった。力士型の両足にナイフが深々と突き刺さっていたのだ。人間達が持ち込んだのであろうメタリックな刃が自らの両足を貫いていたのを、力士型の目は映した。

 

 加えて力士型にとって不幸なことに、彼の脚に突き立てられたナイフにはとある劇薬が塗りこまれていた。

 

 “マイマイカブリの消化液”。

 

 体外消化によって獲物を捕食するマイマイカブリの分泌液は、たんぱく質を分解する性質がある。これにより力士型の足は断たれながらにして消化されており、その損傷をよりひどいものとしていた。

 

 そしてとどめとばかりに、ナイフが突き刺さっている場所は、『アキレス腱』と呼ばれる部位。ギリシア神話の大英雄であるアキレウスの名を由来とするこの腱は、疾走や跳躍などの運動の際に爪先や踵の動きを制御する役割を持っている。

 

 

 そのためこの部位を損傷した場合――歩行に重大な障害をきたすことは、避けられない。

 

 

「ギ、ギィイィイ!」

 

 余裕をなくして悲鳴を上げながら、力士型は考える。一体、自分はいつの間に刺されたのだ? あの目障りな人間も、目の前の死にかけの人間も、そしてそれを支える人間も、何かを仕掛けた様子はなかった。では、一体なぜ?

 

「っし、回収して即撤退っと!」

 

 そんな力士型の前を、何かを抱えたような姿勢でトシオが飛んでいく。彼はリー達の下まで一気に後退すると、彼は腕に抱えたものを慎重に降ろすようなしぐさを見せた。それを見たルドンがトシオの隣、()()()()()()()()()()()()()()口を開いた。

 

「ナイスだ、マリア! これで奴はもう動けない!」

 

 その時、力士型は彼の横の空間が揺らいだのを見た。そしてその直後、今まで何もなかったその場所に、突如として女性が現れたのも、やはり力士型の目は捉えていた。

 

 金色の髪と、柔らかな曲線で象られた華奢な肉体。一糸まとわぬ体を覆う美しい甲皮は燃え盛る炎の光りを美しく乱反射し、その体の輪郭をひどく曖昧にしていた。

 

「やってみてよかった……まさか、炎とニジイロクワガタの甲皮がここまで相性がいいなんて」

 

 疲れと、驚きと、達成感。それらが入り混じったような表情で、その女性――マリア・ビレンは呟いた。

 

 役目を果たし、衣類を身に纏い始めたマリアの姿を目にし、力士型はやっと自分の足を潰したのが彼女であることに気が付いた。

 

 おそらく彼女は、自分の注意が完全に逸れたその隙を突いたのだろう。通常ならばたとえ視覚を欺かれようとも、尾葉や触角である程度は補足が可能だ。しかし、度重なるリーの高熱ガスの噴射が、それらの機能を大幅に低下させていた。だからこそ、力士型は致命的なその一打を受けてしまった。

 

「さて、ここからは俺達が受け持とう」

 

「マリアは今の内に、リーをバグズ2号へ!」

 

 そう言ってルドンとトシオは、それぞれ腰を落として構えをとった。事前に打ち合わせてあったのか、マリアはためらう様子を見せずに頷くと、すぐさまリーへと向き直った。

 

「肩を貸すよ、リー。辛いと思うけど、何とかバグズ2号まで歩いて――」

 

「いや、肩は必要ねえ。その代り、腕を貸してくれ」

 

「……え?」

 

その言葉の意味が分からずに顔を見合わせた3人に、リーが言った。

 

「外れた左肩を元に戻してぇ。多少荒療治になっても構わん、左腕が動く様になればそれでいい」

 

「り、リー? あなた何を……?」

 

 おそるおそる、といった様子でマリアが言うと、リーはその口元に笑みを浮かべて彼女の問いに答えた。

 

「『何を?』 んなもん、ゴキブリ退治に決まってんだろうが」

 

 その目にぎらついた戦意の光を灯し、リーは言葉を続けた。

 

「生憎、やられっぱなしってのは性に合わなくてな――あのデカブツは、俺がやる」

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

「……いや、その必要はない」

 

 自らの左腕を握ったジャイナの手を、ミンミンは静かに払うとそう言った。「なっ……!」と反論の声を上げようとしたジャイナを手で制して、ミンミンは続ける。

 

「お前たちの覚悟はよくわかった。だが、このまま艦内に逃げ込んでも、追って来られればどのみち戦闘は避けられない。だから、今ここでヤツは仕留める」

 

 そう言ったミンミンから、鋭く研ぎ澄まされた、底冷えするような殺意が放たれる。それは、さながら獲物に狙いを定めた蟷螂が如く。ジャイナは自らの傍らに立つミンミンの様子の変化に、思わず息を呑んだ。

 

「ジャイナ・エイゼンシュテイン」

 

「は、はいっ!」

 

「副艦長として命令を下す。心して聞いてくれ」

 

 呼びかけられて、我に返ったジャイナ。そんな彼女にミンミンは、淡々とした口調で告げた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ッ!? で、できません、そんなこと! いくら副艦長の命令でも……!」

 

 ミンミンの言葉を聞いたジャイナは、すぐさま反論の言葉を口にしていた。その声には、聞いているものの胸を刺すような悲痛さが滲んでいた。

 

過剰接種(オーバードーズ)なら、確かにこの場は切り抜けられるかもしれません! でも、でも……ッ!」

 

 ――過剰接種(オーバードーズ)

 

 今まさにミンミンが行おうとしているそれは、バグズ手術被験者に許された最後の切り札だ。

 

 その内容は文字通り、『バグズ手術の変態薬を大量に接種し、体をよりベース生物に近づける』ことで、ベースとなった昆虫の力を更に引き出すいうもの。いわば、バグズ手術限定のドーピングのようなものである。

 

 成程、これならば確かに、力士型にも勝機を見いだせるかもしれない。

 

 だが――

 

「そんなことをしたら、副艦長が!」

 

 ――そのリスクは、非常に大きい。

 

 それは投薬による人体各所の異常であったり、多大な寿命の消費であったりと数多く挙げられるが……その中で最も危険なのが『人間に戻れなくなること』だ。

 細胞のバランスを大きく崩し、その体を昆虫へと近づける。その原理ゆえに、過剰接種による特性の解放は()()()()()()()()()()()()()()()という甚大な危険性を孕んでいた。

 

 最後の切り札にして、諸刃の剣。

 

 ミンミンがジャイナに下したのは、その起動であった。

 

「ジャイナ」

 

 ミンミンはジャイナに向かって微笑むと、今にも泣きだしそうな彼女にただ一言こう言った。

 

「――頼む」

 

 だがその一言は、ジャイナが反論の言葉を飲み込むには十分すぎた。自らの敬愛するミンミンが、どんな思いでその決断を下したのか。それが理解できないジャイナではない。そして理解できてしまったからこそ――ジャイナは、ミンミンの覚悟を無下にすることができなかった。

 

「っ……! わかり、ました……」

 

 唇を噛みしめながらそう言って、ジャイナは二本の注射器を取り出すとミンミンに歩み寄る。そして絞り出すように言った。

 

「副艦長……どうか、ご無事で」

 

「――ああ」

 

 力強くミンミンが頷く。そしてジャイナは、眼前にさらされた無防備な首筋に、二本の注射器を突き立てた。

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 ガコッ、という骨が擦れる音が響く。左肩に走った鈍い痛みに、リーは思わず顔をしかめた。

 

「こ、これでいいの?」

 

「……ああ、上出来だぜ」

 

 左手の指を二、三度動かして調子を確かめてから、リーは緊張した面持ちのマリアに言った。

 

「リー……本当に、やるつもりなのか?」

 

 トシオの言葉に、リーは「たりめーだ」と返す。

 

「てめーらが命を懸けて作った好機。これを逃す手はねぇだろうが」

 

「そ、それはそうだけどよ……」

 

 なおも食い下がるトシオに、リーは淡々と告げる。

 

「このまま奴を見逃せば、こっちの手札が向こうの頭に伝えられちまう危険性がある。加えて、負傷しているとはいえ奴の怪力は紛れもない脅威……だからこそ、今叩かなくちゃならねぇ」

 

 そう言って、リーはベルトから二本の変態薬を取り出した。人差し指と中指、中指と薬指の間にそれを挟み込んで、針を首筋に差し込む。掌をそれぞれのピストンに押し当てると、リーは不安げな表情を浮かべる3人に笑って見せた。

 

「ひでぇ顔してんな、おい……まぁ、安心しとけ」

 

 そう言ってリーは――自らの体に、大量の変態薬を投与した。

 

「すぐに終わるからよ」

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 ――その瞬間、ミンミンとリーの全身を破壊と再生が駆け抜けた。

 

 

 

「――ぐ、うゥぅ……」

 

 過剰に投与された変態薬は血流にのって全身に運ばれ、人間としての彼らの細胞を破壊し、その身に新たなる命を吹き込む。肉体が作り直される過程で欠損した右腕は間をおかずに塞がれ、折れた肋骨が再び癒着していく。

 

 そして。

 

「ぎ、がァッ……!」

 

 生まれ変わる肉体の悲鳴を呼び水として――。

 

 

 

 

「きゅるるるるるるるるる!」

 

 

 

 

「ぐぉおオおォおオおおお!」

 

 

 

 

 ――白き死の執行者(ハナカマキリ)獄炎の射手(ミイデラゴミムシ)が、目を覚ます。

 

 

 

 

 2人の口から、人ならざるモノの咆哮が飛び出す。その声の凄まじさたるや、地上でそれを聞いていた乗組員達はおろか、何とか自由になろうともがく2体の力士型や、それを地中で押さえつけていたフワンすらも思わず動きを止めたほどだった。

 

 

 人類対ゴキブリ。

 

 

 決着の時は、すぐそこまで迫ってきていた。

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

「フゥゥゥ……」

 

 リーの口から、そんな音と共に息が吐き出された。その体は先程までよりも広い範囲が黄褐色の甲皮で覆われ、マントの下には巨大な翅が現れていた。リーは己の体の変化を確かめるように見渡すと、「こうなんのか」と呟いた。

 

「成程、本格的にゴミムシに近づいたってわけだ……まぁ、どうでもいいが」

 

 そう言って、リーは視線を己の体から目の前の力士型へと移した。彼の視線の先では、おぼつかない足取りながら力士型が立ち上がったところだった。

 

「し、信じられねぇ……」

 

「両足の腱を切られてるのに、立ち上がるなんて……!」

 

 その光景に、ルドンとマリアが息を呑む。一方、驚く彼らの隣で、リーは感心したような声を上げた。

 

「その傷で立ち上がんのか。よっぽど俺らを殺したいらしいな……大した執念だ」

 

 アキレス腱の断裂は歩行に支障をきたすものの、必ずしもそれは『歩行が不可能』であることを指すものではない。力士型は早くもそれに対応して、眼前の人間を駆除すべく、再び歩みを進めようとしているのだった。

 

「手負いにとどめを刺す形でちっとばかり気が引けるが……悪く思うなよ?」

 

 そう言うと、リーはより太く変異した自らの両腕を、力士型へ向けて突き出すように構えた。それを見た力士型は、すぐにそれが高熱ガス噴射の構えであることに気が付いた。

 

「じ……!」

 

 力士型はそう鳴くと、胴体を守るように体の前で両腕を交差した。今までの攻撃から、リーのガス攻撃が自らの甲皮に傷をつけることができないことは理解していた。触角や尾葉のような器官はこの限りではないが、純粋な破壊力という点から考えれば、力士型にとっては脅威たり得ない。それにも関わらず、彼は防御の姿勢をとっていた。

 

「気付いたか――()()()()()

 

 ぼそりと呟いたリーの掌に、熱が収束していく。彼の腕の中へありったけの焦熱が溜まりこみ、行き場を求めて荒れ狂う。

 

出力上昇(チャージ)照準固定(ロックオン)――」

 

 そしてその熱が最高潮に達したその瞬間、リーは掌の孔を一気に開放した。

 

 

照射(ファイア)

 

 

 刹那、リーの掌から最大出力のベンゾキノンが放たれた。極限まで高められた圧によって外へと撃ち出されたそれは、一見すると炎か光の槍のようだ。

 

 それもそのはず、過剰接種(オーバードーズ)によって極限まで高められたベンゾキノンの温度は、この時実に900℃。そしてこれは、()()()()()()()()()()()()()

 

ゴキブリはオーブンで焼かれても死なない――が、溶岩を浴びれば死ぬ。

 

 リーの腕から放たれた炎槍の穂先が、力士型の胴体を貫いた。ベンゾキノンは交差された腕を容易く焼き尽くし、分厚い胸部の甲皮と筋肉を熔かし、背面の甲皮を燃やし尽くしてなお止まらず、力士型の背後へと眩い閃光を伴って伸びていく。

 

「――――」

 

 力士型の口から悲鳴は上がらなかった。空気を吐き出すべき肺も、空気を震わせて声にする声帯も、声に意味を持たせ言葉とする舌も、体内を蹂躙するベンゾキノンによって既に焼失していたのだ。

 

 そして数秒が経過し、リーの手から伸びる閃光と灼熱の奔流が収まった時、既に力士型はこと切れていた。

 円状に焼け落ちた胸部の穴と口から黒い煙を立ち昇らせながら、ゆっくりと力士型が崩れ落ちる。倒れ込んだ力士型はそれっきり、二度と起き上がらなかった。

 

「言っただろうが、『ゴキブリは高熱に弱い』ってな」

 

 絶句するトシオ達の視線にさらされながら、リーはもはや動くことのない力士型へと、自戒の意味も込めた言葉を静かに告げた。

 

「覚えとけ、ゴキブリ……自分の力を過信すると、こうなる」

 

 

 

 ――害虫の王、死す。

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

「……さて」

 

 二回りほど大きくなった左腕の大鎌に、蘭を思わせる美しい彩りの翅。完全に変態を終えたミンミンは、スッと目を細めて力士型を見据えると、彼に向かってゆっくりと歩み始める。

 

 その瞬間、力士型の肉体がまるで鉛のように重くなった。ミンミンが一歩ずつ近づいてくるごとに、冷たい重圧は増していく。

 

 それは恐怖ではなく、予感。このままここに留まれば、自分は必ず殺される(くわれる)という、本能の絶叫だった。

 

「待たせたな」

 

 その言葉は、果たして誰に向けたものだったのか。気が付くと、死神は力士型の目の前に立っていた。

 

「じょッ……!」

 

 力士型は咄嗟に、岩のような拳を振るった。直撃すれば瞬時に肉塊と化すだろう一撃を、ミンミンは体の軸を僅かにずらすことで完全に躱す。そして力士型がその腕を引き戻すまでの僅かな間に、彼女はハナカマキリの大鎌を振り上げた。

 

「――!」

 

 ――再攻撃は、間に合わない。

 

 それを悟った力士型は、瞬時に両腕を動かしていた。その動きは、自らに振り下ろされた刃の側面を両掌で押さえることで斬撃を防ぐ、『白刃取り』と呼ばれる技によく似ていた。

 

 ――人間が『見て』『反応し』『動く』までの時間は、MAXで0.1秒。

 

 無論多くの人間はこの値には遠く及ばず、普通は『1つの刺激を待ち構えている』状態で0.2秒が限界であるとされている。

 

 そしてこの理論は、肉体の構造が人間のそれに酷似したテラフォーマーにも当てはめることができる。

 

 いかに幼少時から訓練を続けていた力士型と言えども、その反応速度は0.1秒にはわずかに届かない。だが『火事場の馬鹿力』という言葉があるように、死を直感した力士型の肉体は限界を超え、この瞬間だけは0.1秒で『動く』ことができた。

 

 

 瞬き程の間も空けずに、力士型の頭上で両掌が打ち合わされ、パァン! という乾いた音が響く。その目は確かに、迫りくるミンミンの大鎌を捉えていた。既に一度は見切った攻撃、そして一度は返り討ちにした相手である。彼がタイミングを見誤るはずもない。力士型は防御が成功したことを確信する。

 

 

 そしてその直後――()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「――――」

 

 さながら斧で割られた薪のように、その黒くたくましい肉体の中心に亀裂がはしり、そこから白い体液が漏れ出した。そのまま力士型は己が死んだことにすら気が付かぬまま、ゆっくりと左右に倒れる。割れた体は地面にぶつかるとべちゃり、という水音とたてて、断面からゴキブリの体液を飛び散らせた。

 

 

 ――繰り返すようだが、力士型は決してタイミングを見誤ってなどいなかった。

 

 

 見誤っていたのは、『速さ』。

 

 

 ハナカマキリは擬態によって花に化け、獲物が来るのを待ち伏せて狩りをする昆虫だが、その方式は自ら動き回ることで獲物を探すタイプの仮に比べて、どうしても効率が落ちてしまう。

 

 ゆえにハナカマキリは、“好機を決して逃さない”。何千、何万年という気が遠くなるような進化の歴史の中で、彼女たちはそのための技術を研鑽し、遺伝子という名の秘伝書にそれを刻み続けてきた。

 

 それこそが、カマキリの最大の武器である『速さ』だ。

 

 ハナカマキリが鎌を振り上げ、そして振り下ろすまでの時間は、昆虫大の時点で僅かに0.05秒。それが人間大ともなれば、振り下ろす際の腕力は3トンにも及ぶと言われている。

 

 過剰接種によってそれを再現したミンミンの一撃は当然ながら、何も知らずに――否、()()()()()()()()()()()()()()()()、人間やテラフォーマーが反応できるものではない。

 

「やった、か……」

 

 もはや永遠に動かない力士型の死体に深い安堵の息を吐くと同時に、彼女の変態が解け始めた。どうやら過剰接種の際に噴き出した血と共に、変態薬もいくらか外へと排出されていたらしい。特に異常な兆しも表れないまま、ミンミンの体は人間のそれへと戻った。

 

その途端、極度の緊張から解放された彼女全身を耐え難い疲労が襲った。彼女の喉が凄まじい灼熱感に水を求め、まぶたが鉛のように重くなる。一挙に押し寄せるその感覚に、ミンミンは思わず意識を手放しそうになる。

 

「副艦長っ!」

 

 だが耳に響いた声が、遠のきつつあったミンミンの意識を辛うじて呼び戻した。ハッと我に返ったミンミンが振り向くと、彼女は駆け寄ってきたジャイナにその体を抱きしめられた。

 

「じゃ、ジャイナ?」

 

「よ、よかった……! 副艦長が、ご無事で、本当に……っ!!」

 

 戸惑うミンミンの胸の中で、ジャイナが子供のように泣きじゃくる。。

 

 命令とはいえ、危険性を知りながら大量の薬をミンミンに打ち込んだ罪悪感、結局ミンミンと力士型を戦わせてしまった無力感、そして彼女が無事だったという安心感。今の今まで彼女の中にせめぎあっていたそれらの感情が、ここにきて堰を切ったようにあふれ出したのだった。

 

「大げさだな、ジャイナは……でも、ありがとう」

 

 そう言ってジャイナの頭髪を左腕で撫でながら、ミンミンは顔を上げた。彼女の目には地中から這い出したフワンと、そんな彼に肩を貸されながらよたよたとこちらに向かって歩いてくるジョーン、テジャスの姿が映っていた。

 

「お前たちもだ。本当なら命令違反で説教をするところだが……お前たちのおかげで、命を捨てずに済んだ」

 

「言いっこなしですって、副艦長」

 

 いつになく柔らかい面持ちのミンミンにテジャスが笑うと、フワンが頷いた。

 

「俺達、ずっと助けられっぱなしでしたから……こんな時くらい、体張らせてください」

 

 どこかすっきりしたような面持ちでそう言ったフワンの脇腹を、彼に支えられながらジョーンが小突いた。

 

「言うようになったな、フワン! つい数時間前まで、テラフォーマー相手に震え上がってたのはどこの誰だったっけ?」

 

「うっ、いや、それは……」

 

 痛いところを突かれてしどろもどろになるフワンに、ジョーンとテジャスが快活な笑い声を上げる。そんな彼らに思わず笑みを溢したミンミンの耳に、不機嫌そうな男の声が響いた。

 

「ったく……和んでる場合じゃねえだろうがよ」

 

 声のした方に目をやれば、そこには彼女の予想通り、満身創痍のリーが立っていた。今にも倒れそうなその体を、両側からルドンとトシオが支えている。

 

「リー! 無事だったか!」

 

「ああ……こいつらのおかげで、どうにかな」

 

 リーはぶっきらぼうにそう言って、ぐいと顎で付き添う三人を指して見せた。未だ変態は解けていないが、幸いなことにリーにも昆虫化の兆候は見られない。直に、元の人間の姿へと戻るだろう。

 

「おっと、リー。感謝するなら俺らもだけど、ジャイナにも頼むぞ」 

 

「そうそう。副艦長とリーの救出作戦、考えたのは一から十まで全部ジャイナだからね」

 

「いや、私なんてそんな!」

 

 トシオとマリアがそう言うと、ジャイナは慌てたようにぱたぱたと両手を振った。

 

「あまりいい作戦が思いつかなくて、皆に危ない役目を押し付けちゃったし……ジョーンとテジャスには怪我をさせちゃった……」

 

 尻すぼみにそう言うと、ジョーンとテジャスは「何言ってんだ」と不思議そうに言った。

 

「ジャイナの作戦が無かったら、2人を助けるどころか俺らも殺されてたかもしれないんだ。そう考えれば、安い安い」

 

「そうそう。それにお前は、本当にヤバくなったら副艦長達の盾になるっていう、一番危険なポジションだっただろ?」

 

「う、でも結局、私は何も……」

 

 2人の言葉になおも反論するジャイナに、マリアが優しく微笑んだ。

 

「それを言うなら、『結局私たちは、貴方のおかげで誰も死ななかった』。私たちがお礼を言うには、それで十分でしょ?」

 

 マリアの言葉に、ジャイナがうっと言葉を詰まらせた。反論の言葉が見つからなかったのだ。そんな彼女に、リーとミンミンは口々に感謝の言葉を口にした。

 

「重ね重ね、ありがとうジャイナ。お前のおかげで、私は死なずに済んだ」

 

「ああ、それに関しちゃ礼を言うぜ……ありがとよ」

 

 2人の言葉にジャイナは恥ずかしそうに、「どういたしまして」と返して俯いた。一瞬だけ穏やかな空気が流れるが、「それよりも」と話を切り出したリーによって、それはすぐに霧散した。

 

「あれ、どうするつもりだ?」

 

 そう言ったリーの視線の先にあるのはバグズ2号と、その側面に張り付いた無数のテラフォーマー達。その場にいる全員が、すぐさま彼の言わんとしていることを察した。

 

「決まりきったことを聞くな、リー……助けるぞ、全員」

 

 リーの言葉に、ミンミンが即答する。彼女がチラリと周囲を見やれば、全員が頷いた。表情を強張らせている者もいれば、顔を青ざめさせている者もいる。だが、誰一人として逃げようとする者はいなかった。

 

「そうか。なら、急ぐぞ」

 

 リーはそう言うと、悪魔に包囲されているバグズ2号を睨んだ。

 

「早くしねえと、手遅れになる」

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 ――バグズ2号、艦内。

 

 目の前に立ちはだかった『―・―』のテラフォーマーに、イヴは死の影を見た。

 

「ぐっ……!」

 

 ――まだだ、まだ死ねない!

 

 イヴは胸中で叫びながら、手足の筋肉に必死で力を込めた。

 

「動、け……!」

 

 イヴがかすれる声で、己の体を叱咤する。だが焦る感情とは裏腹に、激痛の抜けきらないその体は思うように動かない。

 

「……」

 

 そんなイヴを『―・―』のテラフォーマーはじっと見つめていた。その顔に感情のようなものは浮かんでおらず、ただ淡々とした無表情だけが張り付いている。

 

 まるで、目障りな羽虫を叩き潰そうとする人間のように。

 

 その顔には、何の感慨も浮かんでいない。

 

「う……くッ……!」

 

 呻きながら、イヴは必死に思考を回転させ、打開策を練る。

 

 だが無情にも、その思考がはじき出した答えは『打つ手なし』であった。

 

 小吉は『・|・』のテラフォーマーから手が離せず、奈々緒たちはテラフォーマーの濁流にのまれて生死不明、ティンもとてもではないが動けるような傷ではなかった。

 

 どう足掻こうとも、生き残る術はない。その事実に、イヴは悔し気に顔を歪めた。

 

「こんな、ところで……!」

 

 『―・―』のテラフォーマーがゆっくりと右手を振り上げる。それをイヴは、ただ見ていることしかできなかった。

 

「じょうじ」

 

 それは手向けの言葉だった、それともただの鳴き声だったのか。

 

 ただ一言だけそう鳴いて、『―・―』のテラフォーマーは、高く振り上げた腕を、ピタリと止めた。

 

 

 そして――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それを振り下ろそうとしたまさにその時、背後から何者かが、『―・―』のテラフォーマーの腕を掴んだ。

 

 

 

 

 

 

 ――誰かが邪魔をした。

 

 即座にそう察した『―・―』のテラフォーマーは、下手人を確かめるべく、背後を振り返った。

 

 その途端、視界一杯に肌色が広がったかと思えば、『―・―』のテラフォーマーの顔面を強い衝撃が襲った。気が付くと『―・―』のテラフォーマーは、固い床の上に仰向けで転がっていた。

 

 

「……じ」

 

 

 慌てる素振りも見せずに、『―・―』のテラフォーマーが上体を起こす。

 

 彼の視界に映ったのは、驚いたように目を開いたイヴともう1人、自分を殴ったと思われる別の人物だった。

 

 

 それは、男性だった。

 

 だが、小町小吉ではない。かといってティンでもなく、そして蛭間一郎でもなかった。『―・―』のテラフォーマーには、見覚えのない人物だ。

 それも当然だろう。なぜなら彼は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その肉体は、ともすればテラフォーマー以上に筋骨隆々としていた。上半身には一切の衣類を纏っておらず、所々に生傷がある。

 

「俺の友人に――」

 

 巌のように太く逞しいその腕を引き戻すと、その男は凄まじい形相で『―・―』のテラフォーマーを睨みつけた。

 

 

 

「手を出すな、ゴキブリ野郎ッ!!」

 

 

 

 そして、大地を揺るがし、大気を震えさせるような声量で彼――ドナテロ・K・デイヴスが咆哮した。

 

 

 

 

 ――ドナテロ・K・デイヴス、復活(リバイバル)

 

 

 

 

 

 

――――――――――――――――――――

 

 

 

――――――――――

 

 

 

 

 

 

 ――U-NASA日本支局、とある研究室にて。

 

「クソッ!」

 

 そう言って白衣の男――本多晃は、苛立たし気に通信機を放った。机の上を転がる通信機のパネルには、『通信エラー』の文字が表示されている。ここ数時間の内に何度目にしたか分からないその文字を睨みつけながら、本多はパイプ椅子に腰かけた。

 

 落ち着きなく人差し指で机を叩く彼の胸中を占めているのは、自らがバグズ2号の内部に滑り込ませた、2人の人物――ヴィクトリア・ウッドに蛭間一郎と連絡がつかないことに対する焦燥であった。

 

「どうなっている……なぜウッドたちと通信が繋がらない?」

 

 ざわめく心を少しでも鎮めようと冷めきったコーヒーを喉に流し込んで、本多は呟く。

 

 単純に彼らが通信に応じない、というのであれば話は簡単だ。おそらく一郎たちがテラフォーマーか、さもなくばバグズ2号の乗組員の誰かと交戦しているのだろうという予想がつく。

 

 だが、通信機に表示されているメッセージは『通信エラー』。それが意味するのは“向こうが出ない”のではなく、“そもそも通信が繋がらない”という事実。

 

 

 ――妙だ。

 

 

 本多の背中を、薄ら寒い何かが走る。

 

 火星との通信が妨害されているとなると、その要因は数えるほどしか挙げられない。

 

 

 例えば太陽から突発的に発せられるフレアであれば、その膨大なエネルギーによって火星との通信が途絶えてしまうことは考えられる。

 

 あるいは、事前に火星の地へと電波塔を設置して妨害電波を発すれば、地球との通信は妨害できるだろう。

 

 これらの要因があるのであれば、通信エラーが表示されていることにも納得がいくのだが――。

 

「なぜだ……()()()()()()()()()!」

 

 幾度か目を通した資料を今一度見直しながら、本多は思わず叫んでいた。何か見落としがあるはず、と彼は書類をめくっていくが、そこに並んでいる記録やデータには何の異常も記されていなかった。

 

 天体の観測データは至って正常。今のところ、太陽からフレアが発せられたという報告は上がっていない。

 

 バグズ2号の記録にも、電波塔が積み込まれたという記録はない。

 

 通信機事態の落ち度も全くなし。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 この状況が、本多の混乱に拍車を掛けていた。普通の研究者ならば――否、平時の彼ならば安堵を浮かべるはずの文字列が、殊更に不気味に見えてならない。

 

「やはり……」

 

 胸の中で鎌首をもたげつつあった感情を、彼は知らず知らずのうちに口にしていた。

 

 

『「何かがおかしい」……かね、本多博士?』

 

 

 突如、自らのその言葉に重なるようにして室内に響いたその声に、本多がギョッとしたように顔を上げた。そんな彼の目の前に、ホログラムで構成された老人と、その傍らに寄り添い立つ青年が姿を現す。

 

「ニュートン博士に、クロード博士……! U-NASAか……!」

 

 よりにもよってこのタイミングで、と歯を食いしばる本多。そんな彼とは対照的に、ニュートンは笑いながら言った。

 

『まさか君がここまで手を回しているとは思わなかったよ、本多博士。エメラルドゴキブリバチにネムリユスリカ……成程、良い発想だ。まさかテラフォーマーを持ち帰って操ろうなどと考えるとは。大方君は――』

 

『そこまでです、ニュートン博士』

 

 だが、ニュートンが続けようとしたその言葉を、脇に控える青年――クロード・ヴァレンシュタインは強引に断ち切った。その顔は一見していつも通りの生真面目そうな表情が浮かんでいるが、本多にはどこか、彼が焦っているようにも見えた。

 彼のそんな予測は、果たして次にクロードが告げたその言葉で確実なものとなった。

 

『今の我々には時間がありません、早急に本題に入るべきです』

 

『……ああ、それもそうだな』

 

 クロードのその言葉に、ニュートンはどこか不服そうな様子を見せながらも、肯定の言葉を口にした。クロードは彼の言葉に頷くと、視線をホログラム越しに本多へと向けた。

 

『――本多博士。一つだけ、貴方に聞いておきたいことがある』

 

 来たか、と本多は身を固くした。ニュートンと違い、クロードは露骨かつ迂遠な言い回しで相手を手玉に取るような会話は好まない。彼は自らの一連の計画と、その行動について、単刀直入に切り込んでくるだろう。

 

 

 

 そんな本多の考えはしかし、良くも悪くも裏切られることとなる。

 

 

 

『貴方は『■■■■■■■■■』か?』

 

 

 

「……は?」

 

 本多は彼の告げられた言葉の意味を理解できなかった。あまりに不可解なその質問に、思わず彼の口から間の抜けた声が漏れる。ふざけているのか、とクロードの顔を窺い見るが、彼の浮かべる表情は至って真剣なものだった。

 

『答えてください、博士。返答次第では……私たちは、貴方を殺さなくてはならない』

 

 クロードが有無をも言わせぬ強い口調で言い切った。本多を睨むその目には、明確な殺意の光が籠っている。普段は見せることのないクロードの並々ならぬ迫力に気圧され、思わず本多は口を開いていた。

 

「ち、違う! あなたが言ったそれが何を意味しているのかは分からないが……私はそんなものは知らない!」

 

『ではなぜ、こんなことを? なぜ、バグズ2号に内通者などをまぎれこませた?』

 

 未だに疑惑の色を浮かべたままそう言ったクロードに、本多は思わず叫んでいた。

 

「日本を、より強くするために!」

 

 その言葉に、鉄鋼仮面のようだったクロードの表情が微かに変化した。そこに畳みかけるかのように、本多は感情をむき出しにして続ける。

 

「核を持てない日本(ウチ)は、米国(アンタら)と違って国際的な立場が弱い! だから、このまま手をこまねいていればロシアや中国……他の大国に資源を搾り取られることになる!」

 

 それは避けなければならない、と本多が血を吐くような顔で言う。

 

「だから私は、ウッドと一郎に命じてテラフォーマーを連れ帰って操ろうとした! 核をも凌ぐ抑止力として彼らを使役し、諸外国と対等の位置に、我が国がのし上がるためにッ!」

 

 一息に言い切った本多は、息を荒げながらギッとクロードを睨み返す。言うべきことは言った、あとはどうにでもなれとばかりに。

 

 しばらく思案顔でそんな彼を見つめていたクロードだったが、やがてふっと表情を和らげると口を開いた。

 

『……そうか。疑ってすまなかった、本多博士』

 

 クロードの口から紡がれたのは、意外なことに謝罪の言葉だった。呆気にとられる本多をよそに、クロードは更に続けた。

 

『先に言っておこう、本多博士。U-NASA(われわれ)としては今のところ、貴方の一連の行動に対して、何らかの措置をとるつもりはない』

 

「なんっ……!?」

 

 本多が驚愕に目を見開いた。当然だろう、バグズ計画を根本から潰しかねない計画を実行した張本人に、事実上の“お咎めなし”を宣言したのだ。余りにも不可解な処遇に理解が追いついていない本多だったが、その直後、クロードの口から信じがたい言葉が飛び出した。

 

 

 

 

 

『なぜなら、事態は既に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 その言葉に、本多は冷や水を浴びせられたかのような感覚を覚えた。人類の未来を左右するテラフォーミング計画を破綻させ、国際情勢の勢力図すらも塗り替えかねない本多の計画を、クロードは『些事』と言い切ったのだ。

 

『本多博士、今から私が言うことをよく聞いてほしい。突然のことで混乱していると思うが、君には知っておいてもらわなければならない。1人でも、こちら側の人間が欲しい』

 

 絶句する本多に、クロードが言い含ませるように言葉を紡ぐ。その横で黙って椅子に腰かけているニュートンは茶々を入れるでもなく、いつになく真剣な面持ちで本多を見据えていた。

 

 ――自分はこれから、何を聞かされるのか。

 

 無罪放免、全ての罪が事実上許されているにもかかわらず、本多の心にはむしろ先程以上の恐怖がはびこっていた。

 

 U-NASAの総帥たるアレクサンドル・グスタフ・ニュートンと、彼の片腕にしてU-NASAに所属する全科学者の頂点に立つクロード・ヴァレンシュタイン。

 この両者が揃って自らの凶行を些事と断じ、深刻に受け止める事態など、想像もつかない。

 

 今、火星で何が起こっている? 自分は何に巻き込まれようとしている?

 

 戦々恐々とする本多の前で、クロードの姿を象ったホログラムは口を開いた。

 

 

『単刀直入に言おう。今この時も火星で行われている、人類とゴキブリの生存戦争。そこに――』

 

 そしてクロードの口から告げられたその言葉に、本多は目を剥くこととなった。

 

 

 

 

 

 

『――“何者か”が介入している』

 

 

 

 

 

 

 




オマケ 『贖罪のゼロ』第一章のヒロインまとめ

・イヴ(言わずもがな)
・秋田奈々緒(原作ヒロイン)
・ジャイナ・エイゼンシュタイン ←NEW!


トシオ「馬鹿な、ジャイナのヒロイン力が22000、24000……ぐわああああ!?」ボンッ!

ルドン「トシオのヒロイン力スカウター(眼鏡)が壊れたぞォ!?」

ミンミン「ジャイナマジ天使」

ジャイナ「!?」




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第21話 REACH WITH YOU あなたと共に

「俺の友人に手を出すな、ゴキブリ野郎ッ!」

 

 『―・―』のテラフォーマーを殴り飛ばした姿勢のまま、ドナテロ・K・デイヴスが咆哮する。その声は管制室の空気を震わせ、この場にいる者全員に、バグズ2号における最高戦力が戦線に復帰したことを伝えた。

 

「じょう」

 

「じ、じ――」

 

 その一方で、一連の事態を受けてテラフォーマー達の動きはあからさまに鈍った。彼らは今までの様な機敏さで襲い掛かるでもなく、さりとて撤退するでもなく――復活したドナテロのことを、ただ棒立ちで見つめていた。

 

(動きが止まった? これって……)

 

 テラフォーマー達の動きが止まったことに内心で驚きながらも、イヴは目の前に立ったドナテロの名を呼ぶべく、口を開いた。

 

「ドナテロさ――ゲホ、コホッ!」

 

 だが腹部に受けたダメージが抜けきっておらず、彼の口から飛び出したのは激しい咳だった。口の中に鉄臭い味が広がり、肺が酸素を求めて喘いだ。そんな彼の様子を見たドナテロはイヴに背を向け、彼を庇うように立つと口を開いた。

 

「無理に喋ろうとするな、イヴ。傷に障る」

 

 ドナテロは背後のイヴに気遣うような口調で語り掛けながら、管制室内の様子を一望した。

 

 口端から血を流し、ぐったりと床に倒れ伏すティン。

 

 折り重なるようにして何かに群がる、無数のテラフォーマー。

 

 そして、この場に姿の見えない他の乗組員たち。

 

 ドナテロの顔が険しく強張り、固く食いしばった彼の歯がギリッと音を立てた。

 

「――イヴ、今まで良く戦ってくれた」

 

 警杖を杖代わりに立ち上がろうとするイヴを手で制すると、ドナテロは腕の収納ケースから変態薬を取り出す。

 

 その双眸に燃えるのは、乗組員たちを守り切れなかった後悔と悲しみ、そして彼らを傷つけたテラフォーマーに対する憤怒であった。

 

「あとは、俺に任せてくれ」

 

 その言葉に強い怒りと覚悟を滲ませ、ドナテロは首筋に注射器を突き立てた。変態薬が彼の全身を駆け巡り、彼の体へ急速にベース昆虫の特性を反映させていく。やがて変態を終えたドナテロの肉体は二回りほど大きく膨れ上がり、その全身はテラフォーマー以上に硬く頑丈な、赤黒い甲皮に包まれていた。

 

「フウゥゥー……」

 

 深く息を吐きながら、ドナテロはテラフォーマー達を睨みつけた。個々が強いうえにいくらでも替えが効く彼らに対し、味方はほぼ全員が戦闘不能。唯一健在である小吉も、『・|・』のテラフォーマーの相手で手が離せない。

 

「じぎ、じょうじぎ、ぎぎ」

 

 既に『\・/』のテラフォーマーの指揮で、テラフォーマー達は完全に統率を取り戻している。戦況は、どうあがいても圧倒的に不利。

 

「――それがどうした」

 

 遠くから、小吉が何かを叫ぶ。声の様子からして、警告だろうか? 無理もないだろう。今からドナテロがしようとしていることは、無謀以外の何者でもないのだから。だがそんな絶望の真っただ中にあっても、ドナテロの心は決して折れることはなく――ただ、煌々と燃え盛っていた。

 

 その戦意には、微塵の陰りもなく。彼はただ、激情の迸るままに咆哮した。

 

 

 

「人間を、嘗めるなッ!!」

 

 

 

 そして、まるでその言葉を待っていたかのように。

 

 黒い悪魔たちは指揮官の号令一下、一斉にドナテロへと躍りかかった。

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 ビキッ、と。

 

 何かが折れる嫌な音が響いたその直後、小吉は自らの腕に走った激痛に顔を歪めた。

 

「……ッ!!」

 

 歯を食いしばって苦悶の声をかみ殺し、小吉は眼前の敵を睨んだ。その両腕からはオオスズメバチの象徴とも言える毒針が消え失せており、露出した血管から鮮血が溢れていた。

 

「じぎぎ」

 

 対する『・|・』のテラフォーマーは一声そう鳴くと、()()()()()()()()()()()()()()()を、小吉の顔面へと刺すように突き出した。

 小吉はその攻撃を辛うじて受け流すと、テラフォーマーの顎を目掛けて拳を振り抜く。すかさず『・|・』のテラフォーマーは上半身を大きく仰け反らせてそれを躱し、逆に小吉へとサマーソルトキックを浴びせた。

 

「がっ……!」

 

 衝撃が脳を揺らし、意識が眩みそうになる。気力でそれを押さえつけ、小吉は自らに喝を入れるかのように震脚して、再び迎撃の構えをとる。皮肉なことに、一度持ちこたえさえすれば、腕の痛みが彼の意識を強引に縫い止めてくれた。

 

「じょうじ」

 

 『・|・』のテラフォーマーはそのままバック転で距離を置くと、手にしていた小吉の毒針を投げ捨てた。針の根元に残る肉片から、血が数滴飛び散る。

 

「ハァ……ハァ……!」

 

 ――オオスズメバチの最大の武器である毒針が破壊された。

 

 それは即ち、眼前のテラフォーマーを一撃で仕留める手段を失くしたことを意味する。いかにオオスズメバチの筋力を持つ小吉と言えども、素手でテラフォーマーの硬い甲皮を貫いてダメージを与えることは困難。

 

「じぎ、じぎぎぎぎぎ!」

 

 『・|・』のテラフォーマーが、満身創痍の小吉を嘲るように嗤う。ゆっくりと、しかし着実に、小吉は追い込まれていた。

 

「畜生……!」

 

 絞り出すように彼が呟いた、その時だった。周囲のテラフォーマー達が、一斉にある方向へと駆けだしたのは。

 

「ッ! 不味い! イヴ、艦長(キャプテン)ッ!」

 

 その方向にいたのは、意識が戻ったばかりのドナテロと手負いのイヴ。彼らに襲い掛かるテラフォーマーの数は、身動きが未だにとれないイヴは言うに及ばず、病み上がりであるドナテロにとっても脅威たりうるだけのもの。

 

「逃げ――」

 

 小吉が叫ぼうとした、次の瞬間。

 

「人間を、嘗めるなッ!!」

 

 まるで小吉の言葉を遮るかのように、ドナテロの咆哮が管制室を揺るがした。同時に、飛び掛かった数匹のテラフォーマーが、逞しい彼の黒腕に薙ぎ払われる。彼らは勢いもそのままに壁や床に仲間を巻き込んでその体を打ち付けると、それきり動かなくなった。

 

 無論、その程度でテラフォーマー達の攻勢は怯まない。仲間の屍を踏み越えて、すぐさま第二陣、第三陣のテラフォーマーが襲い掛かる。そんな、テラフォーマー達の絶え間ない攻め手は、しかしドナテロただ一人に食い止められ、次々と屠られていく。

 

 その様は、さながら修羅が如く。

 

 ドナテロの周囲には、次々と黒い悪魔の骸が積み重なっていった。

 

「――ハハ、何やってんだろうな、俺」

 

 小吉はどこか呆然と、しかし目が覚めたように呟く。彼はそのままクルリと体を反転させると、自らの背後に迫りつつあった『・|・』のテラフォーマーの股間へと蹴りを打ち込んだ。

 

「ギっ……!」

 

 ――『下段蹴り(金的蹴り)』

 

 人間ならば悶絶必至なこの技だが、テラフォーマーに痛覚は存在しない。だが、小吉の蹴りの威力は凄まじく、攻撃のために不安定な姿勢になっていた『・|・』のテラフォーマーの体は、僅かに宙に浮いた。

 その隙を狙い、小吉が流れるように技を打ち込んでいった。

 

「せいッ!」

 

 ――『猿臂』

 

 ――『背刀受け』

 

 ――『裏拳打ち』

 

 ――『前蹴り』

 

 繰り出される小吉の攻撃が『・|・』のテラフォーマーを穿ち、その体を後方へと吹き飛ばす。

 

「じ、ぎっ――!」

 

 床を数度転がった『・|・』のテラフォーマーは、勢いを利用してそのまま跳ね起きる。片膝をついた『・|・』のテラフォーマーの全身にはひびが刻まれており、その顔からは笑みが消えていた。

 

「……ったく、情けない話だぜ」

 

 小吉はそう言って、自らの手に視線を落とした。

 

「こんな簡単なことまで忘れてたのか、俺は」

 

 その脳裏に浮かぶのは、かつて空手を人殺しのために使ってしまったことを悔いる小吉に、奈々緒がかけてくれた言葉。

 

 

 

『小吉、空手はやめちゃ駄目だよ。もっと、強くなって』

 

 

 

『その力はいつか、誰かのために使うときが来るから』

 

 

 

「――今が、その時だ」

 

 例え、オオスズメバチの最大の武器が破壊されようとも。小町小吉の『強さ』は、何一つ失われてはいない。

 

 毒針が折れたのなら、十回でも、百回でも、拳を振るい続けるまで。

 

 君の言葉があれば――俺はまだ、戦える。

 

「フンッ!」

 

 そんな単純なことすらも見落としていた自分に喝を入れるように、小吉は両掌で自らの頬をとはたく。それから彼は拳を握りしめると、眼前の敵を見据えた。

 

 

「来い、テラフォーマー! お前らには、何一つ奪わせやしねえ!」

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 ――蜂球をご存じだろうか?

 

 これは大量のミツバチが外敵であるスズメバチにまとわりつくことで攻撃する方法である。有名なのはニホンミツバチによる『内部の熱を上昇させることで対象を熱殺する』蜂球だが、実はこれ以外にもセイヨウミツバチによる『対象を強く圧迫することで窒息死させる』蜂球が存在する。

 

 その内容から、これは『窒息スクラム』と呼ばれているのだが――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ぐッ……!」

 

 奈々緒の顔が苦悶に歪み、その額に脂汗が滲む。今にも力尽きそうな彼女を、無数のテラフォーマー達が見つめていた。

 

 ――あの時、ウッドと一郎を守るために張り巡らせた、糸の結界。

 

 それはさながら濁流のごとく押し寄せたテラフォーマーの大群を、奇跡的に押しとどめることに成功していた。これにより彼らは、途方もない重量による圧死を奇跡的に免れていた。

 

 だが彼女にとって、本当の地獄はここからだった。防衛にために編み上げたこの結界こそが、今この時、奈々緒を心身ともに消耗させていたのである。

 

 奈々緒が張り巡らした糸の結界の支柱は、言うまでもなく彼女自身。それが意味しているのは、糸の結界に阻まれた何十体ものテラフォーマーの重さを、奈々緒がたった一人で受け止めるざるを得ないということ。

 

 バグズ手術を受けてるとはいえ、奈々緒自身は特筆するほどの筋力があるわけでもない。まして、手術ベースとなっているのは昆虫の中でも肉体面においては特に虚弱なクモイトカイコガ。その肉体への負担が莫大なものになるのは、言うまでもないだろう。

 

 それに加え――。

 

 

 

 

 

「じょう」

 

「じょう、じ」

 

「じじょう、じょう」

 

「じじじじ、じょうじじ」

 

 

 

 

 

「じじょうジョじょう「じじょ」うじじょうじじょう「ジョうじょう」じょウジじじじじょうじょうじ「じょうじジョウ」じょうじジョウジじじょじじじ「じじょーう」じょうじじょじょじ「じょうじょうじ」じょうじじじじょうージョじょう「じじょ」うじじょうじじょう「ジョうじょう」じょウジじじじじょうーじょうじ「じょうじジョウ」じょうじジョウジじじょじじじ「じじょーう」じょうじじょじょじ「じょうじょうじ」じょうじじじじょうジョじょう「じじょ」うじじょうじじょう「ジョうじょう」じょウジじじじじょうじょうじ「じょうじジョウ」じょうじジョウジじーじょじじじ「じじょう」じょうじじょじょじ「じょうじょうじ」じょうじじじじょうジョじょう「じーじょ」うじじょうじじょう「ジョうじょう」じょウジじじジョウじょうじ「ジョウ」じょうじジョウジじじょじじじ「じじょーう」じょうじじょじょじ「じょうじ」じょうじじじじょジョウうジョじょう「じじょ」うじじょうじじょう「ジョうじょう」じょウジじじジジョウじょうじ「じょうじジョウ」じょうじジョウジじじょじじじ「じじょーう」じょうじじょじょじ「じょうジじょうじ」じょうじじじじょ」

 

 糸の結界に閉じ込められた彼女たちは、息がかかるほどの至近距離から、絶えずテラフォーマーの鳴き声をひたすら聞かされ続けていた。四方から覗きこむ無数の無機質な眼球は、その全てが奈々緒たちを絶え間なく、舐めるように見つめている。

 この状況が奈々緒を生理的に追い詰め、その心から少しずつ希望を削り取っていた。

 

「っ……!」

 

 数十のテラフォーマーの重みで糸が食い込み、奈々緒の指から鮮血が滴る。ギチギチと自らの鼓膜をひっかいたその音は、果たして糸が軋んだ音なのか、それとも自らの心が折れた音なのか。

 

(眠い……それに、疲れた、な……)

 

 意識が闇に侵食され、全身から力抜けていくのが手に取るように分かる。だが、今の彼女にはそれに抗うだけの気力は残されていなかった。

 

(これ、以上は……もう……)

 

 重くのしかかる疲労感と眠気に誘われるまま。奈々緒が意識を手放そうとした瞬間だった。

 

 その声が、彼女の鼓膜を叩いたのは。

 

「来い、テラフォーマー!」

 

(小、吉……?)

 

 分厚く覆いかぶさる悪魔たちの向こうから聞こえた、小吉の声。それが、奈々緒の意識を繋ぎとめる。思わず顔を上げた奈々緒の耳は、なおも彼の声を聞き取った。

 

「お前らには、何一つ奪わせやしねえ!」

 

「……ッ!」

 

 はっとしたように、奈々緒が息を呑む。意識が明瞭に冴えわたっていくのを感じた。

 

「そうだ。そうだよね、小吉……!」

 

 もはや苦痛と疲労以外の一切を感じぬ中、奈々緒は自らの脳裏に最愛の人の姿を思い浮かべた。

 

 ――幸せになるために、自分はバグズ計画に参加することを決めたんじゃないか。

 

 ――まだ私は、その一歩目すら踏み出せていない。

 

 奪わせるわけにはいかない、私の、私たちの未来を。きっと、遠くない未来にあるはずの、幸福を。

 

「諦めない、諦めてなんてやるもんか、絶対に……!」

 

 例えどれだけ肉体が痛みに悲鳴を上げようと、どれだけ心が絶望に侵されようと。

 

「アタシが諦めて、小吉(アイツ)が悲しむなんて……そんなのはもうこりごりだ……!」

 

 ――魂だけは、渡さない。

 

「一分でも、一秒でも、耐えてやる……!」

 

 自らを鼓舞し、奈々緒は痛みすらも感じなくなり始めた両腕に力を入れ直す。ピンと糸が張り、解けかけていた結界は再びその力を取り戻した。

 

「絶対に皆で帰るんだ! 地球へ、私たちの星へ……!」

 

 例え腕が引きちぎれようとも、力尽きるその刹那まで彼女は糸を手放すつもりはなかった。

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 ――思えば、つまらない人生だった。

 

 ヴィクトリア・ウッドは悪魔に閉ざされた空間の中、ぼんやりと思考する。

 

 自らの脳に刻まれた大半の記憶は、何の面白みもないものばかりだ。父が死んだときの記憶、FGMを受けた苦痛の記憶、盗みをして生計を立てた記憶。

 

 不幸ぶるつもりなど、毛頭ない。ただ、これがヴィクトリア・ウッドと言う人間のすべてなのだとしたら――どうしようもないほどに味気ない。

 

 まるで自分が空っぽの人間なのだと突き付けられたようで、不愉快だった。だから彼女は、自らを満たす幸せを求め、同時にそれを許さない世界を憎んだ。

 全てを支配し、ありとあらゆる幸福で以て自身の空虚を満たすのだと意気込み――テラフォーマーの卵鞘を地球へ持って帰るという依頼を受けた。

 

 だが、その結果がこれだ。

 

 世界を支配するどころかイヴと言う少年一人さえ御し切れず、自身の首筋には死神の鎌が付きつけられている。あまりにも、滑稽な末路だ。

 

 そうして怒りも、憎悪も、野望も、全てを奪われた彼女には、虚しさだけが残された。

 

 もはや彼女に生きる意味はなく、悲嘆の感情も湧き出ない。彼女はただ床にへたり込み、最期の時を待っていた。

 

「諦めない、諦めてなんてやるもんか、絶対に……!」

 

 その時だった、そんな声が聞こえたのは。

 

 顔を上げたウッドの目に、変態した奈々緒の姿が映る。うっ血して青く変色し始めている両手には、クモイトカイコガの糸の束がきつく握られている。

 

(なんで、まだ頑張れるんだ?)

 

 ぼんやりと、ウッドの脳裏をそんな考えがよぎる。丁度その時、奇しくも奈々緒が言葉を漏らした。

 

「アタシが諦めて、小吉(アイツ)が悲しむなんて……そんなのはもうこりごりだ……!」

 

 彼女の言葉にウッドは両目を大きく見開く。

 

(――呆れた。この状況でまだ、小吉君のこと考えてる)

 

 そうまでして誰かのために生きようとするなど、本当に馬鹿馬鹿しい。自分の命は、自分のために使うべきものだ。それを他人のため、誰かのために使うのは無駄遣いでしかないではないか。

 

(馬鹿みたいだ。そもそもこんなことになったのも、裏切り者のあたし達を助けたからじゃん)

 

 動けないウッドたちへとテラフォーマーが押し寄せてきたあの時。

 奈々緒はその気になれば、彼女たちを見捨てて逃げることもできた。追撃をかわしきれるかはともかくとして、あの時の奈々緒には、逃げるという選択肢も確かに存在していたのだ。

 

 しかし、彼女はそうしなかった。

 

 自分達を殺そうとした裏切り者を守るために、奈々緒はその身を挺してウッドたちの盾となった。

 

(奈々緒ちゃんだけじゃない。皆、お人よしが過ぎる。誰かのために、なんて――そんなの、何の利益にもならないのに)

 

 本質的に自己中心的な思考回路を持つウッドにその行動原理は理解できず、また理解しようとも思えなかった。

 

 

 

 ――けれど、なぜだろうか。

 

 

 

「一分でも、一秒でも、耐えてやる……! 絶対に皆で帰るんだ! 地球へ、私たちの星へ……!」

 

 

 

 ウッドはそんな彼らのあり方を、美しいと思った。

 

 

 

 今までウッドが出会ってきた人間達は、誰も彼もが自分のためだけに生きていた。

 

 金銭目当てに自らに取引を持ちかけた者も、身体を目当てに自らに近づいてきた者も、あるいは、毎日を生きるためだけに犯罪に手を染め続けた自分自身さえも。

 

 皆、自分の欲望を満たすことに必死で、誰も他人を顧みることなどしなかった。ウッドはそれを悪いことだとは思わなかったし、むしろそれが当然だと思っていた。

 

 だがバグズ2号の乗組員になってから、彼女のその認識は変わった。

 

 バグズ2号計画に参加するのは、『金がない者』。自分が裏切ることになるのは一体どんな奴らなのかと蓋を開けてみれば、そこにいたのはただのお人よしの集団だった。

 自分の故郷なら一日と経たずに身ぐるみをはがされてしまうのではないかと、柄にもなく心配したのは記憶に新しい。

 

(そう言えば。あたしが心から笑うようになったのも、こいつらと会ってからだっけ)

 

 彼らと過ごしてきた日常は、ウッドにとっては生ぬるいなれ合い以外の何者でもなく。しかしだからこそ、心地よかった。

 

 例えそれが、いずれ自分自身の手によって壊されるものだったとしても。ウッドは彼らと過ごす日常を、心の底から楽しんでいた。

 

「……何だ、あるじゃん。楽しい記憶」

 

 ウッドの口が無意識に、そんな言葉を紡いだ。

 その気付きは同時に、それまでぽっかりと穴が空いたようだったウッドの胸中で、生への執着と反抗心に鎌首をもたげさせた。

 

「ハハ……よくよく考えたら、こいつらに黙って殺されるのも癪だな」

 

 そうだ、自分はまだ満たされていない。まだ自分は空っぽのままだ。ならば――

 

「こんなとこで、死ぬわけにはいかない」

 

 一度靄が晴れてしまえば、彼女の脳は自分でも驚くほどに良く回った。生き汚く、意地汚く、回り出した彼女の思考は『生への方程式』を瞬時に描き上げる。

 

 すぐさまウッドはそれを実行すべく、手錠の嵌められた両腕を奈々緒の腰へと伸ばした。

 

「ッ! ウッド、何を……!?」

 

 驚く奈々緒を無視してウッドが取り出したのは、奈々緒が持つ変態薬だった。ウッドは取り出した三本のうちの一本を、すかさず自らの体に突き刺した。

 

 途端、ウッドの全身にはエメラルド色の紋が浮き上がり、人差し指が蜂の毒針へと変化する。

 

 ――このままやられっぱなしなんて、性に合わない。

 

 変態を終えたウッドは心の中でそう言うと、肩越しに自らを見つめる奈々緒へと視線を向けた。

 

「ゴメン奈々緒ちゃん、詳しい説明をしてる暇はないんだ。けど、あたしを信じてくれ」

 

 信じてくれ、などとどの口で言っているのか。自分で言っておきながら、ウッドは失笑を禁じえなかった。

 

「……」

 

 だが、そんな彼女を奈々緒は笑わなかった。彼女はただゆっくりと頷くと、再びその顔を前へと向けた。ウッドの目の前に、無防備な背中がさらされる。

 

 ――そんなんだから、あたしみたいなのに足元を掬われるんだよ。

 

 ウッドが小さく呟く。呆れ混じりのその声はしかし、どこか嬉しげにも聞こえた。

 

「信じてくれて、ありがと。それじゃ奈々緒ちゃん、あと数秒でいい……『もう少しだけ耐えてくれ』」

 

 そう言うとウッドは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 ――彼女の行いを人道的ととるか外道ととるかは、人によるだろう。

 

 

 奈々緒の体へと流し込まれた毒針は瞬く間に彼女の脳へと運ばれ、その意識を刈り取る。これにより奈々緒は自由意思を奪われたが、同時に精神の消耗も食い止められた。

 

 脳に作用した毒は、限界などとうに超えた奈々緒の肉体をなお強引に動かす。これにより奈々緒の体が更なる悲鳴を上げるが、同時に結界が崩壊する瞬間を大幅に遅らせた。

 

 それは実に合理的な延命措置。エメラルドゴキブリバチは、自らの首筋につきつけられた死神の鎌を押し返して見せたのだ。

 

「あたしは今まで、『自分のためだけ』に生きてきたし、これからもそれを変えるつもりはない。けどさ……たまには、血迷ってみるのも悪くないよな」

 

 そう言ってウッドは体の向きを変えると、静かな口調で『彼』に語り掛けた。

 

「起きなよ、一郎君。『家族のために』……生きて帰るんだろ?」

 

 そして彼女はその腕を振り上げ――残る二本の注射器を、床に倒れる一郎の体へと突き刺した。

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 気が付くと一郎は、小さな部屋の中にいた。

 

 壁紙が剥げた壁、ガムテープで強引に止められた割れたガラス窓、薄汚れた天井。そこは、彼の自宅だった。

 

『兄貴、ご飯できたよ!』

 

 穴が空いたままの襖をあけて、弟の二郎がひょこりと顔を出す。一郎は「今行く」と答えると、誹謗中傷の落書きが書き込まれた教科書を閉じ、勉強机代わりに使っている段ボール箱の前から立ち上がった。

 

 ――いつの時代も、人間は自分達と異なる者、理解のできない者を爪弾きにしたがるものだ。増して『異端者』が自分達よりも優秀となればなおさらのこと。恐怖と嫌悪、そして嫉妬にかられた群衆は、中世の魔女狩りさながらに、『異端者』を排撃する。

 

 際立って醜い容姿と優秀な頭脳を持つ蛭間一郎は、彼の同級生たちにとってまさしく『異端者』であった。中性ならざる現代日本の『学校』と言う社会において、彼らの排撃はいじめという形で執行された。

 

 繰り返される罵詈雑言、暴力、嫌がらせの数々。学友は誰もが一郎を敵視し、教師すらも彼を貶めた。

 

 ただ一人の味方すらいない、地獄のような毎日。その中にあってしかし、一郎の心は決して折れず、歪むことはなかった。

 

 なぜならば。

 

『一郎、勉強おつかれさま』

 

『お疲れ、お兄ちゃん! ご飯、大盛りでいいよね?』

 

『よし、このちくわもーらい!』

 

『あっ、バカ、七星! それは兄ちゃんのだって!』

 

『いちろーにーちゃん!』

 

 

 ――彼には、自らを愛してくれる家族がいたから。

 

 

 彼にとって家族の存在が、どれだけありがたかったことか。

 吐き気を催すような闇の中、気が狂いそうになったことは数えきれない。だがそんなときには母や妹、あるいは弟たちが必ず光明となり、彼を支え導いてくれた。

 

 だからこそ一郎は、心に固く誓ったのだ。今度は自分が、家族を助けるのだと。幼い弟や妹を養い、病床に伏せる母を少しでも支えるのだと。そのためならば、どんな汚れ役でも勤め上げて見せる。

 

 そう決意して、彼は火星への任務へと赴いた。

 

「起きなよ、一郎君」

 

 ――生死の境界、深きまどろみの中で。

 

 家族の幻影を見つめていた一郎の耳は、そんな声を聴いた。

 

 それは、自らの共犯者のもの。珍しく冗談めかした様子のないその声は、一郎の耳に心地よく響いた。

 

「『家族のために』……生きて帰るんだろ?」

 

「――そうだな」

 

 一郎はその言葉を、静かに肯定する。そんな彼を、家族たちが不思議そうに見つめた。

 

『兄ちゃん、どこか出かけるの?』

 

「……ああ、ちょっと火星まで行ってくるよ」

 

『火星? そんなところに、何しに行くの?』

 

 弟の七星の言葉に、一郎は一瞬だけ返答に詰まる。しかしやがて、彼は意を決したように、ゆっくりと口を開いた。

 

「仲間を、助けてくる」

 

『……そっか!』

 

 そう言うと、七星はニッコリと笑った。

 

『いってらっしゃい、兄ちゃん!』

 

「――ああ」

 

 一郎は優しい表情で頷くと、自らを見送る家族たちへと背を向ける。

 

「行ってきます!」

 

 力強くそう言い、一郎は一歩前へと踏み出した。必ずこの風景の中に戻ってくると、心に誓いながら。

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 ドン! という凄まじい衝撃がつきぬけ、奈々緒たちに覆いかぶさっていたテラフォーマーの山が一気に崩壊したのを、イヴは見た。

 

 束の間、全ての戦局で動きが止まり、管制室にいる者全ての視線がその一画へと向けられる。

 そこには、数十のゴキブリを吹き飛ばした姿勢のまま立つ一郎と、数匹のテラフォーマーを従えるウッド、そして彼女の腕に抱かれている奈々緒の姿があった。

 

「アキ!」

 

「落ち着きな、小吉君。大分無理させちゃったから今は寝てるけど、大丈夫。ちゃんと生きてるよ」

 

 今にも駆け寄りそうな小吉を安心させるため、ウッドがそんな言葉を掛ける。その傍らで、一郎が絞り出すように言った。

 

「ハァ、舐めやがって……! ハァ……絶対に、生きて帰ってやる……!」

 

 一郎は俯いていた顔を上げると、悠々と自らを見つめる『\・/』のテラフォーマーを睨みつけた。

 

 

 

「こんなところで死ねるか!!」

 

 

 

 そう言って一郎は、猛然と『\・/』のテラフォーマーへと突っ込んでいく。ガン、と肉と肉が衝突する音がして、一郎とテラフォーマーが組みあう。それが合図とだったかのように、戦況は再び動き出した。

 

「ッ、ドナテロさん、危ない!」

 

 イヴはそう叫ぶと、咄嗟にドナテロの背後へと警杖を突き出した。その先端がバチバチという音と共に青い火花を吹き上げる。

 

 それを見た『―・―』のテラフォーマーは、背後からドナテロを奇襲すべく伸ばしていた手を引っ込める。彼はイヴへと一瞥を繰れると、すぐさま警戒するようにバックステップで距離をとった。

 

「ドナテロさん、大丈夫?」

 

「あ、ああ……問題ない。助かった」

 

 イヴの問いに答えながら、ドナテロは駆け寄ってきたテラフォーマーの頭を叩き潰す。それから彼は、どこか物憂げな顔でイヴを見つめた。

 

「……イヴ」

 

「戦うな、っていうのは無しだよ、ドナテロさん」

 

 ドナテロの言わんとしていることを察して、イヴが先に口を開いた。その言葉に、ドナテロは思わず口を閉ざす。

 

 ここで強く言ったところで、イヴはおそらく聞く耳を持たないだろう。何よりイヴの戦力としての有用性、とりわけ機転の優秀さをドナテロはよく理解していた。子供ながらに大人顔負けのその能力は、この戦況においてこれ以上ない武器だ。

 

 本音を言えば、ドナテロはイヴをこれ以上戦わせたくなかった。それは自分が、イヴのことを人造人間――すなわち、戦略兵器として認めてしまったことになるから。

 

「ねえ、ドナテロさん――バグズ2号が出発してから、七日目のこと覚えてる?」

 

 イヴは襲い掛かってきたテラフォーマーを警杖で打ち据えると、重く黙り込んでしまったドナテロに言った。

 

「ドナテロさんは、皆の前でボクに言ってくれたよね。ボクは『バグズ2号の乗組員として』この作戦に同行させるって」

 

 イヴの言葉に、ドナテロは自らがミーティングで告げた言葉を思い出した。その様子を見て、イヴはその顔に笑顔を浮かべた。

 

「ボクね、あの時は本当に嬉しかったんだ。本当は、皆を火星なんかに行かせたくなかった。けどドナテロさんが、皆がボクを仲間として認めてくれて――ボクは初めて、自分が『人間』だと思えた」

 

 そう言って、イヴはドナテロを見上げた。

 

「だから、ボクも戦うよ。バグズ2号の乗組員としてドナテロさんを、皆を守るために……ボクは、この力を使いたいんだ」

 

 自らを見つめる水色の瞳に、ドナテロは吸い込まれるような錯覚を覚えた。そしてその視線から、彼は改めてイヴの決意の強さを改めて知る。

 

「そうだな……すまない、イヴ」

 

 一呼吸分の時間を置いて、ドナテロが言った。

 

「俺の友人として、バグズ2号の仲間として――一緒に、戦ってくれ」

 

「任せて!」

 

 威勢よくそう言うと、イヴは警杖を構え直す。腹部に受けた蹴りのダメージは抜けきっていない。だが、ドナテロが隣に立っている。その事実だけで、イヴは万全以上のパフォーマンスを発揮できそうだった。

 

「ドナテロさん、このテラフォーマーたち、指揮系統をスキンヘッドのテラフォーマーに任せっきりみたい」

 

「どういうことだ?」

 

 聞き返してきたドナテロに、イヴが簡潔に説明した。

 

「ドナテロさんがスキンヘッドのテラフォーマーを殴った時、あいつらの動きが一瞬だけ止まったんだ。その後すぐ、一郎さんと戦ってるテラフォーマーの号令で動き始めちゃったけど――」

 

「……成程」

 

 イヴの言いたいことを理解し、ドナテロは顔を引き締めた。

 

「あの三匹を叩くのが、得策か」

 

 ――指揮官であるあの三匹が死ねば、自然にテラフォーマーたちは瓦解する。それが、イヴとドナテロがたどり着いた答えだった。

 

「一匹は小吉が、一匹は一郎が相手をしている……問題は、奴か」

 

 ドナテロが睨むのは、自分達を取り囲む無数のテラフォーマー。そしてその向こう側から悠々と自分達を観察する、『―・―』のテラフォーマーだった。

 

「あそこまで行くのは、中々に骨が折れそうだ」

 

 決して悲観的ではなく、淡々とドナテロが現状を口にすると、イヴが頷いた。先程のイヴの反撃に警戒心を強めたのだろう、『―・―』のテラフォーマーは彼らを近づけまいとばかりに、同胞を用いて露骨な壁を用意していた。

 

「仕方ない……少し強引な方法になるが、俺が道を拓こう。イヴ、その間にお前は――」

 

 ドナテロが言おうとした、その時だった。

 

「いえ、それには及びません、艦長(キャプテン)

 

 そんな言葉と共に、ドナテロとイヴ。2人の間を、黒い旋風が吹き抜けたのは。

 

 

 

 

 

 

 

【あなたが わたしの民を 行かせることを 拒むなら】

 

 

 

【見よ わたしはあす 蝗をあなたの領土へ送る】

 

 

 

 

 

 

 

「 シ ュ ッ ! !」

 

 

 一閃。

 

 そんな表現が相応しいだろう。ただの一撃で、黒い悪魔たちの体は真一文字に切り裂かれた。

 テラフォーマーたちを屠った風は軽やかに床へと降り立つと、口を開いた。

 

「すまない、イヴ。少し遅れた」

 

「てぃ、ティンさん……!」

 

 目の前に立ったティンに、イヴが目を見開く。彼が驚いたのは、倒れていた彼が助けに来たからではない。その姿が、先程までの物から大きく変化していたからだ。

 

 先程まで緑色だった表皮は今、漆の様な黒へと変色してティンの体を包んでいた。背中からは、通常よりも長大化したバッタの翅が伸びている。

 

 それは、『群生相』と呼ばれる形態。

 

 食料が少ない状態に置かれたときにのみサバクトビバッタが見せる、獰猛さと貪食の顕現。

 

「普通の変態じゃ、群生相にはならない……! そんな、まさか――」

 

「イヴ」

 

 青ざめるイヴを諭すように、ティンは穏やかな口調で告げた。

 

「お前に譲れないものがあるように、俺にも譲れないものがある。これくらいの無茶はさせてくれ」

 

 その言葉は静かなものだったが、有無を言わせない何かがあった。何かを悟ったように口をつぐんだイヴに肩越しに笑いかけると、再び前へと顔を向けた。

 

「露払いは俺が! 艦長とイヴは、後ろにいる『奴』を!」

 

 背後の二人にそう言うや否や、彼は再び跳躍した。そして彼は、聖書に刻まれた災厄の描写そのままに、テラフォーマーの群れへと襲い掛かった。

 

 

 

 

【それには雄獅子の牙がある】

 

 

 

 ビュン、ビュン、と彼の足が唸りを上げて吹き荒れる。その度にテラフォーマーたちの命を刈り取った。

 

 

 

【それはわたしのぶどうの木を荒れすたれさせ わたしのいちじくの木を引き裂き】

 

 

 

 テラフォーマーたちはそのあまりの速さ、あまりの強さを押しとどめることすらできない。天災を前に、人々が祈ることしかできないように――彼らはただ、自分達が蹂躙されるのを見ているしかなかった。

 

 

 

【これをまるで裸に引きむいて投げ倒し その枝々を白くした】

 

 

 

 肉飛沫が舞い、分厚いテラフォーマーの壁は瞬く間に削られていく。

 

 

 

【彼らの前では火が焼き尽くし 彼らのうしろでは炎がなめ尽す】

 

 

 

「オオオオオオォォオォオオォ!」

 

 

 

【この国はエデンの園のようではあるが――】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「  シ  ュ  ッ  ! !」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【彼らの去ったあとでは 荒れ果てた荒野となる】

 

 

 

 

                         ――『出エジプト記』より、抜粋

 

 

 

 

「行けッ!」

 

 ティンが鋭く叫ぶと同時に、イヴとドナテロは同時に駆け出した。もはや、彼らの前に黒くそびえる壁はない。ただ、死体の荒野が広がっているだけだった。

 

「……さて。ここからは俺がお前たちにとっての壁だ」

 

 2人が無事に包囲網から離脱したのを確認すると、ティンはクルリと体の向きを反転させた。

 

「悪いが、一匹たりとも後ろへ通すつもりはない」

 

 彼の前に立つ無数のテラフォーマー。それを前にして一歩も引くことなく、ティンはただ静かに、眼前のテラフォーマーたちに告げた。

 

「――覚悟しろ」

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 目の前にドナテロとイヴの姿が現れたのを見て、『―・―』のテラフォーマーはゆっくりと腕組を解いた。

 

 弄した策は突破された。ならば、自分がこの人間達を駆除するまで。

 

 そう言わんばかりに、『―・―』のテラフォーマーは深く腰を落とし、迎撃の構えをとった。

 

「――イヴ。準備はいいか?」

 

「いつでも、大丈夫」

 

 2人は短く言葉を交わすと己の拳を、あるいは武器を構える。もはや、彼らの間に多くの言葉は不要だった。

 

 

 

 ――一呼吸分ほどの空白。

 

 

 

 そして、その後に。

 

 

 

 彼らの命運を決める最後の戦いの火蓋は静かに、しかし苛烈に切られたのだった。

 

 

 




オマケ

イヴ「祝! 贖罪のゼロ連載一周年突」

小吉「やべえ、今回ネタにできるシーンがねえ!?」

イヴ「祝! 贖罪のゼロ連載一周ね」

トシオ「シリアスで手を付けにくい場面しかない、だと……?」

イヴ「……贖罪のゼ」

ルドン「それじゃ、普通にU-NASA予備ファイルとかでお茶濁しとくか……」

イヴ「……(泣きそうな顔で『祝! 贖罪のゼロ連載一周年突破!』のボードを持って立ってる)」

ドナテロ「小吉、トシオ、ルドン……一列に並べ!」ビキビキ

三人「!?」





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第22話 END POINT 悪夢の終わり

「おおおおおおおッ!」

 

 猛々しい雄叫びと共に、ドナテロの岩のような腕から繰り出されるラリアットが、『―・―』のテラフォーマーの脳天に迫る。

 ベースとなった昆虫の特性である『怪力』が上乗せされたことで、ドナテロの攻撃は破壊力が格段に上昇している。『―・―』のテラフォーマーですら、直撃すれば即死は必至だろう。

 

「じ」

 

 ――ただし、それはあくまでも『直撃すれば』の話。

 

 目の前に迫る丸太のような腕を見た『―・―』のテラフォーマーは,ドナテロの腕に自らの手を添えると押し上げるようにして軌道を強引に捻じ曲げた。結果、彼の攻撃は大きく逸れ、ブンという空気を切る音だけが響く。

 

 ――ドナテロが多用するプロレスの技は本来、他の格闘技のような『確実に相手を倒す』ためのものではなく、『観客を魅せる』ためのものである。

 故にプロレスの技は他の格闘技に比べて見た目が派手で、破壊力があるという特徴があるのだが、その一方で『隙が大きい』という弱点がある。

 

 無論、優れた知能を持つ『―・―』のテラフォーマーがそれに気付かないはずもない。彼はドナテロの体から次々と繰り出される渾身の攻撃を、最小の動きで次々と受け流していく。そして特に大ぶりの攻撃を逸らした直後、ドナテロの態勢が不安定になったのを見計らうと、『―・―』のテラフォーマーは彼の胴体へと強烈な拳撃を叩きこんだ。

 

「がッ……!?」

 

 ドナテロの口から苦悶の声と共に血と涎が漏れ、思わずドナテロが膝を折る。

 

『クロカタゾウムシ』や『ニジイロクワガタ』には及ばないまでも、その体を頑丈な『昆虫の甲皮』に覆われているはずのドナテロ。並の攻撃ならばものともしない彼が、ただの一撃で膝をついてしまったのは、攻撃の被弾部位に原因があった。

 

 ――人体の正中線上、腹部の上方中央に位置する『みぞおち』。

 

 飲んだ水が落ちるところという意味の『水落ち』が変化して名づけられたこの部位は、東洋医学の経絡論においては『鳩尾(きゅうび)』と呼ばれる経穴(ツボ)でもある。その奥部に多数の交感神経が通っているみぞおちは、他の部位に比べても痛覚が鋭敏なことから人体の急所として広く知られ――ここに強い衝撃を受けると、激痛や横隔膜の痙攣による呼吸困難などに症状に見舞われることがある。

 

「ぐ、おぉ……!」

 

 いかにドナテロが屈強であろうとも、こればかりはどうしようもない。人体の危険信号たる痛みは運動能力を鈍らせ、酸素の不足は運動能力を低下させる。根性論でどうにかなるものではないのだ。

 

「……じょう」

 

 ――恐るべきは、ただの一瞬で人体の弱点を見抜き、それを的確について見せた『―・―』のテラフォーマー。筋力では遠く及ばない脅威(ドナテロ)を、卓越した技巧と知恵で以て、ただの一撃で下して見せたのだ。

 

 昆虫としてのゴキブリが持つ最大の特性は、『貪欲なまでの生存能力』。

 敏捷性や反射神経、一匹見かけたら三十匹は潜んでいるといわれる繁殖力など、これまでにあげてきたこれらのゴキブリの特徴は全て、この特性の副産物に過ぎない。

 

 彼らは過酷な自然界で生き残るために、時に速さを、時に鋭敏な感覚を、時に繁殖力を取り込んできた。他の生物が長い進化の過程でやっと一つ掴み取れるかどうかという、稀有な能力の数々を。

 

 そして今、彼は人間にも匹敵する『知恵』と『技術』を手に入れた。

 

「じょじょうじ、じょうじぎ。ぎじじょう」

 

 ――人間ごとき、何するものぞ。最後に勝つのは――ゴキブリ(われわれ)だ。

 

 そう言わんばかりに、『―・―』のテラフォーマーは目の前のドナテロを見下ろした。

 

「ぐっ……!」

 

 ドナテロが態勢を立て直そうとするも、既に『―・―』のテラフォーマーは次の攻撃に写っていた。まるで選手宣誓のようにテラフォーマーは高々と己の右腕を掲げ、それを目の前に這いつくばる人間へと振り下ろす。

 

 『―・―』のテラフォーマーの鋭い手刀が、ドナテロの首を捉えた――

 

「やあッ!」

 

 ――かと思われたその時、鋭い掛け声と共に、『―・―』のテラフォーマーの死角からイヴが飛びかかった。イヴはその腕に宿る『ヂムグリツチカメムシ』の力で、『―・―』のテラフォーマー目掛けて警杖を振り下ろす。

 

「じょうじぎ」

 

 人間ならば完全に不意をつけたであろう、物陰からの奇襲。しかしすぐさま『―・―』のテラフォーマーはそれに対応した。彼はドナテロへの攻撃を中断すると、後方へと飛び退くことでイヴから距離を置く。その様子は、いかにも電撃を警戒しているようであった。

 

(やっぱり触らない――!)

 

 続く二撃、三撃も、軽やかなステップで躱され、虚しく空を切った。警杖から放たれる電撃の危険性は、黒焦げになって床に転がるテラフォーマー達の末路を見れば一目瞭然。桁外れの頭脳を持つ『―・―』のテラフォーマーが警杖にわざわざ触れるはずもない。

 

「それなら――ッ!」

 

 だが、イヴとてここで引き下がるつもりは毛頭なかった。今のままでは攻撃がかすりもしないことを悟ると、彼は即座に次の一手に移る。

 

 脚部の歯車を調整し、両脚に力を溜めこんでいく。そして歯車が噛みあったその瞬間、イヴは溜めこんだ力を爆発させた。

 

「えいッ!」

 

 跳躍の速度、それはさながら放たれた弾丸のごとし。目にもとまらぬ速さで『―・―』のテラフォーマーに肉薄したイヴは、すれ違いざま大きく警杖を薙いだ。

 

「――」

 

 だが、それでもなお『―・―』のテラフォーマーには届かない。例え目にもとまらぬ速さであろうと、『―・―』のテラフォーマーには空気の流れを感じ取るセンサー『尾葉』が存在する。

 

 視覚では捉えきれぬ情報を正確に把握し、『―・―』のテラフォーマーは飛び込んできたイヴの体と、薙ぎ払われた警杖を躱した。

 

 

 

 

 

 ――はずだった。

 

 

 

 

 

「――?」

 

 ――バチバチという嫌な音が、『―・―』のテラフォーマーの鼓膜を叩く。同時に彼は、熱と鋭い刺激が左腕から全身へと流れ込み、己の肉体を突き刺したのを感じた。

 

「ギッ……!?」

 

 その顔から、初めて余裕の表情が消え失せる。

 確かに攻撃は見切ったはずだ。なのになぜ、自分は攻撃を受けている――!?

 

 『―・―』のテラフォーマーが即座に左腕を見やる。その瞳に写りこんだ己の黒く屈強な彼の腕には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――U-NASA備品、対人組立式()()電気警杖 スパークシグナル」

 

 不意に、背後から聞こえたその声。電撃に身を焼かれながら『―・―』のテラフォーマーが振り返れば、そこには本来よりも3分の1程短くなった電気警杖と、それを握りしめて立っているイヴの姿があった。

 

「さすがに、()()()()()()()は読めないよね?」

 

 そう言って、イヴは自らを見つめる『―・―』のテラフォーマーに得意げな笑みを浮かべて見せた。

 

 ――イヴがやったことは極めてシンプルだ。

 

 まずは組み立て式である警杖(スパークシグナル)の連結を片端だけ解除。その後自身が持つ基部と端部を『カハオノモンタナの糸』で結び、それをすれ違いざま鞭のように振るうことで、解除した端部ごと『―・―』のテラフォーマーの左腕に巻き付けたのだ。

 

 当然、直線的な『杖』による攻撃軌道を予想していた『―・―』のテラフォーマーでは、曲線的な『鞭』による攻撃軌道を回避することはできない。

 

 イヴの得物に対する『先入観』、そして高い知能こそあるものの、生まれたてであったからこそ不足している『経験』。この二つが、明暗を分けた。

 

「ギ、ぎぃいぃいッ……!」

 

 『―・―』のテラフォーマーの口から、苦悶の声が零れる。テラフォーマーの体に痛覚はないため、人間の様な苦痛を感じることはないのだが――しかし、依然として自らの全身を走る電撃に、『―・―』のテラフォーマーは己の命の危機を感じとっていた。

 

 彼らは、死を恐れない。しかしその根拠は、全体の利益のために個の損失を許容するという合理的な思考にある。このまま何もせず無駄死にするなどと言う非合理的な選択肢は、『―・―』のテラフォーマーの中には存在しない。

 

 ――そう、非合理的。彼にとってここで自らが命を落とすということは『割に合わない』ことであった。

 

 だからこそ『―・―』のテラフォーマーは、自らの脳裏に走った一瞬の閃きを、即座に行動へと移すことができた。

 

 

 

 

 

 ――ブチリ、という嫌な音が響く。

 

 

 

 

 

「なっ……!?」

 

 警杖越しに加わる負荷が軽減し、イヴが驚きの声を上げる。その目の前で、テラフォーマーの左腕がボトリと地面に落ちて転がった。

 

 

 

 ――()()()()()()()()()()()()()退()()()

 

 

 

 それが、『―・―』のテラフォーマーが下した決断。これが人間ならば、腕を切り離した際に生じる「痛み」や、今後被るであろう「不便さ」などが枷となっただろう。だが彼らには痛覚がなく、己の肉体に対する執着もなく、その頭は今この瞬間を生き延びることのみを考えている。だからこそ、身の安全と引き換えに腕を捨てるという思い切った行動を起こすこともできたのだ。

 

 そしてその予想外の行動は、図らずもイヴの隙へとつながっていた。

 

(しまった!)

 

 力の均衡が崩れたことで、イヴの態勢が大きく崩れてしまったのだ。『―・―』のテラフォーマーはそれを見るや否や、すぐさまイヴに向かって大きく足を踏み込んだ。

 

「こ、のッ!」

 

 咄嗟にイヴが、手中の警杖を振り上げる。だがそれを見た『―・―』のテラフォーマーは、すぐさま足元に転がっていたテラフォーマー(同胞)の死体の首を蹴り上げ、それを盾とした。

 

 直後、イヴの警杖は壁代わりにされた死体の脳天を穿ち、バチバチと火花を散らす。

 

 イヴのカウンターをあざ笑うかのようにすり抜けた『―・―』のテラフォーマーは懐に飛び込むと、無事な右手でイヴの細首を乱雑に絞め掴んだ。

 

「が、ひゅ――!」

 

 身長差ゆえに小さな体が宙に浮き、イヴの口から空気が抜ける音が漏れた。首を握りしめる手にかかる力は徐々に強まり、気道を圧迫していく。何とか抜け出そうと、イヴはツチカメムシの特性を発揮した両腕で抵抗するも、襲い来る息苦しさと痛みに徐々に力は抜けていき、その目には悔しさか、はたまた生理現象か、涙が滲んだ。

 

「ぐ、ぁ……」

 

 奇しくもこの状況は、かつて自分が夢で見た光景に似ていた。首の骨が嫌な音を立てて軋んでいく。

 

 薄れゆく意識の中、イヴが己の死を予感した――その時。

 

 バキッ! という何かが潰れたような音と共に、不意に『―・―』のテラフォーマーがイヴの首から手を離す。直後、テラフォーマーは体を『く』の字に曲げて真横へと吹き飛ぶと、派手な音と共に壁にクレーターを刻んだ。

 

「無事か、イヴ!?」

 

 えづくようにむせているイヴに、攻撃の姿勢を解いたドナテロが駆け寄る。それを見たイヴが、顔に笑みを浮かべて見せた。

 

「ケホッ、ケホッ……なんとかね。ありがとう、ドナテロさん」

 

 未だ喉に残る違和感に咳き込みながらも、イヴは疲弊した体に鞭打って立ち上がる。その双眸は力無く壁にもたれかかる『―・―』のテラフォーマーを見つめた。

 

「少し入りが浅かったような気がしたが……やったか?」

 

「……」

 

 ドナテロの言葉にイヴは無言で首を横に振ると、『―・―』のテラフォーマー目掛けて床に落ちていた大きめの瓦礫を蹴り飛ばした。

 

 子供とはいえ、ウンカの脚力で蹴り飛ばされた瓦礫の威力は決して馬鹿にできるものではない。瓦礫はイヴの狙い通りに動かないテラフォーマーの頭部目掛けて真っすぐに飛んでいき――そして、黒い腕の一振りで弾き飛ばされた。

 

「――やっぱり」

 

 ある意味では、予想通り。再び身構えた2人の前で、死んだふりを止めた『―・―』のテラフォーマーが立ち上がった。

 

「頑丈だな。おまけに、普通の個体よりも頭が回るらしい」

 

 ドナテロが難しい表情で呟く。形勢は拮抗しているように見えて、その実ドナテロとイヴにとって不利な方向に傾きつつあった。

 

 イヴとドナテロの2人がかりでも、現状『―・―』のテラフォーマーには決定打を与えることはできていない。無論、『―・―』のテラフォーマーも左腕の欠損と言う大きな痛手は被っているが、手負いなのは2人も同じこと。加えて、あの個体の学習能力の高さから考えれば、一度使用した攻撃は全て見切られる可能性が高い。

 

 即ち、戦いが長引けば長引くほど、2人は追い詰められていくのだ。

 

(どこかで決定打を打ち込む必要があるが――)

 

 眼前のテラフォーマーを油断なく見据えながら、ドナテロは思考する。戦況の泥沼化を避けるためには、一撃で『―・―』のテラフォーマーを仕留めなければならない。同時に、彼は自分の特性と技術ならばそれが可能であることにも気がついていた。

 

 問題なのは、どうやってその一撃を『打ち込む』段階まで持ち込むか、という点。現時点で届いたのは、イヴを助ける際の不意打ちのみ。破壊力がある大技を当てるだけ隙を目の前の敵が見せることはないだろう。

 

 ――どうする?

 

 刹那の逡巡。その後、ドナテロはゆっくりと口を開いた。

 

「イヴ」

 

 名前を呼んだ途端、イヴの意識が自分自身に向いたのを感じながら、ドナテロは続けた。

 

「あのゴキブリに一撃打ち込める状況まで持ち込みたい。何か方法はないか?」

 

 その言葉が予想外だったのだろうか。イヴの口から思わずと言った様子で、呆けたような声が漏れ出る。そしてその直後、イヴは自らの顔が綻んでいくのを感じた。ドナテロがこの土壇場で自分を頼ってくれたという嬉しさが、彼の心を満たしていく。

 

「……イヴ?」

 

「あ、ううん! 何でもないっ!」

 

 ――いけない、緊張感を持たないと。

 

 自戒するようにイヴは胸中で呟き、大きく深呼吸をする。戦いはまだ続いている。気のゆるみは即、死へと繋がるのだ。

 

 イヴは己の心を落ち着かせてから、ドナテロの問いに対する返事を口にした。

 

「丁度、ボクも考え付いたところだったんだ。あのテラフォーマーに、ドナテロさんの攻撃を当てるための方法」

 

 そう言ってイヴはその口元に笑みを浮かべた。

 

 それは先程までの緩みきった笑みではなく――幾手も先の未来に、勝利を垣間見たかのような、不敵な笑みであった。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 『―・―』のテラフォーマーは対峙していた2人の人間の内、大柄な人間が再び自らに向かって突進してくるのを見た。

 

「フンッ!」

 

 その人間――ドナテロは間合いを詰めると、大きく手を振り上げた。先程の打ち合いで、既に何度も目にした攻撃だ。万全でないとはいえ、『―・―』のテラフォーマーに躱せないはずもない。

 

 『―・―』のテラフォーマーが真横に飛び退く。その直後、振り下ろされたドナテロの腕がバグズ2号の床を強く殴りつけ、小規模の地震を思わせる振動を引き起こした。すかさずドナテロは上体を起こすと、なおも無謀にも見える攻撃を『―・―』のテラフォーマーに仕掛ける。『―・―』のテラフォーマーはそれら全てを受け流しながら、目の前の人間の特徴を分析した。

 

 

 ――この人間の攻撃は、破壊力こそあるが鈍重。戦法は発達した筋力に物を言わせた力押し。再三受け流されているにも関わらず、それを止めようともしない。

 

 

 『―・―』のテラフォーマーはこの戦いにおいて、今まで受動に徹してきていた。こちらからの攻撃はカウンター程度に控え、敵の行動を観察することでその知識と技術を学習し、奪おうとしていたのだ。その成果もあって、生後間もないこの個体は生まれてから現在に至るまでの時点で既に、通常のテラフォーマーを凌ぐ戦闘能力を身に着けていた。

 

 ――だが、もはやこの人間(ドナテロ)から得られるものは何もない。

 

 それが、『―・―』のテラフォーマーの見解だった。おそらくは学習能力も低いのだろう。馬鹿の一つ覚えの如く突っ込んでくるこの人間にはもはや、『教材』としての価値は見出せない。

 

 

 これ以上、この人間を生かしておく必要はないだろう。

 

 

 そう結論を下した『―・―』のテラフォーマーは壁際まで後退。偶然近くに転がっていた通常型のテラフォーマーの死体に近づくと、いきなりその頭部を鷲掴みにした。

 

「じょう」

 

 一声そう鳴いて、『―・―』のテラフォーマーが腕にぐっと力を込める。するとそう間をおかずに、ずるりという音を立てながら、死体からテラフォーマーの頭部が背骨ごと引き抜かれた。

 

「!?」

 

 その異常とも言える行動に、ドナテロは思わず追撃の手を止める。『―・―』のテラフォーマーはその視線を意にも介さず、背骨の先端にある同族の頭部をねじ切って雑に放り投げると、プルリとしなるそれを()()()()()()()()()()()()()

 

「これは――!」

 

 ドナテロは、その構えを知っていた。ドナテロは『―・―』のテラフォーマーの背後に、同じ構えをとるイヴの姿を幻視する。

 直後、『―・―』のテラフォーマーはドナテロに向かい、数歩分の距離を一気に詰めた。

 

(杖術だと――!?)

 

 驚くドナテロの喉元に、おぞましき槍の穂先が体液と脂肪を撒き散らしながら迫る。咄嗟にドナテロが体を大きく仰け反らせると、果たして背骨の槍は彼の喉に届く数cm手前でピタリと止まった。回避行動をとらなければ、今頃ドナテロの喉は串刺しになっていただろう。

 

 息を吐く間も与えず、『―・―』のテラフォーマーはさらに一歩踏み込むと、攻撃を続けざまに放つ。時に突き、時に振り下ろし、時に薙ぎ払い。次々に繰り出されていくその技は、見れば見るほどにイヴの杖術に似ていた。

 

「ぐッ……!」

 

 押され続ける戦況を仕切り直すべく、ドナテロが後方へ跳躍して『―・―』のテラフォーマーとの距離をとる。相手が詰め寄ってくるまでの間に態勢を立て直そうとするドナテロだったが、彼が距離をとると有無を言わず、『―・―』のテラフォーマーは槍投げの要領で背骨を投擲した。

 

「ッ!?」

 

 反射的にドナテロが体をひねると同時に、一瞬前まで自らの頭部があった場所を背骨は猛スピードで通過し、背後の壁に突き刺さる。

 

 ゾッとドナテロの背を悪寒が走ったのとほぼ同時に、拳を振りかぶった『―・―』のテラフォーマーが彼の懐に飛び込む。一拍の間も置かずにテラフォーマーの腕が振り抜かれ、ドナテロの屈強な体を衝撃が貫いた。勝利を確信し、『―・―』のテラフォーマーが鬼の首を取ったような笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その直後、『―・―』のテラフォーマーの耳が拾ったのは、ドナテロの腹に突き立てた自らの拳から上がる、メキメキという嫌な音だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「!?」

 

 異変に気付いた『―・―』のテラフォーマーが腕を引こうとするが、どれだけ力を込めても腕は固定されたかのように動かない。その理由は至って簡単。なぜならば、彼の拳は受け止められていたからだ。

 

 

 ――地球上で最も『力持ち』であるとされる、とある昆虫の筋肉で以て。

 

 

「嘗めるなよ、ゴキブリが……!」

 

 鼓膜を叩いたその声に、『―・―』のテラフォーマーが顔を上げる。テラフォーマーの視界に映ったのは左腕で己の拳を受け止め、空いている右腕を振り上げるドナテロの姿だった。

 

「ぜァ!」

 

 ドナテロの右腕が振り下ろされ、『―・―』のテラフォーマーの体が宙を舞った。これによりドナテロの拘束からは逃れたものの、『―・―』のテラフォーマーは床に叩きつけられて転がり、満足に受け身も取れないまま地に這うこととなった。

 

「ぎ、ギ……」

 

 飛び起きた『―・―』のテラフォーマーはすぐさま、己の体の損傷を確認する。どうやら、咄嗟に体の軸をずらしたのが功を奏したらしい。テラフォーマー最大の弱点である食道下頸椎や気道に大きな傷はなく、代わりに左肩部の骨が完全に粉砕されていた。

 

「じょう」

 

 その顔から一切の表情を消し、『―・―』のテラフォーマーはおぼつかない足取りで立ち上がった。幸い、未だ戦闘に支障のある傷は負っていない。ならば、彼は立ち上がり、目の前の害虫(人間)を殺すのみ。『―・―』のテラフォーマーは再びドナテロに飛び掛かろうとして――。

 

 それから、ふと感じた違和感に足を止めた。

 

「……?」

 

 違和感の正体はすぐに分かった。それは、今まで『―・―』のテラフォーマーが体験したことのない『悪臭』だ。

 先程まで、火災の残り香で微かに焦げ臭かった程度の管制室内が、今は青臭くツンとするような刺激臭で満たされている。

 

 ――何だこれは?

 

 訝しげに周囲を見渡し、それから『―・―』のテラフォーマーは更に気が付く。その視界は靄がかかったかのようにぼやけ、その呼吸は荒く苦しくなってきていることに。

 

 

 

「――そろそろ、効果が出てきたかな?」

 

 

 

 背後から聞こえた声に、『―・―』のテラフォーマーが振り返る。彼から少し離れた壁際に小柄な人間――イヴが立っていた。両腕をテラフォーマーに向かって突き出すかのような奇妙な姿勢のまま、イヴは呟く。

 

「“カメムシの毒霧”」

 

 

 

 

 

 

 ――カメムシが発する悪臭の原因である分泌液、その主成分であるヘキサナールと呼ばれる化学物質には、強い毒性がある。吸入や皮膚との接触によって生物の体内に吸収されることで、この化学物質は呼吸器や目、皮膚などに刺激性の悪影響を及ぼすのだ。

 

 その毒の強さは放出したカメムシ自身も例外なく対象となるほどで、実際に密閉された空間でこの液体を分泌したカメムシが死んでしまったという報告もなされている。

 

「自分の臭いで死ぬ虫がいる」などと笑い話にできるのは、それが昆虫大であった場合の話。もし密閉された空間で、人間大のカメムシが分泌液を多量に放出したのなら――その空間は瞬く間にガス室となり果てるだろう。

 

 

 

 

 

「――」

 

 イヴが発した言葉の意味を『―・―』のテラフォーマーが理解することはない。だが彼の鋭敏な感覚は瞬時に理解していた――あの人間が、己を襲っている奇怪な現象の根源なのだと。

 

 駆除の優先度はドナテロよりもイヴの方が上だと判断したらしい。『―・―』のテラフォーマーがイヴへと向きを変えると、彼目掛けて一直線に駆け出した。

 

「イヴッ!」

 

「ボクは大丈夫!」

 

 口元を布きれで覆いながら声を張り上げたドナテロに、イヴが叫び返す。

 

「それよりも準備を!」

 

 イヴは言いながら自らの傍らに置いてあった警杖を手に取ると、躊躇なく放電のボタンを押す。途端、基部から発信された電気信号が送信され、『―・―』のテラフォーマーの左腕ごと放置されていた末端部がそれを受信、その先端から青い火花を散らした。

 

 

 

 

 

 ところで、先の文章でその毒性の強さについて解説したヘキサナールであるが、実はこの化学物質は消防法の定める危険物に指定されている。だが、これは毒性の強さが原因で指定されているわけではない。

 

 

 

 ――消防法第一章 第二条の九より『危険物とは、別表第一の品名欄に掲げる物品で、同表に定める区分に応じ同表の性質欄に掲げる性状を有するものをいう』。

 

 

 

 この法律の定める基準に従った場合、ヘキサナールは『第4類危険物 第2石油類』に該当する。私たちが良く知る物質でこの分類に指定されているものとしては灯油や軽油などを挙げることができ――。

 

 

 

 

 

 

 その特徴を端的に述べるのならば、『引火性』である。

 

 

 

 

 

 

 警杖の先端から迸った青い火花は、すぐさま酸素と空気中を漂うヘキサナールを餌にして爆発的に膨れ上がる。炎となった火花は閃光と高熱の奔流を生みながら暴発、強い爆風を巻き起こした。

 

 爆発のただ中にいた『―・―』のテラフォーマーが、爆風に煽られて後方へと吹き飛ぶ。テラフォーマーの体は熱に強いため炎による損傷こそないが、爆風の威力自体は殺しきることができなかったのだ。

 

 空中に放り出された『―・―』のテラフォーマーの体は、錐もみになりながら落下。受け身をとろうとしたその時、彼の体は落下地点にいたドナテロによって受け止められた。

 

「捕まえたぞ、テラフォーマー……!」

 

 低く響いたその声に、『―・―』のテラフォーマーが拘束を逃れようともがく。だが、ドナテロは『―・―』のテラフォーマーの逃亡を許さず、その胴体を抱え込むようにしてグイと逆さに持ち上げた。

 

『―・―』のテラフォーマーの表情が焦燥に歪む。彼は手足を振り回し、身をよじり、翅を開いて暴れるが、何をしようともドナテロはその手に込めた力を緩めない。

 

「ぎ、ギィイイィイイイ!」

 

『―・―』のテラフォーマーの口から、断末魔の悲鳴が上がる。それと同時に、ドナテロは高く振り上げた両腕を、()()()()()()()()()地面へと振り下ろした。

 

 凄まじい風圧と共に『―・―』のテラフォーマーの視界一杯にバグズ2号の床が広がる。次の瞬間、『―・―』のテラフォーマーの頭部をこれまでにない強い衝撃と、何かが砕けるような音が襲い――彼の意識は、永遠に闇の奥底へと沈んでいった。

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

「終わった、か」

 

 動かなくなった『―・―』のテラフォーマーを一瞥して呟くと、ドナテロは半ば倒れ込むようにしてその場に座り込んだ。

 

 かなり無謀な戦いだった。進化を遂げたらしいテラフォーマーを、2人がかりとはいえ片や7歳の少年、片や手負いの乗組員で相手取ったのだ。一歩間違えば、2人揃って返り討ちになっていただろう。

 

「ドナテロさん! 大丈夫!?」

 

 休に座り込んだことに慌てたのだろうか、イヴが駆け寄ってくる。顔を上げたドナテロは、小さな友人を安心させるように、その顔に笑みを浮かべて見せた。

 

「ああ、問題ない……少し疲れただけだ」

 

 ほっと安堵の息を吐いたイヴに、ドナテロが「それよりも」と言葉を続けた。

 

「毒霧に火炎放射……プロレスなら反則技のオンパレードだぞ、イヴ? どこの悪役(ヒール)だ、お前は」

 

「うえっ!?」

 

 ドナテロからの予想だにしなかった指摘に、狼狽したイヴが視線を泳がせた。

 

「だ、だって、その……あれ以外に、いい方法が思い浮かばなくて……」

 

 しどろもどろになって弁解するイヴ。その姿が面白かったのか、ドナテロは「冗談だ」と笑い声を上げた。からかわれたことに気が付き、思わず頬を膨らませたイヴの頭に、ドナテロがポンと手をのせる。

 

「こいつに勝てたのは、お前のおかげだ。ありがとうな、イヴ」

 

「……っ、うんっ!」

 

 ドナテロの役に立てたことが相当嬉しかったのだろう。先程までのむくれっ面から一転、感極まったイヴの瞳は熱く潤んでいた。

 

「艦長、イヴ! 無事か!?」

 

 ドナテロの手の温かさをイヴが感じていると、背後からそんな小吉の声が聞こえた。その声にドナテロが顔を上げると、穏やかな笑みを浮かべる。

 

「ああ、こっちは大丈夫だ。お前らもよく無事でいてくれた」

 

 ドナテロの言葉にイヴが振り返る。そこには小吉のみならず、管制室や外で戦っていた他の乗組員の姿もあった。

 無傷の者は1人もいない。特に奈々緒とティンは消耗が激しく、それぞれ小吉と一郎に肩を借りてどうにか歩けるような状態だ。だが、欠けている者もまた誰もいなかった。

 

「みんな! あのテラフォーマーに勝ったんだね!?」

 

 パッと顔を輝かせたイヴに小吉が「おう!」と強く頷き、それから決まり悪げに頬を掻いた。

 

「って言っても、俺はあと一歩ってとこで逃げられちまったんだけどな。一郎とやり合ってた奴ならあそこだ」

 

 小吉が親指で指したのは、管制室の奥。イヴとドナテロが視線を向けると、そこには首をねじ切られて絶命している『\・/』のテラフォーマーの姿が目に入った。

 

「す、すごい……あれ、一郎さんが?」

 

「いや――」

 

「とどめはあたしが刺したよ」

 

 驚くイヴに一郎が答えようと口を開くが、それを遮るようにウッドが言った。

 

「一郎君が首チョンパしても、まだ活動を止めなくてね。偶然あたしの方に近づいてきたから、憂さ晴らしに鉛玉をブチ込んでやったのさ! ん~、いい気分っ!」

 

 ウッドは満面の笑みを浮かべ、得意げに手中の拳銃をくるくると回して見せた。よくよく死体に目を凝らしてみればなるほど、胸部に弾痕と思しき傷があるのも確認できた。

 

「――っていうのは建前。本当はウッドがね、動けないアタシのことを守ってくれたんだよ」

 

「ちょ!?」

 

 小吉に寄りかかりながら奈々緒がさらりと告げた言葉に、ウッドがギョッとしたように目を剥く。

 

「『奈々緒ちゃんに近づくな、ゴキブリ野郎』だっけ? ありがとね、ウッド」

 

「ま、まさか起きて……っていや、違うし! それ奈々緒ちゃんの空耳だから、空耳!」

 

 頬を赤らめて叫ぶウッドに、奈々緒が悪戯っぽく笑う。その2人を横から微笑まし気に一瞥してから、一郎に支えられるティンが口を開いた。

 

「他のテラフォーマーは、俺が全て仕留めた。艦内に残っているゴキブリもいないはずだ」

 

「あ、あの数を1人で?」

 

 聞き返したイヴの声が、思わず震える。仮に外にいたテラフォーマーが全て入ってきたのだとしたら、その数は十や二十では効かない。それら全てを殲滅するなど、一体どれだけの負担を体に強いたのだろうか。

 

「大丈夫だ、大した怪我は――グッ、ゴホッ!」

 

 安心させようとティンが口を開くが、そこから飛び出したのは言葉ではなく血。それを見た一郎は、どこか呆れたように深くため息を吐き、ティンに言葉を掛けた。

 

「無理に喋るな。ショック反応こそないが、お前は薬を打ちすぎだ。黙って休んでろ」

 

「……そうだな。そうさせてもらおう」

 

 ぶっきらぼうだがどこか気遣いの色が見えるその言葉に頷くと、ティンは素直に口を閉ざした。

 

「重傷者もいるようだが……ひとまずは全員無事、か」

 

 ドナテロがそう漏らしたその時、通路の方から何かの足音が聞こえた。その場にいた全員が思わず身構えるも、しかしそれは徒労に終わることとなる。

 

「あっ、いた!」

 

 管制室を覗き込むや否やそんな声を上げたのは、マリアだった。一同の体から力が抜けると同時に、安堵の空気が流れる。

 

「マリア! よかった、そっちも切り抜けたのか!」

 

「何とかね。みんなー! イヴ君達、管制室にいるみたい!」

 

 小吉の言葉に頷くと、マリアが通路の先に向かって呼びかけた。すると間もなく、外に残った他の乗組員たちが慌ただしく管制室へとなだれ込んできた。

 

「お前ら、無事か!?」

 

「イヴ君! よかった、大したけがはしてないみたいだね……」

 

「ティン、どうしたんだ! ボロボロじゃねえか!」

 

 イヴたちへと駆け寄った彼らは、口々に無事を確認する言葉を投げかける。ドナテロはその光景を見守りながら足りない乗組員がいないことを確認し、強張った体から力を抜いた。

 

「ご無事で何よりです、艦長」

 

「ミンミンか」

 

 ドナテロが顔を上げれば、右腕を失い全身傷だらけになったミンミンの姿が映った。立ち上がったドナテロに、ミンミンが凛とした声で報告する。

 

「乗組員13名、帰還しました!」

 

「ああ、よくやってくれた」

 

 ドナテロはミンミンにねぎらいの言葉をかけてから、一瞬だけ窓の外へと視線を向け――それから、乗組員たちに向かって口を開いた。

 

「皆、聞いてくれ!」

 

 途端、乗組員たちはピタリと口を閉ざし、ドナテロへと視線を向ける。全員が注目したのを確認し、ドナテロの言葉を待つ乗組員たちに彼は己の決定を告げた。

 

「火星に到着してから現在までの状況から、今の我々では全てのゴキブリの駆除は不可能であると判断した!」

 

 小吉を始めとした数人が頷く。

 イヴとクロードから伝えられた情報が正しければ、火星にいるテラフォーマーの数はおよそ2億。自分達が相手にしたのは、氷山の一角と呼ぶのもおこがましいような、ごくごく一部にすぎないのだ。ドナテロは一拍の間を置いてさらに続ける。

 

「よって、現時刻を以てバグズ2号は火星での任務の一切を中断! ただちに地球へと帰還する!」

 

「……!」

 

 乗組員の誰かが息を呑んだ。それは、彼らが待ち望んでいたはずの言葉。それが意味するのは、一秒でも早く終わってくれと誰もが願った地獄の終わり。だが、いざそれを告げられてみると案外に実感がわかないもので、乗組員たちは誰も、何も言えずに立ち尽くす。

 

 だがそんな中で、1人だけ声を上げた者がいた。

 

「ほ、本当に……?」

 

 イヴだった。彼は青い瞳をキラキラと輝かせながら、ドナテロに聞き返す。

 

「本当に、地球に帰れるんだよね、ドナテロさん?」

 

 その言葉にドナテロが頷くと、イヴの顔が喜色に染まっていく。

 

「~~~~ッ、やったぁー!」

 

 イヴが無邪気な歓声を上げ、その場でピョンピョンと飛び跳ねながら全身で喜びを表す。全員での生還を誰よりも求めていた彼にとって、これほどの朗報はない。イヴが待ち望んだ瞬間が、ついに訪れたのだ。

 

「そうだ、帰れる……帰れるぞ、アキ!」

 

「お、おう?」

 

 イヴの喜ぶ姿に実感がわいたのか、小吉が隣で立ち尽くす奈々緒に言った。

 

「何だよ、嬉しくないのか!? これで俺達、あの家で一緒に暮らせるんだぞ!?」

 

「あっ……」

 

 小吉の言葉に、奈々緒がはっとしたような表情を浮かべた。

 その脳裏によぎるのは、火星へと発つ前に小吉と見た一軒家の佇むのどかな田園風景と、春になれば桜が咲き乱れるという小道。

 

 

 

 あの場所を――小吉と共に、歩める。

 

 

 

「――ううん。そんなこと、ない」

 

 そんな呟きが口から漏れた直後、奈々緒は自分の目から涙が流れでていることに気付いた。一瞬遅れて、胸の奥底から生と幸福の感覚がこみ上げてくる。それは彼女の心をじんわりと温もりを与え、目からこぼれ出る涙の筋を増やした。

 

「そっか……これでアタシ、やっと……やっと……!」

 

 泣きじゃくる奈々緒の肩に手を回すと、小吉は何も言わずに彼女を抱き寄せた。それを見ていた乗組員たちも次第に実感がわいたのか、彼らの間にざわめきが広がっていく。

 

「そ、そうだ、これで借金も返せる……!」

 

「俺は婆ちゃんを海外旅行に連れてけるぞ!」

 

「じ、実家との縁が切れれば……俺は、自由だ!」

 

「や、やった……帰れるんだ! 俺達の母星(ほし)へ!」

 

 それは、誰が口にした言葉だっただろうか。その言葉と同時に、管制室の中はワッという声で満たされた。

 

「ドナテロさん!」

 

 歓声を上げる乗組員たちの合間を縫い、イヴがドナテロの足元へと駆け寄ると、弾んだ声でドナテロに言った。

 

「ボクね、帰ったらドナテロさんやバグズ2号の皆と一緒に、どこかに行ってみたいな!」

 

「そうか……それも、いいかもな」

 

 ドナテロが頷くと、イヴは嬉しくてたまらないと言った様子で更に言葉を続けた。

 

「そうだ、ミッシェルちゃんと、ミッシェルちゃんのお母さんも誘っていい? それで、色んなお喋りをしよう! ミッシェルちゃんはドナテロさんのことが大好きだから、火星でのドナテロさんの話をしたら、絶対に喜ぶよ!」

 

「ああ――そうだな」

 

 ドナテロはそう言ってしゃがみこみ、イヴの金髪をくしゃくしゃと撫でつけた。その手つきに、イヴはふと、地球で最後にドナテロと会ったときのことを思い出した。

 

「……ドナテロさん?」

 

 口にしようとしていた言葉を飲み込み、イヴがドナテロを見上げた。透き通った水色の瞳にドナテロの顔が映りこむ。しかしドナテロはその呼びかけには答えず、イヴの頭から手を離すとゆっくりと立ち上がった。

 

 ――喧騒が、やけに遠く聞こえた。

 

 まるでドナテロと自分だけが、世界から切り取られてしまったかのような。そんな奇妙な感覚を、イヴは覚えた。そんな切り取られた空間の中でドナテロは優しげに、しかし寂しげに、イヴに微笑みかけた。

 

 

 

 ――そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ミンミン、リー。()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の瞬間イヴは、()()()()()()()()()()()

 

 ダン! という激しい音が鳴り、それまでざわついていた乗組員たちが水を打ったように静まり返る。

 

「……え?」

 

 何が起きたのか分からず、イヴの口から呆けたような声が漏れる。そこから一瞬遅れて、自分の体が誰かに押さえつけられていることに気付くと、イヴは肩越しに自らの背後を振り返った。

 

「あ、れ……? ミンミンさん? リーさん?」

 

 何してるの?

 

 と、呆然と呟くイヴの視線の先にいたのは、ミンミンとリー。彼らは無表情で――否、まるで感情を押し殺しているかのような強張った表情で、イヴの小さい体にのしかかるようにして彼を押さえつけていた。

 

「お、おい! 何を――!?」

 

 我に返った小吉が、突然の暴挙に及んだ2人に詰め寄ろうとする。だが、それを見たドナテロが手を上げ、彼の行動を制止した。

 

「よせ、小吉。これは、()()()()()()()()()()()()()()

 

「艦長!?」

 

 小吉を始め、その言葉を聞いた乗組員たちの顔に動揺が浮かぶ。

 

 なぜ、何のために、何の得があって、ドナテロはこんなことをミンミンとリーに頼んだのか。

 

 疑念や混乱、困惑が混ざり合ったような視線をその身に集めたドナテロは、窓から差し込む青い朝日の光を浴びながら、静かに告げる。

 

 

 

「繰り返し通達する。バグズ2号の乗組員()()()は、現時刻を以て速やかに火星より撤退。なお、現時刻を以て、今後バグズ2号における指揮権の一切は、副艦長である張明明に委譲するものとする」

 

 

 

 ――空気が、凍った。

 

 彼の言葉の意味を、この場にいる全員が理解したからだ。重苦しい沈黙が立ち込める中――ドナテロは重々しくその言葉を口にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――俺は、()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドナテロは再び窓を見つめた。

 

 

 

 彼の目が映るのは、柄氏を隔てた向こう側に広がる朝日の『青』と大地の『緑』――そして、()()()()()()()()()()()()()()()と。

 

 

 

 ――自らをニタニタと笑いながら見上げる、でっぷりと太ったテラフォーマーだった。

 

 

 

 

 

 

 



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第23話 BELIEF 譲れないもの

『ミンミン、リー。重ね重ねで悪いが――頼みたいことがある』

 

 ――バグズ2号が地球を出発してから七日目。密航者として艦に乗り込んだイヴが、バグズ2号の正式な乗組員として認められた直後のこと。

 

 ほとんどの乗組員たちが退室したミーティングルームで、ドナテロは残っていたミンミンとリーに真剣な表情で告げた。

 

『またか』

 

 面倒くさげにぼやいたリーを、ミンミンが無言で睨みつける。怒りの視線に気付いたリーは『冗談だ』と言って肩をすくめて見せた。

 

『俺はただの一兵卒、上官の命令には従うさ……で、今度は俺達に何をさせるつもりだ?』

 

 リーがそう言うと、ミンミンも彼を睨むのを止めてドナテロへと視線を向けた。彼女もまた、ドナテロの言う頼みごとが何なのか、気になるのだろう。2人の視線を受け、ドナテロは重々しく言葉を紡いだ。

 

『お前たちには、もしもの時――例えば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、イヴを力づくで止めてほしい』

 

 彼の言葉にミンミンが表情を固くし、リーは眉をひそめた。そんな彼らに向けて、ドナテロは続ける。

 

『イヴは子供だ。立ち振る舞いや考え方で誤魔化されがちだが、例えバグズデザイニングの効果で身体能力や頭脳が大人でも、根本的な精神がまだ未成熟なんだ。どうしても、行動の原理が感情に傾いてしまう』

 

『……確かにそうですね』

 

 言われてみると、ミンミンもリーも思い当たる節があった。底なしとも言える優しさ、そして大切な人への献身的な態度、一部の現実性に欠ける目的意識や行動。どれも子供に見られる特徴だ。

 

『イヴの心は、俺達――特に俺を『助けたい』という思いで支配されている。そしてその感情は、妥協や割り切りを絶対に許容しない。どんな窮地に陥ろうと、あいつは漫画に出てくる正義の味方(ヒーロー)のように、最期まで全員を救おうとするだろう』

 

 イヴの優しさはどこまでも尊く、純粋なもの。多くの人間が成長していく中で忘れてしまった、大切なあり方。しかし同時に、それは非現実的なあり方でもある。

 

 この世界には、例えどんなに努力しようとも、どうにもならないこともある。だから多くの人間は成長して諦めや挫折を味わうことで、『理想』ではなく『最善』を掴み取るために妥協を学んでいく。

 

 だが、イヴにはまだそれがない。

 

 今の彼は、諦めも挫折も学んでいない。バグズ2号を地球へ引き返させるという目論見こそ失敗したものの――その根底にある『全員を救う』という点において、まだ彼の目的は破綻していないのだ。

 

 イヴに過信はなく、慢心もない。だが、その信念は妥協を知らず、最後の一線を譲らない。例えその先に待っているのが、己の破滅であったとしても――イヴは、最期の瞬間まで戦い続けるだろう。

 

『だから、お前たちに頼みたいんだ。どうしようもない状況に陥った時に、()()()()()()()()()()()()()()。その時が来たのなら、無理やりにでもイヴを押さえつけてくれ』

 

 

 

 ――あの子が優しさで、誰か(自分)を殺してしまうことがないように。

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

「ドナテロ、さん……? 何、言ってるの?」

 

 イヴのうわ言のような呟きが、重苦しい静寂に吸い込まれて消える。しかしイヴはめげることなく、目の前に立つドナテロに笑いかけた。

 

「冗談だよね、ドナテロさん? そんなこと言わないでさ、みんなで一緒に帰ろうよ! それで、地球に帰ったら――」

 

「イヴ」

 

 ――けれど、ドナテロの口からそれを肯定する言葉が告げられることはなく。その代わりに彼の口は、まるで諭すような調子で己の名前を呼んだ。

 

 ドナテロの真意を悟ったイヴの顔が、くしゃくしゃに歪んだ。

 

「だ、駄目だよそんなの! だって、だって――火星に残ったら、そんなことをしたら、ドナテロさんが死んじゃう!」

 

「イヴの言う通りです、艦長! 艦長が残って戦うんなら、俺達だって戦う!」

 

 イヴの言葉に同調するように小吉が言うと、数名の乗組員が力強く頷いた。

 

「せっかくここまで、誰も欠けずに来たんだ! こんなところで――」

 

「それで、何人死ぬ?」

 

 小吉の言葉を遮るように、リーが声を上げた。無事な右腕でイヴの左半身を押さえつけながら、彼はジロリと小吉を見据えた。

 

「な、何人って……」

 

「外見りゃド素人のお前でも分かるだろうが。外にいるゴキブリ共の数は、今までの比じゃねえ。地平線の向こう側まで真っ黒だ。で、俺達の方はどうだ? 全員ボロボロ、肝心要の戦闘員も重傷者多数ときた。こんなクソみてぇな状態で戦って、本気で誰も死なねえと思ってんのか?」

 

 リーの口から告げられた正論に、小吉は何も言い返せずに押し黙る。それを見かねて、マリアが口をはさんだ。

 

「なら、罠を仕掛けるのは? ほら、確か昨日イヴ君が落とし穴を作ってたじゃない? あれを拡大して――」

 

「無理だ、それを行うだけの時間が私たちにはない」

 

 だが、彼女の言葉に今度はミンミンが首を横に振った。

 

「既に私たちは囲まれている。こんな状態で悠長に穴を掘らせてくれるほど、奴らは甘くない。皆殺しにされるのがオチだろう」

 

 軍事経験のあるミンミンにそう言われてしまえば、マリアは何も言えない。沈鬱な表情で、彼女は唇を噛みしめた。

 

「つまりこの状況を打破するためには、誰かが囮になってテラフォーマーと戦い続けるしかない」

 

 ボソリと一郎が呟いて、顔を上げる。

 

「なら俺が――」

 

「駄目だ」

 

 だが、ドナテロは一郎がその先を言うことを許さなかった。

 

「さっきとは状況が違いすぎる。今回、助けは絶対に来ない。だから、お前をここには残せない」

 

 彼は断固とした口調で言うと、管制室にいる乗組員たちをぐるりと見渡した。

 

「一郎だけじゃない。ここにいるお前たちには、未来がある。だから、お前たちをここに残していくわけにはいかない。それに、俺にはお前たちを火星に連れてきてしまった責任がある。だから……これは俺が果たすべき仕事だ」

 

 そう言ったドナテロの口調には、強い覚悟の色が滲んでいた。その意思は鋼鉄よりも固く、何を言われようとも曲がることはないだろう。

 

「で、でもっ!」

 

 しかし、それでもイヴは食い下がる。取り押さえられ、一切の身動きが取れない状態で、イヴはすがるようにドナテロを見つめた。

 

「ドナテロさんには、家族がいる! ドナテロさんが死んじゃったら、ミッシェルちゃんはどうなるの? ミッシェルちゃんのお母さんは?」

 

 イヴにそう言われ、ドナテロが一瞬だけ遠くを見るように目を細めた。頭の中に、己の妻と愛娘の姿がよみがえる。

 

 けれど、それも一瞬のこと。ドナテロは瞳を閉じると、ゆっくりと首を横に振った。

 

「万が一の時のことは、全て妻に伝えてある。ミッシェルには寂しい思いをさせるだろうし、恨まれても仕方ないが……それでも、あの子はお前のように優しく、賢い子だ。いつか、分かってくれる日が来るだろう」

 

 確信をもって、ドナテロが言う。ショックを受けたような表情で絶句したイヴから顔を上げ、ドナテロは乗組員たちに指示を出した。

 バグズ2号の艦長として――最後の指示を。

 

「俺が外に出たらすぐにエンジンを起動して、火星を出ろ。バグズ2号の動力源はまだ生きている。ガラスが割れているが、雨戸(シールド)さえ下せば、地球までの航海は可能なはずだ」

 

 それからドナテロは、その顔に静かな笑みを浮かべた。

 

「この場にいる誰か一人でも欠けていたら、今の状況はなかっただろう。お前達がいてくれたから、バグズ2号はここまでやって来れた」

 

 そこで言葉を切ると、ドナテロは乗組員1人1人の顔を見つめた。彼らはもう、自分が何を言おうとも止まらないことが分かっているのだろう。ある者は悲痛な表情を、またある者は険しい表情を浮かべ、けれど誰一人として目を背けることなく、ドナテロのことを見据えている。

 

「一緒に戦ってくれて……俺を艦長(キャプテン)と呼んでくれて、ありがとうな。お前たちと共に任務に挑めたことを、誇りに思う」

 

 そう言って、ドナテロは彼らに背を向けると、窓の外のテラフォーマーたちを見つめた。彼らが攻撃を仕掛けてくるまで、それほど時間はないだろう。

 

 ――言うべきことは全て言った。あとは己の魂が燃え尽きるまで、希望の舟がこの星を飛び立つまで、全霊で戦い続けるのみ。

 

 ドナテロは、ガラス窓に穿たれた穴へと歩みを進める。

 

「まって……まってよ、ドナテロさん」

 

 その背中を見ながら、イヴは震える声でドナテロを呼ぶ。だが、ドナテロは振り返らず、足を止めない。イヴの胸の中で急速に絶望が膨れ上がり――そして、爆発した。

 

「嫌だ、行っちゃ嫌だ! こんな別れ方、ボク嫌だよ!」

 

 激情のまま、イヴが叫ぶ。およそ普段の彼らしくない駄々をこねる子供のように論理性に欠けていて、しかしどこまでも必死さの滲む言葉だった。そのあまりに痛ましい様子に、数人の乗組員がイヴから目を背ける。

 

「ボクも最期まで戦う! 絶対に皆を、ドナテロさんを守るから! だからお願い、ボクを連れていって! ボクを置いていかないで!」

 

 イヴは何とかドナテロについていこうと、体をよじる。だが、いかに彼の身体能力が子供の域を外れていたとしても、ミンミンとリーが2人がかりで押さえつけているその体を動かすことは叶わない。もがいている間に、ドナテロの背中は遠ざかっていく。

 

「まだ話したいことが一杯あるんだ! ドナテロさんに教えてほしいことも、たくさんある! それに――」

 

 赤く染まった瞳から涙をこぼして、イヴは吐き出すように言った。

 

 

 

 

 

 

「――ボクはまだ、ドナテロさんに何も返せてない」

 

 

 

 

 

 

 ポツリ、ポツリとイヴの口は、その想いを言葉へと紡いでいく。

 

「ドナテロさんと会ってから、ボクは色んなことを知ったんだ。嬉しいこと、楽しいこと、悲しいこと、辛いこと……全部、全部、ドナテロさんが教えてくれたんだ」

 

 俯いたイヴの頬を、涙が伝う。涙の雫は床に滴り、小さな跡を残した。

 

「ドナテロさんは、人形だったボクを人間にしてくれたのに、ボクに色んなものをくれたのに! ボクは、ドナテロさんには何も……」

 

「――そんなことはないさ」

 

 耳に届いたその声に、イヴは泣きながら顔を上げる。そこには、割れた窓の前に立っているドナテロの後ろ姿があった。

 

「イヴ。お前は自分で思っている以上の物を、俺にくれた。大きいものから小さいものまで、お前がくれた物はたくさんありすぎて、俺には数えきれない。お前に会えたこと、お前と友人になれたことは……俺にとっての何よりの宝物だ」

 

 肩越しに振り返ったドナテロの視線と、イヴのすがるような視線がぶつかる。涙で顔をぐしゃぐしゃにしたイヴとは対照的に、ドナテロの顔に浮かんでいたのはどこか達観したような、何かを悟ったような、そんな表情。死を目前にしてなお穏やかな口調で、ドナテロは別れの言葉を投げかけた。

 

 

 

 

 

「じゃあな、イヴ。地球に帰ったら――ミッシェルのこと、よろしく頼む」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そう言うとドナテロは二度と振り返ることなく――窓に空けられた穴から、その身を外へと躍らせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あ」

 

 イヴの口が、掠れた声を上げた。もはや、誰の影もなくなった窓を凝視するその目からは、尽きることなく涙が溢れる。

 

「う、あ」

 

 目の前の光景を受け入れることを、心が拒む。けれどそんな思いとは裏腹に、聡明なイヴの脳はたった今起きたことを理解してしまう。それは徐々に実感として胸を蝕み、心をギリギリと締め付けた。

 

「ああああああああああああああああああ!」

 

 枯れる程の大声で叫び、イヴがドナテロの後を追いかけようとするが、ミンミンとリーがそれを許さない。数cmの距離を這ったところで2人の重さと力で押しつぶされ、しかしそれでもイヴは諦めずにもがき続ける。

 

「手の空いてるものは全員、持ち場につけ。(ふね)を出すぞ」

 

「ですが、副艦長……」

 

 ミンミンの指示にトシオが難色を示す。だが彼が続けようとした反論の言葉は、己を睨みつけるミンミンの眼光によって遮られた。

 

「早くしろッ! 艦長の遺志を無駄にするつもりか!」

 

 張り上げられたその声に、どこか呆然としていた乗組員たちは一斉に我に返った。

 

 そうだ、立ち尽くしている場合ではない。己の命を懸けて時間を稼いでくれているドナテロの為にも、今は生きるために動かなくてはならない。例えそれが、仲間を見捨てるという非情な選択であったとしても、自分達は生きなければならないのだ。

 

「サーバーの起動が完了したら、すぐに雨戸(シールド)を下ろせ! 速やかに火星圏を離脱し、地球へ帰還する!」

 

 今度は、ミンミンの言葉に意見する者はいなかった。胸の奥の苦い悲しみを押し殺し、乗組員たちは操縦席へと向かっていく。

 

(これで、艦は直に出航する。あとの問題は――)

 

 ミンミンは視線を下へと向け、もがき続けるイヴを見つめた。

 

「ミンミンさん、リーさん、離して! 早く追いかけないと、ドナテロさんが死んじゃう!」

 

 完全に冷静さを失い、錯乱したイヴがわめく。暴れもがく彼を押さえる手に力を入れ直し、ミンミンは隣の人物を見やった。

 

「絶対に力を緩めるなよ、リー」

 

「たりめーだ」

 

 イヴから1秒たりとも視線を逸らすことなく、リーがミンミンに答えた。その声に普段の皮肉気な雰囲気はなく、どこまでも真剣な口調だった。

 

「ここでコイツを行かせちまったら、全てが水の泡だ。何が何でも……!?」

 

 不意にリーの言葉が途切れる。異変を察知したミンミンが再びイヴへと視線を戻すと、彼の体はミシミシと音を立てながら、昆虫の特性を反映したものへと変形しているところであった。その腕は青い斑混じりの黒へ、その脚は赤い斑混じりの白へ、そして尾てい骨からはファイバーの尾が伸びていく。

 

(薬なしの変態? いや、それにしては進度が――まさか!)

 

 嫌な予感が脳裏をよぎり、ミンミンがイヴの手中を見る。その手の中には、空になった注射器が握られていた。

 

「しまった――!」

 

「チィッ!」

 

 ミンミンとリーが咄嗟に全体重をかけると同時に、イヴの力が明らかに強まった。ツチカメムシの腕力と、ウンカの脚力を発揮したイヴの抵抗はすさまじく、満身創痍のミンミンとリーは2人がかりでも振りほどかれそうになる。

 

「待ってて、ドナテロさん……ッ! ボクも、最期まで戦うから……!」

 

 拘束しているミンミンとリーごと体を引きずり、イヴは床を這って窓の穴へと近づいていく。

 

「だから、だから一緒に――」

 

「悪いがイヴ、お前を行かせるわけにはいかない」

 

 だがその時、そんな声と共にイヴの脚が再び強い力で押さえつけられ、再び彼はその場から動けなくなった。驚き振り向いたイヴの目が見たのは、一郎の姿。彼はミンミンやリーの手が回らない足をその両腕で掴み、イヴがドナテロの後を追うのを食い止めていた。

 

「行かせて、一郎さん! お願い、お願いだから――!」

 

 3人がかりで拘束されたとなれば、さすがに変態したイヴであっても拘束を解くことは不可能だった。イヴは必死で訴えかけ、何とか逃れようと足をばたつかせる。だが一郎の腕力は乗組員の中でも最も強く、加えて今の状態では足を踏ん張って力を籠めることもできない。どんなにイヴがもがこうとも、一郎が足を放すことはなかった。

 

「サーバー、起動完了!」

 

 フワンが液晶モニターを操作しながら声を張り上げる。彼はそのまま、緊急用雨戸(シールド)の開閉スイッチに手を掛けた。

 

「雨戸――閉鎖!」

 

 一瞬だけ躊躇うように口をつぐみ、しかしフワンは雨戸のスイッチを閉鎖へと切り替えた。起動部が機械音を発し、雨戸が徐々に窓ガラスを上から覆っていく。

 

「そんな、駄目ッ! 小吉さん、奈々緒さん、ティンさん――誰か、誰でもいいんだ! 誰でもいいから、雨戸を閉めないで!」

 

 イヴの口から悲鳴が飛び出し、乗組員たちの耳をつんざいた。もはや涙は枯れ果て、叫び続けた喉は掠れた声しか紡がない。それでも、彼は訴え続ける。

 

「ミッシェルちゃんと約束したんだ! 必ず、ドナテロさんと帰るからって! ドナテロさんは、ボクが守るからって!」

 

 痛哭なその声に耐えかね、数人の乗組員が顔を俯かせる。それからほとんど間をおかず雨戸は完全に閉まり、火星とバグズ2号の艦内を断絶した。

 

「だから、だから……ッ!」

 

 もはや見えぬ火星の大地へ、ドナテロへ。イヴが届くはずのない手を伸ばしたその時、床から大きな振動が伝わり、彼らの体を揺らした。それは、バグズ2号のメインエンジンが起動したことを告げる揺れ。その意味を悟り、イヴの顔が絶望に歪む。

 

「待っ――」

 

「離陸、開始ッ!」

 

 まるでイヴの言葉と、罪悪感から目を背けるように、ミンミンが声を張り上げる。直後、乗組員の体を、まるで持ち上げられているかのような浮遊感が包み込む。それが、バグズ2号が飛び発った証であることは、言うまでもないだろう。

 

 

 

 ――こうなってはもはや、彼に成す術などなく。

 

 

 

 己の無力を呪いながら、少年はただ慟哭するしかなかった。

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 爆音と土煙を巻き起こし、バグズ2号が地上を離れていく。それを見た無数のテラフォーマーたちは一斉に翅を広げて後を追おうとするも、『・|・』のテラフォーマーがそれを止める。

 

 そんな光景を、肥満型は忌々しげに見つめていた。

 

「……じじ」

 

 彼は『・|・』のテラフォーマーから目を逸らすと、力士型が担ぎ上げる石の神輿の上から、土煙の向こう側に立つ1人の人間を不機嫌そうに見つめた。するとその人間――ドナテロ・K・デイヴスもまた、鋭く肥満型を睨み返す。

 

「じょうじ」

 

 肥満型が贅肉で象られた手を振る。途端、群れの中から三匹のテラフォーマーが飛び出した。彼らはドナテロに躍りかかり――その直後、全員が絶命することになった。

 

 一匹目は近づいた瞬間にドナテロが振り払った腕で首をへし折られた。続く二匹目も攻撃動作に移る前に、反対の手で顔面を握りつぶされた。

 唯一、三匹目のテラフォーマーはその人間に攻撃することができたものの、彼が振るった拳は容易くドナテロに受け止められてしまう。拳を引き戻す間もなく、そのテラフォーマーは地面へと頭から叩きつけられて、動かなくなった。

 

「じぎ……」

 

 肥満型はそれを見て、苛立たしげに鳴いた。既にドナテロの周囲には、数十を超える同胞の死体が積みあがっている。

 

 本来ならば、とっくにあの人間どもを駆逐して、未知なる技術を自分達の手中に収めることができていたはずなのだ。

 だが実際はどうか? 人間どもを駆逐せんと送り込んだ同胞たちは残らず返り討ちに合い、未知の技術も突如現れた『・|・』のテラフォーマーのせいでみすみす取りこぼすことになった。

 

 ギリリ、と肥満型が歯ぎしりする。気に入らない。自分の思い通りにいかないこの現状は、どこまでも不愉快だ。

 

「じょうじ! じじょう、じょう!」

 

 肥満型は声を荒げ、口から唾を飛ばしながら周囲のテラフォーマーたちに指示を下す。すると更に二十匹程度のテラフォーマーたちが、ドナテロへと駆け出した。彼らは四方八方から、波さながらにドナテロへと飛び掛かる。

 

 

 

(――ここまでか)

 

 迫りくる黒い死に、ドナテロは胸中で呟いた。ダメージと疲労が蓄積した今の自分では、どんなに奮戦しようともこの状況を打破することはできないだろう――否、そもそもこの状況には先がない、といった方が正しいだろうか。

 

 仮に全てのテラフォーマーを倒しきったとしても、今のドナテロに火星を脱するための術がない。自分の命と言う点で見れば、完全に詰んでいるのだ。

 

 バグズ2号は出航した。ならば既に、()()()()()()()()()()()

 

 そう判断したドナテロは、構えを解く。もはや、戦い続ける必要もない。幸か不幸か、テラフォーマーには他者をいためつける残虐性はない。おそらく、一瞬の内に死を迎えることができるだろう。

 

 そっと、ドナテロは瞳を閉じた。意識は深く深層へと潜り行き、雑音が徐々に遠のいていく。途端、瞼の裏の暗闇に、これまでのことが走馬灯のようによみがえった。

 

 幼少期の記憶、他愛のない思い出、挫折の経験、バグズ2号の皆との出会い。今まで自分が見聞きした全ての出来事が、とりとめもなく浮かんでは消えていく。

 

 

 けれどそんな中にあって、ドナテロの想いの多くを占めるのは二つのことだった。

 

 

 一つは、地球に遺してきた家族のこと。

 自分の死は妻や娘に深い悲しみを与え、彼女らがこの先の人生を歩んでいくにあたって大きな負担を与えるだろう。彼女たちに何も残せず、この先を見届けることもできないことが、ドナテロにとっては無念でならなかった。

 

 

 そしてもう一つは――己の小さな友人であるイヴのこと。

 

(お前にはたくさんの物を貰ったのに――すまない)

 

 届かないことを分かっていながら、ドナテロは謝らずにはいられなかった。自分の選択はきっと、イヴの心に深い傷を残すだろう。伸ばした手が届かない苦しみは、よく分かっているつもりだ。

 

(何も返せなかったのは――俺の方だ)

 

 命を懸けて宇宙まで助けに来てくれた友人に自分が贈ったものは、底なしの喪失感と絶望だけ。結局自分は、イヴに何も遺せなかった。それが、ドナテロは悔やんでも悔やみきれない。本当は自分に、彼を友人と呼ぶ資格などないのだ。

 

 

 けれど、それでも。今の自分の胸の内を、イヴが聞いたのなら。きっと彼は笑って、首を横に振るのだろう。

 

 

 

 ――例えドナテロさんがどう思っていても、ドナテロさんはボクの大事な友達だからと。

 

 

 

 きっと、一点の曇りもない笑顔で、そう言うのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 意識が浮上し、感覚が戻る。鼓膜は黒い悪魔の進撃の音を聞き、体は彼らの突撃の揺れを感じていた。

 

 

 

「俺はお前に、何も返してやれなかった」

 

 ――既に、目的は達した。

 

「だから」

 

 ――これから自分がするのは、勇敢な友へのせめてもの手向け。

 

「だからせめて、お前の友人として誇れるように」

 

 ドナテロはその手に4本の注射器を握りしめ、ゆっくりと目を開けた。その胸に、一度消えかけた闘志の炎が再び熱く燃え上がらせて。

 

 

 

 

「俺は……()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 そう言ってドナテロは笑みを浮かべると――()()()()()()()()()己の首筋に突き刺た。

 

 

 

 

 

 刹那、ドナテロの姿がテラフォーマー達の影に隠れる。そして次の瞬間――テラフォーマーたちの体は、一斉に弾き飛ばされて宙を舞った。

 

「……ッ!?」

 

 遠くからその光景を見ていた肥満型が、ギョッとしたように目を見開いた。配下のテラフォーマーたちが吹き飛ばされたからではない。彼は見てしまったのだ。テラフォーマーたちを打ち払ったドナテロの背後に浮かび上がる――自分達に牙剥く、強靭な顎と体を持った赤黒い虫の幻影を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 昆虫界においてカブトムシは、「力持ち」の代名詞として広く一般に知られている。

 

 ある実験報告によれば、カブトムシは自重の50倍の重量を引きずって歩くことができるとされ、その筋力で彼らは(エサ)の取り合いを制してきた。

 

 ――だが、彼らは知らない。自分達の住む木の下には、自重の100倍近い重量を()()()()()()()()()()()()()筋力を持つ虫がいることを。

 

 

 ――全ての昆虫種を同じサイズに揃えた時、最も筋力が強いのはどの虫か?

 

 

 その答えはカブトムシでもなく、クワガタムシでもなく、ゴキブリでもない。答えは、アリである。

 

 

 推定2万種に分化し、世界各地に生息する昆虫『アリ』。ドナテロの手術のベースとなったアリは、その中でも一際戦闘に特化して進化した種だ。

 

 自分達の進路上にある物は全てを食らい尽くすグンタイアリの群れが唯一避けて通ると言われる『凶暴性』。

 

 ただの一噛みで与えられる、まるで銃に撃たれたかのような『激痛』。

 

 これらの要因から、そのアリは『弾丸蟻(バレットアント)』の異名を持つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『ミッシェル、アリさんが好きなのかい?』

 

 押し寄せる無数のテラフォーマーを前にしてドナテロが思い出すのは、かつて庭先でアリの行列を眺めていたミッシェルに、己がかけた言葉。

 

『うーん……ふつう!』

 

『――そうか』

 

 にっこりと笑って即答した彼女に、自分はどんな表情を浮かべたのだったか。

 

『だけどね、ミッシェル――知ってるかな?』

 

 その時の自分は確か、ほんの少しだけ悔しくて。目の前でキョトンとしている彼女に、こんなことを言ったのだった。

 

『アリさんはね、全部の虫さんの中で一番――力持ちなんだよ』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【なまけ者よ ありのところへ行き そのすることを見て 知恵を得よ】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 変態薬の過剰接種(オーバードーズ)。ドナテロの全身を黒く頑強な甲皮が全身を覆い始め、腕からは巨大な毒針が生える。

 莫大な体への負荷、燃焼する命を代償にして――最強の昆虫が、目を醒ます。

 

 

 

【ありは かしらなく つかさなく 王もないが 夏のうちに食物をそなえ 刈入れの時に かてを集める】

 

 

 

「フンッ!」

 

 ドナテロが大きく腕を薙いだ。それはただ触れただけでテラフォーマーの体を吹き飛ばし、まともに当たればテラフォーマーの体を甲皮ごと引き裂く。押し寄せるテラフォーマーは、彼に近づく端から死体となって地に転がった。

 

 

 

【なまけ者よ いつまで寝ているのか】 

 

 

 

 ――ゾクリ。

 

 ドナテロと目が合ったその瞬間、肥満型の背筋を何かが走った。

 

 ――それは恐怖。

 

 このままでは自分が殺されるという、ゴキブリの生存本能が告げた警鐘に、脳が発達した肥満型が感じた、死への恐れだった。

 

 

 

【いつ目をさまして起きるのか】

 

 

 

「ギィイイイイィイ! じぎ、じぎぃいいいいいい!」

 

 わめく様に、肥満型のテラフォーマーが叫ぶ。その顔は、怒りとも恐怖ともつかない表情でくしゃくしゃになっていた。

 

 

 

【貧しさは盗びとのようにあなたに来り 乏しさは つわもののようにあなたに来る】

 

 

 

 おそらくそれは、全軍を突撃させる指示だったのだろう。彼の声に応じ、『・|・』のテラフォーマーを除く全てのテラフォーマー達が一斉に駆け出した。石の神輿を担いでいた力士型も、肩からそれを下ろして大地を蹴る。

 

 

 

【よこしまな人 悪しき人は 偽りの言葉をもって行きめぐり】

 

 

 

 肥満型が苛立たし気に『・|・』のテラフォーマーを見やる。だが、『・|・』のテラフォーマーは肥満型の指示に従うつもりなど毛頭ないようで、素知らぬ顔をして事の推移を見守っていた。

 それに気づいた肥満型は忌々しそうに歯ぎしりすると、落ち着きなく足を揺すりながらドナテロへと視線を戻した。

 

 

 

【目でめくばせし 足で踏み鳴らし 指で示し】

 

 

 

 押し寄せる死の黒い津波に、ドナテロは雄叫びを上げると自ら突進した。

 

 その腕は金棒、その足は金槌、その体はさながら装甲車。

 

 過剰接種によってよりベースとなった昆虫の力を引き出した今、ドナテロは全身が凶器。その一挙一動が破壊につながる。

 彼はその腕で薙ぎ払い、その足で踏みつぶし、その体ではね飛ばしながら、テラフォーマーの大群をかき分け、一直線に突き進む。

 

 ――敵の首魁、肥満型のテラフォーマーへと向かって。

 

 

 

【よこしまな心をもって悪を計り】 

 

 

 

 ――こちらへ近付いてきている。

 

 それに気づいた肥満型が悲鳴を上げる。同時に一体の力士型が、肥満型を守るかのようにドナテロの前へと立ちはだかった。

 力士型が目の前の人間を始末すべく、人間の胴回りほどもある巨大な腕を振り上げると、ドナテロもそれを迎撃すべく呼応するように拳を構えた。

 

「ジョウッ!」

 

 両者の拳がぶつかり合い、車が正面衝突したかのような轟音が響き渡る。

 

 

 

【絶えず争いをおこす】

 

 

 

「……ッ!?」

 

 驚きの声を上げたのは、力士型のテラフォーマー。ぶつかり合った拳が拮抗したかと思ったのもつかの間、鍛え上げてきた自慢の腕が、押しつぶされるようにしてひしゃげてしまったのだ。

 

「そこを――退けッ!」

 

 よろめいたその瞬間、ドナテロのボディブローが力士型の腹部に叩きこまれた。その衝撃に内臓がめちゃめちゃに引っ掻き回され、全身の骨が粉々に砕ける。白目を剥き、力士型の巨体が崩れ落ちた。

 

 ――自分達の中でも強力な個体が、あろうことか力勝負でねじ伏せられた。

 

 その事実に、さしものテラフォーマー達も一瞬だけ理解が遅れ、動きを止める。その隙にドナテロは、肥満型のテラフォーマーの前に立った。

 

 

 

【それゆえ 災は にわかに彼に臨み】

 

 

 

「じょッ……!?」

 

 逃げる間もなく肥満型はドナテロに顔面を鷲掴みにされた。その握力で彼の頬骨を砕きながら、ドナテロは球体の様な肥満型の体を持ち上げた。どれだけ肥満型が暴れようと、胃にも介さない。

 

 高く高く、ドナテロはその巨体を掲げ――そして。

 

「オオオオオオオオオ!」

 

 渾身の力で以て、肥満型の頭部を地面に叩きつけた。

 

 火星の大地が、音を立てて抉れる。肥満型はビクリと体を痙攣させると、それきり動かなくなった。

 

 

 

【たちまちにして打ち敗られ 助かることはない】

 

 

 

                             ――『箴言』より、抜粋

 

 

 

 

 

「どうした、動きが止まってるぞ」

 

 動かなくなった肥満型から手を放すと、ドナテロは周囲のテラフォーマー達へと一歩足を踏み出した。その覇気に気圧されたのか、テラフォーマーが――死をも恐れないはずの彼らが、思わず一歩後ろへと引き下がる。

 

「来いよ、テラフォーマー……俺の力が尽きるまで、何度だって言ってやる」

 

 そう言って、ドナテロは彼らを睨みつけた。

 

 

 

 

 

 ドナテロ・K・デイヴス

 

 

 

 国籍:アメリカ

 

 

 

 30歳 ♂

 

 

 

 188cm 90kg

 

 

 

 バグズ手術ベース   

 

 

 

 

 

   ―――――――――――― パラポネラ ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――人間を嘗めるなよ、ゴキブリ共」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔弾の蟻王(パラポネラ)猛進(リベリオン)

 

 

 

 

 

 

 



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第24話 SIN 罪

【バグズ2号計画結果報告】
・乗組員16名(※このうち1人は非正規の乗組員である)の内、生存者は15名、行方不明者は1名である。
・火星における任務であるゴキブリの駆除は、ゴキブリが進化して生まれた『テラフォーマー』により失敗。ただし、死骸の回収は完了しているため、サンプルの確保自体は成功。
・水質や土壌などの環境調査も完了しており、このことから本計画における目的は概ね達成されたものとして処理する。
・ゴキブリの進化種である『テラフォーマー』についての詳細な説明は、別項において行う。

(U-NASA・バグズ2号計画についての書類より抜粋)




 

 

 

 ――それは、(イヴ)にとっての過去の記憶。

 

 

 

『イヴおにいちゃん、かせーってどこにあるの?』

 

『火星? えっとね……』

 

 モニターの向こう側、デイヴス夫人の膝上に抱えられたミッシェルからの質問に、イヴはどう答えたものかと思案する。

 

『……あ、そうだ。ミッシェルちゃん、今お空にお星さまは見えてる?』

 

『みえるよー!』

 

『それじゃあ、窓からお空を見て、緑のお星さまを探してみて?』

 

 わかった! とミッシェルは元気に言うと母親の膝を下り、トテトテと背後の窓まで駆けていく。閉まっていたカーテンの向こう側に小さな体を潜り込ませると、彼女は微笑まし気にデイヴス夫人に見守られながら、「緑のお星さま」を探し始めた。

 

 ミッシェルがいるカリフォルニアの現地時刻は、夜の八時。幸いにして彼女が住んでいるのは郊外で街明かりも多くはないだろうし、この様子ならば空に輝く火星を見つけることができるだろう

 

『うーんと……あ、あったぁ!』

 

 2分ほど空と睨めっこしていたミッシェルは歓声を上げると、カーテンと窓の隙間から飛び出し、嬉々としてイヴの映るモニターへと駆けていく。

 

『イヴお兄ちゃーん! みどりのおほしさま、あった!』

 

『あった? それが火星。ボクとドナテロさん――ミッシェルちゃんのパパが行くところだよ』

 

『きれー! だけど……ちっちゃいんだね』

 

 幼く無邪気なミッシェルの言葉に、イヴは思わず笑みを浮かべた。

 

『あはは、遠くにあるからそう見えるだけだよ。本当は、とっても大きいんだ』

 

 その言葉に、ミッシェルが目を大きく見開いた。

 

『みっしぇるよりもおっきいの? イヴおにいちゃんよりも、ぱぱよりも、みっしぇるのおうちよりも?』

 

『そうだね。もっともっと……ずっと、大きい』

 

 イヴが頷くと、ミッシェルが目を輝かせた。

 

『すごい、みっしぇるもいってみたい! イヴおにいちゃん、みっしぇるもいく!』

 

『え、あー……そ、それはその……ちょっと難しい、かも?』

 

 目の前のミッシェルが実際に火星へと行くことを想定してしまい、思わずイヴが真面目に答える。すると案の定、ミッシェルは途端に機嫌を崩し、その頬を膨らませた。

 

『パパとイヴおにいちゃんばっかりずるい! みっしぇるもかせーにいくー!』

 

『うわわ、えっと、えっと……!』

 

 案の定、駄々をこね始めたミッシェルに、イヴが狼狽する。デイヴス夫人が慌てて諭しているが、ミッシェルはあまり聞く耳持たないようだ。

 

 地球にいる間、イヴはクロードによって心理学から生物学まで様々な知識を教え込まれていたが、当然ながらその中にわがままを言う子供を言いくるめる方法などあるはずもない。

 そもそも出発して何日も経っているから戻れないとか、火星にはテラフォーマーがいて非常に危険だから、などと言っても理解してはくれないだろう(そもそも後者については、乗組員たちに守秘義務が課せられているため、幼児相手とはいえ口外はできないのだが)。

 

『みっしぇるもいく! かせーにいって……』

 

 そこまで言ってミッシェルは、ふと寂し気な表情を浮かべた。

 

『……ぱぱに、あいたい』

 

『あ……』

 

 その言葉に、イヴやデイヴス夫人が思わず黙り込む。私用でバグズ2号のモニターを使う行為は禁止されており、この通信は本来ならば違法行為なのだ。当然、ドナテロもそうおいそれと通信をすることはできず、またできたとしても長い間話していることはできない。

 

 そんな状態が何日も何週間も続けば、それは寂しいだろう。まだ幼いミッシェルならば、それはなおさらのはずだ。

 

『あ、そうだ! じゃあミッシェルちゃん、こうしよう!』

 

 イヴは閃いたとばかりに、ぷりぷりと怒るミッシェルに言った。

 

『この任務が終わったら……ボクとドナテロさんが帰ったら、ミッシェルちゃんに火星のこと、色々教えてあげるよ!』

 

 その言葉に興味を引かれたのか、ミッシェルは駄々をこねるのを止めてじっとイヴのことを見つめた。内心でほっと息を吐きながら、イヴは言葉を続ける。

 

『ボクとミッシェルちゃんのパパが、火星で起こった色んなこと、お話ししてあげる! それでミッシェルちゃんが火星に詳しくなって……そう、火星博士になったら、またみんなで火星に行こう!』

 

 イヴがそう言うと、ミッシェルはおずおずとモニターを見つめた。

 

『……ぜったいにいってくれる?』

 

『うん、ミッシェルちゃんがいい子で待ってたらね』

 

『いろんなおはなししてくれる?』

 

『もちろん! ドナテロさんと一緒に色んなお話をしてあげる!』

 

『……わかった』

 

 ミッシェルは頷くと、『でも』と言ってイヴのことをじっと見つめた。

 

『ぜったい、ぜったいだからね! ぜったいパパと一緒に、みっしぇるもかせーにいく!』

 

『そうだね。うん、約束するよ』

 

 イヴは頷くと、スゥと息を吸い込んだ。

 

『――()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから……もうちょっとだけ、待っててね』

 

 そう言って自らを見つめる親子に向かってほほ笑む過去の自分を、ぼんやりとイヴは眺めていた。

 

 この時の自分は、まだ知らない。自分達に襲い来る数多の脅威と、その先に訪れる残酷な結末を。この約束が永遠に果たせなくなることなど――知る由もないのだ。

 

 だから、こんなにも無責任なことが言える。こんなにも無邪気に、未来を信じられる。それが今のイヴにとっては羨ましく、苛立たしかった。

 

 ――20世紀、ある独裁者は言った。

 

『1人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない』

 

 と。

 

 もしも自分が彼らを助けようとしなければ、こんなにも苦しまないで済んだのだろうか? 大切な友人の死を、統計上の数字として受け入れることができたのだろうか?

 

 いや、そうではない。きっと、そうではないのだ。その時もやはり自分は悲しみ、苦しむのだろう。きっとあの時のように泣きじゃくり、慟哭し――悔やみ苦しむのだろう。

 

 だが、これほどまでに無力感に苛まれることはなかったはずだ。

 

 

 ――助けられた、助けられたはずなのに。

 

 

 もしもあの時ああしていれば、もっと自分に力があれば。後悔と自責の念が、少年の心にドロリと溜まる。誰かを恨むつもりはない、誰かを責めるつもりもない。恨めしく、呪わしいのは――無力な己自身。初めての友人を助けることができなかった自分が、殺したいほどに憎ましい。

 

 楽し気な過去の自分をやるせなく見つめるイヴの耳に、自分の声がこだまする。

 

 それは、あの日から一度たりとも消えたことのない幻聴。

 

 ――例え船が凶星を離れ、母星に帰還しようとも。

 

 ――どれだけ温かい言葉を掛けられようとも。

 

 ――どれだけ後悔と自責を重ねようとも。

 

 胸の奥にはそれが薄れることなく取り憑いて、離れない。悔やんでも悔やみきれない思いが、悪魔のように囁き続け、彼の心を掻きむしり続けるのだ。

 

 

 

 ――ああ、お前(ボク)は、なんて罪深いのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

「……ヴ……イヴっ!」

 

 自らの名前を呼ぶ声に、イヴの意識が現実へと浮上する。それと同時に彼の視界は急速にクリアになり、前の座席から心配そうに自分の顔を覗きこむミンミンの顔を認識した。

 

「あれ、ミンミンさん……?」

 

「大丈夫か? 随分うなされていたようだが……」

 

 どうやら気が付かないうちにうたた寝をして、ミンミンに心配をかけていたらしい。それに気づき、イヴは慌てて首を横に振った。

 

「大丈夫。その……ちょっと、怖い夢を見てただけだから」

 

 自分の体調を案じる彼女にそう言うと、イヴは追及を避けるように、窓の外に見える()()()()()()()()()()()()()()。直に見るのは初めてであるはずの、『U-NASA』の外にある景色。けれどそれを見ても、イヴの心が躍ることはなかった。

 

 

 

 ――西暦2599年6月18日。

 

 

 

 ――ドナテロ・K・デイヴスの遺族に彼の最期について説明をする機会が設けられたのは、火星での激闘を終えてから数カ月が経ってからのことだった。

 

 乗組員に対する聞き取り調査、テラフォーマーの対策会議、バグズ手術の事後経過観察。それら全てから解放されてから、彼らはやっとドナテロの家を訪ねることを許された。

 

 ドナテロの家があるのは、カリフォルニア郊外。舗装された道路を走る車に乗っているのは同行を強く希望したイヴとバグズ2号副艦長であるミンミン、そして――。

 

 

「イヴ。体調が優れないのなら、無理をしなくてもいいんだよ?」

 

 

 ――クロード・ヴァレンシュタイン。

 

 イヴの隣の座席に腰掛けていた彼もまた、イヴを気遣うように口を開いた。

 

「君は生い立ちこそ特殊だが、立場はあくまでバグズ2号の乗組員だ。だからイヴ、君が今回の説明についてくる必要はない。辛いなら、車の中で待っていたっていいんだ」

 

 ――当初、説明にはミンミンとクロードのみが出向く予定だった。

 

 ミンミンはバグズ2号の副艦長として、クロードはバグズ2号計画の総責任者たるニュートンの代理人として、それぞれ説明責任があったためだ。

 

 だが、イヴは違う。彼には立場上、これといった責任はなく、責務もない。だからこそ同行の必要はないのだが――それでもイヴは同行を申し出た。

 

「ううん。本当に平気だから、大丈夫だよ」

 

 ――それに。

 

 と言ってイヴは窓の景色から視線を車内へと戻すと、クロードを見上げた。揺れるその目は、しかしそれでも真っすぐに、クロードのことを見つめている。

 

「どうしても行ってみたいんだ。ドナテロさんが、暮らしてた家に」

 

「そうか」

 

 その言葉にクロードは頷き、イヴの頭を優しく撫でた。イヴは少しだけそれに目を細めると、また窓の外を流れていく街並みへと視線を戻す。その様子を座席越しに伺い、ミンミンは静かに息を吐いた。

 

(――あれから、3カ月)

 

 ミンミンが心の中で呟いたのは、火星を発ってから現在に至るまでに経過した時間。それは通常ならば、1人の人間の死を受け入れるのには十分な期間であったといえるだろう。だが――。

 

()()()()()()()調()()()

 

 ――ドナテロの死は、未だにイヴの心に大きな傷跡を残していた。

 

 一見しただけならば、今のイヴはドナテロの死から立ち直り、以前の彼と何ら変わりなく振る舞っているように映るだろう。

 

 だが、ふとした瞬間に見せる沈痛な表情や、毎夜の如くうなされる姿を知っていれば、イヴが立ち直ったなどとは口が裂けても言えない。

 

 

 

『ボクのせいだ』

 

 

 

 それはあの日、涙も声も枯れ果てたイヴが絞り出すように漏らした第一声。そこから、イヴは更に言葉を続けた。

 

『ボクがあの時、無理にでも地球に帰らせていれば』

 

『ボクがあの時、もっとたくさんのテラフォーマーを倒せていたら』

 

『ボクに、もっと力があれば』

 

 重苦しい沈黙の中で響き続けるのは、自らを引き留めたミンミン達への恨み言ではなく、裏切った一郎たちの糾弾でもなく――懺悔と後悔の言葉。見かねた小吉が静止の声を挙げるまで、彼は壊れたラジオのように自分を責め続けた。

 

 そしてそれは、今なお続いている。

 

 ミンミンを始めとしたバグズ2号の乗組員たちは皆それに気付きながら、しかし見守ることしかできない。自分達が例えどんな言葉をかけようとも、イヴの心を真に癒すことはできないだろうことを、知っていたから。

 

(今回のこれが、イヴにとって、前に進むための契機になればいいが)

 

 ミンミンはもう一度、深く息を吐いた。苦しみ続ける1人の少年に手を差し伸べることすらできない自分に、どうしようもないやるせなさを感じながら。

 

 

 ※※※

 

 

 ――彼らの乗る車が、木でできた一軒家の前で停車したのは、それから更に十分ほど経ってからのことだった。

 

「……着いたな」

 

 シートベルトを外しながらミンミンは呟くと、車のドアを開けてアスファルトの上へと降り立った。彼女にならってイヴも車を降り、目に飛び込んできた景色に思わず息を呑んだ。

 

「ここが、ドナテロさんの……」

 

 イヴは目の前に佇む家を見上げた。2階建ての木製の家は午後の西日を浴び、その影をイヴ達へと伸ばしている。敷地内に敷き詰められた芝生がそよ風に吹かれ、ほのかな草な香りがイヴの鼻腔をくすぐった。

 

「行くぞ、イヴ」

 

 ビジネススーツに身を包んだミンミンとクロードが歩き出し、それを見たイヴが慌ててあとに続く。足を踏み出す度、石畳がコツコツと音を立てた。一歩、また一歩家へと近づくたびに、心臓がうるさく胸を叩く。やがて玄関の扉の前に立ったイヴの顔は目に見えて強張っていた。

 

 クロードが扉の脇に取り付けられたインターホンを押すと、来客を告げる軽快な電子音が響き渡った。一瞬だけ周囲がシンと静まり返り、直後、家の中からこちらへと近づいてくる足音が聞こえてくる。

 今すぐこの場から逃げ出したいという恐怖を押さえつけ、イヴは俯きながらじっとその場に立ち続けた。

 

 間もなく玄関の扉が音を立てて開き、その中から金髪の若い女性――デイヴス夫人が顔を出した。イヴの目に映った彼女の姿は、記憶の中のものよりも少しだけやつれたように見える。

 

「お初にお目にかかります、デイヴスさん。U-NASAのクロード・ヴァレンシュタインと申します。こちらはバグズ2号の副艦長である張明明と、乗組員のイヴ。本日は旦那様の件で伺わせていただきました」

 

 一行を代表して、クロードが名乗る。その言葉を聞くと、デイヴス夫人は痩せた顔に笑みを浮かべ、口を開いた。

 

「お待ちしてましたクロードさん、ミンミンさん。遠いところをわざわざお越しいただき、ありがとうございます」

 

 そう言うとデイヴス夫人は膝を折ってしゃがみ、俯くイヴの顔を覗き込んだ。

 

「直接会うのは初めてね、イヴ君」

 

 その言葉に、イヴが体を竦ませた。自分はこれから、何を言われるのだろうか。呪いの言葉だろうか、怒りの言葉だろうか? 

 

 呼吸が浅くなり、恐怖と不安で胸が締め付けられるように痛む。だが、例えどんな罵詈雑言を浴びせられようとも、自分はそれを甘んじて受けなくてはならない。ドナテロを救えなかった罪は、己にあるのだから。

 

 けれど彼女の口から告げられたのは、イヴを責めるものでもなければ、呪うものでもなく。

 

 

 

「いつも娘の話し相手になってくれて、ありがとう」

 

 

 

 何のことはない、ごくごくありふれた感謝の言葉だった。

 

 

 

 思ってもみなかった一言に驚くイヴにもう一度微笑みかけると、デイヴス夫人はゆっくりと立ち上がった。

 

「どうぞ上がってください。中でお話を伺わせていただきます」

 

 そう言ってデイヴス夫人は、3人をダイニングルームへと案内した。長机の周りにぐるりと置かれた木の椅子にイヴ達を座らせ、自身はキッチンへと向かった。

 

「イヴ君は、紅茶に砂糖とミルクは入れる人かしら?」

 

「ふぇ? あ、えっと……ストレート、で大丈夫……です」

 

 予想だにしていなかった質問に、イヴがたどたどしく答える。デイヴス夫人は「趣味は大人なのね」と笑いながら、クロードとミンミンにも同じように希望をとる。間もなく彼女は、人数分のティーカップを乗せたトレイを持って戻ってきた。

 

「お口に合うかは分かりませんけど、どうぞ」

 

 デイヴス夫人の言葉を受け、ミンミンやクロードが礼を言ってカップを受け取る。同じように礼を言ってイヴもカップをもらうと、そっと口をつけて中の紅茶を口に含む。ふんわりとした紅茶の香りが、口の中に広がった。

 

「あ、美味しい……!」

 

「あら、ありがとう。まだ紅茶を入れるのは練習中だから心配だったけど、大丈夫そうね」

 

 思わず目を丸くして驚くイヴに、デイヴス夫人がほほ笑んだ。

 

「どう、イヴ君。実際にウチに来てみた感想は? くつろげてるといいんだけど」

 

 対面からの問いかけに、イヴはカップの淵から離した口を開いた。

 

「……あったかい、です」

 

 無言で続きを促すデイヴス夫人に対して、イヴの口は自分でも驚くほど軽やかに言葉を連ねていく。

 

「木のテーブルの手触りとか、ミントの柔軟剤の匂いとか……どれも、ボクにとって初めてのものなのに、懐かしいような不思議な感じがして。その……すごく、居心地がいいです」

 

「ありがとう……そう言ってくれて、嬉しいわ。自分の家だと思って、肩の力を抜いてね」

 

 デイヴス夫人の言葉に、イヴの強張っていた表情が和らいでいく。長く見せることのなかったイヴのその顔にミンミンが驚き、クロードはほっと胸を撫でおろした。

 

「あ、あの……デイヴスさん。ミッシェルちゃんは?」

 

 イヴが恐る恐る、といった様子でデイヴス夫人に聞く。途端、デイヴス夫人は悪戯っぽい笑顔を浮かべた。

 

「あら、ミッシェルのことが気になるの?」

 

「そ、そうだけど、そういう意味じゃなくて……」

 

 困ったように両手を振るイヴに、デイヴス夫人は「冗談よ」と言いながら、3人の正面に腰かけた。

 

「ミッシェルは寝ているわ。丁度、お昼寝の時間でね。ちょっと前までは「イヴ君が来るから」って、頑張って起きてたんだけど……」

 

 ――やっぱり、直接会いたい?

 

 そんなデイヴス夫人の問いに、イヴは少しだけ考え込み――ゆっくりと、首を横に振った。

 

「会いたいよ。だけど、今はダメ。これはボクのワガママだけど……これからする話は、ミッシェルちゃんに聞かせたくないから」

 

 イヴの答えをある程度想定していたのか、デイヴス夫人は驚いた様子もなくただ静かに頷く。それからカップの中の紅茶を一口啜ると、クロードとミンミンに向き直った。

 

「お待たせして申し訳ありませんでした。話しにくいかもしれませんが――主人のこと、聞かせていただけますか?」

 

「……わかりました」

 

 デイヴス夫人に肯定の言葉を返し、それからミンミンはドナテロの最期を話し始めた。

 

 

 テラフォーマーについての情報は、事前にU-NASAから口止めされているため、彼女がデイヴス夫人に伝えるドナテロの死の経緯自体は偽りのものだ。

 

 しかしそれでも、彼女はドナテロが人類のために危険な任務に臨んだこと、命を懸けて自分達を守ったことなど、彼の最期を嘘偽りなく伝えていく。

 

 彼の魂の在り方を、その想いを、知るべき人に知ってもらうために。

 

「――我々からお伝えできることは、以上になります」

 

 彼女がそう言って話を終えたのは、時計の長針が一周し終えた頃だった。カップの中の紅茶はいつの間にか冷めており、窓から見える空は既に朱色に染まっている。

 

「申し訳ありません、私たちの力が及ばず……」

 

「いえ……どうか、そんな風には思わないでください」

 

 頭を下げたミンミンの謝罪を、デイヴス夫人が遮る。目尻には涙を湛えているが、その言葉は震えていなかった。

 

「あの人はいつも皆さんのこと、本当に楽しそうに話していたんです。最後に皆さんを守りきれたのなら、きっと主人は本望だったはず」

 

 デイヴス夫人は目元をハンカチで拭うと、それから3人――特に、イヴに向かってほほ笑んだ。

 

 その言葉はまるで自分の考えを見透かしているかのようで、イヴの心臓が大きく跳ねた。

 

「あの人はきっと、皆さんが自分の死を悔やむことは望んでいません。だからどうか、気に病まないでください。あなた達が幸せになることが――死んでしまった主人が、何よりも望んだことのはずですから」

 

 デイヴス夫人の言葉はふわりとイヴの心に舞い降り、その胸の傷を優しく癒す。

 

 

 ――それは、彼にとっての救いの言葉。

 

 

 大切な人を見殺しにしたという、罪の意識。デイヴス夫人の言葉は、イヴの心にべったりとこびりついた罪悪感の闇の中へ、一筋の光明となって差し込んだ。

 

 胸のつかえがとれたような、心が軽くなったような。安堵にも似た温かい感情で、イヴの心が満たされていく。そんなイヴの雰囲気に気が付いたのか、デイヴス夫人は空気を切り替えるように、明るい声を出した。

 

「さて、イヴ君! お話ししてる間に遅くなっちゃったし、お夕飯食べてって! よかったら、クロードさんとミンミンさんも一緒に!」

 

「えっ? でも……いいの?」

 

 思わず聞き返すと、デイヴス夫人は「勿論!」と頷いた。それから窺うようにチラリとクロードを見やれば、彼は静かに笑みを浮かべた。

 

「いただいて行こうか、イヴ」

 

 クロードの言葉に、イヴが喜色を満面に浮かべた。それを見たミンミンは立ち上がると、「U-NASAの方に連絡を入れてきます」といって外へと出ていった。

 

「よし、決まりね! それじゃあまず、ミッシェルを起こしてこなくちゃ」

 

 ミンミンの背中を見送ってから、自身も椅子から立ち上がり、デイヴス夫人は楽し気に声を弾ませた。

 

「あの子、起きたらきっと喜ぶわよー。さっきも言ったけど、イヴ君が来るのをずっと楽しみに――」

 

 だが振り向いたその瞬間に、彼女は続けようとした言葉を飲み込むこととなった。目を見開いたデイヴス夫人を不審に思ったイヴも、彼女が見つめる先へと目を向け――思わず息を呑んだ。

 

 

 

 ――彼らの視線の先にいたのは、1人の少女だった。

 

 

 

 いつからそこにいたのだろうか? ピンクのワンピースに身を包んだその少女は、二階へと続く階段の前にじっと立ち尽くしていた。俯かせた顔は金髪で隠れていて窺うことができないものの――イヴはその姿に、見覚えがあった。

 

 

 

「ミッシェル、ちゃん……?」

 

 

 

 ――今は亡きドナテロの愛娘、ミッシェル・K・デイヴスがそこにいた。

 

 

 

 束の間、夕日で赤く染まった室内を沈黙が支配する。まるで見えない何かが喉に蓋をしてしまったかのように、その場にいる誰もが言葉を発せなかった。そしてそれが十秒ほど続いた頃、やっとのことでデイヴス夫人が声を上げた。

 

「あ、あらミッシェル! 起きてたの?」

 

 彼女はその顔に笑みを浮かべると、努めて明るい口調で話しかけながらミッシェルへと近づいていく。

 

「丁度良かった、そろそろお夕飯だから、起こそうと思ってたの」

 

 デイヴス夫人はミッシェルの前でしゃがみこむと、その目に視線を合わせた。

 

「ほら、貴方が会いたがってたイヴ君も来てるわよ~。さ、この間練習したみたいにイヴ君に挨拶をしましょう?」

 

 デイヴス夫人が言う。だがミッシェルは彼女の言葉には何の反応も返さず、俯いたまま歩き出した。小さな体はデイヴス夫人の脇を通り抜け、一直線にダイニングへ。やがて彼女はイヴの前まで来ると、そのままピタリと足を止めた。

 

「あっ……こ、こんにちは、ミッシェルちゃん!」

 

 イヴが目の前の少女に言うも、やはり反応がない。困惑しながらイヴが更に話しかけようとした瞬間、ミッシェルの小さな口からその言葉は告げられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……え?」

 

 ――その言葉に、イヴはまるで頭を殴りつけられたかのような衝撃を受けた。

 

「ミッシェルはちゃんとやくそくをまもったのに……ずっと、いいこでまってたのに」

 

 体も思考も硬直したイヴの前で、ミッシェルが顔を上げる。唇を固く結び、両頬を涙の雫が伝う。イヴに向けた赤く充血した目には、混乱と悲しみ――そして、強い怒りと敵意の色が浮かんでいた。

 

「おにいちゃんのうそつき! なんでおにいちゃんは、パパといっしょじゃないの!? やくそくしたのに! パパといっしょにって、やくそくしたのに!」

 

 そして消え入りそうな声で、彼女は絞り出すように言った。

 

 

 

「なんでパパは、死んじゃったの?」

 

 

 

「っ……!」

 

 ――その瞬間、イヴは気が付いてしまった。

 

 いつからかは分からないが……この子は聞いていたのだ、自分達と母親が話を。そして理解してしまったのだ、ドナテロが死んだことを。あるいはそうでなくとも――彼が、二度と自分達の下へは帰って来ないことを。

 

「あ、ぐ……」

 

 イヴの顔が青ざめる。同時に手や足がガクガクと震え出し、呼吸は次第に浅く、そして荒くなっていく。言わなくてはならないのに、言うべきことがたくさんあるはずなのに……まるで喉も舌も痺れてしまったかのように、彼の口はただ意味のない声を紡ぐばかり。

 

「うそつき」

 

 そんな彼に追い打ちをかけるように、ミッシェルの糾弾は続く。行き場のない悲しみと怒りは混ざり合わさり、子供ゆえの純粋な憎悪となり果てて、眼前の少年へと向かう。

 

「イヴおにいちゃんのうそつき! ぜんぶぜんぶ、おにいちゃんのせいだ!」

 

「ッ、それは違う!」

 

 ミッシェルのその言葉に、思わずクロードは反論する。一連のイヴの行動を見守っていた者として、彼の想いを知っていたものとして――例え相手が4歳児であったとしても、その発言は看過できなかった。

 

「この子は君のお父さんたちを助けようと、精一杯努力した! イヴは何も悪くない! 悪いのは、彼を火星へと送り出してしまった私達だ!」

 

 クロードの声が響く。それを受けて我に返ったのか、デイヴス夫人ははっとしたような表情を浮かべると、慌ててミッシェルに駆け寄った。

 

「ミッシェルッ! 今すぐイヴ君に謝りなさい!」

 

 デイヴス夫人が怒声を上げるが、ミッシェルは聞く耳持たないとばかりに激しく首を左右に振った。

 

「いや! ミッシェルはわるくない! わるいのは、ぜんぶイヴおにいちゃんだもん!」

 

 自分は間違ってなどいない、自分は正しいのだ。ミッシェルは自分に言い聞かせるかのようにそう言うと震えるイヴの体を、力任せにどんと突き飛ばした。ミッシェルは尻もちをついたイヴを睨みつけた。

 

「……イヴおにいちゃんなんて、だいっっきらい!」

 

 

 ――ああ、そうか。

 

 

「かえして! ミッシェルのパパ、返してよ!」

 

 

 ――この子が待っていたのは、()()()()()()

 

 

 周囲の世界が、急速に色あせていく。窓から差し込む夕焼けが、クロードが、デイヴス夫人が――世界のすべてが灰色に染まり、残響が遠く離れていく。

 

 まるで自分とミッシェル以外の全てが死に絶えたような世界の中、胸の奥から自分の声がポツリと呟いた。

 

 

 

 

 

 ――この子が待ってたのはボクじゃなくて、()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 そう悟ると同時、イヴの目から一筋の涙が流れる。実感が追いついていないのか、その顔には一切の表情がない。だがその思考は、心は、体は……確かに、泣いていた。

 

「おにいちゃんなんてっ……!」

 

 それを見たミッシェルは、思わず言葉を飲み込みかけた。今まで怒り一色だった彼女の顔に、この時初めて、動揺か怯みの様な表情が浮かぶ。

 

 今の状況が、一方的にイヴを苛めているかのように思えたからだろうか? それとも、自分が口にしようとしている言葉の意味を、理解したからだろうか?

 

 その理由は、彼女にしかわからない。

 だが結局のところ――幼い彼女が抱いた僅かな躊躇いは、胸中にひしめく激流と、それらが具現した最後の一言をせき止めるには至らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「イヴおにいちゃんなんて、死んじゃえばよかったのに!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その言葉の意味を理解した瞬間――イヴの心はぐしゃりと音を立てて歪み、呆気なく折れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「                     」

 

 

 

 

 

 

 

 自分は、何か言ったのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 気が付くと、イヴは住宅街を全速力で走っていた。まるでビデオの早送りのように、カリフォルニアの街並みがイヴの視界を前から後ろへと流れていく。すれ違う人たちは皆イヴのことを奇異な目で見つめるが、彼はそれを気にも留めずに足を動かした。

 

 まるで何かから逃げるように。何かから逃れるように。

 

 イヴはただひたすらに走る、走る、走る――。

 

「っ!?」

 

 そうして、どれほど走り続けただろうか。息が上がり、肺が乾いた痛みを訴え始めた頃、ガン! という鈍い音と共にイヴの眼前に火花が散った。

 

 脳が揺さぶられ、イヴはフラフラとその場に尻もちをつく。どうやら、電信柱か何かに頭をぶつけたらしい。切れた額からドロリと温かいものが流れ出て、イヴの鼻の脇を伝っていった。

 

「……あ、は」

 

 視界が涙で滲み、鼻水が垂れ落ちる。血が口の中へ入りこみ、鉄臭い風味が口と鼻を満たした。けれど、そんなイヴの口から漏れたのは泣き声ではなく、笑い声であった。

 

「はは、は」

 

 イヴは笑う。数分前までの自分が、どうしようもなく滑稽だったから。

 

 ――自分のしたことを思い返せ。

 

 心の声が囁く。

 

 ――ボクは、ドナテロさんを見殺しにした。彼女たちの誰よりも大切な家族を、火星に置き去りにしたのだ。

 

 デイヴス夫人があの時かけた言葉はきっと、己の本心を押し殺したものだったに違いない。

 愛する人が帰ってこないことを知り、その胸に渦巻く悲しみを、怒りを、悔しさを――黒い感情をひた隠しに隠し、それでもなお自分を気遣って、あの言葉をかけてくれた。

 

 それに気づかず、あまつさえ『許された』と思い込むなど――おこがましいにもほどがある。

 

「ハハハ……!」

 

 イヴは嗤う。今の自分が、どうしようもなく無様だから。

 

 ミッシェルからぶつけられた言葉は、どれも正しい。

 

 今の自分は、弁明の余地なき嘘吐きだ。今の自分は、釈明の余地なき人殺しだ。死ぬべきだったのはドナテロではなく、自分だ。

 

 あの子は自分が目を背けていた真実をつきつけてくれたのに、自分を子供だからと気遣ったクロード達に代わって、自分を裁いてくれたというのに――自分は、彼女から逃げ出してしまった。

 

「アハハハハハハハ――うぐっ、オェ……」

 

 そうしてイヴは、嘔吐した。胃の奥から熱く不快なものがこみ上げて食道を灼き、直後にビチャビチャとアスファルトの上にまき散らされる。肺が酸素を求めて喘ぐのを、どこか他人事のようにイヴは感じていた。

 

「ハァ、はぁ……! う、ウウウウウウゥウ!」

 

 イヴがうずくまり、苦悶の声を上げる。痛むのは肉体ではなく――心。

 

 今まで積み上げてきたもの全てが否定されてしまったような、そんな絶望。

 今の自分に悲しみ、苦しみ、涙を流す資格などないと理解しながらも、イヴは苦痛から逃れえずに、悲痛な唸り声を上げる。

 

「イヴっ!」

 

 不意に聞き慣れた声が鼓膜に届き、イヴはゆっくりと振り向いた。そこにいたのは、スーツ姿のクロード。相当急いで追いかけてきたのだろう、彼は塀に片手をついて息を荒げながら、案じるような視線をイヴへと向けていた。

 

「っ、その血は……!? イヴ、君怪我をしたのか!?」

 

 額から血を流しているのを確認すると、クロードは慌ててイヴに駆け寄った。それから額の傷を診察し、ほっと息を吐く。

 

「よかった、派手に出血してるけど、傷自体はそんなに深くない。これなら車に持ってきておいた救急箱で何とか――」

 

「先生……」

 

 その時、イヴはクロードの名前を呼ぶと、彼の服の裾を弱々しく握った。クロードは言葉を切ると、「何だい?」と優しくイヴに問いかける。

 

「先生が、ボクに優しくしてくれるのは……ボクが実験動物だから? それとも、ボクのことを、本当に気にかけてくれているから?」

 

「……っ!」

 

 クロードは思わず閉口した。答えに迷ったからではない。自らを見上げるイヴの目が絶望に濁り――あまりにも、色彩にかけていたからだ。

 

「もしも先生が、本当にボクのことを気にかけてくれているなら……お願い」

 

 イヴは虚ろに淀んだ目から、静かに涙の雫を流すと、震える声でクロードへと懇願した。

 

()()()()()()()()()()

 

 その言葉に、クロードは表情を強張らせる。何と返すか一瞬だけ迷い、それからクロードは、慎重に言葉を選びながらイヴへと聞いた。

 

「……イヴ。君が自らの死を願うのは、罪の意識から――で、いいのかな?」

 

 コクリ、と頷くイヴ。それを見たクロードは、己の迂闊さを呪った。

 

 イヴが精神的に追い詰められていることは分かっていた。()()()()()クロードは、イヴがこの説明に同行したいと言った時に断らなかったのだ。デイヴス一家に引き合わせ、彼の心の傷を少しでも癒すために。

 

 事前の会話でデイヴス夫人がイヴに対して恨みを抱いていない事は判明していた。ミッシェルがイヴに会いたいと本心から思っていることも確認した。

 

 途中までは、うまくいっていたのだ。だが、たった一つの誤差――ミッシェルが最悪の形で、ドナテロの死を理解してしまったことが原因で、全ての歯車が狂った。結果としてイヴの心の傷はより深くえぐられ、ついには自らの死を乞い願うまでに至ってしまった。

 

 ――考えが甘かった。

 

 クロードは考える。こうなってはもはや、イヴの心の傷を癒すことは不可能だ。罪悪感を拭い去ることのできる唯一の手段である『許し』は剥奪された。

 

 

「そう、か」

 

 ――誤解から生まれた糾弾は存在しないはずの罪を十字架となし、イヴを縛り付ける。おそらく彼は、未来永劫いわれのない罪を背負って生き続けることになるのだろう。

 

 それがどれだけ苦しく、辛いことか――クロードには計り知れない。

 

 だが、今この場でクロードが「君は悪くない」と声を大にしていったところで、気休め程度の効力も発揮しないだろう。

 

 今のイヴを苦しめる、罪悪感の妄執を解けるのは、この地球上にたった一人だけだろうから。

 

「イヴ。君にとって私は、ただ研究者に過ぎないかもしれない。けれど私にとって君は――弟のような存在だ」

 

 クロードが血を吐く様に言葉を絞り出した。

 

「おこがましい考えであることは、重々承知。けど、それでも私は……君のことは、本当の家族のように想っている」

 

 

 

 ――だから。

 

 

 

 クロードはそう言うと、イヴのことをそっと抱きしめた。それから泣き疲れ、虚ろな彼の耳元で、クロードは静かにその言葉を紡ぐ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は……君を殺すよ、イヴ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 ――次回、第一部完結。




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第25話 TURNING POINT 未来へ

 ――西暦2599年6月18日 17時46分。

 

 

「これは変態薬の原理を応用した毒薬だ。摂取すると血流にのってベース生物の細胞と人間細胞の乖離を促進、筋肉を破壊することで死に至らしめる。本来はバグズ手術被験者用に開発したものだが……理論上は君にも効くはずだ」

 

 そう言って手渡された注射器を、少年は躊躇うことなく首筋に打ち込んだ。

 

 瞬間、彼は己の体が大きく痙攣したのを感じる。全身から力が抜け、己の体重を支えきれずに彼は地面に倒れ込んだ。まるで肺が呼吸の仕方を忘れたかのように停止し、心臓が少しずつ静まっていく。

 

 薄れゆく意識の中で少年が感じたのは、死への恐怖でもなければ肉体崩壊の苦痛でもなく、安堵。

 

 ――これで、やっと……。

 

 少年は胸中でそっと呟き、その顔に微かな微笑みを浮かべる。

 

 そして、彼の意識は闇にのまれた。

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 ――西暦2599年6月22日 深夜2時00分。

 

 草木も眠るこの時間、職員も既に大半が帰宅した国連航空宇宙局(U-NASA)の最深部にて、関係者の中でもごく一部の限られた者しか立ち入ることのできない部屋への扉が、音もなく開いた。

 

 扉が完全に開き切るのを待ってから、その青年は中へと入る。すると、ホログラムのモニターに囲まれたその部屋の主が、振り返ることなく彼へと声をかけた。

 

「おかえり、ヴァレンシュタイン博士」

 

「……ただいま戻りました」

 

 青年――クロードが慇懃に返すと、部屋の主たるアレクサンドル・グスタフ・ニュートンは、くつくつと笑い声を上げた。

 

「デイヴス一家との対談はどうだったかね? さぞや有意義な時間だっただろう?」

 

「……相変わらず、冗談の趣味が最悪ですね、貴方は」

 

 ニュートンのジョークとも皮肉ともとれる発言に、クロードが嫌悪感を隠しもせずにそう返す。途端、チクチクとした空気が部屋の中に張り詰め、どこか試すようなニュートンの視線と、クロードの苛立たしげな視線がぶつかった。

 

「……いや、止そうか。()()()()()()()

 

 数秒後、ニュートンはそう言って首を横に振ると、クロードから視線を外した。

 

「今、我らはいがみ合っている場合ではない……そうだろう、本多博士?」

 

 そう言って、ニュートンが自らの隣の椅子へと目を向けた。そこに腰掛けていたのは、メガネを掛け、白衣を身に纏った男性。彼はニュートンの視線を浴びると、その威圧感に思わず体を竦ませた。

 

 ――U-NASA日本支局所属、本多晃。

 

 バグズ2号計画の裏でウッドと一郎の手引きをしていた研究者が、そこにいた。

 

「は、はい」

 

 表情を強張らせた本多が一度は頷き、しかしその後で「と、言っても」と言葉を続けた。

 

「正直、私は未だに状況を飲み込めていないんですが……」

 

 本多がニュートンとクロードを交互に見やる。不安げな表情を浮かべる彼には、以前見せたような覇気がない。おそらく、この大人しい一面が本来の彼の姿なのだろうと、クロードは考えた。

 

「ご安心を、本多博士。それを詳しく説明するために、貴方には日本からワシントンまで来てもらったんだ」

 

 クロードはそう言うと、ホログラムをかき分けて部屋の中央まで進み、事前に用意されていた椅子へと腰を下ろす。人がいなくなったことを感知したセンサーが扉を閉め、部屋の中の光源はモニターが発する電子の光のみとなった。

 

「これから起こるだろう『危機』に……備えるためにね」

 

「危機……ですか」

 

 クロードの言葉に、本多が戸惑うような表情を浮かべた。『危機』の正体についてあれこれと考察してみるが、答えは全く見えない。疑わしいものはいくつかあるのだが――そのどれも、ニュートンとクロードが血眼になるような問題とは思えないのだ。

 

「さて、話を始める前に確認しておきたいのだが、ヴァレンシュタイン博士――」

 

 と、思索を巡らす本多の横で、ニュートンが口を開いた。

 

 

 

EVE(イヴ)は処分したのかね?」

 

 

 

「ッ!? ニュートン博士、それは……!?」

 

 ニュートンの口から飛び出したその言葉に、本多は驚愕の声を上げかけた。だが次の瞬間、クロードの返したその内容に、彼は逆に絶句することになる。

 

「――はい。()()()()()、イヴは処分しました」

 

「は……ッ!?」

 

 目を剥いた本多の隣で、クロードとニュートンの異様な会話は淡々と続く。

 

「どのような状況で処分した?」

 

「カリフォルニア郊外で、現地時刻の17時46分です。人には見られていません、ご安心を」

 

「殺害方法は?」

 

「毒物を注射で接種させました。使ったのは薬効耐性を獲得していない薬物です」

 

「遺体は?」

 

「ご命令通り、事前に手配した火葬場へと運輸し、その日の内に焼却済みです。」

 

「ふむ……」

 

 クロードから一通りの報告を聞くと、ニュートンは顎鬚を撫でた。

 

 ――本当に、この優男にEVE(イヴ)を殺せたのか?

 

 ニュートンの脳裏を一瞬、そんな考えがよぎる。

 

 だが、監視員からの報告とクロードの報告に食い違いは見られない。内蔵カメラは火星での戦闘時に破壊されていたために確認できないが、クロードの目を盗んで仕掛けておいたバイタルチェッカーも完全に沈黙している。

 

 遺体の確認ができないのが心残りだが――状況証拠から考えるに、イヴは死んだと見てもいいだろう。

 

「……結構。ご苦労だった、ヴァレンシュタイン博士」

 

 ニュートンの言葉に、クロードはただ鼻を鳴らしただけで何も答えない。代わりに声を上げたのは、その隣にいた本多だった。

 

「ど、どういうことですか!? なぜ……なぜ、貴方たちがイヴを……!?」

 

()()()()()()()()()()()()()

 

 間髪入れず、ニュートンが切り返す。その声からは今までのふざけているような調子が消えており、本多は思わず閉口する。それを見たニュートンは、問の答えを滔々と語り始めた。

 

「バグズデザイニングのデータを全て取り終わり、イヴという検体の必要性が薄れたこと。この技術を、絶対に他国に奪われないようにする必要があったこと。理由は様々だが、一番は要因を上げるとするなら――」

 

 そこまで言って、ニュートンはふと言葉を切った。彼の目は、じっと本多を見つめている。

 

「ニュートン博士?」

 

 訝しげに本多がニュートンの名を呼び――直後、彼は気が付いた。彼の目が見つめていたのは自分ではなく、()()()()()()()()()()()

 

 不審に思い振り返るも、そこには何もない。ただ、ホログラムのモニターが彼らを取り囲むように浮いているばかりだ。

 

 ――否。

 

「……? 何だ、モニターにブレが……?」

 

 

 

 ――そのモニターに、小さな異変があった。

 

 

 

 蛍光色のモニターが、揺らいでいたのだ。それはまるで、テレビに走る砂嵐のよう。始め本多の真後ろにあったモニターのみに見られたその異常は、しかし瞬く間に周りのモニターへと伝播していく。

 

「これは……!」

 

 立ちあがったクロードが周囲のモニターへと目を走らせる。

 

 すると、それとほぼ同じタイミングで、全てのモニターに走っていたノイズが唐突に収束した。だがそのモニターは正常には戻らず――その代り、一斉にとある画像を投影し始めた。

 

 

 

 

 

 純白のキャンパスを思わせる真っ白な背景。

 

 

 

 その中央に描かれているのは『食い尽くされて芯だけになった林檎』と、『それに巻き付く不気味な幼虫』。

 

 

 

 

 

 それが意味するのは――

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()……! そんな、まさか――!」

 

 クロードがニュートンへと叫んだ、その瞬間だった。不気味な画像の表示されるモニターから、声が聞こえてきたのは。

 

 

 

 

 

『あー、あー。マイクテス、マイクテス……うん、感度良好! ハローハロー、グーテンターク! アレクサンドル君、クロード君、聞こえてるかーい!?』

 

 

 

 

 

 管制室に響き渡ったのは、そんな緊張感のない口調と声音で発せられる、あまりにも場違いな言葉。それを聞いた本多は思わず絶句し、クロードは険しい表情で唇を固く引き結ぶ。

 

「――聞こえているとも。やはり貴様だったか」

 

 ただ一人ニュートンだけが、モニターから聞こえた声へと語り掛けた。

 

「今度こそ、()()()()()()()()()()()()()。だが……どうやら私は、また貴様を取り逃したらしい」

 

 そう言って、ニュートンは眼前のモニターへと鋭い視線を向けた。口元には、笑み。だがその額には青筋が立ち、その双眸には怒りと屈辱の色がギラついていた。

 

「本当にゴキブリの様なしぶとさだな、黒幕気取りの道化師めが……!」

 

 ニュートンが唸るように言葉を発した途端、室内に満ちる空気の質がガラリと変化した。不気味な沈黙は、嵐の前の静けさへ。凍り付くような恐怖は、焼き尽くすかの如き戦慄へ。

 

 憤怒に燃えるニュートンはさながら牙を剥いた老獅子の如く、周囲の全てを威圧する。本多は彼の身から発せられたその覇気に、思わず生唾を飲み込む。一方で声の主は全く気圧された様子を見せず、愉快気にケラケラと笑い声を上げた。

 

『もー、そんなに怒らないでよ、アレクサンドル君。何か悪いことでもあったの? そう言うときにイライラするのはしょうがないけど、八つ当たりはよくないよ!』

 

 声の主は怯むどころかニュートンをおちょくるかのようにしゃべり続けた。

 

『あ、それとも君、ひょっとして更年期だったりする? うわー、年っていうのは取りたくないねー。往年のアレクサンドル君といえば、それはそれはスバラシイ人間だったのに、晩年の君ときたら――』

 

「――黙れ。これ以上、貴様の不快な無駄口を私に聞かせるな」

 

 ニュートンが不機嫌さを隠そうともせずそう言うと、モニターからは『おお、怖ッ』とおどけたような言葉が返ってくる。ククク、と押し殺したような笑い声を上げる声の主に、ニュートンは渋面を作りながら口を開く。

 

「……三度は聞かんぞ、何の用があって我々に接触した? まさか無駄口を叩くためだけに、U-NASAの通信システムを乗っ取ったわけではあるまい――」

 

 そう言ってニュートンは、正面のモニターに映し出された画像を睨みつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何が目的だ、()()()()()()()()()よ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「アダム、ベイリアル……!?」

 

 聞き覚えのあるその言葉に、本多の背筋を冷たい何かが駆け抜ける。

 

 

 ――本多博士。一つだけ、貴方に聞いておきたいことがある。

 

 ――貴方は『アダム・ベイリアル』か?

 

 

 ――ち、違う! あなたが言ったそれが何を意味しているのかは分からないが……私はそんなものは知らない!

 

 

 彼の脳裏に思い出されるのは、自らの陰謀が暴かれた直後の、クロードと本多の会話。

 

「ば、馬鹿な! そんなこと、あるはずがない!」

 

 気が付くと、本多は反射的に叫んでいた。

 

 あの後、彼は独自に調べていたのだ。クロードの真意を探るために、『アダム・ベイリアル』という言葉を。

 

 そしてそれが何を指しているのかも――今の彼は知っていた。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()ネイト・サーマン(アダム・ベイリアル)博士!」

 

 

 

 ――アダム・ベイリアル。

 

 

 

 それは、今は亡き『イヴ』の生みの親――ネイト・サーマンが、U-NASAへと反旗を翻した際に名乗った名である。

 

 

 

『そーそー、それだよ本多君! 僕の用はまさにそれなんだ!』

 

「……は?」

 

 本多の口から、思わず間の抜けた声が漏れる。それが果たして聞こえているのか、はたまた聞こえていないのか、声の主――アダム・ベイリアルは、モニター越しに不満げな声を響かせた。

 

『アレクサンドル君ってば、ネイト君こと『アダム・ベイリアル・サーマン』をぶっ殺したでしょ? もう、これで何人目だと思ってるのさ! 困るんだよね、おつまみ感覚で『アダム』をサクサクと殺されるとさぁ!』

 

「ッ……!?」

 

 アダムの言葉の意味をまるで理解できず、本多が黙り込む。混乱する彼の横で、冷や汗を流しながらクロードが口を開いた。

 

「本多博士、いずれ貴方にも説明するつもりだったが……『アダム・ベイリアル』は個人の名前ではない。特定の条件を満たした人物に贈られる『名義』、『肩書』なんだ」

 

『そのとーりッ!』

 

 クロードの言葉を聞いたアダムは、先程までとは打って変わってハイテンションな声音で言った。

 

『説明しようッ! アダム・ベイリアルとは、地球上に存在する全科学者の中でも、特に優秀な人材に贈られるスーパーグレイトゥな称号の一つなのです!』 

 

 キンキンとした耳障りな声が、室内にいる三人の鼓膜を叩く。ハウリングしたその声に、思わず本多は顔をしかめた。

 

『アダム・ベイリアルを名乗れるのは、とっっっっても光栄なことなんだよ? この称号を贈られるのは、独力で新技術を開発しちゃうようなスーパーエリート科学者だけだからね! だから未来あるアダム・ベイリアルたちを次々と殺す、アレクサンドル君たちの蛮行に僕はほとほと心を痛めているのデス』

 

「スーパーエリート科学者? 笑わせるな、狂人の間違いだろう?」

 

 クロードが鼻で笑うと、アダムがわざとらしく、白々しく、そして大げさに声を上げた。

 

『あ、ひっどーい! 僕たちはただ、日々技術の研鑽にいそしんでるだけなのにー』

 

「研究のために嬉々として家族や友人を研究材料にし、実験のためだけに平然と内戦を引き起こす。こんなことを日常的にやっている連中を、狂人と言わずに何という?」

 

 クロードは語気に怒りを滲ませて吐き捨てると、モニターの向こう側に座すアダムへと問いかけた。

 

「火星で起こった不自然な事態の数々……あれもお前達の仕業だな?」

 

『そうだよー』

 

 間をおかずに、アダムはあっけらかんと答えた。『ま、一から十までってわけでもないけどね』と前置きして、ペラペラとしゃべり始める。

 

 

 

『バグズ1号にメッセージを送ってたのは僕さ。みんなびっくりしてたよね! あの時のイヴ君達の表情といったら、笑い過ぎて死ぬかと思ったよ!』

 

 

 

『テラフォーマー達に共食いの概念を伝えたのも僕だ。今回彼らが見つけることはなかったけど、実はテラフォーマーの屠殺場とかもあるんだぜ? あーあ、見せたかったなー!』

 

 

 

『あ、そうそう。あいつらに階級制とか娯楽なんかも教えたっけ。太ったハゲゴキとか、あれ階級制と娯楽の最大の産物よ? メスを囲ってハーレム作ったり、気に入らない部下を気まぐれに殺したり、人間味があって実にクズかった。惜しくない奴を失ったものだ……』

 

 

 

『おっと、誤解しないで。途中で乗組員たちを襲った人食いゴキブリは、僕が作ったわけじゃない。あれは火星の衛星『フォボス』で勝手に進化してたやつだからね。ま、それを火星に届けたのは僕なんだけど。いい感じにホラーだったでしょ?』

 

 

 

 次々と明かされる、彼の凶行の数々。それを聞いた本多は、無意識の内に呟いていた。

 

「わ、分からない……」

 

『んー?』

 

 耳ざとくそれを聞きつけたアダムが間延びした声を上げると、本多はモニターへ声を張り上げた。

 

「アダム・ベイリアル……貴方は、なぜこんなことをする!? 何が目的で、こんなことをしているんだ!?」

 

 本多は一連のやり取りを聞いていて、それがずっと引っかかっていた。人が行動を起こす際には、必ず動機というものがついて回る。火星の生態系を一つ乱してまで成し遂げたい目的とは、何なのか。

 

 それが分からないがために、本多は眼前の狂人へと問いかけた。

 

 

 

 

 

『いや、何でって……何となくだけど?』

 

 

 

 

 

 そしてだからこそ――彼は、アダムから帰ってきたその答えに対して、完全に言葉を失った。沈黙から本多の内心を察したのか、モニターの向こう側でアダムが笑った。

 

『君は志と理想が高い人間なんだね、本多君。君の中には、望む未来を手に入れるための明確なプロセスがあるんだろう。だから僕がやってることにも、大層な動機なんてものがあると思い込んでいる。けどね、それは君のお・も・い・こ・み☆』

 

 そこまで言うと、アダムはそれまでのまくしたてるような喋り方から一転、低く語り聞かせるような口調に切り替えた。

 

『――いるんだよ、世の中には。ただ何となくで人を殺したり、思いつきで他人を不幸の底に叩き落したり、気まぐれで自分も他人も破滅させたりするような連中が』

 

 その瞬間本多は、素顔の見えぬアダムが、その口元を三日月の形に歪めた気がした。同時に本多は、本能的に理解してしまう。彼らは()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 彼らは愛する者を守るために戦うような正義の味方(ヒーロー)などではなく、目的のために手段を問わない悪の破壊者(テロリスト)ですらない。

 

 強いてその性質を形容するのなら、人格破綻者(サイコパス)。その価値観、その考え方はどこまでも常人のそれとは食い違い、限りなく噛みあわず、決して交わらない。

 

『正義とか悪とか、そういう大それたものじゃないんだ』

 

 ――彼らを突き動かすのは大義でも、利益でも、妄執でもない。

 

『僕達を動かしているのは刹那的な快楽とか、突発的な衝動とか、思いつきとか、そういうありふれたもの。ここに個人の事情とかも関わってくるけれど、全体として見れば僕達の行動に『コスパを度外視した悪ふざけ』以上の深い意味はないよ!』

 

 ああちなみに、とアダムは自らの発言に付け加えるように語った。

 

『僕個人の事情としては、これプラス『ニュートンの一族に対する嫌がらせ』ってとこかな。だって何かむかつくじゃん、こいつら? そんなわけで僕は今回、むしゃくしゃして火星の生態系を乱してみましたー。後悔も反省もしていない!』

 

「――理解したかね、本多博士。これが、我々の『敵』だ」

 

 愕然とする本多の横で、ニュートンが表情を苦々しく歪めた。

 

「奴らはいわば、不発弾のようなもの。いつどこで、どれくらいの規模で爆発するのかが全く読めないが……爆発した場合に、周囲にとっての害悪になることだけは分かっている」

 

 だから、とニュートンが繋げる。

 

「だからアダム・ベイリアルは、殺さねばならない。その存在が広まる前に、アダム・ベイリアルは絶滅させねばならないのだ。彼らが生み出した技術もまた同様。有用な技術なら我々で押収し、改良して使うが……」

 

 ニュートンが視線をモニターから外すと、隣で歯を食いしばる自らの右腕――クロードへと目を向けた。

 

「大本の技術そのものは、必ず処分する。例えそれがどれだけ便利で、()()()()()()()()()()()()()()()()()。いつの日かアダム・ベイリアルを我々が絶滅させたその時に、彼らの痕跡を決して残さないために」

 

「っ、だから貴方たちはイヴを……」

 

 ニュートンの頷きに、本多の中で全ての辻褄が合う。数分前までの本多ならば、恐らく納得はしなかっただろう。彼は目的のために非道な手段をとることができる人間だが、人間として外道に堕ちているわけではないからだ。

 

 だが今ならば、2人がイヴの殺害に踏み切ったことも同意できた。実際にアダム・ベイリアルという人物を目の当たりにした今ならばわかるのだ。

 彼は生かしておいては――否、()()()()()()()()()()()()()。バグズデザイニングの産物たるイヴは、生きているだけで逆説的にアダムという存在を証明してしまう。だから、抹消しなければならなかった。

 

 後世に、アダム・ベイリアルという狂人達の旗印を遺してしまわぬように。

 

『うわ、アレクサンドル君てばシリアルキラー? こわーい! 本人を前にして『殺す』なんて、正気の沙汰とは思えないよ! マジトーンすぎて草も生えない! 君たちは狂ってるよ!』

 

 自分のことなど棚に上げ、アダムの口から神経を逆なでするような白々しい言葉が紡がれる。もはやこの場にいる誰も、真面目に取り合う様子は見られない。彼らの胡乱気な視線を無視し、アダムは明るく言った。

 

 

 

『だから、先手を取って僕が君たちを殺しちゃおう☆ もしもしポリスメェン?』

 

 

 

 その瞬間、彼らの背後からガゴン、という機械音が響いた。それに気づいた本多が振り向き、目を瞠る。

 

 ニュートンの許可なき者の入室を拒むはずの鋼鉄の扉が、空いていたのだ。その向こうには、十人ほどの人影が見えた。

 

U-NASA(ウチ)の職員……ではないな。何者だ?」

 

「はん、答える義理はねえな、ジジイ」

 

 振り返ったニュートンを小馬鹿にするように言いながら、人影たちはズカズカと部屋の中へと踏み込む。

 

 人相の悪い男たちだ。手には軍用のアサルトライフルが握られ、耳にはインカムの様な物を装着している。

 

 これだけ見れば彼らが軍人のようにも見えるかもしれないが、しかしその服装はジーンズやランニングなど、統一性のないもの。更に言えばピアスやチェーンと言ったアクセサリー、露出した肌に彫り込まれた刺青などの要素を見れば、自ずとその人種は特定できた。

 

「ストリートギャングか……!」

 

『あったりー! 多額のお金と武器を渡したら、それと引き換えに君たちの惨殺を引き受けてくれた心優しいギャングの皆さんでーす!』

 

「ブッ、ギャハハハハハ! 大将、あんたそのギャグ最高だぜ!」

 

 アダムの言葉の何が面白かったのか、ギャングたちが下品な笑い声を上げる。数人の顔には返り血がついていることから、彼らがどうやってここまでたどり着いたのかは想像に難くない。そして、自分達がこれからどうなるのかも。

 

 ゾッとするような悪寒が、本多の背中に走った。

 

「おい大将、本当にこのジジイとヒョロい2人を殺せば金をくれるんだな?」

 

『モチのロン! そこにいる三人は、世界を裏で牛耳る悪い奴らだからね! 見事討ち取ったのなら、1000万ドルくらい喜んで支払おう!』

 

「ひゅー、太っ腹なこった。ま、そう言う訳だジジイに兄ちゃん」

 

 男たちは殺意をたぎらせながら、一斉にアサルトライフルを構えた。

 

「悪いが、俺達の金のために死んで――」

 

「あー……君たち」

 

 だが、その言葉を遮るようにニュートンが声を上げた。

 

「悪いことは言わない……()()()()()()()()()()()()()

 

「はぁ?」

 

 ギャングたちは一瞬呆けたような表情を浮かべ、言葉の意味を理解すると同時に腹を抱えて笑い出した。

 

「ブハハハハ! 銃が怖すぎてボケちまったのか、ジジイ!?」

 

「イヒ、わ、笑わせんな爺さん!」

 

「状況分かってんのか? それはどっちかっつーと俺らの台詞じゃねえか、ギャハハハ!」

 

 口々にそう言ったギャングたちに、ニュートンは怒りも怯えも示さない。ただ淡々と、まるで書類の内容を確認するかのような口調で彼らに尋ねた。

 

「その反応は拒否……と、受け取っていいのかね?」

 

「あ、あたりめーだ、馬鹿! こ、これ以上、俺らを笑わせないでくれ! ハハハ!」

 

「……そうかね」

 

 この時ギャングたちは、自分達が圧倒的優位に立っていたがために、警戒を怠っていた。だから、彼らは気づけなかった。

 

 ニュートンがその顔に、あざ笑うかのような笑みを浮かべたことに。

 

 クロードが白衣の懐から、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――クロード博士、やりたまえ」

 

 ニュートンに呼ばれると同時に、クロードは取り出した俊敏にトローチのを口へと放り込む。口内で即座にそれをかみ砕くと、クロードはその顔に何の表情も浮かべずに呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――“人為変態”」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その瞬間、クロードの体から無数の細いビニール紐の様なものが現れた。モニターの光を浴びて青く輝くそれは、クロードの周りに揺らめきたつかのように展開し、青い奔流となってギャングたちへ押し寄せた。

 

「な、何だこの青いの――ぶっ!?」

 

 無論、油断していた彼らにそれらを躱す術はない――もっとも、警戒していたとしても、逃れられたかどうかは怪しいところだが。青い奔流は、突然の事態に反応できないギャングたちを一瞬で飲み込む。

 

 仮にこの光景を見ている第三者がいたとすれば、彼らは思わず息を呑み、さながらおとぎ話の魔法のようだと表現するに違いない。それほどまでにその青は美しく、妖しく、幻想的な様相を呈していた。

 だが、その直後に広がる惨状を見れば、彼らはすぐに考えを改めることだろう。

 

 白浜へ打ち寄せた波が引いていくように、青の奔流がクロードの下へと戻っていく。そこには、床に倒れこみ苦し気に呻くギャングたちの姿があった。

 

「て、めぇ……ぐっ、何しやがったァ……!?」

 

「あ、ああ、いでぇ! いでぇよォ!」

 

「だ、誰か、助げでぐれ!」

 

 苦悶の声を上げて身をよじる彼らの体には、至る所に赤いミミズ腫れができていた。赤く爛れたその部位はまるで電撃の様にジクジクとした激痛を発しており、その激痛に耐え切れなかった数人は既に気を失っている。

 

「馬鹿な……!」

 

 本多は目を見開き、クロードの周囲に揺らめく青い紐を凝視した。その形状、その質感、その色合い――彼は瞬時にその正体に気付く。

 

 それは、『触手』だ。

 

 言うまでもなく、それは人間の体には本来備わっていない器官である。となれば必然、クロードは後天的に、即ちバグズ手術によってその器官を獲得したことになるのだが……。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()! まさか、これは――)

 

 

 

「昆虫以外を手術ベースにしたバグズ手術……!?」

『昆虫以外を手術ベースにしたバグズ手術、かな』

 

 

 奇しくも同じタイミングで、本多とアダムは同じ言葉を口にする。だが2人の声の調子は全く正反対で、驚愕を隠し切れない本多に対して、アダムは事前に導き出していた解答の答え合わせをしているかのようだ。

 

『盗んだデータには書いてあったし、まぁ君なら成功させてるか。しかもそれ、イヌとかクモみたいにやりやすそーな奴じゃなくて、上級者向けのクラゲだよね? いやー、技術大国のドイツが魚類ベースでヒーヒー言ってる時代によくもまぁ……ハブクラゲだっけ?』

 

「……そうだ」

 

 データを見られている以上、嘘を吐くのは無意味だと考えたのだろうか。少し考えこんでから、クロードはアダムの言葉を肯定した。

 

「日本原産“ハブクラゲ”――それが私の手術ベースだ」

 

 ――ハブクラゲ。

 

 毒蛇(ハブ)の名を冠することからも分かる通り、日本近海に生息するクラゲの中でも一際毒が強く、過去には刺された人間の死亡例もある危険なクラゲである。

 

『えっげつなー。もろに対人特化のベースじゃん、それ。いくら僕の精鋭でも、これはちょっとキツイかな』

 

 アダムは苦笑すると、地面へ倒れ伏す哀れなギャングたちへと声を投げかけた。

 

『おーい、君たち! 事前にアレは持たせておいたよね? 早めにかけて洗った方がいい! 楽になるぞ!』

 

 その言葉を聞くと同時に、幸か不幸かまだ意識のあった数名は、腰に下げていた水筒のようなものを手に取り、激痛に震える指でふたを開ける。途端、中からツンとした匂いが漏れ出て、部屋の中へと満ちた。

 

「この匂い――食酢か!」

 

 本多がいち早く、水筒の中の物体の正体に気付く。ギャングたちが手に持つ水筒。中に入っているのは何のことはない、ただの食酢である。

 

 だが侮るなかれ、食酢には一部の毒クラゲの毒を不活性化させる成分が含まれている。そのため現地では本種に刺された場合の対処法として、食酢を傷部分にかけることが推奨されているほど。

 

 そしてその食酢は、ハブクラゲの毒に対しても有効。ギャングたちは一様に、水筒の中に満たされた食酢を救世主と信じて、その身に浴びる。

 

 そして彼らは、

 

 

 

 

 

「ギャア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!?」

 

 

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 もはや断末魔と言っても過言ではない声を数秒程発した後、彼らは全員が白目を剥き、口から泡を吹いて動かなくなった。地獄のような光景に青ざめる本多の背後で、パチパチと乾いた拍手の音が響く。

 

『ああ、やっぱりね。クロード君、君ってば僕に偽のデータ掴ませたでしょ?』

 

「……」

 

『ありゃ、だんまり? じゃあまあいいか、僕が代わりにばらしちゃうね!』

 

 先程と違って何も答えないクロードに、アダムは喜色の滲む声を弾ませた。

 

 

 

「君の本当の手術ベースは“カツオノエボシ”。ハブクラゲの方はいかにもそれっぽい偽装ベースでしょ。違う?」

 

 

 

 ねっとりと言ったアダムに、クロードはやはり何の言葉も口にしない。だがその表情は、微かにひきつっているように見えた。

 

 

 

 ――カツオノエボシ。

 

 

 

 アダムの言う通り、それこそがクロードの本当の手術ベースとなった生物の名。透明な風船のような浮袋と最大50mにも達する長大な青い触手を持つ、一風変わった姿のクラゲだ。

 

 その毒は強力で、刺されるとまるで感電したと錯覚するような激痛が走ることから、電気クラゲの異名を持つほど、刺された人間が死亡するという例も確認されている。しかもハブクラゲと違ってその毒に食酢は効かず、むしろ傷と毒の症状を悪化させてしまうというおまけ付き。

 

「そのことに気付いた上で、わざわざ食酢を浴びさせたのか……!」

 

『そうだよ? まぁ、確認の意味もあったけど。所詮は一山いくらの捨て駒だからね、ちゃんと活用して挙げないと可哀想でしょ』

 

 怒りの滲んだ本多の追及に、アダムはさも当然と言わんばかりの口調で返した。少し前の台詞をあっさりと翻して開き直るその態度に、本多は苛立ちながらも一周回って感心にも似た感想を抱く。

 

 ――ところで、先述した通りカツオノエボシは非常に凶悪な殺傷力を秘めた危険生物なのだが、この種の生物としての最大の特徴、特異性はもっと別の所にあるのをご存じだろうか。

 

 彼らの持つ最大の特徴、それは――

 

『それにしても、刺胞動物型の手術を成功させたってだけでも驚きなのに、()()()()()()()()()()()

 

 ――無数の個体からなる、群体であるということ。

 

 ヒドロ虫と呼ばれるクラゲの仲間が集まり、それぞれが触手やポリプなどの役割を果たすことで象られる融合生命体。それが、カツオノエボシという生物だ。

 

 当然、それをベースとして行う『群体生物型』のバグズ手術の難易度は、全ての生物の中でも、間違いなくトップクラスの難易度だと言えるだろう。

 

 既に実用化されている『昆虫型』は言うに及ばず、技術的にはあと一歩のところまで迫りつつある『節足動物型』や『脊椎動型』もこれに比べれば簡易な部類。

『細菌型』や『脊索動物型』といった特殊な生物と同等か、あるいはそれ以上の難易度を誇るのが『群体生物型』である。

 

『人体とベース生物を細胞レベルで同化、更にあくまで一個体でしかない人間の体を、変態時に群体生物として定義しなおす。これだけでも大変なのに、駄目押しにこの手術を自分自身に施したときた』

 

 可笑しくてたまらない、というようにアダムは笑い声を上げた。

 

『まあ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、それも世界各地のアダム・ベイリアルの協力があってのことさ。単身でそれを開発するなんて、やっぱり君はすごいなぁ――ねぇ』

 

 モニターの向こう側から、アダムは心底楽しそうな調子で言った。

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?』

 

 

「黙れ」

 

 間髪入れずにそう言うと同時、モニターを睨むクロードの眼光に鋭い殺意が灯る。

 

「その名は既に捨てた――二度と私をその名で呼ぶな……!」

 

『えー、つれないこと言うなよー! ま――昔みた――に一緒に……って、あら?』

 

 言いかけた言葉を中断して、アダムは怪訝そうに声を上げた。音声にノイズが混じるようになったのだ。

 

「残念だが……お喋りはここまでだ、アダム・ベイリアル」

 

 声を発したのは、いつの間にかタブレット端末をその手に握ったニュートンだった。カメラ越しにそれを確認して、アダムは合点がいったとばかりに声を上げた。

 

『ああ、セ――ティシ――テムを復旧――たのね。えっと、これをこうしてっ、と……よし、落ち着いた。さっきからアレクサンドル君が喋ってなかったのは、これを進めてたからか』

 

 向こう側で彼が何かしたのか、再びアダムの音声が安定する。だが、それもその場しのぎに過ぎないことを理解しているのだろう。アダムは名残惜しそうな声を上げる。

 

『ま、名残惜しいけど、今回はこの辺しておこうかな。うん、今日はたくさん話せて楽しかったよ、3人とも! お礼に――』

 

 そしてアダムは、今日最大となる爆弾をニュートンに投げこんだ。

 

『バグズ手術とバグズデザイニングのデータ、世界各国の首相に、メールで一斉送信しておくから!』

 

「ッ!? おい待て――!」

 

 この時、ニュートンは初めてその顔から余裕の表情を消し、動揺の声を上げる。だが、時すでに遅く、アダムとの通信は復旧したセキュリティシステムによって完全に絶たれてしまった。

 

 モニターに映っていた不気味な絵が消え、通常のそれへと戻る。だがニュートンが浮かべたのはアダムを追い出したという喜びや安堵ではなく、強い嫌悪感と苛立ちだった。

 

 

 

「おのれ、アダム・ベイリアルッ……! 狂人風情が、どこまで我々を馬鹿にするつもりだ……!」

 

 

 

 指で掴んでいた葉巻をへし折ると、ニュートンは椅子から立ち上がった。それを見た本多が、その真意を確かめようと声をかけた。

 

「ニュートン博士、何を……」

 

「決まっている、各国への根回しだ。奴が実行に移すかはわからないが、仮に実行されれば間違いなくU-NASAの権威は失墜し、技術が氾濫する。世界の警察たるアメリカの失脚と過剰な技術供給、そうなれば次に来るのは国をあげた資源の取り合い――全面戦争だ。今はまだ、その時期ではない」

 

 そう答えたニュートンは、クロードにタブレット端末を手渡し、そのまま部屋の出口へと足早に歩いていく。よほど業腹だったのだろう、その足音は普段に比べて数段荒々しい。

 

「アダム・ベイリアル、黒幕気取りの道化師め……! 必ず、根絶やしにしてくれる!」

 

 ニュートンはそう言い残し、扉の向こうへ姿を消した。呆然とした様子でそれを見送る本多の横で、クロードは操作を終えたタブレットを閉じた。既に展開していた青い触手は姿を消し、その姿は人間の物へと戻っている。

 

「U-NASAの特殊部隊に連絡を入れておきました。そこに転がっているギャング達は、時期に到着する彼らが確保します――本多博士、今のうちに迎えの車まで案内しよう」

 

 そう言ってクロードが歩き出し、本多が慌てたように彼の後を追う。2人の間に、会話はない。間もなく駐車場にたどり着き、既に待機していた車に乗り込んだ本多は、ひどく疲弊しているようだった。

 

 無理もないだろう、彼はほんの一時間の間に、多くのことを知りすぎたのだから。それを察したクロードは、手短に最低限のことだけを伝えることにする。

 

「今日できなかった分の埋め合わせについては、また後日。それではお気をつけて、本多博士」

 

 力無く本多が会釈を返すと同時に、ドアが閉まった。まもなく本多を乗せた車は駐車場をあとにし、夜のワシントンの中へと姿を消した。

 

 それを見送るクロードの脳裏に、ふとアダムの言葉がよみがえる。

 

 

 

 ――アダム・ベイリアル・ヴァレンシュタイン。

 

 

 

 それはかつて、己が『アダム・ベイリアル』であった頃の呼び名。どうあがこうとも変えることのできない、忌々しい記憶の断片である。

 自分はかつて、この名の下で――。

 

 

「――いや、よそう」

 

 

 クロードは1人呟くと、首を振った。自分が犯した罪を忘れるつもりは毛頭ない。時が来たのなら、いかなる罰も受ける所存。だが今の自分がすべきことは、その罪を懺悔することではなく、裁かれることでもなく――償うことだ。

 

 

 

()()()()()()()。だが、とてもじゃないがまだ足りないな」

 

 ――備えなくては、次の脅威に。

 

 そう呟くと、クロードは踵を返してU-NASAの中へと戻っていく。もはやその場には、いかなる人の気配もない。

 しんと静まり返った駐車場を、夜空に輝く深緑の凶星が見下ろしていた。

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 ――西暦2599年6月20日 13時23分。

 

 

 目を醒ました少年の目に真っ先に映ったのは、天井だった。ところどころ材質が剥がれ落ち、骨組みの鉄筋が見えている天井は薄汚れている。

 

 次に感じたのが、異様な蒸し暑さ。じっとりと纏わりつくような不快な蒸し暑さにさらされて、肌に汗がにじむ。まるで熱帯雨林のようだと感じた直後、彼の耳は様々な動物たちの鳴き声を捉えた。

 

 インコたちの歌、カエルの合唱、猿の吠え声。どうやら自分の予想は当たっていたらしい、と朦朧とする意識の中でぼんやりと考え――そこで彼は初めて自分がベッドと思しき物の上に横たわっていること、そしてその傍らに1人の見知った人物が座っていることに気が付いた。

 

「おはよう、気分はどう?」

 

 それはまだ若い、白衣を纏った青年だった。西洋人にしては珍しい黒髪に、男性とも女性ともつかぬ中性的な顔立ちをしている。

 

「――」

 

 驚いて声を上げようとするも、喉がかすれて声が出ない。それを見た青年は、中性的なその顔に苦笑を浮かべた。

 

「まだ麻酔が完全に解け切ってないのか。無理にしゃべろうとしない方がいい」

 

 そう言って青年は少年を抱き起すと、彼の手に水を注いだコップを握らせた

 

「飲んで。少しは楽になるはずだ」

 

 勧められるまま、少年はコップの水を口につけた。温い真水が彼の喉を潤し、そのまま胃の中へと流れていく。コップの中の水を一気に飲み切って初めて、少年は自分の喉がカラカラに乾いていたことに気付く。

 

「落ち着いた?」

 

 青年の言葉に少年は頷き、それからぐるりと周囲を見渡した。

 

 どうやらここは、診療所のようだった。大きくはない部屋にベッドが二脚並べてあり、そのうちの片方に自分は寝かされていたらしい。腕には点滴の針が刺さっており、枕元には心電図を映す医療機器が置いてある。

 

 窓の向こうに目を向ければ、生い茂る熱帯植物とその間を飛び交う青色のモルフォ蝶の姿が目に入る。明らかに文明圏ではないことに、少年は気が付いた。

 

「ああ、ここは南米にあるリカバリーゾーンの一角さ」

 

 少年の心を見透かしたように、青年が言った。

 

「この辺りは元々町だった関係で廃墟も多いから、そのうちの一つを改装して簡単な拠点にしたんだ。まぁ、ここなら万が一U-NASAが調査しても――って、そんなことはどうでもいいか」

 

 青年はそう言うと、大きく息を吐く。その瞬間、周囲の空気が俄かに引き締まったのを、少年は肌で感じとる。

 

「なぜ自分が生きているのか、気になるんだろう?」

 

 コクリ、少年が頷く。青年はそれを見ると、白衣のポケットから空になった注射器を取り出した。

 

「まずは君が生きている、物理的な理由。これはそんなに難しいことじゃない。君に渡したこの薬は毒薬じゃなくて、強力な麻酔だった。ただそれだけのことだ」

 

 そう言うと、青年はその注射器をポンと空中に放る。無造作に宙を舞ったそれは放物線を描き、部屋の隅に置いてあったゴミ箱へと吸い込まれ、カコンと音を立てた。

 

「約束を破る形になるが……私には、君を殺せない」

 

 そう言って青年は、目の前の少年を見つめる。透き通った水色の瞳が、困惑したように自分の目を覗き込んでいた。

 

「君は、自分の罪を理由に死にたいと願った。前提として、私は君が罪悪感を抱く必要は少しもないと思っているけれど……君はそうは思わないだろうから、代わりにこう言おう」

 

 そう言ってその青年は優しく、しかし残酷に。少年へその一言を突き立てた。

 

「もしも君がそれを罪だと思うのなら、()()()()()()()()()()()()()()()()。あのまま死を選ぶことは、自らの罪から逃げるということ。私はそれを、許すわけにはいかない」

 

 少年の力が有益であるから殺したくないという打算はある。

 

 少年は家族のようなものだから、己の手で殺したくないという感情もある。

 

 少年に一切の罪がないという認識も、心からの言葉。

 

 だが、彼がたった今口にしたその言葉も、やはり本心からのもの。

 

「たとえどんなに苦しくても、どんなに辛くても――許しを求めて、君は贖い続けなければならない。君が罪人で、その罪に苦しんでいるというのなら」

 

 青年の言葉に、少年は俯いた。気づいてしまったからだ、自分の願った死とは、安直な罪からの逃走に他ならないことに。

 

「――二十年後」

 

 青年がポツリとつぶやく。その真意を測りかね、少年は顔を上げて青年の顔を見つめた。

 

「おそらく二十年後、人類は再び火星に向かうことになるだろう」

 

「!?」

 

 目を見開いた少年の眼前で、青年は眉間を手で押さえると深刻な表情で語り出した。

 

「君たちが火星から帰ってきたのと同時期から、未知のウイルスが流行し始めている。22年前、バグズ1号からの『荷物』が飛来した際にも存在は確認されていたが、今回はその比じゃない。まず間違いなく、火星産のウイルスだ」

 

 自分達がしてしまった重大な失態に気付き、少年は青ざめた顔でえづき始める。そんな彼に、青年はもう一杯水を飲ませると、落ち着いた頃を見計らって再び口を開いた。

 

「今はまだごく少数の患者が出るにとどまっているが、いずれ……おそらくは二十年前後で、私たちの手に負えない程にウイルスは広がる。そうなったら私たちは、ワクチンを作るために、火星へとウイルスの原種を取りに行かなくてはならない」

 

 そして、と。

 

 青年は、少年が動かざるを得なくなる最後の手札を切る。

 

「その火星探索にはおそらく――ミッシェル・K・デイヴスが加わることになる」

 

「ッ!? な、んで……!?」

 

 余程、彼の言葉が衝撃的だったのだろう。少年は喉が痛むのも構わず、かすれた声を上げて青年に問う。

 

「つい先日、あの子が特異な体質を持っていることが判明したからだ。彼女の体には、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「う、そ……そ、れ゛って……」

 

 少年の脳裏に、一つの言葉が浮かぶ。自らを生み出した技術――バグズデザイニング。まさか、あの子もそれによって造られたというのか?

 

 その表情から彼の考えを読み取ったのか、青年は首を横に振った。

 

「いや、彼女の経歴を探ったが、あの子は紛れもなくデイヴス夫妻の実子だ。つまり、純粋に親からの遺伝で昆虫の遺伝子を獲得したことになる」

 

 ――それは神の起こした奇跡か、はたまた悪魔が画策した陰謀か。あるいは、親子の絆だろうか。

 

 とにもかくにも、天文学的な確率で幼い少女の体には1人の男の遺志が、戦うための術が、受け継がれてしまった。

 

 即ち彼女は、1人目の例(ザ・ファースト)になってしまった。

 

「体質と性格から考えるに、彼女は父親の死の真相を探るために、自ら火星探索に加わる可能性が高い。仮に本人にその意思がなくとも……十中八九、巻き込まれる」

 

 ここまで言えば分かるね、と青年は少年を見やった。

 

「君が彼女を守るんだ、0人目の特例(ザ・ゼロ)。彼女だけじゃない、ひょっとしたら現れるかもしれない2人目の例(ザ・セカンド)を、二十年後に火星に向かう宇宙船の乗組員たちを、そして君に協力してくれるだろう仲間たちを、全て」

 

 ――それが君にとって償いになるはずだ。

 

 そう言って青年は、少年の手を握る。

 

「勿論、私も協力を惜しまないつもりだ。計画は練ってあるし、根回しも既に始めてる。バグズ2号の悲劇は二度と起こさないように、万全を期そう。だから、お願いだ――」

 

 そしてその青年は少年の体を抱きしめ、懇願するように言った。

 

 

 

 

 

「――私に君を殺させないでくれ、イヴ」

 

 

 

 

 

 ※※※

 

「すまない、取り乱した」

 

 数分後、恥ずかしそうにそう言った青年に、少年は頭を振った。

 

「……何はともあれ、まずは君の名前かな」

 

 空気を切り替えるように青年が言うが、少年はその意味を理解できずに首を傾げる。それに気付くと、青年は簡単に事情を説明した。

 

「今の君は、公には死んだことになってるからね。今はいいけど、いずれ君が表舞台に立った時、今の名前のままだと色々不都合なんだよ。だから今から、君には『偽りの名』を贈ろうと思う」

 

 そう言って青年は、少年の頭を撫でた。

 

「君の名前は、一度私が預かろう。然るべき時が来たら、きっと返す。だからその時まで、君はこう名乗るんだ――」

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ここまでが、少年が犯した罪の全てである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そしてこれより紡がれるは、その償いの全て。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――これは、贖罪の物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 一人の少年が背負うことになる、十字架の物語である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 贖罪のゼロ 第一章 了



 To be continued Next Mission…




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間話 ANOTHER SIN もう一つの罪

 

『イヴおにいちゃんのうそつき! ぜんぶぜんぶ、おにいちゃんのせいだ!』

 

 ――違う。

 

『イヴおにいちゃんなんて、だいっっきらい!』

 

 ――違う、違うんだ。

 

『かえして! ミッシェルのパパ、返してよ!』

 

 ――こんなこと、言うつもりじゃなかったのに。

 

『おにいちゃんなんてっ……!』

 

 ――ミッシェル(わたし)はあの時、本当は……。

 

 

 

 

 

 

 

 

『イヴおにいちゃんなんて、死んじゃえばよかったのに!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――ただ、パパとイヴお兄ちゃんに、「おかえり」って言ってあげたかっただけなんだ。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「――さん! ミッシェ――! ミッシェルさんッ!」

 

 次第に鮮明になっていく誰かの声。それが私を呼ぶものだと理解した瞬間、私の意識は覚醒した。

 

「ッ!? あ、ああ……(あかり)か」

 

 浮上した意識と視界の中へ真っ先に飛び込んできたのは、見知った顔の青年――膝丸燈の顔だった。私にとっての副官といえなくもない彼は、その顔に不安の色を浮かべて私を覗き込んでいる。

 

 それと同時に、今の状況についての記憶がよみがえった。確かここ数日の私は徹夜続きで、執務室に缶詰め状態で書類仕事に追われてたはずだ。

 さすがに眠気に耐え切れなくなって、たまたま部屋の前を通りかかった燈に缶コーヒーを買ってくるように頼んで……駄目だ、そこからの記憶がない。

 

 どうやら私は、燈が購買に行って帰ってくるまでの間に寝てしまったらしい。

 

「……女の寝顔を覗き込むとは良い趣味だな、オイ?」

 

「うげッ!? す、すいませんッ!」

 

 少しドスを利かせた声でそう言うと、燈はピシッと直立して謝罪の言葉を口にした。律儀なことだ、と内心で思う。悪いのは、コーヒーを頼んでおきながら居眠りをしていた私だろうに。

 

「冗談だ。それより燈……私はどれくらい眠っていた?」

 

「あー、ざっと10分ってとこですかね」

 

 腕時計をチラリと見やりながら、燈が私に缶コーヒーを手渡してきた。受け取ったそれは、体感で感じ取れるほど温くなっていない。こいつの言う通り、さほど時間はたっていないのだろう。

 

「すいません。ミッシェルさん疲れてたみたいだったんで、本当は起こさないつもりだったんですが……帰ってきたらすごくうなされてたんで、無理やり起こしました」

 

「……そうか」

 

 申し訳なさそうな顔をする燈に、私は「気にするな」と手を振ってみせる。

 

「私はジョーのやつみたいに、寝ながら作業ができるほど器用じゃない。気遣いはありがたいが、どのみち起きなきゃいけなかっただろうさ」

 

 プルタブを開け、缶の中の液体を口の中に流し込む。その途端、口の中にはコーヒー豆と香料が合わさった、どこかジャンキーな風味と甘味料の甘さが広がった。普段から愛飲しているのがブラックコーヒーだった私は、慣れない甘さに思わず眉をひそめてしまう。それを察したようで、燈が慌てたように付け加えた。

 

「徹夜明けなら甘めのものを、と思ったんですが……お口に合いませんでした? 一応、ブラックも買ってきましたけど」

 

「……いや、これで大丈夫だ」

 

 少々私の舌には甘すぎる気がしないでもないが、居眠り防止には丁度いいだろう。第一ここは戦場でもなし、部下のささやかな気遣いに対して文句を言うのも筋違いだ。

 

「悪かったな、訓練の前に時間取らせてよ。ほら、コーヒー代だ」

 

 そう言って私は、財布から小銭を少し多めに取り出して燈に手渡した。「ミッシェルさん? あの、少し多いんですが……」と異議を申し立てる燈を適当に言いくるめて部屋から追い出し、私は缶コーヒー片手にデスクワークを再開した。

 

 

 

 ――全ての書類のチェックを終え、それらを提出し終える頃には、既に太陽が空の真上に上っていた。

 

 

 

 腹の虫が泣きわめいて強い空腹感を訴えるが、今は睡眠が先決だ。私はそそくさと部屋に戻ると、そのまま仮眠用ベッドへと倒れ込んだ。所詮は仮眠用、お世辞にもフカフカとは言えないマットレスだが、眠気が既に限界まで達していた私に寝心地はあまり関係がない。

 

 体を横たえた私が意識を手放し、規則的な寝息を立て始めるまで、さして時間はかからなかった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

『イヴおにいちゃんなんて……!』

 

 

 

 眠りに落ちた私の目の前に、朝に見た夢の続きが――私の中のトラウマが、再び映し出される。

 

 もしも今の私がこの場にいたのなら、きっと幼い私を殴ってでも、その言葉を止めただろう。だが、ここは記憶の中の世界。私は事態の推移を見守ることしかできず、俯瞰し続けることしかできない。まるで、「これがお前に対する罰なのだ」というかのように、私には目を瞑ることも、耳をふさぐことも許されない。

 

 

 

『イヴおにいちゃんなんて、死んじゃえばよかったのに!』

 

 

 

 成長し、軍人として部下の命を預かる身となった今ならばわかる。おそらく同じ状況で同じことを言われたのなら、私でも相当心にくるはずだ。

 

 まして彼は、特殊な経緯で生を受けたとはいえ、当時まだ7歳。幼い私が言い放ったその言葉は、彼の中にある『何か』を――彼が最後の一線で踏みとどまっていた『何か』を跡形もなく砕いてしまった。

 

『ぐ、うぁ……』

 

 床の上にへたり込んだ彼は、まるで喉が引きつったかのような、嗚咽とも悲鳴ともつかない声を上げた。一方で幼い日の私は、自分が口にした言葉の意味にやっと気づいたのか、青い顔で震えていた。周りの大人たちは呆然とした様子で、私と彼のことを見つめている。

 

 誰も、何の言葉も発さない。そんな中、唯一彼だけが口を動かしていた。

 

 彼には、何の落ち度もなかったはずなのに。彼には、何一つとして悪いところなどなかったはずなのに。本当なら、あの時の私は口汚く罵られても仕方のなかったはずなのに。

 

 彼はその目に涙を溜め、震える唇で言ったのだ。

 

 

 

『 ご  めん な  さ い 』

 

 

 

 たった一言。彼が口にしたのは、歪な調子で紡がれる謝罪の言葉だった。

 直後、彼はふらりと立ち上がり、そのまま玄関へと駆け出した。それを見た青年――クロード博士も、慌てた様子で彼の後を追いかけていく。

 

『あ……』

 

 小さくそう漏らして、幼い私は手を伸ばす。

 

 ――待って、と言いたかった。

 

 本当は感情のままに口にしてしまったその言葉を、撤回したかった。だから待ってと言いたくて、でも言えなくて――幼い私は、手を伸ばす。

 

 けれど、小さなその手が届くことは、決してない。

 

『――』

 

 その瞬間、幼い私はやっと理解した。自分は父のみならず、大切な友達も失ってしまったことを。

 

 

 

『 あ ああ あ あ  あ あ』

 

 

 

 幼い私は、泣いた。いくつもの悲しみが折り重なって、言いようのない苦しみにあえぐように、幼い私はただただ慟哭する。そして感情の昂ぶりに呼応するかのように――幼い私の姿は変化し始めた。

 

 

 振り乱す金髪をかき分けるようにして、昆虫を思わせる触角が生える。

 

 お気に入りのワンピースの袖を突き破って、腕を赤黒い甲皮が覆う。

 

 

 これが、私の中に眠っていた父の特性が初めて発現した瞬間だった。

 

 側にいた母は、その顔に恐怖と混乱の色を浮かべて床にへたりこみ、無意識に祈りの言葉を口にしていた。無理もないだろう、当時母にはバグズ手術のことは伏せられていたのだから。彼女には、娘が突然わけの分からない怪物へと変貌してしまったように違いない。

 

『デイヴスさん! 一体何が――』

 

 家の中で起きている異変に気が付いたのか、当時のバグズ2号の副艦長だった張明明が慌ただしく部屋に戻ってくる。だが彼女もまた、変態した私の姿を見て驚愕に目を見開いた。

 

『これは……パラポネラ!?』

 

 父と共に戦った仲間だったからだろう、彼女は私の身に何が起きているのか、何が起きたのかを瞬時に理解したようだった。

 

『馬鹿な、()()()()()()()()()()……!?』

 

 そして理解できたからこそ、彼女は一瞬だけ動きを止めてしまった。バグズ手術のベースが遺伝することなど、従来の理論では決してあり得ないことだったから。

 

 そして全ての状態が膠着したその瞬間――幼い私の、やり場のない怒りと嘆きは爆発した。

 

 

 

 ――グガシャッ!

 

 

 

 そんな音と共に、キッチンテーブルが地面に叩きつけられた。床にへこみを作り、衝撃でひしゃげてしまったそのテーブルは、()()()()()()()()()()()()()。それを見た母と張明明は、同時にその顔を青ざめさせる。

 

 母は、幼い私が人外じみた筋力を発揮したことに対して。

 

 張明明は、私が発揮した力がパラポネラの特性であることに対して。

 

 全く別の見地から、2人は私へ驚愕の視線を向けた。

 

『ウ、ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛!』

 

 癇癪を起した私は手当たり次第に暴れまわった。

 

 自重の100倍を持ち上げる、パラポネラの筋力。これを人間大に換算すれば、当時の私であっても、1トンを超える物体を持ち上げることができる。

 

 それだけの力を持った子供が、感情のままに暴れまわるのだから手のつけようがない。

 

 テーブルを振りまわし、椅子を叩き割り、ソファーを放り投げ、壁に穴を空ける。台風が吹き荒れたかのように、あるいはギャングか何かに押し入られたかのように、家の中はみるみるうちに荒れていった。

 

 自業自得――と、それを冷めた目で見ていることができれば、どれだけ楽だったことだろう。だが、私には分かってしまう。

 

 幼い私の虚無感を、嘆きを、絶望を――そして、イヴお兄ちゃんに対して抱いてしまった不条理な怒りでさえ、私には手に取るように分かる。ミッシェル()(ミッシェル)だから。

 

 

 

『ッ、まずい!』

 

 張明明が、咄嗟に母へと覆いかぶさるようにして彼女を押し倒す。直後、ほんの一瞬前まで母の頭があった場所を椅子が突き抜け、壁に当たってバラバラになった。

 

『ッ……! デイヴスさん、お怪我はありませんか?』

 

『え、あ、はい。私は大丈夫で――』

 

 我に返った母が彼女の問いに頷きかけ――顔を上げた拍子に、ギョッとしたように目を見開いた。

 

『み、ミンミンさん! あなた、怪我を……!?』

 

 母の瞳に映っていたのは、額に裂傷が刻まれた張明明の顔だった。比較的深く切ったのだろう、傷口からはドクドクと血が流れだし、彼女の顔に赤い筋を作っていた。

 

『怪我……? ああ、ご心配なく、この程度は怪我の内に入りませんから』

 

 そう言って彼女は、乱暴にスーツの袖で血をぬぐった。特に母を気遣っているような様子はなく、本当に大したことだと思っていないような口ぶりだ。火星での戦いで失った右腕に比べれば、この程度はどうという物でもないのだろう。

 

 だが、それは張明明の主観の話。母にとってそれは紛れもなく傷であり――そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『……ッ!』

 

 瞬間、母が勢いよく立ち上がる。今度は、張明明が目を剥く番だった。

 

『デイヴスさん!? 危険です、伏せて――』

 

 慌てる彼女の声を無視して、母はそれまでの呆然自失が嘘のようにズンズンと歩みを進めていく。そうして未だに泣きながら暴れまわる幼い私の前に立ち――その頬を、平手打ちにした。

 

 

 パン、という乾いた音が響き渡る。衝撃と音で我に返ったのか、途端に幼い私は、それまでの暴走が嘘だったかのように、ピタリとその動きを止めた。

 

『ミッシェルッ!』

 

 母は怒鳴り声とも癇癪とも違う声で私を呼ぶと、小さな彼女の体を抱きしめた。

 

 あの時の感覚は、今でも鮮明に思い出せる。母の呼び声は確かに人間としての私を呼び戻し、母の体温は確かに私が見失いかけていた人としての私を示してくれた。

 

 あなたはここにいる、どうか自分を見失わないで。己の体温を通して、母はそう伝えているかのようだった。

 

『あ……マ、マ……』

 

 幼い私の目に、理性の光が戻り始める。やがて正気を完全に取り戻した私は、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

 

『みっ、しぇる……さっき、イヴおにいちゃんに、だいっきらいって……しんじゃえって……!』

 

 自らの過ちの大きさに気付き、私は火が付いたように泣き始めた。母はそんな私に何も言わず、ただその小さな体を優しく抱きしめ続けた。

 

『……ミッシェル。イヴ君に「ごめんなさい」しよう?』

 

 私が泣き止んだ頃合いを見計らって、母が言う。それは、幼い私が悪いことをして謝り出せないときに、母が決まって言う言葉だった。

 

『……イヴおにいちゃん、「いいよ」って言ってくれるかな?』

 

 幼い私は鼻水と涙で顔をぐしょぐしょにしながら、彼女の顔を見上げる。その目に浮かぶのは、恐怖の色。自分が拒絶してしまった彼に、果たして許してもらえるだろうかという恐れの感情だった。

 

 すがるような私の視線に、しかし母は首を横に振る。

 

『それはイヴ君次第だから、ママにも分からない』

 

 その言葉に、幼い私は思わず体を強張らせた。目尻に再び涙が滲んだのを見て、母は『でもね』と、言って聞かせるように私に語りかける。

 

『ミッシェル、貴女はイヴ君にとてもひどいことを言ったでしょう? だったら、「ごめんなさい」って言わなきゃ。それに、あの子は優しいから……貴女がちゃんと謝れば、きっと許してくれるはずよ』

 

『でも、でもっ……それでも、許してもらえなかったら?』

 

 涙声になりながら、私は母に問いかけた。彼女の服の裾を掴む手に力がこもり、くしゃりとしわを刻む。

 それを見た母は優しく微笑むと、泣きそうな私の髪を静かに梳いた。

 

『その時は、ママも一緒に謝ってあげる。だから、ちゃんとイヴ君に「ごめんなさい」って言おうね?』

 

 母の言葉に幼い私は不安げに頷くと、自分のしてしまったことの恐ろしさに震えながら、彼女にしがみつく。それと同時に記憶の再生は終わりを告げ、まるで風に吹かれた煙のように薄れていった。

 

 

 

 ――この時の私は、まだ知らない。

 

 

 

 あの日、あの夕焼けの中こそ、私が彼と言葉を交わすことができる、最初で最後の機会だったことを。

 

 

 

 あの時、彼に告げてしまった残酷なあの言葉が、そのまま彼との別れの言葉になってしまうことを。

 

 

 

 あの日の私は、知る由もなかったのだ。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 夢から目覚め、私はベッド上で上体を起こす。今なお、私の中に刻まれたあの日のトラウマに、脳が鈍い痛みを訴えている。

 

「……最悪の寝覚めだな」

 

 そう呟いて上体を起こすと、視界に室内の様子が映りこむ。どうやら相当な時間眠っていたらしく、窓から差し込む日の光は既に西に傾いており、壁や事務机は朱色に染まっていた――丁度、20年前のあの日のように。それを見た私の脳裏に、夢で見たあの日の記憶が蘇る。

 

 深呼吸をして調子を整え、寝る前に外しておいた眼鏡を掛ける――が、おかしなことに視界がぼやけたままだ。

 怪訝に思い、掛けたばかりの眼鏡を外して目をこすると、手の甲がしっとりと濡れていた。慌てて私は鏡を覗き込み――そこで初めて、自分が泣いていることに気付いた。

 

「マジか……誰かに見られたら笑いもんだな、こりゃ」

 

 涙を拭い去り、1人で笑ってみるが気が晴れることはない。当たり前だ、これは私の中に刻まれた罪の記憶。忘れることはできず、忘れることは許されず――そして忘れるつもりもない。私は一生をかけて、彼に償わなければならないのだから。

 

「ん?」

 

 重い腰を上げた私の目が、ふとそれを捉えた。書類やファイルが山と積まれた事務机、その隅にぽつんと、缶コーヒーが所在なさげに佇んでいた。

 近付いて、それを手に取る。銘柄を見れば、それは私が普段飲んでいる、ブラックコーヒーの缶のようだった。先程燈を追い出した際に彼が置いていったもののようで、まだ未開封の状態だ。

 

「……本当に、律儀な奴だ」

 

 プルタブに指をかけ、力を入れる。空気が抜ける音と共に、コーヒーの香りが微かに鼻をくすぐる。

 

「――イヴお兄ちゃん」

 

 小さく、小さく、私は彼を呼んだ。幼い日の自分が、心から慕っていた彼の名を。だが、私の声に答えるものは誰もいない。

 

 ――わかっているのだ、そんなことは。

 

 無意識の内に唇を硬く引き結ぶ。後悔と自分への怒りがドロドロと胸の中で渦巻いて、私は固く握りしめた。

 

 イヴお兄ちゃんは死んだ――いや、()()()()()()()()()()()

 

 交通事故だったらしい、と呆然とした様子の母に告げられたのは後になってからのこと。もしあの時、私があんなことを言いさえしなければ、彼が死ぬこともなかったはずなのに。

 

 ナイフを刺したわけじゃない。毒を盛ったわけでもない。けれど、私の軽率なあの言葉は、巡り巡って彼の命を刈り取った。

 

 

 

 ――だから、これは私の罪。

 

 

 

 私は、私が殺してしまった彼に、一生を掛けてでも贖い続けなくてはならない。かつて彼が、バグズ2号のクルーたちを――私の父を、命を懸けて救おうとしたように。私もまた命を賭して、火星に赴く仲間を、未知のウイルスに苦しむ人々を、1人でも多く救い出す。

 

 あの日から、私の中の時間は止まったままだ。けれど、それでも。私は、進まなくてはならない。

 

 それが私にできる、ただ一つの贖罪だから。

 

「……わかってる、そんなことは」

 

 自分に言い聞かせて、私は缶に口をつけて中身を煽った。口の中に流し込まれたコーヒーは、いつもよりも少しだけ苦かった。

 

 

 

 

 

 




 というわけでここからは、「本編で語りきれなかった」ないし「今後語れそうにない」シーンをまとめた、番外編のようなものになります。これをあと二話ほど投稿したら、バグズ2号編は本当に終了です。

 都合上時系列がバラバラ、中にはアネックス編のものもあったりしますが、何卒ご容赦を……。




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間話 NOISY PEOPLE 忌まわしい者たち

 

「――機器に反応有り! クロード博士、通信の逆探知に成功しました!」

 

「! 上出来だ! それで、対象の座標は?」

 

「はっ、座標算出結果は……え?」

 

「……どうした?」

 

「これは……故障? いや、機器は全て正常値……そんな馬鹿な……!」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

【毎週月曜は】アダム・ベイリアル専用板 2524スレ目【定例会】

 

 

 

1名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamX

 というわけで、世界各地のアダム・ベイリアルの皆! 早速新スレを立てたよ!

 

 この板のルール↓

 ・安価は絶対

 ・900を踏んだ人が次スレを立てること。

 ・面白いと思ったことがあれば、とりあえず発言

 ・荒らしは厳禁。荒らすなら一般スレで!

 

 じゃ、僕は前スレ>>10000をちょろっとやってくるw

 

2名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamI

 立て乙

 ヒャッハー、新スレだァ!

 

3名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamC

 2げと

 

4名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamS

 立て乙&2げとー!

 

5名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamJ

 >>3 >>4

 とれてないぞ

 

 とりあえず、>>1は立て乙。あと前スレ>>10000 お前は鬼か

 

6名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamC

 くっ、まさか2をとれないとは、このアダム・ベイリアル・カーターの目をもってしてもry

 

7名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamA

 >>1さんいつもお疲れ様です。

 

 それはそうと、以前>>1から貰ったウイルスの散布作業がひと段落ついたので報告します。

 

8名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamI

 おおおおおおおおおマジかあああああああ!

 

9名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamJ

 前スレ>>873のアダム・ベイリアル・アブラモヴィッチか。とりあえず準備乙

 

 それで、進捗はどんな感じだ?

 

10名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamC

 っひゃあー! 待ってたぜ、ビッチー! 

 

11名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamK

 ビッチが散布したウイルスだって!?(難聴)

 

12名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamH

 報告はまだか、ビッチ。さっきから下半身が寒いんだが(ロシア在住のアダム感)

 

13名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamS

 >>12 何で脱いでるんすかwww

 

  とりあえず、報告は期待。

 

14名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamK

 で、真面目な話、>>7は何やってたの? 来たの久しぶりだから、最近の展開を知らんのよね。

 

15名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamA

 >>10 ~12 ビッチじゃなくアブラモヴィッチです。あと>>12はそのまま凍死してください

 

 では報告の前に、>>14のためにも三行で今までの経緯説明をお願いします、

 

 安価下 アダム・ベイリアル・スミス。

 

16名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamS

 ちょw名指しで無茶振りとかw

 

 ・バグズ2号が地球に火星産のウイルスを持って帰り、徐々に感染者が出始める

 ・>>1「どうせ未知のウイルスが流行るなら、せっかくだしもう一種ばら撒いとこう」

 ・安価でビッチが実行犯に決定、散布を終えて帰還した←今ここ

 

17名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamK

 把握。これは期待www

 

18名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamA

 よくできました、アダム・ベイリアル・豚・スミス。では、報告を。

 

 つい先日>>1から送られてきた新型ウイルス(以後、バグズ2号が持ち込んだものと私がばら撒いたものは、見た目の問題で前者を『♀型』後者を『♂型』と区別します)ですが、とりあえずU-NASA加盟国の首都を巡って、適当にばら撒いてきました。

 ♀型同様♂型の方も遅効性ですが、何年かすれば感染者は一斉に発症するはずです。

 

19名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamJ

 なるほど

 

20名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamC

 さらっと首都圏でやりやがったぞこのビッチw

 

 そして豚スミスwww

 

21名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamK

 ビッチウイルスで、何年かすれば世界中が一斉に発情……胸が熱くなるな

 

22名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamS

 ぶひぃ!?

 

 とりあえず、呼称については訴訟も辞さない

 

23名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamA

 >>20、>>21少し黙ってください

 

 ちなみにこの>>1自作の♂型AEウイルス、他の細菌に寄生して繁殖するのですが、『苗床の細菌の遺伝子と自分の遺伝子を合体させ、DNA情報を組み直しながら繁殖』するように改造しました。

 

 よって、万が一培養に成功すればワクチン製造もワンチャンある♀型と違って、♂型は火星にある原種サンプルを直接確保、変化パターンの観測ができない限り、食い止めるのは困難です。

 

 

24名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamK

 ふぁーwwwwwwwwww

 

25名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamH

 さすがは俺達のビッチだな(下半身霜焼け)

 

26名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamS

 >>25 いいからお前はパンツ穿けwww

 

 とりあえず、ビッチGJ!! だが豚呼ばわりは許゛さ゛ん゛

 

27名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamI

 やwりwやwがwっwたw これは人類滅亡待ったなしwww

 

28名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamC

 これは俺も負けてられないなw

 よっしゃ、ついこの間完成した『死体にMO手術を施す技術』で作り出したMOゾンビ軍団使って、ユーラシアでバイオハザードしてやるぜ!

 

29名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamK

 >>28 何それ超面白そうw

 

 俺もそろそろ『脳味噌を人格ごと他の体に移植する手術』に手をつけるか……

 

 というか、そろそろどっかのリカバリーゾーンを焼き討ちしたい。焼き討ちして百姓と国のどっちも泣かせたい

 

30名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamX

 僕もそろそろ『ペガサスをベースにしたMO手術』を開発しようかな

 

31名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamS

 >>1が帰って来たぞぉ!

 

32名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamI

 >>1ィ!

 

33名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamK

 >>1ペガサスてwww

 

34名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamA

 おかえりなさいませ、>>1。 新型ウイルスの件、つつがなく完了いたしました

 

 ぺ、ペガサスですか……(困惑)

 

35名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamJ

 安価乙だ、>>1

 それとさっき、他のアダムから俺のとこに連絡が入ったぞ。どうやら、MOデザイニングの開発に成功したらしい。

 

36名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID: AdamH

 >>1か 新型ウイルスの開発に、前スレ>>10000と大変だな。ペガサスとは……ついに頭が逝っちまったか? 大丈夫? 俺のパンツ穿く?(下半身凍結)

 

37名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamC

 誰もペガサスを本気にしてなくて草w

 

38名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamS

 >>36 いい加減にパンツは穿こうぜ?

 とりあえず>>1、これだけは言っておきたい

 

 

 

 ペwwwガwwwサwwwスwww

 

39名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamX

 何だよ皆してペガサスをバカにしやがってw 

 

 まぁまじめな話、ペガサスはさすがにやらないよ。空想上の生物なんて出したら興ざめだからね。登場シーンで凄まじく萎える未来が見えるし。

 

 

 けど、きちんと科学的にその特性の説明が付く架空生物とか未確認生物とかなら、僕としては造って手術しちゃってもいいと思うんだよねー

 

40名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamA

 >>39 こうですかわかりません

 

 ♂

 国籍:イスラエル

 手術ベース: ペ  ガ  サ  ス 

 

『ゴキブリは高熱に弱い……つまり、俺の出番ってわけだ』ツバサフサァ…

 

41名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamS

 >>40

 なぜ数いるバグズ2号搭乗員の中でゴッド・リーのプロフィールを使ったしwww

 

 そもそもペガサスに熱要素ないでしょwww

 

42名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamC

 >>40

 フサァやめろwww

 

43名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamX

 >>40『――面白ェ!』ツバサフサァ…

 

 それはともかく、前スレ>>10000をやってきたから、報k

 

44名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamK

 ? おい>>1? どうした?

 

45名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamI

 何だ何だ?

 

46名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamH

 まさか、アダム狩りの餌食になったか? >>1がやられたってことは俺達も解散か?

 

47名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamJ

 惜しくもない奴を失ったものだ……

 

48名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamS

 盛り上がってまいりましたwww

 

49名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamX

 勝手に殺さないでw

 けどごめん、ちょっとお客さんが来たから、一回席を外すね

 

 とりあえず、皆はジェイソン君を中心に今週やること考えておいて!

 

 ではノシ

 

50名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamS

 何だ、そういうことか。いってらー

 

51名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamK

 ノシ

 

52名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamJ

 まとめ役、任された

 

 報告待ってるぞ、>>1

 

53名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamH

 とりあえず、俺の下半身が壊死するまでに帰ってきてくれ

 

54名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamA 

 いってらっしゃいませ

 

 というか>>53、いつまで脱いでるんですか貴方は

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「……さて」

 

 そう呟くと、その少年は自らが座っていた椅子をクルリと回転させ、パソコンのモニターから『彼』へと向き直った。

 

 一見して、これと言った特徴のない西洋人の少年だ。顔立ちは整いすぎず、されど崩れ過ぎず。幼すぎず、老いすぎず。強いて特徴らしい特徴を上げるとするならば、身に着けている衣服が白衣であることくらいだろうか。

 

 至って普通の、何の変哲もない人間。それが、少年に対して『彼』が抱いた第一印象だった。

 

 そんな『彼』に対し、少年は両手を大きく広げて見せると、わざとらしい口調で語り掛けた。

 

「これはこれは、珍しいお客さんだね! まさか君がここに来るとは思ってなかったよ、()()()()!」

 

 口元にニッコリと笑みを浮かべる少年。その正面に立っていたのは、スキンヘッド型のテラフォーマー。その額には『・|・』の紋様が刻まれている。

 

「じ……」

 

 彼は、バグズ2号の中で生まれた3匹の突然変異種のうちの一匹。艦内での戦闘では小町小吉と交戦した個体だ。進化型のテラフォーマー3匹の中では唯一生き残ったものの、その顔にはひび状の傷痕が刻まれ、彼との戦闘の熾烈さを物語っていた。

 

「さ、座って座って。歓迎するよ! 今、紅茶を入れるから待っててくれたまえ」

 

 少年はにこやかに、空いていたパイプ椅子を指さすと、そのまま立ち上がった。

 

『・|・』のテラフォーマーはそんな少年の言葉を無視して、彼に近づき――

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「ゴぱッ」

 

 少年の口から滝のような血が溢れたのを見て、『・|・』のテラフォーマーは腕を引き抜いた。少年の胸にぽっかりと空いた穴は完全に貫通し、彼の背後が見えている。テラフォーマーの手中には、彼の心臓と思しき物が握られていた。

 

 支えを失った少年の体はフラフラとよろめいてから倒れ込み、床の上に赤い池を広げていく。それを見届けた『・|・』のテラフォーマーは、興味なさげに心臓を放り捨てると、もはや物を言わなくなった彼の亡骸に背を向け歩き出した。

 

 その口元に浮かぶのは、笑み。

 

 彼の双眸は既に、自らが率いる軍勢が目指すべき、次なるヴィジョンを見据えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「 ど こ 行 く の ♡ 」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瞬間、背後に得体の知れない悪寒を感じた『・|・』のテラフォーマーが、咄嗟に前方へと飛び退く。床を転がると彼は素早く身を反転、己の背後を見やった。

 

 

 

「イリュージョンッ! あはは、ハゲ頭君てばびっくりしてるー!」

 

 

 

 ――そこに立っていたのは、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「いやー、でも僕もびっくりしたよ! まさか、いきなりハートキャッチ(物理)されるとは思わなかっ――」

 

 少年がケタケタと笑い声を上げた、次の瞬間。彼の頭に『・|・』のテラフォーマーの蹴りが直撃した。

 

「……じょう」

 

 理由は不明。しかし、どうやら自分はこの人間を仕留め損ねたらしい。そう判断した『・|・』のテラフォーマーは即座に決断、再度の殺害を試みた。

 

 人間大ともなれば、一歩目から時速320kmで走ることができるゴキブリの走力。その威力で蹴り飛ばされれば人体などひとたまりもなく、少年の首から上が千切れ飛ぶ。

 

 頭部を失った彼の胴体は呆けたように硬直し、直後、思い出したように首から間欠泉のように血を噴き上げながら倒れ込んだ。

 

「おいおい、乱暴だなあ。最近の若いゴキブリはこれだから駄目なんだって」

 

「ッ!?」

 

 ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 その体に、外傷はない。『・|・』のテラフォーマーによって貫かれたはずの胸部の穴も、今しがた吹き飛ばされたはずの頭も、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だが、その服に空いたままの穴や床を濡らす血だまりが、確かに彼が一度は死んだ――あるいは、死ぬほどの怪我を負ったことを証明している。

 

「あ、僕ってこんな顔してるんだ。まじまじと実物を眺めるのは初めてかもしれないなー」

 

 少年は思わず動きを止めた『・|・』のテラフォーマーの前を横切ると、床に転がっていた自らの生首を拾い上げた。頭蓋が砕かれていびつに歪んだ己の顔面を、少年は興味深げにいじくる。

 

「あはは、変な顔―! でも、ちゃんとしてれば割とカッコいいのかな……ってことは、君はイケメンな僕の顔を叩き潰したんだな! なんてひどい奴なんだ、許せない! 即刻針千本のんで死んで詫びるべきだよ!」

 

 少年は『・|・』のテラフォーマーへと向き直ると、わざとらしく怒鳴り散らした。それを見た『・|・』のテラフォーマーは、我に返ったように構え直す。既にその顔に余裕の表情はなく、代わりに強い警戒の色を浮かべていた。

 

「……あ、そっか! ゴメンゴメン、配慮が足りなかったね!」

 

 それを見た少年は自らの生首を放り投げ、何を勘違いしたのか手を合わせて『・|・』のテラフォーマーに謝る。それから彼は、ゆっくりと口を開いた。

 

『君のこと、許さないからな』

 

「!?」

 

 『・|・』のテラフォーマーの顔に、動揺の色が走る。彼の頭脳は、テラフォーマーの中でも並外れて優秀。だからこそ彼は、瞬時に目の前の人間の異常性に気が付いた。

 

 ――馬鹿な、ありえない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

じょうじょうじじょうじじじ(絶対に許さないぞ)! じょうじじょじょう(この人殺しめ)! じょじじじょじょじょじょじじょうじ(君はゴキブリ以下のクズ野郎だ)!」

 

 

 

 ――この人間、()()()()()()()()()()()()!?

 

 

 

 それを認識した『・|・』のテラフォーマーは、大きく一歩後ずさった。

 

 

 ――自分の立場に置き換えて、考えてみてほしい。

 

 

 家の台所でゴキブリを見つけたあなたは、丸めた新聞紙で確かにゴキブリを叩き潰した。だが次の瞬間、ゴキブリは再び元気に動き出す。

 何度叩き潰しても、そのたびに体液を飛び散らして潰れ、そしてそのたびに復活する。かと思えば突然、自分にもわかる言葉で「許さない」とまくしたててくる。

 

 何の前置きもなくこのような状況に直面して、あなたは果たして平静でいられるだろうか?

 

 あるいはそこで、冷静に対話を試みようとする気丈な方もいるのかもしれない。しれないが――少なくとも、『・|・』のテラフォーマーはそうではなかった。

 

「……ッ!」

 

 踵を返した『・|・』のテラフォーマーは、出口へ向かって一目散に駆け出す。その肉体を動かすのは強い嫌悪感。恐怖もあったが、それ以上に()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 既に彼の脳内から、目の前の人間を殺すという選択肢は完全に消え去っている。一分一秒でも早く、この場から立ち去りたい。その一心で、『・|・』のテラフォーマーは床を蹴った。

 

 

 

「えー、もう帰っちゃうのー? もうちょっと遊んでいきなよー」

 

 

 ピッ。

 

 

 そんな電子音が響くと同時、『・|・』のテラフォーマーが今まさにくぐり抜けようとしていた出口が、無情にも頑強な防火扉によって閉ざされた。

 

「じッ、じょう……!」

 

 駆け寄った『・|・』のテラフォーマーは扉に拳を叩きつけ、脚で蹴り飛ばし、何とか退路をこじ開けようとする。だが、開かない。テラフォーマーの筋力をもってしても、その扉はびくともしなかった。

 

「お楽しみは、まだまだこれからでしょ?」

 

 耳元で少年が囁く。すかさず『・|・』のテラフォーマーが回し蹴りを放つ。それは避ける間もなく少年の脇腹を陥没させ、更に背骨を『く』の字に折り曲げた。勢いのまま宙を舞ったその体は、周囲の機材を巻き込んで床に叩きつけられる。

 

「うん、いい蹴りだ! 君、僕と一緒にキックボクシングの道に進んでみないかい!? 大丈夫、君なら世界を狙えるよ!」

 

「……ッ!」

 

 口から大量に赤い体液を溢れさせながら、しかしまるで応えていない様子で、少年は立ち上がる。それを見た『・|・』のテラフォーマーはようやく――ここに至って、ようやく悟った。

 

 

 

 目の前にいるモノは、明らかに異質な存在であることに。

 

 

 

 あれは以前自分が戦った小町小吉達(あの人間たち)とも、合理性を追求し続けるテラフォーマー(自分達)とも違う。

 

 近いものを上げるのならば、目の前の存在は『汚れ』。今自分が感じているのは、不潔そのものに対する嫌悪感に非常に似ていた。

 

「じ、じ……ッ!」

 

 『・|・』のテラフォーマーは気が付いてしまった。目の前の存在が、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 自分達も全体のために、個を犠牲にすることはある。だが、それは死が全体の利益に繋がるという合理の思考に従ってのもの。目の前にいる存在のやっていることは、完全にただの無駄死。何の意味もない行為だ。

 

「うん? どうしたの、もっと殴っていいんだよ?」

 

 ――まるで、生命の営みそのものを冒涜しているかのようなおぞましさ。

 

 どうすればたかだか一生物が、ここまで退廃的で鬱屈とした雰囲気を纏えるのか。

 

「あ、ひょっとして僕に気を遣ってるのかな?」

 

 仮に目の前の相手が、自分よりも格上の戦士であったのならば、『・|・』のテラフォーマーは逃走や撤退などを選びこそすれ、恐れることはなかっただろう。

 

 おそらくは命惜しさに逃げながらも、虎視眈々と勝利の機会を狙っていたはずだ。

 

「だったら遠慮はいらない、君と僕の仲じゃないか!」

 

 ――だが、これはダメだ。

 

 これは強者だとか格上だとか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それを悟った瞬間、強靭なはずの『・|・』のテラフォーマーの戦意は、驚くほど呆気なくへし折れた。

 

「君の気が済むまで、僕を殴るといい!」

 

 一歩、また一歩と近づく彼から逃れるように、『・|・』のテラフォーマーは後ろへと下がっていく。だが、そこは狭い室内。数歩と動かないうちに、『・|・』のテラフォーマーは壁際へと追い詰められた。

 

「それで君の気が晴れるなら、僕は何度でも君の拳を受け止めるよ!」

 

 少年は一点の曇りもない聖女の様な笑みを浮かべ、目の前で震える『・|・』のテラフォーマーに優しく、あやすようにそう告げた。

 

「さあ、じょうじじょうじ(気が済むまで僕を殺せよ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「キ、キィイィイィイイィィイイィイイイイィイィ!」

 

 

 

 

 ――半狂乱になった『・|・』のテラフォーマーが、少年へと躍りかかった。棒立ちになり、ただ笑みを浮かべているだけの少年。そんな彼に、『・|・』のテラフォーマーの拳が迫る。

 

 

 そして、一方的な虐殺が始まった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 2599年6月22日、深夜3時00分。

 

 本多を見送ったそのすぐあと、クロード・ヴァレンシュタインは、U-NASA局内で生き残っていた職員を集め、アダム・ベイリアルの通信の逆探知を試みていた。

 

 国家レベルのサイバーセキュリティをこじ開けたとなれば、ネットワーク上に大きな痕跡が残る。それを辿り、アダムの居場所を割り出そうと考えたのだ。

 

(この機会を逃がすわけにはいかない――!)

 

 クロードは自身もキーボードを叩きながら、思考する。

 

 あの人を喰ったような喋り方、間違えようがない。先ほど自分達へと通信を仕掛けてきたのは、アダム・ベイリアルたちの統率者とも言える人物だ。

 

 アダム・ベイリアルは、協調性のない人格破綻者の集団である。だが彼らには、協調性はなくとも指向性が存在する。提示された方針に反しないように各々の実験や研究を行うことを条件に、彼らは研究費や実験材料の支援を受けているためだ。

 

 そして、その方針を伝える存在こそが『あの』アダム。彼こそがアダム達の生命線にして、心臓部。構成員たちが『アダム・ベイリアル』を名乗っているのは、統率者たる本来のアダムにとっての影武者になるためでもある。

 

 彼を押さえることができれば、後ろ盾を失くした他のアダム達は、ただのマッドサイエンティストに成り下がる。

 

 だから、絶対に逃すわけにはいかない。今この時こそ、アダム・ベイリアルを根絶やしにするための、千載一遇のチャンスなのだから。

 

「――機器に反応有り! クロード博士、通信の逆探知に成功しました!」

 

「! 上出来だ! それで、対象の座標は?」

 

 局員の一人の報告に、クロードが声を張り上げた。すかさず、局員はモニターを操作して、対象の位置を特定しようとする。

 

「はっ、座標算出結果は……え?」

 

「……どうした?」

 

 固まった局員をクロードが一瞥する。だが彼の問いかけに答えることなく、局員はじっとモニターを見つめていた。

 

「これは……故障? いや、機器は全て正常値……」

 

 そんな馬鹿な、と局員が声を漏らす。いつまでも報告を始めない彼に業を煮やしたのか、クロードは席を立つ。彼はツカツカと彼の後ろに歩み寄った。

 

「何が起きたのかは分からないが、報告を。急がねば、奴にまた痕跡を消され――」

 

 そこまで言いかけて、クロードは口を閉ざす。彼は見てしまったのだ。呆然とする局員の眼前、そこに映し出された異常な座標に。

 

 モニターの中には、ホログラムでできた地球儀が映し出されている。この装置は通常ならば、この地球儀上で光が点滅することで、対象の居場所を示すのだ。

 

 だがこの時、ユーラシア大陸、南北アメリカ大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸、南極大陸、果ては日本に至るまで……()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 光が点滅していたのは、その更に上。成層圏をぬけ、大気圏を抜け――更にずっとその先。

 

「まさか、アダム・ベイリアル……!」

 

 クロードの顔が、愕然の表情に彩られる。血の気の引いたその唇から――彼は震える声を絞り出した。

 

「貴様が……貴様が今いるのは……ッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 光の点滅が指し示していたのは、とある星だった。

 

 白羊宮の支配星にして、天蠍宮の副支配星。

 

 占星術においては「運動」「争い」「外科」を暗示しているとされる、凶星。

 

 

 

 そして生物学においては、ただ二種類の生物しか存在しないとされる、()()()()()()()

 

 

 

 即ち――火星だった。

 

 

 

 




オマケ 前スレ10000

10000名無しのマッドサイエンティスト:2599/6/** ID:AdamI

>>10000なら

>>1はU-NASAにクラッキングを仕掛け、ニュートン博士と対談。煽れるだけ煽った後で世界の首脳陣にバグズデザイニングのデータをばら撒いてくる。





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間話 CROSS ROAD 邂逅

 第二部キャラ、先行公開回。





 ――西暦にして2619年。

 

 夜も深まり始めた午後20時、ワシントンD.C中心部のとあるカラオケの入り口に、一台の車が停車した。そこから更に一拍の間を置いて車のドアが開き、中から2人の人間が姿を現す。

 

「どこに連れてこられるのかと思えば、カラオケか」

 

 車から降りると、開口一番に2人の内の片方――小町小吉は、意外そうに言った。口元と顎に髭を生やしたその姿は、20年前の精悍な彼の面影を残しつつも、当時より落ち着いた印象を周囲に与えている。

 

「ん~」と声を上げながら、全身の筋肉をほぐすように伸びをするその姿は、スーツ姿も相まって退勤直後のサラリーマンを思わせる。

 だがある程度武術に通じた者が見れば、彼の所作はその一つ一つが非常に洗練され、佇まいにも全く隙がないことに気が付くだろう。

 

「劉さんと一回別のとこ行ったことあるけど、こんなに大きいとこがあったのか……」

 

 そう漏らしながら、小吉は背後へと振り向いた。

 

 ――彼の視線の先にいたのは、奇妙な格好をした小柄な人物だった。

 

 まず真っ先に目に入るのは、何と言っても頭部を覆うフルフェイスヘルメットだろう。何の飾りも遊びもない黒一色のヘルメットは、まるで素顔を隠しているかのよう。更に彼が上下に着込んだ中国拳法服が格好の珍妙さに拍車を掛け、異様に彼の存在感を際立たせていた。

 

 もっとも、既に彼のおかしな格好には慣れているのか、小吉は衣装については一切触れずに、ニッと笑いかける。

 

「まさか、お前がこういう穴場をしってるとはなー。こんな趣味があったとは思わなかったぞ、イ――」

 

()()()

 

 小吉の言葉を遮るように、フルフェイスの人物は声を上げた。ややくぐもってはいるが、声の様子からして、どうやらまだ年若い男性のようだ。

 

「小吉さん、お願いだから覚えて。今のボクの名前はシモン……『シモン・ウルトル』」

 

「っと、そうだったな。いやー、悪い悪い! どうにもその名前でお前を呼ぶのが慣れなくてな!」

 

 からからと笑い声を上げる小吉に、シモンと名乗った青年がため息をついた。

 

「本当にお願い……特に、間違ってもミッシェルちゃんの前では、その名前を呼ばないで」

 

「おう、そっちは任せとけ! ――で、話を戻すが」

 

 そう言って、小吉は目を細めた。

 

「何のためにここへ俺を連れてきた? まさか、本当に歌を歌いに来た訳じゃないだろ?」

 

 小吉が問いかける。シモンはそれを肯定すると、単刀直入に用件を告げた。

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

「! なるほど、それがらみか」

 

 合点がいったように小吉が呟いた。

 

 

 

 ――アーク計画。

 

 

 

 それは『アネックス1号計画の全面支援』を目的として、水面下で準備が進められていた計画の名称だ。

 

 現状、この計画の存在を知っているU-NASAの正規職員は、クロードと小吉の2人のみ。一般職員はもとより、当事者たるアネックス1号のクルー、彼らを統括する立場にある幹部(オフィサー)と呼ばれる人間でさえ、この計画の存在は知らされていない。

 

「かくいう俺も、計画の存在と名称、大まかな目的以外は何も知らない。全てを知ってるのはクロード博士と、お前の二人だけ。勿論、2人のことは信用しているし、信頼もしている。だが……」

 

 そう言って小吉はシモンの顔を――ヘルメットを隔てた向こう側、彼の目を見つめた。途端、それまで彼を取り巻いていた陽気さは鳴りを潜め、代わりに背筋がピンと伸びるような鋭い空気が張り詰めた。

 

「俺は今、アネックスのクルー109人分の命を預かる立場にある。だから……これ以上、お前たちが情報を隠すなら、俺はアネックス1号の艦長としてお前たちには協力できない」

 

「わかってる」

 

 その眼差しに滲む決意は固い。それに気づいたうえで、シモンはしっかりと小吉の目を見つめ返した。

 

「小吉さんには今夜、全部打ち明けるから。ボクとクロード博士が20年前から企てていた、この計画の全てを」

 

「……」

 

 小吉が無言で頷いた。それと同時に張りつめていた空気が緩み、シモンは思わずほっと溜息をつく。

 

 そして、切り出した。シモンが小吉をここへと連れてきた、最大の理由を。

 

「ただ、その説明を始める前に。小吉さんにはまず、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……なるほど、だからここだったのか」

 

 小吉は再び、カラオケボックスへと目を向ける。

 

 どんな人物が出入りしていてもさほど不自然ではない、カラオケという空間。加えて内部にはきちんと防音設備が整備されているため、うっかり話が漏れ聞こえる危険性も低い。外部組織も、まさか重大会議をカラオケで行うとは思わないだろうから、盗聴される心配も薄い。

 

「考えたな」

 

 少なくとも、下手なホテルや高級料亭などを会談に使うよりは余程安全だろう。そう納得して、小吉は思わず口笛を吹く。

 

「お願いできる? 癖が強い人たちだから、その……凄く、疲れるかもしれないけど」

 

「それはいらん心配だな。計画の中核を担うのがどんな奴らかは知っておきたいし、それに――」

 

 気楽な調子で、小吉は隣に立つシモンに親指を立てて見せた。

 

「そういうのの相手は幹部(あいつら)で慣れてるからな! 個性派どんとこい、だ!」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「個性派には勝てなかったよ……」

 

 ――カラオケ内部、パーティルームにて。ディスコを意識したミラーボールが回転するその部屋で、小吉は思わず頭を抱えた。

 

 確かに自分は、個性的な人間の扱いに慣れているとは言った。曲がりなりにも、一癖も二癖もあるアネックス1号のオフィサーを取りまとめているのだ。あのくらいの癖の強さならば、今更どうということもない。

 

 ないが――。

 

 

「クハハハ! 夜の帳は今下りきった! 今宵、汝は我らと凶星の下で契りを交わし、聖戦を共に駆ける盟友となるのだ!」

 

「おう、これが件の艦長殿か! なるほど、儂には劣るがいい筋肉をしておるわい!」

 

「ああ……久しぶりのシモンニウム、いい……これだけでご飯三杯は固いわね」

 

「小町さん、マイクどうぞ……え? 私が歌っていいんですか? やった! ありがとうございま――ヒャッハアアアアア! てめぇら、俺様の歌を聞――って、勝手に出てこないでください!?」

 

「あら、これが噂の小町小吉艦長ねェ。さて、アタシの剣術はどこまで通じるのかしらん?」

 

「アネックス1号の艦長の前だゾ、お前達。少し落ちつくべきだろうニ……」

 

 

 

 ――  な  ん  だ  こ  れ  。

 

 

 

「なぁシモン、明らかに癖が強いってレベルじゃないよな? どっちかっていうと灰汁が強い人たちだよな? 言いたくないけど、これもう奇人変人の域だよな?」

 

「いや、何かもう……本当にごめんなさい」

 

 シモンが申し訳なさそうに謝罪する。だが小吉はそれには答えず、代わりに彼へと微妙な視線を送った。

 

「……とりあえずシモン。俺に謝る前に、お前はまずその不健全な状態を何とかすべきじゃないか?」

 

「仰る通りです……」

 

 シモンはヘルメット越しに頭を押さえると、蚊の鳴くような声で言った。それもそのはず、彼の横に座るシモンの体には、赤いドレスの女性が抱き着いていたからだ。内面はともかく、パッと見はどう考えても、人に謝っている人間の態度ではない。

 

 だが、ここでシモンを責めるのも酷な話だ。彼はあくまで抱き着かれている側であり、この状況は本人にとっても不本意なものなのだから。

 

「ねぇ、シモン。いつになったら貴方はあの日の約束を果たしてくれるのかしら?」

 

 彼女は菫色の瞳で熱っぽくシモンを見つめると、聞くものの耳と心をとろけさせるような美しい声で彼に囁いた。身に纏った真紅のナイトドレスと、雪のように白い肌のコントラストは薔薇の花束のように清楚であり、それでいて妖艶。その所作には、気品と色気が両立している。

 

「分かりやすく言うと――いつになったら、私をファックしてくれるのかしら?」

 

「気品の欠片もねぇ!?」

 

「何がどう分かりやすくなったの!?」

 

 2人の叫び声が重なり、それから小吉ははっとしたようにシモンを見やった。

 

「というか……え、マジで? ホントにそんな約束したのか、イ――」

 

「シ・モ・ン! あと、してないからね!? ボクはそういうのに興味は……ないことはないけど、きちんと良識はあるから!」 

 

「そんな!? 小吉さんと2人で、私の初めてを貰ってくれるっていう約束、楽しみにしてたのに……」

 

「嘘だろシモンお前!?」

 

「違うってば!? モニカ、本当にやめて! お願いだから小吉さんに変な誤解を植え付けないで!」

 

 悲鳴を上げるシモンの首に腕を回し、モニカと呼ばれた女性はクスクスと笑った。

 

「さすがに、冗談よ。奥さんがいる男性を寝取る趣味は――あ、でも奥さんも一緒なら寝取りにはならない……? カラオケ、皆に見られながら……4P……ふむ、アリね。全然アリだわ」

 

 真顔になったモニカは、顔を小吉の方へと向けた。

 

「小町艦長、今すぐ奥さんを呼んでいただいても?」

 

「呼ばないからな!? むしろ今の不穏なつぶやきを聞いた後で呼ぶと思ってんのか!?」

 

「あら、このお店はウチの財閥で管理してるから、心配はご無用よ? 室内の色事なんていくらでも揉み消せるから、世間体を気にする必要はないわ」

 

「そう言う問題じゃねえ!?」

 

「モニカ、お願い……少し黙ってて……あと、できれば離れて……」

 

 げんなりとした様子で、シモンが声を上げた。すると彼女は、その言葉に少しばかりしゅんとしたように俯いた。

 

「そう……いえ、ごめんなさい。確かにはしゃぎすぎたわ」

 

 先程までのグイグイ行こうぜ! な様子から一転、突然しおらしくなったモニカに、小吉が目を丸くした。

 

「でも、最近の貴方は任務で忙しそうだったし……今夜くらい、甘えたかったのよ。もちろん、口は慎むわ。でも――お願い。もう少しだけ、こうしてちゃ駄目かしら、シモン()()()()()?」

 

「う゛ッ……」

 

 悲しそうに自らを見つめるモニカに、シモンが言葉を詰まらせる。

 

『お兄ちゃん』――それは彼にとって、殺し文句も同然の言葉だった。かつて自分を慕っていた、ある少女を彷彿とさせるからだろうか。出会った当初から、自らを兄のように慕う彼女(モニカ)の『お願い』に、シモンはどうにも弱かった。

 

「……分かったよ」

 

 数秒の沈黙の後、シモンが観念したように手を上げる。

 

「このまま抱き着いてていいから。その代り、これ以上小吉さんを困らせるようなことは言わないでね?」

 

「分かったわ! ありがとう、シモン」

 

 途端に彼女は顔に喜色を浮かべ、そのままシモンの胸に顔を埋めた。そんな彼女の頭を「しょうがないなぁ」と呟いて撫でながら、彼は小吉に頭を下げる。

 

「ごめんなさい、小吉さん。モニカは昔から甘えん坊で……」

 

「……ああ、うん。まぁ、いいんじゃないか?」

 

 ヘルメットの下で困ったように笑みを浮かべたシモンに、小吉はぎこちなく返した。

 

 多分、シモンは気づいていないのだろう。胸元に抱き着いているモニカの顔に浮かんでいる表情は、明らかに1人の恋する乙女のものであることに。

 

「……計画通り」

 

 ――というかむしろ、恋する乙女が絶対に浮かべてはいけない表情を浮かべていることに。

 

「……小吉さん?」

 

「いや、うん。何デモナイヨ」

 

 不思議そうなシモンから、小吉は目を逸らした。触らぬ神に祟りなし、強く生きるのだシモンよ。「うひ、うひひ……シモンの匂いスーハースーハー」とか聞こえた気がするけど、気のせいだ。気のせいに違いない。自分にそう言って聞かせ、小吉はドリンクバーから持ってきたコーラを飲み干す。

 

「……しかしまあ、何が恐ろしいって」

 

 ――このモニカって子が、まだまともな方だってことなんだよなぁ……。

 

 飲み干したコップをテーブルの上に置くと、小吉はカオス極まりないことになっている目の前の現実を再び見つめ、重々しくため息をついた。

 

 

 

 

 

「ぬうぅん……駄目だ、こんなものでは満足できん!」

 

 向かって右手、マイクを使ったと錯覚するほどの声量で叫ぶのは、タンクトップ姿の筋骨隆々な老人だ。

 本来なら重量挙げの選手が両腕で持ち上げるバーベルを、あろうことか左右の腕それぞれに持ち、それをダンベル代わりに筋トレを行っている。

 

「重さが足りん! もっとだ、もっと儂の筋肉を満足させる重量を持ってこんかい!」

 

 ――もうおじいちゃん、さっき200kg×2を持ち上げたばかりでしょう?

 

 

 

「サウロ翁ヨ。ここはカラオケ、トレーニングジムではないのだゾ」

 

 そう言って、色々と荒ぶる老人に片言で苦言を呈するのは、その隣に座っている人物。

 言っていることは常識的なのだが、見た目の怪しさはフルフェイス&中華拳法服のシモンと並んで、この場で間違いなくトップだ。全身をフード付きのローブで覆い、ボイスチェンジャーを通したその機械的な音声は、年齢どころか性別の推測さえも許さない。不審者オーラむんむんである。

 

「過度のトレーニングは体に疲れを溜めるだけダ。ドリンクバーからスポーツドリンクを持ってきておいタ。水分補給ついでに、休まれるのがよかろウ」

 

 ――だが、気遣いは完璧だ。

 

 

 

「ククク……今宵も我が右腕に刻まれし、禁断の呪印が疼く……」

 

 その対面で呟くのは、ポークパイハットの青年。室内にもかかわらずオーバーコートを着込んだ彼は、誰に絡むでもなく、かといって歌うでもなく、1人ドリンクバーのコップに入った氷を鳴らし、己の世界に浸りながらほくそ笑む。

 

「やけに風が騒々しいが……精霊共の狂騒か? ククク、そう喚くな、これも宿命だ。我らはいずれ凶星に赴き、漆黒の悪魔を淘汰せねばならぬ。聖戦の幕は既に上がったのだ。もはや、誰にも止められぬ」

 

 ――何と言うか、全体的に痛い。

 

 

 

「よっしゃ! 次の曲は俺が――って、だから勝手に出てこないでくださいってば!?」

 

 厨二青年の隣で叫んだのは、1人の少女。青みがかった黒髪を持つその少女が身に纏うのは、ベッドシーツをそのまま巻き付けた様な非常に緩く、だぶだぶの服だ。

 だがその最大の特徴は、どこかの都条例に引っかかりそうなその出で立ちではなく、()()()()()()()()()()。彼女はふとした拍子に口調や一人称、果ては声質すらも転調しているのだ。

 

「あ、僕? じゃあアニソンとか―――おっと、私が出てきましたか。では僭越ながらな一曲――ヒャッハア! ヘヴィメタ追加投に――グオオオ! ガルルルル――うわわわ!? お、お願いですから、順番! せめて順番にお願いします!」

 

 ――口調以前に()()()()()()()姿()()()()()()()()()()()、気にしたら負けだ。

 

 

 

「ンフ、しかし見れば見るほど、殺し甲斐のありそうなお・じ・さ・ま♡」

 

 うっとりと小吉を見つつつ、バリトンボイスで物騒な呟きを漏らすのは、黒革のジャケットと羽織った坊主頭の男性――いや、女性(?)だった。いわゆる、ニューハーフと言う人種なのだろう、口紅とマスカラでゴテゴテにメイクしている。マニキュアで彩られた爪で傍らに立てかけた日本刀を弾くと、彼(彼女?)は小吉に向かって、獰猛に笑った。

 

「どうかしらん、小町艦長? 火星探査の景気づけに、一つ本気でアタシと殺し合ってみなぁい?」

 

 ――謹んでご遠慮いたします。

 

 

 

「……」

 

 小吉はテーブルに両肘をつくと顔の前で手を組んだ。

 

 

 ――やあ皆! アネックス1号艦長の小町小吉だよ!

 

 今日はアネックス計画の命綱になる『アーク計画』の主要メンバーを紹介するぜ!

 

 

 清楚系変態痴女!

 

 脳筋おじいちゃん!

 

 謎のフード!

 

 厨二病患者!

 

 姿も性格も不定の少女!

 

 戦闘狂のオカマ!

 

 以上だ!

 

 

 これらの情報から、小吉は迅速にある判断を下した。それは一軍の統率者として、極めて正しい判断だった。

 

「アーク計画、凍結しようぜ」

 

「小吉さん!?」

 

「すまん、ここまでとは思ってなかったんだ。その、なんつーか……帰っていい?」

 

「気持ちはわかるけどお願い待って!? それ、アドルフさんの持ち芸だから! あと普段はこんなだけど、この人達は戦いになると本当に頼りになるんだよ!? 全員、最低でも幹部(オフィサー)レベルの実力はあるから! だから待って小吉さん! せめて、せめて戦闘訓練の映像だけでも見てってー!?」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 こうして、ワシントンの夜は更けていく。騒々しい密会はこの後でクロードが合流し、朝まで続く運びとなるのだが、それは省略しよう。小町小吉と彼らの間で、あれからどのようなやりとりがあったのかも、あえてここには記さない。

 

 ただ一つ言えるのは――全ての説明を聞き終えた後、小町小吉は『アーク計画』への全面的な協力に同意したということだけだ。

 

 

 かくして計画の準備はなおも極秘裏にで進められ……そして、2620年。

 

 

 

『アネックス1号計画』と『アーク計画』。

 

 

 

 ――両計画は、いよいよ大詰めを迎えることになる。

 

 

 

 

 

 




オマケ 今回の会談をどう思いましたか?

「濃い! あいつら、絶対出る作品間違えてるって!」

                      ――K.S.さん(42)



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登場人物紹介1 イヴ&クロード

 今回はプロフィールを含めた二話連続投稿になります。

 前話と合わせて、お楽しみください。


 

 イヴ ♂

 

 国籍:なし 年齢:7歳 身長:116cm 体重:36kg

 

 バグズデザイニングベース『昆虫型』:カメムシ類

 ・全身共通:モモアカアブラムシ(生まれつき)

 ・腕:ヂムグリツチカメムシ(生まれつき)

 ・胴:カハオノモンタナ(生まれつき)

 ・足:ウンカ(生まれつき)

 

 好きなもの:他者との会話

 

 嫌いなもの:なし

 

 瞳の色:水色(感情が高ぶると赤くなる)

 

 血液型:A型

 

 趣味:プロレス鑑賞(ドナテロの影響で好きになった)

 

 誕生日:7月21日(ニュートンに回収された日を便宜上の誕生日にしている)

 

 

 2591年に、アレクサンドル・グスタフ・ニュートンによって回収された人造人間の少年。当初、成長した彼はただ『生きているだけ』という人形のような状態であったが、ドナテロ・K・デイヴスと触れ合う中で自我を獲得、人間としての側面を見せるようになっていった。

 

『兵器運用』の一環として即戦力を増やすための生殖機能が成熟しており、思春期男子レベルの性欲がある。バグズ2号内で女性陣にシャワールームへ誘われた際には、かなり迷った末に断った。それから数日の間、羞恥からまともに彼女達を直視できなかったのが黒歴史だとか。余談だが、それをからかった小吉を始め男性陣数名は、その場でドナテロの鉄拳制裁を喰らった。

 

 純粋で素直な性格の持ち主であり、誰からも好かれやすい。本人は特に自分に様々な感情を教えてくれたドナテロや、いつも面倒を見てくれているクロードを慕っている。

 また、ドナテロの愛娘であるミッシェル・K・デイヴスは、イヴにとって初めてできた同年代の友達と言うこともあり、特別に想っているようだ。

 

 U-NASA内では、クロードの下で実際にイヴの研究に携わる職員を中心に、密かに『イヴ君ファンクラブ』なるものが存在している。特にイヴに人間らしさが芽生えてからは会員数が着々と伸び続けており、ひそかに写真集なども出回っている。

 

 

 

 

 

 

 

 クロード・ヴァレンシュタイン

 

 国籍:フランス 年齢:不詳 身長:168cm 体重:64kg

 

 バグズ(MO)手術ベース『群体生物型』:”幻想より出づる死徒” カツオノエボシ

 

 好きなもの:コーヒー

 

 嫌いなもの:もったいぶって話を引き延ばすタイプの科学者

 

 瞳の色:黒

 

 血液型:AB型

 

 誕生日:9月8日

 

 趣味:バグズ(MO)手術の偽装ベース選定

 

 備考:性別不詳(文章中では便宜上「彼」「青年」と表記)

 

 

 U-NASAにおいてアレクサンドル・グスタフ・ニュートンの右腕を務め、全科学部門を統括する総合主任。専門はバグズ手術を始めとした生物学。『ダ・ヴィンチの再来』と称される世界トップクラスの科学者であり、こと専門分野においては人類最高の頭脳を持つとされるニュートンでさえ追随を許さない程の技術者である。

 

 総合責任者に就職して間もない頃に、彼の研究がノーベル賞の科学系三部門を総なめにした「ノーベル賞事件」はあまりにも有名。ニュートンが真顔で自重を促した初めての事件でもあり、全世界のマスコミと科学者とニュートンの一族を戦慄させた。なお、本人は名誉や栄誉にはあまり興味がないため、周囲からの評価には無頓着である。

 

 普段は理知的な性格だが、実は意外と短気。頻繁に皮肉ってくるニュートンのことは蛇蝎の如く嫌っており、彼への態度は非常に辛辣。幸い、本人があまり公私を混同しない人間ということもあり、仕事上の関係性は良好のようだ。裏でお互いにチクチクと嫌がらせをしあっている。

 イヴとの関係性は公私ともに良好。特に、人間味を帯びてきた最近のイヴとは非常に仲がいい。

 

 謎の多い人物であり、彼の詳しいプロフィールを知る者は局内にもほとんどいない。性別すらも不明であり、その謎はU-NASA七不思議に数えられている。

 



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2nd MISSION 凶星の箱舟  ーANNEX 1ー
第26話 20YEARS LATER 20年後


 

 長らくお待たせしました! 『贖罪のゼロ』第二部になります!




 ――西暦2619年。

 

 タイ王国の首都部からやや離れた郊外に位置するコンサートホール。その地下に設置されたスタジアムは、異様な熱気で満たされていた。

 

『レディース・アンド・ジェントルメン! ようこそお越しくださいました、当コロシアムの決・勝・戦へ!!』

 

 マイクを持った司会が叫ぶと同時、観戦席から盛大な歓声が上がる。所狭しと席についてる観客たちは皆、高価そうなスーツやドレスに身を包んでおり、いずれも富裕層の人間であることが見て取れる。

 

『皆さまの固~いお口と巧妙な粉飾決算に支えられ、今宵! 長きに渡る男たちの戦いがついに決着するゥ! この試合の勝者こそ、地上最強の――いや、()()()()の男だァァァ!』

 

 司会の声に合わせ、観客たちは思い思いに昂ぶりを叫ぶ。視界の男は、異様なそんな興奮と熱狂の渦の外側で、その女性――ミッシェル・K・デイヴスは鬱陶しそうにため息を吐いた。

 

「驚いた。まさか現実でこんなことをやってる連中がいたとはな」

 

 ビジネススーツに身を包み、フレームのない眼鏡をかけたその姿は、いかにもできるキャリアウーマンといった印象を周囲に与える。もしも通行人を適当に十人捕まえて感想を聞けば、十人が十人とも「綺麗だ」と答えるであろうその顔はしかし、不愉快そうにしかめられている。

 

「格闘技の観戦は嫌いじゃないが……吐き気がするぜ。人殺しのショーを楽しむ感性はまるで理解できねぇ」

 

「俺も同感だ、ミッシェル」

 

 そんな彼女の言葉に、やはりスーツを着た男性――小町小吉が静かに口を開いた。日本人としては恵まれた身長と体格、それにサングラスが合わさり、どことなくいかつい雰囲気を纏っている。

 

「ただ――それが現実にできちまうって辺りが、なんともやるせねぇ話だよな」

 

 小吉はそう言うと、サングラスの奥の目を細めた。

 

「毎日汗水たらして働いて、やっとの思いで数十万の給料をもらってるサラリーマンの横で、株やら不動産やらで悠々と何千万、何億って稼ぐ奴がいる。そういう奴らが集まれば、イベントの一つや二つは簡単に開けるってわけだ。本当に――」

 

「――嫌な話、だよね」

 

 と、小吉の言葉に繋ぐようにして、その声は発せられた。その声は淡々と、しかし微かな不快さを語気に滲ませながら、更に続ける。

 

「こんなことにお金を使うくらいなら、もっと皆のためになることに使えばいいのに。募金でも、寄付でも」

 

「まったくだ」

 

 ミッシェルは特に驚いた様子もなく答えると、肩越しに背後を見やる。途端、彼女の視界には、奇妙な出で立ちの人物が映りこんだ。

 

 身長や声の高さから推定するに、その人物は20代の男性――なのだろうか? 屋内にも関わらず頭部を黒のフルフェイスヘルメットで覆っているため、外見から正確な年齢は読み取れない。細身ながらも引き締まった肉体には袖口にゆとりのある白の中国拳法服を纏っており、それが見た目のちぐはぐさに拍車を掛けている。

 

 これだけ見れば明らかな不審者なのだが、ミッシェルが彼を警戒するような様子はない。それどころか彼女は、どこか気を許したような調子で背後の人物に対して声をかける。

 

「あそこにいる連中の内、10人でもお前みたいなやつがいれば――この世界も少しはまともになるだろうにな、シモン」

 

「……どう、だろうね?」

 

 一瞬の間を置いてから、シモンはミッシェルの言葉に短く返した。それから彼は、「それよりも」と切り出すとその顔を小吉の方へと向ける。

 

「小吉さん――例の彼、まだ無事なんだよね?」

 

「ああ、それは大丈夫だ」

 

 やや緊張の滲む声で尋ねたシモンの問いに、小吉は首肯する。

 

「彼は丁度、この試合の出場者だからな。それに――」

 

 小吉がそう言いかけると同時、客席からの歓声が一際大きくなった。3人が視線を戻すと、丁度スタジアムの中央に設置されたリングの中へ1人の青年が入場するところだった。

 

『まずは青コーナー! 若干二十歳にしてこのくらい地下闘技場に舞い降りた、期待の超新星! 国籍・日本! 使用武術・空手! その名もォ……!』

 

 司会の声に合わせてスポットライトが照射され、鍛え上げられた青年の肉体が照らし出される。青年が右腕を高く突き上げると同時に、司会は高らかに青年の名を読み上げた。

 

 

 

膝丸 燈(ひざまる あかり)だァアアア!』

 

 

 

 会場内に響き渡る喝采。それをBGMに、司会の男は青年、膝丸燈のプロフィールを読み上げていく。

 

 ――曰く、彼は日本の児童養護施設で1人の少女と出会い、共に育ってきた。

 

 ――曰く、17歳の時にその少女は難病に侵され、助けるためには臓器移植が必要である。

 

 ――曰く、膝丸燈はその少女を救う金を用意するため、この大会に臨んだ。

 

「……クズ共め」

 

 ミッシェルはリングを見つめながら、静かに吐き捨てる。表面上は冷静なものの、その胸中には怒りの感情が煮えたぎっていた。

 

 ――許せなかったのだ。膝丸燈という青年の切実な願いが、現在進行形で踏み躙られていることが。ただ一人の少女を救いたいという想いが、あんな下卑た連中の娯楽モドキに利用されていることが。

 

 小吉もおそらく同じ気持ちなのだろう。リングを見つめる彼の表情は険しく、その手は血が滲むほどに固く握りしめられていた。

 

 

 

 ――そんな中。

 

 

 

(……何だろう?)

 

 シモンだけは、気が付いた。フルフェイス越しに見える観客たちの表情が、どこかおかしいことに。

 

(――ただ興奮してるわけじゃない。あれは嘲笑と哀れみ……?)

 

 それは異変という程劇的なものではなく、違和感の範囲にとどまる程度のもの。だが、妙だ。なぜ観客たちは、この二つの感情を膝丸燈に向けているのか。

 

 金がない故に地下(ここ)まで転落してきた彼への侮蔑からか? あるいは、彼の悲惨な境遇に対する同情からか?

 

 どちらも間違いではないのだろう。だが、それだけというわけでもなさそうだ。この大会には恐らく、()()()()()()()()

 

「……2人共、何か――」

 

 そう結論付けたシモンが口を開きかけたその時だった。まるで彼の言葉を遮るかのように、司会の男が声を張り上げたのは。

 

『では続いて、赤コーナーより――この大会無敗のチャンピオンの登場だァ!』

 

 青年が入ってきたのとは反対側、赤い入場ゲートが開く。その中から姿を見せたのは、()()()()()()()()()

 

「なっ!?」

 

 思わずフルフェイスヘルメットの中で目を見開いたシモンの鼓膜を、司会の声が揺らす。

 

『ブライアン・チャオミーくん! 国籍・アメリカ! 生物種・ヒグマ! 使用武術は特になし、大自然が生んだ究極のファイターだ! 長いこと人間の肉しか食べていないブライアンくん、さっそく膝丸選手を今日の晩御飯にロックオンだァ!』

 

 高い網状のフェンス囲まれたリングの中、棒立ちになった燈にヒグマが猛然と前脚を振り下ろす。我に返った燈は紙一重でその一撃をかわすものの、鋭利な熊の爪は彼の額をぱっくりと切り裂いた。

 

「ッ!」

 

「待て、シモン」

 

 思わず駆け出そうとしたシモンの肩を、小吉がつかんで引き止める。シモンは自らを引き留めた小吉に対して抗議の声を上げた。

 

「でも、小吉さん! このままじゃ、彼が……!」

 

 リングの中では既に、決死の反撃もむなしく燈が地面に引き倒されており、ヒグマがその脇腹に喰らいついている。会場は彼のむごたらしい死を期待する、歓喜とも悲鳴ともつかない客たちの声に満ちていた。

 

「シモンの言う通りだ、艦長。こんなの、普通じゃねー」

 

 ミッシェルもまた、どこか非難するような視線を小吉へ向ける。

 

「こんなイカれた物を見るために、私たちはわざわざここへ来たわけじゃないだろ?」

 

「……ああ。正直、ここまでとは思っていなかった。ただ、クロード博士からの報告が正しければ――」

 

 そう言って小吉はリングへと目線を向けた。

 

 

 

「この場で一番普通じゃないのは()()()()

 

 

 

 ――小吉がそう言った、次の瞬間。

 

 まるで彼の言葉をその身で証明するかのように、ヒグマに貪られていた燈が突如として、()()()()()()()()()()()()()()

 

『は――?』

 

 司会を始め、会場内の観客たちは事態が飲み込めずに、歓声を上げることも忘れてリングを凝視する。それはミッシェルとシモンも例外ではなかった。瞠目する彼らの横で、唯一事情を把握していた小吉が口を開く。

 

「ミッシェル。彼は――膝丸燈は、()()()()()()

 

「っ! まさか……!」

 

 何かに思い至ったように呟いたミッシェルに、小吉が頷く。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()。まさか、もう一人いたとはな」

 

 

 

 そう漏らした小吉の視線の先、リングに立つ青年の姿は、数秒前とは明らかに異なるものへと変貌していた。

 

 額からは昆虫を思わせる触角が出現、指先の爪は鋭く研ぎ澄まされており、その全身には人為変態時に特有の筋が走っている。

 

 目を凝らさなければ気付けないが、その姿は明らかに通常の人間のそれではない。

 

「正直、俺もこの目で見るまでは半信半疑だったが――報告は正しかったらしい」

 

 確信する小吉の前で、燈はヒグマの腕を押さえると、重心を利用してその巨体を投げ飛ばした。

 

 ――『旧式一本背負い』。

 

 鮮やかな体さばきでヒグマを地面に叩きつけた燈はすかさず跳躍し、ヒグマの顔面を蹴り潰す。頭蓋がひしゃげる音と共に熊はその体を大きく震わせ、それっきり動かなくなった。

 

『し、信じられなーい! 膝丸選手、あの状態からまさかの逆転勝利ィー!』

 

 興奮するように司会が叫ぶ。燈の勝利を見届けた小吉は、「やはりな」と呟いて踵を返した。

 

「行こう、2人とも。彼には伝えなければならないことがある」

 

 興奮が最高潮に達したスタジアムに背を向け、小吉が出口へと向かう。それを見たミッシェルとシモンも立ち見席を後にしようとして――

 

 

 

 

 

 

『おぉっと!? たった今、スタッフから情報が入りました! なんとこの決勝戦に、乱入者が現れた模様ですッ!!』

 

 

 

 

 

 

「「「――ッ!?」」」

 

 

 ――耳を疑う発言に、全員が足を止めた。

 

 彼らが慌てて立ち見席へと戻ると、丁度リングに繋がる三つのゲートが開き切り、赤、黄、緑のそれぞれのゲートから、新たな三匹の猛獣が姿を見せたところだった。盛り上がる会場に負けじと、司会は声を張り上げる。

 

 

『第一ゲートから悠然と現れたのは、クリスティーナ・チャオミーちゃん! 国籍・アメリカ! 使用武術・特になし! 生物種・ヒグマ! 苗字からも分かる通り、先程のブライアン・チャオミー君の妹だ! なおチャオミー兄妹、兄弟喧嘩はクリスティーナちゃんの全戦全勝だったようです! 果たして兄の仇をとることはできるのか!?』

 

 

 

『おっと、第二ゲートからは本大会きってのパワーファイター、ゴンザレスくんの登場だァ! 国籍・グランメキシコ! 使用武術・特になし! 生物種・ワニ! 大きな口から繰り出される噛みつき攻撃は、これまで数々の強敵を粉砕してきた! これは日本武術の完封も期待できそうだ!』

 

 

 

『出たァァァァ! 皆様、第三ゲートにご注目ください! 圧倒的王者の風格を纏って姿を見せたのは、キング・ヘリー君! 国籍・マダガスカル! 使用武術・特になし! 生物種・ライオン! 容姿・実力ともにチャンピオンとして申し分ない実力を兼ね備えたヘリー君! ここ数日何も食べてない彼は、いつにも増して凶暴だぞ! 疲弊した膝丸選手に捌き切れるのか!?』

 

 

 三匹の猛獣は喝采と共にリングの中に入ると、互いに威嚇しあいながらも、その視線を燈へと向けた。手負いの人間(エサ)を前にした猛獣たちの口から粘ついた涎が溢れだし、リングの床を濡らす。

 

「クソッたれが……! どこまでクズなんだこいつら!?」

 

 その顔を怒りで歪ませ、ミッシェルが吠えた。

 

 司会の男は乱入などと言っていたが、それを真実だと捉えている者などこの場には誰もいないだろう。観客たちは内からこみ上げる興奮に狂いながら、スタッフたちは意地汚い笑みを浮かべながら、リングの中で呆然と立ち尽くす燈を見つめている。

 

 彼らは期待しているのだろう、惨劇を。

 

 大切な人を守るために這いあがってきた勇者がむごたらしく蹂躙されるのを、彼らは心待ちにしているのだ。

 

「冗談じゃねえ! 艦長ッ!」

 

「分かってる!」

 

 2人はスーツの懐から注射器を取り出すと同時に、床を蹴って走り出した。

 

 ――いかに膝丸燈が人間離れした力を持っているといっても、狭いリング内で三体もの猛獣を一度に相手取るのは不可能に近い。まして今の彼は戦闘直後で疲弊し、深い傷を負っている状態。常識的に考えて、先程よりも絶望的なこの状況を引っ繰り返せるわけがない。

 

 だが自分達が割って入れば話は別だ。試合自体は無効になるだろうが、根本的な話をすれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()――もっともそれは、当人が知る由もないことであるが。

 

 何にせよ、これ以上勝たせる気のない試合に彼を突き合わせ、みすみす死なせてしまうことはミッシェルにとって本意ではなく――そもそも、人間として見過ごすわけにはいかなかった。

 

「その試合、待っ――」

 

 ミッシェルが叫ぼうとした、その時だった。

 

 まるで彼女の言葉を遮るかのように、ミッシェルと小吉の間を、一陣の風が吹き抜けた。

 

「ッ!」

 

 本来なら、屋内に吹くはずのない突風。思わず2人が足を止めたその直後、ガシャン! という金属を揺らすような音を彼らの耳は捉えた。次いで聞こえたのは、観客たちのどよめきの声。

 

 周囲に視線を走らせた2人は、観客やスタッフたちがある一点を見つめていることに気が付き――。

 

「あー、こりゃ……」

 

 先程までの緊迫した状態から一転、小吉は気の抜けたような様子で頭をかいた。

 

「俺らの出る幕はないっぽいぞ」

 

「……らしいな」

 

 どこか不満げに相槌を打ったミッシェルは注射器をしまい直すと、多くの観客たちが見つめる場所へ自らの視線を向ける。

 

 

 

 リングを取り囲む柵の頂上、いつの間にかそこに立っていた、フルフェイスヘルメットの人物へと。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 距離にして観客席からおよそ7メートル、床からおよそ8メートル。

 

 試合から選手が逃れられぬように設けられた柵の上に、シモンは立っていた。当然ながら、いきなり現れた謎の人物が注目の的にならないはずがなく、ほとんどの観客たちはざわめきながら、柵上に立つシモンを凝視していた。

 彼らだけではない。予定にはない人物が登場した運営側や、畳みかけるような予想外に硬直した燈、果ては何かを感じ取ったのか一斉に威嚇を始める猛獣まで。

 

 シモンは今、このスタジアム内にいる全ての人々の視線を釘付けにしていた。

 

「おーい、司会者さーん!」

 

 それをさして気にした様子もなく、シモンは声を張り上げて司会者に呼びかけた。ざわめくスタジアムの中、シモンの澄んだその声はよく響く。いきなり名指しされたことで我に返った司会者が慌てて返事をすると、シモンは何でもないかのような口調で彼にこう尋ねた。

 

 

「この試合、乱入が有りなら()()()()()()()()()()()()()()!?」

 

 

『――え?』

 

 シモンの口から紡がれた言葉に、司会が呆けた声を漏らす。正気の沙汰とは思えないその言葉に、スタジアム内には一瞬、完全な沈黙が訪れ――数秒経ってから、爆笑の渦が巻き起こる。

 

『こ、これは驚きぃ! なんと、命知らずの乱入者がもう1人、空から登場だァ! ミスターフルフェイス、とでも呼びましょうか!? なおあらかじめ言っておきますが、これは私たちが打ち合わせたものではございません! つまり、彼は正真正銘のチャレンジャー! 世紀の命知らずですッ!』

 

「……いいんだね?」

 

 まくしたてる司会者に、シモンが念を押す。司会者は興奮したように『勿論!』と叫んだ。

 

『当試合は無差別級、ルール無用のデスマッチ! 挑戦者、乱入者はいつでも受け付けます! もしもまだ会場内に「我こそは!」という猛者がいるのなら、どうぞ遠慮なくリングの中へ!』

 

 司会の冗談交じりの言葉に、会場内の笑い声が一層高まった。このスタジアム内にいる者の大半は奇妙な挑戦者を囃し立て、嘲笑混じりにシモンを眺めた。

 

 ――どうやら自分の参戦に否を唱える者はいないらしい。

 

 それを確認したシモンは1人頷くと、ぼそりと呟いた。

 

「それじゃあ、遠慮なく」

 

 

 

 

 そして次の瞬間。

 

 

 

 シモンは足場にしていた柵を蹴り飛ばすと、矢の如き勢いで眼下のワニの頭へと着地した。頭上からの強い衝撃はワニの脳を揺らし、脳震盪を引き起こす。一度だけ大きく体を痙攣させ、ワニはそのまま気を失った。

 

『……え?』

 

 水を打ったように、しんとスタジアム内が静まり返る。異様な静寂の中、淡々とした口調でシモンは言った。

 

「――次」

 

 その声に応えるように、彼の真横からライオンが飛び掛かった。ネコ科に特有の瞬発力から繰り出されるのは、前脚による拳撃。その一撃は小型の草食動物を即死させ、キリンやゾウなどの大型動物にすら致命傷を負わせるほどの威力を誇る。

 

 無論、人間離れした力を持つシモンといえども、直撃すればただでは済まない。

 

「当たれば、だけどね」

 

 しかしシモンは人間では考えられない脚力で跳躍し、それをあっさりと回避した。これまで食い殺してきた獲物の中に、このような動きをするものなどいなかったのだろう。得物の予想だにしない動きに戸惑ったライオンの体が微かに硬直する。

 

 ――その一瞬を、シモンは見逃さない。

 

 彼はそのまま無防備に晒された背に飛び乗ると、たてがみごとライオンの首を絞め上げた。

 

「ゴ、アッ……!?」

 

 突如自らを襲った窒息に混乱し、その口から苦悶の声が零れる。ライオンは元凶を振りほどこうと暴れまわるが、シモンは拘束を緩めず、それどころかむしろ腕に加える力を強めていく。

 

 締め付けと、激しい運動。この二つの要素が重なったことで、ライオンの体内から急速に酸素が失われていく。数秒後、ついに力尽きた百獣の王は、口端から泡を吹きながらリングにぐったりと倒れ込んだ。

 

「次」

 

 シモンは腕を外してライオンの背から飛び降りると、目の前で立ち上がったヒグマを見上げた。雄々しい咆哮がスタジアム内に響き渡り、毛むくじゃらの頑強な腕がシモンに迫る。

 

 それを見たシモンは、左腕をぐいと突き出した。その様子はまるで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

『なっ……!?』

 

 司会者は目を眼前の光景に目を見開き、シモンの正気を疑った。

 

 人間が熊の筋力を押さえるなど、土台からして無茶な話。ヒグマのそれに比べ、人間の腕はあまりにも華奢すぎる。多少鍛えた所でどうにかなる問題ではない、根本からして人間の腕力は熊に及ばないのである。丸太と小枝が打ち合えば後者がひしゃげるのは自明の理というもの。だからこそ、この場にいるほとんどの人間は、次の瞬間には腕ごと頭を抉られたシモンが床に崩れ落ちることを予感した。

 

 

 ――だが。

 

 

 

「う、嘘だろ……!?」

 

 どよめく会場の中で、誰かが言った。

 

「あいつ、クマの腕を受け止めたぞ!?」

 

 

 

 

 ――シモンは多くの観衆たちの予想を裏切り、その細腕一本でヒグマの腕を確かに受け止めていた。

 

 先程の試合では燈もヒグマの攻撃を止めてみせたが、彼とシモンでは結果が同じでも、その原理が違っていた。

 燈は『技』によってヒグマの腕力を受け流したのに対し、シモンは素の『筋力』によってその攻撃を受け止めたのだ。

 どちらも人間離れした行為であることに変わりはない。だが――常軌を逸している、という点においては、間違いなくシモンに軍配が上がることだろう。

 

「やァッ!」

 

 掛け声と共に、シモンはがら空きになったヒグマの胴体を蹴り穿つ。風切り音と共に彼の足はヒグマの腹部へと突き立てられ、その直後、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ノックバックした熊の体はそのまま金網に激突し、柵の形を歪めて止まった。既に意識はないようで、半開きになった口からは舌がだらしなく垂れている。

 

 ――三匹の猛獣が一瞬のうちに、たった一人の男の手で、成す術なく無力化された。

 

 観客たちがそれを理解した時、スタジアムをかつてないほどの歓声が揺るがした。

 

「こんなところかな……さて」

 

 そう言ってシモンは、背後で攻撃の構えをとった燈へと向き直った。

 

 ――消耗こそしているものの、これまで数々の強豪を打ち破ってきた燈。

 

 ――瞬き程の時間で猛獣たちを一蹴したシモン。

 

 両者は静かに対峙し、一切の油断なくにらみ合う。

 

 数秒後に起こるだろう、後にも先にも見られない強者たちの激突。それに胸を高鳴らせ、観客たちは食い入るようにリングを見つめた。

 

 静まり返るスタジアム内。その沈黙はしかし、嵐の前の静けさ。その静謐の下で興奮が高まり、高まり、高まって――最高潮に達した、その瞬間。

 

 シモンは大きく踏み込んで、燈に向かって自らの体を打ち出した。

 

 会場内を満たした歓声を置き去りに、シモンの体はぐんぐんと燈に迫っていき、そして――()()()()()()()()()()

 

「よっ、と」

 

 シモンは燈には見向きもせずに再び跳躍、そのままクルリと宙回転すると、再び柵の上へと飛び乗った。彼は観客席でぽかんとした表情を浮かべる人々を見下ろしながら高らかに、そしてどこか得意げな口調で告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()!」

 

 

 

 

 

 

「……え?」

 

 それは、誰の声だったのだろうか。

 

 どこかから間の抜けたようなその声が上がると同時、スタジアムを満たしていた熱狂が急速にしぼんでいく。

 

『い、いやいやいやいや! ミスターフルフェイス! この試合はデスマッチですので、棄権や降参は、ルール上一切認められません! ちゃんと最後まで戦ってください!』

 

 運営側の人間として、このままではマズいと思ったのだろう。司会者が慌てて制止の声を上げる。しかしそれは、シモンを引き留めるという意味ではむしろ逆効果。

 

「あ、そうなんだ。()()()()()()()()()()()()

 

『なッ!?』

 

 絶句した司会者に向け「じゃあね」とばかりに手を振り、シモンは真上に大きく跳躍した。彼の姿を追おうと観客たちは天井を見上げ、目に飛び込んできた照明の光で視界が白く塗りつぶされる。やがて彼らの視界が元に戻った時、既にそこにシモンの姿はなかった。

 

『え、えー……』

 

 スタジアム内に残されたのは、白け切った空気。それを無理やりにでも取り払おうと、司会者は半ばやけくそ気味に叫んだ。

 

『そ、そんなわけで勝者は、膝丸選手だァ! これで愛しのあの子の病気も治るぞ! よかったね!』

 

 

 直後、スタジアム内には大会始まって以来のブーイングの嵐が吹き荒れた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「……で、何か言うことは?」

 

「け、結果的に燈くんは助けられたし、ちょっと多めに見てほしいかな、なんて……」

 

「あ゛?」

 

「すみません」

 

 ――空き缶やら紙ごみやらが飛び交い始めたスタジアムから、やや離れた通路にて。

 

 スタジアムを見事に沸かせ、そして怒り狂わせたシモンは、青筋を立てて腕を組むミッシェルの前で絶賛正座中だった。

 

「い、いや、でも! ちゃんとMO手術の秘密が流出しないように注意はしたから大丈夫だよ! ほら、戦ってる時も拳法服の袖と裾で手足は見えなかっ……ごめんなさい!」

 

 何とかミッシェルをなだめようとシモンが声を上げるも、その直後、彼女の額に走る青筋が一本増えたのを見てそれを撤回する。ミッシェルの背後には蟻の幻影が浮かび上がっており、それが殊更にシモンを震え上がらせる。

 

「まぁまぁ、いいじゃねーか」

 

 完全に委縮しきったシモンを庇うように、ミッシェルと彼の間に小吉が割って入った。

 

「どのみち、イ……い感じにシモンが乱入してなかったら、俺らが代わりに止めてたわけだし。膝丸燈の救出も間に合って、あそこにいた連中に一泡吹かせた。結果オーライだろ?」

 

「それは、そうだが……」

 

 ミッシェルの額から青筋が数本消え、その表情は怒りから不満へとシフトする。

 

 ――好機。

 

 小吉は彼女の怒りの火を完全に鎮火すべく、さらに口を開いた。

 

「な? シモンも反省してるし、許してやってくれ()()()()()()()()!」

 

「舐めんなヒゲ。カワイイ方で呼ぶんじゃねえ」

 

「ごめんなさい」

 

 かえって火に油を注いだようだ。

 

「じゃあ、俺はあの子連れてくるから……2人は先に行っててね……」

 

 先程までに比べ、随分控えめな声でそう言うと、小吉はとぼとぼと通路の向こうに消えていく。その姿を見送ってから、ミッシェルは視線をシモンへと戻すと、深くため息を吐いた。

 

「シモン、私は別にお前が突っ込んだことに対して怒ってるんじゃない。なんで私を連れてかなかった?」

 

「え、何でって……」

 

 キョトンとするシモンに、不機嫌そうにミッシェルが続ける。

 

「お前の手術ベースになった『カマドウマ』の特性は強靭な脚力。本来、ライオンの首を絞めあげたり、ヒグマの攻撃を受け止めたりするような使い方をするベースじゃない。ロシアのジジイ(アシモフ)みたいな甲殻や再生能力があるわけでもない。一撃喰らっていれば、それだけで死んでた可能性もあった」

 

 シモンがきちんと話を聞いているのを確認して、ミッシェルは更に続ける。

 

「お前はお前で任務があるんだろ? わざわざこんな場所で無茶をする必要もない。だから『もっと周りを頼れ』……ったく、お前が私に言った言葉だろうが」

 

「……そうだったね、ごめん」

 

 シモンが改めて口にした謝罪に、ミッシェルは鼻を鳴らした。

 

「分かったんならいい。ほら、行くぞ」

 

 そう言って、ミッシェルはシモンの手を掴むと、そのまま彼を引っ張り起こした。

 

「よっと……ん? おい、シモン。お前、まだ変態を解いてなかったのか?」

 

 歩きながら、ミッシェルが不思議そうな表情でシモンに聞く。ミッシェルが握ったシモンの手は肌色ではなく、未だに黒い甲皮に覆われていた。ざらついたその感触も人肌のそれではなく、昆虫の質感に近い。

 

「ああ、うん。ボクは薬が効きやすい体質でね。普通の人より変態が解けるのが遅いんだ」

 

 シモンはそう言うと、自らの腕をさっと袖の中へと隠した。

 

「人には見られないように隠しておくから、気にしないで。それよりも、着いたんじゃない?」

 

「ん――ああ、ここか」

 

 シモンが指さしたのは、金属製の扉だった。先行していたミッシェルがドアノブをひねり、扉を開けると同時に、部屋の中からは怒声が飛び出してきた。

 

「――だとコラ!」

 

 直後、何かを叩きつけるような音と、男の悲鳴。2人が中に入ると、部屋の中では大会スタッフと思しき男の一人に、満身創痍の燈が押さえつけているところだった。

 

「ひッ! ゆ、許してくれ……」

 

 襟元を掴まれた男はその目に怯えの色を滲ませ、燈に許しを乞う。

 

「お、俺は、上の指示に従っただけでアガッ!?」

 

「黙れ! いいか、もう一回だけ聞くぞ……!」

 

 右手で男の顎を鷲掴みにし、燈は徐々に手に加える。男のあご骨がミシミシと嫌な音を立てた。

 

()()()()()()()()()()!? どこの、どいつにだ!?」

 

 燈が凄まじい剣幕で問いつめる。すると男は恐怖で涙目になりながら、人差し指で燈の背後――即ち、そこに立つシモンを指さした。

 

「ッ! テメェ、さっきの……!?」

 

 男の行動で初めて、背後に人がいたことに気が付いたらしい。瞠目した燈に、シモンは首をゆっくりと横に振った。

 

「厳密には買ったわけじゃない。君の幼馴染――源百合子さんは、5カ月前にボク達が保護した」

 

「保護、だと……!?」

 

 シモンの言葉が信じられないのか、燈はその場に男を投げ捨て、そのままシモンに掴みかかった。

 

「何が目的――いや、それよりも百合子は今どこにいる!? 無事なんだろうな!?」

 

 詰め寄る燈にシモンが答えようと口を開いたその時。キィ、という音を立てて、彼らの背後にあった扉が開く。

 

 

 

 カツ、カツ、と靴音が響いて。

 

 

 

 扉の向こうから姿を現したのは、1人の女性だった。およそこのような空間には相応しくない、良くも悪くも平凡なその女性。その姿を認めたその瞬間、燈の口は無意識のうちに、彼女の名前を呼んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――百合、子?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……久しぶり、燈君」

 

 そう言ってその女性――源百合子は、どこか照れくさそうに笑った。

 

 ――命を賭してまで救おうとした幼馴染が、病床に臥せっているはずの想い人が、そこにいる。

 

 燈はそれが信じられず、フラフラと彼女の下まで歩み寄ると、そっと彼女の体を抱きしめた。

 

 拒むことなく彼の腕の中に納まった百合子の体には、確かに体温の温もりが、息遣いの脈動が、そして鼓動の音があった。

 

 

 

 ――生きている。

 

 

 

 それを実感したその瞬間、燈の目から滂沱の涙が溢れだした。

 

「百合子、百合子……!」

 

 百合子の命を確かめるように、燈は何度も何度も彼女の名を呼んだ。そんな彼を安心させるように、百合子もまた彼の体を抱きしめる。

 

「大丈夫だよ、燈君。私はここにいるから……ちゃんと、生きてるから……っ!」

 

 百合子の瞳からも、ぽろぽろと涙の雫がこぼれ落ちる。やがて2人は互いを強く抱きしめ合いながら、堰を切ったように泣き出した。今まで抱えていた不安や恐怖、それらから解放された安堵。それらが混ざり合い、せめぎ合い、彼らは子供のように泣きじゃくる。

 

 

 

 

「一件落着、かな」

 

「馬鹿か、まだ始まってすらいねぇだろうが」

 

「いや、そうなんだけどさ……」

 

 それを少し離れた所から見守りながらシモンが漏らした安堵の言葉に、ミッシェルが釘を刺す。彼女らしい現実的な答えにシモンが苦笑すると、ミッシェルは「ただ……」と言葉を続けた。

 

「ひとまずでしかないが――めでたいな」

 

「……そうだね」

 

 微かに表情を和らげたミッシェルに頷いて、シモンは踵を返した。

 

「それじゃあ、ボクはまだやることがあるからこの辺で。小吉さん、ミッシェルさん、あとはよろしくね」

 

「おう、じゃあな」

 

「任ぜどげ……ぐすっ」

 

 ミッシェルといつの間にか戻り号泣していた小吉に見送られ、シモンは部屋を後にする。彼がそっと扉を閉めると同時、背後から野太い声がかかった。

 

「おう、団長。そっちの用事はもう済んだのか?」

 

 振り向いたシモンの目に映ったのは、ひげ面の大男だった。迷彩柄の軍服に身を包み、ぼさぼさの髪をヘアバンドでたくし上げたその風貌は、見るものに野性的な印象を与える。

 

「こっちはもう大丈夫。あとはミッシェルちゃんと小吉さんがやってくれるはずだよ」

 

「そいつは上々」

 

 しかしあれだな、と男は自らの顎髭を撫でながら、不思議そうに言う。

 

「あの嬢ちゃん、よく完治したよな。A(エイリアン)E(エンジン)ウイルス……だったか? 致死率はほぼ100%だったと思ったんだが」

 

「百合子ちゃんの場合、本当に運が良かったんだよ」

 

 首をひねる男に、シモンが続けた。

 

「あの子が感染してたのは、♀型A(エイリアン)E(エンジン)ウイルス。こっちのウイルスに関しては、試作型だけどクロード先生が一応ワクチンを作ったからね。手術自体を担当したのもクロード先生だったし、何より肉体の衰弱が致命的じゃない時期に保護できたのが大きい。多分、この中のどれか1つでも欠けてたら、あの子は助からなかったはずだよ」

 

「なるほどな。つまりあの嬢ちゃんは、相当なラッキーガールってわけだ」

 

「……まぁ、治ったこと自体は、間違いなく幸運だね。そこから先は……一概には何とも言えないけど」

 

 感心したように頷く男に、シモンはその目をチラリと向けた。

 

「他の皆は?」

 

「お嬢は予定通り、特性を使ってここの連中を尋問してる。んで、うちの団員半分がその警護、残り半分が大会の資金を回収してる」

 

「了解」

 

 頷いたシモンはぐっと伸びしてから、「それじゃあ、行こうか」と男に声をかけた。

 

「正直あんまり長居したい場所じゃないし、早く終わらせて拠点に戻ろう」

 

「ハハ、違いない」

 

 笑いながら男は同意すると、歩き出したシモンの後に続く。やがて2人の姿は、薄暗い通路の向こうへと消えていった。

 




【オマケ】

研究員A「ところで、培養できないウイルスからどうやってワクチン作ったんですか? 研究用のサンプルも、ワクチン制作用のサンプルも足りてないはずなのに」

クロード「? サンプルは足りないだけで、全く無いわけじゃないだろう? 数回分のサンプルで研究を成功させて、残りでワクチンを作ったんだよ」

研究員A「何言ってんだこいつ」




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第27話 FROM SECRET 水面下の日常


 ――ローマ帝国におけるキリスト教徒への迫害は日を追うごとに激しくなり、虐殺を恐れた者たちが国外へ脱出する事も当たり前になっていた。

 男は最後までローマにとどまるつもりであったが、周囲の人々の強い要請により、渋々ながらローマを離れるのに同意した。夜中に出発してアッピア街道を歩いていた男は、夜明けの光の中に、こちらに来るイエス・キリストの姿を見る。男は驚き、ひざまずき、尋ねた。

 Quo vadis, Domine(主よ、どこに行かれるのですか)

 キリストは言う

 そなたが私の民を見捨てるなら、私はローマに行って今一度十字架にかかるであろう。

 男はしばらく気を失っていたが、起き上がると迷うことなく元来た道を引き返した。そしてローマで捕らえられ、十字架にかけられて殉教したのである。

(阿部知二他編 『西洋故事物語 上』 河出文庫 1983年 より一部改変)




 

 ――恩人をあの星へ置き去りにして、自分だけが生き延びてしまった。

 

 君のその認識は間違っていると、私は思う。君が置き去りにしたわけじゃない。彼は自分の遺志であの地に残り、君たちに遺志を託したんだ。

 

 けれど、今の私が何を言ったところで、君にとっては何の気休めにもならないだろう。()()()()()()()()()()()()()()()()。例え誰もが君のことを許したとしても、他ならない君自身が、それを許せないだろうから。

 

 ならばそれは、君の『罪』だ。そしてそれが罪であるならば、君は償わなければならない。そのために××、君の名前は私が一度預かろう。代わりに君には、ある男の名前を名乗ってもらう。

 

 ――彼はかつて、イエス・キリストに教えを乞うていた弟子の一人だ。

 

 彼は弟子の中でも特に強くキリストを慕っていた人物だったが、キリストが十字架にかけられた時、彼は主を見捨てて逃走してしまう。

 

 しかし、それを心から悔いた彼はその生涯を宣教に捧げ、自らの死を悟りながら死地へと戻り、最期には師と同じくローマで逆十字にかけられ、殉教した。

 

 

 

 ――××。

 

 

 

 これから君と私は、20年の時間をかけて次の脅威に備えることになるだろう。そしてその時が来たのなら、君はもう一度火星に行って、あの悪魔たちと戦わなくてはならない。

 

 だから、その命をかけて贖罪に臨む君に、この名前を贈ろうと思う。十字架を背負い、それでも折れることなき信念を掲げて茨の道を進む君には、彼の名こそが相応しい。

 

 

 

 彼の名は、聖ペテロ。そしてその本名を――

 

 

 

 

 

 ――()()()()()()

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「――モン……シモン! しっかりしなさい!」

 

 聞き慣れたその声に意識が夢から現へと引き戻され、シモンは跳び起きた。心臓が早鐘のように胸を打ち、呼吸が荒い。右手で額をぬぐってみれば、手の甲はじっとりとした感触を感じ取った。

 

「ん、あれ……? ボクは……」

 

 チカチカと眩暈がする。何かの夢を見ていたようだが、記憶に靄がかかったように思い出せない。ぼんやりとする頭で記憶をたどってみたところ、書類に印を押したところでそれは途切れていた。どうやら、そのまま眠ってしまったらしい。

 

「混乱してるところ悪いけど、シモン。何か言うことがあるんじゃないの?」

 

 鈴の鳴る様な声が聞こえた。思わずシモンは顔を上げ、視界に1人の人物の姿を納めると、少しだけ目を丸くした。

 

 そこにいたのは、ブロンドの髪と雪のように白い肌が特徴的な女性。

 

 童顔で小柄、起伏の緩やかな体型をした彼女は、一見すると少女と見紛うほどに幼い印象を受ける。しかし、薄手のベビードールという彼女の衣装や、隅々まで丁寧に手入れのされた肢体、そして何気ない一つ一つの仕草が、彼女に気品と艶めかしさを与えている。

 

「あれ、モニカ……?」

 

 シモンの呼びかけに、女性――モニカは返事をしなかった。彼女はその菫色の瞳に、どこか心配そうな、あるいは不機嫌そうな光を灯し、シモンのことを見つめる。

 自分が先程の問いに答えるまで、口を開くつもりはないらしい。それを察したシモンは、少し考え込んでから口を開いた。

 

「えっと……おはよ?」

 

「やだ、あざと可愛い。これは下半身にキュンと……じゃなくて!」

 

 首をかしげたシモンに萌死にそうになるも、モニカは辛うじて理性を保った。緩んだ表情筋をキッと引き締め直し、彼女はシモンへと詰め寄る。

 

「あなた、大丈夫なの? またうなされてたわよ」

 

 彼女の言葉に、シモンは「あー」とばつの悪そうな声を出して、視線を泳がせる。

 

「……うん、ボクは大丈夫。心配させてごめんね」

 

 ――明らかに嘘をついている。

 

 シモンの仕草から、モニカは瞬時にそれを見抜く。大きなため息を吐き、それから彼女は、目の前に座るシモンへと一つの質問を投げかけた。

 

「シモン、今日のあなたの睡眠時間は?」

 

「うん? えっと……四時間だね」

 

 時計を確認しながら「ちょっと寝すぎちゃったかな?」と漏らすシモン。そんな彼の頭を、モニカは無言で引っ叩いた。

 

「根を詰めすぎよ、シモン。戦術の勉強や戦闘訓練に余念がないのはいいことだけど、少しは自分をいたわったらどうなの?」

 

 そう言ってモニカが目を向けたのは、先程までシモンが眠っていた事務机と、そこに積み上げられた山のような書籍の数々、そしてここ一カ月ほど使った形跡の見られないベッド。先程の発言と合わせれば、彼がハードワークに追われていることは容易に想像が付いた。

 

「いや、このくらいなら全然大丈夫だよ。ボクが自分から言ったことだし」

 

 しかも、本人がそれを望んでやっているから性質が悪い。シモンは隈の浮かんだ目を細めると、更に続けた。

 

「それにほら、そもそもボクの体は人間じゃな――」

 

「少し黙りなさい。それ以上言ったら押し倒してぐちょぐちょにするわよ?」

 

「!?」

 

 慌てて口を閉じた彼の前でしゃがみこみ、モニカは目線の高さをシモンへと合せた。

 

「いい、シモン? その体がどれだけ昆虫に近かろうと、あなたの心は人間なのよ。安息がなければ、どんなに強い精神も必ず壊れるわ」

 

 そう言うと、モニカは己の掌をシモンの胸に当てた。

 

「あなたが壊れてしまったら、私たちの計画は間違いなく破綻するわ。あなたの二十年をこんなことで無駄にするなんて、誰が許しても私が許さない――だから、自分をもっと大切にして。あなたは自分で思っている以上に、大きな存在なの」

 

 いいわね? と念を押すと、シモンはコクコクと頷いた。

 

 ――これでしばらくは大丈夫。

 

 モニカは張りつめていた糸を緩めると、すっと立ち上がった。

 

「本当はあなたに報告があったんだけど……そろそろ朝食ができるから、その時にしましょうか。とりあえずシモン――」

 

 そこでモニカは口をつぐみ、一拍の間を置いてから続けた。

 

「――顔を洗ってきなさい。()()()()()、洗い流した方がいいわ」

 

「!」

 

 驚いたシモンに無言で手を振り、モニカは部屋を出ていった。シモンは慌てて鏡を覗き込み――そして、嘆息混じりに呟く。

 

「……ああ、またやっちゃったのか」

 

 鏡面に映し出された、己の顔。そこには掻き毟ったような生傷がいくつも刻まれており、じんわりと赤い血が滲んでいる。

 

 ――自傷癖。

 

 あの日以来――シモンはたまに、自分で自分の体を傷つけていることがある。意識してやっているわけではない。だが気が付くと、彼の腕は体中を傷つけているのだ。まるで、それが自分に対する罰だとでもいうかのように。

 

「最近よくなってきたと思ったんだけどなぁ」

 

 ぼやきながらシモンは、部屋の中に取り付けられた洗面台の蛇口をひねり、水で顔の汚れを洗い流した。ヒリヒリと痛む傷に顔をしかめつつ、タオルで水気をぬぐい取る。それからシモンは、身に着けていた衣類を脱いでハンガーへとかけていった。

 

 衣類の下からあらわになったのは、鍛え上げられて引き締まった肉体。アスリート顔負けの肉体だが、その全身には歴戦の軍人さながらに大小様々な傷跡が残っている。

 

 

 しかし、真に目を引くのはその傷ついた体ではなく――その手足。

 

 

 彼の体は、薬を打っていないにもかかわらず、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 また小麦色の髪の隙間からは昆虫の触角が伸び、周囲を探るかの如く、盛んにピクピクと動いている。

 

「――大分、人間離れしたなぁ」

 

 変わり果てた自分の体を見下ろして、シモンは何の感慨もなさそうに言った。

 

 

 

 ――これも、二十年の間に彼の体に起こった異変。

 

 

 

 戦闘訓練、手術、実戦任務。力を求めて自らの『特性』を酷使し続けた結果、いつの頃からか、体の一部が変態状態から元に戻らなくなったのだ。

 

 元々、変態薬を接種せずとも一部の能力は使えた彼だが、生来のベースに関していえば『いつでも使える』を通り越して『常に発現している』状態。その肉体は昆虫の遺伝子を組み込まれた人間から、人間の形をした昆虫の域へと傾きつつあった。

 

 彼が普段からフルフェイスに中華拳法服という奇特な格好をしているのも、これらの異常を隠すためであった。

 

「……まぁ、いっか。特に人間じゃないと困ることもないし」

 

 しかしシモンは、それに対して特に嫌悪感を抱くようなそぶりは見せない。それどころかむしろ、歓迎している節さえ見られる。

 

 ――人としての幸福は、二十年前のあの日に置いてきた。異形になり果てて皆を守れる力が手に入るなら、自分の肉体などいくらでも差し出そう。

 

 その先の未来で、自分以外の皆が笑いあえているのなら、それで十分だ。

 

 シモンは自らの体を隠すように中間拳法服を羽織ると、くしゃくしゃと手櫛で髪を整える。それからシモンは、部屋のドアノブをひねった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ――地下闘技場での一件より二週間後、現地時間にして朝の七時すぎのこと。

 

 シモン達の活動拠点である『基地』内の食堂にて、2人はテーブルを挟んで座っていた。

 既に食堂内は大勢の人で溢れかえっており、彼らの喧騒と朝食の優しい匂いで満たされている。シモンとモニカの前にもトレイが置かれており、乗せられた皿には2人の好みに合わせた朝食が盛りつけられていた。ちなみにメニューはシモンがパン、コーンスープ、それからビタミン剤などのサプリ。モニカはサラダとフルーツの盛り合わせ、それにできたてのスムージーだ。

 

「それじゃあ、シモン。さっそくだけれど、良い報告と悪い報告とエロい報告。どれから聞きたいかしら?」

 

「……とりあえず、最後の報告はいらないかな」

 

 シモンの言葉を聞き流すと、モニカは目の前の大皿から、これ見よがしにバナナを手に取った。彼女は皮を剥いたそれを口元へ運び、舌先でチロチロと舐めながら妖艶にほほ笑む。向かいの机に座っていた男性数名の鼻の下が伸びた。

 

「私は今、発情期よ」

 

「ボクの話聞いてた? あと、お行儀悪いからちゃんと食べてね」

 

 ちなみに、シモンに対しては全く効果が無いようだ。それを悟ったモニカは残念そうに肩をすくめ、そのままバナナにがぶりと喰らいつく。よからぬ妄想を巡らせていた男性数名は一斉に顔を青くして股間を押さえ、周囲にいた女性達の白い視線を集めた。

 

「さて、改めて……どっちから話すべきかしら?」

 

 口の中の果肉を飲み込んで、モニカが言う。その言葉にシモンは少しだけ考え込んでから、「それじゃあ、良い報告から」と返す。モニカは手にしたフォークでトマトをつつきながら頷くと、口を開いた。

 

「良い報告その1。あなたとクロード博士以外、私を含めた6人の団長(メインアーム)の戦闘調整が終わったわ」

 

「本当!?」

 

 モニカの口から告げられた言葉に、シモンの表情がぱっと明るくなった。

 

 ――団長(メインアーム)

 

 彼らは、シモンとクロードが極秘裏を進めている『アーク計画』の中核をなす存在だ。その立ち位置は、現在U-NASA主導の下で準備が行われている『アネックス計画』における幹部(オフィサー)と呼ばれる人材に近い。

 

 その多くが歴戦の軍人で構成され、強力な手術ベースを授けられたアネックスのオフィサーたちは『人間側の兵器』とまで言われる戦闘力を持つが、アーク計画の団長たちもまた、『兵器』と呼ぶに相応しい実力者たち。その能力は、科学者として幹部を良く知るクロードをして「純粋な戦闘能力は幹部と同等クラス」と言わしめる程だ。

 

 しかし彼らに与えられた手術ベースは、その強力さと引き換えに()()()()()()()()()()()()()()()()。中には本人でも制御が難しいほどに苛烈かつ繊細な特性を持つベースもあり、調整が思いのほか難航していたのだ。

 

 どうなることかと気をもんでいたが、この調子ならば計画の実行までには十分間に合うだろう。

 

「喜んでくれたみたいで嬉しいわ。続けて、良い報告その2。()()()()()()()()()()()

 

 その瞬間、音を立ててシモンの表情が固まった。

 

 ――あれ? 何か嫌な予感がする。

 

 硬直するシモンを面白そうに見つめながら、モニカは悪戯っぽい口調で続けた。

 

「ここで悪い報告よ。私達の調整に使った訓練場、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ちょっとぉ!?」

 

 思わず大声を上げたシモンに、周囲の人々――全員『アーク計画』の関係者である――が何事かと彼を見つめた。視線に気付いたシモンは顔を赤らめ、恥ずかしそうに席につくと、小声でモニカに訊く。

 

「そ、それで、被害の状況は?」

 

「瓦礫の山になったのが1か所、内部がボロボロで使い物にならなくなったのが2か所、汚染されて防護服なしじゃ入れなくなったのが2か所、ほぼ全ての機器類が故障したのが1か所ね」

 

 その報告を聞いて、シモンはがっくりと肩を落とす。一方で、聞き耳を立てていた周囲の反応は淡泊だった。どうやら訓練場の閉鎖は日常茶飯事らしく、大半が「なんだ、いつものやつか」とばかりに、あっさり聞き流している。

 

「いや、正直こうなるんじゃないかとは思ってたけどさ……先週修理し直したばっかりだったのに……」

 

 恐る恐る脳内でそろばんを弾いてみると、先日の地下闘技場から押収してきた資金が全て吹き飛んだ。財政難――とまではいかないが、幾つか考えていた使い道がパーである。経理部にどんな顔で報告すればいいんだ、これ。

 

「……修繕費、よければウチの財閥から出しましょうか?」

 

 シモンが涙目になったその時、彼の耳はそんな囁き声を聞いた。顔を上げた彼の目に映ったのは、天使のような笑顔を浮かべたモニカだった。

 

「あなたとクロード博士にはお世話になってるし、そのくらいなら負担するわ」

 

「いいの!?」

 

「勿論よ。こう言ってはなんだけど――私たちベックマン財閥にとって、このくらいは大した額じゃないもの」

 

 こともなげにそう言って、モニカは微笑んだ。

 

 ――27世紀の地球上において、世界でも五指に入るほどの財力を有する『ベックマン財閥』。モニカ・ベックマンは、その若き当主である。

 

 彼女はとある事情からアーク計画の団長の一人として計画を主導する立場にいるが、その本業は経営者。成程確かに、差配1つで世界をも動かしかねない彼女にしてみれば、小規模な施設の修繕など大した出費にもならないだろう。

 

「ありがとう、モニカ! 本当にありがとう!」

 

「あら、気にしなくてもいいのよ。私とあなたの仲じゃない」

 

 元気を取り戻したシモンに、モニカが優しい声で言う。近くで話を聞いていた軍服の大男が「……これ、お嬢も訓練場ぶっ壊してるし、マッチポンプじゃねぇか?」と呟くが、他の者がそれを黙殺する。下手なことを言うと、社会的に抹殺されかねないのである。

 

「さ、とりあえず契約書にサインしてちょうだい。大丈夫大丈夫、契約書って言っても形式的なものだから」

 

 だから目の前で、上司が漫然と『コスプレ写真撮影会の参加に同意します』などという怪しげな書類に署名させられそうになろうと、誰も助けない。よくよく内容を観察すると、かなり過激な内容も含まれているようだが――

 

「こいつは放っておいた方が面白そうだな」

 

「コスプレしたシモン団長とか滅茶苦茶気になる」

 

「団長のコスプレ写真売り出せば、予算も黒字なるんじゃね?」

 

 やはり、止めようとする者はこの場に誰一人としていないのであった。薄情な連中である。

 

「チョロ――じゃなくて、ありがとうシモン」

 

「? うん、こちらこそ」

 

 ――いつか詐欺にあって、全財産を巻き上げられたりするんじゃないかしら。

 

 モニカは自分の行いを完全に棚の上にあげ、心の中で呟く。束の間、そうなった状況をシミュレートしていた彼女だったが――

 

「……まぁ、その時は私が養うからいいか。むしろバッチ来いね」

 

 ――どうやら自己解決したらしい、アレな方向に。

 

 思考を終えた彼女は軌道の修正を図るため、小さく咳払いをするとその姿勢を正した。さりげなくシモンの手元から契約書を回収して、彼女は更に続ける。

 

「それとシモン、ついさっきクロード博士から連絡が入ったわ」

 

「!」

 

 僅かに体を前のめりにするシモン。そんな彼に「朗報よ」と告げて、モニカはその口端を釣り上げた。

 

「最後の1人が目を覚ましたわ。術後経過は良好、直に元の状態に戻るはずよ」

 

「よしっ! こっちも間に合った!」

 

 想定していた中でも最善の知らせに、シモンがガッツポーズで喜びを表現した。モニカはサラダを口に含むと、脇に置いていた鞄から小型のタブレット端末を取り出す。

 

()()()6()()()()()()()()()()()()。準備段階としては、怖いくらいに順調ね……それで、シモン。次の一手は?」

 

 シモンは考え込むようにそっと目を閉じると、彼女に問いかける。

 

「各種用品の貯蓄はどうなってる?」

 

「大分集まったわ。200人でも1年間くらいは籠城できるんじゃないかしら」

 

「艦と兵器の調整は終わった?」

 

「全部調整済みよ。小国相手なら戦争を仕掛けても勝てるはず」

 

「薬の備蓄は?」

 

「腐るほどあるわ。薬が尽きる前に、私達の寿命が削りきれないか心配なくらいよ」

 

「うん、問題なさそうだね。それなら――」

 

 そしてシモンは一度言葉を区切り、モニカに告げた。二十年の歳月をかけた、自分とクロードの計画。その成就に必要な、最後のピースの存在を。

 

 

 

 

 

「小吉さん――小町艦長をこっち側に引き込もう」

 

 

 

 

 

 そう言ってシモンは静かに、しかし自信ありげに微笑むのだった。

 

 

「あの人の協力を取り付けられれば――いよいよ『アーク計画』の準備段階は完了だ」

 

 

 

 




【オマケ】 訓練場閉鎖について、各団長の供述

モニカ「しょうがないでしょう? 私の特性を使うと嫌でもこうなるのよ」
(素直に全力を出した結果)

多重人格少女「ご、ごめんなさいぃ……!」
(一部の人格がはっちゃけるのを止められなかった)

フード「……(無言の土下座)」
(うっかり出力の調整を誤った)

オカマ「アタシ的に手加減とか超ナンセンス! こういうのはロックに行くべきよ!」
(そもそも配慮をするつもりがない)

厨二「クク……我が力をもってすれば、これしき造作もない事よ」
(『訓練場を単独で閉鎖させるほどの戦闘力』という厨二な肩書が欲しかった)

筋肉おじいちゃん「ヌハハハハ! ようし、今回も記録更新じゃあ!」
(むしろどれだけ速く訓練場を潰せるかに熱意を向け始めている)

シモン「毎度のこととはいえ、胃が痛い……」
(といいつつ、たまに上6人分の被害を1人で出したりする)




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第28話 OATH TO HEART 最愛に誓う


 本当なら次の話と合わせて一話のつもりだったんですが、長かったので前半部を一話として投稿します。一部の感想返しと食い違いが生じますが、ご容赦ください。

 それと、不肖KEROTA、ツイッターを始めました。作者のページにアカウントを乗せておいたので、よろしければフォローしてやってください。たまに、小説の裏設定とか呟くかもしれません。




 

「……知らない天井だ」

 

 ワシントンD.Cにある、国際航空宇宙局――通称『U-NASA』本部。その特別病室で目を覚ました膝丸燈は、ぼんやりと呟いた。

 

 数分待って意識が完全に覚醒したところで、燈はベッドの上で上体を起こした。視点が変わり、彼の視界には白く清潔感のある病室と、窓から差し込む太陽の光。

 そしてベッドに上体を預けて眠る、百合子の姿だった。

 

「……ちょっと前までとは立場が逆だな」

 

 彼女がまだ病気で入院していた頃を思い出し、燈は頬を緩めた。穏やかな顔で眠る彼女へと手を伸ばし、彼はそっとその黒髪を梳く。

 

 布団越しに感じる彼女の体温が、そっと耳に届く彼女の呼吸音が、たまらなく愛おしい。いつまでこうしていても、飽きることはないだろう。

 

「……お楽しみ中に悪いが、そろそろいいか?」

 

「うおっ!?」

 

 突然背後から声がかけられた声に、思わず燈は体を固くする。慌てて百合子が座っているのとは反対側、病室の入口へと目を向けると、そこには病室の壁にもたれかかるようにして、ビジネススーツに身を包んだ、金髪の女性が立っていた。

 

「あ、あんた確か、ミッシェル……さん? い、いつからそこに……」

 

「お前が目を覚ました時からだ。ざっと――五分くらいか」

 

 しれっと言い放ったミッシェルに、燈の全身に二重の意味で冷や汗が噴き出す。今まで彼女の存在に気づかなかったこと、そしてそれほどの間、百合子の頭を撫でていたことを自覚したのだ。

 

「さて、それじゃ早速、現状を説明していくが……その前に」

 

 ミッシェルはヒールを鳴らしてベッドに近づき、手に持っていたファインダーで百合子の頭を軽くはたいた。途端、寝ているはずの彼女から「あイタっ!?」という悲鳴が上がる。

 

「いい加減起きろ、百合子。いつまで寝たふりしてんだ、お前は」

 

 呆れた様にミッシェルが言うと、百合子はおずおずと顔を上げた。その顔には、気まずそうに引きつった笑顔が浮かんでいる。

 

「い、いつから気付いてたんですか、班長?」

 

「大体四分前に、お前が目を覚ました時からだ。若い男女の触れ合いを邪魔するつもりはないが、こいつには言わなきゃならないことが五万とあるんだ。いちゃつくならその後にしてくれ、いいな?」

 

「……はい」

 

 蚊の鳴くような声でそう言って、百合子は恥ずかしそうに俯いた。一方の燈も、目が覚めてからの自分の行動を振り返って、顔を赤くしたり青くしたりしている。

 

 初々しいこった、と内心でぼやきながら、ミッシェルはベッド脇の簡易イスに腰掛ける。それから、滝のような汗をかいている燈へと視線を向けた。

 

「とりあえず燈。前に艦長から説明されたことは覚えてるな?」

 

 ミッシェルの言葉に、燈は強く頷いた。忘れるはずがない。あの日、小町小吉に告げられた言葉を受けて、自分が『手術』を受けることを――火星に赴くことを決意したのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

「燈くん、俺は――俺達は、君に謝らなければならない」

 

 ――燈が百合子と再会した、あの日。

 

 2人が落ち着いた直後、その場にいた小吉が最初にしたことは、燈へと頭を下げることだった。状況が飲み込めず困惑する燈に、彼は順を追って事情を説明していく。

 

 自分達がU-NASAの『火星探査チーム』に所属する人間であること。

 

 その目的は、百合子を侵していた諸悪の根源である、とあるウイルスのワクチンを作るためであるということ。

 

 そして、自分をそのメンバーの一員としてスカウトしようとする中、百合子の存在に気付き、保護。その上で彼女を治療し、病気を完治させたということ。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ!」

 

 そこまで聞いたところで、燈は戸惑い気味に声を上げた。

 

「あんたらがどういう人間なのかは分かった。どういう過程で、百合子を保護したのかも。けど――何であんたが謝ってるんだ? あんたらは、百合子のことを救って――」

 

()()()()()

 

 燈の言葉を遮るように、小吉の背後からミッシェルが口を挟んだ。

 

「確かに私達は彼女を保護した。病気の治療もして、無事に病も完治させた――そう、文字通りあらゆる手段を使ってな」

 

 だが、とミッシェルは微かにその表情を曇らせ、言葉を続けた。

 

「結果として――私達はその子を、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……どういうことだ?」

 

 微かに顔を強張らせる燈。そんな彼に、小吉が再び口を開いた。

 

「彼女を治療するために、我々は試作型のワクチン投与を行った。ワクチンの効果は劇的なものだったが――彼女を完治させるには至らなかった。放っておけば、再発するのは時間の問題。だから彼女と、担当医と協議した上で――最後の手を使うことになった」

 

 固く拳を握りしめる小吉。強く引き締めたその顔に浮かぶのは、微かな後悔の色。

 

「火星探査チームに義務付けられている、特殊な手術を彼女に施したんだ」

 

「特殊な手術?」

 

「そう。彼女に施したのは、免疫寛容臓移植手術――通称、MO手術(モザイクオーガンオペレーション)と呼ばれるものだ」

 

 疑問の色を浮かべる燈に対し、小吉は手術の内容を簡潔に説明していく。

 

 ――MO手術。

 

 それは免疫寛容臓(モザイクオーガン)と呼ばれる特殊な臓器を移植することで、人間の肉体に他生物の遺伝子を共存させる手術。身も蓋もない言い方をすれば、人体改造手術である。

 この手術に成功した被験者は、通常の人間に比べて遥かに強靭な肉体と、組み込まれた生物に由来する『特性』を身に着けることができるのだが――

 

「――副次作用として、MO手術が成功した被験者は,例のウイルスに耐性を持つことが確認されていたんだ。逆説的に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 一拍の間を置いて、小吉は続ける。

 

「成功率は40%前後、手術に失敗した被験者はほぼ確実に死亡する。稀に失敗しても生き残る奴はいるが……俺は2人しか知らないし、生き残った場合でも、免疫抑制剤が手放せなくなる。まぁ、とにかく危険な手術だったんだ。それでも……彼女を完治させるためには、この手術を施すしか道は残されていなかった」

 

「まさか、失敗したのか……!?」

 

 燈の顔から血の気が引いていく。しかし彼の予想に反して、百合子はその首を横に振った。

 

「ううん、手術自体は成功したの。担当してくれた先生が凄い人でね、後遺症とかも特に出てない。だけど……」

 

 そこまで言って、百合子は躊躇うように口を閉ざした。その先に続く言葉を言い淀んだ彼女に代わり、小吉は口を開く。

 

 

 

 

 

「手術が成功したことが原因で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「なっ……!?」

 

 小吉の口から告げられた言葉に、燈は驚愕を顔に浮かべる。一瞬の後、彼はその表情を怒りのそれへと変え、小吉のスーツの襟元を掴んだ。

 

「おい、正気かあんたら!? ほんの数か月前まで死にかけてた女を、火星の探査に駆り出すつもりか!?」

 

「……そうだ」

 

 ――返された肯定の言葉を受け、彼の胸の奥底に、憤怒の炎が荒れ狂う。

 

 まるで自分ではない『何か』に突き動かされるかのように、それは彼の理性を容易く飲み込んだ。

 

 激情にかられ、燈は半ば衝動的に、その腕を大きく振りかぶった。そしてそれを、小吉の顔面を目掛けて振り下ろし――

 

「待って、燈くん! 違うの!」

 

 ――耳に届いた百合子の声に、寸でのところで拳を止めた。

 

 彼女はそれを見るや否や、2人の間に自分の体を滑り込ませ、口早に事情の説明を始めた。

 

「小吉さんとミッシェルさんが、私を火星チームに入れたわけじゃない! 2人は最後まで、私を探査チームに入れないように動いてくれてたの! けど、気付いた時にはもうどうしようもなくなってて……!」

 

「……どういう、ことだ?」

 

 幾分冷静さを取り戻した燈が訊くと、小吉の背後からミッシェルがそれに答えた。

 

「どっかのクソ野郎が、その子を広告塔に使いやがったんだ。『()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()』ってな。更にクソッたれなことに、SNSやらテレビCMやらで、この子の顔は世界中に放送されてしまった」

 

 心底忌々しそうに、ミッシェルは吐き捨てた。

 

「全世界のメディアに大見得を切った手前、上も簡単には引けないんだろう。何を言っても『これは決定事項だ』の一点張りで、私達(げんば)の声なんて聞きもしねえ。かといって無理に脱走すれば、機密を守るためにU-NASAから追手が差し向けられる可能性が高い」

 

「……なんだよ、それ」

 

 俯いた燈の口から、そんな言葉が漏れる。

 

 ――彼女の病が治ったのだと、素直に喜ぶことはできなかった。

 

 このままでは、百合子は火星の探査に連れていかれてしまう。火星は未だに開発中の惑星、どんな危険が潜んでいるか分かったものではない。しかも、火星に向かう人員がわざわざ人体改造をしている、という点。ここから推察するに、おそらく()()()()()()()()()()()()()()()

 

 真の意味で、百合子は助かっていない。ただ彼女のおかれた状況が『絶対に死ぬ』から、『死んでもおかしくない』に置き換わっただけだ。

 

「クソッ……!」

 

 生身で熊を倒せる身体能力があろうと、他を圧倒する武術を治めていようと。自分の手は、たった一人の愛する人さえも守れない。

 

 己の無力がどうしようもなく恨めしく、燈は歯を固く食いしばる。そんな彼に、小吉はゆっくりと語り掛けた。

 

「君には、どんなに謝っても謝りきれない。だが、その上で――どうしても君に頼みたいことがある」

 

 そう言って小吉は、その両腕を打ちひしがれる燈の肩へと置いた。

 

「燈くん。君には、俺達の火星探査チームに加わってもらいたい」

 

 その言葉に、燈は思わず顔を上げる。真っすぐに己を射抜く彼の視線を正面から受け止め、小吉は更に言葉を続けた。

 

「勿論、チームへの参加を強要することはない。ただ我々は、君を強く必要としている。君の技術、力、そして強い意志が、我々には必要なんだ。それにチームに参加すれば――君は火星に行っても、彼女のことを守ることができる」

 

 そこまで言ってから、小吉は深く頭を下げた。

 

「厚かましい頼みであることは承知の上だ。君の大切な人を盾にしておいて何を、と思うかもしれない。ただ――」

 

「やらせてくれ」

 

 燈は即答した。小吉の言葉を最後まで聞くことはしない――そもそも、その必要がないのだ。

 

「事情は分かった。チームの一員になれば、百合子の側にいられるんだな? なら、迷うまでもない。俺は、あんたたちと一緒に火星に行く」

 

 即断即決とはよく言ったもの、そのあまりの早さに、小吉とミッシェルは驚きを隠せなかった。これまでもクルーのスカウトをしたことがあったが、これほど早く決断を下したのは、燈が初めてだった。

 

 しかも――目を見ればわかる。彼の決意はその場の勢いではない、本物の覚悟に裏打ちされたものだ。

 

 鋼鉄の如き、揺らぐことなき彼の信念。それは歴戦の2人をして、思わず圧倒されてしまう程のものだった。

 

「……駄目だよ、燈くん」

 

 そんな中ただ1人、百合子だけは反対の声を上げた。彼女は俯いたまま、燈に告げる。

 

「燈くんはさ、もう十分に私のために戦ってくれたじゃん。だから、これからは自分のために時間を使ってほしい。それに――」

 

 そう言って、百合子は顔を上げた。

 

「――私のために傷つく燈くんなんて、もう見たくないよ」

 

 彼女の目から、一筋の涙がこぼれ落ちる。それは、先程まで彼女が流していた再会の嬉し涙ではなく、目の前の幼馴染を心から案じるがゆえのもの。

 

「私、昔から燈くんのことを傷つけてばっかりだよね。今だって、燈くんは私のために戦って、こんなに傷ついて。そのせいで傷つく燈くんを見てると、私は胸が張り裂けそうになる。でも……私は弱いから。きっとまた、その優しさに甘えちゃう」

 

 ――これから自分を待ち受ける未来を思うと、不安でたまらない。怖くて震えが止まらない。

 

 本当は一緒にいてほしい。側で支えてほしい。

 

 けれど彼女は、その想いを押し殺す。身勝手な自分の甘えに、これ以上彼を付き合わせることはできない。自分の弱さに、これ以上彼を巻き込むわけにはいかないのだ。

 

「お願い、燈くん。私なら大丈夫だから。これ以上、私のために戦わないで。これ以上、私に優しくしないで……!」

 

 絞り出すような声で、百合子は燈を拒絶した。同時に彼女はひざを折ると、俯いて嗚咽をかみ殺した。

 

 沈黙が、部屋の中を支配する。

 

 小吉とミッシェルは、何も言わなかった。この沈黙を破るべきは、自分達ではないと理解していたから。

 

 重苦しい静けさの中で、時間はゆっくりと刻まれていく。一体どれほどの間、彼らはそうしていたのだろうか。長い沈黙の果てに、燈はゆっくりと口を開いた。

 

「なぁ、百合子。初めて会った時のこと、覚えてるか?」

 

 そう言って燈はしゃがみ込み、俯く百合子に視線を合わせる。思わず顔を上げた彼女に、燈は優しく微笑む。

 

 

 

 ――幼少時、燈はその特異な体質が原因で、周囲から孤立していた。

 

 一緒に遊ぶ友達も、他愛のない話ができる仲間も、喧嘩をする相手さえもおらず、ただひたすらに孤独な日々。何かが欠け落ちた空虚な日常を、燈はぼんやりと過ごしていた。

 

 それを崩してくれたのが、他でもない百合子だった。

 

『あかり君! そんな所にいないで、いっしょにおべんとう食べようよ!』

 

 そう言っておにぎりを差し出した彼女の笑顔を、燈は決して忘れることはないだろう。百合子の言葉は、灰色だった自分の世界に鮮やかさをくれた。

 

 彼女の優しさに、燈は救われたのだ。

 

 自らを見つめる百合子。大きく息を吸って、燈は口を開いた。

 

「俺、本当はさ。あの日からお前のことが――」

 

 

 

 

『――すごく、大切なんだ』

 

 

 

 

 ――かつて病床に伏せる彼女に、自分はそう続けた。

 

 無論、その言葉に偽りはない。けれどそれは、本当に自分が伝えたい言葉でもなかった。

 

 あの時の自分はまだ、彼女がいつまでも隣にいると思っていた。いつの日か彼女が元気になる日が来るだろうと、この想いはその時まで秘めていようと、そう思っていたのだ。

 

 だが、今ならば分かる。

 

 平穏な日々がいつまでも続く保証など、どこにもない。大切な人が明日も隣にいるとは限らない。ふとした拍子に大切なものがこぼれ落ちて、二度と戻らない可能性は誰にも否定できない。

 

 だから、今度こそ伝えるのだ。あの日の自分が本当に言いたかったその言葉を。あの日の自分が、言わなかったその言葉を。

 

 あの日の自分が言えなかった、その言葉を。

 

 

 

 

 

 

 

「お前のことが好きだったんだ、ずっと」

 

 

 

 

 

 口を開けば、それは意外なほどあっさりと喉の奥から滑り出た。突然の告白に目を丸くする百合子に、燈は続けて言う。

 

「お前があの時に声をかけてくれたから、今の俺がある。お前がいてくれたから、俺は今ここにいる。一緒に泣いたこと、笑ったこと、喧嘩したこと……俺にとっては、どれもかけがえのない宝物なんだ。お前が傷つく俺を見たくないように、俺も苦しむお前は見たくない」

 

 ――なぁ、百合子。

 

「『これ以上戦わないで』なんて、寂しいこと言うなよ。俺だけが日常に戻ったって、意味がないんだ。隣にお前がいなかったら、俺の幸せはまた色褪せちまう。だから――」

 

 そう言って燈は百合子の手をとった。燈の大きな手は、百合子の小さな手を、あらゆる災いから守るように、優しく包み込む。

 

 そして、燈は告げた。言の葉に、己の決意と想いを乗せて。

 

 

 

 

 

「俺はお前が何と言おうと、火星に行く。大切な宝物を、俺の幸せを……この手で守り抜くためにな」

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

「というのが、お前がこれから火星に行く理由な訳だが――」

 

「待ってミッシェルさん! 燈くんが恥ずかしさで悶死しそうになってる!?」

 

 悲鳴を上げる百合子の視線の先には、顔色が赤を振り切って白くなりつつある燈。何かをブツブツと呟き続ける彼の頭をファインダーで叩くと、ミッシェルは続けた。

 

「お前の手術は無事に成功し(おわっ)た……といっても、お前や私の場合、成功することは分かりきってたんだがな」

 

 ――ミッシェルと燈の体には、先天的に他生物の遺伝子が備わっている。

 

 それは異なる遺伝子の拒絶反応を防ぐための免疫寛容臓もまた、生まれつき彼らの体内に存在しているということに他ならない。つまり、MO手術で最も危険な臓器移植の過程を踏む必要がないのだ。

 

「何にせよ、これでお前も宇宙艦『アネックス1号』の一員だ。改めてよろしくな、燈」

 

「――はい!」

 

 燈が頷いたのを確認して、ミッシェルは立ち上がった。

 

「細かい話はまたあとにしよう。もうじき担当医が来るはずだ。午後になったら歩行のリハビリがあるから、それまでは大人しくしとけ……ああ、それと百合子。教官殿から伝言だ」

 

「うっ……リー教官からですか」

 

 自分にも他人にも厳しいことに定評のある教官の姿を思い浮かべ、百合子が微かに顔をしかめた。内容は、燈の手術当日から訓練を休んでいた自分に対する叱責といったところだろうか。

 

 そんな予想を巡らせる百合子だが、ミッシェルの口から出た言葉は彼女の予想を裏切るものだった。

 

「『今日までは何も言わねぇが、明日からの訓練には出てもらう』……だとよ」

 

「……え?」

 

 キョトンとする百合子をしり目に、ミッシェルは背を向けると入口へと向かって歩き出した。

 

「まぁそんなわけで、お前には特別休暇をくれてやる。班長命令だ、お前は今日一日、そいつと青春しとけ」

 

「えっ、班ちょ――」

 

 おそらく赤面しているだろう百合子に手を振り、廊下に出たミッシェルはぴしゃりと病室のドアを閉めた。

 

「……我ながら似あわねぇ。余計な気を回しすぎたか?」

 

 少しばかりの気恥ずかしさを誤魔化すように呟いて、ミッシェルは廊下を歩きだす。

 

 とはいえ、何年もの間、未知の病という壁に隔てられ続けた2人だ。今日くらい好きにさせた所で、罰は当たらないだろう。彼らは機械でも昆虫でもなく、1人の人間なのだから。

 

 例えこんな場所、こんな形での再会だとしても――最低限の幸せは保証すべきなのだ。それが、アネックス計画の幹部であるミッシェルにとっての義務であるのだから。

 

「ただ、だからこそ――」

 

 

 

 ――()()()()()()

 

 

 

 棟内の廊下を歩きながら、ミッシェルは考える。2人が無事に再会できたことではない。燈が火星に行くことでもない。そうなるに至った『過程』が問題だった。

 

 ――考えてみればこのアネックス計画には、不自然な点が多い。

 

 まず第一に挙げられるのは、『病み上がりの百合子を火星に連れていくという』U-NASA上層部の正気を疑うような判断。

 

 小吉と自分が詰め寄った際に得られた回答は、以前燈に説明した通り。だが実際問題として、これにはかなり無理がある。U-NASAが本気を出せば――あるいは本気を出すまでもなく、ある程度の報道規制を敷けば、それだけで百合子の存在を隠蔽することは十分にできるのだから。

 

 はっきり言って、病み上がりである百合子の任務適正はかなり低い。言い方は悪いが、足手まといになる可能性も決して低くはないだろう。なのになぜ、上層部はこうも頑なに彼女をアネックス計画に参加させようとしているのか?

 

 

 違和を覚える点はまだある――旧バグズ2号の乗組員たちの処遇だ。

 

 U-NASA上層部は旧バグズ2号の乗組員の過半数に対して、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 今回のアネックス計画に参加を許されたのは、ただの四人。

 

 アネックス1号の艦長であり、日米合同第1班の班長を務める『小町小吉』。

 

 ミッシェル同様、アネックス1号の副艦長にして、中国担当の幹部を務める『張明明(ちょうみんみん)』。

 

 戦闘員の欠如が著しい中国・アジア第四班に戦闘要員として配属された『ティン』。

 

 そして、アネックス計画の実行委員会への直談判により、特例中の特例で参加を許可された小吉の妻『小町奈々緒』。

 

 アネックス計画への参加を志願した旧バグズ2号の乗組員12名の内、参加が叶ったのは僅かその3分の1にとどまった。だが、これも随分と筋の通らない話だ。

 

 バグズ2号の乗組員たちの中でも、U-NASAに職員として残った者は半分ほど。残りの者は各々社会への復帰を果たし、それぞれの望む社会的地位を獲得した。

 

 しかし同時に、彼らはバグズ2号で自分達が味わった辛酸を忘れることはなかった。彼らは業務や生活の合間を縫ってU-NASAの訓練施設やトレーニングジムなどに通い、研鑽を重ねていたのだ。

 

 無論、小吉や軍隊出身の幹部勢に匹敵する力を身に着けたものは多くはないが、それでも彼らに与えられた手術ベースはどれも強靭なものばかり。そのため有事の際には、全員が最低でも、一般戦闘員程度の活躍は見込めるはずだ。

 

 それにも関わらず、上層部は彼らが火星に行くことを良しとしなかった。無論、これには当事者たちの激しい反発を受けたものの、結局U-NASA側から提示されたのは、小町奈々緒のみ同行を認めるという、妥協とも呼べないような妥協案のみ。百合子の一件と合わせて考えると、その奇妙さがよく分かる。

 

 この他にも、計画準備期間の大幅な削減、莫大な投資、定員数の拡張など、このアネックス計画には不審な点がいくつもある。

 

 計画の主導をしているのは、U-NASAに加盟する6つの国だ。おそらく、計画の裏側では激しい工作合戦が行われているはずだ。それが表出した結果がこれだと言われれば、一応納得することはできる――が。

 

 

 

 ――本当にそれだけなのか?

 

 

 

 ミッシェルの不安はぬぐいきれない。根拠があるわけではない、証拠があるわけでもない。だが、妙な胸騒ぎがするのだ。

 

 アネックス計画と、それを巡る水面下での攻防。そしてそれすらも隠れ蓑にして、見えない何かが少しずつ自分達を絡めとっているかのような、そんな感覚。

 

 何をするにも、それが絶えず彼女に付きまとっていた。

 

「……クソ、何が起きてんのか分かりゃしねぇ」

 

 ミッシェルは思わず立ち止まる。彼女は廊下の窓の外へと目を向けると、まだ明るい空の彼方、そこに薄く輝く深緑の惑星を睨みつけた。

 

 

 

 ――調べなくては。今、何が起こっているのか。

 

 

 己と仲間たちを苛むの影の正体は、一体なんであるのかを。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

「ようし、我ながら上出来っ!」

 

 暗く、窓のないその部屋。パソコンのモニターから発せられる光だけが唯一の照明とも言えるその空間に、上機嫌な声が響いた。

 

「百合子ちゃんのお涙頂戴CM、ちょちょいと流せば、あとは勝手に圧力をかけてくれると思ったんだよねー! 具体的には、Cから始まって日本語でも英語でも読めちゃうあの国とか」

 

 そういってクツクツと笑いを漏らすのは、白衣を羽織った少年だ。容姿に特筆すべきものはなく、その姿は至極平凡。だがその言動はどこか白々しく、見るものにねっとりとした不快感を与える。

 

「まったく、クロード君も詰めが甘いなぁ。彼女は下手をすれば、ミッシェルちゃんや燈くん以上の『重要サンプル』だ。その情報を掴んだ国が、わざわざ彼女だけ見逃すはずないでしょ?」

 

 少年は己の座るパイプ椅子をクルリと一回転させて、再び口を開く。

 

「何にせよ、これでアッカリーン☆は飛び込まざるを得なくなったわけだ――蟲毒の壺の中に。大変結構……どうせ運命は変わらないんだ、なら盛大なバカ騒ぎにしてしまった方がいい」

 

 そう言って少年は、すぐわきにあるモニターの一つを人差し指でつついた。

 

「仕込みは上々。あとは舞台の幕が上がるのを待つばかりってね……さて、それじゃあ諸君」

 

 そう言って少年は椅子を飛び降り、その身を反転させた。それから背後に広がる闇に向かって大きく両手を広げると、その顔に満面の笑みを浮かべる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――デ バ ン ガ ク ル マ デ ノ ア イ ダ 、 ボ ク タ チ ハ 。

 

 

 

 

 

 

 ――カ ン キ ャ ク ヤ ク ニ テ ッ ス ル ト シ ヨ ウ カ 。

 

 

 





【オマケ】 よく分かる、アネックス計画水面下の図

某国A「国益のために色々工作したるで」

某国B「そんなことさせないわ!」

某国C「とりあえず、他国出し抜いて色々調べたろ」

某一族「新世界の神になる」

主人公「最新兵器は揃えた」キリッ

黒幕「百合子ちゃんCM、絶賛放送中! おっと、ウイルスは倍ドンだぁ!」

アネックス計画「ひぎぃ!?」




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第29話 GATHER 集う戦士たち



※ここから数話の間、原作二巻の内容をなぞりつつのオリキャラの紹介回になります。火星突入まで、もう少々お待ちを……





『こちら『ゴルゴン』、こちら『ゴルゴン』。定時報告の時間だ。アネックス各班の潜入員(サイドアーム)は報告を開始してくれ』

 

『こちら第6班担当、『ラプンツェル』。班内に目立った問題はありません。新しく赴任してきたオフィサー、ジョセフさんのおかげで全体的に雰囲気が明るいですね。班員同士でちょっとしたもめ事はありましたが、私の方でクールに―― ク ー ル に 解決いたしました』

 

『おつかれー、第1、第2班担当の『シンデレラ』だよ。こっちはついさっき、燈くんが目を覚ましたね。今はリハビリがてら、下の階に行ってる。あとは志願兵の子が来たみたいで、下がちょっと騒がしいくらいで、それ以外に異常はなし! 今日も平和でお姉さんは嬉しいぞー』

 

『へいへい、極寒の北国より『ノースウィンド』がお送りしますよっと。こっちは何やらきな臭いぜ? なんでも、ロシアは「ラハブ」とやらの謎を解き明かすために……中国の破壊工作に協力するらしい。ま、他の乗組員に危害を加えるような話が出てねーのが幸いですが……そこんとこどうなってます、中国は?』

 

『……』

 

『? どうした、『マーメイド』? 報告を開始して――』

 

『ぐー』

 

『おい、こいつまさか……』

 

『むにゃ……はっ!? ――おはよう。安心して、私は居眠りなんてしていない』

 

『嘘つけテメー!? 今思い切りおはようって言ってましたよねぇ!?』

 

『む、うるさい……あまり、寝起きの頭に怒鳴らないでほしい』

 

『やっぱり寝てんじゃねえか!?』

 

『落ち着け、『ノースウィンド』。こいつはもう何を言っても無駄だ。ひとまず報告を頼む』

 

『……了解。中国担当『マーメイド』より報告……結論から先に言えば、ウチはほぼ班ぐるみで真っ黒。最近、(ホン)とやっと訓練に関わらせてもらえるようになったけど、明らかに訓練内容が対人――というか、他班を意識してる。揃えてる兵器も、アークに負けず劣らずの最新式。どう見ても、皆殺しにする気満々。しょーぐんとか呼ばせてるし、劉副班長はもうだめだ……ミンミン班長とティン副班長が最後の希望。すーぱー針のむしろナウ』

 

『ま、そんなこったろーとは思ってましたけどねぇ……あと、「なう」は死語通り越して古語だぞ』

 

『事実上世界を掌握して、なおも貪欲に資源を求めますか。まったく、クールな話じゃありませんね』

 

『うわ、こりゃひどい……『マーメイド』は大丈夫なの? 何かひどいことされてない?』

 

『気づかれてないのか、泳がされてるのか……はっ! 『マーメイド』だけに泳がされている……?』

 

『……』

 

『むぅ、ウケなかった。残念……とにかく、今のところは大丈夫。今朝もジェットにナンプラー料理を作ってもらって食べた。おかわりするくらい美味しかった』

 

『……前々から思ってたんですが、お前の神経図太すぎません? 秘密の通信しながら居眠りしたり、敵地で平然と飯をおかわりしたり、どんな思考回路してるんです?』

 

『モグ、モグ……。……? 何か言った?』

 

『言ってる側から食ってんじゃねえ!?』

 

『……ひとまず、状況は把握した。中国への対処については本部へ指示を仰いでおこう。『マーメイド』、お前はくれぐれも正体がばれないように気を付けてくれ」

 

『わかった』

 

『頼んだぞ――ドイツは現在、班長のアドルフ・ラインハルトと新人が1人、U-NASA本部に向かっている。それ以外に異常はないな。さて、ここからが本題だが……『シンデレラ』、お前に朗報だ』

 

『お、何々?』

 

『第1班担当の潜入員が決まった。既にお前のいるU-NASA本部に着いてるはずだ。あとでお前の方から接触しておいてほしい。人種は日本人、髪型が特徴的だからすぐにわかるはずだ』

 

『本当!? いやー、二つの班を担当するのって、目が届かないところもあるから大変だったんだよね! そっかそっか、新人クン楽しみだなー!』

 

『ん? ってことは……まさか本部、六か国分の潜入員を揃えたってことか?』

 

『そういうことになるでしょうね』

 

『まじかよ……MO手術ってだけでもファンタジーなのに、よくもまあ、あんな屁理屈みてーな手術をポコポコ成功させますねぇ。いや、それに成功してる俺らが言うのもあれなんだですが』

 

『それができるから、『ダヴィンチの再来』などと呼ばれてるんでしょう、あの博士は。同じ生物学者としては、一周回って逆に「馬鹿ですか」と言いたいところですが……とりあえずシンデレラ、おめでとうございます。実にクール、喜ばしいことです』

 

『えへへ、ありがとうね』

 

『後輩ができる……嬉しい……ところで、本題ってそれだけ? 私、そろそろ紅と約束してた映画を見に行く時間。早く抜けたい』

 

『こいつは潜入任務を何だと思ってるんですかねぇ……お? エレナの姐さんがシャワールーム使ってら。旦那、俺も抜けていいですかい? ちょいと急用ができたもんで』

 

『2人とも少し待ってくれ、まだ連絡が残ってる。これは俺達に直接かかわる話じゃないが……』

 

『えー……』

 

『関係ないならさっさと行かせてくれませんかねぇ。もたもたしてると、ターゲットがシャワーから上がっちまいます』

 

『2人とも少し黙ってくれ――今日は団長達と小町艦長の会談日だ。会場までの護衛はシモン団長と第二団、特務部隊『ティンダロス』が行う。さっきも言った通り、俺達に関係する部分は少ないが――アーク計画の遂行を左右する大事な階段だ。各員、心に留めておいてほしい』

 

『あ、そういえばそれもあったね。アタシもやった方がいい感じ?』

 

『いや、逆だ。シンデレラ、お前は()()()()()()()()()()()()()()()。これは他の皆にも言えることだが――火星に着くまではなるべく、一般クルーとして振る舞ってくれ。アネックスの打ち上げまで、何としても正体は隠し通せ。いいな?』

 

『ん、オッケー』

 

『あいよー』

 

『わかった』

 

『承知しました』

 

『では解散! 各員、今日も班内の秩序維持に努めてくれ。頼んだぞ』

 

『よし、終わった。とりあえず、映画の前に2回目の朝ごはん食べなきゃ……ZZZ』

 

『ふぃー、終わった終わった。んじゃ早速、ワクワクドキドキの覗きタイムと参りましょうかね』

 

『よーし! それじゃあお姉さん、今日も頑張っちゃうぞー♪』

 

『いつものことながら、皆さん落ち着きがありませんね……まったく。もう少し、クールに振る舞ってほしいものです。私みたいに。 私 み た い に !』

 

『本当に頼むぞ、お前ら……オールオーバー』

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 ――ワシントンD.Cにある、U-NASA本局。そのロビーに置かれた休憩用テーブルには、現在4人の人間が腰かけていた。

 

「なぁ、アレックス。前に読んだ日本(ジャパン)のマンガ、覚えてっか?」

 

 金髪を逆立てた青年、マルコス・エリングラッド・ガルシアが、隣に座る人物にそう語りかけた。彼はグリーンの瞳に好奇心の光を灯しながら、目の前に座っている人物をじろじろと眺めていた。

 

「ああ、あれだろ? シーラの家に置いてあった……ショーワとかいう時代の古典を描き直したやつ。確か丁度、こんな感じだったよな?」

 

 マルコスの言葉に答えたのは、彼の左隣に座る黒髪の青年、アレックス・カンドリ・スチュワート。こちらは様子を窺うようにその人物を見つめており、マルコスに比べるとやや大人びた印象を受ける。

 

「やめなさい、あんたたち。失礼でしょうが」

 

 2人をそう諫めるのは、この場における紅一点、シーラ・レヴィット。彼女は慣れた様子で、マルコスとアレックスの頭を平手ではたいていく。

 

 

 

 ――この三人は、小さい頃から共に育った幼馴染。

 

 

 

 出身は麻薬カルテルが支配し、警察官の殉職率が69%にも及ぶ、27世紀の地球上でも最悪に近い治安の国『グランメキシコ』。

 

 そんなグランメキシコ国内でも数少ない裕福な家庭であったシーラの家に、マルコスとアレックスの親が従業員として雇われたことがきっかけで、三人は出会った。

 

 しかし昨年、給料の不払いが原因で従業員による暴動が発生。

 

 家を失ったシーラは親類の伝手を辿ってアメリカへの不法越境を余儀なくされ、2人も後を追って越境、。紆余曲折を経た末に、こうしてU-NASAで再会を果たしたのである。

 

「いやでもよ、シーラ」

 

 マルコスは声を潜め、眼前に座る人物を指さした。

 

「これ、どう見てもジャパニーズ・バンチョーだよね?」

 

 彼の指さす先、無言で椅子に座っているのは、人相の悪い日本人の男性だ。

 

 まず真っ先に飛び込んでくるのは特徴的な頭部だろう。その髪型は、いわゆるヘアワックスでIの字型にまとめあげたリーゼントと呼ばれるもの。更に肩には、派手な虎の刺繍が施された特攻服を羽織っており、その姿は見るからに昭和のヤンキーといった風体だ。

 

「なんちゃってコスプレを疑うレベルの絶滅危惧種だろ。むしろ実在してたかも怪しいぜ」

 

 ピクリ、と男性の眉が釣りあがる。

 

「なるほど、つまりこいつは時間と次元を超えてここに来たのか……というか、あんまりこの場にふさわしい格好じゃねぇよな」

 

 ビキリ、と男性の額に青筋が浮き上がる。

 

「ちょ、やめなさいっ! すみません! こいつら、思ったことをすぐ口に出しちゃう奴で……!」

 

 シーラが慌てて謝る――が、どうやら一瞬遅かったようだ。怒りの沸点を越えたらしいリーゼントの男性は、ひそひそと言葉を交わすマルコスとアレックスを睨みつけた。

 

「さっきからごちゃごちゃうるせーぞ、このタマ無しチキン野郎ども」

 

「「あ゛ん?」」

 

 ドスの聞いた低い声と、鋭い眼光。地元のギャングを思い出し、思わずシーラは身をすくめる。一方、その隣の2人は微塵も臆した様子を見せない。マルコスとアレックス、両社とも負けじと男性を睨み返した。

 

「おうおう、ちょっと待ってもらおうか。そこのタコ野郎はともかく、誰がタマ無しだって?」

 

「黙ってろ、イカ野郎。こいつはともかく、俺をチキン呼ばわりとはどういう了見だ、リーゼント野郎?」

 

 顔に苛立ちを滲ませた2人。それに怯むことなくリーゼントの男は立ち上がると、そのままアレックスの胸襟を掴みあげた。

 

「聞こえよがしに陰口叩くその『態度』が気に入らねえって言ってんだよ! 言いたいことがあんなら、はっきり言いやがれ! この意気地なし共!」

 

 その言葉を受けたアレックスもまた、負けじと男の特攻服の襟首を掴み返し、マルコスはいつでも飛び掛かれるようにリーゼントの男との間合いを詰める。

 

「上等だコラ、そこまで言うんならこっちも言ってやる!」

 

「ああ、耳かっぽじってよく聞いとけよ!」

 

「ふ、2人共! 本当にやめてってば! こんな所で喧嘩なんて!」

 

 勇気を奮い立たせてシーラが静止の声を上げるが、マルコスとアレックスは全く聞く耳を持たない。2人はこれでもかとばかりに息を吸うと、眼前で青筋を立てるその男の鼓膜に刻み込むように、ありったけの声で叫んだ。

 

 

 

 

「「お前の格好と髪型、すっげーダサいんだよ!!」」

 

 

 

 

 ―― 言 い や が っ た ! ? 

 

 

 

 

 シーラを始め、事態の推移を見守っていた周囲の人間達の心の声が一つになる。ロビー中から音が消え失せ、渦中の三人を中心に嵐の前の静けさが周囲を不気味に包み込む。

 

 一触即発の空気がロビーに流れ、一秒、また一秒と時間が流れていく。そして、十数秒ほど時間が経った後――

 

 

 

 

「ッく……ハハハハハ!」

 

 

 

 

 ――それは、リーゼントの男自身が上げた爆笑によって破られることになった。

 

 

 

 

「やりゃあできるじゃねえか! それでいいんだよ、それで! つーか、できんなら最初っからそうしとけっての!」

 

 一瞬前までの険悪なオーラから一転、リーゼントの男は上機嫌に笑いながら、アレックスの背中をバンバンと叩いた。

 

「……あれ? これって、このまま殴り合う感じだったよな?」

 

 豹変した彼の様子についていけないのか、気勢をそがれたマルコスが目を丸くして思わず聞く。リーゼントの男はそれに「おう」と頷くと、彼の疑問に対する答えを口にした。

 

「口先だけの奴、はっきりしねー奴、仲間を悪く言う奴は嫌いなんだ、俺は。お前らが陰口だけのヘナチョコだったら、間違いなく殴ってただろうな。」

 

 けどよ、と男は続けてニッと笑った。

 

「お前らは、俺に正面切って本音をぶつけた。こっちとしちゃもう怒る理由がねーよ。俺の格好をどう思うかはお前らの勝手だしな」

 

「そんなもん……なのか?」

 

 完全に戦意を削がれた様子の2人に、「ああ、ただ」とリーゼントの男は付け足す。

 

「俺に関しちゃ構わねぇが、他の奴を馬鹿にするのは大概にな。何の気なしにからかったことがそいつの譲れないモンだったり、そいつにゃどうしようもないことだったりすることもある。つまんねー冗談で、ダチ公傷つけたかねえだろ?」

 

「「……」」

 

 顔を見合わせる2人の前で、男はどっかりとソファに腰掛けた。

 

「ま、そういうこった。分かったら、小町さん来るまで座っとけ。他の奴らに見られてんぞ」

 

「お、おう…なんか、悪かったな」

 

「そうだな。ちょっと、言いすぎた」

 

 座りながら、マルコスとアレックスが神妙な顔で謝罪するのを、シーラは意外そうに見つめる。意地っ張りな2人が自分から、しかも減らず口の一つも叩かずに頭を下げるのは相当に珍しいのだ。

 驚く彼女の前で、リーゼントの男は2人に向かって手をヒラヒラと振ってみせた。

 

「気にすんな。さっきも言ったが、俺の格好をどう思おうとお前らの勝手だ。俺がイカしてると思ってれば、それでいい。同じ補充兵『候補』のよしみだ、あんま堅苦しいのはやめようぜ」

 

「ん、それもそうだな」

 

 マルコスはリーゼントの男の言葉に相槌を打ち、チラリとアレックスを見やる。それを受け、アレックスは微かに頷いた。

 

 

 

 ――自分達も含め、どんな国にも不良やギャングを始めとした無法者は存在するが、彼らは大きく分けて二種類に分類することができる。

 

 

 

 その基準は単純明快、『話が通じる』か『話が通じない』かである。

 

 つい先日、マルコスとアレックスはとある事情から、後者のストリートギャングともめ事を起こしていた。無事に逃げ切ることができたものの、一歩間違えば死んでいてもおかしくないような状況だった。

 

 幼馴染であるシーラに言わせれば『無茶無謀が服を着ている』ような2人だ。死にかけた経験など両手の指では足りず、今更そんなことを過剰に気にするわけでもないが――今、彼らの隣には、シーラがいるのだ。

 

 2人にとって彼女は、命を懸けてでも守るべき幼馴染。

 

 だからこそ彼らは、確かめていたのだ。目の前で『いかにも』といった姿をしたこの男が、果たして話が通じる人間なのか、この先任務を共にすることができる人材なのかを。大衆の目があるこの場で。

 

 

 

 ――ま、杞憂だったみたいだけどな。

 

 

 

 グランメキシコで磨かれた勘に従って肩の力を抜くと、アレックスは口を開いた。

 

「ところであんた、名前は?」

 

「ん? ……ああ、そういやまだ名乗ってなかったか」

 

 リーゼントの男は思い出したように手を打つと、問を投げてきたアレックスに向かって凄みのある笑みを浮かべた。

 

東堂大河(とうどうたいが)だ。地元じゃ暴走族の(ヘッド)を張ってた。よろしくな」

 

「ぼ、暴走族……」

 

 リーゼントの男――大河の言葉に、シーラの表情筋が少しばかり引きつった。悪人ではないようだが、自信満々に暴走族であることを暴露する当たり、相当に変わった人物であることに間違いないだろう。

 

 とはいえ、それを気にするのは彼女だけだったようだ。アレックスはそれを顔色一つ変えずに、マルコスに至っては嬉々とした表情で「暴走族」のワードに食いついた。

 

「暴走族ってことは大河、お前バイク乗ったことあんのか!?」

 

「たりめーよ。こちとら毎晩、100人の子分を引き連れて都内の警官と追いかけっこさ。バイク乗り回すことに関しちゃプロだぜ、俺は」

 

「マジかよ、いいなー!」

 

 キラキラとした目で己を見つめるマルコスに、大河がどこか自慢げな表情を浮かべた。

 

「もしかしてお前、バイク好きなのか? なんなら、今度大型に乗せてやろうか?」

 

「いいのか!?」

 

「おうよ! この任務とやらが終わったら、一緒に夜の首都高走ろうぜ! 何だったら、この特注特攻服も着るか?」

 

「あ、それはいいや」

 

 真顔で断るマルコスに「おう、そうか!」と大河が豪快に笑ったを上げたその時、彼の背後から四人の待ち人の声が響いた。

 

「悪い、待たせたな」

 

「押忍! 小吉さん、お帰りなさいやせ!」

 

「おう。とりあえず、俺がヤクザの親分みたいに聞こえる挨拶はやめような? 俺の外聞に関わるから。あんまり変なことすると、奈々緒――カミさんにまた怒られちまう」

 

 腰を直角に折り曲げ、それはそれは見事なお辞儀をされた小吉が言う。その頬に、一筋の汗が伝った。

 

「それより、ちょっと席を外してる間に、随分仲良くなったな。何かあったのか?」

 

「押忍! バイクの話題で盛り上がってました! こんなに食いついてくる奴は久しぶりだったんで、つい……ん? 小吉さん、そっちの人は?」

 

 顔を上げた大河の視界に映ったのは、小吉――の他にもう1人。どこか暗い表情で小吉のあとに続く、美しい白金の髪をした女性だ。

 

「ああ、彼女はドイツ支局から来た補充兵候補の一人だ。さっきドイツの幹部から案内を頼まれてな。せっかくだし、同期の顔なじみがいたほうがいいだろうと思って連れてきたんだ」

 

「エヴァ・フロストです。よ、よろしくお願いします……」

 

 今にも消え入りそうな声で名乗ると、エヴァはぎこちなく腰を折った。その拍子に彼女の大きな胸が揺れ、それを直視した男性陣三人の目の色があからさまに変わった。

 

「マルコスです。好きな映画は『プリティ・ウーマン』です」

 

「アレックスです! 好きな食べ物はマルゲリータピザとサラダのセット!」

 

「と……東堂大河、だ」

 

 我先にと互いを押し合いながら自己紹介をするマルコスとアレックスと、胸を直視すまいと首ごと視線を逸らし、逆に露骨な大河。そんな彼らを、シーラは冷たい目で見つめた。

 

「馬鹿2人は少し落ち着きなさい、エヴァさんドン引きしてるから。あとタイガさんは目線逸らしすぎ。逆にバレバレですよ」

 

「は、はぁ!? か、勘違いすんなよ! これは、天井見てるだけで、別に目をそらしてるとかそんなんじゃねえし! 女の胸とか全然興味ね―し! ねーし!!」

 

「こういうの、語るに落ちるっていうんだっけ……あ、あたしはシーラ。よろしくね、エヴァさん」

 

 四者四様の自己紹介に、小吉はからからと笑い声を上げて背後のエヴァを振り返った。

 

「な、面白い奴らだろ?」

 

 しかし、エヴァは遠慮がちに俯くばかり。その顔には、先程と変わらず憂鬱気な『陰り』があった。

 

「おう、どうしたんだあんた? さっきから随分と辛気臭い顔してよ」

 

 そんなエヴァの表情に気づき、大河が首とリーゼントの角度を元に戻してエヴァに訊く。つられて他の3人もエヴァの顔に視線を向けると、彼女は微かにその体を強張らせた。

 

「あ、あの……どうして皆さんは、怖くないんですか?」

 

 一瞬の間を置いて、エヴァの口は細い声で疑問が紡いだ。一斉に頭の上に『?』マークを浮かべる4人に、彼女は更に続ける。

 

「手術、6割の確率で死んじゃうんですよね? 何で、そんなに明るく笑ってられるんですか……?」

 

「あー……それでか」

 

 エヴァの言葉から彼女の表情の理由を察した大河が唸り、シーラも合点がいったと言わんばかりの表情を浮かべた。

 

「え? そんな悲観する程か?」

 

「そうそう。俺らの地元で公務員になって、死亡手当じゃなくて年金もらって退職するよりも可能性高いぞ。いけるいける」

 

「あんた達、ちょっとポジティブすぎない?」

 

 一方、マルコスとアレックスはまるで理解ができないとばかりに、首をひねる。呆れたようにシーラがツッコミを入れるが、それにアレックスが「つってもよ」と反論する。

 

「手術は今のところ、45%の確率で成功すんだろ? なら楽勝だって、楽勝」

 

 ――MO手術は後天的に臓器を埋め込み、更に他生物の細胞を人体に共存させるという、生物学的にも医学的にもかなり無茶な手術だ。

 

 本来ならその成功率は、4割を切ってもおかしくない。

 

 それでもなお、手術の成功率が45%という数値を保っているのは、U-NASAの全科学部門を統括する『クロード・ヴァレンシュタイン』率いる研究チームによって、手術についての研究が徹底的に進められているからだ。

 

 MO手術のコンセプトから考えると、この手術成功率は奇跡に等しい。

 

 しかし――

 

「そ、それでも……やっぱり、半分以上の人は死んじゃうんですよね?」

 

 エヴァの言葉もまた、もっともなものだ。

 

 今世紀最高峰の科学者たるクロードをもってしても、手術の成功率は依然として5割にも満たない――というより、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 なぜなら、そこから先は素体となる人間側の問題だから。

 

 被験者がどんな生物に適性を持つのか、体がその細胞を受け入れるのか――こればかりは、施術する側にはどうすることもできない。だからこその限界点。それが可視化したのが『45%』という数値だ。

 

 どう捉えるかは個人の性格に依るが――限界点を超えて生を勝ち取った者の数は、全被験者の半数をきっているというのは、紛れもない事実である。

 

「そ、そりゃそうなんだけど――もっとこう、気の持ちようを、こう……な?」

 

「そうそう、艦長さんの言う通りだぜ、エヴァ。そんなんじゃ、成功する手術も成功しないって」

 

 小吉とマルコスがなだめるものの、やはりエヴァの表情は晴れない。どうしたもんか、とアレックスが腕を組んだその時、何かをじっと考え込んでいた大河が、意を決したように「よし」と呟いた。

 

「マルコス、アレックス。あとで何かメシ奢ってやるから、ちょっと使い走りを頼まれてくれねぇか?」

 

「お、何々? 三ツ星レストランでフルコースを奢ってくれるって?」

 

 悪い笑みで詰め寄るマルコスに、大河は重々しくため息を吐いた。

 

「目の前で悩んでる女のためだ、労働対価はハンバーガー程度に負けとけ。お前らがちょっと走るだけで、ハンバーガーにこの子の笑顔までついてくるんだ、フルコースなんぞよりよっぽど価値があるだろ?」

 

「なるほど、それはもっともだ」

 

「ああ。どんなに美味い飯も、女の子の笑顔には勝てねぇもんな」

 

 意味の分からない謎理論を持ち出す大河と、それに納得した様子のマルコスとアレックス。横から見守るシーラは何も言わないが、その表情は雄弁に「何を言ってるんだこいつら」と語っていた。

 

「分かってくれたみたいだな。じゃあ早速だがお前ら、ちょっとその辺から適当な補充兵を数人連れて来い。目の前に成功例がずらっと並べば、気分も晴れるだろ」

 

「よし来た、任せろ!」

 

「今すぐ、計画参加者110人連れてきてやらぁ!」

 

 マルコスとアレックスはそう言い残すと、弾丸もかくや、という速度で駆け出す。呆気にとられるシーラとエヴァを他所に小さくなっていく彼らの背中に、小吉は「気を付けろよー」と声を投げかけた。

 

 

 

 ――5分後。

 

 

 

「というわけで、連れて来やしたぜ兄貴」

 

「へっへっへ……眼鏡クールなお姉さんに快活そうな女の子、そして術後ホヤホヤの日本男児です」

 

「おう、よくやったお前ら。あとでとびっきりのバーガーショップに連れてってやる」

 

 やりきったとばかりに、ハイタッチする三人。その背後でキョトンとした表情を浮かべているのは、丁度リハビリのために病室を出たばかりの燈と、彼に付き添う百合子だった。少し離れて、ミッシェルがさらに後に続く。

 

「お、目ぇ覚ましたか燈。調子はどうだ?」

 

 軽く手を挙げて声をかけてきた小吉に、燈は軽く会釈で返した。

 

「お疲れ様です、艦長。俺はほぼ万全なんすけど……あの、どういう状況ですか、これ?」

 

 戸惑う燈の疑問に小吉が答えようとするが、その前にアレックスが燈の肩に手を置いた。

 

「はーい、エヴァさんご覧になってますか? U-NASAニュースの時間です! 本日は現場から中継で、補充兵の皆さんにお話を聞いていきたいと思います!」

 

「早速、新人のエヴァさんのお悩みを解決してもらいましょー! どうでした、補充兵の皆さん? 手術、楽勝でしたよね?」

 

 そう言うと、マルコスがマイク代わりに丸めた雑誌を燈の口元へと運ぶ。

 

 なお、このタイミングで状況を理解した百合子がはっとした表情を浮かべたのだが――残念ながら彼女がフォローを入れるよりも、燈の口が余計な言葉を紡ぐ方が先であった。

 

「いや、確かに俺らは補充兵だけど……俺たちは色々事情があって、全員ほぼ確実に手術は成功してたらしいぞ。あと、こちらの方は補充兵じゃなくて幹部だからな?」

 

「おいカメラ止めろ」

 

 大河が間髪入れずに言うと同時、明後日の方向を向いたマルコスが「D(ディー)~! 今のシーンカットで~!」と叫ぶ。その隣で、アレックスが重々しく嘆息した。

 

「ちょっと君ぃ、空気読んでもらわないと困るよ~! どうすんの、現場白けちゃったじゃん。何、この『モテないと思ってた友人に実は可愛い彼女がいて、それをモテない男友達同士の会話中に突然暴露された』みたいな空気。どうしてくれんの?」

 

「はぁ……?」

 

 燈の顔が、あからさまに不機嫌そうな表情へと変わる。

 

 よく分からないまま連れてこられたと思ったら、よく分からない質問をされ、よく分からないまま答えたら非難の雨。いくらなんでも、これはちょっとあんまりではないだろうか。

 

 そう考えた燈は、意趣返しの意もこめて、反論の言葉を口にする。

 

「いや、俺そもそも彼女いるし」

 

「「「……」」」

 

 この時、燈の言葉を聞いた野郎三人の心は、偶然にも一つの感情で一致した。即ちそれは、眼前の青年に対する、突き刺すような『怒り』。

 

 

 

 

 ――非常の事態に、気の利いた台詞など出てこない。

 

 

 

 

「「「殺す」」」

 

「うおっ!? 何だお前ら、やんのか!?」

 

 臨戦態勢に入った三人に、歩行器越しに構える燈。それを見た百合子が苦笑いで「あんまり無茶しないでよ?」と声をかけたことで、より一層三人の嫉妬と怒りを増長する。モテない男のひがみというものは、燃えやすいのである。

 

「……まぁ、結局さ。気の持ちようなんじゃないかな?」

 

 あまりにも醜い争いを始めた四人にため息を吐き、しかしそれをどこか楽しそうに見つめながら、シーラは言った。

 

「アタシも初めて手術の話を聞かされたとき、エヴァさんみたいにブルーになったの」

 

 でもね、と続けて、シーラはエヴァを見つめた。

 

「不思議だけどさ。アイツら見てると、そういうのが何だか馬鹿らしくなっちゃうんだ。だから、上手く言えないけど……」

 

 そう言って、シーラはエヴァの手をそっと握りしめた。彼女の手から伝わる温かさにエヴァは微かに目を見開く。

 

「一緒に頑張ろう、エヴァさん。アタシ、エヴァさんともっと仲良くなりたいから。全員で生き残って……またこうやって、皆で笑い合おうよ」

 

 ね? とシーラが微笑みかける。エヴァはそんな彼女を少しの間、驚いたように見つめ、やがて小さく頷いた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「シーラちゃん、どこに行ったんだろ……」

 

 ――とりあえず、このあとは夕飯まで自由時間とする! 難しい話はあとだ、あと!

 

 そんな小吉の鶴の一声によって、思いがけず自由時間を与えられたエヴァは、U-NASAの敷地内を歩き回っていた。

 

 彼女の目的は、先程自分を元気づけてくれたシーラにきちんと礼を言うこと。そのために、ふらりと姿を消してしまった彼女を探していたのだ。

 

(……あ、いた!)

 

 ほどなくしてエヴァは、U-NASAの研究棟の裏に座るシーラを見つけた。周囲にマルコスやアレックスの姿はなく、どうやら彼女1人らしい。

 

「シーラちゃ――」

 

 改めて礼を言うには、絶好の機会。そう考えたエヴァは声をかけようとするも、直後、視界に飛び込んできた彼女の表情に、思わず踏みとどまってしまう。

 

 シーラの顔に浮かんでいたのは、先程エヴァに向けた快活な笑顔ではなく、今にも壊れてしまいそうな泣き顔。頬を伝う涙の筋が、西に傾き始めた太陽の光を反射して輝いている。

 

「……!」

 

 エヴァは慌てて陰に身を隠した。シーラが泣いている理由は、おおよそ見当が付く。おそらくは彼女も、手術の失敗による『死』が恐ろしいのだろう。先程エヴァを励ました時、彼女もまた無理をしていたのだ。

 

「ど、どうしよう……」

 

 そっと様子を窺いながら、エヴァは漏らす。

 

 ――今、自分が彼女に慰めの言葉をかけることは可能だ。

 

 けれどその言葉は、果たして自分の口から告げたところで、意味を持つのだろうか? 先程彼女が自分にしてくれたように、彼女の心に安心感をもたらすことができるのだろうか?

 

 ――多分、できない。

 

 エヴァは心の中で自答する。

 

 今の自分が何を言ったところで、それは詭弁にもならないだろう。なぜなら、他ならないエヴァ自身が手術による死を恐れているから。そんな自分の言葉がシーラの心に安らぎをもたらすとは考えにくかった。

 

 ――戻ろう。

 

 エヴァは唇をかみしめ、己に言い聞かせた。自分にできるのは、彼女の弱い姿を見なかったことにすることだけだ。せめて今見た光景は自分の心の内に止めておこうと決意したエヴァは踵を返し――。

 

 

 

 

 

「おっと?」

 

 

「っひゃあ!?」

 

 

 

 

 

 ――背後に立っていた人物に驚いて尻もちをついた。

 

「あっ、ごめんごめん! いきなり振り返ると思ってなくて……大丈夫? 痛くない?」

 

 そう言ってエヴァの顔を覗き込んだのは、見覚えのない赤毛の女性だった。

 

 薄手のパーカーを羽織っており、その下に着込んだスポーツウェアの首元からは、健康的に発育した胸の峡谷が覗いている。「やってしまった」と言わんばかりの表情で頬をかくその仕草は、どこか悪戯がばれた猫のそれに似ていた。

 

「だ、大丈夫です。その、こっちこそ心配させてごめんなさい……」

 

「いや、こっちこそ――って、これじゃ堂々巡りだね。うーん……それじゃ、今回は『おあいこ』ってことにしよっか!」

 

 女性はそう言って、快活気な笑みを浮かべた。それから彼女は「立てる?」と尋ねつつ、エヴァへと手を差し伸べる。

 日焼けしたその腕はどうやら鍛えているらしく、一見して女性らしい柔らかさを残しつつも、筋肉質かつしなやか。エヴァはドイツで待機している女性隊員の1人を思い出しながら、彼女の手を取った。

 

「わっ!?」

 

 途端、エヴァの体は引っ張り上げられ、あっという間に起立させられていた。女性は驚くエヴァをしり目に「これでよし」と満足そうに頷く。

 

「ところで君、こんなとこで何してたの? もしかして、迷っちゃった?」

 

 女性に尋ねられ、エヴァははっとした表情を浮かべた。失念していたが、今この場には建物の角を挟んでシーラもいるのだ。今のやりとりで、もしかしたら自分の存在に気付かれてしまったかもしれない。

 

「っ! ご、ごめんなさい! 失礼しま――」

 

「誰かいるの?」

 

 慌てて立ち去ろうとするエヴァだが、駆け出そうとした矢先、建物の影から音に気付いたシーラが顔を出してしまう。

 

「エヴァさんと……キャロルさん? 何でここに?」

 

 2人の姿を視界に入れた彼女は、思わず泣き顔を隠すのも忘れて目を見開く。キャロルと呼ばれた女性もまた、意外そうにシーラを見つめ返した。

 

「あれ、シーラちゃんもいたんだ? ……って、どうしたのその顔?」

 

 心配そうにかけられたキャロルの言葉に、シーラは慌てて目元をぬぐった。

 

「あ! ち、違うんです! ごめんね、エヴァさん! これは、その……」

 

 語調が少しずつ尻すぼみになっていくシーラと、どうしたらいいのか分からずにおろおろとするエヴァ。そんな2人の様子を少しばかり眺めると、キャロルは指をパチンと鳴らした。

 

「うん、よし! よくわかんないけど、とりあえず何かあったってことは分かった! とりあえず落ち着きなって、2人とも。深呼吸、深呼吸」

 

 キャロルは明るい声で言うと、慌てふためく2人を落ち着かせる。それから彼女達を座らせると、自身もまたどっかりと地べたに腰を下ろした。

 

「それで……うら若き君たちの身に、何があったのかな? よかったら、アタシに話してくれない? キャロルお姉さん、ちょっとした相談なら乗っちゃうぞー」

 

 おどけた口調でキャロルが言う。しかし彼女の声色にからかうような様子は微塵もなく、むしろ2人を心から気遣っている彼女の優しさが滲んでいた。

 

 エヴァとシーラは一瞬だけ顔を見合わせる。それから彼女たちは、どちらともなくポツリポツリと話し始めた。

 

 ――手術に対する不安。

 

 ――せっかく巡り会えた仲間と別れてしまうことへの恐怖。

 

 ――他人を慰めながら、自分にも同じ思いがある恥ずかしさ。

 

 ――苦しむ仲間にかける言葉を見つけられない、情けなさ。

 

 一度回り出した口は、彼女たちが抱えていた負の想いを次々に吐き出していく。キャロルはそんな2人を見守りながら、ただ黙って彼女たちの話を聞き、その全てを受け止める。

 

 そして、シーラとエヴァが話し切ったところで――

 

「2人とも健気すぎる! あーもう、可愛いなー!!」

 

 キャロルは2人を、思い切り両手で抱きしめた。キャロルの体から漂う何とも言えぬ良い匂いが鼻と肺を満たし、シーラとエヴァは思わず顔を赤らめる。

 

「……大丈夫だよ」

 

 そんな彼女達の背中を静かに叩きながら、キャロルは優しく語り掛ける。まるで怖い夢を見て眠れない小さな子供を安心させるかのように、その声は2人の傷ついた心を包み込んだ。

 

「根拠があるわけじゃないけど、アタシには分かる。シーラちゃんもエヴァちゃんも、絶対に手術に成功して、無事に火星での任務もやり遂げて、そして誰よりも幸せになるよ」

 

 そう続けると、キャロルは抱きしめた2人の頭に頬ずりをしながら言った。

 

「だって2人とも、こんなに誰かのことを想える、素敵な女の子たちなんだもん。報われないなんて馬鹿な話、ありえない! アタシがそう言うんだから、間違いない!」

 

 得意気に鼻を鳴らしたキャロル。そんな彼女の胸に抱かれながら、エヴァの心は安堵と驚きで満たされていく。それはシーラも同じだった、

 

 論拠なんて何もない、空論とすら呼べないような主張のはずなのに。キャロルの言葉は、どんな証明を並べられてもぬぐいきれないだろうと思っていた2人の恐怖を、いとも簡単に拭い去ってしまった。

 

「それじゃ2人共、そろそろ中に戻ろっか。今頃、奈々緒さんが皆のために腕によりをかけて、夕ご飯を作ってくれてるはずだよ」

 

「うそ、もうそんな時間……!?」

 

 シーラが慌てて立ち上がり、空を見上げる。先程まで水色だった空は橙に染まり始め、建物の影は東へと伸び始めていた。

 

「エヴァさん、急ご! 艦長の奥さんの料理、美味しいからすぐになくなっちゃうんだ」

 

「う、うん……あ、シーラちゃん!」

 

 慌てて駆け出そうとするシーラを、エヴァが呼び止める。振り返った彼女に、エヴァは遠慮がちに、しかし真っすぐにシーラの目を見ながら告げた。

 

「私のことは、『エヴァ』って呼んで。年は近いと思うし、私も仲良くなりたいから……『さん』は、つけなくていい」

 

 その言葉にシーラは一瞬だけ意外そうな表情を浮かべるが、すぐに彼女はその顔を笑顔に変え、大きく頷いた。

 

「行こう、エヴァ! キャロルさん、本当にありがとうございました! また食堂で!」

 

 シーラはそう言い残すと、エヴァと共に忙しなく駆けていく。キャロルは手を振りながら彼女達を見送り、やがてその姿が見えなくなったところでほっと息をついた。

 

「やっぱり女の子は笑顔が一番、ってねー。立ち直ってくれてよかったよ、本当に」

 

 1人呟きながら、キャロルはそれとなく()()()()()()()()()()()()()()()

 

 シーラとエヴァは気が付かなかったが、実は先程までこの場にはもう1人、人間がいたのだ。

 

 

 

 ――ドイツ・南米第5班班長、アドルフ・ラインハルト。

 

 

 

 壁の向こう側から、彼の気配は消えている。キャロルはそっと曲がり角の向こう側を覗き込み、彼の姿がそこにないことを確認した所で、ほっと安堵の息をついた。

 

 ――わざわざこの場所にピンポイントで、アドルフさんが張っていたとは考えにくい。

 

「ってことは、偶然居合わせただけ、か。びっくりしたぁ……」

 

 赤毛を指で弄りながら、キャロルはそう漏らす。

 

 

 

 ――自分達の計画は、その時が来るまで誰にも知られてはいけない。絶対に正体を明かさず、暴かれないように。

 

 

 

 それが、彼女たちに課された厳命。特に、こちら側の計画を根本から破綻させかねない幹部たちには、絶対に自分達の存在は隠さなくてはならないのだ。

 

 そのために彼女は、自分達の現場指揮官から課せられた任務に、この場所を選んでいた。

 

「……まぁ、仮に聞かれても大丈夫だとは思うけど」

 

 ――もっとも、今日はただの顔合わせ。やり取りの時間は短く、万が一見られたところでいくらでも言い訳はできるだろう、というのが彼女の考えだった。

 

 しかしそれでも――やはり、危険な橋を渡るような行為は避けたい。二十年も前から彼らが積み重ねてきた『計画』を、自分のヘマ一つで潰すわけにはいかないのだ。

 

「あらためて責任重大だなー……おっと?」

 

 こちら側へと近づいてくる足音を聞き取ったキャロルは、思考の海から浮上して、神経を研ぎ澄ました。足音の人物が待ち人であればいいが、そうでない場合には不信感を抱かせず、穏便に引き取らせる必要がある。

 

 何気なく、しかし警戒心を強めるキャロル。そんな彼女の前に現れたのは――

 

「ん? あんた、こんなとこで何してんだ?」

 

 ――特攻服に身を包み、リーゼントと呼ばれる髪型をした日本人男性だった。

 

「……ちょっと、静かな場所で考え事をしたくてね」

 

 キャロルは彼の疑問に何気ない口調で言葉を返し、「君も?」と聞き返す。

 

「いや、俺は煙草を吸いにな」

 

 そう言って男性――東堂大河は懐から煙草とライターを取り出してみせると、キャロルへ視線を向けた。言外に喫煙の許可を求めているのだと察したキャロルは頷き、右手を差し出した。

 

「アタシはキャロル。君は?」

 

「東堂大河、補充兵候補だ。よろしく頼……むぜ」

 

 大河も名乗ると、その手でキャロルの右手を握り返した。なお彼の視線はこの時、彼女の胸部を視界に収めぬよう首ごと明後日の方向へと向けられていた。それに苦笑を浮かべつつ、キャロルは気づかないふりをして言葉を続けた。

 

「大河君ね、よろしく。ところで――」

 

 そこで一度言葉を切ると、キャロルは微かに目を細めた。

 

 

 

 

 

「――大河君、()()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

 彼女の口から紡がれたのは奇妙な……とまではいかないものの、かなり変わった内容の質問。おそらく初対面の人物にこの質問を投げかけられたのなら、多くの人は返答に窮するだろう。

 

 だが大河は逸らしていた視線をキャロルへと戻すと――その顔にニヤリと笑みを浮かべた。

 

「――『金の斧と銀の斧』だ。悪者が痛い目見る結末ってのは、見てて胸がすくもんだ」

 

 まるで事前に考えていたかのように大河はすらすらと答える。それを聞いたキャロルもまた笑みを浮かべた。

 

「そっか。ちなみにアタシは『シンデレラ』が好きだよ。うん、()()()()()()()()

 

()()()()()()。ま、お互い頑張ろうぜ」

 

 キャロルにそう返すと、大河は咥えていた煙草を踏み消し、吸殻を用意しておいた空き缶へと突っ込んだ。

 

「よし……そんじゃとっとと戻ろうぜ。あんまりもたもたしてると怪しまれるし……何より、腹が減った」

 

「ん、アタシも同感。けど、ちょっと待ってね……うん、これでよし!」

 

 キャロルは手中のスマートフォンがメールを送信し終えたのを確認すると、それをパーカーのポケットへと滑り込ませた。

 

「お待たせ、それじゃあ行こっか! さて今夜の献立は……って、ああ!? 『奈々緒さん特製カレー』じゃん!? 大河君、急ごう! これを食べそびれると、アネックスライフの半分損する!」

 

「どんだけ美味いんだ、それ!? くそっ、走るぞ! アレックス達に食い尽くされるのは癪だ!」

 

 騒がしく、慌ただしく、2人がその場を走り去る。そしてその場には、夕日に伸びる影と静寂だけが残された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「団長、『シンデレラ』からメールが入った。全部つつがなく終わったとよ」

 

「ん、了解」

 

 助手席に座る戦闘服の男の言葉に頷くと、シモンは隣に座る人物に視線を向けた。

 

「……改めてありがとう、小吉さん。忙しいのに時間を取ってもらって」

 

「気にすんなって、俺とお前の仲じゃねえか。補充兵たちへの説明はミッシェルがやってくれるし、問題ないさ」

 

 シモンの言葉にそう返すと、小吉は特に警戒する様子もなく、座席の背もたれにその体を預ける。

 

「強いて言うなら、アキの飯が食えなかったのが残念だな。いいなー、あいつら! 俺も久しぶりにカレー食いてえなー!」

 

「奈々緒さんのご飯、美味しいもんね」

 

 叫ぶ小吉に、シモンはフルフェイスの下で笑いながら相槌を打った。

 

 別段、料理の腕がシェフ級というわけではないのだが、奈々緒の作る手料理は『優しい味がする』として、大変人気なのだ。U-NASAで日々激務に追われる小吉や、任務に不安を抱えるクルーたちにとって、たまに奈々緒が作る料理は心の拠り所である。

 

 事前に予定が入っていたから仕方ないとはいえ、小吉にとって彼女の料理が食べられないのは、かなりの心残りだった。

 

「ま、アイツの飯はあとの楽しみにでもとっておくとするわ……ところで」

 

 そう言うと小吉は、自分が乗せられている車をぐるりと見まわした。

 

「……随分厳重だな。ちょっとやりすぎじゃないか?」

 

 ――小吉がそう言うのも、無理からぬことであった。

 

 彼が今乗せられているのは、特殊な防弾加工を施した送迎車。政府の人間を始めとする、要人の移動に用いられる車両を、警護の観点からより改良した代物だ。

 

 しかもそれだけではない。変態した小吉でも容易に破れない強度の防弾ガラスがはめ込まれた窓からは、同じタイプの車両と大型のバイクが一台ずつ、いずれも小吉が乗っている車両を守るために、絶妙な距離を保ちながら道を走っている。

 加えて運転手の青年が、たまに通信装置へ何事かを話しかけているのを見るに、実働人員は目に見える以上に多いらしい。

 

 

 

 そしてとどめとなる要素が、護衛を務めている人間が、かなりの手練れであること。

 

 

 

 小吉が直に見たのは助手席に座る『戦闘服の大男』と運転手を務める『秘書風の青年』の2人だけだが、その立ち振る舞いはいずれも、戦闘の訓練を積んだ者の動きだ。後続車両とバイクに乗っている護衛達も、彼らと同様に戦闘訓練を受けていると見ていいだろう。

 

 ――過剰と言っても言いレベルの警戒度。いくら自分がアネックス計画の艦長だからと言って、これは少しやりすぎではないだろうか?

 

 そう考えての小吉の発言だったのだが――

 

「ううん、そんなことないよ」

 

 シモンは小吉の言葉を、首を横に振ることで否定した。

 

「小吉さんに何かあると、不味いんだ。ボク達は今、かなり凶悪な組織と戦ってるから……本当はもう少し、増やしたいくらいなんだよ」

 

「いやいや、そんな大げさな……冗談だよな?」

 

 小吉が冗談半分に確認するも、シモンは何も答えずに視線をそらす。小吉が表情を引きつらせると、バックミラー越しにそれを見ていた助手席の大男が笑いながら口を開いた。

 

「ま、安心しなって艦長さんよ。そんなときのための俺達さ。核でも落とされりゃ話は別だが、ただの刺客なら俺たちだけで十分さ。最悪団長が出張れば、軍隊相手でも何とかなんだろ」

 

 自信ありげな大男の言葉に、運転席でハンドルを操る秘書風の青年が頷く。

 

「この男の言う通りです、小町殿。貴方や団長には及ばないものの、我々もそれなりに戦闘は得手としておりますので……いざとなれば、肉盾と足止め程度はこなしてみせましょう」

 

「お、おう……とりあえず、その時は自分の命を大事にね?」

 

 小吉は青年に言うと、隣に座るシモンへと視線を向けた。

 

「……というか今更なんだが、この人たちは?」

 

「ああ、そう言えば紹介してなかったかな。彼らはボクの部下。素性は――まだちょっと明かせないんだけど。ボクにはもったいないくらい、良い人たちなんだ」

 

 シモンの言葉に「ふーん」と呟くと、小吉は更に口を開いた。

 

「ところで俺達は今、どこに向かってるんだ?」

 

「それは……行ってみてのお楽しみ、ってことにしておいてくれないかな?」

 

 防諜のためにもね、とフルフェイスの下で苦笑いを浮かべるシモン。その様子を見た小吉の目が、微かに険しくなる。

 

「……なぁ」

 

 そして、彼は切り出した。意を決して、その言葉を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()、イヴ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……それも、今はまだ企業秘密かな」

 

 一瞬の間を置いて、シモンは答える。

 

「それと小吉さん、ボクの名前は『イヴ』じゃなくて『シモン』だからね?」

 

 何も言わない小吉に、シモンは静かに告げる。

 

「『イヴ』は死んだんだ。大切な人を守れなかった罪を糾弾された、20年前のあの日に。だから、今この場にいるのはイヴじゃなくて、『シモン』なんだ……間違えないでほしいな」

 

 シモンは普段とほとんど変わらない口調で、しかし微かに語気を強める。

 

「……じゃあ、お前は何のために戦ってるんだ?」

 

 小吉はフルフェイスの向こう側にあるシモンの目を見つめた。

 

「もしイヴが死んだなら、それで全部がチャラのはずだろ? なのに、何でお前は――」

 

「償いのために」

 

 小吉の言葉を遮り、間髪入れずにシモンは答えた。

 

「死んだだけじゃ、駄目なんだ。それだけじゃ、彼女への償いにはならない」

 

 シモンの表情はフルフェイスヘルメットに覆われているため窺うことはできないが、その言葉には寂しさや悲しさ――そして、虚しさが込められていた。

 

「ボクは今度こそ、絶対に守りきらなくちゃいけない。彼女の大切なもの、彼女の守りたいもの――そして、彼女自身を。それが、ドナテロさんとの約束だから」

 

 そう言ったシモンの姿は、まるで不可視の鎖に縛られているように小吉には見えた。

 

「イヴのままじゃ駄目なんだ。もっと強くて、もっと有能な『シモン』じゃないと――きっとまた、ボクは取りこぼす。それにミッシェルちゃんもきっと、イヴのことなんて、二度と見たくないと思ってるはずだ」

 

 

 

 ――それは贖罪の体を成した、妄執だった。

 

 

 

 彼の在り方はとても歪で、痛々しく――けれど、どこまでも真っすぐ。

 

 本人の言葉と裏腹に、皮肉にも彼は二十年前と同じように。大切な人のために全てを投げ打ち、強大な敵へと挑もうとしていた。

 

「……シモン。本当は、ミッシェル(あいつ)はもうとっくに――」

 

 ――だからこそ小吉は、そこから先を言うことはできなかった。

 

 これはシモンとミッシェルの問題だ。例えその形がどんなものであったとしても、その結末がどうなったとしても、自分が口を出していいものではないだろう。

 

 そう思い直して、小吉は首を振った。

 

「――何でもない。忘れてくれ」

 

 そう言ったきり、小吉は黙り込む。

 

 車内は重い沈黙に包まれ――やがて、運転手を務める青年が、目的地への到着を告げるその時まで、破られることはなかった。

 

 

 

 






【オマケ①】
Q.このシリアスな空気をぶち壊しなさい

A.『間話 CROSS ROAD 邂逅』へ続く!



【オマケ②】ある日の食堂の風景

マルコス「っしゃあ、おかわり一番乗り!」

アレックス「下がってろイカ野郎! 俺が一番乗りの誉れを得る!」

小吉「させるかァ! 奈々緒のカレーは渡さん!」

ミッシェル「上等だ、お前ら――負けた方が害虫だ」


ワーワーギャーギャー



奈々緒「……全員、食器を持ったままで構わん。 一 列 に 並 べ !!」

四人「イエス、マム」ズラッ

奈々緒「よし」






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第30話 BIO INVADER 星を侵す病魔

 

 

『こちら『ゴルゴン』、こちら『ゴルゴン』。定時報告の時間だが……その前に、新人を紹介しよう。潜入員(サイドアーム)各員、清聴』

 

『あー、あー、聞こえてるか? 第1班の担当になった『ゴールドアックス』だ。よろしく頼むぜ……って、こんなもんでいいのか?』

 

『そうそう、良い感じだよ! 一応改めて、第2班担当の『シンデレラ』だよ。よろしくねー』

 

『どーも、新人さん。第3班担当の『ノースウィンド』だ。機械とエロならそれなりに語れるんで、手持ち無沙汰な時には通信入れてくれや』

 

『むにゃむにゃ……はっ! ……第4班担当、『マーメイド』。食べることと寝ることが好き。よろしく……すぴー』

 

『第6班担当『ラプンツェル』、よろしくお願いしますね『ゴールドアックス』。どうぞ私のことは気軽にクールビューティと、 ク ー ル ビ ュ ー テ ィ と 呼んでください』

 

『なんつーか……どいつもこいつもぶっ飛んでな。本当に、こんなんで任務達成できんのか?』

 

『ああ、懸念はもっともだが……その点は安心してほしい。これでも全員がお前と同じ潜入員(サイドアーム)。戦闘力と人格に関しては信頼してくれ。ああ、俺は第5班の『ゴルゴン』だ。一応、こいつらの指揮官を務めてる。よろしく頼むぞ、『ゴールドアックス』』

 

『ああ、よろしく頼むぜ。何だ、まともな奴もいるじゃ――』

 

『――ところで『ゴールドアックス』。写真で確認させてもらったが、君は随分イイ体をしているようだな。フゥー……もしよかったら、今度俺とホテルに泊まらないか? 心配するな、初めては優しくするさ……優しく、な』

 

『ん? ……んん!!?!?!?』

 

『あー、久しぶりに出ましたねぇ『ゴルゴン』の悪癖が。とりあえず個人の趣味に口出すつもりはねーんですが、せめてワンクッション置きません? いきなり同性に口説かれると心臓に悪いんですよ』

 

『気にするな、俺は一向に構わん――むしろお前もどうだ、『ノースウィンド』? 三人で熱い夜を過ごそう』

 

『俺は女好きだって言ってるでしょこのヤロー!? あんたのお誘いは直球な上に悪意がないから断りにくいんだよ! 断るけど! あと、いきなり上司に口説かれる新人の身にもなってやれ! ほら、女性陣からも何とか言ってやってくれ!』

 

『ZZZ』

 

『『ゴルゴン』×『ゴールドアックス』……い、意外とあり、かも?』

 

『い、いきなりホテル!? な、なんて破廉恥な……いえ、いえ! クールに、クールになるのです私……! と、とりあえず! く、口説き文句がクールじゃありませんねぇ、『ゴルゴン』! もっと詩的でクーーーールに口説かなくては、なびくものもなびきませんよ?』

 

Блядь(くそが)! 碌な奴がいねえ!?』

 

『テンション高ぇな。おい……で、定時報告ってのはやんなくていいのか?』

 

『……いけない、忘れるところだった』

 

『てへぺろ』

 

『おっと、クールに失念してましたね』

 

『定時報告? ……ああ、すまん。『ゴールドアックス』があまりにイイ男でつい脱線してしまった。各員、報告を開始してくれ』

 

『なんで新人に舵取りさせてんですかね、こいつらは? まぁいい、あんま長引くと怪しまれるし、サッサと済ませましょ。ロシアは異常なし。破壊工作については、ひとまず他のクルーに危害を加える様子はないんで、まぁほったらかしていいんじゃないですかね』

 

『第1班は今のところ異常はねえ。班員同士の中も良好だぞ』

 

『中国は相変わらずアウト……この間、(バオ)が地雷とロケットランチャーを買い込んでた。『爆が爆発物を買い込む』という体を張ったギャグじゃなければ、火星で花火大会(軍事)をするつもりだと思う』

 

『うーん、そんな周りの被害がすごそうな花火大会行きたくないなぁ……第2班は異常なしだよ』

 

『第6班も特にこれと言って……ふむ、やはり国によって差があるようですね』

 

ドイツ(こっち)も特に異常はない。やはりネックは中国か……『マーメイド』は引き続き監視を頼む。『ノースウィンド』も、何か異常があったらすぐに知らせてくれ――よし、では解散だ』

 

『よーし、今日もはりきっていこー!』

 

『よーし、今日もはりきって二度寝しよう……』

 

『お疲れ様でした。今日もクールに参りましょう。あ、それと『ゴルゴン』――い、いきなりホテルに誘うのは、その、さすがにどうかと……い、いえ! 何でもありません! 失礼します!』

 

『あ゛ぁ、疲れた……景気づけにウォッカでも飲んどくか……』

 

『……あん? ちょっと待て。さらっと流しかけたが、2か国くらい裏切ってないか? おい、おォい!?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ったく、本当にコイツらは……」

 

 

 ――U-NASAのロシア支局、その内部のある一室にて。

 

 

 バッジに偽装した小型通信機の電源を切ると、その人物はぐったりとベッドに倒れ込んだ。

 くすんだ金髪の天然パーマと眠たげな三白眼が特徴的な、やや細身の青年である。平時から仲間内では気だるげと称される彼だが、今の彼は脱力感10倍増しである。

 

「『シンデレラ』は腐ってる疑惑アリ、『マーメイド』はマイペース、『ゴルゴン』はイイ男とみりゃ見境ねーし、『ラプンツェル』はクールビューティ(笑)。こいつらにアネックスの命綱を任せるとか、控えめに言って頭おかしいんじゃねーですかね本部」

 

 自分のことを完全に棚の上にあげ、青年はぼやきながら冷蔵庫からウォッカの瓶を取り出した。キャップを外して中身を一気に飲み下すと、青年は袖で口元を乱暴に拭った。

 

「ま、四の五の考えててもしゃーないか……とりあえず、行きますかね」

 

 支給品のスーツを羽織り、くしゃくしゃと髪を整える。それから青年は、先程までの眠たげな表情を一転、活き活きしたそれへと変えると、颯爽とドアを開けた。

 

 

 

「いざ――男の本懐を遂げ(のぞき)に!」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「で……その結果がこれか、ニコライ?」

 

 ――ロシア支局のミーティングルーム内。

 

 必死で笑いをこらえながら、アレキサンダーは第3班のメンバーを代表して、体育座りでさめざめと涙を流してる青年に声をかけた。そこに意気揚々と部屋を飛び出した彼の面影は微塵もなく、代わりに纏っているのはどんよりと濁った空気であった。

 

「お前はほんとーに……」

 

「人の不幸を笑うんじゃねーですよ、ハゲリア充」

 

 今にも笑いそうなアレキサンダーが気に入らなかったのか、くすんだ金髪の青年――ニコライ・ヴィノグラートは顔を上げて彼を睨みつけた。じっとりとした視線を向けられたアレキサンダーは「つってもなぁ」と漏らしつつ、スキンヘッドを掻いた。

 

「毎度毎度、こうも滑稽な珍事件を引き起こされると、こっちとしても……ブフッ!?」

 

「るせー! それもこれも全部イワンのせいだバーカ! てめぇ、よくもガセネタ掴ませやがったなこの野郎!?」

 

 そう叫ぶと同時、ニコライの表情が悲嘆から憤怒のそれへと切り替わる。そのまま彼は勢いよく立ち上がるや否や、アレキサンダーの隣に立っていた若手隊員――イワンに詰め寄り、その襟首を掴んで引き寄せた。

 いきなり胸ぐらを掴みあげられたイワンだが、しかしその顔に焦りの色はない。慣れているのか、イワンはどこか呆れた様な声で反論する。

 

「いやいや、ニコライ先輩。『エレナ姐さんの裸覗きたいんだけど、どのシャワー室に入ってる?』って聞かれて、正直に答える奴なんていませんって」

 

 彼の言葉に、周囲で様子を窺う男性隊員たちも一斉に首を縦に振った。

 

 なぜ覗きをこれからしようとしている者に、わざわざターゲットの情報を親切に教えねばならないのか。しかも身内である。正直に答える者がいるとすれば、それは気狂いか余程家族仲が悪い者だけだろう。

 

 つまるところ、ニコライの怒りは完全なる八つ当たりである。

 

「だ・か・ら・っ・て・なぁ!」

 

 しかしニコライはその弁明に一切耳を貸さない。彼は鬼の如き形相で、イワンに向かって怒鳴った。

 

 

 

「わざわざアシモフ隊長が入ってるシャワー室を教える奴があるか!? 目が潰れるかと思ったわ!!」

 

 

 

 ――シルヴェスター・アシモフ。

 

 身長190cm、体重136kg、年齢51歳。

 

 歴戦の兵士たる貫禄を纏った第3班の班長にして、熊を思わせる巨体を持った巨漢である。

 

 

 

 ――もう一度言おう、 巨 漢 で あ る 。

 

 

 

「ぶッ、ハハハハハ! も、もう無理だっ! こんなん笑うに決まってんだろ!」

 

「やめろニコライ……ぷほッ! こ、これ以上俺の腹筋を割るんじゃねえ……!」

 

 

 

 

 巨乳美女かと思った? 残念、ロシアマッチョ(おやじ)でした!

 

 

 

 

 そこに楽園があると無邪気に信じ、嬉々として覗きこんだ先に広がっていたのは地獄絵図。それを目にした時のニコライの反応は想像に容易く、班員たちは爆笑を禁じえない。

 

「お前、これで覗き失敗すんの何回目だハハハハハ!? いい加減懲りろブハハハハ!」

 

「笑い過ぎなんですよおめーら!? 少しは同情してくれてもいいんじゃないですかねえ!? くっそ、見てろよ! 次こそは成功させてやるからな!?」

 

 普段は気だるげな眼を見開いて必死な姿がまた、笑いを誘う。百戦錬磨の軍人で構成された第3班だが、集まっている男性隊員の大半は、腹痛で戦闘不能状態だった。

 

「あぁ、笑った笑った……とりあえずイワン、よくやった」

 

 隊員の一人、アーロンがサムズアップしながらイワンの背を叩く。一方、なぜ褒められたのかが今ひとつわからない、と言った様子で。当人はキョトンと首をかしげた。

 

「いや、よくやったも何も……アーロン先輩だって、ニーナ先輩で同じシチュエーションになったら、俺とおんなじことするでしょ?」

 

「当たり前だ」

 

 自分の妻を引き合いに出され、間髪入れずにアーロンが返す。アレキサンダーもまた、ここにはいない自分の妻に置き換えて同じことを考えたのか、同意するように頷いている。

 

「というかニコライ先輩。覗き未遂するの、これで何回目ですか?」

 

 思わず尋ねたイワンに、ニコライは不機嫌そうに答えた。

 

「そんなん、両手の指の数を超えたあたりから数えてませんよ。クソッ! 今に見てろよおめーら、必ず成功させてぎゃふんと言わせてやっからな……!」

 

「あんたには懲りるって概念がないんすか?」

 

 思わずタメ口混じりでツッコミを入れるイワンだが、それも頷ける。なぜならこのニコライ・ヴィノグラート、やたらと覗きを試みるくせに、一度としてそれを成功させたことがないのである。その回数、今回を覗いて実に39犯中39未遂である。

 

 ある時は自爆、またある時はびっくりするほどの悪運のなさ。

 

 毎度毎度、コメディ映画かという程に滑稽な形で覗きをしくじる彼の姿は、ある意味ロシア支局の名物と言っても過言ではない。

 

 そして今回、記念すべき40回の覗きにおいて、彼は目潰し爆弾級のしっぺ返しを食らったのである。

 

「もう大人しくしときましょうよ。どうせ成功しないんだし、もう覗きはやめてください。特に姉ちゃんのは」

 

「ああ、当たり前だがニーナも覗くなよ? もしもやりやがったら……朝日は拝めないと思え」

 

「おい待てふざけんな!? その2人を禁止されたら、俺は誰の裸を見りゃいいんですか!?」

 

「やめるっていう発想がないあたりがニコライだよな」

 

 逆切れするニコライに、班員のセルゲイが一周回って逆に感嘆の声を上げた。なぜの情熱を、もう少し任務や訓練へと向けられないのか、という疑問を抱きながら。

 その横で、ふと思いついたようにアレキサンダーが口を開いた。

 

「そういやお前、覗き覗き言ってる割に、アナスタシアを覗こうとはしないんだな?」

 

 突然引き合いに出された女性隊員の名前。

 

 それを聞いた途端、ニコライの表情が固まった。しかし、それも一瞬のこと、彼はすぐにその顔を元の表情へと戻すと、ひょうひょうと答えた。

 

「そりゃ、あいつは幼馴染ですからね。裸なんぞ、ガキの頃に見飽きてるんですよ。それにどーせ覗くなら、やっぱ人妻とか他人の姉の方がそそるでしょ?」

 

「先輩、完全に犯罪者の台詞ですよそれ」

 

「マジでいっぺんシメるぞ、お前」

 

 ドン引きのイワンと青筋を立てたアーロンがツッコミを入れる。しかしアレキサンダーだけは何かを察したらしく、露骨にその口元はにやけている。ニコライはそれを目ざとく見つけると、むっとした表情を浮かべた。

 

「……先に言っておきますがね、アレキサンダー。俺はナスチャの奴に、あんたが考えてるような感情はこれっぽっちだって持ってねーからな?」

 

「ほーん?」

 

 ニコライが釘を刺すが、アレキサンダーは表情を緩めたままだ。それが癪に障ったのか、彼の額に青筋が一本浮き上がった。

 

「ほーんじゃねえんだよ、ほーんじゃ。大体、あんな年齢詐称娘の裸見て、何の得になるっていうんです? しかもペチャパイだし」

 

「ふーん……? 誰がペチャパイ年齢詐称娘だって、ニコライ?」

 

「そりゃあんたのことですよ、ナスチャ。さすがにそれで18歳Cカップはねー……よ……?」

 

 

 

 ――そこでニコライは初めて、いつの間にか自分の背後に1人の人物が立っていることに気が付いた。

 

 

 

 ギギギ、と音を鳴らしながら振り向いてみれば、そこに立っていたのは件の女性隊員、アナスタシア。人形のようなその顔には、とっても素敵な笑顔を浮かべている。

 

「やべっ」

 

 逃げ出そうとするニコライだが、アナスタシアの両手が彼の頭を捕らえる方が早かった。女性かつとはいえ、さすがに軍人。手に込められた力は並の男性を凌ぎ、ギリギリと彼の頭骨を締め付けた。

 

「いだだだだだだ!? やめろナスチャ!? ギブ! ギブ!」

 

「撤回しなさい、今すぐ。私は18で、バストはCカップよ」

 

「ぐぁっ……認め、ねぇ……! 俺の性欲に妥協はない……! お前は29歳で、Bカップ……! 全然――全然、お前なんかに、俺の食指は動きませんよ……!?」

 

「……死ね」

 

「おぎゃああああああああああああ!?」

 

 直後、ニコライは頭から不吉な音を響かせ、その場に崩れ落ちた。アナスタシアは痙攣する彼を冷徹に一瞥すると、何事もなかったかのように席へ着いた。

 

 それを見たアレキサンダーはやれやれとばかりに首を振ると、隣にいるイワンに囁く。

 

「覚えとけ、イワン。好きな女子に意地悪したくなる男子の心理ってのは、こじらせすぎるとこうなる」

 

「ああ、この人そう言う……天邪鬼も大概っすね」

 

 イワンが憐憫の視線をニコライに向けたその時、機械音と共にミーティングルームの扉が開いた。

 

「おう、待たせたなお前ら……って、何でコイツはわざわざ床で寝てるんだ?」

 

 そう言いながら部屋に入ってきたのは、件のロシア班の班長であるアシモフ。ヒグマを思わせる彼の背後から、イワンの姉であるエレナを始め、この場にいなかった他の隊員たちが続く。

 

「必要かつ最低限の処分を下しただけです」

 

「……こいつ、またやらかしやがったな?」

 

 アナスタシアの素っ気ない答えで全てを理解したアシモフがため息を吐く。

 

「で、今度はどっちだ? エレナか? ニーナか?」

 

 アシモフの疑問に答える者はいない。事情を知る者は、その言葉でまた思い出し笑いを始めたためだ。

 

「そ、それより隊長! ニコライ先輩の覗き癖、なんとかならないんですか?」

 

 ――まさか「被害者は隊長、あなたです」と言う訳にはいかない。

 

 ただ1人まともに受け答えが可能なイワンは、露骨に話題をそらしながらアシモフを見やった。

 

「なんぼなんでも、犯罪行為をそのまま放置するのってどーかと思うんすけど」

 

「ああ、心配すんな。そいつ、そもそも覗く気ねぇから」

 

 アシモフがさらりと言いはなったその答えを聞いて、隊員たちはまず己の耳を疑う。次いで、その顔に思い思いの『驚愕』を浮かべて見せた。

 

 目をはち切れそうなほどに見開くエレナ、息の合った様子で「はい?」と漏らすアーロン・ニーナ夫妻。

 セルゲイは痙攣するニコライを二度見し、イワンは顎が外れそうな程口を開き、眼鏡をかけていた男性隊員は衝撃のあまりレンズが吹き飛んだ。

 

「何だ、お前ら気づいてなかったのか?」

 

 アレキサンダーはそう言うと、クツクツと楽し気な笑い声を上げた。

 

「考えてもみろ、こいつはアナスタシアと並ぶウチのエンジニアだぞ? こいつが本気を出せば、隠しカメラでもなんでも用意できるだろうよ」

 

 確かに、と納得する一同。更に、と続けながら、アレキサンダーはセルゲイに抱き起されているニコライを指さした。

 

「いくらなんでもミスりすぎだろ。今回だって、「これから覗きますよ」ってわざわざイワンに声かけた。戦闘時のこいつの役割思い出してみろ、ベースの迷彩能力使った奇襲要員だぞ? フツーに考えて、わざとだって考える方が自然だ」

 

「な、なるほど……」

 

 言われてみれば、ニコライに嘘の情報を伝えてから彼が覗きを実行し、もだえ苦しむまでには若干のタイムラグがあったように感じる。今になって思えば、イワンの情報が本当かどうかを確認していたのだろう。

 

 つまり、今までの失敗は全て計算で、しかもその影には本当に覗いてしまわないように大分気を遣っていた、と。

 

「な、何て無駄のない無駄な努力……」

 

 ごくりと生唾を飲み込むイワンに、アレキサンダーは呵々と笑う。

 

「ジャパンじゃ体を張って視聴者笑わせるコメディアンがいるらしいが、さしずめ本人もそれを気取って、俺らを笑わせようとしてるんじゃないか? こいつ、妙に気を利かせすぎるとこあるからな……どうよ、アナスタシア? 経験に基づく、俺のプロファイルは?」

 

「……さあ?」

 

 いかにも興味なさげに返したアナスタシアに、アレキサンダーは肩をすくめて見せる。そんな彼らのやりとりを笑いながら見ていたアシモフは、「まぁ」と切り出しながら、未だに気を失っているニコライへと歩み寄った。

 

「本当にやらかすような奴なら、とっくの昔に俺が足腰立たなくなるまで殴って叩きだしてるさ……ほれ、そろそろ起きろバカタレ」

 

 言いながら、アシモフはニコライの頭に拳骨を落とした。「いってえ!?」という叫びと共に飛び起きたニコライを見て頷くと、アシモフは声を張り上げた。

 

「ようし、全員席に着けぇ! ちと遅くなったが、ミーティングを始めるぞ!」

 

 アシモフの号令一下、表情を引き締め直した班員たちが動き始めた――瞬間、ニコライの目の色が変わった。

 

 彼は意識を回復したばかりとは思えない俊敏さで、動き始めたロシア班の班員たちの合間を縫ってちょろちょろと動き周り、事前に準備しておいたものを用意し始めた。

 

「とりあえずお前ら、差し入れにピロシキ買ってきたんで、1個ずつ持ってってください。隊長お墨付きの店のやつだ、味は保証するぜ」

 

「ほれ隊長、お飲み物……は? ウォッカ? 真面目な会議中に酒飲むんじゃねーぞ軍神。次から、始まる前に飲んで来てください……あーもう、そんな顔すんなっての! 終わったらスピリタスあげるんで、それまで我慢してください!」

 

「おっとセルゲイ、今回のミーティングの資料、人数分刷ってきたんで回しといてくれや。あ、5ページの3行目と8ページの12行目に誤植あるんで、各自修正頼みます」

 

 先程までとはまるで別人のように、ニコライはてきぱきと作業を進めていく。そんな彼の様子を見ながら、アナスタシアは呆れたようにため息を吐いた。

 

「余計なことしなきゃ、気遣いのできるいい同僚なのにね……なんでわざわざ、自分で評価を下げにいくの、あんたは」

 

「あいにく、俺はエロと機械に関しちゃ嘘はつかないって決めてるもんで。お、そうだった――」

 

 とげとげしいアナスタシアの言葉を軽く受け流してから、ニコライは用意していた手提げ袋に手を入れる。その中から何かを取り出すと、彼はそれをアナスタシアの前に差し出した。

 

「ほれ、ナスチャ。お前、前回のミーティングの時に足元寒そうにしてたよな? これ、やるよ」

 

 彼の手に握られていたのは、1枚の毛布。見た目は無地の味気ないものだが、手に取ると保温性に優れたものであることがよく分かる。支給品ではない、恐らくニコライが自分のために買ってきてくれたものだろう。

 

「……ありがと」

 

「どーいたしまして。お礼は最新式のパソコンでいいぜ?」

 

「調子に乗るな」

 

 ポカリ、と頭を叩かれたニコライは、ペロッと舌を出してから、忙しなく自分の席に向かって駆けていく。その背中を見ながら、アナスタシアはもう一度深くため息を吐く。

 

 

 ――ホント、黙ってればそれなりにいい男なのに。

 

 

「ほい、お待たせしましたっと。いつでも始められるぜ、隊長」

 

 彼女の内心など知る由もなく、所定の席についたニコライが言った。記録をとるためのノートを開き、彼が準備を整えたのを確認してから、アシモフは鷹揚に頷いて見せる。

 

「よし、では今から会議を開始する。そうだな、色々と言わなきゃならんことはあるんだが――まず真っ先に言うべきはこれだろうな」

 

 そう言って、アシモフはその表情を引き締めた。

 

「今現在、地球上で確認されている()()()()()()()()についてだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……A・E(エイリアン・エンジン)ウイルス?」

 

 ――ロシアでミーティングが始まったその頃。

 

 奇しくも同じ時刻、同じタイミングで。U-NASAドイツ支局でも同じ議題が展開されていた。

 

 日課である戦闘訓練が終わった直後の男性更衣室で、班員の一人であるエンリケはチラリと、隣の男に視線を向けた。

 

「それって、例のウイルスの名前だよな、バズ?」

 

「ああ、そうだ」

 

 その言葉に、『バズ』と呼ばれた男――本名、バスティアン・フリーダーは頷いて見せた。

 

 坊主頭と、身長200cmにも届こうかという長身が特徴的な男だ。その肉体はまるでギリシア彫刻を思わせる美しい筋肉で覆われ、圧倒的な存在感を放つとともに、見る者の目を釘付けにする。

 

「俺達が火星に行く最大の理由だな。」

 

 普段着であるトレーナーに袖を通しながらバスティアンは言うと、手にした水筒に口をつけた。

 テレビCMのように音を立てながら中身を喉へと流し込む彼に、「でもさ」と別の班員ジョハンが疑問の声を呈した。

 

「そのウイルスに対するワクチンは、試作とは言えU-NASAの科学者の人たちが、一応完成させたんだろ? なら、俺達が火星に行く理由ってもうなくなったんじゃないか?」

 

「それは……いや。これも、ミーティングの時に話そうか」

 

 その返答に若干不満げな表情を浮かべるエンリケとジョハン。バスティアンは彼らに「もったいぶるようですまんな」と苦笑いを浮かべた。

 

「女性陣もひっくるめて話した方が手っ取り早いし、これは立ち話で話せるような内容じゃないんだ。もう少しだけ待ってくれ。それより――」

 

 そこで一度言葉を切ると、バスティアンは手中の水筒をエンリケへと手渡した。

 

「お前ら、トレーニング後の水分補給はちゃんとしておけよ? この大事な時期に脱水症状はシャレにならんからな」

 

「お、サンキュー……ってうまいなコレ!?」

 

 中の飲料を一口飲んだエンリケが驚きの声を上げる。その声につられて集まり始めた第5班の同僚たちに向け、バスティアンが少しばかり得意げに開設する。

 

「蜂蜜とレモンをベースに、生姜をブレンドしたドリンクだ。疲労の回復とエネルギー補給、それに代謝活発化の効能がある。よかったら飲んでみてくれ」

 

「すげー……ドイツ空軍の特殊部隊じゃ、こういうのも調合してんのか?」

 

 しきりに飲みたがっているアントニオに水筒を手渡しながら、エンリケが感心したように聞くと、バスティアンは首を横に振った。

 

「どちらかといえば、それは今のジムトレーナーの仕事に就いてから趣味で始めたんだ。あと、特殊部隊の肩書には『元』って但し書きがつくことを忘れるなよ?」

 

「ああ、そう言えばそうだったか」

 

 すっかり忘れていた、とばかりのエンリケに、バスティアンは苦笑いを浮かべた。

 

「暫定のマーズランキングもさほど高くないしな。特殊部隊時代の経験なんて、辛うじて脱出機の操縦に活かせるかどうか……って、今は俺のことより、味の感想を聞かせてくれ。どうだ?」

 

「いや、滅茶苦茶美味いぞ。なんなら、毎日でも飲みたいくらいだ」

 

「これあるんなら、俺毎日の訓練もっと頑張れるよ!」

 

 バスティアンが質問すると、班員たちからは次々に肯定的な感想が返ってくる。一通りそれを聞いてから、彼は満足げに頷いた。

 

「気に入ったなら、明日からは多めに作ってくるか」

 

 その言葉に歓喜する班員たちを見て笑い声を上げると、バスティアンは腰かけていたベンチから立ち上がった。

 

「さて、それじゃあ俺は先に行ってるからな。ミーティング、遅れるなよ?」

 

 そう言ってバスティアンは更衣室を後にしようと、彼らに背を向け――

 

「おっと、そうだ」

 

 出入り口付近まで来たところで、背後を振り返った。何事かと顔を向けてくる第5班の班員たちにバスティアンは――その頬を桃色に染め、怪しい笑みを浮かべた。

 

 

 

「――間接キス、だな」

 

 

 

「「「「「……」」」」」

 

 黙り込んだ男性陣をよそに、バスティアンは今度こそ更衣室を後にした。何とも言えない空気が十数秒ほど続いたころ、誰かがポツリと溢した。

 

「たまにこういう爆弾突っ込んでくるところ以外、本当に頼れる奴なんだけどなぁ……」

 

 その言葉に、男性陣一同は激しく首を縦に振った。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「さて、今現在地球で流行が危惧されている『A・Eウイルス』――名称はともかく、大方の内容についてはお前たちも知っていると思うが、一応おさらいしておこう」

 

 そう言ってバスティアンは、ミーティングルームに集まった班員たちを一瞥した。

 

 ちなみに、本来ミーティングを進めるのは班長であるアドルフの役目なのだが、彼は現在新人のエヴァと共にアメリカへ渡っており、不在。そのため今回は、アドルフによって副班長を任命されたバスティアンが代理で進行する形式をとっている。

 

「現在の地球上で猛威を振るっているこのウイルスは、火星由来のものだ。これに感染した場合の致死率は100%。臓器移植って言う物理的な手段以外に有効な治療法は、ワクチン接種しかない。だが、このA・Eウイルスは通常のウイルスと違い培養が難しく――というよりも不可能なため、これまでワクチン制作は難航していた」

 

 そう言ってバスティアンは、プロジェクターが操作すると、スクリーンにA・Eウイルスの写真が映し出された。その形状は記号の『♀』の形に酷似しており、どこか物々しい雰囲気をかもしだしている。

 

「だが……先日、ついに1人目の完治者が現れた。お前らもテレビやSNSで見たことがあるだろう。日本人女性の『源百合子』だ」

 

 頷く班員たちの前でスライドが切り替わり、百合子の顔がスクリーンに映し出される。バスティアンはアドルフから送られてきた資料を開くと、該当項目を要約して読み上げた。

 

「クロード博士が作った『試作型ワクチン』と『MO手術』を組み合わせることで、完治に至ったらしい。現在、医療チームがワクチンの量産体制の確立を急いでいる、とのことだ」

 

「……ん? ちょっと待てよ、バズ」 

 

 そこまでバスティアンが話した時、女性班員であり、アドルフと並ぶ第5班の主力であるイザベラが声を上げた。

 

「アタシらが火星にいかなきゃいけない理由は、『ワクチンを作るためのサンプルが不足してるから』だったよな? そのワクチンが完成したなら、わざわざ火星に行く必要はないんじゃないか?」

 

「ああ、ついさっきジョハンにも同じことを聞かれた。そしてお前達の言う通りだ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()、俺達が火星に行く必要はない」

 

 そう言って、バスティアンは右手の指を二本立てた。

 

「ワクチンが完成して、それでもなお俺達が火星に行かなきゃいけないは二つある。まぁ、一つ目は簡単でな……ワクチンは、まだ不完全なんだ」

 

 首をかしげる班員たちに、バスティアンは説明を続ける。

 

「さっきも言った通り、ウイルスが完治したのは今のところこの子だけ。それも『MO手術』を併用してやっと、という程度のものだ。当然、患者全員に施すだけのMOのストックはないし、何より成功率が低すぎる。だから、より完成度を上げるためにも、やはりサンプルの確保が急務なんだ」

 

 また話の本題を切り出すため――バスティアンはプロジェクターに手をかけた。

 

「そして二つ目の理由だが……皆、これを見てくれ」

 

 切り替えボタンが押されると同時、スクリーンに映し出されたのは、先程のA・Eウイルスによく似たウイルス。ただし、先程のものと違って、その形状は『♂』の記号マークに近い。

 

「何だこれ?」

 

 イザベラが写真を見て首をひねる。一方、事前にある程度事情を聞いていた男性陣は、顔色をサッと青ざめさせた。そんな彼らの様子を見ながら、バスティアンは重々しく口を開く。

 

 

 

 

 

「地球で流行し始めている、()()()()()A()()E()()()()()()

 

 

 

 

 

「――はぁ!?」

 

 バスティアンが答えると、イザベラがギョッとしたように眼を見開いた。

 

「ちょ、ちょっと待て! ってことは、A・Eウイルスは2種類あったってことか!?」

 

「そうらしいな。ブラックジョークよりも性質の悪い話だが」

 

 バスティアンは顔をしかめながら、2枚の『A・Eウイルス』の画像を表示する。

 

「試作型のワクチンが完成してるのは、最初に見せた『♀』型の方だけだ。つまり、こっちの『♂』型についてはワクチンが開発されておらず――依然、致死率は100%のままだ」

 

「で、でもよ……」

 

 そこで男性班員の一人、アントニオがおずおずと口を開いた。

 

「『♀』型のワクチンは、作れたんだろ? だったら、『♂』型の方だって――」

 

「ああ、俺もそう思った……()()()()()()()()。だが、事態はそう簡単じゃない」

 

 そう言って、バスティアンは左手を強く握りしめた。尋常ではないその様子に思わず息を飲んだ班員たちに、彼は『♂』型のA・Eウイルスのワクチンが作れない理由を述べた。

 

「――『♂』型のA・Eウイルスは増殖するとき、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 ――それは、通常ならば考えられない特性。

 

 

 

 いかに突然変異のウイルスといえども、ある程度決まった『型』というものは存在する。なぜなら、増殖のための遺伝子情報は一定であるから。

 

 例を挙げよう。普通の犬が、突然変異によって特殊な毛色をした子犬を生むことはあるだろう。遺伝情報の一部に設計ミスがあれば、こう言った事態はしばしば起こり得る。だが何をどうまかり間違ったところで、犬が猿を生むことは絶対にない。

 

 だが――この『♂』型A・Eウイルスは、それをやってのける。

 

「このウイルスの遺伝子は増殖する際、周囲の遺伝子情報を手当たり次第に取り込んで、己の遺伝子情報を書き換えるんだ。極端な話、条件さえ整えばさっきまで熱病でうなされてた奴が、数分後には性病で苦しんでるってことだってありうる。こんなんじゃ、対処療法すらままならない。完治の可能性があるとすれば、やはりワクチンくらいなものなんだが――」

 

 

 

 ――変化の規則性を読み解かない限り、このウイルスのワクチンを作ることはできない。

 

 

 

 バスティアンは険しい表情で告げたその言葉に、班員たちは誰一人の例外なく――普段は強気なイザベラでさえも、その顔から血の気を引かせた。

 

 今はまだいいかもしれない。だがこのウイルスは特性上、いつパンデミックを引き起こしてもおかしくない。

 

 取り込む遺伝子によって性質が変わるのならば。感染性の高いウイルスや細菌の遺伝子を取り込んだ場合にはどうなる? もしも、狂犬病ウイルスを始め、より危険性の高い遺伝子と融合し、それらが変異を続けながら伝染していったのなら、どうなる?

 

 おそらくは誇張でも比喩でもなく――()()()()()()()()()

 

「『♀』型と違って、『♂』型のサンプルは腐るほどある。だが、そのどれもが『変異済み』のもので、規則性を読み解くことができていない。俺達人類がこのウイルスに対抗するための、手段はただ一つ――まだ変異していない『原種』を、火星から採集してくることだけだ」

 

 バスティアンはプロジェクターのスイッチをオフにしながら班員たちの様子を窺う。俯いてしまった班員たちの顔に浮かんでいるそれは、彼にとっては見覚えのあるものだった。

 

 即ち、責任感に追い詰められた新兵の表情だ。

 

 まだ実物に深くかかわっていない彼らにとって、例の火星生物の危険度は今ひとつピンと来ないものだろう。『♀』型のA・Eウイルスについても、ワクチンという『対抗策』が提示されたために、脅威度は下がっていると考えていい。

 

 だが、『♂型』のA・Eウイルスについては話が別だ。まるで『悪意』と『殺意』の塊のようなこの未知のウイルスが、気まぐれで『パンデミック』を引き起こす可能性があるという事実。しかもそれに対する対抗策は一つもなく、頼みの綱は自分達だけ。

 

 つまり彼らは、人類の命運が自分達にかかっていると、具体性を伴って宣告されたのだ。彼らは勇者でもなければ英雄でもない、普通の感性を持った人間だ。追い込まれない方がおかしい。

 

(――やはりこうなったか)

 

 バスティアンは心の中で呟く。

 

 本心を言えば、彼はこの情報を開示することには反対であった。追い込まれれば人は力を発揮するが、追い込みすぎれば士気は落ちる。士気の低下はそのまま、任務の成功率・生存率の低下へと直結することを、バスティアンは経験上良く知っていた。

 

 

 だがそれでも、アドルフは「伝えろ」と言ったのだ。

 

 

『例えそれが、どれだけ不都合な真実であったとしても。上に立つ者として、俺にはあいつらに真実を伝える義務がある』

 

 渋る自分に対して、電話の向こう側から彼は淡々と、しかし断固とした口調で告げた。

 

『真実を隠蔽することは、命懸けで任務に臨むお前達に対する侮辱だ。だから、この情報は必ず全員に伝えろ――責任は、俺が取る』

 

 アドルフの判断は、決して戦略的には最適解とは呼べないもの。しかしバスティアンは、それをとても好ましいと思った。

 

 

 なぜならアドルフの言葉は、彼の真摯さと、誠実さと、信頼の裏返しだったから。

 

 

 彼は任務の達成効率よりも、自分達への誠意を選んだのだ。例え士気が低下すると分かっていても、アドルフは部下の信頼を裏切ることを良しとしなかった。

 

 

 

 ――ならば自分は副官として、彼の信頼に応えなければなるまい。

 

 

 

「……本音を言えば、俺はこのことを話すのには反対だったんだ」

 

 言葉を飾る必要はない、内容を偽る必要もない。

 

 アドルフと同じように、バスティアンもまた班員たちを信頼しているから。彼は自分の本心を、彼らに打ち明けた。

 

「アネックスの乗組員は、俺も含めて大半が金を求めて流れ着いた人材だ。人類の命運なんてもの、そんな奴らが背負うにはあまりにも重すぎる……そう思った」

 

 だが、とバスティアンは続けた。

 

「それでもアドルフ班長は、『必ず伝えろ』と言った。責任の重さを知ってほしかったわけじゃない。あの人はな、俺達を信じてくれたんだよ」

 

 顔を上げた班員たちに、バスティアンは笑って見せた。

 

「俺達の責任は重大だ。大げさじゃなく、世界の命運がかかってるからな。けど、だからといって、自分を追い詰めすぎないでほしい。訓練の成果は着実に出ているし、他でもない班長が太鼓判を押してくれてるんだ。大丈夫だ――」

 

 ――俺達なら、この任務は絶対にやり遂げられる。

 

 力強く断言してから、バスティアンは空気を変えるように数回、手を叩いた。

 

「以上でミーティングは終了とする! この後は各自、自由に過ごして羽を伸ばしてほしい!」

 

 明日の訓練に遅れるなよと告げ、バスティアンは席を立つ。それからミーティングルームを後にしようとしたところで――

 

「バズ、ちょっといいか?」

 

 ――イザベラが、彼を呼び止めた。

 

「もしこのあと暇なら、アタシのトレーニングに付き合ってくんねーかな?」

 

「それは構わないが……今日はもうフリーだぞ?」

 

 聞き返すバスティアンに、イザベラは「ばーか」と笑みを浮かべた。

 

「あんなこと言われたら、頑張らないわけにはいかないだろ? 班長から期待されてるんなら、アタシはそれに応えたい」

 

 な? と振り返る彼女に、他の班員たちも頷いた。その顔には先程までの暗い表情はなく、代わりに強い決意の表情が浮かんでいる。それを察し、バスティアンは口を開いた。

 

「そこまで言うなら、いいだろう。それなら20分後、余力のある者はもう一回訓練場に集まってくれ」

 

 そう言ってバスティアンは――彼にしては珍しく、悪戯っぽい笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

「せっかくやるんだ。ガツンとスコアを上げて、帰ってきた班長を驚かしてやろうじゃないか!」

 

 

 

「「「おー!!」」」

 

 

 

 

 バスティアンのかけ声に合わせ、第5班の班員たちは決意を新たに、一斉に右腕を突き上げた。

 







【オマケ①】

アレキサンダー「ちなみに過去に1回だけ、ニコライがアナスタシアを覗こうとしたことがある。そん時こいつは、シャワールームの前で30分近く葛藤してたんだが――」

ニコライ「おいばかやめろ」

アレキサンダー「――中からナスチャの鼻唄が聞こえた途端、「可愛すぎかよ」と言い残してその場を去った」

ニコライ「ぐああああああああ!?」

イワン「ああッ!? ニコライ先輩が羞恥のあまり、服を脱ぎ捨てて外(-30℃)に!?」




【オマケ②】

バスティアン「お前たちも、最初に比べてイイ体になってきたなぁ……。どうだ? 今夜まとめて、俺の部屋で夜の訓練もしてみないか?」

男性陣「「「「遠慮させてくれ」」」」

イザベラ「男色趣味がなければ好みのタイプなんだけどなぁ……」


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第31話 ARK PROJECT 箱舟計画

 

 

  アネックス計画のために集められた110人がやるべきことは多い。戦闘員ならば徒手格闘や戦術の学習、非戦闘員ならばウイルス研究を始めとした各自の担当となる役職の研修など、訓練の内容は多岐にわたる。

 

 そんな日々を様々な出会いや経験と共に過ごしていれば、半年の準備期間などあっという間に過ぎ去るものだ。

 

 

 

 時は流れ、西暦2620年3月4日。

 

 

 

 アメリカ合衆国ネバダ州南部より、人類の希望を託された大型有人宇宙艦『アネックス1号』は地球を発った。

 

 

 

 人類の未来を照らす『燈し火』となるべく――彼らは未知なる脅威が蠢く火星を目指す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして――その日から()()()()一週間前。とある施設の広間に、『彼ら』は集められていた。

 

 集められた人間の数、実に89名。その中でも突出して目立っているのは、最前列に並ぶ7人の人間達だろう。

 

 ――フルフェイスヘルメットに拳法服を着た男、シモン・ウルトル。

 

 ――赤いドレスに身を包んだ女性、モニカ・ベックマン。

 

 ――まるで岩を削って作られたような巨体と筋肉を持つ、タンクトップ姿の老人。

 

 ――ポークパイハットを目深に被り、ボロボロのオーバーコートを羽織った青年。

 

 ――ベッドシーツを思わせる簡素な服を纏った、幸薄気な少女。

 

 ――黒皮のジャケットとけばけばしいメイクが特徴的な、坊主頭の人物。

 

 ――フードで全身を覆い隠し、輪郭以外の情報が一切読み取れない人物。

 

 

 普通に過ごしていればまず見かけることはないだろう、特異な装いをした7人が見つめているのは、彼らの眼前に向かい合うように整列している『アーク計画』に直接参加する隊員たち――より厳密にいえば、その中でも『火星実働部隊』に配属された者たちだ。

 列をなして整然と並ぶその様は軍人のそれを彷彿とさせるが、しかしこの場にいる彼らの大半は軍人ではない。

 

 警官、事務員、医者、学校教諭、傭兵、アスリート、犯罪者……職業軍人と思しき人間も見受けられるが、とにかくこの場にいる者たちの職業には統一性がなかった。

 

 否、職業だけではない。性別、国籍、年齢、宗教……人を測るにあたって用いられる一般的な指標ほぼ全てにおいて、この集団の構成員には何ら共通点を見出すことはできない。

 彼らの様子も、気楽そうな者からやる気に満ちている者、緊張している者まで実に様々だ。

 

 

 

 ――この場に集められた『アーク計画火星実働部隊』の構成員たちの共通要素は、ただ2つのみ。

 

 第1に、彼らは1人の例外もなく『MO手術』を受け、45%の門をくぐり抜けているということ。

 

 

 

 そして第2に――この場にいる全員が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ということ。

 

 

 

 元々、彼らも含めた『アーク計画』参加者のほとんどは、団長と呼ばれる上官クラスの人物から末端の技術者に至るまで、クロードとシモンによる選考を経たうえで、彼らが直々に世界中からヘッドハンティングをしてきた者たちだ。

 

 これは未然に各国の工作員や裏切り者の流入を防ぎ、かつ任務達成率を高めるために信頼できる人格の持ち主を選好するための措置だったのだが、この過程で彼らは『ある程度戦闘に長けたベースに適合する人材』かどうかも見極めていた。

 

 こうした経緯もあって、この計画の関係者で『MO手術』を受けた者の多くは、最低でもテラフォーマーを1対1ならば仕留めることができる程度の戦闘力は持っているのだが――その中でも『火星派遣部隊』に選抜された者は、こと戦闘に関して言えば精鋭中の精鋭。

 

 本人の強さか、はたまたベース生物の強度によるものかはさておき、アネックス計画で用いられている『火星環境下におけるゴキブリ制圧能力のランキング』――通称『マーズランキング』にあてはめれば、全員が戦闘員として認識される30位圏内に収まる実力者たちだ。

 

 

 『火星実働部隊』たちは静寂を保ちながら、じっとその瞬間を待っていた。

 

 

 

 

 

 

「さて……よくぞ集った。我が同志、我が同胞(はらから)たちよ。ククク……我に従属せし72柱の魔神どもも、歓喜に打ち震えておるわ」

 

 

 

 それを破って朗々と声を響かせたのは、ポークパイハットの男だった。

 

 

 

 彼はカツカツと靴音を鳴らしながら数歩前に歩み出ると、自らに視線を向けた82人を一瞥した。

 

「同志諸君、我は諸君らに問おう。百戦錬磨の勇者たちよ、一騎当千の英雄たちよ――諸君を凶星へと駆り立てる物とは、何ぞや?」

 

 ――答える者はいない。

 

 男も口に出しての回答は求めてはいないのだろう。その顔に意味ありげな笑みを浮かべると、彼は歌うように続けた。

 

「永遠の愛を囁いた恋人か? 破れることなき友情を誓った友人か? 曲げることのできぬ矜持か? 何であろうとも大いに結構。

 戦いの理由に貴賎なく、それが神愛より出る献身であろうと、欲望より出る闘争であろうと、我らが求めるはその先にこそ見いだせるものなれば。理由の如何は問わぬ」

 

 ――されど。

 

 男は戒めるように、そう言った。

 

「されど、ゆめ忘れるな。我らが求めるものとは、即ち『誰一人欠くことなき凱旋』である。其は大衆が理想と嗤い、其は民衆が絵空事と嘲るものだ。これを勝ち取ること、まさに茨の道を踏み越えるが如く険しく、寡兵で以て万軍を退けるが如く難きことを知れ」

 

 息を吐き、男はじっと数える。1、2、3……そして己の言葉の意味を、隊員たちが最も強く意識したであろう瞬間に、彼は再び口を開いた。

 

「ならば、何とする? いかにして諸君らは、この命題を成し遂げるか? ――考えるまでもないことだ。諸君らが為すべきことはただ一つ。即ち、()()()()()()()()()

 

 男は眼前の戦士たちを睥睨し、声を張り上げた。徐々に激しさを増す彼の身振り手振りは、まるでオーケストラを指揮する指揮者のようにも、悪魔召喚の儀式をする邪教徒のようにも見える。

 

「同胞たちよ、『アーク』に集いし我が同志たちよ! 諸君らは煌々と燃え盛る大火であり、諸君らは轟轟と押し寄せる濁流である! 蔓延る茨は野焼きの如く焼き払い、迫る徒党は子が蟻の巣に水を流し込むように押し流せ! 

 我ら箱舟(アーク)にして禁断の匣(アーク)! 我ら希望を囲い絶望を撒き散らす、救済と災禍の権化なれば! 凶星の悪魔ごとき、鎧袖一触に蹴散らしてくれよう!」

 

 男はピタリと動きを止めると、ゆっくりと両手を大きく広げた。そしてこの場にいる全員の視線が集まったその瞬間、彼は不敵な笑みを浮かべて見せた。

 

「生ぬるい『生存競争』しか知らぬ害虫共に、お教えして差し上げろ! 仇敵を殺し尽し、略奪の限りを尽くし、国一つを喰らい尽くしてなお止まらぬ、我ら人間の『戦争』を! 

 奴らの脳髄に刻み込め! 種族郎党この宇宙から消え失せる『絶滅』の恐怖を! マンモスのように、モアのように、絶滅種の目録に『テラフォーマー』の名を書き連ねるのだ! 

 歓喜するがいい、諸君らにはそれを成しうる力がある!」

 

 男の言葉は過激であり苛烈であったが、しかし聞く者の意識を当人すらも気づかぬうちに引き込んでいた。

 

 ――話し手に意識が集中した瞬間に、語り始める。

 

 ――聴衆を一度非難し、その後で褒めたたえる。

 

 ――何度も同じ内容を繰り返す。

 

 ――身振り手振りを大きく行う。

 

 ――抑揚をつけて話す。

 

 演説において大切なのは言葉そのものではなく、むしろそれ以外にある。ポークパイハットの男は職業柄それをよく熟知しており、また使いこなすことにおいて卓越した技量を誇っていた。

 

 既に、場を支配する空気の質は大きく変化していた。この空間を満たす静寂は、始めのうちは『傾聴』のための物であったが、今この場を包む静寂は()()()()()()()

 

 大きくうねる隊員たちの戦意を嗅ぎつけ、男は仕上げとばかりに口を開いた。

 

「聖戦の時は来たれり! 二十年の雌伏は、今ここに終わりを告げる! 今こそ、愛しき者のため、矜持のため、金のため、諸君らが勝ち取りし禁断の力を携え、凶星へと歩みを進める時である! されど、進軍の号令を発するは、我が役目にあらず! 聖戦の火蓋を切る栄誉は、我らが総帥にこそ相応しかろう!」

 

 そういって男は、その場から一歩横へと己の位置をずらした。代わりに、入れ替わるようにして男が今までいた場所に立ったのはシモンだった。ポークパイハットの男は笑みを浮かべると、うやうやしく彼に頭を垂れた。

 

ご命令(オーダー)を、我が主よ。今こそ我ら死兵88名、盟約を果たしましょう。貴公の御言葉を以て我らはこの身を捧げ、凶星へ赴き、悪魔を驕る害虫に真の地獄を知らしめる所存」

 

 男の言葉に、シモンはただ静かに頷いた。そして彼の語り口とは対照的に静かな口調で隊員たちに命じた。

 

「アーク第1団から第7団、並びに特務部隊『イース』特務部隊『ユゴス』、これよりアーク1号への搭乗を開始」

 

 シモンはフルフェイス越しに、眼前の隊員たち1人1人の目を見つめた。彼らの瞳に宿るのは、研ぎ澄まされた戦意。それを認めて多くの言葉は必要なし、と判断した彼は、ただ一言こう告げた。

 

 

 

「――行こう、皆」

 

 

 

 ――悲劇を、覆しに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (カイ)延超(ヤンチャオ)がU-NASA第四支局『中国支部』に到着したのは、不審船打ち上げの一報から30分後のことだった。

 

「どういうことだ!?」

 

 管制室に入るや否や、凱が発した第一声。それを受け、室内にいた職員たちは作業を中断して起立すると、一斉に凱に向かって敬礼する。

 

「なぜ打ち上げを事前に察知できなかった!? 工作員たちは何をしていた!?」

 

 凱が苛立たし気に声を荒げると、職員の内の一人が恐る恐ると言った様子で答えた。

 

「し、しかし凱将軍、我が国がクロード博士の下に派遣した工作員たちは……」

 

「馬鹿者、そんなことは分かっている!」

 

 見当違いな答えを返す職員に、凱は舌打ちをする。

 

 ――不審船の正体は分かっている。おそらくは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だろう。

 

 中国の上層部は、アネックス計画に参加する主要6か国の中で唯一、クロード達が水面下で何か行動を起こしていることを事前に察知していた。

 

 とはいえそれは、彼を取り巻く経済の動きや、人の流れから割り出しただけの、証拠らしい証拠は何もない推測に過ぎず。だからこそ彼らは、疑念を確信に返るため早い段階で、彼の下へと多数の工作員を送り込んだのだが……その結果は散々なものだった。

 

 ほとんどの工作員は彼に取り入ることすらできずに門前払いをされ、辛うじて潜入が叶った工作員たちも、満足な情報を持ち帰ることはできなかった。

 放逐されたり社会的に殺されたりするのはまだいい方で、音信不通になったり、不審死を遂げたり、ひどいものではクロードの側へと寝返ってこちらの情報を漏らす者まで出始める始末。

 

 多くの費用と人材をつぎ込み、断片的な情報に仮定や推測を重ねて得られたのは、『どうやら、クロードが独自に救助艦を用意しているらしい』という憶測のみ。

 軍部の威信を傷つけるこの件には凱も随分と苦い思いをしたものだが、しかし今彼が問題にしているのはそこではない。

 

「私が言っているのは、各地の打ち上げ場に派遣した者たちのことだ!」

 

 ――中国の対策に、抜かりはなかったはずなのだ。

 

『救助艦』を手配していることしかわからなかったが、逆に言えばそれだけは分かった。ならば、()()()()()()()()()()()()()()()というのが、軍部の出した結論。

 

 それを実行するために彼らが取った対策は、世界中に存在する()()()()()()()打ち上げ場に工作員を忍び込ませ、更には衛星なども用いて監視の目を光らせることだった。早い話が、人海戦術である。

 

 内容こそ単純だが、しかしだからこそ有効で防ぎようがない作戦。以下に天才とはいえ、たかが個人の立てた計画。世界の覇権を握る中国が後れをとることは決してあり得ない――はずだった。

 

「……なぜだ、なぜ気づけなかった? ワシントンにモスクワ、日本の種子島に至るまで、監視の体制は万全だったはずだ」

 

 一通り怒鳴り散らし、少しばかり冷静さを取り戻した凱は考える。中国の工作員たちの錬度は、決して低いものではない。しかも監視の対象は不審船、仮に工作が失敗したとして、情報すら入らないというのは妙だ

 

 ――どこだ? 奴らはどこから、救助艦を打ち上げた?

 

 胸中で呟いたその時、奇しくも凱の疑問に答える形で、モニターと格闘していた職員が顔を上げた。

 

「凱将軍! 救助艦を打ち上げた場所が判明しました!」

 

「ッ! 今すぐ報告しろ!」

 

 意識を浮上させた凱が聞くと、その職員は生唾を飲んでから、モニターに表示されたデータの解析結果を読み上げた。

 

「南緯77度31分、東経167度09分――打ち上げ場所は、()()()()()()!」

 

「何だと!?」

 

 ギョッとしたように眼を見開く凱。そこに追い打ちをかけるように、別の職員が声を上げた。

 

「衛星画像の解析結果が出ました! 打ち上げ場は()()()()()()()()()()! 打ち上げの数分前に、地下から地上へと施設が浮上しています!」

 

我操(クソ)ッ、そういうことか……!」

 

 合点が言ったとばかりに、凱は歯噛みする。

 

 実に単純な話だった。なるほど、こちらが把握していない打ち上げ場からなら、いくらでも不審船など打ち上げることができるだろう。地下に打ち上げ場を作れば、確かに衛星の目も欺ける。

 

 衛星画像で確認する限り、打ち上げ場の付近には世界でも最南端の活火山である『エレバス山』が存在している。地熱発電の設備を整えれば、南極大陸に巨大な打ち上げ場を作ることは可能だ。

 

「……()()()()()

 

 凱は呟くと、ぎろりと衛星画像を睨みつけた。そこに映し出されているのは、アネックス1号とほぼ同サイズの大型宇宙艦。ただしアネックス1号と違っているのは、外装部に大量の兵装が備え付けてあることだ。

 一目見ただけで、その艦が最先端技術を集めて作られたものであることがよく分かる。

 

 

 

 だからこその、不自然さ。

 

 

 

「南極の基地化に宇宙艦の開発……これだけの開発資金、どうやって集めたんだ?」

 

 

 

 職員の一人が口にしたその言葉は、この場にいる全ての者の心の内を代弁していた。

 

 おそらく、これだけの物を一式揃えるのは、中国でも難しいだろう。途方もない技術と、優れた人員、そして何より莫大な費用が必要だ。だが、それだけの資金を、一科学者がどうやって集めたのだ?

 

 シンと静まり返る管制室。そこへ、扉を開けて1人の男が入ってきた。

 

「遅れてすまないね、不審船の情報はどうなったかな?」

 

「……(バオ)将軍」

 

 のんびりとした声に凱が振り向くと、そこには彼の予想通り、白髪の中年男性が立っていた。その男性――(バオ)宇嵐(ユイラン)は、凱の肩越しにひょいと衛星画像を覗きこんだ。

 

「ウチの『九頭竜』の倍近い数のフレキシブルアームに、日本の東京タワーに備え付けられているのと同じレーザー迎撃システム、こっちはロシアの『ピョートル巨砲』をコンパクトにしたものか……参ったね。これでは我々の作戦を遂行するどころか、下手をすればこちらが全滅させられかねないな」

 

「そのようだな……それで、爆将軍。用件は何だ?」

 

 言葉とは裏腹に、余裕すら伺える爆に、凱は尋ねる。度重なるトラブルに言葉尻に刺々しくなっているが、幸いにして爆はそういったことを気にする男ではなかった。彼は「ああ、そうだった」と思い出したように呟くと、右手に持っていた書類の束を凱に手渡した。

 

「彼らの資金の出所が分かったよ。どうやら、してやられたようだね」

 

「? どういう――」

 

 凱は続けようとして、しかし書類に書き連ねられた文字列を見た瞬間に閉口する。

 

「我々は、クロード・ヴァレンシュタインと他の5か国に気をとられすぎたんだ」

 

 爆のその言葉は、既に凱の耳には入っていなかった。

 

 

 

 ――確かに蹴落としたはずだ。

 

 

 

 胸中に渦巻くのは、混乱と怒り。握りしめた書類がぐしゃりと折れ歪んだことにも気づかず、凱は歯ぎしりした。

 

 

 

 ――なぜ、なぜこいつらの名前が出てくる!?

 

 

 

 そこに書かれていたのは、中国の妨害工作によって完全にアネックスから遠ざけられていたはずの者たち。同時に、もはや歯牙にかけるまでもないと、自分も含めた多くの人間が気にも留めていなかった者たちだった。

 

「追い払うだけじゃなく、無理をしてでも潰しておくべきだったね」

 

 怒りに我を失いかけている凱と対照的に、爆は冷静な口調で言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「本当に我々が注意を向けるべきは――()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ついさっき、クロード博士から連絡が入った。『アーク計画』は無事に第一段階を終えたとのことだ。協力、心から感謝する」

 

 中国支局で凱が怒りのままに報告書を破り捨てた、その頃。

 

 第502代日本国内閣総理大臣『蛭間一郎』は、執務机の上に置かれたパソコンのモニター画面に向かって語り掛けていた

 

「おいおい、一国の総理が俺達みたいなのに頭下げるなっての」

 

「そうだよ。私達はイチローに言われたからやったわけじゃなくて、私達の意志で決めたんだからさ」

 

 そんな一郎に、画面の向こう側から次々と言葉が返ってくる。それは、一国の首相に対して使う言葉とは思えない程、フランクなもの。しかし一郎はそれに対して怒る様な素振りは少しも見せず、それどころかその表情を微かに緩めると、画面に映る6人の人物たちを見つめ返した。

 

「それでもだ。『アーク計画』の第一段階を無事に終えることができたのは、お前たちが資金を手配してくれたからこそだ。一国の首相としても、1人の人間としても、礼を言わせてほしい」

 

 そう言って一郎は、モニターに向かって深々と頭を下げた。

 

 

 

「ジョーン、マリア、フワン、ジャイナ、テジャス、ウッド……本当に、ありがとう!」

 

 彼のその言葉に、画面の向こうに座る旧バグズ2号の乗組員たち――かつての戦友たちは、どこか照れくさそうな表情を浮かべた。

 

 

 

 

 ――旧バグズ2号の乗組員たちの中で唯一、一郎はクロードとシモンから事前に『アーク計画』の概要を知らされていた。

 

『アーク計画』――仰々しい名に反して内容はシンプルなもので、『クロード直轄の救助艦を極秘裏に手配し、大量の戦闘員と共にそれを火星へ送り込む』というもの。

 

 燈の件を始めとして、アネックスの搭乗員たちの安全確保を第一に動いていた日本にとって、その計画の内容はまさに渡りに船。

 そのため一郎は密かに『アーク計画』への支援も行っていたのだが、他国に計画の存在を秘匿しなければならない都合上、どうしてもその内容には制限をかけざるを得なかった。

 

 特に深刻だったのが、資金の不足だ。一時は救助艦の開発に支障が出るほどに追い詰められた『アーク計画』。それに頭を悩ませる一郎に手を差し伸べたのは、地球に帰還してから様々な組織のトップまで上り詰めた、バグズ2号の仲間たちだった。

 

 

 

 ――中国大手の企業グループ『楼華社』社長、陽虎丸。

 

 

 

 ――オーストラリア最大の面積を誇る『ウェルソーク牧場』経営者、ジョーン・ウェルソーク。

 

 

 

 ――インド有数の巨大IT企業『株式会社Techno』会長、テジャス・ヴィジ。

 

 

 

 ――ロシアの輸出入を支える一流貿易会社『ビレン・トレーディング』社長、マリア・ビレン

 

 

 

 ――カザフスタンを代表する鉱業会社『シャイン』社長、ジャイナ・エイゼンシュテイン。

 

 

 

 そして――南アフリカ共和国第532代大統領、ヴィクトリア・ウッド。

 

 

 

 

 

 ――詳細は明かせない、何をするかも教えられない。

 

 

 

 クロードとシモンから告げられたその言葉を彼らは笑い飛ばし、二つ返事で支援を了承した。

 

 ――自分達は火星で助けられた。ならば今度は、自分達が助ける番だ。

 

 そう言って彼らは、一切の躊躇うことなく多額の資金を計画へと投資したのだ。

 

 彼らの助けを得て編み上げられた希望の舟は、本来なら取りこぼしてしまったかもしれない者たちをも救うだろう。それを思えば、一郎は彼らに礼を言わずにはいられなかった。

 

「ったく、相変わらず律儀な奴だなー、イチロー君は! 二十年前の卑屈だった頃が嘘みたいだ」

 

 そんな彼を見て、ウッドは照れ隠し気味にからからと笑い声を上げた。その顔には若干のしわが刻まれており、彼女が一国の首相に上り詰めるまでの苦労を雄弁に物語っている。

 

「ま、冗談はさておいて……2人には、内戦を終わらせるときに作った借りもあるしな。それを返すには絶好の機会だったってわけさ。ウチの周りの国も、あいつらのためならって喜んで出資してくれたよ」

 

「私も採掘のための技術とか装置とかでお世話になったし……これで少しでも力になれてるといいな」

 

 ニンマリと笑みを浮かべて見せるウッドに追随して、ジャイナが頷く。

 

「それにしても、まさかこんなに大規模な計画だったとはなぁ……」

 

「さすがに、アネックス規模の宇宙艦を打ち上げるとは思わなかったよね」

 

 テジャスとジャイナが苦笑交じりに言う。

 

「欲を言えば、俺達も同行できればよかったんですけどね」

 

「ハハ、その分搾り取られちまったから、おあいこだな。これで失敗したら承知しねーぞ、イヴ!」

 

 少しばかり残念そうなフワンの隣で、ジョーンが冗談めかして笑う。

 

 

 

 

「大丈夫だ。あいつなら、絶対にやり遂げる。お前たちの想い、お前たちの覚悟――あいつはそれを、一欠片だって無駄にはしない」

 

 顔を上げた一郎が、確信に満ちた声で言った。

 

「だから、俺達はそれを見届けよう。これからイヴが為すこと、これからイヴがやり遂げること――そして、その先の結末を。それが、あいつに力を貸した俺達の義務だ」

 

 一郎の口から重々しく告げられたその言葉に、6人は静かに頷いた。

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 ――隊員82名。

 

 ――団長6名。

 

 ――艦長シモン・ウルトル。

 

 

 西暦2620年2月25日 現地時刻17時00分。

 

 バグズ2号が地球を発ってから21年と7日が経ったその日、大型有人()()宇宙艦『アーク1号』は地球を発った。

 

 彼らはアネックスと似て、しかし非なる軍勢。アネックス計画が人類の未来を照らし出す『燈し火』ならば、アーク計画は立ちはだかる者を焼き尽くし、道なき道を切り開く『業火』だ。

 

 

 

 彼らに与えられた任務は、ただ2つ。

 

 

 

 Mission1、アネックス1号の任務遂行を補助し、そして110名の乗組員を()()()()()()()全員を生かして連れ帰ること。

 

 

 

 そしてMission2――アネックス計画の任務遂行の障害をいかなる手段を用いても排除し、可能であればこれを殲滅すること。

 

 

 

 2つの使命を与えられた89人の戦士たちを乗せ、もう一つの希望は凶星を目指す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――箱舟(アーク)計画、始動。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 錆び付いた運命の歯車が今、再び回り出した。

 

 

 

 

 




【オマケ】

シモン「ちなみにこのアーク1号、奥の手として巨大ロボに変型することができるよ!」

男性陣「おおおおおお!!」ガタッ!

モニカ「座ってなさい、そんな機能ないから……ないわよね博士?」

クロード「……」ニコッ

モニカ「ちょっと?」




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第32話 ON DAYS 束の間の日常

 ――アネックス1号が地球を発ってから、20日後のこと。

 

「テメェ、今なんて言ったァ!?」

 

 広間の中に響き渡った怒号に、百合子は思わず身をすくめた。

 

「け、喧嘩?」

 

 振り返った百合子の目に映ったのは、人だかり。どうやらその向こう側から、怒声は聞こえてきているようだった。

 

「みたいだな。まぁ、任務が近くて皆も気が立ってるし、そんなことも……って、あれ?」

 

 燈は百合子に相槌を打とうとして、ふと何かに気付いたように声を上げる。それから彼は、様子を窺っているマルコスとシーラに声をかけた。

 

「おいマルコス、あそこにいる奴、片方はお前らの班の奴じゃないか?」

 

「ホントだ、ボーンじゃん。どうしたんだあいつ? 発情期の動物みたいにカッカして」

 

 人だかりの向こう側、燈が指さした人物をみてマルコスが意外そうな声を上げた。

 

彼らが目を向けた先にいたのは、2人の人物。そのうちの片方は、マルコスと同じ第1班に所属するアメリカ人乗組員のボーンだった。

 

 目に怒りの色を浮かべるその様子は、普段の彼からは想像もつかないもの。彼は鬼の形相で目の前の人間の襟首を掴みあげ、激情のままに吠えた。

 

「もっぺん言ってみろ! もしまた同じことを言いやがったら――」

 

「――『許さない』か? ハッ、お優しいねぇ。一回だけなら、バカにされても指をくわえて見逃してくれるってことかい?」

 

 ボーンの怒鳴り声に臆した様子もなく返したのは、第4班に所属していると思しきアジア人の乗組員。ネームプレートに『ジェット』と書かれたその乗組員は、眼前のボーンを小馬鹿にしたように笑い、更に続ける。

 

「ま、気に障ったんなら謝るよ。今度から気を付けるから、後学のためにどこが悪かったのか教えてくれないか? 『お前の母親は家より安くお前を売った』のところ? それとも『弟クンは手術で楽に死ねてよかったね』の部分か? なぁ、教えてくれよ、チンコ手術野郎。どこがむかついたんだ?」

 

 口では謝っているものの、反省している様子は微塵もうかがえない。その態度に怒りが頂点に達したらしく、彼はジェットの襟首を掴んでいるのと反対の腕を振り上げた。

 

「待て! いくらなんでも暴力(それ)はまずい!」

 

 燈を始め何人かの乗組員が制止の声を発するが、怒りに我を忘れたボーンの耳には届かない。

そのままジェットの顔面に拳を振り下ろそうとして――しかしその腕は背後から近付いてきた人物によって掴み止められた。

 

「大河……!?」

 

 振り向いたボーンの目に映ったのは、彼のチームメイトである大河。その手に込められた力は万力さながらであり、それなりに鍛えているボーンでもやすやすと動かせない程だった。

 

 ――暴力沙汰は避けられた。

 

事態の推移を見守っていた多くの乗組員たちが安堵のため息を溢し、一部囃し立てていた者たちは落胆の声を上げる。そんな中、当事者のボーンだけは納得ができず、自らの腕を掴む大河に食い下がった。

 

「止めるな大河! コイツは俺の家族を――」

 

「おっと、これはこれは……誰かと思えば、76位じゃないか!」

 

 ボーンの言葉を遮って、ジェットが手術ベースを揶揄する愛称で大河を呼んだ。口元を嫌らしく吊り上げると、彼は無言で佇むリーゼントの男にへらへらと話しかける。

 

「いやぁ、助かったよ。見た目に反して、君の精神がベース生物と同じくらいか細くてね。わざわざ俺みたいな奴のために、大事なお仲間の想いを踏みにじってくれてありが――」

 

 ――そこから先の言葉を、ジェットは告げることができなかった。なぜなら、彼の顔面に()()()()()()()()()()()()()()()

 

「っぐ、ォ……ッ!?」

 

 さすがに襟首を掴まれた半拘束状態では、彼に限らずどんな人間でもそれを避けることは難しいだろう。ジェットの体が数mほど吹き飛ばされ、周囲の乗組員の一部から悲鳴が上がった。

 

「おぉ! ナイスパンチ!」

 

「いいぞ大河ァ! そのままマウントとっちまえ!」

 

凍り付いた空気の中で、マルコスとアレックスだけが嬉々として野次を飛ばす。しかし、大河はそれに応えることなく、鼻を鳴らすとジェットに背を向けた。

 

「おう、これで満足だろ? 行くぞ、ボーン」

 

「あ、ああ……いや、だが――」

 

 いくらか冷静さを取り戻して困惑するボーンに、大河は「ほっとけ」と面倒くさそうに声を上げた。

 

「そこに転がってるバカは自業自得だ。殴ったのは俺、始末書ならあとでいくらでも俺が書いてやる。行くぞ、こんな奴に構うだけ時間の無駄だ」

 

「……おい待てよ、リーゼント野郎」

 

 この場を去ろうとする大河。だが、立ち上がったジェットが声を上げたことで、彼は足を止めた。

 

「このまま、ただで帰すと思ってんのか?」

 

 鼻血を流しながら、ジェットは大河の背を睨みつけた。先程までの余裕はもはやジェットにはなく、その代わりに相手を射殺さんばかりの殺気を放っている。それを敏感に感じ取り、何人かの乗組員たちは思わずぶるりと体を震わせた。

 

「……お前が、何をキレてんのか知らねえが」

 

 対する大河は、背後からひしひしと突き刺さる怒気にため息を吐くと、そのまま肩越しにジェットの方へと顔を向けた。

 

「――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 その顔には、怒りの表情を無理やり押さえつけているかのような、獰猛な笑みが張り付いていた。だが目元は微塵も笑っておらず、彼の背後には般若か修羅の幻影が見えるようだった。

 

「『帰すと思ってんのか』? 笑わせんな、こっちが見逃してやるって言ってんだよ。これ以上ケガしたくなきゃ、そこで黙って寝てな」

 

「面白い冗談だ。やってみろよ76位……やれるもんならな」

 

 

 

 ――と、止めれてねぇ!?

 

 

 

 規模を増して再燃しつつある事態に、多くの乗組員たちの心の声が一致した。そもそも他者の陰口や嫌味を嫌う上に、決して我慢強い方ではない大河がここまで耐えられたことが奇跡に近かったのだ。もはや、彼の理性の緒は限界だった。

 

「……上等だよ」

 

ボソリと彼が呟いたその瞬間、この場に居合わせた乗組員の多くは、大河から『ブチリ』と何かが切れる音が聞こえた様な気がした。

 

「あとで謝っても遅ぇぞオラァ!」

 

 大河は声を荒げると、体を反転させる。先程とは対照的にボーンが引き留めようとするが、それを振り切って大河は、地面をけった。対するジェットも迎撃の姿勢をとり、迫りくる大河を静かに見据える。

 

そして、周囲の乗組員たちが息を吞んだ、次の瞬間――

 

 

 

 

 

 

 

「 う る さ い 」

 

 

 

 

 

 

 何とも気の抜ける声と共に、1人の少女が野次馬の群れの中から飛び出した。

 

 アジア系で幼い顔立ちをした女性乗組員だ。低い身長に白い肌と、それに対なすかのような黒髪のショートカットが特徴的で、どこか日本人形のそれを彷彿とさせる容姿をしている。

 

 彼女は目にも止まらぬ速さで隙だらけのジェットの背後へと近づくと――

 

「ジェット、おすわり」

 

 やる気のない掛け声と共に、容赦なくジェットの股間へと蹴りを放った。しなやかな彼女の足は短い声を発しながら、過たず彼の急所を撃ち抜いた。

 

「~~~~ッ!?」

 

 衝撃と鈍痛が下腹部を貫き、ジェットは悶絶する。口から悲鳴が漏れなかったのは、彼の意地だったのだろうか。

 白目を剥いてそのまま崩れ落ちたジェットに、大河やボーンも含む男性乗組員たちが一斉に内股になった。それを見て少女は「よし」と頷くと、周囲の乗組員たちに向き直った。

 

「……第4班(ウチ)のおバカがお騒がせした。对不起(ごめんなさい)

 

 少女はそう言ってぺこりと頭を下げた。それから、小刻みに痙攣するジェットの頭を無表情で鷲掴みにすると、彼の体を引きずって広間を後にする。

 

「……えぇ?」

 

 シーラの口から思わず漏れたその声が、この場にいる全ての者の心中を代弁していた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「あ、リンファちゃんお帰りー……って、あれ?」

 

第4班の待機所へ戻った少女を出迎えたのは、同班の副班長である(リュウ)翊武(イーウ)だった。

彼はその目を少しばかり驚いたように見開くと、少女に頭を鷲掴みにされているジェットを指さす。

 

「ジェット君、どうしたの?」

 

「他の班員ともめてたから、大事になる前に引っ張ってきた。きゅーいーでぃー」

 

少女――(フー)鈴花(リンファ)は、眉をピクリとも動かさずに淡々と返した。それを聞いて、劉は「あちゃー」といいながら額に手を当てた。

 

「さっきの騒ぎはそれだったのか。他の班の人に怪我させちゃったりしてないよね?」

 

「だいじょーぶい。そーなる前に引っ張ってきた」

 

 ピースサインをしながらリンファが発した言葉に、劉はほっと胸をなでおろした。

 

なれ合いを嫌うジェットは他人と距離を置こうとするあまり、苛烈な物言いをすることがある。口の悪さは本人の性格や気質によるもののためあまり煩く言うつもりはなかったが……暴力沙汰に発展する程だったとすれば、後で話しておく必要があるだろう。

 

「とりあえず、ジェット君はあとでミンミンさんからお説教かな……ちなみに、なんで彼は伸びてるの?」

 

「ティン副班長直伝のタイキックをジェットのボールにシュウッ! 超・えきさいてぃん!」

 

「……」

 

 ――お説教は少し軽めにしておくように言っておこう。

 

 全てを察した劉は、同じ男として未だ悶えるジェットに哀れみの視線を向けた。そんな彼の服の袖をちょいちょいと引っ張り、リンファは無表情のその顔にどこか期待の色を込めて言った。

 

「それより劉副班長、私は第4班の機密漏えい阻止に貢献した。ご褒美ぷりーず」

 

「……ああうん、ご褒美ね。冷蔵庫にプリンがあるから食べちゃっていいよ」

 

「わーい」

 

 リンファは無表情で敬礼を返すと、ジェットをその場に放り出して冷蔵庫に駆け寄った。扉を開けて中からプリンのカップを取り出すと、彼女は奥のテーブル席に座っている、自分と同じ年頃の少女の下へと駆けていく。

 

「紅、隣いい?」

 

「あ、リンファちゃん。私なんかの隣でよかったら……」

 

 紅がそう返すと、リンファは隣にどっかりと腰を下ろす。それから彼女は容器の蓋を開けると、スプーンで中身を掬い上げて幸せそうに頬張り始めた。

 

「それ、プリンですか?」

 

「いえす。ジェットの玉を蹴飛ばしたご褒美」

 

「!?」

 

 削りに削って意味が分からないその説明に、目を白黒させる紅。それを見たリンファは、その無表情な顔を微かに険しくすると、紅からそっとプリンの容器を遠ざけた。

 

「……いくら紅でも、このプリンはあげられない。これは私のせーとーな報酬、私にはこのプリンを味わい尽くす権利がある。例えミンミン班長にねだられたとて、私は断固としてゆずるつもりはない」

 

「ち、ちがっ……! 私は別に、そんなつもりじゃなくて――」

 

 じっとりとした視線を向けてくるリンファに、紅は慌てた様子でパタパタと手を振る。しかしその直後、まるで図ったかのように、紅の腹部はきゅるるると可愛らしい音を奏でた。

 

「あっ……これは、そのぉ……」

 

 恥ずかしそうに顔を赤らめ、紅がもごもごと弁解する。それを見てしばし何か考え込むと、リンファは容器の中のプリンをスプーンで掬い上げ、それを紅の方へと差し出した。

 

「……どーしても、どーーーーーしてもお腹が空いてるなら。一口だけ、あげる」

 

「へっ? で、でも……」

 

 戸惑うように言った紅に、リンファは相変わらず抑揚のない声で答えた。

 

「本当はダメ……だけど。紅は友達だから、特別」

 

「わぁ……ありがとうございます!」

 

 リンファの言葉に目を輝かせ、紅はスプーンに乗せられたプリンをぱくりと口に含む。途端、口の中にふんわりと広がった濃厚な甘さに、紅の顔が緩んでいく。

 

「えへへ、私は世界一の幸せ者ですね」

 

「……? なぜ?」

 

 紅の言葉に、リンファは首をかしげた。自分のように「食う、寝る、食べる」のサイクルを至上の楽しみとする者ならともかく、プリン一口で大げさではなかろうか。

 リンファが続けたその言葉に、紅は首を横に振った。

 

「私の家、貧乏だったから……ここに来るまで、こういうお菓子を食べたこと、ほとんどなかったんです。それに――」

 

 そう言うと紅はリンファを見つめ、はにかんだように笑いかけた。

 

「こんな美味しいものを分けてくれる素敵な友達も、地元にはいなかったから。私、リンファちゃんと会えて本当によかった」

 

「ごふぁっ」

 

 ――何だこの娘、天使か?

 

紅から放出される癒しオーラに、食欲と怠惰に塗れたリンファの心が浄化されていく。その無表情の仮面の下で(食事と睡眠において)忘れかけていた良心が鎌首をもたげ、彼女の罪悪感をグサグサと突き刺す。

 

お前、こんないい子に一口しか分けてやらねぇのかよ、と。

 

「……紅」

 

 動きが止まった己を心配そうに見つめる紅に、リンファは再びプリンを掬ったスプーンを差し出した。

 

「……もう一口だけ、食べてもいい」

 

「え? い、いいんですか?」

 

 訊き返す紅にリンファは頷いてから、「ただし」と顔の前で人差し指を立てた。

 

「西やヨウ……それに、他の皆には内緒。私達2人だけの、秘密」

 

「……はい!」

 

紅はリンファの仕草を真似ながらそう答えると、クスリと小さく笑みを溢した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――騒がしいな。

 

 広間の方へと耳を向けながら、ミッシェルは心中で呟いた。

 

彼女の聴力はとても鋭い。微かに聞こえてくる音や声の調子から、おそらくこの騒ぎが喧嘩だろうことは容易に察しが付いた。本来、幹部であるミッシェルにはそれを止める義務がある。

 

だが――今の彼女には、それができない理由があった。

 

「おーい、ミッシェルさーん!」

 

「……ッ!」

 

 向こう側から聞こえた男の声に、ミッシェルは咄嗟に物陰へと身を滑り込ませた。それとほぼ同時に、廊下の曲がり角から金髪の男性が現れた。

 

「あれ、いないな? どこいったんだろ」

 

 ――ジョセフ・G・ニュートン。

 

 ヨーロッパ・アフリカ第6班を束ねる幹部である彼は、しきりに周囲を見回しながら不思議そうにつぶやいた。

 

「ふむ。俺のミッシェルさんプロファイルによれば、8割方ここを通ると思ったんだけど……あてが外れたかな。うーん、俺もまだまだ理解が足りてないなぁ」

 

 意図せず漏らされたその声に、ミッシェルの背をゾゾゾと悪寒が走る。ことあるごとに自らへアプローチをかけてくるジョセフのことが、ミッシェルはどうにも苦手だった。

 

完璧なまでに整った彼の顔立ちや、気遣いのできる紳士的なその振る舞いから、女性の乗組員の間では人気だというが……ミッシェル自身がそういったことに慣れていないからか、はたまた相性の問題か。

 

彼自身の性格自体をどうこういうつもりはないのだが、どうにも本能的に受け付けないのである。

 そういった理由からミッシェルは、全精力を傾けて彼を撒こうとしているのだが……

 

「いや、待てよ……この匂い、ミッシェルさんが普段使ってるシャンプーか!」

 

 ――この男、とにかくしつこいのである。

 

『ニュートンの一族』と呼ばれる特殊な家柄の出自である彼は、通常の人間に比べてはるかに優れた肉体を持っている。素体のスペックもさることながら、彼は『自らを動かす』ことが神懸かり的に巧いのだ。

 

 生身でありながら、ミッシェルや燈すら及ばない身体能力。誰が言ったか、『人類の到達点』という異名も頷けようというものだ。

 

「匂いの残り具合から考えて、ここを通ったのは長くとも2分以内……まだ近くにいる可能性が高い!」

 

 そんな超人が己の持つ身体能力を駆使して追ってくるのだから、性質が悪い。

 

ミッシェルはその顔に彼女らしからぬ恐怖の色を浮かべ、そっと踵を返す。一刻も早く、この場を立ち去るために。

 

「布ずれの音? ははーん、ミッシェルさんはあの曲がり角の先だな?」

 

もうやだこいつ。

 

 血の気の引いた顔でミッシェルが逃亡を開始しようと足に力を込める。しかしこの直後、事態はミッシェルにとって思いもよらぬ展開を迎えることになる。

 

「あ、いたいた! おーい、ジョセフ班長~!」

 

「班長、ちょっといいですか?」

 

 丁度ジョセフとは反対の廊下から、数人の女性乗組員が現れたのだ。彼女達はミッシェルのいる曲がり角の前を通り過ぎると、ジョセフの周りを取り囲んだ。

 

「あれは……第6班の班員たちか?」

 

 思わずミッシェルが足を止めて耳を澄ますと、廊下の向こうからジョセフと班員たちの話し声が聞こえてきた。

 

「あれ、皆どうしたの?」

 

「班長! あの、私たちパソコンの使い方が分からなくて……」

 

「お忙しい中、申し訳ないんですが、ちょっと来てもらえませんか?」

 

 どうやら女性班員たちはコンピュータの使い方が分からず、ジョセフに力を借りに来たらしい。それを聞いたジョセフは、うーんと唸り声を上げた。

 

「それはいけないね。ただごめん、もうちょっと待ってもらってもいいかな? 今俺、ちょっと取り込み中で――」

 

「そこを何とか、今すぐにお願いします、班長!」

 

「もう頼れるのは、ジョセフ班長しかいないんです!」

 

 渋る様子のジョセフに、女性班員たちが食い下がる。それから数回のやりとりの後、根負けしたジョセフは「仕方ないなぁ」と呟くと、苦笑気味に踵を返してローマの女性班員たちとどこかへと去っていった。

 

「なんとかなった、のか?」

 

 遠ざかっていく足音に、ミッシェルはほっと胸をなでおろす。偶然にしては出来すぎだが、何にせよ助かった。今の内にどこかに身を隠した方がいいだろう。そう結論付けて再び歩き出そうとしたところで――彼女は小声で自分を呼ぶ声を聞いた。

 

「班長、ミッシェル班長~」

 

「ん?」

 

 声のした方へと視線を向ければ、そこには自らの部下であるキャロルの姿があった。曲がり角の向こう側から顔だけを出して、ちょいちょいと手招きをしている。

 

「キャロル? こんなところで何やってんだ?」

 

「えへへ、ちょっとね」

 

人懐っこい笑みを浮かべながら、キャロルはちょいちょいと手招きする。それにつられてミッシェルが近づくと、曲がり角の先――彼女の背後にもう1人、別の乗組員が立っていることに気がついた。

 

 水色に近い青に染め上げた髪と凛とした顔立ちが特徴的な、女性乗組員だ。ミッシェルは直接面識があるわけではなかったが、その顔に見覚えがあった。

 

「お前は確か11位の……」

 

「マルシアです。以後お見知りおきを、デイヴス副艦長」

 

 優雅に礼をしたマルシアに、ミッシェルは戸惑い気味に返事を返しながら、彼女のプロフィールを思い出す。

 

 第6班に所属する女性班員、『マルシア』。彼女は110人の乗組員を『テラフォーマーの捕獲』を前提として身体能力や手術ベースで格付けしたマーズランキングにおいて、11位に指定されている人物だ。

 

ランキングは必ずしも純粋な戦闘能力を表す指標ものではないが、上位に名を連ねる者にそれ相応の実力が伴っていることは疑いようがない。ましてトップランカーともなれば、複数のテラフォーマーを完封できるだけの力は持っているはずだ。

 

しかし、だからこそ――。

 

「アタシが他班の戦闘員と知り合いなのは意外ですか?」

 

 ミッシェルの顔を覗きこむようにして、キャロルが聞いてきた。どうやら、考えていたことが顔に出ていたようで、彼女の声には確信の色があった。

 

「……気に障ったなら謝る」

 

「あはは、いいんですよ! アタシが弱いのは事実だし、うん……」

 

 謝罪の言葉を口にするミッシェルに、キャロルは乾いた笑い声を上げ――そして、露骨に落ちこんだ。

 

「「皆のことはアタシが守るから!」とかあれだけ啖呵切ったのにぃ……うえええん! 何でこうなっちゃっちゃのさー!?」

 

 ――キャロルのマーズランキングは、98位。同率順位による被りがあるため、事実上1位~100位の間で格付けが決まることを考えれば、相当に低い順位だ。

 

 これは素体――即ち、キャロル本人の落ち度ではない。むしろ()()()戦闘力なら、彼女は戦闘員である30位圏内の者たちにも引けを取ることはないだろう。しかし悲しいことに、彼女はひたすらに適合するベース生物に恵まれていなかった。

 

「いくらなんでも、手術ベースが『芝』はないでしょ!? 同じ植物でも、せめて薬草とかにしてくれればよかったのにー! 神さまのバカー!」

 

 半泣きでやけくそ気味に叫び始めるキャロル。ミッシェルが何とも言えない表情でそれを見つめた。

 

危険な任務に望むべく命がけで手に入れた力は『ノシバ』――いわゆる『芝』と呼ばれる植物。

特別毒があるわけでもなければ、圧倒的な再生力があるわけでもない。戦闘はおろか、逃げたり隠れたりすることすらままならないただの草。ベース生物の貧弱さが素体の戦闘能力を台無しにした典型例だといえるだろう。変態してここまでメリットがないベースというのも逆に珍しい。

 

ミッシェルは重くため息を吐くと、話題の転換もかねて先程と同じ質問を口にした。

 

「……話を戻すが、キャロル。何でお前はローマ班の班員と一緒にいるんだ?」

 

「あ、忘れるところだった」

 

 我に返ったキャロルが思い出したかように指をパチンと鳴らす。それから彼女はその顔をケロッと一転させると、ミッシェルに笑いかけた。

 

「今からアタシ達、お茶の約束をしてるんです。それで――」

 

 ――班長にもご一緒いただきたいな、と思いまして。

 

 そう言ってキャロルは、茶目っ気たっぷりにウインクをしてみせた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 少人数グループで使うことを想定した、小さめの談話室。設置されたテーブルの上には、私物と思われるティーカップに注がれた支給品の紅茶と、同じく支給品の菓子類。そしてそれを囲むようにして、ミッシェルとキャロルは座っていた。

 

「ん~、さすがクロード博士が一枚噛んだ支給品シリーズ! 紅茶もお菓子も、その辺の市販品より美味しいー! 命かけてるんだもん、これくらいの役得はないとねー……あ、班長もどーぞ」

 

「ああ、サンキュー」

 

 キャロルから袋分けされた小さめのバウムクーヘンを受け取り、ミッシェルはそれを頬張った。

 

「……で、何でわざわざ私を連れてきたんだ?」

 

 二袋目に手を伸ばしながら、ミッシェルは怪訝そうにキャロルに聞く。

 

「知ってると思うが、私はあまり話す方じゃないぞ? こういうのなら、八重子とか百合子の方が盛り上がると思うが」

 

 ミッシェルの言葉に、キャロルは「あー」と日焼けした頬を掻いた。

 

「……ごめん班長。お茶しようって言ったの、嘘ってわけじゃないんだけど……実はそれ以外にもちょっとありまして」

 

 えへへ、と悪戯がばれた子供のように笑うキャロル。彼女の言葉の意味を測りかねたミッシェルが首をかしげたその時、部屋の扉が開き、2人の女性が入ってきた。

 

片方は、先程キャロルと共にこの場所までミッシェルを連れてきたマルシア。この部屋に着くと同時に一旦席を外していたのだが、彼女は

 

「マルシアちゃん、どう?」

 

「もうちょっとかかるみたい。しばらくは待った方がいい」

 

 キャロルの質問に肩をすくめて答えると、マルシアはミッシェルへと顔を向けた。

 

「申し訳ありませんが副艦長、もう少々こちらで待機をお願いします。今、うちの班員たちが――」

 

「おっと、マルシア! そこから先の説明は、このクールビューティな私に任せていただきましょう! この ク ー ル ビ ュ ー テ ィ な 私 に !」

 

 マルシアが状況を説明しようとしたその時、マルシアと共に部屋に入ってきたもう1人の乗組員が声を上げた。

 

――スリムな体型にピンとした背筋が特徴的な女性乗組員だ。

 

丸眼鏡の奥から覗く切れ長な目も合わせ、見た目だけなら優秀なキャリアウーマンそのもの。だが、その顔に浮かべたお手本のようなドヤ顔と、やたらクールを推すその残念な言動が、それら全てを台無しにしていた。

 

「おい、何だこいつは?」

 

「……恥ずかしながら、ウチの班員です」

 

 胡乱気なミッシェルから発せられた疑問に、マルシアがため息混じりに答える。それを受け、眼鏡の女性乗組員はキメ顔で名乗りを上げた。

 

「フフフ……お初にお目にかかりますね、ミッシェル副艦長。第6班所属、カリーナ・チリッロと申します。どうぞ気軽に、私のことはクールビューティとお呼びください」

 

「お、おう」

 

 そう言うとカリーナは、若干引き気味のミッシェルにぐいと詰め寄ると、彼女をじろじろと観察し始めた。

 

「ふむ……さすがは副艦長。アネックス『クールランキング』で堂々の3位に輝くだけのことはありますね。中々のクール力……まぁランキング1位の私には劣りますけどね!」

 

「……」

 

 ドヤァ! と擬音が聞こえてきそうなドヤ顔で胸を張るカリーナ。それを見たミッシェルは席を立つと、無言で扉に向かって歩き始めた。

 

「ちょ!? 班長ストップ! 色々思うところがあるのは分かるけど、もうちょっと待って!」

 

「放せキャロル、マルシア。こいつはジョセフ(あのバカ)と同じ匂いがする。これ以上、私は余計なストレスを溜めたくないんだ」

 

「お気持ちは痛いほどわかりますが、こらえてください! カリーナ、あんたは早く状況を説明する!」

 

 キャロルと共にミッシェルに組み付きながら、マルシアがカリーナのいる方へと視線を向ける。その視線の先のカリーナはというと、椅子に腰かけて呑気にカップへと紅茶を注いでいる最中であった。

 

「そう急かすものではありませんよ、マルシア。まずは席に腰を落ち着けて、紅茶の香りを楽しまれては? ほら、ダージリンティーの良い香りがしますよ」

 

「こんな時までクール気取ってないで、早く説明を! アタシとキャロルだけじゃ、副艦長を抑えきれないから! あとそのお茶、ダージリンじゃなくてアッサム!」

 

「……ふ、フフン。し、知ってましたし? これはマルシアがどれだけクールに突っ込めるかを見るためにですね――」

 

「いいから早くしろッ!!」

 

 声を荒げるマルシアの言葉に不満そうに頬を膨らませながらも、彼女は「仕方ありませんね」とため息を吐いた。それからティーカップをテーブルの上に置くと、カリーナは部屋を出ようとするミッシェルへと声をかけた。

 

「とりあえず副艦長、この部屋を出るのはもうちょっと待ってください。今行くと多分、ジョセフ班長と鉢合わせますよ」

 

「……何だと?」

 

 思わず動きを止め、ミッシェルはカリーナへと視線を向ける。それを受けたカリーナは眼鏡をクイと押し上げながら再び口を開いた。

 

「先程、第6班(ウチ)の女性班員から連絡がありました。パソコンのトラブルを解決したジョセフ班長は、現在Fエリア――つまり、こちらへ接近しているようです」

 

 そう話す彼女の様子に、先程までの残念さは感じられない。その目に怜悧な光を灯しながら、カリーナは事務的に事実を並べていく。

 

「ご存知かと思いますが、ここに隣接するのはGエリアのみ、行き来できる通路は1ヶ所だけ。余程上手くやらない限り、絶対に班長に遭遇することになるでしょうね。どうしても、というのなら止めませんが」

 

カリーナの言葉に、状況を理解したミッシェルの目が、大きく見開かれる。言うなれば彼女は袋のネズミ、逃げ道を完全に塞がれてしまったのだ。そう遠くないうちに自分へとかけられることになる口説き文句を想像し、ミッシェルは顔を引きつらせる。

 

「もっとも……ご安心ください。第6班(わたしたち)は今回、そうならないように動いてますから」

 

 そんな彼女を安心させるように、カリーナが言う。思わず縋るように顔を上げたミッシェルに、カリーナは薄く笑みを浮かべて見せる。

 

「一度請け負った依頼は、必ず遂行します。クールビューティの名に懸けて、ね」

 

「依頼?」

 

 ミッシェルの疑問にカリーナが答えようとした瞬間、彼女のアーマーに取り付けられた内線通信機が電子音を発した。

 

「おっと失礼――はい、こちらカリーナです。首尾はどうですか? ……結構、では手筈通りクールにお願いします。任務が完了するか不慮の事態が発生したら、また連絡を」

 

 通信機の向こうにいるらしい乗組員との通話を終えると、カリーナはミッシェルへと視線を向けた。

 

「計画通りに行けば、もう間もなくうちの男性戦闘員がジョセフ班長と接触、訓練を口実にトレーニングルームにあの人を隔離します。まだかかるので、連絡があるまではこちらに待機を」

 

「あ、ああ。いや、それは助かるんだが……」

 

 ミッシェルは言われるまま席に着くと、対面に座るカリーナをチラリと見やった。

 

「さっき、依頼と言っていたな? これを頼んだのは――」

 

「もちろん、そこにいるキャロルですよ」

 

 カリーナの言葉に、ミッシェルは驚いたように背後を振り向く。彼女の視線の先で、キャロルは照れたように笑みを浮かべた。

 

「いやー、班長がいっつもジョセフさん絡みでゲンナリしてたじゃないですか? それで何とかできないかな、って悩んでたら、6班のカリーナちゃんが力を貸してくれたんですよ」

 

「友人のよしみ、という奴ですね。同じ非戦闘員として、キャロルとは交流があったもので」

 

「なるほど、それで……」

 

 そう呟いたミッシェルの脳裏で、様々な辻褄が合致していく。突然現れた第6班の班員や、何の繋がりもなさそうなキャロルとマルシアが一緒にいたこと、自分がこの茶会に招かれた理由。

 何のことはない、これらは全て裏でキャロルとカリーナが動いていたことが原因だったのだ。

 

「……もしかして、余計なお世話でした?」

 

「とんでもない、むしろとても助かった。ありがとな、キャロル。地球に帰ったら、何でも好きなもん奢ってやろう」

 

 少しだけ不安そうなキャロルの言葉を否定すると、ミッシェルは彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

 

度重なるジョセフのアプローチに辟易していた彼女にとって、キャロルと第6班の班員たちは救いの神に他ならない。余計なストレスの種が一時的とはいえ軽減され、ミッシェルの顔はいつになく晴れやかなもだった。

 

「カリーナにマルシアも、ありがとな。他の奴らにも礼を言っといてくれ」

 

「おっと、お礼はいりませんよ。私はクールビューティとして―― ク ー ル ビ ュ ー ティ と し て ! 当然の務めを果たしたまでですからね!」

 

「まぁカリーナ(このおバカ)は置いておくとして……私達も上司が他班にご迷惑をおかけしている状況は不本意だったので、このくらいは」

 

 ――ただ。

 

 そう続けると、マルシアはミッシェルへと頭を下げた。

 

「班長はかなり強引な上に相当なナルシストですが……その。あの人はあれで優しい部分や、頼りになる部分もあるんです。だから、差し出がましいことを言うようですが――」

 

「……分かってるさ」

 

 マルシアが言わんとすることを察し、ミッシェルは彼女に微笑みかけた。

 

「これでも幹部としての付き合いはそれなりにあるんだ。あいつ(ジョー)のことははっきり言って苦手だし、何なら暴言も憎まれ口も叩くが……心から嫌ってるってわけじゃない。そこは心配すんな」

 

「……感謝します、デイヴス副艦長」

 

 そう言って、マルシアはほっと息を吐く。カリーナと比べて随分と淡泊な表情を保っていた彼女だったが、それが少し和らいだように見えた。

 それを見ながらミッシェルはティーカップを手に取り――微かに眉をひそめた。

 

「ん、茶が冷めちまったか……よし、お前らティーカップ貸せ。新しい茶、淹れてやるよ」

 

 そう言って立ち上がったミッシェルに、マルシアはギョッとしたように目を剥いた。

 

「い、いえ、さすがにそれは……」

 

「ほう、副艦長は家庭的なんですね。では、クールにお手並み拝見といきましょうか!」

 

「なんであんたはそんな偉そうなの? ほら、ぼさっとしてないで、追加のお菓子は出しとくから、あんたはお茶を淹れ直す!」

 

椅子の上でふんぞり返るカリーナを立たせようとするマルシア。そんな彼女に「気にすんな」と声をかけると、ミッシェルは慣れた手つきでティーポッドに茶葉を足し始めた。

 

「おぉ……すごくラッキーだよ、2人とも! ウチの班長、お母さんに仕込まれたとかで、すごく美味しいお茶を淹れるんだけど、ご機嫌な時以外はやってくれないからねー」

 

「余計なことは言わんでいい」

 

 小突かれてペロッと舌を出したキャロルに、ミッシェルは鼻を鳴らした。

 

「ま、気持ちばかりの礼ってやつだ。それにここから出れるようになるまで、まだ時間かかるんだろ? なら、口寂しさを紛らわすもんがないとな。何十分もひたすら喋りっぱなしってのは、存外にきついもんだ」

 

 そう言いながらミッシェルは、ポッドから1人1人のカップへとお茶を注いでいく。良質な香りを放つお茶に満足げに頷くと、再び彼女は椅子に腰かけた。

 

「たまには、こういうのも悪くないな。すまんがお前ら、もう少し私の時間つぶしに付き合ってもらうぞ」

 

 そう言って、ミッシェルが口元に笑みを浮かべる。それを見た3人の女性乗組員たちは、各々彼女の言葉に頷くのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――以上が『ラプンツェル』から報告です。どうです皆さん、この私の完璧にしてクーーーーーールな知略は! さぁ、存分にクールビューティと称えてください!』

 

『いやー、本当に助かったよ! おかげさまで班長の機嫌もいいし、6班の皆とも仲良くなれたし! 本当にありがとね』

 

『ふふ、そうでしょうとも。何せ私は、クールビューティ! このくらいは当然のことです!』

 

『今回ばかりは、素直に凄いと思う。さすがくーるびゅーてぃ』

 

『ふむ、『マーメイド』の言う通りだな。『ラプンツェル』、よくやってくれた』

 

『……あれ? 『シンデレラ』はともかく、皆さんいつもと反応違いません? なんかもっとこう、「ハイハイ、クールビューティ(笑)」みたいなのが来ると思ってたんですが』

 

『いやいやいや。これまで副長に構いっぱなしで拗ねてた班員と班長を交流させて、班長の地位を向上と班員の不満解消を両立。更に他班の幹部に恩売って、オフィサー同士の関係悪化も予防。これはかなりのファインプレーでしょうよ』

 

『ちょ……え?』

 

『いや、悪いな『ラプンツェル』。正直、お前さんのこと舐めてた。クールビューティ自称するだけのことはあるわ』

 

『いや、あの……』

 

『アタシはずっと前から、『ラプンツェル』がスゴイ! っていうのはわかってたけどね。えへへ、でも今日はすっごい頼もしかったなー』

 

『あぅ……ま、待って……』

 

『……食っちゃ寝に囚われた私には、真似できない。『ラプンツェル』、お前のその行動力とけーがんは、尊敬する』

 

『~~~~~~~! っこ、この話題おしまい! おしまいです!』

 

『おーおー、褒められ慣れてないクールビューティが暴走してるぜ』

 

『う、ううううるさいですよ『ノースウィンド』! 人をからかってる暇があったら、クールなあの想い人に告白でもしてきたらどうなんです!?』

 

『は、はぁ? 意味わかんないんですけど? ぜんっぜん、何言ってるかさっぱりなんですけど? ナスチャのことなんてこれっぽちもどうも思ってないんですけど!?』

 

『頼むから静かにしてくれお前ら……ところで、『ゴールドアックス』はどうした?』

 

『あ、それならアタシの方で伝言預かってるよー。「騒ぎをデカくしてすまん。ちょっと頭を冷やしとく」だって。何かあったの?』

 

『ああ、例の……ふむ。事情は聴いているが、当事者が説明したほうがいいだろうな。『マーメイド』』

 

『いえっさー。端的に言えば、ひぼーちゅーしょーを受けた乗組員に代わって口の悪いジェットにお仕置きパンチをした。けじめとして、今は自主的に自室で謹慎ちゅーなう』

 

『暴力沙汰……ですか。クールじゃありませんね』

 

『いや待て、『ラプンツェル』。ありゃどー考えても、煽りまくってたあっちの方が悪い。フツーに考えて、言っちゃまずいことも言ってやがったからな。あの時『ゴールドアックス』が出てかなかったら、多分俺が同じことやってた……つーわけで『ゴルゴン』、処分はこの辺りも汲んでやってくださいよ?』

 

『ふむ……となると、厳重注意だな。消灯時間を過ぎたら『ゴールドアックス』と『ノースウィンド』は俺の部屋に来い』

 

『完全に極刑じゃねーか!? というか何で俺まで!?』

 

『冗談だ……今回、『ゴールドアックス』は自分のためじゃなく、()()()()()()怒った。相手の落ち度も高く、情状酌量の余地ありと判断する。『マーメイド』も同様だ、今回は両者共に、この場では不問。あとで本部に連絡を入れておくが――まぁ、あまりひどいことにならないよう、言っておこう』

 

『おぉ、ありがたやー。まさか一日の内に、2人も天使に会うことになろうとは』

 

『天使? ……まぁいい。他に、何か伝えるべきことがある者はいるか?』

 

『アタシは特にないかな』

 

『特にねーですね』

 

『私もないぞー』

 

『これと言って、特には』

 

『了解――火星到着まで、残り半分を切った。おそらく、裏切り者が仕掛けてくるとすれば19日後だろう。それまではいつも通りに頼む。では解散、オールオーバー』

 

 

 




【オマケ①】

西「違う、リンファ! もっと鋭く、野郎の股間を抉るように打て! ティン副班長にも教わっただろうが!」

ティン「いや、俺はそんなこと言ってな――」

リンファ「おーらい、任せろー。副班長の教えを思い出してー……シュッ! シュッ!  シ  ッ  ! ! 」

劉「……ウチの全自動去勢マシーンが一台増えちゃったわけだけど。ティン副班長、何か言い訳ある?」

ティン「待ってくれ(震え声)」





【オマケ②】
『一般クルー104人に聞きました! ~アネックスクールランキング(真)~』

1位:アドルフ・ラインハルト(ドイツ) 

2位:ミッシェル・K・デイヴス(アメリカ)

3位:エレナ・ペレペルキナ(ロシア)

4位:マルシア(ローマ連邦)

……

100位:柳瀬川八重子

同率100位:カリーナ・チリッロ




カリーナ「ふ、不正です!? この投票結果、クールじゃありません! 審議! 審議を要求します!」

マルシア「残念でもなく当然の結果だと思うけど」

ローマ戦闘員A「(『ポンコツ可愛い娘ランキング』のトップランカーだってことは黙っとこう)」

ローマ戦闘員B「(異議なし)」



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第33話 BLACK STAIN 黒き染み

 

潜入員(サイドアーム)統括『ゴルゴン』より、管制を司る特務部隊『イース』へ。繰り返す、『ゴルゴン』より特務部隊『イース』へ。応答願う』

 

『こちらアーク1号、特務部隊『イース』。任務ご苦労、『ゴルゴン』――状況の報告を開始せよ』

 

『了解――現在、潜入員(サイドアーム)6人によって艦内の警備態勢を強化中。また、不安を抱いている乗組員たちへの簡易的なカウンセリングも並列して実行しています』

 

『状況了解――特別報告しておくべきことはあるかね?』

 

『はい、『ノースウィンド』が動力部に設置されていた時限式の爆弾を発見し、これを解除しました。おそらくですが、このまま順調にいけばプランαまで漕ぎつけられるかと』

 

『! そうか、よくやってくれた。だが油断は禁物だ、『ゴルゴン』――引き続き警戒を怠るな。緊急の案件が発生したら、すぐに通信をするように』

 

『了解。オールオーバー』

 

『吉報を待っている――オールオーバー』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――アネックス1号打ち上げより39日目。

 

 日本の埼玉県字浦市(あざらし)にある飲み屋街を歩く、三人の男の姿があった。既に夜は深まり、車通りも徐々に減りつつあるこの時間帯、普段なら人通りは飲み会帰りの酔っ払いか、残業終わりのサラリーマンくらいのものだろう。

 

 しかし、彼らは酔っ払いではなかった。三人ともその足取りはしっかりとしており、どこか目的地があることを感じさせる歩調で足を動かしている。

 

 では残業帰りのサラリーマンかと言われれば、そうでもない。一日の仕事を終えた後にしては、()()()()()()()()()。むしろその様子は、これから仕事に臨むようにさえ見えた。

 

「ホントにここで間違いないんだな、日向?」

 

「大丈夫だよ、()っちゃん。七星さんの情報ともちゃんと照合したしね」

 

 三人の内、見上げるような巨体の男の質問に、隣を歩いていたサングラスの男がそう返した。2人の会話を聞いていた前を行く精悍な男性――蛭間七星(ひるましちせい)は日向の言葉を首肯すると、口を開いた。

 

「信頼できる筋からの情報だ。我々の目指している場所に、二十一年前に消息を絶った本多博士がいるのはほぼ確実。気がかりなのは、他の勢力が先回りしていないかどうかだが――」

 

 そう言いながら、七星は曲がり角を曲がって裏路地へと足を踏み入れた。この通りにある小さなバーこそが、彼らの目指している場所。事前に調査した段階では、この先にあるはずだが――

 

「――龍っちゃん」

 

「っと……一歩遅かったみてぇだな」

 

 目に飛び込んできたその光景に、染谷と日向は七星を庇うように前へと踏み出した。

 

「あン? 何だオメーら?」

 

 ――そこにいたのは、4人の男女だった。いずれも人種はバラバラ、暴走族を思わせる派手な服装をしている。その手にはいかにも、といった感じで鉄パイプや鎖が握られており、一般人ならば明らかに忌避する類の人種だ。

 

「おいおいおっさん、ここはウチらのシマだぜ?」

 

 噛んでいたガムを吐き捨てると、リーダー格と思しき女は嘲りの色を浮かべながら七星たちを見つめた。

 

「普段なら財布をむしりとってやるとこだが――今のアタシらは機嫌がいい。今すぐ逃げりゃ許してやるぜ? そら、失せな」

 

 女の言葉に、取り巻きの男3人がゲラゲラと下品な笑い声をあげる。

 

「……おい、言われてるぞおっさん」

 

「え、俺!? 今の龍っちゃんが言われたんじゃねえの!?」

 

 対する2人は呑気なもので、女の威嚇など歯牙にもかけずに会話を続けている。当然ながら、それを見た女の顔に険しさが滲んだ。

 

「……おい、聞こえてなかったのか? とっとと消えな、リーマン共。おめーらにゃここらの上等な店より、屋台の方がお似合いだ」

 

「んー、つっても俺らも仕事だしね……いや、飲み会も仕事の内とかそういう話ではなく」

 

 困ったように頬を掻くと、日向は口を開いた。

 

「あんたらみたいな、()()()()()()()()()()()善良な民間人を守るのが俺達の仕事なんだよ、お嬢ちゃん」

 

 ――瞬間。

 

 それまで笑っていた男たちの声がピタリと止まった。

 

「……何に言ってんのか分かんねぇな。いいからとっとと消えろ、おっさん。アタシらの気が変わんないうちによ」

 

 荒い言葉遣いを崩さずにそう言った女だったが、その目に宿る警戒の色が強まったのを日向は見逃さなかった。

 

「とぼけても無駄だぞー。かなり上手く隠してるけどあんたら、何か格闘技の訓練を受けてるでしょ? それも趣味で習ったり、競技用に鍛えたりする奴じゃあない……人を殺すためのガチな奴だ」

 

 日向の言葉に続き、染谷がびしっと彼らを指さした。

 

「それにお前ら、さっきから火薬と血の匂いがプンプンしてるぜ。腐ってもここは法治国家、今どきヤクザでもここまでの奴はそういねぇ。軍の小隊……いや、それにしちゃ人種にばらつきがありすぎるな。フリーランスの殺し屋ってとこか?」

 

「……なる程、大した慧眼だ」

 

 2人の言葉に黙り込んでいた女だったが、やがてクツクツと笑い声を溢した。おそらく先程までの振る舞いは演技だったのだろう。その声には既に軽薄さはなく、代わりに底冷えするような冷たさがあった。

 

「ばれてしまっては仕方ない……貴様らには、ここで消えてもらおう」

 

 女がそう言って手を挙げると、周囲の男たちが一斉に懐から注射器型の薬――MO手術の変態薬を取り出した。

 

 無論それは、日本の一都市の暴走族程度が持っていて良い代物ではない。男たちが一様に鋭い殺気を発しながら前に出ると、入れ替わるように女が彼らの後ろに下がり、懐から通信機を取り出す。

 

「β班は退路を封鎖しろ。γ班は狙撃準備、δ班は通信と連中の解析にかかれ。画像は送っておいた、迅速に身元を割り出せ」 

 

 女の指示で、周囲の建物やその影から()()()()()()()が起こる。およそ一般人ならば悟ることのできないような、しかしある程度、荒事に慣れた者であれば気付くだろうそれは、攻撃のために動く特殊部隊のそれ。

 

 それを見た日向と染谷は臨戦態勢をとると、静かに言葉を交わす。

 

「前の4人の他に後に3人、窓からこっちを銃で狙ってるのが3人か。向こうの指示聞く感じ、もうちょい居るな……日向、どうだ?」

 

「何とかなる……けど、さすがにここまでとは思ってなかったな」

 

 ――敵単体の実力は、おそらく大したことはない。

 

 否、厳密にいえば1人1人の錬度はかなりのものだが……染谷と日向であれば、仮に相手が変態をしてきたとしてもどうとでもできるだろう。問題なのは、その数と配置。

 

()()()

 

 敵への評価を上方修正しながら日向は呟き、周囲を見渡した。建物に囲まれたこの区画は囲むに易く、かつ一度包囲してしまえば簡単には逃げられない。さらに周囲の建物にも狙撃手が配置され、増援が来るのも時間の問題。

 

 対するこちらは、要人の警護をしながらの殲滅戦。七星は自衛隊に所属していることもあってある程度の戦闘はできるが、さすがにMO手術を受けた人間に太刀打ちできるほどではない。

 

 

 

 ――博士を奪取したら即撤退だな、こりゃ。

 

 

 

 日向が思考を巡らせた、その時だった。

 

 

 

「こらこら皆さん、いけませんよ。そんなに事を荒立てては」

 

 

 

 チリチリと張りつめた空気の中に、どこか場違いにのんびりとした声が響いた。瞬間、今にも飛び掛からんばかりの構えを見せていた女たちの動きが、再び止まる。

 

「……?」

 

 不思議に思いつつも構えを解かない日向と染谷の耳に届くのは、カツ、カツという静かな靴音。間もなく、彼女達の背後にある地下へと続く階段から、その人物は姿を見せた。

 

 ――それは、年老いた男性だった。

 

 白く染まった頭髪に、まるで枯れ枝のような細長い体躯。しわの刻まれたその顔に浮かぶのは、穏和な笑み。腰に鍔のない日本刀を下げている以外は、ちょっと街を歩けば見かけそうな好々爺と言った容姿だ。

 

 だがその姿を目に入れたその瞬間、3人の警戒心は一気に極限まで跳ね上がった。

 

「っ……!」

 

「オイオイオイ、何の冗談だ……!?」

 

 謎の部隊に包囲されても崩れなかった七星の顔に動揺が浮かび、日向の口は無意識にそう口走る。

 

 ――日向は広く世界の情勢に精通していたために、七星はその職業上の理由から、その老人を知っていた。

 

「……ヤバそうなのが来たな。知ってんのか?」

 

 ただ1人、辛うじて平常を保っていた染谷は、油断なく老人を睨みつけた。

 

 2人と違い、彼が老人を警戒していた理由は、己の直感だった。だが、百戦錬磨の彼の闘争本能が、脳内で警鐘を鳴らしていた。

 

 それは、久しく彼が感じていなかった感覚。即ち、今彼の目の前にいる枯れ木のようなこの男は――()()()()()()()()()()()()()自分すらも殺しかねない実力の持ち主だ。

 

「――(ロン) 百燐(バイリン)

 

 染谷の問いに答えるように、日向が口を開いた。

 

「中国陸軍大将にして、()()()()()()()()()。今度、時間がある時にネットで調べてみなよ? 戦場で100人斬りしてたり、1km先からの狙撃見切ってたり、面白い伝説が付きない人だから」

 

「ハハ……いささか脚色が過ぎますぞ、そこな御仁」

 

 のんびりとした声で、老人――百燐が日向の言葉に釘を刺した。

 

「私が戦場で切り捨てたのは、正しくは100人ではなく48人。見切ったのは遠距離狙撃ではなく、50m程先からの近距離射撃です故」

 

「十分化け物じゃねーか」

 

 漫画かよ、とツッコミながら染谷は眼前の老人の危険度を更に引き上げた。

 

 言うまでもないことだが、27世紀における国軍の主兵装は銃火器や戦車を始めとする近代兵器だ。砲弾や銃弾が飛び交う戦場で古風な刀を使い、その上で小隊規模の人数を壊滅させるなど尋常ではない。

 

 銃撃にしてもそうだ。銃口の向きさえわかれば回避可能――と漫画などではしばしばいわれるが、現実でそれができるのは達人でもそうはいないだろう。

 

「実力は……うちの顧問と互角ってとこか?」

 

 やりたくねぇ、とぼやく染谷の脳裏に浮かぶのは、自分達の勤務先の『顧問』――とある小さな孤児院を運営しながら、自分達に古武術の指南をしている老人の姿だ。

 

「……頼むぞ、龍っちゃん。そのじーさんは、俺じゃ勝てない」

 

 冷や汗が滲むのを感じながら、日向が思考を張り巡らせる。

 

 百燐と染谷を比べた場合、染谷は技量と経験では劣るものの、それを補って余りある身体能力がある。おそらく彼ならば、目の前の老人に勝つこと自体は可能だろう。だが、決して楽勝とはいかないはずだ。

 

 問題は彼が勝つまでの間、自分だけで七星を守りきれるかどうか。

 

 かの老人には見劣りするものの、決して自分を取り囲む部隊が弱いわけではない。対する日向は1人、MO手術のベースとなった生物は『戦闘向き』ではあるものの『大規模制圧』には不向きだ。

 

 ――完全に、見誤っていた。

 

 自分達の任務は本多の保護だが、現状の戦力ではそれも難しい。日向の頭に撤退の二文字がちらつき――しかし結果として、それは完全な杞憂と終わることとなる。

 

哎呀(ふむ)……蛭間七星殿と、一警護(はじめけいご)の方とお見受けしますが――相違ありませんかな?」

 

「……そうだ」

 

 相変わらず覇気のない声で百燐が問うと、緊張を顔に張り付けたまま七星が頷いた。それを見た老人は再び「哎呀(ふむ)」と呟くと、周囲の部隊に呼びかけた。

 

「武器を下ろしてください、皆さん。この方々は敵ではありません」

 

「!?」

 

 脅しでもなく、攻撃の指令でもなく。

 

 彼の口から発せられた「警戒解除」の指示に、七星たちの顔に驚きが浮かんだ。どうやらそれは彼らだけではなかったようで、周囲の部隊の人間からも戸惑っているような気配が発せられた。

 

「……おい、いいのか?」

 

 部隊を指揮していた女の言葉に、老いた剣豪は静かに首肯した。

 

「問題ないでしょう。あの方々は相当にお強いですが、戦いの勝敗は『強さ』だけで決まるものではありませぬ故。既に地の利と数の利を制した以上、万が一戦闘になろうと、遅れをとることはありますまい。何より……」

 

 そう言って、百燐は自らが上がってきた階段の下へと目を向けた。

 

()()()()()()()()()()。さすがに、団長の意向に背くわけにもいきますまい」

 

「バッ……!? それを先に言わんか、たわけ!」

 

 女はギョッとしたように目を剥くと、慌てた様子で「武器を下ろせ!」と部下の男たちに指示を出す。間もなく、集団から七星たちへと向けられていた敵意が完全に消え失せたのを確認すると、百燐は再び口を開いた。

 

「さて、まずは自己紹介……の前に。どうやらあなた方は、誤解をされているようですな」

 

「何?」

 

 訝し気に日向が聞き返すと、百燐は滔々と語った。

 

「あなた方は我々を中国の手の者と思っているようですが……それは思い違いというものです。軍の方はつい先日、無事に定年退職しておりましてな。陸軍大将という肩書にも、今は『元』という但し書きがつきます」

 

 そう言ってからからと笑う百燐に、七星が口を開いた。

 

「……では、あなたはなぜここに? 先ほど『雇い主』と仰っていたことから、誰かに雇われているようですが」

 

 その問いに百燐はその目を細めると、上品な笑みを口元に浮かべた。

 

「私の所属は――『地球待機』第8団」

 

「!」

 

 その言葉に何かを察した様子の七星たちに、百燐は穏やかに告げる。

 

「改めまして、名乗らせていただきましょう。私は不肖、アーク第8団にて副団長を務めさせております、(ロン)百燐(バイリン)と申します。今あなた方を包囲しているのは、遊撃を司る特務部隊『ティンダロス』の者たち。どうぞよしなに」

 

「アーク計画……!」

 

 日向が僅かに眼を見開いた。一月程前、彼らの司令官である七星から聞かされた『アーク計画』の情報は記憶に新しい。

 

 重武装をした不審船が南極から火星へと打ち上げられたこと。

 

 それを主導していたのが、かのクロード・ヴァレンシュタインであること。

 

 そして――その日を境にクロードと、彼の直属の部下たちがU-NASAから忽然と姿を消したらしいこと。

 

「なるほど、そーいう……まさか、こんな形で関わるとはね……」

 

 日向の言葉に百燐は微笑むと、ひらりと踵を返した。

 

「こちらへ、お三方。中でクロード博士と、本多博士がお待ちです。『ティンダロス』の皆さまは、引き続き警戒を怠らぬよう」

 

 そう言うと、百燐は軽い足取りで階段を降りていってしまう。それを見た七星の脳裏に浮かぶのは疑念。

 

 果たして、あの老人は本当に味方なのか? 信用して、ノコノコとついていってもいいものなのか?

 

 一瞬の逡巡。その後に七星は決断を下すと、両脇に控える2人に静かに告げた。

 

「染谷くん、日向くん……行くぞ」

 

「ッス」

 

「了解」

 

 そう答えた2人は、間に七星を挟むように並んで階段を降り始める。そう長くもないそれを下りきると、狭い通路の先に古びた扉が見えた。

 

「お連れしました、クロード博士」

 

 そう言うと、百燐はドアを開けて店内へと入る。カランカラン、というドアベルの音を聞きながら、七星たちもそれに倣って扉を潜り抜けた。

 

 ――内装は、どこにでもありそうな極々普通のバーだった。

 

 暗めの照明が店内を照らし、カウンターの後ろの棚にはいくつもの酒のボトルが並ぶ。店内には静かにジャズが流れ、ムーディな雰囲気を醸し出している。そんな店の中、カウンターを挟むようにして、2人の人物が向かい合っていた。

 

「……今日は、千客万来ですね」

 

 そう呟いたのは初老の男性、本多晃だった。

 

 七星の知る二十年前の面影――兄である蛭間一郎から写真で見せられていた、強大な野心を秘めた様子――はどこにもなく、その姿はどこかくたびれたようにも見える。

 

「こんばんは、七星君。良い夜だね」

 

 そしてもう1人は、この場に場違いな白衣を身に纏った()()――クロード・ヴァレンシュタイン。

 

 彼は二十年前とほとんど変わらぬ姿のまま、しかし当時に比べて幾分か落ち着きのある様子で、空になったグラスを傾けて見せた。

 

「色々と聞きたいことはあると思うけど、ひとまず座ってもらえるかな? 多分、長くなるだろうからね……本多さん、『PLANET』のお代わりをロックで」

 

「かしこまりました……七星さん、でしたか? ご注文はどうされますか」

 

 本多は背後の棚から酒瓶を取り出しながら、七星に視線を向ける。

 

「……『THE HELL』のロックを、ダブルで」

 

「かしこまりました」

 

 本多は頷くと、グラスに氷を入れてウイスキーを注ぎ始める。危険はない、と判断した七星がチラリと視線を向けると、日向と染谷は頷いて店の外へと出ていった。

 

「クロード博士から、大方の事情は伺いました」

 

 酒を注いだグラスをカウンターに並べながら、本多は七星に言った。

 

「アネックス計画のことや、MO手術のこと。それに――膝丸燈のことも」

 

「なるほど……なら、話は早い」

 

 本多から受け取ったグラスを受け取りながら、七星は本題を切り出した。

 

「本多博士、あなたには日本(われわれ)と共に来ていただきたい。あなたの存在は、火星の乗組員たちを救うためのジョーカーになり得ますから」

 

 七星の言葉に、本多はただ「分かりました」とだけ答えた。その顔にはやや不安の色があるものの、確固たる決意が滲んでいる。

 

 それを認めた七星は、「ただ」と口を開いた。

 

「こちらも今すぐ、と言う訳にはいかなくなりました。アネックス計画の副司令官として――聞かなくてはならないことができた」

 

 そう言って彼は、隣に座るクロードを見つめた。

 

「話していただけますね、クロード博士? あなたが企てた『アーク計画』のことと……今、火星で何が起こっているのかを」

 

「勿論だ。とはいえ、何から話したものか……」

 

 七星の言葉にもクロードはその表情を変えることはなかった。彼は手の中でグラスを回すと、「まずは計画の概要からかな」と呟き放し始めた。

 

「この辺りは一郎君から聞いていると思うが……『アーク計画』は文字通り、火星に救助艦(はこぶね)を飛ばす計画だ。任務の内容は2つ、そのうちの1つは、『アネックスの乗組員110名』全員を、地球へと生還させること」

 

 クロードはそう言って、静かに笑みを浮かべる。

 

「――アネックス1号の乗組員110名を救うため、既に大型の武装宇宙艦『アーク1号』と、89人の戦闘員が現地入りをしている」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――同時刻、アネックス1号内にて。シャワールームの前に、5人の男女がいた。

 

 その内3人は男性乗組員で、彼らは床の上で正座させられていた。面子は左から順に膝丸燈、マルコス・エリングラッド・ガルシア、そしてニコライ・ヴィノグラード。一見して何の接点も見られない面々だ。

 

 対して、彼らの眼前に立っているのは2人の女性乗組員――キャロル・ラヴロックと、第4班に所属するヨウという女性。こちらはやや険しい表情で、正座する男3人を見下ろしている。

 

 ――なぜ彼らがこんな状況に陥っているのか、順を追って説明しよう。

 

 

 

 話は1時間ほど前に遡る。

 

 

 

「ん?」

 

 動力部で爆弾を解除した帰り道、フラリと立ち寄ったシャワールーム前でニコライはそれを見た。

 

 彼の視線の先にいたのは、丁度シャワールームへと入っていくアジア系の女性乗組員。名前は確か、ヨウと言っただろうか? 

 

「……こんな時間に風呂だと?」

 

 シャンプーと洗面器、それにバスタオルを片手にシャワールームの扉を開けて中へと入っていくのを、ニコライは怪訝そうに見つめた。

 

 おそらくアネックス1号は、あと1時間ちょっとで火星の大気圏に突入する。任務開始も、そう遠い話ではないのだ。それにも関わらず……入浴?

 

「……まぁ、任務前に軽くシャワーを浴びて気分転換、って考えりゃおかしくもないですかね?」

 

 1人呟いた彼だったが、その表情は間もなく怪訝から不審へと変わることになる。

 

 ――ヨウが上がってこないのだ、一向に。

 

 チラッと時計を確認すれば、既に40分の時間が経過しようとしていた。女性の入浴時間は長いと聞くが、それにしても命を懸けた任務前に長すぎやしないだろうか?

 

 ――『マーメイド(リンファ)』の報告聞く限り、中国・アジア第4班は完全に『黒』だったな。

 

 静かに、ニコライは脳内で思考を回転させた。外部から見えづらい空間ということもあり、シャワールームは何かを仕掛けるにはもってこいのエリアだ。彼女が何かを仕掛けている、という可能性も考えられる。

 

「……こちら『ノースウィンド』。誰かSエリア付近にいる奴はいますかい?」

 

『はーい、こちら『シンデレラ』! 今Pエリアだけど、どしたの?』

 

 バッヂに偽装した通信機に小声で話しかけると、インカムからすぐに元気な声が返ってきた。ニコライは周りの乗組員に怪しまれないよう、小声で通信機に話しかける。

 

「念のため、ちょっと来てもらっていいか? 第4班の班員がシャワールームから上がって来ねぇ。二重の意味で心配だ」

 

『ん、了解。今から行くね』

 

 プツリと通信が切れると同時、ニコライは「さて」と顔を上げた。

 

 ――中の様子を窺う必要があるな。

 

 ニコライは静かに、その足を踏み出した。

 

 別に、女性の裸を見たかったわけではない。ニコライには、彼女が怪しい作業をしていないかどうか見極める必要があるのだ。必要不可欠な措置である。

 だからこれは、断じて不純な動機による行為ではない。ここで覗かないと、自分のキャラのアイデンティティが失われるとかそういう理由ではない。ないったらない。

 

 そろり、そろりとニコライは歩みを進める。そして彼と浴室の距離が半分ほどにまで縮まったその時、彼は背後に気配を感じた。

 

「……!」

 

 ――しまった、仲間がいたのか!?

 

 ニコライはいつでも迎撃に映れるように身構え、迅速に背後を振り向いた。

 

「……」

 

「……」

 

 そこに立っていたのは、2人の男性乗組員――燈と、マルコスだった。彼らはまるで、国語の教科書を読んでいるかのような真顔だった。拍子抜けして目を丸くするニコライに対し、彼らは無言で親指を立てた。

 

「……ふっ」

 

 それを見たニコライもまた、親指を立てる。もはや3人の間に、言葉はいらなかった。ほぼほぼ初対面の彼らだったが、言いたいことは分かった。

 

 彼らは原初の感情――即ち、性欲という1点で互いの思考を感じ取る。

 

「……」

 

 ニコライは、再び前を向く。もはやその心から、先程の聞き苦しい言い訳の言葉は完全に消え去っていた。

 

 これは、潜入員としての確認じゃない――自分はニコライという1人の人間として、入浴中の女性を覗く!

 

 新しい仲間を手に入れた彼は、清々しい心持ちで大きく足を踏み出し――

 

 

 

 

 

 

「あっ」

 

 

 

 

 

 

 ――盛大に足を滑らせた。

 

 

 

 

 

「「あっ」」

 

 ニコライは運悪く、近くにいた燈とマルコスも巻き添えを喰らわせて転倒する。更に運が悪いことに、ニコライの頭は丁度、ヨウが入っているシャワールームのドアに激突した。

 

 いかにシャワーの流水音があろうと、さすがにドアに何かがぶつかれば、中の人間は気が付く。

 

 故に――

 

「あっ」

 

「「「あっ!?」」」

 

 シャワーを中断して中から顔を出したヨウは、丁度ドアの前に折り重なるようにして倒れているニコライ達を目撃した。

 

 そしてとどめとばかりに。

 

「ニコライ君、来たよー……お?」

 

「「「あっ!?」」」

 

 ――このタイミングで、ニコライが呼びつけていた『シンデレラ(キャロル)』が到着した。

 

「……」

 

「「「……」」」

 

「燈くん、マルコス君、ニコライ君……君たち3人とも、正座」

 

「「「あっはい」」」

 

 

 

 ――以上が、一時間前に起こった全てだ。

 

 

 

「――いい、3人とも? 覗きって言うのはやってる側は楽しくても、やられてる女の子は凄く怖いんだよ?」

 

「「「すいません……」」」

 

 キャロルの言葉に、3人は死んだ目で返した。

 

 彼女の叱り方は、ミッシェルのような鉄拳制裁ではない。まるで子供に言って聞かせるように、延々と正論を諭し続けるというもの。

 

 別段怒鳴るわけでもなければ暴力を振るわれるわけでもないのだが、燈たちには殴られるよりもよほど堪えていた。

 

「どうして自分が正座させられたのかわかる?」から始まり、それにマルコスが「覗きをしようとしたからです」と答えれば、「悪いと分かってるのにどうしてやったのかな?」と返し。

 

 燈がそれに「自分の中の『男』に逆らえませんでした」と答えれば、「女の子が嫌がることをするのが、君の中の『男』なの?」と返し。

 

 ニコライが「でもばれなきゃ女の子は嫌がらないし、俺達はハッピーですよね?」と答えれば、「でもばれたでしょ? それに、今話しているのはそういうことじゃないんだよ」と返し。

 

 延々と続く問答のような説教を、かれこれ1時間。ニコライ達の心はすっかり折れていた。最初は彼らを睨みつけていた被害者本人のヨウですら、同情の視線を向け始めている程だ。

 

「自分に置き換えて考えてみようよ。君たちだって、お風呂に入ってる時に息を荒げたおじさんに覗かれてたら、怖いと思わない?」

 

「うぐっ……」

 

「た、確かに……!」

 

「い、言い返せねえ……!」

 

 ミッシェルがこの場にいれば「馬鹿じゃねえのかコイツら」と言いそうな反応だが、キャロルはそれを見て、今まで険しかった表情を少しだけ緩めた。

 

「――男の子だもん、そういう気持ちになることだってあるよね。だけどそれってさ、女の子を怖がらせたり、傷つけたりしていい理由にはならないんじゃないかな。君たちはどう思う?」

 

「思います」

 

「全く持ってその通りです」

 

「お、俺はなんてことを……」

 

 反省したらしい3人の様子に、キャロルは「よろしい!」と呟くとその顔に太陽のような笑顔を浮かべた。

 

「分かってくれたみたいだし、アタシからのお説教はこのくらいにしておいてあげる! それじゃ、まずは君たちがしなきゃいけないことは何なのか、分かるよね?」

 

 キャロルの言葉に頷くと、3人は一斉にヨウに向かって綺麗な土下座をした。

 

「「「覗こうとして本当にすいませんでした!」」」

 

「あっ、うん……今回だけは特別に許してあげる。けど、次からは本当にやめてね?」

 

 ヨウの言葉に、燈たちは首を千切れそうなほどに振った。それを見たキャロルは満足げに頷くと、空気を換えるようにパンと手を叩いた。

 

「よし! それじゃあ、さっき艦長の艦内放送もあったことだし、そろそろ行こう! もうすぐ、任務開始前の集会が始まる時間だよ」

 

 キャロルに言われ、今の時間を思い出した男性陣の顔に焦りが浮かぶ。

 

「マジか!? 急ぐぞマルコス、遅刻したら洒落にならん!」

 

「おう、いくぞ――あ、ちょっと待って!? 足が痺れて上手く歩けねぇ!?」

 

「ぐおぉお、動け俺の足ィ……! 隊長にどやされんのはご免被る……!」

 

 今の時間を思い出し、燈たちは慌てて立ち上がると出口へと向かって歩き始めた。ニコライとマルコスは正座で足がしびれて辛そうだが、この分ならば間に合うだろう。

 

「えっと……ヨウちゃん、でいいんだよね? ホントにごめんね、こんな時間まで付き合わせちゃって」

 

「別に、大丈夫……じゃあ、私はこれで」

 

 素っ気なく言って、ヨウはこの場を立ち去ろうとする……が。その直後、彼女は自分のミスに気が付いてその足を止めた。

 

「あ、しまった……お風呂道具、シャワールームに置きっぱなしだ」

 

 彼女の手には、シャワールームに入る際に手に持っていたシャンプー類がなかった。燈たちの覗きのごたごたで部屋を出る際、室内に置き忘れたのだ。

 

「あ、いいよいいよ! アタシがとってくるから!」

 

 慌てて戻ろうとするヨウを止め、代わりにキャロルはシャワールームの前まで小走りでで近づいた。それからキャロルはドアの取っ手に手をかけ、こちらの様子を窺う燈に声をかける。

 

「ゴメン、先に行ってて! ヨウちゃんの荷物を回収したら、すぐに追いつくから!」

 

 そう言ってキャロルは、シャワールームのドアを開けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「 じ ょ う じ 」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして――ドアの向こう側に立っていた()()は、不気味な声でそう鳴いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ――クルー居住区に異変なし、と。

 

 周囲の様子に気を配りながら、カリーナはほっとため息を吐いた。潜入員たる彼女たちが最も警戒しているのは、当然ながら第4班の裏切り行為――()()()()、アネックス計画の参加者たる()()()()()()である。

 

 彼女達の最優先任務は、『110人の乗組員を全員生還させる』こと。だからこそ、クルーが最も集まりやすいこの区域を自分が警戒しているのだが……現時点で何も起こっていないのは、幸いといえるだろう。

 

 強いて言うなら乗組員たちの顔に浮かぶ不安の色が濃くなってきているものの、このくらいは想定済みだ。むしろパニックを起こすものがいないだけマシだ、とカリーナは感心にも似た感情で彼らを見つめた。

 

「さっきから落ち着きないんじゃない? あんたらしくな……いや、いつものことか」

 

「ふふ、表に出てくださいマルシア。クールに決着をつけましょう」

 

「その決着方法って多分相当泥臭いし、そもそも表は宇宙よクールバカ」

 

 そう言うと、マルシアは飲料水の入ったパックに口をつけた。そんな彼女にカリーナは、ため息を吐くとぼやいてみせた。

 

「私は確かにクールビューティですが、 ク ー ル ビ ュ ー テ ィ で す が ! ……さすがに緊張くらい、します。数時間後にはあの気色の悪いゴキブリ人間が目の前にいるかもしれないんですから――まぁ、戦闘員のマルシアには無縁の悩みでしょうけどね」

 

 そう言って彼女は、拗ねたようにふいと顔を背けて見せる

 

 ――ふふん、どうですか私のこのクーーーーールな演技力は! 

 

 その表情の裏側でカリーナはクールさの欠片もなくはしゃぎまわる。

 

 ――ちょっと女の子感出しながらの、露骨すぎない程度の非戦闘員ですよアピール! さすが私、演技派過ぎて自分に惚れ惚れします!

 

 無論、彼女の心中がどれだけ残念だろうと、見てくれは完全に非戦闘員のそれだ。ゆえに、今回ばかりは彼女の自画自賛も、間違ってはいないだろう。

 

 マルシアはそんな彼女の様子に、驚いたように目を丸くすると――

 

「……何って言ってんの、このおバカは」

 

「うわっ!? ちょ、何ですかマルシア!?」

 

 ――カリーナの頭をぐしゃぐしゃと撫でた。

 

 突然の事態に慌てるカリーナ、そんな彼女にマルシアはふんと鼻を鳴らした。

 

「戦闘員のあたしには無縁の悩み? おバカ、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「は、はい?」

 

 カリーナが首をかしげると、マルシアは彼女の顔を覗きこむようにして目を合わせた。

 

「何のために戦闘員(あたしら)がいると思ってんの? その気色悪いゴキブリ人間を、あんたみたいな非戦闘員に近づけないためでしょ」

 

 ――え? え!?

 

 予想外の展開に大混乱のカリーナだが、マルシアの声は真剣そのもの。とてもではないが茶化せる雰囲気ではなかった。

 

「もっとあたしたちを信用して頼りなさい。そしてあんたは、自分の任務を全うしなさい。戦闘員も非戦闘員も……ただ、自分ができることを全力でやるって点では、大差ないんだから」

 

 いい? と念を押され、カリーナはコクコクと首を縦に振った。

 

 ――やばい、マルシアが男だったら完全に惚れてた。

 

 何やら心の内に芽生えかけたいけない感情を首を振って振り払い、カリーナは今度こそ茶化すように口を開いた。

 

「マルシア……今ならあなた、クールランキング2位狙えますよ?」

 

「余計なお世話。っていうかあんた、意地でも1位を譲る気、は……」

 

 軽口を叩こうとしたマルシアだが、その言葉は尻すぼみになって立ち消える。怪訝に思ったカリーナが顔を上げれば、マルシアは瞬きも忘れたように、じっと天井の一点を見つめていた。

 

「……マルシア?」

 

「――カリーナ、あれ何に見える?」

 

 マルシアが天井を指さす。カリーナが言われるまま首を傾ければ、ホールを思わせる高い天井の一画に、黒い何かがあった。

 

 ――染み? いや、そんなものなかったはず。

 

 眼鏡越しに、カリーナは正体を確かめようと目を細め――その正体を理解したその瞬間。彼女はあらんかぎりの大声で、叫んでいた。

 

 

 

 

 

()()()()()()()()!!」

 

 

 

 

 

 自分に集まった視線に構わず――彼女は1人の乗組員に向かって、全速力で突進する。

 

 それと同時、その場にいたほとんどの者が理解するよりも速く――天井に張り付いていたそれは動いた。

 

 

 

 

「じょう」

 

 

 

 

 本能の恐怖をくすぐる低い声で鳴き、それは天井から飛び降りる。それが狙いをつけたのは――自分の真下で棒立ちになっている、男性乗組員。無防備なその胴体目掛け、それは漆黒の剛腕を振り下ろした。

 無論、何が起きたかも理解できていない彼に、躱す余裕などあるはずもない。

 

 

 

 ぶちゅり。

 

 

 

 肉の千切れる音。それと共に鮮血が飛び散って――。

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、ぐ……ッ!?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――カリーナの口から、小さな悲鳴が漏れる。

 

 直後、カリーナと()()()()()()()()()()男性乗組員の体が床にたたきつけられた。衝撃は彼女の体に電撃のような痛みを走らせ、その顔を苦悶で彩った。

 

 彼女の左肩から真紅の液体がドクドクと溢れだし、床に水たまりを作っていく。

 

「ッあ、あぶねえ!」

 

 突き飛ばされた乗組員は咄嗟に、うずくまったカリーナを引っ張った。彼女の体が引き寄せられると同時、次なる一撃が放たれる。一瞬前までカリーナがいた床に足が叩き込まれ、めしゃりという嫌な音と共に金属製の板を歪ませる。

 

 

 

 ――それの出現。

 

 

 

 ――直前まで元気だった仲間が負った重傷。

 

 

 

 それを目の当たりにした後、さらに一拍を置いて。

 

 

「あ、あぁ……!?」

 

 彼らは、やっと自らの置かれているその状況を理解した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「て、テラフォーマーだぁああああああああああああああ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じょうじ」

 

 

 

 

 

 

 叫び声に包まれた広間の中央に立ち、『それ』――テラフォーマーは、短く鳴いた。

 

 

 

 

 

 







【オマケ】原作のマイナーキャラ紹介Q&A
※一部原作のネタバレがあるため注意


Q.ボーンって誰?

A.原作2巻、第6話で初登場。ジェットにブチ切れていたアメリカ人の人。原作第9話では彼の雄姿(色んな意味で)を拝むことができる。初めて名前が判明した際、多分ほとんどの読者はネーミングに悪意を感じた。チンコ手術野郎(ジェット談)。


Q.ヨウって誰?

A.原作2巻、第7話で初登場。シャワーを浴びてた中国班の女の子。原作でもしっかりと燈とマルコスに入浴を覗かれている。ドア越しに燈を睨みつけてからの見開き登場シーンは圧巻の一言。雌の匂いがする(燈談)


Q.マルシアって誰?

A.原作第9巻、第91話で初登場(棒)。原作第171話では、大量のゴキブリに包囲されても冷静さを失わず行動する胆力を見せつけた。実は原作4巻、第27話で登場している疑惑アリ。探してみよう!(なおry)



備考:彼らの変態後の姿は、テラフォーマーズの特設サイトにあるポスターで拝めるぞ!(ステマ)





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第34話 SIDE ARM 潜入員

 ――幸運だったのは。

 

 彼女の脳が目の前の状況を瞬時に理解し、かつ彼女の体が硬直することなく動いたことだろう。

 

「皆、逃げてッ!」

 

 乱暴にシャワールームのドアを閉め、キャロルは後方へと飛び退きながら叫んだ。

 

「えっ――」

 

 ただならぬ様子のキャロルの声にマルコスが疑問の声を漏らしたその瞬間――キャロルが閉めたばかりのドアが、轟音と共に宙を舞った。

 

 ガン、という音と共にドアが床に叩きつけられると同時、シャワールームの中から、ドアを蹴破った下手人――テラフォーマーが姿を現す。

 

「なっ……!?」

 

 目の前の光景に、燈たちが目を見開いた。黒い甲皮に覆われた肉体、頭部に揺れる触角……どれも、彼らが地球での戦闘訓練で散々目にしてきたものだ。

 

「なんでッ……何でテラフォーマーがここにいるんだよッ!? まだ火星に着いてねえだろうがッ!!」

 

 燈とマルコスの額に、嫌な汗が滲む。

 

 ――()()()

 

 中から出てきたテラフォーマーは、1匹だけ。戦闘員の中でも、とりわけ上位に位置する実力を持つ燈とマルコスにとって、この程度は何の問題もない個体数だ――()()()()()()()

 

「クソッ……今は薬が……!」

 

 ――問題なのは、今の彼らが変態用の薬を持っていないということ。

 

 彼らがその身に施されたMO手術、その真価を発揮するための薬は2()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。逆に言えば、今彼らの手元に薬はない――あるはずがないのだ。

 

 今更言うまでもないことだが、人間大のゴキブリであるテラフォーマーの身体能力は、非常に高い。

 

 一歩目から時速320kmで駆け出す瞬発力に、条件さえ整えば力持ちの代名詞たるカブトムシに匹敵する牽引力を発揮する筋肉、そして尾葉を始めとして全身の鋭敏な感覚器官。

 

 これらを備えたテラフォーマーを打ち倒すのは――生身の常人には、まず不可能。常人ならざる身体能力を持つ燈ですら、防戦が精一杯だろう。

 

 更にこのタイミングで、彼らへ追い打ちをかけるかのような事態が発生する。

 

「う、おぉッ!?」

 

 腹の底に響くような爆音と共に、彼らの体を衝撃が襲ったのだ。どうやらそれは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、廊下の向こう側からちらほらと悲鳴が聞こえ始めた。

 

「爆発だと……!?」

 

 辛うじて態勢を崩さずに保ったニコライは、その目を大きく見開いた。

 

 ――仕掛けられていたの類は、全て取っ払ったはず。

 

 彼はテラフォーマーへの注意を緩めずに、視線だけをチラリと窓の外へと向け――視界に飛び込んできた光景に、愕然とすることになる。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ――突如として現れたテラフォーマーは、広間にいた数十人の乗組員たちをパニックにそこへと突き落とした。

 

「薬、薬はどこだ!?」

 

「う、嘘だ……! こ、こんな……!」

 

「それより、誰か幹部を呼んできて!」

 

 ありもしない薬を探す者、恐怖のあまり棒立ちになるもの、オフィサーを呼べと叫ぶ者――動転した彼らは、まるで狼に襲われた羊の群れのように、統率を失って右往左往を始める。

 

 混乱の極地に立たされた彼ら――そんな彼らを更なる絶望の淵へと引きずり込むように、爆音が響き渡る。

 

「な、何だよ、今の爆発は――って、はぁ!?」

 

 偶然、窓の近くにいた乗組員は窓の向こうを覗きこみ――そして、ギョッとしたような声を上げた。

 

「おい! どうした!?」

 

「……べ、()()()()()()!」

 

 別の乗組員が問い正すと、窓を覗きこんだ乗組員が愕然とした様子で答えた。

 

 

 

「別の宇宙船が、アネックスにぶつかったんだッ!」

 

 

 

 ――彼の視界に映っていたのは、眼下に広がる深緑の惑星と、炎を噴き上げるアネックス1号のエンジン。そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 どこか卵を思わせる楕円体に近い形の宇宙艦。その外装に書かれていたのは――。

 

「ば、バグズ1号だと!? 何で40年も前の宇宙艦が……まさか、これもゴキブリ達がやったのか!?」

 

 青ざめた顔で乗組員が叫ぶと、それに呼応して別の乗組員が悲鳴を上げる。

 

「お、おい、どうすんだよッ!? テラフォーマーが襲って来て、薬はなくて、しかもアネックスが落ちてて……! このままじゃ、このままじゃ俺ら……!」

 

 その言葉に、この場の乗組員たちの脳裏に共通の言葉が浮かぶ。

 

 

 

 即ち――『死』。

 

 

 

 手元に薬がない、頼れるオフィサーも近くにはいないという、最悪に近いこの状況。彼らの顔が、絶望と諦めに染まり――

 

 

 

「お前ら、ぼさっとすんなァ!」

 

 

 

 ――それを、打ち払うとまではいかないまでも。彼らの意識を現実へと引き戻す、野太い声が広間に響く。

 

 

 

 唯一、この場にいた者たちにとって幸運だったといえる要素が2つあった。

 

 1つは、カリーナの捨て身の行動によって奇跡的に死者が出ていない点。

 

 もしも死人が出ていれば、彼らの恐慌は収拾のつかないものとなっていた。それはやがて彼ら自身の首を絞め、より被害を拡大させるという最悪の結果を招くことになっていただろう。

 

 そしてもう1つは、ある程度の判断力を伴い、この状況下で動けた者が2人存在したことだ。

 

「逃げろ、お前らッ! 俺が奴の足止めをする!」

 

 1人目は、ボーン。

 

 他の乗組員たちを守るように飛び出した彼の手には、1丁の機関銃が握られていた。それを見た第1班の乗組員の一人が、震える声でボーンに言う。

 

「む、無茶だ、ボーン! 忘れたのか、対人用の防犯器具程度じゃこいつらは……!」

 

「んなことは分かってんだよ!」

 

 しかしボーンは一歩も退かず、自身に声をかけた同僚に怒鳴り返す。

 

「お前こそ、忘れたのかよ!? 『()()()()()()()()()()()』! リー教官に言われただろうが!」

 

 彼の言葉にはっとした表情を浮かべたのは、日米合同第1・第2班に所属する乗組員たち。同時にその脳裏には、彼らの教官を務めた旧バグズ2号の乗組員、ゴッド・リーが毎日のように口にしていた言葉が蘇る。

 

『臆病なのは結構。だが、『非戦闘員だから自分は戦わなくていい』……そんな甘ったれた考えは、今すぐに捨てろ。その油断に土壇場で食い殺された奴を、俺は何人も見てきた』

 

『安全地帯なんてもん、あの地獄(ほし)にねぇ。ゴキブリはどこからでも入り込むからな……どんなに強い奴だろうと、あの星じゃ死ぬんだよ。いいか、これだけは覚えとけクソムシ共』

 

『戦場は竦んだ奴から死ぬ。諦めた奴から殺される。もし、お前らが本気で生き延びてぇと思ってるなら――』

 

()()()()()()()()()()! ()()()()()()()! 今が、その時だろうがよォ!」

 

 ボーンは叫ぶと同時に、銃の引き金を引く。途端、銃口が火を噴き上げ、鉛の弾丸がテラフォーマーの体へと撃ち込まれた。放たれた弾丸は黒の甲皮を貫き、その体から白い体液を飛び散らせた。

 

 ――テラフォーマーに、銃の効果は薄い。

 

 だが、テラフォーマーに銃が傷をつけているという事実。多少なりとも、対抗策があるという事実に、周囲の者たちは僅かながらに冷静さを取り戻した。

 

「そうだ……! このまま何もしなきゃ、全員本当に死んじまう!」

 

「こんな、こんな終わり方……認められるかよォ!」

 

 そんな声が乗組員たちの間から沸き上がり――それが、彼らを縛り付けていた死神の抱擁を振りほどく。

 

「銃だ、銃を持ってこいッ! ボーンを助けるぞ!」

 

「私達は幹部に連絡を……ッ!」

 

 状況が、動き始める。

 

 つい先程まで脅かされるだけだった彼らは、たった今この瞬間から抗う者として、現実に向き合った。

 

 ――この場にいる者のほとんどは、非戦闘員。

 

 あるいは、テラフォーマーに対抗しうる実力を持った者であっても、薬がない現状で発揮できる力は常人の域を出ない。所詮は一山いくらの補充兵、生身の彼らにできることなどたかが知れている。

 

 だが、彼らは『人間』だった。

 

 食い扶持にあぶれ、借金に塗れ、たどり着いたアネックス計画。彼らが命を懸けたまでこの計画に身を投じたのは、遠い宇宙で虫のように殺されるためではない。

 

 金を、人権を……そして、人並みの幸福を勝ち取るためである。

 

「――人間舐めんな、ゴキブリ野郎! 俺達の仲間に、手ェ出すんじゃねぇッ!」

 

 故に、ボーンは咆哮した。自分達こそが人間であると、証明するかのように。

 

「じょうじょ……じじ」

 

 果たして彼の祈りが通じたのだろうか? あるいは、銃を持つ彼を少しばかりでも脅威と感じたのだろうか? 

 

 理由はどうあれ、テラフォーマーはカリーナから視線を外すと、ボーンへと向かって一直線に歩みを進め始めた。

 

 

 

「カリーナッ!」

 

 

 

 そしてその隙に、冷静さを保っていたもう1人――マルシアが、倒れ込んだカリーナに駆け寄る。彼女は倒れたカリーナを抱き起そうとして、その怪我の度合いに目を見開いた。

 

「ッ、これは……!」

 

 ――苦し気に息を荒げるカリーナの()()()、無くなっていたのだ。まるでスプーンで掬いとられたプリンのようにえぐり取られたそこからは白い骨が覗き、景気よく血が溢れだしている。

 

「まずい――!」

 

 マルシアの顔が青ざめる。かなりの重傷、しかもこのまま放っておけば失血死の可能性がある。一刻も早く処置を施さなければ、彼女の命が――

 

「ぐっ……!」

 

「っ! しゃべらないで、カリーナ! 傷が開く!」

 

 カリーナが何事か言おうとしてるのを見て、マルシアは慌てて制止の声を上げると、その体に腕を回した。

 

「今、医務室に連れてくから! いい、絶対に諦めるんじゃ――!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なるほど……あなた方の理念は分かりました。あなた方がこれからやろうとしていることも」

 

 七星は頷きながら「ですが」と言葉を続けた。

 

()()()()()()()()()()。どれだけ強い兵士を先に火星に送り込んで、現地の安全を確保したとしても……」

 

「その通り。それだけでは、()()()()()()()()アネックスの乗組員たちが無防備になってしまう」

 

 クロードは頷くと、手中のグラスを軽く回した。カラン、という氷が耳心地の良い音を奏でる。

 

「だから、こちら側の内通者を紛れ込ませることにした。アネックスの定員を100人から110人へと無理やり拡張して、我々が集めた人材の中でも特に優れた能力の持ち主をね。これが、そのリストさ」

 

 そう言って、クロードは懐から折り畳み式の小型タブレットを取り出すと、画面を数度タップしてから、それを七星へと手渡した。

 そこに表示されていたのは、6人の乗組員だった。それぞれの顔写真の下には、それぞれの手術ベースやランキングなど、簡単なプロフィールが表示されている。

 

 

 

 第1班所属 東堂大河 マーズランキング76位

 

 MO手術『公式登録』ベース“環形動物型” イバラカンザシ 

 

 

 

 第2班所属 キャロル・ラヴロック マーズランキング98位

 

 MO手術『公式登録』ベース“植物型” ノシバ

 

 

 

 第3班所属 ニコライ・ヴィノグラード マーズランキング39位

 

 MO手術『公式登録』ベース“昆虫型” タマムシ

 

 

 

 第4班所属 (フー)鈴花(リンファ) マーズランキング71位

 

 MO手術『公式登録』ベース“両生類型” カジカガエル

 

 

 

 第5班所属 バスティアン・フリーダー マーズランキング44位

 

 MO手術『公式登録』ベース“節足動物型” アカヤスデ

 

 

 

 第6班所属 カリーナ・チリッロ マーズランキング99位

 

 MO手術『公式登録』ベース“刺胞動物型” タコクラゲ

 

 

 

「非戦闘員が内通者……? いや――ベース生物を偽装して、ランキングを下げたのか!」

 

 無言で頷いたクロードに、七星は信じられないとばかりに首を横に振った。

 

「よく誤魔化せましたね……まさか、買収したんですか?」

 

「いや……我々は常に資金難でね、そんなことに回す予算はどこにもない」

 

 静かに笑うと、クロードは種を明かした。

 

「何のことはない……彼らの体に、特殊な装置を仕込んでおいたんだ。それが作動している間、彼らは()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう言ってクロードはグラスの淵に口をつけると、ウイスキーを喉の奥へと流し込んだ。

 

「当然そんな状態じゃ本来の特性は発揮できないし、変態後の姿もかなり貧弱になる。だから査定側に手を回さず、本人たちに無理な演技もさせず……彼らを偽りのベースとまやかしの実力でランキングに登録することができた」

 

 クロードはそう言うと、やや赤らんだ顔にニヤリと笑みを浮かべた。

 

「だが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。さすがにオフィサークラスとはいかなかったが……彼らは6人が6人とも、本気を出せば『マーズランキング』のトップランカーにも比肩しうる実力者たちだ」

 

 クロードの言葉に、七星は生唾を飲んだ。もしもその話が本当ならば、先程までは夢物語に過ぎなかった『全員生還』という任務内容も一気に現実味を帯びてくる。

 

 それほどの存在なのだ、マーズランキングのトップランカーとは。

 

 たった1人であっても、その戦力価値は下手な兵器を遥かに上回る。まして、彼らが送り込まれたのは資材の乏しい火星。その存在がどれだけ頼もしいかは、言うまでもないことだ。

 

 

 

 

 

 だが――()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「加えて、我々のアークにおける上位戦闘員の多くは――彼ら6人も含め、とある特殊なMO手術を施してある」

 

「特殊……ですか?」

 

 つまみとなる料理の皿を用意する手を止めると、本多はクロードに訊いた。

 

「バグズ手術と違って、MO手術では昆虫『以外』の生物もベースにすることができる、という話は既に聞いてますが……」

 

「その通り――だが我々の研究は、既に次の段階へと進んでいる」

 

 彼の疑問を首肯すると、クロードは更に続けた。

 

「我々は新たに、3種類の『新式人体改造手術』を開発した。これらの手術は失敗のリスクが高く、ついに完全な形まで持っていくこともできなかったが――それでも、通常のMO手術以上の力を、被験者へともたらす」

 

 そう言うとクロードは七星の手にあるタブレットを操作し、表示画面を切り替えた。新たに表示されたそのデータを読み進めるにつれ、本多と七星の顔は次第に驚愕へと染まっていった。

 

 

 

MO(モザイクオーガン)手術(オペレーション) ver(バージョン)『C』、『G』、『H』――これらの手術を受けたアークの隊員たちは、必ずや火星での『悲劇』を覆す起点となるだろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「今、医務室に連れてくから! いい、絶対に諦めるんじゃ――!」

 

 マルシアはカリーナへと激励の言葉をかけようとして――そして、口をつぐんだ。

 

 なぜなら手中のカリーナは、苦悶に顔を歪めながらも決して『諦め』や『恐怖』の色が、欠片も浮かんでいなかったから。

 

 マルシアは、その表情を知っていた。それは戦闘員(じぶんたち)が戦闘時に浮かべるものと同じ、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……!?」

 

 思わず動きを止めたマルシアの腕の中、カリーナは一瞬だけ何かに驚いたような表情を浮かべ――そして。

 

 

 

Si(スィー)……!」

 

 

 その口元に薄く笑みを浮かべると、小さくそう呟いた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

『『ゴルゴン』より、特務部隊『イース』へ。緊急事態発生、緊急事態発生。アネックス艦内へのテラフォーマー15匹の侵入、およびエンジン部の重大な破損を確認した。これにより『プランδ』への移行は確定的。迅速な対応のため、緊急事態(メーデーコード)の発令を要請する』

 

『こちら『イース』、状況了解! マニュアルに則り、緊急事態(メーデーコード)を発令! 潜入員(サイドアーム)6名に()完全変態の解除、及び敵対者との交戦を許可する! アーク1号による救援プランもαよりδへと移行する! オールオーバー、健闘を祈る!』

 

『了解! 聞いたな、お前ら! 既にオフィサー達が事態の対処に動いている! テラフォーマーの積極的駆除は彼らに任せ、俺達は一般乗組員の保護に向かう! さぁ――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『――行くぞッ!』

 

『おう!』

 

YES(うん)!』

 

да(あいよ)!』

 

好的(おっけー)

 

Si(了解)……!』

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――倉庫エリア。

 

「ま、そういうわけだゴキブリ野郎。散々荒らしてくれやがったみてーだが……これ以上お前らの好きにはさせねぇ」

 

 進路を塞ぐようにテラフォーマーの前に立ちはだかり、腕を組んだリーゼント頭の青年が唸る。

 

「音声認識、『ゴールドアックス』――非完全変態解除(アンロック)!」

 

 

 

 

 

 

 

 ――シャワールームエリア。

 

「さぁて、ニコライ君。アタシ達がやることは分かってるね?」

 

「たりめーです。ちょいと後手に回っちまいましたが――」

 

 日に焼けた赤毛の女性が背後の仲間を庇うように立ち、くすんだ金髪パーマの青年がガシガシと己の頭を掻く。そして、2人は同時に声を張り上げた。

 

 

「音声認識『シンデレラ』、非完全変態解除(アンロック)!」

 

「音声認識『ノースウィンド』、非完全変態解除(アンロック)!」

 

 

 

 

 

 

 

 ――食糧庫前。

 

「むにゃむにゃ……はっ!? 大丈夫、つまみ食いはしてない……ちょっとしか」 

 

 床を蹴り、風の如き速さで迫るテラフォーマーに、シュシュで髪をサイドテールにまとめた少女がのんびりした調子で、眠たげに呟いた。

 

「音声認識『マーメイド』。非完全変態解除(アンロック)……ふわあぁ、眠い……」

 

 

 

 

 

 

 

 ――中央階段。

 

「そこまでだ」

 

 階段を上り、脱出機の格納庫へと向かおうとするテラフォーマー。その前に仁王立ちになった坊主頭の男性が、落ち着いた声で宣言する。

 

「音声認識『ゴルゴン』、非完全変態解除(アンロック)――俺を殺さない限り、ここは通れんと思え」

 

 

 

 

 

 

 

 ――クルー居住区。

 

()ッ……ふふ、さすが私ですね……! (みず)も滴る、クールビューティ……ですっ!」

 

 怒号と銃声が響く中、眼鏡の女性は痛みをこらえて一気に上体を跳ね起こすと、力の限り叫んだ。

 

「音声認識『ラプンツェル』……! 非完全変態、解除(アンロック)ッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クロード・ヴァレンシュタインの策によって、アネックス1号に紛れ込んだ潜入員たち。彼らの口は異なる場所で、しかしまるで示し合わせたかのように――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「人 為 変 態 ―― ッ !」

 

 

 

Synth-METAMORPHOSIS(人為変態)!」

 

 

 

преобразование(人為変態)っと!」

 

 

 

人工转型(人為変態)……」

 

 

 

「――Künstlich(人為)- METAMORPHOSE(変態)

 

 

 

Artificialmente(人為)METAMORFOSI(変態)……!」

 

 

 

 

 

 ――全く同時に、人類の反撃の合図となる、その言葉を紡いだ。

 

 

 

 

 

 




【オマケ】

クロード「MO手術ver『C』『G』『H』……語呂合わせは『HなCG』です」

本多「なるほど……! これは覚えやすい……!」

七星「それでいいんですか、お二人とも?」


【お願い】

 作者の外国語技能は高くありません。「今話の台詞、ここ文法的に間違ってるぞ!」というのがあったら、こっそり教えてください……(正しい文も教えていただけるとなお嬉しいです)



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第35話 TREMOR 猛威

 

 ――投薬チップ、というものをご存じだろうか?

 

 患者の体内に埋め込み、特定の信号をトリガーとしてあらかじめ充填しておいた薬を自動で放出する極小マイクロチップのことである。

 

 2012年にハーバード大学を中心とする研究チームが開発したこの装置は、27世紀現在の医療現場においても、病気の治療や薬の定期接種のために使用されている。

 

 潜入員(サイドアーム)達の体内に仕込まれていたのも、これとほとんど同じもの。

 

 彼らの体内に仕込まれたチップは彼らの音声をトリガーとして、大きく分けて2つの機能を果たす。

 

 ――1つ、非完全変態と呼ばれる変態状態の制御。

 

 これは潜入員たちがMO手術で与えられた『特性』の完全な発現を抑制することで本来の手術ベースと実力を偽り、非戦闘員としてアネックスに搭乗するために必要だった機能。

 

 無論、これは戦闘時において何の役にも立たないどころか、むしろ足枷となる代物である。ゆえに状況に応じてこれを使い分けるのが、チップの第1の役割。

 

 そして2つめの役割が、変態薬を投与すること。

 

 もしも手元に薬がない場合――あるいは、何らかの要因で薬の接種が難しい場合。音声認識を通すことで、このチップは内部に仕込まれた変態薬を体内に放出する。

 

 これを使えば表向き一般乗組員に過ぎない潜入員たちも、わざわざ見つかるリスクを背負って薬を隠し持つ必要はなく、かつ常時変態が可能な状態を維持できるのだ。

 

 ただし、このチップに仕込める薬の量は決して多くない。濃度を高めることで補ってはいるものの、この方法で変態できるのは多く見積もっても3回だけ。

 

 ゆえに、これを使った変態はやすやすとは行えない。余程切羽詰まった状況でもなければ使うことはない、まさしく『奥の手』である――。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「ッ! くっそ……!」

 

 爆発で傾いた態勢を立て直しながら、燈の脳内をいくつもの情報が駆け巡った。

 

 ――まだ火星に到着していないのに、艦内へと侵入してきたテラフォーマー。

 

 奴らは一体何匹忍び込んだ? まともに羽ばたくこともできないはずの熱圏上空まで、一体どうやって到達した?

 

 ――他の宇宙船が衝突したことによる、エンジンの破損。

 

 アネックスにぶつかったあの宇宙船は、なぜこの場所にいた? 現在、火星に至る宇宙船の航路は、U-NASAによって封鎖されているはずなのに。

 

 ――他のエリアにいる乗組員たちの安否。

 

 シーラ、アレックス、艦長(小吉)副班長(奈々緒)――そして何より、百合子は無事なのか? 一刻も早く合流して、安否を確かめなければ。

 

 

 

 考えろ、考えろ、考えろ。慎重に、しかし迅速に決断を下せ。常人ならざる身体能力を持つ自分が、仲間を守るための鍵だ。

 

 非戦闘員が3名、戦闘員であるマルコスも、薬がないために今は戦えない。彼らを守るために、自分はどうすればいい?

 

 考えろ、考えろ、考えろ。今この瞬間、自分がどう動くかで全てが変わる。

 

「……ッ!」

 

 彼の体が正常な姿勢に戻る。それと同時に、彼はこの場において最良と思われる決断を下した。

 

 自分が足止めをしている間に他の者たちを逃がす。

 

 これが現状、最も理に適った選択のはず――!

 

「皆ッ! ここは俺が――!」

 

 無言の帳が降りたその空間に燈の声が響いた――その瞬間。

 

 

 

YES(うん)!」

 

да(あいよ)!」

 

 

 

「……んん?」

 

 キャロルとニコライが威勢よく返した返事に、燈の顔が微妙に引きつった。

 

「あ、あれ? 2人共? 俺まだ何にも言ってないんだけど?」

 

 ――ひょっとして、最初から自分を足止めに使う気満々だった?

 

 燈の脳裏に気まずい考えが走るが、彼の想像はこの直後、よくも悪くも裏切られることになる。

 

「さぁて、ニコライ君。()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「たりめーです。()()()()()()()()()()()()()()()()――」

 

 そう言って2人は呆ける燈たちをその背に庇い――さながら、凱歌を謳うがごとく高らかに、その言葉を発した。

 

 

 

「音声認識『シンデレラ』、非完全変態解除(アンロック)! Synth-METAMORPHOSIS(人為変態)!」

 

「音声認識『ノースウィンド』、非完全変態解除(アンロック)! преобразование(人為変態)っと!」

 

 

 

 

 

 

命令(オーダー)受諾。非完全変態を解除』

 

 ピピ、という電子音。次いで聞こえてきたのは、留守番電話サービスを思わせる無機質な女性の声だった。状況が飲み込めずに硬直した燈たちをしり目に、その声は更に続ける。

 

 

 

 

 

投薬開始(インジェクションスタート)

 

 

 

 

 声がそう告げた瞬間、ミシミシと肉体の歪む音と共に、キャロルとニコライの体が徐々に変異していく。

 

 腕はより太く強靭に、体はより硬く頑丈に――そして体の随所には、各々のベース生物を反映した特徴が表れ始める。

 

 数秒と置かずにそれが収まると同時、キャロルはぐっと伸びをした。

 

「さーて……久しぶりだし鈍ってないといいんだけど」

 

「まったくだ。ま、さすがにテラフォーマー1匹に遅れをとることはねーと思いますが」

 

「……いやいやいやいや!?」

 

 何事もなかったかのように会話を続ける2人に、燈はテラフォーマーと対峙しているという事実も忘れ、思わず叫んでいた。

 

「え? 何で変態してるの、2人とも? しかもキャロル、お前いつもと格好が――」

 

「あ、分かる? さっすが燈くん、見る目あるね!」

 

 そう言って楽し気に振り向いたキャロルの顔には、緑色の筋が走っていた。これは、以前の彼女が変態した際にも見られた特徴。

 

 しかし今の彼女はそれに加えて、以前までの変態に比べて二回りほど太くなった腕が、隊服であるコートを破って露になっている。その手の形はどこか、変態時のミッシェルを彷彿とさせる。

 

「どう? それなりに似合って――」

 

「ッ! キャロル、伏せろ!」

 

 にこやかに話すキャロルに、切羽詰まった表情のマルコスが叫んだ。

 

「テラフォーマーが――!」

 

 しかし、彼が叫び終えるのを待たず、テラフォーマーは目にも止まらぬ速さでキャロルとの距離を詰めた。燈たちが止めに入る間もなく、テラフォーマーはキャロルの無防備な後頭部へと棍棒を振り上げ――。

 

 

 

「じょ、うっ……!?」

 

 

 

 ――次の瞬間、背面の壁へと叩きつけられていた。

 

 

 

「……レディを後ろから襲うのは、マナー違反だよ」

 

 背後に肘鉄を放ったままの姿勢で、キャロルは平時よりもやや低い声で呟く。それを見た燈は、無意識のうちに息を吞んだ。

 

 ――テラフォーマーが叩きつけられた壁に、亀裂が入っていたのだ。

 

 それはつまり、彼女が放った攻撃にはそれほどの威力が込められていたということ。

 

 彼が真っ先に思い起こしたのは、第2班を束ねるミッシェルや、第1班の戦闘員である鬼塚慶次の姿。直接ならばともかく、吹き飛ばしただけで壁を傷つける程の力を持っているのは、日米ではあの2人だけだ。

 

 ――植物型が、果たしてここまでの筋力を発揮できるものなのか?

 

 燈が訝しんだその時、壁に叩きつけられたテラフォーマーがゆっくりと立ち上がった。

 

「おっと……やっぱりちょっと鈍ってるな。今ので倒しきれなかったかー」

 

 意外そうな声音で呟きながら再び体を反転させると、キャロルは「そんな訳で!」と仕切り直すように言った。

 

「ここはアタシに任せて、燈くんたちは他の皆と合流して! ニコライ君は3人の護衛を!」

 

「待て、キャロル! さすがにお前だけ――」

 

 反論の言葉を口にしようとするマルコスだが、キャロルは「いいから!」とそれを遮った。

 

「気遣ってくれるのはありがたいけど、この場で変態できるのはアタシとニコライ君だけ。それに今のアタシは、()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 そう言ってキャロルは、目の前に迫ったテラフォーマーの頭を鷲掴みにした。彼女はそのままもがくテラフォーマーをひょいと持ち上げると、まるで空き缶をゴミ箱の中へと投げ入れるかのように軽々と、シャワールームの中へと投げ入れた。

 

「早く行って! 君たちが行かないで、誰が百合子ちゃんとシーラちゃんを守ってあげるの!?」

 

「ッ!」

 

 ――キャロルの口から発せられたその言葉に、真っ先に反応したのは燈だった。

 

「行くぞマルコス! ヨウさんも!」

 

 彼はそう言うと2人の手を掴み、半ば引きずるように出口へと駆け出した。

 

「キャロルッ! 無茶すんなよ!」

 

「燈くんもね!」

 

 部屋を飛び出す燈たちに、キャロルが叫び返す。その背を追うように出口へと向かいながら、ニコライは軽い調子でキャロルの背に声をかけた。

 

「んじゃ、また後で。万が一やばそうなら、早めに呼んでくださいよ?」

 

「りょーかい! ……けど、いらない心配かな」

 

 キャロルの返事に「そりゃそうだ」と笑い、ニコライは出口を飛び出していった。

 

「これであっちは大丈夫かな……さて」

 

 そう言ってキャロルが見つめた先では、丁度テラフォーマーが立ち上がったところだった。甲皮のところどころに罅が入っているが行動不能とまではいかないらしく、無感情なその目でじっとキャロルを見つめている。

 

「それじゃあ、ゴキブリ君……早速だけど、やろっか」

 

 ――ところで。

 

 そう言ってキャロルは、その口端を釣り上げた。

 

「君、ガラスの靴はご入用かな?」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「燈、キャロルのマーズランキングって……」

 

「『98位』だ」

 

 走りながらマルコスが口にした疑問に、燈が答える。

 

「手術ベース『ノシバ』……ベース生物に至っては、同率の八重子(やえこ)以上に戦闘に不向きな非戦闘員……のはずだ」

 

 自信なさげに言った燈の頬を、たらりと汗が伝う。

 

 ランキングとベース生物に関しては、彼女自身が言っていたことだ。さすがに間違うことはないはず……だが、そう考えると様々なつじつまが合わない。

 

 先程変態したキャロルの姿は、燈の知る変態後の姿よりも遥かに強靭だった。テラフォーマーとの戦闘でも、かなり優位に立っていたように見える。いかに素体が強いとはいえ、明らかに非戦闘員の動きではない。

 

 ――いや、そもそも。

 

「何であいつ、薬も持ってないのに変態できたんだ……?」

 

「お、知りてーんですか?」

 

 独り言のつもりで呟いた言葉に、返ってきた返事。驚いた燈が首を回すと、そこにはいつの間にか追いついていたニコライの姿があった。

 

 頭部にはクワガタを思わせる大顎が生え、その体は黒とメタリックな赤の甲皮で覆われている。その身のこなしは軽やかで、全力で走る燈たちと並走しながらも少しも息を切らしていない。

 

「まーまー、そう怖い顔しねーでください、()()()()()()()()。本当に敵なら、あの場で裏切れば済む話ですからね――状況が状況だ、今はこの説明だけで納得してくれ」

 

 燈にそう言うと、ニコライは間髪入れずに「さて」と切り出した。

 

「俺としては、このまま他の連中と合流して避難してほしいとこなんですが……」

 

 そう言うと、ニコライは燈に目を向けた。

 

「この経路、お前ら薬品倉庫まで行くつもりだな?」

 

「……そうだ」

 

 ニコライの言葉に、燈が少しの間を置いてから頷いた。

 

「倉庫には薬がある。あれさえあれば、俺達も変態して戦える!」

 

 変態さえできれば、燈とマルコスの実力はアネックスの中でもトップクラス。だがその力を発揮するためには、変態薬が必要だ。

 彼らが戦力となれば、状況は一気に好転するだろう。その点、ニコライとしても彼らが倉庫に向かうことには否はないのだが――

 

「……嫌」

 

 ――ここで、ヨウがストップをかけた。

 

()()()()()()。行くなら、あんた達だけで行って」

 

「っ!? 何を――」

 

 思わず足を止めて振り返る燈に、ヨウはその目に涙を溜めて半ばヒステリックに叫ぶ。

 

「あたしは非戦闘員なの! 倉庫に行けば薬はあるかもしれないけど――それまでにゴキブリに遭ったら、殺されちゃうかもしれない! それに、これだけ騒ぎになってればオフィサーも動いてるはず……! 皆とはぐれれば、オフィサーの人たちに助けてもらえる可能性も減るでしょ!?」

 

 ――まぁ、そりゃこうなりますよね。

 

 ニコライは内心で呟くと、思わず肩を竦めた。

 

 彼女が裏切り者ならば、自分達にとって都合よく働きかけているこの状況で、わざわざ敵対者の利となる行動をとらせることはしないだろう。

 

 彼女が本当に非戦闘員ならば、一刻も早く他の乗組員と合流してオフィサーの庇護下に入りたいだろう。

 

 彼女の言葉はどちらともとれる。だがそれは、ある程度事情を把握しているニコライだからこそ分かること。少なくともマルコスと燈は彼女の言葉を真に受けたようで、その顔に躊躇いの色を浮かべていた。

 

「ねぇ、早く皆のところ行こうよ……? お願い、私にこれ以上怖い思いさせないで……!」

 

 目を潤ませて言い寄るヨウに、マルコスと燈がたじろぐ。

 

 ――これが演技なら、主演女優賞もんだな。

 

 心の中で口笛を吹きながら、しかし同時にニコライは頭を悩ませた。

 

 ――意図はどうであれ、彼女の主張は理に適っているし筋が通っている。

 

 だから、断りにくい。ここで強行しても構わないが、そうすれば今度は燈とマルコスから反感を買いかねない。自分の評価が下がるのはまぁよしとして、彼らと同班であるキャロルや大河の株まで下げてしまえば、いらない軋轢を生む。

 

 

「……どうしたもんかねぇ」

 

 妙案が思いつかず、ニコライが頬を掻いた時だった。丁度T字路の分かれ道、曲がり角の向こう側から、彼にとっての救世主となる人物の足音が聞こえてきたのは。

 

 

 

「よっ……と」

 

 

 

 気の抜けるような声と対照的に、機敏なバック転をしながら、その少女は現れた。次いでその後を追うように一匹のテラフォーマーが姿を現すと、彼女に向かって腕を振り上げた。

 

「……遅い」

 

 その腕から繰り出される薙ぎ払いは、命中すれば首を切り落とすほどの威力と速度。しかしそれを少女は易々と回避すると、そのままテラフォーマーの懐へと潜り込む。彼女はそのままテラフォーマーの股間に右手を押し当て……。

 

 

 

 

 

 

 

 

「喰らえ、西(シイ)直伝――   玉   発   頸   !  」

 

 

 

 

 

 

 

 ――  ド    ン    !

 

 

 

 

 およそ肉を打った音とは思えない轟音が響き渡った。衝撃が空気を震わせ、テラフォーマーの体が曲がり角の向こう側へと吹き飛ばされる。

 

「……他愛なし」

 

 フー、と深く息を吐きながらその人物は呟いた。あまりにも筆舌に尽くし難いその光景にヨウを含む3人が唖然とする中、ニコライだけは乾いた拍手をしながら彼女に声をかけた。

 

「ナイスタイミングだぜ、リンファ」

 

「んむ……? なんだ、ニコライか」

 

 構えを解くと、少女――(フー)鈴花(リンファ)はコテンと首をかしげた。

 

 その体と顔の一部の皮膚が濃紺へと変色し、更にその上に黄色の斑模様が浮かび上がっている。平時よりも少しばかり面積が広がっている黒目も合わせ、今の彼女の姿には、どこかマスコットキャラクターを思わせる独特な愛嬌があった。

 

「ヨウと、日米の2人……随分変わった組み合わせ。何かあった?」

 

「あー……それは話すと、ちょっとばかり長くなるんですよ。悪いが、用件だけ聞いてもらえませんかね?」

 

 ――絶対に覗きのことはばらすなよ。

 

 ニコライが燈とマルコスにアイコンタクトで念を押すと、2人は千切れんばかりに首を縦に振る。先日のジェットの件と今の光景で、2人の中ではリンファ=金的のイメージ図ができあがっている。迂闊なことを言えば、自分達が第3の被害者にならない保証はないのだ。

 

 ニコライは2人の反応を確認すると、リンファにかいつまんで(不都合な部分は伏せて)事の経緯を伝える。

 

「なるほど、なるほど……ZZZ」

 

「この状況で寝るなアホ。で、お前にはこっちの嬢ちゃんの護衛を請け負ってもらいたいんですが、構いませんね?」

 

 うつらうつらと舟をこぎ始めた頭をはたかれると、彼女は寝ぼけ眼で頷いた。

 

「オーケーオーケー、オーケーぼくじょー……ヨウ、もう怖がらなくていい。私が全力で守る。とらすとみー」

 

「あ、うん……」

 

 口を挟む間もなく、とんとん拍子に進んでいく話にヨウは頷くしかない。それを見てリンファは頷くと、「けどまずは……」といって、視線を曲がり角の先へと向けた。

 

「……あれを仕留めるのが先」

 

 リンファが見つめる先には、先程の攻撃から態勢を立て直したテラフォーマー。多少動きづらそうだが敵意は変わらず、攻撃を諦める素振りは微塵もなかった。

 割れた股間部からどろりと零れる肉片を直視してしまい、マルコスと燈は無言で目をそらした。

 

「……西(シイ)の嘘吐き。男なら一発けーおーだって言ってたのに、全然ピンピンしてる」

 

「はいはい。残念でしたね、そりゃあ」

 

 舌打ちするリンファにニコライが面倒くさそうに言った。

 

 お前にテラフォーマーの雄雌区別がつくのかとか、そもそもテラフォーマーに痛覚ねーから意味ねーよとか、さっき技は絶対人間(特に男)に使うなよとか、言いたいことは色々あったが、気にしていてはキリがない。

 

「んじゃ、後は頼みましたよ。俺らはこのまま倉庫行くんで」

 

「おーらい、任された。ぐっどらっく」

 

 のんびりとしたリンファにサムズアップを返すと、ニコライ達はこの場を走り去った。それを見送ると、リンファは緩慢な動きでテラフォーマーに向かってぐいと手を突き出す。

 

「バブルこーせん」

 

 リンファがそう言うと同時、彼女の両掌に野球ボール程の大きさの泡が生成され始める。

 

 

 

 ぷくり、ぷくり、ぷくり。

 

 

 

 次々と作られた泡は順に彼女の掌を離れていき、数秒と経たずに通路を塞ぐ程の泡が空中に漂い出す。蛍光灯の光を受けて無数の泡が極彩に輝くその光景は、どこか妖しい美しさがある。

 

「何これ、シャボン玉?」

 

「綺麗でしょ……あ、でも。死にたくなかったら、触らない方がいい」

 

 相変わらず泡を出しながらリンファが告げた言葉に、ヨウは伸ばしかけたその手を慌てて引っ込めた。

 

「とりあえずヨウ、あれを倒すまで待って。それと――」

 

 ――少しの間、息を止めていてほしい。

 

 リンファはそう言うと、シャボン玉を割りながら近づいてくるテラフォーマーに目を向けた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「おらぁああああああああ!」

 

 ボーンを始めとする数人が持つ銃によって、テラフォーマーの体に次々と弾痕が刻まれていく。

 

 ――だが。

 

「っ! こ、これ以上は無理だ! 逃げろォ!」

 

 その銃撃でテラフォーマーが足を止めることはなかった。

 

 昆虫としての特徴を残す彼らの体には、痛覚がない。ゆえに、普通の人間ならば身もだえして苦しむような怪我でも、痛み故に活動に支障が生じることはありえない。

 

 対人用の雑多な銃火器でも手足の腱に傷をつけられれば、あるいは食道下頸椎を傷つけられれば、動きは止められただろう。だが銃を持つ彼らは素人であり、数人がかりでもそれを遂げることはできなかった。

 

 ゆっくりと、しかし確実に近づいてくる死。それに恐れをなし、銃で応戦していた乗組員たちは1人、また1人と銃を投げ捨てて方々へと駆け出した。

 

「くっそォ……!」

 

 ただ1人、ボーンだけは銃を撃ち続けた。今、己が銃撃を止めれば、その瞬間に誰かが死ぬだろう。自分か、向こう側で怪我をしている第6班の女性か、あるいは他の者かは分からないが――とにかく、誰かが死ぬ。

 

「認められるか……ッ!」

 

 ――母親は、金と引き換えに自分と弟をU-NASAへ売った。弟は、アネックス計画に参加するために受けたMO手術で命を落とした。

 

 いつだってそうだ、大切なものは彼の手をすり抜けてこぼれ落ちていく。どんなに手を伸ばしても――彼は、最期には必ず奪われてきた。

 

「届け、届けッ……!」

 

 彼が引き金を引き続けたのは、意地だった。

 

 母に捨てられ、弟を亡くした流れ着いた先で出会ったのは、似たような境遇の仲間たち。馬鹿な奴、無愛想な奴、喧嘩っ早い奴……誰も彼も、一筋縄ではいかない曲者ばかりだった。

 

 だが、彼らはどこまでも真っすぐで――彼らと過ごした日々は楽しかった。

 

 だからこそ、彼は誓ったのだ。失意の底で出会った、この宝石のような奇跡を。自分には勿体ない、素敵な仲間たちを決して手放さない、2度と奪わせはしないと。

 

 故に、彼は逃げなかった。例えどんなに無茶でも無謀でも――その手を届かせるためには、立ち向かわなくてはなかったから。

 

 

 

「届けぇええええええええええ!!」

 

 

 

 ボーンがあらん限りの声で叫び、そして――。

 

 

 

 

 

 

 ――カチン。

 

 

 

 

 

 

 そして無情にも、そこで銃弾は底を着いた。

 

 

 

「……は?」

 

 脳が理解を拒み、彼の指先が2度3度と引き金を引く。だが、何度試そうとも聞こえてくるのは小さな金属音ばかり。呆然と銃を見下ろすボーンの視界に、ぬぅと黒い影が映りこむ。

 

 顔を上げたボーンの目に映ったのは、無表情のテラフォーマー。全身に刻まれた弾痕から濁った体液を溢しながら、テラフォーマーはボーンを見下ろしていた。

 

 ――ああ。

 

 テラフォーマーがその両手を顔に伸ばすのをぼんやりと見つめながら、ボーンは絶望と共に呟いた。

 

「また届かなかったのか、俺は――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Non(いいえ)――確かに届きましたとも」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 諦めかけたボーンの耳に響いたのは、自らの肉が引きちぎれ骨がへし折れる音――ではなく。1人の女性の声だった。

 

「ギィイィイ!?」

 

 それと同時、ボーンの頭に手をかけていたテラフォーマーが耳障りな悲鳴を上げた。ボーンは視界の隅に、黒い甲皮で覆われたテラフォーマーの右腕に細長い何かが突き刺さっているのを捉えた。

 

「っ、じ……!」

 

 テラフォーマーはボーンの頭から手を放すと、すぐさま『それ』を振り払って天井の隅へと逃げていく。呆気にとられたようにそれを見つめるボーンに、声の主は語り掛ける。

 

「貴方が時間を稼いでくれたおかげで、乗組員は誰も死なず、貴方も傷を負わず……そして、()()()()()()()。全て全て、貴方が手繰り寄せた結果です」

 

 そう言って、その女性――カリーナは、静かな微笑みを浮かべて見せた。

 

「その勇気と覚悟に敬意を……まぁ、少しばかりクールさには欠けましたがね!」

 

 フフン、としたり顔で言い放つカリーナ。彼女の周囲には、黄緑色とも金色ともつかない極細の触手が無数に揺らめいている。それはまるで『風になびく美しい黄金の髪』とも『生を謳歌する植物の蔓』とも言えそうな、幻想的な美しさを孕んでいた。

 

「カリーナ、あんた……」

 

 マルシアの口から漏れたその言葉は、そこから先に繋がらない。彼女の内に沸き上がった疑問の数が、あまりにも多すぎたのだ。

 

 なぜ、薬もない状態で変態できたのか。

 

 なぜ、非戦闘員でしかないはずのカリーナがテラフォーマーを撃退し得たのか。

 

 そしてなぜ、肩の傷が跡形もなく消え去っているのか。

 

 

 

 肉を抉られ、大量の血を流していたはずのカリーナの肩には一切の傷がなかった――否。正確には、()()()()()()()()()()()()

 

 人為変態の原理は、一度人間の体の組織を壊し、超高速でベースとなった生物の細胞を再生させというもの。これによりMO手術の被験者は、変態に伴って骨折程度の怪我ならば直すことが可能だ。

 

 しかしそれにも限界が存在する。あまりに大きすぎる怪我は完治に至らなかったり、見かけ上は治ったとしても後遺症が残ったりする可能性があるのだ。

 

 だが、今のカリーナはどうか。先程まで失血死も危ぶまれる程の怪我を負いながら、今は平然と立ち上がっている。加えて、変態してから数秒と経たずに完治に向かう肩の傷。

 

 ――再生能力。それも、かなり強力な……!

 

 この時点でマルシアは、カリーナが嘘のベース生物を申告していたという事実に薄々感づいていた。その正体を探るべく、彼女はカリーナの肩を凝視した。

 

 おそらく、甲殻類ではないだろう。軟体動物か棘皮動物、あるいは申告通り刺胞動物か……

 

「……ごめんなさい、マルシア。色々と言いたいことはあると思いますが、今は説明してる時間がありません」

 

 カリーナのその言葉に、マルシアの意識は現実へと引き戻された。今の状況を思い出した彼女に、カリーナが告げる。

 

「他の皆さんを脱出機まで避難させてください。エンジンが破損した以上、アネックス計画はプランδに移行するはずです」

 

 カリーナが言い切ると同時、図ったかのようなタイミングで小吉の内戦通信がアネックス中に響き渡った。

 

『こちら艦長の小町小吉! 現在本艦はメインエンジンに支障をきたし、徐々に火星地表へと下降している! 本艦での安全な着陸は困難となったため、着陸プランδに移行する! 総員、直ちに脱出機格納庫まで移動すること!』

 

「……聞きましたね、マルシア? これの相手は私が請け負います! さぁ、早く!」

 

 彼女が急かすように言うが、マルシアはすぐに頷くことができなかった。

 

 現状、カリーナの振る舞いはかなりグレーだ。薬がないにも関わらず変態したことや、申告していたベースとは明らかにかけ離れたその姿。彼女が自分達に危害を加える『裏切り者』である可能性も捨てきれない。

 

 ――彼女を信じても、大丈夫なのか?

 

 数秒の間思考を巡らせた後、マルシアは口を開いた。

 

「……できるの?」

 

「当然です。私、クールビューティですから」

 

 マルシアの質問に即座に返すと、カリーナは「それに」と言いながら、眼鏡をクイと押し上げた。

 

「騙しといて言う台詞じゃありませんが……私達、親友じゃないですか。だから、()()()()()()()()()()()()()()()()――貴方の言った言葉ですよ、マルシア」

 

 至って真剣にカリーナが口にしたのは、先程マルシアがカリーナにかけた言葉。それは言いくるめるにしてはあまりに拙い言葉だったが――けれどそれを聞いた瞬間、マルシアは頷いた。

 

「……背中は任せた。絶対に通さないでよ?」

 

「誰に言ってるんですか? それより……他の皆さんのこと、お願いします」

 

「おバカ、あんたこそ誰に言ってんの?」

 

 言葉を交わした後、2人は一拍の間を置いて笑みを浮かべた。

 

「任せたわよ、親友(カリーナ)

 

「了解です。また後で会いましょう、親友(マルシア)!」

 

 カリーナの言葉に頷くと、マルシアはすぐに行動に移った。彼女はボーンを我に立ち返らせると、きびきびと乗組員たちをまとめ上げると、彼らを連れて広間を出ていく。

 

「さて……テラフォーマー、貴方に言っておきたいことが2つあります」

 

 天井から己を見下ろすテラフォーマーから目を離さず、カリーナが言う。

 

「1つ、攻撃に転じた私の特性は()()()()()()()()()()()()()。他の5人なら一撃で屠ることもできるでしょうが……私と戦うなら、楽に死ねるとは思わないでください」

 

 瞬間、テラフォーマーが動いた。彼は天井から手を放すと、自由落下に任せてカリーナへと飛び掛かる。

 それを見たカリーナは面倒くさそうにため息を吐くと、それを避ける様子も見せず、ただ静かに呟いた。

 

 

 

「2つ目ですが――時間切れ(タイムオーバー)です。よい苦悶を」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「くっそ……! まさか、倉庫までテラフォーマーが入り込んでやがるなんて……!」」

 

 走りながら燈は悪態を吐いた。食いしばった歯がぎりッと音を立て、握りしめた手に血管が浮き上がる。

 

 ――燈たちが向かった、変態用の薬が保管されている倉庫。そこには既に、テラフォーマーが侵入していた。

 

 テラフォーマーたちは燈たちには見向きもせず、変態用の薬を破壊し続ける。ニコライがそれを止めようとしたところで、小吉が倉庫へと現れた。

 

『よく真っ先にここに来た、勇敢だったぞお前ら――後は任せろ』

 

 彼はそう言うと、燈たちを脱出機格納庫へと向かわせた。変態したニコライに、2人のことを任せて。歯がゆい思いをしながらも薬を持たない燈達にできることはなく、やむなく薬品倉庫をあとにした――というのが、今までの経緯である。

 

「とんだ無駄足だった! これじゃあ、俺達は何のために……!」

 

「落ち着けって、燈。四の五の言っててもしょーがねぇだろ?」

 

 悔しそうにつぶやく燈を、マルコスがたしなめる。それに便乗して、ニコライも「そーそー」と口を開いた。

 

「倉庫に向かうって判断は間違ってませんでしたよ。今回はたまたま運がなかっただけ――心配すんな、オフィサーも俺の仲間も動いてるし、死人の情報も今のところは言ってない。だから――おっ?」

 

 そこまで言った所で、ニコライが突然足を止めた。それに倣って足を止めて燈たちを振り返ると、ニコライはニッと笑みを浮かべて『それ』を指さした。

 

「……無駄足ついでだ、お2人さん。ちょいと寄り道しましょうや」

 

 彼の指さす先には、『W』の文字が刻まれた倉庫の扉。それが意味するのは――

 

「武器庫……専用武器か!」

 

 マルコスが思い出したように叫んだ。

 

 

 

 アネックス計画に大規模な兵器や武器の類を持ち込むことは、原則禁止されている。

 

 それは兵器をテラフォーマーに奪われた場合のリスクが、兵器を使うリターンを上回ることがその理由なのだが――これには、例外が存在する。

 

 それこそが、“専用武器”。

 

 マーズランキング15位以内の者に限り、『テラフォーマーに奪われてもあまり脅威とならない』ことを前提として、自らの技術か特性を最大限に活かすための『武器』を持ち込むことが許可されている。

 

「俺の専用武器は背中のパックに入ってる、けど――」

 

「ああ、俺の武器はこん中だ」

 

 マルコスの言葉に、燈は頷いた。

 

 多くの専用武器は、丁度今のような非常事態が発生しても持ち出すことができるように、背中のパックへと収納されている。しかし中にはその大きさ故に背中のパックに収納することができず、武器庫へと保管されているものがある。

 

 燈の専用武器も、武器庫にしまわれている専用武器の1つ。これを回収できれば、彼の実力もより強く発揮できるはずだ。

 

「そういうことでさ。アネックスが墜落するまでまだ少しばかり余裕があるんで、回収しちまいましょう。わりーがお前さんら、少し周り見張っててくれ」

 

 ニコライは言いながら、袖口からコードのような物を伸ばして扉の電子ロック盤へと繋いだ。

 

「あん? 随分ガチガチのセキュリティだな、オイ」

 

 まるで実際にプログラムを見ているかのような口調で、ニコライが言う。手元を動かしている様子はなく、何かの端末や装置を操作する素振りも見せない。ただ彼の双眸は、じっと電子盤を見つめていた。

 

「武器庫ってのはどこもこんなもんなのか? ったく、面倒くせープログラム組みやがって……だが、相手が悪かったな」

 

 ニコライが言うと同時にピーと電子音がなり、扉がゆっくりと開き始めた。ニコライはコードを引き抜くと、深く息を吐く。

 

「俺も俺の特性(あいぼう)も、こういうのにはめっぽう強いんでね。ほれ、入りますよ2人とも」

 

「あ、ああ……」

 

 不可解な手法で電子ロックをこじ開けたニコライに面食らいながら、燈とマルコスは武器庫へと足を踏み入れた。途端、自動で明かりが部屋に灯り、様々な武器が収められた室内を照らし出す。

 

「あんたの武器がどこにあるかはご存じで? あんまり探してる時間はねーから、せめてどのあたりにしまってあるかの目星がつくだけでもいいんですが」

 

「どこにしまってあるのかは知らない……ただ」

 

 ニコライの言葉に首を振ってから、燈は歩き出した。言葉とは裏腹に、その足取りには迷いがなかった。

 

()()()()()()()()()()()

 

 そう言って燈は、部屋の一画にあったロッカーを開けた。果たしてそこには、燈の専用武器である忍者刀が収められていた。

 

「お、ナイス。もうちょい時間がかかると思ってました」

 

 そう言ってニコライが口笛を吹く。その手には、物々しい金属製のレガースが握られていた。

 

「オイ、それって……?」

 

「ああ、これはドイツの……いや、お前さんは音楽関係で顔見知りでしたね。イザベラの専用武器ですよ。俺達の仲間にゃドイツ班の奴もいるんで、そいつ経由で渡してもらおうと思いましてね」

 

 ニコライはマルコスの言葉にそう返すと手近な袋にレガースを包み、ざっと周囲を見渡してから踵を返した。

 

「んじゃ、行きましょうか。もうここには、必要なモンもありませんしね。階段はすぐそこ、早いとこ他の奴らと――ッ!?」

 

 部屋を出たニコライは、通路の向こう側を見てその足を止めた。彼の視線の先、こちらに向かって歩いてくるのは1匹のテラフォーマーだった。

 

 ――もうこんなとこまで来やがったか。

 

 ニコライは舌打ちをして、背後の燈とマルコスに声をかける。

 

「向こうからテラフォーマーが来てる。数は1匹、俺が相手しときます。そのうちに、階段を使って脱出機まで――」

 

「いや、無理だ」

 

 しかし彼の言葉は、言い切る前に燈に遮られた。ニコライは怪訝そうな表情を浮かべ――直後、彼の背中を悪寒が這いずる。

 

「ッ! おい、まさか……ッ!?」

 

 慌てて振り向いたニコライの目に映った光景。それを認識した瞬間、ニコライは己の嫌な予感が的中したことを悟る。

 

「じょうじ」

 

 ニコライ達の背後――今まさに燈たちを向かわせようとしていた階段から、別のテラフォーマーが棍棒を携えて姿を現したのだ。

 

「マジかよ、クソッたれ……!」

 

 ゆっくりと追い詰めるように近づいてくる2匹のテラフォーマー。それを見たニコライは悪態をつきながら、己の『専用武器』を起動した。瞬間、彼の思考が加速する。

 

 

 

 自分が2匹を同時に相手どり、その間に2人を階段に向かわせる――成功率76%。1匹と交戦している間に、2人の内のどちらかが殺される危険性有り。

 

 1匹の相手を膝丸燈に任せる――成功率64%。投薬なしの変態状態で、燈がテラフォーマーに勝てるか否かは未知数。

 

 2人を武器庫に匿い、自分が2匹のテラフォーマーと交戦する――成功率93%。多少時間がかかるが、最もリスクは低い。

 

 

 

 ニューロンが高速で回転し、彼の脳内を一瞬にして計算が埋め尽くす。およそ1秒にも満たない刹那の後、ニコライは燈たちに武器庫の中へと引き返させようと口を開き――指示を口にするその瞬間。

 

 変態に伴って常人よりも鋭敏化した彼の聴覚は、その音を捕らえた。

 

「――っ! お前ら、ここは任せて階段まで走れっ!」

 

 喉元まで出かかっていた言葉を撤回し、ニコライが叫んだ。それを聞いた燈は、思わず眼を見開いて反論する。

 

「おい、無茶だ! いくらなんでも、この狭い通路で俺達を守りながら2対1じゃ――」

 

「問題ねえ」

 

 燈の言葉を遮り、ニコライはその顔に笑みを浮かべた。

 

 

 

()()()()()()2()()2()()

 

 

 

 その瞬間――階段から1人の人間が飛び出した。

 

「オラァッ!」

 

 その人物はテラフォーマーへと駆け寄ると、勢いのまま足を振り抜いた。それを感覚器である尾葉によって察知したテラフォーマーは、それを受け止めようと振り向きざまに棍棒を横に構える。

 

「じっ……!?」

 

 しかしその直後、襲撃者の蹴りを受け止めた棍棒は、あまりにも呆気なく砕け散る。その体は防御ごと吹き飛ばされ、燈やマルコス、ニコライすらも飛び越して、その向こうに転がった。

 バラバラと音を立て、数秒前まで棍棒だったものが床の上に転がる。

 

「やっと追いついたぜ、ゴキブリ野郎……ちょこまか逃げ回りやがって」

 

 苛立たし気に吐き捨てたその人物に、燈とマルコスが驚愕を顔に浮かべた。

 

「大河!?」

 

「おう、燈にマルコスか。その様子を見る限り、無事みてぇだな?」

 

 そう言って襲撃者――東堂大河はゴキリと首の骨を鳴らした。どうやら彼も変態済みのようで、腕からはスーツを突き破って何かの顎か牙を思わせる刃が、額には昆虫のものではない触角が複数生えている。

 

 だが、最大の特徴はそこではない。

 

「大河――お前、いつ髪染めたんだ?」

 

「あん? ああ、これか。ベースの関係でな。完全に変態するとこうなるんだよ」

 

 一番目立つ変化は、彼のリーゼントが黒色から金色へと変わっていたことだった。これまでは黄色中心の配色だった体も、非完全変態の枷を外された今は金色に変化している。

 

「どうだ、イカすだろ?」

 

「そ、そうだな……」

 

 何とも言えない表情で、言葉尻を濁しながら返事を返した燈。大河はそんな彼らとニコライ、そして2匹のテラフォーマーを交互に見やると、獰猛な笑みを顔に浮かべる。

 

「なるほど……とりあえず、状況は把握したぜ。そこのゴキブリ2匹は、俺とニコライで潰しとく。お前らはこのまま、そこの階段で脱出機まで行け」

 

「……大丈夫、なのか?」

 

 燈の言葉に、大河は「おうよ」と頷く。

 

「何を心配してんのかはわかんねーが……俺らのことなら問題ねえ。薄々気付いてると思うが、俺らはかなり強いからな」

 

「おっと、経路の心配も要りませんよ。こっから先、生きたテラフォーマーに遭う可能性はかなり低い」

 

 大河の言葉に、ニコライが続ける。

 

「脱出機の格納庫には、アドルフ班長があてがわれてる。あの人なら、ただのテラフォーマー如きに遅れは取らねーはずです。そんでもって、そこに通じる階段も問題ない。なんたって――」

 

 そして2人は声を揃え、確信を持った口調で断言した。

 

 

 

 

 

 

 

「「階段守ってんのは、我らが指揮官殿だからな」」

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ――アネックス1F、階段前。

 

 そこにいたのは、1匹のテラフォーマーだった。

 

 20年前、旧バグズ2号の乗組員であるミンミン・リー両名が交戦したのと同じ、力士型のテラフォーマー。幼少時からの動物性タンパク質の接種によって作り上げられたその肉体は、強靭にして頑強。攻撃に転じればその一撃は速く重く、防御に回れば甲皮も合わせ並大抵の物理攻撃は通さない。

 

 言うまでもなく、その戦闘力は通常の個体の比ではない。ミッシェルと共にアネックス1号の副艦長を務めるミンミンや、小吉に並ぶ戦闘力の持ち主であるリーでさえ、当時は仲間の協力なくして勝つことは敵わなかった存在。

 

 

 

 ――その力士型が今、体の何か所かに穿たれた穴から体液を垂れ流しながら、床の上に倒れ伏していた。

 

 

 

「どうした、その程度か?」

 

 頭上から響いたその声に、力士型は顔を上げる。彼はその視線の先、ある階段の踊り場に、己を叩きのめした人間の姿を認める。

 

 

 

 潜入員(サイドアーム)指揮官、バスティアン・フリーダー。

 

 

 

 彼は腕に生えた針――形状的には『杭』と表現するのが的確かもしれない――にこびり付いたテラフォーマーの体液を払い落し、静かに口を開いた。

 

「筋力に瞬発力、持久力……なるほど、どれも一級品だ。相当鍛えたんだろうな、甲殻型でもなければ、お前の攻撃を受ければ一撃で戦闘不能になる」

 

 そう言って、バスティアンは階段を降り始めた。

 

「だが、()()()()()()()()

 

「じょ……ッ!」

 

 徐々に近づいてくる人間を迎撃するため、それを見た力士型は立ち上がる……だが、体が思うように動かない。踏みしめたはずの足はふらつき、握りしめた拳は彼の意思に反して弛緩する。

 

「打たないのか? もう目の前だぞ?」

 

「――!」

 

 目の前に立ったバスティアンに、力士型は剛腕を振るった。力が入らないとはいえ、その一撃はまともに受ければ人間ならば一撃で粉々になる威力。

 しかしバスティアンは体の軸をずらすだけで、それをほとんど動かずにかわしてみせた。

 

「隙が大きすぎる。よく見ておけ……拳はこうやって打つ」

 

 そう言うと、バスティアンは無防備になった力士型の胴体に拳を放った。腕から生えた杭が力士型の体に新たな穴を穿つ。そこから流し込まれた物体に力士型は体を大きく痙攣させると、膝を折った。

 

「む、思った以上に頑丈だな。クローンならとっくに死んでる量を打ち込んだはずだが……」

 

 それを見たバスティアンが思わず感心の声を上げたその時、彼の襟に取り付けた通信機が慌ただしく艦内からの声を運んできた。

 

 

 

『こちら『シンデレラ』! Sエリアのテラフォーマー、討伐完了っ! とりあえず、逃げ遅れた乗組員はこのエリアにはいないみたいだね』

 

『こちら『マーメイド』、私もゴキブリを1体やっつけた。途中で会った劉さんにヨウは押し付けたから、今は1人でパトロールなう。ところで……確かゴキブリって食べれたよね?』

 

『衛生上、止めておいた方が賢明かと。こちら『ラプンツェル』、クルー居住区内に侵入したテラフォーマーをクールに無力化――って、あぁっ!? こら、『マーメイド』! 言ってる側から嫌な咀嚼音を立てないでください!? せめて火を――!?』

 

『相変わらず緊張感のねー奴らですね……こちら『ノースウィンド』、俺も1匹仕留めたぜ。獲れたてホヤホヤ、新鮮な死体を丸ごと先着1名様にお届けだ』

 

『おう、『ゴールドアックス』、1匹討伐。このエリアにも逃げ遅れた奴はいねーみたいだな。で、こっから俺達はどーすりゃいい、『ゴルゴン』?』

 

 

 

「む、先を越されたか……こちら『ゴルゴン』、状況了解。全員、逃げ遅れた者がいないか確認しつつ、直ちに脱出機格納庫まで向かってくれ。俺もすぐに向かう、オールオーバー」

 

 通信機の向こう側の仲間にそう返すと、バスティアンは再び力士型を見下ろした。

 

「では、そろそろ終わりにしよう。何しろこれから、お前のデカい体を担いで最上階の格納庫まで行かなきゃならないからな。ついでだ、冥土の土産に敗因を教えてやろう」

 

 まるで殺虫剤を浴びたゴキブリのように床の上でじたばたともがく力士型に、バスティアンが語り掛けた。

 

「お前は(にんげん)を嘗めすぎた」

 

「じょ、じょう……!」

 

 力士型はその体を起こそうと、手足に渾身の力を込めた。だが、立てない。まるで見えない何かに力を吸い取られているかのように、力んだ側から自慢の筋肉から力が抜けていく。

 

「地力で劣る俺達なら、力押しで何とかできると思ったか? 笑わせるな、戦いはそんな単純なものじゃない。技術、信念、一緒に戦う仲間……どれか1つでも妥協すれば、その瞬間にそいつは敗ける」

 

 バスティアンはそう言って目を細めた。

 

「お前に磨き上げた技術があるか? 死んでも貫き通したい信念があるか? 命を賭しても守りたい仲間がいるか? それがお前の――テラフォーマー(お前達)の敗因だ」

 

 眼前の人間から逃れようと、力士型が後ずさった。しかしそれすらも許さないとばかりに、バスティアンは力士型の足を踏みつけて、力士型の巨体をその場に釘付けにする。

 

「俺達には磨き続けた技術がある。譲れない想いがある。背中を預けられる仲間がいる。だから、俺達はここにいる」

 

 瞬間、力士型の体が微かに硬直した。気圧されたのだ、バスティアンの眼光に。それは久しく、彼らが忘れていた感覚――即ち『敵に捕食される』という、原初の記憶。

 

 最期を迎える直前、彼はそれをその身で以て思い出した。

 

 

 

「覚えておけ、テラフォーマー。例え数で劣ろうと、地力で負けようと……最後に勝つのは、人間(俺達)だ」

 

 

 

 そして次の瞬間、力士型の視界は闇に覆われた。

 

 

 




【オマケ】希望の生物 潜入員編(手術前)

※アーク計画実働部隊に勧誘されるのは戦闘向きの生物に適合する者だが、戦闘向きのベースが複数適合する場合、ある程度選ぶことができる。


大河「ベースの希望? ぶっちゃけ何でもいいが……あ、できれば虎にしてくれ。名前的に気に入ってんだ」

キャロル「アタシは癒し系か可愛い系の生き物で! 任務中は皆の心が荒れると思うから、動物セラピーの真似事ができるといいなー」

ニコライ「ナスチャの好み的に、なるべく機械みたいな奴の方が……待て、冗談だ。おい、そのニヤニヤ顔を止めろ!?」
※アナスタシアの好みのタイプ:心というの名バグを負ったアンドロイド(公式プロフィールより)

リンファ「ニワトリ一択。卵焼き、茹で卵、プリンにケーキ……毎日卵食べ放題、夢が広がる。じゅるッ……だめなら、何でもいいからお腹いっぱいになる奴」

バスティアン「ふむ……可能であれば、肉弾戦ができる生物を頼む。うちの班はどうにも、肉体派が少ないようだからな」

カリーナ「何とは言いませんが、 ク ーーー ル な 生物をお願いしますよ! 何といっても私は ク ー ル ビ ュ テ ィ ですからねぇ! 私のようなクー(略)」



※ベース生物予想、お待ちしています!(ネタバレの都合上、当たっても外れてもはぐらかすと思いますが) 
 感想欄で具体的な生物の名前を出すのが気が引ける場合、メッセージにてどうぞ……





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第36話-【A】 STARTING SURVIVE 始動 

 

 アネックス最上階にある脱出機格納庫の前は、テラフォーマーから逃れた乗組員たちでごった返していた。

 

「お、おい! 前の方、何やってんだ!?」

 

「は、早く進んでくれ!」

 

 ――当然ながら、この場にいる乗組員たちは全員が生身。今襲われれば抵抗できない、という恐怖に駆り立てられ集団のあちらこちらから切羽詰まった声が上がる。

 

「く、くそっ! こんな状態でゴキブリなんかが襲って来たら……!」

 

 特に、最後尾にいる者たちは気が気ではない。その中の1人が、心配そうな表情で背後を振り返り――

 

 

 

「うっ、うわああああああ!?」

 

 

 

 ――そして、悲鳴を上げた。

 

 つられて他の乗組員たちも彼の視線の先へと目をやり、同じように言葉にならない叫び声を上げる。

 

 ――彼らの目に映ったのは、やはりテラフォーマーだった。その全身は見えないものの、階段の下から特徴的な頭部と触角が見え始めている。

 

「て、テラフォーマー!? クソッ、もうこんなところ、に……?」

 

 乗組員の1人が悪態をつき……しかしその途中で、何かがおかしいことに気が付いた。

 

 テラフォーマーの動きが、不自然なのだ。確実へこちらへと近づいてきているはずなのに、生物が体を動かす際に見せる筋肉の動きがない。それに、よく見るとその目はあらぬ方向を向いており――やがてその全容が露になった瞬間、最後尾にいた乗組員たちは目を丸くした。

 

「……あれ、もしかして驚かせちゃったかな?」

 

 そう呟いたのは、豊かな髭の男性――第4班の副班長の片割れである(リュウ) 翊武(イーウ)だった。

 

「いや、ごめんねぇ。僕、身長が高いから普通に持ってもかなりの高さになっちゃうんだよね」

 

 彼は呑気な声で言いながら、その手に掴んでいた“外傷のないテラフォーマーの死体”を投げ捨てる。それから彼は反対の手で、思わず息を吞んだ乗組員の肩をポンと叩いた。

 

「まぁでも、心配ご無用! 直にオフィサーの皆さんが、パパッと片付けてこっちに来てくれるし――」

 

 ずれた眼鏡の位置を直すと、劉はその顔にニヤリと笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

「――御覧の通り、()()()()()()()何匹か仕留めてきましたから」

 

 

 

 

 

 劉がそう言うと同時、彼の背後にある階段から新たに2つの人影が姿を現した。

 

 

 

 

 

「みんな、怪我はない?」

 

 階段を上りきるや否や乗組員たちに声をかけたのは、第1班の副班長である小町奈々緒。年齢相応の大人っぽさと、年齢を感じさせない若々しさという矛盾した美しさを纏った彼女は、“首に何かで絞め付けた様な跡が残るテラフォーマーの死体”を肩に担いでいる。

 

 

 

「小吉達より、俺たちの方が早かったみたいだな」

 

 周囲をひとしきり見渡して呟いたのは、もう1人の第4班副班長であるティン。顎髭を薄く生やした顔には無数の傷跡。その出で立ちはまさしく歴戦の戦士といった様子だ。逞しい手には“頭部が粉砕されたテラフォーマーの死体”が握られている。

 

「お、おおッ……!」

 

 自分達が恐れていたテラフォーマーを、あっさりと無力化した。

 

 その事実に、乗組員たちがどよめく。副班長達の背後から、途中で保護したと思しき乗組員たちがぞろぞろと現れたのを見て、それは更に大きなものへと変わっていく。

 

「ほら皆、ぼうっとしない!」

 

 テラフォーマーの死体を放り捨てた奈々緒が手をパンパンと叩くと、立ち尽くす乗組員たちに指示を出す。

 

「全員、格納庫の中に入ったら班ごとに整列! 欠員・負傷者・体調不良者がいたら、すぐに私達か各班の班長に報告すること! ハイ、行動開始!」

 

「りょ、了解ッ!」

 

 彼女の言葉に乗組員たちは我に返り、再び行動を開始する。先程の様に乱れた動きではなく今度は落ち着いて、それでいて素早く、乗組員たちは格納庫の中へと入っていく。それを見て、劉が感嘆の声を漏らす

 

「いやー、さすが小町副班長。夫婦そろって大したもんだ……僕にゃ真似できませんね、これは」

 

「劉、あんたそれ褒めてんの?」

 

 ジトッとした目で奈々緒に睨まれ、「勿論ですよ」と劉は肩をすくめて見せた。

 

「こんないい奥さんに巡り合えて、艦長ってば幸せ者だなぁ。いっつも飲み会で自慢されますよ、『奈々緒は自慢のカミさんだー』って!」

 

「そ、そうか……照れるな」

 

「ちなみに他にも『ああ見えて夜は凄い』とか『喧嘩になるとスズメバチでも勝てないカイコガ』とか色々と聞いてます。いやー、色々と頼もしい!」

 

「よし、あいつ後でしばく」

 

 目つきの変わった奈々緒を眺めながら、劉が愉快気に笑う。そんな2人の様子にそっとため息を吐くと、ティンはそれとなく話を本筋に戻した。

 

「それより劉、この艦が墜落するまでどれくらいかかる?」

 

「うん? この速度だと……」

 

 ティンの言葉を受け、劉は指を折って何かを数えてから口を開いた。

 

「ざっと40分ってとこですかね? 艦長達がどれくらいかかるか分からないけど……まぁ20分もあれば脱出まで完了するでしょ」

 

「……意外に余裕があるな」

 

 感心したように声を上げる奈々緒に、「そりゃ、第4班(ウチ)の誇るエンジニアたちが整備してますから」と劉は親指を立てた。

 

「これくらいできなきゃ嘘ってもんです……さ、僕らも中に入りましょう」

 

 劉の言葉にティンと奈々緒が頷き、3人は乗組員たちのあとに続いて格納庫の扉を潜り抜ける。

 

 中へ入った3人の目にまず映ったのは、等間隔で六方に設けられたシャッターだ。これは、プランδの発動時に使われる『高速脱出機』へと続く入り口。それが破られていないことを確認して、ティンは安堵の息を吐いた。

 

 次いで彼らが目にしたものは“全身に熱傷を負い、口や目から煙を立ち昇らせるテラフォーマーの死体”を傍らで見下ろす、コートの襟で口元を隠した青年だった。

 

「ああ……3人とも無事でしたか」

 

 ――ドイツ・南米第5班班長、アドルフ・ラインハルト。

 

 乗組員たちにとっての命綱である脱出機の護衛。それを一手に引き受けていた彼は、3人の副班長をそんな言葉で出迎えた。

 

「先程、艦長から通信が入りました。他のオフィサー達と共にこちらへ向かっているそうです。もう間もなく到着するかと」

 

 アドルフがそう言い終えたタイミングで、奈々緒たちの背後の扉が音を立てて開き、そこから5人の人間が次々と格納庫の中へと入ってきた。

 

 

 

「すまない、待たせたな」

 

 ――アネックス1号艦長兼日米合同第1班班長、小町小吉。

 

 その腕に握られているのは、“全身に穴を穿たれ、口から泡を吹いて息絶えたテラフォーマーの死体”。

 

 

 

「フン……」

 

 その後に続くのは、アネックス1号副艦長にして日米合同第2班班長であるミッシェル・K・デイヴス。

 

 その腕に握られているのは、“まるで至近距離で爆撃を受けたかの如く損壊したテラフォーマーの死体”。

 

 

 

「お? パニクッてるかと思えば……意外と冷静じゃねえか。感心感心」

 

 焦りを感じない――否。この状況をどこか楽しんでいるような余裕さえ感じられる口調でそう言ったのは、ロシア・北欧第3班班長であるシルヴェスター・アシモフ。

 

 その腕に握られているのは、“全身に拳の跡が刻まれ、首があらぬ方向へと折れ曲がったテラフォーマーの死体”。

 

 

 

「まだ時間はあるけど……脱出は急いだ方がいいな、これは」

 

 アシモフと対照的に冷静な声で呟いたのは、ミッシェルと同じアネックス1号の副艦長にして、中国・アジア第4班班長である(チョウ) 明明(ミンミン)

 

 バグズ2号時代に失った右腕に取り付けられた義手に握られているのは、“全身を鋭利な刃物でめった刺しにされたかのようなテラフォーマーの死体”。

 

 

 

「安心してくれ、皆! 俺達が来たからにはもう大丈夫!」

 

 不安げな乗組員たちに優しい口調で声をかけたのは、ヨーロッパ・アフリカ第6班班長、ジョセフ・G・ニュートン。

 

 その手に握られているのは、“恐ろしいほど滑らかな切り口で縦に両断されたテラフォーマーの死体”。

 

 

 

「つ、強い……」

 

 集まった乗組員たちの中、無意識に百合子の口からそんな言葉が漏れる。

 

 ――彼女と燈が幼少期を過ごした孤児院は『膝丸真眼流』という古流武術の道場でもあった。燈以外に習っている者もほとんどいない寂れた流派だが、その『体得者』はまさに百戦錬磨の強者というにふさわしい実力と風格を持っていた。

 

 そんな彼らと日常的に触れ合っていたからこそ、百合子は瞬時にオフィサー達(彼ら)の実力を理解した。百合子自身は言うに及ばず、生身で熊と戦えるだけの戦闘力を誇る燈や、人間より優れた身体能力を持つテラフォーマーですら、その実力は彼らの足元にも及ばない。

 

 

「えー、色々言いたいこともあると思うが……この通りだ」

 

 鷲掴みにしたテラフォーマーの死体を乗組員たちに見せつけながら、アシモフは泰然とした様子で声を張り上げる。

 

「小町艦長より作戦の説明がある! 全員そのまま、静聴!」

 

 格納庫に響いた雷のようなその声に、乗組員たちは思わず背筋を正した。水面を打ったような静けさの中、小吉が口を開いた。

 

「これより緊急着陸プランδに則り、本艦からの脱出を開始する!」

 

 そう言って、小吉は『プランδ』の内容を端的に乗組員たちへと伝える。

 

 ――班ごとに6機の脱出機に分乗し、墜落しつつあるアネックス本艦を脱出すること。

 

 ――テラフォーマーの襲撃のリスクを分散するため、脱出機はそれぞれ別の方向に射出されること。

 

 ――着陸後は、無線で連絡を取り合いながら速やかにサンプルの確保を行うこと。

 

「合流までに各班でサンプルを既定量確保することが好ましいが……脱出機に積んである薬は数が少ない。不必要な戦闘は避け、生存と他班との合流を最優先に行動しろ! いいな!?」

 

「「「はい!」」」

 

 乗組員たちから返ってきた声に頷くと、小吉は壁に取り付けてあるボタンを押す。同時に彼らを取り囲む6つのシャッターが開き、格納庫へと続く通路が顔を出す。それを見た小吉が指示を出そうとしたその時、1班の列から慌てた様な声が上がった。

 

「ま、待ってくれ、艦長!」

 

 声の主は、マルコスだった。周囲の乗組員たちの視線を一身に浴びながら、マルコスが続ける。

 

「大河の奴がまだ来てない! このまま置いてく訳にはいかねえ!」

 

「ミッシェルさん、キャロルもだ!」 

 

 彼の言葉に追随して、今度は2班の隊列の最前に立つ燈が声を上げた。

 

「俺達を逃がすために、Sエリアでテラフォーマーと戦ってる! それに2人だけじゃない、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

「なっ……!?」

 

 ミッシェルの顔に動揺と困惑の色が浮かぶ。一方で隣に立つ小吉は、まるでこの事態を予期していたかのように、落ち着いた様子で乗組員たちへと指示を飛ばす。

 

「各班、すぐに点呼! 欠員を確認したら、班長まで報告を!」

 

 彼の言葉を受け、すぐに乗組員たちはすぐさま自班の顔ぶれを確認し始める。間もなくそれを終えると、彼らは己の班長の下へと駆け寄った。

 

 

 

 

「小吉。私達の班は、大河君以外は全員そろってる」

 

「……ああ、分かった」

 

 

 

「ミッシェルさん、俺達の班でいないのはキャロルだけだ!」

 

「くそっ、どうなってやがる……!?」

 

 

 

「隊長……ニコライが、いません」

 

「あァ?」

 

 

 

「ミンミン班長、僕らのとこは――」

 

「どうやら……リンファがいないみたいだな」

 

 

 

「ジョセフ班長! カリーナが、まだクルー居住区に……!」

 

「そうらしいね……これはマズいな」

 

 

 

 次々と上がる報告に、格納庫の中に困惑と不安が満ちていく。今この場にいない者はゴキブリに殺されたのか? それとも逃げ遅れたのか? あるいは、戦っているのか?

 

「アドルフ班長っ!」

 

 情報が錯綜する中、隊列の合間を縫ってエヴァがアドルフの前へと飛び出した。

 

「バ、バスティアンさんがいません! も、もしかしたら、ゴキブリに――」

 

 今にも泣きだしそうな声で続けようとするエヴァ。アドルフはそんな彼女の頭に右手を乗せてそれを遮ると、袖口に仕込んだ薬を取り出した。

 

「……艦長、他の乗組員たちを連れて脱出機で待機を。その間に俺が――」

 

「いや、その必要はない」

 

 アドルフの言葉を遮って小吉が告げたのは、実に彼らしくない台詞だった。その言葉に多くの乗組員たちがどよめき、隣に立つ奈々緒がぎょっとしたように小吉を見つめた。

 

「……部下を見捨てろと?」

 

 アドルフが小吉に言う。アドルフをよく知る者ならば、今の彼の言葉には非難と怒りが混ぜ込まれていたことに気が付くだろう。

 

 無論、小吉もアドルフを良く知る人物の一人。彼は誤解を解くために「違う」と断言して首を横に振った。

 

「本当に()()()()()()()。そいつらなら、自力でここまで来るはず……そうじゃないと意味がないからな」

 

「? 何を――」

 

 アドルフが言いかけたその時、格納庫の入り口の扉が再び音を立てて開いた。この場に集まった乗組員たちの中に扉の近くに立っていた者はいない。即ち扉は()()()()()()()()()()()()()

 

「――ッ!」

 

 音を聞いた時点である可能性に思い至り、燈の背をゾッと悪寒が這う。頭から抜け落ちていたが、艦内に侵入したテラフォーマーの数は全部で15匹。オフィサーと副班長が確実に仕留めたテラフォーマーの数は9匹。

 

 つまり、()()6()()()()()()()

 

「――!」

 

 薬を持っている幹部たちは入り口から離れた場所に集まり、自分達はそちらの方向へと体を向けている。つまり自分達は今、いつテラフォーマーが来るとも分からない通路へと無防備な背中をさらしている状態だ。

 

「まずい――ッ!」

 

 幹部を除けば、おそらくその反応は誰よりも速かっただろう。すぐさま体を反転させた彼は、腰に下げた己の専用武器の柄へと手をかけ――そして、予想とは違ったその光景に動きを止めた。

 

 扉を潜り抜けて入ってきたのは、テラフォーマー――ではなく、6人の乗組員たちだった。男性と女性が3人ずつ、計6人。整然とした足取りで歩くその姿は、凱旋を果たした騎士団のそれを彷彿とさせる。

 

「あ、え……?」

 

「な、何で……?」

 

 遅れて振り向いた乗組員たちも、その多くが自分の目に映ったものが信じられずに愕然と立ち尽くす。避難の間際、彼らが戦う姿を見ていた乗組員たちでさえ、何も言えずに息を吞んだ。

 

 

 

 ――ほとんどの乗組員たちは、彼らの内の誰かのことは『知っていた』。

 

 

 

 ある者は友として、ある者は相談相手として、ある者は頼れるリーダーとして……彼らという人間を、その人柄を知っていた。

 

 だが今この瞬間まで、乗組員は誰も……あるいは、事前に事情を知らされていた小吉でさえ、知らなかった。

 

 彼らがこの瞬間まで隠していた、本当の実力を。

 

「なるほどな……クロード博士の言ってた『潜入員』ってのは、お前らだったか」

 

 そう言って小吉は、乗組員たちの視線を浴びながら立ち並んだ6人を見つめた。

 

 

 

「少し遅れちまったか」

 

 開口一番にそう言って、東堂大河は乗組員たちを見渡した。既に彼のリーゼントは元の黒色へと戻っており、破れた隊服の袖以外に変態の痕跡は残っていない。

 

「だが、見ての通りだ。艦内に侵入した残りのゴキブリは、俺達で仕留めといたぜ」

 

 そう言って大河は笑うと、その手の中にあった物を乗組員たちに見せつけるように持ち上げた。

 

 それは“上半身だけになったテラフォーマーの死体”だった。右肩から左脇にかけて両断された、ジョセフと同じ斬殺死体。しかしその切り口はジョセフのように鋭利に切断されたものとは違って粗く、むしろ鋸のような刃物で『引き裂かれた』ような印象を与える。

 

 

 

「よかったぁ……みんな無事みたいだね」

 

 キャロル・ラヴロックはほっと安堵の息を吐くと、日焼けしたその顔にいつも通りの柔らかく、それでいて明るい笑みを浮かべた。

 

 そんな彼女が腕に持っているのは、『何かの結晶が胸に突き立てられたテラフォーマーの死体』。遠目にはガラスのようにも見える円錐状のそれは、テラフォーマーの急所である食道下神経節を正確に貫いていた。

 

「あー……ところで皆」

 

 ――だが、彼女へと向けられた視線が集まっているのは、彼女が持つ死体ではなかった。

 

「あ、あんまりじーっと見ないでほしいなぁ……いや、気持ちは分かるんだけど。その……凄く恥ずかしいんだ、これ」

 

 キャロルは仄かに頬を赤らめると、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、そっとテラフォーマーの死体を自分の体の前へと抱え上げた。

 

 

 

「なるほどね……」

 

 ニコライ・ヴィノグラードは素早く視線を巡らし、乗組員たちの様子を観察する。

 

 ――この状況そのものに混乱してる奴らが6割、俺らが『何』なのか分からず困惑してんのが2割、こっちの出方を待ってるのが1割……。

 

「でもって、ごく一部が敵意寄りの警戒ね」

 

 ニコライが目を向けた先には、彼の所属するロシア班の班員たち。

 

 理解が追いつかずに固まっているイワンを除き、彼らは自然体を装いながらも既に戦闘態勢に移行している。おそらくアシモフの号令さえあれば、すぐにでも自分は10人近い軍人に強襲されることになるのだろう。

 

「こうなんねーようにムードメーカーを気取ってみたんだが……やっぱダメか。ま、こんなもん持ってる時点でアウトだよな、そりゃ」

 

 そう言って肩を落とした彼の手には、“喉に空いた穴から煙を噴き上げるテラフォーマーの死体”。抉られたようにも、焼き熔かされたようにも見えるそこからは、焦げ付いたテラフォーマーの体内がチラリと覗いている。

 

「ったく、メンドくせーなぁ。どーしたもんか」

 

 ニコライはそう言うと、わしゃわしゃと己の頭を掻いた。

 

 

 

「……あ、(ホン)

 

 (フー) 鈴花(リンファ)は乗組員たちの中に友人の姿を見つけると、隊列などお構いなしと言った様子で彼女の下へと駆け寄った。

 

「大丈夫? 怪我はない?」

 

「私は、その……な、なんとか」

 

 近づいてきたリンファに頷きながらも、紅の視線は無意識のうちに別の方向へと向けられていた。

 

 紅の視線の先にあったのは、リンファがその手に握る”体の前面に小さな傷が刻まれたテラフォーマーの死体”。銃創を思わせるその傷は左右に12個ずつ、計24個。何か規則性があるかのように、等間隔でつけられていた。

 

「紅?」

 

「ひゃいっ!?」

 

 息の熱を感じるほどの距離で顔を覗きこまれ、我に返った紅が悲鳴を上げた。そんな彼女の様子を見て何を勘違いしたのか、リンファは無表情ながらも自信ありげに断言した。

 

「不安かもしれないけど、大丈夫。紅は私が守る……だから、安心してほしい」

 

 いつも通り猫を思わせるマイペースさだが、スレンダーな胸を張るその姿は不思議と頼もしい。彼女の言葉に、紅は無意識のうちに頷いていた。

 

 

 

「ふふ……カリーナ・チリッロ、クーーーーールに帰還、です! ……ぜぇ、はぁ……」

 

 肩で息をしながらそう言うと、カリーナ・チリッロは額に浮かんだ汗をぬぐった。

 

 ――カリーナが息を荒げている原因は、彼女が引きずるテラフォーマーの死体にあった。

 

 “()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()グロテスクな死体”だ。その上死体は既に腐敗が始まっているらしく、少し動かしただけでボトボトと肉がこそげ落ちるような有様。

 

 体力のないカリーナにとって、状態が悪い上に重い死体を格納庫まで運ぶことがかなりの重労働であることは、想像に難くなかった。

 

「あちょ、待っ……おげっ、ゲホっ! オェ……!」

 

 どうやら、この格納庫へと入って来た際も大分無理していたらしい。咳き込むその姿に彼女の提唱するクールさは欠片もなく、それを見つめる乗組員達の視線もどこか生暖かかった。

 

 

 

「脱出機は……よし、無事だな」

 

 最後に入ってきたのは、バスティアン・フリーダー。彼は通路の向こう側に見える脱出機を確認すると、静かに呟いた。

 

 その手に握られているのは、”何かで全身を塗り固められたテラフォーマーの死体”。コンクリートかセメントを思わせる物体で厚いコーティングを施されたそれは、死体というより石像か彫刻と表現したほうが適格だろう。

 

「目下の障害は排したが……気を抜くなよ、お前ら。俺達の任務は、ここからが本番だからな」

 

 バスティアンが肩越しに声をかけると、他の潜入員たちが各々返事を返した。

 

 

 

「艦長ォ……こりゃどういうことだ?」

 

 アシモフのその一声で、格納庫内の空気が音を立てて凍り付く。

 

「さっきの口ぶり、あんた何か知ってんだろ? 説明してくれねぇか……俺の目の前で何が起きてるのかよ」

 

 そう言ったアシモフの口元には笑みが浮かんでいるものの、その目に浮かぶ疑念と警戒は隠しきれない。他のオフィサーも彼ほどではないものの、強い怪訝の色を浮かべている。

 

 ――ここが正念場。

 

 小吉は息を吸うと、まずは真っ先に伝えるべきことを口にした。

 

「まずみんな、安心してほしい――彼らは味方だ」

 

 彼の言葉に、数人の乗組員たちの面持ちが幾分和らいだ。小吉はそれを認めると、事前にクロード達と打ち合わせておいた台詞を続ける。

 

()()()()()、クロード博士からアネックスへ通信が入った。通信の要点は2つ。時間がないからかいつまんで話すが――1つ目は、『クロード博士が独自に手配した救助艦が、既に火星で待機している』ということ」

 

 小吉の言葉に、乗組員たちがどよめいた。

 

 本来ならば火星と地球の距離を考えた場合、各国から派遣された救助艦が火星に到着するのは最速でも39日後。その間彼らは、物資も乏しい状態でテラフォーマーと戦い続けねばならない。

 言うまでもないことだが、この任務内容は非常に過酷だ。乗組員たちが生存できる確率は、どう見積もったとしても、高いとは言えないだろう。

 

 しかし、任務初日にして既に救助艦が到着しているとなれば話は別だ。補給もない中、39日も耐え忍ぶ必要はない。早いうちに救助隊と合流して救助艦まで避難することができれば、大きくリスクを減らすことが可能だ。

 

「そして2つ目が、『その中でも特に腕利きの隊員が、合流までの護衛を務める』ということ。彼らがその護衛だ」

 

「なーるほど……随分と都合がいいこともあるもんだな」

 

「っ! おい、アシモフ!」

 

 皮肉気にアシモフが言うと、ミッシェルが非難するように彼を睨む。しかしそれを真正面から受け止めると、アシモフは「何か間違ったこと言ったか?」と続けた。

 

「アネックスが襲われたと思ったら、潜入員とやらが俺達を助けた。明らかにタイミングが良すぎるんだよ。それに本当に味方だってんなら、最初から俺達に伝えられてねぇのもおかしいだろうが」

 

「っ……!」

 

 それに反論する言葉を、ミッシェルは持ち合わせていなかった。黙り込んだ彼女から視線をずらすと、アシモフは潜入員たちへと視線を向けた。

 

「率直に言って、俺はお前らを信用できねぇ。本当に味方だってんなら、何か証拠を見せてほしいもんだ」

 

「……まぁ、普通はこの状況で信じねえよなぁ」

 

 同意するようにそう言いながら、面倒くさそうな表情を隠せない大河。彼はそのまま右を向くと、自分達の指揮官へと指示を仰いだ。

 

「で、どうすんだバスティアン? このままじゃ、俺らの任務に支障が出かねないぞ?」

 

「ふむ……」

 

 潜入員たちの視線を受け、バスティアンは考え込む。それから数秒後、彼は静かにアシモフの要求に応え得るものに思い至った。

 

「我々の身元なら、これが証拠になるはずです……お前ら、()()()を」

 

 そう言ってバスティアンは前に進み出ると、コートの襟を裏返した。指示の意図を理解したらしい他の5人もそれに続く。

 

 彼らの襟にあったのは、アネックスの乗組員ならだれでもつけている所属国の国旗を象ったバッジ――と、もう一つ。五芒星とフラスコを重ね合わせた紋章のバッジだった。

 

「! それは確か、クロード博士の……」

 

 思い出したようなジョセフの言葉に、バスティアンが頷いた。

 

「クロード・ヴァレンシュタインの関係者に与えられるバッジです。これで我々の所属については納得していただけるかと」

 

「おっと、隊長。『そんなもんいくらでも偽造できるだろ』は言いっこなしですよ? それいい始めると、堂々巡りになっちまうんで」

 

 ニコライに釘をさされ、アシモフが小さく舌打ちする。それを見て、ようやく息が整ってきたらしいカリーナが口を開いた。

 

「付け加えるなら、侵入してきたテラフォーマーの数が多すぎるのでは? もし私がマッチポンプを狙ってゴキブリを招き入れるなら、クールに集会の時間を狙って6匹だけ放ちますね。そうすれば、最小のリスクでほぼ最大のリターンが得られますから」

 

「……確かにな」

 

 カリーナの言葉を、渋々と言った様子でアシモフが肯定する。

 

 

 

 乗組員たちの信頼を勝ち取りたいのなら、より多くの人が集まっている場所で行うのが最も効果的。だが居住区にいたカリーナを除き、大衆の目に触れる場所で戦闘を行った者はいない。

 

 それに言うまでもないことだが、テラフォーマーは立ち合えばいつ殺されてもおかしくない相手だ。それを彼らにとっての命綱である薬品庫や武器庫付近に放ち、そこで一対一で交戦するメリットはほとんどないといっても言い。つまりテラフォーマーの襲撃に関していえば、潜入員たちはほぼシロであるといっていいだろう。

 

 

 

 アシモフ以外のオフィサー達の反応は様々だが、その表情を見るに概ね納得はしたらしい。

 

「――皆、墜落までもう時間がない! 悪いが、詳しい話は後にしてくれ!」

 

 空気を変えるように手を叩きながら、小吉は声を張り上げる。

 

「彼らと現地で待機している救助艦については、俺が責任を持って保証する! その立場も、実力もな」

 

 それが鶴の一声となった。小吉は乗組員たちが落ちついたのを確認して、作戦開始の号令を口にした。

 

「繰り返すが、脱出後はサンプルの確保よりも他班や救助隊との合流を優先すること! 着陸後は状況に応じてアネックス――あるいは救助艦『アーク1号』へと向かってくれ! 態勢を立て直し次第、サンプルの確保を開始する! さぁ、お前ら――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――隊列(なら)べ! 脱出()るぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 





【オマケ】希望の生物 潜入員編(術後)

大河「まぁ、何でも良いとは言った。言ったが……誰がエイリアンで手術しろって言った!? おい、大丈夫なんだろうな!? 偽装の方の可愛さが微塵もねーが、本当に誤魔化せるんだろうな!?」

キャロル「あ、あのさ、言いづらいんだけど……とっ、特性使うとおっぱいが大きくなるの何とかならない? ――え、要望通りの癒し要員? ち、ちがっ!? アタシの言う癒しって、そういうエッチな意味じゃ……!?」

ニコライ「よっしゃ、それっぽいの来たァ!! ……あ゛っ!? いや、これはそういうんじゃなくてですね――だからその笑顔やめろっての!?」

リンファ「ぜつぼーした。このベースは食べられない……ふぁっきゅー」

バスティアン「……皮肉だな。よりにもよって、この生物が適合するとは――いや、気にしないでくれ。完全にこちらの話だ。要望通りの手術、感謝する」

カリーナ「ふむ、またエグイの持ってきましたね。まぁいいでしょう。で、戦うときはこの専用武器を起動して、敵に触手で刺せばいいんですね? では早速、プスッと……きゃああああああああああ!?」(SANチェック)




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第36話-【B】 JORKERS 切り札と道化師

 ――アネックス1号へのテラフォーマー襲撃より、遡ること10分前。

 

 火星の地表には、1台の大型宇宙船があった。『アネックス1号』と瓜二つの――というよりは全く同一の規格で作られたそれ。しかしその船には、全く別の名前が付けられていた。

 

 

 

 ――ゴキックス1号。

 

 

 

 搭乗ゲートの横に取り付けられたネームプレートに刻まれていたのは、そんなあまりにもふざけた名前だった。

 

「……じょうじ」

 

 そんな宇宙艦の前に整列するのは、100匹のテラフォーマー達。だが、通常のテラフォーマーと違っている点が2つほどあった。

 

 1つ目は、彼らがアネックスの乗組員と同規格の制服に身を包んでいるという点。更にはウィッグなどをつけているものもおり、その見た目は遠くから見れば人間に見えないこともない。

 

 そして2つ目は、彼らがどれも特異な見た目をしているということ。具体的には額に蜘蛛を思わせる6つの目を備えた者や、鷲を思わせる羽が腕に生えている者、シャチを思わせる背びれが背中に生えたものなど……彼らがMO手術を受けていることは明白だった。

 

 一見何の統一性もないようにも見える、ゴキブリ達の背格好。だが、アネックス計画に携わる者ならばすぐに察することができるだろう……彼らの衣装や特性が、アネックス1号の搭乗員たちを模していることに。

 

「じょじょう」

 

 そんなアネックス乗組員を模した94匹の指揮をとるのは、オフィサーを模した6匹のテラフォーマー。

 

 短い頭髪を雑に逆立てた、腕に黒光りする毒針を生やした個体。

 

 安物の金髪ウィッグと眼鏡をかけた、力士型もかくやというマッチョな体格の個体。

 

 どう見ても偽物と分かる付け髭を付け、茹であがった蟹の様な色合いの甲殻に全身を覆われた個体。

 

 同じく付け髭と眼鏡を付けた、まだら模様の触腕を卑猥にくねらせる個体。

 

 口元に傷シールを貼りつけた、体表が妙にぬるついている個体。

 

 もはや現物に似せるのは諦めたのか、腰に太刀を携えただけのスキンヘッドの個体。

 

 

 

「じょうじじょうじ、じょう」

 

 毒針を携えた個体――おそらく、小町小吉に扮したつもりなのだろう――が、居並ぶテラフォーマーたちに声をかける。それと同時に、テラフォーマーたちはゴキックス1号への搭乗を開始した。

 

 

 

 ――地球有ゴキ制圧計画 『ゴキックス1号計画』

 

 MISSION① 『地球にA・E・ウイルスをばらまき、サンプル(人間)を各班200人以上捕獲すること』

 

 MISSION② 『その間、可能な限り人間を殺すこと』

 

 ――『ゴキックス1号計画』一般ゴキブリ用マニュアルより

 

 

 自らの故郷を踏み荒らす人間(害虫)を駆除すべく、混沌に塗れた100匹の兵士は今、火星を発つ――。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「という設定でした~♪」

 

 今まさに、強力なジェット噴射と共に火星地表を離陸した宇宙艦『ゴキックス1号』を見上げながら、彼はケラケラと笑い声を上げた。

 

 平々凡々を絵に描いたかのような、西洋人の少年である。強いて特徴らしい特徴を挙げるのならば、衣服が白衣であることくらいだろうか。

 

 ――アダム・ベイリアル。

 

 狂人と悪ふざけの権化たる彼は、徐々に小さくなっていく宇宙艦を見上げた。

 

「行っておいで、ゴキックス。そして必ず、戻って……ん? 何あれ?」

 

 万感の思いと共に彼は呟きながら、彼は地平線の向こう側が微かに輝いたのを見た。

 

 

 

 そしてその直後――火星の対流圏に差し掛かろうとしていたゴキックス1号が、()()()()

 

 

 

「え、えええぇぇ!?」

 

 驚きと残念さが入り混じったような声で叫ぶアダムの真上で爆炎が広がり、周囲に宇宙船の残骸や破片が雨のように降り注ぐ。

 

「ちょっとちょっと! いくらなんでもそりゃないでしょ!? 人件費はゴキブリ達がやってくれたからまあいいとして、あの宇宙船結構高かっ……あばっ!?」

 

 ブーイングを飛ばすアダムの頭に、ゴキックス1号の破片がぶつかった。破片といってもそれは人間の顔面程の大きさがあり、落下速度は優に時速100kmを超える。当然衝撃も「痛い」で済むようなものではなく、破片がぶつかったアダムの顔右半分が、まるで銃で撃たれたトマトのように吹き飛んだ。血とピンク色の肉片が飛び散り、火星の土を赤に染める。

 

「あイテテ……これはひどい」

 

 ――通常なら即死しているはずの怪我。

 

 アダムはしかし、それを意に介した様子を全く見せなかった。彼はぐっと伸びをし――そして無事な左耳で、背後から近づいてくる足音を捉えた。

 

 

 

「相変わらず化け物じみた生命力ですね、博士」

 

 

 

 アダムが振り返ると、彼の左目に1人の人間が映りこんだ。痩身ながらも、しなやかな筋肉を持った男性だ。闇で塗りつぶしたかのようにドス黒い髪に、濁ったグリーンの瞳に灯る鋭い眼光。顔を始めとして全身についた傷も相まって、非常に近寄りがたい雰囲気を放っている。

 

「ああ、おかえりプライド。首尾はどう?」

 

「……まずは頭を再生してください、気色の悪い。報告はそれからです」

 

「あ、ごめんごめん」

 

 心底不快そうな男性――プライドの言葉に、アダムは悪びれた様子もなく言うと、パチンと指を弾いた。途端、彼の顔の骨肉がぐじゅぐじゅと蠢き始め、数秒と経たずに彼の右頭部が元の形に再現された。

 

「これでよし、と。それで、首尾はいかほど?」

 

「――万事、滞りなく。予定通りゴキックス1号を『囮にして』、バグズ1号は無事に熱圏へと飛翔しました。もう間もなく、アネックスと衝突するかと」

 

「うん、まぁ当初の目的は達成したかな」

 

 プライドの報告にアダムは頷くと、未だ黒い煙の晴れない空を仰いだ。

 

「あーあ……あの調子じゃ多分生きてるゴキブリ居ないよねー。一応、再生能力がある奴も結構いるけど――」

 

「無理でしょうね。艦を墜としたのは、例の救助艦に取り付けられた小型『ピョートル巨砲』のようですから」

 

 ――ピョートル巨砲。

 

 ロシア史の中でも特に偉大な皇帝の名を冠するその兵器は、人類史上最も『巨大』にして『強力』な大砲だ。条件さえ揃えば地球から火星を砲撃することさえ可能だというのだから、その威力は文字通り化け物級。

 

 無論、アーク1号に取り付けられたそれは大幅に小型化しているため、本家本元ほどの破壊力はないが……それでもなお、破壊力と熱量は並大抵の兵器を凌ぐ。

 

「おそらく、小型化しても火星の半球は射程圏内でしょう。それを()()()()()()()()至近距離で受けたとなれば――再生云々以前に、細胞が残ってるかどうかが怪しいですね」

 

「デスヨネー……まぁゴキックスの皆も最低限の役割は果たしたわけだし、よしとしようか」

 

 そう言うとアダムは、己の体をクルリと反転させ、プライドに向き直った。

 

「それじゃあ本題だ、プライド君――()()()()()()()()()()()調()()()()()()()()?」

 

 その問いに、プライドは何も答えない。彼は何も言わずに懐へと手を入れると、そこから携帯型のタブレット端末を取り出した。

 

「――調査の結果はこちらです、博士」

 

「ありがとう。さてさて、鬼が出るか蛇が出るか……」

 

 それを受けとるとアダムは、まるで子供のように目を輝かせながら端末を起動した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「潜入員『ゴルゴン』よりメーデーコード発令要請! アネックス1号のエンジン部が破損し、テラフォーマーによる襲撃を受けた模様!」

 

「衛星カメラより確認! アネックスのエンジン部に炎上を確認! バグズ1号が接触したことによる機関部の破損が原因の模様!」

 

「墜落までおよそ推定50分――カウントスタート!」

 

 ――アネックス1号、事故発生直後。

 

 アーク1号の管制室にいた者たちは、上へ下への大騒ぎに見舞われていた。

 

 彼らはアーク計画において『管制』を司る特務部隊、『イース』の隊員たち。実際に救助活動を行う各団のオペレートやアーク1号の兵器操縦などを担当し、火星実働部隊にとっての司令部を務める特務部隊である。

 

「メーデーコード受諾、α班は非完全変態解除と交戦の許可を『ゴルゴン』へと通達しろ!β班は引き続き衛星カメラを通してアネックスを監視! 脱出が成ったのならすぐに報告! γ班は火星地表の監視を! 他にも宇宙船があったのなら、すぐに『インフェルノ』で叩き潰せ! δ班は車庫のハッチ付近にテラフォーマーの反応がないか索敵!」

 

 そんな特務部隊を束ねるのは、黒ぶち眼鏡と無精ひげが特徴的な中年男性――その名を紫藤(しどう)光政(みつまさ)といった。

 

「何から何まで連中の掌の上、か……」

 

 静かに呟く紫藤の顔に浮かぶのは、苛立ち。彼は次々と飛び込んでくる情報を処理しながら、思わず舌打ちを溢す。

 

 アーク1号に取り付けられた小型のピョートル巨砲――改め『インフェルノ』の爆撃で、謎の宇宙艦が飛び立つのを防いだところまでは良かった。

 だがそれが罠だと気づいた時には、既にバグズ1号は火星対流圏まで突入してしまっていた。下手に砲撃すればアネックスをも巻き込みかねない位置にまで飛翔してしまっていたそれを撃つわけにもいかず、彼らは黙ってアネックスが事故を起こすのを見ているしかできなかった。

 

 そこからは、ただ淡々と必然の連鎖だった。バグズ1号はアネックスへと衝突、エンジン部に大幅な損壊を与える。バグズ1号に潜んでいたテラフォーマーはアネックスへと飛び移り、アネックス計画はプランδへの移行を余儀なくされた。

 

「これ以上、奴らに好き勝手させるのは癪に障る。火星に来てまで過労死は避けたかったが……しゃーない。休日返上で働くとするか!」

 

 そう言って紫藤はガム型の変態薬を口に含むと、それを噛み潰した。途端、彼の額には6つの目が出現し、肌が黄と緑の縞模様で彩られていく。やがて変態を終えた彼の姿は、民家の軒下や公園の草木の影で頻繁に見かける、とある生物の特徴を象っていた。

 

 

 

 

 

 紫藤光政 

 

 

 

 MO手術ベース ”節足動物型”  

 

 

 

 ―――――――――――― ジョロウグモ ――――――――――――

 

 

 

 

 

『蜘蛛』と言われて真っ先にこの姿を思い浮かべる者も少なくないだろう。この生物は北海道を除く日本全域に生息する、ごくごくありふれた造網性の蜘蛛である。

 

 毒牙はあるが、原寸大ではほとんど人間に害は及ぼさず。蜘蛛のイメージ通りに強靭な糸を紡ぐものの、しばしば鳥すらも捕らえてしまうような近縁種に比べれば強度も控えめ。

 

 平均的な戦闘員並みの実力はある者の、怪力や猛毒などの対象を殺傷することに特化した強力な特性(ベース)が揃い踏みするアークにおいて、彼の能力はかなり大人しめといえるだろう。

 

 

 

 だが、それでいい。彼の本業は戦闘ではなく――現場から集まる情報の処理なのだから。

 

「マジックハンド、展開」

 

 紫藤が言うと同時、彼の背中に取り付けられた専用武器である神経接続式マジックハンドが展開された。彼は6本へと増えた手から糸を伸ばすと、天井に可動式のアームでつりさげられたモニターを引き寄せる。

 

「目と手が増えりゃ作業効率も倍ってね……ったく、細胞レベルで染みついた社畜気質は我ながら嫌になるぜ」

 

 そうぼやきながら、紫藤は自身を取り囲むように配置されたモニターのキーボードを叩き始めた。

 

 ――クモ類に由来する8つの目と、8本の手足。

 

 これを駆使した情報処理の速さこそ、紫藤が特務部隊『イース』の隊長を任されている理由。通常ならばできない芸当だが、日本の中でもとりわけ労働環境の悪いブラック企業で、過労死寸前まで追い込まれながら身に着けたスキルがそれを可能にしている、というのは何とも皮肉な話である。

 

 だが、情報処理に長けているのは彼に限った話ではない。特務部隊『イース』に配属されている他の隊員たちは、誰もが『情報処理』――コンピュータを使った作業において、何かしらの力を発揮する特性の持ち主たちだ。

 

 アーク計画がテラフォーマーやアネックスの裏切り者に仕掛けているのは、『競争』ではなく『戦争』。であれば、その勝敗はただ純粋な強さだけで決する程単純な物ではない。故に、強力無比な乗組員たちが万全の力を発揮できるよう、サポートすること――それこそが『管制』を司る特務部隊に与えられた任務であり、彼らの戦場である。

 

「――救助プランδへの移行準備完了っと! δ班、索敵状況はどうなってる!?」

 

 本来ならば数人がかりで行う作業を1人で片付け、紫藤が問う。すると、モニターに向かっていた若い隊員が口を開いた。

 

「ハッチ周辺にテラフォーマーの反応はありません! しかし――」

 

「よし! 今すぐに、アーク第一~第六団に出動指令を出せ!」

 

 間髪入れずに紫藤の口から放たれた言葉に、その隊員はぎょっとしたように眼を見開いた。

 

「で、ですが隊長……」

 

 恐る恐ると言った様子で、彼は紫藤に進言する。

 

「本艦は依然、2()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。先程、掃討のために団長達が出撃しましたが、さすがにこの短時間では――」

 

「ああ、問題ない。団員たちに出撃の指示を出せ」

 

 しかし隊員の進言に頷かず、紫藤は先程と同じ指示を繰り返した。隊員は一瞬だけ迷ったような素振りを見せたものの、艦内放送用のマイクに手を伸ばす。やがて放送を終えてマイクの電源を切った彼に、紫藤が声をかける。

 

「お前は実働部隊に配属されてから日が浅かったな……ってことは、まだ団長達の実力は知らねえな?」

 

「……はい」

 

 紫藤の言葉に隊員は頷いてから、ゆっくりと口を開いた。

 

「団長達が強い、ということは分かっているつもりです。ですが2万のテラフォーマーを相手にするのは、人類の『兵器』と呼ばれるオフィサーでも厳しいはず……いや、そもそも。それだけのテラフォーマーを、たった7人だけで真っ向から迎え撃つなんて、()()()()()()()()()……!」

 

 ――彼の言葉は、実に妥当なものであった。

 

 2万のテラフォーマーは現在、7方向からアーク本艦へと強襲をしかけている。よって純粋に総軍と戦うというわけではないが……それでも、団長達が圧倒的多対一の戦いを強いられることに違いはない。

 

 例えどんなベース生物による手術を受けていようとも、普通は数千ものテラフォーマーに敵うはずがない。並外れた――それこそ、アネックスのオフィサー級の技術や戦闘技能を持ち合わせて、やっと勝負になるかどうかというレベル。

 常識的に考えれば、団長達の出撃から30分と経っていないこの状況で救助プランを開始する判断は、明らかに最悪手だ。

 

 

 

 

 

 ――常識の範疇で考えれば、の話だが。

 

 

 

 

 

「……一つ質問をしよう」

 

 隊員の言葉に明確な返事を返さず、紫藤は言った。

 

「難しく考えないで、普通に答えてくれ……拳銃と戦車砲、どっちが強いと思う?」

 

「は、はい?」

 

 突拍子のないその質問に、隊員の口から気の抜けた様な声が上がる。しかし呆然としたのも一瞬のこと、彼はすぐに気を取り直し、自分の脳内に浮かんだ答えを口にした。

 

「戦車砲です。強度・破壊力共に、拳銃の比ではありませんから」

 

「だよな。それじゃあ、その戦車砲と核爆弾なら?」

 

「……おそらくは、後者かと。核爆弾1発で、戦車砲よりも大規模な殺戮が可能です」

 

「それもその通りだ。それなら――」

 

 そう言って紫藤は、隊員の目を見据えた。

 

 

 

 

 

「――()()()()()()()。どっちが強い?」

 

 

 

 

 

「それは……」

 

 隊員が言い淀む。拳銃と戦車砲、戦車砲と核弾頭。これらはいずれも『兵器』というくくりであったために容易に比較し、すんなりと解を導き出すことができた。

 

 だが、最後の質問だけは、全くの別物同士の比較だ。これではすぐに答えることはできない……否、そもそも確固たる答えなどあるはずもない。どんな状況を想定しているのかによって、導き出される答えは違うのだから。

 

「ま、そういうことさ……アネックスのオフィサーが『兵器』なら、ウチの団長達は『災害』ってわけだ。どっちもやべー被害を叩きだすって面では変わらねえが、本質はまるで違う。だから団長達がオフィサー級の実力を持っているからと言って、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――その逆もしかりだがな」

 

 紫藤はそう言いながら、天井のモニターへと糸を伸ばした。

 

「王道の強さなら、オフィサーの方に軍配が上がるだろう。的確に用いれば一騎当千、そうでなくとも十分に実力を発揮する。そういう意味じゃ、オフィサーの『兵器』って表現は実に的確だ」

 

 ――けどな。

 

「邪道の強さ、()()()()()()()()()()()()()()、間違いなくウチの団長たちの方が上だ。まさに『災害』――適応できなきゃ最期、数も実力も関係なしに、相手はただ蹂躙されることしかできない」

 

 するすると手繰られた糸に引き寄せられ、モニターが天井から降りてくる。そこに移されていたのは、団長達の動向を確認するために飛ばされたドローンカメラの映像。

 

「さ、実際に映像で確かめてみな。俺達アークの誇る、最強にして最大の『切り札』――その真価って奴をよ」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 今から30分ほど前のこと。盆地にて待機していたアーク1号本艦に、総勢2万5000匹からなるテラフォーマーの大軍勢が大攻勢を仕掛けた。

 

 各々が棍棒や銃器で武装するか、そうでない者は例外なく力士型という、テラフォーマーたちの精兵部隊。

 

 そんな彼らを率いていたのは、腰布を巻いた8匹のテラフォーマー。突然変異で生まれたスキンヘッド型には及ばないものの、幼少期から教育を施され非常に優れた知能を持つ個体達だった。

 

 アークに搭載された兵器の危険性は、数日かけて散発的に送り込んだ偵察たちが身を以て教えられていた。そこで彼らは手勢を3000匹の部隊7つと、4000匹からなる部隊を1つの合計8部隊に分け、それぞれ別方向から攻め入った。

 

 ――彼らのトップが与えた指示はあくまで『威力偵察』であったものの、8匹のテラフォーマーたちは堅牢な人間どもの要塞を『陥落させる』べく入念に計画を練り、そのための準備も完全に整えていた。その作戦はまさに、テラフォーマーたちの装備と状況を考えれば『最適解』。故に彼らは――指揮官から一兵卒に至るまで、作戦の成功を信じて疑わなかった。

 

 

 

 この数十分後に、2万5000匹の大軍勢が全滅することになるなど――この時の彼らには、知る由もないことである。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 アーク1号の北に広がる苔の平原から攻め込んだのは、8部隊の中でも特に大規模な4000匹のテラフォーマー部隊。

 

 彼らに与えられた役割はただ1つ。それは、アークに搭載された兵器やアークの団員たちの注意を引き付けること――早い話が、陽動である。だがこの部隊を率いる腰布のテラフォーマーは、陽動だけのために動くつもりはなかった。

 

 ――自分達が人間どもの猛攻をくぐりぬけて艦まで到達できれば、他の部隊も攻略に移りやすくなるだろう。故に、1匹でも多く敵の拠点までたどり着くことを目標とする。

 

 そう考えて大攻勢に出たのが、およそ10分前のこと。北の平原を駆け、彼らはアーク本艦へと迫った。

 

 そんな彼らを迎えたのはアークに取り付けられた兵器でもなければ、MO手術を受けた人間の部隊でもなく……たった1人の男性だった。

 

 

 

「……来たか」

 

 

 

 ポークパイハットとオーバーコートが特徴的な、年若い男性である。彼の背後には巨大なコンテナが1つ置いてあるだけで、それ以外には兵器も兵士も見受けられない。

 彼は体の前に腕を突き出すと、落ち着いた様子で口を開いた。

 

 

 

「降臨せよ、72柱の魔神たち――我が名の下に集い来たりて、凶星を地獄で満たせ」

 

 

 

 その男性は、まるで謳うように言の葉を紡いでいく。その姿はまるで、ゲームの中に出てくる魔術師か何かのようであった。

 

「呼び覚ますは序列1位、バエル。汝、戦を司る者にして、不可視を象る者――即ち、我が手には不可視の剣ぞある――」

 

 そして彼は詠唱を止めると、地平線の向こうまで広がる黒に向かって、その口元を歪めた。

 

 

 

異次元よりの断裂(ナイフ・オブ・バアル)

 

 

 

 そう言って彼は、その手をさっと横に振る。

 

 ――十分な距離があった。別段、力を込めているような様子はなかった。何かが放たれたような様子もなかった。

 

 

 

 だが彼が動作を完了した次の瞬間、先頭を走っていた数百のテラフォーマー達が一斉に、まるで見えない刃に切り裂かれたかのように()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「……!?」

 

 支えとなる下半身を失い、地面へと落ちる上半身。支えるべき上半身を失い、地面へと倒れ込む下半身。それらはぐちゃりと音を立てて、火星の大地に白を撒き散らす。

 

 

 

 ――それが、合図だった。

 

 

 

異次元よりの断裂(ナイフ・オブ・バアル)

 

 彼が手を横に振る。ただそれだけで、テラフォーマーたちの体はまるで溶けかけたバターのように切り裂かれる。

 

 

 

囀る慟哭(シャウト・オブ・カイム)

 

 彼が腕を振り上げる。途端、銀色の桜吹雪のようなものが吹き荒れてテラフォーマーたちの肉体を切り刻む。

 

 

 

降り注ぐ墓標(レイン・オブ・サブナック)

 

 彼が腕を振り下ろす。同時に彼の背後のコンテナから無数の剣が飛び出して、テラフォーマーの体を串刺しにする。

 

 

 

「く、く……クハハハハハ! 脆い、脆いぞ、凶星の悪魔(テラフォーマー)ども! よくもまぁそのザマで、悪魔を名乗れたものだ!」

 

 

 

 一秒を刻むごとに積み重なっていく死体を見て、彼は嗤う。

 

 

 

「我が魔神たちの真の力は、こんなものではないぞ!? さぁ武器をとり、挑むがいい! 屍山血河の果てに我を討ち取ること叶えば、貴様らの求めるものは、すぐそこだ!」

 

 

 

 ――もはやそれは、一方的な蹂躙であった。

 

 始め4000匹いたテラフォーマーたちは瞬きを1つするごとに100匹単位でその数を減らしていく。仲間を壁に突破しようにも肉盾ごと切り裂かれ、上空を抜けようとすれば撃ち落とされる。彼らは青年に傷を負わせるどころか、その場から一歩も動かすことすら能わず……気が付けば、4000のテラフォーマー達は1匹残らず肉塊となり果てていた。

 

「……嗚呼、こんなものか」

 

 彼は先程までの様子から一転、落胆したように呟くと指をパチンと鳴らした。すると彼の背後にあったコンテナは、役目を終えたことを理解したかのように、音もなくその口を閉ざした。

 

「……異端の悪魔どもを裁かんと、遥々この星まで赴いたわけだが。これは存外、審問はすぐに終わるやもしれんな」

 

 ――つまらん。

 

 そう呟いて、彼は踵を返した。もうじきアークから出撃するであろう、己の部下たちと合流するために。

 

 

 

 

 

 

 

 アーク第1団団長 ギルバート・アヴァロン

 

 

 

 MO手術『公式登録』ベース“哺乳類型” コキクガシラコウモリ

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 

「じ、じ……!?」

 

 アーク1号の南西。本艦に奇襲を仕掛けるべく部隊を率いていた腰布のテラフォーマーは、眼前の光景を受け止めきれずに呆然と立ち尽くしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぎ、アaAあgぇaaoいaア!」

 

「げらrげらげEらげらGeらErら!」

 

「オーン! オーン! オーン! ンアッー!」

 

「ギョエエエエエエエエ!」

 

「いあ! いあ!」

 

「ゲロロロロロァ!」

 

「AGrrrrrrrr!」

 

「ぷちゅぷちゅぷちゅくちゅ!」

 

「ぱうー」

 

「アアアアアアアアアアアアアアアッ」

 

 

 

 

 ――それは、聞いたこともないような金切り声を上げてテラフォーマーたちに襲い掛かる、名状し難い生物たちだった。

 ムカデの様でその何倍もおぞましい節足動物によって、万力を誇る力士型がいとも容易く絞め殺される。忌まわしい猛禽のような怪鳥が、空へと逃げたテラフォーマーに食らいつく。

 

 部隊は既に壊走した。半狂乱で逃げ回る者、既に息絶えて地面に転がっているものなど様々だが、もはやテラフォーマー達から戦意が失われていることは、火を見るよりも明らかだった。

 

 警戒は怠っていなかった。きちんと索敵に人員を割き、不審な点があればすぐに報告があるはずだった。

 

 だが気が付いた時、彼らは既に襲われていた。何の前触れもなく表れた異形によって、3000の精兵は抵抗むなしく惨殺された。

 

 もしもそれを見ていた者が人間であったのなら、間違いなくこの光景を『地獄』と形容することだろう。もっとも――

 

 

 

 

 

 

「ぎ、アaAあgぇaaoいaア!」「げらrげらげEらげらGeらErら!」「オーン! オーン! オーン! ンアッー!」「ギョエエエエエエエエ!」「いあ! いあ!」「ゲロロロロロァ!」「AGrrrrrrrr!」「ぷちゅぷちゅぷちゅくちゅ!」「ぱうー」「アアアアアアアアアアアアアアアッ」「ぎ、アaAあgぇaaoいaア!」「げらrげらげEらげらGeらErら!」「オーン! オーン! オーン! ンアッー!」「ギョエエエエエエエエ!」「いあ! いあ!」「ゲロロロロロァ!」「AGrrrrrrrr!」「ぷちゅぷちゅぷちゅくちゅ!」「ぱうー」「アアアアアアアアアアアアアアアッ」「ぎ、アaAあgぇaaoいaア!」「げらrげらげEらげらGeらErら!」「オーン! オーン! オーン! ンアッー!」「ギョエエエエエエエエ!」「いあ! いあ!」「ゲロロロロロァ!」「AGrrrrrrrr!」「ぷちゅぷちゅぷちゅくちゅ!」「ぱうー」「アアアアアアアアアアアアアアアッ」「ぎ、アaAあgぇaaoいaア!」「げらrげらげEらげらGeらErら!」「オーン! オーン! オーン! ンアッー!」「ギョエエエエエエエエ!」「いあ! いあ!」「ゲロロロロロァ!」「AGrrrrrrrr!」「ぷちゅぷちゅぷちゅくちゅ!」「ぱうー」「アアアアアアアアアアアアアアアッ」「ぎ、アaAあgぇaaoいaア!」「げらrげらげEらげらGeらErら!」「オーン! オーン! オーン! ンアッー!」「ギョエエエエエエエエ!」「いあ! いあ!」「ゲロロロロロァ!」「AGrrrrrrrr!」「ぷちゅぷちゅぷちゅくちゅ!」「ぱうー」「アアアアアアアアアアアアアアアッ」

 

 

 

 

 

 ――この光景を目の当たりにして正気を保っていれば、の話だが。

 

 

 

「キ、キィィイ!」

 

 ――もはや、任務の達成は不可能。

 

 そう判断した腰布のテラフォーマーは身を翻し、一目散に駆け出す。だがその判断を下すには、いささか遅すぎた。

 

 

 

 

 

 ――ドスッ。

 

 

 

 

 

 衝撃が走り、腰布のテラフォーマーは一瞬遅れて、己の胸が正面から貫かれたことを知る。思わずテラフォーマーが立ち止まると同時、ブチブチと音を立てながら、胸部に空いた穴から心臓が体外へと這い出した。

 

「じょ……」

 

 心臓は自身を体内にとどめようとする筋繊維や神経を引きちぎり、ふわふわと空中を飛んでテラフォーマーの体を離れていく。

 

 テラフォーマーがそれを目で追えば……一体いつからいたのだろうか? 彼の正面に、フード付きのマントを纏った何者かが立っていた。

 

「同じ生き物を殺すのは気が引けるガ……悪く思うナ」

 

 名状し難い魔物たちの金切声がひっきりなしに響いているはずなのに、その言葉はいやに大きく聞こえた。

 

「――これが、戦争というものダ」

 

 その言葉と同時、腰布のテラフォーマーは膝から崩れ落ちる。その胴体が地面に横たわる頃には既に息はなく――あとには、静寂だけが遺された。

 

「さテ、他の団長達が気にかかるところだガ……ひとまずは、自分の任務に集中するとしよウ」

 

 フードの人物はそう言うと、アークの方向からこちらへと走ってくる装甲車と、それに乗る己の部下達を見つめた。

 

 

 

 

 

 

 

 アーク第3団団長 グラフィアス

 

 

 MO手術『公式登録』ベース”類線形動物型” ハリガネムシ

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 

 ――アークの北東にある峡谷の入り口。そこに足を踏み入れたテラフォーマー達の前に立ちはだかったのは、1人の少女だった。

 

「は、話には聞いてましたけど……いざこの数来られると、気色が悪いですね」

 

 青みがかった黒髪の少女は、その顔に嫌悪感と若干の不安が混ざった表情を浮かべて呟いた。彼女がその身に纏うベッドシーツの様な衣類は、『トーガ』と呼ばれる衣装に近い独特の形状をしていた。サイズは合っていないらしくぶかぶかで、少しかがめば首元から胸部が見えてしまいそうだ。

 

「……怖いか、オーナー?」

 

 少女にそう尋ねたのは、彼女の背後に立つ女性だった。少女と同じ青みがかった黒髪を腰まで伸ばし、やはりその体にはトーガを纏っている。もっともこちらは、きちんと採寸があっているようだが。

 

「正直なところ……ちょっとだけ、緊張はしてます」

 

 そう言って少女は目を瞑ると、はやる心を落ち着かせるかのように深呼吸をする。それから彼女は背後の女性へと振り返り、静かにほほ笑んだ。

 

「でも、大丈夫です。私は、1人じゃありませんから」

 

「……そうか。では号令を」

 

 女性が微かに和らいだ表情で頷くと少女は再び前を向き、慣れない様子で声を張り上げた。

 

「せ、戦闘に移りますっ! 皆さん、出てきてくださいっ!」

 

 彼女が叫んだその瞬間、偶然にも吹き込んだ突風によって峡谷内の砂塵が舞い上がり、2人の姿が束の間見えなくなる。

 

 テラフォーマーたちは視界が砂に覆われても、進軍を止めなかった。砂の向こう側から同胞の悲鳴と共に肉が砕ける音が聞こえても、やはり進軍は止めなかった。

 

 だが、砂塵が晴れて視界が明瞭になった瞬間、テラフォーマーたちは自らの目が捉えたその光景に足を止めた。

 

 彼らの眼前には、人間達がいた……いや、最初から少女と女性がいたという意味では、この表現は正確ではないだろう。

 

 正しくは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 性別も、年齢も、人種もバラバラな人間がざっと20人ほど。共通点といえば青みがかった黒髪であることと、全員が裸であることくらいで、それ以外は本当に統一感がない。

 

 青年に壮年、男性に女性、欧米人にアジア人……果ては全身を青黒い体毛に覆われた獣人の様な姿の者まで、まさしく多様性に富んだ『人間』の集団が、そこに立っていた。

 

「じょう」

 

 立ち止まった軍勢の中から、1匹のテラフォーマーが飛び出した。突如として現れた人間達が何者なのか、確かめるためである。

 

 大地を蹴った彼は一瞬にして少女との間合いを詰め――しかしその直後、圧倒的な『質量』による一撃をその身に受け、肉片と体液を飛び散らせながら圧死した。

 

 ――彼を叩き潰したのは、少女の右腕だった。

 

 とはいえ、果たしてそれを『腕』と形容していいのだろうか? テラフォーマーに打ち付けられたソレは、先程までの可愛らしい少女の細腕ではなく、巨大なハンマーを思わせるグロテスクで強靭な肉塊へと変化していたのだから。

 

 

 

「団の皆さんが来るまで、ざっと10分ほど……それまでに、全ての目標を討伐します」

 

 

 

 変形した右腕を元の形状へと戻しながら少女が言うと、彼女の周囲に立つ人間達が口々に返事を返した。それと同時に、彼らの体に異形の器官が次々と現れ始める。

 

 ある者は、尾てい骨部から鞭のようにしなやかな尾が生える。

 

 ある者は、両足の脛に出刃包丁のように鋭く頑丈な鉤爪が生える。

 

 ある者は、肘から先が木の枝のように分岐して、8本の腕が生える。

 

 ある者は、専用武器と思しき手中の筒状の装置を介して、肉と骨の槍を手中に生成した。

 

 少女もまた、腰に生成した4本の触腕をだぶついたトーガの裾から露出させると、静かにテラフォーマーたちを睨みつけた。

 

「……ここから先には、1匹たりとも通しません」

 

 

 

 

 

 

 

 アーク第4団団長 シャウラ・グレイディ

 

 

 

 MO手術『公式登録』ベース“軟体動物型” ミミックオクトパス

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 

「ほれ、踏み込みが甘いぞ」

 

 ――アーク西側。

 

 自身の間合いへと踏み込んだ力士型のテラフォーマーに、老人は白と黒の甲皮で覆われた腕を振るった。

 といってもそれは相手を殺すための『攻撃』ではなく、相手の出方を見るための『牽制』ですらなく――相手を突き飛ばして距離をとるためだけに行われた『動作』。

 

 だがそれを受けた瞬間、力士型の重く巨大な体は、勢い良く吹き飛んだ。彼の体はそのまま崖の壁面に叩きつけられ、高所から落とした生卵のように砕け散る。崖に新しく刻まれた白い染みに、老人は思わず頭を抱えた。

 

「いかん、また加減を間違えたか……どうにも慣れんなぁ、これは」

 

 重苦しくため息をつきながら、老人は周囲を見渡した。彼のいる峡谷は、テラフォーマーたちの肉飛沫によって一面『白』に染まっていた。遠目に見れば、雪が降り積もったようにも見えるだろう。

 

「季節外れじゃが、ホワイトクリスマスと思えばこれも――いや、ないな。飛び散った臓器がイルミネーションとか、(わっぱ)が泣き叫ぶわ」

 

 既に、彼が相手をしたテラフォーマーの部隊は1匹残らず肉飛沫となり果てていた。

 数に物を言わせた人海戦術、銃による遠距離からの頭部狙撃、最終手段である燃料爆弾の投下――これら全てを平然と受け止められた末に、3000匹の軍勢は成す術なく壊滅したのだ。

 

「ちと物足りんが……ま、準備運動としてはこんなもんじゃろ」

 

 そう言うと老人はその場にどっかりと腰を下ろし、腰に下げた水筒の蓋を開ける。中身はスポーツドリンク。以前の飲み会でグラフィアスに水分補給を指摘されて以来、運動後には欠かさず飲んでいるものだ。

 

「平和なもんじゃのぉ……退屈過ぎて死にそうじゃわい。早いとこ迎えに来てもらわんと、別の迎えが来るかもしれん」

 

 晴れ渡った青空を眺めながら、老人は()()()()()()()()()()()()()()()()()()のほほんと呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 アーク第5団団長 サウロ・カルデナス

 

 

 

 MO手術『公式登録』ベース“昆虫型” コーカサスオオカブト

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

「ホラホラ、こっちよ」

 

 突風が駆け抜ける。彼がその手に握った刀を一振りすれば、軌道上にあった数十の首が宙に舞う。

 

「どこ見てるのかしらん? アタシはここよ」

 

 暴風が吹き乱れる。彼が刀を振るったその余波で、周囲にいた数十のテラフォーマーの肉体が大きく抉れた。

 

「外れ。ちょっとアンタ達、ちゃんと尾葉のお手入れしてんの?」

 

 爆風が吹き荒れる。彼が駆け抜ければ、また更に数十のテラフォーマーが挽肉と化した。

 

 

 

「ハイ、おしまい。アタシに触れたかったら、もっといいオトコになって出直すことね」

 

 ――接敵から僅か7分。アークの東側に回り込んだテラフォーマーは全て、地に伏せていた。

 

 3000の屍で黒く染まる丘の上、ただ1人立っているのは、ゴテゴテのメイクを顔に施した、坊主頭の人物。彼は抜き身の刀を鞘へと納めると、腕時計で時間を確認して「あらやだ!」と叫んだ。

 

「アタシったら、張り切りすぎ! まだ合流時間まで10分もあるじゃない……あーあ、やっちゃったわぁ……」

 

 ――どうやって時間潰そうかしら?

 

 がっくりと肩を落としたその時、彼の耳は背後からエンジン音が徐々に近づいてきていることに気が付いた。

 

「あらん?」

 

 彼が振り向いた先には、到着までもう少しかかるだろうと思われていた救助用の装甲車。装甲車が急ブレーキをかけて止まると荒々しく車の扉が開き、5人の団員が姿を現す。顔面にタトゥーのある者、目元に傷のある者……いずれも人相の悪い男たちだ。

 

 ――それもそのはず。アーク第6団に所属する者は、アネックスへ派遣された潜入員を除けば、全員が『犯罪者』なのだから。

 

 裏切りの心配はないとクロードによって太鼓判を押されているが、マフィアや殺し屋など、明らかに表社会では目にすることのない肩書の者が揃っている。

 

 人を殺すことに抵抗を覚えるようなカタギの人間は、この団にはいない。驚いたようにこちらを見つめる坊主頭の男性に、団員たちは口を開き――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ママぁ~! 迎えに来たわよ~!」

 

「きゃー、すごーい☆ もうやっつけちゃったのねぇ!?」

 

「さすがママねぇ! アタシ達じゃ真似できないわァ!」

 

 

 

 口々にオネエ言葉で叫びながら、坊主頭の男性へと駆け寄った。

 

 

 

「んまぁ! ちょっとちょっと、あんた達どうしたのよ!? さっき紫藤ちゃんから入った通信じゃ「10分くらいかかる」って話だったのに!」

 

 坊主頭の男性が駆け寄ってくる団員に嬉しそうに訊けば、顔にタトゥーがある男性が「決まってるじゃないの!」と答える。

 

「ママは3000匹くらい絶対に神速で仕留めちゃうだろうってことで、ハッチが空いた瞬間からアクセル全開できたのよ! トニーの提案よ、褒めてあげて頂戴!」

 

「んもぉ~、トニーってば超ナイス! おかげで暇しなくて済んだわ!」

 

 死に絶えたテラフォーマーたちの上で、オネエ言葉ではしゃぐ人相の悪い男たち。控えめに言って、目を疑う光景である。

 

 ひとしきりガールズ(?)トークに花を咲かせた後、坊主頭の男性は「それじゃ!」と声を張り上げた。

 

「あんた達の気遣いを無駄にしないためにも、早いとこ向かいましょうか! ……準備はいいわね?」

 

 その瞬間、彼らの纏う空気が一気に張りつめた。全員がその瞳に冷徹な殺意の眼光を湛え、口元に凶悪な笑みを浮かべる。

 

 返事は不要だった。その表情だけで彼らの『是』という返事をくみ取った彼は、口を開いた。

 

「……アタシ達の救助目標は第6班。班長は皆大好きイケメンだから、たっっっっぷり可愛がってあげましょ♡」

 

「きゃー、楽しみぃ!」

 

「はぁん、胸がドキドキしすぎて死んじゃいそう!」

 

「もう、トニーったら奥手なんだから! 女の子ならもっとガツガツいかなきゃダメよォ!」

 

 嬉々として装甲車へと戻っていく団員たち。その背を見ながら、坊主頭の男性は静かに息を吐く。

 

 

 

 ――何を企んでいるのかは知らないけれど……そう何でもかんでも、思い通りに行くと思わないことね。

 

 

 

「――シモンちゃんの邪魔だけは、絶対にさせないわよ」

 

 

 

 

 

 

 

 アーク第6団団長 オスカル・新界(しんかい)

 

 

 

 MO手術『公式登録』ベース“節足動物型” オオゲジ

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 

「……よくできました。偉いわよ、あなた達」

 

 周囲の景色を一通り俯瞰すると、モニカ・ベックマンは満足そうに頷いた。

 

 その背後に控えているのは、3000匹のテラフォーマー達。生気を感じさせぬ虚ろな目つきをした彼らは、本来ならば抹殺対象であるはずのモニカに見向きもせず、ただぼんやりとその場に立っていた。

 

「それにしても、そろそろ立っているのも疲れたわね……椅子を用意して頂戴な」

 

 モニカの言葉に1匹のテラフォーマーが進み出ると、膝を折って四つん這いになる。「ありがと」と言ってモニカはその背に腰を下ろすと、口元に妖しげな笑みを浮かべた。

 

「さて、敗軍の指揮官さん? 貴方、これからどうしてほしい?」

 

 モニカの視線の先にいたのは、腰布のテラフォーマー。しかし背中の翅は引きちぎられ、両腕は虚ろな目のテラフォーマー2体に取り押さえられている。

 

 

 

 ――彼は後方で待機していた部隊の指揮官を務めていた個体だった。

 

 

 

 彼の部隊に与えられていた任務は、各部隊から送られてくる情報の管理と、各部隊への増援の派遣だった。しかし、各方向から攻め込んだ他の部隊は一切の連絡を寄越さず、状況を把握するために送り込んだ斥候も戻らない。

 

 そんな折に彼の下へと舞い込んできたのが、『南東から進軍をしていた部隊が帰還した』という報告だった。

 

 ひとまずは彼らから情報を集めるべき、と彼は南東部隊を隊列の内側まで招き入れ……そして()()()()()()()()

 

 テラフォーマーたちは基本的に、個の利益を追求するという考えを持たない。ゆえに、裏切りという概念が彼らにはない。結果として同族が隊列の内部で起こした突然の反乱に対処できず、呆気なく壊滅したのだ。

 

「1つ、勉強になったわね。過ぎた合理は、時に非合理なものよ。あなた達の個と言う概念を持たない思考、経営者的にはぜひとも採用したいところなんだけど……もうちょっと、茶目っ気があってもいいんじゃないかしら」

 

 モニカはそう言って、腰布のテラフォーマーを見下ろした。

 

「だから、私が教えてあげるわ。とびっきりの悪い遊びと、それに溺れる快楽をね……彼の口を開けさせなさい」

 

 彼女の指示を受け、新たに3匹のテラフォーマーが腰布のテラフォーマーへと近づき、強引にその口を開けさせる。モニカは腰かけていたテラフォーマーの背中から飛び降りると、捕らわれたテラフォーマーの下まで歩み寄った。

 

 それを見た腰布のテラフォーマーは拘束を振りほどこうと力を込めるも、5匹がかりで拘束されては成す術がない。無理やり口を開けられたテラフォーマーに、モニカは蠱惑的なほほ笑みを浮かべた。

 

「ああ、怖がらなくてもいいわ……すぐに気持ちよくなるから」

 

 そう言うと彼女はテラフォーマーの口の上に人差し指を伸ばし、そこから何かの雫を垂らし始めた。

 

 

 

 ――ポタリ、ポタリ。

 

 

 

 蜜の様な粘性を帯びたそれはテラフォーマーの口の中へと滴り、静かに喉の奥へと流れていく。すると間もなく、腰布のテラフォーマーの体に異変が起こり始めた。

 

「――『快感』こそが、生きた証。押し寄せる幸福感に溺れる悦びをしるといいわ」

 

 テラフォーマーの息が荒くなり、その全身はまるで絶頂を迎えた乙女のように小刻みに痙攣する。瞳孔が開いた目はあらぬ方向をキョロキョロと見つめ、その顔には締まりのない恍惚とした笑みが浮かぶ。

 

「お味はいかが? ……もう放していいわよ」

 

 モニカが言うと、取り押さえていたテラフォーマーたちが一斉に手を離す。だが、腰布のテラフォーマーに逃げ出すような素振りはない。それどころか彼は、痙攣する全身でモニカの下まで這っていく。まるで、先程彼が得た極上の『蜜』から離れたくないとでもいうかのように。

 

「いい子ね――いえ、悪い子かしら? まぁ、どちらもいいのだけれど」

 

 ――さぁ、立って。

 

 モニカが耳元で囁くと、腰布を巻いたテラフォーマーは反抗する様子も見せずに立ち上がった。

 

人間(わたし)テラフォーマー(あなたたち)みたいな高等生物にとって、己を捨てるということは生きることを諦めることに他ならない。その虚しさは私が誰よりも知っているし……その無意味さは、彼が教えてくれた」

 

 呟いたモニカの脳裏に浮かぶのは、今よりもまだ幼いシモンの顔。どん底の様な日々を過ごす中で絶望すらも忘れかけた彼女に心を教えてくれた、誰よりも大切な人の姿。

 

「ついて来なさい、テラフォーマー。私に隷属するなら、極上の至福を約束するわ……その代り、ちょっとだけ私達のために戦ってもらうけど」

 

 ――これ以上、私達からは何も奪わせない。

 

 静かなる決意の炎を胸の奥に燃やしながら、モニカは息を吐く。既にそのための種は撒いた。果たして吉と出るか凶と出るかは分からないが……あとはもう、上手くやるだけだ。

 

「……さ、アークに戻るわよ。あなた達の役割は、これから全員の救助が完了するまで、私と一緒に本艦を守ること。上手にできたら、さっきよりももっと凄いのをあげる」

 

 そう言って踵を返し、赤いドレスの女性は来た道を引き返し始める。悦楽の虜となり、ヴィジョンを失ったテラフォーマーたちを引きつれて。

 

 

 

 

 

 

 

『本艦護衛』アーク第7団団長 モニカ・ベックマン

 

 

 

 MO手術『公式登録』ベース“植物型” コカノキ

 

 

 

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 

 

「おーおー……こりゃまた派手にやったなぁ、団長も」

 

 バスを思わせる大型装甲車の運転席。窓から外を眺めていた髭面の大男は、目に飛び込んできた光景に楽し気に呟いた。

 

 装甲車の外、大地を黒と白に染め上げていたのは、テラフォーマーたちの屍だった。周囲の地面や崖面には刻まれた破壊痕が、この場で起こった戦いの熾烈さを――否、この場で起こった殺戮の凄惨さを物語っている。

 

「普段はコスプレさせられたり、メシのおかず取られたりで覇気のない団長だと思ってたけど……本気出すとこんなことになるのか」

 

 意外そうな声音で呟いたのは、後部席に腰掛けている勝気そうな少女だ。

 

 まだこの団に配属されて日が浅い彼女の脳裏にちらつくのは、およそ強さとは縁のなさそうな上司の姿。彼女の中ではどうにも、うだつの上がらない彼とこの惨状が結びつかなかった。

 

「……つーかそもそもの話なんだけどさ」

 

 そう言って少女は、装甲車内にいる自分以外の4人の団員――髭面の大男、太った中年男性、秘書風の青年、髪を結った青年に声をかける。

 

「一体何のベースで手術を受ければ、こんなことになんの?」

 

 彼女が指さした先に転がるのは、テラフォーマーたちの死体。しかし異様なのは、それらの死因に統一性がないことだった。

 

 ある死体は頭部を叩き潰されて地面に転がっている。

 

 またある死体は糸で首を締め上げられ、大岩にその体を吊り下げられている。

 

  またある死体は、その全身に黒い焦げあとをつけ、焼けただれた傷から煙を吹き上げてこと切れている。

 

  刺殺、斬殺、絞殺、撲殺、毒殺、射殺、圧殺、爆殺、焼殺、溺死、感電死――およそ考えうる限り、ありとあらゆる方法で虐殺された3000の悪魔たち。その光景はまるで地獄の最下層がこの世にはみ出てきたかのようで、少女は戦慄を禁じえない。

 

「……一応、本人の言を借りるなら」

 

 不思議そうな顔の少女の問いに答えたのは、彼女の対面の座席に腰掛ける秘書風の青年だった。

 

「『カマドウマ』だそうですよ」

 

「「「こんな便所コオロギがいてたまるか」」」

 

 少女と太った男性、髪を結わえた団員の声が重なる。それを聞いた運転席の大男は、思わず吹き出しながら後部席の4人に声をかけた。

 

「ま、団長のベースが何であれ頼りになるってことに変わりはないだろ! 他の団長達に比べりゃ、ウチの団長はまだまだ可愛げのある――おっと」

 

 言いかけた言葉を途中で切ると、彼はブレーキを踏み込んだ。何事かと視線を送る団員たちに、大男は顎で前方を示して見せる。

 

 フロントガラスの向こう側に広がるのは、死と沈黙に支配された峡谷の出口。その先には悪魔の骸を積み上げた山が築かれており――その頂に、この空間の主がポツンと立っていた。

 

 

 アーク第2団団長 シモン・ウルトル

 

 

 

 MO手術『公式登録』ベース”昆虫型” カマドウマ

 

 

 

「全員、降りるぞ」

 

 

 

 大男はそう言うと、脇に置いてあった銃――『対テラフォーマー10mm低反動ライフル』を手に取り、車のドアを開けた。他の団員たちも各々銃火器を持ち、その後に続く。

 

 シモンは団員たちに背を向けるように立ち、死体の山の上でぼんやりと空を眺めていた。普段通りの中華拳法服に、顔を覆い隠すフルフェイス・ヘルメット。こげ茶色の甲皮に覆われたその手には、彼の専用武器と思しき一本の槍が握られている。

 

「おーい、団長! 迎えに来たぞー!」

 

 大男が声をかけると、シモンは今気づいたとばかりに団員たちを振り返った。

 

「皆……? あ、もうそんな時間か」

 

 どうやら、装甲車が近づいていることにも気づいていなかったらしい。シモンは少しだけ驚いたように呟くと、ひょいと死体の山から飛び降りた。

 

「珍しいですね、団長が我々に気付かないなんて……何か、考え事でも?」

 

「ああ、うん……ちょっとね」

 

 秘書風の青年の言葉に、シモンはヘルメットの下で苦笑いを浮かべて頷いた。それを見た大男が「おいおい」と呆れたように声を上げる。

 

「頼むぜ、団長ォ……油断した拍子に襲われて死ぬような真似だけはしないでくれよ? あんたが死ねば、全体の士気はがた落ち待ったなしだ」

 

「はは……ごめん。次から気を付けるね」

 

 無遠慮な大男の言葉に気分を害した様子もなく、シモンは素直に謝罪の言葉を口にした。横からそれを見ていた少女が、「やっぱり結びつかねえ……!」と眉間に指をあてた。

 

「よし。それじゃあ行こうか、皆……ボク達の救助対象は、日米合同第2班だ」

 

 切り替えるように深呼吸をしてから、シモンはゆっくりと口を開いた。団員たちが姿勢を正したのを見て、シモンは

 

「合流するまでの時間は、キャロルちゃんが稼いでくれる。ボク達は合流次第速やかに、第2班の班員――特に火星での陰謀の起点となる『ファースト(ミッシェルさん)』、『セカンド(燈くん)』『エクストラ(百合子ちゃん)』の護衛に移る。さぁ、皆――」

 

 

 

 

 ――西暦2620年、4月12日。救助艦アーク1号の団員89名、7手に分かれて行動開始。

 

 アネックス計画プランδに則り、上空のアネックスから110人の乗組員たちが脱出するまで、あと30分。

 

 精鋭ぞろいの各団を率いるアークの団長達は、任務開始の号令を告げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――隊列(なら)べ! ()るぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なぁにこれぇ?」

 

「……むしろそれは、私が訊きたかったんですが」

 

 タブレット端末に録画された戦闘映像を見終えたアダムの感想に、プライドが言った。

 

「一応、クロード博士のコンピュータへのハッキングで得られた結果として、彼らの公式登録されたベース生物のリストは得られましたが……」

 

「うん、ダミーだねこれ」

 

 プライドに向かって端末を放ると、アダムはうんざりしたようにため息を吐いた。クロードの時と同じだ、厳重に厳重にロックをかけた『いかにも』と言わんばかりのファイルに、精巧な偽情報を仕込んでおく。

 

 なるほど、あまり生物に詳しくない者ならば、恐らくこのリストでも誤魔化せただろう。だが、アダムは生物学のスペシャリスト。彼の目を欺くには、そのリストは少々役者不足であった。

 

「ま、多分これは僕達向けじゃなくて、『ち』から始まってどっちでも行けちゃう某国とか、某一族への対策なんだろうけど……しっかし分かんないなぁ。何のベースだろ、これ?」

 

 言いながらアダムは考え込み……直後、「まぁ、いっか!」と思考を止めた。

 

「何であろうと、ぶっ殺しちゃえば問題ないし! ……さて、それじゃあプライド。()()()()()()()()

 

「はっ……」

 

 プライドが頷いたのを確認すると、アダムは「そうだな、まずは手始めに……」と呟いてから、口を開いた。

 

 

 

 

 

 

「第1班にはエロフォーマー部隊を送り込んで」

 

 

 

()()()()を施したテラフォーマー達を、第2班が着陸する近辺の湖に放流し」

 

 

 

「第3班には奇形部隊を派遣して」

 

 

 

「第4班はノータッチ」

 

 

 

「薬中部隊は第5班に回して」

 

 

 

「第6班には、数の暴力を味わってもらおう!」

 

 

 

 

 

 

 

「とりあえず、大まかな流れはこんな感じで。細かい部分の裁量は、君に任せるよ」

 

「……御意に」

 

 頷いて立ち去るプライドを見送って、アダムは肉眼で目視できる程の位置まで落ちつつあるアネックスと、地平線の向こうにいるだろうアークを見つめた。

 

「君たちは『地球を嘗めんな』ってよく言いたがるけど……それにちなんで僕も1つ、カッコいい台詞で決めちゃおうかな」

 

 そう言って、アダムはピッと空中を指さした。

 

 

 

 

 

 

 

 

「内ゲバって、お互いに足を引っ張り合って、始まる前からぐっだぐだの人間が……火星を嘗めるなよ! ――さぁ、開幕だ」

 

 

 

 




【オマケ①】 強さ談義

シモン「ちなみに今回の戦闘シーンを見て『誰が勝てるんだよこんなの!?』と思ったかもしれないけど……多分アシモフさんなら、半分以上の団長に素手で勝てるんじゃないかな?」

テラフォーマーズ「!?」

アシモフ「おい、そのバケモノ見るような目やめろ」


【オマケ②】 ベース予想お待ちしています(難易度:ルナティック)

クロード「さぁ、ベースを予想してください……ただし、今回は偽装ベースが ほ と ん ど あ て に な り ま せ ん が ね !」

七星「……なぜ彼はあんなにやさぐれているんだ?」

百燐「お眼鏡に叶う偽装ベースが見つからなかったのですよ。どうかお気になさらず」





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第37話 SPREAD OUT 散開







 

 ボンっ、とエンジンが噴気の唸りを上げ。

 

 次の瞬間、墜落しつつあるアネックス1号から、6機の高速脱出機は各々定められた方角へと飛び出した。

 

 ――アネックス計画『プランδ』。

 

 アネックス本艦での帰還が困難になった際に発令されるこのプランは、110人の乗組員を6つの班に振り分け、高速脱出機によって別々の方向へ散開。その後、再び本艦へと集合した後、ウイルス研究を続けながら地球からの救助艦を待つというもの。

 

 着陸前のテラフォーマーの襲撃、乗組員の中に紛れ込んでいた6人の潜入護衛員(サイドアーム)、そして既に到着してる救助艦など、やや変則的な状況下ではあったが――()()()()()()()()()、プランδは発令された。

 

 

 

 各国が派遣する救助艦の到着まで、残り39日。

 

 アーク1号より出撃した救助団の各班合流まで、残り――。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ――レーダーに反応なし、酸素濃度も良好。

 

「よし、もうマスクをとってもいいぞ」

 

 運転席からかけられたミッシェルの声に日米合同第二班の面々は一斉に機内用のマスクを取り外し――。

 

「お、おお……」

 

「息苦しくない……!」

 

 そして、自身の肉体の変化に気が付いて驚嘆の声を上げた。

 

 テラフォーミング計画で火星に放たれた苔は科学者たちの目論見通り、この惑星で酸素を算出していた。しかし計画の実行から500年が経った現在でも、その供給が生物の生存に適しているだけの量を賄っているとは言えなかった。

 

 2620年現在、火星地表の平均酸素濃度は概ねアンデス山脈の頂上と同程度。これは通常の人間ならば、いつ高山病を発症してもおかしくない数値。そんな環境にありながら、彼らは全く息苦しさを感じていないのだ。

 

「すごい……あんまり実感なかったけど、変態しなくても本当に手術の効果って出てるんですね」

 

「人体改造手術なんて仰々しい名前つけてるぐらいだし、そりゃな」

 

 百合子の呟きに、自身もマスクを取り外したミッシェルが言葉を返す。

 

「学生の頃、学校で体力テストとかやっただろ? 今やれば、まず間違いなく自己ベスト更新できるぞ。何しろ、体が細胞レベルで別物になってるからな……なぜか体つきまで変わっている奴もいるわけだが」

 

 ミッシェルの言葉で、脱出機内の班員たちの視線が一斉に一ヶ所へと向けられる。その視線の先、注目の的となったキャロルは羞恥心を誤魔化すように笑い声を上げた。

 

「あ、あははは……あ、あんまり見ないでくれると嬉しいなぁ」

 

 ――しかし、隠しきれず。

 

 日焼けで小麦色のキャロルの肌は、林檎のような赤に染まっていく。思わず彼女が体を縮こまらせると、平時よりも大きく膨張した彼女の胸部が揺れ、班員――特に男性班員の視線を釘付けにする。

 

「……オイ」

 

 そんな緊張感のないややピンクな空気は、ミッシェルの低い声で一気に霧散した。自分達の置かれた状況を思い出した班員たちは、キャロルも含めて一斉に姿勢を正す。

 そんな彼らの様子にミッシェルは思わず深くため息を吐くと、眉間を押さえながら口を開いた。

 

「まぁ、色々と聞きたいことも言いたいこともあるが。細かいことはひとまず保留だ」

 

 ――だから、これだけ聞かせろ。

 

 そう言うとミッシェルは、キャロルの瞳を真っすぐに見据える。

 

 

 

「お前は『私達の味方』で『戦力』。そう考えていいんだな?」

 

 静かな言葉だった。だがその言葉には、決して虚偽の回答を許さないという強い意志が込められていた。

 

「――勿論です、ミッシェル副艦長」

 

 それを感じ取ったキャロルは、どこか緩んでいた己の精神をもう一度引き締め直すと、しっかりと頷いた。

 

 真剣さには真剣さで以て応える。

 

 それが彼女のポリシーだった。例え『アネックス計画の参加者を守る』という大義名分があろうとも、自分達がしていたことは紛れもない内通である。

 

 ミッシェルは優しいが、決して甘い人間ではない。そしてキャロルもまた、筋の通らない行為は大嫌いだった。

 

「『救助隊が合流するまで、第二班を護衛する』。それがアタシの任務だし、皆のことは本当に仲間だと思ってるから――だからアタシは、皆を守る。神に誓って、これだけは絶対に違えません」

 

「……そうか」

 

 キャロルの返答に、ミッシェルはただそれだけ返した。それから微かに表情を和らげると、彼女は運転席に取り付けられた電子パネルへと向き直った。

 

「私はこれから他班と連絡を取る。キャロル、お前は燈と脱出機周辺を警戒しとけ……任せたぞ」

 

「了解っ!」

 

 キャロルは威勢よく答えると立ち上がり、ミッシェルの背中に敬礼してから、意気揚々と脱出機の出入り口へと向かう。そんな彼女を慌てて追いかける燈の背に「薬、忘れんなよ」と声をかけながら、ミッシェルは電子パネルを操作した。

 

「さて、他班と通信が繋がるといいんだが――」

 

 ミッシェルは祈るように呟くと、画面に表示された『Call』ボタンをタッチした。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「――外れ引いたかもな、こりゃ」

 

 脱出機の外に広がる光景に、ジョセフは呟いた。

 

 アネックス1号を脱出したヨーロッパ・アフリカ第6班。彼らを待ち構えていたのは100匹以上のテラフォーマーと、彼らが用意していた巨大な網であった。

 

 多少のテラフォーマーの群れならば強引に突破できる速度で進むことができる高速脱出機だが、大勢で待ち構えられた上に、進路上に大掛かりな罠を設置されてはどうしようもない。結果として彼らの脱出機は、ゴキブリ達の狙い通りにまんまと網にかかってしまったのだ。

 

 まさに袋のネズミ、状況は最悪と言ってもいいだろう。

 

「嘘だろ、なんでゴキブリが……!?」

 

 第6班が抱える班員数はアネックスの全班内で最も多く、当然在籍している非戦闘員の数も最多である。そんな彼らに、この数のテラフォーマーたちに囲まれて平常心を保てという方が無茶な話。非戦闘員たちの間に動揺が走り――。

 

 

 

「まぁこう言うときのために、この  ク  ー  ル  な  私と、その仲間たちがいるわけですがね!」

 

 

 

 張りつめたその空気は、カリーナの緊張感のない声でぶち壊された。

 

「ほら、マルシアにムテバ、出番ですよ!」

 

 彼女は振り返ると、懐から取り出した変態薬――脱出する際、荒れた倉庫に立ち寄ってちゃっかり持ち出しておいた物だ――を、後部座席に座る第6班の主要戦闘員(トップランカー)2人へと放り投げた。

 

「ちょっと、アタシ達までイロモノ扱いするのやめてもらえない?」

 

 それを右手でキャッチしながら、呆れたようにマルシアが言う。

 

 ――手術ベース『麗しき水の狙撃手(テッポウウオ)』、マーズランキング11位。この肩書が意味するのは、彼女が班長のジョセフに次ぐ第6班の主戦力であるという事実。その顔には微塵の恐怖の色もなく、脱出機を取り囲むテラフォーマーなど歯牙にもかけていない様子だ。

 

「というかカリーナ……まずお前、戦えるのか?」

 

 マルシアの隣に座っていたもう1人の戦闘員、ムテバが怪訝な声を上げる。手術ベースの『蛮勇の凶獣(ラーテル)』を彷彿とさせる、強面の男性戦闘員だ。マーズランキングはトップランカー中では14位と低めながら、一対一の肉弾戦ならマルシアをも凌ぐ戦闘力の持ち主だ。

 

「お前の運動訓練の成績、班内でも普通に低かった気がするんだが」

 

「ああ、そこはご心配なく。私も手術ベースも、確かに運動神経があるタイプではありませんが――」

 

 どこか心配そうなムテバを安心させるように言いながら、カリーナはトローチ型――刺胞動物用の変態薬を口に含んだ。

 

 

 

 

 

「――その分、皆さんよりも()()()()()()ことは得意なので」

 

 

 

 

 

 途端、ベース生物の特性を発現させた彼女の体が、極細の触手のベールを纏った。彼女の周りで揺れる黄緑色のそれは一見美しく、しかし触れた瞬間の死を想起させる毒々しさも同時に孕んでいる。

 

 戦闘員の持つ強さとはまた異質な危険性。それを肌で感じ取った第6班の班員たちは、思わず身を固くした。唯一物怖じしていないのは、一度変異した彼女の姿を見ていたマルシアくらいのものだった。

 

「まぁそういうわけで、皆さんどうかご安心を! 初っ端から散々な展開ですが、この私が――この ク ー ル ビ ュ ー テ ィ な 私 が ! 皆さんをちゃーんと、任務完了まで守って見せますから!」

 

 そう言って彼女はいつも通りに笑うと、脱出機の操縦席に座るジョセフへと歩み寄った。

 

「さぁ、ジョセフ班長! まずはクールに、ゴキブリ共の掃討を済ませましょう! サンプル200体をクールに確保すれば、ミッシェル副艦長からの評価も爆上がり間違いなし、ですよ!」

 

 

 

「――うん、そうだね」

 

 

 

 カリーナの言葉に頷き、ジョセフは己の専用武器である西洋剣の柄に手をかけた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ――みんな、大丈夫かな?

 

 脱出機の外でテラフォーマーと激しい戦闘を繰り広げている第1班の戦闘員たちを、シーラ・レヴィットは不安げに見つめた。

 

 

 

 アネックス1号脱出直後、日米合同第1班は着陸地点で待ち構えていたテラフォーマーによる襲撃を受けた。

 

 その数は、およそ50匹。同時時刻に攻撃を受けた第6班に比べれば数自体は少ないものの、その襲撃が十分な脅威であることに変わりなかった。

 

 

 

「全戦闘員、変態! 一気に叩くぞ!」

 

 

 

 小吉の判断は迅速だった。これだけのテラフォーマーとの戦闘ともなれば、例えトップランカーであっても一瞬の隙で命を落としかねない。万全を期すため、彼が非戦闘員に機内で身を隠すように指示し、戦闘員たちを率いて出撃した。

 

 それが、つい数分前のこと。現在、班員たちの奮戦によってテラフォーマーたちは着実に数を減らしているものの、未だに戦闘自体は続いている。戦う術のない自分達は、脱出機内に身を潜めていることしかできない。

 

「はぁ……」

 

 シーラの口から、無意識にため息を零れた。彼女の幼馴染であるマルコスやアレックス、U-NASAで出会った燈や大河は、戦闘員として前線で役に立っている。

 

 では、自分はどうだろうか。非戦闘員と言っても、その層は厚い。エンジニアやウイルス研究員として能力を発揮している者もいる一方、自分にそれらの技術や知識はない。精々できることといえば、雑用係が関の山である。

 

 ――自分は、正しくこの班の仲間でいられているのだろうか?

 

 数匹のテラフォーマーをまとめてなぎ倒す幼馴染の姿眺めながら、シーラは自問する。

 

 自分は彼らのお荷物になっていないだろうか? この班の役に立てているのだろうか? この火星での任務で、自分が果たせる役割などあるのだろうか――?

 

 

 

「シーラちゃん、大丈夫?」

 

「へっ?」

 

 掛けられた声に、シーラの意識が現実に引き戻される。声の方へ顔を向ければ、隣に座っていた女性班員――中之条江莉佳(なかのじょうえりか)の顔が視界に入った。

 

「なんだか、ぼうっとしてるみたいだったから。気分、悪かったりしない?」

 

 どうやら、自分の身を案じて声をかけてくれたらしかった。医療要員である彼女が思わず声をかける程、自分の表情は暗かったのだろう。こんなことではいけないと気を引き締め、シーラは首を横に振った。

 

「大丈夫です、私は全然。ちょっと考え事をしてて……心配させて、ごめんなさい」

 

「そう? ……困ったことがあったら、遠慮なくいってね」

 

 そう言ってエリカが笑いかける。事情を深く聞かないのは、彼女なりの気遣いなのだろう。それがシーラにはありがたかった。

 

 シーラは優しい同僚に感謝を述べるために口を開き――しかし飛び出したのは、別の言葉だった。

 

 

 

「危ないッ!」

 

 

 

 咄嗟にシーラは叫び、状況を飲み込めていないエリカの腕を強引に引っ張る。勢い余って床に倒れ込む2人。周囲の班員たちが何事かと視線を向けたその瞬間――ガラスが破れる音が響いた。

 

「ひっ……!」

 

 エリカが息を吞む。つい数秒前まで自分達が座っていた座席にはガラス片が突き刺さり、彼女の頭があった空間にはテラフォーマーの拳が伸びていた。シーラが助けなければ、今頃自分の頭はトマトのように潰されていただろう。

 

「じょうじ」

 

 ガラスに空けた穴から腕を引き抜き、左腕に紐を巻きつけたテラフォーマーが鳴く。接近に気が付かなかった理由は至って単純、レーダーが生体反応を感知しなかったためだ。

 

 テラフォーマーは高速脱出機の屋根に手をかけると強引にねじり外し、機内への侵入経路をこじ開けた。

 

「っ、なんで……!?」

 

 そう言いかけて、シーラはその言葉を飲み込んだ。命の危機が目前に迫っている時、優先すべきは『原因の解明』ではなく『現状の打開』。これもまた、彼らの教官であったリーにさんざん言われてきたことだ。

 

 ――どうする?

 

 この場にいるほとんどの班員は、恐怖で体が硬直してしまっている。小吉やマルコスが脱出機への奇襲に気付いたようだが、援護は恐らく間に合わない。この状況を何とかできるのは、自分だけだ。

 

 ――何か、この状況を打開できるものは……!?

 

 周囲へ視線を走らせたシーラの目に、1つの物が映りこむ。それは本来、非戦闘員である彼女とは無縁のもの。万が一の場合に備え、本当に最低限の使い方を教えられただけの武器。

 

 しかし、シーラはそれに手を伸ばすことを躊躇わなかった。彼女はそれの持ち手をしっかりと握りしめると、沸き上がる恐怖を押さえつけて声を振り絞る。

 

「タ、ターゲット――」

 

 ――テラフォーマーが狙う対象には、優先順位がある。

 

 1つ、この生物は女性を優先して狙う。1つ、この生物は武器や道具を持っている者を優先して狙う。

 

 この二つの条件を満たしたシーラに、自然とテラフォーマーの危害意識は向けられ――そして、次の瞬間。

 

 

 

 

 

「――捕獲!」

 

 

 

 

 

 シーラの手に握られた『対テラフォーマー発射式虫取り網』から、生け捕り用の捕獲ネットが放たれる。

 

「っ、じ……!?」

 

 テラフォーマーの三倍の筋力でも引きちぎることのできない化学繊維で編まれた網は、過たずテラフォーマーの体にまとわりつき、動きをほぼ完全に封じた。

 最後のあがきと、テラフォーマーはシーラごと網を引きずりながらの逃走を試みるが――。

 

「っし! ぎりぎり間に合った!」

 

 振りほどかれる寸前、駆けつけたマルコスがシーラに手を貸し、これを阻止した。

 

「マルコス!」

 

 頼れる幼馴染の姿に、呼びかけたシーラの声に明瞭な安堵が滲む。そんな彼女に、マルコスは焦ったように問いかけた。

 

「無事か、シーラ!? 怪我はないな!?」

 

 シーラが頷くとマルコスは思わず胸をなでおろした。それと同時に彼の体は人間のそれへと戻り始めていく。人為変態の効果が途切れる直前に、ベースの特性で脱出機まで一気に引き返したらしい。

 

 それを理解すると同時に、緊張の糸が途切れたシーラは、そのまま床へとへたり込んだ。今になって、手が震える。それを隠すように、シーラはマルコスを見上げた。

 

「みんなは大丈夫……?」

 

「ああ、あっちは大体片付いた。お前のおかげで、他の奴らも無事だ」

 

 マルコスの言葉通り機外での戦闘もほとんど終わったようで、脱出機へ引き上げてくる戦闘員たちの様子が映った。

 

「ったく無茶しやがって……けど、よくやったシーラ! サンプル1体に、非戦闘員の命!

 お手柄だ!」

 

 そう言って、マルコスが背中を叩く。何を偉そうに、と普段なら憎まれ口を返すところだが――不思議と今はそんな気分にはならなかった。

 

 彼女の中にあったのは、達成感。自分が班員を守りきったのだという実感が、今になって沸き上がる。

 

「……ん、ありがと」

 

 自分が皆の役に立てたことが嬉しくて。シーラははにかみながら、マルコスにただそう返した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                   ガサッ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え……?」

 

 シーラが『それ』に気付けたのは、本当に偶然だった。

 

 網に捉えられたテラフォーマー。その個体が、両腕をシーラへ向けてぐいと突き出していたのだ。その両掌に刻まれているのは、二つの孔。

 

 その姿勢と身体の特徴は奇しくも、シーラ達に生存の心得を叩きこんだ教官――ゴッド・リーの姿を彷彿とさせた。

 

 ――()()()

 

 直感的に命の危機を悟ったシーラは、咄嗟にその場へ伏せようとする――が、体が動かない。

 

「――!?」

 

 シーラに落ち度があったわけではない。恐怖も経験不足もあったが、それは体が動かなかった直接の要因ではない。リーの指導の下で訓練を重ねていた彼女の体は、指導された通り、咄嗟に攻撃を躱すための動きを確かに実行しようとしていた。

 

 では、なぜ体が動かなかったのか。

 

 その理由は極めてシンプル、彼女の体が『物理的に』拘束されたためだ。

 

 

 

 

 

「じょじょう」

 

 

 

 

 

 いつの間にかシーラの背後に忍び寄っていた、もう一匹の()()()()()()()()()()()。その口から伸びる、6本の触手(バッカルコーン)によって。

 

 

 

「ッ、何だコイツ!?」

 

 体の向こう側の景色が見える程に透明度の高い甲皮と、それ越しに見える赤色の臓器。

 

 通常とは明らかに違う、異形の個体。その出現に気が付いたマルコスは、動揺しながらもその身を翻して臨戦態勢をとる。

 

 

 

 ――それが致命的な隙を生んでしまった。

 

 

 

「あ……」

 

 脱出機にいた班員の多くは半透明のテラフォーマーに気を取られ、捕獲した個体の行動に気付いていない。シーラに迫る危険が1つではなく、2つあることに彼らは気付かない。いや、気づけなかった。

 

 

 

 

 

 小さなミスの代償が、取り返しのつかないものになって返ってくるのは世の常。彼らはそれを、身を以て知ることになる。

 

 

 

 

 

「じじじ」

 

 眼前の人間達を嘲笑うように、網に囚われたテラフォーマーは短く鳴いた。

 

 

 

 そして次の瞬間――その両手の孔から、超高温のベンゾキノンがシーラの胸を目掛けて放たれた。

 

 

 





【オマケ】14位

カリーナ「長らく謎に包まれていたマーズランキング14位の正体がついに明かされるゥ! その名もムテバ・ネルソン・ムテキチ・インビクタスJrァァ! 
手術ベースは原作であの慶次をも手こずらせた『ラーテル』! 正直頭髪の色で予想はついてましたが、変態したら滅茶苦茶クールなこと間違いなし!
専用武器は対テラフォーマー臭気式偵察ドローン『ベアーズ・サイドキックス』! あ、これラーテルと共生関係にあるミツオシエにちなんでつけられてるんですね? 最高にクールなネーミングじゃないですか!?
使用武術は高専柔道! 本来相手に密着し、しかも寝技が中心の高専柔道は対テラフォーマー戦には不向きですが、ラーテルの無敵防御でそれも帳消しとかいうクールな仕様!
将来の夢は、男性格闘家専門のファッション店? またニッチなところを!? でもそこがまたクールですね、貴家先生まじさすがです!
さぁそんなわけで読者のみなさん、ムテバ・ネルソン・ムテキチ・インビクタスJrに熱き声援を! ムテバ・ネルソン・ムテキチ・インビクタスJrに熱きry」

マルシア「落ち着きなさい」

ムテバ「何か乗り移ってないかコイツ?」





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第38話 GOLD AX 黄金戦斧

「な、んで……!?」

 

 吹き抜ける熱風が、肌をじりじりと焼く。眼前で爆ぜ燃える火柱に飲み込まれた幼馴染の姿に、マルコスはただ茫然と立ち尽くすことしかできなかった。

 

 

 

 ――バグズ手術 ” ミイデラゴミムシ ” 。

 

 

 

 外敵から身を守るため、摂氏100℃の超高温のガス『ベンゾキノン』を噴射するというその特性は、人間大のスケールで行われれば火炎放射器さながらの大爆発を引き起こす。アネックス1号の乗組員、こと日米合同班の面々は、その威力と脅威を嫌という程に知っていた。

 

 なぜならば――U-NASA所属、アネックス計画特別戦闘訓練顧問官 ゴッド・リー。

 

『火星環境下におけるゴキブリ制圧能力のランキング』――通称『マーズランキング』において3位相当の実力を誇る実力者にして、自分達に凶星で生き抜くための術を教えてくれた人物。

 

 彼に与えられていたベースこそが『ミイデラゴミムシ』だったから。

 

 

 

「嘘だろ、おいシーラ!? シーラッ!?」

 

 幼馴染の凄惨な最期を想像したマルコスの口から絞り出された声は、悲痛なものだった。

 

 至近距離からベンゾキノンの大爆発を受けたのだ、テラフォーマーならいざ知らず、人間が無傷でいられる道理などない。まして、シーラは変態すらしていない生身の状態、一瞬で焼死体になっていることは想像に難くない。

 

 

 

 ――シーラ・レヴィットは死んだ。

 

 

 

 その場にいる誰もが――第1班の班員のみならず、襲撃を仕掛けた2匹のテラフォーマーですらそう確信した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――しかしその直後、彼らの認識は覆されることになる。

 

 

 

 

 

 

「……?」

 

 最初に違和感を抱いたのは、半透明のテラフォーマーだった。

 

 

 

 ――MO手術 “軟体動物型” クリオネ

 

 

 

 半透明な体と赤い臓器が特徴的な、巻貝の仲間である。『流氷の天使』の愛称で知られるこの生物はメディアで取り上げられることも多く、メジャーとは言わないまでも、知っている人も少なくないことだろう。

 

 その一方、クリオネの食事方法が中々に恐ろしいものであることもまた、トリビアとして有名だ。その所以が、クリオネの口から接触時に伸びる6本の触手、バッカルコーン。肉食性のクリオネはこれによって獲物を捕らえ、心行くままに貪るのである。

 

 当然、暴れる獲物を押さえつけるため、その触手は相当な筋力を有しているのだが――クリオネ型テラフォーマーの口から伸びる、6本のバッカルコーン。そこにかかる重量が妙に軽かったのだ。

 

 異変を感じたクリオネ型はすぐさまバッカルコーンを引き戻し、すぐに気が付いた――いや、この場合はやっと気が付いた、というべきだろうか。

 

 昆虫であるテラフォーマーに、痛覚はない。ゆえに、彼はその目で見るまで気が付かなかったのだ。

 

 ()()()()()()6()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ことに。

 

 

 

 直後、ベンゾキノンの煙が晴れて視界が開ける。そこに高熱で焼かれ、変わり果てたシーラの焼死体はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――どこ見てんだ、ゴキブリ共」

 

 

 

 

 

 

 

 

 静寂を破り、朗々とその声は響いた。その場にいた全員が声の方を見れば、先程シーラが立っていた場所から少し離れた位置に、1人の男がいた。

 

 リーゼント頭が特徴的な大柄な青年だ。既に薬の効果は切れて人間の姿に戻っているが、その足元には数秒前までクリオネ型の口から伸びていた触手の断片が転がっている。

 

 そして、変態が解けてなお逞しいその腕の中には――死を覚悟し、目を固く瞑ったシーラの姿があった。

 

「あ、れ? 生き、てる……?」

 

 いつまで経っても熱や痛みがないことに気が付いたのだろう、恐る恐るシーラが目を開けた。それから一瞬遅れて自分が誰かに抱かれていることに気が付くと彼女は顔を上げ、視界に飛び込んできた意外な人物に目を丸くした。

 

「大河?」

 

「よォ、シーラ。災難だったな」

 

 目を白黒させるシーラにそう言うと大河は腕を解き、彼女を庇うように前に立った。彼はそのまま、網に絡まったミイデラゴミムシ型のテラフォーマーを睨む。

 

 ――生身の人間など、絶好の的。

 

 そう判断したミイデラゴミムシ型は、すぐさま彼にベンゾキノンの噴射孔を向けるが――。

 

「じょう」

 

 その行動を相方であるクリオネ型が制止した。その視線の先には、脱出機へと戻りつつある第1班の戦闘員たちの姿があった。

 

 クリオネ型もミイデラゴミムシ型も、白兵戦に特化した特性を持った個体ではない。とてもではないがあの数の戦闘員をさばき切ることは不可能だと、彼は判断したのだ。

 

「じじじ、じょう!」

 

 軟体動物型の再生能力によって、口から伸びるバッカルコーンを即座に修復。クリオネ型はそのまま、網に囚われたミイデラゴミムシ型を回収すると脱出機から跳躍して距離をとった。

 

「……マルコス、シーラの側にいてやれ」

 

「あ、ああ!」

 

 大河の言葉に、我に返ったマルコスがシーラに走り寄る。

 それと入れ替わるように脱出機へと小吉が戻ってきたのを見ると、大河はピシッ! と頭を下げた。

 

「すいません、艦長。戦線を乱すような真似しちまいました」

 

「あー……まぁ、いきなり脱出機まで大ジャンプをかました時は何事かと思ったけどな」

 

 困ったように頭をかく小吉に、大河がもう一度頭を下げる。

 

 

 

 ――先程まで大河は、小吉と共に脱出機正面のテラフォーマーと戦っていた。

 

 だが脱出機の異変に気付いた彼は、小吉に「後は任せます」の一言だけを残し、文字通り『ひとっ跳び』で脱出機まで駆けつけたのである。

 

「まぁ、気にするな。お前のおかげでシーラが死なずに済んだんだ。俺も怪我はしてねぇし、結果オーライってやつだ」

 

 気にするなと手を振り、それから小吉は視線を2匹のテラフォーマーへと移した。

 

「それにしても、厄介だな……MO手術を施されたテラフォーマーか」

 

 離れた位置から脱出機の様子を伺うテラフォーマー達に、小吉は表情を険しくした。

 

 ――そもそも根本的な問題として、なぜテラフォーマー達がMO手術を受けているのか?

 

 小吉は束の間思考し……そして、1つの可能性に思い至る。

 

「奪われた……いや、()()()()()()

 

 火星には苔とゴキブリ、この2種類の生物しかいない。当然、ミイデラゴミムシやクリオネが生息しているはずはないのだ。となれば、彼らがMO手術を入手したルートが存在していることになる。

 

 例えばバグズ手術やMO手術被験者の死体があれば、技術が『奪われた』可能性も考えられる。

 だが、テラフォーマー側で手に入れることができる死体は限られている。先のバグズ1号の乗組員はいずれもただの人間であったし、ドナテロ・K・デイヴスの手術ベースはパラポネラだった。技術が奪われた可能性は高くない。

 

 そうなれば必然的に答えは『何者かによるテラフォーマーへの技術提供』へと収束する。

 

「どこのバカだ、こんな真似しやがったのは……!」

 

 テラフォーマーへの技術提供。その行為が意味するのは、アネックス計画――ひいては、人類そのものへの裏切りに他ならない。

 

 自国の利益のためだけに、人類の存亡をかけた計画を踏み躙る。虫唾のはしる行為に小吉は拳を固め――しかし義憤に駆られている場合ではないと思い直し、彼は冷静に判断を下した。

 

「お前ら、下がってろ。ここは俺が――」

 

「いや、待ってくれ艦長」

 

 だが、大河がそれに待ったをかけた。

 

「奴らの相手は、俺がやります」

 

 その言葉に小吉は何も言わず、視線で理由を問いかけた。彼の真意を察した大河が、更に口を開く。

 

「理由は二つ。まず一つ目は、あいつらの様子が妙だってこと」

 

 ――それは直感的な、ともすればこじつけにも近い推論だった。しかし大河は、自分のその考えに、確信めいた何かを感じていた。

 

 クリオネ型のテラフォーマーは、戦闘員たちが駆けつけるのを見て脱出機から距離をとった。つまりそれは、戦力差を理解しているということ。

 

 テラフォーマーはバカではない。ゆえに、やみくもに襲い掛からない行動をとること自体には何の問題もないのだが……だからこそ、大河は彼らの行動に引っ掛かりを覚えていた。

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 

 

 偵察ならば、十分に役割は果たしたはずだ。奇襲ならば、既に試みは失敗したはずだ。それにも関わらず彼らがこの場にとどまっている。

 

「俺、頭は悪いですけど……こういうのはなんとなく分かる。アイツらは多分、まだ何か企んでやがる」

 

 日々他組織との闘争に明け暮れ、日常的に喧嘩を繰り返していた大河だからこそ、手に取るように分かった。

 

 今の空気は、喧嘩相手に逃げ場のない路地裏へ誘い込まれた時によく似ている。じわりじわりと首を絞められているような、重苦しくピリピリと肌を刺されているかのような感覚。もしも小吉が脱出機から離れてしまったのなら、最悪の結末を迎えるかもしれない……そんな確信が、彼の胸の中にあった。

 

「だから艦長は、脱出機にいてください。奴らの『本命』が当たった時、一番班員を守れるのは俺じゃない。貴方だ」

 

 大河の言葉に小吉は一瞬だけ考え込むと、静かに頷いた。

 

「わかった……そっちは任せたぞ、大河」

 

「ウス」

 

 脱出機の縁に足をかけ、追撃のために飛び降りようとする大河。そんな彼を小吉は呼び止める。

 

「大河、2つ目の理由ってのは?」

 

「……ああ、それはですね」

 

 小吉の問いかけに一瞬だけ黙り込み――それから大河は、修羅が如き形相で答えた。

 

 

 

 

 

「――あのゴキブリ共は、俺の可愛い妹分を殺そうとしやがった。だから……俺自身の手で潰さなきゃ、気が済まねェ」

 

 

 

 

 

 そう言うや否や、大河は脱出機から身を躍らせた。

 

 かなりの高度があるものの、火星の地面には柔らかい苔が群生している。彼は危なげなくその上に着地。

 

 バッカルコーンを展開して警戒するクリオネ型と、既に網から這い出し、どこからか取り出したナイフを構えるミイデラゴミムシ型のテラフォーマーを睨みつけた。

 

「そういうわけだゴキブリ共。その気色の悪い面、ちょいと貸してもらうぜ――」

 

 そう言って大河は、ポケットから()()()()()()()()を取り出し――。

 

 

 

 

 

「――ま、借りても返さねぇけどな」

 

 

 

 

 

 ――容器内の薬を、摂取した。

 

 

 

 MO手術において、変態薬の形状はベースとなる生物の種類によって異なる。例えば昆虫ならば注射器、哺乳類ならばパッチ、甲殻類ならば葉巻や煙管というように。

 

 

 

 大河が使った点鼻薬は、手術ベースとして環形動物を用いた者が変態するためのもの。

 環形動物と言われても今ひとつピンと来ないかもしれないが、ミミズやゴカイなど釣り餌として用いられる生物を思い浮かべれば、イメージが湧きやすいだろう。

 

 

 

 だが、ベースとなった生物を反映した姿へと変異しつつある大河を見れば、間違っても『釣り餌』などという印象は抱かないはずだ。

 

 

 頭髪は生物の体色を反映した黄金へと染まり、太陽の光をギラリと跳ね返す。

 

 額から伸びる五本の触角は、周囲の様子を探るように忙しなく揺れる。

 

 隊服の袖を破って露になった両腕には、生物に由来する大顎を象った刃。それは『切断する』ためのものではなく、『食らい尽き、引き裂く』ことに特化した、鋸のような形状をしていた。

 

 

 

 

 

 ――その生物は、魚『の』餌になるのではなく、魚『を』餌にする海の捕食者である。

 

 狩りの手段は『黄金』という極めて目立つ体色とは裏腹に、水底に潜みただひたすら獲物を待ち続けるという地味なもの。

 

 しかし一度獲物を見つけたのならば、口の両脇に備えられた大顎と、強靭な筋肉によって発揮される敏捷性で、自分よりも大きな魚にも躊躇なく食らいつく。その威力は時に、魚の肉体を真っ二つに引き裂いてしまうことさえあるほど。

 

 

 

 

 

 ――故に、与えられた名は(コードネーム)黄金戦斧(ゴールドアックス)

 

 

 

 極めて獰猛な、まさしく海の処刑人と形容するに相応しい生物。それが、大河に与えられた特性である。

 

 

 

 

 

 

「さて、バグズ手術だかMO手術だか知らねえが……来いよ、ゴキブリ共」

 

 その言葉に、思わず2匹のテラフォーマーは後ずさった。

 

 気圧されたのだ、変異を終えた大河の姿に。

 

 彼の背後に見えた、魔物の名を冠する生物の幻影に。

 

 

 

 そして……大河の顔に張り付いた、攻撃性を隠しきれない凶暴な笑みに。

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東堂大河

 

 

 

 

 

 

 

 国籍:日本

 

 

 

 

 

 

 

 22歳 ♂

 

 

 

 

 

 

 

 180cm 80kg

 

 

 

 

 

 

 

『アークランキング』13位 (マーズランキング9位相当)

 

 

 

 

 

 MO手術 “環形動物型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ――――――――――――オニイソメ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                     &

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 “ツノゼミ累乗術式” MO手術ver『Hyde(ハイド)』 “昆虫型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ――――――――――――ムシャシロアリ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――黄金の処刑人(オニイソメ) + 歪曲の蛮刀(ムシャシロアリ)執行(エンフォースメント)

 

 

 

 




【オマケ①】 環形動物型変態薬の制作秘話 ※本編とは関係ありません

候補① ハンドソープ
候補② 歯磨き粉
候補③ 浣腸

クロード「という訳で大河君、一言意見を聞かせてくれ」

大河「 ふ ざ け ん な ! ? 」

クロード「分かりやすい意見をありがとう。実際、戦闘中に手を洗ったり歯を磨いたりお尻を出したりというのも、格好がつかない……というわけで、並行世界のU-NASAから薬を取り寄せた」

大河「!?」

クロード「点鼻薬だ。大事に使ってくれ」

大河「!?!?」

※今回登場した『点鼻薬型』の変態薬は、子無しししゃも様の『深緑の火星の物語』の作中で使われているアイデアをお借りしました。
いきなりの不躾なお願いを快く受け入れてくださり、本当にありがとうございました!

【オマケ②】

マルコス「……いや、初期案に比べれば大分まともだけどさ。戦闘中に薬を鼻に突っ込む絵面も、そこまでかっこよくはな」

小吉「しっ!」




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第39話 OPEN GATE 新たなる道

『鬼』は、古来より伝わる畏怖の象徴である。

 

 その言葉から連想するのは、「強大さ」「荒々しさ」「恐怖」といった要素。その名を聞いて真っ先に思い浮かべるのは、赤く屈強な肉体に二本の角、虎の毛皮の腰布を巻いて金棒を持った妖怪だろう。

 

 その一方、鬼の語源は一説によれば『隠ぬ(おぬ)』であるとされ、姿なき者としての意味合いを持っていたという。

 

 ――オニイソメ。

 

 果たしてこの和名をつけた生物学者たちが、どこまで民俗学的な知識を持っていたかは定かではないが、少なくともこの生物に関していえばこれ以上にないネーミングだろう。

 

 

 

 哀れな犠牲者は、死の寸前まで姿なきオニイソメの存在に気が付くことはない。末期の瞬間、彼らは自らに襲いかかる荒々しくも恐ろしき『死』を目の当たりにし――その直後には、地獄へと引きずり込まれることになるのだから。

 

 

 

「……変態完了」

 

 フゥと深く息を吐きながら、大河は呟く。額に生えた五本の触角も相まって、その相貌はまさしく鬼と形容するに相応しい気迫があった。大河は眼前のMO型テラフォーマー2匹に向けて、腕に生えたオニイソメの大顎を構える。

 

 

 

「さぁ、覚悟し「待て、大河ッ!」……なんだよオイ」

 

 

 

 ビシッと言い放った決め台詞に声を重ねられ、出鼻をくじかれた大河が不機嫌そうに振り向く。その両目には、変態してこちらへとかけてくるマルコスの姿があった。

 

「マルコスか。丁度いい、俺があのゴキブリ共をぶちのめす。お前はその間に、脱出機の進路を偵察して――」

 

「いや、俺にもやらせてくれ」

 

 大河の声を遮り、マルコスはそう言った。変異して彼の額に現れた6つの目に、怪訝そうに眉を顰める大河の顔が映る。

 

「……奴らはそれほど強いわけじゃないが、何か隠し玉を持ってる。不測の事態を考えりゃ、脱出機を守るランカーは多い方がいい。分かってんのか?」

 

「ああ、無理言ってんのは承知の上だ……けど」

 

 そしてマルコスは、胸中に渦巻く激情を吐きだした。

 

「このままじゃ引き下がれないんだよ! シーラを殺そうとしたゴキブリにも、それを止められなかった俺自身にもムカつくんだ! このまま何もしなかったら、多分俺は次もシーラを守れない! 頼む大河、俺にもやらせてくれ」

 

 自らを見つめる8つの瞳に、大河はしばし沈黙する。

 

 彼の要求を突っぱねるのは簡単だ。だが――。

 

 

 

 

「……まぁ、俺が決める話でもねえわな」

 

「っ! すまねぇ、ありがとう!」

 

 頭を下げるマルコスに、大河はきまり悪そうに首筋をかいた。

 

 ――断れない、断れるはずがないのだ。

 

 今のマルコスの言葉は、彼が抱いている思いは、大河自身が戦う理由に他ならないのだから。

 

「ゴミムシの方を頼んだ、マルコス。あっちのウネウネした奴は俺がやる」

 

「ああ、任された!」

 

 そう答えるや否や、大河の隣にいたマルコスの姿が一陣の風と共にかき消えた。

 

「じ……ッ!?」

 

 その瞬間、ミイデラゴミムシ型テラフォーマーの尾葉(レーダー)は、強烈な気流の流れを察知した。彼が身を翻せば、己の背後にはほんの一瞬前まで目の前にいたはずのマルコスの姿があった。

 

「やっぱ本物に比べりゃ大したことねーな……こんなのにしてやられたとか、情けなさすぎるぜ俺。イカ野郎にゃ絶対見せらんねぇ」

 

 ミイデラゴミムシ型は射程に入った人間に掌を向ける。だがその掌からベンゾキノンが放たれる頃には、既にそこにマルコスの姿はない。

 

「だからまぁそういうこった、教官モドキ」

 

 背後から聞こえた声に、ミイデラゴミムシ型は腕を薙ぐ。正確に距離を捕らえたはずのその一撃はしかし空を切り、数m離れた位置に佇むマルコスは、それを見て不敵に笑う。

 

 

 

「さっきまでの腑抜けた俺ごとお前をぶちのめして、俺は進んでやる」

 

 

 

 

 

 マルコス・エリングラッド・ガルシア

 

 

 

 

 

 

 

 国籍:グランメキシコ

 

 

 

 

 

 

 

 16歳 ♂

 

 

 

 

 

 

 

 174cm 69kg

 

 

 

 

 

 

 

 MO手術 “節足動物型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ―――――――――――― アシダカグモ ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「よそ見たぁ余裕だな、透明野郎」

 

 ミイデラゴミムシ型の加勢に向かおうとしていたクリオネ型テラフォーマーは、咄嗟にその場から飛び退いた。直後、空間を切り裂いたのは黄金の斬撃。下手に飛び出していたら、今頃自分の首は地面に落ちていただろう。

 

「さて、待たせたな。そんじゃ、サクッとやられてくれや」

 

 黄金の刃をこすり合わせて火花を散らしながら、大河は中腰になる。まるで脚部に、力を溜めているかのように。

 

「ああ、言い訳も命乞いもしなくていいぜ。聞く気がねえからな。逃げてもいいぞ」

 

 もっとも、と大河は続ける。

 

 

 

「逃がさねぇけどな」

 

 それと同時に、バチン! と何かを弾くような音がして。

 

 大河の体は放たれた矢のように、クリオネ型目掛けて飛び出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――地球、字浦市にて。

 

 

 

「MO手術のベースは、通常1人につき1つ……私が思うに、この前提は間違っている」

 

「……ど、どういうことです?」

 

 クロードの口から告げられたその言葉に、本多は訝し気に問い返した。

 

「20年前にも、技術革新はありました。例えば、私が蛭間くんに施したMO手術はネムリユスリカと人間を細胞レベルで同期させる特別なもの。ドイツは非公式ながらもヒトデや魚類でのバグズ手術を成功させていたし、他ならないあなた自身が群体動物による手術の生きた成功例でしょう。ですが――」

 

 本多は手に持っていたグラスを脇へと置いた。静かな空間にコトリ、と音の波紋が木霊する。

 

「それでも、複合型の手術を成功させることはついぞできかった。唯一の成功事例であるイヴも既に死亡済み……いや、彼も厳密には()()()()()()()()()()()()()

 

「バグズ手術がMO手術へと移行した現在でもそれは同じですよ、博士」

 

 本多の言葉に、七星が頷いた。既にグラスは空になっているが、その顔に酔いは微塵も表れていない。彼は理性的に、クロードへと言葉をかけた。

 

「『闇のジェド・マロース事件』のヴワーク・ヘブセンコ。スカベンジャーズ達が交戦したレイナ・ヤマバ。両者は複数のベース生物による手術を受けていましたが、いずれも体が負荷に耐え切れずに死亡しています」

 

 

 

 ――複数の生物の特性を使用できるようにする。

 

 

 

 MO手術に携わる研究者ならば、誰しも一度は考える発想だろう。ベース生物の当たり外れに左右されるとしても、基本的には手術を受けて弱くなるということはない。ならば1つよりも2つ、2つよりも3つという考えに至るのは、何もおかしなことではない。

 

 しかしそれは同時に、有識者であれば誰もが一笑に付す発想でもある。多重ベースは実現すればこの上なく有益。だがこの技術は、実現するまでのハードルが高すぎるのである。

 

 まず、そもそも素体が複数の生物に適合するかどうかという点。次に、複数の生物による手術を成功させるだけの技量を、技術者が有しているかという点。

 

 そして――。

 

「最大の問題として、仮にこれら2つの課題をクリアしても、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 人間の細胞は脆弱だ。MO手術で組み込む生物が1種類の時点で、手術の成功率は既に5割を切っているのだ。その種類を増やしていけば、成功率が下がるのは火を見るよりも明らか。仮に手術自体が成功したとしても、細胞が定着するかどうかという問題もある。

 

 七星が挙げた2者は最後のハードルをクリアすることができず、死亡している。唯一、日本の皇宮護衛官である風邪村(かぜむら)一樹(いつき)は、後天的な手術を複数回受けて存命中の人物であるが、それは彼の天性の肉体に由来するもの。常人の体では、多重ベースの負荷に耐えられない。

 

 だからこそ、先天的にベース生物を獲得することができるミッシェル(ファースト)(セカンド)は特別なのだ。

 

 しかし――。

 

「いや、2人とも少し難しく考えすぎだ。そうだな……少し表現を変えてみよう」

 

 クロードは七星の言葉に否とばかり、首を横に振る。その言葉の真意を掴めずに困惑する七星と本多へ、クロードは更に続けた。

 

「アドルフ・ラインハルトと小町小吉を除き、()()()2()()()()()()()()()()()()()()――先程MO手術の説明をされたばかりの本多博士はともかく、七星君ならこの説明で分かるはずだ」

 

「! なるほど……『ツノゼミ』ですか」

 

 合点が言ったように、七星が呟く。

 

 旧式人体改造術式である『バグズ手術』の最大の目玉は、昆虫の細胞をその骨肉に取り込むことで、強化アミロースによる甲皮と開放血管系を獲得できる点にあった。昆虫類が有するこの普遍的な特性は人間の基礎的な運動能力を向上させ、ある程度過酷な環境でも活動を可能にするというメリットがある。

 

 MO手術では昆虫型以外の生物による手術も可能になったが、例えば哺乳類や魚類などの手術ベースでは、過酷な火星で活動するのに十分な基礎能力は得られない。この課題を解決するため科学者たちが『昆虫類の細胞を上乗せする』という発想に至ったのは必然であっただろう。そこで脚光を浴びたのがツノゼミだ。

 

 

 

 昆虫綱カメムシ目ツノゼミ。

 

 

 

 この昆虫は毒針を持たず、強靭な筋力や脚力も持たず、酸やガスを吐くわけでもなければ、糸を紡ぐこともできない。

 

 この生物の最大の特徴、それは『形状の多様性』にある。ツノと冠する通り、この昆虫は胸部背面に角上の構造が存在しているのだが、その形は種によって千変万化、千差万別。我々人間の完成ではおよそ理解しえない、奇妙な形状をしているものも少なくない。

 

 そして、この多様性にこそ科学者たちは注目した。種によって形状が違うということは、ベース生物によって最適なツノゼミを選ぶことができるということ。強化アミロース皮に開放血管系という科学者たちの要求も満たしており、MO手術に用いるには最適な生物だったのだ。

 

 かくしてツノゼミの上乗せ技術が開発されたことによって、『昆虫以外の手術ベースを用いたバグズ手術』は『MO手術』へと昇華されたのである。

 

「そう、正式なMO手術の被験者は全員、従来のベースに加えてツノゼミの特性が上乗せされている。私はここに着目し、そして考えたんだ――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、とね」

 

 瞠目する本多と七星に、クロードは薄く笑みを浮かべてさらに続けた。

 

「結論から言えば、可能だったよ。ツノゼミは異なるベース生物同士をくっつける接着剤の役割を果たしてくれたんだ。この特性について研究を重ねることで――MO手術ver(バージョン)『H』、ツノゼミ累乗術式『Hyde』は完成した」

 

 クロードはそう言ってグラスを傾ける。からん、と涼し気な氷の音を聞きながら、彼の目はどこか遠くを見つめている。

 

「勿論、何もかも思い通りにいったわけじゃなかったけどね。まず、脊椎動物の上乗せは不可能だった。ツノゼミの細胞が潰されてしまうから、露骨に強い生物同士――例えば、パラポネラの被験者にオオスズメバチを累乗することもできない。とどめに手術の成功率も28%まで下がる……とまぁ、これだけ聞くとかなりひどい技術だ」

 

「それらのデメリットを踏まえて実用化に踏み切ったということは、この技術には大きなメリットが?」

 

 本多が問いかけに、クロードは首肯する。それから彼は、ピースサインをするかのように右手の指を二本立てて見せた。

 

「この技術の利点は2つ。1つは、本来の手術ベースと能力を組み合わせ、戦略に幅を持たせることが可能になるという点だ」

 

 その言葉に、2人が頷く。これは、ある程度予想できていた点だ。

 

 例え強力なベースを重ねることが不可能でも、2つの手術ベースを持てるということは大きなアドバンテージとなりうる。

 

 戦闘向きのベース生物であれば、累乗ベースを補助に回すことで攻撃性能の上昇や弱点の補強ができるだろう。あるいは戦闘向きのベース生物でなくとも、組み合わせ次第では思いもよらない奇天烈な戦法をとることもできるようになるはずだ。

 

「だが、これだけではまだリスクとリターンの採算が合わない。この技術の最大の利点はもう1つの部分、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「なっ……ど、どういうことです!?」

 

 クロードの言葉に、本多が思わずカウンターから身を乗り出した。隣で説明を聞いていた七星も、思わず体ごとクロードの方を向いている。

 

 MO手術は被験者に適合する生物でしか施せない、という前提を覆されたのだ。2人の反応は当然といえた。

 

「言葉通りの意味だよ、本多博士。『Hyde』で使う累乗ベースは、本来のベース生物に上乗せされたツノゼミに、更に上乗せするもの。被験者の細胞との間にはツノゼミと本来のベース生物という2つのクッションがあるから、直接適合している必要はない。

 勿論、本人に適合していれば、成功率は上がるが――『脊椎動物でないこと』と『強すぎるベース生物を組み合わせないこと』。この2点さえ守れば誰に対しても、どんな生物であっても施術可能だ」

 

 何でもないことのように語るその様子に、本多は息を吞んだ。

 

 ――見くびっていた。かのアレクサンドル・グスタフ・ニュートンをして、「ダ・ヴィンチの再来」と言わしめた、彼の技術力を。

 

 火星と時差なく通信するための機器の開発、MO手術の成功率の向上。この数年の間に、彼がU-NASAで挙げてきた功績は数多い。しかし、それすらもほんの氷山の一角にすぎなかったのだ。

 

 U-NASAの全科学部門の最高責任者として手腕を発揮する裏でアーク計画を進行し、幾つもの新技術を開発する。これだけのことをやってのけるなど、常人には不可能だ。

 

「『Hyde』は他の2つに比べると癖のない手術でね。比較的に多くの団員に施すことができた。基本的にこの手術を施した団員たちは『アークランキング』――マーズランキングのアーク版みたいなテストでも、トップランカーに食い込んでいるよ。さて、せっかくの機会だし……」

 

 

 

 残り2つの技術についても、説明しておこうか。

 

 

 

 どこか楽し気なクロードに七星は密かにため息を吐き、本多は内心で頭を抱えた。今夜、自分は何度常識を壊されることになるのだろうか、と――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おっと、こいつを避けるか」

 

 驚いたように声を上げる大河。その目の前に落ちているのは、クリオネ型の半透明な右腕。しかし本体は未だ健在で、大河から少し離れた位置で様子を窺っている。

 

「獲ったと思ったんだがなぁ……」

 

 先ほど大河が仕掛けた一撃は、彼に与えられた累乗ベースである『ムシャシロアリ』によるものだった。

 

 シロアリといえば、家を食い荒らすことで有名な害虫であるが、種類によっては様々な特性を兼ね備えていることも少なくない。そしてムシャシロアリもまた、奇妙な特性を備えているシロアリの一種だ。

 

 このシロアリは左右非対称に捩じれた奇妙な顎を持っているのだが、それをパチン! とはじくことで、跳躍することができるのだ。

 

 この特性はばね(スプリング)開閉機構(ラッチ)を組み合わせた特殊な構造によって引き起こされるもので、ムシャシロアリ以外には一部の蟻や蜘蛛にも見られるものだ。この仕掛けで生み出されるエネルギーは筋力の限界を遥かに超えて、爆発的な力を発揮することができる。

 

「……まぁいい、どっちにしろ遅いか早いかの違いだしな」

 

 大河の言葉と同時に、クリオネ型の傷口から右腕が生えてくる。軟体動物類の特性である、高度な再生能力が為せる業だ。

 

 彼は口から6本の触手を展開し、その一本一本に翅の裏に隠し持っていた石製のナイフを持たせ、身を低くかがめる。

 

「やっとやる気になったか……けど、ちょっと遅かったな」

 

「じ……!?」

 

 大河が言ったその瞬間、彼の眼前でクリオネ型が膝を折った。

 

 特段、大河が何かをしたわけでもない。だが、クリオネ型の四肢は言うことをきかず、口から飛び出したバッカルコーンも石造りのナイフを取り落とした。

 

「悪いな、こいつは“仕込み刀”なんだ。お前の体は今、傷口から沁み込んだ毒にやられてる」

 

 そう言いながら、大河は腕を上げて見せる。強靭な黄金の刃、よく見るとその表面にはうっすらと何かの液体の雫が付着していた。

 

 

 

 ――実はあまり知られていないことであるが、イソメ類はその肉体に有毒物質を有している。

 

 釣り餌にイソメを使った際、しばしば指がかぶれたようになってしまった経験はないだろうか? その原因こそがイソメ毒、正式名称を『ネライストキシン』という化学物質である。

 

 この成分は死んだイソメから放出されるのだが、他生物に対する毒性がかなり強い。水槽内にイソメの死体が1匹あるだけで、他の魚が麻痺してしまう程だというのだから相当である。

 加えて高い殺虫作用を有しており、その効果はゴキブリにも有効であるとの実験結果も示されている。

 

 大河の専用武器である【対テラフォーマー大顎一体式毒素分泌ギプス “鬼哭”】は、その濃度を高めて腕の大顎に滲ませるというもの。かくして、毒刀の斬撃を二度受けたクリオネ型に対し、ネライストキシンは牙を剥いたのである。

 

「じ、じ……!」

 

 もはやクリオネ型は立っていることすらできなくなり、地面に倒れ伏してしまう。何が起きているのかも理解できず、もがき苦しむクリオネ型に大河は静かに語り掛けた。

 

「待ってな、今楽にしてやる」

 

 そう言って彼はクリオネ型にとどめを刺すべく、足を踏み出した。脳の片隅でぼんやりと、自らがこの凶星で戦うきっかけを思い出しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ――朝日が嫌いだった。

 

 東の山から顔を出して「さぁ、今日も一日健全に頑張ろう!」とばかり眩しく輝く、太陽の光が大嫌いだった。

 

 時々、自分の中に1つの疑問が湧いてくることがあった。

 

「果たして、自分がお天道様に顔向けできないような生活を送るようになったのはいつからだっただろうか」

 

 その問いに、当時の自分は決まってこう返していた。

 

「生まれた時からだ」

 

 父親はギャンブル好きの飲んだくれ、母親は水商売。三流小説家が考えたような劣悪な家庭で、俺は育ってきた。

 

 家にいれば暴力やヒステリーにさらされ、学校に行けば陰口の良い的。そんな俺が、夜に居場所を求めたのは、ある意味当然だった。

 社会の底辺というレッテル。それを貼られた自分達が、誰の目も気にせず、ありのままの姿でいられるのは夜だけだ。電灯に集まる蛾みたいに、俺たちは夜になると集まって、バカをやって毎日を過ごしていた。

 

 だから夜を追い立てる朝日が、いつも憎たらしかった。「お前らは所詮、お天道さまの下じゃ歩けない社会のゴミだ」と現実を突きつけられているようで、心の底からムカついた。

 

 だが日本の仕組みは元々、脱落者や這い上がれない者に対して冷たい。それを何となく分かっていたから、俺は理不尽に対して腹を立てながらも、それを受け入れながら上手くやっていくつもりだった。

 

 

「り、リーダーが倒れた!?」

 

 

 

 ――あの時までは。

 

 

 

 丁度、1年前だった。俺が所属してた暴走族(グループ)のリーダーたちが、一斉に病にかかった。

 

 世間的には決して褒められた人たちじゃない。だけど、俺みたいなはぐれ者の世話を焼いてくれる、気の良い人達だった。俺も含めて暴走族(グループ)の奴らは皆、あの人たちを慕っていた。

 

 だから、俺達は方々手を尽くした。ネットで情報を集め、名医と紹介されている医者に片っ端から電話をかけ、頼み込んで診察をしてもらった。

 

 だが、あの人たちの病気は奇病中の奇病だった。どんな治療法を試しても、一切効果は上がらなかった。

 最終的には、全員病死。死に顔が苦悶の表情の人はまだましで、人格に変調をきたして狂ったような笑顔で死んだ人や、ひどいと顔中発疹に覆われて元の顔が分からなくなっている人もいた。安らかな死に顔は、誰一人として浮かべていなかった。

 

 兄貴分たちがいなくなると、自ずとまとまりもなくなり、暴走族(グループ)は自然に消滅した。そうして、俺の居場所は夜からすら消えてしまった。

 

 

 

「クソったれ……!」

 

 

 

 自分の居場所がなくなったことも、優しかった彼らが理不尽に死んでいったことも、何もかもが納得できなかった。

 

 居場所を失くして俺は、夜を彷徨う。バイクに乗る気は起きなかった。こんな気分で乗ったら思いですらも穢されてしまいそうで、兄貴分たちが死んだ日から、一度だってあの車体を跨いだことはなかった。

 

 そうして、あてもなく歩き続けて、高架下に差し掛かった時のこと。考え事をしていたからだろう、俺は正面から走ってきた人に気付かず、その肩にもろにぶつかってしまった。

 

「ってぇな! オイ、どこ見て歩いてんだ!?」

 

 思い返すと、自分でもクソダセェことをしていると思う。けどその時、俺は自分のことでいっぱいいっぱいだった。やりきれない感情のはけ口に、俺は運悪くぶつかったそいつを選んだ。

 

「おい、面貸せ」

 

「やだね」

 

 だから、自分にぶつかったそいつがビビる様子もなくそう言った瞬間、閾値寸前だった俺の怒りは、呆気なく大爆発を起こした。

 

「いいから貸せって、言ってんだろうがァ!」

 

 周囲に人がいれば、間違いなく俺は通報されていただろう。俺はそいつに殴りかかった、それもかなり本気で。

 

 メリ、と肉の歪む感触。

 

 そして次の瞬間、()()()()()()()()()()

 

「あ……?」

 

 何が起こったのか分からなかった。仲間内でも、俺はかなり腕っぷしが強い方だった。その俺が何もできずに倒れている、という状況を理解するまでに、数秒の時間を要した。

 

「ヤベェ、つい反射的にやっちまった! オイあんた、大丈夫か?」

 

 俺がぶつかったそいつが、心配そうに顔を覗き込んでくる。ムカつくから拳を振り上げてやったら、そいつはひょいと避けて「なんだ、思ったよりも大丈夫そうだな」なんて笑いやがる。

 

「んっのヤロ……!」

 

「あ、待て、無茶すんな! 顎に一発入ったんだ、お前今脳震盪――」

 

「るせぇっ!」

 

 気遣うそいつの言葉をかき消して、俺は殴りかかる。といっても、既に一発いいのが入ってる俺はフラフラだ。むやみに殴りかかっても、当てるどころかかすりもしない。

 

「クソッたれ……どいつもこいつも、バカにしやがって……!」

 

 数分後、そこには息を切らして這いつくばる俺と、一切傷を負っていないそいつがいた。

 

「やけに血気盛んなヤンキーだな……どうした、何か嫌なことでもあったのか? ここであったのも何かの縁、俺でよければ話し相手になるぞ?」

 

「……誰が、てめぇなんかに」

 

「まーまー、そう言うなって」

 

 そいつは人懐っこい笑みを浮かべ、俺の横にどっかりと腰を下ろした。始めのうちは鬱陶しくてたまらなかったが、そいつの快活な語り口に妙に毒気を抜かれ……気づけば俺は、今までの経緯を全て話していた。

 

「はっ、笑いたきゃ笑え。何もできなかった、愚図な男の話だ」

 

 そう言って俺は、自嘲気味に笑って見せた。だが、話を聞いているそいつの表情は至って真剣で、思わず俺の方が真顔に戻っちまうくらいだった。

 

「笑わない……いや。俺はお前のこと、笑えねえよ」

 

「あぁ?」

 

 意味が分からずに首をかしげる俺に、そいつは「それよりも」と切り出した。

 

「1つ聞きたいんだけどよ……もし仮に、お前の兄貴分たちを殺したウイルスの正体が分かるかもしれないって言ったら、どうする?」

 

「何か知ってるのかッ!?」

 

 思わず詰め寄る俺を手で制しながら、そいつは続ける。

 

「あくまで可能性の話だ。けど、似たような話を聞いた覚えがある。ちょっと待ってろ」

 

 そいつはそう言うとポケットからスマートフォンを取り出し、どこかへと電話をかけ始めた。

 

「あ、もしもしめぐ姉? うん、俺……え? 今何時だと思ってる? いや、悪い悪い。けど、どうしても今確認したいことが――」

 

 どうやら、話し相手は女らしかった。そいつはメモを取りながら、数分ほど電話越しに話し込んでいた。それから電話を切ると俺の方に向き直り、「あたりだ」と言った。

 

「多分だけど、お前の兄貴分たちが感染してたのは、AE(エイリアン・エンジン)ウイルス。ここ20年で流行りだした新種のウイルスだ」

 

AE(エイリアン・エンジン)ウイルス……」

 

 ウイルスの名前が脳内で反響する。リーダーたちを殺したウイルスの名前、自分の最後の居場所を奪ったウイルスの名前。思いがけない切り口から見つけた、奇病の情報。気が付けば俺は、そいつに聞いていた。

 

「おい、そのAE(エイリアン・エンジン)ウイルスってのは、どこで研究してる?」

 

「……それを知って、どうするつもりだ?」

 

 そいつはやや冷淡な口調で、俺に問いかけた。

 

「もう一回聞くぞ。この情報を今からお前に渡すとして、お前はそれからどうしたいんだ? もう、お前の兄貴分たちは戻ってこないんだぞ?」

 

「何がしたいか? そんなの決まってんだろ」

 

 不思議そうに俺を見るそいつに、俺は言った。

 

「このままじゃ終われねぇ。だから俺は、()()()()()()()()()()! どんな手を使ってでも必ず、な」

 

 俺のその言葉にそいつは一瞬キョトンとした顔をして、それから「なるほど、そいつはいいな!」とからから笑い始めた。一通り笑うと、彼は涙をぬぐいながら懐からメモ用紙を取り出した。

 

「U-NASA日本支局ってとこに行ってみな。多分そこなら、詳しい説明をしてもらえるはずだ」

 

 そう言ってそいつは、メモを半ば押し付けるように俺に手渡す。それをポケットにしまいながら、俺はふと気になってそいつに問いかけた。

 

「なぁ、あんた。何で初対面の俺に、ここまでよくしてくれるんだ?」

 

 そう、こいつにとって今の俺は『向こうが完全に悪い上、いきなりキレて襲い掛かってきたチンピラ』だろう。警察に突き出しこそすれ、こうして親しげに接してもらえるとは思っていなかった。なのに、なぜ?

 

「ああ、そうだな……強いて言うなら、お前が俺に似てたからかな」

 

 そう言って、そいつはポツポツと語り始めた。そいつは将来を有望視されていたボクサーだったこと、ボクサーとして目標としていた人がいたこと。

 自分の戦果が振るわず、怪しげな八百長に手を出してしまったこと。そしてそのせいで、憧れの人と誰よりも大切な幼馴染に迷惑をかけてしまったこと。

 そして紆余曲折を経て自分の初心を思い出し、こうして一から鍛え直しているところであるということ。

 

「俺も散々、皆に迷惑をかけてきたからさ。だから今のお前は、ついこの間までの自分を見てるみたいで、放っておけなかったんだ」

 

 そいつはからりと笑うと「さて!」と言って立ちあがった。

 

「それじゃあ、俺はジョギングに戻るからな。縁があったら、また会おうぜ!」

 

「ッ! 待ってくれ!」

 

 そうしては知り出そうとするそいつを、俺は呼び止めていた。不思議そうに振り向くそいつに、俺は名前を尋ねる。

 

「名前? ……ああ! そういや、まだ自己紹介もしてなかったな」

 

 そいつは俺の質問の意図をくみ取り、それから口を開く。丁度その時、狙いすましたかのように夜が明けた。東の山から太陽が顔を出し、高架下の俺達を明るく照らす――けれど、なぜだろうか。

 

「俺は南虎冴(たいが)。しがないボクサーさ」

 

 俺と同じ名前のそいつは、背負った朝日と同じようにとても眩しくて。けれど、そこにいつものような嫌悪感はなく、その代りに不思議な清々しさと満足感があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気が付けば、大河はクリオネ型を見下ろす位置まで歩みを進めていた。既にマルコスはミイデラゴミムシ型を仕留めたようで、戦闘音は止んでいた。そろそろ、潮時だろう。

 

「なぁ、虎冴さん。俺はやっと……お天道様に顔向けできる道を見つけたよ」

 

 ここには、仲間がいる。もうなくなってしまったと思っていた居場所がある。だからここで手に入れた力は、自分や仲間を、そして皆が集う居場所を守るために振るおう。

 

「だから……悪く思わないでくれよ、テラフォーマー」

 

 そう言って大河はクリオネ型にとどめを刺すため、腕の刃を上段へと構えた。

 

 

 

 

 

「俺達は、こんなところで死んでやるわけにはいかないんだ」

 

 

 

 

 

 オニイソメ最大の武器は、獲物を狩るための大顎である。その威力は時に、獲物となる魚を勢い余って真っ二つにしてしまうほど。

 

 

 ムシャシロアリの最大の武器は、巣を守るための大顎である。特殊な構造で閉じられるその顎は、瞬きよりも速い速度で、侵入者をことごとく巣の外へと叩きだす。

 

 

 ではもしこの両者の利点がかけ合されたそれが、人間大になって振るわれたのなら?

 

 

 

 それは万物を切り飛ばす、最強の断頭台(ギロチン)となるだろう。

 

 

 

 

 

 神速で振るわれた大河の手刀は、クリオネ型の上半身を食道下神経節ごと切り裂いた。例え軟体動物であっても、体の中枢を破壊されてはどうしようもない。やがて完全に動かなくなったクリオネ型を一瞥してから、大河は1人呟いた。

 

「……さて、あんま悠長にはしてらんねぇな」

 

 彼の目に映るのは、ミイデラゴミムシ型を倒したマルコスの姿。だが、大河の顔に仲間が無事だったことへの喜色はあまり滲んでいない。それどころか、どこか険しささえ感じさせる表情で、彼はこう続けるのだ。

 

「嫌な予感がしやがる……さっさと本隊や二班の奴らと合流して、こいつらを安全地帯まで届けてやんねぇとな」

 

 

 

 

 

 

 ――日米合同班合流まで、あと14時間。

 

 

 




【謝罪】9/25追加
 旧39話の終盤シーンのインパクトがあまりに強すぎ、他の描写がかすむという問題が発生したため、終盤シーンを次話に独立させました。ご迷惑おかけします。



【オマケ①】キャラクター紹介②

Q.南虎冴って誰?

A.『外伝 鬼塚慶次』で登場したキャラクター。ヤクザの伝手でツノゼミを使った簡易MO手術を施し、試合で八百長を働いていたボクサー。慶次に憧れているが、同時に割と拗らせている。彼の素手のパンチは鉄製ロッカーを凹ませたり、変態した慶次が甲皮越しでも威力を感じたりとかなりのポテンシャル。ツノゼミやべえ。

【オマケ②】
大河「いいんだ、俺の過去話なんて誰も興味ねえのさ……悪いな虎冴さん、俺はまだ、お天道様にさらされるにゃ早かったんだ……」

ニコライ「メイン回なのにあんまり感想欄で触れて貰えなかった(9/25時点)大河が拗ねたぞぉ!?」

バスティアン「慰めになるかは分からんが、俺はぐっときたぞ、うん……ドンマイ」

カリーナ「く、クールに行きましょう! ここから頑張れば評価もうなぎのぼりですって!」

リンファ「でも、ここで1班のシーンはいったん終了。次は2班とキャロルに視点が移る」

キャロル「この空気で!? いくらなんでもキラーパスすぎるでしょ!?」



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第40話 PROSPERITY 増殖

【謝罪】
 前話のあと書きにも書きましたが、39話の終盤シーンのインパクトがあまりに強すぎ、他の部分がかすんでしまうという問題が発生したため、急きょ二話に分けて投稿し直すことにしました。変更点は以下の通りです。

・旧39話終盤シーンの独立。
・それに伴う新39話・新40話の一部加筆・修正
・両話へのオマケの追加

 新情報はありませんので、既に旧39話をお読みになった方は読み飛ばしていただいても大丈夫です。逆にまだお読みになっていない方で、お気に入りなどからこの話を読み始めた方は、お手数ですが前話から読んでいただければ幸いです。

 ご迷惑をおかけします。



 

 

 

 大河がクリオネ型を下した瞬間より、時間は少し遡る。

 

それは各脱出艇がアネックス本艦を離陸した直後、第一班の戦闘員たちがテラフォーマーとの交戦状態に入る少し前のこと。第一班の脱出機から2つ向こう側の丘に、奇妙なテラフォーマーたちがいた。

 

 数は十匹程度。見た目は通常のテラフォーマーのそれに近いが、その全身からは毛と、ミミズのような尾が生えている。しかし、それはMO手術で後天的に付与されたものではなく、むしろ先天的に組み込まれていたもののように見える。

 

 しかし本当の意味で奇妙なのは、彼らの見た目ではなく、むしろその行動にあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「じ、じぃッ……♡!」

 

「じょうっ♡ じょうっ♡ じょうッッ!」

 

 ――彼らがしていること。端的にそれを言い現すのであれば、『交尾』である。

 

 詳しい描写はすまい。だが、テラフォーマーたちが入り乱れて絡み合うその様子は、明らかに異常なものであることは間違いなかった。

 

「じょうじ♡ じょうじ♡」

 

 野太くも甲高い嬌声が周囲に満ちる。永遠に続くかと思われた、その気味の悪い情事はしかし――

 

 

 

「じっ、キィイィィィイイィイィ♡」

 

 

 

 組み伏せられている側の一際大きな叫び声でひとまず終了する。それが合図だったかのように、組み伏せていた側のテラフォーマーたちがピタリと運動を止めた。

 

 

 

 さて、異様なのはここからである。その途端、組み伏せられていたテラフォーマーたちが、一斉に痙攣し始めたではないか。白目を剥き、どこか恍惚とした表情で涎を垂らすテラフォーマーたち。そして彼女らは、()()()()()()

 

 産み落とされるは、黒いカプセル状の卵鞘。母体から完全に卵鞘が分離しきると、彼らはもはやそれに見向きもせず、交尾を再開した。

 

 一方、放置された卵鞘はほんの2,3分ほどで孵り、中からは数匹のテラフォーマーたちが生まれる。

 当初は幼体であるテラフォーマーだが、何らかの改造が施されているためなのか、目に見える速度で成長を始める。1分ほどで生体ほどの大きさになると、彼らもまたつがいを見つけて交尾を始める。そしてまた、卵鞘を産み落とすのだ。

 

 

 交尾、産卵、孵化、成長。

 

 交尾、産卵、孵化、成長。

 

 交尾、産卵、孵化、成長。

 

 交尾、産卵、孵化、成長。

 

 交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長。交尾、産卵、孵化、成長――。

 

 

 

 文字通りネズミ算式にテラフォーマーたちは増えていき、瞬く間に緑の丘を黒に塗りつぶした。

 

 

 

 

 

 彼らこそは『異常繁殖型テラフォーマー』――作成者であるアダムにより『エロフォーマー』と名付けられた人造テラフォーマーである。

 

 

 

 その実態は、かつてアダム・ベイリアル・サーマンが完成させた『バグズデザイニング』の応用版とも言える技術『MOデザイニング』によって、アダム・ベイリアルが生み出した悪夢が如き生命体。

 

 テラフォーマーの遺伝子にアンテキヌスの遺伝子を組み込んだことで、彼らは強靭な肉体と正常な思考回路を引き換えに、異常な性欲と繁殖能力を手に入れた。

 

 無限に増え続ける兵力というのも脅威ではあるが……何よりも恐ろしい点は、エロフォーマーたちにとって「あらゆる生物が発情の対象である」という点だ。

 

 アンテキヌスが文字通り『死ぬまで』交尾を止めることがないように、エロフォーマーたちもまた『死ぬまで』交尾を続けるだろう。無論その対象には人間も含まれている。

 

もしも彼らが人間と出会ってしまったのならば……そこから先におこる惨劇は、想像に難くない。

 

 

 

 

 

 

 ※※※※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 狂気はほくそ笑む。

 

 傷を負う覚悟はしているだろう、死ぬ覚悟をしている者もいるだろう……だが、果たして。

 

仲間が、大切な人が、そして自分自身を犯す汚らわしき獣欲に。心と体、そして魂の尊厳すらも蹂躙し尽すその暴力に、どれだけの者が耐えられるだろうか?

 

 

 

 

 狂気は笑い、嗤い、そして見定める。彼らは果たして――

 

 

 

――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――この悪夢と日米合同第1班が接触するまで、あと10分。

 

 

 

 

 






【オマケ①】
エロフォーマー(贖罪)「じょうッ♡! じょうッッ♡!!」

エロフォーマー(テラ休)「……ちょっとこれと同類扱いはやめて欲しいんスけど」

アダム「キェアアアアアシャベッタアアアアアアア!?」


【オマケ②】

モニカ「ところで皆、このページの最上部を見て頂戴……気付いたわね? そう、本話は純粋な話数で数えると45番目のお話なのよ! つまり、この回が最新話の状態で話数カウントを見ると45/45でシコシコにな――」

シモン「(無言のげんこつ)」



※お騒がせして本当に申し訳ありませんでした。


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第41話 CRYSTAL 結晶

「それにしてもさ、キャロル」

 

「んー?」

 

 第二班の脱出機、そのすぐ側で地質調査をする班員たちを護衛しながら、燈がキャロルに話しかける。その声に反応して彼女が振り返れば、どこか戸惑ったような燈の顔が目に移る。

 

「お前、戦えたんだな。いや、非戦闘員にしては運動神経がいいのは訓練で知ってたけど……なんつーか、正直意外だった」

 

「あぁっ!? そうだよキャロルちゃん! すっかり忘れてた!」

 

燈の言葉に反応して声を張り上げたのは、苔のサンプルを集めていた第二班の班員、柳瀬川八重子(やなせがわ やえこ)である。何事かと手を止めたパトリック、ジョイス、ホリーの視線にも気にせず、彼女はキャロルに詰め寄った。

 

「どういうこと!? うちらの日米同率98位同盟は嘘だったってコト!?」

 

「と、とりあえずヤエちゃんは落ち着こう、ね?」

 

 浮気した彼氏を尋問するかのような八重子を、キャロルが「どうどう」と宥める。しかし、周囲から向けられる好奇の視線が止むことはない。これでは作業になるまいと察した彼女は、困ったように笑みを浮かべた。

 

「うーん、何て言えばいいのかな。結論を言えば、燈くんが言ったことも、ヤエちゃんが言ったことも正しいってことになるんだよね」

 

「ど、どういうこと!? そんな「ごめん、でも俺にはどっちが好きかなんて気決められないんだ」的な、愛だけの男みたいな回答、うちは認めないからね!?」

 

「落ち着こう、八重子ちゃん」

 

 憤慨する八重子の肩を、百合子がポンと叩く。その隣で燈が「どういうことだ?」と尋ねると、キャロルが口を開いた。

 

「ほら、アタシのMO手術のベースは『ノシバ』って皆には言ってあったよね?」

 

「ああ……いや、さすがにそれが嘘だってことぐらいはもう気づいてるからな?」

 

 燈が言うと、全員が首を縦に振った。当然である。一体どこの世界に、手術ベース『芝』でテラフォーマーを一騎打ちで破ることができる人間がいるだろうか。彼女がベース生物を偽っていた、という結論には、既に多くの班員が行き着いていた。その共通認識の下、キャロルの話を聞いていた彼らだったのだが――。

 

「あれ、実はあながち間違いでもないんだ」

 

 ――だからこそ、キャロルの口から飛び出したその言葉には全員が驚いた。

 

「アタシ、適合する生き物自体は『ノシバ』も含めて何種類かあったけど、()()()()()()()()()。実際にアタシのベースになったのは『シソ科植物』の一種……まぁ正直、特性的には『芝』と五十歩百歩ってとこなんだよね」

 

 困ったように笑うキャロルを見て、班員たちは顔を見合わせる。

 

 シソ、と言われて班員たちが思い浮かべたのは、料理の香りづけなどに使われる食材である。ペギーを始め生物学に通じる一部の班員はシソの薬効を思い浮かべてみるが、思い当たるのは冷え性改善、便通促進、食欲増幅などなど……健康に効く点では芝よりマシだが、どう考えても戦闘向きとは言えないものばかりだ。

 

「じゃ、じゃあ98位同盟は健在なのね!? うちは信じてたよ、キャロルちゃん!」

 

「ごめん、実際はトップランカークラスだと思う」

 

「この裏切り者ォ!?」

 

「落ち着けっての」

 

 フシャー! と息を荒げる八重子の頭にチョップを落としながら、アレックスが目でキャロルに続きを促す。それを受けて、彼女は更に続けた。

 

「えっと……実はあたしたち潜入員は、クロード博士が開発した『Hyde(ハイド)』っていう特別な手術を受けてるんだ」

 

 そう言って彼女は、ツノゼミ累乗術式についての説明を班員たちにしていく。その内容は技術に精通した学者であれば仰天するものだが、ミッシェルや燈という例が身近にいる第二班の班員たちにとって、そこまでの衝撃ではなかったらしく、比較的余裕を持って説明は受け入れられた。

 

「それであの戦闘力だったのか」

 

「といっても、本来の特性を”増強”じゃなくて“補完”するために手術を受けてるから、他の潜入員(みんな)よりは弱いんだけどね、アタシ」

 

 不甲斐ない、とばかりにため息を吐くキャロルに、燈は「十分だろ」と表情を引きつらせた。思い出すのはアネックスのシャワールームでテラフォーマーを玩具のように放り投げ、吹き飛ばしている彼女の姿。古武術を収めた燈から見れば精細さは欠くが、それでも並の戦闘員よりは彼女の方がよほど強いだろう。

 

「あとアタシ、一応おまわりさんだからね。市民を守るためにも、多少の格闘術はできないと」

 

「なるほどな……あ?」

 

 納得しかけたアレックスが、疑問の声を漏らす。他の班員たちは一瞬沈黙し、それから一斉に聞き返す。

 

 

 

「「「「「「警察だったの!?」」」」」」

 

 

 

「そうだよ……ってあれ、言ってなかったっけ? 新米の平巡査だけど、これでもSWAT(特殊部隊)の候補生なんだよ、アタシ?」

 

「い、意外すぎる……」

 

 映画でよく見る、ごつい戦闘スーツに身を包んだ特殊部隊の隊員と、目の前のキャロルが一致せず、百合子が思わずつぶやく。

 一方その隣で顔を青くしているのが、数時間前に覗きの現場を押さえられたばかりの燈である。過去に似たような経験のあるアレックスも、あからさまにソワソワし始めた。

 

 ――あれ? もしかして俺達、地球に戻ったら逮捕されるんじゃ?

 

「燈くん、アレックスくん、分かってるね?」

 

「「ハイッ!」」

 

 燈とアレックスがピンと姿勢を正すも、その直後に背筋だけでなく、鼻の下も伸びすことになる。

 腰に手を当て、2人の顔を覗きこんだ彼女の胸が、ぽよんと揺れたのである。頬を膨らませているのは威嚇のつもりなのだろうが、どうにも小動物のような可愛らしさが先行して、いまひとつ怖さがない。

 

「また覗きなんてしたら、次は逮捕するからね! いい?」

 

「「……」」

 

 ――正直、逮捕されちゃうのもありかもしれない。

 

 悪い方向に考えを改め始めた燈とアレックスの邪念を見抜き、百合子が彼らの無防備な足を踏み抜く。突然の痛みに2人が悶えていると、脱出機のドアが開いて中からミッシェルが降りてきた。

 

「あっ、やべ……」

 

 サボっていたのがバレたか、と思わず身をすくめる一同。だが、お喋りを咎めるだけにしては、ミッシェルの表情は嫌に固い。様子がおかしいことを察し始めた班員たちに、ミッシェルは告げた。

 

 

 

「――非戦闘員は直ちに脱出機内へ戻れ。()()()()()()()()()

 

 

 

「……っ、了解!」

 

 着陸後初となる接敵に緊張が走るが、そこは訓練を受けた乗組員たち。アネックス内で受けたような奇襲ならばいざ知らず、火星でのテラフォーマーの襲撃は想定済みである。

 

 非戦闘員たちは作業を即座に切り上げると、足早に機内へと退避する。それを見届けてから、キャロルはミッシェルに問う。

 

「テラフォーマーの数はどれくらいですか?」

 

「ざっと20ちょいってとこだな……見えてきたぞ」

 

 ミッシェルの言葉に振り向けば、地平の彼方からこちらへと駆けてくるテラフォーマーの一団が見えた。距離は離れているが、テラフォーマーの足ならば数十秒と経たずに攻撃射程に入るだろう。

 

「燈、キャロル。両サイドから来てる数匹はそれぞれ任せる。アレックスは脱出機を護衛しながら、上空を警戒しろ。ヤバくなったら私を呼べ――頼んだぞ」

 

 ミッシェルは手短にそう言うと、先頭を走ってきたテラフォーマーに突進した。両者が組み合い、束の間拮抗した後――細身のミッシェルが、テラフォーマーをねじ伏せた。

 

 

 

 ――ミッシェル・K・デイヴス。

 

 

 

 遺伝ベース ”パラポネラ”

 

 

 

 父親であるドナテロ・K・デイヴスが、バグズ手術によって与えられた『パラポネラ』の因子。奇跡のような確率で受け継ぎ、20年前にその能力を覚醒させた彼女は、自重の100倍もの重量を持ち上げることができる。

 

 これだけでも、オフィサーを務めるにあたっては十分すぎる程に強力な特性。加えて彼女には、MO手術で獲得した“もう一つの能力がある”。

 

「じょう、じ……ッ!」

 

 彼女の攻撃をその身に受けたテラフォーマーたちが、苦し気なうめき声を上げる。そしてその直後、彼らの体は『パァン!』と音を立て、まるで水風船のように破裂した。

 

 

 

 MO手術ベース "爆弾アリ"

 

 

 

 ――それは、650年前にマレーシアで発見された奇妙な蟻である。

 

 

 

 和名はなく一般にも知られていないその蟻を、ミッシェルは便宜上“爆弾アリ(Blast ant)”と呼んでいる。その特性はまさに奇怪その物、驚くなかれこの昆虫は()()()()()()()()

 

揮発性の液体を体内に貯め込み、外敵に襲われた場合にこれをさく裂させ、毒液を撒き散らす。自らを犠牲に襲撃者を打ち倒し、巣を守るのである。

 

爆弾アリ自体はあくまで自爆のためだけに用いられる特性ではあるのだが、MO手術のなせる芸当故か、敵に毒を注入する術を持つパラポネラの因子を持つ故か、あるいは単純に本人の錬度故か。ミッシェルはあろうことか、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 無論、そんなことをされた対象がただで済むはずもない。まさに一撃必殺、彼女は文字通り一発攻撃を当てるだけで、悪魔を屠ることができるのである。

 

 

 

「お前ら、何匹か抜けたぞ!」

 

 その声に、ミッシェル個人に向けられていた3人の視野が一気に戦場全体へと広がった。ミッシェルは既に複数体のテラフォーマーを無力化しているが、如何せん相手取ることができる数には限りがある。殺される仲間の左右を5匹ずつ、計10匹が駆け抜けた。

 

「出番か。キャロル、右は任せた!」

 

 言うが早いか、燈は腰にさした専用武器――対テラフォーマー振動式忍者刀『膝丸』を抜き放ち、切り込んだ。

 

 変態こそしているが、専用武器を手にした彼にとって5匹のテラフォーマーなどものの数ではない。わざわざ特性を使うまでもなく、彼は器用に刀を操り、テラフォーマーの四肢を切って無力化している。

 

 

 

 ――ミッシェル班長と燈は大丈夫そうだ。となると、気になるのは……。

 

 

 

 脱出機の屋根に腰掛け、アレックスは視線を滑らせた。その先には既に変態を終え、5匹のテラフォーマーと対峙しているキャロルの姿。

 

「……手術ベースが2つっての、マジなんだな」

 

 呟きながらアレックスは、キャロルの姿をつぶさに観察する。変態した彼女の体には植物型の手術を受けた特徴である葉脈が走っているが、同時に昆虫を思わせる黒い甲皮にも覆われ、頭からは触角も生えていた。迫りくるテラフォーマーに一歩も引かないその姿勢は成程、確かに戦闘員のそれだ。

 

 しかし、鍛えているとはいえ、その体格は華奢な女性の範疇を大きく逸脱するものでもない。危険になったらいつでも加勢できるよう、アレックスは変態薬を握りしめた。

 

「よし! それじゃ、やろっか」

 

 そんな彼の心配をよそに、キャロルは特別気負った様子もない。自然体で、迫るテラフォーマーたちを見据える。

 

「器物破損、暴行未遂……それに、公務執行妨害――」

 

 一匹のテラフォーマーが、キャロルに向かって飛び掛かった。彼女は事前に持ち出しておいた捕獲用虫取り網を持ち上げ――

 

 

 

「君たち全員、逮捕ね」

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「なっ……!?」

 

 アレックスや、機内から様子を見守っていた班員たちが驚く。目の前で振るわれたキャロルの腕力が、怪力と言っても過言ではない代物だったからだ。

 

 捕獲用虫取り網の発射機は非常に頑丈な造りになっていて、鈍器として使えばテラフォーマー相手でもダメージを与えることができる。

 

 しかしそれ故に、銃身は重い。戦闘員であっても基本的には両手で扱い、非戦闘員に至っては持ち上げることが難しい者さえいるのだ。

 

「昆虫でも、ここまでの力を出せる奴はそういない……考えられるのはカブトムシ、それか班長と同じアリか?」

 

 呟くアレックスの眼前で、キャロルはまるで子供が木の枝で遊ぶような感覚で、虫取り網の発射機を振り回す。銃身の一撃を受けて三匹目のテラフォーマーが昏倒したところで、彼女は折り重なったテラフォーマーに向けて、発射機の網を引いた。

 

「サンプル3体、逮捕(捕獲)っと……やっぱりこれだと、ちょっと軽いなぁ」

 

「っ! キャロル、油断すんな!」

 

 ぼやくキャロルの背後に、棍棒を構えたテラフォーマーが忍び寄る。警告を発したアレックスが変態薬を口に含むも、間に合わない。

 

 振り向きざま、キャロルの無防備な額を目掛けて、テラフォーマーの棍棒が振り下ろされる。バキ、と鈍い音。ついで、見守っていた非戦闘員たちの悲鳴が響き。そして――。

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

「――は?」

 

 愕然、思わず動きを止めたアレックス。変態により鋭敏化した彼の目は、キャロルの額を守るように()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「……殺人未遂、追加ね」

 

 

 

 そう言うと同時、キャロルが眼前のテラフォーマーに頭突きを食らわせる。諸に攻撃を受けたテラフォーマーの額は甲皮ごとパックリと割れ、威力に押し負けて倒れ込む。

すかさずキャロルは馬乗りになり、テラフォーマーの腕を後ろ手に押さえる。

 

「……これくらいでいいかな」

 

 数秒程態勢を維持してから彼女が離れると、果たしてテラフォーマーの両腕は彼女の頭部を守ったのと同質の、何かが混ぜ込まれた水晶のような物質で貼り合され、拘束されていた。

 

「で、君が最後かな?」

 

 キャロルが問いかけるが、無論テラフォーマーは答えない。その代わりに繰り出されるのは、黒い拳。人体程度ならば容易く貫通する威力のそれを、キャロルは左腕で受け止めた。しかし砕けたのは彼女の細腕ではなく、テラフォーマーの拳の方。その腕はやはり、例の硬質な結晶で覆われていた。

 

「よっと!」

 

 キャロルはその無防備な体を目掛け、右腕で掌底を放つ。その掌にはいつの間に生成したのだろうか、氷柱のような円錐状に固められた結晶があった。狙い過たず掌は胸部に叩きつけられ、結晶は食道下神経節を破壊した。

 

「……ん?」

 

 しばし呆気に取られて見入っていたアレックスだが、戦闘を終えて伸びをする彼女の姿を見て、ふとある事実に気が付いた。

 

 

 

 ――()()()()()()()()()

 

 

 

 心なしか脱出時に比べ、彼女の胸が縮んでいるように見える。見間違いかもしれないし、そもそも平時の彼女に、そして平均的な女性に比べれば十分に大きいのだが……?

 

「2人とも、終わったようだな」

 

 ミッシェルの声に思考を中断して、アレックスは顔を上げた。キャロルの方に気を取られていたが、ミッシェルと燈も戦闘を終えていたらしい。歩き戻ってくるミッシェルに、燈が親指を立てて報告する。

 

「サンプルはバッチリっスよ、ミッシェルさん! 5匹捕獲です!」

 

「アタシも5匹確保です。班長の方は……」

 

 キャロルは言いかけて、はっとしたように口に手を当てた。燈も一瞬だけ頭上に疑問符を浮かべるも、ミッシェルの背後に広がる惨状を目にして微妙な笑みで表情を固定した。アレックスもまた、その光景に口を噤むほかなかった。皮肉なことに鋭敏化された彼の聴覚は機内で百合子が上げた「うわぁ……」という声を拾い上げてしまい、言ってやるなとばかりに踵で脱出機の屋根を叩いた。

 

ミッシェルの背後にあったのは、襲撃してきたテラフォーマーの残骸だった。

 

 “パラポネラ筋力”も”爆弾アリの爆発”も、強力故に殺傷力が極めて高い特性である。加えて本人のあまり細かいことにこだわらない性格もあいまって、彼女は捕獲を得手としていない。

 

 任務達成に必要なテラフォーマーのサンプルは、生け捕りが必須。

 

こと純粋な戦闘力・破壊力に関していえば間違いなくアネックストップの実力者でありながら、彼女のマーズランキングがオフィサー中最下位の5位にとどまっているのは、それが原因だ。

 

「サンプルは10匹、だな……ほら、サンプルを籠にしまうぞ」

 

 冷静にミッシェルが言うが、本人も「やらかした」という自覚はあるのだろう、その視線は露骨に泳いでいる。そこに触れないのは、班員たちの優しさだろう。何とも言えない緩んだ空気の中、班員たちが動き出そうとし――

 

 

 

「は、班長! レーダーに反応、敵の増援です!」

 

 

 

 モニターをしていた黒人の班員、ウォルフの声に、弛緩した空気が再度張りつめた。

 

「ウォルフ、数は!?」

 

「数えきれません! ざっと見ただけでも、50以上!」

 

「確かに……さっきの倍以上はいるな」

 

 ウォルフの報告を裏付けるように、変態したアレックスの瞳が、大地を蹴って近づいてくる黒の軍団を映す。

 

 テラフォーマー50匹、燈やキャロルがいれば、決して相手取れない数ではない。しかし問題なのは、非戦闘員を守りながらの戦闘であるということ。同じ日米合同班でも第一班ほど戦闘員を擁していない第二班では、この数のテラフォーマーとの戦闘はリスクが大きすぎる。

 

「チッ……急いで離脱するぞ! 燈、すまんがもう一仕事だ! お前の糸で脱出機の外に張り付いて、ゴキブリ共が追いついたら迎撃しろ! キャロル、アレックス! お前らは中に!」

 

「了解!」

 

 返事をして、燈が駆け出す。アレックスとキャロルが機内に戻ろうとした直後――今度は別の班員が声を上げた。

 

 

 

「班長! 九時の方向、テラフォーマーとは別に機体が接近中です!」

 

「何だと!? おい、どこの班だ!?」

 

 ミッシェルの問いに、別のレーダーを監視していたアミリアが声を張る。

 

「観測できてる機体の形状が、アネックスの脱出機と一致しません! これは……」

 

「ッ! アレックス、目視!」

 

「あ、ああ」

 

 何かに思い至ったようにキャロルが声を上げ、アレックスは双眼鏡を覗きこんだ。彼の目が捉えたのは、バスを思わせる形状の、ものものしい装甲車だった。タイヤ部分は戦車のそれを思わせるもので、車体の屋根には巨大な大砲が備え付けられている。

 

「アレックス、車体のどこかに数字が書いてない!?」

 

「数字? 2って書いてあるが……それがどうした?」

 

 アレックスの言葉に、キャロルの表情が明るくなる。彼女は安堵の息を吐き、全員に聞こえるように言った。

 

「大丈夫! 皆、あれに乗ってるのはアタシ達の味方だよ!」

 

「味方、って……」

 

 燈が口を開いたその瞬間、腹の底に響くような轟音が響き、装甲車に取り付けられた砲口が火と煙を吐き出す。直後、こちらへと向かうテラフォーマーの集団の中央付近で爆発が起こり、それによって数匹のテラフォーマーが粉々に砕け散る。

 

 しかし、装甲車からの支援はそれだけでは終わらない。二発、三発と砲声と火柱が繰り返され、もはや誰の目にも装甲車がはっきりと目視できる距離にまで近づいたそのタイミングで。

 

 タン、と軽やかに。装甲車の荷台から、何かが飛び出した。

 

 頭部にはフルフェイスヘルメット、身に纏うは中華拳法服。身の丈の二倍近い長さの槍を携えたその人物は、第二班の脱出機を中継地点として再び跳躍し、人間離れした勢いで、テラフォーマーの集団へと突撃した。

 

 呆気にとられる第二班の面々、その背後から不意に声が聞こえた。

 

 

「あーあー、団長め。指揮を俺に押し付けて、さっさと飛び出しやがって」

 

 我に返ったアレックスが振り向くと、そこに立っていたのは髭面の大男だった。自衛隊を思わせる戦闘服に身を包み、肩には機関銃を吊り下げている。彼はいつの間にか近くで停車していた装甲車から下りてきたらしく、その背後からは秘書風の青年、太った男性、髪を結わえた青年、そして気の強そうな少女が続く。

 

「……ッ!」

 

燈とアレックスは彼らの姿を見た瞬間、ほとんど本能的に警戒を強めていた。場数を踏み、年齢不相応の実力と経験を身に着けた彼らだから分かる。装甲車から下りてきた者は全員、プロの軍人にも比肩しうる相当な手練れだ。

 

実力としてはおそらく第3班――ロシア・北欧班の面々に近いだろうか。個々の実力もそうだが、一見バラバラながらも乱れぬ歩調は、彼らの部隊としての錬度の高さをうかがわせた。

 

「よう、久しぶりだなキャロル。負傷者、死者はいるか?」

 

「今のところはゼロだよ。それより、予定より随分早かったね?」

 

 親し気にキャロルが話しかけると、大男の後ろから秘書風の青年が答える。

 

「団長殿に飛ばせと急かされたんですよ。心配しすぎだと言ったんですが……結果的にはグッドタイミングでしたね」

 

脱出した矢先にこの数はきついな、と髪を結った青年がからからと笑う。それを横目に見ながら、ミッシェルが毅然とした態度で先頭の大男に尋ねた。

 

「なんで()()()火星(ここ)にいるかはあとで説明させるとして……お前らが、艦長の言ってた救助隊で間違いないか?」

 

「おうよ! ま、付け加えるんならそうさな……俺達はアーク第二団。アネックス第2班の護衛を務める救助隊兼――」

 

 大男はそう言うと、口元にニヤリと笑みを浮かべて続けた。

 

 

 

 

 

「――火星専門の駆除業者さ」

 

 

 

 





【オマケ】勤務中のキャロル、交番にて

キャロル「おはよーございます! うん、毎朝挨拶が元気でよろしい!」

キャロル「迷子になっちゃったかー。よしよし、お名前は何て言うのかな? すぐにお母さんが来るから、それまでお姉ちゃんと待ってようね」

キャロル「落し物? 届けてくれたんだね、ありがと! 必要な書類書いちゃうから、ちょっと待ってて」

キャロル「こら、また悪さしたなー、このいたずらっ子め。まったくもう、しょうがないんだから……」



マルコス「あ、これイイわ。グッとくるわ、年下男子的に」

シーラ「いかん、(※原作2巻参照)的な意味で、開いちゃいけない扉が開きそう……」

アレックス「キャロル、SWATじゃなくてもうずっと交番勤務しようぜ、な?」

キャロル「なんで!?」


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第42話 CINDERELLA 硝子の令嬢

 ――アーク計画において火星に派遣された救助団の構成員は、以前も述べた通り全員が戦闘員である。

 

 アネックス1号の乗組員が『マーズランキング』によって序列を決められているように、彼らにもまた『アークランキング』と呼ばれる指標が存在する。このマーズランキングとアークランキングの評価基準は基本的に同じものであるのだが、1つだけ両者の間には明確な違いが存在する。

 

 それは前者が『捕獲を前提としたランキング』であるのに対し、後者にはその前提が存在していないという点。

 

 つまるところアークランキングによる順位は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。もちろんそれは個人の技量、MOの特性、専用武器の質など様々な要因を総合したものである上、状況によってはこの番付も絶対のものであるとは言い切れない。しかしそれでも、順位が上がれば上がる程に強いのは確実と言っていい。

 

 さて、それでは以上を踏まえたうえでアーク第2団という部隊を考察すると、その評価はどうなるか?

 

 アーク第2団を率いるシモン・ウルトルや、潜入員であるキャロル・ラヴロックは言うに及ばず。それ以外の団員たちもまた、『アークランキング』の中にあって――言い換えれば、90人近い戦闘員の中でも30位以内に食い込む、正真正銘の実力者たち。

 

 彼らを一言で評価するのであれば『精鋭中の精鋭』。部隊としてのアーク第2団は掛け値なく、全実働部隊の中で最強である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――MO手術被験者 VS テラフォーマーの軍勢。

 

 両者激突の火蓋は意外な形で切られることになった。

 

「全員、掃射ァ!」

 

 それは、銃声。大男が号令を下すや否や、第2団の団員たちが構えた機関銃が文字通り火を噴いた。硝煙と共に放たれた鉛の弾丸がテラフォーマーの甲皮を貫き、黒一色の肉体に白の弾痕を刻む。

 

「お、おい! あんたら、無茶だ!」

 

 それを見た、第二班の班員の1人が叫ぶ。

 

「テラフォーマーには痛覚がない! 銃弾程度じゃ、こいつらは止められないんだ!」

 

 彼の脳裏に思い浮かぶのは、つい数時間前にアネックス1号の広間を襲撃したテラフォーマーの姿。ボーンを始めとして、居合わせた乗組員たちが3方向から集中攻撃を食らわせたが、ついにテラフォーマー1匹仕留めることができなかった。

 

 そう、あの場を見ていた者たちは身をもって知っていた。テラフォーマーという超生命体の、尋常ならざる生命力を。

 

 果たしてあえて無視しているのか、それとも銃声が邪魔をして聞こえていないのか。いずれにしても、アークの団員たちが銃撃を止める気配はない。ああ、防衛ラインが突破されるかと身を固くした班員の肩を、ポンと叩くものがいた。

 

「大丈夫だよ」

 

 彼の後ろにいたのは、いつも通り穏やかな笑みを浮かべたキャロルだった。言葉の真意をくみ取れず頭上に疑問符を浮かべる彼に、キャロルは「見た方が早いんじゃないかな?」と言うとテラフォーマーたちを指さした。

 

「見てて、そろそろ効果が出てくるはず」

 

 そう言われて訝し気に視線を戻し……そして彼は、驚いたように眼を見開いた。

 

 彼の目に映ったのは、銃弾を受けて一匹、また一匹と倒れていくテラフォーマーの姿。自分達の決死の猛攻など、まるで歯牙にもかけなかった害虫たちが、まるで普通の人間のようにパタパタと倒れていくのだ。

 

「改良型駆除殺虫剤『マーズレッドPRO 3.0』充填弾……うん、効果はあるみたいだね」

 

 驚く班員たちをしり目に、キャロルは1人頷く。

 

 

 

 20年前、バグズ2号に搭載されていたゴキブリ駆除剤『マーズレッド』。本来テラフォーマーには効果がないその薬品は、クロードの改良が加わることで、テラフォーマーに対して極めて高い毒性を発揮する専用の殺虫剤となった。

 

 もっとも、殺虫効果が高いということは必然的に生物に対する有害性も高いということ。人体に対する影響の懸念から、以前の大規模散布という形はとりにくくなった。その代替として用意されたのが、この特殊な弾丸である。

 

 麻酔弾の要領で弾丸内にマーズレッドを充填し、弾丸として打ち込む。テラフォーマーなら概ね3~4発で昏倒し、6発も受ければ死は確実。何発もの弾丸を標的に打ち込むには相応の訓練が必要であるが、機関銃という連射装置によってこの問題を解決。アーク1号の乗組員は、これまで封じられてきた『人類の叡智』を、害虫たちに如何なく発揮する術を身に着けたのだ。

 

「10匹か。割と残ったな」

 

「ま、半分くらいは減らしたし上出来だべ。ウルバーノ、そろそろええんでねぇか!?」

 

 秘書風の青年の言葉に相槌を打ちながら、太った男性が大男へと声をかける。それに「おうよ!」と威勢よく返し、大男――ウルバーノ・ディアスは次なる指示を下した。

 

「射撃止め……総員変態ッ!」

 

 それを聞くと、団員たちは銃の引き金から指を離した。素早くサイドステップを切り、弾幕を潜り抜けて徒手格闘の間合いに入ったテラフォーマーから数歩分の距離をとる。そして攻撃を空ぶったテラフォーマーたちの眼前で各々の薬を取り出すと、団員たちは各々の特性をその身に発現させた。

 

 

 

「シッ!」

 

 白と黒の羽毛を生やした勝気な少女が、蹴りを繰り出す。その足はしなやかで美しく、しかし強靭にして屈強。造形としては、肉食恐竜のそれに近いだろうか。

 指先から生えたナイフの如き鉤爪に貫かれ、蹴りの衝撃で全身の骨を砕かれ、2匹のテラフォーマーが地に伏せた。

 

 

 

「おっと、油断大敵だ」

 

 鱗を纏った青年は、再び間合いを詰めたテラフォーマーの1匹を、右腕に生えた毒牙で迎え撃つ。続けて仲間の肉体の死角から襲い掛かってきたもう1匹を、彼は掌から放つ高水圧の液体のレーザーで狙撃。

 果たしてそれはテラフォーマーの腕を貫いただけであったが、テラフォーマーはすぐに膝を折る。2匹はほぼ同時に倒れ込み、弱弱しく痙攣するほかに成す術がなかった。

 

 

 

「ぬんッ!」

 

 茶色の皮膚を手に入れた太った男性が口を開くと、その口から高速で舌が飛び出した。粘着質の唾液で絡めとったテラフォーマーの胴体を、彼は舌を器用に操って持ち上げ、振り下ろす。

 力任せに地面へと叩きつけられたテラフォーマーは仲間を巻きこみ、首からゴキリと嫌な音を立てると、白目を剥いてそれきり動かなくなった

 

 

 

「まぁ、こんなものですかね」

 

 眼鏡をクイと上げながら、秘書風の青年は呟く。彼の前は、胸に刺し傷のあるテラフォーマーが2匹横たわっていた。規模こそ小さいが、その傷は正確に彼らの弱点である食道下神経節を貫いていた。

 彼は両腕から生える鋭い顎の刺突剣(レイピア)を振るい、こびり付いたテラフォーマーの体液を払い落した。刺突剣と彼の体に発現した銀の鱗が、日光を浴びてキラリと光る。

 

 

 

「 ガ ル ル ル ル ッ !!」

 

 そして獣の如き唸り声を上げ、ウルバーノがテラフォーマーに食らいついた。比喩でもなんでもなく、彼は文字通りその顎と、牙へと変異した歯を使ってテラフォーマーの喉笛を食い破ったのである。

 その隙に別の個体が背後から殴りつけるも、彼の体は頭髪と髭が変異した獅子の如きたてがみに守られ、全く傷を与えられない。振り向きざま、その逞しい腕でテラフォーマーの頭をねじ切ると、彼は己の戦果を知らせるかのように雄叫びを上げる。

 

 

 

――個人の実力で言えば、彼らよりもミッシェルや燈の方が上だろう。だが人数という面で考えた時、日米合同第二班の中でテラフォーマーを相手に戦えるのは、この2人とアレックスだけ。10人以上もの非戦闘員を守るには、正直な所心もとない数である。

 

 その点、アネックスの一般戦闘員と比較しても遜色ない実力者の集まりであるアーク第二団が、これから行動を共にすることの意味は大きいだろう。彼らの存在は数の不利を打ち消し、行動の自由度に幅を持たせるのだから。

 

「あの人達、アネックスにいたら何位くらいなんだろうね、燈くん……燈くん?」

 

 戦況を見守っていた百合子が隣にいる燈に話しかけるも、返事がない。彼女が隣を見やれば、そこにはどこか遠くを見つめている燈の顔。不思議に思った、百合子も同じ方向へと目を向ける。それと同時に、「ああ、なるほど」と彼女は心の中で納得する。

 

 彼は見つめていたのではなく、()()()()()()()()

 

 武道家である彼だからこそ、その光景にとりわけ目を引きつけられたのだろう。間近で彼の修業風景を見続け、武道を見る目が多少肥えていた百合子だからそれが分かった。

 

 2人の視線の先にいたのは、フルフェイスの人物。テラフォーマーを相手に立ちまわるその姿は、まるで舞を舞っているかのようで――()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 風切り音が鳴り、胸部に穴を穿たれたテラフォーマーがまた1匹、地に沈む。最小の動きから放たれるその刺突は、傍目には決して派手な技ではない。だが見るものが見れば分かる、彼の一連の動作には一切の無駄がないことに。

 

「……」

 

 戦いは、とにかく静かに進行する。その場に響く音のほとんどは、テラフォーマーたちの足音と鳴き声、そして一撃を受けて地面へと彼らが倒れる音だ。シモンが立てる音といえば、槍の風切り音くらいのもの。

 

 ――存外に、冷静なんだな。

 

 静寂の戦場、彼の脳は肉体に戦闘の最適解となる指示を下しながら、その片隅でぼんやりと思考する。

 

 ――目の前にいるのは、大切な友人の仇だぞ? それを前にして、こうも平静でいられるお前は何だ? 体だけじゃない、心も冷たい虫のそれになり果てたのか?

 

 

「……」

 

 脳裏に浮かんだその答えに反論する言葉は思い浮かばない。その事実に苛立つでもなく嘆くでもなく、シモンはただただ小さくため息を溢しながら、その腕を振るう。ヒョウと槍が鳴き、その穂先は寸分の狂いなくテラフォーマーの喉を潰した。

 

 それから次の敵に備えるために槍を構え直し……そこで初めて、彼はこの場にいる全ての敵を己が倒していたことに気が付く。

 

「……テラフォーマー、捕獲」

 

 思い出したようにそう言って、シモンは槍を肩に担いだ。

 

 テラフォーマー30匹前後のサンプル、アネックス計画への寄与度は大きいはずだ。加えて、今の戦闘で自分達が味方であることも理解してもらえたはず。

 

 彼らの、そしてミッシェルの喜ぶ声を聞くことができれば、多少は気も紛れるだろうか? そんなことを考えながら、シモンは踵を返した。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「で、シモン? 納得のいく説明はしてもらえるんだろうな?」

 

「それはもちろん」

 

 ミッシェルの言葉に、シモンは力強く頷く。

 

「情報漏洩を防ぐためとはいえ、当事者であるアネックスの乗組員たちに隠してたことは謝罪します」

 

 そう言ってシモンは頭を下げ、更に言葉を続ける。

 

「その上で改めて、ボクの口からこの計画について皆に説明する。小吉さんに説明を投げっぱなしじゃ、どう考えても筋が通らないからね」

 

「……ああ、頼んだぞ」

 

 人の本気を見極める指標は幾つかあるが、そのうちの1つが口調だ。ミッシェルの聞く限り、シモンの声には力がこもっている。付き合いの浅い間でもない、青年の人柄はそれなりに知っているつもりだ。ならば信頼しても大丈夫だろうと、ミッシェルは結論を下した。

 

「うん、任された。だからね、ミッシェルさん――」

 

 そう言うと、シモンはヘルメット越しにミッシェルを見つめ……。

 

 

 

 

 

 

 

「そろそろ、正座崩してもいいかな?」

 

 全く情けないことを、頼み込むのだった。

 

「は? 駄目に決まってんだろ。それはそれ、これはこれだ」

 

 そう言ったミッシェルの目は、限りなく冷たい。どうやら内心かなり怒っているらしいことが、その様子から手に取るように分かる。

 

人の本気を見極める指標は幾つかあるが、そのうちの1つが口調だ。シモンが聞く限り、ミッシェルの声には力がこもっている。付き合いの浅い間でもない、彼女の人柄はそれなりに知っているつもりだ。ならばこの態勢を解くことが許されるのもしばらく先だろうと、シモンは嘆息した。

 

 今現在、シモンは火星の大地に正座して説教を受けるという、人類史上初となる快挙(?)を成し遂げていた。武道を収める身として、別に正座の1時間や2時間如きはなんということもないのだが……

 

「……救助団の団長さん、正座させられてんぞ」

 

「本当にさっきゴキブリ倒してたのと同一人物なのか?」

 

「というか、何であの不審者スタイルなんだ……?」

 

「やっぱミッシェル班長こえー」

 

 ……周囲からの視線が、痛すぎる。

 

 テラフォーマー100匹と戦えと言われても平然としている自信があるシモンだが、好機と憐憫の目で見られる公開処刑には早くも心が折れそうである。

 

 シモンは助けを求めてキャロルにアイコンタクトを送るが、彼女は申し訳なさそうに手を合わせるだけだ。ならばと副官であるウルバーノを見やるも、彼は肩をすくめて周囲の警戒に戻ってしまう。他の団員も笑い転げるやら呆れるやらで、誰一人として助け舟を出す気配がない。

 

 遠まわしに部下に見捨てられ、シモンはヘルメットの奥で涙目になった。

 

「ま、しばらくそうしてな。私に黙ってた件はそれでチャラにしてやるよ」

 

「あー、うん。そういうことなら、謹んでお受けします」

 

「……私が言っといてアレだが、本当に真面目な奴だよお前は」

 

 律儀に頷くシモンの様子に、ミッシェルは感心半分呆れ半分といった調子で呟いた。

 

「少し待ってろ、水浴びてくる」

 

 そう言うとミッシェルは、シモンへと背を向けて歩き出した。この状況で何を呑気な、という者はこの場にはいなかった。

 

 彼女の体は今、先の戦闘でテラフォーマーと交戦した際に付着した返り血ならぬ返り汁で汚れており、不衛生な状態。このまま何かの感染症に罹って戦えなくなろうものなら、それこそ一大事である。

 

「ミッシェルさん、あの人達と面識があるんですか?」

 

「まぁな……って言っても、あのフルフェイス以外は知らないが」

 

 その道すがら話しかけてきた八重子に、ミッシェルは頷く。興味深そうに耳をそばだてる班員たちにも聞こえるように、彼女は答えた。

 

「あいつはシモン・ウルトル。クロード・ヴァレンシュタイン直属の特別対策室……分かりやすく言うと、テラフォーマーだのMO手術だのを悪用しようとする馬鹿が表れた時、それを止めるために出動するエージェントさ」

 

「ああ、掃除屋(スカベンジャーズ)みたいな感じか」

 

 そう呟いたアレックスの脳裏に思い浮かぶのは、少し前にマルコスやシーラ、そして河野開紀と共に南米で挑んだミッションの記憶。あの時、彼らに同行したのがスカベンジャーズと呼ばれる二人組だった。

 

「大体その認識で良いが、あいつが駆り出されるのは更に危険度が高い時だ。例えば……最近だとテロリスト相手に、州をまたいだ大捕り物があったか。U-NASAが抱えるトラブルの中でも、特にヤベェ案件の処理に関わってる」

 

「な、なるほど……」

 

 ミッシェルの説明を受け、班員たちの顔が少しだけ曇った。言うなればU-NASAの暗部に関わる人間が率いる部隊を、果たしてどれほど信用していいものなのか。そんな彼らの不安を払拭するように、ミッシェルは表情を和らげた。

 

「心配すんな。何回か一緒に任務を受けたこともあるし、あいつの人格と実力は保証する」

 

「それにホラ、皆見てよ」

 

 そう言ってキャロルが指さした先には、言われた通り地面で正座を続けるシモンの姿。

 

「あの人が皆に何かすると思う?」

 

「……確かにそう言う人には見えないね」

 

 キャロルの言葉に八重子が答え、他の面々も頷いた。彼の様子は飼い主に「待て」と言われて待っている子犬のようで、改めて観察するとどうにも気が抜ける。格好が変なことはともかく、とてもではないが暗部に関わる人間には見えない。

 

「そういうことだ。だからまぁ、安心しとけ。あいつは裏切る様なタマじゃないし、あいつらがいることで任務の成功率と私達の生存率が大幅に上がるのは間違いないからな」

 

 ミッシェルはそう言うとキャロルに何事か囁いて、湖の方へと再び歩き始めた。一方のキャロルはそれを聞くと頷き、小走りでシモンへと近づいていく。

 

「団長、正座はもう解いてもいいってさ」

 

「うん、了解です」

 

 キャロルからの伝言にシモンはそう返すと、すっと立ち上がった。特に足が痺れた様子もなく、普段通りの姿勢を維持しているその佇まいからはどこか品性を感じさせる。先程まで、年下の女性に説教されてガチ凹みしていた人物とは思えない切り替えの早さである。

 

「とりあえずキャロルちゃん、本当にお疲れ様。ここまで皆を守ってくれて、ありがとう」

 

「いえいえ。アタシはまだ何もしてませんから」

 

 そう言いつつ満更でもない様子のキャロルに思わず頬を緩めながら、シモンは続けた。

 

「装甲車にキャロルちゃんの専用武器があるから、調整しておいてね。それから、本艦にこれまでの記録の報告もお願い」

 

「了解です、団長!」

 

 敬礼して走り去っていくキャロルの背を見送りながら、シモンはホッと息を吐いた。ひとまず、当面の危難は去ったはずだ。問題はここから、どう動くかである。

 

 とりあえず、アネックス第一班・アーク第一団への合流は最優先事項だ。そこから素直にアークへ撤退するか、アネックスを先んじて確保すべく動くか。

 

 そんな思考を巡らし始めた矢先、特性で周囲の警戒をしていたウルバーノが声を張り上げた。

 

 

 

 

 

「総員警戒! なんか来るぞッ!」

 

 

 

 

 

 直後、ドンという音と共に何かが落下――否、()()()()()()、苔混じりの土煙を巻き上げた。それが止んで姿を見せたのは、1匹の力士型のテラフォーマー。ただしこれまでの個体と違い、その足は異様に発達している。

 

「あれは……!」

 

突然の事態に動揺する一同の中で、シモンはすぐさまその正体に思い至った。その脚部の形状に、見覚えがあったのだ。それは20年前、バグズ2号で小吉と並ぶ戦果を叩きだした乗組員であり、現アネックス第4班の副班長の片割れであるティンに与えられた特性と同質のもの。即ち――

 

「『サバクトビバッタ』……バグズ手術か!」

 

 理解すると同時、シモンはすぐさま槍を抜き放った。通常の力士型テラフォーマーならばいざ知らず、そこにサバクトビバッタの脚力が上乗せされている。この個体はこの場で、自分の手で仕留めるのが最善だろう。

 

 そう考えてシモンは踏み込み――そして、咄嗟に槍で()()()薙いだ。

 

 手ごたえは、ない。だがしかし、プンッ! と何かがこすれるような音と、確かな風の感触を彼は感じた。

 

 風は不規則な軌道で飛行すると、脱出機の翼部分をへし折るように着地して、その姿を見せた。表れたテラフォーマーの姿に、シモンは思わず唇をかんだ。当たってほしくない予想が、当たってしまったのだ。

 

 大量の複眼となった眼球、黄色の縞模様に、薄く細長い翅。その特徴は、“日本原産”『オニヤンマ』のもの。

 

 バグズ2号においてトシオ・ブライトに与えられていた特性であり、テジャス・ヴィジの『メダカハネカクシ』に並ぶ機動力を持つ昆虫だ。

 

「おォッ!」

 

 太った男性団員が銃撃するが、銃弾が届く頃にはそこにオニヤンマ型の姿はない。高速機動で逆に背後をとったオニヤンマ型は、その強靭な顎で団員の首筋を食い破ろうとし――。

 

「あぶねえ!」

 

 しかし、寸でのところで割り込んだ燈に救われる。彼は踏み込みざまに忍者刀を振り抜くが、その切っ先はオニヤンマ型を捉えず、彼が首にかけていたひも状の勲章を切り落とすにとどまった。

 

「チッ……悪い、団長。してやられた」

 

「いや、気にしないで」

 

 ウルバーノの謝罪に、シモンは首を横に振った。レーダーだけでなく、彼の特性である鋭敏な嗅覚をも用いた警戒態勢は万全に近かった。ただ今回の襲撃者たちは、あまりにも『索敵』との相性が悪すぎた。おそらくどんな方法を使っても、この状況は避けられなかっただろう。

 

「それより、あいつらをどうするかだ」

 

 現状はあまり好ましいとは言えない。バグズ型のテラフォーマー2匹、それもそれなりの機動力を有する2匹による襲撃である。おそらく、並の戦闘員では相手にならないはず。

 

 となると、現状バグズ型に対処できるのは自分とミッシェル、燈とキャロルの4人だ。次点でアレックスとウルバーノも考えられるが、少々彼らには荷が重いだろう。

 

ならば他の団員たちは非戦闘員の護衛に回し、燈と自分で相手をするのが得策。直に異変に気が付いたミッシェルも戻ってくるはず、そうすれば……

 

「ッ! ミッシェルさん!」

 

 そんな彼の思考は、燈の叫び声によってかき消された。嫌な予感に湖の方を見れば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()姿()()()()

 

 遮蔽物などほとんどない火星である、見えない場所にいるとは考えられない。では、彼女はどこへ消えたのか? 

 

その問いに答える者はいない。だが、そよ風すら吹いていないのに波紋が広がる湖面が、岸にポツンと取り残されたミッシェルのコートが、彼女の身に何が起こったのかを物語っていた。

 

 

 

 ――不味い。

 

 

 

 シモンの額に、ぶわりと脂汗が浮かぶ。おそらく彼女は、()()()()()()()()()()()()()。バグズ型のテラフォーマーが襲ってきている現状から考えるに、おそらく下手人は『ゲンゴロウ』。あるいはそうでなくとも、水中での活動に特化した何らかの生物である可能性が高い。

 

 いかにミッシェルといえども、水中戦では勝ち目がないはず。一刻も早く引き上げなければ、彼女の生命に関わる。

 

 すぐさまシモンは、注射器型の変態薬を首筋に突き立てると、湖へ向かって駆け出した。

 

「じょう」

 

 だが、テラフォーマーたちがそう簡単に救援に行かせるはずもない。シモンの前にサバクトビバッタ型が立ちはだかると、すかさず豪脚による強烈な蹴りを放つ。空気が裂けるのではないかという速さで放たれたそれを、シモンは辛うじて躱した。つま先がフルフェイスヘルメットを掠め飛ばし、その下から青年の素顔が露になる。傷だらけのその顔には、微かな焦燥の色が浮かんでいる。

 

 ――このまま強引に押し通る?

 

 シモンは脳裏に浮かんだその考えを、すぐさま却下した。無理に突破すれば、背後から襲われるか燈へと攻撃の矛先が向かうかのどちらかだろう。事態は急を要するが、この個体はここで倒さなければならない。

 

「やるしかない、か……!」

 

 歯がゆいが、このまま放置はできない。そう判断したシモンの前で、サバクトビバッタ型の脚が再び放たれた。それを受け流すべくシモンは槍を構える……が、そのタイミングで両者の間に割って入った者がいた。

 

「はぁあッ!」

 

 まるで自動車事故のような、激しい衝突音。人体など容易く砕き、仮に致命を免れても体ごと吹き飛ばされてしまいそうな一撃をあろうことか押し返し、乱入者――キャロル・ラヴロックは叫んだ。

 

「こいつの相手はアタシが! 団長はミッシェルさんを!」

 

「ッ、ありがとう!」

 

 緊迫した状況で、冗長な会話は不要。手早く言葉を交わすと、シモンはすぐさまその場から跳躍し、文字通りひとっ跳びに湖岸へと向かった。

 

「よし、これでミッシェルさんは大丈夫……あとはこっちか」

 

 キャロルは呟くと己の専用武器――人間1人を覆い隠してしまえるほどに巨大な盾を構え直し、肩越しに背後を振り返る。彼女の視界には、こちらに背を向ける燈の姿が映った。

 

「燈くん、そっちのオニヤンマはお願いしていい?」

 

「ああ、任せておけ」

 

 短く答えた燈の手からは、目を凝らさなければ見えない程に細く、それでいて世界中のいかなる物質よりも頑丈な糸が紡がれる。先程の戦闘では見せることのなかった、後天的に組み込まれた生物の特性。

 

 即ちそれは『マーズランキング6位』、幹部に次ぐ実力者である膝丸燈が本気を出したことの証左である。

 

「背中を預けるぞ、キャロル。バッタ(そっち)は頼んだ!」

 

「もちろん」

 

 キャロルは頷くと、サバクトビバッタ型のテラフォーマーへと向き直る。拳や額を始めとする人体の急所を守るように、水晶のような結晶でコーティングしながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――植物。

 

それは地球上でもっとも繁栄しながら、生態系において最も下層に位置づけられる生物。

 

彼らの特性は実に多様であるが、その中にあってキャロルの手術ベースとなった植物は、本人が再三言った通り極めて凡庸なものだ。

 

目を引かれるほど美しくもなければ邪魔者扱いされるほどの繁殖力もなく、強力な毒もずば抜けた薬効もない。

 

箸にも棒にも掛からない、そんな表現がまさしく相応しいこの植物。しかし実は一つだけ、あまり知られていない特徴がある。それは、()()()()()()()2()()()()()()()()

 

 

 

 1度目は夏の終わりに、小さく可憐な白い花を。

 

 

 

そして2度目は厳冬の最中。多くの植物に埋もれ、誰に惜しまれることもなく枯れ落ちたその後に、彼女達はもう一度だけ咲き誇る。美しくも儚い、ガラス細工のような()()()()

 

 

 

 ――故に、与えられた名は(コードネーム)硝子の令嬢(シンデレラ)

 

 

 

 戦闘という面において、他の潜入員の手術ベースには遠く及ばない。しかし最も『美しく』自らの生きた証を、歩んだ軌跡を飾る生物。それが彼女に与えられた特性である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 眼前の敵に意識を集中させながら、キャロルは自分自身も含め、この場にいる全員に聞こえるように宣言する。

 

「大丈夫だよ――絶対に、守るから」

 

 そう言って彼女は、笑った。自分と周囲を、鼓舞するかのように。彼女は優しくも頼もしく、花のように笑ったのだ。

 

 

 

「それが、アタシがここにいる理由だからね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

キャロル・ラヴロック

 

 

 

 

 

 

 

国籍:アメリカ合衆国

 

 

 

 

 

 

 

25歳 ♀

 

 

 

 

 

 

 

168cm 60kg

 

 

 

 

 

 

 

『アークランキング』15位 (マーズランキング9位相当)

 

 

 

 

 

MO手術 “植物型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    ―――――――――――― ”日本固有種” シモバシラ ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

      

 

 

 

 

 

“ツノゼミ累乗術式” MO手術ver『Hyde』 “昆虫型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ―――――――――――― ミツツボアリ ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

  ―― 氷華の乙女(シモバシラ) & 生命の涙(ミツツボアリ)開花(フロスト)

 




【オマケ】

燈「『バグズ2号』の蜻蛉だったやつの方が強い。多分…お前より」

オニヤンマ型「……」

燈「……ごめん、やっぱ今のなしで」

トシオ「もうちょっと頑張れよ!? 事実だけども!」






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第43話 GUARDIAN 守護の意味

シモバシラ(Keiskea japonica)。

【原産】日本固有種。関東以南の本州から九州にかけて分布。

【シソ科シモバシラ属】 

 宿根性の多年草。毒性・薬効ともになし。

 白く、釣鐘上の花を9-10月にかけて咲かせる。初冬になると茎は枯れるが、根は地中で活動を続ける。そのため枯れた茎の道管に水が吸い上げられ、外気が氷点下になると氷柱を作成する『結氷現象』を引き起こす。これが和名である霜柱(シモバシラ)の由来となっており、人々に冬の訪れを告げる。

【別名】雪寄草(ユキヨセソウ)

【花言葉】 ―― “健気”




「じょう!」

 

 掛け声と共に、サバクトビバッタ型の巨体から強烈なタックルが繰り出された。その動きは砲弾さながら、速さのあまり残像すら捉えられる威力に、見守っていた第二班の班員はおろか、アークの戦闘員たちすらも思わず息を吞む。

 

 

 

 ――サバクトビバッタ型テラフォーマー。

 

 

 身長2m40cm、体重200kg超え。

 

 幼少時から動物性タンパク質を摂取することで得た筋力に加え、バグズ手術によってサバクトビバッタの強靭な脚力をも有した個体である。

 

 

 

 筋肉ダルマと侮るなかれ、生物の肉体がどれだけの速さを発揮できるかは、筋肉量に左右されるといっても過言ではない。

 

 デカい=のろまの図式が当てはまるのは漫画の中だけの話である。陸上で世界記録を出すような選手の多くを見れば分かる通り、現実では“筋肉ダルマ”こそ“速い”のだ。

 

 通常のテラフォーマーの倍以上の体重を誇る力士型の筋肉量、そこへ更に、人間大ならビルを跳び越えると言われるバッタの脚力が加わる。その一撃がどれほどの破壊力を生み出すかなど考えたくもないが……例え甲殻型のMO手術の被験者であっても、直撃すれば致命傷は避けられない。

 

 彼の腰で揺れる2本の“下がり”が、テラフォーマーとしての彼の実力の高さを裏付けているとも言えるだろう。

 

「ぐ、うっ!?」

 

 トラックが衝突したような音が響き、構えた盾ごとキャロルの体が一気に後方へ押し戻された。続けて息つく間もなく二撃、三撃とサバクトビバッタ型は次々に蹴りを打ち込んでいく。

 

「まずい、キャロルが追い込まれてる……!」

 

 アミリアの口を突いて出たその言葉は、戦況を見守る第二班の班員たち全員の内心を代弁したものだった。

 

 今はまだ耐えているが、果たしてあの怒涛の連撃を、細身の彼女があとどれだけ凌げるものか。

 

 彼女はすがるように、隣に立っていた長髪の青年を見やる。意図をくみ取った青年が変態した掌をテラフォーマーへ向けるが、しばらくすると構えを解いてしまった。

 

「無理だな。近すぎてキャロルを誤射しかねない……つーかそれ以前に、動きが激しすぎて当たるかどーか、ってとこだな」

 

「でも、このままじゃ……!」

 

 アミリアは今にも泣きそうな顔で、青年に食い下がる。理屈は分かるし、自分に何ができるわけでもない。だがこのまま、命を懸けて戦いに臨んだ仲間が嬲られるのをただ見続けることなど、アミリアにはできなかった。

 

 

 

 ――そしてそれは、()()()()()()()()()()

 

 

 

「……なら、状況を仕切り直そう」

 

 

 

 そう言ったのは、百合子だった。自分へ視線が集まるのを感じながら、彼女は注射器型の変態薬を取り出した。

 

「私の特性なら、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。あいつが大ぶりな攻撃をした瞬間を狙って……」

 

「おっと、そいつはやめときな『14位』」

 

 しかしその言葉は、背後からかけられた声によって遮られる。振り向けば、百合子の真後ろにはライオンを思わせるたてがみを生やした、巨漢のウルバーノが立っていた。彼はたてがみへと変異した髪をわしゃわしゃと掻きながら、長髪の青年に声をかけた。

 

「ジェド、団体様のご到着だ」

 

 そう言って彼は、自らの後ろを親指で指す。その先には空を飛びながら脱出機へと向かってくるテラフォーマーの姿があった。

 

「頃合いを見て、ナディアが空中戦を仕掛ける。護衛は俺と弥太郎に任せて、お前は特性で敵の数を減らしてくれ」

 

「あいよ! ……悪いな、アミリア殿」

 

 ウルバーノの指示を受けた青年はアミリアの肩を叩くと、そのまま脱出艇の反対側へと歩き去っていく。それを見送りながら、ウルバーノは百合子へと言った。

 

「お前さんの特性は確かに強力だが、病み上がりで変態を長く持続できねぇんだろ? お前さん自身が強いわけでもない、こっちに攻撃の矛先が向いたとして他の班員を守れるか?」

 

「そ、れは……」

 

 図星を突かれ、百合子は口ごもってしまう。

 

 

 

 ――源百合子、マーズランキング同率14位(89位相当)。

 

 

 

 一見すると奇妙なこの順位は、彼女自身の特殊性によるものである。

 

 念のために入っておくが、燈と同じ環境で育ったといっても、彼女自身には何ら武道の心得はない。それどころか病み上がりであることも手伝って、彼女の身体能力は平均的な同年代の女性のそれすらも下回る。

 

 その上で、14位。

 

 このランキングは特性の強さと素体によって決まることを考慮すれば、彼女のベースがいかに強力なものであるかがよく分かるだろう。彼女の特性はアネックスの乗組員としては希少な『広域制圧』を得手とするものであることも大きい。

 

 仮に彼女の状態が万全であれば更に上位に食い込み、戦闘員としての訓練を受けていたに違いない。

 

 

 だが、彼女は非戦闘員としてアネックス計画に参加している。その理由は至って単純、()()()()()()()()()()()()()()()()()()だ。

 

 病み上がりの彼女の体は、多大な負荷を受ける変態に伴う細胞の入れ替えを受け付けず、強制的に変態を中断してしまうのだ(余談だが薬は一定時間体内に残留するため、連続で変態すると過剰投与状態になり、ショック症状が表れる)。

 

 

 

 彼女が戦闘員に匹敵する絶大な力を振るえるのは、10秒にも満たないほどの時間。果たしてキャロルを窮地から救ったとして、そこから攻撃対象を変更したサバクトビバッタ型をどうにかできるものか……。

 

「まぁそれに、まだ助勢に入るにはちと早い」

 

 そう言ってウルバーノは、口内の犬歯を見せてニヤリと笑う。

 

 

 

「見てな、そろそろだぜ」

 

 

 

 彼の言葉と同時に大きな衝突音が響き、戦いを見守っていた非戦闘員たちの口から「あっ!」と声が上がった。

 先程までと同じ、ある程度の重量と質量を持つ物体同士がぶつかった音。ただし先程までと違っていたのは、攻め手と受け手が逆転していたことだろう。

 

「シッ!」

 

 ぐらりと仰け反ったサバクトビバッタ型の巨体、それを見るや否やキャロルは今しがた振り抜いた盾を素早く手放すと、警戒にサバクトビバッタ型の胴体に打撃を叩きこんでいく。

 

 二撃、三撃、四撃。

 

 第一班の主力、元ボクサーの慶次ほど洗練されたものではないが、明らかに訓練された動きで彼女は拳を打ち付ける。連撃の締めとして結晶で覆われた足でサバクトビバッタ型を蹴り飛ばすと、キャロルはそのまま軽やかなステップで後退。

 

「フゥー……」

 

 息を吐いて呼吸を整えながら、彼女は地面に落ちた盾を手にとり構えた――そう、己の体そのものをすっぽりと覆い隠してしまう程の大きさ・重量の盾を、軽々とである。

 

 

 

 ――キャロル・ラヴロック。

 

 身長1m68cm、体重60kg。

 

 

 

 同年代の女性の平均を大幅に上回る体重は、彼女が太っているから――では勿論ない。ミッシェル同様、彼女の重量の大半を占めているのは筋肉である。もっともミッシェルと違い、彼女自身の血統になんら特筆すべき特徴はない。キャロルの体は純粋な訓練によって鍛えたもの、あくまで一般人の範疇に収まる程度のものだ。

 

 ではそんな彼女が、かつてのバグズ2号の中でも屈指の破壊力を持つサバクトビバッタと、動物性蛋白質で上乗せされた筋肉を持つテラフォーマーの猛攻を凌げたのか?

 

 

 理由その1、彼女に与えられた2()()()()ベースの存在。

 

 蟻の凄まじい筋力については、もはや説明の必要はないだろう。そしてそれは、彼女に組み込まれた『ミツツボアリ』もその例に漏れない。

 

 例えばパラポネラやトビキバアリのように好戦的な種類の蟻と違い、ミツツボアリたちに突出した凶暴性が備わっている……などということはない。

 しかし、自分の胴体の数倍近い大きさに膨らむまで腹部に蜜を溜め、仲間のための貯蔵庫として天井にぶら下がるその筋力は、蟻の仲間だからこそ発揮しうるもの。この特性を使えば、壁と見紛うほどの盾を振り回し、サバクトビバッタ型の猛攻を凌ぐことなど造作もない。

 

 

 理由その2、彼女自身の技術。

 

 新人ながらもSWAT候補生として注目され、また自分自身もそうなりたいと努力を続けた彼女は、勤務署内でも有数の逮捕術の使用者であった。

 

 特にSWATが常備する防弾盾(バリスティックシールド)を用いた鎮圧技術、そして近接での徒手格闘に関しては、若手ながらかなりの評価を現役隊員からも得ている。その中には無論、衝撃を上手く逃がしながら攻撃を受ける技術や、受け流しを応用したカウンター技術なども含まれる。

 

 サバクトビバッタ型の破壊力は恐ろしい、だが無軌道で精彩を欠くその攻撃は、彼女の技術をもってすれば決して捌けない物ではないのだ。

 

 

 

 そして理由その3、彼女の“専用装備”。

 

 

 

「な、なんだ……?」

 

 彼女が先程まで使っていた大盾、構え直したそれを見たウォルフは、思わず呟いていた。

 

「あの盾、()()()()()……!?」

 

 

 

 ――対テラフォーマー凍結式バリスティックシールド『ハボクック』。

 

 それが彼女に与えられた1つ目の専用武器であり、専用防具。この盾は平時、底に取っ手が付いた巨大なタライのような形状であるが、大量の水を流し込んで凍結させることで、何度でも再使用可能な永久防具としての機能を発揮する。

 

 ここで当然問題になるのが、たかが氷塊ごときでテラフォーマーの攻撃を凌ぐことができるのかという点である。

 

 

 

 ――答えは、YES。

 

 

 

「ジョウ、じッ!」

 

 地面がひび割れるほど力を溜め、サバクトビバッタ型は渾身の蹴りを放つ。その威力に後ずさりながらも、キャロルは蟻の筋力とその盾で以て、その一撃を正面から受け止めた。

 

 無論、ただの氷ではどれほど厚みがあっても壊れてしまうだろう。しかしこの盾を構成しているのは、ただの氷ではない。

 

 

 

 “パイクリート”。

 

 

 

 それは第二次世界大戦中、イギリスの発明家ジェフリー・N・パイクによって提案された「氷山空母」を実現するために開発された複合材料である。

 

 氷山を空母に改造して運用するという奇天烈な発想の下に生まれたパイクリートは、重量比14%のパルプ(おがくずや紙など)と86%の水を混ぜ合わせて作られ、凍結させると通常の氷と比べて溶けにくく、強度・靭性に優れた氷になるという特徴がある。

 

 その強度は至近距離でライフル銃を撃ち込まれても貫通しないほどで、空母の装甲ほどの厚みがあれば魚雷や爆撃・砲撃すらも寄せ付けない。加えて、仮に空母が損傷したとしても、海水を流し込んで再凍結すれば無限に補修が可能。

 

 残念ながら氷山空母は予算や建造期間の都合で実現されることはなかったが、仮に実現していれば、敵側にとって悪夢の不沈艦として恐れられていただろう。

 

 そして当時から実に650年以上もの時を経て――かつての天才によって開発されたパイクリートは今、悪魔の猛攻を凌ぐ盾としてキャロルの手にある。

 

「せいっ、やあ!」

 

 本来は防具としての運用が想定されているバリスティックシールドであるが、蟻の筋力を備えるキャロルが扱うことで、総重量100kgは下らない鈍器として極めて凶悪な威力を発揮する。

 

 辛うじて跳び退くことに成功したサバクトビバッタ型の鼻先をかすめ、盾が地面に叩きつけられる。重々しい一撃は大地にクレーターを刻み、軽度の地震すらも発生させた。

 

「――そこッ!」

 

 一瞬、サバクトビバッタ型がよろめいた隙をついて、キャロルは再び彼の懐に飛び込んだ。拳にパイクリートを作成し、力士型の顎に叩きつける。メリケンサック状に凍結したパイクリートはミシリ、という嫌な感触と共にテラフォーマーの顎を砕く。

 

「じ、ぎ……」

 

 地面へと巨体が沈む。キャロルは捕獲用虫取り網を手に取るとネットを射出し、サバクトビバッタ型を捕縛した。

 

「よいしょ、っと……さて、これからどうしようかな?」

 

 銃身を肩に担ぎ、キャロルは考える。脱出機に戻って守りを万全にするか、未だオニヤンマ型と戦う燈の補助に入るか、それともミッシェルを救助しに行ったシモンの安全を確保するか。

 

 3つに1つ。少しばかりの思考の末に、彼女は最初の選択肢を選ぶことにした。スピードに優れない自分の特性ではオニヤンマ型に勝つのは難しいだろう。

 

 シモンの補助も同様で、水泳に関する特性を持たない彼女ができることは、精々上がってくる岸辺の安全を確保することくらいだ。だが目視できる範囲に脅威はなく、わざわざ集団から孤立してまで警護する火急の必要があるとは思えない。仮に上がってきた2人のために毛布なり温かい飲み物なりを渡すにしても、どのみち脱出機には戻らなければならないだろう。

 

 そう結論付けてキャロルが体の向きを180度回転させたその瞬間……ただ1人、その鋭敏な嗅覚で『予兆』を察知し、顔色を変えたウルバーノが警告を叫んだ。

 

 

 

「油断すんなッ! まだ終わってねぇ!」

 

 

 

 ――キャロルが咄嗟に反応できたのは、日頃の訓練のたまものだろう。

 

 盾には手が届かない。振り向きざま、咄嗟に虫取り網の銃身を、胴体を庇うように構えた。

 

「がッ……!?」

 

 そして次の瞬間、彼女の体は衝撃と共に「く」の字に折れ曲がった。銃身がひしゃげた一瞬の後に、キャロルは背中から脱出機の装甲に叩きつけられる。

 口から洩れたのは空気の音ではなく、水気を帯びた嫌な音。口から咳混じりにこぼれたのは、赤い血だった。

 

「じょうじょ」

 

 不気味な声を発しながら、サバクトビバッタ型は()()()()()()。既に脳震盪は収まったのだろう、その足はしっかりと巨体を支えている。彼の足元には、力任せに引きちぎられたと思しきネットの残骸があった。

 

 ――捕獲用虫取り網のネットは、非常に頑丈な繊維を材料にして編まれている。その強度は実際に耐久テストを行った技術者たちが、テラフォーマーの3倍の筋力でも切れないと太鼓判を押しているほど。

 

 ただしそれは裏を返せば、テラフォーマーの3倍を超える力であれば、引きちぎられてしまう可能性もあるということでもある。

 

 元々、通常のテラフォーマーの数倍の筋力を持つ力士型、そこにサバクトビバッタの脚力が加わったのだ、いかに対テラフォーマー用のネットであろうと耐えきれるはずがない。それを見誤った代償が今、キャロルに牙を剥いたのだ。

 

「キャロルッ!?」

 

 脱出機から悲鳴が上がるが、それに応える気力はなかった。体はぐったりとして重く、動かない。

 もはや興味も尽きたとばかり、こちらへと背を向けて脱出機に向かうサバクトビバッタ型をぼやけた視野で見つめながら、彼女はぼんやりと、走馬灯のように過去の記憶を思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アタシの中の一番古い記憶は、3歳の頃に巻き込まれた強盗事件だ。

 

 目だし帽を被り、拳銃を持った犯人たちの怒声に怯え、泣いている幼い日の自分。しかしその記憶を見ている今のアタシに、恐怖はない。知っているからだ――この直後に助けが来ることを、アタシにとってのヒーローたちが駆けつけてくれることを。

 

 ガシャン、という音とともに扉が破られ、盾を構えたSWAT部隊が建物になだれ込む。彼らは手慣れた様子で犯人たちを鎮圧すると、すぐに人質になっていたアタシ達を解放してくれた。泣きじゃくるアタシを落ち着かせるように隊員の人が見せた笑顔と、「もう大丈夫だよ」というその言葉を忘れることは、多分一生ないだろう。

 

 幼児というのは存外に逞しいもので、恐怖はいつのまにか、尊敬の感情に塗りつぶされていた。そしてその時、アタシは幼いながらに決意する。自分も彼らのように、弱い人々を助けられるような人間になろうと。

 同年代の男の子たちがコミック・ヒーローに憧れるように、アタシは警察――特に、SWATに憧れるようになった。

 

 強くなって、かつての自分のように弱い人を「守りたい」――その思いを支えにしてここまでやってきた。例え何と言われようと、この想いだけは本当だって断言できる。

 

 それは警察官になってからも、変わらなかった。だからアタシは、警察署の掲示板の片隅に小さく貼りだされた「アネックス計画の参加人員募集」の広告を知った時、迷わず志願した。

 

 多分、普通の人なら「ありえない!」って言うと思う。実際、警察関係者からの志願者はアタシだけだった。配布元のU-NASAすら、まさか志願者が出るとは思っていなかったらしい。何度も何度も、色んな人から本気かどうかを確認された。

 

 それでも、アタシは志願を取り下げなかった。

 

 アネックス計画の参加者の多くは、お金に困っている人たちだ。社会そのものが見捨て、もうすがる先がそこしかないような人たち。それでも自分のために、人類のために、命を燃やして這い上がろうとしている。それを知ったアタシの中には、ある疑問が浮かんでいた。

 

 ――全てに見放された彼らを、誰が守るんだろう?

 

 今にして思えば、凄く傲慢な考え方だった。究極の自己満足だった。お前は何様だ、って怒られても何も言い返せない。だけどその時のアタシは、正義感に燃えていた――多分、ちょっと間違った方向に。

 

 自分の原点、「弱い人を守りたい」という思いを曲げてしまったら、アタシはこの先警察官として胸を張れないと思った。

 

 だからアタシは休職届を出して、その足でU-NASAへと向かった。手術適性のパッチテストの結果を待つまでの間に、今の日米合同班の皆とも仲良くなった。

 

 彼らがすごく良い人達だって言うことを知って、「ああこんないい人たちなら、やっぱり守らなくちゃな」なんて、無意識に上から目線で考えながら何日か過ごして……そしてアタシは、現実を叩きつけられることになる。

 

 テラフォーマーは怖くなかった。手術の成功率を聞いても、ケロッとしていた記憶がある。だけど、手術ベースの適性を調査するパッチテストの結果を見せられて、アタシは愕然とした。

 

『ノシバ』『シロツメクサ』『タンポポ』『ススキ』……リストに載せられていたのは、どれも戦闘には不向きな雑草だった。

 

「こんなに多くの生物に適合する被験者は珍しい。そしてこれほど多くの生物に適合しながら、一切任務適性のない植物ばかりが適合するのも」

 

 アタシにそう説明した科学者は、果たしてどんな顔をしていただろうか?

 

 SWAT次期候補生、と言われていただけのことはあって、自分の身体能力にはちょっとばかり自信があった。けどそれは『戦闘向きの特性を持った軍人や格闘に秀でた被験者』を押しのけられるほどのものではない……いや。

 

 下手をすれば()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、対テラフォーマー戦でアタシは劣るかもしれない。

 

 意気消沈して帰ったアタシをアミリアやペギー、八重子は慰めてくれたけど、それが余計に惨めだった。彼らには技術職や研究職という役割がある。でも、アタシは? 戦闘員にあぶれ、秀でた技術があるわけでもない。あるのはただズタボロになった自尊心と、彼らに対する申し訳なさだけだった。

 

 

 ――アタシはアネックス計画の、皆のお荷物に来たわけじゃないのに。

 

 

 とにかく今の自分が情けなくて、気が付くとアタシは、U-NASAの研究棟の裏で1人泣いていた。そんなとき、アタシは出会ったんだ。

 

 

 

「あれ? 君、こんなところで何してるの?」

 

 

 

 ――フルフェイスヘルメットを被り中華拳法服を纏った、不審者に。

 

 

 

「ア゛ッ!? ちょ、ちょっと待って! 通報しようとしないで!? ボク怪しい者じゃないから! ちゃんとした正規職員だから!?」

 

 スマートフォンを取り出したアタシに、必死で職員証(なぜか証明写真もヘルメットを被っていた)を見せながら、彼は弁明した。

 

 とりあえず何とかアタシにスマホを仕舞わせた彼は、「それで、どうして泣いてたの?」と改めて聞いてきた。

 

「何があったのかは分からないけど、それくらい辛い何かがあったってことは分かるよ。相手がボクでよかったら、話してみない? 気が楽に……なるかは分からないけど、聞くことぐらいならできるからさ」

 

 その声はとても優しかったことを覚えている。先程のあたふたとした反応を見ていたこともあって警戒を解いていたアタシは、自分でもびっくりするほどあっさりと、これまでの経緯を話していた。

 

 とりとめもなく、思いつくままに自分の感情を吐露していく。きっとアタシの話は支離滅裂だっただろう、それを彼は聞き流すことなく、静かに聞いていた。

 

「誰かを守るってさ……すごく、難しいよね」

 

 全てを話し終えたアタシに彼は言った。「ボクは、守れなかったんだ」――と。思わず顔を上げたアタシに、彼は続ける。

 

「大事な友達が、守りたかった人がいたんだ。だけどその時のボクは非力で、多分覚悟も足りてなくて……取りこぼしてしまった」

 

 彼はそう言うと、どこか遠くを見つめた。守れなかった友達に、思いを馳せているのか、それとも自分を責めているのか、アタシには分からなかった。けれど、彼が背負うものがあまりに凄絶なことを、何となくだけどアタシは理解して、だから声をかけられなかった。

 

「ごめんね、本当は慰めるつもりだったんだけど……これに関して、ボクは嘘をつけない。だから今から、とても厳しいことを言います」

 

 そう断った彼の纏う雰囲気は、さっきまでのうだつの上がらない青年のそれじゃない。研ぎ澄まされたそれは、刃だった。そして同時に、鏡でもあった。意識の奥に秘された無意識を暴く刃であり、それを突きつける鏡。

 

「――誰かを守るために必要なのは、力だと思う。そして力を得るために必要なのは才能でも、綺麗ごとでも、適性でもない」

 

 フェイスガード越しに、彼と目があった気がした。黒のそれに阻まれて視線は見えないけど、アタシの瞳は何かを捉えて離さない。

 

「月並みだけど、覚悟だよ。“どんなことをしてでも”、“何があっても”――その思いがあれば力は自ずと身につくし、どんな逆境でも足掻いて、希望を見出せる。自分の中の絶対に譲れない一線を譲らないために、どこまでも貪欲に最善を求め続ける姿勢。それが覚悟だと、ボクは思う」

 

 ――君には、それがある?

 

 短く告げられたその質問に、アタシは答えられなかった。けどそれが、アタシの決意の薄っぺらさを表していたんだと思う。

 

「もし答えられないなら、帰った方がいい。アネックス計画の参加者なら、君が守るつもりだった非戦闘員だって即答できる質問だ。生半可な覚悟で臨むのは彼らに失礼だし、任務にだって支障をきたすからね」

 

 なにより、と彼は先程までと変わらぬ口調で、しかしどこか寂し気に言った。

 

「覚悟が足りなかったから、ボクは大事な人を死なせてしまった。生半可な覚悟の成れの果てが、今のボクだ。自分勝手だけど……君には、ボクみたいになってほしくない」

 

 そう言うと彼はもう一度だけ「ごめんね」と謝罪して、アタシの前から立ち去った。

 

 それからアタシはしばらくぼうっとした後、アミリアたちからの夕飯の誘いも断って、フラフラと自室に戻った。そしてベッドに腰を下ろすと、枕に顔を押し付けた。

 

 ――決意に酔っていた自分が恥ずかしくて、顔から火を噴きそうだった。

 

 アタシはきっと、自分でも知らないうちに優越感に浸っていた。自分は強いから、弱い人を()()()()()()()()。そんなの、覚悟でもなんでもない――ただの独りよがり、押し付けだ。

 

 ああ、恥ずかしい。目の前にさっきまでの自分がいたら、きっとアタシは殴り飛ばしていたと思う。

 

 枕に顔を埋めて、ベッドの上でばたばたと足をばたつかせ、うーうーと声にならないうめき声を上げて……それからアタシは、火照った顔で考える。

 

 アタシにとっての覚悟って何だろう?

 

 考えて、考えて、いつの間にか居眠りしてしまって、慌てて目を覚まして……そんなことを何度か繰り返して、ふとアタシは気付いた。何も難しく考えなくていい、答えは最初から出ていたのだから。

 

 

 

 

 東の空が白み始めた頃、こっそりと部屋を抜け出して、昨日の場所へ向かった。何となく、予感があったから。案の定そこには、1人でポツンと立っている彼の姿があった。

 

「答えは、出た?」

 

 アタシに気が付いた彼は、ヘルメット越しに問いかける。彼の柔らかい雰囲気は、アタシが下したのがどんな結論であれ、受け入れると言っているかのようだった。

 

「はい……私は、帰りません」

 

 反応はないけれど、拒絶や怪訝の色も見られない。だからアタシは、自分の想いを吐きだした。

 

「『守る』っていう想いは、今の自分の原点なんです。だから、この想いだけは変えられない。この想いだけは本物だから……だから私は自分なりに、最期まで皆を守りたい」

 

 喋りながら、自分の言葉に力と熱がこもっていくのが分かる。きっと、これなんだ。これがアタシの、本当にやりたかったこと。アタシにとって譲ることのできない、一閃。

 

「だから、帰りません。戦闘向きのベースが適合しなくたって、皆に勝てるような技術がなくたって、関係ない。皆が弱いからじゃなくて……大切な友達を失わないように、かけがえのない友人をこれ以上傷つけないために。あくまで対等な仲間として、私は最後まで守り抜く」

 

 ――これが、私の覚悟です。

 

 そう言いきって、吐き切った息を吸い戻す。どんな反応が返ってくるかは分からない、けど自分の中のモヤモヤが綺麗さっぱりと消えて、とても清々しかった。

 

 それを見てとったのだろう、彼は静かに頷いて「そっか」と呟く。そして彼――シモン・ウルトル団長は、アタシにこう言ったのだ。

 

 

 

「君の力が必要だ、キャロル・ラヴロックさん。君さえ良ければ、ボク達の計画に協力してほしい」

 

 

 

 ――と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……俺に、何か用か?」

 

 燈は眼前のオニヤンマ型から目を離さず、背後から近づいてくる重い足音の主に言った。

 

 

 ――現在、燈側の戦況は膠着状態にあった。

 

 周囲に張り巡らされている糸は、燈がMO手術で手に入れた特性だ。鉛筆程の太さに束ねれば、ジャンボジェット機すら繋ぎとめると言われる蜘蛛の糸――()()2().()5()()()()()()()()、地上最強の糸。

 

 

 

 ――『マーズランキング』6位、膝丸燈。MO手術ベース ”日本原産” オオミノガ。

 

 

 

 糸の結界はオニヤンマ型の無尽蔵の機動力を大幅に制限、死角からの奇襲をほぼ完封していたのだ。しかしそれでもなお、蜻蛉の機動力は脅威。迂闊に攻めれば、次の瞬間に胴体を両断されていてもおかしくないのだ。

 

 互いに攻めあぐね、静止した戦闘。それはまるで、コップ一杯に注がれた水のようなものだ。たった一滴、雫が滴れば立ちどころに水は溢れるだろう。

 

 その一敵が今まさに、水面に落とされようとしていた。

 

「大方、邪魔者を片付けたから味方の援軍に来た、ってところか。随分気が早いな」

 

 燈は己の専用武器である対テラフォーマー振動式忍者刀『膝丸』を構えた。しかしそれは、背面の巨漢を迎え撃つためではない。己の敵を、確実に仕留めるためだ。

 

 

 

 

 

「俺が背中を預けた仲間を、あの程度で()れると思うなよ?」

 

 

 

 

 

 その瞬間、サバクトビバッタ型の尾葉は、こちらへと駆けてくる何者かの気配を鋭敏に感じ取った。カウンターとばかり、背後を回し蹴りで薙ぎ払おうとするも自慢の脚は頑丈な盾で阻まれた。

 

 

 

 ――なぜ、壊れていない?

 

 

 

 サバクトビバッタ型は、目の前に立つキャロルを見つめた。かつてこの特性を持った人間の前に、多くの同胞たちが命を落とした。目の前の人間どもは、自分達よりも遥かに脆弱な生物。それなのになぜ、自分の一撃でこの人間を壊せないのだ?

 

「っじ……!」

 

 否、壊せないはずがない。一度でダメなら二度、二度でダメなら三度……何度だって叩きつければいい。この脚で砕けぬものなど、この火星に存在はしないのだから。

 

「攻撃が雑になってきたね……不思議かな? どうして、その自慢の脚でアタシを壊せないのか」

 

 一撃一撃が必殺の威力を帯びた、猛攻などという言葉すら生ぬるい攻撃の嵐。しかしそれをいともたやすく受け止め、受け流し、受け切りながら、キャロルは言う。

 

「『覚悟を決めた』……独りよがりに守ろうとしてた時とは違う。アタシの力はもう、アタシだけのものじゃない!」

 

 キャロルは吠えると、サバクトビバッタ型の蹴りを正面から押し返した。形勢が傾いたことを察したサバクトビバッタ型は距離をとって仕切り直そうとする――が、動けない。

 

 蹴りをはなった際に軸足としていた左足が、大地に固定されていたのだ。キャロルが足の裏に生成した氷柱状の杭ごと踏みつけることによって、サバクトビバッタ型の足は地面に磔になっている。

 

 

 

 ――キャロルのMO手術のベースとなった『シモバシラ』には、何かを凍らせる能力はない。

 

 彼女がパイクリートを作ることができているのは、彼女に与えられたもう1つの専用武器によるものだ。

 

 対テラフォーマー過冷却式パイクリート生成装置【アイス・エイジ】。

 

 バックパックに扮したそれは、ミツツボアリの特性で胸部に貯めた水を、0℃以下でありながら液状形態を保つ『過冷却水』へと加工・保持する機能を持つ。

 

 キャロルの脳信号をキャッチすると、装置内部ではパルプ――即ち、シモバシラ(キャロル)の細胞や老廃物――と過冷却水との混合が起こる。そうしてできた『過冷却状態のパイクリート原液』は彼女の葉脈を通り道として、全身へと運ばれる。

 

 さて、過冷却水には『刺激を与えると、急速に状態変化を起こす』という特徴がある。流し込まれた直後に過冷却原液は形状変化を起こし、パイクリートとしてキャロルの体――あるいは、彼女が流し込んだ先に発現する。これが、彼女がパイクリートを操る仕組み。

 

 シモバシラ、ミツツボアリ、専用武器。このどれを欠いても、彼女は潜入員(サイドアーム)として戦うことはできなかっただろう。キャロルの体にこの3つが揃ったのは、彼女が覚悟を決め、それを示したから。そしてキャロルが覚悟を決めたのは……彼女に覚悟を自覚させた者と、彼女が心から守りたいと思える者達がいたから。

 

 

 

「だから、()()()()()()()。何十回殴られても、何百回蹴られても――」

 

 

 

 そう呟く彼女の右腕に纏わりつくように、巨大な氷柱が形成されていく。それはまるで槍のようであり、釘のようでもあった。サバクトビバッタ型はそれを蹴り壊そうと右足を振り抜くが、彼女が構えた盾に防がれ、届かない。

 

 逃げようともがくサバクトビバッタ型に、キャロルは宣言した。

 

 

「アタシは、“何があっても”皆を守るんだ」

 

 

 キャロルの右腕が振り抜かれる。それは食道下神経節ごとサバクトビバッタ型の胴体を貫き、今度こそ彼を戦闘不能へと追いやった。キャロルは口元の血をぬぐうと、自分を心配そうに見つめる脱出機の面々へ向かって笑いかけ、親指を立てた。

 

「サバクトビバッタ型テラフォーマー、捕獲完了っ!」

 

 

 

「――ジョウジ!」

 

 その瞬間、弾かれたようにオニヤンマ型は飛び出した。勝利に気が緩んだその一瞬こそ、生物界においては最大の隙。手負いの人間の雌一匹を仕留める如き、オニヤンマ型の機動力をもってすれば赤子の手をひねるよりも容易い。

 

 彼は風を切り、張り巡らされた糸をかいくぐってキャロルへと向かう。そして……。

 

 

 

 

 

「おい、俺を忘れるなよ」

 

 

 

 

 

 彼は地面へと衝突した。咄嗟に上半身を起こしたオニヤンマ型の複眼に、ハラリと宙を舞う何かが映る。

 

 それは2枚の翅だった。本来の長さの半分ほどになった、蜻蛉の翅の先端が2枚分。オニヤンマ型が背後を確認すると、右側の翅が2枚とも、半分程の位置で綺麗に切断されていた。

 

「俺はあいつに背中を預けたし、あいつは俺に背中を預けた。だったら、俺がお前を通すわけないだろ?」

 

 この状況から離脱しようとオニヤンマ型は翅を動かすが、しかしその体が地面を離れることはない。

 

「お前の攻撃を誘導するのは簡単だったよ、あえて糸が少ない道を作っとけばいいだけだったからな」

 

 ――トンボは翅を一枚失ったとしても、飛行を続けることができる。しかし、片側の翅を2枚同時に失えば、彼らは二度と空へ戻れない。あとはただ、捕食者に食われるのを待つばかりの、哀れな生餌になり下がる。

 

 忍者刀を鞘へ納め、燈は指を2本立てて見せた。

 

「2つ覚えとけ、オニヤンマ。1つ、どんなに速くても攻撃は読まれたら意味がない。2つ――」

 

 蜻蛉の武器である翅を奪われたオニヤンマ型は、ゴキブリの武器である肉体で燈へと襲い掛かる。燈はそれを認めると、反対の手に握られた糸をぐいと引き上げる。その途端、周囲に張り巡らされた糸が、まるで意志を持っているかのように、一斉にオニヤンマ型の体へと絡みついた。

 

「これが人類の生み出した武道、その中でも最強無敵の膝丸心眼流だ――地球を、嘗めんなよ?」

 

 まるでミノムシのように固められ、身動きすらままならなくなったオニヤンマ型は、成す術なく火星の大地に転がされる。

 

 地上での戦闘が決着した瞬間だった。

 

「お疲れ、燈くん」

 

「ああ、そっちもな」

 

 キャロルと燈は互いに短い言葉をかけ、ハイタッチで健闘をたたえ合った。

 

「とりあえずゴキブリ達を虫かごまで運ばなくちゃなんだけど……」

 

 そう言いながらも、キャロルは作業に取り掛からない。彼女の顔の曇りを見て取ったのだろう、燈も表情を険しくした。

 

「ああ……ミッシェルさんたちが、上がってこねぇ」

 

 ミッシェルが水中に引きずり込まれてから、そろそろ2分以上の時間が経過する。もし何の処置もできていないのなら、既にミッシェルの肉体は後遺症が懸念される程に危険な状態に陥っていてもおかしくない。

 

 だが――。

 

「どのみち、アタシ達が水中でできることはない、か……」

 

 燈も、キャロルも、手術ベースは陸上での活動を想定したもの。水中戦はさすがに専門外だ。

 

 あるいは魚類型の手術ベースを持つ団員、ラウルなら……と考えた所で、キャロルはその考えを打ち消す。ミッシェルの救助に向かったのは、自分達の団長であるシモン。彼が向かった以上、下手に自分達が行動をするとかえって事態を悪化させてしまう可能性もある。

 

「……今は、信じるしかない。ミッシェルさんとシモンさん、2人のことを」

 

 

 自分に言い聞かせるように燈が言ったその言葉に、キャロルはただうなづくしかうなかった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 既に光は頭上の彼方へと遠のき、薄暗さと静寂だけがその場を支配している。ミッシェルは酸欠でまとまらない思考で、必死に打開策を練っていた。

 

 目の前にいるのは、力士型のテラフォーマー。ブラシ状に変化した足に、特徴的な丸い翅。おそらくは、ゲンゴロウのバグズ手術を受けた個体なのだろう。この個体だけならば、対処法はある。

 

 

 

 いや――対処法は“あった”と言った方が正しいだろうか。

 

 

 

 彼女は、頭の片隅で理解していた。自分の置かれたこの状況は完全に『詰み』であると。

 

 起死回生の一手は潰された。彼女の打開策から逃れたゲンゴロウ型は離れた位置に陣取り、高みの見物を決め込んでいる。

 

 彼女が窒息で苦しむさまを見て、楽しんでいる? ――否、そうではない。彼は観察しているのだ。これから目の前の人間が肉塊へと変わり、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()を。

 

 

 

 先の言葉を繰り返そう、対処法はあった――水中にいたのが、()()()()()()()()()

 

 

 

 ブチリ、と右腕に鈍い感触。痛みはなかったが、水中に立ち昇った赤い筋を見て、自分の腕が傷つけられたことをミッシェルは悟る。

 

 次いで下半身――女性のデリケートゾーンをまさぐる様な感覚。()()()()()()()()、とミッシェルは気力を振り絞って手を伸ばし、アンダースーツの布地を食い破ろうとしていたそれを握りつぶす。

 

 だが、果たしてそれは意味のある行為なのだろうか? 今の一撃を防いだとして、それはただ恐怖と苦痛を先延ばしにしているだけ。いずれ自分がむごたらしく死ぬという運命は、すでに避けられない距離まで近づいてきていた。

 

 

 

 ――誰か、誰か。

 

 

 

 薄れゆく意識の中、温もりなど欠片もないその空間の中で。ミッシェルは絶望し、それでもなお祈らずにはいられなかった。

 

 

 

 ――誰でもいい、助けてくれ。

 

 

 

 自分の周りを泳ぐ()()()()()()()()()()()、惨めな自分を嘲笑っている様な気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 アダム・ベイリアル特製 “手乗りテラフォーマー”

 

 

 

 

 

 

 

 産地:火星

 

 

 

 

 

 

 

 18cm 20g

 

 

 

 

 

 

 

 個体単価:398円(税込)

 

 

 

 

 

 

 

 MO手術 “魚類型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    ―――――――――――― 泥中の強食者(カンディル) ――――――――――――

 

 

 

 

 




【ARK計画極秘ファイル①】 アーク計画参加者の専用武器について
・アーク計画における全団員には、専用武器の傾向を許可する。
・特に団長(メインアーム)潜入・護衛員(サイドアーム)の等級の者については、最大で3つまで専用武器の携帯を許可する。
・他の規定はアネックス計画のそれに準ずるものとする。なお、技術開発部との打ち合わせの如何によっては、必ずしもテラフォーマーに奪われた際の危険性は考慮しなくてもよいものとする。


【オマケ】

ペギー「↑参考にするなら、キャロルの専用武器ってもう1つあるんだよね?」

キャロル「そうそう。アタシのは、蟻の体内酵素でしか分解できない素材でコーティングされた、特殊なスポーツドリンクの素(粉末)だね」

ペギー「何の役に立つの、それ?」

キャロル「栄養補給剤兼、変態薬の予備だね。ミツツボアリの特性で貯め込んだ水に溶かして使うんだ。それで、肝心の補給方法は………(赤面して黙り込む)」

ペギー「あっ(ミツツボアリの生態を見て)……だ、大丈夫よ! 私も似たような特性だけど、こういうのは慣れれば恥ずかしくないから! ね?」



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第44話 UNDER WATER 水底の災

 ――時間は少しさかのぼる。

 

 ミッシェルは水中から突如として伸びた腕に掴まれ、助けを求める間もなく湖の中へと引きずり込まれた。

 

 それを油断の結果だと断じるのは、あまりにも酷だろう。ミッシェルほどの実力者がこうもあっさりと引きずり込まれたのには、相応の理由がある。

 

 まず、完全に想定外だった水中からの奇襲を受けたこと。20年前のバグズ2号乗組員、ジョーン・ウェルソークが湖中を調査した際の報告には、水中にテラフォーマーの姿はないと記載されていた。そのためミッシェルは、水の中からの攻撃に対して反応が遅れたのだ。

 

 次に水中から攻撃を仕掛けたテラフォーマーが、バグズ型テラフォーマーであったこと。その個体に与えられていた手術ベースは、水中での活動に特化した『ゲンゴロウ』。陸上での機動に劣るものの、水中においては無類の強さを発揮するベースである。ブラシ状の脚から生み出される推進力は強烈の一言に尽き、未変態のミッシェルが抗うには無理があった。

 

 そして最後に、このゲンゴロウ型がサバクトビバッタ型と同様に力士型だったこと。これがダメ押しとなり、ミッシェルは一瞬で引きずり込まれてしまったのである。満足に戦うこともできず、3分と経てば死に至る死のフィールドへと。

 

 

 

 ――こいつは、不味いな。

 

 

 

 突然の奇襲に動揺はしたものの、しかしミッシェルは冷静だった。瞬時に、自分が置かれた状況を分析する。

 

 目の前にいるのは、ゲンゴロウと思しきバグズ手術を施された、通常よりも強力な力士型の個体。U-NASA本局内では小吉と並んで最強と称されるリーや、自分と同じ副艦長のミンミンさえも追い込むほどの実力を持つ個体である。

 

変態していない自分では、万に1つも勝ち目がないだろう。既に相当深く引きずり込まれている以上、逃げることも事実上不可能。

 

 それを理解したミッシェルの行動は早かった。

 

 自らの胸当てごと、ゲンゴロウ型の腕を引き剥がすと、そのまま彼女は素早く水中で身を反転し、そのままゲンゴロウ型の脚に組み付いた。相手の右ひざに相手の左足を乗せるように取り、その上から更に自分の左足をかぶせるようにロックする。

 

技の名は、『フィギュア4レッグロック』。 僅か2分で強靭な足の骨をへし折るとさえ言われるほどに強力なプロレスにおける関節技である。

 

 

 ――勝てないならせめて、この場でこいつを封殺する!

 

 

 幸い、湖岸に彼女のコートはおきっぱなしだ。自分の姿がないことには、すぐに誰かが気が付くだろう。そして気づきさえすれば、水中での活動に適した特性を持つウォルフやアミリアの救助があるはず。ならばその時までに、こいつの機動は封じておかなければならない。

 

「……!」

 

 ゲンゴロウ型が振りほどこうと足に力を込めるが、それは無意味な行為だった。この技には、足が太い相手ほど強烈に締まり、容易には外せないという特徴がある。

 

そして「柔よく剛を制す」という言葉があるように、関節技(サブミッション)はしばしば、自分よりも体格差に勝る相手を無力化するために用いられる。つまり、いかにゲンゴロウ型の脚が怪力であろうとも、力任せにどうにかできるものではないのだ。

 

あとは、2分を待つだけ。アミリアたちが気付いてくれるかどうかは賭けになるが、ゲンゴロウ型の無力化は完了するだろう。

 

故にミッシェルは早期の救助だけを祈りながら目を閉じ、そして数える――2分を。

 

 

 

 この時のミッシェルの行動は、彼女が打てる手の中で間違いなく最善のものだった。最も現実的であり、最も生存の可能性が高く、そして最も安全な方法。その点、彼女の分析力は見事であったというほかない。

 

 

 

ただ――彼女は1つだけ、間違いを犯していた。それは、なぜバグズ手術を受けたテラフォーマーが火星にいるのか、という疑問を深く追求しなかったこと。

 

 今考えた所でどうにもならない、という判断は決して間違ったものではないのだが。こと今回に関していえば、彼女は考察すべきであったのだ。

 

 火星に材料がない以上、この個体に施されたバグズ手術が、明らかに人為的な行為であるということを、手術を施された個体が一匹ではない可能性を。そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

『窒息第Ⅰ期』

 

数秒から数十秒の間、体内の酸素を利用。血中のCO2増加により、苦痛を伴う。

 

 

 

 

 

 そしてその思考に至らなかったことで、ミッシェルは絶望の淵に叩き落とされることになる。

 

 

 

 

 

『窒息第Ⅱ期』

 

 Ⅰ期より30秒から2分の間に、様々な症状が発生する。

 

 該当症状……血圧上昇、筋肉の痙攣、チアノーゼ、そして――。

 

 

 

 

 

 

 

 ()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 ――なんだ?

 

 

 朦朧とし始めた意識の中、まだ辛うじて残っていた感覚が、ミッシェルの脳に信号を伝えた。まるで、何かに突かれているかのような感覚である。

 

 ミッシェルは薄く目を開けて、確認する。それに気付けたのは、おそらく幸運だったのだろう。もしこの時、異変に気付いて目を開けていなければ、彼女は2分と経たずに物言わぬ死体となっていたのだから。

 

 

 

 ――魚?

 

 

 

 水でぼやける彼女の視界に映ったものは、小さなシルエット。それは一匹の魚であった。全長は10cm程だろうか、精々掌に収まる程度の大きさである。ここで彼女の脳内には、2つの疑問が浮かんだ。

 

 なぜ、火星の湖に魚がいるのか? 火星には、苔とゴキブリの2種類の生物しかいないはず。

 

 既に混濁し始めている意識だ。思考の回転は鈍く、至る考えは寝ぼけている時のそれに似て、どこか支離滅裂であった。

 苔はそもそも動かない。じゃあこれは魚のようなゴキブリなんだろう、とミッシェルは奇妙な納得をして、2つ目の疑問について考えた。

 

なぜ、よりにもよって『そこ』に執拗なまでの関心を抱いているのか? 例え魚でも、これはひどいセクハラではないだろうか? なぜならそこは、その部位は。()尿()()()――。

 

 

 

「――!!」

 

 

 

 瞬間、彼女の脳は奇跡的に最悪の答えを導き出した。ゾワリと全身を寒気が走り、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 足の隙間からぐずりと、白い脂質が水中に浮かぶ――テラフォーマーのものだ。そう、驚くべきことにテラフォーマーが魚の形をしていたのだ。

 

 だが今のミッシェルにとって、そんなことは重要ではなかった。なぜそこまで小さなテラフォーマーがいたのかも、なぜ彼らがMO手術を施されているのかも問題ではない。

軍人として並の男性など及ばぬほどの胆力を持つ彼女をここまで恐怖させたのは、彼らに施されたMO手術のベースとなった生物と、その特性である。

 

 

 

 ――アマゾンで最も恐ろしい人食い魚は何か? と聞いたら、多くの人はピラニアを思い浮かべることだろう。

 

 

 

 それは決して、間違った印象ではない。だが同時に、誇張されたものであることも否めない。確かにピラニアは血の臭いを嗅ぎつけると凶暴化するが、本来は臆病な魚だ。人を見るや否やたちどころに人を骨にしてしまう、というのはパニック映画で植え付けられた先入観にすぎない。

 

 では、先の問いに対する正しい答えは何なのか? おそらく現地の人々――あるいは、危険生物にある程度精通した人間ならば、おそらく迷うことなくこう答えるだろう。

 

 カンディルだ、と。

 

 その魚の体長は概ね10cmと小柄、しかしその性質は極めて獰猛。

彼らは細い体を利用して獲物の体内に侵入すると、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 捕食対象は同じ水域に生息する魚のみならず、人間すらも含まれる。

 

 カンディルが人を捕食した事例は枚挙にいとまがないが、そのほとんどは聞いているだけで顔をしかめるような凄惨なものばかり。その理由は大きく分けて2つ。

 

 第一に、特殊な形状のヒレ。彼らのヒレには返し針のような棘が付いていて、無理に引き離そうとすると肉に余計に食い込んで獲物に捕食以上の苦痛を与える。

 

 そして第二に、彼らが人間を捕食する際には()()()()()()()()()()()()()()。ピラニアが血の臭いを嗅ぎつけるように、彼らはアンモニアの臭いに反応する。柔らかく神経の多い尿道や肛門を食い破り体内へと侵入し、目につく肉を食い荒らしていくのである。

 

 

 

 そう、ミッシェルはこのカンディルという生き物の存在を知っていた。だからこそ、恐怖した。

 

 軍人として殺される覚悟はできている。だが『ただ殺される』ことと『苦痛の果てに惨殺される』ことは別物である。ましてその特性を兼ね備えた敵はゴキブリで、よくよく目を凝らせば同じ手術を受けた小型のテラフォーマーたちが周囲に何百匹もいる。百戦錬磨のミッシェルといえど、恐怖しないはずがない。

 

 そしてそれが、致命的な隙となる。

 

 

 

 ――っ、しまった!?

 

 

 

 一瞬緩んだロックを外し、ゲンゴロウ型はすぐさまブラシ上の脚で水を蹴った。ジェット水圧が巻き起こると同時にその体はミッシェルの体から離れ、手の届かない距離まで遠のいていく。

 

 ミッシェルの逆転の目が完全に消え失せた瞬間だった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 既に、自分の生存は諦めていた。

 

 

 

 気力も体力も奪われ、薄れていく意識。感覚が失われつつあるのは、幸いだったかもしれない。苦痛にはそれなりに耐性があるつもりだが、さすがに体内から肉体を貪られる激痛と恐怖には耐えられる気がしない。本当なら、すぐにでも肺中の空気を吐きだし、意識と命を手放してしまうのが吉だろう。そうすれば少なくとも、今の苦しみの時間は短くなる。

 

 それでもそうしない理由は、オフィサーとしての責任感だろうか? それとも、軍人としてのプライドだろうか?

 

 ――否、否。それはきっとミッシェル・K・デイヴスという、1人の人間としての感情だ。

 

 それは人間なら誰もが持っている、ごくごく当たり前の考え。彼女は「生きたい」のだ。

 

 その境遇ゆえに彼女は、1人の女性として平凡に生きる権利を奪われていた。その特異性ゆえに彼女は、人並みの幸せを掴むことができなかった。そんな呪われた人生ではあったけれど、それでもまだ“生きたい”。その一心が、彼女の瀕死の体をつき動かした。

 

 

 

 ――死にたくない。

 

 

 

 死が目前に迫る。皮膚に食らいついたカンディル型を握りつぶしながら、むき出しになった彼女は呼んだ。届くはずのない声で、もうこの世にはいない彼の名を。

 

 

 

 

 

 

――助けて、()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「うん、任せて」

 

 

 

 

 

 

 

 瞬間、ミッシェルは自らの体に強力な水圧がかかったのを感じ取った。何が起こったのか理解する間もなく、彼女の体はカンディル型テラフォーマー達の群れを突き抜け、ゲンゴロウ型すらも置き去りにして、水中を駆け抜ける。

 

 そこで彼女は、ようやく自分の胴体に何者かの腕が回されていることに気が付く。驚いた彼女が振り向けば、そこにいたのは1人の青年だった。東洋人のような顔つきに、金色の髪。端正な顔立ちだが、顔全体に無数の傷がついている。見慣れぬ顔だが、ミッシェルはその格好に見覚えがあった。

 

 何度かともに任務をこなした顔なじみであり、先程自分達の救援に駆けつけたアークの救援団を率いる団長――シモン・ウルトルだ。

 

シモンは困惑するミッシェルを安心させるように、優しく笑いかける。それから彼女の頭部に手を回すと――。

 

 

 

 

 

――そのまま、彼女に口づけをした。

 

 

 

 

 

「……!?」

 

 

 

 

 

 思考の停止。その後、状況を理解したミッシェルは、彼の行為を額面通りに受け取ったからこそ混乱した。

 

――何だこれは? 何をしてるんだこいつは!?

 

 無理もない反応である。ハリウッド映画でもあるまいに、なぜこのような状況でわざわざキスをしたのか? 酸欠による失神寸前であることも忘れ、ミッシェルは思わず腕に力を込める。

 

 だがこのタイミングで、ミッシェルの口には空気が送り込まれた。一瞬遅れて、ミッシェルはやっとシモンの行動の意味に気が付く。これは水中での空気の譲渡――早い話が、特殊な人工呼吸である。

 

 酸素を得たミッシェルの思考が、急速にクリアになっていく……少なくとも、変な勘違いをした一瞬前の自分を殴りたいと、余計なことを考えるゆとりが生まれる程度には。

 

 それを見てとったらしいシモンはほっとしたような表情を浮かべると、そのまま彼女の頭をそっと抱きしめた。

 

「!?!?!?」

 

 今度こそ、ミッシェルは彼の行動の意味が理解できなかった。中華拳法服の布地越しにシモンの胸板の感触に、思わず顔が熱くなる。

 

()()……!?」

 

 シモンに文句を言おうと、ミッシェルは息を吸い込み……そこで、初めて異変に気が付いた。()()()()()()()()()()

 ミッシェルは驚いて顔を上げると途端に水が彼女の鼻と口をふさぐ。慌ててシモンの体に顔を密着させれば、不思議なことに再び呼吸ができるようになった。

 

 

 

 ――これはどういうことだ?

 

 

 

 自分の態勢に羞恥心を覚えながらも、ミッシェルは考える。

 

 彼の手術ベースは『カマドウマ』のだ。公開されている情報を鵜呑みにしたわけではない、何度か任務を共にした中で彼女が確信したことだ。

 サバクトビバッタにも匹敵するジャンプ力を生み出す脚、それが彼女の知るシモン・ウルトルの特性――の、はずだ。

 

 だが、今のシモンの姿はどういうことだ?

 

 その脚はゲンゴロウ型と同様、ブラシ状のものへと変化している……いや、脚だけではない。ミッシェルを抱きかかえるシモンの体は、彼女がこれまで見たことのないものへと変化していた。そう、まるでいくつもの昆虫の姿が混ざり合っているかのように。

 

 

 

 考えられる可能性はただ1つ、ベース生物の偽装である。それもおそらく、正常なMO手術で得たベース生物ではない。おそらくはそう、非公式な技術によって得た――

 

『だまして、ごめんね』

 

 おそらく、その推測が知らず知らずのうちに顔に出ていたのだろう。シモンは口だけ動かしてミッシェルにそういうと、彼女を安心させるように頭をそっと撫でた。

 

『でも、もう大丈夫』

 

 

――すぐに終わらせるから。

 

 

 そう言ってシモンは、静かにほほ笑んでみせた。周囲を取り囲む数百のカンディルとその指揮をとるゲンゴロウなど、まるで歯牙にもかけていないと言わんばかりの様子で。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シモン・ウルトル

 

 

 

 

 

 

 

国籍:不詳

 

 

 

 

 

 

 

27歳 ♂

 

 

 

 

 

 

 

176cm 72kg

 

 

 

 

 

 

 

『アークランキング』不定 (マーズランキング6位以上)

 

 

 

 

 

 

 

 

専用武器Ⅰ:体内内蔵型拘束式過重特性制御・増幅装置『封神天盤』

 

 

 

専用武器Ⅱ:対テラフォーマー多機能変形槍『崩天画戟』

 

 

 

専用武器Ⅲ:???

 

 

 

新式人体改造手術:

 

 

 

バグズデザイニング & “ツノゼミ累乗術式” MO手術ver『Hyde』 & ―――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

“合成生物術式” MO手術ver『Chimera(キメラ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

保有生物特性――【全身】

 

生来ベース:モモアカアブラムシ

 

基本ベース:カメムシキメラα(クマゼミ + ナナホシキンカメムシ)

 

累乗ベース:カメムシキメラβ(ナベブタムシ + タケウチトゲアワフキ)

 

 

 

保有生物特性――【胴】

 

生来ベース:カハオノモンタナ

 

基本ベース:カメムシキメラγ(エンドウヒゲナガアブラムシ + モンゼンイスアブラムシ)

 

累乗ベース:カメムシキメラδ(ベニツチカメムシ + マルカメムシ)

 

 

 

保有生物特性――【腕】

 

生来ベース:ヂムグリツチカメムシ

 

基本ベース:カメムシキメラΣ(シロモンオオサシガメ + オオクモヘリカメムシ)

 

累乗ベース:カメムシキメラζ(チャイロクチブトカメムシ + ヒゲナガカメムシ)

 

 

 

保有生物特性――【脚】

 

生来ベース:ウンカ

 

基本ベース:カメムシキメラη(ミヤケミズムシ + チャバネアオカメムシ)

 

累乗ベース:カメムシキメラθ(ヒゲナガキノコカスミカメ + ホソヘリカメムシ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――災禍の戦列(カメムシ) & 人造の堕天使(シモン・ウルトル)招来(アドベント)

 

 

 

 

 

 




【オマケ】
Q.1人1ベースが基本だって公式で言われているのに、1人で20もベース生物を持ってて恥ずかしくないんですか?

A.シモン「そ、そこはインフレタグがちゃんとお仕事してくれるから! あと、一応原作にもベースの数がヤバい人はいるから! あとは一応全部カメムシで統一してあるから、パワーバランス的にもそこまで壊れないかなー、って……」



【謝罪と補足(2023/5/7)】
 いつも贖罪のゼロを読んでいただき、ありがとうございます。この度シモンのベースとなった生物について、専用武器の名前&一部のカメムシを差し替えさせていただきました(理由としては、当時の私のサーチ能力不足で無理がある能力が一部混ざっていたため)。これに伴い、一部の戦闘描写を随時訂正いたします。
 一回出したものを今更直すのはどうなんだとも思ったのですが、整合性や今後の展開も考えての措置として、なにとぞご理解いただければ幸いです。


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第45話 TROOPER 災禍の戦列 

 MO手術の前段階、手術ベースのパッチテストを受けた被験者は、大別して3種類に分けられる。

 

 まず、何の生物にも適合しなかった者。

 

 次に、1種類だけ適合した者。

 

 そして、2種類以上の生物に細胞が適合した者。

 

 ここで注目すべきは、3番目の被験者たちである。例えばある人物がスズメバチとカマキリ、そしてバッタに適合したとしよう。どれも対テラフォーマーという視点で考えた場合、非常に強力なベースである。

 

 しかし従来のMO手術では、1人につき与えられる手術ベースは1つだけ。手術ベースでスズメバチを選択すれば、ビルをも飛び越す脚力は手に入らない。バッタを選択すれば、万物を切り裂く鎌は手に入らない。そしてカマキリを選択すれば、猛毒を手に入れることはできない――それが、これまでの技術の前提であり、限界だった。

 

「それはとても、勿体ないことだ」

 

 かつてクロードは、技術を開発するため極秘裏に集めた研究員たちに語った。

 

「確かに複数のベースを得られたからと言って、それを実戦で活かすことができるかは別問題だ。そして万全に活かせるだけの技術を持つ者は、それほど多くはないだろう……だけど、皆無じゃない。そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、我々はオフィサー級かそれ以上の戦力を確保するチャンスを、みすみす逃すことになる」

 

 有無を言わさぬ口調で、彼は言う。

 

「人道を外れていることは百も承知。これから行うのは、生命を冒涜する研究だ。MO手術の比じゃない、完成までに何十何百と命の火が消えるだろう。もしも死後の世界なんてものがあるなら、私は絶対に天国へは行けまい」

 

 ――だが。

 

「私達が戦う相手は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()。だから、この技術は絶対に必要になる。強制はしない、私と共に地獄へ落ちる覚悟がある者は手伝ってくれ」

 

 その言葉と共に研究は始められ、そしてその技術は完成した。

 

 

 “合成生物術式”MO手術ver『Chimera(キメラ)

 

 ライオンの頭にヤギの胴、蛇の尾を持つとされる怪物の名を冠するこの技術は、クロード・ヴァレンシュタインが開発した3種の新式人体改造術式の1つであり、その中で最もアーク1号の戦力増強に貢献している技術である。

 

 合成獣(キメラ)の名から想像が付く通り、この術式の被験者は複数の生物ベースをその身に併せ持った合成獣(キメラ)となる――()()()()()()()()()。結果的に複数の生物の特性を保有するという点では、ほとんど似たようなものではあるが。

 

 

 

 『Chimera』は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()M()O()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 先程の昆虫たちを例に取り上げれば、『”カマキリの鎌”と”バッタの脚”を持つスズメバチ』を遺伝子操作で創り、この合成生物を用いてMO手術を行う、といえばわかりやすいだろうか。材料にされた生物全てに細胞が適合していれば拒絶反応は起こらず、手術も一度で済むために体への負担は小さい。

 

 勿論、あくまでそれは理論上の話。実際に出来上がったその技術は、クロードが率いる精鋭チームの手を以てしても、不完全と言わざるを得ないものであった。

 

 被験者に求められる適正や戦闘技術のハードル、実際には下がる成功率、改良の基盤となった生物以外の特性の発現には制限がかかるなど、問題点は枚挙にいとまはないが、その中でも最も大きな問題だったのは『生物の合成そのもの』である。

 

 まず、合成できる数。これは2種か3種が限界であることが分かった。それ以上の生物の合成を試みても、MO手術に適した生物は存立しなかったのである。

 

 加えて、合成する生物は近縁種でなければならない。この『近縁』の範囲が不明瞭なのが、クロード達の頭を悩ませた。

 同じ○○科レベルの合成でなければ成功しないケースもあれば、○○綱レベルの合成で成功するケースもある。基準はついぞ見つからず、結果的にこの技術の成功例は片手で数えられるほど。

 

 

 

 シモン・ウルトルはその数少ない成功例の1人であり、同時に特例中の特例だった。

 

 

 

 かつてイヴと呼ばれていた彼。人造人間であるが故にその体は、ある特殊な性質を兼ね備えていた。それは全身の全ての箇所を合せると、『あらゆるカメムシが手術ベースとして適合する』という点。

 

 カメムシ。彼らを一言で評価するなら『昆虫界の日陰者』という表現が相応しいだろう。進化の生存競争を勝ち抜いてきた彼らの特性は、紛れもなく一流(エキスパート)のものだが、そのほとんどの分野において、彼らの上を行く超一流(プロフェッショナル)たちが昆虫界には存在している。

 

 飛行において、彼らはトンボやハエに及ばない。

 

 水泳において、彼らはゲンゴロウに及ばない。

 

 筋力勝負において、彼らはカブトや蟻に及ばない。

 

 掘削において、彼らはケラに及ばない。

 

 煌びやかさにおいて、彼らはチョウに及ばない。

 

 そして、害虫としての悪名において――彼らは、ゴキブリに及ばない。

 

 

 

 そう、カメムシは“地味”なのだ。

 

 オリンピック選手でもあるまいし、別に彼らもトップを目指して進化したわけでもないだろう。しかし彼らが、多くのメジャーな昆虫たちに埋没して見向きもされない、不遇の存在であることもまた事実。だからこそ実用性と、有事の際の制御性を両立するため、アダム・ベイリアル・サーマンはイヴに組み込む生物としてカメムシたちを選んだのである。

 

 しかし皮肉にもこの選択が、アーク1号が誇る最高戦力の誕生につながってしまう。

 

 カメムシは戦闘に向いていない……認めよう。多くのカメムシたちの特性は、決して戦闘のためだけに発達したものではない故に。

 

 カメムシは地味である……認めよう。多くのカメムシたちには、上位互換が存在している。

 

 しかし忘れてはならないことが、2点。第一に、彼らの生態は昆虫界でも非常に多様であるということ。そして第二に、彼らは度を越して強力な特性を有することが少なく、それゆえに細胞の自己主張が少ない。つまり他生物と組み合わせた際に、拒絶反応が起こりにくい。

 

 

 

 それがどうした? 以下に多様であっても、MO手術で手に入れられる能力は1つではないか――否。

 

 その問題は既に解決した。不完全ながらも完成した、MO手術ver『Chimera』によって。

 

 

 

 それでも、思い通りに合成虫(キメラ)が作れるわけでもないだろう――否。

 

 その問題は考慮に値しない、自己主張の少ないカメムシ同士をかけ合わせる場合に限っては。

 

 

 

 しかしだからと言って、カメムシをいくらかけ合わせた所で弱いことには変わりない――否!

 

 彼らは決して弱くない。なぜなら彼らは種の生存競争に勝ち残り、未だに繁栄しているから。

 

 

 

 地球という命の坩堝に君臨する人間が本気で駆除に挑もうと、環境の激変に襲われようと、疫病が蔓延しようと。彼らは決して、滅ばない。それは紛れもなく、生命の歴史の中で彼らが勝ち続けてきたという証左である。

 

 昆虫界でも屈指の多様性を持つ、カメムシ目の昆虫たち。その中から選りすぐられた16種を、合成生物術式『Chimera』とツノゼミ累乗術式『Hyde』を併用して、肉体に組み込んでいく。

 

 

 

 こうしてアークの最高戦力の一角、災禍の戦列(カメムシ)を率いる人造の堕天使(シモン・ウルトル)は生まれたのである。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ――とはいったものの、さすがにミッシェルちゃんを抱えたまま戦うのはまずいな。

 

 

 シモンは周囲を見渡しながら、冷静に戦略を練る。

 

 敵はカンディルをベースとしたMO手術を受けた小型のテラフォーマーが100匹以上、更に体格のいいゲンゴロウ型のテラフォーマーまでいる。シモン単体であればどうとでもなる相手だが、ミッシェルがこの場にいると打てる手が限られてしまう。何より地上において最高戦力に数えられる彼女を、わざわざこの危険地域においておく必要はない。

 

 トントン、とシモンはミッシェルの肩を叩く。何事かと視線を向けた彼女の目の前で、シモンは遥か上方にある湖面を指さした。

 

 ――さぁ、行って。

 

 その意図を理解して眼を見開いたミッシェルに微笑みかけると、シモンは彼女の体を上へと突き飛ばし、自らは湖底へ向かって水を蹴った。

 

 無論、それを黙って見過ごすテラフォーマーたちではない。ゲンゴロウ型が指示を出すと同時、カンディル型の大群は無防備にシモンへと手を伸ばすミッシェル目掛けて一斉に泳ぎ出し――。

 

「――!」

 

 その直後、身を翻すや否や一直線にシモンへと向かい始めた。

 

 

 ――見た目は魚でも、性質はゴキブリのままか。

 

 

 心の中で呟いたシモンの両腕には、握りつぶされたカンディル型テラフォーマーの死体があった。

 

 ゴキブリは体内で『集合フェロモン』を合成し、これを散布することで仲間を引きつける特性がある。ゴキブリとして獲得したこの特性は、テラフォーマーとなった今でも健在。小型のテラフォーマーなら、握りつぶせば散布できるだろうと考えての行動だったが、推測はあっていたようだ。

 

 水中のゴキブリを全て引きつけたことを確認すると、シモンはミッシェルと反対側に向かって高速で泳ぎ出した。釣られて泳ぎ出すカンディルの群れ。だが、獰猛なその牙はシモンの体を――否、シモンが身に纏う服をかすめることすらも、敵わない。

 

 理由は、シモンの脚の形状にあった。普段の彼のそれとは違う、オールのような形状の脚――ゲンゴロウ型テラフォーマーと同じく、水中での移動に特化した構造だ。これはシモンの手術ベースであるカメムシキメラη、それを構成する“ミヤケミズムシ”の特性である。

 

 タガメを始めとする水生カメムシの多くは他生物を捕食する肉食性であるが、ミズムシはその中にあって珍しく、藻類を主食とする草食性の昆虫だ。普段は水底でじっとしていることも多いミズムシであるが、一度泳ぎ出せばその速度は非常に速い。加えて彼の体に先天的に組み込まれている“ウンカ”や、カメムシキメラβの片割れ“タケウチトゲアワフキ”といった脚力増強の特性が、その速度を後押しする。

 

 縦横無尽に水中をかけるシモンに、カンディル型テラフォーマーは追いつけない。ゴキブリの習性を利用され、いいように翻弄されるばかり……そう、カンディル型テラフォーマー達は。

 

 

 ――おっと!?

 

 

 水の流れが変わったことを鋭敏に察知した瞬間、シモンは進路を90°反転させた。その直後、おそらく直進していたらシモンがいただろう場所を、巨影が突っ切った――ゲンゴロウ型テラフォーマーである。

 

 シモンは水中を無作為に泳いで仕切り直そうとするが、カンディル型と違ってゲンゴロウ型を振りきることはできない。当然だ、草食性のミヤケミズムシは『水中を移動する』ことに重きを置いて足を進化させたのに対し、肉食性のゲンゴロウは『水中で獲物を捕食する』ために足を進化させたのだから。

 

 加えて生態上、ゲンゴロウはミズムシを餌とする。いうなればミズムシにとって、ゲンゴロウは不倶戴天の天敵。ミズムシは一流の泳ぎ手だが、ゲンゴロウは超一流の泳ぎ手である。多少の増強がかかったとて、彼らの相性関係はそう易々とは覆らない。

 

『――』

 

 ついにゲンゴロウ型が、シモンに追いついた。水の抵抗もあるため万全の力は発揮できないが、力士型の筋力を有する彼にとって、人間の息の根を止める程度はわけのないことである。

 シモンの細い首をへし折るべく、ゲンゴロウ型が手を伸ばす。そして――。

 

『!?』

 

 彼は瞬時に、シモンから距離をとった。なぜかは分からない、だがこのまま近くにいては危険だと、生存本能が彼に語り掛けたのである。

 

 

 

 

 

 ――拘束制御装置第1号、解除(アンロック)

 

 

 

 シモンの脳が電気信号を発すると同時、彼の体に変化が現れた。

 

 それまで彼の体を覆っていた、茶色や緑と言った地味な色合いの甲皮が、金属光沢を帯びた美しい緑へ。更にその背には、身の丈ほどもある発達した翅が表れる。

 

 

 

 平時、彼は過重ベース発現による肉体への負荷をさけるため、専用装備である拘束制御装置『封神天盤』によって手術ベースの発現を抑制している。これを状況に合わせて解除していくことで、肉体への負荷と引き換えにシモンの特性は解放されていくのだ。

 

 それゆえに、彼のアークランキングは“不定”。完全拘束(生来のベースしか発現していない)時点でマーズランキング6位相当の実力は有しているのだが、特性の組み合わせ次第で戦法が無限に代わるため、厳密な計測ができないのである。

 

 今回、シモンが解放した手術ベースはカメムシキメラα。本来ならば空中戦を想定して合成された生物であり――

 

 

 

 ――同時に、シモンが有する中で()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 追いついたカンディル型が一斉にシモンを食い殺すために牙を剥く。しかしそれを見ても、シモンはもはや逃げようとはせず。彼はゆるりと笑うと、ただ腹部に力を込める。

 

 

 

 そして次の瞬間、彼に向かっていた100以上のカンディル型テラフォーマー達はあまりにも呆気なく、1()()()()()()()()()

 

 

 

 石打(ガチンコ)漁、と呼ばれる漁法をご存じだろうか。これは水中の石に別の石をぶつけることで震動を起こし、水中の魚を麻痺・気絶・死亡させて魚を獲る漁法である。原始的な漁法ではあるが、その周囲に生息する魚を根絶させかねない程の威力を持つため、日本では禁止されている方法である。

 

 シモンが行ったのも、それと原理は同じもの。しかし、それは間違っても“ガチンコ”などという生易しいものではない。それを正確に言うのであれば、“爆殺”という表現こそ相応しい。

 

 まず、彼の至近距離に迫っていたカンディル型は何が起こったのか理解する間もなく、木っ端微塵に消し飛んだ。砕けた体からゴキブリの脂肪体が撒き散らされ、火星の湖中にマリンスノーが漂う。その向こうには、白目を剥いたカンディル型が力なく浮いている――もっとも、辛うじて魚だったことが分かる程度に原型をとどめているだけで、彼らが動くことは二度とないのであるが。

 

 

 

 ――“クマゼミの咆哮”。

 

 

 

 シモンが有する特性の中では数少ない、オフィサーに匹敵する力を秘めた昆虫。その特性を利用した、広域殲滅手段である。

 

 

 

 セミと聞いてほとんどの人が思い浮かべるのは、あの大きな鳴き声だろう。彼らが求愛のために響かせるその音は、夏の風物詩として親しまれる一方、そのうるささから辟易とされることも多い。

 

 だが、人々が彼らの声を「趣がある」だの「やかましい」だのと評することができるのは、あくまで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。一説によれば人間大の大きさになったセミの声は、東京から九州まで届くというのだから。

 

 この事実を知って「へぇ、すごい」……程度の感想しか出てこない者は、人間大になったセミの恐ろしさを理解していない。

 

 通常、人間の鼓膜が耐えられる音の大きさは一説によれば120~150デシベル程度とされ、これを実際の音に当てはめると暴徒鎮圧のために用いられる音響兵器規模の爆音である。だがある種のセミは、これほどの音を()()()()()()で発することができる。それも死力を尽くした一瞬だけ、というものではない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 理論上は240デシベル程の音量があれば人間の頭部を破壊できるとされるが、人間大になったセミ、そこに『封神天盤』のもう1つの機能である”生物特性の増幅”が加われば、その音量は240デシベルを遥かに上回る。

 

 クマゼミが出せる音はピーク時でも90デシベル程度が限界だが、人間大のシモンにとっては誤差の範囲。ひとたび彼に本気の発声を許してしまえば、小型戦術核にも匹敵する爆音によって、周囲一帯は瓦礫の山と化す。

 

 

 

『……ッ!?』

 

 

 

 一瞬にして葬られた100以上もの同胞の残骸を、ゲンゴロウ型はただ呆然と見つめることしかできない。

 テラフォーマーに恐怖という感情機能はなく、だからこそ彼らはどんな窮地でも合理的な判断を下すことができる。だが防御も回避も許されず、水の抵抗がある状態ですら加害半径数十mは下らない攻撃など、どのように対処しろというのだ?

 

 ――残ってるのは、こいつだけ!

 

 シモンは水を駆り、ゲンゴロウ型へと接近する。この時逃走を選んでいれば、ゲンゴロウ型だけは辛うじて逃げ延びることもできただろう。だが、彼が取った行動は『迎撃』。この瞬間、彼の敗北は確定した。

 

 ゲンゴロウ型に油断はなかった。だが、シモンの特性が水生昆虫だけだと思い込んでしまっていたことと、その特性が自身の下位互換にすぎないと判断してしまったこと。この2つが彼の敗因となる。

 

 シモン・ウルトルの戦闘員としての強みは、20のカメムシに由来する適応力と殲滅から補助までこなす多様な特性、そしてそれらを使いこなすシモン自身の応用力である。

 

 空、陸、水中。あらゆる環境は彼の土俵。

 

 近距離、中距離、遠距離。あらゆる距離は彼の間合い。

 

 力技では下せない相手は搦め手で、搦め手では下せない相手は技巧で、技巧で下せない相手は力技で。

 

 あらゆる状況に対応し、相手に決定的なアドバンテージを作らせず、多彩な手札で相手を圧倒する。団長達の中には彼よりも強力な手術ベースを持つ者、彼本人よりも高い実力を持つ者は少なくないが、この一点においてシモンに及ぶものはいない。

 

 即ち、俗な言い方ではあるが“器用万能”。専用武器も合わせれば、他の生物にできてシモンにできないことを探す方が難しい。

 

『――!』

 

 数分程攻防の応酬を行った後、ゲンゴロウ型が突如して進路を上へと切り替えた。

 

 ゲンゴロウは翅と背中の間に空気を溜め、水中で酸素と二酸化炭素のガス交換を行うという『プラストロン呼吸』によって長時間の潜水を可能としている。その活動時間は水質にもよるが10~数十分と、純陸上生物のヒトに比べて破格の性能を誇る。

 

 しかし裏を返せば、それは水生昆虫のゲンゴロウであっても()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。この時、ゲンゴロウ型は激しい運動によって酸素を急速に消費しており、普段よりも早く活動の限界が来ていたのだ。

 

『――』

 

 活動時間の限界は残り2分ほど。ゲンゴロウ型は水面を目指して泳ぐ、が――

 

『――?』

 

 おかしい、いくら泳いでも水面が近づいてこない。なぜ? と、ゲンゴロウ型は視線を巡らせ、ようやく気が付いた。無数の糸に、己の体がからめとられていることに。

 

『!!??』

 

 糸を引きちぎろうと、万力の力を込める。だが、鍛錬を重ねて練り上げられた“カハオノモンタナの糸”の強度は、20年前の比ではない。クモの糸に勝るとも劣らないそれは、周囲の岩に結び付けられており、力士型の筋力を以てしても振りほどくことは不可能だった。

 

 ――こんなところかな。

 

 シモンはそれを、少し離れた位置で見つめていた。ゲンゴロウ型と違い、シモンが酸素不足で苦しんでいる様子は見られない。シモンが身に宿すカメムシの特性の1つ、“ナベブタムシの微毛”によって彼もまたプラストロン呼吸を行えるためだ。

 

 ミッシェルがシモンの胸に顔を押し付けた際に呼吸ができた理由がこれなのだが、ナベブタムシとゲンゴロウの間には決定的な差が存在している――彼らは、()()()()()()()()()()()()。ゲンゴロウに比べて水泳能力は低い代わりに、彼らは進化の軌跡の中で、息継ぎがいらない呼吸方法を編み出した。

 

 その特性を宿したシモンに、水中での活動時間という枷は存在しない。ミッシェルがされたことへの意趣返しも込め、ゲンゴロウ型を縛り付けたシモンは数える――死に至る2分を。

 

 

 

『窒息・第Ⅰ期』、血中のCO2増加のために苦痛を伴う。

 

 

 

『窒息・第Ⅱ期』、Ⅰ期より30秒~2分の間、血圧上昇・筋肉のけいれん・チアノーゼや失禁を伴う。

 

 

 

『窒息・第Ⅲ期』、Ⅱ期より更に進行後、意識を完全に消失。痙攣は止まり、非常に危険な状態となる。

 

 

 

 そして――『窒息・第Ⅳ期』。

 

 

 

 白目を剥いたゲンゴロウ型が動かなくなったのは、それから間もなくのことだった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「……ミッシェルさん」

 

「……わかってる。けど、もう少しだけ待ってくれ」

 

 キャロルの声にそう答え、ミッシェルは湖岸に座り込んだまま、再び水面を見つめた。己の体は冷たい、だがそんなことは気にならなかった。

 

 ――やはり、無理にでも引っ張ってくるべきだった。

 

 ミッシェルは数分前の己の選択を悔い、唇をかみしめた。シモンが水中でミッシェルを救出してから、10分以上が経過している。常人ならば間違いなく溺死している時間だ。ましてこの湖の中には、カンディルとゲンゴロウがいる。例え複数のベースを持っていても、シモンに勝ち目があるようには思えない。だが、それでも彼女はシモンが浮上してくるのを待ち続けていた。

 

「……そろそろ暖をとってください。服は乾いてますけど、このままだと風邪を――」

 

「わかってるよッ!」

 

 思わず荒げた声に、キャロルはビクリと体をすくめた。それを見たミッシェルも、ハッと眼を見開く。自分が思っている以上に取り乱していることに気が付いた彼女はすまない、と謝罪の言葉をかけてから、視線を伏せる。

 

「……あいつとは、何回も任務をこなしてきた。少なくとも私は、あいつを戦友だと思ってたし、それなりに理解してると思ってた……けど。さっき私が見たのは、私が知らないシモンだったんだ」

 

 年齢が比較的近いこともあるのだろう、ミッシェルはキャロルに胸中を吐き出す。

 

「あいつには、聞きたいことがたくさんあるんだ。なのに、あいつは私を助けて……」

 

 そう言って、ミッシェルが俯く。一方、その背中にそっと手を添えたキャロルの内心は、かなり複雑である。

 

 

 

 ――どうしよう。この人、団長が死んじゃったと思い込んでる……。

 

 

 

 いや、話を聞く限りではそう思うのも仕方ない。実際、自分もミッシェルと立場が同じだったら、同じ気持ちになるだろう。しかしシモンの手術ベースについて、大まかにだが概要を知っているキャロルにとって、この状況はとても反応に困るのだ。

 

「あのー、副艦長……?」

 

「だからせめて、ゲンゴロウ型(あいつ)だけは私が……ッ!」

 

 駄目だ、聞く耳を持ってない。

 

 ミッシェルの言葉から察するに、助けられた時に水中戦特化形態になった団長の姿は見ているはずなのだが、どうやら本当に取り乱しているらしい。

 

 瀕死の状態で人工呼吸(キス)をされて、その次の瞬間には自ら囮になって水中へと消えていく戦友……あ、こうして字に起こすと、完全に映画の途中で死ぬ主人公の親友ポジションの人だ。これを見たミッシェルに酸欠の頭で冷静に物事を考えろというのは、確かに酷である。

 

 あちゃー、とキャロルが額に手を当てると同時に、湖面から水飛沫が上がった。シモンを仕留めたゲンゴロウ型が姿を現したと思ったのだろう。ミッシェルは怒りの形相で岸に上がってきた影を睨み――しかし、実際に彼女が見たのは全く真逆の光景だった。

 

「ふぅ、疲れた……」

 

 ビシャビシャと全身から水を滴らせながら首を鳴らしたのは、シモンだった。その背後には網状に編まれたカハオノモンタナの糸と、それに包まれた瀕死のゲンゴロウ型、及びカンディル型の残骸。

 

「あ、キャロルちゃん……と、ミッシェルさん? あれ、なんでここに――」

 

 その言葉をシモンが言い切ることはできなかった。駆け寄ってきたミッシェルに襟首を掴まれたからである。驚くシモンに、ミッシェルは短く問いかけた。

 

「無事か」

 

 きょとんとするシモンへ、ミッシェルはもう一度同じ言葉を繰り返す。それを聞いてようやく理解が追いついたのか、シモンは静かに頷いて見せた。

 

「うん。ボクは大丈夫だよ」

 

「……そうか」

 

 彼の返答に、ミッシェルはそっと手を離す。ようやく安堵の色を浮かべた彼女に、シモンがほほ笑む。

 

「心配かけてごめんね」

 

「……ああ、その通りだよ。土壇場だったとはいえ、もうちょいちゃんと説明しろっての」

 

 先程までの弱弱しさを覆い隠すように、ミッシェルは悪態をついた。普段ほどの切れはないが、それをあえて指摘しするような真似をシモンはしない。ただ穏やかに笑っていうだけだ。

 

「ったく、ヒヤヒヤさせやがって……」

 

 そう言った自分の頬が、思わず緩むのを感じる。ミッシェルが忘れて久しく、もう何年も感じていなかった感覚に満たされるのを感じた。

 

 誰かを頼るということ。『共に並び立つものに任せる』のではなく、『自分よりも大きな存在にもたれかかる』感覚。最愛の父と大切な兄替わりを亡くし、自分が生涯感じることはないだろうと思っていた感情だった。

 

 ずっと、1人で生きてきた。頼るのではなく、頼られ続ける立場に彼女はいた。その生き方を、彼女は今更どうこう言うつもりはない。ただ――。

 

 

 

 ――誰かに頼るのも、存外に悪くないのかもしれないな。

 

 

 

「ミッシェルさん? どうかした?」

 

「……何でもねーよ」

 

 どうやら、思っていた以上に顔に出ていたらしい。同時に、自分が柄にもないことを考えていたことに気付かされ、ミッシェルは顔が熱くなるのを感じた。

 

「いや、でも今笑って……」

 

「何でもないっ!」

 

 照れ隠し気味に怒鳴り、彼女は気恥ずかしさから思わず視線をそらす。

 

 そして偶然目に入ったのは、何やら地面に伏せて悶えているキャロルと、その横で微妙な表情を浮かべている巨漢、ウルバーノだった。

 

「おう、若いお2人さん。映画のラブシーンみたいな雰囲気のとこ、邪魔して悪いな」

 

 なんかよくわからないが、そう言う雰囲気だったと勘違いされたようだ。普段通りなら「アホなことを言うな」の一言で一蹴できるような冗句なのだが、酸欠のせいか上手い切り返しが思いつかない。ますますミッシェルの顔が赤くなる……が。

 

「報告だ。脱出機のエンジニア組が、他班との通信に成功した」

 

 その瞬間、2人の顔は一瞬で任務に臨む兵士のそれへと戻った。

 

「どこと繋がったの?」

 

 シモンが問う。それに答えるべく開かれた彼の口から飛び出したのは、実に意外な単語だった。

 

 

 

 

 

「――第三班(ロシア)、だとよ」

 

 

 

 

 

 





【オマケ】

キャロル「何あの二人のやり取りすごく尊い!? ちょっと乙女の表情を見せたのに気付かないシモン団長に、ついつい素直になれなくてツンとしてみせるミッシェルさん可愛い! ここで団長が優しくハグしてミッシェルさんがちょいデレすればパーフェクトあああああああああ!」

百合子「キャロルさんがお姉さん気質をこじらせたぁ!?」

燈「落ち着けキャロル! 今お前、ツ○ッターによくいる腐女子みたいになってるから!」





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登場人物紹介2 アーク第二団

 登場人物のプロフィール、アーク第二団の団員編です!

 あくまで設定お披露目程度のものなので、実際に名前を覚えていただくのはシモンとキャロルくらいで大丈夫。また、一般団員まで言及するのは基本的に第二団だけなので、次回以降は団長と潜入員くらいになるはずです。


 

 

シモン・ウルトル ♂

 

国籍:不詳 27歳 176cm 72kg

 

『アークランキング』不定 (マーズランキング6位以上)

 

専用武器Ⅰ:体内内蔵型拘束式過重特性制御・増幅装置【封神天盤】

シモンが持つ20種のベース生物遺伝子を制御するための装置。キメラベースを第1~第8号までの拘束制御がなされており、必要に応じて解錠することで体に特性を反映させる。

また多様なカメムシの特性を強化する機能もある。

 

専用武器Ⅱ:対テラフォーマー多機能変形槍【崩天画戟】

 伸縮式の槍で、最大で長さ3mに達する。名前に反して中華槍であり、シモンの使用武術である八極拳(六合大槍)と高いシナジーを発揮する。

 こちらもカメムシの特性を発揮するため、毒液の噴射機能や音力発電による電撃など多彩な機能が備わっている。

 

専用武器Ⅲ:???

 詳細不明。

 

手術形式:バグズデザイニング、“ツノゼミ累乗術式”MO手術ver『Hyde』、“合成生物術式” MO手術ver『Chimera(キメラ)

 

 

保有生物特性――【全身】

生来ベース:モモアカアブラムシ

基本ベース:カメムシキメラα(クマゼミ + ナナホシキンカメムシ)

累乗ベース:カメムシキメラβ(ナベブタムシ + タケウチトゲアワフキ)

 

 

保有生物特性――【胴】

生来ベース:カハオノモンタナ

基本ベース:カメムシキメラγ(エンドウヒゲナガアブラムシ + モンゼンイスアブラムシ)

累乗ベース:カメムシキメラδ(ベニツチカメムシ + マルカメムシ)

 

 

保有生物特性――【腕】

生来ベース:ヂムグリツチカメムシ

基本ベース:カメムシキメラΣ(シロモンオオサシガメ + オオクモヘリカメムシ)

累乗ベース:カメムシキメラζ(チャイロクチブトカメムシ + ヒゲナガカメムシ)

 

 

保有生物特性――【脚】

生来ベース:ウンカ

基本ベース:カメムシキメラη(ミヤケミズムシ + チャバネアオカメムシ)

累乗ベース:カメムシキメラθ(ヒゲナガキノコカスミカメ + ホソヘリカメムシ)

 

好きなもの:野菜料理

 

嫌いなもの:自分自身

 

瞳の色:水色(感情が高ぶると赤くなる)

 

血液型:A型

 

趣味:戦闘訓練、デスクワーク、料理

 

特技:不眠不休の過重労働、胃薬要らず(過労とストレスで胃に穴が空いても、それを狙って治せるほどの精度で人為変態できる)

 

誕生日:7月21日

 

 アーク計画最高指揮官兼アーク第二団団長。表向きはU-NASAの職員であり、クロード管轄の『MO関連技術特殊対策室』の現場責任者。その正体は20年前にバグズ2号に密航し、地球に帰還後に“不慮の事故”で死亡したとされる、「かつてイヴと呼ばれた少年」。バグズ2号の悲劇を繰り返さないためにクロードと共にアーク計画を始動、20年近く水面下で活動をしていた。

 

 ドナテロの一件で自己犠牲・自罰的な傾向がより強まっており、意識・無意識を問わず自分自身を酷使しがち(前者の例としてはハードワークや自身の享楽の排除、後者の例としては無意識な自傷癖や睡眠障害など)。皮肉なことに、この「自罰」は彼自身の精神安定に繋がっているため、下手に治療をするとかえって精神衛生が悪化する可能性がある。

 

こうした生活を20年も続けたため身体がストレス環境に適応し始めており、自傷や任務で傷だらけになった肉体派、生来のベース生物の特性が常に発現して戻らなくなっている。フルフェイスヘルメットや中華拳法服などの奇抜な衣装は、これらの身体的な特徴を隠すためのもの。また、特性が常に発現している関係で、変態薬を使わずともマーズランキングに換算して6位相当の戦闘能力を発揮できる。

 

 

 

 ――と、プロフィール自体は極めて闇が深いが、変人揃いのアーク計画メンバーが良くも悪くも彼を振り回すため、実生活は割と明るく騒がしい。

 予算のやりくりに経理部の面々と頭を痛め、団員たちが持ちこむ騒動に頭を悩ませ、あの手この手で自分に関係を迫る妹分に頭を抱える苦労人である。たまに団内で流通する自分の写真集を見ると、遠い目をしながら静かに吐血する。

 

 第二部の2年程前まで、栄養補給はサプリのみと荒み切った食生活を送っていたが、有志や団員たちによる地道な食育で改善。数少ない趣味に手料理が追加された。草食系カメムシの遺伝子が影響しているためか、野菜料理がお気に入り。

 

 

 

 

 

 

 

キャロル・ラヴロック ♀

 

国籍:アメリカ合衆国 年齢:25歳 身長:168cm 体重:60kg

 

MO手術ベース『植物型』:”氷華の乙女” シモバシラ

MO手術ver『Hyde』ベース『昆虫型』:”生命の涙”ミツツボアリ

 

アークランキング:15位(マーズランキング10位相当)

 

専用武器Ⅰ:対テラフォーマー過冷却式パイクリート生成装置【アイス・エイジ】

 アークランキング15位専用武器。バックパック型の小型冷蔵庫のような装置で、手術で本体に取り付けた接続孔と連結して使用。キャロルの胸部に貯めた水と、彼女の体内の老廃物(パルプ)を混合してパイクリート原液を作成で、過冷却状態に加工後、キャロルの体内の葉脈を通して全身に運ぶ。

 

専用武器Ⅱ:対テラフォーマー凍結式バリスティックシールド【ハボクック】

 アークランキング15位専用武器。盾とタライが融合したような形状で、凹部分にパイクリートを流し込んで使用する。氷部分は破損したとしてもパイクリートを流し込むことで何度も修繕できる。

使用者の筋力次第ではロケットランチャーの直撃にも耐える強度を持ち、振り回せば強力な鈍器にもなる。瞬間的なら問題ないが、火炎放射のような継続的な熱には弱い。

 

専用武器Ⅲ:対人粉末型栄養補給剤【ウォーター・キュア】

 アークランキング15位専用武器。蟻の体内酵素でないと溶けない特殊な成分で加工された粉末型栄養補給剤であり、キャロルが接種して胸部内に貯めた水と混ぜ合わせることで栄養価が高いスポーツドリンクになる。

 他人に飲ませるには口移しが必要で、キャロルは余程のことがない限り使いたがらない。コップに吐き戻す方法もあるが絵面は最悪でやはり使いたがらない。口を使わない第三の選択肢として××という手段があるものの、薄い本案件待ったなしのため本編中で使用することはない。

 

好きなもの:運動、女子トーク(特に恋バナ)

 

嫌いなもの:タブレット端末の画面と防護シートの間に入り込んだ気泡

 

瞳の色: ブルー

 

血液型:O型

 

趣味:ジャパニーズ・コミックマーケットへの参加

 

特技:家事全般

 

誕生日:8月22日

 

 

 

 アーク第二団所属の潜入員。日に焼けていかにも健康的な、赤毛の女性。明るく面倒見のいい性格であり、男女分け隔てなく接する性格からアネックス内では班を越えて知り合いや友人が多い。年下の班員のいじらしい面や健気な側面を見るとお姉ちゃん気質が暴走し、ミッシェルにアイアンクローを喰らってこっぴどく叱られる。

 

 SWATを目指す若手の警察だったが、アネックス計画の存在を知り「非戦闘員を自分が守ってあげなくちゃ!」という想いから休職、計画への参加を決意する。戦闘向きの生物に適性がなかったことからショックを受けるが、その際に偶然シモンと接触。彼から勧誘され、自身の考えを改めた後にアーク計画の内通者としてアネックス計画に潜り込んだ。

 

 潜入員の中では随一の常識人だが意外とミーハーな側面があり、大体一カ月周期で推しの俳優やモデルは変わる。また本人は隠している(つもりだ)が腐女子的な側面があり、Amaz〇nのおすすめ商品欄にはBL系の本がずらりと並んでいる。

 

 

 

 

 

 

 

 

ウルバーノ・ディアス ♂

 

国籍:グランメキシコ 年齢:42歳 身長:186cm 体重:85kg

 

MO手術ベース『哺乳類型』:チベタンマスティフ

 

アークランキング:20位(マーズランキング11位相当)

 

好きなもの:ステーキ(レア)

 

嫌いなもの:容器の底に必ず少し飲み物を残す奴

 

瞳の色:グレー

 

血液型:O型

 

趣味:髭の手入れ

 

誕生日:6月7日

 

 戦闘服を着こんだ髭面の大男。アーク第二団所属の団員で、アーク計画の最古参メンバーの1人。

 

元々は南米のリカバリー・ゾーンで政府軍と交戦していた人民解放軍(ゲリラ)の部隊長だった。当初は政府軍を相手に優位に立っていたが、数の差は覆せずに部隊が壊滅。本人も瀕死の状態でジャングルを彷徨っていたところを、クロードと幼少時のシモンが発見して保護。その後、命を救われた恩を返すためにアーク計画に参加する。

 

 特殊なMO手術こそ受けていないが、その戦闘能力は精鋭揃いの第二団の中でも頭一つ抜きんでている。またゲリラを率いていた経験からシモンが度々部隊の方針を相談したり、不在時には代わりに指揮を任せたりと、事実上の副団長的な存在として頼っている。

 

 豪快で大ざっぱな性格に見えるが、実は打たれ弱い。一度、団内の洗濯物をまとめて洗濯した際、ナディアに「おっさん、次からは洗濯は分けてくれ。臭い」と言われたときはショックで寝込んだ。それ以来、洗濯には細心の注意を払っている。

 

 

 

 

 

 

 

尹・済斗(ユン・ジェド) ♂

 

国籍:大韓民国 年齢:24歳 身長:177cm 体重:72kg

 

MO手術ベース『爬虫類型』:リンカルス(ドクハキコブラ)

 

アークランキング:24位(マーズランキング16位相当)

 

好きなもの:キムチ

 

嫌いなもの:特になし

 

瞳の色:黒

 

血液型:AB型

 

趣味:料理(特にエスニック料理)

 

誕生日:11月3日

 

 作中表記は“髪を結った青年”。アーク第二団所属の団員。口調や振る舞いからナンパなお調子者といった印象を受けるが、実際はとても義理堅い。

 

 元々は正規軍人として活動していたが、中国からの難民を保護したことがきっかけで国際問題が発生し、その責任を押し付けられる形で解雇される。就職先を探すも受け入れ先が見つからず、路頭に迷いかけたところをシモンに勧誘されてアーク計画へ参加した。

 

 休日には基地内で料理教室を開くほどの腕前で、本人の顔がイケメンなこともあって女性関係者の人気と男性関係者の嫉妬を集めている。シモンの食生活改善における団内最大功労者でもあり、2年前には経理部とモニカを説き伏せた上で基地内に食育包囲網を敷いた。

 

 

 

 

 

 

 

ナディア・チャラビー ♀

 

国籍:南アフリカ共和国 年齢:19歳 身長:162cm 体重:59kg

 

MO手術ベース『鳥類型』:ヘビクイワシ

 

アークランキング:26位(マーズランキング17位相当)

 

好きなもの:U-NASA購買部で売ってるカツサンド

 

嫌いなもの:インスタントスープを作った時にコップの底に残る絶妙なザラザラ

 

瞳の色:ブルー

 

血液型:A型

 

趣味:サッカー

 

誕生日:4月23日

 

 作中表記は“勝気な少女”。アーク第二団に最近配属されたばかりの新入りで、唯一の未成年。特務部隊ティンダロスの隊長を務めるライラ・チャラビーの妹。姉妹仲は良好だが、よくケンカする。また、互いに互いのベース生物が羨ましい。

 

 元々はアフリカで少年兵として活動していたが、シモンとクロードの支援を得たウッドの尽力でナディアが住む地域の紛争が終結。復興活動の一環として現地を訪れていたシモンとモニカに出会い、アーク計画に参加することになる。

 

 尊敬する人物はヴィクトリア・ウッド大統領。彼女を色々真似しているためか男勝りで口が悪い。からかわれるとここぞとばかりに罵詈雑言のマシンガンを浴びせる。反面、優しくされることには慣れておらず、デレた時の破壊力は凄い。実際キャロルは一撃で落とされ、一時期はナディア甘やかし機と化した。

 

 

 

 

 

 

 

ラウル・デュナン ♂

 

国籍:スイス 年齢:25歳 身長:169cm 体重:65kg

 

MO手術ベース『魚類型』:バショウカジキ

 

アークランキング:38位(マーズランキング21位相当)

 

好きなもの:ブラックコーヒー(ミルク・砂糖は許さない過激派)

 

嫌いなもの:中途半端に白い部分が見えている折り紙

 

瞳の色:緑

 

血液型:A型

 

趣味:フェンシング

 

誕生日:1月7日

 

作中表記は“眼鏡をかけた青年”。見た目通り真面目で几帳面な性格。アーク第二団の団員兼、アーク計画経理部所属。

 

 スイスでも一、二を争う名大学の出身。銀行員としてのキャリアを順調に築いていたが、上司の汚職を押し付けられて解雇され、賠償金として多額の借金を背負う。アネックス計画へ志願した際、比較的戦闘向きの特性に適合したことと経歴がクロードの目に留まり、アーク計画の経理部に勧誘される。その後、ワーカーホリック気味のシモンの事務補助としてアーク第二団に配属された。

 

 戦闘員としての評価は他の団員に劣るが、団内でも貴重なインテリ要員であり、平時のカーストはシモンに次ぐ。団員が経費を使うにはまずラウルを納得させなくてはならないため、彼の配属以来、団員のプレゼン力とパワーポイント製作技術が目に見えて上昇している。

 

 

 

 

 

 

松原弥太郎(まつばら やたろう) ♂

 

国籍:日本 年齢:38歳 身長:174cm 体重:98kg

 

MO手術ベース『両生類型』:オオヒキガエル

 

アークランキング:28位(マーズランキング18位相当)

 

好きなもの:鍋料理

 

嫌いなもの:カピカピに乾燥したコンビニのおしぼり

 

瞳の色:黒

 

血液型:O型

 

趣味:マグネットフィッシング

 

誕生日:5月10日

 

 作中表記は“太った男性”。アーク第二団所属の団員で、ぽっちゃりとした体形とマイペースな性分の持ち主。

 

 元は横綱昇進も期待されていた相撲取りだったが、金銭面のだらしなさが災いして八百長疑惑が持ち上がり、引退。更に追い打ちをかけるように息子が♀型AEウイルスに罹患、U-NASAの病棟に入院させた際にクロードと出会い、アーク計画に勧誘される。

 

 これまでに30回の禁酒と42回の禁煙、100回以上の禁パチンコに成功している程ストイックな性格(自称)。ただし、息子が倒れてアーク計画への参加を決めてからは本当にそれらを断っている。

なお、その事実を告げた際には妻と息子に偽物と疑われ、落ち込んだ彼を慰める会がウルバーノとジェドによって開かれた。

 

 

 

 

 








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THE EXTRA MISSION ―SONG OF XX―
■■■ PRELUDE 序曲


 ――西暦にして、2618年。アネックス1号が打ち上げられる、およそ2年前のことである。

 

 

 

 ロシア連邦コーカサス山脈の中腹に非合法に設けられた、極秘研究施設。その内部では今まさに、映画のような攻防劇が繰り広げられていた。

 

 極秘施設の防衛に当たっているのは、漆黒の人型ゴキブリ――火星産超生命体“テラフォーマー”である。

 

 条件次第では自重の50倍近い重量をもけん引する筋力、一歩目からスポーツカー並の時速で走り出す脚力、人間が生み出した電子機器の操作方法を即座に理解するほどの知能。

 

 この施設内にいるテラフォーマーたちは全てクローンであり、火星に生息している同種が持つこれらの能力は幾分劣化している。しかしそれでも、並の軍人を無傷で瞬殺する程度はやってのけるだけの戦闘力を持つ、一級の危険生物である。

 

 

 

 ――そのテラフォーマー達によって編成された防衛部隊は今、壊滅の危機に瀕していた。

 

 

 

「α班、掃射」

 

 声の主は、戦闘服に身を包んだ褐色肌の女性である。

 

 戦場には似つかわしくない冷静な――どこか事務的でさえある口調で命令を下すと同時、彼女の前に部下と思しき戦闘服の人物たちその手に構えた銃火器の引き金を引いた。

 

 瞬間、鼓膜をビリビリと痺れさせるような轟音と共に、一斉に彼らが手に持つ凶器が火を噴き、鋼鉄の弾丸をばらまく。

 

 ――銃は基本的に、テラフォーマーに効果が薄い。

 

 その主な理由が、昆虫に特有の頑丈な甲皮を有することと、彼らに痛覚がなく怯まないため。要は破壊力が足りず、足止めにもならないのである。

 

 だが――

 

「じょッ!?」

 

「キィィ!!」

 

 弾丸にさらされた端から、テラフォーマー達の胴体が面白いように破裂していく。

 

 クローンだから、テラフォーマー達が脆かった? 違う。彼らが原種よりも脆いことは事実だが、その程度は誤差の範疇だ。

 

 では、銃弾が特別だった? それも違う。放たれた弾はあくまで一般の軍用規格のもの。対テラフォーマー用に改良された特別製などということはない。

 

 ただし――用いられている銃火器は全て、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 戦車の分厚い装甲を撃ち抜くための対戦車ライフル、対航空機用に開発されたガトリング砲――あろうことかそれらを鼻唄混じりで取り回しながら、特殊部隊の隊員たちは引き金を引き続ける。

 

 いかに超生物といえど、銃撃を通り越した砲火の嵐を浴びせられてはひとたまりもない。数十秒後、哀れなテラフォーマーたちは、肉飛沫となって無機質な通路の壁を彩っていた。

 

「こちらα班、地下4階Aフロア制圧完了。各班、状況を報告せよ」

 

 それを特に感慨深くもなさそうに見つめながら、女性指揮官――ライラ・チャラビーは、襟元に取り付けたバッジ型の通信装置に話しかけた。

 

『こちらβ班、地下3階全フロア制圧完了! 死傷者ゼロ!』

 

『こちらγ班、地下4階Bフロアの敵も殲滅しました。軽傷者1名、戦闘継続には支障なし。間もなく合流します』

 

『地下2階δ班、現在追撃部隊と交戦中! 死者・負傷者共にゼロだが、今すぐ合流は無理だ!』

 

「状況了解、δ班以外は速やかに合流しろ」

 

 ライラはちらりと、背後で武装の点検をしている隊員たちを一瞥しながら告げる。

 

「合流次第、この施設の最下層――地下5階に陣取っている『アダム・ベイリアル』を駆除する」

 

 そういった彼女の胸には、鋭角で構成された猟犬を思わせる怪物を象った隊章があった。

 

 

 

 ――クロード・ヴァレンシュタイン直属、特務部隊『ティンダロス』。

 

 

 

 アネックス計画の支援を目的として、極秘裏にクロード・ヴァレンシュタインが進める『アーク計画』。その円滑な遂行するために設立された、彼直属の4つの特務部隊。その中で唯一、大がかりな武装・兵装の使用を許されているのが、遊撃を司る特務部隊『ティンダロス』である。

 

 その主な任務はアーク計画に関わる人員の護衛や敵対組織への破壊工作活動、そして何より、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 アダム・ベイリアル――それは、とある科学者の名前を自称する狂科学者(マッドサイエンティスト)の集団。優れた頭脳や技術を持ちながら、破綻した人間性を持つが故に、人道から外れた研究を行う、人でありながら害虫が如き者たち。生かしておくにはあまりに危険な彼らを闇へと葬ることが、彼らの任務である。

 

 

 その戦果、実にこれまで10戦10勝。負傷者こそ何度か出しているものの、未だに彼らは死者を出していない。

 

 異常な改造を施され、原型をなくしたテラフォーマーを操る老科学者。SF映画を思わせる近未来兵器をこれでもかと叩きつける中年科学者。未知のウイルスを駆使する女科学者。それら全てを、彼らは処分してきた。

 

 無論この結果は、隊員たちが優秀だからこそのものではあるのだが、それ以外にも理由がある。

 

 ティンダロスの隊員たちは素体の戦闘能力が優秀ながら、適合ベースに恵まれなかった者たち。しかし彼らは、累乗ベースとしてとある生物の特性を得たことで、極めて優秀な特殊戦闘部隊として、アーク計画において徴用されている。

 

 

 

 

 

 ――ライラ・チャラビー以下、隊員総勢12名。

 

 ツノゼミ累乗術式『Hyde』 “昆虫型”   グンタイアリ

 

 

 

 

 

 アマゾンにおける危険生物として、真っ先に挙げられることも多い蟻の一種。その特性は蟻由来の強靭な筋力、優れた嗅覚、そして常に群れで行動する彼らに特有の“同種間での連携能力”。

 

 前者二つは、特別珍しい特性でもない。また最後の特性も、人によって適合する生物が違うMO手術戦では、本来何の意味もないものだ。だが、同種の生物による手術を受けた人員で部隊を編成することで、クロードはグンタイアリの強さを最大限まで引き出した。

 

 強靭な筋力によるシンプルな戦力増強、嗅覚による索敵、そして緊密な連携による錬度上昇。これらの特性を兼ね備えた彼らは、部隊名となった怪物「ティンダロスの猟犬」と同様に、禁忌を犯した者を地の果てまで追いかけ、追い詰め、そして無残に殺す。

 

 暗殺と戦闘のスペシャリストにして、駆除業者――それこそが、特務部隊『ティンダロス』なのである。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 “手筈通りに、やれ”

 

 ライラのハンドサインと共に、巨大なホールのような構造になっている地下5階へ、数個のフラッシュバンが投げ込まれた。

 

 耳をつんざく音とともに、目もくらむような閃光が空間を満たす。それと同時に、ティンダロスの他員たちが一斉に空間へとなだれこみ、それぞれが手に持つ重火器を構えた。

 

 その空間は照明が落とされ真っ暗であったが、ティンダロスの隊員たちは暗視ゴーグルとグンタイアリの特性により視覚と嗅覚が確保されているため、同士討ちはありえない。そして同時に、敵の位置を見つけるのも容易である。

 

 先手必勝にして、火力主義。

 

 こと戦闘経験においてアークの火星派遣部隊をも上回るという自負がある(事実その通りである)彼らの相手は、白衣を着た魑魅魍魎“アダム・ベイリアル”である。

 わざわざ相手の土俵で、それも得体の知れないマッドサイエンティストどもが用意した土俵の上で戦ってやる道理などない。ゆえに圧倒的な火力でもって、敵が何かする前にさっさと殺す。それが『ティンダロス』の必勝戦法。

 

 故に、そこからの彼らの行動は迅速だった。

 

 ティンダロスの隊員のうちの一人が、アダム・ベイリアルと思しき人物の座標を認識するのにかかった時間は、0.3秒。そこから彼が重火器の照準を微調整するのにかかった時間が0.5秒、引き金に指をかけ引くのにかかる時間が、0.1秒――。

 

 

 

 

 

желанный(ようこそ)!」

 

 

 

 

 

 しかし、その男が部隊の突入から手中のスイッチを押すまでにかかった時間は0.4秒、その装置が作動するのにかかった時間は0.4秒であった。

 

「なッ!?」

 

 ――僅かに0.1秒の差が、明暗を分ける。

 

 隊員が照準を合わせたその瞬間、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。戦闘慣れしたティンダロスといえどもこの事態はさすがに予想外だったらしく、数人の隊員が驚愕を顔に浮かべた。

 

 視覚と嗅覚によって、この空間に伏兵や火薬やガスなどの兵器がないことが確認済みだったが、今回はそれが裏目に出て一瞬だけ対応が遅れた。その一瞬の間に、彼らの主兵装たるガトリング砲や一直線に四方へと飛んでいき、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「やられたな……磁力誘導装置か」

 

「ご名答、しかし気付くのがいささか遅かったな」

 

 暗闇の向こうから聞こえてくるのは、落ち着いた声。しかしその口調には、あざけりの色が見え隠れしていた。

 

「初めまして、勇ましくも無謀な『ティンダロス』の諸君。初めまして、元同胞たるクロード・ヴァレンシュタインの犬たち。私はアダム・ベイリアル……アダム・ベイリアル・ハルトマンだ。好きな物は――」

 

 苦々しい表情でライラが呟いた瞬間、やけに明るい声と共に空間内の照明に光が灯る。スポットライトのような光が照射された、台座の上。そこに立っていたのは――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「下ッ! 半ッ! 身ッッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――変態であった。

 

 年齢はおよそ50代にさしかかる頃だろうか? 口ひげを生やした紳士然とした男は、その上半身に白衣を羽織っており……しかし下半身には、何の衣類も纏っていない。そのまま街をうろつけば、まず間違いなく警察に連行されるだろう格好である。

 

「そして、嫌いな物は上半身だ。まぁ、よろしく頼むよ」

 

「黙れ変態」

 

 アダム・ベイリアルことハルトマンがにこやかに笑いかけるが、ライラは虫唾が走るとばかりに吐き捨てた。

 

 

「その汚物を、私たちに見せつけるな」

 

「はいはい。そんなことより貴方、いい下半身してますねェ」

 

 ――話が通じない、か。

 

 ライラの頬を、冷や汗が一筋となって伝った。

 

 経験上、彼女は知っている。そう、狂人集団“アダム・ベイリアル”から読み取ることのできる、数少ない傾向として――非常識な(ヤバい)奴ほど危険な(ヤバい)のだと。

 

 そして目の前のコイツは、これまで見てきた奴の中でもトップクラスにヤバい奴だと、彼女は悟った。

 

「おい、聞こえなかったのか?」

 

 ライラは言いながら、隊員たちにだけ見えるようにハンドサインを送る。

 

「その汚物を――」

 

 彼女は左手を、あえて見せつけるようにベルトへと伸ばす。

 

「――私たちに、見せるなッ!」

 

 そして腰から非磁性の軍用ナイフを引き抜くや否や、それをハルトマンの喉を狙って投擲した。眉をひそめたハルトマンは、ひょいと首を傾けてそれを回避するが、それはライラの思うつぼ。

 

 同時にティンダロスの隊員3名は、両腕に『グンタイアリの大牙』を武器として発現させると、一斉に床を蹴って駆け出した。仮にどれか1撃でも被弾を許せば、ハルトマンは致命傷を避けられないだろう。常識的に考えれば、何らかの防御か回避行動をとらなければならない場面である。

 

 だが……。

 

「~♪」

 

 ハルトマンは、逃げもしなければ防ぎもしない。かといって決して何もしないわけでもなく、鼻唄混じりで懐から軟膏をとり出すと――。

 

「美脚変態――」

 

 

 

 それを、露出した己の脚へと塗りつけた。

 

 

 

「――“魔女の脚(バーバヤーガ)”」

 

 

 

 それと同時、躍りかかった3名の隊員たちは、全員がその体を『く』の字に折り曲げ、吹き飛ばされた。ハルトマンによって、3()()()()()蹴り飛ばされたのである。

 

 幸いにして蟻の筋肉という鎧の上から、軍用繊維で編み込まれた戦闘服に身を包んでいた彼らには致命傷ではない。しかし、立ち上がった隊員たちの唇からはどろりと血が滴っていた。それもそのはず、先程彼らの受けた一撃は、常人ならばその場で破裂してもおかしくない威力だったのだから。

 

「やれやれ、アブラモヴィッチがやられたと聞いて、如何ほどのものかと思っていたが……」

 

 そう呟いた彼の下半身が、完全な異形へと変態を終えた。人間の脚は消え去り、代わりに生えていたのは8本の異形の脚。赤い甲殻に覆われたその足は一見甲殻類のそれにも見えるが、爪先には蹄、脛の辺りには奇妙な毛が生えている。更には――あまり描写はしたくないのだが、露出した彼の生殖器もまた、赤い甲殻に覆われ頑強の様相を呈している。

 

「存外、大したことはないな」

 

 

 

 

 

 

 

 アダム・ベイリアル・ハルトマン

 

 MO手術ver『魔女の脚(バーバヤーガ)』 “特定部位複合型”

 

 

 

 

 

 タカアシガニ + ノミ + チビミズムシ + バギーラ・キプリンギ etc……

 

 

 

 

 

「ふふ……美しいだろう、このフォルムは」

 

 ハルトマンは己の下半身を見せつけるながら、笑みを浮かべた。

 

「この究極のバランスを整えるために、()()()()()()()()()()

 

 そう言って彼が指を鳴らすと同時に、ホールの照明が完全に点灯する。浮かび上がるのは、壁際に並べられた巨大なビーカーと、それを満たす謎の溶液。そしてその中に浮いている()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ケンタウロス、サテュロス、マーメイド! 古今東西、美しき者の下半身は異形だ! ああ、美しきかな我が下半身! 今や私は、幻獣すらも超越した美を手に入れた!」

 

 明らかに異常な光景、異常な行動。それに対して、ティンダロスの隊員たちは反応を示さない。アダム・ベイリアルが狂っているのは最初から分かりきっていることであり、彼らの言動に付き合うのは無駄である。故に彼らは、支離滅裂な彼の言葉に耳を傾けるのを止め、既に次の攻撃に移っていた。

 

 形状から察するに、恐らく攻撃手段は直接攻撃。考えられる特性としては、強力な脚力と高速移動、甲殻類に由来する強度と再生能力あたりだろうか?

 

 そこまで分析して、ライラは指示を出す。同時に、9匹のグンタイアリが一斉に牙を剥いた。

 

 ――足は全部で8本、しかしこちらはスリーマンセルの班が3つで計9人の戦闘員がいる。つまり全く同じタイミングで攻撃すれば、理論上1人への対処は追いつかない。しかも体を支えるために軸足は残す必要があるため、実際には2人以上への対応がおろそかになる。

 

 であれば、この一撃でハルトマンを殺すことができる。

 

 

 

「……と、思ってるのだろう?」

 

 

 

 しかし、その考えを見透かした彼は、嫌らしい笑みを口元に張り付けた。

 

「それを『浅はか』というんだ」

 

 そう言うと同時に彼の股間にぶら下がる“それ”が、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 傍から見ればそれは、ふざけているようにしか見えないだろう。ともすれば、手の込んだ悪趣味な挑発と思うかもしれない。だがそれを見た瞬間、ライラは即座に指示を下す。

 

「全員、耳を――」

 

 

 

 ――しかし、警告を発するには遅すぎた。

 

 爆音が轟き、強烈な空気振動が隊員たちを襲う。タッチの差で対応が間に合わなかった隊員たちの耳から血が噴き出し、バランス感覚を崩した彼らは床に崩れ落ちた。忌々し気に己を睨みつけるライラに向け、ハルトマンは余裕の笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 昆虫が発する音――いわゆる“虫の声”と呼ばれるそれは、多くの場合『求愛』を目的として発せられる。

 

 多くの昆虫のオスたちは、その独特の声音でメスを魅了すべく、命ある間は日々愛の歌を奏で続けているわけである。その方法は種によって異なるため一概に『こう』ということはできないが、メジャーどころを上げれば次の2通りだ。

 

 まず、翅をこすり合わせて鳴くもの。こちらはコオロギや鈴虫を例に挙げることができる。

 そして、専用の発声器官を持つもの。こちらの例としては、セミが該当する

 

 しかし、だ。ハルトマンが手術ベースとして組み込んだその虫は、そのどちらでもない方法で鳴く。そう、我々人間の感性で考えれば、思わず吹き出してしまうような方法で。

 

 

 

 

 

 チビミズムシ、通称“歌うペニス”。

 

 そのまますぎる異名と先程のハルトマンの描写から多くの方はお察しと思うが、彼らは『腹部に性器をこすりつけて』鳴くのである。

 

 この説明を聞いて「何だその面白すぎる生態は」程度の感想しか抱かなかった者は、彼らの恐ろしさを分かっていない。字面のインパクトに騙されがちではあるが、彼らの特性はライラがしたように、最大限に警戒すべきものなのだから。

 

 彼らの奏でる求愛の音は、昆虫大の時点で105デシベルである……察しのいい者ならばお気付きだろう、この音量はシモンが持つ中でも最強クラスの破壊力を誇る『クマゼミ』の咆哮をも凌ぐのである。

 

 驚くのはまだ早い、チビミズムシは【チビ】の名が示す通り、非常に小さい。一般的な体長は2mm~3mmであり、米粒のように小さい。つまり体格比で考えた場合、この小さき益荒男の歌声は、いかなるセミよりも大きいことになる。

 

 それが、人間大になって放たれればどうなるか。シモンと違い、専用武器による特性の増強がないのがせめてもの救いだが、その歌を間近で聞いた者の耳はまず無事では済まないだろう。

 

「ぐっ、ウ……ッ!」

 

 倒れた隊員たちは何とか立ち上がろうとするも、その足取りはおぼつかない。鼓膜が破れて音が拾えず、平衡感覚を司る三半規管がやられているのである。今回の任務での戦線復帰は絶望的といえた。

 

 倒れた隊員たちを見下しながら、ハルトマンは鼻を鳴らす。

 

「フン、これだから上半身に頼ってるやつは駄目なのだ! 生殖器を見ろ、種の繁栄を左右する器官は下半身についているだろう? 足を見ろ、己の生存を左右する部位は下半身にあるだろう!? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! これ即ち“下半神”! 神の加護を賜りしこの私が、貴様ら如きに負けるものかよ!」

 

 嫌らしい笑みを顔に浮かべ、彼は続けた。

 

「さぁ、どうした? こちらの準備は万端(私は既にパンツを脱い)だぞ? アブラモヴィッチのように、ジェイソンのように……お前達が屠ってきた同志たちのように、私を殺してみるがいい!」

 

 ハルトマンは心底愉快そうに嗜虐的な笑みを顔に浮かべ、ティンダロスの隊員たちへと侮蔑の表情を向ける。暴力で他者を蹂躙する愉悦。しかし、それに浸る彼は気付かない。

 

 

 

 

 

 

 

 ――より圧倒的な暴力が、その牙を剥かんとしていることに。

 

 

 

 

 

 

 

哎呀(ふむ)……では、お望み通り屠殺してしんぜましょう」

 

 

 

 

 

 その飄々とした声は決して大きなものではなかったが、ハルトマンはなぜかはっきりと聞きとることができた。

 

 そして次の瞬間――()()()()()()4()()()()()()()()()()()()()

 

「ぬ、おォッ!?」

 

 ぐらりと傾く視界、しかしハルトマンは咄嗟に残った脚で転倒をこらえると、ノミの脚力で一気に後方へと跳び退いた。すぐさま全ての脚を再生させたハルトマンの額に、脂汗が浮かぶ。

 

「ほう、存外に冷静ですなぁ。しかも何やら、面妖なMO手術を己に施している……これはしたり。ティンダロスの皆さんに任せるには、いささか荷が重すぎましたか」

 

 ()()()()()()()()()()()下手人はのんびりとした声で言いながら、腰の鞘へと長刀を納める。

 しわを湛えた顔に、白く染まった頭髪。一見すれば、どこにでもいそうな好々爺。だがしかし、ハルトマンの脳内記録と老人の顔が一致した瞬間、彼の額にぶわりと脂汗が浮かんだ。

 

(ロン)百燐(バイリン)、だと!? 馬鹿な、なぜ中国軍の将校がここにいるッ!?」

 

 

 

 ――中国陸軍大将、龍百燐。

 

 

 “現代の剣聖”、”100人斬り”と名高き生ける伝説が、彼の前にいた。

 

 

「なに、「上司のあんたが休まんと部下も休めんだろうが! 60連勤はさすがに見過ごせん!」と、凱坊ちゃんにどやされましてな。いやはや、定年間近に有給というのも心苦しくはあったのですが……せっかくなので長期休暇をいただき、ロシア世直し旅行と洒落込んでいる次第です」

 

 そんな旅行があるかと切り返す余裕は、今のハルトマンにはなかった。局所という制限はありながらも理論上無限にベースを付与することができるMO手術、『魔女の脚(バーバヤーガ)』。それによって完成した最強無敵にして至高究極の頂へと至った己の下半身が、こうもあっさりと傷つけられたのだ、余裕などあるはずもない。

 

 そう、余裕こそなかったが……しかし、彼は沈着冷静ではあった。

 

「く、くく……なるほどなぁ。我が下半身に傷つけたことは褒めてやるとも。だが……()()()()姿()()()()()()()()()()()()()!」

 

 そう言うが早いか、ハルトマンは一瞬にして百燐の背後へと回り込んだ。ノミの脚力、及びハエトリグモの一種たるバギーラ・キプリンギの走力を合せた、まさしく瞬間移動とでもいうべき移動術。

 

「死に晒せ、老いぼれェ!」

 

 勝ち誇ったハルトマンが、上段に構えた脚を百燐目掛けて振り下ろす。タカアシガニとノミの特性で大幅に増強されたその一撃は、人間など容易く踏みつぶす。ハルトマンは己の勝利を確信し――

 

「……あ?」

 

 ――そして、違和感。

 

 脚を振り上げた、それはいい。だが、振り上げた脚が下ろせない――いや。()()()()()()()()()()()()……?

 

 己の脚に1本の糸が絡みついていることにハルトマンが気付いたのと、百燐が呟いたのはほぼ同時だった。

 

 

 

 

 

「”人工转型(人為変態)”」

 

 

 

 

 

 ミシリ、と細胞が軋む音。それと同時に、目の前の老人の額には人ならざる生物の眼が6つ現れ、顎には鋏角と呼ばれる節足動物類に特有の器官が生える。茶色や灰色の体毛に覆われる指先からは糸が伸び、いつの間にか己とティンダロスの隊員を守る結界のように張り巡らされていた。

 

「な、に……!?」

 

 気が付けば己の足は蜘蛛糸によって厳重にからめとられており、微動だにすることさえ敵わない。加えてハルトマンは、息が苦しさや視界の狭窄、手足が少しずつ痺れていくことに気が付いた。

 

「ふむ、毒が効いてきたようですな」

 

 そう呟く百燐の姿が――変態してなお枯れ枝のような体躯のその老人の姿が、ハルトマンの目にはまるで悪魔のように映っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 (ロン)百燐(バイリン)

 

 

 

 

 

 

 

 国籍:中華人民共和国

 

 

 

 

 

 

 

 66歳 ♂

 

 

 

 

 

 

 

 178cm 77kg

 

 

 

 

 

 

 

『アークランキング』8位 (マーズランキング5位相当)

 

 

 

 

 

 専用武器:対虫毒素充填式コーティング苗刀 『傍若無人(カタワラニヒトナキガゴトシ)

 

 

 

 

 

 MO手術 “節足動物型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ――――――――――――ナルボンヌコモリグモ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 人を死に至らしめる毒牙、頑丈な糸、極めて高い運動神経――これらは蜘蛛に見られる特性である。しかし一口に蜘蛛と言っても種類は千差万別、全ての要素を兼ね備えた蜘蛛はそう多くはない。

 

 しかし、ナルボンヌコモリグモは違う。かの昆虫学者、ファーブルをも魅了したその小さな体躯には、一般的にイメージされる蜘蛛の特性を数多く備えている。

 

 徘徊性の蜘蛛である彼らは、アシダカグモのように走って獲物を捕らえる。その身体能力は高く、狙った獲物は逃さない。

 

 獰猛な捕食者である彼らの牙には、毒がある。昆虫類に強い毒性を発揮するこの物質は、確実に獲物を死に至らしめる。

 

 そして子守蜘蛛の名の通り、彼らは子育てをする。地中の巣穴には、鉛筆大に束ねればジェット機すら繋ぎとめると評される蜘蛛糸が、マット代わりに敷き詰められている。

 

 

 

 もし歴戦の兵士がナルボンヌコモリグモの特性を手に入れ、その力を戦場で振るえば――彼は白兵戦からゲリラ戦まであらゆる戦争に通用する、極めて優秀な『戦闘員』兼『工作員』として、戦場に名を馳せることになるだろう。

 

 

 

「そういえば先程、面白いことを仰っていましたな」

 

「あ、あ……」

 

 命乞いを口にするも、もはやハルトマンの呂律は回っていない。MO手術によってツノゼミを上乗せし、更にチビミズムシという昆虫の特性までも取り込んでしまった彼の体に、ナルボンヌコモリグモの毒はあまりにも劇薬であった。

 

 ガタガタと震えるハルトマンに、百燐は語り掛けた。

 

「確か……「()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()」、でしたか? なるほど、実に面白い。では――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――死に晒せ、若造(上半身はいりませんな)

 

 

 

 

 

 

 

「ヴ、アアアアアアアアアアアアアアアアアア!?」

 

 ハルトマンは股間から爆音を放とうとするが、剣聖の絶技は末期の抵抗すらも許しはしない。絶妙の間合いから放たれるは、神速の居合。ハルトマンの股間が激震するよりも早く、百燐の刀身は彼の腰から上を斬って落とした。

 

 

 ボトリと胴体が床に落ち、紅が床を浸す。すかさず百燐はハルトマンの心臓に刀を突き立て、死にゆく狂人への介錯とした。

 

 

「上下合わせて人間なのですよ、青二才。出直されるがよろしい。来世はケンタウルスにでも生まれ変われるといいですねぇ」

 

 その言葉を辛うじて聞き取ると同時に、アダム・ベイリアル・ハルトマンの意識は完全に消失した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……というのが、今回の任務のあらましですな」

 

「あらそう、反省の色が全く見られないわね。百燐(ばいりん)お爺ちゃん、何か言うべきことがあるんじゃないかしら?」

 

哎呀(ふむ)、それもそうですな。『エキサイティングな休暇を謝謝(ありがとう)』とティンダロスの皆さまにお伝えください」

 

「シモン、オスカルに連絡なさい。お爺ちゃんが第六団の皆さまに『お持ち帰り朝までコース』をお望みだそうよ」

 

「ハハハそれだけは勘弁願いたいハハハ」

 

 実に満足げに笑う百燐に、基地で報告を聞いていたモニカはため息を吐いた。この人斬りジジイ、休暇中なのを良いことにティンダロスの任務に内緒で同行していたのである。

 ティンダロスの窮地を救い、かつ政府関係者にばれなかったからよかったものの、これが露呈していたらとんでもないスキャンダルである。ロシアと中国の関係にひびを入れかねない。

 

「……とりあえず百燐さん。今回は結果的に好転したから重罰は課さないけど、次回以降の独断専行は厳罰だからね?」

 

「勿論です。この百燐、肝に銘じますとも」

 

 胃が痛そうなシモンの様子に、百燐はいう。本当にわかってるのだろうか、この好々爺は?

 

「……とりあえず百燐さんには、リンファちゃんがアーク名義で使った食費の支払いを命じます」

 

「最近入団した彼女の、ですか? いいですとも。可愛らしいお嬢さんの肩代わりくらい、この老骨が務めましょう」

 

 ――優しくも締めるべきところは締めるシモンらしくもない。

 

 そう内心で呟いていた百燐は、先程まで青筋を立てていたモニカから向けられる同情の視線に気付かない。数日後、百燐は送られてきた請求書の請求金額に貯金数割が吹き飛び、二度と独断専行はしまいと誓うことになるのだが、それはまた別の話である。

 

「……それで、肝心の用事というのは?」

 

 そう言ったのは、先程まで事態を静観していたクロードである。彼の顔は険しいものになっている。

 

「君がわざわざ私たちに報告に来るくらいだ……おそらく、碌でもないことだと思うんだが」

 

「さすがですな、博士。アダム・ベイリアル・ハルトマンの基地内のデータ処理をしていた際、興味深い通信記録を見つけましてな――どうやらテロを企てているようで」

 

 そう言うと百燐は刀を杖代わりに立ちあり、懐からとり出したタブレットをクロードへ渡した。

 

「多少無理をしてでも、特別対策室としてシモン団長を派遣するのがよろしいでしょう。単刀直入に申し上げますが――」

 

 そして老兵はこともなげに、冗談のような台詞を本気で口にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ありゃりゃ。ハルトマン君からの通信が途絶えちゃった」

 

 ――死んだかな、これは?

 

 アダム・ベイリアル――地球上に散らばった『アダム・ベイリアルを名乗る狂科学者の誰か』ではなく、彼らを束ねる首領たる本物のアダム・ベイリアルは、なんてことないようにそう言った。

 

「あー、死んだっぽいな彼。やっべ、これはクロード君達にばれたと見た方がよさそうか」

 

 やばい、といいながら全く焦った様子も見せずにアダムが呟く。すると、通信モニターの向こう側――アダムと通話をしていた2人の男性のうち、壮年の男性が口を開いた。

 

「それがどうした、“黒幕気取り”?」

 

 スーツを着こなす、壮年の男性である。その佇まいは非常に気品あふれるものではあるが、彼が纏う覇気は常人の――否、人間のそれではない。傲慢にして凶暴なそれは、ともすれば神の威容を思わせる程。

 

 背後に()()()()()()()()()()()()()()()()()()、ぎらつく眼光でアダムを見据えた。

 

「この余が貴様如きの口車に乗ってやったのだ。愚民共が何を喚こうと、そのまま踏み潰せばよかろう? それとも貴様――」

 

 そう言うと、壮年の男性はモニター越しにアダムへと殺気を向けた。

 

「まさか『部下が1人死んだので中止します』――などとほざくつもりはないだろうな?」

 

「いやいや、それこそまさかだよ。昨今、マッドサイエンティストってのは肩身が狭くてね。弾圧には屈さない雑草魂が求められているのさ」

 

 モニター越しとはいえ、常人ならば失神してもおかしくない気をぶつけられ、しかしアダムは平然と返す。すると、壮年の男性とは逆のモニターから、若々しい声が響いた。

 

「それじゃあ、予定通り決行――ってことでいいのかな?」

 

 貴公子然とした青年である。黄金比と言ってもいいほどにバランスの取れたその体に纏うのは、トーガと呼ばれる時代錯誤な衣装。その一挙一動は聖人の如く神々しいが、同時にひどく薄気味悪くもあった。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、アダムに語り掛ける。

 

「いやなに、私もそれなりに準備を進めていたからね。せっかく真心を込めて用意した精兵たちも出番がないとなると、少しばかり切ないものがあるんだよ」

 

「ご心配なく! ボードも駒も用意したし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。むしろ手間が省けたし、多分想定よりもずっと面白くなるぜ?」

 

 その言葉に青年がのんびりと「それは楽しみだ」と笑う。対して壮年の男性は、無言。良いから話を進めろ、と言わんばかりだ。

 

「オーケィ、なんか早く始めろって空気がビシビシ伝わってきてるし、それじゃあ、代理戦争を始めよう。さてさて――」

 

 そう言ってアダムは、モニターの向こう側の2人ににんまりと笑いかける。そして――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――2人とも、準備はいいかい?」

 

 

 

 

 

「愚問だ」

 

 

 

「私は、いつでも」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――未だ神ならざる者たち(ニュートンの異端者)の了承を以て、聖戦は幕を開ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――思うに、世界には歌に似ている。五線譜の上に敷かれた無数の音符(要因)が、(世界)を紡ぐのだから。そして1つの音が変わっただけで、歌の印象までも変わってしまうのだから。

 

 

 

 五線譜上の音符の位置がずれれば、それは別の歌になる。

 

 

 

 奏でる楽器が違えば、それもまた別の歌である。

 

 

 

 そして歌い手が変われば、やはりそれも別の歌。

 

 

 

 そしてたった一つの違いで生まれた新たな歌は、まるっきり別の様相を呈するのである。それはまるで、少しの食い違いが転換点となって、歴史を動かす人類史のように。しかしそのどれも多少の差異はあるものの、歌として破綻はしない――で、あるならば。

 

 

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 これより奏でる歌は、全く異なる三つの楽器(世界線)を重ねた三重奏である。

 

 ――故に、二重交錯の歌(ダブルクロス)

 

 

 

 これより唄われる歌は、全く異なる三人の異端者(黒幕)による三重奏である

 

 ――故に、裏切り者の歌(ダブルクロス)

 

 

 

 そしてこれより紡がれる歌は、全く異なる三人の十字架を背負いし者(主人公)による三重奏である。

 

 

 

 故に――十字架の歌(ダブルクロス)

 

 

 

 

 

 

 【人造の堕天使】が奏でし音色に合わせ、【闇夜の海魔】が踊り狂う――虚ろの五線譜に刻まれし、【呪歌の残響】を聞け。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 予告編 PRELUDE 序曲 ―――――― 了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 贖罪のゼロ

 

 

 

 

 THE EXTRA MISSION 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 CROSS OVER WITH 『深緑の火星の物語』 & 『インペリアルマーズ』

 

 

 

 

 

 

 

 

          ――  SONG(ソング)  OF(オブ)  XX(ダブルクロス) ――

 

 

 

 

                 ――開幕――

 

 

 

 

 

 

 To be continued first song ―― 狂想讃歌 ADAM ――

 

 

 







……はい、ということで。


 本編は少しお休みして、ここからしばらく他作者様の作品とのコラボをやらせていただきます!(宣言) 子無しししゃも様、逸環様には、この場を借りて申し出を受けていただいた感謝を!


 詳細は後日活動報告に載せさせていただきますが、とりあえずざっくりとした概要を書かせていただきますね。

・拙作を含むいずれかの作品を知らずとも楽しんでいただけるよう、本文やあと書き、前書きなどで用語説明などは入れさせていただきます。

・コラボと言いつつ、キャラと設定をお借りした『贖罪のゼロ』の地球編やる、ぐらいのノリで執筆中です。両作の設定を混ぜ込んだオリジナルの敵がバンバン出ます。新ベースも盛りだくさんです。

・全三章構成(予定)。内訳は1章兼幕間が三つの世界が混線した狂言回し、2章が『深緑の火星の物語』とのコラボ、3章が『インペリアル・マーズ』とのコラボとなっております。

・どれかの作品を知らなくとも100%楽しめるお話を書かせていただく所存、ですが……コラボ先の設定を知っていると200%楽しめると思います! この機会にぜひ読んでみてください、マジで!(ダイマ)


 以上です。少しばかり特殊な投稿が続きますが、今後とも拙作をよろしくお願いします!


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狂想讃歌ADAM-1 宣戦布告

 既に時刻は夕方にさしかかり、ローマ市は一日の終わりを告げる夕日によって朱色に染まっていた。市内を流れるティベレ川の水面が西日を乱反射し、群青に染まり始めた東の空には微かに銀色の星々が瞬く。まるで絵に描いたような夕景の中の街道を、一台のイタリア車が走っていた。

 

 ――さて、どうしたもんかな。

 

 助手席に座っていた人物、ジョセフ・G・ニュートンは内心でため息を吐いた。極めて整いながらもどこか愛嬌のある顔立ちをした彼は、灯り始めた街の明かりが流れていくのを窓越しに眺めながら眉をひそめた。その表情を見れば、平時のジョセフを知る者はとても驚くだろう。彼は基本的に、笑顔を絶やさない。だから彼が、どこか不満げにも不快そうにも見える表情を浮かべることは、とても珍しいのである。

 

 そして実際に、そんな彼の様子を見てとったのだろう。運転席でハンドルを握る人物が怪訝そうな顔でジョセフに視線を向けた。

 

「なんだジョー、らしくないな? また女遊びで面倒ごとにでも巻き込まれたか?」

 

「あはは……冗談きついですよ、バルトロメオ先輩」

 

 思わず苦笑いを浮かべたジョセフの視線の先にいたのは、身長160cmもあるかどうかという程に小柄な、しかしそれを補って余りある程に筋肉質な体格の男性だった。

 

バルトロメオ・アンジェリコ――学生の頃に出会って以来、軍隊に入った今でも交流のある、ジョセフの先輩である。

 

「それはこっちの台詞なんだけどな、ジョー。火遊びをするのはまぁいいとしても、俺に後始末を押し付けるのはやめろ。毎度毎度、大変なんだぞこっちは?」

 

 胡乱気な表情で睨むバルトロメオに、ジョセフは乾いた笑いを漏らした。

 

「えっと、そこはホラ……右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい的な、ね?」

 

「よーし、俺に聖書の一文で反論するとは言い度胸だなお前? このまま教会行くぞ、夜通し説教してやる」

 

「待って待って!? いや、今のは俺が全面的に悪かったのでそれだけは勘弁してください!? このあとの集まりに支障をきたすので!」

 

 ワタワタと大げさに慌てて見せるジョセフに呆れたように鼻を鳴らすと、バルトロメオは視線を進行方向へと戻した。学生の頃からの付き合いだが、この後輩は良くも悪くも変わらないらしい。

 

 もっとも、それはあくまで内面の話。学生時代と今を比べた時には、決定的に違っている点がある。

 

「しっかしまぁ、こんな休日に呼び出し喰らうとは……一族の当主様ってのも大変だな」

 

 同情ともねぎらいともつかない感慨のこもった声で、バルトロメオが言う。それに対してジョセフは「正しくは“次期”当主なんですけどね」と補足をして、再び窓の外へと視線をそらした。

 

 バルトロメオの知る学生時代のジョセフと今のジョセフの決定的な違い、それは彼の肩書である。

 

学生時代から何かと噂の尽きない男ではあったが、学校を卒業して以来、ジョセフを飾る言葉は多くなった。ローマ連邦空軍元帥、生物学修士号取得者、航空宇宙工学修士号取得者……そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 肩書きとは即ち、社会におけるその人物の位置づけを表すものである。なるほど、これだけ社会的な地位を抱えていれば、才能の塊のようなジョセフといえども悩みの一つや二つはあってもおかしくはない。

 

「ま、何かあったら教会に行け。神の寵愛は万人に等しく与えられるもんだからな。ジョー、お前の悩み事もスパッと解決するかもしれないぞ?」

 

「……ええ、そうですね。今度の日曜日にでも行ってみますよ」

 

 そう返したジョセフの表情は、どことなくやつれているようにも見える。久方ぶりの休日、うぬぼれでなければ気の置けない自分(先輩)と共に心置きなくディナーに舌鼓を打っていたところで緊急の呼び出しがかかったのだ。彼ほどの者が緊急で呼び出される案件である、多少の憔悴はあってしかるべきなのだろう。

 

 ――ああ、神よ。願わくは、手のかかる後輩のかかる悩みが少しでも軽くならんことを!

 

 己が信仰する神に祈りを捧げてから、バルトロメオは右足でブレーキレバーを踏んだ。小奇麗に磨かれた車体が止まったのは、石造りの橋の前であった。

 

「ジョー、着いたぞ。サンタンジェロ城だ」

 

「ありがとうございます、先輩。すいません、こんなところまで送らせちゃって」

 

 シートベルトを外しながらジョセフが言うと、バルトロメオは「お前の世話を焼くのは慣れた」と白い歯を見せた。

 

「今日の予定がポシャッたのは残念だが……まぁ、また次の機会にでも」

 

 ――じゃ、頑張れよ。

 

 そう言い残して、バルトロメオを乗せた車はローマの夕方へと消えていく。車の影が見えなくなるまで見送ってから、ジョセフは小さく呟いた。

 

「……さ、仕事だ」

 

 踵を返し、ジョセフは天使の像が立ち並ぶ石造りの橋を渡り始める。その顔に先程までの人がよさそうな表情はなく、その代わりにピンと張りつめた糸の様に強張った表情を浮かべていた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ティベレ川の右岸に佇むサンタンジェロ城は、かつてローマ帝国において五賢帝と謳われた皇帝の1人であるハドリアヌスが、己の霊廟として建設したものである。14世紀に入って以降、この城は歴代のローマ教皇によって要塞として強化され、しばしば牢獄や避難所として用いられてきた。

 そうした経緯のためか、この城は「バチカンのサン・ピエトロ聖堂と秘密の通路で繋がっている」というような、隠れた空間の噂に事欠かない。今回ジョセフが呼ばれたのも、そんな秘密の空間の1つ。ローマを拠点として活動するニュートンの一族が、しばしば密会に利用している場所である。

 

「お待ちしてました、ジョセフ君」

 

 隠し扉を開けて中へと入ったジョセフを出迎えたのは、3人の人間であった。そのうちの1人――和服に身を包んだ褐色肌の青年、エロネ・新界がジョセフへと向き直った。

 

「お休みのところを呼び出して申し訳ありません、叔父様」

 

 エロネに続けてそう言ったのは美しい金髪の女性、ファティマ・フォン・ヴィンランドである。艶やかなドレスに身を包んだ彼女の顔はしかし、ジョセフに対する申し訳なさと事態の重大さのために曇っていた。

 

「いいんだよ、ファティマ。一族の次期当主として、このくらいの仕事はしないとね」

 

「お、叔父様……!」

 

 感動と憧憬が入り混じり、涙ぐみながらファティマは熱い視線をジョセフへとぶつけた。そんな彼女に微笑みかけてから、ジョセフは最後の1人へと顔を向ける。

 

「それで……何があったか教えてくれるかい、ミルチャ?」

 

「御意に」

 

 ジョセフの言葉に恭しく頭を下げたのは、中年の男性だった。礼装を身に纏う2人と違い、この男――ミルチャは、まるで浮浪者のようにみすぼらしい古着を着ている。

 

「私どもの方で進めていたアダム・ベイリアルの暗殺計画ですが……それなりの犠牲は払ったものの、3人ほど討ち取ることに成功しました」

 

 ジョセフは何も言わず、ミルチャに続きを促した。

 

 見た目で判断する者は決して気づかないだろうが――ミルチャという男は、一族の中でも優秀な人物である。

 

 ファティマやエロネに比べて一族の内部での地位は下がるものの上位の末席――あるいは中位に位置し、ニュートン一家の上位と下位の仲介役を任されている。

 

 無能に仲介役は務まらない。優秀であったとしても、一を聞いて十を知る程度の人物にも務まらない。一を聞いて十を成し、それでいて必要な時には躊躇わずに上を頼ることができる者でなければ、この家で中位という立場が務まるはずもないのだ。

 

 そんな、機を見るに敏いミルチャが、上を頼った。それもファティマやエロネではなく、一族でも最上位に位置する自分を、である。それはつまり、彼が持ってきた案件が相応に深刻なものであることを物語っている。

 

「その際に押収した資料の中から……ありていに言えば、テロの計画書を発見した次第です」

 

「私もまだ見てはいませんが、ミルチャが言うには一族に深刻な被害を及ぼしかねないものだと」

 

 ミルチャの言葉を継いで、エロネが言う。

 

「次期当主であるジョセフ君に、指示を仰ぎたい」

 

「詳細はこちらに用意してあります……ファティマ!」

 

「はいはい、言われなくてもやってますぅー」

 

 ミルチャの言葉に、ファティマはプクッと頬を膨らませながら、手元に用意したノートパソコンのキーボードを叩く。ニュートン一家が持つ最先端技術を集めたそのパソコンは、市販のそれに比べて小型でありながら高性能。故にその処理速度も非常に速い。

 

 

 

 

 

「……ちょっと、ミルチャ?」

 

 ――はず、なのだが。

 

 

 

 

「このパソコン、壊れてるんじゃないの? さっきからやたら読み込みが遅いんだけど」

 

「なに?」

 

 ファティマから呈された苦言に、ミルチャは怪訝な表情を浮かべた。買いたてホヤホヤ、とは言わないが、まだ壊れるほどの年月使用したわけではない。つい先ほど自分が扱ったときには、何の問題もなかったはずだが……?

 

「ああ、やっと読み込ん……だ……」

 

 そう言いかけたファティマの表情が固まる。そこに表示されていたのは――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

~有料アダルトサイト『エロスのエデン』へのご入会のご案内~

 

 

 

 ご利用登録、誠にありがとうございます! お客様の入会手続きが完了しました! 1分以内にこちらから最終登録を完了させてください。完了しない場合、法的措置をとらせていただく場合がございます。

 

 利用料:月額10000ユーロ 支払期日:4月20日 17:00 登録日時:4日19日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ピンク色に縁どられたメッセージウインドウと、モザイクに加工が施された、半裸の女性の写真――いわゆる、アダルトサイトの消えない系の広告(ワンクリックウェア)だった。画面では残り59秒、58秒……と、心理的にプレッシャーをかける謎のカウントが始まっている。

 

「……」

 

「おい待て、誤解だッ! そんな目で私を見るのを止めろ!?」

 

 ドブネズミを見るような視線を向けるファティマに、ミルチャが思わず逆上気味に返した。

 

「えっと……ミルチャはこういうのが好みなのかな? いや、個人の趣味に口出しするつもりはないけど、一族のパソコンでこういうのはちょっと……」

 

「違います、私じゃありませんからね!?」

 

 引き気味でそう言ったジョセフに必死で弁解するミルチャ。弛緩する空気の中でただ1人、エロネだけは鋭い目で食い入るように画面――特に、女性の広告を見つめていた。

 

 無論それは、彼がアダルトサイトの広告に欲情した、などというふざけた理由からではない。

 

 見覚えがある様な気がしたのだ、写真の女性のシルエットに。モザイク加工越しでも分かる美しい金の長髪に、人体比率の黄金比になぞらえればやや大きすぎる胸。そう、そのシルエットはまるで――。

 

 

 

「ッ! ジョセフ君!」

 

 

 

 違和感の正体に気が付いたエロネが叫んだ、その瞬間だった。ウインドウ中のカウントが、残り0秒になったのは。

 

 カウントが終わると同時、なぜか写真からモザイク加工が取り払われ、写真の人物が露になる。画面の中から硬直するジョセフたちに妖艶にほほ笑んでいたのは他でもない――()()()()()()()()()()()()()()()()その人であった。

 

 

 

「っ、私――!?」

 

 

 

 ファティマが声を上げるが、それを言いきる前にパソコン内で別のウインドウが開く。動画の再生プレイヤーである。皮肉なことにこのタイミングで最新鋭の処理能力を発揮したパソコンによって、ファティマがウインドウを閉じるよりも早くその動画は再生された。

 

 

 

『失楽園 ~世界征服をもくろんだ一族が火星のゴキブリに連続×××されて秒で××る~』

 

 

 

 そんなタイトルが一瞬表示されると同時に、画面いっぱいにその汚らわしい映像が放映された。

 画面の左上に映されるのは『衛星中継』の文字。どこかの施設なのだろうか、そこにはニュートンの一族――それも、上位に名を連ねる者たちが映し出されていた。

 

 トニー・S・ニュートン、ワンガリ・Eドラド、ハンニバル・フォン・ヴィンランド、久重・ケンロック、新墾・ジェイソン、エロネ・新界、金姫・フォン・ヴィンランド、ファティマ・フォン・ヴィンランド……そしてジョセフ・G・ニュートン。画面の端に見切れているが、ミルチャの顔もある。

 

 彼ら・彼女らは全員が裸で、床へと這いつくばっていた。その体にのしかかり『行為』に励んでいるのは、漆黒の人型ゴキブリ――テラフォーマー。彼らは「じょうじ、じょうじ♡」と気味の悪い声を上げながら、醜い恐慌に励んでいる。

 

「……ッ」

 

 ファティマは画面をギリと睨みつけた。

 

 おそらくは……というより、ほぼ確実にCG合成のはずだ。他でもない自分やジョセフがここにいるし、本物の上位勢がこれだけ失踪すれば、今頃ジョセフの通信端末がひっきりなしにアラームを鳴らしているだろうから。

 

 だからこの映像は気に留めるべきではない。ないのだが……自分の顔をした誰かが、テラフォーマーに蹂躙される様など見て楽しいはずもない。

 

 すぐさまこの映像を消そうと、ファティマは躍起になってキーボードを叩く――が、パソコンはもはや一切の入力を受け付けず、シャットダウンすら不可能であった。このままパソコンを破壊したいという衝動に襲われるが、怒りにのまれなかった僅かな理性がそれを押しとどめる。

 

 ――この異常事態の原因を、突き止めなくてはならない。

 

 そのためには、このパソコンを破壊するという行為は愚策である。自らを押し止めた彼女は深く息を吸い、数秒止めてからゆっくりと肺の中の空気を吐きだした。

 

 一般に、怒りの感情のピークは6秒ですぎると言われる。ファティマが6秒間の時間をとって心を落ち着けると同時に、ジョセフが口を開いた。

 

「『私』たちに敵意を持つ組織は少なくないが、ここまで悪趣味なことをしでかす者を私は知らない」

 

 ――一人称の変化。それは彼の発言がジョセフという個人としての言葉でなく、人類の最先端を行く一族の次期当主として発した者であることを意味している。

 

「聞こえているな、アダム・ベイリアル? さっさと出てきたらどうだ?」

 

 ジョセフの言葉と同時に、ウインドウ内の動画が唐突にブツリと切れた。代わりに表示されたのは、一枚の紋章である。

 

 

 

 食い尽くされたリンゴの芯と、それにまきついた妖虫――即ちそれは、()()()()()()()()()()

 

 

 

『なーんだ、もう分かっちゃったのか』

 

 パソコンのスピーカーから流れてきたのは、どこか残念そうな声音。それを聞いた瞬間、ジョセフの近くに控える3人の顔に一気に警戒の色が浮かんだ。

 

『やっほー、ジョセフ君! それにエロネ君とファティマちゃん、ミルチャ! 僕だよ、僕! 元気してたー?』

 

 耳障りなその声は、疑うべくもない。ニュートンの一族にとって最優先抹殺対象の一人に数えられる怪人、アダム・ベイリアルのそれに他ならなかった。

 

「……何の用だ、アダム・ベイリアル」

 

 ジョセフは慎重に言葉を選びながら、パソコンへ向かって声をかける。するとスピーカーからは、一々癪に障るような大げさな反応が返ってきた。

 

『おいおい、質問を質問で帰すなってご両親に教わらなかったの? あ、ごっめーん☆ 君のお母さんは行方不明で、君のパッパはそもそも息子への愛もあるんだかないんだかよく分からないような人だったっけ(笑)』

 

「こっちの神経を逆なでするためだけに通信を入れたのか? ……随分暇なんだな、お前」

 

 ざわつく心を瞬時に収めると、苛立ちなど微塵も見せずにジョセフが言う。

 

「もう一度聞いてやる……何の用だ、黒幕気取りの道化師?」

 

『ちぇっ、面白くないなー。さっきのAVの感想をもう一言二言ぐらい聞いておきたかったのに……ま、いっか』

 

 ――こっちも人を待たせてるしねー。

 

 そう言ってアダムは、ジョセフに本来の用件を切り出した。

 

『と言っても、近況報告みたいなものなんだけど……僕達これから、アメリカで陣取り合戦をやるんだ!』

 

「……」

 

 ジョセフが何も答えずにミルチャを見やると、彼は小さく頷いた。どうやら、先程ミルチャが報告しようとしていたテロとは、どうやらこのことらしい。

 

『二つの陣営に分かれてアメリカ合衆国の土地をとり合うんだ! 両陣営ともに、MO手術やらなにやら飛び交う、それはそれは素敵なゲームパーティ! どうだい、楽しそうだろう?』

 

「そうかい、こっちには全然そうは思えないけどね」

 

『えー、せっかく考えた楽しい遊びなのに―』

 

 不満そうな声を漏らしたアダムに、ジョセフの吐き捨てるように言った。

 

「で、それがどうした? まさか、私に参加しろとでも? 生憎だが、私はお前の下らない遊びに付き合ってやる気は――」

 

『えっ?』

 

 だが、スピーカーの向こうから聞こえてきたアダムの声に、思わずジョセフは言葉を飲み込んだ。

 

 ――脅してこちらを引きこむつもりじゃないのか?

 

 エロネが内心で首を傾げた瞬間、スピーカーからアダムの声が響いた。

 

『あ……あー! そっかー! ジョセフ君、自分が誘ってもらえると思っちゃってたかー! いやぁ、ごめんごめん! 僕の気が利かなかったね! うん、ちゃんと言わなきゃ伝わらないよね』

 

 わざとらしくそう言うと、アダムは大きく咳ばらいをして言い放った。

 

 

 

 

 

『悪いねジョセフ君、このゲーム3人用なんだ』

 

 

 

「……ッ!」

 

 その発言に込められた真意を理解した瞬間、ジョセフの顔に初めて焦りの色が浮かんだ。

 

『じゃ、そういうことだから! ジョセフ君はママのおっぱいでも吸いながら、アメリカが僕達の手に落ちるのを見てるといいんじゃないかな! あ、ママはいないんだっけ? まぁ、そんな感じで! あ、それとこの通信が終わったら、パソコン内のデータは自動で消滅するから、よろしく』

 

 散々まくしたてるだけまくしたてると、アダムは通信を切断してしまう。それと同時に、パソコンが完全にフリーズした。どうやら、そういう用途のプログラムが事前に仕込まれていたらしい。

 

 完全に使い物にならなくなったパソコンを、今度こそファティマは怒りのままに蹴り飛ばした。そのまま彼女はハイヒールでパソコンを執拗に踏みつけながら、ヒステリックに叫んだ。

 

「なんなのよ! こいつは、いつもいつもッ!」

 

 もはやパソコンの形をしていないそれに、とどめの一撃を見舞ってから、ようやく腹の虫がおさまったらしいファティマが肩で息をする。それをしり目に、エロネはジョセフを見やった。

 

「……どうなさいますか、次期当主?」

 

 ファティマと違い、彼は冷静な口調でジョセフに指示を仰いだ。

 

「先程の通信はいつも通り、戯言かもしれません。ただ……もし、アダム・ベイリアルがその気になれば、アメリカは落ちるでしょう」

 

「そうだね……エロネ、一族上位の者にこのことを連絡してくれ、大至急ね。「何かあったらにすぐ行動を起こせるようにしておいて」とも伝えてね」

 

 ジョセフの指示に、ミルチャとファティマが目を丸くした。ジョセフの指示は事実上「一族の力を総動員して脅威に備えろ」と言っているようなものだったから。

 

 一方でエロネはただ「かしこまりました」とだけ返して、通信端末を片手に秘密の通路へと出ていく。それを見送ったジョセフは、次いでファティマとミルチャに向き直る。

 

「2人はアメリカに潜り込んでいる間者に連絡を。多少の無理をしてもいい、内部から働きかけて奴らのテロに備えさせろ。それと、完全に片が付くまで徹底的に情報集めるようにも伝えてくれ」

 

「分かりましたわ……でも叔父様、ここまでやる必要はあるんでしょうか?」

 

 ファティマは異論を唱えないものの、どこか不可解そうに首をかしげた。

 

「これまで、アダム・ベイリアルがちょっかいをかけてきたことは数えきれません。実際に国を滅ぼそうとしたこともありました。でもその時だって、こんなに警戒したことはなかったのに……」

 

「ああ、そうだ――()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「――それほどまでに警戒しなければならない敵が、相手だと?」

 

 ジョセフの言葉に、ミルチャが表情を険しくした。このゲームは3人用、という言葉から、協力者がいるらしいことは2人にも想像がついていた。だがその正体を、彼らは掴みかねていた。

 

「確固たる証拠があるわけじゃないけどね……さっき流されたあのビデオ、覚えてるかい?」

 

 それを悟ったらしいジョセフが、ゆっくりと口を開いた。

 

「あの合成映像は、ニュートンの一族でも上に立っている人をほとんど網羅していた。ご丁寧に、あまり対外的には有名じゃないミルチャまでいた」

 

 ――それなのに。

 

 と、ジョセフは苦々し気に呟いた。

 

「それなのに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。一族の中でも、地位的には最上位といっても過言じゃない彼らが、あの映像の中にいなかった」

 

「――!」

 

「まさかッ!」

 

 ミルチャとファティマがその結論にたどり着いたのは、全く同じタイミングであった。そして、理解する――アダム・ベイリアルの遊び相手を務めているのだろう、残り2人のプレイヤーの正体を。

 

「繰り返すけど、証拠があるわけじゃない。今回の一件で彼らを直接どうにかすることは不可能だし、そもそもブラフの可能性も捨てきれない。ただ、その上で俺の推測を言わせてもらうなら――」

 

 そう前置きしながらもジョセフは、どこか確信を持って断言した。

 

 

 

「槍の一族とデカルト、彼らがアダムとグルになっている可能性がある」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「よし、これでセレモニーはおっしまーい! あ、プライド、撮影現場の後片付けはよろしく~。グリードに手伝わせてもいいから、頼んだぜ?」

 

「……正気ですか?」

 

「勿論♪」

 

 向けられる抗議の視線を無視して、アダムはにっこりと笑みを浮かべる。それを見て観念したのだろう、彼の背後に控えていた、顔に傷のある男は、どこか疲れた様な様子で部屋を出ていった。

 

「さてさて、ジョセフ君はメッセージに気が付くんでしょーか!? 続きはCMのあとで!」

 

 そう言ってアダムはモニターをビシッと指さす――が。

 

「ってちょっとおおおお!?」

 

 モニターの向こう側、肝心の参加者は2人とも、アダムが手塩にかけて用意した余興にこれっぽちも興味を示していなかった。

 

「2人とも、せめてお世辞でもいいから何か言おうよ! エドガー君、セレモニーを無視して執務するの止めない!? オリヴィエ君も居眠りはよくないぞ!」

 

「……なぜわざわざ、貴様如きの悪ふざけに余が付き合わねばならないんだ? 回線を切らないでおいてやっただけでもありがたいと思え、愚民以下」

 

「んん……? ああ、終わったのかな? いや、中々いい子守歌だったよ」

 

 ――あらやだ、ちょっとフリーダム過ぎない君たち?

 

 アダムが思わず内心で呟く。もしもアダムを知る者がこの言葉を聞いていれば、恐らく誰もが「どの口が言うんだ」と返すことだろう。

 

「下らん余興が済んだのなら手早くルールの説明をするがいい、“黒幕気取り”」

 

 エドガーはそう言うと、革張りの椅子にゆったりともたれた。その瞳の奥には、およそ常人には計り知れぬ野望の炎が煌々と燃えている。ぎらつくその眼光は、『己以外のあらゆる存在は、等しく無価値である』と雄弁に語っているかのようだ。

 

 ――この世の全てを見下す男、エドガー・ド・デカルト。

 

 フランス共和国を統べる大統領にして、人間を超越した思想の下で神の頂へと手を伸ばす“神への挑戦者”は、どこまでも尊大に言い放った。

 

「そこのスペアはともかく、一国を統べる余は忙しいのだ。本来なら、貴様ら如きに時間を割くことすら惜しい……ありがたく思えよ?」

 

「おや、その言い分は心外だな」

 

 そんなエドガーの言葉に、彼の対面に設置されたモニターの中から、オリヴィエが声を上げた。

 

「私にも、やることがないわけではないんだよ?」

 

 金髪碧眼、黄金比と言ってもいいほどに端正な顔立ちの青年は、どこか不満げに唇を尖らせてぼやく。だがその表情からは、およそ感情らしい感情が読み取れない。まるで作り物のようなこの青年が醸し出す雰囲気は、言いようのない不気味さを孕んでいた。

 

 ――二重螺旋と槍の紋章を背負う青年、オリヴィエ・G・ニュートン。

 

 ニュートンの一族の中でも際立って異質な『槍の一族』を取りまとめている人物であり、人類の到達点たるジョセフのみに有事があった際、彼に代わって神へ至る役割を背負う “神のスペア”である。

 

 彼は肩をすくめると、「まぁ」と続きを切り出した。

 

「そこまで急ぐような案件ではないけどね。どうかな、エドガー君。せっかくの機会だ、他愛のない雑談で親交を深めてみるのも一興じゃないかな?」

 

「――ほざくな」

 

 オリヴィエが冗談交じりに口にしたその言葉は、しかし。どうやらエドガーの琴線に触れるものらしかった。

 

 

 

 

 

「一族の理念に取憑かれた亡霊如きがッ! いずれ神へと至るこの余にッ! 馴れ馴れしく口を利くんじゃあないッ!」

 

 

 

 

 

 その瞬間、彼の全身から放たれるのは、身の毛もよだつような怒気。ジリジリと突き刺さる様なそれをエドガーは、モニターの向こうで微笑むオリヴィエへと向けた。

 

「このエドガー・ド・デカルトに、貴様となれ合うつもりは毛ほどもありはしないぞ、泥人形! この際はっきり言っておくが、貴様は誰よりも目障りだ! 神に至るのはただ1人――スペアはスペアのまま朽ち果てろ、オリヴィエ・G・ニュートン!」

 

 

 

 

 

「――奇遇だね、エドガー君。私も同じことを思っていたよ」

 

 

 

 

 

 それに対抗するかのように、オリヴィエの纏う雰囲気もまた俄かに変わる。怒気とも殺意とも違う、もっとおぞましい何か。まとわりつくようなそれを、オリヴィエはモニター越しにエドガーへと向けた。

 

「神に至るのは1人だけ、私も常々そう思っていてね……競争相手は少ない方がいい。少しばかり予定が前倒しになるが、ご退場願おうかな? お望みなら、私自身の手で引導を渡すのもやぶさかじゃない……挑戦者は挑戦者のまま、いつまでも敵わぬ夢を追い続けるのがお似合いだよ」

 

 

 

 エドガーのぎらつく眼光と、オリヴィエの粘りつく視線がぶつかり、異様な空気が立ち込める。

 

 傍目から見るものがいれば、疑問に思うことだろう。なぜ、これほどまでに険悪な両者がこうして顔を突き合わせているのだろうか……と。

 

 

 ――文字通り『人間』という生物を極め、あらゆる分野において突出した能力を持つニュートンの一族。

 

 エドガー・オリヴィエ両名はその中にあって、一族の筆頭たるジョセフと比較しても何ら遜色ない実力者である。彼らは一族の中でも五指に入る程に優秀な人物であり、ある意味ではジョセフ以上に特殊な立場にある人物であり……そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 なぜなら、彼らは自らの目的――即ち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。ニュートンとしての総意にも容易く背き、次期当主たるジョセフにすら躊躇なく牙を剥きかねない不穏因子だからである。

 

 もし仮に、彼らがこうして言葉を交わしていることが判明すれば、一族の者たちは死に物狂いで止めにくるだろう。万が一にも両者が手を組むようなことがあれば、冗談でもなんでもなく、世界が滅びかねないのだ。

 

 もっとも、その可能性は億が一にもありえない。彼らは神へ至るという終点こそ同じだが、それ以外の全てにおいて反立しており、だからこそ彼らは絶対に相いれない。

 

 ゆえに両者が接触することがあるとすれば、それは2人が神の座を巡って潰し合う時だけだろう、というのが一族として出した結論であった。実際この推論は9割方当たっており、エドガーとオリヴィエが友好的に言葉を交わすシチュエーションなどありえない……『はずだった』。

 

 

 

 だが、現実にはどうか。彼らはこうして険悪ながらも空間を共有し、言葉を交わしている。なぜこの悪夢のような事態が発生したのか?

 

 

 

「ちょっとちょっと! 2人だけで、勝手に薔薇色の世界に入り込まないでよね!」

 

 

 

 ――理由は簡単。彼らは、外的要因を考慮していなかったのだ。

 

 

 

 いや、考慮しなかったというのは的確ではない。見誤っていたのである。外的要因がいくら働きかけようと、究極の自己完結とも言えるような彼らを動かすことなどあり得ない。

 

 そもそもの話、危険因子たる両者をわざわざ引き合わせようなどと考える輩がいるだろうか? どんな者にでも行動を起こすからには目的があり、その目的を達成するために適切な手段をとる。両者を引き合わせたとしても、得られるものなど十中八九存在しない。そんな彼らを、一線の得にもならないのに引き合わせようとする者がいるのか?

 

「僕を仲間外れにして二人きりの世界に没入する何て、君たちはそれでも誇り高いニュートンの一族なのかい? いじめ、かっこ悪いよ!」

 

 

 

 ――いたのである。

 

 

 

 エドガーとオリヴィエという、2つの危険物。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。平然と火にガソリンを注ぎ、混ぜてはいけない薬品を混ぜ合わせ、それが引き起こす惨事を、ゲラゲラと笑いながら楽しむ者が。

 

 それこそが、ニュートンに対する嫌がらせを生きがいとする狂人――アダム・ベイリアルだった。

 

「……それもそうだね。まぁ、この場でお互いへの悪感情をぶつけたところでどうにもならないし、ひとまずはゲームキーパーの言葉に耳を傾けるとしようか」

 

「……まぁよかろう。今は貴様の口車に乗ってやるしようか」

 

「わお、2人共寛大だねぇ。どこかの愛を知らないジョセフ坊やとは大違いだぜ」

 

 そういったケラケラと笑うのは、白衣を羽織った少年。これと言って特徴のない、どこにでもいそうな平凡な容姿をした人物。およそ彼が、ニュートンの異端者たちと引き合わせうる存在には見えまい。

 

 しかし、それは見せかけである。彼の思考回路はどうしようもないほどに歪み切り、その心は取り返しがつかない程に腐りきっている。彼は信念も論理もなく、ただただ面白半分に、とにかくジョセフを始めとしたニュートン一家が嫌がることをしたいと考えていた。

 

 考えに考え抜いて――そして1つ、冴えた方法を思いついた。

 

 そうだ、エドガーとオリヴィエを引き合わせてトライアタックだ! あ! ついでに、ジョセフの故郷、フィラデルフィアごとアメリカが滅んだらすっごい嫌がるよねやったぜ! 

 

 ……と。

 

 エドガー・ド・デカルトが、人間としての在り方を超越しているのであれば。

 

 オリヴィエ・G・ニュートンが、人間としての在り方を逸脱しているのであれば。

 

 彼――アダム・ベイリアルは、人間としての在り方を踏み外していた。

 

 かくして、この奇妙な連帯は成立したのである。

 

 エドガーとオリヴィエの名誉のためにも明記しておくが、彼らは騙されているわけでもなければ、乗せられたわけでもない。人類の到達点に比肩する実力と頭脳を兼ね備えた彼らは、口八丁だの口車だの、そのようなもので動かせるような存在ではない。

 

 だからアダム・ベイリアルは、とある提案をした。そしてその提案は、両者が重い腰を上げる――とまではいわないまでも。片手間に付き合う程度ならばいいか、と気まぐれを起こさせるだけの条件を満たしていた。

 

 別に彼らは手を組んだわけでもなければ、仲が良くなったわけでもない。アダムが用意したゲームとやらが、自分の目的のためにまぁまぁ使えるものだった。だからお互いが対戦相手として、同じ卓を囲んだ。ただ、それだけの話である。

 

 それだけの話で、アメリカという一大国家は今まさに、滅びるか否かの瀬戸際に立たされた。

 

「よーし、それじゃあ仲直りが済んだところで、説明を始めちゃうぞー」

 

 アダムはそう言って、液晶パネルを指で撫でた。同時に、オリヴィエとエドガーのモニターに、30分で作りました! とでもいわんばかりの、極めて雑な出来のプレゼン資料が浮かび上がった。飾りっ気のないスライドには、インターネットから適当に拾ってきたと思しき、アメリカ全土の地図が載っている。

 

「君たちにこれからやってもらうのは、ジョセフ君にもいったけど陣取り合戦です。舞台はアメリカ全域。君たちにはこれからオリヴィエ君が率いる白陣営と、エドガー君が率いる黒陣営に分かれて、アメリカ合衆国を落としてもらいます」

 

「『落とす』の定義は?」

 

「手段は問わないよ。とにかく『この国は俺の物だ!』って言える状態にして、反抗やら反発やらを抑え込めれば、なんでも」

 

 エドガーの問いにアダムはそう返して、説明を続ける。

 

「最終的には、アメリカ全土を支配下に置いた方が勝ち。降参するか、どう考えても打つ手がなくなったら負け……ね、簡単でしょ?」

 

 こともなげに国家の未来を左右する発言をしながら、アダムは「ただし」2人に向かって指を振った。

 

「このゲームを遊んでもらうにあたって、君たちには幾つか注意事項があります」

 

「それが前に言っていた、“駒”のことかな?」

 

「ザッツライッ!」

 

 ビシ、とオリヴィエを指さして、アダムは楽し気に続ける。

 

「エドガー君が外交の暴力で軍隊を送り込むか、オリヴィエ君がαMO手術被験者の軍勢を大量に送り込みでもしたら、アメリカは即堕ち二コマ待ったなし。とてもじゃないけどゲームにならないよね? だから、注意点一つ目。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そう言って、アダムは次のスライドを写す。そこに映されていたのは、(キング)女王(クイーン)城塞(ルーク)僧侶(ビショップ)騎士(ナイト)兵士(ポーン)……全て、チェスの駒の写真であった。

 

「この間も言っておいたけど、念のためもう一回確認ね。君たちがアメリカ征服のために使っていい戦闘員は、この駒になぞらえて用意した兵士だけ。ただし、君たちは差し手(グランドマスター)であると同時に(キング)だ。これは確定事項、誰かに代わってもらうことはできないのでご注意を」

 

当然、万が一にもとられたら負けね、と付け足して、アダムは続ける。

 

「あと、騎士(ナイト)騎士団(ナイツ)として20人くらいなら揃えていいけど、女王(クイーン)城塞(ルーク)僧侶(ビショップ)は1人だけ。兵士(ポーン)は、こっちで用意した廉価版テラフォーマー達をあとで郵送(着払い)するから、それ使ってね……うーん、駒関係だとこんなもんかな?」

 

 そのまま次の説明に移ろうとするアダムだが、そこでエドガーが「待て」と口を挟んだ。その顔には、ありありと不満の色が浮かんでいる。

 

「そのルールは()()()()()()()()()()()()()()。余らに大駒の称号をくれてやるほどの人材を捻出しろと言っておきながら、貴様は出来損ないのゴキブリを数十匹出すだけか? もしそうなら、余は降りるぞ」

 

「せっかちだなぁ、エドガー君は……安心しなよ、僕の方からもちゃんと支援はするってば」

 

 エドガーの鋭い眼光をへらへらと受け流して、アダムは言った。

 

「君たちが糸を引いていることを確信させないように情報操作はするし、武器一式・必要な物品を揃えるための資金は僕が出しちゃう。なんたって、悪名高きマッドサイエンティスト集団アダム・ベイリアルは壊滅寸前。人員が不足しすぎて、研究予算は腐るほど余ってるからね! イッツ、アダムジョーク!」

 

 HAHAHA! とアダムは笑うが、エドガーはとにかく面倒くさそうに顔をしかめ、オリヴィエは生暖かい視線を向けるだけで、一切の反応を返さない。さすがにいたたまれなくなったのか、アダムは咳払いをして再び話し始めた。

 

「それともう一つ……両陣営にはそれぞれ一つずつ、僕から変則駒(フェアリーピース)を贈呈しよう」

 

「ほう?」

 

 その言葉にエドガーが眉を上げた。彼が初めてアダムとオリヴィエに見せた、好意的な反応である。無言で続きを促すエドガーに、アダムは言った。

 

「ざっくりいうと、アダム・ベイリアル(僕たち)が技術の粋を集めて作った兵器ね。色々あるけど、どれもこれも国際条例に引っ掛かりそうな、超ヤバイやつ。それを君たちの陣営に合わせて、僕セレクションでお届けしようじゃないか! ……さすがにこれだけ出せば、アンフェアってことはないよね?」

 

「私はこれでいいと思うよ。本家の皆様を散々苦しめてきたアダム・ベイリアルの兵器なら、十分につり合いはとれる」

 

「クハハ……いいだろう、この条件ならば余としても異存はない。たかがゲーム、これ以上食い下がるのも見苦しいしな」

 

 2人が同意したのを確認して、今度こそアダムは次の説明に移る。

 

「次、2つめの注意点ね。さっき散々ジョセフ君を焚き付けたから、このゲームにおそらく第三勢力が介入してきます」

 

 そう言って、アダムはモニターのスライドを次のページに切り替える。そこには、ニュートンの一族の次期当主たるジョセフ・G・ニュートンの顔が映し出されている。

 

「多分裏で糸を引く(キング)はジョセフ君だろうねぇ。次点で特殊対策室としてのクロード君か、グッドマン大統領あたりかな? ともかく便宜上、彼らのことは灰陣営としておこうか。当然だけど、灰陣営には君たちが課された制限はかかっていない」

 

 それはつまり、アメリカという国家の兵力がそのまま駒となって襲ってくるということ。

 

「だからどうしたって感じはするかもだけど、君たち同士の純粋な勝負じゃないよ、ってことだけ覚えておいてね。僕からは以上、何か質問ある?」

 

 アダムが確認するが、エドガーは特に何もないらしく口を開かない。しばし考え込んだオリヴィエの「私からは何も」という返事を聞いて、この狂ったゲームの主催者たるアダムは口元を歪めた。

 

 

 

「それじゃあ、”神へ至る者の代理戦争”――『痛し痒し(ツークツワンク)』、開戦だ。何かあったら気軽に運営に確認してねー。あ、あと暇になったら僕の方から話しかけに行くヨ!」

 

 それじゃあねー、という言葉を最後にアダムの通信は切断された。

 

「じゃあ、私も一旦失礼するよ」

 

 オリヴィエは手元のパネルを操作しながら、エドガーへと微笑みかけた。

 

「ではね、エドガー君。健闘を祈っておくよ」

 

「その言葉、そのまま返させてもらおう。もっとも、最後に勝つのは余だがな」

 

 それだけ言うと、エドガーは興味もなさげに通信装置の電源を落とした。それを見たオリヴィエは「つれないなぁ」とぼやくと、自身もまた通信を切る。

 

 

 

 そして三つの通信モニターは暗転し、あとには不気味な静寂だけが残された。

 

 

 

 

 

 






【オマケ①】 今回のカメオ出演キャラ紹介 ~作者の妄想を添えて~

バルトロメオ・アンジェリコ(インペリアルマーズ)
第六班所属、ジョセフの先輩。学生時代からジョセフの世話を焼いており、ジョセフは彼に頭が上がらない。一般搭乗員ながらマーズランキングは幹部級で、第六班の影の班長と名高い。
何気に出典作品より今回のコラボで喋った台詞量の方が多い疑惑がある。

カリーナ「バルトロメオ班長? 良い人ですし、めっっっちゃクールな方ですよ! おそらくマルシアを凌ぎますね……私に次ぐクール力と見ました」

バルトロメオ「毎度思うんだが、なんでこいつはこんな自信満々にクールビューティを自称できるんだ?」

ジョセフ「いやあの、カリーナさん。六班の班長は俺……」



ミルチャ(深緑の火星の物語)
 ニュートンの一族の1人。一族下位の者をとりまとめて上位と繋ぐ中間管理職のような役職を担っている。ホームレスのようなみすぼらしい見た目だが、一族を守るようにオリヴィエの前に出たり、そのまま平然と嫌味を言えたりするスゴイ人。
 なぜかアダムは彼だけ呼び捨て。ビデオでも彼だけ見切れるという謎の処遇を受けている。

オスカル「……ジュルッ」

ミルチャ「エロネェ! お前の異母兄弟が私の尻に狙いを定めてる!? なんでもいいから今すぐコイツを止めろォ!」



【オマケ②】Ant test ~独断と偏見で解説する、各作品のボスの感性の違い~

問:あなたが道を歩いていると、目の前を蟻の行列が横切っていました。どうしますか?

ジョセフ(原作):気付いてすぐに避ける。同行者がいたらさりげなく注意喚起をしたり豆知識を披露したりして好青年アピール、好感度を稼ぐ。なお、ここまで全て計算づく。必要なら踏み潰すが、わざわざ潰す理由が見つからない。

エドガー(インペリアルマーズ):そもそも気付かない。仮に気付いても歩調を変えたりはせず、踏み潰そうが構わず進む。蟻如きに思考を割くなど究極の無駄、そもそも踏みつぶされる方が悪い。必要なら避けるが、わざわざ避ける理由が見つからない。

オリヴィエ(深緑の火星の物語):気付いた上で、慈愛の表情で踏み潰す。自分に踏み潰されることが蟻にとって最高の幸せであると信じて疑っていない。丹念に全て潰したら、何事もなかったように歩き始める。必要なら避けるが、わざわざ避ける理由が(略)

アダム(贖罪のゼロ):嬉々として踏み潰す。最初の方は一匹ずつ丁寧に潰していくが、十匹目くらいで飽きて雑に。その後、巣を辿って熱湯を流し込んだら満足して帰る。必要なら避けるが(略)。気分次第で、必要でも踏み潰したりする。

結論
ジョセフが一族の当主に推された理由がよく分かる。

【お知らせ】

 コラボについての活動報告を更新しました! 色々とお願いなどが書いてあるので、一読していただければ幸いです。



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狂想讃歌ADAMー2 刺客乱舞

 ――緯度不詳、経度不明。

 

『槍の一族』の総本山、神殿と呼ばれる施設の最奥部にて。

 

「あのー、オリヴィエ様?」

 

「どうしたんだい、希维(シウェイ)?」

 

「いや、どうしたは私の台詞なんすけど……なんすか、それ?」

 

 ニュートンの血筋の中でも際立って特殊な立場にある『槍の一族』ことゲガルド家、その若き当主である希维(シウェイ)・ヴァン・ゲガルドは、自らの主(オリヴィエ)を見て……より厳密には、彼の手に握られたゲテモノを見て顔を引きつらせていた。

 

「ああ、これのことかな?」

 

 そう言うとオリヴィエは、まるで子供が買ってもらったばかりの玩具を自慢するかのように手中のそれを掲げて見せた。小太りの修道士を象ったゴム人形が、見る者を絶妙にイラッとさせる笑みを希维へと向ける。

 

「アダム君が郵便物と一緒に届けてくれた『おしゃべりロドリゲスくん』さ。これが中々、よくできていてね」

 

「よくできてるというか、無駄に作りがリアルっすね」

 

 どうやらオーダーメイドで作られたらしいそれは、モデルとなった人物をよく知る希维の目から見ても、かなりの出来栄えであると言っていいだろう。どこに需要があるのかは不明だが。

 

 ――なんでこんなもん作ろうと思ったんすかね? 

 

 喉まで出かかった疑問を、希维は飲み込んだ。気にするだけ無駄なことだ、恐らく目の前のこれも、悪ふざけと悪ノリの結晶にすぎないのだろう。アダム・ベイリアルと呼ばれる狂人集団は、特にその首領たる真のアダム・ベイリアルは、()()()()()()()()()

 

 まじまじとおしゃべりロドリゲスくんを見つめる希维に、オリヴィエは口を開いた。

 

「ところで希维、ちょっと『おしゃべりロドリゲスくん』の腹部を押してみてくれないかい?」

 

「えっ、嫌っすけど」

 

 ゴム人形とはいえ、なぜうら若き自分が中年男性の腹をプッシュしなければならないのか?

 

 至極もっともな理由で拒否する希维だが、「いいからいいから」と押し切られ、渋々人差し指でおしゃべりロドリゲスくんのでっぷりと飛び出した腹を突く。ぐにゅ、とゴム人形の腹部が1cm程沈んだところで、希维はゴム越しに固い何かに触れたことに気付く。それと同時に圧覚センサーが作動し、内部に仕込まれていた録音装置が音を発した。

 

 

 

『オォ……神よ……』

 

 

 

「ほら、面白いだろう? 今度、(リンネ)へのお土産にしようと思ってね」

 

「……そうっすか」

 

 どこかウキウキした様子でそう言ったオリヴィエに、希维はとり出したハンカチで人差し指を拭いながら、心底どうでもよさそうに返した。普段であればオリヴィエの秘書として「いや、それはプレゼントとして最悪のチョイスっす」と忠言を奏上するところであるが、今の希维にその気力は残っていなかった。

 

 結果として後日、オリヴィエの娘の下へと届けられたおしゃべりロドリゲスくんは『お慈悲を! どうかお慈悲を!』のボイスと共に握りつぶされる運命にあるのだが、それはまた別の話。

 

「……それより、そろそろ本題に戻しましょうっす、オリヴィエ様」

 

「ああ、それもそうだ」

 

 希维の言葉に思い出したとばかりにポンと手を打つと、オリヴィエは眼下に跪き首を垂れる人物へと顔を向けた。

 

 

 

「待たせてすまなかったね、ルイス。長旅ご苦労様」

 

 

 

 

 

「――勿体なきお言葉です、オリヴィエ様」

 

 

 

 

 

 そう発したのはオリヴィエが座す玉座の遥か下、そこに跪く白いスーツの青年だった。世の女性を魅了するだろう甘いマスク、しかしその目は狡猾な狐のように鋭い。その目を爛々と輝かせながら、青年は口を開いた。

 

「『槍の一族』が急先鋒、ルイス・ペドロ・ゲガルド――ここに参上致しました。なんなりとお申し付けください、我が君」

 

 ルイスは口元に笑みを浮かべ、うやうやしく遥か上方の玉座に座す主君を仰ぎ見る。

 

「あなたが望むのなら、ジョセフ・G・ニュートンもエドガー・ド・デカルトも、我が槍にて打ち砕いてご覧に入れましょう」

 

「……相変わらず芝居臭い従兄っすねー」

 

 そんなルイスに思わずぼやいた直後、希维は己の失敗を悟った。ルイスの視線がオリヴィエから、希维へと移ったのである――それも、剣呑の色を帯びて。本人には聞こえないように言ったつもりだったが、どうやらニュートンの鋭敏な聴覚は自分の呟きをしっかりと聞きとったらしい。

 

「聞こえているぞ、希维。そういうお前は、随分とオリヴィエ様に馴れ馴れしいな」

 

「……やっぱり、こうなるっすよねー」

 

 げんなりとした様子の希维。そんな彼女に対する侮蔑の色を浮かべながら、ルイスはせせら笑った。

 

「ハッ、まったくもって嘆かわしい! お前が当主に任命される余地を残したまま逝去されたのは、先代様唯一の失敗だろうよ! これでは我ら『槍の一族』の行く先も思いやられるというもの……さっさと私に家督を譲って、お前は血統を繋ぐ装置に徹していればいいのだ!」

 

「女性蔑視発言反対っすよー。あとルイス兄、知力も身体能力も私以下のくせに、毎度毎度どこからその自信が出てくるんすかぁ?」

 

「こちらの台詞だ。うっかりオリヴィエ様に毒茶を淹れるようなバカ女に、どうして当主が務まると思うんだ? その無駄な自信の源、ぜひご教授いただきたいものだな()()()()

 

「……」

 

「……」

 

 空気がピリリとひりつき、瞬きほどの間に、両者は己の武器に手を伸ばしていた。しかし希维がナイフを取り付けた拳銃に、ルイスが幾何学模様の刻まれた長槍に手をかけた瞬間、オリヴィエが場の空気を変えるように手を叩いた。パン、パン、と乾いた音が空間に響き、はっとした表情を浮かべる両者にオリヴィエが言う。

 

「はいはい。仲がいいのは結構だけど、そのくらいにしておこうか2人とも。話、進めてもいいかい?」

 

「――失礼しましたっす、オリヴィエ様」

 

 

「――オリヴィエ様が、そうおっしゃるのならば」

 

 主人の言葉に希维とルイスは佇まいを正す。それを見て、オリヴィエはゆったりと笑みを浮かべた。

 

「さて、ルイス。私が今、ちょっとしたゲームに参加していることは知っているかな?」

 

「勿論です、我が君。貴方様が率いる白陣営と、エドガー・ド・デカルトが率いる黒陣営による、アメリカの陣取り合戦。チェスになぞらえた駒を両陣営より出し合って執り行う代理戦争、『痛し痒し(ツークツワンク)』のことですね?」

 

「その通りだよ、流石に耳が早いね」

 

 感心したように声を上げるオリヴィエに、ルイスは「恐縮です」とかしこまる。それをどこか面白くなさそうに見ている希维をしり目に、オリヴィエは本題を切り出した。

 

「単刀直入に言うけど、ルイス。君に現場での指揮を任せたい――やってくれるかな?」

 

「ッ、勿論です!」

 

 その言葉にルイスは再びひれ伏した。崇拝にも近い忠誠の情を捧げる主人より、アメリカ合衆国の征服という大命を賜る。従者として最高の栄誉を受けて、どうして歓喜に震えずにいられようか?

 

 恐悦のあまり隠しきれない笑みを浮かべるルイスに、オリヴィエもまた口角を吊り上げた。

 

「任せたよ。相手はあのエドガー君とアメリカ合衆国。私が用意した駒を使っても大変だと思うけど――」

 

 しかしその次の瞬間、彼の口はルイスの心に波紋を立てる一言を紡いだ。

 

 

 

 

 

()()()()()()、私たち白陣営を勝利に導いてくれ」

 

 

 

 

 

「期待しているよ、ルイス」

 

「――御意に、我が君」

 

 オリヴィエの激励に一度だけ深く頭を下げるとルイスは立ち上がり、「失礼いたします」とだけいうと、踵を返して神殿を去っていった。

 

「……本当にいいんすか、オリヴィエ様?」

 

 その背を見送ると、希维はため息を吐きながらオリヴィエへと尋ねる。

 

「ルイス兄はゲガルドの中でも私の次か、次の次くらいには優秀っすけど……エドガー様の黒陣営にチェックメイトをかけるには、どう考えても役者不足っす」

 

 希维のその言葉は、私情からくるものではない。槍の一族を取りまとめるゲガルド家の当主として、正当な評価に基づいた発言だ。

 

 希维がゲガルド家の当主の座に就いている理由は至ってシンプル、ゲガルドに連なる者の中では彼女が最も優れた能力を有しているからである。槍の一族の中にも、彼女に内心で不満を持つ者は少なくない。

 

 それでも(ごく一部を除き)一族内部から不満が表出しないのは、ニュートンの、槍の一族の、そして遺伝子の本能が認めているからだ。自分よりも誰よりも、希维・ヴァン・ゲガルドという個体は優れている、と。

 

 そしてその希维でさえ、エドガーと正面からやり合えば勝ちの目は低い。老いた獅子の如きあの男の恐ろしさは、富、権力、知識――その全てにおいて、大部分のニュートンの上を行く点にある。(キング)自らが出向くことはないだろうが、彼はそれを駆使して強力な攻勢に出るはずだ。果たして、ルイス程度の実力で対処できるものか――。

 

「心配はいらないよ、希维。()()()()()()、このゲームの指揮官に相応しいんだ」

 

 そんな彼女の思考を断ち切るように、意味ありげにオリヴィエは告げた。はて、と主の言葉の真意を測りかね、頭上にクエスチョンマークを浮かべる希维。そんな彼女に、オリヴィエは意味ありげに微笑んで見せた。

 

「どう転んだとしても、彼は果たしてくれるとも。槍の一族としての責務をね」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「標的確認……これより作戦を開始する」

 

 隊長と思しき男の呟きに、彼に追従する3人の隊員たちは頷いた。無線機の向こうから聞こえてくる返事を聞くに、他の場所で待機する隊員たちの士気もまた高いらしい。

 

 奇妙なことに、隊員たちは1人1人の人種、性別、宗教も違っている。プロフィール上はほとんどの項目に一致など見られない彼ら。2つだけ全員に共通しているのは、彼らは皆フランス国籍を有する軍人であることと、MO手術を受けた人間であるということのみ。

 

 ――フランス外人部隊。

 

 フランスという国家が有する、異色の部隊。地理も、文化も、思想すらも違う他国から志願した者たちによって構成される、いわば「正規軍人には割り当てることのできない、汚れ仕事専用の軍隊」である。

 

 では、彼らは寄せ集めの烏合の衆か? ――否、断じて否。

 

 彼らは、(むれ)。厳しい訓練と文化の隔たりを越え、フランスという国家に仕えることを()()()()、紛れもなき精鋭たちである。

 

「ルイス・P・ゲガルド。奴の暗殺に成功すれば、我ら黒の陣営の勝利は大きく近づくだろう」

 

 彼らの視線の先にいたのは、白い高級スーツに身を包んだ青年。俯いているため表情はよく分からないが、口元を見る限り何事かぶつぶつと呟いているらしい。少々気味が悪いことは否めないが、注意力が散漫になっているのは幸いである。

 

 自分達4人の他、ルイスの前後左右を取り囲むように更に4人の隊員も配置済み。いかにニュートンの一族といえども、四方八方からMO手術を受けたプロの軍人に襲われれば、ひとたまりもあるまい。

 

 隊長は息を潜め、その時を待つ。作戦の開始には最良のタイミングがあることを、彼は良く知っていた。

 

 待って、待って、待ち続け――永遠にも思われる数十秒が経過した瞬間、彼は短く指示を下した。

 

 

 

 

 

「――やれ」

 

 

 

 

 

 瞬間、物陰から待機していた合計8人の隊員が一斉に飛び掛かった。全員が既に変態を終えており、その奇襲は戦闘訓練を相当に積んだ者であっても対処が困難なもの。

 

 全員が作戦の成功を確信した――その、次の瞬間のことであった。ルイスの前方から飛び掛かった4人の隊員たちの喉に、一瞬で風穴が穿たれたのは。

 

「ッ!?」

 

 崩れ落ちる同志たち。その姿を見て、隊長は思わず息を吞む。背負っていた槍に手をかけたところまでは見えた、だがそこから繰り出された突きは百戦錬磨の彼を以てしてもまるで捉えられなかったのである。

 

 若くしてこれほどまでに磨き上げられた槍術の腕前に驚嘆しながらも、しかし隊長は冷静だった。彼は怯まずに、その背後から飛び掛かる。既に長槍の間合いを越えている、ルイスが自分に向き直ろうと、もはやカウンターは不可能だ。

 

 ――とった!

 

 彼はMO手術の特性で強化された打撃を打ち込むべく、大きく振りかぶる。そして拳を突きだした刹那、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それが、彼の見た人生最後の光景となった。

 

 布が裂ける音、次いでルイスの背から数本の槍が飛び出し、逃げる隙も与えずに隊長を串刺しにした。隊長にとっては幸か不幸か――というよりは、不幸中の幸いとでも言うべきだろうか。槍のうちの一本は頭蓋ごと脳を貫通しており、隊長は痛みを感じる間もなく絶命した。

 

「なッ!?」

 

 思わず足を止めた、フランス外人部隊の隊員たち。その目の前に、数秒前まで上司だった者の肉塊が、脳を撒き散らしながら転がる。彼を惨殺した槍――より厳密には、巨大化した棘とでも形容すべきそれは、役目を終えてズブズブとルイスの体内へ吸い込まれていく。うすら寒い恐怖を感じながら、隊員たちはその光景を見守ることしかできなかった。

 

「……許さん」

 

 そしてここに至って、隊員たちはルイスの声を聞きとることができた。だが彼らがその意味を理解するよりも早く、ルイスが絶叫した。

 

 

 

「許さん許さん許さん許さん許さん許さん許さん許さん――許さんぞ、希维イイィイィィィイィ!」

 

 

 

 ルイスは美しいその顔を怒りに歪め、ここにはいない従妹への憎悪をたぎらせながら隊員たちへと飛び掛かった。

 

()()()()()()()()()()()()()()()、あの女狐め! そうだ、そうに違いない!」

 

 悲鳴が響く。だが、ルイスの耳には届かない。

 

「そうじゃなければ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 最後の隊員が槍に貫かれ、地面に伏せた。だが、ルイスの怒りは留まることはない。ルイスは激情のまま長槍を振り上げると、既に事切れた隊員にその穂先を振り下ろし始めた。一度、二度、三度――ルイスが執拗に刺突する度、死体は原型を失っていく。

 

「オリヴィエ様を支えるのに相応しいのはあのバカ女じゃない、私なんだ! それをウジ虫の分際で、私を偉そうに見下しやがって! 今に見ていろ、希维! 私がオリヴィエ様の側近になった暁には、貴様は私の靴を舐めることになるのだ!」

 

 やがてルイスの目に映る色が肌色よりも赤色が多くなった頃、ようやく彼は執拗な死体損壊を止めると、槍を杖代わりに立ちあがった。

 

「だが、焦るな……この戦争に勝ちさえすれば、オリヴィエ様も私こそが側近に相応しいとお気づきになるだろう。フフ、せいぜい女狐も、次期当主サマも、フランス大統領も……私とオリヴィエ様の踏み台になるがいいさ。さしあたって、まずは……」

 

 ――囚われの女王陛下(クイーン)を解放しなくては。

 

 ルイスは息を整えると、今後の段取りを脳内で組み立てながら再び歩き出す。虫のように殺した襲撃者たちに彼が意識を割くことは、ついになかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その日、パリ市内は異様な空気に包まれていた。

 

「――隊長」

 

 部下からの呼び声に、フランス外人部隊隊長――マリアン・ヴィクトルは我に返った。

 

「これは、一体……?」

 

 そう言ったのはつい先日、彼の部下として部隊に配属されたブラジル人の女性隊員、コゼット・アントナであった。

 

 変態時は()()()()()()()()()()()()()薬でもキメたかのように凶暴化する彼女だが、平時は大人しく物静かな人物である。任務中に無駄口を叩くような人物ではないし、緊張を口にするような性格でもない。そんな彼女の顔には今、強い不安の色が浮かんでいた。

 

 マリアンは内心で「無理もない」と漏らす。ここ最近、フランス共和国を取り巻く『裏』の空気は、かつてないほどに張りつめている。つい先日も、極秘任務にあたっていた別動隊が標的の返り討ちに遭って壊滅したばかりだ。こうも立て続けに異常事態が続けば、いかに厳しい訓練を乗り越えた精鋭でも敏感にならざるをえないのだろう。

 

「任務の概要を聞いていなかったのか?」

 

 それを理解した上で、マリアンはあえて強い言葉を返した。部隊長たる自分の動揺は、隊の士気そのものに直結する。なればこそ、指揮官としてここに立つ自分は堂々と振る舞わなければならないだろう。

 

「いえ……ただ、私が聞き間違えたのかも」

 

 マリアンは口を挟まず、コゼットに言葉の続きを促した。

 

「護送任務ですよね、これ? なぜ、()()()()()()()()()()()()()?」

 

 ――フランス共和国の首相官邸たるエリゼ宮殿。その正面入り口前には、フランス外人部隊たる自分達以外にも、正規の軍人たち数十人ほど、整然と居並んでいる。平時の隊列のそれではない、2列に分かれて向き合う――いわば、花道を作る様な並びだった。

 

 なるほど、文面だけ見ればさぞや偉い人間への歓待のパフォーマンスにも見えるだろう。だが異常なのはここからだ。軍人たちは皆戦闘服に身を包み、これから戦場に赴くかのような物々しい武装に身を包んでいた。

 

 更に、周辺の街道はパリ市警によって蟻一匹も通さない物理的な封鎖が、空には特殊な電磁波によるバリアが展開されており、アナログ・デジタル双方への万全な膨張対策がなされていた。まさしく厳戒態勢と呼ぶにふさわしい守りが展開されたエリゼ宮殿は、情報通信網が発達した2600年代に入って極めて珍しい『不可視領域』と化していた。

 

「残念ながらお前の耳は正常だ、コゼット。今回、我々に与えられているのは護送任務で間違いない」

 

 マリアンの返答にぎょっと目を見開き、コゼットが彼を見上げた。聞き耳を立てていた他の部下たちも、口こそ挟まないもののその顔に動揺を浮かべている。

 

「これほどの警戒を要する相手を、このエリゼ宮殿にですか……!?」

 

「任務にケチを付けるな……と言いたいところだが。今回ばかりは全く同意だ」

 

 そう呟いたマリアンの頬を、冷や汗が伝う。彼の視線の先では、到着した護送車の扉が丁度開くところであった。

 

「大統領は何をお考えなのか……まさか」

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 マリアンが呟いたのと、護送対象が姿を現したのはほぼ同時だった。

 

 背の高い男である。眼鏡をかけているためどこか理知的に見える男性だが、その体格はインテリのそれとは程遠い。世に言うマッチョではないが、遠目にも分かる程には鍛えられている。

 

 両腕にはめられた手錠と囚人服以外には、決して異様な風体というわけではない。しかしこの場にいる百戦錬磨の軍人たちは、ただ1人の例外もなく悟った。

 

 ――洗い落としても消えることのない血の臭い。

 

 ――その肉体は戦闘のためのものでなく、人体を破壊・殺傷・解体するために洗練されたもの。

 

 ――そして何より、眼鏡の奥でくすぶる眼光は闘志の色を秘めている。

 

 犯罪者と称するには、その殺意はあまりにも純度が高い。しかし自分達のような軍人とも違い、おそらく戦闘行為自体を楽しむ気質も持っているのだろう。かといって狂人の類かといえばそうでもなく、おそらく彼には独特の芯がある。

 

 あえて男を形容するならば『猛獣の如き騎士』――そんな表現が、ぴったりだった。

 

「……出迎えご苦労、フランス兵諸君」

 

 両サイドから銃口を突きつけられながら、騎士は臆した様子も見せずに笑う。それは現代人がコミュニケーションのために浮かべる笑みではない。原始的な威嚇としてのそれが混在した、極めて攻撃的な笑み。

 

 鋭き刃の如き殺気が騎士から放たれ、その圧に多くの者が気圧された。騎士は厳重に拘束され、無力化されているにもかかわらず、である。へたり込む者こそいないが、怯んで数歩後ずさる者は少なくない。

 

 それを見た騎士は殺気と笑みを押さえると、一転して呆れたような表情で嘆息した。

 

「てんで駄目だな。貴様ら、ここが戦場だったら今頃全滅だぞ? まったく、誇り高きフランス兵の名が泣くというものだ」

 

 ――まぁ。

 

 と続けて、騎士は笑みを浮かべた。威嚇のためのものではない。今回の笑み、それは満悦の笑みだった。

 

「そこの連中は()()()()のようだが」

 

 騎士の視線の先、自分の殺気にも臆さず近づいてくるのは、マリアンの率いる小隊であった。こと汚れ仕事を任されることも多い外人部隊である。エドガー政権の下では特に、正規軍との経験の差が顕著に表れていた。

 厳しい面持ちのマリアンに双眸を向け、騎士は愉快そうに喉を鳴らした。

 

「いいだろう、合格だ。案内してもらおうか、ウェイター」

 

 ――我が標的、エドガー・ド・デカルトの下へ。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「貴様のような不敬者を余の執務室に挙げるのは虫唾が走るが……よく来たと言っておこうか、シド・クロムウェル」

 

「俺は貴公の召喚命令に従っただけだ」

 

 エドガーの言葉をどこ吹く風と受け流し、男――シド・クロムウェルは涼しい顔で言ってのけた。

 

「そう邪険にしてくれるなよ、エドガー」

 

「……ここまで余に対する礼儀がなってないのは、キースの奴と貴様くらいのものだ。揃いも揃って英国の出身者とはな……紳士の国が聞いて呆れる」

 

 エドガーの機嫌が微かに悪くなる。護衛のシークレットサービスたちが内心で慌てるのをしり目に、シドは全く動じずに返した。

 

「あの腹黒と同類扱いは流石にもの申したいが……まぁいい、事実だからな。だから貴公は、あらん限りの無理難題と汚れ仕事を押し付けて俺を使い潰す。俺は無礼以上の戦果を挙げ、貴公が神になるその時まで命を繋ぐ。そういう関係だったはずだ」

 

「違いない。そら、任務の概要書だ」

 

 つまらなそうに返すと、エドガーは自らシドに書類の束を渡した。シドはそれを受け取ると、詳細を読み始める。時々、執務室のゴミ箱から上がる『話が、話が違うではないですか!』『お待ちを! 私は! 私はまだ!』『アアアァァ―――――――――――!!』などの謎音声に集中力をかき乱されながらも一通り目を通し終えると、シドはエドガーを再び見やった。

 

「なるほど。俺に、数十人の部隊でアメリカ合衆国を陥落させろと」

 

「その通りだ。怖気づいたか?」

 

 そう言ってエドガーは、挑戦的な笑みを浮かべる。断れば、それもまたよし。この気に入らない無能な若造をこの場で粛清するまでのこと。

 

「俺が? いやいや、まさか! むしろ最高の任務だ、大統領閣下!」

 

 だがシドは、エドガーの――常人が訊けば気が狂ったとしか思えないその命令の内容に、むしろ歓喜の色を浮かべた。

 

「クカ、クカカカ! 委細承知した――ゆるりと座って待つがいい、エドガー。このシド・クロムウェルが、貴公に合衆国を献上してやるとも!」

 

「……せいぜい、今までのように上手くやることだな、我が騎士よ。くれぐれも、余の期待を裏切ってくれるな? ああ、だがその前に――」

 

 ――貴様には、宮殿内のゴミ掃除をしてもらおうか。

 

 エドガーがそう言ったのと、大統領執務室の扉が慌ただしく開かれたのはほぼ同時であった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 宮殿前の広場に襲撃者が押し寄せたのは、今から遡って数分前の出来事だった。下手人は僅かに6人、人種も年齢もバラバラだが1つだけ共通点があった。全員の衣類の背中部分に刻まれた『血塗れの槍とそれに絡みつく二重螺旋の紋章』――見るものが見れば分かる、それは“槍の一族”を象徴する家紋だった。

 

 玉砕覚悟でこの場に乗り込んできたのは、一族内でもルイス・P・ゲガルドの派閥に与する、比較的下位の者たちだった。しかし下位といっても、彼らは500年の歳月をかけて品種改良された、文字通り最新のヒトである。その奇襲を受けたとあっては、いかに武装した兵士達でもどうしようもなかった。

 

 まず事態を把握する前に2割の兵士が殺された。次いで混乱の最中で更に2割が殺され、残された兵士のうちの半分は奮戦も虚しく殺された。この場にはMO手術を受けた兵士の部隊もあったが、生身の状態の彼らにすら太刀打ちできず、兵士たちは血の海に沈むことになった。

 

「レナルドとオーギュスタンはそのまま攪乱を続けろ! クロティルド、バリアを絶やすな! 敵の銃撃を通したら一気に攻め込まれる!」

 

 そんな中、唯一襲撃者に食い下がっていたのはマリアンの率いるフランス外人部隊であった。他の兵士達が抵抗も虚しく殺され、あるいは精々防戦に徹する中で、最終的に襲撃者を“撃退”ではなく“打破”するために動いているのは彼らだけだった。

 

「ッ!」

 

「おっと、行かせはせんぞ!」

 

 防衛ラインをくぐり抜けようとする襲撃者の1人を、マリアンは部下の一人と共に牽制する。その目的は足止めだ。

 

 ここまでの戦況で、彼らが超人的な身体能力を秘めていることは理解出来た。おそらく、自分達では数人がかりでなければ彼らを倒すことはできないだろう。だが足止め程度ならば――あるいは、少人数で抑え込むことも不可能ではない。

 

 自分も含めた10人隊員のうち8人を、2人1組として再編成し、4人にぶつける。残る2人の内、1人は銃弾をそらすためのバリア要員として配置。そして残る1人――彼の部隊で唯一、襲撃者たちを凌駕しうる戦闘員を1対1でぶつける。

 

 

 

「ヒャハ、ヒャハハハハハァ! 死ね、死ねェ!」

 

 

 

 狂ったように笑いながら攻撃を仕掛けるのは、先程マリアンと話していた女隊員、コゼット・アントナだった。先程までの物静かな様子とは一転、変態によって引きずり出された凶暴性でもって、彼女は刺客と互角以上に立ちまわっていた。

 

「ぬ、ぐぅ!」

 

 ――馬鹿な、何だコイツは!?

 

 繰り出される蹴りをいなしながら、刺客の1人は必至で思考する。たとえ生身であろうと、自分達の身体能力ならば生半可な戦闘員程度は抑え込める。それが変態してもなお、相手に優位をとれない――その事実が、彼を焦らせていた。

 

 全身に生えた羽毛から察するに、恐らくベースは鳥類だろう。その脚が恐竜さながらの頑強なものになっていることから、ヒクイドリやダチョウのような地上性の鳥であることは分かる。だが奇妙なことに、彼女の身体に発現した特性はそのどちらにも該当しない。

 

 一体これは――。

 

「隙だらけだァ!」

 

「しまッ――」

 

 一瞬の反応の遅れ。それはコゼットを相手にしていた彼が死ぬには十分すぎる理由だった。カポエイラの技術で放たれた渾身の蹴りが、襲撃者の頭に直撃する。一撃で頭部を半分吹き飛ばされた襲撃者は一瞬だけその体を痙攣させ、そのまま地面に崩れ落ちた。

 

「まず1匹ィ!」

 

 残りは5人――狂戦士と化したコゼットは雄叫びを上げ、血走った眼を周囲に走らせる。目に映ったのは、こちらに向かって走り寄る襲撃者。

 

「アハ……! 殺す殺す殺すゥ!」

 

 おそらく、防御に秀でた生物が手術ベースになっているのだろう。真正面から突っ込んで来るコゼットに対して襲撃者がとった行動は防御だった。

 

 ――だが、それは彼女に対して悪手中の悪手である。

 

「おらァ!」

 

 コゼットが跳び蹴りを食らわせる。まるで車がぶつかったかのような衝撃。それを甲殻で受けきった襲撃者はにやりと笑い、カウンターをくらわせようとする――が。

 

 

 

「ヒャハ、この程度で終わるかよォ!」

 

 

 

「なっ!?」

 

 コゼットの攻撃は、それで終わりではない。彼女は襲撃者が反撃に転じる隙を与えずに次々と蹴りを放つ。

 

「殺す、殺す、死ぬまで殺ォす! おら、おらおらおらァ!」

 

「う、オォ!?」

 

 初撃は防いだ――だが二撃、三撃と防げるとは限らない。防御が追いつかなくなっても、彼女の猛攻は止まない。肉切り包丁のような蹴爪が甲殻を剥ぎ飛ばしても、彼女は止まらない。柔らかい肉をさらけ出した襲撃者が泣き叫びながら許しを乞うても、やはり彼女は止まらない。ズタズタに引き裂かれた肉塊が地面に崩れ落ちたところで、ようやく彼女の身に宿る因子は次の標的を求めた。

 

「さぁ、次はどいつだ!? 死にたい奴からかかって――がッ!?」

 

 だがその瞬間、彼女の体は大きく仰け反った。数発の銃弾が彼女の体を貫いたのである。

 

「ッ、クロティルド! バリアを絶や――!?」

 

 マリアンは咄嗟に、電磁バリアを張っていたはずの隊員へと視線を向けた。そこには倒れ伏した3人の隊員と、その傍らに立つ2人の襲撃者の姿。おそらく、何かの拍子に形勢が逆転したのだろう。襲撃者の片割れはそれなりの傷を負っているが、戦闘続行には支障をきたさない程度だ。

 

「……化け物どもめ」

 

 もはや、勝敗は決していた。この場で戦闘が可能なのは、マリアンを含めた6人のみである。対する襲撃者は、未だ4人が健在。勝ち目などあるはずもない。

 

「随分と手こずらせてくれたな。たかが、人間の分際で」

 

 起き上がろうとするコゼットの首を踏みつけ、襲撃者の1人が言う。苦し気に呻く部下の声に苦い表情を浮かべながらマリアンは返した。

 

「……まるで、自分達が人間じゃないような言いぶりだな?」

 

「然り、我らヒトにしてヒトにあらず。ヒトの最先端、人類という名の長き進化の槍。その穂先に連なる者なり」

 

 そんな彼らを見下すように、襲撃者たちは嗤った。その様子にマリアンは既視感を感じる。彼らの振る舞いは、フランスの首領たるエドガー・ド・デカルトのそれにそっくりだ――もっとも、彼に比べれば多分に見劣りするそれではあったが。

 

「苦し紛れの戯言に付き合う義理もなし。ここらでご退場願おうか」

 

 その言葉を最後に、襲撃者たちは凶弾の詰まった拳銃をマリアン達へと向けた。

 

「白の城塞(ルーク)より伝言だ。「これは先日の返礼だ、エドガー・ド・デカルトに与する者はことごとく殺す」とな……死ね、雑魚ども」

 

 その言葉と共に、襲撃者が指を引き金にかけた――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「では、黒の女王(クイーン)が直々に答えてやろう。『死ね、雑魚以下』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして次の瞬間、彼の体は真っ二つに引き裂かれた。

 

「な――ッ!」

 

「!?」

 

 この場にいた者は、誰も動けなかった。それほどまでに、襲撃者を切り裂いたその一閃は鮮やかなものだったのだ。

 

 見栄えを求めず、強さを求めず――ただただシンプルに、人を殺すためだけに磨かれた剣筋。不謹慎は承知の上で、しかし誰もが感じていた。その一撃は今までに見たどんな技よりも「美しい」――と。

 

「――弱いな」

 

 その剣閃を放った張本人は、ただただ失望したとばかりに襲撃者たちを一瞥する。

 

「あれほどの大軍を殲滅したのだ、それなりの腕はあると踏んでいたんだが……とんだ期待外れだった」

 

 生き残った3人の襲撃者は我に返ると、即座に距離をとった。ニュートンの血が判断したのだ、目の前の男は自分達の命を脅かしかねない、極めて危険な存在であると。

 

「まぁいい。エドガーから預かった変則駒(フェアリーピース)とやらの具合も確かめたかったところだ。試し切りには丁度いいだろう」

 

 まるでその声に呼応するかのように、彼の手に握られていた剣がぶるりと震えた。不思議なことに、先程斬ったはずの襲撃者の血は既に刀身のどこにも付着していなかった。

 

「殺す前に言っておきたいことが、2つある。まず1つ目、お前ら程度の実力で、うちの(キング)をとろうなぞ1000年早い。そして2つ目だが――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エドガー(あれ)は俺の獲物だ。お前達如きに、渡すものかよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――火星、とある研究施設にて。

 

「それで、プライド君はどの陣営に賭けるー?」

 

 テラフォチェスなる新手のボードゲームを観戦していたプライドは、当のプレイヤーであるアダムから突然振られた話題に、めんどくさそうな表情を浮かべた。

 

「……なんですか、藪から棒に?」

 

「いやいや、せっかくのゲームだし。ただ運営だけしてるのもつまんないなー、と……あ、メダカハネカクシ型ビショップをa3へ」

 

【むむ……エメラルドゴキブリバチ型ビショップをb3へ】

 

 アダムの対面、絹製のフードを被った対局相手が次の手を打つ。それに対処するべく駒をとると、アダムは一度盤面から目を離してプライドを見やった。

 

「クロカタゾウムシ型ビショップをg7へ……皆、ノリが悪くてねー。エンヴィーは心開いてくれないし、ラースは死んでるし、スロウスは廃人で何言っても笑ってるだけだし、ラストは全然興味なさそうだし。そんなわけで、オッズも何もあったもんじゃないんだよ」

 

【f4にパラポネラ型ビショップを】

 

「お、そう来たか……じゃあ、カイコガ型ビショップをg5へ。チェック」

 

【マジかよ。f7にミイデラゴミムシ型ビショップで防御】

 

「a5にマイマイカブリ型ビショップでチェック。おっ、これはいけるんじゃない? もしかして僕、初勝利パターンじゃない?」

 

「どうでもいいですけど、盤面のビショップ率高すぎません?」

 

 まぁそんなわけで、とアダムはプライドのツッコミを無視して笑いかける。

 

「ぜひプライド君の予想を聞きたいなー、と。中年のおっさんがテレビの前で横になりながら、競馬の順位予想するようなもんだから、気軽に言っちゃってどーぞ」

 

「……では、私は白の陣営に」

 

 プライドの言葉に「お、堅実だねー」とアダムは返し、ボードの付属品で空中に固定されていた駒へと手を伸ばした。

 

「あ、グリード。オニヤンマ型ビショップで空中マスa3から君のエメラルドゴキブリバチ型ビショップをとるよ」

 

【……空中b5からサバクトビバッタ型ビショップでオニヤンマ型確保】

 

「うぐっ……ま、まぁいいさ! これくらいは誤差の範囲だ。地中g8からオケラ型ビショップで奇襲だ!」

 

「いや、何ですか空中マスと地中マスって」

 

 プライドが聞くが、やはりアダムは答えない。代わりに、先程のプライドの予想に対する私見を彼は口にした。

 

「確かにαMO手術は脅威だよねぇ。真正面からやり合ったら、チート揃いの君たち『【S】EVEN SINS』でもただじゃすまないだろう。ただ、僕とは意見が割れたね」

 

「……ということは、博士は黒の陣営に?」

 

 プライドの疑問に答えようとしたその時、対局相手――グリードの神の一手が光った。

 

【かかったな、馬鹿め! 特殊効果発動、対空シールド型ビショップ!】

 

「ぐわあああああああ!? せっかく攻め込んだ僕の駒が全滅したァ! コイツ、まさかこんな隠し札を……!? くッ、ここは退くんだクロカタゾウムシ型ビショップ!」

 

【更に脱出機型ビショップでダイレクトアタック! ターンスキップでまた小生のターンだ、アダムゥ!】

 

「それやったら戦争だろうが……! カウンター駒発動、技術盗用型ビショップ! おら、お前の特殊効果寄越せやァ!」

 

「き、キィィイィイィィィィィイイィイィ!?」

 

「……もうツッコミませんからね、私は」

 

 考えるのも面倒くさい、とプライドが被りを振る。そのタイミングでグリードが、初めて2人の話題に口を挟んだ。

 

【しかし意外だな、アダム】

 

「【んー?】」

 

【小生、てっきりお前も白に賭けると思ってたんだが……あ、ポテチとって】

 

「【ああ、はいはい】」

 

 アダムがスナック菓子の袋を手渡した。袋の表記を見るにそのポテトチップスは「苔味」という、控えめに言って食欲が沸かない味付けなのだが、グリードは美味そうにそれを貪った。

 

「うん、個人的に応援したいのはオリヴィエ君の方なんだけどね。この痛し痒しゲーム(ツークツワンク)は、戦争なんだよ」

 

「戦争、ですか?」

 

 ようやくまともな話題になったか、とプライドは安堵の息を吐きながら聞き返す。

 

「ならばなおさら、αMO手術を一定数有する白陣営が有利なのでは?」

 

「一理あるけど、戦争の勝敗は現場の()だけじゃ決まらない。駒が互いに制限されてるなら、むしろ駒以外の要素が勝負の決め手になる。支援体制、コネ、軍略、情報……盤上の駒は白が優位でも、それ以外の優位は黒にある。だから、勝つのは黒だ――って、グラトニーが言ってた」

 

【受け売りかーい!? ――って、あっ】

 

「……何をしているんだ、まったく」

 

 グリードがふざけてアダムの頭をはたけば、勢い余ってその頭部が胴体からねじ切られた。ブシュゥ、と血を噴き出して床に倒れ込むアダムの体。それを見て「はわわわ……」とばかりにうろたえて見せる元凶に、プライドは嘆息した。

 

「ふざけてないで早く戻せ。床が汚れるだろう」

 

【テヘペロ☆】

 

 焦っていたのは演技だったのだろう、グリードは可愛らしく舌を出して見せると(面相的に可愛さなど欠片もないのだが)痙攣するアダムの胴体を抱き起こ――そうとして。

 

 何かを思いついたように手を打つと、グリードはチェスボードに向き直る。それから駒の配置を自分に有利になるように並べ直すと、今度こそアダムの胴を抱き起して、首の断面に頭部を乗せた。

 

【アダムマン、新しい顔よー】

 

「ゴぽッ、ケホ……元気100倍、アダムマン! じゃないよグリード、僕ツッコミで死にかけたんだけど」

 

【めんごめんご。あ、チェックな】

 

「……あれ? 何か配置違うくない? まぁ、いっか」

 

 アダムは首が完全に回復したのを確認すると、盤の目と睨めっこ始めながら口を開く。

 

「まぁ、そんな感じで僕は黒陣営に賭けてるってわけさ。でもそれだと、僕とオリヴィエ君の友情に亀裂が入りかねないから……」

 

【向こうは特に友情は感じてないんじゃないか?】

 

「うるせぇやい! とにかく、友情の破損に気を遣って製造したのが、このおしゃべりロドリゲスくんさ!」

 

 ババーン! という効果音と共に、アダムはどこからか太った修道士のゴム人形をとり出した。

 

「オリヴィエ君の部下の1人を模して作った、このおしゃべりロドリゲス君! なんと自動再生機能が付いているので、押しても押さなくても勝手にしゃべります!」

 

「世界一いらない機能ですね」

 

「というわけで、ハイ。プライド君に最後の1個あげちゃう」

 

「いりません」

 

 心底いやそうな顔をするプライドに、アダムはゴム人形を無理やり押し付けると、口を開いた。

 

「……実はさ、正直リアルすぎて僕も自分でドン引きだったんだよね。もしいらないなら、適当に処分しちゃっていいよ」

 

「まったく、余計な手間を……」

 

 うんざりしたようにぼやくとプライドはそれを床に投げ捨て、おしゃべりロドリゲスくんへと人差し指を向ける。

 

 その直後、彼の人差し指から青白い閃光が迸った。光速の2000分の1、驚異的な速度で放たれたその一撃は、幾本もの筋となっておしゃべりロドリゲスくんへと襲い掛かる!

 

 

 ……が。

 

 

 

『――おお、素晴らしい……!』

 

 

 

 ――おしゃべりロドリゲスくん、健在。

 

 

 

「……」

 

 悲しいかな、アダムが有する戦力の――否。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()彼の一撃だが、今回に限ってはあまりに相性が悪すぎた……主におしゃべりロドリゲスくんの材質的な意味で。

 

 何とも言えない空気が、部屋の中に流れる。

 

【……ブフッ!】

 

「ちょっと、グリード! いくらなんでも笑ったらプライドに悪いってあひゃひゃひゃひゃ!」

 

「……」

 

 ――怒るな、怒るな。いつものことだ。

 

 ささくれ立つ心をなだめつつ、プライドはおしゃべりロドリゲスくんをゴミ箱に叩きこむべく手に取る。しかし強く握りすぎたのだろう、内部の圧覚センサーが反応し、ゴム人形が余計な音声を流す。

 

『ですがやはり……貴方もその程度、という事でしょうなぁ』

 

 嘲りのボイスに、静まりかけたプライドの額に青筋が立った。なぜか知らないが、無性に癪に障る声色である。平時の彼なら、きっと流せただろう。しかし今の彼は少しばかり、気が立っていた。

 

「……」

 

 ひょい、とプライドは再びゴム人形を床へ放り捨てた。それから彼は一度だけ大きく息を吐くと、腰のホルスターから近未来的な意匠が施された拳銃――彼の専用凶器を抜き放つ。『な……に……?』というボイスが自動再生されたのは、果たして偶然だったのか。

 

「死ね」

 

 プライドが引き金を引くと同時、その拳銃から音速の7倍の速度で弾丸が放たれた。『お慈悲を! お慈悲を! どうか、お許しを!』のボイスが再生されるよりも速く、弾丸は合成ゴムごと内部の録音装置を熔かし尽す。更に二度、三度と引き金が引かれるたび、撃ち込まれた弾丸はおしゃべりロドリゲスくんの痕跡をこの世から消し去っていった。

 

「不評だなー、おしゃべりロドリゲスくん。次は着せ替え千古ちゃんでも造ろうかな?」 

 

「ようじょ!?」

 

「グリード、僕は君の名前を色欲(ラスト)にしなかったことをホント心から後悔してるよ」

 

 背後から聞こえる破壊音など気にもせず、アダムはグリードとの対局に戻った。

 

「【それで、グリードはどこに賭けるの?】」

 

【小生か? 小生は――】

 

 

 

 

 

「“Grey(“灰”に)“」

 

 

 

 

 

「おろ?」

 

「……なんだと?」

 

 意外そうにアダムが目を丸め、タガが外れたように銃を乱射していたプライドが思わず引き金を引く指を止めた。そんな彼らに、グリードはにんまりと笑いかけた。

 

【――確かにこの戦争、順当にいけば白か黒が勝つだろう。ヒトを極めた者同士の代理戦争、送りこまれる尖兵も相応の怪物だ。どう計算しても、並の戦士たちが勝てる道理はない】

 

 

 

【だが】

 

 

 

【だがそれ故に、“灰”は侮れない】

 

 

 

【人間は未熟だ、そのくせ強欲だ。自分の手が届く範囲を本当は分かっているくせに、それ以上を欲する。それ以上を守ろうと死に物狂いになる】

 

【だから、強い】

 

【土壇場まで足掻くから、絶望的な状況でも希望を見出す。咄嗟の行動が、逆転の一手に繋がる。そして勝つまで、何度だって立ち上がる。それは我々や、既に完成されたオリヴィエとエドガーにはない強みだ】

 

 

 

「【……とんでもない大穴狙いがいたもんだね】」

 

【イかすだろ?】

 

 ニタニタと笑うグリードに、アダムはため息を吐いた。

 

「【君が言ってることを間違ってるとは言わないけど……1つだけ忘れてるぜ、グリード。その原理だと、未熟な灰陣営が勝つまでにはかなりの年月がかかる】」

 

 アダムは九頭竜型ビショップを空中へ配置しながら、対局相手の無感動な目を見つめた。

 

「【それまでに、白も黒も待ってはくれないんじゃない? 戦況が泥沼化して、結局すり潰されちゃうかもしれないぜ? このゲームみたいに】」

 

【逆転の目がないわけでもないだろうよ、このゲームみたいに】

 

 そう言ってグリードは成人ゴキ型ポーンを動かし、ハゲゴキングへと差し向けた。

 

 

 

 

 

じょ、じょうじ(ほい、チェックメイト)じょうじ、じょうじょう(今月分のトイレ掃除、シクヨロ)

 

じょ(あっ)

 

「……お見事」

 

 

 結局ルールはよく分からなかったが、勝負はついたらしい。アダム相手に通算100連勝を記録したグリードに、プライドは形ばかりの賞賛と拍手を送った。

 

 

 

 

 




【オマケ】 他作品出張キャラ紹介 ~作者の妄想を添えて~

希维(シウェイ)・ヴァン・ゲガルド(深緑の火星の物語)
「~っす」という、ちょっとおバカな喋り方がチャームポイントな『槍の一族』の当主。「オリヴィエが当主じゃないの!?」と思ったのは私だけじゃないはず。普段はオリヴィエの執事のような役回りと、オリヴィエ陣営の取りまとめをしている。希维の「维」が何と打てば変換されるのか未だによく分からない。

アダム「というわけで、おしゃべりロドリゲス君の次に開発されたのがこちら! 完全再現☆しえいちゃんリバーシブル抱き枕! ん、裏の絵柄が印刷されてない? いやいや、これはモデルになった人物の気配遮断の特性をも再現した特殊加工でして……」

希维「それは詐欺っていうっすよ。あとオリヴィエ様、「言い値で買おう」じゃないっす。これリンネちゃんにゴミ箱ダンク決められたらガチ目に凹むっす」


マリアン・ヴィクトル&コゼット・アントナ(インペリアルマーズ)
フランス外人部隊の隊員。マリアンが隊長で、特殊な手術ベース持ちがコゼット。他にも8人、個性あふれるメンバーがいる。彼らが大活躍()するお話は、インペリアルマーズ地球編で! 多分、今回の話で一番株が上がってるのはこの人達。

マリアン「ちなみに本編で登場したシドだが、お前の先輩にあたるらしいぞ? 主に受けたMO手術的な意味で」

コゼット「そういう重要情報、このコーナーでさらっと出します?」


セシリオ・ロドリゲス(深緑の火星の物語)
 おしゃべりロドリゲスくんの元ネタ。太った修道士で、基本的に全ての台詞が意味深。存在そのものがネタキャラだが、モブ相手に無双するだけの戦闘力はある。
再生ボイスは全て出典元からコピペしてます。時間軸を気にしてはいけない。

ロドリゲス「それで、おしゃべりロドリゲスくんは娘さんに喜んでいただけましたかな、オリヴィエ様?」

オリヴィエ「えっ、うん」



【宣伝】
 あけましておめでとうございます。いきなりですが、『インペリアルマーズ』様でコラボ企画が連載中です! 感想:アダムは畜生だな!

そして、『深緑の火星の物語』でもちょびっとコラボが掲載されておりますよ!(ガチ目なのは後程とのこと) 感想:アダムは畜生だな!

 逸環さま、子無しししゃも様にはこの場を借りて感謝申し上げます!




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狂想讃歌ADAMー3 爬行侵食

 U-NASA本局の食堂――平時は一般職員で賑わうその場所は、今日この日に限ってはひどく閑散としていた。

 出入り口にかけられた『Reserved(貸し切り)』のプレートによって、利用客たる一般職員は入室を許されず、厨房スタッフまでもが職権によって突発的な休暇を申し付けられているのだから、それも当然といえた。

 

 そんながらんとした食堂内で会話する2人の人物がいた。

 

「……というのが、お前達にやってほしい任務の内容だ」

 

「なるほど」

 

 ――やれるか?

 

 念を押すように、そのうちの1人――ミッシェル・K・デイヴスが尋ねる。会話の相手は、彼女の対面に座る壮年の男性である。スーツ姿のミッシェルに対して、彼が身に纏っているのはトレンチコート。体中にいくつもの傷が刻まれたその男は、微かに顔をしかめた。

 

「正直に言うと、怪しいところだな。相手の勢力がとにかく未知数なのが引っ掛かるが……まぁいいだろう、その任務はウチで請け負う」

 

「……すまないな、ギルダン」

 

「気にすんな。俺たち第七特務ほど、この手の任務にうってつけの奴らはいないだろう。あんたには、それなりによくしてもらってるし――」

 

 顔を曇らせるミッシェルに対し、男――ギルダン・ボーフォートは冗談めかして笑って見せた。

 

「同じ蟻ベースのよしみだ。立場云々を抜きにしたって、多少の無茶は聞くさ」

 

「……感謝する」

 

 気にすんなってのになぁ、とギルダンはきまり悪そうに、頭を下げるミッシェルを見やった。

 

 ギルダンが頭目を務めるU-NASA第七特務支局。表向きは広報活動を担当する部門とされているそれの実態は、U-NASAが『有事』の際に対応するために組織した暗部組織である。

 

 有事の例としては闇MO手術を受けた犯罪者の始末、あるいは漏えいした情報の回収、あるいは未知の脅威に対する派遣調査など……早い話が、表沙汰にできない不祥事を内密に処理するための汚れ仕事である。

 

 そうした任務内容もあって、第七特務に籍を置くものは犯罪者を始めとする問題児たちが大多数を占めている。

 当然U-NASA内での風当たりも強く、上層部からの冷遇は当たり前、中には何かにつけて支局そのものを取り潰そうとする者も多い。

 

 逆に第七特務を冷遇しない上層部の人間は極めて希少であり――ミッシェルは、その中の1人だった。

 

 露骨に贔屓することはない、しかし自分達のような荒くれ者にも通すべき筋は通す人間。胸中でどう思っているかはともかく、その真っすぐな姿勢をギルダンは好ましく思っていた。偏見を持たず、あくまで対等な存在として自分達に接することが人物の、何と少ないことか。

 

 今回、彼女がギルダンに持ちかけた任務は、平時の彼女であれば絶対に他人に押し付けることのない、極めて危険なものだ。そのことを気に病んでいるのだろう、ミッシェルはいつも通りの鉄面皮ながらも、どこか表情に曇りが見える。

 

「どうしても収まりがつかないって言うなら、そうだな……」

 

 それを察したギルダンは、ミッシェルの背後を指さす。その意味を理解したのか、先程までとは別の意味で、ミッシェルが渋い表情を浮かべた。

 

「あれを少しばかり、ウチへの差し入れにもらおうか。構わねえな?」

 

「……好きにしろ」

 

 どこか頭が痛そうに言うと、ミッシェルは背後を見やった。彼女の視線の先にあるのは、厨房。雇われている料理人もいないはずのそこでは、3人の人物が忙しなく動き回っていた。

 

 

 

「スレヴィンさん、そろそろグラタンが焼き上がるはずなので、オーブンの様子を確認してもらえますか?」

 

 厨房に向かって声を上げたのは、天然パーマ気味の青年――ダリウス・オースティンだった。

 特徴的な赤毛の上にコック帽を被ったダリウスは、慣れた手つきで野菜のテリーヌを皿に盛りつけていく。緑、黄、オレンジ――色鮮やかなそれは、皿の白も合わさって食欲をそそる色合いで見る者の目を楽しませる。

 

「はいよ! どれ……」

 

 ダリウスの声に答えると、声の主――スレヴィン・セイバーはコンロの火を止め、オーブンに駆け寄る。彼は気だるげな眼を僅かに見開くと、小窓から橙の光と熱を発するオーブンの中を覗き込んだ。グラタン用の深皿に盛られたチーズは所々が狐色に染まり、じゅうという耳障りのいい音と共に香ばしい香りを発している。

 

「お、こっちはいい塩梅だな。ウルトル、シチューはどうだ?」

 

「あとちょっとだね。あとスレヴィンくん、できれば名前で呼んでもらっていいかな?」

 

 スレヴィンの声に返しながら、厨房でも変わらずフルフェイス姿の青年――シモン・ウルトルは、玉杓子で鍋の中をかき混ぜた。

 

 とろりとした乳白色の液体は絶え間なくクツクツと音を立て、液面に浮かぶジャガイモやニンジンがそれに合わせて細かく揺れる。液を掬いあげれば一層激しく湯気が立ち昇り、優しくも胃をくすぐる匂いで肺を満たした。

 

「もう2、3分煮込んで、余熱で火を通せばいい感じじゃないかな? 今のうちに天ぷら用の野菜も準備しておこう」

 

「ついでにシモンさん、冷蔵庫からフルーツを出してもらっていいですか? そろそろデザートの下準備に取り掛からないと」

 

「はーい」

 

「オースティン、俺の分は甘さ控えめで頼むわ。あとシモン、胡椒をこっちに寄越してくれ」

 

 いい年の大人の男3人が、まるで家庭科の調理実習か何かのように、わいわいと騒ぎながら忙しく厨房の中を動き回る。その様子を見て、ミッシェルは憮然と鼻を鳴らした。

 

「お料理教室開くために集めたわけじゃねぇんだぞ、あのアホ共」

 

「まぁ、なんだ……いがみ合って任務に支障きたすよりはいいんじゃねえか?」

 

 彼女の額には青筋を立ち、今にも人為変態を始めそう――というか既に触角が生え始めている。それを見たギルダンは触らぬ神に祟りなしと、思いつく限り最も当たり障りのないフォローの言葉を返すのだった。

 

 

 

 ※※※

 

 ミッシェルがワシントンDCに呼び出されたのは、今から半日前のことだった。

 

 

 

「――デイヴス少佐。君には、国内で活動するテロリストの掃討を頼みたい」

 

「テロリスト、ですか?」

 

 そう答えたミッシェルの顔は、いつもに比べて少しばかり強張っていた。多少のことでは動じない彼女が少なからず動揺している理由は、他ならない彼女が対話している人物にあった。

 

 ――ジェラルド・グッドマン。

 

 彼女が今話しているのは他でもない、アメリカ合衆国の最高責任者なのだ。

 

「そうだ。MO手術の技術を使い、テロを企む勢力が存在すると――ある筋から報告が入った。既に中央情報局(CIA)の捜査で裏はとれている」

 

 そう語ったグッドマンの表情は険しい。平時のように上層部を通してではなく、大統領が直々に自分に話を持ちかけているという時点で、かなりの非常事態であることがうかがえる。ミッシェルは事態の深刻さを察し、より気を引き締めながら、グッドマンの言葉に耳を傾ける。

 

「人員の選抜、制圧の方法……全て、君に一任しよう。既にCIAやFBIが捜査に乗り出し、米軍の一部はいつでも動けるように待機している。彼らから得られた情報と、可能な限りのバックアップも約束する。いざとなれば、責任は私が取ろう――引き受けてくれるか?」

 

「勿論です、大統領」

 

 ミッシェルは即座に頷く。断る、という発想は欠片もない。人々の営みを守ること……それが軍人としてのミッシェルに課せられた責務だからだ。

 

 ミッシェルの強いまなざしに頷くと、グッドマンは彼女にファイルを手渡した。その資料に目を通すにつれ、彼女の予想を数倍上回る被害の全容に、手にこもる力が強まっていく。

 

「――21世紀以降、合衆国(我々)の歩む道には常に、テロリズムとの戦いがあった」

 

 顔を上げたミッシェルに、グッドマンは「独り言だ、聞き流してくれて構わん」と断ってから、なおも言葉を続けた。

 

「国家転覆、宗教紛争、報復、差別……その全てを我々はねじ伏せ、勝ち続けてきた。今のアメリカ合衆国は、その影に倒れた無数の犠牲者の上にあると、私は思っている。傷つけられた国民だけではない、彼らを守るために戦った者やテロの首謀者たちも含めて、だ」

 

 グッドマンは静かに目を伏せた。

 

「――正直に言えば、先達の選択が本当に正しいものだったのか、私には分からない。勿論、国を守ってきた歴代の大統領たちの選択は、決して間違ったものではないだろう。ただ、私はたまに考えるのだよ」

 

「テロリストたちはただ、手段を間違えただけなのではないか? もしかしたら我々は、話し合いによって歩み寄り、共存できたのではないか? 彼らの思想は、その命を踏み躙ってまで否定すべきものだったのか? ……とね」

 

 ――だが。

 

 そう言ったグッドマンの目には、力強い闘志と敵意の炎が燃えていた。

 

 

 

「今回ばかりは、確固たる確信の下にこう言おう――奴らは、ゴキブリ以下の『悪』だ」

 

 

 

 ぐしゃり、と彼の手中にあった万年筆がひしゃげる。しかしそれにも構わず、彼は静かなる怒りを吐いた。

 

 

 

()()()()()()()()などという戯言、断じて許すわけにはいかない。その言葉は、これまで我々が積み上げた犠牲の全てを否定するものだからだ。そんな言葉を軽々しく口にする連中に屈していいほど――我々合衆国(ユナイテッド・ステイツ)が背負う歴史は軽くない」

 

 そう言うとグッドマンは、ミッシェルの双眸を見つめた。美しく真っすぐな青の瞳に、老いた大統領は告げる。

 

「アメリカ大統領として保証する――これは正義の戦いだ、デイヴス少佐。どんな手を使っても構わん、テロリストどもを叩き潰せ」

 

「……了解しました」

 

 それに応えるとミッシェルはすぐに席を立ち、ホワイトハウスを後にした。そして彼女はU-NASAに戻ると、すぐに電話の受話器を手に取ったのだ。

 

 彼女が知る中でも指折りの実力者たちを、招集するために。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「――それが、どうしてこんなことになってんだ?」

 

 ミッシェルは思わずぼやいた。「用事がある」と先にこの場を去ったギルダンが大量に料理を持ち帰ったはずだが、それでもなお食堂のテーブルには所狭しと料理が並んでいる。フレンチ、イタリアン、和食……高級料亭でもめったにお目にかかれない、文字通り和洋折衷のフルコースメニューである。

 

「……」

 

 ミッシェルは手近にあった皿を取り寄せると、こんがりと焼きあがったフィレ肉にナイフを差し込んだ。ぱちぱちと油が跳ねるプレートの上、ほのかに赤い断面からはじゅわりと肉汁が溢れる。フォークで刺したそれを口に運べば、舌の上では凝縮された肉の旨味と脂の甘味が躍る。

 

 美味い。いや、美味いんだが……だからこそ、余計に釈然としない。こいつら(自分も含む)はこの非常事態に何をやっとるんだ。

 

「落ち着けっての、ミッシェル。緊急だとしても、1分1秒を争うもんでもねぇんだろ?」

 

 しかめ面のミッシェルに声をかけたのは、ステーキを焼いた張本人であるスレヴィンだった。

 

 U-NASAの敷地内に立てられた、MO手術被術者用の寮。そこで寮監を務めている彼は、この場で最もミッシェルと付き合いが長い人間である、といっても過言ではない。

 もっとも、その関係は惚れた腫れたの色っぽいものではなく……どちらかといえば腐れ縁や、悪友のそれに近い。

 

 公私ともにミッシェルと交流のある彼は、眉をひそめる彼女にスレヴィンはニヤッと笑って見せた。

 

「なら、腹ごしらえをしてからでも遅くねえだろ。コイツの料理も食いたかったしな」

 

 スレヴィンはそう言うと、手にしたフォークでパスタを絡めとった。固めに茹で上がった麺は絶妙な()()があり、鼻の奥に広がるバジルとガーリックの香りが心地よい。

 

「シンプルな料理ならともかく、こういう細かいメニューは本業に任せるに限る。さすがだ、オースティン」

 

「元、ですけどね。そう言ってもらえると、腕によりをかけて作った甲斐があります」

 

 スレヴィンの言葉に、食器類を一通り片付けて厨房から出てきたダリウスが、柔らかに笑う。エプロンを外しながらテーブルへと向かってくるその様子は、一見すれば優し気な好青年にしか見えない――いや。実際に彼自身も、穏和な性格なのだろう。

 

 

 

 ――人畜無害、というわけではないんだろうけど。

 

 

 

 和やかにスレヴィンと談笑するダリウスの様子をフルフェイス越しに伺いながら、シモンは野菜のスムージーを啜った。

 

 ――ダリウス・オースティン。

 

 先の一面だけ見れば物腰が穏やかな料理人にしか見えない彼。

 

 しかし彼は、アメリカ合衆国に在籍するMO手術の被術者の中でも最強クラスの実力者であり、かつて全米を震撼させた最悪の――。

 

「シモンさん、シモンさんってば!」

 

「はいッ!?」

 

 呼び声に思わず身をすくませれば、フルフェイス越しに件のダリウスがこちらを見つめていた。その顔にはなぜか、困ったような表情を浮かべている。

 

「気に入ってもらえたのは嬉しいですけど、スムージー(それ)以外のものも食べませんか?」

 

「あ、うん。いや、ボクは――」

 

 ダリウスの言葉に頷きかけるも、断ろうとするシモン。しかしそれを見越していたのか、スレヴィンが彼の肩に手を回すと、言葉を遮るように声をかけた。

 

「いいから、もっと食え! ほら、このグラタンも美味いぞ!」

 

「うっ……」

 

 ゴトッ、とシモンの前に置かれた取り皿。その上ではホワイトソースを纏ったマカロニと、その上に覆いかぶさるチーズがほかほかと湯気を立ち昇らせている。流石にここまでされると、気の弱いシモンとしては非常に拒否しにくい。

 

 助けを求めてシモンはミッシェルを見やるが、彼女の表情はどことなく冷たい。ミッシェルはスープ皿のシチューをぺろりと平らげると、ナプキンで口を拭きながら言い放った。

 

「こうなったのは八割お前のせいだろうが。責任とって食え」

 

「……はい」

 

 こうなっては、腹をくくるしかない。シモンはフルフェイスヘルメットの食事用ハッチを開けると、ほかほかと湯気を立てるマカロニにフォークを突きさした。

 

 

 

「大丈夫……ボクは負けない」

 

 言い聞かせるように呟くと、シモンは覚悟を決めてマカロニを頬張った。

 

 

 

 

 

 

 

「~~~~ッッ♥!」

 

 

 

 その直後、口内をあまりにも乱暴に、しかし優しく蹂躙するホワイトソースの旨味に、シモンは悶絶した。予想外の事態にうろたえるダリウスと、対照的に大げさすぎる反応に笑い転げるスレヴィン。

 

 ミッシェルはその光景をより一層冷めた目で見つめながら、手にした野菜のホットサンドにかじりついた。

 

 

 

 ――ミッシェルが任務達成のため、職権を使って招集したのは全部で4人。

 

 

 

 数あるU-NASAの実働部隊の中でも実践経験が豊富な第七特務、その部隊長たるギルダン・ボーフォート。

 

 広域制圧に優れた特性を持ち、自らも面談の上で裏アネックス計画の幹部候補にと推薦したダリウス・オースティン。

 

 幼少期……兄と慕っていた人物が事故で帰らぬ人となったその少し後から、現在に至るまでの付き合いがあり、気心の知れたスレヴィン・セイバー。

 

 そしてこれまで、MO手術に関する任務において何度も行動を共にしてきた、特別対策室のシモン・ウルトル。

 

 

 

 ミッシェルとこそ面識があるものの、彼らはほぼ全員が初対面。どうせなら飯でも食いながら話すか……と小吉(上司)を真似て、食堂を貸し切ったところまではよかった。

 

 

 

「ギルダンが遅れるらしい。先にデリバリーでも頼んどくか。お前ら、何か食いたいもんあるか?」

 

「あ、なら俺が作りましょう。厨房の材料は使っていいんですよね?」

 

「そうか? なら頼む」

 

 気を利かせて立ち上がったダリウスの言葉に、ミッシェルはとり出しかけた通信端末をポケットにしまい込んだ。

 

 以前、彼との会談で振る舞われた料理は非常に美味だった。基本的に野菜料理しか作らないのが唯一の難点だが、そこはそれ。味は高級レストランのそれに全く劣らない。

 

「皆さん、何かリクエストはありますか? 肉料理はできませんが……それ以外なら、基本的に応えられます」

 

「ホットサンドを頼む」

 

「それじゃあ俺は……バジルとガーリックのパスタでも頼むわ」

 

「分かりました。シモンさんはどうしますか?」

 

 そう言ってダリウスはシモンを見やるが、声をかけられた本人の反応は芳しくなかった。

 

 

 

「いや、ボクは遠慮しておくよ」

 

 

 

「……そう、ですか」

 

 控えめだが確かな拒絶の言葉。それを聞いたダリウスは微かに顔を曇らせ……しかし、すぐに取り繕うと、元の穏やかな表情を浮かべる。

 

「分かりました。もし気が変わったら、声をかけてください」

 

「ごめんね」

 

 申し訳なさそうなシモンの声に、気にしないでくださいと笑いながらダリウスは厨房へと向かう。

 

「おい、シモ――」

 

「待て、ミッシェル」

 

 シモンの対応に思わず苦言を溢そうとするミッシェルだが、それはスレヴィンによって制された。そのまま彼は、ミッシェルに小声で囁く。

 

「思うところがあるのは分かる。だがあいつの経歴を知ってるなら、この反応がむしろ正常だ」

 

「それは……」

 

 スレヴィンの言葉に、ミッシェルは押し黙った。彼の言葉が正論だったからだ。そう、ダリウスは()()()()()()()()()()()()()()()――例え本人の人格が善人のそれであろうとも、犯した罪は消えることがない。

 

 ましてシモンは第七特務と並ぶ実働部隊、クロード・ヴァレンシュタイン直属の特別対策室のメンバーである。()()ダリウスを相手に警戒を緩めろという方が無理な話だ。

 

「……いや、お前の言う通りだな。すまん、少し出てくる」

 

「おう」

 

 だが、正論だからといって需要できるものでもないのだろう。ミッシェルは深く息を吐くと、食堂を後にした。それを引き留めるようなことはせず、スレヴィンはそれを見送ると懐から煙草を取り出した。

 

 シモンとスレヴィンの間に会話はなく、食堂内は静寂に包まれる。厨房の方から聞こえる、トントンとダリウスが野菜を切り刻む音だけが、リズミカルに響く。

 

 ――とはいえ、あんまり警戒心が強すぎても、今後の任務には支障をきたすな。

 

 スレヴィンはマッチで煙草に火を灯すと、静かに紫煙を吐きだした。ここは1つ、それとなくフォローをしておくべきだろう。

 そう考えたスレヴィンは、灰皿に煙草の灰を落としながらシモンの方を見やり――そして、目を剥いた。

 

「……おい。そりゃなんだ?」

 

「へ? 何って……」

 

 きょとん、とした様子でシモンは首を傾げた。

 

「ボクのお昼ごはんだけど……」

 

「はぁ!?」

 

 その声に思わず調理の手を止め、ダリウスが厨房から顔を出すが、それに構わずスレヴィンは「こいつ正気か?」とばかりにシモンを見つめた。

 

 しかしその反応も当然のもの、シモンの前に並べられ、彼が「お昼ごはん」と言い切ったそれは、十粒前後の錠剤だったのだ。

 

 何かの薬、というよりは栄養剤のようなものなのだろう。よく見ると錠剤は一つ一つ形状や色が違っており、紛れ込んでいるカプセルには小さく「ビタミンC」やら「鉄」やらの文字が刻んである。

 

 そして次の瞬間、スレヴィンの脳内で凄まじく嫌な予想が完成した。これまでの彼の推理がぶち壊される感覚。彼は恐る恐る「なぁ」と声をかけた。

 

「お前、まさかと思うがオースティンの料理を断ったのって――」

 

「ああ、うん。お昼ご飯もう用意しちゃってたし、せっかく作ってもらったのに残すといけないなと思って……」

 

「あいつの経歴から、何か盛られるんじゃないかとか疑ったりは?」

 

「まったくないわけじゃないけど……特に気にしてはいないかな? ミッシェルさんが推薦した時点で、人格面は信用してもいいと思うし」

 

「反応に困るぞ、おい……」

 

 信頼関係云々に関しては完全に自分の誤解だったらしい。とりあえず、最大の問題は解決したのだが、今度は全く別の問題が浮上した。

 

「もう1つ聞くが……まさかこれが普段の昼飯じゃねえよな? 習慣化してねえよな?」

 

「あー……ちょっと違うけど、まぁそんな感じかな? 一応、公式の食事会の時とかは普通の料理もちょっとは食べるけど。基本的には、三食こんな感じ」

 

「嘘だろお前!? おい、いつからだ! いつからそんなことになった!?」

 

「うえッ!? え、えぇーと、確か……8歳くらいからだったかな?」

 

「8歳だァ!?」

 

「だ、大丈夫! これクロード博士が開発した栄養剤だからちゃんと食事は賄えるし! 実際、健康診断でも身体に異常なしなんだよ、ボク!」

 

「そう言う問題じゃねぇだろうが!?」

 

 ――スレヴィン・セイバーは、U-NASAの寮監という立場上、クロードからアーク計画の詳細について知らされている、数少ない人間の1人である。

 

 しかしそんな彼でさえ、シモンの正体は知らない。そのためこれは知る由もないことであるが――このどう見ても、病院食や監獄の方が幾分マシと言えるような凄惨な食事は、シモンが自分に課した数ある自罰の内の1つだ。

 

 18年前、シモン――かつてイヴと呼ばれていた少年は、バグズ2号の乗組員を助けるために、密かに艦へと潜り込んだ。事前にテラフォーマーの存在を知っていたイヴは、自身の特性を駆使。結果として彼は、バグズ2号の乗組員たちを生存させることに成功した。

 

 彼が最も慕っていたドナテロ・K・デイヴス艦長ただ1人を除いて。

 

 その一件以来、シモンと名を変え、かつての己痕跡を消し去った今でも、シモンは己に様々な苦痛を課している。「大切な人を救えなかった」己を責めることで少しでも罪の償いとしているのだ。

 

 その一環が食事の制限である。彼は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 生命活動を維持し、肉体を鍛え上げるために必要な栄養のみをサプリメントによって賄い、滅多なことでは食事を口にしない。

 

 皮肉なことに――本人は無自覚なようだが、自罰行為こそがシモンの精神的な傷を緩和するのに最も適した方法だった。だからクロードは、それを快くは思わなかったものの、今の今まで放置せざるを得なかったのである。せめて、数値上は通常の食事のよりも身体の健康には良い栄養剤を開発するほか、彼に選択肢はなかった。

 

 もっとも、先に述べたことの繰り返しにはなるが――

 

「オースティンッ! いったん調理止めてこっちに来い!!」

 

 ――そんな事情を、スレヴィンは知る由もない。仮に知っていたとしても、同じ反応をしただろう。

 

「これは……あまり言いたくないですけど、いくらなんでもひどすぎますね」

 

「だろ?」

 

 事情を聞き、シモンの食生活の不健全さに顔を引きつらせるダリウス。それを見たスレヴィンは、深く息を吐いた。

 

「オースティン、俺も手伝う――作れる限り飯を作って、こいつに美味いもんをたらふく食わせるぞ。このアホには食の再教育が必要だ」

 

「わかりました。さすがにこれは、料理を生業にしていた者としても看過できません。多少作りすぎるかもしれませんが、大丈夫ですか?」

 

「問題ねぇ、経費も料理の始末も責任を持って、ミッシェルがなんとかする」

 

「い、いやあの、気持ちは嬉しいんだけどスレヴィン君、ボクは別に――」

 

「何か言ったか?」

 

 シモンは抵抗しようと声をあげるが、スレヴィンの眼光に出かけた言葉を飲み込んだ。

 

 ポルノ雑誌を平然と読んで風紀を乱す、喧嘩があれば賭けの胴元になると、寮監とは思えないような行動が目立つスレヴィンだが、こと面倒見の良さとマジギレした時の怖さについては寮生たちも一目置く存在である。あまり押しの強くないシモンが勝てる道理はない。

 

 

 

「……せ、せめてボクも料理を手伝おうかなー、なんて……」

 

 

 

 かくしてこの場で最年長のはずのシモンは凄みに負けてあっさりと折れ、ミッシェルが途中で合流したギルダンと共に帰ってくる頃には、男3人による奇妙な調理大会が開かれていたのである。

 

 

 

 

 

「だ、駄目だ……この味を知ったら、ボクは栄養剤に、戻れなく……!」

 

「普通の食事をすればいいんじゃないかな?」

 

 フルフェイスヘルメットの下で幸せそうな、しかし苦しそうな表情を浮かべながらカボチャの天ぷらを咀嚼するシモンに、思わずダリウスも素の口調に戻る。本人は至って真剣に言っている辺りが、余計にシュールだ。

 

「お前ら、いい加減本題に入っていいか?」

 

 そんな彼らの前で、ミッシェルは最後の一切れとなったローストビーフを飲み下すと、呆れたように口を開いた。

 

「っと、悪い悪い。随分待たせたな」

 

 ミッシェルに続きを促しながら、スレヴィンはダリウスが用意したシャーベットを掬った。レモンをベースにした柑橘の爽やかな酸味が、口内に残る料理の後味を消し去る。このシャーベットのように、幼馴染が持ってきたらしい案件もすっきりとしたものであればよいのだが――

 

「お前達には私と一緒に、テロリスト排除の任務についてほしい」

 

 ――生憎と、そう美味い話はないらしい。

 

 彼女の口から語られるのはテロリストの排除という、おそらく数ある任務の中でもとりわけ危険な任務内容。

 

 しかもその目標は、『アメリカ合衆国の破壊』というトチ狂ったものだ。止めようとするならば、血みどろの戦いはどうしても避けられないだろう。

 

 後味の悪い任務になりそうだ、とスレヴィンは紅茶を煽るとミッシェルへと視線を向けた。

 

「大体の事情は分かった。俺としては協力するのもやぶさかじゃないが……聞いときたいことがある」

 

「なんだ?」

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ティーカップを置くと、スレヴィンは続ける。

 

「俺とシモンは分かる、特性が直接戦闘型だからな。この手の任務には持って来いだろう。だが、こいつは違う――こいつの能力は、本気を出せば数時間で都市を壊滅させることだってできる代物だ。どう考えても、闇MO手術を受けたテロリスト程度に差し向けるもんじゃない。違うか?」

 

「……さすがに鋭いな」

 

 ミッシェルはそう言うと、ビジネスバッグから書類を取り出すと、3人に手渡した。

 

「18時間前、米軍管轄の軍事機密施設が襲撃されていたことが分かった」

 

 ミッシェルは資料を読み進める三人に概要を――ほんの数時間前に、同じアメリカという国の中で起きた惨劇の全容を語りだす。

 

「職員は警備のために駐屯していた米軍も含めて、おそらく全滅している。ほとんど破壊された監視カメラのデータをハッキングして解析した結果は――()()()()1()()

 

「1人だと……!?」

 

 ミッシェルの言葉に、スレヴィンが瞠目する。例え歴戦の軍人が直接攻撃型の手術ベースを得たとしても、職員を一人残らず殺害するなどという芸当はまず不可能だ。

 

 考えられる可能性としては兵器を使ったか、新式のMO手術か広域制圧に長けたベースを持っているか――あるいは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「襲撃後の足取りは掴めていない。加えて、調査のために送り込んだ部隊すら帰還せず音信不通だ。現状、対策から情報戦までこちらは完全に後手に回ってる」

 

「それだけでも不味いけど、ミッシェルさん。ここって……」

 

 資料を読み終えたシモンがミッシェルの方を見やった。資料に記載されていた襲撃場所は、おそらくアメリカの中でもおそらく5指に入るであろう、()()()()()()()()()()()。そこを襲った襲撃者の意図は明白だ。そして職員が全滅したということは、おそらく彼の目的も達成されている。

 

 非常に不味い状況である――アメリカの滅亡が、現実味を帯びてくる程度には。

 

「だけど、僕が必要な理由はよく分かりました」

 

 ――できれば、分かりたくありませんでしたけどね。

 

 そう言うとダリウスは乾いた笑い声を漏らし、机の上に資料を置いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

α()M()O()()()()()()()()()()()()()()()……まさか最初の任務が、御同輩の始末とはね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――18時間前、アメリカ合衆国ネバダ州南部。

 

 サイト66(ダブルシックス)と呼ばれるこの軍事機密区域は、アメリカにとって非常に大きな意味がある場所である。その主たる要因は、この場所が国内でも数少ない“αMO手術”の研究をするための施設であるということだ。

 

 手術の成功率は僅か0.3%、おまけに手術コストは通常のMO手術の4倍という極めてコストパフォーマンスが悪い技術である。

 

 ではなぜそんなコスト面では劣悪なαMO手術を研究するのかといえば、それはこの技術が極めて強力無比なものだからに他ならない。

 

 投薬によって引き出される力は、通常MO手術の被術者が過剰変態によって辛うじて得ることのできるそれ。

 

 通常のMO手術では適合しない生物でも手術を施せる、応用範囲の広さ。

 

 更に細胞がよりベース生物に傾いているからこそ可能になる、薬を使わない変態。

 

 成功率は1000分の3、理論上は1000人に3人しか成功しない技術。しかし、手術に成功したその3が得る力は、犠牲となった997を補って余りある。だから各国はこぞって、この技術の研究を続けている。

 

 目下のハードルは、何と言ってもその成功率の低さにある。まず適合者の頭数を揃えなければ、研究も何もあったものではない。このハードルを乗り切るため、各国は知恵を絞った。

 

 ある国では無数のクローンを使い、母数を増やすことで成功者数を増やそうとした。

 

 またある国では、被術者の肉体への負荷とベース生物の制限を引き換えに、手術の成功率を引き上げようとした。

 

 そしてアメリカが選択したのは、“死刑囚を実験体に用いること”。歯に衣着せぬ物言いをすれば、「死んでもいい連中を実験材料にしよう」という発想である。

 

 だが――『例え死刑囚であっても、人権は存在する』。

 

 それが建前であったとしても、国としてそれを謳う以上体裁は守らなければならない。だから、サイト66(ダブルシックス)が設けられた。

 

 表沙汰にできないような研究を、密かに行うための施設。そこでは日々、政府直属の軍人に警護された研究者の手によって、国中から運ばれてくる死刑囚たちが命の灯を消されていく場所……だった。

 

 

 

 

 

 今まさに命をかき消されているのは、昨日まで命を“かき消していた”側の人間なのだが。

 

 

 

 

 

「う、わああああああああ!」

 

 狂乱に駆られた警備隊の1人が機関銃を乱射する。無差別に放たれた弾丸は、ただむき出しの岩肌に弾痕を刻むばかり。標的には全く届かない。

 

 冷静さを欠いた仲間を叱咤すべく、別の軍人が声を上げた。

 

「取り乱すな! 隙を――」

 

「作るな、か?」

 

 しかし次の瞬間、その言葉を言いきる前に、彼の胸から一本の槍が生えた。

 

「カ、ハッ――!?」

 

「人を気にする余裕があるなら、自分の背後に気を付けるべきだったな」

 

 背後からそう囁くと、ルイス・P・ゲガルドは槍を引き抜いた。心臓を一突きにされた軍人はふらりと倒れ込むと、既に鮮血の海に沈む他の3人の死体と同様に動かなくなった。

 

「あ、あぁ……!」

 

 残された隊員は、ルイスへと機関銃を向ける。しかしその隊員が瞬きをした刹那、彼の姿は忽然と姿を消した。

 

「ッ……どこだ、どこにいるッ!?」

 

 同じ班に配属されていた4人の仲間は皆、この特性によって葬られた。一度姿を見せたとしても、瞬きほどの時間があれば襲撃者は煙のように消えてしまう。索敵に適した特性を持っていれば、まだましな対応ができたのかもしれないが……不幸なことに、探知能力を持った隊員は真っ先に襲撃者によって潰されている。

 

 今の彼にできるのはやみくもに銃を乱射するか、さもなくば――

 

「あ、ああああああああ!!」

 

 ――恐怖におののいて、逃げ出すことばかりである。

 

「おい、そっちは……いや、言うだけ無駄か」

 

 ぬぅ、と。

 

 まるで岩から滲みだしたかのように姿を見せたルイスは、呆れるようにそう言った。その体にはダイバーを思わせるウェットスーツのようなものを着こんでおり、密着した布地越しに人体の黄金比を体現した肉体が見て取れる。

 

 彼の視線に射貫かれながら、隊員は通路の向こうへと走っていく。このまま逃げ切れるか、と錯乱のさなかで、淡い希望が芽生える。

 

 だが彼が曲がり角に差し掛かったその時、角の向こうから伸びた無数の腕が、彼を絶望の淵へと叩き落とす。

 

 おそらく十人分以上はあるだろう、夥しい数の人の腕。それは戦闘服の袖やベルトを掴むと、悲鳴を上げてもがく隊員を角の向こうへと引きずり込んだ。

 

 そして――耳を塞ぎたくなるような、凄惨な断末魔。やがてそれは徐々に弱まっていき、次第に掠りきれるように消えた。

 

 後はぐちゃ、ぐちゃと肉を引き潰すような嫌な音と、薄気味悪い無数のうめき声が響くばかりだ。

 

 若き警備兵の末路を見届けたルイスは、興味をなくしたように通路に背を向けると、壁にかけてあったスーツの上ポケットから通信端末を取り出した。

 

「おい、聞こえているか? 本当に女王(クイーン)はこの先であってるんだろうな、僧侶(ビショップ)

 

『ンフ、勿論ザンス!』

 

 通信端末の液晶画面にデカデカと表示された太った中年女性の顔に、ルイスは思わず顔をしかめた。

 

 彼女を一言で形容するならば、とてもカラフルだった。安物の3D眼鏡のように、赤と青のレンズがはめ込まれたデカいサングラス。ショッキングピンクの口紅で彩られた分厚い唇の隙間から覗く歯は、その一本一本が七色のお歯黒で塗り分けられている。パンチパーマの髪は紫の染料で染められ、厚ぼったくけばけばしい化粧と合わせて、その様相はまさしく怪人と言う表現が相応しい。

 

『? 何ザンス? アタクシの顔に何か?』

 

「強いて言うなら、何 も か も だ」

 

 ルイスは自分の中の堪忍袋の緒が切れる音を聞いた。ミシ、と手中の通信端末の画面にひびが入る。

 

「何のために貴様を牢から出したと思ってる! 武器を確保し、人兵(ポーン)を強化するというから貴様に自由行動を許したというのに! 化粧をしている暇があったら、さっさと役目を果たせ!」

 

『ンマァ、人聞きの悪い坊やザンスねェ。化粧は女の武器ザンショ? それにアタクシはこれでもちゃあんと、やるべきことはやってるザンス。ええ勿論、アポリエール上級司祭の肩書に懸けて』

 

「……なら、さっさと終わらせて合流しろ。この施設の陥落はそう遠くないうちに伝わる。包囲されたら、脱出には骨が折れる」

 

『ハイハイ、分かったザンス。適当に切り上げて、そっちに合流するザンス』

 

 ビショップがそう言ういや否や、一方的に通信が切断された。ルイスはそれを見て不機嫌そうに鼻を鳴らすと、乱暴に通信端末をポケットにしまう。

 

「まぁいい、この先だな?」

 

 ルイスはそう言うと、槍を担いで通路を奥へと進んでいく。しばらく進むと、彼の前には銃で武装した兵士たちが表れた。

 

「いたぞッ!」

 

「撃て、蜂の巣にしろ!」

 

 

 

「――邪魔だ、凡人め」

 

 

 

 銃を構える、照準を定める、引き金に指をかける、引き金を引き、無数の弾丸が迫る――随分と悠長な攻撃だ。その数秒の時間に、こちらは何動作もできるというのに。

 

 ルイスは三角跳びの要領で壁を足場に、通路に立ちふさがった軍人たちを跳び越えた。その背後に降り立った彼は、何が起きたかを理解する間も与えず、無防備な軍人たちを背中から飛び出した十数本の棘槍で貫いた。

 

「がッ……!」

 

「あぎっ!?」

 

 心臓や脳などを貫かれた者は即死し、そうでない者も血を流しながら苦し気に悶える。おそらくそう長くは持たないだろう。

 

「ッ、お前ら――!?」

 

「……一人仕留め損ねたか」

 

 ただ1人、ルイスの一撃を受けて傷を負っていなかったのは、辛うじて変態が間に合った隊員だった。彼の手術ベースが、昆虫型でも上位に数えられる肉体強度を持つ甲虫だったことも大きい。

 

「黄褐色の翅、腕から伸びる黒い(レイピア)――ヘラクレスオオカブトだな、お前?」

 

 即座に彼の特性を見抜いた彼はすぐさま体を反転し、背後へと跳び退いた。

 

「フン、下らない。装甲が脆弱な部位を狙えばいいだけのことだ。覚えておくといい、例え人為変態でも――」

 

 突進してくる隊員、ルイスはその心臓部を目掛けて槍を構える。咄嗟に左腕で胸部を庇う隊員。

 

 

 

 

 

「――眼球と排泄器官は硬化しない」

 

 

 

 

 

 次の瞬間、ルイスの槍の穂先は隊員の右目を刺し貫いていた。やや上向きの角度、本人の技量とベース生物の特性が相乗した絶速によって抉りこまれた一撃は、そのまま隊員の脳を破壊する。

 

「フン、他愛のない」

 

 引き抜いた槍にべったりとこびり付いた血と脂を丁寧にぬぐい取ると、ルイスは目の前の重厚な鉄扉を見つめた。

 

 ――この奥に収監されているのは、研究所内で最も凶悪な経歴と手術ベースを持つ死刑囚である。

 

 U-NASAと各国が水面下で進めている『裏アネックス計画』。その計画においてアメリカが派遣する補充人員を束ねる幹部候補としてダリウスと共に名を挙げられながら、協調性の低さや精神面の不安定さ、そして()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()ゆえに計画参加を見送られた、正真正銘の怪物。

 

 ルイスはあらかじめ用意していたカードキーで、重厚な扉を開錠する。電動でゆっくりと開かれた扉の先には、また扉。極めて厳重な収容プロトコルである。総計3枚の扉を開けた所で、ルイスはようやく独房の中に足を踏み入れることができた。

 

 

 

 

 

「止まれ」

 

 

 

 

 

 女の声に、ルイスはピタリと足を止めた。独房の中には照明がない。空気清浄機の稼働音が響くばかりで、指先すらも見えない程の闇だけが空間を満たしている。しかし幸運なことに、ルイスの特性は比較的夜目が利く。辛うじて彼は、声の主の姿を視界に収めることができた。

 

「名乗りなさい……お前は、何者?」

 

 こちらを警戒しているのだろう、声の主は唸るように尋ねた。それを受け、ルイスは口元を歪めた。

 

「お初にお目にかかります、女王陛下(クイーン)。私はルイス・P・ゲガルド――貴女をお迎えに参上しました。不躾なお願いで誠に恐縮ですが、我々が直面している戦争に貴女のお力をお借りしたく」

 

「そう、遥々ご苦労サマ。その口説き文句は0点よ――失せなさい、キザ男」

 

「……まったく、こちらが下手に出れば」

 

 不機嫌そうにぼやくが、ルイスは逆上するような真似はしなかった。ここでこの女を殺せば、開戦前に最大戦力を失うことになりかねない。ルイスは高慢な男ではあるが、決して無能ではない。

 

 計算高い彼は知っている、この聖戦を勝ち抜くためには彼女の力が必要なことを。

 

 ルイスの情報網によれば、黒陣営の切り札はかの“シド・クロムウェル”。加えて今この時も、自らの主とエドガーは盛大な盤外戦(マインドゲーム)を繰り広げているはずだ。乱入対策として『あの危険因子』を解きはなった以上、滅多なことは起こらないはずではあるが――自衛のための手段はあるに越したことはない。

 

「フン、まぁいい……どのみち、貴様は自分から行くと言い出すことになるんだからな」

 

「? お前、何を――」

 

 訝しむような女へ、ルイスは『それ』をひょいと放ってやった。女の手中にぴったりと飛び込んだそれは、一枚のブロマイド。既に闇に慣れている彼女の目は、そこに写っている人物の姿を確認し――。

 

「ッ!」

 

 初めて、感情を顔に出した。怪物といえども所詮は人の子か、とルイスは口元を歪めながら言葉を続ける。

 

「この戦争に参加していただければ、かなりの確率で彼と出会うことになりますよ。さて、もう一度聞きましょう……お力添えをいただけますかな、女王陛下――いや」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「“女殺人鬼(レディ・オースティン)”、エメラダ・バートリー」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――かくして、駒は出揃った。

 

 

 先手は白――真白に淀んだ泥人形は今、星条旗に血濡れの聖槍を突きつける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            『戦乙女の虚ろな涙』

 

 

 

 

 

 

   『極彩色の悪意』

                           『認知を侵す心影』

 

 

 

  『メルトダウン』

 

 

 

           『愛で私を殺してください(シンデレラコンプレックス)

 

 

 

 

 

                             『人喰らいエスメラルダ』

 

 

 

 

                      『伝染する狂気』

 

 

 

最悪の害虫(The Pest)

 

 

 

 

       『呪歌の残響』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

               『穢れた聖槍(オリヴィエ・G・ニュートン)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 To be continued second song ―― 冒涜弔歌 OLIVIER ――

 

 

 




【オマケ①】 女子力検定出張版(100点満点)

ダリウス・オースティン
料理:100(超一流に片足を突っ込んでる)
洗濯:70(手練れのオカン級)
掃除:68(小姑並に細かい汚れに気付く)
裁縫:32(白い糸が縫い終わるころには赤くなる)
礼儀作法:50(一番反応に困る数値)

スレヴィン・セイバー
料理:78(料理漫画で主人公張っても大丈夫)
洗濯:69(手練れのオカン級)
掃除:62(綺麗な人で大体こんなもん)
裁縫:89(歴戦のお婆ちゃん級)
礼儀作法:74(マナーのうんちくを語って良いレベル)

シモン・ウルトル
料理:93(自分の食生活と料理の腕は必ずしも相関しない)
洗濯:98(クリーニング界の神)
掃除:34(汚☆部☆屋☆)
裁縫:61(家庭科が得意だった人レベル)
礼儀作法:83(マナー講座を開いても許される)



総評:全体的に女子力高い。



【オマケ②】 出演キャラ・設定紹介
ダリウス・オースティン(深緑の火星の物語)
手術ベース:???
 コラボメインキャラ①。アネックス計画を支援するために企画された『裏アネックス計画』において、北米第一班を指揮するオフィサー。
本体は腕相撲大会で情けない姿を晒す程度に弱いが、ベース生物は兵器という言葉が相応しいくらい強い。知名度はドマイナーな生物で、長らくベース予想を生きがいとする読者たち(主に私)を苦しめてきた。
 人当たりがいい好青年二しか見えないが、彼の背負う救いようのない十字架とは……?


スレヴィン・セイバー(インペリアルマーズ)
手術ベース:???
 コラボメインキャラ②。MO手術被験者が寝泊まりするU-NASA寮の寮監。ミッシェルとは幼馴染で、小さいころから彼女の母親に片思い中。
ダリウスとは対照的に本体は元軍人でかなり強いが、ベース生物は近所のスーパーでパック詰めになって売ってるあいつ(ただしスペック的には普通に強い)。
 真面目に不真面目なおっさん系だが実はシモンより年下。そんな彼もまた、とある十字架を背負っている。

※二人の詳細な紹介は本編中にて

“アポリエール”(深緑の火星の物語)
 ニュートン一族の分家の1つ。ファティマ曰く「木っ端も木っ端」とされる程に小さな家柄。一族郎党宗教に傾倒しており、しかも腐敗が進んでいる。二つの意味で一族の面汚し。

白ビショップ「いつもニコニコ、笑顔が絶えないアットホームな宗派ザンス」ニチャァ

ロドリゲス「学歴不問、年齢問わず、信仰未経験者も歓迎しております」ニチャァ

不死の修道女「ホモ・サピエンス(ヒト)として成長できる環境です」ニチャァ

虹色の枢機卿「どなたでも、お気軽に『救済』されていただきたく!」ニチャァ

教皇「少しでも興味ある方はお電話を。皆さまのお電話――」

「「「「「お待ちしてます」」」」」ニッッッチャァ

(笑顔が素敵なアポリエールの皆さんより)



ギルダン・ボーフォート(深緑の火星の物語)
 U-NASA第七特務支局の隊長。かつて『無双』と恐れられた傭兵であり、豪胆な性格で荒くれ揃いの第七特務をまとめ上げる。手術ベースは蟻の一種、息子がいるらしい。

モブ部下A「ギルダンさん? ああ、ホントいい人だよな。ついさっきも差し入れ持ってきてくれたし」

モブ部下B「俺らみたいなゴロツキも見捨てねえ。どこまでもついていくぜ、俺は」

モブ部下C「あの人の下で働けて、俺たちは幸せもんさ!」


 ――2年後に起こる惨劇を、彼らはまだ知らない。





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冒涜弔歌OLIVIERー1 痛痒聖戦

「――待て」

 

 ルイスの制止で、彼の後ろを歩くエメラダは足を止めた。時刻は夜明け前、背後に見える海の、東の水平線上を塗りつぶす濃紺が微かに薄れ始めた頃合いである。

 

「何よ?」

 

 怪訝そうに聞き返すエメラダの声には答えず、ルイスは背負っていた槍をその手に構えた。血統に由来する超感覚を研ぎ澄まし、ルイスは素早く周囲の様子を探る。

 

 現在、彼らがいる場所は巨大な樹海の中だ。乱立する樹木は姿を隠し、苔むした地面と木々の葉のざわめきは足音をかき消す。目的地まで敵に気取られず接近し、奇襲をかける――白陣営の目的にこれ以上適した経路はない、という判断の下での選択だったのだが。

 

 

 

 ここに至るまで『狩る』側だった彼は見落としていた――()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「――来るぞ、敵襲だッ!」

 

 

 

 ルイスが警告を発するのと、茂みから飛び出した男が凶刃を薙いだのは全くの同時だった。

 

 一寸の狂いも迷いもなく、首を刎ね飛ばさんと迫る剣閃。それを紙一重で避けると、ルイスはカウンターの刺突を放つ。

 

 ――ガィン!

 

 硬質な物同士がぶつかる音が響き、闇の中に火花が散る。ルイスは自分の攻撃が防がれたことを悟り、一瞬遅れて腕に伝わる硬い感触でその推論の正しさを確信した。

 

 攻撃直後で体勢を崩しているはずの状況。そこに叩きこんだ一撃を、並の使い手程度が返せるはずもない。ならば必然的に、目の前の襲撃者は相応の実力者ということになる。

 

 そこまで考えたところでルイスは初めて襲撃者の姿を視認し――そして、一気に表情を強張らせた。

 

 

 

「ッ、シド・クロムウェル――!?」

 

 

 

「ご機嫌麗しゅう、白のルーク!」

 

 

 

 その言葉に、ぎらつく眼光を湛えた襲撃者――シド・クロムウェルは、獰猛に嗤う。骨のような質感の刀身の奇妙な西洋剣を上段に構えると、彼はそのまま地を蹴った。彼の視線の先には、立ち尽くすエメラダの姿。

 

「チィッ!」

 

 忌々し気に舌打ちをすると、ルイスは両者の間に文字通り『横槍』を入れた。

 

 現在、ビショップ以下の兵力は別行動をとっている。彼女らがいれば蹴り飛ばして肉壁にでもしているところだが、今この場にいる白陣営の戦力は自分とエメラダのみ。物騒な肩書こそ持っているものの、彼女本人の身体能力は平均的な女性から逸脱するものではない。変態もしていない生身では、格好の獲物である。

 

 この盤面で女王(クイーン)を落とすわけにはいかない。そう判断した結果の行動だった。

 

「下がっていろ! 死にたくなければな!」

 

「はいはい、言われなくてもそうするわよ」

 

 可愛げのない彼女の返事に文句を返す余裕は今のルイスにはない。

 

 先日送り込んだ部下を始め、この男はこれまでにニュートンの血筋に連なる人間を幾人も葬っており、その中には格闘技の世界タイトル保持者や古武術で師範を務める者も含まれている。ルイスの実力は一族全体で見たとしても相当高い部類だが、それでも気を散らして勝てる相手ではない。

 

「貴様1人だけとは、随分と舐められたものだ!」

 

「一人で十分だからな。悔しければ、俺だけでは手に余ると証明して見せろ」

 

 次々と――しかし機械的な精密さで振るわれるシドの剣閃は、その全てが人体の弱点を捉えた致命の一撃。それを凌ぐルイスが浮かべるのは必死の形相だが、その一方で攻め立てるシドは息すら切らしていなかった。

 

 その余裕は、己の殺人術の技量への絶対的な自信に由来するもの。闘争と破壊でその経歴を彩られたシドにとって、自分以外の全てはすべからく破壊の対象である。例え人間を越えた能力を有するニュートンの血族を相手取ったとしても、それは例外ではない。彼にとっては、壊れやすいか壊れにくいかの違いがあるだけなのだ。

 

「クカカ……まずは貴様から解体してやろう。死に晒せ、ゲガルドの倅」

 

「ほざくな下郎! この場で死ぬのは貴様だ!」

 

 叫ぶと同時、ルイスは羽織っていた上着をシドへ向かって放り投げた。何か仕掛けがあるわけでもない、時間稼ぎのための目隠し。下らない、と手中の剣でそれを薙ぎ払い――しかしその直後、シドは少しばかり表情を崩した。

 

「ほう、これは……」

 

 ルイスが視界から消えていたのである。目の届く範囲外に逃れたというわけではない、数秒前までルイスがいた場所には彼が来ていた衣類一式と、空になった変態薬の容器が転がっている。事情を知らない者が見れば、ルイスが煙になって立ち消えたと思い込んでも不思議ではないだろう。

 

「“擬態”か」

 

 ここまで巧みな擬態であれば、通常真っ先に疑われるベースはタコやイカなどの頭足類。だが投薬形状が『座薬』であり、容器が存在しない軟体動物の可能性は低い。フェイクの可能性は否めないが、容器の形状からおそらく――

 

「魚類の一種だな? 大した錬度だ、まったく所在が掴めん」

 

 特性を見抜いたシドは、思わず称賛を口にせずにはいられなかった。

 

 魚類が有する擬態能力の多くはそれぞれの生息域に特化したものであり、サンゴ礁に住む魚はサンゴに、岩礁に住む魚は岩に似た質感と色合いの皮膚を持つ。ホームグラウンドで彼らを視認するのは至難を極めるが、その反面それ以外の環境への適応力に欠け、MO手術のベースとしては向いていない種も少なくない。

 

 生息域によっては同種でも体色が変わる種も存在するため、皮膚の配色や質感を環境に合わせて変えることも不可能ではないだろう。しかしそのためには相当な期間の鍛錬を必要とする。加えて完全な隠密行動のためには、本人の技術として足音や気流を発生させない移動術の習得が必須であり、求められるハードルは極めて高い。

 

 ルイスの動きが捉えられないという事実は、それ自体が彼の技量と練度の高さの証左なのだ。

 

 もっとも――

 

 

「全て、無意味だがな」

 

 

 

 ――あくまでそれは『人間の感覚に頼っていれば』の話だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「 E l d e r() ― M E T A M O R() P H O S I S(変     態) 」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 懐から取り出した薬を使用した瞬間、シドの肉体は細胞レベルで再構成される。口内に並ぶ歯は例外なく強靭な鋭さを帯び、全身は美しくも頑健な純白の皮膚に覆われていく。

 

「七時の方向、そこかッ!」

 

 シドは叫ぶや否や、その体を反転させて剣を振るう。傍から見れば、それは虚空を薙いだだけに見えるだろう。だが、静まり返った樹海に響いたのは風切り音ではなく衝突音。その後もシドが腕を動かすたびに、彼から数十センチほど離れた空中に火花が咲く。微かに空気が揺れ、ルイスの動揺が手に取るように伝わった。

 

「……何、アレ?」

 

 その光景を静観していたエメラダが思わず呟く。シドがルイスの攻撃を知覚した種の話ではない、彼女の疑問はもっと根本的な部分へと向けられたものだ。

 

 シドの姿は一見して、通常のMO手術の被験者と大差ない。特別生物学に秀でているわけでもないエメラダには見当もつかないが、おそらく手術ベースとなった生物自体は比較的オーソドックスな種類のものだろう。身体の異形化も少なく、細菌や原生生物といった高難度の生物でもないはずだ。

 

 だが――体の芯をビリビリと揺さぶる、あの圧倒的な威容は何だ?

 

 それはエメラダが初めて認識した感覚、しかし彼女はその名をよく知っている――これは、『恐怖』だ。

 ホラー映画を見た時に感じるような陳腐なそれではない、もっと原始的で純粋な「食われる」という、生物の本能に根差す原初の感性。それをたった一人の人間が喚起したという事実に薄ら寒さを感じながら、エメラダは戦況を見守る。

 

「忌々しい! 貴様、感知能力持ちか!」

 

 完全に捕捉されていることを悟り、ルイスは擬態を解いて姿を現した。ダイバースーツのような衣装に身を包んだ美丈夫、その額には玉のような汗が浮かんでいた。

 

「クカカ……さて、な!」

 

 言いながらシドは大地を蹴り、一気にルイスとの間合いを詰めた。次の一合で決着を付ける腹積もりらしい。

 

「舐めるな――!」

 

 それを察したルイスは、槍の刺突でシドを迎撃する。ニュートンの筋力とルイスの技量、そしてベース生物由来の瞬発力を相乗した渾身の穿撃。しかしシドはそれ容易く受け流すと、大きく一歩踏み込んだ。槍の間合いから、太刀の間合いへ。今から槍を引き戻しても、ルイスに反撃のチャンスはなかった。

 

「――終わりだ」

 

 刹那の空白。永遠とも思えるほどに長い一瞬に、シドは嘯く。だが、その言葉を聞いたルイスが浮かべた表情は絶望でもなければ諦観でもなく――“喜色”だった。

 

「ああ……貴様がなァ!」

 

 シドの眼前、ルイスの腹部にボコボコとした隆起が幾つも生まれ――次の瞬間。踏み込みの勢いのまま接近するシドの真正面から、ダイバースーツに設けられた隙間を縫って射出された十数本の槍が彼に襲い掛かった。

 

 この一撃こそ、ルイスが狙っていた本命の攻撃である。長槍による刺突は、本来背中に備わる器官である棘を腹部に生成するための時間稼ぎにすぎない。

 

「串刺しになれ、狂犬め」

 

 勝利を確信し、ルイスは愉悦に顔を歪めた。あとは自分が何をする必要もない、ただシドが自分から槍に刺さりに来るのを待てばいいだけだ。

 

 彼の思考は決して的外れな物ではない。この時のシドは速攻を目指していたためにその速度は速く、簡単には止まれなかった。いわば、自分から針の筵ならぬ槍の筵に飛び込んでいるようなものだ。

 

 仮に体が反応できたとしても、彼がその場で踏みとどまり、体を逸らし、爪先と踵に力を込めて背後の安全圏へと離脱するまでの間に――勢いよく飛び出した槍のどれかが、彼の体を抉るだろう。そしてこの十数本の槍のどれか一本、たった一本でも標的の体に傷をつけることが叶えば、その瞬間にルイスの勝利は確定する。

 

 ――繰り返すが、この時のルイスの思考は決して的外れなものではない。それどころか、適切な思考だったとさえ言えるだろう。普通ならば、この状態からの逆転はあり得ない。

 

 だが彼はこの瞬間、失念していたのだ。目の前の男が普通ではない存在(黒のクイーン)だということを。

 

 

 

 

 

「  邪  魔  だ  」

 

 

 

 

 

 迫りくる槍の穂先。それを認識した瞬間、シドは左下から右上へ、逆袈裟切りとでもいうべき軌道で力任せに剣を薙ぎ、十は下らない槍のことごとくを強引にへし折った。

 

「な……ッ!?」

 

 驚愕するルイスへ、シドは刀身を振り下ろす。縦一文字に刻まれた傷から紅がほとばしり、ルイスは崩れ落ちた。

 

「貴、様ァ……!」

 

「無様だな。そこで寝ていろ、死に損ない。その傷では何もできんだろう」

 

 地に這いつくばるルイスにシドが言い放つ。本来ならこのままとどめを刺すところであるが、未だ白の女王(エメラダ)が健在。彼女がどう動くか分からない以上、迂闊な真似はできない。

 

 ルイスを脅威にはならないと断じ、彼は標的をエメラダへと切り替えた。

 

「次はお前だ、白のクイーン。遺言はあるか?」

 

「別に……それより、一応聞いておきたいんだけど」

 

 淡々とした口調でエメラダが言う。自らに剣を向けるシドにも、苦し気に呻くルイスにも興味を微塵も抱いていないような、冷めきった目だ。

 

「私が『この戦争から降りる』って言ったら……お前、私を見逃すつもりはある?」

 

「何だと?」

 

 さすがに予想外だったのだろう、眉をひそめるシドにエメラダは言う。

 

「私の目的は『もう一度、あの人に会うこと』――ただそれだけ。一応、解放してくれたルイス(そいつ)には義理と実益で従ってはいるけど、命をかけてまで付き合うつもりはない。そいつとオバサンが尻尾を振ってるオリヴィエ様とやらにも、全然興味ないしね」

 

「エメラダ貴様、裏切るつもりか……!」

 

「裏切るも何も、勝手に女王だなんだって色々押しつけてきたのはそっちでしょ」

 

 面倒くさそうにエメラダはため息を吐くと、睨みつけるルイスを尻目にシドを見やった。

 

「お前が見逃すなら、私もお前達の邪魔はしない。ルークは瀕死でクイーンは離脱。美味しい話だと思うんだけど?」

 

「なるほど、悪くない――と、言うとでも思ったか?」

 

 シドの言葉に、今度はエメラダが顔をしかめる番だった。

 

「理由、聞いてもいい?」

 

「第一に、お前の言葉には根拠がない。第二に、俺の任務は「白陣営の皆殺し」。第三に、お前の考え方が純粋に気に入らない。このくらいで満足か? ――では、死ね」

 

 そう言った瞬間には既に、シドはエメラダとの間合いを詰め、剣を上段に構えていた。

 

「踊って見せろ、小娘」

 

 ――歴戦の殺し屋は、警戒している標的にさえ、正面から気付かれずに間合いを詰めることができる。

 

 それは足運びや視線誘導、会話術を巧みに組み合わせた移動術のなせる業。気付いた時には既に間合いの中、標的は正面からの奇襲によって命を落とすことになるのだ。

 

 一朝一夕で身につけられるものではない。天賦の才と後天的な学習、そして数えきれない程の死線をくぐり抜けた経験――その全てを兼ね備えた者だけが身につけることのできる技法である。人間としての次元が違うのだ。シドはまさしく、ヒトの姿を借りた修羅であるといえるだろう。

 

 

 

 

 

 だが、シド・クロムウェルが修羅ならば――エメラダ・バートリーは怪物である。

 

 

 

 

 

「あっそ。それじゃ、私も答えてあげる――お前みたいなダンスパートナーは、願い下げよ」

 

 

 

 ――ポタ、ポタ、と滴る紅の雫が、苔むした樹海の地面に赤い水たまりを生み出す。

 

 しかしその出所はエメラダの柔肌ではなく――分厚い皮膚に覆われた、シドの脇腹だった。

 

 

 

「……!」

 

 ミシミシと肉が軋み、傷口が押し広げられていく感覚。攻撃がまだ終わっていないことを察したシドは、咄嗟に後方へと飛び退いた。ずるりと体内の異物感が消失し、栓のなくなった傷口からドクドクと血が流れだす。血は止まる気配を見せず、見る見るうちに膿んで赤く腫れあがっていく。異様な灼熱感と違和感はあるが、不思議と傷の痛みはなかった。

 

「なるほど、これが薬を使わない変態……便利ね」

 

 そう言いながらエメラダは、生物の特性を反映させたそれへと変異した自身の体を物珍し気に眺めた。

 

 ――αMO手術。

 

 成功率0.3%の壁を乗り越えて彼女が手に入れた恩恵の1つ、“薬を使わない人為変態”である。

 

 投薬時に比べると出力が低下し、更には心身がベース細胞に不可逆的な侵食を受けるリスクこそあるが、一瞬の隙が明暗を分けるMO手術被験者同士の戦闘において、投薬の一手間が省けるメリットは大きい。

 

 先の一合も、エメラダの変態があと少し遅れていれば回避が後れ、彼女は呆気なく切り捨てられていただろう。

 

「それで、まだやるつもり?」

 

 エメラダは喜怒哀楽のいかなる感情も見せず、強いて言うなら鬱陶しそうにシドを見やった。

 

 その全身に黒く薄い甲皮を纏い、両腕からは巨大なメスや注射針や開創器など、手術器具か拷問器具を思わせる禍々しい器官が幾本も生やしている。凶器の十徳ナイフとでも表現すべき形状に展開されたそれは、シドの目の前で収束すると束になり、一本の奇形の槍を象った。

 

 更に背中から生えた二枚の翅が忙しなく細動し、聞く者の嫌悪感を喚起する耳障りな羽音を奏でる。その様子はまるで、地獄の最下層から招来された悪魔のそれを思わせた。

 

「ここで退くなら、見逃してあげてもいいけど?」

 

「退く? ク、ク……クカカカ! 寝言は寝て言え、女殺人鬼(レディ・オースティン)

 

 9割の面倒くささと1割の善意から、エメラダの口をついて出たその言葉。しかしシドはそれを一笑に付すと、戦意をたぎらせながら再び西洋剣を構える。

 

()()()()()()()()()()()()()()()! 手足は動き、心臓は未だ止まらず、脳は冴え渡り、内なる衝動は壊せ壊せと哭き叫ぶ! 俺を退かせたくば、半身を吹き飛ばすくらいのことはしてみせろ!」

 

「あっそ」

 

 億劫そうに吐き捨て、エメラダは変態薬を接種する。刹那、彼女の体は一陣の風となって飛翔する。その速度はまさに電光石火と呼ぶに相応しく、彼女はシドの背後へと瞬間移動すると、無防備な背中から心臓を目掛けて槍を繰り出した。

 

 対するシドは辛うじてそれを察知し、体の軸をずらすことで致命を免れる。しかし攻撃そのものを回避するには至らず、エメラダの槍はその左肩を貫いた。

 

 そして槍は、()()()()()()()()()()。展開されたメスが刺し傷を切開し、開創器が拡大した傷を強引に押し広げる。

 

 変態したシドの皮膚は天然の防刃スーツと形容してもいいほどの強度を誇り、並の攻撃は通さない。しかしエメラダの槍は、まるで豆腐を切り裂くかのような滑らかな動きで、シドの肉体をズタズタに切り裂く。左腕が引きちぎられて地面に落ち、滝のような血が流れ出した。

 

「シッ!」

 

 だがシドは、それを意にも介さない。彼は身を翻すと、背後のエメラダを無事な右腕に構えた剣で薙ぎ払う。

 

 並の人間ならば反応することの敵わない、神速の太刀。しかしそれも、特性を発動させたエメラダには止まって見えた。当然だ、エメラダとシドでは速さの次元がまるで違うのだから。

 

 切っ先をひょいと避け、エメラダは翅を羽ばたかせて剣の間合いから離脱する。宙返りした彼女が手近な木の幹に着地した頃にようやく、シドは振り切った。

 

 ――押し切れる。

 

 そう判断したエメラダは知覚される前にその場を飛び立ち、再び彼の背後に回り込んだ。少々拍子抜けであるが、これで『お終い』だ。彼女は歪な槍を振りかぶり、再びシドの心臓へと突進する――

 

 

 

「――捉えたぞ、エメラダ・バートリー」

 

 

 

 だが、それが三度シドの肉体を傷つけることはなかった。防御のためにシドが構えた西洋剣、その側面で穂先が食い止められたのである。

 

「っ!?」

 

 シドが反撃に転じるより速くエメラダは反転し、すぐさま別角度から彼の急所を狙う。しかしそれも、シドが右腕のみで振るう剣によって防がれた。その後もエメラダは絶え間なくシドへと攻撃を繰り返すが、最初の二撃が当たっていたのが嘘のように、エメラダの攻撃は見切られていく。

 

 次第に攻防の形勢はやがて逆転し、十数合と打ち合った後、ついにシドの剣先がエメラダを捉えた。

 

「……お前、何をした?」

 

 木の枝に止まってそう尋ねたエメラダの頬の傷から、血が筋となって顎へと伝っていく。

 

「別に、大したことでもない。ただお前の速度と動きの癖に、俺の動きを合せて対応しただけだ」

 

 飄々と返されたその答えに、さすがのエメラダも顔を引きつらせた。

 

「さて、これでお前の優位は1つ消えたな。そして――」

 

 そう言うと同時、シドが右腕に持つ西洋剣の刀身に、幾何学的な文様が浮かび上がった。それと同時、粗雑に引き裂かれた左肩の傷跡の肉が蠢いたかと思えば、()()()()()()()()()()()()()。脇腹の傷も見る間に塞がっていき、最終的には赤い腫れこそ残ったものの出血は止まる。

 

「これで条件は五分。さあ白の女王よ、殺し合いを再開しよう」

 

「……」

 

 どこまでも楽しそうなシドに対し、エメラダの苛立ちは頂点に達しつつあった。既に暁闇は薄れ、東の空は白み始めている。エメラダにとってこの作戦の成否などどうでもいいが――やられっぱなしというのは性に合わない。

 

 だから、エメラダは決断した。

 

「いい加減、めんどうね――()()()()使()()()()()()()

 

 “最悪の害虫”と称される、エメラダのベース生物――それが有する禁断の特性と、それを如何なく発揮するために科学者と倫理委員会の反対を押し切り、一部のU-NASA上層部が開発を断行した禁忌の専用武器の発動を。

 

 ――ブン、ブン、ブゥン! ブン、ブン、ブゥン!

 

 エメラダはその場から動かず、一定のリズムで翅を振動させる。先程までとは対照的な、静の挙動。それに対してシドが違和感を覚えた、その時。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――なんの前触れもなく、()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「がッ!?」

 

 もはやそれは、本人の技量やベース生物の特性云々で対応できるものではない。無防備に倒れそうになるのを辛うじてこらえ、シドはその場で膝を折る。

 

 ――ブゥン、ブゥン、ブゥン!

 

 シドが動けなくなったのを確認したエメラダは輪唱のように、別の羽音を重ねる。その途端周囲の木が、草が、苔が――まるで映像を早送りしたかのように腐敗を始めた。

 

 

 

 ――それは、悪魔が奏でる忌まわしき葬送曲。あらゆる生命を凌辱する、死神の音色。

 

 

 

 自重を支えきれなくなった大木の一本がミシミシと軋んだ音を立て、シドを目掛けて倒れ込む。今の彼にはそれを避けることも、防ぐこともできない。だからこそ彼が取った行動は防御でも回避でもなく、『迎撃』だった。

 

 

 

「ゴ、ガアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 

 

 

 獣のような雄叫びを上げたシドが放ったのは、超威力の衝撃波。大気を震わすそれは無差別な爆撃ではなく、一定方向への指向性を持った砲撃とでもいうべきもの。

 

 

 

 ――それは、君臨者が奏でる厳かな行進曲。立ちはだかる一切を蹂躙する、魔王の音色。

 

 

 

 波動はシドの正面延長線上に存在するあらゆる物体を粉砕しながら、葬送曲を奏でるエメラダに迫る。

 

「くっ……!」

 

 咄嗟に飛び立つも完全に避けることはできず、エメラダはきりもみになりながら地面へと叩きつけられた。

 

 全身に細かな傷が刻まれ、強かに頭を打った彼女の視界に星が散る。内臓を引っ掻きまわされたような感覚に咳き込めば、めくれ上がった茶色の地面にぼたぼたと血が零れた。

 

 掠めただけでもこの威力、直撃していたらどうなっていたことだろうか? エメラダは一直線に木々が薙ぎ倒された樹海を、肝が冷える思いで見つめた。

 

 ふらつきながらもエメラダが立ちあがると、眼前ではシドが態勢を立て直したところだった。既に心臓も正常に動き出しており、エメラダに比べて目立った外傷は少ない。だが槍の刺突や内臓への攻撃は蓄積し、見た目以上の消耗を彼に強いていた。

 

「見事、ここまで俺を追い詰めたのはエドガー以外には貴様が初めてだ……だが! 俺を殺すには! まだ足りない!」

 

 満身創痍、と言っても過言ではないだろうポテンシャル。しかし、シド・クロムウェルは止まらない。己を殺しうる敵と戦う歓喜に震え、狂騎士は高らかに笑う。

 

「白か黒か、どちらかが塗りつぶすまでこの聖戦は終わらない! 今この瞬間、この場所こそが二局の(ことわり)の最前線! さぁ続けようじゃないか、女殺人鬼(レディ・オースティン)! 善悪も際限も御託もかなぐり捨てた、生存競争(ツークツワンク)を!」

 

「しつこい……!」

 

 純白を纏いし黒の女王が剣を、漆黒を纏いし白の女王が歪の槍を構えて対峙する。最早、戦闘の加速は止めようもなく。両者がまさにその命を喰らい合おうとした、その刹那。

 

「!」

 

「む――」

 

 鳴り響いた耳をつんざくようなサイレンに、2人は一斉に音がした方向へと顔を向けた。

 

 音源は樹海を抜けた先、エメラダたち白陣営が急襲を仕掛けようと目指していた米軍基地であった。耳障りなその音が警報アラートの類であること、その警報の対象が自分達であることなど言うまでもなかった。

 

「――少々派手に動きすぎたか」

 

 忌々しそうにぼやくシドの視線の先、基地で一瞬だけ光が閃いた。そこを起点として、朝焼けの空に煙を噴き上げながら打ち上げられるのは、対地ミサイルだった。ミサイルは搭載された衛星信号による誘導で標的に狙いを定めると、シドとエメラダ目掛けて一直線に飛来した。

 

「水を差すな、アメリカ人(ヤンキー)ども」

 

 白けたように言いながら、シドは構えた拳から衝撃波を放つ。強力なそれを諸に受けたミサイルは2人のいる場所まで届くことなく、空中で雅さの欠片もない花火となった。

 

 舌打ちをすると、シドは剣を鞘へと納めた。どうやら戦意が萎えたらしく、突き刺すような殺意もぱったりと途絶える。

 

「興が醒めた。続きはまたの機会としよう」

 

「……お好きにどうぞ」

 

 自分から吹っ掛けておきながら何を勝手な――エメラダはそんな言葉を発しかけるが、休戦の提案自体は彼女にとっても望ましいもの。喉までこみ上げた悪態を飲み込み、エメラダはぶっきらぼうに返した。

 

「ではご機嫌よう、女殺人鬼(レディ・オースティン)。次に会った時に生きていればその首、俺が斬り落とそう」

 

 踵を返したシドは、軽い足取りで木の間に消えていく。

 

 ――今なら殺せるか? 

 

 一瞬だけエメラダの脳裏にそんな考えがよぎるが、すぐさまその考えを打ち消した。

 

「……くっっっだらない」

 

 せっかく面倒ごとの方から遠ざかってくれたのだ、わざわざ自分から追いかける必要もないだろう。

 

 ため息を吐くエメラダの視界の隅で、再び光が閃く。どうやら二発目が発射されたらしい。

 

 気だるげにエメラダが二枚翅を羽ばたかせると、迫っていた弾頭は180°方向を転換し、自身が飛来した軌跡を辿るように飛び去っていく。

 

「あーぁ、無駄に疲れた」

 

 

 

 ――自分とルイスが内部に侵入して攪乱。その後、基地内での爆弾の起動を合図として、ビショップの率いる本隊が基地を制圧する。

 

 

 

 当初の予定は狂ってしまったが自分達の戦闘が攪乱に、今のミサイルが合図代わりになる。

 あとはビショップが率いる別動隊がどうにかしてくれるだろう。どうにもならなくとも、それは自分には関係のない話である。

 

 彼女は地べたに座りこむと、懐に大事にしまっていたブロマイドをそっと取り出した。そこに写っていたのは、赤毛の青年。楽しそうに笑う彼の表情を見て、エメラダは無意識のうちに自分の頬が緩むのを感じた。そこに普段の刺々しさはなく、その様子は恋する女性そのもの。

 

 エメラダはブロマイドの青年にそっと口づけを落とすと、静かに呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「早く会いたいな、ダリウス様」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




【オマケ①】定時報告 白

ルイス「狂犬に切り伏せられるわ、小娘の専用武器に巻き込まれて心臓が止まるわ、挙句に衝撃波に吹き飛ばされて気を失うわ……まったく、貴様のせいで(※完全な濡れ衣)散々な目に遭ったぞ、希维!」

希维「はいはい、私のせい私のせ……というかよく生きてたっすねルイス兄!?」



【オマケ②】定時報告 黒

シド「楽しい殺し合いだったぞ、エドガー。少しでも長く楽しむためにクイーンは見逃し、うっかりルークにとどめを刺すのも忘れたが……最終的に皆殺しにするから問題ないな?」

エドガー「クハハ……貴様には帰国次第、変態した近衛長のアイアンクローをくれてやる」

シド「なぜだ」

エドガー「むしろなぜその報告で余が許すと思った?」





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冒涜弔歌OLIVIERー2 悪夢蔓延

【事前情報修正】

×第2章 クロスオーバーwith『深緑の火星の物語』
○第2章 クロスオーバーwith『深緑の火星の物語』(+インペリアルマーズ)

×第3章 クロスオーバーwith『インペリアルマーズ』
○第3章 クロスオーバーwith『インペリアルマーズ』(+深緑の火星の物語)




 

 

 ――人間が、大好きだった。

 

 皆が喜んでいれば、自分は彼らを祝福したくなる。

 

 皆が怒っていれば、自分は彼らの話に耳を傾けてあげたくなる。

 

 皆が悲しんでいれば、自分は彼らに寄り添ってあげたくなる。

 

 皆が楽しんでいれば、自分は一緒に笑いたくなる。

 

 

 

 ――けれど、今の僕には僕が分からない。

 

 

 

 暗い独房の中、僕は自問する。きらきらと輝いていた日々――他ならない自分の手で穢してしまった在りし日を、思い出しながら。

 

 答えなどない、出るはずもない問いを自分に投げつけ続ける。

 

 

 

 ――人間が好きだ。

 

 

 

 僕に歌の楽しさを教えてくれた父も。

 

 僕に料理のコツを教えてくれた母も。

 

 

 

 男性も女性も大人も子供も友人も恋人も恩師も先輩も後輩も昔からの幼馴染もさっき知り合ったばかりの人も善人も悪人も聖人も囚人もポジティブな人もネガティブな人も僕の歌を聞いてくれた人も僕の料理を食べてくれた人も僕のことが好きな人も僕のことが嫌いな人も通行人も地球の裏側に住んでいる人も会ったこともない人も名前を知らない人も声も知らない人も生きている人も死んでいる人も。

 

 

 

 皆みんな、大好きなんだ。心の底から、愛している。

 

 

 

 ――だけど、だけど。

 

 

 

 もしもこの想いが本物なら、僕という人間はどうしようもなく狂っている。いや、この想いは本物だ、だから僕という存在はどうしようもなく、手の施しようもないほどに狂っているのだろう。

 

 

 

 言い訳はしない、許してくれとも言わない。けれど、どうしても――僕にはわからないんだ。

 

 

 

 誰か、誰か。誰でもいい、どうか僕に教えてくれ。

 

 

 

 人間を××としてしか愛せない僕に、呪われた僕の血に――本当の愛を教えてくれ。

 

 

 

 

 

 

 

 ――それが彼、ダリウス・オースティンの背負いし罪。

 

 

 

 愛知らぬ孤独な殺人鬼に科せられた、悲しくもおぞましき血濡れの十字架である。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

「あらま、あんらマァ~?」

 

「……騒々しいぞ、ビショップ。何だ?」

 

 管制室の椅子に腰掛けながら、ルイスはビショップを見やった。半日前にシドとの決闘で負った傷は既に癒えているものの、その声には疲労の色が滲んでいる。いかにも困憊している様子の彼に対して、白のビショップは唇をにんまりと釣り上げた。

 

「んもォう、ルイス坊ちゃんってば! 恥ずかしがらなくてもいいザンス! アタクシのことは気軽に本名の『ブリュンヒルデ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル・アポリエール』と呼んでほしいザンス!」

 

戦乙女(ブリュンヒルデ)? ハッ、暴食獣(ベヒーモス)の間違いだろう? ……というか、いくらなんでも長すぎだろうが」

 

「ンまァ~、失礼しちゃうザンス!」

 

 白のビショップあらためブリュンヒルデは、球形に近い体躯をゆさゆさと揺すって金切声を上げる。その様は彼女自身のファッションもあいまって、新種のモンスターか何かのようだ。

 

「いいから、さっさと要件を吐け」

 

 ルイスはその姿を、例え一秒でも視界に入れたくないとばかりに視線をそらし、吐き捨てた。

 

「侵入者か?」

 

「みたいザンスねぇ。たった今、リアルとプログラムの両面でアタクシたちは攻撃を受けてるザンス」

 

 そう言いながらブリュンヒルデは、ゴテゴテとした指輪がはめ込まれた指でタッチパネルを操作する。ウインナーソーセージのような太さに反し、その動作は極めて機敏なものだ。

 

 ルイスとブリュンヒルデの正面に表示されたモニターに写り込むのは、姿を隠す様子もみせずに堂々と敷地内に乗りこんでくる数十人の人影。戦闘に立っているのは、トレンチコートに身を包んだ男だ。

 

「敷地内の監視カメラが熱伝導探知。顔面認証は――『ギルダン・ボーフォート』との一致率98.2%。十中八九、第七特務ザンス」

 

強化ポーン(エインヘリャル)を出せ。皆殺しにしろ」

 

「お言葉ザンスけど、ルイス坊や。生け捕りでは駄目ザンスか?」

 

 食い下がるブリュンヒルデ。ルイスが視線を向ければ、彼女は赤と青のレンズ越しにふてぶてしい目で自身を見つめている。

 

 交差する目と目。

 

 数秒の後、主張を曲げて言葉を発したのはルイスだった。

 

「……好きにしろ。だが防衛が第一だ、忘れるな」

 

「んまァ! やっぱりルイス坊やは話が分かるザンスねェ! ()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

 ――なにが慈悲深い、だ。

 

 大げさに喜んで見せるブリュンヒルデを冷めた目で見つめながら、白々しい、とルイスは内心で毒づいた。

 

 ――貴様の悪趣味な特性の餌食にするくらいなら、殺してやった方がまだ救いがあるだろうに。

 

 だが、侵入者の安否などはっきり言って些事である。その処遇にわざわざ口を出す必要もないだろう。オリヴィエ様に捧げる完全勝利のためである、誤差程度の認識の相違には寛容であるべきだ。

 

 ルイスは即座に思考を切り替えると、再び口を開いた。

 

「サイバー攻撃はどうなっている? 敵は割れたか?」

 

「こっちも第七で電子工作員をやってる娘っ子の仕業で間違いないザンスね。正規の情報工作員なら使わないような、えげつない手を使ってくるザンス…… で ・ も 」

 

 ブリュンヒルデは色とりどりのお歯黒に彩られた歯をにんまりと剥きだして笑った。

 

「アタクシ、アポリエールでは情報管理を担当してたザンス。()()()()枢機卿の『救済』の後始末から例の計画の隠蔽、果ては『神の卵』になりうる人材のピックアップまで。電子戦なんて、慣れたものザンス」

 

 そう言うと、ブリュンヒルデはエンターキーをタッチした。途端、次々と書き換えられていたプログラムが正常なものへと反転していく。「んっほほほ! 出直すザンス、雑魚ガキ!」という上機嫌なブリュンヒルデの声を聞き流しながら、ルイスは黙って立ち上がった。

 

「ってあら、どちらへ?」

 

「仮眠室のエメラダを起こしに……警戒を怠るなよ?」

 

「あンらま~、心配性ザンスねェ」

 

 ブリュンヒルデは、小馬鹿にしたようにルイスを笑った。

 

「他のカメラやセンサー類に伏兵の反応はないザンス。重要拠点はアタクシの騎士(ワルキューレ)たちが警備してるザンスし、何より館内には()()がうろついてるザンス。わざわざ見回る必要も――」

 

 

 

「黙れ」

 

 

 

 ブリュンヒルデの言葉を遮るように、ルイスの口からその言葉は紡がれた。次いで、彼の全身から放たれるのは強烈な怒気。

 

 

 

「“ビショップ”が、“ルーク”に逆らうな……!」

 

「っ……」

 

 鋭い眼光に気圧され、ブリュンヒルデが思わず口を噤む。その様子に幾分か留飲を下げたのか、今度はルイスが彼女を見下したようにせせら笑った。

 

「貴様は黙って私の命令に従っていればいい……ワルキューレ!」

 

 ルイスはそう言うと、門番のように出入り口の両脇に直立する2人の少女へと視線を移した。

 

 彼女達の肌は病人を通り越し、いっそ死体と形容した方が適切なほどに青白い。華奢なその体には、見た目からはおよそ縁遠そうな、防刃・防弾・防爆シート製のコートを纏っている。

 

「一時間で戻る。危機感に欠ける貴様らのマスターと、この管制室を引き続き警備しろ。俺とエメラダ、お前達の姉妹機以外の存在が来たら消せ」

 

「「かしこまりました」」

 

 ルイスの命令に少女――ワルキューレたちは微動だにせず、ただ口だけを動かして了解の意を伝える。それを見たルイスは去り際、ブリュンヒルデにわざとらしい笑みを向けた。

 

「――手足が優秀でも、肝心の頭が愚鈍ではな」

 

 あからさまに自分の頭を指でつついてから、彼は扉を閉める。ブリュンヒルデの表情が露骨に歪んだのは、その直後のことであった。

 

「ムカつくガキだこと! あの方のお口添えがなければ、誰がお前なんかに従うザンスか!」

 

 憤懣やるかたなしと言った様子で、ブリュンヒルデは地団太を踏む。それから彼女は、ワルキューレの片割れに向かってヒステリックに叫んだ。

 

「ヘリヤ! こっちに来てコートを脱ぐザンス!」

 

 おそらくそれが識別名なのだろう、少女の内の1人が歩み出ると、慣れた手つきでコートを脱いだ。

 

 バサリ、とやや重厚感のある音と共に地面にコートが落ち、その下から痩せた少女の肢体が露になる。おそらく元々は肌の色もあいまって、その体は雪の妖精のように美しかったのだろう。だが彼女の体には夥しい数の古傷と手術痕が刻まれ、更には真新しいミミズ腫れや青痣がいくつも刻まれていた。

 

「アタクシを誰だと思ってるザンスかッ!?」

 

「かひゅッ……!」

 

 ブリュンヒルデの拳がワルキューレの腹に打ち込まれる。途端、無表情だった彼女は苦し気に顔を歪めると、床にうずくまった。ワルキューレは苦し気にえづくが、ブリュンヒルデはそんな彼女の様子など知ったことではないとばかりに、ボンレスハムのような太い足にはめたハイヒールで執拗に踏みつける。その度、ワルキューレの体には生傷が生まれていく。

 

「誰の! おかげで! 白陣営が成り立ってると! 思ってるザンス!」

 

「う、ぐ……!」

 

 早い話が八つ当たりである。ルイスに対するやり場のない怒りを、彼女は自身の部下をはけ口として発散しているのだ。ふと顔を上げると、ブリュンヒルデは自らを見つめるもう1人のワルキューレと目があった。

 

「――何ザンス、ヒルド?」

 

 彼女は肩で息をしながら、彼女は少女に怒鳴った。

 

「人形の分際で、アタクシをそんな目で見るんじゃないザンス! お前はそこにつっ立っていればいいザンス!」

 

「……はい、申し訳ありません」

 

 ワルキューレの謝罪にブリュンヒルデは舌打ちすると、自らを見つめる虚ろな空色の瞳に背を向け虐待を再開した。視界の片隅に写り込んだ監視カメラの映像が()()()()()()()()()()()()()()、彼女が気付くことはついになかった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ノックの音が響く。一拍置いて、仮眠室の中からは眠たげに入室を許可する声が上がる。それを確認したルイスは扉を開け――そして、顔をしかめた。

 

「……女王陛下。お前には恥じらいってものがないのか?」

 

 ルイスの視線の先には、眠りから目覚めたらしい女王(エメラダ)の姿。ベッドの上で無防備に欠伸する彼女は、その身に一切の衣類を纏っていなかった。

 

 豊満な、とまでは言わないものの、彼女の肢体は脱獄した数日前に比べ、健康的で女性らしい柔らかな肉付きを取り戻していた。血色も良好であり、収監中にはぼさぼさだった長髪も、今は美しい艶と滑らかさを帯びている。今の彼女の姿を見て劣情を抱く男性がいたとしても、何ら不思議ではないだろう。

 

「別に。お前に見られたところで、恥ずかしくもなんともないし」

 

 目をこすりながら、エメラダは言う。その口調から羞恥を押し殺しているような情動は読み取れない。その言葉は、紛れもない彼女の真意であることが分かる。

 

「それとも――まさかとは思うけど、欲情したの? 押し倒そうとしたら殺すわよ」

 

「馬鹿も休み休み言え。貴女の裸体程度で、私の食指が動くものか」

 

 そう返したルイスの言葉もまた、本心からのもの。ニュートンの一族に連なる女性は、誰も彼もが――あの忌々しい従妹も含め、絶世の美女揃いである。幼少時より彼女らに見慣れて目の肥えたルイスにとって、エメラダは美醜云々以前にそもそも性の対象ですらない。

 

「そ、ならいいわ。お前は私をそういう対象として見ないし、私もお前がそう言う奴だとは思ってない。それでいいでしょ?」

 

 荒んだ目で呟いたエメラダに、ルイスはこれ以上食い下がるのを止めた。まだ数日の付き合いだが、この女は相当な頑固者だ。長々と常識を説いてもいいが、エメラダは煩わしがるだけだろう。第一、自分がそこまでしてやる義理もない。

 

 ならば、とルイスは早々に本題を切り出した。

 

「先程、襲撃があった」

 

「ちょっと、勘弁してよ……あんな奴の相手をするの、二度とごめんなんだけど?」

 

 げんなりとしたエメラダの脳裏に思い浮かぶのは、今朝がた自分達を強襲したシド・クロムウェルの姿。脇腹を抉り、左腕を切り飛ばし、心臓を止めてなお、戦いを続けようとした修羅の如き男。

 

「今回の襲撃者は、対MO手術被験者に長けたU-NASAのエージェント――簡潔に言えば合衆国(灰陣営)の犬どもだ。隊長の男以外は、特に警戒するまでもない有象無象。わざわざお前を出すほどの相手でもない」

 

「……あのね、だったら一々私に報告しないでくれる? あんたと違って、こっちはまだ朝の疲れが抜けきってないの。報告がないとか騒いだりしないから、用がないなら出てって」

 

「そうもいかない。この襲撃作戦にはおそらく、()()()()()()()()()

 

 ルイスの言葉に、エメラダは怪訝そうに眉をひそめた。

 

「なんでそんなこと、分かるのよ?」

 

「簡単なことだ。本気を出せば気付かれずに建物内にも侵入できるような奴らが、馬鹿正直に正面から乗りこんできている。何か裏があると見るのが当然。更に言えば、第七特務(奴ら)の攻勢はやけに手ぬるい――あれは防衛線を突破しようとしている動きじゃない、兵力を引きつける陽動の動きだ」

 

 ――あの阿呆(ビショップ)は気付いていなかったようだが。

 

 ルイスが愚鈍な部下への苛立ちで説明を締めくくると、エメラダが呆れたように首を振った。

 

「言ってることは分かったけど、そのいるかもわからない別動隊とやらの対処に、私を動かすつもり? 嫌に決まってるでしょ、面倒くさい」

 

 取り付く島もない、とはこういう態度を言うのだろう。微塵も興味なさそうにエメラダは吐き捨てると、再びベッドに寝転がって目を閉じる。

 

「いいのか、女王陛下?」

 

 そんなものぐさな様子のエメラダに、ルイスは殺し文句を投げかけた。

 

「――別動隊には”ダリウス・オースティン”が来ているぞ」

 

「ウソッ!?」

 

 ガバッ、と布団を跳ね飛ばす勢いで起き上がったエメラダに、ルイスは「おそらくな」と付け加える。

 

「αMO手術を受けた死刑囚が占拠する基地の攻略だ、攻略部隊にαMO手術の被験者が組み込まれるのは必至。そしてアメリカ側の被験者事情を考慮すれば、奴が最も都合がいい。なにせ最悪の場合、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。つまり、これらの事実を論理的に組み立てると――」

 

「やだ、なんで早く言わないのよ!? こんなはしたない格好じゃダリウス様の前に出られない! 早く着替えなきゃ……というか化粧、化粧!」

 

「――まぁ、好きにしろ」

 

 嘆息したルイスはクルリと回れ右をしてドアノブに手をかける。その背に向かってエメラダは、「ああ」と声をかけた。

 

「1つだけ言っておくわ、ルイス。お前たちが何をしようと、何を企もうと私は関知しない。何をしようと勝手だし、それを邪魔するつもりはないけど――」

 

 

 

 

 

「もし私の王子様(ダリウス様)に手を出したら、お前の命はないと思いなさい」

 

 

 

 

 

 

 

「……仰せのままに、女王陛下」

 

 ルイスは振り返らずそう返し、肩をすくめると仮眠室の扉を閉めた。仮眠室の扉の前で警護をするワルキューレに警備を怠らないよう指示を出し、彼は1人廊下を歩きながら考える。

 

 ――オリヴィエ様は、どのようなお考えの下にこの白陣営を編成したのか?

 

 今回白陣営を編成するにあたって選出された駒は、オリヴィエ自らの差配によるものだ。深謀遠慮の主君が揃えた、一族最上位のエドガー・ド・デカルトとの対決のために揃えた精兵たち……己が指揮するに相応しい、さぞかし優秀な人材なのだろうと思っていたが。

 

 いざ蓋を開けてみれば、その期待は悪い方向に裏切られたと言わざるを得ない。

 

 

 

 僧侶(ブリュンヒルデ)は特性こそ悪辣で凶悪なものだが、それを扱う素体がお粗末に過ぎる。

 

 まず見た目通り、身体能力はからきし――遠縁とは言え、一応はニュートンの血族でありながら、である。同じような体形でもそれなりの使い手であるロドリゲス卿を見習ってほしいものだ。

 

 次いで頭脳。アポリエールで情報管理を任されていただけのことはある、その系統の分野ではそれなりの切れ者と言っていいだろう。しかし、それ以外はてんで駄目だ。二手三手と先を読む洞察力に欠けた愚物というほかない。

 

 そして精神――これは最悪の一言に尽きる。自分のように名実が備わった者が慢心するのはいい、しかしそのお粗末さを虚栄心で繕う様の何と醜いことか! どれをとっても、主君の駒に相応しいとは言えない。こんな者に陣営維持の要を任せざるを得ないという内情が、我がことながら嘆かわしい。

 

 

 

 騎士(ワルキューレ)。駒の中で最も有能なのは彼女達だろう。なにせ彼女達は従順で壊れにくく、戦力としてもそれなりに強力で、命を賭して任務を達成する『差し手に忠実な駒』だから。これで自己判断能力に長けていれば文句なしだが、贅沢は言えまい。

 

 だが、その最終指揮権は彼女達の主であるブリュンヒルデが握っているのが頭痛の種だ。一応、立場上は彼女の上司である自分にも命令権はあるのだが、ブリュンヒルデのそれに優先順位では劣る。

 

 なんという宝の持ち腐れだろうか――優れた兵士が自分のような優れた指揮官ではなく、無能な上官の下で雑に使われるなど。先日、主君と忌々しい従妹が保護した『上月家の少女』の境遇にも言えることだが、下位連中にはものの価値と適切な使い方が分からない愚物が多すぎる。

 

 

 

 そして――女王(エメラダ)。最も扱いに困るのが彼女であるといえるだろう。

 

 彼女に与えられた力は、オリヴィエが集めた協力者たちと比べても何ら遜色ない、あるいはそれ以上と言ってもいいほどに強い、()()()()()()。広域制圧などという生ぬるいものではない。彼女が気まぐれに専用武器と特性を振るえば、大陸を滅ぼすことすら可能だろう。

 

 しかし肝心の本人には(ブリュンヒルデすら表向きは従っている)ゲガルド、ひいてはオリヴィエに対する忠誠心が微塵もない。それだけならばまだ許容できるが……こともあろうにあの女は先刻、自分の都合であっさりと裏切ろうとした。

 

 自分勝手な兵器と共に戦うなど、いつ爆発するかもわからない爆弾を抱えているようなもの。しかも下手な核などよりもずっと危険な爆弾である。主君の意向次第だが……必要ならば聖戦の幕引きと同時に始末しなければならないだろう。

 

 

 

 一手を打つにも一苦労する内情だが、失敗するわけにはいかない。彼の脳裏によぎるのは、かつてオリヴィエと交わした問答の記憶であった。

 

 

 

『――ルイス。私が新しく作り上げる世界で、君は死ぬ事になる。理想のために、()()()()()()()()()。その上で君が、どうするのか聞かせてもらいたい。私としてはこのまま従ってくれると嬉しいけど……今この場で、私に襲い掛かっても構わないよ』

 

『言うに及びませぬ、オリヴィエ様。どうして槍が、主に穂先を向けることがありましょうか。貴方様の理想が結実するその時まで、この身はあらゆる万難を排し、勝利を献じ続ける槍として、貴方と共にありましょう』

 

 

 

 かつて主に問いかけられた時、己はそう答えた。そして、槍の約定を違えるつもりは毛頭ない。

 

 ――で、あれば。

 

 主君が目指す理想郷のため、邪魔者はことごとく消す。黒も白も灰も――有象無象の区別なく、一切を穿壊する槍。それこそが『槍の一族』の急先鋒として己に課された使命である。

 

「――とはいえ存外、私の出番はないやもしれんな」

 

 廊下を行くルイスの姿が次第に周囲に溶けていく。やがてその姿が完全に消え去る刹那、彼は静かな笑みをたたえながら呟いた。

 

変則駒(フェアリーピース)どもの洗礼を受けるがいい、下郎め。万に一つも切り抜けられたなら、その時は私の手で引導を渡してやろう――」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

敵影なし(オールグリーン)……行きましょう」

 

 進路の様子を窺っていたシモンが言うと、静かに足を踏み出した。静かに、しかし迅速に。隠密に歩みを進める彼の背後に続くのは、七人の人影――その中にはダリウスとミッシェルの姿もあった。

 

 

 

 現在、彼らがいるのは“66-E ”のコードネームで呼ばれる施設。

 

 アメリカ合衆国がいくつか保有する極秘軍事研究拠点『サイト66(ダブルシックス)』の中でも、Engineering(工学)系の兵器を研究している区画である。

 

 ――もっとも、それも十数時間前までの話。

 

 “66-E”の職員から米軍に救援要請の通信が入ったのは今朝のことだ。その内容は「100匹程のテラフォーマーと20人前後の少女、そしてその混成部隊を指揮する1人のけばけばしい中年女性に襲撃を受けている」というもの。襲撃者はいずれも、MO手術を受けているらしかった。

 

 2日前に同じサイト66――Biology(生物学)系の兵器を研究する“66-B”が陥落させられたことは記憶に新しい。よって各拠点でも対策を講じてはいたのだが……敵の攻勢はそれを上回った。

 

 襲撃から1時間が経過した頃に無線の先から激しい戦闘音が聞こえたのを最後に、一切の通信は途絶してしまった。

 

 合衆国にとって大きな痛手だったのは、攻略が遅れていた”66―B”への攻略の最中に襲撃が行われたことだろう。軍の多くはそちらへと差し向けられており、対応が完全に後手に回ってしまったのだ。

 

 こうした制圧戦では初動こそが重要。しかし米軍部隊の大部分は身動きが取れず……苦肉の策として、合衆国政府とU-NASAの最高本部は、手が空いている戦力によるテロリストの討伐を決定した。

 

 作戦の内容はまず、陽動部隊としてU-NASA内でも使()()()()()()()()()()()である第七特務を配置。彼らがテロリストたちの気を引いているうちに、本命の部隊が内部に潜入して敵の司令部を討ち取るというものだ。

 

 

 

 本命の部隊は当初、高難度の任務にのみ駆り出されるU-NASA最高幹部直属の部隊……第七特務のような荒くれ者でも、スカベンジャーズのような一般人上がりでもなく、素行の良いエリート軍人を中心に編成された『虎の子』とも言える部隊に任される予定だった。

 

 だが――敵集団にはαMO手術の被験者が、複数人いることが予測される。いかに彼らであっても、流石に分が悪い。そこで“αMO手術を相手に単騎で渡り合える”と太鼓判を押されたミッシェルたちが増援として派遣されたのだ。

 

「ミッシェルさん、スレヴィンくんとの通信はどう?」

 

 先頭を虎の子部隊の隊員の一人に譲り、ミッシェルと歩調を合わせたシモンが聞く。ミッシェルは耳に取り付けた通信装置を数秒程あれこれと操作する。彼女の耳に流れてくるのは、聞き馴染みのある男の声である。

 

 ――ミッシェルが声をかけた人員の中で唯一この場にいないのが、U-NASAの寮監であるスレヴィン・セイバーである。

 

 外部で動き回れる人間がいた方がいいという総意の下、彼は掃除屋(スカベンジャーズ)と共に外部からの支援に回っているのだ。

 

 もっとも――

 

「……駄目だ。話しかけてきてるのだけは分かるが、ノイズがひどすぎて聞こえやしない」

 

 ――向こう側から聞こえる声は、ノイズがひどすぎてろくに聞きとれないのだが。

 

 ミッシェルの言葉に、シモンは嘆息した。

 

「最新の軍用端末でも駄目かぁ……施設が施設なだけあって、通信系統のセキュリティも段違いってことかな」

 

「今回に限っては完全に裏目だけどな。第七特務のハッカーがセキュリティを掌握しきるまで、通信はお預けだ」

 

 そう言ったミッシェルの顔は晴れない。理由は、耳に着けた通信端末から聞こえるスレヴィンの声にあった。

 

『……! ……!』

 

 何を言っているかは分からない。だが、断続的に聞こえるその声は喚いている……というより、緊急の案件を少しでも伝えようと焦っているように聞こえるのだ。

 

 

 

「……それにしても、いやに静かですね」

 

 

 

 ふと気づいたように、ダリウスが漏らした。他の面々と違い、身体能力の面では特筆すべきものを有さない彼だが、幸いにして行軍に遅れるほどではないらしい。額にうっすらと汗は浮かんでいるが、喋る余裕はあるようだ。

 

「これ、やっぱり職員の皆さんは――」

 

「全滅、だろうね」

 

 ダリウスの言葉にシモンは頷くと、右側を指さした。そちらに目を向ければ、飾り気のない研究所の白い壁には激しい戦闘を思わせる弾痕、タイル張りの床には生渇きの赤黒い血だまり。その面積範囲を見たダリウスは、一目で人間1人分の致死量を超えていることを悟った。

 

「もしかしたら、何人かは人質として生き残ってるかもしれないけど……突入前にスレヴィン君と通信してた時点では、”B”で生存者はまだ確認できてなかった。あまり期待しない方がいいと思う」

 

「ですよね……少し、気になることがあるんです」

 

 そう前置きをしてダリウスは告げる。この施設に足を踏み入れた時から感じていた、彼だからこそ気付いた違和感を。

 

 

 

「職員の死体は、どこにあるんでしょうか」

 

 

 

「言われてみれば……」

 

 シモンはフルフェイスの中で目を見開き、周囲に視線を巡らせた。そこかしこに刻まれる戦闘と殺戮の痕跡、しかし不自然なほどに()()()()()()()()()

 

 テロリストたちが死体を片付けた? ……ありえない。職員を皆殺しにしていれば、死体の数は優に100を超す。片付ける暇も必要性もないだろう。

 

 では職員たちが生きているのか、と言われればその可能性も低い。やはりテロリストたちに職員を生かしておく必要性はないためだ。

 

 

 

 ――嫌な予感がする。

 

 

 

 この領域を支配する空気は、自分の腹の奥底に渦巻く不快感は、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 粘つく狂気、殺意の糸で編まれた蜘蛛の巣。例え監視カメラを誤魔化し、センサーを欺き、完全に敵の目から免れたとしても。それは知らないうちに、着実に自分達を絡めとっていく。

 

「!」

 

 しかしそのタイミングで、ダリウスは思考の海から浮上することになった。先行していた隊員が、ハンドサインで進軍停止のサインを送ってきたのだ。

 

 廊下の向こうに広がる闇に耳をすますと、何者かの足音が聞こえた。足音のリズムと、その合間を縫って聞こえる荒い呼吸音から、音の主はこちらへと走ってきているようだった。

 

「――止まれ!」

 

「ひっ!?」

 

 隊員が警告を発すると驚いたような声が上がり、次いで転倒音が聞こえた。先行していた隊員が、肩から下げるアサルトライフルの銃口を廊下の先へと向けると、銃に取り付けられた懐中電灯の光に人物が照らし出される。

 

 ブロンドの髪を三つ編みに纏めた年若い女性だ。そばかすに銀ぶち眼鏡をかけた彼女は、怯えたような表情を浮かべて一行を見つめている。“サイト66-B”の制服である白衣を身に纏っていることから、この施設に勤めている職員の1人であると見て取れる。

 

「――生存者のようです」

 

「U-NASAの腕章……! も、もしかして、救助隊の方ですか!?」

 

 銃口を向ける一行に怯えたような表情を見せた女性だったが、U-NASA所属の部隊であることを確認すると目を見開いた。

 

「大丈夫ですか? 今手当を――」

 

「ち、治療はあとで大丈夫です!」

 

 救急箱を片手に近寄るダリウス。しかし彼女は治療を受けようとはせず、必死の形相で彼に縋った。

 

「それより、助けてください! 早くしないと、早くこの場を離れないと、奴らが……!」

 

「うわっ!? と、取りあえず落ち着いて……!」

 

 半ば錯乱状態にある女性をなだめようとダリウスが四苦八苦する。その様子を見守っていたミッシェルだったが、通信端末から聞こえるスレヴィンの声が少しずつ明瞭なものへと変わりつつあることに気が付き、そちらへと意識を向けた。

 

『……ッシェ……! 応答しろ……ミッシェル! おい、聞こえてるか!?』

 

「! こちらミッシェル。今繋がった……どうした?」

 

『ミッシェル、無事か!? 身体に異常はないか!?』

 

 やがて完全に回復した通信装置に、ミッシェルが応答する。その途端、通信機の向こう側から、思わずミッシェルが顔をしかめる程の声が鼓膜を貫いた。どうやら、彼が取り乱すほどの「何か」があったらしかった。

 

「あ、ああ。特に異常はない」

 

『他の連中は?』

 

「今のところ、他の奴らにも変わった様子はないが……」

 

 念のために周囲を窺うが、突入部隊の他の7人にも、これと言った異変は見られなかった。

 

 そこまで聞いて初めて、通信口のスレヴィンは安堵の息を溢す。しかしその語調から緊張を解くことは決してせず、彼はミッシェルに告げた。

 

『よく聞け、ミッシェル――今すぐ全員を引き返させろ、作戦は中止だ』

 

「は? おい、何を言って――」

 

『いいから早く撤退しろ! このままじゃ間に合わなくなる!』

 

 ただならぬ剣幕にミッシェルが眉をひそめた――瞬間、彼女の鋭敏な聴覚は、廊下の向こうから響く何かの音を聞きとった。

 

 それとほぼ同時に精鋭部隊の隊員5人が一斉にアサルトライフルを構え、シモンはすぐさま専用武器である伸縮式の槍を展開する。ただならぬ様子から事態を察したのだろう、ダリウスは怯える女性職員を立たせて背後へと回すと、自身も薬を片手に身構えた。

 

 

 

 

 

 

 

 ザりっ ザ リッず ズ  ザ ッ じゃりっ ざりッ

 

 

 

 

 

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 ザりっ ザ リッず ズ  ザ ッ じゃりっ ざりッ

 

 

 

 

 

 ――次第に大きくなるその音は、足音のようだった。しかしそれは、先程女性職員が立てていた軽やかなそれとは別もの。まるで足を引きずっているかのようにひどく歪で、不規則な音。それが、複数。

 

 加えて、その音が大きくなるにつれて別の音が聞こえ始める。

 

 

 

「ア……あ゛おォ……」

 

 

 

「うウウウゥウう……」

 

 

 

「ヴぁあ、イイィイイィイイィ……!」

 

 

 

 ――苦し気なうめき声。地の底から響くかの如きその声は、この世の全てを呪っているかのような、あるいは救いを求めているかのような。

 

 そんな、おぞましさがあった。

 

 

 

「き、来た……ッ!」

 

 声にならない声で、女性職員が小さな悲鳴を上げる。そして――声の主たちが姿を現した。

 

 

 

 

 

 ――闇の中からおぼつかない足取りで現れたのは、怪物でもなければ魔物でもなく、人間だった。

 

 戦闘服、白衣、作業着……衣装に統一性こそないものの、彼らがこの施設に勤務していた職員たちであることは一目瞭然。

 

 だが彼らの姿を一目見た瞬間、この場にいる誰もが理解した。彼らが最早、人ではない何かに成り下がったことを。

 

 

 

 切り裂かれた腹から、大腸が飛び出している者がいた。

 

 全身を串刺しにされたかのような傷を負っている者がいた。

 

 左胸に棍棒が突き刺さりながら、歩く者がいた。

 

 下あごから喉にかけての肉を喪失し、舌をだらしのない蝶ネクタイのように垂らしている者がいた。

 

 

 

 廊下の向こう側まで埋め尽くすような、人の群れ。その誰も彼もが、普通ならば動くこともできないような致命傷を負っていたのである。

 

 更に異様なことに、群れの中にはしばしば、人体の一部を貪っている者がいた。それは人の生足であったり、指であったり、内臓であったり、髪であったり。とにかく人体器官の一部を、他ならない人間が食しているのである。

 

 

 

「おいピース、何の冗談だこれは……!」

 

 

 

 冷静を取り繕い、しかし動揺は隠しきれず。思わずかつての名前で幼馴染に問うと同時、無数の虚ろな眼光が9人を補足した。

 

 その視線は死肉を狙うハイエナ、打ち捨てられたゴミ袋に目を付けたカラスのものによく似ている。半開きになった彼らの口から粘々とした唾液が垂れ、地面へと糸を引いて滴った。

 

 

 

 人間とまるきり同じ姿をしながら理性はなく、好んでかつての同族を襲う存在。そう、それはまるで――

 

 

 

「何がどうなってやがる! B級映画じゃねえんだぞ!?」

 

 

 

 ――ホラー映画に登場するクリーチャー、“ゾンビ”に酷似していた。

 

 

 

 異様な空気に吞まれた廊下、狂気以外の何者も介在しないその空間で聞く幼馴染の声は、随分と遠く感じられた。

 

 

 

『奴ら、細菌兵器を使いやがった! サイト66-E全域で、生物災害(バイオハザード)が発生している!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 白陣営変則駒(フェアリーピース):対国家機能破壊用生物災害 “枢機卿(カーディナル)

 

 

 

 

 

 研究登録ナンバー 第426号

 

 

 

 

 

 研究責任者:アダム・ベイリアル・アブラモヴィッチ

 

 

 

 

 

 研究正式名称――

 

 

 

 

 

『リアリティのあるゾンビ映画製作を目的とした、改良型狂犬病ウイルス開発のための研究 ~カンヌ国際映画祭ノミネートも視野に入れて~』

 

 

 

 

 

 研究成果物:アダム・ベイリアル謹製『狂人病ウイルス』

 

 備考

 

 バイオハザードセーフティレベル:LEVEL4(最高危険度)

 

 

 

 




【オマケ】 出演キャラ・設定紹介

『上月家の少女』 上月千古 (深緑の火星の物語)
 ニュートン一家下位、「上月家」の少女。コラボ時間軸で9歳、深緑本編でも11歳と年齢的には小学生だが、一族に由来する生来の才能と、血反吐を通り越して七孔噴血の特訓により、ジョセフに匹敵する戦闘力を有している最強幼女。現在、オリヴィエ様に初恋中。


アダム(真)「『おしゃべりロドリゲスくん』不評だし、『着せ替えチコちゃん』に生産を切り替えたいんだ。ちょっと画像使用許可もらってきてくれない?」

出向中のアダム「私にもう一回死ねと!? あーッ! 今こうしている瞬間にも後ろから、後ろから鯉口を鳴らす音がァ!?」



虎の子部隊(深緑の火星の物語)
 U-NASA最高幹部直属の戦闘部隊。ヤバい(重要度が高い)上にヤバく(難易度が高く)、更にヤバい(信用できる者でなければ任せられない)任務にのみ駆り出される。
個々人の詳細な設定は明かされていないが、いずれもマーズランキングのトップランカー級の実力者であると推定される。彼らの活躍が見たい方は、『深緑の火星の物語』の第64話を見てみよう!





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冒涜弔歌OLIVIERー3 棘槍穿開

 ――歩く死体(ゾンビ)生ける屍(リビングデッド)死した生者(アンデッド)

 

 ホラー映画でも比較的ポピュラーなこのクリーチャーの起源がアフリカにあることを知る者は存外に少ない。

 

 そもそも“ゾンビ”の語源はコンゴで信仰されている「ンザンビ(Nzambi、不思議な力を持つ者)」に由来し、その性質はブードゥー教の司祭の一種である「ボコ」が魔術的な儀式を取り行うことで「起き上がらせた」死者というものであった。

 

 霊魂の存在を信じるアフリカの農民たちにとって、永劫その魂を奴隷として掌握される「ゾンビ」はさぞかし恐ろしい概念であったことだろう。彼らは死体を埋葬後36時間も見張ったり、死体を切り裂いたりして、家族や親しい人がゾンビ化しないように手を打ったという。

 

 しかし、しかしである。これが神秘の存在が信じられていた中世以前であれば、あるいは深く霊魂の存在を信仰する人々であれば話は別だが――残念ながら、自然科学の発達した現代において、ゾンビはさしたる恐怖ではない。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だから現代になって、新たなゾンビが産み落とされた――それがパニックホラーでお馴染みの「感染するゾンビ」である。「捕食」という攻撃手法、「噛まれた」者はいずれゾンビになる、鼠算式に「増え続ける」、そしてゾンビ化の原因は感染症や寄生虫などの“パンデミック”。神や悪魔などのオカルトではなく、論理的に説明ができ「もしかしたら」というリアリティを感じさせる科学による説明は、観衆を大いに魅了したことだろう。

 

 もっとも、多くの人が映画館で悲鳴を上げながらも、胸を躍らせて主人公たちのスリリングな冒険を楽しむことができるのは、どこまで行ってもゾンビがフィクションのクリーチャーにすぎないからである。感染するゾンビは現実感(リアリティ)がある存在なだけであって、現実(リアル)の存在ではないのだ。

 

 もし何の前触れもなく、パンデミックが起こったとして。

 

 もし感染症が蔓延し、理性を失った人食い怪物がうろつき始めたとして。

 

 もし捕食対象として、自分やその身近な人が絶えず危難と恐怖の坩堝に叩き落とされたとして。

 

 果たしてヒトは、どれだけ冷静でいられるのだろうか?

 

 

 

 

 

 それは――『伝染する狂気』。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 スレヴィンから手に入れた情報と、目の前から迫りくる異形と化した職員たちの群れ。それらを認識したミッシェルの判断は、迅速だった。

 

「総員撤退、生物兵器だ!」

 

「! 了解!」

 

 彼女の言葉にシモンは我に返り、すぐさま踵を返した。それを見たダリウスもまた気を取り直すと、女性職員の傍らにしゃがみ込む。

 

「ちょっとごめんよ、お嬢さん」

 

「へ? ……きゃっ!?」

 

 ダリウスはへたり込んでしまった女性職員をお姫様抱っこのように抱え上げると、シモンの後を追って一目散に駆け出し、残る面々もそれに続く。幸い異形と化した職員たちの足取りは遅く、すぐさま闇の向こうに亡者の姿は飲まれて消えた。

 

「――スレヴィン、分かっているだけで良い。使用された兵器の情報を寄越せ」

 

 来た道を逆に駆け戻りながら、ミッシェルはインカムに呼びかけた。この期に及んで「本当に生物兵器が使われたのか?」などと無駄な問答をしている時間はない。先程の変わり果てた職員たちの姿を見れば、生物兵器かそれに類する“何か”が使用されたのは一目瞭然。

 

 見極めなければならない、自分達がとれる最善の選択肢を。そしてそのためには、少しでも確かな情報が必要だった。

 

『使用されたのはウイルス兵器。正式名称は不明、CIAの情報照合待ちだ。その具体的な効力は――』

 

 

 

『“人間のゾンビ化”だ』

 

 

 

「! クロード先生!?」

 

 割り込んだ別の声に声を上げたのは、シモンだった。スレヴィンが呼んだのか、という考えが脳裏をよぎるが、直後に聞こえてきた驚きの声にその考えを否定した。

 

「……博士、何かご存じで?」

 

 ミッシェルが問う。クロードは具体的な症例や効果ではなく、名称で“人間のゾンビ化”だと断言した。クロード・ヴァレンシュタインが何の根拠もなく、そのような非科学的な証言をするとは思えなかったのである。

 

『ああ。経緯は伏せるが……私はこの最悪のウイルス兵器の詳細を良く知っている。これは『狂犬病ウイルス』と『ストーン熱ウイルス』をかけ合わせて作られた『狂人病』――俗な言い方をすれば、“ホラー映画のゾンビを現実に再現するためのウイルス”だ』

 

「なっ……!?」

 

 その反応を効いた全員の顔に動揺が浮かんだ。なぜならこの2つの病気は、数ある病の中でも特に恐ろしい感染症であるからだ。

 

 ――『狂犬病』。

 

 古来より地球上の至る国で確認されている死病。狂犬病に感染した犬を始めとする動物に噛まれることで感染し、一度発症すれば身体の麻痺、意識の錯乱、昏睡を経て呼吸障害を起こし、死に至る。

 その最大の特徴とも言えるのは、2620年現在でも治療法が確立されていないという点である。発症すればその致死率は全患者数の99%にも達し、事前にワクチンを接種していない患者の生存率は“0”である。

 

 ――『ストーン熱』。

 

 狂犬病とは対照的にごく最近――2570年のパンデミックによってその名を知られた死病。身体の麻痺、幻覚の意識障害など症例は狂犬病のそれに似ているが、最大の特徴は感染者の脳が“ドロドロに溶けて死亡する”という点である。

 アフリカ発、空気感染によって瞬く間に広がったこの病気は、地球上から実に2億という人間の命の灯を消し去った。ワクチンによって終息こそしているが……耳新しいこの感染爆発は、今なお人々にとって恐怖の語り草である。

 

 ――そしてそれらが組み合わさったウイルスは、陳腐なホラー映画の世界終末を現実世界に呼び起こす。

 

『正式名称は“狂人病”。潜伏期間は1~48時間とブレがあるが、健常な状態ならギリギリまでは発症しないだろう。しかしウイルスの活性化に伴い発症したが最期、狂人病ウイルスは罹患者の前頭前野や脳幹の一部で脳内融解(メルトダウン)を引き起こし、患者の脳に不可逆的なダメージを与える。患者は理性や言語機能をなくし、最も本能的な欲求に従った行動をとる』

 

「……本能的な欲求?」

 

 薄々答えを察しながらも尋ねたダリウスに、クロードが説明する。

 

『より厳密には生理的欲求だ。だけどこのうち、即座に命の危機に関わることのない性欲は抑制される。またどんなに眠くなろうと、睡眠を司る脳幹が破壊されているために眠れない。となると――』

 

「“食欲と排泄欲”か……吐き気を催す下衆だな」

 

 ミッシェルが吐き捨てる。一度発症したら決して助からないだけでなく、罹患者は人間としての尊厳を奪われた上、健常者を食い荒らし、排泄物を撒き散らし、国土を汚染する病原体になり果てる。どこまで人を馬鹿にすれば気が済むのだ。

 

 湧き上がる怒りをこらえきれず歯噛みするミッシェルに、スレヴィンが通信機の向こう側から呼びかける。

 

『とにかく、一度撤退して態勢を立て直せ! U-NASAの医療チームがそっちに向かってるから、合流を――』

 

『いや、撤退は許可できない』

 

「――理由を、聞かせてくれませんか?」

 

 見ようによっては冷血ともとれる裁定に顔を強張らせながらも、ダリウスは問いかけた。

 

 裏アネックスの構成員はクロードと直接かかわりを持っていないが、評価を耳にする限り科学者の中でも良識派と言って差し支えない人間だった。装備不足、情報不足――これらの要素が出揃ってなお撤退を許可しないからには、相応の理由があるはずだった。

 

『今、私とベルトルト博士を中心に、医療チームが急ピッチでワクチン開発を進めている。なんとか被害を最小限で食い止められるようにね。私が知る遺伝子組成に改良が加えられているようだが、幸い旧型のワクチンデータは私も持っているからね。その応用でなんとかできるはずだ』

 

 ――クロード・ヴァレンシュタイン。

 

 ――ヨーゼフ・ベルトルト。

 

 片や科学技術という一点のみでいえば、かつてアレクサンドル・グスタフ・ニュートンすらも及ばないと認めたダ・ヴィンチの再来。

 

 片や裏アネックス計画の幹部搭乗員の専用武器の設計を一手に担い、α()M()O()()()()()()()()()()()()()()()()()希代の大科学者。

 

 U-NASAが誇る最高の科学者2人による急ピッチの作業進行。ならば最悪だけは避けられるか、と安堵しかけた一行に冷や水を浴びせるように『だが』とクロードが言葉を続ける。

 

『――三日。どれだけ急いでも、ワクチンの開発には三日かかる。そして狂人病は発症したが最後――』

 

 ――生存率は0だ。

 

 開発期間3日……未知のウイルスに対するワクチンの製作期間としては、もはや人知を超えていると言っていい速度。だが、それでは遅いのだ。

 

 ストーン熱の特徴が反映されているのであれば、狂人病ウイルスは空気感染する。仮にダリウスたちが既に感染していれば、発症までの猶予は最長でも2日。ワクチンができる前に発症すれば、生存は絶望的。

 

 そんなあまりにも実感の沸かない、しかし極めて現実的な死の宣告。それに続けて、クロードは「だから」と続ける。

 

『だから君たちは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「は?」

 

 そう声を上げたのは自分に並走するミッシェルか、シモンか、あるいはクロードの隣にいるだろうスレヴィンか、虎の子部隊の誰かか、はたまた自分か。

 いずれにせよ、その禅問答のようなクロードの言葉を、この場にいる誰も理解できていないのは明らかだった。

 

「えっと、言ってる意味が……ワクチンはまだ完成していないんですよね?」

 

『そう……しかしワクチンはほぼ確実に存在する。それも君たちが今いる、サイト66-Eのどこかにね』

 

「あ、そうか!」

 

 そこでクロードの意図をいち早く理解したシモンが口を開いた。

 

()()()()()()()使()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

『その通りだ。実際この兵器の開発者はワクチンを用意していたし、この無差別兵器を使うならテロリストも相当数のワクチンを所持しているはずだ』

 

「なるほど、彼らからワクチンを強奪できれば……!」

 

 そう言いながらダリウスは、抱き上げた女性職員をチラリと見やる。震えながら自分の顔を心配そうに見つめる彼女の赤い瞳と目があった。

 

 自分のような犯罪者ではなく、シモンたちのように戦いの中で命を散らす覚悟をしているわけでもなく。大きな陰謀に巻き込まれただけのこの女性(ヒト)も、救えるかもしれない。

 

「決まりだな。任務は続行、この施設を落とした連中を締め落とす。さしあたっては――あいつらを何とかしなくちゃあな」

 

 逃走のために動かしていた足を止め、ミッシェルは迫りくる亡者の群れに向き直った。歩みは遅い、しかし確実に亡者たちはこちらへと近づいてきている。

 

「ミッシェル少佐、射殺の許可を」

 

「――ああ」

 

 一瞬の葛藤の後、ミッシェルは精鋭部隊の隊長に一言そう告げた。職員たちには申し訳ないが、症状があそこまで進行してしまっては、もはや助けることはできないだろう。ならばせめて、苦しめずに逝かせてやるのがせめてもの情け。

 

「総員構え、撃て!」

 

 虎の子部隊の隊長の指示に従い、隊員たちは各々に支給されたサイレンサー付きの銃の引き金を引く。

 

 パシュ、パシュ、と耳をすまさなければ聞こえない程小さな銃声が立て続けに響いた。5発の銃弾はそれぞれ狙いを過たず大群の戦闘を歩く5人の職員の頭部に吸い込まれ、ある職員の額に風穴を空け、顔を吹き飛ばし、はじけた頭蓋骨からピンクの脳漿を撒き散らす。

 

 ――多くの生物にとって頭は明確な弱点である。

 

 こと脊椎動物においては、脳という身体を動かすための器官が収められており、頭蓋骨という体の中でも特に頑丈な骨によって脳が守られていることからその重要性がうかがえる。

 

 そしてそれは生物ならざるゾンビとて例外ではなく、多くのホラー映画ではゾンビを殺すために登場人物たちは頭部を破壊する。

 

 彼らも律儀に映画に倣ったわけではないだろうが、司令部である脳が破壊されれば肉体の活動が停止するのは当然の帰結。そう考えての行動だった。

 

「……!?」

 

 ――だが。

 

 

 

 

 

「ゥヴ、オォォ……」

 

「ア、ああああ!」

 

 

 

 

 

「馬鹿な……!?」

 

 ――脅威、なおも健在。

 

 事実は小説よりも奇なりとはよく言うが、およそ非現実的なベクトルで彼らの推測は破綻した。()()()()()()()()()()()()()()()()()、亡者たちは歩みを進めているのだ。

 並の人間などよりも遥かに強靭な生命力。不死身、というワードが脳裏をよぎり、さしもの精鋭である彼らでも動揺を隠しきれなかった。

 

「頭を撃ったんだぞ!? なぜ死なない!?」

 

『おいおい嘘だろ!?』

 

『ッ――!?』

 

 そしてそれは、通信機の向こうにいた2人も例外ではなく。スレヴィンが思わず声を上げ、クロードが息を吞む音が通信機越しに耳に届く。

 

「ふッ!」

 

 そんな中、真っ先に動いたのはシモンだった。彼は腰のベルトから抜いた2本のナイフを両手に構え、素早く投擲した。ナイフの内の一本は職員の喉に、もう一本は別の職員の膝に突き刺さる。

 

 ――さぁ、どうなる?

 

 シモンは冷静に観察し、そして分析していく。

 

 まずは喉にナイフが刺さった職員、こちらは反応らしい反応がない。()()()()()()()()()()()()()()()()、である。

 ここから導かれる答えとしては、彼らが呼吸を必要としないか、そもそも呼吸をしていないか。いずれにしても、異常であると言わざるを得ない。

 

 次いで膝にナイフが刺さった職員。こちらは丁度関節部にあたった影響か、バランスを崩してそのまま床に倒れ込んだ。しかし彼は立ち上がりもしなければ膝のナイフを抜くような様子も見せずに這いずりながら、他の職員たちは、倒れ伏した彼を踏み越えながら近づいてくる。

 

「……念のために聞くけど、クロード先生。狂人病って、映画のゾンビみたいに異常な不死性まで症状として出るの?」

 

『――いや』

 

 シモンの問いかけに、クロードは否定の言葉を返した。その声は僅かに震えており、平静を装ってはいるが、内心ではかなり困惑していることがうかがえる。

 

『私の知る限り、狂人病の感染者は“凶暴化した病人”にすぎない。普通の人間が死ぬような怪我なら、まず死亡するはず』

 

「なら狂人病とは別の仕掛けがされてる、ってことか……」

 

 シモンはフルフェイスの下の顔を引きつらせた。

 

 ――思考能力が明確に落ちているのはともかく、呼吸が必要なく、更に再生能力はないものの、脳が破壊されても行動できる……?

 

 狂人病ウイルスとは別の生物兵器が併用されているのか、あるいは何らかのMOの特性によるものか。いずれにしても、その正体は碌でもない者に間違いなかった。

 

「――止むを得ん」

 

 一連の事態を見守っていたミッシェルは意を決したようにつぶやくと、ダリウスへと視線を向けた。

 

「こうなりゃ道は一つ、()()()()()()()()()()()、できるな?」

 

「いやあの、ミッシェルさん? 俺の特性を使ったら潜入の意味が……というかそもそも、屋内じゃ危険すぎますって!?」

 

「時間がねぇ」

 

 渋るダリウスだったが、ミッシェルは彼の言葉を一蹴する。

 

「ゾンビ共に手間取って本命に逃げられたんじゃ意味がない。ここまで来たら、あとは時間との戦いだ。特性の制御に関しては支給された専用武器と……気合でなんとかしろ」

 

『根性論かよ』

 

 スレヴィンの呆れた声がスピーカー越しに届くが実際のところ、銃火器の類の効果が薄い以上、人為変態による白兵戦での制圧か迂回路を探すかの二択以外に道はない。しかし迂回路の探索は、とにかく余計な時間をとられる。かといって人為変態での白兵戦もまた、同様に時間を喰う。ミッシェルを始め、ここにいる者の特性はほとんどが直接戦闘系。不死身に近い耐久力を持つ相手に肉弾戦は分が悪すぎる。

 

 つまるところ、どちらを選んだとしても時間の消耗は避けられないのだ。そう、()()()()()

 

「……わかりました」

 

 ――だが、ダリウス・オースティンがいるならば話は別。彼の特性を用いれば、第三の選択が可能になる。

 

 頷いたダリウスは、女性職員をそっと床に下ろした。頭に疑問符を浮かべる彼女の手を引いて、ミッシェルたちは後方に下がる。

 

「――出番だ、【無形】」

 

 その途端、彼女達とダリウスの間に、一機の小型無人機が割って入った。ドローンを思わせるそれは、まるでミッシェルたちを守るかのように虚空で滞空する。

 

 ダリウスの声に合わせ同型の無人機が更に三機、彼の前へと飛行した。見えない三角形を通路に作るように一機が天井に、もう二機は床に近い位置で滞空する。それを確認すると、ダリウスは注射器型の『薬』を腕に突き立てた。

 

 途端、戦闘服の袖を突き破って彼の両腕に毒針と口吻が出現する。青黒い甲皮に全身が覆われていくが、身体の所々にそれとは対照的な明るい橙色の紋様が浮かび上がった。

 

 ――その昆虫は、口吻を持つ。

 

 しかしてそれは、肉食の虻のように肉を食むためのものではない。硬質な物体も貫通する強度を誇るそれは、木の汁を啜るためにある。

 

 ――その昆虫は、毒針を持つ。

 

 しかしてそれは、雀蜂のように獲物を狩るためのものではない。いかにも凶器といった様相のそれは、自らの身を守るためにある。

 

 それが裏アネックス計画において幹部を務める、ダリウス・オースティンのベース。

 

 決して気性が荒い生物ではない。この系統の虫には珍しく毒針を持ちこそするものの、致死性のものでもない。素体であるダリウス自身はそれなりに鍛えてこそいるものの、ずば抜けて戦闘能力が高いわけでもない。

 

 ではなぜ、ダリウス・オースティンは、裏アネックス計画の最高戦力として数えられているのか。その答えは、ベースとなった生物の最後の特性に秘められている。

 

 

 

 ――その昆虫は、歌うのだ。

 

 

 

 子孫を残すため、雌に手向ける愛の歌。人間の掌に収まる程度の小さな体に宿る、七日限りの命。その炎を燃やして、()()()()()()()()()()()()()()()()()彼らはただ愛を歌う。

 

 

 

「皆さん、僕の後ろに下がってください。それと……」

 

 そう言ってダリウスは背後の面々――特に、怯えている女性職員に向かって柔らかく笑いかけた。

 

「……少しの間、耳を塞いでいてください」

 

 

 

 

 

 

 

 ダリウス・オースティン

 

 

 

 

 

 

 

 国籍:アメリカ合衆国

 

 

 

 

 

 

 

 21歳 ♂

 

 

 

 

 

 

 

 177cm 73kg

 

 

 

 

 

 

 

『裏マーズランキング』 暫定1位

 

 

 

 

 

 αMO手術 “昆虫型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

    ―――――――――――― ハデトセナゼミ ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  ―― 呪歌の残響(ハデトセナゼミ)開演(エコー)

 

 

 

 

 

 

 

 深呼吸をするように腹いっぱいまで息を吸い込むと、ダリウスは発声した。ただそれだけ――ただそれだけで、迫りくる亡者の群れは赤い狭霧となって、原形もとどめずに飛び散った。

 

(す、すごい――!)

 

 その様子を見守りながら、シモンは胸中で驚嘆の声を上げずにはいられなかった。

 

 彼の手術ベースとして全身に組み込まれているカメムシ類の中には、ダリウスと同じ蝉である『クマゼミ』も含まれている。彼がやってみせたような広域制圧を再現することも不可能ではない。

 だがそれには全力の咆哮が必要であり、一度使うと数分間は喋ることができなくなる。

 

 しかしダリウスはシモンと同等の、あるいはそれ以上の威力の一撃を放ちながらも、疲弊した様子を一切見せていない。資料によれば、本人の体力が続く限りは何度でも発動が可能だという。

 

 加えて、精密制御の点でも彼の方が上。その理由はαMO手術という特殊な手術形式に加え、彼に支給された専用武器にある。

 

 

 

 専用武器:逆位相消音装置搭載型無人機『無形』

 

              +

 

 体内内蔵型出力制御・制限装置『SYSTEM(システム): Azathoth(アザトート)

 

 

 

 どちらも威力を引き上げるのではなく、制御困難な特性を管理するための専用武器。

 

 前者はイヤホンのノイズキャンセル機能などの基盤となる『逆位相の音の照射』によって、ハデトセナゼミの呪歌を一部軽減し、味方を守るための物。形なき音を利用したこの武器には、まさしく『無形』の名が相応しい。

 

 そして後者は、眠れる白痴の魔王の名を冠する専用武器『SYSTEM』。ヨーゼフ・ベルトルト博士が生み出したこの装備は、αMO手術を以てすら制御困難なハデトセナゼミの呪歌の威力や指向性を、ある程度制御することができる。

 

 以上二つを組み合わせ、ダリウスは施設を破壊することなく、亡者たちを一掃して見せたのだ。

 

「これでよし、と」

 

 勿論、動きが機敏なテラフォーマーや、MO手術の被験者たちを相手にした実戦で、今回のようにちんたらと調整をしている時間はない。せいぜい味方を巻き込まないようにするので手一杯、周囲の『物』にまで気を配るのは不可能に近い。

 

 だが『必要ならばできる』というのは、大きな強みであり――今回はそれが、現状の打開に繋がった。

 

 

 

「よし、前進!」

 

 

 

 そして全員が、一気に廊下を駆け出した。先頭を切るのはシモンとミッシェル、既に人為変態を終わらせた彼らは不意に現れる亡者を薙ぎ倒して後続の安全を確保する。彼らに女性職員を背負ったダリウスが続き、殿を虎の子部隊の面々が務める。

 

 先程の爆音で、自分達の侵入は敵側にもばれたはず。ならば一刻も早く、少しでも奥へと進み、任務を達成しなくてはならない。

 

 目指すは『管制室』。その気になれば今この瞬間、隣国にミサイルを撃ち込むことすら可能なその部屋は、テロリストたちの手に納めさせておくにはあまりに危険。

 逆に自分達が管制室を制圧さえしてしまえば、この施設の全てのセキュリティが味方となる。危険なαMO手術の被験者を相手取る以上、少しでも手札の数は増やしておくべきだった。

 

「……チッ」

 

 しかし逸る心とは裏腹に、天はそう簡単には微笑んではくれないものである。

 

「さっきの音が呼び水になりやがったか……!」

 

 背後を振り返り、ミッシェルが舌打ちする。そこには一行を追い上げる亡者の群れがいた。やはり足取りは重たげなものの、その数はもはや目視では数えきれず先程の何倍にも膨れ上がっている。追いつかれなければいいだけの話、と思うかもしれないが、不測の事態が発生することを考えると不安要素はなるべく排したい。

 

 ――もう一度、ダリウスの特性で一掃するか?

 

 脳裏に浮かんだその考えを、ミッシェルは即座に打ち消した。第七特務のハッカーの細工によって、この施設の監視カメラに自分達の姿は映らない。よって、自分達の所在がすぐさま正確に割れることはないだろう。

 

 ただし、ダリウスの特性をもう一度使えば“音”というヒントを敵側に与えてしまうことになる。最初の一撃で階層までは特定されているはず、よって次の一撃で確実に敵はこちらの居場所を特定する。可能な限り、それは避けたい。

 

 どうしたものか、とミッシェルが思案に暮れていると、背後から声がかかった。

 

「ミッシェル少佐! 許可さえあれば、ゾンビたちは我々で食い止めます!」

 

「できるのか、隊長!?」

 

 ミッシェルが問えば、虎の子部隊の隊長は力強く頷いた。

 

「殲滅は難しくとも、足止めくらいならば! 我々が彼らを食い止めている間に、特性が強力なお三方に管制室の制圧を頼みたく!」

 

「わかった! 背中を任せるぞ!」

 

 ミッシェルの言葉に「ご武運を!」と返すと、虎の子部隊の隊員5名は一斉にその身を反転させた。ミッシェルたちが曲がり角を曲がって間もなく、背後からは銃声が聞こえ始めた。

 

「大丈夫ですかね?」

 

「絶対、とは言い切れないが……U-NASAが非常事態に備えて用意した部隊、隊員1人1人の実力者も折り紙付きだ」

 

 ダリウスの問いに、走りながらミッシェルが答えた。狭い通路を抜け、4人はだだっ広いコンテナのような空間に出る。

 

「余程の怪物が敵でもなければ、早々やられはしないさ。それよりも今は――」

 

「ミッシェルさん、危ない!」

 

 

 

 ――警戒を怠っていたつもりはなかった。

 

 

 

 現に彼女は喋りながらも、絶えず敵が潜んでいないか周囲に視線を巡らせていたのだから。だからこそ、シモンが突然抜き放った槍で空中を薙いだ際にはその行動の意味が分からず。

 

 しかし金属同士がぶつかったような甲高い音が響き、その直後一瞬だけ虚空に火花が散った様子を見て、不可視の敵がいたことを悟った。

 

「~ッ!」

 

 思わず足を止めるミッシェルとダリウス。シモンは2人の一歩前に踏み出すと、すぐさま槍を構えた。それを嘲笑うように、どこからともなく男の声が聞こえた。

 

「フ、さすがに見くびりすぎたか。他愛のない相手と思ったが、それなりの使い手もいたらしい」

 

「何者だ、姿を見せろ」

 

 フルフェイスの下から唸るように告げれば、虚空からクツクツと喉を鳴らしたような笑いが鳴る。その直後、一行の目の前にはダイバースーツのような衣装に身を包み、一本の槍を携えた青年が立っていた。

 

「初めまして――私はルイス・ペドロ・ゲガルド。肩書としては機械工学博士、経済学・政治学・経営学諸々の評論家、EU協同大学院名誉教授、ゲガルド流槍術師範代……こんなところか?」

 

 青年、ルイスは慇懃にそう言うと、美しい碧眼で――一瞬だけ、胡乱気に女性職員を見つめてから――見下すように一行を見やった。

 

「さてようこそ、合衆国の犬ども。このような陰気な場所にわざわざ殺されに来るなど、ご苦労なことだ」

 

「退け、テロリスト。お前に構っている暇はない」

 

 ミッシェルが睨みつけるが、それをルイスは一笑に付した。

 

「退けと言われて退くとでも? だが奇遇だな、セカンド。私も君たちのような凡愚に構っている暇などない――」

 

 そう言った瞬間には、ルイスは既にミッシェルへと肉薄していた。

 

「――だから、死ね」

 

「っ!?」

 

 喉を目掛けて繰り出された穂先を、咄嗟にミッシェルは払いのけた。すぐさまルイスから距離をとった彼女の背を、冷たい何かが走った。

 

「意識誘導を使った歩法――枢機卿やデカルトの犬にできるのなら私も、と思ったが。存外に難し……おっと!」

 

 何やらブツブツと呟いていたルイスだったが、自分に向けて放たれた一撃察知するや否や、すぐさまそれを回避する。槍が穿ったものがルイスの残像だったことを認識すると、すぐさまシモンは片手で背後の2人にサインを出し、ある物をルイス目掛けて放り投げた。それを視認し、ルイスの顔から初めて余裕の色が消えた。

 

「くっ――!?」

 

「皆、ここはボクに任せて先へ!」

 

 シモンが叫ぶと同時、閃光弾(フラッシュバン)がはじけ、眩い閃光が空間内を満たす。咄嗟に両目を庇ったルイスの脇を、2人の人間が駆け抜けていくのが分かった。

 

「小癪な――! ワルキューレッ!」

 

 ルイスが号令を下すと同時、見上げる程に高い天井の上から人影が3つ、地上へと舞い降りた。

 

 防爆服製のコートを身に纏った、色素と言う概念に忘れ去らたかの如き少女たちだった。 3人の少女はいずれも、その背に鳥類と思しき生物の翼を生やしており、一見すればその様子は天使のようにも見える。

 

 しかし目深にかぶったフードの影から覗く漂白剤に浸けたかのような銀髪や、死体と見紛う程に不健康な青白い地肌を見れば、むしろその姿は冥界からの遣いのようだ。

 

「背後の2人を分断しろ!」

 

「「「承知いたしました」」」

 

 ルイスの指示を受け、3人の少女は軽やかに宙を舞うと、両手の指から生えた鋭利な爪でミッシェルとダリウスに襲い掛かる。

 

 ――少女に危害を加えることに抵抗がないわけではないが、一刻を争う状況でそんなことを言っている場合ではない。

 

「ふッ!」

 

 咄嗟に変態したミッシェルは、眼前に現れたワルキューレをパラポネラの筋力で殴り飛ばし、そのまま管制室へと続く通路まで駆け込む。

 

「ぐっ――!」

 

 しかし、ダリウスはそうはいかなかった。女性職員を背負っていた彼は、少女の攻撃を躱すことしかできない。少女の爪がダリウスの肩の肉を抉り、鮮血が女性職員の頬に跳ねた。

 

「ダリウス様ッ!?」

 

「俺なら、大丈夫――!」

 

 悲鳴を上げる女性職員に、苦悶の声を押し殺しながらダリウスは答える。それから立ち止まるミッシェルへと叫んだ。

 

「ミッシェルさん、俺に構わず先へ! あとで必ず合流します!」

 

 そう言い残すとダリウスは、ミッシェルの返事を待たず手近な別の通路へと逃げ込んだ。このまま三方向から攻撃された場合、背負った女性を守り切れないと判断したためだ。

 

「クソッ……ダリウス、シモン! お前ら2人共死ぬんじゃねえぞ!」

 

 ミッシェルは大声で吠えると、通路の先の闇へと姿を消していく。

 

「ルイス様、分断に成功いたしました。どうしますか?」

 

「ミッシェル・K・デイヴスを追え。あの通路が管制室への最短ルートだからな」

 

「了解いたしました」

 

 そう返すとワルキューレ達もまた、ミッシェルの後を追って通路の闇へと消えていく。

 

 

 

「さて、残ったのはお前1人だが……遺言はあるか、特別対策室の実働部隊長殿?」

 

 

 

「ないよ」

 

 シモンはきっぱりと言うと、槍を構え直す。その穂先は、明確にルイスへと狙いを定めている。

 

「言い遺すことも、こんなところで死ぬつもりも、ねっ!」

 

 そういうや否や、彼はその手に構えた槍ごとルイスに突撃する――と見せかけ、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「なにッ……!?」

 

 予想外の行動に、ルイスの思考が一瞬だけ硬直する。その隙をついて、シモンは一気にルイスとの間合いを詰めた。全長3mにも及ぶ自身の槍を捨て、ルイスの得物である槍の間合いの更に内側、懐に飛び入ったシモンは素早く踏み込んだ。

 

 

 

 ――中国武術。

 

 

 

 紀元前206年頃に起源を持ち、今日でも功夫(クンフー)の名で知られる武術であるが、その種類は少林拳や蟷螂拳など著名な物を始めとして、まさに星の数ほど存在する。

 

 シモンが使うのはその中でも「敵の動作を抑え」、「必殺の威力を必ず命中させる」という二点に重点を置き、特に実戦向きと評される武術である。

 

 

 

「スゥ――」

 

 

 

 その極意、『接近短打』。射程(リーチ)はその拳が届く範囲――否、それすらも遠すぎる。肩や肘などによる打撃を主眼に据えたその武術は、まさに超近接戦を想定したもの。

 

 

 

 メディアで散見される他の武術と違い、派手な動作はない。この武術の踏み込みの歩法である“震脚”は、達人になればなる程動作は小さく静かになるのだ。

 しかし、その小さな動作は“嵐の前の静けさ”。一度攻撃を許せば最後、使用者が練り上げた気は一気に解放され、あらゆる敵対者を防御ごと打ち破る。

 

 それは『陸の船(動かないもの)』『熊歩虎爪(熊のようにどっしりとした歩法、虎のように俊敏な攻撃)』と評され、“爆発”と形容されるほどの威力を誇る絶殺の拳法。

 

 その名も――

 

 

 

()アッ!」

 

 

 

 

 

 ――  八   極   拳   !  !

 

 

 

 

 

「ぐ――!」

 

 

 

 ウンカの脚力による強力な震脚で練り上げ、ヂムグリツチカメムシの強靭な腕力を通して放たれる、爆発的な威力の肘撃ち。その威力にルイスの体は十メートル以上も吹き飛ばされ、セメントの壁を大きく凹ませた。すかさずシモンは、ウンカの脚力で床を蹴る。

 

 

 

 ――ここで仕留める。

 

 

 

 先ほどの一撃、入りはしたものの受け流された感覚があった。おそらくまだ、致命傷には至っていない。

 

 目の前の敵(ルイス)は自分のことを知っていた。おそらく、ミッシェルとダリウスの素性も知っているのだろう。その上で自分たちの前に姿を現したことから、相当の実力者に違いない。

 

 加えて先程の擬態能力を考えれば、ルイスのベース生物がタコやイカのような軟体動物型である可能性がある。もしそうであればすぐに回復し、再び襲い掛かってくるだろう。

 

 だからこそ彼は油断しなかった。温情をかける余裕はない、次の一撃で確実に息の根を止める――。

 

 そしてシモンは追撃のために拳を構え――

 

 

 

 

 

 

「――浅はかだぞ、シモン・ウルトル」

 

 

 

 

 

 

 ――次の瞬間、数十の槍の穂先が彼の視界いっぱいに広がった。

 

「なっ!?」

 

 驚愕しながらも、脳が命じる前に体は動いていた。体幹を咄嗟にずらし、利き手と人体の弱点の損傷を防ぐ。直後シモンは、大きく後方に跳び退いた。

 

()っ……!」

 

 しかしそれでも無傷とはいかず、太ももや肩に空いた穴が鋭い痛みを神経に焼き付けた。特に深刻なのは脇腹で、滝のように血が溢れ出していた。

 

「ほう、あの距離でよく避けたものだ」

 

 薄ら笑いを浮かべたルイスの腹からは、数十本もの棘に似た形状の槍が生えていた。役目を終え、ズルズルと槍が体内に引きずり戻されていく様は異形そのもの。その様子にどこか名状しがたい悪寒を覚えるが、呆けているわけにもいかない。シモンは足元に転がる自身の槍を拾い直すと、すぐさま迎撃の姿勢をとろうとし。

 

 

 

 ぐらりと、体が傾いた。

 

「え――」

 

 咄嗟に槍を杖代わりにして転倒を堪える。態勢を立て直そうと足に力を入れ、そこでシモンは自分の体の異変に気付いた。

 

 四肢の痺れ、悪寒を伴う発汗、息苦しさ――明らかに体の調子がおかしい。すぐさまシモンは1つの可能性に行きついた。

 

「毒、か――!」

 

「然り。我が聖槍をその身に受けた時点で、お前に勝ち目などない」

 

 

 立つのもやっとと言った様子でこちらを睨むシモンを、ルイスは悠然と見返す。シモンはその背後に、面妖な相貌を持つ怪魚の幻影を見た気がした。

 

 

 

 

 

 槍は本来、攻めではなく守りのために生まれた武器である。

 

 

 

 古代ギリシャで用いられた重装歩兵たちの密集槍陣形(ファランクス)を思い浮かべて見れば分かるだろうか。槍はリーチが長く、それ故に剣や棍棒を持った兵士では依りつくことができないのである。

 

 もっとも古いファランクスは紀元前2500年の南メソポタミアでその痕跡を確認できるがその遥か何千何万年も前から、生物たちは己の体の一部を槍とすることでその身を守ってきた。

 

 ある哺乳類は硬質化した毛を、ある両生類は肋骨の先端を、ある爬虫類は尖った鱗を、そしてある魚類は――毒を持った背びれを。

 

 

 

 ――その生物は、ただ静かに海底に座す。

 

 

 

 まるで鬼か達磨を彷彿とさせるその顔は、一度見れば忘れられない程に印象強い。しかし、多くの遊泳客は彼の姿を目にすることはないだろう。

 

 なぜなら、彼らは擬態の達人だから。

 

 彼らは獲物となる小魚を捕食するため、海底の風景に溶け込む。そして例え目の前に人の脚が振り下ろされようと、微動だにしない。しかし目当ての餌が訪れれば一転、目にもとまらぬ速さで食らいつく。ごつごつとした肌は岩そのもので、人の目でも容易に彼らを見つけることはできない。だからこそこの生物はしばしば、海で楽しい一時を過ごす人間達に激痛と恐怖をもたらす。

 

 ――そこにいるとも知らず人間が下ろした足に、猛毒の槍を突き立てるという形で。

 

 

 

 

 

 

 ルイス・ペドロ・ゲガルド

 

 

 

 

 

 

 

 国籍:スペイン

 

 

 

 

 

 

 

 25歳 ♂

 

 

 

 

 

 

 

 182cm 82kg

 

 

 

 

 

 

 

 αMO手術 “魚類型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ―――――――――――― オニダルマオコゼ ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 専用武器:体色連動式極薄リキッドアーマー 『SYSTEM(システム)Glaaki(グラーキ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「永久楽土の礎となるがいい、凡愚。我が槍を、貴様の墓標にしてやろう」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――魔槍の隠者(オニダルマオコゼ)磔刑(スティング)

 

 

 

 

 

 

 

 




【オマケ】

ルイス「ちなみに私の槍は“対生物コーティング式西洋槍試作機 『インヌメルム・ロンギヌス(無数の聖槍)』”、恐れ多くもオリヴィエ様の御下がりを使わせていただいている」

希维「御下がりと言うより、オリヴィエ様の専用武器の失敗作っすね。エコロジー思考のオリヴィエ様が「捨てるのは勿体ない」ってことで押し付けた代物、言うなればバレンタインに、本命チョコの失敗作を意中の相手から渡されたようなもんっす……ルイス兄、義理チョコ以下のバレンタインチョコを見せびらかして恥ずかしくないんすか?」

ルイス「黙れ愚図め。そもそも貴様、その義理チョコ以下すらオリヴィエ様から賜ってないだろうが」

希维「うぐっ、ルイス兄の癖に正論を……!? べ、別にいいっすもーん! 私はそもそも槍使わないし、全然羨ましくなんかないっす!」



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冒涜弔歌OLIVIERー4 汚泥満杯

「永久楽土の礎となるがいい、凡愚。我が槍を、貴様の墓標にしてやろう」

 

「……永久楽土、ね」

 

 シモンはルイスの言葉を反復しながら、ウンカの脚力で地を踏みしめた。拾い上げた己の専用武器を構え、ルイスを静かに睨む。

 

 ――意外に思われるかもしれないが、多くの中国武術では中遠距離からの攻撃にも対応するため、素手のみではなく武器を使う戦闘術もセットで習う。

 

 それは八極拳も例外ではなく、その中でも一際有名なのは“槍”であろう。その名も“六合大槍”――全長実に3m20cmにもなる、長大な槍を用いた八極である。

 

「ヒュッ!」

 

 短く息を吐きながら、シモンは身長の二倍近い長さの槍による刺突を繰り出す。

 

 六合大槍の開祖・李書文は、牽制に放った初撃でさえ相手を葬ってしまうことから『神槍无二打(李書文に二の打ちいらず)』と謳われたという。

 

 シモンの槍術は技術こそ未だその域に達していないものの、MO手術によって強化されたその身体能力は当時の開祖を遥かに凌ぐ。故にその一撃は熾烈、並の戦闘員では到底躱しきることはできないはずのもの。

 

 だがルイスはその一撃を跳躍によって、あまりにも容易く回避してのけた――のみならず。

 

「――温いな」

 

「!?」

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()、お返しとばかりシモンに自身の槍の刺突を浴びせる。

 

 ――回避は不可能。

 

 そう判断したシモンは、即座に自分の槍から手を放す。そのままルイスの槍を掴み、刺突の勢いそのままに引き寄せた。

 

 足場を失い、ルイスの体が虚空に舞う。この状況なら、先程のような受け流しは不可能。シモンは眼前の脇腹に肘撃ちを放った。毒棘のファランクスを展開する間もなく、ルイスの体が吹き飛ばされる。

 

「フン、興ざめだ」

 

 しかし当のルイスは、さして損耗したような様子もない。自らの得物をつっかえ棒のようにして空中で一回転すると、軽やかに地面に着地した。

 

「御大層な肩書の割に、技術が全く追いついていない。こんな男を現場指揮官にするとは……“ダ・ヴィンチの再来”も、人を見る目はからきしらしい」

 

 ルイスはシモンを嘲るような調子で続ける。

 

「かつて私が巡り合ったある八極使いは、拳1つで対物ライフルを想定した戦車装甲を砕いて見せたぞ? 真に貴様が八極を修めていれば、『こんなもの』で抑えきれるわけがない」

 

 そういってルイスは自身が身に纏う特殊なスーツを指で撫でる。それを見て、シモンは微かにその顔を強張らせた。初劇も今も打撃の瞬間、何かが衝撃の伝播を阻んだような感触があったのだ。どうやらその正体が、あの特殊なスーツらしかった。

 

 防具の際たる鎧と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、西洋甲冑にせよ日本の鎧兜にせよ、「重く、硬い」防具だろう。

 

 しかし2600年代には、この例に当てはまらない鎧が存在する。それが“リキッドアーマー”である。

 

 この鎧は内部に「ダイタラント流体」と呼ばれる、粉末粒子を混ぜこんだ特殊な液体を内包しており、衝撃が加わった際には固体のような抵抗性を発揮する。従来の防具とは対照的な「軽く、柔らかい」鎧なのだ。

 

 2018年時点では構想の域を出なかったこの防具はその600年後、2618年現在では軍用装備として世界の軍隊に広く流通している。

 

 ルイスが身に纏う体色連動式極薄リキッドアーマー 『SYSTEM(システム)Glaaki(グラーキ)』は、それを更に軽量・薄型化したもの。ダイバースーツに匹敵する薄さでありながら、極めて高い防御力を発揮する。それにオニダルマオコゼの分厚い皮膚とルイス自身の戦闘技術が加われば、生半可な打撃は通用しない。

 

「未熟な己を恨むがいい――今度はこちらから行くぞ!」

 

  言うと同時、ルイスは踵から踏み込み、シモンへと肉薄した。

 

  人間の最新品種、ニュートンの血統に生来備わる高いポテンシャル。訓練を通じてより丹念に磨きあげられたそれで以て、ルイスはシモンに躍りかかる。

 

  繰り出されるは怒濤の連撃。近未来的な装飾が施された彼の槍の穂先は、人体の急所を的確に狙い突く。雨のように降り注ぐ刺突に、シモンは防戦に徹さざるを得ない。

 

 ――これもまた、ルイスのベース生物であるオニダルマオコゼの特性。

 

 待ち伏せの「静」の構えから、瞬時に獲物に食らいつく「動」の動き。一瞬にして獲物を飲み込む瞬発力。それをルイスは槍の一撃に転用しているのだ。

 

 その攻撃速度、まさに神速。無論シモンもされるがままではなく、槍や拳による受け流しを試みる。しかしカメムシの知覚ではその全てに反応しきることはできず、シモンの体に刻まれる傷は刻々とその数を増やしていく。

 

「フフ、ハハハハハ! 他愛なし、シモン・ウルトル! その程度で我が君の野望を阻もうなど、片腹痛いわ!」

 

 無機質な床が次第に赤く染め上げられていく様に喜色を浮かべ、ルイスがサディスティックな嘲笑を浮かべた。

 

 ブリュンヒルデがU-NASAのデータベースから盗み出してきた情報によれば、この男の手術ベースは『カマドウマ』。バッタ目に代表される強靭な脚力はなるほど、脅威ではある。しかし所詮は直接攻撃系の括りに分類されるベース生物、特筆して警戒しなければならない能力はないだろう。本体の戦闘能力も高くはあるが、ニュートンの肉体を持つルイスであればどうとでもなるレベル。つまりシモン単独では、どうあがこうともルイスの敵ではない。

 

 懸念すべきは援軍の存在だが、要注意戦力であるミッシェルとダリウスは別の通路へと誘導済み。微かに響く銃声を聞く限り他の同行者は亡者の足止めでしばらくは手が離せないだろう――もっとも、仮に追いつかれようと自分ならば問題はないのだが。

 

「うっ……!」

 

 このままで追い詰められると、シモンはルイスの間合いから跳躍で脱する。しかしその先で彼は、膝をついた。そのタイミングで追撃の穂先が繰り出されなかったのは偶然ではない、ルイスにはわざわざ焦る理由がないからである。

 

 そう、この戦闘においては時間すらもルイスの味方である。なぜなら戦闘が長引けば長引くほどにシモンの体は消耗し、自ら敗北へと足を進めていくのだから。

 

 

 

 “オニダルマオコゼの魔毒”――それがシモンの体を蝕むモノの正体。

 

 

 

 毒物の威力を測るための尺度として「LD50値」という指標が存在する。投与された実験動物の半数が死亡する毒液用量を測定するため「半数致死量」とも呼ばれており、mg/kg(1kgあたり何mgの毒液で死亡するか)で判定される。つまりこの数値が小さいほど、少量で被毒者を殺傷せしめる危険な毒ということになる。

 

 分かりやすい例を挙げれば、推理小説でおなじみの毒物「青酸カリ」のLD50値が3.0mg/kg、毒蛇として有名な「キングコブラの猛毒」で1.7mg/kgであるとされる。

 

 だが「オニダルマオコゼの魔毒」はそれらを容易く上回る。そのLD50値は実に0.8mg/kg――単純計算にして、キングコブラの毒の二倍以上の毒性を孕んでいるのである。しかもこれは“皮下注射”の話であり、静脈に毒素が注射された場合には0.2mg/kgと魚類の中でも有数の毒性を誇る。

 

 オニダルマオコゼの毒は、間違って踏みつけてしまったダイバーや海水浴客が死亡してしまうこともあるほどに危険な代物。それが人間大のサイズで生産されるとなれば、毒棘による一撃はその身をかすめただけでも、致命傷は免れない。どうあがこうと、シモンに勝ち筋はないのである。

 

「惨めなものだ、シモン・ウルトル。その様ではもはや動くこともできまい」

 

 浅い呼吸を繰り返す満身創痍のシモンにゆっくりと近づくと、ルイスは槍をつきつけた。

 

「せめてこのルイスを相手に、五分立っていられたことは誉めてやろう。誇るがいい……あの世でな」

 

 そして彼は、シモンの喉へと槍を突き立てた。

 

 

 

 

 

「本当は、使いたくなかったんだけど」

 

 

 

 

 

「ッ――!?」

 

 

 

 しかしその直後、ルイスが槍越しに感じたのは穂先に切り裂かれる肉と筋の感触ではなくい。まるで岩に槍を突きさしたかのような固く、強い抵抗力だった。

 

 

 

 ――馬鹿な、()()()()()()()()()!?

 

 

 

 ルイスはその事実が信じられず、目を瞠った。

 

 ルイスが得物として用いる槍は、彼の主君たるオリヴィエの専用武器である“対生物コーティング西洋槍”『ペルペトゥウム・ロンギヌス』の量産型試作機である。当然ながら性能は完成品に遠く及ばないものの、それでも有象無象の槍など足下にも及ばない攻撃力を秘めている。

 

 特殊なコーティング技術で表面の摩擦係数が限りなく0に近づけられており、雑に使ってもツノゼミの甲皮を容易に穿通せしめる程で、ルイスの技量であれば甲虫の外骨格程度は豆腐にフォークを刺すように貫くことができる。防がれるとすれば甲殻型か防御に特化した一部の生物のみであり、“カマドウマ”にその一撃を防ぐことは不可能なはず。

 

 

 

「――拘束制御装置第1号、解錠」

 

 

 

 鼓膜に響く、静かなシモンの呟き。ルイスは瞬時に、眼前の死に体の男が奥の手を隠していたことを悟る。

 

「チッ!」

 

 バックステップを切り、ルイスはシモンの間合いから逃れようとし――しかしその直後、彼の後退は「何か」によって阻まれた。思わず振り向いた彼の眼球は、その正体をすぐに認知する。

 

 ――糸だとッ!?

 

 それは、目に見えない程に細い糸だった。いつの間にか彼の背後に張り巡らされた無数の糸が、まるでリングコーナーのようにルイスの退路を塞いでいたのである。

 

「ぜあッ!」

 

 次の瞬間、眼前に迫ったシモンの脚から豪速の膝蹴りがルイスへと放たれる。毒槍のファランクスを展開する暇はない、ならば専用武器と技術で受け流すまでとルイスは防御の構えを取り――。

 

「ご、はッ――!?」

 

 その直後、2重の防御を貫通して体の芯を打ち抜いた衝撃に苦悶の声を溢した。しかしそれでも、膝を着く様な無様を晒すことはルイスのプライドが許さなかった。崩れ落ちる前に彼は右手を床につき、側転の要領で今度こそシモンの間合いから逃れた。

 

「貴様ァ……ッ!」

 

 シモンを睨むルイスの形相は屈辱と怒りに歪み、余裕の色は跡形もない。

 

「なぜ私の一撃を防げる!? なぜ私は、今の一撃を――いや、()()姿()()()()!?」

 

 喚きたてるルイスの視線の先で、シモンは悠然と槍を構え直す。その姿は数秒前から一瞬にして様変わりしており、今は金属光沢を帯びた美しい甲皮が彼の全身を包みこまれている。

 

 

 

 ――カメムシの多くは緑や茶といった地味な色彩が多いものの、中にはモルフォチョウやタマムシと同じように特殊な構造の外皮で光を反射し、美しい光沢を持つものがいる。

 

 

 

 それがシモンの体に組み込まれた害虫の遺伝子の20分の1、『ナナホシキンカメムシ』を始めとするキンカメムシ科のカメムシたちである。自然界の光を乱反射する彼らの甲皮は金属や宝石に例えられるほど美しく、好事家の間ではしばしば、カメムシでありながら『世界で最も美しい昆虫』の1種として名が上がることもあるという。

 

 しかし、キンカメムシたちの外皮は煌びやかなだけではない。彼らの最大の特性は、カメムシの中でもトップクラスと言っていい防御力にこそある。

 

 翅が生えた昆虫の多く(特に甲虫、カメムシ類)は中胸・後胸の背中側、二枚の前翅の間に『小楯板』と呼ばれるV字の形をした甲皮を持っている。本来であれば翅の付け根やその下の柔らかい胸部を防御するための局所的な防具であるのだが、キンカメムシたちはこの小楯板を極端に発達させることで全身を防御している。言うなれば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 加えて彼に与えられたとある専用武器により、小楯板の強度は段違いに増している。防御に長けたナナホシキンカメムシの特性を発現させている彼に、生半可な攻撃は通用しない。

 

「教える必要はない……けど。君なら答えを知ってるんじゃないかな?」

 

 シモンはアクセントにいかにもといった含みを持たせながら、ルイスに語り掛ける。この男は聡明だ、嘘は見抜かれてしまいかねない。だから騙すのではなく()()()()()()――あたかも彼にとって既知であるかのように嘯き、思考のどつぼに落とし込む。

 

()()()()()()()()()()()……いや、あの糸と脚力も考えれば更に……ッ! 貴様まさか、アヴァターラと同じ“特定部位複合型”か!?」

 

 ――かかった。

 

 シモンはフルフェイスヘルメットの下で小さく笑んだ。この場における最悪は自分が殺されることともう一つ、ゲガルドの者に正体がばれてしまうこと。

 特定部位複合型という推理は当たらずとも遠からず、だが本当の種が割れさえしなければ、それでいい。

 

「さぁね。だけど、一つ言えることがある」

 

 強力な特性、しかしそれに頼り切りではない、知能・身体共に磨き上げられた確かな実力――だからこそ自信家であり、プライドが高い。この手の人物は往々にして、一度その自信を崩されれば脆い。

 

 故にシモンは、すかさず言葉を続けた。挑発の言葉、相手を逆上させ冷静さを奪うための言葉を。

 

「――君はもう、ボクには勝てない」

 

「……ッ!!」

 

 図らずもそれは、ルイスにとっては禁句ともいえるワードだった。

 

 憎悪に染まったルイスの視界で、シモンの姿に忌々しい女の姿が重る。あの日――ゲガルドの当主の座をかけて争い、惨敗を喫し、這い蹲ることしかできない自分を虫のように見下す、怨敵の目。

 

 

 

 

 

『残念だったっすねぇ、ルイス兄。貴方は私には勝てないんすよ』

 

 

 

 

 

「黙れ――黙れ黙れ黙れ  黙  れ  ェ  ! ! 」

 

 激昂したルイスが吠える。専用防具である『Glaaki』を貫通したダメージは抜けきっていないが、それを意識の外へと追い出されてしまう程に彼の怒りは煮えたぎっていた。

 

「毒に侵された死に損ないが、思いあがるなッ! 貴様如きに、我が君の野望を阻ませるものか――! 次の一合で、その減らず口ごと貴様を葬ってくれる!」

 

「……そうだね。()()()()()()()

 

 シモンはそう言うと、真っすぐにルイスを見返した。フェイスガード越しにもその真っすぐさが分かるようで、それがまたルイスの癪に障る。

 

「ッ、なめるなァ!」

 

 ルイスは口から血混じりの泡を飛ばし、一気に駆け出した。それを迎撃すべく、シモンもまた槍を構える。

 

 ――()ッ!

 

 シモンの槍が鳴き、鋭い切っ先がルイスへと迫る。それを紙一重で躱し、ルイスは鬼気を纏い迫る。咄嗟にシモンは腕を引くが、間合いは既に大長槍の射程から長槍の間合いに入っている。

 

 ルイスは勝利を確信する。この間合いならば、()()()()――!

 

「死ね、シモン・ウルトル!」

 

 槍が効かない頑強な鎧を持つベース生物への対策をしていないルイスではない。

 狙い穿つは甲皮と甲皮の継ぎ目――如何に頑強な外骨格であっても、そこまではカバーしきれない。

 

 本来であれば目玉か排泄器官を狙うべきだが、ヘルメットをしているシモンの眼球の正確な位置は分からず、排泄器官をとれるほどに隙がある相手ではない。

 

「楽園の土くれと果てろッ!」

 

 オニダルマオコゼの瞬発力が、幾何学を刻んだ槍を撃ち放つ。寸分の狂いもなく、その穂先はシモンの胸部の継ぎ目へと放たれ――。

 

 

 

()()()()()()()()()

 

 

 

 シモンの手は、確かにルイスの槍を掴んでいた。

 

「な、にィ……!?」

 

 瞠目するルイス。その耳が、シモンの小さな呟きを捉えた。

 

「拘束制御装置第4号、解錠」

 

 ――”ベニツチカメムシの経路積算”

 

 子育てするカメムシとして知られるこの昆虫は、光源を参照して自らの位置を同定し、離れた場所からでも最短距離で巣へ帰ることができるという(余談だが、この時に必要とする光量はほんのわずかでよく、星や月が見えない真夜中でもその計算は正確だという)。

 

 この特性を発現させたシモンは、視覚情報から物理運動の軌道を正確に計算することが可能。即ち防御においては”相手の攻撃を正確に見切る”ことを可能とし――

 

「拘束制御装置第6号、解錠」

 

 攻撃においては”相手の急所を的確に突く”ことを可能とする。

 

 シモンの腕を構成する筋肉が何倍にも膨れ上がり、衣類の袖を引き裂いた。鬼の剛腕を思わせる屈強なその腕は、ミッシェルやその父であるドナテロが『パラポネラ』の特性を発現させた際のそれによく似ている。

 

 ――拘束制御装置第6号が制御するベースは、カメムシキメラζ(ジータ)

 

 この合成虫を構成する遺伝子は、カメムシの中でも特に発達した前脚を持つ“ヒゲナガカメムシ”と、自分と同サイズの獲物を口吻だけで吊り上げる筋力を持つ“チャイロクチブトカメムシ”。言うなれば、腕力に特化した合成虫である。

 

「スゥ――」

 

 時間にして1秒にも満たない刹那の時間。

 

 シモンは肺一杯に空気を吸い上げ、非常に小さな震脚によって気を練り上げる。ただの打撃では駄目だ、ルイスの専用防具に阻まれる。ゆえにシモンはその一撃を、爆発とまで形容されるその衝撃を、相手の体内へ伝えるように打ち出す。即ち――!

 

 

 

()ッ――!」

 

 

 

 

 

 ――  発  頸  !  !

 

 

 

 

 

「ご、ぱっ……!!」

 

 練り上げた気と、腕力に長けたカメムシの層状による衝撃。ダイタランシ―による防御を許さず、その一撃を内臓にもろに受けたルイスは口から血を噴き出し、今度こそ床の上に崩れ落ちた。広がる鮮血の海に浸り、美しい金髪が赤褐色に汚れる。打撃を受けた腹部は陥没しており、素人が見ても致命傷と分かる程の損傷を受けていることは明らかだった。

 

「全制御装置施錠――勝負あり、だね」

 

 血だまりの中でもがくルイスにそう言葉を投げると、シモンは静かに背を向けた。

 

 骨を砕いた感覚があった、肉が爆ぜた感触があった――修練を積んだシモンには分かる、ルイスはもう戦えない。再生能力に長けた軟体動物であれば時間をかければ再起は可能だろうが、その頃には決着はついているはず。そうでなければ、今後の戦線復帰は絶望的。いずれにしても、これ以上シモンはルイスに時間を浪費するつもりはなかった。

 

「な゛……ッ、ま……!?」

 

 弱弱しい彼の声にも構うつもりはない。シモンは管制室へと向かったミッシェルを追うために足を踏み出し――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやお見事っす、シモン様!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その直後、背後からかけられたその声に、シモンは躊躇うことなく槍で背後を突いた。

 

 死角から、完全に虚を突いたタイミングで迫る穂先をあっさりと躱し、声の主はこの場に似つかわしくない緊張感に欠ける声音で続ける。

 

「戦闘に関しては一族内でも私に次ぐルイス兄を、まさかこうもあっさり倒しちゃうとは思わなかったっす。お強いんすねぇ」

 

「……君は、誰だ?」

 

 シモンの前に立っていたのは、ビジネススーツに身を包んだ、ポニーテールの女性だ。しかし、この女性が味方ではないのは一目瞭然。腰に下げた二丁銃は明らかに正規職員のものではないし、なにより声をかけられるまでシモンは彼女の存在を認識することができていなかったのだ。

 

「あ、自己紹介が遅れて申し訳ないっす。私は希维(シウェイ)・ヴァン・ゲガルド、そこに転がってるルイス兄の従妹っす。今日は――」

 

希维(シウェイ)……!? 貴様、なぜここにいる……!?」

 

 そんな女性の言葉を遮って声を上げたのは、血だまりの中のルイスだった。出鼻をくじかれたことに女性――希维・ヴァン・ゲガルドはムッとしたような表情を浮かべ、ジトリとした一瞥をルイスへと向けた。

 

「人の話は遮っちゃいけないって習わなかったんすか、ルイス兄? ……ま、いいっす。で、なんで私がここにいるかって話っすけどズバリ、オリヴィエ様の指示っすね。そうじゃなきゃわざわざ、アメリカまでルイス兄の後を追ってくるわけないじゃないっすか」

 

 奇しくもその瞬間、ルイスとシモンの脳裏に浮かんだ言葉は同じものだった。

 

 “援軍”。

 

 新手の出現にシモンは渋面を浮かべるが、それ以上に屈辱を耐えきれない様子なのはルイスだ。自分を気遣い、増援を寄越してくれたオリヴィエの気遣いはありがたい。だがよりにもよって、それが便所のゴキブリよりも不快なこの女とは。

 

「手出しは無用だ、希维……!」

 

 そう言うとルイスは、槍を支えによろけながらも立ちあがった。それを見たシモンは、思わず目を疑った。既に内臓がいくつも破裂し、常人ならば死んでいてもおかしくない傷である。なぜまだ、立ち上がることができるのか。

 

「オリヴィエ様に通信をお入れしろ、『何も問題はない』と……すぐにあの凡愚を始末し、アメリカ合衆国を貴方に献上すると……!」

 

 朦朧としながらもプライドで意識を保ち、ルイスは言う。しかしその直後、希维の口から飛び出したのは予想外の言葉だった。

 

「いや、何を都合のいい勘違いしてるんすか。私が来たのは、仕上げと後始末のためっすよ」

 

「後始末、だと……?」

 

 訝し気に眉をひそめたルイスの反芻を、なんてことないように「そうっすよー」と肯定する。希维はニコリともせずに口を開き――

 

 

 

 

 

 

 

 

「――笑っちゃうような無様を晒したルイス兄の、後始末っす」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ルイスの首筋に、複数の『それ』を押し当てる。

 

 ――それは、シモンにとっても馴染みのある物。人為変態のための変態薬であった。

 

 ただしそれは、昆虫用の注射器でもなければ、魚類用の粉末でもない。パッチ状のそれは、哺乳類型のMO手術を受けた者のためのものだ。今の状態は、『自分の手術ベースとは違う型用の人為変態薬の過剰投与』状態である。

 

 ――その行為に、何の意味が?

 

 そんなシモンの疑問は次の瞬間、最悪の形で氷解することになる。

 

「貴様、何を――」

 

 ルイスがその疑問を、最後まで言い切ることはなかった。次の瞬間、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 陥没した腹が波打ち、内部で内臓が作り直されて元の膨らみを取り戻していく。加えて全身に刻まれる細かな傷も、まるで映像を逆再生したかのように修復されていく。

 

 

 

「ぎ、がああああああああああああ!?」

 

 

 

 ――だが、ルイスの口から飛び出したのは苦悶の悲鳴。

 

 内臓が爆ぜようともうめき声程度しか漏らさなかった彼の口から、まるで地獄で責め苦を受ける囚人の如き絶叫が飛び出した。

 

「――おかしいと思わなかったんすか?」

 

 苦しむルイスを無感動に見下しながら、希维は淡々と告げる。

 

「シド・クロムウェルから受けた刀傷が数時間で治ったことはまぁいいっす。でもエメラダちゃんの専用武器に巻き込まれて心臓が止まったのに、シドの衝撃波に巻き込まれたのに、()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「――っ!!」

 

 ルイスがぎょっとしたように目を見開いた。その様子に「これだからルイス兄は……」と、希维は頭を横に振った。

 

「まさか、自分の運が極端によかったとでも? だとしたらお笑いっすね、ルイス兄が今この瞬間まで生きていられたのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「何、を……!?」

 

 だらだらと脂汗を流して苦しむルイスに、希维は告げた。本人すら知らず、数刻前までは自分も知らされていなかったその事実を。

 

 

 

 

 

「ルイス兄の手術ベースは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 “オリヴィエ様から賜った力のおかげ”“オニダルマオコゼだけじゃない”――その言葉に込められた真の意味を理解した瞬間、ルイスの顔から血色が一気に失せた。

 

「ところでルイス兄、“命を捨ててもいい”と、“捨て駒にされても構わない”には大きな差があるっす。「自分は命を捨てられる」ってだけじゃ、ただの自己満足。本当の忠誠っていうのは「ゴミのように扱われようと、最後まで忠義を通す」ことっす」

 

 ――ざらざらと、自分という人間が壊されていく感覚がする。自己意識を異物が塗りつぶし、まるでカビのように広がっていく。

 

 それは、『認知を侵す心影』。

 

 その正体に、ルイスは心当たりがあった。これは主の研究を応用した技術の1つ、裏アネックス計画での使用を視野に入れ、実用化が進められているはずの技術。

 

 

 

 ――まさか、まさか! ()()()()()()()()()

 

 

 

「最後のお仕事っすよ、役立たずのルイス兄――文字通り、その身をオリヴィエ様に捧げるっす」

 

 

 

 ――実験動物(モルモット)

 

 

 

「あ、ああ――!?」

 

 冷徹に放たれたその一言は、既に自我が虫食い状態に侵食されて弱っていたルイスの心をへし折るには、十分すぎた。

 

「どうしてですか! どうしてですかおりヴぃえ様! どうしてしえいを選んだのですか!」

 

 ルイスは彼方に座す己の主君へ、届くはずもない声で訴え続ける。変態薬の過剰摂取によって遺伝子のバランスを崩された肉体はミシミシと音を立てて、刻々と()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「わたしじゃない! 捨てられるべきその女だ! こんな結末は、あんまりではないですか! わたしが、この×××・×××・××××こそが、○○○○○様には相応しいはず――あ、れ? わたし、わたし誰ダっけ――?」

 

 

 

 

 

 ――深淵の玉座で、泥人形が静かに笑む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ひっ――やだ、やだやだやだやだやだやだぁ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事態の推移を見守ることしかできないシモンの眼前で、ルイスの自我はついに決壊した。もはや先刻までの傲慢さなど見る影もなく、彼は幼児のように泣きわめいて見えない何かに許しを乞う。

 

 

 

「ゆるしてください! ゆるしてください! おねがいやめて! わたしを……わたしをけさないでええええええええええええええええええええええええ!」

 

 

 

「オリヴィエ様への忠義はその程度っすか」

 

 希维はその目に侮蔑の色を浮かべながら、底なしの泥に飲まれいく従兄の自我を看取る。

 

 

 

 

 

 

 

「αMO手術まで受けておきながら……情けない従兄っすね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――あ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――凄惨な悲鳴が止んだのは唐突だった。

 

 ストン、とルイスの顔から一切の表情が抜け落ちる。気味の悪い静寂が周囲に満ちる。

 

 そして次の瞬間――ゴキリ、という鈍い音と共に。一人でにルイスの首がへし折れた。首皮一枚で胴体と繋がっているだけの頭部はぶらんとだらしなく垂れさがり――そして。

 

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ッ!」

 

 ――放置してはまずい。

 

 我に返ったシモンが攻撃を仕掛けようとするも、希维がその動きを牽制するように銃撃を繰り出すために、ルイスの肉体へと近づけない。そうする間にも、肉体の変異は続く。

 

 首皮を突き破り、まるでツクシかタケノコのように現れたのは、人間の頭部だった。始めは胎児ほどの大きさだったそれは、悪趣味なホームビデオを早送りするかのように急成長していく。やがて数十秒ほど経つと、そこには金髪碧眼の青年の顔があった。

 

 ルイスにどこか似た顔立ちだが、彼のような鋭さがない。美しく整っていて、しかしどこか薄気味悪さを感じさせる造形だ。

 

 

 

「――お加減はいかがっすか?」

 

 希维は恭しく一礼して、来訪した主君に窺う。ルイスの体を乗っ取った青年は、調子を確かめるように肩を回しながら「うん、悪くない」と返した。

 

「アダム君とこの『【S】EVEN SINS』と(バオ)君の出芽を参考にしてみたんだけど、いい感じだ。やっぱり、遺伝子が近いからかな? 君との相性もあるし、どのみちルイスはどこかで使い潰さなきゃだったんだけど……彼を実験体に選んでよかった」

 

 青年はそう言うと、首の脇から皮一枚でぶら下がるルイスの生首を引き千切り、希维へと手渡す。嫌そうにそれを受け取った希维の無言の抗議を無視すると、彼はシモンへと向き直った。

 

 

 

「さて……初めましてだね、シモン君。言いたいことは色々あるけれど……ひとまずは自己紹介をしようか」

 

 

 

 そう言って青年は、不気味な微笑を浮かべるのだ。

 

 

 

「私はオリヴィエ・G・ニュートン――一連のテロ事件の首謀者の一人だよ」

 

 

 

 

 

 




【オマケ】白陣営控室

ルイス『ワタシヲケサナイデエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエ!』

ワルキューレ「…!?」ビクゥ!

ブリュンヒルデ「ヒエッ」

エメラダ「ダ、ダリウスサマ……」

プライド「2章でまだ戦闘シーンを控えている白陣営のメンバーが予防接種待ちの幼稚園児みたいな顔に!?」



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冒涜弔歌OLIVIERー5 生殺与奪

 ――それは、痛し痒し(ツークツワンク)という代理戦争が開催されるよりも前のこと。

 

 オリヴィエとアダムが通信をしていた際、アダムがふともらした一言がきっかけだった。

 

「オリヴィエ君、この技術なんだけどさ……使い勝手、悪くない?」

 

「うん?」

 

 ふと通信モニターから声をかけられたオリヴィエが顔を向ければ、そこには神妙な顔をしたアダムがいた。

 

 基本的にふざけた態度に惑わされがちであるが、アダム・ベイリアルのニュートン嫌いは筋金入りである。いっそ、忌み嫌っているとさえ表現していい――アダム・ベイリアルはトップから末端に至るまで、上位下位を問わずにニュートンの一族を嫌悪している。

 

 ただし、これには例外が存在する。それこそが槍の一族……というよりは、“オリヴィエ・G・ニュートン”だった。

 

 オリヴィエが科学者だから? 倫理に縛られない邪悪な人間だから? あるいは単純に性格があうから? ――否、それらの要素は介在するものの、最大の要因はもっと包括的なものだ。

 

 いうなれば彼らは、似た者同士なのだ。

 

突飛な技術を繰る科学者という肩書、倫理を無視する碌でもない性分、常人には測れない負に堕ちた性格、そして……何をどう取り繕おうと、どうしようもない××であるという境遇。

 

 アダムにとってはその類似性が、オリヴィエがニュートンの中枢に近い存在であることを差し引いても余りある好要素であったらしい。そしてオリヴィエもまた――友情を感じているかどうかはともかくとして、科学百般を知り尽くし、その邪道裏技に精通するアダムには一定の経緯を払っていた。

 

 そのためニュートンの一族たちは(次期当主たるジョセフですら)与り知らぬことではあるが、以前から技術や物資の交換をするため、割と頻繁に交流をしていたのである。

 

「いや、今の言い方だと正しくないな。より厳密には、()()使いにくいんじゃない?」

 

アダムの言葉に「はて?」とオリヴィエが閲覧画面の共有操作を行えば、コンマ数秒と待たずディスプレイにはアダムが参照していた研究データが表示された。

 

 それはつい先日、オリヴィエが実用化にこぎつけたばかりのとある技術だった。細かい要素を説明すればきりがないが――端的にそれを言い表すなら「他者の肉体の乗っ取り」とでも形容するのがいいだろう。

 

 他者の認知機能と肉体制御機能の一切を強奪し、まるでテレビゲームでゲームキャラクターを操作するかの如く、離れた位置にいながらその者を操る……そんな技術。

 

「ふむ、具体的に「どこが」と聞いても?」

 

 オリヴィエが問い返す。先日出来上がったばかりの技術、粗があるのはオリヴィエ自身も認めるところだが、それも踏まえたうえで「ひとまず実用化の印を押しても問題ない」というのが彼の結論である。

 

 無論アダムとしても、それは織り込み済み。そのうえで彼は口を開いた。

 

「まぁ、技術云々というよりは成果物の話だし、君なら問題なさそうなんだけど……オリヴィエ君、他人の肉体を十全に使いこなせる?」

 

「多分、それなりにはね」

 

「お、さすが。それじゃあ更に聞くけど、()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 仮に出し切れたとして、それは君本人の実力に匹敵する?」

 

「……」

 

 返事に窮したオリヴィエは、同時にアダムの言いたいことを察した。いかに中身がニュートン内でも最上位に連なるオリヴィエであっても、その器は赤の他人。早い話が、旧型のパソコンに最新式の計算ソフトを搭載するようなものである。宝の持ち腐れ、という表現がふさわしいだろう。

 

「……確かにいきなり赤の他人を操縦するより、幾分でも馴染みのある体の方が使いやすくはあるね。けどこの技術の利点の1つは、こちらから行動しない限り仕掛けがばれにくいことにあるんだ。操縦性と隠蔽性、どっちをとるかという問題なら……この技術については、私は後者をとりたい」

 

 オリヴィエはこの技術を、『裏アネックス計画』の任務で試運転するつもりだった。乗組員の一人の肉体を強奪し、地球に居ながら火星に介入するのが狙いだ。しかしそれが潜入前からばれてしまっては意味がない。だからオリヴィエは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、あえて他人の肉体を使おうとしている……もちろん、それだけが理由、というわけではないのだが。

 

「いやいやオリヴィエ君、その思考は『アダム・ベイリアル』的にはちょっといただけないぜ」

 

 

 

 しかし狂科学の申し子たるアダム・ベイリアルは、彼の言に否と唱えた。

 

 

 

「虻蜂二兎をいかにして捕らえるか。一石二鳥、一挙両得、究極の総取りを目指してすべてを思い通りにする方法を探す、ってのが僕たち『アダム・ベイリアル』の科学でね。操縦性と隠蔽性どっちをとるかじゃない、()()()()()()()()

 

 できるのか? という意味を込めて目を細めたオリヴィエに、アダムは「もちろん!」とうなづいた。

 

「さっき送ってもらったデータで、欠番だった【Q】と【R】の補充ができそうだからね。そのお礼代わりに、僕たちの技術を一つ提供しよう。通販の試供品みたいなもんだからね、合わないなと思ったら予定通りそっちの技術で計画を進めればいい」

 

 そう言ってアダムは笑うと、続きを促すオリヴィエの前で大げさに両手を広げて見せた。

 

「さぁさぁそれではご覧じろ、アダム・ベイリアル・プレゼンツ! 今回ご紹介するのは成功率97.2%を記録した、驚異のMO手術! その名も――」

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……何をした?」

 

 寸前まで戦っていたルイスの体を乗っ取り……否、その体を組み替えて現れた異形、オリヴィエに対してシモンが真っ先に問いかけたのはそれだった。

 

「おや、意外だな。てっきり“お前は何者だ”とか、“なぜこんなことを”とか聞かれると思ったんだけど」

 

「お前が何者かは今聞いた。テロの理由も、大体掴んでる」

 

「それもそうだね。では質問に答えようか、私がしたのは“入城(キャスリング)”だよ」

 

 通常、チェスでは将棋と同様に一手につき1度しか駒を動かすことができないのだが、その枠組みに当てはまらない動きがいくつかある。その1つこそが、“キャスリング”。とられてはまずいキングを隅へ、反対に攻めの要たるルークを攻めやすい中央側へと一手のうちに移動させる特殊なルールである。

 

「チェスの公式ルールに則った、至極まっとうな戦略だろう?」

 

「……聞き方を変えるよ。どんな技術を使って、こんなおぞましいキャスリングを?」

 

 有無を言わせぬ口調でシモンが尋ねれば、オリヴィエは驚くほど簡単にその技術の名を口にした。

 

 

 

「MO手術ver(バージョン)『D』――過剰変態が前提になる、ちょっと変わったMO手術さ」

 

「ッ! そういう、ことか……!」

 

 オリヴィエの一言ですべてを察し、シモンは顔を強張らせた。彼の脳内で繋がった真相は、あまりにも人道を無視した歪な技術だったためだ。

 

 

 

「手術ベース『ヒト』――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

「ご名答。さすがだね、クロード博士が目をかけるのもよくわかる優秀さだ」

 

 

 

 MO手術ベース“哺乳類型”:『ヒト(オリヴィエ・G・ニュートン)』。この男はαMO手術を施す際、ルイスの体に自分自身の細胞を埋め込んでいたのだ。

 

 αMO手術被験者の大きな特徴の1つに、一定条件を満たしたベース生物によるMO手術がほぼ確実に成功する、というものがある。

 

 その条件とはαMOの近縁種や生態上の関わりを有する生物――そして、素体となる人間の細胞との適合率が高い生物。ルイス(ヒト)オリヴィエ(ヒト)は同種であり、更に両者の間には血縁関係者がある。これで適合しない方がおかしい。

加えて、いかなる生物(例え極めて原始的で高難度な手術ベースであったとしても)も、一度人間の細胞を介すれば、MO手術は通常の移植手術と大差がなくなることから成功率はぐっと向上することから、施術自体のリスクは非常に低い。

 

 もっとも、この術式で組み込まれたMO手術のベースは通常の人為変態ではほとんど顕在化しない。この手術ベースが真価を発揮するのは、被験者が変態薬の過剰投与により、副作用を発症したその時である。

 

 過剰投与による人為変態に伴う最悪の副作用は、細胞のバランスが崩れて『人間大のベース生物になり果てて』しまうこと。

 

 薬を分解する肝臓や腎臓の機能が損傷していた場合、あるいは分解が追い付かないほどの変態薬が投与された場合、MO手術の被験者は人間に戻れなくなってしまうのだ。先ほどのルイスを例に取り上げれば、過剰投与を経た彼の全身の細胞はオニダルマオコゼのそれに完全に置き換わり、人間大のオニダルマオコゼそのものへと変異してしまう。

 

 

 

 そしてこの段階に至って初めて、MO手術ver『D』――正式名称『即身転成術式Doppelgänger(ドッペルゲンガー)』はその効果を発揮するのだ。

 

 

 

 ルイスの体に仕込まれたもう一つのベース生物である『ヒト』――すなわち、オリヴィエ・G・ニュートンの細胞がオニダルマオコゼの遺伝子を押しのけて顕在化。ルイスの体を構成する細胞は、オリヴィエのものと入れ替わった。

 

 当然、そうなれば骨格から筋配列、神経系統などあらゆる人体構成単位は手術ベースに用いたヒトのもの――今回のケースで言えば人間大のオリヴィエ、もっといえば『オリヴィエ・G・ニュートン』という別人になり替わる。

 そしてその肉体の出力はオリヴィエと同等にして、それ以上のものになるだろう……過剰変態によって強引に引き出された遺伝子の力は、本来の数倍の出力を発揮するのだから。

 

「さすがに記憶とかは引き継げないから、頭だけは私の本来のベースと、私の友人の技術を真似して挿げ替えたんだけどね……これで満足かな?」

 

「よりにもよって、()()()()()

 

 シモンは吐き捨てた。外道にして邪道、転生ならぬ転成の術式――間違えようもない。この技術はかつて『ティンダロス』によって粛清された、“化けの皮”を司る上位アダム・ベイリアル、“アダム・ベイリアル・ジェイソン”が生み出した技術だ。文字通り細胞レベルで全くの別人になり替わる究極の美容整形にして、自分という唯一の存在を誰かの模造品まで劣化させる極めて悪辣な手術。

 

 施術成功率という面に焦点を当てれば、“ダ・ヴィンチの再来”と謳われるクロード・ヴァレンシュタイン博士や“αMO手術の創始者”ヨーゼフ・ベルトルト博士、“亡命の天才”レオ・ドラクロワ博士ですら成し得なかった脅威の数値を叩きだしているという点を見れば、有用な技術に見えなくもないだろう。

 

 ただしこの97.2%という数値は()()()()()()()()()()()()()()――施術自体が成功しようと、実際に他人への過剰変態を経てなお生きていた実験体は数えるほどもいないのだ。頭上から爪先まで、五臓六腑をまとめて造り変える負担は常人には到底耐えられるものではない。

 

 おそらくオリヴィエ自身と体格・血縁が近く、ニュートンとしての高い体力を兼ね備えたルイスなら負荷に耐えきれると推測して施術したのだろうが……そんな手術を平然と自分の親族に施しているという事実が、彼という人間の破綻した倫理観を物語っているといっていいだろう。

 

「さてそれじゃあ――」

 

 のんびりとした声と共に、オリヴィエの姿が消える。咄嗟にシモンは槍を構えるが、あまりにも遅すぎた。

 

 

 

「――新しい体の試運転と行こうかな」

 

 

 

 次の瞬間、シモンの背中から銀色の槍が生えた――正確に甲皮の継ぎ目を縫って。苦悶の声をかみ殺した彼の脚元に、鮮血の雫が滴る。

 

「おっと、私としたことが……狙いが5ミリほどそれてしまったかな」

 

 オリヴィエは辛うじて心臓から逸らされた槍をシモンの胸から抜きとった。ふらつきながらも距離をとったシモンに、オリヴィエは人口の光を浴びて銀と赤に生々しく輝く槍を見せつけながら言う。

 

「すまないね、いつもより運動能力が上がっているのを失念していたよ。ああ安心するといい、次こそ心臓を一突きにして、楽にしてあげよう。何も心配することはない――」

 

 美しくもおぞましく、穢れた聖槍(オリヴィエ)は微笑んだ。数瞬の内に、シモンは今度こそ自分の心臓が串刺しにされる未来を幻視した。

 

シモンの体は既に、満身創痍だった。生来宿る“モモアカアブラムシの化学耐性”でオニダルマオコゼの毒には対応しつつあるが、それも未だ完全ではなく麻痺や倦怠感は残っている。

 

対する相手はジョセフにも匹敵する身体能力を持つ『神のスペア』と、その側近と思しき女性――おそらくは、オスカルから伝え聞いていたゲガルド家の当主だろう。オリヴィエの方は特殊な形式で手に入れた肉体の操作に慣れていないようだが、すぐに万全のコンディションを整えるはず。一方の希维は、今のところ参戦する気配こそ見せていないものの、おそらく本気を出せば先程戦ったルイスよりも数段強い。

 

 勝ち目などあるはずもなく、あるのは死に目のみ。

 

 死の淵に立たされたシモン。その耳に、オリヴィエのねっとりとした言葉が響いた。

 

 

 

「――君が死んだら箱舟(アーク)計画の方もきっちりと潰しておいてあげるから」

 

 

 

「……」

 

「箱舟を作る必要はない、()()()()()()()――新世界の楽園に、君たちの舟が浮かぶ余地はない。余計な魂を救い上げる前に、私の手で沈めてあげよう」

 

 そういって、オリヴィエは踵から踏み込んで地面を蹴った。人体構造を万全に使いこなした、縮地にも似た歩法。聖人を殺す聖槍(ロンギヌス)が、空を裂いて迫りくる。

 

 

――だがこの時、オリヴィエはたった一つだけミスを犯していた。彼は何も言わずにシモンを仕留めるべきだった。

 

 認知、心理、意識――人の内面を探求しながらも、オリヴィエは理解していなかったのだ。人間の内に潜む、理屈や理論では測れない“人間の激情”を。

 

 

 

 

 

 

 

 

『じゃあな、××。地球に帰ったら――ミッシェルのこと、よろしく頼む』

 

 

 

 

 

『君が彼女を守るんだ、0人目の特例(ザ・ゼロ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「  ふ  ざ  け  る  な  」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瞬間、オリヴィエと希维を『雨』が襲った。一筋一筋が昆虫の甲皮程度なら容易く貫く、ヨコバイ類に属する“カハオノモンタナの水弾”――水のレーザーの大雨である。

 

「っ!?」

 

「おっと!」

 

 希维は慌てて物陰に身を隠し、オリヴィエは槍で水の弾丸を薙ぎ払う。防ぎきれなかったいくつかがオリヴィエの胴体を射貫くも、特別堪えた様子はない。彼は足を止めずにシモンへと接敵し、穂先を突き立てる。びしゃり、と鮮血が散った。

 

「ボクの心臓を一突きにするだとか、楽にするだとか……そんなのはどうだっていい。だけど――」

 

 激昂したシモンの目が紅蓮に染まり、赤の眼光は狂いなく狂気の汚泥を貫いた。

 

 

 

「ボク達の箱舟(アーク)は、お前なんかが沈めていいものじゃない!」

 

 

 

 ――オリヴィエの槍はその正確無比な軌道故に完全に見切られ、シモンの体を貫くことは叶わなかった。

 

 血の出所は、大長槍に貫かれたオリヴィエの腹である。全力ではなかったといえ、人類の到達点に匹敵する自分の知覚で捉えきれなかったことに、オリヴィエは驚く。

 

「ボク達は箱舟(アーク)にして禁断の匣(アーク)。ただ希望を囲うだけじゃない、立ちはだかる者には絶望を撒き散らす」

 

 狂気だった。

 

 いつだって、シモンから大切なものを取り上げるのは狂気だった。だからシモンは――××は、二十年前のあの日から、静かに牙を研いできたのだ。二度と、大切なものを奪わせないために。彼の前に立ちはだかるだろう狂気(アダム)を、正面から打ち砕けるように。

 

 そしてたった今。

 

 狂気(オリヴィエ)は、シモンのたった一つの逆鱗を踏み抜いた。

 

「後悔しろ、槍の一族・・…匣を開けたお前達には、とっておきの災厄をくれてやる」

 

 強引に体をねじって槍から逃れたオリヴィエに、シモンは吠えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「――拘束制御全号、解錠(アンロック)ッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次の瞬間、オリヴィエの体は壁に叩きつけられていた。一瞬遅れてオリヴィエは、自分が間合いを詰めたシモンに蹴り飛ばされたことを理解する。血反吐を吐いた彼の目に映ったのは、まさに堕天使と形容するのが相応しい異形と化したシモンの姿。

 

その手足は常人の数倍の筋肉によって強靭化し、赤や白、青や黒など不規則な模様に彩られている。背中から生えた四枚の翅は全て形状が違い、それぞれ別生物のものだ。全身は土のように地味な甲皮と金属光沢を帯びた煌びやかな甲皮に包まれ、前衛的な彫刻じみた見た目になっている。

 

奇妙に歪で、しかし美しいその姿。それに惑わされることなく、オリヴィエは変転したシモンの本質を冷静に分析していた。

 

 

 

 ――()()な。

 

 

 

 シモンが瞬時に間合いを詰めたタネは、彼の足に組み込まれた“キノコカスミカメの俊足”によるもの。カスミカメムシ科に分類されるカメムシたちは元々動きが機敏だが、特にキノコカスミカメは有識者が『最も俊敏なカメムシ』として太鼓判を押す昆虫である。

 

 体長は僅かに5mm、しかし一秒にも満たないうちにその体高の実に40倍もの速さを駆け抜けるという。これをシモンの176cmに直して換算すると、その速さは約253km/時――テラフォーマーの走力320km/時にこそ及ばないものの、こうして狭い空間で間合いを詰めるには十分すぎる速さである。

 

 

 

 ――そして、()()

 

 

 

 オリヴィエがちらりと視線を落とせば、えぐり取られ爆ぜ飛んだ己の左半身が目に入る。常人ならば即死しているだろう、致命傷ならぬ絶命傷。オリヴィエも埋め込まれた手術ベースの力で死んでこそいないが、即座の戦線復帰は不可能だ。

 

 ――脚力が極めて強力な昆虫、と言われて多くの人が思い浮かべるのは、人間大に換算すればビルを一足飛びに飛び越えることができてしまうバッタだろう。

 

 だが意外なことに、そのバッタ類を超える脚力を有する昆虫はそれなりの種類存在している――その中の一つが、シモンが有する“タケウチトゲアワフキ”を始めとするアワフキムシたちである。

 

 彼らは後ろ足と羽根の間に弓のような構造の骨格を有しており、跳躍の際には弓を引き絞り放つように伸縮させることで蓄えたエネルギーを爆発させ、極めて強力な脚力を発揮する。実に体長の100倍――体重などの要素を考慮すればその脚力はノミを凌ぎ、人間大にしてピラミッドを跳び越すほどの高さを跳ぶことができるという。

 

 また”ホソヘリカメムシ”を始めとする一部のカメムシは後脚が太く発達しており、しばしば同種間での闘争に用いられる。MO手術の特性として発現した場合には半腱様筋、半膜様筋、大腿二頭筋――俗にハムストリングスとして知られる脚部の筋肉を特に補強し、脚力のみならず下半身全体を強化する。

 

「凄まじいね。君、本当にさっきまでルイスと戦ってたのかい?」

 

 オリヴィエへの返答は、彼の頭部へと放たれた跳び蹴りであった。オリヴィエを頭蓋ごと踏み潰したシモンはそのまま壁を踏みしめ、軌道を変えて希维へと飛び掛かる。

 

「っ、こっちっすか――!」

 

 迫る槍の穂先を躱し、お返しとばかりに希维は銃弾を雨あられとシモンに浴びせる。しかしそれに機敏に反応したシモンは、あえてタイミングをずらして放たれた掃射を、槍の一振るいで根こそぎ叩き落した。

 

シモンを殺すにはあまりにも手ぬるい攻撃――それは希维自身が一番理解している。だが、それで十分。希维の狙いは敵の打破ではなく、逃走のために特性を発現させる時間稼ぎにすぎないのだから。

 

本気で希维が攻勢に出れば弾丸の数は今の倍になり、それを防ぐ間にも懐に入り込んでナイフによる次撃を繰り出していただろう。だが駒としての役割が当てられていない希维が、この場でシモンと本格的な戦闘に臨むことは『痛し痒し(ツークツワンク)』のルールに抵触する。故に彼女に許されるのは最低限の自衛のみ――であれば、わざわざこの場にとどまるのは得策ではない。

 

「お相手はまたの機会に、シモン様。私はまだお仕事が残っているので、ここらで失礼するっす」

 

 そういうや否や、希维の姿はまるで虚空に溶け込むかのように掻き消え――。

 

「ッ――!?」

 

 次の瞬間、殺気を帯びた鋭利な刺突が数瞬前まで希维の心臓を目掛けて放たれる。即座にその場を飛び退けば、次に襲い来るのは鉄槌の如き震脚。希维の回避が一瞬遅れていれば、振り下ろされたそれが砕いていたのはコンクリートの床ではなく、希维の肋骨だっただろう。

 

「マジっすか……」

 

()()()()()()()()()()()()

 

 その事実に、希维は頬に汗を伝わせた。攻撃力、防御力、再生能力……そういったもので希维の上を行くベース生物など五万とあるが、こと隠密性に関して彼女の特性は唯一無二の能力を持つ。それが破られたとあっては、さすがに希维も余裕ぶってはいられない。

 

油断を捨てきった希维は、右手の拳銃の銃口をシモンへと突き付けた――反応はない。引き金を引くと同時、銃口からは1発の弾丸が放たる。ほんのコンマ秒の差を置いて反応したシモンは、それを再びはじき落した。

 

 ――こちらが見えているわけではない。

 

 分析しながら希维は素早くシモンの側面に回り込み、頸動脈を狙って銃の先に取り付けたナイフを振るった。風切り音、しかし次に希维の目に映ったのは飛び散る鮮血の赤ではなく、金属と金属が衝突して飛び散る火花のオレンジだった。

 

 肩を狙って振るわれるのはヂムグリツチカメムシ、チャイロクチブトカメムシ、ヒゲナガカメムシの三重の強化が為された鉄拳。それを躱すと、希维はシモンの間合いから脱するように斜めに飛び退く。着地の瞬間に、シモンの体の向きが自分の方へと修正されたのを見て、希维の中に一つの仮説が思い浮かんだ。

 

「振動探知、っすか」

 

 これは面倒な、と希维は息を吐く。視覚や嗅覚をはじめ、並みの感覚器官による索敵なら、希维のベース生物は欺くことができる。きわめて特殊な方法で行われる擬態は、あらゆる生物の中でもトップクラスの優秀さを誇り、気配そのものを科学的・化学的に消去する。

 

 だが存在感がなくなったとしても、存在そのものがなくなったわけではない。その場にいる限り放たれる電気信号や熱、そして――『移動に伴う振動』などは、どうあがいても消せないのだ。

 

そのわずかな痕跡は“チャバネアオカメムシの振動感知”によって、確かに読み取られる。2021年に日本の農研機構森林総合研究所が発表した研究によれば、このカメムシは『振動に対し「停止する」「伏せる」「歩きだす」「足踏みする」等の反応を示し』、『特に150 Hzや500Hz等の低い周波数において、カメムシは微小な振幅の振動(加速度0.02 m/s2程度)に対しても反応』するなど、振動に対する高い感受性を持つという。

 

 人間大になったシモンはこの特性を最大限に活用することで、大地を伝う僅かな振動で敵の居場所を探知可能。

 

 

 

 ――迂闊には動けないっすね。

 

 

 

 希维は一族内でも上位の身体能力を有する、正真正銘の実力者だ。並大抵の昆虫型など、変態するまでもなく生身で御すことすら可能だろう。

 

 だが同時に、過剰変態やαMO手術にも匹敵する出力、それを目の当たりにした彼女は実力者であるが故に理解した。()()()()()()。やるのであれば万全の準備を整え、本気で臨まねば勝てない。

 

 ならば希维が取るべきは逃走だが、目の前の怪物が相手ではそれすら難しいだろう。この場から一歩でも動けば、自分の座標は特定される。そうなればあの怪物じみた脚力で退路に回り込まれてしまうだろう。

 

「……」

 

 だから、動けない。不幸中の幸いなのは、自分が動かない限りシモンもこちらの居場所を完全には特定できないことだ。敵がこちらの居場所を掴みかねている間に、この場から抜け出す活路を――

 

 

 

「止まったか……なら、自分から出てきてもらおうかな」

 

 

 

 ハッと顔を上げた希维が見たものは、シモンの腕から放出される霧状の何か。途端、思わず顔をしかめるよう悪臭が周囲に満ち、希维は「おえっ!」とえづきそうになるのを理性で抑え込んだ。

 

 カメムシと聞いて多くの人が真っ先に思い浮かべる特性――『悪臭』。シモンの腕に組み込まれたオオクモヘリカメムシのそれは、数いるカメムシの中でも最も“臭い”と評される程に強烈なものだ。

 

 無論、それはあくまで昆虫大の時点の話。1mlにも満たない量の分泌液でさえ、広範囲を悪臭で汚染するオオクモヘリカメムシが人間大になってその力を振るったとなれば――もはやそれは、凶悪なガス兵器に他ならない。

 

「……ッ!」

 

 希维はスーツの袖口で口と鼻を押さえた。カメムシの悪臭の構成物質であるヘキサナールは毒性を持つが、この濃度であれば即座に効果を発揮することはない。それよりも警戒すべきは、引火性。灯油と同じ第二石油類に分類されるこの物質は、気化した状態だと引火する危険がある。マズルフラッシュから発火する可能性を考えれば、これで銃も使えない。

 

 ――こうなれば、一か八か。

 

 最悪のパターンは、このまま何もできずに敗北することである。ならば多少のリスクを吞んででも動くべきだ。

 

 そう判断した希维は一気に出口まで駆け出そうとして、気付く。

 

 自分の全身に、力が入らなくなっていることに。

 

「動かなければ安全とでも?」

 

「なっ……!?」

 

 地面に転倒しそうになるのを、辛くも耐える。しかし、ふらついた姿勢を立て直すために踏んだステップは振動を生み、その正確な居場所をシモンへと伝えてしまう。

 

「君には聞きたいことがある、希维・ヴァン・ゲガルド。まだ帰っちゃ駄目だよ」

 

 ――肉食性のカメムシの仲間の多くは狩りの際、獲物に自身の武器である口吻を突きさした際、対象の抵抗を抑え込むために麻痺毒を注入する。

 

 その扱いに最も長けているのが、サシガメと呼ばれるカメムシの仲間たちである。彼らは口吻を通じて毒を注入するだけでなく、身を守るためガスのように噴射することができるのだ。

 

「悪臭はフェイク、っすか……!」

 

 希维の気付きは、あまりにも遅すぎた。万全の状態ならばあるいは、もう1つのベースの力の応用で打開できたかもしれないが――今となっては、それも叶わない。

 

「安心して、殺しはしない。ただ、念のために手足は全部切り落とすよ。少し貴は咎めるけど……あとでクロード博士とカリーナさんに頼んで治してもらうから、安心してほしい」

 

「……とんだ誤算だった、っすね」

 

 侮っていたわけではないが、過小評価していたと言わざるを得ない――よもや主と2人がかりで、死に体の状態からここまで逆転されるとは。

 

 ――ルイス兄を笑えないっすね、これは。

 

 希维の呟きは、彼女を五感で認識していないシモンの耳には届かない。しかし、その女性らしいしなやかな右足を切り飛ばさんと、どこまでも精密な軌道で放たれた大長槍が迫り――

 

 

 

「おっと……これ以上、部下をいじめないでもらおうかな」

 

 その先端に取り付けられた刃は、両者の間に割り込んだ肉の盾を抉った。

 

「ッ!?」

 

「オリヴィエ様!?」

 

 シモンと希维、両者は別々の理由で驚愕を顔に浮かべた。

 

「すまなかったね、希维。動けるようになるまで、少し時間がかかってしまった」

 

「いえ……お見苦しいところをお見せして申し訳ないっす」

 

 組みあう二人から距離を取ると、醜態をさらしたことへの謝罪を口にする希维。そんな彼女に穏やかにほほ笑むと、オリヴィエは言う。

 

「彼は私が抑えておこう。希维、今君を失うわけにはいかない――この場から離脱して、役割を果たすんだ」

 

「御意」

 

 その言葉を聞いた希维は、駄目押しとばかりに特性を発揮すると、躊躇うことなく迅速にこの場を立ち去った。

 

「頭を潰したはずなんだけど?」

 

「そうだね。おかげで、復帰に時間がかかってしまったよ」

 

 のんびりと返したオリヴィエに、シモンは薄気味悪い何かを感じとる。不死身に近い再生能力――その正体は、一体何なのか?

 

「いや、なんだっていい。死ぬまで殺せば、それで済む話だ」

 

「うん、高い再生能力を有する特性への対処は概ねそれで間違ってない……だけど、君にそれができるかな?」

 

「できないとでも?」

 

 挑戦的なオリヴィエの言葉に、シモンは平然と返す。しかしオリヴィエは、その巧妙な虚勢の裏側に隠された真実を見抜いていた。

 

「できないだろうね。技術や能力的な話じゃない。君、そろそろ限界が近だろう?」

 

 そう言ったオリヴィエの言葉には、確信があった。

 

「いや、大したものだよ本当に。ルイス、私、希维と立て続けに戦って、まだ生きているどころかここまで善戦していることは素直に称賛しよう。だけど、君のその歪な変態状態は長くは保たない――私の見立てだと、あと一分持つか持たないかだ。違うかな?」

 

「……」

 

 無言。しかしその沈黙には、微かな動揺が滲んでいた。

 

「それじゃあ、のんびり第二回戦――と言いたいところだけど。こっちが限界を迎える方が早かったみたいだね」

 

 そう言った瞬間、オリヴィエの右腕が()()()()()()()()()。まるで食品の腐敗を早送りで見せつけられているようなその様子に、シモンは目を見開いた。

 

「やっぱり、頭を潰されたのが痛かったかな? それとも、色々と試しすぎたかな? どっちにしても、私と相性がいいルイスを使ってこれなら実用性は乏しいか……アダム君には申し訳ないけど、この技術はお蔵入りだね」

 

肉体の崩壊は止まらず、気が付けば原型をとどめているのは首から上だけの状態になっていた。もはや声も出せなくなったその状態で、オリヴィエは口だけを動かしシモンに別れの言葉を告げる。

 

「っ、待――!」

 

 シモンが声を上げるが、それを聞き届けるよりも早くオリヴィエの肉体は完全に融解した。あとに残されたのは、どろどろとした細胞の水たまりとそこに浮かぶ受信機のような何かの機械のみ。シモンは周囲の気配を探って伏兵がいないことを確かめると、今度こそ変態を完全に解除した。

 

『いずれまた会おう、イヴくん』

 

 あの瞬間、オリヴィエの唇は確かにそう言っていた。能力系統から思いついたブラフか、それとも本当に見抜かれたのか……その真意を確かめる術は、もはや存在しない。

 

 ――とにかく、ミッシェルさんかダリウス君と合流しなくちゃ。

 

 そう考えたシモンは足を踏み出し――

 

 

 

「っぐ、がはっ!!」

 

 

 

 ――限界を迎えた体は、そのまま地面へと倒れ込んだ。激しく咳き込んだ彼の口から血が噴き出し、天地が入れ替わったかの如き眩暈と全身の肉が泡立つような異様な熱に襲われる。

 

 ――しまった、やりすぎたか!?

 

 シモンの肉体を拘束し、その特性の発現を制御する彼の専用武器『封神天盤』。

 

これを全て取り払ったシモンは、アークと言わずあらゆるMO手術能力者の中でも間違いなく最強に数えられる1人である。

 しかしその力は純粋な経緯で獲得したものではなく、様々な技術の抜け道(チート)によって獲得したもの。当然肉体への負荷も甚大であり、無茶な術式で体に刻まれた災禍の戦列(カメムシたち)の遺伝子は、通常の変態でさえシモンの肉体を蝕んでいく。

 

比類なき全力の対価は、()()()()()()()()()()()

 

拘束制御を解錠するほどにシモンは強くなるが、変態状態を維持できる時間も縮まっていくのだ。

 

 全拘束を解錠したシモンの戦闘継続時間は、最大でも3分前後。その時間を過ぎればシモンの体は激しい拒絶反応を引き起こし、満足に動くことすらもできなくなってしまう。

 

「ごぱっ……ふふ、やっぱり駄目だな、ボクは……」

 

 シモンは自分の無様を嗤いながら、近くの壁にもたれかかった。なるほど経緯はともかく、結果だけ見ればルイス()は正しく己の役割を全うしたのだ。今の自分では並のテラフォーマーにすら後れをとる可能性がある。残念ながら、自分はここで退場(リタイア)だ。

 

 ――あの二人なら、きっと大丈夫。

 

 シモンは自分に言い聞かせると、ミッシェルとダリウスが無事に作戦を遂行することだけを祈りながら、静かに目を閉じたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「オォーッホホ! 無様ザンスねェ、ザ・セカンド!」

 

 紫に染まった髪、目を隠す赤と青の3D眼鏡、生えそろった歯を彩る七色のお歯黒。太ましいその体に極彩色の修道服を纏う、目が痛くなりそうな配色の怪人――ブリュンヒルデは肩で息をし、血まみれで膝を着いているミッシェルを見下した。

 

「パパからのもらい物だけでオフィサーまで登りつめたお嬢ちゃんが、アタクシのワルキューレ達に勝てるはずがないザンショ?」

 

 得意満面に言いきる彼女を取り囲み、立ちはだかるは不健康に青白い肌の少女たち。通常の鳥類型と違い、背中から生えた漆黒の翼を生やしたその姿はどこか不吉な雰囲気を漂わせている。

 

「この、外道が……ッ!」

 

 ミッシェルがブリュンヒルデを睨みつける。その唸り声は、煮え立つような怒気を孕んでいた。

 

「ンホホ! 負け犬の恨めし気な目は、いつ見ても気持ちがいいザンスねェ! そのまま死ぬといいザンス――ワルキューレッ!」

 

 ブリュンヒルデの号令で、彼女の周りに控えた少女たちが剣や槍、槌など各々が手にした武器を構えた。それを見たミッシェルは、傷ついたカラダに鞭打って立ち上がる――義憤の炎に、その身を焦がしながら。

 

「てめぇは、私がぶっ飛ばす……! 待ってろ、お前ら――」

 

 怒れる大天使の青い瞳が凛と見据えるは、『極彩色の悪意』。そして――

 

 

 

 

 

「――()()()()()()()ッ!」

 

 

 

 

 

 彼女が良く知るロシアの裏幹部(オフィサー)()()()()()()()()()()少女たち。その目に浮かぶことなき、『戦乙女の虚ろな涙』だった。

 

 

 

 

 

 

 

 死は、あらゆる生命の終着に待ち受ける絶対にして不可避の現象である。どういう形であろうと、全ての生物はこの軛から逃れることはできない。

 

 無論それは、人間とて例外ではなく。富、名声、権力――この世の全てをほしいままにした支配者たちが、最後に不老不死を求めた例は枚挙にいとまがない。歴史を紐解けば、生命の身に余る『永遠の生』を求め、そして破滅していく権力者たちのエピソードをしばしば目にすることになるだろう。

 

 その一方で、一部の生物たちは『死』を局所的にとはいえ克服しているといっていい。

 

 例えば、あるクラゲは老衰するとその身を若返らせ、外敵に捕食されない限り死なない体を持つ。

 

ある虫はクリプトビオシスという特殊な形態になることで、自らの命を脅かす有害物質に完璧にも近い耐性を身に着ける。

 

ある原始生物は、純粋な再生能力で致命傷すらも瞬く間に修復し、外傷による死を寄せ付けない。

 

 

 しかしそれすらも、不死というにはあまりに不完全。地球誕生以来、多くの生命たちは死を克服しようと躍起になりながら――未だかつて、どんな生物も死を完全に克服した者はいない。

 

 ブリュンヒルデに宿る生物は、そんな彼らを嘲笑う。死を克服するなど、何と馬鹿馬鹿しいことか――そんな無駄なことをする暇があるのなら、死とうまく付き合う術を考えた方がよほど有意義だろうに。

 

 それは、一匹の寄生蜂だった。

 

オオスズメバチのように頑丈な牙や、丈夫な甲皮や、強力な毒針はない。しかし彼らは、長い進化の中で己の死を克服するのではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そして進化の果てに、彼らは他のいかなる生物も有さない異質極まりない特性を手に入れた。

 

 この蜂に寄生された哀れな犠牲者に待ち受けるのは、()()()()()

 

 自我を取り上げられ、自由を奪われ……そして彼らは、死すらも許されない。

 

 内臓を喰い尽され、体を突き破られ、正常な状態ならばとうに死んでいるはずの損傷を受けてなお、犠牲者たちは生き続けるのだ。蜂の嬰児たちを守る奴隷として、体が朽ち果てるその時まで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブリュンヒルデ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル・アポリエール

 

 

 

 

 

 

 

国籍:ドイツ

 

 

 

 

 

 

 

52歳 ♀

 

 

 

 

 

 

 

167cm 98kg

 

 

 

 

 

 

 

αMO手術 “昆虫型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ―――――――――――― コマユバチ ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――戦乙女(ワルキューレ)

 

 それは北欧神話における主神オーディン直轄の部隊であり、勇敢な戦死者たちの魂を救い上げ、神々が住まう天上の宮殿(ヴァルハラ)へと連れゆく美しき死神の名。

 

 詩や絵画始めとして、古来より様々な題材に取り上げられてきた彼女達。その傍らにはしばしば、とある鳥の姿が描かれている。

 

 

 

 ――その鳥は、人が作り上げた世界に最もうまく順応した生物の1つである。

 

 

 

 彼らは都市に張り巡らされた電線を止まり木とし、人が打ち捨てたゴミを餌とする。

 

鳥類の中でも屈指の知能の前には、多くの動物が犠牲になる文明の利器『車』すら食事のための道具にすぎない。

 

 その『狡猾』ともいえる知能、食性の一面である腐肉食性やそれを利用した鳥葬という習慣、そして黒という体色など、この生物にはしばしば死を象徴する生物として、各地で畏怖されている。

 

 

 

 人を利用し、死を運ぶ鳥。

 

 

 

そんな彼らの特性が埋め込まれたのが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()というのは、なんという皮肉だろうか。

 

 国のエゴによって安物のように大量生産され、家畜のように使い潰され、用済みとなってゴミのように捨てられた、とある女性の複製品(クローン)たち。

 

彼女たちは死の安寧すら許されず、生きながらにして地獄の苦しみを課され続けているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ワルキューレ

 

 

 

 

 

 

 

国籍(製造元):ロシア連邦

 

 

 

 

 

 

 

14歳(享年) ♀

 

 

 

 

 

 

 

150cm 60kg

 

 

 

 

 

 

 

αMO手術 “鳥類型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

      ―――――――――――― ワタリガラス ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――死を虜にする人形師(コマユバチ)延命(デッドロック)

 

 

 

 

 

 ――死を運ぶ黒き翼(ワタリガラス)悲嘆(ノークライ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




【オマケ①】他作品の出演キャラクター紹介

エリシア・エリセーエフ(深緑の火星の物語)
 裏アネックス計画の第3班をまとめる色白な少女。気弱で優しい少女だけど、たまに目のハイライトが消えてヤンデレ的な多弁症を発症したり、黒い一面を見せたりする。見た目は色白なのに腹黒とは。
 彼女自身もある人物のクローン。強力なベースの適合者として万に届く姉妹たちと共にαMO手術を受け、ただ1人生還した。

エリシア「クロード博士の手術ベースってクラゲなんですね! しかも、とっても珍しいベースだとお聞きしたのです……じゅるっ」

クロード「オーケー、触手は何本か提供しよう。だから、その手に持ったナイフとフォークをゆっくり下ろすんだ」


【オマケ②】ふわっとアダム・ベイリアル補講(設定が固まってる奴らだけ)

・アダム・ベイリアル・×××××(真アダム)
専攻:『科学技術全般&???』 象徴:『机上の空論』
 ご存じ『贖罪のゼロ』のラスボス。倫理観や思考回路が他の連中に輪をかけてぶっ飛んでいるが、他の誰よりも高い技術を持つ。登場する度にキルカウントが増えていく。

・(旧)アダム・ベイリアル・ヴァレンシュタイン
専攻:『科学技術全般』 象徴:『インフレ』
 光堕ちする前のクロード博士。とにかく既存の科学技術を洗練し、過剰化させていくことに心血を注いでいたようだ。

・アダム・ベイリアル・アブラモヴィッチ 
専攻:『病理学・疫学』 象徴:『末期』
 ウイルスや細菌に精通した女科学者。ティンダロスの粛清に食い下がった1人。
贖罪時空の地球で二種類のAEウイルスが流行ることになった元凶にして、ゾンビウイルスの製作者。閑話ではかなり理知的に振る舞っていたが、実は現実と映画の区別がついてない……というより、退屈な現実を少しでも劇的な映画に近づけようと考えてるヤバい奴。

・アダム・ベイリアル・ハルトマン
専攻:『整形外科・生物学』 象徴:『下半身』
 下半身のプロフェッショナル……下半身のプロフェッショナルとは()ティンダロスの粛清に食い下がった1人。『深緑の火星の物語』のコラボで強化され、彼の下半身は更なる進化というか深刻化を遂げた。

・アダム・ベイリアル・ジェイソン
専攻:『生体工学・美容外科学』 象徴:『化けの皮』
 元アダム・ベイリアルのまとめ役。ティンダロスの粛清に食い下がった1人。
 変身願望の実現が主なテーマで、実現のために様々な技術でアプローチしていた。曲者揃いのアダムを取りまとめていたあたり、相当な人格破綻者だったと思われる。

・アダム・ベイリアル・サーマン
専攻:『軍事学』 象徴:『浪漫』
 最初に登場したアダム・ベイリアル。作者も存在を忘れかけてたのは内緒。人造人間、盛り盛りベース生物、厨二的なセンスと自分の発明品に浪漫を求めていたロマンチストさん。
 アレクサンドル・G・ニュートンの突撃部隊に対応できないあたり、上位アダムと比べると格落ち感が否めない(初期のキャラだからしょうがないけど)

・アダム・ベイリアル・ロスヴィータ(インペリアルマーズコラボより)
専攻:『生体工学』 象徴:『???』
 2618年以降に参入することになる女科学者。モザイク・オーガン・ハイブリット技術のスペシャリスト。『インペリアルマーズ』のコラボ編で登場。
 実力で真アダムに迫る数少ない科学者『レオ・ドラクロワ』の元弟子。痛し痒し時点ではまだ弟子。今後のはっちゃけっぷりに期待。

・アダム・ベイリアル・ベルトルト(深緑の火星の物語コラボスピンオフより)
専攻:『科学技術全般』 象徴:『闇堕ち』
 実力で真アダムに迫る数少ない科学者『ヨーゾフ・ベルトルト』がif世界線で闇落ちしてしまったルート。どうしてこうなった。
 何気に技術者としては超優秀なので、敵側に寝返られると相当ヤバい。


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冒涜弔歌OLIVIER-6 墜落心理

 旧式のバグズ手術時代には30%だったその成功率を最初に45%まで押し上げたのは、科学界の頂に君臨する天才科学者が1人“レオ・ドラクロワ”だった。

 

 その後、U-NASAの科学部門を統括するクロード・ヴァレンシュタインがより効率的・簡易的な(正確に言えば凡百な科学者()でも扱える)術式を確立したことで、MO手術の成功率は45%として定着することになる。

 

 だがその二人ですら、U-NASAドイツ支局が誇る天才にして大罪人“ヨーゼフ・ベルトルト”が開発したαMO手術の成功率を上げることはできなかった。

 

 否――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()というのが正しい。

 

『有効なのは認めるとも。1000人に3人の成功率も、人口飽和のご時世じゃむしろ好都合なくらいだ。ただね――この技術はどうにも、そそられない』

 

 ヨーゼフと故郷を同じくし、しかしフランスへと亡命した天才は語る。

 

『僕の目的はただ1つ、それを実現するには既存のMO手術で十分なんだ。クライアントの希望があれば、それに合わせるのもやぶさかじゃあないが……ともかく、僕にとっては何の価値もない。だから、わざわざ手を付ける必要性も感じないね』

 

 

 

 

 

『αMO手術は失敗作じゃない、欠陥品だ。技術は大多数の人間が等しく使えなければ意味がない。この点、αMO手術という技術は根本的な問題を孕んでいてね……すでに完成品でありながら、欠落があるのさ』

 

 底知れぬ大統領を恐れ、フランスからアメリカへと渡ったダ・ヴィンチの再来は言った。

 

『おそらく私やベルトルト博士が本気で取り組めば、成功率の向上は可能だろう。だがその過程で死体の山を築くのは非合理的だ。そして何より……ベルトルト博士はそれを望んでいない。だから私がαMO手術に手を付けることはないだろう』

 

 

 

 

 

 

『……』

 

 αMO手術の生みの親は頑なに口を閉ざし、黙して語らなかった。

 

 

 

 

 

 三者三様、理由は各々あれども、科学の天才たちはαMO手術に手を付けようとしなかった。故にその成功率は未だに0.3%のままだ。

 

 煌びやかさばかりが取り沙汰されるMO手術の本質は、死の危険と隣り合わせの人体実験。こと試作技術試験(αテスト)としての意味合いを兼ね備えたαMO手術は、その傾向が顕著である。

 

 失敗=死。だから各国はこぞって成功率の向上に躍起になると同時に、よりリスクの少ない方法を求めた。

 

 ある国(アメリカ)は、死んでも損失とならない死刑囚を被験者とした。

 

 またある国は、ベース生物の限定と被験者への負荷と引き換えに成功率を向上させた。

 

 そして――ある国は、母数を増加させることで相対的に成功例を量産しようと考えた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 手術台の上に拘束されていたのは、1人の少女だった。ロシア人であることを加味してもその華奢な体は青白く、見る者に手折った花の枝のように儚い印象を与える。

 

 

 

「ぐ、ぎ、あああああああああああアアアあああ!?」

 

 

 

 そんな彼女の口から飛び出したのは、この世のものとは思えない凄惨な断末魔。か細い喉のどこから出るのかというような悲鳴を上げ、少女は目や口から血を噴き出しながらもだえ苦しむ。全身麻酔は正常に作用しているはずだが、それも気休めにすらなっていないようだった。

 

 明らかな被験者の異常。通常なら被験者の容体を安定させるため、手術室の中は俄かに慌ただしく、騒がしくなるだろう。

 

 だが手術衣に身を包み、マスクとゴム手袋つけ、手にメスを持った科学者たちの反応は、どこまでも淡白なものだった。

 

「こりゃ駄目だ、αMOが拒絶反応を起こしてる……これ以上の手術は無駄だな。施術失敗! それは廃棄しろ、室内を簡易洗浄したら次の手術に移るぞ」

 

「あーあ、また失敗ですか。今のところ、成功例は3726番だけ……正直、時間の無駄なんじゃ?」

 

「言うな言うな、金は出すってスミレス大統領からのお達しだ。給料のためと思って、さっさと片付けろ」

 

 そんな他愛もない雑談をしながら、科学者たちはろくに閉腹作業もしないまま、少女の体を廃棄ダクトへと放り込んだ。冷たい金属の床を滑り落ち、やがて少女の体は深い闇の底へと落下する。

 

 落下した彼女を受け止めたのは意外にも柔らかい感触であった。混濁する意識の中で開いたその目に映ったのは、自分と同じ顔をした無数の少女たち。折り重なるその肉体は、塔の昔に息絶えて硬直していた。

 

 ――彼女達は、クローンだった。

 

 細胞の提供者はとある女性科学者。体が弱く御しやすい女性という本人の特徴に加え、非常に幅広い生物――特に『他生物を利用する生物』への適合率が異様に高いという特異体質から、彼女は遺伝子提供を国から求められたのである。

 

 それを元にして大量生産されたのが、1万を超すクローンの少女たち。彼女達は紆余曲折の末、非常に強力な特性を持ったある生物に適合したことから、手当たり次第にαMO手術を受けさせられていた。母数が増えれば自ずと成功例も増えるだろう、という科学者たちの見立てであった。

 

 ――もっとも、健康な人間でも成功率僅か0.3%のαMO手術である。

 

 並の人間よりも体力や病気への抵抗力で劣るクローンを相手にすれば、ただでさえ低い成功率がなお下降することなど想像に容易い。実際、既に数千のクローンたちに施術がなされたが、未だに容体が安定しているのは1人のみだ。

 

 そして幸運な成功例やサンプルとして押収された数人の個体を除き、多くの失敗例たちは科学者の手によって、この奈落へと放り落とされるのだ。

 

「うぐ、うぅぅ……」

 

「い、たい……!」

 

「み……ん、な……」

 

 落下の衝撃で死ねた者は幸運なのだろう。折り重なる無数の姉妹たちの中には未だ息がある者がいて、闇の中で苦悶と嘆きの声を上げる。極寒の寒気の中、先程息絶えた姉妹の屍の上に横たわりながら、7005番の番号を割り振られた少女は思考する。

 

 ――あの苦しみを感じていない分、自分はまだ幾分マシなのだろうか。

 

 7005番は手術を受けたクローンの中でも、比較的経過が順調だった個体だった――なにしろ、αモザイクオーガンの定着には成功したのだから。残念ながら肝心の生物を埋め込む段階まで体力が持ちそうもないと打ち捨てられてしまったのだが、臓器自体に拒否反応を起こして地獄の苦痛を味わっている姉妹たちに比べれば恵まれている方だろう。

 

 彼女に施された麻酔の効果がまだ切れないうちに、彼女の感覚が死に始めたことも大きい。死体の廃棄孔内に暖房などあるはずもなく、この空間は極寒の冷気で満たされている。壊死し始めた細胞は皮肉なことに、彼女から苦痛という恐怖を取り除いていた。

 

「けほっ……」

 

 もっとも、痛みを感じていようといまいとこれから彼女が迎える結末には関係がない。彼女はここで、もう何分と経たないうちに死ぬのだから。

 

 ――いつの間にか、周囲は静寂で満たされていた。苦しんでいた姉妹たちにも、安らぎが訪れたらしい。ならば自分も、と7005番は重くなった瞼を閉じる。吸い込んだ冷気が肺を刺すが、鈍った彼女の感覚にはいっそ心地よくさえ感じる。その胸中に占める感情は、不安よりも安堵の方が大きかった。やっと死ねる……これで自分は、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 けれど同時に、彼女は思い描かずにはいられない――もしかしたら迎えられていたかもしれない、ありえたかもしれない未来の自分の姿を。

 

 贅沢を言うつもりはない。だけど、普通の女の子になりたかった。施設の窓ガラス越しに見かけた子供たちのように自由に外を駆け回って、日が暮れるまで遊んで、屈託なくみんなと笑って。そんな当たり前を、たった一回でもいいから体験してみたかった。

 

 

 

 ――そして。

 

 

 

 かつて7005番と呼ばれ、現在はワルキューレの一員“ヒルド”と呼ばれている少女は、当時のことを思い出す度に、何度だって思い知らされるのだ。

 

 その願いはきっと、自分の身の丈に合わない、過ぎたモノだったのだと。

 

 

 

「あらまァ、これは素晴らしいザマス! アヴァターラ卿へのお土産を探しに遥々ロシアへ着てみれば、アタクシの玩具にできそうなのもあるじゃないザマス!」

 

 

 

 ――だからこれは、出過ぎた夢を見た自分への神様が与えた罰なんだと。

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さぁ、アタクシのワルキューレ達! 死に損ないの小娘にとどめを刺すザンス!」

 

 ブリュンヒルデの号令に従い、ワルキューレ達が一斉に飛び掛かる。鳥類の発達した筋力で振るわれた凶器の初撃を、ミッシェルはその場を跳び退くことで躱し。

 

「ぐ――ッ!!」

 

 次の瞬間、背後に回り込んだ別のワルキューレに、その背を切り裂かれる。咄嗟に振るわれるパラポネラの剛腕をひらりと避け、天上の梁にぶら下がった彼女の手の爪からはポタポタと血が雫となって落ちていた。

 

 鳥界の嫌われ者、カラス。

 

 ゴミを散らかしたり人間を襲うこともあることから、人間社会ではしばしば害鳥扱いされることもあるこの生物は、実のところあらゆる鳥類の中で最も“成功した”鳥であるといっていいだろう。

 

 ヒトという霊長類が生態系の頂点に君臨して以来、その営みは多くの生物に牙を剥いてきた。森は拓かれ、川はせき止められ、大気は汚染され――その環境の変化についていけず、何十何百という生物たちが絶滅してきた。

 

 だが、カラスたちは違う。彼らの多くはヒトによる環境の変化に順応し――否、ただ順応するだけではなく変化とヒトの営みすらも利用することで、都市部での繁栄を我が物とした。

 

 そんなカラスたちの最たる特性といえば、6歳児に匹敵すると言われる高い学習能力だろうが――彼らが空中で猛禽類と互角に渡り合う程に高い飛翔能力を持つことは意外に知られていない。

 

 なるほど、空の王者たる猛禽類にスピードやパワーでは確かに及ぶまい。しかしカラスたちは、猛禽類よりも大きな翼と広い視野を持つ。これが意味するのは彼らが高い旋回能力を有し、その死角が非常に少ないということ。純粋な強さでは遠く及ばない相手に、彼らは器用さを持ち、()()()()()()()()()

 

 そしてそれは、渡り鳥であるワタリガラスならばより顕著である。その飛行能力は様々な文献や資料において『ハヤブサに匹敵する』と言われ、種々様々なカラスの中でも間違いなくトップクラス。

 

 如何に素体が華奢な少女とはいえ、その遺伝子をよりにもよってαMO手術で埋め込まれた人間の集団が相手では、さすがのミッシェルでも分が悪かった。

 

「ンン~! 侵入者が管制室に向かっているとルイス坊ちゃんに聞いた時は肝を冷やしたザンス。けれどいざ迎撃してみれば、思ったよりも大したことないザンスねぇ?」

 

 ねっとりと、嘲るように言うブリュンヒルデ。それを聞いたミッシェルは、血混じりの唾を吐き捨ててジロリと睨む。

 

「随分な言い草だな……自分は碌に戦ってもいないくせに」

 

「これだから、短絡的で野蛮なガキは嫌いなんザンス」

 

 不機嫌そうに眉をひそめたブリュンヒルデの眼鏡に、蛍光灯の明かりが反射する。

 

「アタクシ、本業は戦闘じゃなくて情報操作や工作活動ザンス。適材適所って言うザンショ? 戦闘なんて野蛮な行為はアタクシのように優雅で華麗な貴婦人でなく、そこの小娘(ワルキューレ)たちのような、底辺の奴隷に任せておけば良いザンスよ」

 

「……腐れ外道め」

 

 湧き上がる怒りを抑え、ミッシェルは務めて冷静に分析する。彼女はこの少女(ワルキューレ)たちを知っている――厳密には、彼女と同じ規格で製造された少女を知っている。

 

 

 

 エリシア・エリセーエフ――裏アネックス計画において、ロシア・北欧第三班をまとめ上げる裏の幹部。

 

 表の第三班を構成するのが軍内でも選び抜かれた精鋭なら、裏の第三班を構成するのは凶悪犯や軍内の問題児などの荒くれ者。

 

 その指揮官に選ばれたのが女性と聞いた時にはどれほどの女傑かと思ったものだが、暫定メンバーで幹部会を開いた際、現れたのが年端もいかない少女だった時には目を疑った。

 

 事実その身体能力は、同年代の少女すらも大幅に下回るものだった。走ればものの数分で息は切れ、腹筋をさせれば数回で筋肉痛を発症する……仮に直接攻撃型のベース生物で手術受けていれば、例えαMO手術でも戦力として数えられるか怪しいほどだった。

 

 だが、これはどういうことだ?

 

「チッ!」

 

 正面から突っ込んでくるワルキューレの一騎に、ミッシェルは拳を振るった。手加減はしない――いや、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 パラポネラの筋力で放たれるミッシェルの拳は、テラフォーマーの頑丈な甲皮すら一撃で粉砕する。防爆布製のコートで威力は殺せるといえど、ワタリガラスとツノゼミの強化しか施されていないワルキューレに、その一撃はあまりにも重い。

 

「か、はっ!?」

 

 鳩尾を捉えた。普通ならば、そのまま地面に崩れ落ちて終わりである。事実、彼女は手に持っていた武器を取り落とし、その目に浮かぶ意識の光が薄れた。

 

 だが――

 

「ヘリヤ! 誰が気絶していいと言ったザンス!? 『起きて殺せ』!」

 

「――ッ!」

 

 ブリュンヒルデの声で、少女は意識を取り戻す。密着したミッシェルに、ヘリヤと呼ばれた少女は鋭利な鉤爪を振るった。それをすんでのところでかわし、ミッシェルは後方へ跳び退いた。

 

(有言実行とかそう言うレベルじゃねえ、いくらなんでも頑丈すぎんだろうが――!)

 

 開戦から妙だった、ワルキューレ達の肉体強度はクローン人間の強度を明らかに超えている。攻撃が通じていないわけではない。だがどれほど打撃を打ち込もうと、どれだけダメージを受けようと、ワルキューレ達は決して倒れないのだ。

 

 彼女達はなぜ立ちあがる――否、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ンッホホホホホ! 無駄無駄、無駄ザンス! アタクシの特性は“コマユバチ”! 死すら操るこの特性の餌食になった者は、死にたくても死ねない体になるザンス!」

 

 手詰まりに陥ったミッシェルをブリュンヒルデは耳障りな声で嘲り笑う。その背後に、不気味な雰囲気を纏う一匹の蜂の幻影を揺らめかせながら。

 

 

 

 小繭蜂(コマユバチ)。蝶の幼虫――アオムシを宿主とする寄生蜂の一種である。

 

 この蜂の生活環は、多くの寄生蜂のそれから逸脱するものではない。即ち、寄生宿主となる昆虫類に毒を注入し、卵を産み付ける。卵から孵った嬰児たちは哀れな宿主の肉体を糧として成長し、やがて大人になると散々に食い荒らした我が家を捨てて飛び立っていく。

 

 宿主の体表に無数の繭を作るその光景こそ中々にショッキングだが、とり立ててその生活サイクルに異常があるわけではない。異常なのは寄生する側ではなく、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 通常、寄生蜂に卵を産み付けられたアオムシを待つのは、内臓を食い荒らされた挙句に打ち捨てられ、惨めに死ぬという陰鬱な結末である。だがコマユバチたちは、宿主に死すらも許さない。

 

 内臓を食い荒らされ体表を突き破られ――通常ならば死んでなければおかしい程の損傷を追ってなお、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。しかし、コマユバチの呪縛はそれで終わりではない。アオムシたちは生ける屍となりながら、よりにもよってその元凶であるコマユバチの蛹たちを守り続けるのである。

 

 繭を害そうと捕食者が近づけば、アオムシは全身を大きく振り回して外敵を追い払う。そこに、本来の温厚な彼らの気質は見る影もない。

 

 この死すらも統べる特性から、コマユバチはハイチを始めとする一部の地域において『ブードゥー・ワスプ』の異名で呼ばれ、しばしば崇拝されているという。

 

 

「頭を破壊されても死なない病人! 食道下神経節を破損してもお構いなしのテラフォーマー! そして、全身の骨が破砕されようと戦い続ける少女たち! 教えてほしいザンスねぇ! たかが蟻如きが、どうしてアタクシが仕立てた不死身の戦死者(エインヘリャル)たちを屈服させ得ると思うのか!」

 

 なるほど、ギルダンたちが未だに内部に突入できていないのはそれが原因か――。

 

 合点が言ったと、ミッシェルは心中で呟いた。通信が再ジャックされる前にスレヴィンからもたらされた情報によれば、陽動部隊の迎撃に赴いたのは百程度のクローンテラフォーマーと十人ばかりの少女たちだったという。

 

 手練れ揃いの第七特務が手こずる相手とは思えなかったが、もしも敵が全員、不死身に近い耐久を身に着けているのであれば話は別だ。苦戦は必至、少なくとも援軍は望めないだろう。

 

「精々足掻くがいいザンス、ファースト。最初から全てを与えられていたお前が、神に至ることはない……力尽きたら、アタクシがゆーっくりお人形さんに作り変えてあげるザンス」

 

 死を虜にする人形師(コマユバチ)は、瀕死の弾丸蟻にねっとりと笑いかけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 廃墟の中で目覚めた7005番が最初に見たものは、地獄だった。

 

 目の前に無数に積み重ねられているのは、千は下らない自分と同じ顔をした少女たち。ある者はカッと目を見開き、ある者はぐったりと目を閉じ、どれ一つとして同じ表情はないけれど、誰一人として生きてはいなかった。

 

 姉妹たちの屍で築かれた山に群がるのは、この世のものとは思えないおぞましい怪物だった。身近な生物に無理やり当てはめるのであれば、それはムカデに近い。しかしその体節は1()()1()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、地獄の七圏より這い出たかの如き異形の様相を呈している。

 

 自分は、悪い夢でも見ているのか?

 

 7005番がその現実離れした光景に浮かべたのは、恐怖ではなくそんな滑稽な感想だった。

 

「――お目覚めかな、お嬢さん?」

 

 虚ろな思考から7005番を引き上げたのは、場にそぐわぬ明るい声だった。振り向けばそこにいたのは、奇天烈な格好をした白人男性だった。

 

 開花しかけの蓮華を象った冠のような帽子、その身に纏うのは中国道教の道士達の祭礼服。煌びやかな装飾はどこか、神聖な孔雀を彷彿とさせた。

 

「ここは、あの世? あなたは閻魔、様……?」

 

「おやおや、私が閻魔大王とは! どうやら君は、何か勘違いをしているようだね」

 

 男性は穏やかに、周囲の状況を思わず忘れさせてしまう程に柔らかく笑んで7005番に語り掛ける。

 

()()()()()()()()()()。ほら、心臓に手を当ててご覧。命の鼓動が聞こえるだろう」

 

 言われて7005番は、思わず胸に手を当てた。トクン、トクン、と聞こえるのは小さな心臓の声。そして――

 

 

 

「~~~~ッ!?」

 

 

 

 その瞬間、彼女の精神は歪な音を立てて折れた。自分は死んでいない、ならば()()()()()()()()()()()()()()()()()。この世ならざるこの世の光景を見せつけられ、それを現実だと認識させられて正気を保てるほど、7005番の精神は強くなかった。

 

「あ、ああああああああああああ」

 

「おや」

 

 驚く男性を尻目に、7005番は近くに転がっていた廃材を拾い上げた。早く、速く、疾く! 今すぐにこの地獄から逃れなくては! 

 

「あ゛ぅう!」

 

 先端の尖ったそれを、彼女は迷うことなく自分の胸に突き立てる。心臓を貫く、冷たい鉄の感触。鈍く鋭い痛みが胸に走り、少女は血を吐きながら目から涙をボロボロと流した。

 

 痛かった。痛くて、痛くて、痛くて――

 

 

 

「な、んで……!?」

 

 

 

 ――ただ、痛いだけだった。

 

「いやだ、いやだいやだいやだ! 死なせて、死なせて! お願いだから、死なせて!」

 

 叫びながら、7005番は廃材を何度も己に突き立てる。傷は痛々しく広がってぽっかりと胸に穴が空き、とうに失血死を迎えてもおかしくない量の血を流し――それでも、彼女に死という安寧は訪れない。

 

「ああ、どうか許しておくれ」

 

 男は憐憫の目で、決して叶わぬ自殺を試みる少女に語り掛ける。

 

「痛いだろう、苦しいだろう。いずれ君も、私が救ってあげよう。けれど、より多くの救済を成すためには人手が必要だ。()()()使()()()()()()、だから――まだ救って上げられない」

 

「天、使……?」

 

 呆然と7005番が聞き返したその時、この異様な空間に新たな怪人が表れた。

 

「失礼するザマス、アヴァターラ猊下――おや、最後の1人が目覚めたザマスか?」

 

 極彩色の怪人――でっぷりと太った、中年の女性だった。華美なその装飾が施されたその衣類はアヴァターラと呼ばれた男性と同様だが、彼のような神聖な気配はなく、絢爛ながらもどこか下品にさえ思える。

 

「ああブリュンヒルデ、見ての通りだよ。可愛そうに、少し錯乱しているようでね……傷の手当てをしてやって」

 

 アヴァターラの言葉を受け、ブリュンヒルデは7005番を見やった。その目に浮かぶのは侮蔑の色、「面倒ごとを増やしやがって」と言わんばかりだ。

 

「他ならぬ猊下の頼みとあらば、断る理由はないザマスね。天使としての使命を果たすためにも、修復は必須ザマスか――ほら、『ついて来るザマス』」

 

 ブリュンヒルデが言うと同時、7005番の肉体は彼女の意志に反して勝手に動き出す。手を振るアヴァターラに見送られ、彼女が連れていかれた先。

 

「あ、え……?」

 

 そこにいたのは、やはり自分と同じ顔をした少女たち。しかし先程までと違い、彼女達は生きていた。ありえない……彼女達の体に刻まれた検体番号は自分よりも早く手術を受け、そして死んだはずの番号なのに。

 

 いや、そもそもの話。

 

 と、7005番はここに至って初めて思う――なぜ、()()()()()()()()()()()()()()()。確かに自分は、手術に失敗したはずだ。手術の失敗は、死とイコール。それなのに……

 

「なん、で……」

 

「何でもクソもないザマス。お前達にはそれを知る必要も、権利もない……さ、そこに『横になるザマス』」

 

 こともなげにそう言ったブリュンヒルデに抗うことなどできるはずもなく。7005番は言われるがまま簡素な手術台の上に寝転び――そして彼女の、地獄のような奴隷生活が幕を開けた。

 

 

 

 ――全ては、後になって知ったことだった。

 

 7005番はブリュンヒルデが属する組織の『死者蘇生技術』の実験台に選ばれ、成功した結果この世に蘇ったことも。

 

 未完成の技術ゆえに不安定な蘇生を遂げた自分たちは、ブリュンヒルデの特性によって強引に生かされていることも。

 

 自分達がコマユバチの特性で疑似的な『不死』を獲得し――これにより、強制的に成功するαMO手術を施されたことも。

 

 

 

 ――ワタリガラスの力を得て、ワルキューレの名前を与えられた彼女達は、アポリエール家の天使としてブリュンヒルデの下で酷使された。

 

 敵対する人間の暗殺に駆り出され、裏切り者の粛清に引っ張りだされ、有望な神の卵への試練に押し出され。何度も殺し殺され、しかしその度に直されて、彼女達は何度でも戦場に送り込まれた。

 

 初めの頃、ワルキューレ達はおかれた現状に恐怖していた。そして恐怖が薄れると次に彼女達は己の悲運を呪い嘆き、次いで()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――お願いします、どうか私たちを殺してください。

 

 懇願しながら敵に襲い掛かり、そして誰一人として殺されることなく、彼女達は敵対者を葬る。ああまた死ねなかったと、嘆きながら帰投する彼女達を待つのは、ブリュンヒルデの折檻だった。

 

 あのおぞましくも優し気なアヴァターラを頼ろうとも思ったが、不幸なことに彼女に二度まみえることなく、彼は他ならぬ身内に危険因子の烙印を押され、監禁されてしまった。自分達を呪縛から解き放つ者は、現れない。

 

 そして1人、また1人……ワルキューレ達の心は死に、正真正銘の人形へとなり果てていく。それは7005番――ヒルドも例外ではない。少しずつ己が虚ろに飲まれていくのを自覚しながらも、何度もブリュンヒルデに痛めつけられながらも、彼女は助けてと届かぬ叫びをあげ続けた。

 

 ――そうやって酷使されて、幾年が経過しただろうか。

 

『ふぅ、シャバの空気は上手いザンスねぇ。さあお前達、久しぶりの出番ザンスよ!』

 

 最初は恐怖だった彼女の声も、今となってはただの命令信号だった。ブリュンヒルデの号令を受け、ワルキューレ達は軍靴を鳴らして出陣する。そこには虚然と追従するヒルドの姿があった。

 

 

 

 ――私たちの叫びは、誰にも届かない。

 

 

 

 涙はとうに尽きている。諦観で心は枯れ果て、全てが嫌になっていた。きっと姉妹たちも同じだったんだろう、今まで必死だった自分が急に馬鹿らしく思えた。

 

 なのに、なぜだろうか――なぜ天は自分に、投げ出させてくれないのだろうか。

 

 侵入者の迎撃――聞き飽きたその指示に従い、ブリュンヒルデに付き添ったその先で、ヒルドは見た。見てしまったのだ。

 

 威風堂々と『極彩色の悪意』に挑む女性の姿を。自分達に無数の傷をつけられてなお膝を折らず立ち上がり続ける、正真正銘の大天使の姿を。

 

 この人ならばあるいは、と。枯れた心に、微かな希望が芽生える。

 

 もう一度だけ、もう一度だけ――枯れた声を振り絞って。

 

 戦乙女は虚ろな涙と共に、天使に言ったのだ。

 

 

 

 

 

 

『助けて』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――――

 

 

 

 

 

 ――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あ、あ……」

 

 ――そして、絶望は繰り返す。

 

 ヒルドはミッシェルが仰向けに倒れる様を呆然と見つめていた。駄目だった、大天使が如き彼女ですら――この怪人には勝てなかった。

 

「ンッフ、残念だったザンスねヒルド。目論見が外れて。お前には久しぶりに、たっっぷりとお仕置きをくれてやるザンス」

 

 でもまずは、とブリュンヒルデはピクリともしないミッシェルを見やる。

 

「新しい不死奴隷を完成させないと、ザンスね」

 

 のしのしとミッシェルに向かって歩いていくブリュンヒルデの指は、寄生蜂の毒針へと変形している。ここから分泌される毒を注入されれば最後――ミッシェルは永遠にブリュンヒルデの操り人形となり果てるのだ。

 

「大口を叩いておいてこのザマとは……他愛ないザンスね、ザ・ファースト。アタクシの奴隷になったらたーっぷり、こき使って上げるザンスよ」

 

 気を失ったミッシェルの胸倉を掴み上げたブリュンヒルデは嫌味ったらしく言うと、毒針に変形した指を瞼の裏に差し込む。

 

 

 

 

 

「――やっと近づいてくれたな」

 

 

 

 

 

 ――いや、差し込もうとした。

 

「んびゃッ!?」

 

 顔面に衝撃。何か硬い物がぶつかって、彼女の歯をへし折った。カラフルな歯が宙を舞い、どしんとブリュンヒルデは尻もちをついた。頭突きをされたのだ、と彼女が気付いたのはその数秒後のこと。

 

「死んだふりなんてのは、プロレスじゃあ悪役(ヒール)のやることなんだがな」

 

「お、おばえ――!」

 

 鼻と口から血を流しながら、ブリュンヒルデが瞠目する。全身爪痕だらけ、筋肉はおそらくズタズタのはず。これ以上動けば、命にかかわりかねない出血量。

 

「なんで、立゛て――」

 

「……そんなもん、決まってるだろうが」

 

 目に流れ込みそうな汗と血をぬぐい、ミッシェルは慄くブリュンヒルデを見下ろした。

 

 

 

「私は軍人で、その子たちは『助けて』と言った。だから助ける――それだけのことだろうが」

 

「んっぐ……!」

 

 迸る覇気に気圧され、後ずさるブリュンヒルデ。それを見たミッシェルは、その無様を鼻で笑った。

 

「さっき私を他愛ない、と言ってたが……そういうお前は『口程にもない』奴だったな、テロリスト」

 

「黙って聞いてりゃ……! いい気になるんじゃないザンス、小娘ェ!」

 

 もしこの時、彼女がワルキューレ達に襲わせるという選択をしていれば、あるいは勝利の可能性もあったかもしれない。しかし、挑発まんまと乗せられたブリュンヒルデはミッシェルへと自ら飛び掛かり、みすみす勝利の出目を潰してしまうことになる。

 

 

 

「――」

 

「ゴッはァ!?」

 

 

 

 ミッシェルの拳は精密にブリュンヒルデの腹部に突き刺さり、()()1()()()()()()()()()()()()()

 

 バクダンオオアリの爆液――揮発の原理によって、対象を内部から炸裂させるその技は、人間に対しては殺傷力が強すぎる。故に平時であれば使わないその特性を目の前の敵に行使することを、ミッシェルは躊躇わなかった。

 

 

 

「あがッ! がっ! ん が っ !!」

 

 

 

 数秒後――ブリュンヒルデの全身が爆ぜ、彼女はピクピクと痙攣しながら地面に転がった。あまりにも呆気ない、外道の末路であった。

 

「悪かったな、お前ら。思ったよりも時間が……って、おい!?」

 

 驚くミッシェル。その前で1人、また1人とワルキューレ達は地に倒れていく。先程まで、どれほど攻撃を受けようと立ち上がってきていたのが嘘だったように。電池が切れたおもちゃのように、彼女達は崩れ落ちて動かなくなる。

 

「おい、しっかりしろ! 今救助を――」

 

「いいんです、お姉さん。それが、私たちのあるべき姿ですから」

 

 ミッシェルの耳に届いたのは、弱弱しい少女の声。振り向けばそこには、壁にもたれてか弱い呼吸をする戦乙女――自らに助けを求めた、ヒルドの姿があった。

 

「私たちの体内には、マスター――ブリュンヒルデの心臓と連動して、不死を維持する毒(蜂毒)を放出する装置が埋め込まれていました。ブリュンヒルデの心臓が止まったことで、それも停止して……私たちを縛る鎖が、今度こそ切れたんです。だから」

 

 

 

 ――もう、眠らせてください。みんな、とっても疲れてるんです。

 

 

 

 そう言って笑うヒルドに、ミッシェルは「何を馬鹿な」……とは言えなかった。彼女達がどういった経緯で生まれ、多くの彼女達がどういった末路を辿ったのかをミッシェルは知っている。それを捻じ曲げられ、この場に立たされていたワルキューレ達の苦痛は、きっと想像を絶するのだろう。ようやく手に入れた安寧を邪魔することなど、自分にはできない。

 

「ありがとうございます……ほんとは、いろいろお話したいんですけど、私も限界で……だから、私が知ってる、大事なことだけ、話しますね」

 

「……ああ」

 

 ミッシェルは頷くと膝を折り、ヒルドと視線を合わせた。

 

「ワクチンは部屋の中、一番左の机に。管制室に入ったら、すぐに警備システムを、再起動してください。管制室はテロのための大事な……ここをとられなければ、最悪の事態だけは……ルイス様と……様に、気を付けて」

 

 ミッシェルはヒルドの声に、耳を傾ける。次第に途切れ途切れになりうわ言のようになっても、一言一句を聞き逃さないように。

 

「ナターシャ、お姉ちゃ……わたしも、そっちに……エリシア、わたしたちのぶんまで、どうか、しあわせ、に……」

 

 ――その言葉を最後に、ヒルドは静かに眠りについた。

 

 ミッシェルは息を引き取った戦乙女の体を静かに横たえると、そっと髪を梳く。それから彼女は管制室へと入ると、言われたとおりに監視システムを再起動する。電子パネルにコンピュータ言語の羅列が並び、目まぐるしい速度でそれが書き換えられていく――第七特務のハッカーが、めちゃくちゃにされたコンピュータを正常化しているらしかった。

 

 ――本音を言えば、今すぐにでも道を引き返してシモンやダリウス、虎の子部隊の面々の救援に向かいたかった。だが、自分がこの場を離れてテロリストたちに再びこの管制室を占拠されることだけは避けなくてはならない。

 

『ルイス様と……様に、気を付けて』

 

 先ほどの少女の言葉に嘘はないだろう……ならばおそらくもう1人、この場所には強力な敵がいるはず。またそうでなくとも、いつこの場所にゾンビが現れないとも限らない。ともあれ、この場を空にすることなどできるはずもなかった。

 

「歯がゆいな……」

 

 煩悶とした焦燥に胸をかき乱されながら、ミッシェルは通信の回復を待った。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 

 

 ――愛しています。愛しています。心の底から、お慕いしております。会いたくて、会いたくて、夢にまで見た王子様。私は貴方の全てを、愛します。

 

 ふんわりとした貴方の赤毛が好きです。

 

 吸い込まれるような青い瞳が好きです。

 

 穏やかな笑顔が好きです。

 

 誰かに寄り添える優しさが好きです。

 

 怒った時にちょっと乱暴になるところも好きです。

 

 歌を歌っている貴方が好きです。

 

 料理を作っている貴方が好きです。

 

 そして――貴方を蝕む救いようのない狂気すら、好きで好きでしょうがないのです。

 

 

 

 きっとこれは、運命。遠い昔に哀れな人食いの少女と旅人が出会ったその時に、私たちの関係は決まったんです。貴方と私は、前世から赤い糸で結ばれていたんです。死すらも二人を分かつことはできなくて、生まれ変わってもまた私たちは巡り合う定めだったんです。

 

 

 

 だから――

 

 

 

「……ダリウス様」

 

「なんだい?」

 

 

 

 ねぇ――

 

 

 

「貴方は今、幸せですか?」

 

「勿論だよ」

 

 

 

 ――ダリウス様。

 

 

 

「俺の料理を喜んでくれる人がいて、俺の歌を楽しんでくれる人がいて、子供たちがいて――何よりエメラダ、()()()()()()()()()()()()()。これで幸せじゃないなんて言ったら、罰が当たるよ。君はどう?」

 

「勿論私も幸せです、ダリウス様っ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――私と貴方が結ばれるのは、絶対なんです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 仲睦まじく話す一組の男女。赤い瞳の女は男の言葉に嬉しそうに目を細め、男の胸に顔を埋めた。そんな彼女を抱き寄せると、青い瞳の男は静かに女の頭を優しく、愛おし気に撫でる。

 

 

 

()()()()()()()綿()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――まるで気づいていないかのように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――狂愛の残穢(×××××××)破滅愛執(フォーリンラブ)

 

 

 




【オマケ】 他作品の出演キャラクター紹介

アヴァターラ・コギト・アポリエール(深緑の火星の物語コラボ編より)
 ド腐れ宗教一家アポリエールの枢機卿。変態時の姿を見てしまった人には1D6/1D20のSANチェックが待ち構えている。
 マジキチレベルの信仰心で同僚にドン引きされ長く監禁されていたが、エドガーへの対抗札としてオリヴィエがパリに召喚。地下で冒涜的なムカデ栽培をしていたが、最近我慢できなくなってパレードを開催した。
深緑側のコラボ編『Mind game』の紹介は次回以降のおまけにて。




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狂想賛歌ADAM-4 俯瞰模様



今回はちょっと趣向を変えて、

「『深緑の火星の物語』『インペリアルマーズ』の両作品のコラボの舞台やキャラを紹介しつつ、出番がだいぶ先になる黒陣営の皆さんを紹介する回」

です!(長い)



 リバーシ、将棋、チェス──著名なボードゲームは数あれども、純粋な差し手の技量だけで勝負が決まるものは意外なほどに少ない。

 

 ときにその時の体調、ときにその場の環境、ときにその人との心境。勝負の行方を左右する要素はあまりにも多く──だからこそ対戦者は、ときに盤の外においても熾烈な争いを繰り広げる。

 

 そしてそれは、ニュートンの異端児たちの陣取り合戦『痛し痒し(ツークツワンク)』においても例外ではなく。

 

 槍の一族の首領“オリヴィエ・G・ニュートン”とフランス共和国大統領“エドガー・ド・デカルト”はアメリカ合衆国を取り合う片手間に、盛大な盤外戦(マインドゲーム)を繰り広げていた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「定刻、ですな……」

 

 ニュートン一族に連なる“ヴィンランド家”の分家にして、一族ぐるみで(常人から見れば)悪辣としか言いようのない宗教に身を染めるアポリエール家。彼らの中でも上位の聖職者である司祭・司教が集められたその会議は、そんな重苦しい一言共に幕を開けた。

 

 平時であれば比較的和やかに進行する会議だったが、今回ばかりは勝手が違った。

 

「今こそ、我らの教義を知らしめるとき。この大任、どなたか請け負ってはいただけませんかな?」

 

「いやいや、ハハ……そういう卿こそ、厚い信仰をお見せするべきでは?」

 

「……」

 

「大丈夫ですか、ロドリゲス卿? 今日はやけに口数が少ないようで……?」

 

 弱弱しく、誰かに押し付け合うかのような論調。しかしある意味では、それも当然と言えた。

 

 彼らの此度の議題は『痛し痒し(ツークツワンク)と、それに伴う盤外戦(マインドゲーム)』について──アポリエール家と一蓮托生の関係にあるゲガルド家。その長であるオリヴィエが盤外戦としてエドガーに打った一手を如何に補助するかが、彼らを苦しめていた。

 

 

 

 その一手とは──“赤色の枢機卿”アヴァターラ・コギト・アポリエールのフランスへの派遣。

 

 

 

 アポリエール家の聖職者はその階位によって、一族内での序列が明確化されている。『枢機卿』はその中でも一族当主たる『教皇』に次ぐ地位であり、地球において事実上の最高位に座す人間でもある。

 

 それがどうして、彼らを苦しめているのか? 枢機卿の補佐を務められることなど、大変に名誉なことではないのか? 

 

 

 

 彼らを苦しめる原因は、アヴァターラという枢機卿の人格にあった。

 

 

 

 一言で言えば、()()()()()()()()。アポリエールが掲げる教義にどこまでも忠実であり、どこまでも一途であり、それゆえ彼は信仰に一辺の過ちすらも許さない。そしてその苛烈な信心は異教徒だけでなく、味方にさえも牙を剥く。

 

 十年前、当時の教皇と七人の枢機卿のうちの六人が惨殺される事件が起きた。

 

 表向きは『最高会議の場にテロリストが襲来した』として処理されたこの一件だが、その真相は生き残った唯一の枢機卿、アヴァターラによる、腐敗しきった当時の上層部の粛清だったといえば、その過激さは推して知るべしだろう。

 

 その狂信ゆえ、内々に処刑されるはずだったアヴァターラ。それに待ったをかけたのがオリヴィエだった。彼の意向を無視できるはずもなく……仕方なしに、当時の司祭・司教会議は彼を幽閉するという形で妥協とした。

 

 アヴァターラはおおむね数年に一度のペースで、オリヴィエ直々の任務を遂行するため地上に解き放たれる。普段であればアポリエールの最高会議は「我関せず」を貫くところなのだが、今回ばかりはそうはいかなかった。

 

 なにしろ今回の彼に与えられた任務は、オリヴィエと並んでジョセフに近いと評されるエドガー・ド・デカルトの抹殺。この状況で無視を決め込むことはゲガルド家とアポリエール家の共生関係に亀裂を生むことになりかねない。だから嫌でも、誰かを派遣しなくてはならなかった──まさに痛し痒しの状況である。

 

 こんな時にブリュンヒルデ卿がいてくれれば、と上級司祭たちは頭を抱える。過激にして理解不能な思想に呑まれることなく、それでいてこちらの意図を的確にくみ取って行動する彼女は、かの枢機卿との貴重な橋渡し役だった。そこにつけこんで地位に資金にと散々に恩賞を要求されたものの、それで自分達に火の粉が降りかからないなら安いものである。

 

 

 

「その任、私が引き受けましょう」

 

 

 

 結局、長く踊り続けた会議は1人の年若い──言い換えれば、事情を詳しく知らない信徒、アンセルム・アポリエールの一声で決着した。

 

 アンセルムは強欲だが、齢22にして上級司祭に片足をかける優秀な男である。「君ならばと申し分あるまい」と司祭たちは太鼓判を押すと、スタスタと会議場を去る哀れな子羊の背中を見送った。

 

 ──果たしてそれが最善の一手だったかどうかはともかく、ともあれ問題はこれで解決した。

 

 肩の荷が下りた司祭たちは胸を撫で下ろし、ぼちぼち会議が解散する流れになりかけたその時──この男が口を開いた。

 

 

 

「──やはり、『赤の宣教師』たちを解き放つべきでは?」

 

 

 

「ッ! ロドリゲス卿!?」

 

 セシリオ・ロドリゲス──家柄はアポリエールどころかニュートンですらない、ごくごく普通の人間。それにもかかわらず、一般教徒から上級司祭まで上り詰めた実力者。そんな彼の発言は、周囲の司祭や司教たちをざわめかせるに余りある者だった。

 

 赤の宣教師──それは“赤色の枢機卿の手足”を自称する、狂信者たちの通り名。そのあまりにも危険で過激な行動ゆえに、主人共々『危険因子』の烙印を押され、今なお幽閉されている問題児たちである。

 

「馬鹿な、その案は先程の会議で否決されたではないか!」

 

「奴らを送り込んでは、もはや神の卵の選別を行うどころではなくなる!」

 

「正気か、ロドリゲス卿!?」

 

 宣教師たちの実力は折り紙付き、間違いなくアポリエールが誇る最高戦力の一角だ。しかし彼らは、何もかもが危険すぎる。信仰も、人格も──極めて強力なベース生物も。

 

「いやまったく、そのご懸念はもっとも。しかしですな皆様、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 シン、と静まり返る会議室。ロドリゲスは口ひげを撫でながら、言葉を続けた。

 

「アンセルムだけでは手が足りないでしょう。しかし、襲撃を指揮するのはかのアヴァターラ卿、()()()()()通常の信徒を送り込んだとて足枷にしかなりますまい。なればこそ、アヴァターラ卿の意図を正しく汲み取り動く手足として送り込むのは、『赤の宣教師』たちこそ適任では?」

 

 しれっと自分を援軍の候補から外しながら、彼は説いた。

 

 果たして会議はそこから更に長引いたものの……最終的には増援として、『赤の宣教師』たちが送り込まれる運びとなったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──数週間後、フランス共和国の首都パリにて。

 

 アメリカでは丁度、ミッシェルたちがサイト66-Eの攻略を始めた頃合いである。日の入りを控え宵闇が忍び寄るこの時間帯は、普段なら家路を急ぐ学生や豪華なディナー目当てにレストランを目指す人の活気で市内が溢れかえる。

 

「う、うわあああああ!?」

 

「何だあれ、何だあれ!?」

 

 だがその日、花の都を満たしていたのは活気などではなく──混乱と悲鳴であった。

 

 割れたショーウィンドのガラスケース、押し倒されたカフェのパラソル。その間を逃げ惑う人々の目に移るのは、どこからともなく這い出て人々に襲い掛かる、無数の異形の怪物たちの姿。

 

 青白い人間の胴体が連なったムカデのようなそれは、信じがたいことにMO手術を受けたただ1人の人間の能力によって生み出されたものだ。

 

「──人の子よ、いと貴き神の卵たちよ、もう少しだけ待っていておくれ」

 

 惨禍を生み出した張本人、アヴァターラ・コギト・アポリエールは眼下の地獄を睥睨して呟いた。ビルの屋上に吹き付ける穏やかな風が、虹色の胴衣の裾をはためかせた。

 

 

 

 ──偽りの神より神託は下り、救済の門は開かれた。私は楽園より這い出で、その階に汝らを導くもの。

 

 怯えることはない、嘆く必要もない、救済はあまねく人々に等しく授けられる。

 

 我が嬰児たちよ、崩壊した花の都を巡礼せよ。我が半身たちよ、救われぬものに救いの手を差し伸べよ。

 

 孵ることなき、哀れな神の卵たち。彼らのしるべなき生の旅路に終止符を。

 

 

 

「すぐに、私が救ってあげるから」

 

 

 

 ──哀れな子羊たちに、魂の救済を。

 

 

 

 

 満足げにほほ笑むアヴァターラ。そんな彼に、背後から声をかける者達がいた。

 

「アヴァターラ卿、万事整いまして候」

 

「ご苦労様、我が宣教師たち。情報はどれくらい集まったかな?」

 

 振り向いたアヴァターラに傅くのは、4人の男女だった。全員が修道服を身に着けているが、四者四様にどこかただならぬ気配を纏っている。

 

 

 

「はっ、黒のルークとビショップは未だこのパリにいるようにござる」

 

 

 

「それとぉ~、フランスの特記戦力のぉ~、水無月六禄(みなづき むろく)がぁ~、動き出してるみたいですぅ~」

 

 

 

「この間、アヴァターラ卿を手負いにした近衛長がもう復活したみたいだよ♪ あは♪ タフだなァ♪」

 

 

 

「フランス軍も猊下の愛し子たちの対処に追われている様子( ´艸`) 今ならエリゼ宮殿も手薄と予想(≧▽≦)」

 

 

 

 彼らが口々に告げた情報を受け、アヴァターラは顎に手を当てて考える。今の彼が直接動かせる戦力は、目の前にいる4人と、別行動をしている協力者のみ。彼らを使って上手く対処しなければ、救済には支障をきたすだろう。

 

「……よし」

 

 少し間を置いてから、アヴァターラは決定を下した。

 

 

 

「これからどう動くのか、一切の判断は君たちに任せよう。“右腕”、“左腕”、“右足”、“左足”──我らアポリエールの教義の下に、なすべきことをなせ」

 

 

 

「承ってござる」

 

「仰せのままにぃ~」

 

「はーい♪」

 

「了解(*^▽^)/★*☆」

 

 

 4人は返事を返すと立ち上がり、踵を返す。その背を見送りながら「案外あっという間に、決着は着くかもなぁ」と、アヴァターラは独り言を口にした。

 

 

 

 ──彼らこそは、赤の宣教師。

 

 

 

 かつて“赤色の四天王”と呼ばれたアポリエールの特級危険因子たち。信仰に傾倒し、ひたむきに求道するあまり()()()()()()()()。指導者たるアヴァターラの手足でいいと、彼らはその全てをアヴァターラに捧げたのだ。

 

 

 

 そんな彼らの辞書に『妨害』などという生ぬるい言葉は存在しない、するはずもない。

 

 崇拝するアヴァターラの教義に則り、正しく『救済』を執行するため──彼らは夕闇に覆われ始めた地獄へと身を躍らせた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「おぉ!? なんだこりゃ!?」

 

 跳梁跋扈する無数のムカデ怪物を前に、男は目を輝かせた。その顔に刻まれたしわを一目見れば、彼が相当な老人であることは想像に難くない。しかし同時に彼は、“老人”と聞いて一般大衆が思い浮かべるような、よぼよぼとした頼りなさげな存在でもなかった。

 

 ──水無月六禄。

 

 フランス共和国が保有する戦力の中でも現状、一・二を争うほどの武術の達人。使用武術はシモンと同じ八極拳だが、その練度はアーク計画の団長達の中でも最強の1人である彼と比べても段違い。何しろ、()()()()()()()()()

 

 今の彼はMO手術こそ受けていないものの、総合的に見れば下手な被験者など歯牙にもかけない戦闘力を有している。フランス共和国親衛隊の合同演習に特別講師として呼ばれた折には、生身で変態した各連隊長たちを相手取っていたというのだから、その実力は推して知るべしである。

 

 では、そんな彼と異形のムカデが戦ったらどうなるのか? 

 

「大したことねえなぁ……」

 

 答:圧勝。

 

 嬉々として飛び出した六禄は1分後、物凄くつまらなそうな表情で動かなくなったムカデの山の上に立っていた。

 

 あの異常な見た目、さぞや危険なのかと思えばなんのことはない、八極の神髄を見せるどころか、見せ札に使っている拳法だけで勝ててしまった。俺のワクワクを返してくれ、とばかりに彼は嘆息する。

 

「んで……そこに隠れてるヤツ。お前は、少しは楽しませてくれるんだろうな?」

 

「──御見事にござる」

 

 ぬぅ、と姿を見せたのは、修道服に身を包んだ巨漢である。身長は優に2mは越しているだろう、剃り上げた頭髪もあいまって入道と形容するに相応しい大男、“右腕”だ。

 

「水無月六禄殿、我らが教義の下に……老いさらばえた汝の魂を救済する」

 

 言うが早いか、“右腕”はその身に変態薬を投与した。途端、彼の修道服を突き破って、無数の人間の腕が背中から伸びる。その様はまるで百手の巨人(ヘカトンケイル)のようにも千手観音のようにも見えた。

 

 

 

 

 

 赤の宣教師“右腕”

 

 

 

 αMO手術ベース“棘皮動物型”

 

 

 

────── ヒガサウミシダ ──────

 

 

 

 

 

 海中を漂う、無数の羽根や触手が集まったような生物『ウミシダ』。その姿を始めて見た者の多くは彼らを植物や海藻の仲間と勘違いするが、実際にはウニやヒトデの仲間である。

 

 彼らの特徴は2つ。まず第一に、種や個体ごとにばらつきはあるが、彼らは数十本の触手を持っていること。それをMO手術の能力として発現させれば、被験者は無数の腕を獲得することができる。

 

 そして第二に、原始的な棘皮動物としての再生能力。高い修復力を持つ生物に、純粋な打撃や斬撃の効果は薄い。骨を折られようと、腕を飛ばされようと、頭を潰されようと──ウミシダの修復能力であれば、何も問題はない。

 

 手数で相手を上回り、再生能力で相手の攻撃を無力化する。そして素体となった“右腕”自身も1つの武術の奥義を修めた手練れ。赤の宣教師たちの中でも最強、アヴァターラの右腕という肩書に恥じぬ実力者たる彼が、六禄の相手に選ばれたのは当然であり必然であった。

 

「いかに貴方が武の達人といえど、百を超える我が拳は捌き切れまい!」

 

 勝ち誇ったように笑うと、“右腕”は背中から生えた無数の拳が握りしめられ──次の瞬間、“右腕”は六禄の目の前に立っていた。

 

 縮地──達人のみが使うことのできる、一瞬にして距離を詰める古武術の極意である。

 

「くゎッッ!」

 

 ただ佇むだけの六禄に、“右腕”の無数の拳が降り注ぐ──! 

 

 

 

 

 

「全然駄目だな」

 

 

 

 

 

「がァっ──!?」

 

 次の瞬間、“右腕”の背から伸びる数十の腕が一斉に千切れ飛んだ。目を見張る“右腕”の懐に飛び込んだ六禄は、彼の腹に拳を叩きこむ。

 

 熊歩虎爪、虎の如き爆発力で放たれた拳は肉を貫き、骨を砕く。たまらず吐血した“右腕”に、六禄は呆れたように言った。

 

「数に頼りきりで、一発ごとの威力も制御もだだ甘じゃねえか。筋は悪くねえんだが……これじゃあなぁ」

 

「ぬうぅ、言ってくれおるわ……! だが、余裕ぶっておられるのも今の内よ……」

 

 ぐらりと傾き倒れそうになるのをこらえ、“右腕”は六禄を睨む。

 

「確かに汝の打撃は確かに脅威! だが、どんなに肉体を壊されようと儂の特性はその全てを治し──」

 

「ああ、そりゃ無理だ」

 

 “右腕”の言葉を遮り、六禄はなんてことないように彼を指さした。

 

「自分の腕、見てみな」

 

「は? ……ッ! なっ、ああああああああああああ!?」

 

 反射的に自らの腕を見やった“右腕”が悲鳴を上げた──自分の腕が、異形へと変化し始めていたのである。

 

 過剰変態とも違う細胞の暴走――人間とウミシダが混ざりあった、生理的な嫌悪を喚起する状態。思わず冷静を欠いた”右腕”に、六禄はなんてことないように告げる。

 

「なんちゃらオーガン、だったか? それぶっ壊されると、お前らは戦えなくなるんだろ? だから──」

 

 

 

 ――さっきの一撃で壊しといたんだわ。

 

 

 

 あまりに軽い調子で語られた真実に、“右腕”は全身から血の気が引く思いがした。棘皮動物の再生能力がいかに高くとも、後天的に埋め込まれたモザイクオーガンの修復は不可能。”右腕”の主君であるアヴァターラはαMOの再生すらも可能だが、彼の能力はその域にまで昇華されていない。

 

 彼の敗因は己の特性を過信したこと――その一言に尽きる。

 

 増殖した腕を用いた攻撃は達人に通じず、無敵に等しい再生能力には致命的な弱点があった。彼の最大の強みが弱みに変わった今、“右腕”にできることは自分の肉体が人間でもウミシダでもない何かに変わり果てていく様をただ見守ることだけだ。

 

「み、水無月六禄ゥゥウウゥウウウウゥウ!?」

 

「出直して来い、小僧」

 

 怒号の如き断末魔を上げ、最後のあがきと伸ばされた“右腕”の無数の腕を呆気なくへし折ると、六禄はニッと笑う。

 

 

 

 

 

「お前の功夫(クンフー)は、70年足りねえ」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「んあああああああああああッ↑! オリアンヌたんオリアンヌたんオリアンヌたあああああああああん!! 会いたかったよオオオオオオオオッ! うっひょう、相変わらず芸術的な筋肉だねオリアンヌたん! 巌のような胸筋! 断崖のような腹筋! 霊峰のような背筋! エロい、最ッッ高にエロいよオリアンヌたん! もうこれで俺は今日ご飯三杯……いや、十杯はいけるね! ああ、今すぐそのゴリラよりも逞しいカラダで俺を抱きしめてくれ! そして俺を、めくるめく筋肉の園へ連れていってくれ!」

 

「やかましいぞフィリップ! 無駄口を叩いてる暇があったら足を動かさんかァ!」

 

「ああッ! そんな釣れない態度も好きだぁー!」

 

 ──パリ市内、メインストリート。

 

 恐慌して押し寄せる人の濁流に逆らい、大統領官邸──エリゼ宮殿を目指して騒々しく走る2人の人間の姿があった。

 

「公衆の面前で卑猥な言葉を並べおって! 貴様にはフランス共和国親衛隊としての自覚と誇りが足りんのだ、たわけッ!」

 

 大柄な女性──オリアンヌ・ド・ヴァリエが、雷のような声で一喝する。彼女が身に着けている時代錯誤な甲冑は、フランス共和国親衛隊第一歩兵連隊の正装。その胸に燦然と輝く勲章は、その隊長にのみ与えられるものである。

 

「いやいや! いくらオリアンヌたんでもそれは聞き捨てならないな! 俺にだって自覚と誇りはある──変態としてのな!」

 

 対するは、中折れ帽にスーツという洒落た出で立ちの美青年。フィリップと呼ばれた彼は、オリアンヌの言葉に心外だと反論する。

 

「筋肉フェチが相当マニアックだという自覚はあるし、だけど俺はこの性癖を誇りに思うぜ! 人目も法律も、俺のパッションとリビドーは止められない! いつでもどこでも、俺は筋肉讃歌を歌うのさ!」

 

「公序良俗を乱すな馬鹿者ォ!」

 

「うおおぅっ!?」

 

 帽子の上から振り下ろされた岩のような拳骨を、フィリップは紙一重で躱す。冷や汗を流しながらも楽しそうに笑う彼を、オリアンヌは心底鬱陶しそうに見つめる。

 

 そんな、漫才のようなやり取りをしながら走っていた2人だったのだが──

 

「はい、ストップですぅ~」

 

 ──彼らの行方を遮るように、立ちはだかる者が1人。

 

 修道服に身を包んだ、金髪の女性だ。しかし胸元を大きくはだけ、腹を露出したその妖艶な姿は清貧を良しとする修道女の姿からは程遠い。

 

 意地の悪い笑みを口元に浮かべながら、女性──“左腕”は言う。

 

「ここから先は行き止まりなんですよぉ~。回り道を探してくださ」

 

「邪魔だァ!」

 

「ごぴゃっ!?」

 

 ドゴン! ──と、オリアンヌの巨腕が振り下ろされる。先程フィリップに振り下ろしたのとは訳が違う、殺傷を目的とした一撃。

 

 万力を込めた鉄槌は狙い過たず“左腕”の頭部を打ちすえ、そのままその体を地面へとめり込ませた。石畳がひび割れる程の威力に、フィリップは口笛を吹いてまばらな拍手を送る。

 

「さっすが、大統領が近衛長に置いとくだけのことはあるな。けどオリアンヌたん、気づいてる?」

 

「当然だ。おい女、()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

「あらぁ~、ばれちゃいましたかぁ~」

 

 オリアンヌの言葉に、うつぶせに倒れていた“左腕”は跳びあがった。ハンドスプリングと呼ばれる体術で文字通りバネのように後退すると、傷1つついていない彼女は首をコキリと鳴らした。

 

「仕留めたと思ったのだがな」

 

 異様な“左腕”の様子に全く怖じることなく、オリアンヌが唸る。その左手はいつのまにか、甲から肘にかけて鈍器としか形容のしようがない極めて攻撃的な器官へと変形していた。

 

 生半可な強度では耐えられるはずもない、『白亜の鎧鎚』──再生能力によって殺しきれないことはこれまでにも何度かあったが、甲殻型でさえこの一撃を受ければただでは済まない。それをあろうことか、目の前の“左腕”は無傷で凌いで見せた。

 

「いきなり女の子を叩き潰すなんてぇ~、野蛮ですねぇ~」

 

 間延びした声で、しかし“左腕”は小馬鹿にしたようにオリアンヌに言う。

 

「そんなんだからぁ~、貴女は猊下に負けちゃったんですよぉ~」

 

「ッ……!」

 

 ギリ、とオリアンヌは血が滲むほどに下唇をかみしめた。その胸中にひしめくのは、己の無力さに対する怒りと悔恨。

 

 彼女は数日前、とある通報がきっかけで遭遇した侵略者、アヴァターラと交戦していた。その結果は痛み分け──深手を負った彼女は治療のため、今日まで前線から離れていたのである。

 もしもあの時、自分があの男を仕留めていれば、あるいは自分が前線から退いていなければ──今日もこの街道には、健やかな日々の営みが溢れていただろう。

 

 黙り込んだオリアンヌを見て、“左腕”は鬼の首を取ったようにまくしたてる。

 

「第一歩兵連隊長とかいう大層な肩書、返上した方がいいんじゃないですかぁ~? あ、今日から貴女はぁ……『エドガー大統領ファンクラブ隊長』なんてどうでしょぉ~? 貴女みたいな無能にはお似合いの──」

 

「おっとそこまで!」

 

 だがそんな“左腕”の罵詈雑言を、事態を見守っていたフィリップは遮り、にっこりと笑った。

 

「モーモーやかましいぞ、牛女」

 

「牛ッ……!?」

 

 ポーカーフェイスを崩された“左腕”を無視し、フィリップは振り返るとオリアンヌに告げる。

 

「ヘイ、オリアンヌたん。彼女の相手は俺が請け負うよ。それより君は、一刻も早くエリゼ宮殿へ」

 

「だが──ッ!」

 

 声を荒げかけるオリアンヌの唇に人差し指をあて、フィリップは続ける。

 

「真っすぐなのは君の良いところだけど、短絡的なのは君の悪い癖だ。オリアンヌ──第一歩兵連隊長たる君が今、為すべきことは?」

 

「……!」

 

 はっと顔を上げたオリアンヌ、その目を黙って見つめるフィリップ。両者の間に、それ以上無粋な問答は無用だった。

 

「感謝するぞ、連隊長ッ! 今度朝食でもおごってやる!」

 

「お互い生きていればね、連隊長。あと俺、朝はハムじゃなくて太股筋(ハムストリングス)派だから、よろしく」

 

 “左腕”とフィリップの戯言を無視して、エリゼ宮殿へと駆け出すオリアンヌ。そんな彼女の背に、フィリップは手を振った。

 

「ちょっとぉ~? 私が黙って通すとでも思ってるんですかぁ~?」

 

 勿論それみすみす許すほどに、赤の宣教師“左腕”は甘くはないし、優しくもない。彼女は懐から大ぶりなナイフを取り出すと、何の躊躇もなくオリアンヌにそれを投げつけようとして──

 

「いいや、黙って通してもらう!」

 

 次の瞬間、彼女の手を何かが撃ち抜いた。次いで同様の攻撃が“左腕”の肩と膝を貫く。思わずナイフを取り落とした“左腕”が自分の手を見れば、弾痕のような傷とそこから溢れる血が目に映った。

 

「射撃……!?」

 

 咄嗟に身を翻してフィリップを見やると、すでに彼は変態を終えていた。その顔や手には緑の脈が走り、額からはやはり緑のトゲが生えている──しかし、彼は自然体で立っているだけだった。何か特性を使った素振りも、拳銃を隠し持っている様子もない。

 

 だが、目の前の男が何かをしたのは確実。なぜなら──

 

(傷が、焼けて……ッ!?)

 

 刻々と、その傷の状態が悪化しているからだ。夕日に照らされた3つの傷は、まるで強酸を塗り込んだかのように赤く爛れていく。

 

 傷自体は大したものではないが、尋常ならざるその状態に“左腕”は生唾を飲む。それを見てとったらしいフィリップが、明るく語りかけた。

 

「そんなに怖がらなくていいよ。こんなのはただの、面白手品だからね」

 

 フィリップが両手をヒラヒラと振って見せると、その袖口からばらばらと金属製の弾丸のようなものが零れ落ちた。それを見た“左腕”は、すぐにフィリップの攻撃手段を察する。

 

「指弾か……!?」

 

「ご名答!」

 

 いたずらが成功したような顔で、フィリップが笑う。

 

 指弾──中国に伝わる暗器術の1つで、直径7mm~10mm程度の鉄玉や鉛玉を親指で弾き飛ばし、銃なくして「弾丸」を撃つ技法。指弾は訓練こそ必要だが、投擲のように大きな呼び動作を必要としないため、隙が小さく攻撃がばれにくい。“左腕”が気づかなかったのも、それが原因だった。

 

 おそらく、爛れの原因はそこに塗り込められた何らかの薬品だろう。しかしニュートンの鋭敏な感覚をもってしても、化学的な火傷以外の体調不良は見られない。見た目の派手さに対して、人体への毒性はさほど高くないはず。

 

「さて、僕は変態だが紳士でね。君が今すぐ変態──あ、人為変態ね? 人為変態せずに降伏するっていうなら、このまま殺さないであげてもいいぜ?」

 

「……調子に乗らないでくださいよぉ~。タネが割れた手品師さんなんてぇ~、ごみ以下じゃないですかぁ~」

 

 だからフィリップの降伏勧告を、“左腕”はコンマ秒の間スラおかずに切って捨てた。彼女は懐から点鼻薬型の変態薬を取り出すと、止める間もなくそれを接種する。それと同時、彼女の体は茶色いゴム質の皮膚に覆われた。

 

「あは! 貴方がどこの誰かなんて知りませんけどぉ~! 慈悲深いあたしが救済してあげますよぉ、変態さぁ~ん!」

 

 傷が塞がった彼女は両腕で落とした2振りのナイフを拾い上げると、べろりとその刀身を舐めた。まるで、自身の唾液を塗りたくるかのように。

 

 

 

 

 

 赤の宣教師“左腕”

 

 

 

 αMO手術 “環形動物型”

 

 

 

 

 ────── ヤマビル ──────

 

 

 

 

 

 蛭と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、芋虫ともミミズともつかない形状をした、水辺の吸血生物だろう。

 

 間違いではない。だが、もしあなたが「陸上なら彼らの被害にあうことはない」と思っているのであれば、その認識は今すぐ改めるべきである。

 

 ヤマビル──学名を『zeylanica japonica』。登山を趣味とする者にはおなじみの、陸生のヒルである。その気色の悪い姿から「人が最も不快に感じる動物」の1つとさえ呼称されるが、その体に秘めた驚異の特性を知る者は少ない。

 

 その唾液中に含まれる『ヒルジン』は血液の凝固を妨げ、MO手術の被験者が攻撃として行使すれば、些細な傷すらも致命傷に至らしめる。

 

 獲物を探すための二酸化炭素と熱を探知する術は、敵の逃亡と潜伏を見逃さない。

 

 加えてヤマビルが有する独自の能力として、全身を構成するゴムのような皮膚を上げることができる。弾力に富み丈夫なその皮膚は引っ張ってもちぎれず、人間に踏まれても潰れない。

 

 先ほど攻撃を受けた“左腕”が傷一つ追っていなかったのは、この特性を発現させていたからである。彼らの主、アヴァターラから事前に伝えられていた特機戦力の一人であるオリアンヌ。その対抗札として、宣教師たちの中で最も防御力があり、知恵の回る“左腕”はこの場に派遣されていた。

 

「どうするんですかぁ~? 今の私にぃ~、さっきのつまんない手品はもう通じませんよぉ~?」

 

「……駄目じゃないか、牛女ちゃん」

 

 煽るような“左腕”の言葉にも、フィリップは眉一つ動かさない。まるで聞き分けのない子供に諭すかのような口調で、彼は言葉をつづけた。

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

「何を……ッ!?」

 

 次の瞬間、ぐにゃりと“左腕”の視界がゆがむ。次いで()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「な、んで……薬、一本しか使ってな……!?」

 

「あーあ、だから()()()()()()()降伏しろって言ったのに……まぁ、あんだけ打ち込んどいたし、そりゃこうなるわ」

 

 あちゃー、とばかりにフィリップは頭に手をやると、醜いヒルへと変化しつつある美女を見下ろした――否、()()()()

 

「エドガー叔父さんと違って俺は優しいから、投降してくれれば本当に悪いことにはしないつもりだったんだぜ?」

 

「ま、て……!?」

 

 だがその発言から、“左腕”は何かの可能性に思い至ったようだった。ゴム質の皮膚に埋もれつつある目を大きく見開き、彼女は口を開く。

 

「『フィリップ』『エドガー叔父さん』……! まさか、お前……!?」

 

「あ、そういや自己紹介してなかったっけ。それじゃあ改めて」

 

 パチン、と指を鳴らしたフィリップは、もはや動くことすらできない“左腕”に優雅に一礼した。

 

 

 

「フランス共和国親衛隊所属、『元』騎兵連隊長にして“黒のビショップ”──フィリップ・ド・デカルトだ。お見知りおきを」

 

 

 

「ば、かな……ッ! 情報と、見た目が全然ちがう……! それにお前は、()()()()()()()()()……!」

 

 血走った目で睨みつける“左腕”に、フィリップは肩をすくめてみせた。

 

「ま、そこについての種明かしはまたの機会に、ってことで。ああ、君は名乗らなくていい。興味ないからね」

 

 ──そして、冥途の土産に覚えておくといい。

 

 そういってフィリップは、蛇のように狡猾に口元を歪ませた。

 

 

 

 

 

「フランス共和国親衛隊を舐めるとこうなる――お前如きが俺の戦友(オリアンヌ)を語るなよ、無能」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「時代遅れのカルト共め……余のフランスを土足で踏み荒らしおって」

 

 ──エリゼ宮殿、大統領執務室にて。

 

 窓越しに聞こえる市民の悲鳴に、エドガー・ド・デカルトは眉をひそめた。その不快感情は市民を、パリを──ひいてはフランスを害された怒りに由来するものである。しかしその源にあるのは、間違っても国民を想う慈悲の心などではない。

 

 自分という唯一絶対の存在が納めるこのフランス領土を、『アポリエール』というニュートンの中でも木っ端のような連中が我が物顔で闊歩している現状が不愉快極まりないのである。

 

「わたくしが出ましょう、大統領」

 

 そんな彼の耳に届いたのは、澄んだ鈴の如き女性の声音だった。即座に「手出し無用だ」とエドガーが返せば、声の主は悲しげに眉を顰める。

 

「異国の民といえども、善良な人間が理不尽に淘汰される様は見るに堪えません。将棋盤の上に上がる前にわたくし──“飛車”が歩兵を切り伏せてまいりましょう」

 

「貴様が下民の惨状に心を痛める必要はない、貴様のなすべきことのみを考えよ──そして何度、これから貴様が上るのはチェスボードで、与える役割は“ルーク”だと言えば覚えるのだ、貴様は?」

 

「まぁ、そうでしたか?」

 

 キョトンと首をかしげるのは、大人びた雰囲気の女性だった。漆のような黒髪と薄化粧をした美しい顔立ち。素朴ながらも上品な和服を纏ったその姿は日本人形のよう。

 

 しかしだからこそ、彼女が腰を下ろしている近未来的な意匠の車椅子と、その骨組みにさやに収めた状態で括りつけられた日本刀の異質さが殊更に際立っていた。

 

「いやですねぇ、この歳になると物忘れが激しくって」

 

「余の半分も生きていない小娘が、生意気を言うんじゃあない」

 

「あらまぁ、わたくしみたいなおばさんを若者(小娘)扱いしていただけるなんて……お上手ですわね、大統領」

 

「……もういい」

 

 ──この女相手には、怒鳴るにもならん。

 

 嘆息はしないものの、エドガーは久しぶりに頭痛を覚えたような気がした。狂戦士二名(シドとオリアンヌ)変態の甥(フィリップ)、最近では盤外戦のために確保した不思議系(気狂い)少女と、とかく今回の戦争においてエドガー側に与する人間は、頭のねじがダース単位で外れているとしか思えない連中(バカ)ばかりだ。

 

 それに比べれば、この女の天然ボケなど可愛いものである。

 

「ふふ……それより大統領」

 

「フン、近衛長がいなくなって親衛隊どもの士気が下がっているようだな。よもや、このエリゼの宮に入り込んだ鼠を見逃すとは」

 

 皆まで言わずともエドガーは女性の言いたいことを察するといよいよ虫唾が走るとばかりに吐き捨て……そして、不遜な笑みを浮かべる。

 

「だが黒のビショップ(フィリップ)も直に来る、か……気が変わった。貴様には宮殿内の鼠捕りをしてもらおう」

 

 どこまでも尊大にエドガーは命じた、目の前でたおやかにほほ笑む女性に。

 

「余に貴様の価値を示して見せるがいい、風邪村千桐(チギリ=カゼムラ)。特別に宮殿内が血で汚れるのは見逃してやる。10分やろう、ちょろちょろと目障りな鼠どもを駆除しろ」

 

「わかりました」

 

 そして──日本の守り手として脈々と受け継がれた、ニュートンとは異なる血統をその身に宿す女性は、謹んでその名を拝命する。

 

 

 

 

 

「業者程上手くやれるかはわかりませんが、やってみましょう。さしあたって、厨房からチーズをお借りしたいのですが、よろしいですか?」

 

 

 

「……侵入者を始末しろ」

 

 

 

 本気で宮殿内で鼠捕りを始めようとする馬鹿に怒鳴りたい衝動をねじ伏せ、エドガーは正しく命令を伝えなおした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あは♪ こいつら雑ッ魚いなー♪」

 

 

 エリゼ宮殿廊下。数分前まで数十の命の火が灯っていたこの空間に、いまや生きている人間は2人しかいなかった。

 

 1人は顔のいたるところにピアスやタトゥーを施したパンクロッカーのようないでたちの少女、“右足”。独特なリズムを刻みながら喋る彼女の腕からはギロチンのような大あごが生え、返り血を浴びた全身は煌びやかな甲皮に覆われている。

 

 しかし、彼女に与えられた最大の特性はそのどちらでもなく、“速さ”。人間大に換算すれば最高で時速800km、テラフォーマーすら置き去りにする昆虫界きってのランナーである。

 

 

 

 

 

 赤の宣教師“右足”

 

 

 

 αMO手術 “昆虫型”

 

 

 

 

 

 ────── ハンミョウ ──────

 

 

 

 

「仕方ない、“右足”(·へ·)」

 

 もう一人は、中世の舞踏会で身に着けるような仮面で顔を隠した青年“左足”だ。

 

「彼らは弱い、だから我らがこうして救っている(´·ω·`)」

 

 機械のごとく平坦に語る “左足”の全身には、オレンジの短い触手が蠢く。安っぽいカラフルなそれが、生物界でも五指に入る猛毒を帯びているなどと、いったい誰が想像できるだろうか。

 

 

 

 

 

 赤の宣教師“左足”

 

 

 

 αMO手術 “刺胞動物型”

 

 

 

 

 

 ────── マウイイワスナギンチャク ──────

 

 

 

 

 

 

 彼らがこの場に現れたのは、偶然ではない。あわよくば、混乱に乗じてエドガー・ド・デカルトを暗殺する──ヒトという生物の頂点に君臨する彼を仕留めることは、生半可なベースでは不可能。

 

 それゆえに、彼らは選ばれたのだ。

 

 人間の知覚では捉きれないスピードを持つ“ハンミョウ”と、触れた瞬間に死が確定する猛毒パリトキシンを持つ“マウイイワスナギンチャク”――4人の宣教師たちの中でも際立って凶悪な、ヒトを極めたところでどうしようもない特性を有する彼らが。

 

「狼藉はそこまでです」

 

 そんな彼らの前に立ちはだかったのは──否、()()()()()()()のは、車いすの女性だった。

 

 風邪村千桐(かぜむらちぎり)は車椅子の骨組みに括り付けた日本刀の柄に手をかけ、彼女は静かに言った。

 

「修験者たちよ。悟りが開けないイライラを見ず知らずの人にぶつけてはいけません!」

 

「……何、こいつ♪」

 

「……理解不能(-_-;)」

 

 どこかずれた指摘をする千桐に、“右足”と“左足”は思わず顔を見合わせた。アイコンタクトで素早く意見を交わし、彼らは即座に判断した。

 

 

 

 頭がおかしいようだ、救ってあげよう。

 

 

 

「……あは♪」

 

 刹那、右足は一陣の風となって掻き消える。瞬き一つほどの時間をおいて、彼女は千桐の背後にいた。鮮血がほとばしる。

 

「首、もーらいッ♪」

 

 降りぬいた大あごが、意味の分からん女の生首を刈り取ったはずだ。“右足”はその戦火を確かめようとして──

 

「まぁ、そういうルールがあったのですね。寡聞にしてこの風邪村千桐、存じませんでした」

 

 ──背後から声が聞こえた。

 

 “右足”が振り向くとそこには、千桐がいた。先ほどと変わらず、首と胴体はくっついたまま。では、自分が見た血は──

 

「ならわたくしも真似っこして『腕もーらいっ』……で、よろしいのでしょうか?」

 

「ッ!?」

 

 その時、やっと“右足”の脳は自身の両腕が切り落とされていることを認識した。

 

「う で  がっ  ! ?」

 

「あ、しまった。この場合は何といえばいいのでしょうか?」

 

 次の瞬間、こともなげに千桐が振るった一閃で、“右足”の体が縦に真っ二つに切り開かれた。甲虫の鎧などまるで意味をなさず、左右に下ろされた肉塊が血の海に転がる。

 

 

 

「(゚Д゚)ハァ?」

 

 

 

 パチンという納刀の音を聞き、残された“左足”はここに至ってようやく、彼女の使用武術が『居合術』であることを察した。

 

『居ながらにして合う』と書いて、居合。日本が発祥となる抜刀術であり、世界でも珍しい『抜刀から納刀』までを一連の様式とする剣術である。

 

 昨今の漫画ではその速度ばかりが注目されがちだが、その本質は()()()()()()()()()()()()()()()()という一点にある。達人がひとたび待ちの姿勢に入ってしまえば、下手な動きをした者は立ちどころに切り伏せられてしまう。“右足”の速度でさえ捉えられるなら、剣の間合いに入るのは自殺行為だ。

 

 考えをまとめた“左足”は、すぐさま全身から()()()()()()()()()。マウイイワスナギンチャクの刺胞は乾燥すると空中に舞いあがり、ときに人間を害することがある。

 

 いかにその剣技が早くとも、間合いの外より襲い掛かる微細な刺胞はどうにもなるまい。そう考えての行動だったのだが──

 

「何をしているのです?」

 

 風邪村千桐を前にして、その行動は悪手だった。

 

 

 

 居合は居ながらにして合う武術、対処法は待ちに入った相手の間合いに入らないこと。なるほど、間違いではない。だが、見当違いだった。

 

「とうっ!」

 

 千桐は自らが乗る車椅子の車輪を思い切り回した。彼女の車椅子は病院で見かけるような“移動”目的のものではなく、パラリンピックなどで見かけるような“機動”を目的としたもの。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()! 

 

「(((( ;゚Д゚)))」

 

 完全に虚を突かれた“左足”だったが、幸い車椅子の接近速度自体は対応可能な範疇だ。彼は迫る千桐から逃れようとして──気が付く。

 

 

 

 自身の左足が、床から飛び出した水晶の杭のようなもので縫い付けられていることに。

 

 

 

「おさらばです」

 

 そして、三閃。一閃で自身に触ろうとした腕を切り落とし、二閃でその体を上下に切り離し、最後の太刀で首を切り飛ばす。三つの肉塊が床に転がると同時に、自分以外のすべての命の火が消えた廊下にパチンと納刀の音が響いた。

 

 

 

「悲しいことです。かつて立ち合った幸嶋くんのように、もっと純粋な動機で力を振るえないのでしょうか、人間は」

 

 

 

 はぁ、という千桐の嘆息は虚空に吸い込まれ、聞き届ける者はいなかった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ──そして1時間後。

 

 何事もなかったかのように、アメリカ行きの飛行機はフランスを発つ。そこに車椅子の女性と変態が乗っていたことは、わざわざ特筆すべきことでもないだろう。

 

 しかし、パリで繰り広げられる盤外戦はなおも収まることはなく、アメリカ全土を巻き込んだ陣取り合戦もまた、収束の兆しを見せることはない。

 

 

 

『黒幕気取りの道化師』『穢れた聖槍』『神への挑戦者』

 

 

 

 有象無象の生命を踏みにじりながら、今宵も彼らは歌うのだ。

 

 

 

 狂想への賛歌を。

 

 

 

 冒涜よりの弔歌を。

 

 

 

 そして、絶対なる凱歌を。

 

 




【オマケ①】他作品のコラボ編宣伝

『Nobody's Perfect(インペリアルマーズコラボ編)』
 アネックス打ち上げの半年前。クロード・ヴァレンシュタインからスレヴィン・セイバーに「アダム・ベイリアル・ロスヴィータ(アダムの中では比較的まともな女史)」の討伐依頼が下される。
 アーク計画潜入員の東堂大河とキャロル・ラヴロック、およびイギリスの諜報員であるハリー・ジェミニスを引き連れ、スレヴィンはルーマニアに向かう。

 一方その頃、とある事情でラブコメ逃亡生活を送るシロとエミリーはルーマニアのホテルで、水無月六禄と名乗る青年と出会っていた――。

『Mind Game(深緑の火星の物語コラボ編)』
 アメリカを舞台とする陣取り合戦、『痛し痒し(ツークツワンク)』――その裏側の物語。

「差し手がさせなくなれば、その時点で不戦勝だろう?」

「不慮の事故で駒が欠ければ、その状態で始めるしかあるまい?」

「ただのチェスがいつの間にかチェスボクシングになってるんだけど?」

 ――争いは激化する。アメリカ、フランス、中国を巻き込んで。

 その頃フィンランドには、不穏な下半神の影が――



【オマケ②】他作品の登場キャラクター・設定紹介

水無月六禄(インペリアルマーズコラボ編より)
 インペリアルマーズ名物、『強いから強い奴』2号(1号についてはまたの機会に)。この時間軸だとまだお爺ちゃん(出展元でどうなってるかは読んでみてのお楽しみ)。マジカル八極拳の使い手で、素手で戦車装甲をぶちぬくパンチを放ったりできる。 
 戦闘力は三作のキャラを全部ひっくるめてもトップクラスだが、精神構造はかなりまともな方。仕方ないね。

 時代が違えば、価値観が違えば、世界が違えば。間違いなく英雄になっていた男にして――この世界では、英雄になれなかった男。


六禄「功夫が足りねえ」

キャロル「お爺ちゃん、今日でそのセリフ3回目だよ?」



オリアンヌ・ド・ヴァリエ(深緑の火星の物語コラボ編より)
 インペリアルマーズ名物、『強いから強い奴』を深緑の火星の物語で再現したキャラクター。フランス共和国親衛隊第一歩兵連隊長、作者間での愛称はゴリランヌ近衛長。
 戦闘スタイルは野生の直感と力イズパワー。なぜか拙作の変態達にはやたら好かれる説が浮上している

フィリップ「やはりオリアンヌたんのチャームポイントは岩のような大胸筋にあると思うんだよ、俺は」

シド「甘いな。見るべきは、その全身に刻まれた古傷だ。あれはいい……実にそそる」

オリアンヌ「ふざけるな! 我が筋肉、我が傷は全てエドガー様に捧げたもの! 貴様らの欲情の対象にするでないわ!」

千桐「……だそうですよ。愛されてますねぇ、大統領?」

エドガー「 知 ら ん (真顔)」



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冒涜弔歌OLIVIER-7 狂愛の残穢

 ──ただいま。

 

 扉を開けたダリウスはいつもの癖でそう言った。けれど家の中から返ってくるのは虚無ばかりで、一拍おいてやっと彼は思い出した。彼のにぎやかな日常は、少し前に壊れてしまったことを。

 

「──」

 

 鞄を置き、ダリウスはキッチンに立つ。冷蔵庫を開け、中から取り出した生肉に包丁を入れる。

 

「──」

 

 ──きっとどこかで、自分の歯車はズレていたのだ。

 

 シュウシュウと肉が焼ける音。微かに変わった音でそろそろ火加減を調整すべきか──などと考えている自分に気づいて、ダリウスは思わず笑ってしまう。

 

 今彼が焼いている肉は牛ではない。豚でもない。鳥でもない。それはこの街にありふれた、それでいてどこの肉屋を回っても手に入ることのないだろう食肉──しかも今回の食材はダリウスにとって、この世に唯一無二の高級食材といってもいい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ヒトの肉である──それも、自分を産んだ母親の。

 

 

 

 

 

 

 ダリウスは今、母親を調理しているのだ。

 

 

 

「……」

 

 焼き加減はレア、味付けはシンプルに塩とブラックペッパーで。余計な添え物はせず、素材を味わうための調理法だ。

 

 ステーキを鉄板ごとテーブルに乗せ、ダリウスはナプキンをつけた。誰もいない椅子の上に、ダリウスはまだ親子三人で暮らしていた頃の記憶を幻視する。

 

 ──こいつは歌手になるんだ! と、父の幻影は言う。

 

 ──いいえ料理家になるんです! 負けじと母の幻影は言い返す。

 

 ──どっちにもなるから喧嘩しないで、とダリウスが仲裁すれば、両親の影は困ったように笑って……そして、掻き消える。

 

 

 

 この幸せな夢が長くは続かないことを、彼は知っていた。そして──こんな日が二度と来ないことも、彼は知っている。

 

 それはオースティンという血統に刻まれた『呪い』だった。アメリカがまだ開拓時代だった頃に実在した一人の殺人鬼『エスメラルダ・オースティン』という少女から始まった、悲しくも忌まわしき性。

 

 

 

 オースティンの人間は、ヒトを食肉としてしか愛せない。

 

 

 

 元気な子供が夕飯のオムライスに目を輝かせるように、日々の激務につかれたサラリーマンが仕事帰りのビールに憩いを求めるように。彼らはヒトという極上の肉をこよなく愛する。

 

 果たしてそれが生物学的な突然変異なのか、あるいは本当にオカルトじみた呪いなのか。ダリウスにはわからない。しかし確かなことは彼の父も、そのまた父も――皆、血の呪いに屈してきたということ。そして自分もまた――血の宿命に、抗うことができなかった。

 

「……いただきます」

 

 ダリウスは目の前で香ばしく焼けるステーキをナイフで切り分け、フォークで口に運ぶとゆっくりと咀嚼して飲み下す。

 

 

 

 自分を産んだ女の肉を食べた感想は、これまでに彼が平らげてきた他の人間()と同じく、大差なく。

 

 

 

 

 

 吐き気を催すほどに美味しかった。

 

 

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「ただいま」

 

 扉を開けたダリウスはいつもの癖でそう言った。家の中から次々と返ってくるのは「おかえりなさい」という3人の声、次いでドタドタと廊下を走る小さな二つの足音。

 

「おかえり、パパ! 待ってたよ!」

 

「遅いよパパー!」

 

 やがて姿を見せた、2人の愛らしく幼い兄妹。最愛の我が子たちの姿に、ダリウスは思わず顔を綻ばせた。

 

「ただいま、待たせてごめんね」

 

 ダリウスが2人の頭をくしゃくしゃと撫でれば、兄妹はくすぐったそうに目を細めた。子供たちの体温に安心感を覚えながら、不思議なものだとダリウスは思う。まさか自分が、こうして誰かを愛することができるようになるなんて、と。

 

「……ん?」

 

 そして一瞬ののちに、違和感。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 

 

 

 

 誰かを愛するなんて、そんなの当たり前のはずなのに。なぜ自分は、違和感を覚えたのだろうか? 

 

 

 

 ──下腹部が熱を帯びる。

 

 

 

 しかしそんな疑問は、家の奥から遅れて姿を見せた人物を目にして霧消する。小走りで現れたのは黄金の長髪を三つ編みに結わえた、エプロン姿の女性だった。一見すると高校(ハイスクール)の女生徒にも見えそうな、やや幼い顔立ち。ダリウスと対をなすかのような真紅の瞳は、まるでルビーのようである。

 

「おかえりなさい、ダリウス様っ!」

 

「おっと……こらこら」

 

 無邪気の飛び込んできた彼女を抱きとめると、子供たちが僕も私も、と騒ぎながらダリウスの脚にしがみつく。3人に抱きしめられる形になったダリウスは、困ったように笑った。

 

「エメラダ、子供たちが真似をしたらいけないからやめよう、っていつも言ってるだろう?」

 

「ふふ、ごめんなさい」

 

 そう言って笑うも、ダリウスの妻──エメラダ・オースティンの顔に反省の色はない。浮かんでいるのは喜色ばかりだ。その幸せに満ち足りた表情を見ると、彼はいつだって何も言えなくなってしまうのだ。

 

 これも惚れた弱み、というものなのだろう。そう、これも思えばあの日彼女と出会って──

 

「……あれ?」

 

 そこまで考えて、ダリウスはまた違和感を抱く。果たして自分は、どういった経緯でエメラダと出会ったのだったか? 

 

 

 

 ──下腹部が熱を帯びる。

 

 

 

「そんなことよりもママ、早くパパのお誕生日パーティ始めようよー!」

 

「お誕生日パーティ! お誕生日パーティ!」

 

 しかしそれについて考える間もなく、子供たちが声を上げる。ぴょんぴょんと跳ねてねだる彼らの声を聴いて、そういえば今日は自分の誕生日パーティをするために早く帰ってきたんだった、とダリウスは思い出す。

 

「パパ、ケーキはー?」

 

「ケーキ! ケーキ!」

 

「もちろん、焼いてきたよ」

 

 そういってダリウスが、レストランのオーブンで焼いてきたバースデーケーキを入れた容器を見せれば、子供たちから歓声が上がる。自分のためのバースデーケーキを焼く、というのは妙な心持だったが、子供たちが喜んでくれるならば焼いた甲斐はあったか、と思い直す。

 

「ほら二人とも、手を洗ってきなさい。その間に、ママがお料理を並べておくから」

 

 エメラダの言葉に「はーい!」と元気な返事をして、子供たちはドタドタと家の中に駆けていく。その様子を見守りながらエメラダとダリウスは玄関をくぐって、扉を閉めた。

 

「……ダリウス様」

 

「なんだい?」

 

 ふと呼び止められて、ダリウスは背後を振り向いた。そこにいたエメラダはいつになく真剣な表情で、彼に問う。

 

「貴方は今、幸せですか?」

 

 吸い込まれそうなほどに深い赤色の双眸が、自分を見つめている。そのあまりの美しさに思わず見惚れて、それから我に返ったダリウスは慌てて返事をした。

 

「勿論だよ。俺の料理を喜んでくれる人がいて、俺の歌を楽しんでくれる人がいて、子供たちがいて──何よりエメラダ、君という可愛い奥さんがいる。これで幸せじゃないなんて言ったら、罰が当たる……君はどう?」

 

 その返答に、エメラダはぱっと顔を輝かせた。それから駆け寄ってきた彼女は、もう一度ダリウスの体に抱き着いて、その頭をダリウスの頭にこすり付けた。

 

「勿論私も幸せです、ダリウス様っ!」

 

「……それなら、よかった」

 

 そんな彼女をダリウスもまた抱きしめ返して、そっと彼女の髪を梳く。ブロンドの髪はきちんと手入れがされているのかとても柔らかで、手に心地よい。おずおずと顔を上げたエメラダのうるんだ瞳に、ダリウスの心臓の鼓動が高鳴る。

 

 

 

 ──下腹部が熱を帯びる。

 

 

 

「ダリウス、様……」

 

 赤く頬を染めたエメラダが切なげに漏らしたその声に、ダリウスは脳の芯が痺れたような感覚を覚えた。彼女の桃色の唇から目が離せない。そっと彼女の顎に手を添えれば、「ん……」と小さな声を漏らしはしたが、抵抗はない。全てを委ねるように、彼女は自身の重さをダリウスに傾けた。

 

 夕刻、黄金の光が差し込む家の中で。ダリウスとエメラダの顔の距離が少しずつ近づいていき──。

 

 

 

 ──下腹部が熱を帯びる。

 

 

 

「パパー! ママ―! まだー!?」

 

 

 

 

 

 部屋の奥から響いた声に、二人はぱっと距離をとった。慌てて声のした方へと顔を向ければ、きょとんとした顔でこちらを見つめる息子の顔があった。

 

「なにしてるの?」

 

「いや……なんでもないよ。すぐに行くから、座っていて」

 

 幸いなことに、ダリウスの言葉に疑問は持たなかったらしい。元気よく返事をすると、彼は大人しく奥へと部屋の奥へと戻っていく。

 

 いけない、どうかしていたようだ。

 

 頭を振って歩き出そうとするダリウス。そんな彼の裾をちょこん、とエメラダは掴む。

 

「エメラダ?」

 

「あっ……え、と……」

 

 顔を赤く染めながらもどこか物足りない様子のエメラダは、落ち着きなく視線を泳がせた。彼女の真意を理解したダリウスは困ったように頬を掻いてから告げた。

 

「続きは……子供たちが寝てから、ね?」

 

「っ!」

 

 湯気を吹き出しそうな顔でコクコクとうなづくエメラダに、こっちまで恥ずかしくなる思いがした。ダリウスは照れ隠しに小さく息を吐いてから、子供たちが待つダイニングキッチンへと向かった。

 

「おそーい!」

 

 ぷくっと頬を膨らます娘にごめんごめんと謝って、ダリウスは席に着いた。正面に娘、隣に息子、斜め向かいに妻のエメラダ。オースティン家が食卓を囲む際の定位置だ。

 

「今日の晩御飯はねー、僕たちも手伝ったんだよ!」

 

「おお、頑張ったね。えっと──?」

 

 自慢気に報告する息子を褒めようとして、ダリウスは気づいた。この愛しくて愛しくてたまらない、最愛の我が子たちの名前は、何だっただろうか。

 

 

 

 ──下腹部が熱を帯びる。

 

 

 

「マイクは添え物のニンジンの型抜き、アンナはサラダの盛り付けを手伝ってくれたの」

 

「……そうか。頑張ったねマイク、アンナ」

 

 疑問が氷解したダリウスが言えば、2人はえへへ、と嬉しそうに笑った。

 

「エメラダもありがとう。君の料理は、いつも美味しい」

 

「っそ、そんな! ダリウス様に比べれば、私なんて全然……」

 

 わたわたと慌てふためくエメラダだが、ダリウスの言葉に偽りはない。確かに一流の料理人である自分に比べれば粗もあるが、彼女が毎晩作ってくれる料理は美味しい。自分では出すことのできない、家庭的な味わいだ。

 

「ねーねー! それよりパパ、お夕飯なんだと思うー?」

 

「うーん、なんだろう?」

 

 うきうきとした様子で息子が見つめているのは、ダリウスの前に置かれた料理だ。銀の皿カバーによって覆われたそれは、高級レストランで出されるそれに似ている。

 

「ママが作ったごちそうだよ!」

 

「開けてみて開けてみて!」

 

「どれどれ……」

 

 子供たちにせかされ、ダリウスは料理の蓋を取った。視界いっぱいに広がる、湯気の白。それが晴れて、ダリウスの目に飛び込んできたのは──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「      」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──ステーキだった。

 

 

 

 

 

「あ、え……?」

 

 焼き加減はレア、味付けはシンプルに塩とブラックペッパーで。余計な添え物はせず、素材を味わうための調理法だ。ジュウジュウと音を立てて鉄板の上で焼けていくその肉に、ダリウスは血の気が引く思いがした。ただの料理だ──いや、ただの料理ではない。最愛の妻が、自分の誕生日を祝うためにわざわざ作ってくれた、最高の料理だ。

 

 本当なら胸が躍るほどに嬉しいはずなのに。お腹が空いて空いて仕方がないはずなのに。

 

 

 

 どうして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()? 

 

 

 

 ──下腹部が熱を帯びる。

 

 

 

「ダリウス様?」

 

「っ! いや、何でもないよ」

 

 心配そうに覗き込むエメラダに、取り繕うようにダリウスは言った。一瞬前の自分が情けない、何をそんなに恐れていたのだろうか? 

 

 しかし──そう言い聞かせても、彼の気は晴れなかった。

 

 子供たちがプレゼントにと書いてくれた手紙と自分の似顔絵をもらっても。みんなでハッピーバースデイの歌を歌っているときも。しつこい油汚れのように、ダリウスの心にはねっとりと生理的な嫌悪感が張り付いて離れない。

 

「「いただきまーす!」」

 

「召し上がれ。ダリウス様も、お腹いっぱい食べてくださいね」

 

「うん……」

 

 そして、実食の時が来た。

 

 ダリウスはナイフとフォークを手に持つと、ナイフを肉に入れる。切り分けた断面はほのかなピンク色で、肉汁がじわりとあふれ出す。火の通った肉と胡椒のスパイシーな香りが鼻をくすぐる。

 

 生唾を飲む。空腹だからではない、むしろその逆──彼の腹は鉛のように重かった。

 

 なぜだ? なぜこんなにも、自分は鉄板の上で焼かれているこの肉を恐れているのか。

 

「パパ?」

 

「食べないのー?」

 

 気が付くと、子供たちが不思議そうに自分を見つめていた。駄目だ、悟られてはいけない。

 

 ダリウスは「食べるよ」と子供たちに笑いかけると、切り分けたステーキを刺したフォークを持ち上げた。一口に収まってしまうほどの大きさだが、異様な重さを感じる。それは命の重みなのだ、とダリウスは思った。なぜかはわからないが、そう思えてならなかった。

 

 口を開く。歯の門を上下に開く顎の動きは普段よりも歪で、その肉を食べることを本能が拒んでいるようだった。いつもならなんとも感じない口の中が、いやにねばついているように感じる。

 

 フォークを口に運ぶ。肉の表面を滴る汁の囁きが恐ろしくて、ダリウスは口を閉じてフォークを引き抜くことを躊躇する。

 

 それでも、食べなければ。自分のために、最愛の妻が作ってくれた料理なのだから。

 

 意を決したダリウスは、まるで嫌いなものを頑張って食べようとする子供のように目をぎゅっとつむると、口を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 ぱ

 

 く

 

 

 り

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「う、ゲ  ホ! ウお、ォえ!」

 

 そして次の瞬間、ダリウスはその肉を吐き出していた。子供たちとエメラダが慌てているが、それに反応する余裕はなかった。

 

 目が血走り、汗が吹き出し、全身に鳥肌が立つ──下腹部が熱を帯びたが、全身を貫く悪寒を前に、そんなものは気にならなかった。

 

 

 

 忘れられない、忘れられるはずもない。

 

 

 

 例え自分が犯した罪の記憶が置き去りにされようと。例え仲間との思い出が忘却の彼方へ追いやられようと。()()()()()()()()()()()()()

 

 吐き気を催すほどの旨味。それまでに食べてきた食材が廃棄物か何かに思えてしまうような味わい。ああ、どうして。どうして自分は、背負った十字架の重みを忘れていた!? 

 

 今自分が口に入れた肉は。

 

 

 

 最愛の妻が自分のためにと作った料理の原材料は。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 人肉だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 胃の底が混ぜっ返されるような不快感とともに、ダリウスの目に映る景色が軋み、そして歪んでいく。 

 

 

 黄昏時のマイホームの景色は、薄暗く飾り気のない調理場の景色に。

 

 目の前で香ばしく焼けていたステーキは、ただの生肉に。

 

 子供たちは、影も形もなく消え失せ──そして。

 

 忘却の海に沈められていた記憶が、堰を切ってあふれ出した。

 

 

 

 

 

 ──襲い掛かる純白の戦乙女から逃れ、ダリウスは女性研究員とともに廊下を走る。

 

『大丈夫ですか、ダリウス様?』

 

『問題ないよ。さすがにちょっと痛むけど』

 

 背負っていた彼女に気丈に笑いかけた。それを見てほのかに顔を赤らめる研究員に首をひねりながらも、ダリウスは口を開いた。

 

『それよりも君、ここの職員だったんだよね? 管制室までの道を知らないかい?』

 

 そういったダリウスの腕にはめられた通信端末の画面は、ジラジラと砂嵐を写すばかり。どうやら通信系統が再ジャックされたらしく、スレヴィンとの通信も再び途絶してしまったのだ。

 

 正規のルートであれば頭に入っているのだが、さすがに回り道のすべてを網羅しているわけでもない。ならばこの場所に詳しいだろう人物に聞けばいいだろう、と考えたのである。

 

『あ、それなら知ってます! ダリウス様、次の曲がり角を右へ!』

 

『オッケー!』

 

 無人の廊下を、ダリウスは駆ける。少しばかり息が上がってきたが、戦況は刻々と変化し続けている。自分がのんびりしているわけにはいかない。

 

『ダリウス様、この廊下の突き当りが管制室です!』

 

『ありがとう! それよりも君──』

 

 ──仰々しく様付けなんてしなくていいんだよ。

 

 そう言おうとして、ふとダリウスの頭を1つの疑念がよぎった。あの時は緊急事態だったから気付かなかった。そこからはあまりに当たり前のように喋っていたから、考え直すまで疑問を抱かなかった。

 

 ダリウスは言おうとした言葉を、飲み込む。代わりに、たった今気づいた疑念を口にする。

 

 

 

『君──なんで、俺の名前を知ってるんだ?』

 

 

 

『いや、なんでって……知ってるにきまってるじゃないですか。テレビで顔写真付きの報道がされるの、見てましたよ?』

 

『ああ、そういえばそうか』

 

 俺の顔、世間に出回ってるんだった──ダリウスは自分の思い違いに羞恥を覚えた。

 

 

 

 殺人鬼ダリウス・オースティン。全米を恐怖に陥れた、いかれた人食い。当時の彼が逮捕されると、新聞やテレビ局はこぞって事件の残虐性と、それに反して年若かった彼自身の犯人像をとりあげていた。

 

 なら、おかしくはないか。

 

 そう思った矢先──今度こそ、ダリウスは足を止めた。先ほどよりも、強い違和感を抱いて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『じゃあ君は──()()()()()()()()()()()()?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 死体損壊、大量殺人。これらの犯罪に手を染めたダリウスに課された罪状は、死刑。常軌を逸した殺人鬼には、ときとしてファンがいる。ダリウスもその例にもれず、熱狂的な支持をしているファンがいるのだが……彼らにしても、いざ目の前にダリウスがいれば少しばかりでも恐怖は感じるだろうし、それ以前にこうして死刑囚が出歩いていることに疑問の一つや二つはぶつけるだろう。

 

 なぜこの少女は疑問すら抱かないのだ? 

 

『……私が、あなたを怖がるはずないじゃないですか』

 

 一拍の間をおいて、研究員は「だって──」と口を開く。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『あなたは私の王子様で、私はあなたと愛し合うために生まれてきたんですから』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『っ!? いきなり何を──!?』

 

 そう言いかけた瞬間、ダリウスは己の下腹部が異様な熱を帯びていることに気が付く。咄嗟に服をめくってみれば、彼の腹は黄ばんだ白色をした、ごわごわとした綿のようなものに覆われていた。

 

 それと同時、プゥン! という、耳障りな羽音のような音を彼の耳は拾う。

 

『ずっとずっと、会いたかった……もう一度、あなたに触れたかったんです。さぁ、ダリウス様──』

 

 

 

 ──一緒に、幸せになりましょう? 

 

 

 

 意識が途切れる直前、ダリウスが見たのは目の前に立つ真紅の瞳の女性研究員──否、その恰好をしたエメラダ・バートリーが浮かべた、優しくも暗い笑みだった。

 

 

 

 

 

 

 

「幻覚が……どうしてですか、ダリウス様?」

 

 すべての幻影が払われたその空間で、エメラダは。肩で息をしながら己を睨みつけるダリウスを、悲しげに見つめた。

 

「私ではダメですか? 私は貴方の側にいて、貴方のすべてを愛したいだけ。私は貴方の側にいて、私のすべてを愛されたいだけなんです。たとえ地獄に落ちたとしても、貴方と幸せになりたいんです」

 

 真紅の双眸は狂いなく、そしてどこまでも狂った調子でダリウスを見据える。

 

「あなたはさっき、幸せだって言ってくれました。それなのにどうして、夢から醒めようとするんですか? 私の何がいけなかったんですか? おっぱいが小さすぎますか? それなら豊胸手術を受けます。それとも、もっと細い子が好みですか? それなら私は肉をそぎ落とします。明るい子が好きなら、もっと元気にふるまいます。無口な子が好きなら、何年だって黙りましょう。料理も歌ももっと上手になります。キスだっていっぱいします、子供ももっとたくさん産みましょう。だから、ダリウス様。私と──」

 

 

 

 

 

「──黙れ」

 

 

 

 

 

 ダリウスの口から発せられた、短い否定の言葉。しかしそれは有無を言わせぬ強さがあって、エメラダは口を閉ざした。

 

「体がどうとか、振る舞いがどうとか……そういう話じゃないんだ」

 

 ダリウスは静かに語る。己の罪を独白するように。

 

「お前が俺に見せてくれた夢は、確かに幸せだったよ。あんなふうに誰かを愛せたら、どんなに素敵だろう。あんなふうに誰かを愛せたら、どんなに幸せだろう──」

 

 ──だけど。

 

「俺に幸せになる資格はない。誰かを愛するには、誰かと幸せになるには……俺の手は、誰かの血と脂で汚れすぎてる」

 

 自分の事を嘲ったクラスメイト。見知らぬ人々。自分の歌を聞いてくれた人達。親友。恋人。母親。

 

 そのすべてを彼は食べた、身も心も平らげた。食欲という、もっとも原始的な欲望の赴くままに合わせて。

 

 彼らが末期の瞬間に抱いただろう混乱を、憎悪を、怒りを、恐怖を、困惑を、失望を、諦観を忘れて、自分だけがのうのうと幸せになるなど──あっていいはずがない。

 

 他の誰が許そうと、ダリウス自身がそれを決して許さない。

 

「“エメラダ・バートリー”。お前の名前は、牢の中で聞いた覚えがある。俺と同じ人食いの殺人鬼だって、話題だったよ……なぁ、一つだけ聞かせてくれ」

 

 

 

 ──お前は誰かを食べたとき、何を思った? 

 

 

 

 ダリウスの問いに、エメラダは束の間考えをめぐらす。それから意を決したように、ゆっくりと口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()……って、思いました」

 

 

 

 

 

 

 

 

「そうか……もういい」

 

 ダリウスは失望したようなやるせないような口調でそう言うと、懐から注射器型の薬を取り出して、迷うことなく首筋に打ち込んだ。

 

「──お前は、俺の敵だ!」

 

 ダリウスの怒りに呼応するように、ハデトセナゼミの細胞が発現する。左右の腕に現れた毒針を振り上げて迫る彼の姿に、エメラダは口を堅く結んだ。

 

 ──胸の奥がぎゅっと痛くて、張り裂けそうだった。

 

 今まではただ、走るだけでよかった。憧れの王子様を追いかけて、必死で走り続ければよかった。けれど、やっと追い付いた王子様の眼中に、自分の姿なんて写ってなくて。

 

 おとぎ話のように結ばれるどころか、王子様は追ってきた少女を敵だと言い切って、剣を向ける。

 

 

 

 

 

「……それでも愛しているんです、ダリウス様」

 

 静かに呟くと、彼女もまた注射器を取り出して自分に薬を投与する。背中に薄黒い二枚の翅が現れて、ブゥンと耳障りな羽音を立てる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「だから──私は何度でも、貴方と共に堕ちましょう」

 

 

「……ッ!?」

 

 次の瞬間、ダリウスの全身に異変が現れた。手足が痺れ、瞳孔が開き、神経系がギンギンと冴えわたり――下腹部がカッと熱くなる。

 

「その手が誰かの血で汚れているのなら、その魂が誰かの脂で塗れているのなら――私は貴方の穢れも愛します。どんなに嫌われても、憎まれてもいい。私は貴方と共に行きます、もう二度と離れない。だって――」

 

 

 

 ワタシトアナタハ、運命ノ赤イ糸デ結バレテイルンデスカラ。

 

 

 

 

 

 華奢な両腕に生えるのは、メスや開創器をまとめて作り上げたかの如き禍々しい槍。背中には薄い二枚の翅が生え、鼓膜をひっかく歪な音色を奏でる。それを携えた少女は残念そうに、しかし異様な確信とともにそう告げた。

 

 

 

 真紅の瞳に、暗く深い愛を灯しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──“危険生物”。人に危害を加える生物たちを指して、しばしば使用される呼称である。

 

 しかし危険生物と一口に言っても、その種類は実に多岐にわたる。例えば純粋な大きさと獰猛さで人を襲う熊も危険生物だし、人体を侵す毒を有する蛇も危険生物だ。食べれば腹を壊す植物も、見方によっては危険生物だといえるだろう。

 

 では、そうした生物たちの中でも『最も危険な生物』とは何なのだろうか──この問いに解を示すためには、単純明快にして平等な指標が必要だ。

 

 即ち──世界規模でみた場合に、その生物が1年の間にどれくらい人を殺すか。

 

 これほどわかりやすく『人間にとっての危険性』を示す指標もないだろう。この尺度を使った統計的な調査が行われ、2014年にはその結果が『World's Deadliest Animals』という題でインターネット上に公表された。

 

 地球上に現存する、無数の生物。その中で人間を最も殺した生物とは何だったのか? 

 

 獰猛な熊だろうか? 人食い鮫だろうか? 猛毒を持った蛇だろうか? あるいは、大量殺人兵器によって絶えず殺し合いを行う人間だろうか? 

 

 ──否。

 

 殺人数という一点において無数の生物たちの頂点に君臨したのは、先に挙げたどれでもなく──一匹の昆虫だった。

 

 彼女たちは見上げるほどの巨体を持つわけではない。その全長は1cmにも満たない、文字通りの羽虫。

 

 彼女たちは荒い気性を持っているわけではない。通常時の食性は草食であり、自分から他の生物に危害を加えようなどと試みるわけではない。

 

 彼女たちは凶悪な毒を持っているわけではない。投与されれば死にかねない毒蛇や毒蜂に比べれば、ただ腫れてかゆみが出るだけなどかわいいものである。

 

 その虫の生態が人間と交わるのは、産卵のために少しばかり人間から血を拝借する瞬間のみ。

 愛をなすために、ほんの少しの養分を求めるだけ──ただそれだけで、彼らは人を一切の害意も悪意もなく殺めてしまう。

 

 その体に宿した無数の病原体たちを感染させてしまうという形で。

 

 1年の間に世界中で72万もの人間の命の火を、彼女たちは吹き消しているのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エメラダ・バートリー

 

 

 

 

 

 

 

 国籍:アメリカ合衆国

 

 

 

 

 

 

 

 19歳 ♀

 

 

 

 

 

 

 

 162cm 58kg

 

 

 

 

 

 

 裏マーズランキング 『第1位(同率)』

 

 

 

 

 

 

 

 

 専用武器:体内内蔵型病原体保管・培養装置 『SYSTEM(システム)Mouth of Madness(マウス・オブ・マッドネス)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 羽音感知式病原媒介・病状操作ナノマシン 『SYSTEM(システム)Mana- Yood-Sushai(マアナ・ユウド・スウシャイ)

 

 

 

 

 保有病原体──

 

 

 

 

 伝染する狂気(狂人病ウイルス)

 

 

 恋に恋する毒婦の媚薬(Massospora cicada)

 

 

 昏睡の従者(トリパノソーマ)

 

 

 血みどろの踊り子(エボラウイルス)

 

 

 溶け堕ちる病人(ストーン熱ウイルス)

 

 

 狂乱の番犬(狂犬病ウイルス)

 

 

 魘される旅人(黄熱ウイルス)

 

 

 脳内の散歩者(マラリア原虫)

 

 

 歪な義足(フィラリア)

 

 

 熱を帯びた隣人(デング熱)

 

 

 黒死の伝道師(ペスト菌)

 

 

 

 

 

 ……

 

 

 

 

 

 

 

 αMO手術 “昆虫型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────── ヒトスジシマカ ────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 狂愛の残穢(ヒトスジシマカ)破滅愛執(フォーリンラブ)

 

 

 

 

 

 

 人喰らいエメラダ(レディ・オースティン)恋慕(マッドネス)

 

 

 

 

 

 




【オマケ】 

ヨーゼフ「クロード博士の力も借りて素晴らしいSYSTEMの理論と運用方法が確立したぞ! 世界よ、これが裏アネックス第一位の専用武器だ!(徹夜明けテンション)」

クロード「散布したナノマシンで病原体を媒介、使用者の羽音信号を合図に一斉に発症する! 致死率100%の病原体なら相手は絶対に死ぬ! 伝染病なら敵陣に容赦なく広がっていく!(徹夜明けテンション)」

レオ「で、その感染拡大はどうやって味方に被害が出ないように制御するんだ?」

ヨーゼフ「……」

クロード「……」

レオ「おい」



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冒涜弔歌OLIVIER-8 幻影逆境

 

 エメラダ・バートリーという人間は、少しばかり思い込みが強い傾向にこそあったが、それ以外はごく普通の、どこにでもいるような少女だった。

 

 断じて彼女の能力値が平均的だったわけではない。むしろ学生時代のエメラダは、大別すればそれなりに優等生だったといえるだろう。授業では常に平均以上の成績を収めていたし、運動もよくできた。しかし彼女は、優等生ではあったけれども、決して秀才ではなかった。

 

 学力は常に中の上を維持していたものの、学年で1位をとるほどではない。運動神経はよかったが、間違っても何かの大会で優勝するほどではない。

 

 エメラダはあくまで『平凡』の枠に収まりきる程度に優れた人間だった──そんな彼女にとって最大の不幸は、『平凡』の枠にしか収まりきらない彼女が、身の丈に合わない能力を求められる家庭環境に生まれてしまったことにあるだろう。

 

 ――繰り返しになるが、エメラダの半生は極めて凡庸なものだ。

 

 悪の科学者に造られた人造人間でもなければ、先祖から続く血の呪いに苦しんでいるわけでもなく、幼馴染の父親が火星で非業の末路をたどったわけでもない。少なくとも、エメラダの血筋に劇的なドラマなどは存在しない。ドラマなどなく、ありふれているとは言わないまでもそこそこよくある話で──彼女の家はいわゆる『教育熱心(エリート)』の家柄だった。

 

 父は優秀な医者で、母は会社の重要取締役。祖母はかつてハイスクールで校長を務めていたらしく、自分が生まれてくる少し前に亡くなった祖父は政治家だったと聞く。

 

 ニュートンに連なる一族のように、常軌を逸しているわけではない。けれど『エリート』の家柄であるエメラダの血縁者は皆『平凡』以上の能力値を有していて、だからこそ彼らは、エメラダにも自分たちと同水準の能力を求めた。

 

 

 

『どうしてこんな簡単なテストで100点がとれないの、貴女は!?』

 

 平均以上の成績を収めたテストを見せたエメラダを、祖母はヒステリックに叱った。

 

『一位でなければ意味がないんだ、そこで反省しろ!!』

 

 運動会の徒競走で二位を取ったその日、エメラダは父に怒鳴られて一晩中物置に閉じ込められた。

 

『……本当に私たちの子なの、あなた?』

 

 ピアノで少しでもミスをすれば、エメラダの背後で母は呆れたように嘆息する。

 

 

 

 彼女の家族は誰も、エメラダ自身を見てはいなかった。彼らにとって大事だったのはエメラダのパーソナリティではなく、ステータスとキャリア。この家の娘として相応しい能力を兼ね備えているか否かでしか娘を見ようとしなかった彼らにとって、エメラダは間違いなく娘として落第だった。

 

 そんな環境で育てられたエメラダの性格に難があるのは当然で、当たり前のように友達はいなかった。家でも学校でも彼女に居場所はなく──唯一気が休まるのは、本を読みふけり、物語に没入している時だけだ。ここではないどこかに思いを馳せ、主人公に自分の姿を重ね合わせているその瞬間、彼女は息苦しく閉塞した現実から解き放たれる。

 

 放課後の僅かな時間、図書室へと足を運んで様々な物語を読みふける……いつの頃からかそれが、エメラダの日課となっていた。

 

 そんな、ある日のこと。

 

『……何だろ、この本?』

 

 図書室でまた一つの物語を読み終え、そろそろ帰らないと怒られる……と帰宅の準備を始めた矢先、エメラダは偶然にもある本が目に留まった。

 

 ──結論から言えば、それは全くの偶然だった。その物語に彼女が会ってしまったのは正真正銘の偶然だ。

 けれどその出来事は確実に、平凡な少女(エメラダ・バートリー)女殺人鬼(レディ・オースティン)へと開花する、悪の種をまいてしまう。

 

 

 

 

 

 彼女が手に取った本の題名は──『人喰らいエスメラルダ』。

 

 

 

 

 

 自分とよく似た名前と、よく似た赤い瞳を持つ少女が主人公の、悪趣味な寓話だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

「ぐ……!?」

 

 下腹部がカッと熱くなる。高揚する神経と対照的に手足からは急速に力が抜け、視界にはこの世のモノとは思えないスペクトルの残光が散る。

 

 ──落ち着け、()()()()()()

 

 全身を襲う体調不良、しかしダリウスは冷静さを欠いてはいなかった。

 

 先ほど見せられた、驚くほど鮮明でリアリティのある幻覚。それがエメラダの特性であるならば、何も問題はない。自分が今感じている体調不良も全てがまやかし、耐えられないはずがない。

 

 エメラダは自分から少し離れた位置で、背中に生えた翅をしきりにはばたかせて、耳障りな音色を奏でている。おそらくあれが、現実と見まごうほどに精密な幻覚を構築するタネなのだろう。自分を異常が襲う場合には必ず、彼女が羽音を響かせていた。

 

 あれをなんとかして止めることができれば、とダリウスが歯噛みした、その瞬間。

 

「だめですよ、ダリウス様。無理をなさっては」

 

 ダリウスの眼前に、エメラダがいた。一瞬で間合いを詰めたのか、とダリウスが驚く間も与えず、彼女は右腕から生えた禍々しい口吻を繰り出した。咄嗟に体の軸をずらすが避けきれず、槍の穂先が右腕の肉を切り裂く。

 

「っ……!」

 

 甲虫ほどではないにしても、蝉の甲皮は決して柔らかくはない。それをこうも容易く切り裂いたことに、ダリウスは今度こそ驚愕を禁じえなかった。

 

 

 

 “ヒトスジシマカの聖槍”──吸血生物である蚊の口吻は、多くの昆虫のそれと比べても非常に複雑な構造をしている。顕微鏡で観察すれば、麻酔となる唾液を注入し、血を啜るための注射針はもとより、皮膚を切り裂くためのメスや、切開した傷が閉じないように固定するための開創器など、医療器具のような器官がいくつも備わっているのが見て取れるだろう。

 

 それは蚊という生物が練磨した、進化の証。標的が自分たちの存在に気付く間もなく全てを終わらせるため、彼女たちは長い進化の中で、痛みを感じさせず迅速に肉を断つための武器を造り上げた。

 

 しかし人間大のヒトスジシマカであるエメラダが振るえば、それはむしろ真逆の性質を有することになる。

 

 いくつもの医療器具を束ね合わせたかのようなあまりに凶悪な見た目、昆虫の外皮すら難なく貫くその貫通力。すなわち、蚊の口吻はMO手術被験者の戦闘において、威嚇とけん制のための武器としての効力を発揮するのだ。

 

「あっぶな……! でも──」

 

 ──チャンスだ。

 

 ダリウスはすぐに姿勢を低くしてカウンターの構えをとる。今の急接近は翅を使った飛行によるものだったのだろう、先ほどの耳障りなメロディは止まっている。今なら、幻覚も弱まるはず。

 

 そう考えたダリウスは、無事だった左腕から生えた毒針をエメラダに突き立てようとして──。

 

「っ……!?」

 

 

 

 ──下腹部が熱を帯びる。

 

 

 

 そしてダリウスの胸中に、とある感情が芽生えた。それは殺意や憎悪といったほの暗い感情ではなく──。

 

 不自然に沸き上がったそれはダリウスの攻撃を鈍らせ、結果としてエメラダはあっさりとダリウスの反撃を回避して後方へと飛びのいた。

 

 なんだ、今のは? 

 

 エメラダを睨むダリウスの脳が、急速に冷えていく。断じて幻覚などではない、それよりももっとずっとおぞましい何かだった。

 

 なぜ自分はこの女を、よりにもよって自分に人肉を食べさせようとしたこの女を、()()()()()()()()()()()()()!? 

 

「無駄ですよ、ダリウス様。貴方が私を傷つけられるはずがない。だって──」

 

 そんなダリウスに、エメラダは言って聞かせるように告げた。

 

 

 

「貴方はもう、恋の病に侵されているんですから」

 

 

 

「お前、何を言って……っ!?」

 

 ダリウスはその言葉を最後まで言い切ることができなかった。エメラダが再び、羽音による耳障りな演奏で始めたからだ。途端にダリウスの下腹部が熱くなって、彼の心中に突如として感情が湧き出した。

 

 

 

 それはダリウスがエメラダに向ける感情をまるごと否定するかの如き、正反対の衝動──エメラダに対する、()()()()()()()

 

 

 

 

 

 ──恋に恋する毒婦の媚薬(massospora cicada)

 

 

 

 

 

 それこそがダリウスの体に異変を引き起こしているモノの正体。彼女たちは昆虫に寄生する『冬虫夏草』と呼ばれる菌性病原体──その中でも特に、蝉を標的とする一種である。

 

 寄生生物に寄生された宿主はしばしば、通常では考えられないような行動をとることがある。例えばトキソプラズマという微生物に寄生されたネズミは天敵であるネコを怖がらなくなり、アリタケというキノコに寄生されたアリは群れを離れて一匹だけで高所を目指す。

 宿主が異常行動をとる理由は言うまでもなく、寄生生物に操られているためである。彼らは自分たちの増殖により適したネコの内臓に移動するため、胞子を散布するのに都合のいい高い場所に移動するため、宿主となる生物の行動を組み直す。寄生菌であるmassospora(マッソスポラ)もまたその例にもれず宿主を操るのだが、その生態は非常に複雑でユニークなものだ。

 

 マッソスポラに寄生された蝉は、《《食事をする間も惜しむように相手を見繕っては交尾を試みるようになるのだ》。その行動に見境はなく、寄生されたオスの蝉があえてメスのように振る舞うことで、別のオスを誘惑するケースも報告されている。

 

 この異常行動は、マッソスポラが蝉の体内で分泌している幻覚物質や中枢神経興奮物質が原因になって引き起こされる。彼女たちが蝉に注ぎ込むそれは二種類存在しているのだが、そのどちらも人間社会ではドラッグとして流通・使用が規制されている代物。

 

「っ、ぐ……!」

 

 目の前の敵を殺さなくてはという殺意が、人工の好意で塗りつぶされていく。おぞましい幸福感が漆黒の衝動を飲み込み、強制的に喚起された情欲が闘争心を溶かしていく。辛うじて敵対心だけは保ちながらも、それ以外の骨を抜かれたダリウスは見惚れるように、そして崇拝するようにエメラダを睨みつけた。

 

 ダリウスに偽りの好意を植付けている物質の名は、幻覚物質“シロシビン”。

 

 マジックマッシュルームと呼ばれる幻覚性キノコに含有されるこの物質は、接種した者に視聴覚的な幻影のみならず、意識面での変成さえも引き起こす。

 過去に行われたとある研究によれば、シロシビンを摂取した者は神聖さ、肯定的な気分、時空の超越、その他語りえない神秘的な感情の喚起がされたという。また別の研究によれば、それらの神秘的な体験は人格の開放性を1年以上も持続させ、接種前に比べて対人関係や寛容さといった諸要素に肯定的な評価をもたらしたという報告がされている。

 

 そこにマッソスポラが分泌するもう一つの物質、中枢神経興奮物質“カチノン”と呼ばれる物質がそれをより加速させる。

 カチノンには他者への信頼感情や性欲、多幸感の増幅効果があり、これがエメラダに対するダリウスの偽りの好意を喚起していた。

 

「何も怖がらなくていいんですよ、ダリウス様」

 

 彼女の口から紡がれる言葉は毒のように、ダリウスの鼓膜から脳へと染み込む。

 

「私はどんな貴方だって愛しますから。おとぎ話みたいに、いつまでもずっとずっと幸せに暮らしましょう。だから、その愛に身を委ねてください」

 

 エメラダが一言紡ぐたびに脳芯がビリビリと痺れ、下腹部がかっと熱くなる。目の前でほほ笑む女神のような彼女を自分のものにしたいと、滅茶苦茶にしたいと、好意が溢れて零れてやまない。

 

「ガ、あァあ……」

 

 これ以上は、まずい。

 

 ダリウスは微かな理性で抗うも、彼の体は言うことを効かない。あと一分と経たず、彼の精神は愛欲の奈落へと沈むだろう。

 

 こんなところで、終わるのか? ろくに戦うことも、償うこともできずに、愛玩人形になり果ててしまうのか? ああ、なんて無様な──

 

 そんな思考と共に、ダリウスに残された理性の糸は完全に千切れようとして──その刹那。

 

 

 

 

 

『お前さ、あんまり調子に乗ってんじゃねぇぞ! 誰もお前の料理なんて食べたくねぇし、お前の歌なんて聞きたくもねぇ! 前々から思ってたんだ──』

 

 

 

 

 それは幻覚だったか、それとも走馬灯だったのか、確かなことはわからないけれど。

 

 彼の眼は確かにそれを見、耳は確かにそれを聞いた。

 

 

 

 

 

『お前の見た目、おとぎ話に出てくる人殺しにそっくりで気持ち悪いんだよ!』

 

 

 

『おいおいー、こんな所に二人きりで呼び出して、お前そういう趣味でもあんのかー?』

 

 

 

『あ、あのね……私、初めてだから優しくしてほしいな……』

 

 

 

『あんた、やっぱり……あの人の子なんだね』

 

 

 

 

 

 ──かつての自分が殺し喰らった犠牲者たちの、末期の言葉を。

 

 

 

 

 

 

「っ、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

 

 

 

 

 その意味を魂が理解した瞬間、ダリウスは哭いた。蝉の発声器官が激しく振動し、すべてを拒絶するかの如き慟哭が荒れ狂う。

 

 

 

「きゃっ!?」

 

 

 

 咄嗟に飛び退いたエメラダは、思わず耳を塞いだ。マッソスポラの侵食が進行しているためか、あるいは明確な攻撃として放ったものではなかったためか、全力時の数分の一程度に抑えられたその声にすべてを打ち砕く本来の破壊力は伴っていなかった。

 

 だが例え弱っていようと、変態したダリウスは文字通り人間大の蝉である。彼女の華奢な体は容易く吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。さらにはかろうじて耳を塞ぐのが間に合ったとはいえ、至近距離で彼の声を聴いたエメラダの三半規管が揺らされ、彼女は一時的な前後不覚に陥る。

 

「……う」

 

 数分の後、ようやく感覚が正常にエメラダは立ち上がると、食堂の風景をぐるりと見まわす。

 割れた食器やひっくり返ったテーブルが散乱するその空間に、彼女が愛する人の姿はなかった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「はぁ……はぁ……!」

 

 壁に手をつき、息も絶え絶えといった様子で足を動かしながら、ダリウスは呟いた。

 

 はばたきがなくなり、ダリウスを縛る狂愛の鎖が一時的に弱まった隙をついて、ダリウスは食堂を飛び出していた。本当ならあの場でエメラダにとどめを刺せれば一番良かったのだが、ダリウス自身の消耗が激しかったために断念した。もしもあのタイミングで下手を打って自分がエメラダの人形となればミッシェルやシモン、スレヴィンはもとより、アメリカ中の人間の命を危険にさらすことになる。それだけは避けなければならなかった。

 

「……くそっ!」

 

 とはいえ、それももう時間の問題だと言わざるを得ないだろう。こうしている瞬間も、気を抜くとダリウスはエメラダを許してしまいそうになっているのだから。

 

 サイト66-Eの全滅という大惨事を引き起こした一味の一人、その彼女を今のダリウスは「しょうがないなぁ」の一言で笑って許してしまいたいとさえ思ってしまう。

 

「裏マーズランキング1位がこのザマとは……我ながら情けない」

 

 皮肉交じりに呟いて、ダリウスは自分の腹部を見下ろした。

 

 とにかく情報が足りない──苦し紛れの悪あがきでなんとかあの場は脱してきたが、相手に何をされたのかはわからずじまいだ。このままではいずれ追い付かれ、先の二の舞を演じることになる。

 

 この綿のような物体はなんだ? あの子のベース生物か? そもそも、なんでこんなに俺に執着する? 

 

 自分が受けた攻撃の謎、エメラダのベースとなった生物の推測、エメラダ自身への疑問──いくつもの思考が浮上しては、泡のように消えていく。先ほどの幻覚の影響がいまだに尾を引いているためか、ただでさえまとまらない思考がより迷走する。

 

 こんな時、ヨーゼフ博士ならあっさりと手術ベースを看破するだろうに。

 

 ついに思考の海に雑念が紛れ込んだことに気づき、ダリウスは苦笑した。裏アネックス計画においてドイツ・南米第五班の指揮をするオフィサーにしてαMO手術の生みの親、そして自分たち裏アネックスオフィサーの専用武器の開発者でもある中年博士の姿を思い浮かべる。

 

「もう少し、あの人の話は真面目に聞いておくべきだったかな……」

 

 冗談交じりに呟いて。しかし次の瞬間。その何気ない一言が、ダリウスを核心へと導いた。

 

 ──そうだ、ヨーゼフ博士だ。

 

 ダリウスははっと目を見開く。その脳裏に蘇るのは、以前彼と酒の席で飲み交わした際の会話だった。

 

 

 

 その時ダリウスは、共通点らしい共通点もないヨーゼフとの会話のため、自身の専用武器やベース生物についての話題を振った。結果として彼は飲み会の時間のほとんどを彼の科学談議に付き合わされることになったのだが、その時の会話を思い出したのだ。

 

『ところでダリウス君、君以外にも北米第一班──裏マーズランキング1位の候補がいたことは知っているかね?』

 

 ヨーゼフがその話題を切り出したのは、ダリウスの専用武器として考案されながらも、あまりに無差別な破壊を伴う運用方法だったために没案として廃棄された兵器の話が終わる頃のことだった。

 

『いや、初耳ですね。そんな人がいたんですか?』

 

 相槌を打ちながらダリウスは、小難しい科学兵器の話がようやく終わったか、と内心で安堵の息をつく。こちらから振った話題だったとはいえ、さすがに知らない技術の話を延々とされ続けるのは堪えていた。

 

 なんでもいいから彼の口から紡がれる呪文のような話題を終わらせたい、とダリウスは苦し紛れの質問をする。

 

『そうかね……ではせっかくの機会だ、『彼女』の話でもするとしようか』

 

 そういってヨーゼフは語りだす──といっても、それは裏マーズランキング同率1位の被験者の話ではない。ヨーゼフが『彼女』といった人物の特性と、その人物に与えられるはずだった専用武器についてである。

 

『なるほど、確かにそんな特性なら裏アネックスの任務適正は僕以上にないでしょうね……』

 

 確か、一通り話を聞いた自分は最初にそう言ったはずだ。ヨーゼフの口から語られた『彼女』の特性の神髄は、ダリウスと同じ『一対多を想定した広域制圧』。しかし実際に運用するとなれば、その特性はダリウス以上に制御が難しく味方を巻き込む可能性が高いものだったのだ。

 

『でもいいんですか、博士? この話、軍事機密だったんじゃ……』

 

 自分が続けたその言葉に、ヨーゼフは『問題ない』と返した。

 

『彼女の特性運用の最も強力な点は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、この一点に尽きる。さすがに他国の軍部にタレコミでもいれれば話は別だが、君個人に話すくらいならば、どうということはない』

 

 そう言ってヨーゼフは笑うと、締めくくりにこういったのだった。

 

『もしも万が一、対峙することがあったならその時はいるかもわからない神に祈りたまえ。勝機はただ二つ──『何もさせずに仕留める』か『彼女の特性を封じるための設備を準備する』しかないのだから』

 

 

 

「思い出した……! そうか、あの娘が“もう一人の1位”だったのか……!」

 

 当時、ヨーゼフが『彼女』の素性について語らなかった理由を、ヨーゼフが徹頭徹尾他人に関心がない人間だからだと思っていた。しかし今にして思えば、それは彼なりの気遣いだったのだろう。

 

 エメラダの姿も、ヨーゼフから聞いていた話と一致する。ならば、彼女の特性は……。

 

「なんでもっと早く思い出さなかったかな、俺……」

 

 一周回って失笑しか出てこない……だが、()()()()()()。どうやら自分はまだ、運に完全には見放されていなかったらしい。

 

 よし、と気を引き締めたその時、今まで沈黙を保っていた通信機が着信を知らせた。

 

『──ダリウス! 聞こえるか!?』

 

「ミッシェルさん!」

 

 通信機の向こう側から聞こえてきたのは、数十分前に分かれたミッシェルの声。

 

「通信が再開してるってことは……管制室の制圧に成功したんですか!? シモンさんは!?」

 

『落ち着け、私もシモンもひとまず無事だ。つってもシモンは戦闘不能状態だし、なんでかスレヴィンの奴と通信が繋がらねえと気がかりな点はあるがな……』

 

 彼女から肯定の返事が返ってくるのを聞き、ダリウスはまず胸のつかえが一つなくなったのを感じた。

 

『それよりもダリウス、そっちはどうなってる? 私たちと別れてから何が──』

 

「すいません、ミッシェルさん。本当は色々説明したいんですが……時間がない。なので確認させてください」

 

 ミッシェルの言葉を遮って、ダリウスは言う。普段の彼ならば絶対にしないだろう好意だ。

 

「俺は今、敵と交戦中です。相手は“女殺人鬼(レディ・オースティン)”エメラダ・バートリー。元裏アネックスのオフィサー候補で、裏マーズランキングは俺と同率の第一位……間違いないですか?」

 

『どうしてお前がそれを……いや、そうだ』

 

 驚きの言葉を飲み下して返されたミッシェルの言葉に、ダリウスは口端を釣り上げた。糸のようにか細い活路が、確かな希望へと変わっていく。彼は確信した、勝つにはこれしかない──否、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「──ミッシェルさん、お願いがあります。エメラダを倒すために、協力してほしい」

 

 

 

 そうだ──自分は彼女にだけは負けられない、負けてはいけないのだ。

 

 

 

 ダリウスは意を決すると、勝利のための布石を打った。

 

 

 

 

 





【オマケ】他作品の登場キャラクター・設定紹介

ヨーゼフ・ベルトルト(深緑の火星の物語)
 テラフォ二次作品に一人は存在するという天才科学者枠。αMO手術の生みの親であり、裏アネックスのオフィサーたちの専用武器の開発者。
やたらと幼女に好かれる謎の人徳があり、よくロリコンと間違われる。『この筋肉がすごい!表裏アネックス混合編』第167位(男女混合)


ヨーゼフ「いくら私でもクラゲに負けてたまるかうおおおおお……!」プルプル

クロード「私もアメーバに負けるわけにはいかない……!」プルプル

小吉「す、すげえ……なんて低レベルな戦いなんだ……!?」


(U-NASAアームレスリング大会(研究職員編)、最下位決定戦にて)


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冒涜弔歌OLIVIERー9 追想恋慕

 アメリカ大陸にまだ国ができていなかった頃の話です。ある所に、一人の奴隷の少女がいました。

 彼女の名はエスメラルダ。赤色の髪に白の肌、美しい赤の瞳を持った、故郷では歌姫として多くの人に愛されていた、それはそれは可愛らしい少女でした。

 彼女は、開拓の為にアメリカ大陸に送られました。でも、それが嫌で、偶然にも機会を経て逃げ出す事に成功しました。

 しかし、女の子一人で生きていくには、あまりに苛酷な、まだ発展段階の国。彼女が逃げ込んだうち捨てられた廃屋では、何もする事ができません。

 日に日にやつれ、死が少しづつ近づいてきたエスメラルダは、苦渋の決断をしました。そこを通りかかった旅人を襲い、荷物を奪ったのです。本当はこんな事はしたくなかったのでしょうが、仕方なかったのです。そして、自分の事がばれてしまわないように、その旅人を殺してしまいました。

 旅人の死体は丁重に埋葬し、エスメラルダは荷物の中の食糧を手に入れ、ひとまず生き永らえました。しかし、それは長くは持ちませんでした。川や海で魚を取ればよかったのかもしれません。何か作物を育てればよかったのかもしれません。でも、裕福な家庭に育った彼女にはそのような知識も経験もありませんでした。

 餓えた彼女は再び、旅人を襲いました。荷物を奪ったのですが、何と、食糧が入っていませんでした。このままでは死んでしまいます。荷物の中身を売って食糧を買おうにも、街に出れば奴隷だった自分の立場がばれてしまうかもしれません。



 ……目の前に、肉があるではありませんか。



 こうして、エスメラルダは旅人を襲って、その肉を食らうようになりました。しかし、か細い少女が旅人を自ら襲って成功する可能性は低く、これまでの成功も偶然のようなものでした。そこで、彼女はある事を考え着きました。

 旅人が自然道を歩いていると、美しい歌声が、突然響いてきました。

 自分と同じ旅人が、無聊を慰めているのかなと思い、旅人はその声のする方に向かいます。

 そこにあったのは、古びた廃屋です。旅人はそこに入り、そこで彼の意識は途切れました。

 そんな事が繰り返されていたある時、エスメラルダは一人の男性に出会いました。

 捕えた旅人なのですが、彼はエスメラルダの声に惚れ込み、彼女に一目惚れしてしまったというのです。

 これまで捕えてきた旅人には恐ろしい殺人者としか思われず、奴隷になる前にもそんな経験の無かったエスメラルダは、彼の情熱的なアプローチにすっかり惹かれてしまいました。

 ……ここで、彼が機転を利かせてエスメラルダの隙を付いて逃げ出すという展開になれば、この物語は終わっていたのでしょう。

 しかし、彼もまた正常な人間ではなかったのでしょう。

 二人は、仲良く暮らし始めました。子どももできました。そして、二人揃って旅人を襲撃し、その肉を食らい、荷物を奪ったのです。

 しかし、その生活は長くは続きませんでした。

 度重なる行方不明、『歌で旅人をおびき寄せる魔物』の噂を重く見た開拓団が、武装してやって来たのです。

 探索の末に二人は見つかり、廃屋から見つかった無数の人骨が決めてとなり、その場で殺されました。

 ですが、まだ幼かった赤ん坊は、何の罪も無いと助け出されたそうです。



 ――アメリカ寓話『人喰らいエスメラルダ』より抜粋






「……」

 

 時計の長針は午後六時半を回った頃、エメラダはようやく図書室を後にした。

 

 どこか浮かされたように急ぐ家路は宵闇に呑まれている。帰宅すれば案の定、教育熱心な両親から門限を破った件で雷が落ちたが、今のエメラダにとってそんなものは億劫ですらなかった。

 

 説教から解放された彼女はその足で自室まで戻ると、スクールバッグの中から古びた一冊の絵本を取り出した。

 

『人喰らいエスメラルダ』。ところどころ色が剥げた表紙に指をかけ、黄ばんだページをめくる。

 

 エメラダは挿絵をじっくりと鑑賞し、ページ内の一言一句を舐めるようになぞり、何度も何度も、絵本に描かれたその寓話を読み耽る。

 そうして物語をゆっくりと咀嚼すると、次に彼女はノートパソコンのキーボードを叩く。インターネット上での『人喰らいエスメラルダ』の評価は「悪趣味な物語」「救いのないおとぎ話」といったものが大半で、専門家からは「因果応報の教訓」だの「タブーを侵すことへの警告」だのと、小難しい解釈が論じられている。

 

「……違う」

 

 けれど、エメラダは直感した。ネット上で述べられたいくつもの意見を総覧し、しかしそのどれもが物語の本質を捉えていない。

 

 なぜ──なぜ誰もわからないのか? 

 

 この物語の中核をなすのは、彼らが好き勝手に論じる残酷さや道徳論ではない。

 

 

 

 これは、()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 どん底に突き落とされ、禁忌と知りながらも人を喰らうエスメラルダ。その異常性を目の当たりにしてなお彼女に思いを寄せた旅人。打算も義務もなく、二人は真実の愛をはぐくんだ。その結末は決して幸福なものだったとはいえないけれど、少なくとも一人孤独に野垂れ死ぬよりは遥かに救いがある。

 

 ──なんて素敵な物語なんだろう。

 

 その夜、エメラダは感動と切望を胸に眠りにつき、そして夢を見た。

 

 可愛げのない自分を心から愛してくれる、素敵な王子様。彼との間に生まれた子供たちに囲まれて幸せそうに笑う、自分の夢。

 彼の顔はよく見えなかったけれど、寝る前に読んだ寓話の影響だったのか、頭髪の赤が見惚れるほどに美しかったことをよく覚えている。

 

 前にも述べた通り、エメラダはどこにでもいるような少女だ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 その日以来、彼女は常に一つの熱望(妄執)を抱えて日常を歩むことになる。その名は、

白馬の王子様(シンデレラコンプレックス)』。

 

 

 

 禁忌を犯したエスメラルダに旅人が現れたのなら。きっと、閉塞した毎日に閉じ込められた私にも、いつか王子様が現れるはず。

 

 

 

 子供じみた憧れを心の底から信じて、彼女は変わり映えのしない灰色の毎日を過ごす。そんな彼女に決定的な転機が訪れたのは、半年ほどたった時のことだった。

 

 その日は、エメラダの祖母の誕生日だった。彼女は家族に連れられ、町の中のとあるレストランを訪れた。父から聞いた話では、その店は一流の料理と一流の歌で客の耳と舌を楽しませてくれることで有名らしい。

 

 果たしてこの家族たちと一緒の席で、高級料理と美しい歌をどれほど楽しめるだろうか……しかし、わざわざ逆らって不興を買うほど馬鹿らしい話もないだろう。

 

 仕方がない、とエメラダは家族と共にレストランを訪れ──そして彼女は、ダリウス・オースティンに出会う。

 

 最初にエメラダが彼の姿を見たのは、厨房で客に出すための料理を作っている場面だった。

 

 案内された席、ふと何気なく目を上げたエメラダの目にダリウスが写る。ふわりとした赤毛に、吸い込まれそうな青色の瞳。およそ他者への害意などないような穏やかな人相に真剣さを張り付けて、彼は目の前の鍋に向き合う。

 

 ──なんて真っ直ぐな目なんだろう。

 

 エメラダは思う。父も母も、自分が出会ってきた人はみんな何かに固執していて、その目は曇っていた。

 

 けれど、ダリウスは違う。調味料を加え、火加減を変え、何度も味見をして完成を模索する彼は、固執しているのではなくこだわっていた。彼にとっての『最高』で客をもてなそうとしている……そのひたむきさが、まぶしかった。

 

「……よしっ!」

 

 何度目かの味見で、どうやら満足のいく出来栄えになったらしい。

 

 呟きと共に、先ほどまで真剣そのものだったダリウスの表情は、一転してあどけない笑みへと変わった。そのギャップにエメラダは思わず胸がきゅんとして、いつになく顔を赤らめた。

 

「シェフ、そろそろご準備を!」

 

「おっと、もうそんな時間か……わかった、厨房はいったん任せたよ」

 

 従業員の一人に声を掛けられ、我に返ったダリウスは厨房を出るとエプロンを脱ぎ始めた。

 

 なぜシェフが厨房を離れるのだろう、とエメラダはダリウスの姿を目で追い、しかしその直後に疑問は氷解した。すべての客席から見えるように設置された簡素なステージの上に、ダリウスが登壇したからだ。エメラダは納得すると同時に、目を丸くする。父が言っていた『一流の歌』──従業員が歌うとは聞いていたけれど、まさかシェフがその歌い手だったとは。

 

 驚く彼女の前でダリウスは簡単な挨拶を済ませると、マイクを手に取る。レストラン内の照明が弱まり、夕刻のほの暗さにマッチするしっとりとした曲が店内に流れだす。それに合わせ、ダリウスの口は静かに歌を紡ぐ。

 

 彼の声はエメラダにとって、生まれて初めて聞いた澄んだ音色だった。その瞬間、生まれて初めてエメラダの世界から有象無象の雑音は消え去り、ただダリウスの声だけが鼓膜に残響する。なんて美しい旋律なんだろうか──エメラダは時間が経つのも忘れて聞き惚れる。彼女が読書以外にここまで集中したのは初めてのことだった。

 

 気が付けば歌は終わり、客席からの上品な拍手の音を背にダリウスがステージから降壇するところであった。耳に戻ってきた雑音に一周回って安心感を覚えながら、エメラダは運ばれてきたキッシュを口に運ぶ。

 

 そして、何度目になるかもわからない驚きを顔に浮かべる。それまで彼女は、料理の味をあくまで感覚の一つとしてしか認識していなかった。毎日の通学路に何の感慨も抱かないように、生活音に一々心がざわめくことがないように、エメラダにとって食事とは逐次感想を抱くようなものではなかったのだ。

 

 だが、このキッシュはどうだろう? サクリとしたパイ生地の食感、ベーコンとほうれん草の旨味に、チーズクリームのまろやかさは、エメラダの食事への認識を改めさせるに余りある物だった。早く次の一口を食べたい、そう思ったのは一体いつ以来だろうか。

 

 次々と運ばれてくるフルコースメニューを夢中で食べる。デザートの皿が空になる頃、エメラダは言いようのない幸福に満たされていた。後にも先にも、こんな素晴らしい時間が訪れることはないだろうと、エメラダはナプキンで口元をぬぐいながら本気で思う。

 

 もしできるのならば、もっとここにいたい──そんな思いが、エメラダの心に芽生える。話をしてみたかったのだ、自分の常識を一瞬で塗り替えてしまったダリウスと。灰色の世界に色をくれた彼が何を考えているのか。そして彼と心を通わせ合い、深い愛で結ばれたなら──そんな幻想を、彼女は夢見る。

 

 けれど夢はいつか醒めるもの。父が食べ終え、母が食べ終え、祖母が食べ終え、家へと帰る時間が来た。会計を終え、家族たちが次々と店の扉を出ていく。名残惜しさを抱きながらもエメラダも店を出ようとしたその時、彼女は背後から「お客様」呼び止められた。どうしたのかとエメラダは振り向き、そのまま硬直する。

 

 

「ハンカチ、落とされましたよ」

 

 彼女を呼び止めたのは他でもない、自分たちに美声を披露し、絶品ともいえる料理を振る舞い、自分の心を占領してやまない赤毛のシェフ、ダリウスその人だった。不意を打たれて驚くエメラダに気づいているのか気付いていないのか、ダリウスは彼女の前に右手を差し出す。その手に握られている上品な赤のハンカチはなるほど、確かに彼女のものだ。

 

「ぁ……ありがとう、ございます」

 

 なんとか礼を言うと、彼女はハンカチを受け取る。一瞬だけ人差し指が彼の手に触れて、エメラダは思わず飛び上がりそうになるのをぐっとこらえる。そんな彼女に、ダリウスはにこりと微笑みかけた。

 

「またのご来店、お待ちしています」

 

 おそらく、本当に偶然自分がハンカチを落としたのを見てしまっただけだったのだろう。ダリウスはそういうと一礼して、呼び止める間もなく厨房の奥へと戻っていってしまった。

 

 束の間エメラダは所在なさげに視線を泳がせると、それからレストランを後にした。高揚した顔が熱い。これがきっと、本で読んだ『恋』という感情なんだろう。風邪をひいたときのようにふわふわして、頭がぼーっとして、でも不快じゃない、そんな不思議な感覚。

 

 ──来週になったら、自分でまた来よう。

 

 帰りの車中、エメラダは窓の外を流れていく夜景を眺めながら密かに決意する。学生の自分には少しばかり値は張るが、そんなものはどうでもいい。今の彼女の頭の中に浮かんでいるのは、帰り際にダリウスが見せた笑顔だけ。

 

 

 

 もう一度、自分に灰色ではない世界を見せてくれた彼と、もっと話したい。

 

 あの人と並んで、二人で同じ景色を見たい。

 

 そしていつの日か──灰色の日常に囚われたエスメラルダ()を、旅人()に連れ出してほしい。

 

 そんな思いが、彼女の胸に息づいていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

「見つけました、ダリウス様」

 

 歪な槍を振りかざし、エメラダは静かに告げる。彼女の視線の先には、憔悴しきった様子のダリウスの姿があった。彼は立っているのもやっと、といった様子で壁を背にし、息を荒げながらエメラダを睨みつけていた。

 

「ダリウス様──私は、どんな貴方だって愛します。貴方に愛されるためなら、なんだってします。だから、一緒に幸せになりましょう」

 

「断る」

 

 息も絶え絶えに、けれど明確に告げられた拒絶の言葉に、エメラダは顔をゆがめる。そんな彼女に、ダリウスは言葉を続けた。

 

「俺は取り返しのつかない罪を犯した。そんな俺に、幸せになる権利なんてないんだ。お前がなんで俺にそこまで固執するのかは分からないけど──何度言われても、俺の答えは変わらない」

 

「……それでも」

 

 ダリウスの答えに、エメラダは絞り出すように呟いた。一歩踏み出し、彼女はダリウスに少しでも近づこうと部屋の中へと入った。

 

「それでも私は、幸せになりたいんです。ダリウス様、貴方と一緒に」

 

「他の誰かじゃダメなんです。私に全てをくれた貴方と幸せになれなきゃ、意味がない」

 

「だから、だからダリウス様──」

 

 

 

 ──私の愛に、全てを委ねてください。

 

 

 

 そういうと同時、エメラダの翅が開く──その動作は、彼女自身の専用武器の起動を意味していた。

 

 

 

 蚊の特性にアメリカ上層部が目を付けたのは、αMO手術が開発されて間もなくのことだった。

 

 蚊という生物は毒蜂や毒蜘蛛のように強力な能力を持っているわけではない。それにもかかわらず、彼女らが地球上でもっとも多くの人間を殺し続けているのは、その体に宿る無数の病原菌たちあってこその業である。

 

 当時の政治家たちは考えた。この特性を対MO手術被験者に活かすことはできないかと。

 

 歪な槍とある程度の速度での飛行に、熱や二酸化炭素の探知能力。それだけならば、よほど素体が強くない限りは器用貧乏な一戦闘員どまりだ。けれどそこに『病を操る』という特性を備え付けることができたのなら──蚊の被験者はその一人一人が、文字通りの『生物兵器』と化すだろう。

 

 そうした理念を受け、U-NASAの技術の粋を集めて作られた専用武器。それこそが『Mouth of Madness(マウス・オブ・マッドネス)』と『Mana- Yood-Sushai(マアナ・ユウド・スウシャイ)』という、2つのSYSTEM(システム)だった。

 

Mouth of Madness(マウス・オブ・マッドネス)』──宇宙の最果てに存在するといわれる、人知の及ばぬ『外なる神』と呼ばれる邪神たちの巣窟にして、同時に彼らの首領たる魔王アザトートの住まう宮殿。

 その名を与えられたこの専用武器は使用者に悪影響を与えず、生物性の病原体を体内で管理・培養することを可能とする。

 

 そうして増やした病原体は、もう一つの専用武器『Mana- Yood-Sushai(マアナ・ユウド・スウシャイ)』によって散布される。肉眼で見ることのできない極小の精密機器、いわゆるナノマシンと呼ばれるこの装置は病原体と癒着し、エメラダの羽音の反響音を感知して空間を移動、あるいは病原体の活動を操作する。これにより本来ならば無差別にまき散らされる細菌兵器に指向性を持たせ、さらに発症のタイミングも自在に操作することが可能。

 

 白陣営の指揮官だったルイスもまたこの点に目をつけていた。彼らに与えられた変則駒である『狂人病ウイルス』は、既にエメラダの専用武器を通していくつかの都市に散布している。今はまだ活性化させていないために発症者はいないはずだが、刻々とその感染者は増え続ける。

 

 そして頃合いを見計らい掌握したサイト66-Eの設備でネバダ州中の通信設備をハッキング、エメラダの羽音を放送する。一斉に人々は狂人病を発症してB級映画のようなゾンビパニックが現実のものとなる──というのが、ルイスが描いたアメリカ陥落のプロットである。

 

 

 

 条件さえ整えば、単身で大陸の滅亡すらも実現可能な特性と専用武器──その脅威が今再び、ダリウスに牙を剥かんとしていた。

 

 

 

「終わらせましょう、ダリウス様。これ以上、何を言い合っても平行線でしょうから」

 

 来たか、とダリウスは思う。ヨーゼフから聞かされたこの専用武器の最大の強みは防ぎようがないこと、その一点に尽きる。

 

 放射能などあらゆる危険物質を遮断する全危険区域用防御甲冑『マン・イン・ザ・シェル』でもあれば話は別だが、そうでもない限り彼女のナノマシンと病原体を防ぐことはほぼ不可能だ。

 

 故にその力は『絶対』──自身と並び立つ、裏マーズランキング同率1位という評価を受けている。

 

 

 

「でも──()()()()()()

 

 

 

 ヨーゼフは言った。もしもう一人の一位と相対することがあったら『何もさせずに仕留めろ』と。あるいは、『彼女の特性を封じるための設備』を使えと。

 

 実際問題として、前者を実現するのは至難の業である。ただの一動作──それだけで、彼女の攻撃は完了するのだから。そして後者に関しても、やはり実現は不可能に近い。なぜなら『その設備』は、戦場とは直接的にはなんの関係もないものだから。よほど例外的な状況下でなければ、彼女には勝てない。

 

 けれど今自分が置かれている環境こそ、その例外的な状況にあてはまる。兵器開発施設であるこのサイト66-Eには『在る』。

 

 エメラダの専用武器を無効化しうる、備え付けの設備が。

 

 

 

「ミッシェルさんッ!」

 

 

 

 ダリウスが叫んだ、その直後。まるで彼の声に呼応するかのように、部屋のシャッターが下りたのだ。慌てて振り向いたときにはすでに遅く、エメラダとダリウスはその部屋の中に隔離されてしまっていた。

 

 それと同時、ダリウスの腹部が振動する──それはハデトセナゼミの呪歌を放つための予備動作だ。次の一撃で決着をつける心づもりなのだろう。

 

 

 

 ──何の意味がある? 

 

 

 

 エメラダは訝しんだ。ダリウスの本気の一撃が放たれれば、おそらくはこの施設そのものが半壊する。専用武器である『無形』によって被害を抑えることができるのは、分散しても四方向が限界──ならばこの空間を閉鎖したのは、可能な限り被害を抑えるための策だろうか? 

 

 そこまで考えたところで、彼女は思考を打ち切った。どういう意図があったにせよ、結末は変わらない……どのみち自分のナノマシンの操作が完了する方が早いだろう。マッソスポラは既に深くダリウスの体を侵食している──あと一度操作ができれば、今度こそ彼は恋に堕ちる。そうなれば全てはエメラダの思うがまま、あの一撃も不発に終わることになる。

 

 

 

 そして、エメラダは羽ばたいた。病を繰る葬送曲が奏でられ、そのメロディがダリウスへと向かう。そして──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の瞬間、エメラダの体はダンプカーにぶつかったかの如き衝撃によって宙を舞い、シャッターごと部屋の外へと叩き出されていた。

 

 

 

「か、は……ッ!?」

 

 

 

 冷たい床に叩きつけられ、エメラダの華奢な体が転がる。一瞬の後、彼女の全身を鈍い痛みが走った──おそらく、体中の骨が折れているのだろう。息を吐きだせば、空気の抜けるような音の直後に、喉の奥から何かがせりあがってくる。思わず咽ると、少なくない量の血が彼女の口から零れた。

 

「上手くいったみたいだな」

 

 そんな彼女の耳に、コツコツと足音が聞こえる。目だけを動かしてエメラダが視線を向ければ、部屋から出たダリウスがこちらへと近づいてくるところだった。

 

「どう、して……? 私の方が、早かった、のに……」

 

 脆い翅は既に曲がって使い物にならなくなり、両腕の槍もへし折れている──例え再変態したとしても、戦闘への復帰は不可能だろう。

 

 そう判断したダリウスは、瀕死の彼女から投げかけられた疑問に答える。

 

「……今、俺とお前がいた部屋は無響室だ」

 

「! ああ、そっかぁ……」

 

 その説明で合点がいったらしく、エメラダは静かに笑った。

 

 無響室は音に関する装置の開発や測定のための設備である。通常音波として放たれた空気の波は、周囲に存在する様々な物体にぶつかって反響しながら伝わっていくのだが、無響室は壁や床、天井の吸音性が極めて高く設定されており、その名の通り『音が反響しない』のだ。

 

 エメラダのナノマシンは、彼女が奏でる羽音とその反響の波を測定して初めて、正常に稼働する。その反響をかき消されてしまったがために、先ほどのエメラダの攻撃は不発になったのだ。

 

 そしてダリウスの攻撃は、彼が放つ声の音量それ自体によってなされるもの。それゆえ、吸音性によって室外への被害は最小限に抑えられたものの、エメラダ自身への攻撃力はいかんなく発揮された。

 

 かくして『呪歌の残響』と『狂愛の残穢』、両者の戦いはあまりにも呆気なく決着したのである。

 

「……聞きたいことがある」

 

「なん、ですか?」

 

 苦し気に息をしながら、しかしエメラダは満足げに微笑む。そんな彼女の様子がまた理解できなくて、ダリウスは険しい表情で問いかけた。

 

「さっきお前は、『人の肉は美味しくなかった』と言った。それならどうしてお前は、何人もの人間を食べたんだ?」

 

「ああ……そのこと、ですか」

 

 エメラダはヒュウと息を吐いた。少しの間、なんと答えようかと考え……それから彼女は、ゆっくりと自分の言葉を紡ぐ。

 

「私は……エスメラルダ(あなた)旅人(理解者)なりたかったんです」

 

 それはダリウスにとって、予想だにしない言葉だった。の脳芯を言いようのない不安が駆け抜けた。これ以上聞いてはならない、これ以上踏み込むな。そんな声が、頭の中に反響する。

 

 けれど、それでも聞かなければならないと思った。奇妙な確信がある──自分は、この少女の想いから目を背けてはいけないのだと。例え許せずとも、その思いを聞き届けねばならないのだと。

 

 沈黙で続きを促すダリウスに、エメラダは滔々と語り始める。彼女が抱えていたあまりにも深く、そして浅はかな狂愛を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女にしては本当に珍しいことに、その日は授業が終わるや否や家へと直帰した。そうして訝しむ祖母と母の目を気にも留めずに貯めていたお小遣いを鞄に突っ込むと、その足で先週訪れたレストランへと急いだ。

 

 また来ました、と言ったら彼はどんな顔をするだろうか。笑ってありがとう、と言ってくれるだろうか。それとも、びっくりするだろうか。あるいは、私のことなど忘れてしまっているだろうか? 

 

 どんな反応を見せてくれるんだろう? いや、どんな反応だっていい。もう一度あの人に会えることが、とても楽しみだった。

 

 浮足立ちながら歩みを進め、何度目かの角にさしかかる。ここを曲がれば、もうすぐだ。もうすぐ、ダリウスに会える。

 

 そう自分に言い聞かせて、彼女は道を曲がり──

 

 

 

「え……?」

 

 そして、目を丸くした。

 

 レストランの前に、人だかりができていたのだ。開店を待っている客、といった様子ではない。物見遊山に何かに群がっている──そんな気配を感じる。

 

 そんな彼らを制するかのように声を張り上げているのは、数人の警察官だった。パトカーも何台も止まっており、いよいよ事態はただごとではない。

 

「何よ、コレ……」

 

 騒然とするその場に立ち尽くし、エメラダはただ愕然と呟くことしかできなかった。

 

 

 

 翌日、人気レストランのシェフが、殺人と死体損壊の疑いで逮捕されたという記事が新聞の一面を飾った。

 

 被疑者の名前はダリウス・オースティン。若くして一流と称される料理人でありながら、プロの歌手でもある彼が、あろうことか『食人』に手を染めていたというショッキングな話題で、たちまちアメリカは持ちきりになった。

 

 ワイドショーは彼の半生を面白おかしく取り上げ、知人が会えばあいさつ代わりにその話題が飛び出す。SNSでは彼の蛮行を唾棄する発言が無数に投稿される一方、その鮮やかな殺害手口と底知れない害意に熱狂する発言も散見された。

 

 

 

「……くだらない」

 

 

 

 そしてその全てが、エメラダにとっては幼稚で愚かなものに見えた。誰も彼も、人食いのシリアルキラーをもてはやすばかりで、ダリウス・オースティンという個人を見ようとすらしない。

 

 全てを知った彼女がダリウスに抱いたのは失望ではなかった。それは、もっと彼のことを知りたいという想い。

 

 

 この数日、彼女の頭の中には寝ても覚めてもダリウスのことしか頭になかった。

 

 それはきっと、自分が彼に恋をしたからなのだろうと言い聞かせてはいたけれど、その一方で、なぜこんなにも自分がダリウスに惹かれているのかはずっと不思議だったのだ。

 

 けれど、今ならばわかる──自分とダリウスは、きっと似た者同士だったのだ。あの日、自分が聞き惚れた歌には、隠しきれない空虚があった。それにきっと、同じ空虚を抱える自分は惹きつけられた。

 

 エメラダは図書館から借りっぱなしの、『人喰らいエスメラルダ』のページをめくる。この物語の主人公のモデルになったのは、『エスメラルダ・オースティン』という殺人鬼である──同じ姓を持つダリウスが、彼女と同じ食人に手を染めたのは、果たして偶然なのだろうか? 

 

 人喰らいエスメラルダの寓話、オースティンの姓、憧れた人の殺人、そして初恋。

 

 偶然にも出揃ったそれらの要素は混ざり合い、そしてエメラダを暴走へと駆り立てた。

 

 

 

 ──ああ、そうか。そういうことだったのか。

 

 

 

 碌に部屋からも出ず、一人思考に没頭していたエメラダは一つの答えを得た。

 

 

 

「エスメラルダは私じゃない……エスメラルダは、ダリウス様だったんだ」

 

 

 

 以前にも述べた通り、エメラダはどこにでもいるような普通の少女である──そう、()()()()()()()()()()()()

 

「それなら、()()()()()()()()()()()。だって、そうじゃなきゃ──そうじゃなきゃ、()()()()()()()()()()()()()()

 

 まるで何かに吸い寄せられるように、彼女の思考はドロドロと狂気に堕ちていく。

 

 その様子を見ている者がいれば、あまりにも突飛だと笑うだろうか? あるいは何を馬鹿なことを、と呆れるのだろうか? 

 

 けれど人の狂気はときに、常軌を逸した過程を経てその宿主を侵す。実際2014年にはアメリカのウィスコシン州で、インターネット上の架空の都市伝説に触発され、12歳にすぎない二人の少女が友人を相手に殺人未遂を侵すという事件が発生している。

 

「私が旅人になれば、ダリウス様と一緒にいられる。だから──」

 

 純粋な恋慕はいまや、見るも無残な狂愛に変わり果てた。『思い込み』と『愛』──人間に備わった数ある感情機能の中でも、とりわけ強力なその2つによって。

 

 

 

「──私も彼と一緒にどこまでも堕ちないと(人の肉を食べないと)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『一家三人惨殺! 女殺人鬼(レディ・オースティン)の出現に街騒然』

 

『ダリウス・オースティンに影響受けたか。長女、家族三人を殺し依然逃走中』

 

 

 

 

 新聞の見出しにそんな記事が躍ったのは、ダリウスの事件発覚から僅かに一週間後のことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お前、いや……君、は……」

 

 ダリウスは二の句が継げなかった。目の前に横たわる瀕死の少女は、自分が思っていたような快楽殺人鬼ではなかった。彼女はただ純粋に、自分に恋をしていただけだったのだ。

 

 無論、彼女がしたことは到底許されるものではない。多くの人に彼女の犯行動機を聞かせれば、『頭がおかしい』とか『狂っている』と評して終わりだろう。実際それが、正しい彼女の評価だ。

 

 だがダリウスには、目の前の少女の狂愛をその一言で切って捨てることはできなかった。この娘の人生を狂わせてしまったのは、間違いなく自分の狂気だ。例え堕ちることを選んだのが彼女自身の選択であったとしても──そのきっかけを作ってしまったのは、他でもない自分なのだ。

 

「……ッ」

 

 ダリウスは必死で歯を食いしばった。少しでも気を緩めれば、自分は何を口にするか分からなかったそれは目の前の少女への罵倒か、それとも自分への唾棄かもわからないけれど。荒れ狂う激情に、ダリウスは身を固くする。

 

「ダリウス様は、私のことなんて覚えていないかもしれません……でも私は、あの日から貴方のことを忘れたことは一度だってないんです。

 私は、貴方の旅人(理解者)になりたかった。だから、人を食べました。そうすれば、貴方が振り向いてくれると思ったから」

 

 そんな彼をちょっとだけ切なそうに目を細めて見つめながら、エメラダは告げる。

 

「でも、貴方が求めているのは、そうじゃなかった……違い、ますか?」

 

「……」

 

 ダリウスは無言を貫いた。それを肯定と捉えて、エメラダはひっそりと口端を釣り上げた。

 

 今まで、自分とダリウスは同じだと思っていた。けれどそれは、きっと思い違いだったのだろう。

 

 私は間違った愛でも受け入れてくれる旅人を求めていたけれど。

 

 この人が求めていたのは、間違った愛を終わらせてくれる開拓団だった。

 

 ダリウスに向けられた世間の心無い罵倒に辟易した。無意味な賞賛にうんざりした。ああどうして誰も、誰も彼を理解しようとしないのだと、何度も何度も嘆いた。

 

 けれど、一番理解しようとしてなかったのは他ならない自分だったのだ。

 

 私はただ自分の好意を押し付けるだけで、それを拒絶されたから躍起になって彼を自分のものにしようとしていた。自分にとって都合のいい妄想に溺れるばかりで、彼の抱えるものに向き合おうとしなかった。

 

 こうやって言葉を交わすまでそれに気づかないなんて、まったく自分は、本当にどうしようもない。

 

「ダリウス様、お願いが、あります」

 

「……何、かな?」

 

 青ざめた顔でダリウスが答える。それを見たエメラダは、「やっぱり、ダリウス様は優しいなぁ」と胸中で呟く。勘違いで盛大に空回った自分のことなど、気にする必要もないのに。

 

 けれど、そんな彼が作った料理だから、そんな彼が歌った歌だから……きっとあの日、ダリウスと出会った自分は色づいた世界を知ることができたんだろう。

 

 ダリウスを好きになったことに、後悔はない。愛のために、人間社会で最も忌むべき罪に手を染めたことさえ、彼女にとっては誇りだった。2人で幸せになりたいという想いは、今も揺るがない。

 

 けれど、それでは駄目だったのだ。自分では、この人を幸せにはできない──いや、それだけではない。自分という人間が存在していることで、ダリウスは今こうして苦しんでいる。

 

 それだけは耐えられない、自分のせいで最愛の人が苦しむなど──こんなに優しい人が苦悩するなど、あってはならない。

 

 だから狂愛に溺れた女殺人鬼(レディ・オースティン)は、その恐ろしい二つ名には似つかわしくない、美しくも儚い笑みと共に、懇願した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ダリウス様──どうかその手で。貴方の愛で、私を殺してください」

 

 

 

 

 初恋にして最愛の人へ、自らの人生の幕引きを。

 

 

 

 

 




次回、『冒涜弔歌』最終話。




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冒涜弔歌OLIVIERー10 白黒反転

『チェックメイト』



 その瞬間を以て白の駒は一切が盤上より脱落し、趨勢は決した。此度、勝利の女神がほほ笑んだのは『灰』。



 かくして、冒涜弔歌は終焉に至る。







 ──そして、彼女は意識を取り戻した。

 

 

 

「……」

 

 うっすらと、目を開けてみる。仰向けになった彼女の目に飛び込んできたのは、天井からつるされた様々な医療器具。思い描いていたのとは違うその光景に、彼女は訝し気に眉を下げる。

 

 彼女の最後の記憶は、最愛の人が呪歌を奏でたところで途切れていた。おそらく自分は死んだはずだ──他ならない彼の愛で、命を終わらせたはずだ。

 

 だというのに、この光景はなんだろうか? 天国にしては殺風景すぎるし、地獄にしてはあまりに生易しい。

 

「よう、目ェ覚めたかよ、エメラダ・バートリー?」

 

 そんな彼女の耳に届いたのは、聞きなれない男の声。その姿を確認しようと首を動かした直後、女性──エメラダは顔を思い切りしかめることになった。強烈な眩暈と耳鳴りに見舞われたのである。

 

「無理すんな。治療済みとはいえ、至近距離でうちの隊長の声を喰らったんだろ? 全身拘束されてるからどのみち動けねぇだろうし、おとなしくしとけ」

 

 男の声に視線を胴へと移せば、確かに横にされたエメラダの全身は、太い皮ベルトと拘束衣によって束縛されている。なるほど確かに、これではどうしようもない。

 

「あんた、誰?」

 

 エメラダは睨みつけるように、視界に映った声の主を見やる。金髪の天然パーマの青年だった。迷彩柄の戦闘服を身に着けていることから、おそらく彼が軍人らしいことが見て取れる。

 

「ああ、自己紹介が遅れたな。チャーリー・アルダーソン曹長だ、お見知りおきを」

 

「あっそ」

 

「……自分で聞いときながらそりゃねえだろ」

 

 青年──チャーリーは怒ったような呆れたような表情で、エメラダの態度にため息をついた。

 

 チャーリーは裏アネックス計画において、北米第一班の副班長に任命されている人材──平たく言えば、ダリウス直属の部下である。彼にとって裏マーズランキング同率1位、もう一人の幹部候補だったエメラダは、いわばもう一人の上司になるかもしれなかった人物だ。

 

 始終こんな態度をとられ続けては、比較的社交的な彼でもたまったものではない。呆れと安堵、半々のため息をついたチャーリーに、エメラダは問いかけた。

 

「……ここは?」

 

「ヘリの中だ。まだ離陸はしてねぇが、もう少ししたらあんたを刑務所まで護送することになってる。あとはまぁ、体調が回復したら今回の件で沙汰があるだろ──耳に挟んだ話じゃ、極刑は避けられねぇそうだが」

 

「でしょうね」

 

 自分のことだというのに、エメラダの反応は驚くほど淡泊だ。取り乱しもしなければ、青ざめもしない。

 果たしてそれは虚勢なのか、あるいは本当に興味がないのか──そんなことより、という一言でエメラダは己の命に関わる話題を切って捨て、彼女にとっての最大の関心事項を口にした。

 

「ダリウス様は、私を殺してくれなかったの?」

 

「……らしいな」

 

 チャーリーの返答に、エメラダは顔を曇らせた。ああ、なぜ? 自分の存在が貴方を苦しめるのなら──あの時、貴方の優しく残酷な呪歌で、自分を殺してほしかったのに。

 

「その件で、うちの隊長からあんたに言伝を預かってる」

 

「!」

 

 チャーリーの言葉に、今度こそエメラダは表情を崩した。ガバ、と起き上がろうとする彼女の体を、拘束具が引き戻す。そのあまりの変わりように驚きながらも、チャーリーは近い将来上司になる男から預かった伝言を口にする。

 

「『俺は君を許さない』」

 

 告げられた言葉に、エメラダは歯を食いしばる。けれど、彼女は目を背けない。最愛の人からのメッセージ、その一言たりとも聞き逃すまいと、彼女は耳を澄ませた。

 

「『人の命を弄んだ君を、俺が許すことはない。だから──』」

 

 

 

 

 

 ──君には、生きてほしい。

 

 

 

 

 

 予想外の言葉に目を丸くするエメラダに、チャーリーは続けた。

 

「『裁きが下されるその時まで、生きて苦しむんだ。自分が犯した罪に向き合って、いつか自分の過ちに気が付くことができたら──その時にまた、君の想いを聞かせてほしい』だと」

 

「ぁ……」

 

 小さくエメラダの口から声が漏れた。

 

 ああダリウス様、私の愛しい王子様──貴方はなんて残酷な(優しい)人なんでしょう。

 

 貴方を苦しめるしかできなかった私に、貴方に許されることのない私に──貴方は、生きろと言うのですか。

 

 

 

 結局のところ、エメラダの人間性は何かが欠如したままだ。

 

 今の彼女は罪の事実を認識すれども、それに対する悔恨も罪悪感もない。けれどダリウスの一言は、自分が踏みつけてきたものを顧みることすらしようとしなかった彼女の認識に波紋を立てるには十分だった。

 

 

 

「……わかりました、ダリウス様」

 

 

 

 貴方がそういうのなら、私は今一度、己の罪に向き合いましょう。

 

 

 

 そしていつかまた、貴方に想いを告げに行きます。どうかその時には──私の愛に、答えをください。

 

 

 

 彼女が浮かべた静かな微笑みは、狂愛に溺れる女殺人鬼(レディ・オースティン)のものではなく──失恋を経て何かが変わったただの少女(エメラダ)のもので。

 

 

 

 それを確認したチャーリーは静かに席を立つ──これ以上、自分から彼女に告げるべき言葉はないだろうから。

 

 そして数分後、彼は離陸したヘリが山の向こうに飛び去って行くのを見送る。自分にできることなど、ほとんどないが……せめて暗闇の中で光明を見出した彼女が、正しい道を歩み始めることを祈るばかりだ。

 

 やがてヘリの姿が完全に見えなくなってから、チャーリーは踵を返した。当然ながらこの時の彼は──この直後、耳を疑うような指示が下されることになるなど知りもしないのだった。

 

 

 

 ※※※

 

 

「よかったのか、ダリウス?」

 

「はい?」

 

 ミッシェルからかけられた言葉に、ダリウスは首を傾げた──サイト66-Eへの突入より数時間後のこと、増援として派遣された米軍が手配した車両の中でのことである。

 

 主犯格たるエメラダ、ルイス、ブリュンヒルデの打破、および主要戦力であるワルキューレたちの機能停止により、サイト66-Eを占拠していた白陣営(テロリスト)の勢力は瓦解した。

 

 残されたのは不死性が失われて弱体化したテラフォーマーと、僅かばかりの狂人病の感染者のみ。もはや陣営としての体すらなしていない彼らは、正面から切り込んだ第七特務によってほとんどが制圧され、残党も駆け付けた米軍によって一掃されることになる。

 

 ミッシェル達内部突入部隊も無事に保護され、狂人病ウイルスのワクチン接種も完了。散布されたウイルス防除の対応はU-NASA科学班の領分。車外の慌ただしい空気からどこか隔絶された車中で、ミッシェルはインスタントコーヒーに口をつけながら続ける。

 

「エメラダのことだ」

 

「ああ……」

 

 彼女の言わんとしていることを察し、ダリウスは困ったような微笑を浮かべた。おそらく彼女は自分にこう問いたいのだろう──『殺さなくてよかったのか』と。

 

 人を食すという行為。それがダリウスにとって最大の禁忌であることを、ミッシェルは承知していた。だからこその問いだ。

 

「これでよかった、とは言えませんけど……それでも。()()()()()()()()()()()()()()

 

 ダリウスはゆっくりとかみ砕くように、自分の中の思考を言語化していく。

 

「俺と彼女は同類なんです。自分のために平気で他人を害する罪人──そんな俺に、彼女をどうこうする権利なんてありません」

 

 例えエメラダがその身に超常の如き能力を宿していようとも、彼女の罪は人間社会の中で犯されたもの。だからこそ彼女は、被害者の遺族と法律によって裁かれるべきだ。

 

 救いがたい罪人には、然るべき罰を然るべき形で。それがダリウスの考えだった。

 

「私としては好ましいが……やっぱり甘いな、お前は。その調子で裏アネックスの幹部が務まるのか?」

 

「はは、どうでしょうね。ただ、任されたからにはやりますし……」

 

 そういってダリウスは、微かに目を細めた。

 

()()()()()()()()()()()()()──これから俺が相手にするのは、多分そういう手合いでしょう? だったら、それはもう罪人ですらない。ただの害虫だ」

 

 ──その時には、俺も容赦はしませんよ。

 

 ダリウスの静かな決意と共に語られた言葉に、ミッシェルはただそうか、とだけ返した。

 

 ──沈黙。

 

 車中には、ただバリボリという何かをかみ砕くような音だけが響いて……。

 

「……おい、シモン」

 

「ふぁい?」

 

 呑気に返事を返したシモンを、ミッシェルはギロリと睨みつけた。

 

「やめろとは言わねぇ、空気を読めともいわん、が……もう少し静かに食えねえのかお前は?」

 

「ご、ごめんっ!」

 

 語調ににじみ出る怒気に気づいたのか、シモンは慌てたように謝る。その手から、数粒のカプセル薬がこぼれた。

 

 体内を菌に侵されているダリウス、全身に切り傷を刻まれたミッシェル。軽くはない怪我を負っている両者だが、シモンの容態はそれらを遥かに下回る深刻さだ。

 

 何しろ大量の失血に今なお体内を蝕む猛毒、加えて(表ざたにはできないが)過剰変態以上に肉体負荷がかかるベース生物の完全開放まで行ったのだ。常人なら死んでもおかしくない肉体の酷使ぶりである。

 その損耗を補うため、彼はクロードから米軍経由で渡された特製サプリを一心不乱に貪っていた……という次第だ。

 

「……というか、本当にそれを食べてるだけで傷の治りがよくなるんですかそれ?」

 

「まぁね。ほら、もう傷も塞がってきたよ」

 

「ぜってーヤバいもん入ってるだろ。大丈夫なのか?」

 

 ドン引きする二人に、シモンはフルフェイスヘルメットの下で微笑を浮かべる。半分は嘘だ──このサプリが自然治癒力を高めるのは本当だが、ここまで傷が早く塞がった要因は、シモンがこっそり制御を解除しておいたベースの一つ、“モンゼンイスアブラムシ”の特性にあった。

 

 このアブラムシは住処である植物が破損すると、自分たちでその修復を行うという変わった特性を持つ。口から放出する特殊な体液による応急手当と、傷周辺の細胞に刺激を与えて再生能力を高める鍼治療。いわば、大自然の東洋医学である。

 

 これにより、シモンは再生能力を持たずして高い治癒能力を持つわけだが──彼がここまで回復を急いでいるのには、それなりの理由があった。

 

「まぁ、ちょっと無茶なのは否定できないけど……()()()()()()()()()()()()()。いざというときのために備えておかないと」

 

「ああ、そういえば逃げられたんでしたっけ」

 

 シモンとダリウスの言葉に、今度こそミッシェルは怒気を浮かべた。大の男2人は、それをみてひぇっ、とばかりに息をのむ。

 

「……チッ」

 

 憤怒の形相で舌打ちするミッシェルの脳裏によぎるのは、先刻自分が対峙したテロの主犯格。悪趣味な装いの中年女性、ブリュンヒルデである。

 

 彼女はミッシェルがダリウスの戦闘の補助にかかりきりになっている隙を突き、まんまと自分ひとり逃げおおせていたのである。

 

「……あのクソババアめ。まさか私の特性を喰らっておきながら動けやがったとはな」

 

 爆弾アリの一撃は確かに入った。体内から爆砕されたはずの彼女に、まさか逃走を図るほどの体力が残されているなどと誰が考えるだろうか? 

 

 苛々とし始めたミッシェルの様子に、シモンとダリウスは顔を見合わせた。次の瞬間夜叉にでもなりそうなミッシェルを相手にこの話題を続ける勇気は、二人にはない。さてどう話題をそらしたものか……と、思案を始めたその時、車外のざわめきが一段と大きくなったのを二人は感じた。

 

「……騒がしいな。なにかあったか?」

 

 どうやら、ミッシェルもそれに気づいたらしい。三人の中でも比較的軽傷な彼女はベッドの上から降りようとした、その時だった。

 

 ミッシェルたちが体を休めていた大型車両の後部ドアが、慌ただしく開かれたのは。

 

 

 

※※※

 

 

 

 ──サイト66-Eを取り囲む、樹海にて。

 

 鬱蒼と生い茂る木々の合間を縫い、一人の人間がヨタヨタと歩いていた。

 

「ハァ……ハァ……」

 

 白のビショップ、ブリュンヒルデである。全身に痛ましい重傷を負いながらも、彼女の足取りは怪我の程度を考えればいやに軽やかだ。

 

「し、死ぬかと、思ったザンス……」

 

 とはいえ、本人にしか程余裕がある、というわけでもないらしい。息を切らせながら彼女が思い出すのは、ミッシェルに食らわされた最後の一撃。体内に流し込まれた揮発成分、内側から炸裂する肥満体。心臓が爆ぜたときには思わずヒヤリとしたものだ──()()()()()()()()()()()、あと少し位置がずれていたらどうなっていたことか。

 

「とにかく、一度身を隠さないとザンスね……あとは、オリヴィエ様の手の者からどうやって逃げるか……」

 

「それならもう手遅れっすよ、ブリュンヒルデ卿」

 

「ッ……!」

 

 何の前触れもなく眼前に現れた、ポニーテールの女性だ。周囲の景色とはちぐはぐなビジネススーツに身を包んだ、希维・ヴァン・ゲガルド。その姿を見たブリュンヒルデは驚いたように足を止め──そして取り繕うかのように、大げさに声を上げた。

 

「こ、これはこれは、希维様! 何たる僥倖! 奮闘むなしくルイス様は殺され、エメラダは敵の手に……残っているのはアタクシだけザンス! どうか、哀れなこの身をお救いくだ──」

 

「あ、そういう茶番はいいっす」

 

 ブリュンヒルデの口から紡がれる弁解とも命乞いともとれるその言葉をばっさりと切り捨て、希维は僅かに剣呑さを滲ませた口調で彼女に言う。

 

「私は今、猛烈に疲れてるっす。なので、さっさとゲロってほしいんすよブリュンヒルデ卿……いや」

 

 

 

 

 

「この場合、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 

 

 

「……なんだ、ばれていましたか」

 

 では、もったいぶってもしょうがないですね。

 

 そう返したブリュンヒルデの声は、先ほどまでのねっとりとした中年の女性のものではない。もっと張りのある、艶やかなものだった。

 

 それと同時に、ブリュンヒルデの体がググリと()()()()()()()()()()。やがてミシリと音がしたかと思えば彼女の背中の皮が裂け――中から血と肉片にまみれた白衣の女性が姿を見せた。その様は、蛹から羽化する虫のそれによく似ている。

 

「血と脂の中からコンニチワ──アダム・ベイリアル・アブラモヴィッチです。いやしかし、よく気付きましたね? ティンダロスの目はちゃんとクローンの死体で誤魔化したはずなんですが」

 

「ゲノム編集は私たちの得意分野っすからね。盗み出したデータ見れば、貴女の偽装はバレバレだったっすよ……こんな形で潜り込まれているとは思ってなかったっすけどね」

 

 ブリュンヒルデの肉体を脱ぎ捨てるアブラモヴィッチ、その姿に希维はげんなりとした顔で返した。

 先の戦いでシモンから受けたダメージは回復しつつあるものの、病み上がりで見せられて気持ちのいい光景ではない。

 

 加えて、非人道的な光景に見慣れているはずの希维ですら顔をしかめている理由。それは──

 

「ヒュ……コろシテホシい……たスけ……」

 

 脱ぎ捨てられたブリュンヒルデから漏れ出すように聞こえる、救いを求める声だ。自身もまた優秀な科学者である希维は、瞬時にその意味を理解した。

 

 

 

 目の前の女は、何らかの技術で()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「お褒めにあずかり恐悦至極。せっかくですし、この演出技法の解説でもしましょうか」

 

 そう言って、彼女は楽し気に語り始めた。

 

 それが全身の骨だけを除去し、人間を生きたまま着ぐるみに加工する技術であること。

 

 それがMO手術の被験者であれば、着ぐるみをそのまま変態させることで特性の行使が可能なこと。

 

 そしてこの技術で着ぐるみに“仕立てた”ブリュンヒルデを身に纏い、アブラモヴィッチはサイト66-Eでの戦いの始終を間近で観察していたこと。

 

「おかげさまでいい映像がとれました、ブリュなんとかさんには感謝ですね。もう死んでいいですよ」

 

「アアアアアアアアアアア」

 

 ほくほくとした顔で、アブラモヴィッチはブリュンヒルデの残骸を踏み潰す。しかしそれでもなお息絶えないブリュンヒルデを見て、彼女ははて? と首を傾げ。

 

「ああ、そういえば壊れないようにこの着ぐるみ自身に『コマユバチ』の特性を使ってたんでしたっけ。やっぱり持って帰って研究材料にしますか」

 

「……本家の方々があんたらを嫌う理由、ようやく分かったっすよ」

 

 胸糞悪い、と希维は吐き捨てた。所業の話ではない、あまりにも意味不明な思考回路の話である。

 

 人間を生きたまま着ぐるみに加工する──純粋な技術水準のみで考えれば、彼らの技術はゲガルド家が数世紀の年月をかけて積み重ねてきたモノすらも凌駕しうる。それだけの技術を持ちながら、()()()()()()()()()()()使()()()()()()

 

 それは目の前で札束をシュレッダーにかけられるような、歴史価値のある絵画に落書きする子供を見ているような、そんな不快感。なんという無駄だろうか……自分は決して狭量な人間ではなかったはずだが、彼らの振る舞いを見ていると心底虫唾が走るのである。

 

『特定部位複合型MO手術』を施された枢機卿は、単身でパリの駐屯兵を壊滅寸前まで追いこむほどの戦闘能力を発揮した。だが開発者は、その技術を『下半身を下半神に至らしめる』という意味の分からない用途にしか使わなかった。

 

『全くの別人に肉体を作り替えるMO手術』で全身を作り替えられた従兄は、主君の肉体の性能をある種本物以上に引き出していた。しかし開発者は、この技術を化粧の延長線にしか捉えていなかったという。

 

 そして──アブラモヴィッチもまた、その例に漏れない非合理の狂人である。

 

 今現在、国際情勢をひっかきまわしているAEウイルスの片割れ。人間をゾンビ化するウイルス。その気になれば文明社会を二度三度と滅ぼせる数多の生物兵器を生み出しながら、彼女はそれを使ってリアリティのある映画を撮ることしか考えていない。

 

「さて、改めてよくぞ気付いたと言っておきたいところですが……ご存じですか? 真相にいち早く気付いた脇役は、あっさりシナリオから退場するのがセオリーなんですよ」

 

 そういいながらアブラモヴィッチは懐からリボルバーと注射器が融合したような、奇妙な形状の装置を取り出すと、それを希维に突き付けた。

 

 

 

 “末期”のアダム・ベイリアル専用凶器──超高圧式ジェットインジェクター『キキーモラ』。

 

 

 

 高圧で薬物を射出することで投薬を可能とする針なしの注射器、ジェットインジェクター。その圧力を極限まで高め、甲虫の外骨格程度なら容易く貫通する威力で不治の病原体を対象に打ち込む──それがアブラモヴィッチの自衛手段だった。

 

「ところで希维さん、貴女がヒロインの新作映画なんですがね……ええ、病に侵されたヒロインの甘く切ないシックネスストーリーです。どんな病気に罹りたいですか? 選んでいいですよ……天然痘か、エボラ出血熱か」

 

「どっちもお断りするっす」

 

 今にも引き金を引きそうなアブラモヴィッチ。病毒の魔弾をその身に受ければ、いかに希维であっても死は免れない。それ故に希维もまた、交戦のための姿勢を──

 

「ところでいいんすか、アブラモヴィッチ博士?」

 

 ──とらなかった。

 

 まるでそんなものは脅威ではないとでもいうかのように、自然体。怪訝そうに眉を顰める彼女に、希维はなんてことないように告げた。

 

 

 

 

 

「私に気を取られすぎてると、死ぬっすよ?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の瞬間、アブラモヴィッチの背中に強い衝撃が加わった。目を見開いた彼女の目に映ったのは、自らの胸を貫き真紅に染まった銀の穂先。

 

「かヒュ……新、手……!?」

 

 ぎょっとしたように振り向いた彼女の瞳に映ったのは、まるでアイドルのようなひらひらとした飾りのついた服に身を包んだ、14、5歳程の少女だった。赤い髪に赤い服──燃え盛る炎か流れ出す鮮血を彷彿とさせる彼女の手に握られているのは、巨大なフォークのような形状の三又槍。

 

 

 

 

 

 

 

「ン……待ちくたびれたよ」

 

 

 

 

 

 

 

 気だるげに発せられたその一言が、アブラモヴィッチが耳にした最期の言葉になった。

 

 最後の力を振り絞り、彼女はジェットインジェクターの引き金に指をかける。しかしアブラモヴィッチが引き金を引くよりも、少女の歌声が響く方が早かった。

 

 

 

 それは、終焉の黄昏に謳う角笛のように。

 

 

 

 無慈悲なまでに絶対的な力は大地を抉り、木々をなぎ倒す。生き残った鳥たちがギャアギャアとけたたましく鳴きながら一目散に逃げ去った後、その場に残されたのは大破壊の元凶たる少女と、地に伏せることで蹂躙から逃れた希维、そして原型をとどめないほどに粉々に砕かれたアブラモヴィッチとブリュンヒルデの肉塊だけだった。

 

「これで仕事は終わりだろう? せっかくだ、遠出ついでに可愛い子孫の顔を見てくるよ」

 

「んー、今はダメっす」

 

 スーツの汚れを払い落としながら告げた希维。途端、ただでさえ機嫌を崩していた少女の虫の居所はさらに悪くなった。

 

「……人を無理やり引っ張り出した挙句、散々待たせた奴の台詞とは思えないね」

 

 死にたいのか? 

 

 言外に少女の眼光が告げる。それに対して希维は、「ああいや、誤解しないでほしいっす」となんてことのないように返した。

 

「人間の記憶はとても不安定で、その上繊細なんすよ──まして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。今の貴女が彼に会うと、貴女が思い出せない『大切な人』と『可愛い子孫』の顔がごちゃ混ぜになる可能性があるんす」

 

 それでもよければ止めないっすよー、と希维は言葉を締めくくる。それに対して少女は忌々し気に舌打ちをしながらも、眼光に込めた殺意を薄れさせた。納得しているわけではないようだが、ひとまずは希维の忠告に従うことにしたらしい。

 

「ン……とんだ厄日だよ、まったく」

 

 少女は吐き捨てると、フォークのような三又槍をアブラモヴィッチの残骸に突き立てた。それを見て、希维は空気を換えるかのようにパンと手をたたいた。

 

「よし、これでアメリカ出張の任務もおしまいっすね! あとはオリヴィエ様とリンネちゃんにお土産を買って、『神殿』に帰るとするっす。さ、行くっすよー」

 

 そう言って希维は、なんてことないように少女の名を呼ぶ。仮に事情を知らない者が聞いていたのなら間違いなく耳を疑うような、その名を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 寓話の殺人鬼の名で呼ばれた赤の少女は、何も答えない。しかし、まるでその言葉を肯定するかのように──彼女は眼前の肉塊を拾い上げると、それを無造作に頬張った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうやら盤上の勝敗も決したようだな、泥人形?」

 

「……みたいだね」

 

 エドガーのせせら笑いに、オリヴィエはどこかしょんぼりとしたように肩をすくめて見せた。

 

 アメリカというチェス盤内の戦いにおいてすべての駒を欠き、フランスというチェス盤外での戦いでは一大戦力を差し向けながら黒の王(エドガー)を殺すことができなかった。

 

 対するエドガーは全ての駒が盤内に健在、盤外においてもフランスは健在。戦況は拮抗こそしていたが、結果を見ればオリヴィエの惨敗であるといっていい。

 

「いやいやエドガー君、敗者をなじるような言動はよくないよ! 実際、オリヴィエ君は頑張ったんじゃないかな。途中から(キング)自身が前に出る妙手を見せてくれたし、変則駒で盤面を白で塗りつぶそうとする案も悪くなかったと思う。だけど、勝負の女神様に──」

 

「無理にフォローしてくれなくてもいいんだよ?」

 

「あ、そう? いやー、正直僕としてはプライドとの賭けにも勝ってホクホクなんだよね! 正直あそこでドッペルゲンガー使ってキャスリングとか完全に予想外だったし、笑った笑った!」

 

 ゲラゲラと笑い転げるアダムを、オリヴィエは悲しそうに見つめる。その真意は彼にしか分からないが、そこは友情的に考えて白側に賭けていてほしかった……といったところだろうか。

 

「ともあれ、これで私の勝ちの目はほとんどなくなってしまったね。頼みの綱のヴラディスラウスも任務には失敗してしまったし……敗因は勝負を急ぎすぎたことかな? 慎重に機を見定めたエドガー君の差配に、惜しみない賛辞を贈るよ」

 

「フン……何をしらじらしい」

 

 その言葉を聞いたエドガーは先ほどの笑みから一転、気に入らないとばかりに吐き捨てた。

 

「……何のことかな?」

 

「え、何が?」

 

 とぼけたように薄ら笑いを浮かべるオリヴィエ、本当に何のことか理解していないらしいアダム。エドガーは愚鈍なアダムを無視し、オリヴィエに「しらばっくれるな」と言い放つ。

 

「貴様、最初から()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「な、なんだってー!?」

 

 驚いて見せるアダムの横で、オリヴィエは笑みを浮かべたまま沈黙する。それを肯定と捉え、エドガーは続けた。

 

「αMO手術で固めた手勢。字面だけ見れば大層なものだが……ナイト以下の士気は最低、兵力の維持はいつ裏切るとも知れんビショップ頼り、現当主の型落ちたるルイスをルーク兼指揮官に据え、挙句切り札たるクイーンはまるで制御不能。これで本気で勝とうと思っていたのなら貴様、そこの道化以下の評価は免れんぞ?」

 

「あれ? さりげなく僕ディスられてない? そんなことないよね? オリヴィエ君はあのメンバーで世界タイトルを目指してたんだよね?」

 

「それは困るなぁ……そうだね、認めよう。私は確かに、君にこの戦いで勝つつもりはなかったよ」

 

「オリヴィエくぅううううん!?」

 

 騒々しいアダムを放置し、神を目指す異端児たちは答え合わせをするかのように言の葉を交わしあう。

 

「私にとって今回のゲームはエキシビションマッチのようなものだ。私と君が決着をつけるのに相応しい舞台はもっと別にあるからね……だから、戦闘映えする面々を選出したんだ」

 

「違うな。貴様がこの戦いに乗った真の理由は『足手まといを排除するため』だ」

 

「心外だよ。ルイスは希维には劣るけど優秀な部下だったし、ブリュンヒルデは欲張りだけど敬虔なアポリエールの信徒だった。エメラダさんに至っては面識すらなかったし……邪魔者扱いはひどいんじゃないかな」

 

「語るに落ちたな、泥人形。余は一言も、『貴様らの駒が』足手まといだとは言っていないぞ」

 

「……」

 

「ルイス・ペドロ・ゲガルドは優秀だが、貴様の腹心と反目する可能性があった。あの俗物信徒は既に、そこの道化師に群がる羽虫の一匹に成り代わられていた。そして万が一にも、アメリカが人食いの小娘を使って『神殿』に攻め込めば、如何に貴様らといえどもただでは済むまい……これで満足か?」

 

 エドガーは淡々と事実を並べ立て、そして畳みかけるように己の考えを突き付けた。

 

 

 

「いずれ貴様にとっての足枷となりうる不確定要素を、今のうちに使い潰しておきたかった──それが貴様の参戦動機だ。違う、とは言わせんぞ?」

 

 

 

「……さすがだよ。今度こそ君に、心からの賛辞を贈ろう」

 

 真意を見抜かれたことにも一切の動揺を見せず、薄く笑うオリヴィエ。食えん奴だ、とエドガーは胸中で呟き、その直後にそれも詮無き事かと思い直す。

 

 己が遥か至高の頂から下界を見下ろす上位存在であるならば、この泥人形は深淵より現世を凝視する異形。相互理解などできるはずもないのだ。

 

「……ふひっ」

 

「何がおかしい?」

 

 思考を強制的に打ち切る間抜けな笑い声に、エドガーは画面越しに声の主を睨みつけた。

 

「ぷふーっ! ……ああ、ごめんごめん。どや顔でかっこつけてるエドガー君が、実際は盤外戦のせいでお腹がゴロゴロピー状態だって考えると、腹が捩れそうなほどおかしくて」

 

「ああ、そういえばそうだったね……ふふっ」

 

 アダムの言葉を受け、エドガーの腹痛を引き起こした張本人たるオリヴィエが思い出したように呟く。

 

 先に述べた通り、結果だけを見れば盤上においても盤外においても、先の戦いはオリヴィエの惨敗である──()()()()()()()()。だが深く状況を検分していけば、この戦いにはまた違った側面が浮き出てくる。

 

 そもそも現在、フランス共和国は『共和』とは名ばかり、実際はエドガーという人間の苛烈なまでのカリスマによる独裁状態にある。裏も表も押さえつけ、圧倒的な支持のもとに国家を運営するその手腕は素人目に見ても見事の一言に尽きるが、それを維持するためエドガーは、常に圧倒的にして絶対的な力を求められている。

 

 それがいまはどうか? 自らの領域に外部勢力──それも邪教としか言いようのないカルトの尖兵たちの侵入を許し、民間・軍部問わず多数の犠牲者を出し、さらには共和国の守護者たる三人の連隊長の内、一人が欠け落ちた。

 

 この一件はエドガーの威信に泥を塗るのには十分すぎた。例えエドガー自身がいかに優秀であろうとも、彼が社会という歴史の表舞台に身を置く身である以上世間の評価からは逃れることができない。加えて、彼の力が弱まれば裏に蠢く有象無象たちは増長するだろう。

 

 オリヴィエは試合にこそ負けたが、勝負においては上等以上の戦果を残していた──エドガー自身ではなく、その周囲に波紋を広げるという呪毒が如き置き土産で以て。

 

「案外オリヴィエ君が先に脱落したのは、う〇こを痩せ我慢したエドガー君が手番をスキップしまくった結果かもしれないね!」

 

「……」

 

 あからさまにエドガーを挑発するアダムと、何も言わないオリヴィエ。しかし、クツクツと押し殺したような笑いをこぼす2人の姿は、陰湿そのものとしか言えないだろう。

 

「……ク」

 

 だが──そんな彼らの態度を目にしたエドガーの口から洩れたのは、怒鳴り声でもなければ悪態でもなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「クハハハハハハッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──それは、笑い。

 

 心底愉快だと言わんばかりに高笑いをするエドガーの様子に、オリヴィエとアダムは押し黙った。

 

「余を笑い死にさせるつもりか、道化師?」

 

 そう言ってエドガーは、その口に不遜にして不敵な笑みを浮かべた。

 

「浅慮が過ぎるぞ、下民共。余を誰と心得る? いずれ全ての人知を超越して神に至る、エドガー・ド・デカルトだぞ――たかが毒虫の十や二十ごとき、飲み下せないとでも?」

 

 傲慢に断言したエドガーは、興味をなくしたかのようにアダムから視線を外す。それから沈黙を保つオリヴィエへと目を向けると、再び口を開いた。

 

「なぁ、オリヴィエ・G・ニュートンよ。これだけの時間と手間をかけ、自軍の膿出ししかできん愚物よ──まさか貴様、余が黙って蹂躙されているだけとでも思っていたのか?」

 

「……そうじゃない、とでも言いたげな口ぶりだね」

 

 穏やかに返すオリヴィエだが、しかしその口元から既に笑みは消えている。その言葉に「愚問だ」と応じ、エドガーは通信装置の電源に指をかけた。

 

「貴様が無様な手を指してる間に、こちらの準備は完了だ。泥人形に道化師よ、貴様らはただ指を咥えて見ているがいい──白を飲み込んだ灰が、純黒に塗りつぶされていく様をな」

 

 それだけ言い残して、エドガーは通信を切断した。もはや語るべきことはない、貴様らに構っている時間などないといわんばかりに。

 

「……統合参謀長」

 

「はっ」

 

 エドガーの呼びかけに、背後に控えていた短く女性が応じる。眼鏡の向こう側から除く怜悧な眼光に、引き締められた表情筋。鋼鉄の薔薇を思わせる、美しさと冷血さを兼ね備えた彼女こそ、エドガーを除けば軍部の最高司令官である『統合参謀長』ステファニー・ローズだ。

 

「仕上げにかかるぞ。生温い戦争ごっこしか知らん連中に、本物の戦争を教えてやれ」

 

「……御意に」

 

 短く応じて、統合参謀長は大統領執務室を後にする。その背を見送りながら、エドガーは自分以外の存在が消え失せた執務室で一人呟いた。

 

 

 

「さぁ──戦争を始めようか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『まずは、灰の女王(ダリウス・オースティン)にご退場いただこう』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 乱暴に開かれた車両のドアから乗り込んできたのは、十数人の米軍人だった。

 

 その先陣を切っていたのは他でもない、自分の大事な部下でもあるチャーリー・アルダーソン。普段は陽気な彼がいつになく真剣な面持ちでいるのを見て、ダリウスは好ましくない事態が発生したことを直感した。

 

 

 

 しかし、誰が予想できただろうか。

 

 

 

「召喚命令だ、隊長──いや、ダリウス・オースティン。今すぐ、俺たちと一緒に来てもらう」

 

「……は?」

 

 自分に全く身に覚えのない罪状が、部下の顔を曇らせていたなどと。

 

 事態を理解しきる前にダリウスに突き付けられたのは、無数の銃口。それを見て真っ先に我に返ったのは、階級上彼らの上司に位置するミッシェルだった。

 

「これは何の真似だ、アルダーソン曹長!? 上官命令だ、今すぐに銃を下ろせッ!」

 

「デイヴス少佐の命令とあっても承服しかねます──隊長には今、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「なッ!?」

 

 驚きの声を上げるミッシェルに、チャーリーは続けた。

 

「エメラダ・バートリー、ブリュンヒルデ・フォン・アポリエール。αMO手術の被験死刑囚がサイト66-Bから脱獄するのを、ルイス・ペドロ・ゲガルドと共に手引きした疑惑だ」

 

「そんな馬鹿な話があるかッ!」

 

 激昂したミッシェルがチャーリーの胸倉を掴み上げた。

 

「脳みそ腐ってんのかてめぇら!? αMO手術を受けてから奴らが脱獄するまで、こいつは24時間ずっと米軍の監視下だっただろうが! どうやってその状況で敵の手引きをするってんだ!」

 

「んなもん、こっちが聞きたいんすよッ!」

 

 負けじと怒鳴り返すチャーリーに、ミッシェルは押し黙る。上官に逆らうのは、軍の中では御法度──それでもなお、彼は叫ばずにはいられなかった。

 

「俺たちだって、この命令がおかしいことくらい分かってる! けどデイヴス少佐、この指示を出したのは貴女よりも上の人間だ! 俺たちの一存じゃどうにもできねぇ!」

 

「んだと……ッ!?」

 

 ぎょっとしたように、デイヴスは目を見開く。軍の上層部がここまでトチ狂った指示を出したというのか? 

 

「その指示を出したのは、誰?」

 

 ミッシェルの背後からシモンが問いかける。それに対してチャーリーは、苦虫をかみつぶしたような渋面を浮かべる。

 

「俺に直接連絡を入れてきたのは本部の大佐だが……命令の発信元は国防長官だ」

 

「!」

 

 ──やられた。

 

 この緻密さと狡猾さを感じさせる絡め手は、おそらく黒陣営(フランス)による攻撃だろう、とシモンは推測を構築する。これが白陣営(槍の一族)であれば、もっと直接的かつ冒涜的な手口で仕掛けてくるはずだ。

 

 いかなる手段を使ったのか、直接的な物理攻撃ではなく外交による社会的攻撃。その威力を彼らは、身を以て思い知らされることになる。

 

「頼むから黙って従ってくれ、隊長。抵抗した時には射殺しろって命令も出てる──まだあんたのことはよくわかんねぇけど、悪人じゃないことだけは分かってるつもりだ」

 

 懇願するようにチャーリーが言う。その言葉にダリウスは目を閉じ、数秒ほど考え込んでからゆっくりと口を開いた。

 

「……わかったよ、チャーリー。それで上の気が済むなら、俺のことは連行してくれて構わない」

 

「っ、オイ!」

 

 立ち上がったダリウスをミッシェルが制止しようとするが、その行動は他でもないシモンによって阻止された。

 

 戦いはまだ終わっていない──今この場でもめ事を起こし、全員が厳重監視下に置かれるような事態だけは避けなくてはならない、

 

「シモンさん、ミッシェルさん。すいませんが、ちょっと離脱します……あとのこと、任せました」

 

 そう言って困ったように笑うダリウス。その隣で、指揮を執るチャーリーが声を張り上げた。

 

「班を二つに分けるぞ! 半分は俺と一緒にダリウス・オースティンの護送だ! もう半分はデイヴス少佐とウルトル現場指揮官を警護しつつ、状況を説明しろ! 指揮はジョニーに任せる! 以上、行動開始!」

 

 チャーリーの号令一下、軍人たちは迅速に行動を開始する。チャーリーたちがダリウスを引き連れて車両を出ていくと、ジョニーと呼ばれた残留班の指揮官がミッシェルとシモンに現状の報告を開始した。

 

 

 

 

 

『駒でもないのに盤上をうろつく輩がいるな──失せろ、目障りだ』

 

 

 

 

 

「まずはお耳に入れておかなければならない事態として──ダリウスさん以外にも、第七特務の皆さんが連行されました」

 

「あいつらまで……!」

 

 クソッたれめ、とミッシェルは歯噛みする。どうやら先ほどの車外での騒ぎは、第七特務と米軍の間でのひと悶着だったらしい。

 

 何者かが自分たちの力を次々と剥奪している──この一件の真相を知らない彼女ではあるが、その裏に蠢く悪意の存在は確実に感じ取っていた。

 

 

 

 

 

灰の城塞(ミッシェル・K・デイヴス)灰の僧侶(シモン・ウルトル)の動きを封じろ。盤が黒に征服される様を、黙ってみているがいい』

 

 

 

 

「加えてお二人の処遇ですが──未知のウイルスに感染している危険があることから、当分の間は入院させろとのことでした。万が一の報復に備え、二十四時間警護がつくとのことです」

 

「……!」

 

 事実上の軟禁宣言。ここまでやるか、とシモンは焦燥に顔を歪める。監禁よりはマシだが、今後動きにくくなることには変わりない。

 

 さぁどうするか。

 

 とにかく今はフリーで動け、かつ信頼がおけるスレヴィンとスカベンジャーズと連絡を取りあい、できる限り速く合流しなければ……。

 

「──そして最後に」

 

 しかしそんなシモンの考えは、図らずも解消されることになる。

 

 

 

 

 

 ──想定しうる中でも、最悪のその一歩手前の状態で。

 

 

 

 

 

 

 

「先刻、“スレヴィン・セイバー”、“トーヘイ・タチバナ”、“エリザベス・ルーニー”の三名がU-NASAに襲来した未知の勢力と交戦。スレヴィン・セイバーが重傷を負い、ルーニー・タチバナ両名は現在意識不明の重体とのことです」

 

 

 

 

 

 

 

 

灰の騎士(スレヴィン・セイバー)を叩き潰せ。二度と立ち上がれぬよう、完膚なきまでに』

 

 

 

 

 

 

 

 あらゆる抵抗の術を奪われた灰陣営。その無様を嘲笑する超越者の声が、聞こえたような気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──かくして、駒は出揃った。

 

 

 後手は黒──漆黒に染まった挑戦者は今、星条旗を傲慢不遜に踏みにじる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『古き波濤の冥王』     『血霧に霞む武士道(再戦の契り)』     『気高き星条旗(ユナイテッド・ステイツ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

闇夜の海魔(スレヴィン・セイバー)』    『太古の因子は牙を剥く(E.S.MO手術)』    『変態紳士の飴と鞭』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『喰らいあう二匹の獣』  『猛毒部隊(ポイズナス)』  『譲れぬ弾丸、満たされぬ刃』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神への挑戦者(エドガー・ド・デカルト)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 To be continued third song ── 絶対凱歌 EDGAR ──

 




【オマケ①】他作品の出演キャラクター紹介


チャーリー・アルダーソン(深緑の火星の物語)
 裏アネックス計画、北米第一班の副隊長。αMO手術を受けた被験者たちに次ぐ実力を有する「MO手術最強」で、表アネックスのアレキサンダー先輩みたいな立場の人。でも対戦相手が揃いも揃ってチートなので、黒星の方が多かったりする。
 手術ベースの影響で体臭が獣臭くなり、最近彼女にフラれたらしい。

ジョニー(深緑の火星の物語)
 誰だお前(探してみよう)


エスメラルダ(深緑の火星の物語)
 とある寓話の主人公の名を関する赤毛の少女。その性質は極めて短期かつ凶暴で、残忍。なぜアメリカ開拓史時代の殺人鬼が26世紀の地球上に存在するのか? そもそも彼女は本物のエスメラルダなのか? すべては謎に包まれている……

エメラダ「貴女のご子孫をお嫁に下さい」

エスメラルダ「ン……誰がお前みたいな小娘に、大事な子孫をくれてやるものか」

2人「「……」」

(すごい戦闘音)

チャーリー「隊長……あんた女難の相でも出てんじゃねぇか?」

ダリウス「……(死んだ目)」


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狂想賛歌ADAM-5 最悪飛来

 ──痛し痒し(ツークツワンク)開催の少し前のこと。

 

「【そうだ、戦争に介入しよう】」

 

 アダム・ベイリアルは唐突に思いついたとばかりにパチンと指を鳴らして、そう言った。

 

【おっ、俺TUEEEEEE系クソゲームマスターかな?】

 

 グリードからコンマの間もおかず入れられた茶々に、アダムは「だってさー」とぶー垂れる。

 

「【エドガー君とオリヴィエ君、僕が用意したチェスだけじゃ物足りなかったみたいでさー。勝手に盤外で殴り合いまで始めちゃったんだよ? なんか知らない間にただのチェスがチェスボクシングになってるんだよ? こんな面白すぎる状況、黙って見逃すわけにはいかないでしょ】」

 

【それでお前が納得するなら、別に小生は止めんけども】

 

 ポテトチップスカイコ蛾味をパリポリと食べながら、【で、具体的にどうするつもりだ?】とグリードはアダムに問う。

 

「【んー、まぁ僕が赤の王とか言って第三勢力になってもいいんだけど、ここはやっぱり地球に追加アイテム的な物を送り込む方がゲームマスター的にいいと思うんだよね】」

 

【やはり地球か……いつ送りつける? 小生も同行しよう】

 

「【強欲院……いやダメだからね? 君送り込んだら、全陣営の(キング)を皆殺しにして戦争を終わらせちゃうでしょ? 僕だって自重って言葉くらい知ってるよ】」

 

 ちぇー、と口をとがらせるグリードの横で、アダムはさてどうしたものかと思案する。オリヴィエとエドガーの戦争は民間人に多大な被害を出しながらも、『ゲーム』の範疇に収まる程度のものだ。そんな中、自分だけ本気の主戦力を送り込むのも馬鹿らしい。しかし半端なモノを送り込んでも面白くない。

 

 ああでもない、こうでもない……とアダムはしばらく考え込んでから、「よし決めた!」と膝を打つ。

 

 

 

「【送り込むのは『Q』と『R』にしよう! あの二人なら白黒盤外の濃ゆいメンツにも負けずに頑張ってくれるでしょ! グリード、ちょっと二人呼んできてー】」

 

【自重はどうしたよ】

 

 やれやれ、とばかりにグリードは首を振って席を立つ。椅子の隣に立てかけていた武器を手に取ることも忘れない──アダム直属の戦力の中で屈指の実力者たるグリードであっても、今から呼びに行くモノたちは油断ができない相手だ。

 

『Q』と『R』──アダムが口にしたそれは、彼が誇る七人の『【S】EVEN SINS(最高戦力)』と同等以上の力を持ちながら、あまりにも危険な気質ゆえに『【S】EVEN SINS(親衛隊)』への編入を見送られた2人の怪物に与えられた称号である。

 

 

 

 即ち“Queen(女王)”にして“虚栄(バニティ)”の称号を賜りし『アストリス・メギストス・ニュートン』。

 

 

 

 及び“Rex()”にして”憂鬱(メランコリー)”の称号を賜りし『ヴォーパル・キフグス・ロフォカルス』。

 

 

 

 この両名を地球へと解き放つ──それは事実上、『世界を滅ぼす』と宣言するようなものだった。

 

「【音声認識:グリード】」

 

 

 アダムと世話用に派遣されるテラフォーマー以外には長らく使われていない、両者を幽閉するための専用棟へと続く扉を開け、グリードは薄暗い廊下に躊躇なく足を踏み入れた。

 

「……」

 

 歩調を緩めることなく廊下を進む。赤い非常灯に照らされるのは、無数のテラフォーマーたちの死骸だった──昼間に新しく派遣した世話係たちだ。この前の世話係たちは一週間近く保ったのだが……今日の連中は、相当に虫の居所がいいらしい。

 

 そしてそんな無数の屍の先に、グリードは二つの人影を認めた。

 

 

 

「あら! あらあらあら! ヴォ―パル、珍しいお客様がいらっしゃったわ!」

 

 人影の片割れが、楽し気に声を上げる。ドレスを身に纏っているらしく、そのシルエットは不規則な膨らみがある。その周囲には護衛のように数匹のテラフォーマーが棒立ちになっており、いずれのその肉体はまるで突然変異でも起こしたかのように奇怪な形態になり果てている。

 

「……」

 

 対するもう片割れは、無言。こちらは相方とは対照的に何も身に着けていないのか、シルエットは人の輪郭そのものだ──身長が3m近いことを除けば。

 その周囲には幾多のテラフォーマーたちの死体が倒れており、いっそ執拗といってもいいほどにぐちゃぐちゃに破壊されている。

 

「こんにちは、グリード叔父様! 今日もチェシャ猫のように笑っているのね?」

 

「……」

 

【そういうお前らは相変わらず帽子屋みたいに気が狂ってるな──アストリス、ヴォーパル】

 

 常人には理解のできない言語で、グリードは返す。しかしその瞬間、ドレスの影はほほを膨らませ、あからさまに怒りを表現した。

 

「まぁ、ひどいわ! そんなことを言うと私、燻り狂うバンダースナッチになっちゃうんだから!」

 

「……」

 

 ドレスの影──アストリスは大袈裟に声を張り上げると、腰から自らの得物であるナイフを引き抜いて両手で遊ばせた。それと同時、歪なテラフォーマーの兵士たちもまた、変わり果てた己の肉体に付属する武器を構える。

 

 一方の巨影──ヴォーパルは小声で何事か呟くと同時、その姿はまるで空気中に煙が解けるかのように消失した。ただ突き刺すような殺気はむしろ先ほどよりも強まり、決して彼がこの空間から逃走したわけではないことを物語る。

 

【やっぱりこうなったか】

 

 できれば面倒ごとは避けたかったが、こうなっては是非もない。相対するグリードもまた、腰に差しておいた彼の武器――幾何学の文様が刻まれた真紅の剣、史上初めて自分たちテラフォーマーを討ち果たした人間の忘れ形見『ジョージ・スマイルズ』を引き抜き、戦闘の態勢に移行した。

 

 

 

 刹那の膠着、それを真っ先に破ったのはアストリスの手勢と化した変異テラフォーマーたちだった。

 

 

 

 ある者は鋏のようになった右腕で、ある者は鞭のように変異した舌で、またある者は全身から生えた棘でグリードに襲い掛か《ろうとした瞬間、一匹残らず真紅の刃によって彼らは輪切りにされた》。

 

 

 

「ふふっ──一緒に遊びましょ♪」

 

 

 

 その影を縫い、接近するはアストリス。彼女は瞬間移動としか捉えられぬ歩法でグリードに近づくや否や、ナイフで喉を切り裂《く前にグリードは大太刀を振るい、アストリスの両手を切り飛ばした》。

 

「ひゃっ!?」

 

 さすがに驚いたのだろう、アストリスはすぐさまグリードの射程から飛び退《く間も与えず、グリードはその両足を切り落とした》。

 

「【幼な子はどなりつけろ、ってか】」

 

 身動きが取れずにもがきながらアストリスが地面に倒れこむ様を、グリードは追撃をしかけるでもなく見つめる。

 

 そんな彼の背後に回り込んだヴォーパルは、完全に認識できないはずの不可視の攻撃で以てグリードの命を奪《うよりも速く、更に背後に回り込んだグリードは彼の顔面目掛けて専用の麻酔スプレーを放つ》。

 

「……!」

 

 ズシン、という地響きが鳴り、その直後膝をついたヴォーパルが姿を現した。一吸いすれば象すら昏倒するそれを受けながらも未だに意識は保っているようだが、しかしさすがに身動きはできないらしい。グリードは彼の頭部をわし掴みにすると、ゴキリと首の骨を鳴らして一言。

 

「【任務かんりょー】」

 

「乱暴すぎるのだわ! 降ろして叔父様、おーろーしーてー!」

 

「……」

 

 いつの間にか再生させた手足でぽかぽかと己を叩くアストリスを肩に抱き上げ、ぐったりとしたヴォーパルの巨体を引きずって、グリードは来た道を引き返し始める。その口元にニタニタとした笑みを浮かべ、そこからこらえきれない不気味な笑い声を漏らしながら。

 

 

 

 

 

「じぎ、じぎぎぎぎ……GE、GE、GE(げっげっげ)!」

 

 

 

 

 

 ジョセフ・G・ニュートンよ。

 

 

 

 オリヴィエ・G・ニュートンよ。

 

 

 

 エドガー・ド・デカルトよ。

 

 

 

 知っているか? お前たちが愚かだと見下す人間は、お前たちが下らないと侮る人間は。お前たちの想像している以上に愚かだということを。その愚かさはいつだって、全知たる神を以てしても計り知れぬものだということを。

 

 人知を超えて神の座を目指す者どもよ、ゆめゆめ忘れるな──そして知るがいい。

 

 お前たちが黒幕気取りと嘲る我が友、アダム・ベイリアル。そのあまりにも低俗でどうしようもない狂気は、狂いなく神を殺す一矢になりうることを。

 

 

 

 

 

 ──お前たちが戦うべきは、同じく神を目指す者どもだけではないことを。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 火星から二機の小型ロケットが打ち上げられたのは、その数時間後のことだった。そのうちの一機がアフリカのリカバリーゾーンへ、もう一機がベネズエラの熱帯林に着弾したのは、それからさらに39日後のこと。

 

 

 

 そしてこの戦いの全てが終わった後に──事情を詳しく知る者たちは、口を揃えてこう言った。

 

 

 

 例え核爆弾を落としてでも、あれが地球に届くのは阻止すべきだった──と。

 

 

 

 




【オマケ①】他作品の登場キャラ紹介

アストリス・メギストス・ニュートン(深緑の火星の物語コラボ編)
 うさ耳カチューシャ、大胆に胸元が開いた赤のドレスに身を包んだ美人さん。不思議の国のアリス的な独特の口調が特徴。
 盤外戦にアダムが送り込んだ「赤の女王」。

グリード「(舐めるようにバニースタイルを眺めながら)……good(いいね)

プライド「お前、種族的に考えて守備範囲広すぎないか?」


【オマケ②】
アダム「前話でかっこよく三章の予告したが……どっこい幕間……! これがアダムクオリティ……! 愉悦……圧倒的愉悦……!」

オリヴィエ「今回入れて幕間は二話入るから、エドガー君の出番はもう少し先だね。どんな気分か聞いてもいいかい?」

エドガー「貴様らほんと空気読まんよな」



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狂想賛歌ADAM-6 赤の憂鬱

「ヴラディスラウス公、ロケットの中は確認しましたが……」

 

「もぬけの殻、か……」

 

 ──南アメリカ大陸、ベネズエラ。草木が鬱蒼と生い茂るとある熱帯雨林で、その会話は交わされていた。

 

 部下の言葉に表情を曇らせるのは、口ひげを揃えた中年の男性だ。その名を、ヴラディスラウス・ペドロ・ゲガルド──痛し痒し(ツーツワンク)において白陣営のルークを務めた、ルイス・ペドロ・ゲガルドの父親である。

 

 人間でありながら人間を越えた血族、ニュートン。彼らと常人とを比べれば、両者の間には心身ともに埋めがたい能力の隔絶があることはもはや語るまでもない。その優秀さは分家たる槍の一族(ゲガルド)に身を置く者たちも例外ではないのだが、ヴラディスラウスはその中でも特別だ。

 

 特にその武錬、当代において並ぶものなし。

 

 槍を使うその戦闘術とベース生物のとある特性から『串刺し公』と恐れられる彼は、真っ向勝負ならば主君たるオリヴィエすら無傷で下して見せる生粋の武人。彼自身はオリヴィエの気質を快く思わないがために辞退こそしているが、本人が承知していれば今代の槍の一族の当主となっていても不思議ではない男だ。

 

「……周囲を警戒しつつ、探索を続けろ」

 

「りょ、了解しました!」

 

 そんな彼が部下と共にベネズエラにいるのには理由がある。

 

 先日、己が主君から息子の出撃の報と共に伝えられた指示。それが「アダムがベネズエラに送り込んだ、追加戦力を確保してほしい」というものだったのだ。

 

『残念ながらエドガー君の黒陣営に比べると、私たちの白陣営は人材不足が否めない。この不利を覆すには、アダム君の『赤の怪物(モンスター)』を当てにするしかない。現場で奮闘するルイスに報いるためにも、力を貸してほしい』

 

 疑念はあった──この男の尖兵として派遣されたルイスは、果たして一人の武人として真っ当に扱われているのか。

 

 だが、どれだけ考えようとその疑惑が霧消することはないだろう。確かめるための術も証拠も、彼には存在しない。ならばせめて、その戦いを意味あるものにすることが彼への手助けとなるだろう──そう考え、彼は任務を了承した。

 

「恐れながらヴラディスラウス公、お尋ねしたいのですが……」

 

「む?」

 

 別の部下に呼ばれ、ヴラディスラウスは回想を打ち切った。なんだ、と視線を向ければ、部下はおそるおそるといわんばかりに疑問を口にした。

 

「既に追加戦力が、フランスに確保されている可能性はないのでしょうか? そうであれば、我々が探索を続ける意味は薄いのでは?」

 

 聞きようによっては「怖気づいた」ともとれる発言、聞いていたのが過激な人物であればこの場で部下を処断していたかもしれない。

 

 だが他のオリヴィエの協力者たちならばいざ知らず、ヴラディスラウスはそこまで狭量な人間ではない。それどころか彼は「なるほど、至極もっともだ」と、一定の理解を部下に示す。

 

「だが、その可能性は限りなく低い」

 

「なぜそう思われるので?」

 

 部下の言葉に、ヴラディスラウスは眼前のロケットを指した。地面に傾いて着陸したらしい小屋程度の大きさのそれは、その側面に巨大な穴が穿たれている。

 

「これだけ派手な破壊の後なのに、破片が全くロケットの中に散らばっていない。それに穴の断面をよく見てみろ、外から内へ空ければこうはならないだろう──おそらく、()()()()()()()()()()()()()

 

「なっ……!?」

 

 ヴラディスラウスの言葉に、部下は瞠目した。宇宙空間の航行に耐えるため、ロケットの装甲は非常に頑強に作られている。それをぶち破った? 

 

「内部容量から考えて、大型の兵器や重機を積んでいた可能性は低い。道化師共が小型化した破壊兵器か、あるいは──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……!」

 

「さて、対話でどうにかなる存在だといいのだが──」

 

 生唾を飲む部下の前でヴラディスラウスが呟いた、その時だった。数百m先から銃声と怒号が聞こえてきたのは。

 

「標的と交戦状態に入ったのか!?」

 

「間違っても殺さないよう、向こうの探索班に連絡を!」

 

「捕獲機を出せ!」

 

「──いや、通信も捕獲機も必要ない」

 

 浮足立つ部下たちを制し、ヴラディスラウスは己の武器である槍を背中から抜き放つ。彼の鋭敏な聴覚は、確かに聞き取っていた。

 

 この発砲音は、部下たちに支給した銃器から発せられたものではない──音の反響具合、射出速度から考えて、おそらくはアサルトライフル『SIG SG551』のもの。それが意味するのは……

 

 

 

「総員、対人用の装備に切り替えろ──現時刻を以て本隊は、フランス軍と交戦状態に入る」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 フランスから派遣された兵士たちは、彼らの標準装備たる銃器で槍の一族の第一陣の掃討に成功していた。

 

 いかにニュートンの血族たちが極めて高い身体能力を有しているといえど、それは人間の範疇を大きく逸脱するものではない。ましてそれが下位の血族であれば、せいぜいトップアスリート程度が限界。

 

 であるならば、何も問題はない。ナイフで喉を掻き切れば死ぬし、連射される銃弾を見切って躱すこともできないだろう。MO手術を受けていたとしても、変態する前に始末すればいいだけの話である。

 

 奇しくもそれは以前、シド・クロムウェルをエリゼ宮殿に護送する際と同じ状況だった──もっとも、立場は逆だったが。

 

「なんだ、存外に大したことないじゃないか」──冗談交じりに呟いた兵士の首に風穴があいたのは、その次の瞬間のことだった。

 

「……部下が世話になったな」

 

 崩れ落ちた兵士の首から槍を引き抜き、ヴラディスラウスが言う。

 

「ッ、撃て!」

 

 余計な思考を挟まず即座に迎撃の判断を下した軍人たちに、彼は「優秀だな」と素直な賞賛を贈る。

 

 

 

「だが──遅すぎる」

 

 

 

 そして次の瞬間、彼は軍人たちの目の前にいた。反応する間もなく振るわれた槍は彼らの急所を的確に穿ち、その命を一瞬にして刈り取る。

 

「この程度、か……あとは私が出るまでもあるまい」

 

 冷静に状況を分析し、ヴラディスラウスは後退する。それと入れ替わるようにして、彼の背後にいた槍の一族の部下たちが前に出た。

 

 未知の戦力がうろついている可能性がある以上、対処できる自分の力は温存すべきだろう──大局を考えての彼の判断は間違いではなかったのだが、しかし。

 

 今この瞬間に限って言えば、ヴラディスラウスの手は悪手だったといわざるを得ない。

 

 

 

 バシュ、バシュ、バシュ! 

 

 

 

「ごっ──」

 

「がッ!?」

 

 空気が抜けるような音が、三回。その直後、フランス軍に突撃しようとしたヴラディスラウスの部下が二人、短い悲鳴を上げて地面に倒れ込んだ。咄嗟に自らの背後を槍で薙ぎ払えば、ガギンッ! という音と共に、何かを弾いたような手応えを感じる。

 

(──何かの牙、だと?)

 

 僅かに眉を顰めるヴラディスラウスだが、しかし彼の思考がそれ以上深まることはなかった。死角から飛び出した絶影が、彼の頭部を目掛けて鋭い蹴りを繰り出してきたからである。

 

「ぬっ──!?」

 

 それを紙一重で躱すと、ヴラディスラウスは大きく後方に飛び退いた。ぎょっとしたように振り向いた部下たちに「眼前の敵に集中せよ!」と一喝し、彼はこの場において最も油断ならない敵を睨んだ。

 

「さすがは音に聞く“串刺し公”。我ながら上手くハメたと思ったんだがね」

 

 ヴラディスラウスの視界に映ったのは、ぱっとしない風貌の男性だった。黒のオールバック、青い瞳はどこか捉えどころなく、ぼんやりとヴラディスラウスを見つめている。

 

 しかし、歴戦の武人たるヴラディスラウスの目は誤魔化せない。奇襲を受けるその瞬間まで、自らに気配を悟らせない程の実力者──この男、相当の使い手である。

 

「何者だ」

 

「フランス共和国親衛隊第二歩兵連隊長──“セレスタン・バルテ”」

 

 男、セレスタンから返ってきた答えを聞き、ヴラディスラウスはその技量の高さに合点がいった。

 

『フランスの三枚盾』の異名と共に、彼らが健在のうちパリは落とせないとまで謳われた、フランス共和国親衛隊を率いる三人の連隊長がいる。

 

 

 ”白亜の鎧鎚” オリアンヌ・ド・ヴァリエ。

 

 

 ”倒錯の庭師” フィリップ・ド・デカルト。

 

 

 そして、”鳳翼の絶影” セレスタン・バルテ。

 

 

 血筋としてはフランスの特機戦力たる“水無月六禄”の孫に位置し、祖父同様に徒手格闘の逸材と聞く。とりわけ軍隊式格闘術である“サバット”と“プンチャック・シラット”を組み合わせた戦闘スタイルは市街戦では無類の強さを発揮し、彼の身に宿る特異なベースも合わさって軍内でも彼に勝てるものは少ないという。

 

「だがフランス共和国親衛隊第二歩兵連隊といえば、その任務は立法府の警護のはず──こんなところで油を売っている場合か? パリはもうじき、地獄になるはずだが」

 

「ああ、エドガー大統領から聞いてるよ。けど、何の心配もいらねえ──俺の戦友が、大統領とパリを守り通すからな」

 

 ヴラディスラウスの言葉にも動揺を見せず、セレスタンは言い返した。

 

「ったく、ホントーに馬鹿だよあいつらは。やらなくてもいい任務をわざわざしょい込んでよ……だが、あの馬鹿(オリアンヌ)は己の役割を全うしようとしてる。もう一人の馬鹿(フィリップ)ももうじき、格安自殺ツアーみてぇな任務に駆り出される。なら、俺も自分がやるべきことをやるだけさ」

 

 そういってセレスタンは一瞬だけ遠くを見つめると、それからその眼光に鋭い殺意の灯を灯した。

 

 

 

 

 

「お喋りは終わりだ、オッサン。邪魔すんなら、殺す」

 

 

 

 

 

「……『油を売る』などといった非礼を詫びよう、セレスタン──」

 

 そう言いながら、ヴラディスラウスは懐から変態薬を取り出した。

 

「だが──主人のために奮起する息子を差し置き、私がここで引き下がるわけにはいかんッ!」

 

 そう宣言すると彼は、鍛え上げた己の肉体に薬を投与した。

 

「そうかい……だったらあとは、殺し合いで語るとしようか!」

 

 それを目の当たりにしたセレスタンもまた、変態薬を摂取した。もはや、無粋な言葉は不要とばかりに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

S y n t h() ― M E T A M O R() P H O S I S(変     態) ! !」

 

 

 

 

 

 

E l d e r() ― M E T A M O R() P H O S I S(変     態) ! !」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 高まる戦意が空気を震わせ、二人の肉体は人ならざるものへと変異していく。身体の再構築が終わると、両者は静かに対峙する。それぞれの部下たちもまた武器を構え、まさに戦争の火蓋が切られようとした、その瞬間のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さぁ、互いに譲れぬ志を胸に、両軍睨みあいであります! この戦争の行く末を左右する大きなターニングポイント! その白黒を決するための戦いが、今幕を開けようとしております!」

 

 招かれざる闖入者の、場違いに明るい声が響いたのは。

 

 気勢をそがれる声音と、新手の登場。それを理解した瞬間、ヴラディスラウスとセレスタンは即座に声の主を見やった。

 

「おっと、弟さん! 両選手ともにようやくこちらを向きましたよ! まるでこちらに全く気付いていなかったとばかりに見えますが……?」

 

「ヴラディスラウスさんや最愛の馬鹿息子の、セレスタンさんは血よりも固い絆で結ばれた馬鹿友の安否が気になっているでしょうからね。おそらく、兄さんが声を張り上げるまで気を割く余裕がなかったということでしょう」

 

 そこにいたのは、二人組の男だった。顔立ちはいずれも日本人を思わせる両者は、その身に白衣を纏い、目にはサングラスをかけている。いつの間には用意していた折り畳み机に座る彼らは、それぞれ『じっきょー』と『かいせつ』と書かれた二枚の紙をセロハンテープで貼っている。

 

「……薄々察しはつくが、一応聞いといてやる。お前ら、何だ?」

 

 苛立たし気にセレスタンが唸ると、実況と書かれた紙が貼られている方の席に座る男が「これは失礼しましたッ!」とテンションの高い声で叫んだ。

 

「私、この度の殺し合いの実況を務めます! 『アダム・ベイリアル・田中・兄』と申しますッ!」

 

「解説は私、『アダム・ベイリアル・田中・弟』が務めます」

 

 

 

「「二人合わせて、『スポーツマンシップ』を司る『アダム・ベイリアル・田中兄弟』です」」

 

 

 

 どうぞよろしくお願いします、と揃って一礼する田中兄弟。それを見たヴラディスラウスは「狂人め」と吐き捨てた。

 

「耳障りだ、田中兄弟とやら。戦う気がないのなら、今すぐに失せろ」

 

 必要ならば武力行使も辞さない、とばかりにヴラディスラウスは槍の穂先を実況席へと差し向ける。しかし田中たちはどこ吹く風とばかりに、握りしめたマイクに向かって喋りまくる。

 

「おっと、選手からクレームが入りましたが……解説の弟さん、これは?」

 

「やはりいい感じで空気が盛り上がってたのに、兄さんの実況で水を差されたんでしょう。当然の怒りかと思います」

 

「わかってんならどっか行けよお前ら」

 

 呆れたようなセレスタンの声を、しかし田中兄は無視してまくしたてる。

 

「しかしこれはまずい流れですよー、解説の弟さん! 我々はあくまで白と黒、どちらの手に『赤の変則駒:Mnster』が渡るのかを見届けたいだけ! しかし彼らの敵意はいま、ひしひしと我々に向けられております! 一体何が、彼らをここまでたぎらせるのかッ!?」

 

「兄さんの実況だと思いますけどね、私は……しかしこのままでは、おちおち解説もできません。なのでここは、先日調達した選手たちに我々の護衛をしてもらうとしましょう」

 

 田中弟の言葉と共に、彼らの背後の茂みから十数人の人間が姿を見せた。肌の色や衣装を見る限り、おそらくは現地人だろう。

 しかし異様なのは、彼らがまるでボディビルダーのように全身筋骨隆々としていることと、その目が異様に輝いていることである。

 

「我々が手塩にかけて育てた精鋭たちの入場だァー!」

 

「そうですね、やはりここは見せしめに二人くらい殺しておいた方がいいでしょう」

 

「「はい、コーチ!」」

 

 現地人の内、二人が元気よく返事する。そして次の瞬間──

 

 

 

「ぎゃっ!」

 

「ご、フ……!?」

 

 

 

 その異様さに呑まれ硬直していた槍の一族とフランス軍人が首をへし折られ、内臓を叩き潰され、地面に崩れ落ちた。

 

 ぞっとしたように目を見開く彼らの前で、彼らは生身でありながら下位のニュートンにも匹敵する身体能力で後転する、きらきらとした目で白と黒の尖兵たちを見つめた。

 

「たまたまに目についた、総人口百人にも満たない小さな貧しい村! そんな村人たちに、常人なら半日で死ぬような訓練とドーピングを三日にわたって施しました! 長く、苦しい戦いだった! 多くの村人は途中で音を上げ、逝ってしまった! しかし、彼らはあきらめなかった! 厳しい特訓を生き残り、今こうして鍛え上げた軍人や最新の人を容易く葬るほどの力を身に着け! リングインしたのであります!」

 

「「「「「はい、コーチ!」」」」」

 

「ジョセフ・G・ニュートンの細胞で、しっかりとMO手術も施しましたからねー。おそらく、並の戦闘員では太刀打ちできない実力が備わっているかと思います」

 

「「「「「はい、コーチ!」」」」」

 

 田中兄弟の言葉に、選手たちは壊れたおもちゃのようにただ「はい、コーチ」と繰り返す。それだけで、彼らの心が致命的なまでに欠損してしまっていることは想像に容易かった。

 

「さぁ、これで我々は安心して実況に専念できます! そして今、試合開始のゴングゥ!」

 

 

 

「外道が」

 

「もういい、黙れテメぇら」

 

 

 

 次の瞬間、ヴラディスラウスとセレスタンは同時に田中兄弟に飛び掛かった。

 

「「はい、コーチッ!」」

 

 常人ならば動くことすらかなわない、彼らの突撃。それを阻止すべく、二人の選手が飛び掛かった。

 

 

 

「ヌン!」

 

 ヴラディスラウスの精錬された槍術で繰り出された一撃はは、過たず選手の胸を貫いた。しかし心臓の損傷などまるで堪えていないとばかりに選手は止まず、そのまま懐に飛び込んで両手で貫手を繰り出した。

 それをあえて肉体で受け、ヴラディスラウスは哀れな傀儡に憐憫の視線を向ける。

 

 

 

「──偽りの技巧に、我が槍が劣る道理なし」

 

 

 

 その瞬間、ヴラディスラウスの胸部から歪曲した槍が飛び出した。息子であるルイスの特性を思わせるそれに全身を貫かれ、ヴラディスラウスに襲い掛かった選手は今度こそ完全に生命活動を停止した。

 

 

 

 

 

 

 ヴラディスラウス・ペドロ・ゲガルド

 

 

 

 

 

 αMO手術ベース“両生類型”  ──― イベリアトゲイモリ ──

 

 

 

 

 心臓が破壊されようとも修復できるほどの高い再生能力に加え、肋骨を回転して射出することで外敵から身を守るという奇妙な特性を持つイモリ。それが、ヴラディスラウスに与えられた能力だ。

 

 選手の鋭い一撃で腹部に穿たれた傷はただちに修復を開始し、数秒で元通りに回復する。

 

「眠れ──私にできるせめてもの手向けだ」

 

 黒く変色した皮膚に、まばらに散らばる黄色の斑点。夜空に瞬く星を纏った槍の超人は、もはや動くことのない犠牲者に静かに告げる。

 

 

 

「シッ!」

 

「はい、コーチッ!」

 

 ベースとなった特性と技術の相乗。人間の骨など容易く砕く威力で放たれたそれを、選手は腕で受け止めた。そしてその直後……

 

「ッ……!?」

 

 選手はその場に膝をついた。例え腕が砕けようと、彼らが怯むことはない。では、何が彼の進撃を止めたのか? 

 

「馬鹿正直に真正面から突っ込んでくる奴があるか。絶好のカモだぞ」

 

 そういったセレスタンの全身は羽毛に包まれ、その脚はまるで鳥類のような形状へと変化していた。しかし鱗によって覆われたその質感は、鳥というよりも爬虫類──特にトカゲのそれによく似ている。その脛からは、たゆまぬセレスタンの努力によって全身に形成できるようになった毒牙が生えていた。

 

 

 

 

 

 

 セレスタン・バルテ

 

 

 

 

 

 E.S.MO手術ベース“古代爬虫類型”  ──― シノルニトサウルス ──―

 

 

 

 

 

 E.S.MO手術──それはレオ・ドラクロワによって編み出された、「現存する生物同士を掛け合わせて再現した『絶滅生物(Extinct Species)』によるMO手術」である。

 

 セレスタンのベースとなった古代生物の名は、羽毒竜“シノルニトサウルス”──小型の肉食恐竜であるドロマエオサウルス科に属する彼らは、極めて高い運動神経と脚力、鋭い鉤爪に加えて、あらゆる恐竜の中で唯一、牙に麻痺毒を持っていたとされている。

 

「……じゃあな」

 

 いかに肉体を鍛えようと、毒に対する耐性の獲得には限度がある。セレスタンは動けなくなった選手の頭部に専用武器である消音銃の銃口を押し付けると、引き金を引いた。

 

 

 

「串刺し公、一時休戦だ! まずはそこの、ふざけた科学者どもをぶちのめす!」

 

「異存なし……そこの外道共は、生きていることすらおこがましい」

 

「これはひどいッ! 随分と嫌われたものであります!」

 

「残念でもなく当然じゃないですかね」

 

 槍を構えるヴラディスラウス、脚部に毒牙を生成するセレスタン、実況席に座ったまま守りを固める田中兄弟。

 

 

 

 四人の間で、チリチリとした殺気の火花が散る。だが──彼らはこの時、完全に失念していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ド ン ! ! 

 

 

 

 

 

 

 

 

「 ごぱっ   、あア ……?」

 

「解説の弟さん? 何へぶっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──行方知れずになっていた、『赤の怪物』の存在を。

 

 

 

 

 

 

「これ、は……ッ!?」

 

 何の音もなく現れたソレが、指一本で双子の片割れの胴を貫いて殺した瞬間、ヴラディスラウスは全身の身の毛がよだつのを感じた。

 

 彼が生涯においてこれほど恐怖と嫌悪を感じたのは、ただの一度だけ。オリヴィエが楽園の樹と称する彼の娘に謁見した時だけだった。

 

 

 

「ッ、オイオイ大統領……相手がここまでの怪物だとは聞いてねえぞ……!?」

 

 空いている方の手で、ソレが生き残った双子の頭部を叩き潰した瞬間、セレスタンの体中から脂汗が吹き出した。

 

 対峙しただけでここまでの威圧感を発せられるのは、彼の知る限りただ一人。本気を出した水無月六禄だけだ。

 

 

 

 

 

 それほどまでに、目の前に現れた存在は“絶対”だった。

 

 

 

 

 

「……」

 

 既に息のない2人の狂人の死体に興味が失せたらしく、『絶対』はそれを無造作に投げ捨てた。

 

 3m近い巨体の大男である。巌の如き筋骨でその肉体は構成され、燃え盛る炎の如き紅蓮の長髪に隠れたその背には、食い尽くされた林檎の芯に巻き付く幼虫を象った刺青が刻まれている。

 

 腰布以外の衣類を身に着けず、露出した肌を覆うのは灰白色の棘と鱗。指先から延びる鉤爪は、肉切り包丁のよう。さらにその額からは短い角が、腰からは太くしなやかな爬虫類のような尾が生えている。

 

 相対するセレスタンとヴラディスラウスは、目の前の存在は鬼か魔人であるといわれてもすぐに信じてしまいそうなほどの圧を、ソレから感じとっていた。

 

「──」

 

 赤の怪物(Monster)──ヴォーパル・キフグス・ロフォカルス。

 

 彼はスゥと息を吸い込むと、いっそ荘厳とさえ言える口調でその第一声を発した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……萎えぽよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 心底がっかりした、とばかりに。二重の意味で耳を疑う発言に固まる一同に、ヴォーパルは告げた。

 

 

 

「脆弱すぎて有底辺(うていへん)──もっと我をアゲアゲにしてみせろ」

 

 

 

「「「はい、コーチッ!」」」

 

 皮肉なことに、真っ先に本調子を取り戻したのは田中兄弟が用意した選手たち。彼らはドーピングと人類の到達点という二つの特性で強化された肉体で、ヴォーパルに躍りかかり──

 

 

 

「弱たにえん」

 

 

 

 そして彼の豪腕の一振りで、一人残らずバラバラに砕かれて果てた。

 

「他愛なさすぎてマジアリエンティ……嘆かわしい」

 

 準備運動は終わった、とばかりに大きく伸びをして。ヴォーパルはぎょろりとその眼球を、動けない槍の一族とフランス兵たちに向け──

 

 

 

「それで──お前たちが、我のテンションをファイナルスティック爆上げしてくれるのか?」

 

 

 

 ──そして、あまりにも絶望的な蹂躙は始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──フランス共和国軍、死者16名。負傷者37名。指揮官セレスタン・バルテは現在意識不明の重体。

 

 

 

 ──槍の一族、死者29名。負傷者5名。指揮官ヴラディスラウス・ペドロ・ゲガルドは現在心肺停止状態。

 

 

 

 

 

 

「人造戦闘生命体“ヴォーパル”──まさかこれほどまでとは」

 

 電光画面に表示された戦果に、プライドは驚嘆した。普通に戦えば自分たちでさえそれなりにてこずるだろう実力者をあろうことか二人を同時に下し、現在当の本人は()()()()()()()()アメリカを目指しているという。

 

「そりゃ、サーマン君が開発した『バグズデザイニング』の集大成だからね──最強の兵器に固執した彼が生み出した技術を、僕が『αESMOデザイニング』として魔改造したんだ。これくらいのこと、できないわけがないだろ?」

 

 いやそのネーミングはもう少しなんとかならなかったのか、と思わないでもないが。

 

 しかしプライドは、それを口にしない。そんな些細なことがどうでもよくなるほどに、ヴォーパルの戦闘能力は異常なのだ。

 

「人類最強が幸嶋隆成くんなら、生物最強は間違いなく『R』のヴォーパルさ──何しろ、材料からこだわってるからねぇ」

 

 そう言ってアダムは、ヴォーパルの肉体を構成する細胞の提供元リストを表示した。

 

 

 幸嶋隆成、水無月六禄、サウロ・カルデナス、染谷龍大、シルヴェスター・アシモフ、蛭間一郎、エレオノーラ・スノーレソン……そこに名前が挙がっている者たちは皆、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 彼らからひそかに採取した細胞を培養し、それを材料として造り上げた最悪の戦闘生物──それこそが、悪鬼ヴォーパルの正体である。

 

 

 

「いやぁ楽しみだなぁ」

 

 

 

 アダムは明るくそういうと、心の底から楽しそうに笑った。ニュートンの血を一滴も混ぜることなく造り上げた『最強』──その存在が、どれほどの痛し痒しを引っ掻き回すのか。

 

 混沌と化した盤面の行き末を、面白おかしく想像しながら。

 

 

 




【オマケ】他作品の登場キャラ紹介

ヴラディスラウス・ペドロ・ゲガルド(深緑の火星の物語コラボ編没案)
 ルイスの父親。魑魅魍魎の蠢くゲガルドの中でも屈指の良識人だった(ただし親馬鹿)。没ルートではルイスの死の真相を知らされ、オリヴィエからスタイリッシュ離反。クソガキなアダム・ベイリアル(幼女)、アストリス、アダムと共にフランスとフィンランド相手に二面戦争に臨む。無茶すんなパパ、死ぬぞ。

セレスタン・バルテ(インペリアルマーズ、裏設定)
 フランス共和国親衛隊第二歩兵連隊長。オリアンヌをししゃもさんが、フィリップを作者が作ったことから、せっかくだし元ネタ作者の連隊長も見たいなー(チラッ)とやったところ、逸環さんが書き下ろしてくれた。マジ感謝。
 水無月六禄の孫の一人で、妻と愛人と子供がいるパパ。クソうらやましい。戦闘はオリアンヌと双璧をなすフランス共和国親衛隊の最強で、武術で彼の上をいくものは軍内にはほぼ存在しない。



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登場人物紹介(白陣営)

エメラダ・バートリー ♀

 

国籍:アメリカ合衆国 年齢:19歳 身長:156cm 体重:49kg

 

αMO手術ベース『昆虫型』:ヒトスジシマカ

 

専用武器Ⅰ:体内内蔵型病原体保管・培養装置 『SYSTEM(システム)Mouth of Madness(マウス・オブ・マッドネス)

 

専用武器Ⅱ:羽音感知式病原媒介・病状操作ナノマシン 『SYSTEM(システム)Mana- Yood-Sushai(マアナ・ユウド・スウシャイ)

 

裏マーズランキング:1位(同率)

 

好きなもの: ダリウスの手料理

 

嫌いなもの:人間

 

瞳の色:赤

 

血液型:AB型

 

趣味:読書、花嫁修業

 

特技:ダリウスのプロフィール暗唱

 

誕生日:8月31日(おとめ座)

 

ブロンドの髪にそばかす、血のような赤い目といった特徴を持つ少女であり、『白の女王(クイーン)』。裏アネックス計画において、北米第一班の幹部候補としてダリウスと共に名前が挙がっていたが、味方を巻き込む上に制御が効かない特性と本人の極めて攻撃性の高い性格を受け、計画への参加は見送られていた危険人物。

基本的に誰に対しても無関心であり周囲との会話は必要最低限、しかも言葉遣いは非常に刺々しい。唯一ダリウスに対してのみその言動は柔らかな少女のものとなる。

 

 女殺人鬼(レディ・オースティン)の通り名を持ち、殺人鬼ダリウス・オースティンの模倣犯としてアメリカでは有名な死刑囚。米メディアでは「多感な時期にショッキングな事件を経験した少女による衝動的な犯行」として扱われているが、実態としては「初恋の人と結ばれるため」に自らの意思で行ったもので、その犯行は儀式殺人的な意味合いが強かった。

 

 ベースはヒトスジシマカ。口吻の槍、熱探知、ある程度の速度での飛行などの他に、専用武器によって体内で様々な病原菌を保管・培養し、それをナノマシンと共に散布することで病気を操作する特性を持つ。エメラダは羽音でナノマシンに信号を送ることで病気の感染・発症・進行・治癒をある程度制御できるが、完全に制御は難しく、更に本人にもその気がないため極めて危険な能力となっている。

 ちなみにナノマシン単体での運用も可能で、簡単なハッキングや筋肉の痙攣などを引き起こすことが可能。

 

 再投獄後、ダリウスとはしばしば手紙のやり取りをしているようだ。月に一度、U-NASAの北米第一班の待機所には段ボール箱一個分の手紙が届いて班員たちをドン引きさせている。もっとも受け取り主は苦笑しながらも一言一句きちんと目を通しているようで、一度副官に「この調子なら更生の余地ありってことで、対闇MO手術戦のエージェントとして起用されるかも」と語っている。

 

 アメリカ法務省の発表によれば、2620年の年末に死刑執行されたとのこと。もっともこの期を境に、彼女によく似た容姿の人物の目撃例が裏社会で上がっており――真相は闇の中である。

 

 

 

 

 

ルイス・ペドロ・ゲガルド ♂

 

国籍:スペイン 年齢:25歳 身長:182cm 体重:82kg

 

αMO手術ベース『魚類型』:”オニダルマオコゼ”

 

MO手術ver『Doppelgänger(ドッペルゲンガー)』ベース『哺乳類型』:”ヒト(オリヴィエ・G・ニュートン)”

 

裏マーズランキング:該当なし(裏マーズランキング6位相当)

 

専用武器Ⅰ:対生物コーティング式西洋槍試作機『インヌメルム・ロンギヌス』

 

専用武器Ⅱ:体色連動式極薄リキッドアーマー 『SYSTEM(システム)Glaaki(グラーキ)

 

好きな食べ物:手術前:パエリア 手術後:魚料理全般

 

嫌いなもの:偉そうに自分を見下してくる従妹

 

瞳の色: 青

 

血液型:B型

 

趣味:政治評論

特技:裁縫

 

誕生日:3月5日(うお座)

 

 金髪と鋭い目つきが特徴の美青年であり、『白の城塞(ルーク)』。平時はヨーロッパ方面で活動する他の一族たちに睨みを利かせており、有事の際には槍の一族の急先鋒として主君たるオリヴィエの障害となるだろう人間の排除に動く。

 

性格は傲慢で他人を見下しがち、しかも露骨にそれを態度に出す。ただし他者への評価は(※従妹を除いて)色眼鏡を通さずに行うため、分析や評価能力は高い。また曲者揃いの白陣営をまとめ上げていた手腕からも分かる通り、指揮能力にも長ける。

 

先代のゲガルド家当をして「希维が当主を務め、ルイスがその補助に回れば今代のゲガルドは盤石」と評価する逸材だが、相性の問題で両者の中は極めて悪い。当主の座をかけた決闘でルイスが希维に敗北を喫してからは更に悪化し、顔を合わせれば殺し合いに発展しかねないレベル。

 

 彼女が右といえばルイスは左、彼女が白を選べばルイスは黒を選ぶ。ただしオリヴィエの愛娘であるリンネ絡みのことだけはやたら意見が一致する。

 

 

 

 

 

ブリュンヒルデ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル・アポリエール

 

国籍:ドイツ 年齢:52歳 身長:167cm 体重:98kg

 

αMO手術ベース『昆虫型』:”コマユバチ”

 

専用武器:対人心臓埋め込み型毒素放出装置『SYSTEM(システム) Eihort(アイホート)

 

好きな食べ物:手術前:チョコレートケーキ 手術後:肉団子

 

嫌いなもの:小銭を触ったとき指先に付着する金属の臭い

 

瞳の色:濁った緑

 

血液型:A型

 

趣味:人形集め

 

特技:金銭勘定

 

誕生日:10月4日(てんびん座)

 

『白の僧侶』。ド派手でけばけばしい衣装に身を包んだ中年女性で、漫画に出てくるマダムのような口調でしゃべる。

 

 ニュートンの分家たるアポリエールの信徒の一人。各地で教団が活動した際の事後処理をしており、特に『アポリエール家を襲った最初の悲劇』の際には事態の隠蔽に大きく貢献。その経緯で上級司祭にまで上り詰めた。また意外にも交渉能力にたけ、オリヴィエの手引きで『赤の枢機卿』アヴァターラ・コギト・アポリエールが開放される際には、彼の補助人員を務めている。

 

 見た目からも分かる通り超が付くほどの浪費家であり、何かにつけて金銭や見返りを要求する強欲で図々しい性格。その要求はとどまるところを知らず、アメリカの一等地にプール付きの別荘を要求した時には、饒舌で有名なロドリゲス卿が冗談一つ言わずに無言でひっぱたいた。

 

 

 

 

 

ワルキューレ ♀

 

国籍:なし(製造元:ロシア連邦) 年齢:14歳(享年) 身長:150cm 体重:60kg

 

αMO手術ベース『鳥類型』:”ワタリガラス”

 

好きなもの:なし

 

嫌いなもの:心臓の鼓動の音

 

瞳の色:空色

 

血液型:B型

 

趣味:なし

 

特技:なし

 

誕生日(製造日):8月8日(しし座)

 

 ロシアの研究所でMO手術の素材にするために作りだされたクローンの成れの果て。総勢24名からなるが、物語開始時点で自我が残っているのは“ヒルド”と“ヘリヤ”のみ。特に会話するほどの気力が残っているのはヒルドだけだった。

 

 αMO手術の施術で失敗したクローンの中でも『αMOの定着までは上手くいった』個体たちであり、アポリエールの戦力を探していたブリュンヒルデに目を付けられる。彼女に疑似的な不死を与えられたことで死ねない(=必ずMO手術に成功する)特性を付与されたうえでαMO手術を施術され、アポリエールの航空戦力たる『天使部隊ワルキューレ』となった。

 

 本来の彼女たちは温厚で心優しい性格だが、ブリュンヒルデのことだけは大嫌い。彼女への悪口だけでしりとりができるレベルである。

 

 

 

 







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絶対凱歌EDGAR-1 漆黒前夜

 ──痛し痒し開戦から遡ること一か月。

 

 アメリカ国防長官であるデイビッド・ジョーンズはその日、シャルル・ド・ゴール空港からフランスへと降り立った。

 

 海千山千、幾多の修羅場をくぐりぬけた政府の重鎮たる彼が身に纏うのは、政府高官に相応しい高級スーツ。それを上品に着こなし、凛然と歩みを進めるその姿勢はエリートそのものだ。周囲を警備するシークレットサービスたちも合わさって、非常に物々しい雰囲気である。しかし彼らの動きはまるで、人目を避けるかのようにこそこそとしたものだ。

 

「こちらへ」

 

 SPに案内されて乗り込んだ送迎用の車のドアが締められ、数秒の間を空けて、車は音もなく走り出す。誰に見咎められることもなく車が空港を後にしてようやく、デイビッドはため息をついた。

 

「大変ですな、国防長官」

 

「……誰のせいだと思っている?」

 

 うんざりしたように彼が返すと、その隣に座っていた黒人系の男性が口元に笑みを浮かべる。スーツ越しにもわかる筋肉質な肉体は、素人目に見ても彼が手練れ以上の実力を持った戦闘員であることを感じさせた。

 

「誰のせいかと言われれば、貴方の気疲れの要因は間違いなく、エドガー・ド・デカルトでしょう」

 

「全くその通りだが、その厄介ごとを持ち込んできたのはお前たちだろう? 身内の揉め事に我々を巻き込んでくれるな、ケンロック」

 

「おや、心外ですね。我々が教えなければ早晩、アメリカは滅んでいたかもしれないというのに」

 

 デイビッドの言葉にそう返し、黒人系の男──アラン・ケンロックは口元に笑みを浮かべた。

 

「しかも情報を提供するだけでなく、こうして逆転の一矢をつがえる補佐までしているのですから。感謝されこそすれ、恨み言を図れるいわれはありませんね」

 

「フン……」

 

 そんな彼から面白くなさそうに視線を逸らすと、デイビッドは鼻を鳴らした。食えん奴だ、と心の中で毒づく。

 

 ──世界の裏側で暗躍するニュートンの血族たち。

 

 オリヴィエが率いる槍の一族でも、エドガーが率いるデカルトでもない、ジョセフ率いる本家ニュートンの使者がアメリカ合衆国に接触してきたのは、つい先日のことだった。

 

 ミルチャと名乗った浮浪者風の男が言うには、「近いうちにアメリカ全土を戦場とした陣取り合戦が行われる」と。その戦争はオリヴィエ・G・ニュートンとエドガー・ド・デカルトという、ニュートンの中でも異端視される怪物たちによって引き起こされる可能性が高いだろうと。

 

 情報の裏取りにそれほど時間はかからなかった。はじめのうち、ミルチャの言を信じようとしなかった上層部がCIAやFBIを通じて情報を集めれば集めるほど、その情報の正確さが浮き彫りになっていったのは何という皮肉だろうか。

 

 出そろった情報はグッドマン大統領をはじめ、政界の重鎮たちが重い腰を上げるのに十分すぎるものだった。求められるのは迅速な対応──その一環として、デイビッドはフランスに送り込まれた。

 

 メディアには公表されていない、非公式な彼のフランス訪問。その最大目的は、エドガーによるアメリカ侵攻への牽制にある。

 

「心配いりませんよ、国防長官。貴方がこれからお会いになる“彼女”の情報は既に調べ尽くしています」

 

 彼の護衛としてミルチャから派遣されたアランは、しかめ面を崩さないデイビッドの気をほぐすように語りかける。

 

「フランス共和国軍の最高司令官(統合参謀長)、ステファニー・ローズはエドガー嫌いと愛国家で有名です。彼女の嫌悪とフランスへの愛郷心を煽れば、協力を取り付けることはさほど難しくはない。カモがネギを背負っているような相手だ」

 

 実に簡単な仕事でしょう、とアランは笑う。

 

 デイビッドはその言に顔をしかめながら、車窓から流れるパリの景色を眺めた。何も知らずに暮らすパリ市民──その呑気さに、少しばかり苛立たしさを覚えながら。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「ようこそ、ジョーンズ国防長官」

 

 パリから少し離れた町、ヴェルサイユにある小さなホテル。会談の会場に到着したデイビッドたちを出迎えたのは、鉄面の如く硬い表情を保つ金髪の美女だった。

 

 フランス共和国統合参謀長、ステファニー・ローズ。

 

 彼女こそ、フランス共和国大統領でもあるエドガー・ド・デカルトを除いて唯一、フランス共和国軍全隊を指揮する権利を有する人物。軍事の世界で見ればまだまだ若輩といえる年代ではあるが、その差配はまるで機械のように的確で、熟練の軍事研究家をして舌を巻くほどであるという。

 

 本人の美貌と苗字、そして隙も容赦もない手腕から『鋼鉄の薔薇』の異名をとる女傑である。その呼び名に違わず、本人が纏う気配も高貴な花のように近寄りがたいものだ。

 

「お会いできて光栄です」

 

「私もですよ、ローズ統合参謀長」

 

 だがデイビッドもまた、魑魅魍魎の蠢く世界で生き抜いてきた猛者である。ステファニーの気配に気圧されることなく、彼女が差し出した手を握り返す。笑顔の仮面で真意を覆い隠し、素早くデイビッドは周囲を観察する。

 

(……なるほど)

 

 ステファニー側の護衛は男性の軍人が一人だけ。極秘裏の会談というこちら側の意図を汲み、必要最低限を選抜してきたのだろう。しかしたった一人と侮ることはできない──デイビッドはこの男の顔に見覚えがあった。

 

 

 

 フランス共和国親衛隊第二歩兵連隊長、『衛士長』セレスタン・バルテ。

 

 

 

 数年前のフランスで勃発しかけた『最悪の革命』を未然に防いだ立役者であり、白兵戦において軍内屈指の実力者。彼が護衛を務めているとなれば、こちらは迂闊な行動がとれない。

 

(だが──()()()()()()()()()()

 

 それは決して、侮りや軽視から出た所感ではなく。正しく論理的な思考に基づいた分析の下、デイビッドはそう判断した。

 

『フランスの三枚盾』の異名と共に、彼らが健在の内パリは落とせないとまで謳われる三人の共和国親衛隊の連隊長。しかしそれはあくまで、『三人揃えば』の話。三枚盾の一人“オリアンヌ・ド・ヴァリエ”はこの場におらず、もう一人の“フィリップ・ド・デカルト”は1年前に事故でこの世を去った。

 

(一人だけならば、どうとでもなる)

 

 セレスタンはまごうことなき強者であるが、手に負えない程に非常識な戦闘力ではない。こちらが用意した戦力で十分に足りるだろう。

 

 デイビッドが席につけば給仕の男が進み出て、彼とステファニーの前に置かれたティーカップにポットから紅茶を注ぐ。ちらりとデイビッドが背後を見やれば、アランは静かに頷いた。

 

 αMO手術により、平時から特性の一つである鋭敏な嗅覚を発揮しているアランのお墨付きである、毒物の心配はないだろう。それを確認したデイビッドがティーカップに口をつける。茶葉の上品な味わいと柑橘の酸味が舌に心地よく、飲み下したのちに味わいが後を引かない。世辞抜きに上等な紅茶であると言えた。

 

「なんとも爽やかな飲み心地、美味ですな」

 

「そう言っていただければ、こちらも用意した甲斐があるというものです。気に入ったのなら、お土産としていかがです?」

 

 デイビッドの称賛にステファニーは、無表情を崩さないながらも穏やかな雰囲気で返す。鋼鉄などと言われているが、言われるほどにとっつきにくい人間でもないらしい。穏やかな空気で始まった会談、楽観視は決してできないが、この調子ならば最低限の役割は果たせそうだ。

 

「ああ、それでは世間話もほどほどにして、本題に入らせていただきますが──」

 

 そう考えたデイビッドが口を開こうとした、その瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「断る」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ステファニーの口から、およそ会談の場に似つかわしくない強い言葉が放たれたのは。

 

「……は?」

 

「聞こえませんでしたか? 『断る』と申し上げたのです」

 

 思わず間抜けな声を上げたデイビッドに、ステファニーは機械のように淡々と返した。その顔に先ほどまで見せていた穏やかさは微塵もなく、ただひたすらに鉄仮面の如き無表情のみがあった。険悪な雰囲気を感じ取ったアメリカ側の護衛たちが、懐に潜ませた薬へと手を伸ばす。

 

「……国防長官はまだ、何も言っていませんが?」

 

 背後に控えていたアランが口を挟む。しかしそれにも怯まず、ステファニーは相変わらず変化のない表情で視線だけを動かして告げる。

 

「一護衛の身で要人同士の会談内容に口を挟むとは……ケンロック家では、よほどの世間知らずがマナー講師をしているようだ」

 

「ッ!? 私の身元を……!?」

 

 アランは思わず顔を強張らせた。そう、この場において自分はただの護衛にすぎない──その自分の身元を、なぜこの女が知っている!? 

 

 驚愕するアランの前でステファニーは目を閉じ、口を開く。

 

「アラン・ケンロック──身長177cm、体重89kg。瞳の色は青、アメリカ合衆国オレゴン州に本籍を持ち、本妻以外にマレーシア、イタリア、香港に愛人が1名ずついる。子供は8名、うち1人は五年前に他界している。他の一族の人間と違って目立った功績こそないが、学生時代にヘビー級ボクシングの世界チャンピオンを相手に野良試合で勝利するほどの実力者だそうだな? 大学卒業後にミルチャ・フォン・ヴィンランドにその腕っぷしを買われてエージェントまがいの仕事をしていると聞く。

 αMO手術のベースは“哺乳類型”アカカンガルー。戦闘スタイルはベースと特技の相乗によるボクシングスタイルで──」

 

「やめろッ!!」

 

 暗唱するようにスラスラと垂れ流される個人情報を遮るように、アランは声を荒げた。それを見たステファニーは、もはや彼を歯牙にもかけていないとばかりに視線と話を戻した。

 

「お前たちの狙いは大統領と対立する私を懐柔し、あわよくば私ごとフランス軍を寝返らせることだな? 確かに大統領といえど、自国の軍が一斉に寝返ったとなれば、さすがに冷や汗の一つくらいはかくだろう。なるほど、悪くない……あの男の泡食った顔、一度は見てみたいものだ」

 

「ならば!」

 

 テーブル上のティーカップを手に取るステファニーに、デイビッドが声を荒げた。

 

「ならばなぜ、我々と手を組まない!? そんなに、自分の立場を失うのが惜しいのか!?」

 

 

 

 

 

 

 

「──侮辱も大概にしろ、老いぼれ」

 

 

 

 

 

 どこまでも怜悧に吐き捨て、ステファニーはカップに注がれた紅茶をテーブルの上にぶちまける。会場内の空気が、急速に凍り付いた。

 

「私と大統領が不仲なのは、確かにまぎれもない事実。フランス国民の健やかな営み、先人が積み重ねた長き歴史、その全てを己の踏み台としか見ない姿勢は実に不愉快。だが──奴は全国民が見守る中で、フランスの永世繁栄を約束した」

 

 沈黙の中でステファニーは静かに告げる。

 

「例えその動機がどこまでも傲慢な我欲にあろうと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。GDPの四年連続向上、金融危機へのいち早い対処、福祉支援制度の充実化──頭がお前たちに据え変わったところで、これ以上の成果を出すことができるか? この事実が揺るぎない限り、私は奴が神だろうと怪物だろうと喜んで尻尾を振ろう」

 

「ば……馬鹿げている! そのために、どれだけ罪のない人間を踏みにじるつもりだ!? 犠牲の上にもたらされる繁栄ほど虚しいものはない!」

 

「見解の相違ですな。真の平和は屍を糧に育まれるもの──どんな犠牲も、繁栄を思えば軽い」

 

 ステファニーの言葉に歯を食いしばるデイビッド、目を見開くアラン。彼らの誤算はただ一つ、ステファニーがエドガー嫌いであるという事実のみに着目し、彼女の並外れた愛国心を軽視したことだ。

 

 フランス国民にあらねば人にあらず、とは言わない。しかし彼女は「フランスのために100万の人間を殺せ」と言われれば、躊躇わず100万の命を地球上から消し去ることができる人間である。

 

 その機械的なまでに冷静で合理的な思考回路と、圧倒的なカリスマを前にしても塗りつぶされることなき愛国心。この二点のみを以てステファニー・ローズは数いる人材の中から選ばれ、エドガー・ド・デカルトよりフランス共和国軍の全軍の司令官を拝命されているのだ。

 

「もういい、失礼するッ!」

 

 ついにデイビッドは、椅子を蹴って立ち上がった。あちゃあ、とばかりに頭を振るアランの前で、彼はくるりと踵を返して出口へと向かう。

 

「おや、どちらへ? まだ会談の終了予定時刻までは大分時間はありますが」

 

「これ以上話すことなどない! 今回の会談の結果はありのまま、グッドマン大統領に報告させてもらう! お前も、気狂いのエドガーも! いずれ正義の報いを受けることになるだろう!」

 

「おや、それは恐ろしい。もっとも──」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「それは皆さまが無事に帰れれば、の話ですが」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ、国防長官!」

 

 咄嗟に叫び、アランはデイビッドに覆いかぶさるように彼を床の上に押し倒した。それと同時、広間と廊下を隔てていた壁が轟音と共に吹き飛んだ。

 懐に忍ばせた変態薬へと手を伸ばす眼前、巻き上がる塵埃の向こうから、その蛮行をなした張本人が姿を見せた。

 

「──今の言葉、聞き捨てならんぞ賊軍ども」

 

 それなりの身長を持つはずのアランですら見上げるほどの巨体を有する女性だ。その肉体には無数の古傷が刻まれ、降りぬかれた腕はおよそ女性らしからぬ無骨な筋肉に覆われている。

 

「エドガー様を狂人扱いするなど無礼千万、万死に値するッ!」

 

「オリアンヌ・ド・ヴァリエだと……!?」

 

 フランス共和国親衛隊第一連隊長、『近衛長』オリアンヌ・ド・ヴァリエ。

 

 セレスタンと並び、フランス共和国親衛隊中でも最強と言われる女戦士がそこにいた。

 

「馬鹿なッ! この時間はエドガーの護衛任務に就いているはず──」

 

「エドガー様より緊急の任務を拝命した! 『ヴェルサイユのあるホテルに急行し、不法入国した羽虫どもをねじ伏せよ』と!」

 

「不法入国だと……!?」

 

 猛々しく咆哮するオリアンヌの言葉を聞き、アランは全てを察した。()()()()()()()()()()()()()

 

 流されてきた情報を得て、自分たちがどのように行動し、そして交渉が決裂するという結末に至るまで。全て全て、敵が描いたシナリオをなぞるように踊らされていたのだと。アラン・ケンロックはここに至って、ようやく理解する。

 

「オリアンヌ、今の話は本当か?」

 

「当然です、統合参謀長。俄かには信じがたいことですが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!」

 

「なるほど。それが事実であれば非常に由々しき事態ですな、ジョーンズ国防長官?」

 

 ステファニーは冷ややかに、そしてどこか白々しく言葉をつづけた。

 

「申し訳ないが、すぐにお帰りいただくわけにはいかなくなりましたな。いやなに、そうお時間は取らせません。なにせ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。貴方がたが正規の手段で入国していれば、何の問題もない話です」

 

 蒼白になったデイビッドと対照的に、アランの顔が憤怒で赤く染まる。正規の記録など残っているはずがない──この会談は公になっていない極秘裏のものなのだから。

 

 このまま座して待てば、待っているのは投獄──下手をすれば、自分たちの存在を建前とした世界大戦の勃発。いずれにしても、ただ無為に敵の策にはまるわけにはいかない。

 

「全員変態ッ! 半分は俺と国防長官をホテル外まで護送! 残りは足止めだ!」

 

 アランの掛け声で、ニュートンから派遣された腕利きの護衛たちは即座に己の肉体に薬を投与する。

 

「あくまで抵抗するというのならば是非もなし。オリアンヌ、セレスタン。フランスに刃向かう蛆虫どもを潰せ──有象無象は殺して構わんが、国防長官だけは生かして捕らえろ」

 

 変態し、アメリカの護衛たちがまさに牙剥かんとするその様を目の当たりにしても、ステファニーの余裕は損なわれない。

 

 冷静に下された指令に応え、オリアンヌとセレスタンもまた投薬によって、その身に埋め込まれた太古の因子を呼び覚ましていく。

 

 それを目にした護衛の一人、両腕を大鎌に変異させた男が目にもとまらぬ速さでオリアンヌへと接近した。

 

 ミルチャからの情報によれば、彼女の肉体に組み込まれたベース生物は非常に特殊勝つ強靭なものらしい。正面から戦うなど愚の骨頂──完全に変態しきる前に胴を裂き、息の根を止める! 

 

「シャッ!」

 

 男は右腕の鎌を、オリアンヌの首筋目掛けて振りぬく。そして──

 

 

 

 

 

 ──ゴツッ。

 

 

 

 

「あ──?」

 

 男の手に伝わってきたのは、予想だにしなかった感触。肉を断つような軟な感覚ではなく、まるで岩を相手に一閃を打ち込んだかのような抵抗感だった。

 

 何が起こったのか? その答えを男が知ることはなかった──オリアンヌが振るった剛腕によって、思考をするための脳ごと頭部が砕かれたためである。次いで突進してきた甲殻型と思しき男を、まるで目障りな蠅でも殺すかのように甲殻ごと叩き潰し、オリアンヌは生き残った二人の護衛を睨みつける。

 

 その全身はごつごつとした分厚い装甲に覆われ、左腕に形成された鉄槌の如き瘤状の鈍器は2人分の人間の血と肉片で赤く染まっている。

 

「終わりか? ──ならば、こちらから行くぞ!」

 

 オリアンヌはそういうや否や、鈍重そうな見た目からは想像がつかない機敏さで床を蹴った。

 無論、彼女に相対する護衛たちもニュートンの端くれ。ただ黙って殺されるのを待っているほど無能ではない──だがそれでも、弛まぬ本人の努力で磨き上げた地力と、ベース生物の強度の差は覆しがたかった。

 

「このオリアンヌ・ド・ヴァリエがある限り! 何人たりともエドガー様とフランスを汚すことはできないと心得よッ!」

 

 あまりにも暴力的に破壊された四つの死体。その中に立つ近衛長は返り血に塗れながら、勝利の雄たけびを上げるように吠えた。

 

 

 

 

 

「そら、どうしたどうしたァ!」

 

「ぐ、ぬゥッ……!」

 

 頸椎を目掛けて舞うように軽やかに、しかし鋭く繰り出されるセレスタンの蹴り。それを紙一重で躱すと、アランはバックステップで背後へと下がった。

 

 既に投薬によって、αMO手術のベースであるカンガルーの特性は万全に発現している。いかに特殊なベース生物といえど、術式自体は通常のMO手術から大きく逸脱するものではない。出力面で見れば完全にこちらに分があるはずだが、実際の戦況はアラン側が大きく不利だった。

 

「聞きしに勝る戦闘力……! ニュートンでもない人間と思って侮っていたが、ここまでとは……ッ!」

 

「あいにく、血筋だけで他人を見下す奴に負けるような鍛え方はしてないんでね」

 

 皮肉交じりに返したセレスタンの体は鳥のような羽毛に、その下の地肌は爬虫類のような鱗に覆われている。しかしそれ以上に特筆すべきは、手足から伸びるナイフのように鋭い牙だろう。

 

(厄介だな……!)

 

 アランは内心で舌打ちする。現生の鳥類には見られない器官には、強力な麻痺毒が滲んでいるらしく、既に二人が戦闘不能に追い込まれている。ほんのかすり傷であっても致命傷になりかねない毒を仕込んだ牙を、セレスタンは手足の至る箇所から出現させることができる。

 

 甲虫や甲殻類のような防御に特化したベースならばいざ知らず、哺乳類型の自分が彼の一撃を受け止めるのは自殺行為だ。

 加えて戦闘が長引けば長引くほど、自分は傷を負い毒の餌食になるリスクが高まっていく。セレスタンの使用武術であるサバットは足技中心の格闘術。拳撃中心のボクシングとはリーチの面でも相性が悪い。

 

「──なら、短期決戦しかないよな!」

 

「ッ!」

 

 言うが早いかアランは大きく跳躍する──その身に宿るαMO、アカカンガルーの脚力だ。急速に間合いを詰めるアランにセレスタンは蹴りを放つが、その一撃は全身の体重をも支えるカンガルーの尻尾によって受け流される。

 

「しまった──!」

 

「討ち取ったり、セレスタン・バルテ!」

 

 アランは既に蹴りの間合いから拳の間合いへと侵入している──この距離から一撃をたたき込めば、確実にこの男を戦闘不能に追い込める。

 

 アカカンガルーの特性を相乗した、一撃必殺の右ストレート。アランの拳がセレスタンの顔面へと迫り──。

 

 

 

 

「──なんてな」

 

「ッが!?」

 

 次の瞬間、アランの胴体が地面に叩きつけられ、その首が180°回転した。ゴギリ、という鈍い音共にアランの目があらぬ方向を剥き、一瞬の間をおいて全身からぐったりと力が抜ける。首にかけていた腕を外し、セレスタンはふぅと息を吐いた。

 

 セレスタンが使用するもう一つの武術、プンチャック・シラット。その投げ技を応用した殺傷術である。いかにニュートンの人間といえど、首をへし折られ、心臓を潰されてなお生命活動を続けることはできない。ベース生物によっては例外も存在するが、哺乳類型では不可能だろう。

 

 一仕事終えた、とばかりに肩を回すセレスタンの背後に、ぬっとオリアンヌが近づく。

 

「終わったか」

 

「いつも通りにね。そっちもお疲れ様、オリアンヌ」

 

 振り向いたセレスタンはオリアンヌとハイタッチを交わし、顔を見合わせて不敵な笑みを浮かべる。その光景はただの同僚を越えた繋がり──戦友としての二人の絆の強さを感じさせるものだった。

 

 

 

「……友情を確認しあっているところ悪いが」

 

 

 

 いかにも満足げなオリアンヌとセレスタンに、ステファニーは底冷えする声で告げる。表情からは分かりづらいが、どうやら何か怒っているらしい──それを察した二人はすぐに姿勢を正して、彼女の次の言葉を待つ。

 

「私が貴様らに何を命じたか言ってみろ」

 

「はっ! フランスとエドガー様に盾突く蛆虫を潰せと仰りました!」

 

「有象無象は殺しても構わない、って話でしたよね?」

 

「ああ、確かにそう言った。そしてこうも命じたはずだ、『国防長官は生かして捕らえろ』と」

 

「「……」」

 

 二人そろって「あ、やべっ」的な表情で気まずそうに黙り込んだ瞬間、統合参謀長は頭痛のする思いで額に手を当てた。オリアンヌとセレスタンは両名ともフランス共和国親衛隊が誇る最高戦力だが、その一方で戦闘が白熱すると周囲が見えなくなる悪癖がある。無論、誰にでも長所と短所は存在するものであり、両者の長所はそういった頭脳面ではないのだが……それにしても、もう少しなんとかならないものだろうか。

 

「まーまー、統合参謀長。そんなに怒らないでって」

 

 と、そんな血生臭い空間を満たす気まずい沈黙を破る、朗らかな声が響いた。三人の目に映ったのは、中折れ帽にスーツという洒落た格好をした伊達男だ。

 

「護衛の二人はちゃんと始末したし、国防長官は俺の方でちゃんと確保した。任務としてはなーんにも問題ないはずだよ」

 

「……問題は大有りだが今回は大目に見るとしよう。ご苦労、フィリップ」

 

 表情は崩さないながらも胸をなでおろしたステファニーに笑みを返し、フィリップは右腕で引きずっていたものを床の上に転がした。

 

「っひ……!」

 

 それは蔦のようなもので縛り上げられた、デイビッド・ジョーンズだった。彼は歯の根をがちがちと鳴らしながら不自由な手足で後ずさり、必死でフィリップから距離を置こうとする。その事実に気が付いたオリアンヌが、怪訝そうに眉を顰めた。

 

「む、この男……何故こんなにも怯えている?」

 

「何故も何も、数分前まで生きてた腕利きの護衛は皆殺し。そのうえ、フィリップに捕まったってことは、間近で『アレ』を見たんだろ」

 

「ご名答。そのせいですっかり怖がられちゃってさ」

 

 フィリップはそう返すと、左腕で引きずっていたものを放り投げた。

 

 それは、人間大のカブトムシだった。

 

 冗談のような規格のそれは、ともすればパーティーグッズか何かにも見えるが、ところどころに残る人体の名残と直前に交わされた会話から、それが護衛だった男たちの末路であることは想像に難くなかった。

 

 もう一人の護衛の姿は見えないが、フィリップの言葉通りならば既に生きてはいないのだろう。そしてデイビッドの怯えようを見る限り、真っ当な最期を遂げられたとも考えにくい。

 

「惰弱だな。この程度でうろたえる程度の輩が、エドガー様に盾突こうなどと考えていたのか」

 

「お前基準で考えるなって、オリアンヌ。一般人なら漏らしても可笑しくないもの見せられてるんだからな?」

 

「オリアンヌたんは筋肉も思考もストイックだからねぇ、肩凝ってるんじゃない? ちょっと大円筋ほぐさせてよ。大丈夫、痛くしないから! むしろ気持ちよすぎて、雄々しいオリアンヌたんでも思わず艶めかしい声が」

 

「黙れフィリップ、潰すぞ」

 

「何を!?」

 

「そりゃお前、ナニだろ」

 

「いい加減にしろ、貴様ら。任務中に無駄話をするな」

 

 ぐだぐだと続きそうな三人の会話を強引に断ち切り、ステファニーは「さて」と視線を地面に転がされたデイビッドへと向けた。

 

「フィリップ、盤に上る前にもう一仕事頼みたい」

 

「御意に。して、俺は何をすれば?」

 

「アメリカ側への内通者の用意だ」

 

 フィリップの言葉に、ステファニーはそう言って、椅子から立ち上がった。

 

「大統領曰く、ゲームに持ち込める戦力には制限がかかっている。であるからして、その内通者は『戦力であってはならない』。しかし数十人で一国を落とすという馬鹿のような作戦で有効活用できる内通者となれば、『政府の中枢に近い者が好ましい』。もっというなら、『軍への影響力が強い人間』だ──おや、奇遇だな」

 

 ──ここに丁度いい材料がある。

 

 そう言ってステファニーは、自らを見上げるデイビッドを無表情で見下した。

 

「三日やる。大統領御自ら『尋問において並ぶものなし』と太鼓判を押したその腕で、この男を躾けてみせろ。四六時中その脳裏に三色旗がはためくように、寝ても覚めてもフランス国家(ラ・マルセイエーズ)の旋律が耳から離れなくなるように──この男にフランスへの奴隷根性を刻みこめ」

 

「……さすがに時間が短すぎる。『飴』は使わせてもらいますよ?」

 

「好きにしろ。使う時までもてばいい」

 

 その言葉に「了解!」と楽し気に返し、あれこれと洗脳プランを考え始めるフィリップと、それを呆れたように見つめるオリアンヌとセレスタン。彼ら三人を背後にステファニーは蒼白を通り越して色を失ったアメリカ国防長官の顔を見下した。

 

「聞いていただいた通りです、ジョーンズ国防長官。アメリカ合衆国(貴方がた)からの要求に、フランス共和国(我々)は何一つとして応じない。ですが──」

 

 

 

 そう言って彼女は、初めてその表情を崩す。それは『鋼鉄の薔薇』という彼女の通り名にふさわしい──

 

 

 

「──アメリカ合衆国(貴方がた)には、フランス共和国(我々)からのあらゆる要求を呑んでいただく」

 

 

 

 ──薔薇のようにかぐわしく、しかし鋼鉄のごとく冷徹な微笑みだった。

 

 

 

 




【オマケ① 仲良し】

ステファニー「三人ともご苦労。今日は退勤で構わん」

オリアンヌ「いかに統合参謀長の指示といえど従いかねます! 私はエドガー様の身辺警護に戻らせて――」

セレスタン「よーし二人とも、さっそく飲みに行きましょうすぐ行きましょう! メルシー、統合参謀長!!」

フィリップ「さぁオリアンヌたん、今夜は寝かせないぜー! ボルドーワインにカルヴァドス、めくるめく酒めぐりの旅が君を待っている!」

オリアンヌ「ええい貴様ら、やめろ!? 私が酒に弱いのは知っているだろう!? うおおおおエドガー様ああああああああァ!!??」ズルズルズル

ステファニー「……大統領の警護には代理を当てておいた、楽しんで来い(しかし気持ち悪いくらい仲いいなこいつら)」

※そして深緑の火星の物語コラボ11話回想シーンへ



【オマケ② その後のエリゼ宮殿】

千桐「……」シャカシャカシャカ

エドガー「……」

千桐「……」ヒョイパク、ズゾゾゾゾ

エドガー「……」

千桐「けふっ、我ながら結構なお手前で……あ、異常ありません大統領」←オリアンヌの代理

エドガー「統合参謀長。貴様、後で覚えておけよ?」

ステファニー「警護中に一人茶道に興じる素っ頓狂な人物だとわかっていれば、さすがにオリアンヌを帰したりしませんでしたよ」


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絶対凱歌EDGAR-2 凶刃喝采

「おいシュタイム、火ぃ貸せ。久しぶりに一服したい」

 

 虚空に向かって呼びかける。返事はない。当たり前だ。毎日のように喫煙室共にしていた同僚は一週間前、全身を蜂の巣にされて死んだ。

 

「にしても、病院生活はとにかく退屈だよなぁ。シャロッシュ、こういうときがお前の寒いジョークの活かしどころだろうが」

 

 虚空に向かって呼びかける。返事はない。当たり前だ。くだらないジョークを飛ばして自分たちを笑わせてくれた同僚は一週間前、銃で頭を吹き飛ばされて永遠にしゃべれなくなった。

 

「……隊長、なんか言ってくれよ。こいつら、あんたの命令じゃなきゃさっぱり動きやしねえんだ」

 

 虚空に向かって呼びかける。返事はない。当たり前だ。一癖も二癖もある自分たちを束ねていた上司は、爆弾を至近距離で喰らって腕しか残らなかった。

 

 

 

 ──ああ、くそったれめ。

 

 

 

 生真面目なアルバも、最近恋人ができたと喜んでいたハメッシュも、初任務に意気込んでいたシェシュも、先輩として軍人のイロハを教えてくれたシュモネも。

 

 

 

 もう誰もいない。

 

 

 

 俺だけが残されてしまった、俺だけが()()()()()()()()。その事実が、どうしようもなく重苦しい。

 

 もしも神様って奴が本当に要るのなら、そいつはきっとどうしようもない性悪に違いない。俺の大事なものを、取り返しがつかないほど滅茶苦茶に壊しておきながら──俺にそれを、手放すことさえ許さないのだから。

 

「……くそったれ」

 

 誰もが寝静まった深夜の病院のベランダで、こっそりと吸った煙草(アメリカンスピリット)の味は、生涯舌の上に残り続けることだろう。

 

 へばりつくような紫煙の苦さは、人生で最低最悪の味がした。

 

 

 

 

 

 ──それが彼、スレヴィン・セイバーの背負いし罪。

 

 

 

 

 

 死に損なった敗兵に科せられた、無慈悲にして悲壮なる十字架である。

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

「ッ!」

 

 意識を取り戻したスレヴィン・セイバーが真っ先に行ったことは、自らが置かれた状況のの把握であった。ここはどこだ? あれからどれくらいの時間が経った? 戦況はどうなっている? 

 

 上体を跳ね起こし、周囲に視線を走らせる。清潔感の漂う室内、どうやらここは屋内らしい。まずい、捕虜になったか──とスレヴィンは無意識に表情を強張らせたが、その直後に視界へと映り込んだ人物たちの姿にひとまず彼は警戒を解いた。

 

「ったく……やっと目ェ覚ましたか」

 

「──ミッシェルか」

 

 壁に寄りかかるように立っているのは、彼の幼馴染でもあるミッシェルだった。身体の至る箇所に包帯を巻いているが、特別重篤な傷や欠損は見受けられない。彼女が無事であるということは、少なくとも任務自体は成功したということだろう。

 

 通信が再途絶してからミッシェルたちがどうしていたのか、この場にいないシモンやダリウスがどうなったのか、例のテロリストたちはどうなったのか。

 

 覚醒したスレヴィンの脳裏にいくつもの疑問が浮かび上がり、しかし彼の口をついて真っ先に飛び出したのは現状を把握するための問いであった。

 

「俺はどのくらい寝てた?」

 

「私がこの病室に運ばれた時にはもういたから……ちょうど半日、ってところか?」

 

「……タチバナとルーニーはどうなった?」

 

「集中治療室だ。お前と違って再生能力があるベースじゃねえからな。なんとか持ち直したが──しばらく戦線復帰は難しいだろう」

 

 そうか、とスレヴィンは深く息を吐く。安堵が体に押し寄せ、どっと体を重くする。同僚の死を経験したのは一度や二度のことではないが、何度も経験したいものではない。特に立花東平とエリザベス・ルーニーはとりわけスレヴィンが目をかけている寮生でもある。彼らが無事と分かったことで、大きく肩の荷が下りたような気がした。

 

「起き抜け早々に悪いが、お前には聞きたいことがある──私たちとの通信が途絶してから、何があった?」

 

 ミッシェルが問えば、スレヴィンは怪訝そうに顔をしかめた。

 

「ここに来てから丸半日経ったんだろ? 報告はあがってねえのか?」

 

「U-NASAで襲撃を受けたことは聞いたが、報告してきたのは当事者じゃねえからな」

 

 だからお前の口から聞きたいんだ、とミッシェルはスレヴィンを見据える。

 

「お前らがここまで一方的にやられるなんて、どう考えても普通じゃねえ。少しでもいい、今は情報が欲しいんだ」

 

「……ま、どっちにしろ今できることもねえか」

 

 スレヴィンは起こした上体を背後の壁に預けながら呟く。ミッシェルの話を信じるのであれば、現在の自分たちは軟禁状態。それをどうこうする術など持ち合わせていないし、なにより事を起こすならば機を見計らわなくてはならない。

 

 ゆえに、スレヴィンは淡々と語り始めた。

 

 ミッシェルとの通信が途絶している間に何があったのか──死闘の裏側で起きていた、もう一つの死闘の推移を。

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

「くそっ、切れやがった!」

 

 U-NASAの寮監室内、スレヴィンは苛立たし気に通信機の電源をOFFにした。ちょうどミッシェルたちが狂人病の罹患者たちに襲われ、ダリウスの攻撃によって道を切り開いた直後のことだ。

 

 U-NASA寮監室──半ばスレヴィンの私室と化しているこの空間は、平時であれば大量のポルノ誌が詰まれ、特注の『ドリンク型免疫寛容剤』の空き瓶が転がり、自堕落な中年男性の見本のような部屋である。

 

「予想以上に敵の立て直しが早い……相当頭のキレるやつが指揮取ってやがるな」

 

 しかし今この瞬間、寮監室は疑似的な突入班と外部を繋ぐ中継本部としての機能を果たしていた。ポルノ誌は部屋の片隅に積み重ねられ、瓶はU-NASAに返却し、空いた空間にはパソコンを始め大量の通信機材やら、万一に備えての銃火器やらが並べられている。

 

 どこに内通者がいるか分からないが故の、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それがサイト―66攻略に当たってスレヴィンたちに任されていた役割だった。

 

「タチバナ、回線の復旧はできるか!?」

 

「……すぐには無理ですね」 

 

 隣で電子画面とキーボードを相手に四苦八苦する好青年──立花東平は、難しい表情で答える。

 

「第七特務の人の仕込みにも気付かれて、対策が上書きされたみたいです。時間があればあるいは……」

 

「けど、トーヘイ。ぐずぐずしてたら終わっちまうぞ?」

 

 東平の言葉に、彼の相棒を務めるエリザベス・ルーニーことリジーが声を上げる。

 

「万が一のときには、第七特務とか特別対策室の奴らにアタシたちが連絡してやらないとまずいんだろ? まぁ、ミッシェルさんがいる時点でその万が一もないとは思うけどさ」

 

「そうなんだよね……」

 

 困ったように眉値を下げる東平。こうなることはある程度予想はできていたものの、このまま手をこまねいているだけでは自分たちが外に残った意味がない。少しでも内部潜入をしている突入班の有利になるよう、積極的に動くべきである。

 

「……しゃーねーな。日米合同班の技術チームに協力を頼んでくる」

 

「いいんですか、寮監?」

 

 東平が驚いたようにスレヴィンを見つめる。アネックスの搭乗員であり優秀な技師であるとはいえ、彼らは軍人でもない一般人。それゆえに彼らを頼る、という選択肢を東平は真っ先に排除していたのだ。

 

「緊急事態だしな。あいつらなら信頼できるし、いざという時の裁量は俺に任されてる。んじゃ、ちょっと行ってくるわ」

 

 そう言ってスレヴィンが立ち上がった、次の瞬間。

 

 

 

 轟音と共に、建物が微かに揺れた。

 

 

 

「うわッ!?」

 

「なんだ!?」

 

「──ッ!」

 

 突然の事態に声を上げ、戸惑う東平とリジー。それと対照的に、スレヴィンの状況把握と行動は迅速であった。

 

 音の出どころは、寮棟のすぐ外──スレヴィンは半ば確信めいた最悪の予想が外れているように祈りながら寮監室のドアを蹴破り、玄関の外へと飛び出す。

 

 

 

「……クソが」

 

 

 

 彼の寮監室のドアを開けて真っ先に飛び込んできたのは、跡形もなく吹き飛んだ門や塀の残骸と()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 居眠りか、あるいは運転ミスか。なんらかの原因で発生した不運な事故──などと思えるほど、スレヴィンは楽観的ではない。すぐさま彼は、腰に下げたホルスターからU-NASA支給の拳銃『ファイブセブン・レプリカ』を引き抜く。

 

 スレヴィンの予想を裏付けるように、その直後、トラックの荷台から戦闘服に身を包んだ者たちがぞろぞろと降りてくる。軍人の突入作戦というよりは、ギャングのカチコミを思わせる威圧的で乱雑な動きだ。

 

 

 

「ターゲットはっけーん♡」

 

 

 

 その先陣を切るのは派手な金髪の女。豊満な肉つきだがその肢体はしなやかに鍛え上げられ、露出した肩には髑髏のタトゥーが彫り込まれている。薄化粧が施されたその顔は能面のように無表情。スレヴィンのことをまるで虫か何かのように見つめる眼差しは、とてもではないが堅気の人間には見えない。

 

「何モンだ」

 

 いつでも発射できるように銃を構えながら、スレヴィンは問う。目の前の女はもとより、その後ろに控える部下たちも相当な実力者であることは振る舞いから見て想像に難くない。油断すれば、こちらが狩られる。

 

「どーも初めまして、アタシはガンボルド・ゲレル。後ろの連中は『猛毒部隊(ポイズナス)』──って言えばわかるかしら?」

 

「……『黒幇(ヘイパン)』か」

 

 女──ゲレルの言葉に、スレヴィンは顔をしかめた。

 

 600年前、中華人民共和国で施行された悪法『一人っ子政策』の影響で爆発的に増加した『黒孩子(ヘイハイズ)』と呼ばれる無国籍児たち。

 

 彼らが寄り集まり、6世紀という長い時間と人口爆発という潮流の中で肥大化・強大化した中国系マフィアこそが『黒幇』。金になることならどんな悪事にも手を染める犯罪者集団である。

 

「はい、よくできました♡ 商売相手の中には、目障りな奴を消したいって顧客も少なくないのでね。アタシたちは金と引き換えに、ゴミ掃除をするお掃除屋さんってわけ」

 

「そうかい、だったら他所をあたれ。ウチのゴミは今朝出したばっかりだ」

 

 ゲレルの言葉にスレヴィンは皮肉交じりに返す。

 

「失礼な奴もいたもんだ。どこのどいつだ、頼んでもねえ清掃業者を送ってよこしたのは?」

 

「無駄ですよ♡ 我々が顧客の情報を漏らすことはない。そして更に言えば──」

 

 

 

 ──これ以上、貴方の見え透いた時間稼ぎに付き合う義務もありませんので♡

 

 

 

 そう言ってゲレルは、口元に三日月を描いた。

 

「U-NASAからの援軍を待ってるようだけど……我々は「速く、確実に殺す」がモットーの猛毒部隊♡ 助けが来る前に──貴方というゴミの掃除は終わっている」

 

 そう言ってゲレルは、胸元から通りだしたガム状の変態薬を口に放り込んだ。背後に控える彼女の部下たちもそれに追随するように各々の変態薬を接種していく。

 

 “ヒアリ”、“イエローファットテールスコーピオン”、“タイワンハブ”、“セアカゴケグモ”、“ツマアカスズメバチ”…… それらのベースに共通しているのは、そのいずれも生物大の時点で人体を害する毒を有し、『特定外来生物』に指定される危険生物たちであるということ。故に彼らは『猛毒部隊(ポイズナス)』。

 

 彼らが重きをおくのは戦闘力でも制圧力でもなく『殺傷力』──勝つ必要はない、標的を殺せさえするならば。故に彼らは『粛清部隊』。

 

「──さぁ出番ですよ、猛毒部隊♡ 黒の騎士(ナイト)として、給金分のお仕事はしなければ」

 

 猛毒を宿す軍勢を背に、額に六つの目を出現させたゲレルは淡々と告げる。黒い甲皮と体毛に覆われた腕より生えた、歪曲した毒牙が日光を浴びてギラリと光る。

 

 

 

 

 

 ガンボルド・ゲレル

 

 国籍:モンゴル

 

 MO手術ベース“節足動物型”

 

 

 

────── シドニージョウゴグモ ──────

 

 

 

 

 

「気が短いこった……ま、こんなもんかね」

 

 スレヴィンは呟くと、奥歯を強めに噛み締めた。カチリ──と、奥歯に仕込まれたスイッチが音を立て、電波を受信した腸内のカプセルから変態薬が放出される。服の裾からは薄灰色の触手が三本伸び、瞳孔の形状が微かに変化する。

 

「ふふ……算数もできないのかしら♡」

 

 応戦の構えを見せるスレヴィンを、ゲレルはせせら笑う。数の優位──それを確信しているが故の、揺るぎない勝利への自信の表れだった。

 

「たった一人で、私達とやり合うつもり?」

 

「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」

 

 だが、その事実を前にしてもスレヴィンの表情に焦燥はない。若くしていくつもの死線をくぐり抜けた彼は、毒の軍勢に不敵に笑んで見せた。

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 その刹那、スレヴィンの脇を高速で何かが駆け抜けた。電光石火──そう形容するに相応しい速度で以て、その人物は猛毒部隊の一人に肉薄する。

 

「あ? ──ぐべらッ!?」

 

 そして、猛毒部隊隊員の体は宙を舞った。真っ先に異変に気が付いた隣の隊員もその直後、鋭い打撃によって顎を砕かれて意識を手放す。

 

「リジーちゃん参上っ! のされたい奴からかかってきやがれ!」

 

 ボクシングスタイルでステップを切りながら、手術ベースたる『イエネコ』の特性を発現させたリジーが喜々として吠える。その頭部には猫耳が現れ、ズボンからはみ出した尻尾がご機嫌に揺れている。

 

「ッ、このアマっ!!」

 

 仲間がやられたことに激高した男が、リジーへと突貫する。大振りなその一撃を躱し、カウンターを叩きこもうとした彼女の顔面目掛けて、男は臀部から生えた尾の先端に付属する毒針を高速で繰り出した。

 

 イエローファットテールスコーピオン。

 

 世界で最も危険と称されるこの蠍の毒は、体長10cmにも満たない原寸大時点で、既に人を殺傷するほどの致死性を持つ。人間規格にまで巨大化したそれを、しかも顔面に受けたとなれば落命は避けられない。

 

 

 

「リジー!」

 

 

 

 ──ただしそれは「命中すれば」の話だが。

 

 少女の名を呼ぶ声と共に響いたのは、銃声。一拍の間をおいて、リジーの頭蓋を貫こうとしていた毒針は、蠍の尾ごと男の体から千切れ飛んだ。目を剥く男を拳で沈黙させ、リジーは口笛を吹いた。

 

「ナイス、トーヘイ! 助かったぜ!」

 

「あまり前に出すぎないで! カバーができなくなる!」

 

 遅れて現れた東平が叫ぶ。『ドブネズミ』の特性を発現させた彼は、拳銃による威嚇射撃でリジーの援護をしながら、スレヴィンへと告げた。

 

「寮内の非戦闘員の避難は完了! すぐにU-NASAの応援も駆け付けるそうです!」

 

「よくやった、タチバナ!」

 

 ゲレルは一つだけ、読み違いをしていた。スレヴィンが待っていたのはU-NASAの増援などではない、この二人だったのだ。

 

 地球で有事が発生した際のバックアップ人員『スカベンジャーズ』。先日結成されたばかりのコンビであるが、中々どうして息があっている。まだ一つ任務をこなしただけの新兵だ──などと彼らを侮る気持ちは、スレヴィンの中に欠片も存在しない。彼らならば、背中を任せられる。

 

「俺はあの女を()る、他の連中は任せた! 死にたくなかったら、連中の一撃も喰らうな!」

 

「「了解!」」

 

 同時に返した二人が果敢に挑みかかり、猛毒部隊たちが怒号を上げて彼らを迎え撃つ。

 

 

 

「……それで? 片付けるゴミが増えただけでしょう?」

 

 

 

 乱戦の様相を呈し始めた戦場。その中心でスレヴィンとゲレルは対峙した。じりじりと間合いを詰め、両者は攻撃のタイミングを計る。

 

「まとめてこの世からポイして、それでおしまいです♡」

 

 先に攻勢に転じたのは、ゲレルだった。彼女は低姿勢から大地を蹴るとスレヴィンの懐へと飛び込み、右腕から生えた毒顎を構える。毒液が顎から滴り、落ちた先のアスファルトを溶かした。

 

 世界最強の毒蜘蛛の一種として名を上げられることも多い、『シドニージョウゴグモ』。彼らの牙に備わる毒の名は“ロブストキシン”。霊長類に対してひときわ強い毒性を発揮する、強酸性の猛毒である。

 

「そうかよ、やれるもんならやってみやがれ!」

 

 振り上げられた一撃を触腕によっていなすと、スレヴィンは躊躇わずゲレルの眉間へと銃口を向けた。

 

「お前らにやられるほど、俺達ゃ弱くねえぞ」

 

「上等♡ 速攻で片します」 

 

 マズルフラッシュと共に吐き出される弾丸。それを蜘蛛の知覚によって回避したゲレルはスレヴィンの手から銃を蹴り飛ばし、そのまま近接戦と移行する。

 

 両腕に加えて三本の触腕、圧倒的手数を持つスレヴィンと、全ての攻撃が掠めただけでも致命傷となるゲレル。両者の応酬は長く続いたものの、その拮抗はあまり長くは続かなかった。

 

「っ……!」

 

 ゲレルの毒顎がスレヴィンの触腕を貫いたのである。一瞬の隙をつき、スレヴィンの胴体を目掛けて繰り出されたその一撃。それを咄嗟に防いだ結果もたらされた、致命傷だった。

 

 ──()()()

 

 ゲレルは確信する。既に毒液は注入された、もはやこの男に死から逃れる術はない。

 

 であれば、長居は無用である。戦況は徐々にこちらの劣勢に傾き始めている。これ以上戦闘を続けて、アネックス計画のオフィサー級の戦力が出張ってくれば面倒だ。

 

「終りね♡ 総員、てった「誰が終わったって?」──っ!?」

 

 次の瞬間、ゲレルの視界いっぱいに黒が広がった。不意を突いて放たれたそれはコンマ数秒の間、彼女の知覚を闇に覆う。

 

(しまった――!)

 

 ──実力がほぼ互角の者同士の立ち合いにおいて、勝敗を決するのは僅かな切欠である。

 

 視界が潰されたその一瞬のうちに、スレヴィンの触腕にゲレルの左腕が絡めとられた。すかさず鈍い音が響き、ゲレルの顔が苦悶に歪む。スレヴィンの腹を蹴り飛ばして拘束から逃れたものの彼女の腕は力なく垂れ下がり、風に吹かれるハンガーのように所在なく揺れていた。

 

「──やってくれたわね」

 

「油断する方が悪い」

 

 無事だった右腕で顔を拭ったゲレルは、恨みがましくスレヴィンを見やる。その腕に付着していたのは真っ黒な液体。世間一般に『タコ墨』と呼ばれるものだ。

 

 

 

 例えばスーパーで、例えば魚屋で。誰しも一度は、その生物を目にしたことがあるだろう。

 

 一見するとぐにゃぐにゃとして捉えどころがないこの生物は、その肉体に驚くべき数々の特性が秘められている。

 

 それぞれが自立して行動可能な触腕、変幻自在の体色、柔軟にして強靭な筋肉で作られた体は、強力な自己再生能力で手足の欠損すらも修復する。

 

 肉体だけにとどまらず歯には強力な毒、更には逃走用の墨──およそ一つだけでも強みと言える様々な特性を多数兼ね備えたその生物は、進化の中で最も成功した生物とさえ言われることもある。そしてそれこそが、スレヴィン・セイバーの身に宿った能力。

 

 

 

 過酷な道を歩むスレヴィンに『残酷な使命』と『それを成し遂げる力』を与えし彼らは──果たして神か、それとも悪魔か。

 

 

 

 

 

 

 スレヴィン・セイバー(本名:ピース・ラックマン)

 

 

 

 

 

 

 

 国籍:アメリカ合衆国

 

 

 

 

 

 

 

 22歳 ♂

 

 

 

 

 

 

 

 MO手術 “軟体動物型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──────────── マダコ ────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ── 闇夜の海魔(マダコ)臨戦(エンゲージ)

 

 

 

 

 

 

 

 

「──自切で触腕ごと切り離したのね」

 

 スレヴィンの足元には、根本ごと本体から切り離された穴の開いた触腕が転がっている。毒を受けたのならば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()──言うは易いが、それをなすには優れた反射神経と決断力、そしてそれをなしうるだけの特性が不可欠。

 

「さて、神妙にお縄についてもらおうか! お前のお仲間は、全員寝ちまったぜ?」

 

「勝ち目はありません──投降してください」

 

 見誤った、と引きつった笑みを浮かべるゲレルに、東平とリジーが口々に言う。U-NASAから派遣された重装警備隊の一団も現れた。武力、兵力、あらゆる優位を覆されたゲレルと猛毒部隊の敗北は火を見るよりも明らかだった。

 

 

 

「ふ、ふ……」

 

 

 

 ──だが、その状況下にあって。

 

 

 

 ゲレルは余裕を崩さず、ただ静かに笑い続ける。

 

「……何がおかしい?」

 

 ──()()()()

 

 それは追いつめられたものの目ではない、自棄になった目でもない。この女の目は、まだ死んでいない。

 

「ふふ……失礼。あまりにも、貴方達の発想の貧しさが面白かったもので♡」

 

 それは狩りの成功を確信した、肉食獣の目だ。隙を見せれば立ちどころに食い殺される、捕食者の目。

 

「 まぁ何が言いたいかというと──」

 

 手負いの毒蜘蛛は嗤い、そして告げた。自分たちの喉笛にナイフが突きつけられていることに未だ気付かない、愚鈍な獲物を憐れむように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「援軍を待っているのは貴方達だけじゃないってことよ♡」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして、次の瞬間。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「──は?」

 

 

 

 あまりにも非現実的な光景に硬直するスレヴィンたちの前で、頭を失った胴体は糸が切れたマリオネットのように崩れ落ちる。快晴の空の下、アスファルトの灰が赤の海へと染まり──その中を颯爽と、車椅子が駆け抜けた。

 

 

 

 

 

「飛車、参・上っ!」

 

 

 

 

 

 車椅子を繰るのは花柄の美しい和服に身を包みんだ女性だった。猛スピードで加速する車椅子は、瞬きをする間もなく東平へと肉薄する。

 

「なっ──!?」

 

「首、もーらいっ!」

 

 そんな気が抜けるような掛け声とは裏腹に、芸術的とさえ言ってもいい洗練された剣閃が放たれる。殺気も闘気もなく、あまりにも完璧な太刀筋で迫る斬撃。

 

「ッ……!」

 

 それを東平は、紙一重で避けた。

 

(き、奇跡……!)

 

 永遠の如き刹那、喉の薄皮一枚を掠めて通り過ぎていく刃を見送った彼の体に、どっと脂汗が吹き出した。

 

 立花東平の手術ベースは『ドブネズミ』。

 

 人間とは異なる感覚で生きる彼らの“体感時間”に意識を合わせることにより、彼は短時間であればスローモーションで周囲を捉えることができる。咄嗟に発動したその特性が、彼の頭部を胴体へと繋ぎとめた。

 

(けど、それでも見切れなかった! 今僕がこの人の攻撃をよけられたのは、完全な偶然だ!)

 

 心臓が早鐘のように鳴る。実は今の一撃は躱しきれておらず、漫画のように遅れて己の首が落ちる──そんな展開が待ち受けていたとしても自分は不思議には思わないだろうと、東平は生唾を飲んだ。

 

「お見事。わたくしに刀を抜かせてなお生きていること、賞賛に値します」

 

 ギギギ、と巧みなドリフトで反転し、車椅子の女性は止まった。このままでは不味い──東平は即座に、手中の拳銃を女性へと向けた。

 

 銃声が響く。自らの肩を貫かんと迫る銃弾を()()()()()()()()()()()()()、女性はのんびりと告げる。

 

「有望な前途とあくまで肩を狙った優しさに敬意を表し、命までは取らずに置きましょう」

 

 ――何か、来る。

 

 女の言葉に身構えた直後――東平の体を何かが貫いた。

 

「……!」

 

「タチバナ!?」

 

 スレヴィンはぎょっとしたように目を見開く。東平の体は、地面から生えた水晶のような物体に串刺しにされていたのだ。まるで木のように枝分かれしたそれは人体の急所を器用に避け、しかし腕や腹といった部位を貫通して天へ伸びている。

 

「テメエ、あたしのバディに何しやがんだッ!!」

 

「待て、ルーニー!」

 

 スレヴィンの制止にも耳を貸さず、リジーは車椅子の女性へと突進する。アスファルトを割って迫る結晶の串刺しを猫の身体能力で潜り抜け、車椅子の女性へと拳を振り上げ──

 

 

 

「おっと、ストップだお嬢さん」

 

 

 

 その瞬間、脇腹に強い打撃を受けて真横に吹き飛ばされた。地面を転がったリジーは跳ね起きようとするが、中折れ帽の男がその喉を踏みつける。

 

「か、ハ……!?」

 

「いい筋肉だけど、打たれ弱いな。オリアンヌた──ゲフンゲフン、戦友に比べて鍛え方が軟すぎる。もうちょい腹筋周りを鍛えた方がいい……ま、この状況から生きて帰れたらだけど」

 

 呼吸ができずに暴れるリジーをものともせず、中折れ帽の男は足に加える力を強めていく。

 

「……くそッ!」

 

 躊躇っている場合ではない、もし男が一気に力を籠めれば、リジーの細首が折れてしまう。スレヴィンは右腕で予備のホルスターから拳銃を引き抜き。

 

 

 

 

 

 

 そして、スレヴィンの右腕が()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

「!?」

 

 車椅子の女の仕業か? 

 

 脳裏に浮かんだ推測を、即座に打ち消す。彼女は先ほどから、ほとんど移動をしていない。彼女の武器のリーチでは、あの場所から自分の腕を切り落とすなどできるはずが……

 

 ──いや、待て。

 

 そしてここに至って、スレヴィンは気が付いた──いや、疑問を抱いた。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()? 

 

 

 

 刀という得物を持っていることから、無意識に先の惨劇の下手人は車椅子の女だと思っていた。

 

 だが違う。あの惨状を作り出すには、女の刀はあまりにも短すぎるのだ。警備隊はみな一撃で、一度の攻撃で同時に命を落とした。

 

 で、あるならば。一撃で、()()()()()()()()()()()()()()()()()()──!? 

 

 

 

 

 

 

 

「クカカ……愚鈍に過ぎるぞ、スレヴィン・セイバー」

 

 

 

 

 

 

 

 低い声が響いた。戦場で行動を止めるという己の迂闊さに気付いた時には、既に遅い。

 

「シッ!」

 

 鋭い吐息と同時に、最後の刺客が手中の凶器を振るった。全長10mもの刃渡りを持つ大長剣──常人ならざる達人であっても満足に操れないだろうアンバランスなそれを巧みに操り、その男はスレヴィンの三本の触腕と右足を一瞬にして彼の体から切り取った。

 

 

 

「く、そが――!」

 

 

 

 あまりにも、あまりにも呆気なく訪れた戦闘の幕切れ。

 

 ぐらりと傾く視界、意識が途切れる直前にスレヴィンが見たものは、迫りくる凶器の切っ先と、それを振るう猛獣の如き騎士の姿であった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「フン……」

 

 シド・クロムウェルは白けたように鼻を鳴らした。

 

 U-NASAの寮監にして、ミッシェル・K・デイヴスの幼馴染であるスレヴィン・セイバー。若いながらも凄絶な経歴を持ち、表沙汰にできないU-NASAの極秘任務をいくつも達成してきたという。さぞや壊し甲斐があるのだろうと思っていたが、とんだ期待外れだった。

 

「まったく、歯ごたえのない」

 

 そう呟いた彼の手中で、10mを超す長剣は生きているかのように蠢き、そして()()()()()()()()()()。間もなく刃渡りが一般的なの西洋剣の長さにまで縮むと彼は刀身の血と脂を払い落とし、口を開く。

 

 

 

「それで──次は貴様らが相手か?」

 

 

 

「そっちがその気ならな」

 

「……フン」

 

 振り向いたシドの背後にいたのは、二人の男性だった。

 

 片方は日本人。スーツの上からでも分かるほどに鍛えられた肉体を持ち、変異したその両腕には危険色に彩られた毒針。

 

 片方はイスラエル人。バンダナを巻いた頭部からは触覚が伸び、黄褐色の甲皮に覆われた両掌には銃口のような孔。

 

 

 

 ──小町小吉と、ゴッド・リー。

 

 

 

 20年前のバグズ2号の生き残りにして、現役のバグズクルーの中でも最強と称される2人。

 

 既に変態を終えた彼らは自然体で、しかし今この瞬間にもシドの命を奪えるよう臨戦態勢で、そこにいた。

 

「クカカ! マーズランキング暫定3位が2人とは、豪勢なことだ──ビショップ!」

 

 楽し気にシドが言ったその瞬間、彼の背後から中折れ帽の男──フィリップが二発の指弾を放つ。

 

 ある条件を満たす者にとって極めて有害な特性を発揮する化学物質。

 

 それが仕込まれた弾丸は空を切って小吉・リーの眉間へと迫り──そして、空中でどろりと溶解した。

 

「おっ?」

 

 驚きの声を上げたフィリップの視線の先にいたのは、体格のいい刈り上げの男性。

 

 小吉たちと同じバグズ2号の生き残りたる、ルドン・ブルグズミューラーだった。

 

「……」

 

 特性である『マイマイカブリ』を発現させた彼は、仲間を凶弾から守ったその特性を、フィリップへと吹き付ける。

 

 口から放たれるは、溶解の霧――咄嗟に横転したフィリップが見たものは、その軌跡上に存在したあらゆるものが一瞬にして腐食していく光景だった。

 

「いやいや……消化液とかいうレベルじゃないでしょコレ」

 

 もはや元となったベース生物すらも凌駕する、超強酸。その威力を目の当たりにしたフィリップは、己を睨みつけるルドンに引きつった笑みを浮かべた。

 

 

 

「とうっ!」

 

 その横を爆走し、車いすの女性──千桐が小吉とリーの背面へと回り込む。彼らを間合いに収めた千桐は、刀の柄に手をかける。

 

 

 

「──させねーよ」

 

 

 

「むむっ!?」

 

 だが引き抜いたその刀は小吉たちとは真反対の方向へと振りぬかれた。彼女の切っ先はコンマ秒前までその場にいた者の残像ごと、虚空を薙ぐ。

 

 プン、と微かな風切り音を立て、少し離れた位置にその人物は姿を現した。背中に生えた四枚の翅、眼球を覆う緑の複眼──『オニヤンマ』の特性を有するバグズ2号の生き残り、トシオ・ブライトである。

 

 千桐がおや、と目を見開くよりも早くその姿は掻き消え――。

 

「――!」

 

「お、反応はえーな。それがあんたの特性か?」

 

 直後、彼女が正面に構えた刀が火花を散らした。鍔ぜり合い――彼女の刀と切り結ぶものの正体は、トシオの腕が変化した"オニヤンマの大顎”。千桐の喉元を食い破らんとする剃刀のような刃と、それを阻まんとする日本刀は拮抗し、歪な音を奏でる。

 

 

 

「トシオ・ブライトにルドン・ブルグズミューラー……20年前の戦闘データでは、ベース頼りの素人と記憶していたが。まさかルークとビショップ相手に渡り合うほどに成長しているとはな」

 

「……他所見たぁ余裕だな、騎士様よ?」

 

 愉快そうに喉を鳴らしていたシドだったが、その直後に押し寄せた灼熱に、その場をすぐさま飛び退いた。

 

 視界に広がるは、紅蓮。両手の孔より放たれたそれは、炎と呼ぶも生温い『劫火の波』。巧みに味方を避け、火の海は舗装されたアスファルトと黒の陣営をなめ尽くす。

 

「ぎゃあああああああ!」

 

「アチチチチ!」

 

 逃げ遅れた猛毒部隊の隊員のうちの数名が、火だるまになって悲鳴を上げる。耳障りだ、とシドが手中の剣を振るおうとした直後。

 

「!」

 

 ガギン、という音と共に散る火花。反射で振るったその剣は、接敵したリーのナイフを受け止めていた。

 

「そんな玩具で、俺を殺せるとでも?」

 

「さてな――玩具かどうかは、自分で確かめてみろ」

 

 言うが早いか、リーは両手に構えたナイフを目にもとまらぬ速さで繰り出す。シドはその連撃を捌き、いなしながら冷静に観察する。

 

(――隙が無いな)

 

 特殊合金製ではあるものの、特別な機能は備えていないただの軍用ナイフである。しかしだからこそ、加減しているとはいえ自分を防戦一方に追い込んでいるリーの戦闘力の高さが伺える。加えて――

 

「シッ!」

 

 何かが爆ぜる音、それと同時に爆速で放たれるナイフの刺突。首を傾けて急所を守るものの、躱しきれずにその切っ先はシドの皮を破く。

 

「クカカ、面白い! ガス噴射で攻撃速度を上昇させているのか!」

 

 リーの肘から立ち上る煙を見てその正体を察し、シドは機嫌よさそうに笑い声をあげた。

 

 長年の鍛錬によってミイデラゴミムシとの同調率を高めたリーは、今や自在に高熱ガス『ベンゾキノン』の噴射を操ることができるのである。

 

「いやまったく、大した技量だ。まさか、ここまで肉薄されるとはな」

 

 仕切り直しのため、独特の歩法で間合いを取ったシドは頬を伝う血を舌で舐めとる。それを見たリーが、口を開く。

 

「そこの小僧どもに手を出さず退くんなら、この場は見逃してやる。だがこれ以上暴れるってんなら、覚悟しな──」

 

 

 

 

「灰も残さず、焼き尽くしてやる」

 

 

 

 

「クカカ……いいだろう。乗ってやるとも、ゴッド・リー」

 

 一瞬の沈黙の後、シドが告げる。その言葉に、戦況を見守っていたゲレルが「よろしいので?」と声を上げた。

 

「スレヴィン・セイバーの抹殺が未了ですが♡」

 

「お前の詰めの甘さのせいでな。伸びてる奴らに手を貸してやれ」

 

 シドはそう言うと、通常の刀剣程度の大きさにまで縮んだ凶器を鞘に納めて歩き出す。完全な脱力の姿勢、戦闘続行の意思がないことが見て取れる。

 

「俺としてはこのまま殺し合いたいところだが、キングの任務が最優先だ。ここで無駄に駒を欠くわけにもいくまい。退くぞ」

 

「承知しました……はぁ、結局幸嶋君には会えませんでしたねぇ」

 

 

「はいよー。さーさ、帰りましょ」

 

「了解。ああ、火傷を負った連中は捨ててきなさい。足手まといになるだけですから♡」

 

 指揮官たるシドの言葉に従い、襲撃者たちはぞろぞろと引き上げていく。ほんの数秒前まで殺し合いをしていたとは思えない程の気楽さで。

 

「敵が退いたぞ!」

 

「負傷者を運べ! 病棟に連絡を!」

 

 それと同時にU-NASAの手配していた人員がなだれ込み、負傷したスレヴィンたちの搬送や死体の除去、現場の検証と、夕刻のU-NASA寮前は蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。

 

「……」

 

 そんな喧噪の中にあって、バグズ2号の精兵たちは襲撃者達の背からその目を離すことはなく──夕闇の街に消えていくその姿を、穴が開くほどに強く見つめていた。

 

 

 




【オマケ】

フィリップ「どうでもいいけど、中国のマフィアなのに純モンゴル人ってどうなのよ?」

ゲレル「ギクッ……い、いえ、出展元でもいろんな国の無国籍児を取り込んだってありますし♡」





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絶対凱歌EDGARー3 一転攻勢

 ──コツ、コツ、コツ。

 

 ベッドに腰かけたシモンは、静かに足で床を叩く。

 

(──時間がない)

 

 リズミカルに足を鳴らしながら、嘆息する。せめて話し相手がいれば気もまぎれるのだが、ミッシェルとスレヴィンは別室に隔離され、ダリウスは現在別施設に幽閉中。残念ながら、この重苦しい沈黙はもう少しばかり続くことになりそうだ。

 

 最後に小さく床を叩くと、シモンはそのまま体をベッドの上に投げ出した。

 

 ヘルメットに中華拳法服の男がベッドの上に大の字になっている光景は、監視カメラ越しに部屋を観察している軍人たちにはかなり珍妙に映っているだろうな、などと考えながらシモンは目を閉じる。

 

 もう少ししたら、事態は動くだろう。あのエドガー・ド・デカルトが、自分たちを軟禁したまま放置するとは考えにくい。二度と自分たちという駒が盤上に上らないようにするため、刺客を送り込んでくるはずだ。

 

 ──()()()()()()()()()()()

 

 事態がこれ以上悪化しないよう祈りながら、シモンは浅い眠りにつく。すぐに訪れるだろう再度の戦いに備え、少しでも体を休めるために。

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──未明、ニューヨーク州ロチェスター市。

 

 人口21万人、ニューヨークやバッファローに次ぐ州内指折りの大都市たるこの街の地下には『ロチェスター地下鉄』と呼ばれる、20世紀に廃線となって以来放置されている地下鉄が存在する。

 

 ホームレスや不法移民が住み着くことによる治安の悪化、更には老朽化による崩落の危険などから地域住民から一刻も早い行政の対応を求められながら、様々な利権や予算の関係で未だ対策が進んでいない、市にとっては頭痛のタネでもある旧世紀の遺構。

 

 その中でも一際人の出入りが少なく、衛星による監視すらも届かない区画に、フランスの尖兵たる黒の陣営の活動拠点はあった。

 

『フランス国内の現状報告は以上だ』

 

「随分なお祭り騒ぎになっているようだな、統合参謀長殿?」

 

 盗聴の心配のない専用の回線を使った映像通信。薄暗い裸電球の光の下、シドは通信相手のステファニーに、心底残念だとばかりに告げた。

 

「赤の枢機卿、赤の宣教団、不死身の修道女に中国の刺客……聞けば聞くほどに心が躍る地獄だ。クカカ、槍の王め! どうせなら、俺がフランスを発つ前に仕掛けろというのだ。1匹残らず解体してやったものを!」

 

 ステファニーの口から告げられたフランス国内の状況は、惨憺たるものだった。

 

 オリヴィエ・G・ニュートンの尖兵によって少なくない被害を受けたパリ市街、文字通り壊滅的な被害を受けたフランス軍、そして何よりもエリゼ宮殿の守護をつかさどる『フランス共和国親衛隊第一歩兵連隊』の長たるオリアンヌ・ド・ヴァリエの戦死。

 

 どれもこれもエドガー政権始まって以来の大スキャンダル、更には阿鼻叫喚の地獄であろうことは想像に難くない。普通ならば「その場にいなくてよかった」、と胸をなでおろすところ、むしろ残念がる人間となるとそう多くはいないだろう。

 

「……聞きしに勝る狂いっぷりね」

 

 頬杖を突いたゲレルは呟く。その独り言に慌てる小心者の部下たちを無視し、彼女は静かに目を細め、指揮官たるシドを観察する。

 

 ──自分たち猛毒部隊は草食獣(一般人)のみならず、肉食獣(同業者)を食い物にすることすら日常茶飯事の、裏社会の頂点捕食者だ。だがこの世界には、頂点捕食者すらも食い潰す怪物たちが跋扈している。

 

 例えばそれは、かつてヨーロッパ全土を手中に収めたマフィアのボスであったり、あるいはデカルトの暗殺者として名を馳せる八極拳の名手だったり。例を挙げていけばきりはないが、しかしその中で「最も危険な人物は誰か?」と聞かれれば、ゲレルは迷わず目の前の男だと答えるだろう。

 

 嬉々として戦闘に臨む『闘争本能』。ニュートンの一族すら正面から切り伏せる『戦闘能力』。相手の思考を先読みする『知能』。逆境においても平常心を損なわない『精神力』。そして何より──いかなる相手、いかなる戦場にも柔軟に対応する『適応能力』。

 

 これらの要素が高水準でまとまったシド・クロムウェルは極めて優秀な殺し屋であり、生粋の戦士である。ゲレルが狂っていると評したのは彼の思考の話ではない、その能力値の話だ。

 

 もしも盤外戦の勃発があと少し早ければ、今頃エドガーへと差し向けられた刺客たちはこの男が皆殺しにしていたことだろう。

 

 唯一対抗できたとすれば、赤の枢機卿こと『アヴァターラ・コギト・アポリエール』だけだが……アダム・ベイリアルの凶器の産物(黒の変則駒)を手にしたシドに勝てるかは疑わしいところだ。

 

「全くもって口惜しい。まさか、これほどの極上のパーティに参加する機会を逃すことになるとは……こんなことなら、出立を一日ずらすべきだった」

 

 猛獣の如き騎士──シド・クロムウェルほど味方にすれば頼もしく、敵に回せば恐ろしい男もいない。

 

「不謹慎ですよ、シド」

 

 そんな彼女の隣から、千桐がやんわりと声を上げた。会議中も持参した書道用具を広げて呑気に習字をしていた彼女だったが、どうやら話自体はきちんと聞いていたらしい。

 

「護国のために散った者たちがいるのです。口にすべきは羨望ではなく弔いの言葉であるべきでしょう。Amen(アーメン)

 

『……貴様の家系は神道系だったと記憶しているが』

 

 やたらと流暢に祈りを口にした千桐に、ステファニーが呟く。一方でシドは、意外そうに眉尻を釣り上げた。

 

「力と再生を求め、故国を裏切った女が吐く言葉とは思えんな」

 

「失敬な。わたくしは自ずから修羅になった浅ましき女ですが、死人を憐れむ情くらいは残ってます」

 

 不本意そうにそう言った千桐は筆を置くと、「それに」と続けた。

 

「エリゼ宮に入り込んだファンキーちゃんと顔文字君。両者ともかなりの実力者でした。あのレベルの敵を生身の軍人さんになんとかしろと言うのは、あまりにも酷でしょう」

 

「温いな……酷でない戦場があるものか。強者が勝ち、弱者は死ぬ。それだけだ」

 

 シドが言いながら、ひょいと上体を右に逸らした──その直後。寸前まで彼の眉間があった空間を何かが高速で射抜き、無音で放たれた弾丸が背後の壁に弾痕を刻む。シドは喉で笑いながら、道化でも見るかのような視線を射手へと向けた。

 

「何の真似だ、ビショップ?」

 

「ああ……悪いね、クイーン。ちょっと手が滑った」

 

 そう言ってフィリップがへらりと口元に笑みを貼り付ける──だがその目は、全くと言っていいほど笑っていない。取り繕ったかのようなその笑顔は、彼が怒りを抑えているサインだ。

 

「ところで、聞き間違いかな? あんたの言い方だと、オリアンヌ(俺の戦友)は『弱いから死んだ』ってことになるんだけど」

 

「その通りだが」

 

 次の瞬間、着座の姿勢からノーモーションで机の上に飛び乗ったフィリップは、対面の男の脳天に踵を振り下ろした。笑顔の仮面を脱ぎ捨てたフィリップが、ぞっとするような無表情でシドを見下した。

 

 

 

「人の戦友を馬鹿にしてんじゃねえぞ、殺し屋風情が」

 

 

 

「クカカ! 何を怒っているのか知らんが、事実だろう」

 

 一方、先の一撃を片手で受け止めていたシドは、いつもと変わらぬ調子で告げた。

 

「オリアンヌは弱かったから死んだ、()()()()()()()()()()()()()……違うのか?」

 

「!」

 

 微かに動揺した隙をついて、シドはフィリップの足を払う。そのまま後転して床に着地したフィリップに、シドは続けた。

 

「生死と勝敗は別物だ。あの女はエドガーと矜持を守り通し、勝って職務に殉じたのだろうよ。殺しても死にそうにないアレが死ぬとすれば、エドガーに『死ぬまで戦え』と命じられた時だけだろうからな。それともお前は、あの女が何もできずに死んだとでも?」

 

「……ごもっとも」

 

 フィリップは深く息を吐き、そのままどっかりと椅子に腰を下ろす。そのタイミングで、一連のやりとりを見ていたステファニーが口を開いた。

 

『同僚想いなのは結構だが、フィリップ。くれぐれも冷静さを欠くなよ? オリアンヌでもセレスタンでもなく貴様が駒に選ばれたのは、その戦略眼を買われてのことだ』

 

「わかってるよ、統合参謀長──ごめん、ちょっと冷静じゃなかった」

 

 素直に謝罪するフィリップにこれ以上の注意は不要と断じたのだろう、ステファニーはそれ以上の追及はせず、話題を切り替える。

 

『話は脇道に逸れたが、続けて伝達事項を伝える。まず現時刻を以て──貴様ら黒の陣営の指揮は私が執ることになった』

 

「ほう」

 

「まぁ」

 

「へぇ」

 

 その言葉を聞いたシドが、千桐が、ゲレルが。三者三様に納得したような反応し──。

 

 

 

「ついにエドガーに見切りをつけてクーデターか。いつかやるとは思っていたが」

 

「では女王様が二人になるので? チェス的にはこれは何と表現すればいいのでしょう……去勢?」

 

「おっとこれは契約違反。貴女が指揮するとか聞いないんですけどー。あーこれはケジメ案件ですかねー。ほらさっさと違約金出してください参謀長金の切れ目が縁の切れ目ですよ参謀長」

 

『……貴様らの発想力が如何に残念なのかはよく分かった』

 

 各々トンチンカンなことを口走り始める三人に、ステファニーは普段の五割増しで冷ややかな視線を向ける。しかし直後、「ああ、なるほど」と合点がいったようなフィリップの声が彼女の耳に届いた。

 

「叔父さん、“ジョーカー”を切ったのか。となると相手はオリヴィエ・G・ニュートンの本拠地『フィンランド』か、横やりを入れてきた『中国』……中国なら叔父さんが掛かりきりになるまでもないだろうし、フィンランドの方?」

 

『その通りだ、フィリップ──先ほどの私の発言は忘れて構わん。杞憂だったらしい』

 

 先刻の汚名返上とばかりに慧眼を発揮した部下の発言に頷き、ステファニーが告げた。

 

『三時間前のことだ。大統領と協議の上、”赤の女王”──アストリス・メギストス・ニュートンによるフィンランド侵攻が実行された』

 

 ──アストリス・メギストス・ニュートン。

 

 アダム・ベイリアルが地球へ送り込んだ2騎の追加戦力の片割れであり、生態系を尽く蹂躙することを得手とする“悪鬼”と対成す、生態系を病的に淘汰し尽くすことに長けた“妖魔”の名。

 

 数日前、アフリカのリカバリーゾーンに不時着したロケットの中からフランス軍がU-NASAや槍の一族に先んじてフランスが確保した彼女は、多くのトランプゲームにおいてジョーカーが『最強の矛』でありながら『諸刃の剣』であるように、フランスの切り札にして、特大の厄札であった。

 

 ジョーカーを手にした者が勝つ術は単純唯一、『自分以外の誰かに押し付けること』。エドガーはそのタイミングを外すことなく、見事に反撃に転じたのだ。

 

『攻撃は順調に進んでいる──これを見ろ』

 

 ステファニーの言葉と同時に、電子モニターに映像が表示される。

 

 

 

 それはとある森林内を撮影した映像だった。時々混ざる会話音声から、撮影者はフィンランド軍の一員であることが伺える……軍用ヘルメットに取り付けられた、固定カメラから撮影しているものらしかった。

 

 しばしば『森と湖の国』と言われるフィンランドにおいて、美しい木々が作り出す針葉樹林は重大な観光資源である。だが映像が捉えたその光景は、常人の完成であれば口が裂けても「美しい」などとは言えない、およそ非現実的で超現実的な、この世のものとは思えないものだった。

 

 かつて木だったはずの自然物は異形になり果て、ある木の樹皮は象皮に覆われており、またある木は葉の代わりに魚鱗が茂り、またある木には果実代わりに眼球が実っている。

 

 人間の指に変異した木々の枝の上を走るリスは尻尾の代わりに蟹の鋏が生え、片翼が昆虫の脚になった鳥は飛べずに地面でバタバタともがく。

 

 胴体が魚と化してこと切れたハイイログマの死体には、ワニの顎を有したシカが食らいついていた。

 

 前衛芸術じみた気が狂いそうな異界の様相。驚くべきことに、その境域は一分一秒を経るごとにじわじわと拡大しているらしい。フィンランド軍の一団はその中心点を目指し、森林の深く深くへと進んでいく。

 

 突如、一団の先頭を進んでいた隊長と思しき男が進軍停止のハンドサインに、数十人の軍人たちは一斉に足を止める。合成生物の柱と化した木々の影に身を隠し、隊長が示す方向を軍人たちは確認する──そこには事態の元凶たるゴシック・アンド・ロリータ姿の女性(アストリス・メギストス・ニュートン)の姿があった。

 

 もはや原型も分からない程に変わり果てた何らかの生物と、執事服に身を包んだテラフォーマー。

 

 石を簡素に整えただけの円卓を彼らと囲み、彼女は何者かとお茶会の真似事をしているらしかった。時々聞こえる無邪気で明るい声は、何もかもが狂った森林の不気味さを一層際立たせる。

 

 軍人たちは一斉に、手中のアサルトライフルをアストリスへと向けた。そして──映像が傾き回転する。

 

 ゴロゴロと忙しなく転がる映像。数秒経って定まった視点の先には、地面に倒れた軍人たちの姿があった。外傷はない。だが撮影者の同僚である軍人たちの目は力なく見開かれ、身じろぎ一つする様子がない。撮影者も含め、彼らが既にこと切れているらしいことは想像に難くなかった。

 

『まぁ、お客様が来てくださったのね!』

 

 もはや物言わぬ肉袋となった彼らに、円卓から立ち上がったアストリスはスキップで近づいてくる。彼女は撮影者の顔を興味深そうに覗き込むと、眉尻を下げて大袈裟にため息を吐いた。

 

『でも残念! 眠りネズミはティーポットに詰めなくちゃ! ウサギさん、手伝ってくださる?』

 

『●●●●●●●●●●●●』

 

「ふふ、ありがとう! とっても紳士的なのね!」

 

 頬を桃色に染めてはしゃぐアストリス。画面の端から見切れるように写り込んだのは、もはや原型をとどめぬ変異を遂げた何らかの生物と、ティーポットを携えたテラフォーマー。

 

「……じょうじ」

 

 テラフォーマーは自分たちの姿を撮影する機械の存在に気づいたらしく、こちらへ手を伸ばし──

 

 ──そして、映像が途切れた。

 

 

 

「……B級ホラーの方がまだ現実味がありますって」

 

 ──どうやら自分たちは、想像以上に危険な案件に首を突っ込んでいるらしい。

 

 その事実を再認識したゲレルの背を、冷たいものが伝う。自分は特別生物に詳しいわけではない、だがこの光景が明らかに異常であることくらいは分かる。一体何をどうすれば、()()()()()()M()O()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 およそ人知の及ばぬ、怪奇な特性。しかしそれを目の当たりにして、常識的な反応を示せるだけのまともな感性を有しているのは、この場においてどうやら彼女とその部下だけだったらしい。

 

「寄生生物型か細菌型……いや、どっちでもないか。まぁなんにしても、あんなのをお見舞いされたんじゃ、サムエル大統領もたまったもんじゃないだろうね」

 

 お手上げ、とばかりに両手を上げるフィリップ。口にした台詞とは裏腹に、フィンランドの惨状を気にかけている様子は全くと言っていいほどに見受けられない。

 

「……さっきのウサギさん、愛らしかったですね」

 

 ぽやんとした調子でとんでもないことを口走る千桐。ゲレルと猛毒部隊の面々が揃って「あの映像を見た第一声がそれか!?」という言葉を辛うじて飲み込んだ、次の瞬間。

 

 

 

 

 

【 キ ャ ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛! 】

 

 

 

 

 

 突如として響き渡った怪音が、その場にいる全員の耳を劈いた。その不意打ちに千桐とフィリップは不快そうに顔をしかめ、猛毒部隊の面々が殺気立つ。

 

「っ、敵襲か!?」

 

「なんだこりゃ……!?」

 

「落ち着きなさい、馬鹿ども♡ これは……」

 

 動揺する部下たちを鎮めるため、ゲレルが口を開く。だが彼女が言葉を発するよりも早く、事態は収束する。

 

 

 

「誰が哭いていいと言った、『元帥(マーシャル)』」

 

 低く、しかし明瞭な声音で告げたシドは、脇に立てかけた西洋剣の柄へと手を伸ばす。

 

「──躾が足りんようだな」

 

 その途端、剣の柄から無数の機械的な触手が飛び出し、シドの腕に食らいついた。彼はそれを気にも留めずに柄を掴むと、小規模な地震が発生するほどの勢いで暴れようとするソレを強引に押さえつけた。

 

 十秒ほど続いたその拮抗は、始まったときと同じように唐突に、子供の癇癪が収まるかのように──音と振動は停止する。

 

『話には聞いていたが……大したじゃじゃ馬だな』

 

「クカカ! 合衆国の全てを敵に回す任務の相方だ、これくらい気が強い女で丁度いい」

 

 呆気にとられる猛毒部隊を置き去りにして交わされる、シドとステファニーの会話。二言三言の後、どうやら話が終わったらしいステファニーが全員に告げる。

 

『ともかく、見ての通りだ。大統領はチェス以上に優先すべき仕事が山積み……故に私が、こちらの指揮を任された』

 

「承知した。ならば問おう、黒の王(キング)よ──どう動く?」

 

 どこか試すようにシドが、黒の陣営が、一斉にステファニーを見やる。無数の視線を向けられ、しかし彼女は全く動じることなく、次なる一手を指す。

 

『軟禁した合衆国の主戦力に、全てのテラフォーマー(ポーン)を差し向けろ。奴らから薬は取り上げてある……上手くいけば相打ち、そうでなくとも足止めくらいにはなるだろう』

 

「了解──で、それで終わりじゃないんでしょ?」

 

『当然だ』

 

 楽しげなフィリップの言葉に、ステファニーは表情を崩さずに返した。

 

『この痛し痒し(ツークツワンク)、まともに戦えば勝ち目はない。時間は敵だ、拙速だろうと速攻で勝負を決めねばならん。故に……王手(チェック)をかける』

 

 

 

 

 

 

 

『ホワイトハウスを襲撃し、グッドマンを大統領の椅子から引きずりおろせ。方法は問わん、奴さえいなくなれば、あとは我々の息がかかったものが合衆国大統領に就任し──』

 

 

 

 ──それでゲームは終わり(チェックメイト)だ。

 

 鋼鉄の薔薇は、確かな確信と共に告げた。

 

 

 

 

 

 

 ────────────────────

 

 

 

 

 

 ──────────

 

 

 

 

 

 

 

 

「じょうじ」

 

 ゴギリ、と鈍い音を立て、銃を構えたアメリカ軍の兵士の首が折れる。もはや物言わなくなったその死体を投げ捨てると、無数のテラフォーマーたちは院内を我が物顔で闊歩する。

 

「……クソが」

 

 その様子を確認したミッシェルは、そっと階段の踊り場へと踵を返した。「そっちはどうだった?」と聞いてくるスレヴィンに「駄目だ」と彼女は首を振った。

 

「どこを見てもゴキブリだらけ……1匹ならまだしも、薬なしにあの数相手すんのは無理だ。こうなったら、窓を叩き割って出るか?」

 

「それこそ無理だ。窓の外見てみろ」

 

 うんざりしたように告げたスレヴィンの言葉に従い、ミッシェルは窓から外の様子をうかがい、顔をしかめた。

 

 施設を包囲するように飛び交う、数十は下らないテラフォーマーの軍勢。例え薬が手元にあったとしても戦いたくない規模の大群だった。

 

「1匹みたら30匹なんてもんじゃねぇ。数えんのが億劫なくらい飛んでやがる」

 

 スレヴィンは倒れた兵士から拝借してきた拳銃を撫でる。丸腰よりは遥かにましだが、おそらく対テラフォーマーには気休め程度の効果しか発揮しないだろう。正面突破など夢のまた夢だ。

 

 ──テラフォーマーが大挙としてこの施設に押し寄せてきたのは、つい先ほど──スレヴィンが目覚めてからの半日ほど経った頃のことだった。

 

 無論、ミッシェルたちを狙った襲撃は想定内だったが、よもや100を数えるテラフォーマーの大群が、この地球で押し寄せてくるのはさすがに予想外だった。加えて、落ち延びたと思しきテロリストたちの捜索に人手が割かれていたことも災いした。

 

 兵士たちの奮戦も虚しく防衛線も突破され、牢獄が処刑場になったのがつい数分前。異常に気が付いて病室を抜け出しミッシェルとスレヴィンだったが、階を一つ下ったところで手詰まりに陥っていた。

 

「『槍の一族』をなんとかした途端、今度はフランスが相手とはな……というか、ここまでくると国際問題じゃないか? グッドマン大統領の判断次第じゃ、世界大戦もありえるぞ」

 

「くそったれなことに、『槍の一族』と違ってフランスがこの件に絡んでる証拠は何もねぇからな。喜んでいいのかは微妙だが、お前が思ってるような大戦争にはならないだろうよ」

 

 ミッシェルの言葉にスレヴィンは返し「さて」と切り出した。

 

「とりあえず、正面突破は無理。とすれば援軍に期待して籠城するか、一縷の望みをかけて抜け道探すかだが……」

 

「なら籠城だな──集中治療室に向かうぞ。あそこは他よりも警備が厳重だし、トーヘイとリジーの様子も気になる」

 

 短く意見をまとめ、二人が移動しようとした──その時。上階から黒い影──テラフォーマーが踊場へと飛び込んできた。

 

「チッ!」

 

「見つかったか──!」

 

 即座に身を翻して戦闘態勢に移行する二人だが、その直後彼らはすぐに警戒を解くことになる──彼らが目にしたのは、頭部が吹き飛び事切れたテラフォーマーと見慣れたフルフェイス姿の人物だったからだ。

 

「……よし、何とか間に合った」

 

「シモン!」

 

「無事だったか!」

 

 口々に告げるスレヴィンとミッシェルに、フルフェイスごしにシモンは柔らかく笑う。

 

「ごめん、ちょっと遅くなっちゃった。とりあえず二人とも、コレ」

 

 シモンはそう言って、二人にそれを放り投げた。スレヴィンはキャッチしたそれが、米軍規格の『万能型変態薬』であることに気付くと「ナイスだ、シモン!」と顔を綻ばせる。

 

「だが、どこでちょろまかした? それなりに俺らも探したが、軍の奴らは持ってなかったぞ?」

 

「……頼れる助っ人がね、持ってきてくれたんだ」

 

「助っ人? お前んとこの特別対策室の連中か?」

 

 ミッシェルの問いに「まぁそんなところかな」と笑って言葉を濁すシモン。そのいいぶりからアーク計画の事情を事前に知らされていたスレヴィンは、それ以上その話題を追求することをしなかった。

 

「タチバナ君とルーニーさんも保護済み。テラフォーマーの駆除と生存者の探索は、このままそっちに任せてくれて大丈夫」

 

「悪いな……恩に着る」

 

 神妙な顔つきになったスレヴィンに「気にしないで」と告げ、シモンは続ける。

 

「だけど、急いだ方がいい。スレヴィン君たちを襲ったっていう、敵の主力が見当たらないんだ。つまり──」

 

「──こっちは陽動か」

 

 シモンの言いたいことを察したミッシェルが言う。これほどの大規模な攻勢──米軍も無視するわけにはいかない。直に米軍から、正規の援軍が送り込まれるだろう。だがそれは、ただでさえ足りていない人手をさらに分割するという悪手によって捻出されるもの。

 

 分散し、分散し、手薄になった全米の警戒網。その隙間を縫って、国を落とさんとする敵が突くのはどこか。

 

「とりあえず、脱出するぞ。今、米軍はまともに機能してない──止められるのは私たちだけだ」

 

「だな。シモン、案内頼むぞ」

 

「うん──こっちについてきて」

 

 ミッシェルとスレヴィンの言葉に頷き、シモンは階段を駆け下りていく。彼が小さく呟いた「あとは任せたよ」という言葉はこの場の誰にも聞かれることなく、ただ彼のバッヂ型の通信機の通信相手にだけ届いて消えた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「……任されました、シモンさん」

 

 

 

 施設の屋上へと続く階段。階下を目指し階段を駆け下りるシモンたちとは対照的に、ゆったりと昇っていくのは、複数の男女。通信機から聞こえた激励に答えたのは、その中心にいた青みがかった黒髪の少女だった。

 

 

 

 ──アーク第四団団長、シャウラ・グレイディ。

 

 

 

 シモンが床を叩き発信したモールス信号で要請した、制圧に長けた特性を有するアークの最高戦力の一人である。

 

「いやいや、まさか俺たちにお呼びがかかるとは思わなかったねぇ」

 

 “シャウラ”がおどけたように言う。軽薄そうな男だ。

 

「他の面々は少々能力が派手すぎるからな。統制がとれるなら、我々が一番手っ取り早い」

 

 その言に、“シャウラ”が答える。こちらは僧侶然とした、落ち着いた風貌の男だ。

 

「ガルル!」

 

 “シャウラ”が高ぶり吠える。もはや人ではない、クマのような獣だ。

 

 口々に雑談を交わす『自分たち』。人によっては気が散る煩さだが、気の弱いシャウラにとっては大任の緊張をほぐす一種のカウンセリングとして機能していた。

 

「うるさいぞお前たち、もう少し緊張感を持て……マスター、着きました」

 

「ありがとうございます」

 

 先導していた女軍人のような“シャウラ”に、マスターと呼ばれたシャウラはぺこりと頭を下げ、屋上へ続くドアのノブへと手をかけた。

 

「よーし、ぶちかませマスター」

 

「案ずることはない。我らが共にある」

 

「グルルル……」

 

「はい……いきますっ!」

 

 背後から駆けられる半身達の激励に応え、シャウラはドアを開け放つ。一拍の静寂──その直後、屋上に無防備な姿を晒した少女にテラフォーマーたちが殺到した。

 

 

 

 大挙として押し寄せる黒い害虫の群れ。彼らに対してシャウラはただ一言だけ、微かに怯みながらも震えのない澄んだ声で告げた。

 

 

 

 

 

()()()()──!」

 

 

 

 

 

 ──少女の、軽薄そうな男の、僧侶の、獣の、女軍人の体から、不可視の風が吹く。

 

 そして次の瞬間、上空を覆い尽くさんばかりだったテラフォーマーたちが、()()()()()()()()()()()()()()()。地面に叩きつけられたその肉体は、まるで水風船を割ったかのように飛沫になる。そして、呆気なくテラフォーマーの包囲網は崩壊した。

 

 

 

「任務、完了……」

 

「お疲れ様です、マスター」

 

 気が抜けたのかその場にへたり込んだシャウラの隣から、女軍人のような“シャウラ”が語り掛ける。

 

「内部の掃討も九割がた完了したと報告が」

 

「それでは、生存者を確保次第すぐに退散しましょう。米軍に捕まれば、面倒なことになりますから」

 

 ──私にできるのはこのくらいです。

 

 御意、と答える“シャウラ”達に微笑みかけてから、シャウラ護国のために走る戦士たちへ、激励の言葉を贈る。

 

 

 

 

 

「シモンさん、ミッシェルさん、スレヴィンさん。どうか──皆さんが、どんな理不尽にも負けず進めますように」

 

 

 

 

 

 そして──反撃の狼煙が、上がった。

 

 

 

 

 




【オマケ】

千桐「というわけで、黒陣営の目標を書にしてみました。『全力で戦う』です!」

ゲレル「会議中に何してるんですか貴女?」

フィリップ「あと千桐さん、点が一個多いね? それだと『金力で戦う』だよ」

ステファニー「(あながち間違ってないから突っ込めない)」




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絶対凱歌EDGARー4 不撓不屈

【ニュース速報】

 ここで臨時ニュースをお伝えします。

先ほど、ホワイトハウスが謎の武装勢力に襲撃されました。武装勢力の規模は約三十名程度とみられており、ホワイトハウスを警備していた合衆国警察と激しい戦闘が繰り広げられています。近隣の住民はただちに避難してください。

現在、グッドマン大統領やホワイトハウス邸内の職員の安否確認はできていません。当局では数日ほど前から国内で散発的に発生しているテロ事件との関連性があるとみて詳しく調査を進めています。



『ホワイトハウス襲撃。大統領の安否不明』

 

 一昨日と同じ昨日、昨日と同じ今日。今日もまた、いつもと同じ1日が始まる──そんな認識で目覚めたアメリカ国民の耳に飛び込んできたのは、合衆国の心臓ともいえるホワイトハウスでテロが起きたという、ショッキングなニュースだった。

 

 そうした中で国内──とりわけ、ホワイトハウス周辺の住民がパニックに陥らなかったことは奇跡といっていい。首都警察の誘導が迅速に行われたため、混乱が伝播する前に民間人が避難したことが大きな理由だ。

 

 そのため平日の朝午前七時という、普段ならば通勤や通学でごった返す時間帯になっても、ホワイトハウス周辺の地域に民間人の姿は見られなかった。

 

「αチーム、前進!」

 

 ──そう、『民間人の』姿は。

 

 ワシントンD.Cメインストリート、ペンシルバニア大通りへと続く17番通り。まるで朝日から身を隠すかのようにビルの影を進むのは、十人ほどの人影──MO手術を受けた軍人と警察から成る、大統領救出チームの面々だった。

 

 テロリストたちの魔の手が大統領に伸びた場合に備え組織されていたこの部隊は、その役割を果たすべくホワイトハウスへと急いでいた。

 

「事態発生から1時間経過──急ぐぞ。これ以上対応が遅れれば、大統領の命に危険が──」

 

 背後に続く部下たちに隊長が告げようとしたそのタイミングでカラン、と金属音が響いた。隊員たちが音の聞こえた方へ一斉に振り向けば、そこに転がっていたのは炭酸飲料の空き缶だった。

 

 ──何だ、ただのゴミか。

 

 大統領救出という大任を前にして、気が尖りすぎていたようだ。隊員たちが安堵の息を吐き、その意識を任務に戻そうとした──次の瞬間。

 

 ボシュッ! 

 

 空き缶から空気が抜けるような音が鳴るや否や、その中から勢いよく霧状の気体が噴出して隊員たちを取り巻いた。

 

「ガス攻撃、か……?」

 

 隊長は困惑した。目にはそれなりに強い刺激があるものの、耐えられない程の激痛ではない。強い匂いはあるが、それは気管や感覚器ダメージを与える刺激臭ではなく、爽やかな香油のそれを思わせるもの。

 

 催涙ガスというにはあまりにも効果が脆弱、致死性のガスならばあえてここまで匂いを強める必要はない。一体、何のために──? 

 

 

 

「これはこれは。朝早くからご苦労なことで」

 

 

 

「ッ!」

 

 その声に振り向いた隊員たちが目にしたのは、隣接する建物の隙間から差し込む朝日のベール、その先からゆっくりと歩いてくる中折れ帽にスーツという洒落た格好の青年だった。ポケットに両手を突っ込んだ彼は無警戒に、そして呑気に隊員たちへと笑いかける。

 

「いやぁ、今日は朝から冷えますねー。こういう朝はいい匂いのアロマを炊いて、熱い紅茶を飲むに限る! どうです、一杯? なんなら、俺が淹れて──」

 

「動くな」

 

 隊長は鋭く命じると、懐から注射器を取り出して己の首筋に当てた。それを見た青年の表情が微かに変わったのを確認し、彼の疑念は確信に変わった。

 

「貴様、テロリストの一味だな?」

 

「やだなぁ、俺は逃げ遅れた善良なアメリカ市民ですよ……なーんて、信じちゃあくれそうにないな、その様子じゃ」

 

 そう言って青年、フィリップ・ド・デカルトは笑った。先ほどまでの人懐っこい、無警戒な笑みではない。それは余裕と狡猾さを含ませた、不敵な笑みだ。

 

「両手をポケットから出して、ゆっくりと頭上に挙げろ!」

 

「はいはい、分かったからそんな怖い顔しないで。うっかり手袋を買い忘れて寒いだけなんだってば」

 

 フィリップは肩をすくめると、流れるような動作で両手をポケットから取り出した。キラリ、と朝日を受けて何かが煌めき。

 

「うッ!?」

 

「ぐ──!」

 

 そして次の瞬間、二人の隊員の体を何かが呟いた。苦痛にうめく隊員たちの肩や腕には、銃で撃たれたかのような傷が刻まれていた。

 

「ッ! 全員変態しろッ!」

 

 銃声はない、何をされたかは分からない。だが隊員たちは目の前の男に、何かをされた──それだけは確か。

 

 であるならば、目の前の男が敵であることはもはや明白。素早く下された隊長の指示に従い、隊員たちはすぐさま変態薬を取り出す。

 

「おお、反応速度0.6秒! 思いのほか優秀だな、アメリカ」

 

 次々と変態薬を接種し、その身に特性を発現させていく隊員たち。それを見てもフィリップは臨戦態勢をとらず、右手でちょいと帽子の具合を直してから何てことないようにその言葉を口にする。

 

「ただ残念なことに……俺の攻撃はもう終わってる」

 

 

 

「ぎ、あああああああ!?」

 

「ぐオオオ──!?」

 

 隊員たちの口から次々と飛び出したのは鬨の声ではなく、苦痛の叫びだった。彼らの肉体はベースとなった生物の特徴を反映するにとどまらず、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「これ、は──!?」

 

 内臓がはち切れそうな痛み、刻々と変異していく己の肉体──隊長は自分の体を襲うこの状態に、心当たりがあった。

 

 変態薬の過剰接種。

 

 ベース生物の力を最大限に引き出す切り札。今の状況はその副作用であるショック反応、手術成功時に説明された『ベースとなった生物への不可逆的な変態』によく似ている。

 

「何、を、した……!?」

 

 痛みに耐えながら隊長が絞り出す。自分たちは過剰摂取などしていない。訓練通り、いつも通りに変態しただけだ。なのに、なぜ──? 

 

「ふふ、マジシャンにマジックのタネを聞くのは無粋だぜ?」

 

 必死の問いをさらりと受け流し、フィリップは告げた。

 

「ま、じっくり考えなよ、あの世でね──やれ、『猛毒部隊(ポイズナス)』」

 

 フィリップが静かに告げると同時、周囲の建物に潜んでいた猛毒部隊の面々が飛び出した。彼らは突然の事態で迎撃もままならない救出部隊の隊員たちを包囲し、間髪入れずに襲い掛かる。

 

「まともに戦おうとするなよ! ほっといても死ぬんだ、ヒット&アウェイを徹底!」

 

 フィリップの指示で猛毒部隊は効率よく敵を屠殺していく。もはやそれは、戦闘でも暗殺でもなく、ただの作業──その様子を見て勝ち目がないことを悟った隊長は、すぐさま大地を蹴った。

 

「ウ、オオオオオオオオオッ!」

 

 過剰変態によって身体能力は高まっている。どうせ燃え尽きる命なら、せめて敵の1人も道連れにしてやる──! 

 

 猛然と突進した隊長は、目を丸くして立ち尽くすフィリップに全力で飛び掛かり──。

 

「ッ!?」

 

 そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()。直接命に関わるような傷ではない、だが全身の肌を襲う焼けるような痛みは、隊長の行動を一瞬だけ鈍らせた。

 

「ほいっと」

 

 そして、その一瞬で彼の命運は決まった。ノーモーションでフィリップが放った指弾が、隊長の額を撃ちぬいた。

 

 末期の瞬間、彼が伸ばした手はフィリップに届くことなく。ばったりと俯せに倒れた隊長は、そのまま動くことはなかった。

 

「ご苦労様、それじゃあ再散開! このまま警戒を続けてくれ」

 

 建物の中に、路地の裏に──次々と姿を消していく猛毒部隊の面々を見送り、フィリップはため息を吐く。

 

 此度の攻勢に当たってフィリップが任されたのは、猛毒部隊の別動隊を率いての遊撃だ。シドの本隊がホワイトハウスを陥落させるその時まで可能な限り増援の到着を遅らせ、敵を混乱させるのが役割だ。

 

 やれやれ、面倒な役回りを任されちまったぜ。

 

 フッ、とフィリップはその顔に笑みを浮かべ──。

 

 

 

「……冷静に考えて無理でしょ」

 

 

 

 そっと頭を抱えた。

 

「いや分かるよ? 最高戦力のシドは論外、ちぎちぎに将は無理、金で雇ったゲレルんは裏切る可能性があるし、ぶっちゃけ俺の下位互換。だったら消去法で俺に回ってくるのは分かるけども」

 

 それにしたって十人で国を相手に時間稼ぎは無茶振りが過ぎる。

 

 はははマジで覚えてろよ叔父さんに参謀長(あのキングども)任務が終わったら、報酬でエリゼの庭にオリアンヌたんとセレスたんの銅像建てさせてやるからなこん畜生。

 

 ブツクサと文句を言いながら、フィリップは建物の隙間にその体を滑り込ませ──そして17番通りには、静けさだけが取り残された。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 近づいてくる足音に、風邪村千桐は顔を上げた。彼女の目に映ったのは自分を──正確には、自分の背後を目指してホワイトハウスへと駆けてくる救出部隊の隊員たちだった。

 

「む、来ましたか」

 

 ルークである彼女に任されたのは、黒陣営にとっての最終防衛ライン『ホワイトハウス正面玄関』の死守である。

 

 現在、ホワイトハウスへのまともな侵入口はこの正面玄関に限られる。通常ならば裏玄関からもホワイトハウスへは入ることができるのだが、そちらはフィリップの『飴』でこちらに寝返らせた国防長官の息がかかった軍人たちと、猛毒部隊がせっせと仕掛けたブービートラップの数々によって封鎖されているためだ。

 

 よってホワイトハウスに踏み入ろうとするものは、必然的にこの正面玄関を通らざるを得なくなる。遊撃部隊が打ち漏らした増援を1人残らず斬り捨て、何人たりとも通さないこと──千桐に課せられた役割は、それだけだ。

 

「ええと、確かこの辺に……あったあった」

 

 千桐は風呂敷包みの中をガサゴソとまさぐっていたが、目的の見つけるとひょいと手を引き抜いた。その手に握られていたのは吸入薬型の変態薬──U-NASAの公的な記録にはない、特殊な系統のベース生物に変態するための代物であるらしかった。

 

 千桐は吸入口を唇で咥えると、思い切り中の粉末を吸い込む。

 

「──ケホッ、コホッ!?」

 

 ……どうやら、勢いよく吸いすぎたらしい。

 

 涙目で咽ながら胸を叩く千桐。だが薬の接種自体は成功しており、すぐにその体にベース生物の特性が反映された。

 

 大和美人を象徴するかのような美しい黒の長髪は、ガラスのような色合いのそれに変化した。頭頂部にはミニチュアの富士山のような形状の突起がちょこんと顔を出し、そこから四本のアンテナのような器官が伸びる。一方で体が何周りも太くなったり、腕に毒針だの鎌だのといった付属器官が現出したりすることもなく、身体に大きな変化は見られない。

 

「ん、んんっ……では、始めましょうか」

 

 おそらくその行為に、完全な敵だと認識したのだろう。変態した救出部隊の隊員たちの中でも敏捷性に長けた数人が、千桐へと狙いを定め一直線に駆ける。

 

 

 

「ゆうびんやさん ゆうびんやさん ハガキが10枚おちました♪」

 

 

 

 一方、千桐はさして慌てた様子も見せない──どころか、呑気に鼻歌を歌い始めた。耳慣れないメロディに救出部隊の隊員たちは怪訝な表情を浮かべるが、彼女は全くお構いなしだ。

 

「ひろってあげましょ♪」

 

 まったくの脱力。いっそ緊張感に欠けるとさえ表現できそうな自然体で、千桐は車椅子に取り付けられた日本刀の鞘に手をかけると──

 

「1枚♪」

 

 一閃。真っ先に飛び掛かった隊員の首が宙を舞う。

 

「2枚♪」

 

 一閃。返す刃で接敵した隊員を袈裟切りにする。

 

「3枚♪」

 

 一閃。滑らかな剣筋が隊員の胴体を上下に両断する。

 

「4枚、5枚♪」

 

 一閃。捨て身で特攻した大柄な隊員と、その死角から隙を討とうとした小柄な隊員をまとめて切り捨てる。

 

「6ま──はいないみたいですね。ええと残りはひぃ、ふぅ、みぃ、よ……7人ですか。ならば」

 

 ひとまず攻撃の波が止んだことを確認すると、千桐は刀身に纏わりついた血脂を払い落として鞘に納める。真正面から挑んでも勝ち目がないと直感したのだろう、隊員たちは千桐を取り囲むように陣形を組み、じりじりとその包囲を狭めていた。

 

「かーごめ かーごめ♪」

 

 千桐は呟くと車椅子に取り付けられた刀を鞘ごと取り外すと、鞘の底でドンと地面をたたいた。

 

「──うしろのしょうめん だぁれ?」

 

 ボコリ、と芝生が盛り上がる。思わず隊員たちが足を止めると、地中から分厚いガラス質の壁がせりあがって行く手を遮った。ハの字型に左右から出現した壁の、唯一の通り道と言っていい場所に千桐は陣取った。

 

「ッ、なんだ!?」

 

 隊員の一人が変態で向上した筋力任せに壁を殴りつけるが、壁はビクともしない。脆そうな見た目に反して、その強度はかなりのものだ。それなりの高さがあるために、脚力に長けた特性でもなければ壁を跳び越すことも難しい。そしてこの部隊に、それを成せる特性の持ち主はいない。出入り口は狭く、精々人が一人通れる程度。

 

 それが意味するのは。

 

「ここを通りたければ、この浄玻璃の死合舞台にてわたくしを討ち果たしてください。男らしく、一対一で」

 

 目の前の剣鬼に、一対一で挑まなければならないということ

 

 唖然と立ち尽くす彼らに、修羅に堕ちた大和撫子はたおやかに笑いかけた。

 

 

 

「さぁアメリカ軍の皆さん。いざ尋常に──生死、です」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「はい、サヨウナラ♡」

 

 ゲレルは妖艶に呟くと、敵に突き立てた腕の毒牙を引き抜いた。勇敢にも立ちふさがったシークレットサービスはそのまま地面に倒れ落ち、数度その体を痙攣させた後に動かなくなる。

 

「隊長、こっちも片付いたぜ」

 

 その声にゲレルが視線をやれば、次の指示を待つ部下たちの姿が目に入った。彼らの周囲に転がるのは、物言わぬ死体となった警備員たちだった。いうまでもなく、ゲレルと彼女が率いる『猛毒部隊』の凶行による成果である。

 

「ご苦労さまです。先日の失態分は取り返せましたかね」

 

 そう言ってゲレルはほぅとため息を吐く。先日の襲撃ではスレヴィンたちに後れを取りはしたものの、それは慣れない『陽動』という役割を与えられていたがため。そもそも彼女らの本領は戦闘ではなく暗殺である。

 

 世界でも最大規模のマフィア『黒幇(ヘイバン)』お抱えの粛清部隊、その肩書は伊達や酔興ではない。彼女たち『猛毒部隊』は事前の下準備と然るべき補助さえあれば、国家規模のセキュリティをも食い破り、標的にその毒牙を突き立てる。

 

「ま、多少武装しようと生身の人間ならこんなものでしょう。それより問題は──」

 

 ゲレルはそう言って、通路を塞ぐように閉め切られた分厚い鋼鉄の壁を見やった。耐火、耐爆、耐衝撃性──設置型対テロ用シールドである。

 

「さすがにこんなものまで用意してるとは計算外でしたね。まったく、余計な手間を……」

 

 皮肉交じりにゲレルは呟く。先刻、彼女たちの目の前で閉ざされたこの通路は、ホワイトハウスの大統領執務室に続いている。グッドマン大統領と彼らの警護を務める精鋭のSPたちはこの先に籠城しているのだ。

 

 この隔壁をこじ開けない限り、標的であるグッドマンの下へはたどり着けないのだが……。

 

「くそっ、ビクともしやがらねえ……隊長! この調子じゃあ、開ける前に日が暮れちまう!」

 

 扉を開けようと四苦八苦していた猛毒部隊の隊員の一人が、八つ当たり気味に隔壁を蹴り飛ばす。攻撃力も何もない、ただ頑丈で通路を塞ぐだけのシールドはその実、殺傷力に長けているだけで破壊力に長けているわけではない猛毒部隊にとって、武装した兵士の部隊よりも厄介な相手だった。

 

 隊内でも屈指の筋力を持つ“アカヒアリ”の特性を持つ彼でさえ、こじ開けることは適わない。しかしだからといって、このまま立ち往生していては──

 

「日が暮れる前に敵の増援が来て、蜂の巣にされるのがオチでしょうね」

 

 ゲレルの眉間にしわが寄った。現状、敵の救援はフィリップ率いる猛毒部隊の別動班、正及び面入り口に陣取った千桐が阻んでいる。しばらく邪魔は入らないだろうが、しかしいつまでも食い止められるわけではない。ステファニーが通信で告げたように、この作戦は『短期決戦』こそが肝なのだ。

 

 時間の浪費は大敵である。彼女は力技での突破を早々に諦めると、次善の策に移った。

 

「エンジンカッターの準備を。しばらくの間は、ルークとビショップが敵の増援を防いでくれます。その間に、この邪魔くさい壁を刳り貫いて──」

 

「いや、必要ない」

 

 しかしそんな彼女の指示は、静かに響いた男の声によって遮られた。

 

「退いていろ」

 

 声の主──シドは猛毒部隊の隊員を押しのけると懐からパッチ状の変態薬を取り出し、首に押し当てる。

 

「原始変態──」

 

 ミシ、と骨肉が軋む音と共に、その肉体が分厚くも滑らかな純白の皮膚に覆われる。肉食獣の犬歯のように鋭利な歯をむき出し、シドが笑みを浮かべた──次の瞬間。

 

 

 

 空気が震え、軋んだ音と共に隔壁が吹き飛んだ。

 

 

 

「ッ!?」

 

 猛毒部隊の隊員たちはぎょっとしたように目を見開く。アリの筋力ですらビクともしなかった隔壁を、こうもあっさり吹き飛ばした破壊力──否、否、注目すべきはそこではない。

 真に恐るべきは、シドが何の予備動作もしなかったことである。それはまるで見えない拳──仮に自分が目の前の男と戦うことになったらと想像して、猛毒部隊の隊員たちは鳥肌が立つのを感じた。

 

「先に行っている」

 

「了解。私は残党の始末を。部下を数人残すので、好きに使ってください」

 

 ゲレルの言葉に「ああ」と短く答えると、シドは専用武器である剣を抜き放ち、散歩にでも行くような気軽さで通路の奥へと歩みを進めていく。

 

「ッ、隔壁が突破された!」

 

「大統領をお守りしろ! 絶対に──」

 

「邪魔だ」

 

 鬱陶しそうにそう言ったシドの体から、隔壁を打ち破ったのと同じ不可視の衝撃波が放たれる。それは机と椅子で築かれた簡素なバリケードごと、テロリストに立ち向かおうとしたSPたちの命を叩き潰す。

 

「フン、口ほどにもない……さて」

 

 シドは辛うじて蝶番で壁に繋がれているだけのドアを蹴り飛ばした。床の上に倒れたドアを踏みつけて、彼は執務室の中へと入る。彼の目は執務机で沈黙する壮年の男性の姿を捉えると、真っ直ぐに彼に向って歩みを進めていく。

 

「お初にお目にかかる、ジェラルド・グッドマン。この国を頂戴しに参上した」

 

「……アポイントもなしにずかずかと」

 

 その男性──アメリカ合衆国大統領、ジェラルド・グッドマンは取り乱すことなくシド達を見やった。

 

「品がないことだ、テロリストよ」

 

「生憎と、これ以外に語る術を持たないのでな」

 

 グッドマンの批難を一笑に付し、シドはどっかりと応接用のソファに腰を下ろした。

 

「さて、単刀直入に用件を言おうか。()()()()()()()()()()()()()()。そうすれば、命だけは助けてやろう」

 

「自分の命惜しさに、国を売り渡すような真似をするとでも?」

 

 ほんの少しでもシドの気に障れば、一瞬にして彼は殺される。そんな状況下にあって、しかしグッドマンは一歩も引かない。殺したければ殺せ、とばかりに眼前のテロリストを睨みつける。

 

「クカカ、勇猛なことだ!」 

 

 一国を収める首魁はこうでなくては、とシドは鷹揚に笑い「だが」と続ける。

 

「勘違いしているようだな。俺は『お前の命を助けてやる』とは、一言も言っていないぞ?」

 

「──なんだと?」

 

 楽し気なシドの声に、それまで少しも変化がなかったグッドマンの顔が微かに歪む。だがその真意にグッドマンが気付く前に、シドは背後の猛毒部隊の隊員たちを振り返った。

 

「大統領は交渉のテーブルに、誰の命が乗っているのかわかっていないご様子。お見せして差し上げろ」

 

 シドの言葉に応じると、1人の隊員が手荒にその人物達を執務室へと引き込んだ。その瞬間──グッドマンの顔から血の気が引いた。

 

 

 

 ──猛毒部隊が連れてきたのはグッドマン大統領夫人と、その娘だった。

 

 

 

「──!」

 

 後ろ手を縛られた彼女たちは、猛毒部隊に指示されるまま歩くことしかできない。口に噛まされた猿轡のせいで悲鳴も上げられず、彼女たちは恐怖の涙を浮かべた目で夫を、父を見やる。

 

 危険を察知していたグッドマンは、事前に護衛をつけて安全な場所へ避難させていた。()()()()()()()()()()、入念に入念を重ねたはずの彼女たちの居場所がなぜばれた。

 

「さて、品のないテロリストらしく交渉──いや、脅迫と行こうか」

 

 動揺するグッドマンに、シドは再び切り出した。

 

「今からお前には、大統領としての声明を発表してもらう。『娘と妻が人質に取られている。家族の命を救うため、テロリストの要求に従い、合衆国大統領を辞任する』とな。そうすればお前の家族と、お前自身の命も見逃してやろう」

 

「──その言葉を信じろと?」

 

「信じたくなければ断ればいい」

 

 突き放すようにシドはせせら笑う。

 

「その場合、お前の家族は全員殺すがな。俺はどちらでも構わん──どうあがこうと、貴様が大統領の席を空けるという結果は変わらない。辞任か殉職か、貴様の首が社会的に飛ぶか家族諸共に物理的に飛ぶかの違いがあるだけだ」

 

「……ッ」

 

 その瞬間、老いた大統領はその生涯において最大級の岐路に立たされた。

 

 提示されるは、究極の二択──最愛の妻を、娘を見捨て、合衆国を統べる大統領としての矜持を貫き死ぬか。あるいは自らを信任した合衆国民を裏切り、家族を愛する父親として生き恥を晒すか。

 

 どちらかを選ぶしかない、どちらかしか選べない。そしてどちらを選ぼうとも──その先に待つのは、破滅だ。ジェラルド・グッドマンという人間は、ここで死ぬだろう。それが生命活動の話か、それとも人間性の話かはともかくとして。彼は何かを、取りこぼしてはいけない大切な何かを失うことになる。

 

「貴様が是といえば、俺は全米に貴様の声を届けよう! 貴様が否といえば、俺は貴様らの首を掻き切ろう! さぁ選んでもらおうか、グッドマン! 国を捨てるか! 家族を捨てるかを!」

 

「ぐ、う……!」

 

 

 

 グッドマンは葛藤する。葛藤して、葛藤して──そして。

 

 

 

「──全米に、通信を繋げろ」

 

 

 

 観念したように、その言葉を絞り出した。

 

「……結構」

 

 言葉とは裏腹に、シドはつまらなそうにそう言うと、クイと顎で合図を送る。それを見た猛毒部隊の一人がスマートフォンを取り出し、数秒ほど操作してからそれを無造作に放る。右腕の人差し指と中指でそれを挟んでキャッチして、シドはグッドマンの前にそれを差し出した。

 

「公共電波はジャックした。これで貴様の声は全米中に流れるだろう──では、感動的なスピーチを期待する」

 

 そう言ってシドは、軽やかに通話ボタンをタッチした。1、2、3……と通話時間のカウントが始まったのを確認すると、グッドマンは口を開いた。

 

 

 

 

 

『国民の皆さん。アメリカ合衆国大統領、ジェラルド・グッドマンです。まずは突然、このような放送で皆さんを混乱させてしまったことを謝罪します』

 

 ──ですがどうか、このような形での放送は私も本意ではないことをご理解いただきたい。

 

 グッドマンはそう前置きをして、続きを切り出した。

 

『既にご存じかもしれませんが、ホワイトハウスは現在、武装勢力により襲撃を受けています。そして今、私の目の前にその実行犯たちがいます。彼らは私の娘と妻を人質にとり、二つの要求を提示しました。第一に、大統領を辞任すること。そして第二に、そのことを合衆国民に向けてこの場で、公共の放送で宣言すること──この二つと引き換えに、妻と娘を開放すると彼らは言いました』

 

 グッドマンが口にしたその言葉をリアルタイムで耳にした人々の反応はさまざまであった。

 

 ある国民は「大統領は家族のためにみすみす国を混乱させるのか」と憤慨し、またある国民は「大統領といえど人間、その決断もやむなし」と同情の意を示す。

 

『悩みに悩んだ末に、私はこの放送をすることに決めました。どうか皆さん、お許しいただきたい──』

 

 けれど、その放送を聞いていたほとんどすべてのアメリカ国民は、その胸中に同じ感情を抱えた。

 

 それはいいようのない虚無感であり、喪失感。ジョージ・ワシントンから始まったアメリカ合衆国が、今日という日を以てテロリズムに膝を屈する。誇り高き国旗に煌めく50の星は、歪んだ暴力の黒に汚されてしまう。

 

 アメリカという国が、テロに負ける。グッドマンの語り口から、ついにその悪夢が現実となってしまうのだ──と、誰もが嘆息した。

 

 そしてだからこそ、誰もが耳を疑った。

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 テレビが、ラジオが、スマートフォンが伝えた、グッドマンの言葉は。想像とは、まるっきり正反対のものだったから。

 

「な……!?」

 

「ッ、こいつ……!」

 

 それはグッドマンを監視している猛毒部隊の隊員たちも例外でなく。彼らは直前までその顔に浮かべていた嘲りと侮りが混ざった表情を、驚愕と怒りのそれで塗り替えた。

 

「ほう……?」

 

 唯一シドだけが怒りも驚きもせず、少しばかり興味が湧いたとばかりに肩眉を吊り上げて見せた。面白がっているのか、あるいは必要性を見出せないのか、本来の要求とは違う内容を口走り始めたグッドマンに対して、制止の声を上げるようなことはしない。

 

『私には合衆国を統べるものとしての責任と矜持がある! 先人たちが遺してきたものを受け継ぎ、より高め、次世代へと引き継ぐこと──それこそが合衆国大統領、ジェラルド・グッドマンに課せられた使命! 例えホワイトハウスが陥落しようと、家族を殺されようと、合衆国の歴史を私の手で貶めることはできない!』

 

 

 これから妻と娘は殺されるだろう。ただ殺されるだけならばいいが。思い通りに自分が動かなかった憂さ晴らしに彼女たちが痛めつけられ、尊厳を踏みにじられながら死を迎える可能性も高い。その最悪の未来は他でもないグッドマン自身が選んだ結果であり、捨てた結果である。

 

 だが例えそうなるとわかっていたとしても……星条旗を背負い立つ者として、グッドマンにアメリカを捨てるという選択肢はなかった。

 

 合衆国がテロに屈する? 国旗に輝く50の星が暴力に汚れる? 

 

 否、否、否──そのような無様は、断じてあってはならない。

 

 その選択は、先人たちが積み重ねてきたものを否定することだから。その選択はここに至るまでの自分の軌跡と、それを支えてくれた家族を裏切ることだから。その選択は、未来に紡がれる顔も知らない誰かの幸せを突き崩すことだから。

 

 だからグッドマンは、例えそれが自己満足に過ぎなかったとしても、“合衆国大統領として死ぬ”ことを選んだのだ。

 

「ッ、放送を止めろ!」

 

 猛毒部隊の隊員の一人が、スマートフォンを取り上げようと駆け寄ってくる。だが、まだ話すべきことは残っている。グッドマンは隊員を突き飛ばし、スマートフォンへと語り掛ける。

 

『どうか許してほしい! 家族を守れず、志も半ばで倒れる愚かな大統領を! そしてそのうえで、厚かましいのは承知の上で言わせてほしい!』

 

「いい加減に黙れ、この老いぼれ!」

 

 苛立った隊員がグッドマンの頬を殴り飛ばす。変態していないとはいえ、成人男性の殴打は相当な威力だ。頬骨がミシと嫌な音を立て、口の中に鉄さびの味が広がる。だが、グッドマンの瞳から炎は消えない。彼は通話が途絶するその寸前、渾身の力を振り絞って叫んだ。

 

 

 

 

我々は気高き星条旗(We are united states)! 暴力でしか語る術を持たないものに、決して負けるな!』

 

 

 

 

 

 その瞬間猛毒部隊の隊員が力任せにスマートフォンを叩き割り、ホワイトハウスから全米への中継放送は途絶えた。

 

「この、老いぼれッ! なめた真似しやがって!」

 

「ぐ、がっ……!?」

 

 猛毒部隊の隊員が、グッドマンのスーツの胸倉をつかみ上げるや否や、その腹に膝蹴りを叩きつけた。たまらずうずくまるグッドマンだが、それだけでは溜飲が下がらなかったのか、男はその背を執拗に踏みつける。グッドマン夫人が声にならない悲鳴を上げて駆け寄ろうとするが、別の隊員に押さえつけられてそれはかなわない。

 

「ハァ、ハァ……このクソが」

 

 血走った眼で隊員はいうと、注射器型の変態薬を首筋に突き立てた。両腕に発現するは、特定外来生物“ツマアカスズメバチ”の特性である猛毒の針。

 

「そんなに死にてえなら、お望みどおり殺してやるよ──―!」

 

 苛立ちと嗜虐性をないまぜにした表情で、その隊員は毒針を振り上げ──

 

 

 

「──誰が私刑を許可した?」

 

 

 

 背後から声が響く。だがその声が誰のものなのかを理解するよりも早く、別の電気信号を受け取った。

 

「あ、え……?」

 

 胸から感じる、冷たい灼熱感。咄嗟に視線を下げた隊員の瞳に映ったのは、自分の体を背面から貫く西洋剣の刃だった。

 

「命令を待つこともできん駒に価値はない──死ね」

 

 ずぶり、とシドが剣を引き抜く。その隊員は何が起こったのか理解できずに地面に倒れ込み──そのまま息絶えた。

 

「馬鹿が失礼した、大統領。で、話を戻すが──」

 

 味方を手にかける凶行に、グッドマンのみならず猛毒部隊の面々すらも愕然と立ち尽くす。そんな中、それを成した張本人である猛獣の如き騎士だけはなんてことないように死体から目を離すと、再びグッドマンを見やった。

 

「先ほどの宣言が貴様の遺言でいいんだな?」

 

「──」

 

 シドの視線に微かに体を強張らせこそしたが、グッドマンは沈黙を貫いた。語るべきは全て語った、殺すならば殺せといわんばかりに。老いた大統領の覚悟をくみ取り、シドはその口元に笑みを浮かべた。

 

「いいだろう──()()()覚悟に敬意を表し、痛みを感じる間もなくあの世に送ってやる」

 

 猛獣の如き騎士が西洋剣を構える。その様子をしり目に、グッドマンは人質となった家族たちへ視線を向けた。この状況に怯えてこそいるが、しかしその目にグッドマンへの非難の色はない。それは夫の、父の、選択が正しいと信じているからこその、凛とした態度であった。

 

 ──すまない、お前たち。

 

 胸の中で一度だけ謝罪の言葉を口にして、グッドマンは再びシドへと視線を戻す。最後の瞬間まで、決して目の前の男から目を逸らすまいという、彼の大統領としての最後の意地だった。

 

 シドが腕に力を籠めた。そのエネルギーが柄を通じて西洋剣に込められ、その刃が己の首を切断すべく迫る。その一連の流れは、異様にゆっくりと遅く感じられた。そして、その切っ先がまさにグッドマンの首を断ち切ろうとした、そのタイミングで。

 

 

 

 

 

 ガシャン! 

 

 

 

 

 

 

 グッドマンの背後、大統領執務室の大窓にはめ込まれたガラスを突き破り、その人物は中に飛び込んできた。彼は粉々になったガラス片と共に室内に降り立つと同時に、彼は銃を構えた。

 

 左右の手に加え、人為変態によって腰から生えた3本の触手に握られた5丁の拳銃が、爆音と共に一斉に火を噴く。

 

「がッ!?」

 

「ぴゃッ!」

 

「ぐぁ!」

 

 三発の弾丸が、それぞれ室内にいた猛毒部隊の隊員たちを貫く。彼らは反撃もままならず床の上に盛大に倒れ込み、苦し気にうめき声を上げる。

 

「フン」

 

 一方シドは襲撃者の挙動を見るや否や、即座に手中の剣を振るい、自らを狙い迫る銃弾を弾き飛ばした。ガィン、という音と共に軌道がそれ、室内の壁に弾痕が一つ刻まれる。対人を想定したハンドガン程度、今のシドにとっては子供のおもちゃのような物だ。

 

「──?」

 

 だがそのタイミングで、彼は異音に気が付いた。

 

 彼が耳にしたのは、高速で何かを巻き取るような音──そして次の瞬間、襲撃者の体が何かに引っ張られるように宙を舞った。目を凝らしたシドは、襲撃者が持つ拳銃のうちの1丁から伸びる、ひも状の金属に気が付いた。

 

「ワイヤー銃か!」

 

「大統領ッ!!」

 

 シドと襲撃者の声が重なる。ワイヤーを切断すべく、剣を持つ手に力を籠めるシド。しかし襲撃者が再び拳銃の引き金を引いたために、その剣は防御のために振るわざるを得なくなる。

 

 その隙をつき、襲撃者は伸ばされたグッドマンを掴むと、ワイヤーを巻き取る勢いに任せ、彼の体をシドから引き離した。

 

 そのまま彼はグッドマン夫人とその娘の前でワイヤー銃から手を離し、転身。シドから守るよう射線上に立つと、四つの銃口全てを彼に向けた。

 

「ああ、来ると思っていたぞ、スレヴィン・セイバー」

 

 先日切り伏せた標的──スレヴィンに、シドは語り掛ける。

 

「あの程度で死ぬ雑魚でなくて何よりだ。だが随分と早いな。ビショップとルークを足止めに回したはずだが?」

 

「仲間がいるのはお前だけじゃねぇってことだ」

 

「……そういうことか」

 

 スレヴィンの言葉に得心がいった、とばかりに。事情を察したシドは、その口元を凶悪に歪ませた。

 

 

 

※※※

 

 

 

 ──17番通り。

 

「お、今のを避けたか。やるねぇ」

 

 感心半分、意外半分。そんな声音で呟いたフィリップは、眼前の人物を頭上から爪先までくまなく観察して、その目を喜色に輝かせる。

 

「そして聞きしに勝る、素晴らしい筋肉だ! 特に上腕二頭筋の造形、滑らかな曲線が美しい。よっぽど鍛えぬいたんだろうな……いいね、ムラムラしてくる!」

 

 ──だからさ。

 

 そう言ってフィリップは、微かに目を細めた。

 

「その殺気を抑えて俺の筋肉談義に付き合ってくれない? 大人しくしてくれたら、ひどいことはしないからさ──ミッシェル・K・デイヴス少佐」

 

「お断りだ、このセクハラ野郎」

 

 底冷えするような声と共に、変態したミッシェルが睨む。

 

「テメェの性癖に付き合ってやる時間はねェ」

 

「おっと、そいつはおっかない……じゃあ仕方ないな」

 

 そう言ってフィリップは袖口から素早く銃弾を取り出し、それを握り込んだ。

 

「恨みっこなしだ。どうなっても知らないよ?」

 

「こちらの台詞だ──私たちの誇りを踏みにじっておきながら、ただで帰れると思うな!」

 

 

 

※※※

 

 

 ──ホワイトハウス正面玄関

 

 

 

 ガン、ギン、キィン! 

 

 硝子の壁に八方を塞がれた決闘場。そこで打ち合い火花を散らすは剣と槍、車椅子に座した風邪村千桐と、フルフェイスヘルメットを被ったシモン・ウルトルである。

 

「通りゃんせ 通りゃんせ♪」

 

「せッ、発ッ!」

 

 刀が首を刎ねようとすれば槍が防ぎ、槍が心臓を貫こうとすれば刀が阻む。目にもとまらぬ速さで繰り返される衝突。更に数合打ち合った彼らは一度距離を置くと、仕切り直しといわんばかりに再び己の武器を構えた。

 

「ふふ、お見事です。ここまでわたくしと打ち合った方は、久方ぶり。花丸あげちゃいます」

 

 コロコロと鈴の音のような声で笑いながら、千桐は続ける。

 

「さぁ続けましょう? わたくしを倒さない限り、ここから先へは進めません……先ほどはタコの人をうっかり通してしまいましたが、それはそれ。わたくしが健在のうち、ここから先は通せんぼ。ここから先は通りゃんせ、です」

 

「……」

 

 そんな千桐の言葉に、シモンはフルフェイスヘルメットの下で微かな困惑の表情を浮かべて槍を構え直す。一瞬の逡巡……その後、彼は意を決したように口を開いた。

 

 

 

「ゴメン、今言うことじゃないかもしれないけど……さっきから貴女が歌ってる『通りゃんせ』って、『通りなさい』って意味だよ?」

 

「えっ」

 

 ──やりづらい。

 

 ピシリ、と衝撃を受けたように固まる千桐の姿に、シモンはそっとため息を吐いた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「ダリウス・オースティンが来れば音で分かる。察するに足止めを買って出たのは、シモン・ウルトルにミッシェル・K・デイヴスか……クカカ、確かに奴らならば、ルークとビショップの相手も務まるだろう! だが悪手だったな──」

 

 一度言葉を切ったシドは試すように、スレヴィンに問いかけた。

 

「お前1人で、俺と猛毒部隊を相手に勝てるとでも?」

 

「んなもん、やってみなくちゃわかんねえだろうが!」

 

 スレヴィンは叫ぶと同時、シドに照準を合わせた四つの銃口が一斉に火を噴く。

 

「大統領、家族を連れて走れ!」

 

 ひっきりなしに鳴り響く銃声。それに負けない声量でスレヴィンが怒鳴れば、いち早く立ち直ったグッドマンがすぐさま妻と娘の手を引いて部屋を飛び出した。

 

「無駄だ、その程度の銃で俺は殺せん!」

 

 巧みな体捌きでシドは銃弾を躱し、あるいは己の専用武器で弾く。マダコの特性を最大限に活かした弾幕に晒されながら、その体には未だ傷がついていなかった。

 

「そうかよ。だったら──」

 

 ──コイツならどうだ? 

 

 そんな言葉と共にスレヴィンが取り出したのは、他の自動式拳銃とは形状が違うリボルバータイプの拳銃。特筆すべきは、銃身が通常のリボルバーに比べてかなり太いことだろう。

 

「ッ!」

 

 スレヴィンが引き金を引く。咄嗟にシドが半身を逸らした、次の瞬間。

 

 

 

 ── ド ゴ ン ッ ! 

 

 

 

 今までとは桁違いに重々しい銃声が響き、()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「ク、ク──クカカカカッ!」

 

 その光景を見たシドは、何がおかしいのかその手を額に当て、ゲラゲラと大笑いする。

 

「『S&W M500』の改造50口径銃か! しかもこの威力は被覆鋼弾(フルメタルジャケット)じゃない、膨張炸裂弾(ホローポイント)だな?」

 

 それは、スレヴィンが特注で用意した対テラフォーマー用の装備。

 

 長い歴史の中で人類が開発した最強の武器、『銃』。相手に近づくことなく、離れた位置から一方的に敵を葬り去ることができるその武器はしかし、痛覚が存在せず、食道下神経節が存在する限り活動を続けることができるテラフォーマー相手には効果が薄い。

 

 二年後のアネックス計画に配備される人員が完全装備の軍人ではなく、MO手術を受けた民間人である最たる理由だ。

 

 だからスレヴィンは、徹底的に威力を上げることにこだわった。

 

 21世紀のアメリカで『世界一強力な銃弾を撃つ』ために開発された50口径拳銃、『S&W M500』。『世界最大口径の拳銃』というギネス記録は600年たった現在でも破られておらず、並の銃とは桁違いの威力で弾丸を吐き出す。

 

 また装填する弾丸も通常のそれではなく、ホローポイント弾と呼ばれるやや特殊な形状のそれ。着弾と同時に弾頭がキノコ状に膨らむことで、効率よくエネルギーを与えターゲットを内部から破壊する凶悪な仕様。

 

「当たりどころが悪ければテラフォーマーでも粉々、文字通り一撃必殺だ。人間に向けて使う代物じゃないだろうが」

 

「──その一撃必殺を剣で受け流しやがった奴には言われたくねえな」

 

 渋い顔で吐き捨てたスレヴィンの目にはシドの西洋剣があった。おそらく50口径の威力に耐えられなかったのだろう、象牙のような質感の奇妙な刃は戦端が三分の一ほどかけていた。しかしそれは裏を返せば、彼は己の武器を完全に破壊せず、人体を上下に切断するほどの威力を秘めた弾丸を受け流してみせたということ。

 

(──人間技じゃねえ)

 

 ゾッとするような悪寒が走る。間違いなく眼前の男は、スレヴィンがこれまでに出会ってきた人間の中で最も強い。ともすればアネックス計画の幹部たちでさえ、油断すれば喰われしまうほどに。今の自分では到底及ばないだろう。

 

 

 

「だが、それでいい……()()()()()()()()()

 

「ッ、そうきたか──!」

 

 スレヴィンの言葉の真意をシドが理解した瞬間、大統領執務室内には眩い閃光と凄まじい音響が溢れた──スレヴィンが用意しておいたフラッシュバンが炸裂したのだ。

 

 シドは咄嗟に目と耳を塞ぎ、口を半開きにして襲い来る五感への攻撃をやり過ごす。しかし再びシドが視線を向けると、そこにスレヴィンの姿はなかった。

 

「してやられたな。まあいい」

 

 この程度の時間では、ほとんど距離も稼げないだろう。そう判断したシドは大統領執務室を後にしようとするのだが。

 

 

 

【オ ア、ア ア ア ア ア ア ア ア !!】

 

 

 

 耳を劈く甲高い悲鳴のような音が響く。騒騒しいその音に舌打ちをして、彼は手中の西洋剣を見下ろした。

 

「刃が少々かけた程度でガタガタと騒ぐな」

 

 その言葉に抗議するように、手中の西洋剣は柄から機械製の触手を伸ばし、先端部の針状の物体をシドの腕に突き刺した。

 

 ──このままでは戦闘に支障をきたすか。

 

 そう判断したシドはもう一度舌打ちしてから、渋々といった様子で告げた。

 

「……三十秒だ」

 

 そう呟くと同時、まるでその言葉を聞いていたかのように、柄から延びる触手の攻撃がぴたりと止んだ。

 

「それ以上は待たん」

 

【──キャ、キャ】

 

 先ほどと一転、どこか楽し気な音を響かせながら──アダム・ベイリアルが鍛えた西洋剣『元帥(マーシャル)』は、その刀身をバックリと四つに分裂させる。

 

 露になった刀身の内側にあったものは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。不気味に脈動する平たいピンクの器官、至る所から粘性の液体を滴らせるそれは、どこかホラー映画に出てくる怪物の口のように思える。

 

『剣に擬態していた怪物が本性を現した』──そんな表現が相応しい光景だった。

 

 分裂した『元帥(マーシャル)』の刀身は不気味にうねり、まるで植物の成長を早回ししているかのようにゆっくりと、スレヴィンの攻撃で戦闘不能になった猛毒部隊の隊員たち目指して伸びていく。

 

「ひ、やめろ! 離せェ!!」

 

「来るな、来るなああああああああ!」

 

「い、嫌だ! 死ぬのはいい! だが、あんたの『元帥(マーシャル)』で殺されるのだけは嫌だ!!」

 

 猛毒部隊の隊員たちが、口々に絶叫する。一人の例外もなく優れた暗殺者たちである彼らが、泣きながら懇願する。

 

 しかし、あの程度の奇襲にも対応できない兵士の命乞いにシドが耳を傾けることはない。そしてさらに言えば、アダム・ベイリアルが鍛え上げた魔剣に死にゆく者の嘆願を聞き入れるなどという慈悲深い機能が付いているはずもない。

 

 抵抗も逃亡も命乞いも意味はなく、隊員たちは触手のような刃に捕らえられ、そして。

 

 

 

 

 

【 ギ ャ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ハ ! !】

 

 

 

 

 

 ザシュグシャグチャバキメリゴリッメキョベキボキガツガツズルッジュルルル! 

 

 

 

 

 

 そんなおぞましい音と共に、文字通り()()()()()()()。剥き出しになった怪物の口は断末魔を上げる隊員たちに牙を突き立てると、肉を食み、血を啜り、骨をむさぼる。荒々しい捕食行動で飛び散った血飛沫が、返り血となってシドの顔を汚す。

 

【キャ、キャ──】

 

 先に殺されていた隊員を含めた四人分の人間をものの二十秒ほどで平らげると、怪物は満足したように元の剣の形態へと収束した。その様子を見て、呆れたようにシドは呟く。

 

「相変わらず、行儀の悪い女だ──さて、急がねば」

 

 とんだ足止めを食ってしまった。

 

 シドは取り出した眼鏡クリーナーでレンズにこびりついた血糊をふき取ると、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、執務室を飛び出した。

 

 

 




【オマケ①】

エドガー「『その程度の銃じゃ俺は殺せない』といったかと思えば『人間に向けて使うもんじゃない』……注文が多いな貴様」

シド「戦闘中の発言に突っ込むな。無粋だろうが」



【オマケ②】

元帥【ツギ、サイキンガタタベタイキャアアアアアア!】

シド「注文が多い。誰に似たんだこいつ」

エドガー「鏡を見てみるがいい」



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狂想賛歌ADAM-7 最強と最凶

「クカカ、じゃじゃ馬め! 食い荒らした分はしっかり働いてもらうぞ」

 

「二度目はねえ。今度こそ、俺は守ってみせる」

 

「もう一度、彼と果たし合うためならば……わたくしは喜んで修羅に堕ちましょう」

 

「立ちふさがるなら、貴女はボクの敵だ──押し通る!」

 

「さて、それじゃあ戦争だ。土地も誇りも魂も、力づくで奪わせてもらおう」

 

「やれるもんならやってみろ。お前らにゃ何一つ、奪わせねぇ」

 

 

 

 それぞれの想いを胸に、駒は盤上を征く。空気は張りつめ、交錯する闘争本能が激情と共に燃え盛る。決戦の幕は今まさに切って落とされた。

 

 

 

 そしてだからこそ、()()()()()()()()

 

 

 

 最後にして最強の駒、“赤の怪物(モンスター)”が盤上に迫りつつあることに。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「総員、構えッ!!」

 

 焦燥にかられた指揮官の言葉に、戦列を組んだ米軍の歩兵が一斉にアサルトライフルを構えた。10以上の銃口の射線の先に立つのは、鬼の如き巨体の大男──ヴォーパル・キフグス・ロフォカルス。

 

 アダム・ベイリアルが地球に送り込んだ二騎の追加戦力の片割れ、“妖魔”アストリスと対成す絶対的な暴力の権化たる“悪鬼”である。

 

「──撃てッ!」

 

 指揮官の指示と共に、兵士たちのアサルトライフルが一斉に火を噴く。常人ならばコンマ秒の間すらも置かずミンチになるだろう弾丸の雨。しかしそれはヴォーパルを殺すどころか、彼の全身を覆う灰白色の鱗を傷つけることすら能わない。

 

「痒い」

 

 欠伸交じりに呟くと、ヴォーパルは乱雑に右腕を振りぬいた。指から生えた肉切り包丁の如き爪を叩きつけられた兵士たちの肉体は、呆気なく上下に両断された。爪にこびりついた血脂を舐めとり、彼は嘆息する。

 

「弱たにえん……む?」

 

 背後から響くエンジン音に振り向いたヴォーパル。その目に映ったのは、猛スピードで地震に向かって突進してくる軍用の装甲車──ヴォーパルを轢き殺そうとしているのは明らかだった。

 

「力比べか……ナシよりのアリ」

 

 轟音と共に、装甲車とヴォーパルが真正面からぶつかった。時速80km近い速度で衝突した装甲車は勢いのまま、鬼の如き彼の肉体を数mほど後退させる。

 

「だが。我のテンションに着火ファイアするには足りない」

 

 ──しかし、それだけだった。

 

 ヴォーパルは強靭な両足と腰から延びる太い尾で体を支えながら、左腕だけで装甲車を受け止めていた。空回りするタイヤの音に混ざり、ギシと金属がへこむ音が響く。彼の爪が車両を覆う防弾装甲に食い込んだのだ。

 

「この程度で我を殺せると本気で思っているのか? だとすれば──」

 

 そのまま彼は空いている右腕を車の下に入れ、装甲車を抱え上げる。そうしてぐるりとその体を反転させると、パッ、とヴォーパルは手を放す。遠心力と共に空中に放り出された装甲車は、空中からヴォーパルへと狙いを定めていた軍用ヘリへとぶつかり爆発を引き起こす。

 

 

 

「──超ウケるんですけど」

 

 

 

 つまらなそうにぼやいて、ヴォーパルは首をゴキリと鳴らす。数トンは下らない装甲車を玩具のように放り投げる膂力に、生き残った兵士たちは恐怖の視線を向けた。

 

 3m近い巨体が振るうは、『怪獣』と形容するに相応しい理不尽なまでの暴力。

 

 口から紡がれる言語は人間のものでありながら、まるで話が通じない。

 

 そして何より恐ろしいのは、()()()()()()()。何かを壊す時も、誰かを殺す時も、その瞳に感情の色が浮かぶことがないのだ。何の感慨も感傷もなく、彼は全てを蹂躙する。言動から推察するのなら、落胆らしき情動を抱いてはいるのだろうが……それすらも、ひどく希薄。

 

「マジアリエンティ……あまりにも、弱過ぎる」

 

 虚ろな嘆きと共に悪鬼はその眼球をぎょろりと兵士たちへ向けた。その目は兵士たちをまともに捉えていない。人が蹴飛ばす小石に、むしり取る雑草に意識を傾けることがないように、ヴォーパルはこれから踏み潰すだけの敵に、いちいち意識を割くことはしないのだ。

 

「畜、生……」

 

 ──こんな化け物、どうしろってんだよ。

 

 兵士の一人が愕然と呟いたその瞬間、ヴォーパルは大地を蹴った。アスファルトがひび割れるほどの威力で接近したヴォーパルは、棒立ちになる兵士たち目掛けて鉤爪を振りぬく。

 

 

 

 

 

 ──いや、()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

「──?」

 

 ガギン! という音が響く。それと同時に伝わった手応えに、ヴォーパルは微かに首を傾げた。それが標的を潰した時のものではなく、何か硬いものにぶつかった時の感覚に近かったためだ。

 

 ──どうやら、何かが自分の攻撃を阻んだらしい。

 

 その考えに至って初めて、どこか遠くを見つめていたヴォーパルの目は現実へと焦点を合わせる。

 

 

 

 ──視界に映ったのは、金髪を束ねた東洋人だった。

 

 

 

 ヴォーパル程ではないがかなりがっしりとした体格の、人間の雄。兵士たちの一歩前に立つ彼の左腕は頑丈な甲殻に覆われ、ヴォーパルの鉤爪を受け止めていた。

 

「よぉ。随分派手に暴れてるみてぇだな、お前」

 

 男は咥えていた葉巻型の変態薬を吐き捨てると、その目を正面から見据えた。

 

「──俺とも遊んでくれよ」

 

 言うや否や、男は右腕で強烈なボディブローをヴォーパルの鳩尾に叩き込んだ。ただ振るっただけの拳はしかし、3m近いヴォーパルの巨体を軽々と吹き飛ばす。コンテナの山に叩きつけられたヴォーパルはそのまま、崩れた貨物に呑まれ生き埋めになった。

 

「U-NASAからの援軍か!」

 

「おう、遅くなって悪かった。あんたらは近隣住民の避難誘導に回ってくれ──あの人型ゴジラは俺が相手をしよう」

 

 男の言葉に異論を唱える者はいなかった。そもそも彼らの任務は援軍が到着するまでの足止めだった、ということもあるが……何よりも、彼らはこの短い時間の間で思い知ったからだ。

 

 あの怪物に、自分たちではまるで歯が立たないことを。

 

 その怪物を一撃で吹き飛ばした、男の強さを。

 

 そして両者が正面から闘うとき、自分たちの存在は邪魔にしかならないことを。

 

「……武運を祈る(Good Luck)

 

 兵士の一人が告げた激励に、男はサムズアップで応える。そのまま撤退していく兵士たちを見送る彼の耳にガラガラと何かが崩れる音が届く。

 

「これは神対応」

 

 大量のコンテナを蹴り飛ばすようにして這い出し、ヴォーパルは男に好奇の視線を向けた。重量数トンの貨物の雪崩を受けながら、その肉体に目立った傷はない。その事実が、ヴォーパルという怪物の肉体の頑強さを何よりも雄弁に物語っていた。

 

「マジルンルン御機嫌丸……!」

 

 その目に隠しきれない喜色が滲ませ、彼は笑う。これまでに地球で対峙した生物の大部分に対し、ヴォーパルは『気付いたら踏み潰していた虫』以上の感慨は抱いていない。

 

 ベネズエラで対峙した槍の武人と拳法使いの軍人は幾分マシだったが、それでも精々『狩られる瞬間に抵抗する小動物』程度のもの。

 

 ──初めてだったのだ。

 

 潰すでも狩るでもなく『戦う』という、明確な“敵”になりうる存在に遭遇したのは。己と対等のステージに立ちうる存在に、ヴォーパルは柄にもなく心を躍らせた。

 

「名乗れ、人間。貴様に興味が湧いた」

 

 ズシン、ズシン、と重々しい足音を響かせながら近づいてくるヴォーパル。それを見た男は、まだ新しいアネックスクルー用の制服のボタンをはずした。

 

 

 

 ──とある少年の話をしよう。

 

 日本の片田舎に生を受けたその少年は、子供たちに虐められていた。

 

 自室に引きこもり、鬱屈とした日々の中で心を腐らせていく彼を変えたのは、動画投稿サイトで偶然目にした、とある格闘技の動画だった。

 

 その格闘技とは、『プロレス』。

 

 ぶつかり合う鋼の如き肉体、一撃に全てを賭ける戦士たちの覚悟、場内を震わせる歓声。どれもこれも、少年にはないものだった。他人から見ればあまりにも些細な切欠。けれどそれは、彼にとっては紛れもない転機だった。

 

 その日から少年は、無我夢中で自分の体を鍛え始めた。全身が悲鳴を上げようと尿が血で赤く染まろうと気にも止めない。あの日、己の魂を震わせた高みを目指して──少年は特訓を続けた。果たして、その努力はすぐに報われることになる。

 

 半年後、彼はいじめっ子たちを拳骨で叩きのめした。

 

 14歳になると、村一番の力自慢でも相手にならなくなり、少年は村を出た。

 

 各地を放浪し、強い奴に喧嘩を売り続ける間に、少年は青年になった。

 

 そして彼は18歳の時、ボクシングの世界チャンピオンを野良試合で倒す。それを皮切りに拳一つで次々と強者を打ち倒していったその青年を、人々は異口同音に『路上最強』とたたえた。

 

 

 

「──アネックス計画、日米合同第一班所属」

 

 

 

 男は羽織っていたアネックスの制服を脱ぎ捨てた。露になった全身の筋骨を包むは、頑強な青紫の甲殻。その大きな手に宿るは、あらゆるものを握り潰す万力。握り締めた拳でドンと胸を叩き、彼はニィと不敵に笑う。

 

 空手の無制限大会優勝者を倒した。

 

 合気道の達人を倒した。

 

 ムエタイで死神と呼ばれた男を倒した。

 

 古武術を極めた怪僧を倒した。

 

 剣聖と謳われた女性剣術家を倒した。

 

 アネックス計画の艦長を倒した。

 

 名だたる強者と拳一つで戦い続け、語らい続け、勝ち続けた。

 

 そして今──彼はU-NASA最強の切り札として、狂人が生み出した『赤の怪物(モンスター)』と同じ戦場(リング)に立つ。

 

 

 

 

 

 

幸嶋隆成(ゆきしま たかなり)だ」

 

 

 

 

 

 幸嶋隆成

 

 

 

 

 

 

 

 国籍:日本

 

 

 

 

 

 

 

 20歳 ♂

 

 

 

 

 

 

 

 MO手術 “甲殻型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────── ヤシガニ ────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──路上最強(幸嶋隆成)宣戦(リングイン)

 

 

 

 

 

 

「……我が名はヴォーパル。ヴォーパル・キフグス・ロフォカルス」

 

 ヴォーパルは幸嶋の目の前で立ち止まると、再び右腕を振り上げた。

 

「では試してやろう、オキシマタカフミ……貴様が我の『敵』たりうるのかを」

 

 そしてその鉤爪が、ギロチンの如く振り下ろされた。先ほどの「目障りな虫を潰す」ためのものではない、「敵を殺す」ための本気の攻撃。

 

 並の昆虫程度の強度であれば比喩でもなんでもなく、文字通りに一撃で挽肉(ミンチ)に変えるほどの威力──! 

 

 

 

「名前ぐらいちゃんと覚えろ、()()()()()

 

 

 

 だが次の瞬間、轟音と共に仰け反ったのはヴォーパルだった。ヴォーパルの尖爪は幸嶋の肉体を守る甲殻に罅を入れるにとどまり、幸嶋の掌底(カウンター)はヴォーパルの頑強な胸板を強かに打ち据えた。

 

「……!」

 

 ヴォーパルが数歩後ずさる。一見隙だらけのその様子に追撃の二字が脳裏によぎるが、幸嶋は咄嗟に思いとどまる。人生の半分を闘争に費やした彼の直感が告げる、まだ時ではないと。

 

 腰を切り、呼吸を整える幸嶋。そんな彼の耳に、数十分前に分かれた人物の声が届く。

 

『幸嶋君、聞こえているかな?』

 

『まだ生きているならば返事をしたまえ』

 

「おう、感度良好。ばっちり聞こえてるぜ、クロード博士にヨーゼフ博士」

 

 耳に取り付けた通信装置から聞こえてきた声に、幸嶋は返した。通信の相手はクロード・ヴァレンシュタインと、ヨーゼフ・ベルトルト。U-NASAが抱える科学の二大権威であり、幸嶋をこの場に送り込んだ張本人たちである。

 

『心拍数、血圧共に平常値。免疫反応は陰性、バイタルオールグリーン。経過が良好なようで何よりだ──術後間もない君を引っ張り出した人間のセリフではないがね』

 

 淡々と告げるヨーゼフ。しかしその声色には微かに、彼の胸中に渦巻く罪悪感が滲んでいた。彼に追随するように、クロードが謝罪を口にする。

 

『どうか恨んでくれ、幸嶋君。碌に情報も装備も与えず、こうして死地に送り出すことしかできない私たちのことを』

 

「恨む? おいおい馬鹿言わないでくれ、むしろ感謝してるくらいだ! 期待通り──いや、()()()()()()()()()()()()!」

 

 だが幸嶋は、そんな彼らの言葉を一蹴する。建前や取り繕いではなく、心の底から彼は感謝の言葉を口にした。

 

「く、はははははは! すっげぇなU-NASA! まさか初っ端から、こんな化け物みたい

 な奴とやりあえるなんて思っちゃいなかった! いいねぇ──」

 

 そう言って路上最強は、白衣を纏った魑魅魍魎が生み出した最悪の怪物を前にして一歩も退くことなく。

 

「──腕が鳴る」

 

 心底楽しそうに、子供のように無邪気に笑って見せた。

 

 

 

 

 ──ワシントンD.C.に最も近い米軍基地からU-NASAへの緊急通信が寄せられたのが、今から一時間半ほど前のこと。

 

 アメリカの重要軍事施設が相次いで陥落した先日の一件から、平時以上の警戒態勢を敷いていたアンドルーズ基地。そこに人型の怪物が現れたというのが第一報であった。

 

 その知らせを聞いたクロードが管制室に駆け付けるのとほぼ同時、飛び込んできた第二報は『その怪物が手当たり次第に兵士たちを蹂躙している』というもの。

 

「これは……ッ!」

 

 U-NASAに送られてきた赤外線カメラの映像を確認したクロード。彼は二つの点からその怪物が、アダム・ベイリアルが火星から地球へと送り込んだ『未知の戦力』の片割れであると確信した。

 

 一点はその怪物の戦闘光景。片っ端から引き裂かれ、叩き潰され、文字通りの血祭りにあげられていく兵士たち。苛烈な攻撃の余波で大地に刻まれる爪痕。ついでとばかりに破壊された周囲の物体。

 その惨状は、地球に着弾した二機のロケットのうち、ベネズエラの熱帯雨林に落下したロケットの発見状況と酷似していた。

 

 そしてもう一点は、その怪物の背に『食い尽くされた林檎の芯に巻き付く幼虫(ニュートンの反逆印)』を象った刺青が彫られていたこと。国や集団のシンボルとしてはあまりに悪趣味なそのデザインは、アダム・ベイリアルたちの象徴に他ならない。

 

「い、いかがなさいますか……?」

 

 オペレーターの問いに、クロードはすぐに答えることができなかった。

 

 一刻も早く手を打たねばまずい、それは分かっている。だが、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「──リストを表示してくれ」

 

 クロードの指示で巨大な電子モニターの画面に表示されたのは、U-NASAのデータバンクに記録されたMO手術被験者の一覧だった。ずらりと並べられたプロフィール画像の隣には一人一人の名前とベース生物、能力テストの結果が詳細に記されていた。

 

 

 

 ──どうすればいい? 

 

 

 

 クロードは画面をスライドさせる手を速めながら、思考の海へ沈む。アダム・ベイリアルが地球外からわざわざ送り込んできた戦力だ、生半可なものであるはずがない。チェスになぞらえた代理戦争の盤面を根底からひっくり返す力を持っていると考えていい。

 

 それに対抗するとなれば、一般戦闘員程度では話にならない。万全を期すのならオフィサークラスの戦闘員を派遣すべき。だが今、合衆国内でこの条件に該当する者はホワイトハウスの奪還やフランスの工作による軟禁、U-NASAの防衛といった種々様々な要因で、全員手がふさがっている。クロードが自由に動かせる戦闘員を総結集したとしても、アダム・ベイリアルの兵器に対抗できるかは怪しいところだ。

 

「……一体誰なら、あの怪物を止められる?」

 

 思わず口をついて出たその疑問に、彼は回答を期待していなかった。

 

 だからこそ。

 

 

 

 

 

「んじゃ、俺が行くわ」

 

 

 

 

 

「!」

 

 背後から明瞭な答えが返ってきたことに、彼はひどく驚いた。振り向いた彼の目に映ったのは、髪を金に染めた日本人男性。一瞬記憶を辿ったクロードは、彼がつい最近MO手術を受け終えたばかりの戦闘員であったことを思い出す。

 

「君は……幸嶋隆成くん、だったかな?」

 

 水面下で進行するアーク計画の総指揮に加え、最近では痛し痒し(ツークツワンク)の情報収集や勃発した侵略行為への対応、更には『狂人病ウイルス』のワクチン開発と数々の業務に忙殺されていた彼は、最近になってアネックス計画に参加した幸嶋隆成という人間をよく知らない。「小町小吉が『路上最強』と呼ばれる人材を直々にスカウトした」と他の職員経由で小耳にはさんだ程度。

 

 なぜ彼がここにいるのか? という疑問よりも先に、彼の脳裏に浮かんだのは「無謀」の二文字。

 

 路上最強──なるほど、大した肩書である。だが、人間同士の喧嘩で負けを知らず。その程度の実力者を、白衣を纏った魑魅魍魎の兵器の前にむざむざ放り出すわけにはいかない。

 

 アダム・ベイリアルの狂気には底がない。クロードはそれをよく知っている。尋常な強さでは、あの狂人が創り上げた怪物に勝つことはおろか抗うことすらもできない。

 

 貴重な戦力をみすみす使い捨てられるほど、U-NASAは人材が豊富なわけではない。故にクロードは、幸嶋の申し出を断ろうと口を開き。

 

「彼の実力は私が保障しよう、クロード博士」

 

「! ベルトルト博士」

 

 幸嶋の後ろから入ってきた同僚──ヨーゼフ・ベルトルトの姿を認め、棄却の言葉を飲み込んだ。

 

「この状況下で彼以上の適任を選出することはほぼ不可能だろう──幸嶋隆成は、現状を打開しうる唯一の戦力だ」

 

「それほどですか?」

 

 手放しで幸嶋を評価するヨーゼフの言葉に、クロードは目を丸くした。痛し痒し(ツークツワンク)が勃発するまでほとんど交流はなかったが、ヨーゼフが非常事態につまらない冗談を言うような人間ではないことは承知している。それでも、幸嶋隆成という人間ただ一人で、あのアダム・ベイリアルが用意した兵器に対抗しうるとは俄かに納得しがたかった。

 

「たった今、彼のマーズランキングのテスト結果が出たところだ。確認してみるといい」

 

 今は無駄な問答に割く一分一秒すらも惜しい。ヨーゼフもまたクロードの事情を知っているためだろう、百の言葉よりも説得力を持つ一の証拠を彼は提示する。その意図を理解したクロードは言われた通りにタッチパネルを操作し、電子モニターに表示された幸嶋のデータに目を通す。

 

 パッと目に飛び込んできたその情報に、まずクロードは眉をひそめた。

 

 マーズランキング10位。軍人でも格闘家でもなく、純粋に喧嘩の腕だけでこの評価を得ていることから、相応の実力者であることは分かる。だがそれだけで、表アネックス以上に強豪揃いの裏アネックス計画を統括する幹部のヨーゼフが絶賛するとも思えない。

 

「! これは……!」

 

 しかしその疑問は、その下にずらりと並ぶ様々な戦闘結果を目の当たりにして即座に氷解した。

 

 ──通常、MO手術被験者の能力検査は、30以上の項目をA~Eの五段階で評価していく。それらを総合することで各人のマーズランキングを決めていくのだが──

 

「握力A、持久力A……白兵戦闘適性、A+だと……!?」

 

 クロードの口から零れた単語に、研究員たちがどよめく。なぜならばその評定は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そもそも過去にこのテストでA+評定がされたのは、ダリウス・オースティンの『広域制圧適性』の項目のみである、といえばその異常性がわかるだろうか。小型戦術核に匹敵する攻撃を数秒スパンで連射するその領域で得られる評定こそが、A+なのである。

 

「『路上最強』──小町艦長曰く、この異名は文字通りの「喧嘩において負けなし(ストリートファイトで最強)」という意味ではない」

 

 驚愕するクロードに、ヨーゼフ言った。停止した彼の思考を再開させ、かつ、幸嶋の派遣を決断させるために。

 

「その異名が真に意味するのは『()()()()』。初めて聞いたときには大袈裟だと思ったものだが……テストの結果を見る限り、あながち間違いでもなさそうだ」

 

「……やむをえない、か」

 

 少しの沈黙の後、クロードは決断する。

 

 幸嶋はその強さこそずば抜けているものの、正真正銘の一般人。そんな彼をアダム・ベイリアルという闇に触れさせるような真似は極力控えたかったが……事態が事態だ。

 

「幸嶋君、君の力を貸してほしい……君に倒してほしい者がいる」

 

「おう、任せとけ。大船に乗った気持ちで、ドーンとな!」

 

 かくして、幸嶋の戦線投入が決定した。

 

 ──なお、まったくの余談ではあるが。

 

 この後も世界各国で数えきれないほどの人間にMO手術が施されたものの、この時のヨーゼフの言葉通り、そして予見通り。

 

 ついぞ、幸嶋隆成以上の戦闘力を持つ人間が現れることはなかった。

 

 

 

 

 喉を目掛け繰り出される、幸嶋の貫手。それを躱したヴォーパルは、その巨大な拳を振り上げた。

 

「ここまで我と打ち合ったマジヤバなオラオラ系は久しぶりだ、ツキシマタカナリ!」

 

「 幸 嶋 だ っ つ っ て ん だ ろ う が !! 」

 

 隕石の如く脳天へと落とされる、ヴォーパルの拳。それは負けじと振り上げた幸嶋の激突し、互いにその一撃は弾かれた。

 

「くっそ、ふざけた喋り方の癖に強いなこいつ! しかも固ェ……!」

 

 幸嶋はヴォーパルの手を見る。青紫の甲殻に覆われたその拳は、鉄のごとき硬度を持つ。真正面からぶつかったとなればテラフォーマーでも拳は砕け、下手をすれば腕ごと粉砕される。だというのに、ヴォーパルの拳には傷一つ見られないのである。

 

「あの鱗が厄介だな……少し攻め方を変えてみるか」

 

 幸嶋は大地を蹴って再びヴォーパルへと飛び掛かる。反撃に繰り出された鉤爪をくぐり抜けて懐に飛び込み、その太い胴体に両腕を回す。

 

「その体、潰してやるよ」

 

 言うや否や、幸嶋は力任せにヴォーパルの胴体を締め上げる。

 

 鯖折り(ベアハッグ)。両腕で相手の胴を抱き込み、締め付ける事で相手の背骨から肋骨にかけてを圧迫する技巧である。

 

「ぐ、ゥオォ……!?」

 

 ヴォーパルの口から苦し気な声が漏れる。ヴォーパルの防御は瞬間的な衝撃には強いが、継続的な圧迫にまで強いわけではない。更にはこの技が幸嶋の手術ベースとなった生物との相性が非常にいいのも、幸嶋にとって追い風だった。

 

 

 

 ──椰子蟹(ヤシガニ)

 

 

 

 地域によって多少異なるが、青紫の甲殻と巨大な鋏を有する、陸上最大の節足動物。蟹と名に付くようにその形状はカニに近いが、分類上はむしろヤドカリに近い種だ。

 

 この生物の特徴は、甲殻類の中でも上位に食い込む頑丈な甲殻と瞬時に手足再生を行う高い再生能力。そしてもう一つ──あらゆるものを粉砕する、圧倒的な握力。

 

 彼らの鋏は椰子の実の繊維を引きちぎり、人間の指すらも切断するほど。自重の約90倍というその力は文句なしに甲殻類最強であり、ライオンの噛む力にも匹敵するという。それが人間大となり、更に人類最強の技量で以て相手を締め付ける技に転用されればどうなるか。

 

 想像するだけで背筋が凍る話だ。

 

「ぬ、ゥん!」

 

 しかしヴォーパルとて、ただ手をこまねいて自分の死を待つばかりではない。彼は自身の鉤爪を、思い切り幸嶋の顔に叩きつける。ヤシガニの甲殻が防具となって致命傷を割けるが、無傷とはいかない。額のあたりの甲殻にひびが入り、どろりと血が流れだす。それが目に入って幸嶋の拘束が緩んだ刹那、ヴォーパルは体をねじって強引に抜けだした。

 

「──チッ、逃げられたか」

 

 血を拭い、幸嶋はヴォーパルを睨む。最強VS最凶の戦いは一進一退の状況が続いていた。

 

 

 

『──彼の甲殻に罅を入れるか。とんでもない膂力だ』

 

 戦いの様子を映像越しに確認していたヨーゼフは、感嘆とも焦燥ともつかない感想を呟く。

 

 甲殻型MO手術の特徴の一つに、防御力がある。炭酸カルシウムを中心とする物質で構成された甲殻類の鎧は、理論上力士型テラフォーマーの一撃すらも凌ぐ硬度を持つ。

 

 特に幸嶋の手術ベースとなった生物の甲殻は、同じ型の中でもとりわけ固い部類。それを拳一発で破損させたヴォーパルの筋力は驚異の一言に尽きる。

 

『クロード博士、あの怪物のベースとなった生物の検討はつくかね?』

 

『素直に身体的特徴から考察するなら、ヴォーパルを名乗る彼のベースは恐らく『爬虫類型』でしょう』

 

 ヨーゼフの問いに、同じく隣で推移を見守っていたクロードは答える。

 

『全身を覆う頑丈な鱗、肉切り包丁のように鋭い爪、臀部から生えた鞭のような尾。これらの特性を有する生物として考えられる候補としては……トカゲかワニ』

 

『なるほど、確かにその通りだ。しかし──』

 

『ええ。おそらく今、私はベルトルト博士と同じことを考えているでしょう』

 

 

 

 ──()()()()()()()()()()()

 

 

 

 U-NASAで最も優秀な頭脳を持つ両者の見解が一致する。それはあまりにもヴォーパルの戦闘能力が高すぎる、というものだった。

 

 まずは先ほどヨーゼフも口にした『膂力』。仮に通常のMO手術の数倍近い出力での変態が可能になるαMO手術による施術をしたとしても、先に挙げた爬虫類では幸嶋の甲殻を砕くほどの怪力を発揮することは不可能だ。

 

 加えて、異常なまでの『打たれ強さ』。テラフォーマーを甲皮ごと叩き潰せるほどに重い攻撃を幾度となく受けながら、ヴォーパルの体に目立った傷はない。度重なる打撃もまるで意に介していないのである。

 

『あの怪物が見た目通りの強靭な素体を有していることを踏まえても、現生の爬虫類をベースにしてあれほどの戦闘能力発揮できるとは思えません。そしてさらに言えば……アダム・ベイリアル(あの人)が、そんなまともな発想をするはずがない』

 

『……一理あるな』

 

 クロードの言に、ヨーゼフは顔をしかめながら頷いた。その脳裏によぎるのは、半日ほど前にクロードから見せられた奇妙な写真──アダム・ベイリアルが火星から送り込んだ二機のロケットのうち、南米に不時着したロケットの発見状況を捉えた画像だった。

 

 異形と化した木々、奇形と化した動物たち──捻じれ歪んだ狂気の庭園。それはおそらく、たった一人の人間がMO手術によって得た特性で創り上げた情景。たった一人で周囲の環境を狂わせるような人間、それと対なす戦力に施された手術が()()()()()()()()()()

 

『複合生物型、未知の新種、あるいは現生生物ですらない可能性も……いずれにせよ、油断は禁物です。奴を造ったのはアダム・ベイリアル──』

 

 

 

 ──何をしてくるか分かったものじゃない。

 

 

 

 果たしてクロードが抱いたその懸念は、直後に現実のものとなる。

 

「アリよりのナシ……ならば」

 

 数合めの打ち合いを終えた後、ヴォーパルは大きく後方へと跳躍する。それを見た幸嶋は「あ?」と怪訝な声を上げる。

 

 これまで彼の攻撃でノックバックすることはあっても、ヴォーパルは自ら間合いを離脱することはなかった。実はこれまでのダメージは確実に蓄積していて、仕切り直しのために一度殴り合いをやめたのか? あるいは正面からの殴り合いでは埒が明かないと踏み、別の角度から攻めることにしたのか? 

 

 

 

「──これには対応できるか?」

 

 答えは、後者。

 

「……ん?」

 

 真っ先に異変に気付いたのは、幸嶋だった。ヴォーパルの姿がぐにゃりとぼやけたのだ──まるで陽炎のように。

 

 ゴシゴシと目をこすってみるが、どうやら自身の目は正常らしい。そして幸嶋の目の前で、ヴォーパルの3m近い巨体は()()()()()()()()()()()()

 

『た、対象ロスト!』 

 

『落ち着きたまえ、ただの擬態だ。赤外線センサーで熱反応を追跡』

 

『そ、それが……先ほどまであったはずの熱反応がありません! ()()()()()()()()()()()()()()()()()()!』

 

『『ッ!?』』

 

 管制員の言葉に一瞬、ヨーゼフとクロードは言葉を失う。そしてほとんど同じタイミングで、同じ結論に思い至った。

 

『まさか、体温調節で熱放射を抑制しているのか!?』

 

『しまった、この局面でこんな小技を──! 電波ソナー探知に切り替え、急げ!』

 

 ──いや、それじゃ間に合わねえ。

 

 俄かに慌ただしくなる管制室の声。それをどこか遠くに感じながら、幸嶋は静かに目を閉じる。直感があった。おそらく管制室の捕捉を待っていれば自分は死ぬという、直感が。

 

 信ずるべきは視覚でも、聴覚でも、嗅覚でも、触覚でもない。最強を目指して歩み続けた8年間と、その中で磨き上げられた己の中の最も原始的な闘争本能。

 

 神経を研ぎ澄ます。

 

 静寂に包まれた空間を静かに探る。

 

 息を潜める強者の気配を辿る。

 

 

 

 ──見つけた。

 

 

 

「そこだ」

 

 

 

 確信と共に幸嶋が振りぬいた腕は見えざる敵を確かに捉えた。ぐにゃりと空間がぼやけ、ヴォーパルの巨体が虚空に滲みだす──幸嶋の拳に頬をめり込ませながら、ヴォーパルは驚愕に目を丸くした。

 

「マ?」

 

「──殺気が漏れすぎだ」

 

 幸嶋は電光の如くヴォーパルの懐に飛び込むと、畳みかけるように技を打ち込んでいく。鱗の鎧が薄くなる脇腹付近を狙って、

 

「フンっ!」

 

 膝蹴り(ニースタンプ)

 

「せッ!」

 

 上段蹴り(ハイキック)

 

「ハァッ!」

 

 肘打ち(エルボースマッシュ)

 

 怒涛の猛撃を諸に浴びたヴォーパルの体がぐらりと傾く。その隙を見逃す幸嶋ではない、彼は完全に動きを止めたヴォーパルの顔面を鷲掴みにし──

 

「そら、ぶっ倒れなッ!!」

 

 ──アイアンクロー・スラム(叩きつけ)

 

 幸嶋はその巨体ごと、彼の頭を力任せに地面に叩きつける。ドゴッ! という音と共にアスファルトの地面が砕けて凹む。

 

「ぐ、が……!?」

 

 ヴォーパルの口から苦悶の声が漏れる。彼は一瞬だけその手を幸嶋へと伸ばすもそのまま両手をぐったり投げ出し──そのまま起き上がる気配を見せなかった。

 

『勝っ、た……?』

 

 管制員の一人が呟いた直後、幸嶋は口を開いた。

 

「──3カウント」

 

 薬の効果が切れたのだろう、既に幸嶋の体は人間のそれに戻っていた。彼は肌色に戻った腕でゴシ、と口端の血を拭い、その手を天高く突き上げた。

 

 

 

「俺の勝ちだ!」

 

 

 

 瞬間、通信装置から溢れた騒音が彼の鼓膜を撃ちぬいた。

 

『すごいぞ人類最強! あの化け物相手に真っ向勝負で勝ちやがった!』

 

『やりましたね幸嶋さん! あいつを見失った時はもうだめかと……!』

 

『ユキシマ! ユキシマ!』

 

 己の名を連呼する歓声に一瞬だけ目を丸め、それから幸嶋は静かに笑う。強者との対決を切望し、進み続けたその心が少しだけ満たされたような気がして。

 

『やれやれ……この短時間のうちに何度目になるか分からないが。私はまた、評価を改めねばならんようだ。まさかあの怪物を相手に、ここまで完全に勝ち切るとは思っていなかったよ』

 

 ずり落ちかけた眼鏡をクイと押し上げ、ヨーゼフは安堵の息と共に呟いた。

 

『これで懸念材料だったベネズエラのロケットの問題は片付いた。あとは南米のロケットの戦力の行方捜索を残すばかり──』

 

『ッ、幸嶋君ッ!』

 

 しかしその言葉を遮るようにして、クロードは叫んだ。彼はヨーゼフの手から通信用のマイクをひったくると、周囲の視線も音割れも気にせず怒鳴る。

 

 

 

 

 

 

 

 

『油断するな、()()()()()()()()!』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ── ド ス ッ 

 

 

 

 

 

 その瞬間──背後から幸嶋を襲ったのは、研ぎ澄まされた一穿。

 

 幸嶋はその目で自分の脇腹から生える巨大な鉤爪を確認すると同時、少し遅れて喉の奥から熱い何かがこみ上げる。

 

「ごほッ」

 

 思わず咳き込めば、びちゃり、とアスファルトに真紅が撒き散らされる。そこで幸嶋はようやく、自分が攻撃を受けたことに悟った。

 

 

 

 

 

「『ユキシマタカナリ』──その名、覚えたぞ」

 

 

 

 

 

 耳に届く静かな、しかし圧倒的威容を持つ怪物の声。

 

「……なん、だよ」

 

 幸嶋は血の気が失せていく顔に強がるように笑みを浮かべ、肩越しに背後を見やる。

 

 

 

「まだ戦えんじゃねえか、お前……!」

 

 

 

「貴様は、アリよりのアリだ」

 

 

 

 致命傷を受けた人類最強の視線の先。残忍に笑った悪鬼は、口に咥えた変態薬を容器ごと噛み潰した。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「……あら?」

 

 

 

 ──同時刻、フィンランド。

 

 涜神的に狂わされ歪まされた異形の森。その中心で午後のお茶会に興じていたアストリス・メギストス・ニュートンはふと顔を上げた。頭の上に乗せられた兎の耳を模した髪飾りがぴょこん、と揺れる。

 

「この感じ……ヴォーパルが本気を出したのかしら?」

 

 森の中はシンと静まり返っている。それは冬の気配であり、死の気配。どこまでも不気味に澄んだ静寂に、この森は支配されていた。

 

 だがその空気がほんの一瞬、微かに震えたのをアストリスは見逃さなかった。力強く暴力的な生の咆哮。己の片割れが抱いたその歓喜に、アストリスは思わず高揚してしまう。

 

「アメリカの勇士様、どうか用心くださいな。喰らいつく顎、引き掴む鈎爪──」

 

 ほぅ、と吐きだした彼女の息が白く流れる。木々の隙間から微かに差し込む零れ日に目を細め、彼女はカップの淵に口をつけた。

 

 

 

「次にヴォーパルの剣が首をちょん切ってしまうのは、誰かしら?」

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ──なんだ、あれは? 

 

 

 

 ヨーゼフは映像越しに見ている光景が俄かに信じられず、自問する。

 

 慢心がなかった、とはいえない。幸嶋が勝利を宣言したあの瞬間、クロード以外の誰もが事態の収束を信じて疑わなかった。今にして思えば浅慮は否めないだろう。

 

 加えて幸嶋はMO手術から回復したばかりで、能力の調整を十分に行えていなかった。万全のコンディションを発揮できる状態ではないことは承知していた。

 

 他に方法は、これ以外に術はなかった。だがそれでも勝ち目があると踏んで、自分とクロードは幸嶋を送り出した。病み上がりの測定テスト時点で、幸嶋は先に挙げた結果を叩きだしたのだから。

 

 それを──

 

 

『それを、こうも一方的に蹂躙するとは……!』

 

 

 

「まッ! マンモスうれぴいいいいいいいいいいッ!!」

 

 歓喜と共に、ヴォーパルは幸嶋を片手でぶん投げた。野球選手のようなフォームから宙に放り投げられた幸嶋は数回地面をバウンドして、仰向けに転がった。

 

「ぐッ……!」

 

 全身から伝わる痛みを無視して、幸嶋は起き上がろうとする。だが、それよりもヴォーパルの追撃の方が早かった。ヴォーパルは左人差し指の鉤爪が幸嶋の右腕を変態によって再発現したヤシガニの甲殻ごと貫き、標本の昆虫を止めるピンのように地面へと固定。

 

 ヴォーパルはう片手で幸嶋の左腕を押さえて動きを完全に封じると、べろりと舌なめずりをしてその口を開けた。蛇のように大きく割けた口。そこにギラリと生えたナイフのような牙の隙間から、粘性の涎が滴る。

 

 ──やべぇ! 

 

 幸嶋が青ざめるが、遅い。

 

 

 

 

 

「 い

 た    だ

 き

 ま

 ァ

 

 す」

 

 

 

 ヴォーパルはその口で、幸嶋の左肩に食らいついた。

 

 

 

「が、ああああああああ!?」

 

 バリ、バギという音と共に、その顎と牙は幸嶋の甲殻を煎餅か何かのように容易くかみ砕いた。ものの数秒で頑丈な甲殻がはぎとられると、悪鬼は容赦なく露出した肉を貪り、噴き出した鮮血を飲み干す。

 

 甲殻型や軟体動物型を始めとする、一部のMO手術被験者にしばしば見られる再生能力は、言うまでもなく強力な武器の一つだ。通常ならば戦線離脱を余儀なくされる手足の欠損をリカバリーし、ベース次第では頭を砕かれようと心臓を貫かれようと戦闘続行が可能になるのだから。

 

 ただし、この再生能力には限界が存在する。MO手術は科学法則を超越して、無から有を生み出す技術ではないからだ。

 

 被験者が再生能力を発揮するには、損傷の度合いに応じて栄養分が必要。だからこそ『死ぬまで殺しきる』という漫画のような戦法が、高い再生能力を有する被験者を相手にする際の有効手段となりうる。

 

 そしてそのための手段として有効なのは打撃よりも切断である。打撃で粉砕したとて、肉や骨が周囲に残っていれば、能力者はそれを材料として再生を行ってしまう。一方で体から切り離してしまえば、能力者は自身の栄養を費やし、その部位を一から構築しなければならない。

 

 だが実際には、切断よりも更に有効な手段が存在する。それこそが、今まさにヴォーパルが行っている捕食である。

 対象の栄養となる部位を残さず、歪な傷口は再生速度を遅らせ、負荷を増大させる。加えて人間の口内には数千億もの雑菌が繁殖しており、体内に侵入したそれらは戦闘後に病という形で牙を剥く。

 

「ぐ、あァ……!」

 

 最強へ至る道を選んで久しいが、幸嶋はこれまで対戦相手を捕食するような蛮族と戦ったことはない。さすがの彼も、生きたまま喰われるという未知の攻撃に恐怖を──

 

「ん、のヤロッ……!」

 

 ──感じてはいなかった。

 

 その目に諦めの色はない。その目に放棄の色はない。幸嶋隆成という人間の生態(生き方)に、闘志に、魂に、一切の陰りはない。

 

「フンっ!」

 

 ブチン、という音と共に幸嶋の両腕が千切れた。それはヴォーパルの攻撃ではなく、幸嶋の意思によるもの。甲殻類が天的に襲われた際にしばしば見せる『自切』によって、彼は腕を犠牲に拘束を解く。

 

 地面を転がってヴォーパルの真下というデスゾーンから逃れ、幸嶋は腕を再生する。だが多くの血を失った幸嶋は右腕しか再生できず、それも本来の彼の腕に比べて細く弱弱しいものだった。

 

「やはり貴様はレベチ。この間のヴラ……ヴラなんとかはこの方法で仕留めたのだが」

 

 賞賛を口にしながら立ち上がり、ヴォーパルは幸嶋を見やった。

 

 人為変態によって更に一回り大きくなった肉体。それを覆う鱗は先ほどまでの白一色から白と黒の二色へと変化し、まるでチェス盤のような文様をその全身に浮かび上がらせている。

 

 双眸は赤と黄金のオッドアイ、両頬には原住民の装飾を思わせる黄色のライン。耳元まで裂けた大きな口に生えそろう不揃いな牙を剥きだして嗤うその姿は、元々の赤い頭髪も相まって、まさしく地獄の鬼のようであった。

 

「テンションあげみざわ! いいぞ、いいぞユキシマタカナリ! もっとだ、もっと我を楽しませろ!!」

 

『幸嶋君、もういい!』

 

 通信機の向こうからクロードが叫ぶ。

 

『近隣住民の避難は完了し、敵の戦闘データも収集できた! これ以上危険を冒す必要はない、すぐに待機している米軍と合流して撤退を!』

 

「……悪ィが博士、そいつはできねぇ相談だ」

 

 けれど幸嶋は、その言葉に首を縦に振らなかった。

 

「『任せとけ』って言っときながら『実際に戦ったら敵が予想以上に強かったんで撤退します』、何てカッコ悪い真似できるかよ」

 

『ッ、そんなものに囚われなくていい! 君は十分に……いや、十二分によくやってくれた! そんな軽口に、命を投げ打つな! 馬鹿か君は!』

 

「あんたにとっては軽口かもしれないが、俺にとっちゃ一大事なもんでね。それに、知らなかったのかよ博士? 男ってのは大なり小なり馬鹿な生き物なんだぜ──」

 

 ──なぁ、ヨーゼフ博士? 

 

 幸嶋が意味ありげに呼びかける。このタイミングでヨーゼフに問いかけた意図を理解できず困惑するクロード。一方で声をかけられた本人は何かを察したのだろう。眼鏡を押し上げると、口を開いた。

 

『一応聞くが、正気かね? 今の君では損傷が大きすぎる、下手をすれば死ぬぞ?』

 

「構わないさ。自分を曲げて生き延びるより、億倍マシだ」

 

『そうか……ならばもう止めん』

 

 頭が痛そうにため息をついて。それからヨーゼフは淡々と告げた。

 

()()()()()()()()()。それ以上は体がもたない』

 

「りょーかい」

 

『ベルトルト博士、何を──!?』

 

 ぎょっとしたように問いかけるクロードに、ヨーゼフは応えない。ただ彼の疑問への答えは、すぐさま映像越しに幸嶋が提示した。

 

「人為変態、二重投与(ダブル)

 

 二本。幸嶋はポケットから取り出した葉巻型の変態薬を口に咥え、煙を吸い込む。途端、幸嶋の全身を包む甲殻はその重厚さを増し、眼球はベースとなった甲殻型に近い黒い真珠のようなそれへと変化する。

 

「んで、一本ずつか」

 

 幸嶋は次いで取り出した注射器と電池のような形状の物体を、左肩の傷口に突き立てる。その途端彼の全身の筋肉が爆発的に隆起し、更には太くたくましい左腕が傷口から生える。しかしその腕は赤と白の、本来の幸嶋の変態姿から考えると少々おかしなもの。

 

『出撃前、彼には第三位の専用武器である『試作型圧縮栄養芽』と『アナボリック・ステロイド』を渡しておいたのだよ。本当に追いつめられた時の保険としてね』

 

『ステ……!?』

 

 ヨーゼフの言葉に、クロードは絶句する。

 

 過剰摂取はまだいい。幸いにも幸嶋は内臓系統に傷を負っていない、ヨーゼフが指示した量ならばギリギリ戻れるはずだ。

 

 圧縮栄養芽についてもあまり問題ではない。試作型の専用武器の持ち出しは本来免職ものだが、今は非常事態。あとで事情を説明すれば、始末書という雑務が一つ増える程度で済むだろう。

 

 問題は最後、アナボリック・ステロイド。それの投与が意味するのは、身も蓋もない言い方をすれば『ドーピング』である。

 

 その効果を平たく説明すれば、『超強力な筋力の増強』。副作用は数えきれず、後遺症のリスクも高い。未来(明日)と引き換えに、(今日)誰よりも強くなる、禁断の薬物。

 

 それを幸嶋は惜しみもせず、己に使ったのである。

 

『ッ……1時間だ! 医療班を編成し、1時間以内にそちらへ向かう! それまでなんとか持ち応えてくれ!』

 

 その通信を最後に、クロードの声が通信機の向こう側から聞こえることはなかった。おそらく管制室を飛び出していったのだろう。

 

「恩に着るぜ、クロード博士……ってもういないのか」

 

『生き残って直接伝えたまえ。それが最高の礼になるだろう』

 

 ヨーゼフの言葉に幸嶋は神妙に頷いて、「だけどよ」と少しだけ不満そうに口を尖らせた。

 

「持ちこたえてくれ、って言い方は少しだけ気に入らねぇな。別に──」

 

 

 

 ──こいつをぶちのめしちまっても、いいんだろ? 

 

 

 

 幸嶋は眼前に佇むヴォーパルを見上げた。目と目が合うや否や、悪鬼は隠しきれない残忍の色を浮かべ、ニンマリと牙を剥く。それに呼応するように拳を握ると、路上最強は力強く吠えた。

 

 

 

 

 

「来いよ、怪物(ヴォーパル)! 小技なんて捨てて、全力でかかってきな!」

 

 

 

 

 

「ゥ゛ォーパルとュキシマゎ……ズッ友だょ……!!」

 

 

 

 

 

 ──そして、人類最強と生物最強の、本当の戦いの幕は上がった。

 

 

 ※※※

 

 

 

 クロード率いるU-NASAの医療班が米軍の部隊を連れて基地内になだれ込んできたのは、45分後のことだった。

 

「無事か、幸嶋君!」

 

「ん? おォ、クロード博士か……」

 

 クロードは血だまりの中に腰を下ろす幸嶋の姿を見つけると、素早く彼に駆け寄る。

 

「悪いな、仕留め損なった。あと一歩までいったんだけどなぁ……」

 

「喋らなくていい! それ以上、体に負担をかけるな!?」

 

 幸嶋の体は惨憺たる状況であった。おそらく、医療の心得がない素人目にも危険な状態であることがわかるだろう。何しろ右肩から胸にかけて、胴体の四分の一が消し飛んでいたのだから。

 

「すぐに輸血と、搬送準備を! 生きてるのが不思議なくらいの怪我だ! 搬送次第、治療を開始するぞ!」

 

「おう、頼むわ……あ、けどその前に一つだけ」

 

 そう言って幸嶋は、残っている左手で『それ』を指さした。

 

()()()()。何かの役に立ててくれ」

 

「ッ……ありがとう幸嶋君。必ず、次に繋げるとも!」

 

 親指を立てると同時に担架に移され、車両へと運ばれていく幸嶋。それを見送ったクロードは、すぐさま通信機に語り掛けた。

 

「ベルトルト博士、至急ラボの準備を」

 

『いいだろう……何か戦果があったのかね?』

 

 途中から通信装置もカメラも破損したために、管制室にいたヨーゼフは戦闘の全容は知らない。そんな彼に「大戦果ですよ」とクロードは告げる。興奮を隠しきれない、そんな口調で。

 

「ヴォーパルの細胞サンプルが、手に入りました。それも、()()()()

 

 そう言ったクロードの視線の先。そこには『悪鬼』、ヴォーパル・キフグス・ロフォカルスから幸嶋がねじ切った左腕が転がっていた。

 

 




【オマケ】他作品の登場人物紹介

幸嶋隆成(インペリアルマーズ)
 インペリアルマーズ名物、『強いから強い奴』1号。戦いに戦いを重ね、いつしか人類最強と謳われるまで上り詰めた、正真正銘の強者。アネックス計画においては日米合同第一班に所属。コラボ時空だと裏表第一班だけで天下一武道会が開けそう。

幸嶋「人類最強!」

チャーリー「MO手術最強!」

大河「町内最強! ほれ、慶次さんも!」

慶次「え、せ、世界チャンピオン……?」

シーラ「肉体派多いなこの班」


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絶対凱歌EDGAR-5 獣王無尽

 ──『彼』は暗闇の中で目を覚ました。

 

『彼』は不快そうに喉の奥から唸り声を漏らす。全身が酷く気だるい。それは睡眠が充足した、自然の目覚めではないためだ。

 

『彼』は生まれついての王だった。

 

 王たる『彼』にとって自分以外の生物は全て等しく矮小な存在である。それは己という存在を作り出し、自らに食料を供する人間すら例外ではない。だから『彼』は、アメリカという国で繰り広げられる痛し痒し(ツークツワンク)にも興味を示さなかった。

 

 槍の一族の刺客が軍事施設を立て続けに殲滅しようと、フランスの尖兵がホワイトハウスを陥落させようと、アメリカの英雄たちが護国のために立ち上がろうと。それは『彼』にとっては気を割く程の出来事ではなく。

 

 白の女王(エメラダ・バートリー)が愛を叫んだ時も、黒の女王(シド・クロムウェル)が進軍を開始した時も、彼は眠りの淵にいた。

 

 だが一匹の悪鬼がアメリカの土を踏んだその瞬間、彼の意識は深き微睡から覚醒した。

 

 それは理屈や倫理ではなく。王たる『彼』の根幹に根差す原初の衝動──即ち王座を脅かす者への強い敵意。『彼』は煮えたぎる衝動を押さえつけながら、ただじっと時を待つ。

 

 ──唐突に、暗闇の中に光が差し込んだ。

 

 重々しい開門の音と共に、闇の閉鎖空間に道が拓けていく。『彼』はその眩さに一瞬だけ目を細め──立ち上がると、ゆっくりと歩きだす。

 

 脆弱な檻を食い破り、喚きたてる矮小な人間たちを一睨みで黙らせ。そして『彼』は悠然と、生まれて初めて外界へと降り立った。視界いっぱいに果てしなく広がる大地に困惑はない。彼はただ一点、遥かなる地平の果てに立つ悪鬼を見据える。

 

 ──己の縄張りを無作法に踏み荒らす『外敵』は必ず排さねばならぬ。

 

『王』は暁に吠えると、大地を蹴った。牙を剥いた怪物に、自ら鉄槌を下すために。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「オォッ!」

 

「うわっとぉ!?」

 

 渾身の力で振り下ろされた拳を、紙一重で躱す。ミッシェルの腕がアスファルトの地面を叩き割ったのを見て、フィリップはヒュゥと口笛を吹いた。次いで顔面を狙い振るわれた腕もヒョイと躱し、彼は「いいキレだ!」と笑う。

 

「筋肉ソムリエの俺だからわかるぜ! ただ鍛えぬいただけじゃあ、ここまでにはならない! 元々の体質を加味したってそうだ、相当筋肉を苛め抜いたらしい……案外ミッシェルたんはトレーニングマゾだったりするのかな?」

 

「キショい呼び方すんじゃねぇぞカス」

 

 額に青筋を立てたミッシェルはスゥと息を深く吸い込む。

 

「──その喧しい口を閉じやがれ!」

 

 そして、ふっ! と彼女は肺の中の空気を一息に吐き出す。しかしそれはただの呼吸、ただの吐息ではない。フィリップの鋭敏な視力は、空気の流れに乗せられた霧状の液体を視認した。

 

「爆弾アリの特性か!」

 

 吸い込んだら体の中で破裂する。事前情報と突合、即座にその正体を見抜いたフィリップのとった行動は回避ではなく、迎撃だった。

 

「ちょっとカッコ悪いけど……ブゥッ!」

 

 そう言いながらフィリップもまた口内から何らかの液体を噴霧する。それはミッシェルの爆液とぶつかると、パシュゥ! と炭酸飲料の入ったペットボトルを開けたときのような音を立てて相殺される。

 

「やれやれ危なかったな、っと!」

 

「チッ……!」

 

 間合いを詰めようとするミッシェルだが、それより一瞬早くフィリップはサイドステップを切る。好機を逃したミッシェルは深追いせず、態勢を立て直し……戦況は白紙に戻る。

 

 ──防戦に徹してやがるな、こいつ。

 

 ミッシェルは静かに敵の挙動を観察していた。先ほどからずっとこの調子だ。眼前でニヤつく変態は防戦に徹し、自分からほとんど仕掛けていない。ミッシェルの攻撃は防御や回避でいなし、間合いに踏み込めばするりと離脱。

 

 おそらく目の前の変態は、敵の一味の中で『足止め』を任されているのだろう。のんべんだらりと戦闘を引き延ばし、敵を釘付けにする。一刻も早くホワイトハウスへと向かい、先行したシモンとスレヴィンに助勢したいミッシェルにとって最大級の嫌がらせである。

 

 向こうから突っ込んできてくれるならば、いくらでも手の打ちようはあるのだが──

 

「やりづれぇな、クソ……!」

 

「そりゃ光栄! オリアンヌやセレスタン(戦友たち)と違って、俺は頭脳派でね。武力任せのごり押しよりも、スマートな封殺が好みなのさ……マッスル系女子の筋肉でゴリ押されるのは好きだけどな!」

 

 そういってからからと笑うフィリップに、ミッシェルは舌打ちしたい衝動をぐっとこらえる。相手のペースに乗せられるな、ここで反応すれば思う壺だ。例えその言動がどれだけ不快でも耐えるのだ、そう己に言い聞かせ──

 

「いやそれにしてもミッシェルたん、君の筋肉はほんとエロいな! 特に殴り掛かるときの上腕三頭筋の隆起とか、勃起もんだ! ちょっと触らせてくれ!」

 

「寄るなこのセクハラ筋肉フェチ野郎」

 

 秒と耐えられなかった。元々ミッシェルは気が長いほうではない、あっさりと堪忍袋の緒が切れた彼女の額には、青筋が浮き出ていた。

 

「つーかさっきからお前、オーデコロンがくせぇんだよ。変態の癖にフレッシュな香りしやがって」

 

「ひっでえ!? 俺の性癖と香水は関係ないだろ!?」

 

 とほほ、とウソ泣きして見せるフィリップ。そのおどけたその振る舞いを冷めた目で見つめながらも、ミッシェルは思考を止めない。

 

 ──奴のベースはおそらく、『植物型』。

 

 ジリ、と足に力を込めながらミッシェルは確信する。体表を走る葉脈の如き緑の筋、額から生えた角のような棘──それこそが彼女の推測を裏付ける論拠だ。

 

 植物型の被験者が得意とするのは、毒や化学物質による特殊攻撃──格闘能力に直結しない代わりに、彼らの特性は搦手においては数ある生物型の中でもトップクラスの性能を有する。

 

 そしてそれを補うように、高い身体能力を有する素体(フィリップ)。具体的な特性は未だ分からないが、紛れもない強者であることだけは疑いようもない。先日交戦したブリュンヒルデなどとは比べ物にならない実力者だろう。

 

 だからこそ、モタモタしているとまずい。こちらの手札が完全に割れてしまえば、打つ手がなくなる。

 

 幸いにして、今日の彼女のポテンシャルは絶好調だ。短時間とはいえ、静養が効力を発揮したのだろうか? 力が漲り、いつもの三割増しで力を振るうことができている。おそらくは、今が好機。

 

「──しかたねえ」

 

「うん?」

 

 発言の意図を読み取れずに、フィリップが肩眉を上げる──その瞬間、()()()()()()()()()()()()

 

 それはミッシェル・K・デイヴスの専用武器である、対テラフォーマー起爆式単純加速装置『ミカエルズ・ハンマー』によるもの。四肢や背中に取り付けた装置で彼女の特性である『爆弾アリ』の爆液を起爆し、攻撃や移動を爆発的に加速させるのである。

 

 先の戦いではついぞ使うことはなく、軍病院に軟禁された際に押収されていたものをシモンが取り戻し、ここへ来る前に装備しておいたのだ。

 

「う、おッ!?」

 

 爆風に押し出された彼女の体が一気に間合いを詰める。不意を突いた予想外の動きは、ニュートンの知覚を以てしても完全には反応しきれない。

 

(よけ切れない!)

 

 へらへらとした笑みをひきつらせたフィリップの眼前で、ミッシェルが拳を握り締める。

 

「ぶっ飛べッ!」

 

 振りぬかれた拳が、フィリップの腹に突き刺さる。そのまま彼の体は宙を舞い、派手な音共にガラス扉を突き破って向かいの通りの店の中へと突っ込んだ。この場にギャラリーがいれば「やりすぎだ」と思ってもおかしくないシーンだったが、しかしミッシェルの顔から警戒の色が消えることはなかった。

 

「……直前で後ろに跳びやがったか」

 

 殴りつけた瞬間、拳に伝わった感触は羽を殴ったように軽かった──直前で後方に飛び退いたのだろう、これほど派手に吹き飛んだのはミッシェルの拳圧によるものだ。

 

 ──おそらく今の一撃では仕留め切れていない。

 

 追撃のため、ミッシェルはアスファルトの地面を蹴った。建物の影を出た彼女は、朝日の照らす車道へと身を晒し──

 

 

 

 ──そして、()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「なッ!?」

 

 何の前触れもなく体に表れた異常に、ミッシェルは思わず足を止めた。咄嗟に激痛を訴えた右腕を見やれば、変態したその腕はひどい火傷をしたかのように赤く爛れていた。いや、右腕だけではない。左腕、顔、首筋……全身の至る箇所に、同様の症状があらわれている。

 

 この状況下で己の肉体を襲う、謎の炎症。その元凶に思い至らない程、ミッシェルは愚鈍ではない。

 

「奴の特性か……!?」

 

 

 

「ご名答~!」

 

 

 

 場違いに陽気な声が響き、建物の中からスーツについた埃を払いながらフィリップが姿を現す。果たしてミッシェルの予想通り、軽やかな足取りで歩みを進めるその姿に、ダメージを受けている様子は見られなかった。

 

「けど、ちょっと気付くのが遅かったねぇ」

 

 その瞬間、ミッシェルの右肩を無音の弾丸が貫いた。

 

「ッ……!」

 

「ハハ! さすがの『ファースト』も、まさか素手の男に撃たれるとは思ってなかったかい?」

 

 甘いなぁ、と。中折れ帽をかぶり直しながら、フィリップがせせら笑う。彼は手中に握る銀色の弾丸をこれ見よがしに地面へと転がして見せた。

 

「指弾術──文字通り指で礫を弾いて攻撃する暗器術の一つさ。うちの武術顧問が手慰みに教えてくれたんだが、これが中々便利でね。予備動作が少ないから、ミッシェルたんみたいな戦闘のプロでも割とあっさり喰らってくれるんだ」

 

「フン、随分べらべらと喋るじゃねえか」

 

 灼熱感と撃たれた肩の痛みに顔をしかめながら、ミッシェルは吐き捨てた。

 

「勝った気でいるのか? だとしたら、めでてぇ頭だ。私がもう戦えないとでも?」

 

「──俺はそう思うけど?」

 

 フィリップは意味ありげに答えると、ミッシェルを指さした。そして「ほぉら」と、彼は口を三日月に歪ませる。

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 

 

 ──ミシリ。

 

 

 

 鼓膜に響く奇妙な音。それが自分の体から上がった音だと気付くよりも早く、()()()()()()()()()()()()()()

 

「ぎッ……ぐ、ああああああああ!?」

 

 内臓が引き裂かれるような痛みに、ミッシェルの口から苦悶の咆哮が飛び出した。声帯への負荷に喉が熱を帯びる。

 

 ──どういうことだ……!? 

 

 焦燥と混乱。しかしその中にあって、ミッシェルは自らの体を襲う異変の正体を正確に見抜いていた。

 

 全身の痛みに呼応するように眼球が昆虫の複眼へと変異し、筋肉が増強された両腕にはパラポネラの毒針が発現する。急速にベース生物へと近づいているその体には、先ほどまでとは桁外れの力が漲っていた。

 

「過剰変態、だと……ッ!?」

 

 MO手術で埋め込んだ生物の特性は、投薬によって被験者の細胞を『一度壊して造り直す』ことで発現させるものだ。当然、急速な人体の再構築には相応の痛みが伴う──ましてやそれが、肉体の限界を超えて力を引き出す『過剰変態』ともなれば。

 

 通常、人為変態薬には即効性の麻酔物質が配合されているため、被験者が耐えがたいほどの苦痛を覚えることはない。過剰摂取(オーバードーズ)の場合では無痛とはいかないが、その痛みも大幅に緩和される。

 

 だが、もしも投薬以外の方法で過剰変態を引き起こされた場合──一切の緩和がされない激痛は、人からベース生物への不可逆の変異は。

 

 肉体と精神の双方を鋭く打ち据える『鞭』となる。

 

 

「おかしいな……普通なら『戻れなくなる』量を打ち込んだのに、まだ人のままだ」

 

 ──やっぱ生まれつきMOを持ってると、変異への耐性値も高いのかな? 

 

 苦しむミッシェルの様子を見たフィリップは不可解そうに眉をひそめ、しかしすぐにその思考を打ち切った。大事なのは原因ではなく、ミッシェルから戦闘能力を未だに奪えていないという現状。ならば、己のすべきことなど決まっている。

 

「ま、それならもう1回打ち込めばいいだけか」

 

 そう呟きながら、フィリップは次弾を握りこんだ。ミッシェルを生け捕りにする、という考えは最初から存在していない。彼女を捕縛すれば、フランスが国家間の軍拡競争で一層有利になることは疑いようがない。だが欲をかいて本来の目的を達成できない、などとなっては本末転倒だ。

 

 二兎追う者は一兎を得ず──フィリップは経験上、それをよく知っていた。

 

「じゃあね、ミッシェルたん。戦友ほどじゃないが、悪くない筋肉だった」

 

 フィリップの親指に力がこもる。その指が弾かれ、発射された弾丸が肉体に到達すれば、今度こそ死ぬ。ミッシェルは直感した。迷っている時間はない。

 

「オォッ!」

 

 反射的にミッシェルが地面を殴りつけた。過剰変態によって極限まで高められたパラポネラの筋力はコンクリートを叩き割り、地割れを引き起こす。フィリップの足元がぐらつき、僅かに狙いが逸れた弾丸はミッシェルの髪を数本散らすに留まる。

 

 フィリップが次の弾丸を取り出して握り込むまで、ほんの数秒ほど。その僅かな隙を縫って車の陰に飛び込んだミッシェルは、そのまま障害物を利用してビルの中へと逃げ込んだ。

 

「……あー、逃がしたか」

 

 面倒なことになった、とフィリップは頬を掻く。

 

 彼が『鞭』と呼ぶベースによる攻撃は、実は非常にリスキーな代物だ。万が一にも仕留め切れなかった場合、過剰変態によって極限まで強化された相手とそのまま戦う羽目になるためである。

 

 加えて屋内という環境においては一部の効果が発揮しづらく、遮蔽物が多いために指弾の射線も通りにくい──ミッシェルがそこまで考えていたかはともかく、『鞭』への対策としては最善の一手だ。

 

「しょうがない、なるべく早く仕留めないとだしなぁ……」

 

 億劫そうに呟いたフィリップは、ミッシェルの後を追ってビルの中へと入っていくのだった。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「ハァ……ハァ……クソっ!」

 

 ビルの上階、オフィスに並べられた事務机の陰に身を隠し、ミッシェルは悪態をついた。あのふざけた野郎にいいように遊ばれ、逃げることしかできないとは何たる体たらく。今の情けない状況を招いた自分がたまらないほどに苛立たしかった。今すぐにでも飛び出していって、あの男をぶちのめしたいほどに。

 

 ──いや、落ち着け私。

 

 けれどミッシェルの中の理性が、それに待ったをかけた。深く息を吸い、気を静めていく。

 

 今彼女が生きている状況は、完全に偶然の産物である。彼女は本能で理解していた。今は一連の症状が落ち着いているものの、次は戻れないだろう。無策で打って出るのは余りにも無謀。

 

「考えろ、奴の特性はなんだ……?」

 

 ミッシェルは記憶を反芻する。彼女を襲った現象は二つ。突然の爛れと過剰変態の誘発である──おそらく、毒によってもたらされたものだろう。ならば、毒をこれ以上受けないことにこそ気を配るべきだ。

 

 問題なのは、その投与経路である……候補が多すぎて、絞り切れないのである。過剰変態が弾丸を撃ち込まれた瞬間に表れたのに対し、皮膚の爛れは何の前触れもなく訪れたものだ。故にこの毒は直接注入によって効果を発揮するものなのか、ガス状の散布によってこそ効果を発揮するものなのか、あるいはもっとそれ以外の方法で自分は毒を受けたのか──無数の可能性が堂々巡りして、これという回答に辿り着けない。

 

 ──こうしてる間にも、奴が来るかもしれないってのに……! 

 

 ミッシェルが焦りを覚えたその時、彼女は首筋に焼けるような痛みを覚えた。

 

「ッ!!」

 

 まさか、もう追い付かれたのか? 

 

 ぎょっとして振り返った彼女の視線の先に、しかし中折れ帽の男の姿はない。代わりに目に映ったのは磨き上げられた窓ガラスと、その向こう側から差し込む日光の身──誰もいなかった。

 

 その事実に無意識に胸を撫でおろし、それから彼女は一段とその表情を険しくした。

 

 ──なんでまた今になって、急に肌が爛れた? 

 

 この場所には、未だフィリップの魔の手は迫っていないはず。ならば、既に付着していた化学物質が、何かに反応した? 

 

 首筋をそっと撫でる。肌は微かに腫れあがって、異様な熱を帯びている。まるで、ひどい日焼けでもしたかのようだ──。

 

「……日焼け?」

 

 ふと引っかかりを覚える。日焼け……つい最近、その言葉を聞いた覚えがあるような気がしたのだ。

 

『どう、ミッシェル? いい匂いでしょ?』

 

『ん? ああ、そうだな……トリートメント、変えたのか?』

 

 そうだ。確か少し前に、風呂上りの母親と話していた時のことだ。

 

『そうなの! この間友達に教えてもらった、ちょっといいオイルでね。髪の艶が今までのと段違いだから、使ってみて!』

 

『おー。気が向いたらなー』

 

 気のない返事をするミッシェルの様子に気付いているのかいないのか、彼女は『ああ、そうそう』と、思い出したように付け加えたのだ。

 

 

 

『そのオイル、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()使()()()()()()()()()()

 

 

 

「そういうことか……!」

 

「見ぃつけたっ!」

 

 

 

 ミッシェルが叫んだのと、オフィスのドアが蹴破られたのはほぼ同時だった。

 

「さぁ、かくれんぼはおしまいだぜ!」

 

 勢いのまま踏み込んできたフィリップの親指が、弾丸をはじき出す。机の陰に隠れてそれをやり過ごしたミッシェルは、手近な事務椅子を掴むとそれを力任せに放り投げる。

 

「ナイススローイング! 全身の筋肉の躍動感がえっちだね、ミッシェルたん!」

 

 飛来する椅子を躱したフィリップの言葉を無視し、ミッシェルは観葉植物の幹を引っ掴むと鉢ごと投げつけた。

 

 ──私の予想通りなら、勝機は一瞬。

 

 フィリップを自身へと近づけさせないために、一瞬の正気を待ちながらミッシェルは手が届く範囲にある物をひたすら投げつける。投げ尽くしたら別の机の陰に滑り込み、また投擲。

 

 時間にして30秒ほど、三回ほどそれを繰り返したところで……待ち望んでいた、その瞬間は訪れた。

 

 ──来た! 

 

 ミッシェルは自らの盾としていた事務机すらも放り投げると、フィリップに向かって走り出した。姿勢は低く、一気に距離を詰める。しかしミッシェルの拳が届くよりも先に、フィリップが動いた。

 

「おっと残念」

 

 彼の指が弾丸を弾く。遮蔽物はない、全速力で突進するミッシェルは回避することもできない。弾丸は吸い込まれるようにミッシェルの肩を貫いた。

 

「これで終わりだよ」

 

 ぐらりと前のめりに傾いたミッシェルの体に、勝利を確信したフィリップが呟く。

 

 

 

 

 

 

 

「まだ、だァ!」

 

「!?」

 

 だが、ミッシェルは倒れなかった。ダン! と一段と強く踏み込むと大地を蹴り、勢いのまま拳を振るう。

 

「ぶべッ!?」

 

 今度はよけきれない。ミッシェルの拳はフィリップの顎を打ち、その体は錐もみになって宙を舞った。窓ガラスを突き破り、彼の体はアスファルトの道路へと落下した。

 

「イデッ!? ……うっわ、マジか」

 

 瞬時に自身の容態を把握したフィリップは顔をしかめた。咄嗟に受け身をとることで衝撃を緩和、致命傷は避けた。だが平衡感覚が狂っている……先の一撃で脳を揺らされたらしく、立ち上がることができない。

 

「やめやめ! こりゃ無理だ」

 

 早々に立ち上がることを諦めたフィリップは脱力し、大の字になって仰向けに転がる。それから、建物を出てきたミッシェルをちらりと見やる。彼女は淀みない足取りで歩みを進めるが、あるところまで進むとピタリと足を止めた。

 

 そこは太陽光が降り注ぐ日向と、ビルの日陰の境界。決して日の当たる場所に出ようとしない彼女の様子に、フィリップは確信した。

 

「どうやって俺の特性に気付いたのか聞いてもいいかな、ミッシェルたん?」

 

「これって決め手はねぇな。断片的な要素から組み立てた予想が、まぐれ当たりしたってだけだ。だから、率直に言って意外だったぜ──」

 

 ミッシェルは表情を崩すことなく、しかし本当に意外そうな声音で告げる。

 

 

 

「まさか手術ベースが『グレープフルーツ』とはな」

 

 

 

 ──グレープフルーツ。

 

 言わずと知れた、柑橘系の果物である。ブドウのように果実が房となってできるために『グレープフルーツ』と呼ばれるこの果物は、言うまでもないことだが危険生物などではない。

 

 甘味と酸味の中にほろ苦さが混じった味が特徴的なこのフルーツは、多くの人間にとってはごくありふれた食材の一つ。近所のスーパーを訪れればダース単位で売っているような代物に、人間を殺すような猛毒など含まれているはずもない。

 

「だが、“日光にさらされた時”と、“ある種の薬と一緒に服用した時”だけは例外だ。どちらかが満たされた時、グレープフルーツは人間に害をなす」

 

 グレープフルーツの果肉に含まれる植物性化合物質『フラノクマリン』がその原因である。

 

 もしも皮膚にグレープフルーツの果汁が付着した状態で日光にさらされれば、紫外線エネルギーによってフラノクマリンが化学反応を引き起こし、細胞のDNAに深刻なダメージを与える。ミッシェルの体を蝕む『爛れ』の正体がこれだ。

 

 これだけでも濃度によっては失明もありうる程の強い効果だが、真にフラノクマリンが恐ろしいのは付着した時ではなく薬と一緒に摂取した時。

 

 フラノクマリンは薬の代謝機能に影響を与え、生物学的利用能を増大させる。シンプルにいえば、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()──時に、服用者の命を脅かすほどに。

 

 MO手術の被験者がその特性を発揮するためには、原則として変態薬の接種が不可欠。必然的に『フラノクマリンが真価を発揮する』土壌を整えてしまっていることになる。

 

 加えてフィリップは鍛錬により、このフラノクマリンの濃度を自在に操ることができる。果汁100%のジュースを飲むだけで人が死ぬこともあるのだ、より濃度を高めたそれを体内に注入されればどうなるか……その答えは、フィリップがこれまでに葬ってきた敵を見れば明らかだ。

 

「ただそれなら日光に当たらなければいい、薬を使わなけりゃいいだけの話だ。だから私は、薬が切れる瞬間を狙ってお前に特攻を仕掛けた」

 

「なるほどねぇ……これだから、αMO手術や先天性のベースを持つ奴の相手は嫌なんだ」

 

 うんざりした様にフィリップはこぼす。

 

 薬が毒になるなら、薬を使わなければいい──だがそもそもの前提として、ニュートンの血族に連なるフィリップに、生身の白兵戦で勝てる者はそうそういない。だからほとんどの被験者にとって、この攻略法は実質的に机上の空論である。

 

 しかし、その例外がαMO手術による施術を受けた者や、ミッシェルのように先天的にベースを有する者たちだ。彼らは薬を使わずに変態ができため、フィリップが有する生身の優位性が発揮されづらいのだ。

 

 もちろん、尋常の使い手であればフィリップが負けるようなことは早々ない。だがミッシェル・K・デイヴスという人間の戦闘能力は、残念ながら並の枠組みに収まるものではなかった。

 

「お喋りは終わりだ、変態野郎──テメーを連行する」

 

「……ああ、そうだね」

 

 ぱきぱき、とミッシェルが拳を鳴らす。それを見て、フィリップもまた倒れ伏したまま頷いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──バガァンッ! 

 

 轟音と共にアスファルトの地面が盛り上がり、そして爆ぜた。大小さまざまな礫が飛び散り、土煙が巻き上がる。

 

「! テメェ、何を──ぐ、かはッ!?」

 

 事態を把握する間もなくミッシェルの体は何かに巻き付かれ、そのまま持ち上げられた。下手な樹木の幹などよりもよっぽど太く長く、びっしりと生えた滑らかな鱗に全体を覆われている。強靭な力でミッシェルの体を締め上げるそれは、パラポネラの筋力でも振りほどくことができなかった。

 

 ──シュー。

 

 呼吸ができずチカチカと明滅する視界に、奇妙な音共にミッシェルを絞め殺さんとする者の姿がヌゥと映り込む。

 

 それは巨大な怪物の頭だった。楕円の形状、縦長に絞られた瞳孔、シューシューという音と共に不規則に口から出入りするその舌の先端は二又に割れていた。

 

 ──蛇だと……!? 

 

 そんな馬鹿な、と目を剥くミッシェル。彼女の目測に間違いがなければ、この蛇の全長は15mは下らない──建物に換算して、実にビル4階建て分以上。そんな巨大な蛇がいるなど、聞いたことがなかった。

 

「いや、見事だったよミッシェルたん。実際、俺の武器が『鞭』だけならヤバかった……けど残念だったね」

 

 その眼下で、フィリップは「よっこいしょ」と上体を起こした。まだ本調子ではないのか立ち上がる様子は見せないものの、随分と回復したらしい。彼は帽子をかぶり直しながら続ける。

 

「俺は単なるサディストじゃあない、『飴』と『鞭』を使いこなす調教師なのさ──やれ、メリュジーヌ」

 

 フィリップの指示に従うように、メリュジーヌと呼ばれた蛇はミッシェルを締め付ける力を一層強める。なんとか振りほどこうと足掻くミッシェルだが、その力は次第に弱まっていく。

 

 ──太古の昔に滅び、進化の競争から脱落した絶滅生物をベースとする『ESMO手術』。 

 

 一人の天才が編み出したこの術式の実態は、現存する生物を掛け合わせ生み出された()()()()()()()()()()()()()()によるMO手術である。逆に言えば手術を行う大前提として、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 今まさにミッシェルを死の淵へと追いやっているこの蛇、メリュジーヌもそうして生み出された合成生物の中の一匹だ。

 

 手術の際の材料として生み出されながら様々な事情が重なって手をつけられることなく、研究施設内で飼育されていた余り物の実験動物。それをフィリップがもう一つの特性である『飴』を使い、騎馬ならぬ騎蛇として手懐けたもの。

 

 

 

 古代爬虫類 ティタノボア・セレホネンシス──獰猛な捕食者であるワニを主食とする、史上最大の蛇である。

 

 

 

「メリュジーヌ、もう食べてもいいよ」

 

 フィリップの言葉に返事をするようにシュゥと音を立てると、メリュジーヌはぐぱりと大口を開いた。生臭い吐息がミッシェルの頬を撫でるが、意識を失った彼女は何の反応も示さない。

 

 そしてメリュジーヌはミッシェルに食らいつく。頭から丸のみにし、嚥下する──そうして初めて、フィリップは口を開く。

 

「悪くなかったけど、オリアンヌやセレスタン程じゃないな……ま、元騎兵連隊長の面目躍如ってとこか」

 

 這い寄ってきたメリュジーヌの頭を撫でると、掌からジワリと蜜のような物をにじませる。それを舐めとった大蛇は、どこか恍惚としたような様子で、その目を細めた。

 

 

 

 ──その花が咲いていたのは、今から推定2000万年ほど前。

 

 ドミニカ共和国で発掘されたその琥珀の中に閉じ込められていたのは、一匹のハチだった。興味深いことに、そのハチは全身に花粉をまとわりつかせていたのである。検査の結果、その花粉はラン科の植物のものであることが判明。これをきっかけにして、ランの祖先の出現時期と繁栄の系譜が明らかになる──博物誌において重要な意味を持つこの花はしかし、それだけ。現生する植物のように奇々怪々な能力を持っていたかどうかなどは一切不明であり、今後明らかにされることもないだろう。

 

 しかし重要なのは、彼らがラン科の植物であるという事実。

 

 アリ植物、と呼ばれる植物がある。繁栄のため、ある特定のアリとの共生に特化して進化を重ねた植物たちの総称だ。

 一例を上げれば、ラン科植物の胡蝶蘭などは花外蜜線と呼ばれる器官から蜜を放出することで蟻を誘引して繁殖や外敵の排除のために利用する。またある種のアカシアはより狡猾で、蜜の中にアリの特定の消化酵素を分解する物質を混ぜ込んでいる。これにより、一度アカシアの蜜を口にしたアリたちはそれ以外の食物を摂取することができなくなり、この木のために働かざるをえなくなってしまうのだ。

 

 長い進化の中で奴隷(アリ)を調教し、自らのために巧みに利用してきたアリ植物たち。その遺伝子を掛け合わせて生まれた、絶滅した植物の名を冠する新種の植物──本来のそれよりもずっと悪辣な特性を秘めたその妖花こそが、フィリップ・ド・デカルトが有するもう一つの特性である。

 

 

 

 

 

 

 フィリップ・ド・デカルト

 

 

 

 

 

 国籍:フランス共和国

 

 

 

 

 

 27歳 ♂

 

 

 

 

 

 179cm 76kg

 

 

 

 

 

 MO手術 “植物型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──────────── グレープフルーツ ────────────

 

 

 

 

 

 &

 

 

 

 

 

 ESMO手術 “古代植物型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

──────────── Meliorchis caribea(メリオルキス・カリビア)────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 灼日の毒鞭(グレープフルーツ) 

 

 奴隷王の蜜飴(メリオルキス・カリビア)

 

 

 

 

 ──倒錯庭師の飴と鞭、繚乱(フルブルーム)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「さて、本隊はまだかな? いくら俺でも、これ以上は限界──!?」

 

 ようやく立ち上がったフィリップは一人口を零そうとして、口をつぐむ。かつて一度だけ、戦友たちと共に挑んだ怪物が発したそれによく似た、圧倒的強者を前にした時に感じる重圧(プレッシャー)に見舞われたためである。

 

 ──何か、来る。

 

 フィリップの頬に冷や汗が伝い、メリュジーヌも警戒するように鎌首をもたげた。ミッシェル・K・デイヴスなど比ではない──もっとずっと強大な何者かが、間もなくこの場に現れる! 

 

 

 

 

 

「ガァアアアアアアアアアアアアアア!」

 

 

 

 轟音と共に着地したソレは、獣の如き咆哮を挙げた──否、『如き』という表現は正確ではあるまい。

 

 なぜならば、フィリップとメリュジーヌの前に突如現れた『彼』は比喩でもなんでもなく、正しく獣であったのだから。

 

 彼は生まれついての『王』である。その肉体に流れる気高き血の半分は『百獣の王(ライオン)』、残り半分は『密林の王(トラ)』から受け継いだものであるがゆえに。いと尊き王の血を継ぐもの、その種族名は──“ライガー”。

 

 彼は生まれついての『兵器』である。ただでさえ強力なその肉体は、最先端の改造術式により限界すらも超越した強化を施されているがゆえに。即ち、MO手術──ベースとなった生物は数ある生物の中でも最強クラスの昆虫である。

 

 

 

 最強 × 最強 = 最強

 

 

 

 あまりにも単純な真理。それを現実のものにするため、人間の手で生み出された『彼』の名は、シーザー。

 

 シーザーは怒っていた、怒り狂っていたといってもいい。

 

 己の領土に土足で踏み込み、今なお進軍し続ける侵略者──己の玉座を脅かさんとする不敬者が一匹ならず二匹もいたことに。

 

「ガルル」

 

 獣王たる『彼』は牙剥き、唸る──星霜の微睡より目覚めた古代の蛇王を、今一度醒めぬ眠りへと叩き落すために。

 

 

 

 

 

 

 シーザー

 

 

 

 

 

 国籍: ── / アメリカ

 

 

 

 

 

 7歳 オス

 

 

 

 

 

 体長250cm 体重400kg

 

 

 

 

 

 MO手術 “昆虫型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

────────────ブルドッグ・アント────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──CAESAR(シーザー)、乱入。

 

 

 

 

 

 

 

 ――それは、『喰らい合う二匹の獣』。

 

 

 

 

 

 

 




【オマケ】(※オリアンヌのベースネタバレ注意)

レオ「それでは手術ベースを発表する。オリアンヌ、君は『アンキロサウルス』だ」

オリアンヌ「ふむ、シンプルに使いやすい……よき力を得た」

レオ「次、セレスタン。君は『シノルニトサウルス』」

セレスタン「こっちはスピード型か。悪くない、鍛えがいがあるな」

レオ「そして最後、フィリップだが……」

フィリップ「……」ワクワク

レオ「『グレープフルーツ』だ」

フィリップ「待てや」





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絶対凱歌EDGAR―6 獣蛇疾駆

「なにを、なにをしているのだ私は……!」

 

 アメリカ合衆国国防長官、デイビッド・ジョーンズは苛立ちと共に髪を掻きむしった。その苛立ちの要因は己がまさに犯している罪に対する苦悩に対するものであり、同時に己が進行形で晒している醜態故のものでもあった。

 

 フランスへの牽制に失敗しただけにとどまらず、あまつさえ敵である彼らの利となる行為を重ねてしまった。

 

 黒陣営の密入国の手引きに始まり、彼らの拠点の確保、ミッシェルやダリウスといった合衆国側の主力の軟禁、グッドマンの妻と娘の避難先情報のリーク、更にはホワイトハウスの救助部隊の作戦妨害や遅滞指示。

 

 いずれも、国防を担う組織のトップが犯してはならない罪。そんなことは分かっている。だが……

 

『どうだい国防長官、俺の『蜜』は極上だろ? ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 脳裏に中折れ帽の青年の幻影がよぎる。記憶の奥底から、まるで悪魔が誘惑するかのように、彼は脳幹をくすぐるのだ。

 

『このままだとあんたは餓死するか、点滴で栄養を補充するしかない。依存症を治療するって手もあるけど、時間はかかるし下手な麻薬を抜くより辛いことは保証する。ま、どっちにしてもまともな社会生活は送れないだろう』

 

 ――けどね。

 

 まるで蛇が舐るように、記憶の中の彼はデイビッドに囁く。

 

『俺たちに協力してくれるなら話は別だ。俺の蜜をこっそりあんたに分けてやる。悪くない話だろ? 俺の特性は麻薬と違って普通の検査じゃわからない、上手くやれば今の地位に居続けられるさ』

 

 デイビッドは己の職務に殉じる……とまではいわないまでも、その責任は果たす人間だ。少なくとも、賄賂や利権の類でなびく類の人間ではない。だが結果として、彼はフランスの操り人形に成り下がってしまった。

 

 地位が惜しかったこともある、命が惜しかったこともある。だがそれ以上に、青年の特性による呪縛に抗えなかった。

 

『グッドマンを引きずりおろした後で、美味しい蜜はたっぷりあげよう。ほら、もたもたしてると禁断症状で苦しくなるぞー?』

 

 それはまさに悪魔の蜜――口にすれば甘く、しかし飲み込んだが最後、その者は永遠に『蜜』の虜となる。

 

 健全なる魂は、健全なる肉体にこそ宿る。肉体が耽美に堕落した今、デイビッドの魂が腐り落ちるのは時間の問題であった。

 

 ――なればこそ、未だ正気を保てているうちに。私は本来の責務を果たさねばならない。

 

「っぐ、うゥ……!」

 

 苦し気にデイビッドは頭を押さえた。既にここ数日、彼はフィリップの蜜を口にしていない、蜜の効力が切れかかった体が禁断症状に悲鳴を上げていた。

 

「! 国防長官!」

 

「構うなッ! ……これで、いい」

 

 慌てて駆け寄ろうとする秘書を手で制し、デイビッドは電話の受話器へ震える手を伸ばした。

 

 ――フィリップ・ド・デカルトの呪縛は強力で、その上悪辣だ。蜜の効力があるうちはその性質故に抵抗のしようがなく、効力が切れても激しい禁断症状でやはり抗えない。一度でも彼の蜜を口にすれば、文字通りの奴隷となる。

 

 だが、だからこそ、今なのだ。蜜の効力が消えた今ならば、苦痛さえ耐えられれば正気の行動ができる。隷属の鍍金を剥がし、己の正義に従って行動ができる。

 

「私だ……これより、超法規的措置を発令する。一度しか言わん、よく聞け」

 

 脂汗を拭いもせず、デイビッドは受話器に語り掛けた。すぐに自分は禁断症状に呑まれ、正気を失うだろう。だからこそ、今打てる手は一つだけだ。

 

「――」

 

 空気を肺の中に取り込む。その一言を口にすれば免職は免れまい。しかも、事態をより悪化させてしまう可能性すらある。平時の彼ならば絶対にやらないどころか、自分以外の誰かが同じことをしようとすれば殴ってでも止めるだろう。

 

 だがこのままでは、全てが終わってしまう。『神への挑戦者』と『鋼鉄の薔薇』が描く筋書きの通りに、合衆国が敗北してしまう。それだけは、絶対に避けねばならない。

 

 故に彼はなけなしの理性と正気を振り絞り、宣言したのだ。

 

 

 

 

 

「検体番号354番――『シーザー』を、ワシントンD.Cへ解き放て」

 

 

 

 

 

 

 ――灰の変則駒(フェアリーピース)、『獅子(ライオン)』の戦線投入を。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

「ガルアアアアアア!」

 

 

 

 黄金の鬣を揺らし、シーザーが咆哮する。静寂に閉ざされた街に、王の憤怒が轟いた。

 

「オイオイ……いつからワシントンはサファリパークになったんだ?」

 

 軽口をたたきながらも、シーザーを捉えるフィリップの目は冷静そのものだった。彼は新たに現れた脅威を観察し、その戦力を分析する。

 

 ――生物種、ネコ科。ライオンに似てるが、たてがみの量が少ない。おそらくは品種改良種。

 

 ――骨格、頑強。筋肉の付き方も明らかに狩猟に特化。見世物ではなく、軍事利用を目的としたもの。

 

 そして四肢を強靭強固に補強する黒い外骨格、頭部から生えた節のある触角――明らかにM()O()()()()()()()()()

 

 このことから導き出される結論は。

 

「アメリカも化け札(ジョーカー)をきったってとこかな。こんなことをできるのは――」

 

 ――ジェラルド・グッドマン。

 

 脳内に真っ先に浮かんだその可能性を、しかしフィリップは即座に捨てた。現在進行形でシドの襲撃を受けているグッドマンが、わざわざ生物兵器を市街に開放するとは思えない。あまりにもメリットが少なすぎる。

 

 ならば、この混沌とした戦況を作り出した者は必然的に一人に絞られる。非常事態下において強い発言権を有し、国の中枢に近しいもの。

 

「――国防長官か。鞭が足りなかったらしいな」

 

 彼の脳裏に思い浮かぶは、隷属の蜜でがんじがらめに捕らえたはずの合衆国国防長官の顔。抵抗の意志はへし折ったつもりだったが、存外に愛国心は強かったらしい。

 

猛毒部隊(ポイズナス)、応答しろ。誰か生きてるかい? ……うん、知ってた」

 

 通信装置に呼びかけるも、数本隣の通りに待機しているはずの猛毒部隊からの返事はない。返ってくるのは虚しいノイズばかりだ。

 

 げんなりするフィリップの視線の先には、真紅に濡れたシーザーの前脚。おそらく自分がミッシェルと戦闘している最中に襲撃を受けたのだろう。

 

 もとより彼らは暗殺を生業とする粛清部隊、白兵戦となれば圧倒的に不利である。ましてやその相手がMO手術を受けた猛獣だったとなれば、彼らの末路がどのようなものであったかは想像に難くない。

 

 ――どうにも、上手くいかないな。

 

 溜息をついて、しかしフィリップはすぐさま思考を切り替える。エドガー・ド・デカルトと、彼の庭たるフランス共和国を脅かす外敵を幾度となく退けてきた『フランスの三枚盾』。その中でも随一の切れ者である彼にとって、味方の不在など手札の一つが潰されただけにすぎない。

 

「メリュジーヌ」

 

 大蛇はその声に応えるように二又の舌を口から出すと、フィリップを見やった。縦長の瞳孔を一層細め、彼女は主の次なる言葉を待つ。

 

「やれ」

 

 親指を下に向け、調教師は抹殺を命じた。その瞬間、新生代の王(メリュジーヌ)は既に稲妻となり、アスファルトに覆われたワシントンD.C.の大地を駆けていた。

 

 ――あまりイメージが沸かないかもしれないが、蛇という生物は全身が筋肉の塊である。

 

 獲物を狙う際に発揮される瞬発力、獲物を絡めとり絞め殺す拘束力。これらは全て、しなやかかつ強靭な蛇の筋線維があってこそのもの。それが今、史上最大のヘビたるティタノボアの躯体で発揮される。

 

 神速で迫るは短刀の如き牙。だがそれが、現代の帝王(シーザー)の肉を食らい裂くことはなかった。

 

 メリュジーヌの牙が自らに到達する刹那、シーザーは四肢に力を込めてその場を大きく跳躍したのである。

 

「……へぇ?」

 

 それを見たフィリップは、興味深げに目を細めて見せた。ネコ科の生物は身体能力が高く、この科に分類される生物は総じて優秀なハンターである。だが、どれほど彼らが運動能力に優れていようと――()()()4()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ガアアアアア!」

 

 シーザーはビルの壁を蹴り、獲物を見失ったメリュジーヌへと勢いよく前脚を振り下ろした。大蛇が身をくねらせて紙一重でそれを避ければ、獅子の前脚は小規模な地震と共にアスファルトにクレーターを刻みつける。

 

「シューッ!」

 

 闘争においては、一瞬の隙こそが命取り。攻撃直後、無防備な姿を晒したシーザーの側面に俊敏に回り込み、メリュジーヌはその首へと食らいついた。今度こそ彼女の牙は、万獣の帝王の肉を捉える。

 

 通常、蛇の噛みつく力はさほど強くはない。大型種であるアナコンダでも約20kg程度、無論小型の蛇となればよりその数値は小さくなる。一般的な成人男性の咬合力である60kgと比べても、その数値の差は一目瞭然だ。

 

 大型の蛇であれば、獲物を狩る方法は『絞殺』。

 

 有毒の蛇であれば、獲物を狩る方法は『毒殺』。

 

 彼らの顎は猛獣のように噛み砕くことを想定していない、単純に飲み込むだけの力があればそれでいいのである。自然界の中で種の繁栄を目的として生まれてくる彼らならば、それで十分。

 

 だが、メリュジーヌは違う。古代生物の名を冠する品種改良種、『ティタノボア・セレホネンシス』は繁栄ではなく、戦闘を目的として生み出された生物兵器である。

 

 手術ベースとして人体に組み込む前提ならば、その強さは十分よりも十二分である方が好都合。故にレオ・ドラクロワはティタノボアを造り上げるにあたって、その遺伝子にワニ類を組み込むことで大幅に咬合力を強化させている。

 

 多くの生物にとって首は急所。必然、この一撃で勝負はつくはずであった。自らの牙が獲物の肉を突き破り、次いでボギン! という音と共に頸椎が折れて戦いは終わり。

 

 自身と同じく、1人の天才によって生み出されてきた数多の古代生物。実験動物たちを相手どり在庫処分(戦闘訓練)をこなしてきたメリュジーヌ。彼女の経験と本能に根差した予想は、しかし次の瞬間裏切られることになる。

 

「グル……!」

 

 ――牙が通らないのだ、シーザーの首筋に。

 

 理由は至極単純、彼の首筋は三十の鎧に守られているから。

 

 第一に、ライオンの血を引くが故の“たてがみ”。第二に、彼のベースとなった昆虫が有する“硬質な外骨格”。これら二つが牙の貫通を防ぐ。

 

 そして第三に、やはり彼のベースとなった昆虫に由来する“圧倒的筋力”。生物の中でも最高峰のそれが、先述の二つの防御も相まってメリュジーヌの牙を押し返したのだ。

 

「ガルルルァ!」

 

 ――闘争においては、一瞬の隙こそが命取り。

 

 予期せぬ事態に判断を鈍らせたメリュジーヌの胴体に、シーザーは前脚を振り下ろす。猫パンチ、などと可愛らしく形容できるのはそれが小型のイエネコの規格であればこそ。大型の猛獣サイズで放たれるそれは、一撃で獲物を即死させることすらもある凶撃である。

 

 ――ブシュリ。

 

 シーザーの爪は鱗ごとメリュジーヌの体から肉をそぎ落とし、アスファルトを鮮血で彩る。力が緩んだすきを狙ってメリュジーヌの体に噛みつくと、彼は力任せに大蛇の肉体を放り投げた。

 

 15m近い彼女の肉体は宙を舞い、車道を挟んで向かい側のビルに叩きつけられる。振動で窓ガラスが一斉に砕けると、ぐったりと倒れ伏す古代生物に雨霰と降り注いだ。

 

「昆虫類の外骨格、ネコ科であることを加味しても明らかに発達した脚力、そして自分より巨大な相手にもビビらず襲い掛かる凶暴性……触角の形は蟻か」

 

 僅か数合の攻防、しかしそれで十分。フィリップは読み取った情報を脳内で即座に組み上げ、シーザーの肉体に組み込まれた生物にあたりをつけた。

 

「ブルドッグアント、かな」

 

 ブルドッグアント、またの名をトビキバアリ。『殺人蟻(ジャック・ジャンパー)』の通称で呼ばれるこのアリはその異名の通り、小さな体躯に数多の攻撃機構を盛り込んだ昆虫界きっての殺し屋である。

 

 強靭な顎は屈強な昆虫の外骨格を容易く食い破り、屈強な脚は体長の数倍以上の距離を跳躍することも可能。蟻の中では頭一つ飛びぬけた視力で獲物を見つけると、時に人の命すらも脅かす毒液を仕込んだ針で刺殺し、自らの糧とする。

 

 数ある生物の中でも『モンハナシャコ』と並び、表裏アネックス計画のオフィサークラスに与えられるベースとしてU-NASAが目を付けていた生物だ。一方で環境破壊が深刻化した27世紀の地球上においては生息数が極端に少ないために研究も進んでおらず、『現時点ではαMO手術でないと適合しない、昆虫でありながら高難度なベース』でもある。

 

 現状、この生物を用いた公式のMO手術成功事例は裏アネックス計画の幹部『島原剛大』ただ一人。そしてその彼は現在、白陣営による黒陣営への『盤外戦(フランス侵攻)』に対するカウンターとしてU-NASAからフランスへと派遣されている。

 

 故に今回の作戦でお目にかかることになるとは思っていなかったのだが。

 

「『非公式の』施術成功事例はいたってわけね。なるほど、強いわけだ」

 

 轟! と雄たけびを上げ、硝子の雨の中で瀕死の大蛇へと歩みを進める獅子を前に、フィリップは帽子をかぶり直した。

 

 アネックス計画関係者の中でも、トビキバアリの特性を持つ剛大は最強クラスの実力者である。剛大自身はニュートンのような特異体質でもなく、幸嶋隆成のように武を極めることに心血を注いだわけでもない。優秀なれど、本人の能力は人間の範疇を出ない彼を最強の頂にまで押し上げたベース生物が、あろうことか猛獣に組み込まれた。

 

 それがどれほど危険なことであるかは言うまでもないだろう。現に、彼が調教した古代生物達の中でも最強のメリュジーヌすら、こうも一方的に戦闘不能へと追い込まれてしまった。

 

「けどさぁ――()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 彼はポケットから弾丸を取り出すと、メリュジーヌと対峙するシーザーの背に向けて立て続けに三発放つ。無音で放たれた弾丸たちが、無防備にさらされたシーザーの背中に吸い込まれるように向かっていく。

 

「! ガルッ!」

 

 しかしそれを、シーザーは躱した。果たしてそれは野生の直感によるものなのか、あるいは何らかの感覚機能で事前にフィリップの動きを予期していたのか。いずれにせよフィリップの攻撃を見切ったシーザーは、特性で強化された脚力でその場を飛びのいた。

 

 弾丸は虚しく王の残像を貫き――。

 

「今のを避けるか……やるね。でもま、想定内だ」

 

 そして、『瀕死の大蛇の鱗を撃ちぬいた』。

 

 

 

「ライガー君さぁ――その力、自分だけの特権だと思ったら大間違いだぜ?」

 

 

 

 途端、メリュジーヌの肉体がミシミシと音を立て始めた。なんのことはない、フィリップが放った弾丸には、『フラノクマリン』だけでなく『変態薬』も装填されていたというだけのこと。

 

 そのままシーザーが被弾すればよし。既に変態している彼にとっては致命的な投与量となるだろう。仮に避けられても構わない。その時にはフィリップの攻撃は一転、メリュジーヌの巨体に組み込まれた『特性』を目覚めさせる援護となる。

 

「!」

 

 異変を感じ取ったシーザーは姿勢を低くし、警戒するように唸り声を上げる。その眼前で、メリュジーヌの体は刻々と変異を遂げていた。

 

「シ、ィイイイ……!」

 

 急速な細胞の活性化により、胴の傷が見る間に塞がっていく。全身をびっしりと覆う鱗は深緑から褐色に色づいて隆起し、滑らかな蛇の流線は強靭な筋線によって補強される。頭部から生えた節のある触角は、ミッシェルやシーザーと同じ蟻の特徴。牙は二回りほど太く、氷柱のように鋭利に伸びた。

 

「シュウゥ――」

 

 グイ、とメリュジーヌは横たえた上体を起こす。美しさと力強さを兼ね備えたその姿に、もはや『大蛇』という形容詞では役者不足であった。

 

 まさに『(ドラゴン)』。

 

 伝説の生物、神秘の象徴とされる幻獣が、実体を伴ってワシントンへと降臨していた。

 

「ガァッ!」

 

 復活を果たしたメリュジーヌ、すぐさまシーザーは間髪入れずに飛び掛かった。彼を突き動かしたのは、帝王の矜持と本能。メリュジーヌという自らに比肩する生物を生かしておけないという衝動が、彼の肉体を突き動かす。

 

 そして次の瞬間、シーザーの視界からメリュジーヌの姿が掻き消える。驚く間もなく、まるで巨人に握りしめられたかのような強烈な圧迫感が彼を襲う――鱗に覆われた太く長い怪物の胴が、シーザーの全身に締め上げていた。

 

 その視界に、ヌッと鎌首をもたげたメリュジーヌの顔が広がる。口の端からチロチロと舌を出入りさせながらじっと獅子を見つめる龍は、シーザーが力尽きる様をどこか楽しんでいるようにも見える。

 

「ガ、ァ……ッ!」

 

 自らを捕らえる力から逃れようと力を籠めるも、彼を王者たらしめるブルドッグアントの怪力を以てしても、身じろぎすら敵わない万力。

 

 しかも、シーザーがメリュジーヌに抵抗する力は刻々と弱まっていた。拘束による酸欠にしては、あまりに早すぎる。メリュジーヌが鱗の隙間から放出する、彼女のベース生物に特有の化学物質が原因の『麻痺』である。

 

「運が悪かったね、ライガー君。俺もメリュジーヌも、蟻相手にはめっぽう強いんだ。まぁこれに懲りたら、覚えておくといい。獅子じゃ龍には勝てない。獣じゃ調教師には勝てない。そんでもって――」

 

 ――孤高の王じゃ、群れた徒党には勝てない。

 

 言い聞かせるようにそう言って、庭師はその手に妖花の蜜を滲ませた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 古くから人間は、戦争においてしばしば動物を利用してきた。

 

 軍用犬は言うに及ばず、オペラント条件付けによって刷り込みを行った鳩によるミサイル誘導、ナパーム弾を括り付けたコウモリによる爆撃など、近代史においても戦争における動物兵器の研究が欠かされたことはなかった。

 

 それは27世紀においても変わることはなく。エドガー・ド・デカルトが協力者としてレオ・ドラクロワを迎え入れれたことを契機に、フランス共和国軍上層部では1つの軍事計画が持ち上がった。

 

 その名を『PROJECT:Gévaudan(ジェヴォーダン計画)』――ESMO手術のベースとするために生み出されたものの、本来の役目を果たす前に何らかの事情で用済みとなった合成生物たちの軍事利用を目的とする計画である。

 

 ステファニー・ローズが中心となって発足させたこの計画の根本にあるのは、奇しくもシーザーを生み出したアメリカ合衆国と同じ思想。早い話が人間よりも強い生物にMO手術を施して『最強×最強=最強』を実現しようというもの。

 

 ただし、シーザーを生み出した科学者たちが目指していたのが『最強の決戦用兵器』だとすれば、ジェヴォーダン計画を主導するステファニーたちが重視したのは『優秀な量産型兵器』であった。これを実現するため、彼女が重視したのは戦力価値・生産性・制御性の三つ。

 

 このうち、戦力価値については申し分なかった。古代生物の再現として造られた合成生物たちは総じて巨大で力強い。手術ベースとしては万全の力を発揮しきれない生物でも、素体としてならば並の軍人では及ばないポテンシャルを秘めている。

 

 生産性の問題もなかった。もとより廃棄予定の合成生物を再利用するため、素体のコストはかからない。ベースとなる生物についても、ありふれた生物を用いればいいだけのこと――むしろ単純なパワープレイによる蹂躙を目的とした量産兵器に、複雑な機構を持つベースは邪魔でさえある。最終的には採集が容易であり、ベース自体も高い能力を有する『アリ』をベース生物とすることで話はまとまった。

 

 残す問題は制御性――これを解決するために白羽の矢が立ったのが、ESMO手術被験者の中でも特殊なベースに適合したフィリップ・ド・デカルトだった。

 

 彼の手術ベースとして生み出された『メリオルキス・カリビア』は蜜を介して他生物を利用する植物であり、フィリップ自身も騎兵隊長として生物の扱いに長けている。加えて計画発足直前に起きた事件で、彼が対外的には死亡したことになっていたのも都合がよかった――彼がこの計画の要として抜擢されるのは必然だったと言えるだろう。

 

 かくしてフィリップが率いる科学者と調教師たちの手によって、何体もの軍用合成騎獣(ジェヴォーダンの獣)が生み出された。槍の一族によるフランス侵攻の折には秘密保持の観点から投入は見送られたが――もしも仮にこのジェヴォーダンの獣たちが先の戦いで前線へ投入されていたのであれば、もっと早く決着(ケリ)がついたはずだ。

 

 人間サイズであっても容易くテラフォーマーを屠る彼らのベースが、文字通りに恐竜サイズのスケールで振るわれることになるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 メリュジーヌ

 

 

 

 

 

 生物種:ティタノボア・セレホネンシス

 

 

 

 

 

 国籍: ―― / フランス

 

 

 

 

 

 5歳 ♀

 

 

 

 

 

 体長15m 体重1.5t

 

 

 

 

 

 MO手術 “昆虫型”

 

 

 

 

 

 

 

 

   ―――――――――――― アルゼンチンアリ ――――――――――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 




【オマケ】
ステファニー「いずれ共和国親衛隊騎兵連隊の騎馬は、こいつらに差し替える方向で考えている」

フィリップ「へぇ、統合参謀長でも冗談をいうん……待って、その顔まさか本気??」

エドガー「統合参謀長、貴様その軍事脳をなんとかしろ。騎兵連隊の役割は儀礼や祭典など対外的側面が強い。要人のエスコートをティラノサウルスでさせるつもりか」

千桐「全然ありでは?」

六禄「断然ありだな」

オリアンヌ「風邪村、座っていろ。本編設定を無視して立つな」

セレスタン「爺さん、あんたもだ。いい歳して目を輝かせるな」




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絶対凱歌EDGAR―7 結晶尖塔

 

 

 ──ここは、どこだ? 

 

 暗闇の中で自問するも、脳にかかった靄は答えを返さない。生温かい揺り籠の中で、彼女は緩慢に記憶の糸を辿った。

 

 ──私は、何をしていた? 

 

 長い夢を見ていた気がする、ひどく荒々しい夢を。

 

 どんな夢だっただろうか? 思い出そうとして、けれど彼女はすぐに思考を放棄した。眠気がひどく、体が怠い。何かを考えるのも億劫で、自分の体感さえも煩わしい。

 

 ああ、ならばいっそのこと、このまま眠ってしまおうか。そうすれば、もう自分を悩ませるものは何もない。大丈夫だ、まだ出勤までは時間がある。それにいざとなれば、母さんが起こしてくれるだろう。

 

 あと少しだけ。ほんの数分だけ。

 

 そう自分に言い聞かせながら、穏やかな闇の中へ意識を手放そうとした──その時。

 

 

 

『起きなさい』

 

 ──彼女の耳は、遠く懐かしい声を聴いた気がした。

 

『起きなさい、ミッシェル』

 

 厳しく、しかし慈しむように。その声はただ一言、ミッシェルに告げた。

 

『ここで眠ったら、二度とイヴに会えなくなってしまうよ』

 

「ッ!」

 

 その言葉に、彼女は思わず瞼をあげた。周囲に人の気配はない。幻聴だったのだろうか? いや、この際それはどうでもいい──大事なのは、ミッシェルが自らの置かれた状況を認識したことである。

 

(っ──思い出した!)

 

 ぼやけた記憶が、僅かに鮮明さを帯びる。そうだ──フィリップを戦闘不能にした直後、死角から現れた大蛇に締め付かれたのだ。

 

 彼女の視界に飛び込んできたのは、一筋の光さえない暗黒。全身を四方から圧迫するぬめぬめとした質感の固形物は数秒おきに脈を打っている。呼吸の度に嫌な生臭さが肺一杯に充満し、ミッシェルはえづきそうになるのを必死でこらえる。

 

 遠のく意識の中、彼女が最後に見たのは大口を開けた蛇の姿。

 

(つーことは……今私は奴の腹ん中か!)

 

 脳内で自らが置かれた状況を整理しながら、得られる知覚情報から態勢を把握していく──幸運なことに、右手の指を動かすと薬のホルダーに触れた感覚があった。すぐさま彼女は薬を取り出すと自らに打ち込むと、腹を突き破ろうとその腕に万力を込める。

 

「ッ──!」

 

 だがパラポネラの腕力を以てしても、大蛇の筋肉を凌駕するには至らない。消化管の収縮に押し返され、彼女は肉の壁に潰される。

 

 元より四方を筋肉で抑え込まれた状況で打てる手はそう多くない。加えてこの空間は、胎内ということもあって酸素が薄い。一時的にとはいえ、思考が覚醒したことは奇跡と言えよう。しかしそれにも限界に来ていた。

 

(クソ──!)

 

 再び靄がかかり始めた思考に、ミッシェルは舌打ちする。ただでさえ少ない酸素を急激に消費したことで、彼女の頭蓋は内側から鈍い痛みを訴えている。どう考えても、力技での打開は間に合わない。

 

(──考えろ。今の私にできることは何だ?)

 

 切迫する鼓動の音を聞きながら、ミッシェルは知恵を絞る……やがて彼女は、一つの可能性に行き着いた。

 

 あまりにも危険な方法である。仮に上手くいったとしても、戦線に復帰することは難しい。下手をすれば死ぬ可能性さえもある。

 

(いや。迷ってる場合じゃねぇか)

 

()()()()()()()()()()()()()()()。ならば彼女がとるべき行動は決まっている。

 

 ──こんなところで死ぬわけにはいかない。

 

 腹を括ったミッシェルは、一か八かの賭けに出た。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 ──どうにも自分は昔から、ここぞという場面でのツキに恵まれない節がある。

 

 メリュジーヌに抱かれ、死に行くシーザーを眺めながらフィリップは思案する。任務の度に思っていたことではあるが、今回もその例に漏れなかったようだ。

 

 思えばミッシェルに『(グレープフルーツ)』のタネを見抜かれたのがケチのつき始めだ。

 

 レオ博士が人体実験を兼ね、本来のベースを経由して接ぎ木の要領で差し込んだ特性。自らに組み込まれた意外過ぎる生物には思わず二度見したものだが、いざ使ってみれば『MO手術被験者』にとっては天敵のような能力だった。彼は幾度となく、その特性で強力なベースを宿した刺客を屠ってきた。

 

 それを、力技で破られた。

 

 仕方なく撤退まで隠しておくはずだった『(メリオルキス・カリビア)』と『メリュジーヌ』でミッシェルを下したと思えば、偶発的に遭遇した生物兵器(シーザー)との連戦である。表面上は余裕を崩していなかったものの、内心は生きた心地がしなかったというのが本音だ。

 

「だけど──これでゲームセットだ」

 

 己に言い聞かせるようにフィリップは呟く。裏腹に、その顔はどうにも晴れない。

 

 ──胸の奥に、粘つくような苦さがあった。

 

 この言いようのない嫌な感覚には覚えがある。かつて他国からのスパイであった親友を、迷いから殺せなかった時に似ているのだ。理由は分からないが、確信だけがあった……自分は詰めを過ったのだという確信が。

 

 これが思い過ごしであれば、どれほどいいだろう。だが自分の勘は、嫌な時に限ってよく当たる。どうにも自分は昔から、ここぞという場面でのツキに恵まれないのだ。

 

 ──虫の息。

 

 とぐろに巻かれたシーザーの意識がまさに闇へ落ちようとした、その瞬間だった。突如として大蛇が、その身を大きくよじった。

 

「メリュジーヌ?」

 

 異変に気付いたフィリップの眼前でメリュジーヌの巨体が大きく傾き、そのままアスファルトの上に倒れ込んだ。地響きと共にのたうち回る胴は車を押しつぶし、街灯をへし折る。もだえ苦しむ大蛇はえずくようにその肉を2,3回痙攣させると、その口から塗れた何かを吐き出した。体液に塗れながら地面に転がったそれは──。

 

「!」

 

 ──先刻、メリュジーヌが呑み込んだはずのミッシェル・K・デイヴスだった。

 

 アスファルトに蹲り荒い呼吸を繰り返す彼女は、満身創痍ではあるが確かに生きている。

 ニュートンの発達した嗅覚はミッシェルがメリュジーヌに対して仕掛けた攻撃を瞬時に看破し、フィリップは顔をしかめた。

 

「なるほどね……()()()()()()()()()

 

 やられた、と。彼はシンプルに感心した。

 

 彼女はメリュジーヌの腹の中で、もう一つの特性を使用したのだ。通常の放出ではメリュジーヌの巨体を炸裂させるには至らない。だから文字通り、自分の体中の水分を使ってギリギリまで出しきったのだろう。

 

 まさしく一か八か、危険な賭けだ。だが彼女は、それに勝った。急速な膨張を察知したメリュジーヌは、本能的に爆液ごとミッシェルを吐き出したのだろう。その証拠にミッシェルにまつわりつく吐瀉液からは、先刻フィリップに向けられた毒霧と同じ匂いが漂っている。彼女は見事に、怪物の胃の中からの生還を果たしたのだ。

 

 ただし、その代償は小さくない。

 

「カハっ……」

 

 乾いた声で咳き込むミッシェル。その手足は小刻みに痙攣し、浅く荒い呼吸を繰り返している。意識も半ば朦朧としており、フィリップを睨む眼光も弱弱しい。明らかに脱水症状を起こしている。本人が見立てた通り、戦線への復帰は不可能な状態だった。

 

 いかにオフィサーといえども、所詮は人間。フィリップの実力を以てすれば、今ならば赤子の手をひねるよりも容易く殺せる──

 

「──とはいかないんだよな、これがっ!」

 

 言いながら、フィリップは飛び退く。直後、彼が立っていた場所にメリュジーヌの巨木のような体が倒れ込んだ。

 

「グァルァ!」

 

 大蛇を引きずり倒した下手人、シーザーがすかさず追撃を仕掛ける。巨体を鞭のようにしならせてそれを弾き飛ばすと、鎌首をもたげたメリュジーヌは地を爬行し、獅子の横腹に食らいつかんとする。

 

(気ィ抜くと巻き込まれるな、こりゃ──!)

 

 とてもではないが、ミッシェルにとどめを刺すどころではない。顔面を直撃する軌道で迫る瓦礫を蹴り飛ばし、路駐してある車の影に滑り込む。呼吸を整えながら、フィリップは戦力差を分析する。

 

 素体──ライガーとティタノボア。どちらも戦闘力に優れた生物であるが、だからこそより大きい(デカい)方が優位であろう。よって軍配はメリュジーヌに上がる。

 

 手術ベース──ブルドッグアントとアルゼンチンアリ。純粋な戦闘力評価では明らかに前者の方が上。ただし、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。対アリ戦に特化した特性を持ち、現にシーザーがこれによって弱体化していることを考慮すれば、おそらくいうほどの差はないだろう。

 

 環境──基本的にどちらか片方を優位に働くことも、どちらか片方に劣位に働くこともない状況。だが、いざとなれば自分はメリュジーヌの補助に入ることができる。対して、シーザー側に助っ人は望めない……即ち、これもメリュジーヌに有利。

 

「……」

 

 故にフィリップは『見』に徹する。このまま順当に戦況が進めば、メリュジーヌは勝つだろう。仮に戦況がシーザーの有利に傾いたのであれば、自分が援護射撃をして戦況を仕切り直す。これがこの場において己がとるべき行動だと、彼は判断した。

 

 ──フィリップの分析には寸分の狂いもなかった。

 

 仮にこの状況におかれたのがステファニー・ローズであっても、同じ判断を下しただろう。フィリップは正しく汲み取るべき情報を選び取り、最善の行動を導き出していた。

 

 そう最善ではあった──だが()()()()()()()()。それが、彼の敗因。

 

「ッ!?」

 

「グ、ル──ガアアアアアアア!」

 

 フィリップが違和を察知したのと、シーザーが一際大きな咆哮をあげたのはほぼ同時だった。

 思わず物陰から飛び出したフィリップの眼前で、シーザーの姿が突如として変化を──否、変異を始めた。より強靭な甲皮に、より強靭な筋肉に、より強靭な顎に、彼の体が生まれ変わっていく。

 

「過剰摂取だと!? 俺は何も──」

 

 していない、と続けようとして。

 

 フィリップは見た──塵煙舞うアスファルトの上に立つ、人影の姿を。

 

「うっそだろ、おい……!?」

 

 フィリップは瞠目する。明らかに戦闘を続けられる状態ではなかったはずだ。意識もほぼ喪失していたはずだ。だがしかし彼女は紛れもなく己の足で直立し、己が成すべきことをなした。

 

(気力だけでここまでやるか普通──!?)

 

 フィリップのたった一つの誤算。それは彼がミッシェル・K・デイヴスという人間、その魂の本質を見抜けていなかったこと。

 

 これが彼の旧友であるオリアンヌであれば、躊躇うことなくミッシェルにとどめを刺していただろう。あるいはセレスタンであれば、無力化するために手足の骨を折るくらいはしただろう。

 

 だが人間を超えた人間として生を受けたフィリップは、およそ考えつきもしなかったのだ。生物としての規格が優位であるが故に、彼は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 人間を超えた人間として生を受けた彼には、想像もつかなかったのだ。己の限界を超えて奮い立つ者の脅威──時に猫さえも噛み殺す鼠の執念がどれほど凄まじいものであるのかが。

 

 

 

「ミスった……!」

 

 

 

 フィリップはすぐさま指弾を放つ……が、僅かに遅かった。

 

「ガルルッ!!」

 

 アスファルトを蹴ったシーザーが跳躍し、鱗に覆われた喉元に食らいつく。その衝撃でメリュジーヌの体が大きく仰け反り、変態薬が充填されたフィリップの援護射撃は虚しく瓦礫に弾痕を刻んだ。

 

「シャアアァ!」

 

 メリュジーヌは激しく身をよじらせるが、過剰変態によりブルドッグアントの力を限界まで引き出したライガーを振りほどくには至らない。彼は両前脚の爪を大蛇の肉に突き立て、自らの体を固定し──その顎に、万力を込めた。

 

 ゴギリ、と。

 

 骨が砕ける音が響き、メリュジーヌの首があらぬ方向へと曲がる。首を90度回転させた大蛇は一瞬その巨体を硬直させると、重力に引きずられるように大地に沈んだ。

 

 

 

「グオオオオオオオオッ!」

 

 

 

 古き王の屍を踏みつけ、新しき王が勝鬨をあげる。その咆哮は空気を震わせ、ワシントン中に響き渡る。

 

 彼は勇壮に鬣を震わせると、既に意識を喪失したミッシェルを一瞥する。彼は眼前の人間が自分に何かをしたことを──より正確には、自分に助力をしたであろうことを理解していた。

 

 不届きだ、と本能が告げる。生態系の頂に君臨する王の威信にかけ、目の前の雌はその歯牙を以て殺すべきだ。

 

「……」

 

 だがシーザーは、何をするでもなく静かに視線を戻した。本能の言葉をかき消す程に、個としての魂が認めていたのだ。ミッシェル・K・デイヴスが見せた人間としての意地を。

 

 この場において、ミッシェルを殺さないこと。それが彼女に対して払うべき最大限の敬意であると、シーザーは判断を下す。

 

 ──ならばもはや、この場に自分が見るべきものはない。

 

 彼は踵を返した。予定外の足止めを食ったが、依然として自らの領土を侵す侵略者は健在である。例え己の命を賭してでも、王の矜持にかけて止めねばならない。

 

 シーザーはその歩を進めようとし──

 

 

 

Attendez(おいおい待てよ)

 

 

 

 ──咄嗟に、真横へ飛び退いた。

 

 バシッというかすかな音と共に瓦礫に弾痕が刻まれ、その鋭敏な嗅覚はそこから漂う柑橘の刺激臭を嗅ぎ取った。

 

「グァウ!」

 

「おお怖っ! あんまり吠えるのはnon merci(勘弁)だぜ、ライガー君」

 

 苛立たし気に振り返るシーザー。その視線の先で、フィリップはおどけた様に肩をすくめて見せた。

 

 

 

 ──フィリップ・ド・デカルトにとって、この状況は完全なイレギュラーだった。

 

 

 

 当初の想定通り、交戦勢力がビショップ(ミッシェル)ポーン(アメリカ軍)だけだったならば、彼は間違いなく勝利していた。仮にルーク(シモン)ナイト(スレヴィン)がいたとしても、それなりに上手くやっていた自信はある。

 

 だがいざ蓋を開けてみれば、ミッシェルを殺せなかったどころか猛毒部隊(ポイズナス)の別動隊は全滅。切り札だったメリュジーヌさえもたった今潰された。

 

 例えそれが、変則駒(シーザー)という計算外によって引き起こされたものであったとしても──『フィリップは敗北した』、この結果が全てである。

 

「ならさっさと尻尾を巻いて逃げろって話なんだけど、あいにく統合参謀長(キング)から撤退の指示はまだ出てなくてね。あーあ、嫌になるぜ本当に!」

 

 もはや自分に残された手札はない、完全なタネ切れだ。いかに自分がニュートンの血族と言えど、相手は過剰変態によりブルドッグアントの特性が強力に発現したライガー。生物としての土台が違うのだ、勝ち目などあるはずもない。

 

 ここが、自分の死地だ。

 

「フランスの、エドガー・ド・デカルトの矢に選ばれた男として──砕けた盾と折れた剣(あいつら)に情けない恰好を見せるわけにはいかねぇよな」

 

 脳裏をよぎるのは旧友たちの姿──オリアンヌとセレスタン、そして今はもういない戦友たちの姿。彼らと共に学び、戦い、語り合った日々のことが次々と流れ、消えていく。

 

 ──走馬灯に出てくるのも、お前らなんだな。

 

 今この場にはいない彼らが、自分と共に立っているかのような気さえする──それがとても、心強かった。

 

「任務は遂行する、ここから先には誰も通さない。どうしても通りたいんなら──まずは俺を殺してからにしてもらおうか」

 

 ──悪いな、オリアンヌ。思いの外早く後を追うことになりそうだ。

 

 ──許せよ、セレスタン。なるべくこっちには遅く来い。

 

 心の中で謝罪して、フィリップは弾丸を握る右手の親指に力を込める。それを見たシーザーもまた、身を低くした。

 

 既に獅子から立ち上る怒気はなりを潜め、代わりに戦意を鋭く研ぎ澄ましている。知性の存在しない獣ではあれど、自らの怒りを前にしてなお退かないフィリップに何かを感じ取ったらしい。

 

 歯牙にかけるまでもない存在から、打ち倒すべき敵へ。フィリップへの認識を修正し、シーザーは彼に向き合った。

 

「それじゃあ……遊ぼうぜ、猫ちゃん」

 

 そして次の瞬間、フィリップの親指が弾丸を撃ちだした。それを迎え撃つかのようにシーザーは駆け出し、フィリップへと飛び掛かる。己の頭上へ振り上げられた猛獣の強爪を見ながら、フィリップは満足げに笑みを浮かべた。

 

 ──まぁ、色々と思うところはあるけれど。

 

 

 

「悪くない人生だった」

 

 

 

 その言葉を最後に、倒錯の庭師の意識は途切れた。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 獣の咆哮と破壊音を遠くに聞きながら、シモンはすり足で僅かに間合いを詰めた。

 

 ──刹那。

 

「ッ!」

 

 シモンは大きく上体を仰け反らせ、寸秒前まで彼の首があった空間を日本刀が滑らかに切り裂いた。すぐさまバックステップを切り、彼は深く息を吐く。

 

 ──この人、凄い剣圧だ。

 

 フルフェイスの内側、シモンの額はぐっしょりと汗をかいていた。眼前の女性はたおやかな花のように笑みを浮かべながら、剣よりも鋭利な闘気を絶えずシモンへ向けている。自らの『死』、それを感じずにはいられなかった。

 

 だがそれ以上に──

 

「なんて反応速度……!」

 

 人間が事象を知覚し、反応し、そして動くまでにかかる速度は最高で0.1秒が限界。これは電気的要因によって決まっていることであり、いかに鍛錬を重ねようとその壁を超えることは不可能。

 

 だが彼女の──風邪村千桐(かぜむらちぎり)の反応速度は、明らかにそれを超えていた。

 

 尋常の技ではない。そして非常に、不可解でもある。

 

 単純に攻撃速度という観点で言えば、例えば張明明の手術ベースである『ハナカマキリ』であれば、0.1秒の壁を破ることはできる。しかしそれは能動的な攻撃速度の話であり、受動的な反射速度の向上に結び付くものではない。

 

 ならば知覚に優れた生物がベースとなっているのであれば、今度は攻撃速度の説明がつかない。特に千桐は変態しているにもかかわらず、その見た目に大きな変化が見られない。おそらくベースとなった生物に、肉体そのものを強化する特性はないのだろう。

 

 ならば、彼女の超速攻撃の正体は何だ? 

 

「ふふ……心が躍りますね。これほどの時間、真剣勝負でわたくしと立ち合って生きていた方は久方ぶりです」

 

 攻めあぐねるシモンに千桐はコロコロと笑い、「けれど」と続けた。

 

「悲しいですね。やはり貴方ほどの使い手であっても、彼には及ばない」

 

「……彼?」

 

 思わず聞き返せば、顔を綻ばせた千桐が「はい」と頷いた。

 

「ひたむきに己を研鑽する方でした。小難しい御託も、論理も、一切合切を無視して力のみ求めたヒト。その美しさと言ったら……病に伏し魂が枯死していた女を、修羅へ変生させるにあまりあるものでした」

 

 恋する乙女のように頬を赤らめ、ほぅと息を吐いた千桐は、うるんだ瞳をシモンへと向けた。

 

「頑張ってくださいね、ヘルメットのお方。この死線を、共に楽しみましょう。どうか()()()()()攻撃に、膝を折ってしまいませんよう──」

 

 ──幸嶋君ならこの程度、造作もなく凌いでくれますよ。

 

 そう言って、剣鬼は花のような笑みを浮かべた。

 

 

 

 ──全身をガラスで構築された生物がいる。

 

 それは水深1000m程の海底に生息する、奇妙な水棲生物。彼らはガラス繊維状の骨片が重なった網目状の円形体を持ち、プランクトンなどの有機物粒子を捕食するというごく無害な生態系を持つ。

 

 

 

 ──海綿動物。

 

 

 

 その中でも偕老同穴(カイロウドウケツ)を始め『ガラス海綿』と呼ばれる生物たちである。その美しい形状から芸術的価値を認められ、ヴィクトリア朝時代のイギリスにおいては3000ポンド以上の価値で取引されていた彼らは近年、工業的な視点からの評価もされている。

 

 彼らの最大の特徴、それは光ファイバーに類似した構造のガラス繊維を自ら生成できること。

 

 現代の技術ではガラス繊維の形成には高温条件が必須であるが、ガラス海綿たちはこれをごく低温の体内で生成することができる。加えて彼らは、体内の電気インパルスを高速伝達することで外部刺激に迅速に対応するためのシステムを有しているという。

 

 人類が最新の科学を以てして手に入れたその特性を、彼らは遥か昔から宿していた。ではその起源はどこにあるのか? 

 

 新生代か、あるいは中生代か? 否、それよりも遥か昔──5億6000万年前のエディアカラ紀には、既にその片鱗が地球上に現れていた。

 

 それは「硬質の組織を持つ最古の多細胞生物」として2012年に報告された、『エディアカラ生物群』と呼ばれる無脊椎動物の一種。属名を「縁のある丘」、種小名を「棘」という意の言葉からとられたその生物の構造体は、カンブリア紀の海綿動物と様々な特徴が類似していたという。

 

 これを現代の地球に生息する多種多様な海綿動物の合成によって復元した生物こそが、風邪村千桐のベースであり、彼女が行使する神速の抜刀術の真髄である。

 

 即ち──電気インパルスとガラス繊維体(光ファイバー)に置き換えた神経系による高速伝達システムと、その超知覚に反応できるだけの改造を施された肉体。

 

 この2要素を以て彼女は奇病による全身不随の真淵より全盛へ──即ち、龍百燐(ロンバイリン)に並ぶ現代の剣聖の座へ返り咲いて見せたのだ。

 

 

 

 ──ただ一人の男ともう一度、死合うためだけに。

 

 

 

 

 

 

 風邪村千桐(かぜむらちぎり)

 

 

 

 

 

 

 

 国籍:日本

 

 

 

 

 

 

 

 36歳 ♀

 

 

 

 

 

 

 

 162cm 66kg

 

 

 

 

 

 

 

 ESMO手術 “古代海綿型”

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──────────── コロナコリナ・アクラ ────────────

 

 

 

 

 

 

 

 

 ──結晶の求道者(コロナコリナ・アクラ)反射(リフレックス)

 

 







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絶対凱歌EDGAR―8 即身成鬼

 

 忠誠を尽くし、恩に報い、弱者に手を差し伸べ、誉れを忘れぬこと──それがかつて、風邪村千桐が己の人生に立てた誓いである。

 

 出自は日本の名家『風邪村』。幼少の頃より厳しくも恵まれた教育を受け、成長の中でめきめきと頭角を現した。剣道七段、居合道七段、華道師範、歌道師範……彼女が得た肩書の数々が、非凡な才覚を物語る。無論のこと、そこに至るまでの道のりは決して平坦ではなかったが、先天の才能と後天の努力は、最後には必ず彼女へと報いた。

 

 天は二物を与えないというが、自分は誰よりも多くを与えられた。自分が置かれた境遇には、感謝の言葉以外見つからない。

 

 ならば自分はこの気持ちを、これまで支えてくれた家族や、多くを教えてくれた師範、共に笑いあった友人、そして誰かのために尽くすことで返そうと。

 国院大学を卒業した22歳の春、彼女は自らが進むべき道を定めた。武士道とでも呼ぶべき、己の魂の在り様を。

 

 その王道は決して揺るがず歪むまい、そう思っていた。彼女の家族も、恩師も、親友も、そして彼女自身さえも──そう信じて疑わなかった。

 

 

 

※※※

 

 

 

 シモンは大地を蹴り、一気に距離を詰めた。初太刀を躱し、ホワイトハウスの正面玄関に立ちはだかる──もとい、座りはだかっている修羅の懐へ。

 

「ハァッ!」

 

 右の拳を握り固める。狙うは人体の急所、鳩尾──考えうる限り最速の一撃をシモンは叩き込んだ。

 

 

 

「せっせっせーの……」

 

 

 

 ──だが神経を介して感じるだろう肉を打ち、骨を砕く感触は伝わらず。

 

 その代わりに孤を描いて、シモンの右腕は宙を舞った。

 

「よいよいよいっ♪」

 

 歌詞に合わせ、三閃。風切り音が鳴るたびに左腕が切り落とされ、上下半身が真っ二つに分断され、首が刎ね飛ばされる。地面へ転がったシモンの頭部が最期に見たものは、肉塊となって崩れていく自分の体だった──。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッ!!」

 

 ──そしてシモンの意識は、現実へと引き戻される。

 

 止まっていた呼吸を再開する。二酸化炭素の排気と共に、彼の顎を伝って汗が地面へと滴り落ちた。

 

「……参ったな」

 

 嘆息混じりに、シモンは小さく呟く。彼の眼が捉えるのは、ホワイトハウスの前に陣取る風邪村千桐の姿だった。

 

(隙がなさすぎる……突破口が見つからない)

 

 思案するシモンの視界に、彼自身の姿が映り込む。鉄壁ともいえる千桐の防衛線を突破し、ホワイトハウスに突入するために想定しうる攻撃手順の一つだ。

 幻影の自分は両足に生来備わるベース生物、ウンカの脚力を以て高速で接近。そして、()()()()()()()()()()()()

 

(これも駄目)

 

 目を細める。硬直した戦況の中、既にシモンは何十何百とシミュレートを繰り返していた。正面突破から騙し討ちまで、ありとあらゆるパターンを考えてはみたが、導かれる結論はどれも同じ。

 

 彼女が振るう超絶の技巧による、絶対的な死(デッドエンド)である。

 

 彼女との戦闘において、迂闊な行動は命取り。問題は彼女ほどの達人を──龍百燐にも迫る実力者を前に、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ヘルメットの方は、随分と慎重なのですね」

 

 攻めあぐねる彼に、千桐は静かに語り掛けた。

 

「判断としては中の下と言ったところでしょうか。戦況に関しては、ええ……よく見えていらっしゃるかと」

 

 彼女がチラリと見やるのは、戦いの邪魔にならない場所に丁寧に横たえられた兵士たちの死体である。無謀な突破を試みたところを返り討ちにされた彼らに比べ、シモンは正しく自らの置かれた状況を理解している。その点において、千桐から見たシモンの行動は評価に値する。

 

「けれど、時間はわたくし達の味方です。今こうしている瞬間にも、『足止め』というわたくしの任務は果たされている……さて、いつまでこうして睨めっこをしているおつもりですか?」

 

「……それもそうだ」

 

 千桐の言葉にシモンはそう返すと、二度三度と周囲を薙ぐように槍を振り回す。調子を確かめ直した

 

「U-NASA特別対策室実働部隊長 シモン・ウルトル──押し通る!」

 

「出自を明かさぬ非礼、ご容赦を。ただの千桐──尋常に、参られよ」

 

 死地へ臨む武人が二人、もはや両者の間に言葉は無用。故にその言葉を合図に、シモンは放たれた矢の如く前方へと駆けだした。

 

 ──達人同士の戦い。

 

 本来ならば一瞬で生死が決するところであり、事実シモンと千桐によるこの戦闘も、ごく短い時間を以て決着を見ることとなる。

 

 が、しかし。

 

 現実時間にして僅か60秒にも満たない時間で決着したその死線の最中には、趨勢を左右する要因がいくつも飛び交っている。

 この死合を制さんとする両者の間では熾烈な技と技のぶつかり合いと並行して、ともすれば脳が焼き切れるほどの読み合いが繰り広げられていた。

 

「はッ!」

 

 先手をとったのはシモンだった。ヒュオゥ、と軽快な風切り音を立てて、鋭い刺突が繰り出される。千桐は刀でその一撃を防ぐも、それを見越していたシモンはすぐさま二の打ち(追撃)の姿勢へと移行する。

 

 ──要因①【間合い】

 

 これは刀を得物とする千桐に対し、槍を繰るシモンに分があるのは言うまでもない。『剣道三倍段』──一般に「剣術が槍術と互角に相対するには三倍の技量が必要」と言われるように、間合い(リーチ)はそれだけで大きなアドバンテージとなる。

 

 風邪村千桐の剣術技量は並大抵ではないが、相対するシモンもまた尋常の使い手ではない。研鑽された技術の数値化という無粋を承知で言えば、両者の間に3倍もの実力差は存在しない。セオリー通りに考えれば、勝負の軍配はシモンへと上がるのが自然である。

 

 

 

「ええ、そう来ると思いました」

 

 

 

 ただしこれはM()O()()()()()()()()()()()()()、ことはそう簡単には運ばない。

 

 地面を突き破り、半透明の結晶柱が形成される。逆さまの氷柱のようなそれに阻まれ、槍による第二撃は千桐の肉体を傷つけることはない。

 

 ──要因②【地の利】

 

 この点においてはベース生物の特性上、千桐が圧倒的に有利。

 

 彼女のESMO手術のベースとなった古代生物『コロナコリナ・アクラ』は、海底に根を張って生活環を形成する海綿動物──とりわけ、カイロウドウケツを始めとしてガラス質の骨格を持つ六放海綿綱に近い生態を持つ。

 

 人間大のガラス海綿となって早5年。特性の練磨を重ねた彼女は自身から伸びた根を介し、半径10m圏内にガラスの構造物を形成できるほどにまで能力を昇華させていた。

 

「うわっ、とと!?」

 

 飛び退いた先で更に飛び出したガラス柱を更に躱し、シモンはその壁面に着地する。その眼下では春を迎えたツクシのように、尖った結晶の群れがその針先を天へと向けていた。

 

「やっぱりそう来るよね……」

 

 予測していた最悪の事態にシモンは渋面を浮かべながら、ここからの機動の邪魔になりうる槍を放り捨てる。

 

 乱立する強化ガラスの柱は槍の取り回しを大きく制限し、更にシモンの間合いの外側から奇襲を仕掛けることさえも可能とする。即ちこの要因②を以て、シモンが要因①で得た優位は覆される。

 

 そうして徒手空拳となったシモンに追い打ちをかけるのが要因③──【戦闘における制限】。

 

 実を言えばこの戦い、勝つだけならばシモンにとって難しい話ではない。

 

 いかに千桐が優れた戦闘技術を持つとしても、例えその実力がオフィサーに匹敵するとしても、シモンの本気はアークの団員をして『災害』と言わしめるほどのもの。オリヴィエ・G・ニュートンさえも退けた力を以てすれば、この場を鎮圧するのはわけもない話である。

 

(だけどそれは、本当に最後の手段だ)

 

 しかし一瞬だけよぎったその考えを、シモンは即座に却下する。

 

 U-NASAのデータベースに登録されている彼のベース生物は『カマドウマ』。ベースの偽装にあたり、わざわざこの生物を選出したのには理由がある。

 それはひとえにカマドウマという生物の特徴が、シモンの体に生来備わった特性と類似しているから。

 “ツチカメムシの腕力”と“ウンカの脚力”──シモンのフィジカルを支える2つの特性を全力で使ったとしても、第三者にはカマドウマのそれと見分けがつかないだろう。“カハオノモンタナの糸”は備品、“モモアカアブラムシの毒耐性”は体質と言えば誤魔化すことができる。

 

 裏を返せばそれ以外の特性──例えばカマドウマに使えるはずもない毒ガスや衝撃波と言った特性を発現させようものなら、事態に収拾がついた後に待つのはU-NASAからの審問だ。

 下手をすれば自身の正体の露見、最悪の場合アーク計画そのものの頓挫に繋がる危険すらもある。

 

 前回は外部の目がない閉所での任務だったために、その点を気にする必要はなかった。だが今回の戦闘は屋外、しかもホワイトハウスという厳しい監視体制の下で行われるもの。故にシモンには、後天的な手術で得た特性が使えないという制限が存在する。

 

 彼自身の最大の強みである『器用万能(オールマイティ)』を封じた状態で、千桐を倒さなくてはならない。それは彼にとっての勝利の大前提でありながら、あまりにも高い壁だ。

 

「もう終わりですか?」 

 

 詰め将棋のようにジリジリと首を絞められていくシモンへ、千桐は問いかける。

 

「幸嶋君なら、このくらいは余裕ですよ?」

 

 剣鬼へ堕ちた自らの原点を、その脳裏に思い浮かべながら。

 

 

 

 ※※※

 

 

 

 千桐がその少年に出会ったのは、3年前のことだ。宮内庁の女官として勤務する傍ら、自らが師範を務める道場にその少年は現れた。

 

「たのもう! 道場破りに来た!」

 

 開口一番に飛び出した古典漫画のような台詞に、道場中が静まり返ったのを今でも覚えている。

 

「え、何あれ?」

「さ、さぁ……?」

「変なアニメの影響を受けた痛い奴だろ」

 

 静寂の後、道場生たちは手近な者たちとヒソヒソと言葉を交わす。当然だろう、27世紀の日本で道場破りなど、古典的すぎて逆に斬新ですらある。

 

「んー……」

 

 そんな周囲の寒々しい視線など気にも留めず、数秒に渡って道場内を見渡した少年は迷わず足を踏み出した。ズカズカと歩みを進めた彼は、マイペースに水筒のお茶をすする千桐の前に立った。

 

「そこのアンタ」

 

「はい、わたくしですか?」

 

 きょとんと首をかしげる千桐に、少年は「ああ!」と力強く返す。

 

「この道場で一番強いの、アンタだろ? 俺と戦ってくれ!」

 

「いいですよー」

 

「「「「えええええ!?」」」」

 

 まるで「そっちの醤油とって」という頼みに応じるかのような気軽さで即答した彼女に、門下生たちが一斉に驚愕の絶叫が響く。

 

「何をしているのです? 模擬刀を持ちなさい」

 

「ちょ、師範!?」

「本当にやるんですか!?」

「あ、マジだこの人! ノリノリでストレッチしてる!?」

 

 騒ぐ外野をよそに体をほぐし、持ってこさせた得物を手に取る。調子を確かめるようにそれを振る千桐に、少年は「よっしゃ、ルールは!?」と威勢よく声をかける。

 

「そうですねぇ……ここはオーソドックスにいきましょうか。試合時間は5分、わたくしと貴方で交互に『全日本剣道連盟居合』で認められている型を披露する。「修業の深さ」、「礼儀」、「技の正確さ」、「心構え」、「気・剣・体の一致」、「武道としての合理的な居合であること」、「全日本剣道連盟居合(解説)の審判・審査上の着眼点」を評価基準とします。審判役三名に判定してもらい、より演武の完成度が高い方が勝利です」

 

「「「………………」」」」

 

 ──何か、思ってたのと違う。

 

 千桐が語る「居合道」としての勝負に、少年はおろか門下生たちも思わず口をつぐんだ。確かにこれは道場破り、ならば居合道の作法に則って雌雄を決するのが道理。だがこう、なんというか……非常に釈然としなかった。

 

「はい、これ貴方の模擬刀です」

 

「あっはい、どうも」

 

 手渡された模擬刀を、少年は物凄く微妙な表情で受け取った。その様子に千桐は「えっ」と声を零す。

 

「──本気でわたくしと、居合で勝負をなさるおつもりで?」

 

「えっ」

 

 提案した張本人とは思えない言葉に少年が顔をあげれば、そこにはキョトンと目を丸くした千桐がいた。

 

「ツッコミ待ちの冗談だったのですが……まさか真に受けられるとは」

 

「なっ!? もしかして俺、からかわれた!?」

 

「はい」

 

「はい!?」

 

 思わず叫んで詰め寄る少年を「落ち着いてください、勝負はしますから」となだめながら、千桐は淡々と説いた。

 

「小学生コースの門下生より礼儀作法がなってない君が、さっきの試合方法でわたくしに勝てるわけないでしょう。100パー私が勝ちます」

 

「っぐ……スゲーむかつくけど、返す言葉がねぇ……!」

 

「勿論、君がそれでいいなら構いませんよ? 100パーわたくしが勝ちますが」

 

「さっきからマウントすごいな!?」

 

 打てば響くようなやり取りに気をよくした千桐。彼女は上機嫌で「試合形式は」と続ける。

 

「実戦を想定した、ルール無用一本勝負! 制限・制約一切なし! ──こういうのがお望みでしょう?」

 

「そうそう、そういうのだよ! ああ、模擬刀は返すぜ。素手の方がやりやすいからな」

 

「そうですか。ならわたくしは、サバゲ―用のモデルガンを使いますね」

 

「いや居合は!?」

 

「『「銃はよりも強し」ンッン~名言だなこれは』……という名言が古典漫画にはありますので。あ、当然実戦式ですから一発あたれば一本です」

 

「いや無用すぎだろ!? おい、この人いっつもこんな自由(感じ)なのか!?」

 

 少年が門下生たちに訊けば、彼らは満場一致で首を縦に振った。諦めろ、という意思を込めて。

 ともあれ千桐のマイペースはあれど、彼女の鶴の一声で変則試合の準備は着々と整えられていった。試合の土俵となる畳のセッティングが終わると、刀を佩いた千桐はその上に正座した。

 

「では……始めましょうか」

 

 ──瞬間。

 

「!」

 

 彼女が纏う雰囲気が一瞬で研ぎ澄まされたのを、少年は感じ取った。

 彼がこれまで相手にしてきた、ストリートギャングやモグラ族のような『ならず者』とは違う。『武人』に特有の、身が引き締まるような圧。まるで首元に刃を押し付けられたかのような静かな圧迫感に、少年は生唾を飲み。

 

「っはは……! いいぜ、こうでなくっちゃな!」

 

 そして、笑った。

 これから己は本物の強者と立ち合うのだという、闘争本能に由来する歓喜ゆえに。

 

「ちょっと頑張って脅かしてみたんですが、なるほど。これは骨が折れそうですね」

 

 それを見た千桐は評価を上方に修正すると、すぐさま正座を止めて再び立の構えへと移行する。正座や胡坐の姿勢から抜刀する『座業』は居合を居合たらしめる型ではあるが、初太刀を外せば立て直しは困難。そして眼前の敵はそれを成しうる実力の持ち主であると、彼女もまた感じ取ったのだ。

 

「流派我流、幸嶋隆成(ゆきしまたかなり)だ! 行くぜ!」

 

「風邪村流剣術師範、風邪村千桐(かぜむらちぎり)。来ませい!」

 

 そして拳と剣、道場破りと道場師範の試合の幕は切って落とされた。

 

 

 

※※※

 

 

 

(彼女の方が速いなら)

 

 ダン、とガラス柱を蹴り、空中を駆る。千桐が次のシモンの姿を捉えた時、彼は既に背後をとっていた。

 

()()()()()()()()()()()!)

 

 シンプルにして明快なその結論は、武道において『先の先』と呼ばれる立派な極意である。

 しかし千桐ほどの達人が相手ともなれば、シモンの選択は言うに易く行うに難い。それを可能とするのが要因④【機動力】。千桐と相対するシモンにとって、数少ない優位の一つ。

 

 しかもシモンが実行したそれは、単なる短期決戦の枠にとどまらない。障害物であるガラス柱を足場に、立体的な機動による攪乱と急接近。要因③(制限)の下、要因②(地の利)を逆手に要因①(間合い)を自らの優位に引き寄せる、高度な機動戦術である。

 

「やっと捕まえたよ」

 

 八極拳の有効射程に踏み込んだシモンが真っ先にしたことは、千桐の刀の柄を押さえることだった。

 

 実戦で居合を相手取るにあたり、攻略法と呼べるものは二つ存在する。そのうちの一つが、刀を抜かせないこと。鞘走りと同時に斬りつける居合。その攻撃速度は『近間の弓鉄砲』と評される程だが、そもそも刀が鞘から放たれなければなんら脅威とはなりえない。

 

「お見事──」

 

 掛け値ない賞賛の言葉を手向けた直後、千桐の鳩尾をシモンの掌底が穿った。開拳と呼ばれるその強撃は間違いなく渾身の一打、本来ならばこれを以て勝負は決する。

 

 はずだった。

 

 

 

「──ですが、()()()()()()()()

 

 

 

 返ってきたのは、余裕のある声。伝わってくるのは、壁を殴りつけたかのような堅固な感触。

 予想外の手応えに一瞬だけ生じたシモンの空白を、千桐は逃さない。

 

「へ?」

 

 ぐるりと反転する視界。衝撃と共に背中へ伝わる芝の感触。どうやら自分は、地面へと倒されたらしい。直前、体に手を添えられる感覚があった。おそらく、合気に近い技だろう。

 それを理解するまでに要した時間、僅かに瞬き一回分。その一回を終えた彼の眼前に、刀の切っ先が迫っていた。

 

「っ!」

 

 咄嗟に首の筋をずらせば、サクリと白刃が土へ突き立つ。次の瞬間を予見したシモンがバネのように跳ね飛んだ直後、残像のシモンは真一文字に首を切り裂かれた。

 

「重ねてお見事。この追撃を躱したのは、貴方で二人目です」

 

「それはどうも……確かに“獲った”と思ったんだけどな」

 

 おもむろに刀を鞘へ納める千桐の言葉に、シモンは答える。千載一遇の好機を逃した──芽生えかけたそんな焦燥を、彼は理性で以て強引にもみ消す。今はそれよりも、考えなければならないことがある。

 

「不思議そうですね。今の一撃を受け、なぜわたくしが健在なのか」

 

 そんなシモンの思考を見透かしたように、千桐は言う。そして彼女の指摘は、シモンが今まさに分析しようとしていた事項でもあった。

 

「そうだね、凄く気になってるよ。せっかくだし、タネを教えてくれると助かるんだけど」

 

「はい、いいですよ」

 

「……ボクから訊いといてなんだけど、もう少しこう、警戒心というか何というか」

 

 思わず素が出るシモンの言葉は聞かず、千桐はあっさりと手の内を明かした。

 

「貴方の迫撃を阻んだのは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 一般的なガラスは金属に比べて弾性・靭性ともに乏しく、それ故に衝撃に弱い。しかし構造や含有物質の調整さえすれば、頑丈で割れにくいガラスを作ることは十分に可能である。

 

「『珪素構造物生成補助』。わたくしの専用装備に備わる、数ある機能の一つです。これを使えば、防弾ガラスの鎧を形成するなど造作もない……どうです、驚きでは?」

 

「いや、そこは大体予想通りかな」

 

「……幸嶋くんなら、多分もっといいリアクションしてくれるのに」

 

 いじける千桐の言葉には耳を貸さず、「知りたいのはそこじゃない」とシモンはバッサリ切り捨てる。

 

「さっきの攻撃、手加減したつもりはなかった」

 

 シモンはルイスとの戦闘を思い出す。彼は特殊な防具を使うことで、シモンの打撃を一度は無効化した。しかし衝撃自体を殺しきることはできず、その体は何mにも渡り吹き飛ばされた。

 

 体格においても体重においても、千桐のそれはルイスを下回る。彼女の特性も身体能力そのものを向上させる類のものではなく、攻撃を受け流せるタイミングでもなかった。だから──

 

()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ──先の一撃は微動だにせず受け止めた千桐は、明らかにおかしいのだ。

 

「ふふ……やはり貴方、かなりの使い手ですね。良い、良いですよ。幸嶋君の次くらいに、良いです」

 

 感心するように頷いた千桐は唇を舐め、口を開く。

 

「さて唐突ですが、この身は難病に冒されています。発症すると全身の筋肉が動かせなくなってしまう……そんな病です」

 

「? 何を──」

 

 疑問の声をあげかけるシモンを制し、千桐は「私の家系に代々伝わる厄介な特質でしてね」と言葉を続けた。

 

「根治の手段は、今のところありません。唯一の対症療法は“動かせなくなった体の組織を作り変える”こと。要はMO手術で再生能力のあるベースを組み込むか、定期的に過剰変態で全身の細胞を入れ替えれば症状は抑えられるんです。しかし困ったことにわたくしの場合、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「それでも、貴女は動けている──元気すぎるくらいに」

 

「一言余計では?」

 

 辛辣なシモンの一言に疑問を呈しつつ、千桐は「でもその通りです」頷く。

 

「単純な運動能力に限れば、今のわたくしは()()()()()()()()()()()()()()()と言えるでしょう」

 

「……引っかかる言い方だ。今が最盛期じゃなくて、最盛期()()?」

 

「はい。だってそうでしょう?」

 

 含みのある物言いに反応するシモン。そんな彼に問い返しながら、千桐は襟に手をかけ──

 

「外付けの力を以て“これぞ我が最盛”などと、どうして言えましょうか?」

 

 ──思い切り、着物をはだけてみせた。

 

「なッ……!?」

 

 シモンがギョッと目を見開いた。

 

「初期型の不良故に再生能力が発現せず、内臓機能が一定水準を割り込む故に過剰変態も望めない」

 

 彼が目を奪われたのは艶やかな鎖骨でも、豊満な乳房でもない。

 

「そんな困ったちゃんに、ドラクロワ博士(主治医)は全く新しいアプローチで応えてくれました──貴方ならばこれもご存知では?」

 

 彼女の脊髄と車椅子を繋ぐ無数の接続端子やケーブル。そして、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

M.(モザイク)O.(オーガン)H(ハイブリッド)──!」

 

 口をついて飛び出したのは、記憶に新しい技術の名称。2年前にU-NASAドイツ支局を騒がせた事件の子細は、当然シモンの耳にも入っている。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()!?」

 

 そしてその瞬間に、彼は理解する。常人には到底不可能、MO手術を受けてなお不可解。人体の限界を超えた反射(カウンター)の仕掛けは、なんのことはない──『風邪村千桐という人間は、とっくの昔に人間でなくなっていた』、それだけの話だったのだ。

 

「ご明察です。脳や免疫寛容臓のような一部の器官を除いて、わたくしの体は人工細胞に置き換わっている」

 

 ──(ドイツ)民営企業特許()()()M.O.H兵器『八咫硝子(やたがらす)』、駆動。

 

「まぁそういうと些か仰々しいので、少しばかり言い回しを変えてみましょうか」

 

 ──改良型M.O.H兵器着用補助細胞『殺晶斥(せっしょうせき)』、励起。

 

 

 

 

()()()()()()()()()()()()()()……なんて言ったら、イマドキですかね?」

 

 

 

 

 

 

 ──要因⑤【リスクを度外視した強化改造】

 

 

 

 

 

 




【オマケ】

千桐「M.O.H(メンヘラオーガンハイブリッド)兵器」

ステファニー「それでいいのか貴様」




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絶対凱歌EDGAR―9 生死問答

 

 人間の生涯には、大なり小なり転機というものが存在する。千桐にとっては、幸嶋との立ち合いがまさにそれだった。

 

 試合時間自体は、おそらく15分にも満たかっただろう。人生という長い時間の中では“瞬きほどの”という形容詞でさえ大げさすぎるほどの、ごく短い時間。だがその15分は、それまでの人生観を粉々に打ち砕いた。

 

「おっと、隙ありだ!」

 

 ──刹那の緊迫を駆ける快感。

 

「なんの、お返しですっ!」

 

 ──技の冴えを競う高揚。

 

 礼法だとか定石だとか、そういうお行儀のいいものは必要ない。技巧と経験、敵を斬る覚悟だけが物を言う弱肉強食の理。

 純然たる闘争の前に、33年の歳月が築き上げた高尚な信念はあまりに脆い。

 

「ふふッ、あはははははッ! 楽しいですねぇ、幸嶋くん!」

 

 ゴチャゴチャと飾り立てた理屈を脱ぎ捨て、あるいは無意識の内に抑圧していた闘争本能を剥き出しにして、千桐は笑った。

 

「おーにさんこちら♪ 手の鳴る方へ♪」

 

 挑発か誘いか、口をついてわらべ歌が流れ出す。唖然とする門下生など、もはや眼中にない──彼女の全神経、全思考はたった一人の少年との果し合いへ注がれていた。過ぎ行く1分1秒を惜しむ、その時間すらも惜しい。細胞の一片、血の一滴に至るまで、戦闘を全力で楽しむ。この時よ永遠であれ、そう願いながら。

 

 しかし彼らの戦いは、15分の後──驚くほど呆気の無い決着を見ることとなる。

 

「あ、れ──?」

 

 グラリと千桐の視界が傾き、倒れ込む。一拍を置いて脳が認識する痛みは、しかし痺れたように鈍い。

 

「師範が倒れた!?」

「なんだ!? 何が起こったんだ!?」

 

 周囲から聞こえる内容から、千桐は己の身に起こったことを即座に理解した。よりにもよってこの最悪のタイミングで、一族に伝わる遺伝病を発症したのだと。

 

「おいッ、風邪村さん!?」

 

 だが、呆けている場合ではない。模擬とはいえ今は試合の最中、これしきのことで攻撃を緩めるわけにはいかないのだ。

 

 駆け寄る幸嶋に、千桐は床に転がった模擬刀を拾おうとする。しかし指はまるでかじかんだように動かず、得物は彼女の手から滑り落ちた。ならば徒手、多少なり覚えのある柔術で応戦しようと顔を上げ──その口から、小さく絶望の声が零れた。

 

「──ぁ」

 

 彼の目から、戦意が完全に消え失せていたのだ。当然だろう、もし自分が幸嶋の立場でも試合を中断し、相手の身を案じていたはずだ。

 

「しっかりしろ、今救急車を──」

 

 だが認められない、認められるはずもない。初めてだったのだ、こんなにも何かを楽しいと思えたのは。今の彼は、己を敵として見てすらいないのだ。

 

 “そんな目で、わたくしを見ないでください”。

 

 けれどその嘆願を口にすることは叶わず、千桐はそのまま意識を失った。かくして最高の戦いは最悪の形で幕を下ろした。

 

 

 

 ──人間の生涯には、転機が存在する。

 

 

 

 幸嶋隆成、後に“人類最強”と呼ばれることになる男との戦いで風邪村千桐が得たものが、三つある。

 

 一つ、戦いの最中に身を躍らせる悦楽。

 

 一つ、最後まで戦い抜けぬ無力への屈辱。

 

 一つ──

 

『治ったら続き()ろうぜ、風邪村さん』

 

 ──()()()()()

 

『確かに試合なら、俺の勝ちかもな。けど俺達の()()はまだ着いちゃいねぇ。そうだろ?』

 

『もっと強くなったら、またあの道場に行くからさ。アンタも牙を研いで待っててくれ……いや、この場合は刀か? とにかく』

 

『──次に会った時、この戦いの決着をつけよう』

 

 そう言い残すと、彼は再び自分の道を歩み始めた。誰のためでもない、他ならぬ自分自身のために。

 誰かのために生きると決めた自分とは、正反対の生き方だ。決して自分には真似できない生き方だけれど、千桐はその在り様をとても眩しいと思った。

 

「だからわたくしはきっと、君に目を焼かれてしまったのでしょうね」

 

 ──病を発症して以降、彼女を蝕む病は回復の兆しを見せなかった。

 

 元より根治不能の難病である。MO手術なる人体改造手術を用いれば治癒の可能性もあったが……パッチテストの結果、千桐に適合する生物は存在しなかった。

 唯一の望みは絶たれたものの、その病は生命に関わる病ではない。死なないだけマシ、と思わねばならない。

 

「わかっています」

 

 今や彼女は、補助器具がなければ碌に立ち上がることすらできない。基本的には寝たきりを余儀なくされ、日常生活を営むにも介護補助が必要。

 もっともこれが一般家庭ならばいざ知らず、彼女が療養するのは日本でも屈指の名家。置かれた環境は最低限どころか、考えうる限り最高の病床。この環境に文句をつけたら罰が当たるだろう。

 

「わかっているのです」

 

 点滴の管が伸びる腕は発症以来、箸より重いものを持つことを許されていない。そのために健康だった頃より細く、白く衰えていた。

 しかしだからと言って、彼女の体がボロボロか? と言えばそうではない。効力が強く、副作用も少ない最先端医療の賜物だ。それを受けられる財力と縁故に恵まれた境遇にあることは、何にも代えがたい幸運だ。

 

「わかって、いますから……」

 

 仮に全身が動かなくなろうと、やりようはある。今まで身に着けた知識や教養がなくなるわけではないし、根治はできずとも今の技術ならばこれ以上の進行は食い止められる。

 かつての自分が定めた武士道を歩むのに、何の不都合もない。だから落ち込むな、気に病むな。たった一瞬垣間見ただけの別の道に、どうかこれ以上焦がれてくれるな。

 

「……」

 

 だが何度言い聞かせても、その15分は千桐に取り憑いて離れない。彼女の目に、脳に、心に、焼き付いた記憶が消えることない。どれだけ高説を重ねようと、本能が引き起こす衝動の前に、その抑圧はあまりにも脆い。

 

「……なぜわたくしは、知ってしまったのでしょうね」

 

 士道を歩む彼女は修羅道を知った、知ってしまった。ならばもはや、知らなかったことにはできない。既に千桐にとって、これまでの彼女を満たしていたものは塵芥にも等しく価値のないものになっていた。

 

『最高の環境で寝たままで()()()()』と、人は言うだろう。だが千桐にとって、その処遇は拷問にも等しい。

 自分の余生はあと30年か? それとも40年? 果たして自分は本懐を遂げられぬまま、どれだけの時をのうのうと生き続ければいい? 

 

 いつか歩みを止めるその時まで、幸嶋の魂は進み続けるだろう。それを自分は布団の上から、安穏と指を咥えて見ていることしかできない。あまりにも惨めな話だ。いっそこの場で腹を切り、果ててしまうのが幸せかもしれない。本気でそう考えてしまうほどに、生温く惨い地獄である。

 

 

 

 

 

「何故余が愚民の病床を見舞わねばならんのかと思っていたが……クハハ、なんの狂言だこれは? よもや床に臥しているのが亡者とは!」

 

 

 

 

 

 そんな千桐に語り掛けるのは、彼女にとってのもう一つの転機。

 

「なんだ、死人扱いは不満か? そう睨むんじゃあない、愚民。ただの事実だろう? 成すべきことも、成したいことも成せぬまま、ただただ無意味な生を享受している。この現状を死んでいると言わずしてなんというのだ?」

 

 ──エドガー・ド・デカルトである。

 

 政務のため偶然にも来日していた彼がその日、外交パフォーマンスの一環として風邪村千桐を見舞ったことが、彼女の人生の歯車を大きく狂わせた。

 

「だが貴様の目、尋常ではない生への執着があるな……いいだろう、興が乗った。()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 否──彼女の人生の歯車を、噛み合わせた。

 

「貴様に今一度、剣を振れる体をくれてやろう」

 

「!」

 

 その言葉に思わず身を乗り出した千桐を嘲るように、エドガーは「だが」と言葉を続ける。

 

「代わりに貴様は、全てを失うことになるだろう。家柄、半生、矜持、そして未来……その全てを捨て、鬼になる覚悟があるならば余と来い。できないなら、これ以上余の時間を割く価値はない……そこで立ち枯れるがいい」

 

 垂らされたのは、今にも切れてしまいそうな糸。それも出所は釈迦ではなく、27世紀で屈指の独裁者である。正気の人間ならば到底掴むはずもない、険呑極まりない救いの手。

 

「承知しました。貴方の旗下へと下ります、大統領」

 

 しかし千桐は、それに躊躇なく縋った。辛うじて正道に彼女を縛り付けていた『現実』という鎖は、たった今引き千切られた。例えその選択がどれだけ浅ましく、醜いものであろうと。九十九の有象無象を切り捨てることになろうと、その先に渇望する“一”があるのなら──

 

「鬼でも修羅でも、喜んで成りましょう」

 

 かくして女は、この日を境に剣鬼へと堕ち。その武士道は、血霧に霞んだ。

 

 

 

※※※

 

 

 

「ドイツ支局からの報告書は読んだよ」

 

 人工細胞に侵食され、黒く染まった体を晒す千桐にシモンは言う。その脳裏には、クロード経由で手に入れた資料に記載されていた技術の概要が鮮明に蘇っていた。

 

 ──M.(モザイク)O.(オーガン)H(ハイブリッド)

 

 ドイツの民営企業(バイオ&メカニクス・アーゲンター)が開発した、人体改造手術とは別方面からのモザイクオーガンの軍事利用アプローチである。脳と機械を接続し、脳波によって機械操作を行う……といえば、分かりやすいだろうか。

 

 その集大成ともいえる兵器こそがM.O.Hスーツ、MO由来の人工細胞から作り上げた筋肉・外骨格を基盤とし機械兵装を融合させた次世代戦闘服。

 

「MO手術にはない量産性、規格が統一されていることによる戦術性、マーズランキングの上位ランカーにも引けをとらない基本性能……一民営企業の技術としては、頭一つとびぬけてた完成度だったね」

 

 M.O.Hスーツのスペックは、確かに目を見張るものがあった。事実、U-NASAドイツ支局では火星での任務に送り込む主戦力を『MO手術被験者』にするか『M.O.Hスーツ着用者』にするかで技術採用試験(トライアウト)が行われたほど。

 そしてその結果は──

 

「ただし、致命的な欠陥があった」

 

 ──『中止』。

 M.O.Hスーツには『人工細胞が着用者の細胞を侵食する』という問題があったためだ。M.O.Hスーツを着用した者は、徐々に全身の人工細胞に乗っ取られていき、最終的には死に至る。それを防ぐため、抗がん剤にも似た抑制薬や麻酔代わりの覚せい剤、MO活性薬など多量の薬物を服用せざるを得なくなってしまう。

 

「けれど私にとって、人工細胞の侵食はむしろ都合がいい。なにしろ、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 だが彼女にとって、それはまさしく天恵に他ならなかった。適合するベース生物をオーダーメイドでこしらえてまで施したESMO手術。それを以てすら克服しえなかった難病から彼女を救ったのは、皮肉なことに死に至る欠陥兵器だったのだ。

 

「馬鹿なことを……! そんな方法で体が動くようになっても──」

 

「ええ、遠からず死ぬでしょうね」

 

 シモンの言葉に、千桐はあっけらかんと頷く。彼女が受けた処置は、断じて治療などと呼べるものではない。毒を以て毒を制すとでも言うべき、あまりにも乱暴な一時しのぎでしかない。

 

「ですが、それが何だというのでしょう? わたくしは死にながら生き続けることより、生き生きと死んでいくことを選んだ。これはただ、それだけの話……それに、悪いことばかりではありません」

 

「──!」

 

 そう告げた直後、千桐は車椅子ごと刀の間合いへと踏み込んだ。回避は間に合わない。シモンは咄嗟に両手でナイフを抜くと、右手のそれで白刃を受け止めた。

 想定よりもはるかに重い衝撃と共に、甲高い音と共に火花が散る。シモンが辛うじて剣閃を受け流せば、衝撃を殺しきれずにへし折れたナイフの刃がクルクルと宙を舞った。

 

(金剛丹製のナイフが一発で──!)

 

 動揺しながらも、シモンが手を緩めることはない。すぐさま逆手に握ったナイフを千桐の喉へ突き立てた。肉の柔い部分を狙ったはずの一撃だったが、即座に硬質化した人工細胞によって阻まれる。

 

「なっ!?」

 

「隙ありですよ」

 

 今度こそ驚愕したシモンの腹に、千桐の掌底が突き刺さった。体をくの字に折って吹き飛んだシモンは、乱立するガラス柱の一つに叩きつけられる。

 

「この感じ……直前で後方へ跳んで衝撃を逃がしましたか。粘りますね」

 

 黒く染まった手をしきりに握ったり開いたりしながら、感心したように千桐が呟く。

 

「痛っ、てて……!」

 

 激痛に顔をしかめながらシモンは上体を起こした。体を覆うキチンの甲皮にはひびが入っている。内臓にダメージがないのが不幸中の幸い。しかし千桐の外観からは想像もつかないその膂力は、紛れもない脅威。

 

「人工細胞による身体機能の上昇……話には聞いてたけど、ここまでとは」

 

 U-NASAドイツの報告によれば、『人工細胞の侵食率が一定水準を超えた着用者は、生身で人為変態に匹敵する身体能力を発揮する』。スーツの基盤となる人工筋肉や外骨格が、そのまま着用者の体に形成されるためだ。

 

 過去の事例では、人工細胞が侵食した被験者が、U-NASAの諜報局員5名を殺害している。確認された遺体はどれも損壊が激しく、首をねじ切られていたり体が上下に引き裂かれていたりと、獣害さながらの惨憺たる状況だったという。犯行はスーツ未着用かつ素手で行われたにも関わらず、である。

 

 限界まで人工細胞に肉体を侵食させた千桐の身体能力は、無論その比ではない。まして彼女の場合、直接戦闘型ではないとはいえそこにESMO手術による底上げも加わるのだ。その戦闘能力は過剰変態やαMO手術にも匹敵する。

 

 そして本格的な二度の打ち合いを経て──シモンはMO手術だけでは説明がつかない不可解な特性の仕掛けを見抜いていた。

 

「しかも、()()()()()()調()()()()()()

 

「ふふ、お気づきになられたようですね」

 

 クイズを当てられた子供のように、千桐は屈託なく笑う。

 

「特に隠す必要もないので喋ってしまいましょう。わたくしの車椅子(スーツ)に使われている人工細胞は、これ自体が専用武器です」

 

 ──改良型M.O.H兵器着用補助細胞『殺晶斥(せっしょうせき)』。

 

 彼女のスーツに使用される人工細胞は、着用者の手術ベースとなった生物の特性を発現できるよう、レオ・ドラクロワが独自の改良を加えたもの。そして千桐の肉体を構成する体組織がこの生物に置き換わることで、千桐の手術ベースとなった『コロナコリナ・アクラ』の特性は本来の真価を発揮する。

 

「なるほど、納得がいったよ」

 

 呼吸を整えたシモンは立ち上がると、これまでに得られた情報から不可解な特性の仕組みを完全に理解する。

 

 人体の限界を超えた超反射は、神経を約20万 km/sの(1秒に地球を5周する)速さで光を伝えるガラス繊維《光ファイバー》があって初めて成しうる絶技。攻撃に対する異様な打たれ強さは、被弾箇所をピンポイントで防弾ガラス化する精緻な細胞制御ありきの妙技。

 

 そのいずれも、M.O.Hスーツ“八咫硝子(ヤタガラス)”と人工細胞“殺晶石(せっしょうせき)”を専用装備とする彼女ならではの芸当である。

 

「サイボーグだからこそ発揮できる特性。確かに厄介極まりない……けど」

 

 そこで一度言葉を切ると、シモンは震脚を振り下ろした。口から吸いこんだ酸素を体内に循環させ、吐息と共に

 

()()()()()()()。千桐さん、次の攻撃で貴女を倒す」

 

「ふふ、小手調べはおしまいですか?」

 

 シモンの宣言に、千桐は楽し気に目を細めた。決してハッタリではない──そう確信させる気迫に、剣鬼はゾクゾクと胸を躍らせる。

 

「ならば、決着を付けましょう。我が刀の錆となるがよい……なんて、言ったみたりして」

 

 茶目っ気たっぷりな言葉とは裏腹に、刀を鞘に納めた千桐の佇まいには隙が無い。シモンは次の瞬間にも飛び出せるよう身構えながら、最後の打ち合いを仕掛ける機を見計らう。

 

 1秒、2秒……そして3秒の膠着を経て、戦況は一気に動き出した。

 

「フっ──!」

 

 シモンの姿がブレると同時、大地を蹴る音が二度響いた。千桐がシモンの姿を再知覚した時、彼は既に左方から突貫を仕掛けていた。

 

(そう来ましたか)

 

 要因⑦【攻撃の方向】。

 

 刀を差す者にとって、左とは『転身し』『間合いを計り』『刀を抜き』『斬る』という一連の動作に僅かなタイムラグが生じる死角である。

 

(ですが、この程度なら十分対応可能!)

 

 転身、M.O.Hスーツにより対応。間合い、光ファイバー製の神経系による高速伝達により、即時把握。サイボーグである千桐にとって、この要因はほんの一瞬で潰すことができる、誤差の範疇のもの。到底、形勢逆転の目となりうるものではない──()()()()()

 

「っ!?」

 

 シモンの姿を知覚した直後、千桐の視界は差し込む太陽の光によって真っ白に眩んだ。

 

 ──要因⑧【太陽高度】。

 

 無論この状況は、偶然の産物などではない。ここまでの立ち回りによってシモンが意図的に誘導したもの。千桐の瞳孔が光に順応するまでの僅かな時間、その一瞬に彼は全てを賭けたのである。

 

(面白い!)

 

 白い盲の中で千桐は笑うと、刀を鞘走らせた。目が眩む直前に捉えたシモンの姿から、間合いに踏み込むまでのおおよその時間は経験で分かる。見えない中で迫る敵の首へ、彼女は一閃を放つ。

 

 ──そして刃は、空を切った。

 

(! 攻撃の拍子をずらされた!?)

 

 急速に晴れ上がった眼前には、一瞬の静止を挟むことで読みあいを制したシモンの姿があった。

 

 ──実戦で居合を相手取るにあたり、攻略法と呼べるものは二つ存在する。

 

 そのうちの一つは、刀を抜かせないこと。そしてもう一つが、()()()()()()()()()()()

 居合術の脅威は、刀身が攻撃の直前まで鞘に納められているために太刀筋と間合いが読めない点にある。それ故に抜かせる──即ち初太刀を外してしまいさえすれば、居合術が他の武術に長じている点を潰すことができる。

 

 実際、江戸時代後期に記された武芸書『撃剣叢談』の中には『何の難きことか之あらん。抜かしめて勝つなり』との一文も残されているという。

 

 常人のみならず、戦っていたのが他の者であれば、ここで勝負は決していたであろう。

 

 

 

 

 

 

「 ま だ で す ! 」

 

 

 

 

 

 

 

 しかし楽し気に、そして往生際悪く叫んだ千桐は、すぐさま返す刃を振るった。

 

 ──『燕返し』

 

 2618年より遡ること1000年、とある日本の剣豪が編み出した“神速の切り返し”である。様々な創作において著名なこの技を実戦で使う場合、剣士には2つの条件が求められる。

 

 第一に、敵の動きに対応するすぐれた反射神経。

 第二に、全力の一撃から即座に真逆の軌道で剣を振るうための筋力。

 

 そして千桐は、この2つの条件を満たした剣客である。リスクを度外視した人体改造の恩恵が、彼女にもう一度だけ反撃のチャンスを与えた。

 

「ッ」

 

 それに気づいたシモンに、しかし今更後退という選択肢は与えられない。既に彼は日本刀の間合いに踏み込んでいる、進もうと退こうと二の太刀をかわすことは能わない。

 

 シモンは迫る刃から首を守るように、左腕を滑り込ませる。だが、それがなんだというのか? 鋭い一閃の前に昆虫の甲皮程度の防御は無意味、腕ごと首を刎ねられて終わり──千桐は思考するより早く直感し、だからこそ攻撃の手を緩めなかった。

 

 

 

 ──この瞬間、彼女の敗北は確定した。

 

 

 

「!?」

 

 手応えは肉袋を切り捨てたものではなく、硬質なものを切りつけた時のそれ──シモンの左腕は、彼女の斬撃を防ぎ切っていた。

 

 瞠目する千桐の眼前、シモンの拳法服の袖口から、透き通ったものが零れ落ちる。千桐が形成したガラス柱、そのうちの一つを折って袖口に仕込むことで、人間離れした反撃すらも凌いだのだ。

 

 そしてシモンは、千桐の懐へと飛び込んだ。今度こそ万策尽きた千桐は、小さく賞賛の言葉を口にする。

 

 

 

「あっぱれ」

 

 

 

 ── ド ン ! 

 

 

 

 轟音と共に吹き飛ばされた千桐の体は、乱立するガラス柱をへし折りながら地面に転がった。

 

 ──靠撃(こうげき)

 

 肘打ちですら近すぎる密着距離で放たれる一撃。(もた)れかかるの字の通り、それは肩や背中を起点とする体当たり。八極拳においても大技に類される技である。

 それを人間大のウンカたるシモンが練り上げた功夫を以て行使すれば……体重72kgの彼の肉体が、防弾ガラスを以てしても防げない砲弾と化すのは想像に難くない。

 

「かフっ、ごぽっ!」

 

 噎せ込んだ口から大量の血が溢れ出し、地面を赤く濡らす。ヒュゥと呼気を取り込むと同時、千桐は自分の体がミシミシと軋んだ音をあげるのを聞いた。

 

「わお……」

 

 制御を失った体組織が暴走を始めたのだ──どうやら先の一撃で、モザイクオーガンが損壊したらしい。肉体を構成する人工細胞が活性と自死を繰り返し、それに呑まれまいとベース生物の遺伝子が急速に変異している。自らの体を舞台に細胞と細胞が食い合う、蠱毒が如き惨状。

 手のひらを太陽に透かせば、その指先はゆっくりと霜が降りるようにガラス化を始めているのが見て取れた。

 

 ──ああ、ここまでですね。

 

 常人ならば発狂しそうな状態の中にあって千桐は冷静に、そして即座に命運が尽きたことを悟る。ダラリと腕を放り出した時、彼女の顔に影がかかった。

 

「……勝負ありだ。貴女はもう、助からない」

 

 シモンだった。フルフェイスヘルメットの奥でどのような表情を浮かべているかは分からないけれど、どこか千桐への憐憫を感じさせる気配を纏っている。

 

「介錯は?」

 

 その問いかけに、思わず千桐は笑ってしまう。問答無用で殺せばいいだろうに、わざわざ選択肢を与えてくれるのは……きっと彼の、人の良さからくるものなのだろう。

 

「お構い、なく。わたくしはこのまま、じっくり果てることに、します」

 

 だからこそ、千桐はその申し出を断った。剣鬼へ堕ち、修羅道を進むと決めたのは己自身だ。その末路がこれであるならば、その手に縋れば己は修羅ですらなくなってしまう。

 

「そう……なら、ボクはこれで」

 

「ええ、おげんきで……」

 

 じわじわと結晶化がしつつある手を振る千桐に、シモンは背を向ける。それから数歩ほど歩みを進めて……ふと、シモンは足を止めた。

 

「……最後に1つだけ」

 

「?」

 

 キョトンと目を丸くする千桐。そんな彼女を振り返ることなく、シモンは淡々と告げた。

 

「──貴女の居合、凄かった」

 

「! ……ふふ。ありがとう、ございます」

 

 どこまでも律儀な彼に、千桐は言う。それから「貴方も凄かったですよ」と続けようとして、シモンが既に走り出していることに気付くと口を噤んだ。

 

 ゴロリと寝返りを打ち、視線を空へ戻す。どこまでも雄大に広がる青はここ数年、血飛沫の赤ばかり見ていた千桐が久しく気に留めることのなかった色だ。

 

 ──剣鬼の最期としては、些か静穏に過ぎますが。

 

 千桐は目を閉じる。

 

 ──甘んじて、死ぬとしましょう。

 

 そうして彼女の意識は、ゆっくりと深い闇へ落ちていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「懐かしい気配を感じて来てみたらよぉ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「!」

 

 かけられた声に、千桐は目をカッと見開いた。冷え切った体が、急速に熱を取り戻していく。ああ、聞き間違えるはずもない、忘れるはずもない。この声は、よく通るこの声の主は──

 

「風邪村さんじゃねーか。こんなところで会うなんて、奇遇だな」

 

「ゆきしま、君……」

 

 幸嶋隆成。千桐が再戦を渇望した人物が、そこにいた。

 

「なんでここにいるのか、どうしてそんなことになってるのか……細かいことは訊かねぇ。興味ねーからな。だから一つだけ聞かせろ」

 

 ──()れるか? 

 

「当然、です」

 

 千桐の目に生気が戻る。その闘志に呼応するように異常活性した人工細胞が、ガラス化した末端組織を再侵食した。もはや屍も同然の体だが、それに鞭を打って彼女は体を起こす。この時のためだけに、彼女は全てを投げ打ってでも進み続けてきたのだから。

 

「立てなきゃ手を貸そうかと思ったが……大丈夫そうだな」

 

「おかげさまで。これこの通り、今のわたくしは元気いっぱいです」

 

 過剰変態にも似た肉体変異の賜物だろう。不随となった足腰すら、今この瞬間に限ってはかつてのように動いた。文字通り命を総動員して立ち上がった千桐を、幸嶋は油断も侮りもなく静かに見据える。

 

 ──彼らは両者ともに、互いの状況を何も知らない。

 

 幸嶋は千桐が人体改造によってサイボーグとなったことも、黒の城塞(ルーク)として侵略行為に手を染めていることも知らない。

 千桐もまた、幸嶋がアネックス計画の一員としてU-NASAに籍を置いていることも、つい先刻赤の怪物(モンスター)で重傷を負ってまさに搬送されている最中だったことも知らない。

 

 そんなことは知る由もないし、知る必要もないし、もっと言えば関係がなかった。武の道を極めんとする者同士が相対したのなら、肝要となるのは一点のみ。

 

 即ちどちらが勝ち、負けるか──それだけである。

 

「行くぞ」

 

「ええ、いつでも」

 

 言葉少なにかわすと、二人の武人は構えをとった。片や拳を、片や剣を。そうして対峙することしばし、やがてどちらともなく駆け出した彼らは、互いに全霊を込めた一撃を打つ。

 

 ──影が交差する。

 

 一瞬の静寂の後。ついに限界を超えた剣鬼の肉体は、こと切れて地面へと崩れ堕ちた。

 

「……いい試合だった。先にあの世で待っててくれ」

 

 ただ一合の死闘を制した人類最強は姿勢を正し、静かに告げる。

 

「俺が死んだら……その時はまた、続き()ろうぜ」

 

 砕け散った剣鬼に人類最強が手向ける、最大の敬意だった。

 





【オマケ】

千桐(霊)「いやー、それにしても強くなりましたね幸嶋君! わたくし、修羅に堕ちた甲斐がありましたよ! 本気の手合わせが楽しみです! 死ぬの待ってますね、ヴァルハラあたりで!」

幸嶋「余韻台無しじゃねーか」←霊感あり



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狂想賛歌ADAM-8 凶竜蹂躙

 

 

 無理を押して再出撃した幸嶋が千桐との決闘に勝利し、ついに限界を迎えてぶっ倒れ、駆け付けた医療班にお叱りを受けながら緊急搬送されたのと同時刻。

 

 国家の存亡をかけた激戦が繰り広げられるワシントンD.C.中心部(チェス盤)──にほど近いオフィス街の一角にて。

 1人、1匹、そして1体によって繰り広げられていた三つ巴の死闘が、決着を見ようとしていた。

 

「こんだけやっても倒れねぇのかよ、めんどくせぇ」

 

 1人──この前線に立つ唯一の人間、第七特務の隊長である“ギルダン・ボーフォート”はぼやく。

 人為変態により両腕に発現したノコギリのような顎は所々が刃こぼれし、全身を覆う漆黒の甲皮は至る箇所が裂けている──かつて戦場において『無双』の異名で恐れられた歴戦の元傭兵は、その顔に隠しきれない疲労を浮かべている。

 

「グゥアルル……」

 

 1匹──この前線に突如乱入した猛獣、アメリカ合衆国が秘密裏に開発した生物兵器“シーザー”が低く唸る。

 一定時間ごとに放出される変態薬により、メリュジーヌとの戦いで負った傷は既に完治している。だが『万獣の帝王』の体にはそれを上回る痛々しい傷が刻まれ、少なくない量の血が進行形で流出していた。

 

 ……と。

 

 ここまでの描写を見ると、あたかもギルダンとシーザーが戦っていたかのように見えるが、事実はそうではない。両者は対峙するのではなく、()()()()()()()──共闘というと些かの語弊があるが、彼らは同じ脅威へと牙を剥いていたのである。

 

 当然ながらそれは『同じ蟻ベースのよしみで絆が生まれた』だとか、『敵の敵は味方』だとか、そう言った小難しい理由によるものではない。至極単純な話、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ハァーッ、ハァーッ……!」

 

 先の1人と1匹に相対する1体──この戦禍の元凶たる赤の怪物(モンスター)“ヴォーパル”は、息を荒げながら眼前の敵を睨む。その顔に、これまでの彼が浮かべていた余裕の色はない。この盤外戦において、追いつめられていたのは間違いなくヴォーパルの方だった。

 

 ──それはいくつもの要因が重なった、当然の帰結であった。

 

 地球に到着してから、ヴォーパルはベネズエラからワシントンD.Cまで、ほぼ休みなく進撃を続けたことで疲労が蓄積していたこと。

 

 先刻の戦いで左腕を捩じ切られ、ヴォーパルが血を流しすぎていたこと。

 

 ワシントンD.C.の最終防衛ラインで迎撃を命令されたのが、肉弾戦において『人類最強』に準ずる実力を持つギルダンと、彼の率いる第七特務だったこと。

 

 その彼すら防戦に徹せざるを得なかったヴォーパルに、黒の僧侶(ビショップ)を屠り駆け付けたシーザーが襲い掛かったこと。

 

 ギルダンとシーザーが、即座に挟撃を選択したこと。

 

 彼らのベースとなった蟻の筋力と爪牙が、ヴォーパルの全身を覆う重厚な皮骨板(オステオダーム)による防御力を上回っていたこと。

 

 あらゆる生物の中で最強の自分でも潰せない生物がいることに、ヴォーパルが少なからず動揺していたこと。

 

 ──先刻、自分が瀕死の幸嶋隆成に気圧されて逃げ出した事実がトラウマとなり、ヴォーパルの動きを少なからず鈍らせていたこと。

 

 生まれながらに外敵のいない火星という温室、そこで育った彼は思いもしなかったのだ。地球の生態系において、捕食者と被食者などあっさり引っ繰り返される立ち位置でしかないことを。

 

まじキャパい……ぴえん

 

 いつになく弱弱しく呟くヴォーパルに、しかし地球の捕食者は一切の容赦をしなかった。当たり前である。道路が砕ける程の勢いで、シーザーが飛び掛かる。

 

「ガァルルルルル……ガッ!?」

 

 憂いを湛えたヴォーパルはしかし、戦闘生命体の名に恥じぬ反射でシーザーを迎え撃つ。ブルドッグアントの甲皮を貫き、ヴォーパルの尖爪が肉に抉り込む。それに苦し気な声を上げながらも、シーザーは吹き飛ばされる間際、その前脚をヴォーパルの頭に叩きつけた。

 

「ッ、やばたにえんッ……!?」

 

 ぐらりと傾いた体を、ヴォーパルは咄嗟に立て直す。シーザーの反撃が、軽度の脳震盪を引き起こしたのである。ブルドッグアントの脚力により強化されたライガーの一撃を受けてそれで済むあたり、怪物という他ない。

 しかしその硬直は、もう1人の戦士にとってあまりにも大きな隙だった。

 

「やっと隙を見せたな」

 

 その言葉と同時、懐を飛び込んだギルダンが大顎を振るった。これまでの比ではない激痛と共に、ヴォーパルの視界の半分が暗転する。蟻の大顎が、彼の左目を潰したのだ。

 

「ッ!?」

 

 ヴォーパルが怯んだ、僅か数秒。その数秒に勝機を見出したギルダンは、迷うことなく叫んだ。

 

「今だ、()()()()ッ!」

 

 

 

「承知しました」

 

 

 

 合図を受けて飛び出したのは、ギルダンがこの戦いに同伴させていた第七特務の隊員の一人、カローラ・プレオベール。

 この世で最も強靭な糸を紡ぐ蜘蛛『ダーウィンズ・バーク・スパイダー』の特性を持つ女性隊員である。

 

「人為変態──ノンナ、合わせてください」

 

『了解!』

 

 特性を発現させたカローラに、通信機の向こうから元気な応答が届く。彼女が無数の糸を生成すると同時、どこからともなく飛来した無数の超小型ドローンがそれを掴み、編隊を組んでヴォーパルへと向かう。

 

「 や ば た に え ん ッ ッ ! ? 」

 

 狙いを理解したヴォーパルは、滅茶苦茶に腕を振り回す。が、無駄な抵抗だった。その巨腕は何機かのドローンを叩き落すことこそ成功したものの、打ち漏らした大多数がヴォーパルを雁字搦めに縛り上げる。すかさずドローンから内蔵されたアンカーが周囲の建物や道路、設置物に打ち込まれ、悪鬼の体を完全に固定した。

 

「ぐ、ぐぬぅうぅう──!」

 

 自由の女神よろしく、右腕を上げたまま硬直したヴォーパルは身を捩じるが、束縛はビクともしなかった。

 

 蜘蛛の糸は一般に『鉛筆ほどの太さがあれば突っ込んでくる飛行機を止められる糸』と言われるが、ダーウィンズ・バーク・スパイダーが紡ぐ蜘蛛糸は、更にその倍以上の強度を誇る。

 

 例え赤の怪物(モンスター)が相手であろうと、その糸がちぎれることはない。

 

『アンカー固定完了! 皆、撃って!』

 

 ノンナの声に、建物に身を潜めていた第七特務の隊員たちの構えた銃が、一斉に火を噴いた。

 幸嶋が確保したサンプルから、ヴォーパルの皮膚強度は既に判明している。彼らの銃に装填されているのは、それを貫けるだけの威力を有した麻酔弾である。

 

「ぬ、ぬぐうぅううぅうううう!! ……ぐう」

 

 四方八方からそれを撃ち込まれたヴォーパルはなおも呻くが……間もなく、いびきを上げながら眠りについた。

 

「よくやった、お前ら」

 

「ふぅ……ここまで生きた心地のしない任務は初めてでしたよ」

 

『えへへ、まぁねー』

 

 奮闘した部下を労いつつ、ギルダンは疲労困憊といった様子で息を吐く。

 

 ──槍の一族との戦いを終えた直後、おそらくはフランスの陰謀計略により、上層部から国家反逆罪の疑いをかけられたダリウス・オースティンと第七特務。

 

 数日に及ぶ軟禁から解放された彼らに息つく間もなくU-NASA上層部に与えられたのは、アメリカ首都の防衛任務であった。

 

『ワシントンD.C.へ進撃する『ヴォーパル』を名乗る怪物の捕獲』

 

 とんでもねぇ無茶振りである。これに対してクロードは「作戦遂行目標を『完全抹殺』とすべき」と猛抗議したらしいが、アダム・ベイリアルの脅威をいまひとつ理解していない上層部は難色を示し、最終的には『原則捕獲、やむを得ない場合に限り殺害を許可』という譲歩を引き出すとどまった。

 

 かくして可能な限りの装備を整え、休む間もなく薄氷を渡るような任務に駆り出された第七特務であったが──それも8割がた完了した。

 

「帰ったら有休と特別ボーナスを申請します。よろしいですね、隊長?」

 

「当たり前だ。セドリックの奴が何と言おうと俺が許す」

 

 ──こいつらは本当によくやっている。

 

 カローラやノンナ、そして動き出した他の部下たちを見やりながら、ギルダンは思う。自分にできることはそう多くはないが、せめてそのくらい報いてやらねば上司失格だろう。

 

「だが今は、目の前の任務に集中だ」

 

 空気を切り替えるように手を叩くと、ギルダンは指示を飛ばす。

 

「いいかお前ら、分かってると思うが絶対に油断するな! こいつは真っ向勝負で『喧嘩なら俺より強い奴(人類最強)』と引き分けた怪物だ! シーザー(未知の戦力)の件もある、警戒を怠るな!」

 

 応、と返された力強い返事を聞きながら、ギルダンは拘束されたヴォーパルへと向きなおり──

 

 

 

※※※

 

 

 

『やっほー、ヴォーパル! 聞こえてるぅ? 今、君の耳骨に仕込んだ通信機から話しかけています……』

 

『あ、返事はしなくていいよ。この通信は5分前の火星からお届けしてるし、そもそも一方通行だからね』

 

『でさー、本題なんだけど……地球暮らしはどう? あんなに小さかった(人工胚サイズ)ヴォーパルが1人で上手くやってけてるか、お母ちゃん心配やわぁ。でもお母ちゃんは、いつだってヴォーパルの味方だからね!』

 

『寂しい時は思い出して! フィンランドでは今、君の幼馴染のアストリスも頑張ってるよ!』

 

『それでも君が挫けそうな時のために、とっておきの秘密兵器を君に体に仕込んでおいたよ! 俗にいう覚醒イベント、ってやつ?』

 

『僕謹製の『赤の怪物(モンスター)専用装備』……大事に使ってちょ☆』

 

 

 

※※※

 

 

 

 ──ボコリ

 

 ヴォーパルの体が、ゴム風船のように大きく膨らんだ。

 

「お前ら、耳塞げ!!」

 

 ギルダンのただならぬ声に隊員たちが異変を察するが、あまりにも遅すぎた。周囲の視線を一身に受ける中、ギュオゥと音を立てて大量の空気がヴォーパルの肺へ流れ込み──膨張はピタリと静止する。

 

 

 

 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 

 

 

「ゴガアアアアアアアアアアアアアアア!!」

 

 

 

 

 

 ジャンボジェット機に匹敵する爆音(160デシベル)の咆哮が、オフィス街中の窓ガラスを叩き割った

 

「~~~~~~ッ!?」

 

 ギルダンを含め咄嗟の反応が間に合った者は耳を塞いでおり、間に合わなかった者は爆音に鼓膜を破られ卒倒する。そんな彼らの頭上から、割れた窓ガラスが雨となって降り注ぐ。

 

「退避、退避―ッ!」

 

 頭上を見上げた誰かが叫ぶと同時、ガラスの雨粒が一斉に地面に打ち付けた。刃となった雫は第七特務の隊員たちの皮膚を破く……にとどまらず、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「羽ばたいてるね……!」

 

 ヴォーパルは再び、全身に万力を込める。カローラが編み上げた糸は、なおも千切れない──が。

 

 バキッ! バヂンッ! メキメキッ! ガラガラガラッ! 

 

 それを固定する周辺物がもたなかった。街灯が引っこ抜け、アスファルトが抉れ、支柱がへし折れた建物が倒壊する。

 

「さて」

 

 拘束を解いた彼は、すぐさま変態薬を飲み干した。途端、その全身の細胞が作り直され、ヴォーパルの体を覆う鱗がチェス盤を彷彿とさせる白と黒に染まっていく。

 変態を終えたヴォーパルは、ゴキリと首を鳴らす。何事もなかったかのようにワシントンD.C.の中心部への進撃を再開しようとし。

 

 

 

「──何どっか行こうとしてんだよ、テメェ」

 

 

 

 その前方に、ギルダンが立ちはだかった。その後ろに、余力のある第七特務の全戦闘員が整列する。

 

「あーくそったれ、まさか俺がアベンジャーズの真似事することになるとはな」

 

「日陰者の俺達がアメコミのヒーローってか? いいじゃねえか、夢がある」

 

「スパイダーマンはカローラか? ならアイアンマンは俺がもらおう」

 

「んじゃ俺、キャプテンアメリカで!」

 

「オメーはハルクだろ」

 

 軽口を叩きながら次々と変態し、彼らは各々の得物を構える。それを目の当たりにしたヴォーパルは不揃いな牙を剥きだし、小馬鹿にしたように嗤う。

 

「貴様ら全員アリよりのナシ。いいだろう、我を止めて見せるがいい──」

 

 ──()()()()()()()()()()()()()

 

「『SYSTEM:Typhon(テュポーン)』、起動(あげぽよ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【わたしはまた、一匹の獣が海から上って来るのを見た】

 

 

 

 

 

 

「ぶちかませ、兄弟!」

 

「よし来た!」

 

 仲間の声に威勢よく叫び、真正面からヴォーパルへと突進したのは大柄な隊員だった。その彼の全身は黒くツヤのある甲皮に覆われ、刈り上げの頭からはベースとなった生物を象徴する大顎が角のように生えている。

 

 ──MO手術ベース“パワランオオヒラタクワガタ”。

 

 多くのマニアが『クワガタの中で最も強い』と口を揃える、昆虫界屈指のファイター。その脚は踏ん張る力に長け、真っ向勝負ならヘラクレスオオカブトと組み合おうとビクともしない。またその大顎は一度挟めば、時に人の指を切り落とす程の切れ味とパワーを持つ。

 

「ぬォらァッ!!」

 

 大顎の咬合力を以て左右から振るわれた彼の腕を、ヴォーパルは両腕で受け止めた──そう、『両腕で』だ。

 

 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ッ、再生だと──がっ!?」

 

 動揺した隊員の脳天に、ヴォーパルの頭突きが落ちた。テラフォーマーの拳も凌ぐパワランオオヒラタクワガタの甲皮、それがただ一発の頭突きで粉々に砕ける。それをつまらなそうに見つめる左目もまた、元通りに修復されていた。

 

 

【これには十本の角と七つの頭とがあった。

その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった】

 

 

「ザコい」

 

 額から生えた短く太い二本角から、血が滴る。昏倒した隊員にとどめを刺そうとするヴォーパル。その無防備な背中に、絶影が襲い掛かった。

 

 ──MO手術ベース“アオメアブ”。

 

 ムシヒキアブと呼ばれる虻の一種である。彼らの武器は、『二枚の翅』と頑強な『口吻』のみ。素早く背後をとり、ただ一突きで対象を抹殺するその業は、時にオニヤンマやスズメバチでさえも餌食となる程。

 

(喰らえ──!)

 

 ヴォーパルのうなじ、より厳密にはその下の脊椎へ、女性隊員は狙いを定める。

 

 彼女に限った話ではないが、既にこの場にいる人間は『捕獲』という作戦目標を捨てていた。間違いなく息の根を止めるため、彼は鱗の継ぎ目へと口吻を振り下ろした。

 

 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「マジうざいんですけど」

 

「がッ!?」

 

 しかし瞬きの後、隊員は何かによって死角から叩き潰された。彼女を襲ったのは、亜音速で振るわれたヴォーパルの屈強な尻尾だった。丸太の如き腕より更に太い筋線維を纏ったその凶器は、丁度人間がコバエをはたき落すように、人間大のアオメアブを撃ち落としたのである。ただの一度も振り返ることなく、正確に。

 

 ……厳密な意味において、ヴォーパルは人間ではない。

 

 凶星から送り込まれた刺客、その片割れたるアストリス・メギストス・ニュートンが『人と■■■■の融合体』であるように。ヴォーパル・キフグス・ロフォカルスは『人と■■の合成獣』なのである。

 

 そして“種が違う”とは、“圧倒的に違う”ということ。

 

 人間は受け取る情報の80%を視覚に頼るが、ヴォーパルはそうではない。彼にとって視覚とは、()()()()()()()()()()()()()()()。眼で視ずとも、彼には敵を見る方法が他に存在する。

 

 例えばそれは、嗅覚。

 

 イヌ科の生物が優れた嗅覚を持つのは周知の事実だが、その鼻の良さは数値にして人間の100万~1億倍ともいわれる。何しろ30億種の匂いを嗅ぎ分け、分子単位で世界を嗅ぎ取るのだ。呼吸、眼球運動、筋肉の動き……それら全て、手に取るようにわかる。イヌ科の生物が人間大になれば、1億倍の精度で敵の意表を突く優れた猟兵となるだろう。

 

 ──そしてその生物は、()()()()()()()()()()()()

 

 ハイイロオオカミは2.4km先の獲物の匂いを嗅ぎつけることができるが、その生物は10kmの先の獲物を嗅覚で発見できるという。

 ヴォーパルは隙をつく精度も敵を見つける探知能力も、1億倍のイヌ以上。

 

「!」

 

 当然、危機察知能力も1億倍以上である。

 

 何かに気付いたヴォーパルは大地を蹴り、宙へと跳びあがる。直後、彼が数秒前まで立っていた場所を、極細の糸が通過した。間髪入れずに迫る別の糸は、張り巡らされた糸の一本を足場に回避。その後も次々と襲い来る糸を、ヴォーパルは曲芸のような動きで躱し続ける。

 

「動体視力、反射神経、バランス感覚……どれをとっても一級品。なるほど、化け物ですね」

 

 糸の攻撃を奏でるのは人間大の “ダーウィンズ・バーク・スパイダー”カローラ。その巨体からは想像もつかない俊敏さで動き続けるヴォーパルへ、彼女は「ですが」と続けた。

 

「巣の中で蜘蛛から逃げられると思わないことです」

 

「ぬっ!?」

 

 カローラが中指の糸を切り離した瞬間、ヴォーパルが足の踏み場としていた糸が大きく弛んだ。

 無論、そのまま尻餅をつくような間抜けは晒さない。それでも、アスファルトに着地をしたヴォーパルは僅かな時間、その態勢を大きく崩した。

 

 そしてその隙を、歴戦の第七特務は逃さない。体幹を立て直すまでのコンマ秒を経ぬうちに、三方向から三人の隊員が同時に飛び掛かった

 

「そらッ!」

 

 右後方、ヴォーパルとの間合いを一足で詰めたスキンヘッドの隊員。体長2mmの時点で20cm、人間大になれば150mもの大跳躍を可能とする“ヒトノミの脚力”でハイキックを放つ。

 

「シッ!」

 

 左後方、顔に入れ墨を入れた隊員。生物大でさえ人間を殺傷しうる“ベトナムオオムカデの毒牙”を、肉の柔い脇の下を目掛けて繰り出す。

 

「死に腐れェ!」

 

 前方、サングラスをかけた隊員。昆虫同士を戦わせる番組で数多の強敵を下した“ダイオウサソリの鋏と毒針”による三連撃。

 

 それは並の敵──闇MO手術を受けた裏社会の人間程度であれば、回避も防御も許さずに命を刈り取っただろう、見事な波状攻撃だった。

 

 

【竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた】

 

 

「さりげヤバくね?」

 

「「「!?」」」

 

 しかしそのいずれも、届かなかった。傷つけることはおろか、彼の体に触れることすらできなかったのである。

 

 理由は至極単純、標的であるヴォーパルが一つ残らずそれらを捌ききったためである──調()()()()()()()()(もの)()()()()

 

「ッ、私の糸を!?」

 

 自らの出した糸を強奪さ(うばわ)れたのだと、カローラは瞬時に気付く。咄嗟に糸の支配圏を取り戻そうと力を籠めるが、如何せん地力が違いすぎた。

 

 張り巡らされた糸をカローラごと手繰り寄せ、無防備で目の前に飛んできた巣の主を肘打ちで昏倒させる。そして怪物は空になった玉座に堂々と居座る、奪い取った糸を十本の指で器用に操り始めた。

 

 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「うおォ!?」

 

 ノミは一瞬にして宙づりにされる。

 

「ウっ……!?」

 

 ベトナムオオムカデは毒牙ごと絡めとられる。

 

「ク、そ ッ!!」

 

 ダイオウサソリは簀巻きにされ、地面に引きずり倒される。

 

 そうして糸を繰り、彼らを一纏めに縛り上げたヴォーパルは、それを鎖鉄球(フレイル)のように振り回し……追撃を試みる他の隊員たちへと投げつけた。

 

「なっ!?」

 

 数名の隊員が巻き添えになり、すぐさま武器の一部になって滅茶苦茶に全身を打ち付けられた。回避しようにも、本来の特性の持ち主(カローラ)のそれに匹敵する巧妙な手さばきがそれを許さない。

 

「プルいプルい」

 

 一掃。そう形容するに相応しい圧倒的な暴力を以て『雑魚戦』を終わらせた彼は、飽きたと言わんばかりにボロボロの武器を投げ捨てる。

 

 

【わたしの見たこの獣はひょうに似ており、

その足はくまの足のようで、その口はししの口のようであった】

 

 

「……てめぇ」

 

 唸り声が聞こえた。純然たる殺意と憎悪に溢れた、低い唸り声が。

 

「!!」

 

 刹那、ヴォーパルの右手首が千切れ飛んだ。飛び散る血飛沫に目を見張った彼の眼前、『暴虐たる蟻王(ギルダン)』が静かな激情を爆発させた。

 

「 誰 の 部 下 に 手 ェ だ し て や が る 」

 

「ぐ、ォおおおッ!?」

 

 ギルダンは右腕を掴んでヴォーパルを引き寄せると、肘から生えた毒針を鱗の継ぎ目へと突き立てた。傷を焼く毒素の激痛に、悪鬼の口から悲鳴が上がる。すかさずギルダンは、のけぞる怪物へ追撃を仕掛けた。

 

(正攻法でコイツを殺すのは無理だ)

 

 息をもつかせぬ攻防、激昂の最中にあって、しかしギルダンの思考は冷静に回る。彼は優れた直感と長年の経験を以て、眼前の怪物との戦力差を本能的に理解していた。

 

「フッ!」

 

 ギルダンはトレンチコートを翻す。裾に仕込まれた刃がギラリと光り、咄嗟に身を捻ったヴォーパルの赤髪を切り裂いた。

 

「おこ? おこなのォ?」

 

 こちらをおちょくるヴォーパルの顔には、幾分の余裕がある。現にギルダンが本気の攻勢に転じても、右腕を潰されたヴォーパルと互角に打ち合うのが精々。この時点で彼は、白兵による決着を早々に慮外へ追いやった。

 

 しかし勝利を諦めたわけではない。そもそも自分は『人類最強(喧嘩屋)』ではなく『無双(始末屋)』、勝利の前提条件が違う。馬鹿正直に、相手の土俵で戦ってやる必要などない。

 

 そこで彼が選んだのが、毒殺である。

 

 彼の手術ベースとなった虫が分泌する毒は、昆虫大の時点でも相当に強力なものだ。毒はヴォーパルにも通用するようで、右手は遅々として再生しない。ならば、それを使わない手はないだろう。

 致死量を上回る量をぶち込むのが理想だが、そうでなくともアナフィラキシーショックを起こせれば勝負は決まる。いずれにせよあと一回以上、毒針を打ち込む必要がある。故にギルダンは命を賭して探る──致死の一打を撃ち込む、一瞬の隙を。

 

「ッぐぅ……!?」

 

 意外にもそれは、すぐに訪れた。ヴォーパルが突然顔を歪め、怯んだように体を強張らせる。毒が本格的に回ったか、あるいは蓄積したダメージがここにきて発露したか。理由はさておき、待ち望んだ好機に違いなかった。

 

「──そこだ」

 

 相手が隙を晒したのなら、例えそれが悪鬼であろうと、やることは変わらない。踏み込み、刺す。その二動作のみ。

 戦場で幾度となく繰り返したその行動を、ギルダンは思考するよりも早く行動へ移し──

 

 

 

「 て っ て れ ― 」

 

 

 

 その一動作目を挫かれた。

 

「な゛に……!?」

 

 膝側面に鋭い痛み。踏み下ろした左足は、踏ん張りがきかずにガクリと崩れる。咄嗟に転倒をこらえたギルダンは、視界の端に自らの足を貫く鉄の矢を捉えた。

 

「あっはァ」

 

 “してやったり”──そう言わんばかりに、ヴォーパルが口角を釣りあげる。空中に滲みだしたその右手には、小型のボウガンが握られていた。

 

 

【頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、

その致命的な傷も直ってしまった】

 

 

(やられた──!)

 

 その瞬間、ギルダンは己が嵌められたことを理解する。先ほどの隙は、意図的に作り出された罠だった。

 右手に関してもそうだ、ヴォーパルはとっくに右手を再生させていた。それを擬態により、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

(しかもコイツ、俺の暗器をスりやがったのか……!)

 

 ギルダンは全身に銃やナイフなど、数々の暗器を仕込んでいる。ヴォーパルが手にしているボウガンもその一つ。敵を牽制し、あるいは不意を打つためのそれを、まんまと怪物に利用された。

 

 ──その生物は時に、()()()()()()()()()()()()()()()

 

「……ッ」

 

 悪鬼が左腕を大きく振りかぶる。直撃すれば致命傷は免れない──ギルダンは無事な右足で地面を蹴り、咄嗟に離脱を計る。

 

「 あ ー ん 」

 

 しかし間合いを脱した直後、ギルダンは突如として間合いの内へ引き戻された。

 

 ──()()()()()()()()4()0()0()0()m()()()()()()()()()()()()()()()3()()()()()()

 

 気が付けばギルダンの体は、ビルの壁を5枚ほどぶち破り、二つ先の通りへ放り出されていた。

 

 捨てられた空き缶のように弾みながら、体は無人の車道を転がる。立ち上がろうにも、その体はもはや満足に動かない。霞む視界は、見通しがよくなったビルの向こう側で攻撃の構えを解いたヴォーパルの姿を映す。

 

「畜……生……」

 

 小さな悪態を吐き切ると同時、ギルダンの意識は闇へと呑まれた。現場へ派遣された第七特務の全滅……戦闘が始まってから、5分を数える頃のことであった。

 

 

【そこで、全地の人々は驚きおそれて、その獣に従い】

 

 

【その獣を拝んで言った、

「だれが、この獣に匹敵し得ようか。だれが、これと戦うことができようか」】

 

 

『隊長っ!? 誰か、誰でもいいから応答を──』

 

「ちょーうざいんですけど」

 

 転がるインカムから、ノンナの呼びかけが虚しく反響する。それを踏み潰したヴォーパルの上空から影が差した。

 

「! 猫チャンッ!」

 

「ガァアアアアアアア!」

 

 咆哮を轟かせながら戦線に復帰したシーザーは、王の領土を踏み荒らす無礼者へ飛び掛かった。

 シーザーの体重は400kg、もはやスーパーヘビー級などという形容詞ですら生温い超重量。ここに“ブルドッグアントの脚力”が加われば、その突進は生物に限らず大抵の物体は容易く轢き潰す。

 

「噴ッ!」

 

 ヴォーパルはそれを、タックルで迎え撃った。さすがに威力を完全相殺するには及ばず、その体は数十mに渡って押し戻されはしたものの……しかし彼は潰れることなく、シーザーの巨体を止めきった。

 

 ──()()()()()()()()()()()()()()()

 

 それは『何をするための筋肉か』? 『後肢を尾に引きつける』、つまり『踏ん張る』ための筋肉である。

 

「マジウケるんですけど……()ッ!?」

 

 しかし当然ながら、シーザーの攻撃はそれで終わりではない。余裕を浮かべるヴォーパルの首筋に、大口を開けたシーザーが喰らいついた。

 人間が歯を『食いしばる』力は平均70kgに達するが、ライオンの顎はそれを遥かに凌ぎ400kgにも及ぶ咬合力を発揮する。これに加えて、『牙針蟻』の和名を持つブルドッグアントの牙を持つシーザーの攻撃は、頑丈な皮骨板(オステオダーム)を貫く。更にシーザーの前肢の爪は鱗ごと体表を引き裂き、頑強な守りなどお構いなしにヴォーパルの体を傷つける。

 

「ぬぐ、ウオオオオオ!?」

 

 白と黒の鱗の上に赤が滴り、悪鬼を凄惨に彩る。たまらずヴォーパルは苦悶の叫びをあげ――

 

 

【この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、

四十二か月間活動する権威を与えられた】

 

 

「やはりヴォーパルしか勝たん」

 

 そのまま、シーザーの肩へ食らいついた。組み合った両者が、互いに咬合で勝負を決めようとしたのは、ある意味必然だろう。ヴォーパルのベースとなった生物もまた、大多数の捕食者の例にもれず、強力な顎を持つが故に。しかし彼のそれは、少しばかり特殊だった。

 

 ──()()()()()()()()

 

 繰り返すが、種が違うとは圧倒的に違うということ。ヴォーパルの、ひいては彼のベースとなった生物の咬合力はなんと1万400kgにも達し、文字通り桁が違う破壊力を持つ。先の戦いにおいて、幸嶋のベースたる“ヤシガニの甲殻”すら煎餅感覚で噛み砕いたその威力の前に、蟻の甲皮などあってないようなもの。

 

「!?」

 

 怯んだシーザーの首根っこを掴むと、ヴォーパルは自分の肉が抉れるのも気にせず、力任せにその巨体を自ら引き剥がす。そのまま彼は、宙づりになったシーザーの腹へ膝蹴りを叩き込む。

 

「ッ、カ……!?」

 

「まだまだァ!」

 

 衝撃が滞留し、シーザーの体は一瞬空中で静止した。そこへヴォーパルは、渾身の鉄槌を打ち下ろす。アスファルトにクレーターを刻みながら叩きつけられたシーザーの体をおもむろに踏みつけ、ヴォーパルは鋭爪を突き立てた。

 

 ──()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「死ねぽよォ!」

 

 弱弱しく抵抗する獣の王を地面に押し付けたヴォーパルは、その巨体を力任せに引きずり回し、サッカーボールを蹴り飛ばすかのように宙へと放る。シーザーをクッション代わりに受け止めた建物は衝撃に耐え切れず、轟音を立てて倒壊した。

 

 

【彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、

また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた】

 

 

「マジウケる、マジウケる、マジウケるぅううぅうぅうぅうう!」

 

 死屍累々のオフィス街、そこにただ一人立つ怪物は勝利の雄たけびを上げた。この星にもはや、敵はいない。自分こそが最強なのだと、誇示するかのように。

 

 

【地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、

その名を世の初めからしるされていない者はみな、この獣を拝むであろう】

 

 

 

『ヨハネの黙示録』より、抜粋

 

 

「──さて」

 

 そして悪鬼は再び歩み出した。次なる蹂躙、次なる虐殺を求めて。

 ついにチェス盤の上へ踏み込もうとする赤の怪物(モンスター)。それを止められる者は、もはや盤の外には残っていなかった。

 






【オマケ】 他作品出張キャラ紹介 ~作者の妄想を添えて~

カローラ・プレオベール(深緑の火星の物語)
 第七特務の女性隊員。見た目はいかにも仕事のできるキャリアウーマン風だが、ド級のサボり魔。でも見た目通り仕事はできる。
 出身国がローマ連邦、名前の響き、残念美人と、拙作のカリーナと収斂進化を遂げている疑惑が浮上している。

ノンナ(深緑の火星の物語)
 第七特務の女性隊員。ハッキングや情報解析など、部隊のバックアップを担当している様子。普段の格好は裸白衣らしい。素敵ですね。
 白陣営との戦いの時、ブリュンヒルデに情報戦を仕掛けてたのはこの子。



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