鋼色の挽歌 (yoruha)
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Smith HAMMER
オイルの臭いが漂っていた。床は鉄板が敷かれており、踏みしめたら違和感があった。ネジだ。視線を向けてはみたものの、汚いそれが腐敗しているのか、それとも軽い錆が浮いているだけなのか。それすら暗すぎていまいち見分けがつかなかった。電灯が一個切れているらしい。
「へいレイディ、そこに突っ立ってると燃えるぜ」
「ご挨拶ね。まえ本当に髪の毛焦げたくせに」
「……なんだ、あんたか」
「なぁに、そのイヤそーな声は。あたしは客よ?」
彼はわざとらしく渋面を作って、それからゆっくりと立ち上がった。締めかけのボルトを工具箱の脇に置いてから、こちらを振り向く。
「まあ、用があるなら聞いてやるよ」
「オッケイ。これ見てくれる?」
静かに歩き出すと、がちゃがちゃと喧しい足音がついてくる。ファクトリーの外に停めておいたあたしの戦車は、重々しく静止していた。
「……直せってことか」
「いくらぐらいかかるか、先に聞きたいけど」
「高いぜ」
「でしょうね」
装甲タイルもほとんど尽きていた。まあ、車体そのものが大破していないだけでも僥倖、といったところだろう。穴は銃痕で、溶けかかっているのは酸蟻のせいだ。正直なところ、大型の怪物と戦ったあととはいえ、雑魚に手ひどくやられるとは不覚でしかない。さっさと傷を修理しておきたいというのが本音だ。
「アシッドアントだな。シャーシの取り替えの必要はないが、とりあえず溶接して鋼で塞ぐか」
「鋼かぁ。もうちょっと軽い金属ないの? できれば丈夫で」
「無茶言うな。軽いだけならともかく、お前さんの使い方じゃただの鋼でも脆いだろ。前回直したの何時だと思ってるんだ」
「ええと、一週間前だっけ」
「というかあんたは何と戦ったんだ。どうしてたった一週間でこんなにボロボロになるんだっ!?」
「そんなこといわれてもねえ。賞金首と超大型モンスター退治を連続でやったから、ちょっと酷使しただけじゃない」
「……技術屋泣かせめ」
「ありがと。褒め言葉よね?」
「ったく、とりあえず見積もり出すまで工房の中で待ってろ」
「ええ、そうさせてもらうわ」
なんともこの鼻につく油臭さは耐えがたい、というのが昔感じた一番最初の嫌悪だったはずなのだけれど。最近はとくに気にならなくなった。
おそらく彼も似たようなものだろう。慣れというやつは恐ろしい。戦車の扱いも、銃の撃ち方も、世界での生き方も。時間と敵という二種類の影響で、ひどく上手くなったものだと思う。
そう、はるか昔、あたしがまだ可愛らしかったころからは何もかもが違ってしまった。いまのあたしはこんな僻地で酒すら楽しめない、寂しい女なのだ。
「……おい、嘘を付くな嘘を」
「嘘じゃないわよ。三年くらい前はあたしだって男の百人や二百人を引っかけてたんだから。信じなくてもいいけど」
「三年前って……あんた、そのころ十五、六だろうが!」
「あら、よく分かったわね。正解ー」
「それで酒すら楽しめないってのはなんだ。酒場で賞金首捕まえてたじゃねえか」
「ええとね、ミルクを飲みにいってたのよ」
「嘘吐け」
「嘘じゃないもん」
はぁ、とため息が聞こえる。とりあえずあたしは嘘を付いていない、つもりだ。まあ百人とかは言い過ぎではあるのだが。
「おっと、ここもか」
「ん?」
「ちょっくら時間かかりそうだ。ここで待っててもいいし、どっか行っててもかまわねえよ。まあ、あと一時間くらいだな」
「なんで? 見積もりでそんなにかかるの?」
「俺を三流メカニックを見るような目で見るな」
「……まあいいけど」
「今度は哀れむような目かよ。とりあえず黙って任せとけ」
「ええ。お願い」
まあ、腕は確かだ。それは何度も世話になってるから理解している。そうでなければこんな寂れた街まで来ない。技術は間違いなく超一流だ。あたしの経験からすれば、なんでこんなところで冴えない小さな工房開いているのかが不思議でしかたがない。
なので、心配せずにここで待つことにした。
埃にまみれ、油でやたら黒ずんだ椅子に腰掛けて見回してみる。つり下げられた得体の知れないものは、どうやら四十トン級エンジン、シルフィードの一部分らしい。刻印にそうあるが、おそらく部品としては再利用できないのだろう。焦げ跡と溶けて抉れた形が、歴戦をくぐり抜けた証として過去を思わせる。
なかなか面白いかもしれない。そのすぐ横の棚に飾られているのは、緋牡丹の名を冠したファイル。中に入っているのはおそらく――
「ねえねえ、親父さーん、これ見て良い?」
「あぁ? って、勝手に開けんな!」
微細で精密、繊細な線で描かれたそれは、緋牡丹シリーズの設計図だった。最初のページには設計思想が細かく綴られている。
「ふぅん……あるって噂ではよく聞いてたけど、本当に存在してたんだ」
兵器の形としては、ひどくシンプルだった。形状からはこれが最強だなどと気づける者はそういない。
威力としては、もっと上の装備があるのかもしれない。まだ見たことはないが、威力のみを重視したものがあっても、おかしくはない。
しかし、バランスの良さでは緋牡丹シリーズには勝てないはずだ。弾倉の広さ、砲弾の通り道の長さ、構造上の負担の少なさ。理想筐体とうやつだろう。フォルムの最大のネックは重量だが、それは戦車次第でどうにでもなるのだから。
「ね、これって実際に作ったの?」
「……まあな」
あ、不機嫌そうだ。
「いくつか質問していい?」
「駄目だ」
「緋牡丹が噂になるってことは、少なくともこれに書かれてるのは全部作ったんでしょ?」
「あのな、人の話を聞けい」
「あ、待てよ……重量の問題は副砲でなんとかなるのか。そこまで計算に入れてるのか、凄いなぁ、これって親父さん一人で考えたの?」
「まぁな、三十年くらい前に技術の頂点を目指してな。完成したのはそれから十年。長かったぜ……ってだから話さねえって!」
「話してるじゃん」
「だーもうっ! とりあえずそのファイルは戻しとけよ!」
「うーん、この形状だとスマッシュホルンか、バスターフルートあたりを意識したのかな」
「まあな、あんな無粋なもんじゃこの緋牡丹の設計理念には――いや、だからもう話しかけるな、気が散る」
「親父さん、実は話したいくせにぃ」
「うるさいわっ! 黙っとれ!」
「ぷぅ」
「すねるな! 頬をふくらませるな! いじらしい目で見るな!」
「けち」
「……だぁっ! しつこい!」
やはり座り込んで上目づかいでじっと見るってのは効果あるらしい。うん、グッドだね。
さて、親父さんいぢめはこれくらいにしよう。本題だ。
「ねえねえ、これって、もしかして世界に一個?」
「ああ、俺が作ったのは一個だけだ。気に入ったやつに全部まとめて渡したんでな。もう一回作れって言われてもやる気はないが」
「どうして?」
「そいつが認めたやつ――つまりは見込みのあるハンターに緋牡丹の改良版を作ってやろうと決めてた」
「ん、なんで過去形なの?」
「……そいつが行方知れずになっちまったからさ」
寂しそうに、呟いた。戦車の前に座り込む。あたしに背中を向けたまま、思い出すように語り始めた。
「決めてから、もう二十年。あいつがどうなったのかすら分からないってんだ、どうして認められたやつが俺の元に来れる?」
「なるほどね」
「ったく、いいヤツだったんだ。最高のハンターだった。少なくとも、俺が手がけてきたなかで、あいつほど格好良いハンターは他にいなかったぜ」
「ヒーローってのだったんだ」
「そうさな。俺が技術屋としての、メカニックとしての、そしてエンジニアとしての唯一の信頼できた相手ってやつだ。兵器を渡すなら、真っ当に使ってくれるやつがいい。使いこなせるやつならもっといい。当代随一のチューンナップと名人の腕。こいつが揃えばなんだってできたんだぜ」
「どんなひとだったの?」
「ああ、ひとことで言やぁ、お人好しさ。だってのに、やたら強くてな、しかも戦車を毎回壊しやがるんだ。あのやろう、一度だって壊れる前には来なかった。……ああ、お前さんと似てるよ。せっかくひとが直してやってんのに遠慮無く壊しやがるあたりがな」
「そっか。ね、親父さん。もしかして……泣いてる?」
「泣いてなんかねえよ」
その言葉とは裏腹に、背中と肩は震えていた。
「生きてるといいね」
「……ああ、そうだな」
素直に答えが返ってきた。あたしは静かに立ち上がる。
ゆっくりと自分の戦車の後ろへ回り、積んで置いたそれを手に取った。鉄の塊だ。当然、とてつもなく重い。
「プレゼントあげよっか」
「ん?」
「これ、205mm級主砲の緋牡丹から撃ち出されたけど、着弾せずに終わったため形を残す、唯一現存する砲弾」
「……なんだと」
「これがね、あたしが緋牡丹のことに興味があった理由。伝説にまでなったけど、存在すら疑われていた最強の緋牡丹シリーズがあったことを確信したのはこれのおかげなんだ」
あたしは花束を捧げるように、老メカニックへと手渡す。
無言で彼は受け取った。
「砲身の特殊性から、発射時に砲弾に付いた傷は他の主砲と全然違うの。設計者なら分かってると思うけどね。だから証拠になる。あたしがこれから話すことのための、証明手段」
「……」
「ね、信じる?」
「なにをだ?」
あたしは微笑んで、口を開いた。
気のいい、最高の技術者への敬意を込めて。
「ヒーローの存在を」
「……それは」
「緋牡丹シリーズはひとりの少女を助けるためにね、戦車ごと壊れちゃったんだ。ま、あのひとはへこたれなかったみたいだけど」
あのひと。
あたしの語り出すその人物のこと。たぶん、分かるはずだ。
「ま、いままで見たこともなかったくらいでっかい化け物だったらさ、どうしようもないと思うじゃない。手配に載ってなかったから……たぶん凶悪で危険なのが、さらに突然変異したんでしょうけど」
この世界にはまだまだ知られない怪物が住んでいる。砂漠の下からも、空からも、熱砂と鉄と人間の世界には、まだ未知がある。
「そいつを簡単に倒すことはできなかった。倒すことはできなかったけど、いまにも殺されそうだった少女はあっさり助けることができた。特殊砲弾の使いっぷりったら凄かったわよ。あんな一発づつが無駄に高いのをこぉんな小さな女の子ひとり助けるために惜しまないってんだからさ」
こーんな、とあたしは手で表現してみる。十歳か、そこらの背丈だ。
「でね、装甲もがたがたに削られていった。化け物といっても、見た目からしてやばかったから。簡単に言えば、砂竜かな? スナザメの十倍くらいの大きさっていうか、長さがあったし」
戦車一台ですら、スナザメと渡り合うのには危険を伴う。そして大抵の場合、大きさと危険は比例するのだ。強いモンスターはある程度の質量を持っている、というのがあたしの経験則だったりする。
それはさておき、
「それでもあのひとは戦い続けた。近くには壊れたバギーがうち捨てられたように落ちていた。少女は砂竜の前で竦んで、動けなかったの。あとはお約束通り、あのひとは少女を助けて、自分の戦車に乗せた。追ってくる砂竜を相手に大立ち回りしたけど」
したけど――勝てないだろうと、少女も絶望した。
特殊砲弾で燃やしても凍らせても、動きを鈍らせても大きさという問題がつきまとう。どこか一部分ではどうしようもなかったのだ。
「そして絶体絶命。周りは砂漠で、だけどそのまま街に逃げ込むわけにもいかなかった。だってそうでしょう? 砂竜を連れたままじゃ被害は大きくなる。それは少女にも分かったくらいだしね」
それでも。それでもあのひとは最後まで諦めなかったのだ。
「それまで少女が見てきたハンターは酒呑んで暴れるようなのや、賞金首を探し回って目を血走らせてるやつ、それに口だけの馬鹿。そんなのばっかりだったんだけど、あのひとは違った。これがハンターなんだ、って少女は初めて知ったの」
そう。
そして、最後に起きたこと。
「あのひとが戦車を大切にしていることを、その短い刹那のなかですら、少女は理解できた。理解できたからこそ、あのひとが悲愴な決意したことも気づけた」
少女を助けるために、大事にしていた戦車を犠牲にしてもかまわないとあのひとは考えたのだ。
「悲しかった。寂しかった。辛かった。それが誰のせいで起こるのか、少女は知っていたから」
最強の戦車。最強のハンター。ふたつが揃ってすら勝てない悪魔。
傷つけることはできた。もうすぐ倒せるのかもしれなかった。
「けれど、砂竜は暴れることを止めなかった。傷だらけのまま、最後の最後まで戦車を狙って体当たりしてきた」
一瞬で潰れる車体の姿。
老メカニックも思い浮かべたのだろう、苦み走った顔で、その想像を噛み締めている。そう簡単に戦車は壊れないとしても、巨大質量の前には限界があるのだ。
「特殊砲弾はとうに尽きた。副砲はとっくに熱で誤作動起こしかけてる。何時間も撃ち続けてたのに、それで済んだあたりがさすが緋牡丹シリーズ、って感じなんだけどね」
でもそれを知ったのはあとになってからだ。そのときは既知のどんな兵器よりも威力を持っていて、綺麗で、そして格好良かったと感じた記憶だけが残っている。
「そして弾倉に残ったのはただ一発。主砲による、たった一度の砲撃だけが可能だった」
あたしは語る。
ヒーローの姿を。
「そしてあのひとは撃った。迷うことも、躊躇うこともなく、その砲身と戦車を信じて」
「……それで、どうなった」
親父さんは問い掛けてきた。泣きそうな顔で。嬉しくて、悲しくて、どんな顔をしていいのか困ったようなその微笑みで。
あたしは、答えた。
「撃ち出された砲弾は、真っ直ぐに砂竜を貫いた。爆発も着弾の感触もなく、ただ喉元を突き抜けて、後ろの砂漠へと向かって消えていったの」
今も、光景は鮮明に覚えていた。
のたうちまわる砂竜。戦車から急いで少女を連れだし、手を繋いだまま走って逃げ出すあのひとの姿。ゆっくりと崩れて戦車へと倒れ込む巨大な影。必死に逃げて、逃げて、振り返らずに逃げた。
そして、耳が痛くなるような音と衝撃が背中を打って、あのひとと少女は一緒に倒れた。地響きがあたりを揺るがした。砂塵が舞い、なにもかもが見えなくなった。
すべては終わった。
「助けられた少女は、街へと無事帰った。そしてあのひとのことを追いかけようと思った。いつか、あんなふうになるって、そう決めたんだ」
思い出すのは、車内で汚れ、真っ黒になってしまった白いワンピースのこと。鏡に映った顔はすすだらけになっていた。
「あのひとは、お礼も言わせてくれなかった。戦車が壊れて旅をするのも大変なはずなのに、次の日には徒歩で旅に出てちゃってた。少女にはそのとき、追いかける手段がなかったの」
「……もう、いいぜ。少女だなんて言わなくっても」
「うん。まあ、あたしなんだけどさ。それからは努力の日々なわけよね。あのひとが誰なのかも知らなかったけど、あたし自身がハンターになって分かったことがあったの。あれだけの戦車はそう手に入らないし、あの装備は凄すぎた。噂で聞いた緋牡丹と結びつけるのはそんなに難しくなかったんだ」
「だろうな。ははっ、緋牡丹に比類するものを作れるとしたら、まず俺と同等の才能がなきゃ無理だろうぜ」
あたしに合わせて、自慢げに笑ってくれている。うん、やっぱり見込み通り、親父さんは名メカニックだ。ハンターが命を預けられるほど、それだけ信頼できるメカニックこそが、最高の技術者なのだから。
「でしょうね。緋牡丹を探すことで……あのひとの足跡を追えると思ったんだけど、ま、そう簡単にはいかないわよねえ」
「ああ、そうさな」
「でね、さっき渡した砲弾は、あのときから少しして、砂漠を越えたときに見つけようと探し出したあたしのお守り」
「……なに?」
「親父さんにあげるから、大事にしてね」
「いや、しかしな。これはお前さんのもんだろうが」
「だからこそよ。ヒーローに頼ってばかりもいられないもんね。ここらで必要としてるひとに渡すほうがいいの」
「……俺か」
「そ。それでさ、代わりと言っちゃなんだけど――」
視線をあたしの戦車に向ける。積み込んで置いたガラクタの山、その奥の奥にひとつの銀色が輝いていた。保存状態は最高。なんたって砂竜の死骸から発生してたガスのおかげで、まったくといって良いほど錆もない。戦車そのものは大破していたが、非常に頑丈にできているのが幸いした、といったところだろう。
まあ、砂竜の臭いに釣られたか、大量発生してたスナザメ五匹を一度に相手にするのは厳しかったけど、おかげで収穫は思い出の一品。これならお釣りが来るってもんだ。
「これ、直してくれる?」
あたしはにっこりと笑って聞いてみた。
親父さんは口元を楽しそうに歪める。愉快そうに声をあげた。
「こいつは……いいぜ。ああ、改良版にして、最高の状態に仕上げてやるよ。あーもう、今日は完璧に徹夜決定だな」
「ありがとっ」
「お代は出世払いにしておくぞ。いつか払いに来い」
ははは、と笑ってあたしは頷く。
「わかった。あっと、壊れたらなるたけ親父さんのとこにもってくるから」
「できるだけ壊さないようにしろってのっ!」
「努力するー」
親父さん、実は涙もろいのかもしれない。照れ隠しか、背中を向けたまま手をあげた。
あたしはその姿に大きく頷いて、安心して戦車を任す。
「まったく……頑張れよ、未来の名ハンター」
「うん、任せて」
宿を探すために、薄暗く懐かしい匂いのする工房から、あたしは外に出ていく。背後から声がかかった。
「自信満々な声、期待してるぜ」
「目指すはヒーローだからね、じゃ、酒場あたりでミルクでも飲んできますか」
「はははっ、グッドラック!」
「ありがと」
そして、あたしは外のまばゆい太陽の下に踏み出した。
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Smile WITH
岩場の隅に花が見えた。あたしは遠くの砂煙から目を離さず、静かに声を漏らした。
「珍しいこともあるもんねえ」
水のない場所だというのに成長して生き続ける植物にあたしは軽く感嘆の念を覚え、それ以上に罵倒したくなった。
草の向こうから、わらわらと狩人アリたちが集まってきた。……巨大アリの群れに襲われている最中だったんだけど。
もしやあたしはアリに好かれる体質なのかと、ちょっと落ち込む。いやいや落ち込んでいる場合じゃないのだが。
この前のアシッドアントの団体さんとかの例もあるし。
特殊な生態系というにはちと奇形。奇妙な創造の形態。進化の裏道に入ってしまったらしいのだ。世界にはヘンな生き物たちが巣くっている。
崩壊前なら――遺伝子異常とか、生物兵器とか、そんな概念で呼ばれていたのだろう。けれどいまはこれが当たり前。砂漠に蠢くのは既知の怪物か、未知の化け物か。結局いるのはモンスターたちだ。そう、目の前のアリの軍隊のように。
でも、あるいはだからこそ、これは日常の一コマ。
ハンターたちは危険なそいつらを駆逐し、誰かの安全を作り出すことを生業とする。もちろん倒せないなら死ぬだけだが。
砂漠を抜けていくのはモンスターと遭遇する可能性を考慮せねばならない。一般人でも通り抜けるのは可能だ。ただ敵と戦うことはできないのだから、そういう場合は護衛を雇うものだし、そもそも他の街へ移動する人間はさほど多くない。
しかし、この場合。
つまりは数十匹の狩人アリの編隊に囲まれた少女というのが存在していた場合。ハンターとしてとるべき行動はどれが正しいのか。
「……ま、考えるまでもないか」
あたしは規則正しく少女へと進むアリの列を観察し、狙いを定める。カチリ、カチリ、カチリ。歯車のような音が鳴る。
設定完了。サイトを合わせたまま、指は引き金に。
数日前にテスト済みの照準だ。信頼して、あたしはトリガーを引いた。
「ファイア!」
一斉掃射。ダダダダダダダ、と地面に穴を穿っていく。外殻を削りながらぐるりと一巡したころには、触角を震わせている甲殻の軍隊が向きを変えていた。鉄の塊が自分たちに危害を加えるものだと察したのだろう。知能レベルは昆虫の癖に動物並だった。整然と、同時に動きを変えた。
アリって群体生物だったっけか。知識に不安を覚えながらも、あたしは視界に黒だか茶色だかの群れを確認する。少女はぽかんと戦車とアリの集団を見比べていた。
さっきまで泣いていたのだが、いまの炸裂音に驚いたのか、目を丸くしたまま黙ってあたしのほうを見ている。
アリは眼前の空間に真っ直ぐ殺到した。危険の察知よりも、敵の排除が優先命令になっているらしい。軍隊アリと呼ぶに相応しい動きだった。
あたしは引き寄せることにした。ぎりぎりまで待つのだ。数十匹が迷いなく一度に狙っているこの状況下、いくら鉄で出来ている戦車といえども、噛まれ続けたら壊れもするし、体当たりされれば衝撃は伝わるから安心はできない。
アリの先頭の数匹が射程距離圏内に入った瞬間、虎の子の冷凍弾を範囲に三発撃ち込んだ。
一発目は素早かった一匹目の後ろ足だけを凍らせ、続く五匹までの全身を氷結させて固まった。
続く二発目はかるく横にずらして範囲を広げる。液体窒素の詰まった弾は、後ろから飛び出した二匹の体内で弾けて体液ごと周りへと飛び散らせた。見ていると間接部分が動かないようだ。
一種の壁の役割をしてくれているうちに三発目が後方の集団を絡め取った。砂漠の黄色に染められるように、氷は黄土色に輝いている。すぐに溶け出し始めるということはないはずだ。
安堵して残りの十匹ほどに牽制射撃を仕掛けた。仲間達の失敗から学んだのか、反射的に後退したアリは無表情ながら動揺しているように思える。
進化。彼らが与えられたのは限界以上の不自然な巨大化と、脳か何かの思考器官発達による知能上昇。
しかし、ままあるように。努力無く手に入れた力は必ず歪むものだ。アリたちは知能の入手によって、恐怖という理性の結果まで飲み込んだようだ。
誰かが声もなくささやく。愚かなままなら、悲しさなど感じなかったのに、と。世界は皮肉を忘れていないらしい。アリが退却していく。これ以上いたずらに手を出すことの危険を知ったのだ。
「……違うっ」
退却ではない。態勢を立て直しに計っただけ。
その向かう先には、小さな影が怯えている。身動きひとつせず立ちすくんでいる。悪意ではなく、敵への攻撃性という本能で狙うもの。
「あの子がいる場所が危ない、か」
あたしは戦車を走らせながら有効な手段を考え出す。機銃連射による威嚇を続けながら最短距離を突っ切っていく。草むらの奥からわらわらとはい出てくるアリの増援は、少女に近い。
やばいかもしんない。
思ったが声には出している余裕がない。足場の悪さに激しく揺れる戦車の中からスコープを覗き込み瞬間的に判断真っ直ぐ狙いを付けるのは一団の指揮役の少し硬そうな狩人アリの鼻先へ直線で砲台を回さず車体をずらして狙いを補正カチリという音と車軸の傾きが視界の角度を変える気にしないそのまま手を伸ばし主砲の固い引き金を思いっきり引くガチンッ。
一撃。
主砲発射までにはコンマ数秒のタイムラグ。刹那が過ぎ横転防止用の自動修正がかかる。すぐ横の土塊の盛り上がりに、バランスを崩しそうになる。着弾の衝撃がまず音、それから遅れて爆風としてあたしの戦車まで届いてきた。何も見えないが、威力は親父さんのお墨付きだ。当たってれば周囲一帯ごと吹き飛ばしてくれているはず。
砂埃で悪くなった視界をどうにかする前に少女の姿を探す。いまので一緒に被害に遭っていたら目も当てられない。あたしはかなり慌てていた。
「よし無事っ」
確認した瞬間に視界の隅にアリ四匹を捉える。自動照準、ATMよりミサイル弾発射。
スリー、
ツー、
ワン、
オーヴァー!
射出。ヒュゥゥゥゥ、という気持ちよさを醸し出しているであろう弾頭の風切り音は戦車の中まで届かない。直撃してくれよ、と思いを込めて車体を旋回、後ろから回り込んでいた巨大アリ二匹とリーダー格っぽいアシッドアントにもう一発ミサイル弾。
「うあ……奮発し過ぎかも」
財布の中身に気分を巡らしている余裕ができていることに、あたしははたと気づいた。よしこのまま油断せず行こう。
ワンテンポ遅れた爆風。一匹はまだ生きている。焦げて煙を体中から吹き出しながらあたしに向かって突撃してくるあたりに遺憾の意を唱えたいと思います。ガチン。
主砲で後ろの砂山ごと吹き飛ばす。牽制になっただろうか。掃射を続けて巨大アリの接近を妨げつつ、少女へとあたしは戦車で近づく。そのまま動かないでいてくれれば、なんとかなる。
「っと」
背後に気配を感じた。と言いたいところだが、接敵を知らせるビープ音のおかげだ。副砲を後方に旋回、しばらく待っていると間合いにアリが入る。
そのままラインを固めて、一撃では倒せなかったもう一方のアシッドアントを射程の軸に集める。足場が脆くなっていたのか砂の道がぼこりと凹んだ。
足止めに処方箋を。プレゼント代わりに副砲を十秒間撃ちっぱなしにして、少女の横に戦車を付ける。三時方向に主砲を向け用意を整え、派手な一発を演出する。
三十秒ほど稼げればオッケイ。先日餞別としてもらってきた手榴弾三個をポケットに入れ、主砲のトリガーを引き絞る。ガチン。
視界が煙りに埋まった。黄色の息苦しい空間に、細かい熱砂の粉が吹き荒れる。
「っと、お嬢ちゃん動かないでねっ」
五秒で外に出て、焼け付くような太陽の下、砂の路を走り抜ける。距離はそう長くない。ただ時間があまりに短いから急ぐのだ。
「……お姉ちゃんは、だれ?」
声が出せるだけでも感心に値した。呆然と泣きわめいている状態はとうに抜け出し終わっている。これなら手間をかけずに救助できそうだった。
「あたしはね、」
煙が、薄くなっていく。まだ晴れないがそろそろアリは感覚で距離と位置を掴めるようになっているだろう。巨大アリならなんとかなりそうだが、アシッドアント相手には分が悪い。人間では、だが。
見えた。毒々しい緑の体液が体から吹き出ている。昆虫に感情は無かった、と思うのだがどうやら極めて険悪な雰囲気らしく、憎悪に燃える眼差しをその複眼で目一杯表現してくれている。
あたしはゆっくりと手榴弾のピンを抜いて一秒待ってから、腕に力を入れてアリの大きな目に向けて投げつけた。間を空けずにもう一個投げつけて、最後の一個を左手に持つ。
当たったか。それとも外れたか。当たったところで致命傷にはなってくれなさそうだな、と冷静に考えた。横で爆発に驚いて固まっている少女を脇に抱え、戦車へと走り出した。予定してたのは五秒過ぎている。
ほえ、と不思議そうにあたしの顔を見上げているのを視線で感じた。あたしは少女の顔も見ずに答えた。
にっこりと微笑んで。彼女の不安を吹き飛ばせるように。
「よぉし、お姫様を助ける騎士ってことにしておこっか」
右側に抱えたままの少女をなんとか背中に持ち変えた。左手に持っている最後の手榴弾のピンは口で外し、空中を漂っている砂のカーテンに向けて思いっきり投げつけた。おまけだ。
「しっかり掴まっててよっ!」
「う、うんっ」
声が聞こえうなずいたのを背中の感触で確かめてから、あたしは一気に戦車の上部へと駆け上った。出入り口は小さいが、一応三人くらいまでなら入れる。多少狭いのはこの際我慢してもらうことにしよう。
「はい一名様、ご案内っと」
「へ」
「さあ、とっと中に入ってちょーだいな。おねーさんがアリの群れを蹴散らしてあげるから」
「えと、お姉ちゃん……」
「まっかせなさい! これでも案外名の知れたハンターなんだから」
嘘だ。かんっぺきに無名だ。ま、この子を安心させるための方便というやつである。それに黙っていれば有名無名なんてバレやしない。
それに、今は多少の無茶苦茶をしても、この子を無事に家まで送り届けるのが最優先事項、っと。
少女は口のなかで噛み締めるようにつぶやいた。繰り返している。
「ハンター……」
「そ。まあそこで見てなさいって」
「う、うん」
一秒で副砲の設定を変更。ボタンひとつで切り替えの効く機能ってのは重宝する。とにかく兵装というのは使い勝手の良さが全てだと思う。
がちゃ、と頭上斜め右あたりで音が鳴った。ためらわず一声で引き金を引いた。カチ。
「ファイアッ!」
雷撃のような高速連射が、未だ舞い続ける砂の世界を削っていった。
「……よし、もう少しで隊列も崩せる」
独り言を漏らして、手早くセンサー類に目を遣る。オールグリーン。かちゃかちゃと小さなレバーを動かす。倍率を低くして広範囲を見えるようにしたスコープを覗き込み、アリの動きに注意する。あたしは息を一度吐き出して、隣の彼女に明るく聞いた。
「ね、あなたの名前は?」
じぃっとあたしのやっていることを見続けていたらしい。少女は最初自分に向けられた問いと思わなかったか、意味を取るのに時間が掛かったようだ。慌てて答えた。
「わたし……レベッカ」
「そっか。レベッカね、うん、覚えた」
呟きながら片手で積んである弾薬の確認。横にあるガラクタじゃどうしようもない。弾の数はあまり多くない。特殊砲弾は五種類各一発ずつか。
「あまり盤上の戦いは好きくないんだけどね、たまには頭使わないといけないかぁ」
「え?」
「ね、レベッカはチェスとか頭使うゲームとか得意?」
「すこしは」
おずおずと答えが帰ってきた。
「じゃあ問題よ。大量にいる雑魚を一匹ずつ倒していくのと、どこにいるのか分からないクイーンをひたすら捜すの、どっちが楽?」
「……えっと、たぶんどっちも同じくらい大変じゃないかなって」
「じゃあ、そういう場合はどうすればいいかしら」
「別のところで少し待てばいいと思う」
意外、でもない。あたしの目算と同じものが見えているらしく、なんだか嬉しい。どうやら作戦は決まりのようだ。おびき寄せの策を考える。
「オッケイ。レベッカを絶対にここから助けてあげる。だから、あたしを信じて」
「……うん」
レベッカの返事に満足したあたしの目の前で、ざしゅ、と地面が突然に穿孔された。油断はしていなかったが、砂の中に潜んでいたのがいたらしい。
退避しつつ、反転。少数のアリの群れに突撃する。主砲の方向は定めていない。機銃で狙いを付けているだけで、これで倒せる算段は無い。
「ま、あのひとほど綺麗にやれるとは思ってないけど――」
興奮状態に陥っているアシッドアント一個師団。さっきからやけに統制が取れすぎている。綺麗に先行隊と後方支援で別れている以上、大将格がいるはずだった。
ウォンテッドモンスター。クイーンではなく、キングの方だ。アダムアント。そう呼ばれる、機甲特殊進化の最果てに位置するアリがどっかから命令しているはずだ。
狙うは一匹。引きずり出せばあとは烏合、もとい蟻合の衆。命令系統はそう複雑に絡んではいまい。
「なんとか、しなくちゃね」
挑発というか、おびき寄せのために刹那の間隔を開けながら副砲連射、親父さんに頼んで、基本的な威力は押さえ気味にしてもらっているが、それでも充分他製品に比べれば凶悪だった。
弾ける甲殻の隙間から緑色の酸が垂れた。しゅぅしゅぅと白い煙を立てて砂を溶かしていく。あまり近寄って欲しくないなぁ。
「レベッカ、ちょっとスコープ覗いててっ」
「へ?」
ええと、と考え込んで一秒たたないうちに発言内容を理解してくれたらしい。やはり頭が回る子だ。
あたしはぱっと役割を任せて戦車の運転に集中する。モニタで地形はだいたい読みとれるが、敵の詳細な位置関係だけは知りたい。猫の手も借りたい、という前時代の諺を思い出しつつ。
混乱しつつも慌てて移動してスコープの前に座ったレベッカ。マニュアル操作の戦車の揺れにお尻を痛めているかもしれないが、とりあえず我慢してもらうとして、
「いま前方見てるから。んでそのレバーを動かすたび、時計回りに視界が回ってくからよろしくねっ」
叫んでさっさと説明終わり。焦った声やうわわわ、という悲鳴が聞こえてくるような気がするが無視。聞こえない聞こえない。
さすがに手が足りないから、なんとか頑張ってもらうしかないのだ。スマートに助けるくらいのベテランじゃないあたしの精一杯、ということである。
「お姉ちゃん、前から大きなアリがこっち向かってくるっ」
「了解」
「わわわっ!?」
転身して、砂に広い轍を付けて回る。ぐるりと一週したころには他の隊と合流したアリさん十数匹のお出ましである。
まだか。
「あのさ、レベッカ。そんなかに形違うヤツいない?」
「……どんな風なの?」
「そうねえ、たしか羽つきだったよーな」
「たぶんあの集団の一番後ろにいるのがそうだと思う」
「お。なかなか早かったねえ」
あたしはおちゃらけた口調でレベッカに話を向けてみた。少しばかり冷や汗かいているかもしれないが、一応隠しているつもりだ。
一方レベッカのほうは恐怖を克服してしまったのか、かなり冷静だ。むしろ無理矢理押さえ込んでいるうちに別の感情に動かされてるように見えていた。
「……お姉ちゃん」
だが、不安な声だった。とうとう堰を切ってしまったか、感情を止めておく限界量を超えたらしい。震える声。それは泣きそうな、年相応の少女の声だ。レベッカは怯えている。ここでようやく、死の恐怖が顕現してしまったのだ。
世界は常に危険にさらされているとしても。誰しもが肌で感じ取った死の匂いには、決して慣れることはない。それは、慣れてはいけないものだ。
人間は、その恐怖を絶望と呼ぶのだから。
「お姉ちゃん、あれを、倒せるの?」
哀れなほどに人間は弱い。素手では怪物の一匹にも抗しえない。世界はどうしようもなく厳しくて、悲しいほどに強い。人間がここで生きることは、渇きでひび割れた薄氷の上を歩くことに等しい。
レベッカは涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。ここで終わりと思ってしまうほどに、怪物は恐怖そのものの姿をしていた。
遺伝子異常、奇妙な進化形態、機械化されたモノ共。崩壊による世界の変化は、人間を排除するために在るようだった。アリの巨大化などは顕著な例だ。あんな遺伝子異常は本来例外であって、普遍化するはずがない。
また、水が無くても生きていける半生物半機械など、あり得ない生態系なのだ。それでも存在していることに疑問を感じはしないだろうか。
とすればこれらは皆、世界の意思ということになる。人間を消して、はるか原始の時代に戻そうとでもいうのか。崩壊の原因を創った、業を背負った人間。あたしもまた、人間なのだ。
だからどうした。
くだらない。そんなこと、どうでもいい。
あたしもレベッカも、今を生きている。
過去は今と未来のための道になるのであって、決して足枷になってはならない。あたしは前に歩くための足を、戦うための力を持っている。
「レベッカ、信じてくれるっていったよね?」
「……お姉ちゃん」
「約束。あたしを信じて、泣かずに見てなさいな」
考えて。
少しの時間、必死にレベッカは考えて。それからゆっくりと首を縦に振る。しっかりとあたしを見つめて笑いかける、そんな可愛い顔があった。
「うんっ」
すぅ、と息を吸い込んで。
あたしは眼前に迫ってきたアリたちの足音を聞く気分で戦車を前に進ませた。砂漠の戦場でモンスターに囲まれるのは何も初めてじゃないのだ。これでもいつかの最高のハンターの動きを、ちゃんと目に焼き付けていた。少しくらい真似したところで文句はあるまい。
というか、あのタイミングが自分に出来るのかどうかの方が不安だ。
「じゃ、行くわよ」
あたしは集中してアリの向かってくる進路を計算した。すれ違うことにはならない。アリは全部が全部あたしの戦車へと狙いを定めているのだ。
だから引き寄せる。ぎりぎりまで引きつけてから全力で一方向に誘導する。アリが体当たりを仕掛けてきた。車内がひどく揺れた。装甲が一部砕けたのを確認。舌打ち一回だけで、あたしはすぐに苛つきを振り払う。
あと少し。射程範囲に九割方が引っかかるまで。
入った。
「爆裂弾発射、続けてナパーム弾を後方に射出。副砲掃射後に特殊砲弾三発連続発射!」
トリガーを引いた。
砂と煙と爆炎で暗く曇った視界を、今度は勘で主砲を撃ち抜く。ナパーム弾の影響で、焦げきった砂上の盤面は黒に染まっている。
チェックメイトまではまだ一手残っていた。アダムアント相手にはまだ足りない。
機銃を乱射してアリの死骸を砕きつつ、砂に隠れたらしき蟻の王を倒すために狙いを定めた。アシッドアントの緑の体液が弾け飛んだおかげで、戦車の駆動部分が軋んだ音を出している。
きぃ、と鉄の重たい感触に触れる想いで、あたしは引き金に指をかけた。がちりと固いトリガーを引く瞬間を待つ。
それまでは、ゆっくりで。
それからが、早い。
右手はトリガーを引く体勢のまま。副砲連射で砂を巻き上げ、ペダルで戦車の動きを変則にする。砂の弾ける鈍い音。アダムアントの頭部がぎょろりとこちらを向いた気がする。
ガチンガチンガチンッ。位置を予測して主砲三連射してさらに接近していく。流れを構成して、格闘戦でもやっているような心持ちで副砲の射層を固定、ほぼ密接距離までそのまま撃ち続けて横を通り抜ける。手負いのアダムアントが背後から特攻してくる前に機銃の設定変更、広範囲への放射状乱射して牽制、主砲旋回連打。直撃させているうちに再度接近、徹底的に撃ち尽くして創ったチャンスを形にするためには、甲殻部分の薄い胴体と頭部の狭間に存在する、その首筋を吹き飛ばす。
精密に狙いを付け、攻撃の瞬間を待つ。
「お姉ちゃん、横っ!?」
「むぅっ、……っと、わぁっ」
トリガーから手を離し、一端、針路を逸れる。レベッカの声に助けられたが、突然アシッドアントの生き残りが出てきたらしい。副砲を向け五秒間の集中砲火でとどめを刺す。
「やっぱ綺麗には行かないかぁ。なんとかタイミングを合わせないと」
「……あ」
「ん? どしたのレベッカ、なんか思いついたみたいな顔して」
「う、うん」
ぽつりとレベッカが単語をこぼした。あたしはにんまりと笑って、彼女の頭を片手で撫でた。
「それ、やってみましょ!」
信じるのは自分の射撃の腕と、親父さんの傑作と、助けた少女の意見の三つ。
さっきと同じようにタイミングを待つ。さすがに完璧な技術なんて持っていないから、多少せこい手を使うのはアリだと思う。いや冗談を言ってるわけじゃないけど。
「グッド」
成功。
副砲をひたすらアダムアントの顔面に当て続けているうちに、突撃してきた。怒りに我を忘れているらしく、さきほどのような駆け引きはいらなかった。
「あたしね、狙いを定める度に微妙に角度を変えて逃げるなんて無駄に知能を持ってるアリって、だいっ嫌いなの」
「……お姉ちゃん、ふつう、そんなアリが好きなひとはいないと思う」
「それもそーだね」
くすくすと笑うレベッカ。あたしは気楽にトリガーに手をかけた。レベッカが覗き込んでいた鏡面利用のスコープに映る影を叫ぶ。
「来たっ!」
主砲を前方に向け、待った。
あたしは小さくつばを飲み込み、緊張なんてしてないふうを装い、手に握りしめた冷や汗を拭うこともせず、胸の激しくなっている鼓動を必死に押さえ、前を見つめた。
あたしを見つめるレベッカの視線を感じる。
真っ直ぐに前を見たまま、息を吸い込んだ。微笑んで、トリガーにある指を静かに引き絞る。ガチン。
アダムアントの首に直撃したはずだった。レベッカはあたしを見ていて、敵を直接は見ていない。
そして、主砲発射の反動だけで、他の衝撃は一切来なかった。
「終わった……」
言葉を切って、レベッカがからからになった喉を鳴らす。もう一度、今度は独り言のようにではなく、あたしに向かっての問いかけだった。
「……終わったんだよね?」
「たぶんだけど」
「ほんとに、勝っちゃったんだ……」
いささか呆然と。
「だから、いったでしょ?」
うん、と小さく頷いてから、レベッカはあたしに笑顔を見せた。
「お姉ちゃん、すごいっ!」
「とーぜん」
といいながら、あたしは手の甲で額の汗を拭った。熱さか、冷や汗かは言うまでもない。まだ胸の激しい鼓動は収まる様子がない。その音が跳ねているのが、あたし自身に聞こえるほどだった。
「ふぃー、疲れたぁっ」
大きく安堵の息を吐き出して、証拠映像だけ撮っておく。そのまま戦車を走り出させた。砂漠の路の悪さにレベッカがどれだけ耐えられるのかは気になったが、とにかく近くの街まで送るのが先決だ。
「ねっ、お姉ちゃんはどうして助けてくれたの?」
「……へ? どーしてって?」
「だって、わたしを助けてもお金とかもらえないのに」
心底不思議そうな表情だった。
「なるほどぉ、そーゆーこと考えちゃうくらい冴えた頭なわけだ」
レベッカのほっぺたを軽くつねった。
「痛いよぅ」
可愛かったのでもう一回ぷにぷにっと。
「いたいってばーっ」
実際に痛がっているわけじゃない。単なるふざけあいだ。だけど。
「レベッカ、ひとつ聞くわね。……痛いの好き?」
「きらいだけど……」
「じゃあ、誰かが痛がってたら助けたいと思う?」
「うん。……あ」
レベッカは即答した。あたしはぱっと手をどけて、彼女の目線に自分の顔を合わせた。目を覗き込んで、よし、と抱きしめた。車内は狭すぎたおかげでバランス崩して倒れそうになったけど気にしないことにする。
言いたいことは伝わってくれたようだ。恥ずかしそうに照れているレベッカの体を離し、じっと瞳を見つめて告げる。
「それでいいの。単純なことだけど、あたしも自分のやりたいよーにやってるだけだしね」
「……うん」
「さぁて、じゃあさっさと街に戻るとしましょう」
「あ、あのっ。……お姉ちゃん」
「なに?」
はにかむような、あどけないレベッカの顔。ほっとしたのか、目に少しだけ浮かぶ雫も見える。レベッカは、昔あたしが浮かべたような憧れの、あるいは宝物を見つけたような嬉しそうな表情で。
にっこりと笑って、あたしに言う。
「ありがとう」
「どういたしまして」
なんだか、あのひとの気持ちが少しだけわかった気がした。
その言葉が、とてもとても嬉しかったのだ。
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「無題」
一人のバギー乗りに贈る。
《彼らから聴いた話》
場末の寂れた酒場のマスターの場合。
ん? ガルシアのことが聞きたいって? ガルシア……ガルシアねえ……ああ、あいつか。思い出したよ。バギー乗りでガラ悪いハンターだよな。そこだ。いまアンタが座ってる隣りの椅子にいっつも偉そうに座ってやがったよ。っと悪りいな、まだ掃除してねえが勘弁してくれ。
あいつのことって言われてもなぁ、たいしたことぁ俺は知らねえぜ。せいぜいが安いウイスキーを不味そうに飲みやがるヤツで、口が悪くて、いつも自信満々に女に声を掛けては、手ひどく振られてやがった。
強かったかどうか? あぁ、そうだな。あんなナリしてクチだけのヤツらが多いなかじゃマシだったぜ。バギーなんて稀少っちゃあ稀少だし、まともな戦車乗りに比べりゃ馬鹿にされることのが普通なハズなんだがな、アイツはハンターとしても、バウンサーとしても腕は確かな方だったよ。砂漠に出てったひよっこどもは、むしろ戻って来ねえのが大量にいんだ。ちゃっかり生きてたんだからそれなりに強かったハズだぜ。
んー、賭けは負け続けてたから、ツキにゃあ見放されてたんじゃねえかな。有名になるってでけえ声で叫んでは飲んだくれて、絡まれてはソイツら殴り倒して、んでうちの店の女の子にコナかけようとして顔に赤い手形もらってたりしてたな。ったく、イケすかねえヤツには違いねえよ。正直モンって呼んだら俺が嘘吐きになっちまうさ。コインで勝負する度にムキになって勝ちに拘ってやがったしな、負けず嫌いなんだか、勝ちが好きなんだかまでは分からねえけど……根性はそれなりにあったのは認めるよ。たぶんアイツみたいなのが、この世界に一番合ってたのかもしんねえ。荒野を走って来た後にな、バギーがくたびれて見えてても、あいつが乗ってる姿はわりかし悪くなかったからな。
そうだ、まだツケが残ってるんだ。あいつに会ったらさっさと払えって言っといてくれ。出世払いってことになってるが、いつになるか分かんねえし、最近顔見せねえし。死なねえうちに払ってくれりゃあこっちとしちゃ万々歳だ。早いとこ頼むぜ。賞金首の一匹や二匹は狩ったらしいから、儲けてるハズなんだ。ほれ、そこ見てくれ。あいつが金の代わりにって勝手に残してったもんだ。鉄のフカヒレっつうのらしいんだが、酒場に食えねえツマミ置いていってどうするつもりなんだか。自慢げにそこに投げて床に刺さったまんまだよ。なんなら、あんたそれ喰わねえか? やっぱ嫌か。ま、そりゃそうだわな。
ガルシアって男はイケすかねえヤツだったが……なんでか、俺は嫌いじゃなかったぜ。こんな酒場にはあんな男がくるもんだろ。そんなかでも美味そうに酒呑んでやがったから、こっちとしちゃ良い客よ。
いつでも張りつめてばかりだったし、群れるのが苦手だったみたいだけどな、なんつうかさ……実は、あいつ寂しかったんじゃねえかなあ。前にな、あいつが一人で飲んでるの見てて、そんなふうに思っちまったことがあったよ。
小さな店の女性店員の場合。
ガルシアさん? あ、うちのお得意様ですね。かなり年季入ったバギー乗りの。話が聴きたいんですか? ええと、……店長ー、少し時間大丈夫ですかぁ? はいっ、じゃあ休憩入りまーす。っと、それじゃお話し始めましょうか。
ううん、といってもあんまり詳しいわけじゃないんですけど……どんなひとだったかが知りたいって言われてもですね、いつも豪快に安い装備買い込んで行くひとでしたよ。ええ、ときどき主砲の37mm砲が大破したままお店に入ってきますし。直しに戻ってくるより、いくつか積み込んだまま戦車戦してたんじゃないでしょうか。実際のトコロまで私は知りませんが、たぶん逃げるのが嫌いな人だったんだと思います。モンスター狩りのために、砂漠で夜を越すこともあったみたいですね。あ、いや、聞いた……というか見たんですけどね、砂塵で機械サソリのでっかいの、えと、確かサソリガンでしたか、そんな名前のモンスターと戦ってる姿を。
壮絶っていうか、格好良い戦い方でしたねー。バギーを綺麗に乗り回していて、尻尾からの砲撃を避けながら突撃して、近距離からの連続射撃してましたから。普段の口調とか態度とか見てることからじゃ考えられませんね。繊細な運転でしたもの。
かなり強いハンターさんだったと思います。この店に来る方々を見ていると、なんだか強さってのが分かってくるんです。装備の選び方や、手入れの仕方、戦車の傷なんかでもよおく違いが出てますから。強いハンターさん、つまり……まあ、この場合戦車戦闘の上手い方ってことになるんでしょうけど、そういうひとはダメージの受け方が優しいんです。装甲の厚い部分に上手く相手の攻撃を誘導してるのか、自分から避けてるのか、どっちにしても凄腕の人っていうのは確かにいるんです。ほら、あなたみたいに。あなたもその戦車からすると、ハンターさんですよね? ほら、この装甲タイルの剥がれた部分は全部エンジンや内部コンピュータから外れた位置に当たってるじゃないですか。こういうのを自覚的にできるひとって、あまり戦車も壊さないひとですからね。ふふっ、お世辞じゃないですよ。
あれれえ、後ろにあるそのバギーってガルシアさんのバギーじゃないんですか? あーっ、やっぱりそうだ。前に傷ついてたところがそのままになってる。ほらほら、これですこれ。変な風に傷が付いちゃってるのに、ガルシアさんったら直さないでくれって。うん? 言ってませんでしたっけ、うちの店は修理屋も営んでおりますので。つまり多角経営なのです。
あー、お話に戻りますけど、その傷。少し離れた位置からだと、なんか名前みたいに見えるんですよ。ガルシアさんにそう言ったら、いたく喜んでましてね。この傷、俺様のバギーにゃもってこいだぜ、だそうです。よっぽど嬉しかったんでしょうねえ。ただ、おかげで修理一回分は不必要って断られちゃいました。商売としては少しばかりもったいなかったです。
ところでどうしてそのバギー、お客さんが乗ってらっしゃるんですか? え、はい、……ガルシアさんはとっても大事にしてらっしゃったので不思議なんです。小さな子供みたいにそのバギーのこと好きだと、私にはそう感じられてましたから。たぶん簡単に譲ったりするようなものじゃないんじゃないかなぁ、って。
わ、いつの間にかまた話逸れちゃってますね。すみません。どうもお客さん相手だと饒舌になっちゃう癖があるんですよ。ガルシアさんの印象ですよね。
そうですね、あのひとはいいひとだったと思います。すこし乱暴でしたし、かなり目つき悪かったですし、ものすっごく我が儘だったし。それに、口の悪さで、とても損してました。
えへへ、これは私の勝手な考えなんですけど。きっともう少しだけ意地っ張りじゃなければ……今ごろには、有名なソルジャーさんのマリアさんみたいに、名を馳せていたかもしれないですね。
そうだっ。……いま、ひとつ思い出しました。チンピラみたいなグラップラーに私が絡まれていたとき、ガルシアさんが横から喧嘩売って、彼らを叩きのめしてくれたことがあったんです。
考えてみると、あのとき私を助けてくれたんだって、そう思いますね。
宿屋二階で客待ちをしていた女性の場合。
ガルシアのコト聴きたいってのはアンタ? アァ、あいつでしょ。そりゃ常連さんだったもの、ちゃあんと覚えてるわよぉ。どんなオトコだったかって言われても、そうねぇ……ヒトコトで言っちゃえば下手ね。オンナの扱いがまるでなっちゃいなかったわ。最近顔も見せやしないしサァ、まったくやれやれよねえ。
ツマンナイ話でもいいって? んじゃ話すケド。あのオトコさ、狩ったばっかりのモンスターの賞金でパァっと豪遊しちゃってくれててね、アァ、そのときアタシも酒場に一緒にいたんだけどぉ、おだいじんってヤツよ。オゴりで高ぁいお酒も飲ませてもらっちゃったんだぁ。でねでね、ガルシアったらめちゃくちゃ酔っぱらって、最後にはカウンターで寝ちゃってねえ、あー、いま思い出しても楽しかったし大変だった夜のコトよ。いつもは周りに喧嘩ばっか売っては怖がらせるだけのチンピラのクセにさ、そんときだけはよっぽど嬉しかったのか、すっごく好い笑顔してんだもんねぇ。いや、格好良かったのよホント。普段のアイツからじゃなぁんも気づかないだろうけど、悪いヤツじゃなかったの。
あ、その顔は、分かるって顔かい? 分かってくれるのかぁ? あはっ、ありがとー。よく見るとアンタって意外に可愛い顔してるわねぇ、どう? なんなら今晩空けとくし、今からでもいいし、お金もいらないよぉ。ふふふ、おねーさんといいことしましょうよぅ。え、ダメ? 忙しい? ……あーそっかぁ、ざぁんねん。
断られちゃうなんてねぇ、そんなに魅力無くなっちゃったかしら。ま、お堅いのも良いけど、たまには遊びなよ。とくにオンナから誘ってくれた場合にはさ。うんうん、素直でよろしい。次から気をつけなよぉ。
ガルシアのおハナシに戻りましょ。アァ、でもまあベッドの上じゃ乱暴過ぎたコトが一番印象深いんだわね。そこがもったいなかったかもしれないかもよ、おおかた、いつもはオンナの子に避けられるんでしょ。可哀想っちゃあ、可哀想なヤツなのよ。狼なんか気取って、一人旅してたみたいだけどさぁ。やっぱ、友達少なかったんだろうから。そうそう。あんなオトコのくせにサァ、あいつ、寝顔は可愛かったんだ。それがガルシアを嫌いじゃあない理由かな。
なんだかんだ言って、案外に羽振りも良かったよ。ああいうオトコは、たぶん楽しく生きられてんのよねえ。あーあ、うらやましぃったらありゃしない。アタシもあんくらい馬鹿やってられたらなぁ。
あっと……アンタさ、あの馬鹿に会ったら伝えてくんない? あんとき腹は立ったけど、けっこう楽しかったよ、ってね。
街の路地裏に立っていた男の場合。
ガルシア? 誰だよ、んなヤツの名前知らねえよ。ああん? ここらに来てたバギー乗りだと? あ。思い出したぜ、あの野郎か。クソ野郎だろクソ野郎。ヒトサマの顔面に一発喰らわせておいて逃げやがッたチンピラな。だろ? 違うってのかァ? てめえに文句言われる筋合いじゃねえよ! ざけんなコラ、オレに訊いておいてクチ挟むんじゃねえッ!
オイ! てめえはなんだ、あの野郎がまたオレたちの邪魔するために送り込んできやがったのかァッ!? もしそうなら今度はギタギタに引き裂いてスナザメの餌にしてやるよッ! オイ、なんだその顔は。アアン? やんのかテメエ!
……その傷はなんだって? フン、性根の悪い売女に引っかかれただけだ。テメエみたいなスカした野郎には関係ねえよ。ったく、じろじろ見んなッつってんだろ!! それとも何か、本気でスナザメの巣に放り込んでやろうか? 殺すぞ!
るせえなァッ! ただの引っ掻き傷だって何度言ったら分かんだよ、クソッ! ガルシアに付けられた傷? どこにんな証拠があんだよコラ。オレのコトァ舐めてんのかよガキ。とっとと失せろ! 邪魔だッ!
ケッ、しつこい男ほどウザイもんはねえな。だからガルシアに付けられた傷じゃねえって言ってんだろ? ガキはミルクでも飲んでお寝んねしとけ。詮索すんじゃねえよ! だから見るなつってんだろ! マジにぶっ殺すぞ! だからもう帰れよ。なぁ。早く帰った方が身のためだぜ。テメエのコト心配して言ってやってんだ。オレみたいなヤツがこんなに譲歩してやってんだからよう、素直に帰るってのが人情だろ? 帰れよ。ほら、帰ってくれよ!
よし、行ったな。
あの野郎、次見つけたらただじゃおかねえぜ! ……あ、いや何でもねえよ。だから帰れって。
……いきなり戻ってくんじゃねえよ。もう、戻ってこねえよな……びびっちまったじゃねえか……あ、オイ野郎共! とりあえずハンターにはなるたけ喧嘩売んな。肝に銘じとけ! ヘタすっとこっちが死ぬかんな、気を付けろよ!
砂漠で休憩中だったハンターの場合。
ガルシアのことか。まあ、あんまり良い評判は訊かなかったが、それなりに筋は通ってたんじゃないかな。いやさ、そこそこ悪いこともやってたかもしれないが、グラップラーに与していたのは見たことないんだ。十把一絡げのハンターに比べれば、かなり強かったのは間違いないし。どこだったか、……スワンだ。あの町の人間の言葉を借りれば、「お前は強い。強いヤツは正しい」ってなところか。まあ、こんな言葉じゃグラップラーどもと同じになっちまう気もするけど。
あいつ、死んだんだって? ハンターオフィスで職員と話してたら、マリアさんの訃報と一緒に情報が入ってきてさ、驚いたよ。あのマリアさんと凄腕のハンターが他にもいたんだろ。そのなかにガルシアがいたからさ、余計にね。もしかしたら……あ、いやなんでもない。気にしないでくれな。いやいや、マリアさんには二度くらい話する機会があってっていうだけさ、そんなに親しくなれなかったよ。彼女は憧れだったけどね。ガルシアはたまたま酒場で一緒になることが多かったから、多少は人となりも分かってるつもりさ。
しっかし、マリアさんすらテッドブロイラーに勝てなかったっていうのに。誰だろうな、グラップラーの連中を壊滅させたハンターは。もしかして君だったりするのかい? はははっ、冗談だよ。そこまで若いハンターで成し遂げられるレベルの偉業じゃないさ。君だったら尊敬するしかないけどな。彼らのことは噂でしか聞いてないけど、賞金首をことごとく狩っていったっていう凄腕も凄腕、超一流だぜ。グラップラーの実体も掴んでる人間が少なかったっていうのにさ、よくもまあ本拠地から何から何まで突き止めたもんだ。それだけでも賞賛に値する。そう思うだろ? え、そんなことはない? ふーむ、見解の不一致だね。ま、少なくともその彼らが現在の最強だっていうのは間違いなさそうだ。マリアさんの後継者らしいしさ。……あ、すると、彼らはやっぱり若いのか。うーん、会ってみたいものだね。
ガルシアのことといってもなぁ、マドの町で死んだとしか訊いてないんだけど、もしかして生きてるとか? いやね、彼のバギーを見たっていう話を最近よく聴くから、不思議だって思ってたんだ。
あとは……いつも一人だったな。旅するときも、戦うときもさ。誰も信用できねえって、ずぅっと言ってた。所詮は酒の席だからあやしいもんだけど、あいつに友達がいるって話も聴いたことないしな。弱いヤツは悪いって、スワンの人間みたいな台詞がよく出てたし。よっぽど負け犬が嫌いだったんだと思う。……足引っ張られるのは誰でも嫌なことだけどさ。戦いが好きだったのか、強いことが好きだったのか、そこまでは分からないけど。
うん、さっきちょっと言いよどんだのはそれでね。ガルシアが誰かと一緒に戦って死んだのが、どうにも信じられないんだ。もしかしたら、あいつにとってマリアさんたちは友人だったのかもしれない。自分を越えるような人間には、好意のひとつも持ってたんだろうと思うよ。意地っ張りだから、たぶん、いや絶対にそんなことは自分で言わないヤツだったけどさ。
《追記》
銃で穿たれた痕、いくつもの危機をくぐり抜けてきた証が、そのバギーには刻み込まれている。ときにはモンスターの爪で抉られた深い傷が、装甲の裏へと突き抜けたこともあった。砂塵に削られ、酸で溶かされた焦げ跡も見受けられる。幾度も修復された車体とその装甲、上部に取り付けられた副砲の機銃、その横には使い込まれ鈍色の輝きを発す大型主砲。ボルトで窮屈そうに締められた特殊装備は後方にあり、砲弾が積み込まれたままになっていた。それらについた傷こそ、戦場を駆けるバギーにとっての勲章だった。
いつかのこと。主人は血を、バギーはオイルを流しながら必死に戦い抜いた日々。有り金はたいて買い付けてきた機銃が大破したとき。主砲の一発でモンスターを打ち砕いたあのころ。洗車の際に窓を閉め忘れて車内が水浸しになった思い出。何もかもはバギーに名残を残し、彼の最初の主人の名はバギーの車体に刻み込まれている。悔しさも嬉しさも悲しさも楽しさも、バギーの生から、主人の死まで。すべてはここにあった。死に至らしめ、また利用した者たちへの復讐も果たし終えた。
いま運転している彼が、二人目にして最後の主人になるだろう。苦労を分かち合ったこのバギーはもう保たない。長くを耐え抜いてきたバギーも、度重なる激戦にとうとう限界が来たのだ。
彼は荒野を抜けていく。
風を切って走った。いくらか岩で揺れはしたが、慣れた運転で速度は落とさない。流れていく景色は寂しげで、やけに静かだった。木々の緑が遠くに見えた。岩山を背後に、湖を横目で覗きながら道無き道を進んでいく。太陽の光で湖面の輝きが白く揺れる。水没した過去の遺産が水底に窺えた。
世界は広い。遠くに目をやればどこまでも空は果てしなかった。
いつしか砂漠にたどり着いた。些少だが数の減ったモンスター数匹を撃ちつつ、真ん中を突っ切ってバギーはひたすらに進む。スナザメの巨大な死骸が視界の片隅に映り込んだ。幾分小さくなっているようにも思える。とすれば、おそらく他のモンスターが喰らっているのだろう。細かい砂の乗った風が吹き、視界を遮った。構わずに真っ直ぐに道を行けば、すぐさま抜けられた。
更に先へ。
岩肌を晒した山々の脇を抜け、湖を回り込むように。誰も来そうにない僻地にも似た場所を走り続ける。そのうちに見えてくるのは世界が見渡せそうな、大きな崖だった。目的地に到着したのか、彼はバギーの速度をゆるめた。ゆっくりと、止まる。
ひどく寂しげに、ひとつの墓が存在していた。名前も刻まれないほど、小さな小さな墓標。バギーから降りた彼は、黙したままそれに歩み寄った。崖から湖が広がっていた。遥か向こうにあるはずの港町は微塵も姿が見えない。
朽ちた死者の墓など珍しくもない。世界はどうしようもなく荒れ果てていて、何人もの旅人が砂漠の途中で力尽きる。理不尽に死する者も決して少なくないのだから。
だが、名も無き墓標には花のひとつも無かった。
そのことが、彼にはとても悲しく思えた。
そこにバギーを残したまま、振り返らずに彼は去った。
役目を終えたバギーは眠る。
傷ついた自らを誇るように、そして主人を守るように、小さな墓に寄り添いながら。
バギーに刻まれた名はガルシア。
最後まで意地を張り通した、バギー乗りだった男の名である。
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絆へ続け
酒場に二人の男がいた。いつから始まったのか、何が原因だったのかはもう憶えていない。
赤ら顔を突きつけ合わせ酒を片手に罵り合いを続けている。言葉の応酬の果ては喉の渇きだ。両者は共に無言でグラスを突きだした。
安酒を注いでやった店員の女性は呆れた顔でどちらにともなく告げる。
「ホント、莫迦ねえ、男って」
呟き声が他の客の耳にも届く。店内は水を打ったかのごとく静けさに覆われる。
髭面のマスターは当初無関心な目で喧嘩の様子を瞳に映していたが、手にしたグラスを磨く布はすり切れてぼろぼろだ。それでも拭くことをやめないで事態の推移を見守る。いつしか、口元にはからかうような笑みが浮かんでいた。
一人目の男は長身で痩躯。ぎらぎらと輝く目の奥の光が妙に忘れられない特徴となっている。
二人目の男は中背ながら筋骨隆々として屈強。澄ました顔には力強い皺が刻まれている。
マスターは苦笑を浮かべた。
「なあ、お前ら」
一人目の男は無言でマスターを睥睨する。二人目の男は多少の余裕を持って顔を向けた。
「よかったら聞かせてくれないか。さっきから気になって仕様がない」
無論、両名の言い争いの大元の原因である。
一人目の男は沈黙を守る。二人目の男はしばらく口を閉ざしていたが、一度語り始めると滑らかにしゃべり出した。
「戦車の話さ」
マスターの隣に戻ってきた女性は先程までかすかに混じっていた嘲笑を引っ込め、興味の色を見せ始めた。マスターは男達が口にしたのとは別のグラスを二つ取り出すと、中に火酒を静かに注いだ。おごりであることを理解した二人目の男は破顔した。人好きのする良い笑顔だった。一人目の男はまだ残っていた自分の酒を飲み干すと、文句も礼も口に出さずにグラスを受け取った。しかつめらしい顔のままだった。
男の語った話とはこうだった。酒場に屯していた誰もが口を挟まず、耳を傾けていた。
――そう、戦車の話さ。戦車の話だ。
おれとこいつが一緒に手に入れ、長いあいだ一緒に旅をしてきた戦車の話をするんだぜ。
聞きたいかい? じゃあ、思う存分聞いてくれ。どうせこんな話をしたこともすることも二度とねえだろうからさ。ここにいる連中がどう思うかなんて知らねえよ。おれたちは何の因果かハンターだ。賞金首を狙ってこの町に来た。分かってるよ。そんな顔じゃねえし、別に正義感ぶってられるほど格好良くも生きてねえ。汚え仕事もいっぱいやった。お前らだってそうだろ。口に出さない。他人の事情は詮索しない。それだけの話だ。ここにいるやつらはみんな同じ穴の狢じゃねえか。そうだろ。別に何も言わなくたって分かる。生きるってことは綺麗事じゃ片づかねえよ。簡単なことじゃねえ。生易しいことじゃねえんだ。
でもよ。ハンターなんだぜ。おれたちはそうやって生きることができた。死なずに生きてきた。それだけは誇ってもいいと思うんだ。
でっけえ怪物を殺して、力を持ってない女子供を守ってやるんだ。それができるようになったんだ。素手じゃ何も出来ないおれたちには武器があった。違う。武器を手に入れたんだ。それが戦車さ。こいつを手に入れたのは偶然なんてもんじゃねえよ。運命。そう、運命ってやつだ。おれはそれを信じてる。色んな死に方したやつらが周りにいっぱいいて、昨日会ったやつが今日死んでるのは運命だなんて思わねえけど、でも、出会うべくして出会ったってことはやっぱり運命なんだよ。なあ、そうだろ。違うか。
戦車の話。ああ、戦車の話だな。
おれがこいつと出会ったとき、まだその戦車はおれたちの手の中には無かった。だってお前、考えてもみろ。どこの誰が戦車をそう簡単に手に入れられるよ。周りは荒野。どこまでいっても荒野ばっかり。少し進めば人跡未踏の緑の監獄。少し戻れば草も生えない砂漠の道。町の外には食い物もねえ。町の中はどこを見回してもクソとクズとゴミばっかりだ。おれたちも含めてこの世界はがらくたしかねえ。がれきの世界よ。分かってるんだろうが。認めろよ。もう人間が支配者だった時代は終わったんだ。とっくに終わっちまったんだ。
でもよ。
怪物がいる。クソよりも汚えやつらがいる。クズよりも価値のねえがらくたよりもタチの悪ぃゴミ共がうようよしてやがる。そんな世界でよ、どうしようもないクズに立ち向かうために良いやつらはみんな武器を欲しがって、そして、戦車なんか出回ってこねえ。どこにも売ってねえし、精々がレンタルで借りるだけだ。本当に必要な誰かのために貸してくださってるのはありがてえよ。そりゃありがてえよ。だがな、それはおれたちが欲しい武器じゃねえんだ。自分の力で戦うための武器とは全然別物なんだ。分かるかお前ぇ、分かるかよ。分かってたまるかってんだ。
ハンターがなんで戦車を欲しがるか知ってるか。強いからだ。本気で強くて、どんな敵にも恐れずに立ち向かってゆく力を与えてくれるからだ。それは戦車がハンター自身の力だからだ。メカニック共に聞いてみりゃ一発で分かる。どこのハンターも自分の戦車を愛してるもんだ。戦車を信じてるに決まってらぁ。そうでなくてどうして自分の命をこんな鉄の塊に預けられる。
手に入れたのが偶然だったのは、まあ、だいたいのハンターと同じってことだ。どこかに放置されていたやつもあれば、崩壊前の施設に隠されてるものもあるって話だ。おれたちが手に入れたのはちょっと違う。
最初にあったのは、設計図だけだった。それも大した出来じゃない。動けばマシって程度だ。戦車って呼ぶのも烏滸がましい、つまんねえ形だけの夢のおがくずでしかなかった。
そのはずだったんだよ。ホントはな。
それが形になっちまった。おれもこいつも驚いたよ。驚かないわけがなかった。おれたちが旅をしながら食い扶持を稼いでいる道中、へんてこな爺に会ったんだ。本当に変なじいさんだった。ことあればおれたちのことを悪し様に言うばっかりだしよ。でもそれが妙に耳に心地良い、憎めないじいさんだったんだ。
じいさんはおれたちに言ったんだよ。鉄くずを集めてくれば、戦車を作ってくれるってな。初めは信じてなかったおれも、こいつが戦車に憧れていたことを知っていたから、つきやってやるつもりになった。でも戦車に必要なだけの鉄くずなんてそう簡単に手に入るもんじゃねえ。そこらに落ちてる粗悪品じゃだめなんだとよ。そこそこ純度の高い鋼鉄だとか、合金になる材料だとか、そういうもんをわけもわからんままに集めさせられた。おれたちはやがて諦めかけるようになった。たまたま路銀がそれなりにあったときに声をかけられたもんだから舞い上がっちまったけど、鉄くずを集めるのは一ヶ月やそこらでは終わりそうになかった。少しずつ懐も寒くなっていったし、おれたちも一カ所に足止めをされていることに飽きちまってた。
結局、じいさんに頼み込んでもっと早く作れないかと提案したんだ。そこにいて見果てぬ夢を見続けるよりマシかもしれねえって思いこんでな。だが、じいさんは頑として首を縦に振らなかった。ちゃんと作るから。君たちの満足行くものを作るから。そんなこと一言も言わねえくせに、おれたちにはなんでか分かっちまったんだ。じいさんが本気で良い戦車を作ろうとしてくれてるってことがさ。
で、こいつはそれに絆された。おれはそれにつきあった。一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎ、近くで賞金首が別のハンターに奪われたことを知ったころ、戦車は形になった。格好悪くなかった。全然、格好悪くなかった。
おれたちはじいさんに礼を言って、別れた。それがもう十年も前のことだ。
おれとこいつは戦車を駆った。荒野を駆け抜けて、色んな化け物、怪物、モンスター共を駆逐し続けた。たまに襲いかかってくる人間もいたよ。大抵、目の色がどっかおかしくなってやがった。時代は進んでいた。やばい方向にさ。どっから狂っちまったんだろうな。世界中、まともなやつらはガキか、そうでなければクズから守られてる連中だけだった。守ってるのはハンターだったり、その町のリーダーやってたり、あるいは古い職人だったりした。どの連中でも同じだった。狂ってる中にもハンターはいたし、町の中心にいた人間も、研究者ってやつや、女も、子供も、たくさんいた。どっちでも同じだった。変わりゃしなかった。
だから人間を守ったり、人間を殺したりしながら、必死でこの世界を生きてきた。おれたちがハンターになったのはさ、ただ生きるためじゃなくて、上手く生きるためでもなくて、間違えながらでも少しでも良いやつとか、何にも知らねえガキだとか、可愛い女とかを、この手で、おれたちの力で守りたかったからなんだよ。あの戦車がなかったらとっくに死んでたはずだ。それは分かりすぎるくらい分かり切ったことなんだ。
おれたちはこの十年間を駆け足で走りつづけてきた。十年間だぞ。十年間。……たった十年でしかねえけど、それでもおれたちは立ち止まってなんかいなかった。諦めたり、絶望したりしなきゃいけなかったのかもしんねえけど、そんなのに負けたくなくて、負けないで、ずっと、ずっとこの足は動いて、動いて、動き続けていたんだ。前に。前に。
ただ、こだわってただけかもしれねえ。おれにはよく分かんねえ。頭良くねえからさ、もっと上手く色んなことをできたのかもしれねえよな。望む通りにあらゆることを変えていけたのかも、しれねえんだ。でもよ、こうやって生きてきちまったんだ。少しでも世界が良い方に変わってくれることを願いながら。諦めた方が楽なのは分かってんのに、ちっとも諦めきれねえで、がむしゃらに戦車を走らせ続けてんだよ。
だけどよ、最近、むなしくなっちまった。話の分かるやつはみんなすぐに死んじまった。クズ相手に立ち上がっていった格好良いやつらはみんないなくなっちまった。残ったのはこいつと戦車だけだ。もう残ってんのは思い出だけだ。美化された記憶しかねえ。あいつらはいねえ。昔は戻ってこねえ。そんなの充分知ってんだよ。死んだら生き返ってこねえんだよ。未来ってなんだよ。綺麗なもんか。素晴らしいもんか。知らねえんだ。分からねえんだ。そんなもんに期待できるほど優しいもんに巡り会ってきてねえんだ。
そろそろ立ち止まっておけばよかったのか。そんでさ、もう大事な思い出だけ抱きかかえて生きていくしかねえのかな。
すげえ戦車がおれたちのもとにはあったんだぜ。
おれ、そんな過去形で語りたくねえよ。でもよ、その戦車もさあ。もうすぐ死んじまうんだってよ。もうすぐ、ぶっ壊れちまうんだってよ。怖えんだよ。ぶっ壊れちまったらもう二度と直らねえんだとよ。で、壊れたら次は新しく生まれ変わるんだってよ。笑っちまうよ。笑っちまうってばよ、そんなの、そんなのまるで別のもんじゃねえか。鉄に戻して形が変わってはい出来上がり、そんな簡単なもんじゃねえんだよ、おれが……おれたちがずっと一緒に旅してきたあの戦車はよ、一緒に血を流して、一緒に戦って、そうやって長年連れ添ってきた仲間じゃねえのかよ、なあ!
なあ、どうしたらいい。
教えてくれよ。
どうしたらおれは諦められるんだよ。
未来が素晴らしいだとか、そんな言葉は聞きたくねえんだ。みんないつか死ぬし、どんなものもぶっ壊れる。何もかも変わり続けていくくせに、それが良くなっていくだなんて保証は何一つとしてねえんだ。おれは見届けられねえんだ。明日のために、一年後のために、何十年後かのために、おれは色んなやつらを守ってきたつもりだったけど、未来のことをどうして信じてやればいいんだ。
綺麗な目をしたガキによ、大切なものはいつかぶっ壊れるから大切にしたら辛くなるなんておれは言えねえんだよ。人間はいつか死ぬけど好き勝手に生きるより誰かを助けることを頑張りましょうなんて、口が裂けても言葉に出来るわけがねえ。
どうやったら今そこにあるものを信じてやれるんだ。なくなっちまうもんを、どうやって大事にすればいいんだ。分かんなくなっちまった。おれ、どうすればいいんだよ。
教えてくれよ……なあ……教えてくれよ。
最後の方になると最早言葉になっていない部分も多くなっていた。顔を伏せて叫んでいる。嗚咽混じりの言葉に、興味本位で聞いていた酒場の若者達は無言でテーブルに目を落とす。マスターはこの手の話を聞き慣れているのか、それほど動じた様子はなかった。その脇でつまみを作りながら耳を傾けていた女性は真摯な瞳で男へと視線を向けている。多少潤んだ瞳が彼女の受けた感情を物語っている。
一人目の男だけが変わらずしんとした空気を纏い、その場で火酒を煽る。喉が焼けないのかと心配になったマスターが口を開こうとするのを目で制する。
しばらくこの酒場には似合わない静謐とした雰囲気が全員を飲み込んでいた。かと思うと、一人目の男が不意に立ち上がり、さっきまで語っていた男の胸ぐらを掴み、首を絞めるほど強く捻り上げた。
目の中の炎は衰えるどころか輝きを増している。
その光は憎しみでもなければ、共感や同情といったものでもない。似ているが一概には怒りとも言い切れず、では何なのかと言えば、それは確信と呼ぶのが最も相応しかろうと思われる。
二人目の男が身に纏っていたのが疲労と絶望の色であったのなら、一人目の男が内側から放出しているのは強い意志の眩しさであった。マスターは目を見張った。語っていた男の目の中にはいつしか闇が映り込み、他の物を黒で染め上げていたと思っていたのだ。だが、無理矢理に自らの顔を見せつけた一人目の男の強引なやり口によって彼は他の人間の姿を認めた。その様子は次第に息を吹き返していくかのようだった。
手を離すと尻から床に落ちた。痛そうな音がしたが、立ち上がろうとはしなかった。
一人目の男は見下ろしながら、閉じていた口を開いた。
寡黙そうな男の声は、それ相応に、低く、そして重かった。
「じゃあお前は生きてるやつを知らないのか」
二人目の男は悔しそうに見上げた。
「どこの誰が死ぬために生きてるんだ。生き続けて、自分の仕事を全うしたやつに対して、お前は駄々をこねてそいつの生きてきた今までを殺すのか」
マスターは口を挟まない。雰囲気に圧倒された他の客達は声を出すことが出来ずにいる。女性はただ一人その場所から動くことができたが、かといって邪魔をするほど無粋ではなかった。
「名前が異なっても、本質――魂は同じだ。そりゃ多少は変わっているかも知れないがな。些細なことだろ。おれたちはそいつを愛していた。そいつはおれたちのために生まれ変わる。それ以外に何が必要だ? 一続きの優しい夢を見たいなら寝てろ。そのまま一生起きずに死ねばお前は幸せか」
誰も何も言わない。テーブルの上に置かれた空になったグラスは、店内の灯りを反射して、そこに映った男たちの顔を歪ませている。透明な雫が滑り落ちてゆく。床に黒く染みこむのを誰も見ていない。
「おれたちが仲間だと思っていたやつがそう簡単に変わるとでも思っているのか。おれたちの戦車だぞ。それすら信じられないようなら最初からハンターになんかなるなよ。くだらなくて途方もない夢を見て、それを現実に信じているから、おれたちは見ず知らずの他人を守って、とんでもねえ怪物共を相手にして、そうやって生きてるんじゃねえのか」
二人目の男は拳に力を入れた。立ち上がるときに手を貸すが、一人目の男の差し出した手は強い勢いではね除けられる。その手の痛みに男は嬉しそうに頬を緩めた。
「昔だろうが、未来だろうが、おれたちが触れているのは今でしかねえよ。そうだろ。そして今、信じてやらねえでどうすんだよ。おれたちが信じてやらねえで、どうしてその魂が生き続けていられるよ!」
そこまで言い尽くすと、もう口を開くまいとばかりに固く閉ざす。
一人目の男にグラスが差し出される。マスターはにやりと笑った。男は苦笑した。言葉を返す代わりに、そのグラスを力強く受け取って、一気に空にした。酒量の限界はとうに超していたのだろう。そしてぐにゃりと膝からくずおれた。慌てて肩を貸す二人目の男の目に滲んでいるものを誰も指摘しない。左が塞がっている状態で、右手にはグラスを持ったまま。
テーブルにグラスを置く前に、女性店員が二十は年上の男の目元を拭ってやる。
女性は驚いているその男と、酔いつぶれている男とを交互に見て、
「……まったくもう、格好良い莫迦ばっかねえ」
と呟き、からからと笑ったのだった。
(了)
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Felix Culpa (1)
生まれ、心を持つがゆえの幸福を我らは歓びとする。
願わくば、その魂に安らぎあらんことを――
Noah system No S. program rebirth first boot loading.
強くまぶたを閉じる。あらゆる光を遮断するために。
思考は制動も効かず延々と続こうとする。消すことは出来ない。ただゆるやかに凍らせてゆく。意識の奥底はシンと静まりかえっている。イメージだ。ここには形のあるものなどないのだ。
そこにあるのは深い深い暗黒の闇。ぼんやりと輝いているのは薄衣が浮かんで白く霞む水面だ。足がその上を滑ってゆく。足だけが。まだ躰は必要ない。足下から仄かな光が広がって、視界いっぱいの闇が透ける。澄明さが増す。
ゆっくりと見回す。躰と顔が出来た。腕が現れたかと思うと、そっと向こうの方を指さす。指先はどこに突きつけられているのか分からない。そもそも上下も、左右の感覚すらない。
裏表だけは分かる。今はまだ表側にいる。
腕はいつの間にか自分の躰から生えていた。同じ方角を指し示したままだ。指示された場所をおそるおそる進む。闇が濃くなった。
途端に、虚無に似た空間へと吸い込まれていくのが感覚的に分かる。笑える話だ。感覚しかないこの世界で感覚的だなんて言葉でしか言い表せないなんて。
足は止まらない。むしろ速度を増している。早足気味に向かったのは闇の奥深くだ。先の見えない黒。影が立ちこめている、とでも表現しようか。ミルク色の濃霧をちょうど漆黒で塗りたくったかのようだった。
立ち止まる。先へ進めないことを足が悟ったからだ。そこが終点。
点だ。それだけならば一次元の世界。始点と終点が存在した瞬間から、二次元の世界となる。さらにもうひとつの視点を与えたならば、三次元。
裏側が生まれる。
腕を伸ばすと前面に立ちふさがった闇に飲み込まれていく。待ち構えていたとでも言いたげに。この躰から直ににょっきりと伸びた腕だ。気味の悪さを感じない方がおかしい。やがて前を凝視しているうちに闇はつるりとした質感を備え、鏡のようにこちらを映し始めた。
それも水に似ている。腕を飲まれたままなのだ。向こう側からナニカがじっと見ている。その表情の意味するところを理解することはできなかった。あえて決めつけるなら、無関心。見えているのに存在していないかのような振る舞い。
オカシイ。ナニカがオカシイ。
水が凍り付く。焦って腕を引き抜こうとした。抜けない。
嫌な音がした。
耳も、音もないはずなのに、それが聞こえた。おそらく、そう感じたに過ぎない。
ピキ、ピキピキピキピキと綺麗な音を立てて正面の暗い鏡が壊れてゆく。まだ腕がそこに置き去りにされたままなのに。叫び声も上がらない。焦っているのは誰だろうという疑問を憶えた。疑問を憶えたのは誰だろう。繰り返し、繰り返し。
いつの間にか、足も腕も頭も顔も躰も、すべてひどく落ち着いている。すっかり凍り付いてしまった思考だけが切り離されて怯えている。帰る場所はどこ? 泣いている。
ナニカを置いてきてしまったんだ!
違うと声がする。喋る喉も口も、もうどこにもないのに。
ナニカに置き去りにされたんだよ。
躰は自分が行うべきことを迅速に行った。記憶の向こうに繋がっている細い糸をゆっくり、ゆっくりとたぐり寄せていく。そうして胡乱な作業の果てに辿り着いた先を、覗き込む。
データのダストよりもなお細かく、集まらねば意味を為さない無数のかけら。深淵に沈んでいるその底を見渡す。蟠った闇を抜け、まとわりついてくるクラスタの破片を引きはがしながら、人間では視ることのかなわない世界へとさらに潜行する。
行き着いた先には暗黒が広がるのみだった。そこから先は何も存在していない世界だ。断面にはなめらかな黒がかいま見えているが、あれは無を示す漆黒だ。やはり具体的な事象は何も存在していなかったのだ。
安堵。あるいは失望。
漂い、光のごとくゆらめく闇。
わたしは――わたしを『アタシ』たらしめている意思は、手を伸ばすかのように感情を世界に広げた。ぴんと張った両腕で何かを抱こうとしているように、その波は世界を覆い尽くす。
意識のみになっていたというのに、その奇妙な感覚に知らず打ち震える。歓喜だ。無感動であるべき作り物の心臓が鼓動する。
震える理由も不明のくせに、どこからか、わたしの内部から危険を警告する声が聞こえてくる。
女の悲鳴に似せたアラームが響き渡る。音のない世界を壊してゆく。
正常な状態へと移行するための儀式。
だが、そんなことはありえない。わたしはわたし以外の意思を認めない。無限に増殖してゆく危険信号に促されたエラーメッセージの跫音が追いかけてくる。わたしは逃げる。行き場もないのに逃げまどう。意識の隅々まで届く緑色の文字が立ちふさがる。壁。エラー。エラー。エラー。延々と続いて止まらない言葉の波がうねる。巨大になって、飲み込もうとする。
LIVE:ERROR!
最後に現れた表示がわたしの目に焼き付いた。自壊する崩れた文字の狂乱。
深紅。
そして爆発的に広がったイメージは赤だった。その赤はすべてを一色に染め上げる。一切の衝撃もなく、すべての邪魔が消え失せてくれた。
わたしは自由になったのだ、とわたしではない誰かが思った。
ああ、きっと不可避で修復不能な問題があるのだ。わたしの躰のどこかに。脳内に埋め込まれた思考による身体制御用のメモリーチップは記憶領域には無関係のハズだ。ならばこれは消去されてしまった記憶の残照か。それとも保存されなかった記録の残像かもしれない。確かに起きた事実が存在していないという悲しみ。それは生まれなかった赤子と等しく、その不存在をこそ認め、いないことによってのみ肯定される記憶だ。
赤。赤。赤。赤。赤。何もかもが赤い。赤に照らされて輝く鮮烈なヴィジョンがわたしを追いかけてくる。わたしは。
わたし。
わたしは誰。
だれ。
ナニカが叫んでいる。オマエはもうここにはいないのだ。自由になったのだ。
音はない。何も見えない。闇が世界とわたしを隔てていた。いつだって闇は――そこにあるのだ。ただ声にならない叫びと、言い表せないほどの恐怖がわたしを支配する。
収束してゆく景色。取り戻したのではなく、かき集めたに過ぎない破片たち。
それはわたしそのものだった。そしてわたしではなくなったものだった。
最初にあったのは赤だった。その色は炎の業か、血の責によるものか。分からない。分からない。もう分からないのだ。誰にも。たとえわたしでない誰かがそれを知っていたとしても、わたしが感じたもののすべては失われてしまった。失われてしまったものは取り戻すことができない。
わたしはそのとき、灼熱を肌に感じたのかもしれない。地獄を目に焼き付けたのかもしれない。血潮を吹き出しながらうめき続けたのかもしれない。すべては赤だ。染まったのか、最初から赤しか無かったのか、もう知ることは出来ないけれど。
もしそれすらも錯覚であったとするのなら、わたしはいったい何者だと言うのだろう。記憶に穿たれた空白にぴたりとはまる赤いピース。形も時間も不明瞭で、色だけが分かるという感覚に疑問を抱けない。確かにそれだと確信しているのに、誰にも説明することができないという不安定さがある。
どうしてか、この世界にわたしはまだ生きていた。だが、ここにはわたしにとって何一つとして確かなものはなく、ただ今在る躰のみが実在を証明するに過ぎない。わたしは憶えていない。わたしは知らない。それがわたしだったかどうかすら、真実だと確かめる術はもはやない。ならばこの躰さえ、わたしを生かしているというだけで、決してわたしのものでは無いんじゃないか。そんな疑問が生まれ、わたしを優しさで呪縛する。それはわたしを傷つけない。わたしはやわらかな闇に包まれながら、生きながらえる。
なんてことだろう。わたしはわたしだっていうのに!
残っているのは真っ白な感覚だ。痛覚を失ったはずの躰の内側から訪れるのは、引き絞られるみたいな激しい衝動の渦だ。そして痛み。鋭く優しい、冷たさの光に貫かれ、わたしは痛みでわたしの生を知ることになる。
繰り返し、繰り返し訪れる痛み。
生への実感は対概念としての死によるものか。
苦痛。
こうして今になって過去のことを思い返そうとしているわたしは何なのだろうと誰かのあざ笑う声が聞こえてくる。ナニカの声。不明なる存在。しかし誰も自らのことを知りはしない。
虚無は純白ではなく、白であるというだけの世界に置き去りにされていた。目覚めたとき、わたしは目を開いた。視界は一瞬だけ黒一色に染まったあと、本来あるべき世界を取り戻した。わたしは音を取り戻した。声を発するための声帯を再び手に入れた。触覚は確かに空気と冷たい金属の感触を憶えさせたし、失われたと思っていた神経は鋭く鈍い痛みを叫び続けた。
わたしはたぶん、起きたそのとき泣いたのだろう。そして知ったのだ。あらゆるものを失ったくせに、自分だけが生き延びてしまったことの罪を。
再び生まれてきたという絶望を。
人間であるがために逃れられない罪がある。それを内包するがゆえにヒトはヒトたり得るのだという。なら、これは思いこみかもしれない。わたしには確かなものは今しかない。罪なんて言葉に逃げ込んでいるだけなのかもしれない。
真実なんて、誰も知らない。
わたしはわたしであることを止めることにした。わたしは、わたしを許さないことにした。そして、わたしは――アタシになった。
わたしをこの世に呼び戻した彼女のことについて知っていることはあまりに少ない。興味がなかったからだ。だが、彼女はひどくぞんざいな口調ではあったが、わたしについての様々な情報を教えてくれた。
わたしが十五歳だったこと。山奥の小さな町に住んでいたこと。人の好い両親がいたこと。客観的に見て、充分以上に幸福な人生を送っていたであろうこと。将来のことはまだ考えていなかったこと。花が好きだったこと。趣味は読書だったこと。静寂と平穏を愛していたこと。可愛い妹がいたこと。優しい妹だったこと。
その日が、妹の誕生日だったこと。
彼女はそれらのことを淡々と語った。
だが、わたしが何も憶えていないせいで、その話の主役がわたしであるという証明にはならなかった。つまり、疑う理由も、信じるだけの理由も持ち合わせていなかった。
信じるだとか、疑うだとかは、相応の根拠や基準が必要となる。わたしの思考からはそれらが失われていた。情報の不足を嘆くよりは、情報の無意味さについて悟る方が早かった。
それから、あとひとつ、彼女が教えてくれたことがあった。
すべては過去であるということ。
つまり、もう二度と帰れない日々の出来事なのだということ。
わたしはその事実からひとつの結論を導き出した。記憶を取り戻すということの無意味さを。
目が覚めたときも、その後何度かラボを訪れたときも、彼女は必ずと言っていいほど白衣を着ていた。もしかしてそれしか服を持っていないのだろうか。聞いたことは無かったが、男っ気の無さからもあり得ると考えていた。
女医のように見えた。違うのかも知れない。いわゆる博士というやつだった。それが職業だか称号だかはよく分からないが、その道では名を知られた人間だそうである。
ぜんぶ無くしたのなら、原初の記憶とでも呼ぶべきであろうか。
わたしはその言葉をすべて覚えている。あるいは再生後からの、わたしを知るための唯一の手がかりとして、無意識に集めていたのかもしれなかった。
憂鬱な目覚めだった。茨の世界に再び産み出されたという絶望が躰の隅々までを占めていたからだ。
「……聞いてる?」
「ああ、うん」
ぼんやりとしたままわたしは答える。
「家は焼け落ちた。跡形も残ってはいまい。キミの両親はそのとき亡くなったのだし、妹さんもおそらく生きてはいないだろうな。ついでに言ってしまえば、周辺の住人も合わせて二十五人死んでいる。生きている人間もほとんど虫の息だ。だからまあ、キミのことを知っている人間はほとんどいなくなってしまった、と考えてもかまわない。あの小さな町は地図から消えたようなものなのだよ」
「そっか」
「そう。キミは新しい人間になったんだ。さて、どうかね?」
芝居がかった口調で彼女は告げた。
「キミの躰は、すべてサイバーウェア技術の粋を集めて再生された。ああ、心配しなくていい。誰かがキミのような小娘を蘇生してほしいと頼んだわけではないよ。わたしが勝手にやったことだ。キミがこうして生き返ったことに対し、どれだけ高い金額と道具と技術が必要とされたかも考える必要はない。つまり、だ」
身振り手振りは無かった。昂揚した口調でもなかった。単純に皮肉なのだろう。わたしに向かってのものなのか、彼女自身についてなのかは判断がつけられそうにない。混乱していたせいだろう。そのわりにはわたしは奇妙なまでに落ち着いていたのだが。
わたしの躰が赤かったことについては、動揺する理由はあまりなかった。そういうものだと勝手に理解していたからだ。服代わりに与えられたボディスーツも同じ色だった。躰のラインにぴったりと合ったそれを身につけたとき、わたしの躰が人間のそれとは異なることについて不平を言うべきではないことにも思い至った。
「負債無しで新しい人生を送ることができる。キミは人間の体を失ったわけだから、対価としては支払ったものがあると言えるかも知れないがね。ともかく、災厄の渦中で膝を抱えているのと比べたなら、多少は素晴らしいことではないかな」
「でも」
「うん?」
「わたしは、何も憶えていない」
「ふむ……おかしいな。脳だけはナマのままだよ。躰を制御するためのチップは埋め込んだんだが、それ以外は一切弄っていない。とすると先天的な異常でもあったかな」
聞かれても答えようがない。わたしはわたしのことを今知ったばかりなのだ。
「ふうん。……ああ、そうか。なるほどなるほど」
ぽん、と彼女は初めて手を使って驚きを表現した。
「キミはあれだ。長い時間脳に酸素がいかなかったから……ちょっと、ここが(と真顔で言いながら自分の頭を指さしつつ)パーになったんだな。じゃあ記憶については諦めたほうが良いかもしれない。消えたモノは戻らないからな。……待てよ。一応言語能力はまとものようだ。どっちかと言うと、受けたショックで忘れてしまった方が正確か。そうだそうだ。喜びたまえ、記憶は封じ込められただけで戻るかも知れない」
「戻らないかもしれない、と」
「ま、そこらへんは私の専門じゃないのでね。心だの精神だのと記憶だの脳科学の分野にはあんまし明るくないんだ。悪く思わないでくれよ」
「いや、いいや」
「どっちに?」
「どちらでも。それよりサイバーウェア技術って?」
わたしのぶっきらぼうな口調に彼女はまるで怒り出す様子は見せなかった。他人に関して興味が薄いのかもしれない。
「知らないのかね? 常識だとか、つまらないことは記憶に残っているようだが」
彼女は口が悪いようだ。こちらもヒトのコトを言える身分じゃないが。
「さっぱり。全然」
「そうか……。実際、技術者は皆無なハズなんだがな。私が挨拶すると何故か道行く人々が皆『やあ先生! サイバーウェアっていうのは失われた技術なんですってね! オレのカミさんも改造してくれませんか!』なんて冗談さえ言ってくるものだから、つい常識なのだとばかり思っていたんだが……」
「あー。ご愁傷様としか。で、どういう?」
「言葉の通りだよ。生体を半分ほど機械化することによって生身のそれよりも能力を高めよう、ってのが技術の第一の目的だった。もしくは失った手足の代わりにもなる。義手や義足が発展した末にこうなった。これが第二。第三……というか裏の目的としては、取り替えられるパーツによって人体の多くを部品として捉えることができたなら、不死は無理だとしても、とにかく不老の方だけなら可能になるだろう、などと時の権力者か業の深い科学者が考えた挙げ句、こんな厄介なものに手を出してしまったのさ」
「不死は無理って?」
「この世界には壊れないものなんてないからね。どんなに長いように見えても、それは永遠じゃない。ということは不死は物理的な理由によって不可能だということでもある。これが定説だ。しかもサイバーウェアはただマシンを取り付けたのとはまったく別物の技術だ。神経との接続、脳からの微弱な電流との調整、機械そのものの細部で働くナノマシン。色々あるぞ。で、私は業の深い科学者の側にいるから、あまり一般化されていないこんな技術の専門家ということになる。さっきも言ったように金がかかる、技術も高度、それについての器具も凄まじく高いから普通の人間じゃ手が出ない」
「……へえ」
「で、キミは私が作り上げた技術を注ぎ込んだ生き返らせた実験体。こっちが勝手にキミの脳を使った以上、望む限りは手助けをしてやろうと決めていたんだよ」
そして彼女はそこまで言って初めて笑った。
口角を上げたから、笑ったんだと思う。おそらく。それからしばらくは躰についての説明が続いた。どれだけのことが出来るかと、どれだけのことが出来ないかについて。
「さ、どうする?」
「それよりもひとつ聞いていいかな?」
「なんだね」
「あんたの名前は?」
「……ああ、失礼。そうだったな。私の名前はグレイだ。マリリン=グレイ。キミの名前については……すまないが、調べていない」
「わたしのことを知っていたのは?」
「唯一焼け残った日記を読んだのさ。正確には、キミが大事そうに胸で抱いていたために助かった日記を勝手に読ませて貰ったんだ。そして困ったことに、日記にはキミ自身の名前は載っていなかった。そのおかげで、キミは自分の名前を連呼するような人間ではなかったことが窺い知れたわけだから、これは僥倖だろう。……調査すれば分かると思うが、やはり自分の名は知りたいかね」
わたしはわたしについての不安を抱えたまま、この世界で生きることを決意した。もし望めば、彼女はわたしを殺してくれたかもしれない。
「……いいや。知らなくても」
「ほう? それはまたどうして」
「どうせ実感できないさ。それじゃ名乗っても意味がない。わたし――いや、アタシの名前はアタシが決めることにするよ」
「ああ、それもいいかもしれないな」
「世話になった」
「もう行くのか? 躰が慣れていないと思うが」
「んー。そだね、でも、なんとかなるさ」
「路銀くらいは用意してやろう。そこでちょっと待っていろ。すぐすむ」
「そりゃどーも」
大きめの袋を渡された。アタシが受け取ると、彼女は静かに告げる。
「……たまにはメンテナンスに来たまえ。キミの躰は丈夫だが、繊細でもある。精密機械の悲しさというやつだな。不調を感じなくとも、定期的に調整したほうが良かろう」
「分かったよ。じゃあね」
「ああ。またな」
強く引き留められなかったことを意外に感じながら、研究室から出た。外の町並みに見覚えはなかったが、過去の記憶には、あまり拘るつもりはなかった。生活するのに必要な常識やこの世界についての基本的なことはしっかり憶えている。不都合は無かった。だからこそ、顔には出さなかったが困っていた。
歩き出す。
これから、どうやって生きてゆこうかを決めあぐねながら。
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Felix Culpa (2)
すさまじい音がした。鼓膜を破りかねない爆音だった。もし耳に鼓膜があったのならの話だけれど。
勢いよく放り投げられた手榴弾がちょうど目の真ン前で爆発したのだ。かるくまぶたを閉じて、吹き付けてくる熱風の勢いが収まるのを待った。
煙が収まってから見渡す。視線の先で必死の形相になって逃げまどう姿がある。砂煙の前方に見ることが出来たそれは、奇妙な格好をした賞金首だった。扮装というよりは仮装に近い。服のセンスは最悪らしかった。
変装のつもりなのだろう。
最近はハンターとして名が通り始めたアタシを見た途端、いきなり逃げ出した時点で頭が悪いとしか言いようがない。それほど熱心に活動しているわけでもないのに、有名になったもんだ。
荒野を抜けた砂漠のあたりは無人だったのだ。眼前にそいつだけがいた。
楽しげな哄笑が響き渡っている。
町から逃げ出したその男を追いかけていたのだ。そのうちに、男が知らず知らずしてモンスターの巣の近くまで来てしまったらしい。踏み込んだ途端囲まれて、ヴィーグル相手に男は焦って手持ちの手榴弾を使い果たしてしまったようだ。狂ったマシン共は沈黙した。こっちに来たさっきの一発は偶然だろう。直撃させられなかったのが運の尽きってワケだ。
それでも視界いっぱいを砂ばかりで覆い隠されてしまった。突然の爆風で巻き上がった黄砂によって行く手を遮られる。追いあぐねていると、あっという間に遠ざかってゆく影。逃げ足だけは一流のようだ。
また距離が離れてしまった。
周囲には、さっきから笑い声が続いている。激しい爆発はそこら中に置き去りにされた鉄をいじめ抜いた。耳障りな叫び声に混じった人間のものと思しき笑い声は誰のものなのか。少なくとも男が発しているわけではなさそうだ。声の高さは女のものだった。
「あははは」
この男の名前は知らない。知る必要もない。
だってここで死ぬヤツの名前なんて知ってもしかたないじゃないか。
「あははははははは」
生きて連れて行くなんて面倒なコトはしない。殺した方が楽だもんさあ。
さらに大きくなる哄笑に気を取られていたせいで隙があった。前方で身を翻した男の方角から、数発の銃弾が躰へと撃ち込まれた。広がった衝撃が躰全体を一定の時間硬直させた。フィードバックにも余念がない。ダメージを計算した脳内の機構は、まるで意に介す必要はないと言い返してくる。こんなちゃちい銃で殺そうとしたのか。それとも動きを止めようとしたのか。
人間はなんて脆いんだろう。ホント、儚い。
「あはははははははははははははははは」
笑い声は苦い響きを持つに至った。つまらない。つまらない。せっかく追いかけてきたのにつまらないじゃないか。なぁ、あんたさ。アタシにダメージを負わせて見せろよ。これじゃ殺し合いにもならないじゃないか。弱い者苛めなんてするのは三流の仕業だって誰かが言ってたのを思い出しちまうよ。
オマエ、誰かを殺して賞金首なんかになったんだろ? あーあ。こんな雑魚だなんて思わなかった。くだらない。なんだか殺すのも面倒になってきちゃったぞ。
笑い声が止まった。アタシが口を閉じたからだ。
アタシが笑っていたのだと、ようやく気づくことが出来たのは僥倖だった。そうさ、楽しくないのに笑うなんてのはおかしいもんな。
男が異常に怯えていたのは、狂騒じみてけたたましい笑い声のせいもあったかもしれない。男は若干ながら冷静さを取り戻したのだ。手持ちの武器の無意味さを悟ったのだろう。小型の拳銃を投げ捨てると、無骨な銃を――デザートイーグルだ――を懐から仰々しく取り出した。
本気になったというより、自棄に近い。手が震えてやがる。おいおい、そんなんでアタシに銃口を向けてあたるのかい。ちゃんと狙いなよ。狙う場所として胸は悪くない。だけどぶっ殺したいなら頭を狙いな。当てるだけでいいだなんて思うのは早計にすぎる。
「し、死ねえッ」
言葉少なに叫んだのはそんなオリジナリティに欠けた言葉ひとつ。腹部にさっきのとは比べものにならない衝撃が奔った。躰の内部を通り抜けていった威力だが背中まで届くことなく吸収された。
ノーダメージ。どこからか囁く声。無機質な喜びの声。
アタシはにんまりと口角を上げる。男が地面に投棄した銃を取り上げた。へえ、コルトSAAだ。惜しかったね。この銃だけでアタシと渡り合ってたら、多少は根性を認めてやっても良かったのに。
ここまで追ってきたのに見逃すのもつまらない。
銃を構える。気分はまるで保安官だ。ウェスタンハットでも被ってロープの一本でも持ってくればさぞかし気持ちの良いことだろう。ハンマーを起こし、指をかけたトリガーをそっと引き絞る。
躰に巻き付けるようにしていたマントが、地面に沿って届いた下からの熱風で持ち上がった。引き金を引いた瞬間、小さな衝撃が銃から手に伝わってくる。眼前で倒れ伏した男の様子を窺う。右腿からは血が出ているのが見える。砂にまみれた相手の目はまだ死んでいない。悪くない。ぜんぜん、悪くないよ。
ぎらぎらと輝く瞳がチャンスを狙っていることを指し示している。
先に一発、撃った。
軽い衝撃のあと、男は弾かれたように仰向けに吹き飛んだ。今度は右肩だ。抵抗する意思を失ったのか、死んでも離すまいとして握りしめていた銃すら取り落とした。手に力が入らないのかもしれなかった。
もう一発撃ち込んだ。左足の脛の肉がぱしんと情けない音を立ててはじけ飛んだ。ぽたぽたと足を伝って流れ落ちてくる血。砂漠を行くには適さない重そうな靴を雫が染めた。熱さで濡れる傍から乾いてゆくのを見るのは不思議と楽しかった。靴の汚れのひとつとなった黒は、固まった土埃の茶色と共に男の行方を暗示しているみたいだ。ついでに撃ち込もうとしたら固い音だけで銃弾は発射されなかった。弾切れだ。
逃げられないことを確かめて、ようやく男の近くに寄った。出血はたいして無いのは分かっている。近い町のハンターオフィスに向かうくらいは保つだろう。後のことなど知らないし、正直どうでもよかった。
手の中の小さな鉄の塊を空に掲げてみた。
コルト・シングル・アクション・アーミー。別名、ピースメーカー。ははは、皮肉な名前だね。
「さあ、行こうか」
意識を失って項垂れている男の襟首を掴み、肩に担ぐ。砂漠の真ん中から揚々と歩き出した。血のにおいに寄ってきたスナザメ共が前を塞いでいた。男の側に落ちた大口径の銃のことを思い出し、適当に拾い上げる。
銃声は全部で六発。一発は発射済みだからだ。そして後に残された数匹のスナザメの死骸を踏み越えて、黙々と足を進めた。熱砂の景色は、照りつける強烈な日差しの元、焼けこげた肉の匂いと、一帯で破壊された鉄くずの色を吸い込みながら、ぼやけて白く輝いている。
視線を向ければ、さっきバラバラになったヴィーグルの残骸にまみれ、大破壊より更に前から放置されていたであろう戦車の亡骸が悲しく転がっていた。原型は見る影もなく崩れ果て、砂漠がどれだけの人間を飲み込んできたのかなどもはや知るよしもない。だが形は失われたとしても、過去は錆びに隠されながらそこに残り続けるのだ。この世界に、彼らが確かに在ったということを示すために。
陽炎のはるか遠くに見える町には煙が細くゆるやかに漂い、上空に昇っていた。
ハンターオフィスに行くと、たいていの場合、窓口には愛想のない代わりになかなかお目にかかれない美人か、愛想の良い可愛コちゃんが詰めている。ここにくるのはそんな娘と喋る馬鹿話のためだ。今回は別だけど。
正直むさくるしいおっさんが無骨な手で賞金を渡してくるよりなんぼか嬉しいのである。
ここはどちらでもなかった。仕事は出来そうだけど、夜のお誘いはあまり無さそうな感じ。
「はい、《ルーズドッグ》ブルーノ本人であることを確認、たしかに身柄を受け取りました。お尋ね者の捕縛、お疲れ様でした。賞金の方ですが……あ、徘徊していたスナザメも倒してらっしゃるんですね。えーと、今回のが合わせて二万Gになります。いまお受け取りになりますか? 溜めてらっしゃるから、そろそろ十万Gになってしまうのですが」
「そーだねぇ、受け取っておこうか」
「はい。ハンター登録名、レッドフォックスさん本人であることを確認しました。賞金はこちらになります、どうぞ」
「はいよ。じゃ、またね。……と、そうだ。ちょっと聞かせてほしいんだけど?」
「はぁ、なんでしょう」
「あのさ――」
楽しい楽しいお喋りの時間を終えると、そろそろ日も没する時間になっていた。
「グッドラック」
心持ち愛嬌の加味された声を後ろから受けて、振り返りもせず手を挙げた。
手にした革袋には十万G分の紙幣が詰まっている。これをぶら下げて歩くと結構な割合でお馬鹿さんが引っかかってくれるんだけど、今はちょっとそんな気分じゃない。その辺で拾ってきたナップザックに入れて、町の出口に向かう。その途中、
「てめえ、おぼえてろよ……」
道ばたでさっき捕まえた雑魚が咆えていた。縄でぐるぐる巻きになって身動きが取れないようになっている。オフィスの職員が苦笑しながらその叫びを聞き流している。一瞬、自分に向けられたものと思わずにあたりを見回してから、ようやく気づいた。
「あー……悪い。誰だっけ?」
「ブルーノだ! てめえ、自分で捕まえておいてそれはねえだろーが!」
「へー。名前あったんだなぁ。脇役にしちゃ、こう、ちょっとした秘密結社の幹部っぽい名前じゃないか。大事にしろよ」
「ふざけんな!」
「ふざけてないんだけどなぁ……せっかく助かった命なんだし、もうちょっと有効に使ったらどう?」
「今日の午後、縛り首の予定だとよ」
「そりゃおめでとう」
「ああん?」
「ムチャクチャやってこんだけ生きたうえに、あっさり殺してもらえるんだろ。お前さんは幸福だね。アタシに感謝したほうがいいぞ」
「……くそ」
「ああ、そうだ。ひとつだけ聞かせてくれよ。さっき聞いたんだけどさ、あんたの《ルーズドッグ》ってどういう意味?」
「知るか」
「ここに煙草があるんだけど、一本、あげようか?」
職員の方は見て見ぬフリしてくれるつもりらしい。欠伸なんかしながら武器屋の外壁に寄りかかった。会話に耳をそばだてること自体は止めないようだ。
煙草を受け取ってから、苦々しい口調でブルーノは答えた。
「そのままの意味さ。おれのいたところが何故かことごとく敵対組織からの襲撃にあってな。なのにおれだけ生き残っちまったから、そんな名前がついたのさ。いるだけで縁起が悪いやつにはそんな不名誉な名前がくっついちまう。バッドラックや死神ってのも昔はいたみたいだが、ま、すぐハンターに殺されたよ」
「ふうん。負け犬ねえ」
「もういいだろ」
「あ、もうひとつ教えてくれたら、火もつけてやるんだけど」
「きたねえぞ! てめえッ、わざとだな!」
「いいじゃんよ。な、ひとつだけでいいんだ」
「なんだよ」
「アタシのこと見て、どうして逃げたんだ?」
「……あんた、レッドフォックスなんだって?」
悔しそうに聞き返してきた。
「そうだよ」
「そこの寝たふりしてる男から、さっき聞いてしくじったと思ったんだよ。真っ赤な姿だから、赤い悪魔の方だとばかり……」
「赤い悪魔、ねえ?」
「知らねえのか。いま界隈じゃそいつの噂で持ちきりだぜ。まあ、オフィスの連中は目撃情報が少なすぎるってことで張り紙はしてないみたいだけどよ。素手で鋼鉄の戦車をぶっ壊し、巨大モンスターを相手にしても笑いながら血祭りに上げていく。行く先々を血と炎の赤に染めあげる、最悪の賞金首のことさ。そいつの前に立って生き延びられたヤツはいないって話だもんな。昔はよ、赤い悪魔って言ったら、最強のハンターの名前だったんだがなぁ。それに匹敵するやつがお尋ね者扱いってのも笑い話だぜ」
そういうのは皮肉って言うんだよ、とアタシは微笑する。
「続きを」
「そいつがヤバイっつうのは賞金首もハンターもおかまいなしってとこだ。おれが知ってるだけでもベテラン――賞金首を二桁は倒してるハンターが、ひいふうみい……四人は殺されてやがるぜ。お尋ね者で消息を聞かなくなったやつの半分はそいつの仕業らしいしよ。賞金首を殺してオフィスに届け出ないなんて、モンスターか赤い悪魔くらいなもんだからな」
「なるほど。良いことを聞いたよ」
「……あ、おい。まさか」
「うん?」
「あんた、赤い悪魔とやり合おうってのか」
「さあね」
「止めておけよ。おれのことを捕まえたあんただから、忠告してやる。相手にしようとしてるのはまさに悪魔だぜ。それに、戦っても誰も信じてくれないかもしれない」
「おや、心配してんだね。分かった、分かったよ。負け犬のブルーノ、そんなにすがりつくような目で見なくても大丈夫さ。だけどアタシに惚れちゃあ、ダメだよん」
「……誰がッ!」
「ああ、それから。ひとつ良いことを教えてやろっか」
「な」
「負け犬に相応しい刑は縛り首じゃなくて、実は牢屋入りだそうだよ。そこのおっさんが何言ったのか知らないけど、お灸を据えるために騙されたのさ。なんでも一般人相手に死人を出したことがないんだって? あはははは。ホントに運が悪かったんだねえ、いやはや」
「え、そんなはずはねえ。さっき、町から逃げるとき、グレネードをあんたに向かって投げつけたはず――あ、あんた。あんな狭いところで爆発したはずなのに……なんで生きてるんだ?」
「あれならアタシが手の中で握りつぶした。火は出たけど、周りにいた連中に怪我は無いよ。こういうのにはコツがあるのさ」
ウインクしてやる。化け物を見る目つきになって、ブルーノが悲鳴じみた声を上げる。
「……あんた、どうしてハンターなんかになったんだ? 地獄のような女狐ってのはもっとおれたちに近いもんじゃねえのか!」
「さあ? アタシが知りたいよ」
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Felix Culpa (3)
丸一日歩いてホーライに着くと、早速彼女のラボに向かった。道中で収入はあまり使わなかった。そもそも路銀は大して使う意味が無いのだ。食事は楽しいが、しなくても二週間くらいは生きられる。水が無いのは辛いが、それでも動かなければ一ヶ月は保つだろう。エネルギーの消費の仕方が生身の人間とは違うのだ。
利点なのか、副作用なのか、それに関しては主観の問題だった。
「ちーっす」
「キミか。なんだ、また来たのか」
「ああ、メンテよろしく」
「また無茶な使い方をしたんだろうな。実費はもらうぞ」
ほいよ、と背中に提げていたナップザックから革袋を抜いて、かるく投げる。何十枚のびっしりと文字の黒が敷き詰められた書類の上に上手く着地する。とすんと間の抜けた音。
「金はそこ。十万G近くまるまる残ってるからさ、足りるだろ?」
「そうだな」
ぞんざいに袋の中身をぶちまけて、テーブルの上に広げると、その半分くらいを適当にとりわけ、もう半分を革袋に入れて投げ返してきた。
「あとは好きに使え」
「ん?」
「こんなにあっても困るだけだからな。必要以上にもらっても意味がない」
「そうかなぁ」
「分を超えたものは何であれ、あまり幸福な結果には繋がらないものだ。ほどほどが一番だよ。そうは思わないかね?」
「ま、いいや。いつもの頼むよ」
「分かっている。そこに横になって寝てろ」
「アタシにゃ睡眠は……」
「あのな。この数年間でキミが来たのはこれが何回目だ。まったく……視覚情報を切って、意識レベルもなるべく落としていればいい。擬似的に睡眠状態にすることはできるだろう? 仮死状態とも言うがね。ああ、但し自動状態にはするなよ。キミの意識が中枢の支配権を離すと、取り戻すまでに数秒のラグが出来るからな。こっちからのアクセスも受け付けなくなる」
「じゃ、任せた」
そしてアタシは眠りにつく。
夢など見ないのだろうと思いながら、穏やかな闇の中へと溶けてゆく。
古い記憶。
そんなものは無い。新しい情報に塗り替えられることなく集積する知識と経験は常に最新のものでしかない。記憶は古くはならない。ただ留まるだけだ。
暗闇のなかで思考は、無限と有限の狭間を行ったり来たりを繰り返す。それを歪めようとするノイズもまた揺り返している。まるでゆりかごのようにやわらかに軋む音色と、流れ去ってゆく景色を彩る様々な色。濁った暗色と、澄んだ明色の組み合わせだ。ひとつのことを考えるうち何十にも重なった意識が収斂され、何らかの答えを出そうとする。その行為を遮るものなどない。ない、はずだ。
見えないもの。
手で触れられるもの。
形のないもの。
心。
ナニカが止めろと叫んで、思考が揺り戻される。別のベクトルを受けて、遠ざかる。
鉄の味は血に似ているとよく言われる。噛みちぎった口内からは血ににた溶液が流れてくる。血の味だと感じるのはそう感じたいからだ。機械になりきれない思考が無駄を消し去ろうと躍起になって騒いでいる。行為そのものがすでに無機物としての矜恃からはかけ離れている。自分で気づいてる。沈黙。血は鉄を含んでいるから似た味になる。すなわち混ざったものは別個ではありえない。
静寂の音。ビープ音。古くなるのは存在だけだ。そこに確かに在ったからこそ、時間の影響を受け続ける。
アタシの、アタシだけの意思。
風化した遺物の錆色。合金の鉄とは異なった感触に違和感を憶える。背中が触れているのは金属と何か別のものを化合して作られたベッドだ。器具は人間の手ではどうにもならないほど小さな存在を扱うために、応じて微細な造りを持っている。明確なプロセスを経て行われるチューニングは人間では不可能な領域までもを弄り尽くした。人工皮膚を張り替えるときに鳴る肌の破れる音や、細い針を打ち込んで設定する機器の硬質な響き。耳はそれらを余さず捉え、必要とする情報だけにより分けようとする。リアルがそぎ落とされる前に、無理矢理すべての情報をゴミ箱の直前から横取りする。違う。奪還する。ナニカがそれを無用と見なした。しかし、アタシは得るものと失うものを自ら決める。
ぼやける視界。視覚の部分にはまだ充分な水分が補充されていないようだ。人工の躰。機械の躰というと彼女は怒るだろうか。それとも散々説明されたことだから、呆れるだろうか。
生体と似て否なるパーツは随意筋の区別無く自由に動かせるらしい。躰を構成しているやわらかな機械。元々持っていなかった機能を備えた不安定にも完全な四肢は、アタシの意思無くしては身勝手に動かない。けれど脳以外の部分はすべてアタシのものではない。
感覚は擬似的になら再現することは可能だった。触覚も味覚も聴覚も視覚も、基本的には人間よりも鋭敏で、大量の情報を受け入れるだけのレセプターの役割を存分に果たしてくれる。本来、人間が無意識に切り捨てる過多な情報をアタシは自らの思考が追いつく限り、自分の手で排除しているに過ぎない。あらゆるものを聞き分けることも、どんなに小さい違いを見分けることも容易い。
人間にはそれだけの力が備わっているはずだ。しかし、常時そんなことをしていたら情報の海に溺れて発狂する。アタシは狂わないでそれを自覚的にやっている。あるいは狂っているからそんなことをやりたがるのかもしれない。
そうする理由はある。なるべく感覚を信じたいからだ。
心の存在。
だがそれを証明することは誰にも不可能だ。だけどもし、心さえ自分のものでないとしたら。
――アタシはいったいなんなんだ?
同じ疑問に行き着いてから、ナニカが悲しそうに震えた。そのナニカの正体は分からなくて、それがもし心だとしたら、分かりやすい矛盾を抱えているようだった。
悲しみながら喜んでいるのだから。
「目が覚めたか。今、検査が終わったところだ。何か不調な部分はあるか?」
「無いよ。ありがと」
「そうか。ならいいが……。まあ、時々は顔を見せにきたまえよ」
「ん?」
「前にも言ったが、物理的には永遠など存在しないんだ。キミも、いつかは壊れる。無茶をすればするほど早くそのときが訪れるだろう。それを死と呼ぶかどうかは当人の定義に任せるがね」
「平穏無事に生きたとしたら?」
「上手くやれば百年以上保つかもしれない。但し、清潔な場所で身じろぎひとつせず健康的に過ごし、なおかつ私がそれだけの長さを生きているか、私並の技術者を新しく見つけられたらの話だ」
「つまり、このまま行けば?」
「十年保てば御の字だろうな。このペースで消耗させるのは寿命を削っているに等しい。代えの部品などそうそう見つかるものじゃない。ついでに言ってしまえばだな、キミの躰はエネルギーを常時大量に消費し続けるくせに、補給することが難しいんだ。これから先、使いすぎで一度枯渇したら回復は困難だぞ」
「不可能とは言わないんだ?」
「不明だが、どちらとも言えない。確定していないものについて自ら可能性を否定することは、すなわち科学の敗北だからな」
「了解。これからはなるべく気をつけることにする」
「嘘をつけ」
「あはは。はいはい、ご心配どーも」
「……神経がバラバラになるような痛みを憶えたら、アリス・ワンのレオンのところへ行ってみるといい。旧世界の遺物を見つけるのが生涯の趣味だという変人だ。何か役立つモノがあるかもしれない。とは言え、シロモノがあったとして、素直に渡してくれるかは運次第だがね」
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Felix Culpa (4)
唐突に、ふっと意識が途切れる瞬間がある。
自分が自分でなくなるような、そんな感覚だ。気づいたときには周囲のすべてを破壊し尽くした後だった、なんてことも珍しくない。
躰を明け渡しているのだ、と言われればそうかなと思う。その相手は正体の分からない、内側で蠢くナニカだった。誰が名付けたのか、それには赤い悪魔だなんて名前がついている。正直、多少羨ましくもある。名前とは本来自ら名付けるものではなく、他人から――親が勝手につけるものだ。この世界によって再び産み出されたことを考えれば、一般的なプロセスを通って形作られたのは赤い悪魔の方だった。
そのくせ、アタシは恐れていた。自分がどういう風に動き、どういう風に殺したのかを知らない状態などあってはならない。
二律背反。
破壊しようとしているのは自分だということを否定しない。それに自分がやるべきことを、躰はあまりに知り尽くしているのだ。そしてその通りに、寸分の狂い無く動いているに違いない。完璧に。だが、意思と離れて行われている。結果が同じなら過程などどうでもいい、とはどうしても思えない。
我に返る。
銃を突きつけていた。
手は自分の意思のままに動いている。僅かな電気信号。筋肉の役割を果たす擬似神経とナノマシンの巣である肉体は脳からの発信を直接受けている。決して遠隔操作によって操られることも、誤作動することもありえない。だとすれば内側からの命令だ。自身の意思に他ならない。
震えている顔からは鼻水と涙がこぼれている。どこかで見た賞金首のポスターと同じ顔だった。周りにはとうに人影の無い。しかし男の仲間であろう人間の残骸が、これでもかと言わんばかりに打ち棄てられている。男は何事かを泣き喚きながら、失禁した。
「――」
よく聞こえない。
「――――」
だから、聞こえないんだってば。苛立った。
「――ッ!」
聴力が失われたわけではない。その声が耳に入る刹那、言葉としての意味が分からなくなるだけだ。人間の喉からほとばしる、何かの音の羅列が続く。何の感慨も抱くことなくその様子を見つめている。
まるで審判だ。意思だけがルールだった。殺すか、生かすかはアタシの手によってどうとでもなる。
銃口はぶれることなくその男の頭に狙いを定めており、決して外すことのない距離にあって指は引き金にかかっている。ソフトタッチだから軽く触れるだけでも弾丸は一直線に男の頭蓋骨を砕き、真後ろの茶色い壁へと突き刺さるに違いない。唇が何かを囁く。
赤茶けたレンガが地面に二、三個落ちている。その方向に、男は必死になって手を伸ばす。その動きに気づかないフリをしてゆっくりと指に力を込めようとする。声は何も聞こえない。それが声だと分かるのだから、たぶん躰はその言葉の意味を理解しているのだろう。
順繰りに蠢く指。吐息。
空高くから張り付くような逆光が、視界一面を白く染め上げた。
音。
男の口の動きはこう読み取れた。
たすけてくれ
「あっちゃあ、悪い」
もう遅かった。気づいた瞬間にはすでに撃ってしまった後だった。反射的に、というわけではないはずだ。何も音がしなかったわけじゃない。ただ聞こえなかっただけだ。その証拠に、遅れてきた別のハンターの足音が騒がしくこの場所に向かっている。
到着して開口一番にその男は叫んだ。顔に刻まれた皺の造りが、悲しむより笑っていた時間のが長いことを想像させた。
「なんで……なんで殺した!」
「なんで、って?」
「その男はさっきから叫んでただろうが! 投降する。頼む、助けてくれ。殺さないでくれ。助けてくれ、って」
「そっか、そんなことを言ってたんだ」
「それをお前……」
ハンターは周囲に目を遣った。破壊の爪痕も新しく、ひん曲がったアサルトライフルを見て動きが止まる。二つ折りになって逆に折りたたまれた人間の体や、四肢がひしゃげて見るに堪えない肉塊と化した物体。弾け飛んで赤黒く染まった頭の無い死体。ちょうど体の中心部だけが吹き飛ばされたかのように穴の空いた、襤褸と似た何か。
そして煙の漂う黒い穴から、衝撃で脳髄の飛び出た賞金首の顔。
「なんて残酷な真似を」
「そうかい? こいつらだって似たようなことをやってたんだろう?」
「だからって同じことをやる必要はないじゃないか!」
「あはは、アンタの手は汚れてないっていうんだったら、お説教も聞いてあげてもいいんだけどね」
むせ返るほどの血の匂いが充満している。まともな人間なら入り込まない暗い路地の奥だとはいえ、狭いなかでこれだけの破壊された人体が無造作に転がっているのを見たのだ。ハンターは吐き気を催したらしい。
「アタシのやり方が気にくわないなら、戦おうか?」
「なんだと」
「アタシは強い。強いヤツは正しいのさ。ハンターになるとき習わなかったかい? 強くなきゃ、何を言っても無駄だってことをさ」
「……レッドフォックス、まさかお前……赤い悪魔か!」
「だとしたら?」
「酒場で見たときはえらく良い女だと思ったが……俺のカンは当たりすぎたらしいな。後をつけろってカンが強く叫んでたんだよ」
「ああ、自分ならやらせてくれるとでも勘違いしてたんだ? はははは、そりゃ悪かったねえ。でも、アタシを相手にするには……アンタみたいな雑魚じゃ分不相応もいいところ。身の程を弁えなよ」
「言いたいことを言ってくれる。だが、なぜ、黙っていたんだ? 赤い悪魔は血に飢えてるって評判じゃないか。手当たり次第に勝負を挑んでいるわけじゃないのか」
「あっはっはっは。なに言ってるんだい。賞金首がはいどうぞごらんあれ、なんて首を晒すわけがないだろ?」
「違うな。お前は、そんなことを気にする人間じゃない」
「まあ、ね」
「俺も良い女相手に手荒な真似はしたくない。大人しくハンターオフィスに……」
「デッドオアアライブかぁ。でもね、結末は変わりゃしないんだよ。赤い悪魔のやったことを全部知ってるのかい? 生きて連れて行ったら、まず縛り首は確実さ。そうでなけりゃ銃殺。よくて獄死か安楽死。ハンターにしちゃあんたは甘いね。ああそうそう、あいにくひとつ訂正しておかなきゃいけなくなった」
「なんだと」
「気にしないのは、実際そうなんだけどさ。そもそも、アタシは、もう人間じゃないんでね――」
男の顔色が変わる。
それなりに修羅場もくぐってきた猛者ではあるのだろう。だが、悲しいかな役者不足にもほどがある。アタシを相手どって生き延びられるレベルには到底届いていない。実力差が見て分からないようじゃ、どっちにしろ先は長くなかっただろうけれども。
「アンタ、正義の味方のつもりなんだ?」
「だとしたらなんだ」
「聞いてみただけ。さぁて、アタシに殺されないよう精々気をつけな!」
撃ち合いにすらならない。ハンターは、町中の狭い道だからと戦車も持ってこなかったのが災いしたようだ。結局、何分も保たなかった。あまり気分が良くないのは、気のせいではないようだ。ひどく、気落ちした。
こんなくだらない戦いをする羽目になったことに対して。
体についた血を落とすために宿屋に向かう途中、賞金首と一緒くたになってハンターオフィスに引きずられていく死体を見たからかもしれない。つまらない。弱いくせにどうしてやり合おうとするんだろう。真剣に疑問だった。馬鹿じゃないのか?
死んだ後の肉体はタンパク質の塊だと誰かが言っていた。
ならばもし生き返ったとして、その物体には再び魂が宿るのだろうか。それとも心が連続していない限り、蘇生は無意味なのだろうか。今のハンターにしたって、もし可能でも生き返らせるだけの意味があるとは、到底思えない。
死んだらそれまでなのだ。
なのに、彼らが死に急ぐのはどうしてなのだろう。自ら危険に飛び込んでおいて、後になって死にたくないと泣き喚くのはまったくもって馬鹿馬鹿しい。
物思いにふけりながら、思考の片隅でほんの少し同情する。
戦う素振りを見せず、みっともなく逃げ出していたのなら、見逃してやってもよかったのに。
風呂に入って血を洗っている最中、さっきと同じに意識が急に飛んだ。
カタカタと映写機の廻る音がする。イメージの問題だろう。記憶が映像と音を鮮明に保存しておく術となっているからだ。アタシという個体から見た世界をそっくりそのまま映し出すことが、ムービーの形を取るというのはなかなかに洒落ている。
音声は虫の音の混じったみたいに雑音だらけだ。
場所はすぐに分かった。いつだったか、目的もなく彷徨っていたときに辿り着いたトリカミという町での出来事だ。大破壊を生き延びたというじいさんの一人と会った。酒の入った濁った瞳でアタシを見て語った。そして、その次の日に死んだ。
あの町ではもう、大破壊後の生き残りは居酒屋の飲んだくれ一人だけだ。
アタシを見て、血の匂いでも感じたのだろう。
睨み付けるようにしてこちらの全身を凝視し、じいさんは口を動かした。強い酒の匂いが鼻につく。酔っているせいで赤らんだ顔は泣いているようにも見えた。
「世の中ってのはさ、色んなもんが不思議な具合に繋がってやがるんだ。ひとはそれを絆と呼ぶし、おれはそれを鎖と呼んでる。なあ、あんた。他人を殺すやつがいつか他人に殺されるのは運命だと思うか? 他人を守るやつが他人に殺されないなんてこと、ねえのによ。誰もが自分の未来のことなんかしらねえで、必死に生きてやがるんだ。精一杯にな。違うかよ、違わねえだろ? なら生きることが……それだけが正義じゃねえのか」
大破壊。それを生き延びたという記憶は、精神をひどく疲弊させるものなのだろう。生きるために他の人間をその手で殺したのか、それとも見殺しにしただけなのか、あるいは救える人間を救いきれなかったことへの後悔なのか。
所詮は後世からの想像に過ぎない。その実際のところを知る者は彼らしかいないのだ。だが、アタシと何が違うのだろうか。
他の人間とどこが違うと言うのだろうか。
何も変わりはしない。人間が何かを犠牲にしながら生きていくように。それは命だけでなく他人の幸福をも奪い取って、自分の人生を豊かにしているのと同じことだからだ。荒くれ者は望みを叶えるために他人を省みない。自分のためだ。ハンター達は他人を助けるために自分を顧みない。畢竟、これも自分のため。ならばどちらも同じものだ。それが他者に対してどういった結果を残すのかの違いは、過程に左右されはしない。
生きた証を探し求めるくらいなら、生き続ける方がよほど誇らしい。
赤ら顔のまま、じいさんが目を剥いて呆気なく死んだ。誇りも輝きもなかった。苦しそうに天井に向かって手を伸ばし、何事か大仰に呟こうとして、それすら出来ずに血を吐きながら。
始まったときと同様、ぷつんと途切れて映像は消滅する。これがアタシの識閾下にいるナニカ。悪魔とでも呼ぶべき何かの趣向だとすれば、やはり趣味が良い。褒めてやりたいくらいには。
それから、吐き気を及ぼす程度には。
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Felix Culpa (5)
街を出て数日後からだった。いつかお前に殺された賞金首の敵討ちだとか、自分を最強だと勘違いしている賞金稼ぎとか、殺したヤツの身内だとかで報復に来た連中が大量にいた。人目につかない場所までおびき寄せて皆殺しにした。
ハンターとしてのレッドフォックスの名前を知らないがために、赤い格好をした人間を手当たり次第に狙っていたらしい。アタシに行き着いたのは運が良いのか悪いのか。この分だと、無関係に殺された赤い服を着た女性がいそうで気分が悪い。
とにかく、殺すつもりなら殺されることも覚悟の上に決まっている。
それから一ヶ月近く、アタシは死人の群れを呼び寄せているようだった。生きていようが死んでいようが、どちらにしろ同じことになった。噂でもばらまかれたのか、それともとうとう赤い悪魔の賞金額が決まったのか。困ったもんだ。
殺したくない相手まで殺しちゃうのはあんまり気分の良いもんじゃない。ここんとこ晴れやかな気分になった憶えがない。
適当に追っ手をまいて、荒野を歩いて抜けた。
小さな村に着いて、宿にでも泊まろうかとしていたときのことだ。
近くにはトレーダーキャンプしかないし、オフィスすら無い村だ。偶然うろついていたときに見つけた。地図にも載っていないのだろう。そんな村だから、多少はゆっくり出来るかと思っていた。
歩みが自然と止まる。
背後の気配は素人のものだった。尾行するにしても、もう少し上手に隠れないといけないことを忠告してあげるつもり振り向いたとき、思いっきり困ってしまった。
「えっと……お嬢さん、なにかようかい」
「あのっ。お願いがあるんです」
「待った、お嬢さんが探している相手の名前を言ってみな。それによってアタシも返答を変えるからさ」
「――」
息を呑んだ。
びくびくしながら口にしたのは、
「ハ、ハンターの方ですよね」
という、曖昧な答え。アタシを特別探していたんじゃなくて、ハンターを求めていたらしい。興味が湧いて対応を変えた。
「オーケー。仕事の依頼なんだ?」
「は、はい」
「まず内容は」
「アタシの護衛をお願いしたいんです。ベルディアまで」
「ふうん。一人旅は初めてみたいだから教えてあげるけどさ、それってソルジャー……傭兵向きの仕事だよ。付け加えると、アタシは壊す専門でね。守る方はあんまり得意じゃないんだ」
「……お願いします」
「いや、だから」
「お、お願いしますっ!」
強い口調に一瞬だけ気圧される。
「ま、とりあえずそこの酒場で話を聞こうか。報酬とかも決めなきゃいけない。どうやら別の事情もあるみたいだしね」
「……はい」
「で、名前は?」
「ジェシカって言います」
「そう。あ、マスター。ダイノルフィズ、一杯ちょうだい。お嬢さんは?」
「ボムポポ酒を」
「だってさ。よろしく。で、報酬については……まあ、成功報酬でいいんだけど、いくらぐらい出せる?」
「それなんですけど、これが私の全財産です」
そういって取り出した財布の中身は、傭兵を雇うにはギリギリといったところだ。相場というものも一応決まっているものだし、一般市民が出すには充分高い。これでもかき集めた方なのだろう。この町の住人だとすると、それほど裕福ではないことも分かり切っている。
返答を待ちわびている姿は不安そうだった。まるで子犬のようだ。
「アタシを雇うには少し足りないな」
「なら、ダメ……ですか」
悲しそうに呟く。
「但し、事情の方を正直に、包み隠さず話してくれるんだったら料金の方はサービスしてあげるけど?」
「い……言えません」
「じゃあこの話は無しだ」
「……ごめんなさい。分かりました」
「あ、ひとつ聞かせてくれるかな。アタシに断られたら一人でも行くつもり?」
「はい」
「へえ、そりゃ勇気がある」
「え?」
「だってさ、賞金首に狙われてるってのに、武器も持たずにたった一人でここからベルディアまでじゃ、まず生きて帰ってこられないだろ?」
ひっ、と彼女は息を呑んだ。手を口元に持っていったさりげない仕草が感じさせたのは、触れたら折れてしまいそうな細い腕だという印象だった。荒事を目の前にしたら、即刻気絶しそうな華奢な娘だ。
「なんで……それを?」
「カマかけただけだよ。お嬢さん。わざわざハンターに頼む理由なんて、それくらいじゃないか」
「……武器なら、ありますから」
「使いこなせるようには見えないけど」
「せめて相打ちにもちこめればいいんです。それに、あなたは護衛を断った。代金も払えない貧乏人の私が何しようと、関係ないことでしょう?」
「うっわ、惜しかった。最初からそういう気概が見えてれば話も聞かずに放置してあげたんだけどなぁ。さっき言ったはずだよ。話してくれたらサービスしてあげる、って」
「……ハンターさん」
「アタシの名前はレッドフォックスだ。よろしくねー、ジェシカ」
「は、はいっ。よろしくお願いします!」
ごん、と鳴った。
テーブルにすごい勢いで頭をぶつけたようだった。笑いを堪えながら、これだけ言った。
「あのさ、ここの払いだけお願いできるかな?」
「あ、かまいませんけど……これが全財産なんですけど……」
アタシは聞こえないふりをした。
「任せたよ、じゃ、行こうか」
いた場所がドアンの周辺にある小さな村だったという事実が判明したのは、ジェシカの先導で丸一日かかってドアンに到着したためだ。ここから砂漠を抜けてアリス・ワン、金があるなら列車に乗ってイースト・ゼロまで一気に行ける。無ければトンネルを抜けるという面倒な作業が待っているわけだ。
砂漠の途中で小休止した。見た目通りに華奢ではあるが、足腰はそこまで弱くない。深窓のお嬢様というわけではない。町娘なのだ。
一定の速度を守って進む。この分なら日が落ちる前に街まで辿り着けるだろう。線路に沿って行くのが一番簡単だけど、最近になって荷物を襲うことを憶えたモンスターが増えているらしい。護衛なのだし、無用な危険は避けるべきだった。
「と、思ったんだけどさ」
「はい?」
頑張って歩いているジェシカに、あごで正面を指し示す。
バイオバズズやATホーネットの群れが向かってくる。狙いはジェシカらしかった。
「きゃっ」
可愛い悲鳴だこと。
「後ろに下がっててくれる? ジェシカにゃ指一本触れさせないから」
「はい、お願いします」
さっさと片づけよう。と、ふと思いついたのは武器を使うことだった。
銃は腰に、剣は背中にある。手っ取り早く殲滅するために持ち歩くようになったのだが、威力がありすぎてあまり使う機会が無かったのだ。
剣を手に縦横無尽に走り回る。ジェシカは立ちすくんでいる。こういうのを目の当たりにするのが初めてというわけでもないだろうに、立ち向かう勇気が足りないようだ。
真っ二つに切り裂いた機械蜂が爆発する気配を背中に、彼女の前へと一気に飛び込んだ。突如、吸収しきれないショックが発生した。躰を支えきれずに転がる。背後からの衝撃は爆風ではなく、機銃によるものだった。
振り返った先にあったのはガンタワーだ。決して怖い相手じゃない。怖い相手じゃないが……なんでこんなところに。
銃に持ち帰るには間に合わない。手持ちの武器は剣だった。砲台がこちらを向く方が早い。弾丸を切り裂くことは不可能じゃないが、今やっている仕事は護衛だ。ジェシカはどこにいる? 後ろ。避けるにしろ弾くにしろ、先に攻撃しないことには無事とは言えない。
銃では威力が足りない。一撃で破壊するにはいささか距離が離れている。くそっ、ドラグノフでも持ってくるんだった。
思考が焦りを叫んでいた。しかし躰は最短の道を綺麗に動く。殺戮する手段を識っている通りになぞってゆく。それを意思の力で押さえつける。制御を自ずから狂わせた反動か躰が言うことを聞かない。軋む。ナニカが苦しげに唸る。話が違うぞと怒っているみたいだった。
思い通りにならない躰を、あるはずもない痛みを感じながら、動かした。
「――これで、どうだ」
そして火薬の炸裂する耳障りな音がした。瞬間的に腰から崩れたジェシカを狙っているのが軌道からも確認できた。腕を伸ばす。
「きゃあッ!」
砲弾が突き刺さった手のひらを起点にして、巨大な爆炎が吹き上がろうとする。摩擦熱と衝撃が伝わると躰全体に危険を訴え始める。思い切り前方の地面に叩き付けることでその威力を少しでも抑えようとした。
上手く行ったのか行かなかったのか、分からない。
背後での荒い吐息を耳にして即座に足を動かす。剣は切るためのものだ。力任せの一閃で鋼鉄でできたガンタワーの外殻がひしゃげる。もう一度振り切ると、火花を散らしながら内部の機構と共に嫌な音を立てた。鉄を叩き割ったのだ。
振り向いてみると、一応、ジェシカは腰を抜かしているだけのようだった。よほど恐ろしかったのだろう。蒼白な顔で地面を見て俯いている。
「無事?」
聞くと、ジェシカはこくこくと大きく首を縦に振った。
「村の外に出た感想は?」
「怖い。怖かったです」
「なら行くの、やめるかい?」
「いいえ」
「でもさ、ベルディアに行ってどうするんだ?」
「妹が住んでるんです。アラン様のお屋敷で、メイドとして働いているんだって」
「そう」
「一目、会いたかったんです」
「……分かった分かった。じゃ、もうちょっと頑張って歩こうか。アリス・ワンはここからそれほど距離もないから」
「はい」
アリス・ワンに着いて最初にやったのは、まともなベッドにジェシカを寝かせることだった。安宿でもかまわない。初旅で神経が疲れ切っていたらしく、早々と寝ついた。ぐっすりと熟睡しているのを確かめてから椅子に腰掛けた。
窓から空を見上げる。星の見えない夜空だ。
最終の列車はすでに出たあとだったから、どんなに早くとも明日の早朝まではこの街に留まることになる。今のうちにレオンとやらに会いに行ってみるのも良いかもしれない。と、ここまで考えてかぶりを振る。この娘の護衛の最中だ。それ以外のことはやらない方が良い。
なんでこんな面倒な仕事受けちゃったんだろーなー、なんて考える。誰かに重ね合わせている? はっ、まさか。
だいたい、そんな風に思える人間はいないんだ。
階下は人間同士の喧嘩で騒がしい。酒に飲まれた男と、喧嘩っ早い馬鹿が取っ組み合いをしているようだ。叫び声だけでその原因まで分かるというのは両者とも、悲しいほどに単純な性格なのだろう。アタシは飛び火しそうにないことが分かって放っておくことに決めた。
やがて静かになる。いいかげん酒場も終わる時間だった。出歩くような連中はまともな生き方をしていないヤツらだけの時間。善人達はすやすやと眠りについている。
こんな人々の日常もむなしく、夜はただ更けてゆく。
後ろ向きに座り、椅子の背もたれにあごを載せてぼうっとしてみた。あれこれ考えても答えが出ないことは分かり切っていた。だから耳を澄ませる。遠くで聞こえる慌ただしい足音や、サイレンサーで薄まった銃声の響き、誰かの悲鳴。そういったものを聞き流しながら、風の声だけを耳に留めた。
列車に乗るときのジェシカとのやり取りは見物だった。
「なんでこのお金から出すんですかっ! これは、あなたが受け取る報酬です! 私にはそれ以上の支払い能力は無いんです! 最初にそう言ったじゃないですかあっ!」
と、言い切って満足げにはぁはぁと息をついた。ジェシカに深呼吸させてから、よーしそれじゃあこうしよう、と大げさに頷いておく。
「分かった分かった。じゃあまず、アタシがその金を先に受け取らせてくれ」
「え……あ、はい。どうぞ」
こういうときは素直に渡すんだ。不思議と。
「うん。店員さん。これ列車のチケット代ね。ふたり分。そ、もちろん三等客室で。はいはい、じゃあそういうことで」
「あれ? あ、ちょ、ちょっと。待ってってば、レッドフォックスさん!」
「さー、早くしないと乗り遅れるよ」
「え、ええ、あのっ」
「ほれ、そんな大声あげて注目集めたら恥ずかしいだろうに」
よっと、ジェシカを片手で持ち上げて運んでしまう。列車内に入ると他の乗客の目もあって、流石にそれ以上荷物扱いで持ち運ぶわけにもいかない。降ろしてやると不満たらたらの顔で文句を言ってきた。
「ま、いいじゃん」
「良くないですっ」
「それよりほら、見てみなよ。良い景色じゃないか」
「はぁ、……あ、本当に」
「別に後から請求したりしないよ。安心しなって」
「そういうことを言ってるんじゃないんですっ! もうっ……」
すねたように笑う顔が、ちょっぴり可愛かった。
時間よりも人為的ではあるけれど、景色はひとところに留まることなく流れ続けるものだった。列車が走り続ける限りはずっと。それは人間が行き続けている限り、時間が流れているのを感じ取れるということとそう大した違いはないのかもしれない。
それはそれとして。
そっぽをむいて不満を表明しているジェシカの横顔に語りかける。
「列車内にカジノもあるんだってさ」
「はあそうですか」
「食堂車にも行ってみるのも良いかもしれない」
「ああ、そうですか」
「一等客室の乗客のフリして部屋の中に紛れ込んでみるとか、どーだろ」
「ご勝手に!」
「そんなに怒らなくったっていいじゃないか」
「怒ってません」
「あはは。まあ、そんなに長い旅じゃないんだしさ」
「それより、報酬はどうするんです」
「だーかーらー、言った通りだって。酒場での支払いでちゃらだよ。これでもめいっぱいサービスしてあげたんだからさあ。泣いて感謝されこそすれ、こうして怒られる謂われはないと思うんだけどねえ」
「分かりました! 感謝してます! でも最初に言った分はしっかりと払わさせていただきますからね!」
「意地っ張りだなぁ」
「どっちが」
ジェシカは聞こえないよう、小さな声だがはっきりと呟いた。聞こえてしまったから、座席に深く腰掛けながらも苦笑を隠さなかった。
カジノにジェシカを無理にでも連れて行ったのは、アタシが行きたかったから以外の何物でもない。
「コイン、一枚借りるよ」
「どうするんです?」
「なぁに、遊ぶだけさ。正々堂々とね。でも、まっとうな勝負、つっても店側に有利なルールなんだけど」
「そうなんですか?」
「そーだよ。そうじゃなきゃ、わざわざトラブルを引き寄せる火種になるカジノなんて誰も経営しないもん。世の中、ギブアンドテイクで廻ってるのさ」
「……やっぱりやめておきません?」
「だから遊ぶだけだってば。心配しなさんな。ジェシカは見てるだけでいいからさ」
席に着いた瞬間、ディーラーは視線をかるく背けた。鉄火場をくぐり抜けてきた歴戦の――というには度胸が無さ過ぎる。若い男だ。雇われディーラーにしてもいささか経験不足、と言ったところか。
「まずはルージュから。替えたチップは一枚だけだから、当てに行ってみよう」
赤か、黒か。
狙い通りに入れるだけの腕があると見れば、わざと当てさせてやるという遊び心も持ち合わせているだろう。
予測通りに、赤の19。
「おめでとうございます。楽しんでいってくださいね」
「ああ、ありがとさん」
たとえば運命が誰かの趣向通りに動されるようなものならば、幸運のあとには落とし穴が待っているだろう。所詮、人間はそれを真似ることしかできない。意味もなく幸運だけを与え続けようとすることは難しいのだ。だからショーとして演出し始める。ひとつの舞台。ひとりの主役と、それを彩るための脇役達を配置しようとする。
三度、当て続けた。
イーブン。再びルージュ。ついでに、黒の23。チップは2枚、4枚、そして140枚に増える。もちろん全額、そっくりその通りに注ぎ込んでおく。
当てさせてやろうというディーラーの狙いどころが容易く読める。次で一度裏切られなければならない。腕が動く。ルーレットが回り出す。そして一枚のチップを残してゼロに置くと、玉が入るのを待つ。
男は怪訝そうな顔をして、その表情をすぐさま消した。滑るような流麗な動きで玉が入る。転がりながら鳴る摩擦の音、速度が落ちていき数字ごとを隔てるための敷居の部分に引っかかり、跳ね返る。
ゼロの隣に玉は落ちる。
「うわ。惜しかったです」
ジェシカが本当に残念そうな顔でつぶやいた。それを耳にしたディーラーが微笑を浮かべた。ふたり分の感情を秤ながら、ジェシカに顔を向けて答えた。
「いやほんと、惜しかった。そうだ。ジェシカさ、この最後の一枚で賭けてみない?」
「え、でも」
「ジェシカの好きな番号は?」
「あの、その」
「じゃあ……」
「あぅ。……えっと、えっと。その、5で!」
「オーケー。じゃ、5にしよう」
会話が終わるのを律儀に待っていたディーラーは、すっと微笑を引っ込めて他の客の動向に目を配る。隣を覗く。若い女がふたりという組み合わせだ。意外にも注目されていたらしく、逆隣にいた白髪の紳士と目があった。
「失礼、麗しいお嬢さん方なので、つい目を奪われてしまいましてな」
「そりゃどーも」
「あ、回すようですぞ」
ルーレットが廻る。運命の車輪のごとく。玉を握っている手には汗ひとつかかないよう訓練されているのだろう。冷静にどこに入れるべきかを図っている。だが客を楽しませるという目的よりも、搾り取ろうとしているのが見え見えなのはいただけない。
ジェシカの方はと言えば、なんだかんだ言って真剣に玉の行方に集中している。慣れない遊びに夢中になっているのだ。アタシはかるく首を傾げ、ディーラーの顔に向かってにっこりと笑いかけた。
玉を投げ入れる行為の最中だった。
男の心中をうかがい知るのはそう難しいことではない。何度勝たせても、どんなに華を持たせてやっても、最後には自分のテーブルにすべて置いていかせるのがつとめだ。そしてそれを邪魔するつもりはない。
ただ、にんまり――いや、にっこりだっけ?――と笑いかけただけで、動揺してしまう程度では、まだまだ修行の必要があるだろう。最後の一枚を奪い取ろうとする役目だった玉は、くるりくるりと輪を描いて、やがて収まるべき場所に収まった。
5だ。
35倍の配当が来て、ジェシカは大はしゃぎしていたのを見て、満足した。ディーラーの渋面はこの際無視しておこう。不粋な真似をしない方に賭けておいたけど。
チップは、テーブルを離れてジェシカがスロットを繰り返しているのを見ているうちに一瞬で無くなってしまった。儲けることが目的じゃなければ、外すことも遊びなのだった。
列車を降りるときにはわだかまりも解けていた。と、思っていたのだが、実際はジェシカが諦めただけだったようだ。
「ハンターの方って、みなさんこうなんですか?」
「こう、って?」
「……分からないならいいです」
肩をすくめておいた。
だから一応言っておくと、イースト・ゼロに到着してすぐ、騒ぎに巻き込まれたのはアタシのせいではない。もちろんジェシカが悪いわけでもない。あえて言うなら、運が悪かったのだ。
「で?」
倉庫の前で、武器屋の親父が睨みをきかせていた。これっぽっちも怖くないのだが、やはり厳つい顔の筋肉ヒゲ親父なせいか、ジェシカが怯えていて小刻みに震えている。参ったね。こりゃ。
「アンタらは巻き込まれただけだってのか」
「そうだよ」
悪びれずに答える。
「こんな可憐な乙女ふたりと、こんなアホ面のおっさん達を一緒にしないでもらいたいもんだね。横流し組織なんかにゃアタシらは関わってないよ」
「どうだかな。言い逃れるために仲間を陥れるヤツなんざ掃いて捨てるほどいるぜ」
「その程度で裏切られるようなのは元から仲間じゃないじゃない?」
「それもそうだ」
「ま、信じてくれとしか言いようがないね」
「いいだろう。あんた、名前は?」
「アタシはレッドフォックス。こっちはジェシカだ。これからベルディアに向かうところなんだけど……良い迷惑だよ、まったく」
「ふうん。レッドフォックス、レッドフォックスね……ああ、ハンターのか!」
「そうだけど?」
「あんたの名前は聞いたことがあるよ。巻き込んで悪かったな。あ、じゃあ可憐な乙女ふたりというより、美女と野獣じゃないのか?」
「あっはっはっは。おっさん、冗談が上手いな」
「……あー、いや、悪かった。…少ないが、取っておいてくれないか」
「えらく待遇が違うねえ」
「いやさ、あんたがトッ捕まえた賞金首のひとりがな、うちの店から武器をかっぱらったヤツだったんだよ。そいつを懲らしめてくれた礼だ。路銀の足しにでもしてくれ」
「じゃ、ありがたく受け取っておくけど」
「ああ、良い旅をな」
「おっさんも良い商売をね」
「がははは。違いない」
「じゃあね」
イースト・ゼロを出てすぐ問いかけた。ジェシカがいきなり振り向いたアタシの顔を見てびっくりしていた。
「よく考えたらさ」
「はい?」
「ジェシカ、囮をやりたかったんだろ?」
「……」
なかなか陽気だった旅のうちに、そのことをすっかり失念していたらしい。沈黙してしまった。彼女の手を取り、普通を意識して歩かせながら、付け加えた。
「そいつは仇かなんかか? それとも目撃者は消す、みたいな?」
「それは」
「言いたくない、ってのはナシだよ。ここまで来たら別にかまわないだろ?」
「……はい」
「どのみち、ちゃんと後ろから着いてきてくれてるしさ」
それを聞いて反射的に振り返ろうとした彼女の動きを片手で押さえる。
「流砂地帯を行こうか。ちょっとキツイ道だけど大丈夫かい?」
「私のことは気にせず」
「そういうわけにもいかないよ。雇い主の意向は大事にする方なんでね。……まあ、ひとに雇われたのは初めてなんで、流儀ってのを決めかねてもいるんだけど」
「レッドフォックスさん」
「そうそう。遠回りだし、周りが砂だらけの中を半日は歩くよ? いいね」
「はい」
言葉通りに砂だらけの道を通る。いや、道無き道をだ。
「大丈夫かい」
「へっちゃらです」
「そりゃ良かった。じゃあ、もっと遠回りしてもいいんだ?」
「う。……ごめんなさい」
「強がるくらいなら最初から別の道のが良かったかね」
「いえっ。いいんです」
「じゃ、先を急ごうか。時間が掛かる道を早め早めに抜けていくんだからさ」
「はい」
途中、奇妙な塊を見つけた。
「なんだあ、これ?」
知っているような気もしたが、それの名前が分からない。砂漠でも枯れずにあるのだから、サボテンの一種なのだろうが。
「あ、緋牡丹ですよ」
「ふうん?」
「緋牡丹は全身が真っ赤なんです」
「アタシみたいに?」
ジェシカは冗談と受け取ったのか、笑った。
「あはは、そうですね。それで、サボテンなんですけど……葉緑素が無いから光合成出来ないんです。そのままじゃ生きていけないんですよ」
「へえ」
「それでどうするかっていうと、他のサボテンに接ぎ木するんです。増やしたかったらの話ですけどね」
「なるほど。やっぱりアタシと同じよーなもんなんだ」
「レッドフォックスさん?」
「なあ、ジェシカ――」
不意に口をついて出そうになったのはこんな一言だった。
――アタシのこと、憶えていてくれよ。
だが言葉にする前に、口を閉じた。こっ恥ずかしくなったのだ。
「あー。いや。なんでもない」
「?」
少し距離を行ったあと、ジェシカは唐突に声を出した。
「緋牡丹って、一種の特殊変異らしいです。でも、私は綺麗だと思うんです。それに……自分だけでは生きられないってこと、人間なら、みんなそうじゃないですか」
「……ジェシカ?」
「あ。ごめんなさい。その、つい」
「いや。ありがと」
「はい?」
またしばらく黙って歩いた。
小高い山になっているあたりで説明を促した。
砂漠越え用のマントは大きめだったから、彼女の体もすっぽりと覆う。熱砂にゆらめく陽炎が周囲の暑さを教えてくれている。不慣れな旅で体力的もそろそろ限界が来ているのかもしれない。ジェシカは息を荒げながらもゆっくりと喋った。
ジェシカによれば、グラップラーと呼ばれるタチの悪い集団の残党が彼女を狙っているらしい。アタシはその連中を知らない。だからどれだけ危険な存在なのかはよく分からない。そもそもアタシにとって危険な存在など、いるのかどうかすら分からないのだ。
だが、ジェシカの感じている不安は本物だった。狙われていることが分かったのは運ではなく、ジェシカが村で過ごしているうちに周囲の人々と仲良くなったおかげだった。ジェシカの容姿について調べていた連中がいるという話が流れてきて、その連中の風体を記憶と照らし合わせたからだった。
それを信じる限り、自分の力を出し切って戦うことが出来るかも知れない。胸を躍らせている。アタシの内心など知り得ないジェシカには悪いけれど、とうとう満足させてくれるほどの敵と出逢えるのかもしれない。
待ち遠しかった。
ちょっぴり胸が痛んだが、ほとんど気にならなかった。
「へぇ、姉妹揃ってこの地方の外から来たのか」
「はい。あの村にご厄介にならせてもらっているうちに、妹もこっちに逃げることができたことを知りまして……」
「で、自分を追っているそのグラップラーとかいう奴らにも知られちゃったと」
「グラップラー自体は、もう壊滅しているんです。ひとりのハンターさんの手によって」
「ハンターの?」
「私もよくは知らないんです。ただ、私たちは間接的とはいえ助けられました。村の食料とか、奪われたりもしてましたし」
「ああ、そうか。ハンターのが良かったわけはそういう理由もあったんだ」
「そして、私たちは平穏な生活を取り戻した――そう、思いました」
「違ったわけか」
「グラップラー残党がやってきて、村の人間を一人残らず灼きました。人間を黒こげになるまで燃やし続けました。村は灰になりました。生き残ったのは数人。父も母も私と一緒に逃げようとして、捕まりました。妹ともばらばらに逃げたので村のその後のことは分かりません。分かるのはひとつだけ。あいつらは狂ってます。人間を笑いながら殺せるようなやつは、みんな狂ってるんです」
怯え。恐怖。そして怒り。
ジェシカは訥々と語り始める。口調には胸の奥底には隠しきれないほどの激情が込められている。
「続けて」
「私がなんで狙われているのか。理由は最初さっぱり分からなくて、見当も付きませんでした。でも、最近になってようやく思い出したんです」
口ごもってからジェシカは、意を決してアタシに話した。
「それから、気づいたんです。私と妹のことを間違えているんだって」
「……双子なんだ?」
「そっくりだってよく言われます」
「なら、妹さんが狙われる理由はあるってことか」
「たぶん、再生カプセルのせいです」
「なんだいそれ?」
「その、偶然手に入れちゃったんです。レッドフォックスさんは転送事故って知ってます?」
「聞いたことはあるよ。アタシは転送センター使えないから、一生遭遇することは無いんだろうけどね」
「そうなんですか?」
「色々理由があってさ」
「……えっと、とにかく転送事故が起きまして、変な研究所にたどり着いちゃったんです。そこに迷い込んだとき、機械が動いている音を聞きつけて……行ってみたら、『人間の回復力を一時的に激増させ、生体のレベルまでの賦活を行う』って説明書きがあったそうでして」
「そりゃまたとんでもないカプセルだ。妹さんはさっさと使わなかったの?」
「父も母も跡形もなくなってしまいましたから、使う相手もいなかったんじゃないかと思います」
「……で、どうしてそれが狙われる原因に?」
「あのころのグラップラーにはひとり、悪魔みたいな男がいました。最悪の賞金首です。男の名は、テッドブロイラーと言います。さっき言ったハンターさんとの死闘の末に倒されたそうです。でも」
「やれやれ。死体が冷凍保存されていた、なんて展開かぁ」
「笑い話にもなりませんよね」
そのときアタシが考えていたのは、そのテッドブロイラーとやらならば、アタシを互角に戦えるだろうかということだった。ジェシカはアタシの考えなど気づきもせず、沈痛な顔で喋っていた。遮って先を続けた。
「……だが、死者は普通、生き返ったりはしないもんだ。再生カプセルは、妹さんがまだ持ってるんだろ?」
「たぶん」
「いいのかい、アタシなんかにそんなヤバイ話しちゃって。アタシが心変わりして、ここでジェシカをゆっくりじっくり殺してからさ、妹さんを襲いに行くとは考えなかった?」
「少し、考えました。けど」
「けど、なんだい」
「レッドフォックスさんのこと、信用しちゃいましたから」
「あんたって騙されやすいヤツの典型だと思うぞ」
「でも、ひとを信じるってそういうことでしょう?」
「……わかった、わあったっての。はいはいアタシの負けだよ。そろそろ連中が来るころだろ。引き離した分の距離は詰めようと思えば詰められるし、やっこさん、そんなに気が長い方じゃないと見える。もうすぐ――そら来た」
背中にジェシカ、取り囲むようにして現れた奇妙な服装をした男達を前に、アタシは気楽にかまえて立っていた。
「オマエはハンターか?」
「ああ、レッドフォックスって言うんだ」
「カカッ。赤い狐とは洒落た名だなぁ。オレたちがハントしてやるよ」
男は全部で五人。分かりやすく同じ格好をしている。怪しいことこの上ないのだが、誰も関わり合いになりたくなかったのだろう。ジェシカの話によると、こんなんでも賞金がかかっているらしい。この辺のハンターオフィスで支払いを受けられるかどうかは不明だったが。
「ハンターの証たる戦車も持たずに、オレたちを相手にしようとする蛮勇は褒めてやるぜぇ。だが、オマエみたいな間抜けはここで死ぬのが運命なのだ。カカッ」
リーダー格らしき男が偉そうにあざ笑う。
すとん、と間の抜けた音がして、次の瞬間には足にナイフが刺さっていた。膝から土の上に頽れた。地面の固さを久々に感じた。容赦なくナイフが三本、背中に連続して突き立った。
視界の端に捉えたジェシカは泣きそうな顔だった。砂漠を少しだけ抜けたため、サバンナとでも呼ぶべき風景だった。その中でも一番場違いな格好から、甲高い悲鳴が上がる。死んだとでも勘違いしたのか。笑える話だ。まったく。
「サーア、連れてこぉい」
三人ほどが近寄ってくる。背中から血が流れていないことに気が付いたらしく、ぎょっとして立ち止まった。不可解そうな声でリーダー格の男が撃てと命じる。言われるまま男達は自分の銃のトリガーに指を掛ける。
どん、どん、どん、と誰が撃っても代わり映えのしない鈍い音がした。
何事もなかったかのように立ち上がった。
「カカッ。備えあれば憂い無しだぁな。防弾だぜ、全員、頭を狙え!」
「あははっ。そいつはちょっと困るなあ。アタシの頭ん中はこれでもデリケートなんだ。女の子には優しくしなきゃダメだってママに教わらなかったかい? 口説き文句も、エスコートの仕方も失格だよ。尻尾巻いて帰んな。そしたら殺さないであげるからさあ」
軽口を無視して命令を発する男。苦笑いを浮かべて、結末を見届けてやることにした。ジェシカは信じられないものを見る目つきでアタシとグラップラーの残党とやらを見比べている。
「撃て!」
どん、どん、どん、どん、どん。衝撃。だが、一発も当たっていないことに喋っていた男が気が付いたのは、自分が吹き飛ばされてからだった。どん、と銃声が鳴るタイミングに合わせて殴り倒す。三度繰り返し、異常な速度で投げつけられたナイフを指先で止めたところで不審を抱いた。
「なんだ。人間じゃないのか」
「カカッ。オレは人間さぁ。ただ、ちょっぴりあちこちサイボーグになっただけでなァ!」
通りで。普通の刃物じゃ歯の立たないアタシの躰を傷つけるられるわけが分かった。
「ヒャッハア! オレはハンターが嫌いなんだぁ。正義ぶったやつらが嫌いなんだぁ。オレの邪魔する連中は殺したくなるくらい嫌いなんだあああああッ! カカカカカカッ! シャッ! シェハッ! チョワーァッ!」
「どこの鳥の鳴き声を真似してるんだかなぁ……」
そしてどれだけの量を隠し持っていたのか、服の裏にびっちりと縫いつけられたナイフを取り出し、刹那の後にはそれが自分に向かって投げつけられている。速度は尋常ではない。瞬間的な筋力だけなら全身サイバーウェアたるアタシと同じか、それ以上かもしれない。
だが悲しいかな、それだけだ。
剣を使うまでもなく悉くはたき落とした。
「カギェッ」
投げられながら、一本を掴んで投げ返した。それが頭に刺さったのだ。笑い声を上げようとした口と表情のまま、額からナイフを生やした男が前のめりに倒れた。動かない。
「あーあ。やっぱし雑魚だったか」
あと一匹、残っていたなぁと思い出して振り返る。
オートマグを構えた男が、ひどく沈痛な笑顔でアタシに銃口を向けていた。二丁拳銃だった。手の一方はジェシカに狙いを定めている。この場合、ジェムる偶然を期待するのは無理があるだろう。確率的には悪くない賭けだけど、負ける気のない勝負で運なんかに賭けるのは性に合わない。力も技も及ばないときには、運命の女神をせっついてでも働かせる。つまり、今はそのときじゃないってことだ。
「すまないな。これでもリーダーは実はわたしでね。部下達の無礼をわびるよ」
「そのわりには止めなかったじゃないか」
「そこはそれ、上手く行ったら行ったで喜ばしいことだからさ。ああ、失礼ついでに武器も捨てていただけないだろうか。これでもわたしは礼儀を重んじるんだ」
言われた通りに剣と銃を捨てる。相手も触れない程度の距離を目がけて。そこまでするとは思っていなかったのか、男は薄く笑った。
「人質を取るやり方がやけに慣れてるな。普段からこんなことしてるのかい?」
「もちろん。人質を捕まえる練習と、人質を使って他人を脅す訓練は一日として欠かしたことがないよ。それと人質を黙らせる手段についても毎日考え続けている。わたしのたったひとつの趣味さ」
「三つあるじゃないか」
「違う違う。人質を愛しているんだ。分からないかね?」
「さすがにその趣味は面白すぎてさっぱりだよ」
「ウウム。目の覚めるような美人となら、美学について語り合ってみたかったんだが……仕方ない。永遠に眠ってもらうことにしよう」
「格好付けた台詞の練習も鏡の前で一時間くらいしてるだろ、アンタ」
「よく分かったね?」
「分からいでか」
「おお、もしや君も同士かね? 長年迫害され続けたわたしの気持ちが分かってくれる希有なひとかね?」
「んなわけあるか。脳みその腐り具合から判断しただけだ」
「そうか。それは残念だ。とても残念だ」
「ああ、アタシもちょっと残念だよ」
「ふむ? それはどうしてかね?」
「それはな――」
ジェシカが目で合図していた。アタシは会話を引き延ばしていた。そして、今のがチャンスだった。ふたり同時に動いたせいでどちらを狙うかで迷うはずだ。それを見越して真横に動いた。狙いやすいように。
いつの間に手にしていたのか、ジェシカは奇っ怪な形状の銃を振り回した。あれは……オメガブラスターか?
射程は無関係だ。ビーム兵器の特徴として、跳ね返されない限り、その過大な威力は大抵の敵を体ごと灼いてしまう。アタシを巻き込まないようにした躊躇いのせいで狙いは若干甘くはなったが、位置の関係でリーダーを名乗った男は直撃を受けたはずだった。
事実、周囲までをも巻き添えにしたのか、地面は熱線のために溶けて飴状になっていた。倒れていた男達も肉の部分が蒸発したのか、骨すら見えない。
たしかにこんな武器があったなら、ジェシカが最悪、一人旅を断行する決意をするのもむべなるかな。しかし現実はそれほど甘くは出来ていなかったようだ。
ひとつには、サイボーグとなった男の死体が消えていること。
もうひとつには、リーダーだという男の姿が無いこと。蒸発したとも思えない。なら――背後だ。
「狙いが甘かった、と言うべきかね」
ジェシカの背後に回り込んでいた。むき出しになった機械の腕が地面に叩き付けられる音がした。部下を盾に使ったのだ。それからジェシカの手からあっさりと光線兵器を取り上げると、間を置かずこっちに向けた。ジェシカは蒼白な顔で取り返そうとするが、そもそもの体力も体格も、何から何まで違いすぎる。一撃ではじき飛ばされて、まだ陽炎の立ち昇っている地面の近くに転がっていった。
ジェシカは意識を失った。緊張の糸が切れたというよりは、体に溜まったダメージの大きさに耐えられなくなったのだろう。死にはしないだろうけれど、怪我が無いとも言えない。
「さてと、では、レッドフォックス君とやら。ひとつ提案があるのだが」
「なんだい」
「わたしの増援が来たところで、正々堂々と勝負といこうかね」
遠方からキャタピラの地面を舐める重低音が鳴り響く。戦車だった。こういうタイミングで現れる戦車にロンメルを選ぶ辺り、男の根性の悪さが見え隠れしている。
「フフフフフ。これをただのロンメルだと思っているのかね? だが違うのだよ! こいつはロンメルゴーストだ! 以前、ハンターによって壊された自動規律思考型の戦車を修理改造し蘇らせた。それだけに留まらず、我が軍団は見事これを支配下に置いたのだ! 具体的に言うと、一番新しいグラップラー軍団の部下なのだよ!」
「ご託はいいさ。強いのか、弱いのかだけ言えばいいよ」
「ウォンテッドモンスターとして追われていたこともある、と言えば分かってもらえるかな? ハンターの君には」
「あはは、いいね、いいねえ!」
嬉しかった。やっと出逢えたのかも知れなかったから。
「喜んでもらえて大変けっこう。お代は命で支払ってもらおうか、というのがお約束かね?」
「アタシは素手でアンタらをぶっつぶせばいい。明快なルールだ。殺されてもネチネチと文句は言わないでおくれよ。手加減しないでもいいんだろ?」
「もちろんだとも」
その後、何を考えていたのかについては正直あまり記憶にない。いつものやつだった。躰の内奥で歓喜に打ち震えているソレが、最初のころに比べ、だんだんと大きくなっているのを感じていた。なおも凶暴に、より凶悪になってゆく動き。けれど。
アタシは狂ってなんかいなかった。
精緻さなど求めてはいない。破壊。破壊。ただ破壊だけが目的となった。ロンメルゴーストは躊躇を知らず、瞬時に敵と判断したらしく、男の命令を待つまでもなく攻撃を仕掛けてくる。機銃を打ち鳴らす。まるでラッパだ。息の続く限り、弾の続く限り撃ちはなったあとには主砲の三連発だった。
「アカイアクマ……」
亡霊の声とやらか。
「ワタシヲ ハカイシタ ハンター オナジ ……コロス!」
男がそれに乗じてオメガブラスターでしつこく狙ってくる。オートマグを投げ捨てていたらパクっておこうかと思ったのだが、さすがにそんな軽率な真似はしていない。
こちらの躰全体へ照射しようとしているのが見え見えだった。避けないわけにも行かない。それが喩え罠であっても直撃されたらさすがに躰でも保たない。
特殊兵器による一閃が、アタシのいた場所と跳んだ先までを消失させた。エクスカリバーだ。線上にいる敵をすべて薙ぎ払う、ビーム系光線兵器のひとつの完成型。オメガブラスターが発生させた熱線を拡散させることによって照準の甘さを補い、多人数を相手に出来る個人戦装備なのに対して、こちらはそこまで優しい装備ではないのだ。
対要塞、対戦艦向きに誂えた光条収束型決戦兵器。一撃で分厚い防御用装甲に大穴を空けることが可能なのが利点。欠点は、威力の大きさを優先させすぎて動く相手に当てるのは意外に難しい、ってところか。
兵器の知識なんて要らんところで役に立つものだ。自分で持ち歩けそうなものを探したときに調べた甲斐があった。正直なところ、アタシみたいなのを相手取るには素晴らしく相性が良い武器だ。偶然とはいえ、背中にひやりとしたものを感じる。
所詮はそれだけだ。
アタシを殺せる武器を持っていたからといって、使いこなせなければ意味がない。安全装置の外し方もしらない子供が銃を持っていたところで、ガタイの良い大人には勝ち目がないのと似たようなものだった。
殺し方を知っているだけで、戦い方を知らないのだ。話にならない。満足させるにはほど遠い。
加速してゆく視界の中の時間。男が動く。アタシはそれを先回りして腕を砕く。右手で殴る。左手で掴む。ごきりと素敵な音がする。どこを砕いたのかの結果も見ずにロンメルゴーストの主砲の前に男を投げつける。
主砲が打ち込まれる。男は必死になって体をよじる。人間の体はもろい。そして意のままになってくれない。男は方を破壊されていたらしく腕が上がらない。主砲がかすめた。ぽーん、と面白い具合に上空まで弾け飛んだ。
アタシが動く。一人と一台はまだ動けない。
「あ……」
場違いな声。呆然としている娘の目に浮かぶ恐怖。戦闘には無関係と判断。
無視。
景色から色が消え失せる。薄暗い闇のなかで、高速で動き続ける視野内のすべてを停止させて捉える。行き過ぎた動体視力があらゆる動きの終わりまでを告げてくる。モノクロームのなかで黒が向かってくる。白は無であり、黒は有だった。はっきりとした映像となって、容易く捕まえることができた。
躰は鮮やかな雷光の動きだった。いつの間にか、ナニカが躰を支配していた。アタシも素直に明け渡したものだ。
ロンメルゴーストの主砲を殴りつける。筒の円がぐにゃりと歪んだ。
男の方を向く。まだ生きている。蹴り飛ばした。千切れる足。不必要な情報が削除されゆくそのプロセスを寸断する。
生命活動に必要な部分だけを残した。デリートする。勢い余って殺してしまう寸前に力を抜いた。四肢がもがれた男は泣いているのか声にならない声で叫んでいる。意味を読み取る理由はない。抵抗できないよう体を踏みつけた。
ロンメルゴーストはまだ戦闘する意思が残っている。男の脇に落ちたオメガブラスターを手にして飛び込む。近距離から浴びせるとしゅううと鉄の溶ける音がした。真っ赤になった。赤。男は無くなった部分から血を流している。色が戻った。
男が叫ぶ。
「テテ、テッドブロイラァサマァアアア――ッ!」
喉を蹴る。声帯が壊れたのか、二度と喋らなかった。いや、死んだのか。しまった。やりすぎた。
アタシは動き続けた。
ロンメルゴーストの内部に手を突っ込んでその神経と呼ぶべきケーブルを無造作に引きちぎる。血に似た薄い赤のオイルが零れ出す。
そいつは喋る。
「マタ ワタシハ コロサレル」
答えるため、口は勝手に喋っている。
「機械が死ぬ? ハッ、くだらない。元々生きてもいないもんが死ぬわけないだろ? それとも何か、意思が在ればお前は生きているとでも主張すんのか?」
「アカイアクマ……ワタシヲ コロスナ」
怯え。
「壊すな、の間違いだろ」
「ワタシハ シニタクナイ…… シニタクナイ…… シニタクナイ……」
恐怖。
「そういや蘇ったって言ってたっけか。亡霊ならさ、悪魔と最後まで踊っていきな」
「……ワタシハ、 」
怒り。
「殺そうとするヤツが殺されるのは当然の理だ。自分が生きているっつうなら、アタシから見事、生き延びおおせてみせろ」
「ワタシハ、イキテイル!」
歓喜。
粉砕された主砲を無理矢理旋回させ、アタシの動きを阻害した。燃料が切れるのはもうすぐだ。タイムオーバーだということにも気づかずにロンメルゴーストは叫びながら戦いを挑んできた。
「イキテイル! イキテイル! イキテイル!」
虚空を震わせる咆哮。地響きに重ねて鋼鉄は歌う。
「オマエ ヲ コロシテヤル――!」
憎悪。
極言してしまえば、生きると言うことは戦うということだ。そして時に他者を殺すことでもある。その生存を賭けた戦いに敗れたものから順番に死んでゆく。そうでなくて、どうして生命が尊いものだなどと言えるだろう。
本来、それに罪悪感を抱く必要など無いのだ。それは良心という幻想が生み出すまやかしに過ぎない。行ってはならないというルールを作ることで、ひとは自らに錯覚を起こさせる。過去の人類は、その矛盾によって自他を守ろうとしただけなのだ。今や人間は極限状態に類する、このルールの通用しない世界で生きる羽目に陥った。もはや罪の概念は意味を為さない。あるのは自分の意思を裏切るか、それに従うか。その二者択一の結果だけだ。それ以外はすべて虚構に言い訳を求めていることに等しい。
罪を得るとはすなわち、心を持つと言うことだ。
その罪を乗り越えることこそ、ひとは幸福と呼ぶ。
心を肯定しろ。それが生きるということでもあるのだから。
シニタクナイからコロス。イキタイからコロサナイ。その二つはまるで違うようで、結局は同じことなのだ。だから……アタシとこの機械仕掛けの亡霊も、きっと変わりはしないのだ。
本気で戦ってやろう。アタシがそうしてほしかったように。
死にかけたロンメルゴーストは必死だった。当たりもしない副砲を全門開放し、機銃が熱で歪む寸前まで掃射を行う。エクスカリバーの残弾数はそう多くは無い。時間との勝負であることを嘆くように一発一発を丹念に狙い始めた。この至近距離だ。アタシの頭と体を二つに切り離すくらいの威力はあるだろう。
光線兵器の利点は何よりもその早さ。射程内にある標的に当たったなら、その絶大な威力は大気に殺されながらも決して射軸からは逃さない。だから狙いを定められた時点でほとんど終わり。
逆に言えば、狙いを定められない限り無駄弾を撃たせることが可能となる。とは言え相手は人間ではないのだ。正確さを捨てて賭けに出るとも思えない。距離を取らずして攪乱を続けるだけでも勝手に死ぬだろう。
しかし、そうしなかった。理由があるわけじゃない。
「ラストダンスのお相手は悪魔がしてやるってんだ。泣いて叫んで喜びな」
「オオ……イキノビル……コロス……」
動揺。
この気持ちはたぶん同情とは違うものだ。共感でもない。依存でもなければ、愛情ともほど遠い。あるいは絶望だとか、憐憫だとか、空虚だとか、そういうものに見えることもあるだろう。
おそらく、ここにある感情にはまだ名前がないのだろう。気づきえなかったがために。
だからこそ、こうして戦うことだけが真実に思える。それを他に呼び表すための言葉を知らない。渇きを癒そうとするだけの欲望とは別にわき上がったこの感情を抱いたまま、全力で殺すのだろう。
じゃあな、命を得た戦車。
そうさ。あんたは確かに生きていた。認めてやるよ。
そしてここで、アタシの手によって死んだんだ。
嬉しさに笑う。
笑っていた。悲しいと思いながら、アタシは笑っていたのだ。
「あははははははははははははははははは――ッ!」
手は容易く鋼鉄のシャシーを引き裂いて、心臓部にある基盤を叩き割る。集積回路のその上で踊り飛び交っていた電撃を気にもせず握り砕く。エクスカリバーを発射するため限界まで蓄えられていたプラズマエネルギーは行き場と逃げ場を失う。あまりの眩しさに閉じかけたまぶたを押し開く。
輝きがわだかまり、膨れあがってゆくのをこの目で見た。
言いようのない気持ちに突き動かされ、胸のなかに抱きしめた。人体を蒸発させるほどの熱量を持った破壊の光と、アタシの躰のどちらが勝つだろうか。
不思議と怖くはなかった。
しくじれば辺り一帯は地図から消滅するだろう。その場合には、ジェシカの護衛という依頼を果たせないことになる。その心配だけが妙に胸につっかえた。運命なんか信じてやるつもりは毛頭無かったが、こういうシチュエーションなら、幸運の女神を働かせてみたくはあった。
どれだけ時間が経ったのか分からない。だが、生きていた。熱気と焦げ臭い空気に囲まれている。燃えるものも無いくせ、周囲では小さな炎が熾いていた。
躰を支えきれず、ごろりと横に転がる。うめき声も上げられない。躰の半分ほどが焼けこげ、もう半分は爛れていた。力を入れても上手く動かない気がする。自己修復が追いつかないほど、神経部分もめためたにされた。たぶん今、頭を狙われたら逃げられないし、あっさりと死ぬだろう。ここまで無防備な状態になったのは初めてだった。
それもいいかもしれない。
のたれ死にこそアタシには相応しい。ありもしない目的を探し――夢を、果たそうだなんて、烏滸がましかったのだ。
「……レッドフォックス、さん?」
後ろから、アタシを呼ぶ声がした。
アタシの名前。
ジェシカは怯えている。
「あ……あああ……」
漏れてくる声はアタシのぐしゃぐしゃになった躰を見たせいだろう。
ははは、声が出ない。
まあ見た途端、悲鳴をあげられるくらい、どうってことないけどさ。
「……ごめんなさい」
そう、ちょっと傷つくだけ……あれ?
「巻き込んでしまって、ごめんなさい……」
泣いてるみたいだね。どうしたのさ、ジェシカ。
あんたに泣きながら謝られる理由なんて、これっぽっちもないんだよ。ねえ。ねえってば。
死んだって思われてるのはシャクだけど、大丈夫だから。
泣かないでよ。
ねえ、ジェシカ。
あんたは両親の仇を討って、自分を守りとおしたんだからさ? もっと喜ばなきゃいけないだろ?
なんで、泣く必要があるんだい。
なあ。
きっと悲しそうな顔をしてるんだろうね。あんた、妙に優しいところがあるから。
「私が頼まなければ、こんな酷い目に遭わなくてすんだのに……私のせいで!」
しゃくりあげている声を聞き続ける羽目に陥った。正直、こういうふうに泣かれるととても胸が苦しくなる。どうしていいのか分からない。
ジェシカの方へ、顔を向けることもできなかった。
躰の機能は完全に停止しているのだ。おそらく自己修復だけを優先的に働かせることによって回復を高速化しようという判断だろう。いつもは他の作業の片手間で、バックグラウンドに行われる身体機能の整備機構が、アタシの躰の命令権を奪い取っている。
アタシの意思では指一本どころか、レセプター以外の感覚がすべて自由にならなくなっている。
顔の向きの方向。視覚は一応、まともに動いている。聴覚は働いている。皮膚は、触覚が麻痺している。口は動かせない。言葉を発することは出来ない。躰は辛うじて動くだけの余力を残しているだろう。だがアタシに動かせないだけだった。
だとすれば――
アタシでないアタシは、何をしようとしている?
たぶん、ほんの一瞬。
不用意に、ジェシカがアタシの躰に近づいたそのとき、
「え……?」
跳ね起き、ジェシカの胸を手で貫いていた。
赤。
真っ赤に染まったアタシの手。アタシの顔に飛び散った赤い雫。地面にぽたぽたと落ちてゆく血。あたりを取り囲んだ炎。赤。驚いた顔。
ジェシカは自分の胸にぽっかりと空いた穴のことを忘れたみたいに。
微笑して。
それから、
それから……
「……良かった」
生きててくれて、良かった。そういう意味だった。
どうしていいのか分からない。
混乱。困惑。カオス。
ナニカが――赤い悪魔が、躰の支配権を凶暴な手段で、取り返す。感覚が戻る。
ノイズ。絶望。後悔。
いつか見た赤い景色と同じ。
悲しみ。
空白。
そして――慟哭。
何秒もせずジェシカは倒れる。駆け寄る。やっと躰が主導権を返したからだ。ジェシカに触れる。彼女の急速に冷えていく体がもう手遅れだってことを伝えてくる。心臓を直截えぐられたなら、生きていられる人間などいないだろう。
躰はダメージの回復に努めていた。無防備な状態に晒されている最中だったから、自動的に敵を殺すという行動を起こした。それだけのことだった。
アタシの意に反して。
あるいは、心の奥底が求めていることが、生き延びるという選択そのものだとしたら、それはアタシ自身の意思に他ならなかったのかもしれない。
血の気の失せたジェシカの顔に触れる。青白くなってゆく彼女は、それでも満足げに微笑んでいる。アタシは言葉を失った。さっきみたいに、喋れないからじゃない。空っぽだったからだ。
すべてを飲み込んでいくこの気持ち、この形のない感情が、途方もなく深い悲しみを育てるように。
今にして、アタシはその名を知った。
孤独。
涙は出なかった。
無人の荒野で、アタシは一人きりで壊れたように叫ぶ。怒りと、悲しみと、それにも増して巨大な虚しさを込めて。
自分自身を、ひたすらに呪おうとして。
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Felix Culpa (6)
――どれほどの月日が流れたろうか。流れ去るだけで、アタシの元には何も残らない時間の風。あるいは大した時間は経っていないのかもしれない。ひどく長い日々に思えたけれど、時間は公平であり、それゆえに優しくも残酷だった。
取り残されるという感覚。
腐敗する意思。
いつからか、赤い悪魔は殺戮を繰り返した。
どちらが表でどちらかが裏だなんてことではない。手段が目的と化したのだ。殺すために殺す。以前より苛烈に、遮る者すべてを滅ぼす存在としてここにいる。何よりも戦うことを激しく求めた。何も考えないほどに楽しい戦いを欲した。やがてそれにも飽きが来た。
アタシを殺せる力を持ったやつは、そうはいない。
アタシが殺したいと思う人間は、さらに少なかった。
だから赤い悪魔に任せるようになった。それはアタシ自身ではあるけれど、断絶した意思のひとつだ。
廃墟にひとり、膝を抱えてまぶたを閉じていた。寒くもないくせに砂漠越えに使ったマントにくるまっていた。外では雨が降っているようだ。雨粒の砕けるたび、染みて黒ずんだ土はやわらかくなる。瓦礫に埋もれて水音に聴覚を集中する。水たまりに落ちる雫、波紋の広がるゆらぎの音色すら逃さない。音の交わり。
空気。
もう少し歩けば鬱蒼とした森の中、トレーダーキャンプのひとつもあるだろう。しばらくは動く気になれなかったから、ここに留まることにした。
打ち棄てられた建物だ。壁には鏡がかかっていた。鏡はひび割れていて、覗き込んだ場所の奥深くにまで亀裂が走っている。アタシの姿を二つに割っていた。
昔のアタシを模倣して描かれた顔と、アタシのものではない赤い躰が立っている。映った姿はひどく歪な笑みを浮かべている。在り続けることの悲しみを胸の奥の空虚さが喰らう。
アタシの名はレッドフォックス。自ら名付けた。
他人は憎悪と殺意を込めて赤い悪魔の名を呼ぶ。
どちらもアタシだった。
建物の周りにぶちまけられた夥しい量の赤い血は洗い流されただろうか。外に転がっている死体の数は笑いたくなるほど増えていた。誰もアタシに傷ひとつつけることなく死に絶えた。
目に映る光景はひどく陰惨なのに、オブジェじみて原形を留めぬ死骸のせいで滑稽だ。死者を弔うこともなく、ただ朽ちるまで放置されているのは痛ましく、辛い。そう感じながら、こみ上げてくる笑いを抑えるのに必死になっている。
フラッシュバック。
いつかどこかで見た景色。巻き戻し。
赤。
アタシは赤。
血と炎に彩られた悪魔。
赤い悪魔と呼ばれだしてから、アタシは段々とそれに近づいていった。いつしか自分が戦うことで安心できることに気づいたのだ。それからは戦っていないと不安でしかたがなくなった。
誰にも理解されないという恐怖は、とても狂おしい衝動だ。
誰のことも理解できない。アタシは人間の感覚を忘れてしまったから。アタシのいる場所はひどく寂しく、冷たい世界だった。
他人と共にいることができないことを知ってしまった。
戦っている最中だけは、その世界に他人が存在している。アタシは殺すことでそいつらを認識しようとしている。理解しようとしているのだ。
それに気づいたとき、あまりのばかばかしさに笑った。アタシはアタシのために他人を殺す。怪物を殺し、戦車を砕き、すべてを葬ろうとする。理解できるとか、認識したいだとか、そういうのは理屈でしかない。感情はすべてに勝って、易々とその理屈よりも楽しいものを探し出す。
そうすることしかできない。どうすることもできない。
無力と最強の狭間で、望みも持たぬ悪魔が蠢いている。殺し合っている時間が心地いいことをせめて肯定しようとする。アタシがいま、この世界に生きているのだと実感するために。
赤い悪魔は、そうやって作られたのだ。アタシと同じものを求め続けていたがために。壊しても壊しても足りないと感じながら。これはアタシの意思ではない。だが、アタシを操っているのはアタシでしかない。
壊すことで愛しさを重ね合わせ、ゆるやかに狂い、間違えながら。
雨は止まない。
冷たくはない。寒いのは気のせいだった。
涙が出ない機械仕掛けの躰は、うっすらと笑みを浮かべ続けている。
無理な使い方をしているせいだろう。壊れてゆく躰。思い通りにならないことが増えてきた。それに合わせるかのように、戻ってくる記憶があった。
今更戻れやしないさ。
時間は、決して逆には流れないのだから。
それは赤い記憶の正体だった。
肉塊が蹴られ、転がってゆく。焼け爛れた肌は誰のものだろうか。肌色であるべきそれは赤く肉を覗かせていて、そうでなければ黒く焦げて臭った。
火傷の痛みは内側から刺すかのごとくだった。
白。
吹き上がった火炎の奔流が白く塗られた家の壁を舐めていった。
悲鳴が聞こえてくる。わたしは呆然と頭上に目を遣っていた少女を守ろうとして身を投げ出す。
少女はこのバカと叫び、見下すように笑いながらわたしを突き飛ばして遠ざけた。それでも少女の元へと近寄ってゆこうとすると、少女の笑っていた顔が一転して、凶相になる。何かを叫んだ。怒号。その恐ろしい剣幕に足が止まる。
体に炎が巻き付くのが分かった。泣き顔が炎に炙られているのが見えた。わたしは走り寄ろうとした。足が変な方向に折れ曲がっていた。立ち上がった格好で横に転んだ。
炎は異常なまでの早さでわたしたちを取り囲む。手が届かないのをわたしは悔やみながら、少女に謝ろうとする。声が出ない。喉が焼けている。少女の顔が歪む。狂気に冒されてしまったのか、歓喜の笑みを浮かべている。くすくすと漏れる声。
あれは妹だったろうか。
少女の後方から母が現れる。服は破り捨てられ痛めつけられた体はぼろぼろだ。それでも必死になって追いすがる。わたしを通り越した。視線が探していたのは彼女だ。守ろうとしたのか、覆い被さった母親の腕がだらんと垂れ下がった。わたしのことなど見向きもせず。
一人っきりで炎の中に取り残されることになった。足は勝手に後ろへと、二人から遠ざかる。
赤。
ちろちろと舌を出す蛇の姿をした炎は、わたしから離れない。動くことも出来なかった。わたしは逃げ出せないで、狂ったように笑う妹とそれをかばっている母の姿を見続けていた。
燃え尽きた柱が倒れてくる。ふたりはその下敷きになる。声は出ない。断末魔の声すら上がらない。目に焼き付いたのは満足そうに笑う母。その瞳にわたしの姿は無い。
見棄てられたんだろうか。
とにかく二人は助からない。気づいて、わたしは後ずさりながら崩れかけた壁に近寄る。壁は手を触れただけで壊れた。指先の感覚が無くなっていた。左手は真っ黒になって使い物にならなくなっていた。他人事だった。わたしは動く右手で探った。視界はほとんど効かなかった。
誰かの影だけが見えていた。
父だ。父は銃を手にその男へと立ち向かっていた。男は幾分面白がっているようで、しかし笑っていることには変わらない。狂っている。炎。規則正しい音がして父は倒れた。強烈な勢いで放射された炎が父の体を喰らい尽くした跡が目に入る。もう生きていない。わたしはそれ以上近寄らずに逃げ続ける。男が気づいた。笑っていた。炎の中で男はどうしようもなく恐ろしい存在に見えた。
やがて灰と化す世界。騒がしいのは周りも同じだった。誰も助けてくれる人間はいない。家は崩れ落ちる。周囲では爆発が起こっているのか、時折その衝撃が届いてくる。水がない。
必死になって逃げまどう。母はもう死んでいるだろう。柱の影になっていた妹の顔が覗けた。白く溶けていた。赤。赤黒い血が背中から噴き出している。わたしじゃない。肉の塊。あれは母。父の体は良く焼けて二つに折れた。鮮紅色。生暖かい血。再び刺すような痛み。人間の焦げていく匂い。耐えられないほどの熱が襲う。笑い声。焦燥。
後悔。
視界が真っ白になってとても冷たいものを感じている。
慌ただしい足音がする。
声。
焦燥にまみれた物音、必死になって灼熱を発し続ける瓦礫をかき分けていた。
――遅かったか。いや、生きている? この娘はまだ息があるぞ。
――だが、助からないだろう。これだけの死体の山では、目覚めたら発狂している可能性も高い。
――しかし。
――待て。あの女医ならどうだ。
――この娘は喜ばないだろうが……しかし、生きながらえれば、幸せになることができるかもしれない。
――そして不幸になるかもしれない。失ったものは戻らないんだ。
――こんな光景を見たら、誰だって悲観的になるさ。それでも、進むべき道を探し当てることはできるかもしれないだろう?
――この閉ざされた世界でか? 腕がもげて、足はひしゃげ、目も潰れている。顔も元の形なんかわかりそうにない。
――だが、彼女の心臓は動いていた。頭は……脳だけは無事そうだ。
――うん? これは何だ。
――日記だな。この娘のものだろう。それだけしか持ち出せなかったんだ。
これはたぶんハンターの声だ。
とすると、あの男は賞金首だったのか。
日記。アタシが彼女のラボを出て、袋の中に入っているのを見つけたあれだ。読んではみたが、いかに妹のことを大切にしていたかしか書いていなかった。自分がどんな人間だったのかを知るには役立たなかったから、野宿するときに燃やして使った。
わたしは家族を見棄てて、それ故に見棄てられたのだ。逆だろうか。いいや、同じことだ。
やはり思い出さない方が良かったのだろう。苦い記憶だ。どうせ時は戻らないのだ。なら、要らない記憶は失われたままでも問題はなかったんじゃないか。
……どうして思い出したのだろう? わたしでなくなってしまった今になって、アタシが、それに囚われることなど無いというのに。
カラン、と氷が音を立てた。グラスを握りしめたまま眠っていたようだ。真っ白になっているときの意識は眠りと似ている。睡眠という欲求から解き離れてもなお思考からの解放は快楽に一種であることを否めない。
今、どこにいるんだっけ?
分からなくなる。
思い出す。
目の前のマスターの顔には見覚えがある。目の色が違う。
敵意。
そいつのことを知っていた。酒場でうらぶれているような人物ではないはずだ。周りの人間に聞こえない程度の声でアタシは告げる。
「アンタ、ジャックだね。そうさ、アタシはあんたのことを知ってる」
「……」
その反応で、相手が知っていることも理解できた。素知らぬふりをしなかったのは自信の表れか、諦めのためか。
「あはははは。大丈夫。何もこんなところでおっぱじめようなんて思っちゃいない。それに知ってるよ、アンタ、もう引退したんだろ。娘もいるんだってな。ああ、さっき店の前にいた……へぇ、可愛いコじゃないか。大事にしなよ」
「客として来たのか」
「そうさ。なぁに、飲んだら帰るよ。いやね、ここらで有名なエクスプローラーにでも会ってみようかと思ってたんだけどね」
「キョウジなら留守だぞ」
「聞いたよ。帰ってくるほうが珍しいんじゃあねえ。待つのもかったるい」
ほっとした顔になる。顔に刻まれた皺は、長い間の緊張からついたものだろう。
「だから、ここではやらないことにした。まあ、折角生きてんだし、アンタも幸せになりたいなら精々長生きしなよ」
「……一杯、おごろう」
敵意が消えた。ちぇっ。つまんないね。
本当にやる気がなくなっていた。仕方ないから話を続ける。カウンターに肘をたてながら、ぼんやりとその男の顔を見つめた。
ジャック・ザ・デリンジャー。遠くではめっきり聞かなくなった名前。このあたりでは誰も知らない賞金稼ぎの名前。その名の通りだ。デリンジャーを手放さない強い男のひとり。でも、牙を抜かれたんじゃあ、しょうがない。
「はは。気持ちだけ受けとっとく。やめときなよ。アタシなんかに居着かれても懐かれても困るだろ?」
「二度と来るな、とは言わん。だが」
「大丈夫さ。もうすぐこの地方から出て行くつもりだから。もう、アタシにゃ遊び相手もいないみたいだしね。ああ、オフィスに通報なんかはしないでおくれよ? 弱いのとやるのは飽きてるんだ。楽しめないことは面倒でさ、あんまりしたくないんだ」
飽いている。
誰かアタシを満足させておくれよ。そう、言外に匂わせた。挑発に乗らないでジャックはにこりともせず口にする。
「――悪魔、お前は幸せか?」
「さぁね、知らない」
席を離れようとした。だけれど、ジャックの視線が逸れたのが気になった。その方向に目を向ける。
「ん? 何だい少年」
こっちを見ていた少年に声を掛ける。格好から入ったのだろう。すぐに分かったが、唸ったり頭をひねったりしてみる。
「察するにキミはハンター、しかも、なりたてホヤホヤ、ってところだ。そうだろ?」
ジャックは苦笑い。半分嫌がらせも兼ねて問いかける。
「あれ、どしたのマスター? むつかしい顔しちゃって」
「そんな顔してたか。気のせいだろ」
調子を合わせるのを見て、続けた。
「まあ、いいけどさ。で、アタシはレッドフォックス。アンタとおんなじハンターさ。よろしくな」
ガキだった。目を覗き込むと、逸らさなかった。他人を真っ直ぐ見るんだ、と僅かながら驚いた。カンは悪く無さそうだのに、アタシのことが怖くないのだろうか。
「あはは、何だかいいね。初々しくてさ。でも、いい目をしてるよ、アンタ。きっと強くなる。そんな目だ」
少年は照れたように帽子を目深に被った。
「なーんて、ね。 ん? どうしたのかな少年。こんなトコで油売ってないで、稼いでこなくっちゃ。ホラホラ」
「悪かったな、こんなトコで」
疲れた目じゃない。この町に来る前、狩ったばかりの賞金首みたいに追いつめられた目でもない。ただ輝いてる。
いいねえ。
ジャックに目配せをした。嫌そうな顔をしたが、アタシがやる相手に飢えていることを知っていても、子供までは相手にしないと思ったのか、それほど心配そうにはしていない。ハハハハハ。違いないさ。子供は好きだからね。
「おーい、少年!」
去ろうとしたところで呼びかけると立ち止まった。
「よかったら、アタシがハンター稼業の基本ってヤツを教えてやるよ」
素直に頷く。後ろでジャックがグラスを磨く音が強くなるのを耳にした。
「よしよし、素直なコは好きだよ。それじゃ、BSコンのアドレスに後で色々とメールしてあげるから、読んで参考にしなよ」
礼を言われるのにはあまり慣れていない。アタシは頭をかいて少年を置いて、町を出て行くことにした。
「じゃ、アタシはそろそろ行くか。またね、少年」
それじゃあ少年。キミに教えてあげよう。血と硝煙の匂いにまみれた世界の掟を。荒野に咲く一輪の花を守るため、命すら掛けて戦う無為の傭兵の姿を。
いつかまた出逢うために。だからそれまで生きてるように。叶うなら、生き延びられるように。殺しても、殺されたりしないように。どれほど殺しても、その手の赤さに怯えることのないように。
そして、アタシに殺されるために。
しばらくして、いつかのハンター見習いの少年を見つけた。まだ再会するつもりはなかったんだけれど、この場合はイレギュラーだ。
気にしないことにしよう。
ついつい新しく手に入れた銃の使い勝手を試してみたくなって遊んでいる最中のことだった。対戦車ライフルを使いこなせる人間が見つからず、手元まで流れ着いてきたわけだ。
お誂え向きに雑魚が咆えていた。
相対している少年は良いところを突いてる。だが、流石にバギーで装甲車を相手にするのは辛そうだ。腕の差もあるだろう。
長距離からだとつまらないからそこそこ近づいて狙撃することにした。エンジン部分を打ち抜いた。いい音がした。
上手い具合に装甲車が爆発する。中身は無事らしかった。
微妙な結果だ。やっぱり狙い通りの威力にはちょっと足りない気がする。自分で改造してみることにしよう。
ああ、獲物は少年のものみたいだし、手は出さないでおいてあげよう。
翌日になって、隣の町の酒場で飲んでいると、少年がわざわざ来た。
アタシは生き延びていた少年に素直に賞賛の声を掛ける。
「やぁ少年。がんばったみたいだね」
少年は丁寧に礼を言ってきた。
「え……?」
わざわざ酒場を回っていたらしい。つい、吹き出してしまいそうになる。
「……面白いなぁ、少年」
グラスを傾け、そこの中に少年の姿を映し込む。
眩しそうに見上げている顔に、あっさりと言う。
「アタシは、別にキミを助けたって思ってなんかいないけど? あのキャンプの話だろ? アレはさぁ……血と暴力の匂いがしたから、覗きに行っただけさ。キミが助かったのは結果的にそうなったってだけだ。お楽しみの最中に他人を構ってるほど、ヒマじゃあないよ」
それでも頭を下げてくる。肩をすくめる。
遊んだだけ。お礼なんていらないのに。
アタシのやることは何一つとして、他人のためなんかじゃないんだ。
それから行く先々で、少年の噂を聞いた。
偶然とも思えない。なら、どこへ行っても活躍してるってことだ。
助けられたという少女の話。倒したという賞金首の話。洞窟に巣くったモンスターを掃討したという逸話。戦闘の痕跡が残った場所へ赴いて、周囲を一望すると、成長のあとが窺えた。
順調に賞金首を狩っているらしい。この地方だけでは、お尋ね者の数はそれほど多くはない。なら、アタシのところへ辿り着くのも時間の問題だろう。
期待を胸に抱いているのを自分でも感じる。
そして、赤い悪魔の期待とはすなわち、殺意のことだった。
本格的に躰にガタが来た。どこかが暴走しているようで、血に染まった手が不調を示している。昨晩、闇に紛れてアタシを狙ってきたハンターの五人組を皆殺しにした。
赤い悪魔は殺すことでしか楽しめなくなっている。
いい加減、限界かも知れない。
相談がてら、レオンの家を訪ねることにした。
「ちっーっす。ここにレオンとやらがいるって聞いて来たんだけど……」
「なんだ、キサマ」
ドアを開けると、中にいたのは黒服の男だけだった。振り返った直後に銃を向けてくる。見た感じ、レオンという男はいない。一応聞いてみる。
「あんたがレオン……じゃなさそうだね」
「……」
沈黙のせいか、分かりやすく殺気が出てくる。
「じゃ、また日を改めるとするよ。邪魔したね」
「……殺せ」
奥から現れた他の黒服も一斉に銃を構えた。アタシは困ったように笑って、もう一度だけ聞いた。
「ホンキかい?」
「ああ、運が悪かったな。ここで死んで貰おう」
「同感だよ」
使うことも無いだろうと思って銃は置いてきた。手持ちの武器は剣だけだった。黒服が撃ち込んでくる銃弾の音を聞いた瞬間、躰は最適な殺し方を求めて、自動的に剣を振るうようになった。
黒服の動きは訓練されたものだった。避けられないタイミングで同時に銃を撃ち放つのだ。常人ならばひるむだろうが、躰はためらいなく一直線に前に飛び込んで、二人ほどまとめて切り裂いた。顔色ひとつ変えずに攻撃を続けてくる。
剣が黒服の体に突き刺さる。息絶える寸前にも銃をこちらに向けた。銃口を逸らしてアタシはもう一回縦に斬りつけた。
「キサマ、何者だ」
「そっちこそ」
部屋の隅に逃げ込んだ黒服が反撃してくるのを避けず、首をはねる。ごろりと落ちた首の断面を見る限り、人間のようだった。まともな、と形容する気にはなれなかったが。
「やれやれ、なんだってんだ」
そしてドアが開いた。
攻撃態勢のままだったから、何も考えずに腕が動く。
「――ッ!」
斬りつけてから気づいたのは、見知った顔だった。
少年じゃないか。だが、躰は急に止まってくれない。高速で肩から腕を一本切り飛ばしたあと、首を狙う直前で止めた。いや、止めざるを得なかった。
ひどく呆然とした顔をしながらも、しっかりと銃に手が伸びていた。少年は自分で気づいてすらいない。ひたすらに反射的な行為だった。お仲間らしきのが二人ほど、こっちに敵意を向けている。そりゃそうだ。
「右腕損傷……危険です、マスター」
長い髪の女の子が気遣わしげに告げる。
「あー……。やっちゃったぁ……。ご、ごめーん……。黒服の連中の仲間か何かだと思って、つい、その……斬っちゃった」
もう一人、こっちはショートの子だ。目をつり上げて怒っている。ごく普通に。
「ひどいですよ! 間違えないでください!」
「ご、ごめんってば……。……ま、謝っても少年の腕が治るわけじゃないけどね」
「そんな言い方って!」
「マスター、命令を。標的を排除します」
こっちはアタシの同類かと思ったけど、もっとそのままだ。不純物が混ざっていない感じがする。
「うわお、物騒だねこのコ。壊すのは得意みたいだけど、少年の腕を治すとか、そういう機能はないの?」
「……。ありません」
「あ、そ……」
断面からは骨が見えていた。一応、レオンの家にあった包帯を勝手に使わせて貰って処置はしたものの、放置できるほど軽い怪我でもない。
「……とりあえず応急処置はしたよ。医者に知り合いはいないけど……。心当たりがあるなら行った方がいいだろうね。なんだったら、ホーライにいるグレイって人に頼むといいよ。見てくれはともかく、不自由はしないようにしてくれると思うよ」
攻撃してこなかったのが不思議なくらい、二人は本心から怒っていた。少年ひとりがそれほど怒っていないようだった。もう一度謝っておく。流石に悪いと思ったのだ。
「じゃ。すまなかったね、ホント」
また、少年を遠くから見かけた。キャノンエッジでのことだ。
精悍な顔つきは、旅を始めたころとは比べものにならない。血と汗にまみれ、オイルで黒ずんだ帽子にひび割れたゴーグル。
だが彼の瞳のなんと綺麗なことか。悪意と傲慢の暗闇に落ちていく姿を見たいと願っていたよ。死に怯えてしくじってどこかで犬死にしたら笑ってやろうとも思っていた。なのに、坊やはまだまっすぐに前を見据えてる。
言葉に従ってグレイのところに行ったのだろう。切断された部分には鋼の腕が取り付けられている。
あれは、わざとじゃなかった。だけど望んでいなかったというわけじゃないのかもしれない。現に今、同じような境遇になった少年のことを喜んでいる。同じになって欲しかった。もし一緒の場所まで落ちてきてくれたなら、とても幸せな気分に慣れただろうから。
黒い感情がわき上がる。これは嫉妬だった。
少年に聞いてみたかった。
ねえ、アタシが憎いかい? って。
だけど少年は少し迷ってから、首を横に振るだろう。彼はそういう人間だった。あのときには悪意は一切なかった。それを見抜き、当たり前のように許すに違いない。賞金首を倒し続けているのは、それが彼にとって為すべきコトだからだ。
折れない意思。
それこそがこの世界でただひとつ確かなものだ。どれほどのことを成し遂げたかも、どれほどのものを得たかも大した問題ではないのだ。
失っても失っても前に進もうとするその意思こそが人間を人間たらしめる。遙か広き世界を渡り、荒野の果てを歩むとき、それだけが生き延びるための武器だ。
仲間と笑っている。いつか見た二人だ。メガネの少女はメカニックだろう。もう一人は笑いもせず付き従っていて、坊やは困ったようにその娘を笑わせようとしている。お気楽な旅をしているみたいに見えるけど、ここに来て、それだけの余裕が出来ているってことでもある。
キミはこの世界に価値を見いだしたんだろう?
自分が生きるに値するだけの意味をさ。なあ、そうじゃないか。痛い思いをして苦しみながら、こんな場所で生きようとしてるんだ。戦い続けているんだ。
その強さこそがアタシの求めていたものだった。
あんたはそれを持っているんだろう?
羨ましさに似たその嫉妬をなんとか別の感情とすり替えて、町を出た。背中に届いた笑い声はアタシの発するものとは大分違ったものだった。
狙われていた。不意打ちされることが多くなったのは、いただけない。
反撃して鉄くずにした戦車だ。蓋を開けてみる気はしない。中は血で溢れているだろう。中身が使い物にならなくなって外側も沈黙しただけだ。
息をつく。なんだか疲れて、その鋼鉄の塊に背中から寄りかかって、頭上を見上げた。ヘブンズブルーの空。澄んだ青は破壊の爪痕を未だ色濃く残した大地とは異なり、とても美しかった。
あたりには赤茶けた土しかない。遠くには林が広がっているが、生態系は崩れきってしまってとうに蜂だの猿だのの群れに蹂躙されている。まっとうな生き物はひっそりと暮らしているだろうが、小動物が隠れ住むので精一杯ってところだ。猛禽類だの大型獣は姿を消してしまった。
人間が生き延びられたのは、どうしてなのだろう。不思議ではある。
ぼんやりと考える。照りつける太陽の光は遮られることなく地表に届く。土に吸収されてそれほど暑くないようだ。熱はあまり感じない。ただ、明るい世界は気分が良い。
また、不意に記憶が蘇る。
血と炎に彩られた、地獄に似た赤い景色。
誰かを捜してわたしは駆ける。足も動かないから、転んで、這って前に進む。止まることが出来ない。妹も死んでいるのに。母も死んでいるのに。父も死んでいるのに。隣家もとうに焼け落ちて、町は赤く染まっていた。自分の居場所が見つからなくって涙も出ないっていうのに泣き叫ぼうとして、その行為に虚しさと白々しさを感じて黙り込んで、そもそも喉が壊れて声なんかでなかったくせに。
見つけたのは記憶の欠片。
日記。
同じもの。同じ表紙。
開けば、そこに記された文字はわたしの書いたものじゃなくて。
姉のもので。
母が見棄てたのは姉ではない。母が助けたのは妹ではない。そう、わたしではなかった。それでも、母が助けたのは姉だった。気づく。自分の日記じゃなかった。だけど、抱きしめた。
炎がわたしを絡め取る。痛みなど感じない。熱くなど無い。ただその日記が燃えてしまうのは悲しかった。床に伏して丸くなる。床板も燃え落ちてむき出しになった地面は熱されていて、ついた肌を再び灼いた。背中は布が溶けてくっついていた。わたしはもう動く力もなかった。それでもその日記だけは守ろうと思った。
諦めることだけが怖かった。
記憶が途切れる。誰かの会話が聞こえてきて、その先は存在しない。
夢を見ていた気分になって、空に目を遣った。昔のアタシが守ろうとした日記は目覚めたその日の晩に焼き捨ててしまった。
大事なものを、守ろうと決めたものを自分の手で失ったのは、何度目だろう。
あのとき母は姉を守ろうとしたんじゃないんだ。一緒に死のうとしたんだ。なら、姉はわたしを守ろうとしたということになる。不器用な守り方。理解されなくともかまわない、自己満足にも似た救い。それに対し感謝すべきかどうか、よく分からない。
日記の内容を思い出した。妹のコトを大切にしている、って。そんなことも知らないで、アタシはわたしを消してしまった。
また、罪が増えたのだと思った。
理由が欲しかった。逃げるための理由が。
たとえばアタシがこんなにも殺し続けたのはあのときの妹と母と父の仇を討とうとしていたから。戦いを求め続けたのは殺されることを恐れて殺し続けなければ安心できなかったから。向けられる殺意を潰し続ければアタシを殺そうとする者は誰一人として存在しなくなるから。……なんて風に。
嘘だった。自分すら騙せない嘘に過ぎない。
だってそうじゃないか。
見棄てたのも、殺したのも、アタシだ。
だとすれば、誰よりも殺したかったのはアタシ自身だ。
そして赤い悪魔とはアタシのことなのだ。
今になって理解する。ゆっくりと『ナニカ』に躰を蝕まれていたような気になって、アタシは自分の奥底で育ち続けた悪魔を自由にさせた。それはアタシの意思だった。アタシが赤い悪魔なんじゃない。赤い悪魔が、アタシだった。
ナニカ。
鏡に映った自分。
アタシの心。
それは、赤い悪魔そのものだ。
なんてことだろう。くだらない。くだらない。何もかもくだらなすぎて涙が出そうだ。はははは、はははははは、あははははははははははははははははは。
なあ、誰か教えてくれよ。
――アタシがアタシである意味って、なんだ?
もうすぐ死ぬのだ。制御が効かなくなって、アタシはアタシでなくなる。そんな気がする。
躰の制御が効かなくなったのは、コントロールしようとする支配の意思が分離しているからだ。求めることと奪うことは違う。まるで違うのだ。死を求めながら生を奪う。躰は矛盾を綺麗に読み取っている。
半身が各々異なる意思を持ったとき、躰が崩壊するのは時間の問題だ。
たとえすぐに死ななくとも、アタシはやがて壊れるだろうことは分かり切っていた。
赤い悪魔はアタシをも巻き込んで死にゆくだろうから。
少年と初めて逢ったあのとき、こうなるのを予想していたわけではなかった。メールアドレスを控えておいたのは正解だった。呼び寄せる場所はジャンクヤードでいいだろう。がらくたの躰には相応しい名前の町だ。
今やこのあたりで最強の名を欲しいままにしているのはあの少年だった。いや、もう少年と呼ぶべきではないのだろう。分かっている。
だけれども、そう呼びたかった。
ジャンクヤードに着いた。少年もそれほど遠くにはいないだろう。酒場に行こうとして思い直した。待ち合わせの時間まではまだあることに気づいたからだ。
酒場の前でうろうろしていると、背後を巨大な人影が通り過ぎていった。振り返るとその男はいささか大きすぎる体を抱えて立ち止まる。アタシを見て目を細めた。
「ウーン?」
「なんだい、あんた」
「……やっぱりそうじゃ。お嬢さん、ちょっと時間はあるかね」
「ナンパなら他を当たってくれる? これから待ち合わせがあるんだ」
「フム。ワガハイはしたいのはナンパではないんじゃが……お嬢さん、昔、ここから北の方――山を越えた先の……エーット、なんといったかのぅ。町長が鉄仮面を着けていた山奥の町に住んでいなかったかのう」
「……え」
「いやなに、旅をしていたころ……十年ほど前にその町に立ち寄った際にな、お嬢さんから水をもらった憶えがあるんじゃよ。人違いなら失礼したがの」
「ちょ、ちょっと待った。どこだって?」
「町の名前は失念しまったんじゃが……ああ、そうじゃ。ワガハイ、持っていたカメラで家族みんなの写真を撮ってあげた記憶があるぞい。あれは良い出来だったという自負があったんじゃな。だから憶えていた。……お嬢さん?」
「えっと、なに」
「若い娘さんがこんなところまで来るとは、長旅ではなかったかのぅ」
「まあ、……うん」
「カメラは壊れてしまったから、もう一度写真を撮ってあげることはできないんじゃが……いやはや、あのときのお礼を改めてと思っていたんじゃが、急ぎの用事では仕方ない。何か困ったことがあったら来たらいい。ワガハイに出来ることなら力を貸すぞ」
「ううん、いいんだ。それよりさ、そのコの名前、まだ憶えてるかな」
「もちろんじゃとも。名前は――」
大男はニカッっと笑ってその名前を口にした。そうだ、姉の名前だ。
「そうじゃろ?」
頷いた。久々に嬉しくて笑った気がした。
「アタシは妹の方なんだ。でも」
目を丸くした男に向かって、深く頭を下げた。
「ありがとう」
そして酒場へと急ぐ。少年はまだ来ていなかった。
「ジャック・D。悪いね。待たせてもらうよ、あの少年をさ」
「何故だ。あいつはまだ……」
「……目の色が変わったね。まあ、色んな理由があるさ。でもそんなことは問題じゃないんだ。やるか、やられるか。それがこの世界の掟だよ」
「もし逃げたなら?」
「逃げないさ。まっすぐな少年だ。きっと、アタシの望みを叶えてくれる」
険しい顔をしているジャックに笑いかける。
「水でももらおうか」
「一杯、1Gだ」
「水で金とるんだ?」
「こう言うと、大抵の客は二度と来ないのさ」
「あはは。いいね……お、来たみたいだ」
からん、とドアのベルが鳴る。
入ってきたのは少年だけだった。他の二人は外で待っているらしい。
「よしよし、来たね」
少年は口を閉じて、耐えるようにアタシを見ていた。
ジャックは口を挟まない。その娘は何か言いたそうにしていたが、少年の様子を見て口を閉ざした。長い付き合いで、このタイミングで声を掛けられないことを悟ったのだろう。周囲に恵まれているのだ。
他の客達は無言でことの成り行きを見守っている。
先に外に出る。少しの時間、迷っていたのだろう。少年は歩みも遅く外に出てきた。
「黙ってないでさ。わかるだろ? これからアタシたちが、いったい何をするか」
少年は、わかると答えた。
「ふふっ。物わかりのいいコは、好きだよ」
店の前で対峙する。ギャラリーには少年の仲間が二人、手を出す様子はない。ジャックは外に出てこない。その娘も店の中で耐えて――待つことに決めたようだった。
「それじゃあ、始めようか! 最強のハンターと最強の賞金首の戦いを!」
躊躇ったなら、戦車に乗るだけの猶予も与えてあげるつもりだった。逃げ出したなら、そのまま見逃してやるつもりだった。真実、迷いながらも真っ直ぐに立ち向かってきたのなら、全力を持って叩きつぶしてあげようと誓った。
色んな選択肢が目の前には浮かんでいて、いつもひとつしか選べない。アタシにも、少年にも。未来について知ることは出来ない。けれど今は、選ぶことが出来るという幸福を享受しよう。
選んだ結果がこれだ。これが最善の結末への道なのだと、どちらもが信じていた。言葉は交わさずともそれが分かった。
最強のハンターと最強の賞金首の殺し合いだ。血で血を洗い、その匂いさえも硝煙に埋もれ、骸は荒野に、記憶は誰の胸にも残ることはなく、ただ朽ちるだけの人間同士の戦いだ。
さあ、アタシという間違いをその手で乗り越えてみせろ。
少年が持ち出してきたのはフリーズガンだった。狙いは正確だが、殺傷用に向いているとは言えない。衝撃によって破壊する能力に欠けているからだ。
アタシは改造したPzb39を振り回す。四連続で撃ち放った瞬間、手応えの無さに訝しんで手を休めた。少年は無言でドラム缶の後ろに身を隠していた。
外したらしい。驚いて少し距離を詰める。
射程の外から踏み込んだ瞬間、フリーズガンのレーザーが照射された。足を掠めただけ。被害は僅少だ。すぐさま剣に持ち替えて駆け寄った。
大降りで振り下ろす。
余裕を持って避けられる。横に薙ぐ。かわしきれずに少年の服の布が横一文字に切り裂かれた。内側に着込んでいたプロテクターが黒く鈍い輝きを見せていた。
また、銃を撃って距離を取る。少年の目が何か危険な狙いがあることを告げていたからだ。様子を窺っているうちにしびれを切らしたのか、幅を取って射撃に切り替えてくる。少年の得物は致命的なダメージを与えるには不向きだ。それは彼も知悉しているはずだった。だから、これは罠。
さらに離れた。そこに投げ込まれる数発の音響手榴弾。聴覚が振動によって麻痺する。ついでに動きが鈍ったのを彼は見逃さなかった。波長を合わせたハウンドボムが炸裂し、一帯に凶悪な衝撃波が襲いかかる。音の速さからは逃げ切れない。
苦し紛れに放った一発は銃によるものだ。カキン、と何か固い響きに弾かれた。実質的なダメージは無い。少年も今の攻防ごときで何とかなると楽観するとも思えなかった。
内側からは黒い衝動がわき上がってくる。
NONAME NONAME NONAME ERROR ERROR ERROR NOERROR
――NO DAMAGE
殺意。
戦うことから、殺すことに意識がシフトした。
赤い悪魔が現れた。
そしてレッドフォックスは裏側に消え失せている。
こちらの様子が変わったのを見て取って、少年は攻撃手段を変更してきた。アタシが無造作に剣を片手に近寄ると、逆に走り込んでくる。
ざん、と空間ごと切り裂くような音がした。少年の髪が散った。肌を薄く切り裂かれても少年の勢いは止まらず、懐に入り込んで近距離から鉛の銃弾を撃ち込む。そこに電気手榴弾を引っかけるように押しつけ、離れる。
どこに隠し持っていたのか、デリンジャーによる一撃だった。手元に隠せるという利点が大きい武器だ。見抜けなかったのは油断でしかない。
筋力を限界まで開放する。少年の方を向いた。危険を感じて一気に遠ざかろうと走り出した背中に、お返しと言わんばかりに衝撃波を発生させた。体内の運動機関を全力で働かせて発生させた波動によって、展開方向一面を打ち抜く攻撃手段だ。つまりはこの躰を中心に擬似的な爆発を起こしているのである。爆風で心臓が圧迫されれば容易く破裂する程度の威力はある。
真後ろから当たった突然の衝撃に吹き飛ばされた少年は転がりながら受け身を取る。一転し、白い塊を上空高くに放り投げた。手に残ったのはフリーズガン。基本的に遠距離からでも届くのが銃器の利点だ。そして、この程度ならPzb39も同程度の命中精度を誇る。撃ち合いになった。
少年の肩から血が出ている。避け損なったらしい。
こっちも腹のあたりがダメージを受けたのを感じている。さきほどの電気攻撃はサイバーウェアの機能を狂わせる目的だったようだ。少年もしっかり考えて用意してきた、ということのようだ。
だが。
その正しき狡猾さ。その真っ直ぐな崇高さ。その揺るぎなき信念よ。
ああ、甘すぎる。撃つたびに苦しそうな顔なんてしないでおくれよ。アタシの攻撃を避けることが可能なら、当てることもそうは難しくないだろうにね?
迷いがあるのが分かる。
そしてそれは戦場において生死を分けうる要因で、最も大きいものだった。何度も戦って来たハンターにそれが分からないハズがないのだ。甘さとしか言いようがない。
少年の甘さにつけいることが出来る。
そろそろ少年が投げたモノの正体が見えてくるころだろう。ちらりと視線を上に向けると、極端に火薬の量を増やしたらしく、周囲を揺るがすほどの規模の爆発が起きた。フライハイボムか。
だけど――当たりもしない爆発をさせる意味はない。軽く失望した。
もう、いいかな。そろそろ殺さないでいるのも飽きてきた。楽しませてくれると思ったのに。この程度じゃあ、まるで届かないってこと、分からないでもないだろうに。
最強のハンターでもこのレベルじゃ、赤い悪魔はいつまで経っても殺せない。
剣の機能をフルに発動させる。衝撃波を出すために使った振動を利用し、剣の内側から発生させる。プロテクターごと叩ききるために思いついた使い方。鋼鉄も人間も一緒くたに切り裂いてしまう。
まだ上空に目を向けている少年が目に入る。
斬りつけようとして、悪寒を感じて真横に飛び退った。刹那、上空どころかその更に高々度の世界から振り下ろされるプラズマの鎚。ばばばっ、とさっきまでアタシがいた地面で電光が跳ねる。
フライハイボムによってもたらされたのは急激な気圧の変化と爆風によって吹き飛ばされた雲の集積。頭上を覆い始めた暗雲を通り抜けて、極大のレーザーが降り注ぐ。拡散されたそれは逃げ場を減らし、直撃しないようにすればするほど狭い足場に追い込まれる。
少年はフリーズガンの引き金を引く。アタシに当たらなくとも、避ければ周囲が凍り付く。光線と電撃はその氷結した地面を伝ってここまで届いた。威力は殺されている。
それでも足止めにはなった。なんとか身をよじってかわすと、いつの間に仕掛けたのか機雷が転がっている。踏むような愚は冒さないが、デリンジャーによる射撃は正確で、近距離で連鎖する爆発にアタシの躰はダメージを受け続ける。
油断したのはこっちだった。
再び上空からレーザーが振り下ろされた。
それはさっきのように拡散されたものではなく、すべてのエネルギーを束ねた一撃だった。焼き尽くされる躰は痛みを感じることはなかったが、動きが鈍くなったのは間違いなかった。銃を撃ち鳴らす。剣で切り跳ばす。その行為は時には当たり、時には外れた。少年もまた手持ちの道具を使い切ったか、必死にデリンジャーで応戦してくる。フリーズガンもエネルギー切れを起こしたらしい。
頭から血だらけになった少年は息を荒げてアタシに立ち向かってくる。ほとんど自分を巻き込む覚悟で爆発させたグレネードの威力が思いの外大きかったのだ。いい加減、アタシの攻撃を避けきれなくなっているころだろう。
だが、アタシも戦闘中に回復しながら耐えているのが精一杯だった。銃弾は少年の足を貫いたはずだった。腕を動かなくさせたはずだった。流れすぎた血で倒れていなければおかしかった。足を引きずりながら、だらりと垂れ下がった腕を持ち上げ、もう一本の鋼の腕で支えながら、銃弾を撃ち込んでくる。
アタシは衝撃波を放つ。知らぬ間に剣は折れていた。銃弾もあと数発しか残っていなかった。真正面からの攻撃に頭からごろごろと真後ろに吹き飛ばされてゆく体。少年は生きているのが不思議なほどの姿だった。
それでも少年は立ってきた。
殺したい。殺したくない。
行き着くところまで行かなきゃならない。その先を見なければならない。アタシがアタシであった意味を見いだすために、最後までやらなきゃならない。本当は何一つだって失いたくなかった。どれほど大きな矛盾を抱えても、何かをひとつだけ選ばなければならないときが必ず来る。その選択に後悔しないためにこそ、意思が必要だった。
殺すための銃弾を、再度、撃ち込む。
少年は頭をかすかに動かし、かすめた威力で弾けたように倒れ込む。
また、殺せなかった。
なんだ、アタシだって迷ってるんじゃないか。
いいんだ。殺すとか、殺さないとか、そういうことは本当はどうだって良かった。戦っていたかったんだ。アタシがアタシであるために、全力を出して、あんたを叩きのめしてやりたいと思ったんだ。
心を映す鏡があるとすれば、ひとにも見える形を持つのだと思う。
たとえば、少年。キミのことさ。そして他にもいるんだろう。他人を受け止め、全力で答えを返してこようとするヤツのことを言うんだ。
やっと分かった。甘いんじゃなくて、優しいだけ、か。あははっ。あはははっ。なんだか惚れちゃいそうだよ。もう、たいして時間はないけど……。
血の赤。流れているのは誰のものか。
炎の赤。アタシたちを取り囲む世界。
アタシは見た。それはひどく優しい瞳の色だ。夥しい量の血は流れ続け、えぐり取られた肉の赤さが痛々しい。顔を背けずに立ったままこちらを見上げる姿は凛々しく、またえらく格好良かった。
いいねえ。
そうだ。最後を見届けるのはあんただ。そうでなくちゃならなかったんだ。
ああ、いつか聞いた。絆と鎖の話を思い出した。アタシとあんたは鉄の絆で結ばれている。繋ぐものは意思で、それが絆なのか、鎖なのかを決めるのは心なんだ。
あんたのことを信じられるよ。だから、その意思の正しさを証明して見せろ。あんたが勝ったなら、何もかもが無駄だったわけじゃないって……信じられるからさ。
アタシがアタシとしてここで戦う意味があるんだ。
もう、レッドフォックスは存在しない。
ここにいるのは一匹のお尋ね者だ。
失われた名は赤い花の娘を意味した。捨てた名は赤を背負って生き永らえた女の姿だった。今や、正義に打ち倒されるべき赤い悪魔の名しか持たない。
それが、アタシだ。
さあ、殺そうか。
やけに重い躰を意思の力で動かし、最後の一発を込めた銃を少年の頭に突きつける。少年は真っ直ぐにアタシの顔を見つめ、悲しそうに、手にした銃を心臓も無いこの胸に向ける。
熟した果実のような瑞々しい赤は少年の血。ぽたりぽたりとアタシの目から流れ落ちる雫も赤く染まっている。澄んではいるけれど、血とは異なる熱い液体。
指先に力を込める。
どん、と衝撃が真後ろに突き抜けてゆく。
仰向けに倒れ込んだ。楽な体勢だった。夕暮れがひどく眩しかった。
それだってひとつの赤には違いない。燃えるような空の色。やがて夜に飲み込まれてゆく、血でも炎でもない、ひとときの輝ける赤の世界だ。
「あれ、再生が効かないな……。この身体も限界ってトコ、かな。強くなったね。――強い男は、嫌いじゃない、よ」
あはは。
楽しかったなぁ……
わるかったねえ、わがままに突き合わせちゃってさ。
死ななくて、良かったねぇ……
少年は歯を食いしばって、アタシの顔をじっと見ていた。大地に膝を突く。ぽたぽたと落ちてくるのは水滴だ。たぶん、赤くは無い。泣いているのかな。
ああ、もうなーんにも見えないや。
まあいっか。
じゃあね少年、ありがと……
少年は立ち上がった。いつもそうしてきたように、再びどこかへと歩き出すために。
逡巡し、懐に入れてあった写真を、そっと取り出す。
写真の中には家族が幸せそうに寄り添っている光景がある。中でも、二人の赤毛の娘は悲しみなど知らないかのように、お互いの手を握りしめていた。
突然、風が吹いた。
一葉の写真は空を舞った。どこへ運ばれてゆくのかも分からぬままに。目で追うと、夕空に紛れ、あっという間に見えなくなった。傷だらけの少年は寂しげに振り返って、赤い女の気持ちよさそうな寝顔を覗き込む。
二度と目覚めることのないその顔は、どうしてか微笑んでいるように見えた。
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Felix Culpa (7)
生まれ、心を持つがゆえの苦しみを我らは知る。
されど死は、誰にも等しく訪れる。
願わくば、その魂にささやかな眠りを――
Noah system No S. program …… error error error……
数ヶ月前のことである。かのアラン=ベルディア氏の屋敷に賊が入ったという椿事があった。財を成して一代にて街を作り上げたという氏の逸話は有名であり、当然、金目のものを狙っての犯行かとも当初は思われた。関係者も実害がなかったからと、すっかり忘れ去った様子であった。
だが――
夜中。仲の良い姉妹がちっちゃな声で会話していた。姉の方は、狭いベッドにふたり、寄り添って寝ていることについて文句を言える立場ではない。なにしろ手持ちの金銭もなくやってきて、妹の部屋に住まわせてもらっているのだ。ちなみにメイドは住み込みで働いているので、ちゃんとアランに許可ももらっていたりする。
早いところ仕事を見つけたい――そんな話から、いつしか妹は勤めている屋敷での出来事を語り出した。
「あのさ、お姉ちゃん。不思議なの」
「うん、何が」
「いつか話したじゃない。あのカプセルのこと」
「ええ……そうね」
「昨日見たらね、無くなってた」
「……うん」
「もしかして、何ヶ月か前に盗まれたものってあれだったのかなあ。アラン様の財産にも手を付けず、ローズ様やカール様のお部屋も荒らされた様子は無いそうだし。他には何も盗られてなかったんだから、あれのこと知ってた犯人が……」
「あのね、リリア」
「どしたの。そんな真剣な顔して。ああ、そーいやお姉ちゃんがこの街まで来たのも、ちょうどあのころだっけ……はっ、もしや!」
「リリア! 私は泥棒さんでもなければ、盗賊団の首領なんかもやってませんからね!」
「でもでもー」
「分かってる。ねえ、明日も早いんでしょう?」
「そうだけどー。あのさ、お姉ちゃん、何か話したいんでしょ? 嬉しそうな顔をしてるときは、だいたい自慢話か好きなひとの話だもんね」
「え。そうなのかな……」
「そうだよぉ。幸せそーに喋るんだもん」
「うー。じゃ、話してあげる。私が出逢ったハンターさんのこと」
「ハンターの話? ここじゃアラン様の話を耳にたこができるほど聞かされてるから、ちっとやそっとのことじゃ驚かないもんねっ。……でも、お姉ちゃんが好きだっていうなら、ちょっと聞いてみたいかな。どんなハンターなの?」
胸のあたりにそっと手をやり、彼女はにっこりと笑んだ。
「優しいハンターさんの、お話よ」
(了)
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