ふたりのsolitaire (yoruha)
しおりを挟む

ふたりのsolitaire

 

 

 

 ラジオから流れてくる切ないメロディに、私の水底が幽かに震える。耳を澄ませる。まるで、ゆっくり浸みこんでくるみたい。思考はだんだんとクリアになってゆく。

 窓の外はひっそりと静まっている。私はひとりぼっちで、壁を背に座り込んで、真っ暗な部屋の片隅で膝を抱える。その音色に耳を傾けるけれど、どんな曲も、いつしか終わりを迎えてしまうのが分かっている。こみ上げてきたものが吐息に紛れ、少しずつ少しずつこの胸を凍えさせる。眩しい場所にいたくなかった。あたたかな光に照らされて、私の醜さを見られてしまうのは嫌だった。

 望みはひとつ。

 口にしたら、こわれてしまうような。

 

 ねえ、りえちゃん……。

 

 息が漏れる。こんなにも苦しいのは、その気持ちが伝えられないから。たとえ伝わっても、決して叶うことのない想い。火照った体を慰めようと、腕は、無意識に、けれど慣れた動きで。

 指が。

 冷たくて。

 撫でるように、敏感な場所を掠めるように、

 するする、するすると降りてゆく。

 吐息。

 息を殺していても呼吸は自然と荒くなり、こもった声が静かな部屋を満たす。

 我慢しても鼻から漏れるくぐもった音までは留めることができなくて。

 頬が熱い。朱に染まった顔が暗い室内の、点けていないテレビのブラウン管に映り込んだ。わずかに歪んだ顔が醜悪で、泣きたくなって、不意に、ラジオでDJのけたたましい笑い声があがって、頭の中の雑音を無理矢理かき消してくれる。

 澱んだ空気に身体を浸す。早くなった心臓の鼓動は、部屋の外には一切聞こえない。

 聞こえないはずだ。

 だらりと降ろした腕が絨毯に触った。膝にかかったスカートの布の肌触りがくすぐったかった。凍えそうな夜気が私の身体を包み込んでくれている。粘液の中を泳ぐ魚みたいに鈍い動きだ。かすかに水っぽい音がする。息苦しさを憶えて顔を伏せる。隙間風が吹き込んできて熱を持った耳がひんやりとした。

 声が出てしまう。嘆息が濡れた響きを伴っていた。はっとする。どこかに抑え付けていた冷静さが鎌首をもたげてくる。何をやっているんだろう。お母さんもお父さんも、下にいるのに。

 私の、ばか。

 ラジオの音量を下げる。ひび割れた音がして、消えてゆく。寒々とした静寂があたりを満たす。私は私を取り囲む沈黙に為す術もなく支配される。この静けさを崩そうとするあらゆる音が耳障りに感じられた。

 あの指先が、私に触れるのを想像する。愛を囁くのを待ち続けている。髪を撫で、頬を唇がすべり、舌と舌が絡み合う。すべすべした肌。切り揃えられた綺麗な爪の光沢。髪の毛のほのかに甘い匂い。

 溶け合いたい。

 練習のうちに堅くなった指の腹。つい、と触れるだけで離れてゆく。何もかも知っているくせに知らないフリ。そうして焦らされるんだ。私は求める。声を嗄らして、だらしなく、みにくく、よだれを垂らして尻尾を振る犬みたいに。いつかは応えてくれると信じて。だけどいつまで待っても私のものにはならない。

 それは、身勝手な想像。

 イフの話。

 愛を告げたなら、そんなふうになるのだろうか。なんて。

 期待ですらない。

 妄想。

 どんな顔でそれを聞くのか、見なくとも分かるようだ。傷つけまいとして困った顔を隠し、わずかに微笑んで冗談として流すだろう。

 私は私を押し殺して。

 矛盾した私は、私の、堰を切る最後の一線を守ろうとする。

 それでも、いつかは、言ってしまうかもしれない。

 私には、口を閉ざし続ける自信がない。日に日に強くなっていくこの想いを胸の中にだけしまっておくなんて、易しいことではない。だから……余計な言葉は、本当は、何も聞きたくない。優しい言葉なんてかけないでほしい。

 ただひとりの声が欲しくて、たったひとことだけが聞きたくて、でも、それは起こりえない現実だと知っているから、すべては夢想なのだと言い聞かせる。

 熱くなった体を抱きしめる。鎮まらない疼きを持て余している。指先だけが全てを否定するように、とてもとても冷たくて、そのうちに、肩から震えて、

 …………。

 ベッドに疲れ切った体を投げ出して、脱力した。

 自分の格好を思い出す。制服を脱ぐのを忘れていた。かまうもんか。明日も、明後日も、それから先も、ずっと、ずっとずっと変わらない未来が続いていくんだ。制服の皺くらい小さな変化には誰も気がつかない。誰にも気付かれない。何も変わらない。かまわない。りえちゃんの笑顔が見られるなら。りえちゃんが喜んでくれるなら。りえちゃんが幸せになってくれるなら。

 それだけが、私の望み。

 空っぽだった私が、手に入れたいと初めて感じたもの。

 私の。

 私だけの、りえちゃん。

 

 

 

 

 

 生まれてから、物心ついてから、私の世界は暗闇に包まれていた。

 何か原因があったのかもしれない。なかったのかもしれない。

 たとえば両親に虐待されていたとか、そういう分かりやすいトラウマなんか無いはずだ。もちろん小さな歪みが積み重なったという見方もあるだろう。そうかもしれない。ともあれ曖昧な理由探しにはとっくに飽いている。

 ただ、すべてのことが信用できなかった。

 それだけの話だ。

 何に対しても価値を見出せなかった。

 お父さんは笑顔でアイしていると私に言ってくれる。ごめんなさい。お母さんは笑顔でアイしていると私に言ってくれる。ごめんなさい。友達になろうと言ってくれた大勢の顔も忘れた誰かたちがスキだよと私に言ってくれる。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 私には、同じだけの気持ちを返すことができませんでした。

 アイしてくれてごめんなさい。スキになってくれてごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。……

 小学生になって、このままではイケナイと思われたのか、近所の塾と音楽教室に通わされた。塾の方はすぐに辞めた。勉強は人並みには出来たし、それ以上行くことの意味が分からなかったから。音楽の方は何ヶ月か通って、自分に才能が無いことが分かった。一通り弾けるようにはなったけれど、どうしても良し悪しが分からないのだ。綺麗な音色だとか、素晴らしい曲だとか言われても、そうなんだなと思うだけで、それを凄いだとか素敵だとか感動するだとか言うような、そういう感覚にはとんと縁がなかった。

 暗闇とはつまり、私そのものであり、私の見ていた世界のことだった。光が存在しなければ、周りにあるどんな素晴らしいものも無意味になってしまう。

 一応、ひとに合わせることだけはできたから、私は周囲の普通という無為に溶け込むことは可能だった。それからは問題の無い子供として過ごしてこれたように思う。

 そして、自分が他人とズレていることを察した瞬間、色んなことに納得した。周囲がオカシイのではなく、私が狂っているんだ。

 傷つくことを繰り返し。

 リフレイン。

 やがて生まれてきたことを後悔するようになって。

 呪われている。そう思った。

 何もかもが疑わしく、どんなものにも大小の嘘が混じっていることが許せなかった。綺麗なものなど無いのだと思っていた。うつくしいものは、いつか必ず踏みにじられるんだ。それだけが、幼いころ私が気付かされたひとつの真実だった。

 違う、ということは、それだけで排除される理由だ。

 私は上手くやっていたと思う。誤魔化すことはとても得意。違うことを悟られないようにすることは、思ったよりもずっと簡単なことだった。

 

 

 

 

 

 ひどく色褪せた風景の中。どこまでも遠ざかってしまう過去における、たった一瞬の横顔。

 鮮明に思い出せる。彼女の浮かべた純粋な笑顔を、幼い私は舞台の袖から見上げている。私の目には彼女の姿しか映っていない。

 まるで彼女だけがこの世界の主役だとでも言うように。

 りえちゃんがヴァイオリンのコンクールに出場して、負けた、その記憶。

 そのときまで、りえちゃんはただの友人として……あるいは友人としてすら感じられなかったかもしれない、そんな存在だった。

 おざなりな気分で出席したのは、音楽教室の仲間だったから。先生に勉強の名目で誘われてのことだ。

 期待なんかしていなかった。上手に弾くことは聞かされていたが、本人と話したことはなかった。つまり、私は仁科りえという少女のことをよく知りもせず嫌っていた。

 

 

 暗紅色の緞帳、真っ黒な幕、そして舞台の上の孤独。

 彼女は天才と呼ばれた。

 ねたみ、そねみ、ひがみ。あらゆる悪感情は成功者に対する賛辞に等しい。けれど小学生の時分で押しつけられる悪意を、幼さはどれだけ真正面から受け止めてしまうか、それを投げかける人間は微塵も理解できない。知る由もない。大きすぎる期待は素晴らしい演奏をも雑音で汚してしまう。思いこみは天上の調べを罵詈に書き換えてしまう。或いは重圧を背に受けて、響きが濁ったのやもしれない。日ごろの努力がただひとたびのしくじりで灰燼に帰すことは良くあることだ。だから、負けることも無いとは言えない。

 単純な巧拙で言えば、……いいや、どちらが感動させたか、どちらが勝ったのか、あのときの私ですら分かったくらいだ。小さな賞だった。取るに足らない、あまり注目されもしない、そんな風にも言われていた。だけど、大勢の観客達も疑問の顔を浮かべていた。会場は不穏な空気に包まれたまま、終わり、勝者と敗者の名前だけがひっそりと、ずっと残った。

 結果だけが全てというわけではない。だが、結果とは評価そのものだ。鼻っ柱を折ってやろうという意地悪な人間がいたとも聞いた。当て馬として、あるいは生け贄として捧げられ、代わりに優勝したその子も不幸だ。それ以降、主立ったコンクールに出ては惨敗に次ぐ惨敗。せっかく天才少女を打ち負かしたことで得た自信は粉みじん。初めから幻想でしかない希望なんて与えなければ良かったのにと同情してしまいたくなる。

 だけど、それらは所詮、後の話だ。

 りえちゃんが負けたという事実には変わりない。

 パステルのバックグラウンドと、モノクロームのステージ。

 項垂れた影は誰のものだったろう。

 優勝した少年の顔の細部は記憶にない。緊張しきって憮然とした赤ら顔が、笑えないくらい可笑しくて、くだらなかった。二位として壇上に名を呼ばれたりえちゃんは、脇にいた母親を下がらせ、にっこりと笑い、会場内をぐるりを見回し、最後、ぺこりと一礼した。何の不満も顔には出さず、一位となった彼におめでとう、という言葉も添えた。

 ライトに照らされて、光り輝いているその姿。背中に伸びた影も真っ直ぐで、とても強がった笑顔が印象的だった。泣きたくて、泣きそうで、なのに決して泣いている姿なんて見せまいとしている。

 そしてコンクールの後、先生と一緒に来ていた私は彼女のいるはずの控え室まで向かう最中、長く伸びた廊下ではぐれた。迷うほどの道程では無かったけれど、わざと離れたのだろうか。大人達を困らせてやろうとか考えたのかもしれない。私はいわゆる、ひねた子供だったのだ。

 唐突に、りえちゃんが声を押し殺して泣いている姿に出会した。咄嗟に階段の脇の見つからない場所に身を隠して、覗き見る。

 階段の片隅で、誰にも見つからない場所で、ひとりきり。

 それは孤独に耐えているようでもあり、負けた悔しさを飲み込もうとしているようにも見えたけれど、私にはどうしても、それが敗北の辛さに身を竦ませている少女の泣き顔には見えなかった。

 そうしているうちに、彼女はケースにしまってあったヴァイオリンを取り出した。

 何をしようとしているのか。

 決まっている。演奏だ。

 観客もいない、照明も無い、コンクリートに囲まれたちっぽけな舞台で。

 真っ直ぐに背筋を伸ばす。姿勢を正し、弓を引く。

 ただそれだけで。

 たった今まで暗闇に包まれていた世界が、まばゆく輝いたのだ。

 何の曲だろう。私は知らない。知らないままに耳を澄ませる。高い音。低い音。物語のように流れてゆく音符達の騒ぎ声がひとつにまとまって、離れて、様々な色を描き出す。耳を奪われたら、即座にその奔流に巻き込まれる。哀しみに彩られた世界。憎しみに覆い尽くされた世界。それが何だって言うんだろう。

 光だ。

 一条、射し込んだ煌めきで目の前の暗闇は霧散した。

 赦されているんだと思った。

 すべてを愛してもいいんだって、感じることが出来た。

 曲が終わるまで、私は彼女を見上げるみたいに、呆然と立ちつくしていた。

 そして、最後に気がついた。

 笑顔だった。

 泣いているのに、微笑んでいるようにしか見えなかった。

 私は天使を見つけた。

 ゆるぎない美しいものが、この世界にはたしかにあるんだと教えられた。

 彼女の周囲に生まれた空気に圧倒されて、言葉もなく見つめ続けた。泣いているのに。泣いているのに、この娘は、なんて綺麗なんだろう――

 勝ち誇っているのだって、突然、気がついた。

 その程度のことに負けてなんかいなかったんだと、私ですら思わされたんだ。

 勿論、私は姿を隠したままでいた。耳に届いた雑音のせいだ。いなくなったりえちゃんを探しに走って来た足音を避けてのこと。突然始まった曲に驚いて、それで居場所を突き止めた先生や親達の血相を変えた様子を隠れ見ていた。

 申し訳程度に、私もその後、見つけられた。私の存在など忘れられていたのだろう。先生にとってはそれくらいに価値に差があったのだろうし、私もその観察眼は正しいと共感している。おそらく教室の誰よりも、仁科りえは、一心に期待され、また、未来のヴァイオリニストとして傷つかぬよう大事に大事に育てられていたのだ。演奏者が己の価値を高める楽器を殊の外大切にするようにして。周囲が目に掛けていたのは彼女の才能だったのだろう。……彼女の才能だけだった、と言い換えても意味は同じ。

 この予想外の敗北の結果が、以降どのような影響を残すのか。それを心配した彼らの気持ちは、分からなくもない。思うのは、馬鹿ばっかりだという侮蔑のみだ。仁科りえはそこまで弱くはないし、愚鈍でもない。この負けが彼女を髪の毛一本分ほどにも傷つけるだなんてこと、あり得ない。

 りえちゃんが苦しむのは音楽で表現できなくなること。それしかないんだって、理解できた。

 そのために、他人が何をしようと、彼女は決して負けることはない。りえちゃんのそれは強さだ。私が彼女に見た、稀有な輝きの正体だ。

 だから、もしかしたら。

 私のことを……

 微笑んでくれたら、友達だと思ってくれたら。音楽までもとは言わないまでも、大事にしてくれたなら、私はきっと、誰よりも、何よりも、幸福になれるだろうか。

 胸の内で荒れ狂う傲慢さを隠し、消しきれない欲望を御して。

 祈りのように、一心に想う。

 私は、ゆっくりと仁科りえという少女に近づく。

 

 

 

 

 今更だけれど。

 素直に考えてみれば、それは、あこがれだったのかもしれない。

 同年代の女の子に向ける感情が尊敬であるとは認めにくい。大抵の場合、それは裏返して発揮される。意地を張って、誰にも顧みられない自分の不遇を誰かのせいにしたくて、天才と持て囃されていた少女に、よく知りもしないくせに突っかかっていたに過ぎないのかもしれない。

 今となっては、もはや分からないし、意味のないことだ。少なくとも、りえちゃんが負けて、真っ直ぐに顔を上げて泣いている横顔を見て、抱いていたものがまるっきり別のものに変質したという事実は変わらない。

 これが恋だとすれば、私は、ひどくおかしいのだろう。

 乙女の恋は打算にまみれている。好意を持った相手を、好意を持って欲しいから、振り返らせるためにならどんな手段も選ばない。自分以上に好いている人間などいないと錯覚して、もしいるならば蹴落として、自分だけを見てくれるように望む。他者のことなどどうでもいい。盲目に、一人だけを追い求める純情を誰が責めるというのか。その想いはどんな名で呼ばれようと、どんなものに見えようと、欲望なんだ。

 開き直ればあとは容易い。

 そんなもの、愛ではない。

 強く求めるだけの。

 与えた以上に返してほしがる。

 それは一方的な片思い。若さにありがちな恋に過ぎない。

 私を見て。

 私を見て。

 私を見て。

 言ってしまえば、それだけの衝動だ。行き着く先のことなど、私は知らない。知りたくもない。どんな結末が待っていようと知るもんか。

 ひとたび気付いてしまったら、もう、あの空虚には戻れない。

 求めずにはいられない。

 この私が馬鹿で、狂っていて、卑怯で、冷酷で、残酷で、そんなことは分かり切っていて、変えることなんかできなくて、なのに、それでも嫌われたくないというこの感情にだけは嘘がないと胸を張れるのなら……

 あとのことは、どうでもいいことだ。

 どうでもいいことだったんだ。

 そして、私は笑顔でりえちゃんの隣を歩く。

 友達として。

 

 

 

 この方面で成功を収めることは無さそうだと両親も納得したらしく、中学に入ってすぐ音楽教室を辞めた。娘をこれ以上通わせるのは無駄だろうと判断されたわけだ。中流家庭にはそこの月謝は厳しかったのである。私はりえちゃんと一緒に過ごす時間が減ることを恐れたけれど、トータルで見ればあまり変わらなかった。おかげで親友の座を誰にも渡さずに済んだ。

 そんな時期のことだ。

 今日はりえちゃんの部屋に訪れ、ベッドに腰掛けている。会うたびに練習に付き合うのは、私たちにとって習慣みたいなものだった。今となっては感想を言うくらいが関の山だけど。

 時々、レッスンの話くらいは聞いていた。ただ他の情報には疎くなっていた。私が興味津々なのもおかしな話だ。だから、そういった話題はなかなか切り出せなかった。

 

 荒れ狂っていた波が、いつしか穏やかになってしまう。

 激情に染まっていた音色が戸惑い、揺れて、崩れてゆく。

 聞き慣れたひとは騙せない。そんな曲がある。自分があまりに強く出てしまうから、制御しようとする。上手くいかない。だんだんと暴れてくる音を綺麗な響きとして出そうとするから余計に混乱する。最後には音色は本来の流れを失い、やがて曲として破綻することになる。

 水面に起こった漣で、器ごと決壊した。

 つと、そんなふうに曲が途切れた。

 耳障りな音を立てて、弓を引いた腕が宙に留まっている。

 どうしたんだろう、と私は振り返る。りえちゃんは硬い表情で呆然と頭を振る。

 

 思い出すのは何年も前のこと。コンクールの後、音楽教室に通い詰めていたりえちゃんの日程を調べて、母親にせがみ、ほとんどのスケジュールを合わせた。仲良くなれるかどうかは賭けだった。小さなことから始めた。挨拶を交わす。名前を教えて貰う。帰り道を同じくする。何かあれば庇う。何かあれば手伝って貰う。時には頼り、演奏会には自ずと顔を出すようにする。そういうことの積み重ねだった。

 友達というのは、そういう風に作るものだと知っていたから、その通りにした。形ばかりの手順。でも、友達になりたいという気持ちは本当だったから、あとはあっという間だった。りえちゃんはあっさりと私を友達だと認めてくれた。

 気がついたら……胸に秘めた悩みや、他人に言えない隠し事を言い交わす仲になっていた。一年も経たずして私は他の誰よりもりえちゃんの近くにいた。たとえば両親。たとえば先生。他の友人達よりもなお密接な距離に寄り添った。そして分かったことは、考えていた以上に、仁科りえという少女は孤独であるということだった。

 心を許せるものは小さなころから慣れ親しんだヴァイオリンだけ。それを聞かされたときは笑い出したくなった。吹き出しそうになったのをなんとか堪え切れたのは、りえちゃんがあまりに真面目な顔をして口にしたおかげだ。そうでなかったら、とうに絶交されていても不思議ではなかった。

 それくらい、彼女にとってヴァイオリンとは近しい存在だったのだ。道具としての価値に親しみを憶えたのか、歳月が自然にそんな関係を作り上げたのか、その点について、あまり興味はなかった。

 孤立はひとを際だたせる。眩い者なら、影を深めることによって、周囲が暗黒に満ちることによって、その輝きを強めることができるものだ。意図したものか、そうでなかったのか、とにかく仁科りえという少女は周囲から切り離されているうちに、己の天恵がヴァイオリン奏者という道にあることに気がついた。否、それしか道を知らなかった、とも。

 だけど、私が、その孤独に割り込んだのだ。

 他人にはよく思われていなかっただろうな、と想像することもあった。

 中学生になってからは私を遠ざけようとする人間はいなくなった。けれど、才能の著しく劣る友人を側に置いておくことに渋面を見せた彼らの顔は、醜くて、気持ち悪くて、そう簡単に忘れられそうになかった。言うなりになって栄誉をもたらしてくれるはずの高値の人形に目障りなゴミがひっついた。そんなことを思われていたんだろう。

 ははは。馬鹿馬鹿しい。あなたたちが人形だと思いこんでいるその娘は、誰の助けも求めていない。誰の言葉にも折れ曲がりはしない。巧妙に頷いているように見えるけれど、止めろと言ったって決して退いたりはしない。あなたたちは、それを知らないだけだ。知ろうともしなかったじゃないか。でも私は知っているんだ。たぶん誰よりも。あるいはりえちゃん自身よりも。

 夢想に浸る。思えば、……このころが、一番平穏な日々だった。すごく幸せだった。だっていうのに、たいていの場合、幸福な時間は長くは続かない。

 ううん。

 違うんだ。

 幸福だって思いこんでいると、足下をすくわれる。必ず。

 だって本当に幸せな人間は、自分の幸せには気がつかないんだ。持っているものをあえて欲しがるような余裕のある人間はいないから。

 求めるのは、持たざる者ゆえに。願うのは、叶わぬ夢ゆえに。だとすれば、私がりえちゃんに望んだものは何だっていうんだろ――

 

 ヴァイオリンを降ろして、手に持ったまま、りえちゃんは私に言う。

 迷いがあるから、普段なら綺麗なはずの調べも、雑音に聞こえる。でも感想を求められているわけじゃないと思い、向き直って、話を聞く体勢をとった。

「ねえ」

 なあに、と訊く。

「留学、しようと思うんだ」

 リュウガクスル?

 私のどこかから、悲鳴が聞こえる。

 ウン、ヤッパリネ。イツカソウナルッテ、オモッテタヨ。

 やめてやめて聞きたくない。その先は黙って。

「ヨーロッパの方でね、修行してみないかってお話がきて」

 ヘエ、ソウナンダ。

 私のどこかに、罅の入る音がする。

 ナニヲイッテモ、ドウセ、モウ、キメタアトデショウ?

 去来する様々な言葉のどれひとつも口には出せず、黙って先を促す私。

 りえちゃんは、私の顔を覗き込むように、こう口にする。

「どうかなあ。私の返事待ちなんだって言うんだけど……」

 ……一瞬、頭の中が空白になった。

 平静を装って、なんとか聞き返す。

「りえちゃん、どうして私に聞くの?」

 ふざけるように笑って、答えてくる。

「いやいや。ご意見を伺いたい、と思いましてっ」

「何言ってるのよ。りえちゃん、自分の進路でしょ?」

「そだね。でも」

「うん?」

「親友だもん」

「……」

 私は言葉を失う。

 無防備な姿。

 桜色に上気する頬。

 楽しげに歪んだ、くちびる。

「んと、ごめん。いきなり聞かれても困っちゃうよね」

「りえちゃん」

「……だけど、こういうのって、私だけで決めないといけないのかなぁ」

 頼ってくれたのだ。

 そう理解するまでに、更に数秒の時間を要した。長い時間、誰よりも親しくなろうとしてきた。それは私だけの空回りではなかったんだ。声にならない歓喜が鈍い身体を支配する。りえちゃんの細い身体をぎゅうっと抱きしめたくなる。

 何でもしよう。

 何でも。してあげられること、何でも。

「行って、いいんだよ」

「え?」

「もっと上手くなりたいってこと、私も知ってる。気にしないで。ワガママなことを言っても誰も止めない。文句なんか言わせないから」

「いいの……?」

「りえちゃんはね、神様に愛されてる。私はそれを知ってるよ」

「そう、かな」

 私は頷いた。りえちゃんは目に見えるほど萎縮して、次の言葉をはき出す。

「一緒に行けたらって思うけど、それは」

 分かっている。私には才能がない。自分で分かっているから、それは諦めている。あるいは最初からどうでもよかったのかもしれない。そう、世界にはどうでもいいことが多すぎる。

 だけどそれを口にはしない。

「無理だよ」

「そう」

「だけど、りえちゃんは大丈夫。私が知ってる」

「いいの?」

 二度目の問い。

 ニュアンスが違う。敏感に聞き取って、私は彼女の望む答えを返す。

「お互いに、頑張れるように」

「うん」

「私とりえちゃんは、いつまでも、ずっと、ずっとずっと友達だよ」

「……うん」

 ね、と私が微笑む。

 こくん、とりえちゃんが私の顔をまじまじと見て、頷く。

 顔を上げて、潤んだ瞳で口にする。

「ありがとう」

「どうしてお礼を言うのかな? 私たち、友達なのに」

「ん……、友達、だから」

「そっか」

「そう」

「私たち、友達で、良かったね」

「ね」

 いつか来る別離が早まったに過ぎない。

 それに今生の別れとは違う。この時点での私には未だ追いかける財力は無かったし、能力は尚更欠けている。再会を約束されていることが私たちを強く繋いだ。せめて出立の日まで共にいる時間を大切にしようと誓い合った。

 私たちは類を見ないほど互いを思い合う、真実の親友だった。りえちゃんにとって私は大切な、あるいはたったひとりの親友であり、私にとってりえちゃんは何物にも代え難い存在だった。

 それだけは、嘘じゃなかった。

 

 

 

 

 また、時間は穏やかに流れて。

 その日聴いた曲はもの悲しくて、優しくて、そしてどこまでも遠かった。

 Scarborough Fairだ。

 なんでこんなに切なくなるんだろう。私は不思議だった。たしかに大分前にりえちゃんが弾くのを聞いてみたいとリクエストしたのは私だ。いいな、って思った歌だったけれど。でもその曲はこうも心を揺さぶるものではなかったはずだ。

 私は聞き惚れた。

 目を閉じていると、寂しさを溶かしてゆくみたいな音色で、胸がいっぱいになる。

 時間を忘れて引き留めて、夕陽は完全に夜に没するころ。

 りえちゃんはレッスン帰りだったはずなのに、私に会いに来てくれたのだ。

「今の曲って」

「うん、映画で流れてたのを聞きたいって、何ヶ月か前に言ってたじゃない」

「……なんか、少し違った気がするけど」

「うぅ。精進します」

 楽器が違うのだから雰囲気が異なるのは当然だ。

 しかし、そう言う意味ではない。

「りえちゃん、違うの。そうじゃなくて、すっごく綺麗だったから、違う風に聞こえたっていうか」

「そう。ああ……良かった、喜んでもらえて」

 とろけるような可愛らしい微笑み。

「でも、実は間違えちゃったの」

「え?」

「これね、元になったイギリス民謡なの。マザーグースの方」

 ヴァイオリンをケースにしまいながら、りえちゃんは口を尖らせる。

 憎めない笑顔で、

「勘違いしちゃったね」

 なんて言う。

「うん、でも」

 言いたいことを察して、先回りされる。

「ありがとう」

 舌を出して、それでも私はその言葉を告げる。

「りえちゃん、すごい」

 笑顔で褒めるしかない。

 感情を込めることや、曲にドラマを盛り込む。それがどれだけすごいことなのか、私は知っている。音のひとつひとつ、残った余韻の色を変える響き、構成、どれをとっても一筋縄ではいかない技量を窺わせる。ただ演奏すれば良いというものではないのだ。素晴らしい音楽が多くの人間の心を打つのは、それが心に届くほどの強さを持っているからだ。空っぽの人間の吐く言葉が誰の耳にも響かない。演奏者の感情と技術を滋養として、生まれる音色は大きく育ってゆく。

 その曲は私を満たした。

 悲しくても生きていけるよと、優しく諭すように。

 私のために弾いてくれたんだ。

 私のためだけに。

 胸の奥に、ぬくもりは、そっと忍び込んできた。

 どうしてか泣きたくなる。

 りえちゃんが広い世界へ羽ばたいてゆくのなら、私はそれを応援しよう。広げた翼はこんなところに留まるものではない。狭い場所に満足できないから、ずっと遠くを、はるか前方を目指して、飛び立ってゆくに違いない。

 私だけのものにして、この腕の中に閉じこめたい。……その欲望はあったが、そこまで愚かではない。そんな不遜なことはできない。烏滸がましいにもほどがある。私なんかのために、こんなに美しい翼を失ってしまうのはあまりに忍びない。

 身勝手に、様々なことを思考する。

 りえちゃんは幾らかの言葉を交わし、数日後に控えた渡欧の準備をしないといけないからと、慌てて帰り支度をして、我が家を辞した。

 そして。

 ……そして。

 その曲が、彼女が自由な腕で弾いてくれた、最後の曲になった。

 

 

 

 その事故のことを語ろうとすると、私は今もなお冷静になれずにいる。りえちゃん自身の方が余程物事を明確に捉えていただろう。ゆえに私がはっきりと口に出来るのは、三つの事実だけだ。

 つまり、りえちゃんは理不尽な不幸に巻き込まれ、腕に大きな怪我を負い、そして、ヴァイオリンを上手に弾くことは二度と出来なくなった。

 

 

 

 ベッドの上で泣きはらした顔を隠そうともしなかった、今は、りえちゃん、泣き疲れて眠っている。腕が元に戻らないことを聞かされたからだ。昨夜は狼狽した末、両親に掴みかかったそうだ。さっき私を一瞬だけ見たその目は、憎悪する気力すら失っているようだった。

 呼吸は正しく、静かに眠っていることに安心する。

 美しかった翼は無惨にもがれた。もはや自由に空を飛ぶことはかなわない。ひとたび失われた無垢は元に戻ることは無いから。瞳に光は無く、茫洋とした表情を私に向けて、どうして、どうしてと繰り返すだけだ。こんなりえちゃんは知らない。知りたくなかった。

 でも。

 追いかけても、追いかけても、きっと届かない。

 手を伸ばしても。

 捕まえることはできない。

 ずっと、

 ずっとそう思ってきた。だから耐えられた。だから諦めていた。

 なのに。

 それなのに。

 今、私の目の前に、傷ついた姿をさらけ出しているのはただの女の子だ。

 か弱くて、自分を見失って、翼をもぎとられた天使だ。

 手が、届いてしまう。

 どうしよう。

 私、どうしたらいい。

 息を呑む。

「……」

 清浄な真っ白なシーツにくるまれた身体。痛々しい包帯は腕に巻き付いている。拘束された姿。うっすらと血の気の引いた冷たい頬。青ざめたくちびるからは、噛みちぎられて血の色が滲んでいる。

 重傷患者の個室。

 動いているのは私だけ。

 音は無い。

「ごめんね」

 私はベッドが軋むのもかまわずに身体を乗せ、顔に顔を近づける。

「ごめんね、りえちゃん」

 背中にしたドアからは足音は聞こえてこない。

 汗と消毒液の入り交じった匂いがする。私は、目を覚ます気配の無いりえちゃんの唇に舌をそっと這わせて、ぷっくりと染み出した血の玉を舐め取る。

 味は、鉄に似ている。

 りえちゃんがくぐもった声を出す。

 起きる様子は窺えない。

 逡巡。更に舌を忍び込ませる。唇が薄く動く。生温かい息が鼻先にかかる。舌先でこじ開けるようにして侵入した咥内は、艶めかしく蠢いている。僅かに舌と舌が触るのを感じた。

 溜まった唾液が、抜き取る間際の舌先をかすかに濡らす。

 罪悪感と、歓喜と。

 息をつく。

 ……りえちゃんの味がした。

 

 

 

 欲望を抑えられなかったのは、その一回だけだ。

 その後、すぐに止めた。りえちゃんが目覚めるのを待たず帰り、翌日に何事もなかったかのように病室を訪れた。

 りえちゃんは気がついていない。

 落ち着いた様子だった。腕の状態に関する話題には触れなかったおかげかもしれない。あとは普段通りに会話をして、普段通りに別れの挨拶をして、普段通りに手を振って私はドアを抜けた。

 いつもと同じりえちゃんの笑顔が、妙に空々しくて、寂しくて……。

 なぜだか、悲しかったような、気がする。

 

 

 

 高校に入ってからはしばらくの時間を無為に過ごしたのだろう。何もない時間が続いた。たとえばそれは、微睡みながら感じる布団の重みのように、居心地のいい空気だった。

 それからのことは、あまり語る必要が無いかもしれない。

 立ち直った、と言っていいのかどうか。

 私は今でも、ひどく迷う。

 それは別の道を見つけたに過ぎないからだ。ヴァイオリンという半身を失って、合唱という新しい世界が拓けたおかげで、りえちゃんは俯いていた顔を上げた。

 だが、りえちゃんは意欲的に活動を始めたのは、少なくともマイナスではなかったはずだ。合唱部を作り、部員を集め、練習活動を始めると、俯かなくなった。

 邪魔が入ったのはすぐのことだった。

 古河渚。そして、演劇部のこと。

 私はりえちゃんのためという名目で、幼稚な行為に出たのだ。暗い喜びを憶えたのも事実だし、そのことを否定するつもりは毛頭無い。

 だが。

 ひとのためという言葉は、往々にしてひとのせいにしていることでもある。だからあれは私のせいで、私のためでしかない。

 私は、りえちゃんを傷つける羽目に陥った。

 後悔しているかと言われれば、是と答えよう。だけど、何について本当に後悔しているのかは、きっと他人には理解できない。

 りえちゃんが苦しむのが分かっていながら、やってしまったこと。それだけだ。

 りえちゃんだけがいればいい。

 

 ……痛くない。痛くなんかない。痛くなんかない。痛くなんかない。

 だって、こんなの、いつものことだから。

 痛くない。

 ぜんぜん痛くなんかない。

 

 

 

 景色は流れてゆく。

 あっという間に、躊躇っているうちに、置いてきぼりにされる。

 いつだって、自分が過ったことは、あとになってわかるのだ。

 そうして、日々は、あまりにも当たり前に過ぎ去り、ひとの歩く早さで、なのに追いつけないで、取り返しがつかないくらい遠くに、どこまでも離れていった。

 

 

 

 りえちゃんは演劇部に協力を申し出た。友人として古河渚を認識したのだ。分からなくもない。似たような境遇の人間に対し、ひとは好んで己を重ね合わせるものだから。そんな相手の努力が報われてほしいと願うのは当然のことだ。いったい誰が、それを偽善と呼ぶだろうか? 救うことで救われる、与えることで満たされる、そういった親愛の情は美徳の一種だ。

 私はりえちゃんの行動を嫌がらなかった。むしろ喜んでその事実を受け入れたと思う。

 でも……愛ゆえにひとを殺す人間がいる。誰にも奪われたくないから、誰にも触れさせたくないから。その気持ちが理解できる。

 私の内側から聞こえてくる声は、私を惑わす。

 あは。

 うそつき。

 本当のことなんて知らない。ひとのことなんて何も分からない。

 どうしてそんなカンチガイしちゃったんだろうね?

 私が変わるなんてこと、ないのに。

 くだらない願望だったね。悲しいなあ。馬鹿みたいだなあ。……さびしいなあ。

 オカシイ自分なんて分かり切ってる。早く素直になりなよ。自分のものにしてしまえば、離ればなれになることもないんだよ? 何百、何千回とした妄想を現実にしたいでしょう? 所詮、りえちゃんなんて――私にとっての、欲望の捌け口に過ぎないんだからさ。

 認めなさい。はは。あはは。大丈夫。私は分かってる。隠さなくていいの。長い間自分を偽っているのは大変だったでしょう。ねえ、りえちゃんが二度とヴァイオリンを弾けなくなったって聴いて嬉しかったでしょう? 分かってる。ちゃあんと分かってるんだから。持っている人間が奪われるのを見るのは楽しいもの。子供のころから自分が無価値だって決めつけられてたから、そうじゃないものを欲しがってただけのくせに。ホントは嘲笑ってやりたかったんでしょう? すごいすごいと褒めながら、自分とおんなじつまんなくてくだらなくて誰にも顧みられないゴミなんだって思いたかったんでしょ? でも残念ね。りえちゃんは立ち直っちゃったわよ。私のおかげでもなんでもなく。合唱なんてきっかけでしょ。先生がいなくてもいつかは自分だけでもこうなってたってこと、私は誰よりも知ってるでしょ。どんなに汚れてもどれほど奪われても、りえちゃんはこれから何度だって立ち上がって歩き続けるわよ。私とは違って。私なんかとは、違うから。

 古河渚。いいわよねえ。愚直でまっすぐで素直で優しくて他人のために自分が泥を被ることを我慢できるんだって。岡崎朋也。素敵ねえ。自分が傷ついたから道を見失って、それなのに綺麗なものに怖がらずに近寄っていけるなんて。

 りえちゃんは優しいからお手伝いを言い出しちゃったよ。

 優しいから。

 そんなこと、私にはできない。

 臆病だから何も出来ないで、言い訳ばっかり上手くなって、今度は他人を言い訳に使おうっていうの? 自分の心ひとつに振り回されて泣き言ばっかり。あはははは。あはははははははははは。

 私はずっと自分のことしか考えてない。

 きっと、何も変わらなかったんだろう。

 自分のためにしかひとを愛せないなんて、馬鹿みたい……

 ばか。

 私の、ばーか。

 

 耳を塞ぐ。だけど声はやまない。私の心が叫んでいるから。

 それは疑いようもなく、私の声だから。

 繰り返す日常にもやがて終わりが見えてくる。そうしたら、ひずみが肥大するのは分かっていた。ズレは、罅は、悲鳴は、軋みながら広がってゆく。私には止められない。止めようともしないで、流れる時間を羨ましげに見送った。

 

 

 

 りえちゃんが音大を目指すと明言したのは、三年生になって夏を過ぎたころだった。そこまで遅くなったのは決心が付かなかっただけなのだろう。一応、期限ぎりぎりで願書は出してみたそうだが、準備不足は明白だった。

 浪人が確定して、私たちは卒業後のことについて語り合った。

 私は、普通に進学すると告げた。

 りえちゃんはかすかに寂しそうな顔をして、

「じゃあ、卒業したら……私たち、ばらばらだね」と言った。

 私は答えなかった。

 合唱部の活動も、学校に通うのも、楽しくて、楽しくて、楽しくて、それがもうすぐ終わってしまうことを考えたくなかった。

 りえちゃんと離ればなれになるのは悲しかった。

 悲しかった。

 だから大事にしようと思った。

 短い時間を大事にして、少しでも美しい想い出としてりえちゃんのなかに残ろうと思った。

 大切な想い出になれば報われると思った。

 この日々は何より輝いていたんだと、信じたかった。……輝きは、私のためにあったわけではないけれど。それでも。

 

 

 

 りえちゃんとの帰り道の途中、夕陽が綺麗で、影が長く伸びているのを知る。

 横顔は赤い光に照らされて、凛々しく前を見つめている。

 私はその瞳のなかに映っていない。

 雲が流れていった。影が揺らめている。橙から紫へ、群青から紺を経て、やがて滑らかな天鵞絨に似た夜が訪れる。深く澄んだ夕空を仰ぐ。りえちゃんは私に何事かを話しかけてくるけれど、私はそれを聞き流している。

 いつの間にかりえちゃんは後ろの方にいて、私は、肩越しに振り返る。

 射抜くような、向こう側にあるものを見透かすような、そんな目つきだった。

 結局、私は何も出来なかったんだと、気がつかされた。

 りえちゃんを傷つけることも、汚すことも、手に入れることも、それどころか、傍にいることすら叶わなかったんじゃないかと、感じた。

 そして、星すら見えない夜空の下で、家路への分かれ目で、手を振るりえちゃんの顔を直視できなくて。

「ねえ、歌を聴かせて」

 私はせがんだ。

 必死に。

 りえちゃんが私の剣幕に驚いて、聞き返してきたから、もう一度言う。

「おねがい。卒業式のあとにでも、歌を、りえちゃんの歌を聴かせてほしいの」

「どうして?」

「聞きたいから。それじゃあ、ダメかな」

「ううん。いいよ」

「ありがとう」

「聞いてくれるなら頑張って歌うね。曲目は?」

「うん……あ、前に弾いてくれた、あの曲がいいかな――」

 一緒に歌わないと言うと、りえちゃんはほんのちょっと悲しげに笑って、頷いた。すべてを見抜かれているような気分になって、こわかった。

 リクエストは、いつか私のために弾いてくれたあの歌。

 りえちゃんは頷いた。

 私のために歌ってくれると、言葉を添えて。

 

 

 

 

 卒業式は昼過ぎには終わって、私たちは人波に逆らい、隠れるように教室に戻った。合唱部が使わせてもらっている空き教室。部活動として認められる人数は積極的な後輩達の手によって集められたらしく、部はなんとか継続するらしい。流石に演劇部の方は残っていないが、いつかまた誰かが復活させるのだろう。

 今日の活動は流石に無い。片づけていた生徒達もそろそろ帰宅を始めたころだ。

 私たちは息を殺して、ひっそりと待ち続けた。

 一応、先生なんかに見つかったら、帰れと頭ごなしに命令されるか、叱られるか、何にしろ面白い未来にはならないと分かっていたからだ。

 子供のいたずらみたいで、りえちゃんと顔を見合わせて吹き出した。

 小さな声で、どちらからともなく昔のことを話し出す。

 卒業という儀式は、懐かしさだとか、想い出だとか、そういう雰囲気を引き出してくれるものだ。追憶だったり、反芻だったり、それはひとつの終わりという意識のせいだ。次を始める前に、色々なものを終わらせて、清算して、綺麗にして、そうやって前に進もうとするからだ。

 私たちは、長いあいだ子供だった。音楽教室を一緒にさぼったこと。コンクール会場で迷子になって恥ずかしかったこと。喧嘩したこと。仲直りしたこと。ヴァイオリンを弾けなくなったこと。合唱部を作ったこと。今までのことぜんぶ。努めて詳しく思い出そうとしても、細部があやふやな記憶は多かった。

 私たちは大きく印象に残った記憶のいくつかを想い出と呼ぶ。

 ただの記憶と違うのは、大切か、そうでないか。それだけだ。

 大事にされない記憶なんか、いつか風化して、埋もれてしまうものなんだ。

 ドアを通りすぎる教師の足音をやり過ごすと、当分は大丈夫だろうと立ち上がる。りえちゃんは椅子を持ってきた。座れ、ということらしい。

 素直に従う。

 私は見上げる。

 いつかのように、眩しいものを仰ぐように。

 りえちゃんは前を見ている。視界に私は入っているだろうか。

 そして、こほん、と咳払いして。

 りえちゃんは胸を張る。声を出すため、姿勢を正す。

 昔、ヴァイオリンを弾いていたころのような、真剣な表情で、歌を始めた。

 声を張るようなのじゃなくて、語るみたいな歌い方。

 切なくて、悲しくて、遠いのに。

 とても近くて。

 私は聴いていて、嬉しかった。

 嬉しくて、泣きそうで、でも、泣いちゃいけない。

 その短い曲を、りえちゃんは全身全霊で歌いあげた。優しい声は、まるで暗闇で立ち竦んでいる私にむけて手をさしのべているよう。あのころのように弾くことはできないけれど、いつだって、心は自由だった。翼なんか無くったって、綺麗で、あたたかくて、やっぱり……りえちゃんは、天使みたいだ。

 

 

 聞き終えて、私は息をついた。

 向き合ったまま、立ち上がって、なるべく盛大な拍手をする。

 手が痛くなるくらいの拍手。最後には、ぱち、ぱち……と音が薄れて消える。

「声楽科、きっと合格できるよ」

「うん」

「だから、これでお別れだね」

「お別れって、遠くに行くわけじゃないんだし。どうして?」

 これからだって気にせずに会えばいいから。連絡なんて取るのは簡単だもの。携帯の番号でも、家に電話を掛けるんだってひどく容易い。そんな聞き方。

 だけれど、私はりえちゃんの前から姿を消すつもりだった。

 そのために、勇気が欲しかったんだ。

 

「私、私ね――」

 

 声は詰まるけれど。

 言葉は喉の奥からあふれ出してくるようだった。

 

「りえちゃんのことが、好き」

「私も好きだよ?」

「そうじゃないの。私はもう、友達でなんていられないっていう意味」

「あ」

 ぽかん、と、ほんとうに気の抜けた声。

 知らなかったんだよね。

 私のこと、なんにも。

 良かった。

「ヘンだよね。オカシイよね。私」

「……」

「でも、言わなきゃって思ったの。りえちゃんに、もう、何も隠したくなかったんだ」

 

 口は勝手に動き続けた。言葉は零れ続けた。

 初めて出逢ったときから。

 りえちゃんを想って何度も何度も何度も何度も、自分を慰めていたこと。

 事故でヴァイオリンを弾けなくなったりえちゃんを見て、

 哀しみながら喜んでいる自分がいたこと。

 眠っているときに、唇を奪ったこと。

 いろんな汚いことを、りえちゃんの知らない場所で、りえちゃんの知らないときに、行ってきたということ。

 言わなかった何もかも。

 言えなかったすべて。

 吐きだして、ぶつけた。

 

 目を伏せないで、俯かないで、黙って聞いてくれた。

 

「だから、遠くに行かなきゃ。りえちゃんのそばに、私はいちゃいけないんだ」

「なんで……?」

「りえちゃんの好きと、私の好きが、違うから。きっと、受け入れてくれても、いつかふたりで、ふたりぶん傷つくから」

「……うん」

「こんな私のこと、きらわないでいてくれる?」

「嫌うなんて……」

「こんなことを言うのはずるいって、分かってる。けど。お願い……」

 懇願する。

 せめて最後は、まっすぐに見上げていたい。

「それだけでいいの。りえちゃんはね、私の天使だったんだ。最初に出逢ったあの日から、今日まで、ずっと、私はりえちゃんのことが大好きで、好きすぎて狂ってしまいそうで、心のどっかが壊れちゃってる気がして、でも、やっぱり愛してるから、言わずにはいられなかった」

 りえちゃんはかぶりを振った。

「私は……天使なんかじゃ、ないよ」

「うん。そうだね。知ってる。りえちゃんは、どこにでもいる女の子なんだ。ひとよりもすっごく頑張り屋さんで、なにより音楽が大好きで、ヴァイオリンを弾いている姿が格好良くて、歌を唄っているときはとても綺麗で、でもね、ずっと、私にとっては、……私だけの天使」

 りえちゃんは、頭を下げる。

 泣きそうな顔で。

 泣かないように、涙をこらえて、私を見ている。

「……ごめんね。ほんとうに、ごめんね」

 私は笑った。

 いつか見た、あの日のりえちゃんのように。

 勝ち誇るように、胸を張る。

 いくら涙が零れてもかまうもんか。私は……笑顔だ。

 笑顔で、りえちゃんにこう告げている。

 誤魔化しなんかじゃない。ましてや嘘なんかでもない。

 私は、ほんとうに嬉しかった。

「ね……りえちゃん。こんな私だけど、まだ、友達で、いてくれる?」

 ずるい質問。

 こんなとき、首を横に振るひとなんて、いないって分かってる。

 だけど。

 りえちゃんは、潤んだ瞳をこちらに向ける。

「救ってもらったのは、私のほうだったのに」

「りえ、ちゃん……?」

「ね。私があなたの名前を教えてもらったときのこと、おぼえてる?」

 忘れるもんか。

 りえちゃんと、友達になった日のこと。

 こくり。頷く。

「私ね、ひとりだった。気がついたら、まわりには誰もいなくなってたの」

「……うん、それは、知ってる」

 そう。最初出逢ったとき、彼女は孤独だった。

 敵意だけじゃなく、ひとは畏れからも隔意を抱く。とりわけ子供にとっては、特別なもの、自分と違うものは、遠ざけることしか、遠ざかることしか、できないから。

 私はそれにつけ込んだ。

「……嬉しかった。友達になれたこと。一緒にいろんなことしたこと。同じ時間を過ごしてきたこと」

 言葉は溢れてくる。いくらでも。

「私は、私はね、強くなんかなかった。さみしかったよ……ずっと。ずっと」

 私の目を見つめる。

「あなただけが、私の隣にいてくれた。うん……そっか。私は、親友に、甘えてたんだ」

 何を言っていいか分からないで、りえちゃんの言葉を待つ。

「でも、それも終わりにしなきゃいけないんだよね……。最後に、恨み言、いっていいかな」

「……うん」

「あなたのせいで、私は寂しくなかった。いつだって、すごく楽しかった。それから、とても幸せだったの。ごめんね、ありがとう」

 ぜんぜん恨み言じゃなかった。優しい言葉だった。

 私は、頷くことしかできないでいた。

 笑顔なんか、もう、とっくに崩れていた。そして、りえちゃんは私の肩のあたりを叩いた。力のこもってないこぶしで、かるく。

「ばか」

 私はほんの少し驚いて、りえちゃんの顔を見つめる。

 怒ってる。

 すごく、怒ってた。

「ばか。ばか。ばか」

「りえちゃん……」

 なんて言って良いのか分からなくて、名前を呼ぶ。

「……ばか……」

 それから、りえちゃんは泣いた。

 私も泣いていた。

 ふたりで、なんで泣いているのか分からないまま、涙を流し続けた。

 弱くて強い私たちは、ふたりともあまりに子供だった。

 どうしようもないくらい普通過ぎて、だから何も知らなくて、他にどうしたらいいのか分からなくて、お互いを抱きしめたまま、離さないよう強く強く、ぎゅって、ぎゅうって、小さな子供がしがみつくみたいに、それよりもっと強く、強く抱きしめて、空が暗くなるまでのあいだ、ただ泣き続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 たぶん、望めば、口吻の一度くらいは赦してくれたんだろう。でも、そうしなかった。

 泣きやんだあと、私たちはとても長い時間見つめ合って、微笑んで、それから背中を向けた。遠ざかる足音をお互いが聞きながら、どこかに向かって真っ直ぐに歩いてゆく。

 私たちは親友だった。

 それ以上でも、それ以外でもなく。

 最後、お互いに、さようならって言葉、口にしなかった。

 だから……きっとこれが最後じゃないんだって、思ってる。

 

 偶然街で見かけたら、素直に驚いたりしてさ、なんでもない話で笑えたらいいよね。私たちがもっと大人になって、仕事をしたり、結婚したり、夢を叶えたりしても。いつか、このかけがえのない日々のこと、大切だって思えたら、素敵な思い出として懐かしむことができたなら……

 

 りえちゃん。あなたが好きです。誰よりも、愛しています。

 りえちゃんのこと、好きになれて、ほんとうに良かった。……ごめんね。ありがとう。

 またね、りえちゃん。

 

 ……またね。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。