比企谷八幡 「・・・もう一度会いたかった」 (TOAST)
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第一章 社会人比企谷八幡
1. 比企谷八幡は社会人生活を振り返る


「おい、比企谷。こんな所で油売りやがって。明日の準備は大丈夫か?」

 

時刻は深夜1時過ぎ。

ピークに達しつつある疲労感を誤魔化すため、オフィスビルの喫煙室で2本目のタバコに火をつけようとしたところだった。

 

乱暴にドアを開けて入ってきた中年の男が、俺の姿を見て言った。

 

「・・・・誰のせいでこんな残業するハメになってると思ってるんですか。タバコ休憩くらい自由にさせてくださいよ、槇村さん」

 

口にタバコを加えてポケットを探る様な動作をするこの男、俺の上司に対し、軽口を叩きながら持っていたライターを手渡す。

若干前屈みになりながら小さな炎をタバコに移した上司から、無言で返されたライターを受け取った。

 

「人手不足なんだからしょうがねぇだろ。大体、資料は今日中に会場のホテルに運んでおく段取りじゃなかったのか?今回はこれまでにない規模で機関投資家様を集めるんだからな。ミスは許されんぞ」

 

「わかってますよ。中国側のパートナーが今更になって収益プロジェクションを修正してきたんで、プレゼン資料は全部刷り直し、今コピー機をフル稼働してるところです」

 

俺は仕事の遅れの要因を他者に求めながら、状況を簡潔に説明した。

 

「おい、サラッと恐ろしいことを言うな。聞いてないぞ。数字どんだけ動いた?」

 

「先方からのメール、槇村さんもちゃんとCC入ってたじゃないですか。やっぱり見てないんすか。まぁ上には報告してあるんで問題ないと思います。大体期間10年以上のインフラプロジェクトの収益予想なんて当たるわけないんですから、見栄えが良くなってりゃそれでいいじゃないすか。」

 

「お前もいい具合に投資銀行の色に染まってきたな。・・・じゃあ、明日の投資家説明会の最終チェックするか。来いよ、コーヒーおごってやる」

 

上司はそういいながら半分まで吸ったタバコを灰皿に押し付ける。

それに合わせるように、俺も吸いかけのタバコの火を消した。

 

「あざっす」

 

俺たちは喫煙室を後にした。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

比企谷八幡33歳、社会人10年目、職業:外資金融マン。それが今の俺だ。

 

少し過去の話をしよう。俺がこの会社に就職した経緯だ。

 

 

 

総武高校を卒業した俺は、わけあって大学を中退し、一人渡米した。

 

海外の大学は卒業時期が日本の大学と異なる。

一斉就職活動の時期を逃した俺は、時季外れの人員募集を行っていた外資系企業を中心に手当たり次第に応募した。

海外留学までさせてもらった手前、ニートにでもなろうものなら冗談抜きで親に殺される、というプレッシャーがあった。

 

―――どうせ新卒なんかが受かるわけない。

 

現在の勤め先である投資銀行へ書類を投函した際は、正直言って、履歴書・郵送料の無駄とまで思った。

にもかかわらず、不思議なことに書類選考にあっさり通過したのだった。

 

緊張で普段以上に挙動不審となった俺を面接で待ち受けていたのは、俺以上に腐った目をした変わり者、宮田と名乗る男だった。

 

 

「・・・いい具合に目が腐ってるな、君も。採用面接で〈特に親しい友人はいません〉なんて言う奴、初めて見た。」

 

「は、はぁ」

 

「まぁ外資なんて、日本の企業文化に馴染めない爪弾き者が行き着く場所だからな。君にも似合ってるのかもしれん。何か質問は?」

 

「・・・ありがとうございます。あの、新卒の私が面接のお時間まで頂けた理由を伺ってもいいですか?」

 

「はは、やっぱり変な奴だ。普通、質問にかこつけて自己アピールするものだろう」

 

「申し訳ありません。」

 

「いや、マニュアル通りの白々しいことしか言わない人間はもう見飽きた。質問に正直に答えてやると、応募人数も少なかったかし、履歴書に目を通すのも面倒だから、一人5分で切り捨ててやればいいと思って全員呼んだだけのことだ」

 

そういうことか。

少し高圧的だが、包み隠さず、といったその態度に好感を抱いた。

 

「今回の採用活動は将来的な業務拡大を睨んだ上の指示だが、具体的にどの部門で受け入れるかは決まっていない。要するに僕はクソ忙しい中で、政治にしか関心がない無能な役員共から面倒事を押付けられたわけだ。腹いせに、俺の下でしか使い物にならなそうな奴だけを採って、辞めたくなるまで使い倒してやろうと思っていたところだ。」

 

前言を撤回する。

この人は捻くれている。恐らく俺以上に。

 

「・・・・」

 

「学歴を見るに、金融の基礎知識位はあるだろう。その腐った目はこれまで人間観察にでも使ってきたんだろうが、これからは市場を観察する目を磨くことだ。僕の部門で採用するよう、上申してやる。新卒の安月給でこき使ってやるから光栄に思うことだ」

 

こうして俺は、人生最初の上司である宮田さんに拾われることとなった。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

宮田さんの宣言通り、俺は死ぬほどこき使われながら国内・海外の株、債券のトレーディング業務に従事した。

 

業務を担当して5年が過ぎ、よちよち歩きを卒業し、一人前のトレーダーになりかけたころ、グループ会社内に大きな動きがあった。

 

日本外アジアをカバーしていた香港支店の撤退が決まったのだ。

 

原因は投資失敗による業績の悪化だった。

何でも東南アジアの巨大プロジェクトが大コケしたらしい。

 

損失の穴埋めをするため、収益を上げていたアジア金融市場部門を外部に売却することが決まり、香港拠点にいた多数のトレーダーがグループを去ることとなった。

 

迷惑なことに、グループ業績を傾ける切っ掛けとなったアジアエネルギー・インフラ投資部門は、そっくりそのまま東京へ移管されることが決まった。

 

買い手が付かず負の遺産と化したアセットの処理を、ニューヨークから押付けられたのだった。

 

 

そんなニュースが社内を駆け巡ってから2日後、インフラ部門のMD(マネージングディレクター)である槇村さんがふらっと俺たちの元を訪れてきた。

 

「よっ、腐れ目師弟コンビ。儲かってるか?」

 

「何の用だ槇村。勝手にディーリングルームに入ってくるな。・・・比企谷、こんな奴に構うな。もうすぐ日銀の金融政策決定会合の速報が出る。マーケットが動くぞ」

 

宮田さんは画面から目を離さないまま、槇村を邪険に扱った。

 

「相変わらずだな宮田。要件は分かってるだろう。悪いが、そこの若いの、来週からうちの部にもらってくぞ」

 

槇村さんは、宮田さんのけん制を意にもかけず、俺を顎で指してそう言った。

 

「え?若いのって、まさか俺の事ですか?異動なんて聞いてないですよ」

 

急な話に混乱する。

来週ってなんだよ。そもそもウチの会社に人事異動なんてあったのか。

人材をローテーションさせて育てるよりも、高額な報酬を餌に外から引っ張ってくるのが普通じゃないのか。

 

「比企谷、構うなと言っただろう。槇村、コイツを余所の部にやる気はない。僕がようやく戦力になるまで育てたんだ」

 

「組織体制の変更はニューヨークの決定だろ。こっちもいきなりアジアビジネスなんか押付けられて、困ってるんだよ。悪いが、もう上への根回しは済んでる。手塩にかけた部下が可愛いのは分かるが、今回は大人しく諦めろ」

 

こうして俺は、現上司である槇村さんに引き取られることが決まったのだ。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

槇村さんが手をヒラヒラ振りながらディーリングルームを後にした後、宮田さんは終始不機嫌だった。

 

「ちっ、人さらいの軽薄野郎が・・・」

 

ブツブツと、槇村さんに対する怨念を呟きながら、ひたすらキーボードを叩いている。

宮田さんの目は、何時にも増してどす黒く濁っていた。

 

「宮田さん、アジア事業って、コケた東南アジアを除けば殆ど中国エクスポージャーですよね?俺、中国語なんて全くできないですよ。何よりコミュ障の俺にトレーディング以外の仕事が務まるとは到底思えないんですが・・・何とか異動は取り消せないんですか。」

 

とにかく宮田さんに媚を売るように話を降った。

不機嫌な時の宮田さんの横にいると、こちらの胃が持たない。

 

「・・・心配するな。東京に中国語が出来る奴なんて殆どいない。槇村はああ見えても部下の面倒は見る人間だ。語学研修くらい受けさせてもらえるだろう。」

 

帰ってきた答えは、以外にも槇村さんに対するマトモな評価だった。

この二人の仲は、いいのか悪いのか、傍からは全く分からない。

 

「ちなみにコミュニケーションの問題は僕にもアドバイスのしようがない。自力で何とかしろ」

 

「デスヨネー」

 

先ほど槇村さんが言っていた「腐れ目師弟コンビ」の他にも、「コミュ障師弟コンビ」、「捻くれ師弟コンビ」、「ボッチ師弟コンビ」等々、陰で俺たち二人に付けられた不名誉な呼び名がいくつもある。

ちなみに、その大半の名付け親は槇村さんだ。

 

「宮田さんと槇村さんは同期ですよね?しょっちゅう対立してますけど、ホントは結構仲いいんじゃないですか?」

 

「槇村は大学時代からの腐れ縁だ。どこをどう見たら仲良しに見える?…言っておくがあいつは俺以上に人使いが荒い。せいぜい過労死しないように気を付けろ」

 

「・・・マジすか」

 

最後のは、聞きたくない情報だった。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

宮田さんの言葉通り、槇村さんの人使いの荒さは尋常ではなかった。

 

異動初日から「基礎を叩き込む」と称して凄まじい量の業務を押付けられた挙句、夜間は睡眠時間を削っての中国語学習を命じられた。

 

そして3ヶ月後、俺にとって正に寝耳に水となった、中国への無期限滞在が申し渡された。

 

北京・上海等の沿岸部都市部だけでなく、内陸、東北部等、中国各地を転々と回る長期滞在だ。

 

滞在目的は香港がブックしていたプロジェクトの現地モニタリング。

 

但し、東京オフィスの役員が狙っていたのはこれだけではなかった。

東京が中国ビジネスを建て直しと拡大の立役者となることで、組織内の発言力を高める計画を練っていた。

槇村さんはその先兵として、俺を遠隔操作で操り、中国でのリレーション構築を図った。

 

特に過酷だったのは、中国内陸部のインフラ権益獲得を狙って、砂漠に囲まれたような田舎町に4ヶ月間閉じ込められた時だ。

 

毎晩、政府関係者・現地企業との懇親会で、アルコール度数50度を越える酒の一気飲みを意識を失うまで強要される。

そして翌日、二日酔いの頭で現地視察、レポート作成、電話報告を行い、夜になったらまた懇親へ、というサイクルが途切れることなく続いた。

 

この時ばかりは本気で会社を辞めようと考えた。

 

 

中国生活が3年程経過したある日、槇村さんが電話をよこしてきた。

 

「喜べ、比企谷。お前の希望が叶って東京に呼び戻すことが決まった。」

 

「ようやくお役御免ですか。宮田さんの下に戻れるんですか、俺?」

 

「残念だがお前の上司は引き続き俺だ。お前が作ってきたリレーションから、いくつか形になりそうな投資案件が出てきているからな。」

 

「種まきは終了したってことですか。これで思い残すことなくトレーディング業務に戻れますね」

 

「お前の上司はまだ俺だと言ってるだろう。・・・東京はウチ単独ではなく、日系の機関投資家を誘致して中国ビジネスに乗り出す算段だ。より規模のデカい投資案件を取に行きたいのと、せっかく種をまいた中国ビジネスを他の拠点に横取りされないように外部を巻込もうって寸法だ」

 

「また役員の政治絡みですか。もうウンザリですね」

 

「そうぼやくな。これで俺たちのボーナスが上がるなら万々歳だろう。とにかくお前には東京で投資家の取り纏めを任せたい。功労者のお前には、収穫祭までしっかり付き合ってもらうということだ」

 

「俺は槇村さんの指示に従ってきただけです。褒めてもこれ以上の働きはできませんよ。働いたら負けって、言葉がありますけど、槇村さんの下に来てからコールドゲームの連続ですよ」

 

「宮田の弟子っぷりは健在だな。・・・来週には帰国の指示が出るだろう。俺も宮田も、お前に会えるのを楽しみにしている。じゃあな」

 

 

こうして俺は東京に呼び戻された。

 

そして現在に至るまでの2年間、引き続き槇村さんの下で、投資プロジェクトの投資家取り纏めを行ってきたのだった。

 

 

 



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2. 比企谷八幡は仕事とプライベートを両立させる

 

 

翌日9:55am、都内ホテルの会議室。

 

既に、商社、保険会社、銀行等の職員が部屋にひしめき合っており、皆、互いに頭を下げながら名刺交換に勤しんでいた。

 

あと5分で説明会が始まる。

手元に置かれた水に口をつけ、緊張で乾いた喉を潤す。

 

 

「ふ~」

 

心を落ち着けるためにゆっくりと息を吐いた時、高そうなスーツを着た同年代の男が話しかけてきた。

 

「比企谷、おはよう。今回は槇村さんじゃなくて、君が説明するのか?」

 

----葉山隼人。

うちの会社が投資プロジェクトのリーガルチェック、ドキュメンテーションを委託している外資系弁護士事務所に勤務する弁護士だ。

 

最近俺の持ち込む案件は何故かコイツが絡むことが多い。

ちなみに、俺と葉山は高校時代の同級生で腐れ縁だ。

 

「・・・葉山か。今日の運びはメールした通りだ。質問が飛んできたら、フォロー頼むぞ。」

 

「ああ、わかってる。・・・あ、槇村さん、お世話になってます。今回もよろしくお願いします。」

 

俺の背後で資料に目を落としていた槇村さんに気づき、葉山は会釈した。

 

「葉山先生、お世話になってます。先生はうちの比企谷とは高校の同窓生なんですよね。こいつ、見た目通りすんげぇ根暗な奴なんで、たまには飲みにでも誘ってやってくださいよ」

 

「ハハ、実は比企谷とは今晩行く約束してるんですよ」

 

苦笑い交じりに葉山が答えた。

 

「・・・そういうことです。こんな形で槇村さんから早帰りの許可が出るとは思いませんでしたが、今日は遠慮なく17時で上がらせてもらいますよ」

 

今日は絶対残業しないぞ宣言。

 

会合の後は記録作成や次回までの段取り決めを行うのが定例だ。

葉山と今晩の約束していたのはいいが、槇村さんが首を立てにふるかが問題だった。

 

これでメンドクサイ事後処理は上司に丸投げすることができた。何たる幸運。

 

「ぬぐっ・・・・・ちっ、しょうがない。・・・そろそろ時間か。始めよう。頼むぞ、比企谷。」

 

「うす」

 

槇村さんからの合図に相槌を打つと、プレゼンスライドのスクリーン投影を開始し、マイクのスイッチをオンにした。

 

 

☆ ☆ ☆

 

「皆様、本日はお忙しい中御足労頂きまして、誠にありがとうございます。早速ではございますが、事前に案内させて頂きました、中国の港湾再開発プロジェクトについて、説明をさせて頂きます」

 

スクリーンを横目で確認しつつ、練習通りにプレゼンテーションを進めていく。

 

「中国では、既存の港湾インフラの老朽化が進んでいる一方、貨物取扱量は依然として増加しており・・・・」

 

用意した資料に沿ってポイントを簡潔に説明して行く。

 

「・・・・本件プロジェクトに対しては、今回、日本側から弊社が組成するファンドを通じて出資を行います。今回、銀行団の皆様のみでなく、商社様、保険会社様にもお集まりいただいたのは、シンジケートローンではなく、出資の形態をとるためです。」

 

会場を見渡すと、講演者の俺を見ているのが約半数。

もう半数は資料をパラパラとめくり、俺の説明に先んじてペーパーの内容を確認していた。

 

もう少し、この場を支配して注目を集めなければならない。

説明のスピードを少し緩め、身振り手振りを先ほどよりも少し大げさに行う。

 

「出資では49%のステークを抑えに行く方針です。中国では従来、インフラプロジェクトに外資の出資は許可してきませんでしたが、対外開放の一環として・・・・」

 

今度は7割くらいの参加者が顔を上げ、説明に聞き入っている。

 

よし、だいぶ食いついてきたな。

このままこっちのペースに引き込めれば俺の勝ちだ。

 

「中国・日本以外の株主を排除したクラブディールとすることで、港湾のオペレーション管理に対し、一定の影響力を行使できる関係を構築することも目的の一つです。特に商社様にとってはこの点で・・・・」

 

人前で話すなんてこと、昔の俺じゃ考えられなかったな。

 

確かに緊張するにはするんだが、説明しているうちに、それが興奮に変わる感覚は嫌いではない。

 

何事も習うより慣れろとはよく言ったものだ。

 

「・・・概要説明は以上となります」

 

30分程かけて資料の説明が終了した。

 

今回も、噛むことなく練習通りにプレゼンが進んだ。

 

うん、良くやった、俺。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

「では、質疑応答のセッションに移らせて頂きます。ご質問のある方は挙手をお願いします」

 

俺の概要説明後、槇村さんが会議を進行させた。

 

遠慮がちにチラホラと手が挙がり出した。

 

 

いくつかの質問に答えると、投資家の挙手が加速しだした。

 

「昭和生命の者ですが、ファンド出資スキームについて、リーガル面でお聞きしたいことがあるのですが、質問よろしいでしょうか?」

 

待っていましたとばかりに、葉山にヘルプ要請の視線を投げる。

 

「・・・アンダーソン・ベーカー法律事務所の葉山と申します。その質問については私の方から説明をさせて頂きます。」

 

俺の視線に気づき、葉山が立ち上がる。

オブザーバーとして奴を会議に参加させた俺の判断は正しかった。

 

 

説明会終了後、10社以上の参加者が、より詳細な資料に是非目を通したい、プロジェクトの具体的な手続き、スケジュール感を教えてくれ、とポジティブなフィードバックを残していった。

 

俺たちは無事に説明会を切り抜けた。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

19:30 pm 都内の居酒屋

 

暖簾をくぐると、店内に葉山の姿が見つかった。

 

「悪ぃ、結局少し遅くなった。ほんとに槇村さんの丸投げ体質には参っちまう」

 

鞄を座席に置き、スーツを椅子に掛けながら遅刻したことを詫びる。

 

「いや、僕も来たばかりさ。今日はお疲れ様。立派なプレゼンだったね。感服したよ」

 

「よせよ。こちらこそ助かった。来てもらっといてなんだが、正直初回の説明会で投資スキームの細かい質問が飛んでくるとは思わなかった」

 

「これも仕事だからね。これからもよろしく頼むよ」

 

運ばれてきたビールジョッキを力強くぶつけて乾杯する。

 

グラスを満たすビールを一気に半分ほど飲み干した。

乾いた喉を通る冷たいビールの喉越しがたまらん。

我ながらオッサン臭くなったもんだ。

 

 

「ふぅ・・・、とことで比企谷、川崎さんとはうまくいってるのか?」

 

ジョッキから口を離した葉山の一発目のセリフに、口に含んだビールを噴出しそうになる。

 

――川崎沙希。俺たち2人の高校時代のクラスメートであり、俺の妹、小町の義理の姉でもある女性。

 

俺たちが交際を始めてから1年以上が経っているが、今まで交際の事実を他人に口外したことはなかった。

まぁ、共通の知り合いと会うような機会がなかっただけなのだが。

 

 

「何で知ってんだよ?」

 

「まぁ色々と人伝にね。・・・同窓会、相変わらず顔を出す気はないのか?」

 

「案内もらってないぞ」

 

視線を落としてつぶやく。

 

「嘘をつくなよ。俺たち皆、もう33だぞ。流石にそんな子供じみた嫌がらせをする年じゃない。・・・・やっぱり結衣のことか?」

 

「ちっ・・・・・・もうフられてから何年も経ってんだけどな。未だにどんな顔をして会えばいいのかわからん」

 

 

 

――由比ヶ浜結衣。高校時代、奉仕部で一緒に過ごした女性の一人。俺の就職が決まったくらいの時期からの元交際相手だ。

 

彼女と一緒に過ごした時間は、俺にとっては手放せない程幸せなものだった。

 

ただ、俺の中国行が決まった頃、俺たちの関係を破壊する決定的な出来事が起こり、結果、俺は結衣に見限られた。

 

 

 

「その認識は間違ってるんじゃないのか?結衣の話じゃ、比企谷にフラれたと聞いてるが」

 

「どんだけ俺のプライベートに詳しいんだ、お前。正直、ドン引きするレベルだぞ。」

 

「結衣は大事な友人なんだよ。・・・・と言っても、高校時代からの知り合いで今も気兼ねなく飲みに行ける相手は比企谷くらいになってしまったけどね」

 

青春時代を懐かしむような顔で葉山がつぶやいた。

 

「結衣と比企谷が別れた理由も、実は聞いている。・・・雪ノ下さんのこと、今でも忘れられないのかい?」

 

「・・・お前、俺に恨みでもあんのかよ。心の傷を容赦なく抉りやがって」

 

 

 

――雪ノ下雪乃。奉仕部で時間を共有したもう一人の女性。そして俺の人生で初めてできた彼女だった女性。

 

俺たちが交際を始めたのは、俺が奉仕部へ入部して1年が過ぎた頃、高校3年生になってからだった。

 

雪乃は高校を卒業してからアメリカの大学へ留学、俺は国内の国立文系へ進学した。

 

しばらく遠距離恋愛が続いていたが、ある日を境に雪乃とは連絡を取ることができなくなった。

 

俺は大学を休学し、雪乃が進学した大学を訪れた。

彼女の学籍は残されていたものの、当の本人が何処へいるのか知る者はいなかった。

 

俺は日本に帰らず、そのまま日本の大学を退学し、雪乃の大学へ編入することを選んだ。

 

英語もままならない俺には非常にハードな選択だったが、雪乃に会いたい一心で現地に残り、彼女を捜し求めた。

 

しかし、ついに彼女は俺の前に姿を見せることがなかった。

 

 

 

「奉仕部の3人の関係。・・・俺には手に入らなかった本物の絆とでもいうのかな。そんなものを持ってた比企谷が、今でも羨ましいよ。嫌味の一つくらい言ってやりたくなる位にな」

 

「・・・・その絆とやらはとっくの昔に壊れて、失われたんだ。少しは思いやってくれ」

 

「悪かったよ。だが、川崎さんのことは幸せにしてやれよ。同じ過ちを繰り返すなっていう、友人としての忠告だとでも思ってくれ」

 

「わぁってるよ。・・・っていうか、さっきから俺にばかり話を振ってくるが、お前はどうなんだよ?」

 

ビールはお互い既に2杯目に入っていた。

お説教をこのまま延々と聞いても酒が不味くなるだけだ。多少強引に葉山の話にすり替える。

 

「高校時代に一色や三浦を袖にしたことは知ってるが、今でもずっと女っ気のない生活してんのかよ?・・・まさかこの年で童貞とかじゃないよな?」

 

「・・・流石にそれはない。怒るぞ」

 

葉山の表情から、心外だという表情が滲み出ている。

 

確かに、クラス一人気者だった色男を捕まえておいて、童貞か?はないだろう。

 

「まぁ、しばらく女っ気のない生活をしいるのは事実だけどね。これでも大学時代には彼女もいたし、今も実は職場に気になってる人がいる」

 

「そうかよ。まっ、お前に女がいないことの方がおかしいわな。ホモじゃないって分かっただけでも今日は来た甲斐があったわ」

 

「比企谷・・・お前は俺を何だと思ってるんだ」

 

「仕返しだ、仕返し。冗談に決まってんだろ。ま、その気になってるっていう人がお前の彼女になったら、沙希・・・・川崎も誘って4人で飲みにでも行こうぜ」

 

「そうだな。・・・・お前は変わったな、比企谷」

 

「口にすると悲しくなるが、お互いもう30過ぎだからな」

 

「はは、違いない」

 

 

 

男二人の夜は更けていく。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

23:30pm 都内のマンション。

 

エレベーターで自室の前まで来ると、玄関の小窓から灯りが漏れているのに気付いた。

 

カードキーをかざしてロックを解除する。

 

ドア開けると、中からエプロン姿の川崎沙希が出てきた。

 

「ただいま。沙希、来てたのか。悪かったな。連絡くれりゃ、早めに切り上げてきたんだが」

 

「待ってればそのうち来るかなと思ったけど、タイミング悪かったね。今日は飲んできたの?」

 

「ああ、久しぶりに葉山と飯食ってきた」

 

「葉山?高校の?」

 

「ああ。今、仕事で中国のインフラ投資プロジェクトを進めててな。あいつはウチの会社がリーガルコンサルを委託した弁護士事務所の先生様ってわけだ。今日はちょっと大きめのイベントがあったから、二人で軽く打上をしてきた」

 

「へぇ。相変わらず仕事、大変そうだね」

 

「そうでもねぇよ。確かに残業は多いが、それなりに楽しくやってる。まぁ、2か月後には現地視察の出張があるから、これからまた忙しくなるだろうな」

 

「ちょっと待って、2か月後って何週目?」

 

さっきまで上目使いだった沙希の目が細くなった。

 

「まだ細かい日程は決まってないが・・・・なんかあったか?」

 

「あんた、私たちの姪っ子の誕生日忘れたんじゃないでしょうね?」

 

「げっ・・・・」

 

 

 

俺の最愛の妹、比企谷小町は俺が中国内陸部に島流しにあっていた4年前に、沙希の弟、川崎大志と結婚した。

 

当時、結衣と別れた寂しさと過酷な中国生活で精神的に限界を迎えていた俺は、小町が嫁ぐという話を聞いて、発狂しかけた。

 

俺は1年程、義理の弟を遠い中国の地から呪い続けた。そう、姪っ子生誕のその日まで。

 

 

 

 

「はぁ、あんたって奴は・・・・」

 

「大丈夫だ。誕生日会の週の出張は何としても避けるようスケジューリングする」

 

「もういいよ、べつに」

 

俺たちが付き合うようになった切っ掛けは、お互い、姪の3歳の誕生日パーティーに呼ばれ、再会したことだった。

姪っ子の誕生日は、言わば、俺と沙希の交際記念のアニバーサリーだった。

それを忘れていたとあっては、沙希が怒るのも当然だ。

 

「いや、必ず参加する。ダメなら会社やめる。沙希との記念日でもあるしな」

 

「・・・・何言ってんのさ。バカ。」

 

沙希は小さいな声で呟いて俯いた。少しだけ顔が赤い。

 

30代とは思えない初々しさ。その仕草が愛おしくなり、俺は思わず沙希を抱き寄せた。

 

「・・・・早くお風呂入ってくれば?・・・待ってるから」

 

胸元から聞こえる色っぽい声。

 

理性が吹き飛びそうになるのを抑え、俺はそそくさと風呂場へ向かった。

 

 

 

 

 



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3. 比企谷八幡は出張前夜を彼女と過ごす

 

 

予想通り、説明会からの2カ月間は、毎日日付が変わるまでの残業を繰り返す激務の日々となった。

 

日系企業からの視察出張者の確認、現地パートナーとの視察スケジュールすり合わせ、移動工程にかかる打ち合わせ、追加の資料作成等、いくつもの作業を並行して進める。

 

社内のみでなく、葉山の事務所と連携しながらファンド組成の契約書内容のチェックも遅滞なく進めなければならない。

 

俺は槇村さんの指示で、タバコをカートン単位で仕入れ、缶コーヒーを段ボール買いし、オフィスに常備させた。

上司と二人で大量のニコチンとカフェインを摂取して、この難局を乗り越えた。

 

ちなみに、渡された万札でマッ缶を大人買いし冷蔵庫に保管しておいたところ、何も知らずに口にした槇村さんがデスクで盛大に噴き出すという事件が発生した。

 

俺は過去にない勢いで槇村さんからボロクソに怒られ、コーヒーの買い直しを命じられた。

槇村さんは、お裾分けと称し、俺に余ったマッ缶をディーリングルームの宮田さんへ届けさせた。

当人は嫌がらせのつもりだったようだが、宮田さんはマッ缶の味をえらく気に入った様子だった。

 

「味覚異常師弟コンビ」、俺と宮田さんの呼び名がまた新たに一つ追加された。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

出張前夜

 

俺はこの日、早朝5時に出社し17時までの12時間で、全速力で業務を片づけた。

 

17時にオフィスを飛び出し、沙希を呼び出した高級レストランへと向かった。

 

 

 

当初、沙希は二人の記念日よりも、姪の誕生日会を優先させるべきと言って譲らなかった。

 

結局、今日二人でデートすることとなったのは、30代未婚にも関わらず、結婚の話も出てこない俺たち二人の関係を懸念した小町が気を回した結果だった。

 

――今年はお義姉ぇちゃんのために、二人だけで記念日を祝ってもらうことに決めました!今大志君に雰囲気のいいレストラン選んでもらってるから、二人で楽しんで来てください!誕生日会の様子は後でビデオ送るから、気にしないでね!

 

1週間前に俺の携帯に入った、小町からの留守電。

 

小町の気遣いがなければ、沙希は意地でも誕生日会に参加すると言って聞かなかっただろう。

 

 

 

 

「今日はありがとう。こんな素敵なところ、よく見つけたね。かなり高そうなレストランだけど、大丈夫なの?」

 

ドレスコードにあわせて着飾った沙希が遠慮がちに聞いてきた。

 

「レストランを選んだのは大志だ。激務に見合う給料は貰ってるし、金は使う暇がなくて溜まっていく一方だ。問題ない」

 

「・・・ハァ。あんたらしいと言えばあんたらしい受け答えだけど、相変わらず女心なんてこれっぽっちも理解してないんだね。もはや致命的というか・・・」

 

「・・・すまん。」

 

「いいよ、べつに。・・・あ、この前菜美味しい!」

 

ジト目でつまらなそうな顔をしたかと思えば、食事を口にして喜びの表情を浮かべる。

沙希は普段、あまり喋ったり感情を表に出したりする方ではないのだが、今日のようにクルクルと表情が変わるのは機嫌がいい証拠だ。

 

仕事を頑張って片付けた甲斐があった。ご機嫌な沙希を見ていると心底そう思えてくる。

 

「なんかさ、専業主夫志望とか言ってたあんたが、外資系金融マンだなんて、笑っちゃうよね」

 

デザートを食べ終えた時、ふと沙希が口にした。

ワインは二人で1本空けており、二人とも既にほろ酔いだった。

 

「黒歴史を掘り返すなっての。いつの話をしてんだ」

 

「・・・・仕事さ、きつかったら辞めたっていいんだよ?こういうレストランに頻繁に来るのはキツイけど、私もそれなりに稼ぎあるし、今の私ならあんたの夢、叶えられると思うんだけど」

 

沙希の言葉に、酔いが醒めていくのを感じる。

 

「沙希・・・お前」

 

「あ、ごめん!今の無し!別に無理に結婚してくれなんて言う気はないの。ただ、あんたともっと一緒にいる時間が欲しいというか、ずっと一緒にいたいって言うか・・・・何言ってんだろ私!忘れて!」

 

30過ぎの未婚女子であれば、結婚願望が強いのが当然だ。

 

沙希が俺に貴重な時間を捧げてくれていることを考えれば、責任を取ることも真剣に考えなければならない。

 

沙希のことは愛しているし、自分が一生をかけて守ってやりたいと考えている。

だが、俺は結婚には踏み切れないでいた。

 

誰かと結婚することを考えると、どうしても雪乃と結衣の顔が脳裏にちらついて離れなくなる。

 

これは未練以外の何でもない。

ただ、ことあるごとに過去の女のことばかり思い出してしまう俺が、沙希の人生を預かるなんてことは、申し訳なくて言い出せなかった。

 

沙希はそんな俺の気持ちを見透かしているのか、決して自分から結婚を迫ってくることはなかった。

 

今のやり取りのように、結婚が話題に上がっても無理やり誤魔化した。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

夜、自宅寝室にて

 

「今日は、その、ごめん。」

 

隣で布団を被っていた沙希が急に謝罪の言葉を告げる。

 

「何か、お前が謝るようなことがあったか?」

 

「・・・専業主夫になる?って聞いたこと」

 

「気にしすぎだろ。というか、俺の方こそすまん。これまで沙希の好意に甘えすぎていた。将来のこと、ちゃんと考えてはいるんだが・・・」

 

「私は別にいいの。アンタが隣にいてくれるなら、入籍なんてしてもしなくても、関係ないし」

 

「・・・沙希のことは、心から愛してる。他の男には渡したくないし、今後もお前を悲しませるような行動は絶対にとらないと誓える・・・・ただ」

 

「雪ノ下と由比ヶ浜のことでしょ?付合い出す前から言ってたもんね・・・忘れられないって。それでもアンタに横にいて欲しいって言ったのは私だから、別に気にしなくていいの。」

 

「すまん」

 

「・・・出張頑張ってね。1週間、ちょっと長い分、今日は充電させてもらうから」

 

抱擁と口付け。

 

お互い、衣服を纏わず裸で抱き合ってしたキスに年甲斐もなく興奮を覚え、鼓動が高鳴る。

 

沙希の唇、頬、首筋にキスをし、胸のふくらみに手を乗せる。

 

「んぁ!」

 

その反応を聞く度、自分の中で、沙希に対する支配欲が急激に高まっていくのを感じた。

 

「・・・八幡、ちゃんとここに帰ってきて。私、待ってるから」

 

 

目を潤ませながら沙希が言う。

 

口付けした沙希のまぶたから涙の味がした。

 

沙希は何故泣いているんだろう。

 

俺の煮え切らない態度に対する悲しみか、1週間会えなくなることへの寂しさか、性的興奮から生じた生理現象なのか、その答えは沙希にしかわからない。

 

 

舌先に涙の味を感じた瞬間、俺の頭の中を、2人の女性との行為の記憶が駆け巡った。

 

だから、俺は女の涙とセックスの組み合わせが大嫌いだ。

 

 

幻惑を振り切るかのように、その晩、動物のように俺は沙希の体を求めた。

 

 

 

 

 



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4. 比企谷八幡は機中で過去を思い出す

 

翌朝、俺は朝一の便で上海へと向かった。

 

羽田から上海のフライト時間は3時間程度。

機内エンターテインメントは離陸30分後に開始され、着陸30分前には終了する。

せっかくビジネスクラスに乗っても、映画が一本見れるか見れないか程度の時間しかないのだ。

 

俺は機内の音楽番組を聴きながら、資料に目を通すことにした。

 

ページをめくって行くと、一人の人物の経歴書があった。

 

 

 

―――劉藍天、37歳。

 

今回のプロジェクト視察に併せて、中国のパートナーが用意した政府方の人物。

 

史上最年少で中国共産党中央政治局に入った若き彗星であり、上海市の副市長を兼務。

将来、中国の指導者として中央政治局常務委員入りが有望視される逸材。

  

こんなバケモノみたいな奴が、今回のカウンターパーティーか。

30代で中央直轄市の副市長って、どんな人事だよ。

 

しかし、この劉という御仁、若いのに顔写真を見るだけでも凄まじいオーラを感じる。

顔は葉山といい勝負のイケ面。

名前は和訳して「青空」。こいつは中国で今時のキラキラネームという奴かもしれないが、いかんせん本人の爽やかな顔と妙にマッチしており、浮いた感じもしない。

 

ますます気に食わない。

 

経歴書によると、どうやら日本への短期留学経験もあるようだ。

 

ひょっとして、日本語もできるんじゃないか?

ただし、迂闊にその前提で日本語で話しかけるのは失礼だ。

日系企業団と現地パートナーの間のコミュニケーションには専門の通訳が必須となる。

劉さんとの対話は通訳に任せるのがベストだろう。

 

 

「さて・・・・」

 

人物関係の資料には一通り目を通した。

続いて、今日のスケジュールの再確認に入る。

 

今日は現地到着後、日系企業団との昼食会、劉さん以下中国サイドとの会議、そして港湾施設の視察という流れになる。

 

―――問題は視察の時のコミュニケーションか。

 

プロジェクトの現地視察はオーガナイズされた会議と違い、日系企業団と現地パートナーの職員が入り乱れながらコミュニケーションを取る場となる。

今回のコーディネーターである俺に中国語通訳を依頼してくる日系企業職員がいてもおかしくはない。

 

俺の中国語研修の主戦場は学校でも、ビジネスの場でもなく、現地の夜の街だった。

要するに、キャバクラのねーちゃん(小姐という)が、俺の中国語の師である。

とてもじゃないが、俺の中国語はビジネス通訳が出来るようなレベルではない。

 

「頼むから、英語くらい出来る奴をちゃんと用意しといてくれよ・・・・」

 

現地パートナーが俺の期待通りに準備していてくれるよう、心から祈った。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「はぁ~」

 

大き目のため息をつきながら、俺はノートPCの画面をパタンと閉じた。

 

まだ現地入りもしてないのに疲れちまった。飛行機の中でまで生真面目に仕事なんかするもんじゃないな。

 

窓の外に見えるのは青々とした海。

位置的には、既に九州上空を越えたあたりだろうか。

 

 

資料の再確認は十分済んだ。

後はゆっくり音楽でも聴いて、着陸を待つとしよう。

 

 

目を閉じると、機内備え付けの安っぽいヘッドフォンから流れる音楽へ自然と意識が割かれる。

 

曲は聞いたこともない古い洋楽だった。

 

Is there really anything that last

makes me wonder if time is a bullet cause everything is happening too fast

I loved, I lost, where are they now?

The things I touched and let them fall・・・

 

 

 

愛したもの、失ったもの、今は何処にいるのだろう?

 

 

何気ない拍子にこういったフレーズを聞くと、決まって雪ノ下雪乃と由比ヶ浜結衣の姿が思い出された。

そして、胸に穴が開いたような切なさを覚える。

 

―――クソッ、またかよ。歌詞なんか聞き取ろうとするんじゃなかったな。

 

その感覚に苛立ちながら、俺は過去の出来事を思い返し始めた。

 

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

 

雪乃が卒業式を待たずに渡米することが決まったあの日のこと。

 

俺は、雪乃の部屋で荷物の整理を手伝っていた。

 

「やっぱり、留学するのか」

 

「・・・そうね、もう変えられないわ。あなたでも泣くことがあるのね」

 

俺の顔を見ながら雪乃は半分感心したように言った。

雪乃の顔は、窓から差し込む夕日が眩しくて、俺からはよく見えない。

 

「!? ばっか、泣いてなんかねぇって」

 

「ふふ」

 

「また、すぐに会えるよな?」

 

俺は不安になってそう尋ねた。

これは俺らしくない質問だ。

 

「当然でしょう?いつでも会えると信じているわ・・・あなたは、私がいなくなると寂しいかしら?」

 

「・・・寂しいな。正直、どうしていいかわかんねぇよ」

 

自分の心情を正直に雪乃に吐露する。

 

「ふふ、あなたにしては素直ね」

 

「んだよ?」

 

「・・・・好きよ」

 

予想していなかった突然のささやきに動揺する。

 

「な、いきなりなんだよ」

 

そう答え終わる前に、雪乃は俺にとびかかるようにして抱きついた。

雪乃の体を受け止めきれずにバランスを崩し、床に尻もちをつく。

 

俺は、雪乃が床に倒れこまない様に、頭を庇う様に両手で抱きしめていた。

 

その手を易しく払う雪乃。

抱きしめらるのは嫌だったのか?若干気まずさを感じて視線を雪乃から外した瞬間、唇に暖かい感触を感じた。雪乃からのキスだった。

 

唇と唇を付けたり離したりする動作に、物足りなさを感じたのか、雪乃は舌を使って俺の唇をこじ開けようとする。

俺もそれに無言で答えた。

 

初めて交わした大人のキス。

 

「・・・雪乃」

 

雪乃が顔を話すと、唾液が糸を引きながら弧を描き、ぷつりと途切れた。

 

「・・・私のこと、忘れないで」

 

俺の自制心はこの瞬間に途切れた。

 

湧き上がる欲望のままに雪乃を押し倒す。

 

初めて重ねた雪乃の肌は暖かく、彼女の嬌声はその日眠りにつくまで俺の耳に残った。

 

 

 

 

その後俺たちは、雪乃の留学の日まで毎日互いを求め合った。

 

出国前日、最後の逢瀬。

 

行為中に雪乃は泣いていた。

 

恥ずかしいから、という理由で部屋を暗くしていたため、はっきりと見た訳ではない。

 

俺が悲しみを埋めるように激しく雪乃を求めたせいか、雪乃も離別への寂しさを感じていたからなのか、原因は今となっては分からない。

 

ただ、キスをした彼女の頬から涙の味がしたことを、あれから15年以上経った今でも鮮明に覚えている。

 

 

 

以来俺は、性行為中の女性の涙で、フラッシュバックを引き起こすようになった。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

雪乃が渡米して半年、彼女となぜ連絡が取れなくなったのか、理由はしばらく分からなかった。

 

当時、雪乃の姉である、雪ノ下陽乃のもとを尋ねたが、彼女は頑なに雪乃の居場所を告げることを拒否し、結局何も知ることが出来なかった。

 

彼女が俺との連絡を絶った理由が分かったのは、俺が就職し、由比ヶ浜結衣と再開して交際し、そして別れを迎えた日だった。

 

 

《サブレが死んじゃった》

 

 

結衣から突然のメールが入ったのは、俺が中国行きを告げられて何日か経った後のことだった。

 

俺は残業を放り出して自宅へ駆けつけた。この頃、俺と結衣は同棲していた。

 

「結衣!大丈夫か!?」

 

「ごめんね、ヒッキー。仕事、忙しいのに」

 

「いや、俺こそすまん。こういう時にすぐに傍に来てやれなくて」

 

「サブレは老衰だって。もう歳だもんね。」

 

「そうか・・・、俺の実家のカマクラの時もそうだったが、家族を失うっていうのは辛いよな」

 

「・・・うん」

 

結衣の声は暗かった。

 

雪乃と生別れ、屍のような精神状態になっていた俺を支えてくれた、普段の結衣の明るい声は、なりを潜めていた。

 

結衣はこれまで、生きる気力の欠けた俺のことを、どうやって支えてくれたのだろうか。

 

同じように元気付けてやる方法を全く知らない自分が、情けなく、辛かった。

 

 

「・・・結衣」

 

俺は、手に持っていたかばんをベッドに放り投げ、彼女を抱き寄せた。

 

「ヒッキー、ごめんね。ごめん。ちょっとだけこのままでいさせて欲しい」

 

「落ち着くまでそうしてろよ」

 

抱きとめながら、ゆっくりと頭を撫でる。

結衣は声を殺してすすり泣いていた。

シャツの胸の辺りが結衣の涙で濡れていくのを感じた。

 

「結衣・・・」

 

痛ましくて、愛おしくて、結衣の頬へキスをする。

 

拒絶することなく、ゆっくりと目をつぶる結衣を見て、頬から唇へ移した。

 

キスから繋がる大人の行為。

 

 

そうだ。この時も涙の味がした。

 

我ながら最低な男だと思うが、結衣との行為中、雪乃の顔が頭から離れなかった。

 

 

 

 

お互いに果てて、薄暗い部屋のベッドで抱き合いながらまどろんでいると、結衣が口を開いた。

 

「・・・ヒッキー、やっぱり海外に行くの?」

 

「ああ。」

 

「あたし、離れたくないよ。連れて行ってって言ったら、やっぱり迷惑かな?」

 

「・・・結衣」

 

俺の赴任先は内陸部も含めた中国全土だ。

沿岸都市部だけならいざ知らず、内陸の田舎には、どんな生活環境が待っているのか想像もつかない。

それでも連れて行って欲しいということは、何があっても一緒にいたいという、結衣なりの覚悟だった。

 

これは結衣のプロポーズなのかもしれない。

 

俺も結衣と離れるのは嫌だ。仕事を辞めてしまおうとすら思った。

 

―――確かに合える時間は少ないけど、頑張ってるヒッキーは大好きだよ!

 

そう言って、俺に中国行きを覚悟させたのは他ならぬ、結衣だった。

 

 

「やっぱり、ゆきのんのことが忘れられない?」

 

突然の結衣の言葉に心臓を掴まれたような感覚を覚える。

 

結衣に対して申し訳ないとの思いから、ずっと態度には出さないようにしてきた。

 

結衣と付合うことが決まってからは、雪乃と撮った数少ない写真のデータも全て削除した。

 

にもかかわらず、結衣にはあっさりと見破られた。

 

 

「やっぱりゆきのんには敵わないよね、あたしなんか。」

 

結衣は震えた細い声でそうつぶやいた。

 

「そんなことねぇよ」

 

 

―――何が、そんなことない、だ。

さっきお前は誰の顔を思い浮かべて結衣を抱いた?

自分の言葉と裏腹に、急速に冷えた心の奥底でささやきが聞こえてくる。

 

これは俺が最も嫌った欺瞞だ。

 

 

「ヒッキーにもサブレにも置いて行かれたら、あたし・・・・」

 

「もうよせ、結衣。今日はお前も精神的に参っちまってるんだ。少し落ち着いてから話せばいいだろう」

 

「ヒッキー、あたし何でもするよ。ゆきのんのこと、辛いなら、ヒッキーが忘れられるように・・・」

 

「もうやめろ!」

 

―――しまった。

 

声を荒げた直後に湧き出す後悔の感情。

 

俺は恐る恐る結衣の目を見た。

 

凍てついたようで、燃え上がるような、その瞳には嫉妬、憎しみの感情が浮かんでいた。

 

「どうしてあたしじゃだめなの!あたしだってヒッキーのこと、ずっと好きだったのに! ゆきのんはヒッキーをあたしから奪っていったのに、親が決めた相手と勝手に結婚して、あんなにヒッキーを傷つけたのに!こんなに想い続けてもらうなんてずるいよ!・・・・・・ずるい」

 

「・・・結衣、お前」

 

 

―――雪乃は親が決めた相手と結婚した。

 

結衣は俺が知らなかった事実を知っていた。

 

頭を強く殴られたような感覚に襲われる。

 

 

 

「・・・・ごめん、ヒッキー。・・・あたし最低だ。内緒にしててごめん。二人を裏切ったのはあたしの方だね」

 

 

大粒の涙を流しながら、結衣は先ほど脱ぎ捨てた服を着込む。

 

 

俺はその場から動くことも、声を発することも出来なかった。

 

 

 

気づくと部屋に結衣の姿はなかった。

 

 

 

それから1週間後、俺は結衣に連絡を取ることもなく中国へ赴任した。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

――――ドカッ!!! キュキュキュキュ!!!!

 

機体の大きな揺れとタイヤが地面に擦れる音で、意識が現実に戻された。

 

 

どうやら無事に着陸したようだ。

 

 

一人で飛行機に乗ってると、辛い記憶ばかり思い出すのは何でだろうな。

 

 

 

 

 

 



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5. 比企谷八幡は出張先で奮闘する

 

 

「比企谷様ですか?こちらにご案内致します」

 

――へ?

 

現地に到着すると、航空会社の地上スタッフが俺の元へやってきて、話しかけてきた。

フライトの座席はビジネスだったが、到着後に特別な案内を受けるようなサービスは頼んでいないはずだ。

不思議に思いつつも着いていくと、普段の入国審査ゲートとは異なる場所へ案内された。

 

「パスポートをお預かりしてもよろしいでしょうか」

 

「あ、はい」

 

――おいおい、大丈夫なのかこれ?

前回の中国出張時、槇村さんと行ったカラオケの女の子をホテルに連れ帰ったのが、当局にバレてるとかじゃねぇよな・・・

拘束されたりしないよね、俺?

 

そんな心配をしていると、あっさりとパスポートは手元に返された。

更に歩みを進める地上職員。

床には赤絨毯が敷かれており、絨毯の端ではズラリと並んだ複数の女性職員が、俺の歩みに併せて次々とお辞儀していく。

その様子は、なんだかドミノ倒しのようだ。

 

「热烈欢迎 比企谷先生 ようこそ比企谷様」

 

赤地に黄色の派手な文字で書かれたそんな横断幕がフロアに掛けられていた。

フラッシュが何度も焚かれ、芸能人が空港に下立った時のように写真を何枚も撮られた。

 

――おい、マジか!?何だこの状況!?

 

俺はそのまま、入国審査に並ぶことなく、空港出口まで案内された。

 

 

出口では、現地パートナーの職員が俺を待っていた。

 

『比企谷さん、ようこそ上海へ。お会いできて光栄です』

 

入国のゲートをくぐると、出迎えに来た職員から流暢な英語で挨拶を受けた。

この声には聞き覚えがあった。いつも電話会議で俺のカウンターパーティーを務めてくれていた人物だ。

 

予定では、俺はタクシーで懇親会場へ向かう予定だった。さっきの扱いと言い、出迎えと言い、一体どういうことなのだ。

 

それに、会議は午後からだったはず。昼食懇親の参加者も日系だけで固めていたはずだ。このタイミングで、パートナーに出てこられても、正直困ってしまう。

 

『こちらこそ。しかし、今日は午後から御社オフィスへ企業団を連れてお邪魔させて頂く約束ではありませんでしたか?』

 

『混乱させてしまい申し訳ありません。劉副市長からの指示でお迎えに上がりました』

 

『副市長の?』

 

『実は昨晩、突然北京から全行程のスケジュール表を報告しろとの指示が急に入りましてね。スケジュールを説明したら、到着後の昼食のもてなしもしないとは何事かと、一部の役人が激怒しまして』

 

『それは・・・また面倒事に巻き込まれましたね。日系企業団には、そちらとの会議に入る前に、日本語環境で事前説明を受けて、情報交換をしたいというニーズがあった旨はご説明されたんですか?』

 

『もちろんです。が、日中関係が改善に向かってる今、ホスピタリティに欠いては面子が立たないと、聞く耳を持ってくれなくて・・・』

 

『うちでも社内政治のゴタゴタはありますが、国の政治に巻き込まれるあたり、国有企業の職員は本当に大変ですね・・・・』

 

『いやはや、お恥ずかしい限りです。前日の夜に騒がれても、スケジュール変更何て出来るわけがないですからね。結局、劉副市長が北京を説得したんですが、その落とし所として、今回日系の窓口になっている比企谷さんだけは決して無礼のないように、という話になったわけです』

 

――そういうことかよ。

ようやく合点が行った。

だが、礼を尽くすにしても、こっちは事前に何も知らされていない。かえって不安になっただろうが。

 

『勘弁してくださいよ、こんな若輩者相手に。逆に心臓に悪いですよ』

 

『ははは、劉副市長も比企谷さんがそんな反応をされるだろうと、予想して笑っていました。その謝罪と状況説明を兼て、出迎えに行って来いと指示を受けた訳です』

 

――劉副市長って、マジでどんな人物なんだろう。

 

この人の話を聞くに、劉副市長は俺という犠牲を差し出すことで、共産党中央の役人とのゴタゴタを一晩にして解決したのだろう。

 

さっき撮られた写真は北京への説明にでも使うんだろうか。党の新聞とかに載せられて、めんどうなことにならなきゃいいんだが・・・・。

 

しかし、俺の反応を予想して笑うとは、とんでもない腹黒だ。こいつは、気を付けた方がよさそうだな。

 

午後の会議で会う相手の人物像を想像し、早くも緊張を覚えた。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

俺はそのまま黒塗りの車に乗せられて昼食懇親会場へと向かった。

 

『わざわざ送ってもらってすみません』

 

『いえ、とんでもないです。それでは午後お待ちしております』

 

そう言って固めの握手を交わし、俺は車降りた。

 

会場は市内にある日系資本のホテルだ。参加者の大半がここに宿泊することもあり、俺はこのホテルを懇親会場に選んだ。

 

手早くチェックインを済ませスーツケースを部屋に置く。

参加者名簿を手に取り、レストランフロアへと向かった。

 

 

 

11:40am

すでにレストランには何名かの参加者が集まりだしていた。

 

「比企谷さん、東京の説明会ではありがとうございました。今週もよろしくお願いします」

 

「ああ、どうもお世話になってます。こちらこそよろしくお願いします」

 

中には羽田からの便で見かけた人もいる。

そんな相手とはお互いに若干の気まずさを感じながら名刺を交換した。

 

 

時刻が12時を回った時には、参加者全員が席に着席していた。

さすが日系企業、皆、時間には正確だ。

 

巨大な円卓に運ばれる料理の数々。

俺が事前にセレクトした上海料理を中心としたメニューだ。

多くの参加者が舌鼓を打ちながら食事を楽しんでいる。

 

食事の様子を見る限り、今回の参加者の中で現地ビジネスに慣れていそうなメンバーは限られているだろう。頻繁に現地出張を行っている人物は、現地料理に大きな興味を示さない。

今回の参加者の殆どが、料理に手を付ける前に物珍しげに料理を観察し、食材には何が使われている、といった話題で盛り上がっていた。

 

 

「さて皆さん、お食事はいかがでしたでしょうか。ここからは今日の午後のスケジュールの説明をさせていただきます」

 

皆が概ね食べ終わったタイミングで打ち合わせを開始する。

 

「既にご存知かと思いますが、今日は午後一で現地港湾運営会社との面談が予定されています。面談には港湾会社の筆頭株主である上海市政府の関係者も参加されます」

 

この後のスケジュールを再説明しながら、資料を配布する。

港湾会社の概要、資本構成、保有プロジェクト等、2ヶ月前の説明会よりも詳しい内容が盛り込まれたものだ。

 

「ご案内の通り、今回100億ドルの大型ファンドを組成する計画ですが、今回視察する上海のプロジェクトは単体で20億ドルの投資規模となります。これは本ファンドの中で最大の投資案件となる予定です」

 

皆真剣な目で俺の説明に聞き入っている。

どこの会社も収益の確保が至上命題となっているのだ。優良な投資機会を見逃したくはないだろう。

 

「今回はファンドの規模もさることながらですが、日中関係改善へ向けた象徴的ディールとして、中国サイドからの政治的関心も非常に高いものとなっています。今日の会議で政府関係者が参加するのにも、そういう理由があります」

 

「比企谷さん、質問よろしいですか?今回の案件に関して、霞ヶ関から何らかの関与があったりするんでしょうか?」

 

「日本政府側からは特段ございません。少なくとも現状は民間の経済活動には進んで関与しないというスタンスでしょう」

 

なるほど、といった反応を示し、質問者がノートにメモを取った。

霞ヶ関まで動き出したら少々厄介だ。なんせ投資家が日系でも、顔役のウチは外資だからな。

実際は槇村さんあたりが必死に介入されるのを断っているに違いない。

 

「それでは、そろそろ会議の場へ移動しましょう」

 

確認した時計の針はちょうど、午後13:00を指していた。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

13:30pm

俺たちは、パートナーとなる港湾運営会社の会議室へ到着した。

 

『比企谷さん、昼食はいかがでしたか?』

 

空港に迎えに来た職員が俺に話しかけてきた。

 

『問題なくという感じですね。皆真剣に資料に目を通していました。どの企業も、出資の確度は高いと見てます』

 

日本人に聞こえない様、小声で情報を与える。

 

『Cool!! 比企谷さんと一緒に仕事ができて本当に良かったです。もうすぐ副市長が来ますので、どうか皆様にこのままお待ちいただくよう、お伝えいただけますか』

 

日系企業団に対し、もう直ぐ副市長がお越しになると説明すると、部屋全体の空気が緊張に包まれた。

 

 

 

13:40pm

ドアが開き、二人のアシスタントのような人物とともに、上海市副市長、劉藍天が部屋に入ってきた。

 

高級なスーツを嫌味なく着こなし、短めの頭髪がピシッとまとめられている。

やはり顔は言うまでもなくイケ面。

ただ、実際目にしたその人物は、資料の写真よりも若々しく見えた。20代と言われても信じてしまいそうだ。

 

「您好,刘总。我姓比企谷。我们非常感谢您从百忙之中抽出时间来・・・・」

(こんにちは劉さん、比企谷と申します。本日はお忙しい中お時間を頂きまして・・・)

 

俺は、今回日系企業団を引率する立場にある。

参加者の年次でいえば、俺は下から数えた方が早い方だが、こういった挨拶も俺の重要なタスクだ。

 

「あぁ、ヒキタニさん!遅れてすみません。よく来てくれましたね!皆様もよくお越しくださいました。」

 

―――んなっ!?

場の空気が凍りつく。いや、凍りついたのは俺だけかもしれないが。

俺の中国語の挨拶を遮る様に、副市長は流暢な日本語で言葉を返してきた。

しかも、綺麗に俺の名前を読み間違えて。

 

一瞬の間を開けて、日系企業団の中からクスクスと笑う声が聞こえてきた。

外国語で挨拶をして日本語で返されると、語学レベルの差を指摘されるようで恥ずかしい。

 

 

「さて皆さん、私はこの会議のために、久々に日本語のテキストを引っ張り出してきて、勉強し直しました。しかし、いつの間にか、今日の会議の様子を党のエライ人に報告することになってしまって。それで、この通訳と記録係が同席しています」

 

副市長がそういうと、連れてこられた二人のアシスタントがペコリと頭を下げる。

 

「というわけで大変恐縮ですが、この時間、私は中国語でやらせて頂きます。なに、この会議は形式的なものです。写真を何枚か撮ったらすぐに追い出しますので。本格的な仕事の話は現地に向かうバスや夕食の席でしましょう。気兼ねなくお話しかけくださいね」

 

ドッと室内が湧き上がった。完璧な掴みだ。

会議開始の挨拶で参加者全員の意識を自分に向けさせ、場を支配した男に対し、少々の嫉妬と警戒の目を俺は向けた。

 

劉さんが「形式的なもの」と言っていた会議は大いに盛り上がった。

 

副市長はパートナーである港湾会社の職員ではない。筆頭株主となっている上海市政府の政治家だ。

 

にもかかわらず、彼の説明ぶりは、今回のプロジェクトに関する数字の細部まで頭に入っているかのようだった。

そして、今回のプロジェクトのみでなく、将来にわたる相互発展のロードマップという、ビッグピクチャーまで提示し、気づくと、俺を含む参加者全員が彼の話に引き込まれていた。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

15:00 pm

プロジェクト視察の現場へ向かうバスの中。

参加者は皆興奮した様子で、今回のプロジェクトについてああだこうだと、ディスカッションを行っていた。

これも全て、先ほどの会議における劉さんの講演の成果だ。

 

劉副市長は前方の座席で、現地職員と早口の中国語で打ち合わせを行っていた。

そんな姿をボーっと眺めていると、ふいに後方を振返り、俺と目が合った。

すると、バスが動いているにもかかわらず、立ち上がり、俺の隣の座席へと移動してきた。

 

「ヒキタニさん、お噂は聞いてます。中国経験長いんでしょう?」

 

腰かけた劉さんが突然話しかけてきた。

 

「恐縮です。5年程いました。私の噂が、副市長の耳に届くんですか?」

 

「外国企業の方に迷惑をかけないように、港湾会社の仕事はきっちり監督してるんです。彼らの話では、日本側の窓口に立ってるヒキタニさんは、こっちに引き抜きたいくらい優秀だと、聞いています」

 

柔らかい表情を崩さないものの、劉さんの目は笑っていない。

その瞳からは非常に鋭い眼光を感じる。

監督、といったが、実際はマネージメントまでやってるんじゃないだろうか?そう思えるほど、彼の知識は豊富だ。

 

「ヒキタニさん、さっきの会議中、ずっと僕のこと睨んでたでしょ?」

 

――!?

 

「とんでもない!凄い人だなと思って、見ていただけです!ほら、私目つきがこんな感じなんで」

 

「ははは、そうですか。てっきり、空港での仕打ちを恨まれているのかと思いました」

 

「ああ、あれは確かにビックリしましたけどね。一生モノの良い経験になりましたよ」

 

努めて平然を装うが、俺はこの人が隣に座ってから、手の平から染み出す汗をズボンで拭い続けていた。

この人物の風格は、強化外骨格の外面とか、そんなレベルじゃない。

生まれ持ってのリーダーとしての資質に加え、もっと得体のしれない何かを心の奥に秘めているようだ。

 

「ハハ、そう言ってもらえるのなら、助かりますよ。まったく、北京の老人には困ったものです」

 

今回騒ぎ立てた中央党幹部に対する軽めの愚痴。

しかし、その口調からは苦々しさは感じているような印象は受けない。

日本とは比較にならないスケールの派閥闘争が行われる中国の政治の世界で、若くして出世街道に乗った人物だ。

これまでの少ない会話の中でも、この人物は凄まじく頭が切れ、駆け引きに長けていることが窺われる。

今回も、自分の手のひらで転がしてやった、程度に思っていても不思議ではない。

 

「それにしても、劉さんは日本語ほんとに上手ですね。私の中国語はアレなんで、恥ずかしい限りです」

 

これ以上、人物像を探る様な会話を続けるのは無理だ。

俺は話題を変えることにした。

 

「いや~、ありがとうございます。実は昔、半年ほど千葉県に留学してたことがありまして。」

 

たった半年でここまで日本語が出来るようになるものなのか。

簡単すぎるだろ、日本語。もうちょっと頑張ってハードル上げてくれ。じゃなきゃ俺の立場がない。

しかし、千葉に留学とは奇特な人だ。それだけで、彼に対する好感度が大きく回復した。

 

「え?千葉ですか?私、千葉出身ですけど」

 

「そうなんですか!・・・実は私には妹がいましてね。千葉の高校に2年通っていたので、私よりも日本語は上手なんですよ。名前は確か、总武(zong wu)高校だったかな」

 

マジか。世界は狭いな。

 

「それ多分、日本語で総武(そうぶ)高校って読みますね。私の母校ですよ」

 

「哎哟!兄弟、今晚我们去喝酒吧!」

(ホントですか!今晩は是非飲みに行きましょう!)

 

あ、この人感情が高ぶると自然に中国語が出るのね。実は性格に裏表が全くない本物の好青年かもしれない、と先ほどの俺の中での人物評を修正した。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

視察現場に到着し、ぞろぞろとバスを降りる。

 

目の前には広大な港湾施設が広がっていた。

山積みのコンテナを仕分ける巨大クレーン、ビリヤード台にセットされたボールのように並ぶガス・石油の貯蔵タンク、東京ドーム○個分という表現では単位が足りない程広大な敷地にいくつも建設された倉庫施設、そしてその間を忙しく行きかうトラックの数。

実際にこの目で見ると圧巻だった。

 

「しかし、この港はすごいですね。資料上のデータを眺めるより、こうして来てみれば一目瞭然だ。横須賀の何倍の規模があるんだろう」

 

日系企業団の一人がつぶやいた。

裕に10倍はあるだろう。13億人の人口を支える重要港湾施設の一つだ。

日本とはケタが違う。

 

「規模だけは世界にも誇れるんですけどね。ただ、やはりオペレーション効率の低さや施設の老朽化の問題もあって、このままでは限界が来るのも近いんです。今回、ご出資いただくファンド資金の一部は、この港の再開発・施設拡張に充当される予定です」

 

劉さんが丁寧に説明した。

 

「直感的ですけど、これだけ広い港湾でも、船舶の往来・停泊の数を見ると稼働率は非常に高そうですね。これならキャッシュフローも期待できそうだ。工事期間中は、どの程度既存施設の運営に影響が出るんですか?」

 

他の日系企業の職員が遠慮がちに俺に聞いてきた。

劉さんにすべて答えさせるのは流石に気が引ける。傍らにいた現地パートナー職員に小声で尋ねた。

 

『彼は、工事期間中のオペレーションについて質問があると言っています。工事は既存施設運営からのキャッシュフローにどの程度影響するのかと聞いています』

『そうですね、まず、施設拡張に関する工事については・・・・』

 

一通り、相手の話を聞き終えてから、質問をした日本人への説明を開始する。

 

「拡張工事については特段既存施設に影響はないとのことです。既存部分の再開発については、敷地を複数の区画に分割して段階的に行うことで、オペレーションへの影響を抑えると言っています」

 

「なるほど」

 

「こちら、お昼に配らせて頂いた事前資料と同じものですが、この地図上の線引きが区画になってまして、ここから工事の第1、第2、第3、第4フェイズとなってます。地形を見ると、多分我々が立っているこの辺りが第1フェイズでしょう。キャッシュフローは次ページ以降に詳細なプロジェクションを載せていますのでご参照ください」

 

パートナーの答えを通訳しつつ、自分が作成した資料を提示し、丁寧に説明を行った。

相手は満足そうな表情を浮かべると、資料上の数字を目で追い出した。

 

そのやり取りを横で眺めていた劉さんが、ふらっと俺の近くに歩み寄ってくる。

表情は何故かニヤニヤしている。

 

「ヒキタニさん、思った通り、あなたはやっぱり優秀だ。どうです、うちの港湾会社に転職してみては?港湾会社以外にも、国営の投資運用会社もありますよ。もう10年くらい中国にいるのも面白いでしょう?」

 

耳元でボソッと囁く。その声に、底知れない冷たさを感じ、思わず身震いする。

人さらいの槇村さんも真っ青になるレベルだ。

 

「いや~、急に言われましても・・・」

 

「ま、今晩酒を飲みながらゆっくり口説かせてもらいます。そろそろ次の視察ポイントに移動しましょう」

 

そういって二カッと笑みを浮かべた。

―――やっぱり、いつかの雪ノ下陽乃さんみたいだ。

受けるプレッシャーはその比ではないが。

 

 

次のポイントへの移動のため、団体に対しバスへの乗車を促していると、100メートル程先の施設から煙が立ち上っているのを発見した。

 

「劉さん、あれ、なんすかね?」

「何かのトラブル・・・・ですね。視察中にお恥ずかしい。厳重注意しなければ」

 

頭の中で厳重注意 = 粛清という言葉の置換が自動で行われ、再び身震いする。

 

これは視察団体が騒ぎ出す前に、さっさと移動しちまうのが吉だろう。

 

「皆さん、こちらです!」

 

バスの乗車口で手を挙げ、自分の小さな声を精一杯張り上げた。

 

 

 



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6. 比企谷八幡は・・・

21:00pm

上海市内某ホテル

俺は劉副市長に連れられて、ラウンジのバーにいた。

夕食懇親を終えてホテルの部屋に戻ろうとしたところ、「どこに行くつもりですか、ヒキタニさん」と、劉さんにスーツの裾を掴まれたのだった。

 

今、俺たち二人はカウンターに隣り合って座り、酒を飲んでいる。

 

「さて、今日は本当にお疲れ様でした、ヒキタニさんのおかげで本当に助かりました」

 

「いや、そんなことないです。全て副市長に出てきて頂いたおかげです。劉さんの存在は、日系企業の参加者が今後投資検討を進めるにあたって確実に大きなプラス材料になるでしょう」

 

お世辞ではなく、本心として言う。

期間10年のプロジェクトは、現時点で形のあるアセットではない。

そんな中、将来の収益性を確信して投資を行うには、優秀な組織、とりわけ優秀なトップの存在が欠かせない。

今日の劉さんの対応は、日系企業の参加者を安心させるに足る、素晴らしいものだった。

 

「ハハ、ありがとうございます。・・・ところで、ヒキタニさんは今の仕事がお好きですか?」

 

「いきなり難しい質問ですね。正直言うと、私は人との関わりが苦手です。今の仕事が好きか嫌いか、というよりも、社会に出て働く、ということ自体が苦手です」

 

俺は予防線を構築した。ヘッドハントはありがたいが、中国に赴任するのはもうたくさんだ。

劉さんは強めのウィスキーを呷ると、ジッと俺の顔を見て口を開く。

 

「それにしては素晴らしい働きぶりですね。ヒキタニさんはやっぱり優秀なんですよ。さもなくば、恒常的に自分のことを顧みないで突っ走るクセがある・・・・とかですかね」

 

――――!?

心の内側を覗き込まれるような感覚を覚え、毛穴が開くのを感じた。

 

「・・・リスクリターンの計算と自己保身だけには昔から定評があると言われています。俺には、誰かの為に自分を犠牲にするなんてこと、できませんよ」

 

不快感から、思わず少しだけ素の口調が出てしまう。

 

「そう警戒しないで下さい。すみません、人物像を把握したがるのは私の悪い癖だ。だが、あなたは面白い。・・・どうです?今日はビジネスライクな時間は終了しました、ここからは気楽に本音で語り合いましょう。言葉使いも気にしないで。ほら、僕ら年齢もそんなに違いませんし」

 

「は、はぁ」

 

副市長に対し気楽に本音で、と言われても困るんだが。

まあ、ひとまず、肩の力を抜くことにした。

 

「僕はね、ヒキタニさんのその世を達観したような眼に、この世界がどう映っているのか非常に気になります」

 

「達観って・・・・すみません、話のスケールが大きすぎて、ついていけないんですけど」

 

これが気楽な話題ですか?哲学者なのか、この人?

ただ、劉さんの会話で、一人称が私から僕に変わったことに気づいた。

俺に対して、自分から心を開いていることを示すサインなのかもしれない。

なにか、大事なことを語りたいのではないか。俺はウィスキーのグラスを置き、ちらりと劉さんの顔を見た。

 

「唐突にすみません。・・・僕はね、地方の田舎出身なんです。中国もこの上海を含めた沿岸部はそれこそ先進国のように発展しています。しかし、僕の地元を含めて中国には貧困極まる生活を送っている地域が未だに存在するんです」

 

「それは、俺も身を以て体験していますよ。内陸にも住んでいた経験がありますから」

 

「そうですか。・・・もう何年も前の話ですが、僕が初めて日本へ留学した時、本当に衝撃を受けました。物質的な豊かさだけではなく、皆が互いを尊重し、社会のために生きることを是とした価値観に何の疑いも持たずに生活していたことに、です。豊かになるっていうのは、こういうことかと思いました」

 

「それは・・・」

 

互いを尊重し、社会のために生きる。

確かに日本のソーシャルシステムはそんなふうにできている。

では、その社会から爪弾きにされた人々はどうすればいいのだろうか。

元々、俺は高校時代、雪乃や結衣に出会うまで、所謂ボッチと呼ばれる人種だった。

 

社会がどんなに発展しても、そこに馴染めない人間は必ず存在する。

 

「ヒキタニさんを観察していて、感じたんです。失礼かもしれませんが、あなたはそんな日本のsocial normから外れた価値観を有しているのではないですか?」

 

「・・・おっしゃる通りです。これでも俺はだいぶ成長したと自負してますけどね。高校生の時、学校生活に関する作文をかいたら、教員にテロリストの犯行声明文だと言われたことがあります」

 

「ハハハ、やっぱりね。・・・僕は日本から戻って政治家を目指しました。この国、いや世界を、日本のように変えたいと願って、今まで努力もしてきたつもりです。ですが、あなたのような存在は僕のその価値観に異を唱えるものだ」

 

世界を変える、か。

どこかで聞いたようなセリフだ。

 

「そんな大げさな。日本にだって、人付き合いが苦手な人間がいたっておかしくはないでしょう」

 

「あなたは、僕が理想としてきた世界にあって、その苦しみを知っている。そういう人の考え方を学んでおかなければ、世界を変えようと頑張っても、僕がなれるのは精々独り善がりな独裁者だ」

 

――――ああ、この人も純粋に「本物」を求める人なのか。

劉さんと酒を飲みかわして、初めて彼の人となりが見えた瞬間だった。

 

俺達がまだガキだったあの頃、俺が求めた「本物」は、人との関係性という、狭い範囲のものでしかなかった。

雪乃が変えようとしていた「世界」は、自分を取り巻く、という但し書きのつくものでしかなかった。

 

この人は、全ての世界を良き方向に変えたいと、本気で願っている。

こんな話をすれば、誰もがそんなこと出来るわけがないと、嘲笑うだろう。

だが彼は、恥じることなく、胸に抱いた目標を俺に打ち明けた。

それが出来るのは、彼にとってそれが本物の夢だからだろう。

 

 

「・・・・劉さん、こういうことを言うのは恥ずかしいんですけど、俺は心からあなたを尊敬します。ちなみに俺の苗字はヒキタニではなくて、ヒキガヤって読むんですよ」

 

「へ!? 」

 

劉さんは、突然の俺の言葉に驚いた反応を示した。

 

「乾杯」

 

俺はそういいながら、グラスを差し出した。

 

「あ、ああ。乾杯・・・・やっぱりヒキタニさんは面白い人だ」

 

カチャンと、音を立ててグラスがぶつかり、中の氷が揺れた。

どうやら呼び方を直すつもりはないらしい。

 

劉さんは再びウィスキーに口を付けると、小さな声で「谢谢」とつぶやき、嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

その後、地に足のつかないような話題はひとまずおいて、俺たちは雑談を交わした。

劉さんの千葉での留学経験や、俺の中国内陸の赴任経験など、笑いあり涙ありの互いのストーリーを披露して打ち解けあった。

 

Prrrrr Prrrr Prrrrr

 

「申し訳ない、ちょっとお待ち下さい。――喂(もしもし)?」

 

そろそろ宴もたけなわ、そう思ったときに劉さんの携帯が鳴った。

公務というものは、忙しいのだろう。

 

「什么!?・・・好的好的,明白了。我马上来」

 

突然劉さんが大声で反応した。

「すみません。今日視察した港湾でトラブルがあったそうです。今から現場に行かなければいきません」

 

「トラブルって、例の煙の件ですか?何があったんです?」

 

「どうやら、港湾に出入りしている業者で、科学薬品の保管について、こちらの規定を守っていない業者が見つかったそうです。幸い事故には至っていないようなんですが」

 

「・・・それ、俺もついて行っていいですか?目の前でトラブルがあったのを知っていて把握せずに帰ったとなったら首になってしまいますし」

 

「・・・本来なら許可できかねますが、仕方ないですね。我々の車で行きましょう」

 

俺達は再び港湾に向かって、夜の上海の街を走り出した。

 

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 

施設には既に港湾関係者、公安、消防等が入り乱れた状況となっていた。

 

皆劉さんの姿を確認すると報告に駆け付け、そして持ち場に戻っていく。

劉さんはそうして入ってくる断片的な情報を整理して、次々と指示を飛ばしていった。

 

案の定、薬品の違法保管が見つかったのは先ほど煙が上がっていた施設だった。

 

今、公安関係者による事情聴取により、他の違法保管がないかを洗い出しているとのことだった。

 

 

 

「ヒキタニさん、やり取りを聞いていらっしゃったので、把握しているかと思いますが、ひとまずは他の不法保管の有無を調査中です。これだけの施設規模となると、捜査は朝までかかるでしょう。ひとまずはホテルにお帰りになられたらいかがですか」

 

俺がいても、出来ることは何もない。

ひとまず状況は把握したし、幸い事故も起こっていないことが判った。

槇村さんに連絡しても、怒られることはないだろう。

 

「分かりました、では明朝また電・・・」

 

その瞬間、周囲の空気が張り詰めるような感覚を肌が感じ取った。

 

ズドンッ!!!!!!!!

 

低い音を響かせながら、自分の立っている地点から100m程先の施設の一部が吹き飛んだ。

凄まじい勢いで炎が立ち上り、薄灰色の煙が黒色に変化する。

あっけにとられていると、薬物が燃えるような異臭が漂ってきた。

 

 

 

 

―――あ~あ、ここまでの苦労が全部無駄になっちまった。

 

懐かしいな、”チャイナボカン“。昔、ネットでよく揶揄されてたっけ。

よりにもよって現場視察の出張期間中にこんなことになるとは。

もう投資どころの話しじゃぁないだろう。報告したら槇村さん、荒れるだろうな。

 

炎を眺めながら頭によぎったのはそんな考えだった。

周りの人間は皆ざわめいている。

俺を含め、その場にいた誰もが状況を適切に認識できていなかった。

 

 

 

「你们在干嘛!?趴下!趴下! ヒキタニさんも伏せて!」

 

劉さんは必死に注意喚起を行い、俺に飛びつき頭を地面に伏せさせた。

自分たちが危険な状況に置かれているとは全く思わなかった。

 

 

爆発の起きた建物は巨大なタンクの隣だった。

 

 

化学薬品か、ガスか、中身は不明だが、引火すればどの程度の爆発が起こるか、検討もつかない。

 

 

目を細めると、先ほど吹き飛んだ施設の一部がタンクに突き刺さっていた。

タンクに開いた穴の周辺では、空気が蜃気楼のように淀み歪んで見える。明らかに内部の気体が漏れ出していた。

 

 

―――冗談だろ!?

 

そう思った瞬間、先ほどよりも大きな爆発が起こった。

 

大気の壁で体を打ち付けたような衝撃が走る、俺の体を庇う様にしていた劉さんが紙切れのように吹き飛ばされた。

 

―――劉さん!!

 

先ほどまで酒を飲みかわしていた人物の命が一瞬で失われた。

そのことを認識する間もない程短い間に、衝撃波は地面に伏せていた俺の体も容易く引き剥がした。

 

 

宙を舞う自分の体。

自分と同じように吹き飛ばされ、そして広がる炎によって焼かれる何人かの人たちが視界に入った。

 

一瞬の出来事のはずなのに、体がゆっくりと中から破壊されていくように感じられた。

 

 

 

 

――さすがにまだ死にたくはなかったんだけどなぁ。

 

 

 

沙希、こりゃ帰れそうにないわ、すまん。 

 

 

 

結衣、雪乃、・・・もう一度、会いたかった。

 

 

 

 

俺の意識はここでプツリと途切れた。

 

 

 

 

 



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第二章 再始動
7. 比企谷八幡は再会する


 

 

――俺は生き延びたのか。

 

視界が白くぼやけていた。

今自分が見ている情景が視覚情報なのか、脳が見せている夢なのかも曖昧だ。

だが俺は自分の意識を認識している。

この点において、俺は俺が生き延びたことを実感し、心に安堵の感覚が涌くのを感じた。

 

体に吹きかかる暖かい風が心地よい。

 

「・・・ガヤ、おい比企谷!」

 

誰かが俺を呼ぶ声がする。

とたん、頭が割れるような痛みがした。

 

――誰だよ。病院で大きな声を出しやがって。

 

「・・・・大丈夫か比企谷!? 顔色が悪いぞ!?」

 

――たりめぇだろ。死にかけたんだぞ。

 

ピタッと、額に何か冷たいものが貼り付いた。

その感覚が俺の意識を覚ます。

 

自分の瞼がパチッと音を立てるような勢いで開いた。

 

目前には、俺の額に手を置き、心配そうに顔を覗き込むかつての恩師、平塚静の姿があった。

 

「・・・平塚先生・・・・ご無沙汰です」

 

前に会ったのは、沙希と付合い出すちょっと前くらいだっただろうか。

そうだ、貴重な連続休暇を取得した時に、俺はこの40代後半独身女性の家を訪れたのだ。

 

二人でタバコを吸い、酒を飲みながら、同じベッドに寝っころがって、古いアニメをひたすら鑑賞し、腹が減ったらラーメンを食べに行くという、退廃的な休暇を過ごしたことを思い出した。

ちなみに言っておくが、俺は誓って先生には手を出していない。

 

「何を言っとるんだ、君は?」

 

呆れたような顔で俺を見つめる恩師。

 

それにしても ――今日はやけに化粧のノリがいいですね

喉元まで出掛かったセリフとともに息を飲み込んだ。

 

――何で俺は先生の前に立っている?

 

手足の一本くらいは失っていてもおかしくない事故だった。

目覚めたとすれば、病院のベッドの上じゃなきゃおかしい。

 

「やはりどこかおかしいようだな、比企谷。保健室に行こう」

 

「・・・先生?」

 

平塚先生は何を言っている?俺は今何処にいる?

 

「不安そうな声を出すな。男だろう。・・・行くぞ、歩けるか?」

 

ぐいっと手を引っ張られ、ぼやけていた意識が急速にシャープになる。

先生に連れられて、一歩一歩足を進める度に、五感で感じ取る情報のリアリティが増していく。

 

――おい、俺はいったいどうなった!?

 

湧き上がる疑問に対し、目に見える周囲の情景は何の答えも与えてくれない。

 

長く伸びた廊下、壁際に設置された火災報知機や消火栓、一定間隔で設置されたスライド式の安っぽいドア。

 

目前に広がるのは、懐かしい母校の風景そのものだった。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

平塚先生に保健室に連れられた俺は、ベッドに寝るよう促された。

 

「大丈夫か比企谷?午後の授業の担当教員には私から伝えておくから安心しろ。ゆっくり休め」

 

午後の授業だと?俺をからかってるのか?

こんなのバカげてる。

 

平塚先生は優しい手つきで俺の上着を脱がし、丁寧にハンガーにかけた。

かけられた俺の上着は、高校時代のブレザーだった。

 

もう沢山だ。

 

俺が死に際に、あいつらにもう一度会いたいと願ったから、こんな夢を見ているのだろうか。

 

夢なら今すぐに雪乃と結衣に会わせてくれればいいだろう。

現実だというなら、俺を沙希の元に返してくれ。

 

俺は、平塚先生が出て行った保健室の扉を無言のまま見つめていた。

そのまま何分経っただろうか。

 

ブブブ・・・・ブブブ・・・・

 

突然、ズボンのポケットから振動を感じた。

取り出すと、緑色のケースに入った古めかしいタイプのスマートフォンだった。

画面にはメールの着信を示す表示がある。

差出人不明のジャンクメールだった。

 

「ハハ・・・昔の携帯・・・マジかよ・・・」

 

俺は力なくベッドに倒れこんだ。

 

そのまま思考を放棄すると、強い眠気に襲われた。

 

――このまま寝ちまおう。

 

次に目覚めた時、病院のベッドに寝かされた俺の手を、涙目の沙希と小町が握っている、そんなドラマのような情景が広がっているに違いない。

 

俺の意識は再び闇に包まれた。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

――カキィィィン!!

――ボール行ったぞぉ走れ走れ!

 

窓から刺す西日を顔に受けて、目が覚める。

外から聞こえるのは野球の音だろうか。

耳をすますと、他にも下手糞な合唱や吹奏楽の音が聞こえてくる。

 

俺が再び目覚めた場所は、保健室のベッドの上だった。

 

これは・・・・正直参った。

寝て、起きて、俺はまだここにいた。この環境が夢だという可能性はこの時点で大幅に減った。

 

俺は、この後どうすればいい?

 

目覚めたら俺は学校にいた。

俺は高校の制服を着ており、とうの昔に買い替えて捨てた古い携帯を持っていた。

加えて、恩師の平塚先生は自分と年齢が殆ど変らないように見えた。

 

状況から導かれる答えは一つしかない。

 

――これはアレか。体は子供、頭脳は大人とか、強くてニューゲーム的なやつか。いや、体は別に子供じゃないな。むしろ中学でズル剥け・・・

 

 

「比企谷、目を覚ましたか?気分はどうだ?」

 

状況整理のための思考が脱線した時、ガラガラッと音を立てて、入り口のドアが開いた。

 

「平塚先生・・・」

 

「昼休みは、君の作文について一言言ってやろうと思ったんだが、体調不良では仕方がないな」

 

「作文?」

 

「そうだ。課題は“高校生活を振り返って”。なぜそれが犯行声明文になる?」

 

「ありましたね、そんなの。懐かしいな」

 

そうだ、平塚先生が俺を奉仕部に連れて行ってくれる切欠となったのは、俺が書いた一枚の作文だった。

・・・劉さんには先生からボロクソに評されたことを話したっけ。

俺を庇って吹き飛ばされた男の事を思い出し、心に影が差す。

 

「勝手に過去の出来事にするな。君にはレポートの再提出と、ふざけた態度への罰として奉仕活動を命じる。罪には罰を与えないとな」

 

――最初からかよ!!

自分のリスポーン地点をこの瞬間、ようやく把握した。

 

ところで、なんで今俺はここが最初だと思ったのだろう。

答えは決まっている。俺にとっての高校生活とは、やはり雪乃と結衣がいた奉仕部が全てだったからだ。

それ以前の事は殆ど記憶に残っていない。

 

「特別棟の5号室・・・今は使われていない空き教室だが、そこは奉仕部という部活動の部室になっている。体調が戻ったのならそこに行ってみるといい。部長には君のことを説明しておいた。君には奉仕部へ入部し、そこでの活動を通じて反省してもらう」

 

「入部、ですか?」

 

――俺なんかが、またあの場に戻っていいのか。

 

湧き上がる自己嫌悪の感情。

雪乃と結衣のためにも、俺はこのままどこかに消えてしまった方がいいのではないか。

特に、結衣には今更どんな顔をして会えばいいというのだろう。

そんな考えに思考が支配された。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

気づくと俺は奉仕部の部室の前に立っていた。

 

雪乃がここにいるかもしれない。彼女にもう一度、一目でも会いたい。

俺は、自分のそんな欲求に抗うことができなかった。

 

だが、俺はその扉を開けることが出来ずにいた。

 

改めて自分の置かれた状況を見つめ直す。

そもそも、今、本当に雪ノ下雪乃はこの部室にいるだろうか。

由比ヶ浜結衣という存在は、同じ学校にいるのだろうか。

ここは俺の過去の記憶によく似た別の場所かもしれない。

 

仮に、彼女に再開できたとして、何を話せばいい?

俺が未来から戻ってきたとでも伝えるのか?

そんなフザけた話を信じるような人間はいないだろう。

結局、二人に会って俺はいったい何がしたい?

 

――ここでいくら考えても、俺には納得のいく結論は導き出せないな。

 

意を決して扉をノックした。

 

「・・・どうぞ」

 

扉の向こうから帰ってきたのは、懐かしい綺麗な声

 

心臓の鼓動が急激に速まる。

 

 

奉仕部。

 

全ての始まりの場所。

 

俺は取っ手に手をかけ、再びその扉を開いた。

 

 

 

窓際に佇む女性の姿。

整った顔立ちに、スラっとした細い肢体、開いた窓から吹き込む風に揺れる艶やかな黒髪。

 

俺が15年間想い続けた女性、雪ノ下雪乃その人だった。

 

 

「雪乃・・・・」

 

 

思わず彼女の名前を口にする。

 

目から涙が流れ落ちた。

 

 

 

 

 



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8. 比企谷八幡はもう一度やり直す

 

 

雪乃と目が合ったまま、俺は言葉を発することのないまま立ち尽くしていた。

実際に流れた時間はほんの数秒だろう。だが、俺にはその無言の時間が永遠にも思えるほど長く感じた。

 

「・・・あなたが入部希望者?」

 

雪乃が口を開いた。

その声の懐かしさに、沸き立つ歓喜の感情。同時に心臓を縛り付けられたような痛みが胸中を支配する。

 

何か返事をしなければ。そう思い口を開くも、言葉に詰まる。

俺は何を話せばいい?

必死に思考を巡らせるが何も思いつかない。

 

「あなた、人の話を聞いているの?私は質問をしているのだけれど」

 

「あ、ああ。すまん。平塚先生に言われてここに来た。比企谷だ」

 

雪乃の詰問を受けて、ようやく出てきた言葉。

 

―――俺のこと、覚えてるか?

そのまま続けてしまいそうになった言葉を無理やり抑え込んだ。

 

「話は聞いているわ。平塚先生からの依頼はあなたの性格矯正と孤独体質の改善とのことだけど」

 

「・・・・・そうか」

 

「一つ聞くけれど、あなたは私のことを知っているの?」

 

―――ああ、よく知ってるよ。お前は、こんな俺に居場所をくれた、俺にとってかけがえのない大切な人だ。

どれだけ強く伝えたいと願っても、心の声は雪乃には伝わらない。

 

「・・・・また沈黙するのね?貴方のコミュニケーション能力には確かに問題があるようね。それに、初対面の人間を馴れ馴れしくファーストネームで呼んだかと思えば、突然泣き出すなんて、正直気味が悪いわ」

 

「え!?いや、これは、アレだ!花粉症で目が痒いのと、寝起きであくびが止まらないというか・・・名前は、ゆきの何とかさんだった・・・・よな?」

 

慌てて取り繕ったせいで、最後は消え入るような声になる。

 

―――気味が悪い、か。

これは心理的な拒絶を正直に表現した言葉だ。

出会ったころ、雪乃は毎日のように俺を罵倒していたっけ。

だが、一度愛した女からそんな言葉を聞かされるのは、想像以上に辛かった。

 

 

雪乃は怪訝な表情で俺を見ている。

 

「・・・なぁ、俺達、どこかで会ったことはないか?」

 

一抹の希望をかけて俺は口にした。

もしも、雪乃が俺のことを知っているのならば、俺たちはあの頃の関係に戻れるのではないか。

 

しかし、そんな自分の浅はかな望みを認識した瞬間、俺は強烈な後悔の念に駆られた。

これは沙希に対する明らかな裏切り行為だ。

 

逸らした視線を恐る恐る、再び雪乃へと向ける。

雪乃は驚いたように目を見開いていた。

 

「あなた、事故の時に私の顔を見ていたのね。・・・ごめんなさい。今更謝罪しても遅いのでしょうけれど」

 

「事故?」

 

確かに港湾の爆発事故の時、走馬灯のように雪乃や結衣、沙希の顔が思い浮かんだかもしれない。

だが雪乃が俺に謝る理由が分からない。第一、雪乃は俺が事故に巻き込まれたことなど、知らないはずだ。

 

「私をからかっているの?・・・入学式の日、私はあなたを撥ねた車に乗っていた。あなたはそのことを責めているのではないの?」

 

 

とたん、脳裏に浮かぶ何年も前の光景。

 

―――雪ノ下雪乃ですら嘘をつく。そんな当たり前のことを受け入れられない自分が嫌いだ。

自分が青臭く、捻くれたガキだった頃に抱いた感情。

雪乃の言葉をきっかけに溢れ出すように記憶が蘇った。

 

 

「・・・」

 

再び硬直した俺を見て、雪乃は気まずそうに俯いた。

 

「いや、すまん。会ったことがあるってのは多分俺の勘違いだ。・・・事故のことは、お前が謝るようなことじゃない。俺も忘れていたくらいだし、第一、車道に飛び出したのは俺だ。嫌なことを思い出させてかえって申し訳ない」

 

予想外の雪乃の反応に俺は慌てた。

雪ノ下雪乃は往々にして正しい。そして優しい。

そんな彼女が、俺のような男に対して罪悪感を抱くことが、たまらなく悲しかった。

 

「・・・・」

 

雪乃は沈黙を続ける。困惑の表情で俺の反応を伺っていた。

 

「・・・ごめんな」

 

「なぜあなたが謝るのかしら?」

 

 

―――ずっとそばに居てやれなくて。

俺はお前が進学した海外の大学を卒業した。

その気になれば最初から雪乃に着いて行くこともできたはずだ。

だが高三当時、俺は留学をする雪乃が特別だと思っていた。そして一人で行かせた。ずっと一緒に居れば、違った未来があったのかもしれない。

だから、ごめん。

 

 

「・・・お前を傷つけちまったような気がしたから」

 

「まるで恋人気取りのような物言いね。・・・勘違いしないでちょうだい。私はそうすべきだと思ったから謝罪したまでよ。あなたに馴れ馴れしくされる筋合いはないわ」

 

再び浴びせられる拒絶の言葉。

心が軋むような音を立てて潰れていくのを感じた。

 

「そういうつもりで言ったわけじゃない。不快感を与えたのなら、すまない」

 

「また謝るのね。・・・平塚先生の説明とは少し違うような気もするけれど、あなたは人間関係を構築する上で、やはり何か問題を抱えているようね」

 

「そうだな」

 

「依頼を引き受けたからには私が解決してあげるから、安心なさい。・・・・改めて自己紹介するわ。私は雪ノ下雪乃。ようこそ奉仕部へ。歓迎するわ」

 

「・・・よろしく頼む」

 

これ以上は心がもたない。

ここまでの会話を交わすのが俺の限界だった。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

雪乃との顔合わせの後、俺は学校の廊下をトボトボと歩いていた。

もう日が沈み始めている。深夜まで煌々と明かりが灯る会社のオフィスとは違い、校舎は薄暗かった。

 

俺は、この後どこに行けばいい?実家に帰るのか?

だが、歩いて帰る気力が涌かない。タクシーに乗ろうにも、財布を持っていなかった。

 

高校の頃は自転車通学だったっけ。

俺の自転車は駐輪場に留めてあるのだろうか。

いや、待て。鍵がなければ自転車には乗れない。鍵はどこだ。

 

自分の荷物が教室に置いてあるはずだ。鍵もそこにあるだろう。

だが俺の教室はどこだ?高校2年の時、俺は何組だった?

 

 

―――んだよこれ、いきなり詰んでるじゃねぇか

 

雪乃との会話で神経を擦り減らし、体中のいたる部分に疲労を感じていた。

 

全てが嫌になる。

俺はその場に立ち止まり、夕日が沈みきるまで窓の外を焦点の合わないような目で見つめていた。

 

 

 

 

「まだ学校にいたのか比企谷。雪ノ下との顔合わせはうまくいったのか?」

 

ちょうど日が沈みきった頃、背後から声をかけられた。

 

「・・・平塚先生」

 

鞄を持っている。就業前の戸締り確認でもしていたのだろうか。

 

「先ほど雪ノ下が職員室まで部室の鍵を届けにきたが、普段よりも幾分上機嫌だったぞ」

 

「上機嫌?雪ノ下が?」

 

「それに君の事を、悪い人間ではない、と言って褒めていた」

 

「・・・それって褒め言葉ですか?」

 

「これでも彼女からすれば滅多に口にしない賛辞だろう。私としては、君たちが取りあえず上手くやっていけそうで安心したよ」

 

そうか、まあ初めて会ったときに比べれば,だいぶマシな印象を与えられたんだろうな。

沈んでいた気分が少々だが上向き、少しだが体に気力が戻った。

 

「そうだ、比企谷。君にはこれを渡しておくのを忘れていた。再提出、忘れるなよ」

 

そういって鞄からクリアファイルを取出す。挟まっていたのは俺のレポートだった。

それを俺に手渡すと、平塚先生は去って行った。

 

 

レポートに目を落とす。

 

―――高校生活を振返って 2年F組 比企谷八幡

 

「ハハ、教室、目の前だったのか」

 

こうして俺は、帰宅への最初の手がかりをようやく掴んだ。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

自宅に着いた俺の目に入ったのは、何年か前に亡くなった飼い猫、カマクラが気怠そうに玄関で寝ている姿だった。

 

―――やっぱり、どう考えても俺は戻ってきたんだよな。

 

カマクラを抱き寄せて頭と首をなでる。

 

「・・・久しぶりだな。カマクラ。また会えてうれしいぞ」

 

愛猫は気持ちよさそうに目を細めている。

突然、畳まれていたカマクラの耳が起き上がり、周囲の音を拾う様にピクピクと動いた。

リビングの方からバタバタとした足音が聞こえ、玄関に近づいてくる。

 

 

「お兄ちゃん、今日は遅かったね。何かあったの?」

 

「・・・小町」

 

中学の制服姿。最後に会った時と比べ、顔付きがだいぶ幼い。

就職後も結構頻繁に顔を合わせていたはずだが、久しぶりに見た子供の頃の小町の姿は、俺に懐かしさと安堵の感覚を与えた。

 

目覚めてから緊張しっぱなしだった頬が緩む。

 

「お兄ちゃん?」

 

「いや、何でもない。・・・ただいま、小町」

 

「お、お帰りなさい・・・・ってどうしたの?雰囲気がいつもと全然違う!」

 

「そんなことないだろ」

 

「いや確かに目付きは相変わらずだけど・・・今日のお兄ちゃん、なんか大人っぽくて、ちょっとカッコいいかも。あ、今の小町的にポイント高い!」

 

―――それも懐かしいな。

小町が結婚してから、その謎のポイント制が会話に出てくることは無くなった。

 

「そうか?まぁ可愛い妹にそう言われりゃ、悪い気はしないな。・・・これは八幡的にポイント高いよな」

 

「やっぱり絶対何か変だ!・・・・ま、いっか。ご飯出来てるから、早く一緒に食べよ!」

 

小町は上機嫌でリビングに戻っていった。

靴を脱ぎ、玄関でスリッパに履き替える。

 

―――ただいま。

 

こうして長かった一日が終了した。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

翌朝、俺は最後の最後まで学校を休むか登校するかで悩んでいた。

結局最終的に、重たい心を引きずって、学校に行くことにしたのだが、クラスに辿り着いたのは、始業ベルギリギリのタイミングだった。

 

教室に入る際に、結衣と沙希の姿を探すと、案の定、二人の姿があった。

 

俺は自分の席から二人の事を一限目からずっとボーっと眺めていた。

 

休憩時間、結衣はクラスの派手目な集団に溶け込もうと、必死に雰囲気を読み、会話を合わせているような様子だった。

 

 

周囲の人間に気を使うあまり、常に気持ちを抑えつける。そんな結衣の悪癖は、大人になってだいぶ改善したと、俺は勝手に思い込んでいた。

しかし、結衣は最後まで、一番近くにいた俺に対し気を使い続けていた。

互いが傷つくことを恐れ、結衣は言いたいことを必死に抑え込みながら、別れのあの日まで俺の隣に居続けた。

 

サブレの死はただのきっかけに過ぎない。俺の存在が、結衣に我慢を強い続けていた。

そんな事実を思い出すと、いたたまれない気持ちになった。

 

 

俺は結衣がいる集団の中心にいた人物へ視線を移した。

 

葉山隼人。

 

―――ほんのちょっと前に、俺たちが仕事帰りに飲みに行ったなんて話、今のお前は信じないだろうな。

 

30を過ぎた頃、俺にとって高校時代からの友人と言えるのは葉山ただ一人だった。それは葉山も同様だと言っていた。

 

俺達は高校時代、反目し合っていた。

だが「俺はお前が嫌いだ」なんて自分の地をさらけ出すようなセリフが吐けるのは、ある意味、真に気を許せる相手に対してだけなんだろう、と今になって思う。

 

 

思考を巡らせていると、俺の葉山に対する視線に気付いたらしいグループ内のメガネ女子が、ハチハヤキタコレ!と訳のわからない呪文のような言葉を発しながら騒ぎ出した。

 

 

ああ、あいつは確かホモネタ好きな・・・・何さんだったかな。名前も忘れてしまった。

俺が修学旅行の京都で愛の告白までした相手じゃないか。もちろん本気で告白したわけではないが、そんな相手の名前も忘れてしまうとは、俺も年を食ったもんだ。

 

ちなみに、この時の告白の話は、雪乃も結衣もかなり根に持っていたようで、それぞれ交際が始まった後から、まれにネチネチと嫌味を言われることがあった。

 

 

懐かしい奴、と言えば教室にもう一人いた。

 

戸塚彩加。

女みたいな容姿をした、テニス部員。ボッチだった俺に対し、友人として手を差し伸べてくれた数少ない人間の一人。だが、俺が留学してから連絡を取ることもなくなった。

俺が同窓会にでも顔を出していれば、お互い大人になった姿で会うことができたかも知れなかったのにな。

 

 

そして俺は窓際に座る少女、沙希を見る。

俺にとっては一昨日の晩、熱く抱き合ったばかりの大事な女性。

だが、今は声をかける切っ掛けすら見つからない。

 

彼女は俺と同様、基本的にクラスでは一人でいる様子だった。

俺と違うのは、クラスには彼女にまれに話しかける人間がおり、彼女はそうした人間とはきちんとコミュニケーションを取っている、ということだった。

やはり、周りから嫌われているわけではなさそうだ。沙希は根が優しい女だから、当然と言えば当然なのだが。

 

 

沙希の事を眺めていると、俺を見ながらヒソヒソ話をする女子の集団がいることに気が付いた。

 

―――ちょっと見ただけでストーカー扱いかよ。ガキが変にマセやがって、うざってぇ

 

軽く睨みつけてやると、グループは瞬く間に散り散りになっていった。

 

 

 

結衣と沙希の二人に話しかけたい。笑顔を振り向けてほしい。

そんな悶々とした思いを抱え、くだらない授業を上の空で聞き続ける。

教科書や黒板に視線を向けようと意識しても、気づくと俺はまた二人のうちのどちらかの姿に見入っていた。

 

 

しかし、当然と言えば当然だが、二人とも見た目が若い、というより幼い。

昨日雪乃に会ったときはそんな印象は全く受けなかったのにな。

結衣と付き合っていたのは俺たちが20代半ばの頃、沙希に至っては30代になってから恋人関係になったのだ。違和感があって当然と言えば当然だろう。

 

 

 

この日はひどく退屈だった。

普段、昼飯を食う暇もないくらいの量の仕事に追われているのだ。やることがない、というのはかえって苦痛だった。

 

 

―――この椅子、堅ぇなぁ

長時間のデスクワークをするために設計されたオフィスチェアに慣れきった俺のケツは、もはや限界を迎えようとしている。

便所に行くふりでもして、授業をサボろう。

 

そう思い立って立ち上がろうとした時、放課を示すチャイムが鳴り響いた。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「来たのね、比企谷君」

 

授業が終了してから、俺は奉仕部の部室へと向かった。そこには既に雪乃の姿があった。

 

「お疲れさん。早いんだな」

 

今日初めての人との会話だった。その相手が雪乃ということもあり、少しばかりテンションが上がる。

 

「私は部長だもの。いつも授業後は真直ぐにここに来るのよ」

 

「そうか。俺もこれからそうさせてもらおうかな。クラスには話しをするような相手もいないしな」

 

「哀れね」

 

「そうだな。お前のいる奉仕部だけがこの学校での俺の居場所だ。すまんな、こんなのを相手にしなきゃならないことになっちまって」

 

「べ、別に迷惑とまでは思っていないわ。・・・あなた、そのすぐに謝る癖、直した方がいいと思うのだけれど」

 

雪乃は若干照れたようにそう言うと、そっぽを向いた。

そのしぐさに思わずこちらも恥ずかしさを感じてしまう。

 

―――背中が、背中がかゆい! いい歳こいたオッサンが、こんなやり取りで何ときめいちゃってんの!?バカなの!?

 

 

自分を戒めていると、部室のドアから弱々しいノックが聞こえてくる。

 

「し、失礼しまーす」

 

「結衣・・・ガハマ」

 

ノックの主は結衣だった。危うく昨日と同じミスを犯しそうになった。

 

「な、何でヒッキーがここにいるの!?」

 

 

そうだ。結衣が初めて奉仕部に来たのは依頼主としてだった。

世話になった人へのお礼として手作りクッキーを焼きたい、そんな依頼だった。

その世話になった人というのが俺だったということを知るのは、何ヶ月か経った後のことだった。

 

 

料理に関して言えば、沙希や雪乃と比べ、結衣はお世辞にも器用とは言えないレベルだった。

だが、だからこそかは分からないが、俺たちは良く週末に二人で一緒に料理をすることが多かった。

沙希や雪乃に手料理を食わせてもらうのとは、また別の幸せの形がそこにはあった。

 

 

それに、クッキー作りに関して言えば、結衣は努力を重ねた結果、人に自慢できるものを焼き上げることが出来るようになっていた。

結衣は暇が有ればクッキーを焼いて、会社へ向かう俺に持たせてくれた。

 

宮田さんや槇村さんは残業で小腹が減ると俺のデスクにやってきては、勝手に結衣の作ったクッキーを食って行った。

部下の食い物を無断で食い散らかすのは、上司の行いとしては微妙だ。だが、二人がクッキーを求めてやってくる度に、俺は誇らしい気分になった。

 

 

俺が過去を思い出している間、雪乃が結衣の依頼を聞きだしていた。

そして、記憶の通り、俺たちは家庭科室で結衣のクッキー作りを手伝うこととなった。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

俺達の目前に置かれる黒い塊。

言うまでもなく、結衣が初めて焼いたクッキーだった。

 

「・・・やっぱりあたし、料理は向いてないのかな。才能っていうの?そういうのないし・・・」

 

そういって落ち込む結衣の姿。全てが懐かしい。

遠慮しがちな性格だからこそ、そういうネガティブな発想になるんだろう。

 

 

「由比ヶ浜さん。あなた才能がないって言ったわね?その認識は改めなさい。最低限の努力もしない人間に才能がある人を羨む資格はないわ。成功できない人間は成功者が積み上げた努力を想像できないから、成功しないのよ」

 

「で、てもさ。こういうの最近みんなやんないって言うし。・・・やっぱりこういうの合ってないんだよ、きっと」

 

「その周囲に合わせようとするの、やめてくれるかしら?ひどく不愉快だわ。自分の不器用さ、無様さ、愚かしさの遠因を他人に求めるなんて恥ずかしくないの?」

 

 

目前で繰返されるあの時の会話。それを聞いているうちに、やっぱり俺は戻ってきたんだと、再認識させられる。

 

だとしたら、俺には結衣にしてやらなければならないことがあるだろう。

 

これまで静観を決め込んでいた俺は、決意を胸に口を開いた。

 

 

「由比ヶ浜、ちょっといいか。まあなんだ、雪ノ下の言葉は少々キツかったと思うが、正論だ。お前はもう少し、自分がやりたいこと思ったことについて、自信を持って主張をした方がいい」

 

「ヒッキー?」

 

「クラスに友人もいない俺が言っても説得力に欠くかもしれんが、お前に対する周りの人間の評価は、お前が思っている以上に高いだろう。少しくらいワガママを言ったところで、嫌われることは無いから安心しろ」

 

「比企谷君、あなた・・・・」

 

俺がペラペラと自分の考えを述べだしたことに、驚きの表情を見せる雪乃。

 

悪かったな、雪乃。

別に俺は猫をかぶっていたわけじゃない。今まで、ちょっとセンチな気分に当てられていただけだ。少しは成長した俺の姿を見てくれると、うれしい。

 

 

俺は黒焦げになったクッキーを拾い上げて、口に頬張り、飲み込んだ。

 

「「えっ!?」」

 

「由比ヶ浜が頑張って作っているところを間近で見ていたせいか、思った程悪くない。・・・雪ノ下はさっき、「努力」という言葉を使ったが、こいつを作っている最中、お前は楽しかっただろう?」

 

「あ・・・うん」

 

「これもボッチの俺が言うことじゃないかもしれんが、誰かと一緒に料理をするというのは、本来楽しいことなんだ。努力が必要だなんて肩肘を張らずに、楽しんで練習すればいい。お前の友人が料理をしないってんなら、俺たちがいつでも一緒にやってやるよ」

 

「・・・ヒッキー」

 

「もう一回、作ってみないか?今度は俺も一緒にやらせてくれ」

 

「うん!」

 

 

俺は、結衣の隣に立ってクッキー作りを開始した。

雪乃が指示を出し、俺がボールを抑え、結衣が生地をこねる。

広く伸ばした生地を3人で、形を使って切り出していく。

 

途中、雪乃が俺の顔に粉が付いていることを指摘し、結衣が楽しそうに笑った。

 

焼きあがったクッキーの見栄えは、雪乃が切り出した綺麗なものと、俺と結衣が形造った歪なものが入り混じっていたが、味はどれも上出来といえるものだった。

 

「ヒッキー!ユキのん!ありがとう!あたし、家でも練習してくるから!」

 

結衣はうれしそうに家庭科室を後にした。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「・・・おつかれさん」

 

二人残された家庭科室。結衣の依頼解決の立役者である雪乃にねぎらいの言葉をかけた。

 

「・・・あなたは私のことが好きなものだとばかり思っていたけど、そうではないようね?」

 

「へっ!?」

 

雪乃の唐突な言葉に度肝を抜かれる。

 

―――いや好きだ。むしろ好きすぎて辛い。

そんな本音を隠しながら雪乃に切り返す。

 

「俺がお前のことを好きって、何でそう思った?」

 

「だって私、可愛いもの」

 

「俺は見た目だけで人を好きになったりしない」

 

「すべての人が、あなたのようなら、私も苦労せずに済んだのでしょうね」

 

―――ああ、そうか。

 

帰国子女で頭脳明晰、容姿端麗。周りからねたまれ、爪弾き者にされた過去がある。

雪乃は出会ったばかりの頃、そんな話をしていたような気がする。

 

 

さっきまで、結衣の問題を解決することしか考えていなかったが、雪乃も心に闇を抱える人間なのだ。出来ることなら、彼女のことも俺が何とかしてやりたい。

 

彼女のために俺に出来ることは何だ?

俺は再び考えながら質問する。

 

 

「・・・雪ノ下は奉仕部で何がしたいんだ?」

 

「・・・私は変えたいの。この世界を、人ごと」

 

「なら、俺が全力でお前を支えるよ」

 

 

―――自分が変われば世界も変わる。それに気付けば雪乃の願いは叶うだろう。

だが、それには最後まで無条件で雪乃の味方をしてくれる人間と、雪乃の傍に立って彼女を導けるような存在の、両方が必要だ。

そのどちらかが欠落しても雪乃の本質は変わらない。根拠はないが、そう思える。

 

俺がそのどちらか、または両者になれる器かどうかは分からない。

だが、人生経験を重ねた者として、そういう人間でありたいと強く思う。

 

 

雪乃は俺の言葉に対し困惑の表情を浮かべていたが、しばらくすると落ち着きを取り戻して口を開いた。

 

「あなたが誰に対してもそういうことを言う軽薄な人間だというのは分かったわ・・・正直、幻滅ね」

 

 

―――何故そうなる!?

 

 

 

 

硬直する俺を一瞥し、雪乃は家庭科室を後にした。

 

 

 

だが、その口元にはうっすらと優しい笑みが見えた。

 

 



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9. 比企谷八幡は携帯番号を交換する

 

俺が高校生活の再スタートを切ってから数週間が経った。

 

あのクッキーの一件以来、結衣が奉仕部に頻繁に顔を出すようになり、雪乃と俺だけの静かすぎて若干気まずい空間が、少しばかり賑やかになった。

 

しかしクラスでは、やはり俺は誰にも話しかけることなく、引き続き孤独な時間を過ごしていた。

二日目以降、俺は相変わらず、結衣と沙希の二人を離れた席から眺めていたが、その際、やけに結衣と目が合う頻度が多くなった。

 

結衣が俺の視線に気づいて警戒している可能性がある。沙希もそのうちそうなるだろう。

そう考えた俺は、彼女達を凝視するようなマネは極力控えるように心掛けた。

 

そうなると、俺は更に暇を持て余した。3日目にして早くも学校生活にうんざりした俺は、資格試験の参考書を読むようになっていた。

簿記、証券アナリスト、ファイナンシャルプランナー、TOEIC、中国語検定等々。俺は一先ず昔取得した資格を取り直そうと考え、手当たり次第に試験を申し込んだ。

 

殆どは今更勉強し直さなくても余裕で受かる、または高得点が狙える簡単なものだが、万が一不合格となれば、俺の金融マンとしてのなけなしのプライドが崩壊する可能性がある。

雪乃を支える等と啖呵を切った手前、少しでも自分に箔をつけておきたいという、ちょっとした自己顕示欲もあった。

 

 

それから、新しい動きと言えばもう一つ。

俺は自室の机の引き出しに入っていたお年玉と、ゲームや小説の類を売り払って得た数万円の資金を元手に、資産運用を開始した。

別に欲しいものがあるわけではなかったが、先立つものは沢山あるに越したことは無い。

5年間投資銀行でトレーディングを行ってきた俺の頭には、主要株式指数の動きがほぼ完全にインプットされた。

 

――何このチート?高校生にして第二のウォーレンバフェット(※)になっちゃうよ、俺?

(※米国の著名投資家)

 

 

資産運用を思いついた時、俺は久々に浮き足立った。だが、現実はそんなに甘くなかった。

 

第一に、未成年による口座開設には親の同意が必要であり、これを取り付けるのに非常に苦労した。

仕事帰りで疲れ切った親父に話しかけても、「ふざけたこと言ってないで勉強しろ」の一点張りだった。

これを説得するため、俺は小町を抱き込んだ。「儲かったら好きなもの買ってやる」そんな一言で小町はいとも簡単に俺の味方となり、小町が口添えした結果、親父は契約書類の内容に目も通さずに印鑑を押した。

 

しかし、その後すぐに第二の問題に直面した。

未成年口座では、信用取引も空売りも出来ないという痛恨の制限があった。

自分の元手はわずか数万円。借入でロット(金額)を拡大しないまま売買を繰り返しても、得られる儲けはたかが知れている。そして、空売りが出来ないということは、下げ相場のタイミングを知っていても、損失の回避が出来るだけで、全く儲けに繋がらないということを意味していた。

 

そうなると取引可能なのは、売買単位価格の小さい中小銘柄か、ミニ株と呼ばれる制限付きの商品だけだ。

TOPIXや日経平均、S&P500のような主要インデックスならともかく、流石に中小銘柄の株価の動きまで記憶できるほど俺の頭は上等ではない。

ミニ株は日中の値動きに合わせた売買が出来ないため、取引時間中に株価を動かすようなニュースが出た場合、大きな損失を負うリスクがあった。

 

 

 

――しばらくは小遣い稼ぎ程度か。何がバフェットだよ、恥ずかしい。

 

これならバンカーではなく、競馬オタクにでもなっていた方が、よほどマシだっただろう。

 

古き名作映画、Back to the Futureの悪役は、未来からやってきた自分からスポーツ年鑑を手渡たされ、スポーツ賭博で大金持ちとなった。

 

20歳くらいの俺が、この先何年分かの四季報を持ってこの時代に来てくれないだろうか。

一瞬、そんな期待を抱くが、そのシチュエーションを想像してゲンナリする。

 

33歳の精神が乗り移った17歳の俺に、20歳の俺が会いに来る。どんなカオスだ。

 

 

かくして、投資銀行職員改め、高校生トレーダー比企谷八幡の資産運用が始まったのだった。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

昼休み。

俺は再び暇を持て余していた。ここ2日程続けていた中国語検定の問題集を、ちょうど先の授業時間中に全て解き終わってしまったのだ。生憎今日は他の参考書は持ってきていない。

 

――午後の授業が思いやられるな。

 

俺は深いため息をつきながら、鞄から新聞を取り出した。国内最大手の経済新聞と、FT、WSJと略称される外国の経済紙だ。最近、毎朝コンビニでこの3誌を購入してから登校することが俺の日課となっている。

 

早朝や昼休みの教室で、パンをかじりながら一人で新聞を読んでいる高校生がいれば、そいつは相当人目を引くだろう。

だが、幸いなのか、悲しむべきことか、俺の行動を不思議がったりする人間はクラスには一人もいなかった。どうやら俺は、よほど皆から関心を持たれていないらしい。

 

 

 

朝読み切れなかった三面以降の記事に目を通していく。

ふと、俺の目に留まる特集記事。とあるゲーム会社のシリーズ最新作の開発状況と、それに対する期待による当社の株価高騰の話だった。

 

 

――こいつぁ、あの時のゲーム会社じゃねぇか。

 

俺が宮田さんの下でトレーダーをやっていた時に投資したことのある企業だった。

当時、この銘柄は株価が何年も低迷しており、相当に割安と踏んで投資を実行した。

投資をするに当たり、俺は当社の過去の業績、株価推移、ニュースに関する報告書をまとめ、適正株価の算出を行った。

その記憶が蘇る。

 

 

結論を言うと、今開発されているこのシリーズ次回作とやらは、とんでもない糞ゲーだった。

総資産500億円程度の中堅企業が、社運をかけて100億円近くの開発費を投入し、世に送り出したゲームは、瞬く間に世間からの非難を浴びた。

そして、何としてでも過去シリーズからのユーザーを繋ぎ留めようとした当社は、このゲームの修正・拡張パッチを開発するために、更に資金を投入し続ける。

 

これが、長期に渡る株価低迷の要因となったのだ。

 

 

新聞を下ろすと、目の前でゲームに興じるクラスメートが二名。

目を細めて画面を覗き込むと、正に、新聞で特集されていた人気タイトルだった。

 

「なぁ、それ、面白いのか?」

 

「「え・・・?」」

 

んだよ、俺が話しかけるのがそんなにおかしいのか?

すこしイラッとするが、俺もいい歳の人間だ。ここは大人の対応を心がけよう。

 

「あ、いやすまん。構わず続けてくれ。この新聞で特集されてたから、ちょっと気になって聞いてみただけだ」

 

「あ、ごめん。普段話さないから、ちょっとびっくりしただけで・・・・このゲーム、今超人気なんだけど知らない?俺達、ここのところコイツのせいで寝不足気味で・・・」

メガネをかけていた方がそう答えた。

 

「そうそう、来月シリーズの新作が出るんだけど、その時はもっとヤバいかもな。もう待ちきれないっていうかさ!」

もう一人が期待に満ちた目でそう答えた。

 

ほう、新作の販売は来月か。悪いが、その希望は粉々に打ち砕かれることになる。

 

 

「おい、この敵ヤバいって。早く魔法浴びせないと!」

「いや、今このキャラは物理攻撃中心で育ててるから。ここは切り浴びせ一択だ」

 

二人が再びゲームに画面を戻して騒ぎ出した。

 

 

――いや、浴びせるなら「売り」の一択だろ。

 

売り浴びせ。未成年口座で空売りが出来れば、俺はいくら稼ぐことが出来ただろうか。

 

別に金がそこまで欲しいかと聞かれれば、決してそういう訳ではない。だが、絶好の収益機会をみすみす見過ごすことは、金融マンとして、株主に対する背信行為だ。

いや、今は別に雇われていないから、全く関係ないんだけどね。

専業主夫希望とか言ってたけど、10年で俺も社畜根性が骨の髄まで染みついちまった。

 

 

 

「結衣さー。なんか最近、付き合い悪くない?」

 

俺の思考は突然の声に強制中断された。

いささか高圧的な声の主にクラス中の視線が集まる。

 

――あぁ、三浦か。

 

放課後、奉仕部へ顔を出すようになった由比ヶ浜は、クラスのグループの誘いを断るようになっていた。

それに対し、苛立ち交じりの声で事情を聴きだそうとする、グループのリーダ格女子である三浦。

三浦の高圧的な態度に対し、ハッキリと事情を説明することに尻込みする結衣。

そんな結衣の態度が更に三浦を刺激する。

 

 

結衣は雪乃と飯を食う約束でもしていたのだろう。

確かこの後、部室で待つことに教室に痺れを切らせた雪乃が教室にやってきて、三浦をやり込めてしまうはずだ。

 

 

 

――結衣の奴・・・やっぱりまだ無理か。

 

一度言い聞かせたくらいで性格が変われば、本人も苦労はしないだろう。

それに、雪乃が三浦をやり込めてしまうのはあまりよろしくない。

 

雪乃が彼女の論理を以て他人をこき下ろす時、その内容は往々にして正しいのだが、彼女にも未熟さゆえに間違いを犯すことがある。

雪乃には同年代で彼女に並び立つような友人やライバルがいない。だから、そんな自身の未熟さを指摘してもらう機会がない。これは彼女の成長機会を奪うことに繋がっている。

 

雪乃の嫌われ役は、今後俺が買って出れば問題ないだろう。だが、友達は自分で作るしかない。

何でもかんでも持論で相手をやり込めてしまっていては、周囲から、付き合いにくい人間としかみなされなくなる。

そういうトラブルの芽は、俺が先回りして摘んでおいた方がいいだろう。

 

 

 

――ならここは、オッサンの出番ってことか

 

そう思って俺は立ち上がった。

 

「なぁ、三浦・・・」

 

「うっさい!」

 

ピキ!!っと自分の額の血管が音を立てて盛り上がった。

こんのアマ、ブッ殺・・・だめだ、押さえろ。落ち着け。

 

 

 

「あんまピリピリすんなって。他のクラスメートが怯えてんぞ」

 

「ヒキオの分際でエラそうに何?あーし、別にあんたなんかに用はないんだけど」

 

「由比ヶ浜は最近部活に入ったんだ。俺と国際教養科の雪ノ下ってやつもその部員だ。付き合いが悪くなった、ってのはたぶんそのせいだろう。お前も由比ヶ浜の友人ならコイツの性格は良く知ってるはずだ。由比ヶ浜がお前に遠慮してるのが、分からんわけじゃないだろ?」

 

 

ちっ、と舌打ちしながら三浦は俺から視線を逸らす。

 

 

「概ね、部活を始めたことを伝えて、お前たちに誘ってもらえなくなったらどうしようとか、悩んでたんじゃないのか?だから、なかなか切り出せなかったんだろう。ならお前は、今後どう由比ヶ浜に接してやったらいいか、少しくらい考えてくれるよな?」

 

 

「「「「・・・・」」」」

 

 

教室中が静まり返る。バツが悪そうな顔をする三浦。

葉山グループの面々は驚愕した表情で俺を見ていた。

 

結衣は泣きそうな顔で俺を見つめている。

 

結衣、俺は何時でもお前の味方だ。だが、お前にも成長はしてもらいたい。

 

「・・・由比ヶ浜、お前もお前だ。対等な友人だと思っていた相手が、自分の顔色を窺うような態度ばかり取ってきたら、お前はどう感じる?信頼されていないのか、嫌われているのか、不安にならないか?」

 

「・・・ヒッキー」

結衣はうなずいた。

 

「三浦の言っていること、俺は正しいと思うぞ。友達なら堂々と説明してやれよ」

 

「うん」

 

結衣の声には若干の元気が戻っていた。

批判されても素直にそれを受け入れるあたり、結衣は本当に性格がいい。

頭を撫でてやりたくなるが、それはぐっとこらえる。

 

三浦は引き続き、居心地の悪そうな顔で、携帯を弄っている。

だが、結衣への苦言は一応三浦に対するフォローにもなったようで、俺に対する敵意は消え失せた様子だった。

 

 

――ケツもちは頼んだぜ、弁護士先生

 

俺は三浦の傍に立っていた葉山に目をやると、無言のまま顎で三浦を差した。

葉山は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、俺の言いたいことを直ぐに理解し、うなずいた。

結衣と三浦の間に生じた小さな亀裂も、こいつがキッチリ修復してくれるだろう。

 

 

そんな安心感を覚えてから、俺は教室を後にした。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「雪ノ下、来てたのか」

 

俺は廊下で立っていた雪乃に出くわした。どうやら一連のやり取りを外から聞いていたようだ。

 

「あなた・・・本当にあの比企谷君なの?」

 

「え!?」

 

雪乃の言葉に対する驚きで、心臓が止まりそうになる。

 

「あなたが初めて奉仕部に来た時のオドオドした姿を思い出すと、さっきのようなやり取りが出来る人間だとは到底想像もつかないのだけれど」

 

「・・・男子三日会わざれば、っていうだろ。お前に会って俺は変わったんだ。世界を変えるパートナーは頼もしい方がいいんじゃないか?」

 

「それは口説いているのかしら。申し訳ないのだけれど、私はあなたに助けてもらおうなんて考えていないわ。それに、その話は恥ずかしいから、あまり口外しないでもらえるとうれしいのだけれど」

 

「どう受け取ってもらっても構わん。俺にとってお前や由比ヶ浜が大事な人間であることは変わらないからな」

 

「よくもそんなことを恥ずかしげもなく言えるわね」

 

顔を赤くして俯く雪乃。雪乃は回りの人間から、ストレートに好意を示されることにあまり慣れていないのだろう。

無論、こいつの見た目だけを見て告白をするような人間は腐るほどいるのだろうが、そういう人間の発する言葉には重みがない。

俺が言っているのは、本当の意味での好意を向けられる経験、という意味だ。

 

 

――雪乃よ。今日はドキドキしないで言ってやったぞ。オッサンの勝利だ。

 

よく分からない優越感に浸っていると、結衣が教室から出てきた。

 

 

「あ、ヒッキー、さっきはありがとう!ちゃんと優美子に伝えたよ。これからも友達だって言ってくれた。本当にヒッキーのおかげだよ」

 

「いや、ちゃんと勇気を出して仕切り直したのはお前だ。よく頑張ったな」

 

「えへへ」

 

少し赤くなって嬉しそうに笑う結衣。可愛らしくてつい見惚れてしまった。

 

 

「何鼻の下を伸ばしているのかしら、比企谷君。みっともないわよ」

 

「ぐっ・・・」

 

雪乃の言葉を受けて、自分の情けない姿を認識する。

 

「あ、ゆきのん、遅くなってごめんね」

 

「さっきのやり取りは聞いていたわ。本来なら連絡くらいして欲しいと思ったのだけれど、私たち、まだ番号も交換していなかったのだから仕方ないわね」

 

「そっか!じゃあ3人で交換しよ!奉仕部でグループチャットも開いてさ!」

 

 

嬉しそうな結衣の声に、俺と雪乃は目を合わせ、やれやれ、といった笑みを浮かべて、携帯電話の番号を交換した。

 

 

 

 

 

 

 

 



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10. 比企谷八幡は恩人の妹と出会う

 

 

とある放課後、俺は平塚先生からの呼び出しを食らい、職員室へと向かった。

 

 

平塚先生は、最近の俺達の活動状況を気にしているらしい。

結衣のクッキー作り以降、奉仕部へ持ち込まれた依頼はなく、俺達は各々がバラバラに時間を潰しながら過ごしていた。雪乃は本を読み、結衣は携帯を弄るか、それに飽きると雪乃の読書の邪魔をするといった具合だ。俺はというと、新聞を読むか携帯で株の売買注文をひたすら繰り返している。

俺達3人の関係に特段問題が発生しているワケでもないため、雪乃は平塚先生にも活動報告を上げていなかった。それが却って平塚先生の心配を煽ったようだった。

俺は、自分が株の売買をしていることは伏せ、平塚先生に近況を説明した。

 

「そうか。まぁ問題がないのは良いことだろう。ところで比企谷、君の進路希望調査の取得資格欄を見たが、何かと頑張っているようじゃないか。どういう風の吹き回しだ?」

 

「風の吹き回しって・・・素直に褒めてくれても良いんじゃないですか?まぁ奉仕部に入って、雪ノ下から色々と刺激を受けたんですよ」

 

「ほう、それは良い知らせだな。一つ尋ねるが、君にとって雪ノ下雪乃という生徒はどんな人間に見える?」

平塚先生が目を鋭く細めて聞いてきた。

 

「彼女のことは人として尊敬してます。自分を高めるための努力を厭わないところとか、何事にも全力で取り組もうとする姿勢には好感が持てますね。だが、彼女にも未熟で脆い部分がある、そんな気がします。俺は、何かの弾みで彼女の心が折れてしまわないように、支えてやりたい」

 

平塚先生は、へぇ、と感心したような声を出しながら、タバコを取り出し火をつけた。

広がる煙の臭いが鼻をくすぐる。俺はこの時代に戻ってきてから、ずっと禁煙を強いられていた。

コンビニでは販売を断られ、自販機では年齢認証カードを求められて、どこに行ってもタバコを買うことができなかったせいだ。一度タバコを吸いたいと思うと、そわそわして落ち着かなくなる。目の前でプカプカ煙をふかされるこの状況は、正直拷問に近い。

 

「ちなみに、君が思う雪ノ下の未熟で脆い部分というのを教えて貰えるかな?」

 

「そうですね。例えば、彼女は何事に対しても努力を厭わない。その一方で、彼女が必死に努力するのは何のためなのか、それが不透明だ。そこに彼女なりの意思や自分で定めた目標が有れば、言うことは無いんすけどね。だが、彼女にはそういったものがか欠けているような気がします」

 

平塚先生はその小さな口から紫煙を細く吹き出しながら目を細める。

俺は自分の中の雪乃の人物像を続けて説明した。

 

「少々大げさな表現ですが、彼女は与えられた課題をこなすことについては誰よりも秀でている。だが自分で目標設定を行い、その達成のために必要なものとそうでないものを自分の意思で取捨選択して、自分なりの道を模索していく・・・といった行動を取る力はまだ備わっていない」

 

「国語以外の成績がぱっとしない君の言葉だ。雪ノ下の立場に立てば理不尽な程に上から目線な物言いではあるが、君が言わんとすることは何となく解る気がするな」

 

平塚先生は俺の意見に同意しながら、難しい顔をして何かを考え込んでいる。

俺は構わず持論の展開を続けた。

 

「俺の成績のことには触れないでください。まぁ、普通の高校生でそんなことが出来る奴のほうが珍しいんでしょうけどね。雪ノ下はなまじ優秀なだけに、周囲からの期待だけじゃなく自己効力感(self efficacy)も高い人間だ。だが、世の中上には上がいるって言いますけど、もし仮に何かの分野で雪ノ下よりも秀でた人間が出てきたら、彼女は自分の存在意義を見失いかねない」

 

「・・・何故なら彼女には、自分の意志で定めた目標がないから、か」

 

「そうです。自分で定めた明確な目標がある人間にとっては、その達成に不要な分野で人に勝とうが負けようが全く関係のない話です。では自分というものがない雪ノ下はどうしてきたか?簡単ですよね。とにかく全てにおいて他者より秀でていればいい」

 

「だが、それにはいつか限界が来る、そういうことか」

平塚先生は俺の発言に対して、言葉を補いながら、俺の考えを探っていく。

コミュニケーションを苦手とする俺は、いつも言葉足らずになりがちだが、このようにある程度俺の考えを先回りしてくれる人間と話すのは、なかなか心地良い。

 

「そういうことです」

 

「・・・取得した資格から察するに、君にはある程度将来の目標と言うものがあるんだろう。だから、君は君自身の取捨選択に基づいた行動が出来ている。まぁ、だからといって理系科目を完全に放棄して良いとは、私の立場上は言えない訳ではあるが。・・・とにかく比企谷、君の観察力は大したものだ」

 

「俺は、そんな立派な生徒じゃないですよ。結果(アウトプット)を努力(インプット)で割って求められる関数(Function)が効率だとすると、俺は昔からその効率を最大化することをとことん重視するタイプの人間です。だが、最後にホンモノの成功者になれる人間は、大抵、雪ノ下のようなインプット重視型の愚直な人間だと思います。だからこそ俺は彼女のことを高く評価しているんです」

 

「なるほど、良くわかったよ。私は君のことを見誤っていたようだ。捻くれた孤独体質などと思い込んでいたことは侘びよう。だが、君と会話を交わせば交わす程、なぜ君があんな酷い作文を書いたのか、益々解らなくなってくるな」

 

平塚先生は吸い終わったタバコを灰皿に押付け、微笑みながらそう言った。

そのいたずらっぽい笑顔にドキッとする。

今の俺から見ると、平塚先生は理想の女性のタイプに近い。美しい外見もさることながら、生徒を思いやる姿勢にも好感が持てる。本当に、何で恋人の一人も出来ないのか、不思議で仕方が無い。

 

「いや、あれは何というか・・・徹夜明けのテンションで書いてそのまま提出してしまった事故のようなものですから」

 

そんな言葉でごまかしながら、俺は俯いた。

タバコの臭いに紛れて流れてくる香水の香りに、またも恩師平塚静の「女」を感じとってしまった。

異性として意識すると先生の顔を直視できなくなってしまう。

 

――俺は発情期の犬かよ

そういやこの時代に戻ってきてからセックスなんてしてないし、自慰的な行為も殆どしてない。今は高校生の体だ。枯れかけたオッサンの習慣に従って日々を過ごしていても、溜まるものは溜まるのだ。

自分が何か間違いを犯す前に、これからはそういうシモの処理もきっちりしておいた方が良さそうだ。

 

微笑む恩師を前に、俺はとんでもない思考を廻らせていた。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

「あ~、なんて言ったら伝わるんだろう!平塚先生、ちょっと助けて貰えませんか?」

俺の思考は、突然平塚先生に話しかけてきた中年女教師によって遮られた。

その横には困った顔をした女子生徒が立っている。

 

「どうしたんですか?」

平塚先生が女教師に問いかけた。

 

「この子、私のクラスに転入してきた留学生なんですけどね。挨拶程度なら問題ないんですが、そうは言ってもまだ日本語が不自由で、進路希望調査の説明に困っていまして・・・」

 

その留学生は一見すると日本人とは区別がつかない。テンパっている女教師の話は要約するとこうだ。

本人は至って真面目で努力家。日本以外の留学経験は無いのに、英語にも不自由しない程、学業のレベルは高い。

将来有望な生徒のために、しっかりと進路の希望を聞き、力になってあげたい。だが、あいにく今日は英語の先生が捕まらない。

 

女教師は筆談でも良いから、通訳をして欲しいと平塚先生に迫っていた。

 

「ひ、筆談って中国からの留学生ですか?わ、私の担当は現国ですよ。そんな高度なやり取りはとても・・・」

 

――中国人留学生?

ふと、自分の中で何かが引っかかる。

 

「ア、アノ私、迷惑をカケテスミマセン。私、1年B組ノ劉海美(リュウハイメイ)トモウシマス」

 

 

――実は私には妹がいましてね。千葉の高校に2年通っていたので、私よりも日本語は上手なんですよ。名前は確か、总武(zong wu)高校だったかな

 

留学生の名前を聞いた瞬間、頭の中で響く恩人の声。

 

――マジかよ。この子、もしかして劉さんの妹・・・なのか。

件の留学生は、田舎っぽい野暮ったさが残っているものの、良く見ると目元がキリッとしており、兄に似た整った顔立ちをしていた。

 

『・・・你是不是中国人?』

君は中国人か?教師陣の会話を遮るように、恐る恐るそう尋ねてみた。

 

『天呢!你也是中国人吗!?』

そんな俺の言葉に、彼方も中国人なんですか!?と、嬉しそうな顔で切り返す留学生。この反応を見るだけで、今まで言葉もろくに通じない世界で苦労してきたことが窺われる。

 

『不是,我是千叶本地人。不过,我会中文・・・一点点 (ちがう、俺は筋金入りの千葉人だ。だが中国語は出来る・・・・少しな)』

 

 

「比企谷、君は・・・・確か中国語検定を取ったと書いてあったが、会話も出来るのか?」

平塚先生が会話に割り込んできた。

 

語学の資格を持っていて会話出来ないわけ無いだろ。

そう心の中で突っ込んだが、日本人はこと語学において、オーラルコミュニケーションを致命的な程苦手とする人種だ。平塚先生が驚くのも無理は無い。

 

『君は何処の出身?こっちに家族はいるの?』

とにかく情報が欲しい。この子は本当に劉さんの妹なのか。

平塚先生には構わずに会話を続ける。

 

『私は江蘇省の田舎出身です。こちらには大学の交換留学プログラムで一緒に来た兄と共に、親戚の家に世話になっています』

 

――こりゃ、ほぼ確定だな。

 

この子も中国で一人っ子政策が敷かれていた時代の生まれだ。実の兄妹がいるだけでも相当に珍しい。名前はハイメイと言ったが、おそらく漢字は海美。空に海とは、どこかゲームのキャラクターのような名付けセンスだ。

よりにもよって、自分の一つ下の学年にいたとは。改めて世界の狭さを実感する。

 

「比企谷、どんな会話をしているのかは分からんが、さっきから女子留学生を相手に楽しそうじゃないか」

再び平塚先生の介入を受けて会話が中断される。

 

「いや、別に楽しんでなんかないですよ」

心外だ、と言わんばかりの態度で俺は応戦した。

 

「ちょうど良い。君に通訳をお願いしよう。やってくれるな?」

平塚先生の言葉に合わせ、女教師も嬉しそうな顔で同乗した。

 

「・・・しょうがないですね」

 

こうして4者による進路希望調査会が開始された。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

俺は今、劉さんの妹、海美嬢を連れ、奉仕部へ向かって歩いている。

 

先の職員室の一件で色々なことが分かった。

一つ。海美は留学後に中国に戻り、兄が学籍を置く北京の大学への進学を希望していると言う点。その大学は日本人でも名前を聞くことがある中国の最高学府である。彼の国の大学入試制度は日本とは異なり、地元戸籍の学生が優遇される、ある種不公平なシステムとなっている。言い換えれば、地方出身者で難関大学に通うには、学業に相当に秀でていなければならない。

 

本国の高校生は皆、大学受験を目指して1年生の時から、朝7時から夜の10時まで学校で勉強に励むという。日本とは比較にならない競争社会の中で、社蓄も真っ青な生活を送っている。

この話を通訳したとき、平塚先生と海美の担任は軽く引いていた。

 

総武高校のカリキュラムは、そんな環境が当たり前と考えている海美にとって、不安になる程に緩い。緩いにも関わらず、日本語の壁のせいで、自分の試験の成績は芳しくない。そんな状況に海美は焦りを感じていた。

 

 

「比企谷、これは難しい問題だが、君と雪ノ下の力で、何とかこの子の面倒を見てやってくれないか?それに折角日本に留学に来たのだから、勉強以外にも日本の高校でしか出来ない体験もさせてあげたい。由比ヶ浜がいればその点も心強い。私も協力は惜しまない。中国の大学受験制度等は私が調べてみよう。本件、ひとまず奉仕部預かりということに出来ないだろうか?」

 

「平塚先生の頼みなら、俺に断る理由はないですね」

俺の恩人の妹の問題解決を願う、恩師の姿。

平塚先生は幾分遠慮がちだったが、俺は快諾してみせた。

 

 

 

 

『あの、すみません。私達は何処に向かってるんですか?』

不安気に俺に質問をする海美。

 

『奉仕部っていう部活の部室だ。俺はそこで、生徒の悩み相談のような活動をしている。お前の担任と平塚先生と相談した結果、お前の面倒もそこで見てやることになった』

 

『面倒を見るって、補習でもしてくれるんですか?』

 

『その内容は部長と相談して決める。悪いが、俺の成績は国語を除けば下から数えた方が早いレベルだ・・・英語は次の試験で順位が多少は上がるかもしれないが、理系全般、それに地歴のような暗記系科目はもはや点数が取れるかも怪しい。よって、お前に勉強を教えるのは難しい』

 

『・・・そんな』

 

『心配するな。うちには学年首席の部長もいる。それに平塚先生からは、勉強以外にも、お前が日本の学校生活に馴染めるように、サポートしてくれと頼まれている。俺はお前が日本語になれるまで通訳してやる』

 

『どうしてそこまでしてくれるんですか?どうして自分の勉強時間を削ってまで、見ず知らずの生徒のために奉仕活動なんてしてるんですか?』

 

『それは、なんでだろうな。まぁ、そういう世界もあるってことだ』

 

劉さんの言う「世界を変えたい」。日本に来てその思いが形作られたと言っていた。

この子にも、そういう体験をさせてやりたい。それが、少しでも劉さんへの恩返しになると良いのだが。

 

『そういえば、自己紹介がまだだったな。俺は比企谷、ここの2年生だ。宜しく』

 

『は、はい。宜しくお願いします』

 

海美とそんな会話を交わしながら廊下を歩いていると、突然携帯電話が震え出した。

メールの着信を受けたようだ。

 

【比企谷君、いったいどこで油を売っているのかしら?】

奉仕部のグループチャット。雪乃からだった。

 

【すまん。今部室に向かってる。お客さんを連れて行く】

即座に返信を打ち返す。

 

【お客さんって何?とにかく、ヒッキー早く来てよ!なんか部室に変な人がいる!】

今度は結衣からの着信。

一体何だってんだ。ひとまず、俺は部室への歩みを速めることにした。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

雪乃と結衣は奉仕部のドアから、怖がるように中を覗き込んでいた。

後ろから二人に声をかける。

 

「遅れてすまん。大丈夫か?」

背後から俺が話しかけると、雪乃と結衣は背中をビクッと震わせてこちらを振り向いた。

 

「ひ、比企谷君、驚かさないで。ようやく来たのね。その人が例のお客さん?」

 

「ああ、そうだ。平塚先生の依頼で奉仕部で面倒を見ることになった。ところで部室に変なヤツがいるって話だったが・・・」

 

「むぅ、ヒッキーが知らない女子を連れてきてる・・・って、そうなの!あれ見て!」

 

結衣は頬を膨らませたかと思うと、ドアの隙間から部室の中を指差した。

音を立てないように注意しながら教室を覗き込む。

中にいたのは良く見知った他のクラスの男子、材木座義輝だった。

 

「なんだ、材木座じゃないか」

 

「え?ヒッキーの知り合い?」

 

「まぁな。体育の時間に良くペアを組んでる」

 

材木座と再会したのは、俺が高校生活をリスターとして3日目の体育の時間のことだった。

 

---本当に懐かしい。

こいつに会ってまず浮かんだのは、そんな月並みな感想だった。

30を過ぎて、材木座がどんな大人になったのか、俺は知らない。流石に中二病を拗らせたままということは無いだろう。だが、あの時間軸の中で、こいつは作家になるという夢を叶えていたのだろうか。そんな疑問が湧いた。そしてはたと気付く。何年も連絡を取って来なかったくせに、今更そんなことを気にかけている自分の思考はひどく偽善的ではないか。俺は再び自己嫌悪に陥った。

 

だが、材木座はそんな俺に対し、さも当然のように声をかけてきてくれた。無論、材木座は当然俺が社会人として経験を積んで、ここに戻ってきたことは知らない。奴からすれば、体育の時間に俺に声をかけるのは、いつもと何も変わらない日常の必然なのだろう。だが、俺にはそれがとても嬉しかった。

 

 

俺は奉仕部のドアを勢い良く開けた。

 

「ハッハッハ!待ちわびたぞ、比企谷八幡!」

 

「相変わらず元気な奴だ。用があるならメールでも送ってくれば良いだろう」

 

「我は、平塚教諭に聞いてここに来たのだ。奉仕部とやらには我の願いを叶える義務があるらしいではないか!」

 

「んなドラゴンボールみたいな部活があるわけねぇだろ。俺達は悩みを持った生徒の問題解決のサポートをボランティアでやっているだけだ」

 

「幾百のときを超えてなお主従の関係にあるとは・・・これも八幡大菩薩の導きか・・・・この我、剣豪将軍、材木座義輝の願いを叶えて見せろ!八幡!」

 

「少しは人の話を聞け。見ろよ、お前のせいで海美が怯えてんぞ」

突然大声で騒ぎ出す材木座に恐れを抱いた海美は、俺の背中に隠れて様子を伺っていた。

 

「比企谷君、ちょっと・・・何なのあの剣豪将軍?って。 それにハイメイってこのお客さんのことかしら?」

 

 

俺は海美の件と、材木座の中二病について、雪乃と結衣にかいつまんで説明する。

結衣も雪乃も、材木座に対して殆ど興味を示すこと無く、この留学生を大いに歓迎しながら取り囲んだ。

特に結衣は興味津々と言った様子で、口早に色々な質問を投げかける。

だが、ネイティブの日本語のスピードに海美が着いていけるはずも無く、海美はただ困惑の表情を浮かべていた。

材木座は半ば無視に近い扱いを受けて、泣き出しそうな顔をしていた。

 

「まぁ、世の中ってのは常に女を中心に回っているもんだ。依頼の内容は後で俺が聞いてやるから、しばらく待ってろ」

小声で材木座に伝えると、俺は海美に向かって状況の説明を始めた。

 

『海美、悪かったな。今日はお前の他にも客がいたようだ。普段は依頼なんか滅多に無いんだが。・・・奉仕部のメンバーは俺と、ここにいる雪ノ下雪乃、由比ヶ浜結衣の3人だ。件の学年首席の部長がこの雪ノ下だ。皆歓迎すると言っている』

 

「・・・私ワ、1年の劉デス。ヨロシクオネガイシマス」

 

海美は俺の言葉に頷くと、慣れない日本語を繰り、恐る恐る挨拶の言葉を口にする。

だが、俺を除く3人の誰もが、その挨拶に反応することなく固まっていた。

結衣、雪乃、材木座の3人の視線は海美ではなく、俺に集まっている。

 

「は、八幡?変なものでも食ったのか?」

 

「え?ヒッキー、今の・・・英語?なんで?」

 

「英語ではないわ。おそらく中国語。・・・貴方、何故中国語ができるのかしら?」

 

――そりゃ普通は驚くよな。どうしよう、ちょっとめんどくせぇな。

 

「NHK中国語講座の先生が美人だったから、ちょっとした気まぐれで勉強してんだよ」

 

「何それ!ヒッキーキモイ!ってか、さっき劉さんのこと海美って、名前で呼んでたよね!?何で!?」

結衣が物凄い剣幕で詰め寄ってきた。歩幅を詰められた瞬間、結衣の髪からシャンプーの香りが漂ってきた。その距離感に少しだけ心臓が高鳴る。

 

「中国語を喋っただけでキモイとはあんまりだな。中国人に謝れ。それに、外国人なんだから下の名前で呼ぶのは当たり前だ」

俺は微妙に論点をすり替えながら、結衣に謝罪を促した。

ちなみに、海美を呼び捨てにするのは、劉さんと呼ぶと、どうしても兄の顔が思い浮かぶからだ。

別に必要以上に仲良くしたいとは考えているわけではない。

 

結衣は俺の説明を聞いても納得いかないといった表情を維持していた。雪乃は俺に対し、観察対象を注意深く見るような怪訝な目を向けていた。

 

 

『海美、黒板に名前を書いてやったらどうだ?漢字が分かった方が良いだろう』

結衣たちの視線を振り切るように、俺がごまかし半分でそう促すと、海美はチョークを手に取り、黒板に遠慮がちな小さな字で「劉海美」と書いた。

 

「へぇ、海がハイで、美がメイなんだ!なんか不思議!」

 

「上海の海もハイと読むでしょう。北京語ではそういう読み方をするのよ」

 

「北京語?中国語じゃなくて?」

 

「中国には様々な方言があるの。例えば、香港を含めた広東省では広東語が使われているわ。日本とスケールが違って、中国の方言は最早別言語と言っても過言ではないわ。だから中国には全国共通の普通話(プートンファー)と呼ばれる言葉が存在するの。そしてその普通話は北京の方言をベースに作られている。だから北京語とも言われるわ」

 

「出たな、ユキペデア。流石、良く知ってるな」

結衣と雪乃の会話を遮って、雪乃の博識ぶりを褒める。

 

「知識として知っていても、貴方のように中国語を話すことは出来ないわ。それに、その不愉快な渾名はやめてもらいたいのだけれど」

雪乃は、キッと鋭い目つきで俺を見返してきた。

褒めてるのに、ツレナイやつだ。

 

「じゃあさ、じゃあさ!私たちの名前は中国語で何て読むのかな!?」

結衣が海美にそう尋ねる。早口な質問に海美は戸惑っていたが、結衣はそれに気付くと、もう一度ゆっくりとした口調で聞きなおし、黒板に3人の名前を漢字で書き出した。

 

「由比ヶ浜サンノ“ヶ”ノ字ハ中国語ニアリマセン。雪ノ下サンノ“ノ”も無イノデ、ソレハ省キマス」

 

「うんうん!」

結衣が目をキラキラさせながら海美の言葉を待つ。その姿を見て、結衣は本当に良い子だと、改めて感じた。日本の学校生活に馴染めない海美に対し、早くも話題を振って自分達の輪に招くといった行為を、無意識かつ自然にやってのけた。これは俺にも雪乃にも出来ない芸当だ。

 

「由比浜・結衣ハ、ヨウビィバン・ジェイー、雪下・雪乃ハ、シュエシャー・シュエナイ、デス」

 

「よ、ようびー?難しいよ!」

 

「日本人の苗字は中国人と比べて長いからな。ファーストネームが分かれば十分だろう。結衣はジエイー、雪乃はシュエナイだ。覚えやすいだろう?」

頭を抱える結衣に対し、俺はそう応えた。

 

「うーん、じゃあヒッキーは?」

 

「俺の名前なんか、どうだっていいだろう」

 

「比企谷サンハ “ビィチィグゥ” デス」

話題を逸らそうとした俺の意図に反し、海美は嬉しそうな顔で俺の苗字を中国語読みした。

雪乃、結衣、材木座の三人はその瞬間目を丸くし、一呼吸置いて肩を震わせて笑い出した。

 

「おい、お前ら、何故笑う。失礼だろうが」

そう口にしつつも、こうなると思ったから俺は話題を逸らそうとしたのだ。

 

「ビチグソ八幡よ!我は!?我の名前は中国語で何ていうの!?」

 

「材木座、ぶっ殺すぞ。おれは何処のジョジョだ!」

 

「ク、クク・・・ビチグ・・・・」

 

「雪ノ下、それ女が口にしたら駄目な単語だから!」

イメージ崩壊に繋がりかねない言葉を口にしかけた雪乃を必死で止める。

雪乃の可愛らしい口から下品な単語が出るのは個人的に許せない。

 

「ぷ、ぷぷ・・・じゃあ、これからはヒッキーじゃなくて、ビッチーだね!」

 

「由比ヶ浜、お前が俺をビッチ呼ばわりすんな!」

かつての高校時代、俺はリア充の結衣をビッチキャラ扱いしていたことを思い出した。

長年の付き合いで、今では結衣が純情な女だというのは承知しているが、結衣の方からビッチ呼ばわりされるとは思っても見なかった。

 

 

全員でギャーギャー騒ぎながら海美を取り囲む。

始めは困った顔をしていた海美も、いつの間にか笑みを見せていた。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

さて、そろそろ二人の悩み相談を始めなければならない。

俺は先ほどとは言語を切り替えて海美に切り出した。

 

『Hey, Haimei. You speak English as well, don’t you? :海美、お前英語も喋るんだろう?』

 

『S, Sure.: は、はい』

 

『Cool... Look, today Zaimokuza is here to discuss with us about his problem. I wanna help him out. Don’t worry, Yukino is a native English speaker. You can consult with her in English :良し。いいか、今日は材木座が相談に来た。俺はこいつの相手をしてやるつもりだ。なに、心配するな。雪乃は英語のネイティブスピーカーだ。彼女が英語で相談に乗ってくれる』

 

『Understood. Yukino-san, Thank you so much for your kind support : 分かりました。雪乃さん、わざわざお時間を頂くこととなってすみません』

 

『…Well, no problem. : 仕方ないわね。』

 

「済まんな、雪ノ下。由比ヶ浜と二人で海美の件は少し頼む。俺は先に材木座の依頼を片付ける。男女で別れた方が何かとスムーズだろう」

 

俺の言葉に雪乃は疑惑の目を向けつつも無言で頷いた。

 

「っていうか、ヒッキーも海美ちゃんもゆきのんもすっご!私には何言ってるのか殆ど分からないけど、みんな何かカッコいいね!」

 

「確かに、彼が英語まで話すなんて、ますます怪しいわね。本当に帰国子女ではないのかしら」

 

俺は雪乃の疑惑の視線を避けるように、部屋の隅に積まれた机と椅子を持ち出して、材木座と向き合うように座った。

 

 

 

材木座の依頼内容は、自ら執筆した小説の原稿を読んで、感想を聞かせてくれというものだった。

そう、あの時雪乃からボロクソに酷評され、俺が何のパクリ?等と言ってとどめを刺したあの小説だ。

しかし、改めて見ると凄まじい量の文章だ。材木座がこれだけの量のストーリーを書上げたことに素直に感心する。やはりコイツの熱意はホンモノなのだろう。

 

 

――さて、どうしたもんかな。

ここから俺が何をしてやるのが、最も材木座のためになるのか。それを思考する。

 

「材木座、お前、いきなりこの量の文章を人に読めってのは少し無茶が過ぎるだろ。会社で上司にこんな分厚い資料をいきなり出したら、十中八九激怒されるぞ」

 

「しかし八幡よ。我は小説を書いているのだぞ。原稿の量が多いのは当然だろう」

 

「俺が言ってるのは原稿自体の分量の問題じゃねぇ。まずはお前がこの小説を書いた目的とか、基本的な背景・情報を共有しろってことだ。この作品がお前にとって、ものの試しで書いた練習作品なのか、何かの賞を狙って書いた本気の作品なのか、それが分かるだけでも評価の仕方が変わるからな」

 

「・・・・」

 

「そうだな。まずはレジュメを作ってもらおうか。俺は出版業界には詳しくないが、仮に自分が編集者だったら・・・そうだな、こんな感じでどうだ」

 

俺はコピー用紙に手書きで項目を書き込んでいく。

 

1.作品を書いた目的

2.作品の主要キャラクターとあらすじ(章毎)

3.作品の見所、作品を通じて読者に抱かせたい感想

4.作品を書くに当って、参考にした他の作品

5.参考作品の主要キャラクターとあらすじ

6.参考作品と本作品の類似点・違い (競合作品と比べたアピールポイントは何か)

 

「まぁ、このくらいの情報があれば、読んだ後に何かしら役に立つアドバイスが出来るだろう。お前も次からまた物を書く時は、書き出す前にこのくらいの指針をまとめておいた方が、筆が走りやすいんじゃないか」

 

「う、うおおおおおおおお!八幡!やはりお前は我の救世主だ!」

材木座が興奮の声を上げる。少し離れた席で早速参考書とノートを開いて勉強を開始していた雪乃たち3人がビクッとしながら俺達二人を見てきた。

 

「い、いきなりでかい声を出すな。俺も小説は丸で素人だ。俺のアドバイスが正しいなんて確証は無いんだぞ。それでも良いのか?」

 

「我はお前を信じる!ちょっとまってろ!今すぐこのレジュメを埋める」

そういって、材木座は鼻息を荒くしながら、ノートに文章を書き出し始めた。

 

材木座がレジュメを書いている間、特段することが無くなった俺は、原稿の束をパラパラとめくって中身に目を通し始めた。

 

そうだ。確か内容は異能バトル系のストーリー。読書の虫である雪乃をして「凄まじくつまらない」と言わしめた作品だ。俺も当時、読むのを苦痛に感じたことを思い出す。

 

あの時雪乃が指摘した通り、てにをはの基本的な使い方が出来ていないことや、無茶苦茶なルビの振り方は、作品を稚拙に見せている原因の一つだ。また、結衣が「難しい言葉をいっぱい知っている」と評した通り、材木座は身の丈に合わない難しい言葉をやたらと使いたがる傾向がある。少し文章を読んだだけでこういった駄目な特徴がやたらと目に付き、俺は顔を顰めた。

 

そして、更に今回こいつの小説を久々に読み返して気付いた点が一つ。俺が致命的と感じるのは、パラグラフ構成が全く出来ていない点だった。材木座の文章からは、「自分が頭の中に思い描いた世界を、文字を媒介にして、高い再現率で他者の頭の中で再構築させるには、どのような順序で話を展開すれば良いか」、といった配慮を行った形跡が一切見られない。あるのは、ただひたすら己のリビドーに従って書かれたであろう、延々と続く細かい情景描写だ。

 

これはあくまでもビジネス文章の話だが、読みやすい文章というものは、例外なく全体像や結論をある程度説明した上で、必要な範囲で細部の補強を図るという原則に従って書かれる。また、論旨を語ったり、ストーリーを展開する際は、特定人物・事物等の対象を中心に捉えて主述関係を明確に示し、時間軸等の特定のベクトルに従って話を進めることも重要である。

 

たしかに娯楽作品である小説では、そういった理解の容易さを犠牲にしてこそ可能な表現もあるだろう。だが、材木座の文章は、正直に言ってその許容範囲を超えるものだった。言ってみれば、読んでいて、コイツが読者に対して何を伝えたいのかを、わざわざ俺が自分の頭の中で整理する、という作業が必要なレベルだった。読解という作業は、ストーリーのダイナミズムを感じ取るという、小説においておそらく最も重要な楽しみを徐々に奪い去っていく。結果、読者は段々と読むのが苦痛になる。特に簡潔なビジネス文章に慣れ親しんだ今の俺は、材木座の依頼でなければ、こんなもの、読もうとすら思わないだろう。

 

「材木座、レジュメを書きながら聞け。ストーリー云々は抜きにして、お前の文章には改善すべきポイントが一つある」

 

「何!?我の文章力に問題があるというのか!?」

材木座は鉛筆を止めて俺を見た。その鼻息は荒い。

 

「小難しい語彙を並べること=高い文書力だと思うなよ。確かにこれだけ細い情景描写を書き込むお前の熱意は大したもんだ。だが、それだけが続く小説は読んでいて面白くない」

 

「ぐぬぬぬ・・・」

 

「必要なのは、まずストーリーの骨組みとなるプロットをキッチリと立てること。そして、そのプロットを描写するのに必要な場面分けをすること。場面毎に誰が何をしたかを明確に書き記すことだ。基本に忠実に、物語を相手に伝えるには、どういう順番で何を説明すれば良いのか考えろ」

 

「しかし、そんなオーソドックスな書き方ではストーリーに深みが・・・」

 

「お前の小説はある意味、情景ごとの表現の深さに拘りすぎてるせいで、読み手にストーリー展開が伝わらねぇんだよ。バトルものなのに躍動感とか疾走間が殆ど感じられないのはどうかと思うぞ」

俺の言った点さえ改善すれば、雪乃も結衣も、読んでいて苦痛とまでは感じないだろう。是非とも後ほど、Before&Afterを二人に読み比べさせたい。

 

ガラガラ・・・

 

そんなことを考えていると、突然部室の扉が音を立てて開かれた。思わず顔を上げてドアの方を見る。そこには廊下に出ようとしている雪乃の姿があった。彼女の肌は普段から透き通るような白い色をしているが、今は先ほどより血色が悪いのか、若干青みが差さったような不健康な顔をしている。

 

「おい、雪ノ下どうした?」

雪乃は俺の問いに反応することなく、フラフラと外に出て行った。

 

「ヒッキー大変だよ!ゆきのんが!」

変わりに応えたのは結衣だった。海美はきょとんとした顔で、雪乃の出て行ったドアを見つめている。

 

「落ち着け由比ヶ浜。何があった?」

 

「ゆきのん、最初に海美ちゃんの学力を測ろうって言って、数学の問題集を解かせたの。日本語の能力が影響しないように、計算問題だけをピックアップしたんだけど、始める時に自分も一緒にやって相対的に力を把握するとか言って・・・・」

 

そこまで聞いて心の中に浮かぶ嫌な予感。先ほどの平塚先生との会話を思い出す。

 

「それで、海美が雪ノ下よりも高いスコアを出しちまったってことか?」

 

「そうなんだけど、それだけじゃなくって・・・海美ちゃん、ゆきのんが半分も解き終らないうちに全問正解しちゃって・・・ゆきのんは、飲み物でも買ってくるって言ってたけど、かなりショック受けてるみたいだった」

 

――劉さん、あんたの妹はいったいどんな頭脳をしてんだよ。マジで末恐ろしいな。

 

曲がりなりにも雪乃はこの進学校における学年首席だ。加えて、海美は一学年下の生徒でまだ高校生になって日も浅い。雪乃が半分も解き終らないうちに海美が全問正解してしまうなんてこと、誰が予想できただろう。これが日本と中国の教育制度の違いによる学生の錬度の差だとしても、物事には限度というものがある。やはり単純に海美の能力が凄いのだろう。

 

「って、海美に感心してる場合じゃねぇな。待ってろ、由比ヶ浜。俺が雪ノ下と少し話してくる」

 

そういって、俺は雪乃を追いかけ、廊下に飛び出した。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

――飲み物を買ってくる。彼女のその言葉通り、雪乃は自販機コーナーの前にいた。

ただ、ドリンクを買っている様子はなく、立ち尽くしているといった方が正しい様子だった。

俺は走って雪乃を追いかけてきたせいで若干乱れた息を整えてから、雪乃に声をかけた。

 

「雪ノ下、大丈夫か?」

 

「何かしら?私のことを嘲笑いにでも来たの?」

雪乃は俺の声に一瞬肩をビクッとさせ、俺の方を振り向かず自嘲気味に応えた。

 

「んなワケないだろ・・・だが、まぁ、その、なんだ。すまん、正直何て声をかけるのが良いのかよくわからん」

明らかに落ち込んでいる少女に対し、かけるべき言葉が思い浮かばない。下手な慰めは返って彼女のプライドを傷つけるだろう。だが、俺は今彼女を叱咤激励したいとも思わない。かけるべき言葉が見つからず、歯痒さを感じた。

 

「別に私に気を使う必要はないわ。結局私が井の中の蛙だった、その事実が明らかになっただけなのだから」

 

「そう言うなよ。お前が蛙なら、俺たち2年生全員ミジンコ以下ってことになっちまう」

 

「そうかしら?少なくともあなたはそうではないでしょう?」

 

「何でだよ?俺はお前みたいに数学出来ないぞ」

 

「あなたは私に出来ないことができるじゃない。中国語とか」

 

「んなもん、人それぞれの得手不得手や趣味によるもんだろ。比べること自体が間違ってる。それにそういうことなら、俺や海美にはお前のように綺麗なネイティブ発音で英語を喋ることもできないだろ」

 

「それは劉さんやあなたが後天的に努力して英語を身につけた結果でしょう。私は帰国子女で、あなたたちのように努力して英語を会得したわけではないの」

 

焦点が定まらない浮ついた会話のキャッチボール。お互いに自己批判と相手のフォローを続ける。自己批判を相手に否定して貰うことで、安心したがるような、慰めあいの会話を展開したいわけでは決してない。だが、他に雪乃にかけるべき言葉が思い浮かばなかった俺には、この流れを中断することが出来なかった。俺は今の二人の会話に対して若干の気持ち悪さを覚えた。

 

「・・・ところで、あなたには聞きたいことがいくつもあるわ。どうして私が英語を喋れることを知っていたのかしら?それからあなたが中国語や英語が話せる理由をはっきりと説明して貰えるかしら。これまで黙っていたけど、あなた、普段は株の売買をしているようね。どう見ても普通の高校生には見えないのだけれど・・・」

さっきまでの会話に違和感を覚えたのは俺だけではなかったようだ。だが、雪乃が切り替えた話題は、俺に対して溜まりに溜まった疑念をぶつけるものだった。

 

「お前が帰国子女だって話は校内じゃわりと有名だ。確か小学校の途中までアメリカにいたんだろう?それだけの情報があれば雪ノ下雪乃は英語ネイティブだって、誰でも判断するだろう。それから、俺の語学については説明のしようがないな。資産運用の話もそうだが、将来必要だと思ったから、勉強したり実践したりしているだけだ」

 

「あくまでもシラを切るつもりね・・・とはいえ、これ以上言及しても仕方ないわね。あなた、将来は金融の仕事に就くつもりかしら?あなたのように物事を取捨選択する力があれば、私ももう少し楽に生きられるのかもしれないわね」

 

「・・・やっぱ凄ぇよ、お前は」

雪乃は聡明な人間だ。30代になった俺がようやく見抜いた雪乃の問題点。それを、雪乃は俺とのわずかな会話から導き出した。俺はそのことに驚愕を感じると共に、興奮と喜びを覚えた。

 

「私の何が凄いのかしら・・・」

 

「自分の抱えてる問題、認識したんだろ?そういうのは大人でもなかなかできねぇよ」

 

「やっぱり、あなたは同級生という感じがしないわ。おかしな話だけれど、あなたと話をしていると、私は無意識にあなたに頼ってしまいそうになる時があるの・・・改めて言葉にすると、これは極めて屈辱的な事態ね。遺憾だわ」

 

「俺に頼るのがそんなに屈辱かよ。俺はお前に頼って貰えると嬉しいぞ。雪ノ下に認めて貰えたんだなって思えるからな。・・・・これはお前の矜持から外れる考え方かもしれんが、所詮人間一人に出来ることなんてタカが知れてる。自分一人でどうにかならないことは、とっとと他者に投げちまうことも重要だ。なんとしても成し遂げたいと思う目標が絡んでいるなら尚更な」

 

「そんな考え方、私はしたこともなかったわ。何事も、努力して解決しなければ自分の為にならないでしょう?」

 

「その考えを否定する気はねぇよ。だからこそ俺はお前を尊敬・・・いや、正直好意を抱いてる。でもな、だからお前が今回みたいな、どうしようもない壁にぶつかって潰れちまう姿なんか見たくないわけだ」

 

「い、いきなり何を言い出すのかしら、この男は。こ、好意って・・・申し訳ないのだけれど、あなたの気持ちに応えることは・・・・」

 

赤くなった雪乃の反応を見て、自分がどさくさに紛れて告白まがいの発言をしてしまったことに気がつく。俺は今、自分の考えを本心から雪乃に語りかけた。そうしなければ雪乃の気持ちを動かすことが出来ないと思ったからだ。だから好きだという気持ちを尊敬という表現で濁すことをやめたのだ。

 

「安心してくれ。別に交際を申し込むつもりはねぇよ。俺はお前が嫌がるようなことは決してしない。・・・それに、そもそも俺にはそんな資格ないからな」

先ほどの自分の発言は否定しなかった。だが、結衣と沙希の顔が思い浮かび、最後は消え入りそうな声でそう呟いた。

 

「資格?」

 

「雪ノ下!・・・さっきの、“人に投げちまえ”ってのは、少々表現が悪かった」

資格がない、は余計な発言だった。これ以上、突っ込まれることを回避するため、俺は大きめの声で彼女の言葉を遮る。雪乃は今度は何?とでも言いたそうな目で俺を見つめている。

 

「今のお前はプレーヤーだ。会社で言うと平社員だ。年次の近い同僚と比べて極めて優秀だが、それでも一般職員だ。優秀な職員はいつか管理職、すなわちマネージャーに昇進する。プレーヤーとマネージャーの違いは解るか?」

 

「・・・私に、マネージャーとしての振る舞いを学べと、そう言いたいの?」

 

「そういうことだ。お前は今まで、与えられたタスクを自力でこなすことだけを考えてきた。これからは、自分で目標(ミッション)を設定して、それを個別のタスクに落とし込み、適切な人材に振り分けるというプロセスを学ぶんだ。プレーヤーとマネージャー、どちらがより大きな仕事ができるかは明白だろう」

 

「やっぱり高校生とは思えない例えだけれど、さっきよりも説得力があるわね・・・」

 

「マネージャーの仕事はそれだけじゃないぞ。自分のプランに沿う形で人に動いてもらうには、自分が普段他者に対してどう振舞い、どう周囲の人間に接っするべきかを考えなきゃならん。他者とのリレーション構築と、人をモチベート(動機付け)する能力も、マネージャーの重要な資質だ」

 

「・・・耳が痛いわね」

 

「・・・言ってみた俺自身も出来る気がしねぇがな」

 

俺も雪乃も、お互いにクラスでは友達がいないボッチ同士。基本的に、二人とも他者と関わりを持つことが苦手だ。そんな前提も忘れて、熱くマネージメント論を語ってしまったことが恥かしくなり、俺はそっぽを向いた。恐る恐る視線を戻すと、雪乃は上目遣いでこちらを見ている。

そんな自分達の様子がなんだか可笑しくなり、俺たちはクスクスと笑った。

 

――ありがとう、比企谷君

 

小さな声で雪乃がそう言ったのが聞こえた。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「遅くなってゴメンなさい」

 

奉仕部の部室に戻った雪乃はまずそう言って結衣と海美に謝罪した。

俺は全員に買ってきた飲み物を配りながら、その様子を黙って見つめる。

 

「先程、比企谷君と少し外で相談してきたの。・・・海美さん」

そういって海美を見る雪乃。結衣は心配そうに雪乃を見ていた。

 

――心配いらねぇよ、結衣。雪乃は俺が思ってた以上にしっかりした奴だ。

雪乃の目からは、先ほどは無かった強い意志が窺われた。

 

『ごめんなさい、まだ数学しか見ていないのだけれど、私の学力ではきっとあなたに教えられることは少ないわ』

 

『雪乃さん・・・』

 

『でも心配しないで。あなたの勉強をサポートする方法が無い訳ではないの』

 

『え?』

海美の反応を見た雪乃は俺へと視線を移し、優しく微笑んだ。俺もそれに頷いて返答する。

 

 

 

先程の一件。マネージメントの話をした後、俺と雪乃は知恵を出し合って海美の依頼にどう対応するか話し合った。業務を振り分けるという考え方は、雪乃にとってそれなりに価値のあるキーワードとなったようだ。雪乃は自分が面識のある教師に対し、それぞれの担当教科で、海美に対して補習を行うよう依頼するという案を思いついた。教員からの信頼の厚い雪乃からの依頼だ。雪乃や俺が、通訳として一緒に勉強会に参加すると言えば、無碍には扱われないだろう。平塚先生も協力は惜しまないと言っていた。きっと一緒に頭を下げるくらいのことはしてくれるはずだ。

 

俺はそのアイデアに乗っかると同時に、追加の提案を行った。それは海美の日本語学習だ。元々基礎学力の高い海美のボトルネックは授業で使われる言語の問題だった。これを解消してやれば、最初は通訳付きの勉強会が必要でも、そのうちに自立して学習を進めることが出来ることになる。俺は、海美の日本語学習の一環として、材木座を付き合わせることを思いついた。材木座は作家を目指すにあたって、簡潔な文章表現を習得する必要があると俺は考えた。毎日材木座に、学校生活における出来事をA4一枚分くらいの分量で分かり易くまとめさせ、その内容を海美が完全に理解するまで説明させる。海美の語彙力や表現力が向上する頃には、材木座も誰にでも読みやすい文章が書けるようになっているだろう。

 

 

 

「・・・というわけだ。材木座と海美の二人にはしばらく奉仕部に顔を出して貰うことになるが、大丈夫か?」

雪乃が海美に英語でプランを説明している間、俺は結衣と材木座に対し、事の顛末と今後の説明を行った。

 

「しかし八幡よ、我は小説を書きたいのであって、女子に日記を読ませるような真似は・・・」

材木座は困ったような顔をして俺の提案を受け入れることを渋る。

 

「材木座、よく考えろ。これはお前にとってチャンスだ。俺がお前に提供しようとしてるのは、文章の練習機会だけじゃない。お前、思春期以降で女子とまともに話をしたことはあるのか?」

 

「・・・ない」

 

「だろうな。これはビジネスマッチングだ。お前には海美の日本語学習を手伝って貰う。その代わり、お前は海美や由比ヶ浜、雪ノ下とコミュニケーションすることで、女性の考え方やものの感じ方を学ぶことが出来る。そうすれば小説の登場人物の行動や発言に少しはリアリティが増すだろ。特に海美は後輩でチャイナ娘だぞ。フィクションの人物でこれ以上キャラ立ちする設定もないだろ」

 

材木座は俺の話を聞くと、おお!っと納得したような顔で立ち上がった。その表情から、かなり興奮していることが窺われる。

 

「ハハハ、・・・二人ともちょっとキモイかも」

俺と材木座の会話を聞いていた結衣が乾いた笑いを浮かべた。

 

「でも、良かった。ゆきのんも、元気が戻ったみたいだし・・・やっぱりヒッキーはすごいね」

 

「んなことはねぇよ。由比ヶ浜。海美のついでだ。お前も勉強を見て貰ったらどうだ?」

 

「え!?私!?・・・いや~それはちょっと」

 

「そうね、私からもそれを提案するわ」

いつの間にか海美と話し終えた雪乃が話しに乗っかる。

 

「由比ヶ浜サン、一緒ニ頑張リマショ!」

海美も嬉しそうにそう言った。

 

「え~、そんなぁ!」

 

 

 

こうして俺達は、海美と材木座の依頼に関して、上手い具合に落とし所を見つけることに成功した。これから、奉仕部で定期的な勉強会が始まることとなる。

 

俺は、この場にいないもう一人の大切な女性の顔を思い浮かべた。沙希は学費を稼ぐために深夜のバイトをしていたはず。あの時は俺が塾のスカラーシップ制度を提案したことで何とか問題を解決した。海美のための勉強会、この取組みが上手く続けば、いずれ沙希に対して、もっと良い提案をしてやれるかもしれない。そんな考えが浮かぶと、心が軽やかになるのを感じた。

 

 

 



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11. 比企谷八幡は若者に翻弄される

 

放課後、俺はいつも通り奉仕部へと足を運んだ。

部室には定位置でいつも通り読書をする雪乃の姿があった。

 

互いに軽めの挨拶を済ませると、俺は雪乃の対面の指定席に座り、これまたいつも通りに畳まれた新聞を開く。同時に携帯端末で株の運用成績チェックを開始した。

 

暫くすると、雪乃は不意に立ち上がり、紅茶を淹れ始めた。

 

結衣はまだ来ていないようだが、今日は海美のための定例勉強会もない。

部室にはコポコポと注がれる湯の音が響き、少しの間を置いて紅茶の豊潤な香りが広がった。今日は、久々に落ち着いて放課後の時間を過ごせそうだ。

 

「比企谷君、よかったらどうぞ」

相変わらず画面から目を離さずに携帯をいじっていた俺の背後から、雪乃が声をかけてきた。わざわざ俺にも茶を淹れてくれたようだ。

 

「え?あ、悪い。サンキューな」

机に茶を置いた雪乃に少しだけ見惚れながら礼を述べる。

直ぐに席に戻るかと思った雪乃は、俺の斜め後ろの位置から動かなかった。

どうやら俺の携帯の画面を見て固まっているようだった。

 

「ごめんなさい。覗き見るつもりは全くなかったのだけれど・・・あなた、こんな大金どうしたの?」

画面には俺の運用口座の残高が表示されていた。金額はざっと70万円程度。

 

「雪ノ下建設のご令嬢にゃ、大した額じゃないだろ」

実際、30代になった俺の1ヶ月の給料にも満たない。

加えて、常に仕事で億単位の金を動かしていた俺にとってはハナクソのような金額だ。

雪乃に対しては少し意地悪な言い方になってしまったが、そんな潜在的な意識から、自然とそんなセリフがこぼれた。

 

「バカにしないで頂戴。こう見えても社会的な常識は持ち合わせているわ。高校生のお小遣いにしては明らかに異常な金額であることくらいわかるわ」

ムッとしながら雪乃はそう切り返した。

 

 

――高校生にしては異常

最近雪乃が何かにつけて俺にぶつける言葉だ。

 

彼女には俺の経歴を正直に伝えるべきではないか。

身近な人間が俺に疑いの目を向ければ向けるほど、そんな考えが浮かぶ。

 

俺は、少なくとも俺が特別な感情を抱いている三人の女性に対して、自分が未来から戻ってきたことを何時までも隠し通そうとは思っていない。

むしろ、いつか全てを説明した上で、自分も新しい道を模索すべきではないかと考えている。

雪乃が今の俺を異常と考えるのであれば、実は俺が33歳だという話も意外にすんなりと受け入れられるかもしれない。

 

だが、本当にそれでいいのか。

自分の過去を説明するということは、雪乃・結衣・沙希の三人に対して、自分が抱いてきた特別な感情を曝け出すことに他ならない。

 

得体のしれない男から突然、

 

「俺たちは昔付き合っていた」

「何年も忘れられない程好きだ」

「同じくらい大切な相手が他にも2人いる」

 

等と聞かされて、警戒心や猜疑心を抱かずにその言分を聞き入れる女性はまずいないだろう。

下手をすれば、今までに再構築してきた雪乃・結衣との関係の一切を失い、今後、沙希に近づく機会も永遠に失う可能性が有る。

 

嘘の上に成り立っている今の見せかけの関係に何の価値があるのか。

大切なものなど何も持っていなかった昔の俺なら、そう考えただろう。

だが今の俺には、彼女達との繋がりを自ら断つような真似はどうしても出来なかった。

結局は、3人にとっての「謎多きヒーロー」を目指すのが正解かもしれない。

毎回そんな結論に落ち着いている。

 

 

「・・・すまん。悪意があったわけじゃないんだ。確かに小遣いにしちゃ大金かもな。別に金に困ってるわけでもないんだ。正直、ゲームのスコアを競うような感覚で投資してる感じだな」

俺は適当な言葉でお茶を濁した。

 

「あなた、運用はいつから始めたの?」

雪乃は俺の暴言をさして気にする様子も見せずに、質問で言葉を返してくる。

 

「奉仕部に入った位の時期だな。まだ日は浅い」

 

「まだ始めて数ヶ月じゃない・・・下世話な質問だけれども、どの位の元手で始めたのかしら?」

 

――今日はずいぶん突っ込んだ質問をしてくるな

 

雪乃の視線を受けて一瞬肩に力が入るが、すぐにそれを緩めた。

自分の心境を考えれば、雪乃が俺に興味を示してくれている現状は俺にとって好都合だ。

 

「5万前後だ。自分の全財産を注込んだぞ」

俺は素直に本当のことを伝えた。

 

「大したものね。そんなに面白いのなら、私も始めてみようかしら」

 

「・・・やめとけ。儲かる儲からないは別として、凝り性のお前が始めたら投資のこと以外考えられなくなるぞ。奉仕部を株式投資部に改名するのはさすがにちょっとな・・・」

 

会社の部門みたいな名前になっちまうし。

 

「そうかしら。謎の多い誰かさんの思考を学ぶには調度良い機会かと思ったのだけれど・・・それなら、あなたに私のお金も一緒に運用してもらおうかしら。」

 

そう言った雪乃は、何か悪戯でも思いついた子供の様な笑みを浮かべていた。

 

「マジで言ってんの、それ?」

 

雪乃の意図が分からない。別に遊ぶ金が欲しいという訳でもないだろう。

ちょっとした冗談かと思っていると、雪乃は自分のカバンから財布を取り出し、現ナマを俺に差し出した。

 

「そうよ。このお金はあなたに預けるわ。これは奉仕部員として、私からあなたへの信頼の証」

 

――財布から簡単に万札を出す女子高生も、全然普通じゃねぇと思うんだがな

そう思いながら机に置かれた万札を眺める。

 

「・・・で、何か要求があるんだろ?」

 

俺は現金には手を触れずにそう聞き返えした。

 

「そうね。投資家に対する情報開示義務は果たしてもらうわ。定期的に売買のログと、運用残高を提出してもらえれば結構よ」

 

なるほど、要するに俺の投資行動を監視するための餌ということか。信頼の証とは正反対じゃねぇかよ。

ってか、お前は失言・暴言は吐いても虚言は言わないんじゃねぇのか。

ここまであからさまな嘘は虚言とは言わないってか。

 

しかし、どうするべきか。

 

別に俺は雪乃に自分の投資行動を知られることに対し、特段の抵抗は感じない。

むしろ共通の話題が増えるのであれば俺にとっても喜ばしいことだ。

なにより俺には、自分の手でファンドを立ち上げて運用するという、金融マンとしての一つの独立の形を手にする事に対する憧れのようなものがあった。

 

問題は、雪乃の提案が実は違法行為であるということだ。

本来、人の運用を受託することが出来るのは認可を持つ法人のみ。個人が家族や知人の運用を請け負うのは、金融商品取引法で禁止されている仮名・借名取引に当る。

これは名義貸しによるマネーロンダリングや脱税行為を防止するためのルールだが、流石の雪乃もこんなマニアックな金融法務の知識は持ち合わせていないのだろう。

 

 

「・・・まぁ人の金を運用するってのは確かに魅力的な案ではあるな。自己資金でやるのとは違う緊張感があるからな」

 

「あら、抵抗するかと思ったのに、意外な反応ね」

 

「葛藤ならあったぞ。一瞬だがな」

 

 

法律とは、自らと他者の権利を同時に守るために利用されるべきものだ。

雪乃からの受託はマネロンが目的ではないし、俺には納税の意思もある。

俺の行動は他者の利益を害するものではなく、表面上違法行為に見えても、立法目的に立ち返れば実はそうでないことが明確だ。

 

俺は頭の中で、車の通らない交差点の赤信号を渡るための(屁)理屈を、一瞬のうちに練り上げていた。

 

――高々数十万、数百万の個人の運用益が動いたところで、名義貸しの事実が発覚するはずがない。

 

――万一発覚したとしても、高校生なら「知らなかった」で十分許される。

 

――そもそも仮名・借名取引に刑事罰はない。

 

こんな悪魔の囁きは、俺にはこれっぽっちも聞こえていない。

これっぽっちもだ。

 

 

「俺の運用資金にプールして一緒に運用するからな。出資比率に応じて運用益を配当する。それでいいか?」

 

「それで構わないわ」

 

「・・・部員のよしみだ。元本保証はしてやんよ」

 

 

そう言って、俺は雪乃の金に手を付けた。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

「やっはろー!今日は依頼人を連れてきたよ!」

 

雪乃とのやり取りの後15分ほど経った後だろうか。部室のドアが勢いよく開かれると、いつもより若干テンションの高い結衣が入ってきた。

その結衣の後ろに、隠れるようにして立つ戸塚の姿があった。

 

「あ、比企谷君!あれ、どうしてここに?」

俺の姿を見て驚の声を上げる。

 

「戸塚・・・・俺はここの部員だ。なんか困ったことでもあったのか?」

 

質問を投げ返した俺に対し、先に口を開いたのは結衣だった。

 

「いや~ほら、あたしも奉仕部の一員じゃん?だからちょっと働こうと思ってさ。そしたら彩ちゃんがちょっと困ってる風だったから連れてきたの」

 

 

――ああ、テニスの特訓だったか。そんな依頼もあったな。

 

 

結衣のセリフから記憶を辿る。

雪乃に散々しごかれた挙句、三浦・葉山と何故かテニスで勝負するハメになったあの件だ。

 

思い返せば、俺の人生において、ことテニスに関してはろくな思い出がない。

 

社会人になった後も、会社のレクリエーションイベントとか言って、週末に槇村さんに連れ出されたことがあった。

恋人のいない宮田さんのために、槇村さんが女性社員を集めて週末テニスを企画したものに無理やり巻き込まれたのだ。

 

俺と宮田さんはテニスコートに着くなり各々壁打ちを始め、槇村さんに大いに呆れられた。ちなみに、この時から俺と宮田さんに対する不名誉あだ名集に、「ボッチ師弟コンビ」が加わったのだ。

 

ちなみに後日、このテニスイベントを上司命令の休日出勤扱いにして残業代申請をしたら、槇村さんに書類の束で頭を叩かれた。

 

 

 

「・・・ウチのテニス部って、すっごく弱いんだ。人数も少ないし、三年が引退したらもっと弱くなると思う。・・・僕が上手くなれば皆一緒に頑張ってくれるんじゃないかと思って」

 

思い出に耽っていると、戸塚が依頼内容を口にし始めた。

 

「要するに、あなたを鍛えればいいのね」

 

「どうやって鍛えるの?」

雪乃の言葉に質問を返す結衣。

雪乃のことだ、どうせ答えは決まっている。

 

「全員死ぬまで走らせてから、死ぬまで素振り、死ぬまで練習・・・かしら」

 

 

出たよ、雪乃式。

だがすまんな、戸塚。お前を助けてやりたくない訳じゃないが、俺は非効率なやり方が嫌いだ。

お前よりも下手くそな俺や結衣が練習に付き合っても、あまり意味がない。

 

「まぁ、ちょっと待て。」

皆の会話を遮る。自然と視線が自分に集まった。

 

「まず、戸塚。お前の目的をはっきりさせよう。お前は自分が上手くなりたいのか、部員のレベルの底上げを図りたいのか、どっちだ?」

 

「それは彼自身が言っていたじゃない。彼が上手くなれば皆が頑張ってくれるって」

戸塚が口を開く前に、雪乃が俺に意見した。

 

「・・・残念だが、戸塚が上手くなっても、テニス部のレベルが上がるとは限らんだろ。現に奉仕部を見てみろ。ここの部長はお前だが、その他部員はアホの由比ヶ浜と、ボッチの俺だけ。お前が活動を頑張っただけで、俺と由比ヶ浜のレベルが上がると思うか?」

 

「ちょっと、ヒッキー!アホってなんだし!」

 

「・・・その卑屈さは嫌味にしか聞こえないわ」

騒ぎながら俺を非難する結衣と、目を細めて俺を睨みつける雪乃。

 

「まぁ、上手い例えじゃなかったかもしれんがそういうことだ。戸塚の掲げた2つの目標は、片方が成功すればもう片方も自然に達成できるというものじゃない」

 

「・・・やっぱりそうなのかな」

戸塚が申し訳なさそうな上目使いでそう呟いた。その表情を見ると何故か罪悪感が込み上げてくる。

ってか、あんまこっち見んな。・・・惚れちまうだろ。

久しぶりに戸塚に対して抱いた邪念を振り払うように、俺は言葉を続ける。

 

「まぁ、戸塚が両方を目指すってんならそれはそれで結構なことだ。だが今の奉仕部は海美や材木座の依頼にもOn Goingで取組中だ。決して普段暇にしているわけじゃない。時間は有限だ。俺達がサポートする分野にプライオリティーを付けるべきだ」

 

俺が言い終えると、雪乃は苦々しそうな表情を浮かべつつも、一応納得した様子を見せていた。

結衣は相変わらず、突然アホ呼ばわりされたことに対し、憤慨しているようだ。

 

「・・・確かに比企谷君の言う通りかも。皆には、どうやったら部のレベルの底上げが図れるか、一緒に考えてもらえるかな?自分の練習は自分で何とかするから」

 

「あなたがそれでいいのなら、そうするわ」

 

こうして、雪乃が奉仕部部長として戸塚の依頼を正式に受諾した。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

その日、戸塚は一先ずテニス部の練習へと戻って行った。

戸塚がいなくなった部室で、俺達3人の対策会議が始まった。

 

「今のテニス部に足りないのは何かしら。二人の考えを聞かせてもらえると有難いのだけれど」

雪乃が会議を仕切りつつ、俺と結衣に質問を投げた。

 

「う~ん。彩ちゃんの話を聞く限り、やっぱりやる気とか練習量とかの問題かな?」

 

「・・・そうだな」

雪乃の質問に俺は全力で思考を巡らせる。

 

 

 

――いいか比企谷。プロジェクト投資のポイントは、「人を見ること」だ。

 

俺は槇村さんの下に引抜かれた初日の出来事を思い出していた。

 

「・・・人っすか?」

何言ってるんだ、槇村さんは?

ドラマじゃあるまいし、人間を見て投資判断をするなんて余りに非現実的だ。

社員が熱いハートを持ってるだけで金融機関が金を付けられるのなら、こんなに楽な仕事はないだろう。

 

「金融市場を相手にトレーディングをやっていたお前が第一に信じるのは、上場企業が開示する公開情報と、市場の価格・取引高といったデータだろう」

 

「・・・まぁそうですね」

 

「いいか。プロジェクトには取引市場も無ければ公開情報もない。お前が拠り所としてきたデータが殆どないんだ。じゃあ何を信じるかって話だ」

 

「それで、人ですか?」

 

「そうだ。プロジェクトを主導する人間・チームの、能力・熱意・経験・カリスマ、こういった定性情報を総合的に判断して、こいつはプロジェクトを完遂させられる人物だと自分が確信できるかどうかが全てだ。確かに収益予想とか経済環境とか、プロジェクト投資にも分析しなきゃならんデータは山のようにある。だが、こんな定量情報は最後には自分の投資判断を正当化するための理屈付けに過ぎなくなる」

 

「・・・イメージが涌かないっす」

 

「ま、案件をこなせばそのうちわかるようになるさ」

 

俺がこの時の槇村さんの言葉を真に理解したのは、中国のプロジェクトで劉さんに出会った時だった。

実際に投資実行には漕ぎ付けられなかったが、あのプロジェクトは劉さんがいたからこそ、ファンド化の話が持ち上がったものだった。

主導していたのが劉さんでなかったら、俺も自分の投資判断にあそこまでの自信は持てなかっただろう。

 

 

 

「・・・人・・・タレントか」

俺は劉さんの顔を思い浮かべながら無意識にそう呟いた。

 

「タレント?芸能人がどうして必要なの?」

俺の呟きに対し、結衣が反応した。

 

「そっちのタレントじゃない。人材って意味だ。テニス部にはリーダーとなる人材がいない」

 

部員をまとめ上げ、目標を共有させて、皆を練習に掻き立てるようなカリスマ性のある人物。

戸塚はそのお人好しな性格で人望は厚いだろう。だが、それがカリスマに繋がるかと言えば、微妙なところだ。

実力もあり、人を動かす力を備える人間、言ってみればサッカー部の葉山の様な存在がテニス部にはいないのだ。

 

「なるほど。確かに部を引っ張っていくような人間がいれば、部員も練習に前向きになるわ。でも、だからこそ戸塚君は自分がリーダーに相応しい人間になれるように強くなりたいと望んだのではなくて?」

 

「そうだよ!結局彩ちゃんの特訓に付き合う意外に方法はないじゃん」

 

「いや、酷な言い方だが戸塚の性格じゃ、そういう役割は無理だ。あいつは中間管理職の鏡みたいな優しい性格だからな。恐らくあいつが一番力を発揮できるのは、リーダーの補佐をしながらグループの和を保つようなポジションだろ」

 

「・・・確かに。彼のことはよく知らないけど、そんな雰囲気があるわね」

俺の意見に雪乃が同調した。

 

「でもでも、じゃあどうするのさ?」

結衣の質問で議論は振り出しに戻る。

 

「部内にいないなら、外から連れてくるしかないだろうな。・・・テニスの実力があり、カリスマ性もあって、他の部活にも入っていない時間のある奴。そんな条件に合致する人間がいればの話だが」

 

「「「・・・」」」

 

一瞬の沈黙が流れた直後、結衣が「頭に電球が浮かびました」とばかりに身を乗り出して口を開いた。

 

「あ、あたし、心当たりあるかも!優美子なんて適任じゃない?」

 

「優美子って、あなた達のクラスの三浦優美子さんのこと?」

 

「そうそう!中学の時、女テニで県選抜に選ばれたくらいだし」

 

「確かに俺が言った条件には合うけどよ。そもそも三浦は女子じゃねぇか。リーダーを必要としてんのは男子テニス部だぞ」

 

「ヒッキー知らないの?ウチのテニス部は男子も女子も人数が少ないから、普段一緒に練習してるんだよ。それに優美子はそこらの男子よりもぜんぜん強いんだから!」

 

そ、そうだったのか。それは自分の知らない事実だった。

 

「あたし、明日優美子に相談してみるよ!」

 

テンションの上がった結衣の言葉でその日の奉仕部打ち合わせは締めくくられた。

 

 

 

部活終了後、俺は自転車を引きながらテニスコートを訪れた。

もう日が暮れ始めている。どの部活も活動を切り上げて皆帰宅している頃だ。

俺も真直ぐ家に帰ろうと思っていたのだが、なんとなくテニス部の様子が気になった。

 

コートサイドでは案の定、戸塚が一人、居残り練習の壁打ちに励んでいた。

ボールマシンもないような弱小部では、一人でできる自主練なんて、素振りや壁打ち位しかないのだろう。

 

「・・・さっそく頑張ってるな」

俺は戸塚に声をかけた。

 

「比企谷君!・・・部員のことは奉仕部の皆が協力してくれるし、自分でもフォームを身に付ける位は出来るかなと思ってね」

 

戸塚の足元には、開いたまま置かれているテニスの教本が置かれている。

イラストや写真のイメージを、実際に体に覚えこませようと必死に練習していたようだ。

 

何が戸塚をここまで突き動かしているのだろう。俺には知る余地もない。

俺には泥臭い熱血青春物語の良さは、正直今一つ分からない。

だが、一人必死に練習をする戸塚の姿勢には、確かに俺の心を動かすに足る何かがあるのを感じた。

 

「・・・戸塚、コート入れよ。打ち返し練習のボール出し位なら付き合ってやる」

 

「本当!?比企谷君、ありがとう!」

 

こうして俺達は周りが真っ暗になるまで練習を続けた。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

高校生トレーダー比企谷八幡の朝は早い。

元々社会人をやっていた時も、7時頃には出社し、業務開始時間前にマーケットや主要ニュースの確認を済ませていた。

 

今朝も誰もいない教室で一人、缶コーヒーを片手に新聞に目を通し、携帯端末で時差のある海外マーケットの動向を確認した後、大まかな売買のストラテジーを立てる。

ニュースと自分のマクロ知識から注目セクターをピックアップした後、めぼしい個社の税務情報等を分析していく。

 

そんな作業を行っていると、何時の間にかクラスメートが登校し、教室が賑やかになっていく。

 

 

「ちょっと朝からしつこいよ、結衣!あーし、そういう泥臭いのもうゴメンだって言ってんじゃん!」

 

 

不意に、不機嫌そうな声を上げた女子が一名。

言うまでもなく三浦だった。彼女の目前には、怒られて委縮してしまったような結衣の姿があった。

クラスメートの視線が自然と集まる。

 

 

――ああ、やっぱりダメか

 

大方、昨日公言した通り、三浦にテニス部に入部するよう頼み込んだのだろう。

 

"あの時の三浦"は、昼休みにグループの人間を連れ、「自分もテニスがしたい」等とワガママを抜かして戸塚が練習するコートに乱入してきた。

それから察するに、三浦はテニス自体は嫌いではないはずだ。だが、高校に入ってから部活に入らなかったのには、何か理由がありそうだ。

 

それを聞きださなきゃ交渉の土台にも上がれない、そんな気がする。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

昼休み。

俺はベストプレイスで早めの飯を食い終わった。

少し前の時間から、辺りにはテニスボールが跳ね返る音が響いている。

どうやら戸塚が昼休みの練習を始めたようだ。

 

「やれやれ・・・・」

 

親父臭い言葉を吐きながら立ち上がり、テニスコートへと向かった。

昨日と同じくボール打ちのサポートを名乗り出ると、戸塚は嬉しそうな顔で俺をコートに迎え入れた。

 

「ところでお前、飯はちゃんと食ったのか?」

 

「あ、うん。おにぎりを持ってきて、コートに来る前に歩きながら食べちゃった」

 

「・・・・」

 

「どうしたの?」

 

「なんか、男子運動部員みたいなその豪快さは意外だな」

 

「からかわないでよ、もう!僕男の子だよ!」

 

こんな会話を交わしながら俺達はテニスコートに入って行った。

 

ネットを挟んで俺と戸塚が対峙する。

俺の足元にはボール籠が置かれている。俺は何球かボールを拾うと、一球ずつ戸塚のいるコートサイドへボールを打ち込んだ。

戸塚はその球を的確にこちらのコートエリアへ打ち返す。俺は軌道を変えながら次々にボールを打込んだ。

定位置からボールを打込む俺に対して、戸塚はコート内を縦横無尽に走り回りながら打ち返している。数分続けると、戸塚は肩で息をし出した。

 

「大丈夫か戸塚?そろそろ・・・」

 

俺が休憩を提案しようとした時だった。

 

コートサイドのフェンスに手をかけ、こちらの様子を見ている人影に気づく。

 

目が合うと、その人物は、俺が声をかける前に言葉を発した。

 

「・・・あんたたち、何で昼休みにまで練習なんかしてるワケ?」

 

「三浦さん・・・」

 

フェンスへと歩みよったのは。戸塚だった。

今日は葉山を含め、他の取り巻き連中がいない。三浦一人で行動するのを見るのは珍しい気がする。

 

三浦の表情はどことなく暗かった。そして、こうつぶやいた。

 

「・・・ちょっと見てたけどさ、戸塚。あんた全然ダメじゃん。大して上手くもないのに何そんな一生懸命になってんの?」

 

 

 

――この女!

 

俺は熱血が嫌いだ。人に頑張りを強要するのは青春でも何でもない偽善だ。

だが、人の努力に冷や水を浴びせるような人間はもっと嫌いだ。

 

過去のあの時、俺は言いようのないムカつきを覚えながらテニス勝負の提案を飲んだ。

テニス勝負は争いごとを好まない葉山が場を丸く収めるために提案したものだった。

俺は当時、その提案を飲んだものの、試合中、自分でもよく分からない不快感をずっと抱えていた。

今なら分かる。この不快感は、強くなろうと努力する戸塚の意向を無視し、軽視したことに対する俺なりの不満の表れだったのだ。

 

俺も戸塚の想いを完全に把握しているわけじゃない。ただ、テニス部を強くしたい、自分も上手くなりたいという気持ちは本物だと認識している。

 

 

「三浦、テメェ・・・」

 

「ヒキオの分際で、何睨み効かせてくれてんの?てか、キモいんですけど」

 

「キモい言うな、傷付くだろうが。お前が由比ヶ浜からの依頼を断ったことをとやかく言うつもりはない。だが、戸塚の頑張りを嘲笑うってんなら、俺にも考えがある」

 

「はっ、考えって何?ウザ!ってか、あーし別にあんたなんかに話しかけてないんですけど」

 

「こっちにゃ用があんだよ。つっても一言だけだがな。"邪魔すんじゃねェよ"・・・テメェはいつも通り教室で、いつものメンバーと上っ面の友達ごっこでもしてな」

 

「なっ!?こんのヒキオのくせに!!」

 

売り言葉に買い言葉。俺と三浦の間に、どんどん険悪な空気が蓄積されていく。

会話のキャッチボールを重ねる度、自分の口調が乱暴になっていく。

 

我ながら大人気ないとは思う。だが今の三浦の態度には無性に腹が立った。

 

 

 

「ちょ、ちょっと待って二人とも!喧嘩しないでよ!」

 

そんな俺たちの仲裁に入ったのはやはり戸塚だった。

 

「・・・三浦さん、何で僕が必死になって練習しているかって聞いたよね?」

遠慮がちに戸塚が口を開いた。

 

「聞いたけど・・・」

 

「三浦さん、中学最後の試合、覚えてる?県選抜の大会に出てたよね」

 

「!?」

 

三浦はその言葉に驚いたように目を見開いた。

 

 

「おい、戸塚。そりゃどういう・・・」

俺には何が何だかさっぱり分からない。

分かるのは、三浦の纏う雰囲気が、戸塚の一言で大きく変わったということだ。

 

「三浦さん、あの試合で負けて泣いてたよね。コートに突っ伏して、大きな声で泣いてた。僕、あの試合見てたんだ。女子なのにすっごくレベルが高い接戦だったから、今でも覚えてる」

 

「ちょっ、止めてよ!何が言いたいし!?」

三浦はバツが悪そうな顔をして、慌てて戸塚の話を遮ろうとする。

 

「三浦さんがテニスを辞めた理由、僕は知らないよ。でも、あの時試合後に泣いてる姿を含めて、僕は三浦さんが羨ましいと思った」

 

「「ハァ?」」

 

俺も三浦も、戸塚の言葉に思わず同じ反応をした。

言葉が被ったことに気付いた三浦は、不機嫌そうに舌打ちした。

その態度に俺も苛立ち、「ケッ」と悪態を付きそっぽを向く。

 

「・・・この前の大会、ウチの高校から出た選手、一人も勝てなかったんだ。僕も一回戦で負けた」

 

「だからそれが何だってのさ!」

 

三浦の言葉は段々と、戸塚に対しても棘棘しさが増してきている。

 

戸塚はそんな三浦の苛立ちを、自嘲的な笑みで受け流すと更に言葉を続けた。

 

「僕たち皆負けたけど、誰も泣かなかった。しょうがないよね、って言って笑ってた。悔しいとすら思ってなかった。だって、悔しがるほど練習もしてないし、負けて当然だって皆が思ってたから」

 

「・・・戸塚、お前」

 

戸塚が奉仕部に依頼を持ち込んだ理由がなんとなく伝わってくる。

戸塚は、何も背負わないで、ただ時を過ごすような今の部活の環境を変えたいのだ。

 

だが、三浦はそんな戸塚の考え方に対し、異を唱えた。

 

「負けて悔しい思いをしなくていいならそれでいいじゃん?下手に足掻いて、夢見て一生懸命やったって、上には上がいるって思い知らされて終わるだけ。そんなの時間の無駄じゃん」

 

「・・・そうかもね。きっとすっごく悔しいんだろね。クールな三浦さんがあんなに顔をぐちゃぐちゃにして泣いたくらいだし」

 

「ちょっ、あんた!!」

 

「お、おい戸塚」

 

いきなり三浦をおちょくるような発言をした戸塚に焦り、言葉を止めようとする。

だが、戸塚の目には強い光が宿っていた。

俺も三浦も何も言うことが出来なかった。

 

「でも僕はもう嫌なんだ!自分達が出来ること、やるべきことをしないで、負けてもヘラヘラしているような自分が!」

 

「「・・・・」」

 

「僕は勝ちたい。勝つためにテニスをしたい。全てを賭けて練習して、負けたらどんなに悔しいか、今の僕には想像もつかないよ。でも、このまま時間を過ごしたら、僕は絶対に後悔する。そんなの嫌なんだ!」

 

戸塚の叫びに近い独白を聞いた俺も三浦は、話すべき言葉を失い、その場に立ち尽くした。

 

 

 

 

 

「彩ちゃん、やっぱりオットコトノ子だね!青春してるね~!」

 

不意に後ろから声を掛けられる。

そこには雪乃と結衣の二人が立っていた。

 

 

――なんつうか、なんか軽すぎだろ、結衣

 

俺は心の中で突っ込みを入れながらも、二人の登場に感謝した。

きっとこのままでは間が持たなかった。

 

 

「それにしても比企谷君、これはどういうことかしら?」

 

「・・・どういうことって、何が?」

いきなり俺に対する詰問を始める雪乃。俺は焦りながらそう返した。

 

「戸塚君個人の練習は奉仕部では請け負わないと言ったのはあなたでしょう?それを一人で抜け駆けするように練習に付き合って、一体、どういうつもりかしら?」

 

「い、いや、それは、その、戸塚の熱意に突き動かされたっていうか・・・スマン」

 

「まったく・・・で、三浦優美子さん、だったかしら」

 

「な、何よ?」

 

「ウチの部員二人が迷惑を掛けたようね。代わりに謝罪するわ」

 

今度は雪乃が三浦に話しかける。

結衣は「部員二人って、何であたしまで入ってるし!?」と憤慨している様子だ。

 

「べ、別に迷惑じゃないけど・・・・あーしも言い過ぎたって言うか・・・」

どうやら三浦は正面を切って謝られると、それ以上悪態を付けなくなる真直ぐな性格らしい。

何やらモゴモゴと言いながら俯いている。

 

「申し訳ないのだけれど、先ほどのやり取り、私たちも聞かせてもらったわ」

「ごめんね、優美子」

 

「ちょっと、それはもう忘れてよ!」

三浦が恥ずかしそうに大声を出す。

 

「そうね。でもその前に、もう一度改めてお願いするわ。どうかあなたにテニス部の指導を頼めないかしら」

 

「あ、あーしは・・・」

 

「三浦さん、あなた先言ったわね。一生懸命やっても、上には上がいると思い知らされて終わるだけだと。・・・あなたも挫折を知っている人間だわ。でもだからこそ戸塚君の言葉が心に響いたのではなくて?」

 

「そんなの、あんたに何でわかんのさ!?」

 

「私もつい最近、挫折を味わったからよ。誰にも負けないと思っていた勉強で、1年生の留学生にまるで歯が立たなかったの。そんな私を立ち直らせたのは、その、真に遺憾ながらこの男だったのだけれど・・・」

 

雪乃はそう言いながらジト目で俺に対して視線を向け、片手で頭を抱えて見せた。

三浦はあからさまに「ゲェ」っといった表情を浮かべている。

 

 

「・・・悪かったな。俺で」

 

「とにかく、私も全てを投げ出してしまっていても不思議ではなかったわ。でも今は、そうしなくて良かったと思っている」

 

「あたしもさ!この前優美子がおいしいって言ってくれたクッキー、作れるようになったのは、実はヒッキーのおかげなんだ。最初は酷い出来だったけど、諦めないで練習を続けたの」

 

「結衣・・・だからそれと何の関係が・・・」

 

「優美子、あたしたちと遊んでる時でも、たまにすっごく寂しそうな顔をすることあるの、何でだろうなってずっと思ってたんだ。あれ、テニスがしたかったからじゃないの?」

 

 

 

――なるほどな

結衣の指摘で全てが繋がった気がした。

過去の俺の高校生活で、テニスを辞めた三浦が、戸塚の練習に茶々を入れるようにコートに乱入してきたこと。今回、一人でテニスコートまで様子を見に来たこと。

クラスの中心グループにいても、どこか表面的にしか見えなかった三浦と周りの人間との関係性。

どれもこれも全て、中学時代の挫折で一度は諦めたテニスを、心の底では捨て切れなかったからだ。

 

 

「・・・少しだけ考えさせて」

 

三浦はそう言って、一人教室へと戻っていった。

 

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

 

「いや~、良かったね!優美子がテニス部に入るって言ってくれて!」

 

「そうね、彼女程周りを引張る力がある人間なら、テニス部も大いに活気付きそうだわ。彼女以外の経験者も何人か入部したそうよ」

 

翌週、俺たちは部室で雑談しながら今回の依頼について振り返っていた。

 

 

三浦がテニス部への入部を決めた後、遠めに見ていて、三浦と葉山たちの関係にも僅かながら変化が見られた。

三浦は元々お世辞にも遠慮がちとは言えない性格だったが、それに輪をかけて直球的な言い方をするようになった。

今ではあの葉山に対しても全く遠慮しない物言いをする位だ。これによって、今までどこか表面的だったコミュニケーションが少しだけ変わったように思えた。

 

あのグループにいる葉山・戸部、大岡、大和は皆運動部員だ。葉山たちサッカー部は国立を狙うとも言っていた。

テニスを再開したことで、三浦の心の奥底にあった、友人への引目のようなものが無くなったためだろう。

 

 

 

俺はあの後、三浦に対する暴言を謝罪した。

三浦は大して気にする様子も見せず、それを受け入れた。

あいつにも自分なりに、グループの表面的な人間関係というものに自覚があったためだろう。

 

 

 

「今回もどこかの誰かさんが裏で暗躍していたおかげなのかしら・・・」

そう言いながら、雪乃は俺を怪しむような視線を向けた。

 

「・・・勘弁してくれ、雪ノ下。今回俺は本当に何もしていない。お前たちがあの場に来てくれなかったら、あの喧嘩が原因で俺が由比ヶ浜の計画を台無しにしてたところだ」

 

 

俺もまだまだだ。

いつだったか、平塚先生が俺たちを見て「若さか・・・」、とぼやいていたのを思い出した。

 

――その気持ち、痛いほどわかりますよ、先生

俺は恩師に対する同調の念を心に浮かべた。

 

 

 

ともあれ、戸塚の件はこれで一件落着だ。

 

俺の記憶が正しければ、そろそろ沙希が無茶なバイトを始めて、大志とのトラブルを引起す頃だ。

あいつは俺にとって、結衣や雪乃と同じく、特別な存在だ。

俺が沙希にしてやれることは何なのか、しっかりと考えておかねばならない。

 

そんな風に思いながら、この日、窓の外からテニスの練習に励む戸塚や三浦の姿をボーっと眺めて過ごした。

 

 

 

 

 

 



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12. 比企谷八幡は三人目と再会する

 

「比企谷、ちょっといいか?」

「どうかしましたか?」

 

授業が終わり、部室へと向かおうとしていた俺を平塚先生が呼び止めた。

二人で職員室へ向かいながら話を続ける。

 

「先日相談を受けていた職業体験の件だが、やはり受け入れは難しいようだ。すまないな、力になれなくて」

 

――総武高校の例年行事である職場見学

 

このイベントでは、長年学校との付き合いのある地元企業へ生徒がお邪魔するのが慣例となっている。

見学の受け入れが可能な企業はリスト化されており、生徒は通常グループを組んだ後に訪問先をリストから選択する。

だが俺は敢て見学希望先として、かつて自らが勤務していた投資銀行への訪問を希望した。

平塚先生は、俺の頼みを聞き入れて、会社にコンタクトを取り、受け入れの可否を尋ねてくれたのだ。

俺がこの時代に戻ってきてから再開した、過去の人生で関わりのあった人物は、奉仕部のメンバーを含めて、高校時代の友人・知人のみである。

中には海美という例外もいるが、高校生活をやり直すまで、俺は彼女との直接の面識はなかった。

今会ったところで何が出来るというものではないが、俺はこの時代における宮田さんや槇村さんの様子が気になっていた。

 

「まぁ、難しいですよね。都内にある外資の投資銀行に、県外の高校生をいきなり受け入れろってのは流石に無理がありますし」

 

「理解して貰えて助かる・・・しかし、あの態度といったら、酷いものだった。断るにしても、もう少し言いようというものがあるだろうに」

 

そう言いながら自分の席に乱暴に座る平塚先生。

先方とのネゴシエーションを思い出して苛立ちを募らせたのか、俺の目前でおもむろにタバコを取り出して火をつけた。

今時、生徒の目の前で喫煙する教師も大概だと思ったが、口には出さない。

俺はまた禁煙の禁断症状を抑え込むことに精神力をつぎ込む羽目になった。

 

「・・・そんなに酷い会社でしたか?」

「会社というよりは担当者個人だ。“僕の仕事はトレーディングであって広報じゃない。僕は無能な管理職から面倒毎を押し付けられたという訳です。” なんて、社会人の言葉とは思えないような口をきかれたぞ」

 

――ん?何か聞き覚えのある台詞だな

平塚先生は、某担当者の口調を真似ながら不機嫌をぶちまけ出した。

かと思えば、一転して表情を変え、ニヤニヤ笑いながらまた口を開く。

 

 

「そういえば、お前になんとなく似ていたよ。雰囲気・・・それに、その濁った目がそっくりだ」

――どう考えても宮田さんじゃねぇか!

ってか、側近の部下だった人間を面倒呼ばわりとはあんまりじゃね?そりゃ今は面識からしょうがないけど。

 

「に、濁った目って、電話じゃなくって実際にお会いになられたんですか?」

「ああ、名刺も交換した。まだこの会社に興味あるか?あるならやろう。本来人の名刺を勝手に渡すのはご法度だが、あの男のものなら別にバチは当たらんだろう」

「あ、ありがとうございます」

 

受け取った名刺に記載されている名は確かに宮田さんのものだった。

ただ、やはり肩書きは俺の上司であった時のMD(マネージングディレクター)ではなく、アソシエイトとなっていた。

今の宮田さんの年齢を考えれば、こんなものだろう。

ともあれ、俺はこうして元上司の連絡先を偶然にも手に入れることとなった。

☆ ☆ ☆

 

 

さて、見学先選びは振り出しに戻った分けだが、どうしたもんか。

俺は部室で、平塚先生から再度渡されたリストと睨めっこしながら、興味の湧きそうな企業を探していた。

基本的にボッチであった高校生の頃(今もだが)は、こういったイベントは厄介事位にしか思っていなかった。

 

だが、再び高校生活をやり直す機会を与えられた俺にとって、職場見学はそれなりに興味を引かれる催しであった。

 

自分の会社を訪問する希望は叶わなかったが、改めて考えてみれば、金融以外の業種を覗いてみるのも一興である。

 

 

既に部室には結衣が来ており、先程から騒がしげに話しかけてくる。

 

彼女を蔑ろにする気は無いが、どうやら俺は何かに集中している時、外からの音を殆ど自動でシャットアウトしてしまう性分らしい。

「ああ」「そうか」「すごいな」

先ほどから、この3つのフレーズで奇跡的に会話を成り立たせていた。

 

――そういえば今日は雪乃がいないな。そうか、今日はあいつが別室で海美の勉強会に付き合う日だったか。

 

「ちょっとヒッキー!ちゃんと聞いてる!?」

 

一瞬だけ職場見学の件から意識が離れ、雪乃のことを考えた瞬間、結衣が怒り出した。

 

単なるタイミングの問題か、はたまた女の勘か、俺には知る余地も無いが、あまりの間の悪さに冷や汗が背を伝う。

――トントン

ふいに響くノックの音。続いて開かれる部室のドア。

「失礼するよ」

入ってきたのは葉山隼人。本日の依頼人のようだ。

正直、このタイミングで入ってきてくれて助かった。

 

「・・・雪乃ちゃ・・・雪ノ下さんはいないのかい?」

「ゆきのん、今日は別の依頼で勉強会に参加してるんだ」

俺に代わって結衣が葉山に答えた。

 

「そうか。・・・結衣、今日は俺も依頼があってここに来たんだ。・・・ヒキタニ君も、聞いてもらえるかな?」

 

――結衣を呼び捨てかよ。知ってはいたが、やはり釈然としない。雪乃も名前で呼ぼうとしてたしよ。これだからリア充は・・・

葉山が結衣を呼び捨てにするのは昔からのこと。加えて雪乃と葉山は確か、幼馴染だったはずだ。

 

今更、友人・知人の呼び方なんぞ、どうでもいい話なのだが・・・

それでも、二人の体を知り尽くした俺ですら気を使って苗字で呼んでるこの状況。

それを差し置いて目の前で易々とファーストネームを呼び捨てにされると腹も立つ。

 

やはり何歳になってもリア充とは相いれないものだ。

 

・・・だが、

――二人の体を知り尽くした、は流石に見栄を張りすぎだろ、自分。

心の中で自らの思考に突っ込みを入れる。

同棲していた結衣はともかく、雪乃としたのは数える程度・・・って、これもどうでもいい話だな。

 

俺は、心の片隅に沸いた、虚しくなる様な自尊心・嫉妬心を振り切るように、葉山に話しかけた。

 

「じゃあ早速だが本題に入るぞ。依頼の内容は何だ?」

「ああ、これなんだけど。二人のもとにも回ってきてるかも知れないが・・・」

そう言って葉山は携帯を取り出した。

画面には葉山の友人である、戸部、大岡、大和の3人を中傷するチェーンメールの文面が表示されていた。

「・・・やっぱり、そのことか。ホント、酷いよね!こんなことする人がいるなんて、信じらんない!」

結衣がメールを見て即座に反応する。

 

クラスで出回っているチェーンメール。

あの時は、誰が犯人だったかは結局調べなかった。が、この事件の解決が、互いに葉山隼人の友人としての付き合いしかなかった3人が真に友人となる切欠となった。

 

「ヒッキーも知ってた?」

「いや、知らなかった。俺がクラスでアドレスを知ってるのはお前と戸塚だけだからな。お前らはこんなメールを人に転送するような人間じゃないしな」

結衣に嘘をついたことに対して、心を針で刺したような痛みを感じながらそう答えた。

「これが出回ってから、なんかクラスの雰囲気が悪くて・・・止めたいんだよね、こういうの。でも犯人探しがしたいんじゃない。丸く収める方法を知りたい。それが俺の依頼なんだけど・・・」

「もちろんだよ!ね、ヒッキー?」

「そうだな。まぁ、今日は雪ノ下がいなくてよかったな、葉山」

「何でだい?」

「これはF組の問題だから俺たち3人だけの方が話しが早い。それに、あいつの性格だ。必ず犯人探しをするって言い出すぞ」

「「・・・・確かに」」

 

納得した二人を見ながら俺は話をどう切り出すか考えていた。

 

この依頼の解決は簡単だ。犯人は3人の当事者のうちの誰か。

チェーンメールで仲違いを引起そうとした原因は職場見学のグループ分け。

 

葉山が3人と組まないことを宣言すれば事は片付く。

 

問題は、どう二人を誘導するかだ。

 

「じゃあ、さっそく解決策を考えよう!」

結衣が仕切りなおす。

「・・・このメールが送られ始めたのは、いつ頃だ?」

「先週くらいだよ」

俺の問いに葉山が答える。

「一応聞くが、お前たちのグループで先週くらいから変わった出来事は無かったか?」

「・・・特には思い浮かばない」

「うん、いつも通りだった」

 

周りの空気に敏感な結衣がいつも通りと言うくらいだ。

 

犯人が3人のうちの誰かに興味はないが、改めて考えると、仲のいい連中からハブられるかも知れない恐怖の中で誰かを貶めようと画策するような奴が、よくもそれを微塵も態度に出さずに過ごせているもんだ。

 

余程のポーカーフェースの持ち主なんじゃないかと関心してしまう。

 

「じゃあ、何かのイベントが原因かもな。こいつとか・・・」

俺は手にしていた職場見学の企業リストを片手で持って、もう片方の手でパンと軽く叩いて見せた。

「それは?」

「職場見学。グループ分けは確か3人一組だったか?葉山、お前の友人グループの男子はお前を入れて4人。誰かがハブられる形になるわけだが・・・」

「ちょっと待ってくれ!あいつらの中に犯人がいるって言うのか!?」

「・・・その可能性高いかも。こういうのって、後々の人間関係に影響するから。ナイーブになる人もいるんだよ」

葉山は驚きで大きめの声を上げたが、結衣が俺の意見に同調すると、悔しそうな顔をして俯いた。

「葉山、お前、自分がいない時の3人がどんな雰囲気か知らないだろう?あいつらにとって葉山は"友達"だが、それ以外は互いに"友達の友達"なんだよ。お前が便所に行ってる時とか、皆無言で携帯弄ってるから」

「・・・そんな」

 

気を落とす葉山に対し、ある程度事情を知っているであろう結衣は気まずそうに視線を逸らす。

 

「まぁ、外から見なきゃ分からん事だってあるってことだ。・・・だが、だとすれば解決策は簡単だ。犯人探しもしないで全て丸く収める方法がある。ともすれば3人が互いに友達になれるかもしれんというオマケ付だ」

そう言いながら俺は手元の資料にもう一度目を落とす。

少し間をおいてもったいぶりたかっただけなのだが、その何気ない行為には意外な収穫があった。

リストのちょうど真中当たりに記載されているとある企業名。

それを見つけて俺の目は大きく見開かれた。

 

 

――見学先、見つけたわ

 

 

「教えてくれ、ヒキタニ君!俺はどうしたらいい!?」

 

「葉山、お前は俺と組め」

そう言って俺はニヤリと笑った。

 

☆ ☆ ☆

 

<将来の希望職種>

金融業

<見学希望先>

総武光学株式会社

<希望理由>

金融業は、投融資にかかる専門技能に加え、幅広い業界知識が要求される特殊な業界である。

従って、実体経済において重要な役割を果たす実業の動向を把握することは金融業界関係者にとり極めて重要なことと考えられる。

我国におけるテクノロジー産業は、産業サイクルにおける成熟期を迎えて久しい。海外新興企業とのグローバル競争が激化する中、既に市場地位を確立した国内大手企業でも成長を維持することが難しい環境にある。

かかる中、地場の中小ベンチャー企業は今後の経済成長の原動力としての役割を果たすことが期待されており・・・・・・云々

 

 

「・・・なんだかなぁ」

俺は自分が記入した職場見学の希望調査票を手に、屋上にいた。

 

――比企谷、お前は経済新聞の記者か何かか?もう少し高校生らしさというものを意識してだな・・・

 

俺は平塚先生に希望調査票の書き直しを命じられていた。

だが、具体的に何が悪いのか、一切の説明はなかった。

 

大体高校生らしさってなんだ?

 

生意気なガキ共が考えることなんて、精々、「働いたら負け」とか位だろ。

 

そうだ、俺は当時何を書いてたっけ?

 

将来の夢が専業主夫だったんだから、希望見学先は、どうせ自宅とかにしてたんだろう・・・って、そりゃ殴られるわな。

しっかし、その頃の俺が今の俺の社畜っぷりを見たら、何て言うのかね。・・・時の流れって残酷。

 

俺は書き上げた調査票を読み返しては、ため息を繰り返していた。

 

ところで、今回の希望先である総武光学とは、どのような会社か。

実は、俺が宮田さんの下でトレーダーをしていた時に、投資で大儲けをさせてもらった企業だ。

 

今はしがない千葉の中小ベンチャーだが、数年後、当社は上場を果たし、破竹の勢いで海外市場を開拓して成長を続けることとなる。

 

主要な業容は、光学モジュールの製造。

元々、網膜認証システムに利用されるセンサーのようなニッチな製品製造していたが、所謂ベンチャーキャピタルファンドによる出資を受け、その資金を元に、携帯や自動車のようなコンシューマー向け製品の部品を作るようになった。

 

そして、当社の部品を使用したエンド製品が、先進国だけでなく、インド・中国等の途上国を含めて、世界中でバカ売れしたのだ。

俺も技術に関する詳しい話は理解していないが、これがどんな製品か簡潔に言うと、ユーザーの視線を読み取って、携帯や自動車の操作をサポートするシステムの根幹を成す部品だ。

かく言う俺も、この製品技術の恩恵を受けてきた未来人の一人だ。当社の部品を使った携帯の操作性は、これまでのものとは抜本的に異なると言ってもいいほど、各段に向上した。

 

実を言うと俺は、この時代に戻ってきて、株式売買で端末操作をする度に大きなフラストレーションを感じている。

俺には、旧来の携帯電話でネットサーフィンしていた経験があるから何とか我慢して使っているが、昔の端末に触れた経験のない新人類であったら、おそらく耐えられないだろう。

 

言葉を換えれば、そのくらい、当社の発明は偉大なのだ。

総武光学創業者の名前は武智氏。

後に彼は経済界ではその名を知らぬ者などいない程の超有名人となった。だが今は中小企業の社長だ。イメージとしては町工場の経営者に近い。

俺は、そんなビジネスの才児である人物と直に会うことができる機会に恵まれたのだ。これが、金融マンとして興奮しないわけがない。

あのチェーンメール事件の解決直後、俺は葉山に2つお願いをした。

見学先を俺に決めさせて欲しいということと、黒板に行き先を書き込まないことだ。

 

無論、総武工学にお邪魔するためと、葉山目当てで鬱陶しいクラスメート連中が群がって来ないようにするためだ。

 

「俺目当てって、そんなことはないと思うんだけど・・・でも、そんなことでいいなら構わないよ」

こう言って葉山は俺の要求を快諾した。

「決まりだな」

そう言って差し出した俺の手を、葉山は強めの力で握り返して礼を述べた。

「ありがとう、ヒキタニ君!」

「・・・ちなみに俺、ヒキガヤね」

「ご、ごめん」

中々に締まりのないやり取りであったが、俺は早々に戸塚とチームを組むことを決めていたため、これで全ての予定が固まったはずだった。

 

・・・にも拘わらず、だ。

 

 

「あ~メンドクセ~!何が高校生らしくだよ。具体的に指示を出さずにやり直せって、無能上司の典型じゃねぇか・・・・って、ヤベ!」

屋上で調査票を片手に恩師への恨み言を一人溢していると、突然の強風で紙が俺の手を離れて舞った。

 

つかみ取ろうと上半身を伸ばすが、俺の手は届かない。

 

風にあおられて用紙は俺の後方へと飛んで行った。

 

振り向くと、片手にライターを持った一人の少女が、俺の希望票を拾い上げていた。

 

 

「・・・・・沙希」

 

 

俺は少女の方を見て、立ち尽くしながらそう口にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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13. 比企谷八幡は紳士協定を再締結する(上)

 

 

「あんた、ストーカーの・・・」

――は?

久々に対面した沙希が口にした言葉は自分が想定していたどんな言葉とも違っていた。

余りの突拍子もなさに、思わず眩暈がした。

「・・・これ、あんたの?」

沙希はそう言いながら拾い上げた希望票を、訝しげに眺めた。

「あ、ああ。助かった。・・・ってか、その不名誉な呼び名は何なの?」

俺は例を述べつつ、沙希が咄嗟に俺をストーカーと呼んだ件について言及する。

「クラスの連中がそう呼んでたから。アタシのことじっと見てたとか、毎日一人早く登校して、女子の私物に悪戯してるって話だけど、ホント?」

沙希はキツめの目を更に細めてそう言った。

 

――クソガキ共め、何てムカつく奴らだ

概ね、いつも俺を小馬鹿にしたような目で見ている相模南のグループあたりが、面白おかしく吹聴しているのだろう。

 

「私物に悪戯って、俺は変態かよ・・・俺は朝一人で新聞を読むのを日課にしてるだけだ。嘘だと思うんなら監視カメラでもなんでも設置してくれ。何なら、今朝のニュースの内容を今教えてやってもいい」

「・・・嘘はついて無さそうね」

「ただ、川崎のことを見てたってのは間違いじゃないかもな」

「え?」

俺の言葉を聞いた瞬間、沙希の顔が強張る。

「妹の友人に総武高に通う姉がいるって聞いてな。川崎って苗字が同じだから、もしかしてと思ってたんだが。・・・違ってもアレだから、声かけるか迷ってたんだ。不快に思ってたんなら謝る」

「なるほどね・・・別にクラスの奴らの言うことなんて、特に気にしてないけどさ」

「そうか」

 

咄嗟に考えた言い訳にしては上出来だろう。

元々沙希は、人を貶めるための噂に興味を持つような人間ではない。目線を俺から外すと、引続きつまらなそうな顔をして片手に持ったライターを弄りだした。

「ちょ、俺の調査票、燃やす気?」

沙希は喫煙者ではない。手に持ったライターは、バーテンのバイトの為に持ち歩いているものだろう。

俺はからかい半分にそう言った。

「え?いや、これは、違くて・・・アタシ、喫煙とかしてないから、勘違いしないで」

「別に素行不良を疑ってるわけじゃねぇし、仮にタバコ吸ってる奴がいても、いちいちチクったりしねぇがな」

むしろ、俺が吸いたくて吸いたくて、ここのところ貧乏ゆすりが激しさを増していたところだ。

高校生でもタバコが買える自販機を売出す企業があれば、俺は迷わず投資するだろう。

「吸わないのにライター持ってるってことは、バイトか?居酒屋とか・・・バーとか?」

まずは軽めのジャブで沙希の反応を伺った。

俺は沙希のバイト先を知っている。ホテルロイヤルオークラ最上階の高級バー、エンジェルラダー。

社会人となった後も、沙希と二人そろって千葉に戻る用事がある時は、良くこの店に飲みに行った。二人の思い出の場所として。

「ま、そんなとこ」

俺の言葉は軽く受け流された。

流石、俺が惚れたクールビューティーだけあってガードが堅い。

というよりも、そもそも前の人生において、どんな経緯でコイツが俺を好きになったのか、俺は今でも知らないのだ。何を切っ掛けに沙希の信用を得ればいいのか、さっぱり分かっていない自分に嫌気が差す。

「これ、返すね・・・あんたって、頭いいの?」

沙希はそう言いながら、俺の調査票を手渡してきた。

「サンキュ・・・総武校に入れた位だから悪くはないと思うが、残念ながら特別勉強ができるわけでもない。得手不得手が極端なんだよ、俺は。何でそんなこと聞くんだ?」

「別に。金融って学歴がなきゃ入れない業界でしょ?アンタみたいなのでも勉強してるのかなって思って」

「この間の実力テストは国語と英語が学年順位一桁だったな。数学も微積分とか対数とか、金融で使う分野は満点だったんだが、それ以外はケツから数えた方が早いレベルだ」

「スゴイけど、それじゃ進学出来ないんじゃない?」

「平塚先生にも同じこと言われたぞ。だが、別に優秀な成績で進学しなきゃ金融の仕事が出来ないかと言われればそうでもないだろう?自分で起業したっていいわけだし、国内受験を受けずに、海外の大学に行ってもいい」

「起業に留学・・・ね」

再び見せる興味のなさそうな表情。

沙希は堅実を絵に描いたような女だ。世間一般的に見て、現実味の薄い絵空事と見られかねような将来プランを語っても反応は薄い。

まして、現在沙希は学費のために時間を削ってバイトに勤しんでいる身だ。受験戦争を回避するために留学すればいい等と、気軽に言ってしまっては反感を持たれかねない。

――失言だったか?

「ま、いざとなれば色々な道があるってだけの話だ。一応、次の中間テストに向けて苦手科目の勉強は進めてる」

「ふ~ん」

とっさのフォローで何とか場を繋ぐ。幸い敵意を持たれるには至っていないようだ。

「もし良かったら、今度勉強会に参加しないか?今俺が入ってる部活で定期的にやってんだが、部長・・・国際教養科で学年主席の雪ノ下が色々教えてくれるし、国語や英語なら俺でも相応に役に立つだろうよ。同じ部員の由比ヶ浜の成績がどの位上がるか見てからでも構わんが・・・」

「へぇ、アンタたち、そんなことしてるんだ・・・そうね。考えとく」

そう言って沙希は屋上を後にした。

屋上に一人残された俺は、沙希の後姿が見えなくなるのを見て呟いた。

「ただいま・・・沙希」

今の俺の言葉に答える者はいない。

☆ ☆ ☆

中間テストが目前に迫り、総武高校はテスト準備期間に入った。

当然部活も停止となる。

沙希に言った通り、最近俺は苦手科目の勉強、というよりも、記憶の底に眠る歴史や生物等の知識の掘起し作業を夜な夜な行っていた。

高校受験を控えた妹、小町の勉強に付き合いながら勉学に打ち込むのは、何かと新鮮で、思った程の苦痛は感じない。

というよりも、期限の迫った仕事に追われるよりも100倍は楽だ。深夜まで残業して、就寝までの僅かな時間を削って資格試験に励んでいたことを考えれば、天国のような待遇である。このまま永遠に高校生をしていたいとすら思えてくる。

 

――世の学生は皆、学ぶ喜びを知らずに大人になってくんだな。もったいねぇ

そんなオッサンじみた考えを浮かべながら、参考書の問題をこなしていく

「・・・お兄ちゃん、真面目だねぇ。その集中力はどこから沸いてくるのかな?」

早くも集中力を切らせた小町が邪魔をしてきた。

「お前、もうギブアップか?早くね?次の章の問題まで頑張れよ。そこまで終わったらコンビニアイスでも買いに行こう」

「やった!頑張るであります!」

正直、安上がりな妹で助かる。

 

「終わった~!!お兄ちゃん、アイス!アイス!」

30分後、問題集を解き終えた小町が外出をせがんで来た。

集中力の波に乗ってるときは、もう少し継続してやりたいもんだが、約束しちまったものは仕方ない。

俺はペンを置いて、財布をポケットに突っ込み玄関に向かった。

「おい、小町。それ俺の服じゃねぇか」

ドアを開く直前に、妹の格好に気付いて声をかけた。

「気付くの遅!これ、ワンピースっぽくない?似合うでしょ?」

「別に着るのは構わんが、せめてズボンくらい履け。俺が変質者だと思われるだろうが」

「最近のお兄ちゃんなら大丈夫だと思うけどな」

「そうでもないぞ。クラスの一部の奴らから陰でストーカー呼ばわりされてる」

「うわ、それは小町的にちょっと聞きたくなかったかも・・・ハイハイ、履いてきますよ~」

――それでも俺と出かけたがるんだな。我が妹ながら、なんていい子。

妹との他愛もない会話から、そんなことを考えた。

小町のおねだりでしこたまアイスクリームを買い込んだ俺たちは、手を繋ぎながら帰路についていた。仲良きことは良いことかな。小町は幾分上機嫌だ。

「・・・世の中には色んなタイプの兄や妹がいるよね~」

「そうだな。この年で兄妹仲良くやって行けてるのは、お前の性格のお陰かな。普通はストーカー呼ばわりされてる兄貴と外出なんて、嫌がるもんだろ?ありがとうよ」

「いや~照れるな~。そういえばね、小町の塾の友達はお姉さんが不良化したんだって。最近仲良くなって相談されたの。その子、川崎大志君って言ってね・・・」

――来たか!

川崎大志。沙希の弟であり、小町の旦那、つまり俺の義弟だ。

あの時も、俺たちは大志からの相談が切欠となって沙希の問題解決へと動いた。

結論を言えば、大志の不安は杞憂であり、沙希は決して不良化などしていない。だが、大志は今や俺にとっても可愛い弟分だ(一時は呪い殺そうとしたが)。できれば早めに安心させてやりたい。

☆ ☆ ☆

 

1年前、都内某所

「義兄さん、お疲れ様っす!どうっすか、このクラブ?」

「流石、商社マン。夜の街を良く知ってるな」

ある日、俺と大志は、大志お勧めのキャバクラで酒を飲んでいた。

小町・沙希には内緒で、仕事を抜けて夜遊びに繰り出したのだ。

「今日は経費出ますから、思いっきり飲んじゃってください!」

「お前、親族間で経費接待はマズイだろ。金融業界のコンプラは滅茶苦茶厳しいんだぞ。バレたら首になっちまう」

「まぁまぁまぁ、あ、お姉さん、そこのグラス、もう半分空じゃないっすか。ちゃんと注いで!」

場を仕切りながら、キャバ嬢に指示を飛ばし、俺のグラスに酒を注がせる。

流石は俺の義弟、ちょっとした動作からかなり場数を踏んでいることが伺われる。

だが俺も一流金融マンだ。勢いに飲まれて懲戒免職のリスクを負うようなバカな真似はしない。

「煽っても無駄だ。派手に飲むのは構わんが、ここは俺が全額出す」

そう言ってグラスになみなみと注がれた酒を一気に飲み干した。

「キャー!お酒強いんですね!」

横に座った若い姉ちゃんが雰囲気を盛り上げてくる。さりげなく太ももを触るあたり、男の喜ぶツボをよく心得ていらっしゃる。

昔の俺なら勘違いして告白してフラれて、強面のお兄さんに奥の部屋まで連れて行かれていただろう。

 

 

2時間後

「おっしゃー!次はピンドン(ピンクのドンペリ \100,000~)持って来いやぁぁぁ!」

「ノッてきましたね、義兄さん!ピンドン入れちゃおう!!!」

「「「「キャーーー!!」」」」

この場の支払いがどうなったか、俺に記憶はない。

 

 

 

――息苦しい。窒息しそうだ。

失った意識が戻ってきた時、俺は呼吸困難に陥っていた。

なんかこう、暖かく柔らかい感触が俺の顔を包み込んでいたのだ。

辺りには、ドムドムドムと、腹に響く重低音が鳴り響いている。

「義兄さん!今日はサイコーっす!!」

大志の小うるさい声に呼び覚まされ、俺は完全に覚醒した。

「っぷは!死ぬ!シヌゥゥ!!」

顔を上げ、酸素を肺いっぱいに取り込む。同時に、周囲の状況を確認した。

二人がけのソファーに並んで座る俺と大志。

俺たちの腿の上には、それぞれ上半身裸の女性が跨っており、暗い店内に響くトランスミュージックに合わせてリズム良く胸を俺たちの顔に押し付けていた。

「おい、大志!ここは何処だ!?何で俺達はオッパブにいる!?」

「え?何言ってんすか?義兄さんが、二次会はここでって言って連れてきてくれたんじゃないっすか」

「・・・マジか。・・・後で反省会な」

「はは!了解っす!」

大志はそう言うと、再び目の前の双丘に顔を埋めた。

 

 

1時間後

俺達はひなびたラーメン屋で、脂ぎった麺を啜りながらの反省会(?)の最中にあった。

「大志、言わなくても分かってると思うが、今日のことは・・・」

二人とも、酔いが抜けきらない様子で馬鹿話をひとしきり続けた後、俺は切り出した。

「もちろん、姉ちゃんや小町ちゃんには内密で」

「よろしい・・・しっかし、何でよりにもよってオッパブなんだ。俺はオッパイには全く不自由してないんだが・・・」

結衣程ではないが、沙希のプロポーションは抜群だ。今更女性の胸部に劣情を催すような哀れな生活は送っていない。

「義兄さん、姉ちゃんとの性事情の話は流石に勘弁して欲しいっす」

大志は急速にシラフに戻ったかのように冷めた目で囁いた。

「だってよ、お前・・・こう言うのも何だが、沙希は男の願望をそのまま形にしたような体形だぞ。いくら酔ってたとは言え、正常な判断がつかないにも程ってもんがあるだろ」

「そりゃ、義兄さんは満足かも知れませんけどね。俺には必要なんです・・・確かに小町ちゃんは完璧な嫁さんっすよ・・・でも、やっぱり胸がないっす!」

これは明らかに大志からの反撃だ。確かに、いくら可愛い弟分とは言え、実の妹の性的な面を語られるのはキツイものがある。

「・・・俺が悪かった。この話はもう止めだ。おっちゃん、瓶ビール一本!」

話を切り上げながら、本日最後のアルコールを注文する。

「まだ飲むんすか!?」

大志が驚いたような目でこちらを見ているが、気にせずに片手でグラス2つにビールを注ぐ。

「シメだシメ。乾杯しようぜ。紳士協定、忘れんなよ」

「はは、義兄さん流石っす」

「「紳士協定に乾杯!!」」

ガチャっと強めにグラスをぶつけ合い、俺達はビールを飲み干した。

☆ ☆ ☆

 

小町から大志の悩みの話を聞いた翌朝、俺はいつも通り早朝7時には学校に着き、一人コーヒーを飲みながら新聞を眺めていた。

だが、今日は今一つニュースの内容も頭に入って来ない。

沙希への対応について、勉強会に誘った以上の妙案が思い浮かばないのだ。

前回同様、塾のスカラーシップ制度を教えてやれば、少なくとも表面的にはこの問題が丸く収まることは分かっている。

だが俺は、もう少しこの学校で沙希と同じ時間を過ごしたいという自らの欲求に加え、沙希にとって最良の解決策が他にあるのではないか、という考えの元、思考の迷路を彷徨い続けていた。

あれこれと考えているうちに、クラスメートがパラパラとクラスに顔を出し始めた。

「くそっ」

俺は苛立ち交じりに頭を掻きながらそう呟き、1限目の授業の準備に取り掛かった。

2限目の現国の授業が終わった頃、沙希が登校してきた。

平塚先生の小言を無言で受け流しながら席に着く姿は、俺が不慮の事故によって偶然にも彼女のスカートの中を覗いたことを除き、あの時のままの光景だった。

「川崎」

俺は席を立って、沙希の元へ歩み寄り、声をかけた。

「何?」

疲労が溜まっているのか、若干不機嫌そうに沙希はそう切り返した。

「これ、やるよ。MAXコーヒー買おうとして間違って押しちまったんだ。バイトと勉強の掛け持ち、大変だろ?」

朝自販機で買った缶コーヒー。無論間違って買ったわけではなく、最初から沙希に渡すつもりで買ったものだ。沙希は俺と違い、無糖のブラックが好きだった。

「あ、ありがと」

沙希は若干の驚きと照れが入り混じった表情でそれを受け取った。

あまり無理すんなよ。そう続けようと口を開くが、言葉を発する直前で思いとどまった。

――そんなに強がらなくてもいいんじゃないかな

――あ、そういうの要らないんで

結衣の提案で、あの時葉山に言わせた言葉。それを見事にぶった斬る沙希。

当時のやり取りを思い出し、沙希に対して極度なお節介は却って逆効果だと、俺の勘が告げた。

俺はそのまま無言で自席に戻った。

☆ ☆ ☆

その日の夕方、俺は、結衣が提案した奉仕部の勉強会に参加していた。

駅前のファミレスに集まり、各々学習を進めたり、問題を出し合うなんて青春イベントは、前の人生では無縁だった。そもそも、奉仕部の二人でさえ、あの時俺には声を掛けなかったのだ。今回、2人に勉強会に誘ってもらえたことに、俺は密かに感動を覚えていた。

ところで、実は今日は小町に、大志をこの場に連れてくるように伝えていたのだが、俺は2人にその話を切り出すタイミングが掴めないでいた。

そして、結衣の英語の面倒を見ているうちに、その余りの出来の悪さに俺はヒートアップしてしまい、大志のことがすっかり頭から抜け落ちてしまっていた。

「由比ヶ浜、英語・・・というよりも語学全般は単語やフレーズをどれだけ覚えたかで決まる。地道に勉強するのが一番の近道だ。単語は完璧に綴れなくても、発音できなくてもいい。見て意味が分かるようにさえしておけば、英文が自然と読めるようになる。これだけでスコアはだいぶ変わる・・・って聞いてんのかよ?」

「だって、こんなに沢山、覚えられないよ!」

「お前、どんな単語帳使ってんだ?ちょっと見せてみ」

そう言って結衣の使っている参考書を手に取った。派手目の表紙に≪高校生英単語5000≫と銘打たれたその本をパラパラとめくり、ため息をついた。

――結衣の奴、参考書の質も判断できないのか

「こりゃ酷い。品詞・アルファベット順の単語の羅列、これじゃ出来の悪い辞書だ」

「え?でも学校の推薦参考書だよ」

「それは、先生に文句を言った方がいいレベルね。この本は確かに酷いわ。比企谷君の言う通りよ」

横からテキストの内容を覗いた雪乃が俺の意見に賛同する。

「いいか、人間の頭はデータ記憶には向かん。"データ"が集まって意味を成した"インフォーメーション"を記憶する方が容易なんだ。"データ"も"インフォメーション"もどちらも日本語じゃ"情報"と訳されがちだが、実は意味が全く違う。単語を勉強する時も、インフォメーション単位で覚える癖をつけろ」

「ヒッキーの話はいつも難しくて、何言ってんのかわかんないよ!」

丁寧に説明してやったつもりが、結衣の脳には響かなかったようだ。理解できないフラストレーションからか、怒り交じりの表情を浮かべている。

「いくら"インフォーメーション"を発信しても、相手に届かなければ"コミュニケーション"とは言えないわね、ヒキペディア君」

いつだったか、ユキペディアと揶揄したことの仕返しか、雪乃が楽しそうに笑いながらそう呟いた。

「ちっ、上手いこと言いやがる・・・由比ヶ浜、後で書店で単語帳を見繕ってやる。単語帳は品詞やアルファベット順じゃなく、シチュエーション別に並んだものがいい。品詞がバラバラでも、同じ場面で組み合わせやすい単語が一緒に載っていた方が頭に入りやすい」

「へ~、そういうものなんだ」

「よっす、お兄ちゃ~ん!連れてきたよ!」

不意に、俺たちの会話を中断する声がした。

小町が大志を連れて店内に入ってきたのだ。

「ヤベ!・・・忘れてた。すまん、二人とも。今日は奉仕部に客がいたんだ。勉強会を始める前に伝えるべきだった」

「お客さん?また依頼人がいるんだ!」

「今はテスト準備期間で部活は停止中よ。依頼を受けないとは言わないけれど、事前に相談くらいはするべきではなくて?」

早くも勉強に飽きだした結衣と、それなりに集中力が高まっていた雪乃の反応は180度逆のものとなった。

「悪かった。俺も今妹の顔を見るまで忘れていたんだ」

「全く・・・で、そちらが比企谷君の妹さん?」

「初めまして、いつも兄がお世話になってま~す。比企谷小町です」

小町が自己紹介を始めると、途中で結衣の顔が曇った。どうやら小町の視線を避けるようだ。

――あぁ、そういや一時期、俺のせいで結衣とは険悪な関係になったな

再び過去の記憶がフラッシュバックする。

高校生活初日に巻き込まれた交通事故。原因は結衣の飼い犬、サブレを助けようと俺が車道に飛び出したことだった。

俺は犬の飼い主が結衣だったことを、この時期に小町に聞かされて知った。

そして結衣が俺に話しかけてくるのは、俺が入学直後の入院が原因でクラスで孤立したと思い込み、そのことに罪悪感を感じているためだと断じた。そして、俺は結衣を拒絶した。

「そういや、由比ヶ浜は小町と面識があったんだったな。わざわざ俺の家まで礼を届けに来てくれたんだろ?別に気を使う必要何てなかったんだが、ありがとな」

「え!?」

「あ~!やっぱりお菓子の人だ!」

結衣は俺の言葉に驚きの表情を浮かべ、小町は喉に詰まった魚の小骨が外れたようなスッキリした表情を見せている。

雪乃と再会した初日、俺は事故の件に関する二人の間のわだかまりを払しょくした。

結衣にも気にしないように、伝えておかねばならない。

「残念ながら、その菓子は全て小町に食われてしまったわけだが・・・由比ヶ浜にはお手製のクッキーも焼いてもらったし、小町への説教は無しでいいか」

「テへ!」

あくまでも軽い印象を残そうとする俺と、それに合わせるかのようなノリでリアクションする小町。普段の兄妹仲がこういう場面で活きるというものだ。

「ヒ、ヒッキー・・・もしかして、アタシのこと知ってたの?」

「忘れるわけねぇだろ。まぁ、2年になって由比ヶ浜もだいぶ垢抜けたから、最初は気付かなかったけどな。犬・・・名前はサブレだったか?今でも元気か?」

「あなた達、何の話をしているのかしら?」

蚊帳の外になっていた雪乃が割り込んでくる。

この話は雪乃がいない場でした方がよかったのかもしれない。わざわざ蒸し返して気に病まれるのは申し訳ない気がするが、今更後悔しても遅いだろう。

「例の入学式の日の事故の事だ。俺が車道に飛び出したのは、逃げ出した由比ヶ浜の飼い犬を捕まえようとしたのが理由だ」

「あ・・・」

思った通り、雪乃は暗い顔で俯いてしまった。

「蒸し返しちまって悪い。由比ヶ浜と二人の時に話すべきだったな。前にも言ったけど、ありゃ俺が悪いんだから気にするな。頼むから今まで通り接してくれ」

「何でゆきのんが事故の事知ってるの?」

今度は結衣が遠慮がちに質問を投げる。非常にめんどくさい事になってしまった。

「俺がぶつかった車に乗っていたのが雪ノ下だ」

「えぇ!?」

「そんなに驚くな。言ってみれば俺たち3人の関係は入学式からの"縁"ってやつだ。知ってたのは俺だけだったみたいだが、俺は密かにあのイベントに感謝して・・・って、今すげぇ恥ずかしいこと言ってる、俺?」

「ヒッキー・・・」「比企谷君・・・」

結衣も雪乃も、若干の申し訳なさ、嬉しさ、照れが入り混じったような表情を浮かべている。

とりあえず、丸く収めたと言って差支えないだろう。これぞ社会人の会話スキル。

小町が感心したような目で俺を見ていたので、こっそりとウィンクで答えた。

「さて、そろそろ仕切り直しをさせてもらうぞ。川崎大志・・・だろ?長話してて悪かったな」

俺は哀れにも放置されていた義弟、川崎少年に話を振った。

「どうも、川崎大志っす。皆さん、総武高ですよね?僕の姉も総武高に通っていて、川崎沙希っていうんですけど・・・」

俺のフリに頷いた大志が、最近の姉にまつわる悩みを打ち明けだした。

☆ ☆ ☆

「つまり、お姉さんが不良化したのは2年生に進級してからということね」

「帰りが遅いって、何時くらい?」

「朝5時過ぎとかっす」

「御両親は何も言わないのかしら?」

「うちは共働きだし、滅多に顔も合わせないんで・・・暮らし的にも結構いっぱいいっぱいなんすよね・・・たまに顔を合わせても喧嘩しちまうし、俺が何言っても”アンタには関係ない”の一点張りで・・・」

雪乃と結衣の質問に大志が答える形で、川崎家の状況が洗い出されていく。

「姉ちゃん、総武高に入った位だから、中学の時は真面目で・・・それに優しかったっす。それがこんなことになっちゃって・・・」

大志の呟きに皆が深刻そうな表情を浮かべて静まり返った。その静寂を打ち破るように、俺は口を開いた。

「ちょっといいか?・・・まず、大志、お前の姉のことはそんなに心配する必要はない。あいつとは最近少しだけ話すようになったんだが、決して不良化なんかしていない。帰りが遅いのには何か事情があるんだろう」

「え!?話したって、ヒッキーが!?川崎さんと!?なんで!?いつ!?」

大志を安心させるために言った言葉に結衣が過剰に反応した。

「俺が女子とコミュニケーションするのがそんなにおかしいか?ボッチだからか?」

「・・・由比ヶ浜さんはそういう意味で聞いているのではないと思うのだけれど」

雪乃がジト目でそう呟いた。

 

――いや、さすがにわかってるけどね

俺は結衣の好意に気付かないほど鈍感ではないし、今は”これは同情だ”なんて捻くれた自己解釈を以って受け止めるようなガキでもない。だが今の俺にはその気持ちに応えてやれるだけの資格がない。何せ、結衣と同じくらい雪乃も沙希も好きなのだから。

 

「はぁ?何言ってんだ、お前ら?」

2人を突き放すようにトボけた言葉を言い放ち、自分の気持ちを封印した。

「とにかくだ、川崎のことは俺たちに任せろ。また連絡するから、携帯の番号を交換しておこう」

俺たちは大志と連絡先を交換し、この場を切り上げた。

☆ ☆ ☆

 

翌日

 

――川崎沙希は不良ではない

 

そう言った俺を信用しているのか、結衣も雪乃も、前回試みたアニマルセラピーや葉山色仕掛け作戦を提案することはなかった。

 

ただ、どんな事情があろうと、帰りが朝5時過ぎというのは明らかに異常だ。2人は一先ず平塚先生に相談する方向で対応策を考えていた。

本件に関して言えば先生は全くの役立たずであることは俺は知っている。だが、敢えてこれに反対するのも不自然だ。俺は取り敢えず黙って2人に従うことにした。

「待ちたまえ、川崎、君は最近家に帰るのが遅いらしいな。一体どこで何をしているんだ?」

「・・・誰から聞いたんです?」

俺たちは少し離れた物陰から先生と沙希の会話に聞き耳を立てている。

「クライアントの情報を明かすわけにはいかないな。それより、質問に答えたまえ。」

「別に何処でも良いじゃないですか」

高圧的に聞き出そうとする先生に、全く臆することなく受け流そうとする沙希。思った通り、あの時と同じような会話が繰り広げられている。

「君は親の気持ちを考えたことはないのか?」

「先生・・・そういうの、親になってから言えば?あたしよりも、自分の心配した方が良いって。結婚とか」

――沙希、俺が言って許される言葉じゃないが、その台詞は30過ぎた時に、ブーメランになって返ってくるぞ・・・

崩れ落ちた平塚先生を無視するように、沙希はさっさと靴を履き替え、学校を後にした。

「あちゃ〜 先生可哀想」

結衣が同情しながらそう言った。確か、あの時の先生は半ベソかきながら”今日はもう帰る”と、職務放棄を宣言したはずだ。誰か、本当に貰ってや――

「待って、平塚先生が立ち上がったわ」

――ん?立ち直り早ぇな。

雪乃の言葉を聞き、違和感を覚えた俺はもう一度先生を見る。携帯電話を取り出して誰かと通話しているようだ。

「あ、もしもし?宮田君か?総武高校の平塚だ。先日はウチの生徒の件で世話になった。・・・ところで今日の夜、少し時間をもらえないだろうか?」

え、何これ?

「え?いや、大した用事ではないんだ・・・・何?深夜残業?大丈夫大丈夫、じゃあ0時頃にオフィス前で待たせてもらおう」

『ちょっと何なんですか貴女!?こっちは問題大有 ピッ』

先生が電話を切る直前に、携帯から宮田さんの抗議の叫びが聞こえてきたような気がするが、気のせいだろうか。いや、明らかに断ろうとしてましたよね、今の。っていうか、ここから都内まで結構距離もあるし、0時頃にオフィス前って、最早ストーカーの領域ですよ、先生。

しかし、平塚先生が宮田さんに目を付けるとは、とんでもない歴史改変の瞬間を垣間見たような気がする。そりゃ、2人をよく知っている自分からすると、それぞれ幸せになっては欲しいが、こういうのは、両親がイチャついてる瞬間を偶然目にしてしまったような、なんとも言えない微妙な気分だ。

俺は今見た光景を忘れるため、雪乃と結衣に声をかけ、その場を後にした。

☆ ☆ ☆

その後、結衣と雪乃を家に帰すと、俺は1人、ファミレスに大志を呼び出した。

大志は、怪しい店から自宅に電話がかかってきたと、気が気ではない様子だった。小町も結衣も雪乃もいない今日は、”姉ちゃんが風俗でバイトしてるかもしれないっす!”と、ド直球で俺に悩みをぶつけてきた。

「おい、落ち着け。風俗店のマネージャーが本人の携帯以外に連絡することはまずないから安心しろ。身内バレして女の子が辞めちまったら業績が悪化するからな」

「・・・なるほど、そうかもしれないっすね」

俺の言葉を反芻するかのように自分に言い聞かせ、最終的に大志は納得した。

「その店、エンジェル何ちゃらと名乗ったって言ったな?なら、川崎のバイト先は間違いなくエンジェルラダー、ホテルロイヤルオークラの高級バーだ。」

「なんでそんなことが分かるんですか!?」

「この辺でエンジェルと名のつく店を調べてみた。該当するのはメイドカフェかその店の2つだけだ。そして最近あいつは朝帰りばかりときた。深夜営業してんのはバーだけだからな」

「お兄さん、パないっすね」

尊敬の眼差しで俺を見つめる義弟。本当は最初から知っていただけ。さも推理が冴える名探偵の如く振舞っていることに、若干の申し訳なさを感じた。

「んなこたぁねえよ・・・大志、よく聞け。お前の姉ちゃんがバイトしてるのには理由がある」

「お兄さん、何か知ってるんですか!?教えてください!」

「それは学費のためだ。塾に大学・・・俺達の学年の生徒も、進学するとなるとこれからどんどん金がかかるからな。お前に黙ってんのは、お前に余計な気を使わせないようにするためだろう」

「そんな・・・」

「分かったか?川崎沙希は、今でも昔と同じ、真面目で優しいお前の姉ちゃんだ。疑った事は後で謝っておくんだな」

「はい・・・でも俺はどうすれば」

俺の情報からは、姉が怪しいバイトをしていたわけではなかった事が分かっただけで、決して根本的な解決が図られた訳ではない事は大志も理解していた。

どうやって沙希と大志の問題を解決するか、俺はここのところずっと悩んでいた。勉強会の提案も沙希が最終的に受け入れるかは分からない。塾のスカラーシップにしても、一時凌ぎに過ぎない方法だ。何故なら今後沙希が大学に進学すれば更に学費はかかるのだ。沙希はあまり言葉にはしなかったが、大学時代には経済的にかなり苦労したようだった。

幸い、今の俺には一般的な高校生にない一定の財力がある。だが俺が沙希を経済的に支援するには、それなりに合理的な理由が必要になる。それは俺たちがクラスメートや友達という、一般的な関係以上に濃い繋がりを有している事が大前提だ。

自惚れる訳ではないが、今の俺でも沙希とそう言った関係を構築する事は不可能ではないだろう。だが、それは結衣や雪乃との間に築いてきた今の関係のバランスを崩す事に繋がりかねない。そもそも俺が無償で沙希の学費を負担すると申し出たところで、沙希は100%それを断るだろう。

「大志・・・お前、姉ちゃんの為なら何でも出来ると、自信を持って言えるか?」

俺は、一呼吸置いて大志に覚悟の程を確認する。

「やります!何でもやります!やってみせるっす!」

少しは悩むと思っていた俺の予想に反し、大志は気持ち良いくらいの勢いで、そう即答した。そして、その勢いが俺に覚悟を固めさせた。

「よく言い切ったな、見直したぞ・・・全部俺に任せろ」

 

“その言葉が聞きたかった”

 

某モグリの天才医師が、似たようなシチュエーションでクライアントに言った言葉を俺は思い出していた。違うのは、俺が外科医ではなく金融マンだという点だ。言ってみれば、俺は金の問題を解決するプロだ。そして沙希は自分の女だ。彼女が経済的に問題を抱えているのであれば、それを解決してやれなくて、この先プロを名乗れるだろうか。

 

答えは否だ。



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14. 比企谷八幡は紳士協定を再締結する(下)

 

20:00 pm

俺はスーツを着込み、大志を連れて雪乃の家を訪れた。

以前、奉仕部でエンジェルラダーへ行った時は親父のスーツを拝借したが、今回はスーツもネクタイも全て自前だ。決して高い代物ではないが、丈も幅も自分の体にフィットしてダボつきがないスーツは着ていて気持ちが良いし、それなりに見栄えがする。

 

黒に近い濃い目のグレーのスーツ、金融マンのトレードマークである純白のワイシャツ、控えめな色のタイと、スーツからチラリと見えるタイピン・カフス、鏡のように磨き抜かれた黒の革靴。髪はベタつかない程度の整髪料で軽く額が出るようににクセを付ける。

 

これが社会人比企谷八幡の日常スタイルだ。久々にこの格好をすると、不思議と気合が入った。

雪乃のマンションに着くと、俺はインターフォンを鳴らした。

 

『どうぞ。上がってきて頂戴』

 

雪乃の返事と共に、マンション入り口のドアが自動で開いた。

 

 

「・・・」

 

玄関のドアを開けた雪乃は、驚いたような顔をして、俺の姿を爪先から頭の先まで見回した。

「おい雪ノ下、いきなり無言でどうした?」

「・・・馬子にも衣装とでも言うのかしら。そんなに粧し込んで、何をするつもりなの?」

 

第一声がそれかよ。

「ゆきのん、ヒッキー来たの?・・・って、ほぇ~、ヒッキーカッコイイ・・・」

雪乃の背中から出てきた結衣がそう呟いた。

「なんだ、由比ヶ浜もいたのか。こりゃちょうど良い。俺からの要件は2つだ。1つは、こいつの姉、川崎沙希のバイト先に、今夜奉仕部として話をつけに行くってこと。もう1つは雪ノ下、お前も出資してくれてる、俺たちの運用ファンドの件で相談がしたくってな」

 

そう言うと、俺の横にいた大志は遠慮がちに結衣と雪乃に会釈した。

「・・・いきなりで少し混乱してしまったのだけれど、もう少ししっかり説明してもらえるかしら?」

雪乃の言葉に頷くと、俺は大志と共に雪乃の部屋へと上がった。

そして俺は2人に、沙希の朝帰りの理由に加え、判明したバイト先を伝える。そして、俺が沙希に提案しようと思っている解決方法について、意見を伺うべく話を切り出した。

 

「ただバイト先に乗り込むだけじゃ、嫌がらせと変わらないからな。川崎には俺たちに出来る限りの協力を申し出るつもりだ。まず1つ目、奉仕部として正式にあいつを俺たちの勉強会に誘う。これは下手な学習塾に通うより、学習効果が高いことはここ最近の由比ヶ浜の成果を見ても明らかだ。何より金もかからない」

「・・・反対する理由はないわ。続けて?」

「今言ったやり方で、金を掛けずに受験勉強が出来れば、一時的にあいつの問題は先送りすることができる」

「え?先送りってどういうこと?それで解決出来るんじゃないの?」

「そうだ、あくまでも先送りに過ぎない。経済的な問題ってのは、大学に進学した後も付き纏うもんだからな。普通の高校生には根本的な解決策を示すことなんて不可能なんだよ・・・普通の高校生にはな」

そう繰り返して雪乃を見る。何かに勘付いたような顔で口を開いた。

「それで私にファンド運用の相談ということ?」

「その通りだ、雪ノ下。俺は今のファンド資産のうち20万程度をキャッシュアウトし、個人的に川崎沙希の弟である此奴に融資しようと考えている。一応株主であるお前からは、その承諾を得る必要があると思ってな」

「「「は!?」」」

「ちょっと待って、ヒッキー!ファンドとか、何の話をしてるの?」

「20万も俺に融資するって、どういうことっすか!?」

「学生同士でそんな大金を貸借りするなんて、非常識にも程があるわ!それに何故、川崎さん本人でなく、弟の彼にお金を貸すのかしら?」

返ってくる三者三様のレスポンス。俺は聖徳太子じゃないっての。

「みんな、落ち着いてくれ。まず由比ヶ浜と大志に説明する。俺が株の投資をしてることは知ってるか?」

「・・・う、うん。ヒッキー、学校でも新聞読んだり、よく携帯いじってるもんね」

「その投資についてだが、実は雪ノ下も俺に金を預けてるんだ。その資産が合計すると今、90万円程度ある。その内訳だが、俺の元々の出資が5万、雪ノ下の出資が1万。取り分は5:1で、俺が75万円、雪ノ下が15万円・・・ここまで、大丈夫か?」

「「スゴ!!」」

俺の説明に対し、結衣と大志が声を上げて驚きの反応を見せた。

「っていうか、ゆきのんもお金預けてたなんて、聞いてないよ!あたしも仲間に入れて欲しいし!」

「待ちなさい、比企谷君。その計算はおかしいわ。私がお金を預けた時、すでに貴方の資産は70万円あったのよ。本来、取り分は70:1となるはず。貴方の計算だと、貴方が儲けたお金を、私が何のリスクも取らずに掠め取る形になってしまうわ」

「・・・そうすると、ゆきのんの取り分は12,676円か」

「「計算早っ!!」」

結衣の呟きに、俺と大志は目を丸くした。雪乃もかなり驚いているようだ。その特技は何故数学の成績にほとんど反映されていないのか、不思議で仕方ない。

「・・・まあ、そう拒否するな。出資比率に応じて儲けは按分するって、最初に言っただろう。由比ヶ浜の出資も歓迎する。この特別扱いは奉仕部限定だ。いつか、部活で旅行にでも行きたいしな。そのための資金だと思ってくれ」

「・・・」

雪乃はまだ釈然としないような表情を浮かべているが、結衣の方は目をキラキラさせて俺を見つめている。

「話を元に戻す。俺は今の自分の持分のうち、20万を大志に譲るつもりだ。今後、ファンドで儲けた資金の20/90は、川崎沙希の大学の学費に充てられる事になる。もちろんタダでとは言わん。この元手になる20万は期間15年の融資の形で、将来大志からきっちり耳を揃えて返してもらう。金利はゼロだがな。それから、俺が投資に失敗して元本を割り込んだ時も、返済の対象外にしてやる」

――そんなことはまずありえないけどな

「ちょ、ちょっと待ってください!いきなりそんなこと言われても困るっす!」

「なんだ、さっきは姉のために何でもするって言ったのに、借金を背負うのは嫌か?」

「そうじゃなくて、いくら何でもそんなにしてもらう理由が見あたらないっすよ!」

「・・・お前なら確実に返してくれると思ったから、現時点で自分に使い道のない金を貸して恩を売ろうってだけの話だ。利息は取らんがこれも投資の1つの形さ。それに俺が川崎に直接申し出ても、こんな話、疑われて終わるだけだ。あいつの説得はお前に任せるからな」

「お兄さん・・・」

「ヒッキー、あたしはヒッキーの決めたことだから反対はしないよ。でも1つだけ聞いてもいい?」

「なんだ?」

「その・・・ヒッキーは、川崎さんのことが好きなの?」

 

その場が静まり返った。

結衣の質問は俺が懸念していたことをピンポイントで突くものだった。

雪乃も真剣な目で俺を見ている。大志も俺の姉に対する気持ちが気になるようだ。

「・・・俺にとって、本物と呼べる人間関係が築けると思える人間はこの世に3人だけいる。お前と、雪ノ下と、そして川崎だ・・・詳しいことはいつか必ず説明する。今はこれで納得してもらえないか?」

「・・・うん」

「・・・」

不安でいっぱいと言った感じに強張った結衣の表情は若干緩んだものの、その瞳からは、心が完全には晴れていない事が覗われた。雪乃は相変わらず沈黙を続けている。

「そういう訳だ。大志、今日はお前は家に戻れ。後は俺たちが川崎と会って、奉仕部の勉強会に誘う。それで当面の問題は一先ず解決だ。大学の学費の事は、後々、俺たちが高校を卒業するまでにタイミングを見て川崎に説明すればいい」

「はい」

「それでは、私たちもドレスコードに合わせて着替えるわ。由比ヶ浜さんにもドレスを見繕うから、少しの間だけ待っていてもらえるかしら?」

「了解だ。じゃあ俺は大志を下まで見送って、そのままエントランスで待ってる」

そう言って、俺たちは雪乃の部屋を後にした。

「お兄さん、何から何まで、本当にありがとうございます。何て言ってお礼したら良いか」

帰りのエレベーター、大志は改めて俺に礼を述べた。

「気にするな。今は分からんだろうが、一流の社会人になれば高々20万、一晩の夜遊びで使いきってもおかしくない程度の金額だ。さっきはあいつらの手前、融資なんて言葉を使ったが、別に現金で返さなくても良いんだ。いつか、キャバクラで高い酒でも飲ませてくれ」

というよりも、既に飲ませてもらってるから、これでようやく貸借りが無くなったと言える。

「キャ、キャバクラっすか!?」

「ああ、そうだ。だがその為にはお前にもしっかり勉強して、ちゃんと出世してもらわなけりゃならん。これは単純に金を返すよりも厳しいからな・・・これが男と男の約束、”紳士協定”だ。忘れんなよ」

「は、はいっす!!」

大志は緊張感のある面持ちで返事をすると、勢いよく雪乃のマンションを飛び出していった。これでこいつも高校受験に向けて、必死で勉強するだろう。

☆ ☆ ☆

しばらくすると、ドレスに身を包んだ雪乃と結衣がエントランスへと降りてきた。

やや胸元の開いた赤いドレスを着込んだ結衣と、黒紫のシンプルなドレス姿の雪乃。髪型も、服装に合わせて普段とは違うスタイルにセットしている。過去にも一度見ている筈だが、今の俺の方が2人の魅力をより理解しているためか、意図せずその姿に目を奪われる結果となった。

「えへへ、どうかな?」

「・・・2人とも綺麗だ。こりゃ、安っぽいスーツの俺なんかじゃ、バランスが取れないな」

「そんな事はないわ。さっきは馬子にも衣装なんて言ってしまったけれど・・・比企谷君も・・・その、良く似合っていると思うわ」

照れながらの結衣の問いに対し、正直な感想を述べると、返す言葉で雪乃が俺の見てくれを褒めてくれた。こんな事は過去の記憶を辿っても今日が初めてかもしれない。今の雪乃のセリフは録音しておけば良かったと、後悔するレベルだ。

「そりゃ、光栄だな・・・2人とも、後で写真撮らせてもらっていいか?携帯の待ち受けにするから」

「ヒッキーキモい!」

「やっぱりどんな格好をしてても、貴方は貴方ね、キモ谷君」

「え、そこまで言っちゃう?これ、泣いていいよね、俺?」

先程雪乃の部屋で、結衣の質問に答えてから、何となく俺たちの間に重苦しい雰囲気が漂っていたが、これでようやく皆いつもの調子に戻った。俺たちは3人でやかましく騒ぎながら先のバイト先であるバーへと向かって行った。

☆ ☆ ☆

「いらっしゃいませ・・・って、アンタ何してんの?そんな格好までして」

 

ホテルロイヤルオークラ最上階のバーには、俺たちの思惑通り、バイト中の沙希がいた。幸いにも平日だからか、店内はガラガラで、俺たち以外にほとんど客はいない。

 

俺たちは、沙希が忙しそうに働いていたカウンター席に腰掛けた。

「よ、頑張ってるところ押しかけて悪いな・・・」

「女連れて、冷やかしのつもりかい?・・・注文は?」

沙希はムッとした表情でそう言い放った。

「ちげぇよ・・・取り敢えずビー・・・・じゃなくて、雪ノ下と由比ヶ浜もペリエでいいか?」

危なかった。俺はビールと言いかけたのを誤魔化し、炭酸水を人数分注文した。

「それでいいわ・・・比企谷君、あなたまさか飲酒してるの?まるでサラリーマンのような物言い、呆れるわね」

 

雪乃にはしっかりバレたようだ。だが、サラリーマンで何が悪い?言っておくが、俺は2度目の高校生活で飲酒などしていない。

 

「取り敢えずビールって、言ってみたい年頃なんだよ。察しろ」

「・・・バカじゃないの」

「・・・バカね」

沙希の呟きに雪乃が同調した。お前ら、実は仲良いのか?

 

そんなやり取りをしながらも、沙希はテキパキと注文を準備し、俺たちの前にグラスを並べた。

結衣はグラスに口をつけると、顔をしかめて小声で「うぇぇっ」っと声を漏らす。コーラのように糖分の入っていない炭酸水を初めて飲んだのだろう。

 

「さて、川崎。今日はお前に用があって来た。隠しても仕方ないから言うが、実は大志に頼まれたんだ。お前の帰りが遅すぎて心配だってな」

「平塚先生に言ったのもアンタ達ってこと?・・・アタシのことは関係ないでしょ。もう大志にも関わらないで」

「そういう訳にも行かないわ。この件は私達奉仕部が依頼として引き受けたのよ、川崎さん。あなたが年齢を誤魔化してまで働く理由も聞いているわ。でも・・・」

「なら尚更関わらないで。アタシは遊ぶ金欲しさにバイトしてる、そんじょそこらのバカとは違うの」

 

雪乃の言葉を遮って、そう言った沙希の表情は険しい。

「それも知ってるって。だからちゃんと川崎のために代案を用意したつもりだ。頑張ってるお前には言いづらいが、このままバイトを続けて金が溜まったとしても、今度は勉強時間が確保できずに結局進学は遠のく。お前も薄々分かってんだろ?」

「・・・それは」

沙希はバカじゃない。やはりずっと悩んできたのだろう。俺が改めて突き付けた現実に、顔を曇らせた。

 

「前にも誘っただろ?奉仕部の勉強会。これなら金もかからんし、学力も確実に上がる。俺たちの所に来いよ」

 

「へぇ、前にも誘ったんだ?アタシたち聞いてなかったけど、どういうこと?ヒッキー?」

 

俺の言葉に真っ先に反応したのは、これまで黙っていた結衣だった。俺を責めるような、悲しそうな目が、心に突き刺さる。

 

「ど、どういうことって・・・何でそんな目で俺を見る!?」

「ヒッキーのバカ・・・あのね、川崎さん、ちょっとアタシたち女の子だけで話がしたいの。もう少しだけ時間ちょうだい。お願い!」

「お、おいお前、何勝手に・・・」

「うっさい!ヒッキーはあっち行って!」

そう言って結衣は俺の背中を力一杯押す。

「・・・ここは素直に従ったらどうかしら?私もついているのだし、おかしなことにはならないわよ、きっと。後で電話するから」

「わぁったよ」

雪乃の言葉に頷くと、俺は3人分の飲み物代をテーブルに置き、1人外へと歩いて行った。

☆ ☆ ☆

翌朝、日課通り誰もいない教室で新聞を読んでいると、結衣と沙希が並んで教室へ入ってきた。

結衣は無理やり沙希と腕を組もうとし、それを沙希が迷惑そうに躱しつつも、それなりに楽しげな雰囲気だ。

「お、お前ら。昨日は結局どうなったんだ?雪ノ下の奴も、明日になればわかるとしか言わねえし・・・そもそも川崎は夜勤明けで、こんなに早く登校して大丈夫なのか?」

「ヒッキーおはよ! いや〜サキサキ、今日から改めてよろしくね〜」

「サキサキ言うな!」

俺の言葉を無視するように目前で会話を展開する2人。

 

「おい、昨日・・・」

「ガールズトークに口挟むとか、ヒッキーマジキモい!あり得ない!」

消えそうな声で事実確認を求める俺の声を、結衣は冷たく切り捨てた。何だか俺に対する物言いに、これまであった若干の遠慮というものが一切無くなったような気がする。

「アンタ、朝新聞読んでるって、一応本当だったんだ。これで本当に女子の持ち物にイタズラしてるような変態だったら、入部の話はなかった事にして貰おうと思ってたけど、その心配は無いみたいだね」

「え?入部?勉強会だけじゃなくてか?」

「ま、そう言うことだから、これからよろしく」

「お、おう」

「・・・一応アンタには感謝してるから、そのうちお礼させてもらう。それと、うちの大志がやけにアンタに心酔してるみたいだったけど、アンタ何言ったの?紳士協定がどうのとか言って、何も教えてくれないんだよね」

「あ、ああ。大志が口を割らないなら俺が話す訳にもいかんだろ」

「なら、昨日の女子トークも詮索しないで」

巧く沙希の会話に乗せられて、俺はこれ以上質問することが出来なくなってしまった。

 

雪乃にメールで聞いてみても、返信は猫の絵文字しか送られてこない。女同士で結託されてしまえば、男が入り込むような余地は一切無いのだ。結局、沙希、結衣、雪乃のやり取りは、俺には永久に知ることが叶わないものとなってしまった。

 

かくして、沙希が奉仕部に加わることになった。

 

俺の願望通りと言えば願望通りだが、俺はこの先も3人と上手くやっていけるのだろうか。

喜びと不安が自分の心の中で渦を巻きながら、大きくなっていくのを感じていた。

 

 

 

 

 

 



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第三章 変革
15. 比企谷八幡は未上場企業に投資する(上)


「何故私はこんな場所にいるのかしら・・・」

「お前でも緊張する事があるんだな、雪ノ下。心配するな。今日は言った通りに通訳してくれれば良いんだ」

俺たちは今、都内のオフィス街にある高層ビルの会議室にいる。落ち着かない様子の雪乃を宥めるように俺は声をかけた。

「すまないねぇ、比企谷君、雪ノ下さん」

俺と雪乃の間、テーブル上座の真ん中に座る中年男性が、申し訳なさそうにそう言った。

「武智社長、これは俺たちの利益にも関わる大事な商談です。前面に出るのは当然のこと。むしろ呼んで頂いて感謝してますよ。絶対に成功させましょう」

「いやはや、頼もしい限りだね・・・私ももっと色々と勉強しなきゃなぁ」

——トントン

武智社長が呟き切る前に軽めのノック音が室内に響いた。

俺は自分のネクタイをもう一度締め上げる。

一瞬の間を置いて、会議室に高級そうなスーツを身に纏った青目の外国人が4名程、部屋に入ってきた。

『Hi, welcome and thank you very much for coming to our office』

うち、1人がニコニコしながらそう言い、手を差し出してくる。

「武智社長、挨拶、挨拶です!手ぇ、握り返して!」

俺は小声で武智社長に握手に応じるよう促す。俺の声にハッとしたような表情を見せた武智社長は、先方の手を握り返し、「ナイストゥーミーチュー、センキュー、センキュー」と、ベタベタな日本人英語で挨拶を行った。かの武智社長も外人との商談は初めてなのだろう。社長をフォローするように、俺は会話を切り出した。

『本日は面談のお時間を頂き有難うございます。既に宮田さん、槇村さんからお聞きかもしれませんが、本日はまず我々の方から、総武光学の紹介をさせていただきたいと思います。その後、御社からはファンドのご紹介に加え、出資条件当についてお話を伺えれば幸いです』

テーブルを挟み反対側に並んで座る4名の外国人は、笑顔を崩さずに俺の言葉に頷くが、その眼光は非常に鋭い。

『こちらの出席者は、総武光学創設者の武智、並びに少数株主である私、比企谷、武智の通訳を務める雪ノ下の3名です』

俺は続けて、自分たちの紹介を行った。

正直、製品技術の話を除く駆け引きに関して言えば、武智社長は戦力外だ。

雪乃には当然ビジネス経験などあるはずも無く、今の段階では通訳以上の働きは期待できそうに無い。この会議は俺がコントロールし、今後の交渉に繋げられるよう、アピールせねばならない。

そんな中、今の俺の見た目が高校生であるということは、明確なハンデだ。相手の印象を覆すだけのインパクトをどれだけ与えられるかが勝負の鍵となるだろう。

俺は久々の緊張感と高揚感で乾いた上唇を少しだけ舐めると、ビジネス交渉の臨戦態勢へと入った。

☆ ☆ ☆

数週間前

中間テストも無事に終わり、今日は待ちに待った職場体験の日だ。

俺は、葉山と戸塚と組んだグループで、朝9:00から総武光学へとお邪魔した。

工作機械が立ち並ぶ工場の隅に申し訳程度にあるオフィススペースに、数十名の社員が立ち並んでいる。これが当社の朝礼の風景だ。

「今日は前もって皆さんに伝えていた通り、総武高校から職場見学の学生が来てくれました」

作業服姿の社長、武智さんがそう言うと、社員が若干ざわついた。

“あら〜、可愛い男の子が二人もいるわ”と、パートのオバちゃんらしき女性が口にするのが聞こえる。それ、除外されてるのは絶対俺だよね。オジサン、泣いちゃうよ。

「じゃあ3人とも、早速自己紹介をお願いできるかな?」

武智社長の言葉に頷く俺たち

「総武高校2年F組の葉山隼人です。今日はお忙しい中、僕たちの学校行事にご協力いただきまして有難うございます。皆様の職場で色々と勉強させていただきたいと思いますので、よろしくお願いします」

葉山が先陣を切って挨拶すると、拍手が鳴り響いた。何やらオバさん連中が大いに盛り上がってるようだ。

「えっと、葉山君と同じクラスの戸塚彩加です。お邪魔にならないように精一杯お手伝いさせていただきます。よろしくお願いします!」

続く戸塚の挨拶にも盛大な拍手が送られた。先ほどの女性陣に加え、一部の男性職員も何やらテンションを高めている様子だ。

「同じく、総武高2年F組の比企谷八幡です。今日をずっと楽しみにしてました。よろしくお願いします」

二人と比べて明らかにまばらな拍手。おい今、”なんか目がヤバイぞ。大丈夫か?”って小声で言った奴、ちゃんと聞こえてるからな!覚えてろよ。

俺たちの挨拶が済むと、朝礼も早々に終了し、俺たちは社長に連れられて、社内の案内と業務の簡単な説明を受ける。葉山も戸塚も、工場に並ぶハイテク工作機械に興味津々といった様子だ。

「いや〜、今時こんな町工場みたいな中小企業にわざわざ来てくれるなんて、嬉しいね。今日は何でも遠慮無く聞いてよ」

武智社長は案内しながら、そんな言葉を口にした。そんな会話の端々からこの人の人柄の良さが窺われる。むしろ度の過ぎたお人好しが疑われるレベルだ。作業場を歩いていると、多くの社員が社長の下に集まり、軽めの挨拶や世間話をふってくる。社内での人望も厚いのだろう。

「あの、この機械は何を作ってるんですか?」

武智社長の言葉に甘える形で、まずは戸塚が質問した。

「これは虹彩認証センサー用の特殊なレーザーを発振するための部品を作ってるんだ。基本はコンピュータ制御で動かしてるんだけど、レンズ部分なんかの調整には、熟練工の腕がものを言うんだよねぇ」

「虹彩認証って、指紋認証みたいに瞳の中の生体情報を読み取ってロックを解除したりするものですよね?大手のセキュリティ会社に製品を販売してるって、事前に聞きましたけど・・・」

葉山が武智社長との会話を繋ぐようにそう言った。

「良く調べてくれてるね。その通りだよ。今の所、この製品がうちの収益を支えてるんだ」

「他にも製品があるんですか?今の所ってことは、何か開発してるとか?」

会話の流れで俺にも質問のチャンスが巡ってくる。当社が携帯や自動車向け部品を世に送り出すのはまだ先の事だ。だが、今の段階から製品開発を行っているのであれば、その裏方をぜひ覗いてみたい。

「・・・良く聞いてくれた! 今はもっと汎用性の高い光学バイオセンサーを開発していてね。電化製品や自動車を”視線”を使って操作をするっていうアイデアなんだ。これが出来れば、世界が変わるっていうような製品を目指してるんだよ!」

武智社長は嬉しそうにそう言った。

——世界を変える

この言葉を聞くのは、雪乃、劉さんに続く3人目だ。

目指す世界は人それぞれだが、そのセリフは何故かいつも俺の心に響いた。

「とは言え、今はまだ構想と設計段階なんだ。製造には高価な機械が必要なんだが、恥ずかしい事に資金がね・・・」

「銀行からお金借りたりできないんですか?」

戸塚が素朴な疑問を投げかけた。

「運転資金と違って、中小企業の設備投資資金は審査がなかなか厳しいし・・・工場の敷地・家屋の方はもう担保に入れてしまっているからね」

戸塚も葉山もイマイチ良くわからないと言った表情を浮かべる。だが、あまり金の絡んだ問題に深入りするのは良くないと判断したのか、それ以上質問する事はなかった。

俺たちから追加の質問が出ないことを確認すると、武智社長は「じゃあ、次行ってみようか」と言い、先頭を立って歩き出した。俺たち3人も社長の後ろに付いて歩き出す。俺は社長に聞こえない程度の声で、葉山と戸塚に先ほどの社長の説明を補足してやった。

「・・・銀行は返済の見込みがあって初めて金を貸す。運転資金ってのは、通常業務を回すのに必要な金の事だ。材料費とか電気代とか人件費とかな。これは今の事業を普通に続ければ売上で回収出来る金だから銀行も貸しやすい。だが、新しい機械を買って新製品を開発するとなると話は別だ。その製品が完成する保証は無いし、仮に開発が成功しても売れるかどうか、誰にも分からない訳だからな。下手すりゃ焦げ付くような融資は、担保でも無けりゃ、まず出来ないんだよ。社長の話から推測するに、既に今ある機械の幾つかを買うために、工場を担保に金を借りているんだろう。だからこれ以上借入は出来ないって訳だな」

俺は社長の言葉を自分なりの解釈に置き換えて二人に小声で説明した。

「・・・八幡、スゴイね!?何でそんな事が分かるの!?」

「俺も驚いたよ比企谷、いったい何処でそんな事を勉強してるんだい?」

二人が驚いた様子で俺に質問する。

「毎朝経済新聞を読んでりゃ何となく分かるようになるぞ」

俺には一般の銀行員のような企業向融資の業務経験は無い。金融業界と一口に言っても、俺の専門はマーケットでのトレーディングと、プロジェクト投資だ。それでもこうした事が分かるのは日々の積み重ねによる知識の蓄積のためだ。読んでて良かった日○新聞。社会人の必須アイテムと言っても過言では無いだろう。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

俺たちは一通り工場の見学を終えると、再度オフィススペースに案内され、今日の体験学習の一部である経費処理の手伝いをする事となった。武智社長に変わり、経理の女性が、伝票処理の仕方を丁寧に教えてくれた。

総武光学は中小企業だ。事務のシステムまでにコストを掛けられない事情があるためか、経費処理も一般的な表計算ソフトを使っていた。俺は、伝票のインプット作業と並行して、自ら入力した経費データがリンクされているシートを探し出し、当社の財務状況の把握を試みた。やはり先程俺が想像した通り、当社は債務水準が既にギリギリの状況にあり、これ以上借入を増やす事は難しい状況にあるようだ。

「あれ、八幡まだ作業してるの?こっちは全部終わっちゃったよ・・・って何見てるの?」

一足早めに作業を終えた戸塚が、俺の作業画面を覗き込んで質問してきた。

「ああ、入力した伝票データを集計した財務データを見てたんだよ」

「そんな数字の羅列を見て、分かることがあるのかい?」

今度は反対隣に座っていた葉山が声をかけてきた。

「ああ。財務諸表っていうのは会社の活動を映し出す鏡みたいなもんだからな。色々分かって面白いぞ。例えば、当社の収益構造。年商は億単位だが、ここ数年金額はほぼ一定だ。これは取引先と安定した長期販売契約を結んでいる証拠だが、今の契約が終了したり、取引先が破綻するようなことがあれば、途端に金の流れが途切れる」

「え!?それって大丈夫なの!?」

戸塚が驚き混じりで大きな声を上げた。オフィスにいる経理担当者の視線が一手に集まる。

俺は若干の居心地の悪さを感じながら、小声で切り替えした。

「販売先は大手と言ったから、破綻の懸念は少ないんじゃ無いか?まぁ、こういうリスクを避けるには商品種類を増やして、取引先を拡大するのが有効だ。社長もその辺のことを分かった上で新商品を開発してるんだろう」

「君、なかなかやるわね。貴方達、普通科の生徒よね?総武高校って商業高校じゃないんでしょう?」

俺たちに伝票処理の作業をレクチャーしてくれた女性が、興味深げに会話に混じってきた。

「あ、勝手に見ちゃってすみません。趣味で投資をやってるんで、決算書は見慣れてるんですよ。でも、伝票からデータを積み上げて決算書を作る過程ってのは初めてで、新鮮です」

「あら、高校生で投資家だなんてカッコいいじゃない。比企谷君、だったわよね?あなたの目から見て、うちの財務に問題はあるかしら?」

経理の女性は試すような目で俺に質問を投げかけた。

「そうですね。まずは材料の購入金額が年度によって大きく違うのが気になりますね。売上がほぼ一定なのに、仕入コストが動くせいで粗利が安定しない。とは言え、毎期黒字は確保してましすし、減価償却費がそれなりに大きいから、営業キャッシュフローは何とか回ってる印象です。ただ債務負担が重いから、借入のコベナンツ充足のためのやり繰りとか、結構厳しいんじゃないですか?この辺は他の経費とかを抑えて調整してる感じっすかね」

「・・・は、葉山君、今の八幡の言葉、理解できた?」

「いや。特に後半なんてさっぱりだよ」

――戸塚はともかく、葉山は企業向けコンサルをやってる弁護士事務所で働くんだから、この辺は将来必死こいて勉強するんだろうな

二人の言葉を聞き流す素振りで、そんなことを考えた。

「スゴイわ!本当に比企谷君の言う通りなのよ!原料費が上がっちゃった年なんかは、社長や営業担当に接待を控えてもらうのが大変でねぇ~」

経理の女性が、愚痴に近い言葉を漏らすと社長がオフィスに入ってきた。

「3人ともどうだい、調子は?」

「社長、この子凄いんですよ!伝票処理の仕事をちょっとしただけで、私の苦労を理解してくれたんですよ!・・・そうそう、来月も銀行に財務資料を提出しますけど、やり繰りが厳しいんだから、今月も接待ゴルフは禁止ですからね!」

――いや、貴女の苦労については自分でペラペラ喋ったんでしょうが

俺は心の片隅で突っ込みを入れた。

「いや~、参ったな」

武智社長は面目なさそうな表情で薄くなった頭をポリポリと掻いた。

「・・・差出がましくて恐縮ですけど、仕入の方も販売の契約期間に合わせて固定価格で契約を取ったりされないんですか?原料によっては先物取引とかで、価格を固定させることもできますよね?」

申し訳無さを感じながらも、武智社長のビジネスセンスを試すような質問を投げかける。

「比企谷君、本当に凄いね!いや、実はうちの抱えてる問題は、君の言う通りなんだ。うちが仕入れなきゃいけない材料や部品は種類が多い上に、特殊なものばかり、おまけにロットが小さいからね。もちろん一部の材料は先物で価格変動のリスクをヘッジしてるんだけど、他は交渉力が弱くてね」

「なるほど。サプライヤーの数が多い一般的な材料だったり、総武光学が大量に仕入を行うような場合は、価格を抑えるための交渉力も高くなる・・・今はその逆ってことか」

社長の話を聞いていた葉山がそう呟いた。流石、未来の弁護士先生、いいセンスしてやがる。

「そう言えば、さっき入力した伝票に、販売先の会社じゃない企業向けの接待領収書が入っていたんです。これって、仕入先の方だったんですか?」

戸塚も葉山に負けじと、積極的に質問を投げかけた。2人とも、今はビジネスに興味深々と言った表情だ。

今回、俺の我侭で訪問先に総武光学を選んだが、これなら大企業の展示ブースを歩いて終わった前回に比べ、学校行事としても大いに有意義なものになったと言えるだろう。

「本当に驚いたよ。君たち、本当に高校生かい?その通りだよ。戸塚君からも言ってやってよ。この接待は必要経費だって。社長の僕が言っても、信じてもらえないんだ」

「ダメなものはダメなんです!」

経理の女性がややヒステリックに声を張ると、オフィス内が社員の暖かい笑いに包まれた。

 

☆ ☆ ☆

 

その後、俺たちは武智社長達と、早めの昼食を取った。

武智社長は、飯の時間、技術に対して馳せる自身の夢を惜しげもなく高校生の俺たちに語ってくれた。

総武光学は、少しばかり財務の問題を抱えているとは言え、間違いなく優良企業だ。

たった半日一緒に過ごしただけで、社員が一丸となって社長の夢を叶えようと尽力する姿勢が伝わってきた。それは経理の女性も例外ではない。何かと口うるさくなってしまうのは、夢の土台であるこの企業を少しでも磐石な物にせんと、努力してるからだ。

――癪だが、槇村さんの言った通りだな

世の中、データじゃ分からないものが沢山ある。プロジェクト投資でなくても、人を見て投資をするってのは、存外重要なのかもしれない。俺はグラフやテーブルの数字ばかり見て投資判断をしてきた、これまでの行動原理を反省した。

「ところで君たち、今日は済まないねぇ。もう少し経理処理に時間がかかると思っていたものだから、午後のスケジュールは特に考えていなかったんだよ」

昼食を食べ終わった頃、武智社長は突然俺たちに謝罪した。

俺たち3人の事務処理能力が想定外に高く、1日かかると思っていた仕事が半日で終わって終わってしまったとのことだった。

「提案なんだが、午後はうちのパソコンを自由に使って、学校に出す研修報告を書いてくれても構わないよ。それから、工場の業務の方に興味があれば、各班長の裁量で仕事を割り振るように伝えておくから、自由に歩いてくれていいからね。・・・あ、でもその時はヘルメットを被るのを忘れないでね。怪我でもしたら大変だからね」

そう言って武智社長は一足先に仕事に戻っていった。

「・・・底抜けにいい人だな」

「同感だよ」

「僕、何かお礼しなきゃ申し訳ないくらいだよ」

俺の言葉に葉山と戸塚が反応する。

はたから見れば俺たちは世間知らずの高校生だ。その場のノリで騒ぎながら、勝手に機械に触ってトラブルを起こしたり、携帯で写真を撮って無断でネットにアップロードしたりと、常識の無い行動を取らないか、監視されてもおかしくは無い。"工場を自由に歩いていい"なんて、俺が社長だったら絶対に許可しないだろう。

「ま、俺ら3人も一応常識ある学生と認めてもらえたってとこかな。戸部とかが混じってたら、今頃、温厚な武智社長の裏の顔が見えてたかもな」

ウェーイと声を上げながら、やたらめったらに機械設備を弄る戸部の姿、その結果引起こされる惨事に、翁面を外し般若面を被る武智社長の姿を思い浮かべる。

「・・・そ、それは偏見だろ、比企谷」

「そ、そうだよ、そんなこと言ったら戸部君に悪いよ」

「とか言ってお前ら、今絶対俺と同じ想像しただろ」

そんな馬鹿話をしながら、俺たちは一先ずオフィススペースへと戻っていた。

――さて、どうしようかな。

俺たち3人は午後のスケジュールについて話し合った。

武智社長はパソコンを自由に使って課題を作成していいと言ってくれたが、学校に提出する研修報告はA4一枚の手書きで十分なのだ。

それでも折角だからということで、俺たちはそれぞれプレゼンテーションソフトを使って、今日の研修の記録と所感をまとめ、総武光学の皆にも見てもらおうと言う、葉山の提案に乗ることにした。

プレゼン向けのスライドを作成するためか、二人は社員と一緒に写真を取ったり、社長の説明で足りなかった技術的な知識の更なる掘り下げのため、工場とデスクを行ったり来た入りで大忙しだ。

 

――何かお礼しなきゃ申し訳ないくらいだよ

俺はPCの前に腰掛けて、先程の戸塚の言葉を反芻していた。

 

 

――俺ができる礼って言ったら、内容は決まってるよな。

俺はプレゼンソフトを起動し、スライドの作成に着手した。

 

 

 

 



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16. 比企谷八幡は未上場企業に投資する(下)

夕刻、俺たちは朝の朝礼と同じく、社員が一同に集まる中で研修報告を開始した。

 

当社は中小と言えど技術系企業、社員はプロジェクターを使用してプレゼンを行う企業カルチャーがあった。俺たちが社長に掛け合って使用許可を求めると、これを快諾してくれたのだ。

薄暗い部屋の中で、葉山が今日学んだことを中心に発表を行っていく。

職員はそれを暖かい目で見守り、発表に耳を傾けた。

「・・・最後になりますが、今日一日、本当にありがとうございました」

報告の締めでスライドに、社員全員と取った集合写真が表示された。

その場に鳴り響く、拍手喝采。

葉山らしさ溢れるプレゼンだった。こういうコミュニケーションを重視したプレゼンは俺にはできない芸当だ。傍らで壁に寄りかかって聞いていた俺も、素直に拍手を送った。

続く戸塚のプレゼンも、葉山に負けない出来栄えだった。

午後の時間、ソフトの使い方に慣れていない戸塚は、俺や葉山に操作方法を聞きながら四苦八苦してスライドを作成していた。

スライドの見栄えは、写真や図を使いこなしていた葉山には劣るものの、感謝の気持ちが十分に伝わる心温まるものだった。

聞けば、二人とも今日出会った職員全員の名前を覚えたそうだ。この辺が、リア充とそうでないものの決定的な差というものだろう。あの頃の俺だったら、二人の上出来すぎる発表を前にして、卑屈になり、斜め上なプレゼンでお茶を濁そうと画策したであろう。

だが、今の俺には俺なりの土俵というものがある。

戸塚が発表を終えると、俺は自分が使っていた端末をプロジェクターに繫げて、深呼吸をした。

 

――さて、ここからはサラリーマン比企谷八幡のターンだ

「では、最後にわたし・・・僕から発表させていただきます」

高校生で一人称が「私」は硬すぎる。かと言って「俺」は不遜だ。普段使わない一人称に違和感を覚えつつ、プレゼン開始を宣言する。

端末を操作すると、スクリーンにスライドの表紙ページが投影された。

【職場体験学習報告 総武高校2年F組 比企谷八幡】

【ベンチャーキャピタルファンドの活用に関する提案】

先程まで、暖かい雰囲気に包まれていた場が、一瞬にして凍りついた。

ざわめき出す職員たち。武智社長も目を丸くしていた。

「どうしよう、葉山君。八幡、また何か斜め上なことを始めちゃったよ・・・」

「あ、ああ・・・様子を見るしかないだろう」

戸塚に、それでも斜め上呼ばわりされ、葉山が無用の心配でオロオロしだしたことに、若干の理不尽さを感じながらも、俺は発表を開始した。

「インパクト狙いでこんなタイトルを付けてしまってすみません。先の二人が、主に工場の技術職の方々の業務を中心に取り上げていたので、僕は会社のもう1つの屋台骨である、財務の方にフォーカスして発表させていただきます」

そう言うと、午前中にお世話になった経理チームの面々が少しだけ嬉しそうな顔をした。

「まず、今日の研修で教えてもらった、御社の経理上の課題についてまとめます」

そう言いながらスライドを操作すると、当社の売上、仕入コスト、債務、経費のやり繰りについて示したグラフと、短めの説明書きが表示された。続いて、それらの問題に対し、現状取られている対応策が挿入された。固定された売上については製品開発と新規販売先開拓、変動する仕入コストについては条件改善のための営業、と言った具合だ。

「今朝、武智社長が、銀行からの追加借り入れは難しいとお話をされたのが、僕には印象に残りました。なんせ、製品開発にはコストがかかる。一方で、このまま売上を伸ばさなければ、他の問題も何とか凌いで行くのがやっとの状況です。今の状況を脱するには、やはりどうしても、まとまった資金が必要だというのが僕の見解です。借入が増やせないのであれば、八方塞がりと言ってもいいい」

従業員全員が静まり返った。俺の言葉は皆に問題点を改めて認識させるに足りたようだ。

「そこで、今日は提案させていただきたいと思います」

流れに乗るような形で次のスライドを展開する。ベンチャーキャピタルファンドとは、と書かれた表題の下に特徴が表示されていく。

「ベンチャーキャピタルファンドとは、未上場の企業に投資を行い、業績を改善させて企業価値を高めて株を売却する、といったビジネスを行う人たちです。ベンチャーキャピタルの頭文字を取ってVCファンドとも呼ばれます。似たような投資を行うファンドについて、バイアウトファンドや事業再生ファンド等と呼ばれるものもありますが、VCファンドは成長が見込まれる若い企業を投資対象としていることから区別されています」

技術職の職員を含め、全員がスライドに釘付けになっていた。会社の問題点を全員で共有してから話し出したことが奏功しているのだろう。

「海外に比べて、日本は銀行融資偏重の経済構造をしているせいか、一般の日本人にとってファンドビジネスと言うものは、なじみの薄いものです。”ファンド”と聞いてまず思い浮かぶのはこのようなイメージが大半かと思われます」

俺の言葉に続くように、スライドにはハゲタカの写真や、いかにも性格が悪そうな成金のイラストが挿入される。それを見て、全員が少しだけ笑った。

「ですが、彼らのビジネスモデルを正しく知れば、企業にとってチャンスにもなります。彼らは、金を貸すのではなく企業に直接出資を行います。簡単に言うと、金を出して株を買うわけです。銀行は業績が悪化すれば融資を打ち切りますが、彼らは株主なので、ある意味では会社の業績と運命を共にします」

再び静まり返った。誰かがゴクリと、唾を飲み込む音が響いた。

「国内におけるファンドの活用事例として有名なのは、我らが千葉県の誇るファミレスチェーン、サイゼ・・・のライバルチェーンであるガ○トを運営する企業が挙げられます。当社は上場企業でしたが、業績が悪化した際に、ファンドによりバイアウトされ、非公開企業となり、経営改革が進められました」

「ちょ、ちょっと待ってね比企谷君、私もそのニュースは昔テレビの特集で見て知ってるけど、改革って社長が更迭されたり、リストラ進めたり、やっぱり良い印象がないんだけど・・・」

経理の女性の発言に、従業員騒然となった。武智社長も心中穏やかではなさそうだ。

「おっしゃる通りです。ですが、この事例は、冒頭で申し上げたバイアウトファンド・事業再生ファンドの投資です。彼らは経営が傾いた企業の株を安値で買い取って、完全なコントロール下に置き、時に厳しい選択をしながら会社を立て直すことで儲けを手にします。今回紹介するベンチャーキャピタルファンドはこれとは異なる投資コンセプトを有しています」

「・・・どういうこと?」

経理の女性が再び疑問符を浮かべた。

「先ほど少し述べましたが、ベンチャーキャピタルファンドは成長が見込めそうな企業の株を買い、その成長支援を通じて株の価値を高めます。テクノロジー業界で言えば、商用化の潜在性がある特許を持っている企業であったり、優秀な指導者の下で立ち上げられた有望な事業に投資します。今、技術チームの皆さんが開発する新技術が市場の開拓に成功すれば、総武光学は大きく成長するでしょう。その可能性が認められれば、彼らは投資を実行し、市場開拓、技術開発、法律関係、財務関係とあらゆる活動をサポートします。企業の上場支援もその範疇です。上場すれば、彼らも公開市場で株を売却出来ますからね」

今度は先ほどとは違う雰囲気で場がざわめき出した。中小企業にとって”上場”の二文字は神聖なまでの輝きを持つ、1つの目標なのだ。このタイミングで俺は畳み掛けに入る。

「特に海外の市場に攻勢をかけたいと考える企業にとって、彼らは心強い味方になるでしょう。グローバルに投資を行っているファンドは、世界中の様々な企業とリレーションがあり、経験も豊富です。海外市場についても熟知している。その知見が借りられるわけです」

「・・・本当にそんなおいしい話があるのか」

誰かが疑うようにそう呟いた。それに答えるように俺は説明を重ねる。

「彼らがどうやって儲けているのか、正しく理解することが重要です。ファンドの人員は、証券マンや会計士のように金融に特化した人材に加え、コンサル、実業経験者、専門技術職と、あらゆる分野のプロで構成されています。彼らは互いに協力し、血眼になって企業を成長させようとします。それが彼らの食扶持になるからです。金は嘘をつきません。企業にとっては、ある意味、口だけ煩い金貸よりもずっと有難いパートナーになるんじゃないでしょうか」

わざとらしく銀行を扱き下ろしながら周りを見渡した。

武智社長以下、皆が真剣な目で俺を見ている。

俺はスライドの最終ページを表示し、言葉を切り出した。

「スライドの最後には、有力なファンドを見極めるポイント、ファンドの出資を受入れる際に気をつけるべき点、ファンドとの交渉において知っておくべき金融知識等をまとめてあります。長くなってしまったので、発表はこれで終わりますが、ご興味があれば資料に目を通していただければ幸いです。ご清聴ありがとうございました」

そう言って俺は自らのプレゼンを締めくくった。

☆ ☆ ☆

翌日の昼休み、俺は奉仕部の部室で雪乃、結衣、沙希と4人で昼食を取っていた。

結衣が沙希の歓迎会をやろうと提案し、それなりに盛り上がっていた所、乱暴にドアを開けて平塚先生が部室へ入ってきた。

「比企谷、貴様一体昨日の職場見学で何をした?」

「なんすか、いきなり。何をしたって、別に問題になるようなことは何も・・・」

先生の剣幕に若干ビビりながら、そう言い返す

「トラブル谷君、正直に言いなさい」

「あ〜ヒッキー、なんかしたんだ。表情が怪しい」

「アンタ、何きょどってるの?」

3者が結託して俺を責めるような視線を投げてくる。

「何もしてないわけないだろう。お前の見学先の社長が、名指しで比企谷に合わせろと、わざわざ学校まで来たんだぞ」

確かに葉山や戸塚のプレゼンと違い、俺の発表後は皆黙り込んでしまった。

会社の経営方針に口を挟むような差し出がましい奴だと、反感を買ってしまったのだろうか。不安に駆られて、背中を冷や汗が伝う。

「いや、俺は会社の問題を指摘して、ファンドの出資を受けたらいいんじゃないかって、提案しただけですよ!生意気に思われた可能性があっても、流石に怒られる程の事じゃないと思うんですけど・・・」

「・・・バカじゃないの」

「・・・バカね」

おい、沙希に雪乃、お前らが仲良しなのはよく分かったから、二人して俺をディスるな。

っていうか、このやりとりには凄まじい既視感を感じる。

「とにかく、社長が待ってる。早く来い」

そうして俺は、平塚先生に連行される形で、職員室に併設された応接室に赴いた。

応接室に入ると、武智社長が血相を変えて飛びついてきた。

「比企谷君!急に学校まで押しかけてしまって、大変申し訳ない!昨日のプレゼンを聞いて、自分でも色々調べてみたんだが、我々も金融については知識が足りなくてね。是非比企谷君に力を貸してもらえないかと思って、居ても立っても居られなくなってしまったんだ。バイト代も出すから、君の時間をもらえないだろうか?」

「ま、待ってください、1つ確認したいんですが、彼は昨日何か問題を起したわけじゃないんですね?」

平塚先生が武智社長の言葉を遮ってそう質問した。

「とんでもない!彼はうちの会社の救世主のようなものです!むしろアポイントメントも無しに学校まで来てしまった私の方が非常識と言われてもおかしくありません」

「それを聞いて安心しました・・・信じていたぞ、比企谷」

そう言う先生の目は泳いでいる。

「その嘘、見え透いてるにも程があるでしょ・・・」

俺は恩師を軽く睨んだ。

「ま、まぁ、そういうことなら私はこれで失礼します。生徒の自主性を尊重してますので。ハハ」

「・・・先生、俺今日、ラーメン食べたいです。そうだ、奉仕部で川崎の歓迎会をやるって言ってたんで、それで手を打ちますよ」

早々に切り上げようとした平塚先生に、傷付いた俺の心に対する補償を求めた。

「ちっ、仕方あるまい・・・では武智社長、私は先に失礼します。午後の授業には割り込まないようにご配慮いただければ幸いです」

そう言い残して、平塚先生は応接室を後にした。先生がいなくなったことを確認して、俺は話を切り出した。

「武智社長、俺にできることがあるのなら、何でもお手伝いさせてもらいます。でも、どうしてただの高校生の俺なんかを信用してくれるんですか?」

「君がただの高校生だというのなら、社会はゆとり教育の成果を見直さなきゃいかんだろうねぇ。君が特別なのはあの場にいた皆が理解したと思うよ。もちろん、葉山君や戸塚君も真面目で素晴らしい生徒だ。だが君には大人でも持っていない知識がある。私は君を尊敬しているんだ」

「そんな、大袈裟ですよ」

「バイト代、いや、コンサルティングの報酬も、ちゃんと業界のスタンダードと同じ水準で支払わせてもらう。実は今朝コンサル会社に少しだけ相談して見積もりを取ったんだがね。正直、提示された金額に最初は目玉が飛び出るかと思ったよ。でも、彼らと話す中で気がついたんだ。比企谷君が昨日残してくれた資料は、彼らの話に全く劣らない内容だった。君の知識にはその位の価値があるということだ」

この人は、人間の持つ能力を、外見や先入観に捉われずに判断する目を持っている。自分の知識を褒められて、天狗になった訳ではないが、俺にも金融のプロとしての自負がある。武智社長は半日のうちに、その情報の持つ価値に気がついたのだ。

だが、高校生に頭まで下げた上で、プロと同額の報酬を約束する社長が、世の中に何人いるだろうか。

「武智社長、流石にそんな高額な報酬を貰うわけにはいきません。でも、1つだけお願いを検討していただけますか?」

「え?何だい?」

一介の高校生が、数百万の金を手にする機会を蹴ったことに意外感を隠しきれないと言った表情で俺に質問をする。

これは俺にとって、大きなチャンスだ。コンサル報酬が鼻クソに思えるくらいの成功を手にする機会が転がり込んできたと言ってもいい。

「総武光学の株式を、何パーセントか俺に売ってください」

一呼吸置いて、俺はゆっくりとそう言った。

「・・・ハハハ、こりゃ驚いた。経営がジリ貧になりかけてる未上場の中小企業の株を欲しがるなんて、君は変わってるね」

俺にはこの会社の未来が見えている。だが、歴史は少しずつ変わるものだということを、沙希の入部で俺は実感した。俺が持っていたのが過去に蓄積した知識だけだったら、こんな荒唐無稽な提案をすることは無かっただろう。何せ、未上場企業の株だ。万が一、問題が起こってもそう簡単に売却する事など出来ないのだから。

だが、俺は総武光学の従業員と、武智社長の人柄に触れて、この会社が成功することを確信した。沙希の学費の件で一定の流動性を確保する必要が無ければ、今直ぐに株式投資口座を解約して、全額突っ込んでも良いと思えるくらいに、俺の心は動かされた。

「武智社長が言った、”世界を変える”っていう言葉、俺、好きなんですよ」

「言葉が好きって・・・それだけの理由でかい?」

「もちろん、その言葉を発した人を見ての判断ですよ。俺は製品で世界を変えるっていう”武智社長の言葉に”共感したんです。でも、生意気を言うと、製品は存在するだけじゃ世界を動かせない。それを普及させるための仕組みや金が必要なんです」

「君の言う通りだよ。私に足りない物が君にはしっかりと見えてるんだね。やっぱり自分の目に狂いは無かった」

「・・・Same boatって言葉があります。同じ船に乗る、カッコつけて訳すと、運命を共にするって意味です。俺も武智社長の船に乗せてください。全力で漕ぎますよ」

俺の言葉に、武智社長は目に軽く涙を浮かべ、立ち上がる。そして無言で俺の手を取り、力強く頷いた。

☆ ☆ ☆

 

「で、高校生が僕に何の用だい?こう見えて僕は忙しいんだ。用件は手短に頼む」

「急に押しかけてしまって済みません。改めまして、総武高校2年の比企谷といいます」

俺は今、かつての上司である男、宮田さんの前に立っていた。

目の前にいるこの人物は俺の知る宮田さんと比べ、確かに若い外見をしている。だが彼の持つ独特な空気のせいか、こうしてみると30-40代の姿とあまり変わりなく、俺は今日、一目見ただけで彼と認識することが出来た。むしろ30-40代の宮田さんの外見の若さが異常なのだと、改めて気付いた。

武智社長との面談から数日後、俺は平塚先生にもらった名刺に書かれた、宮田さんの連絡先に電話した。

初めは相手にされないことも覚悟の上だったが、なぜかすんなりアポが取れ、こうしてオフィス街のカフェで再開するに至ったのだ。過去に俺がこの人に採用された時のように、ボッチ同士、何か惹かれあうものがあるのかもしれない。

「お忙しい中、時間を割いて頂いてありがとうございます。実は、宮田さんの連絡先は平塚先生にご紹介頂きました」

「やっぱりあの変な女教師の教え子か・・・最近付きまとわれて迷惑してるんだ。君からも何とか言ってくれ」

「ぜ、善処します」

沙希の一件の際に目にした平塚先生の行動は、やはり氷山の一角だったようだ。

目が腐っているとは言え、宮田さんも億単位の給料を稼ぐ外資投資銀行の職員。加えて、顔も悪くないし、多少クセがあっても性格が悪いわけではない。狙い目としては悪くないだろう。しかし、アラサー故の焦りのためか、空回りしている印象が否めない。

「・・・早速ですが、今日の本題に入ります」

俺は一旦、平塚先生に関する話題からは離れ、宮田さんに今日の面談の目的を伝えた。

総武光学への出資検討をしてくれそうなベンチャーキャピタルファンドを紹介してほしいという依頼だ。

宮田さんはトレーダーだが、投資銀行には様々なセクションがある。ウチの会社にもファンド運用専門の部門がある他、社外に有するリレーションも豊富だ。

俺は手始めに、自分が作った総武光学の紹介資料を使って、企業の紹介を行った。ここ数日間、授業後に総武光学に通いつめ、職員の話を聞きながら作ったものだ。

「・・・ふぅん、中々面白いじゃないか。資料の出来も大したものだ。今年入ってきたウチの新人よりよっぽどマシ・・・というか、僕の資料作りのノウハウに近いものを持ってるな」

——そりゃそうだろう。何たって、全部アンタが仕込んでくれたものだからな。

「・・・で、このページ、株主構成に君の名前が載っているが、これは本当なのか?」

俺は武智社長から総武光学の株式の5%を譲り受けていた。

総武光学の株式を取得するために俺が投資口座から引き出した金は50万円。残りは沙希のために必要な時に金に換えられるように、引き続き上場株で運用することにした。

俺は武智社長が5%も株を割り当ててくれたことに驚いた。当社の登録資本金はちょうど1,000万円だが、これはこれまでの事業運営による利益の留保が一切乗っていない価格だ。加えて、今後当社が成長していく可能性を考えれば、破格の扱いだった。

「はい、俺はこの会社の少数株主です。譲り受けたばっかりですけど」

「・・・それで、ベンチャーキャピタルファンドにその株を売る気なのか?」

「いいえ、この会社が上場するまでは持ち続けるつもりです。ファンドに期待するのは、設備投資のための出資金と、市場開拓・上場のサポートと言ったところです」

「なるほど。君は変な薬か何かで高校生に戻った同業者か?今日日、高校生トレーダー程度なら掃いて捨てるほどいるが、非公開株を狙うとはな。よくもまぁこんな事を思いつく・・・」

普段淀んでいる宮田さんの目が光るのを感じ、冷や汗をかく。

この人、やっぱり鋭いな。実はあなたの腹心の部下でした、とでも試しに言ってみたくなる。もしかすると、普通に信じてくれるかもしれない。

「宮田、お前、こんな所で何油売ってんだよ?トップトレーダーの余裕って奴か?」

俺の思考は突然カフェに入ってきた男の声に遮られた。

「槇村・・・カフェで出くわして、僕だけがサボってるような言い方は止めてもらいたいな」

——槇村さんじゃねぇか!って、ずいぶん雰囲気チャラいな、おい!

声をかけてきたのは、俺のもう一人の上司である槇村さん、その人だった。

だが、その風貌は俺が知る15年後の姿と大きく異なっており、とてもではないが金融マンには見えなかった。アパレルとか、広告代理店の職員かと思える程だ。チャラリーマン、という単語が頭をかすめる。宮田さんとは対照的だ。

「おい、このガキはなんだ?目つきがお前そっくりじゃねぇか。親戚か?」

アイスコーヒーを手にしながら、槇村さんは俺たちが座る席へやってきて、当然のように俺の横に腰掛けた。

「本当に何にでも首を突っ込んでくる奴だな・・・こいつは僕の親戚じゃない。例の女教師の教え子で、僕に投資の相談があって千葉からやってきたんだ」

鬱陶しそうな顔をしながらも、宮田さんは簡単に俺を紹介した。

「へぇ、あの美人教師の生徒ね。何だよ、迷惑ぶっといて、実は結構関係が進んでんじゃないのか?」

槇村さんは、”投資の相談”には一切興味を示さず、平塚先生の話題に食いついた。

しかし、槇村さんまで平塚先生のことを知っているのか。まぁ、何だかんだ言って、いつもこの二人は一緒にいるからな。

「そんな訳ないだろう。そっちの話題はこの学生にも釘を刺した所だ」

「とか何とか言っちゃって、あの教師と知り合ってから、新しいネクタイ買ったり、伊達眼鏡かけたり、オシャレに気を使ってんじゃねぇかよ」

「え、マジっすか!?」

俺は意外な情報に衝撃を受け、思わずそう声に出しながら、宮田さんを見た。

「ふざけるなよ。ネクタイはお前が居酒屋で酒を溢してダメにしたからだ。メガネはブルーライトカットで、業務時間中しか掛けてない」

宮田さんは慌てる様子もなくそう切り返した。

「今更腐った目をケアしても遅いんじゃねぇの?・・・個人的にはあのセンセ、お前に合ってると思うんだがな。悪い女には見えんぞ」

槇村さんは、宮田さんをからかいつつも、孤独な変わり者の友人を心配するような声でそう言った。これは槇村さんのホンネだろう。そして、改めて槇村さんの人を見る目の正確さにも驚いた。

「余計な御世話だ。そんなことよりこの高校生、中々面白いぞ。お前が気に入りそうなタイプだ」

そう言って、宮田さんは槇村さんの意識を俺に向けさせた。

「へぇ?そういや投資の相談って言ったな?今流行りの高校生トレーダーとかか?・・・いいかボウズ、このオジさんに”値上がりそうな株を教えて下さい”なんて聞いても無駄だからな。下手すりゃわざと暴落するクズ株を掴まされるぞ」

——アンタ、自分の右腕とまで呼んだ男をバカにしすぎだろ

プロのトレーダーにオススメ銘柄を聞くなんて、下手すりゃインサイダーじゃねぇか

「僕がそんなバカを相手にするはずがないだろう。こいつは、こう見えて未上場株のオーナーだ。そして僕にベンチャーキャピタルファンドを紹介して欲しいと言ってきた。ベンチャーキャピタルがどんな運用をするのか知った上で、それを利用してバリューを引き上げようと企んでな」

「ハッ、マジかよ!」

槇村さんが興奮した面持ちで俺を見回した。そして、テーブルに置かれた総武光学の資料に気付くと、それをひったくるように手に取り、内容を確認していく。

そして資料を読み終わると、ゆっくりと質問した。

「この5%株を持ってる比企谷ってのがお前か?」

「はい」

「何でこの会社の株を買った?」

槇村さんの眼光は鋭さを増す。

「・・・学校行事の職場見学がきっかけです。社員や社長を見て、この人達なら必ず事業を成功させられると確信したから投資しました」

——人を見て投資する。これもアンタに教わったことですよね、槇村さん

俺がそう言うと、槇村さんは笑みを浮かべて俺に資料を返した。

「よし比企谷、この件は俺が必ず何とかしてやる・・・所でお前、プロジェクト投資に興味ないか?将来うちの会社に来い。俺はその頃までにMD(マネージングディレクター)まで上り詰める。俺の部下として働く気はないか?」

「ちょっと待て、槇村。これは僕への依頼だ。それに勝手に勧誘するな。こいつは僕が先に見つけたんだ」

宮田さんはそう言って、槇村さんに抗議した。

いつだったか、俺が槇村さんのいる部署へ引き抜かれた日のことを思い出させる光景だった。やはりどこまで行っても、二人は俺の尊敬する師だ。柄にもなく嬉し涙が出そうになるのを俺は必死で抑えた。

 

☆ ☆ ☆

 

「はぁぁぁぁ、今日は久々に緊張したよ。でも二人のお陰で本当に助かった。比企谷君、雪ノ下さん、どうもありがとう」

会議終了後、緊張の糸を切らせた武智社長は大きなため息をついてから、俺たちに礼を述べた。

今日の会議――それは宮田さん・槇村さんから紹介を受けた、ベンチャーキャピタルファンドのマネージャーとの面談であり、ファンドから総武工学に対する出資条件を固めるための重要な交渉の場でもあった。

我々の目的はただ一つ。総武工学の株を高く評価してもらい、1円でも多くの出資金を引き出すという点だ。

その点に鑑みれば、俺が企業価値評価の手法を熟知し、彼らのビジネス・投資目的を的確に把握してたことで、此方が一方的に不利な条件を飲まされることもなく、交渉は極めて順調に進んだ。

また、想定外に大きな収穫となったのは、4人の外国人のうち、1名が技術畑の専門職員であり、武智社長との会話が大いに盛り上がった事だ。これは彼らが総武光学の技術力や社長の力を適切に評価するきっかけとなり、テーブルは化かし合い・誤魔化し合いの場にならず、互いに建設的なディスカッションを重ねる事が出来た。

「じゃあ私は先に千葉に帰るよ。早く会社のみんなにも報告したいしね。君たちもあまり遅くならないように、気を付けてね」

武智社長はそう言って、一足先に千葉へと帰って行った。

俺達もオフィス街に長居する理由は無いが、今日は休校日だ。折角なので雪乃をデートに誘ってみると、意外にもあっさりokしてくれた。俺たちは、都内の街中を再びフラフラと歩き出し、手近にあった公園で一旦休憩することとした。

「お疲れさん、雪ノ下。今日は来てもらって正解だった。流石に技術関係の専門用語は俺には通訳なんてできないからな」

「確かに疲れたわ。金融用語も、技術用語も、私にしてみれば同じ・・・両方馴染みなんて無いのだから」

「それをこなしちまったんだから、やっぱ流石だよ」

そんな会話を交わしながら、俺たちは並んで公園のベンチに腰掛けた。

「ありがとう・・・とは言え、こんな話をまとめてしまう貴方の方がよほど凄いわよ」

「俺が頑張れたのは、お前が横にいたからだ。今回はいいとこ見せたくて、ちょっと短期間で無茶しすぎたかもな」

「・・・相変わらず上手ね」

別に大袈裟な話をしたわけでも、心にもない事を口にした訳でもないのだが、雪乃にはお世辞に聞こえたようだ。雪乃は軽く受け流すように笑いながらそう言った。

「・・・この間、川崎さんのバイト先に行く前にあなたが言った言葉の意味、ずっと考えてたわ。本物と呼べる関係・・・よく分からないけれど、あなたは私のことが好き、と理解してもいいの?少なくとも由比ヶ浜さんや、川崎さんと同じくらいには・・・」

今度は声のトーンを変えてそう言いだす。

「・・・ああ、それは間違い無い」

どう答えるべきか、一瞬戸惑ったが、嘘を吐いても仕方ないのだ。

俺は正直に頷いた。

「酷い男ね。三股のクズ谷君」

雪乃はそう言って少しだけ笑うと、隣に座る俺の肩に頭を預け、目を瞑った。

「お、おい、雪ノ下」

「好きなら、このくらいされてもいいでしょう・・・あなたの横でなら、私もきっと安心して休めるわ」

大きな仕事をやり遂げた安堵感と、夕焼けの中で表情が見えにくくなっているせいで、お互いに少しだけ大胆になっているのかもしれない。

俺は雪乃の手を恐る恐る取り、軽く握った。手に触れた瞬間、雪乃の身体は強張ったが、雪乃も俺の手を握り返した。

指を絡めあうと、自分の心拍が急速に高まっていくのを感じた。

「・・・私もあなたのこと・・・嫌いでは無いわ」

「え、この雰囲気まで来てそのレベル?」

「あら?貴方が、私たち3人と泥沼の関係を築くことを所望しているとは意外ね」

雪乃の呟きに少しだけ抗議するように、残念な気持ちを表現すると、雪乃は意地悪にそう言い返した。

「・・・俺が悪かったよ」

嫌な汗をかきながら謝罪の言葉を述べる。

「ふふ、今日のことは特に由比ヶ浜さんには絶対に言えないわね」

そう言って微笑む雪乃の顔は、どこまでも綺麗だった。

 

 

 



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17. 比企谷八幡は色恋沙汰が苦手である

 

 

上海から始まった中国各地を巡る出張がようやく終わりを迎え、俺は羽田に戻ってきた。

 

一週間に及ぶ旅の途中、日系企業の参加者の面々とは腹を割ってアジアにおける投資にかける想いを語り合い、共にこのプロジェクトを成功させようと盛り上がった。

最後まで同行し、時に通訳まで務めてくれた劉副市長も、この案件を両国の新たな関係を築く為のシンボリックなプロジェクトとなるよう尽力したいと言い、日系企業からの出張参加者に感謝の念を述べて上海へ戻っていった。

今回の出張は大成功と言って良いだろう。大きな仕事の山場を越えた達成感に浸りながら、俺はタクシーに乗って、空港から都内の自宅への帰路についた。

 

マンションのドアを開くと、そこには沙希がいた。嬉しそうな顔をして、玄関へとやって来る。

俺は一週間分の衣類と書類の束が入ったスーツケースを床に放り投げて、沙希を抱きしめた。

 

「ただいま。わざわざ家で待っててくれたのか。ありがとな」

 

「…すぐに会いたかったから来ちゃった。疲れてるのにゴメン」

 

「いや、嬉しいさ。仕事が立て込んで一週間会えないなんてのは良くあるが、海外出張で離れ離れってなると、結構寂しくなるもんなんだな」

 

「電話くらいすれば良かったのに。仕事の邪魔になるかもって思うと、こっちからは中々かけられないんだから」

 

「いや、すまん。中途半端に沙希の声を聞くと、仕事放り出して帰りたくなっちまうからな…我慢した」

 

「何言ってんのさ…バカ」

玄関に立ったまま抱き合って沙希とそんな会話を紡ぐ。

 

体に伝わる沙希の温もりが、疲れ切った俺の身体中に染み渡っていくように感じた。

 

「しかし、今回の出張は流石に疲れたな。ちょっとだけ寝ても良いか?」

「そうだね、お疲れ。おいで」

そう言うと沙希はベッドに腰掛けて腿を軽く叩いた。

俺はそのジェスチャーに従うように自分の頭を沙希の太腿に乗せ、目を閉じた。

 

 

 

——ちょっと、そろそろ起きた方が良いんじゃない?

彼女の膝枕で眠りに落ちかけた時、不意に響く声と肩を揺さぶられる感覚に意識を呼び戻された。

 

目を開いた途端、自分を取り巻く世界がボヤけ、全てが溶けていくような感覚に陥った。

 

「…今日、勉強会の日でしょ?あんまり遅くなると雪ノ下にまた煩く言われるよ」

「ん…沙希?どうした?」

 

俺は半ば朦朧とする意識の中で、再会したばかりの恋人の腰を抱き寄せて、お腹に顔を埋めた。

 

「え!?ちょ、ちょ!? えっ!?」

硬直して、慌てふためく沙希の声を聞く内に、自分の感覚が急速にシャープになるのを感じた。

 

バッと顔を離すと、そこには高校の制服姿の沙希が真っ赤な顔をして混乱している姿があった。

 

教室には俺と沙希以外の生徒が誰もいなかったのは不幸中の幸いだろう。

 

時刻は既に放課後。皆部活へ行ったか、帰宅した後だと推測された。

「す、すまん!完全に寝惚けてた!」

慌てて謝るが、時既に遅し。沙希の動揺は尋常ではない様子だった。

 

短めの前髪を弄りながら完全に俯いてしまっている。

「謝って許されることじゃないと思うが、マジで悪意は無かったんだ。本当に済まなかった」

「…ちょっと…ビックリした」

 

沙希は小声で恨めしげにそう答える。その頬はまだ赤い。

「…悪かった。お詫びに何でもする」

沙希が人を呼ぼうと騒ぎ立てるような行動を取ろうとしていないことが確認できると、俺も一旦は安堵し、多少狡猾だと思いつつも、口止めの為の提案を行った。

「…缶コーヒー…ブラックがいい」

沙希は俺と視線を合わせないように、かつ自身の心拍を抑えるように胸に手を当てて、そう答えた。

 

☆ ☆ ☆

 

俺たちは並んで歩きながら自販機コーナーへ向かっている。

なおも沈黙を続ける沙希の雰囲気に耐えかねて、俺は必死に話題を探した。

「…今日は海美と材木座が部室に来る日だったか?」

取り敢えず今日の活動内容を確認する。俺が居眠りしていた間に、雪乃と結衣は既に部活を開始したようだった。

「…そうね。でも、あの劉海美って一年、ホントに勉強会なんて必要なの?あの頭の良さは尋常じゃないよ」

ようやく会話に応じた沙希が口にしたのは、海美の才覚に対する彼女の評価だった。

 

沙希が奉仕部の勉強会に参加し、海美とも面識を持つようになって数週間。

海美の学力は付き合いの浅い沙希にも十分過ぎるほどのインパクトを与えたようだ。

 

「元々は補習授業を通訳してやるのがメインだったんだがな。まさかこんな短期間で日本語があそこまで上達するとは、俺も想定外だった」

沙希の様子を伺いながら、会話を合わせる。

「…ところでアンタ、最近やたら眠そうにしてるけど夜何してんの?…さっきだって、5限目からずっと居眠りしてたし…」

話題を切り替えたのは沙希の方だったが、先程のアクシデントを思い出したのか、喋りながら声が小さくなっていった。

「まぁ、何つうか、ちょっとした内職だ…俺たちのチームが職場見学に行った例の会社への投資の絡みでな」

 

 

以前面談したベンチャーキャピタルファンドが本格的に総武光学に対する投資を検討するに当たって、シビアな情報開示を求めてきたのだ。

 

決算書、登記関係、銀行の融資契約、販売契約、仕入契約、特許関係、その他会社の運営を網羅する書面上の資料に隈なく目を通すつもりらしい。

 

俺と雪乃が面談で相手に合わせ、英語で完璧に近いコミュニケーションを取った事で相手の信頼を勝ち得たまでは良かったが、その所為で相手の此方に対する要求水準が大きく跳ね上がってしまった。

 

具体的にはそれら資料の翻訳、またはサマリーを英語で提出して欲しいと言った注文を付けられる形になってしまった。

流石にこんな作業まで雪乃に分担してもらうのは忍びない。

そう考えた俺は、1人夜な夜な武智社長や財務担当者と連携しながら資料の作成に当たっていた。

 

武智社長は、例え自宅での作業とはいえ、高校生の俺に夜間労働をさせる事に相当の抵抗を感じていた。

だが、ここは少しでも有利な出資条件を引き出すための踏ん張りどころであるとして、俺の方から全力で首を突っ込んで行った。

「…よく分かんないけど、やっぱりアンタって凄いんだね」

「んなこたぁねぇよ。ただの趣味だ」

俺は自販機に硬貨を投入し、沙希嬢ご所望のブラックコーヒーとMAXコーヒーを購入すると、一本を沙希に差し出した。

「…ありがと」

恥ずかし気に礼を述べると、沙希はチビチビとコーヒーを飲みだした。

そんな沙希の様子を見ると、自然と頬が緩むのを感じる。

安心したせいでまた長めの欠伸が出てしまった。

 

 

社会人になった俺にとって、深夜残業は日常茶飯事だったが、俺は業務中に居眠りをするような事は一度もなかった。

 

当初は、肉体が高校生に戻った今なら徹夜仕事も余裕だろうとタカを括っていたが、中々そういう訳にも行かないらしい。

むしろ育ち盛りのこの身にとって、睡眠欲というものは、オッサン化した時以上に大きな障害となっていた。

敢えて言えば、今の体は睡眠欲だけでなく、食欲、性欲と、人間の三大欲求に異常なまでに敏感に反応しているような感覚があった。

 

睡眠や食事は百歩譲って問題ないにしても、性欲の発露については危機感を覚える事がままあった。

先日の雪乃の件といい、先程の件と言い、一歩間違えれば大事な女性を傷付ける様な大きな過ちに繋がりかねないのだ。

こればかりは如何なる時も、鉄の理性で抑えつけねばならないと、改めて自分に言い聞かせた。

 

 

「…そう言えばさ、…さっき何の夢見てたのさ?」

手にしていた飲料を大方飲み終わった頃に、沙希が遠慮がちに先程の一件を蒸し返してきた。

「そりゃ…ちょっと言えねぇな」

一週間ぶりに会ったお前に膝枕してもらってたと、事実を伝えたら沙希はどんな反応をするだろうか。

 

さっきのやり取りから推察するに、怒ったりはしないだろう。

だが、俺の事を過剰に意識させる様な言動は慎まなければならない。

「……あたしの名前…」

「え?」

消え入りそうな声で呟いた沙希の言葉を耳で拾い切る事が出来ず、思わず聞き返してしまった。

「…寝惚けてたって言ったけど、起きがけに名前呼んだ…よね。…あたしの夢見てたの?」

女の感は鋭い。いや、ただ単に俺がとんだマヌケだっただけか。

「…かもな」

嘘を吐かないという最低限の誠意を意識していたせいで、言葉を濁したつもりでも、yesと殆ど変わらない返事をしてしまった。

「…そうなんだ」

心なしか嬉しそうにそう呟いた沙希を見て、俺の心は嬉しさと罪悪感の板挟みに陥った。

 

☆ ☆ ☆

 

 

「探したぞ、比企谷八幡!」

そろそろ部室に向かおうと俺が提案しかけた時、背後から大きな声がした。

「材木座、何やってんだ?海美が待ってんじゃないのか?」

自分の事を棚に上げて、声の主にそう答える。

 

 

沙希が横にいたせいか、材木座は一瞬前と打って変わって、途端に挙動不審になった。

「何だよ?何か用があったんじゃないのか?」

 

「いや…それがだなぁ」

歯切れの悪いレスポンスに加え、沙希の方を横目でチラチラと気にする様な素振りに、俺は溜息をついて沙希に話しかけた。

「すまん川崎、先に部室に行っててくれるか?雪ノ下と由比ヶ浜には適当に言い訳しといてくれると助かる」

「適当にって…まぁ、仕方ないね」

沙希は渋々といった感じで頷くと、1人部室へと歩きだした。

「で、一体何なんだ?」

沙希の姿が見えなくなったのを確認して、俺は話を切り出した。

「う、いや、そのだな…そうだ、八幡よ!我の考えた新作のストーリーなんだが…」

「そうだ、って何だよ?いい加減にしろ。本題に入らないなら、俺は先に部室に行くぞ」

 

材木座が本当に相談したがっている内容を引き出そうと、若干イラついている様な態度を取ってハッパをかけた。

「く…折り入って相談がある。海美殿のことだ」

 

材木座は話にくそうにしながらも、ゆっくりと腹の中を晒し始めた。

 

☆ ☆ ☆

 

 

「まさかお前から恋愛相談を受けるとは…しかももう告白したって…お前な」

 

勉強会やマンツーマンでの日本語学習に付き合ううちに、材木座は海美に惚れてしまったらしい。

 

免疫のない非モテ系男子にありがちなパターンだ。

「声が大きいぞ、八幡!人に聞かれるではないか!」

「いや、お前のが声デケェから」

 

今日一番のボリュームで喚く材木座に対し思わずツッコミを入れたが、普通相談するなら告白する前なんじゃないのか、といった追い討ちは、武士の情けで心の内に留めた。

 

まぁ、その勇気があっただけ大したものだと、上から目線で前向きに評価した。

「で、海美の奴はなんて返事したんだ?」

結果を察した上で、一応の報告を求める。

「海美殿は、母国の大学に進学を予定しているのだ。ご家族もそのつもりで帰りを待っているらしい。だから、留学中の現在、恋愛して日本に未練を残す訳には行かないと…」

 

——ま、禍根を残さない為の言い訳にしちゃ、上出来だろう。

 

断っておくが、俺は別に材木座がその見た目や、特異な趣味の所為で恋愛する事が不可能だと思っているわけではない。

そもそも、葉山の様な例外的な男を除き、一般的な男が女性の心を捉えるには、それなりの工夫と時間が必要なのだ。

 

ただ、材木座は女性への免疫の無さと、経験不足が相まって、男女交際を申し込むに足るプロセスを踏む事が出来ていない点が容易に想像された。

まさに惚れたら即告白を実践していた中学時代の俺自身の姿が重なって見えたという訳だ。

 

 

「それで、お前はどうしたいんだ?恋心を忘れたいって言うなら、遊びに付き合ってやるし、諦めずにセカンドチャンスを狙うなら、その方法を一緒に考えてやるが…」

「それも我は自分で考えたのだ…世話になっておいて、言いにくいのだが、我は小説家の夢を諦めるかもしれん。すまぬ」

「おいおい、辛いのは分かるが、そういう時は逆に打ち込めるものがあった方がいいだろ?今こそ心血を注いで作品を書いたらどうだ?」

俺には結衣に振られた後、異国で仕事の鬼と化していた時期があった。

それにしか縋るものがなかったせいだが、今考えれば、俺の人生であの時ほどのパフォーマンスを上げられる事はもう無い様に思える。

 

「いや、我は気力を失った訳では無いのだ。謝罪ついでに頼みがある…八幡!我に中国語を教えてくれ!この材木座義輝、一生の頼みである!」

「はぁ?また唐突だな。中国語で口説き直すつもりか?言っとくが、それだけじゃ多分無意味だぞ」

セカンドチャンスを狙うのであれば、フラれて傷付いた姿を見せるのは御法度。

一方、必要以上に相手に合わせようと頑張りすぎるのも、相手が煩わしく感じる可能性があるのでオススメしない。

 

適切な距離感を保ちながら、誠意ある行動を取り、印象改善を図る事が最優先だ。

俺自身、経験豊富って訳じゃ無いが、33にもなるとこの辺の機微が肌感覚で分かる様になる。

ただ、その年齢になると既にパートナーを有していることが一般的で、あまり活かすような機会が無いというのが世のオッサン達の実情だ。

 

「ウォーアイニーくらい我でも知ってる…むしろ、一回目はそれで失敗したのだ」

「あ、それ言っちゃったのね」

 

完全にやっちまったな。お前、全然タイプじゃ無い外人女性に何の前触れも無く「アイシテル」って言われて心が動くのかよ。むしろドン引きすんだろ。

 

「1度目の失敗には触れてくれるな…我は本格的にコミュニケーションが取れるまで中国語を学びたいのだ!」

「英語よりもハードル高いぞ。勉強してどうすんだよ?」

「…我は高校卒業後、大陸に渡る」

 

正気かこいつ。完全に逆上せ上がってやがる。

 

かつて俺は雪乃を追って米国へ渡った。女を追って海外へ行ったのは昔の俺も同じ。

だが、その事実は、かえって、材木座の衝動的な決意にある種の嫌悪感を抱かせた。

これが同属嫌悪というものなのかもしれない。

 

「…進路が絡む話は親御さんにも相談しなきゃいかん話だろ。焦ることは無えよ。まずはじっくり考えろ。いても立っても居られないってんなら、一先ずオススメの教材くらいは教えてやる」

 

材木座は俺の言葉に不服そうな表情を浮かべたが、一応の納得を示した。

 

 

俺は、また戸塚のテニス部騒動の時の様に、自分を取り巻く人間の若さ・青さに当てられた様な気分になって、その場を後にした。

☆ ☆ ☆

 

「遅いわよ、比企谷君」

 

部室では既に雪乃、結衣、沙希と海美が勉強会を始めていた。

既に教師による補講セッションが終わり、4人で自習を進めている所だった。

 

俺がドアを開くと雪乃と結衣が遅刻を咎める様な目で俺を見た。

沙希は俺と目が合うと、やはり若干気恥ずかしそうに下を向いたが、それ以外は何時もと何も変わらない様子だ。

 

 

「…悪ぃ、ちと色々あってな」

「こんにちは、比企谷さん。今日もよろしくお願いします」

軽めの謝罪の後、俺に最初に話しかけたのは海美だった。

「よぉ海美。よろしくっても、もう俺の通訳なんて必要ないんじゃないか?」

今の挨拶1つ取ってみても、その綺麗な発音から海美の日本語が相当なレベルに達していることが分かる。

 

勿論本人の努力があったことが大前提だが、材木座との日本語学習もそれなりに役に立ってきたのだろう。

「まだ細かい言い回しや、熟語、固有名詞が出てくると困ることがあるんです。辞書も引けるんですけど、やっぱり比企谷さんにいていただけると、何かと早いですから」

「…だってよ、由比ヶ浜。分からない言葉を放置してるお前より、既に海美の方が日本語上手いかもしれんな」

「う、言い返せない…けど、ヒッキー、なんかすっごいムカつくし!」

謙遜気味に言う海美を持ち上げる一方、ネイティブの結衣を冗談交じりに当て馬扱いした。

結衣は怒りを露わにした一方で、反論することは諦めている様だった。

 

「…ところで海美、今日は材木座は別件があって来られないそうだ」

海美は材木座の名を聞き、一瞬ビクッと反応した。

 

その後、何かを探る様な目で俺を見てくる。

 

「…ん?どうかしたか?」

「…いえ、別に」

 

わざわざ皆がいる前で材木座が海美に告白したことをペラペラと喋るつもりは無い。

海美は俺の目をジッと見つめたが、暫くするとその視線を外した。

 

 

俺はそのまま適当に空いている席に着いて、カバンから今日の課題を取り出して作業に取り掛かった。

その様子を見た他のメンバーも、各々、進めていた学習に戻り始めた。

 

 

 

奉仕部は今日も平和である。

 

今日は皆、あの結衣ですら集中して学習に取り組んでいる。

 

——今日はこのまま何事もなくやり過ごすのが良いだろうか。

 

いや、海美にはそれとなく、材木座の奴が何を考えているのか、伝えてやっといた方が良いのかもしれない。

付きまとわれて困るのであれば、そう言って止めを刺してやった方がお互いの為になるんじゃないか。

 

いやいや、海美への想いが届く届かないは別にして、あいつが留学したいというのであれば、そのキッカケを今の段階で奪う事はないだろう。

俺も雪乃を追って渡米してなきゃ、金融業界なんかに就職はしなかったはずだ。

そもそも、材木座は数少ない自分のダチじゃねぇか。

気乗りしようがしまいが、あいつの為に動いてやるのが友人というものだろう。

 

 

脳味噌を回転させながら、あれこれと思考を巡らせるが、これがベストな行動と自信を持って言える様なアイデアはまとまらなかった。

考えてもダメな時、人はどう動くか。

 

普段の俺であれば、アイディアが浮かぶまで物事を先送りし、その場は大人しくしておくと言ったパターンを選ぶだろう。

 

だがこの日の俺は少し違っていた。沙希との一件で、焦りを覚えたせいかもしれない。池に石を投げ込み、波紋がどう広がるか確かめることを、無意識に選択した。

 

俺は、深呼吸とも取れない様な深い溜息をつくと、海美に向かって口を開いた。

 

 

「海美、集中してる所悪い、ちょっと良いか?」

 

「何ですか?」

海美はペンを持つ手を止め、顔を上げて俺を見た。

「お前、3年になる頃には中国に帰るつもりだろ?」

「その予定です。あっちの大学を受験するつもりですから…それがどうかしましたか?」

唐突な俺の質問に、再来年の自分のプランを確認させる様に語る海美。

「もしも、だ。お前を大事に思ってる日本人がいて、お前と一緒に中国に行きたい思ってるとしたら、お前は喜んでくれるか?」

「そ、そんなこといきなり聞かれても…一緒に中国に行くって、大体、言葉はどうする気ですか?」

「独学で学んだとしたらどうだ?」

「…それって」

「まぁ、何だ。例えば…『この位のレベルに達したら十分だと思うか?』」

 

言葉の半分を中国語で伝え、確認を取る。

 

実際に今から勉強を始めた材木座が1〜2年で俺と同等の水準まで達するか、俺にはまるで予想できない。語学は努力と同じ位、センスがモノを言う。

それに中国語は発音が難しい言語だ。最初の頃はネイティブに頼んで基本的な発音を教わらないと、途中で確実に躓くだろう。

この点が英語圏の国に留学するよりもハードルが高いとされる所以だ。

だが俺たちはまだ10代だ。語学を習得するには若ければ若いほどいいと言われるが、まだ若い材木座にはこの点で大きなアドバンテージがある。

俺が社会人になって始めた中国語の学習は、留学中に英語を学んだ時よりも遥かに難易度が高いものに感じられた。

それは言語自体の難しさだけではなく、俺の頭が新しく語学を習得するには歳をとり過ぎていたことに起因する。

逆に言えば、今の材木座なら、難しい中国語もスポンジの様に吸収し、俺の水準を易々と超えて伸びることが出来る可能性があることを示している。

 

 

「…う、嬉しいですけど、やっぱりこんなの急すぎます!少しだけ考えさせてください!」

 

海美はそう叫びながら、バタバタと荷物をカバンにしまい、顔を真っ赤にして部室から飛び出していった。

 

「お、おい海美、どこ行くんだ!?」

純粋に材木座がどの程度の語学力を目指して学習したらいいのか、その目処を付けたかっただけなのだが、海美は俺との会話の後、いきなり取り乱した様な態度を見せた。

 

 

 

 

海美が部室を後にした直後、辺りには凍えるような空気が広がっていた。

 

 

 

海美を止めようと立ち上がったまま固まっていた俺の背後には、三人の女性が立っていた。

 

「比企谷君…あなた、そういうのはせめて他に誰もいないところでやったらどうかしら?」

 

雪乃がこれまでに見たこともない程不機嫌そうな表情でそう言った。

「そういうのって、何だよ。俺は一般論として質問を…」

 

「…さっきあんなことまでしたのに…わざわざ目の前で後輩の女の子に告白するなんて…流石にちょっと…ないと思う」

沙希が悲しそうな顔で呟いた。

 

「「…あんなこと?」」

 

 

——やべぇ!

 

その言葉に結衣と雪乃がピクッと反応したのを見て、俺は焦った。

 

 

しかし、これはマズイ事になった。

何故こんなことになっているのかはよく分からんが、状況が極めて芳しくないことだけは理解出来る。

 

「…ちょ、ちょっと待て、お前ら。告白とか、さっきから何の話してんだ!?」

 

雪乃と結衣が余計な詮索に乗り出す前に、大きめの声で注意を惹き付けた。

 

「…だって、ヒッキー、海美ちゃんのために卒業したら中国に行くんでしょ?…独学で中国語が出来るようになった人なんて、ヒッキー以外にいないじゃん…あんなこと言われたら、普通そう思うよ…」

 

結衣がそう言ったことで、俺は自分の失言をようやく認識するに至った。

 

「そいつは違う!完全に誤解だ!」

「私達が何をどう誤解してると言うのかしら?」

「それは…」

 

ここで俺が濡れ衣を晴らすには、材木座のこれまでの行動と新たな決意を三人に明かさなければならない。

だが奴は俺を信用して、俺に心中を打ち明け、相談してきたのだ。

自分の保身のため、しかも俺自身でヘマをした尻拭いのために、奴のプライバシーを踏み躙るのには相当な抵抗を感じた。

 

「…ある男子生徒から恋愛相談を受けてたんだ。その対象が海美だったって訳だ」

「…それって」

何か勘付いた様に沙希が呟く。

「川崎、すまんがそれ以上口にしてくれるな。俺が軽率だったのは認めるが、依頼人にもプライバシーが…」

「今更プライバシーも何もあったものではないと思うのだけれど」

「くっ…確かにそうだけどよ」

「私は、本当にヒッキー自身の話じゃないなら、ちゃんと証明して欲しいかも…」

結衣は少し不安そうな表情でそう呟いた。

 

「証明って、どうすりゃ良いんだよ?」

 

その結衣の希望に対し、どういう方法をとれば満足するのか、アイデアが浮かばない。

 

俺は彼女が望む解決方法を聞きかえした。

 

だが、俺のその質問に答えたのは、結衣ではなく雪乃だった。

その顔に浮かぶ笑みから、何か良からぬことを企んでいる事が窺われた。

「簡単ね。貴方が一番好きな女性の名をここで正直に言うか、依頼人が誰なのかを明かせば良いわ」

 

「ちょ、ちょっと待て…いくら何でもそりゃないだろう」

 

雪乃の余りにも横暴な提案に俺は抗議の声を上げる。

結衣と沙希は雪乃の提案を聞いて、一瞬固まったものの、今は固唾を飲む様にして俺の口元に注目していた。

「…御託を聞くつもりはないわ。さぁ、どうするのかしら、比企谷君?」

「…うっ」

 

三十を過ぎたオッサンとしては情けない限りだが、雪乃の眼力に俺は気圧された。

 

 

——すまん、材木座よ

 

お前には俺を罵る権利があることを認めよう。

 

「…分かった。依頼主の情報は共有する。但し、この件は部外者、依頼者本人、当事者の海美には絶対に漏らさないと約束してくれ。守秘義務契約ってヤツだ」

 

金融業界では他者と共に投資活動を行う時、必ず守秘義務契約を締結する。

投資プロジェクトへの出資や、シンジケートローンの参加者を募る時、相手方に参加検討の為の情報を受け渡す代わり、それを他者には漏らさないこと、漏らしたことで発生する経済的損失を補償する事等を契約書に規定するのだ。

但し、実務上は極めて儀式的・形式的なものと位置付けられることが多く、単に事務手続きを増やし、職員の残業長時間化に貢献するだけの厄介者として扱われるケースが大半となっている。

 

何が言いたいかと言うと、俺は、女子高生が言う”絶対内緒だからね!”をせめて社会人風に言い換えることで、材木座への罪の意識の軽減を図ったのだった。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

「…早く海美ちゃんを追いかけて!」

 

材木座からの依頼内容を三人に共有すると、結衣は思い出した様に突然俺にそう言った。

「い、いや、もう家に帰っちまっただろ?」

 

海美が部室を飛び出してから、かれこれ30分は経っている。追いかけろと言われても、当の本人が何処にいるのかも分からないのだ。

「じゃあ電話して誤解を解いて!今すぐ!」

 

結衣の要求はストレートだった。

そんなに急ぐ必要は無いとも思うが、確かに誤解を解くのは早いほうが良いだろう。

俺は黙って結衣の言葉に従い、携帯を取り出した。

 

 

「…スピーカーモード」

 

俺が携帯を耳に当てて電話を掛けようとすると、雪乃がそう呟いた。

 

その声は低く、従わなければどうなるか分からない、という脅しが含まれている。

 

俺はゲンナリしながら、雪乃の指示に従い、携帯をスピーカーモードに設定し、机の上に置いた。

 

 

 

「ひ、比企谷さん!もう少し待ってって言ったじゃないですか!まだ気持の整理が…」

電話に出るなり海美はそうまくし立てた。

 

その言葉を聞いていた三人の刺す様な視線を受けながら俺は言葉を慎重に選んで会話を続けた。

「…あのな、さっきの件だが…俺の聞き方が悪かったせいで、お前にとんでもない勘違いをさせたんじゃ無いかと思ってな」

「え?勘違いって……哎,哥哥,怎么了?」

 

 

海美が突然会話を中断して、中国語を口にするのが聞こえた。

電話越しだが、海美が誰かに話しかけられたことが推測される。

 

 

——今、哥哥(兄さん)って言ったか?まさか、劉さんが電話の向こう側にいるのか!?

 

海美の発した言葉を一瞬遅れで頭が理解した瞬間、俺の心拍数は急激に上昇した。

 

俺を庇おうとして先に吹き飛んだ劉さんが、今、海美の隣に居るのだ。

 

あの事故の瞬間を思い出すと、俺は恐怖感で体が強張った。

考えてみれば、海美は親戚の家に兄と一緒に世話になっているのだ。今この瞬間、彼が千葉にいても何らおかしくは無い。今まで彼の存在を確認しようとも思わなかったのは、俺の心が未だにこの恐怖感に支配されていたからだろう。

しかし、改めて考えれば、俺たちが死んだのはほぼ同じタイミングだった。

死の瞬間に精神が過去に戻るなんて非科学的な現象が、俺以外の存在にも起り得たのか、それだけは気になった。

 

「…比企谷? 顔色真っ青じゃない、大丈夫?」

海美はまだ劉さんと何か喋っている。その間、沙希が電話のマイクに拾われないよう、小声で心配そうに俺に話しかけてきた。

「何でもない…大丈夫だ」

俺はそう返して電話から発せられる音に再び集中した。

 

『…うん、学校の先輩…そうだよ…って、お兄ちゃん、ちょっと勝手に人の電話に出ないでよ!』

海美の抗議の声がしたかと思うと、向こう側からガタガタという音が伝わってきた。

 

「あ、もしもし。私、劉藍天と言います。海美の兄です。いつも妹がお世話になってます。ヒキタニさん…というのが貴方ですか?いや〜普段から妹から良く話は聞いているんです。親族皆で歓迎しますよ。…そうだ、式はいつ挙げます?是非私たちの故郷でやりましょう。爆竹で賑やかになりますよ」

 

「は!?」

 

劉さんの発した言葉に、事故のことなど忘れて、間抜けな声を上げてしまった。

 

一緒に通話内容を聞いていた三人も硬直している。

 

 

——や、ヤバイ。これはとんでもないことになった

「は、初めまして…って、あの、だからそれは誤解なんです!中国に行きたがってるのは俺じゃなくて…」

「ん?すみません、私まだ日本語が余り上手じゃなくて。今、何て言われました?」

絶対嘘だろ!

俺の心の叫びは誰にも届きそうにない。

「そうだ、今週末、お時間ありますか?折角です。妹がお世話になってる奉仕部の皆さんも誘って、食事でも行きましょう。場所と時間は後で海美から連絡させますので。では良い1日を」

有無を言わさないペースでそう言い終えると、劉さんは電話を切った。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「ちょっとヒッキー!どうするの!?コレどうするの!?」

 

真っ白な灰になって立ち尽くしていた俺に最初に声をかけたのは結衣だった。

 

その声で俺は放心状態から抜け出した。

 

 

「…お前ら、週末、一緒に来てくれるよな!?…な、川崎?」

協力を求めて三人の顔を見回すが、結衣も雪乃も目が合うと、慌てて視線を逸らした。

 

俺は藁にもすがる気持ちで、反応が遅れた沙希を名指しして助けを求めた。

 

「あ、アタシに言われても…」

その微妙な反応を見て、俺は頭を抱えた。

 

 

「…今日はもうお終いにしましょう。川崎さん、由比ヶ浜さん。先に行ってちょうだい。私は記録と部室のカギを返したらすぐに追いかけるわ」

雪乃が本日の活動終了を告げると沙希も結衣もそそくさと部室を後にした。

「…あいつら、冷てぇな」

 

先に出て行った二人に対し、恨み言のように一人、窓の外を見ながらそう口にした。

 

「…この件はあなたの自業自得でしょう?」

 

雪乃は活動記録をノートに書きながらそう言った。

 

「そうだけどよ」

「…週末、皆ちゃんと来るわよ」

 

そう言いながら雪乃はノートをパタンと閉じて席から立ち上がった。

 

「なんでそんなこと分かんだよ?」

 

俺は視線を窓から動かさずにそう聞いた。

 

 

「何だかんだ言って、皆あなたのことが気になるの」

 

雪乃はいつの間にか俺の背後に立っていた。

 

かなり顔を近づけて喋っているのか、耳の後ろがくすぐったくなった。

 

「…それとね、比企谷君」

 

「あ、ああ?」

 

続けて発せられたその囁きは色っぽく、俺の鼓動が一気に高鳴る。

 

「…1つ覚えておいて欲しいの。私、こう見えて結構根に持つタイプよ」

 

一転して、凍えるように低く冷たい声が浴びせられた。

 

「川崎さん、さっき "あんなことしたのに" って言っていたわね」

「うっ…それは…」

 

今度は別の理由で自分の心拍が上昇していった。

 

「今日は可哀想だからこれ以上詮索はしないわ。それに私、別にあなたの彼女ではないし…」

「そ、そうか。正直そう言ってもらえると助かる」

 

そう答えつつも、雪乃のその言葉が彼女の本心から出ているものでないことは明白だった。

 

俺は肩の筋肉を強張らせて身構えた。

 

「ふふ…前にも言ったけれど…”嫌いではない”わ、比企谷君」

雪乃は俺の背中にその細い指を置き、背骨の線に合わせてゆっくりと上下になぞり上げながらそう呟いた。

 

「い、いや、それ、マジ怖ぇえから!勘弁してくれ!!」

俺は睾丸を握り潰されているような感覚に陥った。

 

 

——Prrrr Prrrr

 

不意に机の上に置いたままになっていた携帯が震えた。海美からのメールの着信だ。

 

雪乃に促されてメールを開くと、そこには週末の集合場所・集合時間だけが記されれていた。

 

——マジ、どうなるんだろ、これ

 

 

携帯の画面を消すと、俺は大きくため息をついた。

 

 

 

 

 

 

 



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18. 比企谷八幡は再びすれ違う

 

 

「…皆すまんな、休日に付き合わせちまって」

 

劉さんに呼び出された俺たち奉仕部の四人は、船橋のショッピングモールで待ち合わせをしていた。

「別に…暇だったし」

俺の言葉にそうぶっきらぼうに返したのは沙希だった。

「そうね」「…あたしも」

雪乃も結衣も沙希の言葉に相槌を打つ。

「…そうか。ありがとな」

「ヒッキーどうしたの?なんか、今日はらしくないね」

「劉さんのお兄さんが来るから、緊張しているのではないかしら?」

「…かもな」

 

これは正直な心境だった。

劉さんは俺の恩人である。だが、お互いあのタイミングで死んだ身だ。

この世界にいる劉さんの精神が俺と同様、あの世界からタイムリープしてきたのかどうかは分からない。

そんな彼との再会を前に、俺は柄にもなく緊張感を覚えていた。

「誤解、もう解けたんでしょ?それでも向こうからランチに誘ってきたんだから、そんなに心配する必要ないんじゃない?」

沙希が気遣うような口調でそう言った。

俺はこの日が来る前に、何とか海美本人の誤解を解くことに成功していた。

――そんな事だろうと思いました。比企谷さんの友人が中国語を勉強したいなら、私も手伝いますと伝えてください。

海美の反応はこんな具合だった。

俺は材木座の名こそ出さなかったが、あの時の自分の発言の意図を真摯かつ丁寧に海美に説明した。

場合によっては本格的に嫌われる可能性も覚悟していたのだが、拍子抜けするくらい大人びた海美の対応で、俺の方が逆に反応に困る程だった。

「…その、なんだ。俺が悪いんだし、怒ってもいいんだぞ」

「怒ってませんよ。比企谷さんには本当に感謝してるんです…ちょっとだけ残念ですけど、正直ホッとしました」

海美は少しだけ恥ずかしそうに微笑んでそう言った。

“俺の友人”という人物が材木座であることは、海美も百も承知だっただろう。

それでも奴の中国語の指導を買って出てくれるというのだ。これは俺と材木座の友情を気にかけての提案に違いあるまい。

己の失策を、たかだか15-6歳の少女、それも直接迷惑を掛けた相手に尻拭いさせることになってしまったことを、俺は大いに恥じた。

あと数分もすれば海美が劉さんを連れてこの場にやってくる。

既に当の本人の誤解は解けているため、大きな問題は起きないと思うが、あの劉さんが相手では、油断はできない。最低でも三人には絶対に嫌な想いをさせるようなことが無いよう、場を治めなければならない。

俺は身が引き締まる思いで、2人がやって来るのを待った。

 

☆ ☆ ☆

 

「皆さんもう来てたんですね!今日は兄の我儘で急に呼び出してしまってすみません!」

四人でモールのエントランスにて劉兄妹を待つこと10分、少し離れた場所から海美が大きめの声を出し、小走りで近寄ってきた。

「まだ待ち合わせ時間の前だから、慌てる必要はないわよ」

雪乃が微笑みながら海美にそう声をかけた。

と同時に、海美を追って後ろから歩いてきた青年が、海美の肩に手を置いて俺たちを見回した。

――来たか!

短めの髪に、スッと通った鼻筋、鋭い眼元、均整の取れた身体つき、そして身に纏うオーラ。若干若いが、俺の知る上海市副市長、劉藍天そのものだった。

「いやぁ皆さん、こんにちは。初めまして、海美の兄の劉藍天です」

「…初めまして。奉仕部で海美さんとは仲良くさせてもらってます。総武高校2年の雪ノ下です」

雪乃が奉仕を代表して挨拶をした。続く形で結衣、沙希が簡単に自己紹介を行っていく。

「海美の友人は美人ばかりですね」

劉さんは雪乃たち一人一人を順に目で追いながら軽めの口調でそう言った。そして俺の顔に視線を移して、一瞬だけ目を細め、口を開いた。

「…という事は、あなたがヒキタニさんですね」

その鋭い視線を受けて、俺の背中を冷たい汗が伝り落ちた。

今、目の前にいる劉さんは、俺の事を覚えているのだろうか。

そんな事を思いながら、俺は用意しておいた謝罪の言葉を述べる。

「…初めまして。先日は海美さんにご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした」

「いやいや、こちらこそ早とちりしてしまってすみませんね」

劉さんはそう言いながら俺の顔をじっと覗き込むように観察している様子だった。

俺は、上海で初めて対面した時と同じような感覚に陥る。

「…あの、俺の顔に何か付いてますか?それとも…どこかでお会いしてたとか?」

俺から視線を外さない劉さんに対し質問を投げかけ、反応を伺った。

「これは失礼。あんなに慌てた海美を見たのは久しぶりでしたので、相手はどんな人なのかとずっと気になってたんですよ。いや〜あれは見ものでした」

ヘラヘラと笑いながらそう言う劉さんの後ろで、海美の顔が見る見る紅潮していった。

そんな兄妹のやり取りを見て、自分の肩の力が少しばかり抜けた。

今の劉さんの反応だけでは、彼が俺と同様、あの事故からタイムリープしてきたのかどうかは到底分からない。だが、少なくとも俺を疑念の目で見ていない様子が伺われた。

「…しかし…なるほど、そう言う事でしたか。ヒキタニさんも大変だったでしょう?」

改めて俺たちを四人の顔を見回して劉さんはニヤニヤしながらそう言った。

「何がですか?」

「あれ?勘違いですかね?てっきりヒキタニさんはこちらの美女3名のどなたかとお付合いされてるのかと思ったんですが…」

その言葉に雪乃、結衣、沙希がビクッと反応を示す。

――どんだけ人間観察得意なんだよ、この人は…

一旦は解いた警戒心が再び一気に高まり、握っていた拳にぐっと力が入った。

「…そんなに警戒しないで下さい。ほんの冗談ですから」

「…はぁ…あ、いや、ホントにすみませんでした。恨まれるのも覚悟で来たので」

「とんでもない…ヒキタニさんに義兄と呼んでもらえるチャンスは小さいかもしれませんが、気が変わればいつでもそう呼んでください」

劉さんはワザとらしく笑いながらそう言った。

その言葉に俺は固くなった体を更に硬直させた。

「ちょっとお兄ちゃん、やめてよ!」

海美は顔を赤くして抗議しながら、兄の背中をポカスカと叩いた。

「…ははは、では立ち話はこの辺で切り上げて、早速昼にしましょう。皆さん、中華でいいですか?一応予約しときましたので」

そう言って、劉さんは俺たちを先導しながらモール内のレストランへ向かって歩き出した。

 

「…海美ちゃんのお兄さんって、すっごいイケメンだね…あはは」

劉さんの数歩後ろを着いて行くと、結衣が全員の顔色を伺いながら、小声でそう言った。俺と劉さんのせいで微妙になった雰囲気を変えるため、何か話題を振ろうと健気に気を配るその姿に、俺は申し訳なさを覚えた。

「確かに、仮に並んで歩いたら憐れに思える位の差があるわね、ヒキタニ君?」

雪乃が涼しい顔でそれにかぶせた。言葉は相変わらずキツイが、こういう時に普段と何も変わらない態度で接してもらえるのは正直有難かった。

「おい…お前までヒキタニ呼ばわりか。それにそこまで差があるか?こう見えて俺だってな…」

俺は雪乃のフリに合わせて軽口を叩いた。

「現実はしっかり受け止めなくてはダメよ?それに、義兄が美男というのは貴方にも自慢になるのではなくて?」

「そのネタでイジるのは勘弁してくれ…それに、男の価値は顔だけで決まらねぇんだよ」

「男の価値ね…ちなみにアンタの言う、顔以外の基準って何?」

今度は沙希が俺の言葉に反応して質問を返してきた。

「え?そりゃ…金とか権力とか?」

俺はあまり深く考えずに、適当に思いついた価値基準を口にする。

「「「サイテー(ね)(だ)」」」

軽蔑を含んだ三人の声が綺麗に重なる。

そして、一瞬の間を置いて、俺は30代になってもその両方で劉さんに完全に劣っていたという事実に気付き、1人静かに凹んだ。

☆ ☆ ☆

「ここです。私も海美も、日本の中華料理の味はあまり慣れないんですが、ここの広東料理はお勧めなんです」

劉さんは一軒の中華料理屋の店舗の前で止まると俺たちにそう告げ、店員に座席の予約を確認すると、先に中へと入っていった。

「…日本の中華に慣れないって、どういうことなんだろ?」

劉さんの後に続き店の門をくぐる途中、結衣はそんな疑問を口にした。

「日本人だって、海外の”なんちゃって和食レストラン”は受け入れられないだろ」

俺は自分の実体験に照らし合わせて、劉さんの言葉の意味を説明した。

「なるほど」

「いや、海外なんて行ったことないから分かんないし」

「あ、あたしも…アハハ」

俺の言葉の意味を理解したのは海外経験豊富な雪乃だけだった。

沙希はジト目でそう呟くと、結衣もそれに同調する。

「とにかく、日本の中華は本場とは殆ど別モンだって話だ…ラーメン餃子半チャーハン定食とか、中国人は”バカにしてんのか”って思うらしいからな」

用意された座席に座りながら、俺は話を続けた。

「ふふ、私達からしたら全部主食ですもんね。…比企谷さん、私、まだ行ったことないんですけど、神戸や横浜の中華街には中国人向きの中華料理店があるんでしょうか」

適当に全員分の注文を取り終えた海美が会話に参加し、そう尋ねてきた。

「あれはどっちかって言うと日本人向けの観光地だと思った方がいいな。…新宿とか池袋みたいな場所の方が意外と本格的な店が多いぞ」

海美の質問にそう答えると、劉さんは嬉しそうに目を細めた。

「ヒキタニさんは中国に造詣が深そうですね?中国語もだいぶお上手とか?」

「…いや、まぁ。お二人の日本語には到底及びませんが」

「そんなこと無いでしょう…将来移民されてはどうです?」

「すいません、本当に勘弁してください」

これは何かのネタフリなのだろうか。微笑みながらそう言う劉さんの目は、怪しく光っていた。

俺は、上海で同じようなやり取りをしたことを思い出した。

過去に照らし合わせると、劉さんの発言全ての意図が気になって仕方なくなるが、正直、思考の読み合いでこの人物に勝てる気がしない。

とにかく気負ば気負う程自分が不利になるだけだ。平常心だけは保たねばならない。

「お兄ちゃん…いい加減にして」

海美が劉さんに釘を刺すが、劉さんは全く気にも掛けないと言った様子で受け流していた。

いつの間にか、いくつかの料理がテーブルへ運ばれていた。

結衣が隣の席で、小さな蒸籠に入った半透明の蒸餃子や小籠包を見て、目を輝かせている。

「…海美は劉さんと同じ北京の大学に進学する予定らしいですけど、劉さんは中国に戻ったら何をされるつもりなんですか?」

俺は無理やり話題を変えて、劉さんに話しかけた。

探り合いで勝てないのなら、真っ向からぶつかる他ないだろう。

目の前の点心を、皮を破かないように丁寧に結衣達に取分けてやりながら、俺は劉さんの反応を待った。

「そうですね。私は政治家を目指そうと思ってますよ」

世界を変える。その為に政治家になった。あの日、劉さんはそう言った。

やっぱりこの人が目指すものは変わらないのだろう。嬉々として夢を語る劉さんを思い出し、俺はそんな彼を少しだけ羨ましく思った。

「…政治家」

家庭の事情で、何か思うところがあるのだろうか、雪乃が劉さんの言葉に反応し、暗い顔をした。

「おや、雪ノ下さんは政治家はお嫌いですか?」

「い、いえ。私の父も、政治家なので…と言っても県議委員ですが」

間髪入れずに劉さんから尋ねられた雪乃は、若干慌てながらそう答えた。

「そうだったんですか。機会があれば色々とお話を伺いたいですね。中国と日本では政治の制度は全く違いますが、過去の成田問題や県内の経済格差等、千葉の県政1つとってみても、我々が学ぶべきものは多いですから」

この人、千葉でそんなことも勉強していたのか。

俺は劉さんに感心しながら、小籠包に手を伸ばす。

「私は父の仕事について詳しい事は何も知らないんです…議員の他に建設会社も運営していて、家には殆どいないので…それに私はどちらかというと政治より、今は金融に興味を持っています」

雪乃はそう言いながら遠慮がちに俺に視線を送った。

「ブハッ!熱!あっつ!」

俺は突然の雪乃の発言に驚いたせいで、小籠包の汁で舌先を火傷してしまった。

「ヒッキーのバカ…」

「バカじゃないの…」

結衣と沙希がそんな俺を冷たい目で見ながらそう呟いた。

「…ははは。そう言えば、海美から聞いていますよ。ヒキタニさんは高校生にもかかわらず投資をしているとか?その道に興味があるんですか?」

俺がずっと待っていた質問だった。核心を突くにはこの会話の流れしかない。

俺は覚悟を決めて口を開いた。

「…まぁそうっすね。俺の知り合いに何人かいるんです…"世界を変えたい"なんてことを言う人間が」

俺の言葉に雪乃がピクリと反応を示す。劉さんも目を細めた。

「俺には、そんな大それた目標に掲げる勇気も能力もありません。金融という虚業に興味を持っていること自体、自分が影の存在で満足している証拠ですから…だが、俺はそんな夢を持ってる人を金の力で支えたい。そう思ってます」

「…くっくくく…ははは!」

俺の言葉を聞いて、劉さんが突然笑い出した。

「お兄ちゃん!?急にどうしたの」

兄の異変を心配するように海美がそう尋ねる。

「いや~、今日は本当にヒキタニさんに会えて良かったです…実は、私もそんな大それたことを考えてる人間の一人なのでね」

劉さんの言葉に、俺は肩の力が抜けるのを感じた。

雪乃は「え?」という顔で劉さんを見ている。

「この場では多くは語りませんが…いつか、ヒキタニさんとは大きな舞台で一緒に仕事ができる気がします」

「そっすか…そん時はお手柔らかにお願いします」

「ええ、是非」

正直な所、俺は劉さんの反応に落胆とも安堵ともつかない微妙な感情を抱いた。

彼の反応からは、彼が俺と同じ未来人なのかどうかはやはり分からなかった。

劉さんは今、俺の目の前で、「世界を変えたい」と考えていることを認めた。

仮に彼が未来人であり、彼も俺が未来から来たことを探っているのであれば、わざわざこんな発言はしないだろう。いや、もしかすると、それを逆手に取った上での発言かもしれない。とにかく、深く考えだせば切りがない。

ただ、劉さんの言葉を聞いて、俺の心境には若干の変化が生じた。

この時代に戻り、沙希の学費の件や、武智社長とのやり取りの中で形になり出した俺の金融マンとしての職業観を、劉さんが再びこの場で認めてくれただけで、俺は不思議な満足感を覚えることができた。

ぶっちゃけると、劉さんについて、しっかりと情報を探っておきたいという気持ちが失せてしまった。

「…えへへ」

不意に横に座る結衣が嬉しそうに笑った。

「どうした由比ヶ浜?」

俺は小声で結衣に尋ねた。

 

「…よく分からないけど、ヒッキーが元気になって良かったなって。朝からちょっと辛そうな顔してたし」

「お前…」

思いがけない結衣の言葉が俺の心にグッと刺さり込む。結衣のこういう所に俺は惚れたのだと再認識させられる。

「「…これが女子力か(なのね)」」

沙希と雪乃はそんな俺たちのやり取りを見て、若干の悔しさを滲ませながら、感心したようにそう呟いた。

「…女子力…辞書にない日本語ですけど、今のやり取りで意味が理解出来ました」

沙希と雪乃の発言に苦笑いを浮かべながら、海美がそう言った。

☆ ☆ ☆

「あ~!すっごく美味しかったね!ゆきのん、サキサキ!」

満面の笑みでそう言う結衣の前には、高々と積まれた飲茶の蒸籠が置かれていた。

確かに劉さんの言う通り、この店の料理は本格的だった。

しかし、結衣の食欲には驚かされた。ひょっとして、あのバストを維持する為にはこの位栄養を摂り続ける必要があるのだろうか。これでしっかり腰はくびれているのだから、本当に不思議だ。

「そうね」

雪乃は短くそう呟き結衣に同意する。が、その視線は結衣の胸にあった。

きっと今、俺と同じようなことを考えているに違いない。

「あたし、こんなの初めて食べたよ。今度、家族を連れて来よっかな」

沙希も料理の味に感動したようだ。実に家族思いな彼女らしい発言だった。

「…ご満足いただけたようで何よりです。じゃあ皆さん、今日はそろそろお開きとしましょうか。私は会計を済ませておくので、お先にどうぞ」

「それは流石に申し訳ないです。奉仕部の分は俺が出しますから、一緒にレジに行きましょう」

劉さんの申し出に対する申し訳なさを感じ、俺は異を唱えた。

「それではお誘いした意味がなくなってしまいますよ。今日は海美がお世話になってるお礼なんです。ここは私にもたせて下さい」

「…わかりました。じゃあお言葉に甘えさせていただきます。有難うございます」

「とんでもない」

予定調和的な会話だが、社会人として失礼のないよう、最低限の確認は行った。

俺たちは先に店舗を出て劉さんを待つことにした。

☆ ☆ ☆

「ねぇねぇ、皆んなこの後どうする?…海美ちゃんは?」

店舗の前で結衣が皆に話を振った。

「私は兄と一緒に真直ぐ帰ります。兄を知り合いに合わせるのって、いつも精神的に疲れるんですよね…」

実際にかなり疲弊した表情で海美はそう呟いた。

海美は今日、兄を立てて、料理の注文を取りつつ茶を注いで回り、俺や劉さんとの話題に乗れなかったメンバーに別途話を振る等、周囲へかなり気を配っていた。

それだけでも世間知らずな新卒社会人を遥かに上回る獅子奮迅の働きであった。だが彼女はそれに加え、突拍子のない劉さんの発言を可能な限りコントロールするよう、常に彼の発言とその周囲の反応も気にしていた。

――小町には到底真似できない芸当だな

俺は海美に同情的な視線を投げかける。結衣や沙希も乾いた笑いを浮かべていた。

「…ゆきのんとサキサキはどうする?」

結衣は海美に申し訳なさげにしながら雪乃と沙希に同じ質問をした。

「そうね、私は…」

「あれ?雪乃ちゃん?」

雪乃が答えようとした瞬間、10メートル程離れた場所から女性の声がした。

声の主の方向を見ると、そこには俺の見知った女性の姿があった。

「…姉さん」

雪乃がそう呟いた。

雪乃によく似た整った顔立ちをしたその女性は、雪乃の姉、雪ノ下陽乃その人だった。

雪乃の視線に気付いたその女性は、俺たちのもとへ駆け寄ってきた。

「やっぱり雪乃ちゃんだった~!どうも、雪乃ちゃんの姉、陽乃で〜す」

ニコニコと笑顔を振りまきながらその場にいた俺たちに挨拶する。

「…どうも」

俺は昔からこの人が苦手だ。最後に会ったのはいつだっただろうか。

あれは確か、消息を絶った雪乃を探して、2人の実家を訪れた時だった。正直、思い出すのも辛い。

「あれれ〜ひょっとして君は雪乃ちゃんの彼氏かな?」

軽めに会釈した俺の姿を見ると、雪乃を肘で小突きながらそう言った。

「…あんた、今日は厄日なんじゃないの?」

そんな様子を見ていた沙希が、半ば同情するようにそう呟く。

「…かもな」

俺は冷めた声でそう沙希に返した。

「あの、違います!わたしたち、三人ともゆきのんと同じ部活の友達なんです!ヒッキーは…誰とも付き合ってません…」

俺の代わりに結衣がそう答える。最後は消えそうな声だった。

「へぇ〜そうなんだ…ヒッキー君?変な名前だね」

「…比企谷です。雪乃さんにはいつもお世話になってます」

今更この人とどんな会話を交わせばいいのか、俺には分からない。

一先ず、社交辞令として、俺はそう答えた。

「そっか、それでヒッキー君なのね。面白〜い」

「…あの、そろそろいいかしら、姉さん?私たちは忙しいのだけれど」

「え〜?雪乃ちゃんの意地悪〜」

陽乃さんが俺のアダ名に納得した所で、雪乃が迷惑そうにしながら、立ち去るよう要求した。しかし、この様子ではこの人が素直に帰ることは無いだろう。

――しかし、面倒な人に会っちまったな。

心の中で大きなため息をつく。

ふとレストランの入り口を見ると、ちょうど会計を済ませた劉さんが出てくる所だった。

「あれ、皆さんまだこちらにいらっしゃったんですか?…おや?こちらの方は?」

案の定、劉さんは陽乃さんの存在に気付き話しかけた。

「どうも〜雪乃の姉の陽乃で〜す…って、あれ?うちの大学の留学生じゃないですか?」

陽乃さんの意外な反応に俺は驚いた。会話から察するに親しいわけではなさそうだが、陽乃さんが劉さんのことを知っていたなんて、前の人生では知りもしなかった。

「ああ、これは失礼、同学の方ですか。私、劉藍天といいます。皆さんにはこちらの妹がお世話になってます」

「姉さん、劉さんの事を知っているの?」

雪乃も驚いたように、姉に事実確認をする。

「まぁね。いろんな学部の講義に顔を出してる謎の留学生…直接話したのは今日が初めてだけどね」

「いやあ、講義の盗み聞きが噂になってるとは、お恥ずかしい。専門は国際政治経済学なんですけど、色々興味が尽きなくて」

講義の盗み聞き…ね。そもそも日本の大学なんて、講義に出もしない学生ばかりなのだ。外から学生が1人紛れ込んだ所で、問題になることも無いだろう。

――大成する人間の根底にあるのは、こういう貪欲さとな生真面目さなんだろうな

ぼんやりとそんなことを考えた。

「そりゃぁ、劉さんがカッコよくてキャンパスでも目立つからですよ〜でも理系の私たちの講義なんか聞いて、面白いんですか?」

「何事も経験ですから」

劉さんは愛想笑いを浮かべながら陽乃さんにそう返す。

「へぇ…とにかく今後ともよろしくお願いしますね!」

陽乃さんもそれに対して失礼の無い最低限の返事を返し、話を切り上げた。

愛想は崩していないが、あまり質問しない所を見ると、どうやら劉さんに対し、大した興味は抱いていないことが窺われる。

そして横目で俺をチラリと見る。一瞬彼女の目元が動き、ニヤリといった表情を浮かべたかと思うと、すぐさま元の笑顔に戻って口を開いた。

「…ところで、雪乃ちゃん…比企谷君と早く付き合えるといいね」

――ああ、この人、こういう人だった

何が目的かは分からないが、大方、雪乃の反応を見て笑うつもりだろう。俺はどうはぐらかし、フォローするかを考えながら、雪乃へ視線を移した。

「…そうね。だから姉さんには邪魔しないでもらえると助かるわ」

――反論しねぇのかよ

予想外の雪乃の反応に俺は絶句する。これ以上無駄な詮索されるのを避けるために、相手に合わせて軽く頷いて見せただけのようにも見えるが、いずれにせよ、これは陽乃さんも予想外だろう。

「「ちょっ!?」」

結衣も沙希も雪乃の言葉に驚きの反応を示した。

「あれれ。私、雪乃ちゃんに嫌われるようなことしちゃったかな?」

陽乃さんはそう言っておどけて見せた。雪乃が俺のことをどう思っているか、には最早興味が無さそうだ。ある意味助かるのだが、それはそれで少しばかり寂しい気がした。

「昔から私を嫌っているのは姉さんの方でしょう?」

雪乃はそう答えると、姉を睨みつけた。その言葉はかなり棘を含んでいた。

雪乃の言葉で、場の雰囲気がガラリと変わったのを感じ取り、気の優しい海美や結衣が目に見えて狼狽え出した。

「そんなこと全然無いんだけどな〜 ま、いっか。じゃあ私はそろそろ行くよ。たまには実家に顔出してよね。雪乃ちゃんのことで気を揉んでる母さん、宥めるの大変なんだから。…そうそう、私、この後大学の友達に会うから、帰るなら車使って良いからね」

陽乃さんは雪乃の言葉簡単に受け流すと、そう言って手をヒラヒラさせながらその場から立ち去っていった。

☆ ☆ ☆

「…雪ノ下。あんた、大丈夫?」

意外にも、一番先に雪乃に気遣いの言葉をかけたのは沙希だった。

「大丈夫よ。みっともない所を見せてしまったわね。劉さんに比企谷君、川崎さんの所も兄弟姉妹仲は良いのに、家はどうしてこうなのかしら」

大丈夫と応えたものの、雪乃の声は暗い。喋りながら俯いてしまった。

「ゆきのん…」

「…確かに、雪ノ下さんのお姉さんは少し変わっているようですね。TPOで”顔”を使い分けるのは私も一緒ですが…素顔の彼女は中々手強そうだ…ねぇ、ヒキタニさん?」

劉さんが陽乃さんに対し抱いた人物評価を口にし、俺に同意を求める。

「…まぁ、そうっすね」

その言葉に素直に頷いてみせる。ただ、俺からしたら、何を考えてるのかわからない人物であるという点は、劉さんとそんなに変わらないわけではあるのだが。

「「「素顔?」」」

結衣、沙希、海美は劉さんの発した素顔という単語がピンと来なかったようで、不思議そうな表情を浮かべている。

「驚いたわ。あれだけの会話で見抜いてしまう人がいるなんて…確かにあれは姉の外面。昔から家の仕事柄、姉はパーティや挨拶回りに連れ回されていたのよ。その結果出来たのがあの仮面。…でも、どうやってそれに気付いたのかしら?」

雪乃は先程の姉の明るい立ち振る舞いが、仮初めの姿である事を皆に説明する。それと同時に、俺と劉さんに対し、自身の中で湧いた疑問を問いかけた。

「ヒキタニさんに視線を移した時に一瞬見せた表情…笑ってましたけど、それまで私へ向いていた愛想笑いと全然違うものでしたからね」

――やっぱ、よく見てんな、この人

劉さんの観察眼に感心しながら、俺も自分の感想を述べる。

「…顔立ちはお前に似てるのに、笑った顔は全然似てないんだよな。俺はそれに違和感覚えた」

昔、初めて陽乃さんに会った時も俺は彼女の外面に気付き、雪乃と似たような会話を交わした事を思い出した。

明るくて、誰にでも気軽に話しかけてくれる、モテない男の理想のような女性。だが理想は理想であって現実じゃない。だから嘘臭い。俺のような人間にも普通に話しかけてくれる彼女の姿を以って、強化外骨格のような外面と評した気がする。

今思えば、当時の俺の思考は過度に卑屈だった気がするが、高校生にしては鋭い観察眼だろう。

「しかし、お姉さんが言われた、”気を揉む母親を宥める”という表現は気になりますね。雪ノ下さんはひょっとして、家庭環境にお悩みでも?」

俺の言葉に被せるように、今度は劉さんが雪乃に質問を投げかけた。

「母は何でも思い通りに決めないと気が済まない人だから…私の1人暮らしも、奉仕部の部長をしている件もあまり快く思われていないんです」

「あんた、成績学年トップなのにそんなことで親に干渉されてんの?」

雪乃の返事に、沙希が驚きの表情を浮かべながらそう呟いた。

「簡単ではないのよ。家柄、とでも言うのかしら。とにかく母は、私にも姉にも、雪ノ下家の恥とならないような生き方をする事を求めているわ。姉は上手く折り合いを付けているようだけれど、私は…姉のように器用ではないから」

雪乃の独白を聞きながら、俺は過去を思い出した。

雪乃は俺の前から姿を消した。そして、親の決めた相手と結婚した。これも、その家柄というのが関係しているのだろうか。

そんな考えが頭を過ると、自分の心の底にドス黒い感情が渦巻く。

「…お前の出生にケチつける訳じゃないがな…たかが土建屋・田舎議員が〝家柄に恥じない生き方”なんてのは、ちょっとお高く止まりすぎじゃねぇのか」

苛立ちを募らせながら俺はそう吐き棄てた。

たかが土建屋、たかが田舎議員。

就職以来、世界を股にかけ多額の金を動かす仕事をしてきた俺からすれば、スケールの小さな話である。だが、当時の俺は、そんな小さなしがらみすら断ち切ることも出来ずに、誰よりも大切だった彼女を失ったのだ。無力だった自分に無性に腹が立った。

「…そうね。貴方のような人間なら、そんな風に考えても不思議ではないわ」

雪乃はそう自嘲的に笑う。

「ヒッキー、そんな言い方…」

結衣が俺の暴言を諌めるように、弱々しく呟いた。

「…すまん。事情も知らずに言い過ぎた。俺はただ…お前に後悔するような人生を送って欲しくないだけだ」

雪乃の表情を見て、俺は失言を訂正する。

しかし、後悔しない人生を送れる人がこの世にどれだけいるというのだろう。俺自身の人生が、後悔の連続であったと言うのに、これ程無責任な言葉もないだろう。

それにさっきの俺の発言…結局、あの時俺との関係よりも家の事情を優先させた雪乃を、感情に任せて責め立てただけじゃないか。

 

――くそっ、情けねえ

急に自分が薄っぺらい人間になったような気がして、虚しさを感じた。

「私は自分より優秀な人間の後を追うしか能の無い人間だわ…そもそも後悔なんてする資格もないのかもしれない」

雪乃の呟きに俺は更に顔を顰める。

俺や劉さんのような存在は、雪乃にとって、姉に代わり指針を示す存在足り得ると、勝手に自惚れていたことを自覚させられる。

現実には、必死でもがく彼女の自尊心を傷付け、自嘲癖を植え付けただけなのではないかと、大きな不安を感じた。

「…ごめんなさい、やっぱり今日は先に帰るわ」

そう暗い顔で言った雪乃に対し、その場にいる誰も言葉をかけることが出来なかった。

 

暗い空気がその場の全員を支配する。

俺たちは皆、無言でエントランスへ向かって歩き出した。

モールの入り口には、陽乃さんが言った通り、雪ノ下家の専属車が待機していた。

「…さようなら」

そう言い残して、雪乃は車に乗り込んだ。

バタンとドアが閉まると、あっという間に車は動き出し、そのまま見えなくなった。

 

「じゃあ…私たちも…サキサキ、途中まで一緒に行こ?」

「そうだね」

流石に遊びに行く雰囲気で無くなってしまった。

結衣と沙希もそのまま帰宅することを選んだ。海美と劉さんにぺこりと頭を下げると、二人とも駅の方角へと歩いて行った。

 

 

「なんだか、大変なことになっちゃいましたね。ごめんなさい」

モールの入り口に残された俺と劉兄妹の3人。

不意に海美が謝罪の言葉を口にした。

「いや、海美が謝る理由は何も無いだろ。俺が無神経な事をあいつに言っちまったせいだ…」

せっかく食事に招待してくれたのに、それをぶち壊してしまったのだ。

改めて、劉さんと海美に対する申し訳なさを感じた。

「…困った事があったらいつでも言ってください。年上として相談くらいには乗れると思いますよ」

「すみません。ありがとうございます」

俺は、劉さんの気遣いの言葉に素直に礼を述べた。

「…それにしても運転手付きの高級車とは、少し驚かされました…建設会社で地方議員…中国なら不正蓄財が真っ先に疑われるような組み合わせですよね」

――!?

冗談めかして言った劉さんのやや不謹慎な言葉に、俺はハッとさせられた。

どうして今まで疑問にも思わなかったのだろう。高級車に専属ドライバー、高校生の娘の1人暮らしのためのマンション購入…雪乃の家の羽振りの良さは正直言って、今の不景気な世の中から見ればはっきり言って異常だ。

正直、俺は未だにあいつの実家の事はほとんど何も知らない。だが、様々な仮定を組み合わせることで、家庭の状況を推測することは不可能ではない。

雪ノ下家の世帯収入はその一例だ。

東証1部に上場する建設会社は、年間売上が兆単位のスーパーゼネコンから、年間売上100億円強程度の準大手まで大小様々。地方の未上場建設会社が東証1部上場企業よりも規模が大きいというケースは、絶対に無いとは言い切れないが、可能性としては低い。従って、雪ノ下建設が中堅建設会社であれば、年間売上高は数十億円程度と予想される。

今の日本において、建設業界は過当競争で利益率の低迷が著しい。大手でなければ、黒字が出れば御の字、純利益率が数%あれば良い方だと聞く。とすれば、雪ノ下建設の年間純利益は多くて1億円に届くかどうかといった水準だろう。更に、会社経営で純利益の全てを配当に回せるかと言えば、答えはノーである。銀行借入をするために、利益を留保して資本の厚みを維持する必要もある。つまり、雪ノ下家が建設会社の経営・配当により得られる収入は、どれだけ多く見積もっても、年間1億円に満たない水準となる。これに父親の県議としての給与が上乗せされるが、これは多くて1千万円程度だろう。

世帯年収1億円弱といえば、世間一般に見ればかなり裕福な部類だ。だが、30代の俺がその年の業績によっては億単位の給料を貰っていたように、サラリーマン家庭には絶対に越えられない壁かと言われれば、決してそうではない。

 

そして、人を雇用するには、労働者に支払う給与以外にも、税金・年金等、雇用主側は甚大なコストを負担する必要がある。果たして、サラリーマンでも手の届く収入水準の世帯が、娘たちのために専属運転手を雇うだろうか。仮にそうであれば収支のミスマッチを疑わざるを得ない。

「…ヒキタニさん?急に難しい顔をして、どうされました?」

「…あ、いえ、すみません。劉さんの言葉で、あいつの実家の不正蓄財の可能性が頭を過ぎったんですけど…やっぱり俺の考え過ぎですね」

そうだ。世帯収入の試算はあくまでも仮定に基づく推定上の数字に過ぎない。前提が間違っている可能性もあるし、そもそも、建設会社の経営以外にも、金融資産の配当や不動産の家賃収入等、別の収入源があってもおかしくは無いのだ。

「いえ、根拠も無しに、雪ノ下さんのご家庭を揶揄するようなことを口にしたのは私です。完全に失言でしたね。申し訳ありません」

「そんなことは無いです…大事な人間を守るには、色んな事が起こる可能性を認識して、事態に備えることが重要ですから…参考になりました」

ひょっとしたら、雪乃の家庭の問題を探る糸口になるかもしれないのだ。

先程の思考は、頭の片隅に留めておいても損は無いだろう。

「前向きですね…ヒキタニさんは立派だと思います。妹が惚れるのも頷けます」

「だから違うってば!」

劉さんの軽口に再び真っ赤になって海美が反論した。俺は、そんな兄妹のやり取りを微笑ましく思いつつ、若干の気恥ずかしさを覚えて頭をポリポリと掻いた。

「…では、ヒキタニさん。今日はお会いできて本当に良かったです。これからもよろしくお願いします」

そう言って劉さんは片手を差し出した。

 

その手を軽く取り握手に応じると、思いの外強い力で握り締められた。

 

握手を終えると、劉さんは満足げな笑みを浮かべ、俺に背を向けて歩き出した。

海美も慌ててそれについて行く。

帰り行く2人を見つめながら、俺はショッピングモールのエントランスに一人、しばらくの間、立ち尽くした。

 

 

 



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19. 比企谷八幡は夏休みを謳歌する(上)

――お願いです、あいつの…雪乃の居場所を教えてください!

その日は土砂降りの雨だった。俺は全身ずぶ濡れになりながら、目前に立つ一人の女性に縋るようにそう叫んでいた。

「…繰り返すけど、雪乃ちゃんが比企谷君に会うことはもうないの」

「何でです!?一体何があったんですか!?」

伝えられる拒絶の言葉。それに対して掴みかかるような勢いでそう食い下がった。

「それも君には関係ないことだよ…」

この女性が、俺の熱意に折れて味方してくれる、なんてことは絶対にない。そんなことは分かりきっていたが、諦めが付かなかった。

「もう私達の問題に構うのは止めて…どうしても雪乃ちゃんが忘れられないって言うなら、代わりに私のことを好きにすればいいじゃない…ほら、私たち良く似てるでしょ」

彼女はそう自嘲的に笑いながら言い、自分が差していた高そうな傘を俺に差し出した。

俺は彼女の言葉に激昂した。他人の言葉にこれ程感情を掻き乱されたのは自分の人生で初めてかもしれない。

傘の柄が握られた彼女の手を無言で払い除けると、開いた傘が風を受けてコロコロと転がって行った。

彼女が着ていた綺麗なワンピースはあっという間に雨を吸い、長い髪が肌にべっとりと張り付いた。

数十秒の沈黙。不快な雨音だけがが俺たちを包み込んだ。

「…ふざけないでください」

俺は苛立ち交じりにそう伝えるのがやっとだった。

「…これ以上騒ぐなら警察を呼ぶよ」

俺の言葉に帰ってきたのは、相手を腹の底から凍りつかせるような、そんな冷たい声だった。

俺はそれ以上何も言うことができず、その場に立ち竦んだ。

「…もう終わったんだよ…解ってよ」

最後に彼女が残した言葉。彼女には似合わない、今にも泣き出しそうな弱々しい声だった。

それを聞くと、自分の心が無力感に支配され、視界がどんどん曇っていった。

気付くと彼女の姿はそこに無かった。

――もう終わった

悲しそうに最後にそう言った女性、俺の初めての彼女であった雪ノ下雪乃の姉、雪ノ下陽乃の言葉は、いつまでも俺の耳の奥に響いた。

「……雪乃…」

米国西海岸サンノゼと成田間の直行便。俺はその機内の座席で女性の名を口にしながら目を覚ました。

乗客の多くは座席で眠りに就いており、通路の非常灯がぼんやりと薄暗い機内を照らしていた。ジェットエンジンの轟音が鳴り響いているが、既に耳が慣れてしまったせいか、特段不快には感じなかった。

――久々にあの時の夢か。めっきり見なくなってたのに。やっぱ、夏休み前のアレが原因か…

アレ、とは、劉兄妹とランチに行ったあの日の出来事のことだ。

あの日、俺は失言で雪乃を傷付けてしまった。

後日、俺たちは表面上は何事もなかったかのように夏休み前の1ヶ月を過ごしてきた。だが、特に俺と雪乃の間のコミュニケーションには、どことなくぎこちなさが残る結果となってしまった。その様子は沙希や結衣にも伝播してしまい、表面的な交流が場を支配し、奉仕部は皆がどことなく居心地の悪さを感じる場と化した。

あの日、劉さんたちと別れた後、俺はショッピングモールで結衣の誕生日プレゼントを買ったのだが、結局それも渡せずじまいとなってしまった。

俺は溜息を吐きながら窓の外へ目をやった。

外は真っ暗で何も様子がわからない。薄暗い機内の光が反射して、死んだような目をした自分の顔が飛行機の2重窓に映り込んでいた。

――ちっ、いつにも増して腐った目だ

俺は大きめの欠伸をしながら固まった背中をストレッチさせ、座席に設置されたエンターテイメント用ディスプレイに、フライト情報を表示させた。

成田到着までまだ6時間以上あるようだ。

ペットボトルに手を伸ばし水を一口飲むと、再び座席にもたれかかった。

『…Hachiman, how many more hours to get to Tokyo?』

不意に横から神経質そうな細身の白人中年男性が、眠たそうな声で到着までの時間を俺に尋ねてきた。

『Sorry, did I wake you up? We still have six hours to go :起こしちゃいましたか、すみません。まだ6時間もありますよ』

この男性は総武光学に出資をしたファンドに所属する技術アドバイザー、マーティン・ホワイト氏だ。この人物と初めて会ったのは、槇村さん・宮田さんの紹介を受けて、武智社長と雪乃と共にファンドメンバーとの面談に乗り込んだ時のだった。

俺はマーティンさんの質問に答えながら、少しだけ背筋を伸ばして、やや離れた座席に座る人物の姿を確認した。そこには、長時間のフライトにはまるで慣れていないと言った雰囲気で、寝苦しそうな表情を浮かべている武智社長があった。

俺たち三人は、夏休み初日から一週間半をかけ、総武光学の紹介のため、世界中のテクノロジー企業との面談、工場見学等を目的とした出張を敢行した。

今、ようやくその旅も終わりを迎えようとしている。

『we’d better go to sleep then. No one wants to suffer from jet lag : じゃあ寝たほうが良い。時差ボケは避けたいしね』

『haha you are right : ハハ、そうっすね』

このマーティンという人物、理系の技術畑出身で、武智社長が驚く程の光学モジュールに関する専門知識を披露したのが前回の面談時点だった。今回の旅の途中、想定通り、

俺という通訳を挟んで二人は勝手に意気投合していた。

一見すれば、ただの細身メガネ白人のオッさんにしか見えないのだが、元々、今回の企業訪問も、その殆どが彼の個人的なリレーションがあってアポイントメントが取れたものだった。

本来、この出張は武智社長とファンドの面々で7月上旬に予定していたものであった。そこを敢えて、高校が夏休みに入るまでスケジュールを後ろ倒しして欲しいと俺が頼み込んだのだ。

その甲斐あって、得るものが多い出張となった。最後に訪問したシリコンバレーの企業からは、マイクロモジュール商用化時の独占契約締結をその場で迫られる程、高い興味を示してもらえた。現状、総武光学への投資は、極めて順調と言っていい。

――あいつらとの関係も、このくらい順調なら良いんだけどな

そんな事を考えながら自嘲的な笑いを浮かべ、機内エンターテイメントディスプレイの電源を落とす。

薄っぺらいブランケットを身体にかけて、俺は再び目を瞑りかけたその時だった。

『…Hachiman, ひょっとして、君は何か悩んでいるのかい?』

眠れと言ったマーティンさんが俺を呼び止めた。出張中、この人はいつもこんな具合に、何かと俺を気にかけるような発言が見られた。

『…まぁ…でも大したことじゃないですよ。マーティンさんが言った通り、そろそろ寝た方が良い』

俺はやんわりと会話を終わらせるように言葉を返した。

『…悩むのは良いことだ。特に若いうちはね。賢い君のことだから、どんな問題でも合理的な思考で一歩ずつ解へと近づくだろう。だが、覚えておくと良い。どれ程合理的な解であっても、それが君の根底にある欲求や情熱を肯定するものでない限り、それは誤りだということをね』

『…何すかそれ?映画のセリフか何かですか?』

分かったような顔で良くわからない事を口走る中年男性に、思わず呆れ顔でそう呟いた。武智社長に対してだったら決してこんな口の利き方は出来ないが、英語だとストレートに地が出てしまう時がある。

『ハハハ、君は失敬だね…僕は理系の技術職だろう? 昔はステレオタイプのイメージのまんま、勉強しか出来ない根暗だったんだ。ハイスクール時代はずっとヒエラルキーの最下層だったよ。だが、そんな人間でも大人になって、恋をし結婚もした。経済的にも成功したと言って良い。だから君のような子にはつい構ってやりたくなるのさ』

『…俺は確かに学校じゃ浮いてるかもしれませんけど、別に虐められてるわけじゃありません。充分学生生活を満喫しているつもりですよ』

『そうかい、それならいいんだ…僕には小学生の娘がいてね。日本語で苦労してる様だが、幸い妻に似て学校では上手くやっているみたいだ。だから尚更、君のような男子は若い時の自分と重なって親近感を覚えるのかな…なんてね。じゃあ、お休み』

そう言うと、マーティンさんは座席の上でゴロンと体を半分ひねり、俺に背を向けた。

『…ヒエラルキー、ね』

そういや、あの頃はスクールカーストがどうとか、良く口にしてたよな、俺。

まぁ、俺が今頭を悩ませているのは、別にそういうことじゃないんだがな。

根底にある欲求や情熱を肯定する解、か……ん?カッコつけてるけど、要するに、やりたいようにやれって言ってるだけじゃねぇか。

俺に背を向けて先に寝入ってしまったこの人物を見て、フッと笑みが浮かんだ。

こういった小難しい言い回しを好む所に、マーティンさんがスクールカースト底辺のガリ勉だった頃の面影を感じ取り、少しだけ微笑ましさを覚えた。

悩みのポイントはズレていたものの、この人が俺という人間を理解しようとし、過去の自分と重ね合わせて言葉をかけてくれたことは思いの外嬉しかった。

死に戻りして再び与えられた、あいつらと共に過ごす時間。

俺は、あいつらと一体どんな関係を築きたいのだろうか。

現状は、付かず離れずの欺瞞に満ちた関係だ。こんなものがいつまでも続くとは到底思えない。

だが、俺の心はそんな「今」に心地良さを感じている。そして今回の雪乃とのすれ違いでハッキリしたように、俺は3人との関係を失うことを明確に恐れている。

――あいつらに…早く会いてぇな

そんな正直な気持ちがつい口をついて声に出そうになるのをぐっと抑え込んだ。

成田までの6時間、こうなってしまえば眠れそうに無い。

長く孤独なフライトの時間をどうやり過ごすか、俺は考えることにした。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

「いや〜、お疲れ様!一緒に来てもらって本当に助かったよ、比企谷君」

成田のスーツケース受け取り口で、武智社長は満面の笑みで俺に礼を述べた。

「いえ、俺の方こそ無理を聞いて貰って、連れて行って頂いて有難うございました…これ、持って行って下さい」

俺はそう言いながらUSBメモリーを武智社長に差し出す。

「これは?」

「出張中の面談の議事録です。飛行機の中で書いときました。それから相手先企業の写真データもいくつか入ってます」

「!?…そんな事までしてくれたのかい?」

「眠れなかったので…良い暇つぶしになりましたよ」

武智社長はメモリーを受け取ると、改めて俺に礼を述べた。会社のメンバーに直ぐに出張報告すると息巻いている。

『Takechi-san, Hachiman, 今回、お陰様で良い出張になりましたよ。これからが総武光学のビジネス拡大の本番です。引き続きもよろしくお願いします』

『こちらこそ…本当に有難うございました、マーティンさん』

武智社長は、たどたどしいながらも英語でそう礼を述べた。初めてファンドマネジャーを訪れた日から、武智社長は必死で英語を勉強しているらしい。まだまだ本格的なコミュニケーションが取れるレベルには至っていないが、今回の出張でも一部の発言は直接英語で言ったり、俺の通訳無しに相手の発言を聞き取っていたりと、その努力の成果が随所に伺われた。

『所で、僕はこれから社用車で家に帰ります。お二人はどうしますか?よろしければ一緒に乗って行きませんか?』

ゲートを出たところ、マーティンさんが帰りの足をオファーしてくれた。

『ありがとうございます…でも俺は家から親父が迎えに来ることになっているので結構です。武智社長を送って頂けますか?』

『No problem. じゃあ行きましょうか、武智さん。また近いうちに会おうHachiman, …学校生活も頑張ってな』

マーティンさんはそう言残すと、武智社長の方を軽くたたいて入国ゲートへと消えていった。

――俺もそろそろ行くか。親父に電話しねぇと

俺は家族の顔を思い浮かべながら、ずっと電源を落としていた携帯電話のスイッチを入れた。

――ヴヴヴヴヴヴ

電源が入り、電波を拾った瞬間から、俺の携帯は小刻みな振動を続けた。数秒たっても止まる気配が無い。

――おいおい、着信何件入ってんだよ…これ、俺の携帯だよな?

携帯のディスプレーに表示される着信履歴、メール受信数は50を超えている。

あまりの数に、一瞬、武智社長の携帯を手違いで手にしているのではないのではないかと、疑念を抱いてしまった。

内容を確認すると、その大半は平塚先生によるものだった。

画面をタップして一番上にリストされていた最新のメッセージを表示させる。

【 比企谷君へ どうして電話に出ない んですか。 君を待っています 絶対逃し ません】

――怖!

怪文書にしか見えない恩師からのメールに戦慄を覚える。

そう言えば、過去の夏休み、平塚先生が突然連絡を寄こして来て、小学生のキャンプ同行に参加させられた様な気が…

俺はその場で平塚先生に電話するかどうか、30秒程悩んだ末、一先ずゲートの外で待っている親と合流することに決め、税関へと足を進めた。

税関ではマーティンさんや武智社長はスルーだったのに、何故か俺だけスーツケースを開けさせられた上に、ボディチェックも受ける羽目になった。

「ランダムチェックへのご協力、感謝します」

検査後、空港職員は背筋を伸ばしてそう礼を述べたが、この職員、明らかに俺を不審者扱いした。俺は相手を軽く睨みながらスーツケースを閉じたのだった。

「こんなんなら、2人と一緒に入国してから別れりゃ良かった…」

そう独り呟きながらスーツケースを引きずり、入国ゲートをくぐる。併せて親父へと電話をかける…が出なかった。

――何なんだよ、親父め。

心の中で悪態を吐きながら、今度は妹、小町の登録番号をタップする。

「あ、お兄ちゃん?空港に着いたの?残念ながらお父さんは迎えに行けなくなっちゃったから!」

直ぐに電話に出たものの、第一声から浴びせられた残念なお知らせに軽く凹む。

「え!?マジかよ?」

「大丈夫!ちゃんと替わりに迎えが行ってると思うから!がんばってね!」

「は!?おい、替わりってなんだ?」

「ピッ…プーップーッ」

俺の質問に答えたのは無機質な機械音だった。

はぁ、と、溜息を吐きながら、エレベーターへ向って歩みを進める。

流れに乗って、エレベーターへ乗り込もうとした瞬間、俺は何者かにグッと肩を捕まれた。

「比企谷…待っていたぞ」

振り向くと、そこには仁王立で俺を睨む恩師、平塚静の姿があった。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「…で、その小学生の林間学校に俺たち奉仕部が参加することになったってことっすか?」

俺は平塚先生の車の助手席に乗せられて、成田空港を後にしていた。

先生から俺を待ち構えていた理由を聞く。それは過去にも、夏休みの奉仕部課外活動として参加した、小学生の林間学校の同伴であった。

どうやら今日は既にキャンプ2日目、最後の夜になるそうだ。

奉仕部以外にも、葉山、戸部、三浦、海老名、それに戸塚も参加しているらしい。

そして、小学生の中には、集団から孤立した女子生徒が1名。彼女をどう扱うかについて、皆で揉めているようだ。

――懐かしいな

俺は15年以上前のおぼろげな記憶の中から、件の少女を思い出そうとしていた。

名は確か…鶴見と言っただろうか。

あの時は俺の提案で、俺たち高校生集団が少女を取り巻く集団をバラバラに切り離し、問題の"解消"を図ったのだった。

時差ボケで眠たい目を擦りながら車のデジタル時計を見る。時刻はちょうど正午に差し掛かろうとしていた。

しかし、このタイミングの良さは何だろう。俺が3人に早く会いたいと願ったのが天に通じたのだろうか。長旅の疲れにもかかわらず、思いの外、気分は悪くなかった。

「そう言うことだ。君にはさっぱり連絡が付かなくて困ったよ。君が海外にいることは、先日妹さんが教えてくれたんだ…全く、旅行に行くなら先に教えてくれればいいものを」

「いやいやいや!おかしいですよね!? 先生こそ先に林間学校のスケジュールを教えてくれればよかったじゃないですか!わざわざ成田で待ち受けてるなんて、ストーカーじみてませんか?」

「比企谷…女性に向かってそんな言い方はないだろう」

「…普段無駄に男らしい癖に、こんな時だけ女を使いますか…って、先生!高速降りて下さい!一旦着替えくらいさせてくださいよ!」

1週間越えの海外旅行と言っても、俺が行ってきたのは純粋なビジネストリップだ。

俺は今、革靴にスーツという、およそキャンプ場には似つかわしくないいでたちであり、スーツケースには、着用済みの下着とYシャツが数枚入っているのみだった。

「私を傷つけた罰だ…それに君はタダでさえ遅れての参加だ。これくらい我慢したまえ…なに、気にすることはない。その恰好、よく似合っているぞ」

平塚先生はニヤリといたずらっぽい笑みを浮かべると、アクセルを踏み込む。

そしてそのまま、俺の自宅へのルートとなるインターチェンジを無情にも通り過ぎた。

 

唖然とする俺を乗せ、平塚先生の車は群馬方面へと加速していった。

 

 

 

 

 



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20. 比企谷八幡は夏休みを謳歌する(下)

高原千葉村

千葉市が群馬県みなかみ町に保有する、市民向け保養施設である。

千葉の施設が群馬県に所在する理由についてはあまり触れないでおこう。

この施設、後に経営が市の財政を圧迫するとの理由で、地元に売却されるのだが、それはもう少し先の出来事となる。

俺たちが到着したのは午後3時頃であった。

先生は駐車場で俺を降ろすと、買い出しがあると言って、再び近隣の商店へと車を走らせていった。きっと夜の酒でも買いに行くのだろう。

畜生、俺も飲みたい。あと、タバコ吸いたい。

俺はスーツケースを転がしながらロッジの方向へ向かって歩を進めた。砂利敷きの駐車場でキャスターがボロボロになり、薄い革靴の底に石の感触をゴリゴリと感じながら歩いていると、益々先生が恨めしくなる。

ふぅ、とため息をつきかけたところで、よく見知った女性3人を見つけた。

ロッジの前で雪乃、結衣、沙希の3人が何か話し合っている。その姿を見つけると、足の裏の痛みも忘れて、柄にもなく思わず小走りで近寄った。

「あ!ヒッキー! …ってその格好何だし!?」

俺に一番最初に気が付いた結衣が手を振りながらそう言った。

「どうもこうも、成田で待ち構えてた先生にいきなり拉致られたんだが…」

3人に近付きながら、やや大げさにそう返した。

「…あんた、よっぽど平塚先生に気に入られてるみたいだね」

事の顛末を話すと、沙希が笑いながらそう言った。結衣も笑顔を浮かべている。

その笑顔に心が洗われた様な幸福感を覚える。

俺はもう1人の女性、雪乃を見た。しかし、その表情はやや暗かった。

「…迷惑だったのなら、断ることも出来たのではないの?」

俺にはあまり会いたくなかったのだろうか。雪乃が視線を合わせずにそう呟く。その表情を見て胸に痛みを感じた。

俺と雪乃の間にある微妙な空気を感じ取った沙希と結衣は暫く複雑そうな表情を浮かべていたが、この場にいても仕方がないということで、一先ずは男子が宿泊する施設へ俺を案内してくれることとなった。

「比企谷、来てたのか」

ロッジにて荷物を整理していると、ドアを開けて入ってきた葉山が俺に声をかけて来た。

「おう、今着いた所だ。途中参加になっちまったが…今ん所上手く行ってんのか?」

「そうだな。問題無いよ…と言いたい所だけど、実は孤立してる女の子がいて、頭を抱えてるんだ」

「ま、よくある事だな…手助けすんのか?」

「ああ。その打合せを今からするところだ。一緒に来てくれないか?」

「…おう」

俺はその少女、鶴見留美の顔を思い浮かべながら葉山の誘いに頷いた。

☆ ☆ ☆

「あ、八幡!来てくれたんだ!」

葉山に連れられてやってきた中央棟の一室に入ると、魔法使いの格好をした戸塚がうれしそうに声を上げた。

「よう、戸塚、元気だったか?」

「うん!」

ほんの一週間程度顔を合わせなかっただけで、元気か、もないと思うが、笑顔で返事を返してくれた戸塚に対し、思わず顔がほころんだ。

「ヒキオ…あんたその格好何?」

今度は戸塚の隣にいた三浦の弁。

「色々あったんだよ…ってか、お前かなり焼けたな? 夏休み中も部活か?」

怪しむような視線を投げかけてくるが、それをかわしながら適当に会話を続ける。

「うっさい!…戸塚は色白のままなのに、何であーしは日焼け止め塗っても効かないし…」

「健康的で良いじゃねぇか。テニス、頑張れよ」

「ふん」

「…比企谷も来たことだし、そろそろ始めよう。鶴見留美ちゃんのことだが…やっぱり皆んなで仲良くなる方法を考えなきゃ、解決出来ない気がするんだ」

俺たちの会話を遮るように、葉山が会議の開始を宣言した。

この場にいるのは、俺たち奉仕部4人、葉山、戸塚、三浦、戸部、海老名さんの9名だった。

「そんなことは不可能よ」

「アタシもそれ、無理だと思う」

開口1番に雪乃と沙希が葉山の言葉を否定する。

「ちょっと、何で初っ端から水差すようなこと言うわけ?」

想像していた通り、その態度に対して三浦が食って掛かる。

「まぁまぁ、3人とも落ち着いてよ」

「何でゆきのんもサキサキも無理だと思うの?」

見かねた海老名さんが仲裁に入ると、結衣がそれに併せて雪乃と沙希に質問を振った。

「あの子は徒党を組んだ相手から、悪意によって孤立させられているのよ。話し合って私たちの前で表面上仲良く振舞ったとしても、後で余計に敵意を向けられるのがオチよ」

「それにあの子、既に自分から距離を詰めるのを諦めてる所あるし…1人でいることに慣れて来てるっていうか…アタシはその気持ちも良く分かるよ」

二人の意見は相応の納得感を持って皆に受け入れられたようだ。

一瞬の沈黙が場を支配した。

「はい!」

停滞しかけた議論の空気を打ち破るように、海老名さんが手を上げ、発言の意向を示した。皆の注目が彼女に集まる。

「じゃあ、外の人と仲良くするって言うのは?趣味に生きればいいんだよ。趣味に打ち込んでいるとイベントとか行くようになって色々交友広がるでしょ?学校だけが全てじゃないって気づくと思うんだ」

「なるほど…」

葉山が彼女の意見を反芻するように考えながら、そう呟く。

「私はBLで友達が増えました!ホモが嫌いな女子なんていません!」

目前で行われるあの時とまったく同じ提案。

ホモはともかく、海老名さんの着眼点自体は悪くないと思い、俺は彼女の意見を心に留めることとした。

「比企谷、どう思う?」

海老名さんの後半部分の提案はまるで聞かなかったようなそぶりで、間髪入れずに葉山が俺に意見を求めた。

「…問題を解消するなら一つ方法がある。徒党を組んでる連中をバラバラにしちまえばいい。皆んなが等しく孤立すれば、少なくとも“その子だけ”が疎外感を感じることはなくなる」

あの時俺たちが取った選択。その結果、鶴見が集団から意図的に孤立させられるという自体は解消された。

今の俺なら、時間さえあればそれよりも更に良い提案をすることは可能だろう。海老名さんの意見を踏まえて、鶴見が真に救われたと感じられるような状況を用意してやることも不可能ではない気がする。

ただし、それにはまだいくつかパズルのピースが足りていない。そんな気がした。

「そんなの、どうやって?」

沙希が俺に対し、もっともな疑問を呈した。

「簡単なことだ。群れてるグループを脅して、自分たちの中から”生贄”を選ぶように仕向ければいい。今夜の肝試し中に因縁を吹っかけて、半分だけ助けてやる、もう半分は残れ、みたいなことを言ってな。互いに本性を晒せばもう仲良くはしてられなくなる」

「「「「「……」」」」」

「エゲツねぇ〜 ヒキタニ君、パないわ〜」

俺の案に無言になる女性人と戸塚。

戸部は俺のアイデアに対する印象を素直に言葉にした。

「…そういう考えか」

そんな中、葉山は相応の納得感を示す。

与えられた選択肢の中で俺たちが取れる行動は限られている。そんな事実を認識したような表情だった。このまま俺が無言を貫けば、恐らく今回もこのアイデアが採用されるだろう。

だが、本当にそれでいいのだろうか。俺は少しばかりの違和感を覚えた。

「…葉山、本当にこれでいいのかよく考えろ。というか、今喋りながら俺もそれを考えている。雪ノ下と川崎は否定したが…お前の着想地点は、奴らを仲良くさせる事だった。性善説を信じる人間にとって一番理想的な形…そこに持っていくにはどうすれば良いか、もう少し知恵を絞る時間はあるだろ?」

「ヒキオ、あんた自分で案出しといて、他の解決方法を考えろってどういう事だし!?」

俺の喋り方が投げやりに聞こえてしまったのだろうか。三浦がやや混乱ぎみに突っかかってきた。

「自分でも違和感があんだよ。先の案は打開策がどうしても見つからない時の保険程度に思ってくれれば良い」

俺は素直に自分の心中を打ち明け、会議の続行を皆に促した。

「だけど、皆んな他に案があるのかしら?」

「「「「……」」」」

雪乃の言葉に、皆無言になってしまった。誰もこれ以上のアイデアは持ち合わせていないようだ。

――固まりきってねぇ考えを言葉にするのは好きじゃねぇんだが…仕方ねぇな

「もう一つあるが、これは不完全な案だ。まだ細部まで計画がまとまってないって前提で聞いてくれ」

「言ってみてくれるか?」

前置きに対する合意を確認して俺は再び口を開いた。

「…脅す対象を鶴見に切り替える。奴らの目の前で鶴見を徹底的に追い詰める。加虐的快感に酔いしれる人間の醜さを見せつけることで、鶴見を取り巻く人間にイジメに対する嫌悪感を植え付け、正義感を掘り起こす。これで鶴見を排除の対象から保護の対象に鞍替えさせる」

「これまたえげつないっしょ!」

「…どうしてそれが不完全なんだ?」

真っ先に嫌悪感を浮かべた戸部とは対照的に、葉山は俺のアイデアを吟味した上で、思い浮かんだ疑問をぶつけてきた。

「芥川龍之介の”鼻”って知ってるか?」

言葉足らずは承知の上。

俺は今のアイデアの不足点を恐らく最も的確に示すであろう例え話を持ち出した。

芥川龍之介の短編小説「鼻」。

京の高僧である禅智内供は五-六寸も長さのある滑稽な鼻を持っていたため、人々にからかわれていた。ある日、内供は医者から鼻を短くする方法を知り、その方法を試し、鼻を短くすることに成功する。鼻を短くした内供はもう自分を笑う者はいなくなると思い、自尊心を回復させた。しかし暫くすると、短くなった鼻を見て笑う者が出始める。内供は初め、自分の顔が変わったせいだと考えたが、日増しに笑う者が増え、鼻が長かった頃よりも馬鹿にされるようになった。内供は傷つき、鼻が短くなったことを逆に恨むようになった。

そんなストーリーだ。

「傍観者の利己主義、ね」

雪乃は、作中において内供を取り巻く人間達の心境を芥川龍之介が表現した言葉を持ち出して、俺の言葉に頷く。

「1人で納得すんなし」

冷めたような目で三浦がぼやく。雪乃以外の人間は、まだ俺が言いたいことを理解していないような表情を浮かべていた。

「人間は誰もが他人の不幸に同情する。だが、その一方で不幸を切り抜けると、今度はそれを物足りなく感じるようになる。更に言えば、その人を再び同じ不幸に陥れてみたくなり、敵意さえ抱くようになる」

これが傍観者の利己主義だ。

「一時的に同情や、他人から恣意的に植え付けられた正義感で鶴見の周りに人が集まっても、暫くすれば元どおり…想像に容易い」

俺は自分の第二案の欠点をそう締めくくった。

「そんな…」

結衣が落胆の表情でそう呟やく。結衣は優しい子だ。手立てがないと俺が言っていることにショックを受けているようにも見えた。

俺は結衣に対し、軽く微笑みながら話を続けた。

「それを防ぐには、ここで第二の策が必要になる。海老名さんがさっき言った、"趣味で友達を作る"って案、結構イイ線行ってるんじゃないかと俺は思う」

「え?」

俺の言葉に意外そうな声を上げたのは海老名さん本人だった。

「一時的に悪意が収まったタイミングで、鶴見に主体的に新しい交友関係を構築させるんだ。二度と孤立しないための体制基盤を作り上げるとでも言った方がいいか?」

話しながら俺はそのための手法を考え出すために脳をフル回転させる。

「でもさ、それってキツいんじゃないの?クラスの皆と自分から仲良くできる子だったらそもそも孤立してないでしょ?」

「川崎の意見はごもっともだ。だが、一つだけ言えるのは、別に全員と仲良くする必要はないってことだ。関係構築の上でのキーパーソンを見抜き、ターゲットを絞って交友を広げさせる」

「キーパーソン?」

雪乃が訝しげな表情でそう呟いた。

「ああ、闇雲に薄く手広く友好関係を結ぶのは難しいし、仮に出来たとしても、事態は変わらんだろうな。鍵となる人間との関係強化に集中することが重要だ」

「意味分かんないし」

腑に落ちないといった表情で呟いた三浦を見て、俺は自分たちの状況に置き換えて例え話をすることにした。

「分かりやすく言うとだな…三浦、お前は海老名さん、由比ヶ浜、葉山、戸部、大和、大岡と普段良くつるんでるだろ?そこに突然俺が、何らかの理由で一緒に昼飯食うようになったり、一緒に行動するようになったらどう思う?」

「違和感尋常じゃないし!」

「…だろうな。まぁ、それはお前達のグループの中で、俺と普段から接してる奴が由比ヶ浜位しかいないからだ」

「だからそれが何だし?」

「グループってのは、その括りで囲われた中の人間が皆んな等しく同じ繋がりを持ってる訳じゃない。個と個の複雑な繋がりによって構築された人間関係を、何となく分かりやすいキリトリ線を見つけて無理矢理区分しただけの、極めて曖昧な輪なんだよ」

「…またヒッキーが難しい話を始めちゃったよ」

結衣が苦笑いを浮かべて俺を見た。俺が考えをまとめ切れずに話しをし出すといつもこうだ。だが、その表情からは俺に対する信頼の色が覗われる。

「…僕はそれ、何となくわかるかも。僕と三浦さんが2人でテニスの練習したり、一緒に下校したりするのは普通なのに、三浦さんが皆と一緒にいる時は何となく声を掛け辛い時があるっていうか…ごめん!別に不満があるわけじゃないんだけど、そう言う意味では、僕と三浦さんはテニスで繋がってるけど、僕はグループの一員じゃない…現実的にはそう言うことになるよね?」

これまで黙っていた戸塚が俺の説明を補足するようにそう述べた。

「その通りだ。ボッチって言うのは、別にコミュ障だけが陥る状態じゃない。仲が悪くない相手が何人かいても、その繋がりが相対的に弱い場合、その相手同士が繋がっていない場合に、自分がどの団体の一員としてもカウントされない、何てケースもあり得るからな」

「…孤独慣れしている人間の言葉には重みがあるわね」

「確かに。経験者は語るって感じ」

「一応言っとくけど、どっちかって言うと君たちも俺と同類だかんね?」

雪乃と沙希の容赦のない言葉に、俺は形ばかりの反撃を試みた。

「あはは…」

そんな俺たちを見て、結衣が乾いた笑いを浮かべた。

「まぁいい、話を続ける。とにかくお前らのグループで俺が太い繋がりを持っているのは由比ヶ浜だけだ。そんな状況で俺がグループに溶け込もうと画策しても難しい…だが、仮に俺が葉山とも個別に付き合いが有ったとしたらどうだ?」

「三浦は…比企谷を追い出したくても…追い出せない?」

「ちょ、サキサキさっきから酷くね?何で俺、排斥される前提なの?」

「サキサキ言うな!っていうかそれ駄洒落のつもり?」

恋人であるはずの女性からのキツ目のダメ出しを受けて、心に軽くダメージを追いながら俺は話を続ける。

「…まぁ正解だ。要は、広く薄い人間関係でグループに入り込もうとするんじゃなくて、主要な人間とのハブになれるかどうかが重要なんだ」

「ヒキタニ君、ハブになれる…って日本語おかしくね?」

――くっそ、ビジネス用語が通じない人種と喋るのは疲れる。新人類め…って、俺も同じ世代か

先ほどから俺が一言考えを述べる度に質問の嵐だ。戸部の反応に若干辟易とするが、俺たちは高校生なのだから仕方あるまい。俺は更に解説を続けた。

「あ〜すまん、”ハブる”のハブとは真逆の意味になるが…Hub & Spork、自転車の車輪の車軸のようなポジションって事だ。スポークを対外関係に見立てて、その中心に自らを据える…物流業界や国家間の安全保障なんかでも使われるネットワーキングの概念だ」

「ヒキタニ君、私も質問していいかな?それって人間関係の中心に自分を置くって事だよね?…最初の議論に戻るけど、それは隼人君みたいなリーダーシップが無い人には難しいんじゃないかな?ごめんね?」

先ほど若干イラッとしたのが表情に出てしまったのだろうか。海老名さんが遠慮がちにそう質問した。

「いい質問だ。確かに葉山のような人を惹きつける人物は無意識にそう言った人間関係を築く事が出来る。だが、そうでない人間にも戦略的に周囲の人間を分析することで同じようなネットワークを作る事は可能だ」

「俺にそんな大層な魅力があるとは思えないけど…いや、すまない、これじゃ脱線だな。留美ちゃんのケースでは具体的にどうすればいいんだろうか」

海老名さんへのフォローを入れながらの答えに、葉山が一瞬謙遜の反応を示すが、直ぐに軌道修正を図る。問題の中心は何か、それを念頭に置いて議論に集中している証拠だろう。俺は奴の態度から地頭の良さを感じ取り、若干の好感を覚えた。

「そういうことなら、私にも提案が出来そうね。クラスメートの中で新たに輪を構築出来そうなポテンシャルのある人間を数人見繕う…4人くらいいれば十分でしょう。鶴見さんにはその4人とそれぞれ排他的に共有できる趣味を身に付けさせるというのはどうかしら?排他的というのは、鶴見さん以外の4人が互いに共有していないもの、という事よ。これで、彼女が居て初めてグループの輪が構築可能な人間関係が出来るわ」

雪乃の提案に、おおっ、と皆が頷いた。

雪乃は俺の言いたかったことを旨く具体案を出しつつまとめてくれた。

「留美ちゃんをスポークで繋ぐべき相手を俺たちが適切に見抜かなきゃならないって事か…」

「そいうコトになるな…正直、これは難易度も高いし上手くいく保証もない。4人のうち鶴見以外の人間が趣味を共有すれば、鶴見が再び除け者にされる可能性があるし、逆に4人が輪を構築しなければ鶴見は宙ぶらりんのまま、個々の繋がりはあってもグループには入れない状況が続くだろう」

フレームワークの策定としてはこんなところだろう。俺は細部の計画を練る前の最終的なリスク認識の共有を意図してそう発言した。

「確かに難しそうだ…けれどトライする価値は十分にあると思う。最悪、彼女が輪の構築に失敗したとしても、個々の繋がりがあれば、彼女も現状よりは気が楽になるんじゃないかな?…どうだろう皆?俺はこの案で進めてみたいと思うんだけど」

全員が葉山の言葉に頷いた。

その後、俺たちは小学生の観察部隊と作戦立案部隊に別れて情報収集と分析を行い、計画を練り上げた。

計画では前回と同様、肝試しに乗じて小学生への奇襲を掛ける。違うのは、今回のターゲットが鶴見であり、その汚れ役を俺が買って出た事だ。

これは途中参加した俺が、まだ小学生に顔割れしていないという事実に加え、スーツ姿であれば、外部の侵入者による犯行に仕立てる事が出来ると考えたからだ。

なお、翌朝の点呼集合に備えて、俺は葉山から予備のシャツと短パンを借りる事になった。俺は目立たない人間なので、隅で大人しくしていればバレないとの算段だ。

余談だが、葉山に「服を貸してくれ」とお願いした際に、海老名さんが鼻血を流して喜んでいたのには全員がドン引きした。

話を元に戻す。

俺が皆の前で鶴見の心を折った後、前回悪役であった葉山、三浦、戸部の3人には正義の味方として乱入してもらい、不審者である俺を追い払う演技をしてもらう。その後、クラスの女子生徒を集めて、事件のあらましを説明し、鶴見への同情心を全力で掻き立てる。

“鶴見新グループ”の候補対象となる4人は、俺たちの中でも相当議論を重ねた末、最終的に、ある程度正義感の強そうな女子四人をピックアップする事となった。

その4人に対し、雪乃、結衣、三浦、海老名さんが1対1で張り付き、連絡先を交換する。そして、鶴見イジメがクラスで再発しないか、相互監視を行わせ、定期的に連絡を取り合うというガバナンススキームを導入する事にした。実際に密告されても俺たちにできる事は殆どないのだが、高校生に報告させる事で、彼女たちには”自分は正しい事をしている”という自負心を持たせ、鶴見の最後の守りとなるよう導く事が目的だ。

なお、高校生4人の担当は、各メンバーの趣味・習い事を考慮して決めた。

雪乃は英会話に通う子、結衣は化粧に興味がある早熟な子、三浦はテニスクラブに通う子、海老名さんはBL好きの素質がある子、といった具合だ。

ちなみに、結衣が張り付く子は、現在進行形で鶴見を排除しているグループに属している。こいつが鶴見シンパとして機能するかは、俺がどれだけ強烈な演技をかませるかにかかっていると言っていいだろう。

葉山達が小学生の前で不審者の存在を騒ぎ立て、4人の担当がターゲットに張り付いている間、沙希には鶴見の心のケアを担当してもらう。鶴見を慰め、落ち着いた所で、今後の人間関係構築のプランについてレクチャーするのだ。

沙希は肝試しに先立って、鶴見に対し、孤立しないために趣味・習い事をしてみないか、と目出しをしたようで、反応もそれなりに良好だったようだ。これは沙希の生来のクールな性格と、日頃の幼い兄弟の世話で身に付いた母性が上手い具合にバランスした結果だろう。結衣の見立てでは、鶴見は沙希に対し、ある種の憧れのような感情を抱き出しているようだ。

最後になるが、戸塚は俺のアリバイ工作という華のない役割を自ら買って出てくれた。

繰り返すが、今回、葉山達には鶴見に対する同情心を引き立てるため、クラスの大部分を集めて、不審者の存在を大々的に騒ぎ立ててもらわなければならない。

これが教師に知れた場合、警察への通報が行われると言った可能性も視野に入れておかねばならないのだ。

戸塚は鶴見が属する肝試し最終グループの出発を見届けた後、ロッジに戻り待機する。その後、鶴見を脅し終えた俺は、ロッジに駆け戻り、戸塚と合流する。戸塚には体調を崩した俺の面倒を見るために、小学生を送り出した後から、ずっとロッジに一緒にいたと証言してもらう事になった。

あと数十分もすれば日が落ちる。肝試しが開始されれば後には戻れない。果たして俺の演技は小学生相手にどの程度通じるのだろうか。鶴見には申し訳ないが、やるからには全力で悪人を演じてやる。

程よい緊張感を胸に、俺は今夜へ向けての最終準備を始めた。

☆ ☆ ☆

夜、茂みで待機する俺の携帯に戸塚からの連絡が入った。

いよいよ鶴見たちがやってくる。

俺たちは、先のグループがこの地点を通過した際に、矢印の貼られたコーンに細工をし、集団を逃げ場の少ない川辺へと誘いこむ工作を終えていた。

「…来たわ」

「ヒッキー、本当に大丈夫?」

暫くすると、近くでグループの到着を監視していた雪乃が合図を送ってきた。

腰を上げた俺に対し、結衣が心配そうに声をかけた。

「俺を誰だと思ってんだ?無慈悲に人の弱みに付け込んで金を儲けるのも金融マンの仕事だからな」

宮田さんの下でトレーダーをしていた時は、空売りの鬼、とも呼ばれたこともあった。

人の弱み…企業の隠れ債務やスキャンダルをいち早く嗅ぎ付け、株価がそれらを反映した適正水準に落ちるまで、無慈悲に売り浴びせを行う。

今回の作戦とはコンセプトが違うような気もするが、要は周りの人間が、鶴見留美との人間関係構築が"割安(お得)"と判断するようになるまで、攻撃の手を緩めず、鶴見を落とすところまで落とせばいい。それが今、俺に与えられた仕事だ。

俺は自分に無理やりそう言い聞かせて草むらを後にした。

「脅かす人、全然出てこないね〜」

「なんか期待はずれ〜」

「所詮高校生だからしょうがないじゃん」

「「「「アハハハハ」」」」

鶴見を除く4人の女子集団は暗い道を楽しそうに歩みを進めていた。

案の定、鶴見は集団の数歩後ろをトボトボと着いて行くように、一人、歩いていた。

「よう…」

「誰!?」

ちょうど木の陰から姿を見せ、集団に声をかけると、一人の女子が半分驚いたようにそう声を上げた。

「幽霊だよ。リストラで首を吊ったサラリーマンの亡霊ってとこか」

「あははは、バカっぽ〜い。確かに目が死んでるし」

まずは軽口を叩きながら目前の小学生の反応を覗った。

「そう言うなって。サラリーマンってのは大変なんだぞ?」

「幽霊なのに全然怖くないよ!」

一人がそう言うと、4人はケタケタと笑い出した。

周りの連中の反応は上々だろう。いきなり襲い掛かっては、逃げられる可能性が高いのだ。さて、ここからが本番だ。

「そうかよ…所で、人が折角楽しませようとしてやってんのに、一人シケた面してる奴がいるな」

そう言いながら、俺は後方にいた鶴見をジロリと睨み付けた。

「…」

その言葉に、鶴見は無言で顔をしかめる。

「何だ?不服そうな顔しやがって…おいお前、随分と離れた位置にいるが、ひょっとしてハブられてんのか?」

その俺の台詞を聞いた4人の反応が二つに分かれていることに気づく。

ニヤニヤしてる奴が二人、苦笑いを浮かべてる奴が二人、半々だ。

幸い、結衣が張り付く予定の女の子は後者のようだ。苦笑いは内心で心苦しさを感じている証拠だろう。相応に正義感がありそうだという、あいつらの見立てが間違っていなかったことに若干の安堵を覚える。

「なんとか言えよ…コミュ症か?…こんな暗い道を、一人離れてトボトボ着いてくだけの肝試しはさぞかし楽しいだろうな」

「…あの、私たちそろそろ先に進まないと」

俺の悪意を敏感に感じ取ったのだろう。第二の策のターゲットとしている女子が、そう小声で言った。

「薮蚊に刺されながら、お前たちを待ってたんだぜ?少しぐらい話に付き合ってくれよ…お前ら、こいつの事どう思ってんだ?やっぱり態度が気に入らない、とかか?よく分かるぜ。なんか生意気そうな顔してるしな」

「別に…私はなんとも思ってないし」

別の女子がそう呟く。わざわざ俺に合わせて鶴見を攻撃するのは気が引ける、だが、ここで大げさに庇うほどのリスクは負いたくない、そんな心境なのが手に取るように伝わってきた。

しかし、当の鶴見本人は、”なんとも思ってない”という言葉に、それなりのダメージを受けているようだ。暗い顔が更に暗くなった。

この一言、言った本人はそんなに悪意があった訳ではないのは分かる。だが、だからこそイジメは無くならないのだということを改めて認識し、気分が悪くなった。

しかし、ここで手を緩めるわけには行かないのだ。

俺は鶴見に対す同情を押し殺して再び攻撃を開始する。

「おいおい、お前ら随分と優しいじゃねぇか。こういう奴はな、大抵、周りの人間を逆恨みして、クラスメートはガキだから仕方ない、なんて自分に言い聞かせて惨めさを誤魔化してるんだ」

「私は…そんなこと」

弱弱しい声で鶴見本人が反論しようとする。

俺はその声を遮るように、畳み掛けた。

「思ってんだろ?”何で自分は悪くないのに孤立するのか…それは周りが悪いからだ”。他人に嫌われる人間の典型的な考え方さ。実に単純だ。要するに、バカだから人に相手にされないんだよ」

「…」

鶴見は悔しそうな顔をして、無言で俺を睨みつけた。

その反応を見て、この子の芯の強さを感じ取る。普通の小学生ならここまで言われれば間違いなく声を上げて泣き出すだろう。

――ちっ、胸糞わりぃ…早く泣いてくれれば済むんだがな

「俺はお前みたいなクズが大嫌いなんだ。お前のクラスメートもそう思ってるはずだ。じゃなきゃ集団から孤立なんかしねぇんだよ。そんなお前をここまで連れて来てくれた4人にちゃんと礼でも言った方が良いんじゃねぇか?」

そう言って、再び4人の女子の反応を覗った。

「あの…別にお礼とかいらないから…もう行かないと」

一人がそう呟いた。明らかに俺を怪しんで、トラブルを回避する方向へ流れを持って行こうとしている。もうあまり時間がないことを察し、若干の焦りを覚える。

「…礼はいらないってよ。優しくしてもらえて良かったな?だが、だからって調子に乗んなよ?お前みたいな人間は、身の程をわきまえるってことをしっかり学ばないとダメなんだ」

ふと、鶴見が胸に抱えているデジタルカメラの存在に気づく。

――お母さんが、友達と一緒に写真を撮って来いって…

諦めたような表情で状況を打ち明けてくれた鶴見留美の言葉が頭を過ぎり、心が締め付けられたような痛みを感じた。

これでダメなら、後でこの子の家に土下座しに行こう。警察沙汰になるかも知れねぇが、それだけの傷を負わせたのは俺だ。言い逃れは出来ない。

俺は覚悟を決めて鶴見の反応を待った。

「調子になんて乗ってない!」

「吼えるじゃねぇか。あわよくば皆んなに混じって仲良くしてもらおうなんて目論んでたんじゃねぇのか?」

鶴見の叫びに間髪入れずに言葉を返す。

「…私は…一人でいるのが好きだから一人でいるだけ!」

「ハッ、聞いたかお前ら?こういうヤツは勢いに任せて息をするように嘘を吐くんだ。騙されんなよ」

「嘘なんか吐いてない!」

――来た!

鶴見は俺が待っていた台詞を声に出した。

「…へぇ、じゃあその大事そうに持ってるカメラは何だ?クラスの誰かと記念撮影できるかもなんて、期待してたんじゃねぇのか?…それが調子に乗ってるってんだよ」

一呼吸置いて、出来る限りの卑しい表情を浮かべて俺が言った言葉に、鶴見は硬直した。

その反応を見た俺は、更にニタリと顔を見にくく歪ませて、留めの一言を放った。

「…どうせ一枚も撮れなかったんだろ?」

鶴見の目から先ほどの反抗心と激情の炎が消えうせる。

彼女は皆の前で俯いて震え出した。

「…プッ…ハハハハハ!図星かよ!見たかお前ら?コイツは傑作だ!」

そうだ、それでいい。悪役に徹しろ。とことん嫌われろ。今も昔も俺に出来るのは所詮こういうやり方だけだ。ならばその完成度を追求すればいい。

鶴見は声を殺すように嗚咽し始めた。声を上げて泣くのを堪えながら、悲しさ、悔しさを滲み出しながら悲嘆に暮れるの可憐な姿は、例外なく見る者の同情心を誘う。

鶴見が泣き出したことで4人は目に見えて動揺し始めていた。

「親になんて説明する気だ?そうだ、良いこと思いついた、カブトムシの写真でも撮って誤魔化すってのはどうだ?一緒に採りに行ってくれるヤツがいるといいな?クッククク…ハハハハハ!」

「ちょっと!鶴見、泣いちゃったじゃん!さすがに言い過ぎだよ!」

「そうだよ!感じ悪い!」

高笑いする俺に対し、とうとう4人が怒りの声を上げた。

――糞ガキ共が、遅すぎんだよ!

もっと早く、その正義感を表に出せば、こんな胸糞悪い思いはしなくて済んだのに。

自分が計画を立て、鶴見を追い込んだことを棚に上げて、4人に対する苛立ちを募らせた。最早、道理も何もあったものではない。これは俺の嫌いなご都合主義と感情論そのものだ。

そう自分で認識しながらも、俺は自分の感情が高ぶっていることを感じた。

心に警鐘を鳴らして、勤めて冷静に切り返す。

「…あ?何言ってんの、お前ら?お前らもコイツが嫌いだから仲間外れにしてるんだろ?嫌いな奴が苦しんで泣いてる姿を見るのは愉快じゃないのか?」

「全然楽しくないし!」

「何でだよ?俺は楽しいぞ。ムカつくガキが集団からハブられてるのを見るとスカッとするし、現実を突きつけてピーピー泣かせるのは爽快そのものじゃねぇか。お前らも、もっと言いたいことを言えばいい」

焚き付けろ。こいつらはその怒り、嫌悪の感情が正当なモノだと思い込んでいる。大人相手なら説教を垂れるところだが、所詮は小学生。今はその感情をとことん利用させてもらう。

「もうあっち行ってよ!この変態!」

「そうだよキモイ!…鶴見、大丈夫?」

「ああ!?黙って聞いてりゃ言いたい放題言いやがって、このガキ共!虐められる奴には虐められるだけの理由があんだよ!それを指摘して何が悪い!こいつを除け者にしてた時点で、てめえらも俺と同類だろうが!」

「全然違うし!私たち、そんなキモイことしないもん!」

「あんたなんかと一緒にしないでよ!」

これが欲しかった言葉だ。”私たちはそこまで落ちない”、イジメの醜さを目の当たりにして、そう自分たちで断言した。

そろそろ頃合いだ。

何とか思い描いた通りの流れを作り出せたことに安心し、俺は茂みに隠れている葉山たちへサインを送った。すぐさま3人が飛び出してくる。

「そこのお前、何してるんだ!」

葉山が強めに声を上げ、三浦、戸部もそれに着いて俺を取り囲んだ。

ようやくこれでこの役から開放される。

「お兄さんたち!コイツ!いきなり来て私達に言い掛かりをつけて、鶴見を泣かせたんです!」

4人は安堵の表情で、葉山たちに助けを求めた。

「あんた、どこの誰だし?」

三浦が俺から小学生を庇うように威嚇する。俺が外部からの侵入者であるかのような印象を与えるように準備したセリフだった。

「小学生に怪我させたんなら、タダじゃおかないっしょ」

戸部も調子を合わせ、シュッシュッシュッと音を立てながらシャドーボクシングの真似事をする。

――完璧だ、お前ら

3人の演技に内心でサムズアップしながら、俺はその場を後ずさった。

「…チッ」

そう舌打ちするフリをして、俺はロッジへ向かい走り出した。

後は彼奴らが上手くやってくれるだろう。

☆ ☆ ☆

「八幡、お疲れ様…どうだった?」

ロッジに戻ってきた俺を、戸塚が心配そうに声をかけながら迎えてくれた。

「肝試しの乱入自体は上手くいったはずだ。後は彼奴らの働き次第だろう。まぁ、川崎がいれば鶴見のケアは問題ないだろうし、友人候補についても雪ノ下や由比ヶ浜が上手くやってくれるはずだ」

「…奉仕部の3人は八幡にとって特別なんだね。八幡、すごく信頼してるみたい。ちょっと羨ましいかな」

「…まぁな。俺が彼奴らに信頼されてるかは分からんが」

「それは杞憂だと思うよ…でも、八幡自身は大丈夫なの?」

戸塚は俺の返答に一瞬優しく微笑むと、そう質問した。

「何が?」

「何がって…一番損な役回りだったじゃない。八幡、今結構辛そうな顔してるの、気付いてないの?」

また顔に出てたか。中々ポーカーフェイスって訳にも行かないもんだな。そう考えながら戸塚の気遣いに対する返事を考えた。

「まぁ。自分で言い出した事だしな。しかし、確かに小学生相手に暴言を吐いて泣かせるってのは、俺の趣味には合わんかったみたいだ…悪い、着替えたらちょっとその辺で一人にしてもらってもいいか?」

「うん…でも人に見つからないように気を付けてね」

少しだけ一人にして欲しい、こういった心境が即座に通じるのは男同士だからだろう。

「ああ。サンキューな、戸塚」

「水臭いよ。話し相手が必要になったら、好きな時に戻ってきてね」

戸塚の気遣いに有難さを感じつつ、俺はロッジの傍の林へと出て行った。

辺りには鈴虫の音が鳴り響いている。上を見上げると、星空に満月が浮かんでいた。

俺は足元に落ちていた小石を乱暴に蹴飛ばして、木の根元に座り込んだ。

鶴見にはトラウマになっちまっただろうな。

高校を卒業してからあの子と会う事は二度と無かった。昔はあまり考えたことがなかったが、人に一生恨まれたままでいるってのは、やはり気分のいもんじゃない。

周りに理解してくれる奴らがいなければ、今頃自分の心は荒れる結果となっていただろう。

「随分と無茶をしたようだな、比企谷?」

どれだけの時間、物思いに耽っていたのだろうか。木陰からふいに俺に声をかける女性の姿があった。

「…先生」

「私が止めなければ、警察に通報される所だったぞ」

「…どうやって止めたんですか?不審者が小学生を泣かせたんですよ?」

「せっかくの林間学校最終日、他の生徒に不安を与えるような事をしなくてもいいでしょう、不審者も総武高校の生徒が追い払った事ですし…ってな」

平塚先生はそう言ってニコリと微笑んだ。

「成る程…その不審者はこうして悠々と座り込んで休憩してるわけですけどね。…こんな気分の時、酒とタバコで紛らわす事ができる大人が羨ましいっす。先生のタバコ、一口吸わせて下さいよ」

ダメもとで先生が左手に持っていた火のついたタバコを見ながらそう言ってみた。

「却下だ…それに、ここには不審者なんかいないさ。いるのは私の生徒だけだよ…とびきり自慢のな」

「…止めてください。勘違いしちゃいますよ」

先生はタバコの件を即座に却下すると、携帯灰皿で火を消した。

“自慢の生徒”と言われたことには若干の恥ずかしさを覚え、ごまかすような軽口で返す。

「君を連れて来て本当に良かったよ…方法はどうあれ、君は仲間と力を合わせて褒められるに値する結果を手に入れたんだ。胸を張れ」

「…俺は、”こんな歳”になってもついぞ自分に胸を張れる事なんてありませんでしたよ。先生の言葉は有難いっすけど、これでも不安なんです。鶴見の状況がこれでも改善しなかったら、逆に悪化してしまったら…そういうネガティブな考えは計画を立てた時からずっとあります」

自分が抱えている不安を正直に打ち明けた。

言葉にしてから、実際年齢で言えば俺とほとんど違わない、むしろ俺のほうが年上であろうこの女性に対し、甘えすぎてるのかも知れないなと、自分を戒める考えが頭に浮かぶ。

「その時は私があの少女とご両親に頭を下げに行くつもりだ。お前たちに自由にやれと言ったのは私だからな。最後に責任を取るのが責任者の仕事だ。私も、そこまで君に押し付けるほどしたたかでは無いよ。だから…”こんな歳”などと抜かすのは10年早い!」

「いっ!イタタタ!何するんすか!」

先生はヘッドロックをかけながら、続けて俺に言葉をかける。

「…それにな、比企谷。この種の自信は、自らの努力だけで掴み取るタイプのものと少し違う。周りの人間が与えてくれるものなんだ…そして、それを与えてくれる人間がお前には…ほら」

ヘッドロックから解放され、先生の視線の先を見ると、俺が今一番一緒にいたいと考えていた3人の女性がそこに立っていた。

「お前ら!?いつの間に…」

「ヒッキー」「比企谷君」「比企谷」

三者三様に俺の名前を優しい声で呼んだ。

「…連中はもう大丈夫なのか?」

「鶴見なら心配無いよ。あの子、結構頭の回転も早いみたい。これからの友達作りの話をした時に、あんたのアレが演技だって気付いたのかもね」

俺の質問に沙希がそう答え、軽めのウィンクをした。ひょっとして、裏で俺の意図を鶴見に説明してくれたのかも知れない。

「私たちがそれぞれ連絡先を交換した子達もバッチリだよ。これから留美ちゃんを守るんだって、張り切ってた」

「趣味や習い事であの子を誘うっていうアイデアも受け入れられたわ。私が連絡先を交換した子も、これから英会話教室に誘うと前向きな反応だったわ」

「そうか…」

結衣と雪乃の言葉に俺は胸をなでおろした。これで計画は一旦成功したと言えるだろう。

「…それにしても、あなたの鶴見さんへの攻撃、迫真の演技だったわ。私怨が混じっているのではないかと疑った程よ」

「…勘弁してくれよ。全部昔俺がクラスメートに言われた事を思い出しながら言っただけだ」

「「「…うわぁ」」」

「ドン引きすんなよ…冗談だ、冗談」

「良かったな、比企谷。お前を理解してくれる人間が少なくとも3人…いや、奉仕部の人間以外も皆お前を認めているはずだ…じゃあ私はそろそろお暇するよ。皆、あまり遅くならんうちにロッジへ戻るんだぞ」

そう言って、平塚先生は一足先に教員向けの宿泊棟へと戻っていった。

 

再び訪れる沈黙。

だが、それは夏休み前の居心地の悪いものではなかった。

 

俺は、意を決して雪乃への謝罪の言葉を述べた。

「…雪ノ下…ごめんな。夏休み前のこと、ずっと謝らなきゃならねぇって思ってたんだ」

これがただのが自己満足に過ぎないとしても、雪乃に誠意ある謝罪をしておきたかった。

「…あなたに謝られる様なことをされた覚えはないわ」

雪乃はそう言って俺の謝罪を拒絶する。雪乃がこういう反応を示すことは何となく予想がついていた。

結衣と沙希は俺たちのやり取りを心配そうに見ている。

「そうか。でも俺にはあるんだよ。心当たりが無いなら、胸の内にしまっておいてくれ…俺は、お前との関係をまたやり直したいんだ」

「…そんな勝手な謝罪、聞いたことが無いわ」

雪乃はやや照れつつ、若干不貞腐れた様な表情を見せた。そんな可愛らしい表情を見て、心に安堵の気持ちが広がる。

「…夏休みに入ってから、ずっとモヤモヤしてたんだ。俺はお前ら3人に会いたかった…だからここに来た」

「な、夏休みが始まって、たかが一週間でしょ?アンタ、急にどうしたのさ?」

俺の言葉に動揺した表情を浮かべる3人。

それを誤魔化す様に沙希がそう言った。

「…その…何だ…恥ずかしい話、お前らに一週間会えなくて、俺は…寂しかった…のかもしれん」

自分の心境を素直に一つずつ言葉にして伝えようと試みる。

だが、そのあまりの恥ずかしさに言葉は途切れ途切れでしか発せられない。

素直に想いを伝えるのは、こんなに難しいことだっただろうか。

俺は自分の顔が急速に紅潮して行くのを感じた。とても3人の顔を見て話せなくなり、俺は俯いた。

暫し沈黙が流れる。誰からも反応がない。これは…ひょっとして俺、やっちまったのか。

恐る恐る顔を上げると、雪乃も結衣も沙希も、頬を真っ赤に染めて俺と視線が合うのを避ける様に他所を見ていた。

「…あの、ヒッキー…そういうのは彼女とかに言う台詞…だよ?」

少しの間を置いて、結衣が恥ずかしさを抑えこむ様な様子でそう言った。

雪乃は完全に俯いてしまっている。

俺はやり場の無い羞恥心を堪えながら、すがる様な目で沙希を見た。

「…え!?…そ、その、まぁ…悪い気はしない…けど」

俺と目があった沙希は慌てながらそう答え、再び目を逸らした。

「…誰彼構わず口説こうとするその軽薄な所、入部した頃から何も変わってないわね…あなたが変わらないのだから、私たちの関係もそんなに簡単に変わらないわよ」

雪乃は顔を赤くしながら俺を皮肉りつつ、”関係は変わらない”と、俺が一番聞きたかった言葉を返してくれた。

「バッカ、お前、口説いてねぇよ…それに、こんなこと…お前達以外には死んでも言わんわ」

「ヒッキー、もう勘弁して!…なんか超恥ずかしいよ!」

結衣の悲鳴に近い抗議の声に、雪乃も沙希も恥ずかしそうに頷いて同意した。

辺りに心地いい風が吹く。

空には満点の星。これが求めていた彼女達との関係の形の一つなのか。

この関係が続く保障はどこにもない。どこにもないが、出来ることならいつまでも守りたい。

俺は愛しい女性たちの顔を見ながら、その晩、そう強く願った。



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21. 比企谷八幡は二度失う

 

「葉山か?連絡が遅くなっちまって悪ぃ。さっき由比ヶ浜に住所と連絡先を聞いてな。散歩がてら、借りてた服を返しに行こうと思ってんだが、今家にいるか?」

真夏のうだるような暑さの中、俺はリュックを背負い、片手で小型犬の手綱を引きながら葉山隼人へ電話をかけていた。

小型犬とは、先日、結衣から預かったサブレのことだ。

「ああ、今日は家にいるよ」

本来であれば確認してから服をリュックに詰めれば良かったのだが、自室のエアコンが故障したせいで、暑さの中、まともな思考能力が奪われていたらしく、葉山の連絡先も住所も知らなかった事に出かけてから気付いた次第だ。家族旅行中の結衣にメールで葉山の連絡先を尋ねたところ、一瞬で返事が来たのは幸いだった。

「そうか。実はもう近くにいるんだ。着いたらチャイム鳴らすぞ」

「了解、待ってるよ」

訪問のアポを取り付けて電話を切ると、勢い良くリーシュが引っ張られ、思わず前のめりになった。

「キャン!」

――暑ぃのにやたら元気だな、サブレ…

そんな考えが浮かび辟易とする俺を尻目に、サブレは止まってはいられないとばかりに走り出す。

「おい、引っ張んな!」

俺は半ば、サブレに引き摺られるように葉山の家へと向かった。

「住所は…この辺で良いはずだが…ひょっとしてこの豪邸か?」

日本では住所から建物の場所を特定するのが本当に難しい。海外なら小さな道でも名前がついており、交差点には大抵道路名の表記がある。そしてその通りに所在する建築物には番号が振られており、民家にもその表記があったりする。従って住所も○○通り××番と非常にシンプルかつ明快だ。

日本の場合、電柱に掲げられる番地を頼りに住所を特定するのだろうが、携帯のGPSのない時代であったら俺は永久に葉山の家にはたどり着けなかっただろう。

年を食うと、こういったどうでもいいことに一々文句を言いたくなってしまう。

俺がようやくたどり着いた場所に建つ一軒の民家、門にはアルファベットでHayamaと書かれた表札が掛かっていた。

――ずいぶん立派な家じゃねぇか。いつの時代も弁護士ってのは儲かるもんなんだな。

そんな俗物的な考えを浮かべながらベルを鳴らす。

程なくしてTシャツ、短パン姿の葉山が出てきた。

「わざわざ悪いね。暑かっただろ?中に入ったらどうだい?」

「いや、遠慮させてもらうわ。今、由比ヶ浜の犬を預かっててな。ちょうど散歩中なんだ。家が汚れちまうからこのまま行く」

リュックから借りていた服を取り出して葉山に渡しながらそう答えた。

結衣は家族旅行で一週間不在にするらしい。だが生憎、ペットホテルは満室。雪乃のマンションも、沙希の団地も基本的にペット禁止とのことで、俺にお鉢が回ってきたのは基本的に前回と同じだ。

「ペットなら問題ないよ。今もちょうど親戚の犬を預かってるんだ。さ、上がってよ」

葉山は遠慮した俺に対し、半ば強引に家へ上がることを促してきた。

「…なんか、急に押しかけたのに悪りぃな」

ここまで言われれば、断る方が難しい。俺は少しばかり葉山の家へお邪魔することにした。

どうやら葉山の自宅は両親の仕事場も兼ねているようだ。

広々としたリビングには、本棚がずらりと並び、法律書が所狭しと並んでいた。

両親は書斎で仕事中か、はたまた外出しているのか、とにかく葉山以外の人の気配はない。

「親は留守なのか?」

家にお邪魔して最初に浮かんだどうでもいい疑問をぶつける。

と、同時に葉山が親戚から預かったという犬が元気よく飛びついてきた。

サブレの首輪から手綱を外してやると、二匹は楽しそうに戯れだした。

「仕事で自宅とは別の事務所の方へ行ってるよ…麦茶でいいかい?」

気を利かせて葉山がキッチンから飲み物を運んできた。

ガラスのコップには細かい水滴がついており、よく冷えてるであろうことが伺われる。

「サンキュー…ぷはぁ、うめぇな…鶴見の様子、あれからなんか聞いてるか?」

麦茶に口をつけて、最近気になっていることを葉山に尋ねた。

「優美子と姫菜からちょくちょくね。留美ちゃんもテニスクラブ、通い出したらしいよ。…姫菜の特殊な趣味については良く分からないけど、彼女もクラスの女子と仲良くなるためのツールとして理解は示してるらしい」

「ハハ、そうか。そいつは結構」

"海老名さんの特殊な趣味"と聞き、乾いた笑いが漏れる。

「…川崎も鶴見本人とたまに会ってるみたいだ。色々と世渡りの方法を教えてやってるうちに、懐かれたらしいぞ」

大した情報はないが、こちらも知っていることについて現状報告を行った。

「そうか。このまま上手く行ってくれると良いな」

「だな…夏休みが明けてからがあいつにとっての本当の正念場だからな」

「今は準備期間ってことか。俺たちも何かできることがあれば積極的に手を貸してやりたいな」

「そうだな。今度女子連中に手伝えることがないか聞いてみるか…っておい、サブレこら!何やってんだ!」

ついさっきまで走り回っていた2匹の犬の様子を横目でちらりと見ると、サブレが葉山家で預かっている犬に馬乗りになり、腰をカクカクと振っていた。

――クソ暑い中、盛ってんじゃねぇよ…

結衣が見たら卒倒しそうな光景にため息をついた。

葉山も苦笑いを浮かべている。

「悪いな、葉山。コイツ、まだまだ元気が有り余ってるみたいだ。もうちょい散歩させないとダメっぽいから、やっぱりそろそろ行くわ…」

「ハハ、そうみたいだね…」

「ったく、由比ヶ浜の奴、もっとちゃんと躾けろっての」

「これは結衣には伝えられないね」

そんな会話を交わしながら、サブレを強引に引き剥がし、首輪にリーシュを取り付ける。

その作業中、大型のテレビの横に置かれたA4サイズのクリアファイルが目に留まった。

『海外投資にかかるオフショアビークル設立と節税スキーム』

表紙にはデカデカとそう書かれていた。

情報セキュリティ管理は企業の基本なんだが、そこは個人経営事務所だからなのか。

そういえば、葉山家は雪乃の実家の顧問弁護士だって話を聞いたことがある。ひょっとして、これは雪ノ下建設絡みの資料なんじゃないか?

いや、だとしたら、未上場の建設会社が海外投資のビークル設立って、どういうことだ?

葉山がいなければ今すぐに中身を確認したいところではあるが、流石にそんな不躾なマネはできない。

だがこれも雪乃家の謎に関する一つの手がかりになるかもしれない。

「…じゃあ、邪魔したな」

「またいつでも来てよ」

この件は心に留めておくことにして、俺は葉山の実家を後にした。

☆ ☆ ☆

後日、俺は学習塾の教室で沙希、雪乃とやや遅めの昼食を取っていた。

学習塾へは親に半ば無理やり入れられたのだが、俺は夏休み中も二人と顔を合わせられるこの場を意外にも気に入っていた。

「あんた、夏期講習真剣に受ける気あんの?」

途中、ピタッと箸を止めて沙希が俺にそう話しかけた。

「え?」

「なんか、授業中ずっと上の空じゃない」

そりゃそうだ。俺にとっては二人と会う以外、殆どインセンティブがないのだ。

授業中は学校同様、携帯を片手にニュースチェックと株式投資に励むか、雪乃や沙希を眺めて過ごしていた。

「あなたが授業を聞かずにやっている内職?、もいただけないわね」

雪乃がその話題に乗っかって俺に苦言を呈した。

「…まぁ、俺には元々、勉強のために塾なんか通う意味がないしな」

「じゃあ何しに来ているのかしら。時間は有限なのよ?」

「そりゃ、お前、あれだよ…」

――お前らとこうやって会いたいがため

キャンプ最終日同様、内心を吐露しそうになるがそこはグッとこらえる。

その代わりに頬が若干上気し、恥ずかしさで二人から視線を逸らす形となった。

「あぁ、もう!はいはい!あんたが寂しがりやなのは分かったから」

俺が思わず言いかけたことを察したのか、沙希が顔を赤くしてそう受け流した。

「ば、お前、ちが…ってか、お前らこそ何で授業中に俺の観察なんかしてんだよ。ちゃんと授業に集中してんのか?」

誤魔化しながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。

「「!!」」

それに対して二人はやや大げさとも言えるような反応を示してうつむいてしまった。

――こういうむず痒い展開、おっちゃん、嫌いじゃないぞ。

二人の反応に、俺は内心ご満悦となった。

「…ところで、あんたたち、今日の午後時間空いてる?」

暫く三人とも無言で飯を食った後、先に復活した沙希が再び話しかけてきた。

「私は大丈夫よ」

「俺も予定はないな」

沙希からのお誘いなら俺に断る理由はない。

「そ、…今日、鶴見と会うんだけど、良かったら一緒に来ない?」

「それ、俺が行ったらマズイだろ?」

鶴見の様子が気にならないと言えば嘘になるが、あの場で悪役を演じた俺が直接会ってもいいものか、不安が過ぎる。

「…どうだろ。一応、あの子にはあの時の私たちの計画を説明したんだ…あんただけ印象悪いままってのは、あたしは納得出来なかったから」

「川崎さん…あなた…いえ、何でもないわ」

沙希の気遣いに対し、雪乃が一瞬何か言いたげな表情を浮かべるが、途中で言葉を止める。

「…まぁ、俺は別に嫌じゃない。あいつの為にやった事とは言え、俺が傷付けたことはちゃんと謝るのが筋だろうしな。だが、鶴見が怯える様なら早めに立ち去ることにする。そうなったら川崎と雪ノ下でケアしてやってくれ」

「それがいいわね」「わかった」

俺の提案に二人が頷く。こうしてこの日の午後の活動が決まることとなった。

☆ ☆ ☆

昼食後、俺たちは午後の一コマの授業を終えて、鶴見留美との待ち合わせ場所へと向かった。

鶴見は俺を見ると、やや怯えた表情を浮かべる。

「…と言う訳だから、連れてきたよ」

簡単に沙希が俺たちを誘った経緯を鶴見に話す。

「あの時は酷いこと言って悪かったな」

開口一番、俺は鶴見に向かって謝罪の言葉を述べる。

だが、鶴見は沙希の陰に隠れて怯えている様子だった。まぁ、あれだけ精神的に痛めつけたのだから、この反応も無理もないだろう。

「…ホラ、言いたいこと言ってやんな」

沙希は鶴見に対し、俺と対峙して会話するように促した。

「…名前」

「ん?」

鶴見はようやく口を開くが、小声であったため、良く聞き取れなかった。

「他人に名前を尋ねる時にも礼儀というものがあるのよ」

俺は、雪乃の諌める言葉で鶴見の言葉を理解した。

一方、鶴見は雪乃に注意され、シュンとしてしまう。雪乃は敢えて軽めの悪役を買って出て、俺と鶴見の会話を繋いでくれたのだろうか。

雪乃に感謝しながらそれに乗っからせてもらうことにした。

「いや、あんな出会い方じゃ、ぶっきらぼうにもなるわな。…俺は比企谷八幡だ。…川崎から色々聞いてる。友達作りが上手く行ってるようなら何よりだ」

「…」

鶴見はやはり無言だった。

少しばかり残念に思いつつも、人の感情ばかりはどうにもならないのだ。

「やっぱり怖いよな。ホント、ごめんな…今日のところは俺は先に帰るわ。今日はこの二人が付き合ってくれるから、しっかり甘えたらいい」

そう言って、当初の打ち合わせ通り、後のことは二人に任せることにした。

俺の言葉を聞き、溜息を吐く沙希。雪乃は”仕方ないわね”といった表情を浮かべている。

「悪いな、川崎、雪ノ下。頼むわ。また明日な」

「…あの!」

その場を去ろうとした俺を、鶴見が呼び止めた。

「ん?」

「…ありがと」

鶴見の発した意外な言葉に、俺は一瞬固まった。

沙希と雪乃は安堵の表情を見せる。

「別に礼を言われる様なことは何もしてねぇよ…それに、結局はお前次第だ」

ちょっとぶっきらぼう過ぎただろうか。そう言ってから若干後悔する。

「…どうしたら、そんな憎まれ役を買って出られるようになるの?友達がいっぱいいるから余裕があるの?」

鶴見は俺の反応をさして気にしない様子で追加の質問をぶつけてきた。

「まさか…俺も友人なんて片手で数えられる位しかいないし、ボッチ経験で言ったらお前なんかよりずっとプロだぜ?」

悪役を買って出ることは昔から慣れっこだ。だがそれは決して余裕から生じるものではない。

理由は自分にも良く分からない。それが一番効率的だと思うからそうしているまでだ。

だが、自分で発した言葉から、自分には昔と決定的に違うところがあることに、はたと気づく。

それは、片手で数えられる数に過ぎなくても友人が俺にはいると、自分が認識していた点だ。

言うなれば、あれは「そいつらさえ理解してくれれば良い」という最後の一線があったからこそ取れた行動だったのかもしれない。

そういう意味では鶴見の洞察力はなかなか的を射ているのではないだろうか。

俺は少しだけ考えて、鶴見に追加の言葉を投げかけた。

「人生ってのは長ぇんだ。少しくらいの間、友達がゼロでも問題ない。…いつか自分にとって本当に大事な、かけがえの無い人間ってのが現れるはずだ」

そう言いながら、俺は沙希と雪乃を見る。

二人は照れくさそうに視線を逸らした。

そんな二人を見て、俺は思わず笑みを浮かべながら、再び視線を鶴見に戻す。

「…月並みなアドバイスしかできないが…それまで頑張れ」

「…うん」

鶴見の返事に満足した俺は、一人、その場を去っていった。

☆ ☆ ☆

後日、すっかり日課となったサブレの散歩を終えて家に戻ると、結衣が玄関に立っていた。

どうやら小町と話し込んでいる様だった。

「あ、ヒッキー!やっはろー」

「おう」

俺に気づいた結衣と、いつもの挨拶を交わす。

「あ、サブレの散歩してくれたんだ!アリガト~!」

「元気が有り余ってるみたいだからな。俺も健康維持にはちょうどいい運動だ」

先日の葉山の家でコイツが起した問題行動を思い返しながら、俺は控えめにそう述べた。

「…お兄ちゃん、オッサン臭いよ」

「…アハハ…そうだ!はいこれ!旅行のお土産」

差し出された紙袋に入っていたのは沖縄名産 "ちんすこう" だった。

――このハイシーズンに沖縄とは、やっぱり結衣の親父は立派だな。

俺は、結衣と付き合っていた頃に何度か顔を合わせたことのある男の顔を思い浮かべながら、そんな感想を抱いた。結衣の父親は、性格が丸く、非常に出来た人間であったことを思い出す。

会社で疲れた男にとって、家族サービスは時に残業よりも辛く厳しい。貴重な休暇を削って混雑する地方への旅行となれば、もはや精神的疲労度は出張と変わらない程の大仕事だ。

俺は結婚こそしていなかったが、長年の社蓄生活で、社会人男性の哀愁に共感する能力を身に着けていた。

それにしても、ちんすこう、はやっぱりどう考えても名前が卑猥だ、と言ったら沖縄県民に怒られるだろうか。どうでもいいけど。

「わざわざ気使う必要ねぇのに、悪いな」

「うんん、サブレのこと、ホントにありがとう」

「いえいえ、一緒に遊べましたし、楽しかったですよ。またサブレ連れて遊びに来てくださいね」

本当に戯れて遊んでいただけの小町が嬉しそうにそう口を挟んだ。

まぁ、散歩に連れて行った先で発情する犬の姿なんぞ、乙女たる小町には見せられないから、仕方のないことではあるが。

「行く行く!絶対行くよ」

「ええ是非!両親のいる時に、菓子折を持って、挨拶がてら」

「そうだね!ご両親にご挨拶…って、えぇ!?」

目前で繰り広げられるテンポの良いコントに溜息を吐く。

お兄ちゃんの恋愛の心配なんかしてないで、小町はもう少し大志を気にかけてやれよ、と、昔では考えられなかったような感想を抱いた。

「小町…あんま変なこと言って困らせるな」

「テヘペロ」

この辺のあざと可愛さが武器になるのは、せいぜいあと数年だぞ。二十歳超えたらただのイタイ女だからな。分かってんのか?と、妹の行く末が若干不安になる。

「そうだ!今度、千葉みなと駅の近くで花火大会があるそうですよ!…結衣さん、良かったら兄と一緒に行ってやってくれませんか?」

「おいこら!」

気を抜いた矢先に小町から持ちかけられるデートの提案。以前もそうだったのをすっかり忘れていた。

結衣とのデート、正直行きたくない訳ではない。親父臭い発想だが、可愛らしい浴衣姿をもう一度眺めてみたいとも思う。

しかし、こういったイベントは、3人とのバランス崩壊にも繋がりかねないため、俺はこれまで可能な限り慎重に過ごしてきたのだ。

「えっと…その」

――うっ

遠慮がちな上目使いで俺を見る結衣に、思わずドキッとする。

これは、行かないとは言えないだろう。

「…その、良かったら一緒に行ってくれるか?」

「うん!」

結衣の嬉しそうな返事で、俺たちの花火大会デートが決定した。

☆ ☆ ☆

16:00

俺は結衣の最寄り駅である稲毛海岸駅にて、彼女を待っていた。

西日の差し込む駅の構内には、浴衣や甚平姿の男女でごった返している。

本来、人の多い場所は苦手だが、デート前ということもあり、柄にもなく俺の心は浮ついていた。

暫くすると、夕焼けに溶け込みそうな黄色の浴衣を身にまとった結衣が小走りに改札を潜り抜けてきた。

「ヒッキーごめんね!遅くなっちゃった!」

「お、おい走ると危ないぞ」

案の定、躓きそうになる由比ヶ浜を支えると、結衣が怪我をしなくて済んだことに安堵した。

「ご、ごめん!」

「いや…腕掴まってくか?電車、混むし揺れるからな。あと、その浴衣、良く似合ってんぞ」

自分の口から流れるように発せられる一連の台詞。

女性の浴衣姿を褒めるのは、花火デートの作法のようなものだが、実際、俺の目には浴衣姿の結衣が、その場にいる誰よりも可愛く見えた。

「ヒヒヒ、ヒッキー!?」

「あんだよ?」

「…なんか、時々ヒッキーってすっごく大人に見える気がする」

――まずったか

結衣の言葉に思わず過剰に反応しそうになる。

「っていうか、ボッチて言う割に女性慣れしてる?」

「そうか?」

俺は適当な言葉でお茶を濁した。

まぁ、俺は社会人になってから、「飲む(酒)、吸う(煙草)、打つ(博打)、抱く(女)」の遊びのうち、「打つ」を除いて一通り覚えたし、沙希と出会うまで、特に駐在で中国にいた一頃は、貯金が一切貯まらないレベルで女遊びに付き合ったりもしたから、女慣れは当然といえば当然だ。

どうでもいい話だが、「打つ」は俺の職業そのものだから…あれ?俺ってば、昭和の社会人男性の作法、しっかり制覇してね?

ちなみに「抱く」は、あくまでも仕事上の付き合いであったことは強調しておきたい。

というか、中国に赴任する前には結衣とは同棲してたし、お互い体の隅々まで知る中だ。相手の扱いに慣れているのは当たり前なのだ。

腕に感じる結衣の胸の感触に、昔のことを色々と思い出しながら鼻の下を伸ばし、電車に揺られているうちに、俺たちは、あっという間に会場へと到着した。

「…じゃあ、何から食べようか!?」

「いきなり食い物かよ」

結衣のテンションは高い。俺の手を引きながら、早速屋台の物色を始めた。

――しかし、屋台の食い物か…

昔は何ともなかったが、大人になると屋台の食物には若干抵抗を感じるものだ。

衛生面とかが気になるのは胃腸が弱ったオッサンの発想だろうか。

「あ、結衣ちゃんだ〜」

俺の思考は、若干甲高い女の声にかき消された。

声の主を見ると、クラスメートの相模南とその取り巻きがそこにいた。

「あ、さがみん!やっはろー!」

結衣は相模に対し、手を振りながら元気良く挨拶した。

「結衣ちゃん、ヒキタニ君とデート? 良いなぁ〜。こっちは女だらけの花火大会だし」

相模の取り巻きが、結衣をからかうようにそう言った。

だがその言葉とは裏腹に、その表情からは嘲笑が透けて見える。

「え!?デート!あ、いや、その〜 これってデートなのかな?」

結衣はそんな彼女たちの底意地の悪さには全く気付いていないかの如く、俺に話を振った。

「…俺はそのつもりだけど?」

結衣が見下されるのは癪だが、ここで卑屈になっては益々結衣が立場を失うだろう。

俺は可能な限り、大人の余裕でそう取り繕った。

「えぇ! でも私たち、まだ付き合ってないよ?」

結衣は驚き半分、嬉しさ半分でそう聞き返してきた。

付き合ってた頃なら、ここで強引に抱きしめる位のことは出来ただろうが、そういう訳にもいかないだろう。

「別に彼氏彼女じゃなくたって、デート位普通にすんだろ?」

人生経験から余裕ぶってそう語る。

その経験の大半は、「アフター」とか、「同伴」とか、余計な呼び名がついていたりするのが情けない所ではあるが、異性とのデート経験であることには違いない。

「それって、ゆきのんやサキサキともデートしてるってこと!?」

「え!?いや、その、一般論だ」

思わぬ所で結衣に噛付かれて戸惑う。以前、総武光学とファンドの会議の後に、雪乃と公園デートしたことを思い出して狼狽いてしまった。

「…ヒッキーのバカ」

「結衣ちゃん、お熱いね!いいなぁ、ウチも男子とデートした〜い」

相模があからさまな嘲笑を浮かべてそう言った。

結衣も自分のリアクションから二人が笑われたことに気付いたのだろうか、申し訳なさそうな視線を俺に投げかけた。

「え~比企谷君、誰とデートしてるって?うちの雪乃ちゃんはどうする気かな?」

「これはいただけませんね、ヒキタニさん。うちの海美はどうなるんですか?」

場の空気が気まずくなりかけた瞬間、背後から一組の男女から突然声をかけられた。

――おいおい、何だよその組み合わせは。流石に無理があんだろ。

その声と喋り方で、言葉の主を理解した瞬間、俺は戦慄を覚え、冷汗が背中を伝うのを感じた。

俺を含め、その場にいた全員の視線が、芸能人顔負けの美男・美女へと集まった。

声の主は案の定、雪乃の姉、雪ノ下陽乃と、将来の上海副市長、劉藍天だった。

「…えっと、何してるんですか?二人とも?」

しどろもどろになりかけながら、俺はそう言葉を返すのがやっとだった。

「何って、デートだよ?」

あっけらかんとした表情で陽乃さんがそう答えた。

『劉先生、真的嗎?:劉さん、マジすか?』

本来、失礼に当たるのだろうが、予想外過ぎる展開に、思わず中国語で劉さんに確認を取る。

『真的:マジですよ』

飄々と笑顔でそれに答える劉さんに対し、俺は頭を抱える素振りを見せながら、溜息を吐いた。

「で、浮気者の比企谷君の今日のお相手は…ごめんね、何ヶ浜ちゃんだっけ?」

「あの…由比ヶ浜です」

「そだったそうだった!由比ヶ浜ちゃんだ!」

雪ノ下陽乃女史は、相模たち三人には目もくれず、勝手に盛り上がり結衣に話しかけ始めた。

それを見て、俺は再度劉さんに小声かつ中国語で話しかける。これは陽乃さん含め、周りに聞かれないための配慮だ。

『劉さん、失礼かもしれませんが、どういうつもりなんですか?まさか付き合ってたりとか…しないっすよね?』

『残念ながら、私ももうすぐ中国に帰りますからね。今日は最後の思い出作りといったところでしょうか』

『…思い出作り、ですか』

『何事も疑うところから入るその姿勢、いいですね。…実は雪ノ下家の事情には興味が沸きましてね。後で分かった事は共有しますが、やはり、陽乃さんは中々ガードが固くて、少々手ごわいですよ』

劉さんが軽めにしたウィンクに、俺はハッとした。

あの日、ショッピングモールで再会した際に俺と交わした会話を受けて、劉さんは探りを入れていてくれたようだ。

しかし、陽乃さんの手強さが「少々」とは、相変わらず恐ろしい人だな。

『…すいません。恩に着ます』

「ちょっと~!二人で勝手に盛り上がるの禁止!っていうか、比企谷君、中国語ホントにすごいんだね!何話してたの?」

俺たちの会話は一頻り結衣との会話で盛り上がり終えた陽乃さんに中断させられた。

「夜のデートスポットに関する情報交換ですよ。女性陣に聞かれてしまっては楽しみが半減してしまいますから」

相変わらずの劉さんの機転の利いた発言に驚くが、俺は勤めて表情に出さないよう心がけた。

「デートスポット…ね。ま、そういうことなら期待しとこうかな」

半分嘘だと気付いているような目で俺たちを見る。

お互い底知れない者同士の、化かし合いを目の当たりにした気分になった。

この二人が本当に付き合っていたら、周りの人間は胃に穴が開くかもしれない。

そんな感想を抱ていると、目前に立つ陽乃さんの背後に、またもや見知った人物を見かけた。

細身で神経質そうな外国人の中年男性。その人物は俺の視線に気付くと、嬉しそうに近寄ってきた。

『Hey Hachiman! How are you doing?』

――ったく、今日はやたら人に会う日だな

『I'm doing fine, Martin-San. Why are you in Chiba?:元気でやってますよ、マーティンさん。ってか、何で千葉にいるんすか?』

その人物は、総武光学に出資したファンドのメンバーであるマーティン氏だった。

顔をあわせるのは夏休み最初の週の出張以来だった。

『あれ、言ってなかったかい?ウチは千葉住まいだよ。今日は家族サービスだ』

『マジすか? 外国人駐在員は六本木とかに住むのが定番じゃないですか?何でまた千葉に?』

『確かに通勤は面倒だけどね。家族が都会よりも郊外のゆったりした環境が良いらしくてね。東西線のラッシュアワーを経験して、直ぐに通勤用の車を買う羽目になったけどね。…ほら、Emily, 彼はHachiman, パパの友人だよ。みんなにも挨拶しようか』

マーティンさんがそう言うと、背中に隠れていた小学生くらいの女の子が元気良く飛び出してきた。

歳の頃はおおよそ鶴見と同年代といったところだろうか。マーティンさんにはあまり似ていない、活発そうな雰囲気があった。

『Hi Hachiman, 私はエミリー。そちらはみんな貴方のお友達?よろしくね』

『How cute! わたしは雪ノ下陽乃、Hachiman君の将来の義理の姉だよ』

『ホントに可愛いですね。私は劉藍天、中国から来ました。Hachimanの将来の義理の兄です』

即座に反応して流暢に英語で言葉を返したのは陽乃さんと劉さんの二人だった。やや不穏な挨拶の内容には触れないでおこう。

『こ、こんにちは。私は由比ヶ浜結衣です。わ、私は英語が得意じゃなくて、ごめんなさい。でもよろしくね!今日は、Ha..Hachimanとデートしてるの!』

次いで、結衣がたどたどしいながらも文法的には間違っていない英語でそう答えたのには正直驚いた。

これも奉仕部の勉強会、特に雪乃のスパルタ教育の賜物だろうか。

対照的に相模たち三人は無言で苦笑いを浮かべていた。

知らない外国人からいきなり英語で話しかけられればそうなるだろう。

勝手に集まってきた俺の知り合いに囲まれて、会話から取り残され、その場を離れるにも離れられない、といった雰囲気になってしまったのは若干可哀想ですらある。

『…なにやら非常に複雑そうな関係だね…だが、デートならあまり邪魔するのも悪いな。我々はそろそろ花火の会場に向かうとするよ。See ya!』

マーティンさんはそう言うと、娘の手を取って人ごみの中へと消えていった。

「じゃあ、わたしたちもそろそろ行こっか?」

「そうですね。奥の有料スペースで座席に座って見られるようですよ」

「あ〜劉さんごめんね。あそこは家の関係者多いから、父の名代をサボった私としてはちょっと行きにくいかも…」

「そうですか。じゃあ若者らしく芝生に座って見物しましょう。ちゃんとシートも持ってきてますよ」

「さっすが〜!」

陽乃さんは嬉しそうに劉さんの腕に飛びつく。

劉さんも、そんな突然のスキンシップに対し、まるで慌てる様子も見せずに彼女を支え歩いていった。

お互いの見た目がいいのと、胡散臭いのが相まって、安っぽいドラマを見せられているような気分になった。

「由比ヶ浜、俺たちもそろそろ行くか?…じゃあお前ら、また2学期にな」

結衣に腕を貸しながら、呆ける相模たちに一言だけ挨拶を残して歩き出す。

結衣は一瞬だけ相模たちの目を気にするような素振りを見せて、遠慮がちに俺の腕につかまった。

「ヒッキー…さっきはカッコ良かったよ?」

数十メートル程歩くと、唐突に結衣がそう呟いた。

「あん?何が?」

「…その、ちょと嫌なこと言ってもいい?…嫌わないで欲しいんだけど」

結衣は俺の質問には答えずに、何かを話したそうにそう言った。

「どした?」

俺は立ち止まって結衣の顔を覗きながら言葉を待った。

「…さがみんたち…友達なんだけど、ホントはあたし、あんまり好きじゃないんだ。…ヒッキーとデートしてるって言った時、バカにするような目であたしたちのこと見てたの、きっとヒッキーも気付いた、よね?」

やっぱりさっきのあいつらの態度のことを気にしていたことが分る。

俺は先ほどのやり取りを振り返りながら結衣に答えた。

「まぁな。別にあいつらにどう思われようと俺は関係ないが…お前が見下されるのは正直キツかったな…ひょっとして、距離とってた方が良かったか?」

自分が何か失策をしたような気になってしまい、慌てて手を離そうとすると、結衣は逆に力を強めてしがみ付いて来た。

「そんなことないよ!…それに…さっきはヒッキーが凄いって、皆にも分ってもらえて嬉しかった…」

「かっこいいとか、凄いとか、ひょっとして外国語のこと?…ウチの学校には国際教養科に雪ノ下みたいな帰国子女がゴロゴロしてんだぞ。大袈裟だな」

結衣が言いたかったことを何となく汲み取った俺は、若干の気恥ずかしさもあってそう濁しながら言葉を返した。

「そんなことないよ。あたし、ヒッキーが凄いってこと、もっとみんなに知ってもらいたいの…」

「俺はお前たちが俺のことを認めてくれるだけで満足だ」

先日の鶴見との最後の会話を思い出しながら俺は素直に自分の気持ちを伝えた。

「…たち、か」

そこに雪乃や沙希も含まれていることに対し、複雑そうな表情を浮かべながら、結衣はそう呟く。

今の俺には結衣の気持ちが手に取るように分る。

二人の間に気まずい空気が流れるのを打ち破るように、俺は話題を切り替えた。

「そろそろ行くか?…俺もシート持ってきたんだ。ゆっくり座って花火見物しないか?」

「…うん。…ヒッキー意外に気が利くね!」

結衣は若干物足りなそうに頷いたが、俺が雰囲気を切り替えようとしたのに応じるように、やや大きめの声でそう付け足した。

「当たり前だ。気配りは(社畜の)基本だからな」

結衣の空気を読む力に感謝する。頬が緩むのを感じながら、俺は冗談めかしてそう言った。

☆ ☆ ☆

打ち上がった花火が夜空いっぱいに広がる。

その光に一瞬遅れて鳴り響く音が、腹に響く。

俺たちは人ごみの中、二人分のスペースを遠慮がちに陣取り、肌を寄せ合うように座りながら無言で花火を眺めていた。

俺の肩にもたれかかった結衣の髪からシャンプーの香りが漂い鼻を擽った。

――この香り、えらく懐かしいな。

俺は結衣が好んで使うシャンプーの銘柄を知っていた。

だが、昔からずっと同じものを使っていたことに、この瞬間初めて気がついた。

彼女の一途な性格がこんな些細なことにも表れているような気がし、彼女を更に愛おしく感じる。

その瞬間、最後の大玉が打ち上げられ、空に華麗な華を咲かせる。

 

そしてその華は静かに消えていった。

 

花火終了のアナウンスが流れると、人でごった返していた自分たちの周辺から、ぽつぽつと人が離れていった。

 

 

「…そろそろ終わりか。帰るか?…家まで送って…っておい!?」

 

立ち上がり、帰宅を提案しようとした俺に、結衣が突然抱きついてきた。

 

動くことが出来ずにその場に固まった。

 

「…あたしね、ヒッキーのこと、大好きだよ」

 

人の歩く音にかき消されそうなくらい小声で結衣が耳元でそう囁いた。

それに併せて心拍がどんどんと上昇して行く。

ずっと忘れられなかった結衣の暖かさ、柔らかさに包まれる喜びを感じた。

それと同時に、結衣にとうとうその言葉を言わせてしまったことに、深い後悔を覚える。

 

「…俺も、お前のこと好きだ」

言いたいこと、言わなければならないことは山ほどある。

だが、それらの何も言葉に出来なかった。

口をついて出たのは自分の一次欲求を表現するだけに等しい単純な言葉。

 

「…良かった。あたしだけだったらどうしようって、ずっと不安だったんだ。嬉しい」

「…」

 

俺は結衣に何も言葉を返してやることが出来なかった。

強く抱きしめ返したいのにもかかわらず、腕も動かなかった。

「…やっぱり、それでもヒッキーは誰かと付き合ったりとかする気はない…のかな?」

 

反応を示さない俺に対し、結衣が不安げにそう聞いてきた。

 

「…すまん。俺にはその資格がない」

 

「…そっか…いきなりこんなことして、ごめんね?」

結衣はそう言いながら俺から離れた。

 

そして、さっきの行動がまるで冗談だったと言わんかのように、精一杯の笑顔を見せる。

だが、その表情は長くは続かない。

俺が何も反応しなかったせいもあり、数秒の後に結衣は表情を暗くし、俯いてしまった。

「…ごめんね」

そう言い残して、結衣は俺に背を向けて小走りで人ごみの中へと消えていった。

去り際、結衣の頬に流れる涙が見えた。

 

その姿を、俺は何もすることが出来ないままただ見つめていた。

 

 



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22. 比企谷八幡は幸福の後に自爆する

自分はどれだけの時間、呆けていたのだろう。

立っているのも辛くなるほどに、体中の力が抜けていくのを感じた。

帰宅する人々と何度も肩がぶつかり、よろめいた。

――結局こうなんのかよ、畜生

さっきのやり取りの何もかもが、結衣を失ったあの時と同じだったことに気がつくと、俺は足元のシートに再び座り込んだ。

俺は何も変わってない…変われていなかった。

そんな無力感に襲われながら、この時代に戻ってきてからの自分の行動を振り返る。

――俺は何を間違えた?

俺はその時々で自分に出来るベストを尽くしてきたはずだ。

しかし、その結果がこのザマだ。

それじゃあ、そもそも3人と係ろうとしたこと自体が間違いだったのではないか。

そんな気さえした。

『…Hachiman? 塞ぎ込んで、一体どうしたんだ?体調でも崩したのか?』

ふいに、誰かから英語で言葉をかけられる。

「…マーティンさん」

顔を上げると、目前に立っていたのは、先ほど屋台の前で偶然出会ったマーティン氏だった。

『君のガールフレンドが見当たらないが…何かあったのかい?』

『別に何でもないですよ…ちょっと貧血を起こしただけです』

俺は精一杯強がってそう言って見せた。

だが、それ以上の言葉が続かない。

マーティンさんはそんな俺を訝しげに見ると、少しの間考え込んで、再び俺に話しかけた。

『…以前、サンノゼからの帰りの便で僕が言った言葉を覚えてるか?』

「…」

俺は何も思い出せなかった。何か大事なことを言われたのだろうか。

正直、意識が朦朧としており、考える気も起きなかった。

『…賢い君ならどんな問題でも合理的な思考で一歩ずつ解へと近づくだろう。だが、どれ程合理的な解であっても、それが君の根底にある欲求や情熱を肯定するものでない限り、それは誤りなんだ…分るかい?』

その瞬間、自分の体の中を電撃が走るような感覚を覚えた。

俺の欲求や情熱を肯定する解って何だ?

俺はあの瞬間、結衣を抱きしめたかった。

ずっと結衣と会いたという気持ちを抱えて生きてきたことは嘘じゃない。

それを彼女に伝えたかった。

伝えた所で、何かが変わるものじゃない。だが、彼女に知って欲しかった。自分の抱える後悔や葛藤を理解して欲しかった。

このままじゃ、以前と同じだ。

俺はこの状況を受け入れたくない。

そうだ。簡単なことじゃないか。

俺はもう一度彼女に会わなければならない。会って全て話さなきゃ何も始まらない。

体に力が戻ってくるのを感じ、俺は立ち上がった。

自分が座っていたシートをクシャクシャに丸めて、ズボンのポケットに突っ込む。

『Thanks Martin-san! …正直、こんなパクリ臭い台詞に突き動かされるのは癪ですが、今のは結構響きました』

同じ台詞でも、タイミング次第でこうも印象が変わるものだろうか。

俺は目前の中年男性に、皮肉交じりで感謝の意を示す。

『それは良かった』

『…そうだ。そういや、Emilyちゃん、日本語で苦労してるって言ってましたよね?ちょうど、友達を欲しがっていて、英会話を始めた、同い年くらいの日本人の子を知ってるんで、今度紹介させてください』

去り際、鶴見留美のことを思い出し、そう伝えた。

『そりゃ助かるよ。Emilyもきっと喜ぶ』

『じゃあ、そろそろ行きます。See ya!』

俺は人ごみを掻き分けるようにして、走り出した。

☆ ☆ ☆

俺は結衣を追いかけて、駅まで全力で走った。

駅につくと、某遊園地のアトラクションのように改札に人が並んでいるのが目に入った。

この分じゃ、電車に乗るのにも何分も待たなければならなそうだ。

結衣が先に会場を離れてから、もう何分も経っている。きっとあいつは既に自宅への帰路についているはずだ。

――どうする?

今俺は、なんとしてもあいつに追いつかなくてはならない。

「タクシー!!」

俺は駅前の大通りの交差点にとまったタクシーを見つけ、慌てて手を上げながら車道へと飛び出した。

幸いにも乗客は乗っていない。

運転手はやや驚きながらもドアを開けてくれた。

 

結衣の実家の住所を告げるとタクシーは走り出した。

結衣が既に自宅についているのであれば、きっと電話しても出ないだろう。

こういう時の女性が取る行動は大体そういうものだ。

 

だが、あいつが寄り道している可能性はある。

俺には一つ心当たりがあった。

「あの公園の手前で止めてもらえますか?」

それは結衣の実家のすぐ傍にある公園だった。

――あたしね、昔から落ち込んだ時とか、よく一人でこの公園に来てたんだ。

以前、千葉に帰省した際に結衣がそう言っていた。

親に心配をかけたくないから、一人でブランコに座って、気持ちが晴れるまで時間を潰すのだ。

その時半分笑いながら、俺と雪乃が付き合いだしたことを知った高校時代のあの日、日付が変わるまでここにいた、とも言っていた。

「…頼む、ここにいてくれよ」

俺は口に出しながらそう祈り、暗い公園へと走っていった。

「ハァハァハァ…見つけた…」

祈りが通じたのか、俺はブランコに座っていた結衣を見つけ、声をかけた。

全力で走ったせいで、肩で息をする。

今の台詞は、下手すりゃ変質者のように聞こえるかもしれない。

「ヒ、ヒッキー!? 何でここにいるし!?」

赤く腫らした目を見開いて、結衣が驚きの表情を浮かべる。

「ハァハァ、すまん、ちょっと…息だけ…整えさせてくれ…」

「だ、大丈夫!?」

探し出した女性に心配されるあたり、今一つカッコがつかず情けなくなるが、結衣が逃げ出さずに普通の反応を示してくれたことが俺は嬉しかった。

「…すまん、もう大丈夫だ」

結衣は不安げに俺を見つめている。必死こいて追いかけてきたのはいいものの、俺は結衣にどう話を切り出すか、一切考えていなかったことに気付く。

「…さっきは悪かった。何から話せばいいか、考えてなかったんだが、お前には伝えたいことがいっぱいあるんだ」

「ヒッキー…」

「何でお前がここにいるか分ったか…それも含めて、全部説明するから聞いて欲しい。聞いてくれるか?」

そう言いながら、俺は結衣の隣のブランコに腰掛けた。

結衣は俺を見て無言で頷く。

俺は一呼吸おいて、話を切り出した。

「…何から始めるべきか…そうだな、これは俺の知り合いの知り合いの話だ。長くなるが、一先ず最後まで聞いてくれ。…ちょうど今から15年くらい前、一人の捻くれた男子高校生がいた。人の好意を信用することもできない哀れで懐の狭い男だ。…そいつは高校の世話焼きな教師に目を付けられて、無理矢理ある部活に入部させられたんだ」

知り合いの知り合い、昔もこんな前置きをして自分の黒歴史を語ったような記憶があるな。

自分で語りだしながら、思い出して身悶えしかけた。

「…どんな部活?」

さして気にする様子も見せずに結衣は俺に問いかけた。

「…ボランティアで生徒の悩み相談を受ける部、だな」

「え?それって…でも15年前だよね」

「そうだ。昔の話だ。その部には女子が二人いた。一人は、対人関係は苦手だが、文武両道を地で行く天才肌で芯の強い女の子。もう一人は、勉学は不得手だが、人の気持ちを汲み取ることが出来る素直で優しい女の子だ」

「…」

結衣は訝しげな顔を浮かべた。

女子が二人、というところを除き俺たちの置かれた環境そのものなのだから無理もない。

俺は話を続けた。

その三人は、生徒から持ち込まれた依頼を協力しながら解決し、時にすれ違い反発し、「本物が欲しい」と本音をぶつけて、互いの距離を縮めて行ったこと。

そして高校三年になった頃、そんな三人の人間関係にひとつの転機が訪れたこと。

二人の女の子のうち、一人と恋愛関係を築いたこと。

卒業後、彼女を追って海外へ渡ったこと。

そして、結局その男は彼女を失ったこと。

「失意のまま日本へ戻り就職した男を待っていたのは、高校時代の部活のもう一人の女の子だった。もう成人してたから、女の子って言うより女性って言った方が良いか…とにかくその女性から、実は高校時代から男のことが好きだったと打ち明けられ、二人は付き合うこととなった」

「…その人は、最初の彼女のこと、諦めたの?」

「新しい彼女が出来てからは、忘れようと努力してきた。だが、写真や思い出の品を捨て、記憶を消し去ろうとすればする程、心の中でその存在が膨らんでいった。日本で手に入れた仕事も、彼女との関係も、一見、何もかも順調に見えたが常に不安定だった」

「…」

俺は結衣が黙ってしまったことに一瞬戸惑ったが、その目は真剣に話の続きを求めていると気付き、再び口を開いた。

二度目の恋愛も結局上手く行かなかったこと。

最初の彼女が失踪した理由を別れ際に聞かされたこと。

男が深い後悔の中で海外へ赴任したこと。

全てを忘れる為に、身を削って仕事漬けの生活を辺境の地で送ったこと。

言葉を丁寧に選びながら、当時、自分が感じたままを結衣に伝える。

「…ところで、その男には妹がいてな。男の海外赴任中にその妹は結婚して家を出ていたんだが、男が帰国して暫く経ったある日、旦那の姉を紹介したいと言ってきた。その女性、実は男の高校の同級生でな。男は高校時代に、部活を通じてその女性のトラブルを解決したこともある…要するに顔見知りだった訳だ」

「…うん」

「何度か会ううちに、男はその女性から交際を申し込まれたんだ。だが過去の二人の恋人と比べて接点も薄い女性だ。いきなり告白されて男は随分戸惑った。二人の彼女が一生忘れられそうにないからと、最初は断ったんだ。…だが女性はそれでもいいと言って、その男を受け入れた」

「…今度は上手くいったの?」

「人間、現金なもんでな。愛される心地良さってやつで、男の荒んだ心は幾分マシになった。それでも二人のことが忘れられないってのは変わらなかったが…お互い30代で精神的にも多少成熟してたってのも大きかったのかもな。二人の関係は、まぁそれなりに良好だったと思う。男の方も、付き合ううちにその女性を真剣に好きになっていった」

「…なんか、素敵だね」

結衣は空を見上げながらそう呟いた。

当の本人としては精神薄弱な男の恥部を晒しているだけに過ぎないので、とてもそんな感想は抱けないのだが。

「…だが、ここでまた転機って奴がやってきた。…ある日、男は仕事の関係で中国に出張に向かったんだ。ここで運悪く、爆発事故に巻き込まれた」

「え!? 大丈夫だったの⁉」

「その男はきっとその時に死んだんだと思う…だが、死ぬ間際に願っちまったんだ。自分の愛した女性たちに、もう一度会いたかった…ってな」

結衣は真剣に俺の次の言葉を待っている。この長話の核心にあたる部分だと感じ取ったのだろうか。

話すべきか、ここで止めるべきか。この期に及んで俺は戸惑ってしまったが、結衣の目を見て、意を決した。

「…気がつくと、男は戻っていた。教師に無理矢理、部活動に入部させられた、高校時代のあの日にな」

「…うそ」

結衣は俺の言葉に驚愕の表情を浮かべていた。

これが俺自身の話だと、頭の中で繋がったのだろう。であれば、結衣の呟きは妥当だ。こんな荒唐無稽な話、誰が信じるだろう。

「ごめん! 話を疑ってる訳じゃなくて、その…余りに…なんていうか…あ”〜!違うの!」

結衣は自分の呟きについて、弁明するように慌ててそう言った。

「…大丈夫だ。別に、単なる知り合いの知り合いの話だって言っただろ」

信じてもらえないなら仕方ない。

全て俺の妄想だったことにして、誤魔化すしかないだろう。

「いや、どう考えてもヒッキーのこと…だよね?」

「…だったらどうする?頭がイカれてるって、思うか?」

否定して欲しい。

心の底からそう願って、結衣にそう尋ねた。

「思わないよ!…ヒッキーの言うことだもん…全部信じるよ」

「…結衣」

何で…何でこの子はこんなに俺のことを信じられるんだろう。

俺は情けないことに、その相手を思いやるような優しい声を聞き、思わず涙を流してしまった。

慌ててそれを拭っていると、唐突に結衣に手を引っ張られる。俺はそのままブランコから立ち上がり、結衣に抱き止められた。

「大変だったんだね、ヒッキー…ごめんね。あたし、やっぱり我儘なんだ」

「なんでだよ。今も昔も、ダメなのは俺の方だ」

結衣に抱きとめられたまま、俺はそう言った。

「ヒッキーは悪くないよ…何も悪くない…」

「…お前は何でこんな与太話信じられるんだ?」

自分だったら絶対に信じない。そう確信している。

だからこその素朴な疑問だった。

「…何でかな。今、あたしのこと名前で呼んでくれたからかな。なんか、すっごい自然だったし」

今、思わず結衣の下の名を呼んでしまったような気がする。

しかし、そんな理由でこの話を信じるなんて、やはりこれは男女の感性の差なのだろうか。

「それじゃ納得できない?…って、そうか!ヒッキーが英語しゃべったり、中国語出来たり、投資に詳しいのも、たまに大人に見えるのも、やっと理由が判ったかも!」

「…おい。普通、信じるとしたらそういう理由が先に来るんじゃないのか」

結衣らしいと言えば結衣らしい。

ずっと緊張で硬くなっていた肩の力が抜け、腕が軽くなった気がした。

と同時に、俺を抱きしめる結衣の体温が伝わってくる。

「ム〜 別にいいじゃん!ヒッキーうざい!」

「お前な…」

そう言いながら、力強く結衣を抱きしめた。

それは、ずっとこうしたいと願っていた行動だった。雪乃や沙希の顔が思い浮かぶが、これが俺の本質だ。

最低だと罵られるかもしれない。また後悔するかもしれない。

だが結衣のことは好きだ。雪乃や沙希も同じくらい好きだ。いつか、雪乃が言った三股のクズ谷そのものだが、その批判は甘んじて受け入れる。

「何年も…何年もずっとこうしたいと思って今日まで生きてきたんだ。それは雪乃や沙希に対しても同じ気持ちなんだ。今日だけでいいから、もう少しこのままいさせてくれ…すまない」

「…いいよ。ヒッキー…おかえりなさい」

どこまでも優しい声。

結衣は顔を離して俺を見つめながらそういった。

20代の頃の記憶の中の結衣と、目前の女性が重なって見える。

俺は、結衣を心の底から美しいと感じた。

気付くと俺は再び泣いていた。結衣を抱きしめる両腕は塞がっている。今度は涙を拭うことも出来ない。

結衣はその涙を掬うように軽く俺の頬に口を付ける。

そしてその唇を俺の唇に重ねた。

「…結衣」

「今のはゆきのんとサキサキには内緒だね」

そう言いながら、結衣は満面の笑みを浮かべていた。

☆ ☆ ☆

「ヒッキー家についた?」

その後、結衣を自宅に送り届け、俺も帰路についた。

自宅についた頃、結衣から電話がかかってきた。

「ああ、今ついたところだ。今日は遅くまで悪かったな。親に怒られなかったか?…それと、ありがとな」

「あたしこそ…楽しかったよ。今日の花火の写真、あとでサムネにしよっかな」

「そうだな。…結衣…また、明日会えないか?…言い辛いことだが、今日話したこと、雪乃や沙希にも伝えなきゃならないと思ってる。出来れば、その相談に乗って欲しい」

何言ってんだ俺は?馬鹿なの?死ぬの?

こんなの、彼女に"他の女に告白する相談”を持ちかけているのと相違ないだろ。

自分でお願いをしておいて、その余りの横暴さに自分で呆れてしまった。

「いいよ!何時でもいいから電話して!」

そんな自分の懸念とは裏腹に、結衣は嬉しそうにそう答えた。

「ホント、悪い」

「ヒッキー謝り過ぎだよ!じゃあそろそろ寝るね。ヒッキーもゆっくり休んでね」

「あ、ああ。…お休み」

そう言ってから電話を切るまでに20分くらいかかった。

「先に切れよ」「そっちが先に切ってよ」「いやん、ばかぁ」という感じのイタイ会話を繰り広げてしまったのだ。

俺は携帯を手にしたままベッドに横になった。

今日は本当に色々あった。

まだまだ問題は全く解決されていないのだが、俺の心は幸福感に満ちていた。

マーティンさんに会わなければ、俺は今絶望の淵にいただろう。本当に感謝してもしきれない。

目を閉じると結衣の顔がまた思い浮かぶ。

抱きしめた彼女のぬくもり、キスの感触は、あの頃と全く同じだった。

彼女を想う気持ちが心の中で際限なく広がっていった。

童貞に初彼女が出来たような浮かれっぷりだ。

何だかんだ言って、俺もまだまだケツの青い男の子なのだと思い知らされた。

無意識に携帯を弄る。チャットアプリを立ち上げると、先ほどの花火の写真のサムネが目に留まった。

【結衣、今日は本当にありがとう。早く会いたい】

考え込む前に気持ちのたけを短い文字に起し、送信ボタンを押す。

明日の朝、これでまた一人、恥ずかしさに悶える事が確定したが、今はそれでいい。それでいいのだ。

【わたしも…】

結衣から返ってきた返事は更に短く、シンプルだった。

だが、その言葉に俺は天にも昇るような幸せな気分になった。

俺はそのまま、その暖かさに包まれながら、久々に深い眠りについた。

☆ ☆ ☆

翌朝

「お兄ちゃん!電話だよ!」

俺は突然携帯片手に部屋に飛び込んできた小町に叩き起こされた。

眠い目を擦りながらそれに答える。

「ん…なんだぁ?こんな朝っぱらから?」

「もう10時だよ!っていうか、電話!雪乃さんから私にかかってきたの!お兄ちゃんを出せって!」

「はぁ?何でお前に?」

「お兄ちゃんの携帯、電源切れてるって言ってるよ!いいから早く出て!」

「はいはい…」

半ば耳元に押し付けるように渡された小町の携帯を手に取り、電話に答えた。

「もしもし?」

「比企谷君…奉仕部の緊急会議を開きます。今すぐ学校傍のサイゼに来なさい」

雪乃が若干早口でそう言うと、ピッと通話は途切れた。

――おいおい、いきなりなんだよ?

俺はため息を吐きながらベッドから起き上がる。

集合はいいが、電話の電源が切れていては流石にまずい。

俺は充電ケーブルを携帯に差し込んで、服を着替えだした。

数秒すると、携帯が自動で立ち上がる。

それと同時に、メールの着信を告げるバイブレーションが鳴り響いた。

――なんだよ、ずいぶん多いな

着替え終わった俺は、携帯を手にとって硬直した。

メッセージ件数、853件。

その内容を確認しようと、画面をタップして俺は携帯をその場に落とした。

血の気が引く、というのはまさにこのことだろう。

【結衣、今日は本当にありがとう。早く会いたい】

【わたしも…】

これは昨晩結衣と交わしたメッセージだ。

問題はそのメッセージに続きがあったことだ。

【え?なにこれ? by サキサキ】

【これはどういうことかしら?説明を求めるわ byゆきのん】

【これには事情があるの!ヒッキー!by Yui】

【ヒッキー!寝ちゃった!? by Yui】

以下、未読849件。

 

結衣が花火の写真をサムネに設定したのは、奉仕部のグループチャットアカウントだった。

俺はてっきり、それが結衣の個人アカウントだと思い込んでいた。

俺に返信してきたことから、結衣もその勘違いに気付いていなかった可能性がある。

「What the FUCK!!??」

なぜ英語なのか、自分でも良くわからない。

ただ、俺の叫びが近所中に響き渡った。

 

 



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23. 比企谷八幡は夏を締めくくる

【さっき姉さんからメールで聞いたわ。あなた達、今日はデートに行ったそうね?】

【…うん。花火大会。ゆきのんのお姉さんにも会ったよ】

【その時彼と何があったのか、教えてくれるかしら?】

【…あたし、ヒッキーに告白したの】

【それで付き合うことになってあのメール? あんた達バカなの?】

【違うの!あれは手違いというか…】

【違うというのはどういうことかしら?】

【ヒッキーは誰とも付き合う気はないって…あたし結局フラれちゃったし】

【はぁ? じゃあ、”早く会いたい”って何なの?】

【それは本当に色々あって…】

――これはヤバイ…

俺は今、バスで雪乃に指定されたファミレスへ向かいながら昨晩のメールのログを確認している。

あいつらに会う前に、最低でもメールのやり取りは把握しておかなければ危険だ。そう思い画面をスクロールさせていくが、新しいメッセージを見るたびに俺は頭を抱えた。

俺の迂闊な行動のせいで結衣が雪乃と沙希から詰問に遭っている。こんなやり取りを一晩中続けていたようだ。結衣への罪悪感で胸が痛む。

そして、ログを読む俺の指が止まり目が見開かれた。

【付き合ってるならそう言えばいいのに。何で否定するわけ?気でも使ってるつもり?】

【いい加減にしなさい、由比ヶ浜さん。私でも怒るわよ】

【…分かった!言うよ!言うから怒らないで!】

【初めからそうしなさい。要点を押さえて簡潔かつ明快な説明をお願いするわ】

【簡潔にって…本当に複雑だからそんなの無理だよ】

【やっぱり誤魔化すつもり?】

【違うよ!ポイントだけ言っても二人とも絶対信じないと思うけど…】

【由比ヶ浜さん、外を御覧なさい。あなたが勿体ぶってる間に陽が昇ってしまったわ】

【あたし、徹夜で吊し上げられてた!? じゃぁ言うよ…ヒッキーは実は30代の未来人で、ゆきのんとあたしはヒッキーの元カノ、サキサキはヒッキーの今カノだったの。ヒッキーは事故に遭って意識だけ高校時代に戻ってきたみたい】

【は?】

【は?】

【ホラ、信じないじゃん!】

――おいおいおいおい…

この後、結衣は尚も二人から質問攻めにされ、昨晩俺が話した事をほぼ全て二人に説明する羽目になっていた。

雪乃や沙希にどう打ち明けるか、それは俺がしっかりと考えなきゃいけないことだったはずだが、まさかこんな形で二人に伝わってしまうとは予想出来なかった。

俺は力なくバスに揺られて、緊急会議の会場へと向かって行った。

☆ ☆ ☆

「来たわね。一人だけ肌ツヤが良くて羨ましいわ。昨日はさぞ良く眠れたのでしょうね、比企谷のオジサマ?」

指定されたサイゼに到着する。禁煙席の一角に結衣と対峙する格好で、雪乃と沙希が席に座っていた。

俺の姿を見るなり、嫌味をぶつけてきたのは雪乃だった。全員目の下が黒い。どうやら、本当に一睡もしていないようだった。

「俺はまだアラサー…いや正確には今夏で34だが…オジサマは勘弁してくれ」

「…その話、やっぱりマジなんだ」

そう真面目な顔で呟いたのは沙希だった。俺はそれに対して無言で頷く。

と同時に結衣の隣に腰掛けた。

「…結衣、昨日は一人だけ寝ちまって悪かった。それから、俺のために気使ってくれてありがとな」

先程メールのログを読んでいる時は、結衣の自白に発言に頭痛を覚えたが、それは元々俺のミスが引き起こした事態だ。

結衣が無理矢理白状させられたのは明け方まで粘った上の事だ。加えて、本来俺が自分で説明しなければいけない事を、結衣は彼女なりに言葉を選びながら慎重に雪乃と沙希に伝えてくれていた。礼こそ言えど、彼女を責めることなど出来ない。

「…ううん。ごめんなさい。ヒッキー、ちゃんと二人に説明したいって言ってたのに、あたし…」

「いや、助かったよ。俺は一人で抱えてた事を結衣に伝えられて良かったと思ってる」

そう言って、俺は結衣の頭を軽く撫でる。結衣は安心したような表情で、嬉しそうに目を細めてそれに応えた。

その様子を見ていた雪乃が咳払いをして言葉を切り出す。

「私の前でイチャつくのは止めてもらえないかしら。私の初めての彼氏さん?由比ヶ浜さんを下の名前で呼ぶのは、昔の呼び方に戻した…という事かしら?」

「…あんた、意外に攻めるね?」

沙希が感心したように雪乃に対してそう呟くと、雪乃は頬を染めて再び咳払いする。

「由比ヶ浜さんに聞いたことで状況は概ね把握したわ。でも、私たちの今後のことを決めるためにも、あなたには色々と聞かなければならない事があるわ」

「…それは構わんが、お前達もこんな非科学的な話信じるのかよ?」

「私は元々あなたを疑っていたのよ?貴方は男子高校生として明らかに異質…どういう仕組みで人間の意識が過去に戻るのかなんて、皆目見当もつかないけれど、貴方の実年齢に関しては自分でも驚く程素直に納得することが出来たわ」

「…そうかよ」

未来予想ゲームで5回連続で未来を言い当てる、位しないと雪乃は信じないだろうと思っていたのだが、これは本当に意外だった。

沙希はそんな雪乃と俺を交互にじーっと見ている。

「問題は…その…」

何かを付け足そうとして、雪乃は突然言い淀んだ。俺は”ん?”という表情を浮かべて、次の言葉を待つが、雪乃は中々口を開かない。

「…はぁ…比企谷とあたし達全員が、付き合ってたって話でしょ?」

一つだけため息を吐いて、雪乃が言いたかったのであろうポイントを沙希が顔色も変えずに呟いた。

沙希の言葉を受けて、雪乃は意を決したかのような表情で口を開いた。

「そうよ…もうお互い隠し事は無しにしましょう。正直に言うわ。私達は三人とも貴方に惹かれている。さっき三人で確認したからこれは事実よ…でもそれは、私達の性格や生い立ちを把握する貴方が、私達を弄ぶ為に故意に誘導して来た結果ではないの?」

先程とは違い、本当に真剣な目でそう問いかけられた。

「…そんなつもりは無い、と言えば嘘になるか…無論弄ぶ様な真似をする気は無いが、三人に気に入られたい、好かれたいと思っていた事は否定出来ないな」

一旦は否定を試みるが、結果を見れば雪乃の言う通りだ。

俺の声は段々と自信を失い自嘲的なトーンを帯びていく。

「…あんた、由比ヶ浜の告白を”自分にはその資格がない”って言って断ったらしいね。それって、どう言う事?きっと、アタシが告白したとしても同じこと言うんでしょ?カッコつけて誤魔化すような言い方しないで、ちゃんと説明して」

今度は沙希が、俺に対してピシャリとそう言った。

先程までの雰囲気が嘘だったかのように、空気が張り詰めるのを感じた。

「…俺にはお前達三人が、自分の人生を捧げてもいいと思えるくらいに大事なんだ。三人のうちの誰かを傷付けるような選択はしたくない…いや、これは傲慢か…結局、自分が選択する事で、他の二人との関係を失う事が俺は怖いんだよ」

「貴方はそんな曖昧な関係がいつまでも続くと思っているの?」

雪乃からの鋭い指摘。当然俺だって、そんな事が可能だとは思っていない。思っていないが、先延ばしにする以外の術が無い。

「それは俺もずっと悩んできた事だ。けどな、それならどうすりゃいいのか教えてくれよ…俺は一度手にした幸せを失う痛みにずっと苦しんできた。そんな選択を自分からまたする位なら、成り行きに任せて最後に孤独を受け入れるしかないだろ」

「…詭弁ね。別に気を使う必要なんてないのよ。本当は今のあなたにとって私たちは子供すぎて恋愛対象にならないだけなのではないの?…そうでないのなら、貴方がそこまで意気地なしだったことに、失望を覚えるわ」

雪乃のは俺の目を見据えてそう言い切った。

その言葉は俺の感情を激しく掻き乱した。それを口にしたのが沙希であれば、あるいは結衣であったのなら、俺はまだ冷静でいられただろう。

雪乃を失った事を認識させられた、あの雨の日の苦い記憶が甦る。

「肌を重ねて愛した恋人を、何も知らないまま失った喪失感がお前に分かるか!?もう抱く事の出来ない女の幻影と後悔に何年も縛られ続けて惨めに生きる気持ちが!新しく支えてくれる大事な人に罪悪感を抱え続ける苦しみが!お前に分かんのかよ!!」

「「「!?」」」

俺が突然声を荒げた事に対し、雪乃の瞳には怯えと動揺の色が混じる。

結衣も沙希も驚きの表情を浮かべていた。

それを見て俺はハッとなる。目の前にいる雪乃は何も知らないのだ。

夏休み前も雪乃に対し、自分の心に溜まっていた黒い感情を曝け出した事はあった。だが、感情をここまで剥き出しにして声を張り上げたのは、今回が初めてだった。

何れにせよ、いい歳した大人が女性にやっていい事ではない。

「…すまなかった。これじゃ八つ当たりだ…情けねぇ」

俺が謝罪の言葉を告げると共に、自省の念を口にすると、雪乃の表情に安堵の感情が戻るのが窺われた。

「…いえ、私の方こそ無神経だったわ。ごめんなさい」

「お前は何も悪くない…お前らに声を荒げるなんて…俺は最低だ」

「あの!」

突如、結衣が雪乃と俺の会話に割って入る。思わず俺は身構えた。

「…急に割り込んで、ごめんね?…どうしても気になったんだけど、”肌を重ねた”、とか、”もう抱けない”とか…それって、やっぱり…そういう事…なんだよね?」

結衣が遠慮がちに、そして顔を真っ赤にしながら、言葉を精一杯濁しつつ俺に問いかけた。

「そりゃアタシも少し気になったけどさ!アンタ、今それ聞くわけ!?」

「だって!」

沙希も顔を赤くしながら、責める様に結衣を諌める。それに対し、結衣も言葉にならない反論を試みた。

「……!?」

キョトンとしていた雪乃は、何かに気が付くと、見る見る頬を紅潮させた。

同時に、変質者から身を守るかの様に自分の体を両腕で抱きかかえ、涙目で俺を睨みつける。

「…あ、いや、その…すまん」

俺の謝罪に対し、雪乃は無言を貫ぬくが、その顔には今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。

「…高校生だったゆきのんと、って事は、やっぱりわたしやサキサキとも…」

結衣の暴走は止まる気配がない。

「アンタ、本当にバカなんじゃないの!?」

沙希が先程にも増してキツイ言葉を結衣にぶつける。その顔は更に赤味を増していた。

「…まぁ、その…そうだな」

俺は彼女たちが乱れる姿を知ってる。

結衣は出会ったばかりの頃、この歳で処女であるのが恥ずかしいなどと、父親が聞いたら卒倒しかねない価値観を披露した事もあるのだが、それでも今の彼女たちにカマトトぶるなと言うのは酷だろう。

「…いい機会だから正直に伝えておく。きっとお前達が想像する以上に、俺はお前達と深い仲にあったんだ。俺の想いの源泉は淡い恋愛の記憶とか、そんなんじゃない。心も、身体も…人生を共有することで生まれた特別な感情なんだ」

結衣は俺の言葉を聞いて、ようやく恥じらいの感情が好奇心を上回ったのか、大人しく俯き、静かになった。

「…この話は聞かなかった事にするわ。質問を続けてもいいかしら、犯罪者君?」

雪乃が仕切り直そうとするが、今の会話を引摺っているのがバレバレな態度でそう言った。

「おい、せめていつも通り谷を付けろ…と言うか、俺とお前は同級生で、加えてあれは合意の上だ。もっと言うと、むしろ最初はお前の方から…」

自らの身の潔白を証明せんとそれに応戦するが、俺に出来たのは余計な言葉を次々と付け足す事だけであった。雪乃は再び、目に涙を溜めて俺を睨みつける。

「はい、ストップ!…比企谷、怒るよ!雪ノ下!アンタも自分で墓穴掘ってどうすんの!?」

収拾が付かなくなりかけるも、沙希がその場を仲裁した。

その顔は相変わらず赤いが、この行動から、おそらく彼女が三人の中で精神的に最も成熟している事が窺われる。

沙希は、フウと深呼吸をすると、表情を切り替える。

その顔は覚悟に満ちていた。そして彼女は次の言葉を発し出す。その不自然なまでに優しい声色に、俺は限りなく嫌な予感を覚えた。

「…比企谷、そんなに卑屈になることないよ。アンタの中でもう答え出てんじゃん…少なくともあんたの答えはアタシじゃない。幸い雪ノ下もアンタが好きみたいだし…もう一度ゼロからやり直すチャンスなんじゃないの」

「!?」

予感した通りの内容だが、その衝撃に対する精神的な備えは俺には無かった。

――沙希に見限られた

その事実を受け入れることを脳が全力で拒否する。

足元から全てが崩れ去って行くような感覚に陥った。

絶望感、恐怖感で自分の四肢が急速に冷え固まり、一切の身動きを取る事が出来ない。呼吸すらも難しく思える程だった。

「…ありがと。アタシのことも失いたくないって言うのはリップサービスとかじゃないんだね。その表情にはちょっとだけ救われたかも。…でも、やっぱりアタシなんかじゃアンタには不十分だと思う」

不意に沙希はテーブル越しに手を伸ばして俺の頬へ触れる。

若干ひんやりとしたその指先の感触。求めて止まなかったもののはずなのに、今は崖から自分を突き落とすためのものに思えた。

「ねぇ…サキサキは、ヒッキーが一番好きなのがゆきのんだって思ったんだよね?…どうして?」

沙希の言葉を聞いていた結衣が唐突先にそう尋ねた。

「比企谷の話聞いたら誰だってそう思うでしょ。15年間も忘れられないなんて、17歳の私達には想像も付かないけどさ。本気で好きなのだけは間違いないよ」

沙希は悲しみを包み隠す様な力のない笑顔で冷静にそう言った。

それを隣で聞く雪乃は、無言で難しい表情を浮かべている。

「そっか…そうかもね。でも、あたしはずっと前から、きっとヒッキーはサキサキのことが好きなんだって思ってて…その…辛かったの。あ、あたし、サキサキのことは大好きだよ!でも…嫉妬もしてた。この話を聞いた時も、きっとヒッキーはサキサキを選ぶんだろうなって思った」

結衣は自身が沙希に対して抱えていた印象、感情を曝け出し始める。

「アンタ、何言って…」

突然そんな結衣の思いを伝えられて、沙希は困惑の表情を浮かべた。

「あの時サキサキを奉仕部に誘ったのも、そうすればヒッキーが喜ぶかなって思ったから…なのに、あたしサキサキに嫉妬してばかりで、自分が嫌な子になってくのが辛かった」

あの時とは、奉仕部で沙希がバイトするホテルロイヤルオークラのバーを訪ねた時の事だろう。

あの晩、俺は結衣から席を外す様に言われ、黙って従った。

そして翌朝には沙希が奉仕部に入る事が決まっていた。どういう話し合いが行われたのか、詮索するとそれも拒まれた。

だが、全ては結衣が俺の為に動いてくれた結果だったと、今この場でようやく知った。

結衣は尚も言葉を止める気配を見せない。

「昨日ね、ヒッキーが大人になってからの話を聞いた時…あたし悔しかった。大人になったヒッキーの隣に立ってたのが、どうしてあたしじゃなかったんだろうって…でも、サキサキのこと思い出しながら話すヒッキーは本当に幸せそうで…」

昨日の出来事を思い出しながら語る結衣の顔は段々と曇って行く。

俺を優しく包んでくれた結衣が、そんな風に感じていたなんて俺は全く気付いていなかった。

「…あたし、ホントはね…今日はサキサキにお願いしようと思って来たの。あたしもヒッキーのことを好きでいることを許して欲しいって。サキサキならきっと許してくれるかもって。あたし、やっぱりズルいよね…ヒッキーの気持ちもサキサキの気持ちも知ってるのに…」

最後にそう搾り出す様な声で言うと、結衣はポロポロと涙を流して泣き出してしまった。

俺は、彼女をなだめようとするが言葉が何も出てこない。

情けなく戸惑う俺を尻目に、沙希はイスから立ち上がり結衣の横へと歩み寄る。

そして、正面から彼女を抱き締めた。

「…アンタは嫌な子でも、ズルい子でもないよ。…呆れる位純粋で…比企谷が三人同じ位好きって言ったけど、正直、私が含まれてる事はまだ半信半疑。でも、由比ヶ浜の事が雪ノ下と同じ位好きって言うのは、アンタを見てると納得出来るよ…アンタって本当に優しいんだね」

沙希は柔らかい声で結衣にそう言った。それを聞いた結衣は、沙希に抱き締められたまま、嗚咽を洩らし始める。

「…収拾が付かなくなってしまったわね。それもこれも、気の多い貴方が私達三人を振り回したせいよ。きちんと理解しているのかしら?」

沈黙を保っていた雪乃が俺を睨みつけながらそう呟いた。

「…お前の言う通りだ。すまない」

そう謝罪の言葉を口にする俺の頭の中は真っ白になっていた。

自分の言葉には怯えの感情が混じり、酷く声が擦れている様に聞こえる。

「…全く最低ね」

雪乃は心底残念そうにそう呟いた。

――ああ、終わったな。何のために俺はこの時代に戻ってきたのだろうか。

結局俺は、結衣を傷付け、沙希を苦しませた。雪乃にも呆れられた。

全てを台無しにしてしまった。

雪乃の瞳を見つめながらそんな考えが頭を過ぎる。これ以上彼女と目を合わせられないと感じ、視線を外そうとした瞬間、彼女がふっと柔らかく微笑むのが見えた。

「…と、言いたい所だけれど、私個人としては、選ぶ事を先送りにすると言う、比企谷君の”選択”には一定の合理性があると認めるわ」

「雪ノ下…あんた」

沙希は雪乃に対して、何かを言いたげな表情を浮かべる。一方で結衣は少しだけ安心した様な表情を浮かべた。

「私は比企谷君も好きだけれど、由比ヶ浜さんがいて川崎さんもいる、今の奉仕部が好きなの。さっきは意気地無しと言ったけれど、仮に比企谷君が川崎さんか由比ヶ浜さんと付き合いだしたとすれば、私だって、これまで通り平静を保っていられる自信は無い…私、こう見えて打たれ弱いのよ。だから、比企谷君が答えを先送りにする事、私は反対しない」

これは雪乃が俺に与えてくれた救済措置なのだろうか。ただ、彼女の発言の意図がよく分からない。俺に出来ることと言えば、この期に及んでも、ただ戸惑う事だけだった。

「ちょっと待ちなよ。だからこのまま何も無かった事にするの?そんなので仲良しごっこするなんて…欺瞞じゃないか」

沙希は雪乃にそう反論した。沙希の意見はもっともだと俺も思う。

昔の俺はこんな欺瞞を最も嫌っていた。だからこそ、あの時俺は、結衣からの気持ちに薄々気付きながらも、雪乃と交際する事を選んだのだ。

今の俺が”選ばないという道”に流されようとしていたのは、選んだ末に舐めてきた苦渋の経験故なのだろうか。

「川崎さんの言う通り、私達がこの事を、このまま何も無かったフリをして過ごして行くのであれば、それは欺瞞に他ならない。でも、私達はそれぞれの想いを打ち明けたわ。それは全て無かった事にして目を瞑るのとは少し違うのではないかしら。多少強引でも前向きに捉えれば、私達の関係は今日また一つ前進したと言えると私は考えるわ」

雪乃がゆっくりとした口調でそう問いかけると、沙希は考え込んだ。

結衣も雪乃の言葉の意味を咀嚼する様に真剣な表情を浮かべている。

「皆がその考えに納得出来るように、一つ提案があるのだけれど…」

しばらく沈黙が流れた後、雪乃はそう言ってまた一呼吸置いた。

その場の誰もが雪乃の次の言葉を待っている。

「…比企谷君、貴方は私達三人に恥をかかせたわ。貴方にはその罰を受けてもらいます」

それが雪乃からの提案だった。

☆ ☆ ☆

俺たちは今、雪乃のマンションにいる。

雪乃が提案した罰の内容。それは、彼女たち一人一人に対し、丁寧に思いのたけを伝えるという事だった。無論、他の二人が聞いている中で、との条件付きだ。

罰を提案した雪乃は最初、その場で愛の告白を実行する事を俺に迫ってきた。

せめて人気のない所でと頼み込むと、今度は近場の稲毛海浜公園で海に向かって愛を叫ぶよう要求してきた。

青春真っ盛りの10代ならまだしも、30を過ぎた男が海に向かって愛を叫ぶなど、おぞましい光景だろう。

幸い、他人に聞かれる事を嫌がった沙希と結衣がそれに反対したため、一行は他に誰もいない雪乃のマンションへと移動することとなったのだ。

俺は雪乃の自宅で出された紅茶に口を付けて、罰執行のタイミングを伺っていた。

朝からのめまぐるしい感情の起伏を通じ、俺の精神は既にヘトヘトになっていた。

だが、三人はそれに加えて、昨晩全く眠っていない状況なのだ。俺がここで弱音を吐く事は許されない。

だが、一息入れる間に皆の顔には疲労が浮かび、少しの沈黙が流れた。

「…それにしても、やっぱり改めて考えると、ヒッキーとあたし達全員が恋人だったって、スゴイ事だよね。何がスゴイのか良く分からないけど、やっぱりスゴイ。全然実感は湧かないけど…あはは」

その場の雰囲気に耐えかねた結衣がそんな事を口にした。

「…アタシは全く実感が無い訳じゃないけどね。ちょっと前に、あんたが教室で寝ぼけて抱きついて来た事があったでしょ?その時下の名前も呼ばれたし、なんかこの話聞いて、その時の事はちょっと納得したっていうか…」

沙希が結衣の言葉に反応を示す。

相変わらず遠い目で、落ち着き払って過去の出来事を皆にバラした。

「「…抱き付いた?」」

ジロリ、という言葉がピッタリくる表情で雪乃と結衣が俺を睨む。

そこには先程ファミレスで涙した結衣の姿はなく、予定調和なラブコメ的な反応であった事に、俺は逆に安堵を覚えた。

安堵したのは沙希も同様だった様だ。沙希は、結衣を後ろから軽く抱き締めて頭を撫でた。

結衣は一瞬ビクッとしながらも、直ぐに安心た表情を浮かべて沙希に身を任せた。

「…そういうことで言えば、私だって心当たりが無い訳では無いのよ。初めて貴方が奉仕部に来た時、貴方、私の顔を見るなりいきなり泣き出したわね。そして私もファーストネームを呼ばれたわ。泣虫谷君?」

雪乃は胸を張ってフフンと得意げにそう言った。

「ゆきのん、なんか張り合ってる風!?」

結衣は沙希に抱きとめられた状態のまま、表情をクルクル変えてそう言った。

「…正にあの日、俺の意識は未来から戻って来たんだ。お前に気味が悪いって言われて、俺は相当凹んだが…」

雪乃と再会した日のやり取りを思い出しながら、俺はそう呟いく。

「なによ…仕方ないじゃない」

バツが悪そうに雪乃はそう反論した。

そろそろ、覚悟を決めてこの罰を受けることとした方が良いだろう。

会話の流れから、俺はそのまま雪乃を見つめ、話を切り出す。

「…そろそろ始めさせてもらう…先ずは…雪乃。聞いてくれるか?」

「!?……はい」

雪乃はビクッと反応を示した後に、やや緊張した面持ちで丁寧な返事を返してきた。

「…お前は、俺に出来た初めての彼女だった。当時の俺は今よりもっと捻くれててな。奉仕部の依頼なんかも、酷く独り善がりな解決方法ばかり提案して、お前とはしょっちゅう対立してたんだ。それがどうして付き合う事になったのか、正直よく分かんねぇ。だが、お前と一緒にいた時間は、全部が俺にとって一生忘れることが出来ない大事な思い出なんだ」

「…」

「…結衣から聞いてると思うが、雪乃は高校卒業後に留学し、そして親の決めた相手と結婚して行方知れずになった。この話は、今のお前には思い当たる節すらないかもしれない。だが、それが夏休み前に、お前が家柄の話をした時に俺が噛み付いた理由だ。雪乃が納得してそういう選択をしたのなら、俺の出る幕はないんだろうが…それでも俺は…お前を手放したくなかった」

雪乃は俺の話に一つ一つ頷きながら聞き入り、複雑そうな表情を浮かべた。

「15年間…俺は一度だってお前のことを忘れたことは無かった。その所為で結衣を傷付け、沙希に我慢を強いて来たのも知ってる。自分でも最低だとは思うが、お前と再会した時、もう二度とお前を離したくないと、そんな自分勝手な願望を心に抱いた。…お前が好きだって気持ちは、あの頃から何も変わっていなかった」

「比企谷君…」

雪乃の瞳の奥が揺れる。

俺は雪乃との距離を一歩ずつ詰めていく。二人の間の距離が埋まる度に、その揺れは大きくなるが、彼女も決して俺から視線を離さなかった。

俺はそのまま雪乃の腰に手を回し、彼女を抱き寄せた。

「今更見苦しいことを承知で言う。…雪乃、ずっと…ずっと愛してる。お前と離れ離れになるなんてこと、一回も望んだ事はない。出来ることなら、ずっとお前の側に居たい…これが俺の本心だ」

俺は雪乃を抱いたまま、心に秘めてきた想いの全てを伝えた。

彼女は暫く動かず、言葉を発しなかったが、俺が抱く手を緩めると、ゆっくりと顔を上げて口を開いた。

「…自慢では無いけれど、私が今までに告白を受けてきた回数を数えるには両手の指でも足りない程なのよ。でも今のは…今までに受けたどんな告白とも違う。貴方のこと、好きになって良かったと心から思えたわ」

見つめ合ったまま、若干頬を上気させ、雪乃は彼女が抱いた感想を述べた。

「私の将来の話…まだ決定した訳ではないけれど、確かに高校卒業後の留学の話は父から打診されているの。でも、結婚の話なんて、全く聞いていないわ。それに…今の私なら、そんな話は絶対に受け入れないと断言できる。きっとあなたの知る別の私も望んでそれを受け入れたとは思えない…だから…もしもその時が来たら、比企谷君は私を助けてくれる?」

雪乃は不安そうな声で、俺にそう尋ねた。

俺は先程の緩めた彼女を抱く腕に、再び力を込める。

「…むしろ、逆にお前が望んでも、邪魔しちまう可能性すらある」

「そう?嬉しいわ。ありがとう」

雪乃は目を閉じながら優しく微笑んでそう言った。

「もっとこうしていたいけれど、私ばかりと言うのは約束違反になるわね。次は川崎さん、如何かしら?」

ゆっくりと丁寧に俺の手を解きながら、雪乃は沙希を見てそう呼び掛けた。

「アタシ!?」

沙希は結衣の手を包み込むように握って、俺の雪乃への告白を聞いていた。

雪乃から交代を告げられ動揺の色を見せると、今度は結衣が沙希の手を包む様に握り返す。

「サキサキ、ヒッキーの言葉、しっかり聞いてあげてね」

「…うん」

沙希は結衣の言葉に、小さな声でそう頷く。

そして、雪乃と位置を入れ替わる様に俺の真正面へと立った。

だが、彼女の顔は伏せがちであり、時折チラチラと俺の顔を見る以外、中々目を合わせる事が出来ない。

俺は彼女の髪に手を伸ばし何度か軽く撫でた。

彼女の顔は赤くなって行くが、嫌がる素振りは見られない。

それを確認した後、頭を後ろ側からグイッと支える様にして、やや強引に自分の方を向かせた。

「…沙希」

「わ、わかってる」

彼女の名前を囁くと、緊張した面持ちで沙希は返事をした。

それを確かめると、俺は彼女に向かって語りかけた。

「俺だけが知る俺たちのもう一つの関係…俺はいつもお前に支えられていた。過去の思い出を心に残したまま、お前の隣に立つことを事をお前が許してくれたおかげで、俺は救われたんだ。」

「…今は思い出だけじゃなくて、実際に雪ノ下や由比ヶ浜もいるじゃん…私じゃ…二人には敵わないよ」

沙希は暗い顔でそう言うと、再び俺から目を逸らした。

「…俺は、沙希と一緒にいる時間が好きだ。姪っ子を可愛がるお前を見る事や、たまに一緒に酒を飲みに行くことが俺は好きだった。仕事から帰って来た時に、お前が合鍵を使って俺の部屋で待っていてくれるのを、俺は何よりの幸せと感じていた…仮にあの世界で、俺が雪乃や結衣に再会していたとしても、俺は沙希の隣以外に居場所を求めることは絶対に無かった…それだけは信じてくれ」

「……うん」

若干長めの沈黙の後、沙希は返事をした。

その反応を見て、緊張していた俺の肩の力が少しだけ抜ける。

「俺にとっての2回目の高校生活、前と一番違うのは、何と言ってもお前が奉仕部に入った事なんだ。俺は沙希が奉仕部に入ってくれたこと、本当に嬉しく思ってる。一緒にいられる時間も増えたしな。…実は過去の高校時代、沙希とはそれほど接点が無かったんだ」

「…まぁ、由比ヶ浜に無理矢理誘われなきゃ、アタシは部活には入ってなかったし」

沙希はぶっきらぼうにそう呟いた。

「そうだったな。でも今回、お前とよく話すようになって結構驚いたよ。お前、30代になっても性格とか殆ど変わんないのな。逆に言うと、今の時期から大人びてるって言うか…一緒にいてやっぱり一番ドキドキする」

「えっ?」 「「ムッ」」

“一番”という言葉に三人はそれぞれ反応を示した。俺は構わずに話を続ける。

「…その一方で、これまで知らなかった恋人の若い頃の一面ってのも見えて、それも楽しかった。夏期講習で真剣に勉強するお前の姿とか、鶴見の件で気を回す姿とか、雪乃と一緒になって俺をからかう所とかな。そういう時間が今の俺にとっては大切で…切なくて…手放したくないんだ」

「うっさい、…バカ」

俺の言葉に対する沙希の反応は相変わらずだが、少しだけ嬉しそうな、照れた様な表情を浮かべる。

「…俺は事故に巻き込まれて結局、沙希の元に戻ることが出来なかった…あの時、お前に寝惚けて抱き付いたのは、無事に出張から帰って沙希の元へ戻る夢を見ていたからだ。今でも、ふとした拍子にお前と、あの沙希を重ねて見ちまうことがある。…嫌われたく無いから、変な奴だと思われない様に自制するのは結構大変なんだ」

俺は頭をポリポリと軽く掻きながら、俺のこれまでの葛藤を打ち明けた。

「…昔から俺は、人を好きになる度に大事なものをたくさん傷付けてきた。優しくされれば舞い上がって、それに付け込んで…自己嫌悪の連続だ。過去の捻くれた孤独体質のままの俺だったら、多分こうして戻ってきても、奉仕部に関わることなく一人過ごす道を選んでいたんだと思う。でも今は…お前の暖かさを知っちまった俺には、それが怖くて仕方ないんだ…いい歳した男なのに、笑っちまうだろ」

沙希はゆっくりと目を閉じて首を横に振った。

そんな沙希の反応がとてもいじらしく感じられる。

俺は彼女の手をゆっくりと握った。

「…参ったな…やっぱりこういう想いってのは、思ってた以上に言葉で表現するのが難しい」

愛情、感謝、罪悪感。色々ごちゃ混ぜで整理がつかないせいだろうか。

言葉で伝えてやれない部分を補う様に、彼女を見つめ、握る手に込める力を強めた。

「俺は…一生かかってでも沙希の幸せの為に尽くしたい。出来る事ならこれからも色々な思い出を積み重ねて行きたい…お前のことを心から愛してる」

言葉でも伝えられることがあるとすれば何だろうか。そんなことを考えながら口にした彼女への想い。

俺はそれを沙希に伝えると同時に、彼女の手の甲へキスをした。それは相手が沙希だからこそ、そうしたいと思えた、献身の覚悟を示す行為だ。

「…アンタって、思ってた以上のスケコマシだよ…こんなの、どうしたらいいか、分かんなくなるじゃん」

そんな切なそうな呟きを遮るように、俺は沙希を抱きしめた。

「すまんな。でも今の俺に出来るのは、こうしたいと思った事を素直に行動に移す事位なんだ」

「…うん」

沙希は全てを受け入れたかのように頷くと、俺の胸元にギュッとその顔を埋めた。

「あなたたち、いつまで抱き合ってるつもりかしら?私の時よりも5秒以上も長いわ。由比ヶ浜さんがまた泣いてしまうわよ?」

暫く続いた無言の後、雪乃が子供じみた催促の台詞で離れるように要求してきた。

沙希は雪乃を恨めしそうな目で見ると、俺から離れた。

「な、泣かないし!」

結衣は心外だとばかりに声を上げるが、俺と目が会うと嬉しそうな表情を浮かべた。

そして遠慮がちに一歩ずつ俺の方へと寄ってくる。

俺は結衣の目を見つめながら話を切り出した。

「結衣には昨日色々と話した通りだが…俺は、お前には昔から色々と甘えてた。結衣の優しさに俺は何度も救われてきた。それは今回も同じだ。お前が信じてくれたから、俺は雪乃や沙希にも本当の気持ちを打ち明けることが出来たんだ」

俺は腕を伸ばして結衣の手を取る。

「そんなことないよ」

結衣は遠慮がちにそう言いながら、ゆっくりと指を絡めた。

「いや、隣にいてくれたのが結衣で良かった。…実はお前と俺は何年も同棲していたんだ。一緒に料理したり、旅行に行ったり…沙希もそうだったが、なんつーか、高校生の今とはちょっと違う、大人の恋をお前と経験してきたつもりだ。もしもあの頃、俺がもう少し器用に自分の胸の内を結衣に伝えられていたのなら、俺は結衣の人生のパートナーになっていたんじゃないかと思う」

「パ、パートナー!?」

「結婚相手っていう意味な」

「意味くらい分かるし!」

普段のようなノリで結衣をからかうと、結衣もそれに応じてくれた。

「ハハ…そのくらい、結衣の存在は俺にとって当たり前で、大きいものだったんだ。俺は自分の人生でお前を失ったあの日以上に後悔したことが無かった。全部自分の行動が招いた結果だったし、あの時、去って行くお前を俺は追いかける事が出来なかった。悔しかったよ。あの時、俺にとって一番大事なのはお前だって分かってたのにな。そして俺は昨日、また同じ過ちを犯しかけた。今度は追いかけることが出来て本当に良かった」

「ヒッキー…」

「ただ、今の俺には何が正解で何が間違いなのか、さっぱり判らなくなっちまった…本来、お前にも雪乃にも沙希にも想いを打ち明けるなんてこと、許されないことだ。だが、結衣は俺にその切欠をくれた。こうしてもう一度お前に触れることを許してくれた…結衣には返しきれない借りが出来ちまった」

「借りだなんて…」

そう呟く結衣に向かって、俺は最後の言葉を継げる。

「もう一度我儘が許されるなら、もしもそれが可能なら、俺はこれからもお前の横にいて、この借りをお前に返して行きたい。もう一度、結衣と一緒に未来を見ていたい。俺にとって、由比ヶ浜結衣は何にも代えられない大事な存在なんだ。雪乃と沙希に言った直後に同じセリフを吐くのは正直どうかとも思うが、これ以外にお前に対する想いを伝える言葉を知らないから許してくれ…俺は結衣を愛してる。これは偽りのない気持ちだ」

「ヒッキー…大好き」

結衣はそう言いながら、俺に抱きつき唇を重ねる。

昨日に続く、高校生活二度目のキス。

俺はそのまま目を閉じそうになるが、雪乃と沙希の視線に気がつくと、慌てて結衣と顔を離した。

「ちょ、由比ヶ浜アンタ!!」「…卑怯よ、由比ヶ浜さん」

沙希と雪乃が俺と結衣を引き剥がしに乱入する。

「ご、ごめん!つい!」

結衣は謝罪の言葉を述べるが、二人の勢いは止まらず、4人の足がもつれてそのままカーペットの上に倒れこむ。

三人の頭が床にぶつからないよう、抱え込んで倒れた俺の腕に衝撃が走る。

俺は雪乃の部屋の天井を見上げて、安堵のため息をついた。

床に寝転がったまま、誰も動かない。

「……ぷっ、アハハハ」

暫く沈黙が続いた後、結衣が笑い出した。

「何が可笑しいのさ?」

沙希が俺の腕を枕にしたままそう結衣に尋ねた。

「だって、安心したって言うか…」

「笑い事ではないわ。せっかく3人で共謀してこの男に無期限のお預けを食らわせようとしたのに、あなたのせいで台無しになったのよ」

そう言う雪乃の声は柔らかかった。顔は見えないが、彼女が微笑みながらそう言っていることが想像された。

「…ま、中途半端だけど、ここまで行ったら比企谷にもこれ以上変な虫はつかないだろうしね」

沙希もそう言いながらクスクスと笑った。

☆ ☆ ☆

どの位時間が経っただろうか。

暫くすると、腕に抱く3人から、スウスウと寝息が聞こえてきた。

3人の暖かさ柔らかさに包まれたような、夢にまで見たような幸せな時間だった。

皆昨日は徹夜だったのだから無理もない。

俺は名残惜しさを感じながらも、ゆっくりと3人の頭から腕を抜くと、一人、立ち上がった。

3人は川の字になってカーペットで幸せそうに眠っている。

俺は、雪乃が来客用の寝具を戸棚にしまっていたことを思い出すと、若干の申し訳なさを感じつつも、勝手にブランケットを取り出し3人にかけた。

「…あなた、何の迷いもなく探し出すなんて、ストーカー?」

不意に雪乃が薄目を開け、笑いながらそう言った。

「起こしちまったか。…すまん。エアコンで寝冷えするより良いかと思ってな」

「私の寝室にも…入ったことがあるの?」

「パンさんとネコで溢れ返ってたな」

"溢れ返っていた"はやや誇張であるが、昔入った雪乃の寝室には、某テーマパークのキャラクターであるパンダのパンさんのヌイグルミやキャラクターグッズ、お気に入りのネコの写真が飾ってあったことを思い出す。

「眠気がなければ警察に通報していたわよ。覚えてなさい、この変態」

雪乃は若干恥ずかしそうにしながら、ブランケットを引っ張り、口元を隠しながらそう言った。

「…自分の問題ばかりで申し訳ないとは思うのだけれど、今後、私にはやらなければならないことがあるわ」

暫く間をおいた後、雪乃はそんなことを口にした。

「何をするんだ?」

「…姉さんを超える…何か一つでいいの。私がきちんと自分の意思で貴方を好きになったということ、姉さんに勝ってそれを証明するわ」

どんなロジックで、陽乃さんに勝つことが自分の恋愛感情を証明することに繋がるのか、俺にはよく分からない。きっと雪乃自身もそれはよく分かっていないだろう。

だがその実績は、雪乃が今後、家庭の問題と向き合っていく上で大きな武器になるような気がした。

「俺がしゃしゃり出ても大丈夫か?」

「…それに期待している私は、きっとズルイ女ね」

「言っただろ?俺が全力でお前を支えるってな」

自分を取り巻く世界を、人ごと変える。

そう言った雪乃に対し俺が伝えた言葉だ。

雪乃は満足げに頷くと、再び気持ちよさそうに寝息を立てながら眠りに落ちた。

――陽乃さんに勝ちたい、か。

俺に、いや、俺たちに出来ることをちゃんと考えなきゃな。

椅子に腰掛けながら、3人の寝顔を眺める。

見知った顔だが、3人同時にこうも無防備な寝顔を見せられると、胸の内の愛しさがどんどんと込み上げてくる。

俺はポケットから携帯を取り出して、居眠りする3人の姿を1枚の写真に収めた。

再び電池残量がギリギリになった画面を操作し、その写真を奉仕部のグループチャットにアップロードした。そしてメッセージを添える。

【Yukino, Yui, Saki..I love you all】

――きっと、目覚めてメールを見たら、怒って騒ぐんだろうな

そう思いながら送信ボタンをタップする。

メッセージが送られると同時に俺の携帯は再び電池切れになった。

ブラックアウトした携帯をポケットに仕舞い、俺は静かに雪乃の部屋を後にした。

照り付ける真夏の太陽の下、俺は汗ばみながら路上を歩んでいた。

茹だる様な暑さだが、不思議と不快感はない。俺の心は、自分の上に広がる夏空のように晴れ渡っていた。

こんな気分になるのは何年ぶりだろう。

再び3人の寝顔を思い返す。早く自宅に戻り、もう一度先ほど撮った写真を眺めたくなった。

再び、電源の切れた携帯を手にする。

そしてふと気がつく。

 

――なんか俺の腕、太くね?

 

後の検査で判明したのは全治2週間の右腕亀裂骨折だった。

原因は3人を受け止めた際の衝撃によるものだ。

こういうしょうもないオチがついて回るのは、俺の運命なのだろうか。

夏の終わりに負った名誉の負傷。

 

そう考えれば少しだけ誇らしく思えるが、異常に気がついたとたん、暑さとは違う原因でダラダラと汗が滴った。

 

 

禍福は糾える縄の如しと人は言う。

 

この程度で済んだのはむしろ幸いと言える程、最高の夏休みを俺は過ごした。

 

片腕を抱えながら、不慮の事故で死ぬことがないよう祈りつつ、平時の10倍増しで挙動不審になって俺は家路を急いだ。

 

 

 

 

 

 

 



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第四章 そして
24. 比企谷八幡は資本主義を振りかざす






 

 

夏休みが明けた。

 

あの日以来俺は、自分の今後の身の振りをこれまでに増して真剣に悩む日々を送っていた。

思い返せば随分と情けない姿を晒したが、あの日、3人に全てを打ち明けられたことで随分と心が楽になったのは確かだ。

だが、雪乃の提案によって俺が3人から与えられたのは時間的な猶予であって、決定的な解答ではない。

 

自分の抱えていた想いは3人に伝えられた。何かが変わることに期待もした。

だが、状況をここから更に前進させるための材料は何もない。あれから俺たちの関係にドラスティックな変化が起こったかと言えば、Noである。

 

自宅のPC画面をぼんやりと眺める。

表示されているのは、習慣から何気なく開いた経済ニュースサイト。

 

ヘッドラインには「世界へ羽ばたく千葉の中小企業」との表題。その横に真剣な顔でインタビューを受ける武智社長の写真が掲載されている。

 

総武光学のビジネスは早くもメディアに取り上げられる程、軌道に乗っている。

海外での特許申請が完了し、出資金により新たな機材を導入、間も無く生産開始の体制に入るモジュールは、事前の販売契約も順調に進んでいた。

 

今日ようやくコルセットがはずれ、湿布と包帯だけが巻かれた腕を見て自嘲的な笑みを浮かべる。

総武光学のビジネスに、単なる金融屋に過ぎない俺の出番は最早ない。

投資が順調なのは本来喜ばしいことだが、急に自分が不要な人間になってしまったような寂しさを覚えるのは何故だろうか。

 

 

ベッドに重たくなった体を投げ出すと、携帯を手に取った。

 

――もう過去に対する執着は捨てるんだろ?

 

表示される三人の寝顔の写真を見つめながら自問する。

 

俺は二学期に入ってから、三人の呼び方を苗字に戻していた。

あの日、彼女たちをファーストネームで呼んだのは、過去の恋人達と重ねてのことだ。

その延長で今の三人との関係を構築すべきではないと言うのは、雪乃と沙希からの警告でもあったし、俺自身にとってもそれは今後を考える上で重要な指針となるような気がした。結衣も当初渋りながらも、結局その考えを受け入れた。

 

――今の3人と向き合って、答え出すしかねぇだろ

 

もう一度自分にそう言い聞かせ、ゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

翌日、昼休み

 

「比企谷、ちょっと相談があるんだが、いいか?」

購買へパンを買いに行こうとすると、俺は平塚先生に呼び止められた。

 

「何すか?」

 

「文化祭の件だ。君は実行委員をやってみる気はないかね?そろそろ選出生徒について、教職会への提出が必要なんだが、F組は未だに話し合っていないみたいでな」

 

――文実か

 

過去の高校生活では、実行委員長に立候補しながらもその責務を放棄した相模を批判したことで、自分の悪評を学校中に撒き散らすこととなった。

思えば俺と雪乃に関係が少しずつ変化していったのもその頃からだったかも知れない。

 

不意にあの日雪乃が言った、陽乃さんに勝ちたいという言葉が頭によぎる。

 

「…J組からは雪ノ下が文実に?」

 

「ああ。聞いていたか?」

 

「いえ…でも良いっすよ。男子は俺の名前で出しといて下さい」

 

今は彼女たちに、俺が出来ることを一つずつしてやろう。その中で彼女達との新しい関係を模索して行く他、出来ることは無いのだ。さし当たってこの機を利用して雪乃の依頼を実行に移すというのは、それほど悪い案ではないだろう。

 

「そうか。それは助かるよ」

平塚先生は満足げな表情を浮かべて微笑んだ。

 

「ところで、引き受けてもらってから心配を口にするのは卑怯かもしれないが、その腕はもう大丈夫なのか?骨折したんだろ?」

 

「亀裂骨折…ただのヒビすから。もうコルセットも外れましたし、問題はないっす。ところで一つお願いがあるんですけど…過去の文化祭の記録と一学期の職場訪問のリスト、全部見せてもらえませんか?電子データをもらえればなお嬉しいです」

 

「別にかまわんが、どうして?」

 

「準備は早いに越したことはないでしょう」

 

この俺が文化祭なんてリア充イベントに進んで参加するなんて、滑稽かもな。

 

そんな考えが頭を過ぎるのとは裏腹に、久々に自分が全力で取り組むことが出来そうな仕事が出来たことに、不思議な高揚感を覚える。

 

柄にもなく不敵な笑みが顔に浮かんだ。

 

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

「ヒビ谷君、その腕、もう大丈夫なのかしら?」

 

放課後、奉仕部のドアを開けると既に雪乃、結衣、沙希が談笑していた。

俺に気付いた雪乃がコルセットの外れた腕を見てそう質問する。

 

「めずらしく語呂がいいな…見てのとおり、コルセットはもう不要だ。今は炎症を抑えるための湿布を貼ってるだけだ」

俺は包帯の巻かれた片腕をヒラヒラ動かしながら座席に座る。

 

「そう。それならあなたも文化祭実行委員として、しっかり仕事はできそうね。よろしく頼むわ」

その言葉から雪乃も文実であることが、結衣や沙希に伝わる。

 

「あ〜、ゆきのんも文実だったんだ。それなら、あたしも立候補すれば良かったな」

 

「そんなに楽しいものではないと思うのだけれど…」

結衣と雪乃がそんなやり取りをするのを、沙希は対して表情も変えずに聞いていた。

 

「F組の男子は比企谷だからね。由比ヶ浜の気持ちは分かるよ。でもアタシは今回はパス。居残り出来ない程じゃないけど、やっぱり大志も受験だし、妹の面倒見なきゃいけないから」

奉仕部の勉強会でそれなりに成績にも余裕が出てきた沙希は、家庭では大志の高校受験の為のサポートに回っていた。

 

「下が幼いと大変だな」

 

「ま、忙しくなったら外から手伝うから。遠慮なく言って」

 

「あ、もちろんあたしも手伝うよ!…でもさ、さがみんが急に立候補するなんてちょっと意外だったよね。ひょっとして、ヒッキーのこと狙ってるのかな」

 

結衣が、うちのクラスの女子から選出された文化祭実行委員について言及する。

その顔には若干不服そうな表情が浮かんでいた。

前回のように相模たちが結衣をからかうようなことは無かったものの、何故か相模が遠慮がちに自分から文実に立候補したのだ。

 

「それはないだろ」

俺はあまり興味が無いといった態度でそう呟いた。

 

「どうかしら。まぁ、そうであったとしても比企谷君が別の女性に興味を示す心配をする必要は、今の所は無いのでしょうけど」

 

雪乃の発言通り、結衣も不服そうな表情は浮かべていても、以前のような不安気な様子を見せているわけでは無い。

 

「あったらその腕、今度は複雑骨折させるけどね」

沙希は沙希で淡々とそう述べた。

 

「だからねぇって…てか怖ぇよ」

 

あの日以来、以前のようにお互いの何気ない言葉や行動に慌てたり、顔を赤らめたりすることはめっきり少なくなった。俺と共有する感情を前提として受け入れたような会話内容だが、そのコミュニケーションはどこか淡白であり、感情の起伏に欠く、いや、むしろお互い敢えて意識しながら感情の波を排除しているような状況だ。

 

互いに好きだと認識していても、スキンシップも取れないような環境であれば、こうなるのは当然なのかもしれない。

 

現状、3人との関係は極めて安定している。だが、その安定感に俺は形容し難いもどかしさを覚えていた。

 

それ以上その話題には乗らないと言った態度で俺がゴソゴソとカバンから参考書を出すと、3人も無言でそれに習い、各々自習を開始した。

 

 

 

 

「今日は、そろそろ解散にしましょう」

 

黙々と勉強を続け、日が落ちかけた頃に、雪乃が活動時間の終了を告げた。

結衣も沙希もカバンに荷物をしまい、教室を後にする。

俺もそれに続くが、ドアの前まで歩いて立ち止まった。その場でもう一度振り返り、活動記録を書いていた雪乃に話しかけた。

 

「…雪ノ下。前に言ってた、陽乃さんを超えたいって話、文化祭でやってみないか?」

 

「文化祭で?」

俺からのいきなりの提案に、雪乃は驚いたような声を上げた。

 

「昔の記憶だが…あの人が実行委員長をやった一昨年の文化祭は、確か過去最大の動員数だったって聞いてる。お前、実行委員長になる気はないか?今晩、企画原案を送るから、それで行けそうだと思ったらやってみろよ」

 

「…魅力的な提案だとは思うけど、そこまで貴方に甘えたやり方では…」

雪乃は俺からの提案に躊躇するような反応を示した。

普段から、何事も自分で乗り越えることを信条としている彼女のことだから、この反応も無理ないだろう。

 

「マネージャーは部下の力を如何に活かすか…だろ? 言っとくが俺は仕事が回らなきゃ、上司でも平気で突き上げる男だからな。俺を使いこなす自信がなければ別の機会にすればいい」

 

「言ってくれるわね。良いわ。ではその原案とやら、見せてもらうことにしましょう」

俺がやや挑発気味に煽ると、雪乃は一先ず原案に目を通すことに合意した。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

 

後日の特別教室。

今日は各クラスから選出された文化祭実行委員の初顔合わせの日だ。

早めに教室にやってきた俺は、入り口の側の席に座ると、他のメンバーの顔ぶれをじっと眺めていた。

彼らは今後、文字通り雪乃のコマとなってこの文化祭を成功へ導く尖兵となるのだ。ユニットリーダーとして業務を任せられそうな優秀な奴には早めに目を付けておく必要があるし、逆に問題を起こしそうな連中を潰すといった措置も早期に取っておく必要がある。

顔を見ただけで何がわかるわけでも無いが、普段他人に興味の無い俺にしては珍しく人の顔を覚えるのに必死になっていた。

 

「あ、比企谷さん!比企谷さんも実行委員なんですか!?」

不意にドアを開けて入ってきた女子生徒に声をかけられる。その女生徒は俺が冷徹な目で他のメンバーを見ていたことに気付く様子もなく、全く毒気の無い声で嬉しそうにそう言って寄って来た。

 

「よ、海美。まさかお前も実行委員になるとはな。これは心強い」

有象無象の中で、確実な働きが期待出来そうな見知った人間がいること程有難いことは無い。海美には間違いなく即戦力として相当な仕事をこなしてもらう形となるだろう。

 

「そうね、優秀な人材はいくらいても足りないくらいだから」

俺の言葉を肯定しながら、海美の後ろから雪乃が教室へと入ってきた。

どうやら俺たちの会話を聞いていたようだ。

 

「雪ノ下さん、お久しぶりです!…私、奉仕部の皆さんと知り合うまで、自分の将来のことで精一杯だったんです。でも今は、少しでもこの学校の皆に恩返しができたらって思って、立候補しました」

海美は多少照れながら、自らが文実に立候補した経緯を話した。

 

「…本当、真面目な奴だな」

「…自分が恥ずかしくなりそうね」

色恋や家庭の問題といった不純な動機で実行委員になった俺たち二人は、顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。

 

 

しばらくした後、開始時間ギリギリにやって来た数人の生徒がキョロキョロしながら部屋にいる生徒の数を数え出した。

全員揃っていることを確認すると、彼らは入口の戸を閉めた。

この学校の現生徒会長、城廻めぐりとその他生徒会執行部の面々だ。

 

よく見ると教室の後方には、オブザーバーとして会議の様子を見に来た平塚先生の姿もあった。

先程までペチャクチャ喋っていた生徒達が段々と静かになる。

 

こうして、一回目の委員会が開催された。

 

 

「私は生徒会長の城廻めぐりです。皆さんのご協力で今年もつつがなく文化祭が開催できるのが嬉しいです」

生徒会長の最初の挨拶。

つつがないどころか、ここにいるメンバーは、雪乃と俺の提案でこれから阿鼻叫喚の戦場に送り込まれる事になるのだが、それは今は黙っておくのが賢明だろう。

 

「それじゃあ早速だけど、実行委員長の選出に移りましょう。知ってる人も多いと思うけど、例年、実行委員長は2年生がやる事になってるんだ。私たちはほら、3年生だから…誰か立候補いますか?」

城廻会長は、簡単な説明の後で実行委員長の立候補を促した。

 

俺はそのタイミングで雪乃に目配せをする。

それに黙って頷いた雪乃は表情を変えずに、スッとその細い手を挙げた。

 

「2年J組の雪ノ下雪乃です。立候補します」

 

「あ、雪ノ下陽乃さんの妹さん、だよね?」

城廻会長は立候補と共に名を名乗った雪乃にパタパタと近寄ると、嬉しそうにそう尋ねる

 

「…はい」

 

「やっぱり!心強いなぁ。雪ノ下さんのお姉さんが実行委員長だった一昨年の文化祭、凄い盛り上がりでね…動員数も過去最大だったんだよ。今年も期待できそうだね」

 

「…善処します」

 

――雪ノ下陽乃の妹と言われてあからさまに不機嫌になってやがるな、あいつ。まぁ無理もねぇか。

雪乃の表情を見ながら、俺は苦笑いを浮かべた。

 

「あ、ごめんね。他に立候補する人はいないよね?」

城廻会長は、念の為という形で他の希望者の有無を確認する。ただ、あんな会話を目前で繰り広げられてなお立候補できるような人間はそうそう居まい。会長のこれは最早形式的な発言と言って差し支えないものだ。

 

ふと、隣を見ると、同じクラスから文化祭実行委員になった相模南が面白く無さそうな顔を浮かべていた。

おいおい、お前はひょっとしてまた立候補するつもりだったのか。雪乃との事前打ち合わせがなければ、とんでもない事になっていたと気付き、冷汗が背中を伝った。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

数日前の部活後、

 

俺は自宅に戻ると平塚先生に貰った過去の文化祭のデータの加工に取り掛かった。

複数のヒストグラムやパイチャートを作成し、視覚的にデータを整理して、過去の活動実績を細部に渡って把握していく。そして、それらを踏まえて頭の中に描いた今年の文化祭の構想をより明確なものにしていく。

 

最後は、その構想をデータを交えて説明するための簡素なプレゼン資料に落とし込んだ。

 

ここまでにかかった作業時間は約3時間。時刻は9時に迫ろうとしていた。

 

それをメールに添付し雪乃に送信した後、携帯のメッセージで彼女に通知すると、20分程経ってから、彼女から電話がかかってきた。

 

「…恐れ入ったわ。この原案なら一昨年の文化祭を超えることも不可能じゃないと思う。でもきっと、実行委員には例年とは比べ物にならない負荷がかかるわね」

 

「安心しろ。1カ月死ぬ気で残業すりゃ何とかなる」

無論、その労働力としてカウントされているのは俺一人ではない。文実メンバーには最悪、泣き出して離脱する者も出るかもしれない。

それで回るのか?と人は聞くだろう。それに対する日本のサラリーマンとしての答えはこうだ。”回るか”は最早問題ではない。”回す”のだ。

 

「…呆れた。貴方、ブラック企業に勤めていたの?」

 

「金融業界にホワイト企業なんて存在しねぇよ」

あったら教えてくれ。普通に転職するから。

 

「…まったく、文実を口実に由比ヶ浜さんや川崎さんに一歩リードだなんて、甘い考えだったようね」

雪乃は溜息を吐きながらそう呟いた。

 

「…今は、目の前の事に全力で取組む位しかすべき事が見えないんだ…すまない」

 

「別に期待していないわよ。その件は十分な時間をかけて、貴方が後悔しないように決めればいいと言ったはずよ」

雪乃からの心遣いが、焦燥感で乾く自分の心に染み入る雨の様に感じられた。

 

「…恩に着る」

 

俺は一言だけ礼を述べると、頭を切り替えて文化祭へ向けたディスカッションを開始した。

同時並行でデータの更なる分析と資料のブラッシュアップも進めて行く。

 

その日、俺たちは深夜2時まで打ち合わせを行った。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「じゃあ雪ノ下さん、お願いできるかな?」

他の立候補者が出ないことを確認して、城廻会長は雪乃へ文化祭実行委員長への就任を改めて確認した。それに対し、雪乃は返事をしながらその場に立ち上がった。

 

「はい…先ほど、私の姉が委員長を務めた一昨年は過去最大の盛り上がりだったと話がありました。今年はそれを超える文化祭にしたいと思います。その為に皆さんの力を借して下さい。宜しくお願いします」

 

一見当たり障りのない挨拶だが、野心を滲ませるような雪乃のセリフに俺は高揚感を覚えた。

 

雪乃が言い終わると、皆が一斉に拍手した。

 

拍手が鳴り止むのを待って、雪乃は再び話し出した。

 

「では、早速ですが今回の文化祭の活動内容の確認と、各人の担当割をおこないたいと思います。なお、副委員長には2年F組の比企谷君を指名したいと思いますが、よろしいでしょうか?反対は…いませんね? じゃあ比企谷君、企画案の説明を頼めるかしら?」

 

早口で一人会議を仕切っていくその様子に、誰もが呆気にとられている間、雪乃はまんまと俺を副委員長に指名することに成功した。ここまでは打ち合わせ通りだ。

 

教室内はワンテンポ遅れてザワつき出した。

「おい、比企谷って誰だ? 」

「いや、知らんし…」

所々でそんな声が上がっている。

 

すみません、それは俺です。皆をこれから残業デスマーチへ駆り立てることが確実な中、形式的な謝罪の言葉を心の中で述べながら俺は立ち上がった。

 

 

「副委員長に指名された2年F組の比企谷だ。まずは資料を配る。隣の席に回してくれ」

 

「し、資料?ひょっとして準備してきたの!?」

城廻会長が驚いたような声を上げる。

 

元々初回となる今日の集まりは顔合わせと挨拶程度しか予定していなかったのだろう。だがそんな非効率な時間の使い方は、今後、この俺が許さない。

そしてアイデアのある奴は言いっ放しの他人任せで終わらない様、全員をプレゼンで説き伏せる位の覚悟と気概を見せてもらわなければならない。

そう、ちょうどこれから俺と雪乃がやる様に、だ。

 

「内容に入らせてもらう。委員長が言った各自の担当を決めるに当たって、まずは今年の文化祭のテーマについて、ここで認識のすり合せをさせてもらう。テーマといっても、中身のないスローガンを決める訳じゃない。文化祭は言わば一つのプロジェクトだ。それに対し参加者がどういう課題認識で取組むべきか、それを決めたい。その叩き台がこの原案だ。説明の後、皆の忌憚ない意見を聞かせてくれ」

 

「か、課題認識?お、おい比企谷?」

 

生徒同士のやり取りを黙って見守っていた平塚先生も目を白黒させている。

だがそんなことはお構い無しに、俺は手持ちしていた一枚の紙をマグネットでホワイトボードに乱暴に貼り付けた。それは皆に配った資料と全く同じものの拡大コピーだ。

 

—Learning Opportunity

 

—Financial Literacy

 

ーLocal Economy

 

そこには、目立つ色のテキストボックスに、太字でそう書いてある。

 

「1点目、Learning Opportunity…学びの機会。それが俺と委員長が提案する今年の文化祭の包括的テーマだ。文化祭と言えば普通の生徒にとっては青春の記憶を代表する学校行事…それも良いだろう。だが、学校行事である以上、俺たち学生にはその活動を通じて得られる成果がなければならない」

 

皆があっけにとられる中、俺はプレゼンを開始した。

 

「それは皆で力を合わせて何かを成し遂げる経験、などといった曖昧なものではつまらない。打ち立てられた具体的な目標、その達成のために各自が認識した必要な役割、緻密な計画の上で実行されるプロセス、それでしか得ることが出来ない明確な成果を追求する。これはイベントを通じた組織的な学習体験そのものと言っていいだろう」

 

「はぁ?何言ってんの?」

「意味分かんねぇよ。せっかくのイベントなのに、学ぶとか頭おかしいんじゃない?」

「ってか、片腕包帯とか中二病かよ?」

 

今度は言い終わらないうちからヤジが飛んだ。

俺を、やる気のカラ回りしたピエロに仕立てるための悪意の籠った嘲笑が聞こえてくる。だがこんな反応も想定の範囲内だ。

 

「意見のある人は挙手の上、クラスと名前を名乗り、何がおかしいと思ったのかを具体的に述べなさい」

雪乃の冷え切った声が教室内に響き渡る。

そもそも今の段階で、具体的な疑問が持てるほど頭を働かせ、真剣に俺の話を聞いていた生徒など殆どいないのだ。説得力を持った反対意見など出ようはずも無い。

 

「…平塚先生、異論はありませんね?」

会議の場が静まり返ると、雪乃は教師への承認を求めた。

 

「あ、ああ。極めて模範的な心構えと言わざるを得ないだろう」

先生の返事を以て一点目が承認済み事項となったことを確認すると、雪乃は俺に視線を投げかける。

俺はそれに頷くと、話を続けた。

 

「2点目、Financial Literacy…金に関する知識理解とでも訳すか。最初に"学ぶ"とは言ったが、そうすると何を学ぶかが問題となる。これは個人的な見解だが、今の日本の教育制度に致命的な欠陥があるとすれば、その一つがこれだ。俺たちは学生で、その殆どが親の稼いだ金で学校に通わせてもらっている。だが、その殆どが金を稼ぐということの意味を理解しないまま大人になっていく」

 

「金って、ちょっと…、あ、すみません」

話についてきた生徒の一人が、何か言いたげな反応を見せるが、先程雪乃から釘を刺されたことを思い出し、その発言を引っ込めようとした。

 

「いや、謝る必要はない。今反応を示した人を槍玉に上げるわけじゃないから気にしないで欲しいが…彼だけじゃなく、日本人の多くは"金儲け"という単語をネガティブに捉えがちだ。だが、少し考えて欲しい。金を稼ぐために人がしなきゃならないことは何だ?」

 

突然ふられた問いかけに、生徒達は戸惑いの表情を浮かべている。

 

「それは他者に対し価値を提供すること、そしてそれを如何に効率的に行うか考えることだ。効率的に、というのは少ない労力、少ない時間、少ない資源、少ないコストでという意味だ。効率を求めるからこそ、人には他者から提供される価値を享受する余裕が生まれ、自分も他者へ還元するといった循環が生じ、経済は発展する」

 

「…だから、それがなんなんだよ」

「…さっきから難しい言葉で訳分かんねぇ事ばっかり言いやがって」

雪乃に聞こえない様な小声でそう文句を呟く生徒が数名。

確かに少々長い前置きだったかもしれない。だがここからが二点目のポイントだ。

 

「さっき、生徒会長は一昨年の文化祭は過去最大の動員だったと言った。それは、文化祭というイベントを通じて、それだけ多くの人に何かしらの価値の提供を行ったということを意味する。その見返りとして、その年は動員数に応じた高い売上があった。それはその資料に載っている通りだ」

 

俺がそう言うと、皆、手元の資料に目を落とす。そこには棒グラフで、動員数、売上高の推移が記載されている。それを見れば、例年と比較し、一昨年の売上が飛び抜けて高いことが一目で分かる。

 

「だが、一昨年の取り組みが"金を稼ぐ"という意味で例年を遥かに上回る快挙を成したかと言えば、実はそうでもない。売上の隣のグラフを見てほしい。それは文化祭を運営するのにかかった費用の推移だ。売上同様、費用の金額も一昨年が過去最大だ。無論、活動規模が拡大したことで、売上と費用の差額…利益の額も増加しているが、売上に対する利益の比率は例年を下回っている。先ほどの話を踏まえれば、これは価値を提供するための効率が低下したことを意味する」

 

「へぇ」

「実は失敗だったってことですか?」

抽象的な話に終始した先程と違い、目に見える金額の推移を説明すると、あからさまに皆の食い付きが良くなった。

1年生の実行委員が遠慮がちに質問を投げてきた。

 

「これが失敗とは言わん。赤字を出したわけではないし、実額で見れば増収増益だ。だが、この結果とこれまでの話を踏まえて、今年俺たちが一昨年の記録を塗り替えるために意識するポイントは…」

続けて説明をしようとした所、真剣な表情で俺の話を聞いていた海美と目が合った。

 

――いい機会だ。お前の理解力の高さを皆に見せてやれ

 

「1年B組の劉海美、わかるか?」

俺は自分で言いかけた結論を彼女に託した。

 

「…効率的に価値提供を行う…手元に残る利益を最大化させる…ということですよね。動員数や売上を伸ばすのと同時に、費用を抑える。そのバランスを追求するということですか?」

 

「満点だ。もちろん営利目的で文化祭を運営すれば納税の必要が生じ、学校側にも迷惑がかかるから、最後に残った利益は例年同様、全額慈善団体に寄付することになるだろう。だが、イベントを企画する生徒に対し、最終的に最大化させる数字は何かを前もって意識させれば、各自の取組みにも工夫が生まれる。そこには絶対的な学びの機会があると俺は考える」

 

「…なんか、結構すごくね?」

その場が再び騒ついた後、生徒一人がそう呟いた。

 

「静かにしろ。委員長が喋るぞ」

周囲を諌める様に他の生徒が言うと、皆の視線が雪乃に集まる。

彼女は先程自分で注意した通り、挙手をして発言のタイミングを伺っていた。

 

「私からも一つ付け足しておきましょう。…私の姉が委員長を勤めたその年、地元企業から学校に対する文化祭への寄付金が例年の3倍はあった。比企谷君が配った資料のグラフを見ると一目瞭然ね。この年、著しく増加した費用を賄えたのは、この寄付金のためよ。それだけコストをかけた派手な活動をしたからこそ、動員も売上も伸びたということね」

 

資料には売上・費用・利益の他、活動原資の内訳が記載されていた。

学校・生徒積立金、行政助成金は毎年殆ど横ばいだが、企業寄付・協賛金のグラフだけが一昨年だけズバ抜けて高い数値を示している。

 

「私の実家…父は政治家であり、地元で建設会社も運営しているわ。これは、うちの建設会社からの献金…ひょっとすると、よその企業にも政治的な圧力がかかって、寄付が増えた可能性もあるわ」

 

一瞬の間を置いて、その場が一斉にどよめいた。

「圧力って、マジかよ!?」

「それって犯罪じゃないの!?」

学校の有名人である雪乃が自らスキャンダルを晒し、それに皆が食い付くといった構造が一瞬で出来上がった。

 

――おいおい、そんなセリフは台本に無いぞ。それに言い過ぎだ。

 

「委員長の発言は推測だ。同意はしかねる。一応言っておくが、実家からの寄付金は全く違法じゃないし、他の企業からの金もそうだ。ビジネス上の付き合いを強化するために、企業側が戦略的に進んで金を出すことだって考えられる。とにかく勝手に誤解して騒ぎ立てる様な真似は慎んでくれ」

 

「ご丁寧な擁護の説明、感謝しましょう…私が両親にお願いすれば今年も一昨年と同じくらいの寄付が集まるかもしれない。活動資金が手厚くなれば、私たちも集客のための催しが楽に出来るわ。そのお金で芸能人やアーティストでも呼べばいい。でも、このやり方は後に続かない。ビジネスモデルというものは、継続可能でなければ価値がないの」

 

雪乃はそう言って、自分の発言の要旨を皆に伝えた。

いつの間にか全員が真剣な表情で俺たち二人を見ていた。

 

「そういうことだ。だから俺たちが今年、一昨年の実績を上回るべきターゲットは "利益" の一択。各クラスや部活動からの参加者には、費用対効果を意識した企画を練らせ、最終的な利益の額で競争させる。ある程度コストをかけて人を大勢呼び込むも良し、規模が小さくても費用を抑制し、高い利益率で勝負するも良し。資本主義の本質を生徒に肌で理解してもらう。これが、俺と委員長が出した2点目の結論だ。」

 

一昨年の文化祭が利益の最大化を目標に掲げていなかった以上、それをターゲットに設定しても、結局全く異なる土俵で独り相撲を取ることになりかねない。此方から一方的にライバル視される陽乃さんからしてもいい迷惑だろう。

しかしながら、動員数や売上同様、絶対額で見れば利益も一昨年が過去最大だったのは変わらぬ事実だ。それに対し、俺たちは例年以上の寄付金は受け取らずに文化祭を遂行すると決めた。競争条件は俺たちに圧倒的不利であることに変わりは無い。これで一昨年の利益額を上回ることが出来れば、十分な快挙と胸を張って言えるだろう。

 

教室は静寂が支配しており、皆緊張感を持って俺の次の説明を待っている。

場の空気を支配したことを確認すると、俺は再びゆっくりと口を開いた。

 

「3点目、Local Economy…地域経済。ここでもう一つの要素を入れる。いくら最後に寄付すると言っても、学校行事で利益を追求すると言えば、他の教員から平塚先生が集中砲火を浴びかねない。さっきも言ったが、金儲けにネガティブなのは日本人の特徴だ。安定志向の地方公務員となれば、その傾向は尚更だろう」

 

「…思わず聞き入ってしまったが、比企谷の言うとおりかもしれないな」

平塚先生が困った様な顔でそう呟いた。

 

「だからこのプロジェクトでベネフィットを得られる対象を広げる…資料の次のページには、総武高校の生徒を毎年職場見学のイベントで受け入れてくれている地元企業や商店のリストを載せている。その横に並んでる数字は過去の生徒受入の実績だ。更にそのリストの中で飲食、サービス、小売、その他、文化祭への参画メリットがありそうな業種がハイライトされている」

 

「参画…」

俺の説明を反芻する様な声で誰かが呟いた。俺は更に詳細な説明を加え、プランの概要を皆に示していく。

 

「寄付金を募るだけじゃなく、地元企業に文化祭で出展してもらうんだよ。彼らには文化祭での直接的な売上の他、生徒や来客に名前を覚えてもらえるという広告効果を還元できる。俺たちはその対価として、出店スペースに応じたブース料を受け取る」

 

「場所代を取るってこと?」

 

「そうだ。これはイベント企画業者や不動産会社の仕事に似た取り組みになるだろう。俺達も利益拡大のために、色々と工夫する余地があるからな。例えば、来客が校内を回遊するルートを分析して、人の流れの多い場所とそうでない場所でブース料を差別化したり、人気の出そうな企業にはブース料を売上連動にするよう交渉してみるのもいい。加えて、保健所・行政への登録手続きや校内の案内整備といった、彼らにとって付加価値のあるサービスを提供することも考えなきゃならん」

 

「…よく分かんないけど…そんなことが本当に出来るなら」

「うん、やってみたいかも」

当初と打って変わって、肯定的な意見が聞き漏れてくる。

皆の目から、未踏の挑戦に対する興奮の色が窺われた。

 

「とにかく、俺たちの活動を地域経済への貢献に繋げるという点がポイントだ。金儲けをするのににこれほどの大義名分はないだろう。ここまでの3点が、今年の文化祭のテーマとして俺たち二人が作った原案だ。反対、賛成、質問、その他提案、なんでもいい。意見のある奴は遠慮なく発言してくれ」

 

俺の言葉に対し、言葉を発する者はいなかった。

もう少し活発な議論があっても良かったのだが、幸い、原案に反対する様な雰囲気が醸成されているわけでもない。場が紛糾して計画が頓挫するよりは余程いいだろう。

 

「では、採決します。この基本取組方針に賛成する人は手を挙げて下さい」

続く雪乃の言葉に対し、海美がスッと迷いなく手を上げた。彼女は俺と雪乃を信頼の目で真っ直ぐと見据えていた。

それに続くように、ポツポツと、手が上がって行き、全員が手を挙げるまでそれ程時間はかからなかった。

 

「では全会一致で今年の文化祭の3つのテーマを採決することとします。続けて実行委員の担当割を決めます。副委員長、続けて説明をお願い出来るかしら」

 

「了解だ…先程のテーマ設定を踏まえると、俺達文実の業務は主に二つに別れる事になる。それは企画統括と営業推進の2つだ。企画統括は各参加者の出し物を全体的に管理するチーム。営業推進は文化祭自体の広告や、企業への出店・協賛依頼等、外向きの仕事を担当するチームだ」

 

ホワイトボードに文字を書き込み、それぞれのチームの役割をもう少し具体的に説明する。

 

「企画統括の具体的なタスクは、各クラス・部活・一般有志・企業の参加取りまとめと、活動原資分配、スペース割当、予算管理だ。今年は稼ぎを一番に考えるから、例えば、水泳部だからと言って無条件でプールを使わせる様な甘い対応は予定していない。他にプールを使って儲かりそうなイベントを企画をするグループがあれば、躊躇なくそいつらに使わせる。俺たちが使える資産を如何に無駄なく適切に配分するかが稼ぐための鍵だ。各参加者の企画を把握・調整し、全体として最適なアロケーションを行うことが最大のミッションとなる」

 

誰かがノートを開いて慌ててメモを取り出すと、多くの生徒がそれに続いた。

会議は既に緊張感で溢れている。その雰囲気を崩さない様に、敢えて説明のペースを上げていく。無論、後で全てをまとめた資料を配布する予定だ。この段階から脱落者を容認する余裕は俺たちにはない。

 

「次、営業推進班。こっちの仕事は明確だ。どれだけ適切に出し物を管理しようと、学校自体へ客足がなければ意味がない。集客のためにやれることは何でもやる。それから、参加企業を増やして文化祭の出し物を充実させることも重要だ。営業担当として、呼び込む企業に対し、俺たちがどんなサービスを提供出来るか考える。企画統括と内部折衝して、その為の時間、人員を確保し事に当たってもらう」

カリカリとペンを走らせる音が室内に響く。

一呼吸置いて、俺は再び言葉を発した。

 

「今回、文実の委員長・副委員長の肩書の他、雪ノ下が営業推進部長、俺が企画統括部長を兼務する。文実の人員は一先ず単純に学級で2分割し、1年生は営業推進、2年生を企画統括に割り当てるが、後で全体の進捗と人員の余裕を見ながら、適宜流動的に調整を行う。そん時は学年に関係なく、優秀な人間をリーダーに任命し、人を動かす権限を与える。2年は特に気を抜かないことだ…1年に顎でこき使われたくは無いだろう?」

そこまで言ってニヤリと笑うと、2年生の顔が引き攣るのが見えた。

初回の説明としてはこんなものだろう。

俺は席に戻ると、再び雪乃に視線で合図した。

 

「では、ここからは部門別に別れて取組計画を詰めて行きます。が、その前に、今年は生徒会に一つ担当していただきたい業務があります…城廻会長」

間髪入れずに雪ノ下が生徒会執行部の面々に向かって依頼を口にした。

 

「え!?生徒会に!?…な、何をすればいいのかな?」

雪乃の言葉に対し、かなり不安気な表情で城廻会長が聞き返した。

これまでの打ち合わせ、会議内容のレベルもテンポも、社会人のそれとほぼ変わらない水準で進めてきたのだ。

平塚先生の顔も引き攣っている位だから、きっと教職会議でもここまで一方的なプレゼンで次々と意思決定が行われていく様なミーティングは珍しいのだろう。

であれば、一高校生がこの流れでいきなり仕事をアサインされれば、不安に感じるのは無理も無い。

俺は少しだけ城廻会長に同情した。

 

「それはバザーの企画です。毎年どこかのクラスが全校規模で生徒各家庭から不用品や寄付品を回収し、文化祭で値段を付けて販売する、といった活動をしています。今年はこの企画は生徒会直轄で行ってもらいたいと思います」

 

「バザーを生徒会で?それは別にいいけど…でもどうしてクラス企画じゃいけないの?」

城廻会長は、雪乃の言葉に対し、今度はキョトンとした顔で疑問を口にした。

 

「この企画は毎年かなりの売上規模がある一方で、仕入にかかるコストはゼロ…利益率100%の超高収益ビジネスです。文化祭において学校全体の儲けの柱となる最重要イベントと言ってもいいわ。それに、参加者間競争がある以上、こういう企画は運営側で押さえる方が公平でもあるでしょうから」

 

「…なるほどね〜良くわかったよ。うん、バザーの企画・運営は生徒会に任せて!」

滅茶苦茶な業務負荷がかかりそうな依頼でなかったことにどこかホッとした表情を浮かべ、生徒会長は快諾した。

後に生徒会執行部の提出した企画書について、俺が容赦なく赤ペンを入れ、担当者を詰問攻めにし、城廻会長を泣かせる結果となったのだが、それはまた別の話だ。

 

「ありがとうございます。では1年生は私、2年生は副委員長の元へ集まって下さい。これより、各チームでプロジェクトのキックオフミーティングを始めます」

 

雪乃がそう宣言すると、各実行委員がガタガタと音を立てて席を移動し、グループが二分割された。

 

 

 

こうして、俺たちの文化祭が動き出した。

 

 

 

 

 



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25. 比企谷八幡は再び奮闘する(上)

文化祭準備が始動してから、俺の日常は劇的に変化した。

授業後は教師に帰宅を強制される時間まで学校でデスクワーク、帰宅途中にコンビニでパンを買い、それを齧りながら夜更けまで更に自宅で資料整理、分析、企画の詳細策定と修正を延々と行っていく。

金融マンだった頃と殆ど変わらない生活に、高揚感とストレスを同時に抱えながら、酒と煙草に手を伸ばしそうになるのを必死に堪えていた。

今日も授業が終わると、早々と荷物をまとめて文実の教室へと移動した。

雪乃が既に1年生メンバーと打ち合わせを開始しているのを横目で見ながら自分の指定席に着席し、無言でPCを開いて昨晩の作業の続きに着手する。

しばらくすると、同じくホームルームを終えた分実メンバーがぞろぞろと教室へとやってきた。

「比企谷君、コンピュータ部の企画書がメールで送られてきたよ。共有ドライブに保存するよ」

今話しかけてきたのは2年の田村という女子生徒。

最初はおっかなびっくりだった文実メンバーも、時間の経過と共に少しずつアサインされた業務に慣れてきているようだ。

昨年まで企画概要と大雑把な予算を紙に書かせて提出させていた企画申請書は、今回から全てスプレッドシートへの入力で行わせていた。

これは俺が表計算ソフトで作成したフォーマットであり、予算上のパラメータ値を細かく設定しながら、費用や売上の見積もりをはじき出す構成となっている。

また、企画案の承認後はそのまま実際の費用使用状況の進捗、来客時の販売実績を逐次入力することで、金銭の管理や各種集計が容易に出来るのも特徴だ。

過去に俺が経験した文化祭では、紙面で提出された企画書の文章と予算案を文実のメンバーが必死になってPCに打ち込んでいた。

今回のペーパレス化は、単純作業を減らし、文実メンバーが少しでも頭を使う仕事に集中出来る時間を捻出することと、後々の為により詳細なデータの蓄積を図る事を目的としている。

 

最初は何度か説明会を開き、クラスや部活の代表者へフォーマットの使い方を解説するのにかなり時間を割いたが、その甲斐あって、数日が経過した後にちらほらと企画書が提出されるようになってきていた。

 

「内容はどんな感じだ?」

「えっとね…インターネットカフェだって」

「コンピュータ室は飲食禁止だろ?カフェ要素はどうするつもりだ?」

「…企画概要にも飲食については何も書いてないね…”例年の取り組みに習い、PCを一般開放することで当部の活動環境を生徒・地域住民に幅広く知ってもらうことを目的とする”…って、うわぁ」

田村はファイルに打ち込まれた文章を読み上げながら、嫌なモノを見たといった表情を浮かべた。

「前例踏襲の明らさまな手抜き企画か。そもそもスマホ全盛のこの時代に、ゲームも出来ない、エロ動画も見れない学校のPCをワザワザ金払って使いに来るバカが何処にいるんだよ」

「比企谷君、私女子だから。エロ動画とか普通にセクハラでアウト…まぁ、お客さん来ないっていう見方には同意するけど」

俺の率直な感想に、形ばかりの突っ込みを入れながら彼女は同意した。

「とにかくこの企画案は不受理だ。このままじゃ、他のグループにコンピュータ室を使わせることになると釘を刺してやってくれ…」

「あれ、意外と優しいね?鬼の副委員長なら容赦なくPC取り上げるくらいするかと思ったよ」

「無駄に恨まれたくないだろ?」

「一応常識的な考え方も出来るんだ。意外」

「お前な…」

初日に勢いで強引に議案を通したことが災いしたのだろう。その後、マシンのように働き続けることでなんとか一部からは一定の評価を得たが、これまでの経緯を考えれば、そんな人物像を抱かれても無理はない。

これでも田村はよく着いてきてくれている方だ。

あれから企画の内容を更に丁寧に説明したつもりだが、実質運営の中心となる2年文実の3割は、「興味が沸かない」「理解が追いつかない」といった雰囲気で早くもシラケ気味である。

最初から俺に人望が集まるなんて甘い考えは持っていないが、メンバーのやる気を引き出し、チームの稼働率を上げるのも俺の仕事だ。癪だがそろそろ葉山の奴に頭を下げて協力してもらうなり、対策を講じなければなるまい。

「なぁ、1年D組の企画書、シートにエラー表示が出てるんだけど、どういうことか教えてくれないか?」

俺の思考は横でPCに表示された数字と睨めっこをしていた男子に遮られた。

同じく2年の文実である吉浜という生徒だった。

「ちょっと見せてくれ…あぁ、これはエラーコメント通り、費用と原資の金額が一致してないんだ。費用総額の見積もりが7万円なのに、申請予算が5万円になってるだろ?」

今回のシートのフォーマットは入力したデータの整合性を担保するため、特定条件下でセルにエラー警告が表示される仕様にしていた。

「本当だ。費用計算が間違ってるのか、それとも予算申請の入力ミスかな。とにかく、これじゃ資金が足りなくなるな」

吉浜は俺が指差したセルに視線を移しながらそう呟いた。

「単なる入力ミスなら良いが、一旦クラス代表に確認したらどうだ?」

「ああ。そうする」

「…このクラスの担任、文化祭とかのイベントでやたら張り切るので有名な教師だよ。これまでも、クラスイベントの費用を一部、生徒のカンパで賄ったりしてさ。足りない分は自分たちで出すつもりかもね」

横で話を聞いていた田村が不意にそう呟いた。

「マジか?そりゃ益々確認の必要性があるな。いずれにせよ、今年は生徒が手金を出す場合も活動資金としての入力・報告は必須だ。すまんが吉浜の方から、売上から生徒が出した金を払い戻し、残った金額を利益として計上するよう、通知を徹底してくれ」

「だよな。利益で競争するならそうじゃなきゃ不公平だし」

「それだけじゃない。中にはクラスの売上を丸々寄付させちまう理不尽な教師もいるだろうからな。生徒に無理やり出資させて稼ぎを全額寄付しちまうなんて、この学校のリスク管理能力の無さを露呈してる様なもんだ。労働を強いてる分、募金の強制よりタチが悪い。俺がそのクラスの生徒なら学校を訴える位の嫌がらせをする」

校内の情報に疎い俺にとって、田村のように今回の文化祭の趣旨を理解し、リスク提言してくれるメンバーがいるのは非常に助かった。

「ハハハ」

「お前見てるとマジでやりかねないから笑えねぇよ…今の聞きましたか、平塚先生?」

笑い出した田村と対照的に吉浜は呆れ顔を浮かべ、隣のデスクで泣きそうな顔で仕事に没頭していた平塚先生に話題を振った。

先生も、俺と雪乃のせいで山の様に膨れ上がった教職会承認事項の議案作成と、それを通すための資料準備に追われていた。

「わ、私はそんなことしないぞ!?」

PCの画面から顔を上げた平塚先生の目は、これでもかというくらい泳いでた。

「…平塚先生は特別ってことにしときます。生徒にラーメン奢ってくれるし、それでチャラでしょう」

「マジ!?先生、ゴチっす!」「わぁ!ありがとうございます!」

俺のフォローに、悪ノリした二人が目を輝かせながら無遠慮にそう言った。

「…卒業するまでは奢らん!」

平塚先生の反応に、二人と周囲の人間が笑い声を上げた。

「楽しそうなところゴメン、副委員長。私達のクラス…A組の企画なんだけど、ちょっと相談に乗ってもらえないかな?」

再び会話を遮ったのは同じく2年女子の文実メンバーである西岡という生徒だった。

「ああ。どうした?」

俺は若干緩んだ表情を元に戻して話の内容を尋ねた。

田村と吉浜も彼女の話に耳を傾けようとしている。

「今回の利益で競争って企画、うちのクラスじゃかなりウケが良かったんだけどね。皆んなヒートアップしちゃってさ。クレープの販売価格の設定でクラスが真っ二つに割れて、段々雰囲気まで悪くなって来ちゃって…」

「価格設定か。一番頭を使う所だからな。盛り上がってるなら良いじゃねぇか。それこそ今回のイベントの醍醐味だし」

「ちょっとは私の身になってよね!どっかの変人2トップのせいで、文実の仕事がただでさえキツイんだよ!自分のクラスの案がまとまってないんじゃ、仕事に集中できないから!」

一旦は突き放そうとした俺に対し、怒りの表情を浮かべて西岡は食い下がってきた。

その様子を見て、田村と吉浜はほくそ笑んでいる。

「わ、わかった…で、どんな値付け案が出てるんだ?」

「対立してるのは、500〜600円派と、200〜300円派。例年の実績から高くてもある程度売れて、赤字が回避出来るのが分かってるなら、大きな変更を加えるようなリスクは取るべきじゃないっていう意見と、廉価販売で競合飲食ブースから客を奪おうって意見で割れてるの。正直、どっちもの主張にも理がある様に思えるけど」

「なるほどな…販売戦略には色んな考えがあって、正解はひとつじゃない。あくまでも考え方の参考としてだが、俺から言えるアドバイスは3つある」

「なになに?」

西岡が嬉しそうな表情でそう言うと、周りからも何人かがペンとノートを持って集まってきた。どうやら彼らもクラスで似たような問題を抱えているらしい。

平塚先生も手を止めて、興味深げに俺の話を待っている。

俺は少し大きめの声で喋る事を意識して、レクチャーを開始した。

「一点目は、損益分岐点を把握することだ。例えば一個600円で売る場合、何個売れば費用が全額回収出来るのか。更にそこから何個売れば目標利益金額に到達できるか。まずはその販売個数が現実的に達成可能か考えるんだ。200円で売る場合は、費用の総額が同じなら3倍の数を売らなきゃいけないのは分かるよな?」

「そりゃそうだ」

西岡に代わり、吉浜が相槌を打った。

「だが現実はそんなに単純じゃない。ここで2点目、固定費と変動費の関係を把握することが重要になる。普通、売る数が多ければ多い程、材料費は沢山かかるだろ?」

「え?固定?変動?…そうかもだけど…じゃあ安く売るだけ損ってことだよね?」

今度は田村が疑問を口にした。

「そうとも限らん。材料費は販売する個数に応じて変動する”変動費”だが、クレープ屋をやるには、販売個数に連動しない一定の出費、”固定費”が存在するだろ?ホットプレートみたいな機材とか、教室の装飾とか衣装とかな。費用の総額に占める固定費の比率が高い場合、数を売った方が、販売1単位…クレープ一個を売るのにかかる平均費用は少なくなる…分かるか?」

俺は顔を上げて話を聞いていた連中の表情を伺った。

皆の頭の上に疑問符が浮かんでいるのが目に見えるが、俺は一旦呼吸を置き、彼らの言葉を待った。

「うん…ん?ゴメン、よく分かんない」

西岡が素直にそう漏らすと、田村が咄嗟にキャスター付のホワイトボードと水生ペンを持って来る。本当によく気がつく奴だ。

俺は立ち上がって、ペンを受け取りボードに書き込みながら再び解説を続けた。

「…適当に例を出すぞ。クレープ一個を作る材料費が100円とする。これは変動費な?その他、ホットプレートは一台2万円のものを5台仕入れて10万円、教室の飾り付けで2万円かかるとすると固定費は合計12万円。ここで、クレープを300個売る場合、変動費は3万円だから、コスト総額は15万円。クレープ300個で割り戻すと、一つあたり500円になる。一個600円で売るなら、単位利益は100円。全部で300個だから3万円の利益が出る」

「ふむふむ」

皆まじめな顔でボードに書き込まれる文字、図形、数字を追っていく。

「ここで、販売価格を300円に下げる代わりに、売れる個数が4倍に伸びるとしよう。それがホットプレート5台と1教室のキャパシティで焼けるクレープの最大数だと仮定する。今度は変動費が100円x1200で12万円、固定費12万円と合わせて費用総額は24万円だ。クレープ一つ当りにすると1200で割って…200円。一個あたりの利益はさっきと同じ100円だ。だが今回は1200個売ってるから、利益総額は12万円。圧倒的にこっちのが儲かる訳だな」

「あぁ、なんか分かったかも」

「本当か?かなり単純化してるが、結構高度な話だから、分からなかったらちゃんと言ってくれよ?」

今の話は会計で言う原価計算の基礎だが、レベル的には大学生が習うものだと思われる。

本当に理解したのか、俺は念のため確認を取った。

「要するに固定費ってのが大きい場合、販売個数を増やせば一個あたりにかかる費用をそれだけ分散させられるから、安値で売っても儲かるって話でしょ?逆に言うと、変動費が大きい場合、値下げすると利益を出しにくくなるって事だよね。あ、ハンバーガーチェーンが安売りしてるのって、ひょっとして固定費が高いから?」

「…理解力高ぇな、おい」

西岡の予想外の頭の回転に俺は舌を巻いた。

「バカにしてる?私これでも総合成績学年10位以内なんですけど?」

俺の呟きに対し、西岡は胸を張ってそう答えた。それを聞いていた周囲の連中も、"おぉ~"と感嘆の声を漏らした。

「いや、感服だ…まぁ、実際にはホットプレートは家庭科室の在庫を使ったり、生徒が自宅から持ち込めば費用は大きく減らせるだろうし、そもそも固定費の代表格でもある人件費は文化祭じゃかからない。ただその一方で、一個あたりの材料費が実際どの位かかるかとか、ホットプレート1台で1日何枚のクレープが焼けるのかも計算してみないことには分からんから、この辺の数字を正確に把握して、シミュレーションするのがいいだろうな」

そう言って俺は2点目のアドバイスを締めくくった。

今も必死にメモを取っている奴らには、後でもう一度説明する必要があるだろう。そうだ、そのレクチャーは西岡か田村か吉浜にやってもらうのがいいかもしれん。この3人には後々人を動かす仕事をしてもらいたいから、そのいいトレーニングになる。

「うん…でもさ、さっきの例えで気になったんだけど、価格を半額にすると販売個数が4倍に伸びるって前提、それがどの位正確なのかってメチャクチャ重要じゃない?それが分からないとシミュレーション出来ないし…」

俺が3点目の説明を始める前に、西岡が鋭い疑問を口にした。

「仰る通りだ。それが最後のポイント、需要の価格弾力性を考えること、だ。平たく言うと、値段を一定水準下げた時に、それを買いたいと思う人がどの位増えるかって事な…これは実際に目で見た方が分かりやすいかもしれん。このPCの画面、ちょっと見てくれ」

そう言って俺は再度PCの前に腰掛け、過去の文化祭の実績データファイルを開いた。

文実の稼動初期段階に、バインダーに保存されていた過去の資料を、沙希や結衣にも手伝ってもらいながら、皆で必死になってデータ入力した貴重なファイルだ。

「お、文実ビッグデータじゃん」

ファイルを目にした吉浜が茶化すようにそう呟いた。

データは企画立案の参考として使うよう、各参加者に無償配布していたが、そんな変な名前が付けられていたとは知らなかった。

その声に呼応するように、更に俺の周りに人が集まってくる。

しかし、なんというか、近い…なんか良い匂いするし。どの女子だ?西岡か?田村か?

そんな考えが一瞬頭に浮かぶと、教室の反対側で1年と打合せをしていた雪乃から、刺すような視線が飛んできた。

俺は慌てて画面で顔を隠すように背を丸め、PCの操作を続けた。

データの中から、売上と販売個数の数値を抜き出し、単純な割算で年毎に平均販売単価を計算していく。

そして何年分かの販売個数と平均単価を散布図として画面に表示させた。

「今作ったこのグラフ、x軸を販売単価、y軸を販売個数として、何年分かの実績値をプロットしたものだ。もしも価格弾力性が高ければ、この散布図の近似曲線は負の傾き…つまりxが小さいほどyが大きいというトレンドを示すことになる。だが、実際にはどうだ?」

「傾きがほとんどないな。って言うか、点がバラけてて全然相関してなくないか?」

吉浜が俺の質問に答えた。

「だな。これは需要が価格にあまり反応しない事を意味する…推測だが、文化祭のような行事で食物を買うとき、誰もネットで価格を比べたりしないし、祭りの高揚感で財布の紐が緩くなるってのが一つの理由かもしれないな」

可視化されたデータを見ながら、俺は自分なりの感想を述べた。

「ねぇ、この年の点、価格はそんなに安くないのにやたら販売個数が多いよ…これひょっとして一昨年のデータじゃない?」

田村が明らかに異常値とも思えるドットを指差してそう言った。

それを確認するようにグラフ上の点をクリックして、参照セルの数値に目を落とすと確かに一昨年のものだった。

「よく気付いたな…その通りだ。これを見る限り、売上個数は価格以上に文化祭自体の動員数に左右されてる可能性が高い。人間、値段が安かろうが1日に同じ食物をそう何個も買わない。それなら人が多い程売れるってわけか。これも価格感応度が低いことの要因かもしれん」

「つまり高くても安くても売れる数は変わらないってことになるよね…初めからこれ見せてくれれば一発なのに。1点目と2点目のポイント意味なくない?話が長い男はモテないよ?」

西岡の言葉に周囲が沸き立った。

「おま、人がせっかく…」

「あはは、冗談冗談!色々勉強になったよ。クラスでこの考えを説明してみるね」

「ああ…話が長いついでにもう何点か付け足しとく。過去のデータはあくまでも参考だ。ずっと一定の価格で売らなきゃ行けないというルールはないし、キャンペーンセールで一時的に安売りして当日に実際に客足が伸びるか確認してみてもいい。それから、客層に応じて価格を差別化するとかな。女性割引、カップル割引、シルバー割引、色々あるだろ?ビジネスで選べる戦略は無限大だ」

「なんか、そう考えると楽しくなってくるね」

楽しげな表情で田村がそう言った。西岡も吉浜も満足げな顔で頷いている。

「そいつは結構。あと、一つ注文するとすれば、後から見た奴が、この年にどんな戦略で出し物を企画したのか分かるだけのデータを記録して欲しいって事だ。どんな客に何をいくらで売ったのか。時間帯は、割引は、商品以外のサービスは、広告戦略は…それにかかった費用も同じくらい細く正確にな…企画書のフォーマットはそのためにある」

無論、来年以降の参加者がそのデータを使って、更に高度な戦略を練られるようにするためだ。

俺たちが整備した過去のデータも、ビジネス戦略を考える材料としては明らかに量・質の双方で不足している。

「そうだね。でもそれを言うなら、データをどう使って分析したかとか、逆に分析するのにどんなデータが欲しかったか、とかもしっかり記録しとかないとだめだよね。比企谷君みたいに数字の羅列から有意義な情報を抜き出して戦略を組立てられる生徒なんて、この先もそうはいないだろうから」

俺は西岡の言葉にハッとさせられた。吉浜も田村も、その意見に同意を示している。

確かにデータだけ残しても、その使い方も伝えなきゃ宝の持ち腐れだ。正直、忙しすぎてそこまで頭が回っていなかった。

「…盲点だった。流石、学年10位だ」

「あ、またバカにした! 10位”以内”だから!」

――まだ若くても優秀な奴は本当に優秀なんだな

彼らと会話を交わしながらそんな感想を抱いた。

前回の文実じゃ、一言も会話しなかった連中の中に、これだけの人材がいたことに正直驚きもしている。

協力的な姿勢で取り組んでくれる3人と、興味を持って集まってくれたメンバーに素直に感謝すべきだろう。

ふと対角線上のスペースで1年との打合せを終えた雪乃と目が会うと、一瞬だけ微笑むのが見えた。

☆ ☆ ☆

「はぁ…」

俺はその日の文実業務が終了した後も、一人黙々と残業を続けていた。

PC画面の隅に表示されている時刻を見ると、既に21時を過ぎていた。そろそろ平塚先生が帰宅を促しにやってくる時間だ。

――比企谷が残っていると私が帰れないじゃないか。少しは気を使いたまえ。

そんな小言を漏らしながらも、平塚先生は文実の監督が終わった後も、職員室で一人仕事に打ち込んでいるのだから頭が上がらない。

社畜慣れした俺に言わせれば、21時は "まだまだここから" な時間帯だが、あまり彼女に迷惑をかけるわけにもいかない。

そんなことを考えていると、ドアがガラガラと開かれた。

平塚先生がやってきたのかと思い顔を上げると、入ってきたのは奉仕部の3人だった。

「だいぶお疲れのようね」

「ヒッキーお疲れ!」

「その姿、本当にサラリーマンっぽい…はいこれ、差し入れだよ」

三者三様の労いに有り難味を感じながら、沙希から差し出された弁当箱を受け取った。

「悪いな。っていうか、雪ノ下はともかく由比ヶ浜と川崎は何で学校に残ってんだ?川崎は妹の件、大丈夫なのかよ?」

「一回帰ってるよ。もう親も帰宅したからね。そうじゃなきゃどうやって弁当用意するのさ?」

そりゃそうだ。早速沙紀から手渡された弁当をパクつきながら、疲労による思考能力の低下に気づき、苦笑いを浮かべた。

「お弁当、美味しい?…あたしもサキサキの家で教えてもらいながら手伝ったんだよ!」

結衣がそう言った瞬間、口に放り込んだ卵焼きからジャリっと音が鳴る。

――別にカルシウムは不足してねぇんだが…これを焼いたのは間違いなく結衣だな。

「ああ。うまい」

卵の殻の食感を含めて、なんだか懐かしい味付けだった。

「あ、次から由比ヶ浜は味見専門でいいから…台所破壊されたら生活に支障出るし」

「ヒドイ!」

「ふふ、私も二人のお弁当をいただいたのよ。美味しかったわ…ありがとう。ところで、比企谷君。業務進捗はどう?」

「中々企画案へのフィードバックが進まなくてな。中には俺が思い付きもしなかったアイデアを持ってくるグループもいるから、リスク分析に四苦八苦してんだよ」

「意外ね。さっきは文実メンバーに立派にレクチャーしていたのに」

「そりゃ少しずつでも、奴らにも企画の評価を出来るようになってもらいたいからな。飲食とか、オーソドックスなブースは最終的には俺の判断抜きで承認・監督するように権限委譲してくつもりだ。じゃなきゃ回らねぇしな」

「へぇ。逆に貴方を振り回すようなオーソドックスでない企画があるのかしら?」

「ある。例えば、今見てるレスリング部の勝ち抜き腕相撲が正にそうだ。"挑戦料200円、5人抜きで賞金1000円提供"だってよ。投資銀行にいた時でも、こんなビジネスの評価はしたことねぇよ。確かに初期コストはほぼゼロで、5人のうち誰か1人でも勝ちゃ売上が丸々利益になる。だが、5人抜かれれば、顧客5人から得た売上を一気に失う。面白いっちゃ面白いんだが、赤字が出ないようにどう管理するかが問題だ」

「そんな企画、賭博と同じじゃない。法令違反になるわよ」

「これでも生徒が前向きに頭使って考えた企画だから、俺も色々調べたんだよ。賭博罪の成立要件は”相互的得失関係”、つまり”参加費=賭金で賞金捻出”という関係を断ち切ればこれには該当しなくなるってわけだ。参加費はイベント運営に当て、賞金は別途スポンサーから提供される資金で賄うという会計上の整理さえつけとけば問題にはならん…はずだ」

「違法じゃなくても、そんな儲かるか大赤字になるか分かんないのは、アンタにとって別の意味でギャンブルじゃないの?」

俺と雪乃のやり取りに対し、横から沙希が中々鋭い質問をかぶせてきた。

正にその点が今、俺が手を動かして分析しているポイントなのだ。

「企画の事業性を評価するのが俺の仕事なんだよ。日本人の筋力にかかる統計と、レスリング部の連中の体力測定データを照らし合わせて、奴らが正規分布の上位何パーセントにいるか計算すれば、5人抜きされる可能性を数値化できるはずだ。そうすれば、想定参加者数から最大損失額の試算が出来る。それで賞金を事前に手当てするんだ…保険ビジネス的な考え方だな」

「訳の分からない理屈をこねくり回して、儲かりそうなことは何でもやるのが金融の仕事だってことは解った」

「なんか、ヒッキーにピッタリだね!」

笑顔で沙希の言葉に同意する結衣。

――殆どあってるから笑えねぇよ

この歳で俺の仕事の本質を言い当てるとは、恐ろしい女達だ。

「呆れるほど親切なのね。貴方のことを、”事業仕訳人”と揶揄してる人達に聞かせてあげたいわ」

「そんな渾名がついてんの、俺?…でもこれ競争企画だから。1位狙わなきゃ意味ないよね。2位じゃダメなんですか、とか俺は言わんぞ」

「やっぱり何言っているのか良く分かんないよ、ヒッキー」

「ちょっとした時事ジョークだ。忘れてくれ」

俺にとって20年近く昔の記憶から掘り起こした会心のネタは、結衣には通用しなかった。

それはさておき、これまでの話からも分かる通り、俺が今最も時間をかけているのは企画・予算原案の審査だ。

不備があれば突き返すが、何が間違っているのか、どういう観点で物事を考えるべきかを一点一点丁寧にフィードバックしなければならない。

最終的に個々の企画をある程度のレベルまで磨き上げれば、見通しの甘さから赤字を垂れ流すことは防げるはずだ。

そのためのノウハウ伝授は少しずつだが進んでいる。今日レクチャーした西岡、吉浜、田村あたりは有望株だ。この辺りの仕事はこれから彼らを中心に回せるようになるだろう。

そうなると、俺は次の段階として、全体の中での企画の調整をしなければならない。

各参加者や出展企業の出し物が重複した場合の措置を考えたり、そろそろ雪乃の営業推進チームと連携して客足を伸ばすためのイベント構成を考え始める必要がある。

「営業の方はどうだ?」

そんな考えから、俺は雪乃に質問を返した。

「順調よ。広告には特に力を入れているわ。市民報、商店街への広告掲載依頼…思いつくことは全部やっているし、企業の出展希望もそれなりに数が集まっているわよ」

「これからアタシたち3人で宣伝動画も撮るんだよ!」

雪乃の説明にかぶせて、結衣が楽しそうにそう言った。

「3人で?」

「…はぁ。一年生に計画立案と遂行の権限を与えたのよ。やる気を出してくれたのはいいのだけれど、そのうち、使えるモノは委員長でも先輩でも使うなんて言い出して…」

「で、雪ノ下から相談を受けたアタシ達まで巻き込まれたって訳…あの一年、広告は"顔"だとか調子に乗って、アタシと由比ヶ浜の見た目に点数まで付けてさ。男子だったらタダじゃ置かないけど、これが女子なんだからタチが悪いよ」

「…なんか、そっちはそっちで大変なんだな」

ため息交じりの雪乃と、あまり乗り気ではない沙希の説明で大体の状況を把握する。

「この二人に挟まれて撮影されるなんて気が重いよ」

「挟まれて気が重いのは私の方よ。…撮影用の衣装、あれだけは絶対に却下するわ」

沙希も雪乃もそれぞの懸念を口にした。

雪乃は自分の胸に手を当てて溜息をついている。

――体型が出るキワドイ衣装なのか

雪乃の動作から、彼女の悩みのタネを理解してしまった。

その衣装を着た3人、個人的には是非見てみたいが、そんな恰好で彼女たちが不特定多数の目に晒されるのは俺も嫌だ。

ここは雪乃に頑張ってもらうしかないだろう。

「それから…広告動画とは別に、テレビ局が取材に来るわよ」

「は!?マジか!?」

ついでのように呟いた雪乃の進捗報告に、俺は驚きを露にする。

「テレビ局と言ってもケーブルテレビのローカルチャンネルよ。この学校の一生徒の親御さんがそこに勤めているらしいの。今年は面白そうな取組をしてると、生徒づてに話を聞いたらしくて…こっちはあなたにも出てもらうからそのつもりでいなさい」

「お、おう…」

俺がテレビに映るとか、考えただけでも怖んだが。しかし、ケーブルテレビのローカルチャンネルと言えば、毎年甲子園地方予選の弱小高校対決を放送しているような、地方限定ネタを追いかけてるような番組しか持っていないはずだ。

それ程目立つことはない…よな。

一先ずこの件は心に留めて、もう一つの懸念事項を雪乃と共有しなければならない。

「…スポンサーの方はどうだ?一応例年並みの協賛金で全体予算を組んじゃいるが、結構気合の入ったクラスが多くてな。予算案の見直しで申請金額の増加を今の所なんとか抑えてはいるんだが、競争にする以上、優勝企画やユニークな企画には表彰だけじゃなく、何らかの報償も付けたいところだ…現金は無理にしても図書券とギフトカードとか。一昨年程じゃなくてもいいが、正直言うともう少し活動資金が欲しい」

「私の実家や一昨年寄付を増額した企業からは例年の水準以上は受け取っていないけれど、それとは別枠で新規の開拓は進めているわよ。不動産会社、引越会社、家具・家電の小売企業からいくらか調達出来ると思うわ。大学進学後に実家を離れる学生が多いから、この辺りの企業の校内広告掲示を条件として提案しているの。これは劉さんのアイデアよ。その他の企業にも営業攻勢もかけているわ。1年生の…見た目が良い子たちを中心にね」

「へぇ、やるもんだな。助かる。…見た目基準というのは世知辛いが」

大声では言えないが、世の中、男女限らずに顔採用というものは普通にある。

俺の勤めていた会社もそうだ。受付嬢しかり、営業担当しかり。俺はトレーダー採用だから、その篩にかからなかったのは幸いだろう。

どうやら広告動画を担当する1年は世間の仕組みをよく理解しているしっかり者で、その考えは文実でも共有されているらしい。これも社会勉強の一つだ。

「…ふふ」

「どうしたの、ゆきのん?」

「色々頭を抱えることも多いけれど、こんなに楽しいのは久しぶりよ」

「そうか。やっぱお前、キャリアウーマンの素質があるよ。俺もそれなりに楽しんじゃいるが…昔の俺には考えられんことだな」

「昔?…何故?」

「"高校時代"の将来の夢は専業主夫だったんだよ。それが今じゃ完全なワーカホリックなんだから、笑えるだろ?」

俺は自嘲しながら弁当の隅に残った最後のコメを口に運んだ。

「専業主夫…アタシと由比ヶ浜は社会人になったアンタと付き合ってたんだから一応セーフだよね?」

沙希はゲッとでも言いたげな渋い表情を浮かべた後、皆に同意を求めた。

「さらっと私だけアウトにしないでもらえるかしら。不愉快だわ。ひょっとして貴方、昔は養わせるつもりで、私を言いくるめたの?」

――ブハッ!

俺は口に入れた飯をその場で盛大に噴出した。

「ヒッキー汚い!!」

口は災いの元とはよく言ったものだ。

その後、久々に奉仕部の面々でしばらく盛り上がった。

その大半は俺に対する罵詈雑言の嵐だったが、不思議と自分の心に安らぎをもたらしてくれた。

☆ ☆ ☆

「比企谷さ、夜ちゃんと寝てんの?」

「ん?急にどうした?」

今俺は、沙希と二人で夜道を歩いている。

あの後、教室に入ってきた平塚先生に、全員帰宅を支持されてこの日の学校での業務時間は終了となった。

平塚先生は帰る方角が同じ結衣と雪乃を車に乗せ、俺には沙希を自宅に送り届けることを命じて学校の門を閉めた。

「目の下、隈が出来てるよ。やっぱり忙しいわけ?」

「まぁ、そこそこな。だが社会人生活に比べりゃ遥かにマシだ」

「そ。…あ~あ、きっと言えなかったんだろうな…」

「何が?」

沙希の突然の呟きに対し、思いたる節が全くない俺は、素直に聞き返した。

「何でもない!」

それに対し、慌てたような表情で沙希がそう答えた。

「何だよ?気になるだろ」

「ったく、この男、本気でムカつく!」

「え!?何!?なんか、すまん…」

突然怒り出す沙希を見て、俺は慌てふためいた。

沙希はそんな俺の様子を見て、はぁ、と深めのため息を吐いて口を開く。

「…アタシと仕事のどっちが大事なの?って、もう一人のアタシも…たぶん由比ヶ浜も言いたくて言えなかったんだろうなってこと!このバカ!」

「は!?え!?」

沙希の突然の言葉の意味が飲み込めずに、俺は激しく動揺した。

「…ま、今うろたえた分だけ、可愛げがあるってことにしとく…目の下黒いのに、表情だけはイキイキさせちゃってさ。夏休み明けから妙にウジウジしてたのが嘘みたい」

ようやく彼女の言葉の意味するところを察したが、何と言葉を返せばいいのかわからない。

「…顔には出ない方だと思っていたが」

咄嗟に出たのは、きっと彼女が望む言葉とは程遠い、ピントの外れた呟きだった。

「マジで言ってんのそれ?…色んなこと知ってるのに、自分自身のことを知るのって、やっぱり難しいものなんだね…」

お互いに会話が続かなくなり、静かな夜道に二人の靴音のみがコツコツと響いた。

段々と沙希が住む団地へと近づいていく。

「ねぇ…手、繋いでいい?」

彼女の家まであと少し、という所で彼女が不意にそう尋ねてきた。

「あ、ああ…いいのか?」

彼女の申し出に、嬉さ半分不安半分な俺は、またも素っ頓狂な返事を返してしまった。

「ダメなわけないでしょ…あんな告白したのに、変な所で律儀だよね、アンタって」

その言葉を聞いて、恐る恐る沙希の手を取る。

彼女の手のひらは柔らかく、温かかった。

沙希は俺の手をどのように感じているのだろうか。そんな疑問を頭に浮かべていると、彼女は俺との繋がりをより深く求めるように、ゆっくりと指を絡めてきた。

「…恋愛って、もっと勢いでどこまでも行っちゃうものだと思ってた…それが、こんなどうしようもない奴が初恋の相手なんて、アタシもバカだよ」

「…すまん」

彼女の呟きに対し、口をついて出るのは謝罪の言葉のみだった。

こんな時に女性にかけるべき言葉は、もっと別にあることは経験則で分かっている。

だが、その正解となる台詞は今の俺には見付けることが出来なかった。

「謝らないでよ…今は比企谷に謝られるのが一番怖い」

こんな沙希の反応はある程度予想できた。

返すべき言葉を求めて頭を全力で回転させるが、俺はやはり彼女に対し、何も言ってやることができない。

「…アンタがいて、雪ノ下や由比ヶ浜がいる奉仕部は私も好き。でも、やっぱり不安になる。これからも今の関係が維持できるのかって考えるとすごく怖い。あの子達もたぶん一緒なんだと思う」

「そうか…そうだよな」

ちょっとした切欠で簡単に崩れそうな、氷の橋を渡るような関係。

そんな環境を作り出してしまったのは、他でもない俺のエゴだ。

謝罪を禁じられた俺にできる事は、彼女の意見に耳を傾け、彼女が何を考え、何を感じているのかを感じ取ることだけだった。

沙希の家まであと1ブロックという所まで歩くと、不意に沙希が手を離した。

「ここまででいいよ。今日は一緒にいられてうれしかった…それから、折角の機会だったのに、困らせるようなことばっかり言ってごめん」

「家の前まで送らせて欲しいんだが…だめか?」

「ありがと。でも大丈夫…さっきから由比ヶ浜がひっきりになしに電話してきてるから、そろそろ出ないと後でメンドくさそうだし…あの子、思った以上に芯が強いよ。雪ノ下や私とは正反対なんだよね。ちょっと尊敬する」

沙希はそう笑いながら言って、携帯の画面を俺に見せた。

俺は沙希の観察眼に驚いた。半年にも満たない付き合いで、二人の本質を見抜いているかのようだった。

「…大したもんだな」

「そんなの誰でも分かるでしょ。…そうだ。今日は雪ノ下につまんない嫉妬して、ちょっと意地悪しちゃったから後で謝っとかないと」

「意地悪?俺は全く気付かんかったが…」

思い出したように沙希がそう口にするが、俺にはまたも思い当たる節がなかった。

「昔のアンタの専業主婦志望の話。私、女子3人の間で線引きしちゃったでしょ…今頃一人で悩んでるかもしれないし、こんなのでアンタと雪ノ下の関係に亀裂が入ったら、アタシもたまんないから」

周りの反応を覗うようにしながらも、内に強い芯を秘めているのが結衣。

打たれ弱く依存心が強い内面を持ちながら、それを表に出さないよう一人努力を重ねるのが雪乃。

だとすれば、一見人を寄せ付けないような振舞いをしながら、人一倍気配りに長け、優しいのが沙希という人間の本質なのだろう。

「やっぱ優しいな、お前は…俺は、いつも甘えすぎちまって…」

「ハイ!謝るのはナシ!…アタシ、そろそろ行くよ」

俺の言葉は沙希に遮られた。

彼女はそう告げると、片手で肩にかけるように持っていたカバンを両手で持ち直し、くるりと回って駆け出すように家へと歩を進める。

そして、5メートル程進んだ所でもう一度こちらを振り向き、少し大きめの声で俺に尋ねた。

「アタシもさ、比企谷のこと…好きでいていいんだよね?」

「可能ならずっとそうあって欲しい…って言うのはエゴか。俺の方こそ…お前を好きでいていいのか?」

俺は卑怯にもそう聞き返した。

 

沙希はその質問には答えない。

 

沙希は視線を外し、少しの間だけ下を向くが、その後顔を上げるとフッと笑って俺の元へ再び走り寄ってきた。

体がぶつかりそうな位置まで距離を詰め、ピタッと停止する。

 

顔と顔が触れ合いそうな距離。

沙希の瞳の中に自分の姿が映り込んでいた。

彼女はそのままゆっくりと目を閉じて、俺の唇に彼女の唇を重ね合わせた。

 

「…一応、アタシのファーストキスだから…忘れないで」

顔を離すとそう小声で呟き、彼女は再び家へと走っていった。

 

唇が触れ合う程度のその軽いキスは、何故か彼女と肌を重ねた記憶よりも深く俺の印象に残った。

 

 

 

 



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26. 比企谷八幡は再び奮闘する(下)

 

「比企谷、ちょっと時間いいかい?」

今日も文実の業務を淡々と進めていると、会議室のドアが開かれた。

入室するなり俺に声をかけて来たその人物に、皆の視線が集まる。

「あん?葉山か…どうした?」

俺はPCの画面から顔を上げることなく、返事を返した。

ここのところ雪乃は、一部の一年を連れて外回りの営業に出ており、今日も不在だった。

片や俺は、今日の葉山のように企画の相談に来る連中の相手や、提出された申請書の添削に並行する形で、相変わらずイベント全体の予算調整、各企画のコーディネートに追われていた。

「F組の企画についてクラスを代表して相談があるんだ。忙しい所、すまない」

葉山の用件を聞きながら、俺はなおもPCでの作業を続ける。文書作成のキリのいい所で気持ち強めにEnterキーを叩いてから、奴と目を合わせた。

「別にかまわん。俺もクラスの方には殆ど関わってないしな…埋め合わせのいい機会だ」

2年には依然としてサボっている者も多いが、業務は俺の徹夜作業と、吉浜等を中心とした、やる気を見せた連中の頑張りで、ギリギリスケジュール通り進捗しているという具合だった。

まだまだ問題はあるが、文実は一応平常運転と言って良いだろう。

葉山からの相談は2年F組の企画の予算案に関することだった。

奴の理解力は高いだけあって、俺からの説明やアドバイスは順調に進んでいく。

「それにしても、今回の文化祭…よくこんなアイデア思い付いたな」

相談が一段落した段階で、葉山はふうっと肩の力を抜くようにして、そう呟いた。

「何だ、苦情か?」

「いや、実に面白いよ。F組の皆も張切ってるからね」

「そうか」

そんな会話を交わしていると、再び会議室のドアがガラガラと開かれた。

再びドアへと視線が集まる。

「ひゃっはろ~」

入ってきたのは私服の女性だった。その女性、雪ノ下陽乃は俺と葉山の姿を見るなりツカツカとこちらへ近づいてきた。

「「…」」

「や、比企谷君。夏休み以来だね。隼人も久しぶり。今日はめぐりに呼ばれて、OGとしてイベント参加の申し込みに来たんだよ~」

黙っている俺たちに対し、満面の笑みで彼女はそう言った。

――またトラブルを持ち込もうとしてるんだろうな

そんな考えが頭を過り、警戒心が高まった。

「今年は有志の参加申請は学校のウェブサイトからフォーマットをダウンロードして、メールで提出するようにお願いしてるんですが」

だからワザワザ学校まで来ないで下さいよ、という言葉は心に留めつつそう答えた。

「比企谷君、冷た~い。じゃあ今空いてるPC貸してよ。ここで登録してくから」

そんな俺のささやかな抗議をまるで無視するかのように、彼女は俺の隣の席に腰掛けた。

「…今年の文実は例年と趣向を変えた取組みを企画してて、中々盛り上がってますよ」

葉山が場を繋ぐ様に、そんな説明をする。

「うんうん、めぐりから聞いてるよ…でも、委員長の雪乃ちゃん含めて、今年の文実は比企谷君の"傀儡組織"みたいだよね。日陰者から王様になるのって、やっぱり楽しい?」

彼女は一瞬だけ鋭い視線を投げかけながらそう言うと、再び仮面を被った様にニコニコとした表情へと戻る。

その言葉を聞いた葉山は引き攣った笑みを浮かべた。

「雪ノ下の奴にはもう少しだけ優しくできませんか?曲りなりにも貴女を目標にして頑張りたいって言ってるんですよ。それに、俺はあくまで彼女の部下として頭と手を動かしているに過ぎません。俺がやりたい放題やったとしても、最後の責任は彼女に帰着します…組織ってそういうもんでしょ」

「へぇ~。雪乃ちゃんが認めるだけあって口は達者ね…でも、この文実、本当に上手くいってるのかな?」

冷めた表情で俺がそう答えると、彼女は意味深な笑みを浮かべながらそう言った。

「どういう意味ですか?」

彼女の言葉に顔を歪めた俺とは対照的に、彼女の発言の真意を得ないといった表情の葉山が

そう尋ねた。

「働き蟻でもサボるのは2割って言うよ…お姉ぇさんには、それ以上の人数がドロップアウトしてるように見えるけどな?」

教室に入ってきたばかりの彼女にそれが分かるのは流石といったところだろうか。

「…まぁ、事実ですね。稼働率を上げるいいアイデアがあれば教えてください」

その場をやり過ごすため、俺は素直に教えを請うことを選んだ。

「仕方ないなぁ…比企谷君、集団を最も団結させるのは何か知ってる?」

彼女はいたずらっぽい笑みを浮かべて、俺に問いかけた。

「"目標共有"と"利害一致"の二つです」

「あら?即答できちゃうんだ」

目標共有は成功する組織の基本だ。経営者やリーダーには、組織としての明確なビジョンを描き、従業員に対し明確な方向性を示し導くことが求められる。この点は、劉さんや武智社長に出来て、俺に出来ないことの一つだとは思う。

利害一致についてはどうだろうか。一般に人を何かのために使役するにはコストがかかる。従業員が経営や株主の利益に沿った働きをしない限り、支払われる給料は無駄金となる。それを防ぐためのスキームとして、給料の一部を業績連動にしたり、ストックオプションやプロフィットシェアリング等といったインセンティブを付与し、株主と従業員の利害一致を図る企業は多い。だが、学校の一委員会という組織の性格上、そのような"利"を与えるスキームを構築することは困難だ。

「どこにでもあるマネージメント論の受け売りです。どっちも今の俺には難しいですど」

「…比企谷君って本当に変わってるね?"正解は明確な敵の存在"…な~んて得意げに教えてあげようと思ってたのに、ちょっと可愛くないかなぁ」

「それで大声で”傀儡”とか言っちゃうんですか?…勘弁して下さいよ。俺を敵に仕立ててどうするんですか。これ以上離反されたらたまりませんって」

共通の敵がいるだけで仲良くできるなら、昨今の中東情勢はここまで複雑化していない。

味方の敵が味方になるのも、敵の味方が味方になるのも、全ては覇権と利権の複雑な絡み合いの中で生じるバランス次第。それは個人の対人関係に置き換えても同じことだ。

強いて言えば、彼女が言っているのは”利害一致”の下位概念に過ぎない。

「あらら。ひょっとして比企谷君、拗ねちゃった?」

「俺をギャフンと言わせるだけなら文化祭で結果を出すより、全力で邪魔しにかかった方が手っ取り早いじゃないですか…これって、これまで散々雪ノ下が苦しんできたことっすよね?ひょっとして、分かっててやってるんですか?」

「…ぷっ、アハハハハ。比企谷君、やっぱり面白い!あの劉さんが褒めるだけあるね!」

――絶対分かっててやったな、この性悪

無邪気な顔で腹を抱えて笑う彼女を見て、俺の顔に苛立ちの表情が浮かぶ。

「まぁまぁ…俺にも出来ることがあれば手伝うから。陽乃さんも手を貸して下さい。お願いします」

その様子を見ていた葉山が、俺たち二人を宥めるように割って入ってきた。

「え~。しょうがないな~。これは高くつく貸しだよ。ちゃんと埋め合わせてよね。そうだ!比企谷君、今度デートしよっか!」

「…俺じゃなくて、サボってる奴らに、頑張ったらデートしてやるって言ってやってくれませんか?葉山も手伝ってくれるなら、ドロップアウトした女子に是非そう言ってやってくれ。これ以上のインセンティブはないだろう」

俺は彼女からのお誘いを交わしながら、そう答えた。

「それはちょっと…」

「うん、ムリ」

葉山は苦笑いを浮かべつつ、彼女はニコッと百万ドルの笑顔を浮かべながら、俺からの提案を却下した。

「そっすか…残念だ」

最初から受け入れられるとは思っていなかった俺は、別段興味もなさげな声色でそう言った。

「…何か他に思いついたら、声をかけてくれ。すまない、俺はそろそろ教室に戻らないと」

葉山は部屋の壁に掛けられた時計で時間を見ると、申し訳なさそうな表情を浮かべ、会話を切り上げようとしている。

「おう」

俺の返事を受けて、葉山は会議室を後にした。

「じゃあ私は、このPC借りるね」

一間を置いて、彼女は座席に設置されたノートPCの画面を開き、申請書の作成に着手する。

現役高校生の頃は実行委員長をやっていただけあって、ログインの方法等も覚えていたのか、特段俺に質問することもないまま、その細くて綺麗な指で、手際よくPCを操作していった。

会議室には俺と彼女がカタカタと文章や数字をPCへ入力する音が響いていた。

他のグループも打ち合わせをしているが、俺たち二人の作業音以外、妙に静かに感じられるのは、俺の神経が妙に冴え渡っているためだろうか。

思えば、俺は雪ノ下陽乃という女性について、何も知らない。

彼女が、俺と雪乃の関係に終わりを告げたあの雨の日も、彼女が考えていたことは皆目見当もつかなかった。

「…俺、ちょっと休憩しに行きます。一緒にどうですか?」

何分か時間が経過した後、俺は彼女にそう話しかけていた。

そう口にして自分自身も驚いたが、これも、雪乃についての彼女の認識を知るいい機会だと思い直す。

「え?誘ってくれるの?」

「自販機ですけどね。ちょっと真面目な相談もあります」

高校の校内には流石にカフェもない。自販機の飲料を飲みながらの立ち話では、社会人がレディを誘うには若干恰好がつかない感は否めないが、仕方あるまい。

「え?なになに?お姉ぇさんに告白する気かな?気になる~」

「じゃ、行きましょっか」

彼女の戯言を無視しながら俺は立ち上がり、彼女にも離席を促した。

☆ ☆ ☆

「それで?比企谷君、相談って何?」

自販機で購入した飲み物を手渡すと、彼女はそれを受け取り、蓋を開けながら話を切り出した。

「さっきの俺からの協力要請の件です…雪ノ下に少し優しく接してくれって話なんですけど」

「…私、別に雪乃ちゃんに冷たくしてる気はないんだけどな」

俺からの言葉を聞いた彼女は、やや興ざめした表情でそう呟いた。

「あいつが貴女に対して抱えてる複雑な気持ち、理解してますよね?」

彼女の認識を確認するように、俺はそう尋ねる。

「ん~まぁね」

「あいつに必要なのは"自信"です。それを与えてやれるのはきっと貴女だけですよ…悔しいですけど」

これは雪乃と接していて感じていた俺なりの考えだ。

どれだけ雪乃が頑張っても、俺を利用してこの文化祭を成功に導いたとしても、彼女の目標であるこの人からそれを認められない限り、彼女が真に自分の力を認識することは出来ないように感じられる。

「比企谷君はあの子の問題、分かってるんだよね?それでも甘やかしちゃうのかな?…それはダメ。あの子のためにならないからね…今だって比企谷君はやり過ぎなくらいだよ。お姉ぇさん、正直、気に入らないな~」

能天気な喋り方を装ってはいるが、彼女の目つきは険しい。

「最初はお下がりでも、お揃いでもいいじゃないですか。どんな人間でも、身近な人に肯定してもらうことが、自立するための第一歩だとは思いませんか?」

いつしか彼女が言った言葉を引用しながら、俺は根強く自分の考えを主張した。

「…そういう考えか。でもダメだよ。私、雪乃ちゃんのそういう所、可愛いと思うけど、すごく気に入らない。それに身近な人間に肯定してもらえれば良いなら、その役割は比企谷君が担えばいいじゃない」

「俺からの肯定は…きっと違うでしょうね。確かに、俺は最後まで無条件であいつの味方はするつもりです。でも、俺には彼女を自分に依存させるインセンティブがある…下心って奴です。そんなのが大事な妹に近付くのを貴女は見過ごすんですか?」

「へぇ~。比企谷君がそれを自覚していないなら、引っ掻き回しちゃおうと思ってたんだけどな。君がそんなに堂々と内心を暴露するなんてちょっと意外だったかも」

「…さっきの、やっぱりそういう事だったんすね」

俺は苦笑いを浮かべながらそう言葉を返した。

俺の傀儡等と大声で言ったのも、突然デートしよう等と言い出したのも、要するにそういうことなのだ。

良くも悪くも、この人の突拍子もない行動・発言は、雪乃の為を思ってのものである。その事実が腑に落ちると、若干の安堵が生まれた。

「一つ気になるんだけど、比企谷君の雪乃ちゃんに対する優しさの裏側にあるのは本当に下心だけ?」

「どういうことですか?」

「他にも色々あるんじゃないの?例えば…後ろめたさ、とか?」

彼女のその言葉に、沙希や結衣の顔が思い浮かびハッとなる。

俺は自分の心の内も整理できないまま、今はただ、彼女たちの為に自分に出来ることをするしかないと考え、雪乃のための文化祭運営を行ってきた。

そんな行動の根底にあるのは、自分の下に彼女たちを留めておきたいという卑怯な下心だと結論付けていた。

しかし、彼女の言葉を聞いてその結論にも僅かな疑問が生じる。

俺は雪乃に、いや、3人に対する貢献を形として残すことで、やがて来るであろう、自分の望まない結果を受け入れるための、せめてもの慰めを手にしようとしていただけなのではないだろうか。

自分は最初から選択することを放棄した逃げの道を選んでいたのだろうか。

「…申し訳ありません」

心中の葛藤が膨らみ、ますます自分という人間が分からなくなる。

芯のない行動指針に基づいて、目の前の人物の大切な妹に感情だけを押し付けたことについて、俺には謝罪する以外の選択肢はなかった。

「やっぱりね」

「…これでも昔は誰かから"理性の化け物"なんて言われたこともあるんですけどね。自分自身のことすら正確に分からなくなったのは、いつからなんでしょうね」

俺は、感情を切り捨て、人間の性格特性と行動の裏にある心理的要因を見破ることだけには長けていたはずだった。

だが、後悔の底でもがきながら歳を重ね、流されるように社会的成功を求めるような生き方をしているうちに、そんな能力はすっかりと錆付いてしまったように思われた。

「ま、それでも比企谷君はよく考えてくれてると思うよ。雪乃ちゃんには勿体無い位…」

表情に影を落とした俺を見て、彼女はニタリと笑いながらそう言った。

「ホント、嫌な性格してますね、貴女は」

「そ?私はそんな自分は嫌いじゃないけどな…比企谷君のその足枷、外す方法が一つだけあるとしたら、その話、乗る?」

一転して、彼女は真剣な表情でそう尋ねた。

「足枷を外す?」

「いっそ、誰かに乗り換えちゃえばいいんだよ。私…とかね」

そう言った彼女の意図を考える。

雪乃や結衣、沙希が抱くであろう憎しみを引き受け、俺の後悔を、所詮人間の感情などその程度の物だと嘲笑うつもりだろうか。無論、それが俺にとっての救いにもなると考えた上で。

「…それは出来ないです」

「ありゃ、フラれちゃったか~」

そう言いつつ、微笑んだ陽乃さんの顔は、雪乃と瓜二つだった。心なしか、その表情には、俺の返答に対する安堵が浮かんでいるような気がした。

 

――この人もこんな穏やかな顔で笑うことがあるのか

 

俺はそんな意外感を覚えた。

「あれ?でも比企谷君、顔が赤いよ~?」

「初めて貴女と雪ノ下が良く似てるって思っただけです…本当に姉妹だったんですね」

「何それ!ひっどい!」

俺の切り返しに対し、やや大げさな身振りで抗議した彼女は、再び仮面を被ったいつもの雪ノ下陽乃だった。

「…ま、比企谷君に免じて、雪乃ちゃんの件は考えとくよ」

「頼みます」

その後、俺たちは会話も交わさないまま会議室へと戻り、作業を済ませた彼女はいつの間にか、校内からいなくなっていた。

☆ ☆ ☆

翌日、かねてより雪乃が言っていた通り、地方のケーブルテレビ局が取材にやってきた。

雪乃は戸惑いながらも、生徒を代表してインタビューを受け、今回の文化祭の趣旨について説明する。

途中、この文化祭の立役者であるとして、雪乃は俺をカメラの前に引っ張り出すという暴挙に出たが、結論を言うと、俺への取材は全面カットだった。

後に録画された放送を見ると、今回の文化祭の取組意義を語る雪乃の言葉を埋めるためのテロップに、俺の発言が引用されていた。

所詮、世が求めるのは華のある存在なのだからこれも仕方あるまい。

テレビカメラを前にした文実の面々は、やや浮足立っている様子であったが、これまでやる気のなかったメンバーが突然積極的に仕事を求めるようになったのは思わぬ収穫だった。

ケーブルテレビ局による取材の効果波及はこれだけに留まらなかった。

どこかの不届き者による番組の違法アップロード動画が、広告動画とセットになって、ネット上で騒がれ出したのだ。

【千葉】総武高校の女子生徒が可愛すぎる件

某掲示板で数多くの「名無し」が、雪乃、結衣、沙希に対する「俺のヨメ」宣言を書き込んでいるのを見つけ、俺は思わずPC画面を叩き割りそうになった。

ちなみに、これまで一部の議案に対し頑なに首を縦に降らなかった校長が、テレビ取材以降、態度を180度転換したことに腹を立てた平塚先生は、実際にPCの画面を叩き割っていた。

更に話はそれだけでは終わらない。

このネット上の騒ぎに目を付けた都内のキー局から、本番当日の取材申し込みが入ったのだ。

これを受けて、校内の文化祭に対する熱気は一気に高まった。

当初の予想に反して、今、文実の盛り上がりはピークに達している。

そして、今俺の隣にもやる気を見せ始めた一人の生徒がいた。

俺と同じ2年F組から実行委員となった、相模南だ。

「ウチ、こんな複雑な計算できるかな…」

彼女は、俺の作った会計マニュアルとPC画面と交互に睨めっこしながら、各クラスの予算案の集計作業を行っていた。

「何とかなる。お前、成績も良いしな。今までもちゃんと俺の言ったことを理解してくれただろ。会計は文化祭の見えない柱だ。こういう重要な仕事は優秀な人間にしか任せられないからな…頼りにしてる」

結衣から聞いた情報によると、相模は総合成績で学年30位程度の位置にいるとのことだった。この進学校でその順位なら、有名私立を狙えるくらいのレベルだ。

無論、彼女が理解していない点は丁寧にレクチャーし、カバーしている。

おだてて伸ばす、と言うのが今の俺の作戦だった。

「う、うん。頑張ってみる」

相模は照れくさそうにそう言うと、PCに向かい直した。

「…比企谷ってさ、なんでこんなことが出来るの?」

作業をしながら彼女はそんな疑問を口にした。

「趣味が高じて…ってところだ。別に大したことをしてるわけじゃない。大学の学祭ならこの程度のイベントは腐るほどあるしな。将来のいい予行演習になるんじゃないか?」

「そっか…」

相模は静かにそう呟いた。

☆ ☆ ☆

翌日、学校へまた一人の客がやってきた。

夏休みが明けてから、会う機会がめっきり少なくなった、総武光学の武智社長だった。

「やぁ、比企谷君、8月以来だね」

「武智社長!どうしたんですか?」

武智社長はいつもの作業服に身を包み、ニコニコした顔で俺の元へとやってきた。

「広告動画を見たマーティンさんから話を聞いたんだ。私たちも一般枠で参加させてもらいたいと思ってね」

「総武光学がですか?そりゃ歓迎しますが…、文化祭で売れるような製品はないですよね?」

「なに、私とマーティンさんの個人的な趣味さ。比企谷君や雪ノ下さんのイベントに便乗して儲けようとは思っていないよ。枯木も山の賑わいって言うし、片隅で工作教室でも開けば面白いんじゃないかと思ってね」

「工作教室?」

「そうそう。ラジオ作りとか。比企谷君も興味ないかい?」

「ラジオなんて自分で作れるもんなんですか?そりゃ、是非やってみたいですね」

童心に返ったように俺は社長の話に食いついた。

基盤のハンダ付けとか、超かっこいいし。

「高校生が少しでもモノ作りに興味を示してくれれば、私もうれしいよ。日本の…いや、世界の製造業の発展のために少しでも貢献出来れば、なんてね」

武智社長は照れ臭そうにそう言う。

実にこの人らしい発想だ。

「是非お願いします。もうブースは大方埋まってるんですが、なるべくいい場所を用意させてもらいますよ。せっかくだから、総武光学の広告も用意しませんか?今回は生徒の保護者や地域の大人だけでなく、テレビ局の取材も来ますからね。将来ローンチする製品を看板にして、張り出すってのはどうですか?」

「流石、抜け目ないねぇ。でも、公私混同にならないのかい?」

総武光学の株主の一人として、文化祭を利用してこの会社の宣伝を行うのは確かに公私混同だ。武智社長の高いモラル意識に、俺は思わず苦笑いを浮かべる。

「今は、企業出展の条件交渉は別の生徒に直接担当させてるんで大丈夫ですよ。でも、しっかり交渉してくださいね。こっちは稼ぐことに必死になってますから」

「それは手ごわい。でも、比企谷君のアイデアはやっぱり面白いね。会いに来てよかった。早速、うちの社員とファンドの方々と、このイベントをどう活用させてもらうか、話し合うことにするよ」

「こちらこそ、いいお話しが聞けて良かったです」

そう言って、俺たちは硬い握手を交わした。

この日から、文化祭の準備期間はあっという間に過ぎていった。

文実のメンバーも夜遅くまで残って、時にヒートアップして喧嘩に発展することもあったが、皆、最後まで十分な働きをしてくれた。

雪乃は俺がまとめ上げた企画・予算案に入念に目を通し、彼女のなりの視点から修正を加えつつ、営業チームの業務を連携させることで、この文化祭を見事に一つのイベントとしてまとめ上げることに成功していた。

そして今、雪乃が文実メンバーに向かって、最後のスピーチを始めるべく、教壇に立っている。

「皆さん、今日までの準備期間、本当にお疲れ様でした。今回は例年と異なり、非常に高い目標を設定しました。それを達成するために要した労力も大変なものでしたが、この場にいるメンバーと、平塚先生のお陰で、ついにここまで漕ぎ着けることが出来ました。委員長として、まずは皆さんに感謝申し上げます」

雪乃らしい、やや硬い挨拶だが、皆それに聞き入っている。

静寂に支配された会議室において、雪乃は皆の注目を一手に集めながら丁寧に言葉を発していった。

「明日からの二日間、文化祭本番は、私たちの努力の成果が試される最後の試練の時間になるかと思います。各自、心残りがないように、万全の態勢で臨むことを期待しています…私たち実行委委員は、当日も自由な時間があまりないでしょう。それについては大変申訳なく思いますが、どうか最後まで力を貸してください」

「今更何言ってんだよ、委員長」

「そうだよ。こうなったらもう絶対一昨年の実績を超えるしかないんだからさ!」

頭を下げた雪乃に対し、一部からそんな声が上がる。

「ありがとう…せめてもの対応ですが、今日は皆早めに切り上げて、一部でプレオープンしているクラスの企画を回って楽しんでください」

そう言って、雪乃はスピーチを締めくくった。

一瞬の間をおいて、会議室内に沸き上がった拍手の嵐。

今、雪ノ下雪乃という少女は華々しい成功の道を進もうとしている。

当日のキー局によるテレビ取材も雪乃に集中するだろう。

彼女の雄姿を世に知らしめることが出来れば、俺の目論見も達成される。

正に、王手まであと一歩なのだ。

☆ ☆ ☆

「ねぇ、比企谷。ちょっとだけ時間、いいかな?」

雪乃の挨拶の後、文実のメンバーは一人、二人と会議室を後にしていった。

雪乃も各ブースの最終チェックとして、校内の巡回に出て行った。

誰もいなくなった西日の差し込む会議室で、文化祭当日の会計集計のためのファイル整理を進めていた俺の元に、思わぬ人物がやってきた。

「相模…どうした?」

「あのね、ウチ、比企谷に話があって…」

俯きがち、遠慮がちに言葉を紡ぐ彼女を前にし、嫌な予感が頭に過る。

俺は、相模を見ながら、会議室のドアの外に人の気配がないことを確認した。

「比企谷さ、今回の文化祭準備、本当に凄かったよね…ウチ、同じクラスの文実メンバーなのにあまり役に立てなくて…」

「そんなことはないだろ。明日からの本番でも、まだまだ、お前にはやってもらわなきゃならん仕事は山のようにあるしな」

適当な言葉でお茶を濁すようにそう答えた。

「うん…期待に応えられるかわからないけど、頑張る」

「ああ、頼んだぞ」

会話を切り上げるように、俺は作業中のノートPCの画面をパタリと閉じ、会議室から出ようとした。

「あの!」

そんな俺の行動に効果はなかった。相模は声を振り絞るように俺を呼び止める。

「ウチ、比企谷のこと見てて…その…」

平静を装いつつ、彼女がこの後紡ぐ言葉に対し、どう対処すべきかを考え、頭をフル回転させていた。

――まさか、結衣の感が的中するとは

「好きです…ウチと付き合って…欲しい」

そう言った相模の顔を見ながら、俺はこいつとの過去のやり取りを思い出していった。

夏の花火大会の日、相模は俺と一緒にいた結衣を嘲笑するような表情を浮かべた。

男をステータスシンボルとして見るような、くだらない女だと、そう思った。

今だって、俺の文実での活動が少しばかり陽の目を浴びることとなったから、それに目が眩んでいるだけに過ぎない。

それは確かな事実だろう。

だが、不安と期待の入り混じる彼女の目を見ると、そんな風に切り捨てることがどうしても出来なかった。真剣な表情の彼女を前に、一瞬ではあるが、俺は自分の観察眼に対する疑念を抱いた。

――自分も他人も…人間の考えることなんて、本当に分かんねぇな

あの日、雪ノ下陽乃と交わした会話を思い出しながら、そうこぼしそうになるのを俺は堪えた。

「相模、すまん。お前と付き合うことは出来ない」

俺からの拒絶の言葉に対し、相模は一瞬絶望的な表情を浮かべる。

そしてそれを隠すような笑顔を張り付けて、俺に尋ねた。

「そっか…他に好きな人がいる、とか?」

「ああ…」

――それも3人も、だ

 

その事実をここで吐露して罵られれば、少しは気が楽になるのだろうか。

「…うん、わかった。邪魔してごめん。…明日から頑張ろうね。じゃあ、ウチ行くね」

そう言って会議室を飛び出すように出ていった相模の目には涙が浮かんでいた。

「…彼女への対応、貴方はあれで良かったのかしら?」

相模が会議室を後にしてから、少しして、入れ替わるように入ってきた女性がそう聞いた。

「雪乃…聞いてたのか」

思わず、俺は再び彼女の下の名前を口にしてしまった。

「ごめんなさい」

「別に謝ることはないだろ」

「…意外にショックを受けている…今の貴方、そんな風に見えるわよ」

「んなこと断じてねぇよ…もう巡回は済んだのか?」

俺は話題を切り替えるように、雪乃にそう尋ねた。

「ええ。一つだけ気になった事があって、戻ってきたのよ。貴方が立てた企画だから、問題はないのでしょうけど、念のため確認しておきたくて」

俺の心情を察したのか、雪乃はそれに応じて要件を話し出した。

「今回の企画、グラウンドもフルに活用する構成になっているけれど、雨天の場合はどうする気なのかしら?特に2日目は、天気予報では雨が降らないとも限らない状況なのよ。貴方の企画案を最終承認した時に気付かなかったのは、私としてはあまりにも迂闊だったけれど」

「あれだけ忙しけりゃ、一つや二つのミスは誰だってする」

確かに雪乃がそんな初歩的な見落としをしていたのは意外ではある。

だが、企画が練り上がるにつれて、業務負荷の比重は俺から雪乃へとシフトしていったのだ。

事実、雪乃はここ1週間、殆ど満足に睡眠も取れていないような状況であった。

今でも、立っているだけでやっとといった表情だ。

あの時のように体調を崩さなかったのは、彼女の中に明確な目標があり、それなりに楽しみながら準備に取り組むことが出来たためであろうか。

「心配するな。雨は…降らねぇよ」

「やっぱり…”知っている”というのは、この上ないチートね」

その通りだ。

だが、そんな俺にも知りたくても知り得ないことが沢山ある。

自分のこと。3人のこと。俺には何一つ、分かる気がしなかった。

そんな考えに自嘲的な笑みを浮かべると、雪乃は飛びつくように俺に抱き着いてきた。

そして間髪入れずに、彼女は自分の唇を俺の唇に重ねた。

「私だけ、まだだったから…」

顔を話すと、雪乃はそう呟いた。

「…沙希から聞いてたのか?」

俺の問いかけに対し、雪乃は無言で頷いた。

「貴方だけは絶対に渡さない。相模さんにも、姉さんにも…二人にも」

姉さんにも、というのが少しだけ引っかかった。俺の依頼に応えて、あれから彼女は雪乃と話し合ったのだろうか。

 

 

――結局、俺は知りたいことは何一つ知らないんじゃないか

 

意思のこもった表情を浮かべてそう口にした雪乃に対し、俺は何も応えてやることは出来なかった。



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27. 比企谷八幡は文化祭を成功に導く

――パァンッ!!!

誰もいない夕暮れ時の屋上に乾いた音が響き渡る。

「…雪乃」

俺は叩かれた頬に熱を感じながら目の前に立つ女性の名前を呟いた。

彼女は目に涙を浮かべながらその場に立ち尽くしている。

「…これが、貴方本来のやり方?…ふざけないで」

「…」

「何も…言ってくれないの?」

「すまん…今は、何を言っても言い訳になっちまう」

「…感情に任せて叩いてしまってごめんなさい…でも…今日はもう貴方の顔は見たくないわ」

雪乃はそう悲しそうに呟いて、俺に背を向け屋上から去っていった。

彼女とのすれ違いはこれで何度目だろうか。

――治ったはずなのに妙に痛む…畜生。

腕の亀裂骨折。

既に文化祭前には完治していた。にも関わらず、何故か再び腕がヒビ割れたような痛みを感じた。

それは、さながら治っては砕けを繰り返す、自分の脆い心のようだった。

☆ ☆ ☆

文化祭初日

俺たち文実メンバーは、会議室を拠点に入れ替わり立ち代わりで各イベントブースの視察、会場のトラブル対応、集計業務に追われていた。

これまでの入念な準備の甲斐あってか、人の入りは順調であり1日目午前中の動員数も前年比+30%と好調な滑り出しであった。

「ヒッキー、運営の方は順調?」

時刻が昼に差し掛かった時、結衣が会議室を訪ねてきた。

「おかげさまで何とかな。クラスの方はどうだ?」

「うん、お客さんで溢れ返ってるよ…シフト制で昼食の時間をもらったんだけど、ヒッキーはお昼食べたの?」

「いや、まだだ…飯か…あまり食欲もないし、雑務も溜まってるから、昼飯はパスだな」

俺の言葉に対しあからさまに残念そうな表情を浮かべる結衣を見て、俺はふっと笑みをこぼした。

「え?比企谷君、お昼ぐらい食べてくればいいじゃん。1時間位なら私たちだけで何とかなるよ。私もちょうど今済ませてきたところだし」

俺と結衣の会話に横から入ってきたのは、2年文実の田村だった。

結衣は田村に対し、恐る恐る軽めの会釈をする。すると田村もニコリと微笑んでそれに答えた。

「そういえば西岡ちゃんが、A組の企画に比企谷君を呼んでくれって言ってたよ」

「あいつの所はクレープ屋だろ?昼飯って感じじゃねぇよ」

「え!クレープ!?…ヒッキー」

「ほらほら、由比ヶ浜さんが行きたそうにしてんじゃん。早く行ってきなよ」

「お、おい。押すな」

「いいからいいから」

俺と結衣は田村に半ば追い出されるようにして会議室を後にした。

「…A組の西岡さんって、文実の子?」

 

西岡のクラスへ向かう途中、結衣は遠慮がちにそう尋ねた。

「ああ。企画の段階から田村…さっきの奴と一緒によく働いてくれてな。今は西岡も運営のシフト外だから、教室にいるのかもな。礼を兼ねて顔を出すのもアリか…」

「文実って女子が一杯いるよね…」

「いや、男女半々だから」

ジト目で何か言いたそうな表情を浮かべる結衣に対し、俺は嫌な汗をかきながらそう答えた。

☆ ☆ ☆

「いらっしゃ~い、あ!副委員長!」

俺の予想通り、2年A組の呼び子担当の中には西岡の姿があった。

「やっぱりクラスにいたのか。文実のシフト外にクラスでも働くとは、真面目だな」

「そりゃ優勝狙ってますもん。あれ?そっちの子は…F組の由比ヶ浜さん…だっけ?」

「ど、どうも!ヒッキーがお世話になってます!」

「おい、何だその挨拶は」

「あはは!委員長だけじゃないのか~隅に置けないね」

西岡が笑いながらそう言うと、結衣は睨むような眼で俺を見て、肘で横っ腹を突いた。

「いや、それは…」

「…なんか、深く聞かない方が良さそうだね。…クレープ食べに来てくれたんでしょ?どれにする?」

「そ、そうだな。由比ヶ浜、どれがいい?」

何かを察した西岡がメニューを手渡してきたので、俺はありがたくそれに乗っかることにした。

メニューはチョコ、ストロベリー等のオーソドックスなものから、マンゴー、パイナップル、ヨーグルトといった具合で、ラーメン屋のメニューのような豊富なラインナップだった。

結衣は一転し、目を輝かせながらメニューに目を通していく。

「あ、そうだ!比企谷君には特別メニューを用意するから!…メニュー見せた後でこう言うのもなんだけど、そっちにしない?たぶん一人じゃ食べきれないから、二人で一つにしたらいいんじゃないかな?」

「特別メニュー?」

「そうそう。価格も特別で2500円だよ」

「高っ!なんだそりゃ!?メニューのクレープは一個500円だろ?流石に5倍はボリすぎだろ」

法外な値段に目を丸くすると、西岡はふふんと得意げな笑みを浮かべた。

「"ずっと一定の価格で売らなきゃ行けないというルールはない” ”客層に応じて価格を差別化するとかな” だっけ?本当に参考になったよ。ありがと!払ってくれそうな人からは毟り取…適正な価格を提示しないとね」

文実で俺が価格戦略について講釈を垂れた時のセリフを、そのままオウム返しにされる。

目を細めてボソボソと喋るのは俺の物真似でもしているつもりなのだろうか。

それにしても、西岡の奴がここまで金儲けに心を弾ませるとは。

俺はビジネスモンスターの卵を孵化させてしまったのだろうか。

「ヒッキー!スペシャルだよ!限定商品だよ!それにしようよ!」

結衣は特別メニューという言葉に飛びついた。毟り取ると言いかけた西岡の言葉は結衣の耳には入らなかったようだ。

「お前らな…」

俺はげんなりするも、二人の押しに観念し、財布から2500円を出すと西岡に手渡した。

「毎度あり~!二名様入りま~す!!」 

俺と結衣は西岡に進められ、クラス内の席に着く。

「あ、ヒッキー、このクレープは私が出すから」

席に着くなり、結衣は財布を取り出そうとした。律儀なところは相変わらずだ。

「いや、いいから。それはしまっとけ」

「でも…」

「いいから。気にすんな」

俺は苦笑いを浮かべてそう声をかけた。

30代の男が女子高生にクレープを奢られるなど、これまでチマチマと積み上げてきた社会人としてのプライドが崩壊しかねない。

「なんか…ごめん。私が我儘言ったせいで…結構高いのに」

「俺も甘いもの好きだしな。どんなのが出てくるかは知らんが、お前が喜んでくれるなら安いもんだ」

「あ、ありがと」

結衣は少しだけ顔を赤くして、嬉しそうに俯いた。

そんな彼女を見て、少しだけこそばゆくなる。

「お待たせしました~」

――うげっ

A組の生徒が運んできたのは、クリームとフルーツでテンコ盛りの小さな山のような代物だった。その見た目からはクレープなのか、ケーキなのかも見分けがつかない。分かるのは、確かにクレープ5枚分の量はありそうだというだけだ。

結衣は、携帯で何枚か写真を撮ってから、勢いよく口いっぱいに頬張りだした。

その様子を見ながら俺もフォークで一口分を切り取って口に入れる。

別に不味くはないが、いかにも学校の文化祭レベルといった味だった。

――食いきれんのかよ、これ?

食べ残しを懸念しながら結衣の顔を見ると、満面の笑みで目の前のフルーツとクリームの山を切り崩しながら口に運んでいた。その口元には早速クリームが付いている。

「…付いてんぞ」

そう言いながら机に備え付けられていた紙ナプキンを手にして、俺は彼女の口元を拭いてやった。

「…ありゃ~。一つのクレープを男女でシェアするだけでも結構なハードルなのに、比企谷君って、ホント、見せ付けてくれるよね」

いつの間にか外で呼び込みをしていた西岡が店内に戻り、俺たち2人を茶化すようなことを口にした。

それを聞いた結衣の顔は、見る見る耳まで真っ赤に染まっていく。

「お前な…シェアで十分といったのは西岡だろうが」

「そうなんだけどね。もうちょっと意識して欲しいよね。ねぇ、由比ヶ浜さん」

「え!?あ、あたし!?…えっと、その…」

結衣はキョロキョロと周りを見てから、恥ずかしそうに俯いた。

店内にいた客のニヤニヤするような生暖かい視線と、一部の男子生徒による刺すような憎しみの視線が此方に集まっていた。

「…あ~、すまん。そりゃ年頃だもんな。そういうの気にするよな」

過去の高校時代、確かに男子の繊細なハートに無頓着な結衣のスキンシップにドギマギさせらるような経験をした記憶がある。だが、いつの間にかそんな形勢も逆転してしまったようだ。食べ物・飲み物の共有を通じた"間接キス"的な、そういう淡い発想が一切湧かなくなったのはいつ頃からだろうか。

――やっぱ、どう考えても平塚先生のせいだな

俺はこの場にいない恩師の姿を思い浮かべた。

居酒屋で同じ皿から料理を摘んだり、互いの飲み残しの酒を「もったいない」といって飲み干したり、あまつさえ、吸いかけのタバコを勝手に吸ったり…

別に先生とは恋人同士でも何でもなかったのだが、美人教師との定期的な交流は、俺に不必要なまでに高い女性への免疫力を植えつけていたようだ。

「「…何かオッサン臭い」」

西岡は呆れたような表情、事情を知る結衣は苦笑いを浮かべながらそう呟いた。

☆ ☆ ☆

「ヒッキー、ご馳走様!」

「…いや、しかしよく食いきったな」

絶対に食べきれないと思ったクレープは結衣によって綺麗に平らげられた。

パンパンになった腹を抱えて俺たちは2-A教室を後にした。

その足で自販機コーナーへ向かい、お茶を2本購入し、1本を結衣に差し出す。

「ありがとう…太っちゃうかな?」

心配そうな顔で結衣はそう呟いた。

「お前なら大丈夫だろ。…そういや、"前の文化祭"の時も、食パン一斤分のハニトーを二人で食ったっけな」

結衣の豊満なバストとくびれた腰を見ながら、俺は無責任な言葉を呟く。

そして、結衣と過ごした過去の文化祭の甘酸っぱい記憶を脳裏に浮かべながらそう言った。

「え?前って…」

「ああ。15年前の話だ。そん時は由比ヶ浜の奢りだったな」

「そっか…ヒッキーさ。もしその時、アタシがヒッキーに告白してたら…ゆきのんよりも先にアタシと付き合ってくれてた?」

突然の結衣の言葉に俺の思考は一瞬停止する。

「な、いきなり何なんだよ?」

「文化祭で食べ物シェアするなんて、好きな人とじゃなきゃできないし!…ホント鈍感だし!」

結衣は責めるような目で俺を見ながらそう呟いた。

「しょうがないだろ。ガキの頃の俺は色々トラウマがあったんだ。女子の罰ゲーム告白とか、男子の悪戯ラブレターとか色々やられて…人からの好意を信じるのが難しい年頃だったんだよ」

「…へぇ。昔のヒッキーって、そんなに捻くれてたの?…実際どんな性格だったのかな。結構気になるかも」

「ろくなもんじゃねぇよ…そういや文化祭の時も一騒動あって校内一の嫌われ者に…っていうか、人の黒歴史を掘り起こすの、そろそろやめてね」

「ヒッキー、自分で喋ってんじゃん」

結衣は膨れっ面でそう文句を言った。その様子が妙に可愛らしく思え、俺は彼女の頭にポンッと手を載せて髪をゆっくり撫でた。

結衣は子犬のように目を閉じながら、嬉しそうで恥ずかしそうな表情を浮かべた。

「お兄ちゃ~ん!それに結衣さん!」

不意に、元気な声を上げながら走り寄ってきた少女に背後から抱きつかれた。

俺はよろめきながら、その行動の主を確認する。

「うぉっ!小町か。びっくりした」

我が最愛の妹、小町は中学校の制服姿で文化祭の見学に来たようだった。

そして俺は小町の背後からヒョコっと顔を出しながら、遠慮がちに会釈をする男子生徒の姿を目にした。

「何だ。大志も来てたのか」

「はいっす!受験前に志望校を見て回るいい機会かと思って」

「そうか。勉強は順調なのか?」

「うっ…それは…」

俺が世間話程度に振った質問に対し、大志が回答に詰まったような表情を浮かべる。

どうやら受験勉強はあまり捗っていない様子だ。

「大丈夫だよ、大志君!大志君が小町と別の学校に行ってもちゃんと友達でいるよ!何があっても友達だよ!どこまで行っても友達だよ!」

――我が妹ながらえげつねぇな

満面の笑みで大志に止めを刺しにかかった小町を見て、俺は溜息を吐いた。

昔の俺なら、この流れに乗っかって、再起不能になるまで大志の心をへし折りに行っていたのかもしれない。

だが、大志も将来一流商社マンになる男だ。

小町が他の変な馬の骨にひっかかる位なら、こいつに頭を下げてでも、引き取らせるのが兄の役割というものかも知れない。

「と、友達…そっすか…」

――泣くな、大志。お前には明日がある…はずだ

「…異性を振り回す体質は兄妹同じなのかな…」

結衣は俺にだけに聞こえる声でそう呟いた。

「俺はここまで酷くない、と信じたいんだが…所で由比ヶ浜、川崎はまだクラスにいるのか?」

俺は話題を切り替えながら結衣にそう問いかける。大志が一緒なら、沙希と合流して学校内を詳しく見て回るのがいいと考えての事だ。

「サキサキならそろそろアタシと交代で休憩時間に入るはずだよ…そっか!じゃあ二人をアタシ達のクラスに案内するね!」

俺の意図に気が付いた結衣は、クラスまでの案内役を買って出てくれた。

「結衣さんありがとうございます!…所で、お兄ちゃんは午後から何するの?」

「文実の仕事だ。昼休憩ももう終わるからな。」

「し、仕事!?お兄ちゃんが仕事!?…小町嬉しいよ。でもなんだかお兄ちゃんが遠くに行っちゃうみたい…」

いや、お兄ちゃん社蓄だから。ブラック企業で10年近く揉まれて今じゃ完全に仕事中毒なんだよね。本当に遠くに行っちゃいかけたこともあったし、むしろ違うベクトルで心配して欲しいくらいだよ。

小町の呟きに対し、俺も遠い目で思考に耽った。

冗談はさておき、小町には文化祭準備のことは伝えていないし、奉仕部の活動のことも余り詳しく話していないのだから、グータラ兄貴だと思われていても仕方ない。

「こ、小町ちゃん?この文化祭、ヒッキーは運営の中心にいるんだよ?ひょっとして何も聞いてない?」

「えええええ!?だってこの文化祭、テレビ局が来たりするんですよね!?かつてない盛り上がりって聞いてますよ!?」

「…だからそれをヒッキー達が企画したんだよ」

苦笑いを浮かべながら説明する結衣に俺は耳打ちした。

「ま、これが昔の俺の人物像ってやつだ……結衣達のお陰で、俺も大人の階段って奴を少しは上れたのかもな」

多少の気恥ずかしさを覚えながら、そんな言葉を口にする。

急に下の名前を呼んだことに対し、結衣は若干複雑そうな表情を浮かべながらも、頬を赤く染めて頷いた。

「じゃぁ俺は文実に戻る。由比ヶ浜。昼飯、付き合ってくれてサンキューな。すまんが小町達を頼む」

そう言い残して俺は文実会議室へと向かっていった。

☆ ☆ ☆

文実の拠点へと戻ると、一部のテーブルで男子が群れを成して盛り上がっている様子だった。

「おい吉浜、それは何だ?」

俺はそのグループの中心にいた人物に声をかける。

吉浜は、つまみらしきものがいくつか付いたタッパー容器のような箱を自慢げに見せびらかしていた。

「これか?へへ、人のよさそうなオッサンと、外人のオッサンがやってた工作教室で作ったんだよ。参加費700円で、材料費込、作り方も丁寧に教えてくれるのが噂になって、いまそのブース、すげぇ人気だぞ」

よく見ると、タッパー容器にはスピーカーの穴のようなものが空いており、箱の中には基盤やLEDといった電子部品が並んでいるのが見えた。

「まさか…総武光学ブースの手作りラジオ!?」

「その通りだ。いいだろ?ちゃんと音も出るぞ」

そう言いながら吉浜が摘みを弄ると、予想外にクリアなラジオの音がその場に鳴り響いた。

それを目の当たりにしながら、男子集団から感嘆の声が漏れる。

「この会社、この間テレビで特集やってたんだってな?世界に羽ばたく千葉の中小企業ってやつ?今回も取材が入りそうな感じだったぞ」

流石武智社長。俺がわざわざ策を弄するまでもなかったようだ。

やっぱり、本来注目されるべき人なんだよな。

彼の熱意が男子高校生にも伝わっているような気がして、思わず頬が緩んだ。

しかし、吉浜の奴、これ見よがしに面白そうな玩具を自慢しやがって。羨ましいじゃねぇか。

今時ラジオなんて、100均でも買える製品だ。だが吉浜が手にした手作りラジオの無骨な外観には万単位の金を払ってでも手にしたいと思わせるような、妙なセクシーさがあった。

「…いいな。なぁ田村、俺、もう一時間休みもらっても…」

「良い訳ないでしょ!由比ヶ浜さんとクレープ食べに行った癖に、まだ遊び足りないの?」

冷めた目で男子グループを見ていた田村に対し、休憩の延長を申請するが、敢無く却下される。加えてその場で結衣と昼食に出たことをいきなりバラされたことに俺は焦った。

慌てて会議室内を見渡すが、幸い雪乃の姿は見当たらなかった。ちなみに、その場に相模の姿もなかったことにも軽く安堵している自分に気が付き、我ながら情けなくなった。

「あ?女子とクレープだぁ!?この裏切り者!って言うか死ね!」

「ひでぇなお前…死ねはねぇだろ」

吉浜の付いた悪態に対し、俺は苦笑いしながら苦言を呈した。

「ちょっと男子!いい加減に仕事してよね!!」

田村達と集計業務に勤しんでいた女子グループから、ついに不満の声が上がる。

「で、出た~男子仕事してよね奴~」

テンプレ的な女子の文句を、吉浜は馬鹿にしたようなネットスラングを交えてそう冷やかした。

しかし、今回に限ってはこの女子の苦情は100%筋が通っている。俺を含め、明らかに男子グループはサボって盛り上がっていたのだ。

「吉浜…女子を誘いたいなら、そういうガキみたいな態度は自殺行為だぞ」

「ぐっ、このヤロ!」

吉浜は悔しそうな表情を浮かべて言葉を詰まらせた。

俺の言葉を聞いた何人かの男子生徒はいそいそと持場に戻っていく。下心に素直な男子生徒の行動は微笑ましく、田村たちもその様子を見て笑顔を浮かべていた。

その後、俺達は吉浜のラジオから流れるFM放送の音楽を聞きながら、業務へ再び没頭していった。

初日終了の校内放送が流れた後も、各々が仕事に集中し、各ブースの中間決済をまとめ上げ、現金の集計を終える頃には日もどっぷりと暮れていた。

――しかし ”男子仕事してよね!” か

こんな台詞を耳にするのも、二度目の高校生活にして味わう青春の1ページって奴だろうか。

三十路男が笑ってしまう話ではある。昔の俺はこういったやり取りとも無縁だったのにも関わらず、妙に懐かしい気分になるのはなぜだろうか。

そんな事を考えながら、俺は文化祭初日の帰り道を一人、歩きながら帰宅した。

☆ ☆ ☆

文化祭二日目。

早朝、雪乃が主導した文実メンバーでの最終打ち合わせの後、俺達は再び業務へと向かった。

今日は俺の提案により、出納係を増員し、数時間置きに決済報告を済ませる方式へと転換していた。

昨日の中間決済において、現金勘定には想定以上の時間がかかることが判明したのだ。

決算報告と現金の残高が中々一致しないという問題は予見はしていたが、実際に照合するのにここまで時間を要するものだとは思ってもみなかった。

今日は閉会式で、各参加者の業績に対する表彰が行われる。

俺は、夕方4時の段階で会計報告を完了させるために、各クラスや部活、一般参加者ブースに対する、報告頻度引き上げの協力要請に回っていた。

全てのブースを回りきった頃、俺は平塚先生から声をかけられた。

「比企谷、今日は客人が来ているぞ」

「客っすか?」

「ああ。私が誘ったんだがな…君と会いたいと言っている。着いてきたまえ」

そう言って平塚先生に案内された休憩ブースにいた2名の意外な人物を見て、俺は驚きの声を上げた。

「宮田さんに槇村さん!? わざわざ千葉まで来てくれたんですか?」

「ふん、お前の教師に強引に誘われて、週末だから仕方なくな…しかし、面白そうなことをやってるみたいだな。テレビも見た。盛況じゃないか」

予想通りの捻くれた宮田さんの挨拶。一方で、予想外に彼からお褒めの言葉をいただいたことに俺は破顔した。

「ちっ、若ぇってのはいいよな。俺が高校生だったら、もっと面白ぇこと考えるぞ」

槇村さんも笑いながらそんな言葉を漏らしす。

「…いや、張り合われても困るんですけど…例えばどんな?」

俺は苦笑いを浮かべながら、槇村さんのアイデアを尋ねた。

「そうだな…まずイベント向けの証券発行をして金を集めるだろ?それでもっとバブリーなブースを増やすってのはどうだ?一口の投資額を小額に抑えれば、寄付金頼みよりもっと金が集まる。商店街の主婦に買わせれば、客足も増えて一石二鳥だ」

「証券発行って…公立高校が勝手に株やら債券を発行したら、県政から怒られるだけじゃ済まないんじゃないっすか?利息や配当を払うのだって、税務的にどうなんすか?」

「それを調べるのはお前の仕事だ。法の抜道を探すのが金融業務の醍醐味だ」

出たよ。その場の適当な思い付きで部下を振り回す、典型的なアイデアマンの丸投げ体質。

俺はこの人の部下だった時代の苦労を思い出し、顔を引き攣らせた。

「…証券がダメなら、文化祭で使えるクーポンを前売りすればいいだろう。地方のお役所がそんな細かいことまで口出しするとは思えん」

「そうだぞ比企谷。頭を使え。額面1100円を1000円で売れば生徒も主婦も飛びつくだろう。しかもクーポンは使われなきゃ丸儲けときたもんだ」

槇村さんは宮田さんのアイデアに乗っかっただけのようにも見えるが、この考えは来年以降の文化祭運営で使える可能性がある。

俺は感心しながらメモを取り出し、彼らのアイデアを書き留めた。

「ハハハ、良かったな比企谷。一介の高校教師の私には君が興味を持った分野について教えられることが殆ど無くて、歯がゆい思いだが…この二人なら、やはり君でも思いつかないことを思いつくんだな」

「平塚先生…そんなことは…」

俺は嬉しそうに微笑む恩師を見て、若干の申し訳なさを覚えた。

「ま、宮田に感謝だな。前の会社にいたら、こんな面白ぇガキには会わなかっただろうし」

「前の会社?」

不意にそんな言葉を口にした槇村さんを見る。

「…槇村は問題を起こして邦銀をクビになったんだ。で、僕のつてでウチに転職してきたという訳だ。転職組なんて、外資じゃ珍しくもないがな」

「え!?槙村さんってプロパーじゃないんですか!?ってかクビって!?」

俺は自分が長年仕えた上司の経歴を、全く知らなかったことに気付く。

そしてその破天荒ぶりに思わず驚きの声を上げた。

「おい、適当言うなこの腐れ目!出世が見込めなくなったから、自分から見切りをつけただけだ!」

「…ふむ、転職か。公務員の私は余り考えたことも無いが、参考までに何があったのか教えてもらえないだろうか?」

平塚先生は幾分興味を持った様子で槇村さんにそう尋ねる。

「平塚さんまで乗っかってくんのかよ……当時、俺が勤めてた銀行には”ガラスの天井”を突き破って、初の女性役員になったおエライ方がいたんだ。その役員様を連れての海外出張でミスしたんだよ」

観念したような表情で語りだした槇村さんに3人の注目が集まる。

「ミスって、どんな?」

俺は次の言葉を促した。

「出張行程に組み込まれてた、取引先玩具メーカーのベトナム工場視察…そこはOEMでうちの取引先以外にも色んな企業から製品製造を受託してる現地企業の工場だったんだが、事前の調整ミスが大惨事を招いたんだよ…もう充分だろ!」

気になるところで話を中断する槇村さんの煮え切らない態度に、若干苛立ちを覚える。

宮田さんを見ると、いつも通りの冷静な表情を浮かべているかと思いきや、肩を小刻みに震わせていた。きっと、その話の続きを知っているのだろう。

「いやいやいや、気になりますから」

俺の催促に対し、槇村さんは"ちっ"と舌打ちすると、気まずそうに平塚先生の顔をちらりと見て、小声で説明を続けた。

「…見学に入った製造ラインで大量のコケシが流れてきたのさ…そのババァがヒステリー起こして、ご機嫌取りに必死になる管理職にはスケープゴートにされる始末だ。その出張、翌日にはシンガポールへ移動する予定だったんだが、俺だけ完全に梯子を外されて、ベトナムの僻地に置いてけぼりだぞ……あれは…悪夢だった」

「…そりゃ、ご愁傷さまです」

ババァって…そりゃ、あんたが悪いわ。

しかし槇村さんが出張準備に関して、あれだけ口酸っぱく俺に指導したのは、こういう苦い経験があったからなのだと思い当たる。

長年、出張に関しては細かい所に拘る迷惑な上司としか思っていなかった認識は改めねばなるまい。

「ん?それで終わりか?…コケシの何がいけないんだ?…それにしても、"産業の空洞化"なんて言われる時代だが、今は民芸品まで海外で作る時代なのか…」

「「「……」」」

――おい、アラサー独身女。マジで言ってんのか。ピュアなのか。

不思議そうな表情を浮かべてピントのずれたことを呟く妙齢の美女を見て、俺達三人は唖然となった。

☆ ☆ ☆

「13時の集計、終了しました!!」

文実女子生徒の元気のいい声が会議室に響き渡る。

経理照合は今回の文化祭の最大の難所と化している。これは本日2度目の集計だった。

「…報告です。現段階の暫定利益金額が一昨年の記録を超え、総武高文化祭で歴代最高となりました!!」

その報告に、会議室は静まり返える。

「「「「うぉぉぉぉおおおおおお!!!!!」」」

一瞬遅れて、はじけるような歓声の声がその場に鳴響いた。

抱き合って喜ぶ女子生徒、雄叫びを上げる男子生徒、各々が喜びの感情を表現していた。

これは暫定報告だが、例外的なごく一部の企画を除き、これ以降のタイミングで費用の追加計上を予定しているブースはない。つまり、今年の文化祭における最低見込利益金額が現段階でほぼ確定したのだ。

それはすなわち、今年の文化祭運営にて設定した"陽乃さんの実績を上回る"という当初目標の達成を意味していた。

俺は携帯を取り出すと、会場運営で外回り中の雪乃へ電話を掛けた。

雪乃はワンコールで電話に出た。

『比企谷君、どうしたの?…やけに周りが騒がしいみたいだけれど?』

「おめでとさん。13時の暫定決算を以て目標達成が確定した…ようやく超えられたな…お前の姉さんの実績」

『…そう。報告ありがとう…会場運営でも問題は起こっていないし、今年の文化祭はこれで何とか成功かしら』

「やけにあっさりしてんな。嬉しくないのか?」

『嬉しいわよ…今も小さくガッツポーズするくらいにはね。でも、電話越しに一人で喜んで騒いだら、恥ずかしいじゃない』

「…可愛いな、お前」

『馬鹿なことを言ってないで、最後の集計…よろしく頼むわね』

「ああ」

俺は、そんな雪乃とのやり取りに笑みを浮かべて通話を切った。

目標の達成と、現状スケジュール通りに業務が進んでいることに安堵の溜息を吐いた。

――さて、と

先ほど雪乃が言った通り、俺たちは今回の文化祭の最終結果報告のため、これから夕刻にかけて、再び会計決算業務に取組むことになる。そうなればチームは再びフル稼働だ。

おれは束の間の休憩のため、自販機で飲み物でも買おうと思い、席から立ち上がった。

「あの、比企谷さん。ちょっとだけ時間いいですか?」

そんな俺の前にひょこっと現れて、遠慮がちに声を掛けてきた女子生徒が一名。

俺と雪乃を除いた、今回の文実のMVP候補である1年生メンバー劉海美だった。

「どうした海美?…っていうかお前、営業チームで当日は会場運営担当だったのに、急遽こっちに入ってもらうことになっちまって悪いな」

「いえ、文実の仕事ですから。それより、今日は兄が来ているんです。実は兄は明日帰国するんですが、最後に比企谷さんに挨拶したいと言っていまして…」

「明日!?」

俺は海美の言葉に驚きの声を上げる。

そして前回彼と会った、花火大会の日のことを思い出した。

――そういえば、あの時、もうすぐ帰国するって言っていたな

上海で事故に巻き込まれたあの日も、彼の留学期間は半年程度だったと言っていた。

その事実を思い返すと、一抹の寂しさを心に覚えた。

「劉さん、何処にいるんだ?」

「廊下で待ってますよ」

俺の質問に対し、海美は笑顔でそう答えた。

「…劉さん。すみません。今日が帰国の前日なんて全然知らなくて…結局自分からまともに挨拶に行くことも出来ませんでした…」

廊下へ出た俺を待っていたのは、いつも通りのヘラヘラとした表情を浮かべた劉さんだった。

「いえいえ、気にしないで下さい…今日はこれまで調べた陽乃さんや雪乃さんのご実家のことについて、ヒキタニさんへ情報共有しておこうと思いましてね」

「!?…すみません。本当に、ありがとうございます」

あの日、花火大会の会場で出会った時、確かに劉さんは、雪ノ下家の事情を探っていると口にした。

本来であれば、雪乃の実家の問題について調査するのは俺がやるのがスジだったはずだ。

それが、夏休み明けからの忙しさにかまけ、俺にはここまで何もすることが出来なかった。俺はそんな自分を恥じた。

『咱们讲中文好不好? 他人に聞かれてはあまり宜しくないでしょうから』

『…好的』

劉さんは気を遣って、中国語で情報交換をすることを提案し、俺はそれに同意を示す。

『雪ノ下建設の業績については、今のところ非常に堅調なようです。ただ、何点か気になる動向がありましてね』

『気になる動向?』

『はい。どうやらここ数年、中小建設会社の買収・合併を繰り返しているようなんです。それに加えて、お父上個人が、そういった弱小建設会社のオーナーへの個人的な貸付まで行っていると…陽乃さんも余り詳しいことは知らないようでしたが、これは彼女から聞いたことなので、それなりに信憑性が高いでしょう』

――弱小建設会社のM&A?規模を拡大して上場でもするつもりか?

俺は頭に浮かんだそんな疑問を即座に否定する。

俺の知る限り、今後15年内に、雪ノ下建設が上場するという事実はない。

『買収の目的が不透明ですね。技術力のある企業や業績の良い企業を傘下に治めてるんですか?それに、個人で融資って…』

『それも調べましたが、どうやらそう言う訳でもないようです。建設業界には外国人労働者も多いですからね。在日中国人のネットワークには、雪ノ下建設に買収された建設会社に勤める知人もいたんですが、彼らの話を聞く限り、経営がジリ貧な企業であっても、手当たり次第に買収に動いているといった印象です』

『そんなことまで良く調べられましたね…』

『まぁ、偶然そう言うツテがあったと言うだけの話ですよ…それに買収した子会社を通じて、海外のコモディティ・デリバティブ投資向けのビークルを設立しているとか』

『…投資ビークル』

――海外投資にかかるオフショアビークル設立と節税スキーム

夏休み、葉山の自宅で見かけた書類のタイトルを思い出す。

『子会社の建設資材の仕入にかかるヘッジ目的なんでしょうか?…いや、今は鉄鋼を始め、建材はグローバルに値崩れが起きてますし…将来の値上がりに備えると言っても、弱小建設会社がわざわざデリバティブに手を出してまでヘッジに乗り出すなんて考え難いですよね』

『…雪ノ下建設の指示による投機目的、と考えるのがスジでしょうね。投資対象の商品種類も、どうやら建材だけでは無いようですし。しかし、未公開企業の事業戦略を外から眺めてもやはり掴める情報には限りがありました。力及ばずですみません』

『とんでもない。何から何までこちらこそ申訳ないです…』

『いえいえ…そうだ。これは有益な情報かどうかわかりませんが、雪ノ下建設の企業買収については、いつも同じ欧米系の投資銀行がアドバイザリーに付いているようですよ。確か――――』

『!?』

『おや?心当たりでも?』

『…はい。ここからは自分にもツテがありそうです。本当に、ありがとうございました』

『そうですか。それは良かった…中国に戻ってしまえば、お手伝いできることは少なくなるでしょうが、これからも何か分かれば連絡します。…いつか、大きな仕事を一緒にしましょう。これからも、よろしくお願いします』

そう言って微笑む劉さんと、手が痛くなる程の強い力で固い握手を交わした。

再開後に大した交流をしたわけでも、上海の一件の礼がきちんと出来た訳でもない。

そんな俺のために、この人はどうしてここまで親切にしてくれるのだろうか。

いつの日か、この人が出世して再び副市長になった日に、今度こそプロジェクトを完遂したい。俺は強くそう願った。

そして、雪乃の実家の問題について俺は決意を新たにする。

劉さんが名前を挙げた、投資銀行。

それは正に、俺が未来の世界で何年も勤めていた会社の名だった。

☆ ☆ ☆ 

「おい!集計まだなのか!?」

「ちょっと待ってよ!まだ4クラス分もあるんだよ!手伝ってよ!」

その後、再び会議室に戻った俺を待っていたのは、怒声の飛び交う、阿鼻叫喚の地獄だった。

13時の暫定報告以降も俺達総合企画グループは連携して会計処理を進めてきた。

途中、雪乃が指示する営業グループに対して追加の支援要請を出しつつ、何とか処理を間に合わせようともがいたが、時刻が16時に迫った現段階に至っても、現金残高と収支勘定が一致していなかった。

閉会式の結果発表まで時間が無いのに、最終集計が終わらない。

そんな状況に焦りを感じた文実のメンバーの雰囲気も次第に険悪になっていく。

「みんな焦るな。13時までの段階でエラーは無かったはずだ。照合するのはここ3時間で上がってきた報告だけだ。落ち着いてもう一度やるぞ」

そんな俺の声掛けなど、まるで伝わる様子も無く、皆が慌てふためいていた。

「何で!?…4回も計算しなおしてるのに、現金と一致しない!!どうしよう!!」

会計の統括を任せていた相模がここへきて、パニックを起こしだした。

こんな雰囲気の中で作業を強制されれば無理も無い話だ。

「相模…大丈夫だ。最悪、13時までの暫定決算を元に結果発表をしても問題はない。焦るな」

そう言って、相模の肩を軽く叩く。

「比企谷…」

相模はうっすらと目に涙を溜めて俺を見た。

「念のため結果発表班は、暫定報告で順位付けと表彰が出来る体制を整えてくれ!それから、今現在の全体の差異金額はいくらだ?」

俺はもう一度、大き目の声で指示を飛ばし、状況把握のための質問を投げる。

「全体で7万円も現金が足りないんだよ!…こんなのおかしいよ。13時までの集計はここまで金額がズレる事なんて無かったのに!」

誰かが俺の問いに報告の返事をしながら、皆の焦りを助長するような声を上げた。

「おい…まさか、誰かが現金抜いたんじゃねぇのか!?」

「お、横領かよ!?」

――根拠のない憶測で勝手にモノを言うんじゃねぇよ!

パニックがパニックを呼ぶ。くだらない憶測を元に誰かに現状の責任を擦り付けようとするメンバーが現れた事に俺は苛立ちを覚えた。

「13時の暫定決算、委員長まで回してるんだろ!?委員長は何処にいるんだよ!?」

13時の最終照合は俺が行っている。

雪乃はあの電話の後、会場回りから一時的に会議室に顔を出し、形式上の確認印を押しただけで、決済業務とは何の関わりも持っていなかった。

彼女は彼女で、此方の班にメンバーを遣して戦力ダウンとなる中でも、会場運営の業務を必死に回していたのだ。

今、雪乃をここに呼びつけても何の意味も無いことは明白だった。

「委員長、今、テレビ局のライブ中継でインタビュー受けてるって!」

「何なんだよ!?一人だけいい顔して、こんなのおかしいだろ!!」

「私、無理やりにでも引っ張ってくる!」

――おい、ちょっと待て!

テレビ中継は元々俺が計画したことではない。だが、これはあいつにとって、今回の文化祭の成功を象徴するような一大イベントだ。

雪乃の前に開きかけた道を、こんな連中に土足で踏みにじられてはたまらない。

「お前ら、いい加減に…」

「みんな、ちょっと待ってよ!落ち着いてもう一度、もう一度だけやってみようよ」

目前で繰り広げられる茶番を阻止するため、俺が再び声を上げようとした所、相模が必死な表情で皆に呼びかけた。

「お前が何回やっても勘定が合わなかったんだろうが!」

「そうだよ!もう閉会式に間に合わなくなるよ!」

相模が見せようとしたその小さな勇気は、場の雰囲気に押しつぶされようとしていた。

今、みっともなく騒ぎ立てている連中には冷静に事態の解決を図る気概も能力もない。

ただ、振り上げた拳を下ろす場所が欲しくて、子供のように喚き散らしているだけだ。

そして、その拳の向かう先は雪乃から相模へと移りつつある。

相模はそんな状況に耐え切れなくなり、とうとう涙を流し始めた。

文化祭当日、最後の集計業務の失敗。これは明らかに俺の采配ミスだ。

雪乃は今回の文化祭に心血を注ぎ、全身全霊の努力によって成功を掴もうとしている。

相模は途中から見せた頑張りによって、初日と今日の暫定決済までの責務を全うした。

であれば、この場の責任を取るべき人物は俺しかいない。

過去の文化祭で、問題解消のため、相模に対して悪意をぶつけた記憶が鮮明に蘇った。

――俺は俺のやり方で、正々堂々、真正面から卑屈に最低に陰湿に…か、上等だよ。やってやる

「…おい、お前ら。俺達が今回の文化祭で一体どれだけの金を動かしたと思ってるんだ?今更、数万程度の誤差でピーピー喚くんじゃねぇよ」

「「「「なっ!!??」」」」

俺の発した言葉に反応するかのように、その場にいた全員が静まり返る。

「現金の勘定はもういい。収益の報告に合わせて結果報告を作成しちまえ。差額は俺が一先ず建替えてやる」

そう言って、俺は自分の財布から7万円を取り出し、乱暴に机に叩き付けた。

「「「「……」」」」

俺の言葉にその場が静まり返る。

「ちょ、ちょっと待て!何でお前がそんな大金持ってんだよ!?」

そんな静寂を打ち破る用に、誰かが疑惑の声を発した。

まぁ、高校生がいきなり財布からこんな金を取り出せば、誰もがそう疑問に思うだろう。

「まさかお前…委員長とグルになって…」

これも想定通りの反応だ。

「は?グルになって何だってんだ?」

俺は自分の持てる限りの眼力でその生徒を睨み付ける。

その生徒は押し黙るが、その目には憎しみの炎が宿っているのが見えた。

「今回の文化祭…いや、お前らを使ったこの実験、俺は大いに楽しませてもらったよ。この金はその礼だ。烏合の衆なりに、俺のキャリアアップのために、よく尽くしてくれたもんだ。無論、雪ノ下の奴も含めてな。神輿は軽い方がいいって言うだろ?上から下まで、ここまで俺の言うなりになって動いてくれる組織は、正直心地良かったぞ」

あいつだけには、雪乃だけにはこの悪意の矛先を向けさせる訳には行かない。

俺はそう言いながら醜く口元を歪ませた。

「てめぇ!!」

その場を煽るだけ煽った俺に向かって、一人の男子生徒がつかつかと歩み寄ってきた。

――ドカッ!!

俺は胸倉を掴まれ、そのままの勢いで、壁に押し付けられた。

「カハッ!」

背中が壁にぶつかった衝撃で、肺の空気が一揆に外に漏れる。

「そんな…嘘でしょ、比企谷!?」

――そんな目で俺を見るんじゃねぇよ、相模。お前を助けるのは雪乃のオマケとしてだ

一瞬咳込んで掠れかけた視界に入った、相模の祈るような表情を見て、心の中でそう呟いた。

「はっ、最初はどうしようもなく使えないと思ってた連中が、最後は高々数万円のために、ここまで熱くなるとはな。予想外に成長したんじゃねぇか?Win-Winってのはこのことだな」

――バキッ!!

更に悪態をつくと、その男子生徒が振りぬいた拳に思い切り殴りつけられた。

会議室内に、女子生徒の悲鳴が響いた。

その場に限りなく重たく、気まずい空気が流れる。

「…気は済んだか?」

その男子生徒は、俺の問いには答えない。

自分が思わず暴力を振るってしまったことに呆然となり、立ち尽くしていた。総武高校は進学校だ。きっと彼も自らの将来を傷物にする行いをしたことを後悔しているのだろう。

「…ならさっさと持場に戻れ。見てるお前らもだ。早くしろ」

その生徒に対する慈悲という訳ではないが、俺は何事も無かったかのように、無言で立っていた少年を押しのけ、自席に戻ると再集計のためにPCを開いた。

 

だが、俺の腕は横からやってきた別の男子生徒に引っ張り上げられた。それは、先程まで黙って俺達のやり取りを見ていた吉浜だった。

「いや、比企谷は俺と保健室だ…。西岡、田村!悪ぃけど、再集計の取仕切りは任せた」

「「う、うん!」」

吉浜の指示により、文実のメンバーが最後のトライに向けて動き出した。

先ほどまでの焦りが嘘であったかのように、無機質に、冷静に、一丸となって業務に取り組みだしている。

――結局、陽乃さんの言った通りになっちまった

最後に集団を一つにまとめたのは、紛れも無く、俺という明確な敵の存在だった。

☆ ☆ ☆

「…お前何なの?マジでアホなの?」

俺は吉浜に強引に腕を引っ張られ、保健室に連れて行かれた。

吉浜は俺を乱暴に椅子に座らせると、開口一番、呆れた表情でそう言った。

「あ?何がだよ?」

「現金ゴメイになるまで帰れると思うなって、昨日言ったのはお前だろうが。あんなクソみてぇな演技に騙される奴もどうかと思うけど……ほら、口あけろ。あ~あ、ぱっくり切れてやがる」

そう言いながら、吉岡は消毒液の染込んだ綿をこれまた乱暴にピンセットで俺の口に突っ込んだ。

「フガ!!痛、イッタ!!…おい、その消毒液、外傷用なんじゃないのか?口に入れて大丈夫なのかよ!?」

「んなこと俺が知るか!治療はお前を会議室からつまみ出すための口実だ。ったく、もしあいつが手を出さなかったら、俺が変わりに殴りでもしなきゃ収拾つかなくなってただろ」

「…あれが一番効率的なやり方だ」

「はぁ?カッコつけんなよ…お前、あいつのこと利用したんだろ?なら停学処分にならないように、責任持って平塚先生に根回ししてやれよ」

「私に何の根回しをするって?」

「「…先生」」

ガラガラと保健室の扉を開いて入ってきたのは平塚先生だった。

「まったく、君達が最後に問題を起こすとは、頭が痛いよ…話は全部聞いたぞ。集計も西岡と田村が中心になって無事に終わらせたよ。原因はクラスサイドの報告ミスだったそうだ。相模が気付けなかったのも無理は無い。ほら、比企谷」

そう言って、先ほど俺が机に叩き付けた現金を手渡す。

「全く、学生がこんな大金を持ち歩くなんてけしからんな…今頃雪ノ下が閉会式で結果発表を行ってるだろう。君達が無事に集計した最終結果のな」

平塚先生はそう言って微笑んだ。そして、俺の肩に手を置いて語りかける。

「今回の文化祭、結果的に君の尽力は大きかった。だが、素直に褒める気にはなれない…誰かを助けることは、君自身が傷ついていい理由にはならないよ」

「いや、別に傷つくって程のもんでも…」

気付けばまた繰り返している。この会話も15年越しのデジャブだ。

十以上も歳の離れたガキ共に、今更何を言われようと、どう思われようと俺には何のダメージもない。

そのはずなのに、恩師の言葉は俺の胸を抉る様に心に突き刺さった。

「例え君が痛みに慣れているのだとしてもだ。君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいることにそろそろ気付くべきだ…君は」

「…俺は痛ましく思うっていうか、イタい奴だなぁって思ってるけどな」

「うっせぇよ。そこは痛ましく思っとけ…さっさと仕事に戻るぞ」

横から茶々を入れた吉浜に毒づくと、俺は椅子から立ち上がった。

「はぁ?お前まだ働く気?…後のことは俺達に任せとけ」

「ハハハ、君達はちゃんと青春してるじゃないか」

「「どこが?」」

不覚にも吉浜と言葉が重なったことに、俺は気恥ずかしさを覚えた。

ふと壁に掛けられた時計に目をやる。

こんなやり取りをしている間にいつの間にか閉会式終了の時刻となっていた。

その瞬間、俺の携帯が音を立てて振動した。

【比企谷君、少し話があるから。屋上で待ってます】

差出人は雪乃だった。その短いメールを見て、俺はうっと息を飲んだ。

「…これは仕方あるまい。奉仕部部長にこってり絞られて来るといい…しかし、生徒が勝手に屋上に上がるのは問題だな…鍵はどうなってるんだ?後で対策をしないとな」

「何々?え?委員長から呼び出し?告白?告白か?」

「…そんないいもんじゃねぇよ。こりゃ…絶対怒ってるな。ってか、お前、人のメールを何盗み見てんだよ?平塚先生も止めてくださいよ!」

俺は悪戯が親にバレた少年のようなブルーな気分で屋上へと向かっていった。

☆ ☆ ☆ 

「ブハハハハ!こいつは傑作だ!そんだけのヒールっぷりをぶちかました挙句、委員長の子に平手打ちされて超ブルーってか!?」

俺は今、学校近くの居酒屋で平塚先生、槇村さん、宮田さんによる文化祭のミニ打上げに同席している。

元々平塚先生は、この二人と今日の飲み会を予定していたらしい。先生が酒の席で文化祭の一連の出来事を二人にこぼした所、急遽、俺を呼びつけて更に詳しい話を聞き出そうという運びに相成ったようだ。

――くそ、人の不幸を酒のつまみにしやがって

俺は不貞腐れた表情でウーロン茶に口を付ける。

が、口内裂傷の痛みに耐えかねて、顔を歪めた。

「…おい槇村。その辺にしておけ。こいつ、とうとう泣き出したぞ」

「いや、泣いてませんから!口の中が痛いんですよ!」

「そうだったのか。それは見くびってすまん…あ、店員さん。注文追加を…タコわさ、キムチ、イカの塩辛…あと、スパイシー唐揚」

「鬼!?」

俺の必死の訴えに一言だけ謝罪すると、宮田さんはわざわざ刺激物系のメニューを丁寧にピックアップして注文した。

表情には出さないが、内心、俺をイジって楽しんでいることが丸分かりだった。

「…二人とも、私の生徒を可愛がるのはその辺にしてくれ」

「平塚さんに止められちゃ仕方ないな……おい比企谷、良く聞け。俺らのような人種は常に合理的な判断が求められるんだ。金融業界を志望するなら、最後まで冷静さを失うことは許されん。そういう意味じゃ、今日のお前は完全に不合格だ」

先程とは一転して、槇村さんは冷徹な目で俺を見据える。

「…分かってますよ。今日のアレは、別に冷静さを失っての行動じゃありません。効率を重視した結果です」

俺はその視線にまともに目を合せられないまま、言い訳がましくそう述べた。

酒の席で槇村さんから説教を食らうのはしょっちゅうだったが、まさかこの時代に戻っても怒られる事になるとは思いもしなかった。

「どこが冷静だ。お前も一旦は暫定決算結果でその場を凌ぐ案を思いついたんだろう?どうしようもない場合に次善の策を選択するのは常識だ。それを敢えて、自ら経歴を汚す可能性のある行動を取ったのは何故だ?今回現金集計が無事に決算内容と合致したのは結果論だ。いくら僕達が将来お前をこの業界に誘いたいと思っても、学生時分に横領をしでかした疑いのある人間を企業がおいそれと雇えると思うか?起業するにしてもそれは同じだ。そんな人間が立ち上げた会社と取引する企業はない」

「…うっ、そ、そうですね」

宮田さんの正論による波状攻撃で俺はぐうの音も出なくなる。

「金融マンが自分の経歴に進んで汚点を付けに行くなんてのはご法度なんだよ。それが如何に人の為とはいえな。悪意のある相手に足元を掬われれば、所属する組織だけじゃなく、関係する取引先、市場関係者、全てに迷惑をかけることになるんだぞ。これもコンプラだ!良く覚えとけ。このドアホ!」

槙村さんはそう言いながら、ちらりと平塚先生の方を見る。

確かに、あのまま決算集計が現金残高と一致しなければ、俺には間違いなく横領の疑惑が掛けられていたことだろう。そしてその場合、その監督責任を問われるのは、間違いなく平塚先生だ。

彼女は、その可能性に関しては一言も言及せず、ただ、俺の心配をするような言葉を俺にかけてくれた。俺の配慮不足、と言う指摘に関して反論の余地はない。

「…反省します」

二人の説教を受けて、俺は本当に涙目になった。

「…比企谷、散々だな。だがこれも良い薬だ。どうやら私からの説教より、よっぽど効くようだな」

平塚先生はすっかり萎縮した俺を見て、苦笑いを浮かべる。

「ったくよ…ま、お前も若いなりに金融を齧る人間なら分かると思うから言うけどな。俺らのような人間でも冷静さに欠いちまう状況ってのには、いくつかのパターンがある。プレッシャーに押し潰されかけた時か…あるいは、成功や女に目が眩んだ時だ。今日のお前は、果たしてどっちだろうな?」

ニヤニヤしながら槇村さんがそう口にした。

「…後者だな。聞くまでもない」

宮田さんが焼酎を口にしながら、その質問に勝手に答えた。

「何!?女!?まさか、比企谷…君は雪ノ下と…」

「ちょ、っちょっと!もう反省したんで、そろそろ勘弁してもらえませんか!?」

平塚先生から余計な詮索を入れられる前に、俺はこの会話を無理やり打ち切らせようと声を上げた。

そんなタイミングで平塚先生の携帯が振動する。誰かから着信があったらしい。

『あ、平塚先生!?今日、文実で何があったんですか!?…ゆきのん、目を真っ赤に腫らして、すごく落ち込んでるみたいで…でも泣いた理由もあまり話してくれないんです…どうしたら良いのか…』

先生の携帯から漏れてくる結衣の声に俺は身を硬直させた。嫌な予感がし、カバンの中に放り込んでいた携帯を手に取ると、結衣や沙紀からの不在着信と未読メールが溜まった状態になっていた。

無言でその画面を平塚先生に見せると、先生も困ったような表情を浮かべた。

一方、宮田さん、槙村さんはこれまで見せたこともないようなニヤケ顔を見せる。

「…由比ヶ浜、それは比企谷がやらかしたせいだ…雪ノ下は大丈夫なのか?」

『今サキサキと一緒にゆきのんの家にいるんです。ゆきのんは、ちょうどお風呂に入ってますけど…それよりヒッキーのせいって、どう言うことですか?』

「…まぁ話すと長くなるのだが…」

その後、平塚先生は今日の一連の出来事をかいつまんで由比ヶ浜に説明していった。

『…ヒッキーは今何処にいるんですか?』

それを聞くなり、結衣は怒気を孕んだ声で先生にそう尋ねた。

「安心したまえ。私と、他の大人2名に囲まれて反省会の真っ最中だ…彼も自分を傷付けるような真似をして雪ノ下に心配をかけたことを、泣きながら後悔している所だ」

「泣いてねぇ!」

「「プッ、クククク…ハハハハハ!!」」

最早意味のない抵抗を試みた俺を指差して、腹を抱えて笑う社会人男性が2名。本当にロクなもんじゃない。

『ゆきのんは "助けてくれたヒッキーに対して身勝手な対応をした"って、一言だけ言ってました…そういう事だったんですね。でも、ヒッキーに伝えて下さい。私もサキサキも、今、本当に怒ってますから!!』

「…ああ。伝えておくよ…ところで明日から二日間は文化祭の代休で休校日だ。教師としてこんなことを頼むのは気が引けるが、もし親御さんから許可が出るのであれば、今日は雪ノ下の家に泊まってやってくれないか?」

『アタシもサキサキもそのつもりです』

「そうか。助かるよ。それではお休み…」

「ダハハハ!!ヒッキーって、お前!!そりゃお前のことだろ、比企谷!」

平塚先生が通話を終了した瞬間、槙村さんは堰を切ったようように笑い転げた。

このあだ名がそんなに面白いのか。この人、既に相当酔っぱらってるんじゃないだろうか。

「ブフッ…ムグッ…ゴホッゴホッ…失礼。今の会話から比企谷を取り巻く女性関係を整理すると、電話の主である由比ヶ浜、その友人であるサキサキ?、それから今回委員長を務めたゆきのんこと雪ノ下…この三名と言う事であっているのか?」

「わざわざ整理しなくて良いですから!」

俺は元上司の無駄に高い情報整理能力に対して悪態を付く。

「…ちょっと待て。そういえば雪ノ下って苗字、聞いたことあるような…あ!総武光学をウチのVCファンド運用チームに紹介した時の来客リストにあった名前じゃねぇか!宮田、もう一回全員の名前頼む」

そう言うと、槙村さんは懐からスマートフォンを取り出してネット上で検索を始めた。

「雪ノ下に由比ヶ浜…もう1人はアダ名しか分からんがサキサキとか言っていたな」

二人のその行動力に、俺は頭を抱える他なかった。

【やっはろー!千葉県立総武高校の文化祭へようこそ!】

テンポの良いBGMとともに、結衣のよく響く可愛らしい声が槙村さんの携帯から流れ出した。早速動画サイトで総武高校文化祭の宣伝動画を見つけ出したらしい。

槙村さんも宮田さんは値踏みするような顔で動画に見入っている。

「…ああ、これはちょうどこの3人で撮った文化祭の広報動画だ。実は彼女たちと比企谷を含めた4人で、奉仕部という部活をやっていてな。私はその顧問なんだ」

ニコニコと笑いながら平塚先生は自慢げに、彼女たち一人一人のことを2人に伝え出した。

「…先生まで、余計なことを…」

「奉仕部…なんか卑猥な響きっすね。しかもなんだ、3人ともえらく器量が良いな…へぇ、この子がお前をぶっ叩いた雪ノ下ちゃんか!おいおい、こりゃどっちかって言うとご褒美じゃないのか!な、ヒッキー!」

――発想がオッサン過ぎるし俺にそんな趣味ねぇよ。あとヒッキー言うな

平塚先生も槇村さんのセクハラ発言に若干渋い顔をしている。

「で、比企谷…どれが本命なんだ?まさか全員手籠めにしているのか?」

「…いや、その」

二人の遣り取りを横目で聞いていた宮田さんの突然の問いかけに対し、一瞬答えに窮する。

その一瞬の狼狽を、やはり三人は見逃してはくれなかった。

「おいおいおい、マジかよ…」

「度し難いな…」

「比企谷…これ以上問題を起こすのは勘弁してくれ。私の監督する部活で不純異性交遊は絶対に認めんからな」

――誰か俺を開放してくれ…

そんな俺の心の声は誰にも届かなかった。

その後も社会人3名が、実は同年代のアダルトチルドレン1名をイジリ続ける会は続く。

平塚先生は途中まで、槇村さんが口内のアルコール消毒・燻煙消毒等と言って俺に酒やタバコを勧めるのを必死で阻止する等、教師としての立場を保っていた。

しかし、話題が投資談義・政治経済談義に移ると、話題に乗れなくなってしまった先生は大人しく手酌を始め、いつの間にか一人、ベロンベロンに酔っぱらってしまった。

 

そして、その後始まった宮田さんへの露骨な求婚アピールと、反応に窮する宮田さんの姿を見て、俺は多少なりとも溜飲を下げることができた。

気付くと時刻は9時半を回っていた。

社会人の飲み会であればまだまだこれから、という時間帯ではあるが、俺も高校生の身なのでこれ以上長居はできない。そして、平塚先生が酔いつぶれてしまっては2人も二次会という訳にはいかなくなり、会はお開きとなる。

高給取り二人がこの場の会計を済ませ、店を出たタイミングで俺は今日の本題を切り出した。

「あの、槇村さん、宮田さん…極めて個人的なことで大変言い辛いんですが、一つお願いがあるんです。聞いてもらえませんか?」

「あん?何だよ、改まって?」

「雪ノ下建設…さっき話題になった子の実家が経営する会社の事なんですけど…」

俺は劉さんから得た情報を交えながら、二人に相談を持ち掛けた。

雪乃の将来を揺るがしかねない何かが起こっていることを仄めかしながら、俺は二人の勤務する投資銀行を巻き込んだ不正が行われている可能性に言及した。

「…比企谷、残念だがその要望には応えられん。お前は僕たちの会社から見ればあくまでも部外者に過ぎん。組織のスキャンダル絡みとなれば尚更、内部情報を外に出すわけにはいかん」

宮田さんはあくまでも冷静にそう言い放った。

「…だな。仮に俺達がお前に協力するにしても、ウチもセクション毎に情報のウォールがあるから真相を探るのは難しい。総武光学を別部隊に紹介した時のビジネスマッチングとは訳が違う。そんなことくらい、お前程の金融オタクなら理解してんだろ?」

槇村さんも、宮田さんの意見に合意する。

こんな反応は分かり切っていたことだ。だが、今の俺には二人に縋る他ない状況だった。

「雪ノ下は…俺にとって大切な人なんです。そして今の俺には二人に頼ることしかできません。可能な範囲で…どんな小さな情報でもいいんです。何かヒントだけでも掴めれば…どうか、お願いします」

「「……」」

深々と頭を下げた俺に対し、二人は無言になった。

「…宮田、そう言やM&A部門には、村瀬とかいういけすかねぇ同期がいたな?」

「おい、槇村」

ふいにとある人物の名前を口にした槇村さんを、宮田さんが諫める。

――村瀬?

この二人と同年次の人物。

俺があの会社にいた頃、そんなシニアの名前を耳にした記憶はない。俺が大学を卒業して就職するまでの、この先5年内に転職した人間だろうか。

「ま、いいじゃねぇか…だが、あんまり期待すんなよ」

「おい、本気か?」

「あ、ありがとうございます!」

俺は協力を約束してくれた槇村さんに更に深々と頭を下げた。

「あぁそうだ、比企谷。交換条件だ…宮田と平塚さんの二人を家まで送ってやれ」

「おい、何を言っている?今日はお前がハイヤーを手配すると言ったから、僕は千葉まで来て酒に付き合ったんだぞ?」

「悪ぃな宮田。今日の車、一人乗りなんだわ」

「そんな車があってたまるか。冗談じゃないぞ!」

「ま、いいじゃねぇか…あ、迎えが来たわ。じゃあな!」

顔を上げると、数10メートル先に待機する車が見えた。

槇村さんはその車に駆け込むと、やや乱暴にドアを閉める。そして車はあっという間に走り去っていった。

「…あの野郎…おい、比企谷。平塚さんの家はどっちだ?」

宮田さんは、傍で座り込んでいた平塚先生を背負うと、俺にそう尋ねた。

俺は苦笑いを浮かべながら、先生の自宅の方向へと歩き出す。

「…宮田さんは先生じゃダメなんすか?」

途中、俺は人生初の上司にそんな問いかけをした。

「うるさいぞ。大人の人間関係に口出しするな」

宮田さんは不機嫌な顔でそう言った。

「…雪ノ下は、平塚先生にとっても大事な生徒なんです」

俺は卑怯だと思いながらも、そんな言葉を口にする。

「…そんなことは見ていれば分かる。まったく、総武高校は教師も生徒も揃って面倒事を押し付ける人間ばかりだ」

宮田さんはフッと柔らかい表情を浮かべながらそう口にした。



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28. 比企谷八幡は京都で汚れる

※公序良俗に著しく反する内容を含みます


 

 

文化祭明けの代休が過ぎた水曜日、俺は若干憂鬱な気分で登校することとなった。

文化祭での一件は既に結衣や沙希にも知られている。

雪乃を含め、あの時自分の取った行動の真意を彼女たちにどう説明すべきか、そんなことばかり考えていた。

そして、2限目終了のチャイムが鳴る頃に気が付いた。

どうやら周囲の生徒が俺に関する噂話をしている。文化祭実行委員の副委員長による横領疑惑。生徒が盛り上がるためのネタとしては、話題性は充分だ。

ふと結衣と沙希を見ると、二人は噂話に沸き立つ生徒の中で困ったような表情を浮かべていた。

――こりゃ、話しかけられるのは部活が始まってから、か

今俺が二人に話しかければ、彼女達も奇異の目に晒されることになる。

俺は久々に机に突っ伏して寝たフリをし、時間が過ぎるのを待った。

 

 

「あら、よく部活に顔を出す勇気があったわね、横領犯君?」

授業後、部室へ行くタイミングを窺いながらしばらく校内をプラプラした後、勇気を出してドアを開けた俺を待っていたのは雪乃による辛辣な挨拶だった。

「…ヒッキー」 「…比企谷」

同じく既に部室にいた結衣と沙希は、複雑な表情で俺を見ていた。

「雪ノ下…俺が聞くのも変な話だが、もう大丈夫なのか?」

「まるで私が何か問題を抱えているようなその聞き方、大変遺憾だわ。思い上がらないで欲しいわね」

――いや、だって、泣いてたって…

 

そう思いながら、あの時平塚先生に電話をかけてきた結衣を見る。

彼女は視線が合うと、ムスッとした表情を浮かべる。それは沙希も同様だった。

一方、雪乃はふっと笑いながらそんな軽口を口にし続ける。

雪乃のそれが強がりであったとしても、今の俺にはその言葉が有難く感じられた。

「…そうか、あんがとな」

俺は、抱えていた緊張の原因の一つがフッと解けたのを感じながら、雪乃の対応に感謝の言葉を述べた。

「あんがとな、じゃないし!バカヒッキー!今日は学校中でヒッキーの悪口が聞こえてきて…あたし達本当に…何であんなことしたのさ!?」

俺の言葉に対し、結衣が怒りを露にした声を上げた。

「アタシもちゃんと教えて欲しい…そんな自分を犠牲にするようなやり方されて、心を痛めたのは雪ノ下だけじゃないんだよ…」

沙希も悲しげにそう呟いた。

――もうやめないか、自分を犠牲にするようなやり方は

そしてふと、昔、葉山に言われた言葉を思い出す。

当時の俺にしては珍しく、その言葉を聞いた時に激昂し、葉山に食い下がった情景が脳裏に浮かんだ。

「…お前たちに嫌な思いをさせたことは謝る。だが、俺には自分を犠牲にしたつもりなんかねぇよ。それだけは勘違いしないでくれ」

「意味わかんないし!」

結衣は再び大きな声で、俺に対する苛立ちを示した。

「お前らには、俺が打算的な期待を込めて、これ見よがしに"犠牲者"を気取ってるようにでも見えてんのか?」

「「「!!」」」

俺の言葉に3人は固まった。

「そんなこと…アタシ達は…」

3人のうち、偶然俺と目が合った沙希が、気まずそうに視線を外しながら呟く。

「俺はあの時、自分が欲しいものを手に入れるために自分の意思で行動したんだ。確かにそのための対価として、本来自分が計算に入れて然るべきの"見落とし"はあった。それはお前達にかける心配であったり、平塚先生にかける迷惑だったり…そのことについては、この通り、謝る」

俺はそう言って3人へ深々と頭を下げた。

全ての行動は雪ノ下雪乃の成功という俺が掲げた目標の実現のため。

それは俺自身の欲求に基づいて自ら下した投資判断とも言える。

そこには俺が犠牲者として他者から憐れまれるような要素は介在しない。

憐れみは、そんな俺の意思そのものを、否定し侮辱する行為だ。

槙村さんや宮田さんは、俺のその判断には、他者への配慮と合理性が欠如していた点を指摘した。だがそれは俺の主体性を否定するものでは決してなかった。だから俺は素直にそれに納得して受け入れたのだ。

我ながら我侭だとは思う。

だが、彼女達にまで、いや、彼女達だからこそ、自分が憐れまれるようなことは、俺には絶えられなかった。

「…二人とも、もう十分でしょう」

沈黙を破ったのは雪乃だった。俺はその声を聞いて、ゆっくりと顔を上げる。

結衣と沙希は完全には納得していない表情であるも、その声に頷いた。

「…私からは、念のため一言だけ言っておくわ。いくら自主的な判断とは言え、貴方のその"対価"の計算には、貴方自身のことが含まれていない。私達が気に入らないのはその点なのよ。今後、きちんと認識しておいて貰えるかしら?…そうでなければ、私達、浮かばれないじゃない」

「…ハイ」

俺は彼女の眼力に、思わずそう言って頷いた。

「…じゃあ、アタシからも1つ質問していい?…今思い返せば、夏休みの鶴見の件もそれに近いやり方だったと思うんだけどさ…比企谷が今までにこんな方法で問題を解決したケース、一体どのくらいあるの?」

俺はそんな沙希の問い掛けに対し、素直に過去を振り返った。

が、正確な回数など思い浮かばない。正直、昔の俺に思いつくことのできた方法は、似たようなものばかりだったように思われる。

だが、そんな中でも比較的鮮明に思い起こすことができる記憶が2つあった。

「…2回くらい…俺だって、しょっちゅうこんな真似してるわけじゃねぇよ」

「その2回、詳しく説明して!今すぐ!」

サバを読んでいるような気分でその数字を伝えたところ、結衣は間髪入れずに俺にそう命令した。

「おい、回数聞くだけじゃねぇのかよ?」

「それで済ますわけ無いでしょ」「そうだよ…ヒッキーのバカ」

思わず文句を言った俺に対し、沙希と結衣はそう詰め寄った。

「…分かったよ」

俺は3人に話し始めた。

「1つ目は、ちょうど今回と同じ文化祭の出来事だ…」

実行委員長に立候補した相模南。そして彼女が奉仕部へ持ち込んだ依頼。それは委員長の職務のサポートだった。

しかし、委員長としての自覚が欠如した相模に加え、雪乃の姉、雪ノ下陽乃による横槍で運営は破綻しかけ、雪乃は一時的に体調を崩す。

文化祭当日、案の定、委員長としての業務を十分にこなすことができず、全校生徒の前で恥をかいた相模は、最終日の集計結果を持ち一人逃避した。

屋上で相模を見つけた俺は、遅れてやって来た葉山と相模の取巻きの前で、彼女を徹底的に貶めた。俺は葉山を利用し、彼女を会場へ連れ戻させ、文化祭を何とか無事に終わらせることができた。

「…んで、結局今と同じ、俺は校内一の嫌われ者になったわけだ…あれ?ひょっとして俺、やっぱり高校生の時から進歩できてないんじゃ…」

俺はバツの悪さを誤魔化すようにそう言っておどけて見せるが、3人の視線は冷やかだった。

「…バカなんじゃないの」「ホント、バカ…」

「同じ文化祭でも、只の嫌われ者から横領犯へ、大出世したわね?…そう言えば、二人にはまだ伝えていなかったのだけれど、この男 "今回" は文実でその相模さんに告白されて、見苦しいくらいに動揺していたわよ」

「あ?」「ハ?」

突然の雪乃の報告に対し、結衣と沙希は眉間に皺を寄せ、今までに聞いたことも無いくらい低い声で俺を威嚇した。

「い、いや、動揺なんかしてねぇよ。それに、ちゃんと断ったのお前も聞いてただろうが!」

「どうだったかしら?」

結衣と沙希が不機嫌になったのは、火を見るより明らかだった。

慌てる俺を尻目に、雪乃は"ザマァ見なさい"といった表情でほくそ笑んでいる。

「…もう一つは!?」

言葉を失った俺に対し、結衣が乱暴にそう尋ねてきた。

「へ!?」

俺は意図せずも、すっ呆けるような声を上げてしまう。

――いや、こんな状況で、話せるわけねぇだろ

同じく過去の高校時代における、修学旅行での一件を思い返しながら、俺は背中に嫌な汗をかいた。

「だから、その文化祭の話の他に、もう一つやらかしたケースがあるんでしょ?早く吐いた方が身のためなんじゃない?」

「そうね。もしも嘘をついたり、誤魔化すような真似をしたら…」

沙希は俺を睨み付けながらそう凄む。

一方、雪乃は突如机の上に置かれていたペンを手に取って静かにそう言った。それは明らかに物を書くための握り方ではなく、俗に、"刃物で人を刺したときに罪が重くなるとされる持ち方"だった。

「わ、分かった。分かったから…それ、置いてくれる?」

俺は再び過去の話を始めた。

それは同じクラスの戸部という男子生徒から受けた依頼に端を発する。

その依頼内容は、奴が同じグループに属する女子、海老名さんへの告白の場を取持って欲しいというものだった。

一方、当の海老名さんは、戸部の自身に対する好意を敏感に感じ取っていた。

彼女には戸部の好意を受け入れる気はない。現状のグループの関係を気に入っており、人間関係の変化を嫌った彼女は、葉山に対し告白阻止を依頼する。そして俺達奉仕部にも、意味深な言葉を残していった。

修学旅行で赴いた京都において、俺達は戸部のために告白のステージを用意した。だが、その直前に葉山に真相を聞かされた俺は、とある行動に出た。

「…まさか、とべっちが姫菜を…って、それでその行動って!?」

結衣は同じグループに属するメンバーの恋愛事情には気が付いていなかったようだ。一瞬興味深げにそう呟くも、話を本題に戻して俺に続きを求めた。

「…それを話す前に1つ、これは俺にとってもう15年以上前の話だってことは承知してくれ」

「言い訳はいいから早く続けなさい」

俺の前置きを雪乃は一蹴した。

「…ハイ…戸部が告白するタイミングで俺が乱入、海老名さんに対して嘘告白をかまし、

"今は誰とも付き合わない"と言ってフッてもらった。これが全容だ…」

「「「……」」」

俺の話を聞き終えた3人は無言だった。

そして、おもむろに結衣が、ガタッと音を立てて椅子から立ち上がる。

その音に対し、俺の体はビクゥッ!と過剰な反応を示し、自分の身を守るように腕を顔の前で交差させる。我ながら情けなくなるほどの勢いだった。

結衣は無言のまま俺の方へと歩み寄ってくる。

俺はひっぱたかれるのを覚悟して目を堅く瞑った。

しかし、意外にも彼女が取った行動は、そのまま俺の背後に回り、俺を強く抱きしめる、というものだった。

そして俺の耳元で、優しい声で語りかける。

「ヒッキー…お願い。もう、そういうの、無しね?」

彼女の暖かさと柔らかさを背中に感じながら、俺は年甲斐もなく自分の顔が紅潮していくのを恥ずかしく思った。

「わ、わかった…って、ん?」

俺は結衣に対する約束の言葉を口にして、ふと違和感に気が付く。

結衣は、いつの間にか俺の両腋の下から自らの両腕を通し、俺の後頭部あたりでその両手を組むような姿勢を取っていた。

「サキサキ」

結衣から可愛らしい声で呼びかけられた沙希は無言のまま立ち上がると、俺に歩み寄った。

「…比企谷、アタシからもお願い。二度と、そういう真似はしないで」

「…ハイ」

俺は、両腕をバンザイさせつつ、肘間接を曲げてダランとだらしなく垂らした状態で返事を返した。

「じゃあこれ、アタシ達三人からのプレゼント…受け取ってくれる?」

「へ?」

――ドスッ!!

沙希の拳が俺の体の中心部に突き刺さる。そして、結衣は俺を羽交締めにしていたその手を緩めた。

それは、先日の文実の男子生徒の拳など比較にならない程的確に人体の急所を突く一撃だった。

俺は膝からその場に崩れ落ちた。

「み…鳩尾…だと」

俺は見っともなくフロアに這い蹲り、陸に打ち上げられた魚の如く口をパクパクさせた。

「じゃあ、今日は部活も撤収でいいよね!あ、ゆきのん、サキサキ!今からカラオケ行かない!?」

「一昨日も行ったじゃん。あんた、ホントにカラオケ好きだね」

「いいじゃん!早く行こ!」

結衣と沙希はそんな会話を展開しながら、カバンを手に取り、部室を後にした。

「…無様ね」

しばらく部室に残り、俺を見下ろしていた雪乃はそう呟いた。

「今日は、鍵と活動記録は貴方にお願いするわ。じゃあ、また明日会えるのを楽しみにしているわ」

そう言って彼女はニコリと微笑む。

俺は彼女に言葉を返そうとするが、口からはヒュー、ヒューという、空気の漏れるような音しか出てこなかった。

そして雪乃は結衣と沙希を追うように部室から出て行った。

☆ ☆ ☆ 

後日、奉仕部に予ねてより想定してた依頼者がやって来た。

言うまでもなく、葉山隼人と戸部翔の二人だ。

修学旅行で海老名姫菜に告白する手伝いをして欲しい、戸部は意を決したようにそう言った。

「…ホント、分かってはいても、こういうの…改めて "やっぱりそうなんだ"って思うよ」

「え?何のことだい?」

沙希が独り言のように呟いた言葉に、葉山が反応を示す。

”やっぱりそうなんだ”というのは、俺が未来から戻ってきた来たということを指しているのだろう。

沙希のその言葉を肯定するように、結衣と雪乃は苦笑いを浮かべている。

「…なんでもない…で、この依頼どうすんのさ?…アタシから言っていいわけ?」

「どうぞ」

沙希の質問に対し、雪乃は短く頷いた。

「戸部、悪いけどムリだよ。海老名でしょ?チャンスはないね。諦めたら?」

――きっつ!マジで容赦ねえのな、コイツ

俺は沙希の物言いを受けて、思わず戸部に同情してしまう。

「…マジかぁ。ショックだわぁ。ホントに駄目なんかな~」

戸部はいつもの口調を維持しつつも、明らかに意気消沈している。

「あ、あの…じゃあせめて駄目だと思う理由を教えて貰えないか?…結衣は姫菜のこと良く知ってるだろ?」

葉山は戸部を気遣うようにそうフォローする。

「え!?あたし!?…う~ん、姫菜…男子には興味あるけど、自分が男子と付合ったりするのには興味ないって言うか…ごめん!やっぱりあたしもムリだと思う!それに玉砕覚悟、とかも止めた方がいいかな。姫菜、今のグループの関係が好きっていつも言ってるし…嫌われると思う」

結衣は俺の方をチラチラと見ながら、そう身も蓋もないことを言ってのける。

どうやら彼女はこの案件から俺を遠ざけようとしている。そう直感した。

結衣の言葉に対し、戸部は無言になった。

思いを伝える自由まで禁じられ、今にも泣き出しそうな表情を浮かべている。

「…と、戸部…今は駄目だとしても、いつか機会が巡って来るさ。告白のためじゃなくて、もう少し仲良くなれるようにアドバイスして貰うって言うのはどうだろう?」

葉山は心を折られた親友を励ますように、必死でそう提案する。

「だからチャンスなんかないって。受験勉強でも始めたら?」

沙希は極めて冷静な表情でそう止めを刺しに掛かった。

「あら、アドバイスくらいならしてあげてもいいじゃない。ここに恋愛指南の適役がいるわよ」

突如、雪乃が割り込むようにそう口にした。

微笑みながら俺を指差す彼女の姿に、俺は固まった。

「適役?比企谷が、かい?」

「ええ。彼、こう見えて恋愛経験は非常に豊富なのよ。私達が知る限り、これまでの交際人数は"最低"3人…彼にその手口を披露してもらう、というのはいかがかしら?」

――おい、最低って何だよ!ひょっとして、海外駐在時代に(金の力で)現地の女の子をとっかえひっかえしてたのがバレてんのか!?…いやそんなまさか…しかし、手口ってお前な…

突然の雪乃の提案に、暫く呆けていた結衣と沙希は、何かに気が付くと突然意地悪な笑みを浮かべて俺を見る。

「マジッすか!?…ヒキタニ君!いや、ヒキタニさん!よろしくオナシャッス!シャッス!」

戸部は藁にも縋る勢いで俺に頭を下げた。

「ちょ、ちょっと待て!俺は別に恋愛に長けてねぇし、まともなアドバイスなんてできねぇよ…」

「あら、そう?相手のどんな所を好きになって、自分のどんな所を好きになってもおうと頑張ったか、そんなありきたりな話だけでもいいと思うのだけれど…ひょっとして、その程度のことも思い出せないのかしら。貴方の元交際相手がとても不憫だわ」

「そうだよ!可哀想!」 「比企谷にとっては遊びだったんじゃないの?」

――ぐっ…こいつら

 

女子高生に良いように手玉に取られる自分が情けない。

「…わかった。だが、俺がアドバイスした所で上手く行く保証はないからな。それだけは覚えとけよ」

「アザッス!マジ、アザッス!」

こうして意図せず俺の恋愛指南が始まることとなった。

 

「…じゃあまず聞くけど、戸部は何で海老名さんを好きになったんだ?」

「え!?そりゃ…一緒にいて何となく良いなって思ったっていうか」

「イキナリいい加減だ!?」

戸部の回答に対し、結衣がそんなツコッミを入れる。

「…比企谷君、見本として聞かせてあげなさい。貴方がなぜ過去の恋人を好きになったのかを」

雪乃はニヤニヤしながらそう茶々を入れた。

「…い、いや。戸部の気持ちは良くわかる。恋愛は感情だ。気付けば好きになってた、なんて良くあることだからな。いちいち理由を求めるのはナンセンスだ」

雪乃のリクエストを回避するため、俺は取って付けたような言い訳で戸部を擁護した。

すると、3人が不機嫌な顔で舌打ちするのが聞こえてくる。

俺はケツの座りの悪さを感じながら、次の話題へと切り替える。

「じゃ、じゃあお前は海老名さんと共通の趣味はあるのか?…そういやあの子、ホモネタが好きなんだろ?気色の悪いことに、葉山と俺はよく彼女の妄想の被害者になってるんだが…お前はそういうの大丈夫なのか?」

「…」

俺の問いかけに対し、葉山は露骨に嫌そうな表情を浮かべる。

っていうか、俺だって嫌なんだから、我慢しろよ。

「お、俺、流石に男同士ってのはキツイけど、海老名さんがそういうので喜んでる姿を見るのは好きっつーか…」

「なら、それ系の話題に付いて行ったり、自分から話題を振ってみるってのはどうだ?…あ、言っとくけど俺だけは巻き込むなよ?」

「いぃ!?…まぁ確かに、海老名さんも喜んでくれそうな気はするけど…女子同士、とかなら俺でもイケると思うんだけどなぁ」

おいおい、そんなに甘い訳ないだろ。

それに、そんなの俺だって大好物だぞ。雪乃x結衣とか、沙希x結衣とか超見てみたい…

「気分が悪いわ…ひょっとして、何か下劣な想像をしていないかしら、キモヶ谷君?」

「…してねぇよ」

雪乃の勘のよさに冷や汗をかきつつも、冷静さを装ってそう答える。

「趣味への理解は…まぁ置いておくとして、後出来ることと言ったら、彼女に誠意を示すことくらいなんじゃないか?由比ヶ浜が言った通り、海老名さんが今の関係を壊したくないと思ってるなら、それを尊重する姿勢を見せることだ。その上で、彼女にとことんアピールすればいい」

「そ、それって矛盾してないか?」

葉山は俺の提言に対し、疑問を口にする。

「まずは、お前達が集まってる時に、由比ヶ浜から彼女に恋愛の話題を持ちかけて、彼女の口から"誰とも付き合う気はない”と言わせればいい。無論、戸部がその台詞を耳にするタイミングでだ」

「その時点で俺終了っしょ!?」

「誠意を示せ、と言っただろ?それでもお前は彼女を特別扱いし続けるんだ。だが、告白だけは絶対にするな。そのうち彼女が "何故告白してこないのだろうか" と、意識するようになれば、そこからはお前のペースだ。一方的に追う関係から抜け出して、お前も心に余裕が持てるようになる」

「な、なるほど!」

「…いや、何感心してんの?アタシだったら、普通に"迷惑だからやめてくんない?"とか言うと思うけど…」

俺の言葉に興奮気味に食いついた戸部に対し、沙希は再び容赦のない言葉をぶつけた。

俺は顔を顰めながらも、言葉を続ける。

「…だ、大丈夫だ。彼女は今の関係の維持を望んでる。であれば、そういったストレートな言い方はしてこないはずだ」

「も、もし言われたら?」

戸部は不安そうな声でそう尋ねた。

「そん時は仕方ない。距離を取れ」

「や、やっぱ諦めろってことか~それ、キッツいわぁ」

「…違う、戦略的撤退だ。彼女の意思を尊重する姿勢を見せるだけだ。そして、絶対に落ち込む姿は見せるな。グループの雰囲気を絶対に壊さないように盛り上げろ。そうすれば、もう一度チャンスが巡ってくる…可能性がある」

「…要は、彼女の利益を一番に考えながらも、気持ちは絶対に諦めるなってことか…シンプルだな」

葉山は苦笑いを浮かべながら、俺の糞の役にも立たなそうなアドバイスを総括した。

「…なんか、すげぇよ!俺、自分に足りないものが分かったってゆーか?…ヒキタニ君、マジでリスペクトだわ~!アリガト!」

戸部は満足げな表情を浮かべて礼を述べる。

暫く雑談した後、葉山と二人で部室を後にした。

「「「ハァ~」」」

客人が去った瞬間、3人の女性が深い溜息を吐いた。

「…何だよ?あいつが満足したんだから別にいいだろ?」

「まさか、これ程までにお粗末な作戦しか立てられないような男に振り回されるなんて…屈辱以外の何物でもないわね」

俺の問いかけに対して、雪乃は心底残念そうにそう言った。

「…同感。比企谷のバカさ加減を、そっくりそのまま自分に突きつけられた気分」

「あたしも」

沙希と結衣もつまらなそうな表情でそう溢す。

「…うっせぇよ」

俺はバツの悪さを感じ、頭を掻きながらそう呟いた。

☆ ☆ ☆ 

修学旅行が始まった。

はしゃぐ生徒ですっかりと騒々しくなった新幹線の中、俺は当時の思い出に耽っていた。

あの時、俺は雪乃と結衣に対し、修学旅行の意義を語ったのを思い出した。

修学旅行とは社会生活の模倣。

上司と出張に行けば、泊まるところも晩飯のメニューも自分じゃ選べない。

でも妥協すればそれなりに楽しいのだと、自分を騙す為の訓練みたいなものだ、と。

俺はやはり何も知らない子供だったのだ。

正確には、上司と出張に行けば、泊まるところも晩飯のメニューも"全て自分で"選ばなければならない。

綿密な計画を立て、企画書を作り、事前にその許可を得る。予約も入れる。

そしてイザ現地についてから、上司はこう言うのだ。

「中華?俺気分じゃ無いんだけど。和食ねぇのかよ?」

「このホテル、朝食マズイから嫌なんだよね。どっか別の宿に変えられないの?」

「おい、夜、どっかいい店ないのか?当然調べてあんだろ?さっさと案内しろ」

「あ、出張記録は日本に到着するまでに書いといてね?」

そこには妥協してそれなりに楽しむ余地など、一切ない。

それに比べて、修学旅行のなんと気ままなことか。宿も飯も、全て学校が手配してくれるのだ。こんなに楽な旅はない。

今回の修学旅行は俺に与えられた短いモラトリアムの一つなのだ。きっと素直に楽しむのが吉だろう。

思い出したくも無い槇村さんと出張経験が脳裏に浮かび、俺は身震いした。

そういえば、あれから槇村さんから連絡は入っていない。口約束はしたが、調査は進んでいるのだろうか。

雪乃の実家との関係のことを考えれば、今は、うかつに彼女にこの話を切出すタイミングでもない。

だが、そう考えると今の俺は八方塞りだ。

俺は何の着信もない携帯を眺めながら、静かに現地到着を待った。

京都到着後、俺は前回同様葉山グループと行動を共にしていた。

当初戸塚とグループを組んでいた俺は、結衣と沙希に強引に巻き込まれる形で、葉山グループに編入させられた。

思い返せば、前回も戸部の恋愛成就のため、普段交わりのないこいつらと、一緒に行動する羽目になった。

今回は、事前に釘を刺しておいた筈の戸部の行動監視と言うミッションがある為、目的は真逆なのだが。

俺は結衣や沙希と名所旧跡を巡る傍らで、戸部の様子をちらちらと確認していた。

「べー!海老名さん!これ、ッべー!」

「…そ、そうだね。トベッち興奮しすぎだよ」

さっきからそんな会話が耳につき、その度に俺はため息を吐いた。

――テンション上がり過ぎなんじゃねぇか、あいつ?

 

京都についてから、戸部の様子がどうもおかしい。

俺はその懸念を晴らす為、清水寺観光に訪れた際に戸部の首根っこを引っ捕まえて、グループのメンバーがいない場所へと引っ張り込んだ。

「おい、お前さっきから何考えてんだ?はしゃぎたいのは分かるが、空回りしてんぞ?」

「…ヒキタニ君、俺…俺、やっぱり修学旅行中に海老名さんに告白したいってゆーか…」

戸部はやや遠慮がちにそう心境を説明した。

その真剣な表情に俺はため息を吐く。

「…言っただろ。今告白しても無理だ」

「それでも…やっぱ、気持ちを抑える事なんて出来ないっしょ?それ、誤魔化すのは違うんじゃねって思ったのよね」

「…」

その言葉に俺は押し黙る。

戸部がやろうとしているのは、エゴの押し付けだ。自分が気持ちを伝えることで、海老名さんが大事にしたいと考えている今の関係を崩壊させることになる。奴にもそれは分かっているはずだ。

だが俺にそれを批判する資格が果たしてあるだろうか。

奉仕部の3人に気持ちを一方的に押し付けて、今の中途半端な関係を築いたのは他でも無い、俺だった。

「…戸部、一つ教えてくれ。お前はとにかく気持ちを伝えたいのか、それとも海老名さんと付き合いたいのか…どっちだ?」

暫くの間、考え込んだ後に、俺は戸部にそう尋ねた

前者であれば、俺に戸部を止めることなど出来ない。

そう考えながら戸部の返答を待つ。

「…そりゃ、付き合いたいに決まってるっしょ!1%でもチャンスがあんなら、それに賭けなきゃ漢じゃないって!」

その言葉に肩の力が抜けて行くのを感じた。

「…なら俺の話を聞け。良いか? 繰り返しになるが、今告白しても成功する見込みはゼロだ。お前が言った1%の可能性すら存在しない」

「そ、そりゃないっしょ!?…ないわぁ」

俺の言葉に希望の光を奪われた戸部は、みるみる内に意気消沈していく。

そんな奴の姿を見て、俺の心の中には少しばかりの同情心が芽生える。

「…お前、ひょっとして告白が一世一代の勝負の場だと思ってないか?」

「そりゃそうだべ?正にこっから飛び降りるくらいのつもりで…」

戸部は清水寺の高台から下を見下ろし、ゴクリと喉を鳴らした。

「アホか。んなモン大怪我して終わりだ…告白なんてのはな、単なる形式上の儀式なんだよ。本来、そこに至るまでの過程でキッチリ勝負を付けておくのが恋愛の暗黙のルールだ。本当に付き合える見込みがあれば告白なんぞしなくても、既成事実で彼女は出来る」

「…そう言うモンかなぁ〜。でもさぁヒキタニ君…今、せっかくの修学旅行なワケじゃん?彼氏彼女になれば残りの時間、手を繋いだり、キスしたり…出来りゃその先も…」

なおも必死で食い下がってくる戸部に、俺は頭を抱えた。

――だめだ、こいつ。邪念に支配されて冷静に物事が判断出来なくなってやがる

「…おい、正直に答えろ。お前、海老名さんを好きになる前に、他の女子と付き合ったことはあるか?」

「…な、ないっす」

やっぱりか。

戸部には経験もなければ余裕もないのだ。これじゃ、海老名さんに対して、誠意をもって紳士的な立ち振る舞いをするなんて、どうあがいても不可能だろう。

しかし、グループ内の童貞は風見鶏の大岡だけじゃなかったのか。

まぁ、言っても総武高校は進学校だし、経験済みの男子の方が割合としては少数派なのかもしれん。付き合うにしてもちゃんと自制心を保って、純情を貫いている奴らも多そうだし、そう言えば、あの葉山ですら、彼女が出来たのは大学に入ってからだと言っていた。

戸部に女性経験が無いことについて、特段の違和感はない。

「わかった。対策を考えてやるから、今日は一旦海老名さんとは距離を取れ…京都についてから大岡や大和とあまりつるんでないだろ?行動パターンを急に変えれば怪しまれる。一方的に追えば逃げるのが女の習性だ。よく覚えとけ…ほら、行け」

「わ、わぁったっしょ」

俺は戸部の背中を軽く叩くと、いつもの男子グループへ合流することを促した。

戸部の姿が見えなくなったことを確認して、俺は清水寺から京都の景色を一望し、再びため息を吐いた。

そして、先ほどからのやり取りを物陰から見ている視線に気付く。

「比企谷、すまない」

「葉山か…残念だが、お前も覚悟しといた方がいいかもしれねぇな」

「正直参ったよ…俺は今が気に入っているんだ。戸部も姫菜も、皆でいる時間も結構好きなんだ。だから…」

「…それで壊れるくらいなら、元々そんなもんなんじゃねぇのか?」

一人、悔しそうに呟いた葉山に対し、俺は敢えてあの時と同じ言葉を問いかけた。

戸部がエゴで思いを伝えたいというのであれば、告白を阻止したいという周りの人間の考えもエゴだ。

 

――上っ面の関係に浸って何が楽しい?

あの時、俺は葉山にそう尋ねた。葉山の考えなど、理解出来なくて良い、そう思った。

だが、あれから俺は知ってしまった。

今だって、上っ面の関係と知りながら、俺はそれに縋りつくような思いで、3人と一緒にいることを望んでいる。

俺は面と向かって葉山や海老名さんを批判できるのだろうか。出来るはずが無い。

――結局、本物ってなんなんだろうな

 

かつて自分が欲して止まなかったものが、何だったのかすら分からない。

そんな気分だった。

「軽蔑するかい?」

葉山は自嘲的な笑みを浮かべてそう呟いた。

「…俺にそんな資格はねぇよ。お前の気持ちは分かる…理解なんてしたくも無かったけどな」

「…すまない」

――ピリリリリ

 

不意に、自分のポケットから電子音が鳴り響いた。

携帯電話への着信。電話の主は、槇村さんだった。

葉山に目で若干の申し訳なさを示しながら、電話に応答した。

「もしもし」

「比企谷か。待たせたな。今大丈夫か?」

「…はい」

俺は緊張した面持ちでそう答えた。

「社内のツテを使って探りを入れてみた…まだ真相は全く分からんが、やっぱりお前の言うとおり、キナ臭い動きがあるってことだけは掴んだぞ」

「それって、M&Aの村瀬って人のことですか?」

「…ああ。情報セキュリティ部門に良く知った奴がいてな。内密に雪ノ下建設関係の買収に関するメールのログを漁らせてもらったんだ」

――よくそんな危ない橋を渡ったな

これは普段から色々な部門に顔を利かせている槇村さんだからこそ出来たことだろう。

俺は彼の行動力に舌を巻いた。

「…何か、不正の証拠でも出てきたんですか?」

「その逆だ。なんもねぇんだよ。正確には、村瀬の奴、MDを通さずに、全ての雪ノ下建設関連のディールを一人で進めてやがった。未上場企業だからって、シニアを巻き込まないでM&Aの話をポンポンと何件も進められる訳がないからな。それから、買収後の戦略提案についても、外部と電子情報をやり取りした形跡が一切無いんだ。どう考えたっておかしい」

「…独断の上、証拠を残さない…」

俺は槇村さんからの情報を脳に刻み込むため、反芻する。

「…せめて、買収した子会社に何をさせてんのかが分かれば糸口になると思うが…そこまで辿り着くのは中々難しそうだ」

不意に、槇村さんの言葉を聞いて、俺は雪乃本人の他にもう一人だけ、自分の周りに情報の糸を手繰り寄せることが出来そうな人物がいたことを思い出す。

俺の通話内容を聞きながら、不思議そうな顔をしている同級生の姿が目に映った。

「…一つ、こっちで手がかりを掴めるかもしれません。上手く行くかはわかりませんが」

「そうか…この前は説教したが、目的のためになりふり構わないガムシャラな奴は、ホントは嫌いじゃない。やるならどんな手を使ってでも徹底的にやるぞ…こっちでももう少し調査は進める。だがこれは貸しだ。将来必ず俺の下で働け。いいな?」

「ぜ、善処します」

そう言って俺は電話を切った。

目的のためになりふり構わずガムシャラに、やるならどんな手を使ってでも徹底的に、か。

結局今の俺にはそれしかないのだ。

裏切りも、汚れることも、全て受け入れて、雪ノ下雪乃の将来を守ること。

そして3人と過ごすこの時間を、少しでも大事にしたい。

それが今の俺の望みの全てだった。

葉山には雪ノ下建設絡みの調査で、どうしても協力を仰ぐ必要がある。

そのためには、こいつに対して恩を売る必要がある。

差しあたっては戸部の問題を丸く収めること、それが課題だ。

俺は今の自分に出来ることを考えた。

大人には大人の、汚いやり方がある。

高校生には到底マネできない、究極に斜め下の、最低最悪なやり方だ。

弱みを握り、恩を売り、相手を抱き込む方法。駐在員時代にビジネスの世界で嫌という程やってきたではないか。

俺は再び、覚悟を固めて葉山に切り出した。

「…葉山。戸部の件、解決方法を思いついた。…その代わりと言っちゃなんだが、修学旅行が終わってから、一つ頼みたいことがある」

「ほ、本当か?…頼みって?」

「…後で話す」

既に日の沈み初めた京都の街を背景に、俺はニタリと笑って見せた。

☆ ☆ ☆ 

夜19:50

俺はホテルから少しだけ離れた目抜き通りで人目を気にするように立っていた。

あの後、俺は二人に、今晩ホテルを抜け出す準備をするように伝えた。

その集合時刻が迫るなか、5分後に葉山が到着する。俺たち2人は無言で戸部を待った。

「隼人君!ヒキタニ君!わっり~!中々抜け出せなくて」

集合時間の20:00を回ったタイミングで、遠くから戸部の声が聞こえて来た。

その姿を見て、俺は思わず叫ぶ。

「バカかお前!?なんで学校のジャージで出てきた!?私服は!?」

ホテルを抜け出すのに、学校指定のジャージを着てくる間抜けがいるとは思わなかった。

「何でってそりゃ…先に風呂に入ったからだべ?」

こちらに駆け寄ってきた戸部は不思議そうな顔でそう呟いた。

「頭使えよ!?俺たちは脱走したんだぞ?それが高校のジャージ着て徘徊してたら一発で補導されるぞ!?」

「ひ、比企谷…声が大きい」

俺の剣幕に戸部はシュンとしてしまうが、葉山に窘められて俺も口を手で塞いだ。

こうなってしまっては仕方がない。

俺は閉店時間ギリギリのアパレルチェーンで、一番安いパーカーと適当なパンツを見繕って購入すると、戸部に投げ渡した。

「…ったく、早く着替えろ」

「ここで!?」

「文句あんのか?」

「い、いや、ないっす…」

人気のない通りに移動すると、戸部はジャージを脱ぎ、パーカー姿へと着替えた。

服は安物だが、戸部は背が高い。それなりに見栄えがしており、ギリギリ大学生くらいには見える。

戸部が着替え終わる頃、俺は再び大通りへ出て、先にタクシーを一台呼び止めた。

「…どこへ行く気なんだ?」

「ちょっとしたお祓いにな。まぁ、行ってからのお楽しみだ…運転手さん、河原町まで」

訝しそうな表情を浮かべる二人をタクシーに押し込んで俺たちが向かった先は、京都四条通り東側、鴨川近辺の繁華街だ。

目抜き通りは近代的な商業施設や商店街の並ぶ、商業区画。

だが、タクシーを降りて、徒歩で一本裏路地に入れば、そこはネオンサインの輝く夜の街だった。

「ヒ、ヒキタニ君…ひょっとして…夜遊びすんの?でもあんまり金ねぇよ?」

「…金は俺が出すから安心しろ」

俺は自分の膨らんだ財布を二人に見せると、ニヤリと笑った。

「…ま、まさかそれ、文化祭の」

戸部が言いにくそうにそう呟いた。

文化祭実行委員で金を横領した疑惑は、当然、戸部たちの耳にも入っていたようだ。

「だったらどうする?」

「じょ、冗談だろ?比企谷?」「マジかよ?」

焦ったような二人の表情を見て、俺は可笑しくなって噴出した。

「冗談に決まってんだろ。俺が投資やってんのは葉山も知ってんだろうが…おっと」

酔っぱらったサラリーマンと肩がぶつかりそうになるのを避けながら、俺はズンズンと歩みを進めていく。

先ほどから居酒屋やらキャバクラやらの客引きが引っ切り無しに声をかけてくる。

戸部は幾分怯えた表情、葉山も不安げな顔を浮かべている。

――この辺の区画のはずだが

 

俺は立ち止まって、事前に携帯のネットで調べておいた地図情報を頭の中に展開しながら、周りをキョロキョロと眺めた。

「お兄さん!お兄さん!キャバですか?風俗ですか?」

すると、すぐに黒いダウンジャケットを着た、チンピラのような客引きが俺たちに話かけてきた。

戸部は完全に委縮してしまっている。

――お前にゃ、やっぱりカラーギャングなんて無理そうだな。

少し前に校内で流行った、チェーンメールの内容とのギャップに俺はまたもや噴出しそうになった。

「…ヌキで本番アリのハコある?」

「デリならいっぱいあるんですけど本番は交渉次第ですね…ホテルも安いところ紹介出来ますよ」

「この時間混むし、終了時間がズレて三人はぐれるのはちょっと…どっかないの?」

俺は固まっている二人を尻目に、客引きの兄ちゃんとそんな会話を展開した。

「…わかりました。ちょっと電話で空き状況確認するんで待ってもらえますか?」

男はそう言うと、携帯でどこかに電話をかけて問い合わせを始めた。

「ひ、比企谷…本当に、どこへ連れて行く気なんだ?」

葉山が青白い顔をしながら再び俺に質問した。それでも無理をして精一杯笑顔を浮かべているあたり、憎たらしいくらいの似非爽やか青年だ。

「あん?お祓いって言っただろ?戸部に女を抱かせて、海老名さんに対する邪念を払わせるんだよ。童貞卒業すりゃ心に余裕も生まれて、多少は紳士的に振る舞えるだろ…いい機会だ。お前もここで汚れちまえ」

俺の説明に対し、葉山はそのまま無言でUターンして、その場を去ろうとする。

俺は葉山の服の襟首を捕まえて、その場に引き留めた。

「おい、どこへ行く気だ?」

「い、いやそれは…」

「…いつまでも綺麗なままでいられると思うなよ。守りたいものがあるなら、清濁併せ飲む覚悟が必要だ…じゃなきゃ…辛くなんぞ?」

俺は奴の耳元で、低い声でそう囁いた。

言っていることはそれらしいが、やっている行動をよくよく考えれば支離滅裂だ。

葉山が少し頭を使えば、簡単に論破されるだろう。だが、奴は俺の目をじっと見て呟いた。

「君は…」

「俺だってリスク取ってんだよ。こんなの奉仕部の3人に知れてみろ。俺は破滅だ」

「わかった…」

葉山は覚悟を決めたようにそう口にした。

「あ、お兄さん!今、ちょうど3人分空いてますよ…でも、これソープとかじゃなくて、マンション系…ぶっちゃけ不法操業のハコなんで、口外無用でおねがいします」

「ってことはパネマジなしで実物選べるんですよね?可愛くなかったら即帰りますよ」

「…キッツいなぁ。お兄さん達、だいぶ遊び慣れてます?」

「いや、三人ともチェリーですから」

「またまたぁ~冗談キツイっすわ」

そんな俺と客引きの会話に、葉山は再び後悔の表情を浮かべていた。

☆ ☆ ☆ 

男に連れられて俺たちがやってきたのは薄暗いマンションの一室だった。

室内はパテーションで何室かに区切られており、その一つ一つの部屋にシャワーとベッドが設置されていた。

俺は玄関付近に置かれたソファーにドカッと腰を掛けると、葉山と戸部もそれに倣うように促した。

しばらくすると、マネージャーらしき中年の男が女の子を二名連れてやってきた。

「三人分空いてるんじゃないの?」

「モウ1人ハ、アト五分デ来マス。ドウデスカ?一時間、何回デモOK。マッサージモOKヨ」

何やら日本語の発音が怪しいのが気になるが、良くあることだ。

気にしてはいられない。

「あ、そう。じゃ、戸部、先に選んでいいぞ」

「お、俺!?いいの!?」

急に順番をふられた戸部は、上擦った声でそう確認した。

本当なら金を出す俺が、一番先に女の子を選んでお楽しみタイムとしけこむのが筋だが、今日のメインは戸部だ。

幸い、マネージャーが連れてきた二人の女の子は、まずまずの上物だった。

戸部は二人のうち、海老名さんとやや雰囲気が似ているとも言えそうな、大人しそうな女の方を指名して、奥の部屋へと消えていった。

「…ど、どうするんだ?」

葉山がこれまでに見せたことのないような不安げな声で俺に尋ねた。

「どうするもこうするもねぇよ。こっちの子も別に悪くねぇだろ。お前先に行け」

「で、でも」

「俺も行くから心配すんな。終わったらここ集合な。五分だけ待っててくれりゃいい」

「わかった」

そういって戸惑いながら葉山がソファーから立ち上がる。

待っていた女は、自分の相手が葉山だと分かると、あからさまに嬉しそうな表情を浮かべて、葉山の腕に飛びついた。

葉山はそのまま彼女に連れられて、別室へと消えていった。

別に悔しくなんてないんだからね!

俺はそう心の中で呟きながら、さらに深々とソファーに腰を掛ける。

「オキャクサン、タバコ、吸ウ?」

一人残された俺に、マネージャーがタバコを進めてきた。

「いや、いいっす」

「ソウカ……アッ、オンナノコキマシタヨ」

その言葉を聞き顔を上げると、奥の方から歩いてくる女性の姿が目に入る。

俺は少しだけソワソワしながら、ソファーの上でケツの位置を調整した。

「ドウデスカ?テクニック、コノ店No.1ダヨ」

マネージャーがそう言ったタイミングで、明かりの灯る待合部屋にその女性が入室する。

その瞬間、俺は硬直した。

同時に、少年時代にやりこんだゲームのBGMが頭の中で自動再生される。

――え、ナニコレ?モンスターボール投げていいの?捕まえて戦わせてレベル上げる奴だよね、コレ?

 

脳裏にそんな考えが浮かび上がる。

「…おい、店長呼んで来い」

俺は無意識にそう呟いていた。

「店長ワ、ワタシダヨ。ドウシタ?問題アルカ?」

マネージャーは、やはりダメか、といった表情でそう言った。

――ったりめーだ!ふざけんじゃねぇぞ!

これで、戸部や葉山の相手と同じ値段だというのだから、たまったものではない。

この業界の価格調整能力はどうなっているのか。適切なプライシングが出来ないからこそ、風俗業界はいつの時代も儲かるのだろうか。

そういや、不景気になるとOLやらモデルやらがこっちの業界に流れてくるから、価格対比で質が上がるなんて話を槇村さんから聞いたことがある。

それを踏まえりゃ、今、この空間だけはバブル景気に浮かれる80年代後半の首都東京状態だ。

不動産も株も風俗も、ファンダメンタルズを無視して価格は爆騰中である。

経済大国日本の復活は近い。

「オキャクサン?ドウシタ?」

「…いや、なんでもない。俺はここで二人を待つ…やっぱりタバコくれ」

俺は無意識のうちに巡らせていた意味不明な思考を振り切ると、この時代に戻って初めてのタバコを口にくわえた。

こんな形で再び喫煙者に返り咲くとは思ってもみなかった。

「ゴホッゴホッ…オェ」

 

肺に思い切り煙を吸い込むと、脳の血管が急速に収縮し、頭がクラクラした。

初めてタバコを吸った時の懐かしい感覚が自分を襲う。

正直、全くウマイとは感じられなかった。

俺は煙を全て吐き出すと、灰皿にタバコを押し付けて火を消した。

吐き出した紫煙が辺りにユラユラと揺れる。

俺は一人寂しく約一時間の暇つぶしを余儀なくされた。

☆ ☆ ☆ 

帰りのタクシー。

俺は葉山に対し、約束を反故にした一抹の申し訳なさを覚えつつも、戸部の様子を伺った。

「ヒキタニ君、いや、ヒキタニ先生…マジ、パなかったっす。生きてて良かった…俺、なんか生まれ変わったっていうか…」

昼とは打って変わって神妙な表情で戸部はそう感想を述べた。

その顔はツヤツヤである。

「そうか。これで、海老名さんとは雑念抜きで向き合えそうか?」

「…俺、彼女に対してはもっと紳士になるよ。時間がかかってでも、振り向いてもらえるように努力すっから」

「何よりだ…ところで、分かってると思うがこのことは三人だけの秘密だ。紳士協定だ」

俺はかつて大志と共有した謎のキーワードを再び口にした。

「分かってるって…」

「いいか?大岡や大和にも絶対に言うなよ。言ったら殺す。絶対にお前の息の根を止める。確実に抹殺する…」

「ヒッ!?わ、分かりました…隼人君はどうだった?」

俺からの念押しに承諾するとともに、プレッシャーに耐えられなくなった戸部は葉山に話題をふった。

「あ、ああ。いい社会勉強?になったよ…」

戸部とは対照的に、葉山の表情は浮かなかった。

「おい、大丈夫かよお前?何かされたのか?」

「い、いや。実はあの女の人、日本語が通じなくて…」

どうやら葉山の相手はアジア系の出稼ぎ外人だったらしい。

これも良くあることだ。

「え?隼人君、もしかして何もしなかった系?」

「…無理矢理押し倒されて、されるがままだったよ…ここだけの話にして欲しいんだけど、パンツまで破かれて大変な目に遭った…ハハ」

葉山はそう言って力なく笑った。

うらやましいシチュエーションなのに、それで落ち込むとは、どれだけプライド高いんだ、こいつ。

しばらくタクシーで走っていると、横からグースカと能天気な寝息が聞こえてきた。

「ったく、戸部の奴…いい気なもんだな」

「緊張していたんだろう。そっとしといてやろう…俺も相当緊張したし」

俺の毒づきに対し、葉山はそう苦笑いを浮かべて返してきた。

「…比企谷は今付き合ってる女子はいないのか?…奉仕部の三人とはどんな仲なんだ?」

不意に葉山は俺にそんな質問を投げかけた。

「…な、何であいつらが出てくるんだよ?」

無駄に鋭い…訳でもないか。

あいつ等に今日のことが知られたら破滅だと言ったのは自分自身だ。

言い淀んだ俺に対して、葉山は一瞬、驚きの表情を浮かべる。

「まさか三人の交際経験って、雪乃ちゃ…雪ノ下さんも入ってるのか?」

――あ、こいつひょっとして

 

葉山らしからぬ迂闊な発言に、俺は過去のやり取りを思い返した。

好きな女子のイニシャルはY。

これは夏のキャンプ場で、しつこく質問してきた戸部に対して葉山が唯一述べたヒントだった。

「雪ノ下含めて、あいつらに手は出してねぇよ…出せるわけねぇだろ…俺にとっては死ぬほど大事なんだ」

「…そうか。やっぱり君は」

葉山は何かを悟ったようにそう呟いた。

――結局、本当に人を好きになったことはないんだろうな。君も、俺も。だから勘違いしていたんだ。

 

過去の世界。俺が雪乃と付き合い出す半年ほど前、葉山はこんなことを口にしていた。

それは、奴なりの過去との決別だったのかもしれない。

悪ぃな。

そう口にしかけて、俺はそれをひっこめた。

「葉山。その雪ノ下のことで、一つ折り入って頼みがある」

「例の交換条件か?」

「ああ…いや、無理に頼める話じゃないのは理解してるんだが」

俺は葉山に説明した。

雪乃の実家で起こっているであろう、何らかの事件。

それに葉山の両親も関係している。

雪ノ下建設が買収した子会社が、投資ビークルを作って何をしているのか。

それが知りたかった。

「…わかった。俺が役に立てるかどうかわからないけど、出来る限り協力させてもらう」

「恩に着る」

「…まったく、君には本当に勝てる気がしないよ…これまでの劣等感だけじゃなく、修学旅行でトラウマまで植え付けられることになるとはね」

葉山は俺の協力要請を承諾すると、そう言って力無く笑った。

「…別に勝負なんかしてないだろ?」

「比企谷は俺の目標だよ…二年になるまで、同級生にこんなすごい奴がいるなんて思いもしなかった。それに比べて俺は…」

「…お前、親と同じ法の道を進むつもりだろ?」

自己嫌悪に近い表情を浮かべた葉山を見て、思わず俺はそう口にした。

別に此奴のご機嫌取りをしようと言う訳ではない。

だが、将来のビジョンが見えている俺には、葉山に対してかけてやれる言葉があった。

「あ、ああ。知ってたのかい?」

葉山は驚いたような声を上げる。

俺は静かに話を続けた。

「…俺は金融の道を進む。知り合いには政治の道を志す人もいる…投資、政治、そして法、この三つは切っても切り離せるもんじゃない。将来…一緒に世界を股に掛けたデカい仕事をする時ってのが、来るかもしれん」

「!?…ああ。その時は胸を張って肩を並べられるように頑張るよ」

そう口にした葉山は、何かを決意したような表情を浮かべていた。

☆ ☆ ☆ 

翌日

今日は最終日の自由行動だ。

他のクラスの雪乃も俺たちに合流し、奉仕部四人で行動することになった。

団体から離れる前に、皆の様子を見ておこうとの雪乃の提案に、俺たちは同意し、しばらく葉山グループの後をつけるように行動していた。

「ヒッキー、とべっち、何があったのかな?」

「人が変わった様に落ち着き払っているわね」

「ほんと、気味が悪いくらいだよ」

結衣、雪乃、沙希はそんな疑問を口にする。

戸部の落ち着いた言動に対し、周囲は驚きの反応を見せているのは奉仕部のメンバーだけではなかった。

「お、おい戸部?どうしたん?」

「いや、言うても俺ももう高二だし。恋にも進路にも、腰を据えて取り組みたいって言うかさ…」

「ね、熱でもあるんじゃないのか?」

大岡も大和も不思議がっている。

「あ、海老名さん。お土産買ったの?荷物持つよ……優美子もそれ、持ったままじゃ大変だべ?」

周囲への気配りも完璧である。これでひとまずは一件落着だろう。

ふと見ると、葉山もそれを安心したような表情で見ていた。

「…ま、これなら問題ないだろ。俺たちもそろそろ行こう」

遠目でそんなやり取りを見ていた俺は、含みを持たせてそう呟いた。

「「「…怪しい」」」

三人の疑いの視線が俺に集まるのも御愛嬌というものだろう。

俺はそれを受け流すと、葉山グループとは方向を変えて、予定していた観光地へ向けて歩みを進めた。

「ぬぉぉぉおおおおお八幡!!!助けてくれ!!!」

すると、その場を去ろうとしていた俺たちに、暑苦しい声をかけてくる輩が一名。

「…材木座。声がデカい。体もデカい。必要以上に顔を近付けんな…何だよ?」

「海美殿への土産を何にしようか悩んで居るのだ!」

その言葉を聞いて俺は苦笑いを浮かべる。

ずいぶん長いこと構っていなかったような気もするが、この場にも恋に悩む青年が一人いたのだ。

「土産なんて気持ちだ。何でもいいだろ…ま、強いて言うなら会話のネタになるようなものを買ってけば、話も弾むんじゃないか?」

そういえば、あれからこいつの中国語はどのくらい上達したのだろうか?

ふと、そんな疑問が頭に浮かぶ。

昨日から感じていたが、やはり京都は観光名所であり、訪れてくる外国人の数は多い。

中でも、一番多いのは中国人だろう。

昨日の清水寺然り、今俺達がいる、嵯峨嵐山駅近辺もしかり。

外国の言葉が一つも分からなかったあの頃は、まったく気付きもしなかったが、今なら、耳を澄ますと、自然と外国人観光客の会話が耳に入ってくる。

「海美の中国語レッスンは続いてんのか?」

「ふふふ、我を侮るなよ、八幡!既に中国語検定三級を習得した!」

「へぇ。やるじゃなかいか。じゃあ、あとは実戦経験だな。お前が京都でも頑張ってたって話をすれば海美も喜ぶんじゃないか?」

「京都で頑張る?何を?」

材木座は頭に疑問符を浮かべながら、俺にそう聞き返す。

俺はニヤリと口元を緩めて、息を吸い込んだ。

「大家好! 要不要免费导游! 中文导游!可中日翻译的导游!」

「は、ははは八幡!何を!?」

俺が可能な限り大きな声でそう叫ぶと、ワラワラと外国人観光客が周りに集まってきた。

俺はその一行を材木座に押し付けると、素早くその場を後にした。

「なんて言ったの?急に人が集まってきたけど?」

沙希は先ほどの俺の行動について質問する。

「…ん?無料の中国語ガイドです、ってな」

俺は涼しげな声でそう答えた。

「「「…酷い」」」

3人は声を重ねて俺を非難するような目で見る。

材木座の方に目をやると、あたふたしながらも、中国語でちゃんと対応しているのが目に入った。

俺はその様子を写真に収めると、海美にメールで転送した。

【なんか、真剣に中国語練習してんぞ】

【(*^_^*)】

直ぐに帰ってきた海美の顔文字メールに笑みを漏らすと、俺は携帯を懐にしまった。

「…じゃ、そろそろ行こっか?」

しばらくその様子を眺めていた結衣がそう提案する。

「次、どこだっけ?」

「ここを曲がったところに、有名な竹林の道があるわよ?」

沙希の質問に対し、雪乃がそう答えた。

三人は満場一致で次の行き先を決定すると、どんどんと竹林の方角へ向かっていく。

俺はポケットに手を突っ込んだまま、それに続いた。

生い茂る青竹の隙間から、太陽の光が差し込む。

それに包まれるような感覚を覚えながらゆっくりと歩みを進めた。

――まさか、またこの場所に来ることになるとはな

日中、電灯のついていない灯篭が並ぶ道を歩きながらそう思う。

――ずっと前から好きでした。俺と付き合ってください。

――貴方のやり方、嫌いだわ

――もっと人の気持ち考えてよ!

そんな昔のやり取りが思い出される。

丁度、俺が飛び出して告白をしたのもこの辺りだっただろうか。

俺は立ち止まって辺りを見渡した。

「ヒッキー!何してんの!?置いてくよ!」

道の向こうから、手を振りながら叫ぶ結衣の声を受けて、意識が現実に引き戻される。

雪乃も、沙希も、こちらを振り返り、俺が追いつくのを待っているようだった。

「ああ、今行く」

そう言った瞬間、竹林の合間を縫うように吹き込んだ清風を横顔に感じた。

それに引っ張られるように、一瞬だけ後ろを振り返った。

そこには歩いてきた道だけが続いている。

無意識にフッと笑みがこぼれる。

俺は再び前の方を向くと、三人のいる場所へと速足で駆けていった。



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29. 比企谷八幡は次の一手を打つ

 

 

 

修学旅行が無事に終わり、肌寒さを感じる季節となった。

 

あれから雪ノ下建設に関して、葉山は約束通り実家で資料を読み漁り、定期的に報告を寄越してくれていた。葉山の実家の事務所は、やはり想定した通り、雪ノ下建設と資本関係にある会社や、オーナーへの個人的な金貸しで繋がりを得た建設会社にオフショアの投資ビークルを設立するための各種手続きを請け負っていた。雪ノ下建設がこのビークルを通じて、各種建材や石油、ガス、銅、金等にかかるコモディティやデリバティブの投資を指示していたことも事実として証拠を掴むことができた。

 

ここまでは劉さんから得ていた情報の通りである。不可解なのは、その投資向けのストラクチャリングを行っていた主要な関連会社は、雪ノ下建設の直接子会社ではなく、孫会社や更に下の零細建設会社であった事だ。見方を変えれば、雪ノ下建設は、コモディティ投資を行うために、何層にも渡る複雑な資本構造を有する企業グループを形成していたこととなる。

 

もう一つ、葉山が父親から聞いた話によると、雪ノ下建設は近年、外資系投資銀行と懇意になってから、葉山弁護士事務所とは距離を置き出しているらしい。この投資銀行というのは言うまでもなく、俺が勤めていた企業のことだ。関連会社の投資ビークル設立の手続きは、そんな中で葉山の両親がクライアントを繋ぎ止めるために必死に営業をかけて何とか得た仕事の一つであり、現在の雪ノ下建設の全貌は葉山の両親も深く理解していないのが正直なところらしい。

 

これらの情報は逐次、宮田さん、槇村さんへ共有していたものの、近頃はそれにも手詰まり感が出てきている。今の葉山には基礎的な経済・金融の知識がないため、ここまでのことを調べさせるだけでも、相当な負担を強いていた。これ以上有益な情報を得ることは難しい状況だった。

 

また次の一手が必要だ。

 

そう考えていたが、俺は雪乃本人にこの話を持ちかける事に関しては、未だに躊躇していた。そんなある日、奉仕部へまた一つの依頼が持ち込まれた。

 

「邪魔するぞ。少し頼みたいことがあるのだが…」

 

軽めのノックの後に、奉仕部のドアが開かれる。

そこには平塚先生の姿があった。

 

「なんすか?」

 

「お、全員いるな?…入ってきていいぞ」

 

先生は奉仕部メンバーの姿を見回すと、ドアの外で待っていた女子生徒二人に声をかけた。

入ってきたのは現生徒会長城廻めぐりと、過去の時間軸でその後任を務めた1年下の後輩、一色いろはだった。

 

「こんにちわ。ちょっと相談したいことがあって…って、ひ、比企谷部長!?」

 

「城廻先輩、ご無沙汰です。てゆーか、その肩書きで呼ぶのはやめて下さいよ。文化祭はもう終わったんですから」

 

「い、いえ!とんでもないです!そ、その節は、ほ、本当にお世話になりました!」

 

「…あんた、会長になにしたの?」

 

俺の顔を見るなり血相を変えて畏まった態度を取る先輩を見て、不審に思った沙希が俺に尋ねた。

 

「いや、文実の時にちょっとな…」

 

生徒会主導のバザーに関して、企画書を合計18回程ダメ出しして、再提出させただけだ。

資料のデキの悪さに苛立つこともあったが、俺は怒りに任せて書類をブチまけたり、ドッジファイルの角で頭を殴る等のパワハラ行為は断じてしていない。

再提出の都度、「この数字の根拠は?」「提出する前に内容チェックしましたか?」という質問を淡々と繰り返しただけだ。俺は悪くない。

 

「あ、いろはちゃんだ。やっはろー!」

 

由比ヶ浜は怪訝な顔をしつつも、遅れて入ってきたもう一人の顔を見るなり、うれしそうな声で挨拶する。

 

「結衣先輩!こんにちは」

 

俺にとってひどく懐かしい一色の声が部室に響き渡る。

高校卒業以来、俺は一色と顔を合わせる機会が殆どなかった。あざとい後輩、というのが彼女に対する当時の俺の評価だったが、彼女には、一時拗れた雪乃や結衣との関係を修復するのに色々と手伝ってもらったことがある。その恩返しというわけではないが、生徒会関係の仕事では随分とコキ使われたことも思い出した。

 

――きっと、こいつも有能な女性管理職になってたんじゃないだろうか

 

そんな考えがふと浮かび、思わず俺の顔には笑みが浮かんだ。

 

一呼吸おいて、城廻先輩が今回の依頼について話を切り出す。

生徒の悪戯により無理やり生徒会長として立候補させられた一色の、生徒会長就任をどう回避するか。それがテーマだった。

 

俺はそのタイミングになって、ようやく昔そんな依頼があった事を思い出した。

雪乃、結衣、沙希の3人の視線を感じ、そちらをちらりと見る。依頼内容に関して俺に確認を取っているような眼差しに、俺は目で申し訳なさを示した。

一色が思いの他立派に生徒会長を勤めていたため、俺はこの依頼のことをうっかり忘れていたのだ。

 

「あ、あのところで…先輩って、あの超有名な比企谷先輩ですよね?」

 

一色は改まって俺に向かってそう尋ねた。

 

「は?超有名?俺が?」

 

「…横領犯として名を馳せたのだから、当然よ」

 

俺が間抜けな声を上げると、雪乃から横槍が入る。

それを聞いて、一色はやや気まずそうな表情を浮かべながらも、俺を観察するような目で見えいた。

 

「そ、その…葉山先輩とは仲がいいんですか?」

 

「別に悪かねぇけど…」

 

悪いどころか、未来では飲み仲間、この世界では先日風俗仲間となった事実は口が裂けても言えない。

 

「そうなんですか…その、葉山先輩は横領事件の事で随分必死に先輩の事を庇ってましたし、先輩のこと尊敬してる?、みたいなことまで口にしていて。特に修学旅行から帰ってきてからは戸部先輩まで一緒になってそんな話しを良くしているので、どんな人なのか気になって…」

 

「へぇ…あんた、やっぱり修学旅行でなんかしたんだ?」

 

「い、いや。ちょっと男同士の親睦をな」

 

「怪しい…でもそっか。隼人君がヒッキーを尊敬かぁ…あ、騙されちゃダメだよ、いろはちゃん!ヒッキーはただのオッサン臭い高校生だから!」

 

「オッサンって、お前…」

 

結衣は早くも、また俺を女性から遠ざけようと予防線の構築に動き出している。

 

「…コホン…とにかく、生徒会長選挙については少し対策を考えさせて下さい。後日、連絡させてもらうという形でよろしいでしょうか?」

 

雪乃は咳払いを一つして、無駄話を止めると、そう言って話をまとめる。

一色と連絡先を交換すると、雪乃は席から立ち上がって3人を見送った。

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

 

「…ヒッキーはこの依頼、どうやって解決したの?」

 

依頼者と先生が退出した後の部室で、俺たちは今回の依頼について、打ち合わせを開始した。

開口一番、結衣がそう尋ねた。

 

「まぁ、色々あったが…最終的に俺が一色を口車に乗せて生徒会長をやらせたって感じだったかな…あいつ、まだ1年だろ?こっから2期連続で生徒会長やって、それが結構様になってたから、この依頼のことはすっかり忘れてた。すまん」

 

過去を振り返りながら俺はそう口にした。

 

「その、色々あった、というのが気になるのだけれど?」

 

「い、いや大した話じゃないんだ」

 

目ざとい雪乃の追求に、俺は迂闊な枕言葉を使用したことを後悔しながら、はぐらかす様に答える。

 

「比企谷…ひょっとして、もう一回プレゼント欲しいわけ?」

 

沙希の目が光る、俺はあの時の鳩尾への衝撃を思い出して身震いした。

 

「…いや、ちょうど修学旅行の"あの事件"の後だっただろ?で、俺は最初、あいつを落選させるための酷い応援演説をすりゃ、あいつはノーダメージで生徒会長就任を回避できるって提案したんだがな。それに雪ノ下と由比ヶ浜が反発して、2人とも生徒会長に立候補するなんて言い出したもんだから、奉仕部が崩壊しかけたんだよ…」

 

「一体その人物はどこまで性根が腐っていたのかしら?そんな人間を私が好きになった、というのは非常に不可解だけれど、一度会ってみたい気もするわ」

 

「勝手に別人として亡き者にすんな。精神年齢は今もそんなに変わらん。俺は永遠の17歳だ」

 

「アハハ…でもさ、ヒッキーはそれを元に戻すために、いろはちゃんを口説いたんだよね?」

 

結衣が若干嬉しそうな表情でそう聞いてきた。

 

「なんか語弊のある言い方なのが気になるが、まぁ、そうなるな。そういや、そん時は川崎にも協力してもらったっけ…」

 

「アタシが協力?何したの?」

 

「一色の生徒会長就任への署名を集めるためにちょっとな。人気のありそうな生徒を川崎にピックアップしてもらって、学校の裏サイトでそいつらの応援アカウントを作ったんだよ。で、選挙直前でアカウントを一色いろは応援アカウントに書替えたって訳だ」

 

「…それ、大丈夫だったの?限りなくヤバイ気がするんだけど…」

 

「そうね。いくら貴方の経験上それで上手く行ったとは言え、あまり危ない橋を渡るのは感心しないわ」

 

雪乃はそんな考えを口にした。

 

「それには反対しねぇよ。俺も、自分にとってイレギュラーなやり方が嫌いな訳じゃない。答えが解ってて、それをなぞるだけってのも、今の奉仕部にとってあまりいい事じゃないだろ?」

 

俺の言葉に3人は少し嬉しそうな表情を浮かべて頷いた。

 

「一色を生徒会長にする手立てを考えるも良し、他の候補者を考えるも良し、か…後者なら、品行方正、容姿端麗、成績優秀、かつ人望も厚そうな奴と、それをサポートできそうな人間もちょうどいるしな」

 

俺がそう呟くと、何故か雪乃が顔を赤らめて恥ずかしそうに身をよじった。

 

「…た、確かに、私が生徒会長になって、奉仕部を丸ごと生徒会に移管させるというのも、一つの手段ではあるわね」

 

「へ?…あ、ああ。そういうことか。それもアリかもな…ってか、すまん。俺が言ったのは、海美と、吉浜、田村、西岡のことなんだけどな」

 

「「…プッ」」

 

俺が申し訳なさそうにそう口にすると、結衣と沙希は笑いを堪えきれなくなって噴き出してしまった。

 

「比企谷君…何故初めから名前を挙げないのかしら。貴方はいつもそうやって、もったいぶって出し惜しみして、それがカッコいいとでも思っているのかしら。だとしたらとんだ勘違いだわ。他者をミスリードすることに何の意味があるというの?そんなコミュニケーションの仕方でも社会に出て成功できるというのであれば、この世の中はまだまだ捨てたものではないと考えることも出来ない訳ではないけれど、貴方のそれはやはり実年齢に照らし合わせても問題だと思うわ。これから意識して更正して行く必要があるのではないかしら。だいたい、英語やビジネスのコミュニケーションでは結論を先に述べるというのが暗黙の了解なのよ。両者に通じている貴方が結論を後ろ倒しにして話すことにはやはり悪意を感じざるを得ないわ…」

 

雪乃は赤い顔を更に紅潮させて、早口でそうまくし立てた。

 

「す、すまん…ちょうど小腹も空いたし、続きは駅前のカフェかどっかでやらないか?お詫びにご馳走させてもらう…」

 

俺は誤魔化しを兼ねてそう提案する。

 

「いいね!行こ行こ!サキサキは何食べたい?」

 

「う~ん、夕飯前だし、あんまり重くないのなら付き合うよ」

 

プイッと不貞腐れて横を向いた雪乃の横で、結衣が嬉しそうに立ち上がって沙希の手を引っ張った。

 

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

 

夕刻、駅前のカフェ。

 

俺たち奉仕部4人はとある人物と対峙していた。

今、俺たちの目の前には雪乃の姉、雪ノ下陽乃が座っている。

彼女は俺たちよりも先にこの店で時間つぶしをしていたようで、ちょうど俺たちがカウンターで商品を注文し、席に着いたタイミングでトレーを持ってこちらにやって来た。

 

「いつまでここに居座る気かしら?」

 

「そんなにツンツンしないでよ~。お姉さんも混ぜて欲しいな!」

 

「私たちは部活の依頼に関する打合せで忙しいのよ」

 

雪ノ下姉妹は出会うなりこんな具合に、周囲にピリピリした空気を撒き散らしていた。

 

「雪乃ちゃん、文化祭じゃ大活躍だったよね~。テレビにも出ちゃって、お父さん、喜んでたよ?…ま、実際にはそこにいる比企谷君がいなければ成立しない企画だったみたいだけど?」

 

「あら、姉さんが負惜しみを口にするなんて、よっぽど一昨年の記録を塗り替えられたのが悔しかったようね?」

 

「言うようになったじゃない?…それにしても、比企谷君もずいぶんと楽しそうだね?そりゃそうだよね?雪乃ちゃんもガハマちゃんも川崎ちゃんも、みんな可愛いもんね」

 

「いや、その。まぁ」

 

突如、彼女のターゲットが俺に変わったことに、俺はいやな汗をかきながら返答する。

緊張によるものか、喉に異常な渇きを感じて、ドリンクバーから持ってきたアイスコーヒーをストローで吸い上げた。

 

「でもさ、やっぱり誰とも付き合ってるわけじゃないんだよね? 前にも聞いたけど、どう? そろそろお姉さんと付き合ってみる気になった?」

 

「ブハッ!ゴホッ、ゴホッ!」

 

俺は盛大にコーヒーを噴き出し、咳き込んだ。

3人の視線が顔に突き刺さる。だから3人と一緒にいる時にこの人に会うのは嫌だったのだ。

 

「貴女にこの3人と同じくらいの魅力があれば、俺の心も揺れてたのかもしれませんね」

 

彼女への牽制と、3人への弁明の意味を混めて、俺はややキツ目の言葉を彼女に返す。

 

その瞬間、彼女からパチンッという、スイッチのようなものが入る音がした。

いや、正確には何の音も鳴っていないし、彼女の表情にも変化はなかった。だが、彼女の身に纏う雰囲気だけがガラリと変わったのだ。それは結衣や沙希もビクリと反応するくらいの危険な変化だった。

 

「比企谷君の趣味って変わってるって言われない?…ねぇ、比企谷君って、堅物の貧乳好き?それとも、オツムの弱い子を守ってあげたくなるタイプ?あ、恋愛すっ飛ばして糠味噌臭い女と生活することに憧れちゃう系?」

 

「か、堅物の貧乳…」

 

「ひょっとしてあたし、馬鹿扱いされてる!?」

 

「糠味噌って…」

 

どうやら俺は地雷を踏み抜いてしまったようだ。

彼女は三者への強烈な毒を一気に吐きながら、テーブル越しに俺の方へ身を乗り出してそう言い切った。

3人はそれに呼応するように、それぞれ心当たりのある悪口に反応を示す。

 

3人をフォローをしなければ。

そう考えつつも、彼女の豹変振りに恐れをなして縮こまっていると、偶然テーブルの前を通りかかった女子高校生二名のうち1名とはたと目が合った。

 

「あ!比企谷じゃん!うわ、超なついんだけど!レアキャラじゃない?」

 

「斉藤じゃねぇか!久しぶりだな!」

 

俺はこの声をかけて来た知人の登場に、助かったとばかりに大き目の声を上げた。

 

総武高校のご近所にある海浜総合高校の制服を身に纏うこの少女。

彼女の名は斉藤かおりだ。

未来の世界で、同じオフィス街の大手化粧品メーカーに勤務するOLだった。彼女は俺の中学時代の同級生でもあり、休憩時間が重なれば、まれに外で昼食を一緒に食う位の仲だ。

彼女と都心で再会したのは、結衣と付き合っていた頃だった。

 

20代前半で結婚していた彼女は「比企谷も早く結婚すればいいのに」と言うのが口癖だった。最も、俺が海外赴任から帰って来た頃からは旦那の愚痴ばかりこぼすようになっていたのだが。まぁ、それも惚気話の一つの形なのだろう。

とにかく、彼女には結衣や沙希とのデートスポットを紹介してもらったりと、それなりに世話になった。結衣や沙希とも面識があり、二人とはそれなりに仲が良かったように記憶している。

 

「へ?斉藤?…ひょっとして私の名前忘れちゃったの?超ウケるんだけど!」

 

斉藤は一瞬怪訝な表情を浮かべた後、手を叩いて笑い出した。

 

一方、彼女のその言葉を聞いて俺は硬直した。

 

「斉藤」は彼女が嫁いだ先の苗字。今の彼女はまだ旧姓の折本だ。

俺は自分のあまりのマヌケぶりに衝撃を覚え、頭をバットで殴られたような感覚に陥った。

 

「って言うか、比企谷、中学の時に私に告白までしたのにちょっとヒドくない?私、折本かおりなんだけど?」

 

折本は笑いすぎて涙目になった目を拭いながら、明るめの声でそう言った。

一方の俺は、彼女のその発言に再び身がすくむような思いをした。

当然、雪乃、結衣、沙希の視線に、再度全身をメッタ刺しにされるような感覚を皮膚に感じた。

 

「い、いつの時代の話してんだよ」

 

「…ほんの数年前じゃないの?」

 

はぐらかすように呟いた俺の言葉は、沙希の凍て付く様に低い声によって一蹴された。

 

「へぇ…で、斉藤さん?はこの男と付き合っていたの?」

 

雪乃は試すような視線で、折本に対してそう尋ねた。

彼女が斉藤と呼んだのは間違いなくわざとだ。

 

「あ、どうも。私、斉藤じゃなくて折本だよ…って付き合うわけないじゃん!比企谷とは殆ど話したこともなかったのに、急に告白とか、超ウケたし!」

 

折本は初対面の面々に軽く会釈した後、笑いながら雪乃の質問を否定した。

 

「…いや、まぁ、お前気さくな感じだから、人付き合いに慣れてなかった俺が勝手に勘違いしたんだよ。そろそろその話は勘弁してくれ」

 

俺は折本によって暴かれつつある、自分の黒歴史を慌てて布で包み込むように端的に話を総括し、切り上げるように促した。

 

「ヒッキー…話が違うくない?ヒッキーは昔、人の好意とか素直に信じなかったって言ってたじゃん!」

 

しかし俺の思惑などまるで無視するように、結衣が不機嫌な表情を浮かべて俺に詰め寄ってきた。

 

「だ、だからその失敗がトラウマになったんだよ…」

 

「それって、あたしが最初じゃなかったのは斉藤さんのせいってこと!?」

 

ヒートアップした結衣の発言に俺は硬直する。

 

折本とその友人は当然、結衣が何の話をしているのか、良く分からないといった表情を浮かべていた。

しかし、その場に居合せたモンスターが一名、今の発言に非常に興味を持ってしまったようだ。彼女は、また面白い玩具を見つけたと言わんばかりの怪しい笑みを浮かべている。

 

流石に彼女の洞察力を以ってしても、これだけの会話では俺が未来から戻ってきたなどという解に辿り着くには無理があるだろう。だが、間違いなく後で問い詰められることになる。そう直感して頭痛を感じた。

 

「…あの、折本だから。ホント、斉藤って誰?」

 

折本は、結衣の発言に対し、いい加減不愉快だと言わんばかりの表情でそう呟いた。

 

「ふぅ~ん、ここにも比企谷君のタイプの子がいたのか。ひょっとしてそっちの子もそうなの?」

 

ここへきて、怪しげな笑みを浮かべていた自称"お姉さん"が品定めをするような目で、折本とその友人の女子を眺めながらそう口にした。

 

――いやいや、そっちの子までは面識ないから

 

俺は、葉山を含めた4人でダブルデート(実際には3人+おまけ1名、だったが)した過去の事実は棚に上げてそんな言葉を口にしようとし、それを堪えた。口は災いの元だ。この人に関しては、どんな返しをされるか分かったものではない。

 

そういや、この折本の友人の名前、何だったっけか?

俺は現実逃避するように、一人話題から取り残された女子を見る。

 

「でも、そうするとますます比企谷君の趣味って不明だよね~。斉藤ちゃんかぁ…平凡なのに漢字の種類で個性主張するとか?そんな性格?だからパーマ?」

 

彼女は、最早いいがかり以外の何でもないようなヒドイ言葉を折本に向かってぶつけだした。

俺にその権限があれば、今すぐ折本と、全国の斉藤・斎藤・齋藤・齊藤(以下略)さんに謝罪させるレベルだ。

 

「さ、さっきからなんなの…この斉藤押し?」

 

さいと…折本は泣きそうな顔でそう呟いた。

 

「雪乃ちゃん、ガハマちゃん、沙希ちゃん、斉藤ちゃん、そっちの子…何か共通点があるのかな?…あ、わかった!比企谷君ってB専?B専ってやつだ?それじゃ私になびくわけないよね~」

 

限りなく無邪気な声色で発せられたその発言ににその場の空気が凍り付く。

 

この女、今、自分が溺愛する妹を含め、この場にいる自分以外の女性はブサイクだと言い切りやがった。さっき、奉仕部の3人に”みんな可愛いもんね”と言ったばかりなのに、それをさも自然に無かったことにしやがった。正に邪智暴虐の王だ。

 

どうやら先ほど俺が言った言葉が余程気に障っていたらしい。

 

っていうか、仲町さん全く関係ねーだろ。あ、今思い出した。この子の名前は仲町千佳だ。もうどうでもいいけど。

 

「…そ、そういえばさ、比企谷って携帯変えたの?」

 

折本は、この女性とは関わらない方がいいと悟ったのだろう。

敢えて彼女の発言には一切触れずに、話題を切り替えて俺に質問をふった。

それはこの場において正しい判断だ。

 

「あ、ああ。そういやそうだったかな」

 

俺は折本による救いの手を掴むように、その話題に乗った。

 

「番号教えてくれればよかったのに」

 

「…前の携帯は失くしたんだよ」

 

曖昧な記憶だが、実際は、折本の記憶と共に連絡先をデリートし、高校入学に合わせてキャリアー変更したような気がする。他に登録していた番号も家族くらいだったので、番号変更にも特段困らなかった…って、もう何でもいいや。

 

「じゃあ新しい番号教えてよ」

 

折本は携帯を取り出しながらそう言った。

俺は会話の流れから当然そう来るであろう発言に備えていなかったことに気付き、申し訳なさげな表情を浮かべて、奉仕部の3人をちらりと見た。

 

「ハァ…斉藤さん、登録画面は開いたかしら?その男の番号は0x0-xxxx-xxxxよ」

 

雪乃はわざとらしく溜息を吐いた後、俺の電話番号をその場で諳んじる。

 

――って、怖ぇよ!俺が自分でも覚えていない番号を何で暗記してんの、こいつ

 

俺は雪乃のその行動に若干引きながら、苦笑いを浮かべる他なかった。

それは折本も同様だったようだ。

そんな中、ただ一人、思わぬ収穫があったといった表情を浮かべる人物がいた。それは言うまでもなく雪ノ下陽乃、その人だった。どうせ今ので俺の番号を暗記したのだろう。

 

「…比企谷、ごめん。あたし達、ちょっと用事ができたから先に行くよ。打ち合わせはまた明日でいいよね?」

 

折本が携帯を鞄にしまったタイミングで、沙希が突然そんなことを言い出した。

 

「あ、ああ」

 

合意する以外の選択肢は用意されていない。沙希の目線に気圧されるように俺はそう言った。

 

「雪ノ下、由比ヶ浜、行こう?…あのさ、斉藤さん?あんたにも用があるから、ちょっと付き合って」

 

沙希は立ち上がって二人に離籍を促すと、折本の腕をグイッと引張りながらそう言った。

折本は明らかに沙希に怯えている。彼女は混乱した表情を浮かべつつも頷かざるを得なかった。

 

「…もう斉藤でいいや」

 

3人に連れられて店を出て行った折本は、去り際に力なくそう呟いた。

 

俺のせいで寄ってたかって斉藤扱いされた折本が不憫だったが、はっきり言って俺には助舟を出すような力はない。

 

突然訳の分からない団体に友人を連れ去られてポツンと立ち尽くしていた仲町さんも、気がつくとその場からフェードアウトしていた。

 

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

 

「アハハハ!あ~、面白かった!…二人きりになっちゃったね?」

 

現役女子高校生5人が退席したの後、雪ノ下陽乃は腹を抱えてひとしきり笑い、妖艶な声色でそう言った。

 

「…いくらなんでもありゃ無いでしょ?いい大人が俺の同窓生を苛めて、挙句、最愛の妹までブス呼ばわりとか、正直、ドン引きしました」

 

俺は疲れ切った表情で彼女にそう返す。

 

「だって比企谷君が冷たいんだもん」

 

彼女は一転し、一色や小町を髣髴とさせるようなあざと可愛い膨れっ面を浮かべて、そう言った。

本当にこの人はいくつの顔を持っているのか分からない。

 

「そりゃ俺もだいぶ失礼なこと言いましたけどね。そう言わざるを得ない状況にしたのは貴女じゃないですか?」

 

「え?比企谷君、ひょっとして怒ってる?」

 

「…まぁ、あまりいい気分じゃないです」

 

「え~!心が狭いなぁ。ま、今日は雪乃ちゃんのおかげで比企谷君の連絡先も手に入ったことだし、私が非を認めてあげないこともないかな?お詫びに何でも言うこと聞いてあげるよ~?どうする?今からデートする?」

 

やはりさっきのやり取りで俺の電話番号を暗記していたようだ。

これだから変な方向に賢い女性は苦手なのだ。

 

「…だからそういうのは…」

 

そこまで言いかけて、俺はふと思考した。

これはひょっとしたらチャンスかもしれない。

 

雪ノ下建設に関する調査は行き詰っている。

より深い情報にアクセスするためには、内部に協力者を求める必要があった。

 

俺は最終的には雪乃にこの件を打ち明け、協力を仰ぐつもりではある。だが正直なところ、今の彼女に、大人達がビジネスの世界で何を企図し、何を行っているのかを掴むのは困難だろう。そもそも実家と精神的に距離を置いている雪乃にとっては負担が大きすぎる。

 

では、雪ノ下陽乃に内部情報の提供を求めるのはどうだろうか。それは論外だろう。確かに雪乃を思う彼女が手を貸してくれる可能性がない訳ではない。だが、劉さんの感触では、彼女でさえも現段階では、両親が運営する会社のことまでは深く理解していないとのことだった。何より、俺には彼女の行動心理を正確に把握することは不可能だ。彼女の行動次第で状況が悪化するリスクを取ることはできない。

 

であれば、今俺にある選択肢は何だろうか。

 

「…じゃあ、一つお願いしていいですか?」

 

俺は咳払いをした後に、そう尋ねた。

 

「なになに?」

 

「雪ノ下建設でバイトさせてもらえるように取り次いでもらえませんか?」

 

その選択肢とは、俺自身が内部に入り込むこと。

それしか手はないだろう。

 

「ウチの会社で?…比企谷君、雪ノ下建設はゼネコンだから、ヘルメットかぶってツルハシ持って汗かくような日雇いのバイトは採ってないよ?」

 

彼女は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた後、少しガッカリした様な顔でそう言った。

きっと俺が小遣い欲しさに、割のいいバイト先を探しているのだと勘違いしたのだろう。

 

彼女が言う通り、ゼネコンは基本的に工事現場で杭を打ったり、コンクリートを打設したりといった作業を直接行っている訳ではない。現場の作業員は全て専門工事業者の作業員で、ゼネコンが雇用する社員でないのだ。

 

そもそもゼネコンとはGeneral Contractorの略で、直訳すると総合契約請負業者だ。彼らは受注したプロジェクトにかかる工事プロセスを細分化して、サブコン(Sub Contractor)、即ち下請けに施工を発注し、建設の進捗を管理することを主な生業とする、総合プロデューサーなのだ。

 

「俺が興味あるのは工事現場じゃなくて、バックオフィス業務です。経理とかを通じて、企業活動の大きな流れを勉強する機会が欲しいんですよ。給料の出ないインターンでも嬉しいんですけど」

 

「へぇ。お給料も要らないって、どうして?」

 

「将来への備え、ですかね。企業財務の実践経験を積んでみたいんです。意識高い系って大学には腐るほどいると思いますけど、高校生の時からそういう活動してれば、それなりにバリューが付きますからね」

 

「…比企谷君、何か企んでるのがバレバレだよ?」

 

彼女はニコリと笑ってそう言った。

俺は目の前の人物に嘘が通用しなかったことに焦りを感じた。

 

「さっきのガハマちゃんの発言も含めて、お姉さん、やっぱり比企谷君のことが気になっちゃうなぁ?」

 

そんな俺の動揺を見透かしたように、彼女は笑顔のまま視線だけを鋭くして俺を見据える。

 

「…いつか時期が来たら全部話します。それが条件ってことじゃ駄目ですか?」

 

それの発言がどれ程危険な事かは承知の上で、俺は持てる手札を切った。

仮に自分が彼女に脅され、利用されることとなっても、雪乃の将来を守るためなら、きっと俺はその結果を納得して受け入れることができる。そう考えた。

 

「…ま、いっか。じゃあ両親に話を付けてあげる。文化祭の活躍を話せば、きっとうちの親も比企谷君には興味を持つと思うよ」

 

彼女は俺をマジマジと見た後、その条件に応諾した。

 

「ありがとうございます」

 

俺が頭を下げると、彼女は手をヒラヒラと振って、店から出て行った。

 

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

 

「お前ら、昨日折本と何話したんだよ?」

 

翌日の夕方、奉仕部に集まった3人に俺はそう尋ねた。

 

「…ガールズトーク」

 

結衣は、詮索するなという警告のキーワードを口にした。

雪乃も沙希も神妙な顔つきでそれに頷いた。

 

「…わかったよ」

 

俺は諦め交じりにそう呟く。

ポケットの中に入っている携帯に手を触れ、日中の休憩時間に折本と交わしたメールのやり取りを思い出した。

 

【比企谷!昨日のあの子達、いったい何なの!?】

 

【番号未登録なんだが、誰だ?折本か?】

 

【斉藤だし。そっちも登録しといてよね】

 

【嫌味かよ…ていうかホント、悪かった。最近ちょっと視力が落ちてて、別の奴と見間違えたんだ】

 

【比企谷サイテー。今朝なんて、出席確認でクラスの斎藤君の名前が呼ばれた時に返事しちゃったし!ウケル】

 

【いや、ウケねぇだろ。スマン。あいつらに何か言われたのか?】

 

【別に】

 

【おい、気になるだろーが。…まぁ、根はいい奴らだから、良かったら仲良くしてやってくれ】

 

【比企谷、楽しそうにしてんじゃん?良かったね。そのうち、中学の同窓会でもやろうよ。あ、でもあの子達の許可は取っといてね?怖いから】

 

【…本当に何されたんだよ?】

 

メールのやり取りはここで途切れた。

この件も、結局真相は闇の中だ。

 

「ポケットの携帯を弄って、何を考えているの?ひょっとして斉藤さんとメールして、少年時代の淡い恋心でも思い出したのかしら?気持ちが悪いオジサンね」

 

「ロリコン」

 

雪乃と沙希が、のっけから全力で強烈なジャブを放ってくる。

 

「なわけねぇだろ。あいつの"旧姓"を忘れてた俺が悪いのかも知れんが、あまり苛めんなよ?斉藤姓がトラウマになって本来の旦那さんと恋愛出来なくなったら可哀想だろ」

 

「自分を振った相手なのに、ヒッキー、ずいぶん優しいね?」

 

「そんなの俺にとっちゃ、チン毛も生えてねぇ頃の大昔の話だって言っただろうが。もう殆ど覚えてねぇよ。あいつは別に悪い奴じゃねぇし、少なくとも由比ヶ浜と川崎とは性格も合うはずだぞ?」

 

俺は若干苛立ちながらそう口にしてハッとする。

どんだけ上司の影響を受けてんだよ、俺は。人の口調が感染するのであれば、せめて宮田さんの方が良かった。

 

「チン…ヒッキーマジキモイ!ありえない!」

 

「完全にセクハラオヤジ…」

 

「…通報した方が良いかしら?」

 

その後も三者三様の罵倒が続き、ついに俺は謝罪を強いられる羽目になった。

 

 

その場に平伏した俺に満足したのか、しばらくして、雪乃が昨日の一色の依頼に関する話を持ち出す。

 

「…そう言えば、今回の依頼の件、少し考えてみたのだけれど…対立候補を擁立するにせよ、一色さんを会長に就任させるにせよ、それだけを目的とするのは奉仕部の本来の活動内容にそぐわない気がするのよ」

 

「どういうこと?」

 

沙希はキョトンとした顔で雪乃に尋ねる。

 

「奉仕部は万屋ではないわ。結果だけを与えても、彼女の為にならないでしょう?会長にならないのであれば、それはそれで構わないけれど、おそらく今後も続くであろう同級生からの嫌がらせに、彼女が自分で対処していくだけの力を付けなければならないわ。逆に、彼女が会長になるのであれば、彼女自身で目的意識と自覚を持ってその責務を全うしなければ意味がないでしょう?」

 

「…なるほどね~。でもヒッキーは、いろはちゃんは思いの他立派に生徒会長を務めてたって言ったよね?どんな感じだったの?」

 

雪乃の言葉に納得した結衣は、思い出したように疑問を口にした。

 

「…これは一色のプライバシーにも関わるからココだけの話にしておいて欲しいんだが…実はあいつ葉山に気があってな。最初は1年生会長なら失敗も許されるし、生徒会の仕事を葉山に手伝わせたり、遅くなりゃ送ってもらえばいい、って具合に俺が吹き込んだんだよ。だから初めは、雪ノ下が言った目的意識としては限りなく不純だし、まして自覚なんて皆無だったぞ」

 

「私もあまり人のことは言えた義理ではないけれど、あまり好ましいとは言えないわね…」

 

不純な動機で文化祭のトップ2を務めた俺たちは、互いに顔を見合わせて苦笑いを浮かべる。

 

「で、それが何で立派な会長になれたわけ?」

 

沙希が当然の疑問を口にする。

 

「まぁ、慣れなんじゃないのか?最初は酷いもんだったぞ。俺も相当コキ使われたしな…生徒会のメンバーで事足りるような雑務まで、俺を呼びつけて押し付ける始末だ。責任取って下さい、とかイチャモン付けられて、ホント…良い様に使われてたな」

 

「…生徒会のメンバーは何してたの?」

 

結衣が一瞬怪訝な表情を浮かべて、俺に尋ねた。

 

「さぁな?…仕事押し付けられた時は大抵他のメンバーいなかったし」

 

「…じゃあ、いろはちゃんは?」

 

「ヒイヒイ言って仕事してる俺を見てニヤついてやがったよ…やっぱあいつ、相当性格悪いんだろうな」

 

俺は昔を思い出し、半分笑いながらそう言った。

 

「…ちなみに葉山とはどうなったの?」

 

少し考え込むような仕草をしていた沙希が、質問をかぶせる。

 

「…これもこの場限りの話だが…告白して振られてたよ。そういや、俺への嫌がらせが加速したのもその位の時期からだったか?適当なこと言って口車に乗せたこと、やっぱり恨まれてたのかもな」

 

「…では、一色さんが会長として自覚を持つようになった切っ掛けは?」

 

今度は雪乃だ。

 

「何なんだよお前ら、さっきから?切っ掛けなんて、特に思い当たる節はないぞ」

 

「なら、時期は?」

 

神妙な顔つきで更に情報を引き出そうとする3人に、俺は疑問を感じつつも自分の記憶を辿った。

 

「…俺達が3年になって暫く立ってからだな」

 

「それって、ひょっとして、ヒッキーがゆきのんと付き合いだした位の時期?」

 

「…まぁそうだな…って、ちょっと待て。お前ら何考えてんだ!?」

 

俺はこの段階になってようやく、彼女達が尋問を通じて検証しようとしていた仮定に辿り着いた。

 

「頭が痛いわ…私達の後輩の代にまで被害者がいたなんて」

 

「だから、それはねぇよ。被害者は俺の方だろ!?」

 

自分は比企谷八幡被害者の会、会員番号001です、とでも言わんばかりの表情を顔に浮かべて、雪乃は頭を抱えて見せた。

 

「どう考えても、客観的に見れば全部比企谷目当ての行動でしょ?ホントにあんたに全く自覚が無いなら、一色が可哀想なくらいだよ」

 

沙希はそう言いながら深めの溜息をつく。

 

「俺に自覚が無いのは、お前達の邪推が事実無根だからだ」

 

「…さがみんのこともそう言ってたけど、結局告白されたよね?」

 

「ぐっ…」

 

ジェットストリームアタックさながらの3人の連携波状攻撃に、俺は全く言い返すことが出来なくなった。

夏休みが明けてから、奉仕部ではいつもこんな具合に俺ばかりが槍玉に挙げられている。

 

「…貴方がそこまで必死に否定するなら、実証するまでのことよ」

 

そう言って雪乃は携帯電話を取り出すと、昨日登録した一色へコールした。

彼女は携帯をハンズフリーモードにすると、机の上に置く。

いつか、どこかで見た光景だ。

 

しかし雪乃の奴は何を企んでいるのだろうか。俺には全く想像もつかない。

 

 

「ハ~イ?雪ノ下先輩ですか?」

 

「一色さん、今、少しだけ話す時間はあるかしら?依頼の件なのだけれど…」

 

数秒後に電話に出た一色の声が、スピーカーを通じて奉仕部内に響く。

雪乃は一色に話しかけ始めた。

 

「あれから奉仕部で話し合ったのよ。結論を先に言うわね…一色さんは生徒会長になる気は無いかしら?」

 

「え!?…そんなぁ。困りますぅ」

 

「一色さんへ嫌がらせをする生徒が学校にいる限り、生徒会長就任を回避出来たとしても、貴女の事が心配なのよ。であれば、逆に生徒会長になってしまった方が、手も出されにくくなるし、何よりその生徒達を見返すことが出来るわ」

 

「た、確かにそうかもしれないですけどぉ…私、サッカー部のマネージャーもやってますしぃ」

 

「一色さんには会長職もマネージャーも両立させる能力がある、というのが私達の見解よ。貴女には、人を誘導する力…上に立つ人間として必要な資質があると考えているわ」

 

「そんなに褒められても…やっぱり出来ませんよぉ」

 

「…そう。それは残念だわ。比企谷君が悔しがりそうね」

 

――おいおい、何で俺の名前をこんなタイミングで出してんの、この子!?

 

俺は理解不能な雪乃の言動に眉をひそめた。

 

「…何で先輩が悔しがるんですか?」

 

「貴女の会長就任を推したのは比企谷君なのよ。私は貴女の意志を尊重すべきと考えていたのだけれど、彼は貴女へのイヤガラセが過激化するのを一番心配していたわ。それに、貴女に適正があると言ったのも彼よ」

 

おい、虚言は吐かないんじゃないのか?真っ赤な嘘にも程があるぞ。

 

しかし、こんな適当な話に一色が乗ってくるハズがない。

仮に3人の邪推が事実であったとしても、現時点で一色が好きなのはあくまで葉山だ。俺の名前を出したところで全くの無駄…

 

「え!?先輩が、ですか?」

 

おい、何で反応してんだよ、一色さん?

予想外の食いつきに俺は冷や汗をかいた。横から感じる沙希と結衣の視線が痛い。

 

「一色政権にトラブルがあれば、自分がサポートする、とも言っていたわね」

 

「……わかりました。そんなに期待してもらえるのなら、私…やってみます…先輩には"約束、忘れないで下さいね"って伝えてもらえますか?」

 

マジかよ。何が起こったのかさっぱりわからん。

そもそも、今の一色は俺とは殆ど面識が無いはずだ。俺のことを便利な物程度にしか扱っていなかったあの一色が、俺の推薦で自分から会長就任を受け入れるなんて、とてもじゃないが信じられない。

 

「そう言うことよ。これで分かったかしら?葉山君に尊敬される、超有名人の比企谷君?…貴方は悪名も高いけれど、文化祭での圧倒的な功績でファンも多いと聞くわ」

 

通話を終了した雪乃は俺の顔を見てそう言った。

 

「嘘だろ…」

 

俺は自分の認識能力が、3人の洞察力に全く及んでいないことに衝撃を受けた。

 

「…アタシ達の事、大事にしたいって言うなら、もう少し自覚持ってよ。ただでさえ宙ぶらりんな状況なのに…不安になるし」

 

沙希は真面目な表情でそんな言葉を溢した。

 

「サキサキ…」

 

「!…ごめん、比企谷」

 

結衣に嗜めるような声で名を呼ばれた沙希は、ハッとした顔になり、俺に謝罪の言葉を述べた。

そんなやり取りに、久々に罪悪感による心の痛みを感じる。

普段3人で結託して必要以上に俺をからかうのは、きっと俺への気遣いなのだ。

 

「いや、俺の方こそ悪かった…以後、気をつける」

 

3人は、俺の謝罪にほっとした様な表情を浮かべる。

 

「…でもさ、ゆきのん、あんな約束しちゃって大丈夫なの?あたし、いろはちゃんとは仲良いけど、ヒッキーの時間を取られるのは、ちょっと…」

 

結衣は心配そうにそう呟いた。

 

「由比ヶ浜さん、私は何処かの誰かさんと違って一般程度には利己的な人間なのよ。虚言も吐けば、他人を利用することだってあるわ…何の考えも無しに、自分が一方的に損をするようなマネはしないの」

 

「どういう開き直り方なの、それ」

 

沙希が呆れ顔で質問した。

 

「一色さんの生徒会長としての自覚、は、一先ず置いておきましょう。そのうちに、嫌でも身につくことになるわ」

 

雪乃はそう言って、意味深な笑みを浮かべた。

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

後日

 

職員室前の掲示板に張り出された、新生生徒会メンバーの一覧を見て、俺は苦笑いを浮かべていた。

これならば確かに、生徒会の仕事に俺の出る幕など無いだろう。

 

新生生徒会の面子。

副会長には1年B組の劉海美。それを支える、書記、会計、庶務の実働部隊には吉浜、西岡、田村と、文実の精鋭が名を連ねている。

 

あの時俺が何気なく提案した、対抗馬政権をそっくりそのまま一色いろはの下に収める形になっている。

一色は嫌でもそのうちに会長としての責務を自覚することになる、と言っていた雪乃の言葉にも納得だ。あいつらの性格なら、一色が不甲斐ないマネをしていれば、下から容赦無く突き上げるだろう。

しかし、よくもまぁ自分達が企図した通りに、彼らに生徒会の役職を引き受けさせることが出来たものだ。3人は一体どのような交渉を行ったのかはこれまた謎であった。

 

 

――さて、と…

 

これで生徒会選挙の件は一件落着である。

俺はポケットから携帯を取り出して、次に自分がすべきことを考える。

 

画面に映るのは、先ほど受信した、雪ノ下陽乃からのメール。

俺の雪ノ下建設でのバイトが認められた、という連絡だった。

 

【比企谷君はいつから入れる?うちはいつからでもいいみたいだよ】

 

【じゃあ早速明日、オフィスに伺います】

 

手早くそれだけのメッセージを送信すると、俺は携帯をしまい、深呼吸を一つした。

 

 

 

 

 



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30. 比企谷八幡は一歩近づく

時刻は夕方16:00。

授業を終えた俺は、雪乃達三人に部活の欠席をメールで告げると、足早に雪ノ下建設の本社へと向かった。

雪ノ下建設での働き口を斡旋してくれた雪ノ下陽乃嬢によると、今日はバイト着任としての挨拶と、業務に関する簡単なレクチャーが予定されている。

「今日からお世話になります。総武高校の比企谷です」

「やぁ、良く来たね。社長から話は聞いているよ。これが入館カードだよ。じゃあ、これから簡単な業務説明をしようか…と、その前に、これからのシフトについてだけど、平日は夕方からでいいんだよね?月末や決算期はデータ入力が忙しくなるから、できれば休日も来てもらえると嬉しいんだけど」

オフィスで俺を受け入れてくれた財務部の主任が今後のシフトについて話を切り出した。

――繁忙期に人手を欲しがる程度には受注があるってことか?

些細なやり取りから、この会社の業績について探りを入れていく。

「わかりました。日付を指定して下されば、週末の予定も空けておきます」

「助かるよ。じゃあ逆に平日は、任意で出社希望日を登録しておいてもらえるかな?後で人事管理関係のシステム操作は教えるから」

「わかりました。ありがとうございます」

バックオフィスは既に夕方の帰宅ムードとなっており、オフィスには気だるげな雰囲気が漂っている。

俺が用意されたデスクに着席すると、隣の席の職員がマニュアル本を開きながら身を乗り出してきた。彼のレクチャーに従って、ID登録等の諸手続きを済ませた後、PCの画面に表示された無骨なアイコンをダブルクリックしてシステムのアプリを立ち上げた。

「これがウチの財務システム。この画面で呼び出したデータの照合が君にメインでやってもらう業務になる…データは基本的に帳票システムからオートで引張ってくるけど、そっちを入力してる営業部門の連中はしょっちゅう数字を間違えるからしっかりエビデンスを確認してくれ。それから、決算期には未入力の伝票が溜まるから、こっちの入力欄から外側で入れてもらうことになる」

総武光学が一般的な表計算ソフトを使っていたのに対し、雪ノ下建設の財務部門には高度なシステムが導入されていた。総武光学も今ではファンドの出資を経て、こういったシステム化が進められているはずだが、雪ノ下建設は当時の総武光学と比べて、成熟した企業であるということが窺われる。それは同時に、この会社の財務の全体像を把握するためには、当社特有のシステムの使い方を習熟しなければならないことを意味していた。

ややぶっきら棒な態度で説明を続ける職員に、相槌を打ちながら、俺はノートに操作方法にかかるメモを取っていった。

「照合する帳票の元データはどれを見ればいいんですか?」

「君のデスクのキャビネットに入ってるドッジファイルがそれだよ」

職員の言葉を聞いてキャビネットを開くと、プラスチック製の分厚いファイルにパンパンに詰った書類の束が4つ程目に付いた。

「…結構量がありますね」

「ま、頑張って」

俺はパラパラとファイルの内容を確認した。見たところ、殆どが建設事業にかかる受注・発注の伝票であり、投資にかかる残高等のレポートの類は見あたらなかった。

再びシステムの画面へと目を移すと、俺はインターフェイスに備わっている機能を確認していった。財務集計を行った後の、決算書等の表示はワンクリックで、という訳にはいかなそうだ。

お目当ての情報が直ぐに見つかるとは思っていなかったが、やはりシステム操作について、職員に聞きながら少しずつ調べていく必要がありそうだ。そのためには、ひと先ず業務を真面目にこなして、職員からある程度信頼されなければ話にならない。

――先は長そうだが、取り敢えずやるしかねぇな

どれだけ作業量が多くても、投資銀行業務程ではないだろう。過去の社畜時代には、たった一つの投資プロジェクトをまとめるのに、ドッジファイル数個分の情報を管理してきた俺だ。この程度で弱音を上げることは許されない。

「残業しても大丈夫ですか?早く仕事を覚えたいんです…あ、退出時刻の記録は皆さんに合わせますんで」

「…進んでサービス残業したがるなんて変わってるな?まぁ、いいよ。後で退出記録の付け方を教えるから」

「あざっす」

こうして俺の雪ノ下建設でのバイトと称した、潜入捜査活動が始まった。

☆ ☆ ☆ 

数日後

俺は初日以来、ほぼ毎日のペースで雪ノ下建設に顔を出していた。

大量にあった財務の照合作業もかなりのペースで進捗しており、財務部門のチームからも、一定の評価を得ることに成功していた。

今日も授業が終わると、そそくさとカバンに荷物を仕舞いこみ、教室を後にする。

「ヒッキー!ちょっと待ってよ!」

そんな俺を追いかけるように、結衣と沙希が飛び出し、俺を呼び止めた。

「あんた、今日も部活休むの?」

「ああ。ちょっと外せない用事があってな」

「ヒッキー最近、ずっと部室に来てないし…何してるの?」

結衣は心配するような表情を浮かべて俺に問いかけた。

早晩、こうなることは分かっていた。ここは素直に3人に伝えておいた方がいいだろう。

そう考えた俺は、周囲に人気がないことを確認して口を開いた。

「…雪ノ下の姉の口利きで、雪ノ下建設でバイトを始めたんだ」

「バイト?あんたお金に困ってたっけ?」

沙希が最もな疑問を口にした。

「お前らには隠すことじゃないから伝えとくか…だが、これは口外無用で頼むぞ」

そう言うと、二人は固唾を飲むように俺の次の言葉を待った。

「あいつの実家…両親が経営している事業の絡みでキナ臭い動きがあることを掴んだんだ。しかも、それには俺が勤務していた投資銀行が関係しているらしい。これは当然、雪ノ下姉妹の与り知らない所で起こっている話だ。俺がやってんのはその潜入捜査ってところだ」

「…潜入捜査って、雪ノ下の実家、そんな大変なことになってるの?」

「何が起きているかはまだ良く分かっていないんだ。だが、それを調べるのにも実際にビジネスで培った知識と経験が必要だ。雪ノ下にアドバイスしても、あいつ個人でどうにか出来る問題じゃないだろ」

「ヒッキー、それってもしかして…」

結衣は何かを察したように、尋ね辛そうな顔でそう呟いた。

「…考えてみれば、いくら由緒ある家柄とは言え、二十歳に満たない娘を結婚させるなんて普通じゃない。由比ヶ浜の想像通り、この行動には俺の私情が混ざってる…お前たちは、やっぱりこういうのは嫌か?」

俺が尋ねると、二人は無言となった。

気まずい沈黙を破るように、俺は二人に言葉を投げかけた。

「すまん…これは確かにあいつの将来のためだ。だが…卑怯な言い方かもしれないが、その将来、雪ノ下の隣に俺がいるかいないかは、別問題として理解してもらえると助かる」

「…正直、ちょっと複雑だよ。でも、あんたしか雪ノ下を救えないって言うなら、あたしは応援するよ」

「サキサキ…そうだよね。アタシも、手伝えることがあれば何でもするよ。でも、このことはちゃんとヒッキーの口からゆきのんに説明した方がいいかも。本人なのに蚊帳の外に置かれてたって知ったら、ゆきのん、きっと怒るんじゃないかな…」

「…そうだな。近々、あいつにもこのことを伝える」

俺は雪乃への報告を二人に約束して、バイト先へと向って行った。

☆ ☆ ☆ 

俺は夜のオフィスで書類の束と格闘しながら、雪ノ下建設の不正の可能性について、自分なりの考えをまとめていた。

これまでの調査で分かったこと。

それは、少なくとも見かけ上、当社の業績は極めて堅調であるということだ。

公共事業への参加、マンション建設等、正規の受注により売上げを計上しており、売掛金の水増しや、下請けへの発注金額を不当に調整して利ざやを計上するといった単純な粉飾をしている可能性は極めて低いことが判明した。

そうなると、疑問なのはやはり企業買収と投資の内容である。

俺には、企業買収を利用した粉飾の手口については心当たりがあった。それはバブル崩壊後の日本で注目を集めた、"飛ばし"と呼ばれる手法である。

投資した有価証券の価値が暴落した際に、その損失を計上せずに、子会社等へ簿価で売却するといった行為だ。噛み砕いた例で説明すると、100円で買った証券の市場価値が50円に低下すれば、本来、50円の損失をその時に計上しなければならないが、子会社に100円で買い取らせればそれをしなくて済むといった具合だ。

問題は、いくら子会社とはいえ、そんな一方的に不利な取引に誰が応じるのか、といった点だが、これにもパターン化されたからくりがある。例えば、本来50円の価値しかない企業を100円で買収する。その資金で証券を買い取らせるのだ。このスキームでは、巡りめぐって、結局50円の損失が親会社に戻ってきてしまうわけだが、この50円の差額は将来の子会社の成長を見込んで支払うプレミアムである、という会計上の整理をつければ、親会社は差額を「のれん」として資産計上し、何年かに跨いで償却することが可能となる。つまり、証券が値下がりしたタイミングで一気に損失を計上するのではなく、何年もかけて少しずつ損失を分割計上することができるといったメリットがある。

雪ノ下建設で言えば、値崩れしたコモディティやデリバティブをこのような手法で子会社へ移しているとすれば、これまでの情報と辻褄も合うだろう。

だが、ことはそう単純ではない。俺が気になっているのは、雪ノ下建設は果たして、そのような損失隠しをする必要があるのだろうか、ということだ。

俺が過去のデータを遡って確認した結果、確かに金融商品への投資残高は、年々増加の一途を辿っていた。だがそれが、一時的にも危険水準まで膨らんだ形跡は全く見られなかった。例えば今、投資の価値が半分にまで減ってしまったとしても、毎期確保される利益に対する比率で言えば、雪ノ下建設の事業存続に直ちに致命的な影響を与えるとは到底考えられないのだ。

加えて、仮に当社が”飛ばし”を行っているのであれば、どこかのタイミングで総資産に対する投資残高の比率が縮小する変わりに、「のれん」の比率が膨らむといった、財務上の特徴が見られるはずである。但し、当社の財務データはそうなっておらず、むしろ、売上と利益が、投資残高と共にハイペースで伸びており、「のれん」の規模にも不自然な点は見当たらないといった具合だった。

――せめて、グループ内取引と投資の内容が分ればいいんだが…

生憎、俺がアクセスできるのは、工事受注等の本業の帳簿を除けば、他者が集計し終わって完成した財務諸表程度だった。それでは細かい企業活動の裏を追うことはできない。

俺は手にしていた書類の束をやや乱暴にデスクの上に投げ捨てると、椅子の背もたれに体重を預けて深い溜め息をついた。

その瞬間、机上に無造作に置かれていた俺の携帯電話から、けたたましい着信音がオフィスに響き渡った。

「もしもし、比企谷君?」

「…雪ノ下か」

「あなた、今どこにいるのかしら?」

「…お前の実家の会社だよ」

「はぁ…姉さんから話は聞いたわよ。最近部活に顔を出さないと思ったら、私に断りもなくそんなことをして、どういうつもりかしら?」

雪乃は少しだけ俺を責めるような口調でそう言った。

「悪い。そのうち話そうとは思ってたんだ。ちょうど今日、由比ヶ浜と川崎に忠告もされたしな…すまん」

「…なぜウチの会社でバイトを?」

「…雪ノ下建設の活動には少し不可解な動きがあるんだ。それも、俺の勤め先だった投資銀行と結託している可能性がある。ひょっとしたら、これがお前の将来を左右する原因になったんじゃないかと思ってな…」

「それで中に潜り込んで調査をしているというの?」

「まぁ、そんなところだ。だが、今の段階じゃさっきの話も俺の推測に過ぎないからな。決定的な証拠を掴む前に、こんな話をお前にするのは気が引けたんだよ」

「馬鹿ね」

「…すまん」

俺が謝罪の言葉を述べると、雪乃は数秒の間沈黙した。

「はぁ…仕方がないわね。確かに今の私では、きっとどうすることも出来ないでしょうし。…ところで、今日、生徒会から依頼を受けたのよ。"クリスマスイベント"と言えばあなたには依頼内容が分かるのかしら?他校との合同イベントで斉藤さんもいるらしいわよ」

溜息の後に、雪乃は話題を切り替えた。

「ああ、海浜総合の意識高い系集団だろ?…今の生徒会の布陣なら問題ないだろ?奉仕部に出る幕があるのか?」

俺は昔の記憶を手繰り寄せながら、そう言葉を返した。

「それが、そうもいかないのよ。3ヶ国語を流暢に話す海美さんが、会議で交わされる言語の殆どを理解できなかったといって放心していたわ」

俺は覚えたてのビジネス用語を必死にこねくり回すように使う奴等の滑稽な姿を思い出して噴出しそうになった。

「他の三人はどうした?文実で実力をつけた吉浜達なら、あんな連中、簡単に捩じ伏せられると思うんだが…」

俺は自ら下した彼等への評価を信じて、雪乃にそう問いかけた。

「その彼らが問題を大きくしているのよ。三人とも、"比企谷塾第一期生"が"比企谷モドキ"の勢いに負けてられないと、おかしな対抗心を燃やすものだから…ただの地域交流イベントを、また儲けの場にしようと画策して、収集がつかなくなっているそうよ。一色さんが早くも泣きそうになっているわ」

――比企谷モドキって…あんな連中の何所が俺に似てるってんだよ。しかも比企谷塾って何だ…勝手に変な名前付けてんじゃねぇよ。

俺は心の中でそう呟きながら、渋い表情を浮かべた。

「とにかく、明日は時間があればあなたにも会議に参加して欲しいのだけれど」

「そうだな…調査もちょっと煮詰まってきてるし、久々に顔を出すか」

「そう」

俺が雪乃の誘いに応じると、彼女は少しだけ嬉しそうなトーンでそう口にした。

「…ところで雪ノ下、さっきの話題に戻すが、雪ノ下建設が最近積極的に企業買収を進めてるって話、親から聞いてたりするか?他にも、何か投資をしてるって話に心当たりは?」

俺は話題を戻しつつ、駄目もとで雪乃にそんな話題を振ってみた。

「…初耳ね」

やはりそうだろう。特に期待していたわけではないが、自分の顔に落胆の表情が浮かびかけるのを感じた。

「…でも、実家に他所の建設会社の社長や役員が頻繁に出入りしているのよ。前も実家に顔を出した時に、そんなお客さんが来ていたわね。同業者の両親に対して、やけに畏まった態度だったから、ひょっとしてそれが買収先の企業の人なのかもしれないわ」

「マジか!?どんな話をしていたか覚えていないか?」

俺は一呼吸おいて続けられた雪乃の言葉に食いついた。

「…デリバティブの譲渡がどうのと言った話を長々としていたわ。うちの財務部の主任さんも一緒に来て、その時は、ずいぶん長いこと話し込んでいたわよ…あなたが調べていることと何か関係があるのかしら?」

――財務部の主任?このバイトの上司じゃねぇか

「…灯台下暗しってのはこのことだな。今、ちょうどその話題にかかる資料をオフィスで探してる最中なんだよ」

「こんなことを勧めるのは気がひけるけれど…それなら、主任さんのデスクのキャビネットに何か入っているかもしれないわね」

俺はその言葉を聞くなり、勢い良く立ち上がって主任の席に向かうと、キャビネットの取っ手に手をかけ、勢い良く引張った。が、ご丁寧にロックされており、ガタンと、キャビネットを揺らしただけで、その引き出しは開かなかった。

「番号はわかるか?ここのキャビネットは5桁のダイアル式なんだ」

「流石に社員個人が設定する暗証番号までは知らな…待って。あなたのデスクのキャビネットはどうなっているの?」

「…11111。納品した時のまま、特に設定変更はされてないな。設定の仕方も良く分からんし」

「なら、それを試してみたら?世の中にはズボラな人間が多いのよ」

雪乃の言葉に従って、ダイアルを11111に合わせ、解錠用のレバーを捻ると、カシャンッと子気味良い音が小さく響いた。

「サンキュー雪ノ下。愛してるぜ!」

「貴方がその言葉をかける相手は、出来れば私だけであって欲しいわね」

俺が興奮気味に口にした軽口に対し、雪乃はクスクスと笑いながらそう答えて電話を切った。

俺は携帯電話をポケットに仕舞い込むと、主任のキャビネットから数冊のファイルを取り出して内容の確認を始めた。

――これだ!

雪ノ下建設に潜り込んでから、ずっと探していたものが見つかった。

そんな興奮を覚えながら、俺はファイリングされていた資料のうち、目欲しい資料を携帯のカメラで次々と撮影していった。

☆ ☆ ☆ 

「よくこれだけの資料を集めたな。お前のその行動には執念じみたものを感じるぞ」

電話先から宮田さんの声が響いている。

俺は、主任のファイルから掴んだ証拠データを、槇村さんと宮田さんへ転送し、メールでこれまでに把握した事実について告げていた。

そして、ちょうど俺が自宅に戻ったころ、宮田さんから電話がかかってきたのだ。

「…執念ですか…そうかもしれませんね」

俺は元上司の言葉を肯定するようにそう言った。

先ほどオフィスで見つけた資料は大きく分けて買収先企業の情報と、投資商品の取引明細の2種類だった。

買収先の企業のデータについては、個々の企業の財務情報の他、企業名、買収時期、資本の簿価を一覧にしたリストがあった。加えて、俺が勤めていた投資銀行のロゴが入った、企業価値算定の資料の一部がエビデンスとして綴じ込まれていた。そのペーパーには担当窓口として、槇村さんが言っていた村瀬という男の名が記載されている。

雪ノ下建設は、投資銀行が算定した評価額で買収を行い、簿価との差額をのれんとして計上しているようだ。いくつかの買収先企業の財務データを見たところ、どこも業績が芳しいとは言えず、投資銀行によるバリュエーションは明らかに実態と乖離した高水準な値付けが行われていた。

投資商品の取引明細からは、雪ノ下建設が継続的に投資を積み増しながら、買収先に作らせた海外のビークルに購入した資産を移転している実態が明らかとなった。時系列を追ってみると、譲渡した資産の総額は、概ね企業の買収先にかかったコストと同水準だった。しかも、雪ノ下建設による投資のブローキングを行っているのも、これまた俺の勤め先であった投資銀行であることが判明した。

「お前が言った通り、雪ノ下建設が”飛ばし”のスキームを利用して資産をせっせと移転させているのは確かな事実だろうな。だが、その動機が不明だ。そもそも、譲渡している資産は購入してさほど時間の経っていないものが殆どだ。含み損を抱えた商品と言うわけでもない。明らかに高額なバリュエーションで買収した企業に、正常な金融資産を移転していけば、むしろ”のれん”償却の費用負担が重くなる一方だ。雪ノ下建設にメリットが何もない…」

宮田さんは俺が共有した情報を整理してそんな考えを口にした。

「俺も同じ認識です。まだ事実を暴くにはピースが足りてない…一体何なんでしょうか」

「…粉飾が目的でないとしても、必ずこの行動が雪ノ下建設に別の利をもたらすことに繋がっているはずだ。それに、これだけの情報があれば村瀬を問い詰めることも出来るだろう。今、槇村が村瀬を呼び出す算段を付けているところだ。その時はお前も一緒に来てもらおう」

「わかりました…また連絡します」

そう言って通話を終了しようとした矢先、携帯のスピーカーから大きな声が響いた。

「おい宮田!」

――槇村さん?

宮田さんのデスクに走ってきたのだろうか。

バタバタとした音が聞こえてくる。

「村瀬の奴…クビになった」

☆ ☆ ☆ 

翌日

雪乃との約束通り、俺は生徒会メンバーとともに公民館で、海浜総合高校との合同クリスマス会の打ち合わせにやってきていた。

雪乃が言った通り、会議は紛糾しており議決は遅々として進まない状況だったが、俺は昨日の電話のやり取りが気になって、今日一日ほとんど上の空だった。

昨日、俺からのメールを見た槇村さんは、村瀬という人物を誘い出すつもりでM&Aの部門へ顔を出したようだ。ところが、その人物のデスクには段ボールが積まれており、当の本人はオフィスにはいなかった。不審に思った槇村さんが周囲の職員に尋ねたところ、今週初、彼に対する解雇の通達が行われ、既に出社を禁止されているとのことだった。

外資系投資銀行では、解雇通知がなされた場合、解雇当日までの出社が禁止され、オフィスへの入室も出来なくなる。そして、指定の日付にデスクの私物を取りに来ることだけが許される。情報漏洩を防止するため、解雇対象となった職員に、一切の業務情報へのアクセスを行わせないための措置である。

――一体何が起こってんだよ…クソ

雪ノ下建設に関する調査は一進一退を繰り返している。

掴みかけた全容も再び闇の中だった。

あの後、宮田さんと槇村さんは俺に、今週金曜に学校を休み、都内へ顔を出すよう指示した。

どうやらその日が、村瀬が私物を取りに来る最終出社日となるらしい。二人はオフィスの近くで奴を問い詰める算段だ。

だが、ここで事実を突き止められない場合、村瀬とのコンタクトを失うことになる。住所やプライベートの連絡先といった個人情報は、厳重に管理されており、例え同僚であっても部門の異なる二人がそれを入手することは困難だった。

そこで、もしもの際は俺がオフィスから奴を着けて、住所を暴くという段取りだ。

――そんな探偵みたいなマネ、俺に出来るのか?

不安は募るばかりだ。

「…ッキー!ヒッキー!聞いてるの!?」

「!?…あ、ああ。悪い。ちょっと考え事を…」

「せぇんぱぁい!何とかして下さいよ!お願いします!」

俺の思考は結衣と一色の声で現実に呼び戻された。

「…そろそろ休憩しようか?こういったカンファレンスで会議を続けるにはコンセントレーションの維持がマストだと思うんだ。適度なブレイクで休憩を取るのは理にかなってる」

そんな俺の顔を見ていた海浜総合高校の生徒会長らしき人物が、休憩の提案を入れる。

名は確か…玉縄だっただろうか。ちなみにカンファレンスと会議、ブレイクと休憩は同じ意味なのだが、それには敢えて触れずに、俺は彼の提案に同意した。

「…悪い。今どこまで決まってるんだっけ?」

パラパラと会議室から人が抜けて行ったのを確認して、俺は会議にキャッチアップするため、雪乃に質問した。

今会議室に残っているのは、俺を含めた奉仕部四人と海美の5名だった。

「今更その質問?呆れるわね…何も決まっていないわよ」

「お前ならあの連中も一刀両断するかと思ったんだが…」

「総武高校側のメンバーに反論されては、これ以上強く出られないわよ。仕方ないでしょう」

雪乃は面白くなさそうにそう言った。

「吉浜と西岡と田村の3人、海浜の人たちと違って具体的なアイデアを提案するのはいいんだけど、このままじゃ、やりたいことが多すぎて全然まとまらないね」

沙希が雪乃の言葉を補うようにそう呟く。

「議決権者不在の会議なんてそんなもんだ。一色にはその辺をまとめる力はまだないか…今出てるアイデアはなんだっけ?」

「ん」

沙希に手渡されたノートには、几帳面な字でこれまで提案された活動内容のリストと、提案者の名前が記載されている。その殆どが総武高サイドからのものだった。

ケーキ販売、プレゼント販売、バンド演奏(チケット販売)、バザー…っておいおい。マジで金儲けることしか頭にねぇのか。地域の高齢者との交流会じゃねぇのかよ。年金暮らしの老人から金を巻き上げる気か?

ため息を吐きながらリストの下に目をやると、今度は運営案として、企業スポンサー誘致、テレビ局呼び込み、といった文化祭の二番煎じ的なアイデアが続いている。

「…これはマズイな」

「そうだよ!吉浜君がテレビ局とか言ったせいで、海浜総合の生徒も余計に盛り上がっちゃったし…シナジー?が何とかって…どうにかならないかな?」

結衣が俺の顔を覗き込みながらそう尋ねた。

「正に最悪な相乗効果だな…わかった。何とかする…海美、ちょっと協力してくれ」

「え!?私ですか?」

驚いた表情を浮かべた海美に対し、俺は頷いた。

☆ ☆ ☆ 

「さて、じゃあブレインストーミングの続きを…」

休憩時間が終わり、玉縄が戻ってくるなりそう提案した。

「いや、ブレストの時間はもう終わりだ。イベント開催日までの残存日数と作業可能時間を確認した上で現実的に可能な提案とそうでないものを選別した方がいい。もう時間がないんだろ?」

俺が玉縄の意見を否定すると、皆の視線がこちらに集まった。

「いやいや、まだアイデアを出し切っていないよ。今回のアクティビティのポテンシャルを高めるには十分なアイデアをベースに、ボトムアップ型の底上げアプローチが…」

海浜総合高校の生徒からまたもカタカナ用語だらけの発言が出る。何回上げ底すんだよ。

「…悪いが、日本語使ってくれ」

「総武高の生徒なのに、このくらいの単語がわからないのかい?」

俺が渋い顔を浮かべると、海浜総合の生徒が勝ち誇った顔で俺を見た。

「…確かに時間的にキツイのは把握してるけどさ。アイデアを深堀りしてどうやったらそれを実現できるか、考えてもいいんじゃないの?」

吉浜は海浜総合の生徒を無視しつつも、ブレインストーミングを打ち切るという提案には反対した。西岡と田村もそれに頷いている。

「お前ら…今回のイベントに、文化祭の準備と同じ期間・人手が割けることを前提にすんなよ。あと2週間、このメンバーで回せるのか?成功体験を再現したい気持ちは判らんでもないが、このままじゃ何も出来ずに終わるぞ。言っとくが、俺達奉仕部4人を戦力として当て込んでるならそれは大きな間違いだ。俺はもうサービス残業はしないからな。っていうか、俺達がヘルプで呼ばれた時点で、今のままじゃダメだって気付けよ。お前ら程の奴らが揃っていながら、この状況はちょっと情けねぇんじゃねぇのか?」

「「「うっ…」」」

俺が睨み付けながらそうまくしたてると、総武高校文実組の3人が俯く。

これで反乱分子は抑え込んた。

「ブレインストーミングは相手の意見を否定しないんだ。すぐに結論を出しちゃいけないんだ。だから君の意見はダメだよ…これは提案なんだけど、今はもっと大切なことがあるんじゃないかな?」

玉縄はろくろを回すような仕草でそうのたまう。ブレインストーミングの時間は終わりだといった俺の意見ごと否定しやがった。

「総武高校の生徒会には海外留学生もいることだし…もっとグローバルなビューで国際的な視点からドメスティックに偏らない、オープンマインドで開けたアプローチを模索するべきだと思うんだ」

だから、どんだけ対外開放したいんだよ、こいつ。

海美を見ながらそう言った玉縄に追随するように、海浜高校の生徒が訳の分からない言葉を口走りだす。だがこれは好都合だ。

「…海美、会議についてこれるか?」

俺は海美に確認した。

「すみません。慣れない単語が多くてよく聞き取れませんでした」

「みんな、聞いたか?海美が会議についてこれないそうだ。幸い海浜総合のメンバーは英語が得意らしい。こっからはご希望通り、よりグローバルなアプローチで会議を進めよう…」

俺は嘲笑するようにそう言った。

「よりグローバルなやり方?」

入口の傍に座っていた、一色が俺の言葉を疑問形で繰り返した。

「That's right. Let's restart the meeting in English. Hey, you..your name is Tamanawa, right? You gonna be a final decision maker for what we discuss hereafter. How do you think?」

俺の言葉に一瞬会議室が静まり返るが、雪乃がその静寂を破った。

「...Fair enough. Haimei-san, Please give us your idea. We have to quickly deside the containts of our activity and break it down to the tasks. Scheduling is another critical issue here」

雪乃は俺の言葉に相槌を打つと、海美へと会話をふる。

「Thanks everyoen! Sure, I agree, Yukinoshita-san. 」

海美はにこやかな顔でそう答えた。

☆ ☆ ☆ 

「比企谷…さっきの何?全員置いてけぼりでポンポン決めたみたいだけど、超感じ悪かったよ…っていうか、比企谷が英語とか、イメージと違いすぎて超ウケる」

会議が終わった後、海浜総合生徒会のサポートメンバーとして参加していた折本が話しかけてきた。

折本が言うとおり、あの後の会議は奉仕部員と海美の独壇場だった。あれは中身のない発言で議決を妨害するだけの海浜総合のメンバーの口出しを封じ込めるための禁じ手だ。

ちなみに沙希と結衣には俺と雪乃が日本語でメモを回し、"I agree" "I think so too" "That's a good idea"等と相槌を打たせ、さも独り善がりでない体を装ったのは内緒である。加えて二人とも日頃の勉強会の成果か、俺たち3人の会話内容をある程度理解し、たどたどしいながらも、一部自分の考えを英語で述べたのは立派だった。

「しょうがねぇだろ。海美はカタカナ英語通じねぇし、そもそもお得意の語学力を鼻にかけたのは海浜総合のメンバーじゃねぇか。っていうかウケたんなら問題無し」

「でも普通、高校生の会議で英語使う?私、何言ってるか全然分かんなかったし」

「一応、全部海浜総合の生徒会長が最終意思決定したじゃねぇか」

最初に俺が提案した通り、総武高校サイドである程度議論がまとまった段階で、俺は玉縄にその採決を求めた。奴は話をふられる度に困惑した表情を浮かべていたが、とにかく最終的に奴が全て自らの意思で決定を下したのだ。

ちなみに俺は「Yes or No !?」と中学生レベルのシンプルな英語で質問し、机をバンバン叩いただけで、奴に何も強要していない。

玉縄の口から「…あ、あの」「ちょ、ちょっと…」等の “Yes以外の言葉” が出かかった際は、雪乃と海美が「Why No? WHY!?」と、これまたシンプルな英語で説明を求めていたが、グローバル思考の強い若者ならば、日本人であっても、本当に飲めない提案にはNoを突きつけるはずである。

「比企谷君が強引なのは文化祭の時から変わらないよね…」

「ホント、文実会議の初日を思い出したよ。今回は更にその斜め上だったけど」

「ちっくしょ~、一儲けしたかった!ちょっとくらい協力してくれてもよかっただろ?」

西岡、田村、吉浜の3人が折本に会釈しながら会話に入ってきた。

「比企谷、総武高の人にも嫌われてるし。ウケル」

折本は茶化すようにそう言った。

「ちょっと小言を言っただけじゃねぇか。流石に嫌われてはねぇよ…な?」

「え?嫌いだよ」「うん、嫌い」「すげぇムカつく」

「…」

3人が口を揃えてそう言うと、折本は腹を抱えて笑出だした。

「先輩! 今日はありがとうございました!さっきの会議、軽く…っていうかかなり引きましたけど…とにかく、ようやく前に進みました」

その輪に入ってきた一色が嬉しそうな顔でそう言った。手には川崎がメモを取っていたノートを持っている。今日議決された内容を確認して、その進捗ぶりに驚いたのだろう。

「…お疲れさん。ここまでくりゃ、後は生徒会だけでイベントは何とかなるだろ」

「え?最後まで手伝ってくれないんですか?」

「本来、海美にこいつら3人がいりゃ、人材的には十分なんだよ。今回はちっとばかり拗れてたが、流石にこの3人もここからはお前の味方だ。問題ないだろ?」

「出たよ、比企谷君の殺し文句」「落としてから持ち上げる、斬新なパターンだね」 

俺の言葉に、やや照れ臭そうな表情を浮かべて、西岡と田村がそう言った。

「しょうがねぇな。会長、学校戻って企画を更に詰めるとするか」

吉浜が元気よくそう提案した。

「え!?今からですか!?」

「当たり前だろ。文実の時はもっと過酷だったぞ」

「あの文化祭と比べないでくださいよ!っていうか話をややこしくした張本人が何でそんなに偉そうなんですか!?納得いかないです!」

「るっせ、1年坊!生徒会長クビにすんぞ!…じゃあな、比企谷。暇があったらまた顔出せよ」

残業に難色を示す一色を強引に連れて、吉浜達は学校へと戻っていった。

生徒会長でも容赦なく突き上げるのは、俺が予想した通りだった。このイベントを通じて一色が会長として少しでも成長してくれれば幸いだ。

☆ ☆ ☆

「いろはちゃんの依頼、解決できてよかったね」

すっかりと日が落ちた中、俺たち奉仕部4人は駅に向かって歩いていた。

歩きながら結衣が嬉しそうにそう言った。

「あたし、もうちょっと英語勉強したい。比企谷達の会話についていくの、まだシンドイし」

沙希は苦笑いを浮かべながらそう口にする。

「あら、貴女も由比ヶ浜さんも、内容は概ね理解していたじゃない。英語で自分の意見も表現していたし、本当に大したものよ」

「だな。俺も正直驚いた…もう二人とも、俺が初めて海外に行った時よりだいぶレベルは上だと思うぞ。特に由比ヶ浜は1学期の頃と比べりゃ驚異的な伸び方だ」

俺は正直な感想を口にすると、二人の顔が明るくなった。

「そう言えば、今回のイベントだけど、やっぱり"前"と同じなの?」

沙希は奉仕部への依頼に関して、俺へ恒例の質問を口にする。

「まぁ概ねな。違うのは、費用を削る案が出たことくらいか」

俺が答えた通り、今回も小学生を交えたイベントに仕立て、ケーキ作り、小学生合唱団の聖歌斉唱、各校の吹奏楽部による生演奏といった活動内容に決定していた。

「費用って?」

「ケーキや会場の装飾品の材料については、ウチの文化祭で出来た地域商店とのリレーションを使って、少しでも安く仕入れようということよ。海美さんが、2年生の生徒会メンバーに気を使って、少しでも文化祭に似た取り組みをさせてあげようと提案したの」

雪乃が俺に代わって結衣の問いに答えた。

「どうやったらそんなことが出来るの?商店に行って、安くして下さいって、お願いするの?」

「入札制ってやつだ。文化祭じゃ、各クラスがスーパーや食品卸業者、文房具屋から色んな物品を買っただろ?そん時に文実も窓口になって、取引先を管理してたんだよ。その複数の業者に値段の提示を呼びかけるんだ。で、一番安い値段で納品してくれる先から買い付ける」

「文化祭の成功があれだけ報道されれば、将来の付き合いを見込んで、赤字覚悟で売ってくれる業者もいるかもしれないね」

俺の説明に対し、沙希がそんな感想を述べた。

吉浜達へのお土産としての、この提案の建前は沙希の言った通りだ。

まぁ実際は、たかが公立高校の、年に数回のイベントのために、各業者が競って値段を下げるといのは考えづらい。逆に、仮に総武高のイベントに俺が想定した以上の注目が集まった場合、価格を示し合わせて共同受注しようとする業者が出てくる可能性もある。所謂、「談合」というやつだ。兎角、ビジネスの世界は甘くない。

「…あ」

俺がそんなことを考えていると、不意に雪乃が立ち止って、何かに気が付いたような声を上げる。

俺が雪乃の視線の先を目で追うと、そこには見覚えのある人物が2人いた。

一人は和服姿の女性、もう一人はスーツ姿の男性だった。

二人は話し込んでおり、雪乃には気づいていない。

「…母さん」

雪乃がそう呟いた通り、一人は彼女の母親だった。

俺はもう一人の人物に目をやる。二人の距離感や表情から察するに、あれは雪乃の父親ではないと思われる。

――どこかで見たことがある人だ…誰だ?

「ごめんなさい、何でもないわ…こちらの道から行っても良いかしら?」

雪乃は、母親と顔を合わせることを躊躇ったためか、迂回を提案した。

結衣と沙希は、一瞬不可解な表情を浮かべるも、それを了承して歩き出した。

俺は先ほどの人物が誰なのかが気になり、必死に記憶を手繰ったが、結局それが誰なのか思い出すことは出来なかった。

そうこうするうちに、俺たちは駅に到着し、そのまま解散となった。

 

 



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31. 比企谷八幡は追跡する

翌朝

朝練中の運動部を除けば、まだ登校してきた学生は殆どいない時間の学校。

校舎の入り口で下駄箱に靴を入れ、上履きに履き替えながら俺は考えていた。

今日は朝一である人物に相談を持ち掛けなければならない。無論、その人物に雪ノ下建設に絡む調査への協力を要請するためである。

――さて、どう話を切り出すべきか…とりあえず職員室に行くか

昨晩、雪乃、結衣、沙希と別れた後、俺は宮田さん・槙村さんと連絡を取り、再び村瀬の尾行に関する打ち合わせを行った。

一先ずは槙村さんがオフィスの入り口で奴を待ち、持ち合わせの情報をチラつかせて奴から話を引き出す。その後、俺が村瀬を尾行するのは前回決まった通りだ。

だが、よくよく考えてみれば、高校生の俺が単独で奴を追いかけることは不可能であった。

奴はデスクの私物を段ボール箱に詰め、それを抱えた状態で会社を離れるだろう。

一般的な高給取りの行動パターンを考えれば、そのまま公共交通機関に乗り込むことは想定し難い。十中八九、自家用車かタクシーで移動する。奴を尾行するには俺の他に車を運転できる成人の協力が不可欠だった。

槙村さんは宮田さんにその役を担えないかと尋ねたが、答えは渋かった。

『年休を取得して尾行に参加することは可能だ…が、ちょっと問題がな…』

『問題?何だよ?』

『…いや…その…とにかく運転は…』

『お前らしくないな?ハッキリ言えよ』

『僕はペーパードライバーだ。運転に自信がない…』

槙村さんが大きく溜息を吐き、トップトレーダーが聞いて呆れると嫌味を言うと、「都内に住んでいれば普段は車の運転など必要ない。環境への配慮だ」と、どこぞの車離れした若者のようなエコな発想を口にする始末だ。

俺はその場で代替案を考えなければならなかった。

雪乃に頼んで車を出してもらうのはどうだろうか。いや、アホか。雪ノ下建設の不正を暴くのに、雪ノ下お抱えの運転手に協力を願う等、自殺行為だろう。

宮田さん名義でレンタカーを借りてもらって、俺が運転するのはどうだろうか。

これも無理だ。そうするには最低でも、今この二人に俺の正体を明かす必要がある。その上であっても形式上は高校生による無免許運転という、違法行為を行うリスクをこの二人が了承するとは思えない。

その日、俺は頭を抱えたまま布団に入った。

今俺にできることは何があるだろうか。あと数日の間に、手筈は整えておかなければならない。加えて、帰り道で目にした、雪乃の母親と一緒にいたあの男性のことも気になった。

思考の渦の中、俺はなかなか寝付くことができなかった。

そんな昨日の出来事を考えつつ、玄関ホールの高い天井を仰ぐと、不意に背後に人の気配を感じた。

「やあ比企谷、おはよう」

「うぉっ!?ビックリした!?」

突然掛けれらた声にやや大げさに反応すると、その声の主、平塚先生は眉を顰めて俺に詰め寄った。

「そんなに驚くことはないだろう?まさか比企谷…噂通り女子のリコーダーや体操着に手を出すつもりでこんな時間に…」

「ちょ、何なんですか、その噂…そこまで疑われると地味にショックなんですが…」

沙希が奉仕部に入部する前に口にしていた話ではあるが、先生にまで疑われているとなっては、俺がいくらボッチ慣れしていても許容し難いものがある。

「…冗談だ…ところで、昨日はご苦労だったな。クリスマス会の準備もようやく軌道に乗ったようだ」

平塚先生は目を泳がせたまま、不自然な笑顔を浮かべて、昨日の会議について触れた。

「まぁ、方向性を決めただけですけどね」

俺は普段の3倍増しの濁った目で先生を見据えてそう言葉を返した。

「何だ?眠そうな顔をして?生徒会長からの依頼は上手くいったんだろ?」

「まぁ、別件で色々問題がありまして…」

――この際だ。この場で話を切り出した方がいいだろう

俺が協力を要請しようとしていた人物とは平塚先生に他ならない。

俺は周りに人気がないのを確認し、思い切って口を割ることにした。

「…平塚先生、突然ですけど今週の金曜日、有給取れませんか?」

村瀬尾行のための最後の手段。

それは平塚先生に事情を話し、車を手配してもらうことだった。

「休暇?藪から棒に何だ?」

訝し気な表情で先生は俺にそう聞き返す。

「俺たちとデートしてください」

「え?」

俺の短い言葉に、先生は鳩が豆鉄砲を食らったような表情を浮かべて聞き返した。

「…宮田さんと一緒にドライブに行きませんか?」

俺が付け足した言葉に、一呼吸置く形で、先生の頬が若干朱色に染る。

ただし、その表情には依然として混乱の色が浮かんでいる。

「な、何をいきなり…」

「いや、そのですね…実は…」

――ドカッ

俺が本題を切り出そうとしたその瞬間、後頭部に重たい衝撃を受ける。

「!?」

頭を抱えてその場に蹲ると、女生徒二人の足が視界に入った。

「へぇ?ヒッキー、部活には来なくても、先生はデートに誘うんだ?」

「朝くらいなら話せると思って早く来てみればそれ?学習能力が低すいるんじゃない?」

二人の足元には俺の後頭部にぶち当たったであろうカバンが転がっていた。

「ゲッ!?お前ら…」

そこに立っていたのは、結衣と沙希だった。

「「ゲッ!?って何(何だし)!?」」

「ヒェッ…スミマセン…」

鬼ような形相を浮かべて詰め寄る二人に対し、思わず情けない声を上げて、顔を覆い隠し、背を丸める。

そんな俺の姿を見て、先生は深いため息をついた。

☆ ☆ ☆ 

金曜早朝、都内のオフィス街の一角。

ビルの外に停車中のワインレッドのスポーツカー。その車内に5人が待機していた。

「…唆されて年休を消費するばかりか、他の生徒まで巻き込んで学校をサボらせるとは…私は教師失格かもしれない」

運転席の女性、平塚先生はそう一人ごちた。

「…知り合いに協力を仰ぐとは聞いていたが、まさか平塚さんとは…しかもコブ付きときたもんだ。お前の狭そうな交友関係でいったらこうなることは目に見えていたのに、迂闊だった…」

助手席に座る成人男性、宮田さんも頭を抱えてそう言った。

「ゆきのんの将来がかかってるかもしれないんですよ!?先生はエライです!」

「ちょ、由比ヶ浜…狭いんだから動かないで」

狭い後部座席から身を乗り出して平塚先生に話しかける結衣を迷惑そうな目で見る沙希。

事実、この車は4人乗りのスポーツカーだ。

後部座席は大きめの肘掛で仕切られている。どう考えても5人は乗れないのだが、結衣も沙希も頑として参加を譲らなかったため、俺はチャイルドシートに跨るように、真ん中にチョコンと座らされる羽目になった。

「…元々宮田さんが運転できれば、わざわざ先生にお願いする必要はなかったんすけどね…」

「うるさい。前にも言っただろう。都内に住んでいれば車なんて運転する機会は殆どないんだ」

俺は絵に描いたような窮屈さを体勢で宮田さんに文句を言うが、宮田さんは取り合わなかった。

「…凄い…ヒッキーが二人いるみたいだ…目とか、捻くれてそうな所とか、そっくり…」

「本当に比企谷の親戚じゃないんですか?」

「「違う!」」

結衣と沙希の言葉に、俺と宮田さんは言葉をハモらせる。

二人には事前に宮田さんや槇村さんのことを説明しておいた。

余計なことは口走らないとは思うが、段々と不安を覚えてくる。

「…ま、まぁなんだ。人には得手不得手があるしな。私でも役に立つなら、たまにはこういうのもいいだろう」

平塚先生は宮田さんを意識してか、ちらちらと彼を見ながらそんな言葉を口にした。

通常、運転ができないというのは、恋愛対象として成人男性の魅力を測る上で致命的な弱点になりかねない。にもかかわらずのこの発言は盲目的な恋愛感情によるものなのだろうか。

個人的には、平塚先生らしい男女平等な割り切り的思考によるもだと思いたいのだが。

「な、なんなら後ほどこの車で一緒に運転の練習でも…」

「…え?先生、マジ!?」「…はぁ…ナルホド」

ドライブデートなどと言って話を切り出したのは確かに俺の方だが、出来ればそういうのは俺達のいない所でやって欲しい。

結衣も沙希も、先生の反応から何かに感付いてしまったらしい。

「結構です。しかし、地方公務員が輸入外車とは恐れ入る…この車、田舎なら一戸建てが建つ値段でしょう?ローンですか?少しは収支のバランスを考えたらどうなんです?」

宮田さんは、そんな先生の態度に目もくれずに、身も蓋もない小言を口にした。

「確かにあんまり男性的な趣味を追い続けてると、婚期が遠きますよ」

俺は宮田さんの発言に乗っかるように、先生を揶揄ってそう言った。

「う、うるさい…君たちは揃いもそろって本当に失礼だな!同じように濁った目で小言を言われてはかなわん…」

先生が憤慨しながら、涙目になってそう反論する。

「先生、可哀想…」

結衣がジト目で俺を見ている。その視線から、先ほどの俺の発言を責めているのを感じた。

「…で、でもまぁ、宮田さんの収入があれば、先生も安泰ですよ。同じ車を色違いで何台も揃えられるくらいは稼いでますから。良かったですね」

俺は、冷や汗をかきながら矛先を宮田さんに転換しつつ、先生をフォローした。

「…お前は、自分の彼女の為に大勢の大人を巻き込んでいる自覚があるのか?下らないことを言っている暇があったら、オフィスの入り口を見張っていろ」

「「彼女じゃなくて部長です」」

「…あ、ああ。そうなのか」

宮田さんが呆れ顔で俺にそう言うと、結衣と沙希が激しい剣幕で宮田さんに訂正を要求した。

もはや車内はカオス状態だった。

☆ ☆ ☆ 

時刻は9:30を回ろうとしている。

そろそろ村瀬が出てきてもおかしくない時間だ。

運転席のデジタル時計を見ながらそう思った瞬間、宮田さんの携帯が振動音を発した。

宮田さんが無言で俺に見せた携帯の画面には、【来たぞ】と、短いメッセージが表示されている。

差出人はオフィスビルのグランドフロアで村瀬を待ち構えている槙村さんだ。

今まで緩い雰囲気だった車内に緊張感が走った。

「…じゃあ、手筈通り、俺と由比ヶ浜で二人がオフィスから出たところをつけます。先生はいつでも発車できるようにスタンバイをお願いします」

「ああ、わかった」

「比企谷、由比ヶ浜…頑張って」

「ああ」

沙希の励ましに頷きながら車を降りると、冬の風が肌に突き刺さる様な寒さを感じた。

「うぅ~寒っ!」

結衣が体を震わせてそう呟く。

気温の低下に伴い、緊張感が高まっていく。

それを振り払う様に、俺と結衣はオフィスビルの出入口まで駆けていった。

☆ ☆ ☆ 

オフィスビル入口付近、人の出入りが見える位置で俺は携帯にイヤフォンを差し込み、宮田さんに電話を掛けた。

通話状況に問題がないことを確認すると、そのまま入口のドアを見張った。

しばらくすると、入口から槇村さんの声が聞こえてきた。

槇村さんは一緒に出てきた段ボールを抱えた男性に話しかけている。

細身の体にギョロリとした爬虫類のような目。高そうなスーツに身を包むその男は、やはり俺には見覚えのない人物だった。

「…奴が村瀬ですか?」

『ああ』

小声でマイクに向かってそう尋ねると、宮田さんが頷く声が耳に響く。

こいつが雪乃の将来を左右する可能性のある男だと考えると、思わず体が強張った。

「ヒッキー…」

結衣が心配そうな目で俺を見ながら、俺の手を両手で包み込んだ。

手袋越しに彼女の温もりを感じると、緊張が解けていくのを感じた。

「大丈夫だ。このまま奴をつけるぞ」

「うん」

槙村さんはオフィスビルから立ち去ろうとする村瀬の横について歩く形で、何かを聞き出しているところだった。

槇村さんに問い詰められている村瀬の表情は、一歩、また一歩と、歩みを進める度に険しさを増していく。

二人の会話は目に見えてヒートアップしている様子だ。

「お前、このままクビになっていいのかよ?会社がお前に何かさせたんだろ?トカゲの尻尾切りなんじゃないのか?」

「いい加減にしろよ、槙村!余裕見せてられるのも今のうちだ!」

会話の一部が俺達の耳にも届く。

村瀬は忌々しげな表情を浮かべて声を張り上げていた。

以前、槙村さんは村瀬のことを「いけ好かない同期」と称したが、正にこの二人は犬猿の仲だ。

「…仲、悪そうだね」

「だな」

結衣の呟きに対し俺は短めの同意の言葉を口にする。

――しかい、関係が良くないにしても、ここまで反応するとは…確実に裏になんかあるな…

俺は村瀬の態度を見てそう確信した。

ライバル視していたとしても、ここまで激しく相手に噛み付くのはおかしい。

「ひゃっ!?ヒッキー止まって」

そんなことを考えていると、結衣が突然小声で驚いたような声を上げながら、隣を歩いていた俺を制止する。

顔を上げると、ちょうど村瀬が足を止めて、槇村さんの目を見据えて対峙しているところだった。

村瀬は醜く口元を歪ませながら言葉を発する。

「この際だ。いい事を教えてやる。俺はクビになった訳じゃない。香港のグループ企業に転籍するんだ。そこで大型のプロジェクト投資を担当するんだよ。いつまでもアジアの中心が東京にあると思うなよ」

「あん?プロジェクト投資だ?」

「そうだ。中国や東南アジアの案件は、お前なんかには任せられないってわけさ。俺はようやくチンケな土建屋相手の糞みたいなビジネスからオサラバするんだよ。お前は中途採用のくせに上から目線でずっと気に食わなかったんだ!せいぜい東京から俺の活躍を指をくわえて見てるんだな!」

――アジア案件?香港の現地法人を解散に追い込んだあのプロジェクトか?

村瀬の発言を立ち聞きしながら、俺は過去の記憶を掘り起こした。

俺が槙村さんの下に異動することになった元々の要因は、東南アジアの巨大プロジェクトが大コケし、香港に拠点を置いていたアジアのエネルギー・インフラ投資部門がそっくりそのまま東京へ移管されることになったせいだ。

しかし、グループ内の転籍を、わざわざ解雇に見せかけるような手の込んだ異動に仕立てる理由は何なのだろうか。

俺が考えているに間も、槙村さんは村瀬から少しでも情報を引き出そうと立ち塞がって質問をぶつけていた。

「どけよ!お前に話すことはもう何もない!」

いくつか、よく聞き取れない会話が二人の間で交わされた後、村瀬は最後にそう言い残し、槙村さんを振り切るように足早に歩きだした。

槙村さんは奴を追うのを諦めてその場に立ち止まると、斜め後ろをコッソリと着いて歩いていた俺達の方を向いて目配せした。

――いよいよか…

槙村さんの発したサインに対し小さく頷くが、今日の尾行の成否がここからの自分の行動にかかっていることを考えると、緊張で手汗が滲んだ。

「動き出しました。ビルの西側に向かってます。このまま追います」

極力周囲に声を漏らさないよう意識して小声でそう伝える。

喋りながら、自分の声が擦れていることに気が付いた。

『わかった…平塚さん、運転、お願いします』

宮田さんは短くそう答えた。

一瞬の間をおいて、車のエンジン音がかかる音が電話越しに聞こえて来る。二人は俺の指示した方向に車を向かわせてくれているようだ。

「行くぞ、由比ヶ浜」

「うん」

俺たちは村瀬を追って歩き出した。

☆ ☆ ☆ 

奴を追って歩くこと数分。

そのまま車に乗ると踏んでいた予想を裏切り、村瀬はオフィスビルの横道を抜け、そのまま近くにあったカフェへと入っていった。

「1ブロック先のカフェに入りました。店内に入って様子を見ますか?」

『そうだな…すみません平塚さん。もう一度待機でお願いします』

「ああ、いくらでも付き合うよ」

電話越しに聞こえる先生と宮田さんの会話に、少しだけ安心感を覚えつつ、俺は通話を一旦終了し、村瀬の後を追って結衣と店内へ足を進めた。

店内は朝のコーヒーと軽食を求める客で溢れていた。

奴はテーブル席に腰かけて、誰かに電話をかけている。

入口の混雑ぶりに俺は一瞬焦りを覚えたが、幸い、客の殆どがテイクアウト用のカウンターに並んでおり、テーブル席は空いていた。

俺は奴の死角となる席へ向かって足を踏み出した。

「いらっしゃいませ。店内をご利用ですか?」

「!?…あ、え?あ、ど、ども。はい…」

その瞬間、不意に俺の前に立ちふさがった店員に声をかけられ、思わず挙動不審な対応をしてしまう。

どうにも恰好がつかない。どうやら探偵という職業は俺には向いていないようだ。

「二人で…店内でお願いします。好きなところに座っていいですよね?」

「…どうぞ」

店員は、俺に対して一瞬不思議そうな表情を浮かべたが、結衣の機転で何事も無く乗り切ることができた。

「ヒッキー…キョドりすぎだし」

「すまん」

俺達は村瀬を監視できる位置にあるテーブルに陣取ると、そのままホットコーヒーを注文し、着いてきた店員を追いやった。

通話を終了した村瀬は、頻りに時計で時間を確認している様子だった。

――誰かと待ち合わせでもしてんのか?

そんな疑問が頭に浮かんだ瞬間、ポケットの携帯が振動した。

慌ててそれを取り出すと、画面には宮田さんからのメール着信表示が映っている。

【村瀬は何をしている?】

【待ち合わせだと思います。時間を気にしているみたいです】

そう打ち返した瞬間、店員が俺のテーブルにコーヒーを置いた。

俺がカップに手を付けかけた瞬間、コーヒーを運んできた店員は、入口の人混みをかき分けて店内に入ってきた新たな客に気づき、深々とお辞儀する。

「いらっしゃいませ」

声をかけられた人物はその店員を無視するように、俺の横の通路を通り過ぎると、おもむろに村瀬のいるテーブルへと向かっていく。

「あ、あの人…」

結衣はその人物に気が付くと、小さく驚きの声を上げた。

その声に反応して俺も顔を上げる。

通り過ぎて行ったその男の横顔が目に入った瞬間、俺の体は再び硬直した。

クリスマス会の打ち合わせの帰り道の光景が脳裏に浮かぶ。

年齢は40代半ばだろうか。どこか見覚えのある風貌。

キリッとした見るからに高級なスーツに身を包んだその男は、間違いなく、あの時雪乃の母親と話し込んでいた人物だった。

――やっぱり繋がってんのかよ!?

村瀬のこれまでの行動が明確に判っていない今、この男の存在は、雪ノ下建設と投資銀行を繋げる別の手がかりとなるかもしれない。

そう考えながら、俺は震える手を抑えながら宮田さんへの報告メールを打ちだした。

途中、村瀬が飛び上がるような勢いで立ち上がって、その男にペコペコと頭を下げだすのが目に入ると、自分の警戒心が跳ね上がるような勢いで高まっていくのが感じられた。

【相手が来たみたいです。今週初、千葉で雪ノ下の母親と会っていた人物です】

【会話は聞こえるか?】

宮田さんから一瞬で返信が届く。

メールの文面を見て、ハッとしつつ、俺は再び二人に意識を集中させた。

ついさっきまでぼやけていたような聴覚がシャープになる。周辺の雑音から言語として認識できる音のみにフォーカスし、それを拾い上げようと自分の脳が全力で回転させる。

だが生憎、二人の会話内容までは聞こえてこなかった。

諦めて意識を緩めると、再び混雑した店内の雑踏と、店内BGMのジャズだけが耳に残った。

【ダメです。遠くて聞こえません】

俺は歯ぎしりする思いで再び宮田さんに報告を入れた。

【仕方ない。写真を撮ってこっちに送れ。シャッター音は鳴らすなよ】

その的確な指示に、俺は再び救われる思いで携帯を操作した。

しかし、携帯で隠れて写真を撮ることなど滅多にないため、勝手が分からない。

必死に画面をスクロールしながら、シャッター音をオフにする機能を探すが、それが見当たらなかった。

――くそっ、急げ…ってヤベッ!

焦りに比例するように、自分の手が麻痺したように動きが重くなる。加えて緊張感による手汗で思わず携帯を床に落としてしまった。

カタン、という音に一部の客の視線が集まるのを感じる。その瞬間、二人に気取られたかも知れないと言う恐怖感が心に沸き、頭から血の気が引いていった。

「ヒ、ヒッキー、何してんの!?」

結衣が声を殺しながら俺に駄目出しする。

俺は恐る恐る二人に目をやった。

幸いこちらの様子には目もくれていない様子だ。

すると、村瀬たちに背を向けて座っていた結衣がグイッと、俺の手を引き寄せた。

「ホラ、入って!」

結衣は俺の携帯を取り上げて、自分自身と俺を携帯のフレームに収めるように自撮りのポーズを撮る。

もちろんそれはフリであり、画面上に映る俺たち二人はピンボケしている。

携帯のレンズは見事、背部に座る村瀬と謎の男にフォーカスしていた。

――マジで来てもらって良かった

これが女の胆の据わり方という奴なのだろうか。

情けなさを感じながらも、結衣の指示に従って何枚か写真に収めた。

その後、宮田さんと槙村さんのメールに動画ファイルを添付するが、電波状況があまり良くないせいか、送信がなかなか進まず、エラー中断の文字が画面に表示された。

会話が聞こえない以上、このままここに居座っても仕方がない。

二人に勘付かれる前に、店を出て外で待ち伏せするのが吉だろうか。

「あ、席立ったよ?」

そんな事を考えている間に、結衣がそう呟いた。

奴らが短めの話を終え、伝票を手にレジへと向かっていくのが目に入った。

――畜生、思った以上にスマートに行かないもんだな…

俺達は慌ててテーブルに置かれたコーヒーを一気に喉に流し込むと、伝票を手にて立ち上がった。

俺は猫舌が災いして思いっきりむせ返してしまう。

涙目になり結衣に背中を摩られながら、二人の後ろを付けた。

「…そう言えば例の橋梁建設、無事落札したぞ」

不思議とよく通る声が二人の背中から漏れ聞こえた。今のは雪乃の母親と会っていた男のものだ。

会計の順番待ちの中、俺はその会話に再び意識を集中させた。

「それは良かったです」

村瀬は、先ほどの槇村さんとの会話とは打って変って、丁寧なしゃべり方で男にそう返した。

「ご苦労だったな。これで君にも、心置きなく新しいフィールドで活躍してもらえるな」

「はい。本当にありがとうございます」

――落札?転籍先のアジアのプロジェクトか?

俺は続けて、レジで会計を済ませる二人の後ろに並び聞き耳を立てたが、それ以上の会話はなかった。会計を済ませた二人は早くも店を出ようとしている。

大した情報が手に入らなかった事に落胆しながら、俺は店員が値段を伝える前に千円札をカルトンに置き、釣銭はレジ備え付けの募金箱に入れるよう伝えて店を飛び出した。

「二人ともお疲れ」

店の外で俺たちに話しかけてきたのは沙希だった。

「川崎…二人は?」

「大丈夫。ほら、あそこ」

沙希が視線を向けた先を見ると、オフィスビルの方向へ歩いていく男と、それを深々と頭を下げて見送る村瀬の姿があった。

「…何で川崎まで車を降りたんだ?」

「由比ヶ浜からメールもらって。アンタがあまりにもだらしないから、サポート役増強ってことで…」

「…アハハ」

結衣は少しだけ俺に対して申し訳なさそうな表情で笑いを浮かべた。

結衣の奴、俺のヘマを報告してたのか。

しかし、いつの間にメールを打っていたのだろうか。

「面目ない…」

確かにこういうのは女性の方が向いているのかもしれない。

☆ ☆ ☆ 

男の姿が見えなくなると、村瀬は段ボール箱を再び抱えて歩き出した。

俺達は再び村瀬の後ろを歩きながら、宮田さんに電話をかけた。

『比企谷、何があった?写真は撮れたのか?川崎嬢とは合流できたか?』

「すみません。今合流しました…写真は抑えてますが、通信エラーで…それより村瀬が店から出ました。今、目抜き通りに向かって歩いてます」

村瀬はそのままオフィスと反対方向の交差点を右折すると、北側へと向かって歩いていた。

いくつかの横断歩道を渡ると、高層ビル群を抜けて車通りの多い路地へ出た。

俺は手短に報告を行い、追尾の方向を連絡する。

『…そっちに行く道は一方通行だ。迂回する必要がある』

宮田さんは電話越しに苛立ちを含んだ声を発した。

間の悪いことに、その後すぐに、突当りの路上に停められていたシルバーのスポーツカーに近づいていく村瀬の姿が目に入る。

あれはおそらく奴の車だろう。

「マズくない?あれ、あの人の車なんじゃ?」

俺の考えにシンクロするように沙希がそう言った。

もう間に合わないかと諦めかけた瞬間、村瀬は路上に段ボールを置き、何かに気が付いたように、車の前方へと歩いて行った。

奴はフロントガラスへと手を伸ばし、そこに貼られていた黄色い紙のようなものを剝がすと、怒ったような表情を浮かべて、路上のパーキングメーターを蹴り上げた。

「駐禁切られたみたいです…メーターの時間を気にしてたのか」

『言ってる場合か。こっちはまだ時間がかかる。何とか時間を稼げるか?』

「じ、時間稼ぎ…」

――っていったって、どうすりゃいい!?

村瀬は置いていた段ボールを再び抱え上げようとしている。

俺は再び焦りの表情を浮かべた。

「…ハァ…まぁアタシ達に任せなよ」

沙希は軽くため息を付きながら、俺の肩に手をポンッと乗せて結衣と共に、村瀬の車へと向かっていった。

「すみません、ちょっと道を教えてもらってもいいですか?」

沙希はいつもよりも高めの声で村瀬に話しかけた。

「わ…わぁ、カッコいい車ですね!」

その背中に隠れるようにしていた結衣も、そんなセリフを吐きながら村瀬に話しかける。

「あ、ああ…」

困惑した表情を声で返事をした村瀬は、満更では無さそうな表情で二人に答えた。

――先生の車はまだか?

二人と奴のやり取りを見ながら、そんな焦りを感じ、目抜き通りの車の往来を確認する。

「…じゃあ二人とも乗ってく?」

調子付いたのか、結衣と沙希にそんな提案をする村瀬に俺のこめかみがヒクついた。

「いえ、結構です」

――いつもの声に戻ってる。ザマァみろ

誘いを断る沙希の声は低く、早口だった。

「でもさ、結構遠いよ」

「あ?」

しつこい。

そう言わんばかりの声で沙希は村瀬を一蹴した。

その瞬間、後から先生の車が走ってくるのが目に入った。

俺はそれに安堵の表情を浮かべた。

「…そ、そうか。じゃあ気を付けてね」

村瀬はそう言うと、残念そうな表情を浮かべて車に乗り込んだ。

バタンッと音を立ててドアが閉められた数秒後、村瀬の車のエンジン音が響く。

一瞬の間を置いて、奴の車は発進した。

続けざまに、奴の車が停まっていたスペースに平塚先生の車が入ってくる。

「よくやった、お前ら!」

車の後部座席に乗り込んだ俺たちに対して、宮田さんはそう言った。

「あとは任せろ」

俺達が急いで乗り込むと、平塚先生も笑みを浮かべてそう口にする。

アクセルを噴かす音が車内に響くと同時に、体に強めのGがかかる。

先ほどの村瀬の車の発進を上回る勢いで先生の車が動き出した。

シートに体を沈ませながら、俺は緊張からの開放による深いため息をついた。

☆ ☆ ☆ 

「比企谷、探偵になった気分はどうだ?別の進路の可能性が開けたんじゃないか?」

平塚先生は車のハンドルを握りながら、そんな言葉をかけた。

「確かに存在感が薄いんで、最初は俺自身向いてるかもなんて思ってましたけどね。由比ヶ浜と川崎がいなけりゃ今日の尾行は完全に失敗してましたよ」

俺はゲンナリしながらそんな言葉を返す。

「ヒッキー、緊張しすぎなんだよ」

「ホント、何をそんなに気負ってるんだか」

緊張による冷や汗を大量に吸い込んで冷たくなったシャツが、べったりと体にひっ付くのを感じて、俺は表情を歪めた。

「…気にするな比企谷。女性陣の活躍の陰に埋もれたのは僕たちも同様だ」

やはり車の運転が出来ないことを少しは気にしているのか、宮田さんがそんなフォローを口にする。

「…しかし、なんだ…映画張りのカーチェイスを期待していたが、信号停車ばっかりで何とも退屈だな」

追走を初めて数分、平塚先生は欠伸交じりにそんな文句を口にした。

俺たちは村瀬の車の真後ろを付けていたが、奴もこっちの車も、ほぼ制限速度を遵守して走行していた。

「まぁ日本ですし…安全運転でお願いします」

「これならまさか尾行されているとは奴も思わないだろう。かえって好都合だ」

宮田さんがそんな現実的な意見を口にすると、彼が手にしていた携帯が鳴り響いた。

着信の主は槙村さんだった。

宮田さんはハンズフリーをオンにして通話を開始する。

『宮田、あいつは追えてんのか?』

「ああ。女子生徒の機転で何とかな」

『そうか。比企谷にも一部聞こえていたかもしれんが、あいつは香港のグループ会社に転籍することになったらしい』

「グループ会社?」

宮田さんが疑問を口にする。

『ああ。香港にアジアのプロジェクト投資専門の部署を立ち上げるって話は前から聞いていたが…あの野郎、一々俺をライバル視しやがって。そこで大型プロジェクトに関与するって自慢してきやがった』

「アレはプロジェクト部門への異動を希望してたからな。同期のお前が居座ってて東京じゃそれは叶わなかったわけだから、無理もない」

「…でもグループ会社に転籍させるのに、なんで態々解雇するような手続きを取ったんでしょうか?」

俺は二人の会話に口を挟むように、先ほど頭に浮かんだ疑問を投げかける。

『…大方、今まであいつが携わってきた業務情報を完全に隠匿するのが目的だろうな。香港にはあっちのカレンダーに合わせて旧正月明けに着任するそうだ。少し早めの年末年始休暇でも取るつもりなんだろう』

俺の問に対し、槙村さんがそう答えた。これは俺が拾いきれなかった会話の中で槇村さんが掴んだ情報だ。

「旧正月明けというと…あまり時間がないですね」

香港を始め、中華圏では春節と呼ばれる旧暦に従った長期の正月祝日がある。

春節のタイミングは太陽暦上では毎年微妙にズレるため、正確な日程は後ほ確認する必要があるものの、概ね1月後半から2月前半にかけてといったところだ。

現在、季節はクリスマスを控えた12月半ばにある。ということは、奴が渡航するまでに自分に残された時間は1月程度となる。

『あいつが出発する前に、もう一度証拠を集めて問い詰める必要がある。何としても居場所を特定するんだ。平塚さん、よろしくお願いします』

「ああ…しかし、雪ノ下も本当にとんでもない事件に巻き込まれたものだな」

平塚先生はスピーカーから響く槇村さんの言葉にそう返事を返した。

「…ところで比企谷、さっきのカフェで撮った写真、今見れるか?」

『カフェ?写真?』

忘れかけていたもう一つの情報について、宮田さんが触れると、電話越しに槇村さんが疑問の声を上げた。

「村瀬はオフィスを出てから立ち寄ったカフェで、雪ノ下の母親と繋がりのある男と会ってたんです。会話内容は掴めませんでしたが…これがその写真です」

俺は状況を説明しながら携帯の画面を操作し、先ほど撮り収めた写真を表示させ、宮田さんに端末を手渡した。

「…おい、お前達の自撮写真を見せてどうする気だ?自慢か?」

画面にはピースを浮かべる結衣と、強引にフレームに引っ張り込まれた俺の写真が写っていた。

「アンタ達…」

沙希の視線が痛い。

「ち、違います!それはカモフラー?…フリです!フリ!」

呆れ顔で写真を見る宮田さんの後ろから、結衣は強引に手を伸ばして俺の携帯を操作する。

画面を何度かスワイプすると、村瀬と男が比較的クリアに映った写真が表示された。

「!!」

その人物を確認すると、宮田さんは無言で表情を強張らせ、ゆっくりと車内の低い天井を仰いだ。

その動作から、この男も彼の知る人物であることが窺われる。

俺は緊張感を覚えつつ、宮田さんが発する言葉を黙って待った。

「…まさか…この人が…これはいよいよウチの一大事だな」

ボソっと、くぐもったような声でそんなことを呟く。

『あ!?誰だよ!?』

「…市川MD…お前の上司が映ってる」

槇村さんの催促に対し、宮田さんは一瞬戸惑ったかのように無言となるが、やがてその人物の名を口にした。

――市川!?

それは俺にとっても、正に、鈍器で頭を殴られたような衝撃だった。

――東京はウチ単独ではなく、日系の機関投資家を誘致して中国ビジネスに乗り出す算段だ。より規模のデカい投資案件を取に行きたいのと、せっかく種をまいた中国ビジネスを他の拠点に横取りされないように外部を巻込もうって寸法だ

――また役員の政治絡みですか。もうウンザリですね

未来の世界で槇村さんと電話越しに交わした会話が頭の中で再生される。

今後、おそらく村瀬が携わることとなる複数のアジア案件。

この中の一部のディールの大失敗が香港の現地法人の整理(リストラ)の引き金を引くこととなる。

後に残された資産の、東京オフィスによる引き受け。

その裏にあった東京オフィスの役員の狙い。

それは、複数の案件の中で、当時まだ芽が残っていた中国ビジネスを建て直し、その拡大の立役者となることで、グループ内の発言力を高めることだった。

その先兵となったのが槇村さん。更にその駒となったのが俺だった。

そして、そんな俺達を裏で操っていた男。

それがグループ日本法人のCIO (Chief Investment Officer 投資部門統括責任者)であった、市川という人物だった。

平社員だった俺が役員と直接話す機会は稀だったことに加え、俺の知る同氏の風貌は今とは年齢も離れている。先日奴を目撃した際に気が付かなかったのは迂闊ではあったものの、その時覚えた既視感にこれでようやく納得がいった。

――これがカルマってやつか。にしても、あんまりだろ

よりにもよって、俺から雪乃を奪う切っ掛けを作った可能性がある男の下で、俺は何も知らずに何年も馬車馬のように働いてきたということなのだろうか。

自分の間抜けブリに、ぶつけようのない怒りがふつふつと込み上げてくる。

『あのオッサン、今朝は遅れて来たと思ったら、そういうことかよ』

似た様な苛立ちを覚えたのは、どうやら俺だけではなかった様だ。携帯から、槇村さんが吐き捨てるような声が響いた。

「…社内の人物なのか?我々にも、どんな人なのか教えてもらえないだろうか?」

平塚先生が、遠慮がちに宮田さんにそう尋ねた。

「槇村のラインのMD、マネージングディレクターですよ。日本の会社で言えば部長クラスですね…将来の役員候補で、ウチのシニア層じゃ一番の出世頭と言われてる男です」

宮田さんはその人物について簡潔にそう答えた。

その読み通り、この男はこれから出世街道を歩むのだ。プライドの高そうな村瀬が先程は米つきバッタのようにヘコヘコと頭を下げていたのにも合点がいく。

『冗談じゃねぇ。あの野郎、偉そうに散々人をこき使ってくれたが、不正に絡んでる可能性があるなら話は別だ。出世街道から引きずり降ろしてやる…また情報を掴んだら連絡する』

槇村さんはそう言い残して通話を終了した。

宮田さんも何か考え込んでいる様で、その後暫く言葉を発しなかった。車中にはどことなく重苦しい雰囲気が漂う。

ふと窓の外を見ると、いつしか景色は閑静な住宅街となっていた。

「…着いたようだ。このマンションだな」

数分後、平塚先生は車を減速させながらそう言った。

その言葉通り、村瀬の車が公園沿いの高級マンションの地下駐車場へと入っていくのが目に入った。

☆ ☆ ☆ 

それから数時間後、村瀬のマンション近辺のカフェにて、俺たちは遅めの昼食を取りながら、今日集めた情報の整理を行っていた。

「…今日はありがとうございました。村瀬の住所と市川って人の関与…これを手がかりに一ヶ月以内に真相を突き止めるしかないですね」

俺は運ばれてきた食事に手を付ける前に、全員に礼を述べる。

「まだ情報は限られてるが、当初の目的からすれば今日の成果は上出来だ。奴の部屋まで突き止められたのは大きかった」

宮田さんは俺の言葉にそう返した。

その言葉通り、あの後、顔が割れていない俺が車を降り、村瀬を着けてマンションの中に入って、奴の号室を探り当てたのだ。

「…でもセキュリティがあるから、待ち伏せするにしても玄関ホールの外で待機するくらいしか出来ないんじゃない?」

沙希は冷静にそう返した。

雪乃の住む高級マンションと同じように、玄関ホールの自動ドアを潜るには、住民が持つセキュリティカードが必要なのだ。先生が中に入り込めたのは、運良く自動ドアを開けた村瀬に着いていくことができたためだった。

「いや、部屋番号が分かれば、郵便受けに手紙を入れて揺さぶりを掛けることもできるからな。尾行中に俺の顔が割れなかったのは川崎と由比ヶ浜のおかげだ。助かった。それから、先生も車を出して頂いてありがとうございました」

俺はそんな考えを口にして、改めて3人に感謝の気持ちを伝える。

「…そ、そうか。捕まるような事だけはしないでくれよ…さて、冷める前に食べるとしよう」

平塚先生は俺の言葉に若干顔を引き攣らせながらそう言った。

先生の言葉通り、既にテーブルに食事が運ばれてから時間が経っていた。

先生の呼びかけに反応するように、各々が箸を手にした。

「…ところで比企谷、例の生徒会のクリスマスイベントの件だがな。今日、業者との打ち合わせがあるらしいぞ。先ほど雪ノ下からメールが入った。お前たち三人の欠席についても尋ねられたが…」

全員がようやく食事を口にし始めると、雰囲気を切り替えるように、平塚先生が学校の話題を振った。

「ヤバ!…サキサキ、ゆきのんに今日のこと言った?」

「…言ってない。比企谷は?」

「詳しいことをあいつに説明すんのは全部が明らかになってからのがいいだろ」

「まぁ、そう言うと思って返信は適当に濁しておいた…しかし、イベントの方は、まだ会議から一週間も経ってないのに、よくそこまで手が回ったものだ」

先生は素直な感想を口にする。これも吉浜達の尽力のおかげだろうか。

「入札、うまくいくといいね」

結衣がそんな感想を口にした。

「…入札?」

フォークでサラダのトマトを器用に避けていた宮田さんが、不意にその単語に反応を示した。

「学校の生徒会のイベントだよ。地域のクリスマス会で、経費削減を兼ねて、ケーキの材料や飾りつけの装飾品を各業者から入札制で買うことにしたんだ。その入札に参加する業者との打ち合わせを今日やるという話だ」

平塚先生の説明に対し、宮田さんがフム、と考え込むような様子を見せた。

「何か引っかかるようなことがあるんですか?」

沙希は宮田さんに対して尋ねた。

たかだか学校行事に関する話題に反応を示した元上司の思考は俺にも読むことは出来ず、素直に彼の返事を待つことにした。

「いや…あくまで可能性の話だが…雪ノ下建設の“飛ばし”は粉飾目的でないことが分かっているだろう?であれば、その行為に何か、雪ノ下建設に利をもたらすカラクリがある、というのがこれまでの情報で至った考えだ」

「ですね」

宮田さんが何の脈絡もなく再び雪ノ下建設の話題に戻し、俺に語りかけることを疑問を覚えながらも、その前置きに短い言葉で頷き、本題を待った。

沙希、結衣、平塚先生の3人も少しだけ緊張した表情を浮かべている。

「"飛ばし"のスキームで子会社に移転した証券を最後にどう処分しているのか…ひょっとして、公共事業入札を仕切る人間にでも流れているんじゃないかと思ってな…」

――公共事業入札を仕切る人間?……談合の口利き料ってことか!?

彼の推察に自分の思考が追いついた瞬間、自分の目が興奮で大きく見開かれた。

俺の表情を見て、宮田さんはその考えの合理性に自信を得たような表情を浮かべた。

「…平塚さん、それにお二人のお手柄かもしれん」

「「「へ?…え?」」」

深い事情を知らない3人は、宮田さんが急に口にした褒め言葉に対し、目を白黒させて戸惑いの表情を浮かべていた。

「…雪ノ下建設は、買収した子会社に海外に複数のトラストを作らせて、簿価で証券を売却していました。当初は損失隠ぺいが目的かと思ってたんですが、そうじゃなかった。そんなことをする理由が見当たらなかったんです。でも宮田さんの読みが正しければ、それはマネロンのスキームだった可能性があるってことです」

「マネロン…資金洗浄、だったか?私には新聞で読む程度の知識しか無いんだが、どうしてそんなことをする必要が?」

先生は俺の説明に対して、一瞬考え込んだ後、追加で質問を口にした。

結衣と沙希は引き続き困惑したような表情を浮かべている。

「普通、買ったばかりで評価益も損失も出ていない証券を売却することに経済合理性はないんです。企業買収をするために資金を使っているとすれば尚更です。買収される側の中小建設会社にしても、そんなことに加担するメリットがない」

「それは私でも分かるが…」

先生は相槌を打つ様に俺の説明に小声で反応を示す。俺はその反応を見て言葉を続けた。

「でも、その証券を最終的に誰かに譲渡することで、雪ノ下建設が公共事業受注の口利きが得られるとすれば、どうでしょうか?談合は不正行為ですが、それが雪ノ下建設の事業拡大に繋がります。子会社としてグループ傘下に入った企業も下請としてそのおこぼれに与れるとなれば、そのスキームに協力するインセンティブが生まれます」

「…これまでの断片的だった情報が繋がるってことでいいの?」

沙希は、俺の追加説明に対し、完全には理解しないまでも、自分なりに掴んだ話の流れを確認するようにそう呟いた。

「…そういうことだ。公共事業入札をコントロールできる人間となると、役人や複数の大手建設会社の役員とパイプを持つ余程の人物になる。そんな人物に建設会社から直接資金が流れれば、すぐに検察の目に留まるが…それを掻い潜るためのマネロン…そのスキームを提供するための投資銀行の関与…そう考えれば全てが自然に繋がる」

宮田さんは俺の説明に付け足しながら、自分の立てた仮設の蓋然性の高さを慎重に確認するような口調で話した。

まさか生徒会のイベント活動が推理のヒントになるとは全く思わなかった。

正に、タイミングよく先生が話題を振ってくれたおかげだった。

俺は突然差し込んだ一筋の光明に縋るような思いで、頭の中でこれからの調査の方向性を整理し出す。

そして、はたと今日のカフェで聞き取った断片的な市川と村瀬の会話内容を思い出した。

「…そう言えば、カフェの出口で二人が交わしていた会話の一部に、橋梁建設の受注、ってキーワードが出てました」

「あ、それアタシも聞こえた」

結衣の言葉に俺は力強く頷く。

「…てっきり村瀬のかかわるアジアのプロジェクトの話かと思ってたんです。でも、これはひょっとすると…」

「…雪ノ下建設が落札した公共事業案件である可能性があるな。探りを入れられるか?」

「はい」

その宮田さんの言葉に、俺は答えた。

バイトの身分ではあるが、雪ノ下建設の内部に入ることが出来た俺であれば、公共事業の受注履歴を閲覧することができる。加えて最近は営業の職員とも面識が出来ている。談合に関わる情報の裏取りが出来るかも知れない。

心なしか、気力が湧いてくるの感じながら顔を上げた。

だが、そんな俺の目に入ったのは、先程とは打って変わって深刻な表情を浮かべる平塚先生の姿だった。

「…比企谷…今回、雪ノ下の生活環境が変わるかもしれない事件の可能性ということで私も関与した…でもそれは…宮田君には申し訳ないが、雪ノ下の実家が投資銀行の悪意に巻き込まれた可能性を懸念してのことだ。雪ノ下建設側に不正など無いと信じた上で、その確証を得たかった、と言うのが私の正直な気持ちだよ」

「…はい」

俺は先生の考えを汲取って、重い声で返事を返した。

結衣も沙希も真剣な表情を浮かべている。

「本当に今更で申し訳ない。だが、ご両親の事業の不正となれば、それを暴くことの影響が雪ノ下にも及ぶことが明白だ…不正があれば正すのが世の道理だろう。だが、それも今は仮説に過ぎない。これ以上深入りすべきことなのか、正直、判断がつかない…」

先生が口にした懸念は至極的を得たものだった。

教師として平塚先生が最も気にするのは、何より生徒自身のことだ。実家の不正が暴かれれば、雪乃がまともに学校に通うことが困難になることが明白であり、下手をすればその後の人生まで台無しになってしまう可能性がある。

このままでは彼女が望まぬ結婚を強いられ、どの道、人生を棒に振ることとなるのだが、それを知る人間は限られている。それを話せないことに歯痒さを感じた。

「…平塚さんの教師としての立場は尊重します。僕も槇村も、正直同じです。MDが関与しているとなれば、村瀬のような小物の単独犯とはワケが違う。対応は慎重に考えなければならない」

「そんな」

結衣は落胆した表情でそう呟いた。

二人の協力が得られなくなるかもしれないことを懸念しているのだろう。

「…心配するな」

俺は結衣に対してそう小声でそう言った。

俺は宮田さんや槇村さんがどういう人間か良く知っている。

「…だから行動を起こすのは決定的な証拠が出揃った後です。それまで無理に協力しろとは言いません。平塚さんは生徒のケアを第一に考えてあげて下さい。それはあるべき姿です。そして、その問題の根を断ち切るのは僕やコイツの仕事です」

宮田さんはそう言うと、俺の背中をポンと叩いた。

「…そうか」

平塚先生は何かを悟ったかのようにそう返事をした。

それに合わせて沙希と結衣が俺を見つめる。

今、事体は急展開を迎えている。

俺は雪ノ下建設の調査だけでなく、未来の出来事も含めて、既に結衣や沙希に情報を共有し、調査に巻き込んでしまった。

このまま事実を掴めずに手を拱くというオプションは存在しないだろう。

そして今更ながらに認識した別の課題。

今後、調査を進めるに当たっては、雪乃…だけでなく彼女の姉も含め、事件に巻き込まれている当事者に対するケアを並行して計画しなければならない。

俺は覚悟を新たに、雪ノ下建設の不正暴露を心に誓った。



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32. 比企谷八幡は尻尾をつかむ

村瀬を追走した金曜の翌週。

俺は沙希と結衣に、学校では雪ノ下建設に関わる話は極力しないように確約させ、通常通りの放課後を過ごしていた。

クリスマス会にかかる依頼は、海美を含む現生徒会メンバーの尽力により問題なく進んでいる。

既に2学期の最終イベントである期末試験も終了し、冬休みに向けた独特の緩い雰囲気が校内を支配しつつあった。

「う〜寒っ…」

3人がいる奉仕部の部室。俺はコートも脱がずに着席し、背中を丸めてそう呟いた。

一年中一定の温度が保たれたオフィスで長年仕事をしていた俺は、季節感覚というものを失って久しい。いくらストーブが焚かれていようと、冬場の校舎というのは社会人の俺には最早過酷すぎる環境だった。

「コートくらい脱いだらどうなの?」

カチャっと小さな音を立てて雪乃が俺に淹れたての紅茶を差し出しながらそう言った。

「却下だ。今脱いだら凍死しちまう…紅茶、サンキュ」

俺はカタカタと震える歯を鳴らしながら応える。手にした紅茶のカップの温度が有難い。

「基礎代謝が低いんじゃないの?元の年齢になる頃にはお爺ちゃんみたいになってそう…」

沙希が呆れ顔でそう言うと、結衣も乾いた笑いを浮かべた。

「ところで…先週の金曜日なのだけれど…」

雪乃は話題を変えて俺たちに先週のサボりに関して尋ねた。

「あっ!あ〜風邪引いちゃって大変だったの! さ、最近寒いし気を付けないとね〜アハハ…」

――このアホ!

嘘・誤魔化しが苦手な結衣らしい反応だが、これでは突っ込んでくださいと言っているようなものだ。

「…へぇ。3人同時に?」

取り繕う様に結衣が口にした言葉を耳にし、雪乃はジト目になって俺たち全員に再び問い掛けた。

「アタシは妹の世話。保育園が休園で、両親が休み取れなかったら仕方なくね。先生には風邪ひいたって嘘ついたけど」

沙希は冷静な表情で危なげなくそう切り返した。

村瀬に話しかけた時もそうだったが、やはり沙希はクールだ。沙希の彼氏だった俺自身も、ひょっとしたら掌の上で転がされていたのかもしれない。いや、むしろ今彼女に転がされてみたい気分ですらある。

俺が少しだけ邪な願望を心に抱いている間、雪乃は訝しげな顔を浮かべて沙希をじっと見ていたが、それ以上の詮索は諦めて視線を俺へと移した。

「…俺も自主休校だ。総武光学の上場へ向けたリサーチをしてた。学校への連絡は川崎と同じで体調不良だけどな」

「…もういいわよ」

俺も沙希に合わせてそれらしい理由を述べると、雪乃は少しだけ怒った様な表情でそっぽを向いた。

「雪ノ下…アンタ、ひょっとして拗ねてるの?」

「ば、バカなことを言わないで…先週は久々に読書が捗ったわ」

「ふ〜ん、じゃあこれからも定期的に読書時間を確保したげるよ」

沙希の挑発するような言葉を受けて、雪乃は彼女を睨み付ける。

が、その目尻には涙が薄っすらと滲んでいた。

「うっ…」

沙希はその視線に捕らわれたように、言葉を詰まらせた。

「涙は女の武器、か…雪ノ下のは最早戦略兵器だな」

「…ハァ」

俺の小声の呟きに対し、沙希は溜息を以って同意を示した。

「ゆきのん!ゴメンね!」

一方、そんな雪ノ下に母性をくすぐられた結衣は、勢いよく彼女に抱き付いた。

「ちょ、ちょっと、由比ヶ浜さん?」

涙目で困ったような、照れたような、そんな表情を浮かべる雪乃。

その雪乃を慈愛に満ちた目で見つめ、豊満な胸で受け止める結衣。

見る者に倒錯した性的嗜好を植え付けかねないエロティシズムを感じさせる光景だった。

部室内に漂う危険な甘い香りに、俺は鼻腔が膨らむ様な感覚を必死で抑える。

「…この変態」

「だ、誰が!?俺は微笑ましいと思っただけだぞ!」

突き刺すような視線を向けながら非難の言葉を呟いた沙希に対し、俺は心外だとばかりに抗議する。

”いいぞ!もっとやれ! “ そんな自分の心の声は、決して外には漏れていないはずだ。

「そうだ、ゆきのん!もうすぐクリスマスじゃん?埋め合わせに、イヴの日は4人でクリパしない?」

焦る俺を尻目に、唐突に結衣がそんなことを言い出した。

その頭の悪そうな略語、数年後には死語だから。チョベリバと同レベルだから…などと無粋なツッコミはしない方が身の為だろう。

「クリスマス当日は生徒会のイベントがあるでしょう?」

「やっぱりあたし達も参加するんだ?」

雪乃の返答に対して、沙希は確認するようにそう尋ねた。

「乗りかかった船だもの…当然でしょう?」

「ええっ!?」「…雪ノ下って真面目だよね」

雪乃の言葉に、結衣は抗議の声を上げ、沙希は仕方ないとばかりに両手を上げる。

「…イベント後の打上げってことならいいのか?夜遅くなっても良いなら、俺がプラン立てておくが?」

残念がる結衣が可哀想になった俺は、思わずそんな助け舟を出した。

「まぁ…それはそれで…アリかも」 「…そうね。悪くないわ」

沙希と雪乃はチラチラと俺の方を見ながら、そのアイデアに同意を示した。

「…じゃあ、そう言うことで」

そう口にしながら、俺は3名のレディをエスコートするに相応しいデートコースについて、思考を巡らせた。

昔デートで使って、結衣がやたらと気に入っていた都内のワインバーが思い浮かぶ。

って、アホか俺は。今の俺たちに飲酒は出来ないだろう。

同時にいくつか頭に浮かんだプランは、同じようにどれも未成年には不可能なものばかりだった。

――あれ?これ、実は結構シンドイ約束しちまったかも…

俺は自分の大人としての経験が全く役に立たないことを呪った。

「…あのさ、比企谷」

「ん?」

暫くの静寂の後、唐突に沙希が俺に話しかけた。

「…その…クリスマスはいつもどうやって過ごしてたわけ?」

「あ!あたしも気になるかも。ヒッキーって意外にロマンチストな所あるし、器用だし…ひょっとして、手作りのディナーとか毎年準備してたりして…」

沙希が尋ねているのは無論、未来の俺の姿のことだろう。結衣もまた、その質問に被せるようにそんな想像を口にした。

俺は少しだけ目を閉じて、社会人になってからのこの時期の記憶を呼び起こした。

その鮮明な映像が脳裏を駆け巡る。

――おい、決算着地の見込みはまだか?このペースじゃ年末も泊り込み確定だぞ?

――比企谷ッ!今期の収益目標までまだ全然足りねぇのが分かってんのか!?ボサッとしてる暇があったら案件クローズしてこい!

――玩具メーカーと小売企業のクリスマス商戦の動向は、細かいニュースも見落とすなよ。株価が動くからな。

――NYが休みだからって、お前ェまで浮かれてんじゃねぇぞ!顧客向けのクリスマスカードと年賀状は準備できてんのかよ!?

仕事の出来る上司2人による、止むことのない叱咤の嵐の中で、泣きそうになりながらデスクに齧り付く自分の姿。

それ以外に何も思い出すことが出来ず、俺はいつもの濁った目を更に曇らせた。

「…四半期末…決算…収益…市場…商戦…顧客対応…」

「どうやらロマンスとは程遠そうね…」

俯いてブツブツと呟くだけの俺に対し、雪乃は呆れ顔でそう言い放った。

☆ ☆ ☆ 

後日

クリスマスを目前に控えながらも、雪ノ下建設でバイトに精を出す日々は変わらない。

潜入捜査と並行して仕事と格闘するのはそれなりに大変だった。

村瀬追走後、俺は雪ノ下建設による公共事業入札の談合にかかる情報収集を試みたが、目ぼしい証拠は未だ集められずにいた。

「すみません、年末仮決算の件でお伺いしたいんですが…」

「どうした?」

12月31日は四半期末だ。クリスマスに前後して決算関連業務が忙しくなるのは投資銀行も建設会社もさほど変わらない。

俺は財務システムを操作しながら湧いた疑問を隣席の先輩職員にぶつけることにした。

「足元、子会社の売上が一気に伸びてきていますよね。過去のデータを見ても、毎年この時期に売上が拡大してますけど、これって公共事業の工事進捗に関係してるんですか?」

「ああ、秋口から春にかけては小規模な公共事業の着工が多いからな。実際に外を歩いてても、道路工事とか、この時期から増えるだろ?建設会社は工事進捗に合わせて、受注したプロジェクトを売上に計上するんだよ」

「それってひょっとして、巷で言われる”お役所の年間予算使い切り”って奴ですか?」

「…それは違うよ。そんな都市伝説を比企谷君が信じてるなんて、ちょっと意外だね」

俺の追加質問に対する答えは、隣で会話を聞いていた別の人物から返ってきた。

「主任…不勉強ですみません」

やや恰幅の良いその中年男性は、丸いフレームのメガネをクイっと持ち上げて、俺に笑いながら近寄ってくる。

「ま、この業界にいなきゃそう思うのが普通かもな」

謝罪の言葉を口にした俺をフォローするように、先輩職員はそう言った。

「国や県は4月から通年で重要なインフラプロジェクトを入札にかけて土木・建築会社に発注していくんだけど…それは裏を返すと、行政にとって大規模で重要なプロジェクトにかかる経費がこの時期にようやく概ね固まるというワケなんだよ。そこで初めて、水道管やガス管の取替えだとか、そういった細かいインフラ修繕に充てられる資金がどの位残るのか見えて来るんだ」

主任は筋道の通った説明で、俺の認識錯誤を指摘する。

「なるほど。だからマイナーなー道路工事なんかは年度の後半に偏るって訳ですか」

俺はその説明に感心してそう呟いた。

「そういうこった。ついでに言うと、道路工事で同じ個所を何度も掘り起こしたりするのも税金の無駄遣いと勘違いされるんだが、そっちもちゃんとした理由があったりする」

「どんなですか?」

「複数の建設会社が同じ場所で同時に工事すると、地中インフラを傷付けちまった場合に、責任の所在がアヤフヤになる可能性があるだろ?それを避けるために、一旦、水道管工事で掘り起こした場所で、別の会社がガス管工事する場合でも、一度仮舗装するんだよ」

先輩職員も主任の説明に加える形で、土建業に関する誤解を解くべく言葉を足した。

「…言われてみれば合理的ですね」

説明を受けて得た納得感を素直に口にすると、先輩職員は気を良くしたのか、自慢げな表情を浮かべた。

「ま、最近営業がでっかいプロジェクトを受注したから、第四四半期はグループ子会社のチンケな工事の積み上げなんか霞んじまうくらい本社の業績は拡大するぞ…これで俺たちも給料上れば最高なんだけどな」

「!」

彼が続けて口にした話に俺は思わずピクリと反応した。

――ひょっとして例の案件か?経理にも情報が伝わってんのか

談合で獲得したばかりの案件であれば、現段階では社内で知っているのは一部の人間に限られるのではないか。そう考えていたが、どうやらそうではないらしい。

「大規模プロジェクトって、どんな案件ですか?」

俺はこの機を逃すものかとばかりに、些か興奮気味にそう尋ねた。

「首都高湾岸の橋梁再開発だよ。2000億円を超えるプロジェクトだね」

――ビンゴ!

主任が口にしたプロジェクトの概要は、あの時市川が漏らしたキーワードと合致している。

「…2000億超えですか。ウチの決算規模からすると随分金額がデカいですね?」

「余所の大手ゼネコンとコンソーシアムを組んで共同落札したのさ。流石にその規模の案件を単独で手掛けるのはウチじゃまだ無理だ」

「そんな案件、どうやって刺さりこんだんですか?それだけのプロジェクトとなると、相当な企業が応札してますよね?大手のコスト水準にウチが合わせられるんでしょうか?」

正当な競争入札を経ているのであれば、雪ノ下建設のコンソーシアムは、各社がコストカットの限界水準を折り込んで提示した価格を、更に下回る金額で落札したことになる。

ゼネコンによる施工発注に関するコスト競争力は、革新的な建築技術がある場合を除けば、通常、サブコンに対する価格交渉力が大きくモノを言う。だが、地方企業に過ぎない雪ノ下建設には大手並みの交渉力はない。コストカットが出来なければ、費用が入札価格を上回り、雪乃下建設は損失を被る。

「…まぁ色々あるんだよ。馬鹿正直に価格競争に乗って入札してたら、建設会社なんてどこも破綻しちまうよ」

――やっぱりか

これはつまり、馬鹿正直な価格競争は回避した上で案件を落札した、ということだ。

先輩職員が口にしたのは談合の核心に迫る言葉だった。

「ちょっと!」

「あ…すんません」

主任に諫められて、先輩職員は謝罪の言葉を口にする。

「談合…ですか?」

より情報を引き出すため、この会話の流れを切りたくなかった俺は、思い切ってその単語を口にする。その瞬間、2人は渋い表情を浮かべた。

「はぁ、仕方ない…比企谷君、過当競争にある日本の建設業界では、正攻法だけじゃ生き残れないんだ…なんて言っても言い訳にしか聞こえないだろうけどね」

主任は暗に俺の質問を肯定するようにそう言った。

彼の言う通り、日本の土建業界の構造は歪だ。公共事業の入札については制度そのものの不備も一部では指摘されている。損失の発生も覚悟の上、売上の計上と一時的な資金繰のために、落札ありきで無茶な価格で札を入れる業者は後を絶たない。そんな状況が続けば、正常な建設会社でも事業を継続しにくくなる。

そういった業界では、弱者をさっさと市場から退場(倒産)させ、労働力を他の産業に再分配する方が国家の経済成長に繋がる、というのはどの経済学の教科書にも書かれているセオリーだ。

だが、現実はテキスト通りにはいかない。雇用の流動性の低い日本では、企業倒産が従業員の人生に与える影響の大きさは計り知れないし、そもそも長らく雇用の受け皿となってきた建設業界でバタバタと会社が倒れれば、社会の安定を脅かす問題になりかねない。

しかし、どれほど言い訳を並べ立てようと、公共事業を通じて建設会社が手にする金は、元を辿れば国民の血税だ。談合という不正を通じてその金額を不当に釣り上げるのは、公的資金の着服と相違ない行為である。

雪ノ下建設がそのような行為を土台に会社を成長させてきたとすれば、これが社会通念上、許されざることであるのは火を見るよりも明らかだ。

「…難しいですね。こういう業界体質のしわ寄せを黙って受け入れるか、清濁合わせ呑んで生き残るか…」

俺は少し考えた後で、そんな言葉を口にした。

仮に自分が雪乃の両親…会社の経営者だったら、果たしてどうするだろうか。

自分の興した会社に勤める従業員のため、そして何より家族の生活のため。

経営環境が厳しくとも、会社を発展させ、存続させることでしかそれを守ることが出来ないのであれば、不正のリスクが分かっていてもそれに手を染めるのかもしれない。

やはり俺には勧善懲悪など似合わない。

今の俺に必要なのはとにかく事実を把握すること、そして、行動指針を見失わなないことだ。

「色々と業界事情を教えてただいて感謝しています…悪いようにはしませんよ。安心してください」

俺がそう言って作り笑いを浮かべると、主任は溜息をついて安堵の表情を浮かべた。

――悪いようにはしない、か。曖昧で便利な言葉だな

正義感を振りかざして雪ノ下建設の違法行為を咎めるつもりは俺にはない。

しかし、この不正が雪乃の将来を揺るがすのであれば、俺は何の躊躇もなく雪ノ下建設を弾劾し告発する。それが例え目前の2人の生活を脅かす結果となろうと容赦はしない。

俺の指針は極めて単純かつ明快だった。

☆ ☆ ☆ 

その日の夜、俺は再びオフィスに残り、PCに表示されるデータを必死で目で追っていた。

内容は雪ノ下建設がこれまでに参加した公共事業に関する資料だ。

通常、社内ネットワークで経理部門がアクセス出来ないドライブに保存されている情報だったが、主任に聞いたアクセス方法でデータの閲覧が可能となった。

――このプロジェクトの件、もう少し詳しく把握しておきたいです。口にして良いことと、マズイことが判断出来ずに思わず口を滑らせそうで不安なんで

――おいおい、勘弁してくれよ

――データの場所さえ教えて貰えば、後は自分で勝手に見ますよ。主任の名前は出しません

――ハァ…仕方ない。これが営業部門の共有ドライブのアクセス方法だ…好奇心旺盛なのは結構だけど、くれぐれも内密に頼むよ

そんな脅迫に近い方法で手に入れた情報源だった。

「…首都高湾岸の橋梁再建設…あった」

雪ノ下建設は大手ゼネコンとのジョイントベンチャーへの30%出資を通じてこの案件に参画。パートナーは年間売上高5000億強の準大手…最近上場したばかりの企業だ。

って、この会社、上場の主幹事を務めたのはウチの投資銀行じゃねぇか。そうであれば、裏でこの談合の絵を描いたのが市川である可能性が益々高い。

――しかし、本当に投資銀行の関与だけでこの不正が成立すんのか?

そんな疑問が頭から離れない。

雪ノ下建設の不正関与が分かっても、雪乃の両親が彼女を誰に差し出したのか、そして差し出すに至った背景は未だに不明だ。

全容を見るにはこれでもまだ情報は不足している。

「ひゃっはろー、比企谷君!」

――!?

PCの画面に釘付けになっていた俺は、突然背後からかけられたその声に飛び上がりそうになった。

「何探してるのかな?」

その人物、雪ノ下陽乃は、業務室のドアを開いて入ってくるなり、俺のデスクへと歩み寄ってきた。

「…こんな時間にどうしたんですか?」

俺は彼女の問いには答えずにそう聞き返す。

「やだなぁ。比企谷君に会いに来たに決まってるでしょ」

棘を含んだ甘い声でそう囁きながら、彼女は背後から俺に抱き着く。

俺の肩に頭を乗せるようにして、後ろからPCの画面を覗き込んだ。

――まずいな

俺は焦りを覚えつつも、身動きを取ることが出来ず、身構える他なかった。

「なになに?あ~この前ウチが落札した公共事業?…何でそんなもの見てるのかな?」

「後学のためです」

「そんなわけないでしょ?それを見てるってことは、比企谷君も気が付いたんだよね?…私に嘘ついてバイト斡旋させた時にはもう知ってたってことかな?」

彼女は飄々とした表情でそう言った。

この発言、この人も雪ノ下建設の談合参加の事実を知っているのだろうか。

「…その時はまだ具体的なことは殆ど分かりませんでしたよ」

俺はこれ以上の誤魔化しは逆効果だと悟り、素直にそう答えた。

「ふ~ん…でも予兆は察知してたってことか。雪ノ下建設の闇を暴いてどうする気?」

彼女の口調には殺気が籠っていた。

場合によっては俺を潰す、そう言っているようだった。

「まだ決めてません…でも、貴女の妹が不利益を被る可能性があるなら…それをぶち壊します」

「へぇ~。ちゃんと付合ってるわけでもないのに、比企谷君もずいぶんと雪乃ちゃんに執着するよね?それって結構残酷だよ?」

「…ですね」

今の彼女の発言には全面的に同意だ。

自覚のあった俺は、短くそう答えた。

「認めちゃうんだ?…やっぱり比企谷君は信用ならないな」

「それで俺の監視に来たんですか?」

俺は自分の疑問を口にし、彼女に探りを入れる。

彼女が何の目的でここに来たのか、見当がつかなかった。

「それもあるけど、こっちもちょっと訳アリでね。私も最近、自分の両親が何をしているのか調べるようになったんだ…比企谷君には遅れを取っちゃったけどね」

――どういうことだ?

以前劉さんは、雪ノ下陽乃も両親の事業については詳しいことは知らないだろうと言っていた。

今の発言からも、談合の事実を認識していることを除き、彼女が両親のやっていることを詳しく知っているようには思えない。今更、彼女がそれを調査する理由は何なのだろうか。

俺に遅れを取った、ということは、もう少し早く彼女が調査を開始していれば、俺にはバイトの斡旋はしなかったと言っているようにも聞こえる。

彼女の発言を不可解に感じた俺は、言葉と態度を慎重に選びながら会話を続けた。

「調べてどうするんです?」

「どうもしないよ。自分にも関わることだもの。せめて何が起きてるのかくらい、把握ぐらいしておきたいじゃない?」

「…何かあったんですか?」

「う~ん…ナイショ」

雪ノ下陽乃は笑みを浮かべてそうはぐらかすと、俺から体を離して主任のデスクへと向かっていった。

そして、以前俺がやったのと同じように、職員のキャビネットのダイヤル式ロックを解除して中から資料を取り出すと、その場に広げて目を通し始めた。

俺は彼女の行動を気にしないように自分に言い聞かせ、再びPC画面に営業部のデータを表示させて必要な証拠を集めていく。

「う~ん」

「これかなぁ?」

「もう!なんでこんなに数があるのよ!」

が、彼女の独り言が気になって作業が捗らない。

ちらりと様子を見ると、彼女が格闘していたのは、投資銀行から提供された資料の束だった。どうやら雪ノ下建設が買収した会社のバリュエーションを眺めながら、何かを考えているようだ。

「…ご両親のやってること、どこまで把握したんですか?」

「ん?気になる?…残念だけど、教えてあげない」

雪ノ下陽乃はしたり顔でそう言った。

――このクソ女め!

あれだけ独り言を口にして、構ってくれってことじゃないのかよ。

俺は少しだけ苛立ちつつも、冷静さを失わないように自分に言い聞かせる。

「…それは俺が信用できないからですか?」

「うん」

確認するように尋ねると、彼女は間髪入れずに肯定した。

屈託のない笑顔を浮かべている彼女を見て、俺は溜息を漏らす。

「…そっすか…じゃあ取引しませんか?」

これは一種の賭けだ。だが、現状のままではこちらもジリ貧だ。

俺は少しだけ考えて、雪ノ下陽乃に話を持ち掛けた。

「取引ね…どんな?」

「雪ノ下雪乃の人生に影響が出ない限り、俺はこの会社を告発しません。それを条件に、情報をお互い共有するっていうのはどうですか?」

雪ノ下陽乃がどんな理由で会社の情報を洗っているのかは不明だが、彼女の行動原理は俺と同じだ。彼女にとっても、雪ノ下雪乃の存在は大きい。それは文化祭の準備の時の会話で俺が感じたことだった。

そうであれば、これは彼女にとって悪い話ではないはずだ。

「う~ん。雪乃ちゃんのためってのは本当みたいだけど…却下だね。やっぱり比企谷君と私じゃ触れられる情報量が釣り合わないもん」

雪ノ下陽乃は少しだけ考えた後で、再び意地悪そうな表情を浮かべてそう言った。

「一次的に触れられる情報量は少なくても、俺には雪ノ下さんにはない分析力がありますよ。貴女も自分で理解できない情報は持っていても意味がないでしょう?」

俺は挑発気味にそう言い返しながら、彼女のデスクへと近寄る。

「言ってくれるね?私に向かってそんな挑戦的なこと言う人、雪乃ちゃん以外じゃ初めてかも」

彼女は若干の苛立による攻撃的な視線の混じった笑みを俺に向ける。

俺はそれを真っ向から受けて、ニヤリと笑った。

そのまま彼女の隣にデスクチェアを引き、腰を下ろす。

「今、見てるドキュメント…投資銀行から提供された中小建設会社の適正買収金額の算定資料ですね。どれも異常にプライシングが高い…雪ノ下建設にとって損な買い物ばかりです」

俺は、論より証拠だとばかりに、彼女が格闘していた資料の解説を行っていく。

「…比企谷君は投資が趣味、なんだっけ?じゃあ、割に合わない買収の裏には何があるのかな?」

彼女は俺の腹を探るように、そう質問した。

「2点あります。一つは、一見損なこの買収には雪ノ下建設にとっての利点…つまり公共事業の談合との関連があるということ。もう一つは、このM&Aをまとめた投資銀行に何らかの思惑があるということ…ここから先は"有料情報"です」

いずれもここ数ヶ月間、俺達金融のプロが血眼になって調査し、導き出した結論だ。

幾ら雪ノ下陽乃が優秀であろうと、絶対にここまでの情報は持っていないという確証があった。

「…いいよ。その取引、乗ってあげる」

雪ノ下陽乃は少しだけ考え込んだ後、俺の持ち掛けた取引に応じることに同意した。

☆ ☆ ☆ 

雪ノ下陽乃との取引成立後

俺は数時間かけて彼女に対し、自分の持っている情報を一通り説明した。

時刻は既に深夜0時を回ろうとしている。

「…よくここまで調べたね。確かに私だけじゃこのスキームを解明するのに少し時間がかかったかも」

決して"辿り着けなかった"とは言わないあたりが、プライドの高い彼女らしい。

姉妹でそっくりな負けず嫌いな性格が可愛らしく思え、俺は思わず笑みを浮かべた。

「まだ核心的な証拠は集まってませんよ。推測も多分に交じってますし、最終的な金の行先も不明です…ところで雪ノ下さんはどうして談合のことを?」

「…これ、両親の書斎にあったんだ」

そう言いながら、彼女はクリアファイルに挟まれた、ノートの切れ端のようなものをカバンから取り出した。よく見ると、手書きで複数の建設会社名と金額らしき数字が書き込まれていた。

「これは…各社の入札金額?」

いずれも雪ノ下建設が所属するジョイントベンチャーの落札価格よりも数百億円高い金額だった。他社の予定入札価格。これがオークションの前に出回っていたとすれば、談合の決定的な証拠となる。

「おっと。悪いけど、コレはあげられないよ。見るだけね」

メモに触れようとした俺から、彼女はそれを取り上げるようにして再びカバンへと仕舞い込んだ。

「…誰から受け取ったものか分かりますか?」

俺は一瞬苦々しい表情を浮かべた後、追加情報を聞き出すべく彼女に質問する。

「例の投資銀行の人。先日、ウチの母親が会ってたんだ」

「…市川って奴ですね。同じ投資銀行の村瀬って手下を使って、このスキームを動かしてた人間です。でも、本当に投資銀行の人間だけ何でしょうか?他にも心当たりはないですか?」

「どうして?」

彼女はキョトンとした顔で俺に尋ねた。

「投資銀行の人間だけじゃ多分この談合は成立しないと思うんです」

俺は先程の調査を経てもなお、自分の心の中に引っかかっていた点を彼女に伝えた。

「今回高額の札を入れて案件を見送った他の建設会社には、別の見返りを示さなきゃなりません。次の公共事業の受注…とかね。その規模やタイミングは投資銀行の人間でも流石にわからない…公共事業を計画する側の人間の協力があるんじゃないかと思います」

彼女なら何か知っているかもしれない、そんな打算を込めて自分の推理を説明した。

「……」

俺の言葉を聞いた雪ノ下陽乃は無言で考え込んでいる。

その表情は険しかった。

「やっぱり…そういうことか」

数秒の沈黙の後、彼女は諦めたような笑みを浮かべて小さな声でそう呟いた。

俺は彼女の顔が一瞬曇るのを見逃さなかった。

「どうかしましたか?」

彼女は俺の質問に答えない。

「…雪ノ下さん?」

俺は返事の催促をするように再び彼女に問いかけた。

「…私ね…大学卒業したらすぐ結婚するんだ」

――!?

彼女の言葉に俺は思わず身を強張らせた。

一体どういうことだ?

俺の知る限り、雪ノ下陽乃がどこかに嫁いだという事実はない。親の決めた相手と結婚したのは雪乃だったはずだ。

――もう私達の問題に構うのは止めて

――どうしても雪乃ちゃんが忘れられないって言うなら、代わりに私のことを好きにすればいいじゃない…ほら、私たち良く似てるでしょ

雪乃の連絡先を聞くために彼女と対峙したあの雨の日のことを思い出す。

雨に打たれながら、自嘲的に笑う雪ノ下陽乃の姿は、これまでに見たことも無いほど弱弱しいものだった。

「あれ? そんなに驚くことかな?」

彼女は再び仮面を被ったような笑顔と明るめの声で、おどけるようにそう言った。

「…誰とですか?」

俺はそう聞きながら、自分の声がいつもより低くなっていることに気が付いた。

「興味ある?ひょっとして、お姉さんが嫁じゃったら寂しい?」

「そういうのはいいんで…」

何度かのそんなやり取りの後、彼女はフッと柔らかめの溜息をついて、話し出した。

「…ま、普通に親が決めた相手なんだけどね…国交省OBの国会議員、そのご子息なんだって。先日、その市川さんから紹介があって、本人同士で会ってもないのに両親が二つ返事でOKしたんだ。私も流石に文句を言ったんだけど、両親があまりにもヒステリックに怒るから、ちょっと不可解で…」

「…それで色々調べてたってわけですか」

「そういうこと♪」

彼女は努めて明るくそう答えた。

――国交省OBの議員か。所謂道路族って奴だろう…

談合のフィクサーというのなら、そのくらいの大物が出てきてもおかしくはない。

おそらくこいつが、市川と結託して一連の談合を仕組んだに違いない。

マネロンスキームによる資金の行先は未だ解明できていないが、これでようやくこの事件に関与した人間の尻尾を掴んだ。役者は舞台に出揃ったのだ。

それにしても、だ。

「…本当に結婚する気ですか?」

俺は再び真剣な表情で彼女にそう尋ねた。

この件は雪乃が結婚せざるを得なくなった俺の知る未来に関係している可能性が極めて高い。

「まぁね。家や従業員にも関わることだし…我儘を言う気はないよ」

これもあの時雪乃が言った、家柄、というやつなのだろうか。

冗談じゃない。違法行為に手を染めて、挙句の果てにそれを計画した人物に自分の娘を差し出すとはどういう了見だろうか。

今後、雪ノ下姉妹にも犯罪の片棒を担がせると言っているようなものだ。

「…雪ノ下はそのこと知ってるんですか?」

「雪乃ちゃん?…今はまだ知る必要ないことだよ」

彼女は少しだけ悲しそうな笑みを浮かべてそう言った。

「そうですか…貴女がそれでいいなら、俺にはとやかく言う筋合いはないんでしょうけど…それでも、それを聞いて黙って見過ごすことは出来なくなりました。アイツにも同じような問題が降って掛るリスクがありますから」

俺がそう言い切ると、雪ノ下陽乃は俯いて力なく言葉を口にする。

「…やっぱり比企谷君の存在は雪乃ちゃんには悪影響だよ。あの子には早く自立してもらわなきゃ困るのにな…いろんな柵を自分で断ち切る力がないと…きっと私みたいになっちゃうから」

「それを背中で示すのが姉の役割でしょ?早く自立しなきゃいけないのはアンタの方だ」

俺は若干語気を強めて彼女にそう詰め寄った。

弱冠二十歳でこんな事件に巻き込まれた彼女に同情しないわけではない。だが、雪ノ下陽乃には、雪乃に降りかかる家庭問題の防波堤になって貰わなければ困る。

自らの意思で親と対峙することを促した俺を、彼女は真剣な顔でじっと見据える。

数秒の後、フッと表情を緩めて声を発した。

「私がお説教までされるとはね~…比企谷君って本当に高校生?」

「違うかもしれませんね」

俺の間髪入れない返答に対し、彼女の表情から笑みが消える。

「…時期が来たら全部話す…確かそう言ってたよね?」

雪ノ下陽乃は眉を顰めてそう尋ねた。

これは、バイト斡旋を頼んだ際に、俺が彼女に条件として提示したことだった。

「はい。俺の最後の秘密です…それを貴女に話してもいい。でもそれは俺への協力が条件です。"雪乃"のために、ご両親と対立することを厭わない覚悟があるなら、俺に力を貸してください」

そう言って俺は彼女に頭を下げた。

俺の持つ最後の手札を切った。その結果を手に汗握る思いで彼女の反応を待つ。

ほんの数秒の時間が永遠にも感じられた。

「…その秘密、雪乃ちゃんは知ってるの?」

彼女はYesでもNoでもない、別の疑問を口にする。

「はい」

「…ふぅん、ならいいや」

雪ノ下陽乃は毒気の抜けるような声でそう言った。

どうやら俺を質問攻めにするつもりはないらしい。やはり彼女の考えていることは良くわからない。

「秘密なら無理に打ち明けなくてもいいよ…でも、今後の対応については少しだけ考える時間をちょうだい?自立するにも準備ってのが必要だろうしね」

「…わかりました」

俺がそう答えると、彼女は一瞬だけ笑顔を浮かべて、無言でファイルをキャビネットに戻し始めた。

言葉の途切れた空間に妙な緊張間を覚え、居心地の悪さを感じる。

暫くすると、彼女はオフィスの出入り口まで歩き、ドアに手をかけた。

今日はもう帰るのだろうか。

そう思った瞬間、彼女はもう一度俺の方を振り向いた。

「…富山」

その場で、ボソッと人の名前を呟く。

「?」

「私、この苗字あんまり好きじゃないの…もうしばらくは雪ノ下のままがいいかな。よろしくね、比企谷君!」

そんな言葉を残して去って行く彼女の姿を、俺は呆けながら見ていた。

☆ ☆ ☆  

後日

俺は入手した新たな情報を槇村さんと宮田さんに共有した。

2人は今、市川と富山という議員の繋がりを洗いつつ、資金の流れを引き続き調査してくれている。俺の方といえば、あれから雪ノ下陽乃との接触もなく、談合にかかる追加的な情報も特段得られずに数日が過ぎていた。

今日はクリスマスイブである。

かねてからの約束通り、俺たち奉仕部4人は生徒会の合同イベントの運営のヘルプに入ることとなった。

「ルミルミ、久しぶりだな」

俺はイベント進行の合間、会場の準備室で見知った少女を見つけて声をかけた。

「…ルミルミ言うな」

少女、鶴見留美は拗ねたような表情を浮かべてそう小声で呟いた。

「その、なんだ…友達…は出来たのか?」

「…」

俺の質問に対し鶴見は無言で俺を見つめる。

夏休み以降、奉仕部員は各々鶴見の友人作りに協力してきたはずだったが、俺は無反応な彼女の姿をみてバツが悪さを感じる。

ひょっとしたら彼女は未だに学校で孤立しているのかもしれない。そう考えると不安になった。

「Rumy! Hurry up! 早くしないと着替え、間に合わないヨ!…あれ?Hachiman?」

そんな俺の不安を吹き飛ばすような元気のいい甲高い声が控室に響いた。

「…エミリーじゃないか。久しぶりだな…そうか。上手くやれてるんだな」

俺はその声の主を見てふっと肩の力が抜けるのを感じた。

彼女はマーティンさんの一人娘。夏祭りで出会ってから、俺が鶴見に紹介した女の子だった。

エミリーは日本語に難があるというのはマーティン氏の弁だったが、そんな心配は無用そうだ。海美しかり、この子しかり、女子の語学習得ペースは何故こうも早いのだろうか。

そんなことを考えながら鶴見留美の方に目をやると、彼女は照れ臭そうに頬を少しだけ赤く染めて俯いていた。

「Hachiman, Yuiはいないの?」

不意にエミリーは結衣の居場所を俺に尋ねた。

「来てるぞ…今は舞台袖でバンド演奏の進行を手伝ってるとろこだ」

「やった!後で会いに行く! RumyはYui知ってる?Hachimanの彼女! 優しくて私大好き!」

――あいつ、やっぱり子供に人気が有るんだな

俺ははしゃぎながらそう口にするエミリーを微笑ましく思いながら眺めた。

ふいに自分服の袖口がくいくいと引っ張られる。

「八幡は沙希さんか雪乃さんと付き合ってるんじゃないの?」

「…」

俺を見上げながら問いかける鶴見留美に言葉を返せず、ただ苦笑いを浮かべた。

その瞬間、準備室のドアが開かれ、ケーキの準備を終えた雪乃と沙希が部屋に入って来た。

「鶴見さん、久しぶりね。良い観察眼を持っているわね。私たち3人はこの男に振り回されて大変なのよ。あなたは将来、こういう男に引っかからない様に気をつけることね」

「こんな女たらしの変態オヤジはそうはいないから、大丈夫でしょ?」

長い黒髪を掻き分けながらそう言う雪乃に同調して沙希が俺をディスる。

「お前ら…小学生相手に…」

「やっぱり…サイテー」

鶴見留美に軽蔑するような視線を向けられ、嫌な汗が背中を伝う。

「さぁ、あなた達二人もそろそろ更衣室へ行って着替えなさい。もうすぐ出番が来るわ」

雪乃が話題を切り替えてそう促した。

「あんたの友達、3人とももう着替え終わってるよ。それから、今日はアタシの妹もお手伝いするから、よかったら面倒見てやって」

沙希は優しい声で鶴見とエミリーにそう言った。

俺はそれを聞いてもう一度安堵の溜息をついた。どうやら俺たちが画策した鶴見留美の友達作りの計画、リレーション構築対象の選択と集中作戦も順調に進んでいたようだ。

サマーキャンプ以降、女性陣に任せきりとなっていた支援活動だが、これも無事に成功したといえるだろう。

「わかった…じゃあまたね、八幡」 「See ya!」

「おう、頑張れよ」

退室間際に鶴見留美とエミリーの二人が浮かべた、年相応の屈託のない笑顔は非常に印象的だった。

「…さ、今日の手伝いは概ね終了したし、アタシたちも会場に行こ」

「そうね。客席には私達のテーブルも用意されているわ。由比ヶ浜さんも合流する予定よ」

「了解」

2人の誘いに従いながら俺は準備室を後にし、会場へと向かった。

「ヒッキー、ゆきのん、サキサキもお疲れ!」

「お疲れさん。早かったな」

奉仕部用のテーブルには既に結衣が陣取っていた。

今回のクリスマス会で運営の手伝を半分に減らし、舞台から遠い末席とはいえ、客としてもてなしてくれたのは、一色たち生徒会の粋な計らいだった。

舞台袖に目をやると、インカムを付けた一色が細かい指示を飛ばしている姿が目に入った。海美たち文実メンバーと共に業務をこなす中で、どうやら彼女もメキメキと力をつけているようだ。

――戻って、やり直して…いろんなことが変わったな

そんな彼女の姿を見て、最後まで運営側にいたあの時のクリスマス会のことを思い出していた。

修学旅行の嘘告白に端を発した奉仕部の関係の変化。

結衣と雪乃の前で涙目になりながら、「それでも俺は本物が欲しい」と心の内をさらけ出したこと。

今思えば、俺も結衣も雪乃も、全員が純粋で繊細な青二才だった。

感情を廃して、言葉の裏を探り、心理を読む。俺は石橋を叩いて渡るように慎重に、2人と互いの距離を縮めていった。

そんな臆病なコミュニケーションこそが、大人の取るべき行動なのだと考えていた。

――誰かを大切に思うということは、その人を傷つける覚悟をするということだ。お互いがお互いのことを思うからこそ、手に入らないものもある

これはあの頃、様々な問題にぶち当たって行き詰った俺に対し、平塚先生が言った言葉だ。今なら痛いほどにこの言葉の意味が分かる。

しかし、意味が分かるだけで、未だにそれを実践出来ない自分は、果たして大人と呼べるのだろうか。

そんなことをボーっと考えていると、ふと一色と目が合った。

一色は俺に対し、遠目にウインクを送って来た。

――あん時、壊れかけた奉仕部の関係修復に協力してくれたのは、あのあざとい後輩だったな

それを思い出して、応えるように軽く右手を挙げて俺は表情を緩めた。

途端、左手の甲に痛みを感じて俺の意識は現実に引き戻された。

「今、誰に手を振ったの?」

結衣が膨れ顔で俺の手を抓りあげている。

そんな結衣の表情を見て、俺は彼女の頭を無性に撫でたい気持ちに駆られるが、雪乃と沙希が俺たちのやり取りに注目していることに気が付き、それを止める。

「よ、吉浜だ…」

「「「…」」」

俺の苦しすぎる言い逃れに対し、3人は無言で刺すような視線を向けた。

『お待たせいたしました。次はクリスマスケーキと小学生による聖歌隊パフォーマンスです』

会場にアナウンスが響き渡る。海美の声だった。

次の瞬間、広間にケーキを持ったちびっ子がなだれ込むように入ってきた。

沙希はその中から一人の少女を見つけると、カバンからカメラを取り出して写真撮影を開始する。

撮影対象は無論、沙希の妹、川崎京華だ。

「お~、けーちゃん。よく似合ってんじゃねーか。可愛いな」

「「「!?」」」

思わず呟いた俺に対し、またも3人が過剰反応を示す。

口には出さないが、視線がロリコンという単語を連呼している様だった。沙希に至っては、俺を見る目に半分殺意が混じっている。

「…あんた、うちの妹と面識あるの?」

そんな沙希のドスの効いた呟きに、この時代に戻ってからはこれが初対面であることに気が付く。

「お、お前と付き合ってたんだからあたりまえだろ」

俺はそう答えるのがやっとだった。

少女は奉仕部のテーブルにケーキを乗せながら、俺に質問した。

「…お兄ちゃん、誰?」

「はーちゃんだ。ケーキ、ありがとな」

「うん!」

川崎京華は嬉しそうな表情を浮かべて、広間から退出した。

「「「はーちゃん?」」」

残された俺たちが囲うテーブルに寒い空気が流れる。

「…だ、大学に上がる頃には俺に対して超そっけなくなるから心配すんな」

本日何度目かわからない不可抗力と呼ぶべき事故に、俺はまたも苦しい言い訳を口にした。

ケーキを運んでくれたちびっ子達が退場した瞬間、場内のライトが落ちる。

続けて、舞台にスポットライトが当てられると、鶴見達、小学生の聖歌隊がスタンバイしていた。皆一様に天使の衣装を着ている。

「OMG! Emily! (オーマイガッ!エミリー!)」

まだ合唱が始まってもいないのに、一人スタンディングオベーション状態のハイテンション中年外国人に会場の視線が集まり、場がどよめいた。

「…マーティンさん…そりゃ来てるよな」

俺の呟きに反応したその中年は、興奮した表情を俺に向けた。

目が合った瞬間、俺は黙っていれば良かったと後悔する。

「Hey Hachiman! Look at her ! She is an angel, isn't she !? (ハチマンじゃないか!彼女を見てくれ!まるで天使だ!そうだろ!?)」

俺の名前を口にして詰め寄る外国人の姿に、奉仕部女子3名は俯きながら、他人のふりを決め込み、恥ずかしさを堪え忍んでいた。

「ハハ…whatever」

俺は引き攣った笑みを浮かべて、今日一日の疲れを込めながらそう口にした。

☆ ☆ ☆  

クリスマス会終了後、俺は会場入口のホールでコーヒーを飲みながら3人を待っていた。

俺たち奉仕部はイベントの後片付けの手伝いを申し出た。片付けが概ね完了すると、3人は先に打上(エスコート)の準備をしろと言って俺を会場から追いやったのだ。

この後のプランには準備もクソもないのだが、なんだかんだ言いつつ彼女たちがイブの夜を楽しみにしていてくれたことが分かり、俺は少しだけ喜ばしい気分だった。

現在、3人は一色たちと最後の整理と記録作成を行っているところだ。

「よっ」

ふいに、会場から出てきた女子高生に声をかけられる。

「…さい…折本。お疲れ」

折本かおりも今回のイベントで海浜総合高校側から運営を手伝ったチームの一員だ。

迂闊にも再び斉藤と呼びかけたことを誤魔化しながら、俺は彼女の名を口にした。

「前にも言おうと思ってたんだけどさ、比企谷って、ほんと変わったよね」

折本は屈託のない笑みを浮かべながらそう言った。

「そうか?」

「普通に中学の時とは別人じゃん」

「まぁ人間年食えば、少しは変わるかもな」

「何それ、ウケる」

「ウケねぇから。若さって大事よ」

成人した後もあまり変わらなかった折本との会話パターン。

自然と俺も笑みを浮かべた。

「…昔は比企谷のこと超ツマンナイと思ってた。けど、人がつまんないのって、結構見る側が悪いのかもねー」

折本は少しだけ遠くを見るような仕草でそう言った。

「いや、んなこたぁねぇよ。実際俺は超ツマンナイ奴だったと思うぞ…ていうか、あん時は悪かったな」

「へ?何が?」

「いやその…まともに話してもないのにいきなり告白するとか、普通に考えりゃないわな」

そういえば、折本とはこの時代で再会した後も、さほど話をする機会がなかった。

俺は、斉藤姓となった彼女と再会し、ある時何気なく彼女と交わした大人同士の会話をなぞっていた。

奉仕部で過ごした高校生活が青春だったとすれば、折本に恋した中学生時代もまた、俺にとっての青春だったのかもしれない。いや、本当は消し去りたい黒歴史なのだから黒春と言った方がいいのかも知れないが。

「あはは、やっぱりフったの根に持ってるワケ?」

折本は一瞬だけ驚いたような表情を浮かべるも、笑いながらそう尋ねた。

「いや、そうじゃねぇよ。そりゃ恥ずかしい過去だから、思い出して身悶えることもあるけどな。今考えりゃ、玉砕覚悟の突発的告白ってのはあれだ…あわよくばって下心が丸見えで行動に誠意が伴ってない。ワンナイトスタンド誘うのとやってんのは同じレベルだ。女からすりゃ、安く見るなって思うんじゃねぇの?」

「ワンナイト…?」

「…ワンチャンってやつだ」

俺は、折本が理解しなかった単語を、敢えて自分があまり使い慣れない戸部語に翻訳して再度口にした。

「なんか意味深なのにシモイ…っていうか私のことそんな目で見てたわけ?比企谷キモ」

「"今思えば"って前置きをちゃんと踏まえろよ。セクハラするつもりで言った訳じゃないから」

白い歯を見せながらケタケタと笑ってそう言う折本に、俺は少しだけ慌てて言い訳しながら周りを見渡す。

幸い3人はまだこちらにはやってきていないようで、俺は安堵の溜息を漏らした。

学習しない俺も俺だが、万が一今のが彼女達に聞かれていたら、どうなっていたか分かったものではない。

「でもさ、中学生とか高校生の恋愛なんてそんなもんじゃない?イケメンに告られたら取り敢えず付き合っちゃう、みたいな」

「それ、暗に俺がイケメンじゃないって言ってるよね?」

「だよね。ウケる」

「確かに今のは少しウケた…けどまぁ、お前はたぶんそういう女とちょっと違うだろ?」

"折本かおり"のメンタリティは今一つ分からない。だが、"斉藤かおり"はお世辞にも見た目がカッコいいとは言えない旦那との惚気話を臆面もなくする女性だった。彼女は相手の見た目だけでパートナーを選ぶ様な女ではない。こいつに何度も旦那と撮ったツーショット写真を見せられたことを思い出しながら俺はそう言った。

「ん〜どうかな?」

「ま、とにかく俺は男女関係の作法って奴を知らないガキだったんだよ…だから昔のことは水に流してもらえりゃ助かる、って話だ」

「へぇ~男女関係の作法ね。それを身に付けたから、今はあんな可愛い子達を3人も振り回してるってわけ?」

「いや…そういうんじゃねぇけど…」

からかうようにそう言った折本に対し、俺は言葉を詰まらせる。

「それに、比企谷は一つ勘違いしてるけど、あの告白…あれはあれで実は結構嬉しかったかな」

「ハァ?何でだよ?」

突拍子もないことを言い出した折本に対し、呆れ顔で聞き返した。

「告られる回数って女子にとっては一応ステータスだし…ん〜、痴漢被害を自慢する心理?みたいな?」

「おいおい、中学生男子が勇気を振り絞った結果が痴漢扱いかよ。血も涙もねぇな」

「だね、ウケる」

前言と矛盾する様な自己肯定の発言を口にして俺は折本と笑い合った。

その最中、世間ではこういう腐れ縁を持つ相手も友人と呼ぶのだろうかとふと考える。

未来の世界で斉藤かおりは、当時俺と付合っていた結衣と仲良くなった。2人で俺をネタにして笑い、時に俺抜きで2人で出かける程に近しい間柄を構築した。

にも拘らず、不幸にして俺と結衣が別れた後、あいつは俺との腐れ縁を手元に残すことを選んだ。

俺はその取捨選択を以て、彼女を自分の友人と見做すような稚拙で穿った考えを有しているわけではない。ただ、結衣と斉藤かおりの友情も、俺とこいつの10代からの奇妙な縁の上に成り立っていたという点に気付かされたのだ。

言い換えれば、俺と斉藤かおりとの関係性には、新たな別の人間関係構築の土台となるに足る厚みが有ったということだ。その考えは、後に彼女が沙希と親交を深めた時に確信に変わった。

「おーい、ヒッキー!」

俺の思考は、会場から出てきた結衣たちの声で中断される。

どうやら3人は最後の片付けを済ませた様だ。

「ほら、呼んでるよ。比企谷を呼び止めてたのがバレたら、また拉致されちゃう」

折本はそう言いながら俺の背中をバンと叩いた。

「…お前、あいつらに何されたんだよ?」

「それは言えない…じゃ、またね!…メリークリスマス!」

「…おう」

友情、特に男女間のそれは、俺には未だによく分からない。だが、こいつが俺にとって気楽な付き合いの出来る、数少ない相手の一人であることは確かなのだろう。

雪ノ下建設絡みの調査で長く気を張ってきたが、今日は特別な日だ。

心に新たに余裕を与えてくれた折本に感謝しながら、俺は3人と合流した。

☆ ☆ ☆  

「うわぁ!」

「やっぱり東京の夜景ってすごいね」

「確かに…綺麗だわ」

東京タワー展望台。

一面に広がる都心の夜景を前に、三人は感嘆の声を漏らす。

クリスマス会の後、俺は3人を都内へと案内した。

選択肢としてはありきたりなデートコースであり、混雑も予想されたため、特に人混みが苦手な雪乃が若干気になったが、どうやら杞憂だったようだ。

内心、この選択はかなり不安だった。

俺のよく知る都内のワインバー、ジャズバーは飲酒不可のため除外。

クラシック鑑賞はクリスマス会の演目と重なるため不可。

ホテル…言うに及ばず。

大人としての経験に頼らないデートコース決めは新鮮ではあったが、やはりハードだった。

「…あの光の一つ一つがサラリーマンが現在進行形で身を削って働いてる証明…いわば社畜の命の灯だ。それが汚いわけないだろ。っていうか、汚いとか言われたら俺は泣く」

俺は東京の夜景が何故美しいのかを、3人に懇切丁寧に説明した。

「なんか色々台無しだ!?」

「少し黙っていてくれるかしら?前途ある私達に悪影響だわ」

自分の大切な何かを一蹴されてヘコタレそうになる。雪乃さんはひょっとして、

俺には前途がないと、そう言っているのだろうか?

「…アンタも大人なら、もう少し夢のある話をしたらどうなの?」

そんなやりとりを見ていた沙希が、諭すような口調で俺に言った。

「夢って言われてもな…俺が目を輝かせてそんなもん語ったら、お前ら引くだろ?」

「確かに、とても似合わないわね…でもそれは偏見よ。進路や将来…貴方でも若者に向けて語ることができるものがあるのではないの?」

「そうだよ!ヒッキーが何で金融の仕事してるか、とか…前に海美ちゃんのお兄さんと会った時に少しだけ言ってたかもだけど、あたし良く分からなかったし…ちゃんと知りたいし!」

「そりゃお前…」

「給料が良いから、とかは無しね」

俺が口にしようとした言葉は、沙希の先回りによって禁止された。

「…わぁったよ……その代わり、絶対笑うなよ!?」

俺の念押しに対し、3人は期待感のこもった視線で俺を見据えて頷いた。

俺は咳払いを一つして、窓の外の光景をもう一度目に入れる。それを見ながら思い浮かんだ自分の漠然とした職業観を言葉に転換しつつ口にした。

「…この夜景の輝きを支えてんのは、人間の経済活動だ。生産する側の人間も、消費する側の人間も、等しくこの光の一部なんだ。こういう人の営みが作る光を広げてくってのが投資のあるべき姿だと、俺は思う…」

茶々を入れてくることを予想していたが、3人は意外にも真剣に聞いている。

ここで話を切ろうと思っていたが、皆、続きを待つ様な表情を浮かべている。

俺は無理矢理言葉を捻り出すように話を続けた。

「俺は自分が光り輝けるような人間だとは思ってないし、そんな風になりたいとも思わない。そもそも、あまり目立ちたくないしな…だが、そういう眩い輝きを持ってる奴を支えてやる位はしてやってもいい…そう思ってる」

ハッとした表情を浮かべる雪乃と目が合う。

「世界を変えたい」そんな大それたことを口にする奴は往々にして、夢想家で終わらないための努力を厭わない。

劉さんしかり、武智社長しかり、雪乃しかり。

それを支える、というのはこの時代に戻ってすぐの頃に雪乃に伝えたことでもあった。

「…投資は多分それと同じだ。人間の経済活動の中で、輝くポテンシャルのある分野に、そのために必要な金を流す。そいつがより明るく輝けば世の中全体が更に照らされる」

弁舌を続けるうちに段々と饒舌になってくるのを感じた。

自分の思考が、感情の表層に近い部分から、より核心的な部分へと入り込んでいく。

「だから…俺は知りたいんだ…世の中を動かす仕組み…その根底にある人間の気持ちってやつを理解したい。知って安心したい。分からないってのはひどく恐ろしいことだから…」

完全に理解したいだなんて、ひどく独善的で、独裁的で、傲慢な願いだ。浅くておぞましい願望だろう。

自身の言葉と思考に既視感を覚えながら、俺は自分の掌を見つめた。

「…これまで、この手でいくつもディールをクローズさせてきた。そのいくつかは成功し、いくつかは失敗した。成功した案件は、当然高額な報酬を齎した…でも俺は経済的に成功したかったわけじゃない。投資の成功は俺が理解していたことの…いや、そうじゃないな……完全に理解できなくても、知ろうとして、判断したことが、少なくとも間違えじゃなかったことの証明なんだ。だからそれを必死になって集めた…そうしてるうちにこういう仕事に憑りつかれちまったんだ」

そう言いながら俺はその手をぐっと握りしめた。

顔をあげて三人に視線を移す。

「「「…」」」

呆けた表情で、終始無言を貫く彼女たちの姿を見て、俺は自分の言動を冷静に客観視しながら振り返る。

急速に顔が紅潮するような恥ずかしさを覚えた。

「こ、これ以上はもう無理だ!酒も入ってないのに何言わせてんだよ…」

俺は先ほどまでよりもやや大きめの声で早口にそう言い訳した。

「ヒ、ヒッキーっぽくていいんじゃないかな?ね?」

「そ、そうね。最初の下らない話に比べればまだマシかしら…」

結衣と雪乃は俺に気を使うようにそう口にした。だが二人とも視線を俺と合わせようとしない。

その気遣いが却って俺の羞恥心を煽る。

そんなやり取りを見ていた沙希が口を開いた。

「由比ヶ浜も雪ノ下も大概素直じゃないよね…あたしは見直したよ。やっぱり聞いても良くわかんなかったけど…それでも、比企谷を好きになって良かったって思った」

沙希は俺に柔らかい笑みを向けてそう言った。

俺は年甲斐もなくその言葉と表情に自分の心拍が高鳴るのを感じた。

「あ!ずるい!」

「…ここで足並みを乱すとはいい度胸ね」

「いいじゃん。クリスマスだし」

即座に抗議した2人を尻目に、沙希は少しだけ子供っぽい表情を浮かべてそう言った。

「…そろそろ行くか…腹減ってないか?この後の店も予約してあるんだが…」

「やった!」

俺が恥ずかしさを誤魔化すように口にした言葉に結衣が嬉しそうな反応を示すと、雪乃と沙希もフッと笑った。

「街の夜景も綺麗だけど、こっちも凄いね!」

展望台をエレベーターで下り、タワーを後にして数分歩いた後、結衣が後ろを振り返ってそんな声を上げた。雪乃も沙希も、口には出さないものの、夜の闇にぼんやりと輝く巨大な塔の姿に釘付けとなっていた。

クリスマス仕様のライトアップで色鮮やかな光を放つタワーの姿は、それを見る多くの人の心を惹きつけている。

――50年以上も前に竣工した錆び臭い鉄塔が、未だに人の心を奪う…か

そんな光景を目にして、俺は少しだけ捻くれた考えを頭に浮かべた。

「…あ、雪…」

不意に、沙希が空から降ってきた雪に気が付く。

「…ホワイトクリスマスね」

雪乃は舞い落ちてきた雪を手の平で受け止めながら、そう口にした。

目前の景色を前に、今彼女達3人が感じていること、考えていることは、ひょっとしたらそれぞれ違うのかもしれない。

いや、そもそも違う人間が、物事を同じように感じることなど、永遠にないのかもしれない。

――それでも…それでも俺は…

叶うならば、彼女達とずっと、同じ景色を眺めていたい。

そんな望みを胸に抱きながら、俺は3人の姿を自分の目に焼き付けていた。



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33. 比企谷八幡はこうして新年を迎える

12月31日

雪の降る厳冬の晩

俺たち奉仕部員は平塚先生の住まうマンションで忘年会の準備に勤しんでいた。

その狭い部屋には醤油の甘辛い香りが充満している。

俺はカセットコンロを箱から取り出してテーブルの上にセットしながらリビングのソファーへと目をやった。そこにはスヤスヤと寝息を立てて眠る雪乃の姿があった。

――ったく、何で俺達が?っつーか普段から掃除しとけよ

そんな愚痴をこぼしながら、昼から取り掛かった恩師の部屋の年末大掃除。

そこで中心的に活躍した雪乃は、元より少ない体力を使い果たしたのか、夕方にはグロッキー状態だった。目覚める頃には復活していて欲しいものだ。

「比企谷、大方の準備はできたよ…後は待つだけだね」

キッチンから沙希が食材がみっちり詰まった鉄鍋を抱えてリビングへとやってきた。

すき焼きの具は既に半分火が通った状態だ。後は皆が鍋を囲んで再び火入れをすれば、直ぐにでも食べられる。

忘年会といえばすき焼き…というのは平塚先生の弁だが、当の本人は、準備を俺たちに任せて、他の客人を迎えに外出中である。

「早ぇな。流石の手際だ」

俺は鍋を置くコンロのつまみを何度か捻りながら、そう口にする。

コンロはカチャカチャと音を立て、着火用の青い火花が一瞬らすが、火はつかない。どうやらガス欠のようだ。

「まだ今晩の準備だけだよ。新年の御節はまだ半分ってとこ」

沙希は鉄鍋を俺に手渡しながらそう言った。

パーティの準備と同時進行で新年の用意まで進めていたとは、本当に恐れ入る。

だらしない平塚先生のためにここまでするくらいだ。沙希は本当に良い嫁さんになるだろう。先生が独身を拗らせ過ぎて沙希に目を付けないよう、俺は警戒する必要があるかもしれない。男らしさで俺が平塚先生に勝てる要素はまるで見当たらないのだ。万が一寝取られれば、俺は手も足も出ないだろう。

「サキサキ〜、この昆布の紐は全部解くんだっけ?」

そんなアホなことを考えていると、不意にキッチンの奥から結衣の声が飛んでくる。

沙希はその声を聞き、頭痛を我慢するような表情を浮かべて深いため息を吐いた。

結衣は沙希の手伝いをしながら料理を学びたいと張り切っていたが、この質問だけで沙希の苦労が手に取るように伝わってきた。結衣は恐らく今、昆布巻きのカンピョウを全力で取り外しにかかっている。

俺は沙希と見合って苦笑を浮かべてから、キッチンに届く声で結衣に話しかけた。

「あ~由比ヶ浜、カセットコンロのガスが切れてるんだ。今ちょっと手が離せないから、悪いけど平塚先生にガス缶買ってきてもらえるか、電話で聞いてくれないか?」

「オッケー!」

結衣は俺の頼みを快諾すると、パタパタと足音を立ててリビングへやってくる。

カバンから携帯を取り出して登録された先生の番号に電話を掛け始めた。

「…助かったよ。そろそろ雪ノ下に指導役を代わってもらおっかな」

沙希は結衣に聞こえないよう小声で俺に礼を述べつつ、寝息を立てる雪乃へと目をやった。

「掃除以上に体力削られそうだけどな」

俺はそんなたわいもないやり取りが生まれたこの4人だけの空間に幸福を感じた。だが、それを自覚した瞬間、同時に切なさに胸を焼くような感覚に襲われた。

時間は常に未来へと向かい流れ続けている。奇しくも2度目の人生を歩んでいる俺にとってもそれは同様であり、自分が五感を以って体験した一瞬一瞬の出来事を完全に再現することなど、逆立ちしても不可能だ。

仮に、録画された映像の様に自ら過ごした時間の好きな部分だけを切り取って、何度も繰り返すことが出来たならば。こんな4人だけの時間を全部集めて、永遠に閉じ込めてしまいたい。相変わらずそんな非現実的な願望を胸に抱き続けている自分に嫌悪感を覚える。

「はい。はい。分かりました。じゃぁ、お願いしまーす……先生、コンビニで買って来てくれるって。もうマンションの側まで来てるみたい。あと10分で来るって言ってたよ」

通話を終了した結衣の報告に、俺の意識は現実に引き戻された。

「お客さんも一緒か?」

「…うん」

意図せず発せられた低めの声。

俺の質問に対し、結衣も少しだけ表情を硬くして肯定の返事を返した。

お客さんとは、宮田さん、槇村さんの2人に、雪ノ下陽乃を加えた3人のことである。

俺の過去と未来の人間関係を交差させたようなこの組み合わせが意味することは一つ。

雪ノ下建設に関する情報共有と方針策定の会議。

忘年会と銘打ったこの今晩の会合で、それを実行に移すということである。

☆ ☆ ☆ 

「遅くなって済まないな…おお、いい匂いじゃないか」

「あ、ひょっとしてすき焼き?静ちゃん分かってんじゃん!」

「お邪魔します。頑張って仕事を片付けてきた甲斐が有ったな、宮田」

「…お邪魔します。比企谷は来てるのか?」

きっかり10分後にやって来た4人はそれぞれそんなことを口にしながら家に上がり込む。

ワンルームマンションにこの人数はやや手狭な感が否めないが、平塚先生は元々あまり家具を置かない性分なのか、窮屈に感じる程ではなかった。

はたと、昔先生がどうしようもないヒモ男に家具を根こそぎ持ってかれたというような話を口にしていたような気もするが、それは忘れてやるのが優しさというものだろう。

「姉さん…それにそちらは…比企谷君の血縁の方かしら?」

ドアが開く音で目を覚ました雪乃が、まだ若干眠たそうな目を擦りながら、そう口にした。

既に面識がある結衣と沙希は、俺の背中に半分隠れながら二人に会釈している。

「君の妹さんか?…どいつもこいつも同じことを…比企谷と平塚さんの知り合いの宮田だ。比企谷とは赤の他人だ。よろしく頼む」

宮田さんはウンザリした顔で陽乃さんに尋ねた後、雪乃にそう挨拶した。

陽乃さんは宮田さんの横で苦笑いを浮かべている。きっと道中で彼女も同じ質問をしたのではないだろうか。

目つき以外一切似てないのに、何故皆がそこに反応するのかは謎である。その理屈だと目が綺麗な小町は、俺の他人ってことになっちゃうじゃねーか。

「もう兄弟ってことでいいんじゃね?捻くれ者同士だし…しかし、雪ノ下家はやっぱ姉妹揃ってベッピンだな。こりゃ比企谷も必死になるわけだ。あ、俺は宮田の同僚の槇村な」

普段通りの槇村さんの軽薄な挨拶に、結衣と沙希がムッとなった。

「…年末の貴重な休みに、千葉まで来てもらってすみません」

俺は背中に嫌な汗をかきながら、社交辞令の挨拶を口にした。

「今日は大事な話がある…と言っていたわね。姉さんはさて置き、学校の部外者まで集めて、どういうことかしら?それに、その様子だと由比ヶ浜さんと川崎さんはお二人と既に知り合いの様だけれど?」

雪乃は怪訝な表情を浮かべて小声で俺たちに尋ねた。

結衣と沙希は、気まずそうな表情を浮かべて頷いている。

「それは比企谷君が説明してくれるよ…でも雪乃ちゃん、今日はちょっと覚悟しといてね」

雪ノ下陽乃は普段のヘラヘラした表情を一瞬だけ素に戻してそう言った。

その言葉の通り、今日はこの密室で雪ノ下建設の不正にかかる情報共有と、今後の対策を検討することを目的に集まってもらったのだ。

やむを得なかった事とは言え、当事者たる雪乃本人を、これまでずっと蚊帳の外に置いていたのは事実だ。この件は慎重に切り出さねばなるまい。

「…覚悟……そう。私達の実家の事ね」

「なかなか聡明じゃないか。話が早いのは助かる」

雪乃の呟きに対し、宮田さんは感心したような声を漏らした。

「…以前、比企谷君から少しだけ聞いていたので」

雪乃は表情を伺う様に俺の顔をじっと眺めた後、小声でそう答えた。

将来、自身が親の都合で嫁がされる可能性があること。それはあの夏の日に俺が彼女に話したことだった。

だが俺は、雪ノ下建設の不正に関する具体的な話はまだ何もしていない。

そして今現在、彼女ではなく彼女の姉が、望まぬ結婚を強いられそうになっていることも伝えてはいなかった。

それを知ったら雪乃はどんな反応をするのだろうか。

彼女がショックを受けるかもしれない。その姿を想像すると俺の心はズキリと痛んだ。

☆ ☆ ☆ 

2時間後

既に空になった鉄鍋を囲う様に、全員が輪になって座っている。

難しいことは一先ず忘れて腹ごしらえをしよう、という平塚先生の男らしい提案で皆が一斉に手を付けたすき焼きは、あっという間に無くなってしまった。

成人組は酒を煽り始めており、下らない話で何やら盛り上がっている様子だ。

一方、俺たち現役奉仕部員は、不思議と一人飄々としている雪乃を除き、半分お通夜ムードだった。結衣も沙希も、雪乃に内緒で村瀬の尾行に参加し、実家の不正の話を聞きかじってしまったことに罪悪感を感じているようだ。

そのせいか、高額納税者二人が手土産として持ってきた高級牛肉は、俺達三人の喉を殆ど通らなかった。

そろそろ問題に着手すべき頃合いだろう。

俺は意を決して雪乃に話しかけた。

「雪ノ下、色々と遅くなって悪かった…出来ればお前に負担を掛けずに全部解決したかったんだが…どうやらそう都合良くはいかなそうでな…だから今日、関係者に集まってもらった」

「そう…そんなにビクビクしなくても、別に怒っていないから安心なさい」

――へ?

一つ一つ言葉を選ぶように口にした俺に対し、雪乃の反応はあまりにも意外だった。

結衣も沙希も、目をパチクリさせている。

「以前、貴方が雪ノ下建設でバイトを始めた頃、電話で話したじゃない。貴方に任せると言ったのは私よ。それに…何か不味い事が起こったとしても、比企谷君がその責任を全て被るのであれば、私としてはむしろ好都合よ」

「「なっ!?」」

長い黒髪をフサッとかき分けながら、しれっと雪乃が口にした言葉に、結衣と沙希は両目を目をひん剥く様な表情で反応した。

雪乃は勝ち誇った様な顔で二人を…特に沙希の方を見ている。クリスマスで"足並みを乱した"ことへの報復であると言わんばかりだ。

「あっれ~、雪乃ちゃん、やるぅ!」

傍で様子を眺めていた陽乃さんが囃し立てると、結衣と沙希が更に不機嫌な表情を浮かべた。

「比企谷、貴様~!」

更に一連のやり取りを目にした恩師が、突然俺に向かってがなり立てた。

身に覚えのない不純異性交遊を咎める様な先生のその反応に、俺はケツの座りの悪さを覚え、言葉を詰まらせる。

「…おい宮田。コンプラの厳しい金融業界に一番入れちゃいけない人種は何だと思う?」

「決まってるだろ…下半身のユルイ奴だ」

とどめとばかりに、俺の上司二名が危険球を全力で投げ込んできた。

「そんな関係じゃないっすから!マジ止めてください!ってか、今思いっきりセクハラかましてんのアンタたちだろ!?女子高生の前で何口にしちゃってんすか!」

俺は久々に声を張り上げて二人に抗議した。

下半身がユルイとか、宮田さんはともかく、槇村さんには死んでも言われたくない。アジア出張の時に、どんだけシモの世話をしてやったと思ってんだよ。

「…返してよ」

不意に結衣が俯きながらボソボソと喋り出した。

皆の視線が彼女に集まるが、誰もその表情を確認することができない。

その場の雰囲気が緊張感に包まれる。

ごくり、と誰かが喉を鳴らした。

「…お肉!喉通らないくらい緊張してたのに!返して!」

クワッ、という擬音がピッタリな勢いで結衣は顔を上げると、雪乃の肩を両手で掴んでユッサユッサと揺らし始めた。慣性の法則に従い頭だけをカクカクと前後させながらも、涼しげな表情だけは崩さない雪乃の姿は、どこかシュールだった。

「…アタシも今更になってお腹空いてきた」

「…右に同じ」

俺は沙希のボヤキに同調した。

☆ ☆ ☆

「…冗談はさておき、そろそろ話を始めよう。まず改めて自己紹介するが、僕と槇村は都内の投資銀行勤務の人間だ。比企谷とは、総武光学のディールをウチのファンド運用部門に紹介したのをきっかけに知り合った。雪ノ下の妹さんの方は、その時の来客リストで名前だけは聞いていたが、会うのは今日が初めてだな?」

宮田さんが場を仕切り直すように、雪乃と陽乃さんに対して、今更ながらの自己紹介を始めた。話しかけられた2人は無言でペコリと頭を下げる。こういう何気無い仕草が重なる瞬間、この2人が姉妹であることを改めて実感する。

「そうそう。それから総武高校の文化祭の紹介ビデオも見たぜ。比企谷と部活やってんだろ?ご奉仕倶楽部、だっけか?文化祭でやらかした比企谷を、平塚さんと一緒に説教したのも俺たちな…コイツ、引っ叩かれて超凹んでたぞ。ありゃ傑作だった」

槇村さんが要らぬ茶々を入れると、奉仕部の女子3人が顔を赤くして俯いた。特に雪乃は真っ赤だ。その反応に雪ノ下姉は、実に愉快そうな笑みを浮かべている。

それより、ご奉仕倶楽部ってなんだよ。風俗店じゃねぇんだぞ。槇村さんの相変わらずのオヤジセンスに俺は辟易した。

「槇村、いきなり脱線させてどうする…これまでの調査で、うちの会社の一部の連中が、雪ノ下建設を利用して不正を働いている可能性が極めて高いことが分かっている。その件については社に代わって2人に謝罪させてもらいたい」

宮田さんがそう言うと、槇村さんも姿勢を正し、真剣な表情を浮かべて、雪ノ下姉妹に向けて深く頭を下げた。

雪ノ下姉妹は、成人男性2人のその対応に少しだけ驚いた様な表情を浮かべた。

「…頭を上げてください。その人達の協力を仰いで不法行為に手を染めているのは私達の両親も同じなんです」

陽乃さんは、彼女に似つかわしくない敬語でそう言った。考えてみれば、俺はこの人が敬語を口にするのを俺は初めて目にする気がする。

「…不法行為って?」

雪乃は小声で俺に尋ねた。表情を崩さない雪乃だが、先程と変わって彼女の瞳には不安の色が灯っているのを俺は見落とさなかった。俺はこの段階に至ってもなお、それを雪乃に説明することに戸惑いを覚えたが、意を決して口を開いた。

「…談合だ。雪ノ下建設は公共事業入札で不法に案件を落札してる。その決定的な証拠を、雪ノ下さんが抑えた。俺も雪ノ下建設の社員から情報を裏取りして、案件の詳細まで掴んでる」

「……そう」

少々の沈黙の後、雪乃は残念そうに一言だけ呟いた。そんな彼女の姿を目の当たりにして、結衣、沙希は悲痛な表情を浮かべる。雪ノ下家の無実を望んでいた平塚先生は、悔しそうに唇を噛み締めていた。

「…公共事業落札の見返りに、雪ノ下建設はその談合を仕組んだ人物に金を流している可能性が高い。雪ノ下建設は企業買収を進め、複数の子会社への証券譲渡を通じて海外に資金をプールしているんだが…それは恐らくそのためのマネロンスキームだ。そして、その不自然な企業買収提案をしているのが、うちの投資銀行の人間、という訳だ」

宮田さんは俺の言葉に付け加える様にそう説明した。

俺は話の続きをするに当たって、陽乃さんをちらりと見た。彼女は、一瞬だけ困った様な笑みを浮かべつつも、仕方ないと言わんばかりに軽く頷いた。それを見て、恐らく雪乃にとって最もショックであろう話を切り出す。

「…その談合を仕組んだ人物の目星が付いたのがつい先日の話だ。冨山っていう道路族議員の男…そして、お前の両親は今、その議員の息子と雪ノ下さんの縁談を進めようとしている。さらに言うとその縁談を仲介しているのは、これまた件の投資銀行の人間だ」

「「「え!?」」」

俺の言葉に対して、平塚先生、結衣、沙希は驚きの声を上げた。これは彼女達にとっても初耳となる話だ。

雪乃は半ば呆けた様な表情で実の姉を見ていたが、当の陽乃さんが浮かべる強がりの作り笑いに気がつくと、俺の方を向き直した。

「…どうして姉さんが?」

雪乃の質問に込められた意味を知るのは、奉仕部の人間だけだろう。

結婚を強制されるのは自分ではなかったのか。その疑問に対して与えることの出来る解答を俺はまだ持ち合わせていない。

首を横に振ると、彼女はその意味を理解し、下を向いて考え込んだ。

「…俺からも補足させてもらうが、さっきから話に出てる投資銀行の人間ってのは、俺の上司の市川って野郎と、その配下の村瀬って男だ。冨山と市川は、どうやら過去にMBAの海外留学中に知り合った仲らしい」

槇村さんは、ここ数日間で調べてくれた新たな内部情報をこの場で共有した。

「留学ですか?」

「ああ。年齢は冨山の方が一回り上だが、官僚時代に国費留学で渡米した冨山の面倒を現地で見てやったのがキッカケだそうだ。帰国後も度々会ってるみたいでな。調べるとその殆どが営業経費での接待だったよ」

槇村さんは吐き捨てるようにそう言った。

「私の縁談も、その市川さん経由で打診されたんですよね〜。2人の談合への関与は最早疑いの余地がないと思う。でも…」

「雪ノ下建設から2人への最終的な資金の流れまでは掴めていないのが今の問題…ということかしら」

しばらく沈黙していた雪乃は、姉の言葉を遮る様に、俺たちの調査がどこで行き詰っているのかを言い当ててみせた。雪乃の頭のキレの良さに、彼女の姉を除く皆が舌を巻いた。

その指摘通り、雪ノ下建設が海外に流した証券を、どのタイミングで換金して、どの様に市川または冨山の口座に入金しているのかは謎のままだ。逆に言えば、これさえ分かれば、この一連の不正問題の全容が明らかになる。

「…冨山の黒い噂は業界じゃ有名らしい。だが、談合への関与や不正献金の決定的な証拠は検察でも掴み切れていないらしい」

槇村さんは少し間を置いて、話を再開した。

「検察…君達金融マンはそんな繋がりも持っているのか?」

平塚先生は若干驚いたような表情を浮かべて、槇村さんと宮田さんに尋ねた。

「こう見えても俺は一応法学部出身っすから。そういう道に進んだ同期はむしろ多いんです…他にも、官僚、警察、政治家…市川の野郎が持ってるような横の繋がりは一応俺にもあってね。ま、世代は一回り下ですけど……お前達も同級生との繋がりは大事にしとけよ」

平塚先生の問いに答えつつ、槇村さんは俺たち未成年組を見据えてそう言った。

「…だそうよ、比企谷君に川崎さん?」

「自分だけ棚上げするのって逆に虚しくならない?」

咄嗟に俺と沙希を見据え、涼しい顔で口にした雪乃に対し、沙希が目を細めて言い返す。

「…揉めるな。大丈夫だ。俺達の世代にはエース由比ヶ浜がいる」

「なんか他力本願だ!?」

これ以上ない安心材料を提供しつつ二人の言い合いを諌めた俺を、驚きの目で見ながら結衣が声を上げた。

「…他力本願でも金融業界には就職出来る」

「本職の人まで肯定しちゃった!?」

そのやり取りを見ていた宮田さんが言い辛そうに呟いたのに対し、結衣は再び全力でツッコミを入れる。結衣の奴、今日はいつになく冴えてやがる。頼もしい限りだ。

「ハァ…集団漫才をやっている場合じゃないだろう…検察の調査情報は把握できるのだろうか?」

深めの溜息を吐いた後、平塚先生が仕切り直した。

「こぼれ話程度に、ですね…あっちも組織だから、いくら同期でもそう簡単には情報は出しちゃくれない。だが、冨山の調査については検察も長いこと躍起になってるのは確かだ。逆に言えば、そのスキームの謎が解けないから、未だに検挙できずにいるってことだろう」

「…となると、課題は二つだな」

「2つ?…一つは資金の最後の流れをつかむこと、ですよね?もう一つは?」

「無論、君達姉妹の今後のことだよ」

雪乃が口にした疑問に対し、平塚先生は優しくも、憂いを含む声でそう言った。

雪ノ下建設、投資銀行、国会議員の不正を暴くこと。それは同時に二人の生活基盤の崩壊に繋がる。当然これは、今の生活だけでなく、二人の将来も含めたことだ。現在高校生の雪乃は言うまでもなく、姉の雪ノ下陽乃も本来であれば数年後に就職を控えた学生であることには変わりない。実家の建設会社が談合に関与していたとなれば、二人の社会的信用に与えるダメージは計り知れない。

「…あれから私も色々と考えたんだ。雪ノ下…今後この不正が発覚した後も、君が無事に卒業するための特別カリキュラムの準備も進めている。異例な扱いになるが、何としても職員会で議案を通すつもりだ。経済的な面についても、君たち二人が大学を出るまで、この部屋に住んでもらっても構わないと考えている……だが」

平塚先生は教師として出来る最善の提案をしつつも、最後は言葉にするのを躊躇った。

「…その後、か。実家の不正が明るみに出れば、本人に非はなくとも、望む職業には付けない可能性がある。なまじ君たち二人は有能な分、これは社会的な損失だな」

先生の言葉を補うように、宮田さんが忌々しげに口にした。

「静ちゃん、やっさしぃ~!…でも、大丈夫だよ。それについては私にも考えがあるから。皆に協力してもらうのが前提になっちゃうけど」

「考えとは?」

今度は雪乃が陽乃さんに尋ねた。

「うん…これ見てもらった方が早いかも」

そう言って、雪ノ下陽乃は自分のカバンからノートPCを取り出した。

――地方建設会社の闇、道路族議員と巨大投資銀行の深謀

立ち上げられたPCの画面に映し出されたドキュメントファイルにはセンセーショナルなタイトルが銘打たれていた。

本文には、筆者である雪ノ下陽乃が実家の建設会社の談合の証拠を偶然手にしたこと、同時期に両親から結婚を強要されたこと、調査により一連の談合のスキームを暴いた事が、未完成ながらもドラマチックな文章に仕立てられていた。

「…なるほど。よく考えてるじゃねぇか。若い女だてら胆まで座ってやがる」

それを目にした槇村さんがそう褒めた。

「申し訳ないんだけど、この不正は私達姉妹の手で公にしたいんです。資金の流れを明かした時に、これを新聞・雑誌・メディア各社に投書します」

雪ノ下陽乃は、槇村さんの言葉にニヤリと笑みを浮かべてそう言った。

彼女の計画、それは内部告発だった。

不正の当事者たる雪ノ下建設の息女による不正の暴露。建設会社の談合参加、議員の汚職、大手金融機関の関与、そして彼らが仕組んだ政略結婚。これだけのネタが詰まった事件であれば、メディアは挙って飛びつくだろう。

彼女達が自らの手でそれらを公開すれば、世間は彼女達を犯罪者の娘としてではなく、勇気ある女性として取り上げることは間違いない。

「…であれば、猶更事件の解明を急ぐ必要があるな。検察とのスピード勝負、ということにもなる」

宮田さんの言う通り、この告発は、検察によって富山や市川が検挙された後では手遅れだ。

俺の知る未来では奴らが検挙され、雪ノ下建設の不正が明るみに出たというニュースが世に出ることは無かった。だが同時に、俺たちが雪ノ下陽乃まで巻き込んだ談合の調査を進めたという事実も存在しなかった。これまでの歴史改変がどう影響するかは一切不明である。

となればやはり、自分達の手によるスキーム解明を急ぐのが吉だろう。

「…急ぐんなら、あの村瀬って人を問い詰めればいいんじゃないんですか?」

「そっか!」

話を聞いていた沙希が遠慮がちに呟くと、結衣がそれに同意した。

「それは最後の手段だ。可能であれば雪ノ下姉妹が内部告発した後に、奴に一切を自供させ、冨山と市川の検挙に繋げるのが一番いいだろう。決定的な証拠を掴む前に下手に動けば市川に警戒される可能性がある…奴が香港に異動する2月が調査のデッドライン、ということになるが」

宮田さんは沙希と結衣を見ながら丁寧に説明した。二人はそれに納得の表情を浮かべる。

だが、いずれにせよあまり時間が無いことだけは確かだ。俺がそれを再認識すると、場が再び緊張感に包まれるのを感じた。

「…ま、雪ノ下建設側の内部調査の方は私と比企谷君で何とかするしかないかな。比企谷君、改めてよろしくね」

「そりゃ…もちろん」

雪ノ下陽乃はいつものおどけるような口調で俺に会話を振る。

そして俺の返答を殆ど待たず、今度は雪乃を見て口を開いた。

「それから雪乃ちゃん、お姉ちゃん、年明けから雪乃ちゃんのマンションに引越すから、部屋空けといてね?」

「…は?」

突拍子もない姉の提案に、雪乃は呆けた顔で聞き返した。

「我儘言わないの。どの道コトが露見したら、今のマンションは引払って、一緒に暮らすことになるんだから。静ちゃんはああ言ってくれたけど、まさか本気で迷惑かけるつもりじゃないよね?」

「私は構わんぞ」

「…ダメだよ。雪乃ちゃんの大学の学費は私が何とかするから、雪乃ちゃんが家事全般担、よろしくね」

冗談めかした口調ながらも、雪ノ下陽乃の言葉には姉としての強い意志が伺われた。

就職を前に、自身と妹の二人分の学費、生活費を工面する重圧はどれ程のものだろうか。俺には想像もつかない。

「私は姉さんに借りは――」

「本当なら留学したり、別の地方に行ったり、色々な選択肢があったとは思うんだけど…ごめんね」

雪ノ下陽乃は、雪乃の言葉を遮るようにそう言った。

だが、先程と違いその声は擦れそうな程、力の籠らないものだった。雪乃は言いかけた言葉を飲み込み、口を噤むと、自身の姉を複雑な感情が入り混じった瞳で見つめた。

「雪ノ下…」「ゆきのん…」

沙希と結衣はそのやり取りを見て、再びいたたまれない表情を浮かべる。

この場にいる誰もが言葉を発せられない。そんな重く苦しい雰囲気が、姉妹を取り巻く環境の理不尽さを物語っている様だ。

――切札はいざって時まで取っておくのが定石だが…こいつらにこんな思いをさせたままにするよりはマシか

彼女達のやり取りを見て、俺は自分の持つ有力な手札をこの場で共有することを決意した。

「…あの…盛り上がってるところ申し訳ないんですが、雪ノ下の個人資産なら多分留学も余裕ですよ。むしろ雪ノ下さんの当面の生活も面倒見れるくらいかと…」

「「「「「「「……は?」」」」」」」

その場に醸成された悲壮な雰囲気をぶち壊しにするような発言を放り込むと、全員の視線が一斉に俺に集まった。

槇村さんや宮田さんまで不可解な目で俺を見ている。

やっぱり後でこっそり雪乃だけに教えてやれば良かったかもしれない。

そんな若干の後悔に、俺は後頭部をポリポリと掻きながら、携帯のニュース配信画面をテーブルの上に置いた。

――総武光学、翌年上場か 推定時価総額100億円越! 地方ベンチャー企業の大躍進

画面にはそんな文字が躍るように並んでいる。

これはつい先程、俺の携帯に自動配信された金融市場の観測記事だった。

「いや…ホントすいません。雪ノ下と由比ヶ浜、それから川崎…の弟、その3人は俺が運用する個人ファンドに出資してまして…」

「ハハ!このガキ…俺達を利用して、本当にボロ儲けしやがった!」

槇村さんはニュースタイトルに目を通した直後、驚嘆の目で俺を見ながら嬉しそうに声を上げた。

「IPOの噂は耳にはしてはいたが…お前、周りの人間にも出資させてたのか?」

「まぁ…流石に今の運用体制じゃこんな大金は配当できないんで、近々自分のファンドは法人化する予定ですけど」

宮田さんの質問に対し、俺は若干言葉を濁しながらそう答えた。

元々、小遣い稼ぎを目的に始めた株式投資だったため、借名取引のリスクには目を瞑り、儲けた金は適当にキャッシュアウトして皆に分配するつもりだった。

しかし、総武光学の上場へ向けたプロセスが最近急加速したため、俺はここ数か月間、ファンド運用が不正と見做されないよう、雪ノ下建設の調査の合間を縫って、正式な法人登録にかかる手続きをシコシコと進めていたのだ。

――俺も自主休校だ。総武光学の上場へ向けたリサーチをしてた。学校への連絡は川崎と同じで体調不良だけどな

村瀬の尾行に参加した日も、俺は夜間に各種手続きの調査とドキュメンテーションに勤しんでいた。

あの日、雪乃に対して言った学校欠席の言い訳。その半分は事実である。

元々俺が保有していた総武光学の株式は5%だ。VCファンドからの出資は武智社長の一部保有株譲渡という形で行われたため、この比率は変わっていない。今後、IPOの第三者割当増資で持分が希薄化したとしても、資産価値は億単位だ。当然、既往株主には一定期間のロックアップ期間が設けられるため、直ちに株を売却して現金化できる訳ではないが、総武光学以外の上場株運用でもそれなりにリターンは上がっている。法人化すれば株を担保に金も借りることができるため、贅沢を望まなければ資金の流動性には何の問題はないはずだ。

「…ちなみに、ゆきのんのお金ってどの位になるの?」

結衣は若干申し訳なさそうにそう尋ねた。

「あの時俺たちの持分を計算しただろ?由比ヶ浜も雪ノ下と同額を俺に預けたから、お前達二人が各15/90、川崎が20/90、俺が40/90だ」

あの時、というのはファンド運用の一部資金を沙希の学資に当てると決めた時のことだ。

俺の言葉通り、結衣は”自分も仲間に入れて欲しい”という理由で、なけなしの小遣いの中から現金を俺に預けていた。

「…記事通り時価総額100億円越えなら…総武光学への出資が5%だから…私の持分だけでも8千万近くに…ごめんなさい。頭が痛くなってきたわ」

「そ、そっか~8千円か!す、すごいね、ヒッキー!…あたしもゆきのんと同じ金額なんだ。サブレに新しい服買ってあげようかな…」

「8千"万"だぞ、由比ヶ浜ちゃん。しっかりしろ。何着服買う気だ?」

気が遠くなりそうな表情で言葉を発した結衣に対し、槇村さんが笑いながら突っ込みを入れる。実際には税金でがっぽり持って行かれるから、半分も残れば良い方なのだが、あえてそれは口にするのは野暮というものだろう。

「あ、あのさ。何の話をしてるのか良く分からないんだけど…大志が出資してるってどういうこと?」

唐突に一般人には実感の湧かない単位の金の話を始めた俺達に対し、沙希は説明を求めた。

「あいつ、まだ話してなかったのか…お前が深夜バイトしてた時に大志が俺達に相談を持ちかけたのは知ってるな?そん時に、お前の大学の学費を工面するためにアイツも俺に金を預けたんだよ。だから言ってみりゃ、これはお前の金でもある」

「は?」

「正確には俺個人から20万借りて、俺のファンドに20万出資したんだ。返済分を差っ引くと、100億の5%に20/90を掛けて、そこからマイナス20万で…すまん、いくらだ?」

「…1億1千とんで91万円よ」

雪乃の補足に対し、沙希は体を硬直させた。

「総武光学というのは、アレか?1学期の最後にあった会社見学の…そういえば比企谷に会うために学校まで社長が訪ねてきたな…文化祭の件と言い、学校行事をことごとく金儲けの材料にして、しかも今度は億単位だと?…これは叱るべきなのか?…自分が培ってきた教育理念が崩壊しそうだ…私も預ければ良かった…」

今度は平塚先生が目を濁らせてブツブツと呟いている。

その横で、雪ノ下陽乃は先ほどのPCで作成した告発文を、これ見よがしにカチャカチャと音を立てて修正し始めた。

「えっと、タイトルは…”驚愕の高校生トレーダー、恐るべき金融犯罪の手口” で、いいのかな」

「いや、金融犯罪って…俺は違法なことは何も…」

「…借名取引なんじゃないのか?」

あばばばば。

思わずそんな言葉を口にしかけるほど、俺は宮田さんの呟きに動揺した。

大袈裟だが、行為だけを客観的に見れば、俺は最愛の女性3人を言いくるめて罠に嵌め、金融犯罪者(脱税犯)に仕立て上げた男、と見做されてもおかしくはない。対応が後手に回ったのは明らかに失策である。

幸い、宮田さんと槇村さんを除く女性陣はその辺のマニアックな事情はよく解っていないようだ。仮に知られれば、雪ノ下建設を弾劾する前に、俺が平塚先生と雪ノ下陽乃に抹殺される可能性がある。

「…ちゃんと正式な手続きを踏んで納税させろよ」

「も、もちろん。そのための法人化です…」

元上司の忠告に対し、俺は冷や汗をかきながら返答した。

 

☆ ☆ ☆

 

年明け

1月3日午前

俺達は雪乃のマンションで陽乃さんの私物の運び入れを手伝わされていた。

あの忘年会の話合いの中、雪ノ下姉妹の今後の身の振り方については一先ずの解決が出来た。俺達は、引き続き市川と冨山への金の流れを探ることで合意し、その場は解散となった。

あの晩、雪ノ下さんが雪乃を思いやる気持ちの一端が垣間見え、2人の間のわだかまりが多少なりとも解消されたのは幸いだった。総武光学の上場が実現すれば、経済的な制約も受けずに済む。だが、彼女達が今後、共に実家から独立して生活することは変わらない。であるのなら、姉妹の共同生活に早めに慣れるのは悪いことではないだろう。そんな周囲の説得に、雪乃は素直に応じることを選んだ。

――にしても、荷物多過ぎだろ?段ボール何箱あんの?

俺は雪ノ下陽乃に頼まれた通り、彼女が指定した箱の開封と内容整理を行っていた。

カッターナイフで箱に貼られたガムテープを切っては中身を取り出す作業の繰り返しに辟易とする。雪乃も、いずれ引っ越すのであれば荷は少なくすべきだと主張したが、姉の”ヤダ”の一言を覆すことが出来ずに、頭を抱えていた。俺同様、手伝いに駆り出された沙希と結衣もウンザリした表情を浮かべていた。

「比企谷く〜ん、その箱の中身出して、こっちに持ってきて〜!」

「ハイハイ」

満面の笑みで指示する彼女に生返事した後、俺は彼女指定の箱を開封し、中身を取り出した。

――ん?

俺は手に取った箱の中身に首をかしげた。

黒、ピンク、紫、水色…色とりどりの小さな布切れ。

数秒の間を置いて、それが何かを認識した瞬間、俺は慌てて箱に戻して蓋を閉じる。

が、時すでに遅し。近くで空箱を潰していた沙希が汚物を見る様な目で俺を見つめていた。

「…比企谷…今の…」

「…何も言うな。俺は何も見ていないし、何も触ってない…これは事故だ」

何か言いたげに声をかけてきた沙希に対し、俺は言い訳した。

「比企谷く〜ん!早く持ってきてよ〜!もしかしてお姉さんの下着、物色してるのかな?」

そんなやり取りをニタニタしながら遠目に眺めていた雪ノ下陽乃は、別室で作業していた雪乃と結衣にも聞かせようとばかりに、大きな声でそう言った。

ドタン!バタン!

案の定、そんな音を立てながら結衣と雪乃は別室から飛び出してくる。

「…姉さん、他人に下着を触らせて恥ずかしくないの?それとも、私の姉は下着を握らせて男性の反応を楽しむ変態だったのかしら?」

雪乃は眉間に皺を寄せ、額に血管を浮かび上がらせながら姉に詰め寄った。

自分が吊し上げられるかと思っていた俺は、ホッと胸を撫で下ろした。

「別に~。新生活用に買った新品だから問題ないでしょ?」

「し、新品でも嫌だよね?」

ケロッとした顔で言い放った陽乃さんを見て、結衣は同意を求めるように雪乃と沙希を見て呟いた。

「でも比企谷君は嫌じゃないよね?お姉さん、この服の下にはああいうの着てるんだよ?…ぐっと来ない?」

最後に囁くように発せられた「ぐっと来ない?」の言葉に反応するように、自分の意思と関係なく、脳内に彼女の露な姿が映像として浮かび上がる。

――確かに嫌じゃないないですけどね、うん。実にけしからん。

ハッと気が付いた時には、既に俺の鼻の下は伸び切っていたようだ。

3人の視線が俺の背中に突き刺さった。

「…比企谷君」

雪乃はポンッと俺の肩に手を乗せて、優しい声で俺を呼んだ。

恐る恐る振り向くと、彼女は慈しむような眼差しを俺に向けて微笑んでいる。

そんな彼女の姿に、俺は思わず見惚れ、魅入ってしまう。

が、その直後に俺は痛みに表情を歪めた。

肩に置かれた彼女の手は万力と化し、強烈な力で僧帽筋がギリギリと掴まれている。

「死んで?」

小ぶりで可愛らしい唇から柔らかい口調で発せられたその言葉は、2回の高校生活を通算して、最も直接的かつ辛辣なものであった。

☆ ☆ ☆ 

同日正午

概ね荷物を片づけた俺達は、リビングのテーブルで休憩していた。

部屋には紅茶の香りが漂っていた。無論、雪乃が皆のために淹れてくれたものである。

「…さて。そろそろ出かけようかな」

俺の対面に座っていた雪ノ下さんは、優雅な仕草でティーカップをソーサーにかちゃりと置くと、不意にそう呟いた。

「そろそろお昼の時間ですけど…出かけるってどこへですか?」

それに対し、雪乃と共に昼食の下ごしらえに取り掛ろうとしていた沙希が尋ねる。

「雪ノ下家の新年の会合だよ。両親と挨拶周りにね。告発の準備は進めてるけど、まだ表だって両親に反抗することはできないし…この引越しも、表向きは雪乃ちゃんの生活を監視するためってことになってるから、顔は出しとかないとね」

いつもの表情を崩さずに口にしたその言葉に、雪乃はピクリと反応した。

その様子を見て、彼女は突然ニタリと口元を歪ませた。

この危険な雰囲気の変化は、以前にもあった。

結衣や沙希にとってもトラウマものなのか、2人は一瞬肩を震わせた。

「…雪乃ちゃんも来る?」

本人にその意図があるかは不明だが、その言葉は明らかに刺すような鋭さを持っていた。

彼女が雪乃を見る目は、先程までフザケたやり取りをしていたのと同一人物とはにわかには信じられない程に冷たい。

「…私は」

雪乃は彼女の威圧的な雰囲気に圧倒され言い澱むと、唇を噛んでその場に俯いた。

蛇に睨まれたカエル、という言葉がピッタリなほどに萎縮している。

そして助けを求めるようにチラリとこちらに縋るような視線を向けた。

「…雪乃ちゃん、ダメだよ」

雪ノ下陽乃はそれを厳しい口調で言い咎める。

何度目のデジャブだろうか。

何年も前の光景を思い出しながら、俺は陽乃さんのその言葉の真意を探るように思考を巡らせた。

皆の心配するような視線が雪乃に集まった。

嫌な沈黙がその場を支配する。

「雪ノ下さん、あの――」

見かねて俺が介入しようとした、その時だった。

雪乃は勇気を振り絞るような目で姉を見返しながら、言葉を発した。

「私は行かないわ。普段実家に寄付かない私が突然家族の催しに参加するのはおかしいでしょう?……実家のこと、姉さんにばかり負担をかけて申し訳ないけれど、私は皆といたいの。我儘を言ってごめんなさい」

俺は雪乃の言葉を聞いて、ゴクリと喉を鳴らした。

雪ノ下陽乃はしばし無言で彼女を見つめる。

そして、数秒の後、フッと表情を緩めた。

「よく自分で言えたね、雪乃ちゃん…少しは成長したかな」

そう言った彼女は非常に満足気な表情を浮かべている。

俺は肩から力が抜け、座っていた腰掛の背もたれに寄りかかるように体重を預けた。

同様に、沙希と結衣も安堵の表情が浮かぶ。

オッサンになった今でも、彼女が時折見せるこの急激な雰囲気の変化にはビビってしまう。陽乃スイッチとでも名付けようか。一度オンになると地の性格が発露して大暴れ。周囲の人間の心臓に悪影響を及ぼす危険なスイッチだ。

しかし、雪乃もよくぞスイッチの入った姉を相手に自分の主張を通したと、俺は感心する。

確かにこれは喜ばしい変化だろう。

陽乃さんはこれからも、こうやって稀に試すような態度を取りながら雪乃に接して行くつもりなのだろう。雪乃にしてみれば堪まったものではないのだろうが、今は彼女も自身の姉に対して一定の信頼感を抱いているはずだ。そうでなければあんなセリフが出るはずがない。雪乃が口に出してそれを認めることは無いとは思うが、彼女もこれが雪ノ下陽乃流の妹の鍛え方であるということを理解し、そのやり方を受け入れたのではないかと俺は感じた。

――ほんと、不器用でメンドくさい姉妹だ……でも良かったな、雪乃

俺はそんなことを考えながら、雪乃を見て思わず微笑んだ。

「良かった~!今日はゆきのんの誕生日パーティしようと思ってたから、これで解散になったらどうしようって、焦ったよ~」

結衣は安心した途端に、俺達が別途準備していたサプライズのネタをばらし、カバンからいそいそとプレゼントを取り出した。

「由比ヶ浜…まだちょっと早いんじゃない?」

沙希はそれを諌めるが、その表情は柔らかかった。

「え~?もういいじゃん!…ハイ、ゆきのん!サキサキとあたしから。これからもよろしくね!」

プレゼントを手渡された雪乃は目を丸くしていた。

「あ、ありがとう…私の誕生日、知っていたの?」

「当たり前だし!あたしとサキサキの時も、ゆきのん、ケーキ作ってくれたじゃん。ゆきのんの誕生日を忘れるわけないよ!」

結衣がそんな会話を展開する中、沙希は隠しておいたケーキを運取り出した。

陽乃さんの荷物が無駄に多かっただけに、雪乃もケーキの箱に気が付くことがなかったようだ。

「…こっちは俺からだ」

そう言いながら、俺も彼女へのプレゼントを手渡した。

偶然ショッピングモールで見つけた、あの時と同じブルーライトカットのグラス。

それを掛けながらPCで作業する雪乃の姿は中々様になっていた。

「あ、ありがとう…」

気恥ずかしそうにそれを受け取り、目に掛けた雪乃を見て、俺の胸に懐かしさが湧き上がった。

「…それから、こっちはオマケだ。ちなみに、今、印鑑あるか?」

続けざまにそう言いながら、俺はクリアファイルから書類を3部取出してテーブルの上に並べた。

「何々?ひょっとして婚姻届!?比企谷君、大胆~!」

雪ノ下陽乃はそのプレゼントに食い入るように見入ると、そんな言葉で茶々を入れた。

その言葉を聞いて、結衣と沙紀は迷惑そうな表情で彼女を睨み付けた。

「株式譲渡契約書だ…由比ヶ浜と川崎の分も用意してある。持って帰ってサインと捺印を頼む。正月明けに税理士に提出すりゃ、ファンドの正式な法人登録の手続きは完了だ」

彼女を無視して説明した通り、運用ファンドの最終登録手続きに必要な書類がこれですべて完了する。忘年会の後、今日に間に合わせるため、2日間ほぼ徹夜で準備を進めてきたのだ。

「こ、こんなに高額なオマケ、初めて手にしたわ…」

「は、8000万円…」

「…正直、怖いんだけど」

3人は書類を手にするが、その手は震えていた。

各々のそんな呟きを耳にして、俺は初めて宮田さんの元で株式のトレードをした時のことを思い出し、苦笑いを浮かべた。

クリックひとつ、電話一本で億単位の売買注文が確定する。そんな世界に飛び込んだ俺は、毎回ディールの決済時には、いつも小便をちびりそうな気分だった。

その後も大規模な売買をいくつも経験し、槇村さんの下でプロジェクト投資を始めた際は、金額の単位がそこから更に跳ね上がった。高校生に戻る直前に組成を計画していた中国ファンドはドルで数ビリオンの規模。円換算すれば数千億円だ。

今や、俺の金銭感覚は完全に崩壊している。

「3人とも良かったじゃな〜い。十分な手切金だね!婚姻届はお姉さん用ってことでいいんだよね?」

――くしゃっ

雪ノ下陽乃の笑えない冗談に、3人は無表情かつ無言で手にしていた契約書を握り潰した。

おい。それ一応、超大事な書面だぞ。頼むからスーパーのチラシと同じ扱いすんなよ。

「姉さん…早く出て行ってもらえるかしら?」

「ご両親が待ってますよ?」

「早くしないと雪とか超降ってくるかもしれないし!」

「比企谷君〜!みーんーなーがーつーめーたーいー」

ギャーギャーと喚く大人の女性の背中を、現役女子高生3人は全力で押し出す。

彼女を玄関先へと追いやる中、俺はポツンとリビングに一人取り残された。

「…あ~紅茶うめぇ」

俺は冷たくなった紅茶をズズッと音を立てて吸いながら、そう独りごちた。

☆ ☆ ☆ 

冬休みはあっという間に終了し、新学期が始まった。

あれからまだ俺は雪ノ下建設に顔を出せていない。雪ノ下建設の社員は元から正月三ヶ日にくっつける形で年休を消化して長めの冬休みを取る者が多いらしく、俺のシフトも組まれなかった。

あの日、両親と挨拶回りに出かけた雪ノ下陽乃も、情報を聞き集めようと意気込んではいたものの、結局大した収穫は無かったと悔しそうに口にしていた。後日、市川や冨山への挨拶のため両親に都内まで連れ出された際は、実際の面談時に同席すら許されず、外で待たされるハメになったらしい。

彼女は雪乃のアパートに引越した後も、度々両親の留守を狙って実家に戻り、独自の調査を進めていた。

村瀬渡航までのリミットも迫る中、俺は日に日に焦りを募らせたが、自分の姉を信頼して欲しいとの雪乃の弁もあり、ひとまず通常通りの高校生活を送っていた。

休み明け以降、俺達2年生には進路希望の調査票が配られた。

将来を意識始めた生徒たちによる、ソワソワとして落ち着かない、そんな雰囲気が校内には満ちている。

話は変わって、本日は奉仕部の定例勉強会である。

テーマは英語だ。経済的な制約から解放された彼女達は皆、明確に口にはしないものの、「留学」という選択肢を見据えた学習プランを立てていた。結衣も沙希も、難しい顔でセンター試験のレベルを優に超える高難度な問題集に噛り付いている。

帰国後、中国国内最高学府への進学を狙う1年生、劉海美も俺たちと机を並べて、同レベルのカリキュラムの消化に勤しんでいた。生徒会業務で忙しくないのかと尋ねた所、現在は進路懇談会の会場準備の業務があるものの、ぞの大半は力仕事であり、生徒会からは吉浜1人が教師に拉致られただけで済んだらしい。他のメンバーも比較的暇を持て余しているとのことだった。

哀れ吉浜。奴がいなければ俺は今頃一色のやつに連れ出されて肉体労働を強いられていたことだろう。今度MAXコーヒーでも奢ってやろう。

「…雪ノ下、そろそろディクテーションの読み上げ頼んでもいい?」

勉強開始から1時間余りが経過した後、不意に沙希がペンを置いて雪乃に尋ねた。

雪乃は「ええ」と短い返事を返すと、自分のテキストをパタリと閉じた。

ディクテーションとは、音読された英文を紙に書き取る語学の訓練法だ。ネイティブの発する英語を耳にし、理解した内容を手書きでアウトプットするこの作業は、リスニング能力、文章理解力、作文能力の全てを駆使しなければならない。あくまで俺の持論だが、一定の語彙を身につけた後であればその学習効果は絶大である。

「あ、あたしも!」

「じゃあ私も参加させて下さい」

――3人とも頑張ってんな。雪乃の奴も、内心嬉しそうだ

俺は一生懸命な彼女達の様子を見て破顔した。特に勉強嫌いだった結衣がここまで食らいつくのは感動を覚える程だ。

俺はMAXコーヒーの缶に口をつけると、手にしていた金融系の週刊誌に目を落としながら、密かに聞き耳を立てた。

「では始めるわ……Youth is a lie. It's nothing but evil. Those of you, who rejoice in youth, are perpetually deceiving yourselves and people around you. You distort everything about the reality surrounding you in a positive light...」

――あん?…若さは偽りだ。それは悪に他ならない?なんじゃそら?アラサーコンプレックス拗らせた平塚先生が作ったのか?…宮田さん、そろそろ貰ってやれよ

俺は雪乃の口から織り成された綺麗な英語の発音を耳にし、大きな疑問符を頭に浮かべた。俺がその一瞬の思考に囚われている間に、雪乃はどんどんと文章を読み上げていく。俺でさえも一瞬考え事をしただけで置いて行かれるペースだ。これは3人にはちと厳しすぎるのではないだろうか。

雪乃め、相変わらず容赦ないスパルタっぷりだな。

そんなことを考えながら、俺は聴解を諦めて、自らの意識を雑誌の記事へと戻した。

この雑誌にも、総武光学の上場にかかる観測記事が掲載されていた。昨年の国内年間上場企業数は14社。うち、IPOの公募時価総額が100億円を超えたのは4社だった。それを勘案すれば、総武光学の滑り出しはまずまずと評価されている。だがその一方で、総武光学の上場を好ましく思わないという一部の声も特集されていた。

武智社長の経営手腕とカリスマ性を考えれば、当社の上場は時期尚早であるという意見だ。上場すれば、武智社長の経営支配力は低下する可能性がある。それは経営リスクであり、そのようなリスクテイクをするくらいなら、国内初のユニコーン企業を目指し、間接金融主体の日本の市場に新風を吹込むべきであるとするものだ。

なお、ユニコーン企業とは、時価総額が10億ドル(≒1,000億円)を超える非上場企業を指す単語だ。本来、非公開株に時価もクソもないのだが、これはVCファンド等による増資時の株式評価額を以て想定時価としている。決して、発光するサイコフレームで本社ビルが建設されていたり、NT-Dシステムを開発する企業を指す単語ではない。

――武智社長とマーティンさん達が建てた事業計画に穴はない…このアナリストは逆張りに酔う投資下手だな。だが、日本でユニコーン企業の育成か…それも面白いテーマかもしれん

内部事情を知る俺は、雑誌に投書した証券会社のアナリストを要注意人物としてマークしつつ、「ユニコーン育成」というキーワードに着目した。日本初の、という前置きがあるように、ファンド投資の馴染みが薄い国内には、ユニコーン企業は存在しないようだ。記事によると、世界には想定時価総額が数兆円のモンスターベンチャー企業が存在するらしい。…いや、兆ってお前、総合自動車メーカーかよ。バブッてんじゃねーの?

「...In conclusion, should you enjoy this damn thing called "youth", go blow yourselves up……着いてこられたかしら?」

しばらくすると、雪乃は皆に音読終了を告げた。

日本語に反応して、俺の思考は投資の世界から現実の世界へと引き戻された。

「ちょっと雪ノ下、なんなのその出題?長い上にまるで意味が分からないんだけど?」

「…あたし、ぜんぜん分からなかった」

「私も、全部は書き留められませんでした…」

途端、沙希が文句を口にし、結衣も海美も困ったような声をあげている。

――大丈夫だぞお前ら。ビジネスの世界でも、聞き取れない時はニコニコしながら”please email me”で何とかなる…と思う。

無論、そんな甘えたことを口にすれば、雪乃に何を言われるか分かったものではない。

俺は沈黙を貫きつつも、彼女達に同情の視線を向けて、再びMAXコーヒーを啜った。

ちなみにemail meのemailは半スラングの動詞用法。テストでは不正解とされるため要注意だ。

「少しレベルが高すぎたかしら?…これが模範解答とその和訳よ」

雪乃はそう言いながら、両面刷りのプリントを3人に手渡した。

「…青春とは嘘であり、悪である…なにこれ?しかも最後、リア充爆発しろって、字まで超デッカイ!…高校生活を振り返って…2年F組…これ、ヒッキーの作文じゃん!?」

――ブハッッッッ!!!

俺は口にしていた糖分大目のコーヒーを、その場に思いっきり吹き出した。その一部が、結衣が丁寧に読み上げていたプリントにかかる。

「「「「汚い!」」」」

女性4人が非難の声を上げて俺を見た。日頃、気遣いと優しさの溢れる海美にまで汚いと言われたのは地味にショックだったりする。

「ゆ、雪ノ下…どこでそれを!?」

雪乃が揚々と読み上げていたのが、俺の黒歴史作文の英訳であったことに、この瞬間まで気が付かなかったのは迂闊だった。俺は動揺に声を震わせながら雪乃に尋ねた。

「平塚先生の家よ。年末の大掃除の時に見つけたものを拝借したわ…貴方、惚れ惚れする程の文才の持ち主だったのね」

雪乃は黒髪を掻き分けながら、澄まし顔でそんな嫌味を口にした。

彼女は恐らく気付いている。この作文は、間違いなく”高校二年生”の俺が書いたものであることに。

しかし平塚先生、これは個人情報漏洩だろ。懲罰ものだぞ。後で抗議してやる。

「比企谷さん、少し見てもらえますか?ちょっと自信がなくて…特に最後のはこんな感じでいいんでしょうか?」

俺が怒りに心を震わせていると、不意に海美に声をかけられた。

促されるまま、俺は彼女のノートに目をやった。

青春是一场谎言、一种罪恶。

ー中略ー

结论就是…现充都去爆炸吧!

「…おい、ちょっと待て。なんで中国語に翻訳してんの?つーか、仕事早すぎだろ?」

そのノートを目にして10秒程停止した後、俺は海美の意味不明な行為に疑問を呈した。

「え?材木座さんの教材にもなるかなって…现充(Xian Chong)…現実と充実を略したスラングですけど、”リア充”って、雰囲気的にこんな感じの言葉で合ってますか?」

海美は無邪気な笑顔を浮かべながら俺の質問に一言で答えつつ、更なる翻訳精度向上へ向けて俺に詰め寄った。

「…こうしてみると、漢字文化圏の言語にはやはり深い繋がりがあるわね。大変興味深いわ」

「ホントだ。発音は全く分からないけど、ドス黒い勢いだけは字面で伝わってくる感じ」

「最後のこれ、何て読むの?爆…?爆発しろ!だよね?」

「バオジャーバ!ですね」

「なんか可愛い!」

「返り点を振れば漢文の練習になるんじゃない?」

俺を無視して、女性4人は大盛り上がりの様相である。

俺が奉仕部に入る切欠となった15年前の作文は、今や皆の教材(オモチャ)として大活躍だ。

消えてしまいたい。俺は乾いた笑いを浮かべるのに誠意一杯だった。

――ガラガラ

そんなやり取りの最中、不意に部室のドアが開かれた。

キャッキャと笑う4人の視線が、入り口に立つ人物へと集まる。

「…あのさ…盛り上がってるところ悪いんだけど、ちょっといい?」

「三浦…」

俺が名を口にしたその女子生徒、三浦優美子は不機嫌そうな表情を浮かべながら、自慢の金髪縦ロールを弄っていた。



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34. 比企谷八幡はゴールを見据える

だいぶ時間が経ってしまいましたが、色々ご指摘いただきありがとうございます。
コメントは完結後にお返しさせてもらうつもりでしたが、いつまでたっても進捗しなくてすみません。前話の出資比率は、ご指摘の通り誤りでした。修正します。

比率の改竄は由比ヶ浜も雪ノ下も嫌がるというのはもっともかと思います。彼女たちに強引に分配するには、もう少しこのオッサンに理屈をこねてもらう必要がありますね。ちょっと考えさせて下さい。良い案が浮かべば加筆します。


※ この八幡の恋愛事情が嫌い、雪ノ下建設絡みのストーリーだけでいいという方は、今回は一番下のシーンまで飛ばして下さい。


「要するに、葉山の文理選択が知りたいのか?」

「…」

三浦の持ち込んだ用件、それは葉山隼人の進路に関する相談だった。

俺の質問に三浦は無言で頷き肯定する。

「あ、あの…奉仕部への依頼、ということでしたら今日は私は失礼しますね。ありがとうございました」

三浦が醸し出す切羽詰まった雰囲気を察した海美は、そう言い残し、慌てて部室を後にした。

俺達は海美を見送ると、再び三浦に向き合った。

こいつの依頼内容自体はあの時と全く同じ。だが、俺はそれに違和感を覚えた。

三浦がこの依頼を持ち込んだのは、雪乃と葉山が付き合っているというくだらない噂に動揺し、居ても立っても居られなくなったのが切っ掛けだったはずだ。

今回、その噂の原因であった雪ノ下家と葉山家の新年の会合に、雪乃は参加していない。そんな傍迷惑な噂が立っているといった話も当然耳にしていなかった。

「新学期に入ってから隼人、なんか距離あるし…あーしはただ…もうちょっと一緒だったらいいかなって…その…このままみんなで…」

三浦は言葉を選ぶように、途切れ途切れに口にした。

「距離があるってのは、どういうことだ?由比ヶ浜はなんか心当たりあるか?」

「うん…確かに隼人君、休みが明けてからどこか上の空で…時々すごく難しい顔で何か考え込んでるような…」

「って言うか、葉山って成績いいんでしょ?何か悩んでるとして、それが進路と関係あるの? 普通に聞けばいいじゃん」

「は?それが出来りゃ頼みに来ないし!」

「あ?」

沙希の提案に対し、幾分高圧的な態度で自分の言い分を口にした三浦。沙希はその物言いを咎めるような視線を向けて応酬する。

「二人とも落ち着け…雪ノ下も最近の葉山の状況に心当たりはないんだな?」

「なぜ私に聞くのかしら?」

「家の繋がりとか、色々あんだろ?」

「…家って」

俺と雪乃の会話を聞き、三浦は不安げな表情でそのやり取りで出てきた単語を口にする。雪乃はしばらく言い淀むが、三浦の不安げな視線に気が付くと、フゥとため息をついて口を開いた。

「…彼の父親と私の両親がビジネスで繋がっているというだけのことよ。もっとも、最近は以前と比べて少し疎遠になっている、という話らしいけれど」

雪ノ下建設は外資系投資銀行と懇意になってから、葉山弁護士事務所とは距離を置き出している。これは葉山が親から聞き出したことで、俺も以前耳にした話だ。どうやら雪乃にも葉山の変化については何も心当たりがなさそうな様子だった。

「…ねぇヒッキー。優美子の依頼、なんとかしてあげられないの?」

暫くの静寂を破るように、結衣は俺に尋ねた。目前の友人の苦悩を解決してやりたいと願う彼女は、不安と期待の入り混じった表情で俺を見ている。

「…まぁ…あいつの進路なら知ってるが」

俺は深く考えることなくポロッと口にした。

葉山は法学部志望だ。状況が前回と変わらないのであれば、奴は文系を選択しているはずだ。そして、奴が近い将来進むこととなる大学も俺は知っている。とは言え、入試だけを考えれば、文系の国内最高学歴を手にするようなオールラウンダーにとって、高校の文理選択など、どちらでも構わないのかも知れない。だが、それも不確定要素としては些末な事象だろう。

「何でヒキオが!?」

三浦は驚嘆と嫉妬の表情を浮かべて俺の言葉に反応した。

普段グループの外にいる俺のような人間が、葉山の進路を知っているとのたまったのだ。葉山との距離を縮め、隣にいたいと願う彼女にとって、その事実は当然ショックだろう。

――だが

これは話すべきなのか。不意に自分の心の底にそんな疑問が湧き上る。

三浦の気持ちは同情に値する。

俺自身、これまで近しい人間と少しでも多くの時間を過ごしたいと願い、3人と安定した関係を構築することに腐心してきた。雪ノ下建設の問題解決に躍起になっているのも、究極的にはそれが目的だ。三浦が知りたいと願う気持ちは痛いほどに分かる。

にも拘らず、得体の知れない違和感が自分の心の奥底で警鐘を鳴らしていた。俺は脳を回転させて過去の出来事を振り返る。

――それしか選びようがなかったものを選んでも、それを自分の選択とは言えないだろう?

あの時、葉山は確かそんな言葉を口にした。

奴は自分の文理選択を、周りの人間に頑として話さなかった。いや、話せなかった。

葉山が選ぶ道。それは奴の背中を追う皆が辿ろうとする道でもあった。現に三浦も、奴と一緒にいたいと思うからこそ、その道の続く先を知りたがっている。

あの掴みどころのない言葉の真意は何なのだろう。

”それしか選びようのないものなら、それは自分の選択と言わずに済む”といったところか。いや、もしかするとその言葉の主語は最早葉山自身ですらないのかも知れない。主語は三浦、敢えて拡大解釈すれば彼女を含む"みんな"ではないか。彼、彼女の選択を奪わないために、葉山は黙っていることを強いられたのだ。

いずれにせよ、奴は最後に「それでも俺は選ばない」と、確かにそう言った。

であれば葉山自身が黙秘を選択した訳ではない。奴は奴自身に与えられた役割を考え、その最適解を演じ切ったのだ。

だからこそ、あの時俺はあいつを否定した。

――俺もお前が嫌いだよ

その言葉で、人の期待に応え続ける葉山を否定して、期待を押し付けない奴がいると思い知らせてやったのだ。それが友人――当時の俺がそんな定義付をしていたのかは自分でも定かでないが、少なくとも奴の数少ない理解者として、掛けてやるべき言葉だと思ったからだ。

「知ってるなら、話してあげれば?」

沙希は黙り込む俺を不思議そうな目で見ながらそう尋ねた。

「いや、ちょっと待て…三浦…お前は自分自身の進路をどう考えてんだ?」

三浦に再度質問しながら、俺は自分の感じた違和感が、徐々にその形を具体化させていくのを感じていた。

「…そんなのまだ決めてない。受験は浪人できるけど…こっちはそうはいかないし」

そんな三浦の返答を耳にして、俺はとうとう気が付いてしまった。

気付きたくないと、目を背けていた事実を真正面から認識してしまった。

「…あの野郎はそういう人間を自分と同格とは認めないだろ。それだけの理由で文理選択を決める気なら、ここで正解を伝えてもお前の願いは絶対に叶わない」

突然に放たれた冷たい言葉に、三浦は絶句した。

呆けたような表情を保ったまま硬直すること数秒、彼女はいつもの強気で俺に食って掛かるどころか、逆に静かにポロポロと涙を零し始めた。

3人も豹変した俺の態度と、泣き出した三浦の顔を交互に見て狼狽するばかりだった。

その様子を目にして俺は自戒する。

やはり俺は浮かれていた。

つい先程までの勉強会でも明らかなように、3人は今、留学を前提に勉強している。だが、彼女達は自分自身の将来を見据えて、その選択をしたのだろうか。傲慢な考えかも知れないが、答えは恐らく否だろう。

ビジネスの世界、特に金融ともなれば、学位という箔は他者に自らの信用力を判断させるための重要な材料だ。グローバルに名の知れた大学で学位を得るのは、何も知識を得ることだけが目的ではない。ビジネスは相手がいなければ成り立たない。他者との関係作りを効率化するための投資と考えれば、そこに新たな学びが無かろうと、ある程度の時間と金をつぎ込んでも十分にペイすると俺は考えている。むしろ、基本的に人付き合いを苦痛に感じる俺のような人間ほど、そんな欺瞞に満ちた箔を必要としているのだ。

そして、俺のそんな思考は彼女達にも伝わっている。だからこそ、俺が再び留学するという前提を、彼女達は何の疑いも持たずに信じ込んだ。俺本人ですら、そんな選択を疑っていなかった。彼女達は俺に着いてきてくれる、今のモラトリアムを継続できると、勝手に解釈して安心していたのは他でもない、俺だった。

だがその選択は、彼女達にとって将来に全く関係のない、無駄な投資となるかも知れない。そもそも彼女たちが描く自身の将来の絵姿が、海外留学という道の先に繋がっているのかも分からないのだ。加えて、元々留学を視野に入れていた雪乃を除く二人には理不尽な程に高い負荷をかけることになりかねない。一度の入試をクリアすれば殆ど安泰な日本と違い、海外の大学は入学してからの方が厳しい。科目毎に成績を絶対的な数値で順位付けし、機械的な足切り方式で下位成績者を留年・除籍処分に付すのは珍しくないし、そもそも外国籍の生徒であれば100%近い出席を維持しなければビザが失効して即強制帰国になる。

未だに然るべき選択ができない俺のために、そんなリスクを負わせ、負荷を掛けることが果たして本当に正しいのだろうか。

「…比企谷君、それは言い過ぎでは…それに私達だって…」

雪乃は恐る恐る、探るような声でそう口にした。

「…お前達は留学を考えてんだろ?…だったらそこで何を学ぶか、その後どうしたいかはちゃんと決めてんのか?」

俺は心に蔓延るドロドロとした黒い感情を覆い隠すように、表情を殺して3人にそう尋ねた。冷たい声だと、自分でも感じ取れるほど、その声には感情が籠っていなかった。

「ぎゃ、逆に聞くけど、比企谷はどうするつもり?志望職種は知ってるどさ…大学は?」

沙希は動揺を隠し切れない表情で俺に確認を求めた。

「…それはお前達の進路選択に関係する要素なのか?目標はちゃんと自分で決めるんだ…俺は…留学するとは限らん」

そう口にしながら、自分の足場が崩壊していくような気分に襲われる。

――3人とも良かったじゃな〜い。十分な手切金だね!

新年に雪ノ下陽乃が茶化すように言った言葉が頭を過った。

いつだって彼女の言うことは的確だった。この先もどう足掻いたって、俺には3人から一人を選ぶことなんて出来やしないのだ。彼女達のために俺がしてやれることは、経済的な枷を外して選択の幅を広げてやることくらいだ。後は、雪乃の実家の問題を解決すれば、俺が3人と時間を共に過ごす理由は失われる。

目前で涙を流す三浦と、その思い人たる葉山隼人の関係が、一瞬、自分と彼女達の姿の写し合わせのように思えたが、俺はすぐにその考えを否定した。

俺は17歳の少年にも劣っている。俺は三浦同様、届かない果実に必死に手を伸ばし、諦めきれずに足掻いている。だが本来俺が取るべきなのは、葉山と同じ立場ではないか。いい加減、当然のように自分の都合を彼女達に押し付けるのは止めるべきだ。

覚悟を決める時が迫っているのかもしれない。

「ちょっとヒッキー!!なんだしそれ!?」

結衣は俺の言葉に憤慨した。俺を睨むその目尻には涙を浮かべている。

雪乃と沙希は呆然とその場に立ち尽くしていた。

無言が空間を支配し、重く苦しい空気が充満する。

あの夏の日、いや、俺が高校生に逆戻りしてから築いてきた彼女達とのバランスが、今この瞬間、正に崩壊したように思われた。

全て俺のせいだ。

始めからこうなることは分かっていた。分かっていたのに、つかの間の安らぎを得んがために彼女達を拐かし、期待させ、欺き、縛り付けてきた。俺はその代償を支払わねばならない。

心が軋むような音を立るのを、どこか客観視し、いい気味だと嘲笑うもう一人の自分がいることに気が付く。多重人格症状というのは、自己防衛反応の一つと聞く。この期に及んで、己を守らんとする意識が働くとは、自分はことごとく浅ましい人間だ。

「…話が逸れた…三浦。悪いがこの依頼、俺は受けられない…すまん」

俺は擦れるような声でそう言い残すと、部室を後にした。

☆ ☆ ☆ 

「比企谷、ちょっといいか?」

翌朝、いつもより少し遅めに登校した俺が教室に入ろうとしたところ、廊下で葉山隼人に呼び止められた。奴は大きめのスポーツバッグを肩にかけている。腕時計に目をやると、そろそろホームルームが始まる時間だった。恐らくこの時間まで部活の朝練を続けていたのだろう。

「あん?何だよ?」

俺は大人げなくも苛立った気分を隠しもせず、そう乱暴に尋ねた。

「ここじゃちょっと…屋上行かないか?」

「いや、もう担任が来る頃だろ」

「サボりの誘いだよ。可笑しいか?」

このまま教室に入れば結衣や沙希と間違いなく目を合わせることになる。情け無くも俺は、今日彼女達に対してどんな顔で向き合えば良いか、一晩かけてもシミュレーションすることができなかった。

「…なら行くか」

優等生の葉山に似つかわしくないその提案に、俺は多少の疑問を抱きつつも、有難く乗っかることに決めた。

無言で屋上へと向かう葉山の背を見ながら、俺は一歩一歩階段を昇った。

奴が昇降口のドアに手をかけるの見て、ふと文化祭の一コマを思い出す。

平塚先生は「生徒が勝手に屋上に上がるのは問題だ」と口にしていた。だが鍵は壊れたままで対策は何もされていなかった。悩み多き学生たちにはこんな環境も必要だろうという彼女なりの配慮なのだろうか。いい歳した自分がそんな学生達に混じってそれに甘えることには抵抗感を覚えたが、俺は葉山に促されるまま屋上階の外へと足を踏み出した。

途端、目が痛くなる程に冷たく強い冬の風に吹き付けられ、俺は身を震わせながら縮こまった。葉山は平気そうな顔をしているが、ひ弱な俺には長居は出来そうにない。

用があるなら早くしてくれ。そう願い、両手を擦り合わせながら俺は葉山の言葉を待った。

「単刀直入に聞くよ。比企谷の希望進路を教えてくれ」

「は?」

俺は突然の葉山の質問に、一瞬思考を停止し、間抜けな声を上げてしまった。

葉山は思いの外、真剣な表情で俺を見ていた。

再び吹いた強い風を頬に受けて、俺は思考を取り戻す。

「…由比ヶ浜にでも頼まれたか?」

葉山自身がホームルームをサボってまで、俺の進学希望先を知りたがる理由は特段思い浮かばない。だとすれば、昨日の時点で誰かに依頼されたに違いない。そんなことを知りたがるのは、奉仕部の3人以外にいないはずだ。葉山にそんなことを頼むのは、消去法で結衣と見るのが妥当なところだろう。

「さて、どうかな…で、どうなんだ?」

「悪いが教えられん。別に人に知られるのが嫌だって訳じゃねぇけどな。ちょっとした事情があんだよ」

「…だろうね。大体想像はつくよ」

俺も似たような状況だから、とでも言いたげに、葉山は自嘲気味な表情を浮かべてそう呟いた。概ねこいつも今、戸部や大和、大岡あたりに文理選択を訊ねられて困っているのだろう。その会話に聞き耳を立てる三浦の姿にも当然気付き、神経を尖らせている様も容易に想像がついた。

「…話ってのはそれだけか?」

俺は黙り込んでしまった葉山に対し、サボりの切上げを提案する意味を込めてそう聞いた。葉山は数秒の沈黙の後、再び顔を上げた。

「いや、もう一つ…雪ノ下建設の件で話がある」

「何?」

俺はその言葉に反応するように、一歩、葉山に近づいた。

「修学旅行の後、比企谷からも頼まれてただろ?あの時は大したことは調べられなかったけど、ずっと気になって親の仕事場を漁ってはいたんだ。自分なりに勉強もした」

「…何か分かったのか?」

「新年の挨拶の時に、陽乃さんから詳しい話を聞いてね…本当にとんでもないことになってるみたいだけど、おかげで以前は分からなかったことが理解できた。きっと君や陽乃さんが知りたがってることの、核心に近い情報だと思う」

「勿体ぶらずに早く教えてくれ」

新学期から上の空になってた、ってのはこのせいか。

それに気が付きながらも、俺は葉山の遠回りな状況説明にやはり苛立ちを覚えて情報共有を迫った。

「もちろん話す。そういう約束だったからな…けどその前に頼み…いや、条件があるんだ」

「条件?代わりに俺の進路を話せってのか?」

屋上へ来てからの会話を振り返りながら、俺はそう尋ねた。

雪乃の実家の問題解決と、3人の将来にかかる選択。天秤にかけられるものではないことは理解しつつも、俺はその判断をこの場で下すため、頭を必死に回転させた。

だが、葉山が提示した条件は、俺の想像とはかけ離れたものだった。

「…俺と本気で勝負してくれ」

二人の間に、再び強い風が吹きこむ。

俺を睨むように見据える葉山の目は、真剣そのものだった。

☆ ☆ ☆ 

その日からしばらく俺は奉仕部には顔を出すことなく、授業後は図書室に籠り考え事に耽っていた。あれから彼女たちとの会話が一切なくなった訳ではない。部長の雪乃には休みの連絡を入れていたし、結衣や沙希とも挨拶程度の会話は交わしてはいた。だが、俺達はお互いに距離感を探るような、そんな表面的なコミュニケーションしか取ることができず、明らかに以前とは違う雰囲気の中にいた。

「八幡、何してるの?」

「…戸塚…まぁ、ちょっとな」

夕暮れ時の図書室。

自前のノートPCを前に座る俺の肩に手を置き、戸塚が話しかけてきた。窓の外を見ると既に夕日が落ちかけていた。どうやら部活の時間は終了したらしい。顔を上げて振り返ると、そこには戸塚と一緒に材木座の姿もあった。

「八幡よ…御主、進路はどうする気だ?」

「あん?進路?」

材木座からの突然の質問を不可解に思った俺は、目を細めた。

不意に図書室の入口に人の気配を感じて目をやると、ドアの後に慌てて隠れようとする結衣とはたと目が合った。沙希と雪乃の長い髪もチラリと見える。

それを目にして、微笑ましさと喜びの感情を覚え、まだ彼女達が俺の進む先を知りたがっているという事実に安堵する。同時に俺はそんな自分を激しく嫌悪した。

「…あいつらの頼みか?」

「たたたた、頼まれてない!」

「ったく…人の進路を探るなら三浦の依頼の方をなんとかしてやれよ」

俺は彼女からの依頼を断った自分を棚上げしながら、精一杯の強がりを口にしてみせた。

「ハハ、失敗しちゃった。八幡は何でもお見通しだね。葉山君にも同じことを聞いたけど、はぐらかされちゃったよ」

「むぐぐ…あれは頼みというより脅迫に近かった…」

戸塚が少し申し訳なさそうな表情を浮かべてそう口にすると、材木座も観念したかのようにそう白状した。コイツは俺と葉山の進路を聞き出さなければ奉仕部を出禁にするとでも言われたのだろうか。

「…ところで八幡、何を見てるの?それ、地図だよね?」

戸塚は話題を切り替えるように、画面を覗き込みながらそう言った。

「…ああ、今度のマラソン大会でな…何故か葉山の野郎に勝負を吹っかけられたんだよ」

「葉山君と勝負?」

端末を弄りながら質問に答えると、戸塚は驚いたような声を上げた。

1月のマラソン大会。

葉山がどんな意図で俺に勝負を挑んできたのか、皆目見当もつかない。そもそも、現役運動部キャプテンの葉山と俺ではまともな勝負にならないのは明白だ。にも拘わらず、奴が体育系行事をその舞台に指定した理由が、俺には理解不能だった。

――自分に有利なのは百も承知だ。それでも…受けてくれないか?

――いや、意味分かんねぇよ。そんな結果の分かりきった賭けになんの意味があんだ?

――けじめ、かな…自己満足だよ

あいつの考えは不明だが、その言葉には、高校生らしからぬ覚悟と有無を言わせない迫力があった。俺はその場で断ることが出来ないまま、奴の表情を伺った。

その無言を承諾と見做した葉山は、軽く握った拳で俺の胸をトンと叩き、「じゃあ、よろしく」とだけ言い残して、先に教室へと戻って行った。

不意を突かれたとは言え、迂闊だった。

葉山の頑なな性格は長年の付き合いで重々承知している。おそらく申出の撤回を頼んでも奴がそれに応じることはないだろう。雪ノ下建設の情報を賭けた勝負であるならば、俺はこの分の悪い勝負に何としても勝たねばならなかった。

キーボードを叩くと、画面の地図上に自分で登録したマラソンのルートが線で示された。

「不利な勝負に挑むなら、入念な調査と事前準備以外に道はねぇからな…タクシー予約して待機させても乗車区間はここから…このあたりのポイントまでが限界か…やっぱ折り返し地点に教師が待機してるのが邪魔だな…むしろそっちを排除する方法を考えるか…」

「さ、最低だぞ…八幡」

俺の独り言に近い呟きに対し、材木座が非難の声を上げる。

「今更何言ってんだ。結果の為なら何でもする…それが俺だ」

「八幡って、勝負事にそんなに拘るタイプだったっけ?」

戸塚は不思議そうな表情を浮かべて俺に尋ねた。

「いや…詳しくは話せないが、俺が必要としてる情報の交換条件として、勝負を申し込まれたんだよ…あ、そうだ。最近大手のスポーツ用品メーカーがバネ付のランニングシューズ出してたよな?あれってネットで買えるのか?」

俺は雪ノ下建設の話には触れずに、事の顛末を戸塚に伝えた。余計な追求を避けるため、誤魔化すように材木座に話を振るのも忘れなかった。

「学校指定の運動靴じゃないと失格になるぞ」

「加工して靴底だけ張り替えれば…いや、それより奴の妨害工作を進める方が確実だな…最悪、吉浜に金握らせて野郎に体当たりでも…」

俺は腐った眼を更に黒く濁らせながら独り言を続けた。

「は、八幡、ちょっと落ち着いてよ…葉山君は条件として”勝負してくれ”って言ったんだよね?」

「…ああ」

戸塚は暴走し始めた俺を諌めるように、そう確認した。

「それって、"勝ったら"、じゃなくて、"勝負してくれたら"ってこなんじゃないかな?葉山君が何の考えも無しにそんな無理を押し付けるようには思えないよ。八幡が真剣に勝負に挑めば、葉山くんは満足するんじゃない?」

「…」

確かに戸塚の指摘は的を得ている気がする。葉山の意図は不明であるにせよ、奴から提示された条件は、"本気で勝負すること"だった。だがしかし、仮にそうだとしても奴が望む「俺の本気」というものが、どういう類のものなのか、それがさっぱり分からない。

「…方向性が分からなくなってきた…俺は今からでもトレーニングした方がいいのか?それとも奴は、このまま俺が本気で策謀を巡らせることを望んでいるのか?」

「我に聞くな」

「葉山君が自分に有利な勝負を持ちかけたのにはきっと訳があるんだよ。僕は…ズルしないで真剣に勝負に応じるべきだと思うな」

戸塚はそんな言葉を残すと材木座と連れ立って図書室を後にした。

廊下の方から、戸塚が3人に小声で依頼失敗の謝罪をする声が聞こえてくる。葉山との勝負の件もあの3人に伝わったのかもしれない。

帰る前にあいつらの顔を見たい。今図書室を飛び出せば、挨拶くらいは出来るだろう。そんな誘惑に駆られそうになるが、俺はそんな甘えた思考を跳ね除けるように計略に没頭した。

「…そろそろ帰るか」

1時間後、俺は周りに誰もいなくなったことを確認してから席を立つ。

外はすっかり暗くなっていた。

俺は荷物を手際よく鞄に詰め込んで、駐輪場へと向かった。

乗り慣れた自転車を前にして、鞄から鍵を取り出す。それを後輪のロックに差し込もうとして、その手を止めた。

――真剣に勝負に応じるべき、か

俺は戸塚が口にした言葉を心の中で反芻すると、しばらく悩んだ末に鍵を鞄へと戻した。そして自転車を置いたまま駐輪場を後にし、駆け足で学校の敷地を飛び出した。

戸塚の言葉に触発されたという訳ではない。それはあくまでも気まぐれな行動だった。

「ハァハァ…」

思った通り、学校を出て数分も経たないうちに息が上がり始める。額から流れる汗が鬱陶しい。右肩に掛けたカバンが揺れて体にぶつかるのも煩わしかった。

――教科書もPCも学校に置いて来ればよかった

考えなしの行動を軽く後悔しながらも、機械的に脚を回転させて道を駆ける。

数キロ走ったところで、酸素を欲っして顎がみっともなく上がり始め、横っ腹の痛みに表情が歪み出した。

柄にもなくバカなことをしていることを自嘲しながら、それでも立止りたくはないと、心のどこかで俺は願った。

走るのを止めた瞬間に、半端な自分を受け入れてしまうような気がしてならなかった。

不意に、流れた汗が目に入って視界がぼやけた。

滲んで見えた街灯の光。その先に、一瞬3人が自分を呼んでいるような、そんな幻影に囚われ、無意識に何もない空間に手を伸ばす。

その瞬間、俺は身体の重心バランスを失って、つんのめった。足のもつれを堪えて踏み止まったが最後、自分の腿はそれ以上持ち上がらなくなる。

腰を屈めて顔を下向けると、顎から汗が数滴、滴り落ちた。

それが歩道のアスファルトの染みになって消えていくのを何も考えずに見ているうちに、言いようのない悔しさが込み上げてきた。

潔く前のめりに転倒していた方がまだ救いがあった。

やはり俺は欲しても踏み込めない、怪我をする覚悟もない半端者なのだと、思い知らされるような気分だった。

今まで滝のように流れていた汗が嘘のように引いていった。

「…クソッタレ!!」

人気のない暗がりの道。

片手で横っ腹を抑えながら、俺は残った力を振り絞る様にそう叫んだ。

その声は響くことなく、夜の闇に吸い込まれた。

☆ ☆ ☆ 

「…ただいま」

帰宅した俺を待っていたのは人気のない空間だった。

門燈や玄関口の照明はついておらず、家は真っ暗だ。汗が引いて芯から冷え切った体が一段と冷たくなるような感覚を味わう。俺は手探りで電気のスイッチを入れながらリビングへと上がった。

数秒遅れて点灯した蛍光灯の光を受けて、誰もいないと思っていた部屋に薄っすらと人影が浮かんだ。

「っ!ビビった!…小町か…」

暖房も焚かれていない寒々としたリビング。

そのソファーの片隅で小町は体操座りをしながらボンヤリと部屋の入口を見つめていた。いつも明るい彼女のその不自然な様に俺は違和感を覚える。

「…お兄ちゃん?…お帰り」

小町は俺の姿を見てハッとした後、気まずそうな表情を浮かべ、弱々しい声を発する。

様子が明らかにおかしい。

「…どうした?」

俺は一呼吸置いて、彼女に尋ねた。

「…あの…もし小町が受験に失敗したら、お兄ちゃん、どうする?」

言いにくそうに口にしたその質問で小町の悩みが判明した。受験を控えた学生は多かれ少なかれ、こういう状況に陥るものだ。自信を維持できなくなると、嫌な想像が勝手に働いて独りブルーな気分になる。偏差値の高い総武高の受験を控えた小町も例外ではないのだろう。

「どうもしねぇよ。小町は小町だろ。今まで通り俺の大事な妹じゃないか」

腫物に触る様に優しく、注意深く言葉をかけると、まるで俺は憂鬱な気分に陥った自分自身を慰めているかのような気分になった。案の定、小町はそんな表面だけの耳触りの良い言葉には反応を示さなかった。

「…第二志望の私立は受かってるんだから、気楽にやればいいんじゃねぇの?」

俺は小町の表情を窺いながらそう付け足した。

前の人生では、小町は無事に大志と共に総武高に合格した。だが、今回どうなるかも分からない。安易な気休めの言葉は彼女にとって何の意味も為さないことも分かりきっている。しかし、今はそう言ってやるのが精一杯だった。

「小町はお兄ちゃんのいる学校に行きたい…行きたくない私立高に高いお金を払って通うなんて…馬鹿みたいじゃん…」

「そうか?将来の事を考えれば、どの高校に進んでも結局大学受験のために自分で勉強するのは一緒だろ?大学だって、ぶっちゃけ就職のための踏み台だ。障害を飛び越えるための踏み台の種類に一喜一憂してもしょうがないだろ?」

――ああ、これは違うな

ペラペラと詭弁を弄しながら、俺は自分の無責任なその場凌ぎの言葉に、情け無さを覚えた。

総武高校に進んだ俺を待っていたのは、生涯忘れられない出会いだった。仮に俺が高校受験に失敗して、あいつらとの出会いを逃していたら今の俺は存在していない。そして今、進学先は真剣に選べなどという建前を口にして、3人を切り離そうとしているのも俺自身だ。

小町にとっても総武高校は、大志と距離を縮め、一色を慕い、俺の大事な女性たちと関わることとなった大切な場となるはずだ。俺が、そんな言葉で誤魔化していいはずがない。

「でも…落ちたとか、そういうの言われるの嫌だよ」

「大検とって高校をスキップするとか、一年海外逃亡して帰国子女枠で編入するとか…世間体を誤魔化す方法なら俺が幾らでも教えてやる」

「ぶっ飛んだこと言ってるのに、お兄ちゃんの口から聞くと妙にリアルに感じるのは何でだろ」

少しだけ元気が湧いたかのように、小町は苦笑いを浮かべてそう呟いた。

彼女のその様子に俺も肩の力がスッと抜けるのを感じた。

「…でもさ、1年だけでも、お兄ちゃんは小町と同じ学校に通いたくないの?」

数秒間を開けて、少々拗ねたような、むくれた表情を顔に貼り付けて尋ねる幼い妹。

意識なのか無意識なのか、いずれにせよ、いつものあざと可愛さを取り戻した彼女のその言葉に、俺は表情を緩めた。

「…そりゃそうなれば嬉しいさ。小町は俺の為に受験勉強を頑張ってくれるのか?」

そう聞き返しながら俺はハッとする。

同じ場所にいたいと願う気持ちを、素直に有難く受け取ること。

たとえ一緒にいることが出来なくなっても、ずっと支えてやりたいと思うこと。

そんな自己満足に近い傲慢な願いを押付けることが許容される人間が俺にもいたのだ。それを認識した瞬間、目前の妹に対する家族愛が湧き上がるのを感じた。冷えていた心が再び熱を取り戻し始める。

俺は無言で小町を優しく抱き寄せた。小町は驚いたような表情を浮かべるが、嫌がるそぶりは見せずに俺に身を委ねる。

「べ、別にそういう訳じゃないけど…お兄ちゃん、ちょっと汗臭いし」

小町は慌てたような口調で誤魔化すようにそう言った。

「悪ぃ、今日は運動帰りでな…兎に角、妹の一人くらい、一生苦労しないように俺が面倒見てやるから何も心配するな。まぁ、お前なら将来立派な旦那さん見付けて幸せになれると思うがな。今は…まぁ、なんだ…そういう相手に釣り合う人間になるための努力をする時期ってことなんだろ」

「…その前にお兄ちゃんがお嫁さんを見つけられるか、小町は心配だよ」

ふっと表情を緩めた小町は、悪戯をする子供のような笑顔を浮かべてそう口にした。

「痛いとこ突くなよ…でも、俺も今再認識したよ。昔から小町は俺の精神的なバックストップなんだな。俺にとって、存在してくれるだけで嬉しいと思える特別な人間は、お前だけだ。小町がいてくれれば、俺は頑張れる…」

「何それ?口説いてるの?実の妹を?…お兄ちゃん、いくらなんでもそれはちょっと引くよ」

「何言ってんだよお前?恋人はどこかに存在してくれるだけじゃ全然足りないだろ?常に横に置きたい人間と、常に支えてやりたい人間は種類が全く違うぞ?」

「あれ?なんか小町がフラれてる?…お兄ちゃんごときに…それはそれで結構腹立つかも」

バッと身を翻して俺から離れた小町は、少しだけ不機嫌な表情を浮かべてソファーの上にあったクッションを手に取り、俺に向かって投げつける。

片手でそれを受け止めて退けると、落下するクッションの向こう側に、優しく微笑む妹の顔が見えた。

「そういや、投資の話を親父に口添えしてくれた時に約束したな。儲かったら何でも買ってやるって」

「う、うん?」

俺は不意に話題を切り替えると、小町は不意を突かれたような表情を浮かべて返事をした。

「そうだな…総武高に落ちたら小町には不動産でも買ってやろう。これで人目を気にせずに引き篭もれるぞ」

「そこは受かったらって言って!…って、不動産!?どんだけ儲かったの!?」

「内緒だ…あ~あ、そしたら俺も暫く一緒に引き籠ろうかな」

「…なんか変だよ、お兄ちゃん。ひょっとして何かやらかした?」

俺が冗談交じりに投げやりな言葉を呟くと、小町はそれに目聡く反応し、怪訝な表情を浮かべて俺に詰め寄った。

「…」

「話して?」

「ヤダよ、恥ずかしい」

「お兄ちゃんと小町の仲でしょ?遠慮なんか要らないって」

小町は俺に抱き着きながら、あざと可愛い表情を浮かべて俺を見上げる。

「…失恋…」

小町になら自分の心の内を晒してもいいのかもしれない。そんな甘えが頭に過ぎった時には俺はすでに口を開いてしまっていた。言葉にしてしまった直後、急激に恥ずかしさが込み上げてくる。

「マジ!?」

「…するかもって話だ…おい、好奇心一杯の顔で俺を見るな。これでも傷心してんだぞ」

「誰々誰々!?結衣さん!?雪乃さん!?それとも沙希さん!?ダレ!?何時の間に!?っていうか失恋ってもう手遅れじゃん!」

この子、何でこんなに鋭いのかしら。

数秒の間を置いて、マシガンのような速さで小町の口から挙げられた女性の名前は、漏れなく全てが俺の想い人だった。

「誰でもいいだろ。ほっとけ…何なら、今日はお前の受験失敗と俺の失恋の前祝いに、二人でパーッと外食にでも出かけるか?」

「え、縁起でもない…小町、ちゃんと勉強するよ」

「そうか」

これ以上聞かないでくれという、俺の心の声を感じ取ったのか、小町は俺が期待した通りの返事を口にする。その返答に満足した俺は、フッと笑みを漏らした。

「…お兄ちゃん、ありがと…お兄ちゃんが結婚できなくても、小町はお兄ちゃんの妹だから…ずっと…いや、なるべく…えっと、気持ちだけでもお兄ちゃんの側にいるよ」

立ち上がりリビングを背にしようとする小町は、振り向いてそんな言葉を残した。

「それもう殆ど側にいる気ないよね?…でも、あんがとよ…余計な心配すんな。ホレ、サッサと勉強に戻れ」

幼い妹の言葉は素直に嬉しく、胸に空いた穴がほんの少しだけ埋ったような気がした。

――失恋、か

うん、キモいな。

いい歳こいたオッサンが、そんな恥かしい単語に浸ってること自体がキモい。挙句、中学生に慰められるとか、恥ずかしすぎる。

半端でもいいから元気出せよ。人生でもう3度目じゃないか。いい加減慣れろ。

それに…今は目の前にやるべきことがあるだろ。

そう自分に言い聞かせながら、俺は誰もいなくなったリビングの天井を仰いだ。

☆ ☆ ☆ 

マラソン大会当日。

スタート地点の海浜公園には総武高校の生徒がぞろぞろと集まっていた。

1-2年生全員強制参加のこのイベント、これだけの人数が犇めき合うのを目にすれば、昨年1学年上の連中をぶち抜いて優勝した葉山の実力を嫌でも実感させられる。

葉山が求める真剣勝負。俺はその意味をずっと考えていた。

海沿いのほぼ直線の道を走り、メッセ近辺の橋梁で折り返す男子用コースは片道5km弱。往復10㎞近くに及ぶ道のりは、現役運動部員でもなければ参加するのも憂鬱になる距離だ。

普段ロクに運動していない俺であれば、真面目に走って1時間以内に完走出来れば御の字といったところだろう。他方、陸上の専門トレーニングを積んだ男子高校生であれば10kmマラソンで35分を切るという。陸上部員をものともせずに校内一位を獲得した葉山のタイムは恐らくそれより早い。

倍近いタイム差が出れば、それはとてもではないが勝負とは呼べない。戸塚はズルはすべきではないと言っていたが、やはり、どう考えても奴がいう「真剣勝負」は俺が姑息な手段を講じることを前提としているように思われる。奴の体力と、俺の知力の勝負。俺はそう結論付けることにした。

しかし、そうなると問題は猶更深刻だ。戸塚がああ言った以上、前回のようにテニス部員を動員しての進路妨害を頼むことは出来ない。俺にとっては葉山以前に、他の有象無象の運動部員ですら障壁となるのだ。それらを押しのけて、あらゆる手段を用いて優勝をもぎ取ること。それが俺に課せられた使命となる。

俺は、マラソンにおける有効な不正手段を研究した。だが、どう頭を捻っても、皆の意表を突くような、画期的なアイデアは思いつかなかった。であれば、だれでも思いつくようなオーソドックスな手段を如何にバレないよう、タイミングよく組合わせるか。それがカギとなる。

しかし状況は、その"オーソドックスな手段"からして制約まみれだった。例えば、折り返し地点まで略一直線のこのコースではショートカットしようにもそのルート自体が存在しない。また、代走を頼もうにも、それを依頼出来そうな知り合いもいなかった。既に詰みかけているこの盤面を一挙に覆す方法はない。一手一手、着実に駒を進めて形勢を逆転する他ないのだ。

頭の中を整理し、大きく膨らませた頬からフーっと息を吐き出しながら、顔を上げた。

「先輩~!頑張ってください!」

不意に横から声をかけられる。そこには、大会の運営を担当している、一色率いる生徒会チームの姿があった。

「比企谷先生!加油!(比企谷さん、頑張って下さい。)!」

「正々堂々走ってよね!」

珍しく海美が中国語で大きな声を上げたと思えば、その横で西岡、田村も手を振っている。

「あ、吉浜先輩もついでに頑張って下さい」

一色は、俺の近くにいた男子生徒に少し投げやりな声援を送った。その視線の先を追うと、入念に準備運動する奴の姿が目に入った。

「…運営側の生徒会も強制参加とは、学校ってのは厳しいな。ま、仕事に影響しないように気楽に走れよ」

「その手に乗るか。俺はこう見えても長距離走には自信があるんだ。今年は葉山を抑えて優勝するから、見てろ」

余計なやり取りから、思わぬ伏兵を発見して辟易する。今のうちに脛蹴りでもかまして潰した方がいいだろうか。そんな誘惑に駆られそうになる。

「あの男に勝利すりゃ、俺も有名人だ。そうすりゃ生徒会は俺のハーレムになる。奉仕部の美人3人に飽き足らず、生徒会長や副会長まで手玉に取っていたお前の時代は今日で終わりを告げる!」

「…バカだろ、お前?」

限りなく頭の悪そうな発言をする吉浜だが、自分の行為を顧みればその言葉に反論することは出来ず、悔し紛れにそう返すことしか出来なかった。俺は吉浜からプイと顔を背けた。

「「「…」」」

はたと、今度は少し離れた場所で待機していた、雪乃、結衣、沙希と目があった。

彼女たちは気まずそうな表情で俺を見ていた。

「…まぁ見ててくれ。今日は勝ちに行く…俺のやり方でな」

小町のお蔭で多少吹っ切れることが出来た俺は、強い意志の籠った視線で彼女たちを見据えてそう呟いた。彼女たちは少し驚いたような顔で俺を見るが、少し間を置いてから、各々が、遠慮がちに激励の仕草で俺の言葉に反応した。

真面目な顔で頷く雪乃、手を振る結衣、拳を前に突き出す沙希。

彼女達が浮かべる表情はやはり固いが、そんな応援に俺は顔を綻ばせた。

「分の悪い勝負だとは思うけれど、期待しているわ」

雪乃は呟くようにそう言った。やはり、葉山との勝負のことを戸塚から耳にしていたようだ。

「…おう」

俺は小さく手を挙げて、彼女達の声援に応えた。

――別れることになっても…この大会が終わったら彼女達ともう一度きちんと話し合おう

そんな死亡フラグじみた決意をしながら俺はスタートラインの前方へと向かった。

この勝負、開始直後のスタートダッシュが鍵となる。計画を上手く運ぶにはポジショニングが重要だ。

人混みの中を、体を滑り込ませるように移動していくと、そこには葉山の姿があった。

脇には男子の出走を応援する女子の群れ。そこから発せられる黄色い声に対して律儀に手を振って返す奴を見て、その女生徒の殆どが葉山目当てであることを理解する。

相変わらず、難儀な奴だ。そう思いながら視線を動かすと、その群れの中から、苦しそうな表情で遠目に葉山を見つめる三浦の姿が目に入った。

――悪かったな、三浦。お前の依頼、後で必ず埋め合わせをしてやる

俺は三浦優美子という少女を熟知しているわけではない。

だが、普段彼女が見せない内面を少しだけ知っている。意外とオカン気質で面倒見がいい所、派手な見た目に反して一途な所、挫折を乗越えて再び好きだったテニスと向合った精神力。どこか、俺の大切な女性達に通じるモノを持つ彼女には好感すら覚えている。

彼女は自分のステータスシンボルのために葉山を欲しているわけでは決してない。人の期待に応え続ける葉山を敬い慕っている。一方で、他者からの期待の中のみに自分の存在意義を委ねるような、そんな危ういやり方しか知らない奴を、支えられる存在になりたいと願っている。だが、彼女にはそれが出来ない。何をやっても常に自分の前を行く人間を支えることは難しい。だからずっと苦しんでいる。

それは尊い想いだと俺は思う。だが恐らく三浦は、自分が感じている苦しみの理由を頭で理解していない。理解していないのなら、それを理解させればいいだけのことだ。同情でその場凌ぎの解答を与えるのでなく、べき論・スジ論を振りかざして諦めさせるのでもない。理解し、分析し、有効だと判断できるアプローチを自分で模索する、その切欠を与えてやること。これは奉仕部の信念そのものだ。

俺は悩める少女に自らの決意を誓って、スタートラインに立った。

平塚先生がピストルの引金に指をかける。

「よーい!」

先生がそのままピストルを天高く掲げると、辺りが緊張感に包まれた。

――パンッ!!

勝負の火ぶたは切って落とされた。

☆ ☆ ☆ 

スタートと同時に短距離走並みのトップスピードで俺は集団から飛び出した。

スタート直後には卒業アルバム用の写真を撮影するため、教師が数名カメラを構えるのが習わしだ。無謀なスタートダッシュでそこに写りこみ「途中まで俺、1位だったんだぜ」と自慢するアホな生徒は後を絶たない。俺はその集団に紛れ込んだ。

マラソンでは、スタートからゴールまで一定ペースを維持することは鉄則だ。葉山を含むトップ狙いの選手達は、終始安定したペースを維持するため、そんな生徒を態々追いかけたりはしない。

案の定、カメラを構える教師達の横を抜けると、スタートダッシュ組は失速した。それを横目に、俺は更にペースを上げる。彼らもこの段に来れば、こんなアホみたいなハイペースで完走できるはずがないと、俺を心の底で嘲笑するはずだ。無論俺とてこんな走り方で最後までもつとは思っていない。俺の狙いは公園区間を走る間に集団から姿を眩ませることだ。

園内の歩道を駆け抜ける。俺は“仕込”が上手く行っていることを祈りつつ、細い遊歩道へと向かっていった。数秒もしないうちに、視界に飛び込んできたのは人の群れだ。皆一様に下を向き、何かを探すように遊歩道の入り口前に群がっている。

――上手くいった

第一の策、通路の封鎖は完璧にワークした。

俺は躊躇うことなく歩道脇の植込みに足を踏み入れ、雑木林の木を避けながら公園出口のポイントへと疾走する。横目で歩道を占領する、大学生やフリーターといった集団を確認して頭の中にインプットされたマップを再度読み込む。

今回の通路封鎖のタネは至って単純。

それはジオキャッシングと呼ばれるアウトドアスポーツだ。専用のサイトを使って特定のエリアに「宝」を隠したことを配信する。プレーヤーは携帯のGPS座標を頼りにそれを探す。日本ではまだ馴染みの薄いアクティビティかも知れないが、俺はこの日のために、近郊の複数エリアで時間帯別、難易度別に何度か実験を繰り返し参加者の統計を集めた。隠す宝の価値を引上げながらプレーヤーを増やし、通路を封鎖するのに十分な人数が集まるように仕向けた。

今後、テロ対策や環境対策等の名目で規制が強化される可能性もあるが、現時点ではこのアクティビティを制限する明確な法令は存在しない。公園内のルートであれば道路交通法にも抵触しないはずだ。

後続の集団はそれでも何とか人を避けながら歩道を走ろうとするだろう。だが、俺が準備したこの進路妨害は遊歩道入口の一か所だけではない。細い通路の数か所を同じように封鎖してある。それを知らなければ、渋滞を抜けた所で再び渋滞へと巻き込まれ、ペースを大きく乱される。

このまま公園エリアを抜ければ、第二ポイントだ。バリバリと地に落ちた枯葉や枯枝を踏みしめながら、俺はその準備のため、走りながらジャージの上着を脱捨てた。

不意に、後方から自分のものではない足音を耳にした。

「…これ、落としたぞ」

「葉山!?」

不意に掛けられた声に驚く俺を尻目に、奴は俺に併走しようとペースを上げる。そのまま追いつかれ、俺は奴からジャージの上着を手渡された。

「進路を塞いだのは君の作戦かい?シャツになったのもカモフラージュだろ?やっぱりマークしていて正解だった」

「…」

第二ポイントには誰にも見られずに独走して到達することが絶対条件だった。葉山にこのタイミングでいきなり並走されるのは不味い。うまくロケットスタート組に紛れたつもりだったが、迂闊だった。

――どうする?こいつだけ先に行かせるか?

俺はとっさの判断で走るペースを緩めた。すると奴もそれに併せてペースダウンする。どうやら俺を一人にする気はないらしい。

「させないよ」

「ウゼェ!」

俺たちはそのままのペースで公園区間を抜けにかかる。第二ポイントまであと200mを切っている。俺は意を決して話しかけた。

「…勝負を楽しみたいなら、俺の不正には目を瞑っとけ」

「期待通りだよ。教師や他の生徒に見つからない限り、何だってやればいい」

葉山は自信満々でそう答えた。多少癪に障るが言質は取った。

このまま堂々と第二ポイントの仕込みを使わせてもらおう。

公園の出口には、第二のタネ、ロードバイクが停車してある。他の生徒に見られないようにそれに乗り、教師が待機する折り返し地点の数百メートル手前まで車道を疾走すれば、足での走破距離を短縮できる。ジャージを脱捨てたのもそのためだ。平均時速30kmで約4キロの道は約8分。トップランナーが片道5kmを20分弱で走るのであれば、折り返し地点の手前で10分程度待機し、十分に足を回復させてから再度復帰すればよい。前回のマラソン大会でも、ペースを考慮しなければコースの半分程度は奴についていくことができた。走る距離が6km程度に短縮されれば、俺にも勝機はある。

「…あの自転車、君のか?」

「るっせ!」

前方に停車するバイクを目にして、葉山が俺に声をかける。マラソンコースは公園区間を除けばほぼ直線で、ショートカットすることは不可能だ。走破距離を短縮するには乗り物を利用する他ない。自転車を選んだのは、ほんの数キロの移動でタクシーやハイヤーを使って、運転手に下手に不審がられる可能性を排除したためだ。

「…コンポ、盗まれてないか?」

「あん?コンポって何だよ?」

葉山に振られた会話に思わず反応しながら、自転車を見る目を凝らす。

――なん…だと…

俺は我が目を疑った。本来自転車についているはずの、ペダル、ギア、シフトチェンジといった類の部品が見当たらない。 本番前に購入したばかりの自転車が盗難に遭わないようフレームをポールに括り付けていた筈だ。いや、確かにフレームはしっかりとチェーンで括り付けられている。問題なのは自転車を駆動させるのに必要な部品だけゴッソリ無くなっていることだった。

――お客さん、ロードバイクは初めてですか?入門用で組みましょうか?

――いや、なんでもいいんで一番軽くて早いやつ下さい。あ、この展示してあるデザインの奴、カッコいいっすね。

――え?このフレームに一番良いコンポーネント付けると50万超えますよ?

――じゃ、それで。現金払で乗って帰ります。あ、前に籠付けれますか?鞄が入るくらいのやつで

そんな店員さんとのやり取りを思い出す。恐らく葉山が口にしたコンポとは、店員が言っていたコンポーネントの略称、フレーム以外のパーツを指すのだろう。よく分からんけど。と言うか、自分で買った自転車の部品が実は別売だったことに俺は今更気が付いた。

慣れないハンドルの形状と、足が着かないサドルの高さに恐怖しながら、ヨタヨタと転びそうになって帰る途中、店員さんかがボソリと「…畜生、ド素人のくせに」と呟いたのが聞こえてしまい、居た堪れない気分になった。

一応あれから基本的な乗り方はマスターし、公道も危なげなく走れるようになった。大会が終わったら通学用に使おうと思っていたのに、それも全て無駄に帰した。

「チッ…」

「…やっぱり比企谷のだったか」

思わず口をついて出た俺の舌打ちに、併走する葉山は呆れ顔でそう溢した。

これは計算外だ。こうなると俺も折返し地点までは自力で走らなければならない。盗んだ奴、マジで爆発しろよ。日本人の民度は世界一、とか抜かしてる奴らももう信じない。

「お粗末だな…とても用意周到な君とは思えない」

「…言ってろ」

自分の脚力温存には失敗したものの、策は何重にも張り巡らしてある。第二ポイントの失態は痛手だが、まだ諦める段階ではない。俺たちはそのまま海沿いの直線コースへと飛び出した。

☆ ☆ ☆ 

「…よくついてこれるな」

「喋…らせんな…この体力バカ…」

その後も無言で足を回していたが、スタートから3.5km程の地点に来たとき、葉山が再び口を開いた。俺は息も絶え絶えになっていたにも拘らず、律儀にそう返答してしまう。

しかしこのペースはキツイ。葉山が口にした通り、今の二人のペースをコントロールしているのは俺ではなく葉山だ。俺は振り切られないように何とか着いていくのやっとだった。

――まだかよ、雪ノ下陽乃!

体がオーバーロードに対する警告を発し始め、俺は心の中で毒づいた。

足の筋肉、横っ腹にはまだ余裕があるが、呼吸が上がり始めている。このままでは、後半、折返し地点からの体力が持たない。だが、第三の仕込が上手くいっていれば、このハイペースからもこの辺りで解放されるはずだ。

祈るような気持ちで走り続けること、数100m、俺は待ち望んだ第3の仕込を目にして安堵した。コース前方からこちらへ向かって走ってくる集団を目にしてニタリと口元を吊り上げ、そのまま速度を落とした。葉山は足を緩めた俺に対し、不可解な視線を投げる。

「ん?ここでペースダウンするのか?」

「…まぁな。頑張れや」

俺はそのまま歩道の脇へと移動した。前方からやってくる集団は、おそらく近所の大学の運動部員だ。これからその筋肉集団に取り囲まれて揉みくちゃにされる葉山の姿を想像し、俺はほくそ笑んだ。

「見つけた!君が総武高校の葉山君だね!話は聞いてるよ!ぜひウチの大学の…」

案の定、集団は葉山を取り囲んで話かけた。進路を完全に塞ぐ集団に取り囲まれては流石の奴も停止せざるを得ない。俺はそれを横目に一旦車道へ飛び出して集団を回避してから、コースへと戻った。

第三の仕込み。それは雪ノ下陽乃プロデュースの妨害工作だ。

こんなしょうもない勝負に雪ノ下陽乃が手を貸してくれるか否かは半分賭けだった。彼女自身の将来がかかった情報を葉山が持っている、というのが唯一の望みだった。手を貸すにしても渋るだろう、というのが俺の当初の見立てだったが、彼女は意外にもすんなり俺の提案に合意した。

――ふ~ん、隼人でも人に期待するんだね

――何を?

――自分には出来ないことを、かな…いいよ。乗ってあげる。やるとなったら楽しみだな~

雪ノ下陽乃は思わせぶりなセリフを吐いた後、極めて楽しそうに目を輝かせた。元々、興味を持た人間に対する嫌がらせや悪戯が大好きな人間である。胸をときめかせているのが、妨害工作という悪事でなければ、思わず見惚れてしまいそうな程、魅力的な表情だった。

彼女の差金がどの程度の効果を発揮するか、俺も完全には把握していない。だが、雪ノ下陽乃がやると決めた以上、葉山も無事では済まない筈だ。やがて来る折返し後の勝負のタイミングに備えて、俺は自分のペースで距離を稼ぐことに決めた。

☆ ☆ ☆ 

コース折返し地点では教師が待機しており、チェックポイント通過の証明としてリボンを配布している。ゴールした際に、これを提示するのが完走を認められる条件となっている。

大会前、俺はリボンの事前入手を画策し、職員室に忍び込んだが、そのタイミングで運悪く平塚先生に見つかった。運営の生徒会にも掛け合ったが、西岡と田村に断られ、マークされることとなった。出走前に「正々堂々走れ」と声を掛けられた際は、少し心臓が縮む思いがした。いずれにせよ、こんな経緯で大胆なショートカットを実行することは不可能となったのだ。

それで懲りない自分も大概だが、俺には実力で葉山を倒すことは不可能なのだから仕方ない。俺はやっとの思いでリボンを手に取ると、乱暴にズボンのポケットに突っ込んだ。

折返し地点を過ぎて2km程、敢えて徒爾な思考に脳の容量を開け放ち、機械的に足を動かす。雪ノ下陽乃の妨害工作で葉山さえ潰れてくれれば、2位集団の追い上げを食らっても、素直に先頭を譲ればいい。俺の目標は優勝ではなく奴に勝利することだ。

――意外とあっけなかったな

数分走り続けても未だに後続が追いついてくる気配はない。先ほどの大学生達はついでに2位集団の走行も妨害してくれていたのかもしれない。運動不足とは言え、俺は運動神経自体は悪くない。長距離の自転車通学で培った体力は平均よりもある。ひょっとしたらこのまま優勝も視野に…

「やっと追いついたよ」

「…考えるんじゃなかった」

楽観的な思考を浮かべた瞬間、お約束、と言わんばかりに後ろから響いた葉山の声を耳にして、俺は辟易しながら呟いた。

あっという間に隣に並んだ葉山の姿を注意深く観察する。いつも涼しい顔をしている奴に似合わず、肩で息をしているのは僥倖だ。おまけにジャージの一部が破れかかってほつれていた。雪ノ下陽乃の妨害工作はかなり効いたようだ。

「参ったよ…大学生の運動部員をやっと撒いたと思えば、女子大生が一緒に写真を撮ってくれだの、芸能業界のスカウトだの…挙句、道に蹲る人に足を掴まれて、救急車を呼んでくれとか…」

葉山はそこまでを一気に早口で捲し立てるように言った。喋れば呼吸を乱すだけなのに、言わずには居られない程にフラストレーションが溜まっているらしい。やはりあの人にお願いして正解だった。

「ペラペラ余裕だな…」

「…いや、完全にペースを乱された。でも、そろそろ女子が遅れて出走する時間だ。折返し地点から先、これ以上のネタを仕込むのは無理だろう?」

「さあな」

俺はそう言うと、奴を一瞥して、自分のペースで走り続けた。事実、葉山の言う通りである。自分が普段通学用に使っている自転車を折り返し地点の先に配置しようと考えたが、進行方向から学校の生徒が走ってくるのでは、乗ることは出来ないとの結論だった。

しかし、ゴールまで3kmを切っている。ここから少しペースを上げても走れない距離じゃない。体力を削られた葉山と、温存してきた俺の実力勝負だ。前方には花見川にかかる橋梁があった。それは奇しくも、過去に葉山の精神的余裕を崩そうと目論み、俺から奴に声をかけた地点だった。

――三浦は女避けに都合が良かったか?

葉山の文理選択を聞き出すための陽動にしても、あれは我ながら最低な発言だった。自分の選択を頑として話さない葉山に対し、俺は「皆の望む葉山隼人をやめるためには理系しか選択はない」と言った。

俺は読み違いをしていたのだ。奴は皆の期待を背負うのを放棄したくて黙っていた訳ではなかった。むしろそれは、期待に応え続けることを覚悟し、自らの選択を封印した上で、逆に皆の選択を奪わないために自らに課した黙秘に他ならなかった。

「…比企谷…君は3人のこと、どうするつもりなんだ?」

橋に差し掛かる手前、唐突に葉山が俺に問いかけてきた。これが奴の陽動だとすれば、なんという偶然だろうか。葉山には俺の過去の記憶のことなど知る余地もない。だが、自分の手の内を真似られて動じる自分ではない。

俺は葉山を無視して前方を見据えた。

「このまま中途半端な関係を続けるのか?」

「…少し黙れ」

2秒の後に前言を撤回する。

既にアドレナリン漬になっていた俺の脳は、その言葉にしっかりと怒りの反応を示した。奴の思う壷だと自分に言い聞かせても、心は坂から転げ落ちるように乱れていく。

「いいから答えてくれ」

そう言うと葉山は突然乱暴に俺の肩をつかんで、無理矢理立ち止まらせた。

全く想定していない意外な行動だった。

「お前には関係ない…離せ」

「関係があるから聞いてるんだ」

葉山の目を睨みつけて凄んで見せるが奴は全く動じなかった。

「…」

「答えられないのか」

言葉を発しない俺を問い詰める様に葉山は詰め寄る。

とうとう俺は根負けして口を開いた。

「…今のままで良いとは思っちゃいない…だが、選ばないのはお前も一緒だろ?」

「自分で選ぶのは君でも怖いのか?」

「さっきから何言ってやがる…いい加減放せ」

自分の心は完全に見抜かれている。たった17歳のガキにだ。

その事実は無性に腹立たしかった。こんな屈辱があっていいものか。俺は苛立ちを隠さずに自分お肩を掴む奴の手を乱暴に跳ね退けた。が、その態度に奴は憤慨したように表情を険しくし、今度は俺の胸倉を掴んで詰め寄ってきた。

「比企谷…お前は彼女たちを傷付けてる。そんなことが分からない訳じゃないだろ?」

「俺は…自分に出来ることをやってるまでだ」

俺は正論を吐く奴を直視することが出来ずに、視線を逸らしつつそう呟いた。

「詭弁はいい…選べよ」

「何の権利があってテメーがそんなこと抜かしやがる」

「結衣は俺の友人、川崎さんも大事なクラスメートだ。こんな状況は看過できない」

俺はその言葉を聞いた瞬間、自分の服を掴む葉山を突き飛ばした。

興奮物質がさらに分泌されて、これまでに無いほどに攻撃的な思考に脳が支配される。ふいに、修学旅行の最中、夜遊び帰りのタクシー車内、雪ノ下雪乃との関係を遠慮がちに尋ねてきた葉山の姿を思い出した。その瞬間、脊髄反射的に言葉が割って出た。

「お前にとっての一番の理由を棚上げして正論気取りか?どう足掻いた所で雪乃はお前には振り向かねぇぞ」

口にしてからハッとする。これは最悪な発言だ。それは友人に対し、決して口にしてはならない凶器のような言葉だった。自分はどこまで落ちぶれればいいのだろうか。

「!?…そんなことは分かってる!」

葉山は手を跳ね除けられても、そんな言葉を浴びせられても、なお俺に詰め寄った。後ろめたさと葉山の剣幕に押されて俺は思わず後ずさった。自分の背中から、カシャンと音が立つ。俺は川べり土手沿いのフェンスに追い詰められていた。

「それでも…比企谷は俺には出来ないことが出来るだろ!それを証明してくれ」

「勝手に気持ち悪ぃ願望押し付けてんじゃねぇよ」

「逃げるな!」

葉山は俺の腕を捻りあげるようにして距離を詰めてくる。

「お、おい、放せ!」

「このっ!」

それでも力を緩めない葉山に押し負けて、俺はフェンスの上から上半身を仰け反らせた。

そのまま足のバランスを崩して、葉山の腕を掴んだまま、共に川沿いの土手を転げ落ちた。

☆ ☆ ☆ 

体を固定させようと力むが、重力に逆らえないまま斜面を滑るように落ちていく。体のあちこちをぶつけ、最後に植込みの植物に体をからめ捕られてようやく停止した。

安堵して目を開けると、ジャージが破れ、擦りむいた膝から血が滴り落ちているのが見えた。痛みに表情を歪めていると、近くに落ちた葉山はすぐさま立ち上がって、俺の腕を掴んで引っ張り上げた。

「選べ!今すぐ!」

引張られた反動で上体が起こされるが、今度は顔面に強い衝撃を受けて反対方向へと吹き飛ばされた。遅れて自分の頬がジンジンと痛むのを認識する。

――殴られた!?マジかよ…

「…正気か、お前」

俺は自分の目を疑った。来年受験を控え、部活でも期待の掛った優等生による傷害沙汰。掴み合いになっても、いくらなんでもそこまでしない、そんな楽観的な考えを持っていた自分を呪う。俺は殴られた頬を擦りながら立ち上がった。

「お前は彼女に認められたんだろ!どうして彼女を傷付ける!?」

それは叫びに近かった。建前を取っ払った奴の地の感情を真正面からぶつけられた。激変した奴の姿にしばらく呆然とした表情を浮かべていたが、奴は冷静さを取り戻す気配がない。怒りの表情を露わにしたまま、一歩また一歩と俺に向かって近づいてくる。

「雪乃の代りに結衣や沙希を傷付けろってか!?ざけんじゃねぇ!」

最早言葉は通じない。これは正当防衛だ。そう考えながら自分も拳を振り上げて迎え撃った。だが、自分の拳はいとも簡単に葉山に躱され、逆に正確なカウンターを鳩尾にもらう。

「カハッ…ゲホッ、ゲホッ!」

「…」

呼吸が止まり、飲み込もうとした唾が気管に入り込んでむせ返る。思わず俺は膝を地面についた。そんな様子を葉山は冷たい表情で眺めていた。

――クソが!何考えてやがる、この野郎!

純粋な運動能力の差で一方的な暴力に抗うことが出来ない屈辱に、俺は心の中で葉山を罵った。

それと同時に自問する。俺はまだ何かを間違っているのだろうか。あの日、小町との会話を通じて、俺は3人から離れ行く覚悟を固めたはずだ。今日も出走前のやり取りを通じて、それを再確認したはずだった。

「…失望したよ。君には彼女を任せられない」

――るっせぇんだよ、俺は何も間違っちゃいない

葉山は興味を失ったかの様にそう吐き捨てて、俺に背を向けた。

あの日、学校からの帰り道。走るのをやめて立ち止った俺は、前のめりに転んだ方がマシだったと項垂れた。中途半端に手を伸ばして、中途半端に諦める。そんな自分の無力感に苛まれた。

だがあの時、俺が手を伸ばして欲したものとは何だったのだろう。

誰か一人を選んで、他の二人を失うことを受け入れるための勇気だろうか。

他の二人を忘れ、選んだその一人だけを想って生きて行くだけの強さか。

いや、そうじゃない。そんな綺麗で正しいものが欲しい訳じゃない。

俺が欲しいのは三人の全てだ。必要なのは、彼女達にとって不公平な関係を強要することが出来る、そんな我欲を臆面もなく押し通すことが出来る、歪んだ力だ。

世界を変えたい。自分は影の存在でありたいと口にしながら、その実、そんな言葉にどうしようもなく惹かれているのは、自分に都合のいいように世の道理を捻じ曲げる力が欲しいと、俺が心のどこかでそう願っているからなのかもしれない。

世の中を動かす仕組み、その根底にある人間の感情を理解したい、知って安心したい。クリスマスのあの日、俺は3人にそう伝えた。これは本心から出た言葉であり、俺は嘘を吐いたつもりはなかった。でもそれはきっと半分本当で半分偽物だ。

カネの力は偉大だ。虚業だの、脇役だのいくら貶したところで、人はカネの前に跪く。経済合理性という言葉の化粧で誤魔化して、世の中は結局カネの流れる方向へと動いていく。だが人の感情は時として、合理性とはかけ離れた行動を引き起こす。だからそれを知ることで、常に自分がコントロールする側の人間で居続けたかった。それは酷く浅ましく傲慢なことかもしれない。だがきっとそれが俺の本質だ。

――ああ、そうか。結局欲しいものはあの頃から何も変わっちゃいなかった

どうやら俺は、彼女達と分かり合いたいとか、仲良くしたいとか、一緒にいたいとか、そういう表面的なことだけを願っていた訳ではなかったようだ。自分の歪んだ欲求が受け入れられないことは知っているし、理解して欲しいとも思わない。俺が求めているものはもっと過酷で残酷なものだ。

お互いに自分の本質を押しつけ合い、その傲慢さを許容できる関係性。

そんなこと絶対に出来ないのは知っている。そんなものに手が届かないのも解っている。存在しなくても、手にすることができなくても、望むことすら許されなくても、それでも俺は…

「…それでも…」

「何?」

ブツブツと独り言の様に呟いた俺に気付いた葉山がこちらを振り返った。

そうだ。求めることで傷付けることになったとしても、彼女達がそれに耐えられなくなって離れて行ったとしても。

「それでも俺は手を伸ばすって言ってんだよ!!」

そう叫びながら俺は葉山に飛びかかった。意表を突かれた奴はバランスを崩して尻餅を付く。俺はそのまま馬乗りになって、力の限り奴の顔面を殴打した。

「雪乃も!結衣も!沙希も!!俺の!俺の女だっ!」

「っ!?」

拳に嫌な感触が伝わる。続け様に2発目を御見舞してやるべく、もう一度拳を振り上げる。が、葉山はそれを首を捻って回避する。同時に奴に体を押し退けられて、今度はこちらが尻餅をついた。すかさず奴はマウントポジションを取り、体勢が入れ替わった。

「そんな無茶苦茶な話が!認められるわけないだろ!」

奴の拳が頬にめり込み、頭蓋骨にメキッと鈍い音が響いた。不思議と痛みは感じなかったが、眼球に伝わった衝撃で片目から涙が滲み出た。鼻からも液体が垂れている。鼻血か、鼻水か、どちらかもわからない。

「誰が何と言おうと関係ねぇ!」

それは子供の駄々に近い喚きだった。葉山を力ずくで押し返そうと足掻くが、奴はピクリとも動かない。片目から涙を滲ませ、鼻から体液を垂れ流し、手足をジタバタさせて喚く俺の姿はさぞ滑稽だろう。それでも俺はそう叫んだ。

「そんな関係、彼女達が望むはずがない!」

「だとしても俺は求める!邪魔されてたまるか!!」

「どこまで身勝手なんだ!」

葉山は再び拳を振り上げた。このまま殴られるのが分かっていても目を逸らさず、奴の顔を目一杯睨みつける。ここで目を逸らせば、今度こそ自分は中途半端に終わってしまう。そんな気がした。

迫る奴の拳が自分の顔に刺さり込むと思った瞬間、それは俺の鼻先でピタリと停止した。

フッと鼻先にその風圧を感じた。

「……今までで一番斜め上じゃないか」

葉山はそう呟くと、そのまま数秒考え込んでから再び口を開いた。

「…全部持ってく…選ぶ必要すらない…そう言いたいのか?」

「…あくまで俺が求めるだけで、あいつ等が受け入れるかは二の次だけどな」

俺は葉山の問いにそう答えた。自分でもそれが答えになっているのかどうか分からない。いや、おそらくなっていない。でも、きっとそれが俺が一番欲いものに近付く為の道なのだと思う。

葉山は俺の言葉を聞いて諦めたような表情を浮かべ、俺から離れる。そして、そのまま大の字になって地べたに寝そべった。

奴は自分の手を、開いたり閉じたりしながら眺めている。今こいつが何を考えているのかは全く分からなかった。その様子を見ながら、奴の最後の拳が自分の顔に突き刺さっていたら、おそらく俺は今頃気絶していただろうと考える。

「…過ぎた欲を持つと身を滅ぼすぞ」

不意に、葉山は忠告するような口調でそう言いった。

「…Greed is good…”強欲は善”って知ってるか?」

俺はとある有名なセリフを引用して反論した。

それは正に資本主義の教典のような言葉だ。俺はその言葉続きを思い出しながら空を見上げた。

――Greed is right. Greed works. 強欲は正しく、強欲は効果的だ。

――Greed clarifies, cuts through, and captures the essence of the evolutionary spirit. 強欲は物事を明確にし、道を切り開き、発展精神の本質を形取る。

――Greed, in all of its forms, greed for life, for money, for love, knowledge, has marked the upward surge of mankind. 生命欲、金銭欲、愛欲、知識欲、全ての強欲が人類進歩の推進力となってきた。

これは世間的に決して受け容れられない考えなのかもしれない。その証拠に、世界では景気が低迷し、街に失業者が溢れる度に、”強欲”は非難の的とされてきた。不動産バブル、ITバブル、サブプライムからのグローバル金融危機、ケースを挙げれば枚挙にいとまがない。

投資家の強欲は、資産効果を齎して世の中の消費を喚起し、技術投資を後押しして情報化社会の到来を促し、低所得者であっても住宅を購入できるような金融イノベーションを実現した。誰もが知らず知らずにその恩恵に預かった。しかし、一度不具合が生じれば、人々は、自分はそんなことは望んでいなかったと口にし、強欲を絶対悪と見做して断罪する。

なんのことはない。全てはご都合主義、即ち欺瞞だ。ということは、逆説的に考えて、自分の欲求に誠実な生き方こそが、肯定されてしかるべきではないだろうか。

――何だよ、その屁理屈。あの作文を書いた時から全く進歩してねぇな、おい

俺は自分で自分の思考に呆れ返った。だが、今はそれでいい。踏み込むことを恐れ、愛想を尽かされる前に自ら身を引けば、確かに俺は楽になれるだろう。でも、それで自分に何が残るというのだろうか。俺が欲しいものはきっと自分の手の届かない所にある。手が届かない葡萄はきっと酸っぱいに違いない。それでも、俺が欲しいのはその酸っぱい葡萄だ。

「…確かに名台詞だよ。でも、それを言った人物は最後に逮捕されたぞ」

「うるせーんだよ。いちいち水差すな」

「…まったく、心底呆れたよ……けど少しだけスッキリした」

「人をボコボコにしてスッキリとか言ってんじゃねぇよ。ジャイアンか」

「…手を出したのは謝る…すまなかった。でも初めてだよ…殴り合いの喧嘩なんて」

それは俺も同じだ。

30年以上の人生で、今日俺は生まれて初めて人の顔を殴った。殴られたことは何度かあったが、後にも先にもこれっきりにしたい。事実、殴られた頬や腹以上に、殴った手の方に何時までたっても抜けなそうな嫌な感触が残り続けている。

「…君に劣っていると感じる…それだけなら良かった。俺に出来ないことを簡単にやってのける比企谷は俺の目標だった。なのに、君が俺と同じような理由で立ち止っているのが堪らなく不愉快だった…自分の限界を見せつけられたような気分だった」

葉山は懺悔するような重々しい口調でそう言った。

「だからマラソンで勝負しろなんて無理難題を吹っかけてきたのかよ」

奴はかつて、俺には同格であって欲しいと言った。それは負けることを肯定するためだと付け足して。どうやら奴にとっての真の理解者たるには、期待を押し付けないだけでは不十分だったらしい。他人の期待に応え続ける葉山の、更に上を行く人物で在り続けなければならないのだろう。

「…ったく、クソめんどくせぇ野郎だ。目標ならもっと高く設定しろよ。伸び代失うぞ」

「いや、俺の見立はきっと間違っちゃいない…君の言う通りにはしないさ」

そう答える葉山の表情は満足げだった。

「…勝手にしろ…っ痛ぇ…こりゃクスリが切れたら痛みで死ぬな」

俺は少しだけ照れながら、吐き捨てるようにそう言って立ち上がる。その言葉に葉山はピクリと反応して同じように身を起こした。

「…クスリ?…ドーピングまでしてたのか…」

ロキソプロフェン、プロピオン酸系の消炎鎮痛剤、集中力向上のためのカフェイン錠剤、痙攣防止のための芍薬甘草、カーボン補給用の糖質配合剤、手に入るものは全て飲んでいた。中でも、消炎鎮痛剤の効果は抜群だった。この距離を走っても、足や横腹が痛むことはなく、体育の授業や密かに行っていた自主トレーニングの際と比較して、飛ぶように走ることが出来た。だが、薬物は効き目が有るほどに副作用もヤバい。鎮痛剤は適度に水分を補給しないと腎臓がやられる可能性があるらしい。

「少しは常識的な思考に従ったらどうなんだ?よく言うだろ…クスリを反対から読んだら…」

「…リスクは…リターンが見合えばテイクする。常識だろ?」

「絶対言うと思った」

俺はそんな会話を交わしながら体についた泥を手で払う。今回のリターンとは、雪ノ下建設に係る情報だ。多少内臓を痛めようと、これで勝てるのなら俺は喜んでそのリスクを取る。だが、俺たちが揉めているうちに、土手の上を何人もの生徒が走り去っていくのを目にした。前回の大会と比べても、大幅なタイムロスだ。腕時計を見ると、既に出走から50分近くが経過していた。最早勝負もへったくれもないだろう。連覇を阻止された葉山は多少不憫だが、これも自業自得だ。

「葉山君!それにそこの君!大丈夫!?…喧嘩したの!?」

不意に土手の上から、女性の大きな声がした。

目をやると、そこには総武高の女教師が立っていた。ゴールした先頭集団から報告を受けて様子を見に来た様だった。彼女は慎重に土手を滑り降り、狼狽した様子で俺たちに事情を尋ねる。

「これは俺が…」

「ちょっともつれて転げ落ちました…全部事故です。だろ?」

おそらく事情を正直に説明しようとした葉山を遮って、俺がそう言った。それに同意せず、気まずそうな表情を浮かべる葉山を見て、教師は怪訝な表情を浮かべている。

「もつれたって…フェンスがあるのよ?そんなことには…」

「トップ争いでヒートアップしたんですよ。優勝がかかってりゃ熱くもなります」

「で、でも二人ともその顔…先にゴールした生徒が…喧嘩だって…」

なおも食らいつく女性教員。だが、その眼は痛々しいグロ画像を見る人の如く、細められていた。

なるほど。確かに葉山の顔を見ると、醜く腫れていた。更に多く殴られた俺の顔は、もはや直視できないレベルなのかも知れない。顔を腕で拭うと血がついていた。やはり自分の鼻腔からは鼻血が垂れていたようだ。

「先生、俺の責任です。俺が先に…」

観念して再び事実を語ろうとする葉山を俺は手で制した。

「悪いもクソもない。落ちた時にお互い運悪く顔を打った。それだけです…それでも俺達を処分しますか?別に構いませんけど…そういうことなら俺も主張させてもらいます。今回、大会の運営には大きな問題がありました。不審者の進路妨害、部外者の乱入…色々あって、とても落ち着いて走れる環境じゃなかった。優勝を目指して真剣に走ってたからこそ、そんな状況に冷静さを欠いたんです。どう考えても学校側の危機管理体制には不備が有ります。今回で総武高の伝統行事を打切りたいのなら、お好きに処分してください」

「…え?…えっと…そんな…でも…」

「……」

極めて機械的に淡々とそう詰め寄ると、教師は言葉を飲んだ。まくし立てた俺を、葉山は信じられないモノでも目にしたかのように、呆然と見る。

「まぁ、不幸な事故だったというわけです。こうなったら俺たちは途中退場する他ないですね。残念ですが、”事故で2名リタイア”ってことで、お願いします」

俺がしれっとそう言うと、教師は納得できなそうな表情を浮かべながらも、無言でコクリと頷いた。半ば自分の眼力で頷かせたようなものだ。魑魅魍魎の跋扈するビジネス交渉で幾多の修羅場を潜ってきた俺にとって、若い女教師を言いくるめるなど、赤子の手を捻るように容易いことだった。

「…いや、俺はレースに復帰します」

「「え!?」」

自らの話術と交渉力を心の中で自画自賛していたところ、突如、葉山はそんなことを言いだした。今度は俺と教師が驚きの声を上げる。

葉山はそれ以上何も言わず、踵を返して土手を登り始めた。しかし、奴は片足を引き摺っている。どうやら転落した際に捻挫していたらしい。

「おい…大丈夫かよ?」

「勝負はまだついていない。ゴールまで諦めない…それが俺だ」

「セリフだけはカッコいいが…頭に枝がブッ刺さっってんぞ」

俺が苦笑いを浮かべながらそう言うと、葉山は髪を掻き毟るように、頭から枝葉を振り落す。俺達は教師を置いて土手を上がり、コースに復帰した。

「…全く、ああも見事に教師を言いくるめるなんて恐れ入ったよ。不審者、部外者、全部君の差し金だろ?呆れてモノも言えない……だが、また比企谷に借りを作ってしまった」

「借り?バカかお前。お前に殴られたなんて話が公になりゃ、コッチがたまんねーんだよ。絶対に俺が一方的に悪者にされる。下手すりゃ教師も俺だけを処分するかもしれん」

「…なるほど。そういうことにしておくよ」

何とか自力で歩こうとしていた葉山に、俺は肩を貸しながら、ゴールまでの道をゆっくりと歩いた。途中、他愛もない馬鹿話をしながら、一歩、また一歩と歩みを進める。そんな中、俺は15年後の世界でこいつと仕事帰りに一杯引っ掛けて帰った時のことを思い出していた。このまま時が流れたら、葉山隼人という人物と、また酒を酌み交わす日が来るのだろうか。そんなことを考えた。

ゴールには大勢の人だかりが出来ていた。タイムは1時間を超えている。既に後から出走した女子生徒も大勢その場にいた。その殆どは不幸なアクシデントで優勝を逃しつつも、ゴールを諦めない葉山に対する声援を送っていた。

その片隅で海老名さんを始め、不穏な空気を身に纏う一部の女子が涎を垂らしながら盛大に盛り上がっていたが、それは見なかったことにしておこう。

ゴールの直前、奴は急に俺の肩から手を離して立ち止まった。

「…おい、止まんな」

俺は振り返りながら葉山に文句を言う。が、次の瞬間、奴は俺の背中をポンと押し出す様にして、俺を一歩先にゴールさせた。

「君の勝ちだ」

「…そうかよ」

そう言った葉山は、どこか吹っ切れた表情を浮かべている。

俺は再び葉山に背を向けて、軽めに片手を挙げる。そして一人、ゲートの先の人混みに紛れるように歩いて行った。

☆ ☆ ☆ 

「ただ今最後の走者がゴールしました!!葉山選手、執念のゴールです!」

俺の背後から大きな声のアナウンスが聞こえてくる。

ドンケツになってもこれだけの声援が送られるとは、大した人気者だ。これが葉山隼人という男の人望なのだろう。リタイアした数名の生徒を除いて、これで全員がゴールしたわけだ。

「うぉぉぉぉおお!!!獲ったどーーーー!!!」

公園内の表彰台には、吉浜が雄たけびを上げながら喜びを口にしていた。長距離が得意と口にしていたが、まさか本当に優勝するとは、意外だった。その様子を眺めながら、俺はフッと笑みを溢した。

そして、その片隅で浮かない顔をしている女子生徒1名を見つける。俺はノソノソと重たい体を引き摺るようにして彼女に近寄った。

「…三浦」

「っ!…誰だし!?」

三浦は俺の顔を見るや否や、そんな声を上げて後ずさる。

「ヒキオだよ…人相まで変わってんのか、俺は…」

三浦からの呼称をあえて自分で口にして俺は独りごちた。

葉山の野郎、どれだけの力で殴りやがった。ゴリラか。

「!?…隼人と喧嘩したって、マジなん?」

三浦はどこか悲しげな表情を浮かべてそう尋ねた。

やはり生徒の間で既に噂になっているようだ。情報が広まるのはあっという間だ。これは後で野郎に治めてもらう必要がありそうだ。

「ちょっとしたレクリエーションだ…三浦、この間は悪かった…」

「…」

俺は大会のアクシデントにかかる言い訳を口にした後、三浦に謝罪した。彼女は切なそうな表情を浮かべて、地面を眺めている。

「…国内最高学府の法学部、それが野郎が行こうとしている道だ」

「!?あんた、それ…」

三浦は驚いたような表情を浮かべて反応した。

「あいつはお前たちと縁を切りたくて文理選択を黙ってるわけじゃない。そんなもので関係は壊れないとも言っていた…お前たちには自分で真剣に進路を決めて欲しいんだろう」

奴との過去の会話を思い出しながら、俺はそう言った。

「…でも…」

俺の口から情報を得て、三浦は一瞬歓喜の感情を瞳に灯すが、今度は後ろめたそうな表情を浮かべて言葉を飲み込んだ。

「いいか、三浦。死にもの狂いで勉強しろ。テニスもだ。3年最後の大会で全国に行け。奴はサッカー部で国立を狙うと言っていた。野郎を手に入れたいなら、奴に追いつき、追い越せ」

「そんなの…あーしには…それに隼人は自分の進路は真剣に考えろって…」

俺も一度は奴の考えに同調した。

進路は後悔しないように、よく考えて決めるべきだと、彼女達に言い放った。

だが、三浦の抱えるこの想いは間違っていない。いつか隣に立つことだけを目的に生きること、その何が間違っているというのか。これは自分と同じような感情を抱いている彼女に対する、ただの依怙贔屓なのかもしれない。だが、彼女のその想いは、報われるべきものだ。例え手に入らなかったとしても、手に入れようと足掻く自由は認められるべきだ。

「お前は葉山のことをよく見ている。あいつが人の期待に応え続ける重圧と常に戦っているのは薄々気付いてるだろ?それを支えたいなら、奴よりも一歩先を目指すことだ」

「一歩先?」

「そうだ。あいつは無理解の肯定なんか望んじゃいない。自分の先を行く人間から否定されて、初めて相手を意識する面倒な奴なんだ…だからお前が高みに上って奴を引っ張り上げてやれ」

「…隼人を…引っ張り上げる…あーしにそんなことが」

「あいつが期待に応えるために目指す進路、部活の成果…全部同じものを手に入れりゃいい。そしたら言ってやれ。"周囲がお前に寄せてる期待なんて、自分にとっては恋愛の片手間で手に入るレベルの下らないモノだった"ってな…そうすりゃ、野郎は間違いなくお前に執着するはずだ…葉山隼人の本質は…生き様を否定されることに喜びを見出す只のドMだ」

「何だしそれ!?……あんた…隼人のこと馬鹿にして…プッ…腹立つのに…可笑し過ぎるし…アハハ」

三浦は噴出すの我慢しながらそういうと、腹を抱えてケタケタと笑い出した。俺はその様子を見ながら安堵した。ひとしきり笑い終わった後、彼女は決意の表情を浮かべて口を開いた。

「…決めた…あーし、隼人と同じ進路を目指す…テニスも全国目指す」

「そうか」

俺は三浦の返答に満足し、笑みを浮かべた。

「…隼人のことは、その、ありがと。ヒキオに借りが出来た。でも…あんたはどうするワケ?結衣の気持ち…それだけじゃない…奉仕部の3人の気持ちは知ってるんしょ?」

三浦は遠慮がちにそう尋ねる。

俺はどう答えるべきか数秒考えて沈黙したが、三浦の真剣な眼差しを受けて口を割った。

「…俺は選ばない」

「やっぱり、あんたも同じなわけ?」

少し残念そうな表情で三浦は再度俺に尋ねる。

「いや、俺はあいつとは違う。俺には俺のやり方がある」

「ハッ!?何だしそれ!?」

「…さあな。秘密だ」

語気を強めた三浦に対し、俺ははぐらかす様にそう言った。

傷付けても、嫌われても、騙してでも。俺がいなけりゃ人生立ち行かなくなる位、介入して、支配して、自分のモノにする。手段は選ばない。それで彼女達を喜ばせることが出来なければ、その時は俺がフラれて終わりだ。課題は明確になった。あいつらにとって不公平な関係でも、それを幸せだと感じさせる環境を作り上げること。後は具体的な方法を模索して試し続ける。それが出来た時、初めて俺は本当の意味で彼女たちに告白できる。

無論、そんな考えを三浦に伝える必要はない。他人の理解は求めない。3人にも解ってほしいなんて思っちゃいない。

「…隼人の件は感謝してるけど…結衣を泣かせたら、あんたぶっ殺すから」

「それは激励として受取っておく。お礼に、お前が葉山に泣かされたら、そん時は俺があいつをぶち殺してやるよ…返り討ちでまたボコられる可能性が高いけどな」

そんな軽口で答えると、三浦は一瞬キョトンとした表情を浮かべた後、急に顔を真っ赤に染めた。

「…っ!こんのドS!フラれてたまるか!…ったく、ヒキオと隼人の相性がいいのも納得だし」

「気色悪ぃな、おい。海老名さんみたいなこと言いやがって」

「うっさい…バーカ!」

三浦はそう誤魔化すように口にした後、身を翻して人込みの中へと走っていた。

その背中には、いつもの彼女の力強さが宿っているように感じられた。おそらく彼女の思い人の立つ場所へ、完走の健闘を称えに行くのだろう。

俺はその様子を黙って見守った後、学校へと歩き出した。

☆ ☆ ☆ 

「痛みが酷くなってきやがった…クソ」

ブツブツと文句を言いながら、保健室へと向かう。どうやら痛み止めの効果が切れたらしい。文化祭で男子生徒に殴られた時とは比較にならない痛みだった。

途中、廊下のガラスに映りこんだ自分の顔を見て、俺は驚愕した。

――マジで人相が変わってやがる

その顔は、12ラウンドを戦い終えたボクサーのように腫れ上がっていた。

「…失礼します」

ガラガラと保健室の扉を開ける。

「っ!?…比企谷君?」

「うわぁ…」

「…痛そ」

保健室には先客、奉仕部の3人がいた。

そういえば、あの時、体力のない雪乃は途中で強制リタイアとなっていた。結衣と沙希はその付添で来たのだろうか。ともかく3人は俺の顔を見るなり驚きの表情を浮かべて声を上げた。

「…勝負には勝った」

「勝負って、マラソンじゃなかったの?そんなになって…とにかく早くこっち来なよ…消毒しなくちゃ」

沙希がそう尋ねながら俺を招く。結衣はその言葉にハッとしたように、立ち上がって棚から医薬品を取り出した。俺はフラフラと治療用の椅子に向かって歩き、腰を掛けた。

「隼人君と喧嘩したってマジ?」

「…殆ど一方的にやられたけどな」

「いい歳して何を考えているのかしら…何故葉山君がそんなことを?」

「…それは聞かないでくれ…その…この前は酷い態度を取って悪かった」

俺が謝罪の言葉を口にすると、ピンセットで消毒液の染み込んだコットンをつまんでいた沙希の手がピタリと止まる。雪乃も結衣もその場で硬直した。

「俺が3人の進路を…選択を潰しちまうんじゃないかと思ったんだ…あの時はどうすりゃいいのか、自分でも解らなくなった」

「…どうせそんなことだろうとは思ってたけどさ」

「それでも、説明するのが最低限の礼儀というものではないの?」

「そうだよ。言ってくれないとわからないことだってあるよ」

3人は俺を責め立てる訳でもなく、呟くような声でそう口にする。彼女たちの瞳は今も不安で揺れているようだった。

「…そうだな…手前勝手な頼みかもしれないが…口にさせてもらう」

「「「…」」」

彼女たちは無言で俺の言葉を待っている。俺は少し考えてから口を開いた。

「…雪乃、結衣、沙希。お前たちの進路、俺に預けてくれないか?もちろん、学びたい事があればそれは言って欲しい。学部の違いも全部考慮して一緒に留学できる先を探したい」

「今、あたし達の名前…」

結衣が俺の言葉に真っ先に反応してそう呟いた。すると雪乃と沙希が少し考え込む様な表情を浮かべる。

「…それは進学だけの話かしら?」

「解釈は3人に任せる」

「…やっぱり卑怯だよ、比企谷」

俺が雪乃の質問に答えると、沙希は続けざまにそう言った。彼女の瞳には安堵と同時に落胆の色が浮かんでいる。結衣と雪乃もそれは同様だった。その失望はやはり俺が選ばないことに対するものだろう。それは分かっている。やはり心の何処かで罪悪感が疼くが、これも必要なプロセスだ。これは俺と彼女達の勝負に他ならない。焦って手の内を晒すことはない。

「…期限延長、ということかしらね」

無言を貫いた俺に対して、雪乃が溜息交じりにそう呟いた。

「ま、元々アタシ達もそのつもりで留学準備してたワケだしね」

「そうだね…どこまで続くかはヒッキーの誠意次第かな」

沙希が同意すると、結衣もそう呟いた。

「…さ、そろそろ消毒しなくちゃ。由比ヶ浜、雪ノ下、ちょっとコイツの体抑えてて」

沈黙の後、沙希が切り替えるようにそう言うと、二人は俺の両手を押さえつけた。

「大げさじゃないか?…っ!!!痛!痛い!ちょっと!!やめ…!!」

その体勢に俺は小さく文句を言ったが、次の瞬間、皮膚の激痛に見舞われる。沙希が手にしているコットンに染み込んだ液体は本当に只の消毒液なのか、疑いたくなるレベルだった。沙希はそれを容赦なく俺の傷という傷に乱暴に塗りたくった。

「ざまぁみなさい…殺菌しているのだから貴方に効くのは当然でしょう、比企谷菌」

「サキサキ、直接かけちゃったら?」

「流石にそれは…それもアリかもね。存在自体が毒みたいな奴だし」

荒療治が終わった後、俺は疲れ切った表情で3人を眺める。納得がいかないまでも、どこか穏やかさを取り戻した彼女達の顔は、俺が欲して止まない宝石のようだった。

 

やはり彼女達との関係は一筋縄ではいかない。これからも、こんな綱渡りのような関係が続くのだろう。渡り切った先に、どのような関係が待っているのかはまだわからない。そもそも、ゴールとなる岸など存在しないのかもしれない。それでも、綱渡りを怖がって放棄することだけはしない。そう決めたのだ。

――コンコン

「…失礼するよ」

不意に保険室内にノックの音が響く。同時にそう断って入ってきたのは葉山だった。

「治療は終わったかい?」

「ああ」

俺は葉山の挨拶に軽めに手を挙げてそう答えた。奴の頬にも湿布の様なものが張られている。どうやら、こいつの方は会場で簡単な応急処置を済ませてきたのだろう。

「…3人とも、すまなかった。比企谷をこんなにしてしまって…」

すると、葉山は雪乃、結衣、沙希に対して深々と頭を下げた。

「…許さないわ…と言いたい所だけれど、いっそ、そのまま殴り殺してくれた方が、私達にとっては都合が良かったのかもしれないわね」

「それは100%同意。少しは痛い目見て反省してもらわなきゃ」

「アハハ…」

雪乃が葉山に対してそんな物騒な言葉を返すると、沙希が同調し、結衣は苦笑いを浮かべた。

「…比企谷、例の件で話が…少し席を外せないか?」

葉山はそんな彼女達の様子を見て、軽く溜息をつくと、遠慮がちにそう尋ねた。

保険室内に緊張した空気が漂う。

「雪ノ下建設の件だろ?ここでいい。3人とももう知ってることだ」

俺はその場で葉山からの説明を促した。葉山は躊躇いの表情を浮かべた後、3人の顔を見る。3人は俺の言葉を肯定するように、真剣な表情で頷いた。

「…そうか…じゃあ話すよ」

俺たちは固唾を飲んで葉山の言葉を待った。

☆ ☆ ☆ 

「…雪ノ下建設からの資金は、証券譲渡を通じて子会社のビークルに分散された後、最後に換金されてケイマン籍のファンドに集約されている」

「ファンド?」

葉山の言葉を反芻するように俺は呟いた。

雪乃、結衣、沙希は再びこの単語を耳にして怪訝な表情を浮かべている。

「YCC Art Investments Limited Partnership…それがそのファンドの名称だよ。登記手続きの一部を請け負った両親の業務データを漁ったんだ」

葉山は自分の持つ情報を俺達に恐る恐る語りだした。

「YCCって何だろ?」

「Yukinoshita Construction Corporation…雪ノ下建設株式会社の略称かしら」

結衣が口にした疑問に対し、雪乃は推論を口にした。

「いや、名称は問題じゃない…それよりも、Art Investments…美術品投資か…蓋を開けてみりゃ使い古された手ではあるが…成る程な」

葉山の言葉に俺はピンと来た。

資産の移転に関して、恐らくこれほど便利なものはないだろう。

「どういうこと?」

「…俺は専門じゃないから美術品の価値なんて全くわからないが、だからこそ逆にそれがマネロンの仕組のコアになるって寸法だろう。美術品は金融商品と違って、明確な市場価値が存在しない。誰にも取引価格の妥当性が評価できないからな」

沙希の疑問に対し、俺は自分の頭を整理するようにそう呟いた。

資産には様々な定義があるが、金融的な考え方でその投資価値を図るには、将来、それを持っていることで生まれるキャッシュフローを想定することが大前提となる。株なら配当、債券なら金利と元本、不動産なら賃料という具合だ。だが、美術品は持ってるだけでは金を生まない。その上、多様性・個別性が強いから似たような商品の取引価格を適用して価値を評価することも難しい。世の中の潮流、製作者の知名度、物の希少性、他者の審美眼…そんな数値化できない定性情報を、感覚的に評価して初めて値がつけられる。そこには特定のスタンダードや共通の目線は適用できない。

「…ごめん、使い古されたってどういうこと?あたし良く分からないんだけど」

「絵画の贈答を通じた違法献金が80年代のバブル期に横行したんだ。政治資金規制法に抵触しないよう、提携画商から絵画を購入して政治家に贈答する。政治家はその画商に絵画を売却する。絵画は画商から画商の元へ戻り、資金は政治家に移転する…これが古典的手法だ」

沙希が口にした疑問に答えるように、俺はそう説明を足した。

資金そのものを無償で手渡せば、それは只の献金である。公共事業への口利きが絡んでいると知れれば、当然不正とみなされる。金の流れを分散させ、取引を介在させることで、そう見えないようにすることがマネロンに共通する基本的な仕組だ。その取引の金額が、資産価値に照らし合わせて明らかに釣り合わなければ、それは不正発見の糸口ともなろう。逆に言えば、資産価値が正当に評価できなければ、発見は困難となる。

「誰もが知る手段で資金を移動させるなんて浅はかなこと、彼らがするのかしら?」

「勿論バブル期の手法をそのまま使ってる訳じゃないだろう。YCCは建前上は運用ファンドだから、商品寄贈の線は無いと見ていい…とすれば、何重もの資本構造を潜らせて洗浄した資金で逆に資産を買取ったと考える方が自然だ」

「どういうこと?」

雪乃の問いに答えると、今度は結衣が混乱したような表情を浮かべた。

「単純に言えば、投資と言い張って富山から高額な値段でゴミを買い取るってことだ」

「…そっか!」

俺の短い説明に対し、結衣は少し遅れて目を見開いた。

「よくこれだけの情報でその解に辿り着くな…感服だよ」

「いや、これだけじゃまだ不十分だ…富山から資産を買取ったという証拠が無い。アートファンドの取引ログ…は無理でも、それに近い裏付けが必要だ」

感心したようにそう口にした葉山に対し、俺は冷静にそう答えた。すると葉山はふっと笑みを浮かべながら、手にしていたカバンから資料を取り出して俺に寄越した。

「…YCC Art Investmentsの定款、そのコピーだよ」

葉山の言葉を耳にしながら俺は資料に目を通していく。定款とは法人設立時に定める、組織の名称、目的、体制、活動内容、構成員、ガバナンス等に関する基本規則を書記した書面である。ファンドであれば、そこには投資戦略、投資方針等を含むことも多い。

パラパラとページをめくっていくと、そこにはファンド設立時のシードアセット(運用開始のタイミングでポートフォリオに含まれる資産)とその購入先が記載されていた。その文面には、蛍光ペンのハイライトが付されている。恐らく葉山が引いたのだろう。

「こいつは……投資銀行傘下の富裕層向け資産運用ファンドか」

俺は興奮のあまり、驚嘆の声を漏らした。

投資銀行は法人向け業務のみでなく、個人富裕層をターゲットとした資産運用ビジネスを展開することが多い。投資商品は様々だが、個別のアカウントに対して個々に運用サービスを提供するものもあれば、ファンドとしてプールした資金を一括で運用するケースもある。

美術品の価格は経済動向にある程度連動するため、世の中の景気が上向けば、その投資ニーズを補足するために、富裕層や中小企業オーナー向けに、特別な運用マネージャーを雇ってファンドを組成する組織が現れると聞く。証券や不動産、インフラといったオーソドックスな商品と異なり、その多くは1億ドル程度の小規模なファンドとなるが、アートファンドの組成が行われたと言ったニュースは俺でもチラホラと目にすることがあった。

「…雪ノ下建設のファンドは、設立時に例の投資銀行が運用する別のファンドから資産を一括で買い受けている。恐らくはそのファンドに、富山っていう議員も出資しているんじゃないか?」

葉山はそう言葉を付け足した。俺はそれに対して無言で頷いて見せる。

投資銀行のマネージするアートファンドが抱えていた不良資産を、雪ノ下のファンドが高額で買い取る。出資者たる富山は万々歳、リターンを達成した投資銀行側も、運用手数料として利益の一部を享受する仕組みだ。これなら富山だけでなく、市川が一連の不正に介在するインセンティブも明確だ。

「俺に分ったのはこのくらいだけど…役に立ったかい?」

「大助かりだ。でかした、葉山」

富裕層向けファンドの取引内容は、宮田さん・槇村さんが内部から調査できるはずだ。

富山個人、もしくは奴の資産運用会社からの出資が確認できれば、今度こそ完全にチェックメイトとなる。

「ゴールはすぐそこ、という訳ね」

雪乃が溢した言葉に、俺たち全員は力強く頷いた。



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35. 比企谷八幡はバレンタインに"あの日の真実"を知る

転職や勤務地変更に伴う引っ越しなど、プライベートな事情が重なって、前回投稿からかなりの時間が経過してしまいました。頭の中にあった設定や、修正しなければ辻褄が合わなくなるような点がいくつかあったのですが、それを忘れてしまう等、酷い有様です。申し訳ございません。引き続き、時間を見つけてちょっとずつ書きたいなと思っています。

さて、世間はバレンタインですね。オッサン八幡もちょうど周回遅れで今回はバレンタインの話です。3人の女子との甘い恋のイベント……なんぞ私に書けるはずもなく、今回も自分の趣味全開でお届けしたいと思います。


葉山からもたらされた貴重な情報を上司二人と共有した数日後。俺は都内の居酒屋にて、槇村さん・宮田さんと互いの進捗報告を兼ねた打ち合わせを行っていた。槇村さん行き付けのシャビーなこの居酒屋は、大学生と思われる若年層が客の太宗を占めており、社会人、特に俺達のようなオフィスワーカーは殆どいない。店内はガヤガヤと五月蝿く、人に話を聞かれる心配もなさそうだ。

 

「…アートファンドの件は何かわかりましたか?」

 

俺はウーロン茶を片手に、そう尋ねた。

 

「…ああ。この件、間違いなく市川が噛んでやがる…元々、ウェルスマネージメント部門でも、美術品で顧客向けの資産運用プログラムを立上げるのには相当揉めたらしい。なんせノウハウも人材もない分野での受託運用だからな。バブル期に美術品に手を出して手痛い思いをした人間も多い中、こんな投資プログラムをぶち上げて、失敗すりゃグループ全体のレピュテーションにも関わる…その反対意見を抑えて設立を推したのが野郎ってわけだ」

 

槇村さんはシシャモを咥えながら不機嫌層にそう答えた。俺が就職した時には既にグループのアジア部門は市川の一強独裁体制が布かれていたが、この時期にはまだ多少なりに派閥抗争が残っていた様だ。

 

「…富山との繋がりはどうですか?」

 

「奴がファンドの大口顧客なのは間違いない。だが、これも同期経由の噂話レベルの情報だ。証拠を抑えるのは…正直難しいだろうな。部門間のチャイニーズウォールは思ったよりも厄介だ」

 

槇村さんは俺の追加質問に、吐き捨てるように答える。システム部門に掛け合って、他部門のメールログを漁ることが可能な人間でもアクセスできないのだろうか。そんな疑問の表情を浮かべた俺を横目に、宮田さんが口を開いた。

 

「Need to knowの原則というやつだ…ウェルスマネージメント部門にとって、運用受託先の顧客情報は最重要機密にあたるということだろう。反市川派がシニアに多い部門となれば他部門に対する警戒は余計に厳重だ。それこそ公的機関の令状でもなきゃ、証拠を得るのは難しいだろうな」

 

「結局、その市川の持ち込んだクライアントの情報をご丁寧に覆い隠してんだから、世話ねぇって話だ…ったく」

 

二人の会話を耳にしながら、俺は静かに空になった料理の皿を見つめる。一歩進んだかと思えばまた停滞だ。中々真相にたどり着くことが出来ないフラストレーションを誤魔化すように、俺は飲みかけのウーロン茶を煽った。ビールのような爽快感もない、何とも物足りない味だった。

 

「あと一歩なんだがな…ウェルスマネージメント部門の人間をこちらに取り込めないのか?あそこの部長は市川をライバル視してるだろ?それに自分の庭でアートファンドの組成をゴリ押しされて、奴を快く思ってない人間も多いんじゃないか?」

「…そのつもりで内部調査を進めてるところだ。だが、組織内には市川の息がかかった人間も多いからな。トップが敵対してようが、あの部署にも市川派は紛れ込んでる…下手に動けば気取られる」

 

同じ組織とは言え、派閥抗争はかくも厄介なものなのか。学校でも会社でも、基本的に派閥というものに属した経験のない俺にとっては、理解し難い事象である。

 

「しかし、そうなるともう手が無いな…アートファンドの存在は投資銀行の関与を示す決定的な材料にはなるが、冨山への金の流れを掴むにはこれだけじゃ力不足だ」

 

「…仕方ない…一つ予定を繰り上げるか?」

 

数秒の沈黙の後、槇村さんがそう呟いた。

 

「予定の繰り上げ?」

 

「いや、繰上げというと語弊があるか…”予定になかった取引”とでも言うか…」

 

槇村さんは忌々しげな表情で自らの発言を訂正する。

 

「…村瀬か」

 

同僚の表情から何かを察した宮田さんは、とある人物の名を口にした。

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

翌日の夕刻、俺は憂鬱な気分で奉仕部のドアに手をかけた。中からは結衣達が談笑する声が聞こえてくる。今日は俺の口から、皆にある種の譲歩を迫るような依頼をしなければならないのだ。皆はこの提案をどう受け止めるだろうか。そう考えるだけで気が滅入る思いだった。

 

「…皆いるか?今日は折り入って相談がある」

 

「相談?」

 

ドアを開けて語りかけた俺の言葉に沙希が反応した。

 

「ああ。例のアートファンドの件は、宮田さんや槇村さんが調査を進めてくれているが、正直、これ以上の情報収集が難しい所まで来てる…」

 

「…どうするの?」

 

結衣が心配そうな表情で尋ねる。

 

俺は、一呼吸おいて、昨日、槇村さん宮田さんと達した結論を口にした。

 

「村瀬と取引がしたい」

 

「…村瀬って、あの投資銀行の?」

 

沙希が確認するようにそう聞き返す。

 

「ああ。元々、決定的な証拠を掴んでから、内部告発で当事者全員の検挙に繋げる予定だったが…そうも言っていられなくてな。だから…奴を裏取引でこちらに抱き込む」

 

「ちょっと待って…裏取引ってまさか…」

 

沙希は睨むような表情で俺を見た。

 

「…単刀直入に言う。情報を吐かせる代わりに、実行犯の一人である奴を見逃す約束をする」

 

「そ、そんなことして大丈夫なのかな?」

 

「そんなの…何のためにアンタが今まで必死になって情報を集めてきたのか分かんないじゃん。それに…雪ノ下だって…」

 

結衣と沙希は非難の視線を俺に向けた。無論、この一件の最大の被害者たる雪ノ下雪乃を慮ってのことだ。俺は、雪乃へ視線を移すと、彼女の反応を待った。

 

「……姉さんはそれで納得しているの?」

 

雪乃は何かを考え込んだ後に、俺にそう尋ねた。

 

「ああ。陽乃さんには今朝、電話で伝えた」

 

俺は事実を淡々と述べた。

「…そう。なら仕方ないわね」

 

「「え?」」

 

ふぅと、小さめの溜息を吐いた後に、雪乃はそう口にした。

結衣と沙希は信じられないといった表情を浮かべて雪乃を見た。

「…富山と市川を検挙しない限り、この事件は解決されない…当の村瀬という人物は2月には海外へ転籍するという話だったわね。現実的に考えて、それまでに証拠を集めることも難しい…腹立だしくとも、結論としてそれしか方法がないのであれば仕方ないわね」

 

「「「…」」」

 

雪乃を除く3人はその言葉を無言で聞く。彼女は俺が用意していた説得の材料を、先回りして一つ一つ口にしていった。

 

「ただ…その代り、その交渉には私も同行させてもらうわ。姉さんと一緒にね」

 

「…分かった。すまん」

 

最終的に彼女は、この提案に一つの条件を付すことで合意を示した。安堵と罪悪感と少しばかりの後悔が自分の心の底に渦巻く。これで用件は終了した。だが、3人への精神的なケアまでは事前に気が回らなかった。嫌な沈黙が部室を支配する。

 

 

――コンコン

 

その沈黙を打ち破るように、不意にドアをノックする音が室内に響いた。

 

「あの〜、すいませ~ん」

ドアをガラガラと開いて入ってきたのは、生徒会長、一色いろはだった。若干間の抜けたその声に、皆、心なしかホッとしたような表情を浮かべつつ彼女を迎え入れた。

 

「ちょっとお伺いしたいんですけどぉ、先輩って甘いもの好きだったりします?」

 

「…あん?なんだよ、急に?…甘いもの…まぁ嫌いじゃないけど…」

 

俺は助かったとばかりに、彼女の提供した話題に乗った。酒飲むようになってから、maxコーヒー以外の糖分摂取はあまりしなくなったような気もするが、基本的に甘いものは嫌いではない。

 

「それがどうかしたの?」

 

沙希はそう言って、奉仕部へ来た目的を話すよう促す。

 

「あ、いえ〜。もうすぐバレンタインじゃないですかぁ」

 

「もう…二月だしな」

 

先ほど雪乃が口にした通り、村瀬出国までのタイムリミットが迫っている。奉仕部員は皆俺と同じことを想像したのか、表情が険しくなった。

 

そんな俺たちの様子を見て、一色は怪訝な表情を浮かべる。

 

「…えっと、どうかしました?」

 

「ちょっといい?」 「ハロハロ〜」

 

一色がそう尋ねた際、開けっ放しになっていた部室のドアから新たな客人が二人入ってる。声の主はF組の三浦と海老名さんだ。

 

彼女たちの登場で、一色の質問は有耶無耶となった。

 

「あんさ、手作りチョコ作ってみたいんだけど。その…来年受験だし…1回くらいなら試しにやってみても良いかな、とか…」

 

三浦が視線を泳がせながら、遠慮がちにそんな相談を持ちかけてきた。

 

「…葉山君なら、チョコレートは受け取らないわよ?」

 

雪乃は三浦の先回りをするように、その一言で切って捨てた。

 

「は?」

 

「え、えっと…どうしてですか?」

 

その言葉に対し、三浦が若干キレ気味の反応を示すと、空気を読んだ一色がそう聞き返す。

 

「揉めるからに決まっているでしょう。毎年、バレンタインの日はクラスがギスギスしていたもの…」

 

「ちっ」

 

――ムカつく奴

 

舌打ちの後、心の中でそう毒づくと、沙希と結衣から氷のように冷たい視線を向けられた。

 

「あんた、死にたいの?」「ヒッキーがやっかむ理由があるのかな?」

 

「…いえ、ないです。すみません」

 

普段よりも数オクターブ低い二人の声が腹に響く。俺は思わず謝罪の体勢に入った。そんなやり取りを嬉しそうな目で見つめる女子が一名。

 

「ムッハー!キマシタワー!ヒキタニ君ってば、嫉妬しちゃった?…女子に!!」

 

「ねぇよ」

 

海老名さんの有り得ない想像に辟易しながら俺はそう答えた。

 

「あの~ちょっといいですか?」

 

遠慮がちに手を挙げて、発言しようとする一色に皆の視線が集まった。

 

それを確認した一色は、ややもったいぶるように2,3回咳込んだ後、ゆっくりと口を開く。どうやら脱線しかけた話の軌道修正を図ろうとしているようだ。

 

 

「そういうことなら、皆さんに耳寄りな情報があるんです!」

 

「「?」」

 

三浦と海老名さんは不思議そうな表情を浮かべて彼女の説明を待っている。一方の俺たちは、また面倒事を持込もうとしている後輩生徒会長の姿に若干の警戒心を示した。

 

「ふっふ~ん!今ちょうど、生徒会主催のバレンタインイベントを企画してるんです!」

 

「…イベント?」

 

雪乃が怪訝な表情を浮かべつつ、得意げな一色に尋ねた。

 

「はい!チョコの量産販…じゃなくて、合同お菓子作り教室とその試食会です!元々、企画を練るにあたって奉仕部の皆さんにヘルプ頼めないかな~なんて思ってたんですけど、それなら葉山先輩もそのイベントに巻き込んじゃえば、自然に受け取ってもらえるんじゃないですかね?ね!?」

 

「「「「…」」」」

 

やはり一色は奉仕部を労働力として駆出そうとしていたようだ。

 

しかし、呆れる。前回はチョコを受取らない葉山に、どうすれば受取ってもらえるかを思慮した結果、奉仕部側からイベント企画を発案した経緯があったことを思い出した。それが今回は、生徒会サイドから自主的に似たような企画を立ち上げようとしているのだ。合同…ということは、今回も海浜総合高校を巻き込む算段なのだろう。

 

――ってかこいつ、チョコの量産販売って言いかけたよな

 

確かに総武高校側の女子面子に斉…折本を加えて、彼女たちの手作りチョコと言って売り出せば、かなりいい商売になりそうな気はする。しかし、またイベントにかこつけた金儲けを企むとは。一色も間違いなく吉浜達に毒され始めている。現生徒会長の彼女を含め、生徒会にはなまじ能力の高い連中が集まっている分、これからもこういった厄介な企画が立案される可能性が高い。

 

「…どうする?」

 

沙希は部長たる雪乃と、談合事件を追う俺に対して、意見を伺った。

 

「そうね…奉仕部は…事情があって今はまだ参加の確約は出来ないし、準備段階から手伝うというのも難しいかもしれないわね」

 

「え!?そんな~!先輩~、何とかしてくださいよ!」

 

一色は抗議するような声を挙げ、俺に縋る様な視線を向けた。

 

「…では、当日時間があれば参加させてもらうというのはどうかしら?一色さんが欲しいのはチョコレート作りの労働力と、指導係といったところでしょう?」

 

「いいんですか!?」

 

一転して譲歩案を示した雪乃に対し、一色は飛びついた。やはり雪乃も一色の算段を見抜いているようだ。一色はそれを見抜かれたことを全く恥じる様子もなく、嬉しそうな表情を浮かべて雪乃に纏わりつく。

 

「ゆきのん…ヒッキーも、大丈夫なの?」

 

「…まぁ、いい息抜きになるんじゃないか?」

 

雪乃の意見を尊重するようにそう答えると、結衣も沙希も表情を緩めた。

 

「…ヒキタニ君と隼人君の友チョコにも期待してるよ…グフフ」

 

「だからねぇよ」

 

眼鏡を怪しく光らせながら笑う海老名さんに対し、俺はやはり辟易しながらそう答えた。

 

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

2月初週の最初の土曜日。

 

俺は作業服のようなジャンパーを着込んで、とある住宅街のマンション前で待ち合わせをしていた。今日は村瀬を捕まえ、取引を持ちかけるつもりである。槇村さん、宮田さんは既に到着しており、心なしか緊張した表情を浮かべていた。

 

「ひゃっはろ~。今日は呼んでくれてありがと、比企谷君」「おはようございます。お待たせしてすみません」

 

集合時間5分前に、雪ノ下姉妹がやってきた。まず俺に軽めの言葉をかける陽乃さんと、槇村さん・宮田さんにも丁寧な挨拶をする姉妹の表情は非常に対照的だった。

 

「いえ、こちらこそ忙しい中すみません」

 

俺の言葉に陽乃さんはヒラヒラと手を振って無言で、”気にするな”と答える。

 

「なんだよ。姉ちゃんの方はやけに楽しそうだな?」

 

「そりゃ、私達相手にやりたい放題やってくれた人間を今問い詰めに行くんですからね~。ワクワクしないわけがないですよ」

 

そう答える陽乃さんの眼光は極めて鋭かった。やはりこの人を敵に回さなくて良かったと、素直に心強さを覚えた。

 

「…姉さん、はしゃぎ過ぎないで。目的は取引をすることなのよ。打ち合せ通り頼むわ」

 

雪乃はそんな姉に釘を刺すように言った。

 

「わかってるよ。雪乃ちゃんってば本当に心配性なんだから」

 

陽乃さんは雪乃の言葉を歯牙にもかけず、村瀬が住まうマンションのエントランスに入っていった。

 

「…比企谷、手筈通りたのむ」

 

「はい」

 

俺は手にしていたキャップを深々とかぶると、共有エントランスに設置されたパネルを操作して、前回の尾行で突き止めた奴の号室の呼び鈴を鳴らした。4人はそれぞれ、パネルについているカメラの死角に隠れる。

 

――ピンポーン

 

チャイムの機械音が流れると、操作パネルに「呼出中」の表示が点灯する。

 

駐車場には奴の車が停車してあり、早朝、奴の部屋からは若干の明かりが漏れているのを確認してある。奴は必ず部屋にいる筈だ。

 

『はい?』

 

パネルの表示が「通話中」に切り替わると、奴の声がエントランスに響いた。

 

「バイク便です。市川様よりお届けものです」

 

俺は短めにそう答えた。カメラ越しに自分の姿が見られるのを感じる。

 

『…』

 

村瀬は無言だ。

 

ほんの数秒だが、この沈黙が俺を怪しんでいるのではないかと思うと、緊張で掌が汗ばんだ。

 

――ガーッ

 

操作パネルの「通話中」表示が消えた瞬間、ガラス張りの自動ドアが鈍い音を立てながら開いた。

 

「…不用心な奴め」

 

槇村さんはパネルのカメラが切れたことを確認すると、エントランスから通用口へと足を進める。

 

「上司から郵便が届けば慌てて開けますよね~私の読み通り!」

 

「お喋りは後だ…乗り込むぞ」

 

陽乃さんの軽口を窘めながら、宮田さんも槇村さんに続く。俺たちはそのままレベーターに乗り込み、奴の一室あるフロアまで上がっていった。そして部屋の前で全員が立ち止る。

 

俺は再び帽子を深くかぶり、ドアのチャイムを鳴らした。

 

奴が室内の廊下を歩き、玄関へ向かってくる音が聞こえる。

 

数秒の後、ガチャリと音を立てながら、ドアが開かれた。

 

「…よう、久しぶりだな」

 

「槇村!?」

 

開口一番、不敵な笑みを浮かべて挨拶をした槇村の姿を見ると、村瀬は慌てて扉を閉めようとする。

 

――ガコッ

 

「させるかよ」

 

だがそれも、槇村さんがドアの間に伸ばした足に阻まれた。

 

「な、何なんだお前!?宮田まで!…それにそのガキ共は!?」

 

村瀬はドアの隙間から俺たちを伺うようにして、がなり立てた。

 

「どうも、雪ノ下で~す。両親が大変お世話になってます、村瀬さん?」

 

陽乃さんはおどけるような口調でそう自己紹介する。だが、その声色は氷のように冷たい。

 

「な、何なんだ!?警察呼ぶぞ!」

 

「いいのか?困るのはそっちだと思うが?」

 

「…ちっ…なんの用だ?」

 

宮田さんの冷静な言葉に観念したのか、村瀬はドアを解放した。その機を逃すまいと、陽乃さんは一歩中へと入った。

 

「私達姉妹がこの場に来てるんだから、話なんて一つしかないですよね?」

 

「知らん!」

 

仁王立ちでそう口にした陽乃さんに対し、村瀬は顔を紅潮させて怒鳴るように言い切った。

 

「…言わなきゃ分からないですか?…ウチの会社に随分と沢山企業買収の話を持って来てくれたみたいで、ありがとうございます…どれも割高で大損でしたけどね」

 

試すような視線を村瀬に向けながら、陽乃さんは話を切り出す。

 

「お、俺の知ったことか!仕事で案をまとめただけで、意思決定は雪ノ下の社長が…」

 

「ですよね~。買収提案も市川さんって人が指示していたと、ウチの両親も言っていますし…」

 

「それを知ってるなら俺に用はない筈だ!あれも業務上の命令だ。今となっちゃ俺個人には関係ない!」

 

「でも、業務で関わったのなら、これが何か知ってますよね~?」

 

その瞬間に村瀬の顔が急激に青ざめた。

 

陽乃さんが奴に見せたのは、あの日、俺にもまだ渡せないと言っていた、談合の入札金額の手書メモの写しだった。それは正に、伝家の宝刀が抜かれた瞬間だった。

 

「…ご希望の新天地にあと少しでご栄転だったのに、残念だったな…これまでのツケを払って貰うぞ」

 

太い声でそう言いながら、槇村さんはドカッとドアを蹴り上げた。

まるでヤクザのような仕草で村瀬を威嚇する。

 

「うっ…」

 

「…悪いことは言わない。知ってることを全部正直に話せ」

 

槇村さんと対照的に、宮田さんが諭すように冷静な声でそう話しかける。

 

「宮田…」

 

村瀬はもう一人の同期を縋る様な視線で見上げるが、その顔には依然躊躇の表情が浮かんでいる。

 

「村瀬!」

 

「俺は何も知らない!確かに市川さんの指示で飛ばしのスキームを作ったが…これは雪ノ下建設にも頼まれたことだ!」

 

その表情からあと一歩で奴が堕ちると踏んだのか、宮田さんが珍しく声を張り上げた。村瀬は観念したのか、堰を切ったように弁明を始めた。

 

「…市川と富山への金の流れを掴みたい。知っていることを全て話せ」

 

槇村さんは村瀬の胸倉を掴んで脅すような口調でそう言った。

 

「俺は本当に知らないんだ!雪ノ下建設が管理する海外トラストの先はブラックボックスになってる!全部市川さんが握ってる!」

 

「ちっ、役立たずが」

 

見苦しく弁明を続ける村瀬に対し、槇村さんは苦虫を噛潰したような表情を浮かべて、掴んでいた襟元を突き放すようにして奴を解放する。

 

「…お、お前たちこそ、市川さんの闇を暴いてどうする気だ!?こんなことを嗅ぎまわって、タダじゃすまないぞ!それに雪ノ下建設だって完全に共犯だ!雪ノ下の娘が俺を告発するのか!?」

 

村瀬は半泣きの表情で、雪乃と陽乃さんに対して再び怒鳴り散らすようにそう言った。

 

「タダではすまないのは覚悟の上です。それでも私達姉妹はこの件を告発する…議員も、投資銀行の方も、両親も…不正は白日の下に晒します」

 

それに対して、雪乃は極めて冷静に、淡々と自分達の考えを告げる。それはまるで村瀬に対する死刑宣告のようだった。

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ!そんなことをすれば…」

 

「すれば、何?ひょっとして、私たちの生活を心配してくれてるのかな~?」

 

今度は陽乃さんは挑発するような口調でそう言った。

 

「そ、そうだ。ご両親が捕まれば君たちだって今の生活は維持できない…君たちはまだ学生だろ?将来の就職だって…」

 

「ふざけないで…そんな不正の上に成り立つ生活など、維持できなくて結構よ。貴方のせいで私達姉妹がどんな目にあっていると思っているの?姉さんは…」

 

陽乃さんの発言に乗っかるように御託を並べ始めた村瀬に対し、雪乃が言い返す。その声は、徐々に怒りの色を帯び始める。

 

「ハイ、雪乃ちゃんストップ……村瀬さん、でしたっけ?どうも、立場を弁えていないようなので、一つ忠告させてもらいましょう」

 

「…」

 

陽乃さんは、そんな雪乃を制止しながら村瀬を見て、ニヤリと笑った。そしてポケットから携帯電話を取り出すと、その画面を村瀬に見せつける。

 

「ここまでの会話は録音させてもらいました~。市川さんの指示で動いたことを貴方は暴露した。これがどういう意味か分かるよね?」

 

「なっ!?」

 

村瀬はその言葉を聞いて硬直した。

 

”自分は何も知らない、全ては上司が計画したことだ"

 

この発言は、市川に対する明確な裏切りと取れる。

 

「…知っていることは全部話しなさい。どの道貴方に未来はないわ。だったら、私たちに少しでも協力した方が身のためよ」

 

雪ノ下陽乃は二十歳には似つかわしくない、極めて冷徹な声でそう言い放った。これは実質的な最終勧告だ。

 

「俺達がお前に接触したことも、市川や雪ノ下建設に報告するのはお前の自由だ…だがそん時は分かってんだろ?お前も無事に香港に行きたいよな?」

 

槇村さんは、陽乃さんの言葉を補うように村瀬を諭す。

 

「…きょ、協力する…させてくれ…」

 

全てを失ったかのように、村瀬は膝から力なく崩れ落ちた。

 

奴の哀れな姿を横目で見ながら、俺は過去の清算へ向けて物事が動き出していると確信する。

 

「まずは、念のため中を検めさせてもらいます。槇村さんはこの人に次の行動の説明をお願いします」

 

俺は村瀬の合意を待たずに奴の部屋に入り込んだ。村瀬は俺を止めようともせず、その場に項垂れたままだった。

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

 

「…分かってんだろうな?しくじれば後は無いと思え」

「ぐっ…」

 

村瀬の家を漁った日の午後、俺達は再び千葉まで戻っていた。

 

奴の部屋には市川・富山の関与を決定付けるような目ぼしい証拠資料の類は無かった。やはり奴が自供した通り、全てをコントロールしているのは市川本人で間違いない。談合とその利益の配分にかかるスキームの構築を、巧妙に分散した上で自らの手駒にやらせていると見るのが筋だろう。

 

俺達は千葉のとあるカフェの前で村瀬を囲う様にしながら、次の計画内容を再確認する。

 

"次の計画"とは、証拠品が何も出ないことを見越して準備していた、村瀬を通じた雪ノ下建設への接触である。

 

 

「お久しぶりですね、村瀬さん」

 

「ご、ご無沙汰しております。急にすみません…」

 

数時間後、村瀬による呼出に応じた雪ノ下建設の責任者がその場に現れた。

 

その透き通るような声の主は、雪乃と陽乃さんの母、その人だ。

 

落ち着き払った女性のとは対照的に村瀬の声は上ずっている。

 

俺は二人の座るテーブルのすぐ近くに陣取り、会話に聞き耳を立てた。

村瀬には通話をオンにした状態で携帯電話をポケットに忍ばせている。現在、4人も店外でその会話を耳にしている筈だ。

 

「…海外の関連会社にご転籍なさる、と伺っていましたが」

 

「はい…今日はその挨拶と、今後のことについて話を進めるよう、市川から指示を受けておりまして」

 

村瀬はやや苦しそうな表情を浮かべながら、予め想定していた問答を口にした。

 

「そうですか。では早速ご用件を」

 

「あ、はい」

 

くだらない挨拶はそこまでだと言わんばかりに、雪乃の母は用件を述べるよう促す。

村瀬は若干慌てるようにして、襟を正した。その緊張感が嫌でも俺にも伝わってくる。奴の迂闊な行動が雪乃の母の不信を買うような形にならないか、気が気ではない。

 

「…公的機関が冨山氏に関する捜査を加速させているという情報を掴みました。現行のスキームがそう簡単に露見するとは思っていませんが、今後、何かしらの対策を立てる必要があると考えています」

 

すぅっと息を吸い込むと、村瀬は語り出した。出会い頭とは打って変わって、説得力のある声色だった。やはり、投資銀行で長年業務経験を積み、槇村さんをライバル視するだけはあると、俺は素直に感心する。

 

「捜査?…そうですか」

 

雪乃の母は、その言葉にピクリと眉を動かした。

 

「ついてはこちらで一旦、過去のYCCによる美術品取引の履歴を整理し、資金迂回ルート変更の是非を検討させていただきたい。加えて、過去の取引の中に、足が付く可能性のあるものが存在しないかを改めて確認させていただきたいと考えています」

 

「…なるほど」

 

「そのために、取引履歴やそれに関わる口座の資金移動記録を一時的にお預かりしたいのです」

 

これは先ほど打ち合わせした通りの内容だ。

雪ノ下の両親が握る情報。それが現状、俺達の最後の望みの綱となる。何としても、その資料を手に入れる必要があった。

 

「…仰ることは理解しました…ですが、YCCの取引はこれまでその殆どが市川さんからの連絡に基づいて行っていたのです。そちらでも概ね把握されているはずでは?」

 

「勿論です。ですが、中には当社の運用ファンドを仲介しない取引も存在したのではないですか?市川も全ての詳細を把握しているわけではありません」

 

その鋭い指摘に対し、村瀬は若干言葉を詰まらせながら、粘るように説明を加えた。

 

「…そうですね」

 

一呼吸おいて発せられたその一言に、村瀬も、横で聞いていた俺も安堵の表情を浮かべる。しかし、それもつかの間、雪乃の母は次の質問を問いかけた。

 

「…村瀬さんは、これまで企業買収の提案のみをご担当されていたように記憶していますが、YCCの取引を見直すのも貴方がご担当なさるのかしら?」

 

「市川と冨山氏が旧知の仲なのは公然の事実です。ですから、御社にご迷惑をお掛けしないよう、ほとぼりが冷めるまで、少なくともこの件について市川と御社の間で直接連絡することは避けた方が良いだろうと、そう申しております。そのために私が代理で参った次第です」

 

詰問するような雪乃の母の声色に肝を冷やすが、これも陽乃さんが考えた想定問答の範疇だった。彼女は本当に大したタマだと思う。

 

今は2月で年度末も近い。大規模な公共事業入札にかかる計画は、少なくとも年度が変わる4月まで公表されることはない。言葉を返せば、その時期まで、雪ノ下建設と市川が直接コンタクトを取る可能性は低いと見ていい。年度内に解決すれば、市川から先手を打たれる前に全て片が付く。そういう公算だった。

 

「承知しました。資料はどのように手配すればよろしくて?」

 

「電子媒体は避けた方が賢明です。現物をお預かりに伺います。なるべく早めが良いかと思いますが…」

 

「でしたら今から、子会社のオフィスまでお越しいただけるかしら?YCCにまつわる書類は全てまとめて金庫に保管させてますので、直ぐにお渡し出来ますわ」

 

その言葉を耳にして、俺はニヤリと笑みを浮かべた。

 

 

その日の晩

雪乃の母とのやり取りの後、雪ノ下建設の子会社から段ボール詰めの資料を運び出すことに成功した村瀬は精根尽き果てた表情を浮かべていた。用済みとなった奴を路上に放置して、俺達は足早に雪ノ下姉妹のマンションへと向かう。その場に、結衣、沙希、平塚先生にも足を運んでもらい、大量の書類との格闘を開始した。

 

「こっちのファイルは終わったよ」

 

「えっと、こっちはどうすればいい?」

 

「書類は順番を崩さないようにファイルに戻して、箱へ仕舞ってもらえるかしら?」

 

「しかし…民間企業というのはこんなに大量の記録を全て保管するものなのか。やはり学校とは違うな…」

 

奉仕部の3人は、このために購入した複数の家庭用のスキャナーを使い、膨大な取引ログのデジタルコピーを余すことなく取っていく。平塚先生は、出入金明細や口座情報が容易に確認出来るよう、データを整理しながらスプレッドシートに入力していった。

 

「これでも少ない方っすよ。海外のプロジェクト投資を始めるときは、関連契約書類だけでもこの倍はありますから。しかも全部英文ときたもんだ」

 

平塚先生の言葉に軽口を返しながら、槇村さんはデジタルコピー済みの原本を読み進めていく。その言葉に、結衣、沙希、平塚先生の3人は驚きの表情を浮かべる。

 

「…あった。投資銀行傘下のアートファンドとYCCの取引ログだ」

 

会話には混じらず、一人黙々と資料に目を通していた宮田さんが、不意に小さな声で呟く。

 

俺は直ぐに葉山が持込んだYCCの定款を取り出すと、宮田さんの手にしていた資料を横から覗き込み、シードアセットに関する規約と突合した。取引ログでは、複数の美術品を一括数十億円で購入している。取引時期を見ても、YCC設立のタイミングで間違いはなさそうだ。

 

「こっちにも大口の取引記録があったぞ。口座情報の裏付けが欲しいな…整理済のリストには?」

 

「こっちが入金履歴です…日付と金額で口座番号は特定できます」

 

「口座番号と開設者の一覧表は平塚さんが整理してくれたシートで確認出来るか?それを突き合せりゃ……ビンゴだ。富山の個人資産運用会社じゃねぇか。ファンドを経由せずに直接金を流すケースもあるってわけか…おいおい、個人への入金もあるぞ。トミヤマリュウイチ…こりゃ多分親族だろうな」

 

「随分大胆ですね」

 

「絶対にバレない自信があったんだろうな。取引された美術品…例えばこの絵画、今ネットで調べたが、ほとんどが無名の画家の作品だ。どう考えたってこんな値段が付くはずがない。こりゃ完璧な証拠だな」

 

俺の発言に、槇村さんは愉快そうに笑って答えた。

この記録があれば、美術品取引を通じて、雪ノ下建設が富山に対し、談合のリベートを支払っている、ということが完全に立証される。

 

「資料のコピーはこれで全部よ…ようやく掴めたわね」

 

コピー作業を終えた雪乃が安堵の表情を浮かべてそう呟いた。

 

これで全て終わる。俺もそう思った矢先、先ほどから俺達がピックアップした資料を整理しつつ、告発文を作成していた陽乃さんが、不意に作業の手を止めた。

 

「…ホントにそれで全部?」

 

そう呟いた彼女の表情は、俺の意に反して暗かった。

 

「まだ足りない情報があるのかしら?」

 

雪乃が怪訝な顔で陽乃さんに尋ねる。

 

「市川だな…あの人の関与を立証するのは村瀬の証言だけだ。完全な物証がない」

 

陽乃さんの懸念を察した宮田さんが説明すると、一転して暗い雰囲気が部屋に充満する。

 

「投資銀行のファンドはYCCにゴミを売却してリターンを出してますよね…成功報酬もそれなりに入りますし、であれば、そのファンドを立ち上げた市川の功績が買われる形となる…インセンティブとしては十分では?」

 

「確かにそうだ。だが、それも状況証拠の域を出んだろうな。仮に告発されれば、今度は態度を一変させて、ウェルスマネージメント部門とか、現場の担当者に責任をおっ被せることだって十分考えられる」

 

「…どこまでも用心深い奴だ」

 

自分なりの考えを述べた俺の発言は、槇村さんに否定された。宮田さんは忌々しげにそう呟いた。

 

「…もう一回全ての資料に目を通します…金額ベースで見れば、取引の大半は富山や投資銀行のファンドのものですが、相手先が良くわからない売買データもまだ多いですから」

 

取引ログにはファンドや、冨山の資産運用会社以外の小口取引が数百件確認されていた。だが、その全てに呼応する取引口座の開設人の情報がファイリングされていたわけではない。YCCも運用ファンドである限り、金を流すための取引を除けば、赤字垂れ流しの状況を相殺するために通常の投資取引を行っていてもおかしくはない。または、YCC設立の裏目的を隠匿するために複数の関係者とダミー取引を行っていることも考えうる。そう言ったノイズを一つ一つ取り除いていけば、市川の尻尾を掴むことが出来るかもしれない。

 

俺は薄い希望を繋ぐ様に、再びドッジファイルを開いていく。槇村さん、宮田さんもそれに続く形でまた資料をめくり出した。

 

だが、手元のログだけでは個別の取引の本質を判断するのは至難の業だ。

その日、とうとう市川の関与を決定付ける証拠を発見することは出来なかった。

 

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

 

数日後、俺達奉仕部4人は市民会館に集合していた。

今日は生徒会主催のバレンタインイベントの日である。

 

あれから血眼になって、雪ノ下建設から手に入れたYCCの取引ログを読み漁ったが、市川の関与を決定付ける情報は見つけることは出来なかった。根を詰めていた俺達を慮ってか、陽乃さんは半ば無理やりこのイベントに参加するよう、薦めてきた。無論、俺達4人はそれどころではないと断ったが、「息抜きしなきゃ、いい仕事はできないよ」という何処かのCMのような言葉で俺達を追いやったのだ。

 

「…流石に気が進まんな」

 

「そうだね」「うん」

 

俺のボヤキに対し、沙希と結衣が同意を示した。

 

「仕方ないわね。姉さんの言う通り、気分転換は重要だもの。今日は調査のことは忘れてイベントに集中しましょう」

 

雪乃は部長らしい言葉で、その場を取り仕切った。

 

不意に、会場の調理室のドアから数名の学生が入ってくるのが目に入った。彼は、こちらの姿に気が付くと、ギョッとした表情を浮かべて視線を泳がせた。

 

――やっぱり呼ばれてたか。

 

その男子生徒は海浜総合高校の生徒会長、玉縄だった。この後、一色達に良いように利用されるのが目に見える。哀れな奴だ。

 

しばらくすると、続々と今日の参加者が集まってくる。そこには葉山や三浦、海老名さんの姿もあった。

 

――三浦、このイベントで葉山に少しでも思いを伝えることが出来ればいいな

 

先月のマラソン大会の出来事を思い出しながら、俺はそんな思いを胸に抱く。

 

「さぁ皆さん、今日は張り切ってチョコを作りますよ〜!あ、あと女子は作ってる所を写真に撮らせて貰うんで、宜しくです〜」

 

一色が高らかにイベント開催を告げた。

 

その補足の言葉を耳にして俺は眉間にしわを寄せる。まさか顔写真を付けて、チョコを売り出す気じゃないよな、コイツ?

 

後々、問題が出ねぇといいけど…

 

「…ねぇ、あんたたち、何個チョコ作る気なの?」

 

不意に沙希が溜息交じりの口調でに一色に質問した。

テーブルには材料の板チョコの山。どう考えても今日の参加人数で考えれば量が多すぎる。

それは俺も下準備を手伝いながら感じていた疑問だったが、敢えて口にしなかったのだ。

 

「あぁ、それ実際に作るのは海浜の男子達ですから、女子は写真さえ撮らせてくれれば大丈夫ですよ~」

 

一色はいつもの調子でそう答える。

やり口が1990年代に横行したブルセラ詐欺そのものである。やだ、なにこの子、怖すぎるんですけど。

 

「…しかし、作ったチョコを売り捌くったって、学校から許可を取るのも簡単じゃないだろ?どうする気だ?」

 

絶対に面倒なことになるから、極力関わりたくない。

ずっとそう思っていた俺だったが、とうとう観念して今回の生徒会の意図を確認することにした。

 

「売り捌くなんて人聞きが悪いよ、比企谷君」「そうそう」

 

俺の質問に答えたのは、元文実エースの一角、西岡と田村だった。

 

「これは募金活動だよ。募金額に応じてチョコを御礼に渡すだけなんだから」

 

「集まったお金から、元手の回収と生徒会活動資金に一部充当して、あとは全額寄付するもんね」

 

「成る程…そういう建前で教師を言いくるめたか」

 

正に言葉のマジックだ。学生間交流の文化イベントを募金活動にも繋げる。チョコはあくまでも募金へのささやかなお礼…赤い羽根や風船を配るのと変わらない。建前としては良く出来ている。

 

「だが、生徒会資金に充当するってのはどうなんだ?そんな許可、本当に取ったのか?」

 

止めておけば良いものを…

結衣たち3人からそんな視線を受けるのを感じつつも、好奇心が上回った俺はもう一歩、生徒会の闇へと切り込んだ。

 

「ぶっちゃけるとハードルレート15%、超過収益の50%を成功報酬にする許可を得てる」

 

今度は吉浜だった。

その端的で一切の無駄のない説明には感心を覚えつつも、俺は頭痛を感じて顔をしかめる。

 

「…どんだけ投資の勉強してんの、お前ら?そんな暇あるなら受験勉強しろよ。ってか、阿漕な商売してんじゃねぇよ。募金要素消し飛んでんじゃねぇか。教師はその分配方式(ウォーターフォール)を本当にちゃんと理解してんのか?」

 

今回、平塚先生はこのイベントに参加していない。前回は生徒会を監督する教師から面倒事を押付けられて参加していたはずだが、最近はその平塚先生も雪ノ下建設の件で随分と骨を折ってくれている。きっと時間の制約からこのイベントについては断りを入れたのだろう。ただ、そういうことであれば、今回の許可を出したのは平塚先生ではないということになる。やる気や能力のない教師であれば、その検閲がザルである可能性は極めて高い。

 

「理解してたら多分許可は下りてないだろうね。申請書もだいぶ言葉を濁して書いたし…書類上の最終的な許可は全部マージンの比率で取ったけど、先生は(仮)予算案の金額にしか注目してなかったから…ああいう大人って、悪質な投資信託とかで絶対損するタイプだよね」

 

西岡が得意げな顔でそう言った。

 

「意図的に利益が殆どでない前提で見積作って、承認自体は超過収益の50%報酬って条件を飲ませたと…」

 

「そういうこと」

 

こいつら、やはり知恵を絞って教師を謀ったようだ。末恐ろしい奴らだ。

 

「ねぇ…ハードルとか超過収益ってどういうこと?」

 

沙希が遠慮がちに俺に尋ねた。

俺は、苦笑いを浮かべながら解り易い例を考え説明する。

 

「…例えば今回、10万円のコストをかけてイベントを開催し、20万円の売上…募金を集めたとする。先にコスト分の金を回収して、残る利益は10万円だ。ハードルレート15%…この場合、利益のうち、まずコスト×15%の15000円までは全額寄付するって訳だ。収益の超過部分…つまり85000円の50%…42500円は生徒会の懐に納まり、残りはハードルと同じく寄付される」

 

「え?なんか、ややこしくない?」

 

結衣が目をパチクリさせながら、俺の説明を反芻するように計算しだした。

 

「何で15%のハードルなんて設定すんのさ?」

 

沙希は尤もな疑問を口にした。ハードルレートがあるせいで、儲けが少なければ、その殆どが寄付に持ってかれることになる。費用が10万円かかっているなら、11万5千円以上の募金を集めなければ、生徒会の儲けはゼロだ。

 

「それをカモフラージュに使ったのね。さっき比企谷君が言った通り、予算上の利益を低く見積もれば、一見、儲けの殆どが寄付されるように見えるでしょう?そういう資料で“慈善活動”であることを強調して教師を言いくるめた…儲ければ儲ける程に生徒会が潤う、という実態を巧妙に隠したのね」

 

不意に雪乃が俺に代って説明した。彼女の認識は正確だった。

 

「「怖!!」」

 

結衣も沙希も同様の反応を示した。何処かの投資銀行による不正スキーム構築を髣髴とさせる見事な計略だ。高校生がここまで考えたことに、俺も驚きを隠せない。

 

「この際だからついでに白状すると、このイベント、元々経理をこっちで担当する代わりに、材料買出しなんかは海浜側に頼んでて、金も立替えてもらってる状態でな…俺達が事前に負担した費用って、実は全体の1割位なんだわ。後で募金で回収した金から費用分は返すって話であっちはすんなり納得したんだけど、利益の処理はこっち任せ…これ実質、レバの効いた信用取引だよな?」

 

「レバ…ニラ?」

 

得意げな顔で暴露する吉浜の発した単語の一つに、結衣が可愛らしい反応を示した。

 

「レバレッジな……お前ら、流石に自重しろ」

 

俺は結衣のために、その単語がなんの略語なのかを耳打ちするが、その説明までしてやる気は起きなかった。

 

本当にこいつら早く何とかしないと、ヤバい。生徒会によるリスクテイクで公立高校が経営破綻する世界初の事例…それが我が母校となる可能性を真剣に憂慮しなければならないかもしれない。

 

ちなみに吉浜の言う、信用取引スキームを先程の例に当てはめると、以下のようになる。

 

海浜総合が負担した9割の費用(9万円とする)。これを募金が集まった後に返済し、儲けは総武高校側で処理をする、ということは、この9万円は実質的な借金と理解される。10万円のコストのうち、総武高校生徒会の出資金は1万円だ。売上20万円から、海浜総合に9万円を返金した後、自分たちも1万円のコストを回収すると残りは10万円。つまり、総武高生徒会は1万円の元手で10万円を儲ける計算になる。ハードルレート15%…1万円×15%で1500円を募金へ…超過収益の98500円の50%で49250円は自分達の懐に入る計算だ。総武高校生徒会が最終的に手にする金額は、海浜総合に費用を立替させた場合、単独で全てのコストを手当てするよりも15%増加する。

 

レバレッジとは、とどのつまり、借りた金を使って投資すれば、勝った時の儲けが更に膨らむ、というものだ。語源はレバー(梃子)。少ない力で大きなものを動かすことに他ならない。今回の例ではそんなに大した効果がないように見えるが、募金という条件を考えなければ、出資10万に対する10万の儲け(リターン100%)と、出資1万に対する10万の儲け(リターン1000%)の直接比較になる。如何に梃子の原理でリターンが持ち上げられているかが明確になるだろう。

 

レバ最強。これだけ見れば誰もがそう思うだろう。だが、ここにはリスクがある。逆に損を出した時のダメージはレバが高い程、深刻になるのだ。

 

例えば売上がコストを割込み、9万5千円だったとしよう。このビジネスは5千円の赤字である。借金は、利子を勘案しなければ元本以上に返済義務を負わない。だが逆に、借金であれば投資主体の資本が毀損しても優先的に返済する義務がある。損得を平等に分け合う"共同出資"とは性質が異なるのだ。従って、赤字が出たとは言え、売上で9万5千を回収した以上、この9万円は海浜総合に返済する必要がある。残価は5千円。総武高校生徒会は1万円を出資したにもかかわらず、5千円しか手元に残らない。ここで算出されるロス率は5000/10000円で50%だ。仮に10万円の費用を総武高校が全て出していたとすれば、ロス率は5000/10万円と、5%で済む計算になる。

 

ということで、レバレッジとは正に諸刃の剣。素人にはオススメ出来ない。

 

「…こういうイベントは、クラウドファンディングで資金を…」

 

ふと横を見ると、得意げな顔でビジネスごっこの会話を展開する玉縄の姿があった。面倒な経理事務を総武高に押し付けたつもりなんだろうが、そのファンディングでうちの生徒会にカモられたことに奴が気付く日は来るのだろうか。

 

「アハハ…お金の話は触れない方が良さそうだね」

 

「…だな」

 

俺達はそっと吉浜、西岡、田村達から距離を取った。

 

「…海外じゃ男性の方からプレゼントするのが一般的で…」

 

資金拠出どころか、労働力としても当て込まれていることに、まるで気付いていない玉縄は、器用に手を動かしながら、依然、得意げに語り続けていた。心底お気楽な連中である。だが、投資銀行のように血眼になって儲けようとする我が校の生徒会と比べ、その会話内容は余程可愛げがあった。

 

「へぇ~」「…そういうもんなの?」

 

結衣や沙希は玉縄の言葉をネタに話題転換を図ろうとした。俺もこれ以上、総武高生徒会の闇に立ち入るつもりはない。その話題に有難く乗っかることにした。

 

「まぁそうかもな。男からチョコとか花をプレゼントしたり、ディナーのエスコートとかが一般的かもな」

 

「じゃぁ義理チョコ配ったりもしないんだ?」

 

「本来、バレンタインは愛を象徴する日なのよ。それを四方八方へ投売りするような行為をするわけがないでしょう」

 

雪乃が遅れて俺達の雑談に混ざってくる。

 

「私も最初は、何で女性がチョコレートを作るのか、良くわかりませんでした」

 

不意にカメラを片手に会場を巡回していた海美が笑いながら語りかけてきた。

 

その笑顔に騙されそうになるが、この少女も元文実のエースであり、現生徒会の副会長、謂わば奴らのブレーン的存在である。今回のスキームを考え出した当事者である可能性すらある。

 

「そうか。中国でもバレンタインは男性主体だもんな」

 

俺は極力ビジネスの方向に話題が飛ばないよう、細心の注意を払いつつ、言葉を返した。

 

「そうですね。でも、バレンタインは中国語で情人節と訳しますから、恋人がいない人は男性も女性も、あまり関係ないと言った方がいいですね」

 

「なんか、それはそれで寂しいね」

 

「大半の男にとっちゃ、そっちの方がまだ平穏だろ?」

 

そう、平穏なのだ。

 

逆説的に、日本のこの風習は明らかに間違っている。

中国では、恋人のいないネット市民が結託して、2月14日に映画館の奇数席だけチケットを買い占める、といったバレンタイン破壊工作が往々にして行われる。そこに男女の壁はない。恋人のいる奴が敵で、いない奴が味方なのだ。素晴らしきかな男女平等主義。

 

「…それは、貴方がチョコレートと縁の無い哀れな男だったから、ではないの?」

 

雪乃が見下すような視線を向けて、冷ややかにそう言った。

 

「イヤイヤ、俺、超貰ってるから。全然僻んでないし」

 

キャバクラの姐ちゃんとかからな。

安っすいチョコをエサに人を呼びつけて、高い酒代払わせるんだ、コレが。

 

「…問い詰めるとこっちの気分が悪くなりそうだからやめとく」

 

沙希は俺の表情から何かを読み取ったのか、辟易しながらそう呟いた。

 

「ねぇ、比企谷?チョコの型余ってない?…なんか、材料の量が凄くて、器材がおっつかないんだよね」

 

横から折本が疲労の表情を浮かべながら、そう尋ねてきた。

 

「ここにあるぞ」

 

そう言いながら、余っていた型を手渡す。

 

「…私、比企谷にチョコあげたことあったっけ?」

 

型を受け取りながら、不意に折本はそう尋ねた。

 

「作りすぎた義理チョコの処分なら手伝うぞ」

 

こいつも、社会人になってから、よく会社でチョコを配り歩き、その余りを俺に処分させていた口だ。それを思い出しながら、笑ってそう答える。

 

「あはは、なにそれウケる。じゃぁ今年は”ちゃんとした義理チョコ”あげる。ホラ」

 

「ちゃんとした義理って、お前な…ま、サンキューな」

 

俺は差出されたトレーに乗っていた可愛らしいチョコレートを一つ摘み、ポイッと口に放り込んだ。

 

「「「あっ…」」」

 

その瞬間、奉仕部の女子三人が抗議混じりの声を発した。

3人の冷ややかな視線を感じて、俺は自らの行動が迂闊だったことを呪った。

 

「…食べたね?」

 

当の折本は、俺がチョコを飲み込んだことを見届けると、ニヤリと笑みを浮かべ、掌を上に向けてそっと俺の方へ手を伸ばした。

 

「500円」

 

「金取んの!?しかも高え!」

 

世知辛い、世知辛すぎるよ、かおりさん。

 

「募金集め…良く分んないけど、総武高の生徒会からノルマ課せられてんだよね」

 

その言葉を耳にして、俺はその場にいた海美に視線を向ける。彼女は、申し訳なさそうな表情を浮かべつつも、俺と目を合わせることなく、逃げるように別の調理台へと移動していった。うちの生徒会の発案と言われてしまえば、俺も抗議のしようがない。

 

「くっそ…まんまと一杯食わされた」

 

俺は渋々財布を取り出し、ワンコインを折本に手渡した。

 

「滑稽ね」「いい気味」「バーカ」

 

3人からの辛辣な言葉を浴びせられ、俺は背中を丸めた。

 

 

☆ ☆ ☆ 

 

 

 

現生徒会の闇の一端を知り、折本に金を巻き上げられ、3人から馬鹿にされると、散々な目にあったが、今日のイベントは中々に刺激的だった。

 

大量の材料が在庫化する可能性が見え出した夕刻、玉縄が「フードプロセッシングマニュファクチャリングエンジニアリングっていうのかな…生産ラインを自動化してオートメーションプロセスを取り入れれば…」と、最後まで自らのスタンスを貫き、意味不明な言葉を呟いたのを、一色は見逃さなかった。

 

「あ、いいですねそれ!」と、大きな反応を示したかと思えば、海浜総合高校生徒会の男子を集め、テキパキと業務分担を決めていった。湯を沸しボールへ注ぐ者、チョコを砕く者、湯煎でチョコをかき混ぜる者、型に流し込みデコレーションを行う者。会議ゴッコが大好きな彼らは、無情にも、ただひたすらに一作業のみを延々と繰り返すラインワーカーへと早変わりする。同時に、それまで使われていた電気ケトルや鍋は全て音の鳴るヤカンに取り換えられた。“ピーッ”という甲高い蒸気音が、全体の作業ペースアップの合図になるためだ。ガスコンロのツマミが、火力調整だけでなく、生産速度調整機能を得た瞬間だった。

 

だが、暫くするとその流作業の生産効率も悪化し始めた。自らが“オートメーションシステム”として扱われる事など想定していなかった彼らのモチベーションが著しく低下したせいだ。ガスコンロの火力を最大の位置で固定していた一色がムッとした表情を浮かべると、すかさず西岡と田村が「働く男子って素敵!」「一番頑張った人とデートします!」といった心にもない台詞で燃料を投下する。俺は「アホか」と思ってその様子を眺めていたのだが、信じられないことに、その後瞬く間に生産性が再び向上したのであった。

 

「…ヘンリーフォードがいかに偉大な人物であったかを物語っているわね」

 

そこにベルトコンベアが存在するかのような作業ぶり。それを目にした雪乃が、感慨深げにそう呟いた。その後、菓子作りは滞りなく進み、山の様にあった材料も全て"製品"へと加工された。総武高校生徒会女子は、「ご褒美は…全員頑張ったので、全員に配ります!」と、海浜高校生徒会男子が自ら製造したチョコを数個配って今日のイベントを締め括る。デート権を得るはずの「一番頑張った人」の存在は闇に葬られた。KPI (Key Performance Indicator)マネージメントの重要性が経営者に認識されるようになって久しいが、仕事に対する正当な評価を得るためには、労働者にとっても自らの業績評価指標を認識しておくことが極めて重要なのだと、この日、俺は思い知らされた。

 

 

 

「ゆきのん。それ、さっきヒッキーにあげたのと同じくらい綺麗なラッピングだね」

 

帰り道

薄暗い歩道を4人で歩く中、結衣がふとそんな質問を口にした。雪乃が手にしていたプレゼントは街灯の明かりに照らされ、包装用のセロファンが綺麗に輝いていた。

 

「誰にあげるの?」

 

「これは…その…姉さんに…」

 

沙希が質問を追加すると、雪乃は恥ずかしそうに答えた。

 

「…まぁ、今日は俺達に息抜きさせてくれたんだ…礼はしないとな」

 

「ええ」

 

彼女は今もマンションに籠って資料の再精査を一人で行っている筈だ。そう考えると、幾分申し訳ない気分になった。それを誤魔化すように、3人と他愛もない会話を続けるうちに、俺達は姉妹のマンションの前までやってきた。

 

マンションのエントランスで雪乃を見送ろうとしたその時だった。

 

「外出していたの?」

 

対面から歩いてきた女性に気付き、雪乃が誰かに声を掛ける。その人物の方向へ目をやると、そこには陽乃さんの姿があった。その手にはA4サイズの紙封筒が抱えられていた。

 

「ゆ、雪乃ちゃん…それにみんなも」

 

陽乃さんは珍しく慌てた表情を浮かべる。

 

「イベントの帰りよ。どうかしたの?」

 

「なんでもないよ。サボって外出したことがバレちゃったか」

 

誤魔化すように笑う彼女の表情には若干の影が見える、何となくそんな気がした。

 

 

――キキッ

 

改めて何があったのか尋ねようと思った矢先、エントランス前の公道に一台の車が停車した。

 

全員の視線がそちらへ向く。止まったのは黒塗りの車だった。それを目にして、俺は思わず身構えた。

 

後部座席から一人の女性が、ゆるりとした仕草でドアを開け、降車する。

この場にいた5人の間に流れる空気が、極度の緊張感を帯びていく。

パリッとした和服姿で身を包むこの女性は、雪ノ下姉妹の母親だった。

 

「陽乃…雪乃も…」

 

「母さん」

 

「診断の結果を取りに行ったのね…その封筒、預かるわね」

 

彼女は俺達に全く興味を示すことなく、陽乃さんに詰め寄った。

 

――診断?

 

その封筒に雪ノ下建設にかかわる資料が入っているものと勘違いしていた俺は、若干の安堵を覚えつつ、狐につままれたような気分になった。

 

「これは私自身のことだよ。先ずは自分で確認するから」

 

「陽乃、これは"家"の問題よ…そう言うなら今日は家に戻ってきなさい。一緒に見ましょう…ね?」

 

何やら抗議した陽乃さんの言葉を遮るように、その女性は更に距離を詰め、陽乃さんの手を取る。どうやら雪ノ下家にとって、非常に重要な書類であることは確かだ。だが、俺には全く心当たりがなかった。

 

「ちょっと、止めてよ」

 

陽乃さんがその手を振り払うと、母親はキッと目を細めて彼女を見る。その表情は機嫌を損ねた時の雪ノ下姉妹と瓜二つだった。沈黙による重たい空気が場を支配する。

 

「…母さん、私の友人の前よ。止めて頂戴」

 

静寂を破るように雪乃が静かに抗議する。彼女は視線を雪乃に向けた。

 

「…雪乃…貴女は、こんな時間まで何をしていたの?」

 

その鋭い視線を受けて、雪乃は押し黙った。

何か言葉を発しようと、その細い喉元が動くが、唇は閉ざされたままだ。

 

「…貴女はそういうことをしない子だと思っていたのに…貴女を信じていたから自由にさせていたけれど…いいえ、私の責任、私の失敗ね」

 

その発言を耳にして、俺はギリリと奥歯を噛みしめた。

自由にさせていただと?ふざけるのも大概にしろ。この人は、これまで姉にしか利用価値を見出さず、雪乃を放置していたのではないか。そして、いざとなればその雪乃をも支配し、誰かに差出すのだ。

 

「それは…」

 

「私が悪いのかしら…」

 

雪乃が言いかけた言葉は、一言でかき消された。その台詞は自省の念を口にする様でありながら、その実、他者からの責めを許さない、そんな一言だった。

 

「雪乃さんを失敗呼ばわりとは、親としては少々高望みが過ぎるんじゃないっすかね?」

 

陽乃さんですら口を閉ざす中、俺は一人、挑戦的な目で目の前の女性を見据え、そう呟いた。

 

「…そう、雪乃を送ってきてくれたのね。ありがとう。でも、もう遅いし、お家の方もきっと心配されてるわ…お友達の皆も…ね?」

 

彼女はそんな俺の言葉など歯牙にもかけない様子で、子供を諭すように柔らかい口調でそう言い放った。その態度に苛立ちを覚えた俺は、更に挑発的な言葉で食って掛かる。

 

「"俺達の"親父やお袋は、多少心配かけようが、きちんと説明すりゃ最後には納得してくれます。家族の信頼関係がありますから…な?」

 

「う、うん」 「そうだね」

俺が目線を向けた結衣と沙希は、その言葉に若干慌てながらも同意を示した。

そして二人も雪乃の母に対峙する覚悟を決めたのか、もう一度力強く頷いた。

 

「貴方は確か…比企谷君ね?…話には聞いているわ。総武高校の文化祭で活躍して、今は雪ノ下建設でバイトしているようだけれど、お仕事は順調かしら?」

 

彼女は突然話題を切り替えて、そんな質問を口にするが、その眼光は鋭さを増していた。

 

「…その件ではお世話になりました…色々といい経験をさせてもらってます」

 

警戒心を高めながら差障りのない言葉で礼を述べる。

 

「…そう…それは結構」

 

彼女は俺を値踏みするような目で眺めた後に、何かを悟ったように静かにそう呟いた。

 

「…ところで、交通事故の傷はもう治ったのかしら?…帰り道、車に気を付けて帰りなさいね。また事故を起こしたら、雪乃も悲しむわ」

 

――!?

 

氷で突き刺すようなその言葉と、その身から発せられた異質なプレッシャーに、俺は思わず身震いした。記憶の彼方にあった、奉仕部入部前の少年時代、その場に停車している黒塗りの自動車に撥ねられた経験がフラッシュバックする。

 

「ちょっと、母さん!」

 

硬直した俺の横で、陽乃さんが母を窘めるように声を張り上げた。

 

「…これは渡しとくよ。だから、今日はそろそろ帰ったら?」

 

陽乃さんはそう言うと、諦めたような表情で手にしていた紙封筒を母に手渡した。当の母親は、最早興味を失ったかの如く、受取った封筒に視線を落とすことなく、陽乃さんを冷めた目で見つめる。そして数秒の沈黙の後、今度は俺達奉仕部員へ視線を移すと、軽めの溜息を吐いて、口を開いた。

 

「…良いでしょう。今日は失礼させてもらうわ…でも、皆さんもあまり遅くならないようにね。どんな事情があろうと、貴方たちはまだ未成年なのだから」

 

そう言い残すと、雪乃の母は踵を返して車に乗り込む。

 

黒塗りのセダンは、闇夜に溶け込むように、あっという間に見えなくなった。

 

 

 

☆ ☆ ☆

 

 

 

「こ、怖かった…」

 

その後、俺達は雪ノ下姉妹のマンションへ上がった。

部屋に辿り着くなり、開口一番、結衣がそう呟いた。沙希も雪乃も疲れきった表情を浮かべている。彼女達も先程のやり取りに相当なプレッシャーを感じたようだ。

 

「アハハ、ごめんね~、ガハマちゃん。うちの母は昔からああだから」

 

陽乃さんは笑いながらそんな言葉を口にする。

 

「でもまさか、比企谷君に対して“殺害予告”までするなんて、私もビックリしちゃったよ…あれは絶対何かに感付いてるね…厄介なことになったなぁ」

 

――やっぱアレ、殺害予告なのか

 

先程の彼女の言葉を思い出すと、冷や汗が背を伝う。流石に冗談だとは思うが、警告めいた台詞であることには間違いない。嗅ぎ回っていれば痛い目を見る、そう言っているのは間違いないだろう。

 

「感付いてるって、あれだけの会話で一体何に…?」

 

沙希は半信半疑の表情を浮かべて、そう口にした。

 

「「私の母だからね(なのよ)?」」

 

重なった陽乃さんと雪乃の言葉が、事の重大さを告げるようだった。

その妙な説得力に俺達3人は押し黙る他ない。

 

「ところで姉さん、あの封筒は?」

 

長く続いた沈黙を破るように雪乃が姉に尋ねた。それは俺も気になっていたことである。

 

「あ~あれ?ただの健康診断だよ。パスポートの更新でちょっとね。雪乃ちゃんが留学するなら、私もついて行こうかなって思って、ちょっと早めに申請しといたの」

 

“何でもない”

極めて明るい口調でそう述べる彼女の発言に俺の耳がピクリと動く。余りに自然な雰囲気で、流れるように言葉を発した陽乃さんに危うく皆騙されるところだったが、それに一早く違和感を覚えた雪乃眉間に皺を寄せて姉に一方詰め寄る。

 

「姉さん…私達の間で隠し事はやめてちょうだい」

 

その説明は明らかにおかしいのだ。あの人は、「これは”家”にかかわる問題だ」と口にした。

 

「…ハァ」

 

冷静な態度を崩さない雪乃を見つめると、陽乃さんは諦めたように溜息を吐いた。

 

「婚前診断ってやつよ。良家に嫁ぐ女が不良品じゃ困るでしょ?だからそのチェックをしろって、実家が煩くてさ。きっと、富山に言われたんだろうね」

 

「ハァ!?」 「何それ、ありえない!?」

 

沙希と結衣が、その説明に瞬時に怒りの反応を示す。二人が怒るのも尤もだ。品質検査を指示するなど、まるでモノ扱いじゃないか。男の俺ですら不快感を覚える程だ。4人の女性、取り分け雪乃と陽乃さんが感じた屈辱感は筆舌に尽くしがたいだろう。

 

「…結婚するつもりのない姉さんが、結果を渡すことを拒んだ理由は?」

 

そんな中、雪乃は最後まで冷静だった。

淡々と事実確認を迫るその様子に、陽乃さんも若干たじろぎの表情を浮かべた。

 

「……流石は雪乃ちゃん、だね…」

 

長めの沈黙の後に発せられた、妹の洞察力を褒めるその言葉。

だが、その言葉には力がこもっていない。陽乃さんの雰囲気がガラリと変わる。その弱々しい姿を目にして、俺は、陽乃さんから俺と雪乃の関係の終わりを告げられた、あの雨の日のことを思い出した。

 

「…あの…俺、席外しましょうか?」

 

何があったのか、事実を確認したくない訳ではない。

だが、あの陽乃さんが、ここまで打ちのめされたような表情を浮かべるような、重大な事象が発生したのだ。彼女の人生に責任を負うつもりのない俺が、好奇心で立入ることは何となく憚られた。

 

「変な気を遣わなくていいの。比企谷君ならもう気付いたんじゃない?」

 

陽乃さんは、俺を見つめるとフッと笑みを浮かべる。

 

その言葉の通り、俺の中で仮説は既に立っていた。それは、あの時雪乃が俺の前から姿を消したことと、現在、雪乃ではなく陽乃さんが政略結婚を強いられそうになっている、二つの事実が抱える矛盾を説明する一つの答えだ。

 

「私ね…どうやら子供を授かりにくい体質らしいの」

 

絞り出すような声で呟かれたその言葉で、自分の仮説が確証に変わった。

 

本来、政略結婚させられるはずであった彼女の不妊体質が発覚し、急遽、雪乃がその替玉として連れて行かれたのだ。思い返せば、陽乃さんによる雪乃への嫌がらせとも取れる執拗な責めはこの時期から加速していた。お前には自分の意志がない、自分で決めろ、自分の言葉を持て、その全ては雪乃に対する警告だったのだ。自分の不妊体質を知った陽乃さんが、その事実を両親にひた隠しにしつつ、それが将来的に露見することを危惧して、妹を鍛えんがために取っていた態度だったとすれば、辻褄も合う。

 

「姉さん…その…」

 

雪乃は実の姉に声をかけようとするが、言葉が見つからない、そんな表情を浮かべる。その声音は震えていた。

 

少子高齢化が進み、女性の社会進出と経済的自立を進める方向へ世の中が動き出している昨今、子供を必要としない夫婦は山のように存在する。子供が産めないからと言って、彼女程の女性がその価値を失うことなどありえないと断言できる。だが、それは客観的な物の見方であって、彼女の主観ではない。

 

「雪乃ちゃん、ごめん。私、あの時ちょっと動揺しちゃって…これじゃ、お姉ちゃん失格だよ」

 

診断結果を渡したということは、政略結婚のお鉢が雪乃に回ってくることを意味する。陽乃さんのその言葉から、雪乃を面倒に巻き込む可能性を作ってしまったことを、酷く後悔していることが窺われた。

 

「私は望まない結婚を受け入れる気は毛頭ないし、そもそも、その計画自体を潰すために談合の真相を探ってきたのよ。何も気にする必要はないわ」

 

俺と同様の思考を辿っていたであろう雪乃は力強くそう言った。その言葉に、陽乃さんは安堵の表情を浮かべる。彼女の顔が徐々に、血色を取り戻していく。

 

「そうだよ!後は市川って人のことさえ分かれば、もう何も問題ないんだから!」

 

「あたしも、力不足かもしれないけど、ちゃんと最後まで手伝うから」

 

結衣と沙希は姉妹を鼓舞するようにそう口にすると、陽乃さんは再び顔を上げた。

 

「ガハマちゃん、沙希ちゃん…ありがと。私も弱音吐いてる暇はないか」

 

「その通りよ、姉さん。何も心配することはないわ…それに、体のことだって…必要ならば将来、私が代わりに子供を産むことだって…」

 

「へっ?」

雪乃は姉を気遣い、気高い家族愛を証明せんとばかりの勢いで1つの提案を持ち掛けた。幾分大胆な提案ではあるが、奉仕部員にそれを笑うことが出来るものはいない。

 

ただ一人、陽乃さんだけが、予想に反して素っ頓狂な声を上げた。

 

「…私、別に子育てするつもりとかないよ?」

 

「「「「え?」」」」

 

先程の悲壮感漂う会話は何だったのだろうか。ただただ、雪乃へかける迷惑を考えて落込んでいたということか。だとすれば、シスコンもここに極まれりだ。

 

「ちょ、ちょっと待ってね。言葉足らずだったかもしれないけど、私、不妊体質の”可能性”が判明しただけで、妊娠するような行為をしたこともないし、必要なら治療方法だってあるだろうし、さっきも言ったけど、そもそも子育てに興味は……雪乃ちゃんってば、大胆になったよね!…代理出産かぁ。雪乃ちゃんが産んでくれるなら、私も、子供、育ててみようかな~」

 

慌てた表情で弁明の言葉を述べ切った後、陽乃さんはニヤリと嬉しそうな笑みを浮かべて全力で雪乃をからかい始めた。雪乃は顔を真っ赤にして俯いている。しかし、この人処女だったのか…思わぬヴァージンカミングアウトに俺も年甲斐なく、若干赤面してしまった。

 

「でも、雪乃ちゃんのお腹を借りる前に、まずは自分で試してみないと。ね〜、比企谷君?」

 

陽乃さんのからかいがエスカレートして、その矛先が俺に向けられた。妖艶な表情を浮かべて手招きするその姿に、俺は身の危険を覚え、思わず距離を取る。

 

――バスッ!

 

「イッタ!何すんのよ!?……これなぁに?」

 

陽乃さんの言葉に腹を立てた雪乃は、彼女の顔に向けて力の限り何かを投げつけた。鼻を赤くしながら、床に落ちたその小包を拾い上げた陽乃さんは、不思議そうな顔で尋ねた。

 

「…バレンタインのチョコレートよ。有難く受け取りなさい」

 

「「「ハハ…」」」

 

姉妹の繰り広げるドタバタ劇に、俺と結衣と沙希は、力なく笑う。

 

――市川の件も、この調子で何とかなるだろう。

目の前の気楽なやり取りが、そんな前向きな思考を取り戻させた。

 

 

だが後日、俺はその考えには何の根拠もなかったと、思い知らされることになる。

 

雪乃は週明けの月曜も、その次の日も学校へ来なかった。

そして雪ノ下姉妹との連絡も、この日を境に取れなくなった。

 

 

 



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