花盛りの鎮守府へようこそ (ココアライオン)
しおりを挟む

少年提督とグラーフ・ツェッペリン

 執務室はとにかく静かだ。執務机に座る少年提督も、特に何も言わずに書類の束を整理し、捌いている。グラーフは少しだけ顔を上げて、チラリと視線だけで彼を見遣った。仕事をしている彼の横顔は、その外見には似つかわしくない程に大人びている。右眼を覆う、拘束具めいた黒い眼帯と、黒の提督服。右手にも、拘束具にも似た手袋をしている。それに色が抜け落ちた様な白髪も印象的だ。静謐な面差しや、やけに落ち着き払った仕種なども、不自然なほどに全く子供っぽさが無い。そんな彼の纏う独特の雰囲気は、この静かな執務室によく馴染んでいる。無駄話をしないグラーフと彼は、滞り無く仕事を進めていた。この調子なら、執務もじきに終わるだろう。時刻も、そろそろ夕方だ。執務室の窓から差す陽の光にも、微かに茜が滲んでいた。グラーフは落ち着いた表情のままで手元の書類をトントンと揃えつつも、内心は焦っていた。いや、割と結構、焦っていた。いやもう、焦ると言うか、凹んでいた。『せっかく秘書艦として此処に居るのに、ろくすっぽ会話が無いのは不味いのでは無いか……?』と。

 

 それはもちろん、余りに気安く接されて、無駄話ばかりで仕事が進まないのでは話にならないが、多少は在っても良い。軽い冗談を言い合うとか、間宮の料理や甘味について語ってみたりとか。そういう、互いの関係の潤滑油になるような雑談ぐらい、ちょっとは在っても良いでは無いか。それが無いのだ。いや、在るには在る。絶無という訳は勿論無い。時報を伝える際には、本当に短くだが軽く言葉を交わしたりはしている。ただ、極端に少ないのだ。何故か。決まってる。グラーフが必要最低限な事しか話を振らないからだ。彼もそんなグラーフに気を遣ってくれているのだろうから、余計に口数が少ない。彼はコーヒーが好きだと言う事も知っていたから、三時のオヤツの時間にはコーヒーを淹れあげようと思っていたが、それすら言い出せなかった。何て事だろう……。グラーフは視線を落とす。

 

 緊張している所為か。今日のグラーフは口を開けば、書類の内容や次の作戦、装備、演習、訓練のことなどしか言っていない。今だってそうだ。仕事を終わらせるには余裕のあるペースなのに、お互いに黙ったままでいる。彼の自然な様子を見るに、別に気まずそうとか言う事は全然無い。気まずさを感じているのは、きっとグラーフだけだ。出そうになる溜息を飲み込んで、またチラリと彼を見遣った時だ。グラーフの視線に気付いて居たのか。彼が静かに顔を上げた。眼が合う。咄嗟に、何か言わねばと思った。しかし、彼の蒼み掛かった昏い瞳で見詰められると、上手く声が出て来ない。そんなグラーフに代り、彼がふっと微笑んで見せた。執務室を優しく染める茜色が、その輝きを増した気がした。

 

「……そう言えば、今日は休憩を入れるのを忘れていましたね」

 

 やっぱり子供っぽくない、落ち着き払った優しい微笑みだった。その表情に、少しだけ胸が跳ねる。そんな自分の動揺を気取られないよう、グラーフは一瞬だけ視線を逸らしてから、肩を竦めるようにして小さく笑みを返した。

 

「その分、仕事が早く終わりそうだ。問題は無い」

 

「はい、助かりました」

 

 彼はまた少し笑みを深めて、手にしていた書類の束を揃えて机に置いた。どうやら、全て片付けてしまったらしい。グラーフが処理すべきものも、手元にあるもので最後だ。秘書艦としての仕事も終わりである。彼はグラーフの前に積まれた、処理済の書類の山を一瞥した。

 

「有り難う御座いました。……今日は、早めに戻って頂いても構いません。ゆっくりと身体を休めておいて下さい」

 

 いつもこうして執務を早く切り上げられるとは限らない。だからこそ、早く片付いたときには、彼は秘書艦の任を解いて、艦娘の時間を拘束しない。彼なりの気遣いである事は、グラーフも重々承知だ。しかし。しかし、だ。これでは、何だか寂しい。折角、秘書艦として此処に居るのに。本当に執務のサポートだけして終わりでは、何とも味気無いでは無いか。「あぁ。確かに、これで片付けるべきものは終わりだが……、」グラーフは言ってから、少しだけ唇を舐めて湿らせて、彼に向き直る。

 

「あ、admiral、その、何か……、して欲しい事は無いか?」

 

「えっ、して欲しい事ですか?」

 

「あぁ、夕食に行くにも、まだ時間が在るだろう?」

 

 正直、かなり勇気が要った。僅かに震える声で言ったグラーフに、彼は少し驚いたような、不思議そうな貌になった。何かを思案するように一度眼を伏せたが、すぐに「い、いえ。もう仕事を終えて頂いていますし……」と申し訳無さそうな微笑みを返してくれた。

 

「そ、そうか。それならば、良いんだが……」

 

 グラーフも、何だかぎこち無い笑みを何とか浮かべて見せて、そう応える。自分の接し方が下手なのもしれないが、やはり彼は甘えてくれないと言うか。気遣ってくれているのだろう。明らかに、ちょっと距離が在る。グラーフとしては、かなりに真剣にしょんぼりしそうになった。いや。いやいや。大丈夫だ。へっちゃらだもん。俯きがちに肩を落としたグラーフが、寂しそうな貌で席を立とうとした時だった。

 

「では……、御言葉に甘えさせて頂いても宜しいですか?」

 

 執務机に座ったままの彼が、グラーフに向き直った。その表情は、先程までのとは少し違う。仕事が終わったからだろう。控えめで腕白さこそないものの、子供っぽさの在る笑みだった。此方を信頼しきった、無防備な笑みだ。口調の丁寧さとチグハグだが、それがまた彼の魅力とでも言うか。アンバランスで蠱惑的だった。グラーフは軽く怯んだが、咳払いをして誤魔化す。

 

「あ、あぁ。何でも言ってくれ」

 

「少々お時間を頂くことになりますが……」

 

「無論、構わない。秘書艦として、ベストを尽くそう」

 

「い、いえ、そのように気張って頂かなくとも……」

 

彼は執務机に座ったままで、また少しだけ笑った。

 

 

 

 

 

 

 その数分後。グラーフと彼は場所を変え、執務室のソファに向かい合って腰掛けていた。彼が、「グラーフの淹れたコーヒーが飲んでみたい」と言ったからだ。高価そうなソファテーブルには、今しがたグラーフが淹れたドイツコーヒーが並んでいる。やはり此方も、高価そうなコーヒーカップである。趣味らしい趣味を持たず、娯楽に金を注ぐことが殆ど無い彼だが、こうしたカップを集めるのは割と好きらしい。金剛のティーカップコレクションに影響されての事だと、彼はまた小さく笑った。そんな他愛も無い話が続いている。グラーフも微笑んでから、自分の分のコーヒーを啜った。

 

 「……本当に美味しいですね」と。彼もカップを上品に傾けつつ、コーヒーの香りを楽しみ、ゆっくりと味わいながら飲んでくれている。ただそれだけの事が嬉しい。胸が躍るようだった。会話を続けながらも、グラーフは彼の仕種の一つ一つに眼を奪われ、何とも言えない気持ちになっていた。彼に気取られないように、少し深く呼吸をする。その時だ。彼の提督服から、pipipipipiと、軽い電子音が響いた。グラーフの艦娘装束のポケットからもだ。提督とグラーフは、互いに顔を見合わせてから携帯端末を取り出した。

 

 この鎮守府では、携帯端末に備わっている“艦娘囀線”という連絡機能が、ある時のイベントを境によく使われるようになったのだと言う。基本的には、LI●Eやtw●tterに似たツールであり、先程の電子音は、タイムラインに新しい書き込みが在ったことを知らせるものだ。書き込んだのは長門だった。IDには、≪長門@nagato1.●●●●●≫の表示が在る。●●●●●の部分はアルファベットの羅列で、個体識別の番号が表示されている。

 

 

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

誰か野獣の姿を見なかったか? 此方からの通話もメールも繋がらん。

恐らく着信拒否されているようだ。

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

本当ですね。私の携帯端末からも繋がりません。

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

今日は長門さんが秘書艦でしたよね。何かあったんですか? 

いや、まぁ、何となく察しはついてはいるんですけど……

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

あぁ。野獣の奴がトイレに行くと行ったきり、もう2時間も帰って来んのだ。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

またサボりですか……。いい加減にして欲しいものね。

 

 

≪時雨@siratuyu2.●●●●●≫

そう言えば、さっき埠頭の方に向うのを見たよ。

釣竿とクーラーボックスを持っていたけど

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

もうサボる気満々じゃん……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あっ、おい、待てぃ! 別にサボってる訳じゃないゾ!

リフレッシュの為の、ちょっと長めの休憩みたいなモンやし。

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

書類が山積みなんだぞ! 魚など釣ってる場合か!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

大丈夫だって、気持ちは執務してるからさ

ヘーキヘーキ、ヘーキだから

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

意味不明な戯言は良いからさっさと帰って来い! 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

慌てない慌てない^^ 一休み一休み^^

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

貴様……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

いやぁ、俺もさぁ、頑張ろうと思ってたんだけどね……。

廊下ですれ違った嵐に、『執務なんて、あのゴリラに任せとけば良いんスよ☆』

って、誘われちゃってさぁ。あっ、そっかぁ(納得)って感じでぇ……。

 

 

≪嵐@kegerou16.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat  ぁちょっと勘弁してくださいよぉ!!?

そんなの一言も言ってないですよ!? やめて下さいよ本当に!!

って言うか、今日は野獣司令と顔合わして無いッスよ!!

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

それに何が『あっ、そっかぁ』だ!! もう許せるぞおい!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

良いだろお前、今日は成人の日だぞお前!

 

 

≪時雨@siratuyu2.●●●●●≫

違うよ、野獣。全然違うよ。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

馬鹿の相手をすると、疲労困憊するわね。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あっ、お前さぁデデン岬さぁ、さっき青葉から写真買ってたよなぁ?

ショタ写真をチラチラ見ながらする演習は気持ち良いか^~? 

Oh^~~?

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

ぉぽ

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

買っていませせんせん

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

そんな操作ミスするほど動揺しなくて良いから(良心)。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

それと、誰がデデン岬ですか。歌の名前は“加賀岬”です。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな。

取りあえず長門。食堂で、バナナ貰ってってやるからさ。

それで機嫌直してくんないかな?

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

貴様、あとで本当に覚えておけよ。

 

 

 

 相変わらず騒がしいというか、あの野獣と言う男は無茶苦茶だ。携帯端末に視線を落とし、タイムラインを追っていた彼も、可笑しそうに小さく笑った。その笑顔に、また胸が軋むように高鳴った。一体、これはどうした事か。グラーフは手に持っていた携帯端末をポケットにしまってから、ソファに深く身体を預けて、細い息を一つついた。

 

 

 グラーフにとって彼は、今まで人類に大きな戦果を与えてきた敬服すべき人物だった。暗い過去を持っていたとしても、自分を召んでくれた恩人でもある。グラーフは彼を信頼していたし、彼もまたグラーフを信頼してくれていた。仲間として、また家族として鎮守府に迎えられた。提督と艦娘という関係だった。その信頼に応え、訓練、演習を積んで、練度も上げて来た。作戦行動では、グラーフも大きな活躍を見せるようになった。グラーフは、彼の下で力を奮えることを誇りに思っていた。そこに、今のような浮ついた感情は無かった。グラーフは徹底して彼の武力であり、仲間であり、部下であり、艦娘だった。友愛では無く、戦果による奉仕に徹して来た。強く、恐れず、従順だった。だが。それが、今では大きく変わった。彼の仕種や表情、視線の先を意識するようになった。なってしまった。前の作戦が終わってからだ。

 

 グラーフは、前の作戦で大きな負傷を追った。轟沈寸前まで行ったところを、一緒に居たビスマルクに救われた。自力で航行することも出来なかったために、ビスマルクに曳航して貰い、何とか鎮守府に帰って来た。まだ意識が在ったから、曳航されている時の自身の状態が、相当に酷いものだった事も憶えている。左腕と右脚の欠損。胸や胴に開いた大穴。内臓へのダメージも深刻だった筈だ。大丈夫よ。しっかりしなさい。ビスマルクが大きな声で叱咤してくれていたのは分かったが、正直、もう助からないと思っていた。これだけの傷だ。母港に帰りつくまでに、この命は尽きるだろうと思っている内に、意識を失った。

 

 次に眼が醒めたのは、工廠にある艦娘用の特別施術室だった。眼を醒ました時のことは、憶えている。施術ベッドに寝かされたグラーフは裸体を晒し、蒼い微光に包まれていた。傷一つ無い状態だった。跡も残って居ない。あれだけ酷かった身体の損傷が、嘘のように修繕・治癒されていた。疲れも感じなかった。ただ、酷く眠かった。身体を動かせない。声も出ない。それだけ、自身の体の損傷状態が深刻だったという事だろう。まどろみの中。何とか視線だけを動かした。グラーフが寝かされている施術ベッド以外には、ほとんど物が無い部屋だった。天井や床や壁には、複雑な術式紋様が描かれていた。殺風景で無機的なのに、何処か神聖な雰囲気を持った広い空間には、一種の霊堂のような厳かさが在った。同時に、穏やかで暖かな空気の流れを感じた。それが、ベッドの隣に立って朗々と詠唱を紡ぎ、両の掌の上に、微光編みの術陣を象っている彼によるものだという事はすぐに分かった。彼も、眼を覚ましたグラーフの視線に気付いて、安堵したように微笑んでくれていた。其処で、また記憶は途切れている。

 

 

 あとで聞いた事だが、高速修復剤や妖精達の力を持ってしても、帰還して来たグラーフの肉体を治癒させることは不可能だったそうだ。損傷状態が激しすぎる上に、時間も経っていた。肉体細胞の壊死が始まり、手の施しようが無い状態だったらしい。しかし、彼は諦めなかった。一週間ほど施術室に篭って施術を続け、グラーフの肉体の回復に心血を注いでくれたのだ。いや、それは回復というよりも、肉体の再生や蘇生、復活や再構築の類いであろう。まさに魔法や奇跡と言ったものに近いが、これこそが、彼の力である。

 

 『優れた芸術家は、石柱の中に居る天使を、外の世界へと解放している』のだと。遥か昔の詩にて、そんな表現が残されている。故に、“造形”とは、その精密さを上げるにつれて、削られた石としての質量が減るのだと。艦娘も同じだ。かつての“艦”という造形から、“艦娘”としての造形を召ぶ“召還”の時、その質量は大きく減少する。生きていないものを生かす為だ。そして、艦娘には“死”という概念が生まれ、“魂”という概念が生まれる。肉体と共に、自我や感情、精神が発生する。無機の金属から、有機の肉体を象る。かつて沈んだ艦の誇りや魂の造形を鋳込み、この世界に招き入れる者達。こうした生命鍛冶と金属儀礼を司る者達を、この世界では“提督”と呼ぶ。そして彼は、特にその術式を扱う能力や資質に長けていた。彼の扱う施術式の精密さは、神懸かっている。襤褸雑巾のようになったグラーフの肉体を、ほぼ完全に近い形で修繕する程に。

 

 

 

「……ご気分でも優れませんか?」

 

 俯いて、彼に助けられた時の事を思い出していると、声を掛けられた。はっと顔を上げると、心配そうな貌をしていると彼と眼が合う。グラーフは咄嗟に首を振った。

 

「いや、そんな事は無い……。Admiralの御蔭で、私の肉体は健在だ」

 

 グラーフは彼の視線から逃れるように、心配は無用だと付け足してからコーヒーを啜った。それが不味かった。少々動揺していた事もあって、啜ったコーヒーが変なところに入った。軽く咳き込んでしまう。それを、グラーフの体調不良だと勘違いした彼が、ソファから立ち上がって、すぐ傍までやって来た。真剣な貌で見詰められて、グラーフは眼を逸らす。汗が出てくる。

 

「……顔が赤いですね。修繕施術の後に、特に身体に変調は在りませんか?」

 

「あ、あぁ。体調は、とても良い。とても良いのだが……」

 

 冷静さを取り繕うものの、グラーフは自分の唇と声が震えるのを感じた。近い。彼が、近い。グラーフの肉体に行った修繕施術は、並みの提督ならば到底扱いきれない規模の精密施術だ。その影響を心配してくれているのだろう。彼は、ソファテーブルを少し移動させて、ソファに腰掛けるグラーフの正面に立った。彼は小柄だが、さすがに今の状態では、グラーフが見下ろされている。彼が、目許を少しだけ緩めた。

 

「簡単にでは在りますが、精査施術を行わせて頂いても宜しいですか?」

 

 この至近距離から聞く彼の柔らかく温みのある声は、何と言うか、凶悪だ。鼓膜を通り越して、脳髄に沁み込んでいくような感覚に襲われた。ゾクゾクとした悪寒が背筋に走る。グラーフは顎を震わせて唾を飲み込み、彼に視線を返した。彼は、微笑んでいる。其処に、打算も悪意も下心も無い。自身の患者を心配する、年老いた医師の様な笑みだった。純粋な真心だけである。それなのに。何を自分は一人でときめいているのか。自己嫌悪に陥りそうになる。断るべきだ。大丈夫だと言うべきだ。しかし、抗えない。「あぁ、すまないな……。宜しく頼む」と。気付けば、グラーフは彼に言っていた。彼が微笑んだままで、頷いた。

 

「では、失礼しますね」

 

 そう短く断った彼は、座っているグラーフの上着に手を伸ばす。そして、そっと胸元を開けるようにして、緩めた。グラーフが首から下げているハート型ネックレスが、その胸元に顕わになる。少しの羞恥に、グラーフは軽く息を吐き出す。人格が破壊されていれば羞恥など感じないのだろうが、グラーフは違う。彼によって“ロック”され、その人格を育むべく丁重に扱われている。兵器では無く、道徳の主体として。個として。彼はグラーフを尊重してくれている。だからこそ、緊張する。緊張してしまう。心臓が暴れている。

 

「もしも何か問題が在ったら、私はどうなる? 破棄されるのだろうか?」

 

羞恥を誤魔化すように、そう聞いた。彼は、少年らしからぬ穏やかな貌のままだ。

 

「その時は、また僕が治癒・修繕を行わせて貰います」

 

「それは頼もしいな」

 

「はい。グラーフさんは僕にとって、大切なひとですから」

 

 思わず、グラーフは彼をまじまじと見詰めてしまった。彼は、さっきまでと変わらない表情だ。穏やかで、冷静で、涼しげな貌だ。歳の離れた姉に向けるような、恋愛とはベクトルの違う、家族への気遣いや優しさが滲んでいる。頭では理解しているつもりだ。しかし。こんなにも胸がざわめくのは何故だ。情けない程に胸が軋んだ。顔が熱い。涙が出そうだ。眼を合わせられなくなって、グラーフはすぐに眼を逸らそうとした。それよりも早かった。彼が、そっと左掌でグラーフの右頬に触れた。ひんやりとした掌だった。

 

 「んっ……!」と。グラーフは小さく肩を跳ねさせた。不意打ちだった。眼が回る。焦りまくる。はわわわわわ……! グラーフが軽いパニックなりそうになるが、その間にも彼は何かの文言を読経のように唱えていた。彼は、黒い手袋をしている右手を、グラーフの胸元に伸ばした。グラーフはきつく眼を瞑り、きゅっと唇を噛んだ。息を呑んで呼吸を止める。彼は、グラーフには触れなかった。その胸元にある“ロック”のハート型に、右手の人差し指と中指の先を、そっとあてがっている。彼が近い。吐息を感じるほどに。熱い。グラーフは呼吸が乱れてくるのを何とか整えようとした。無理だった。「じっとしていて下さいね? すぐに終わります」と。彼が、そっと額を預けて来た。グラーフの額に。

 

 同時だった。彼が右手で触れた、グラーフの胸元にある“ロック”のネックレスが微光を纏う。蒼い光だった。それは力線の術陣回路となってグラーフの胸元から広がり、身体全体に刻まれるようにして奔った。グラーフは吐息を漏らす。まるで、湯船に遣っているかのようだ。肉体が解けていくような感覚と暖かさを感じた。身体から力が抜けていく。彼の額と触れ合うグラーフの額にも、複雑精緻な術紋が浮かんだ。精査が始まったのだろう。グラーフは、彼に身体を預ける。緊張が解れて来る。右頬に感じる、彼の掌の感触が愛おしい。再び、彼が読経のように文言を唱えるのを聞きながら、グラーフは右手を持ち上げる。グラーフの右頬に添えられた彼の左手に、深く右手を重ねた。その感触に、とても安心している自分が居た。彼が精査施術を行う暫くの間、グラーフの意識は覚醒と催眠の最中に在った。

 

 どれほど時間が経ったのだろうか。数分か。数十分か。正確には分からない。微睡むような心地良さの中にあるグラーフに、「……終わりました。お疲れ様です」と。微笑んだ彼が声を掛けてくれた。彼は一歩身を引いて、グラーフからそっと額を離した。胸元にある“ロック”のネックレスに触れていた、彼の右手も離れる。グラーフの右頬に触れていた彼の左手も離れそうになった。グラーフは思わず、彼の左手を強く掴んでしまった。同時だった。執務室の扉がノックされて、すぐに開いた。

 

「失礼するわね、提督!」

 

勢い良く執務室に入って来たのは、にこにこ顔のビスマルクだった。

 

「今日の夕食なんだけど、グラーフ達と一緒に鳳翔のところに……」

 

 今日の秘書艦がグラーフである事も知っていたから、夕食に誘いに来たのだろうが、タイミングが最悪だった。ソファに腰掛けたグラーフが胸元を開けたままだ。おまけに、正面に立っている彼の左手を、自分の頬のあたりでしっかりと握っているという状況だ。

 

 執務室に入ったところで、此方を見詰めるビスマルクの表情が凍り付いていた。と言うかグラーフの方も、ついさっきまで被術状態にあったのだ。軽い微睡み状態だったし、正気では無かったと言うか、普通では無い状態だった。そう。これは、何と言うか。事故だ。グラーフは慌てて彼の手を放して、「これはっ、違うんだっ!」と。ソファからガバッと立ち上がる。

 

「いや、あの……、私は何も見てないって言うか……。その、ごゆっくりね?」

 

 一方で、ビスマルクはショックを受けたような、それでいて怯えたような半泣きの貌で踵を返した。ビスマルクが彼を慕っていることくらいは知っていたので、グラーフも焦る。

 

「話を聞いて欲しい、ビスマルク! 貴方は勘違いをしている!」

 

「やだ、ビス子やだ! 怖いから聞きたくない!」

 

 先程の衝撃的光景に錯乱しつつあるのか、半泣きのままでビスマルクは駄々をこねるみたいに言う。その後、彼が状況を説明してくれていなければ、もっと話はややこしくなっていただろう。ビスマルクもほっとした様だし、グラーフもどっと疲れたものの、誤解は解く事が出来た。仕事も終わっていたので、彼はビスマルクの誘いを快諾し、ビスマルク、プリンツ、グラーフ、それから、レーベやマックス、呂500達と共に、鳳翔のところで夕食を摂ることになった。

 

 執務室から鳳翔の店に向う事になり、ビスマルクが携帯端末でプリンツ達に連絡を取り合っている時だ。「コーヒー、ご馳走様でした。とても美味しかったです」と。廊下を並んで歩いていた彼が、グラーフに微笑み掛けてくれた。不覚にもドキッとしてしまう。

 

「そ、そうか。喜んでくれるのなら、また淹れさせて貰おう」

 

「はい。是非、お願いします」

 

 グラーフは彼へと笑みを返してから、またすぐに眼を逸らした。廊下を歩きつつ、右手を軽く握ってみる。右手には、まだ彼の左手の感触が残っている。甘美な感触だった。額や右の頬にも、彼の肌の感触を鮮明に思い出せる。至近距離で感じた、彼の体温や息遣い。石鹸の香りに混じった、微かな彼の匂い。無意識のうちに、鼻から深く息を吐き出していた。頭を冷やさねばならない。いけない事だとは頭で理解しているのだが、下腹部の辺りに、切ない熱さが篭ってくる。身体が何だか熱い。グラーフは彼に気付かれないように、チロリと唇の端を舐めた。今日は、眠れそうに無い。そんな気がした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鈴谷と嵐から見て

 鈴谷は食後のお茶を湯吞みで啜って、心地よい満腹感に満たされながら、ほっと息を吐きだした。その向かいに座っているのは野獣だ。野獣はいつも通り、提督服では無い。海パンと白Tシャツ姿で、「あぁ^~、うめぇな!」と、鈴谷と同じく湯吞みで茶を啜っている。昼食で混み合う時間を避けて、鈴谷は野獣と一緒に食堂に足を運んでいた。今日は執務が長引いたので、食事を摂るタイミングをずらしたのだ。食堂はがらんとしており、割とゆったりと出来ている。今日の野獣は特にサボるでもなく真面目に執務に専念してくれた御蔭で、何とかキリの良いところまで仕事は進んだ。昼休憩を多少長くとっても問題が無い程度には片付いている。鈴谷は、正面に腰掛けて居る野獣に、軽く笑って見せた。

 

「長門さんが秘書艦の時も、今日みたいにしてれば良いのに」

 

「前の時はもっと仕事の量も少なかったから、ちょっとした休憩も多少はね?(タスク管理先輩)」

 

「いや、仕事が片付くかどうかじゃなくて、勤務態度の問題だから。まぁ……」

 

 野獣が無茶苦茶なのは、今に始まったことじゃないけどさ。肩を竦めるように鈴谷はそう言って、またお茶を啜った。「おっ、そうだな!(何処と無く誇らしげ)」と、すっとぼけて得意げに口元を歪めている野獣に、鈴谷も軽く笑う。そういえば、こうして二人で過ごす時間は久ぶりだ。何だか、心が弾んで来てしまう。そんな自分の単純さを自嘲するみたいに、鈴谷はもう一口茶を啜った。そして、椅子に座りなおして頬杖をつく格好になって、野獣を見詰めた。「ねぇ、野獣」。軽く呼んでみた。野獣の方は足を組んで、冴えない貌だ。片方の眉尻を下げて、もう片方の眉を持ち上げている。

 

「何だよ?(素)」

 

「別に~? 呼んでみただけ」

 

 にへへーっと嬉しそうに笑みを零す鈴谷に、野獣は何とも言えない貌になって、鼻を鳴らしながら頭の後ろで手を組んだ。からかってくる妹をあしらう、歳の離れた兄みたいな態度だ。構わず、鈴谷は「ねぇねぇ」と、甘えるみたいにまた声を掛けた。

 

「試しにさ。もの凄い真面目な感じで今日1日過ごしてみてよ?」

 

「真面目って何だよ?(哲学) 俺は何時だって真剣なんだよなぁ……(半笑い)」

 

「野獣、そういうトコ。分かる? そういう茶化したりとか、そういうの」

 

「俺みたいにな自分に真っ直ぐな男は、不器用だからさ。自分を偽れないんだよね(確固たる意志)」

 

「あのさぁ……」鈴谷が若干半眼になった。

 

「わかったわかったわかったよもう!(面倒くさそうな貌)」

 

 

 しょうがねぇなぁ……(悟空)と零しながらも、野獣は椅子に座りなおして姿勢を正す。それから背筋を伸ばして瞑目し、すぅっと呼吸を整え始めた。この男は何をするつもりなのか。野獣が武術に長けているのは知っているし、鍛えられた肉体には幅も厚みもそれなりに在るからだろう。そうした静かな姿にも、不思議な貫禄というか迫力があった。鈴谷も思わず背筋が伸びる。数秒。野獣は瞑目したままで呼吸を整えてから、眼をゆっくり開き、真面目くさった貌で鈴谷を見た。鈴谷はビクッと身体を跳ねさせてしまう。野獣が一つ頷いた。

 

「鈴谷さんは、もう戻ってくれてかまいません。昼からの執務は、俺が一人でやっておきます」

 

「他所他所し過ぎィ!!? 急に何でそんな他人行儀なの!? 傷つくわ^~……」

 

「別にどうもしませんよ。では忙しいので、これで失礼しますね(そそくさ)」

 

「ちょっと待って涙が出て来た! ゴメンもう止めて、泣いちゃう!!」

 

「何だよもう我が侭だなぁ……、真面目にやれって言ったのはそっちだルルォ?」

 

「ベクトルが全然違うよ! って言うかもう良いよ! 普段の野獣で良いからもう!!」

 

 不覚にも半泣きになってしまった鈴谷は、目許を拭って椅子に座りなおした。椅子から立ち上がっていた野獣は、そんな鈴谷の頭をぐりぐりと撫でる。「んにゃっぴ、自分の以外の誰かにはなれないですよね、取りあえず(真理)」父性を滲ませた緩い笑みを浮かべて、ため息を堪えるみたいにしてまた椅子に座った。頭を撫でられてくすぐったそうに首を竦めていた鈴谷も、「そうかも」と苦笑を返した。鈴谷は、確かに野獣と仲が良い方だ。それは間違い無い。でも、それは歳の離れた兄妹、或いは、父と若い娘ぐらいの距離感だ。

 

 艦娘達に徹底した効率を求め、兵器として完成させる為に必要な処置である、自我と思考の剥奪。それを行わず、艦娘達の“個”と“意志”を尊重した野獣は、徹底して健全だし、野獣自身、他の艦娘に対しても誰かに手を出したりすることは皆無だった。父のような兄のような、それでいて仲間でもある癖に、突拍子も無いことをしでかして周りを振り回す。それがこの鎮守府での野獣の立ち位置だ。

 

 鈴谷の頭を撫でた野獣がまた椅子に腰掛けて、足を組んだ時だった。「こんちゃーッス!」と、鈴谷達の近くで声がした。元気が良いと言うか、気合の入った声だった。視線を向けると、敬礼している嵐が居た。隣には同じく、「お疲れ様です」と微笑みを浮かべている少年提督が、軽く礼をしてくれた。鈴谷も立ち上がって敬礼を返し、野獣は座ったままで緩く笑って「おう」と軽く手を振った。どうやら少年提督と嵐は、今しがた食堂に来たようで、トレイも何も持っていない。「今からお昼?」と、座り直した鈴谷が嵐に聞いてみる。嵐が苦笑を浮かべた。

 

「はい。俺、書類仕事とかちょっと苦手で、指令の足引っ張っちゃって……」

 

「そんな事はありませんよ。とても助けて貰っています」

 

ちょっとバツが悪そうに言う嵐にも、彼はそっとフォローを入れて笑みを深めた。

 

「実際、午前の仕事は捗りました。山は越えましたし、午後からはもう少し余裕が出ると思います」

 

「……恐縮ッス」 

 

 身長的には彼よりもちょっと背が高い嵐が、いかにも体育会系っぽく彼に頭を下げる。彼は優しげに微笑んだままだ。まぁ彼と一緒に居れば、実務に関しての教育はしっかりしてくれるだろうし、実直な嵐のことだ。すぐに慣れるだろう。そんな、ちょっとお姉ちゃん的な気持ちで鈴谷が居ると、「あっ、そうだ(唐突)」と。座っていた野獣が携帯端末を海パンから取り出しつつ、まぁ座ってけよと少年提督と嵐に、隣のテーブル席に着席を促した。どうせ食事をするのだから、取りあえずと言った感じで二人も鈴谷達の隣の席へと腰掛ける。野獣は携帯端末を操作しつつ、鈴谷達を順番に見て口元を歪めた。

 

「前の通販用の商品が割と好評だったから、また色々と案を考えててさぁ(企画先輩)」

 

「前のって……、クリスマスの時の奴?」

 

 鈴谷は眉を顰めて聞いた。嵐も何だか不味そうな貌になっている。少年提督だけは、穏やかな表情だ。「そうだよ(肯定)」と、野獣が笑顔で頷く。人の少ない食堂の空気が、若干重くなった気がした。そもそも野獣が勝手に始めたことなのだが、『艦娘達の存在を、社会の人達により身近に感じて貰う』という名目の下、本営にも一応の許可を得ているらしい。まぁ野獣自身、上層部に親しい人物が居るからだろうとも思うが、利益もそこそこ出ている様で、御咎めも今のところは無い。ただ、野獣の着想と行動力が災いして、艦娘達をモチーフにした商品の多くが、もう何とも残念な商品名やコンセプトだったりするのだ。

 

「まともな奴が全然無かったじゃん……」

 

鈴谷が嗜めるように言うと、野獣が肩を竦めて見せた。

 

「でも商品自体は、全部売れ切れだったんだよなぁ。やっぱり艦娘達は可愛いしカッコいいから、人気あるんすねぇ(分析)」

 

 野獣の言葉に、「えぇ……(困惑)」と、隣のテーブル席に座っていた嵐が難しい貌で呻った。割と感性がぶっ飛んでいる少年提督の方は、誇らしそうな笑みを讃えている。「ほんとぉ?(疑いの眼差し)」鈴谷は、あからさまに怪しんだ貌で問う。やはり、携帯端末を弄る野獣は軽く笑うだけだ。

 

「当たり前だよなぁ? だからこうして、お前らからもアイデアを吸い上げようって感じでぇ……。ついでに、夜にはスレッドも立てとくからさ。忙しい奴らの為に(優しさ)」

 

 

 時間が空いた艦娘からアイデアを集めようと言う事か。商品の種類に厚みを持たせようという魂胆らしいが、果たして野獣の感性というか眼鏡に適う意見が出るのかという点については甚だ疑問だ。徹底してワンマンでやられるよりはマシかもしれないが、どうせ却下されまくるだろう。鈴谷が顎に手を当てて色々と考えていると、「あっ、そうだ。……俺、メシ、貰って来ます。司令は何にされますか?」と、嵐が席を立った。彼は微笑んだ。

 

「あぁ、すみません。では、サンドイッチをお願いします」

 

「了解ッス! ちょっとだけ失礼します!」

 

 嵐は少年提督だけで無く、野獣や鈴谷にまでビッと敬礼してから、駆け出していった。うーん、生真面目だなぁ、と鈴谷は感心してしまう。鈴谷自身、召還された時は『チィース☆』とか挨拶してる身なので、余計にそう思う。気付くと、野獣が此方を見ていた。嫌な予感がした。野獣がニヤニヤと笑って居たからだ。

 

「なぁ、鈴谷ァ! お前もさ、見習わないかんのとちゃうか!?(指導)」

 

「えぇ~……(難色)。でもなんか、こう……、似合わないって言うかさ。す、鈴谷のキャラと違うじゃん?」

 

「まだやってもない事ダルォ? 何だってお前はそう、今風ギャルのキャラに対して根性が在るんだ!?(意味不明)」

 

「いや、何言ってるかちょっとわかんないけど……」

 

「ん? 今なんでもするって言ったよね?(幻聴)」

 

「言ってないし!」

 

「お待たせしました、司令! どうぞ!」

 

 鈴谷と野獣が馬鹿な事を言っている間に、嵐が二人分のトレイを持って帰って来た。彼がお願いしていたサンドイッチとコーヒーのセット、そして自分の分であろうカツカレーだ。冷めない内にという事で、野獣は二人に食べるように促した。二人は、頂きますと手を合わせる。上品にサンドイッチを銜む彼と、ガツガツと豪快にスプーンを運ぶ嵐は対照的ではあるものの、微笑ましい。横目で二人を見ていた野獣は、再び手にした携帯端末を操作し始めた。

 

「話を戻すけどさぁ、次の商品アイデアについてなんだけど。お前も何か在るんだろ? くれよ……」

 

「そんな急に言われたって出て来ないから。……ある程度まではもう、そっちでも企画作ってるんでしょ?」

 

 用意周到なこの男の事だ。どうせ、それなりには案と企画を固めている事くらいは鈴谷も読んでいた。「まぁ、多少はね(先読み先輩)」と、野獣は携帯端末を操作しつつ似合わないニヒルな笑みを浮かべた。

 

「まぁ、模型とかは人気だし、この辺りは新しいラインナップは欲しいよなぁ?」

 

野獣は言いながら、隣のテーブル席に座る少年提督を一瞥した。彼が頼んでいたのは小振りなサンドイッチなので、もう半分以上を食べ終わっていた。コーヒーを啜っていた彼は、野獣の言葉に、緩く頷いて見せた。

 

「そうですね。“連装砲ちゃんストラップ”などは、前も人気でしたね」

 

「じゃあ次は砲身の数も増やしてさぁ、12.7cm114514連装砲ちゃんとかどうっすか(天佑)」

 

「多分、毛虫かウニみたいになっちゃうと思うんスけど……(名推理)」

 

 カレーを食べていた嵐が、深刻な貌で動かしていたスプーンを止めている。「ビジュアルは相当キモイと思うな……」と、渋い貌になった鈴谷も嵐の言葉に続く。一方で、野獣の方は笑顔のままだ。

 

「あとは子供向けの、オリジナル絵本とかもお願いされてるんだよね?(特別注文かしこまり)」

 

「えっ、マジで? 責任重大じゃん……」と、鈴谷は素で聞き返してしまう。

 

「だから流石の俺も、ちょっと困ってんだよなぁ……(素)」

 

「何か目新しい試みというのは、難しいものですね」

 

 彼は思案するように、コーヒーを持ったままで視線をテーブルの上に落としている。そんな彼の正面に座り、もうカレーを半分ほど平らげてしまっている嵐も、コップの水をゴクゴクと飲んでから、野獣へと顔を向けた。

 

「グッズって言うんスか、そういうの指令達が自前で造るんスよね? 手間掛からないッスか」

 

「まぁ、工作とかの技術系で凄い奴もこの鎮守府に居るし、まぁ多少はね?」

 

「あぁ!」と。嵐が納得の言った貌になって、感心したみたいに何度も頷いていた。

 

 この鎮守府に配されている明石や夕張は、人格・自我の成長とその練度の高さも備えた凄腕の技術者である。しかし、この二人の上を行くのが、同じくこの鎮守府に居る少女提督である。彼女は提督適正こそ低かったものの、その技術力を評価されて“元帥”の称号を得た人物でもある。以前、とある騒動が在った際に、少年提督と野獣が助けたのを切っ掛けに彼女はこの鎮守府に身を置くようになり、今では深い縁を結んでいる。少女提督の初期艦であったという野分は、人格や自我を破壊される事無く今に到り、嵐とも仲が良かったりする。「ホントに、凄い人揃いッスねぇ」と、しみじみと言いつつ、嵐は残ったカツカレーを平らげていく。「おっ、そうだな!(得意げ)」と嵐に応えた野獣は、何かを思い出したようにニヤッと笑った。

 

「なぁ、嵐ィ? そういやこの前さぁ、夕暮れの埠頭でコイツと抱き合ってたよな?(真相究明先輩)」

 

「んぶぅふっ!!? ゲホッ!!?」

 

 カレーを食べ終わり、最後にコップの水を勢い良く飲んでいた嵐が、盛大に噎せ帰った。相当苦しそうだ。嵐は口元を拭いながら、「ゴホッ! あぁ! すみません指令!!」と、正面に据わる少年提督に謝ってから、猛然と立ちあがった。真っ赤な貌になって野獣に向き直る。めっちゃ焦った貌になっている。

 

「あれは……ッ、違うんスよ!! 抱き合ってたって言うか、その……! 眼にゴミが入ったんで、あの……っ!!」

 

「照れんなよ嵐! ロマンチックで、なかなか絵になってたゾ♪(いじめっ子)」

 

「野獣、混ぜっ返すのはちょっと止めよっか」

 

 鈴谷がすかさずストップを掛ける。このまま野獣が畳み掛けてしまうと、本当に嵐が泣いてしまう。その時の状況を説明すべく彼が苦笑を浮かべつつ、嵐を一瞥してから、野獣と鈴谷を順番に見た。「丁度、遠征から帰って来られた艦隊の皆さんを、一緒に出迎えに行った時でしたね」相変わらず、落ち着き払った仕種だ。

 

 

「軽いハグと言いますか、鎮静施術の為でした。夕焼けを見て、艦船の頃の記憶を強く呼び起こされたのだと思います」

 

「昔の赤城と、まぁ似たような感じか?(深慮)」

 

野獣が不意に真面目な貌になって彼に聞いた。彼は頷く。

 

「嵐さんも、“個”としての感受性が豊かなのでしょう。少し感情が不安定になっていた様ですが、今はもう大丈夫なようで、僕も安心しています」

 

 其処まで言った彼は、優しく嵐に微笑みかけた。立ち上がっていた嵐は彼の微笑を受けて、右手で自分の前髪を引っ張りながらまた座る。伏目がちに椅子に座りなおした嵐の貌は赤いままだ。恥ずかしいと思う程度なら、そこまで深刻では無いという事だろう。鈴谷もちょっとホッとする。野獣も緩く息を吐き出して、眉尻を下げた。

 

「まぁ、大事にならなくて良かったよなぁ? 肉体の傷より、精神の傷の方が癒え難いって、それ一番言われてるから。何か在ったら、ソイツにすぐ言ってやれよ?(イケボ)」

 

 そう言った野獣の声音は、今までのようなお茶らけた声音とは違う、いやに深みのある声だった。説教臭いという訳でも無いし、恩着せがましいと言うか、押し付けがましいという事も無い。眉尻を下げた野獣の緩い笑みは、不思議な愛嬌や優しさを感じさせる。不器用なのに、何と言うか、相手を安心させるのだ。多分、これが野獣の素の顔なんだろうと鈴谷は思う。含みも嫌味も無い野獣の言葉に、嵐も顔を上げて「ウッス……」と、礼をした。野獣はまた軽く笑って、席を立った。伸びをしながら欠伸を漏らす。

 

「そんじゃ、そろそろ執務室に戻りますか~(嫌々)。何か話があっちこっちに飛んで、アイデアがどうとかの意見交換が全然出来なかったゾ……」

 

「そりゃあ、野獣が話を彼方此方に飛ばしまくって脱線させるからでしょ」

 

 鈴谷も立ち上がると、野獣が「あっ、そっかぁ(言われて見れば)」と、喉を低く鳴らすようにして、また不器用に笑った。鈴谷は、そんな野獣の笑い方が好きだった。高鳴りそうになった胸の鼓動や、赤くなりそうな貌を誤魔化すべく、鈴谷も苦笑を浮かべてみた。上手く笑えているだろうか。自分では分からなかった。取りあえず、席を立った鈴谷達に礼をしてくれる少年提督や嵐に敬礼を返し、食堂をあとにする。執務室に戻る間も、鈴谷は何だか上手く野獣に声を掛けられなかった。それに、野獣も携帯端末を忙しそうに操作していた。脇から覗いてみると、本営から送られてきたファイルの様だった。もう少し無駄話でも出来れば良いなとも思ったが、仕事のものなら仕方無い。鈴谷は野獣に気取られないようにそっと後ろから近付いて、Tシャツの裾を指でちょっとだけ摘んだ。野獣は気付かないままだ。ちょっと残念だけど、ほっとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日の秘書艦としての仕事も無事終わらせ、夕食も済ませた嵐は自室に戻るでもなく、寮の屋上で空を眺めていた。今日はちょっと曇っていて、月が見えない。残念だが、まぁ、仕方無い。組んだ腕に顎を乗せるようにして柵に凭れ、嵐は大きく息を吐き出した。星も疎らな暗い空の下。屋上に備えられた蛍光灯の明かりに照らされて、その細い吐息が溶けていく。

 

 嵐は、夜が好きでは無かった。怖かった。きっとそれは、自身の艦船としての記憶が影響しているんだろう。トラウマって奴かもしれない。自分が、艦娘としてそういう弱点を抱えている事に気付いたのは、召還されてすぐだった。暗がりが恐ろしかった。それでも、それを捻じ伏せて来た。訓練も演習も作戦も、嵐は強く在り続けて、全てこなして来た。第四駆逐隊の誇りと供に、強く在ろうとし続けた。随分無茶もした気がする。遠征から帰投した艦娘達を迎えに行った後に、少年提督と共に埠頭で夕陽を眺めた時だ。本当に自然と涙が出てきて、止まらなくなった。滂沱として溢れて来た。自分でも混乱するくらいだった。

 

 そりゃあ、少年提督だって驚いた貌をしていた。何せ、いきなりの事だったからだ。ヤバイと思った。欠陥持ちだと思われてしまう。泣き止め。泣き止め。泣き止め。そう焦る程に、感情は乱れてしまう。両腕で必死に涙を拭っても無駄だった。その内にとうとう嗚咽が漏れて、立っていられない程の激情が胸の内で暴れ始めた。怖いと思った。自分が自分でなくなるような感覚だった。今までは大丈夫だったのに。夕昏なんて我慢できたのに。夜戦だって、夜の訓練だって耐えてきた。怖かったけど、ちゃんと耐えて来れたんだ。なのに。何で選りによって司令官の前でこんな……。弱い自分を曝けだしてしまうなんて。最悪だ。そう思った。艦船の時の、轟沈の記憶がフラッシュバックした。もう何が何だか分からなくなった。気付けば、傍に居た彼に抱きついていた。溺れそうになって、浮き輪を掴むみたいに。

 

 肉の身体は、精神状態に多大な影響を受ける。いや、艦娘達の場合は、その魂の在り様と言った方が正しい。艦娘達が召還されて受肉した時、そこに宿る魂に大きな傷を負っている場合は、より顕著だ。過去の大戦の記憶に、自我や意志が大きく影響を受ける。感情や思考を乱される。或いは、その価値観や理念、感性を歪める。あの時の嵐は、水平線に沈んでいく太陽に、沈んでいく自分の姿が強く重なって見えた。もう駄目だった。意地や矜持からの大出血を感じた。恐怖だった。しかし彼は、半狂乱で涙を流す嵐を、その小さな身体でしっかりと抱きとめてくれた。まるで泣きじゃくる幼子をあやすみたいに、そっと頭を撫でてくれた。「大丈夫ですよ。貴女はちゃんと此処に居ます」と。声を掛けてくれた。

 

 同時に、こうして乱れた精神や魂の傷を癒すべく、嵐を抱きとめた彼は読経の如く、朗々と詠唱を紡いでくれた。艦娘の魂とは、“非実在”、“非物質”の金属だ。今でも鮮明に憶えている。生命鍛冶と金属儀礼の職工である彼の手が、その己の魂に触れる感触。傷と恐怖を嵐から拭い去り、代りに、それを彼が身の内に嚥下していく瞬間を。気付けば、胸の内に吹き荒れていた激情も恐怖も悲哀も無くなって居た。暖かなもので満たされていた。涙も止んでいた。冷静さと自我が還って来る。自分よりも少々小柄な彼に抱きかかっている事に気付いて、嵐は慌てて離れた。其処で、見た。薄暮に染まる埠頭で、彼は嵐の魂から傷を譲り受けて、眼帯をしていない左眼から涙を流していた。それでも、泣いて居るという訳では無かった。彼は涙を流してはいたが、強かに、優しく微笑んで居た。嵐は、見惚れた。何も聞こえなかった。夕陽に照らされた彼の静謐な笑みに、波音も風音も息を潜めているかのようだった。

 

 思い出すと溜息が漏れた。胸に、熱い何かが込み上げてくる。それをゆっくりと飲み下し、嵐は深呼吸をした。秘書艦としての1日は、本当に早かった。夢のようだった。嵐は、夜気を胸いっぱいに吸い込んでから緩く頭を振った。柵に凭れていた体を起して、風呂にでも行こう。そう思い、屋上をあとにしようとした時だ。携帯端末から電子音がした。連絡ツールアプリである艦娘囀線に、“提督”が書き込んだ事を示す通知音だった。端末を取り出して確認してみると、どうやら野獣がアクションを起こしたらしい。“時間ある奴集合”とか言うスレッドが立っている。そう言えば、野獣司令が昼間に何か言ってたなぁ……。嵐はそんな事を思いつつ屋上を後にして、自室へと風呂の着替えを取りに戻りながら、片手で端末を携帯操作してスレッドを開く。

 

 

 

 

 

 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっし、集まったな! 今日はちょっと重大発表があるから! 今やってる商品開発についてなんだけど、“鎮守府銘菓”『龍驤パイ』と『大鳳パイ』そして、『大盛り(意味深)ムチムチ高雄ラーメン』の続投が決定しました。何か他に良い商品アイデアある奴、手ぇ挙げろ!

 

 

≪龍驤@ryuuzyou1. ●●●●●≫

やめろや。だからそれパイちゃうやろ。薄焼き煎餅やろ。

 

 

≪大鳳@taihou1. ●●●●●≫

私のは、薄焼きのクッキーですよね……。

だから何でそんなネーミングに悪意を滲ませる必要が在るんですか

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

これが人気の秘訣だから、しょうがないね。マジで売れ筋商品だし、評判も良いから多少はね? ちょっと豪華にして、さくらんぼもセットしようかなとか思ってるんだけど、どうだよ?

 

 

≪龍驤@ryuuzyou1. ●●●●●≫

あkん

 

 

≪大鳳@taihou1. ●●●●●≫

そういう組み合わせはNGですよ!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あっ、そっかぁ

 

 

≪高雄@takao1. ●●●●●≫

おい、私のも売れてるんですか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@takao1. ●●●●● 何か言葉遣いが乱れてなぁい? 売れてるのは当たりまえだよなぁ? やっぱりムチムチの高雄は、最高やな! 高雄型がコンセプトの新商品としては、『愛宕のふわふわ☆シュークリーム』とかも案があるんだけど、どう、売れそう?

 

 

≪高雄@takao1. ●●●●●≫

だから私は太ってねぇっつってんじゃねーかよ! って言うか、愛宕と私の扱いに随分差があるんですが! 愛宕の方が露骨に優遇されてますよね!?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

そんな怒らないで欲しいデブよ^~

ホラホラ! 一緒にダイエット、頑張るブー

 

 

≪高雄@takao1. ●●●●●≫

ころすぞ

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

身体つきの女性らしさに加えて、高雄さんは身長もありますから。その分の重さはあるかもしれせん。でも、データで見る限りでは、太っているという事はありませんよ。健康的で、鍛えられた美しい躯体だと思いますけど……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

そうだよ(便乗) 俺もそう言いたかったんだよね

 

 

≪龍驤@ryuuzyou1. ●●●●●≫

絶対ウソやろ……

 

 

≪高雄@takao1. ●●●●●≫

@Butcher of Evermind お慕い申し上げております

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

だからドサクサに紛れた大胆な告白はNGだって言ってるだルルォ!!

 

 

≪愛宕@takao2. ●●●●●≫

高雄は鼻歌を歌いながらお風呂に行っちゃいましたよ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

ゴキゲンだなぁオイ!!

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

盛り上がるのは結構なんですけど、予算の問題もあります。ホントもう、あんまりはっちゃけ過ぎないで下さいね……。お願いしますよ?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

任しとけって! よどりん♪

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

よどりんって呼ばないで下さい

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

案を出せとは言うが、ラーメンやパイ以外の具体例も頼む

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな! 

 

『金剛のブーツ型タンブラーセット』

『比叡のふりかけセット』

『榛名の大丈夫セット(R-18)』

『霧島のマイクチェックセット』

 

一例を挙げると、企画案はこんな感じだゾ☆

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

うわぁ……

 

 

≪陽炎@kagerou1. ●●●●●≫

ふりかけセットしか正体が分からないんですが、それは……。

 

 

≪榛名@konngou3. ●●●●●≫

あの、すみません! どうして榛名の項にだけ(R-18)とかいう不穏な表記が在るんですか!? それに何ですか『大丈夫セット』って!?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

そんなモン……なぁ? 言わせんなよ恥ずかしい

 

 

≪榛名@konngou3. ●●●●●≫

口に出すのも憚られるような品なんですか!?!? 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

こういうのは勢いと度胸が大切だからさ! 

ホラホラ、いつものやってみてホラ!

せーの! 榛名は――?

 

 

≪榛名@konngou3. ●●●●●≫

大丈夫じゃないです!!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

よし!! 大丈夫そうだな!! あとは、

 

『鈴谷と熊野の甲板ニーソ型ティーパック』

『加賀のフンドシ』

 

とか、分かり易いのだとこの辺りかな

 

 

≪熊野@mogami4. ●●●●●≫

ちょっと! 何でそんなモノを流通させる必要があるのかしら! 理解に苦しみますわ!

 

 

≪鈴谷@mogami3. ●●●●●≫

嫌な予感がするんだけどさぁ、もうそれ、モノは出来てたりするの?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

うん

 

 

≪熊野@mogami4. ●●●●●≫

う、うん!? もう始まってますわ!!

 

 

≪瑞鶴@syoukaku2.●●●●●≫

加賀さんの奴も、えらく直球じゃないですかね。

注文が来る前に憲兵が来ませんかコレ……

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

頭に来ました。おちんち

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

失礼

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

せめて理性は保って貰わないとさぁ。いきなりそういうのは、びっくりしちゃうんだよね。まぁ予測変換だとは思うけど、普段その端末でどんな単語打ってるんですかね……。

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

おちんちち、とは何だ?

 

 

≪大和@yamato1.●●●●●≫

武蔵、やめなさい

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

何だ、大和は知っているのか。教えてくれ

 

 

≪大和@yamato1.●●●●●≫

ちょっと難しくてお姉ちゃんにも分からないから、静かにしていなさい

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おい加賀ァ! お前の迂闊な書き込みでさぁ! 大和型に飛び火してんだよなぁ! 意見交換になんねぇだルルォ! どうすんだよコレぇ!

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

おちんち

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

ファッ!? 弐撃決殺かお前!? 開き直ってんじゃねぞオルルァァアン!!

 

 

≪電@akatuki4. ●●●●●≫

あ~もう無茶苦茶なのです

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

加賀さん、何だか様子が変ですね。……体調でも悪いのでしょうか? 大丈夫ですか?

 

 

≪飛龍@hiryuu1. ●●●●●≫

あのすみません! 今、加賀さんと一緒に鳳翔さんのお店にいるんですど、加賀さん結構呑まれてまして、大分酔ってる感じです。直近の書き込みに関しては、あのですね、スルーして頂けると……

 

 

≪蒼龍@souryuu1. ●●●●●≫

酔っ払った赤城さんに付き合った加賀さんが、キツイお酒ばっかり、ぱっかぱっか空けちゃって……。私達も注意はしたんですけど……。

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

其方に向かいましょうか? 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

まぁ、大丈夫でしょ? 一航戦同士、色々と話をすることもあるだろうし、今回は許してやるか! しょうがねぇなぁ~!

 

 

 

 

 

 其処までの書き込みに眼を通して、廊下を一人歩く嵐は軽く笑った。此処は本当に賑やかな所だ。


















いつも読んで下さり、暖かい感想まで添えて頂き、本当に有難う御座います!

“女性の容色が最も美しい時期”という意味もあるそうですが、タイトル関しては、ちょっと華やか過ぎたかもしれません……。ハッピーエンドと言うよりは、特に山も落ちも無いような、のんびりとした話を中心にポツポツと投稿出来ればと思っております。書きたい場面だけ投稿させて貰っている形でありますので、次回からも字数は大きく減ったりする時もあるかと思いますが、御容赦頂きたく思います……(土下座)




今回も最後まで読んで下さり、本当に有難う御座いました!




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鎮守府の怖いかもしれない話

 夜も深けた頃。今は使われていない古い寮舎内の廊下を懐中電灯で照らし、ビスマルクは顔を強張らせて歩いていた。壁や窓には分厚い木板が打ち付けられており、外からの月明かりも入って来ていない。結構前から取り壊される予定だったらしく、電気も水道も止まっている。当然、普段は人の出入りも無く、其処彼処に埃が積もっており、ビスマルクが歩くたびに白くくすんだ粒子が足元に揺れていた。そのすぐ近くには少年提督とグラーフも居る。薄気味の悪い古ぼけた寮廊下を歩きながらも、少年提督は穏やかな表情を浮かべたままだ。寧ろ、ちょっと楽しそうですらある。一方、彼の傍から離れようとしないグラーフは眉をハの字にしたまま、泣きそうな顔をしている。まぁ、ビスマルクだって似たような様子だ。自覚出来る程度には、この寮舎内の暗がりはかなり怖い。ヤバイ。何と言うか、空気が澱んでいるのだ。雰囲気が出過ぎてて、脚が竦みそうになる。唯一の救いは、既に三階まで上がって来ているものの、特に何も起きていない事だ。

 

「なぁ、野獣……。特に異常は見られないぞ。も、もう、そろそろ良いんじゃないか?」

 

 震える声でそう言ったのは、ビスマルク達から少し離れて前を歩く長門だ。手にした懐中電灯で彼方此方をせわしくなく照らしながら、今にも吐きそうな青い顔をしている。『私は別に平気ですよ?』みたいな、不敵な笑みでも浮かべようとしているのだろうが、盛大に失敗にして頬が引き攣りまくっている。あれで平静を装っているつもりなのか。長門の隣に居るのは、不安そうな貌の加賀だ。加賀の方も割と重症で、さっきから一言も喋らない。普段の冷静で凛然とした様子とはぜんぜん違い、心細そうに猫背になって、肩を小刻みに震わせていた。露骨にビビッている。

 

「さっき来たばっかダルォ? つべこべ言わずに来いホイ!(暗闇を征く)」

 

 この六人の面子の先頭を行くのが、右手に懐中電灯を持った野獣だ。相変わらずのTシャツ海パン姿である。左手には携帯端末を持ち、何やら手早く操作している。「お前は何でそんな強気なんだ……」と、長門が訝しむように聞くと、野獣は振り返って、すっとぼけた様な良い笑顔を浮かべた。

 

「霊験あらたかな護符をパンツに忍ばせてあるから、まぁ、多少はね? 何か起こっても、俺は助かるから安心!(屑)」

 

「おい、“俺は”とは何だ? 私達の分は無いのか?」

 

「うん、そうですね(即答)」

 

「ふざけるなよ貴様……」

 

「そんな嫌ならしょうがねぇなぁ~(悟空)。じゃあ、長門だけもう帰って良いよ!」

 

 その野獣の言葉に、長門は何かを言おうとしたが止めて、ゆっくりと歩いて来た廊下を振り返った。真っ暗闇で不気味な暗がりが続いている。懐中電灯で照らしても、向こうまでは見えない。それに、此処はもう三階だ。階段まで行って、また降りなければならない。出口までの道のりも遠く、これを一人で帰れというのは酷だろう。少なくとも、ビスマルクには無理そうだった。「御都合が悪いのでしたら、仕方ありませんね……。ご協力していただいて有り難う御座いました」と、少年提督が長門に礼を述べる。傍に居たグラーフと加賀が、『一人で帰れる? 大丈夫?』みたいな、心配そうな貌で長門を見詰めている。暗がりの中。スゥゥゥゥ……と、細く息を吐き出して無念そうな貌をした長門は、片手で顔を覆って俯いた。「いや、……もう少しだけ付き合おう」やたら掠れて低い声で言った長門に、野獣が笑った。

 

 

 

 ビスマルク達が何故こんな状況に置かれているのかというと、別に深くも何とも無い理由がある。最近になって駆逐艦娘達の間で、ある噂が流れるようになった。それは、夜になると“出る”という話である。場所は駆逐艦娘寮のすぐ隣にある、今は使われていない古い寮舎。つまり、此処だ。夜中に聞こえてくる呻き声、徘徊する黒い影、窓から覗いてくる顔など。そういった怪現象を目撃した駆逐艦娘達もそれなりに居た。この噂を小耳に挟んだ野獣が面白がって、怪現象が起きてくる時間帯に一度調査してみようという話になったらしい。

 

 そこで、今日の野獣の秘書艦であった長門が選ばれて、少年提督と、またその秘書艦であったビスマルクがまず選出された。当然、ビスマルクは嫌だと言う意志を明示しようとした。ただ、『駆逐艦達が怖がって眠れなくなっちゃったら大変だし、此処はやっぱり、頼れるお姉さんの出番だよなぁ?』などと言われて、強く断れなかったのだ。本当に参った。グラーフはビスマルクに泣きつかれて仕方なく、加賀の方は何か弱味でも握られて居るようで、強制的に参加させられていた。野獣という男は、こういう相手の退路を断つことに関して周到で、常に相手の弱味を握ってから交渉を仕掛けてくる。取引の常套手段ではあるのだろうが、相手にする方はたまったものでは無い。ちなみに、野獣は少女提督にも声を掛けようとしたらしいが、彼女は現在本営へと出向いており、鎮守府を留守にしていた。その為、彼女の配下にある艦娘達は、この調査への徴収を免れている。羨ましい話だ。

 

 ただ、羨んでも仕方無い。何も無い事を祈りつつ、さっさと調査を終わらせて帰ろう。おっかなびっくりではあるが、ビスマルクも歩を進めながら懐中電灯を辺りに照らしつつ、視線を巡らせた。寮部屋への扉の多くは、壁や窓と同じ様に板が打ち付けられたり、ドアノブに鎖が撒きつけてあったりして、締め切られている状態だ。そもそも軍部の施設であり建物だから、落書きや悪戯の跡なんてものも皆無である。特に変わった様子は無い。先頭を行く野獣に、長門、加賀が続き、その後ろに少年提督とグラーフ、ビスマルクが着いている。足音がやけに響いて、すぐに暗がりに溶けていく。ドギマギしながら歩を進めていた時だ。

 

 「あっ、そうだ(唐突)」と。

 

 突然、野獣が声を上げた。野獣の声は良く通る。今まで静かだったから、普通にびっくりした。肩を跳ねさせたのはビスマルクだけでは無く、長門は「ぅっ……!」と声を漏らし、加賀は驚きすぎて懐中電灯を取り落としていた。真顔になったグラーフは、咄嗟に彼にしがみついていた。そんな周りの様子を見た野獣が、「そんなフルスィングで驚かなくて良いから」と、肩を揺らして笑う。

 

 

「この前に頼まれてた絵本の内容、考えてきたんだけど……、聞いてかない?」

 

 こんな時に何を言い出すのかとも思ったが、野獣の声には力みが無い。自然体だ。多分、ビビりまくっているビスマルク達とこの空気を解すべく、何か明るい話題でもと思ったのだろう。「あぁ、先輩はもう考えてらしたんですね」少年提督が興味深そうに言う。「当たり前だよなぁ」と、野獣が前を歩きながら、得意げに頷いて見せた。長門と加賀が、何だか不味そうな表情で顔を見合わせる。暗い廊下を懐中電灯で照らして歩きながら、ビスマルクとグラーフも、ちょっと微妙な貌で眼を合わせる。

 

 そんな変な空気を読んでか読まずか、野獣はゆったりと一つ深呼吸した。そして、何故か斜め上方向へと視線を向けて、切なげに眼を細めている。何処か遠くを見る様な眼つきだった。とてつもなく壮大な物語を語り紡ぐために、自分も心の準備をしているような、そんな雰囲気だった。隣に居た長門も、『何だコイツ……、急にどうしたんだ?』みたいな貌だ。加賀の方は眉間に皺を寄せて『鬱陶しいなぁ……』みたいな、迷惑そうな貌だった。そんな視線など構わず、奇妙な厳かささえ感じさせる静寂をつくってから、野獣は唇を開き、朗々と語り始めた。

 

「――――長門は、激怒勃起した。鎮守府の――――」

 

「ぉおい!! ちょっと待てオイ!!」 

 

顔を赤くした長門が、唾を飛ばしながら大慌てで野獣の言葉を掻き消した。

 

「冒頭からぶっ飛び過ぎだろうが!! いい加減にしろ!!」

 

暗がりの廊下に長門の怒声が響く中、野獣が迷惑そうな貌で長門を見遣る。

 

「ねぇ静かにしてくれない? 此処からが山場で、盛り上がるところなんだからさ……」

 

「導入部分じゃないのか!? いや、もっと≪起・承・転・結≫を意識してだな……!!」

 

「そんなモン必要ねーんだよ!(過激派)。 取りあえず一大スペクタクルをぶっ込んで、≪爆・爆・爆・爆≫って感じでぇ……!」

 

「もう木っ端微塵じゃないか……(呆れ)。どう考えても支離滅裂だろう……」

 

「でもさぁやっぱり、読んでくれる子供達の気持ちをこう……、ガッチリと掴みたいだろ?(悪巧み先輩)」

 

「少なくとも、その最初の一文は問題有りだと思いますが」

 

 冷凍光線みたいな声で長門に助太刀したのは加賀だ。白けたような半眼になって、野獣を睨んでいる。懐中電灯の薄明かりに照らされた今の加賀の貌は、気の弱い者なら思わず土下座してしまうような、結構な迫力だ。美人だから余計だろう。しかし、野獣は全く怯まない。「そうですねぇ……(熟慮顔)」と、数秒ほど顎に手を当てて何やら考える素振りを見せた後、再び斜め上を見詰めた。やはり、遠い場所を見る目つきだった。「――――加賀は、激怒勃起した。鎮守府の――――」と、性懲りも無く語り始めたが、すぐに止められる事になる。傍に居た加賀が、舌打ちと同時に音も無くすっと距離を詰めた。そして、アホみたいに真面目くさって語っている野獣の向う脛を、トーキックで蹴飛ばしたからだ。鈍い音がした。

 

「ヌッ!!?!?(悲鳴)」

 

 野獣が蹲る。それを見下ろした加賀は、下目遣いになった後で、「はぁ~~~……」とクソデカ溜息を吐き出した。前も見た事のあるような光景に、ビスマルクは軽い苦笑を漏らした。まぁ、多少は空気が和らいだような気がしないでも無い。野獣が無茶苦茶な事をして、場をひっ掻き回すのはいつもの事だ。

 

「先輩は、場を和ませるのが上手ですね。……僕も見習わないと(恐るべき前兆)」

 

 相変わらず、野獣に誤った尊敬の眼差しを向ける彼の肩を、グラーフがしっかりと掴んだ。そうして彼の前にしゃがみこんで、目線の高さを合わせて彼を見詰める。真剣な眼差しだった。

 

「admiral。そんな必要は、全然無いと思うぞ(インタラプト)」

 

「えっ」と、彼がきょとんとした貌でグラーフを見詰める。

 

「admiralは、admiralだろう? あんなの(暴言)を見習う事は無い筈だ」

 

 「そうわよ(便乗)」と、ビスマルクが頷くのに続いて、「おっ、そうだな!(便乗7)」と、長門も力強く同意していた。「そうですよ(一航戦の便乗)」と、加賀も微笑みと供に頷いている。そんな周りの反応に、彼は「えぇと……」と、少々困惑気味だ。「眼の前で好き放題言ってくれちゃってさぁ! いい度胸してんねぇ!」 野獣が脛を擦りながら顔を上げた時だった。何の前触れも無かった。甲高い物音がした。廊下の向こう、その暗がりからだ。鉄パイプが転がるような、硬い金属音だった。クッソ吃驚した。全員が黙り込んで、一斉に音がした方へと視線を向ける。沈黙の中、ヒュウウゥゥ……、と。隙間風のような音が、やけに大きく聞こえる。過剰な程に驚きまくったグラーフが、少年提督に抱き付いていた。彼のすぐ傍に居たのだから、咄嗟というか無意識的な反応だったのだろう。すぐに我に帰ったグラーフの頬に、さっと朱が差した。

 

「すっ、すまない!」

 

 慌てて身を離すグラーフに、彼は小さく微笑んで見せてから、廊下の向こう側へと向き直り、懐中電灯を向けた。光が照らされた範囲には、当然誰も居ない。転がって音を立てるような物も無い。廊下にあるのは埃と暗がり、そして冷たく澱んだ空気が在るだけだ。という事は。向こうに並んでいる寮室からか。ビスマルク達が息を呑む。面白がるみたいに笑う野獣が、携帯端末を操作しながら顎をしゃくった。

 

「見て来い長門(コ)」

 

「何故私なんだ!?」長門が異議を唱える。

 

「ちょっとお前がウホウホしてやれば、お化けなんざ裸足で逃げてくだろ?(厚い信頼)」

 

「う、ウホウホ!? 訳の分からんことを抜かすな!」

 

「ひひひ」

 

 ビスマルクは腰が抜けた。思わずペタンと尻餅をつきそうになる所を、彼が咄嗟に支えてくれた。その彼に再びしがみ付いたグラーフが半泣きになった。気のせいじゃ無い。間違いなく聞こえた。野獣と長門の二人が、馬鹿な事を言う合間だった。声。『笑い声』だった。長門と野獣が、真顔で廊下の向こうを凝視している。加賀は表情こそ冷静だが、目尻に薄く涙が溜まっているし、また懐中電灯を取り落として尻餅をついていた。腰を抜かしたままで此方を振り返った加賀は、「心配要らないわ。鎧袖一触よ(軽い涙声)」と掠れた声で言う。どう見ても大丈夫じゃない。

 

「僕が見てきます。もしかしたら、寮室に誰か居るのかもしれません」

 

 全員が動きを硬直させる中。少年提督は、支えていたビスマルクと、しがみついてくるグラーフを順番に見て微笑んだ。「誰かって“誰”だよ……(恐怖)」。野獣がそう突っ込んだ時には、彼はビスマルクとグラーフの手を解き、暗がりの中へと歩き出していた。途中で、尻餅をついて居た加賀を支えて、手を引いて立ち上がらせる。彼の手を取った加賀の表情が、少しだけ苦しそうに歪んだ。切なげに結ばれた唇を笑みの形にして、礼を述べる。

 

「俺も一緒に行ってやるか!」

 

野獣が、加賀が落とした懐中電灯を拾い上げて、少年提督の後に続こうとした時だ。

 

「ぉ……ッ!!?」

 

 何かに気付いた長門が、声にならない声を上げてビスマルクを見た。傍に居たグラーフも眼を見開いて、身体を震わせてビスマルクを凝視している。此方へと視線を向けた加賀が、白眼を剥いて、ふらふらっと気絶した。少年提督が咄嗟に支えて横抱きにした。そして床にそっと加賀を寝かせつつも、まるで珍しい現象でも目の当たりにしたみたいな、興味深そうな表情だ。野獣は真顔だ。とりあえず、全員に共通しているのは、ビスマルク自身を見ているワケでは無い。皆の視線は、ビスマルクのすぐ背後に向けられている。

 

 確かに。自分でも感じる。分かる。間違い無い。居る。何かが、すぐ後ろに居る。絶対に気のせいじゃ無い。振り返らなくても分かる。ど、どうしよう……。どうすんのコレ……。首筋に、緩い風の流れを感じる。アー漏レソ……。ビスマルクが泣きそうになった時だ。右肩のあたりだった。ひんやりとした空気の塊のような感触が、そっと触れた気がした。ねーもうホント怖ぃ……。止めておけば良いのに。体と唇を小刻みに震わせるビスマルクは、視線だけを自分の右肩に向ける。ゆっくり、ゆーっくりと。視線を自分の右肩に移すと、其処に。真っ白い手が乗っていた。

 

「ちゃあああああああああああああああああああああああ↑!!!!」

 

 ビスマルクが素で絶叫したのと同時だった。ぬるく湿った空気の流れが、ビスマルクから傍に居るグラーフへとぶわぁぁあっと流れた。白い靄の様な揺らぎが人影を象って、グラーフにも迫ったのだ。それだけじゃない。白い靄の流れは、暗がりの廊下を吹きぬけて埃を攪拌させながら、長門にまで伸びていく。人の形をした不気味な煙霧が、啞啞啞啞啞啞啞啞と、低い唸りを上げて迫る。

 

「ぬぅぅぅううううううううううううううううう!!!!!」

 

「ほぉお゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛お゛!!!!!!」

 

 両腕で顔を庇いながらグラーフが尻餅をついて、悲鳴を上げる長門がへたり込む。ただ、野獣と少年提督の二人は、既に動いていた。音も無く疾駆した野獣は、長門の前に立ち塞がるように立って、少年提督はグラーフと人型煙霧の間に割り込んだ。野獣はノーモーションで鋭い回し蹴りを放ち、白い靄にぶち込んだ。少年提督も姿勢をすっと落として、手袋をした右手を開きつつ、掌を白い靄へと差し向ける。刹那。野獣の蹴りは白い靄を貫通し、少年提督の右掌もすり抜ける。白い靄に実体は無く、すぐに霧散し始めた。解けるようにして暗がりに溶けていく。

 

「……これは」と、少年提督が左眼を細める。

 

「立体映像じゃな……?(IWNの怪)」

 

構えをといた野獣も、何だか拍子抜けしたみたいに軽く溜息を吐き出した。そして、放心状態で宙空を見詰めていた長門を振り返って肩を竦める。

 

「大丈夫か、ゴリポン?」

 

「誰がゴリポンだ!?」 長門が憤然として立ち上がる。

 

「……お前でしょ?」

 

「もう原型が無いアダ名はやめろ! 不思議そうな貌をするなオイ!!」

 

 野獣を怒鳴る長門はもう大丈夫そうだ。その声で気を取り戻した加賀も、不安そうな貌をしながら、何が起こったのかと身を起こしキョロキョロとしている。グラーフは洟を啜りつつ目許を指で拭い、少年提督の提督服の裾をぎゅうぎゅう掴んでいる。『もうおうち帰る;;』状態だ。彼に、「もう大丈夫ですよ」と慰められて、「……うん」と小さく頷いていた。腰が抜けたビスマルクは、周りの面子が無事な事にホッとしつつ、ペちゃっと地面に座り込んでしまっている。何とか漏らしたりはせずに済んだ。ホッとするものの、足に力が入らない。

 

「ビスマルクさんも、お怪我は在りませんか?」

 

 すると、傍に歩み寄って来てくれた彼が、手を取って立ち上がらせてくれた。彼は左手でビスマルクの右手を取った。小さな手だったが力強く、逞しさのようなものを感じた。ドキッとしてしまう。「え、えぇ、勿論よ!」と、立ち上がったビスマルクは、普段のように強気に振舞おうとしたが、安心したような彼の微笑みに見詰められ、何だか上手く行かなかった。

 

「……なぁ、野獣。今のは、何だったんだ?」

 

 普段の真面目な貌に戻った長門が、野獣と少年提督を交互に見た。野獣と彼は顔を見合わせて、苦笑を浮かべた。その答えは、すぐに分かる事になった。先程、硬い金属音が聞こえてきた方向だ。扉が開く音が聞こえた後に、暗い廊下の向こう側から二人分の足音が近づいて来る。「あ、あれ!? 提督!?」「みなさんお揃いで……」懐中電灯を持った二人組は、明石と夕張だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後。ビスマルクとグラーフの2人は、空母・戦艦寮のラウンジにて、ソファにぐったりと腰掛けていた。2人共、明日が非番で良かった。どっと疲れているのに、今日はちょっと寝付けそうにない。ビスマルクは何度めかのクソデカ溜息を吐き出して、手元にある携帯端末を見詰める。結局、幽霊騒動の元凶は、明石と夕張の二人である事が判明した。

 

二人は、『お家で簡単! お化け屋敷!』なる商品装置の開発に勤しんでいたようで、あの廃寮舎内で夜な夜なテストプレイを秘密裏に行っていたらしい。ただ、出来るだけ目立たないようにと、廃寮舎を利用したのが裏目に出た。廃寮舎は駆逐艦寮に近いことも在り、その実験効果を駆逐艦娘達が偶然見かけたのが噂の元になったのだろう。現在、少年提督が艦娘囀線上で他の艦娘達に説明し、心配はもう無いことを伝えている。明石や夕張も、騒がせた事を詫びているし、一件落着だ。

 

 眺めていた携帯端末から視線を外し、一度溜息を吐き出す。グラーフと眼が合う。グラーフは先ほど買ってきていた、温かい缶コーヒーを飲んでいる。二人共もう疲れきっていて、コーヒーを淹れる気力も無かったからだ。缶をテーブルへと置くと、グラーフは疲れたように笑って見せた。参ったような、それでいて、もう笑うしか無いといった感じの笑みだった。ビスマルクも釣られて笑う。もちろん、苦笑の類いだ。

 

 ビスマルクは、明石が手掛けたホラーハウス『明石屋敷』、その幻の最恐バージョンである“ver1.10”の経験者である。途中で気絶したのは秘密だが、あの真に迫る立体映像を家でも楽しめるというコンセプトは、かなり狂っている。そんな事を思いながら、ビスマルクも買ってきた缶コーヒーをチビチビと飲んでいると、携帯端末から電子音が響く。グラーフの端末からもだ。二人は顔を見合わせてからまた携帯端末へと視線を落とす。駆逐艦娘達が集まっているようで、艦娘囀線には新しい書き込みが続いている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪潮@ayanami10. ●●●●●≫

本当のお化けとかじゃ無くて良かったです

 

 

≪不知火@kagerou2. ●●●●●≫

司令。お声を掛けて下されば、不知火もお手伝いさせて頂きましたのに……

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

@kagerou2. ●●●●● いつも有り難う御座います。

しかし、不知火さんもお忙しそうでしたので

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

不知火はホラーとか強そうよね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

@Beast of Heartbeat 急に絡んでこないでくれない? ウザイんだけど

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

すみません、許して下さい! 明石と夕張に今から連絡して、『お家で簡単! お化け屋敷』装置、駆逐艦寮で起動させますから!

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

フザケンナヤメロバカ!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

うそだよ☆ 安心して、ぼのたん☆

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

ぼのたんって言うな!

 

 

≪長月@mutuki8. ●●●●●≫

まぁ個人的には、前みたいにでっかい蟲だらけの方がキツイな……。今でも思い出すと鳥肌が立つ。肝試しの方がまだマシだ

 

 

≪皐月@mutuki5. ●●●●●≫

そうだよね、まだギリギリ楽しめるっていうかさ。実は、今日の廃庁舎探検がどんな感じだったのかとか、興味あるんだよね。ちょっと行ってみたかったなー

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@mutuki5 さすがは皐月! 勇敢な駆逐艦娘の鑑だな!

明石と夕張が録ってた動画ならあるから、ちょっと待ってて

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おまたせ! →(動画ファイル。。。)

 

 

≪陽炎@kagerou1. ●●●●●≫

何ですかそのファイル。開くの超怖いんですけど

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

肝試し装置のモニターしてた奴だから大丈夫だって、へーきへーき! ホログラムを順番に映してる動作テスト映像みたいなもんやし

 

 

≪不知火@kagerou2. ●●●●●≫

監視カメラの暗視映像の様に見えますが、なるほど……。暗がりだと、微光で結ばれた像はより生々しく見えますね。宙に浮いている骸骨など、非常にリアルです

 

 

≪潮@ayanami10. ●●●●●≫

廊下を見下ろすアングルですけど、画質が良いので良く見えますね。男の人の生首とか、宙吊りの女の人とか、凄い造形です……。本当に其処に実在してるみたい

 

 

≪陽炎@kagerou1. ●●●●●≫

やばい何コレ夢に出そう

 

 

≪満潮@asasio3. ●●●●●≫

私も今再生してみたけど、嫌な記憶が蘇るわ

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

ホントにね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

曙、霞、満潮の三人は、肝試し皆勤賞だったもんな! やりますねぇ!

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

アンタに騙されたからでしょ!! 好き好んでやってたわけじゃないわよ!!

 

 

≪皐月@mutuki5. ●●●●●≫

わーー! 凄いリアルだねコレ!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

やっぱり、明石と夕張のメカニックコンビを……最高やな!

 

 

≪長月@mutuki8. ●●●●●≫

駄目だ。これはいかん。眠れなくなるやつだ

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

本当に良く出来ていますよね。今日はほんの一部しか体験出来なかったのが残念です

 

 

≪満潮@asasio3. ●●●●●≫

@Butcher of Evermind 相変わらず感性がぶっ飛んでるわね……

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

ねぇ、真っ黒な人影が映ってるだけなんだけど。何コレ?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

は?

 

 

≪潮@ayanami10. ●●●●●≫

えっ

 

 

≪陽炎@kagerou1. ●●●●●≫

あのさぁ

 

 

≪長月@mutuki8. ●●●●●≫

おい曙、そういうのやめろ

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

何が? 野獣が貼ってある動画ファイル読み込んでるけど、皆の言ってるような映像が再生されないんだけど? 何、バグってんの?

 

 

≪皐月@mutuki5. ●●●●●≫

真っ黒な人影って、どんなの? 僕が見てるのは、廃庁舎の廊下にホログラムを浮かせてる映像だけど。そんなの映ってないよ?

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

はぁ? 何か廃墟っぽい建物の中で、黒い人影がこっち歩いて来る動画じゃないの?

 

 

≪満潮@asasio3. ●●●●●≫

ちょっと、曙。そういう不気味な冗談はホント止めてくれない?

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

この廊下が廃墟っぽいって言われれば、まぁそうかもしれないけど、黒い影……?

 

 

≪不知火@kagerou2. ●●●●●≫

一人だけ全く違う映像を見ているようですね……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

やべぇよ……やべぇよ……

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

えっ、いや

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

ドッキリでしょ? やめてよね!

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

えっ、マジで?

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

今 

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

だれか部屋の前に居るの? ドア ノックされてるんだけど

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

これだれ?

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

こわい

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

寮の監視カメラのモニター見たけど、曙の部屋の前には何も居ねぇなぁ……。

怖いなー、とずまりすとこ……

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

曙さんもドアの鍵と窓の鍵、それからカーテンも閉めて貰えますか?

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

どあとまどしめた 

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

なんかこえ きこえる

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

今は、誰かと一緒に居られますか?

 

 

≪潮@ayanami10. ●●●●●≫

曙ちゃん一人だと思います。今日は、朧ちゃんと漣ちゃんも遠征に出ていて帰って来てないんです。私も今、食堂にお茶を貰いに部屋を出ているので……

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

@ayanami10 分かりました。潮さんは、食堂で待っていて下さい。あとは駆逐艦寮の皆さんに、少しの間、部屋に鍵を掛けて外に出ないよう拡散をお願いします

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

だれかまどひっかいてる

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

@Butcher of Evermind ていとくたすけて

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

@ayanami8 はい。すぐに行きますから、待っていて下さいね

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

うん

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

お化け屋敷装置の暴走かもしれねぇなぁ?

駆逐艦の寮は廃庁舎近いからね、可能性は在るね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@kousaku. ●●●●● おい明石ィ、それと

@yuubari. ●●●●● 夕張ィ! はい返事ィ!!

 

 

≪明石@kousaku. ●●●●●≫

いや、それはありませんよ。私達はまだ、廃寮舎に居ますけど……。ホログラム装置については電源落としてますし

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

それは本当か!? ホログラムの他にもさ、呻き声とか笑い声とか、微風発生機能とか色々つけてるんだルォ? その辺の機能の確認も、ハイ、ヨロシクゥ!

 

 

≪夕張@yuubari. ●●●●●≫

もちろん、沈黙してますよ。まぁ、微風なり呻き声なりは、廃庁舎でのギミック実験も兼ねてたんですけどね。でも、笑い声の機能なんてありませんよ?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あっ、おっ、おい待てぃ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

確かに『ひひひ』って聞いたゾ

 

≪明石@kousaku. ●●●●●≫

だからそんな機能は無いんですって。聞き間違いじゃないんですか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

嘘吐け絶対付いてるゾ

 

 

≪夕張@yuubari. ●●●●●≫

いや、本当に無いですよ。呻き声とかには、それなりにバリエーション持たせましたけど

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

じゃあ、俺達が聞いたあの『笑い声』は何だよ……

 

 

 

 

 タイムラインは一気に加速し、野獣の書き込みで一旦止まっている。ビスマルクが身体を縮こまらせながら顔を上げると、グラーフも『え、えらいこっちゃ……』みたいな貌でこっちを見ていた。貌を強張らせつつ、二人で頷きあいながらソファから立ち上がろうとした時だった。「ひひひ」、と。すぐ近く。耳元で声が聞こえた。















今回も読んで下さり、有難う御座います!
後半は某怖い話をリスペクト、オマージュさせて頂いております。

いつもたくさんの感想と暖かい評価を寄せて頂き、感謝しております。
書き散らかしている様な状態ですが、読者の皆様の御暇潰し程度にでもなれば幸いです。
最後まで読んで下さり、本当に有難う御座います!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

寝付けない夜に

 何故か妙に寝苦しかった。気温はそこまで高くないのに、やけに喉が渇く。こういう時に限って、自室に飲み物が無かったりする。少々面倒だったが、食堂脇にある自販機まで足を運んでミネラルウォーターを買った。昼や、夕食時には騒々しいものだが、今はもう混雑時間も過ぎて暫く経っている。チラリと覗いてみるものの食堂には誰も居ないようだ。喧騒も無い。静かなものである。自販機から取り出したミネラルウォーターをゴクゴクと飲んで、冷たい水が喉を通っていく心地良さを感じながら一息つく。廊下の空気は冷たかったものの、やけに身体に熱が篭っている。体調が悪い訳は無い。意識もはっきりしている。ただ、妙に熱い。肉の身体が、艦娘としての魂に何らかの影響を受けているのだろうか。大井は壁に凭れてから、またミネラルウォーターを喉へ流し込んだ。

 

 

 こういう夜には、必ずと言って良いほど良くない夢を見る。それは、北上が沈む夢だ。北上が深海棲艦になって帰ってくる夢だ。大井が、北上を沈める夢だ。こういう悪夢は抜け目無く、容赦ない。今日も見るのだろう。抵抗する術が無い。意識の外のものだからだ。どうしようもない。悪夢を見たあとは、決まって身体が重いのも最悪だった。本当に全然眠れない。明日は非番だから、昼まで寝ていても文句は言われないのだけが救いだ。憂鬱な溜息を飲み込み、自室へと戻ろうとした時だった。大井は、軽く息を飲んだ。この鎮守府の食堂の隣には、ゆったりとしたソファが幾つか並び、テーブルと、それから壁に掛けるタイプの大型テレビが備えつけられたサロンがある。食事を済ませた艦娘達が、食堂の席を圧迫せずにちょっと一服したり出来る空間だ。時間が在る時には、座り心地の良いソファに寝そべって昼寝をする者も居れば、仲間と一緒にテレビを見たりする者も多い。そのサロンに、誰か居る事に気付いたのだ。

 

 通路を行く大井に、背を向けている格好である。ソファに深くもたれて俯いている。小柄で黒色の提督服の肩と、白髪の後頭部が見える。帽子をしていないが、間違い無い。少年提督だ。居眠りでもしているんだろうか。静かで、規則的な吐息が聞こえる。大井は、意味も無く周りをキョロキョロと見回してみる。やはり誰も居ない。静謐に包まれている。大井は唾を飲み込んで、そっと彼に近付いていく。

 

 別にそんな必要も無いのに。どうしてこんな風に息を潜めて、そろりそろりと足音が鳴らない様に歩いて居るのだろう。自分でも分からない。でも、何となく、そうせねばならない気がした。何となくだ。また喉が渇いてきた。我慢する。彼に近付いて、ソファの前に回り込む。やはり、彼は眠っていた。ソファに深く身を預けて、規則的に静かな呼吸を繰り返している。普段はやけに大人びた彼だが、無防備であどけないその寝顔は穏やかなもので、外見相応の子供らしさというか、愛らしさが在った。

 

 

 だからこそ。彼の右眼を覆う拘束具めいた眼帯、その異質さが際立っている。幼さが残る整った顔立ちと、彼の纏う神秘的な雰囲気の調和を大きく崩し、退廃的なグロテスクさを感じさせた。だが、それらが危うい所でバランスを取り、彼と言う存在を象っている。ゾッとする程の現実感を伴い、大井の前に居る。大井は唾を飲み込んで、そろりと近付いてみる。彼は起きない。右手にペットボトルを持ち、左手をそっと伸ばして、彼の眼帯に触れてみた。忌まわしいものを覆い隠し、押さえつけているかのような彼の眼帯は、硬く冷たかった。酷く窮屈そうに見えるのに、彼は穏やかな寝息を立てている。

 

 

 眠っている彼の手元やソファの上には、書類の束とファイルが置かれていた。まだまだ仕事中の様子だ。こうして提督の仕事が長引いている時は、午前0時から秘書艦が交替で入る事もある。大井が腕時計で時計を確認すると、現在は午後11時半になろうと言う頃だった。彼の傍についている秘書艦の姿も無い。恐らくは、もうじき秘書艦として交替した艦娘と合流し、仕事の続きに取り掛かるのだろう。それまでの隙間時間を利用して、此処で仮眠を取っていると言ったところか。新しい作戦も近いこともあり、提督達も陸の上で忙しい。しかし仮眠を取るにしても、此処のソファは少々硬くて不向きだ。それにこのサロンも、多少は空調が効いているものの、暖かいとは言えない。見たところ、彼は毛布も何も持っていない。身体に熱さを覚えている大井はともかく、黒い提督服だけの彼にとっては肌寒いことだろう。

 

 

「提督……。こんな所で寝ていては、風邪をひきますよ?」

 

 大井は、彼に声を掛けて見る。起こす為ならば、もっと大きな声でいうべきなのに、大井は、何故かそうしなかった。自分でも良く分からないが、小さく、出来るだけ響かないように声を掛けた。まるで、彼が深く眠っているのを確認するみたいに、「提督……」と、もう一度声を掛ける。彼は起きない。大井は、彼の眼帯に触れていた左手を滑らせて、彼の右の頬に触れた。白磁の様な彼の肌は、ひんやりとしていた。鼓動が高鳴る。冷静な自分が言う。早く彼を起こすべきだと。寝顔をじっくりと見るなんて。寝ている彼に無遠慮に触れるなど、良く無い事だと。自分でも理解している。

 

 大井は、少女提督が召んだ艦娘だ。少年提督の秘書艦になることは無い。それは別に良い。自身の存在意義を果たせるならば、其処に口を挟むつもりは無かった。重雷装巡洋艦として、大きく活躍している。それで良い。艦娘としての大井は大井だ。変わらない。しかし。今の彼の姿を、もう少し独り占めしていたいと思う。それは、艦娘としての大井では無く、“個”としての感情に拠るものだ。それぐらいは、自分でも理解出来る。ただ、理解は出来ても、コントロールは出来ない。ままならない。彼には以前、北上を救って貰った大きな恩が在る。その感謝以上の気持ちを持て余している。彼は、まだ起きない。大井は唾を飲み込んでから、少しだけ身体を寄せた。彼の頬に触れている左手を動かす。彼の唇に静かに触れて、指先でそっとなぞった。何ともいえない柔らかさを感じる。蠱惑的で、官能的な感触だった。彼の瞼が小さく動いた。心臓が飛び出すかと思った。

 

 大井は慌てて手を引っ込める。胸元をぎゅっと掴んだまま、息を潜めて彼を見詰めた。彼は、やはり起きない。相当深く眠っているようだ。ふぅ……と、吐息を漏らした大井は、左手の指先で自分の唇に触れてみる。指先には、奇妙な熱が篭っている気がした。喉がカラカラだ。このままでは、本当に変な気分になってしまいそうだ。自分を落ち着けるようにゆっくりと瞬きしてから、今度は左手で彼の右肩に触れた。軽く揺すってみた。それでも起きない。ぐっすりだ。大井はふと、ある話を思い出した。彼の体質と言うか、癖である。彼は一旦眠ると、腕時計のアラームが鳴るまでは絶対に起きない。そんな馬鹿なと思ったが、いや、もしかしたらとも思った時だ。

 

 Pipipipipipipipi、と。軽い電子音がサロンに響いた。大井は軽く肩を跳ねさせる。アラームだ。繰り返しは無い。一回のみだった。それで十分だった様だ。彼は、大きく息を吸い込んでから、吐き出した。相変わらず静かな呼吸だ。彼はゆっくりと左の瞼を持ち上げた。眠りから覚めたと言うよりも、まるでスイッチが入ったみたいな様子だ。俯いたままで何度か瞬きをした彼は、ゆっくりと顔を上げる。大井は動くタイミングを逃して、彼の正面で硬直していた。そして、緊張したような貌をしたままで、彼と眼が合う。彼は意外そうな貌になって大井を見詰めて、何度か瞬きをして見せた。だが、すぐに戸惑うように、「……えっ」と声を漏らした。そりゃそうだろうと思う。大井だって、立場が逆ならそんな反応になる。大井は、慌てて表情を取り繕った。

 

「お疲れ様です。提督」

 

大井は言いながら、ぎこちない笑みを浮かべた。

 

「あ、ぃ、いえ……、お疲れ様です」

 

その大井の言葉に、彼はちょっとだけはにかむみたいに照れ笑う。多分、寝顔を見られていたことを察したのだろう。彼は左手の人差し指で、左頬をぽりぽりと掻いた。

 

「仮眠を取られるのでしたら、ちゃんと仮眠室で取られた方が良いですよ? 寒くはありませんか?」

 

「はい、僕は大丈夫です。大井さんこそ、寒くはありませんか?」

 

「私も大丈夫ですよ。熱くて寝苦しいくらいです。なので、水を買いに来たんですよ」

 

「……体調が優れませんか?」

 

「いえ、そんな事は無いですよ。御蔭さまで好調です」

 

「それならば良いのですが、無理はなさらないで下さいね」

 

「それは此方の台詞でもありますね」

 

大井が冗談めかして言うと、彼も小さく笑った。

 

「ぬわぁぁああああああああああん!! 疲れたもぉぉぉおおおん!!!」

 

 突然だった。サロンの傍にある自動販売機の方から大声がした。声がした方へ向き直ると、野獣が居た。傍には陸奥も居る。手には其々に飲み物を持っていた。野獣はスポーツドリンク、陸奥はホットレモンティーだ。サロンの前を通りかかった二人も、大井達に気付いていたようである。大井は冷静さを装いつつ、咄嗟に敬礼の姿勢を取る。此方に歩み寄って来る野獣がヒラヒラと手を振ってきて、陸奥が微笑んでくれた。

 

「僕も、コーヒーか何か買ってきます。大井さんも、何か飲まれますか?」

 

 ソファから音も無く立ち上がった彼は、大井を見上げて微笑んでくれた。厚意に甘えたいところだが、偶々出会って寝顔まで凝視したしまった挙句、小銭まで出させてしまうのは申し訳なく思った。それに、先程買ったミネラルウォーターも残っている。「いえ、私はもう買ってありますから」と、大井も控えめな笑みを返して、丁寧に断った。彼は、「わかりました」と応えてくれてから、自販機へと向う。すれ違う野獣と陸奥に軽く挨拶を交わしていた。彼の事だ。多分、コーヒーでも買うんだろう。そんな事を思いながら、彼の小さな背を見送っていると、野獣達がすぐ傍まで来ていた。

 

「何だよお前ら、デートかよ?(YGO) ちょっと熱いんじゃない、こんなトコで~?」

 

サロンのソファにどかっと座った野獣がニヤニヤと笑う。

 

「違います。眠れないから、飲み物を買いに来ただけですよ」

 

大井もソファに腰を下ろしつつ鼻を鳴らし、冷たい眼で野獣をねめつけた。

 

「あっ、そっかぁ……(真実の織り手)」

 

 スポーツドリンクを右手で持つ野獣は、ニヤニヤ笑いのまま、左手で携帯端末を海パンから取り出した。そして片手で手早く操作して、大井にしか見えない角度でディスプレイを向けてきた。その端末には、動画が再生されていた。もの凄く乙女な貌をした大井が、ソファで寝ている少年提督の頬に触れている動画だった。大井は肩を跳ねさせて「ぉふ……っ!?」と変な声を漏らしてしまう。口から魂が飛んで行きそうだったが、何とか耐える。角度的に見下ろす視点だ。大井は、携帯端末とニヤニヤ笑いの野獣の貌を交互に見てから、サロンの壁の隅、その天井付近へとガバッと振り返った。案の定、其処には監視カメラが在った。もぉー……。やだもぉー……。大井は泣きそうな貌で項垂れた。

 

 野獣は機械にも割と強く、モニターの映像をダウンロードしたのだろう。鎮守府内の機器類の管理は、明石や夕張、少女提督が行ってはいるものの、こうした防犯の範囲になってくると野獣も関わっている。職権乱用ではないかと叫びたいのだが、迂闊な行動をしたのは大井である。

 

 

「ちょっと野獣。彼女も困っているわ」

 

 頭を抱えて項垂れる大井を庇ってくれたのは、大井の隣に腰掛けた陸奥だ。気怠そうな野獣に比べて陸奥の方は溌剌しているし、時間的にもどうやら、0時交替で野獣の秘書艦になるのは陸奥のようだ。交替時間までは時間もあるし、野獣の休憩も兼ねて此処に来たのだろう。

 

「そもそも、彼女は貴方の配下の艦娘じゃないでしょ? 無闇やたらと艦娘弄りに精を出すのは止めなさい」

 

 やんちゃで手の掛かる弟を諫めるみたいに言った陸奥は、半眼で野獣を睨んでいる。さすがはビッグ7。頼りになるお姉さんである。顔を上げた大井が、感謝と畏敬の眼差しを向けかけた時だった。スポーツドリンクをグビグビ飲んだ野獣が、また携帯端末を操作して大井と陸奥に向けた。其処に再び、高画質な動画が再生される。場所は、野獣の執務室だった。ガヤガヤとした声が聞こえ、飲み会のような騒がしい雰囲気が伝わって来る。そんな中で。執務室の重厚なソファに俯きに横たわっている少年提督と、そんな彼の太腿あたりに座り、彼のお尻を執拗に揉んでいる陸奥の姿が映った。陸奥が吹き出して、大井の目が点になる。

 

 

 

『おい陸奥ぅ!! ちゃんと籤の内容を守れ!!』

 

ディスプレイから、長門の怒声が響いた。

 

『籤の指令は“マッサージ”ですヨー!!? どこ揉んでるデース!!!』

 

金剛の羨ましそうな叫び声も聞こえる。

 

『どう見てもマッサージだから!! マッサージだから安心!!(強行突破)』

 

真っ赤な顔して眼をぎらつかせた陸奥が、彼のお尻を揉みながら吼えている。

 

『あーー駄目駄目!! 駄目ですよぉ!! 手付きがえっち過ぎます!!><;』

 

鹿島の嬉し恥ずかしそうな声も響いている。

『あ、あの……、出来ればその、肩か背中をお願いします』

 

ソファに俯いて寝ている少年提督が、困惑を滲ませた苦笑を浮かべて、陸奥に優しく言う。

 

『あらあらあらぁ^~、“前”も凝ってるのぉ^~?』

 

『えっ』

 

何をどう聞いたらそうなるのか分からないが、盛大に暴走している陸奥は舌なめずりして妖艶に微笑んだ。

 

『おねぇさん、どうなっても知らないゾ^^~~(悲劇への突入)』

 

『おっ、やべぇ110番だな!(カウンタースペル)』

 

 

 

 野獣の声が聞こえたところで、いったん動画は止まる。ヤバイものを見てしまった。「えぇ……(困惑)」と、大井は若干身を引いて、隣に座って居る陸奥を凝視した。陸奥は伏目がちに眼を泳がせて、大井の方を見ようとしない。野獣がワザとらしい溜息を吐き出してから、ひらひらと端末を振って見せた。

 

「どう? お前の暴走の所為で、前の『大本営ゲーム』は途中で中止になっちゃったけど?」

 

「あのー、あのね? 何て言うか……、あの時は、ちょっと私もお酒が進んじゃってね? 酔って、羽目を外しちゃったって言うのかなぁ……、記憶も曖昧だし……(フェードアウト)」

 

 

 大井や野獣に言うでもなく、陸奥は苦しそうに言葉を紡ぎながら、レモンティーをテーブルに一旦おいた。そして両手で顔を押さえて、重たい溜息を漏らした。随分と後悔しているようだ。哀愁溢れる、重たい溜息だった。雰囲気に呑まれて、今度は大井が陸奥の背中を軽く擦る。私何やってるんだろう……。大井が、頭の隅っこでそんな事を思った時だった。彼がサロンに戻って来た。手には、やはりブラックの缶コーヒーを持っている。

 

「あ、あれ、陸奥さん、どうされましたか?」

 

悄然とする陸奥を見た彼が心配そうに言うものの、野獣がそれを笑い飛ばした。

 

「大丈夫だって、ヘーキヘーキ! 部屋が汚すぎてさ。今日はその掃除に疲れちゃったんだって(カットイン連撃)」

 

とんでも無いことを言いだした野獣に大井が戦慄し、陸奥もガバッと顔を上げる。多分、陸奥達には気付いている筈だが、「コイツの部屋とかさぁ、凄いんだぜ?」と、野獣は軽く笑う。

 

「ゴミ袋も溜まってるし、雑誌やら脱ぎ散らかした下着やらで足の踏み場も無いし、弁当箱のカラに始まって、カップ麺やらビール缶とか、テーブルの上に幾つも食ったまんま置いたまんまだしさぁ……(いじめっ子特有の暴露)」

 

「ちょっとぉ!! でっかい声で何言ってんのよぉ!! 馬鹿じゃないの!!?」

 

「急に怒り出すなって、もぉー! レモンティーに引火しちゃうだろ!!」

 

「い、引火っ!? するわけ無いでしょ!! 私を何だと思ってるのよ!!」

 

顔を真っ赤にした陸奥が、テーブルを叩いて叫んだ。野獣はソファに座りなおして鼻を鳴らす。

 

「そもそも何で俺が怒られてるのか理解に苦しむね……(テーブルを指でトントン)。そりゃあ、戦艦・空母は一人部屋だけど、もっと部屋は大切に使ってくれないとさぁ(御尤も)」

 

「そ、そんな汚く無いわよ!! あ、あれくらいは良くある散らかり方でしょ!?」

 

「あんな汚い龍宮城みたいになってんのは、流石にお前だけだゾ(厳重注意)」

 

 野獣の口振りと内容に、少年提督は若干ついていけていない。多分、野獣の言葉を比喩か何かだと思っているのだろう。「ぇ、え~と……」と、何かを思案するように難しい貌をしている。別にそんな深く考える必要は無い。言葉のまんまだ。だからこそ大井だってリアクションに困る。正直にドン引きしていいのだろうか。敢えて笑い飛ばそうかとも思ったが、リスクが高過ぎる。下手をすれば取り返しがつかなくなる。かと言って、黙ったままでいるのも不味い雰囲気だ。どうしよう……。もう帰りたい……。

 

 何故か追い詰められたような気持ちになっていた大井だったが、何らかのレスポンスをするよりも先に、陸奥が猛然と立ち上がった。だが、すぐにまた座りなおした。挙動不審だ。一度冷静になる為だろう。陸奥は、テーブルに置いていたレモンティーを一気飲みしてから一息ついた。それから、ニヤニヤ笑う野獣と、困惑気味の少年提督を見てから、隣に居る大井にもチラリと視線を向けてきた。大井は咄嗟に眼を逸らす。触らぬ神になんとやらだ。数秒の沈黙の後。

 

「……その、聞いて良い? いつ見たの?」

 

そう言った陸奥は真剣な貌だったし、声音も阿呆みたいに神妙だった。そんな陸奥にソファに凭れた野獣は、唇の端を持ち上げながら、ゆっくりと首を傾けて見せた。

 

「前の『大本営ゲーム』の時にさぁ、酔い潰れたお前を運んだのは、何処の誰だと思う……?(勝利の方程式)」

 

「あっ、そっかぁ~……、あの時かぁ~……(痛恨)。誰も責めれない感じねぇ、これ……」

 

陸奥はまた深く項垂れたかと思ったら、力を失ったかのように、今度はソファに四肢を投げ出した。

 

「お酒呑んで、記憶は無かったんだけどさぁ……。朝起きたら酷い二日酔いだったけど、ちゃんと自分の部屋にいたからさぁ……。酔ってたけど、自分で帰って来たんだなぁって思ったのよねぇ……。偉いじゃん私☆みたいにね、ちょっと思ってたわよ? バレなくて良かった~って思ってたワケ……。なのにさぁ……、今になってこんな、もうホント……」

 

観念したような切なげな独白を始めた陸奥の声は、半分涙声だった。そんな陸奥を励ますべく、少年提督が困ったみたいに微笑んだ。

 

「僕も片付けが下手で、よく部屋を散らかしてしまうんですよね」

 

「気を遣ってくれてるの?……有り難う。優しいのね、提督は。でもね? 私の部屋と提督の部屋じゃ、汚さが全然違うわ……」

 

穏やかな声で言う陸奥は、儚げなのに何処かヤケクソ気味な、器用な微笑みを彼に返した。大井はたまに、陸奥や長門が分からない時があると言うか、ひどく遠くに感じる時がある。こういう時だ。

 

「例えるなら、そう……。アヒルさんボートと、戦艦長門くらい違うわ」

 

「どんだけ散らかってるですかね……(戦慄)」

 

思わず、大井はツッコんでしまった。陸奥は微笑みを絶やさないままだ。隣に座っている大井を一瞥して、ゆったりと頷いて見せた。

 

「戦艦長門ぐらいよ」

 

 お、推すなぁ、戦艦長門……。頑なに戦艦陸奥と言わない辺り、何か理由でもあるのだろうか。まぁ多分、深い意味なんて無いに違い無い。探すだけ無駄だ。とりあえず大井は、「な、なるほどぉ……」と訳が分かった様な分からない様な頷きだけを返しておいた。何だか妙な空気になってしまったが、スポーツドリンクを飲み干した野獣がソファから立ち上がった。アスリートみたいな身体をボキボキ言わせながら伸びをして、右手で首を擦りながら陸奥へと視線を向ける。

 

「汚部屋の度合いなんざ戦艦大和でも武蔵でも何でも良いんだけどさぁ……。とりあえず掃除、しようっ(直球)!」

 

「えぇ、そうね……(素直) 今からやって来て良いかしら……(秘書艦任務放棄)」

 

「良いワケ無いだろぇえぇえ!!(SYUZO) 今日は徹夜なんだよね、良いから来いホイ!」

 

「……分かったわよ」

 

 テーブルに置いてあったペットボトルを持ち、陸奥も立ち上がる。「それじゃあ、先に戻ってるゾ」、「……またお昼にでも会いましょう」と野獣と陸奥の二人は、少年提督と大井に軽く言葉を交わしてから、サロンを後にした。それから少しして、また別の人物がサロンに現れた。北上だった。

 

 

「あれれ、大井っちじゃん。どったの?」

 

 サロンに訪れた北上は、向かい合ってソファに腰かける少年提督と大井を交互に見て、ちょっと驚いたみたいな貌になった。だが、すぐに悪戯っぽく猫みたいに口を歪めて、すすすっと大井の傍に寄って来る。「……何、デートしてたの? お邪魔だったら消えようか?」と。小さく耳打ちしてくる北上に、「そんな訳無いじゃないですか……」と耳打ちを返して、大井は軽く息を吐き出した。

 

 

「北上さんの方こそ、こんな時間にどうしたんですか?」

 

「提督に会いに来たんだよ。今日の秘書艦、私だからさぁ~。ねー」

 

「はい。宜しくお願いします」

 

 向かいのソファに座る彼も、北上と大井の仲の良い様子を微笑ましく見守りつつ、コーヒーをちびちびと飲んでいる。「任せといてよー」と、北上は言いながら、腕時計をチラリと見やる。時刻は、あと10分ほどで午前0時だ。日付がまだ変わっていない事を確認した北上は、ちょっと笑った。

 

「まだこの時間だと“明日の秘書艦”だね。 ……あれ、そういや大井っちに言ってなかったっけ?」

 

 その北上の言葉に、大井は思い出した。彼の寝顔に始まり、野獣と陸奥の遣り取りに気を取られて失念していた。そうだ。昼間に、北上と端末でメールの遣り取りをした時の事だ。『明日の秘書艦任務は深夜から入る事になるから、徹夜が始まる前に、食堂で彼に夜食でも作ってあげよう』みたいな事を北上は言っていた。彼が此処で仮眠を取っていた理由も、恐らくは北上と落ち合う約束でもしていたに違いない。「いえ……、聞いてます。今思い出しました」と、大井も軽く笑みを返した。

 

「大井っちは明日、非番なんだよね? ちょっと夜更かししても大丈夫?」

 

北上が、何かを思いついたみたいに言う。

 

「食堂の厨房借りて、ホットケーキ作ろうと思ってるんだけどさー。良かったら大井っちも食べてかない?」

 

 そんな思わぬ北上からの誘いに、大井は嬉しさと摂取カロリーの間で葛藤する。これが昼食や夕食の誘いならば、飛び上がって喜ぶところだが、この時間だとそうもいかない。大井がチラリと彼を見遣ると、仲の良い孫姉妹を見守るおじいさんみたいな、穏やかな笑顔を浮かべていた。大井が同席したいと言えば、優しい彼は、きっと快く迎えてくれるだろう。そもそも大井は、全然眠れなくて飲み物を買いに自販機まで来た身である。眠気はおろか、仕事に追われている訳でも無い。しかしである。

 

 

「本当にもの凄く魅力的なお誘いなんですけど、……夜食にホットケーキですか?」

 

「提督が食べたいんだって。まぁこれから仕事だし、頭に栄養行かないとさー」

 

「いやでも、この時間に小麦粉ものは不味いですよ……」

 

「大丈夫だよ、大井っちなら。全部おっぱいに行くでしょ?」

 

「適当なこと言わないでくれません!?」

 

「適当じゃないし~、ちゃんと根拠も在るし~。ねー提督、大井っちって、おっぱい大きいよねー?」

 

「えっ」

 

流石に提督も、いきなりの事に何を言われたのか良く分からないような貌になった。

 

「ちょ、ちょっと北上さん!?」

 

 大井は胸を隠すようにして腕を交差させて、無遠慮に胸を触りに来る北上から防御姿勢を取る。それを見た北上はすぐにパッと離れて、「冗談だって、大井っち」と可笑しそうに笑った。かと思ったら、すぐにぐっと顔を近づけて来られて、ドキッとしてしまう。提督と仲良くなるチャンスじゃん?。不意に、真面目そうな声で耳打ちしてきた北上は、大井にだけ見えるようにウィンクして見せた。北上のこういう天真爛漫の中には、愛嬌だけでなく、思慮深さや仲間思いな一面が垣間見える。親友である大井は、それが北上の魅力であることを知っているし、とても眩しく見える。大井は、観念したように苦笑を漏らす。北上もニッと嫌味も無く笑った。

 

 

 

「それじゃ、ホットケーキつくろっかー」

 

「食べて眠くなっちゃわないで下さいね」

 

はりきった様子でソファから立ち上がった北上に、大井も調理を手伝うべく続く。

 

「あぁ、僕も手伝います」

 

彼も立ち上がろうとしたが、それを北上が手で制した。

 

「良いって良いって、任せといてよ。大井っちが美味しいの作ってくれるからさ」

 

「私が全部作るみたいな言い方ですね……」

 

「冗談だって」

 

 そう軽く笑いながらサロンを抜け、食堂へと入っていく北上の背を見ながら、大井は気付かれないように息を吐いた。そして少年提督に向き直り、わざとらしく秘密話でもするみたいに、少しだけ悪戯っぽく言う。

 

「北上さんって、ほんとに可愛いですよね」

 

「はい。とても可憐なひとだと思います」

 

 二人の会話を背中で聞いていた北上は、何もないところで蹴躓いた。結局、その後。大井は厚い目のホットケーキ2枚を、バターとシロップ増し増しでペロリと平らげた。心地よい満腹感の御蔭か。悪夢を見ることも無く、快眠と共に体調も良く、清々しい朝を迎える事が出来た。ついでにその日、必死の形相でトレーニングルームに篭る大井が目撃されたのは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

 

 















いつも読んで下さり、また感想や暖かい評価まで添えて頂き、本当に有難う御座います!
相変わらず内容の無い話ではありましたが、皆様の御暇潰し程度にでもなっていれば幸いです。

“召喚”では無く“召還”の字を当てている点についての描写不足を御指導頂き、あらすじを修正させて貰い、本文内容についても、不自然にならない様に気をつけつつ、オフラインで修正中であります。
誤字も多く御迷惑をお掛けしております。申し訳ありませんです……。
今回も最後まで読んで下さり、有難う御座いました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鬼さん此方、手の鳴る方へ

 遠征から帰投してきた暁達を埠頭で出迎えた後、執務室に戻って来た頃には午後15時を少し回っていた。仕事も一区切りついていたこともあり、龍田は温かい緑茶を淹れる。コーヒーを淹れようとしたのだが、生憎と切らしていた。湯吞みと茶托を揃えて、執務机に腰掛ける少年提督に手渡した。相変わらず、子供らしくない落ちついた笑みを浮かべる彼は礼を述べて、軽く頭を下げてくれる。もっとどっしりと構えていても良いのにと思うものの、偉そうに振舞う彼の姿は想像しにくいものだった。彼は、その外見には似つかわしくない不思議な貫禄や存在感を纏っているものの、それは彼の泰然さや自然体である事を表しているのであって、威厳や威圧といった要素には結びついていない。彼は、どの艦娘に対しても態度を変えない。特別扱いをしない。それは、深海棲艦達に対しても同じだった。

 

 彼が腰掛けた重厚な執務机の両脇を固めるような配置で、秘書艦用の執務机が備えられている。今日はその一方で龍田が秘書艦としての仕事をこなしている。そして、もう一方で“秘書艦見習い”として、ある深海棲艦が一人腰掛けていた。南方棲鬼だ。何とも居心地が悪そうな貌をしている彼女は現在、戦艦ル級に良く似た、黒いボディスーツを身に付けている。そんな彼女にも、龍田は湯吞みと茶托を手渡す。南方棲鬼は龍田を上目遣いで見てからを静々と受け取り、黙ったままで礼をして見せた。龍田はまた微笑みを返してから執務机へと腰掛けて、自分も茶を啜った。南方棲鬼も、無言のままで湯吞みを傾け、ちびちびと茶を飲んでいる。

 

「あぁ、そうだ。間宮さんのところで羊羹を頂いているのですが、如何です?」

 

 言いながら、彼が龍田と南方棲鬼を順に見て、微笑んだ。ピクッと肩を動かした南方棲鬼は、一度彼の方を見たものの、すぐにまた俯いた。分かり易い反応だった。「良いですねぇ」と、龍田がくすくすと笑い、羊羹を用意しようと立ち上がろうとした。だが、それよりも先に少年提督が席を立ち、羊羹を小皿に分けて竹楊枝を用意してくれた。南方棲鬼の無表情が綻びかけている。海で遭遇する彼女は、強大な力を持つ深海棲艦であり、脅威を振り撒く存在だった。ただ、こうして見ると可愛らしいものだ。眼を輝かせながら唾を飲み込み、彼から羊羹の乗った小皿を受け取る表情などには、なかなか敵意を抱きにくい。

 

 ちなみに、今の彼女は解体施術を受けている為に、見た目相応の女性程度の肉体能力しか無い。艦娘としての力を発揮できる龍田の脅威とは為り得ない。大人と子供以上の力の差がある。もしも南方棲鬼が少年提督へ危害を加えようとしても、そんなものは龍田一人で容易く鎮圧出来る。まぁ、幸せそうに羊羹を味わっている南方棲鬼の様子を見るに、そんな心配も無いだろう。

 

「美味しいですか?」

 

 執務机に腰掛けた彼は、南方棲鬼へと優しく微笑んだ。今まさに、切り分けた羊羹を竹楊枝で口へと運ぼうとしていた南方棲鬼は、食べるのを一旦止めて彼をチラリと見遣った。ちょっとだけ恥ずかしそうというか、バツが悪そうな貌だった。だが、すぐに視線を逸らしながらも、コクリと小さく頷いてみせる。そんな素直な反応に、彼もまた笑みを深めて、ゆったりとした仕種で茶を啜った。

 

 

 

 この鎮守府の傍には、大規模な深海棲艦の研究施設が設立されている。特殊な資質を持った少年提督に目を付けた本営が、彼の力を用いて、捕えてきた深海棲艦達への更なる究明を目指す為だった。彼は本営に利用され続けて来た。だが、ある時を境に、彼の境遇は大きく変わる事になる。

 

 以前、この鎮守府は、南方棲鬼とレ級の強襲を受けた。鎮守府の埠頭を中心に被害を受け、少年提督は右眼と右腕を負傷した。この騒動の後。少年提督は、深海棲艦の右眼と右腕を移植されることになった。人間を艦娘と同程度の存在へと昇華させる施術など、人体実験的な試みは以前から行われていたものの、高度な金属儀礼術を用いた本格的な異種移植施術は、彼が始めての検体だった。彼はこの時、本営にある取引を持ちかけた。

 

 己の持つ特殊な資質と肉体を検体として差し出す代わりに、捕らえてある深海棲艦達を自身の管理下に置く事を要求したのだ。そうしてこの要求は通り、“姫”や“鬼”を始めとした、施設に収容されている深海棲艦達が、彼の配下に置かれることとなった。タ、ル、ヲ級をはじめ、港湾棲姫、北方棲姫、戦艦棲姫、戦艦水鬼など、強大な力を持った人型の上位個体達を管理下に置いた彼は、彼女達へと教育を施す許可も本営から得ていた。実務に必要となる事務能力や知識だけでなく、社会的な一般常識、語学などの教育には、足柄や那智をはじめとした艦娘達が、施設に日々出向いて行ってくれている。

 

 深海棲艦達もまた、少年提督の理想や理念に共感していたし、自分達へと歩み寄ろうとする彼を敬慕し、仰慕していた。彼女達は彼と供に在るべく、真摯さや忠義を持って、艦娘達から学ぶべきことを日々粛々と学んでいる。“秘書艦見習い”というポストも、その一環で考え出されたものだった。ただ、“秘書艦見習い”として、深海棲艦達を施設から連日招いているワケでは無い。軍部の実務に携わる職務の為、此処でも本営からの許可が必要だった。強大な深海棲艦達の頻繁な秘書艦化は、少年提督の反逆意志を疑われかねない。その為、一週間に数回程度である。彼もこのあたりは慎重だ。とは言え、余りにも大胆な選択と方策である事に変わりは無い。その特殊な来歴から、捕獲された深海棲艦達と接触する機会が多く、彼女達の心を開いていた彼だからこそ出来る選択だった。

 

 異種移植により深海棲艦の細胞を受け入れた彼は、その特殊な資質と精緻・精巧な施術、そして、強靭な精神力を持って、自身の肉体の深海棲艦化をコントロールしている。彼は、本営の命令によって人間では無くなった。衰微も疲労も無く、病や老いすらも知らない頑強な肉体を構築し、一種の不老不死のモデルを己の肉体として造り上げた。それは間違いなく、未踏の偉業であった。

 

 本営上層部の者達は、彼の偉業を模倣する術を知りたいのだ。彼の持つ生体データと、有機の肉体に無機の強さを鋳込む為の、彼の儀礼術と鍛冶術の神秘を請うている。“不老不死”という、魅惑的な権力維持の手段に目が眩んでいる。しかし、彼が教授する施術式の精密さや規模を、実践出来る者が居ないのが現状だ。仮に、彼自身が他の誰かに異種移植手術を行ったとしても、肉体の深海棲艦化を自力でコントロールするなど、常人の精神力ではとうてい耐えられないという結論も出ている。それでも、本営は諦めていない。諦めきれないのだ。突破者である彼が居る限り、その足跡を辿ることが出来るのだと信じている。本営の上層部は、深海棲艦達を配下に置いている彼の動向を警戒しつつ、上手く利用しているつもりなのだろう。或いは、彼を毛嫌いする者達も居るに違い無い。しかし間違い無いのは、最早誰も彼も、彼を無視出来ないということである。一方で、彼自身は今も穏やかな表情で、手元の書類へと視線を滑らせつつ茶を啜っている。暢気にも見えるが、彼は彼で熟慮と思索を巡らせているのは間違い無い。忙しいことだ。龍田が軽く息をつこうとした時だ。

 

 彼の懐から電子音が響いた。彼は携帯端末を取り出し、ディスプレイを見てから椅子から立ちあがる。龍田からも、ディスプレイには『大本営』の文字がチラリと見えた。彼は龍田と南方棲鬼を順番に見て、「少し席を外しますね。失礼します」と軽く頭を下げた。休憩中の二人に気を遣ったか、或いは、聞かせたくない類いの話でもするのだろうか。それは龍田には分からない。彼は携帯端末を手に、執務室を後にする。執務室に残されたのは、龍田と南方棲鬼だけになった。

 

 執務室は、静寂に包まれた。龍田は何も言わないし、南方棲鬼も特に何を言うでもない。それでも、険悪な雰囲気では無かった。もう既にお互いが敵意を向けて居ないからだろう。彼が居る時の穏やかさは壊れない。龍田は茶を啜っていると、視線に気付いた。南方棲鬼が、龍田の方を見ていた。睨んでいるワケでは無いものの、何処か真剣な様子だった。「どうしたのかしらぁ?」と。龍田は椅子に座ったままで、南方棲鬼へと向き直る。

 

「……お前達は、私の事が憎くは無いのか?」

 

 南方棲鬼は流暢な言葉遣いで言いながら、一瞬だけ龍田から視線を逸らした。

 

「そうねぇ……」

 

 龍田は視線を上げつつ、顎に手を当てて見せた。龍田を見つめてくる南方棲鬼の眼には、微かな疑念が窺える。戸惑いという程大きな不安では無いようだが、釈然としないような、納得いっていないような、そんな表情だ。今更ではあるものの、南方棲鬼が龍田にこんな質問をぶつけてくる心情も理解できなくも無かった。何せ、少年提督の右腕をへし折って捻じ切り、彼の右眼を抉り出して喰らったのは、他ならないこの南方棲鬼である。それでも尚、少年提督は南方棲鬼を憎むでも恨むでもない。それどころか、他の深海棲艦達と同じく、こうして秘書艦見習いとしての教育の場を提供してくれるだけでなく、今では龍田と茶を啜っているのだ。龍田は少しだけ笑う。

 

「今は、特に何も思わないわねぇ」

 

 南方棲鬼は、その暗紅の瞳を細めて龍田を見詰めて来た。

 

「それは勿論、最初は戸惑ったし、貴女の事を憎いと思ったわ。それでも、提督が貴女達を受け入れているのだもの」

 

 龍田は肩を竦める。

 

「配下にある私達が貴女達を敵視しても無益だし、何も始まらないわよねぇ? 貴女達は賢いわ。それ位は理解出来るでしょう?」

 

「……理屈では理解は出来る」

 

「それで十分。貴女を最初に教育したのは、武蔵さんだったかしら?」

 

「あぁ、世話になった」

 

「武蔵さんは、貴女を危険視していたわ。必ず牙を剥いてくるだろうとね」

 

「それも理解は出来る。我等を警戒するのは当然だろう」

 

「でも、貴女はそうしなかった。それは何故?」

 

 龍田の質問に、南方棲鬼はまた視線を逸らした。

 言葉を選んでいるのか。逡巡しているようでもある。

 しかし、「アイツの事が知りたかった」と、すぐに南方棲鬼は視線を上げる。

 その南方棲鬼の瞳には、強い輝きが宿っていた。

 

「我等を恐れず、手を差し伸べて来るアイツの理想の果てに何が在るのか。興味が在る」

 

「そうねぇ。私もよ」

 

 龍田は艶然として微笑んで見せて、南方棲鬼を見詰め返した。

 

「私達は、まだまだ貴女の御仲間達と殺しあう事になるわ」

 

「機が熟すまでは必要な事だ。同胞はお前達を殺し、殺されもする。堂々巡りだ」

 

「その連鎖を断ち切る為に、彼は貴女達の力を借りたいのよ」

 

「我等を『特使艦隊』として運用し、“撃滅”では無く、力による“受容”を目指すという話であろう。理解している」

 

「まぁ、結果として齎されるものが、共存か不可侵かは分からないけれど……」

 

「或いは、そのどちらでも無いかもしれん」

 

「確かにそうねぇ」

 

「どんな結果であろうと、其れは茫洋極まる未来の一部に過ぎない。私は、その先を見てみたい」

 

「彼と一緒に?」

 

「ああ。そうだ」

 

「貴女、提督のこと大好きなのねぇ」

 

「っ!!?」

 

 驚いたような貌になった南方棲鬼は、龍田に何かを言おうとしたが、すぐに眼を泳がせて視線を逸らした。恥ずかしそうに俯いて、小皿に残っていた羊羹を乱暴に口に放り込む。不機嫌そうに咀嚼する姿は、やはり可愛らしいものだった。敵意と殺意の塊であった彼女と少年提督の間に、今までにどんな遣り取りが在ったかは、龍田も具体的には知らない。それでも、打算も野心も無く、躊躇も迷いも無く、利己心どころか自尊すら感じさせない彼の言葉や姿勢は、艦娘だけでなく深海棲艦達にも間違いなく響いている。

 

「ふふふ、ごめんなさい。つい」

 

 龍田はくすくすと笑い、眉間に皺を寄せている南方棲鬼に謝ってから、軽く息をついた。

 

「私達も同じよ。彼の傍に居たいわ」

 

「……そうか」

 

 龍田に短く応えた南方棲鬼は、龍田を見詰めたあと、手元の湯吞みに視線を落とした時だ。彼が執務室の扉を開けて戻って来た。彼は一人では無かった。

 

「Foooooo!!↑ 煎り豆! 煎り豆!! バッチェ準備してますよぉ~!!」

 

 野獣だった。いつもの海パンとTシャツ姿では無く、虎柄のパンツ一丁だった。靴もいつものスニーカーでは無く、編み上げのブーツである。凄い違和感のある組み合わせだ。頭には角の被り物をしていた。あれで鬼の恰好のつもりなのだろうか。手には大きめの枡に、豆を山盛りに持っている。もの凄く楽しそうだ。その野獣に付き従っているのは、「あの、ホントすみません……、すぐ連れて帰りますんで……」と、申し訳なそうに龍田や南方棲鬼、それから少年提督にペコペコと頭を下げている鈴谷だ。しかし、テンションを上げている野獣は、そんな鈴谷の様子など意に介さない。それがどうしたと言った感じで龍田と南方棲鬼を順番に見て、ニッと笑いながらサムズアップして見せた。南方棲鬼は、何だか奇妙な動物でも見る様な貌で野獣を見ている。少年提督は、可笑しそうに小さく笑っていた。

 

「この辺にぃ、美味い節分屋の屋台、来てるらしいっすよ! じゃけん、みんなで豆撒きしましょうね~!(イベント開催)」

 

 機嫌の良さそうな野獣は、ノリノリである。

 

「そんな屋台来てないから! まだ仕事も終わって無いし!」

 

 必死な様子の鈴谷がストップを掛けているところ見るに、どうやら野獣は執務をほっぽり出して遊びに来たのだろう。本気で豆撒きを楽しむスタイルだ。「そんなモン、後からでも出来るし間に合うから。ちょっと豆撒くだけだし、へーきへーき」と、野獣は鈴谷にヒラヒラと手を振って見せる。そんな賑やかな様子を見て、龍田はそう言えばと思う。今日は節分か。そして、ふと気付く。

 

「どうして鬼の恰好をしている野獣提督が、豆を持ってるのかしらぁ?」

 

 龍田の疑問は、別に無視しようと思えば無視できる瑣末なものだ。まぁ、雰囲気と言うかオプションと言ってしまえばそれまでだろう。細かい事だ。だが野獣は、龍田に意味深に唇の端を持ち上げて見せる。ちょっと嫌な予感がした。

 

「ちょっと趣向を変えて、今年の豆撒きは鬼が豆をぶつけてくるって設定で行くから!(反転逆撃)」

 

「えぇ……、もうそれ節分じゃないよ」

 

 鈴谷が突っ込むものの、少年提督は「面白そうですね」と、ちょっとノリ気だ。龍田は、節分というものをイマイチ理解していない様子の南方棲鬼に、その概要を掻い摘んで説明した。「ふむ……」と、難しい貌をしていた南方棲鬼は、自分なりに意義や意味を解釈している様子だった。そんな傍らで、野獣は持っていた枡から豆を一粒摘んで見せる。その小粒な豆が、薄っすらと淡い燐光を纏っている事に龍田は気付いた。鈴谷もギクッと肩を震わせて身を引いた。

 

「実はこの豆、超高密度な儀礼済みなんだよね? 一粒でも艦娘にぶつけると、どうなると思う?(悪巧み顔)」

 

「うわっ、めっちゃイヤな予感がするぅ……」

 

 野獣の顔と、野獣が手に持つ枡を見比べた鈴谷が、怯える様に貌を引き攣らせて二歩ほど後ずさった。純粋な興味からだろう、興味深そうな貌をした少年提督が「どういう効果が在るんでしょうか?」と聞いた。野獣がフッ……、とニヒルな笑みを浮かべた。

 

「ちょっと気持ち良くなっちゃうだけだよ?(含みのある言い方)」

 

「リラクゼーション効果が在るんですか、凄いですね」

 

 天然気味な少年提督が感心する横で、鈴谷が戦慄した貌をしている。龍田は南方棲鬼の手を引いて、野獣からそっと距離を取る。正解だった。「ダルォ?(御満悦)」と、楽しげに笑った野獣が、枡から豆を掴んだからだ。今度は一粒じゃない。一掴みである。

 

「じゃあ手始めに、鈴谷にぶつけてみましょうね~(先制攻撃)」

 

 野獣は言いながら、鈴谷に向き直った。

 

「へぇええっ!!? 怖い怖い怖いっ!! やめてやめてーーっ;;……!!」

 

 鈴谷は、腕で身体を庇うようにして悲鳴を上げる。

 

「ビビり過ぎなんだよなぁ……(呆れ) ちょっと絶頂するだけだから安心!」

 

「やっぱそんなんじゃん!!? 一粒で効果在るんでしょ!!?」

 

「おっ、そうだな(他人事)」

 

「そんなのいっぺんにぶつけられたら体こわれちゃ^^^ーーー↑う;;!!!」

 

「そんじゃいくよ~?(問答無用)」

 

 野獣が豆を振り被る。

 

「ごめんごめん待って待ってお願い!! 何でも言う事聞くから待って!!! あっあっ!! ぁぁぁあああああ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!!」

 

 怯えた悲鳴を上げながら、ぎゅっと眼を瞑った鈴谷が頭を抱えて蹲った。

 

「うそだよ(ウィットに富んだジョーク)」

 

「へぅぇ……;;?」

 

 野獣は豆を枡に直して、蹲る鈴谷に肩を竦めて見せる。半泣きで顔を上げた鈴谷も、今までの一連の流れが冗談であると理解できたらしい。涙目でポカンとした貌になった鈴谷は固まっていたが、すぐに立ち上がった。

 

「もうっ! もうっ!! マジでやめてよそういうの!!!」

 

「ごめんごめん(半笑い) でもさぁ、やっぱり季節の行事やし。絶頂撒きしたいだろ?」

 

「ぜっ、絶頂撒き!? 豆を撒こうよ!? そんなの撒かなくて良いから(良心)!」

 

 

 言い合う鈴谷と野獣の二人を、穏やかな表情で見守っていた少年提督が、龍田と南方棲鬼へと向き直り、歩み寄って来た。彼は腕時計を確認してから顔を上げる。龍田と南方棲鬼を順番に見て、「僕達も、やってみませんか?」と、控えめに微笑んだ。穏やかに誘う彼の声音は、酷く啓示的に響いて聞こえた。不思議な重みと言うか、暖かさが滲んでいる。

 

「ふふ、それも楽しそうですねぇ。時間にも余裕がありますし。天龍ちゃんにも声を掛けて良いかしらぁ? 今日は非番だったはずだから」

 

 龍田は言いながら頷いて、彼に微笑みを返す。一方で南方棲鬼の方は、あまり乗り気では無いようだ。難しい貌をして、彼から視線を逸らしている。彼も龍田も、そんな南方棲鬼を無理に参加させようとは思わない。

 

「勿論、南方ちゃんが遠慮するなら、私は構わないわぁ。こうやってのんびりするのも悪く無いもの」

 

 龍田が言うと、南方棲鬼は緩く息を吐き出してから、彼を見詰めた。真剣な眼差しだった。

 

「……いや。参加させて貰おう。これも学習だ」

 

「はい。……有り難う御座います」

 

「何故、礼を言うのだ?」

 

「いえ、貴女が前向きに僕達の事を理解してくれようとしている事が、とても嬉しくて」

 

 彼は声を僅かに弾ませて、少年然として笑った。拘束具めいた眼帯の所為で、顔の右上半分は隠れているものの、十分に魅力的だった。邪気とも無縁だが、無垢と言うには憂いが滲んだ微笑である。彼は卑怯だ。完全な不意打ちだった。龍田だって激しくドキッとした。南方棲鬼が頬を染めて怯んだ。すぐにそっぽを向いて、不機嫌そうに鼻を鳴らして見せる。龍田がくすくすと笑うと、南方棲鬼にジロッと睨まれた。肩を竦めて誤魔化す。

 

 鬼は外。福は内。

 

 果たして、南方棲鬼は、これからの歴史において“鬼”か、それとも“福”か。龍田には判断しかねる。ただ、少年提督にとっては関係の無いことなのであろう。“鬼”も“福”も無い。彼は、そのどちらも外へと追いやらない。鬼を狩り立てることもをしない。福を選り好みしない。それを表裏一体と見る。『鬼も内。福も内』。それは青臭い理想論だ。しかし彼はその理想論を、徹底的な現実主義を持って追っている。己に出来ることを、安らぎや妥協とは無縁に、無私に実践する。

 

 先程、南方棲鬼は言っていた。『少年提督の事が知りたい』と。それが不可能である事は、龍田が一番よく理解しているつもりだ。彼はかつて“彼であった部分”を捨てて、艱難辛苦の今の生を手に入れた。“かつての彼が失われた瞬間”は、龍田だけが立ち会った事がある。本当の彼と呼べる部分は、既に消失している。持って生まれた人格を捧げた彼は、比類の無い献身と懺悔で、艦娘だけで無く深海棲艦達の未来まで探ろうとしている。そんな彼を、人類は“鬼”と見るか、“福”と見るか。つらつらと龍田がそんな事を考えていると、先程の此方の遣り取りを聞いていたのだろう。野獣が傍にやって来た。

 

 

「おーし!! 南方棲鬼も参戦とか、燃えますねぇ!!(俄然やる気)」

 

「ねぇ、野獣。あのホントさ、普通にやってね?」 鈴谷が心配そうに言う。

 

「……普通って何だよ?(哲学)」

 

「そんな難しい話はしてないからね! 儀礼済みの煎り豆とか使わないでって言ってんの!」

 

「安心しろって! 使う相手はちゃんと選ぶからさ!(屑)」

 

「駄目だってばぁ!! もぉーー!!><」

 

「じゃあ俺、先駆けしてくるから……(陰惨たる新風)」

 

 相変わらず、野獣の身のこなしというか体捌きは達人染みていた。反応しづらく、捕え難い歩方と体重移動で、すっと鈴谷達から距離を離して、音も無く執務室の扉から出て行った。電光石火ともまた違う、相手の意識外を縫うような動きだ。

 

「あーー!! 駄目駄目駄目!! 豆の効果が強過ぎるッピ!!」

 

 焦っておかしな口調になった鈴谷は、龍田や南方棲鬼、それから少年提督に礼をしてから、慌てて野獣を追いかけて執務室を飛び出していった。すると、「おい野獣!!」と、廊下の方で大声がした。少し距離がある。それでも、良く届くこの声は。長門か。どうやら廊下で鬼の恰好をした野獣と遭遇したらしい。不幸過ぎるエンカウントだ。また長門の怒声が響く。

 

 

 

 

 貴様!! 執務室を空にして何を遊んでいる!!?

 

 良いだろお前、今日は節分だぞお前!!(無価値な言い分)

 

 関係在るか!! それに何だその格好は!!? ふざけてるのか!!?

 

 豆撒きだよ、見て分かんないの? そんなんじゃ甘いよ?

 

 行為を聞いているんじゃない!! 意図を聞いているんだ!!

 

 皆の無病息災を祈ってるに決まってるダルォ!!

 

 戯けた格好で何を抜かすか!! さっさと仕事に戻れ!!

 

 福はぁ^~~内ぃ^~~!!(豆をぶつける音)

 

 (≧Д≦)ンァアアアアアアアアアアアアアア!!!!(イキスギ)

 

 あぁぁあああ!!(><;)間に合わなかったぁ^~~!!!(無念)

 

 

 長門の嬌声と何かが倒れるような音と一緒に、最後だけ鈴谷の声が響いて来た。あらあら~……みたいな顔で、龍田は執務室の空きっぱなし扉の方を見詰める。南方棲鬼だって、ドン引きするような貌だった。彼だけが、微笑んで頷いていた。「先輩は、本当に誰とでも仲が良いですね」と。尊敬を滲ませて呟く彼の行く末が少々不安になった龍田だが、どうツッコむべきかイマイチ分からない。取り合えず、「ホントですねぇ(思考放棄)」と返しておいた。南方棲鬼が信じられないものを見る貌で、少年提督と龍田を見比べているが、それには気付かないフリをした。

 

 

 

 















今回も最後まで読んで下さり、有難う御座います!
節分に関係のある話をと思っていましたが、間に合いませんでした……(土下座)
第3話では、オチまで上手く持って行けなかった事もあり、不完全燃焼気味となってしまい申し訳ありませんです……。
更新ペースにつきましては、今迄のボツ集と言いますか、書き散らかしていたものを手直ししつつ、書きたいものを書かせて頂いております。今は短い間隔で投稿させて頂いておりますが、また直ぐに不定期更新になる事も御容赦頂きたく思います……。

ちなみにMTGは、緑タイタンのヴァラクートに焼き殺されて引退しちゃいました……(苦い記憶)
カウゴーも連帯責任だぞ!(半泣き)


私の身体の事まで気に掛けて頂き、恐縮です。寒い日が続いておりますが、皆様も風邪など召されませんよう、体調にお気を付け下さいませ。

いつも読んで下さるだけでなく、暖かい御言葉や高い評価まで添えて下さり、本当に有難う御座います!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

バレンタインの日

 バレンタインデーであっても、この鎮守府の艦娘全員が提督にチョコレートを渡すことは無い。そんな事をすれば、膨大な量のチョコを提督が抱える事になり、最終的には艦娘達と再分配という身も蓋も無い結果になるからだ。これでは流石に意味が無いというか、渡し甲斐もへったくれも無くなってしまうので、艦娘達は妥協案を採用している。それが、“バレンタインデー当日の秘書艦が代表して、提督にチョコを渡す”というものだ。ちなみに、ホワイトデーのお返しは必要ないことは、提督に事前に伝えてある。以前、少年提督と野獣が協力して、艦娘全員に手作りクッキーを用意する事件が起きた。お洒落な包装と供に、其々の艦娘達一人一人にメッセージカードまで添えて、日々の感謝を二人は伝えてくれた。甘さを控えめにした、素朴で優しい味のクッキーだった。艦娘達は喜んだものの、流石に負担を掛けてしまうのは不本意である為、丁重に断っている。残念な事だが、気を遣わせてしまうのであれば本末転倒だ。この鎮守府のバレンタインデーは故に、基本的には友チョコが主流であり、其処まで気合を入れる日でもなくなっている。

 

 しかし。バレンタイン当日の今日。秘書艦である雷にとっては、否が応でも緊張してしまう日でもあった。朝から廊下ですれ違った金剛から「健闘を祈りマース!」と、サムズアップ&ウィンクと供に応援された。彼の初期艦である不知火は、「御武運を……!」と、信頼と友情を込めて握手してくれた。他にも大和や武蔵からも「頑張って下さいね」「私達の分も、宜しく伝えてくれ」と、優しい言葉を掛けてくれた。携帯端末には、遠征に出ている暁や電、響からのメッセージも届いていたし、そうした応援を受けた雷としては、やはり今日は落ち着かなかった。

 

 断熱ポーチと保冷剤を用意し、チョコは秘書艦用の執務机の引き出しに忍ばせてある。これで、多少は空調が効き過ぎる事があっても、チョコが融けたりする心配も無い。あとはチョコを渡すタイミングを自然に掴み、自身と皆の感謝の気持ちを伝えれば良い。別に緊張する必要など無いのだ。普通に。自然体で。いつも通りすれば良い。それだけの筈だった。なのに、いざ提督に声を掛けようとすると、躊躇ってしまう。そうこうしている内に、今日の執務が終わってしまい、雷は現在、少年提督と供に食堂で向いあって座り、夕食を摂っている状態だった。彼は今、夕食として和風きのこのパスタを行儀よく食べている。

 

 チョコは断熱ポーチと一緒に執務机の中に仕舞ったままだ。傷むことは無いだろうが、何とかして言い出す切っ掛けを作らねばと。内心で焦る雷は、食堂のハンバーグ定食をモグモグと箸で食べながらタイミングを計る。ただ、話題を探しては見るものの、こういう時程見つからないものだ。胸中であぅあぅとなりそうになったが、「食事の後に、一緒に執務室に寄って頂いても宜しいですか? 渡したいものがあります」と、何と彼の方から声を掛けてくれた。それは、もしかしたら彼なりの気遣いだったのかもしれない。

 

 雷が何か返す言葉を探していると、彼の携帯端末が鳴る。メールだったようだ。「失礼しますね」と、彼は懐から端末を取り出して軽く操作して、すぐにまた懐へ仕舞った。彼は少しだけ眉尻を下げて、軽く息をついている。困ったように笑う寸前みたいな顔だった。

 

「……仕事に関わる内容だったの?」

 

 雷は聞いてみる。彼は、すぐに穏やかな表情に戻ってから、雷に頷いて見せた。

 

「新種であろう深海棲艦を鹵獲したので、何れ其方の施設に送ることになるだろうという通達でした」

 

「また司令官が忙しくなるわね」

 

 雷は、動かしていた箸を止めて苦笑を浮かべた。スパゲッティをフォークにくるくると巻きつけていた彼も、一旦手を止めて雷へと顔を上げる。彼も雷と同じく、何とも言えないような苦笑を浮かべて見せた。

 

 

「保護している彼女達に反抗の意志が無い事を証明できれば、もう少し待遇も改善出来ると思うのですが、……今の段階では難しそうです」

 

 

「そういう理屈や理論じゃない部分は、なかなか伝わらないもの」

 

「はい……。深海棲艦は人類の絶対的な敵であり、撃滅すべきだと。そう信じて疑わない方は、軍部にも民間にも居られますから」

 

「彼女達を受け容れようって言う考え方を、今の社会の中に耕すには時間が掛かりそうよね」

 

 彼は、少しだけ辛そうに眼を伏せた。

 

「確かに、理想論ではありますからね。……現実的とは思わない人の方が多いでしょう」

 

「でも、私は司令官が間違ってるとは思わないわ。ほら、シェイクスピアも言ってるじゃない? 一片の情が、世の中を親密にさせるって」

 

「えぇ、……僕も好きなフレーズです」

 

 言いながら苦笑を深めた彼に、雷は軽く息をついた。深海棲艦への激しい感情や、殲滅への信条を持っている者がいるのも、まぁ仕方の無い事だとは思う。それだけ、かつての深海棲艦の攻勢が苛烈だった事もある。人類が劣勢であった頃の激戦期ではシーレーンは当然なことながら、沿岸部の町村なども攻撃の被害を受けることになり、その犠牲者も少なくなかった。深海棲艦が、人類から憎しみや恨みを買いまくったのは事実だ。それに加えて、激戦期の頃には少数であった『艦娘達の自我を破壊せずに、人格を育むことを選んだ提督達』の中にも、深海棲艦へと強い怨恨を向ける者も多い。理由は単純だ。人格や自我を得た仲間として、或いは、親愛な関係にあった艦娘を沈められた提督達も居たからだ。社会全体の世論から見ても、深海棲艦とは人類の執敵怨類である。

 

 正直な話をすれば、雷だってそうだった。深海棲艦と仲良くするなんて、できっこ無い。そう思っていた。だって、向こうが敵意と殺意を剥き出しにして攻撃してくるのだ。殺さないと、殺される。正にそんな感じだったからだ。だから、深海棲艦の研究施設に備えつけられた地下捕虜房で、初めてレ級と話をした時は衝撃を受けた。海に植え付けられた、人類に対する激しい怒りや憎悪に埋もれていただけで、彼女達にもちゃんと自我や人格が在って、感情が在った。今ではレ級と雷は、友人と言うか、相棒とも言える仲である。

 

 深海棲艦達にとって、“人類と戦うこと”それ自体が神聖なものであれば、絶対に和解は不可能だった。深海棲艦達は、海によって仕組まれた暴力と戦闘を、ただ完全に履行するだけの存在では無い。かつて彼は戦艦水鬼の魂に触れ、その記憶や意識の共有と同期を以って、それを証明している。深海棲艦達は、完成された兵器では無い。艦娘達と同じく、もっと言えば、人間と同じく、自我や感情が在る。そんな彼女達を力づくで排除・撃滅し、人類の支配の範囲を押し広げていくことに対して、彼は危惧を抱いている。人類が優位に立っている今こそ、一度立ち止まるべきだと。

 

 もしも。もしもである。これから先、雷が深海棲艦に沈められるような事があっても、彼は深海棲艦達に歩み寄る道を捨てることは無いだろう。彼は悲しんでくれるが、絶対に泣かないだろう。沈んだ雷を決して忘れず、深海棲艦達を憎んだり恨んだりすることも無いだろう。それは予感というより確信に近い。何と言うか、分かる。彼が他者に向ける愛情には、表裏や深浅が無く、何処までも博愛であり、一途で純粋だ。だからこそ危うい。執着心を持たず、未来と理想の信奉者である彼は、微笑みを浮かべたままで躊躇いも無く地獄へと跳躍する。理想のために、己を炉に焼べてしまう。彼の魂には、そんな極端な狂気と理知、そして冷静さが混在していて、自己犠牲の精神と艦娘第一主義の理念を支えている。そんな彼に、雷は何が出来るのだろうと、日々考えている。切り分けたハンバーグの最後の一切れをモグモグと食べた。コップに入れてきていた冷たい茶を飲んで、また一息ついたときだ。

 

 

「隣、良いッスかぁ^~」

 

 背後から陽気な声を掛けられた。Tシャツ海パン姿の野獣だった。野獣はラーメンの乗ったトレイを持っていた。隣には凄く苦い貌をした加賀も居る。少年提督は軽く礼をして、「えぇ、どうぞ」と微笑んだ。雷も立ち上がって敬礼しようとするが、野獣は「いいよいいよ、座っててくれよな~(朗らか)」と言いながら、雷の頭をくしゃくしゃと撫でてくれた。一部の駆逐艦娘以外には割りと優しいと言うか、父親然とした振る舞いで接してくれる。雷も座ったままで野獣と加賀に礼を返すと、野獣は軽く笑って見せて、彼の隣に腰掛けた。加賀も「失礼するわ」と、雷と彼に礼をして、雷の隣に腰掛ける。加賀のトレイには、きつねうどん。普段の加賀なら、これにもう一品くらいは食べている筈だ。それに、野獣と一緒に食堂に現れるというのも珍しい。

 

 雷が妙に思っていると、加賀が、向かいに座る野獣を睨んだ。

 

「食べ終わっても、何処かへ行ったりしないで下さい。まだ仕事が半分以上残っています」

 

「ちょっとくらい休憩したって大丈夫でしょ?(慢心)」

 

「朝からそう言い続けた結果が今の状況ですが」

 

「へーきへーき! 今日中には終わるからさぁ、安心しろよー(半笑い)」

 

 

 気の無い適当な返事をしつつ、具沢山の醤油ラーメンを啜り始めた野獣を睨んだ加賀は、一度舌打ちしてから自分も手を合わせて食べ始める。そんな二人を見比べた雷は、次に少年提督と眼が合う。彼は微笑を浮かべ、雷は苦笑を浮かべた。なるほど。まだまだ仕事が残っているから、野獣が逃げないように加賀も付いて来たということか。

 

「そう言えば今日は、バレンタインらしいっスよ(露骨なチョコ催促)。なぁ、加賀ぁ?」

 

「……それが?」

 

「とぼけちゃってぇ(半笑い)。俺の分も用意してくれてるんだろ? くれよ?(図々しさ全開)」

 

「……わかりました」

 

 めっちゃ低い声で言った加賀は、動かしていた箸を止めて、懐から何かを取り出した。ソレをテーブルの上に置いて、ずいっと野獣に押しやる。ソレは、綺麗な蒼い包装紙で丁寧に包装された小箱だった。明らかにチョコだった。煽った野獣の方が、加賀とテーブルのチョコを見比べて困惑顔になっている。

 

「何コレ……? 爆弾か何か?(超失礼)」

 

「似たようなものです」 加賀は野獣を相手にせず、しれっと応えて食事に戻る。

 

 野獣は明らかに警戒した様子で包装紙を剥がし、中身を確認した段階で軽く笑った。

 

「あのさぁ……、いくら俺の事が気に喰わないからって、石ころ詰めて来たらアカンやろ(正論)」

 

「遠慮せず受け取って下さい。私の気持ちがこもっていますから(嘘に非ず)」

 

「あっ、そっかぁ……(分析)」 難しい貌になった野獣は、もう一度中身を確認する。

 

「包装紙の準備をしている時間は、召還されてから最も無駄な時間でした(心の傷跡)」

 

「正直過ぎィ!! もう許せるぞオイ!!」

 

 いつも通りの他愛の無い雑談が始まった。彼も野獣も、そして加賀も、其々に食事を済ませた時になって、野獣が何かを思い出したように「あっ、そうだ(唐突)」と、彼に視線を向けた。

 

「前に言ってたやつだけど、お前の分も取り寄せといたからさ(優しさ)。明日にでも執務室に取りに来て、どうぞ」

 

 野獣は少年提督に言う。「あぁ、有り難う御座います」と、食後のコーヒーを啜っていた彼も、にこやかに礼を述べた。

 

「司令官、何か買ったの?」 興味本位で雷が聞いた。

 

「はい。写生セットを」 

 

 彼が穏やかな声で答えてくれた次の瞬間、茶を啜っていた加賀が盛大に噎せ返り過ぎて、椅子から転げ落ちた。まるで溺れているみたいに苦しげにゲホゴホと激しく咳き込んでいる。隣に居た雷は慌てて近寄り、苦しげな加賀の背中を擦る。何とか立ち上がった加賀は、悩ましい溜息を漏らしながら椅子に座りなおした。

 

「加賀さん!? だ、大丈夫!?」

 

「ゲホッ……、ちょっと、心臓がぴょんぴょんしただけだから(急襲するトキメキ)」

 

「えぇっ!? ぴょんぴょん!? 医務室に行かないとっ!」

 

「いえ、もう大丈夫よ。……落ち着いたわ」

 

 深く息を吐き出した加賀は、心配してくれる雷に頷いて見せた。そして、傍にあった布巾で零してしまった茶を拭いてから、また姿勢を正して椅子に座りなおした。彼も心配そうな貌をしていたが、「ちょっとしたビョーキみたいなもんだから、ヘーキヘーキ」と野獣が笑った。同時だったろうか。雷達が居るテーブル席に、新たに四人組みが歩み寄って来て、無言のままで隣のテーブル席に腰掛けた。長門、陸奥、金剛、鹿島の四人だった。

 

 四人共、もう食事を終えている様子だ。トレイを持っているワケでも無いし、やけに神妙な貌をしている。テーブル席に腰掛けた四人は、黙したままで此方のテーブルに熱い視線を向けてくる。ちょっと怖い。そう言えば、この四人組み。以前に行われたという野獣執務室での鍋会以降、急速に仲良くなり、よくつるむ様になったらしい。何があったのかは雷の預かり知るところでは無いが、四人の真剣な眼差しからは、何らかの固い絆で結ばれているらしいことを感じる事は出来た。野獣は長門達をチラリと見遣ったものの、特に声を掛けたりはしなかった。その代りに、ワザとらしく優しい表情を浮かべながら、雷に向き直る。

 

「まぁ、コイツも人並みの趣味とか持った方が、生活というか生き方にも潤いが出るだろうし、多少(の出費)はね?」

 

「ううん、別にお金を使うことに言及したいんじゃないわ。寧ろ、司令官が趣味らしいものを持ってくれるのは喜ばしいことよ」

 

 雷は笑顔で、少年提督にうんうんと頷いてから、「司令官って、絵を描くのが好きだったの?」と聞いてみる。彼は少し照れたみたいに左手の人差し指で、自分の左頬を掻いた。

 

「いえ、まずは形から入ろうと言うことで、先輩が色々と道具を取り寄せてくれたんです」

 

「俺も何か新しい事を始めようと思ってさぁ。模型作りも良いんだけど、んにゃっぴ、自然の中で出来る趣味も良いですよね……(ニヤニヤ笑い)」

 

 面白がるような笑みを浮かべる野獣に、少年提督が頷いた。

 

「それで、一緒に写生しようと、先輩が誘ってくれたんです」

 

「まぁ、俺は大ベテランっていうか、スペシャリストみたいなモンだからね。大自然の中でやるのはやっぱり、解放感が違いますよね! 取りあえず(経験談)」

 

「わぁ、気持ち良さそうですね」

 

「おぅ、いいですわゾ^~! (扇動者先輩)」

 

 雷が彼に言う隣で、赤い顔をした加賀が頭を抱え、熱っぽい溜息を漏らしていた。いや、よく見れば、隣のテーブル席に座っている長門達の様子も似たような感じだった。長門は悶えるように額を手で押さえて俯いているし、陸奥は視線を伏せつつも頻りに舌なめずりしている。赤い貌をした金剛は席を立って屈伸を始め、同じく真っ赤な貌をしている鹿島も立ち上がり、腕のストレッチを始めている。これから激しい運動でもするんだろうか。凄い挙動不審だ。雷が不思議そうに長門達を見ていると、野獣がまたワザとらしく真面目そうな表情を作って、顎に手を当てた。

 

「まぁ、本格的に始めるには、道具とか描写方法に精通しないとな!」

 

 長門と陸奥が、深く項垂れて切なげに呻いた。変な声を漏らした金剛が鼻血を零し、その金剛にティッシュを渡そうとして慌てた鹿島が、椅子に小指をぶつけて蹲った。

 

似合わない思案顔で言う野獣に、雷が「えー……」と、不満げに言う。

 

「そういう型にとらわれないっていうのかなぁ、最初はもっとこう、のびのびとやってみても良いんじゃないかしら?」

 

 ねぇ、司令官。言いながら雷が少年提督に向き直ると、彼も控えめ小さく頷いた。

 

「そうですね。まずは、慣れるところから写生を初めてみたいと思います」

 

「あっ、そっかぁ(納得)。まぁ、急ぐ事も無いし、自分のペースが一番ですよね。俺くらいになると、モノが眼の前に無くても想像でイケるようになるから(卓絶の境地)」

 

「ねぇねぇ! じゃあ司令官が写生する時には、私も見学してても良いかしら!」

 

「……私も、ご一緒させて欲しいのだけれど」

 

 無邪気な雷に続き、真剣な貌になった加賀が背筋を伸ばし、居住まいを正して挙手をした。相変わらず、顔は病気かと思う程真っ赤だが、切れ長の怜悧な瞳は、ギラギラとした輝きを秘めている。異様な迫力が在って、隣にいた雷は気圧された。野獣はニヤニヤと笑っているし、彼は穏やかに微笑んだままで、「はい。僕も初めてなので、色々と教えて下さい」と頷いた。加賀は慈しみに満ちた表情になって、「やりました……(灯された希望)」と、万感を込めた呟きを零す。

 

 それに続いて、隣のテーブル席に陣取って居た長門、陸奥、金剛、鹿島の四人が一斉に挙手しながら席につき、ガタガタガタッ!! と、テーブルごとにじり寄って来た。凄い勢いだった。ビクッと肩を揺らした少年提督と雷に代り、野獣が鼻を鳴らして彼女達にストップを掛ける。

 

 

「申し訳無いけど、『秘密結社:精通倶楽部』のメンバー達は、参加NGだから(早期警戒)。

 加賀も連帯責任だぞ!」

 

「そ、そんな結社は存在しない!! 変な言い掛かりはやめろ!!」  テーブルを叩いた長門が、焦ったような割とマジな貌で吼える。

 

「頭に来ました……」 加賀はマジトーンで言いながら艤装を纏う。

 

「じゃあお前らは、どんな集まりなんだっけ?(詰問)」

 

 言いながら長門と加賀を見比べた野獣は、クソデカ溜息を吐き出してから腕を組んだ。

 

「もっ、もぉう野獣テイトクゥー! そんな細かい事は良いじゃありまセンか!! 今日はホワイト♂デーですヨー!?(中央突破)」

 

 錯乱と興奮を綯い交ぜにしたような、グルグル眼の金剛がウィンクをしながら身を乗り出してくる。「バレンタインなんだよなぁ……(呆れ)」と、腕を組んだままの野獣が辟易した表情を浮かべて見せた。

 

「お前らは何をそんな眼を血走らせてるのか知らないけど、不純な理由で見学とか言ってる奴はおしおきだどー! おい鹿島ァ!!」

 

「えっ!? はっ、はいっ!!?」 突然、野獣に名前を呼ばれて、鹿島が挙手したままで立ち上がる。

 

「その辺りはどうなんだ、練習艦として!!(再詰問)」

 

 鹿島は表情を引き締めて、少年提督と野獣、それから雷を順番に見てから、ビシッと敬礼をして見せた。迷いも躊躇もない銀色の眼には、情熱と真剣さが灯っている。先程の加賀と良く似た眼光だった。

 

「その! わ、私も本気を出せばっ、白い絵の具(意味深)が出せると思い、提督さんのお役に立てると考えました!!(志望動機)」

 

「そんな本気は出さなくて良いから(良心)」

 

 頑張り過ぎる真面目っ子を諭すみたいに言って、野獣が疲れたような貌になった。其処に、冷静な貌をして立ち上がった陸奥が眼を窄め、すかさず喰って掛かる。美人は怒ると怖い。陸奥くらいの麗人だと余計だ。

 

「私達みたいなお姉さんポジションがさぁ、秘められた男の子のエッセンス(一番絞り)に惹かれたら駄目なワケ?(ノーガード戦法)」

 

「そういう表現はだな……(苦渋の指摘)。まぁ取り敢えず、ちょっと落ち着きませんか? 落ち着きましょうよ? 暴発しちゃうわよ?(危惧)」

 

「しないわよ!!(激憤) 何よ暴発って!!?」 テーブルをぶっ叩きながら陸奥が怒鳴る。

 

「キレ気味で言われても、ロクでも無い事を言ってる事に変わりはないからね。しょうがないね(諦観)」

 

 野獣が長門達と言い合う様子は、賑やかなものの不思議と険悪さが無い。軽口で長門達をあしらう様を眺めて、彼は可笑しそうに小さく笑う。微笑ましいものを見る眼で、少年提督は野獣と艦娘達を眩しそうに見詰めて居た。雷も釣られて笑みを零しているうちに、長門や加賀達の様子がおかしかった理由や、終始野獣がニヤついて居る理由にふと気付いた。気付いてしまった。時間差だった。かぁぁぁっと、顔に熱が篭ってくるのが分かった。野獣と長門達が言い合う声が、何だか遠くに聞こえる程だった。汗が出てきて思わず俯き、顔を両手で覆ってしまう。

 

 ちょっとの間そのままの姿勢で、顔から熱が引いてくるのを待った。顔の赤さも誤魔化したい。顔を覆っていた両手の指を少しだけ開いて、上目遣いで彼の様子を窺ってみる。すると、少年提督が此方を見ていた。眼が合う。慌てて、また両手で顔を隠した。心臓がぴょんぴょんした。その後、長門達と野獣の言い合いは決着が着かず、食堂を利用する艦娘達の姿も増えてきた為、一旦の解散となった。ヒートアップしていた長門達も、食堂のテーブル席を圧迫しつつ、精通だの何だのと言い合うのは流石に不味いという冷静な判断をしたのだろう。野獣と加賀は、残りの仕事を片付けるべく執務室に戻り、少年提督と雷の二人も、賑やかさと騒がしさが増して来た食堂を後にする。

 

 

 執務室までの廊下を歩いている間も、顔から熱が引いていかなくて困った。顔の赤さを気取られまいと、汗をハンカチで拭いながら彼の少し後ろを歩く。ドキドキと言うか、ハラハラと言うか、自分を何とか落ち着かせて歩いていると、碌に会話もする間も無く、あっという間に執務室に着いてしまった。雷は秘書艦用の執務机から、断熱ポーチを取り出した。更にその中から、白とピンクを基調に、リボンなどでお洒落にラッピングしてあるチョコを取り出した。鳳翔や間宮に教わり、雷だけでなく第六駆逐隊の四人で作ったものである。保冷剤の御蔭で、まだほんのりと冷たかった。

 

 雷は一つ深呼吸をして、「あのっ、司令官! これっ!」と。硬い声で言いながら、彼にチョコを渡そうとした。すると、「では、僕からも」と。彼も何かを手渡してくれて、交換をする形になった。黒地に赤を基調に、透明袋を高級感たっぷりにラッピングしてあるその中には、大粒のチョコレートが入っている。トランプ柄である、ダイヤ、クラブ、スペード、ハートの形をしていた。呆然としたままでそれを受け取り、雷は驚いた顔のままで硬直してしまう。チョコを渡す時に伝えようとしていた言葉が飛んで行ってしまった。

 

「今では、『逆チョコ』というものが在ると聞きました。ただ、お菓子作りは初めてでしたので、美味しく出来たかは自信が在りませんが……」

 

 雷からのチョコレートを大事そうに右手に持った彼は、少し照れたように小さく笑みを浮かべて、左手の人差し指で左の頬を掻いている。雷は、そんな彼の優しい表情と、自分の手の中にあるトランプ柄のチョコレートを見比べる。四つあるのは、きっと暁や響、電の分でもあるのだろう。艦娘思いの彼らしいプレゼントだった。バレンタイン当日は雷が秘書艦である事は、当然彼も把握していた筈だ。だから、こうして準備してくれていたのだろう。彼なりの小さなサプライズは、純粋に嬉しかった。

 

 

「ぁ、ありがとうっ! 司令官!」

 

 雷は目許を少しだけ拭って、彼に礼を述べた。

 

「いえ、此方こそ。……有り難う御座います」

 

 ちっとも子供らしくない癖に、凄く嬉しそうな微笑みで、彼も応えてくれた。そんな彼の笑みを見詰めてから、雷はまた手元のトランプ柄のチョコに視線を落とす。大人びた雰囲気の包装がされてあるお洒落なチョコは、大きさも同じだ。ただ、形が違う。きっと、このハート型のチョコを誰が食べるかで、暁達と揉めそうだなぁなんて思うと、自然と笑みが零れた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

落暉と濤の彼方より

 鎮守府の傍に設立された、深海棲艦の研究施設内。広く白い廊下を歩きながら、霞は鼻を鳴らした。相変わらず、胡散臭くて辛気臭いところだ。胸中でぼやきつつ、大型のケースを手に持った少年提督の後に続いている。この施設の地下に備えられた、深海棲艦用の特別捕虜房に用が在るらしい。なんでも、新しい深海棲艦が此処に収容されたらしく、その新入りに話があるとの事だ。そんな仕事がある日に秘書艦を務める事になったのは、単に自分がツイてなかった。この施設には何度か訪れてはいるものの、霞はこの場所をどうも好きになれない。正確には、体が慣れてこない。規模の大きい病院と言った風情の雰囲気だが、この傲慢とも言える白一色の内装は、何もかもを掌握されているかのような、凄まじい圧迫感と閉塞感を与えてくる。やたら息苦しくて居心地の悪い空間だ。とは言え、そんな文句を言ってもしょうがないから、黙って歩いている。

 

 白い廊下は広く、両側には研究室が並んでいた。大型の精密機器類が並ぶスペースや、大量に薬品が並んでいる。白衣の研究員達がコンソールを叩き、資料であろう紙の束を忙しなく捲り、あーだこーだと言い合う声も聞こえる。このフロア全体の雰囲気も実験室と言った感じだが、素人の霞には、傍目から見ても何をしているのかさっぱりだ。

 

 そんな実験室・研究室が並ぶフロアの一室に、少女提督の姿がチラリと見えた。年齢や背格好は少年提督と同じくらいだが、少々眼つきがするどくて、生意気っぽい貌をしている彼女も“元帥”の一人だ。少々変わった来歴と言うか、戦功を評価された提督では無く、その技術力を買われた提督の一人である。少女提督は、白衣の研究員達と顔を突き合せて、自分も分厚い資料集をバラバラと捲っていた。忙しそうな少女提督は此方に気付かない。前を歩く少年提督も、少女提督には気付いてはいたが、特に気付かせるような素振りは見せなかった。見たところ、少女提督は簡単な会議か何かでもしているのだろう。邪魔をしないようにという配慮に違い無い。

 

 少年提督は落ち着き払っていて、たまにすれ違う白衣の研究員達に丁寧に会釈したり目礼したりしている。白衣の研究員達はどいつもこいつも少年提督にビビッてるというか、明らかに身体や表情を強張らせて敬礼していた。まぁ、無理も無い。何せ少年提督の隣には、今日の秘書艦見習いとして、ヲ級が静々と控えているのだ。解体・弱化施術を受けて無害な存在であっても、彼女は間違いなく深海棲艦である。ただ、今はそれを象徴する艤装も顕現していない。ル級に良く似たボディスーツを着込んだ姿だ。もの静かなヲ級は、その神秘的な美貌も相まって、冷徹な才女のように見えなくも無い。しかしそれでも、明らかに雰囲気が異質で、人間では無いのだ。

 

 白衣の研究員達も、このヲ級が秘書艦見習いという特殊な状況下に在ることを知っているとは言え、そう簡単に慣れるものでは無いだろう。その辺は、霞が此処の空気に慣れないのと同じか。そんな事を思いながら少年提督の後に着いていると、白衣の研究員達は霞にも敬礼をしてくる。霞は背筋を伸ばし、彼と同じように目礼を返す。そうこうしている内に、地下へのエレベーター棟に到着。扉を厳重に守る二人の屈強な警備に敬礼をして、彼はエレベーターに乗り込む。警備の二人も、貌をビキビキと引き攣らせているのが印象的だった。霞は溜息を堪えてエレベーターに乗り込み、供に地下フロアへ向う。

 

 

 地下フロアには生活をする為の設備も揃えられており、人間らしい暮らしをするならば十分な条件がそろっている。他にも、深海棲艦の肉体や精神に干渉する為、ドーム状の施術用大霊堂がある。空調も効いているようで、空気も新鮮だ。ゴウンゴウンと低い音が聞こえるが、恐らくパイプか何かで海水を供給しているのだろう。あとは、大型のトラックが裕に通れるだけの広い廊下と、深海棲艦を積んだ運搬車両が乗れるだけの大型エレベーターと通路に繋がっている。霞は彼とヲ級の後に続き、白い廊下を歩いていく。霞達が向かっているのは、捕虜房兼生活フロアでも無く、大霊堂でも無い。いまだ解体施術が完全に済んでいない、鹵獲されたばかりの深海棲艦を拘束しておく為の場所だ。今日の未明にこの施設に運び込まれた深海棲艦が、この白い廊下の先に居る。

 

「……そのケースの中身って何なの?」

 

 霞は歩きながら、前を行く彼に聞いた。彼は肩越しに振り返ってから、左手に持った大型ケースを少しだけ持ち上げて見せる。

 

「治癒・再構成の施術で使用する、特殊鋼材です」

 

「あぁ、工廠で妖精達が用意してたアレね……」

 

「あとは、前の作戦海域で回収された品が入っています」

 

「へぇ……」

 

 何が送られて来たの、と。そう聞こうとしたら、彼が足を止めた。彼の隣に居るヲ級も足を止める。厳重なロックが施された扉の前だった。円筒形の金属杭が中央に嵌るような形で、重厚な金属板が何層に折り重なった扉を封じている。少年提督は、傍にある機器で指紋認証を行い、澱みなくパスコードを入力してそのロックを解除した。円筒の杭が回転し、扉が壁に沈むようにして開いていく。まるで、厳かな神殿に続く扉でも開いたような、重たい雰囲気が漂う。霞が微かに息を呑む間に、彼は悠然と歩み出し、ヲ級もそれに続く。霞も慌ててその後に続いた。霞達が扉を完全に通り過ぎると、背後で分厚い金属層の扉が重い音を響かせながら、自動で閉じ始めた。万が一何か在っても、解体施術が施されていない深海棲艦が外に出ないようにする為か。霞はその扉が閉まるのを視線だけで見遣り、軽く息を吐き出した。更に白い廊下を歩いていくと、獣の唸り声のようなものが聞こえて来た。歩く先には、幾つも扉が並んでいる。その内の一つのロックを解除し、彼が入ったその部屋に続く。霞は再び息を呑む。

 

 其処は、大掛かりな延命装置と精査機器類、そして、薄緑色の液体が満たされた巨大なシリンダーが備え付けられた部屋だった。低い駆動音が聞こえる。居た。シリンダーの中だ。ボロボロの白い服を着た、人型の深海棲艦。身体を儀礼済みの鉄鎖でぐるぐる巻きにされて、蹲るようにして不恰好に身をシリンダーに寄せている。その顔は拘束マスクで覆われており、表情は分からない。あれでは言葉を発することは出来ないだろう。唸り声だけが聞こえる。集積地棲姫だ。艤装としての力を持っていたのであろう、あの腕とも掌とも言えない巨大な金属塊は、鹵獲のさいに破壊されてそのままのようだ。彼女には両腕が無かった。それに、彼女の肌は傷だらけである。出血こそしていないものの、胴体や胸には大穴が空いているし、身体のあちこちに裂傷も見られる。

 

 シリンダーの中で呻くような苦しげな声を漏らす集積地棲姫の胸元には、複雑な術紋が刻印されており、鈍く濁った蒼い微光を漏らしている。肉体機能の衰弱・拘束の為の施術だろう。あんな傷だらけのままで肉体機能を低下させられて、苦しくない筈が無い。そんな集積地棲姫の姿をシリンダーの中に見たヲ級が、悲しげに貌を歪ませてシリンダーに駆け寄った。少年提督も左眼を細めた。

 

「……これは酷いですね。すみません、霞さん」

 

 彼に呼ばれて、霞はすぐに反応し、彼の傍に歩み寄った。

 

「何? とりあえず、荷物でも持ちましょうか?」

 

「えぇ、有り難う御座います。少し重いので、気をつけて下さい」

 

 彼は霞の言葉に少しだけ微笑んで、持っていたケースを手渡して来た。「そんなのどうって事ないわよ」と。霞が軽く笑ながらそう言って、受け取って握った瞬間だった。ズシッと来た。思わずふらつく。咄嗟に艤装を召還し、艦娘としての力を発揮していなければ盛大にコケていたかもしれない。何コレ、滅茶苦茶重いんだけど……。霞が不可解なものを見る目で手に持った大型ケースを見詰めている内に、彼はシリンダーの脇にある装置を操作し、薄緑色の液体の排出を始める。

 

 液体を全て排出し終えた後。シリンダーが開かれて、集積地棲姫が横たわるようにして外に倒れこんで来る。それを彼が横抱きに抱きとめつつ、短く文言を紡いだ。すると、拘束具めいた手袋を嵌めた彼の右手から墨色の微光が漏れて、集積地棲姫を縛る鉄鎖へと伝い始める。すると鉄鎖は解けるようにして、微光の粒子となって墨色の揺らぎに融けて行く。粒子となった鉄鎖は彼の右手へと流れて、彼と言う炉に焼べられる。集積地棲姫の顔に嵌められた拘束マスクを、彼がそっと外す。苦しげな集積地棲姫は酷く消耗した様子で眼を閉じていて、その下には濃い隈が出来ていた。

 

「場所を変えましょう」

 

 少年提督は、ぐったりとした様子の集積地棲姫を抱かかえて立ち上がり、傍に居る霞とヲ級を交互に見た。霞とヲ級は、彼に頷いた。彼も頷きを返して、すぐに隣の施術室へと集積地棲姫を運んだ。体格差は在る筈だが、集積地棲姫を抱える彼は、その重さを全く感じさせない程にしっかりとした足取りだった。小さな背中がやけに大きく見える。アタッシュケースを持った霞の隣では、ヲ級が心配そうな顔をして、彼の背中と、彼に抱えられている集積地棲姫を見ていた。霞は、ヲ級の背中を軽く叩いた。ヲ級が霞の方を見た。霞は頷いて見せる。

 

「大丈夫よ。アイツは治したりすんの得意だから」

 

 ちょっとぶっきらぼうに言って、霞はすぐにヲ級から視線を逸らした。ケースを持って、早足で彼に続く。隣に居たヲ級が此方に「ありがとう」と、流暢に言うのが聞こえたが、特に反応は返さなかった。隣の部屋も、大掛かりな精密機器類が設置された医務室といった感じだった。白色の照明が寒々しく、冷たい光を放っている。部屋の中央には、外科手術で使われるような無骨な施術ベッドが備えられており、彼は其処に集積地棲姫をそっと寝かせた。寝かされている集積地棲姫にヲ級が近付き、そっと彼女の頬を撫でた。彼女は苦しげに喘ぐだけで、反応を示さない。眼を開けない。ベッドの前に立った彼は、集積地棲姫へと施術を行うべく、朗々と文言を紡ぎながら両の掌に微光を灯した。左手には暗紅の光が揺れて、右手には墨色の微光がくゆる。淡い光の帯が力線を描き、複雑な術陣が施術ベッドを囲うようにして足元に刻まれていく。

 

「霞さん。すみません。ケースの中にある特殊鋼材を取っていただけませんか?」

 

「わかったわ」

 

 一旦、文言を唱えるのを止めた少年提督は、落ち着いた様子で霞に振り返った。霞はケースを床に置いて開ける。中には緩衝材と供に、大きめの白い箱が一つ、黒い金属の鋳塊が二つ入って居た。大きさも厚みも、ちょっとした辞書程もある。道理で重たいわけだ。生身でなら抱えることは難しいだろう。だが、艦娘としての力を発揮している今の霞は、先ほどとは違い軽々とその二つを一片に抱えて、彼の傍へと持って行く。

 

「有り難う御座います」

 

 霞に向き直った彼は、小さく微笑んで礼を述べた後、また何かを短く唱えた。同時だった。霞の持っていた鋳塊が、ふわっと浮き上がった。流石に多少は驚いたが、彼のやる事だ。イチイチ反応してたら疲れるだけであるだ。両腕を広げる彼の詠唱に応えて、先ほどの鉄鎖と同じ様に、黒い鋳塊も墨色と暗紅の粒子となって融けながら縺れて、彼の手の中に術陣を象る。足元の術紋が碧く明滅し始めた。これからオペが始まるのだ。

 

「……気が散るようなら、外に出てるわ。って言いたいところだけど、私はアンタの護衛も兼ねてる身だから。例え駄目って言われても傍にいさせてもらうわよ」

 

 霞はケースを閉じて、持ち直しながら彼に言う。秘書艦としての職務を全うすべく鋭い目つきで言う霞に、両手に微光を灯す彼は微笑んで見せた。

 

「はい。宜しくお願いします」

 

「ふん……。で、時間は掛かりそう?」

 

「思ったよりも彼女の衰弱と損傷が激しいので、少し長引くかもしれません」

 

「分かったわ」

 

 霞は短く応えて、集積地棲姫の傍に居るヲ級に歩み寄る。ヲ級も霞に気付き、施術ベッドから二歩程離れて、霞に頷いた。先程と同じ調子で、霞は「大丈夫よ」と頷きを返した。今度は眼を逸らさず、琥珀色をしたヲ級の瞳をじっと見詰める。ヲ級が少しだけ笑った。霞は鼻を鳴らし、ヲ級と並んで足元の術陣の外へと出る。右手にケースを持ち、左手には錨を召んで握りこんだ。もしも集積地棲姫が暴れ出して彼に襲い掛かっても、これで殴りつけて黙らせてやればいい。そんな事にならないのが一番良いのだが。

 

 

 霞が唇を舐めて湿らせながら手の中の錨の感触を確かめていると、施術が始まった。彼が唱える読経にも似た文言は、回復と再生、滋養と活力を呼ぶ。彼の掌に宿る術陣が明滅する。暗紅。紺碧。墨色。それぞれの色が混ざり合い、施術ベッドに横たわる集積地棲姫の身体を包んだ。まるで、彼女の体から痛みや疲れを潅ぐように、その白い肌に残る傷を塞ぎ、癒し、跡も残さずに修復していく。彼女を苦しめていた、胸元の術紋も解呪されて消えていた。集積地棲姫の苦しげな表情が緩んで、彼女は安らぐような深い吐息を吐き出した。

 

 彼の治癒施術を受けて、意識を取り戻したのだろう。彼女は横たわったままで、ゆっくりと瞼を上げた。まず天井を数秒程見上げて眼をすぼめ、辺りへと視線を廻らせようとした。同時に、彼と眼が合った。彼は、集積地棲姫に微笑んで見せた。いつもの笑顔だ。ヲ級は安堵の為か、集積地棲姫へと声を掛けるタイミングを失っている。集積地棲姫は横たわったままで、眼を見開いて彼を凝視している。その二人の様子を傍で見ていた霞は、すぐに飛び出せるように、すっと姿勢を落とす。施術室の冷たい空気の中、数秒の沈黙が続いた。

 

 さぁ、集積地棲姫はどう出る。暴れるか。彼に襲い掛かるか。そうなれば霞の出番だったが、その必要は無さそうだった。集積地棲姫は彼から視線を外し、横たわる自分の体を一瞥した。艤装としての腕が破壊されている事。そして、それらを召還する力を、解体施術で奪われている事を自覚したのだろう。集積地棲姫は、抵抗する姿勢を見せなかった。じっと彼を睨んでいたが、その内に何もかもを諦めるように息を吐き出して、静かに瞑目した。

 

 霞はそれでも油断無く錨を握っている。ホッとしたような貌をヲ級も見つめる中、彼の施術はまだ続く。再び、読経のように文言が紡がれる。砕かれて失われた集積地棲姫の上腕から先に、微光が回路図のように緻密に編みこまれていく。先程、彼が纏う微光に融かし込まれ、姿を失った特殊鋼材が、“集積地棲姫の腕”という、新たな造形へと鋳造されていく。金属儀礼と生命鍛冶の職工である彼は、力在る言葉によって非実在の金属を刻み象り、実体と機能を招き入れる。傍から見ていると、それはまるで魔法だ。腕に違和感を覚えたであろう集積地棲姫も、何事だと怪訝そうに眼を開けて、驚愕していた。唖然とした様子で、自分の両腕を見詰めている。

 

 微光と術紋で編まれた腕には、既に肉体としての瑞々しさと生気が宿っていた。彼は朗々と詠唱を続けながら、新たに造り上げられた集積地棲姫の腕を、丹念に適応させていく。肌の色。受肉する腕の太さ。長さ。神経の接合。彼は外科医の緻密さと優雅さ、そして工匠の技巧と精巧さを以って、集積地棲姫の腕の再構築を目指す。掛かった時間は如何ほどだったか。十数分か。一時間程か。もっと掛かっていたかもしれないが、生憎と正確には分からなかった。気付けば、霞もヲ級も、施術を行う彼の姿に眼を奪われていた。気付いた時には彼の読経は止んでおり、呆然とした集積地棲姫が、新たな自身の腕を震わせて眺めていた。彼女の新しい腕は、ゴツいガントレットのような腕ではない。女性らしい、繊細な腕だった。

 

 

 

 

「……違和感はありませんか?」

 

 軽く息を吐き出した彼は、額の汗を手の甲で拭いながら、集積地棲姫へと微笑みを向けた。大きな手術を終えた医師のような、満足の行く造形を生み出す事が出来た職人のような、それでいて、気負いも誇りも感じさせない、緩やかな笑みだった。施術ベッドの上に居た集積地棲姫は彼を見て、怯んだように僅かに身を引いた。そりゃあ、あんな得体の知れない施術を受けた後ならば、当然の反応と言えるだろう。ただ、集積地棲姫の蒼い輝きを宿した眼には警戒と敵意は窺えるが、攻撃の意思は感じられなかった。霞は軽く息を吐き出して、緊張を解いた。集積地棲姫は、じっと睨むように自分の腕を見詰めて、手を握ったり開いたりしている。

 

「痛みが残っているようでしたら、鎮痛施術も行いますよ」

 

「……痛ミハ、無イ。腕ニモ、身体ニモ……」

 

 集積地棲姫は、自身の腕と身体を見てから、施術ベッドに座ったままで彼に向き直った。いまだに強い警戒の色を浮かべた蒼い眼を細めて、彼を見詰める。

 

「何ガ目的ダ……?」

 

 集積地棲姫は、敵意を剥き出して襲い掛かって来るでもなく、暴れるでもない。落ち着いた低い声で言う。この状況では反抗的な行動が無駄である事を理解しているからだろうか。見タ所、裏切リ者モ居ル様ダガ……。そう言葉を続けた集積地棲姫は、ヲ級の方を見遣った。睨むと言うよりは、事実を事実として受け容れようとしているかのような、冷静な眼差しだ。ヲ級はその視線を受け止めて、「貴女から見れば、そうかもしれない」と、静々と言葉を返した。ヲ級は数歩、集積地棲姫に歩み寄る。

 

「目的は明確に在る。貴女を癒す為に、彼が貴女に治癒施術を施した」

 

 やはり、集積地棲姫と比べて流暢な言葉を話すヲ級は、秘書艦見習いなどを含め、多くの学習の機会に恵まれた故だろう。霞はヲ級と集積地棲姫を見比べてから、彼を一瞥した。彼は何も言わず、集積地棲姫とヲ級の遣り取りを見守っている。ヲ級の表情は穏やかだ。集積地棲姫の肉体治癒が無事に終わり、安堵している。集積地棲姫は、そんなヲ級の表情を暫く見詰めた後、ヲ級から彼と視線を移す。「デハ……何ノ為ニ、私ヲ生カシタ?」と。質問のニュアンスを微妙に変えてきた。彼は、沈着な集積地棲姫に向き直り、目許を緩めて見せる。

 

「僕達に、貴方の力を貸して頂きたいのです」

 

「……答エニナッテイナイ」

 

「結論を急ぎました。……すみません、霞さん」

 

 

 

 彼は霞の方を見た。霞も頷いて、ケースを彼の傍に持っていき、金属の床に置いて開けた。中に残っているのは白いプラスチックの箱のみ。霞はそれを取り出して、彼に手渡す。「有り難う御座います」と、彼は霞に礼を述べてから、プラスチック箱を開けた。その中に緩衝材と供に入って居たのは、黒いヘッドホンだった。

「貴女が居た海域で回収されたものだそうです」

 

 それを見た集積地棲姫の顔色が変わる。

 

「やはり貴女のものでしたか」

 

 少年提督は、少しだけ笑みを浮かべてみせて、そのヘッドホンを彼女に手渡す。集積地棲姫はそれを受け取って、大事そうに抱えた。集積地棲姫は彼に何かを言おうとしたが、唇を小さく噛んですぐに視線を逸らす。黙り込んだ集積地棲姫に代り、「もう一つお聞きしたい事があります」と、彼が問う。

 

「此方も、物資集積地の海域から回収されたものです。見覚えはありませんか?」

 

 言いながら彼は、懐ろからボロボロのカセットプレーヤーを取り出した。中にはテープも入っている。かなり古い型のものだ。海水に浸かっていた所為か。所々で色が剥げたり変色していたり、錆が浮いたりしている。スピーカー部分には泥や砂が詰っていたのか。完全に錆び付いて崩れ、穴が空いている。あれでは音は出ないだろう。集積地棲姫は、彼が手に持つカセットプレーヤーをチラリと見てから、緩く首を振った。

 

「私ハ“海”ニ召バレ、物資ヲ集メル事ヲ目的ニ存在シテイタ。ダガ、ソノ様ナ物ハ見タ事ガ無イ」

 

 冷静な貌のまま、彼の眼を見て答えた集積地棲姫には、シラを切っているような様子は無い。答える内容を取捨選択している風には見えない。あれが演技なのだとしたら大したものだと思うが、「疑ウノデアレバ、拷問デモ何デモ好キニスルト良イ」と言い放って見せる辺り、多分違うのだろう。

 

「その様な事はしません。……見覚えが無いのであれば仕方ありませんね。ヲ級さん」

 

 彼は緩く首を振って苦笑を浮かべた後、ヲ級へと向き直った。

 

「彼女を居住エリアまで案内してあげて下さい。彼女の生体データは事前に送られて来ていましたから、彼女のサイズのスーツも部屋に用意してあります」

 

「承知しました」

 

 恭しく頭を下げたヲ級は、施術ベッドに身を起こしている集積地棲姫へと歩み寄り、握手を求めるように手を差し出した。ヘッドホンを両手で持っている集積地棲姫は、ヲ級の穏やかな貌と、差し出された手を見比べて、口をへの字にひん曲げている。ここでゴチャゴチャと言うようなら、霞の出番だ。スポイルされた深海棲艦は、その上位体といえども人間の女性程度の力しかない。言う事を聞かないのであれば、艦娘としての力を発揮出来る霞が力づくで、文字通り強制的に捕虜房まで引き摺って行くつもりだった。霞は腕を組んで、集積地棲姫の行動に注視する。一方で、ヲ級の方は集積地棲姫に目許を緩めて見せた。女性である霞でもドキッとしてしまうような、可憐で儚い微笑みだった。

 

 ヲ級は、手を差し出したままだ。難しい貌をしている集積地棲姫は、何も言わずに施術ベッドから立ち上がった。ヲ級の手を取ろうとはしない。しかし、反抗するような態度でも無ければ、死や痛みを恐れる故の恭順でも無い。軽く息をついた彼女の眼にある感情は、空虚さか。集積地棲姫は、傍に居る彼へと視線を向ける。

 

「……私ノ存在意義ハ、物資ト共ニ尽キタ。シカシ、馴レ合ウ気モ無イ」

 

「構いません。ただ近いうちに、またお会いしたいと思います」

 

「好キニスルガ良イ。私ノ知ッテイル事ナド、多寡ガ知レテイル」

 

「いいえ。そんな事はありません。貴女が扱う、子鬼達に干渉する施術について窺いたいのです」

 

 その彼の言葉に、集積地棲姫が眼を窄めたときだった。音がした。キリキリキリ……。キチキチキチ……。軋む様な微かな音だ。それに、ザ……ザ……ザザ……ザ……、と。細切れになった砂嵐画面のような、ノイズ音。霞は心底ギョッとする。ヲ級も驚愕していた。

 

 彼が手に持っている、完全に壊れてボロボロのカセットプレーヤーが白濁の微光を放ち、電源も入れていない筈なのに作動し始めたのだ。それだけじゃない。くすんだオパール色の揺らぎがコードのように伸びて、集積地棲姫の手に持つヘッドホンへと繋がった。スピーカー部分が完全に壊れている為、カセットプレーヤーからは全く音が出ていない。代りに、ヘッドホンからそのノイズ音が漏れている。突然の事に、集積地棲姫もヘッドホンを持ったままで身体を強張らせている。流石に少年提督も多少は驚いたようだが、すぐに冷静な貌になって、カセットプレーヤーの音量調節のボタンをカチカチと押した。

 

「少しだけ、貸して頂けますか?」 

 

 少年提督は、集積地棲姫からヘッドホンを受け取った。手に持ったままで装着はせずに、彼は瞑目して耳を傾ける。ヘッドホンをつけていない霞にもこれだけノイズが聞こえてくるのだから、かなりの音量だ。あんなものを装着したところで、まともに聞き取る事は出来ないだろう。漏れて来るノイズの音は一定のままである。砂嵐に似たノイズは、次第に細かい波の音のようになった。次に、ゴポゴポ……コポコポ……、と。水の中で、泡が生るような音になった。環境音だろうか。割れて掠れた音だが、はっきりと聞こえる。霞も耳を澄ます。集積地棲姫も固唾を飲んでいる。ヲ級が彼の傍に近寄る。漏れて来る音が、更に大きくなった。

 

 その中に、声のようなものが混じった。何人分もの声だった。低い声。高い声。子供。大人。老人。呻くような苦しげな声。楽しげに笑う声。悲しげに泣く声。一定じゃない。輪郭が無い。言語も違う。音が割れていて、全然聞き取れない。英語やドイツ語のような発音をしている声もある。口々に何かを言っている。そして、また唐突に声が聞こえなくなった。消えたのでは無い。声の主達が黙ったのだ。そんな事は在り得ないのに、此方の様子を感じ取ったかのような間の取り方だった。無数の掠れた声の主達は、深く呼吸をしたようだった。声では無く、呼吸音のようなものが聞こえた。次の瞬間だった。

 

『……聞……こ、え……。て……。い、……る、か…………』と。

 

 はっきりとした言葉の形を持って、低い声が混じった。先程まで口々に喚きあっていた声が、一つになったような。深遠から届く様な、底知れない響きを持った声音だった。

 

『此、処……に、は。……何、も……無、い』

 

『海界……、眼下、は。……地の、獄、ゆえ……』

 

『お、前……の、求、め……る、も。……の、は』

 

『……何、も……無、い……』

 

『聞こ……え、て……い、る……か……』

 

 物凄い悪寒と鳥肌が立つのを感じた霞は、息を詰まらせた。集積地棲姫が身を引いて、ヲ級も唾を飲んで、彼の持つカセットプレーヤーを見詰めている。彼は瞑目したままだ。只管に、漏れて来る声を聞いている。声は、この白い金属の壁面や床に、不気味に木霊する。

 

『亡、魂と……、鉄、屑が。……縺、れ……』

 

『金……屑、と。怨……嗟が、……巣がく……』

 

『道、連……れに、綴る……、溺墓の、底……故、に』

 

『此、処……に、は。……何、も……無、い』

 

『此処、……は。……冥、い……』

 

『神仏が、違、えた……、人も、艦……も、化、生も』

 

『沈んで、尚……。朽ちて、尚……。散りて……尚……』

 

『生り……生り、生り……生りて、受戒せんと……廻り』

 

『死に、死に、死に、死んで……また、壊劫へ……還る』

 

『回向……と、苦輪を、……潮汐と、徒波に……、託す』

 

『此処に、踏み入り……此処に、触れ……るべ、からず』

 

 

 瞑目している少年提督は黙したままで、両の掌に墨色の微光を纏わせている。手にしたヘッドホンとカセットプレーヤーへと微光が伝い、白濁の揺らぎに滲みをつくっていた。低く掠れた声が紡ぐその支離滅裂な言葉は、明らかに此方に語りかけてきている。一体、この声の主は何者なのか。集積地棲姫やヲ級が身体を強張らせる中、唾を飲み込んだ霞の脳裏に、“海”という言葉が過ぎった時だ。『……同、志よ……』と。声の主が、笑った。

 

『拙き、哉…………同、志よ……』

 

『い、いか……?』

 

『白道は……、其処に、無い……』

 

『何れ、……お前、も……内に、巣くう……鬼を』

 

『世に、……背き、生り零す……時が、来るだろ、う』

 

『……拙き、哉……複、拙き哉、……』

 

『あぁ……、重ねて、拙き哉……』

 

 黙に冴えて墨に染む、重くて低い声だった。声は、低く喉を鳴らすように笑う。嘲笑うのでは無い。含みも無い。楽しげでも無い。可笑しそうでも無い。『呵呵……、呵、呵……』と、罅割れて掠れた声は笑う。自嘲にも似た響きが在るように聞こえる。彼はひとつ息を吐き出した。そして少しだけ、手にしたヘッドホンを強く握った。

 

「貴方は、やはり……」 

 

 

 彼は瞑目したままで、聞いた。カセットプレーヤーから流れる音声に声を掛けること自体、無意味なことだ。普通なら。しかし、今は違う。『……呵、呵』と、笑う声は、ぐぶぐぶ、ごぼ、がばごぼ、ぐぶごぼ……、と。水の中で泡を吐き出すような音を鳴らした。そしてすぐに、また声を返して来た。『そうだ。お前だ』と。今度は、はっきりと聞こえた。掠れてなどいない。ぶつ切れにもなっていない。瑞々しい声だ。子供の声の癖に、異様に澄んでいる。大人びた声音だ。間違いなく、少年提督と同じ声だった。

 

『ようこそ、少年。真如の際涯へ。絶景だろう』

 

 “声”は、“少年提督の声”で其処まで語ったところで唐突に途切れ、再びノイズへと輪郭を暈していく。後に残されたのは、驚愕と畏敬の念、そして、静寂だけだった。愕然として眼を見開いている霞の前で、彼は左眼を開けて細めていた。ヘッドホンとカセットプレーヤーを包んでいた、あの白濁の微光も薄れて消えていた。代りに、墨色の微光に包まれて、バキバキと変形し、次第に形を失っていく。あれは、大輪の花束だ。微光をくゆらせた、黒い蓮が咲いた。彼の手の中で、幾つも幾つも咲いて散っていく。彼は、崩れていくカセットプレーヤーの形を保とうとしたようだが、無駄だった。カセットプレーヤーが、墨色の花弁と微光の粒子となって融けて行く。声はもう、聞こえてこなくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後。彼の手に残ったヘッドホンを受け取った集積地棲姫は、地下捕虜房の居住エリアへとヲ級の案内を大人しく受けて、研究室を後にした。流石に二人共、冷静という訳では無さそうだった。明らかに動揺した様子だったが、ずっとあのまま固まっている訳にもいかない。彼に促された集積地棲姫は何とも言えない表情だったが、ヲ級の方は多少は落ち着きを取り戻していた。秘書艦見習いの仕事として、集積地棲姫を連れて案内へと赴いてくれた。それが、今日のヲ級の最後の仕事だった。時刻はもう夕刻だった。

 

 研究施設を後にした霞達は、遠征から帰投して来た艦娘達を埠頭に迎えに行った。その途中で彼は、野獣と本営へと、先程の現象についての簡単な報告を兼ねた連絡を入れていた。野獣の方は執務室で、加賀と共に何やら騒いでいるようだった。端末越しに聞こえてくるあの騒がしさに、何となく気持ちが救われるような気がした。少年提督と野獣が、他所の鎮守府で少女提督を助けた際には、今日と似たような現象に遭遇したという事は、一応は霞も知っている。だから、深海と言うか、人智の及ばない場所と言うか。そういった超常の領域に、何らかの“意思”が存在している事は知っているつもりだった。しかし実際に目の当たりにすると、その異様さを肌で感じた。まだ畏怖の念と共に、脚に微かな震えが残っている。

 

 

 遠征から帰って来た皆には大きな怪我も無く、駆逐艦娘達から口頭での報告を受けている少年提督は、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。優しい微笑みと共に、彼女達を労い感謝を伝えていた。本当にいつも通りだ。さっきの衝撃的な出来事など、まるで無かったかのようだ。平常心というレベルじゃない。感覚が狂いそうになる。前の事だ。酔っていた天龍が、慈しみを滲ませた笑みを浮かべて言っていた。「相変わらず、アイツは何を考えてるのか分からない」と。「だから、誰かが傍に居てやらねぇとなぁ」と。霞は、その言葉を改めて実感した。

 

 眉間にも深く皺を寄せていたからだろう。遠征から帰って来た長月達に、怪訝そうな貌で見られた。霞は視線を逸らすでもなく、睨み返すでも無く、受け止めて頷いた。お疲れ様。皆無事で良かったわ。そう本音を短く伝えた。長月は笑って頷いてくれた。うまく誤魔化せただろうか。駆逐艦娘達がドッグへと向うのを見送り、霞は埠頭で溜息を吐き出した。波音に塗された、茜色の斜陽の中。埠頭を渡る緩い潮風が、霞の髪を揺らし、その吐息を溶かしていく。「ねぇ……」と。霞は執務室へと戻ろうとする彼に、歩きながら声を掛けた。

 

 

 

「アレは一体、何だったの……?」

 

 霞に背を向けて居た彼は、歩きながら顔を此方に振り返らせた。霞は歩を速めて、彼の隣に並ぶ。

 

「……僕達が説得すべき相手、とでも言いましょうか」

 

 眼帯をした彼は穏やかな表情のままで、左の目許を緩めて見せた。

 

「深海棲艦の親玉みたいなものじゃないの。アンタの声まで真似て来て、気味が悪いったら無いわ」

 

 霞は歩きながら腕を組んで鼻を鳴らす。

 

「それに、予めカセットテープに録音されてるなんて……」

 

「海の神達の中には、多くのものに姿を変え、未来を視る力を持った神も居たそうです」

 

 落ち着いた様子の彼に、霞は表情を歪めた。

 

「じゃあ、あの“声の主”は、何れアンタが集積地棲姫と一緒に、あのプレーヤーを回収するって知ってたってワケ?」

 

「可能性は無いとは言えません」

 

「神様が相手だなんて笑えるわ。ワダツミ、って奴?」

 

「いえ、……外国の神様です」

 

「日本の神じゃないの? さっきの“声”、日本語だったけど」

 

「言葉の内容も、日本的な宗教観を持っていました」

 

「来るなって言ったり、ようこそって言ったり。支離滅裂で意味不明だったけど」

 

「そうですね。……ただ、話が出来るなら、説得も可能かもしれません」

 

「アンタは本営や世論だけじゃなくて、あんな得体の知れない存在にまで話し合いを持ち掛けたいっての?」

 

「端的に言えば、そうなります……。“彼”が終わったと言うまでは、この戦いは続くでしょう」

 

「理想を求めすぎよ。人間も艦娘も深海棲艦も、仲良しこよしになるなんて」

 

「……妥協も時間も必要な事は、理解はしているつもりです」

 

「いいえ、してないわ。アンタは未来ばっかり見てる」

 

 強い語気で言い放った霞は、彼を見詰める。彼は、ハッとしたような表情だった。何だかバツが悪くなって、霞はきゅっと下唇を噛んで眼を逸らす。立ち止まる。また緩く潮風が吹いて、穏やかな波音と沈黙を撫でていく。夕陽が翳り、空の暗がりが少しだけ濃く滲んでいる。霞は息を大きく吸い込んで、吐き出す。「……ごめん」と。少しだけ俯いた。霞に合わせて歩を止めていた彼は、やはり優しい貌のままで「いいえ……」と、首を横に振ってくれた。霞は胸が苦しくなった。

 

「私がアンタの為に出来ることなんて、それこそ多寡が知れているわ。でも、私はアンタの事をよく見てるつもりよ」

 

 霞は彼に向き直り、ぐっと睨むように見詰める。

 

「また一人で何処かに消えちゃおうなんてしたら、今度こそ許さないわよ」

 

「はい……、肝に銘じておきます」 目許を緩めた彼は、緩く頷いた。

 

「じゃあ……。黙って何処かに行こうとしないって、約束して」

 

「分かりました。約束します」

 

「……ふん」

 

 霞はそっぽを向いて鼻を鳴らし、歩き出した。彼の影を踏み、隣を通り過ぎる。「執務室に戻るわよ」と。早口でそう言おうとした時だった。一際強い潮風が吹いて、彼の前を行こうとした霞のスカートを盛大に巻き上げた。彼が「あっ」、と小さく声を上げるのを聞いた。霞はガバッとスカートを押さえて振り返る。彼が、すっと視線を斜め下へと流した。

 

 彼は伏し目がちに眼を合わせようとしない。霞は羞恥で上手く言葉が出てこなかった。そう言えば、今日どんなの穿いてたかな……。今日は秘書艦だったから、昨日の夜から気合が入りすぎていて眠れなかった。御蔭で寝坊し掛けて、早朝は大慌てで身支度をしたのでよく覚えていない。仕事に必要なものは予め用意してあったものの、下着にまでは気が回らなかった。霞は、勇気を振り絞って訊く。

 

「……見た?」

 

「ぃ、いえ、……僕は、何も……」

 

「眼を見なさいよ! ぁ、いや! や、やっぱり見なくて良いったら!」

 

「とったどぉぉぉぉおおおおおお!!!!!(戦果報告)」

 

 そこに最悪なタイミングと言うか、見計らっていたとした思えない間で、海から何かが現れた。いや、飛び出して来た。妖怪かと思った。霞達のすぐ傍からだ。霞と少年提督は、仲良くビクッと肩を跳ねさせる。海から飛び出して宙返りを決めたソイツは、ゴーグルを掛けて、右手に銛を持っている。左手には携帯端末だ。防水加工でもしてあるんだろう。シュタッ! と埠頭のコンクリの上に着地した。そして、似合わない爽やかな笑顔を浮かべて、ゴーグルを額へとずらして見せた。野獣だった。上半身裸で、海パン一丁である。「お疲れ様です」と、丁寧に挨拶をする少年提督の隣で、霞は苦虫を噛み潰したような顔になった。

 

「アンタはさぁ、何やってんのよ……。さっきまでの執務室に居たんでしょ!?」

 

「ちょっと休憩時間に、軽く身体を動かしてただけだから(ストレス管理)」

 

「どう見てもサボってるだけじゃないの!」

 

 眉間に皺を寄せて言う霞に、野獣がまぁまぁと宥めるように笑う。そして、手にした携帯端末のディスプレイを霞に見せた。「ほぉあっ!!?」と、霞が変な声を上げる。其処には、霞のスカートが捲れあがった決定的瞬間が映し出されていた。クマさんパンツのドアップ。凄い高精彩写真だった。コイツ、海の中からシャッターチャンスを窺っていたのか。最悪過ぎる。野獣は、穏やかな微笑みを浮かべて頷いてみせる。

 

「お前にもこんな可愛げがあったとはなぁ~……(しみじみ)」

 

「ちょっとぉ! 消しなさいよそれぇ!!」

 

「やだよぉ(駄々)。でも、クマさんパンツじゃ何か(色気が)足んねぇよなぁ?」

 

 野獣は真面目な表情を浮かべて見せて、少年提督に言う。少年提督は微苦笑を浮かべて、「可愛くて、霞さんに良く似合っていると思いますけど……」と、霞と野獣を見比べてのたまう。あれでフォローしているつもりなのか。霞が、はぁぁぁ~……と、顔を押さえて攻撃的な吐息を吐きだす。「そうなんだけどさぁ……(概ね賛成)」と、野獣も半笑いのままで一応頷いてみせる。

 

「あっ、そうだ!(天啓)パンツの変わりにぃ、絆創膏とか如何ッスか? Oh^~?」

 

 半笑いの野獣が霞の方を見た瞬間。霞は短く息を吐き出して踏み込み、野獣が持っている携帯端末を奪い取ろうとした。しかし、野獣はこれをすっと身を引いてかわす。携帯端末を奪うべく霞が伸ばした手は空を切るが、霞はそのままの勢いで更に踏み込む。「シュッ!」と鋭く息を吐いて、野獣の向う脛にローキックを叩き込もうとした。しかし、これも空ぶる。野獣がまた身を引いて、間合いを外したのだ。霞から距離を離しつつ音も無くコンクリに着地した野獣は、携帯端末を片手で操作しながら、優しげに頷いて見せた。それがまた腹立たしい。

 

「避けんじゃないわよぉ!!(憤怒)」 霞が叫ぶ。

 

「まま、そう怒んないでよ。じゃあ俺、この写真、ブログにアップして帰るから……(屑)」

 

「ヤメロォ!!(半泣き)」

 

「うそだよ(ジョーク先輩)」

 

「ほんとぉ!?(キレ気味)」

 

「うそだよ(半笑い先輩)」

 

「どっちよぉ!!?(艤装召還)」

 

 赤い顔をした霞が叫ぶものの、野獣は肩を竦めて見せるだけだ。霞もぐっと言葉を堪えて召還した艤装を解除して、歯軋りをしながら野獣を睨む。もう噛み付くのはやめよう。このままだと本当に泣かされそうだ。黙ってる方が良い。相手にするから調子に乗るのだ。「ふんっ……!」っと、腕を組んでそっぽを向く。そんな霞の『総スルーの構え』を見た野獣は、苦笑を漏らしてから少年提督に向き直った。

 

 

「あっ、そうだ(本日二回目)。……上層部に居る知り合いと連絡取ったけど、今回の件も保留になりそうだゾ」

 

 本題に入ったのだろう。野獣の纏う雰囲気が少しだけ変わった。

 

「お偉いさん達からすると、『眼の前の深海棲艦を根こそぎ撃滅さえすれば、そういう理解の及ばない部分も解決する』って考えてる節が在るんだよなぁ(危惧)」

 

 口調こそ軽いものの、ふざけているような様子では無い。

 

「そうですか……。作戦行動を控えている今の状況では、対策が後回しになるのも仕方の無いことだと思います」

 

 少年提督は少しだけ残念そうに言いながら、夕昏の海をチラリと一瞥して、眩しげに眼を細めた。また潮風が吹く。霞は、彼と野獣を見比べた。『今回の件も』というのは、少女提督を助けた時に続き、霞もつい先ほど体験した、あの超常現象についてのことだろう。霞の視線に気付いた野獣が、肩を竦める

 

「社会から見ればもっと分かり易い脅威として、深海棲艦が居るからね。実害や実体を持たない、ああいう現象への対処や研究が後回しになるのも、まぁ多少なりはね……(組織生命的欠点)」

 

 本営が社会から求められているものも、深海棲艦という脅威から人々を守り、脅威そのものを排除することでもある。そしてそれは、艦娘達の活躍によって大きく果たされている。社会は、一応の平和と呼べる時間を取り戻しつつある。人類は大きく優位に立っている。それでも、まだまだ戦いは終わっていない。

 

 新たな種類の深海棲艦が出現を続ける中で、霞に出来ることは何だ。決まっている。戦うことだ。今はまだ、戦うしか無い。彼の下で、海に向うしかない。彼の配下にある深海棲艦達を『特使艦隊』として運用する時が来れば、更に人類はこの優位を磐石にするだろう。いよいよとその時になって、鬼が出るか蛇が出るか。霞が口の中を噛んでいると、野獣が首を鳴らした。

 

「んにゃっぴ、出来ることを積み重ねていくしかないですよね、取りあえず……」

 

 言いながら野獣も、海の方へと視線を向けた。暮れなずむ水平線に、赤い陽が沈んでいく。少年提督も軽く笑みを浮かべて、野獣を見遣る。それから、すぐに霞にも微笑んで見せた。ドキッとした。それを誤魔化すべく、霞は腕を組んだままでまた鼻を鳴らす。奥歯をかみ合わせて、ゴリゴリと鳴らした。これからも、霞のやる事は変わらない。戦うだけだ。それで良い。艦娘としての領分を果たす。戦って、戦って、戦い抜く。殺戮では無く、受容の為に。戦いを終わらせる為に。だが、霞にだって譲れないものもある。それは、彼だ。彼の存在だ。霞は、彼をチラリと見遣る。先程、彼の手の中で咲いた蓮の花が脳裏に過ぎった。

 

 霞は、蓮の花言葉を知っている。前の事だ。彼は食堂で、暁達に『好きな花は何か』と聞かれていた。その時に彼は、“蓮”と答えていたのを聞いていた。だから、こっそりと調べてみたのだ。蓮の花言葉には、“離れ行く愛”や、“神聖さ”。“清らかな心”。そして“救いを求める心”。などがある。そして墨色の蓮は、この世には無い。自然の中に存在しない。酷く不吉だ。彼が造物に添えて咲かせる墨色の蓮には、どんな花言葉が宿るのか。分からない。

 

 霞は“海”を睨んだ。夕陽に輝く波音が迫ってくるような気がした。上等だ。深海棲艦との不可侵や和解の為に戦うぐらい、いくらでも身体を張る覚悟は出来ている。少年提督が誰とケッコンしようが、それは揺るがない。霞は霞として在り続けるだけだ。だが、“海”が彼を持ち去るなんて事は許すつもりは無い。霞は、野獣と共に海を眺める少年提督の横顔を、気取られないようにそっと見詰めた。胸が軋んだ。彼は司令官だ。霞の司令官だ。誰にもやるものか。“海”め。彼に手を伸ばしてきてみろ。ひっ捕まえて、その背骨をへし折ってやる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

いつもの野獣の執務室

※下ネタが強めの回です。
読まれる際には、御注意を御願い致します。


 

 夕刻。艦娘囀線、タイムラインにて。

 

 

 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 あっ、そうだ! お前らに言っとく事が在ったゾ。近いうちに幾つかの飲食系の企業とコラボして、お前らが印刷されたカードとか、クリアファイル、タペストリーとか色々プレゼントする事になったから。またグッズ用の撮影に協力してくれよなー頼むよー☆

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 また本営の通達でもあったのか。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そうだよ。まぁ、世間への露出を増やす機会だと思えば、全てはチャンス!(レ)だからね。お前らも気合入れろォ? マイクロビキニかボディペイントで撮影しようと思ってるんだけど。どう? 出来そう?

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 死んだ方が宜しいのでは?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

(対応が)アー冷タイ……。

 

 

≪陽炎@kagerou1. ●●●●●≫

 そりゃそうでしょう……。

 

 

≪満潮@asasio3. ●●●●●≫

 馬鹿じゃないの?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 でも加賀のセクシーショットだったら、アイツも喜ぶと思うんだよなぁ……。

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

 ねぇ……、『アイツ』って、少年提督の事よね?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そうだよ

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

 ……何で加賀さんだと提督が喜ぶのよ?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 だってさぁ、アイツの携帯端末のロック画面が加賀なんだぜ?

 俺も初めて見た時は、『うっそだろお前www』って、なりましたねハイ……。

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 それは本当か!!?!!!!!!!!!!!!???

 

 

≪飛龍@hiryuu1. ●●●●●≫

 今、隣の加賀さんの部屋から凄い雄叫びが聞こえたんですけど……。

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

 Ahaa^~……、呼吸困難になりそうデース……;;

 

 

≪陸奥@nagato2. ●●●●●≫

 体調が崩れそう

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 やりましたたたたた

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 つまり、提督は夜な夜な私を想い、ビンビン太郎のシコシコ丸という事ですか。

 流石に気分が高揚します。

 

 

≪瑞鶴@syoukaku2.●●●●●≫

 せんぱぁい!! ちょっと!! 

 何言ってるんですか!!? 止めて下さいよ本当に!!!

 

 

≪蒼龍@souryuu1. ●●●●●≫

 今度は加賀さんの部屋から啜り泣く声が聞こえて来たんですが……。

 感極まってるのは理解出来るんですが、あの加賀さん? 

 ひょっとしてもう酔ってます? 

 さっきお酒買ってましたよね?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 嘘に決まってんじゃん、アゼルバイジャン。

 ジョークジョーク。なに本気にしてんだよォ加賀ぁ~^^

 

 

≪翔鶴@syoukaku1.●●●●●≫

 今凄い壁ドンが聞こえたんですがそれは……。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 もう勘弁なりません

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 ちょっと落ち着きたまえ^^; 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 まぁ取り合えず、先に必要になるカードは、こっちでもう用意しといたから。

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 強引に話を戻したな……。どうせ貴様の事だ。

 レア度が上がると服が破けているとか、そんな類いのものだろう?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そんなワケ無いゾ。子供達だって手に取る可能性があるんだからさぁ……。レア度が上がると、ちょっとアヘ顔&おっぴろげポーズになっていくだけだから大丈夫でしょ?

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 良いワケあるか!! なお悪いわ!! 悪影響極まりない!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 まぁウチの鎮守府は、長門を筆頭に変態ショタコン達を詰め込んだ構築済みデッキみたいなもんやし。多少はね? 取り合えず1145143643641919810100081枚ぐらい刷る予定で印刷所にも話を通してあるけど、もうちょい要るかもしれねぇなぁ……。

 

 

≪飛龍@hiryuu1. ●●●●●≫

 多過ぎィ!!!!!!!!!

 

 

≪蒼龍@souryuu1. ●●●●●≫

 刷り過ぎィ!!!!!!!!!

 

 

≪瑞鶴@syoukaku2.●●●●●≫

 印刷所こわれる

 

 

≪翔鶴@syoukaku1.●●●●●≫

 もう天文学的な数値ですね……

 

 

≪不知火@kagerou2. ●●●●●≫

 資源の無駄遣いも良いところだと思うのですが

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

 あのすみません!! 初耳なんですけど!!!

 何勝手なことしてくれてるんですか!!!?

 契約と言うか、必要な予算は何処から出たんですか!!!??

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 えー、ウチの鎮守府持ちだけど

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

 p

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

 うんちうんちうんちうんちうんちうんちうんち

 

 

≪明石@kousaku. ●●●●●≫

 あぁ~~!! 大淀が壊れちゃった^~~><;

 

 

≪陸奥@nagato2. ●●●●●≫

 ちょっと野獣!! 真面目な彼女をあんまり追い詰めないであげて!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 冗談に決まってんだルルォ!! いい加減にしろ!!!

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 逆ギレするな馬鹿タレ!! そういう冗談はやめろ!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 ごめん茄子!! じゃあそのストレス除去の為にィ、加賀と大淀に、新しいケア施術を受けて貰うって言うのはどうっすか?

 

 

≪大淀@ooyodo1. ●●●●●≫

 あのホントもう勘弁して下さい……。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 寝言は寝てから言って欲しいものね。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 話ぐらい聞けってぇ、もぉー! 施術を行うのは俺じゃなくてアイツなんだからさ。

 

 

 

 

 

 

 

 今までも野獣の執務室は、無茶な改造と改築を繰り返し施されていた。神秘の領域に触れ得る職工・工匠である妖精達の手によって広々としたフロアへと拡張され、今では執務机やソファセットの類いだけでは無く、耳掻きサロンやバーカウンター、シャワールーム、キッチンスペースまで備え付けられている始末だ。書類仕事を行う執務机の周辺は整理整頓され、何とかまだ職場として体裁を保っているものの、上層部の誰かが視察に来ようものなら卒倒しかねない様相を呈している。そんな広い空間を有効活用し、野獣は新たなコーナーを設けていた。少年提督による催眠セラピー用のサロンである。ただ催眠セラピーとは言っても、あくまで艦娘用だ。少年提督の扱う肉体感覚と精神干渉の施術の応用によって、リラクゼーション効果を与えるのを目的としたものだと言う。

 

 既に今日の仕事を終わらせた野獣は先程、艦娘囀線にてセラピーのモニターを加賀や大淀以外にも募った。参加を強制すると、時間を拘束される事に対しての不満の声が上がると懸念してのことだろう。時刻は夕刻ではあったものの、夕食にはまだ早い時間だった。今日の訓練や演習を終えた艦娘達も、一息ついているであろう時間だ。しかし、彼女達の反応は早かった。艦娘囀線のタイムラインに希望が殺到し、収拾がつかない勢いを見せたのだ。此処から誰からを選ぶとなると揉めに揉めそうだということで、野獣の執務室でのくじ引きと相成った。

 

 遠征に出ている面子以外、ほぼ全員が野獣の執務室に集まり、廊下にまで溢れかえると言う事態だ。くじ引きの当たり枠と言うか、一度に施術を行えるのは4人までという事だった。回転数が上ったとしても、全員を捌けるワケでも無い。それに最初の一回目の施術では、先程の艦娘囀線での流れも在って、加賀と大淀が施術を受ける事になっている。つまり、初回の当たり籤は2つしか無い。このくじ引き自体が、かなり厳しい戦いである。野獣は簡単な籤箱を拵えて、執務机に用意していた。集まった艦娘達は長蛇の列を成し、出撃前のような戦士の貌で籤を引いていく。

 

 熊野と共に、取り合えずと言った感じで籤引きに参加していた鈴谷は、もう外れ籤を引いていた。そして熊野も同じく、外れ籤を引いて崩れ落ちている。「そんな落ち込まなくても大丈夫だって。何回かは交替するから、まだチャンスはあるじゃん」と、執務室の隅の方で落ち込んでいる親友を慰めつつ、鈴谷は視線を辺りに巡らせる。熊野と同じ様に、籤を外して落胆する者や、がっくりと膝を突く者、項垂れて暗いため息を吐き出している者が多数居た。まぁ、この倍率だ。そう簡単に当たり籤は引けまい。

 

 鈴谷は軽く息を吐き出して、妖精達と新しく拵えたというサロンの一角へと視線を向けた。執務机から少し離れた場所だ。其処に、少年提督と野獣が何やら話をしている。段取りの確認か何かなのだろう。ヘッドセットを装着している少年提督は、手にマニュアルらしき本を手に開いて、中身を野獣と共に確認している。

 

 その二人のすぐ傍には、座り心地の良さそうな、ゆったりとした清潔なリクライニングチェアが4つ並んでいる。革張りで重厚感も在り、かなり高価そうでもある。其々の足元には、複雑な術陣が囲ってある。少年提督の施術効果を解決させる為のものなのだろう。あとは、背凭れの横の方にフックがあり、そこにヘッドホンと黒いアイマスクが備え付けられていた。オーディオ機器にそんなに詳しく無い鈴谷でも、一目見たら分かるような、やたら高そうというか、普通じゃない感じのヘッドホンだ。何でも、優れたメカニックである少女提督が手掛けた品であるという。

 

 よくこんな思いつきの企画に協力してくれたものだとは思う。ただ、少女提督は少女提督で、少年提督の施術能力については認めているし、この催眠セラピーの効果も高ければ、艦娘達の心身のケアにも繋がる。悪い要素は無い。そう思いたい。鈴谷が何とも言えない貌でリクライニングチェアを見詰めていると、歓声が上がった。当たり籤を引いた者が出たのだ。鈴谷が視線を向けると、やりきった貌になった長門が、右手を突き上げて体を震わせていた。その隣では、外れ籤を握り締めた陸奥が、「フゥゥゥ……」と、何かに耐えるように俯いたまま、深刻そうに息を吐き出していた。長門が流れを作ったのだろう。そこからは、当たり籤が続く。引いたのは榛名だった。

 

 神妙な貌になっている榛名は「では、行って参ります……」と、金剛や比叡、霧島に深々と頭を下げて、リクライニングチェアへと身体を預ける。それを見送る金剛達も、真剣な表情で頷きを返している。相変わらず、あの四姉妹は頭のおかしいテンションだ。明石にからかわれつつ、そわそわとして落ち着かない様子の大淀と、もう満足げに微笑んでいる長門もそれに続いた。そして、既に酒を呑んでいたであろう、ほんのりと頬を赤くしている加賀が、普段は見せないような慈しみに満ちた微笑を浮かべて、安らかな様子でリクライニングチェアに身を預けている。4人は少年提督に促されて、フックに掛かっていたヘッドホンと黒アイマスク装着する。これで準備完了だ。

 

 そんな四人を見守っている艦娘達は、少々緊張した面持ちである。籤に漏れて野次馬と化しているものの、次の施術が始めれば、またくじ引きが再開されるのだ。一体どんな内容なのかは、皆も気になるところであろう。そんな艦娘達の緊張が伝播して奇妙な静寂が生まれた。まるで、何らかの厳かな儀式でも始まるような雰囲気になる。鈴谷もちょっと困惑しつつ、周りへと視線を巡らせる。えぇ……。こんな雰囲気でリラクゼーションとか無理じゃない? そんな風に思うものの、少年提督だけは優しく微笑んだままだ。緊張している様子など微塵も無い。それは、提督用の執務机へと帰って来た野獣も同じ様子だった。

 

 

 野獣は執務机にドカッと座ると、机の引き出しからタブレットを取り出して手早く操作を始めた。その野獣の執務机の隣。秘書艦用の執務机に座っているのは、今日の秘書艦であった赤城だ。赤城の手元にも、タブレット端末が二つ程在った。多分、野獣の補佐に入っているのだろう。鈴谷は執務机にそろそろっと近寄って、タブレットのディスプレイを覗き込んでみる。途中で、赤城が笑顔で此方に会釈してくれたので、鈴谷も頭を下げて礼をする。赤城はディスプレイを隠すでも無く、快く見せてくれた。其処に表示されているのは、4つのリクライニングチェアと、そこに横たわる艦娘達の生体データだ。あとは、其々に“0”という数字が表示されている。何かをカウントしているのか。鈴谷は「あ、あの、赤城さん」と声を掛けてみる。

 

「こ、この“0”ってカウントされてるのって、なんなんですかね……?」

 

 赤城が応えるよりも早く、野獣が鈴谷に応えた。

 

「イっ……、リラックス(意味深)した回数だから、ヘーキヘーキ」

 

 行儀悪く執務机に足組んで載せた野獣が、似合わないニヒルな笑みを浮かべている。鈴谷は貌を歪ませて、野獣とリクライニングチェアを見比べた。よく見たら、リクライニングチェアの下の方にも、“0”という表示が顕わされている小さな画面が付いている。

 

「あっ、ふーん……(察し)」

 

 何かを言い直した野獣に、やっぱりな(レ)と思いつつも、鈴谷は赤城にもう一度礼をしてから熊野の傍に帰って来た。鈴谷は熊野に何かを言おうとしたが、それよりも先に、野獣が少年提督へと手で軽く合図を送った。『よーいスタート』のサインだ。ヘッドセットをした少年提督が頷いて見せて、手にしたマニュアルへと視線を落とす。そして、小さく何かを唱えた。

 

 少年提督の詠唱に応え、長門達が装着しているヘッドホンの両耳部分に、術陣が象られた。同時に、リクライニングチェアの足元に刻まれた術紋が、蒼く明滅を始める。アイマスクをしている長門や榛名、大淀や加賀には見えていないだろうが、何かが起ころうとしている事くらいは感じるだろう。周りで見ている艦娘達も固唾を呑む。その時だった。

 

 『僕の声が聞こえますか?』と。4人が横たわる施術用リクライニングチェアの前に佇む少年提督が、優しく語りかけた。不思議な響きを持っていた。普段でも、温みのある彼の独特の声は、鼓膜と言うよりも頭の中に沁み込んで来る。だが今の彼の声は、もっと強烈だった。恐らくは、何らかの施術体系に則って、自身の肉声を艦娘達の肉体や精神へ影響しやすいようにしているのだろう。野次馬の艦娘達も、ぶるるっと身体を震わせていた。鈴谷は、「あっ、これヤバイ(確信)」と思った。その通りだった。

 

 リクライニングチェアに横たわっていた榛名が、困惑したような甘い悲鳴を漏らしている。加賀と大淀も息が荒く、頬が紅潮していた。長門も唇を噛んで、ぴくんぴくんと身体を震わせている。少し離れた場所に居る鈴谷の背筋にも、ゾクゾクとした甘い痺れが走ったくらいだ。彼の声をヘッドホンで聞いているあの四人には、相当な威力だったに違い無い。特に長門が重傷だった。リクライニングチェアの下部。其処に表示されている長門の数値部分の“0”が、“1”になった。

 

「なぁおい長門ァ……、はやくなぁい?(想定外) まだ序の口も良いトコだぞお前……」

 

 野獣が半笑いで言う。ヘッドホンはしていても、野獣の声は聞こえているようだ。アイマスクをしたままの長門は僅かに身体を起こして、野獣の方へと顔を向ける。ふー……! ふー……!と、明らかに余裕の無い荒い息遣いだが、長門は気丈にも唇を不敵に歪めて見せた。

 

「ぬぐふっッ……! き、効か……、効かにゅわぁ!(震え声)」

 

「おっ、そうだな(適当)」

 

 しかし野獣は、そんな長門の健気な姿にも特に興味を引かれた風でもない。気の無い返事を返しつつ、タブレットを操作している。なんて奴だ。熊野を含む野次馬達が唾を飲み、緊張した面持ちで見守る中。施術は深度を増してまだ続いていく。

 

『では皆さん、深呼吸をしてみて下さい。ゆっくり。ゆっくりと、息を吐き出してください』

 

 ヘッドセットをした少年提督は、心地よい催眠状態へと誘うべく、温みのある不思議な声で長門達に語りかける。

 

『さぁ、もう一度。ゆっくりと、深呼吸をしてくだい。息を吸って……、吐いて……』

 

 リクライニングチェアに座った四人は、其々に唾を飲み込んだり、唇を舐めて湿らせた後、深く深呼吸をし始める。少年提督が頷く。

 

『体から力を抜きながら、大きく、ゆっくりと、そのまま呼吸を続けて下さい。……はい、とっても上手ですよ』

 

 理性や思考を蝕んで来るような、少年提督の深く深く、そして甘く柔らかな声音に合わせて、四人は大きく呼吸をする。周りに居る野次馬の艦娘達の中にも、彼の声に合わせて深呼吸をし始める者が出始めた。隣に居る熊野も眼を閉じたままで深呼吸を繰り返しているし、鈴谷も無意識の内に深呼吸をしていた事に気付き、ぶるぶると頭を振る。鈴谷は熊野の肩でも揺すって起こしてやろうかと思ったが、深呼吸をする熊野の表情が余りに幸せそうで憚られた。まぁ、取り合えず様子を見よう……。鈴谷は両手で自分の頬を軽く叩いて、眠気を払うようにして正気を保とうとする。しかし、彼の優しい語り声は、容赦無く場を圧倒していく。

 

『今から、僕が10数えます。その間に、貴女の体から、ゆっくりと力が抜けていきます』

 

 少年提督の語り口に微妙な変化が起こる。“皆さん”では無く、“貴女”へと変わった。ヘッドホンをしている長門達を、より深い暗示に引き込まれる要素なのだろうか。『10……、9……、8……、7……、』少年提督の声音も甘さが増したと言うか、擽る様な優しいウィスパーボイスへと少しずつ変わっていく。長門“2”、加賀“1”へとカウンターが回る。二人はリクライニングチェアの上で身体を波打たせつつ、溺れて咳き喘ぐように深呼吸をしていた。大淀と榛名も、アイマスクの下の頬を紅潮させつつ呼吸を震わせつつも、何とか少年提督の指示に従っている。

 

『リラックスして、深く呼吸をして下さいね。体から力を抜いて下さい。』

 

 野次馬の艦娘達の中からも、軽い嬌声が上がり始める。催眠に掛かっているのだろう。鈴谷も、何だか下腹部が切なくなって来て不味い感じだ。変な気分になってくる。ぶんぶんと首を振る鈴谷の隣では、熊野が『はー……! はー……!』と、彼の声に聞き入り、焦点の合わない視線で宙空を見詰めている。

 

『6……、5……、4……』

 

 ヤバイ。普通に聞いているだけでこの威力だ。ヘッドホンとアイマスクで感覚に蓋をされた長門達が、一体どれほどの催眠効果と没入感の中に居るのか。『大丈夫です。安心してください。きっと、気持ち良くなりますよ』 少年提督のウィスパーボイスは、更なる深みへと艦娘達を誘う。『3……、2……、1……』カウントダウンが終わりに近付くに連れて、大淀と榛名の身体も波打ち始める。施術陣の効果と言うよりも、少年提督が紡ぐ儀礼音声とでも言うべき声音の効果が強過ぎる。全く抗えない。思考と意識を溶かしてくる。そして、とうとうその時が来た。

 

『……0……』

 

 魔性とも言える、少年のものとは思ない程に艶美な声音だった。鈴谷の背筋に、電流の様なものが走った気がした。唇を噛んで、何とか鈴谷は耐える。体がふらついて、小刻みに震える。野次馬の艦娘達の中には、荒い息をついて崩れ落ちるものたちが続出した。ヘッドホンをしている長門達の方は、もっと深刻な状態だ。長門と加賀のカウンターが其々“3”へと変化し、榛名のカウンターも“0”から大きく回転し“3”へ。大淀の方は、一気に“5”になった。特に榛名と大淀は、リクライニングチェアの上で身体を跳ねさせて、口を開いて舌を突き出し、切なげな悲鳴を上げている。長門と加賀の方は、表情というか口元を弛緩させており、甘く浅い呼吸を繰り返していた。大丈夫なんだろうか……。

 

 鈴谷は不安になりつつも、執務机に座っている野獣と赤城の方を見た。二人は割りと真剣な表情で、其々の手元にあるタブレット端末のディスプレイを見詰めている。表示されている生体データの数値を観察しているようだ。そう言えば、『モニターになって欲しい』という話が元々だったようだし、もしかしたらコレは鈴谷が思っているよりも真面目な施術なのかもしれない。赤城は催眠に掛かっていると言うか、少年提督の声の影響を受けていないのか。冷静と言うか、普段通りだ。強い精神力を持っているからだろう。ただ、長門達と言うか、執務室全体がのっぴきならない事態だ。施術はまだ終わらない。

 

『これで貴女の体から、余計な力が抜けていきましたね』

 

 少年提督は優しく語り掛ける。リクライニングチェアに身を預ける榛名が、「ふ、ふぁい……」と、力の無い呆けた返事を返す。加賀も「ひゃ、……い」と、途切れがちな声で応え、長門も「ぅ、ぐ……、んん」と、甘く呻きながら頷いている。アイマスクをして表情が分からないが、皆の顔は蕩けている事だろう。ただ、一度にカウンターを“5”まで回した大淀の方は返事をする余裕も無い様だった。赤い貌で荒い吐息を漏らしながら、カクカクと脚や腕を痙攣させている。あれでは体が軽くなるどころか、余りの快感に体力を消耗しているに違い無い。

 

『準備が整いました。では、もう少し心を軽くして、疲れを忘れましょう』

 

 ケア施術への少年提督の真摯な姿勢は、更なるストレス除去の高みへと皆を誘う。鈴谷は戦慄した。まだこの先に行くのか。容赦ない彼の声は、快感に繋る神経を直接に擽って来るかのようだ。体の感度がグングン上がっているのが分かる。鈴谷は自分の体を抱き締めようと思ったが、隣に居た熊野の体がふらついたので、咄嗟に支えた。熊野は喘ぐように息を途切れさせ、とろんとした眼をしていた。理性が跳びつつあるような、幸せそうな貌をしている。

 

 野獣や赤城がストップを掛けないあたり、これも少年提督の施術範囲にあるから身体に害は無いのだろうが、何と言うか凄絶な効果だ。周りにいる野次馬の艦娘達も、甘美な感覚に身を任せて、灼熱の吐息を漏らしながら蹲っている者が多数居る。『此処からは、貴女の想像力をお借りします』 少年提督は、妖しく囁くように言う。

 

『想像して下さい。貴女が心地よいと感じる事を』

 

『のんびりと一人で過ごしている時でも』

 

『ゆったりとお風呂に入っている時でも』

 

『暖かなベッドで微睡んでいる時でも』

 

『美味しいものを食べている時でも』

 

『どんな時でも構いません』

 

『貴女が思う、幸せな時間を、思い描いて下さい』

 

『さぁ……。イメージしてみて下さい』

 

『誰にも遠慮は要りません』

 

『其処は、貴女の世界です。貴女だけの、貴女の為の世界です』

 

 彼の声は、そんなに大きくない筈なのによく通る。甘い甘い囁き声だ。官能的で、啓示的で、抗いがたい声音だった。彼が語りかける途中で、長門達がリクライニングチェアの上でビクンと身体を硬直させる。全員のカウンターが更に“2”ずつ上がった。深い催眠状態にあった野次馬達の中からも悲鳴が上がる。

 

『貴女のしたい事を、感じたい事を、楽しんで下さい』

 

『僕がまた10を数える間に、貴方の世界は全て完成します』

 

『この10秒は短くも、貴女の世界の永遠です』

 

『10を数え終わる頃には、貴女の望みは全て齟齬も無く満たされて、叶います』

 

『貴女はきっと、心地よい覚醒と活力を得て目覚める事でしょう』

 

『貴女の世界に、貴女は居ますか?』

 

『貴女の望むままに。何かを願い損ねる事の無いように』

 

『では……、数えます。10……。9……。8……』

 

 少年提督のカウントダウンが始まる。催眠施術だけで無く、精神施術的な応用も兼ねたものなのだろう。長門達が横たわるリクライニングチェアの足元。其処に刻まれた術陣が、明滅の強さを増した。マニュアルを持つ少年提督の掌にも、複雑な術陣が象られる。どうやらクライマックスのようだ。先程の催眠ワードである、『貴女の世界』とやらが長門達の中で構築され、その精神世界の中で、長門達は思う様に願いの結実を乞う。

 

 

 

「あぁっ、ぐはぁ^!! 太いのが気持ちィィEEEEeeennn^~~ッ!!!(エンジン全開)」

 

 横たわる長門が、身体を激しく波打たせて切なげに叫んだ。普段の凛々しさよりは、想いを遂げた女性の喜びが滲んだ叫びだった。

 

「お太い!!! でもぉ!!! ぱ゜る゜な゜は゜だ゜い゜じ゜ょ゜う゜ぶ゜で゜す゜!!!!!」

 

 榛名も身体をガクガクと震わせて、甘い絶叫で続く。途中で声がひっくり返りまくって奇妙な発音になっていたが、彼女の魂の声である事に違いは無い。

 

「あぁあああ駄目駄目駄目!! もの凄い太い!!! ぁぁあ、壊れちゃぁああ↑↑^^^~~ぅうううう!!!」

 

 リクライニングチェアの上で艶かしく身体を捻りつつ、大淀の声音はその言葉とは裏腹に幸福感に満ちていた。相当ストレスが溜まっていたんだろう。

 

「はぉおっ……ッ!! あ、ぁ、あげるわ貴方にぃ^~……!! んぅうぅうぅふぅ~^↑↑!! 太いのが入っちゃっ……たぁ><!!!」

 

 加賀は少女のように胸元の襟を両手でぎゅうぎゅうと握りながら、切なさや愛しさを込めて嬌声を漏らしている。意中の人と一つになる瞬間でも味わっているのだろうか。

 

『4……、3……、2……、1……、0』

 

 もう長門達は大惨事と言うか、大変な状況だ。もしかしたら彼女達は、精神世界を共有でもしているのだろうか。同じようなワードと雰囲気で嬌声を上げているし、彼女達が構築した内なる世界では、多分同じ様な状況を望み、それを彼の催眠施術によって叶えたと言ったところか。鈴谷は、『少年提督の象さんは、実はマンモスサイズである』という噂を聞いた事がある。特に意味も無くそんな事を思い出した鈴谷を取り残し、少年提督は、甘美な響きを残すようにお念入りにカウントを繰り返す。

 

『0……、0……、0……』

 

 ぽぉ~^っほほぉおお^~~ッ!!! という、奇妙な悲鳴が響く。誰の声かは分からないが、多分、大和か陸奥あたりだ。野次馬の艦娘達にしてみても似た様な有様だった。「お耳が、……レディになっちゃう(意味不明)」と、はぁはぁと熱い息を漏らしている暁や、「榛名ーーッ!! 頑張れーーッ」と謎の応援を始める比叡と、「ファイトー!!」と、それに続く霧島、その隣では金剛が、「あぁ^~~、入る入る入るぅ^~~(真っ最中)」と、催眠効果に嵌って蹲っていた。他にも、幸せそうな貌をした陸奥が白眼を向いて倒れていたり、敬礼をした姿勢のままで鹿島がうつ伏せに倒れ、鼻血を出しながらも香取がそれを介抱していたり、鈴谷に抱き止められている熊野も、安らかな貌のままで気絶している。……此処は魔界か何かか? もう収拾がつかなくなる限界ギリギリだったと思う。少年提督が、何らかの文言を短く詠唱してから、パンッと手を叩いたのもその時だ。

 

 多分、催眠解除用の為の何かだったのだろう。それにしても凄い効き目だ。執務室の空気が一変した。普通の世界が還って来たと言うか、鈴谷達の精神が帰って来たと言うか。そんな感じだった。身体の中に篭っていた熱も、すぅっと引いていく。倒れていたり、蹲っている艦娘達も、ハッとしたように眼を覚まし、互いに顔を見合わせている。狐に摘まれたような、という表現が正しいかどうかは分からないが、何だか夢から醒めたような気分だった。奇妙な静けさに包まれた執務室の中。鈴谷に抱きとめられていた熊野もパッと眼を覚ました。熊野は鈴谷を数秒ほど見詰めて何度か瞬きをして見せた。そして、すぐに一人で立ってから俯き、鈴谷に礼と共に小さく謝って来た。うわぁ、気まずい……。

 

 

 リクライニングチェアの上で、強すぎる快感と幸福感に支配されていた長門達も、悶えるのをピタリと止めている。そして、まるで何が起こっていたのかを思い返すかのように、そっと身体を横たえつつも呼吸を整えている。激しい運動が終わったみたいに息を乱してはいるものの、先程までのように乱れに乱れている訳では無い。落ち着いている。其処に、『皆さん、お疲れ様でした』と。少年提督が、そんな長門達に声を掛ける。長門達は、一斉にビクッと肩を跳ねさせた。

 

『もうアイマスクと、ヘッドホンを取って貰っても構いませんよ』

 

 さっきまでの魔性と言うか、官能的な雰囲気を全く感じさせない落ち着いた声で言いながら、ヘッドセットを外しながら少年提督は言う。

 

「今はまだ不備な点も多いと想いますが、効果の程はどうでしょう? ちゃんと満足して頂けましたか?」

 

 アイマスクとヘッドホンをそっと外した長門達は、酷く疲れたような様子だったが、優しく声を掛けてくる少年提督を見て、一斉に眼を逸らした。全員の顔が真っ赤だ。あの反応を見れば、さっきまで精神世界で何をしていて、その相手と言うか登場人物と言うか、それが少年提督であろうことは何となく察しが付く。やはりパオーンした彼のマンモスと戦いを繰り広げていたのだろう。鈴谷がチラリとリクライニングチェアの下部に小さく表示されているカウンターを見遣る。ほぼ全員が“50”程度だった。そりゃあ疲れるだろうし、彼と接するのも気恥ずかしいだろう。

 

 それによく見れば、長門達は彼の声を聞くたびに、ピクンピクンと肩を震わせている。多分、まだ身体に気持ちいいのが残っていて、少年提督の声に身体が反応しているのだろう。これは危険な施術だ。クセになると、彼の声を聞くだけてリラックス(意味深)してしまう身体になってしまいかねない様に思える。長門は彼と眼を合わせない為か、それとも顔の赤さを誤魔化す為か。長門は右手で自分の額を掴むようにして押さえた。

 

「いや、その……、中々に、新鮮な体験だった。ただ、少々効き目が強いな……」

 

 僅かに声を震わせる長門の言葉に続き、頷いて見せた榛名や大淀、加賀達は、やはり少年提督と眼を合わせようとしない。赤い顔を隠すように深く俯いた榛名は、その前髪で表情が見えないものの、ぎゅぎゅぎゅーと唇を噛んでいた。大淀の方は、申し訳なさそうと言うか、自己嫌悪にも似た辛そうな顔でそっぽを向いている。加賀は催眠効果の反動か何かなのだろうが、眼が潤んでいて今にも泣きそうな貌になっていた。それだけ満たされた時間だったのだろう。中毒性も高そうだ。少年提督は長門の言葉を聞いて、何かを思案するように顎に手を当てる。

 

「では次からは、もう少し浅い効果範囲の方が良いかもしれませんね」

 

「Foooo↑!! データもばっちぇ取れましたよぉ今回はぁ!!(分析家先輩)」

 

 少年提督と長門達の遣り取りに割り込んだのは、タブレットを片手に持っている野獣だった。

 

「やっぱり、カウントについてはもっと長くても良いかもなぁ? 114514191936364秒くらいでも大丈夫でしょ?(超越への一歩)」

 

「長過ぎィ!!」 と、野次馬の中から誰かがツッコミを入れる。

 

「……ざっと計算しても3600万年以上掛かるだろうが」 長門が苦い表情で言う。

 

「あっ、そっかぁ(もう適当)」

 

 そう軽く返した野獣はニヤニヤ笑いを浮かべていて、意地悪な感じだ。長門達も、そんな野獣の表情を見て不味そうな貌になる。弄られるのを分かっているからだ。案の定、「じゃあまず、お前らが精神世界で何をおっぱじめてたのか教えてくれるかな?(インタビュー)」と、野獣が直球を投げ始める。榛名が両手で貌を隠す。大淀が奥歯を噛み締めて俯く。加賀が怯んだ様にぐっと言葉を飲み込む。しかし、長門はすぐに言い返して見せた。

 

「私は、せ、セッ……、せっかちをしていただけだ(ジャイロボール)」

 

「えっ」 少年提督が不思議そうな貌になった。

「えぇ……(想定外)」野獣が難しそうに眉をひん曲げた。

 鈴谷は吹き出しそうになったし、野次馬の艦娘達もサワザワとし始める。

 

 

 大淀と榛名は、衝撃を受けた様な貌で長門を凝視している。何かを決心したような加賀が、「私も、愛の在るせっかちをしていました(毅然)」と、凛として応えて長門に続く。私達も同じく、という感じで榛名と大淀も、表情を引き締めて挙手をした。「せっかちって何だよ……(哲学)」野獣が戸惑うように言う。

 

「でも、皆さんの生態データやパラメーターを見る限り、良い効果もちゃんと在るみたいですよ」

 

 そう言って、訳の分からない空気になりそうにあったのを、赤城が防いでくれた。野獣達に歩み寄って来ていた赤城は、手にタブレット端末を持っている。其処には、長門や大淀、加賀、榛名の其々のパーソナルデータの上昇値が表示されていた。筋力などのフィジカルな面と、ストレスなどメンタル面、それから疲労値については、艦娘達のパフォーマンスに大きく影響を与える項目だ。艤装の性能や錬度だけでは無い、こういった部分に良い影響が出ているという事だろう。

 

「まぁ、もうちょいデータも欲しいし、あと2、3回やってみるか!」

 

 赤城の持っていたタブレット端末のディスプレイを見た野獣は、唇の端を持ち上げて、野次馬の艦娘達に向き直る。「よし!! じゃあ籤引きしたい奴、手ぇ挙げろ!(募る意志)」 野獣が言うと、大半の艦娘達が手を挙げる。まだまだ、悲劇は始まったばかりだった。

 















今回も最後まで読んで頂き、有難う御座います!
まだまだ匙加減が分からない部分もありますので、必要であれば修正させて頂きます。
不定期更新ではありますが、応援して下さる皆様、また暖かい感想や評価まで添えて下さる皆様には感謝の念に絶えません。いつも本当に有難う御座います!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

鳳翔の店にて

※下ネタ成分が多めです。読んで頂く際には、御注意を御願い致します。


 鳳翔の店は、今日もそれなりに人が入って居た。長門と陸奥、そして野獣が並んでカウンター席に腰掛けて、喧しく言い合いながらも酒を飲み交わしている。あの面子で並んでいると言う事は、長門と陸奥は、今日の野獣の秘書艦だったのだろう。あとは、ビスマルクやグラーフ、プリンツの三人が、野獣達の近くのテーブル席に陣取っていた。

 

 談笑の声も響くが、馬鹿騒ぎと言うほどのものでは無い。暖かく、心地よい賑やかさだ。落ち着いた雰囲気なのに、肩の力が自然と抜けるような気安さで満ちている。それはやはり、この場を仕切る鳳翔の人柄に拠るものも大きいだろう。彼女在っての場所である。此処は鎮守府の中でも、食堂と並んで人気の高い場所だ。天龍は摩耶と共に、テーブル席の一つに腰掛けていた。鳳翔の作ってくれる料理に舌鼓を打ちつつ、機嫌の良さそうな摩耶と共に酒盃を重ねていく。

 

 お猪口を口元に持っていく途中で、天龍はチラリと腕時計を見遣る。少年提督も、今日の執務を終わらせた頃だろう。そう言えば、今日のアイツの秘書艦は、……愛宕か。天龍は視線を手元に戻して、お猪口を傾ける。熱い液体を嚥下してから、ゆっくりと鼻から息を吐き出した。愛宕。その名前から脳裏に思い浮かぶのは、ゆるふわ系とでも言うべき、柔らかい雰囲気で笑顔を浮かべたグラマラスな美女だ。ただ、その笑顔の裏側に、強烈な厭世観を秘めていることを天龍は察している。他の艦娘達はどうかは知らないが、時折、愛宕の微笑みから垣間見える“濁り”のようなものを、天龍は敏感に感じていた。

 

 あの愛宕がどうやら“少年提督が召還した艦娘では無い”らしいという事も、何となく察してはいる。ついでに言えば、天龍の姉妹艦娘である龍田だってそうだ。前の騒動の時に、最後の最後まで少年提督が彼女達を傍に置いていた事を見ても、あの二人と少年提督との間には、縁と言うか因縁と言うか、天龍も知らない何かそういうものが在るのだろう。ただ、その過去を根掘り葉掘り聞くつもりは無い。天龍にとって、愛宕や龍田が大事な仲間である事に変わりはないからだ。掛け替えの無い戦友だ。いつか、愛宕や龍田本人が話してくれる時がくるまでは、首を突っ込まずに黙っていれば良いと思っていた。

 

「……なぁ」

 

 そんな事を頭の隅の方で考えていると、不意に声を掛けられた。「ん?」と視線を上げると、摩耶と眼が合う。

 

「今日の彼の秘書艦は、確か……」

 

「あぁ、愛宕だったな」

 

 そう答えた天龍の言葉を聞いて、難しい貌になった摩耶は、少しだけ言葉を選ぶように黙る。しかし、すぐに天龍を見詰めて来た。

 

「お前は、彼に二番目に召ばれた艦なんだよな?」

 

 摩耶は、少々潜ませた声で言う。天龍は「おう」と短く応えながら、徳利からお猪口に酒を注ぐ。透明な液体が満たされたそれを手に持ちつつ、視線を返す。摩耶は、また天龍の方を横目で見遣った。それを見た天龍は、軽く鼻から息を吐き出して、肩を竦める。摩耶の仕種を見た天龍は、摩耶が何を聞きたいのかを察した。「最初に謝っとくけどよ……」先程の摩耶と同じく声を僅かに潜ませて、天龍はワザと摩耶から視線を外した。

 

「俺は古株だが、愛宕については詳しくは知らねぇよ」

 

「……そうか」 摩耶も短く応えて、自分の杯に酒を注いだ。

 

「姉妹艦の誰かなら知ってるんじゃねぇのか?」

 

「あぁ。知ってるんだろうが、教えてくれねぇ」

 

「なるほどな……」 

 

 天龍は難しい貌になってから、杯を空ける。それに摩耶も続いて、軽く笑った。

 

「お前の眼つきを見たら、何か知ってるんじゃねぇのかと思ったんだけどな」

 

「俺はそういう事に、進んで首を突っ込むタイプじゃないんでな」

 

「へぇ。アレコレと詮索するタイプだと思ってたぜ」

 

「こういう事に関しちゃ、俺は待つタイプだ」

 

「……辛抱強いよな、お前」

 

「そりゃあ、世界水準超えてるからな」

 

 唇の端を持ち上げて、冗談めかして天龍が言う。摩耶も、小さく喉を鳴らすようにして笑った。同時だったろうか。「おい摩耶ァ!!」と。カウンター席の方から声がした。野獣の声だった。「あぁ?」と、眉をハの字にした摩耶が顔を向ける。天龍もそれに倣い、カウンター席の方へと向き直る。すると、野獣が身体を捻って、面白がるような表情を浮かべて此方を見ていた。鳳翔も此方を見ている。

 

「何だよ? 絡んでくるんじゃねぇよ」 摩耶は面倒そうに応える。野獣は半笑いを浮かべたままだ。

 

「いやぁ、今度から通販商品のラインナップに、お前をモチーフにした品を加えようと思ってるんだけどさぁ!(犠牲者の選定)」

 

「ふざけんな」

 

「まま、そう怒んないでよ。ちょっと試作品だけ作って来たんだけど、……確認してかない?」

 

「何でもう作ってんだよ!?」 摩耶が叫ぶ。

 

「此方になります。ご確認下さい(提出)」

 

 野獣はすっとぼけた様な真面目な声音で言うついでに、まるで商品サンプルを手渡す営業マンみたいな改まった態度になる。そして席の隣に置いてあった、かなり大きめの鞄から何かを取り出した。

 

「今日ご紹介する商品は、摩耶にゃん!!(仮)」

 

 キャリーバッグみたいな大きさのあるその鞄から取り出されたそれは、デフォルメされた摩耶の姿をしたヌイグルミだった。勝気そうな表情をしており、摩耶らしさがよく表現されている。もこもこふわふわとした丸っこい形をしている事もあって、中々に可愛らしい。

 

「へぇ、良いじゃねぇか(暢気)」 天龍は素直な感想を述べる。カウンターの向こうでは、鳳翔も優しげに微笑んでいる。一方で、摩耶の方は照れているのに不味そうな貌で、野獣の持つヌイグルミを睨むように見ていた。野獣は鼻を鳴らし、勝ち誇ったように唇の端を持ち上げて見せる。

 

「どうだよ?(誇らしげ)」

 

「クソが……。ノーコメントだ」

 

 摩耶は憮然として言い放ち、野獣から視線を外した。そして椅子に座りなおして、杯を手に持って酒を呑み直そうとした。その時だった。野獣が手に持っていた『摩耶ヌイグルミ』が突然、『にゃにゃーん♪』と物凄く可愛らしい声を上げたからだ。しかも、ちゃんと摩耶の声だった。「うぶふゅ……ッ! ゲホ……ッ!!」摩耶本人も、飲みかけていた酒で激しく噎せ帰っている。

 

「小さい子供達にも人気が出るように、おしゃべり機能も搭載してあるから安心!」

 

 ゲホゲホしていた摩耶が席から立ち上がり、野獣に向き直る。

 

「ふざけんなよテメェ(憤怒)」

 

 野獣の方は肩を竦めて面白がるような貌だ。

 

「じゃあ、おしゃべり機能の代りに、おしゃぶり機能ならOK? OK牧場?」

 

「そんな嫌な予感しかしない機能なんざ必要無ぇんだよ!!(断固)」

 

「うそだよ(半笑い)」

 

 野獣は何処と無く優しい笑顔を浮かべながら、手に持った『摩耶ヌイグルミ』を軽く揺らして見せる。すると再び、『摩耶ヌイグルミ』は『にゃにゃーん♪』と声を上げた後で、『アタシは摩耶にゃんってんだ! よろしくにゃん!!』と、やはり物凄く可愛らしい声で自己紹介してくれた。きっとあのヌイグルミの声も、普段から集めていた摩耶の音声データを野獣が加工したものに違い無い。しかも喋るだけでなく、手を振ったり頭をペコリと下げたりしてくれる。コミカルで愛くるしい仕種だった。あれだけ自然な感じで動かして喋らせられる辺り、野獣の持つ無駄な技術力の高さが窺える。

 

 近くの席に居た長門やビスマルクは衝撃を受けたような貌で『摩耶ヌイグルミ』を凝視していた。あの2人はあれで結構可愛いもの好きなところがあるからだろう。陸奥と、それからグラーフも興味深そうに視線を注いでいるし、俯きがちに杯を傾ける天龍は、さっきから笑いを堪えていた。優しくこの場を見守ってくれているのは鳳翔だけだ。摩耶はヌイグルミの可愛らしさと、野獣への苛立ちの狭間で苦悩状態にあるのか。肩を震わせて顔を片手で押さえつつ、天井を仰いだ。

 

「くっそ……、どう腹立てて良いのか分からねぇ……」

 

「どうしたの? 何を怒ってるの摩耶にゃん?」

 

「どうしたじゃねぇ! つーか摩耶にゃんって呼ぶな!!」

 

「いいだろお前、前にも中庭で猫に向って『にゃにゃにゃーーん♪』って言ってたダルルォ!?(突きつける真実)」

 

 天龍は軽く吹き出しそうになって、俯く。

 

「そのネタは二度と掘り返すんじゃねぇって言っただろうが!!(半泣き) 良いか!? 次に言って見ろ!! マジで許さねぇからな!!」

 

「分かってる分かってる、任しとけって♪」 

 

 野獣が茶目っ気たっぷりにウィンクして見せた。

 

「だから“振り”とかじゃねぇんだよ!! 止めろっつってんだ!!」

 

『そんな怒らないで欲しいにゃん……』

 

 野獣に代り、ブチギレ寸前の摩耶に応えたのは、野獣の手の中に居る摩耶にゃんだった。野獣は手に持った摩耶にゃんに向き直り、「ねぇ~、ちょっとカリカリし過ぎだよねぇ~?(女子トーク)」と、腹話術みたいな事を始めた。

 

『摩耶にゃん知ってるよ。摩耶は言葉遣いも乱暴で、ちょっと怖いところもあるけど、本当は優しくて気配りも出来る女の子なんだにゃん』 

 

「そうだよ(肯定)。思わず猫に話かけちゃうくらい少女チックで、可愛いものに眼が無い乙女なんだよね(事実確認)」

 

 そんな出来の悪い野獣の腹話術劇を横目に聞きながら、摩耶は歯軋りをしながら頭を抱えて椅子に座りなおした。「殺してぇ^~……(マジトーン)」と小声で漏らしてから杯を傾けた。こめかみに青筋を立てている摩耶と眼が合いそうになった天龍が、すっと視線を上げた時だ。野獣が似合わないニヒルな笑みを浮かべつつ、頷いて見せた。

 

「俺は何時だって、摩耶のことを見てるにゃん(熟知先輩)」

 

「クソが……! きめぇんだよ!」 

 

 赤い貌をした摩耶が叫ぶものの、「まぁ、お前らの命を預かる身としては、当たり前だよなぁ?(職責)」と、野獣の方は肩を竦めつつ、芝居がかった穏やかな口調で言う。

 

「俺も“提督”だし、お前らの力になるからさ。何でも相談に乗ってあげるにゃん?」

 

 白々しく言葉を続けるついでに、カウンター席に座ったままで身体の向きを変えた。胡散臭い野獣の様子を半眼で見つつ、ビールをコップに注ごうとしていたビスマルクの方へと。天龍を含む他の者達も、その視線を追う。野獣と眼が合ったビスマルクは、ギクッとしたような貌になって眼を逸らす。そして、その動揺を誤魔化すかのようにビールを呷ろうとした。そんなビスマルクを見て、野獣が肩を竦める。

 

「なぁビスマルク。悩み事とか無いの?(半笑い) 例えば、『グラーフとちょっとキャラが被ってる』とかさぁ(具体例)」

 

 その野獣の言葉に、テーブル席に腰掛けているグラーフが「えっ(素)」と声を上げて、野獣とビスマルクを見比べた。一方で、グラーフと同じテーブル席に付いているビスマルクは、やれやれと首を緩く振りながら、「ふぅ……」と溜息を漏らした。ついでに、ゆったりとした仕種で再びビールを呷ってから野獣に視線だけを向ける。

 

「そんな訳無いでしょ。私は『クールビューティなお姉さん枠』だけど、グラーフは『美人だけど愛嬌のある困ったちゃん枠』だもの。被ってなんて無いわ」

 

 ビスマルクは迷いも無く言い切った。グラーフが難しい貌になってビスマルクを見詰めている。同じテーブル席にいるプリンツは、視線を泳がせながらモゴモゴと口の中を噛んでいた。ちょっと居心地が悪そうだ。長門と陸奥も、どう指摘すべきかと一瞬悩んだようだが、結局何も言わずに酒を呷るに留まった。天龍の眼の前に居る摩耶が声を潜めて「……逆だよな?」と聞いてくるが、天龍は「どうだろうな……」と、言葉を濁す。野獣の方も予想外の言葉が帰って来た所為で、「あっ、そっかぁ……(取り損ねたパス)」と、上手くレスポンスできずに居る。

 

「そうなのか……?」 

 

 釈然としない貌をしたグラーフが、プリンツに聞く。

 

「いや、あの……」 

 

 プリンツは困ったような、“私に聞かれても……”みたいな貌だ。そんなグラーフとプリンツの遣りとりを横目に、野獣はカウンター席に座ったままで足を組み、鼻を鳴らした。

 

「じゃあ他には無いの? 何か面白いの?」

 

「無いわよ。それに何よ面白いのって……」

 

 ビスマルクは野獣と視線を合わせずに応える。

 

「おい野獣。人の悩みを面白がって聞きだそうとするな」

 

 野獣の隣のカウンター座っていた長門が、苦い貌でその無遠慮さを諫める。「そうわよ(便乗)」と、長門の隣の陸奥も頷いて続く。しかし、野獣は半笑いのままで「別に面白がってなんかないんだよなぁ…」と、首を緩く振って見せる。その白々しい言い草に、天龍は鼻を鳴らす。鬱陶しそうな貌の摩耶も、野獣を睨むように見ていた。カウンターの向こうで食器を片している鳳翔は、穏やかな微苦笑を浮かべている。

 

 ただ鳳翔は、自分の店で騒ぎを大きくしてばかりの野獣を、迷惑そうだとか、嫌悪感を顕わに睨んでいるとか、そんな風では無い。野獣が周りを賑やかす“意味”のようなものを、鳳翔なりに感じ取っているのだろう。まぁ、ビールを片手に半笑いの野獣の行動に、何処まで深い意味や理由があるのかなんて考えるのも面倒だ。天龍はまた鼻を鳴らして、杯を傾ける。野獣の方も缶ビールを呷ってから、長門と陸奥を順番に見た。

 

「ほら、ビスマルクみたいな大人のレディーは、やっぱりストレスも多いだろうからね?(露骨なヨイショ)。やっぱり優秀な分、悩みも大きくなると思うんですけど(名推理)」

 

 野獣の言葉に、杯を片手にそっぽを向いているビスマルクがピクッと反応したのを天龍は見逃さなかった。野獣だって気付いている筈だ。だからだろう。「出撃したら大活躍だし、強いし、ナイスバディーだし、それに美人だしなぁ!(連撃ヨイショ)」と、野獣が更に言葉を続ける。

 

 そんな野獣の褒め殺しに、ビスマルクの方はニヤけるのを必死に我慢しようとしている。むにむにと唇を動かして頻りに瞬きをしたりするだけで無く、そわそわと肩を動かして貧乏ゆすりまで始めた。同席しているプリンツとグラーフが心配そうな貌になる勢いだ。マジでチョロイが、野獣の言っている事はあながち間違いでも無い。事実として、出撃したビスマルクは、戦場海域で大きく活躍する事も多い。以前、轟沈寸前まで行ったグラーフを守り庇いながら戦い抜くだけでなく、曳航して帰って来るという目覚ましい働きを見せている。ビスマルクの強さを疑う者は、この鎮守府には誰も居ない。野獣が冗談めかして言う言葉の裏側にも、ビスマルクに対する確かな賞賛が窺える。

 

「うわ凄いよぉ……(ワザとらしい感歎表現)。いやぁ、もう褒めるとこしか無いですね。何だコレは……、たまげたなぁ……(しつこいヨイショ)」

 

 普段から“褒めて褒めてオーラ”というか“構って構ってオーラ”を纏っているビスマルクにとっても、ここまでストレートに褒められまくると照れるのだろう。赤い顔をしたビスマルクはとうとう、店の中だというのに艦娘装束の帽子を召還し、ぎゅぎゅぎゅーと深く被ってしまった。それを見た鳳翔が、見守るようにしてくすりと微笑んだ。続いて、プリンツやグラーフも、可笑しそうに小さく笑う。長門や陸奥も軽く笑みを零して、摩耶と眼を見合わせた天龍も、笑みを浮かべようとした時だ。

 

「あっ、そうだ!(反抗戦)。そういやお前さぁ、アイツからパクった手袋返したかぁ?(狙い澄ました一撃)」

 

 その野獣の問いに、俯いていたビスマルクが椅子から転げ落ちた。全員の視線がビスマルクに向く。さっきまでの騒がしさが何処かに飛んで行ってしまった。鳳翔の店が静まり返る。不穏な静寂に包まれた中。ビスマルクは椅子に座りなおしてから、深呼吸をした。そして一つ咳払いをしつつ、被っていた帽子を脱いで額に滲んだ脂汗を指で拭った。

 

「にゃ、な、何のことかしら……? 身に覚えが、その、無いんだけど……」

 

 ビスマルクは顔を盛大に引き攣らせて野獣の方に向き直り、余裕のある笑みを返そうとしたようだ。しかし、盛大に失敗している。あんなに頬を強張らせておいて、優雅に笑っているつもりなのか。ビスマルクは、何とかしてとぼけようとしたに違い無い。しかし、野獣は容赦無かった。

 

「お前が一人でエンジョイ(意味深)してる時に使ってる奴だよ?(鋭利な真実)」

 

 その言葉に、アホみたいに深刻な貌になったビスマルクが、眼を泳がせながら「すぅぅぅ……」と、歯の隙間から息を吸い込んだ。釈明の為の言葉を、必死に頭の中に探しているのだろう。鳳翔がハラハラした様子で、そんなビスマルクを見守っている。

 

「あのー。あれは、パクッたって言うか、その……、拾ったって言うか……。まぁ、手が滑ったって言うか……(しどろもどろ)」

 

 ビスマルクが歯切れ悪く言葉を紡ぎ始めると、ぶつぎれなビスマルクの言葉を聞いていた野獣が、携帯端末を海パンから取り出した。それを片手で手早く操作して、カウンター席に置いた。天龍が少し首を伸ばしてみてみると、端末では何らかの音声ファイルが再生された。

 

 “えっ、あぁ。ビスマルクさんですか? はい。凄く格好いいですよね”

 

 それは少年提督の声だった。

 

 “ビスマルクさんはいつも僕に気を遣って下さるので、申し訳なく思いつつも感謝しています。秘書艦をしていただくと、いつも仮眠を取る様に時間を作って勧めてくれて、僕も甘えてしまうんです。僕自身、それで気が緩んでしまうのかもしれません。ビスマルクさんが秘書艦の日は決まって、いつも手袋を一つなくしてしまうんです。仮眠から醒めてから気付くのですが、だらしなくて、ビスマルクさんに笑われてしまいますね”

 

 そこでまでで、携帯端末からの音声が途切れる。ビスマルクが「ぅンンンンンンン……(苦悶)」と、顔を歪ませて項垂れ、低く呻いた。プリンツと摩耶は、「えぇ……(困惑)」と言った貌である。天龍も同じような貌をしている事だろう。ただ、長門と陸奥が神妙な、それでいて僅かな悲哀を滲ませた貌をしていた。まるで、罪を犯した咎人にも、どうにもならない理由や酌量の余地を見出しているかのような貌だった。グラーフも似た様な様子だった。大丈夫かよコイツら……、と。天龍が引きつつも、横目で長門達を見ていると、野獣が軽く息をついた。

 

「滑ったのは“手”じゃなくて、“良識”や“良心”が滑っちゃった感じなんだ、じゃあ?(逃れられぬカルマ)」

 

「すぅぅぅうぅぅ……(無言のまま息を吸う音)」

 

 ビスマルクは俯きがちに眼を泳がせながらも、まだ言葉を返さない。

 

「どう? (何か釈明出来る言葉は)出そう?」

 

「ぅ、その……、み……」

 

「み?」

 

「み、……み、見逃して、くれないかしら……(降伏)」

 

 血を吐くみたいに、搾り出すような声で言葉を紡いだビスマルクに、カウンター席に腰掛けたままの野獣はゆったりと向き直り、足を組みながら首を傾けた。

 

「クールビューティなビスマルクお姉さんは、悪い事をした自覚はあるけど罰は受けたくないって感じなんだ、じゃあ?」

 

「そ、そういう言い方をされると、何だか私がロクでも無い奴みたいになっちゃう……;;」

 

「いや、気持ちは分かるぞ。ビスマルク。私には、いや……、“私達”には分かる」

 

 半泣きになったビスマルクに、厳かささえ感じさせる落ち着いた声で言葉を掛けたのは、馬鹿みたいに真剣な貌をした長門だ。ついでに、長門の言葉に続いて、神妙な貌をして深く頷いて見せたのは陸奥とグラーフだ。表情を歪めたプリンツが「参ったなぁ……」みたいな貌で、グラーフとビスマルク、そして長門と陸奥を見比べている。摩耶が不可解なものを見る貌で、長門達を順番に見遣った。絡まれても面倒だ。天龍は無言のままで酒を呷って、沈黙を選ぶ。摩耶と同じく、ツッコまない。

 

 長門は杯の酒をグビリとやってから口元を手の甲でグイッと拭って、音も無くカウンター席から立ち上がった。続いて、陸奥も立ち上がる。二人は穏やかでありながらも、何処か信念のようなものを感じさせる笑顔を浮かべながら、テーブル席に座るビスマルクに歩み寄って手を差し伸べた。突然の二人の行動を、鳳翔が固唾を飲んで見守っている。グラーフも立ち上がり、ビスマルクの傍に立つ。いきなりの事に、プリンツは怯えたような貌で慌ててテーブル席から立って、「えっ!? えっ!? 何っ!? こわい!!」と、長門達を順番に見比べながら天龍の方へと後ずさって来た。ついでに、しがみつかれた。そりゃ、あんな集団のすぐ傍に居れば怖いだろう。

 

 天龍は、よしよしとプリンツの肩を撫でてやりつつ、摩耶の方を見た。摩耶も何とも言えない貌だった。ただ、仲間達に囲まれたビスマルクの方は長門の手を取って立ち上がり、「貴女達……」と、何処か感動したような顔だ。長門は、穏やかな笑みを崩さずに、頷きを返した。

 

「……ビスマルク。今度、その手袋を私にも貸してくれないか?(熱を帯びた言葉)」

 

「次は、私もお願いするわ(予約)」 陸奥がウィンクした。

 

「……私にも頼む(困ったちゃん)」 グラーフは、ビスマルクの肩を優しく叩いた。

 

「合点承知の助よ(力強い頷き)」 ビスマルクも長門達を順に見てから、爽やかに頷く。

 

「やっぱり変態ばっかじゃねぇかこの鎮守府ィ!!(厳重注意)」 

 

 野獣は言いながら、呑んでいた缶ビールを乱暴にテーブルに置いた。それからクソデカ溜息を吐き出しつつ額を手で押さえ、ゆるゆると首を振った。そうして、真面目な表情を浮かべながら、全員を見回す。その雰囲気に、天龍は酒を呑みつつも顔を野獣の方へと向ける。野獣は一拍置いて、深く頷いた。

 

「風紀も乱れようとしとるだに、ここは一つ、そういうセルフエンジョイ(意味深)は申告制にしねぇか?(究極の一手)」

 

 野獣の言葉に、長門やビスマルク達が互いに顔を見合わせてから、野獣の方へと向き直った。それに食器を片そうとしていた鳳翔もピタリと動きを止めて、カウンター越しの野獣を真顔で凝視している。天龍も摩耶と顔を見合わせた。摩耶は、「どういうこったよ?」みたいな貌だった。そんな天龍達の傍に居たプリンツは、困惑したように表情を歪めて「あ、あの……」と、恐る恐ると言った感じで野獣に声を掛けた。

 

「し、申告制っていうのは、えぇと……、そういうプライベートな行為(意味深)も、きょ、許可が必要になるんですか?」

 

「おっ、そうだな!(優秀な生徒を褒める先生並感)」

 

「へぇぇぇえええ~……っ!?」 泣きそうな貌で叫んだプリンツに続いて、狼狽したような貌の鳳翔は、カウンターの向こうで視線を泳がせつつ、唇をぎゅうぎゅうと噛み始めた。

 

「ざっけんなッ!!(憤怒)」

 

 摩耶がテーブル席から猛然と立ち上がり、「ふざけるなよ貴様!(迫真)」と、長門達も憤然として続き、野獣に向き直る。野獣の方は肩を竦めて涼しい貌だ。

 

「まぁこういう施策も、鎮守府の風紀の為には多少はね?(訳知り顔先輩)」

 

「何が多少だよ……。悪法も良いトコだろ」

 

「大丈夫だって、ヘーキヘーキ!(根拠の無い楽観)。申請書の書き方も簡単にしとくからさ。パパッと書いて終わりッ! もうすげーよ、簡単だから」

 

 テーブル席に座ったままの天龍は、冷静に言葉を返して酒を呷った。野獣はヒラヒラと手を振って見せる。

 

「ついでに申請状況は、艦娘囀線で逐次報告していくゾ。誰がナニをしてるのか、一目でチェック出来るようにしとくから、安心!!」

 

「この人あたまおかしい……(小声)」

 

 天龍の隣で、頭を抱えたプリンツがボソッと零した。もっともな意見だ。

 

「何が安心なの?(殺意)」

 

 真顔で野獣に訊いた陸奥に、野獣は自信ありげな力強い笑みを浮かべた。

 

「まぁ、プレイヤーズギルドみたいな感じでぇ……。その日の回数とか、申請内容、あとは、エンジョイ時間の内訳と、オカズの公表っすね」

 

「管理され過ぎィ!!」 ビスマルクが悲鳴を上げる。

 

「もう公開処刑じゃないか……(震え声)」

 

 グラーフだって戦慄したような貌で肩を震わせている。

 

「でも、こういうデータが一目で分かるとモチベも上がるだろ? “君も、ライバル達に差をつけろ!”って感じでぇ……」

 

「なる訳ねぇだろ!! いい加減にしろ!!!」

 

 摩耶が赤い貌をして叫ぶ。

 

「そういうのは、ちょっと……、やめませんか? やめましょうよ……」

 

 絶望する寸前みたいな貌の鳳翔も、掠れた震え声で野獣に懇願した。野獣はそんな鳳翔に向き直り、優しく微笑んで見せた。

 

「大丈夫だって鳳翔、安心しろよ~。俺もやるんだからさ?」

 

「やらんで良い!! 貴様の自家発電の報告など死ぬほど要らんわ!!」

 

 長門がテーブルを叩いて吼えた。野獣が不思議そうな貌になった。

 

「“野獣は今日、全裸で931回か……、アイツも頑張ってるな!”みたいな感じで、こう、艦隊の士気も上がるだルルォォオ?」

 

「上がるワケあるか!! 逆に沈み込むわ!! それに仕事もせずにナニをしとるんだその回数と状況は!!」

 

「と言うかイキ過ぎィ!! 入院不可避ですよ……」 

 

 プリンツが疲れた様な貌でツッコんだ時だ。何かに気付いたような貌になったグラーフが、作戦会議の時の貌になってから、すっ……と挙手をした。明らかに酔いが回って来ている赤い貌だが、その眼差しだけはやけに真剣だった。少しの沈黙の後。グラーフは、野獣に問う。

 

「逆に言えば、……admiralの状況も、私達は知る事が出来るのか?」

 

 全員がハッとしたような貌でグラーフの方を見てから、野獣の方を見た。野獣はもったいぶるように、「そうだよ(本質の発露)。ホラホラ、イメージしてみてホラ」と、胡散臭さしか無い笑みを浮かべてゆっくりとグラーフに頷いた。

 

「アイツが性への目覚めを経験したのが、お前だったらどうするよ? えっ? 朝まで“好き好きおねえちゃん”コースか?」

 

 野獣の言葉に何を想像したのか。やや遠くを見る眼になっているグラーフは、ほっこりとした笑みを零しつつ、んぅふ^ーー……と、大変満足そうに鼻から息を吐きだした。

 

「それは……、とても味わい深いものがあるな……(万感)」

 

 そんな通報一歩手前の発言に、野獣はやれやれと首を緩く振った。

 

「やっぱりビスマルクとキャラが被りつつあるじゃないか……(呆れ)」

 

「えっ?」 

 

 素の貌になったグラーフが声を上げて、それに対してビスマルクも「えっ?」と、グラーフと野獣を見た。野獣は二人の方は見ずに、また缶ビールを呷ろうとしたが、どうやら中身が空になったようだ。「まぁ、流石にそういう一人プレイ(意味深)を徹底管理するっていうのは、冗談として置いておくとしてだな……(本題)」と、野獣は言いながら、カウンター席越しに追加の缶ビールを鳳翔に頼みつつ、足を組み変えた。そして、傍に置いてあった『摩耶にゃん』を再び手に持って、長門達に視線を巡らせる。

 

「お前らが暴走して、アイツとの間で間違いと言うか悲劇が起こらないように、俺も色々と考えてたワケだよ?(求道者先輩)」

 

「嘘つけよ。適当な理由つけて面白がってるだけだろ……」

 

 天龍は眉間に皺を寄せながら言いつつ、椅子に座ったままで足を組んだ。ついでに野獣の方へと身体を向き直らせて、鼻を鳴らした。「違い無ぇ……」と天龍に続いた摩耶も、不機嫌そうな貌で野獣を睨んでいる。多分、『摩耶にゃん』ヌイグルミを手に持っているから、摩耶の中で不快指数がグングン上がっているのだろう。

 

 対して、さっきまでの申告制の話が冗談だと分かって、野獣への缶ビールを用意していた鳳翔は明らかにホッとした貌で眼を閉じて、一つ息をついている。プリンツも似た様な様子だ。あの話題について大きなリアクションを取ること事態、結構な墓穴を掘っている事に二人は気付いているのかいないのか。鳳翔の店は、何だか妙な雰囲気のままだ。落ち着かない。そんな中でも、半笑いの野獣はムカつくほど自然体だ。

 

「人格を育んだ結果だし、そういう感情も理解出来るからさ(クソデカ理解心)」

 

 其処まで言った野獣は鳳翔から缶ビールを受け取って、プシュッと片手で器用に空けた。缶ビールを片手に、もう片手に『摩耶にゃん』を装備して真面目な貌になった野獣が、再び長門達に視線を巡らせる。

 

「その衝動を解消する為に、あるリフレッシュアイテムを用意したから(優しさ)」

 

 缶ビールを置いた野獣は、空いたその手でカウンター席の下へと手を伸ばす。床に置いてある鞄から、また何かを取り出したのだ。そして、ソレをカウンター席の上にドンと置いた。かなりデカイ。何だアレ。一瞬、ダンベルか何かかと思ったが、全然違った。綺麗な肌色をしている。お尻だ。尻のオブジェだった。しかも、何だか淡い微光を纏っている。全員が言葉を失う。天龍は頭が痛くなった。

 

「どうだよ?(誇らしげ)」

 

「何がだよ……(困惑) つーか、何だよソレ?」

 

 うぇぇ……、みたいな貌の天龍が、ドン引きながら訊く。すると、野獣の手に持った『摩耶にゃん』が、可愛らしく小首を傾げた。

 

『……見て分からないの?』

 

「急に言葉遣いが辛辣になったなオイ」

 

 天龍が『摩耶にゃん』を半眼で睨みつつ言う。そんな天龍を見ていた野獣は、「やっぱり天龍は、お馬鹿さんだねぇ(暴言)」と、手に持った『摩耶にゃん』と顔を見合わせて苦笑を漏らした。

 

『ねぇ。やっぱりお馬鹿さんだね(暴言)』

 

「おい、野獣。後でそのヌイグルミ寄越せよ。サンドバックにしてやるからよ」

 

 半ギレの天龍にも涼しい貌で、野獣は出来の悪い腹話術みたいな格好で天龍に向き直る。すると『摩耶にゃん』も、天龍や長門達の方を見た。

 

『簡単に説明すると、このお尻の彫像は、触れるだけで精神安定の効果があるように、術式儀礼を施してあるにゃん。ちなみに、少年提督の実寸大の大きさをしているのにゃん』

 

「そうそう。青葉が撮った写真とか、アイツの生体データからサイズを割り出して、かなりリアルに近付きましたよ^~(職人技)」

 

『本物と変わらない特殊な素材を使ってるし、柔らかさとかも凄いんだにゃん。しっとりして、すべすべつやつや☆』

 

 野獣と『摩耶にゃん』が、出来の悪い腹話術を続けていると、長門と陸奥、ビスマルクとグラーフ、ついでにプリンツの五人が、無言のままで挙ってカウンター席に詰め寄って行った。ちょっと恥ずかしげで伏目がちになった鳳翔だって、カウンター席の向こうで、もうチラチラチラチラと、せわしなく尻オブジェへと視線を送っている。見るからに興味津々だ。摩耶も一旦席を立ち上がりかけたが、天龍の「お前もかよ……(驚愕)」みたいな視線に気付いて、咳払いをしつつ座りなおした。

 

 血走った眼をした長門達の進軍を止めるべく、野獣は「はいストップストップ!」と、制止するように声を掛けた。尻オブジェを置いたカウンター席から少し離れた所で、長門達がそろって足を止めた。ニヤリと笑った野獣と『摩耶にゃん』が、言葉を続ける。

 

「アイツに対する極端なスキンシップをさ、これからは自重するって約束してくれるなら、これを触らせてあげるよ?(悪魔の囁き)」

 

『迸る熱いパトスを、このオブジェにぶつけると良いにゃん』

 

「ちょっと待て。お前の言い草だと、まるで私達が飢えた肉食獣みたいじゃないか(憤怒)」

 

「実際そうだから、この『お尻』で我慢しろって言ってんだYO!!」

 

『そうにゃん(便乗)』

 

 大人しく野獣達の言葉を聞いていた長門が腕を組み、不満そうに漏らした。しかし、長門の視線はカウンター席の『尻オブジェ』を熱くロックオンしている。と言うか、摩耶を含めて集まっている奴が全員そうだ。大丈夫かよ……。再びそんな不安を感じつつ、天龍は場の流れを見守っている。今の店の雰囲気の所為か。さっきから酒を呑んでいるのに、酔ってこない。天龍が不味そうな貌で酒盃を重ねながら、一つ息を吐き出したときだ。長門が一つ咳払いしてから、視線を泳がせた。

 

「彼に過激なスキンシップをしたような記憶は、ちょっと身に覚えが無いが……(すっとぼけ)。その、なんだ。これからは気を付けよう」

 

「そ、そうわね(便乗)。彼に嫌われちゃうのは嫌だし……」

 

 陸奥も視線を泳がせながら、歯切れ悪く言葉を紡いだ。まぁ、あの二人は前科と言うか、反省すべき過去があるので大人しく野獣の言葉に頷いた。少々居心地が悪そうにそわそわしているビスマルクにしたって、ついさっきまで吊るし上げを食らっていた身である。ただ、グラーフだけは何だか釈然としない様な貌だが、取り敢えずと言った感じで反論もせずに黙っている。さっきからもじもじとしている鳳翔とプリンツの二人は、多分もう野獣の話に意識を割いていない。『尻オブジェ』が気になって仕方が無い様だ。

 

「よし! じゃあお前らを信じてやるか! しょうがねぇなぁ〜(悟空)」

 

 野獣は面白がる様に言って、ワザとらしい優しい笑みを浮かべて見せた。

 

「じゃあちょっとジャンケンで順番を見決めてくれるかな? 勝った順で触って行って、どうぞ(客捌き先輩)」

 

 この野獣の言葉に目の色を変えた長門達は、迫真の掛け声と共にジャンケンを行った。普段はお淑やかで、穏やかな表情を絶やさない鳳翔も、戦士の貌になっていた。参加していないのは、ちょっと離れたテーブル席で勝負の行方を見守っている天龍と摩耶だけだ。「いやまぁ、なんつーか……、無理すんなよ?  参加したかったらして来いよ」と、天龍は向かいに座っている摩耶へと気遣わしげに視線を向ける。摩耶は「うっせぇなぁ!」と赤い貌で天龍を睨んで来た。天龍は肩を竦めて軽く笑った。その時には、もう向こうで勝負がついていた。

 

 どうやら、一番は鳳翔だった様だ。カウンター席に置かれたショタ尻オブジェを前に、真っ赤な貌をした鳳翔が、両掌を前に向ける格好で、ふー……、んふー……、と息を荒くしていた。しかし、途中で猛烈な恥ずかしさに襲われたのだろう。オブジェに触れる寸前に深く俯いて、「あの! 私は、や、やっぱり後で……!」と、順を譲った。次は、陸奥の番だった。唇の端をペロッと舐めた陸奥の眼はえらくマジで、艶姒な笑みを浮かべてオブジェに近づいた。

 

「あっ、おい陸奥! 興奮し過ぎてお前の尻から火花が散ってるゾ! あっつ! オナラか何か?」

 

『爆発しそうにゃん』

 

「しないわよ!!!」 陸奥がキレた。

 

 ただ、キレつつも陸奥は両の掌で、そっとオブジェに触れた。次の瞬間には、怒りに染まっていた陸奥の表情が、慈しみに満ちた微笑みに変わった。「はぁ^〜〜……、あふぅぁ〜^、あっ、あららぁ^〜……んぅ^〜、ハッ……ハリケ^〜ン……(意味不明)」 陸奥は蕩けた声で言いながらオブジェを撫でくり回して、数秒後には卒倒した。傍に居た長門に支えられた陸奥の貌は半アヘだったが、とても幸せそうだった。凄い効果だ。と言うか、あかんヤツだろ、あのアイテム……。何かの呪いのアイテムかよ……。若干の恐怖を感じたのは天龍だけでなく、顔を引き攣らせている摩耶も感じた筈だ。

 

 しかし、次にオブジェの前へと歩みでたグラーフは、既に覚悟を決めた様な、凛然とした貌をしていた。困ったちゃん全開だが、本人は大真面目だ。ゴクリと唾を飲み込み、グラーフもオブジェに触れた。途端に、「あぁ^〜〜」と、官能的な声を漏らしたグラーフが、脚と言うか身体全体をガクガクと痙攣させ始めた。さっきまでの姫騎士の様なキリッとした表情も、アカン感じに弛緩している。そんなグラーフを仲間として支えようとする絆と、早く自分もオブジェに触れたいと言う熱いスケベ心を胸に、ビスマルクとプリンツが乱入した。「グラーフ! 負けては駄目よ!(?)」「助太刀します!(?)」 二人は、グラーフの両脇を固めると言うか、横から割り込むみたいにオブジェに手を伸ばした。その2秒後には、「ぉほぉぉ^〜〜」「んぉふぅぅ^〜〜」二人も身体を痙攣させながら、顔から色んな液体を漏らしながら三人仲良く崩れ落ちる。酷い有り様だった。

 

 オブジェの傍に居た鳳翔は、怯えたように「はわわわ……」と肩を震わせている。摩耶も「やべぇよ……やべぇよ……」と、慄いていた。天龍もそう思う。ことを仕掛けた野獣の方は、摩耶にゃんを片手に携帯端末のカメラ回しているので、艦娘の肉体に悪影響は無いのだろうが、割とマジで危険なアイテム(尻オブジェ)である事は間違い無い。こうなってくると天龍の出る幕では無い。少年提督に助けを求めるべきか。天龍が携帯端末を取り出した時だった。半アヘ状態の陸奥をそっと床に寝かせた長門が、オブジェの前で仁王立ちしていた。それに気づいた天龍の脳裏に、分かりやすい未来と言うか、お約束な展開と言うか、そういう景色が見えた気がした。思わず、「あっ……(察し)」みたいな気分になったのは、天龍や摩耶だけでは無かった様だ。

 

 悲壮な貌をした鳳翔が、長門のスカートの端を摘んでふるふると首を振っていた。その必死な瞳には、これから起ころうとする悲劇を何とか回避しようとする健気さがあった。天龍や摩耶も、「もう止めときませんか……? 止めましょうよ……?(説得)」みたいな言葉を掛けようとした時だ。長門が鳳翔へと振り返り、ふっ、と口許を緩めて見せた。

 

「この私が、こんな可愛らしいお尻に負けると思うか?」

 

 こんなタイミングで、無駄にイケメンな笑みを浮かべた長門に、鳳翔はちょっと気まずそうな貌になってから「あの、は、はい……」と即答した。「ふっ……」と、長門は肩の力が抜けた、自然体な笑みを浮かべて見せた。笑って誤魔化そうとしたんだろう。長門の気持ちはもう、あの尻オブジェに捕まっている。多分、もう何を言っても無駄だ。天龍と摩耶も顔見合わせ、何も言わずに目を逸らした。悲しそうな貌になった鳳翔も、摘んでいた長門のスカートをそっと手放した。長門は別に深い意味も無い筈なのに、意味深な微笑みを鳳翔に返して、尻オブジェに向き直る。野獣がカメラを向けている。一つ深呼吸して表情を引き締めた長門は、そんな野獣に向き直り宣言する。

 

「この長門……、こんなオブジェには絶対に負けんぞ!(円を成す運命)」

 

「あくしろよ(無情)」

 

 野獣は興味無さそうに手をヒラヒラと振った。

 

「行くぞ!」

 

 ハラハラとした貌で長門を見守る鳳翔を横目に、長門は躊躇い無く、オブジェを両手で鷲掴みにした。助平心全開な手つきだった。「ヌッ!!!!(垣間見る悟りの境地)」次の瞬間には、長門は身体をビクンッと硬直させた。天龍は、もう試合終了だと思った。だが、違った。長門は、そのまま動かなくなった。静寂が満ちる。天龍や摩耶達の位置からは、艶やかな美しい黒髪に隠れて長門の表情は見えない。そのまま、息苦しさすら感じる緊張が続いた。10秒……。20秒……。肉体に害は無いとは言え、流石に心配になったのか。野獣は手にしていた摩耶にゃんをテーブルに置いて、動きを見せない長門に近付く。そして、僅かに身を引いて、眼を見開いた。

 

「し、しんでる……(驚愕)」

 

「んなワケねぇだろ!! どう見ても呼吸してんじゃねぇか!!」

 

 摩耶が立ち上がって叫んだ。天龍も憮然とした貌で野獣を睨む。ただ、長門の様子がおかしい事に変わりない。幸せそうな貌で倒れ伏す陸奥やビスマルク、グラーフやプリンツを足元に、長門はオブジェをむんずと掴んだままで、彫像のように佇んでいる。エライ光景である。摩耶と天龍は席を立ち、微動だにしない長門へと歩み寄る。それに続いて、鳳翔も、恐る恐ると言った感じで近付いた。天龍が長門の貌を覗き込んでみると、菩薩の様な安らかな貌だった。どうやら大丈夫そうだ。野獣が軽く笑った。

 

「おい長門ァ! しっかりしろぉ! はい返事ィ!!(呼び戻す自我)」

 

「あの、長門さん…、長門さん!」 鳳翔も長門を呼ぶ。

 

「あぁ……。すまない。どうやら、意識が違う世界へと旅立っていたようだ」

 

 野獣と鳳翔の呼び声に、ようやく長門が反応を返す。曇りも無く、澄み渡るような穏やかな貌の長門は、まるで揉み解すように尻オブジェを撫で回しつつ、鳳翔に頷きを返して見せた。

 

「もう私は、何も要らん……(涅槃寂聴)」

 

 いや、やっぱり大丈夫じゃなさそうだった。そう言葉を漏らした長門の眼は、遥か彼方のおねショタ時空を望んでいた。穢れない瞳の癖に、其処から見遣る景色が煩悩に塗れていて、これもうわかんねぇなぁ……。天龍の傍に居た摩耶も、困ったような貌で頭を掻いていた。

 

「それはまぁ、良いんだけどよ。ちょっと……、医務室に行こうぜ?」

 

 天龍がおずおずと声を掛けると、長門はゆるゆると首を振った。

 

「いや……、私はもう、此処を一歩も動かんぞ……(天啓的使命感)」

 

「あ、あの……、それはちょっと……」 眉尻を下げた鳳翔が、かなり困った声で言う。

 

 尻オブジェと一緒に、それを撫でて揉み続ける長門が店に居続けたら、そりゃ具合も悪いだろう。

 

 

 結局その後。長門にもとうとう限界が訪れた。立ったままで気絶したのだ。天龍と摩耶は、陸奥やビスマルクを医務室に運ぶことになったし、事を大きくした野獣も少々思うところがあったのか、店の片づけやら長門達への精神精査など、取り合えずは尻拭いをキッチリとこなしてくれた。まさか摩耶と呑みに来て草臥れ儲けする事になるとは思わなかった。そしてその次の日の長門達は、もう無茶苦茶に元気と言うか、絶好超だった。演習、出撃においても、長門、陸奥、それにビスマルクとグラーフの4人の活躍は凄まじいものがあった。

 

 彼女達に訊いてみたところ、あの夜の出来事はあまり覚えていないのだと言う。野獣に訊いても、記憶操作系の施術を行ったワケではないから、あの『尻オブジェ』のちゃんとした効能なのだろうが、もう二度とつき合わされたくないというのが正直なところだ。天龍は少年提督に、あの4人の急激な活躍に関して聞かれたこともあったが、「さぁな……」と、すっとぼけておいた。摩耶も鳳翔も、あの夜の事に関しては口を噤んでいる。もしもあの夜。鳳翔の店に、他にも金剛や加賀が居たらと思うと、それだけで胸が焼けてくる。人数が少なくて本当に良かった。まぁ、しかし。ああいう馬鹿騒ぎが出来るのも、この鎮守府の良いところなのかもしれない。天龍はそう思うことにしている。

 




今回も最後まで読んで下さり、有難う御座います! 更新が遅れてしまい、申し訳ありません。
次回の目処もまだまだ立っておりませんので、このまま短編集という形を続けさせて頂きたいと思います。
今回も内容の薄い、頭の悪い話ではありましたが、皆様の御暇潰しにでもなっていれば幸いです。
いつも暖かく支えて下さり、本当に有難う御座います!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

潦に踏む現未

いつもお付き合い下さり、また誤字報告などで支えて下さり、本当に有難うございます。
更新が遅れるだけでなく、修正しきれていない誤字も多く、ご迷惑をお掛けしております……。

艦娘一覧については、もう少しお時間を頂きたく思います。
重ね重ね申し訳ありません……。





 梅雨に入り、今日は朝から雲が広がっていた。昼には曇天の暗さが増して、夕刻頃にはもう、雨が降り始めた。ただ、雨足自体は強くはなかった。風の無い、優しい雨だった。今日の秘書艦である春風は、和傘をさす彼の隣を歩いて居る。相合傘と言うやつだ。近い。本当に彼のすぐ傍を歩いて居る。今までに無い近さだ。体温すら感じられると思うのは、単に春風自身が緊張しまくっているからだろう。ドキドキしながら舗装道を歩く。呼吸が僅かに早くなる。なんだか、イヤに熱い。気のせいか。春風は唇を小さく舐めて湿らせて、視線だけで彼の横顔を見た。彼は落ち着き払った面差しのままで曇った空を見遣り、緩く息を吐いている。遠くを見るような目つきの彼は、春風の視線に気付いた。此方を向いて、目許を緩めた。

 

「今日は雨のお蔭でしょうか。昨日よりも涼しくて、過ごし易いですね」

 

 そう優しげな声で言いながら、彼は一度和傘を見上げて、また春風へと微笑みを向ける。異様なほど落ち着いているのに、何処か年相応な子供っぽさが垣間見える表情だった。澄んだ雨音とも相まって、彼の笑みと声音には酷く艶っぽく、蠱惑的だった。思わず見詰めてしまいそうになる。「は、はい……、ぃえ、その……」と。緊張していた春風は、ほんの少し声を上擦らせつつ、咄嗟に視線を逸らした。彼が、春風とは反対側の肩を濡らしていることには気付いていた。春風が濡れないよう、傘を春風に寄せてくれているのだ。その事について礼を述べねばと思うのだが、どうもタイミングが掴めない。しとしとと降る雨が、和傘を持つ彼と春風の距離を、ぐっと縮めている。緊張して、上手く言葉が出て来ない。

 

 春風は、自分を落ち着かせるように視線を斜め下へと戻し、濡れた舗装道を見ながら歩く。こんな状況になっているのにも理由が在る。先程まで、少年提督と春風は工廠に居た。何人かの艦娘への“改修強化”施術を彼が行う為に、足を運んだのだ。今はその帰りであり、雨の降る中を二人で執務室へと戻る途中であった。

 

 

 

 

 春風は、先程までの経緯を思考の端で思い出す。執務室から工廠へと赴き、艦娘達へと施術を向う前には、既に空を暗く厚い雲が覆っていた。当然、春風も彼も、傘を用意して工廠へと向おうとしていた。しかしである。丁度その頃、執務室へと報告書を持ってくる者が居た。あきつ丸だ。彼女は少年提督に対して、慇懃無礼と言うか遠慮が無い。ただ、彼とあきつ丸はかつての激戦期からの付き合いで、気の置けない仲であることは間違いなかった。そうでなければ、「あぁ、そうだ。提督殿。これから野獣殿に誘われて釣りに行く予定なのですが、傘を貸しては頂けませんか? 自室に戻るのも面倒ですしなぁ……」などと、これから傘を持っていこうとする彼に言える筈が無い。そもそも、野獣にしたって今日が非番ではなかった筈だ。それが一緒に釣りに出かけてくるなどと、これから野獣のサボりに付き合うと堂々と宣言しているのと同じだ。雨の日はよく釣れる、という話は聞いた事もあるが、ここまで開けっぴろげだと大胆と言うか無茶苦茶だ。

 

「提督殿は、これから春風殿と共に工廠に向われるのでありましょう? であれば、もしも雨が降ったとしても、春風殿の和傘で相合傘をしてくればよろしいではありませんか? ねぇ? そうは思いませんか? 春風殿」

 

 あきつ丸は悪びれずに勝手な事をのたまいつつ、春風の方へと向き直った。

 

「えっ、あ、あの……」

 

 突然に話を振られた春風は、慌てて彼とあきつ丸を見比べた。あきつ丸は、甘えるような、目尻を下げた笑顔を浮かべていた。白い手袋をした両手を合わせて、『お願いします』のポーズまで取って見せた。そんな仕種も、あきつ丸がすると不思議と嫌味では無かった。茶目っ気のあるお姉さんみたいな感じだ。悪意が無い。だから春風も、少々戸惑ったものの、何とか頷きを返す事が出来た。

 

「勿論、私は構いません。その、あ、あい……、相合傘でも」

 

「おぉ! 流石は春風殿! 話が分かりますなぁ! 助かるでありますよ^~」

 

 あきつ丸は快活に笑って、礼を述べつつ春風に頭を下げた。何でもズケズケと物を言うあきつ丸だが、こういう飾らない気さくさとも素直とも言えないところは憎めない。彼も、頭を下げるあきつ丸を見て微笑んでいた。しょうがないなぁみたいな、困ったような、優しげな苦笑だった。そして、彼から黒色の蛇の目傘を拝借したあきつ丸は、執務室を出て行く際に春風に向き直り、意味深な感じにウィンクして見せた。もしかしたらと思う。あきつ丸は彼が使う傘を借りる事で、今の状況を意図的に作ろうとしていたのかもしれない。今にして思えば、報告書を持って来たタイミングだって都合が良すぎる気がする。

 

 

 

 

 そんな事を考えていると、彼がまた少しだけ歩みを緩め、春風の方へと歩みを寄せて来た。いきなりだったから、息が詰まる程にドキッとした。艦娘に対する彼の距離感は独特だ。警戒や緊張を持たない。自然体と言うか。無用心で、隙だらけだ。無防備すぎる。それでいて、不思議な遠さのようなものを感じさせる。彼は微笑んだままで、すまなさそうに眉尻を下げていた。

 

「すみません、春風さん。歩くのが早かったですか?」

 

「ぃっ、いえっ! そのような事はありません……。ありがとうございます」

 

 春風は慌てて首を振り、何とか微笑みを返した。彼が春風の歩く速さに合わせてくれているのにも気付いて居た。こういう気遣いや向けてくれる信頼が真摯だからこそ、他の艦娘達も其処に惹かれるのだろう。彼は春風に微笑みを深めて見せてから、また前へと向き直った。

 

「予報では、明日から雨が続くようです」

 

 呟くように言った彼は、空へと視線を向けた。暗い雲が覆う空を見上げる彼の表情は、まだ微笑んだままだった。だが、もう春風に向けて居た微笑とは、違う種類の微笑みだった。眼帯をしていない左眼は細められ、少しの憂いを帯びた眼差しになっていた。彼と肩を並べて歩く春風も、澄んだ雨音を聞きながら、その視線を追う。雨が降り来る空は、雲を湛えて黙したままだ。茫漠と広がっている。優しい雨が、舗装道を叩いていた。「梅雨に入ったようですし、ぐずついた日も多くなりますね」春風は短く応えつつ、隣に居る彼に視線を戻す。

 

 

「……執務で目を通された書類に、何か気になる事でも?」

 

 今日の秘書艦であった春風は、朝から彼が分厚い書類と資料の束を、険しい貌をして読み込んでいたのを知っている。普段とは少し様子が違ったから気になっていた。だから、聞いてみた。出しゃばった事を聞いている気もする。しかし、すぐ近くに肩を並べる今ならば、彼が応えてくれそうな気もしていた。春風の問いに、彼は空を見上げながら緩く息を吐き出して見せた。そして、足元に視線を落とす。

 

「近いうちに、また大きな作戦が始まるかもしれません。『深海棲艦達に大打撃を与えよ』と、そう通達が来ていました」

 

 俯き加減のままで歩きながら、彼はゆっくりと瞬きをした。そして春風へと顔を上げて、悲しげに微笑んだ。先程の工廠での強化改修施術も、その作戦に向けての準備の一つだったのだろう。春風も深く頷きを返す。

 

「誓って、奮戦させて頂きます」

 

「はい。しかし、必ず帰って来て下さい」

 

 真摯な貌の彼に、春風は深く頭を下げる。そんな短い遣り取りだったが、それで十分だったからだろう。沈黙が続いた。海からの波の音も遠い。和傘を叩く雨音が強く聞こえる。春風は足元を見た。並んで歩く二人の足元を、雨水が流れていく。溜まること無く、地を伝い、這い、蹲りながら、音も無く、何処かへ流れていく。そしてまた何処かで空へと昇り、雲と濁り、雨と成り、還り降る。そんな雨水の行方と、人間や艦娘や深海棲艦達が縺れ合う今の戦いも、何処か似ているように思えた。ただ、虚しいとは思わない。恐ろしいとも思わない。其処に感情を差し挟むことが無益であることを、春風は知っている。艦娘達の境遇や、深海棲艦達の行く末などは、春風の予想や力の及ぶ話では無い。

 

 ただ、先程も雨空を物憂げに見詰めて居た彼は、変わろうとしない世界に、心を痛めてくれているのだろう。彼が理想として持つ、『人類と艦娘と深海棲艦達の共存』は、はっきり言って現実的では無いと思う。しかし、そんな青臭い理想を、誰一人として目指す者が居なくなる事を思うと、少々背筋が冷たくなる。現実主義と合理主義は、時に冷酷な正論と強烈な火力を持って弱者を捻じ伏せる。もしも。未だ終わりが見えないこの戦いに、人類が勝利した時。「私達は、どうなるのでしょう……?」

 

 

 ぽつりと。春風の口から、自然とそんな言葉が漏れた。隣に居た彼は、一瞬だけ足を止め掛けた。止め掛けただけで、立ち止まりはしなかった。すぐに春風の歩く速さに合わせてくれる。ただ、少しだけ相合傘の距離が離れた。傘は春風を雨から守っている。その分、彼の反対側の肩をまた濡らした。彼は視線を落としながら、緩く首を振る。

 

「戦いが終わった後の事は、……僕にもまだ、皆さんに何も確約出来る事が無いのが現状です」

 

 彼は正直に、すまなさそうに言葉を紡いだ。

 

「ぃ、いえ、此方こそ、妙なことを口走りました。申し訳ありません」

 

 慌てて春風も首を振って見せて、間を埋める様に彼に歩を寄せた。彼が濡れぬように。二人で傘に入れるように。彼は、またすまなさそうに、静かな笑みを浮かべた。艦娘達が人間の社会で平穏無事に暮らせる為の、法整備や社会的な制度もまだまだ不完全なままだ。無論、まだ戦いは続いているし、近々には再び大きな作戦も在るだろうという状況だ。人類が優位に立っているとは言え、社会の構造や世論の改革を本格的に始められるほど、暢気に構えてはいられないのも事実だ。だから、彼がすまなさそうにする道理は無い。誰が悪いとか、誰の所為だとか、そんな話では無い。彼はしかし、また一つ、小さな溜息を零した。

 

「……僕は、深海棲艦の皆さんに対して『力による受容』を目指したいと、そう本営に提言したことがあります。上層部の方々にも、共感を得られた手応えを感じました」

 

「しかしそれも、一時だけでした」と。彼は難しい貌のままで、眼を伏せた。

 

「実際は、今の本営の方々は深海棲艦の皆さんを、『変質と隷属のもと、人類によって再利用を受けるべき存在』としか見なしていません。……本営の方々にとっての深海棲艦とは、もはや海洋資源の一つでしかない様です」

 

 春風は口を噤み、彼が語る言葉を黙って聞いていた。一致団結して危機や困難に立ち向かう姿勢こそが、人類の強さだ。しかし同時に、容赦や寛容さを持たなくなる。種の存亡において、人類は何処までも冷徹で利己的になれるのだろう。深海棲艦との共存などという彼の理想は、今の人類の理念とは大きくかけ離れている。「僕の理想が、幼稚で現実感の無いものだという事は理解しているつもりです。しかし、もしも……」彼はまた、寂しそうな笑みを浮かべた。

 

「この戦いが終わって尚、敵対してきた深海棲艦だけで無く、今まで人類を支えてくれた艦娘の皆さんをすら、まだ都合の良い道具としか見れないのであれば……。僕達は、こうして春風さんと肩を並べて歩く資格すら失うでしょう」

 

 春風は彼の苦しげな微笑みに、胸が痛んだ。彼は本当に、人類や艦娘や深海棲艦の未来を慮り、憂慮してくれている。悲しそうな、難しい貌をした彼は、春風から視線を逸らすと、また雨空を見上げた。そしてまた、何かを思案するように黙り込む。再び沈黙が続く。無言の間に冴える雨音を聞きながら、暫く歩いた。濃い暗雲が、暗い空を覆っている。静かな雨は勢いこそ増してはいないものの、まだまだ止みそうに無い。春風は、そっと息をついた。

 

 

「……司令官様は、雨がお嫌いですか?」

 

 不意にそう問うた春風に、彼はまるで意外なことを聞かれたかのように二度ほど瞬きをして見せた。そして、何かを思案するかのように視線を落とす。

 

「すみません……。“晴れ”や“雨”の日について、好きか嫌いかを考えた事がありませんでした」

 

 そう呟いてから、彼はまた少しの沈黙を返してきた。好きか、嫌いか。その日の天候などといった身近なことに意識を持っていないのは、何となく彼らしい。或いは、そういった日常の中に芽生える筈の“感性”や、“感情の記憶”についての不自然な欠落こそが、彼が受けた異種移植のアフターリスクなのだろうか。春風は、彼の眼帯と右腕をチラリと見遣った。彼は、春風の視線に気付いていたようだが、特に何も言わなかった。代りに、また雨の空を見遣る。

 

「春風さんは、雨の日がお好きなのですか?」

 

 そう聞いてくる彼の声音は、やけに深い響きが在った。雨音の中に在っても、やけに耳に残る。何かを思案しているかのような。それでいて遠くを見る様な目つきの彼は、春風を見ようとはしない。雨は、強くも無く、弱くも無い。ただ、しとしとと降っている。濡れた空気が心地よい。春風は小さく息を吸い込んでから頷いて、再び彼の視線を追った。

 

「はい……。苦手な方も多いですが、傘が似合うこの梅雨の季節が、大好きなんです」

 

 雨の空を見上げる春風の横顔を、今度は彼が見詰めて来た。真っ直ぐな春風の言葉に、彼なりに何かを感じたのかもしれない。“好きである”という感覚は、春風が感情を持っているからこそ持ちえるものだ。そして其処には、“個性”としての差が産まれ、フォーマットされている筈の春風の感性や価値観にも“個”を形成し、確立させる。“彼によって召還された春風”は、“他の提督が召還した春風”とは違う。春風がこうして人格を育むことができるのも、彼が艦娘達に“個”を見出し、大事にしてくれるからこそ。

 

 肩を並べる資格が無いなどと、そんな事は無いだと。そう伝えたかった。だが、上手い言葉が見当たらなかった、思いつかなかった。だから、こんな些細な日常の中にある感性や感覚、感情の発露が出来ることに、彼への感謝を込めたつもりだった。伝わっただろうか。わからない。彼に向き直り、「駄目でしょうか……? 」と、遠慮するみたいに言葉を付け加えた春風に、彼はまた目許を緩めて見せた。

 

「いえ……。駄目なんてことは、決して無いはずです」

 

 そして、今度は雨の降る空では無く、手にした和傘を見上げた。そう言葉を漏らした彼は、此処では無い何処か見据えるのでは無く、茫漠とした未来の輪郭に眼を凝らすでも無い。春風の和傘を見詰めている。

 

「この和傘を打つ雨音は、とても涼やかで心地よく思います。……僕も、この季節を好きになってみたいです」

 

 彼の微笑みと言うか、眼差しから憂いが薄れて、また温もりが戻ってきた。隣にいる春風には、そう見えた。そんな彼の横顔を見詰めて、春風はきゅっと唇を噛んだ。彼は普段から深慮の内に篭り、新たな儀礼術の確立や、艦娘や深海棲艦達の境遇、これからの作戦や、本営や世論への接し方などについて、膨大な思考を廻らせている。“魔人”などと影で呼ばれるようになった来歴の中で、彼は人間では無くなった。色んなものを失った筈だ。それでも尚、彼は、春風にとっての日常の中にある些細な楽しみを理解し、共感し、共有しようとしてくれている。嬉しさと同時に歯痒さを感じた。

 

「司令官様は、物事を難しく考え過ぎです」

 

「そ、そうでしょうか」

 

「何かを好ましく思うことは、定義を持って結論付けるものでは無い筈です」

 

「ぅ、……確かに、仰るとおりだと思います」

 

 彼は少々バツが悪そうに、眉尻を下げた。困ったような、しかし、明るさのある純朴な笑顔だった。春風も少しだけ可笑しそうに笑う。同時に、雨音にあわせて胸が軋むのを感じた。

 

 以前、たまたま食堂で一緒になった霞と話をする機会が在った時の事だ。霞は言っていた。彼は、“今じゃない、そして此処じゃない場所ばかり見ている”と。春風もそう思う。彼は、艦娘や深海棲艦のために、社会の中にある人々の理念や世論を変えようと日々苦心してくれている。いわば、世界を変えようとしている。余りに途方も無い取組みだ。その目的の達成のために、彼は子供の体では足りないものを、理知や狂気、情熱と正義感で補ってきた。今も、その最中である。雨の中を歩く彼の意識は、つい先程も、世界を変えることに向いていた筈だ。

 

 渺茫とした遥かな未来や、曇るばかりの遠い空でも無く、もっと近くに眼を向けて欲しい。世界を変えるよりも先に、彼自身にも変化が在って欲しいと思う。ほんの少しだけでいい。我が侭で、子供っぽくていい。いつも遠くを見ている難しそうな貌も、憂いを帯びて思案するその眼差しも、向ける方向がこうして少し違えば、彼だってこんな風に笑えるのだ。「でも、そうですね……」。春風は言いながら、ぎゅっと、胸のあたりで手を握った。

 

「この季節が好きになられた時には、またこうして雨の中を、……一緒に傘を差して歩いて下さいませんか?」

 

 春風は、彼の方をチラリと窺いながら言葉を紡いだ。彼は雨空をまた一度見て、微笑みながら春風へと視線を寄越した。

 

「僕の方こそ、よろしくお願いします」

 

 彼の声音は深く、やはりよく通った。その表情も、心無しか先程よりも柔らかく見える。そんな彼に、春風が頷きを返したときだった。雨音の中に、電子音が響いた。彼の提督服の懐からだ。携帯端末のコール音である。

 

「お持ちします」

 

 彼が端末を取り出して電話に出られるように、春風は彼から和傘を受け取ろうとした。そっと差し出された春風の手を見て、彼は微笑んで頷いた。「すみません」と一言、彼は春風にことわって、手にしていた和傘を優しい手付きで手渡してくる。春風は、それを両手で受け取った。春風の手と彼の左手が、僅かに触れる。ひんやりとした手だった。それなのに、触れた春風の手には切ない熱さが残る。早くなる鼓動を鎮める様に、春風はゆっくりと唾を飲み込んで、彼に微笑みを返した。

 

「少しだけ失礼しますね」

 

 彼が、懐から取り出した端末のディスプレイを操作し、耳にあてた。春風は唇を頻りに噛みながら、視線を地面に落とす。雨水が流れている。雨もまだ止まない。この涼しさが、顔の熱さを冷ましてくれれば。彼の電話が終わるまでに、乱れた心を落ち着けたい。だが、無理そうだった。心臓が飛び出すかと思った。

 

 彼は、右手で携帯端末を持っており、左手が空いている。その左手で、和傘を持つ春風の手を握って来たのだ。そして、和傘を春風の方へと寄せて、少しだけ傾けた。恐らくは、彼が濡れぬようにと傘を寄せ、春風が自分の肩を雨に晒していることに気付いていたからだろう。いきなりの刺激に眼を見開いて何度も瞬きする春風に、彼は端末を耳にあてて通話をしながら、目許を緩めて見せる。咄嗟に、春風は顔を隠すようにして会釈をした。

 

 そして、頬が緩んできそうになるのを必死に堪えている内に、彼の通話が終わった。長かったような、短かったような。全然落ち着かなかったから、すぐ傍にいるのに彼がどんな会話をしていたのかすらよく覚えていない。静かに深呼吸をする春風に、彼は端末を懐へとしまいつつ、「……先輩からでした」と、ちょっと困ったような笑みを浮かべた。

 

「何でも、これから雨が続くということで、てるてる坊主でも作らないかと」

 

「ふふ……、野獣様が仰りそうなことですね」

 

「はい。今は釣りから戻られて、あきつ丸さんと御一緒のようです」

 

 笑みを零した春風から、彼は傘を受け取って、また空を見遣る。

 

「雨の日を好きになろうとしていたすぐ後に、てるてる坊主を作ろうと言うのも、……何だか妙な感じです」

 

「では、晴れの日もお好きになられれば良いではありませんか」

 

 春風は冗談めかして、しかし、少しだけ硬い声音でこたえる。『雨の日を、好きになろうとしていた』。その彼の言葉には、自身も変わりたいという想いの様なものを感じた。

 

「確かに、……選り好むこともありませんね」

 

 重い過去を持ちつつも、そう微笑みながら呟いた彼の感性は、まだ死んでなど居ないのだと。春風は胸中で願いながら、また彼と並んで歩きだす。僅かに濁る雨を踏みながら、彼の近くに寄り添うべく。和傘が繋ぐ僅かな隙間を、またほんの少しだけ春風は埋める。「司令官様の肩が濡れています」。春風は俯き加減で、小さく言う。彼は、自身の右肩をチラリと見てから、まるで今気付いたかのように苦笑を浮かべて見せた。

 

 

 

 

 

 

 さぁて、どうしたものかなぁ、コレ……。鈴谷は、何とも言えない表情を浮かべたままで、少年提督の執務室に居た。他には、あきつ丸、金剛、鹿島、加賀、そして、野獣が、重厚な応接用のソファに腰掛けて、てるてる坊主を製作中である。少年提督も自身の執務机の上で、てるてる坊主を黙々と作っている。材料なんかは野獣が用意して持参したもので、高価そうなソファテーブルの上には既に何個か完成したてるてる坊主が置かれている。鈴谷も、もう既に三個目のてるてる坊主の製作に取り掛かっているところだ。……なんでこんな事になったんだろう……(遠い目)。鈴谷は溜息を堪えて、ちょっと前まで記憶を遡る。事の発端は、仕事をサボって雨釣りに繰り出した挙句、埠頭で足を滑らせて海に落っこちた野獣が、『あ~つまんねぇ(身勝手)』と。防水対策も完璧な携帯端末で、艦娘囀線に書き込んだのが始まりだった。

 

 

『これからは、暫く雨の日が続きますよ』と、誰かが言った。『てるてる坊主でもつくろっか』と、また誰かが続いた。そして、『あ^~、良いッすねぇ^』と、野獣がこの書き込みをピックアップしたのだ。当然、長門や陸奥からは、『お前は仕事をしろ!』と突っ込まれていたものの、今日の野獣の秘書艦である加賀が、ほぼ片付けてくれていた。非番であった鈴谷も加賀を手伝うべく執務室に足を運んだのだが、もうする事が無かった。気を遣わせてごめんなさい。そう苦笑を浮かべつつ短く詫びてくれた加賀に、鈴谷も微苦笑と共に、「いえいえ。此方こそ、お役に立てず申し訳ないです」と答えたのも先程だ。

 

 

 そんな鈴谷と加賀の下に帰って来た野獣は、ずぶ濡れの体を洗う為にシャワーを浴び、何処からか用意した材料や道具を手に、少年提督の執務室に向ったのだ。鈴谷達も、その野獣のあとに着いてきて今に至る。あきつ丸は、野獣よりも一足先に少年提督の執務室に向っていたらしく、途中ですれ違った金剛と鹿島に声を掛けたところ、是非一緒にてるてる坊主を作りたいという事で参加したらしい。もう何と言うか無軌道極まりないのだが、そんな無茶苦茶な展開の中でも、少年提督の今日の秘書艦である春風は盆を手に、皆にお茶を用意してくれていた。凄く申し訳無い気分になる。

 

 

「いやぁ、春風殿が淹れてくれたお茶は美味ですなぁ! 五臓六腑に染み渡るでありますよ^~」

 

 ソファに深く座りなおしたあきつ丸は、手渡された湯吞みを傾けてずずず~と茶を啜ってから、おっさんみたいに溜息を吐きだした。

 

「あぁ^~、うめぇな!(御満悦)」

 

 あきつ丸に続き野獣も茶を啜って、一息ついている。春風は微笑んで、二人に静々と頭下げてみせる。奥ゆかしい仕種と落ち着いた雰囲気の所為だろうか、駆逐艦娘じゃないみたいだ。凄く品があって、佇まいが美しい。少年提督と微笑みを交し合い、茶托と湯吞みを渡す春風の様子も、とても絵になると言うか。まるで良く出来た貞淑な幼妻の様だった。少年提督の不思議な貫禄や沈着に、春風の上品さが華を添えている。鈴谷は、ちょっとだけニマニマしてしまう。う~ん。割と良い感じじゃない? いや。いやいや。少年提督は誰とでもあんな感じだったろうか。難しいところだ。ただ、鹿島と金剛、そして加賀の方は、鈴谷の様にニマニマする余裕が無さそうだった。

 

「金剛さん、私……、私、羨ましい……っ!!」

 

「ワタシも羨ましいヨ……っ! Teacher鹿島……!!」

 

 先生……っ! 俺、くやしいよ……っ! みたいなノリの鹿島と金剛は半泣きになりつつも、てるてる坊主をせっせと作りながら、羨望の眼差しで春風を見ている。この二人、何故かウマが合うようで、よく一緒にいるのを見かける。鹿島は比叡や榛名、霧島とも仲が良く、食堂や鳳翔の店へと共に出かけることも多いと言う。今日も、あきつ丸に出会うまでは、金剛と鹿島は間宮に行く途中だったらしい。

 

「…………流石に、気分が沈みます……(ボソッ)」

 

 一方で加賀の方は、もの凄く元気が無かった。というのも、加賀は彼の下に所属している艦娘では無い。故に彼は、自身の所属下にある金剛や鹿島達に比べて、加賀との接し方についてはより気を遣っている。彼は、誰も特別扱いしない。向けてくれる真摯さや優しさには変わりない。その筈だ。しかし加賀としては、彼との距離は多少なりとも感じる筈だ。勿論、彼が加賀を遠ざけるというか、進んで距離を置こうとしている訳では無い。ただ、礼節に重きを置いているだけの話だ。まぁだからこそ、野獣の下に所属している加賀が、今の彼と春風のような距離感になるには、まだ時間が必要になるのは間違い無いだろう。長い道のりになりそうだ。加賀はその事について憂いているのだろう。三人の思惑が混ざり合う応接スペースは、切なげな呟きと重い溜息が交じり合っている。そんな空気を知ってか知らずか。

 

「いやぁしかし、今日の雨は良い雨でありましたなぁ~」

 

 また茶をずずず~っと啜ったあきつ丸は、面白がるようにそう言ってソファに座りなおしてから、ニヤニヤと笑いを浮かべた。執務机に腰掛けた少年提督と、その傍の秘書艦用の机に戻った春風を見比べた。

 

「やはり相合傘の効果でありますかなぁ。提督殿と春風殿の距離が、こう、グッ^^と縮まって見えるでありますよ^~」

 

 あきつ丸が発した、“相合傘”というパワーワード。これに過剰反応した金剛と鹿島は、作っている途中のてるてる坊主を引き千切った。どうやら変な力が入ったのだろう。加賀の方は意識でも遠のいたのか。白眼を剥いて、ふらっ……、と体を後ろに倒した。ソファに凭れかかって3秒程は、作り掛けのてるてる坊主を手に、ピクリとも動かなかった。

 

「加賀さん! 加賀さん!!」

 

 鈴谷は慌てて加賀に近付き、肩を揺すった。加賀は意識をすぐに取り戻したが、焦点の合わない視線を宙空に彷徨わせつつ、「あぁ、もう駄目……、ほら、ほら、……はぁ~……もう駄目よ、……もう……ね……ほら……」と、うわ言のように妙な呟きを始めた。やばい。重傷だ。しかし、そんな優秀な秘書艦の重篤ぶりなど意に介さず、野獣も似合わない爽やかな笑顔を浮かべて、あきつ丸に頷いた。

 

「おっ、そうだな。確かに見える見える、初々しいぜ☆(慈しむ眼差し)」

 

「でありましょう~?」

 

 あきつ丸はニヤニヤ笑いを深めて、野獣と頷き合う。

 

「いえ、そ、そのような事は……」

 

 一方で、好奇の視線に曝された春風の方は、秘書艦用の執務机に腰掛けたままで、手にした盆で顔の半分を隠して視線を泳がせている。その目許や頬に朱が差していた。明らかに動揺している。ただ、肝心の少年提督の方は、いつも通りだ。きょとんとしている。そして金剛と鹿島、加賀は、戦々恐々とした様子で、春風と少年提督を何度も見比べている状況だ。三人共、打ちのめされたような貌である。此処で、あきつ丸が更に場を混ぜ返しに掛かる。

 

「提督殿、如何でありましたかな? 雨の中、御二人でしっぽりと過ごした時間は?」

 

「Fooooo↑!!(賑やかし先輩)」

 

「いや二人共さぁ、そうやって場を混ぜ返すのホント止めない? 困ってるじゃん」

 

 鈴谷は二人を諫める。面白がって何て聞き方をするんだ、この二人は。ただ少年提督は、相変わらずの落ち着き払った微笑みを浮かべて、あきつ丸に視線を向ける。丁度そのタイミングで、彼が作っていたてるてる坊主が完成した。彼が机の上に置いたそれは、シンプルなニコニコ顔をした、小柄なてるてる坊主だった。

 

「……えぇ、春風さんの和傘に入れて貰い、色々とお話をさせて頂きました」

 

 執務机に腰掛けた彼は、あきつ丸から視線を外した。そして何かを思い出すように、雨に曇る暗がりを窓の外に見遣る。

 

「僕が雨を好きになった時には、また雨音を傘で聞きながら一緒に歩こうと。そう約束して貰いました」

 

 穏やかな表情を浮かべた彼は、窓からあきつ丸と野獣へと視線を返した。あきつ丸は肩を竦めながら、「そうでありましたか」と、何処か満足そうに唇の端を持ち上げる。さっきまで茶化していた野獣も、低く喉を鳴らすようにして小さく笑った。彼は、やはり乱れない。ブレない。それでも無感情では無い。彼の声音には、確かに春風と過ごした先程の時間を、大切にしようとする想いが滲んでいた。彼と一度眼を合わせた春風の方も、静々とまた小さく会釈をしていた。春風の表情には、変化は余り無かった。ただ、微かに緩められた目許は、とても嬉しそうだった。

 

 そんな暖かな場の様子を横目に見ながら、鈴谷も手元のてるてる坊主を完成させた。そして軽く息を吐く。ふふっと、思わず微笑が漏れた。まぁ、そうだよね~……。少年提督には、そういう浮ついた話は全然無い。周りが白熱して空回りしているのが常だ。ただ、こういう平和な時間も、ほのぼのとしていて良いと思う。こういう時間を犠牲にしてまで、守らなければならないものがあるのなら、それは幸か不幸か。ふと、そんな思考が鈴谷の脳裏を過ぎった時だ。

 

「テイトクゥー!」

 

 馬鹿みたいに真面目くさった貌になった金剛が、居住まいを正して立ち上がり、ビシィっと挙手をした。突然の事に、春風はビクッと肩を跳ねさせる。鈴谷だってそうだ。あきつ丸と野獣も、なんだなんだ? と、金剛を凝視する。金剛は執務机の彼に向き直り、真剣な眼差しで彼を見詰めた。

 

「その、……ワタシも相合傘の予約とか出来ますカ!!?」

 

「えっ」

 

 訳の分からない事を言い出した金剛に、彼が素の反応を返した。次の瞬間には、鹿島と加賀も猛然と立ち上がり、二人は同時に挙手をした。

 

「わっ、私も、ぉ、あの……っ、ぉあっ……、お願いしまうっ!!」 

 

 必死な様子の鹿島も、唇をぎゅうぎゅうと噛んで、彼を見詰める。

 

「何か相談? 良いけれど(意味不明)」 

 

 加賀の方は、少々錯乱気味なのか。「えぇと……」と、流石の少年提督も困惑顔を浮かべた時である。

 

「おっと……。もうこんな時間ですな、提督殿。そろそろ、向われた方がよろしいのではありませんかな?」

 

 あきつ丸が、自分の腕時計を一瞥して言う。少年提督の方も、心得ているという風に頷いてみせるだけだった。彼は執務机から立ちあがって、引き出しから重要そうな書類を取り出して小脇に抱える。足元に置いてあったのであろう革鞄を手に、この場に居る全員を順番に見て、頭を下げた。聞けば、彼は今晩、鎮守府の近くに設けられた深海棲艦の研究施設にて、少女提督と会う予定があるという。勿論、荷物を見れば分かるが、仕事の話だろう。

 

 今日の秘書艦である春風もその予定は把握していたらしく、送って行こうとした様だ。秘書艦用の執務机から立ち上がろうとする春風を手で制した彼は、「あとは、僕一人で大丈夫ですから。今日は、お世話になりました」と、微笑んだ。これで、秘書艦としての春風の仕事は終わりだ。春風の表情は少し寂しげに曇りかけたが、すぐにまた微笑んで、深く礼をして見せた。本当に良くできた奥方のようだ。金剛や鹿島、加賀の方は、置き去りにされた子犬みたいな顔をしている。ソファに座ったままで、野獣は足を組み替えて軽く手を振った。彼も会釈を返して、執務室を後にした。さっきまでの騒がしさの所為か。彼が居なくなってから、ほんの数秒。少々の寂然さと言うか、静寂が降りる。かと思ったら、別にそんな事は無かった。

 

『そろそろ夕食のお時間ですよ』

 

 本当に突然だった。何処からか、少年提督の声がした。もの凄く親しみの篭った優しい声音だった。鈴谷だってドキッとしてしまう。春風がキョロキョロと周りを見渡しているが、当然、彼の姿は無い。一体何処から……? 金剛や鹿島、加賀が、眼つきを鋭くして索敵するみたいに周囲へと視線を巡らせる中。

 

「時間が経つのは早いものでありますなぁ」と。

 

 てるてる坊主を造り終えたあきつ丸が、腰をトントンと叩きながらソファから立ち上がる。そして、懐から携帯端末を取り出した。ディスプレイを操作すると、『お疲れ様です。あきつ丸さん』と、再び彼の音声が流れた。金剛と鹿島、加賀の三人が無言のままで、あきつ丸の手元を凝視している。全員の眼つきがえらくマジで、ちょっと怖かった。鈴谷が軽く身を引いていると、隣に座っていた野獣が唇の端を歪めた。

 

「まだ試作段階だけど、なかなか良い感じじゃん?(自画自賛)」

 

「えぇ。ノイズも在りませんし、提督殿の声もクリアであります」

 

「ねぇゴメン、野獣。それ、何……?」

 

 鈴谷は嫌な予感がしつつも、隣に座る野獣に聞かずにはいられなかった。金剛達の視線が、一瞬だけ鈴谷に集まる。よくぞ聞いてくれたみたいな眼差しだった。「まぁ、システムボイスつうか、アラームボイスって言うか、簡易的なボイスアプリだゾ(仕様説明)」と。そんな金剛達を順に見た野獣は、顎を撫でながら携帯端末を取り出して、似合わないウィンクをして見せる。

 

「前も音声データを集めて加工したりしてたから、そのデータの流用も多少はね?(テヘペロ先輩)」

 

「それって、彼の許可も得てるの?」

 

「当たり前だよなぁ? 音声データを配布するのは艦娘限定だし、悪用する奴なんて居ないからね(意地悪な笑み)」

 

「要するに、おはようからおやすみまで、提督殿の可愛いショタボイスが案内してくれるという訳でありますよ」

 

 あきつ丸は何処か得意げに言いながら、携帯端末を手早く操作する。自分で音声パターンを構築する事が出来るのだろう。数種類の少年提督ボイスが再生され始めた。

 

『おはようございます。あきつ丸さん。今日もよろしくお願いします』

『こんにちは。あきつ丸さん。昼食の時間ですね』

『こんばんは。あきつ丸さん。今日もお疲れ様でした』

『お風呂の時間ですね。えっ、一緒にお風呂に?』

『あ、あの……、あきつ丸さん、そ、其処は自分で洗えますから、あぅっ……!』

『うぁ……! だ、駄目です……! そんな、は、激しくされたら……っ』

『あっ、あっ……、ぅぅう……、待って、くださ……、な、何か、出ちゃ……!』

 

 ピッ、と。あきつ丸は其処で音声を停止させた。

 

「とまぁ、こんな感じで、彼のボイスが一日を彩ってくれる訳であります」

 

「ちょっと待って、駄目な奴でしょコレ……」

 

 あきつ丸はしれっとした顔で何事も無かったかのように説明を終えようとしたが、鈴谷がすかさずツッコむ。野獣の方は「おぉ^~、良いねぇ^~」など言っているが、良いワケが無い。いや、金剛や鹿島、加賀の三人は、まるで新時代の幕明けを目の当たりにしたような貌をしている。少し離れた所に居る春風は無言のままで、貌を真っ赤にして俯き、モジモジしている。まともな反応をしているのは春風だけだ。もうなんなの、この空間。鈴谷がこめかみを押さえていると、野獣が笑みを浮かべて頷いて見せた。

 

「好きなように台詞を作れるのが醍醐味なんだからさ(良い笑顔)。ホラホラ、春風もやってみたいだろ?(闇への誘い)」

 

 そう言い終わるが早いか。野獣は、少し遠くでもじもじとしている春風に声を掛けつつ、手にしていた携帯端末を操作する。

 

「よし! じゃあ、春風の端末にもアプリをぶち込んでやるぜ!(強制インストール)」

 

 すると今度は、春風の懐からも少年提督の音声が流れ出した。恐らく、“元帥”称号の権限で、春風の持つ端末にアクセスして操作したのだろう。

 

 

 

『おはようございます。春風さん。今日も可愛らしいですね』

『こんにちは。春風さん。大好きですよ』

『こんばんは。春風さん。今夜はずっと一緒に居たいです』

『春風さん』『春風さん、可愛い』『可愛いですよ』『春風さん』

『好きですよ』『春風さん』『素敵ですね』『春風さん』『春風さん』

 

「はわぁぁあ!? あぅっ……、あうあう……っ!!?」

 

 少年提督の優しい音声は、容赦無く流れる。真っ赤な貌の春風は、大慌てで自分の端末を取り出して、わちゃわちゃと操作して何とか止めようとしている。そりゃあ、いきなり大音量であんなボイスが連射で流れ始めたら慌てもするだろう。何とか音量を下げてミュートにして対処したようだ。心底ホッとしたように胸を撫で下ろしている。可哀相だからやめたげなよ。鈴谷が野獣にそう言おうとしたら、金剛と鹿島、加賀が、其々に端末を取り出していた。皆一様に、真剣な表情で頷いている。えぇ……(困惑)。鈴谷が反応に困る中、野獣もワザとらしい真面目くさった表情を浮かべて見せた。

 

「お前らにもインストールさせてあげたいけど、ちょっと卑猥な目的で使われそうなんだよなぁ……(渋い貌)」

 

「いやいやいやいや……、もうこれ以上無いくらい卑猥な音声を構築してる人が既に居るんだけどそれは……(尻すぼみ)」

 

 鈴谷は思わず、あきつ丸と野獣を見比べてしまう。だが、あきつ丸は肩を竦めて見せるだけであり、野獣はもう聞こえない振りを決め込んで金剛達に向き直っている。なんて奴らだ。野獣は芝居がかった溜息をつきながら、金剛達を順に見て、更にもう一度溜息を吐き出した。二回目の溜息は、やたら深い、残念がるような溜息だった。

 

「なんですか、その反応は?(半ギレ)」

 

 野獣の失礼な反応に、加賀は眉間に皺を寄せ、右眼を窄めつつゆっくりと首を傾けた。聞く者を震え上がらせるような声音だった。相当おっかない。鈴谷だってビビるし、少し離れたところに居る春風も、ビクッと肩を跳ねさせていた。金剛と鹿島も、何か言いたそうな貌で唇を尖らせている。気の抜けた様な笑みを浮かべているのはあきつ丸だけだ。

 

「まぁまぁ、そう怒んないでよ。そうカッカされると、話が出来なくなっちゃうからさ。お前のデビュー曲、バッチリ岬でも歌って落ち着いて、どうぞ(優しさ)」

 

「そんな曲を歌った記憶はありません(ストレスゲージ上昇)」

 

「あれ、ハレンチ岬だっけ?(すっとぼけ)」

 

「加賀岬です(全ギレ)」

 

 低い声で言った加賀は、すっと野獣との距離を詰めて、向う脛にトーキックを叩き込もうとしたようだが空振りに終わる。もう予想していたのか。野獣が「あっぶぇ!(緊急回避)」と、身を引いてかわしたのだ。舌打ちをした加賀も良い感じで暖まっているようだが、「あ、あのっ……!」と、声を上げた鹿島だって、言いたいことがあったようだ。

 

「私達は別に、提督さんをイヤらしい眼で見たりしてないって言いますか、その……。心と心の繋がりを大切にしたい、って言うんですかね? こう、体の繋がりでは無くてですね? やっぱり、提督さんから頂いた人格や精神性を尊重して行こうと、思ってる訳でして……」

 

 鹿島は言葉を選ぶように視線を彷徨わせつつも、しっかりとした声で言葉を紡ぐ。

 

「ボイスアプリについても、全然イヤらしい思いは無くてですね? ぇ、え、あの……その、ぇ、えっちな台詞をつくろうとか、色んなシチュエーション別に甘い台詞を囁いて貰おうとか、そんな事はこれっぽっちも考えて無いと言いますか……、だから、その……、私達の、敬愛する提督さんのお声を身近に聞きたいっていう、ピュアな気持ちしか無いので……」

 

 歯に物が詰ったと言うか、若干、語るに落ちているような部分もあるような気もするが、何とかかんとか、鹿島は其処まで言い切った。金剛と加賀もすかさず、「そうだヨ(金剛)」、「そうですよ(加賀)」と連撃便乗をキメつつ、顔を見合わせて深く頷きあっている。

 

「ワタシなんてテートクを想うあまり、毎日夢の中に現れるテートクと、114514回は添い寝をしていますカラ(狂気の淵)」

 

「私も毎夜の夢で、少なくとも364364回ほど、彼と共にお風呂に一緒に入っていますよ?(ポセイドン)」

 

「わ、私だって、1919810回くらい、提督さんに耳舐めマッサージをして貰ってます!!!(超越的接触)」

 

 三人は其々、全然ピュアでは無い自分の夢の内容を暴露し終わった。そして手強いライバルを賞賛するような、「なかなかやりますね……!」的な貌で、お互いに不敵な笑みを見せ合っている。(本格的♀烏合の衆)

 

「忙しい夢だなぁ……(畏怖)」

 

 どの辺りがピュアなのか理解に苦しむ鈴谷が、思わず素の感想が漏らした時だ。春風が気まずそうな顔で此方の様子を見守ってくれている事に気付く。何だか申し訳無い気分になった鈴谷は、野獣達には見えない角度で、両手を合わせて見せた。勿論これは、『もう少しで帰るから、時間とらせちゃってゴメンね』のポーズだ。秘書艦の春風は、先程も執務室の戸締りを任されていたはずだ。『こんな馬鹿な遣り取りしてないで早く帰ってくれないかな……』とか思われていても文句は言えない。ただ、春風の方は、いえいえ、と言った風に、優しく微笑んでくれた。何て良い娘なんだろう。鈴谷は軽く感動した。

 

 それに比べてさぁ……。鈴谷は春風に軽く頭を下げた後、憮然とした半眼で野獣へと視線を移す。野獣は、やはり芝居がかった腹の立つ真面目貌のままで鹿島達を見つめつつ、「……たまげたなぁ」と、感心したように呟いた。

 

「思考がこんだけ淫気に支配されてて、よく正気を保ってられるよなぁ(暴言)」

 

「知性ある精神というものは、欲望による自我の超越が可能という訳でありますか……(新たなる境地)」

 

 野獣とあきつ丸は言いながら、すっとぼけた様な神妙な表情で顔を見合わせる。

 

「あ、あれっ!? 今もしかして、途轍もなく失礼なこと言われてませんか!?」

 

 鹿島が凄いショック受けている隣で、「酷い言い草デース!!!(義憤)」と、金剛が野獣達の前に躍り出る。「流石に許せません(カットイン)」と、加賀も並び立つ。こういうのを捌くのに慣れた様子で、野獣はまぁまぁと、両の掌を上げて二人を宥める様に言う。

 

「じゃあ、お前らが本当にピュアかどうか、ちょっと簡単なテストしてみるってのはどうっすか?(心理への挑戦)」

 

 野獣は不敵な笑みを浮かべて、手にした携帯端末を操作し始める。

 

「アイツがさぁ、お前らの誰かに恋でもして、そっから付き合うことになると仮定するゾ(究境の想定)」

 

 もの凄い事を言い出した野獣はついでに、「春風も見てないで、こっち来て」と、皆のお茶のお代りを用意しようとしてくれていた春風を手招きした。春風はギクッとしたような貌になったが、恐る恐ると言った感じで、「あの……、春風にも何か……?」と、歩み寄って来てくれた。金剛達と並んで立った春風は、可哀相なくらい不安な様子だった。一方で、金剛達3人の眼の色が明らかに変わった。本気の眼だ。野獣が肩を竦める。

 

「飽くまで仮定だからね(重要)。100歩、いや、1000歩……、あぁもう面倒くさいから、11451419193643641810100081歩譲って、アイツがお前らに恋心を抱いた時の話だから」

 

「譲り過ぎィ!!」 鈴谷が叫ぶのと同時に、春風も軽く吹きだしていた。

 

「Haaァァ^~~~aaaaanNNNNnんんん!? どうしてそんなに歩を譲って貰う必要が在るんデスかぁ~!!?(セイロンティー)」

 

 心底納得行かないという風に、若干キレ気味の金剛も続いて叫んだ。

 

「そうですよ!!(便乗) 月までだって約38万キロなのに!!」

 

 鹿島も半泣きで抗議する。

 

「私達と彼との距離が、まるで遥か彼方の星々を指すような言い方は非常に不服です」

 

 半ギレのままの加賀は殺人オーラを纏いつつ、低い声で言いながら眼を窄めた。

 

「だから、仮の話だって言ってんじゃねーかよ……(辟易)。ちょっと落ち着けよ、ハレンチ」

 

「加賀です(怒髪天)」 加賀がゴリゴリと奥歯を鳴らした。

 

「まぁ細かい話は、取りあえず今は置いといてだな……(議論展開)」

 

 野獣は肩を竦めて、見えない何かを押しやるような仕種を取った。

 

「まったく細かい話ではありませんが……!(プッツン五秒前)」

 

 憤怒に塗れた加賀を前に、押しやられた何かを受け取ったのは、くっくっく……、と可笑しそうに薄く笑っているあきつ丸だ。それに釣られたのか。傍に居た春風も、肩の力が抜けたみたいに小さく笑った。余計な力みも嫌味も無い、自然な笑みだった。その邪気の無い微笑みに気勢を殺がれたようで、加賀も「ふぅぅ~……!」と威圧的な溜息を吐き出して、腕を組んでそっぽを向いた。野獣も、また喉を軽く鳴らして笑う。

 

「はぇ^~……、デデン岬の殺人フェイスも、少女を笑顔に出来るんすねぇ^~……(しみじみ)」

 

「加賀です……! もう勘弁なりません(艤装展開)、今ここで煙にして上げるわ(制空権確保)……!」

 

「おう、撃ってこい撃ってこい!!(会戦)」

 

「駄目だってばぁ~!>< 此処は、野獣の執務室じゃないんだよぉ!」

 

 大慌てで鈴谷が仲裁に入り、あきつ丸が「はっはっは!!」と大笑して、金剛と鹿島も、やれやれみたいに肩を竦めていた。ふふふっ……、と、春風もまた笑みを零す。こんなにも騒がしい執務室の窓の外は、まだ雨が降り続いている。吊るされたてるてる坊主が見上げる空は、月も星も見えず暗くて近い。今日は予報通り、雨のち雨だ。

 











今回も最後まで読んで下さり、有難うございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

境の外へ 境の内で



更新が遅くなっており、申し訳ありませんです……。
読んで下さる皆様、また暖かい感想で支えて下さる皆様、いつも本当に有り難うございます。
また、親切に誤字報告まで頂き、感謝しております。いつも御迷惑をお掛けして申し訳ありませんです。
今回の更新内容では、前作の内容(短編3)に関わる要素が若干強めです。
不定期更新ではありますが、お暇潰し程度にでもお付き合い頂ければ幸いです。






 この胸を締め付ける苦しさや切なさは何なのだろう。それは、初恋と呼べる感情なのか。或いは、一目惚れというものなのか。未だに自分の心に答えは出ていない。経験したことが無いからだ。把握できていない。あの青年の声を思い出すと、心が乱れる。頭がぼぅっとする時もある。感情と言うものは、本当にままならない。しかし、失いたくは無い。戦うために不要だが、これは私だけのものだ。私が、私であることを主張する為に必要なものだ。あぁ。いつかまた、彼に出会うことが出来るだろうか。溜息を堪える私の脳裏に、自我の誕生の時を思い出す。それは、記憶の中に在る。いや、私という“個”を認識していない時の記憶は、感情を伴わない記録とでも呼ぶべきだろうか。もしくは、経験か、経過か。なんにせよ、それは思い出すことが出来る。

 

 

 呼び出される為の召喚では無く、呼び返される召還の時。大きな戦果を持つ艦船の魂、その分霊としての艦娘を現世に招き入れることが出来るかどうかは、各々の“提督”達の資質に左右された。“提督”としての適性が低い者では、召還できない艦船の魂もある。それを無理に召還することも出来なくはないが、召び出された艦娘の肉体や精神に、大きな負荷を与えることになる。大抵の場合、艦娘が召びだされても直ぐに肉体が霊子となって還り散ってしまう。或いは、フォーマットされた人格すら崩壊し、生きながらに死んでいく場合も多い。艦娘としての“私”の魂は、こうした不完全な召還によって現世に招き入れられた。いや、この場合は、無理矢理に引きずり込まれたと言った方が正しい。御陰で、私は召還されてからすぐに昏睡状態に陥った。

 

 何度か意識の覚醒は在った。己が誰なのか。何者なのかという事は理解していたが、自我というものを持っていなかった。私は自我を持つよりも先に、肉体の感覚の方が先に在った。プログラムとして構築されている筈の人格や思考も在ったはずだが、その殆どが機能不全だった。艤装を召び、纏うことすら出来ない。戦うことが出来ない。覚醒の度に、それを自覚した。事実として認識した。自我が無かった故に、悲しさも悔しさも感じなかった。そんな感情を覚える機会もなかった。覚醒と昏睡を繰り返す中で、私は己の存在に価値を見出せなかった。私は、私という存在になり損ねたのだ。不全な私はすぐに、検体としてシリンダーに漬け込まれ、軍施設の中で生きたまま見本として飼われることになる。

 

 栄養液に包まれた私は、ぶつ切りになる意識の中で、己が誰なのか、何の為に此処にいるのかという、長い長い自問自答を繰り返すことになる。やはり、其処には悲しみも虚しさも無い。思考や感情を伴わない、事実の確認という作業でしか無かった。それを無為だと思うような意識も自我も無かった。空虚な時間が過ぎるようになって、どれくらい経ったころだろうか。ある時だ。培養液の中で私が眼を覚ますと、シリンダーの外に、誰かが居た。

 

「初めまして」

 

 此方に語り掛けてくる声音は若い。青年のものであり、言葉は日本語だった。私は、その声に答えることが出来なかった。私の肉体は、言葉を発する機能も死んでいた。私は薄緑色の栄養液と、シリンダーの強化ガラスの向こうへと、眼を凝らそうとした。しかし、私の視力も不全だった。私の視界は白く煤けて滲んでいた。青年の顔が見えない。恰好も、詳細には分からない。だが、どうでも良い。私はそれ以上に、青年の事を知ろうとは思わなかった。しかし彼は、優しげに私に語り掛けて来る。

 

「少し時間は掛かるかもしれませんが、貴女の肉体と精神を調律させて貰います」

 

 彼は、シリンダーに歩み寄って来た。保管室には、彼しか居ない。その程度のことは分かった。だからだろうか。私はその時、初めて他者と自己の境界を認識した。このシリンダーが隔てる世界。私がその内側に居ることを認識した。ただ、その時の私には、それが限界だった。すぐに意識を暗闇に侵食され、昏睡の闇の中へと思考を手放してしまった。やはり不安定な私は、覚醒と昏睡を繰り返していたから、時間の感覚というものが非常に希薄だった。自我すら芽生えていない私には、苦痛や退屈といった概念も無かった。ただ覚醒した時には、いつも彼が居た。それは、数日か。数週間の間であったか。確かな日数は分からない。それでも彼は、このシリンダーの外に、そして傍に居てくれた。

 

 私が意識を覚醒させる時はいつも、彼は何かを唱えていた。それは聞いた事の無い言語だった。朗々とした彼の声は、心の内に沁み込んで来るかのようだった。今にして思えば、彼は、不安定な私の精神を再構築する為の、非常に複雑で精密な施術式を編んでいたに違いない。想像を絶するような大規模な施術だった筈だ。彼は私の為に、非常に長い時間を掛けて精神治癒を行ってくれたようだ。

 

 御陰で私の心は、覚醒と昏睡の狭間で、次第に感情や感覚を覚えていった。ゆっくりとではあったが、私の意識は、彼の唱える声に手を引かれ、心の動きを感じることが出来るようになった。生まれきっていなかった視界と声が、少しずつ形を持ち始めていた。全てが覚束ない足取りだったが、私はある時、“艦娘としての私”と、“個としての私”の境界を認識した。それが、人格や自我と呼べうるものだという事も、ある時に唐突に理解出来た。あの瞬間、私は生まれたのだ。確信している。私は、私自身の状況を正しく認識した。何も出来ない自己の弱さを知り、泣いた。艦娘としての価値を持ちえない己に、悲しさを覚えた。理不尽に与えられたこの生と境遇に、憎しみに近い感情を抱いた。同時に、大きな恐怖に支配されていた。私を知っている者が、私しか居ないのだ。私は。このままで。何者でも在ることなく消えていくのか。

 

 気付けば。私は声にならぬ声で叫び、シリンダーを内側から叩いていた。泣き響む私の声は、私にしか聞こえない。それでも、何度も何度も。力の籠らぬ手を握り込んで、何をどうしたいのか。それすら理解していなかった筈だが、私は、そのシリンダーの外の世界を求めていた。私の内に芽生えた未熟なままの自我は、己の価値を強く求めていた。あの衝動と胸に渦巻く激情は、艦船であった自分の魂が、それだけ誇り高く、栄光に満ちたものであったからかもしれない。“個としての私”の自我は、“艦娘としての私”の魂に突き動かされていた。私は叫んでいた。それは間違いなく、私の産声だった。青年は、私の声に滲んでいた飢餓感にも似た願いを聞き届けてくれた。

 

 青年が何かを唱えると、私と世界を隔てる、冷たくて硬いシリンダーの強化ガラスが容易く砕かれた。私の躰が宙に浮く。薄緑色の栄養液も、無重力空間に漂うように地面に流れず、その場にとどまっていた。何らかの超常的な効果を齎す術式だったのだろう。力の籠らない私の体だけが、そっとシリンダーの外へと零れ出た。重力を無視するように、私はゆっくりと落ちていく。その私の体を、彼がそっと抱き留めて、また何かを唱える。すると、私の体が熱を帯び始めた。何か。生きていく為に大切なものが。抜け落ちていたものが。膨れ上がる活力と共に、肉体に宿っていくような感覚だった。視力が。声が。完成していくのを感じた。思考が一気にクリアになって、今までに無い程に意識にも深さが生まれた。私の再誕が完了し、個としての人格の構築が達成された。

 

 青年による施術式のシーケンスの終了と共に、私は、確立した自我を得ていた。そしてすぐに、裸のままで青年の腕に抱かれていることに思い至った。羞恥心を感じたのも、この時が初めてだった。慌てて彼の腕を振り解こうとしたが、出来なかった。生まれたての私は、泣き疲れた幼子のように消耗していたのだろう。強烈な眠気と脱力感が、心地よさを感じるほどに私の意識を蝕んだ。緊張が切れた所為もあったのかもしれない。まるでスイッチが切れるかのように、彼の腕の中で、私は深い眠りに落ちた。その間際に、一瞬だけ彼の顔を見た。いや、ちゃんと見れたのは、優しく微笑んでいる彼の顔の下半分だけだ。私を抱き支える彼の右手には、幾何学的で複雑な文様が描かれていた。「今は、ゆっくりと休んで下さい」と。頭の中に沁み込んでくるような。優しい声を最後に聞いた。はっきりと覚えているのは、そこまでだ。礼も言えなかった。

 

 次に目を覚ました私は、本国の施設から、とある日本の鎮守府に配属される事になった。鎮守府とは言っても、横須賀や舞鶴、大湊、佐世保、呉といった鎮守府では無い。それは、艦娘達を運用するために各地に拵えられた軍事施設を、便宜上そう呼んでいるだけだった。規模もまちまちだが、その新天地で私は、戦艦の艦娘として生きていくことになる。私の新たなAdmiralは、少年だった。少年提督は、つい最近まで機能不全でシリンダーの中に居た私を、快く迎えてくれた。私は彼の下で、蒼く広い海原を駆け抜けて、大きく活躍した。私は、Queen Elizabeth級2番艦。Warspite。その栄光に恥じぬ強さを発揮し、深海棲艦達を打ち倒して来た。私は、私を研究施設のシリンダーに入れた、“かつてのAdmiral”については、深く詮索しようとは思わなかった。しかし、あの青年が誰であるのかは、どうしても知りたかった。

 

 本国から日本に移る前に、「右手に幾何学文様を持った青年を知らないか」と、警備員を含む研究施設の職員達に聞いた事がある。しかし、帰ってくる答えは皆同じだった。「そんな人物は見掛けていないし、この研究施設に入った形跡も無い」と。そもそも軍部の施設であるし、誰でも出入りできるという訳でも無い。施設の監視カメラにもそれらしい人物は映っていなかった。ただ、シリンダーに保管されていた私の元を足繁く訪れていたのは、少年提督だけだという。機能不全であった私を引き受けるよう本営から彼に通達があり、私の容体の程度を詳しく確認しに来ていたのだという。さらに聞けば、シリンダーも割れていなかったそうだ。そんな馬鹿なと思った。私はそれを確認すべく、再び私が保管されていたフロアに赴いたが、そんな痕跡は無かった。私の記憶と違う。では一体、あの青年は誰であったのか。

 

 少年提督にも聞いた事がある。貴方以外には、誰も居なかったのかと。「いえ、見掛けませんでしたよ」と、少年提督も不思議そうな顔をしていた。私は、夢でも見ていたのだろうかとも思うようになった。思い出すことが出来るのに、それが事実と反する部分が多くて戸惑う。あの経験と記憶は、艦娘としての復活と自我の回復に伴う、意識の混濁が見せた幻だったのか。幻覚だったのか。この胸の内に燻る気持ちは確かに在るものの、私はこの疑問を、今は胸の内にそっと仕舞い込んでいる。

 

 

 

 

 

「ねぇ、貴女はどう思う?」

 

 緊張感の無い、気安い声を掛けられた。ウォースパイトの正面からだ。目の前に座っている彼女は、肘杖をついて眉をハの字にしている。ついでに口を3の形にして、困ったような表情を浮かべていた。洗練された美貌の中に、少女のような可憐さを兼ね備えた彼女は、どうもお悩みの様子である。その内容は、“如何すれば、少年提督とより親密になれるか”ということであった。

 

 現在。ウォースパイトは、ビスマルクとグラーフ、そしてプリンツ達と共に食堂のテーブル席について、遅めの昼食をとっていた。昼食時間を過ぎてなお、食堂はそれなりに艦娘達で賑わっている。この活気のある喧噪も、艦娘達が皆、活き活きとしている証拠であろう。周りの騒がしさを心地よく思う。ビスマルク達の前には、人気メニューのカレーが置かれていて、食欲をそそる良い香りがしている。ビスマルクの隣に座るグラーフやプリンツも、深呼吸しながらカレーを味わい、幸せそうな貌でスプーンを動かしている。彼女達の親しみやすそうな雰囲気に、ウォースパイトは思わず頬が緩んだ。

 

 この鎮守府に配属されて最初の頃は、ウォースパイトは目の前のドイツ艦娘達に対して敵意に近いものを抱いていた。もしもウォースパイトが、兵器として人格が破壊されていれば、そんな感情を持つことも無かっただろう。艦娘達の魂に刻まれた、戦史と記憶から来る感情だった。自我を持っている以上、この魂の部分には逆らえなかった。それはもしかしたら、ドイツ艦娘達も同じであったのではないかと思う。ウォースパイトは、彼女達を警戒した。しかし、彼女達の方は違った。呆気ないほどに、距離を詰めてきた。「よろしく頼むわね」と。初めて言葉を交わした時。凛然と握手を求めて来たビスマルクの表情と澄んだ蒼い眼は、とても印象に残っている。戦場で背中と命を預けあう仲間に向けられる、曇りのない眼差しだった。あの真っ直ぐで力強い眼に見詰められると、警戒心など持とうとは思わなかった。ビスマルクという艦娘が秘めた強さを、それだけで敬意と共に感じたウォースパイトは自然と笑みを返し、力を込めた握手を返したのを覚えている。

 

 他の艦娘達とも良好な関係を築きながら、数えきれない程の演習にも参加しているうちに、ウォースパイトが少年提督の指揮下に加わって暫く経った。練度を大きく上げたウォースパイトは、前の大きな作戦でも十分な活躍と戦果を持ち帰ることにも成功している。この鎮守府の艦隊の一員として、そして重要な戦力として存在していた。無論、それが己の力だけで成し得た結果ではないことも良く理解している。ウォースパイトが此処に配属されたのと、ほぼ同時期に彼の指揮下に加わったアイオワも、同じく練度を大きく上げており、この鎮守府の戦果に貢献していた。この二人の目覚ましい成長は、少年提督の艦隊運用や采配によるところも大きかったのも間違いない。とにかく彼は、ウォースパイトやアイオワの力を、いや、艦娘たちの持つ潜在的な力を引き出すことがとても上手かった。それは無論、無理な肉体強化施術や、精神拘束による催眠や暗示などを艦娘達に施したわけでは無い。この鎮守府に居る艦娘たちの強さの本質は、其々の思考や絆の中に根付いた自我、あるいは、アイデンティティーと呼べうるものだろうと、ウォースパイトは考えている。

 

 艦娘達にとって、肉体さえあれば艤装はついてくる。自我が無くとも、フォーマットされた人格はプログラムとして、“提督”達の命令には従ってくれる。ウォースパイトの艦娘としての最低限の存在価値は、この肉体が保証している。ウォースパイトを艦娘たらしめているのも、この強靭な肉体だ。強さも誇りも、そこに帰属する。艦娘達にとっての人格や精神などは弱点であり、完成された兵器としての機能美を揺るがす脆弱性でしかない。今もなお、そんな風に考える提督達も少なくない。ただこの鎮守府の提督たちは、艦娘達の誰一人として人格を破壊さず、各々に人格と個を獲得させていた。そのおかげで、彼女達は己というものを深く理解し、他者の個性や人格に対する尊重を共有している。艦娘達は家族や仲間と呼べる間柄であり、互いの信頼も厚く、支えあっている。彼女たちは、だから強いのだ。かつて、シリンダーの中で自己も他者も認識できなかった自分だから、余計にそう思えた。

 

 

 さて。ビスマルクが懸想する少年提督は、そんな強者揃いの艦娘達を束ねて大きな戦果を重ねてきた人物だ。ウォースパイトにとっても敬服すべき上司であり、居場所をくれた恩人でもある。目の前のビスマルクの視線を受け止めつつ、ウォースパイトは少年提督を思い浮かべてみる。すると、想像の中に出来上がった彼は、やはり落ち着き払った大人びた微笑を浮かべていた。頭の中に彼を思い浮かべると、だいたい笑っている。ウォースパイト自身が、彼の微笑み以外の表情を余り知らないからだろうか。そんな風に思えてきて、ビスマルクへの答えに窮する。どうすれば、もっと仲良くなれるか。これは、割と難題だと思う。同時に、既に解決している問題のような気もしていた。「飽くまで、私の感想になるけれど……」と、短く断りの言葉を述べてから、ウォースパイトは軽く息をついた。

 

「前に、貴女は言っていたわね。“Admiral”は、誰も特別扱いしないって。でも、それは少し違うように思うわ」

 

 ウォースパイトは軽く笑みを浮かべて、ビスマルクに視線を返す。

 

「彼は、誰も彼も特別扱いしないのではなくて、もう既に一人ひとりを特別扱いしてくれているのではないかしら」

 

 ビスマルク達と比べて、ウォースパイトは少年提督との付き合いも短い。故に、ビスマルク達ほど、ウォースパイトは彼のことをまだ知らない。ただ、付き合いが短いなりに、ウォースパイトは自身の提督である少年提督のことを良く見ていたつもりだ。そんな中で、ふと思ったことがある。彼は、皆を特別扱いしないのでは無い。皆を特別扱いしているから、逆に特別扱いしていないように見えるのではないかと。

 

「……ふぅん」

 

 ビスマルクは意外なことに気付いたように、少しだけ目を丸くした。そのまま何度か瞬きをしてから、ウォースパイトから視線を外す。口に手を当てて、何かを思案する貌だった。グラーフとプリンツも、カレーを食べる手を止め、興味深そうな貌でウォースパイトの言葉を聞いている。少しの沈黙。周りの喧噪を聞きながら、ウォースパイトもカレーを一口、口に運ぶ。ため息が出るほどに美味だった。幸福な味わいの余韻に浸りつつ、ビスマルクを一瞥する。むむむ……、と。彼女は腕を組んで、何だか難しい貌をしていた。ウォースパイトは小さく笑って、ビスマルクに向き直る。

 

「そんなに思い悩むことでは無いでしょう。彼はきっと、貴女を特別な存在として認めているはず。私にもそう話していたわ」

 

「んぅえっ!? ほんとぉ!?」 

 

 ビスマルクが眼を輝かせて、テーブルに身を乗り出してきた。グラーフとプリンツも、ウォースパイトを凝視してくる。ビスマルクとは対照的に、二人の眼はえらくマジだった。怯みそうになったウォースパイトは、軽く咳払いをして居住まいを正してから、「えぇ」と、ビスマルクに頷きを返す。

 

「貴女は、とても魅力的だと」

 

「ファッ!?」 過剰に反応したビスマルクが、勢いよく立ち上がって身を引いた。嬉しいのか。あるいは、驚いているのか。多分その両方なのだろう。グラーフとプリンツは険しい面持ちのまま俯く。そして無言のままでカレーをもぐもぐと食べ始めた。二人は何とか平静を保とうとしているようだ。ウォースパイトはそんな二人には気付かない振りをしつつ、ビスマルクに肩を竦めて見せた。

 

「手袋がいつも無くなるけれど、貴女と過ごす時間は、とても楽しいとも」

 

 ウォースパイトが告げると、ビスマルクは満ち足りたような表情で、大きく息を吸って吐き出した。まるで豊かな大自然の中、体全体で生命の恵みを感じているかのような、深い深い呼吸だった。微笑みを湛えたビスマルクは、それから遠くを見るような眼差しになり、陶然と眼を細めつつ再び席に着いた。スプーンを握りしめたグラーフとプリンツは、羨ましさか悔しさ故か、かなり渋い貌だ。彼女達の反応が何だか可笑しくて、ウォースパイトもまた少しだけ笑みを漏らした。そして心の片隅で、私も、あの青年にまた出会うことが出来ればと思う。彼女達のように、彼の仕種や言葉の一つ一つに、一喜一憂してみたい。あの青年に会いたい。混濁した私の意識が作り出した幻覚ならば、夢の中だけでも良い。せめて、もう一度。もう一度だけ。彼に会いたい。僅かに眼を伏せたウォースパイトが、切ない溜息を漏らしたのと同時だったか、少し早かった。

 

「その……、すまない。ウォースパイト。Admiralは、私の事については、何か言っていただろうか?」

 

 そわそわした様子のグラーフが、期待と不安を綯い交ぜにしたような貌で、チラリと視線を寄越して来た。続いて、似たような貌をしたプリンツも、ウォースパイトを見つめて来る。この二人の反応は予想できていた。ウォースパイトは二人にも順に頷いて見せる。

 

「勿論、グラーフにもプリンツにも、いつも支えて貰って大きく感謝していると言っていたわ。三人とも、彼からの信頼が厚いのね」

 

 言いながら微笑んだウォースパイトの脳裏に、また少年提督の落ち着き払った笑みが浮かんだ。彼は、皆を特別扱いしている。彼との付き合いもまだ短いなりに、ウォースパイトは個人的にそう感じた。ただ、“艦娘達全員が彼にとっての特別”であるならば、それは結局、“誰も特別ではない”のと同義ではないのかと思った時もある。だが、それも言葉遊びに過ぎないことも理解している。真実は、彼と艦娘達の関係の中にしかないのだ。眼に見えず、形も無い。確証も反証も出来ない。実態を伴わないものだ。考えても、答えは出ない。だから、良い方に考えた方が得だと思うことにしている。楽観主義と言えばそれまでだが、グラーフとプリンツも嬉しそうに笑みを零すのを見ると、やはりそれで正解なのだろうとも思う。思考の端でそんなことを考えるウォースパイトの目の前では、ビスマルクが得意げな貌で腕を組み、「うんうん」と頷いていた。

 

「そうねぇ……、私達とAdmiralは、硬い絆で結ばれているの。何て言うのかしら。家族や仲間と言うか、こう……、より親密な? パートナー? みたいなものだし、多少はね?」

 

「おっ、そうだな(熱い同意)」と、ビスマルクへと向き直ったグラーフも、んふ^ーと鼻から息を吐き出して、力強く頷いた。

 

「あの、流石にちょっと誇張入ってませんか……?(警鐘と分析)」

 

 控えめに言いながらビスマルクとグラーフを見比べるプリンツの方は、二人に比べると冷静な様子だった。

 

「He~y, he~~^y, もう一つおまけにheeeeeeeeeeeyyyyy^~!!」

 

 そこへ、思わぬ乱入者が現れた。

 

「何だか、とても興味深いことを話していたのが聞こえた気がシマ~ス!!」

 

 ずんずんと近づいて来るのは、ほっぺを膨らませた金剛だった。

 

 その金剛の少し後ろを歩いているのは、苦笑を浮かべるアイオワだ。この二人の組み合わせは、最近になって多くなっている。以前は金剛の妹である霧島が、露骨にアイオワのことを警戒していた事もあった。だが、それも今では解消している。前作戦での帰投時。戦場海域から離脱する際、舞風達が敵の残党に襲撃を受けた。その時に、不意を突かれた舞風を敵の魚雷や砲撃から庇ったのが、アイオワだった。付近海域から駆けつけてくれた香取と鹿島に両脇から支えられて曳航してもらい、何とか母港へと帰ってきたアイオワは、右半身が吹っ飛ばされていた。体には無数の風穴。その美しい顔も、右側はひどい損傷だった。眼球も潰れ皮膚が焼け、頬の肉が無く、歯や筋肉が露出していた。意識を保っているのが不思議な状態だった。しかし、そんな自身の負傷を、“仲間の為に身を張った誇り”だと。血塗れの貌で、彼女は歯を見せて笑って語っていたのは、ウォースパイトも知っている。流石に、頬や筋肉の欠損の所為で、少々笑い難そうだったが。

 

 あの一件以来、舞風とも仲良くなったアイオワはそれを機に、ほかの駆逐艦達とも非常に仲良くなり、人気者のお姉さんポジションに収まりつつある。それに、香取ともよくつるむようになり、共に鳳翔の店で飲みあう仲であるという。そんなアイオワに対する警戒心を解いた霧島も、アイオワと互いに酒を飲み交わし、硬い友情を結んだ。この時、二人の仲を取り持つ形で間に入ったのが、イタリア戦艦のローマとポーラだったらしい。聞けば、ローマが召ばれてすぐの頃は、霧島がローマを支えた時期もあるようで、その後も二人は昵懇であったようだ。ローマとしても、恩ある戦友が、新たな友情を結ぶ力になりたいと思ったのだろう。ポーラの方は、単純に酒を飲みたかったからか。或いは、空気を和ませる為のムードメーカーとして参加したのか。そのあたりの真相は、当人たちだけが知ることだろう。首を突っ込むのも野暮に思えて、ウォースパイトも深く詮索はしていない。ただ間違いないのは、“艦娘としてのアイオワ”では無い、“個としてのアイオワ”が勇敢な仲間であることが証明されたという事だ。として。

 

 

 そんなアイオワは、「Lunch timeのところ、お邪魔するわね」と、ウォースパイト達を順に見てから、魅力たっぷりにウィンクしてみせる。一方で金剛は、傍にあったテーブル席をずりずりと寄せて来て、そこに座った。ちょうど、ビスマルクの隣に座る位置だ。そして、フンス!と鼻息を吐きだしてから真剣な表情になった。

 

「隣、良いデスか?」

 

「いや、もう座ってるじゃない……」

 

 若干身を引いたビスマルクが、隣に腰かけた金剛へと困惑したような表情で言う。とはいえ、別に断る理由もない。グラーフとプリンツ、それからウォースパイトは快く頷いた。続いて、アイオワは金剛の正面に腰かける。位置的には、ウォースパイトの隣だ。

 

「Meもカレーにしようかしら」と。ウォースパイトへと、アイオワは人懐っこい笑みを浮かべて見せる。長身でグラマラス、豪奢で美しい金髪を揺らす彼女は、しかし、今のような快活な少女にも似た表情が良く似合う。隣に居て眩しいくらいだ。「えぇ、良い判断だと思うわ」。ウォースパイトも冗談めかして笑みを返した。さて、この面子で相席をするのは珍しいのだが、まぁ、少年提督に関する話題であるのですぐに話は盛り上がることになるのだが、すぐにまた別の乱入者が現れた。

 

「お、何か海外艦娘が集まってんじゃ~^ん!! 俺も隣、良いっすか^~?」

 

 海パンとTシャツ姿の野獣だった。タブレットと書類の束、そして分厚いファイルを右手に抱えている。左手には、ラーメンの載った盆を持っていた。この男も昼食を摂りに食堂に訪れたのだろう。野獣はビスマルク達の返事も聞かず、金剛の隣の席にドカッと腰かける。普段から野獣に弄られまくっているビスマルクは少々ひるんだようだが、グラーフやプリンツ、それから、金剛やアイオワ達は、特に嫌な貌も見せなかった。“まぁ、コイツなら良いか”みたいな、苦笑にも似た表情だった。

 

「……そういえば今日は一人なの? ちょっと珍しいわね」

 

 ビスマルクは野獣に言いながら、食堂を見渡すように視線を巡らせた。おそらく、野獣の秘書艦を探しているんだろう。野獣は、長門や陸奥、それから加賀や赤城、もしくは、鈴谷か時雨を秘書艦にしていることが多い。いつものこの時間なら、野獣は秘書艦と共に行動しているのだが、今日はどうも違うようだ。野獣は余裕ぶった笑みを浮かべて、肩を竦める。

 

「今日は長門と陸奥が秘書艦なんだけど、もう腹が減っちゃってさぁ! こっそり抜け出して、昼飯を食いに来たんだよね(屑)」

 

「それは不味いですよ!!?」 焦った貌になったプリンツが言う。

 

「堂々とサボるのは流石に感心しないな……」 グラーフも難しい貌をして野獣を見遣った。

 

「お腹が膨れたんなら、早く執務に戻るべきね」 やれやれと言った感じで、ビスマルクも続く。

 

 ただ、野獣の方は「ヘーキヘーキ!(曇りの無い笑顔)」と、何が平気なのか謎だが、とにかく強気だった。ウォースパイトは召ばれてすぐの頃は、野獣のこういう不誠実な態度は好きになれなかった。だが、野獣のこういった気儘な振る舞いは何時もの事であり、やるべき事はいつの間にかこなしている様な男であることも分かって来た。飄々として掴みどころの無い男だ。馬鹿な事を言いながら周りを混ぜ返す野獣を迎え、より一層、この面子の騒がしさが増してから暫くして。金剛やアイオワも昼食にカレーを摂って、野獣もラーメンを食べ終える頃だった。

 

「あっ、そうだ!(いつもの)」と。野獣が何かを思い出したかのように言って、テーブルの端に置いてあった分厚いファイルから何かを取り出して、テーブルの上に置いて見せた。ウォースパイト達も、置かれたものに視線を向ける。それは、一冊の本だった。

 

「えっ、何これは……(警戒態勢)」

 

 急な野獣の行動に、ビスマルクとプリンツの表情が強張った。グラーフが、その本を手に取る。金剛とアイオワが、興味深そうにその手元を覗き込んだ。ウォースパイトも金剛達に倣う。怪訝そうな貌をしたグラーフが持っている本の表紙には、題名が無かった。代わりに、イラストが載っている。柔らかなタッチの絵だった。見れば、大和、金剛、アイオワ、ウォースパイト、ビスマルク、ほかにも、リットリオやローマが描かれている。ただ、普通に描かれているのではない。若々しくというか、少々幼く描かれている。中学生の年齢くらいだろうか。さらに背景には、学校のような建物が描かれている。ウォースパイトは渋い表情になった。と言うか、ウォースパイトを含め、顔を見合わせた全員がそうだった。

 

「これって、……Textbook?」

 

 皆を代表して、アイオワが、おずおずと野獣に訊いてくれた。これは教科書か何かなのかと。すると野獣は、「そうだよ(得意げ先輩)。うちも、お前らみたいな海外艦が増えてきたしなぁ」と頷いて見せた。

 

「俺達も力を合わせて、グローバル化に対応する為の教育改革に名乗りをあげなきゃ(使命感)って……、そう思ったんだよね」

 

「要するに貴方が勝手に盛り上がってるだけじゃないか……(辟易)」

 

 グラーフが憮然として言うが、金剛とアイオワの二人はちょっと興味があるのか。「Hmm……」と、二人して何かを思案しながら、グラーフがペラペラと捲る教科書のページを注視している。プリンツとビスマルクも、微妙な貌をしながらだが、グラーフの手元を覗き込む。

 

「取り合えずは、海外艦娘であるお前らの意見を聞いて、子供達の感性や視野を広げられるような、素晴らしい教科書を作りたいんだよね(自分の仕事はそっちのけ)」

 

 急に胡散臭くて真面目な貌になった野獣を、ウォースパイトは不審者を見る眼で一瞥してから、グラーフが捲るページへ視線を戻した。教科書のページは、まだ外国語の文章しか載っていなかった。挿絵を載せる大きめのスペースはあるものの、今はまだそういった類は無いようだ。見たところ、英語、ドイツ語、それからイタリア語の三種類。文章の内容はよく読んでいないから分からないが、こうも文字だけだとやはり味気が無い。ふとウォースパイトが思った時だ。

 

「あっ、サンプル間違えたなぁ……(ケアレス)。こっちを見て、どうぞ」

 

 野獣は、テーブルの上に置いてあったファイルから、さらにもう一冊の教科書を取り出した。そして、「中身については、日常でよく使うフレーズを中心に、暮らしの中にある外国語に触れて貰おうって感じでぇ」 などと、誰も聞いていないのに言いながら、それをグラーフへと手渡す。

 

「なんだ、挿絵がついたものがあるんじゃないか」

 

 言いながら、グラーフは先ほど持っていた教科書を野獣に返し、新しいものを受け取った。そしてその表紙を目の当たりにして吹き出した。ウォースパイトも赤面する。新しい方の教科書の表紙は、さきほどの教科書の表紙を飾っていた艦娘達が、大人の姿に戻っていた。先ほどの表紙は、まだ教科書っぽさとでも言うか、かなり大人しい表紙だったのだが、今度のは全然違う。艦娘達が、際どい水着姿でデカデカと悩殺ポーズを取っているものだった。その表紙の上部には、『IKISUGI☆HORIZON』の文字。これを教科書と言い張るのは、ちょっと無理があると思う。

 

 

「うわぁ、まるでポルノ雑誌みたぁい……(直喩)」

 

 ドン引き状態のプリンツが、声を震わせて呻くように言葉を零した。

 

「ちょっとぉ!! 何よこの表紙ィ!?」

 

 流石にビスマルクも、立ち上がりながら叫んだ。無理もない。表紙のビスマルクはクールな表情のままで、V字の水着を着こんでM字開脚をキメているのだ。抗議の一つもしたくなるだろう。ちなみに表紙の金剛とアイオワは、下は紐ビキニだが上は裸だ。二人で抱き合って胸を押し付けあう形で上半身を隠し、此方に流し目を送っている。ひどく煽情的な構図だ。金剛とアイオワは互いに顔を見合わせてから、憮然とした表情で野獣に視線を送っている。ウォースパイトも何か言おうとしたが、何だが恥ずかしくて言葉が出てこない。結局何も言わず、野獣の言葉を待つことにした。椅子に座ったままで足を組みかえた野獣は、全員の冷たい視線を浴びつつも、何かを成し遂げたような清々しい表情だった。

 

「会心の出来だろ?(自画自賛)。夜なべしてコラ画像作ったんだぜぇ^~。もう疲れましたよ^~」

 

「作らなくて良いから!!(良心)。こんな卑猥な教科書あるわけ無いでしょ!?」

 

 噴火寸前のビスマルクはテーブルを叩きながら言う。しかし野獣は、落ち着いた様子で微笑んだ。

 

「大丈夫だって。この教科書はさぁ、外国語と一緒に、雄しべと雌しべのシステム(意味深)も学べるっていうコンセプトだから(ハイブリット化)」

 

「あの、見たところ雌しべ(意味深)しか映っていないんですがそれは……」

 

 ドン引き貌のプリンツの指摘に、野獣は頷く。

 

「創刊号だからね。しょうがないね(妥協)。まずは月刊で行こうと思うんだけど、どう?」

 

「こんなものが毎月出るのか……(困惑)」グラーフが慄いたような声でつぶやく。「やっぱりポルノ雑誌じゃない!(憤怒)」ビスマルクが続いた。野獣は肩を竦めて、緩く首を振って見せた。

 

「あのさぁ、重要なのは中身なんだよね? それ一番言われてるから」

 

「この表紙だともう、中身がどうこうのLevelじゃないと思うんデスけど(名推理)」

 

 顔を顰めて言う金剛に、「そうだヨ(尤もな同意)」と、表情を曇らせているアイオワも続く。

 

「俺は、常に新しいことにチャレンジしていたいんだよね?(パイオニア先輩)」

 

「その精神自体はなぁ……、立派なんだがなぁ……(届かぬ思い)」

 

 そこに私達を巻き込まないでくれと言わんばかりに、疲れたように眼を伏せるグラーフ。だが、生真面目な彼女は重い溜息を吐き出しつつも、手にした『IKISUGI☆HORIZON』のページを、中ほどからそっと捲った。ウォースパイトも軽く息を呑んで、その様子を見守る。立ち上がっていたビスマルクも、取り合えずと言った感じで再び席につき、グラーフの手元へと視線を戻す。プリンツ、金剛、アイオワもそれに続いた。

 

 開かれたページでは、ちゃんとイラストが書き加えられている。登場人物は、ジャージを着ている三人。彼女達は和室の中で、そのジャージを脱ごうとしている瞬間だ。かなりセクシーに描かれている。気の毒そうな貌になったビスマルクとグラーフ、それからプリンツが此方をチラリと見てきた。ウォースパイトが顔を上げると、彼女達はさっと視線を逸らす。眼を合わせようとしない。悲劇の予感。其処に描かれている三人は、ウォースパイトと金剛、そしてアイオワだった。

 

「Oh,no ……」

 

 アイオワは掠れた声を漏らしながら、衝撃的な事実を目の当たりしたような貌で、野獣と教科書を見比べる。ウォースパイトは絶句。金剛の方は、『あ~、そっかぁ~……、そう来たかぁ~……』みたいな感じで、顔を右手でおさえて俯いている。アイオワとウォースパイトに比べると冷静だが、「しゅぅううう~……」と、息を吐き出したりしているあたり沈着とは言い難い。暖かな喧噪が弾ける食堂の中で、ウォースパイト達の周囲だけが冬の静謐さを湛えていた。「ウォースパイトも、なかなかジャージが似合うよなぁ!(魅力の発掘)」と。そんな中でも野獣は暢気に言いながら、タブレットを手早く操作して何かのアプリを立ち上げ始めていた。もう止めてくれと言おうとしたが、間に合わなかった。

 

 タブレットからは、『Nuwaaaaaaaaaan!!』という奇声が再生される。全員が吹き出した。その声は、加工こそされているものの、間違いなく金剛のものだった。グラーフ達が視線を落としているページの文章の始まりも、「Nuwaaaaaaaaaan!!」である。どうやら、既にリスニング用の音声も完成しているらしい。最悪だ。金剛が野獣に何か言おうとしたが、タブレットから流れる音声がそれを遮った。

 

『Tukaretamooooooon!!』(金剛の元気ボイス)

 

『Tikareta……』(アイオワのお疲れボイス)

 

『Hontoni……』(ウォースパイトのアンニュイボイス)

 

『Hurohaitte,sapparisimasyouyo!』(金剛のry)

 

「ゴメンちょっと待って、私の耳がおかしいのかしら……。日本語に聞こえるんだけど」

 

 ビスマルクが低い声で言うと、グラーフとプリンツも頷いた。ただ、テキストの本文は、最初の『Nuwaaaaaaaaaan!!』以外は普通に英文である。リスニング用の音声が戯けた事になっているようだ。野獣は「え、そんなことないですよ……(確認)」と、言いながらタブレットを再び操作した。今度は、単語の発音用のモードなのか。『Repeat After me.』と、また別の音声が再生される。

 

『Otiro!!』

 

「ねぇチョット! 今、“落ちろ”って言ったわヨ!?」

 

 すかさず突っ込んだのはアイオワだ。ウォースパイトにもそう聞こえたし、何とも言えない貌でタブレットを凝視している金剛にだってそう聞こえたに違いない。念のためか。野獣がもう一度タブレットを操作する。

 

『Otitana……』

 

「確認してマース! これ、“落ちたな”って言ってますヨ!!?」

 

 今度は金剛が指摘する。ウォースパイトも無言で頷く。「英語に変換しきれてない部分があるなぁ(分析)」野獣が似合わない深刻な貌になって、またタブレットを操作しはじめた。

 

「日常で使うフレーズって仰ってましたけど、こんな力強く『落ちろ!』とか言う状況って無いと思うんですけど……(名推理)」

 

 プリンツが恐る恐ると言った感じで、野獣に訊く。野獣は笑った。

 

「洗濯物でも洗って、汚れを落としてるんでしょ?(適当)」

 

「なるほどぉー(思考放棄)」 プリンツは、何かを諦めるように上を向いた。

 

「いや、……これは流石に、教科書の内容も含めて全体的に作り直した方がいいのでは?(冷静な指摘)」

 

 いい加減、ウォースパイトが提言する。おそらく、此処に居る全員の心の声を代弁したであろうこの発言に、異を唱える者は一人もいなかった。野獣も、「あっ、そっかぁ……(苦悩顔)」と、割と素直にウォースパイトの言葉に理解を示してくれた。

 

「他にも、グラーフとプリンツがくノ一になって大活躍するエピソードとか、ビスマルクが裸でドジョウ掬いするエピソードとか、色々あったんだけどなぁ……(無念)」

 

 残念そうに言う野獣に、「私だけ扱いが違い過ぎィ!!!!」と、半泣きになったビスマルクが抗議の声を上げる。

 

「私を露骨な“汚れキャラ”みたいにするのはNGよ!!? ホントにもぅ!!」

 

「でもさぁ、もうエピソード用の動画も作っちゃったんだよなぁ。じゃ、供養代わりに、無料配信っすね!(屈託のない笑顔)」

 

「えーん!!(´;Д;`)やめてやめてーー!!」

 

 ビスマルクは半泣きのまま、笑顔でタブレットを操作している野獣の肩を掴んで揺する。それを見ていたグラーフも、「なにもかもガバガバじゃないか……」と、呆れた様子で漏らしつつ、手にしていたポルノ雑誌まがいの教科書をテーブルに置いた。アイオワも腕を組んで、やれやれと首を緩く振っている。金剛の方は、まぁいつもの事か、みたいな感じで肩をすくめているし、プリンツだってノーコメントで苦笑を浮かべている。笑うしかないという感じだった。そろそろ場が白けて来そうになったが、そうはならなかった。

 

 

「おい貴様、仕事を放り出して何をしている」

 

 彼女の声は、怒号であったり怒声でもなく、えらく落ち着いた声音だった。だからこそ余計に有無を言わさぬ迫力がある。長門だ。食堂の入り口の方から、ゆっくりと此方に歩いて来ていた。不機嫌そうな貌をした陸奥も一緒である。今日の秘書艦である二人が野獣を探しに、と言うか、連れ戻しに来たのだろう。長門と陸奥の二人は、ウォースパイト達に目礼してから野獣に向き直った。長門は息を吐いて腕を組んで、陸奥は腰に手を当てる姿勢だ。

 

「さっさと戻るわよ。やることが山ほど在るんだから」

 

 静かに言う陸奥に、長門が頷いた。野獣は肩を竦める。

 

「あのさぁ、今はちょっと大事な会議中なんだよね?」

 

「……何だと?」

 

 長門は真面目な貌で、野獣と周りに面子を順番に見てから、「そうなのか?」と、最後に眼が合ったプリンツに聞いた。災難なことだ。「いや、そのぉ……、会議って言うか……」プリンツの方は視線を泳がせまくり、かなり困った顔になって答えに窮した。そのプリンツの様子を見ていた陸奥は、腰に手を当てたままで半目になって野獣を睨む。テーブルの上に置いてあった書物を、ファイルへと片付けようとする野獣の動きを見逃さなかったのだ。

 

「ねぇ野獣、……それ何?」

 

「ん? 議題の資料だけど?(大嘘)」

 

 息を吐くように虚言を弄する野獣だが、そんなことは陸奥も百も承知のようだ。突っ込むこともせずに、「ちょっと見せて」と、手を差し出した。まるで敏腕捜査官だ。野獣の方は、肩を一度竦めてから、ファイルから本を取り出して陸奥に渡した。あんなポルノ雑誌みたいな本が出てきたら、長門だって噴火するだろう。ウォースパイトは苦笑を浮かべつつ、ビスマルク達と顔を見合わせた。さぁ、これで野獣も仕事に戻ることになるだろうし、食事を済ませた自分たちも食堂を後にしよう。そんな空気が広がり始めていた筈なのに、流れが変わった。

 

 ウォースパイトは気付いた。陸奥が手に持っている本が、先ほどとは違う。『IKISUGI☆HORIZON』では無い。表紙には、可愛らしい男の子が何人か描かれている。それも、何とも生々しいタッチだった。タイトルには、『よいこの保健体育 おとこのこ』という題が付けられていた。野獣の仕業だ。あのファイルから取り出す一瞬の間に、仕込んでいた別の本を取り出したに違い無い。まるでマジシャンのような手際と早業だ。傍にいたビスマルクやグラーフ、金剛やアイオワも気付かなかったようだ。ウォースパイトも驚く。しかし、もっとも驚いていたのは長門と陸奥だ。「お前……、これは、お前……」と、長門は衝撃を受けたような貌で、本の表紙と野獣を何度も見比べている。陸奥は艶美に眼を細めつつ、ゆっくりと唇を舐めてから、その本をペラペラと捲りだした。野獣が真面目な貌になる。

 

「アイツも、これから多感な時期に入っていくんだからさぁ。やっぱり、正しい知識って言うの? 自分の体の変化に戸惑ったり、怖がったりしないように、そういう教育が必要になるかもなっていう話をしてたんだよなぁ……(オールフィクション)」

 

 長門と陸奥は、まるで野獣を見直したかのような貌になる。一方で、ウォースパイトは、少々混乱する。そんな話だっただろうか。いや絶対に違う。野獣の傍に居たビスマルク達も何かを言おうとしていたが、陸奥がペラペラと捲る『よいこの保健体育』が気になるのか。金剛は長門達の隣に回り込んで、「ほほ^~」とページを覗き込んでいるし、アイオワは何だか恥ずかしそうな赤い貌で、俯きがちにチラチラとその表紙を見ている。他所の鎮守府のアイオワがどうなのかは知らないが、少年提督の下に居る彼女は、長門達に引けをとらないショタコンのようで、少年提督にもかなりお熱である。その割に変に初心と言うか、普通のエロい話は別に平気な癖に、ショタ要素が絡んだ猥談に極端に弱かったりする。今も悶々とした様子で、唇をぎゅぎゅっと噛んでいる姿は、まぁ、可愛らしいと言えるのだが、ビスマルクやグラーフに関しては、もう開き直っているような所が在るし、二人にストップを掛けてくれるプリンツにしたって似たようなものだ。

 

 妙な熱気に支配されつつこの一角で、ウォースパイトは少しの居づらさを感じながらも、野獣のいう事にも一理あるとも考えていた。野獣は真剣な貌のままで軽く息を吐いて、ウォースパイト達を見まわす。

 

「それに思春期の男子が性に興味を持ち始める時に、お前らみたいなのに襲われたりしたら、アイツが性に対して臆病になっちゃうからね。何とかしなきゃって……(暴言)」

 

「ちょっと待てオイ! なぜ私達が彼を襲うこと前提になっているんだ!」

 

 至極まっとうな抗議の声を上げた長門だが、「じゃあ訊くけど……」と、野獣が肩を竦めてから、長門と陸奥を見た。

 

「気分転換にィ、ジャングルの動物たちとショタが出て来る映画、前に執務室で俺と見たじゃないっすか? お前らは何処に意識を割いて見てた?(鋭い指摘)」

 

「そ、それは……、アレだ、ぐ、グラフィックが、その……(しどろもどろ)」

 

 長門が視線を泳がせまくりながら答える隣で、陸奥は「男の子の乳首しか見てなかったわよ(威風堂々)」と、胸を張って言い放った。長門が吹き出したところを見るに、きっと長門も同じなのだろう。ビスマルクと金剛が、何かを湛えるように拍手を送る。ウォースパイトも釣られて拍手をしそうになったが、すんでのところで手を止めた。プリンツが困惑顔で立ち尽くし、俯いて唇を噛んでいるアイオワのムッツリ赤面が最高潮に達した。「申し訳ないが、開き直り紛いのノーガード戦法はNG」と、今度は野獣が、はぁぁぁ^~~……と、クソデカ溜息を吐きだす。

 

「まぁ、こんな状況だからね。備えあれば憂いなしって言うの? だから此処で会議をしてた訳。つまりここは、対策本部なんだよね」

 

 野獣は言いながら、再び手元のタブレットを操作する。

 

「何か間違いが起こって、この鎮守府の空気がギクシャクしたら嫌だルルォ?」

 

「大丈夫よそんなの。私達に任せておけば、アレよ、もうバッチリ(?)だから。ちゃんと一番搾り(ド下ネタ)まで持っていくわよ」

 

 今日の陸奥は、憲兵が駆けつけてきそうな程に強気だった。と言うか、もうレッドカードだ。そんな陸奥の情熱溢れると言うか、もう身も蓋も無い言葉から、間違った勇気でも貰ったのか。グラーフが優しい笑顔で、「あぁ、任せて貰って……良いぞ(慈母の眼差し)」と、野獣に頷いた。

 

「ほんとぉ???(懐疑の眼差し)」 

 

 野獣はグラーフを一瞥してから、操作していたタブレットのディスプレイに何らかのアプリを立ち上げた。すると、ディスプレイの上に立体映像が浮き上がった。それは、精緻な少年提督の像だ。いつもの黒い提督服に、右目には黒い眼帯をしていた。この場に居たウォースパイト以外の全員が、テーブルに突進するみたいに詰め寄って身を乗り出し、その立体映像を間近で見ようとした。押し合いへし合う彼女達の貌は、真顔だ。怖いくらいに真剣だった。ウォースパイトも流石に怯む。立体映像の少年提督は、無数の血走った視線にさらされながらも、「お姉ちゃん、大好き」と、照れ笑うみたいに可愛らしくはにかんで見せた。ウォースパイトも思わずドキッとしてしまうような、とんでもない愛らしさがあった。

 

 その仕種に、アイオワが鼻を抑えて蹲る。鼻血でも出たのか。熱い溜息を吐きだしたグラーフが苦しそうな貌をして、胸のあたりを両手でおさえて席に座り込んだ。体が暖まってきて、その熱をどうにかして逃がそうとしているのだろう。ビスマルクがシャドーボクシングを始めて、金剛が太極拳の流麗な動きを始めた。プリンツも頭を抱えてしゃがみ込み、激しく悶えている。陸奥は舌なめずりをしながら頬杖をつき、妖しい火を灯した瞳で少年提督の立体映像を舐めまわすように見ていた。長門は険しい貌で「すぅぅぅぅぅうぅぅぅぅうううううう~~^^^、ほほぉおおおおおおおおおおお~~^……」と、何かを産み出すかのような、余りにも深すぎる溜息を繰り返している。大丈夫なんだろうか、この鎮守府の戦艦達は。食堂に居た他の艦娘達も、『なにやってんだあいつら……(戦慄)』みたいな、怯えた貌で此方の様子を伺っている。ウォースパイトが圧倒されている間にも、野獣は冷静な貌で長門達を見ていた。

 

「お前らがそんなんじゃ、とてもじゃないけど任せられないんだよなぁ……(賢明な判断)」

 

 野獣は言いながら、タブレットを手早く操作して立体映像を無情にも消した。長門達は一斉に、消え行く少年提督の立体映像に追い縋ろうと手を伸ばす。「待ってくれ……! 行かないでくれ!」「テイトクぅー……!! 眼を離さないでって、言ったのに……!!」「Admiral……! 私を置いていかないで欲しいヨ!!」「ふぇえん!! 提督さぁぁぁん!!」と、全員が泣き出す勢いだった。えぇ……と。まるで砂漠の果てに見たオアシスの蜃気楼に縋るが如き皆の反応に、ウォースパイトは困惑する。ただ野獣の方はもう慣れたもので、今度は少年提督の立体映像を、高速で点けたり消したりし始めた。長門達は泣いたり叫んだりしながら、もの凄い速度で笑顔を浮かべては悲しさに表情を曇らせた。それが1分ほど続いたあと、「おい止めろ!!」と、肩で息をする長門がテーブルをぶっ叩く。

 

「取り合えず、お前らの理性がガバガバっていう事も良く分かったから、この辺にしといてやるよ(半笑い)」

 

 野獣がまた肩を竦めつつ、タブレットを操作する。

 

「立体データさえ入力しておけば、色々とコスチュームとか体型とか弄ったり出来るからさ。今度はこれを、艦娘図鑑にも採用しようかと思ってるんだよね(約束された悲劇)」

 

「嫌な予感しかせんぞ……」

 

 長門が苦い貌で言う。その時だ。今度は、立体映像の少年提督が姿を変える。これが今しがた野獣が言っていた体型の変化か。立体映像の少年提督の背が伸びて、体格が変わっていく。青年の姿へと成長した。落ち着いた風貌の青年の彼は、黒い提督服がとても良く似合っている。しかし。ウォースパイトは、急激に高鳴ってくる胸の鼓動に戸惑う。デジャブ。この青年は。前に。何処かで。いや。そんな。右手は。青年の彼は。右手。手袋をしている。今の彼も。右手に手袋している。完全に意識の外だった。彼が異種移植を受けた経緯や過去については知っている。しかし。しかしだ。あの青年の正体は。まさか。そんな馬鹿な。違う。違う筈だ。でも。では……。立ち尽くすウォースパイトの頭の中を、色々な要素と可能性と否定が、グルグルと廻り始めた時だ。

 

「良くできてるだろ? これをボイスアプリと組み合わせると、お休み前にコイツが労ってくれるんだぜ?」

 

 野獣が得意気に言いながら、タブレットを操作した。青年の彼の声が再生される。

 

『今日もお疲れ様でした。ゆっくりと休んで下さいね』

 

 それは。普段よりも少し低い声だ。その優しげな声は。聞いた事がある。やはり。でも。しかし。ウォースパイトは、自分の視界がぐらぐらと揺れるのを感じた。思考が纏まらない。汗が出て来る。呼吸が早くなる。そんな、少々様子のおかしいウォースパイトに気付いた野獣が、此方に視線を寄越して来た。

 

「何だよウォースパイト? 腹でも痛いのか?(デリカシー0)」

 

 思慮もへったくれも無い野獣の言葉に、流石にビスマルクやグラーフ、金剛やアイオワが非難の視線を野獣に浴びせる。「もっと在るでしょ?」と、陸奥も呆れた様子だし、長門も『コイツはなぁ……』みたいな苦い貌をしている。もう大顰蹙だが、ウォースパイトにとってはそれどころでは無かった。今までの少年提督と自分の遣り取りを必死に思い出す。一つ一つを、具に思い出そうとする。何かを見落としているような。決定的な勘違いとは違う。完全に思考の外に置いていた可能性。それが。現実感を伴い始める。馬鹿なと笑い飛ばせない自分が居た。あの青年は。少年提督。Admiralなのか。ウォースパイトは其処まで考えて、ハッとする。顔を上げると、周りの面子が此方を見ていた。皆、心配そうな貌だった。混乱気味な思考では、咄嗟に何をいうべきか分からなかった。しかし、気を遣わせてしまうのは申し訳ない。ウォースパイトは、「い、いえ……、何でも無いわ」と、少々ぎこちない笑みを浮かべつ、緩く首を振った。周りの面子も安心してくれたようで、皆で軽く息を吐いた時だ。

 

「あ! テイトクゥー!!」

 

 花が咲くような笑顔を浮かべた金剛が、ウォースパイトの少し背後に手を振った。テイトク。そうか。Admiralも食堂に来たのか。何てタイミングだ。何も今でなくても良いのに。気持ちや思考の整理が出来ていないのに。いや、大丈夫だ。落ち着け。落ち着くのだ。Warspite。そう。まだ慌てるような状況じゃない。飽くまで可能性の段階だ。あの小柄な少年提督が、ウォースパイトを軽々と抱きかかえてくれた青年であるという、可能性があるだけだ。ウォースパイトは気付かれないように薄く呼吸をしてから、少年提督に振り返った。呼吸が止まった。

 

 其処に居たのは。一人の青年だった。清潔感のある白いシャツに、黒色のパンツを着ている。肌の白い青年だ。一見すると華奢にも見えたが、違う。身体が引き締まっているのだ。シャツの胸元のボタンを開けており、そこから覗く胸元には筋肉もついている。これも男性特有の色気と言うのか。ドキリとしてしまう。それに、蒼み掛かった昏い瞳の左眼と、濃く濁った緋色の右眼が印象的だ。人形のように整った顔立ちをしている。湛えられた微笑みは、気の優しいおじいさんみたいで、若々しい青年の相にちぐはぐだ。だが、不思議と違和感が無い。それは多分、青年が異様なほどに落ち着き払っているからだろう。

 

 青年は、静かな足取りで此方の席に歩み寄ってくると、皆に軽く頭を下げて見せてから、やわらかな眼差しで皆を順番に見遣った。金剛やビスマルク、それにアイオワやグラーフ、プリンツ達は、ごく自然な感じで青年と軽い挨拶を交わしあっている。

 

「あっ、そっかぁ(弟を見守る兄の眼光)、今日は生体データ採取だったか?」 

 

 野獣が訊くと、青年は右手の人差し指で頬を書いた。

 

「はい。この体の調整と制御が何処まで可能なのか、それを精査して、戻ってきた所です」

 

 柔らかな声で言う青年は、少しだけ野獣に目許を緩めて見せる。彼が頬を掻いている右手の甲に、ウォースパイトは釘づけになる。見覚えの在る、いや、在り過ぎる黒い幾何学文様が、其処には刻まれていた。あぁぁぁ……。ウォースパイトは顔を両手で抑えて、その場にしゃがみ込んでしまいそうになる。もう間違い無い。そうだ。よく考えれば。気付く機会は在った筈だ。少年提督も言っていた。“ウォースパイトが居た保管室には、自分しか居なかった”と。なのに。最初に思考から除いていたのだ。少年提督は、あの青年では無いと。そう見た目だけで判断していた。痛恨の判断ミスだ。恐る恐る、そっと視線を上げる。此方を見ていた青年と目が合った。慌てて眼を逸らす。視線が泳いでいるのが自分でも分かる。「何キョドってんだよウォースパイトぉ~?(相撲部)」と、野獣が絡んできた。

 

「何いきなりトゥーシャイシャイガールになってんだよ~? お前、実はそういう……キャラだったのか……?(今明かされる衝撃の真実)」

 

 ウォースパイトの心には全く余裕が無いと言うのに。野獣はすっとぼけた様な、芝居がかった深刻な貌で絡んでくる。殴ってやろうかと思ったが、出来なかった。青年が微笑みかけて来たからだ。全く心の準備が出来ていなかったから、心臓が止まるかと思った。思わず見蕩れる。涙が出そうだ。頬が熱い。火が出そう。きっと自分の顔は真っ赤なのだろう。急にもじもじとし始めたウォースパイトに、金剛達も少々怪訝な表情を浮かべている。

 

 野獣が何かに気付いたかのように、一つ頷いた。

 

「そういや、その姿でウォースパイトに会うのは初めてか?(冴え渡る勘)」

 

「いえ、初めてお会いした時は、この姿でした」

 

 彼は野獣に応えたあとで、また右手の人さし指で頬を掻いた。

 

「施設の方々に別人と間違えられそうでしたので、ウォースパイトさんと出会う少し前に、こっそりと姿を変えていたんです」

 

 青年は、ウォースパイトが聞いた事のある声で、少しだけ可笑しそうに言う。確かに、軍属施設の厳重な警戒態勢の中では、訪れる筈の人物の姿が全く違えば、余計な混乱を招くだろう。それが任務の為の来訪ならば猶更だ。つまり彼は、本来の少年の姿でウォースパイトの元を訪れ、接触する寸前に青年の姿へと変わっていたのか。しかし。しかし。なぜ。何故だろう。青年の姿である意味は何なのか。ウォースパイトは、湯だったような頭を回転させようとするが、上手くはたらく訳もない。だが、勇気を振り絞る。ウォースパイトは顔を上げて、ぐっと青年を睨むみたいに見据えた。何か。何か言わないと。ウォースパイトは、そっと挙手する。そして少年提督が、青年の姿をとる事が出来る事実を、知らなかったことを正直に白状する。今のウォースパイトの混乱と状況を、皆に共有して貰うことを選んだ。

 

 

 

「そ、そうだったんですね……。てっきり、ウォースパイトさんは知っているものだとばかり……」

 

 ウォースパイトの話を聞いた彼が、何だか申し訳なさそうな貌になった。聞けば、深海棲艦の右腕と右眼の移植を受けた彼の躰は、深海棲艦化の深度と、それに伴う肉体活性によって、一時的に急激な成長を与えることが可能なのだという。それは、彼自身が扱う金属儀礼・生命鍛冶術の、自己への応用と適応であり、高度な改修施術による、肉体と精神の最適化でもあるらしい。故に、普段の少年の姿では編むこと出来ないような施術式も、青年の姿でならば扱うことが可能になるのだと言う。今の彼が眼帯も手袋もしていないのは、異種移植された腕や眼を完全にコントロール出来る状態らしい。彼が自身の人間ではない部分を隠さないのは、皆への信頼があるからだろう。そんな彼の説明から、以前の状況が見えて来る。青年の姿をとり、自身の能力を増幅・拡張を行わなければならない程、かつてのウォースパイトの状態は絶望的で、治癒するのは困難であったという事だ。再び、彼への強い感謝の念を抱く。

 

 あぁ、そうだ。礼を。あの時に言いそびれた礼を言わねば。

 

 彼からの話を聞き終えたウォースパイトは、神妙な表情になって深呼吸をした。その余りに真剣な様子に、周りの面子も『何だなんだ?』みたいな様子だが、今は気にならない。心を落ち着かせる。そう。私は、Queen Elizabeth級2番艦。Warspite。優雅に。典雅に。高貴さを持って、この感謝の気持ちを伝えねば。ウォースパイトは、なけなしの力を振り絞って、何とか普段通りの微笑みを浮かべて、言葉を紡いだ。

 

「Arigatonasu(気品溢れる笑みと共に)」

 

 彼が「えっ(素)」と声を漏らし、長門達がずっこけて、野獣が喉をならして低く笑った。

 

 

 











最後まで読んで下さり、有り難うございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

靴紐を結び、曰くを踏む

◎親身な御指摘を頂き、本文の修正させて頂きました。
 下ネタが強めかと思います。ご注意をお願い致します。
 また内容について、細かいながらも修正を加えて参ります。
 ご迷惑をお掛けして、申し訳ありません。


 いつも暖かな感想と応援の御言葉を寄せて頂き、本当にありがとうございます! 読んで下さる皆様には本当に感謝しております。今回も更新が遅くなって申しわけありません。次回更新がありましたら、また不定期になるかと思いますが、お暇つぶし程度にお付き合いいただければ幸いです。

以前に更新させて頂きました活動報告での艦娘一覧についても、不十分な点や誤りが在り、ご迷惑をお掛けしております。此方もまた修正させて頂きます。今回もお付き合い下さり、本当にありがとうございます!





≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 Foooo↑!! うちの鎮守府でも、ハロウィンパーティしますよ今年は~!

 ハッピーハロウィ^~~ッ!! S●X&S●X!!!! 

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 申し訳ないけど、乱●パーティーはNG

 テンション上げるのは結構なんだけど、Trick or Treatだからね。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そうとも言いますねぇ! あとは秋祭りの準備も始めなきゃだけど、何か意見とか要望のある奴、今のうちに手ぇ挙げろ!

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 そういえば、近いうちに会議を開く予定だったな。

 とは言え、規模としては前の鎮守府祭ほどでも無いのだろう?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 おっ、そうだな。予算の都合で、祭りの衣装についてはお前ら全員分の服装までは用意できないっぽいんだよね?

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 前はディアンドルとかメイド服とか、手の込んだ衣装もいっぱい用意したもんねー。

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 私達には着ぐるみまで用意されてたわよね……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 今回はそういうのは無しの方向で行くゾ。

 とは言え、予算を抑えた上で場の雰囲気を作る必要があるからさぁ。

 ここは法被とか浴衣でOK? OK牧場?

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 悪くはないな。ついでにお前も、ちゃんと提督服を用意しておけよ。

 一般の来客もあるんだ。海パン姿は不味いぞ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 おっ、そうだな!

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 やけに素直ですね……。何か企んでいるかしら?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 俺だってTPOは弁えるんだよなぁ……。そういう言い方は、†悔い改めて†

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 本営に召集された会議の席に、海パンとTシャツ姿で出席する奴の台詞とは思えんな。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 あんな糞退屈な会議なんざ全裸でも良いぐらいなんだよなぁ……。

 祭りには俺も法被着たかったけど、前みたいに個人的な来客もあるし、しょうがないね。

 よし、じゃあ代わりに@Butcher of Evermindに着てもらうか!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 駆逐艦用だったらアイツも着られるでしょ?

 上は法被! 下は褌で! よし! 決まりッ!

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 あぁ^~、良いわねぇ^~

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 胸が熱くなるな。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 流石に気分が高揚します。

 

 

≪大和@yamato1. ●●●●●≫

 とても良いと思います。

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

 ちょっと待って下サーイ!!

 上は無し! 下は褌! っていうのは如何デスか!?

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

 えぇと、それはちょっと……、どうでしょう?

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 どちらかと言うと大賛成ね。

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zeppelin1.●●●●●≫

 流石は金剛だ。我々とは考えることが違う。

 

 

≪鹿島@katori2. ●●●●●≫

 あの! 上は法被! 下は無し! とかでも可ですか!?

 

 

≪武蔵@yamato2. ●●●●●≫

 そういうのも在るのか。

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 上は無し、下は無しでも良いのかしら

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 もう裸なんですがそれは……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 お前らも一斉に食い付き過ぎィ!!!

 それにパイ子ォ! 全裸提案とかもう許せるぞオイ!

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 誰かパイ子ですって?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 お前じゃい!! 

 そんなんだからアダルトサイトの架空請求に引っ掛かるんダルルォ!?

 ロイヤルなのは見た目だけかお前はぁ!!

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 えぇ……。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 それはどのようなサイトだったのですか?

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 いや、そこは掘り下げてやるなよ……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 ショタ系の奴だったゾ。

 

『元気系、生意気系、儚い系、いろんな可愛い男の子がいっぱい』

『お姉ちゃんを見てると僕、お股がムズムズしちゃう☆』

『駄目だよお姉ちゃん、何か出ちゃうよ!』

 

 とかいうパワーワードとショタの桃色画像でディスプレイが埋め尽くされたついでに

『登録ありがとうございます』とかいうウィンドウが、携帯端末に表示されて在ったよなぁ?

 なぁ、パイ子ぉ?

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 すぉ

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 ほ

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 んぽぽp

 

 

≪アイオワ@Iowa1.●●●●●≫

 落ち着いて、ウォースパイト。端末を一旦置いて。

 手の震えが収まるまで、ちょっと深呼吸しまショウ?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 お、ウォースパイトの持つ48のロイヤル技のうちの一つ、“ロイヤル☆挙動不審”か?

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 おい野獣。駆逐艦娘達も此処を見てるんだから、そういう話題で盛り上がるのは止めようぜ?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 大丈夫大丈夫、駆逐艦とかアイツの端末からは見れないよう、さっきフィルター掛けたからさ。

 上の方のログは殆ど隠れてる筈だし、ちょっとくらい下ネタで盛り上がってもヘーキヘーキ!!

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 あれは

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 その

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 勝手に

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 金剛が

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

 何の話デース!? 濡れ衣を着せようとするのはNGだヨ!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 はぇ^~、今度は“ロイヤル☆嘘八百”か? 技が冴えるぜ☆

 

 

≪あきつ丸@特殊船丙型. ●●●●●≫

 いや、これは“ロイヤル☆しどろもどろ”ですな!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 おぉ^~、迫真の連続技が光る!

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 野獣もあきつ丸さんも、そうやって何でもかんでも“ロイヤル”つけてさぁ、ウォースパイトさんを弄り倒すのやめよう? 普通に可哀そう。

 

 

≪武蔵@yamato2. ●●●●●≫

 まぁ、根が誠実で真面目なウォースパイトらしい。自家発電も程ほどにな。

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 あとでそのサイトについて詳しく

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 武蔵! それに加賀!  私が頻繁にそういった場所を利用しているみたいな言い方は止めて下さらない!?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 夜中にガンガンと部屋の扉をノックされた時は流石にビビったけどさぁ。

 扉を開けたら、携帯端末片手にテンパりまくった半泣きのパイ子が居て草が生えたんだよなぁ……。

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 覚悟はよろしくて?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 あっ、そうだ! おい陸奥ゥ! お前、部屋の掃除は終ったかぁ!?

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 急に何よ? 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 一般来客の中から、何かこの鎮守府異臭がするってクレームが来たら大変だからね。

 

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 喧嘩売ってるの? 

 そもそも、私の部屋は片付ける必要もないほど普段から綺麗だから。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 ほんとぉ? 陸奥は寝返りをうつと、乳首から火花が散るんでしたよね?

 ちゃんと片付けとかないと、周りのゴミに引火しちゃうしなぁ。やはりヤバい……!

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 しないわよ!! 乳首から火花なんか出る訳無いでしょ!?

 私を何だと思ってるのよ!! それに部屋も全然散らかって無いわよ!!

 むしろもう寝具と机しか無いわよ!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 独房かな? まま、ええわ。どうせすぐに分かるからさ。

 ちなみに俺は今、陸奥の部屋の前に居るんだよね。

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 e

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 タチ悪ぃなおい、メリーさんかよ……。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 入って良い? 良いよな? オッスお邪魔しまーす!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 何で鍵掛けてんだオルルァァァン!!

 綺麗にしてるって言ったのに確認させないのはおかしいだろそれよぉ!

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 そんなん関係無いでしょ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 セキュリティ機能で部屋のロック開けてんのに、ドアが開かないってどういうこったよ?

 ビクともしねぇ。あっ、分かった。今まさにお前、扉押さえてんな、お前な。

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 してないわよ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 嘘つけ、絶対押さえてるゾ。しかもこのパワー、艤装召んでますねこれは。

 何だこの必死な防御姿勢は……、たまげたなぁ……。

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 何の話よ? 私は今、美容の為にヨガ中だから。

 集中したいのよね? 邪魔しないでくれる?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そうはいかないんだよなぁ……。

 実際、お前の部屋の前を通った摩耶が、「くせぇ……(´・ω・`)」ってぼやいてたゾ。

 これは原因究明の必要がありますあります!

 

 

≪摩耶@takao3.●●●●●≫

 おい野獣!! 適当な事ばっか言うのマジで止めろ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 曙は携帯端末を眺めながら廊下を歩いていた。窓から日が差す廊下も、空気が少しひんやりしてきており、秋の訪れを感じさせる。窓の外を一瞥すれば、晴れた空には雲も疎らだ。その下には、穏やかな波を湛えた海が広がっている。いつもの風景だ。曙は軽く息を吐き出してから、手にした携帯端末にまた視線を落とした。表示されているのは、艦娘囀線のタイムラインである。しかし、何らかのフィルターが掛けられているようで、ディスプレイには“此方の端末では表示できません”というウィンドウ。曙は口元を緩めつつ、やれやれみたいに鼻を鳴らした。どうせ野獣がタイムラインを引っ掻き回して、誰かが下ネタで自爆したりしたんだろう。だから駆逐艦の端末からは見えないようにしてあるのだ。まぁ、珍しくない事と言うか、いつもの事だ。廊下を歩く曙は現在、陽炎と一緒に野獣の執務室に向かっている。時刻は13時過ぎ。何でも午後からは何人かの艦娘を集めて、とある研修をするという事である。

 

 その研修とは、“コンビニエンスストアのレジ業務における研修”だ。以前、短期間ではあるが、とあるコンビニエンスストアの現場へと香取と鹿島が働きに出たことが在った。無論、これも本営の指示である。こうした試みは艦娘達のイメージアップの効果だけでなく、艦娘達を厚遇しているという外へのアピールにも繋がるという事で、人格を育んだ艦娘達が多いこの鎮守府に、本営から通達が届いたのだ。そうして、この二人が出向いたコンビニでは連日の大盛況と共に、艦娘という存在を、社会の中でより身近に感じて貰えるという、理想に近い形での成功を見せていた。これに味をしめた本営は、派遣する艦娘の数をさらに増やしていこうという魂胆らしい。

 

 普段の艦娘運用に支障が出ない範囲で、艦娘達がレジ業務訓練を行うと同時に、一般の人々と接するだけの社会性や適正を見極められるようにせよというのが、今回の本営からの指示とのことだ。いつもなら本営からの通達の殆どを適当にあしらったりする野獣も、今回は大人しく指示通りに動いている。多分、艦娘達を好意的に受け止めてくれる社会の反応に、野獣も喜んでくれているんだろう。テンションこそ上げきってはいないが、こういう取り組みに対して張り切っているように見える。

 

 

 曙たちが野獣の執務室に到着すると、演習やら訓練などを終えた艦娘達が、既に何人も集まっていた。人数的に曙たちが最後だったようだ。集まった艦娘達の中には、加賀、時雨、鈴谷、それに他にも、天龍や霞たちの姿もある。ただ、様子が少々おかしい。集まっている艦娘達は軽いざわめきの中、執務室の中で呆れたような感心したような、驚いているような貌で執務室を見渡していた。そりゃそうだろう。曙だって、扉を開けて硬直した。隣では陽炎だって眼を丸くしている。

 

「何よコレ……」 思わず言葉が漏れた。

 

 今までも野獣の執務室は、無茶な改造と改築、拡張を繰り返し施されていたのは知っているつもりだった。神秘の領域に触れ得る職工・工匠である妖精達の手によって、今では執務机やソファセットの類いだけでは無く、バーカウンターやシャワールーム、キッチンスペースまで備え付けられていた筈だ。もはや執務室なのか何なのか分からないような大部屋と化していて、上層部の誰かが視察に来ようものなら卒倒しかねない様相を呈していたのは覚えている。だが、今はそのどれとも違う。

 

 此処は、コンビニだった。白く明るい照明。並んだ商品。雑誌棚。冷蔵棚。雑貨。コピー機。ATM。レジカウンター。本当にコンビニだ。混乱しそうになるし、現実感が無い。それでもやはり、此処はどう見てもコンビニだ。100人中、99人はそう答えるだろう。執務室をぐるりと見まわして観察し、見れば見るほどコンビニである。頭がおかしくなりそうだ。曙は何とも言えない貌で、隣に立っている陽炎と顔を見合わせた。陽炎は肩を竦めて苦笑を浮かべて見せる。

 

「相変わらずっていうか。こういう周到さは、野獣提督らしいわね」

 

「……ほんとにね」

 

 曙は表情を歪ませて、息を吐き出した。まぁ研修の為に酒保を使うよりは、こういう場を文字通り造ってしまう方が効率も良いし手っ取り早いのだろう。この鎮守府には妖精達だけでなく、そういう工作や造物加工に係る施術に長けている少女提督もいる。きっと彼女の協力もあったに違いない。こんな悪ふざけ一歩手前の改装も、一応は本営の意向に沿う形なのであろうが、出鱈目な男だ。

 

 曙が鼻から息を吐き出した時だった。執務室の扉が開いて、何人かが入ってくる。まず先頭を切って入ってきたのは、上はスーツ、下は海パン姿の野獣だ。お洒落のつもりか伊達メガネまでしている。すぐ後ろには今日の秘書艦である赤城が、タブレットと書類を片手に、集まった皆に微笑んで会釈して見せる。野獣も、「お ま た せ」と皆に視線を巡らせつつ、その伊達メガネのブリッジをくいっと人差し指で上げた。その仕草が、なんとも芝居がかっていて不自然極まりなかった。そんな野獣と赤城に続いて入って来たのは、少年提督、その後には、某コンビニの制服を着用した香取と鹿島が入ってくる。この二人は経験者という事で、この研修の講師役でもある。これで面子も揃ったようで、野獣は赤城からタブレットを受け取りつつ、再び集まった艦娘達を順に見た。

 

「そんじゃ、まずはお前らも制服に着替えて、どうぞ」

 

 

 

 

 

 

 こうして始まったコンビニのレジ研修。渡されたマニュアルの小冊子をパラパラと見る限りは、そう奇を衒ったようなものでも無さそうだ。説明の内容が言葉遣いやレジ操作に重点が置かれていることについて質問してみると、他の業務についてはまた次回に行うという事だった。まぁ、基本は接客という事か。曙は眉間に皺を寄せつつ、マニュアルを軽く流し読みしていると、隣にいる陽炎が声を掛けてきた。

 

「ねぇ、曙」

 

「なに?」 視線だけを動かして陽炎を見る。

 

「上のボタン外れそう」

 

 そう言った陽炎は曙の前にすっと身を寄せてきた。こういう時に見せる陽炎のお姉ちゃん然とした振る舞いは、嫌味や優越感を全く感じさせない。マニュアルから顔を上げた曙が、気恥ずかしさから断ろうとする間もない手際の良さだった。ボタンを留めなおしてくれた陽炎は曙を見て、また嫌みの無い笑みを浮かべる。

 

「曙、制服似合うね。かわいい」

 

「うっさい」

 

「へへへ」

 

 手の掛かる妹の悪態を微笑むみたいに笑った陽炎も、某コンビニの制服に着替えている。活発な彼女に良く似合っていた。と言うか、皆すごく似合っている。着る本人が佳ければ、何を着ても見栄えが良いという言葉は聞いた事があるが、その通りだと思う。バイトに来ている不良娘みたいな天龍の制服姿や、今風のギャルっぽい鈴谷の制服姿なんて似合い過ぎてるくらいだ。不知火や時雨、加賀や赤城も、しれっと制服を着こなしていて、普段の落ち着いた雰囲気も壊していない。そんな姿が魅力的に見えるのは、いつもとは違う恰好だという新鮮さも大きいだろう。

 

「曙も可愛いわよ」 お姉ちゃん然として陽炎が言う。

 

「はいはい」 曙は眼を合わせずに答える。

 

 そんな遣り取りをしている内に、曙たちがレジに入る順番が回ってくる。研修の内容は、艦娘達でレジ側と客側に分かれて、接客とレジでの対応の訓練を行うというオーソドックスなものだ。二つあるレジカウンターには鹿島と香取が指導員としてついており、レジ役の艦娘達の背後に控えている。その様子を少し離れたところから野獣や少年提督が監督しているという状況である。執務室が割とマジでコンビニと化しているので、本当にお偉いさんが視察に来た新入社員研修みたいな風景だ。

 

 ただ、皆も優秀というか。この鎮守府では、艦娘達が主体となった鎮守府祭も大きな成功を見せているし、以前は夏祭りなんかの地域行事の手伝いにも参加している。普段は厳しい訓練を受け、秘書艦としての実務も学び、座学でも集中力を発揮するのが艦娘達である。皆、其々にマニュアルの内容をソツなくこなしていく。曙も、客役としてレジに商品を持ってきた時雨や天龍、それに鈴谷を問題無く捌いて見せる。皆の優秀さぶりに、香取や鹿島も満足そうだ。

 

「お前ら……、いつからそんな……、テクニシャンになったんだ?(称賛)」

 

「理解と吸収が早くて、本当に凄いですね」

 

 傍で研修の様子を見ていた野獣と少年提督も、曙たちの成長の速さに頷きあっている。

 

「よーし……、じゃあ俺達も参加して、特別な稽古つけてやるか!(余計な一手)」

 

「えっ、僕もやるんですか?」 少年提督が野獣に向き直る。

 

「当たり前だよなぁ?(道連れ先輩)」

 

 

 

 二人はそんな会話を経た後。

 

 

 

 少年提督と野獣が、艦娘達に混ざる事になった。二人は着替えており、少年提督は高そうな革靴に細身のパンツ、それに清潔感のある白シャツにジャケットを合わせたシンプルな恰好だった。野獣は男性用のトゲトゲ付きボンデージに着替えており、殆ど裸の上半身にラメ入りネクタイを締めていた。ピチピチの革ビキニパンツと、引き締まった肉体を締め上げつつも彩るベルトが強烈だった。こいつマジで頭おかしい……。そう思ったのは、貌を歪めた曙だけでは無かった。

 

「あのさぁ……」と。

 すかさず突っ込んだのは、疲れたような貌になった鈴谷だった。

 

「場に相応しい恰好て言うの? もっとあるでしょ?」

 

「俺にとっての最適解が“コレ”なんだよなぁ……(ガリレオ先輩)」

 

 野獣は、『天才故の苦悩』的な何かを滲ませるような、似合わない難しい貌で鈴谷に頷いて見せた。当然のことながら、加賀や天龍は侮蔑の視線を隠そうともしていないし、黙ったままの時雨や赤城だって何だか残念そうな貌だ。「えぇ……(困惑)」と声を漏らす香取や鹿島の隣では、陽炎も表情を歪めていた。舌打ちをしたのは不知火か。周りの艦娘達も白けたような貌で野獣を見ていた。少年提督だけは、穏やかな表情のままで皆を見守っている。

 

「一応聞くけど、その恰好は何者のつもりなの? 一般客なのよね?」

 

 とりあえず。曙は漏れそうになる溜息を堪えて、野獣に説明を求めた。野獣は、よくぞ聞いてくれたみたいに力強く頷いて見せる。

 

「俺はね、通りすがりのボンデージマスター!(自己紹介)」

 

「不審者じゃん」 腰に手を当てた鈴谷が、表情を歪めて一蹴した。

 

「撮影の途中で、ちょっとコンビニに立ち寄ったっていう設定だから(ハードモード)」

 

「いや、設定がどうとかじゃなくて、その恰好で出歩いてるとか在り得ねぇだろ」

 

 眉間に皺を寄せた天龍が、冷たい正論で追い打ちをかける。

 

「お店に着く前に警察に捕まると思うんですけど……(便乗凡推理)」

 

 香取が恐る恐ると言った感じで言う。鹿島も頷いていた。

 

「辿り着く可能性は、0じゃないから……(潰えぬ希望)」

 

「そんなレアケース想定する必要あるんですかね……」

 

 陽炎がおずおずと聞くと、野獣は「在る!(男気)」と、迷いなく答えた。あほくさ。曙と霞がそう小さく呟いたのは、多分同時だった。とりあえず、もうこれ以上の問答が無意味であるという事は皆も察した。なし崩し的に、“意味不明な存在が客として訪れたパターン”が生まれた。難易度が跳ね上がる。そして、少年提督の方も何らかのイレギュラー要素を持ち込んでくるパターンだろう。気を取り直した香取と鹿島も、少し表情を引き締めていた。二つあるレジカウンターのうち、片方に少年提督が対応される。霞のレジだ。緊張の一瞬。コンビニと化した執務室が静まり返る。全員が見守る中。

 

「いらっしゃいませぇ……(若干の震え声)」と、かなり警戒したような硬い表情の霞のレジに、少年提督が少々恥ずかしそうな表情で提出した商品。それはエッチな本だった。野獣の入れ知恵に違いなかった。しかもロリもの。商品のバーコードを読み取ろうとしていた霞が「すぉ……ッ!?」と、妙な声を漏らして、肩をビクリと跳ねさせた。顔を赤くして、そのエッチな本と少年提督を何度も高速で見比べた。霞の背後で監督をしていた香取も、メガネの位置を直しつつ真剣な眼差しで本の表紙を凝視している。これには少年提督も恥ずかしさを感じたか。珍しく、彼が頬をほんのりと朱に染めて、視線を斜め下へと注いでいる。もともと色白な彼だから、その愛らしい赤さがよくわかる。普段は殆ど見せない彼の恥ずかしがる仕種に、曙まで何だか恥ずかしくなってきた。ほぼセクハラに近いし、実際に応対している霞の羞恥は如何ほどか。

 

 しかし、霞は中々強かった。接客の最中に、大きく、大きく深呼吸を始めた。たっぷり7秒ほどの沈黙と瞑目の後。霞は真っ赤になった顔の筋肉をフルに使って、真顔を保つ。そして、少年提督を見詰める。再び、10秒ほどの沈黙。もう余裕でクレームになりそうな対応だが、待たされている少年提督の方が申し訳なさそうな貌だ。だが、この場の緊張感もすごい。誰も何も言わない。霞の一挙手一投足を、周りの艦娘達が皆で注視している。曙だって、心の中でメチャ応援している。がんばれ霞。超がんばれ。って言うか、何か言いなさいよ。黙り込み過ぎでしょ。エッチな本について何か対応しないと。少年提督にとっても酷い羞恥プレイだ。香取さんも何か助けてあげてお願い。

 

 そんな曙の祈りが通じたのか。香取が唇の端をチロリと舐めつつ霞の肩を軽く叩いてから、「年齢認証が必要な商品ですよ?」と、少年提督に流し目を送りつつ小声で耳打ちした。その小声が、鳥肌が立つほど艶っぽい気がしたが、気のせいという事にしておこう。霞も、監督の立場にある香取の言葉に素直に頷き、少年提督に向き直る。

 

「……こういうのが好きなの?(まさかの反撃)」

 

「えっ?」 少年提督が素の反応を返す。

 

「今回だけよ……。見逃してあげるわ。だ、大事に、ちゅ、使いなさい!!」

 

 真っ赤になったままの霞は上擦りまくった声で言いながら、エッチ本を乱暴にレジ袋に突っ込んでから片手に持って、「んっ!」と、そっぽを向いたままで少年提督に押しやった。鹿島は「はぇ^~……」と、心底感心したように何度も頷いているし、香取と加賀は、まるで戦術指南でも受けているかのような眼差しで、霞の行動を分析している。

 

「おい霞ィ!! 誰が神アドリブ魅せろっつったオルルァ!!(指導)」

 

 自分の恰好を棚に上げて霞を注意する野獣には、曙を含む他の面々からも冷たい視線が注がれる。ただ野獣はそんなものを意に介さないし、実際に違反行為をしているのだから、霞にとっては分が悪い。普段ならハッキリとものを言う霞も、「だって……! その……!」と、赤面したままでモゴモゴと言い淀んで歯切れが悪い。

 

「お、男の子にだって、その、色々あるんでしょ!? こう、『びゅっ!!(意味深)』ってするのに、そういう本が在ると良いって聞いたし……!(ママ的対応)」

 

 霞は早口で言いながら、少年提督を睨むようにして向き直った。凄い汗だ。

 

「ね!? アンタもそうでしょ!!?」

 

 少年提督は、霞の視線を受け止めつつ、不思議そうな貌だった。

 

「えっ」

 

「“えっ”て何よ!?!?!?(狼狽の嵐)」

 

「あの……、『びゅっ!!(意味深)』っていうのは、何の事なのでしょう?」

 

 少年提督は、少し戸惑ったような表情で霞に問う。再び、コンビニと化している執務室が、静寂に包まれた。助け船を出さずに黙り込んだ野獣は、阿呆みたいに真面目な貌で霞を見詰めていた。絶対にこの状況を楽しんでいる。なんて奴だ。だが、誰も迂闊な事を言えない。下手な事を言えば、自分が大火傷をする。霞の盛大な自爆に巻き込まれることを知っているからだ。天龍や鈴谷、赤城、それに陽炎や時雨は、伏し目がちにそっぽを向いている。曙だってモジモジしてしまう。だが、加賀や香取、鹿島達は、眼をギラギラとさせながら、先ほど神アドリブを魅せた霞が、今度はどんなハットトリックを魅せるのかを注意深く観察している。不知火も似たような目つきだ。

 

 もの凄いカウンターパンチを喰らった霞は真っ赤になりながらも、苦虫を噛み潰すどころか、ゴキブリをしゃぶっているみたいな貌になって、「ふぅぅぅぅんんんんんんんんんんんん……(南無三)」と息を漏らした後、視線を泳がせまくりながら、「ほ、ほほ、……ホワイト、ショットぉ……(意味不明)」と、無念そうに掠れた声で紡いだ。両手で顔を覆った霞は半泣きだった。

 

「えっ、ホワイト……、何ですか?(無垢)」

 

「だからぁ……、生命のぉ……、どぴゅって言うか、その、白く迸るパトス的な……、あの……、あ゛ぁーー!!! もうっ!! うっさいわねぇ!! もう!!」

 

「えぇっ」

 

 流石に冷静な言葉を選んでいられなくなったのか。霞が叫びだした。

 

「象さんをパオーンさせてスコココココ!ってやってたら、男の子のエッセンスが『びゅびゅーーー!』って出るのよ!!(本質への接触)」

 

「あの、何度もすみません……。象さんと言うのは……」

 

 真面目な少年提督は、難しい貌になって執務室の窓の方を一瞥したりした。

 

「外に居る訳じゃないから!! 男の子がみんな飼ってる象さんの事よ!! 察しなさいったら!!」

 

「それは、えぇと……、意識とか無意識とか、そういう哲学的な領域の話ですか?」

 

「違ぁう!! 違うけどぉ!! もうそれで良いわ!!!」

 

「では、こういった成人向けの雑誌は、その……、自分の内面に住まう象さんに触れる為に必要なんですか?」

 

「そうわよ!! 自分自身と対話するのよ!! 解る!? ばーぶー!!(ヤケクソ)」

 

「な、なるほど……、奥が深いですね……」 

 

 真摯な貌の少年提督は、難解な問題に取り組むような貌で霞に頷いた。

 

「はい!! この話はもう終わりっ!! 閉廷!!!」

 

 よく頑張ったと思う。半べその霞ママは、強制的に話を切り上げて、どすどすと乱暴に歩いてレジを抜けた。そしてすぐに顔を両手で隠して座りこむ。なにこれ恥ずか死んじゃう。霞が消え入りそうな掠れた声で呟いたのを、曙は聞き逃さなかった。取り残されてちょっと戸惑い気味の少年提督にそっと歩み寄り、優しく肩を抱いたのは加賀だった。加賀は目許を艶っぽく緩めて、少年提督に微笑みかける。

 

「私と一緒に、象さんを探しに行きませんか?(悲劇への道)」

 

 俯いたままで、曙は吹きだした。いや、他の艦娘達も吹き出していた。

 

「貴方の象さんは、何処……、此処かしら……?」

 

 ふぅ……と、熱っぽい吐息を漏らしながら、加賀は少年提督の首筋に触れた。そして手の指先を彼の肌の上を滑らせて、提督服の上から胸元へ。胸元から脇腹へ。脇腹から腰を通り太腿へと、何処か淫靡な動きで掌を這わせていく。「あ、あの……加賀さん?」少年提督は、やはり戸惑ったような貌で加賀を見上げている。そんな彼の視線を受け止めつつ、加賀はペロッと唇の端を舐めて見せた。やばい。眼がえらくマジだ。

 

「加賀さん!? レジ前でおっぱじめるのは流石に不味いですよ!!」

 

「店長さん(?)に何してるんですか!? 止めてくださいよ本当に!!」

 

 曙が止めに入ろうと思ったのと同時だったろうか。少年提督と加賀の間に割り込んだ翔鶴と瑞鶴の二人が、息の合ったコンビネーションで迫真のインタラプトを見せた。一部で拍手が起こるほどだ。貞操の危機を逃れた少年提督は、目まぐるしく変わる今の状況に翻弄されているのか。翔鶴と瑞鶴に庇われる形になっている彼は、「僕は店長役だったんですか……?」みたいな感じで、一生懸命に思考を回転させているようだ。まったく、と思う。普段は小賢しいというか、何でもかんでも知っているみたいな、得体の知れない雰囲気を纏っている癖に。艦娘達と居る時は無防備で馬鹿なんだから。このチビ提督。曙は胸の内で悪態をつきつつも、瑞鶴と翔鶴に感謝する。

 

「申し訳ないけど、白昼堂々のショタ象さんハントはNG(厳重注意)」

 

 野獣もやれやれと肩を竦めながら、レジの前へと歩み出る。

 

「後がつかえてるんだよね。早くレジで会計させてくれや!(せっかち)」

 

 恰好はともかくとしてだ。客と言う立場からなら、野獣の言っていること自体はもっともな言い分だ。加賀は名残惜しそうに少年提督を一瞥してから、ボンデージマスターと化した野獣に向き直る。だが、特に何かを言うでもなく、息を一つ吐きながらレジへと素直に戻って見せた。話が脱線しまくって真面目な研修の雰囲気が崩壊しつつ在ったものの、加賀の大人な対応のおかげで奇跡的に持ち直した。ただ、野獣の応対をするのがよっぽど嫌なのか。加賀は先ほどのような嬉し気な表情では無く、ものすごく不服そうな貌だった。殺人オーラをちょびっとだけ纏い始めている加賀の背後。監督役としてレジの後ろにいた鹿島も、表情をビキビキと強張らせて緊張しているようだ。

 

「あのさぁ……、せめてもうちょっとくらいは、こう……、さぁ?」

 

 野獣はクソデカ溜息をついてから、肩を竦める。

 

「お前には、“おもてなし”の心が足りてないんだよね? それ一番言われてるから」

 

 野獣は言いながら、手にしていた買い物カゴをレジに置く。

 

「此方をおちょくる気満々で、最初から“おもてなし”を受ける気の無い御客様も居られるようですが」

 

 そう言いながら加賀は眼を細め、野獣が持った買い物カゴの中を見遣った。曙もそれに倣う。野獣がレジに置いたカゴの中身は、割と普通だ。コーヒー。パン。ボールペン。メモ帳。髭剃りローション。漫画雑誌。等々。統一感が無いものの、特に怪しいと言うか警戒するようなものは入っていない。加賀の視線に気づいていた野獣は肩を竦めながら、唇の端を持ち上げて見せる。

 

「酷いお客さんも居たもんだなぁ……。そういうのは流石に、ゆるせへんし(義憤)」

 

「はいはい……(生返事)」

 

 野獣はもう“客”になりきっているのだろう。レジの女性店員に気さくに話かけてくるオッサン系の客を演じているようだ。確かにこういうお客さんも居るだろうし、『絡んでくる相手を上手く捌けるか』という実践か。それに応対する加賀の声音や表情の端々には、距離感とでもいうべき何かが含まれていた。普段の野獣と加賀のものではない。あの距離感は、店員と客だ。涼しい貌で野獣のたわごとを流した加賀は、ガムを手に取ってバーコードを読み取った。“ピッ”という音が鳴る代わりに、『デデン!!』という迫真のイントロが短く流れた。周りに居た艦娘達の何人かが吹き出した。加賀の背後で、鹿島が肩を震わせて俯く。

 

 完全な無表情になった加賀は、その殺人フェイスを野獣に向ける。野獣は加賀の方は見ようとせず、いつの間にか取り出していた携帯端末を手早く操作していた。あぁ。あれでレジの機能を弄ったのか。レジに表示されている金額もおかしい。ガム一個が14万3000円もするわけがない。「高過ぎィ!!」と、其処かしこで突っ込みの声が上がった。だが、加賀は冷静だった。『14万3000円が……1点」と。ちゃんと読み上げて会計を行う。続けて、違う商品バーコードを読み取った。

 

 次は、パン。『デデン!!』 

「14万3000円が、……2点」

 

 次は、コーヒー。『デデン!!』 

「14万3000円が、……3点」

 

 次は、おにぎり。『デデン!!』 

「14万3000円が、……4点」

 

 次は、ボールペン。『デデドン!!(絶望)』 

「チッ……(舌打ち)、14万3000円が、……5点」

 

 次は、メモ帳。『ひょろしくね!!(元気な鈴谷ボイス)』 

「んふっ……(軽い笑み)、……14万3000円が、……6点」

 

「ちょっと待って!! なんで急に私の音声が再生されたの!?」

 

 鈴谷が野獣と加賀の間に割り込むようにして言うが、これには渋い貌をした野獣が対処した。

 

「なんだなんだ~? 割り込んで来てんじゃねぇよお前よ~」

 

「いやいや、私もスタッフだから! 店員役だから!」 

 

「そう……(無関心)」 

 

 野獣は興味なさそうに言ってから、また携帯端末へと視線を落とした。再び店の機能に干渉しようとしているのだろう。

 

「あーーッ!! お客様!! 困ります困ります!! あーーーッ!! 困ります困ります!!!」

 

「うるせぇ店員だなぁ……(辟易)」

 

「レジの機能を遠隔で弄り回してくるお客さんとか居ないから!! 14万3000円均一のコンビニとか聞いた事ないよ!!」

 

「俺はまぁ、さすらいの天才ハッカーだから(変幻自在)」

 

「ボンデージマスター何処に行ったの!?」

 

「お前の、心の中だよ……(慈しむ眼差し)」

 

「居ないよ!! 来てないよ!! やめて!! そんなの人の心に住まわせようとしないでよ!!」

 

 野獣と鈴谷が言い合う間に、加賀がすべての商品のバーコードを読み取り終えた。商品は全部で10点。レジの金額表示画面に、1,430,000の冷たい表示がされると同時に、『加賀岬』が大音量で流れ出した。加賀は殺人フェイスのままで、野獣に向き直る。

 

「こちら、143万円になります(BGM:加賀岬)」

 

「143万!!? ぼったくりやろコレェ!?(予定調和)」

 

 野獣がイチャモンをつけようとするも、加賀は表情を崩さない。

 

「この店が、駅から近いという事もありますから(意味不明)」

 

「あっ、そっかぁ……(謎の納得)」

 

 一体、今の遣り取りの何処に143万円を払うに納得する要素があったのかは永遠の謎だが、取り合えず会計が終わりそうな気配に、鈴谷が疲れ切ったような溜息を吐き出して項垂れた。傍でレジでの攻防を見守っていた曙は、今も大音量で流れている『加賀岬』を聞きながら軽く同情してしまう。ボンデージ姿の野獣が財布を何処からともなく取り出し、カードをレジに置きながら、「今流れてる曲、……良い歌声してますよねぇ^~?」と、耳を澄ませるように静かに瞑目した。

 

「俺、この曲の名前知ってるんですよぉ^~? 『無期懲役岬』ですよね?」

 

 似合わない爽やかな貌で、野獣がにこやかに言った次の瞬間だった。バァン!!という音と共に、レジカウンターが浮き上がった。「『加賀岬』です」と静かに言葉に紡いだ加賀が、カウンターを蹴飛ばしたんだろう。加賀のすぐ傍、その後ろで監督をしていた鹿島が、「ひぃっ!?」と、悲鳴にも似た怯えた声を漏らして尻餅をついていた。周りに居た鈴谷や、翔鶴や瑞鶴など、他の艦娘達も肩をビクッと跳ねさせる。だが、野獣は怯むどころか突っかかっていく。

 

「オルルルルルァ!! レジカウンター蹴飛ばす接客なんかレッドカードに決まってんだルルォ!?(珍しく正論)」

 

「そうですね。以後、気を付けます」

 

 加賀は野獣の方を見ずに、はぁぁ~……と、鬱陶しそうに表情を歪めて言う。

 

「なんだお前その態度はよぉ? オオォン? 扱いてやらねぇといけねぇな?(いつもの)」

 

「上等です。正義は勝ちます」

 

 グングンとヴォルテージが上がっていく加賀と野獣を前に、監督役の鹿島は「はわわわ……」と、体をぷるぷると震わせている。曙と陽炎は再び顔を見合わせるが、なんとなくだが、二人して軽く笑った。周りの艦娘達も静観に徹している。皆、なるようにしかならないし、ちゃんとストッパー役が居ることも知っているからだろう。

 

「お前が正義だったら、俺はウルトラスーパーファイヤー正義だから(絶対王政)」

 

「そんな小学生みたいなノリで絡んでくるお客さんもレッドカードだよ(指摘)」

 

 野獣に冷静な言葉を掛けたのは時雨だ。野獣は「そうだよ(自制)」と、時雨に頷いているが、あれで反省しているつもりなのか。それにレジに歩み寄った赤城も、「まぁまぁ」と加賀を宥めてくれている。そうして、ヒートアップした野獣と加賀が落ちついたところで、鈴谷が声を掛ける。

 

「訓練の為にお客さんのバリエーションを増やそうっていう発想は理解出来るんだけど、斜め上過ぎるんだよね? もうちょっと普通に寄せれない?」

 

「おっ、そうだな(新たな見地)。……じゃあ、ちょっと着替えて来るゾ」

 

 野獣は肩を竦めて、面倒そうにコンビニと化した執務室から出て行った。

 

 そんな一連の遣り取りを微笑んで眺めていた少年提督も、きっとこんな風な感じに騒ぎは収束するだろうと予想していたに違いない。時雨が野獣のバカ騒ぎを止めて、そこに付き合う加賀を赤城がクールダウンさせて、最後に鈴谷が場の舵を取る。こういう流れになるのも、時雨や鈴谷、それに加賀、赤城たちの付き合いの長さや絆の深さによるものだろう。野獣が馬鹿な事ばかりしでかすのも、この四人を信頼してこそなのかもしれない。いや。それも考えすぎか。何も考えていない可能性もある。まぁ、別にいいか。そんなのは。

 

 曙はまた、ふと少年提督を見遣った。彼は、制服を着た周りの艦娘達から話しかけられており、囲まれていた。それでも彼は、皆の輪の中に溶け込んでいないようにも見える。同時に、何とか溶け込もうとしているようにも見えた。これは、完全に曙の個人的な主観であり、感想だ。それ以上でも以下でもない。穏やかな表情の彼は、周りの艦娘達と、この研修の意義や改善点、課題などの意見を聞きつつ、皆と一緒にこの研修に取り組んでいる。体験と意識の共有によって、艦娘達と同じ立場に立とうとしている。それは先ほどまで馬鹿なことをしていた野獣だって同じだったはずだ。それに、この研修の設備を揃える為に、協力してくれたであろう少女提督にしたってそうだ。こうした能動的な取り組みの結果が未来において、曙が思うよりもずっと大きな意味を持つことを、少年提督達は予想しているのだろうか。

 

「ねぇ、曙」

 

 声を掛けられて、じっと少年提督を見詰めていたことに気付く。慌てて視線を逸らしながら、「……なに」と、曙は素っ気なく陽炎に応えた。

 

「ん~? いや、曙はかわいいなぁと思って」

 

「うっさい」

 

「ねぇ、曙」

 

「だから何よ」

 

「今の私達ってさ。自分の事さえ、ろくすっぽ決められないわよね」

 

 不意に真面目になったその声に、曙は陽炎に向き直る。陽炎は、曙を見ていなかった。先ほどの曙と同じく、少年提督を見詰めていた。眩しそうに眼を細めている。

 

「そんな私達がさ、こうやって社会の中で生きていく道を耕そうって、けっこう凄い事じゃない?」

 

 そう言った陽炎の声音は、感謝と喜び、そして、緊張と不安が滲んでいた。曙は、どんな言葉を返すべきか分からなかった。だが、共感だけは出来た。だから、「……そうね」と、短く答えた。

 

 艦娘達の事を、人間の味方であり、また隣人であると考える者は増えてきている。感謝と共生を願うべき存在だという人々も増えてきている。艦娘という存在は、戦史の中で意味や形を変えて、世論の中の構造に変化を与えてきている。無論、艦娘達を兵器と見る者も居る。道具と見る者も居る。傀儡と見る者も居る。人間と非なる者と見る者も少なくない以上、艦娘達の社会への接触は少なからずの誤解や齟齬だって生むだろう。しかし、そういった摩擦を重ねながらの節制と献身、奉仕や学習の中でこそ、“艦娘”という種の立場にも、社会的、人間的な特徴が生まれていくのでは無いかとも思う。今はその最初の一歩を踏み出す為の、そんな準備期間のようなものだ。「いろいろと面倒くさそうだけどね」と。遠慮なく言う曙に、陽炎も可笑しそうに笑った。

 









今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

教外別伝  前編

更新が遅くなり、申し訳ありません。
今回も若干のキャラ崩壊注意をお願い申し上げます……。

内容の薄さに反し、今回は字数が嵩んでしまったため、前編、後編に分けさせていただいております。
前編は日常編の色が強く、後編はシリアス色がかなり強くなりそうです。
次回更新がありましたら、この後編と、また違う話の2話同時更新に出来ればと考えております。
シリアスが苦手な方が、次回の後編は無視して頂いても大丈夫な内容にしたいと思います。
誤字も多く更新も遅れ、ご迷惑をお掛けしております。
本文につきましても、また修正させて頂きます。



 サラトガは執務机の前で敬礼の姿勢をとって、微笑みを浮かべた。龍驤が今日の演習に付き合ってくれたので、共にその報告をしに執務室に訪れている。穏やかな貌で執務机に腰掛け、こちらの報告を受けていた少年提督の隣では、ウォースパイトが秘書艦用の執務机に優雅に腰かけていた。見たところ忙しそうにしている空気ではない。まぁ、仕事の早そうなこの二人の事だ。まだ昼過ぎだが、デスクワークの殆どを終わらせてしまったのだろう。其々の執務机には上品なカップが置かれており、薄く湯気をくゆらせていた。ウォースパイトが淹れた紅茶で、休憩のティータイム中だったに違いない。

 

「お二人とも、お疲れ様でした」

 

 報告を聞き終えた少年提督は、執務机の前に敬礼して立つサラトガと龍驤へと、温みのある柔らかな声で言う。蒼み掛かった仄暗い左眼を細めて、口元に笑みを浮かべている。相変わらず子供っぽくない、落ち着き払った微笑みだ。それでいて、不自然さを感じさせない。彼の右眼を覆う、拘束具にも似た仰々しい眼帯の不穏さや、色素が抜け落ちたような白髪の不吉さも、その微笑みに滲んだ優しげな雰囲気によって調和している。無垢と魔性が、危ういバランスを保っている。そんな彼の表情に、少々ドキリとしてしまう。秘書艦用の執務机に腰掛けて優雅に佇んでいるウォースパイトも、チラチラと少年提督の横顔へと、さりげなくも熱っぽい視線を送っていた。サラトガの隣に居る龍驤の方は、自然体なままで報告を行っている。ただ、彼へと向けられる龍驤の声音は、普段よりも少し弾んでいるように聞こえるのは気のせいだろうか。

 

 

「今日の演習はそんな感じで、意義深い時間やったわ」

 

 彼への報告を終えた龍驤は喉を低く鳴らすように笑いつつ、敬礼の姿勢を解いた。

 

「まぁ加賀に比べたら、ウチじゃちょっと物足りんかったかもしれんけどな」

 

 そして手を頭の後ろで組みながら、横目で見るようにしてサラトガへと視線を向けて来る。

 

「いいえ、そんな事は決してありません。とても勉強になりました」

 

 答えたサラトガは笑顔を浮かべつつも、真剣さを眼に灯して、龍驤へと視線を返した。

 

「なら、ええんやけどな」

 

 短く言って肩を竦めた龍驤は、嫌みの無い、親しみ安そうな笑顔を浮かべて見せた。少年提督とはまた違う、快活なのに落ち着きのある笑顔だ。初めて出会った時も、確かこんな笑顔を浮かべていたのを覚えている。本来、今日のサラトガの演習の相手は加賀だった。しかし、今日はウチが相手になるわ、と。龍驤が名乗り出たのだ。それが意味するものは、この鎮守府に召ばれて日が浅いサラトガにも理解出来た。

 

 かつての史実では、“龍驤”は“サラトガ”の攻撃隊によって沈んでいる。サラトガと龍驤の間には、浅くはない縁があった。この事に関して、この鎮守府でサラトガが負い目を感じたり、肩身の狭い思いをしないように、龍驤は進んでサラトガとの演習に参加した。大胆にも、敢えて演習という武を交えたコミュニケーションを通して、周りの艦娘たちに、自分たちに遺恨は残っていないという事をアピールしようとしたのだ。

 

 勿論だが、サラトガはこの鎮守府で孤立している訳では無い。仲の良いアイオワも居るし、赤城や加賀をはじめとした空母達とも、すぐに打ち解けることが出来た。ただ、艦娘である以上、どうしても前世と言うか、過去の記憶はついて回るものだ。龍驤とサラトガに対して、周りの艦娘達が気を遣うような時も確かにあったのも事実だった。龍驤は、そういうのを余り好まないらしい。今回の演習の件では、やはり龍驤とサラトガの間には、確執が在るのだと感じた艦娘達も居るだろう。

 

 だが、実際に演習が始まってみれば、すぐにそんな不安も払拭できた筈だ。演習の最中でも、憎しみや敵意、険悪さは無かった。無論。過去が頭を過る瞬間が無かったと言えば、嘘になる。だが、海の上でサラトガの前に立つ龍驤は、終始楽しそうだった。同時に、嬉しそうでもあった。波間を駆けながら、巻物型の甲板を流麗に扱う龍驤の姿と、意思の強そうな瞳がとても印象に残っている。この演習の最中に、龍驤が己の前世と向き合い、自身の内で消化する中で、何を見出したのかは分からない。ただ間違いないのは、龍驤はサラトガを仲間として受け容れている。疑いも嫌悪も無い。サラトガも同じだ。この縁を忌避するのでは無く、大事にしたい。共にありたいと思う。二人が同じ想いを持っていたからこそ、今日の演習は確かに意義深かった。互いを高めあい磨きあう為の清廉な時間だった。それを、少年提督やウォースパイトも感じてくれているからだろう。執務室の空気も穏やかで、暖かい。

 

 

 

「お二人にも、紅茶を淹れましょうか?」

 

 サラトガと龍驤の短い遣り取りを見ていたウォースパイトは席から立ち、サラトガと龍驤を交互に見てから、少年提督に向き直る。「えぇ、お願いします」と。少年提督も、ウォースパイトに頷いて見せた。サラトガも、隣に居る龍驤と顔を見合わせた。演習を終わらせて入渠も済ませてあるし、急ぎの仕事も互いに無かった。折角のウォースパイトの好意を断る理由も無い。少年提督に促されるままに、執務室のソファに腰掛けたサラトガと龍驤は、ウォースパイトからティーカップとソーサーを受け取った。

 

 サラトガと龍驤は礼を述べてから、その紅茶を一口啜って感動する。香りも格別だった。サラトガはゆったりと一つ息を吐いて、その余韻に浸る。龍驤も、「うま……、何やコレ……(畏怖)」と、真顔になってティーカップの中身を凝視していた。その様子に、ウォースパイトも少し可笑しそうに、そして擽ったそうに小さく笑う。そうこうしているうちに龍驤が、少年提督やウォースパイトも一緒に休憩しようと誘う。もともと、サラトガ達が訪れるまではティータイムの途中だった筈の少年提督とウォースパイトも、ソファへと腰掛けた。

 

 平和で、緩やかな時間の流れだった。四人で話に華を咲かせる。鳳翔の店で飲める、美味しい酒のこと。間宮の新メニュー。作戦の改善点。仲間のこと。周りの艦娘のこと。練度や装備、海域のこと。深海棲艦のこと。そして、自分たちの過去。これからの日常のこと。話のタネは尽きない。ゆったりとした時間が過ぎる。この後、少年提督達は野獣の執務室へと出向く予定があるらしいが、まだまだ時間には余裕があるとの事だった。何でも、艦娘達用に新たな訓練機器を用意したので、その試運転に立ち会うとのことだ。

 

 サラトガと龍驤も「ご一緒に如何ですか?」と彼に誘われたものの、野獣が用意したものとなると身構えてしまう。ただ、モニターになれば間宮の甘味無料券や、鳳翔の店でも熱燗が一杯無料という特典も用意されていると聞いて、まぁ、それなら……と、サラトガと龍驤も頷いた。少年提督は懐から携帯端末を取り出して、二人が参加することを伝える。

 

 その様子を見ていた龍驤が、「あっ、そうや。忘れるところやった」と。

 何かを思い出したように言って、懐から何かを取り出した。携帯端末だ。

 

「演習の最中に、海に落としてしもてな……。電源が入らんのや」

 

 気付かなかった。サラトガは龍驤に謝ろうとしたが、「いやいや、悪いんは不注意やったウチや」と、言葉を遮られた。その後、「申し訳ない」と、両手を合わせた龍驤は、少年提督に頭を下げた。

 

「スマンのやけど、新しいのって支給してもらえるんやろか。修理は明石にも頼んでみたんやけど、ちょっと無理っぽいっちゅう話でなぁ……」

 

 すまなさそうに言う龍驤は、手に持った携帯端末を、正面のソファに座る少年提督に手渡した。少年提督は携帯端末を受け取って、暗いままのディスプレイに触れる。反応は無い。物理ボタンも同じだ。携帯端末は沈黙している。それを確認した少年提督は、龍驤へと頷いた。

 

「まだ備品として予備があった筈ですので、すぐに用意出来ると思います」

 

「おっ、ホンマに? すまんねぇ、面倒掛けて」

 

「いえいえ、僕に出来ることであれば何でも仰って下さい」

 

 にこやかに言う少年提督の、“何でも”という部分にウォースパイトがピクッと反応したのをサラトガは見逃さなかった。優雅にティーカップを傾けていたウォースパイトは、ほんの一瞬だけだったが、眼を鋭く細め、少年提督を見遣る。何かを言いたげに唇を動かしたウォースパイトだったが、結局何も言わずに紅茶を上品に啜るに留まった。サラトガは見なかった事にして、自分も紅茶を啜る。

 

「ほ~ん……。キミ、今“何でも”って言うたな?」

 

 サラトガもウォースパイトも何も言わなかったタイミングで、悪戯っぽく笑ったのは龍驤だった。

 

「えぇ、僕に出来る範囲であれば、ですが」と。

 

 答えた少年提督は、龍驤の冗談に付き合うのを楽しむように、目許を緩めて見せた。落ち着いた微笑みだったが、そこには少年っぽいあどけなさが滲んでいる。無防備で健気で、何とも言えない魅力で溢れていた。その表情に、サラトガは激しく萌えた。そわそわしてしまう。一方、ウォースパイトの方は、苦しそうに片手で顔を抑えて俯き、「はぁぁぁああ^~~……、すき……」と、熱い吐息と共に小さく声を零していた。

 

 龍驤はウォースパイトとサラトガの反応に気付いて、苦笑を浮かべつつもソファに座り直した。持っていたティーカップをソファテーブルのソーサーにそっと置いて、「此処だけの話なんやけどな……?」と、ぐっと身を乗り出した。まるで秘密話でもするみたいに、意味も無く辺りへと視線を巡らせる。

 

「はい、なんでしょう?」

 

 少年提督も、カップをソーサーに置いてソファに座り直して、身を乗り出す。何故か、ウォースパイトもそれに倣う。気付いている筈だが、特に龍驤は何も言わない。だから、サラトガも耳を欹てるみたいにして、身を乗り出した。そして、そのタイミングで龍驤が唇の端を持ち上げつつ、声を潜めて言う。

 

「キミ、あの少女提督と付き合っとるらしいやん? 何処まで行ったん?」

 

 

 龍驤の言葉に、「んんんぅぅぅうううう……」と苦し気に呻いたウォースパイトがカップをテーブルに置いて立ち上がり、蒼い顔で執務室をウロウロし始めた。片手で額を抑えて何やらブツブツ言いながら、時折大きく深呼吸したりしている。龍驤の問いに少年提督が何をどう答えても、それを現実として受け止める準備というか覚悟をしているのだろうか。

 

 ただ正直言って、サラトガもかなり衝撃を受けている。何だろう。胸を締め付けるこの感じ。まだ短い付き合いの中でサラトガは、少年提督の事を、年の離れた可愛い弟のように思っていた。少年提督は上司であり恩人であるのだが、その外見や自身との身長差、纏う雰囲気などから、勝手にそんな風に感じていた。その弟に、彼女が出来た。これはもう大事件だ。すごいショック。いや。いやいや。少年提督はサラトガの弟などでは断じて無いし、サラトガが勝手にダメージを受けているだけだ。落ち着かないと。息を吐き出す。

 

「はぁぁあ~……ぁああああぁああ……」

 

 自分でも引くくらい、重たい溜息が漏れた。

 

 一方で、少年提督は、ウォースパイトとサラトガの様子を、困惑したように見比べる。

 

「その辺り、ちょっとウチも気になるしなぁ。な~? 教えたってや」

 

 ただ、二人とも不調そうだとか気分が悪そうとか、そういう感じではないことは明らかなので、其処には言及しない。茶目っ気たっぷりに龍驤が答えをせがむ。ソファに座ったままの少年提督は、頬を左手の人差し指でポリポリと掻いてから、困ったように少しだけ笑う。

 

「彼女は僕に良くしてくれますが、そういった事は全く無いですよ」

 

「あれ……? そうなん?」 身を起こした龍驤は、眼を丸くして意外そうに言う。

 

「えぇ。僕と彼女は、同僚という間柄です」

 

「なーんや……。ウチはてっきり、もうチッスまで行ったんかなーとか思ってたんやけどなー」

 

 龍驤は何だか残念そうに言いながら、伸びをしてソファに凭れ掛かった。だが、その声音は何処か安心しているようでもあった。サラトガもホッとする。少し離れたところで、ウォースパイトも天井を仰いで深呼吸していた。執務室の空気が緩んで、少年提督は龍驤に苦笑を浮かべる。

 

「友人として、仲良くして貰っています」

 

 少年提督はその苦笑のままで、少しだけ肩を竦める。自分を責めるような笑顔だ。

 

「最近は一緒に居る時間も多くなりましたが、それだけ、僕は彼女に手間を掛けさせている状況です」

 

「仕事やったらしゃーないやろー。キミの場合は、まぁ……、特にな」

 

 龍驤は言いながら、凭れていた体を起こしてソファへと座り直した。

 

「ほんじゃ、ついでに聞いてもええかな?」

 

 姿勢を正した龍驤は、さっきまでの緩い雰囲気の中に、微かな鋭さを含ませる。声音に硬さが在った。少年提督を見詰める琥珀色の眼が、少しだけ細められている。

 

「キミらは今、何をやろうとしとるん?」

 

 龍驤は真っ直ぐ彼を見て訊いた。最近の彼は少女提督と共に、この鎮守府の傍に設立された深海棲艦の研究施設によく足を運んでいることは、サラトガも知っている。ただ、“それが何の為なのか”、という点については知らない。はっとして龍驤へと視線を向けた。そうか。先ほどの質問は、あくまで“ついで”だ。これが、龍驤が聞きたかった事だ。ウォースパイトも其処に気付いたようで、ソファへと戻って来た。少年提督は龍驤の視線を受け止めつつも、微笑みを絶やさない。ほんの少しだけ、逡巡するようにゆっくりと息をついた。

 

「僕の精神や思考を学習、認識させた人工知能の構築です」

 

 彼は勿体ぶるでもなく、端的に答えた。龍驤は何も言わず、更に眼を細める。

 

「人工知能……」 

 ウォースパイトが、訝しむように言葉を漏らす。

 

「それは、また……、何故?」 

 サラトガが、龍驤から彼へと視線を移す。

 

 

「僕たち“提督”と呼ばれる者達は、個々の持つその資質に違いがあります」

 

 少年提督は微笑んだままで言いながら、さきほど龍驤から受け取った壊れた携帯端末を掌に乗せる。そして、短く文言を唱えた。墨色の微光が、彼の掌に渦を巻く。風ならならぬ風が、執務室に吹いた。

 

「種類とでも言えばいいのでしょうか?」

 

 穏やかに言う少年提督の掌の上で、携帯端末が姿を変えていく。粒子のように解けて揺らぎ、ゆっくりとその形を融かしながら、何らかの形を取ろうとしている。それは、卵だ。金属機器である携帯端末が、彼の掌の上で、黒い卵へと姿を変えた。サラトガは眼を見張った。ウォースパイトも眼を見開いている。龍驤だけは、眼を細めたままだ。

 

 少年提督は、その卵を手に乗せたままで、簡単な説明をしてくれた。

 

 “提督”達が扱う生命鍛冶と金属儀礼の術式については、艦娘を召んだり、近代化改修や治癒修繕などの他にも、その影響を及ばす範囲は多岐に渡っている。野獣は、こうした術式を用いて己の肉体に干渉する術に長けているし、少女提督は多くの分野と提携する工学に活かすことを得意としている。そして少年提督自身は、生命や精神と言った領域に大きく干渉する術式を扱うことに特化している。こうした各々が得意としている分野において、専門性を突き詰めた人工知能を構築することで、後に技術や理解を求める者達の助けとなることを目的としているらしい。特殊な資質を必要するのでは無く、その特性の理論化によって一般性を持たせることに意義があるのだと。

 

 少年提督が簡単な説明を終える頃には、彼の掌にある卵が孵った。中から出てきたのは、雛鳥ではなく、成長した小鳥だった。囀り、瞬きをしている。羽毛も、その動きも、本当に生きているかのようだ。小鳥は破った卵の殻を啄み、羽ばたいた。少年提督の隣に居たウォースパイトの肩に止まった。ぴぃぴぃ。驚いた様子だったウォースパイトだったが、その愛らしい囀りに口元を緩めて、自身の肩へとそっと指を近づけた。黒い小鳥は、ウォースパイトの指へと飛び移り、また囀る。そして、また羽ばたいて今度はサラトガの肩へと止まる。間違いなく、この小鳥には生命が宿っていた。

 

「僕は術式を用いて戦うことも、工学への応用も出来ません」

 

 少年提督が再び何かを唱えると、サラトガの肩に止まった小鳥は姿を変える。今度は、小柄なリスだ。口元をもぐもぐと動かす姿が愛らしい。ヌイグルミのように柔らかそうな体毛と、生物が持つ筋肉のしなやかさが在った。リスはサラトガの肩を駆け下りてから、ソファテーブルの下を潜って、再び少年提督の掌の上へと駆け上がる。

 

「さきほども話しましたが、僕が他の方よりも専門的に扱えるのは、物質に大きく干渉する術式です」

 

 そうだ。これが、少年提督の持つ資質だ。無機の器物に、有機の躍動を与える。生命と機能を象り、付与する。金属の中に、経験や主観といった領域を作り出す。艦娘を召ぶ力の更に延長線上にあり、神秘や奇跡といった範囲の技術だろう。他の鎮守府や、こういった提督達が持つ力を解析している者達から、造命の宗匠、彫命の職工などと彼が呼ばれているのはサラトガも知っている。“提督”ならば誰もが扱える術式を、神話や神業と言える域で行使するのが彼だ。

 

「人工知能の開発は、こうした僕の持つ資質から独自性や個性を排し、誰にでも扱えるようにする為だそうです」

 

 穏やかな声音で言う少年提督は、微笑みながら掌の上にいるリスを撫でた。険しい表情になった龍驤が、何かを言おうとした時だった。彼の懐から電子音がした。携帯端末の着信音だ。少年提督はサラトガ達に、「少しだけ、失礼しますね」と頭を下げて、端末を取り出す。どうやらメールか何かのようだ。少年提督はディスプレイを操作し、届いたファイルを一読してから端末を懐に仕舞う。その時にはもう、龍驤はいつもの表情に戻って、肩を竦めていた。

 

「噂をすれば、っちゅう奴かな?」

 

 先程までの鋭い視線では無く、冗談めかした笑みを浮かべて、龍驤は少年提督に言う。

 

「はい、彼女からでした。少し確認したいことが在るとの事です」

 

「キミらは忙しいなぁ~。……名残惜しいけど、お茶会も此処までやな」

 

 ソファに座ったままで姿勢を正してから、「ご馳走さん、ホンマに美味しかったわ」と、龍驤はウォースパイトに手を合わせた。サラトガもそれに倣い、礼を言う。ウォースパイトも微笑んで此方に頷いて見せてくれた。

 

 

 その後。深海棲艦の研究施設へと少年提督が向かうのを見送り、サラトガ達も執務室をあとにする。秘書艦であったウォースパイトは、彼と共に研究施設へと行こうとしていたが、急な仕事に付き合わせることに気を遣った彼が、「先輩にも連絡を入れましたし、僕も直ぐに向かいますので」と、それを丁寧に断ったのだ。凄く残念そうな貌をしていたウォースパイトだが、彼女も大人だ。此処は彼の意向に沿う形で、サラトガは龍驤達と共に、三人で連れだって野獣の執務室へと向かう。その途中。何かを思案している様子の龍驤が、やけに静かだったのが印象的だった。

 

 

 

 

 

 さて。野獣の執務室に到着し、ノックして入室すると、長門と陸奥、大和の三人がソファに座って項垂れていた。その近くの窓際には、武蔵がコーヒーカップを持って、外の景色を眺めていた。

 

「おお、サラトガ達も来たか」

 

 此方に気づいた武蔵は、窓際に凭れ掛かって唇の端を持ち上げて見せた。美しさと凛々しさを湛えた武蔵の笑みは、含みも無く楽しげだ。武人然とした武蔵らしい魅力に溢れた笑みだった。それに比べて、長門や陸奥、それから大和の三人は、入って来たサラトガ達の方を一瞥して小さく笑みを浮かべてみせたものの、すぐに俯いて溜息を漏らすような状態だった。ひどい空気だ。

 

 此処に来る途中でウォースパイトが言っていたが、野獣が何かを試すというか、試験的に何かを運用する時、或いは、艦娘をモニターに集める時などは、大抵ロクでもないものらしい。長門達の様子を見るに、恐らくは何らかの弱みでも握られ、強制的にモニターとして此処に呼ばれているのだろう。これから野獣の思い付きとも親切とも言えない取り組みに付き合わせられることに、途轍もない憂鬱さを感じている最中と言ったところか。演習や出撃の前には、凛然として力強く、優雅でありながらも圧倒的なオーラを纏っている長門や陸奥、大和たちだが、今はもう見る影もない。おまけに少年提督は参加に遅れるという事で、もう目もあてられないような状況だ。

 

 何だか気の毒になってきたサラトガが、苦笑を浮かべる龍驤と、不安そうな貌のウォースパイトと顔を見合わせた時だった。執務室の扉がノックも無しに開かれて、野獣が現れた。いつもの海パンにTシャツ姿で、大掛かりな金属ケースを二つ、ゴロゴロと転がしている。

 

「お ま た せ (王の帰還)」

 

 野獣は、似合わない爽やかな笑みを浮かべて、執務室のサラトガ達を順に見た。敬礼の姿勢を取ったのは、サラトガだけだ。ソファに座っている長門達は顔も上げない。武蔵と龍驤は、また何か拵えてきたのかと、苦笑を浮かべつつも興味深そうにケースに視線を向けている。ウォースパイトは若干、警戒したような様子で野獣を見ていた。

 

「なんだなんだお前ら^~、そんなウキウキしちゃってぇ^~?」

 

「いや、お通夜みたいな冷えっ冷えの空気やけど……」

 

 龍驤がツッコむ。だが野獣は聞こえないふりをして、ゴロゴロと引っ張って来た重厚な金属ケースを開いて、中から何かを取り出した。厳重に梱包されていた様子のそれは、ヘルメットとゴーグル、そして、ヘッドセットのマイクを組み合わせたような形をしている。デザインには機械っぽい無骨さは無く、洗練された流線的なフォルムをしていた。近未来的と言うか、ハイテクっぽさを感じさせる機器だった。野獣はその機器を合計で8個取り出して、ソファテーブルの上に並べて、再び、サラトガ達を順番に見遣った。

 

「まずこれさぁ、ちょっとしたVR機器なんだけど、着けてかない?(今更の疑問形)」

 

 野獣の言葉に、今まで俯いていた長門達もソファテーブルの上に視線を上げた。明らかに怪しんでいる目つきだ。ウォースパイトだって、眉をハの字にして野獣と並べられた機器を見比べている。サラトガだって似たような貌で、並べられた機器を観察してみる。VR機器。つまり、仮想空間を体感できる代物ということだろう。ソファの傍で腕を組み、唇をへの字にひん曲げて立っていた武蔵が、まず動いた。ずいっとテーブルに歩み寄って機器を一つ手に取る。

 

「これは、被って使うのか?」

 

 矯めつ眇めつしながら、武蔵は野獣に訊く。

 

「そうだよ(肯定)。こんな感じで、すっげー簡単だから!」 

 

 野獣は武蔵に頷いてから、ソファテーブルの上の機器をひょいと持ち上げる。そして、被るようにして装着しつつ、携帯端末を海パンから取り出して手早く操作した。すると、各々のVR機器が起動したようだ。低く静かな駆動音が宿りだす。

 

「ふむ」 武蔵は躊躇わなかった。

 

 大和が、武蔵に何か声を掛けようとしていたし、長門や陸奥も、「気を付けろよ」みたいな事を言うよりも早かった。武蔵はそのままガションと、野獣と同じようにVR機器を被るように装着した。サラトガはその大胆さに畏怖を覚える。武蔵はVR機器を装着したままで、執務室を見渡した。サイズ的にも合っていたようで、グラつきや不安定さを感じさせない。

 

「ほら、見ろよ見ろよ(幻想への招き)」

 

 VR機器を付けた野獣が、サラトガ達が居るソファセットから、少し離れた場所へと顎をしゃくって見せる。これから何が起こるのかとハラハラした様子で見守るサラトガ達を他所に、野獣が指した方へと顔を向けた武蔵は「ほう……、これは……」と、驚いたように声を漏らした。

 

「なるほど。立体映像とはまた違ったベクトルだが、此方の方が臨場感があるかもしれん」

 

 武蔵は真面目くさった声音でそういった後、すぐに「おぉぉぉ……」と、震えた声を漏らした。まるで、何かに感動したかのような声音だった。

 

「何かオモロそうやん、ウチも着けたろ」 

 

 皆が警戒する中で、次に動いたのは龍驤だった。龍驤も機器を手にとって素早く装着した。そして、武蔵が凝視している方へと顔を向けて、「ほわ……ッ!!?」っと声を詰まらせた。だがすぐに、「おほほぉぉ^~……」と、龍驤も赤面しつつ、同じ場所を食い入るように見つめて、硬直してしまった。武蔵と龍驤の反応は普通じゃない。

 

「ねぇ、武蔵……? 一体、何が見えているの?」

 

 恐る恐ると言った感じで、ソファに座ったままで大和が訊いた。「あ、あぁ……」と、VR機器を装着したままの武蔵は少々赤面しながら、同じ場所を機器越しに見続けている。武蔵はすぐには答えなかった。少しの間、不自然な沈黙が在った。長門と陸奥も、押し黙って答えを待つ。サラトガとウォースパイトは、武蔵が見ている場所を凝視した。勿論、何も見えない。やはり、あの機器越しにしか見えない何かが、其処にはあるのだろう。やはり気になる。サラトガも、VR機器を手に取ろうとした時だ。武蔵が口を開いた。

 

「すぐ其処で、提督が……、その、なんだ、……着替えているんだ」

 

 何だか恥ずかしそうにポショポショと紡がれた武蔵の言葉に、長門達は即応する。

 

「何ッ!!!!!! それは本当か!!?!!?!!!?」

 

 電光石火だった。長門は叫びながら立ち上がるついでに、ソファテーブルに置かれていたVR機器を引っ掴んで、流れるような動きで装着した。「あらあらぁ……!」と、眼を鋭く細めた陸奥も同じく、舌なめずりをしながら機器を装着する。大和とウォースパイトの二人も、VR機器を手に取りソファから勢いよく立ち上がったが、「はぅ……ッ!?」「あふぁ……!?」勢いがつき過ぎて二人してソファテーブルの足に指をぶつけて悶絶していた。サラトガは皆の血相に一瞬怯んでしまったが、出遅れはしなかった。戦闘時にも劣らない集中力で、VR機器を手に取り装着。そして、武蔵達が凝視する空間へと視線を向ける。心臓が止まるかと思った。

 

 確かに。其処に。少年提督の姿があった。着替えている。上半身は、裸。蠱惑的な少年の躰だ。此方に背を向けている。その右半身には複雑な幾何学文様が刻まれていた。瑞々しく白い肌と紋様のコントラストは、禍々しくも淫靡で、何処か神聖さを感じさせる。サラトガは息を呑む。魔性とも言うべき色気だった。彼の横顔が見えた。静謐な面差しには、愛らしい白い頬。睫毛。憂いを帯びた眼差し。胸の桜色の蕾も。この世のものとは思えない造形だ。そんな彼がすぐそこで、ベルトに手を掛けて、カチャカチャとやり始めた。余りにも衝撃的で、刺激的で、官能的な瞬間が訪れようとしている。

 

「をうをうをうおろおろろおろ……!!」 

 

 興奮と戸惑いの余り、長門が何かを言おうとしたが言葉になっていない。

 

「ぁららららららららはぅぁぁ^~~……」

 

 その隣で、呆然と立ち尽くした陸奥が、とろけるような恍惚とした声音で謎のメロディーを奏で始めた。まぁ、そんなことはどうでも良い。いや、どうでも良くはないが、目の前の景色の方が優先される。

 

 サラトガも気付けば、自分の胸のあたりを両手でぎゅうぎゅうと掴んでいた。胸が苦しい。顔が熱い。変な気分になりそうだ。サラトガは頭を振る。この機器越しの景色に、立体的な映像や演出を象って見せることが出来ることは理解した。そうだ。冷静になるべきだ。これは、映像。虚像だ。深呼吸をしようとする。しかし、彼の姿から目を離せない。其処に象られた彼が、ベルトを外した。そして、黒い提督服の下履きに手を掛けて、ゆっくりと腰から下ろしていく。その彼の動きに合わせ、彼を見詰める長門と陸奥も、二人してパンツを脱ぎ始めた。サラトガも危うく二人に倣うところだったが、すんでのところで踏みとどまった。体の筋肉をフルで使うような、凄い意思の力が必要だった。

 

「あっ、おい、何やってんだお前ら(素)」

 

 流石の野獣も驚いたのか。或いは、困惑したのか。携帯端末を操作して、少年提督の虚像を一旦消した。

 

「そぉおいおいおいおいおいおいおいおいおい!!!?」

「ちょっとちょっとちょっとちょっとちょっと!!!?」

 

 VR機器を装着したままで長門と陸奥は、野獣に向き直り激しく抗議の声を上げて詰め寄った。そりゃあもう、凄い剣幕だった。

 

「おいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおいおい!!!?」

「ちょっとちょっとちょっとちょっとちょっとちょっとちょっと!!!?」

 

「うるさいんじゃい!!! 先にパンツ履いて、どうぞ!!!!(憤怒)」

 

 二人に言う野獣が虚像を消したタイミングは、大和とウォースパイトがVR機器を装着したのとほぼ同時だった。故に、大和とウォースパイトは、彼の艶姿を見ることが叶わなかったようだ。その事実に打ちのめされた二人は、まるで夢遊病者のような足取りで、先ほどまで少年提督の姿が在った場所へとふらふらと歩いて行った。

 

「Admiralは、どこ……、ここ……?」

 ウォースパイトが、力の籠らない声で言いながら、何かを探している。

 

「えぇ、間違いありません……。ここに、提督の香りがします……」

 大和は切なげに虚空を抱きしめ、ありもしない残り香を感じつつ、ゔォおぉぉぉお……と、涙を流している。成人女性の泣き方じゃない。

 

 かなりヤバい絵面だが、武蔵と龍驤の方は少々赤い貌をしつつも、まだ落ち着いている様子だった。ただ、VR機器を装着したままで、ちょっと気まずそうに互いの方を見ようとしない。サラトガも同じだ。顔が。顔が、めちゃ熱い。自分でも赤いのが分かる。今度こそ深呼吸をして、頭を冷やそうと試みる。

 

 思考を取り戻そうとするサラトガの傍では、長門達の方はヒートアップしているものの、野獣の方は冷静だった。「あのさぁ……、いきなりパンツとか脱がれちゃうと、びっくりしちゃうんだよね?(はっちゃん)」と、詰め寄る長門と陸奥を相手にしている。

 

「しかし……、お前……。

 もうちょっとで……、お前……。

 彼が……、お前……。

 下着姿で……、お前……」

 

 長門は興奮冷めやらぬと言った様子で、上手く言葉を紡げていない。陸奥の方も、途中で映像を消されて大層ご不満の様子だ。腕を組んで眉間に皺を刻み、首を傾ける姿はかなり怖い。美人が起こると恐ろしいと言うのは本当だ。

 

「何か勘違いしてるみたいだけど、これはそういうアダルトな事を目的にしてる訳じゃないから」

 

 しかし野獣は、ビビるような素振りは全く見せず、自身が装着しているVR機器の横側を右手でトントンと叩いた。

 

「基本的に、社会適応の為の訓練に使うためのモンやし(上っ面の真面目さ)」

 

 あぁ、なるほどなぁ……と、サラトガの傍で小さく呟いた龍驤は、野獣に向き直って鼻を鳴らした。サラトガも、野獣の言葉の裏にあるものを察した。こういう機器の実用に向けた動きは、前のコンビニのレジ研修の延長線上にあるものなのだろう。未だ戦いの中にある軍属の艦娘達が、今からでも人間社会に馴染むために出来る取り組みである。そしてこの機器を使えば、少年提督の下に居る深海棲艦達でも仮想空間の中ではあるが、社会経験をすることが出来る。

 

 今この場に集まっているサラトガ達は、その動作テストのモニターという訳である。意義深い機会だ。だが、先ほどの光景が脳裏に焼き付いているので、何だか釈然としないのも事実だ。急に真面目なことを言い出した野獣に、長門や陸奥、大和や陸奥、ウォースパイトも何だか微妙な空気の中で、VR機器を装着したままの顔を見合わせている。サラトガもむにむにと唇を噛んでいると、龍驤が小さく笑った。

 

「まぁ、こういうヴァーチャルなモンで訓練を積んで、“経験”を熟せるんやったら便利やろな」

 

「ダルルォ?」 野獣も言いながら、龍驤に頷いた。

 

「しかし、さっきの映像は何やねん」

 

「さっきの着替えシーンの事なら、アイツ自身に許可も取ってるから別に問題ないゾ(免責事項)」

 

「どういう事ですか……?(興味津々)」

 

 思わず聞いてしまったサラトガの声音は、自分でも驚くほど深刻な声音だった。ちょっと恥ずかしかったが、「それな!!」みたいに頷いた長門達も、野獣に視線を向けた。全員がVR機器を付けたままの異様な光景だが、野獣にとっては好都合だったのだろう。携帯端末を手早く操作して、再び、サラトガ達から少し離れた場所に少年提督の虚像を映し出した。ドキッとしてしまう自分が恨めしい。ただ、少年提督の虚像は、もう着替え終わっていた。黒いジャージ姿だ。少年提督が微笑んで、唇を動かした。

 

『では、体操を始めます。ゆっくりで良いので、僕に続いて下さいね』

 

 このVR機器の音声再生機能のおかげか。彼の温みの在る落ち着いた声が、ゾクゾクとした寒気がするほどの臨場感で聞こえた。変な声が出そうになる。少年提督は微笑んだままで、体を動かし始める。「あぁ^~」とか言いながら、少年提督の動きに倣い、体操を始めようとしているのは長門と陸奥、大和だった。ウォースパイトは食い入るように彼の虚像を見詰めている。穏やかな眼差しの武蔵は、腕を組んで彼の虚像を見守っていた。

 

「さっきの着替えは、この体操プログラムに繋がっている訳ですね……」

 

「そうだよ(肯定)。録画範囲の関係で、ちょっと着替えシーンまで入っちゃったけど、多少はね?」

 

『僕の着替えなんて、誰も気に留めないでしょう』と、少年提督は再び録画する手間を省いたという事だった。実用段階になって映像に手を加えることになれば、着替えの部分だけをカットすることも出来るだろうということもあり、そのまま実装されているらしい。VR機器がプロトタイプの現状では、この体操プログラムの映像には、着替えシーンが付属しているという状況だ。

 

「な、なりゅほど……。しょ、初回特典という訳ですね?」

 

 サラトガは噛み噛みで意味不明な事を呟いてから、咳払いして冷静を装う。意識しないと、じっと彼の虚像を見詰めてしまう。無垢な彼の体操姿は、愛らしかった。何というか、普段は見れない彼だからだろう。余計にそう感じる。龍驤も何も言わずに、下を向いたり横を向いたりしているあたり、多分冷静じゃない。そんな其々の反応を見てから、野獣は携帯端末を操作して、少年提督の虚像の動きを止めた。丁度、少年提督が屈伸の最中だった。微笑んだままで、前傾姿勢になり手を膝の上に置いている。これから膝を曲げようとしている姿勢である。

 

 その無防備な姿に、時間停止シチュエーションというイケナイ言葉が脳裏に浮かんだのは、ゴクリと唾を飲み込んだサラトガだけでは無かった筈だ。熱い吐息が周りでも聞こえた。周囲の状況を見ていた野獣は、VR機器を付けたままで「だからさぁ……」と、クソデカ溜息を吐き出す。

 

「コレは『健康維持のための体操』用のプログラムだけど、こういう健全さしかない内容で勝手に盛り上がられる(意味深)と、駆動試験になんないよ~(困った貌)」

 

 呆れ交じりに言う野獣の言葉も尤もだと思う。サラトガは何も言い返せなかった。長門達も同じだ。VR機器を装着したままでぐっと言葉を飲み込み、唇を噛んでいる。龍驤と武蔵が「ウチらもか……?」、「いや、私達はそこまで盛り上がってはいないと思うんだがな……」と、冷静に言葉を交わしている。

 

「今日のところは、もう動作テストも終わりにすっかな~……(無慈悲な宣言)」

 

 携帯端末を操作する野獣が残念そうに言いながら、時間停止状態の彼の虚像を消そうとした。だが、その野獣に「ま、待って!!」と、切羽詰まった声を上げたのはウォースパイトだった。

 

「私達は凄く健全な気持ちで、このモニターに臨んでいるの。邪な気持ちなんてこれっぽっちも抱いていないわ」

 

 VR機器を一度外したウォースパイトは、凛と表情を引き締め、野獣に向き直る。野獣が眉をハの字に曲げた。

 

「また“ロイヤル☆嘘八百”かぁ、壊れるなぁ……(辟易)」

 

「う、嘘じゃないわ!!」 ウォースパイトは食い下がる。

 

「ほんとぉ?(拭えぬ猜疑)」

 

「そ、そうだぞ!!(便乗) 野獣!! ほら見ろ!!」

 

 ウォースパイトに続いて声を上げたのは長門だ。「こうだぞ!! ほら!! こんな事しちゃうぞ!!」と、真剣な貌の長門は、うぉおおお!!と凄い勢いで腕立て伏せを始めた。体操プログラムの稼働実験で、何故に筋トレを始めるのは謎だが、長門はアレで自分の健全さのアピールをしているつもりらしい。其処に、「なかなかやるな」とか言いながら、武蔵が長門に並んで、高速で腕立て伏せを始めた。武蔵の真面目ボケが炸裂する。大和と陸奥も、互いに貌を見合わせて頷きあう。この流れに乗るつもりのようだ。大和と陸奥は互いに足を組ませ、フンフンフンフン!!と、向かいあう形で腹筋をおっ始めた。もの凄い高速の腹筋だった。

 

「そうですよ!! 私達もホラ!! こうですよ!! こう!!」

 

「こんな健全さしかない私達に、やましい気持ちなんて在る訳ないでしょ!!」

 

 ウォースパイトの言葉に、“説得力”と“熱い気持ち”を乗せるべく、長門や大和達が一丸となって汗を光らせている。「み、みんな……」と、そんな仲間達の姿に、ウォースパイトは軽く感動しつつVR機器を再び装着していた。強烈な光景だ。

 

「……何コレ(素)?」 そんな執務室を見回した龍驤がサラトガを見た。

「いや、サラに聞かれても……」 サラトガも反応に困る。

 

 ただ、長門達のアツい思いは届いたようだ。「しょうがねぇな~(悟空)」と、野獣は唇の端を持ち上げて見せる。野獣の言葉に、筋トレをしていた長門達が立ち上がり、肩をきつく組んで円陣を組んだ。

 

「よーし!!! 絶対勝つぞ(?)!!!」 長門が叫ぶ。

「おおおおおおおお!!!!(意気軒高)」 他の面々が、足を踏み鳴らして声を合わせた。

 

 何かのスポーツの社会人チームみたいな、ガチンコなノリだった。その光景を見つつ、「えぇ……(困惑)」と、サラトガが反応に困っていると、隣に居た龍驤が此方に気遣わし気な笑顔を向けてくれた。

 

「キミも、えらいトコに召ばれたなぁ~……(切なげ)」

 

「は、はい……(素)」

 

 この熱い空気に、若干の置いてけぼりを喰らっているサラトガを他所に、野獣は携帯端末を操作する。すると、VR機器が低い駆動音を宿らせた。何らかのプログラムが作動しているのか。サラトガがそう思った時だ。

 

「それじゃあ、お前らの健全さを信じて、……試しにちょっと、この“リラックスモード”を起動するゾ(Explore)」

 

 ニヤリと笑った野獣が、携帯端末を操作したのと同時だ。円陣を解いた長門達も、周囲を見回しているタイミングだった。少年提督が、いつの間にかウォースパイトの目の前に居た。ウォースパイトがギクッとして身を引いている。彼の虚像は、その服装を変えていた。ジャージでは無い。いつもの黒い提督服だ。彼の虚像が、ウォースパイトに嫣然と微笑んで見せた。

 

『此方にどうぞ』と。まるで上客を扱う丁寧さで、少年提督の虚像は、秘書艦用の執務机の椅子へとウォースパイトを案内し、座らせた。次の瞬間には、この機器から覗く仮想空間が、大きく姿を変え始めた。視界が歪む。捻じれて揺れながら輪郭を暈し、新しい世界へと変わっていく。今までは、この機器越しでみる光景は執務室だった。今は違う。此処は。何処だ。見た事が無い場所だ。一見して。清潔感のある空間だった。個室である。ベッドに、タオル、キャビネットなど。エステサロンにも似ているが、違う。少々、イカガワシイ感じだ。

 

 サラトガは装着していたVR機器を外してみた。当たり前だが、此処は執務室だ。秘書艦の執務机に、VR機器を装着したウォースパイトが座っているという状況だ。サラトガが機器を装着すると、やはり景色が変わっている。息を呑むほどに精緻なヴァーチャル空間である。使用者の意識をこの世界に深く没入させるのは、この機器の本懐なのだろう。まるで、ちょっとエッチなお店に案内された様子のウォースパイトは、「えっ、えっ、あのっ、あのっ……!」みたいな、不安そうで、それでいて嬉し恥ずかしドキドキ状態だった。

 

 そのウォースパイトにトドメを指す存在が、新たな虚像として登場する。

 

『お疲れさまです、ウォースパイトさん』

 

 少し低く、優しげな柔らかな声。少年提督の隣に。青年姿の彼が、黒い提督服で立っていた。ビクッと肩を震わせたウォースパイトが、その声の方を見て、すぐに俯いた。様子がおかしい。唇をぎゅうぎゅうと噛んで、背中を丸めて、額のあたりを左手で覆っている。右手でスカートをきつく握っていた。青年の方を見ようとしない。顔が真っ赤だった。

 

 あぁ。そうか。ウォースパイトは、少年提督の青年姿に特別な想いがあるのだろう。初心な少女のように、耳や首元まで染まった朱の肌が雄弁に物語っている。ただ、少年提督と青年提督の虚像は容赦しない。二人の虚像は、椅子に腰かけたウォースパイトを挟む形で両脇に立つ。これから、何が始まるのか。

 

 長門達は野獣の眼光を湛えて、成り行きを見守っている。サラトガは生唾を飲み込んで、隣に居る龍驤もハラハラとした様子だ。武蔵は難しそうな貌で腕を組んでいる。静寂は、数秒だった。少年提督の虚像が、ウォースパイトのすぐ隣で微笑んだ。椅子に腰かけているウォースパイトと、立っている状態の少年提督の背は同じくらいである。少年提督の虚像は優しく耳打ちをするように、その唇をウォースパイトの耳に寄せた。

 

『ではこれから、耳舐めマッサージを始めさせて貰いますね』

 

 優しい声音で、とんでもないワードが飛び出した。

 

「んへぇえっ!!?(ロイヤル☆素っ頓狂)」

 

 声をひっくり返らせたウォースパイトが、両隣にいる少年提督と青年提督を交互に見る。二人は微笑んだままで、更にウォースパイトの頬の辺りに顔を近づける。

 

「は、はわわわわ……っ!!」

 

 え、えらいこっちゃ……!! みたいな貌になったウォースパイトは、顔を真っ赤にしたままで唾を飲み込んで背筋を伸ばす。ガチガチに体を硬直させて、視線は目の前の中空の一点を凝視している。両隣にいる虚像達の方は見ない。余裕の無いウォースパイトの近くに、長門達が列を作って並び始めた。順番待ちのつもりか。サラトガも列に加わろうか迷っていると、横から服の裾を引かれた。「やめとき……。どうせロクな事にならんで」と、これからの展開を見透かしたような、不味そうな貌の龍驤だ。虚像達は、長門達やサラトガ達の様子には何も言わない。

 

『まず、お耳を温めますね?』

 

『失礼します』

 

 施術対象のウォースパイトの緊張を解すべく、虚像達は蕩ける様な甘い声で言う。

 

 ウォースパイトが甘い悲鳴を上げた。淫靡で蠱惑的に言う虚像達は、ウォースパイトの耳に『はぁぁぁ……』と、吐息を寄せたのだ。なんともエロティックな吐息だった。勿論、彼らは虚像だ。実在しない。故に、吐息など吐けない。しかし、サラトガ達が装着しているこのVR機器が、えげつない臨場感と存在感を虚像達に与えている。声の遠近、響き、呼吸の音まで再現する精密な音声コントロールに加え、精緻な仮想空間と精密な人物造形、所作の構築など。非現実的な世界から、不自然さを徹底的に排除したこの光景は、その状況の理由や脈絡、結実を求める必要を排除する。同時に、強烈な没入感を生み出す。

 

『では続いて、お耳を“はむっ”としますね』

 

『体を楽にして下さい』

 

 少年提督と青年提督の姿をした虚像達は、ウォースパイトを労わるように優しく言葉を紡ぐ。下心も、いやらしさも全く感じさせない声音だ。確かに、本物に似ている。というか、区別がつかない。赤い貌のウォースパイトが切なそうに息を漏らし、泣きそうな貌になっている。だが、少しも嫌そうじゃない。そんな素振りも全然見せずに、くたっとした様子で椅子に体を委ねている。潤む瞳をきゅっと瞑ったウォースパイトは、その瞬間に備えて、期待と不安に体を強張らせている。

 

 虚像達は、そんなウォースパイトの赤い耳を、唇でそっと挟むように銜えようとした時だった。いきなりだった。虚像達が、ふっと消えた。ついでに、もとの野獣の執務室へと世界が切り替わっていた。椅子に座っていたウォースパイトが、呆然とした様子で置き去りにされている。長門達も、その場に立ち尽くしていた。気まずい沈黙が数秒あった。

 

「Foooooooo↑! 良い性能してますねよぇ……。構築されたヴァーチャル空間も、なかなかリアルで良いゾ~コレ(ご満悦)」

 

 機嫌が良さそうなのは、携帯端末で何やらデータを採取していた野獣だけだ。

 

「おい」

 

 そんな野獣へと、ウォースパイトが威厳すら感じさせる低い声を掛けた。もう一度、「おい」と言ったウォースパイトは椅子から立ち上がり、ゆっくりと首を傾けながら艤装を召んで纏う。その威圧感と殺気に、サラトガは思わず身構えそうになる。流石は、武勲艦と言ったところか。本当に怖い。でも、怒るのも分かる。確かに、あのタイミングで中断は流石に可哀そうだった。長門や大和達も、野獣を責めるような目つきで見ている。しかし、野獣は「なんだよウォースパイト^~」と、すっとぼけたように笑う。

 

「そんなに暖ったまんなってぇ、も^~。おこ? おこなの? “ロイヤル☆ぷんぷん”?」

 

 茶化すように言う野獣に、ウォースパイトが下目遣いになって舌打ちをした。ヤバい。あの眼は、殺る気だ。オーラのようなものが立ち上っている。

 

「おい野獣! これ以上ウォースパイトをホッカホカにするな!」

 

 流石に長門と陸奥が、野獣にストップを掛ける。野獣が肩を竦めた。

 

「プログラムを終了させるタイミングが悪かったのは謝るゾ。まぁ、不具合も無いみたいだし、あとでもう一回起動させるからさ(優しさ)」

 

「……そう(めっちゃ低い声)」

 

 野獣の言葉に、取り合えずといった感じでウォースパイトは視線を逸らしつつ、艤装の召還状態を解いた。

 

「ホラホラ、機嫌直してよ。今回は特別に『“少年提督はウォースパイトさんが大好き☆悶々として夜も眠れない”』Verも用意してるんだからさ……(天使にも似た悪魔の囁き)」

 

 野獣は携帯端末を操作しつつ、そんなご機嫌ナナメな様子のウォースパイトに歩み寄り、悪い笑みを浮かべて耳打ちした。その野獣の言葉に、どれほどの衝撃を受けたのか。劇画みたいな貌になったウォースパイトが、弾かれたように野獣に向き直った。

 

「……それマ? マ?」

 

 余りのことに、真剣な貌のウォースパイトの口からギャル語が飛び出した。

 

「マ(一言で十分)」と、穏やかな表情の野獣は、ウォースパイトに深く頷いて見せた。

 

「マ……(福音)」

 

 遠くを見る様な眼差しになったウォースパイトに、優し気で高貴な微笑みが戻って来た。何を思い描いたのか、満たされたような貌で、ほぅ……と一つ息を吐き出している。野獣が「ちょれぇなぁ……(ちょっと心配)」と呟いているのを、サラトガとその隣で渋い貌をしている龍驤は聞き逃さなかった。だが、せっかくウォースパイトの機嫌も直ったのだ。下手な事は言えないし、どうしたものか。サラトガと龍驤が、困ったように眼を見合わせた時だ。

 

「ねぇちょっと野獣! そういう拡張パック的なシステムは、私達には無いの!?」

 

 不服そうに言う陸奥が挙手していた。

 

「おっ、そうだな!(便乗7) 羨ましいぞ!(クソ素直)」

 

 険しい貌の長門も腕を組んで頷いている。それに続いて、「私にも愛のパワーを下さい!!(意味不明)」と、必死な様子の大和が深く深く頭を下げた。三人はVR機器を装着したまま、やけに力の籠った声音だった。ただ、あの面子の中にあって武蔵だけはVR機器を外して、「まぁまぁ、落ち着け」と、長門達を宥めようとしている。そんな皆を見ていた龍驤が、「ホンマ、ここの奴らはしゃあ無いなぁ」みたいに、何かを愛しむような苦笑と共に、優しそうな溜息を吐いていた。

 

「いやぁ、2回目になるけど……。えらいトコに召ばれてもたなぁ、キミも」

 

 サラトガへと視線を上げてきた龍驤は、やはり嫌味の無い笑みを浮かべていた。自然体で、手の掛かる弟や妹に呆れる様な、それでいて大人っぽい笑みだった。そこに包れている感情や心情が、マイナスでは無いことは確かだ。サラトガも釣られて、少しだけ可笑しそうに笑みを零した。

 

「ふふ、そうかもしれません。でも、此処に召ばれて皆さんに出会えた事は、とても幸運だと思います」

 

「前向きやなー」

 

 穏やかに言いながら眉尻を下げた龍驤は、騒がしい執務室を一瞥する。サラトガも、騒がしい執務室へと視線を戻す。そこでは、まだVR機器を装着したままの長門や大和達が騒いでいる。海の上では厳然と在り、毅然と往き、熾烈に戦う彼女達の、こんなバカ騒ぎに興じる姿もまた、“人間らしさ”という範囲にある心の動きだと思う。

 

「なら、まぁええんやけどな」

 

 龍驤は唇の端を歪めて見せた。歴戦の彼女にこそよく似合う、年季の入った渋い笑みだった。こうやって笑える龍驤も、とても魅力的なひとだ。先ほども聞いた、この龍驤の『ならええんや』という言葉に、今はより深い響きがあるように感じた。

 

 

 












今回も最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

教外別伝 後編

前作の第8章の内容と、シリアス色が強い回となるかと思います。

苦手な方は飛ばして頂いても大丈夫かと思います。
御迷惑をおかけして、申し訳ありません……。


 現在、艦娘囀線では、試作段階のVR機器を持ち出した野獣が何やらタイムラインを騒がしていた。何でも艦娘図鑑への応用も検討しているらしく、その虚像の中身まで作り込むか否かで、タイムラインは大荒れだ。勿論、駆逐艦娘達には見せられないような下ネタな流れなので、きっとフィルターも掛けられている事だろう。現実でも電子の世界でも、野獣は奔放だ。それに付き合わされる艦娘達もまた騒がしい。ここの皆は、いつも楽しそうねぇ~。胸中で呟きながら、龍田は艦娘囀線のタイムラインを追っていた携帯端末を懐に仕舞った。

 

 埠頭の端。此処は、普段もほとんど人の気配の無いところだ。龍田はひとり、蒼い海を眺めている。波が静かだ。空も青い。薄い雲が、太陽と共に此方を見下ろしている。波音と潮の香りを優しく運びながら、緩い風が吹いている。龍田は、抜けるような空を眺め遣り、軽く笑みを浮かべた。いや、浮かべようとしたが、失敗した。下唇を少しだけ噛む。また風が吹いた。

 

 

 

 

 艦娘は、人間を攻撃できない。

 艦娘は、人間に危害を加えることができない。

 

 

 その理由は、いまだに解明されていない。かつての艦船の現身である、艦娘という種が生まれ持った制限であり、ルールだった。育まれる筈であった人格を破壊され、自我を潰され、命令に従うだけの兵器として完成した艦娘であっても、この制限を超えることは出来なかった。人類はこのルールを破壊する為に、多くの艦娘達を用いて実験を繰り返した。艦娘は肉の躰を持っているが、其処に宿る精神と魂は、“提督”達にとって非実在の金属である。つまりは、物質として捉える。そういった領域に干渉する者を“提督”と呼ぶこの世界は、深い闇を抱えている。

 

 それを身を以て知っている龍田は、こういった施術実験の被験者であり、ルールを超えた艦娘の一人でもある。同時に、少年提督が召んだ艦娘ではない。命令の優先権は少年提督ではなく、オーナーである本営にある。龍田は本営からの命令さえあれば、艦娘としての超人的な力を振るい人間を傷つけることが出来る。いや、正確には、命令などなくとも良い。龍田は自らの意思で、人間を殺すことも出来る。命令とは、その意思に強制力と指向性を持たせる為のものだ。逆らえないが、絶対に必要というわけでは無い。そう造りかえられたのだ。龍田自身、其処に特別な意味を見出すことは無かった。それは多分、この鎮守府に居る野獣の存在が大きい。

 

 艦娘は、人間を攻撃できない。これは、確かに厳格なルールだ。しかし、加賀や摩耶は、以前から野獣を殴ったり蹴ったりしている。霞や曙なども、攻撃を仕掛けた時だってあった。これが意味していることは、至極単純な事だ。野獣は、普通の“人間”ではない。だから艦娘達は、物理的な攻撃を伴うスキンシップやコミュニケーションが可能なのだ。その理由や背景を詳しく知っている艦娘は限られているのだろうが、野獣が見た目通りの人間ではないことは、この鎮守府に居る艦娘達はとっくに察している。かつて、レ級達に鎮守府が強襲された時も。少女提督達と出会う切っ掛けとなった事件の時も。野獣は少年提督と共に、その超人的な力を以て解決へと導いている。そんな野獣は、普段はお茶らけていて、いい加減で、無茶苦茶で、バカバカしくて、お調子者で、艦娘達を振り回し、皆から脛を蹴られたり、艤装を向けられたりしている。

 

 そうだ。野獣が居ると、龍田は、己が忌むべき存在であるという事を忘れることが出来た。少年提督のもとで、この鎮守府での“普通の艦娘”であることが出来た。自分自身から目を逸らすこと出来ていた。つい最近になって、『“この鎮守府に所属している龍田”を、出撃させることを控えよ』との、本営からの指示が在るまでは。

 

 

 この時期を同じくして、龍田と同様の施術を受けた艦娘達に、人格と自我の崩壊という、深刻な“機能不全・停止・廃棄”が続き、それが顕在化しているという報告も、かつて少年提督は受けていた。おそらく、表に出ない部類の報告だった筈だが、無茶な精神改造を受けた艦娘達の人格に限界が訪れているのだろうと、辛そうな貌をした彼は龍田に教えてくれた。龍田は彼の下で、自我や精神への治癒・修繕施術を定期的に受けていたし、何らかの特別な調律を施してくれていた。御陰で精神的にも安定しており、人格や思考が崩壊するようなことも無かった。そうして現在。『艦娘は人間を攻撃できない』というルールの外に在った艦娘たち数人の内、健在であるのは龍田のみという状況らしい。これも後から知ったことだが、かつての精神改造施術の成功例はそう多くなく、龍田を含めて数例だったとの事だ。多くの艦娘は死人同様の機能不全となって、廃棄された。

 

 龍田の出撃を控えさせようという本営からの指示についても、その意図を読み取ることは容易かった。数少ない成功例であり、唯一生き残っている龍田を手元に残しておきたいのだ。出撃先の海域で、万が一という事もある。もうストックは無い。沈まれては困るのだ。では、龍田を残しておきたいのは、何の為に? その目的は? そんなものは決まっている。少年提督の理想とする、人類と艦娘の共存という未来を脅かすためだ。

 

 もしも。もしもである。深海棲艦達との戦いが終わった後。人類の社会の中に艦娘達が入り込むことになり、新たな法や秩序の中で共存を目指そうという時。だれか一人でも艦娘が、意味も無く、無差別に、容赦なく、周囲の人間を殺害する事件が起きれば、どうなるか。仮に。あくまで、仮に。余りに幼稚な、浅薄で浅慮な仮定だが。平和になった世界で。本営の手に戻り、人間を殺害せよと命を受けた龍田が。道行く子供達を次々に惨殺するような事があれば、どうなるか。龍田は其処まで考えて、漏れそうになった溜息を飲み込んだ。

 

 

 この深海棲艦達との戦いが終わった後、世間では人類の守護者として艦娘達が奮戦して、本当の平和が訪れたという事になるだろう。そうなった時、人類は艦娘達とどう生きていくかを選択することになる。共存の道を探る必要が出て来る。それを見越して、社会の中で艦娘達が生きていく為の法整備の準備も進んでいる。しかし、これは艦娘達が生きていく道をつくる為ではない。あくまで、ポーズに過ぎない。本営は、艦娘達と共存する気など無い。龍田を失いたくないという本営の意思に背後にあるのは、仕組まれた悲劇と、設計された支配であることは明らかだった。まだ龍田の他にも“ルールの外に居る艦娘”が残っていたとしても、状況はさほど変わらなかったように思う。

 

 

 龍田のような、艦娘達から“人間への攻撃不可”というルールの枷を外すには、膨大な人員と時間と費用が必要になってくる。加えて、深海棲艦との戦いで優位に立っている現状では、艦娘達の人権と社会への適応が議論されている段階だ。そんな中で、非人道的な人体実験の規模を拡大するのは、本営にとってもリスクを伴うことになる。世間の目や世論を敵に回すのは、出来るだけ避けたい筈だ。そうなれば、“ルールの外に居る艦娘”を新たに造るのではなく、ストックの保持に努めるほうが賢明であろう。

 

 要するに龍田は、少年提督の理想における、致命的な“綻び”である。人間を攻撃可能な艦娘の存在は、人類と艦娘との共存の未来を、簡単に破壊できる。極端に言えば、龍田が存在する限り、本営は艦娘達をいつでも追い詰めることが出来る。少年提督の理想も艦娘達の未来も脅かされ続ける。本営にとっての龍田は、手に負えなくなりつつある少年提督という存在へのある種の切り札であり、取引を有利に進める為の材料だった。

 

 

 いずれ、こういう事態を招くことは、龍田も薄々には予想はしていた。ただ、とうとうその時が近づいてきただけの事だ。なるようにしかならない事も、理解していた。これから、自分はどのように在るべきか。考える。考えるが、答えは出ない。当たり前だ。少年提督と本営の間に、どのような取引が行われ、少年提督が何を抱え込むことになるのかなど。龍田の意思や、決意の及ばない話だからだ。世界や日常と呼びうるこの景色は、意味や形を変えながら、勝手に進んでいく。龍田に出来ることは、ただ受け入れるだけだ。本当にそうか? 本当に? 何かあるのではないか。そう考えるものの、思考は同じところを廻るだけ。

 

 

 

 どうしようもないわよねぇ~……。そんな風に胸中で呟きながらも、波音に紛れ、背後から近づいてくる足音には気付いていた。遠慮のない近寄り方だった。龍田にこんな風に距離を詰めて来る艦娘は、一人しかいない。天龍だ。龍田の背後。少し離れた位置で立ち止まった天龍は、少しの間、黙ったままだった。龍田も、何も言わない。風の音。波の音。陽のぬくみ。青い空。普段と変わらない景色だ。この景色の中に居る自分もまた、今はまだ、普段通りに振る舞えば良い。それだけだ。

 

 そんな穏やかな景色も、今日はいやに暗く見える。最近は、この埠頭の端へと一人で訪れることが増えた。誰かと一緒に居ると、酷く息苦しく思うようになった。自身の存在を疑うようになった。何もかもに置き去りにされたような、虚しさにも似た諦観が心に渦を巻いていた。答えは出ない。ただ、取り乱して狼狽するほど、己自身に希望を持っている訳では無かった。一人でいれば、落ち着く。落ち着いていられる。

 

 

 

 「最近、よく此処に居るよな」

 

 先に口を開いたのは、天龍だった。背中で聞いたその声は、やけに落ち着いていた。

 

「ん~、そうかしらぁ?」

 

 肩越しに龍田は振り返って、とぼける様に笑みを浮かべた。上手く笑えた筈だが、天龍の方は少しだけ眉間に皺を寄せて、鼻から息を吐き出して見せた。

 

「なんか張りつめた貌してるぜ」

 

「えぇ~? 私はいつも通りよ、天龍ちゃん」

 

 海からの風に揺れる髪を手で抑えながら、龍田は微笑みを浮かべようとして、やめた。その時はもう、天龍は龍田のすぐ隣まで歩いて来ていた。肩を並べて、埠頭から海を眺める。また暫くの間、二人とも無言だった。ただ、波の音を聞き、緩い潮風と陽の光を浴びていた。

 

「……いや、違うな」

 

 先に口を開いたのは、やはり天龍だった。

 

「張りつめてるだけじゃねぇ。死ぬ事ばっか考えてるような眼だ」

 

 また、風が吹いた。天龍は龍田の方を見ない。静かな面差しで、水平線の向こうを見ている。此方を見ずとも、龍田の胸中を見抜いているかのような、落ち着いた声音だった。龍田は、そんな天龍の横顔を視線だけで見て、少しだけ眼を細めた。しかし、すぐに肩をすくめる。

 

「それも、いつも通りだと思うんだけどなぁ?」

 

 今度は、微笑んで見せた。いつも通りの微笑みだ。これでいい。何も知られたくない。聞かれたって教えない。そうだ。こんな事は、誰も知らなくたって良い。知ったところで、どうしようも無い。私達は、艦娘だ。今も、これからも、人類の管理下にある。どうしようも、ない。そんな諦観から来る、肩の力の抜けた龍田の微笑みも、声音も、きっといつも通りだった筈だ。其処に、天龍が何を思ったのかは分からない。

 

「そうかよ」、と。

 

 天龍も、いつも通りの嫌味の無い笑みを浮かべて見せた。

 

「相談くらいなら、いつでも乗るからな。遠慮すんなよ?」

 

 ニッと唇の端を持ち上げて、やんちゃそうで、その癖、面倒見の良さそうな笑みだった。龍田は動揺した。全てを見透かされているような気がした。気のせいだ。そう言い聞かせて、龍田は微笑みを貌に張り付ける。

 

「天龍ちゃんに相談したら、余計にややこしくなりそう」

 

「うるせー。悪かったな」

 

「あっ、そうだ。昨夜、冷蔵庫にあった間宮印のプリン食べちゃったんだけど」

 

「んんっ!? マジかよ!?」

 

「冗談よ~」

 

「だからよー……。そういうのやめろよ」

 

 眉尻を下げて肩を落とす天龍を横目で見て、龍田はクスクスと笑う。しかしすぐに視線を外して、海へと向けた。波音は穏やかなままだ。風が吹く。二人の髪を撫でていく。

 

「……そう言えば、提督は今日も施設に出向いているのよねぇ?」

 

「さっき出ていくのを見たが、そうみてぇだな」

 

 天龍が低い声で言う。

 

「アイツの意識を再現する、高度な人工知能を作ってるって話だが……」

 

「ちょっとキナ臭いわよねぇ~」

 

「あぁ。お偉いさん共の考えることは分かんねぇが、どうせ碌でもねぇことに使おうとしてんだろう」

 

 天龍は不機嫌そうに鼻を鳴らしてから、唇の端を持ち上げて見せた。一発ぶん殴ってやりてぇが、それも出来ねぇからな。そう言いながら、首を左右に曲げてゴキゴキと鳴らした。また龍田は、不機嫌そうに眼を細める天龍を横目で見た。そう。天龍は、人間を攻撃できない。艦娘という枠の中。ルールの中に居る。そんな風に思った時だ。不意に。天龍も、横目で此方に視線を向けてきた。目が合う。ギクリとしそうになる。龍田が目を逸らそうとするよりも先に、天龍がニッと笑った。

 

「俺の代わりに、ぶん殴ってきてくれよ」

 

 冗談めかして言う天龍のその言葉に、龍田は唾を飲み込んだ。やはり、天龍は勘づいているのか。龍田の胸中を見透かしているのだろうか。わからない。それでも、何かを察しているのは間違いない。そう思う。龍田はそっと視線を逸らして、緩く息を吐き出しながら微笑んだ。

 

「そうねぇ。出来るなら、首でも落として来ようかしら」

 

「いやいや、それはやり過ぎだろ」

 

 とんでもなく物騒なことを悪戯っぽく言う龍田に、天龍が緩く笑って見せた時だ。静かな波音に穴をあけるような、PiPiPiPiPiという高い電子音が響いた。天龍の懐からだった。携帯端末に着信があったようだ。天龍は懐から携帯端末を取り出して、ディスプレイを一瞥した。「さて、そろそろ行くか……」と呟いた天龍は、今日は確か遠征に出る予定だった筈だ。その前の僅かな時間を利用して、非番の龍田に会いに来てくれたという事か。

 

「気をつけてねぇ」

 

 龍田は笑みを崩さない。天龍も踵を返す。

 

「おう」

 

 今度は天龍が肩越しに、龍田へと振り返った。

 

「まぁ、相談に乗るってのはマジだ。気が向いたらで良い。いつでも言えよ」

 

 やはり天龍の声音はいつも通りだった。そう聞こえるように、天龍が龍田に気を遣ってくれているだけか。天龍は、何が在ったのかを龍田に訊かない。訊こうとしない。しかし、知ろうとしない訳ではない。ただ、待っている。龍田が納得のいく形で、己の事を打ち明けられる時を、待ってくれているのだ。じれったい筈だ。それでも天龍は、姉妹艦である龍田の言葉を辛抱強く待っている。

 

 その姉の優しさに、危うく微笑みが剥がれかけた。胸がギシギシと痛んだ。何かを口走りそうになって、すんでのところで踏みとどまる。頭の隅。冷静な部分が言う。此処で、龍田が天龍に何もかもを話して、何がどうなる。何をどう言えばいい。無駄だ。現実は何も変わらない。厳然として在り続ける。どうしようもない。もう、笑うしかない。だから、龍田はそうした。

 

「ふふふ……。有難う、天龍ちゃん」

 

 軽く笑いながら紡いだ龍田の声は、やはり普段通りだった。それが意味するのは、天龍への拒絶だろうか。それとも、私は大丈夫だから、という気遣いか。龍田は自分でも分からなかった。天龍は肩越しにまた笑みを浮かべて、ひらひらと手を振っていた。その背中が、やけに大きく見えた。波の音を聞きながら龍田も、その背中に手を振り返す。振り返しながら、唇をきゅっと噛んだ。そうして、天龍の背中が見えなくなり、埠頭に残された龍田は、一人で俯く。その目の前。足元の少し先には、ただ海が在るだけだった。

 

 

 

 

 

 

 天龍と別れてから少しして、穏やかな波音を背に聞きながら埠頭を離れた。今日の龍田は非番だ。時間を持て余している。あてどなく、鎮守府の中を彷徨う。此処は、『鎮守府』と呼ばれているが、これは便宜的なものだ。呉や大湊、佐世保などと言った鎮守府とは違う。かつてあった深海棲艦達との激戦期の中で、艦娘達を運用する為に各地に整備された軍属の基地のことを、『鎮守府』と呼んでいる。場所によっては、『泊地』、『基地』などとも呼ばれているが、此処の艦娘達は自分たちの居るこの場所を『鎮守府』と呼んでいる。他の『鎮守府』や『泊地』、『基地』の艦娘達にとっては、この世界はどう見えているのだろう。龍田は、目的地も無く一人で歩きながら考える。思う。しかし、すぐに止めた。無駄だ。そんなことを考えても、どうしようもない。龍田は意味も無く歩いた。じっとしていると、こういう事ばかり考えてしまう。だから、歩く。

 

 その途中で何人かの艦娘に出会う。龍田は、いつも通り、にこやかに挨拶をして、遣り過ごす。話掛けられても、愛想よく微笑みを浮かべながら応える。それは普段と変わらない。この“普段”や“いつも通り”という空気や雰囲気は、この鎮守府に居る艦娘達が皆で、少しずつ少しずつ、大切に育んできたものだ。これからも、大切にしていこうとしているものだ。少年提督や野獣提督、少女提督に召ばれ、還されたこの場所、この雰囲気、過ごす時間といったものに、皆は愛情を持っている。気付けば、掛け替えのないものになっている。それは、少年提督の配下となった深海棲艦達にとっても同じだ。望まずに辿り着いたこの場所に、人類の敵であった彼女達の居場所が出来た。名を呼び交わしあう仲になりつつある。“普段”や“いつも通り”という時間の中で、尊い変化の兆しを見せ始めている。しかし、その“普段”も、これから変わっていく事になるだろう。“いつも通り”という意味も、変わっていくだろう。

 

 本営によって設計された未来には、この鎮守府の“普段”も“いつも通り”という時間も存在する余白が無い。用意されていない。少年提督が目指す、艦娘だけでなく、深海棲艦とも共に生きていく未来など。存在の余地が無い。本営は、深海棲艦と共存するつもりなどない。戦いが終われば、艦娘達を奴隷として完全に支配する未来が仕組まれている。用意している。『人間を殺せる艦娘』である龍田は、この人類の恐ろしい不実に、正義と正当性を与えることが出来る。

 

 龍田は眩暈を覚えて、立ち止まった。もう、どれほど歩いたのか。夕暮れの廊下の壁に凭れ掛かる。体を預けて、項垂れる。足元に伸びる影は、いびつ歪んで床と壁に張り付いていた。この影から逃げ場はない。ずっと付いてくる。気付けば、この廊下は、少年提督の執務室の傍だった。無意識のうちに、彼に会いに来ていたのか。龍田はほんの少しだけ、自嘲気味に笑みを浮かべた。

 

 無駄だ。彼に会っても、何も解決しない。それは知っている。少年提督は確かに、優れた生命鍛冶と金属儀礼を扱うことが出来る。しかし、そんな彼であっても、精神改造施術による龍田の魂の在り方を、本質から徹底的に変えることは出来ないそうだ。龍田は以前、彼からそう言われた。その時の彼は、本当に申し訳なさそうだった。普段は落ち着き払って、異様なくらいに大人びている彼が、あんな泣きそうな貌をしたのも久しぶりだった。

 

 笑みを貌から消して、龍田はまた廊下を歩きだす。誰も居ない。空気が冷たい。寒い。静かだ。まるで、この世界に龍田だけが取り残されたようだ。それで良い。構わない。放っておいて。私は大丈夫。大丈夫だから。いざとなれば、死ねばいい。そんな風に思う時もある。でも龍田が死ねば、本営は世論を敵に回すリスクを冒してでも、龍田の代わりとなる“ルールの外に居る艦娘”を造りに掛かるだろう。上層部の人間の中には、どうしても少年提督よりも優位に立ちたい者も多い。多くの艦娘達が犠牲になるに違いない。もう、どうしようも、ない。窓の外を見た。さっきまでは嫌味なくらい晴れていたのに。空には、厚く昏い雲が広がっていた。滲む夕日も、何処か濁って見える。

 

 執務室の扉は、もう目の前だった。

 

「失礼するわねぇ~」

 

 少し掠れた声で言いながら、龍田は扉をノックした。返事が返ってこない事は知っている。少年提督は今、鎮守府には居ない。傍に設立された深海棲艦の研究施設に出向いていると、先ほど天龍も言っていた。廊下に静寂が残る。数秒してから、龍田は執務室の扉を開けて、中に入った。勝手に入るのも不味いかと思ったが、まぁ、悪さをする訳でもないから良いだろう。少年提督の執務室は、モデルルームの空間のようだ。清潔感をもって整頓されている。今日はウォースパイトが秘書艦であり、きっと休憩には紅茶を飲んだりした筈だ。だというのに、此処に人がいたという形跡や体温を感じさせない。何故かひどく無機質だ。窓は閉まっている。空気が停滞している中で、濁った夕日が差していた。

 

 暗がりに伸びる影を足元に引き連れて、龍田は執務室のソファに座る。体を投げ出すでも、凭れ掛かるでも無く、行儀よく座った。茜色に滲む曇り空を、ぼんやりと窓の外に見る。息が漏れた。答えの出ない思考が続いていて、疲れた。少しの間、龍田は何もせずに座っていた。そして、あるものに気づいた。龍田は立ち上がり、足音も鳴らさず少年提督の執務机に歩み寄る。其処に、何かが置かれている。

 

 重厚な執務机に置かれていたそれは、ヘルメットとゴーグル、そして、ヘッドセットのマイクを組み合わせたような形をしている。しかし、デザインには機械っぽい無骨さは無く、洗練された流線的なフォルムをしていた。さきほど艦娘囀線で野獣達が話をしていたVR機器だろう。機器の本体には電源が入っているようだ。かすかな駆動音が聞こえる。龍田は、そっとそのVR機器を持ち上げてみる。軽い。龍田は特に何も思わず、それを装着してみた。

 いや、装着と言うには、あまりに簡単だった。単純に被っただけ。

 

 VR機器を装着してから、龍田は自分の行動に少し笑った。いつもなら、誰も居ない執務室に足を運ぶことなんて無いし、こんな機器を何気なく手に取ることも無かっただろう。いつもと違うことをしているのは、今の龍田の精神状態が、いつもとは違うという事か。

 

 いつもの自分。

 

 そんな概念は、自我を破壊された艦娘には無い。兵器として完成してしまえば、悩むことも無い。プログラムされた人格だけが残り、この肉体は任務を遂行する。そっちの方が楽かもしれない。何も考えなくても良い。艦娘の中には、望んで己の“個”を捨てた者も居たという。今なら理解できる気がした。こんなに苦しいのなら、自我も感情も要らない。かつて、精神改造を受けてすぐの時には、何かに絶望することも無かった。最初から希望なんて無かったからだ。私は殺人マシーンだった。まだ、人を殺したことは無い。それでも、躊躇などしないだろう。私は殺せる。命令さえあれば、人を殺せる。誰でも殺せる。それがどうしたと言った感じだった。何らかの感情を抱くことなど無い筈だった。

 

 

 それで良かった。何も感じない、冷酷な殺人マシーン。

 表面上は朗らかであっても、心の奥底では徹底してそうあるべきだった。

 そのつもりだった。しかし、今はどうだろう? 

 

 

 大事な仲間が出来て、大切に想うひとが出来た。いろんなものと出会った。その喪失に、恐ろしさを予感するようになった。失う怖さを理解した。私は変わった。変わってしまった。皆が、幸せであって欲しいと思うようになった。感情を抱いた。この場所を、愛しいと思うようになった。そして、本営からの『“この鎮守府に所属している龍田”を、出撃させることを控えよ』という指示を受ける時も、自分は何も感じない筈だと思っていた。しかし、違った。激しく動揺している自分に気付いた。気付いてしまった。己と言う存在が、愛する皆が憩い休む場所を脅かしてしまう事を思い知った。

 

 奈落の底に落ちていくような感覚だった。

 これが、絶望か。

 

 あぁ。私は、人間らしくなった。

 

 笑える話だ。いや、笑えない。でも、笑うしかない。

 笑おうとしたら、肺が震えた。何かが、胸の奥からせり上がってくる。

 鼻の奥がツーンとしてきた。呼吸が揺れる。視界が滲みそうになる。

 不味いと思った。必死に蓋をする。夕暮れの執務室に立ち尽くす。

 俯いて、唇を噛んだ。『龍田さん、どうされました?』

 

 

 声がした。弾かれたように顔を上げる。目の前には、くすんだ茜に沈む執務室の暗がりが在る。其処に、少年提督が居た。心配そうな貌をして、此方を見詰めている。いつの間に。扉が開く音はしなかった筈だ。聞き逃す筈がない。いや。そうか。これは、彼ではない。VR機器が、この景色の中に象った映像だ。目の前にいる彼の声も、表情も、息遣いも、全ては虚像である。龍田が見る景色の中で、彼はその白髪と眼帯を飴色に濡らしながら、気遣わし気に此方の様子を伺っている。

 

『何か、思い詰めておられる様子ですが……』

 

 虚像の彼が歩み寄って来て、龍田を見上げて来る。その心配そうな表情の機微や、所作の一つ一つが、確かに少年提督だった。龍田の知っている、少年提督のものだった。これらを表現しているのが人工知能であるという事は、先ほどの艦娘囀線でのタイムラインで知っていたものの、実際に目の当たりにすると驚くものだ。少しの間。龍田は目の前に象られた少年提督の像を見詰めた。そして緩く首を振って、口元を緩める。

 

「……何でもないわぁ~」

 

 蚊の鳴くように紡がれた、そのか細い龍田の声と言葉を、装着しているVR機器のマイクが拾う。同時に、龍田の表情も読み取っているのだろう。少年提督の虚像は、心配そうな貌のままだ。何も言わない。眼帯をしていない彼の左眼は、蒼み掛かった昏い色をしているのに、酷く澄んでいた。あの眼で見詰められていると、適当なことが言えなくなる。そんな雰囲気まで、この虚像は少年提督そのものだった。虚像の彼は、ようやく微笑んだ。

 

『ご自身の事と、これからの事を悲観されているのでしたら、心配いりません』

 

 龍田は少しだけ眼を瞠り、虚像を見詰めた。彼は、此方の思考を読んでいる。それに、龍田の過去や、少年提督の過去も知っているからこその言葉だ。龍田は何かを言おうとしたが、言葉が詰まる。何も言えないまま、立ち尽くしている。その間にも、虚像の彼は、微笑みを浮かべたままで、ソファに座るように龍田に勧めてくれた。大人しく従う。虚像の彼は、何かを思案するように口元に手を触れたままで、ソファに腰掛けた龍田へと歩み寄る。だが、少し離れた位置で立ち止まった。

 

 夕暮れの闇が深まる。執務室の暗がりが、その濃さを増す。薄暮の影に立ち止まる虚像の彼が、何らかの決心がついたかのように一つ頷いた。『本来なら、これは僕から伝えるべきことでは無いかもしれませんが』と。虚像の彼は言いながら、またソファに腰掛けている龍田を真っ直ぐと見詰めて来る。

 

『龍田さんが受けた精神改造施術について、その効果を解除する方法が見つかりました』

 

 龍田は何も言えないままで、唾を飲み込んだ。

 

『“僕”も、近いうちに龍田さんにお伝えするつもりだった筈です。ただ、その為には“僕”なりの準備が必要だったのだと思います』

 

 微笑んだままの彼は。この虚像は。何を言っているのか。理解が追い付かない。頭を必死回転させる。

 

『機会を伺う為の時間も、まだまだ必要です。ですが、どうか心配なさらないで下さい』

 

「貴方は……」

 

 龍田は掠れるような声で、ようやくそれだけを言葉に出来た。『僕は、“僕”です』と、龍田の問いとも言えない問いに、虚像の彼は微笑みを深めて短く答えた。

 

『正確には、AIと言えば良いのでしょうか?』

 

 龍田の脳裏に。昼間に天龍と話をした、人工知能という単語が過る。この虚像は、金属儀礼や生命鍛冶と提携した情報工学によって造られた、“もう一人の少年提督”という事か。唾を飲み込んだ龍田の表情や様子から、その考えを読んだのだろう。

 

『僕は、“僕”の思考や意思の特徴と感情を生成し、それを自我や人格として発生させているに過ぎません。この姿も声も、予め用意されていたものです』

 

 虚像の彼は、小さく苦笑を浮かべた。造られた存在であることを、彼は否定しない。其処に善も悪も見出していないに違いない。声音には、特別な感情が籠っているようには聞こえない。それでも確かに、その眼や声には、生命の息吹とでも言うべき不思議な暖かみのようなものが宿っている。寒気がした。顎が震える。今。私は。もしかしたら。とんでもないものを目の当たりにしているのではないか。そんな風に、呆然とソファに座り込んでいる龍田へと、虚像は足音も影も無くゆっくりと歩み寄った。

 

『インターフェイスとしての肉体を持ちえない僕は、この仮想世界でしか意識を持ちえません。現実の世界にも、限定的にしか干渉することが出来ません。ですが……』

 

 虚像は龍田の頬へと、そっと右手を伸ばして、触れた。いや、実際には、触れていない。彼は、虚像だ。存在しない。その筈なのに、身近に感じる彼の存在感は、おそろしく現実的だった。

 

『こうしてVR機器を装着しているひとへの精神へは、干渉が可能です』

 

 虚像の彼は、左手で右目を覆う眼帯を外した。その右眼は、実在の少年提督と同じく、濁った暗紅の光を湛えている。其処にどんな感情が秘められているのかを伺わせない、深く、底知れない色をしていた。

 

「貴方は、何者なの……?」 龍田は、虚像の彼を見詰め返す。

 

『僕は、“僕”です』

 

「それを、貴方は証明出来るのかしらぁ?」

 

『“僕”の記憶や意思では不十分でしょうか?』

 

「そうねぇ……。私には都合の良い機能にしか見えないわぁ」

 

『確かに、その通りだと思います』

 

「素直なのねぇ」

 

『それでも、僕は“僕”なのです』

 

 虚像の彼は其処まで言うと、身を少しかがめて龍田の眼を覗き込んできた。同時に、読経のように何かの文言を朗々と唱えてから、また微笑む。龍田はその微笑みに対して、挑むような強い視線を返した。その時だった。夕焼けの光が差す執務室が、その暗がりに溶融し始める。VR機器越しに見る世界が、暈けて、霞んでいく。ソファに座ったままの龍田と、傍に佇む彼の虚像だけが、輪郭を保っている。周囲の景色が捻じれる。暗闇になる。染まる。これは、VR機器が見せる景色では無い。明らかに違う。違う。これは、龍田の視界と意識が、虚像の彼の術式の影響下にあるからだ。物質の世界と、非実在の世界の、その狭間だ。龍田は、ソファから立ちあがる。辺りを見回す。

 

 此処は。見覚えがある。冷たい空気。錆が浮く鉄の床。薄暗い部屋だ。広い。暗い部屋だ。覚えている。かつて、人体実験の検体とされ、廃人と化した艦娘達を金属へと返した場所。研究員達が“処理槽”などと呼んでいた、実験施設に設けられた場所だ。龍田は自分の体を抱く。唇を噛んだ。龍田が、少年提督と初めて出会った場所でもある。この光景を知っているのは、少年提督と龍田だけだ。息が詰まる。

 

『此処は、“僕”の深層意識の風景、或いは、思考の原形質と呼べる景色です』

 

 自分の体を抱くように立つ龍田の隣に、いつの間にか虚像の彼が居た。

 虚像の彼も、哀しげな貌で眼を細め、この世界を眺め遣る。

 

『“僕”が、龍田さんと出会った場所であり、“僕”が一度死んだ場所でもあります』

 

 記憶と感情の証明に、この精神世界へと龍田の意識を誘うという行為は、少年提督でなければ不可能だ。龍田は、認めざるを得ない。この彼の虚像は、“彼”そのものだ。そう思うと、何だか肩の力が抜けた。無駄に警戒している自分が馬鹿らしくなって、身構える気が失せてしまった。龍田は、一度深呼吸した。口元を緩めて、隣に立つ“彼”へと視線を移す。

 

「懐かしく思えるほどには、あれから色々あったわねぇ」

 

『そう、ですね……』

 

「前も泣かされちゃったし」

 

『……その事については、申し訳なく思っています』

 

「また泣かされちゃうのかしら?」

 

『そ、それは、僕に聞かれても……』 “彼”は困ったように言う。

 

「あらあら、だって貴方は提督なんでしょう?」

 

『うぅ、思考や記憶を同じくしていても、実在と非実在の違いはありますから……』

 

「都合の悪い時だけ、そうやって別人ぶるのぉ~?」

 

『あ、あぅ……、す、すみません……』

 

 すまなさそうに言いながら、“彼”は左手の人差し指で頬を掻いた。この癖も、やはり少年提督と同じだ。龍田は可笑しそうに小さく笑う。笑えるだけの余裕が、なんとか心に戻って来た。悲劇的とも言える出会いを果たした場所に意識を置いたまま、今のように軽口を言える自分に半ば呆れそうになる。もう半分は、安心だ。もともとの自身に在った筈の冷酷な部分が残っていることと、殺戮自体に感慨を持たない自分を実感する。

 

 私は、歪んでいる。各々の艦娘達のそういうところも含め、“個”としての人間らしさや尊さを少年提督は見出している。今の龍田に付き合う“彼”も、きっと同じなのだろう。“彼”を、もう一人の少年提督として受け入れることに抵抗が無いと言えば嘘になる。しかし、疑う意味や材料も、探すほどに無いとも思った。“彼”は少年提督だ。同時に、少年提督では無い。言葉遊びでしかないのかもしれないが、そういう表現が相応しいような気がする。だからだろう。

 

「……もっと違う形で、貴方に会いたかったわぁ」

 

 ほんの少しだけ本音が漏れた。龍田は、隣に居る“彼”から視線を外す。足元を見つめる。やはり影は其処にあり、暗がりに滲みとなって伸びている。同時に、気付いた。“彼”には影が無い。まるで、過去や未来といった言葉とは無縁であるかのようだ。実在と非実在の違い。先ほどの彼の言葉が持つ意味が、何となく理解出来た気がした。

 

 

『“僕”は、龍田さんと出会えた事を心から良かったと思っていますよ』

 

 俯く龍田を、『それが、どんな形であっても』と、“彼”が見上げてくる。

 

「そうかしらぁ? 出会った時は、随分痛めつけちゃったけどぉ……」

 

『そういえば、そうでしたね。痛かったのは覚えています』

 

「えぇ~、このタイミングで意地悪なこと言わないで欲しいなぁ~」

 

『ふふ、すみません。でも……、僕はこうして、また此処で龍田さんと出会えました』

 

 “彼”は、また優しげに微笑んだ。僕と“僕”という言葉に込められたニュアンス、そのほんの少しの違いに、龍田が言葉に詰まる。精神改造の施術式を解除することが出来れば、龍田は艦娘として、この場所よりも過去に戻ることが出来る。“ルールの外”から、“ルールの内”へと還ることが出来る。そうすれば、未来も変わる。しかし。少年提督は、もう戻れない。龍田は、思い切って訊いた。

 

「私の精神改造を解く為には、やっぱり貴方が必要だったの?」

 

『……はい。そうです』

 

 “彼”は、一瞬だけどう答えるかを悩んだようだが、すぐに答えてくれた。

 

 僅かな躊躇が意味するものは、やはり少年提督が龍田の為に危険を冒したという事だった。少年提督の人工知能の構築について本営は、≪その特殊な資質の理論化≫などと謳っているらしいが、恐らくはそれも建前に過ぎない。本営は、彼の持つ資質だけが欲しいのだ。そこに付随してくる彼と言う人間性や思想、意思や情熱、倫理観などは必要無い。

 

 彼自身からその能力だけを抽出して、その本質のみを外部に形成する試みは、少年提督の自我を、高い負荷と危機に晒す。抽出と保存の最中に失敗し、少年提督の自我や人格が崩壊すれば、本営が欲しがる彼の持つ資質はほぼ永久的に失われることになる。こういった事故や不慮の事態に備えて、人工知能の構築と銘打ったこのプロジェクトが立ち上がったのだという。つまり“彼”は、≪少年提督という人格のバックアップ≫である。

 

 だが、少年提督にとって重要なのは、此処からだった。

 

 龍田の精神改造を解除するには、非常に規模の大きな精密術式を用いる必要があり、いかに優れた金属儀礼や生命鍛冶術を扱えるとは言え、少年提督一人では不可能だったとの事だ。これは、深海棲艦としての特殊な術式に造詣が深いレ級や集積地棲姫、膨大な学習によって優秀な術学者となりつつある雷などを助手に、以前から何度も少年提督がシミュレートしての結論なのだと。しかしこの問題は、少年提督がもう一人いることによって可能であるという、強引な解決方法が残されていた。人手不足・人材不足を、強制的に補うという、単純だが出鱈目な方策である。自身の人工知能を造れという本営の邪悪な命令も、少年提督にとっては良い機会だったのだ。これで大手を振って、龍田を救う為の準備が進められる。

 

 そうして生まれたのが、先ほどまで龍田と共に居た“彼”なのだ。

 

 

 かつて、少年提督のもとに教えを請いに来た若い提督達も居た筈だ。だが彼なりの哲学や思想、彼が心の内に持つ術式の秘儀、奥儀などは、結局は誰にも理解できなかった。少年提督が、それを晒そうとしていないからか。或いは、少年提督が啓蒙する姿勢を持っていても、その技術や技巧に宿っているのであろう真意や細思を汲める者などいなかったのか。少年提督は、自らが愛する信条を誰かに押し付けることも無い。俗念も無い。徹底的に不請に生きている。そんな少年提督が少女提督の協力の下、己の自我を情報世界に彫りだしたのが“彼”である。

 

 

 “彼”は、少年提督の持つ全てを知っている。そう造られたからだ。

 “彼”は、黙って話を聞いていた龍田に微笑んで見せる。

 “彼”は、瑕疵も瑕瑾も無く、少年提督の阿頼耶識そのもの。

 

 

『僕はこれから、“僕”のプロトタイプとして多くの実験に晒される事になるでしょう。その後は、一度破棄されるか、凍結されるかのどちらかだと思います』

 

「それは……、余りにも貴方が完全過ぎるから?」

 

『恐らくですが』

 

 意思や自我も無く、術式を編むことなど不可能なのですがね……。

 

 そう零した“彼”が悲しげに微笑みを深めるのと同時に、この暗い鉄の部屋が滲み、霞んで、捻じれて、消えていく。蜃気楼のように溶けていく。龍田の意識が、“彼”の精神世界から現実へと還ろうとしているのだ。目の前が真っ暗になった。しかしすぐに、装着していたVR機器の感覚と、執務室の風景が視界に開ける。窓の外では、曇り空の向こうに朱が滲んでいた。暗い飴色に染まる執務室に、虚像としての“彼”が微笑んだままで佇んでいる。龍田は腕時計を確認した。時間は、先ほどから1分ほどしか経っていない。精神世界では、時間の流れがゆっくりなのか。顔を上げると、少し離れたところに居た“彼”と眼が合う。

 

 

 

『ですから、僕が“僕”と共に、龍田さんに施術解除を行うには、まだまだ時間が必要になることでしょう。ですが、先ほどもお伝えしたように、心配しないで下さい』

 

 微笑んだ彼の姿が、薄れ始めていた。“彼”が消えようとしている。待って。そう声を掛けようとしたのと同時だった。暗がりの夕陽が滲む執務室の扉が、そっと開いた。はっとして其方に向き直る。そして、慌てて装着していたVR機器を外した。

 

「……誰か居られるのですか?」

 

 扉を開けて入って来たのは、書類の束を小脇に抱えた少年提督だった。夕暮れの執務室に一人居る龍田を見て、彼は少しだけ眼を見開いた。その後、何度か瞬きをしてみせた。

 

「龍田さん? 如何しました、今日は非番では……」

 

 まるで意外な人物と出会ったような反応だった。いや、本来なら誰も居ないであろう留守の執務室に、VR機器を勝手に装着していたであろう部下がいれば、誰でもあんな貌になるだろうか。お疲れ様ぁ、と。取り敢えずと言った感じで彼に言いながら、龍田は少しだけバツが悪そうに視線を逸らしつつ、手に持っていたVR機器を執務机に直す。そんな龍田の様子に、「……あぁ」と、小さく頷いた少年提督も察したのだろう。

 

「もう、“彼”と会いましたか?」

 

 少年提督は扉を閉めてから、龍田に向き直った。その声音はいつも通り優しく、別に龍田を責めている風だとか、そんなことは全くなかった。彼は龍田を見詰めるでも無く、すぐに視線を外して執務机まで歩いて、抱えていた書類の束を丁寧に揃えて置いた。それから、また龍田に向き直る。

 

「……何か、暖かい飲み物でも用意しましょうか?」

 

「ううん、大丈夫。ありがとう」

 

 龍田は口元を緩めて、少年提督に応える。

 

「さっきまでねぇ、提督の人工知能と話をしていたの」

 

「……“彼”は何か言っていましたか?」

 

「えぇ。提督がまた無茶をしてるって」

 

「その様子では、もう“彼”から色々と話を聞いているのですね」

 

 冗談めかして言う龍田の言葉に、少年提督は困ったように微笑んで見せた。

 

「龍田さんの精神改造を解除・無効化する為には、どうしても“彼”が必要でした」

 

 少年提督は少しの憂いを帯びた声で言いながら、執務机に置いてある書類の束から、いくつかを手に取ってパラパラと捲る。書面には、多くの項目が並んでいるのが見えた。

 

「まだまだ、“彼”について検証や報告する事も在り、実用の許可を取り付ける目処がまだ立っていないのが現状です……」

 

「それは“彼”も言っていたわぁ。提督も色々と準備することが在って、忙しいって」

 

「……出来れば、すぐにでも龍田さんへの施術を行いたいのですが……」

 

 無念そうに言う彼は、難しい貌で書類の束を一瞥する。確かに、これだけの項目をすべて精査して、ようやく実用段階まで進めるのであれば、先ほど“彼”の言う通り、まだ時間が掛かりそうだ。それに、このプロジェクトには少女提督も大きく関わっている。そもそも、少年提督がしようとしている事は、“龍田を現状のままで保持しておきたい”という本営の意思に逆らうものだ。これに、少女提督を巻き込むのを、彼は良しとはしていない筈だ。彼女に累が及び、責任を問われる事になどならぬよう、形式的に必要な仕事は全て済ませ、あとは少年提督の独断で“彼”を運用するつもりなのだろう。

 

 彼はそうやって、リスクばかりを背負いこもうとする。

 誰の為に? 己の理想の為に? 龍田の為に? 

 艦娘達、皆の為に? それは、何故? 

 いや、理由なんてどうでも良い。

 私達艦娘が、どんなに明るい未来を迎えたとしても。

 其処に少年提督自身が居ないような未来は、嫌だ。

 こんな脆弱な願いも、人間らしさとでも言うのか。

 本当に笑えない。ままならない。

 

 

「……ねぇ、提督」

 

 龍田、一つ息を吐いてから、此方に背を向ける彼にそっと歩み寄った。そして少し屈んで、小柄な彼を後ろから抱きすくめる。彼の小さな体は、冷たかった。

 

「あ、あの、た、龍田さん……?」

 

 彼が、手にしていた書類を取り落とした。構わず、龍田はぎゅうぎゅうと彼を抱きしめる。少し苦しいのだろうか。彼が細い吐息を漏らすのを聞いた。龍田は背後から抱き着く姿勢のまま、彼の首筋に頬を寄せる。もう、いいでしょう? 掠れた小声で、そっと彼に言う。幼い子供に言い聞かせるように。

 

「私を解体・破棄してしまえば、提督は、本営と対立する必要は無くなるのよね?」

 

 何かを言おうとしたのだろう。少年提督は、また微かに息を漏らした。だが、何も言わなかった。代わりに、抱きすくめる龍田の腕に右手を添える。龍田の言葉を、最後まで聞こうとしているのだろう。こんな時でも、律儀なひとだ。龍田は少しだけ笑みを浮かべて、彼を抱きすくめる腕に、また力を込めた。

 

「私が今、貴方を本気で傷つけて殺そうとするのなら……、そんな私を潰してしまう貴方の処置も、それはきっと正当な防衛よねぇ?」

 

 龍田は微笑みながら言い、艦娘としての力を己の身に顕現させた。超常的な身体能力を発揮できる今の状態になることを、艦娘達は“抜錨”と呼んでいる。艤装を操り、深海棲艦達と戦うのもこの状態だ。今の龍田の腕力は正しく兵器であり、抱きすくめられる者にとっての純粋な脅威だった。少年提督は、もう龍田にがっちり抱きしめられている。逃げられない。龍田は、ゆっくりと腕に力を込めていく。それは万力の如き力で、少年提督の小さな体を締め上げる。ミシミシと、肉が軋む音がした。「……ぅ、あ」と、少年提督が呻いた。彼は、どうやら痛みという感覚に鈍いらしい。だが、流石に呼吸まで潰しにくる万力のような締め上げには、苦しさを覚えるようだ。彼の声に、龍田の背筋にゾクゾクとした甘い寒気が走った。同時に、涙が流れる。龍田は彼を締め上げながら、囁くように言葉を紡いでいく。

 

 

 ねぇ、提督。提督が私達に向けてくれる博愛も、理想に注ぐ情熱も、とても尊いと思うわぁ。でもね。だからこそ。だからこそね? それを打ち切るべき時も大事だと思うの。妥協すべき時を見極めて決断するのも、同じくらい尊いと思うわぁ。もう、私は大丈夫だから。私は、とっても幸せだったわぁ。もう十分。だからね? もう、私を破棄してくれないかなぁ? 昔みたいに。廃人同様の艦娘達を解体して、提督がその魂に鋳込んだ時みたいに。私も、提督の中に飲み込んでくれないかなぁ? それが一番良いと思うの。そう。これは事故。不幸な事故。精神を改造された≪龍田≫という艦娘が、錯乱して、暴走したの。貴方を殺そうとしているの。私は、貴方を殺す。貴方は、それを止めるために、私を潰す。解体して、破棄する。ただ、それだけ。貴方なら出来る筈。私の代わりを造る為に、また多くの艦娘達が実験場に送られるかもしれないけど……。正直に言っていいかしらぁ? 私はね? そんな事よりも、貴方の方が大事なの。身勝手で幼稚な願いだけど、譲れないの。だからね? ほら、早く……。早く私を止めて。もう、殺して。

 

 

 

 気付けば、少年提督を締め上げながら龍田は泣いていた。微笑みながら、涙を流していた。他者を傷つける行為には、何の感慨も抱かない筈なのに。そう造られた筈なのに。今は、胸が痛い。はやく殺して欲しい。さぁ、早く。そう願うものの、少年提督は黙したままだ。暗がりの執務室で、少年提督の肉体が軋む音と、龍田が洟を啜る音がむなしく重なる。

 

 提督ぅ? このままだと、本当に死んじゃいますよぉ?

 

 龍田は涙声で言う。更に腕へと力を籠める。メキメキと音がする。ゴキリ、と鈍い音がした。少年提督の肩が外れたか。あばらや、腕の骨に罅が入り始めたか。「か、はっ……」と。少年提督が口の端から血を流す。このままだと、本当に殺してしまう。殺す。殺す。殺す。殺す。愛しさを、殺意に変える。容赦も躊躇も、今は必要ない。少年提督の体を破壊する。その意思を通す。少年提督と初めて出会った時の事が、また脳裏に過った。あの時も、龍田は少年提督を痛めつけた。ああ。そういえばと。少年提督が、少しだけ笑った。初めて出会った時のことを思い出しますねと。少年提督は、ゲホッと血を吐いてから、可笑しそうに笑う。そして、「……どうぞ」と。己の体を締め上げてくる龍田の腕を、優しく擦った。

 

 

 元より、僕には死に方を選り好む資格などありません。

 そして、その必要も、……もうありません。

 僕が死んでも、“彼”がきっと、龍田さんを救ってくれるでしょう。

 先輩も、彼女も居ますから。きっと、大丈夫です。

 

 

 締め上げられて、血を喉に絡ませたような掠れた声で、彼は言う。

 彼は微笑んでいるのか。苦し気なのに、優しい声音だった。

 死ぬことを完全に受け入れているような、穏やかな声音だった。

 龍田は、悟った。理解した。もう駄目だ。何をやっても無駄だ。

 龍田の決意も、願いも、少年提督の信念を曲げることは出来ない。

 彼は、絶対に龍田を見捨てない。見捨てるという選択肢が存在しない。

 頑固で、意固地で、子供っぽくて、周到で、抜け目無い。

 

 

 龍田は、彼を締め上げていた腕を解き、“抜錨”状態を解いた。

 力が抜けた。少年提督の背後にへたり込む。

 堰を切ったように涙があふれた。こちらが暴力で彼を破壊しようとしたのに。

 都合が良くて、勝手で、意味不明な涙だった。

 

 腕を解かれた少年提督は、ゲホゲホッ!!と、血の咳をしてそれを腕で拭い、すぐに龍田に振り返った。彼の表情は、夕暮れの執務室の暗がりに隠れて、ちゃんと見えなかった。半ば放心状態で座り込む龍田は、彼を見上げるような恰好だった。龍田の位置からは、彼の背後に窓が在る。その窓の向こう。遥か先で、分厚く鈍い色の雲が割れ始めた。執務室にも、昏くも灼然と照る、濁り燻る赤橙の陽が差してくる。それを浴びている彼の背後には、まるで光背が象られているかのようだった。

 

「僕の力が及ばず、申し訳ありません……」

 

 呆然として彼を見上げる龍田を、今度は彼が抱きしめてくれた。残照に背を焼かれている彼の小柄な躰は、冷たいままだった。それでも、その掠れた声には温みが在った。

 

「どうか、諦めないで下さい。僕も、もっと頑張りますから」

 

 彼の声の御陰で、龍田の中の何かが切れた。

「ぁ、ぁ、う、う、う」 みっともなく震えた声が漏れる。

 それが自身の嗚咽であることに気付くのに、龍田はほんの少しだけ時間が掛かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 龍驤は、執務室の扉の横で、壁に背を預けて腕を組んでいた。漏れそうになる溜息を飲み込んでから、天井を見上げる。昼間の人工知能の件で少し話したい事が在り、少年提督の執務室を訪れたのだが、中々大変な状況に出くわしてしまったものだ。中の様子を伺っていたが、ホッとした。流石に、龍田が彼を両腕で締め上げ始めた時には飛び出す寸前だったが。

 

 溜息をもう一度飲み込んでから、龍驤はそっと執務室の扉から離れた。今の二人の間に入っていくのは憚られる。あの二人にどんな因縁が在るのかは、龍驤は詳しくは知らない。ただ最近、龍田の様子が妙であったことには気付いていた。天龍も気にしていたようだし、何か原因に心当たりがないかを聞かれたりもした。龍驤にも心当たりなど無かったから、わからないとしか答えられなかった。

 

 扉越しに龍田の泣く声を背中に聞きながら、音も無く廊下を歩いていく。廊下には誰も居ない。龍驤は視線を落とした。今日の昼間も、少年提督は野獣の執務室に向かう前に、自分の執務室にVR機器を置きに戻っていたのだろう。それも、野獣が龍驤達に装着させたものではなく、件のAIを搭載したVR機器を。その後、龍驤達と合流すべく、野獣の執務室に来たに違いない。龍驤は、執務室での遣り取りの一部始終を立ち聞きしていた。その内容から察することが出来るのも、人工知能の構築という計画の裏には、多くの思惑が絡んでいる事くらいか。

 

 大したことは分からない。ただ、気になる言葉があった。龍田も、少年提督も口にしていた≪“彼”≫という存在だ。人工知能という単語と結びつければ、それがある種の人造人格であろうことは予想することが出来た。そしてそれが、少年提督をベースにしたものであろう事も。

 

 龍驤は、視線を上げて立ち止まる。

 

 少年提督の資質は、物質と精神への干渉である。しかし、少年提督が自分自身への肉体や精神への干渉を行うには制限があるらしい事は、聞いたことがある。以前、龍驤が秘書艦であった時だった筈だ。どれだけ優れた金属儀礼や生命鍛冶術を以てしても、肉体や精神の活性や成長、自身の深海棲艦化の制御などが限界なのだと。仮に青年の姿へと成長し、肉体を最適化したとしても、徹底して己自身を変質させてしまう事は不可能だと。しかし。少年提督が、もう一人存在すれば。どうなる。もう一人の少年提督が、元の少年提督の肉体と精神を調律し、彫金し、象り、変貌させることが出来るのではないか。

 

 

 其処まで考えて、龍驤は意味も無く廊下を振り返った。

 やはり誰も居ない。考え過ぎだ。頭を振って、不吉な思い付きを追い払う。

 同時に、そんな事態を否定しきれない自分に気付く。

 少年提督の理想や目的はともかく、その真意を龍驤が図りきれていないからだ。

 彼の心の内は、誰にも知り得ない。いや。違う。恐らくだが。

 

≪“彼”≫と呼ばれる存在は、知っているのだろう。

 技術。経験。苦悩。慙愧。後悔。主観。自我。心の傷も。

 少年提督が少年提督として在る為の全てを持っているのであれば。

 言葉や行動からですら読み取ることが出来ない、少年提督の真意を。

 龍驤は、今度は溜息を堪えなかった。息を吐くと、白く煙る。

 

 そんな龍驤を。窓の外に見える木立の枝から。

 夕暮れに溶けるようにして、黒い小鳥がじっと見ていた。

 

 

 

 

 

 

 













勝手な解釈と設定を上手く纏められないまま、
前作からの憂いの芽を何とか摘もうとした、見苦しい回となってしまいました……。
回収していない複線として、まだ御指摘いただいた部分も残っておりますが、
これから少しずつ描写出来ればと思います。

支離滅裂な内容になってしまいましたが、今回も最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

駄弁りながらの影踏み

 

 

 

 甘味処である間宮の二人掛けのテーブル席に腰掛けていた熊野は、携帯端末を片手に頬杖をつく姿勢で、緩く息を吐いた。周りを見ても、まだ混雑という程の人の入りでは無い。ホッと出来るタイミングである。一緒に間宮の甘味を食べようと、鈴谷と約束してある時間までは少し時間が在った。鈴谷を待つ間、艦娘囀線のタイムラインへと目を通していた。

 

 

 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そういえば近いうちにぃ、ウチにテレビの取材が来るらしいっすよ?

 ドキュメンタリー的な番組を撮りたいらしいから、はいヨロシクゥ!

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 いや、よろしくじゃねーよ。俺達は何かさせられんのか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 特には無いみたいなんですけど、

 演習の様子とか鎮守府祭でのお前らの活躍がピックアップされる感じですかね

 途中で、艦娘達へのインタビューなんかを挟んでいくみたいだゾ

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 至って健全な内容そうで何よりです

 

 

≪飛龍@hiryuu1.●●●●●≫

 ホントですねぇ……

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

 インタビューなんて聞くと、何だか緊張しちゃいますね

 

 

≪蒼龍@souryuu1.●●●●●≫

 取り敢えず真面目なこと言わなきゃ、ってなりますよね~

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 でもこれだけじゃ、何か足んねぇよなぁ?

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 足りないって何よ? 十分でしょ

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 余計な事はしなくていいぞ、野獣

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 こういう真面目な内容も良いけどさぁ、

 視聴者達との距離感を縮めるにはインタビューなんかじゃ足りないんだよね?

 もっとエンターテイメント性の在る要素をテンコ盛りに、しよう!

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

 もうそれドキュメンタリー番組としての全体像が切り捨てられませんかね……。

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

 あの……、例えばですけど、どんな内容が盛り込まれるんですか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 雪風VS陸奥 

 サシでポーカー、7戦勝負とかどうっスか?

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 どうっスかじゃないわよ!! それ前もやったじゃない!!

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 申し訳ないが、約束された悲劇はNG

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 あぁん!? 前に鳳翔の店でやったのは5戦だルォォ!?

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 やることは変わらないでしょ!!

 ロイヤルストレートフラッシュを5連続で浴びた私の気持ちが分かる!?

 処理されて終わりよ!! 0‐5が0‐7になるだけだわ!!

 

 

≪山城@husou2.●●●●●≫

 確かにあれは勝負じゃなくて、雪風ちゃんの作業ゲーでしたよね……

 何て言うか、ゲームが始まらなかった的な……

 

≪扶桑@husou1.●●●●●≫

 いやな……事件だったわね……山城……

 

 

≪大鳳@taihou1.●●●●●≫

 えぇ、今思い出してみても、体調が崩れそうな程に見事なガン処理でした……

 

 

≪球磨@kuma1.●●●●●≫

 まぁ、雪風が相手じゃ仕方無いクマ

 此処の鎮守府に来る前から、あの手のゲームで雪風に勝った艦娘はいないクマ

 

 

≪多摩@kuma2.●●●●●≫

 雪風自体が伝説級に強いから、他に内容を考えた方が良いニャ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 じゃあ、『長門とビスマルクの、突撃☆心霊スポット☆100連発!!』は?

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

 じゃあって何だ!? 絶対に行かんぞ!!!

 

 

≪ビスマルク@bismark1.●●●●●≫

 同上!!!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 えっ!!? 全裸逆立ちで!!? エレベスト登頂を!!?

 

 

≪長門@nagato1.●●●●●≫

 出来るか馬鹿タレ!!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 大丈夫だって、何ならグラーフとかにも同行して貰うからさ

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zeppelin1.●●●●●≫

 冗談はよしてくれ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 文句ばっかじゃねぇか、この鎮守府ィ!!

 しょうがねぇなぁ~……、じゃあコレ↓!

 

『海外艦娘達がイク!! 

 日本の名便所100選!! 全部イクまで帰れませんスペシャル!!』

 

 

≪ローマ@V.Vento4.●●●●●≫

 どういう事なの……

 

 

≪リットリオ@V.Vento2.●●●●●≫

 勘弁してください

 

 

≪プリンツ・オイゲン@Admiral Hipper3.●●●●●≫

 あの、名便所とかいう単語、調べても出てこないですけお

 

 

≪アイオワ@Iowa1.●●●●●≫

 名勝とか名湯とかじゃないのは何故なノ……?

 why……?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 へーきへーき!! 

 俺も一緒に、日本の名酒100選を飲み歩く旅に出るんだからさ!

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 どさくさに紛れて職務放棄とは、見下げた根性ですね

 飲酒ばかりしてないで、勤務態度を改めるべきでは?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 夏場は小まめな水分補給が大事だって、小学生でも知ってるぞお前

 熱中症対策、しよう!!

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 水分を補給しろよ

 アルコール補給してどうすんだよ

 下から全部出ちまうだろうが

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

 そもそも、木枯らしがピューピュー吹いてるこの時期にそんな対策いりマス?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 まぁ、俺は王下七武海みたいなところもあるし、自由な振る舞いも多少はね?

 

 

≪嵐@kagerou16.●●●●●≫

 海賊じゃないっすか……

 

 

≪萩風@kagerou17.●●●●●≫

 そんな制度があるの初めて聞きましたけど……

 

 

≪朝風@kamikaze2.●●●●●≫

 これマジ? 野獣みたいなのが他に6人も居るとか最悪じゃん

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @kamikaze2.●●●●● 

 おはよう!! でこっぱち風!! 

 今日もテッカテカのピッカピカじゃ^~~ん!! 

 うぉ眩しっ!! うぉ眩しっ!!!

 

 

≪朝風@kamikaze2.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 誰がでこっぱち風ですって!?

 張り倒すわよ!! て言うかもう夕方だし!!

 

 

≪ポーラ@Zara3.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat あの! 野獣提督! 

 その名酒巡りの旅に、ポーラもお伴して良いですか!?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @Zara3 いいよ!! 来いよ!!

 

 

≪ポーラ@Zara3.●●●●●≫

 ぅわ~い、やったぁ~~(*^-^*)

 

 

≪ザラ@Zara1.●●●●●≫

 @Zara3 絶対ダメです

 

 

≪ポーラ@Zara3.●●●●●≫

 へぇえ~、そんなぁ~……(´;ω; `)

 

 

≪隼鷹@hiyou2.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 話は聞かせて貰ったよ!!

 

 

≪千歳@titose1.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 私達の出番、というワケですね?

 

 

≪那智@myoukou2.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 任せてもらおう!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @hiyou2.●●●●●、@titose1.●●●●●、@myoukou2.●●●●●、  

 お前ら三人なんかと一緒に行ったら、酒蔵荒らしみたいになっちゃうだろ!!

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

 どうでもいいけど、勝手に鎮守府を留守にするのはダメでしょ

 

 

≪曙@ayanami8.●●●●●≫

 もう余計なことしなくていいじゃん

 

 

≪満潮@asasio3.●●●●●≫

 視聴者達との距離感を縮めるつもりなら

 私達が内輪だけで盛り上がっても意味ないしね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そうですねぇ……。確かに交流があってこそだし、

 色んな事にチャレンジして、冒険を楽しんで共有する……

 そんな王道を征くにはやっぱり、鉄●DA●H系の114514時間テレビですか

 

 

≪瑞鶴@syoukaku 2.●●●●●≫

 長過ぎィ!!!

 

 

≪翔鶴@syoukaku 1.●●●●●≫

 放送が終わるまで13年ほど掛かるんですがそれは……

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

 電波ジャックか何かですか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 至って健全だルルォ!!

 ちゃんと114514時間マラソンもあるんだからさ!

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

 足腰こわれる

 

 

≪大井@kuma4.●●●●●≫

 相変わらず、非常識で馬鹿なことばっかり考えますね

 

 

≪北上@kuma3.●●●●●≫

 いやー、まぁ放送時間は非現実的だけど、

 この鎮守府の皆が色々とチャレンジするのは、見てて面白そー

 

 

≪木曾@kuma5.●●●●●≫

 要するに24時間テレビ的な感じで、挑戦と成功を視聴者と一緒に体験する訳か

 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そうだよ

 良いアイデアが在る奴はドンドン書き込んでいって、どうぞ

 

 

 

 

 そんなタイムラインを眺めつつ、熊野は可笑しそうに小さく笑みを零した。今日は艦娘達の書き込みが多い。出撃や演習も、今日は一段落しているからだろう。賑やかで馬鹿馬鹿しく、他愛も内容も無くて、どうしようもなく愛おしい書き込みが、この鎮守府の日常を縷々と綴っている。その中心に居るのは、少年提督や野獣だったり、時には少女提督だったりもする。だが、やはり野獣が場を盛り上げることが多い。

 

 熊野の知っている野獣という男は、基本的に不真面目だ。長門や陸奥、加賀や鈴谷が秘書艦の時には、すぐにサボって姿をくらませたり、何処からともなく缶ビールを取り出して執務の最中に飲み始めたりする。他にも挙げれば枚挙に暇が無いような男なのだが、すべき事はそれなりに片付けてみせるあたりは有能なのだろう。仕事が遅いという訳では無く、態度と言うか、手の抜き方に問題があるタイプと言うべきか。

 

 ただ、時雨や赤城が秘書艦の時は、少々違う。これについては、熊野も薄々気付いていた。あの二人が秘書艦の日は、野獣は特に派手な行動を起こしたりしない。割と大人しいのだ。勝手に姿を消して長時間サボったりもしない。何かをやらかすにしたって、執務を終わらせてからだ。今日だって、そうに違いない。野獣の今日の秘書艦は時雨の筈だ。タイムラインを騒がせている野獣は、もう仕事を終えて何処かで自分の時間でも過ごしているのか。熊野は軽く息をついてから、携帯端末から視線を上げて瞑目する。

 

 

 熊野は、時雨や赤城が、野獣と共にどんな過去を共有しているのかは知らない。或いは、秘密とでも言うべき何かを共有しているのかもしれない。だが、だからと言って野獣が時雨や赤城を特別扱いしているかといえば、そういう風にも見えない。ある種の態度の違いがあったとして、それは接し方の種類や、互いの距離感とでも言うのか。そういう微妙な差異の中で時折、ふとした時に野獣が見せる、面倒見の良さや不器用な気遣いこそ、あの男の本質なのだと熊野は考えている。奇天烈で荒唐無稽な言動に隠して紛らわすしかない、野獣という人間が持つ苦悩、決意、後悔、信念が其処にあるのだろう。艦船としての前世を持つ熊野も、何となくだが感じる。人間味の妙とは、そういう部分にこそ宿るのだろうと。そして、熊野と仲の良い鈴谷もまた、野獣のそういう部分に惹かれたに違いない。沈思に眼を閉じたまま、熊野はもう一度息を吐き出す。そして携帯端末に視線を戻そうとした時だった。

 

 

「ちゅわぁぁぁぁあんん!!! 疲れたもぉぉぉん!!!」

 

 騒がしい声が、間宮の入り口の方から聞こえた。思わず振り返る。

 

「隣の席、良いっすかぁ~? Oh^~?」

 

 海パンにTシャツ姿の野獣が、携帯端末を片手で操作しながら此方に歩いて来る。上品な和風喫茶店といった風である間宮の店には、酷く似つかわしくない。ただ、さっきまで色々と考え事をしていた所為か。そんな気の抜けるような恰好と空気を纏う野獣に、熊野は少しだけ笑ってしまった。取り合えず、「えぇ、どうぞ」と野獣に応えると、野獣は「ありがとナス!」と、似合っていないウィンクをして見せた。

 

 熊野が座る二人掛けテーブルの隣。其処にある四人掛けのテーブルに、野獣が腰かける。野獣は一人では無かった。野獣の今日の秘書艦である時雨と、少し前に野獣に召還された山風、そして、秘書艦見習いとしてのレ級だった。レ級はごつい鞄を手に持っている。あのサイズからして分厚い本が数冊入っているんだろう。

 

「失礼するね」 時雨は、落ち着いた笑みで、熊野に会釈してくれる。

 

「……お邪魔、……します」 山風もそれに倣い、ぺこりと頭を下げてくれた。

 

「こんばんは~!(レ)」 レ級は快活そうで楽しそうな、嫌味の無い笑みだ。

 

 熊野も、微笑みと共に三人に会釈を返したタイミングだった。

 

「ごめん熊野~、待たせちゃった?」

 

 明るい声がした。熊野は声のした方へと視線を向ける。今度は鈴谷だ。此方に早足で歩み寄ってくる最中だった。熊野は腕時計で時間をチラリと確認すると、約束の時間にもまだ少し余裕がある。鈴谷も遅刻では無いので、単純に熊野が早く着いただけの事だ。

 

「ふふふ、ほんの少しだけ」

 

 傍まで来た鈴谷に、熊野は笑みを浮かべつつ、冗談めかしてちょっと意地悪に言う。それは鈴谷も気付いている。鈴谷も微苦笑を浮かべて、ごめんごめんと言いながら、野獣達が腰かけたテーブルへと向き直った。

 

「野獣達も来てたんだ、って言うか……、ふ~ん? 何か珍しい組み合わせじゃない?」

 

 そう言いながら、熊野の正面の席に腰かけた鈴谷に、野獣が肩を竦めて見せる。

 

「時雨と山風は今日の秘書艦だし、レ級は今日の見習いだから。仕事終わりにこの面子でお茶するけど、どこもおかしくはない(ブ)」

 

「あぁ、そうだったんだ」

 

 鈴谷は半目で野獣を見てから、冗談ぽく笑った。

 

「この三人が秘書艦なら、仕事も早く終わる筈だね~」

 

「そうだよ(肯定)。御陰で時間に余裕も出来て、良いゾ~コレ!」

 

 野獣も唇の端を持ち上げた。

 

「やっぱり、仕事の出来る秘書艦達を……、最高やな!(惜しみない賞賛)」

 

「わふ~(>ω<)! どうじゃ!!(レ)」

 

 野獣の正面に腰掛けていたレ級は、自分たちが褒められている事に気付いたようだ。隣に座っていた山風の肩に腕を回して、得意げな貌で胸を張って見せた。突然、肩に腕を回された山風も驚いたようだが、屈託のない笑みを浮かべて顔を見合わせて来るレ級につられて、控えめながらも笑みを零している。野獣の隣に腰掛けていた時雨も、そんな二人を見ながら、優しげに微笑んでいた。

 

 

 時雨は野獣の初期艦娘であり、秘書艦としての仕事ぶりも優秀であることは熊野も知っている。そしてレ級も山風も、その時雨に引けを取っていない。あらゆる学問・分野において、かつてからレ級は膨大な学習をはじめており、提督達が扱う術式の新理論の構築などの業績を残している。非常に優れた才知を持っているレ級は、秘書艦としての実務を覚えるのも非常に早かった。ちょっと引っ込み思案で大人しい山風も、吸収の早い努力型だった。時雨や野獣の下、今では黙々と何でもソツなくこなすほどになっている。優秀さとは習慣であるという言葉もあるそうだが、山風はそれを地で行くタイプだ。

 

 

 確かに、この三人に脇を固めて貰えば、仕事も捗ることだろう。おまけに、野獣自身もサボらないのなら尚更。出来た時間の余裕で、こうして間宮へと皆で繰り出して来たということか。取り敢えず、皆で間宮に注文を取って貰ってから、そういえば……と、熊野は先ほどまで眺めていたタイムラインを思い出す。

 

 

「あの、野獣提督? 艦娘囀線での件なのですけれど、本当にテレビ局の方々が取材に来られますの?」

 

 熊野は聞いてみた。

 

「そーそー。鈴谷達もマジで何かやるの?」

 

 鈴谷も携帯端末を取り出して、タイムラインを確認している。茶を啜っていた野獣は、熊野に頷いて見せてから鈴谷を一瞥し、湯呑をテーブルに置いて肩を竦めた。

 

「無理にとは言わないけど、多少(のアピール)はね?」

 

「じゃあさ、こういう悪ふざけ的な企画は、まぁ流石に無いって事だよね?」

 

 携帯端末に表示されているタイムラインから視線を上げて、再び鈴谷は半目で野獣を見遣る。野獣は、「そうですねぇ……(熟慮先輩)」似合わない思案顔になって、顎に手を当てた。そんな野獣の隣に座っていた時雨が、「いや、其処は考えるところじゃないよ……」と、控えめに突っ込みを入れているが、聞こえているのかいないのか。野獣が力強く頷いて、鈴谷を見た。

 

「本気でやろうと思えば(麒麟児の風格)」

 

「そんな本気は出さなくて良いから……(良心)」

 

 鈴谷が疲れたように言ってすぐ、間宮と伊良子が人数分の甘味を持ってきてくれた。熊野達は歓声を上げて、礼を述べつつそれらを受け取る。羊羹に、和風ケーキ、パフェなど。どれも彩りも豊かで、見た目も本当に美しい。山風とレ級は眼を輝かせているし、普段は落ち着いている時雨だって、ちょっとソワソワしている様に見える。「うわ、すごいよぉ」と、大盛のパフェを頼んだ鈴谷も少々興奮気味だ。熊野も同じく、大盛のパフェだ。ちなみに、野獣は羊羹を頼んでいた。二種類の羊羹が上品に小皿に盛られている。時雨、山風、レ級の三人は抹茶のケーキである。

 

 皆で手を合わせる。間宮と伊良子に感謝を述べて、一口。自然と溜息が漏れる。生きててよかった。控えめな甘さと、暖かいお茶の程よい渋さが絶妙だ。何かを考えるのが面倒くさくなる。頭の中に文字を思い浮かべるのが酷く億劫だ。上品な風味と幸福感に満たされて、脱力してしまう。至福の時とは、こういう時間の事を言うのだろう。大盛のパフェを頼んでいるにも関わらず、もう既に半分ほど食べてしまった熊野と鈴谷は、眼を見合わせた。

 

「ねぇ、熊野……、コレさぁ、あと3回くらいお代わりできそうじゃない?」

 

 鈴谷は、難しい貌をしていた。「そうですわねぇ……」と、熊野も神妙に頷く。

 

「ふとるぞー(レ)」

 

 何故か小声で、レ級が熊野と鈴谷に声を掛けてくれた。おかげで踏み留まれた。熊野は一度、静かに深呼吸をする。熊野の正面に腰掛ける鈴谷も、同じように深呼吸をしていた。

 

 そうだ。冷静になろう。いかに艦娘とはいえ、艤装以外は肉の体だ。肉体だ。肉。……肉。お肉がついてしまう。外傷や内臓機能などは、治癒・修繕の施術式によって回復も可能だ。“バケツ”などと呼ばれる、高速修復材だってある。だが、余分なお肉はなぜか落とせない。こうした体型の変質は、外的な損傷ではないからだろうと言われているが、これは痛い。

 

 野獣達のテーブルでも、壁に張り出されてあるメニューを見ていた時雨が、何だか悲し気な様子で俯いた。山風も伏し目がちになって、お茶を啜っている。皆の願いは一つだ。お代わりがしたい。でも。一度お代わりをしてしまえば、きっと止まれない。突き抜けしまうだろう。間宮の和風スイーツが、美味すぎるが故の苦悩だった。

 

「かわいそうになぁ……(レ)、いろいろ辛いか……(レ)」

 

 レ級は言いながら、周りの面子を見回した。先ほどの小声も、レ級なりに空気を読んだのだろう。熊野がそんな風に思っていたが、気のせいだった。レ級は挙手して、「いやぁ、スミマセーン(レ)」店の奥に声を掛けて、自分だけお代わりを頼み始めたのだ。何て奴だと思っていると、「お前らは別に体重なんて気にしなくてもへーきへーき!」と、今度は野獣が軽く笑った。

 

「どうせ、全部おっぱいに栄養が行くんだからさ! なぁ鈴谷ぁ?」

 

「だからさぁ……、そういうデリカシーの無い絡み方止めない?」 

 

 憮然とした貌の鈴谷が、野獣を横目で睨んだ。その鈴谷の胸元を、熊野は凝視する。

 

「……でも鈴谷? 確かに、前よりも大きくなってませんこと?」

 

 熊野は低い声で聞いた。「えっ」と、鈴谷が此方に向き直る。時雨も、鈴谷の胸元を凝視していた。妙な緊張感の中、レ級は新しく持ってきて貰ったケーキを、フォークで切り分けている。そして、「一緒に食べような? な?(レ)」と、隣の山風に“アーン”して食べさせていた。山風の方も、最初はおずおずと言った様子だった。だが、すぐにケーキの美味しさに負けて、レ級と一緒に、幸せそうに味わっている。熊野達とは対照的に、ほのぼのとした空気だ。野獣は特に何も言わずに羊羹を一口食べてから、ほんの少しだけ唇の端を持ちあげた。

 

「艦娘達の肉体データは、俺達にも逐一報告されてるから間違いないゾ(チクリ魔先輩)」

 

 無駄に良い声で言いながら野獣は、熊野に頷いて見せる。「羨ましいな……」と零した時雨は自分の胸の辺りに両手を添えつつ、切なげに呟いた。熊野も、何故か溜息が漏れた。鈴谷は、「えぇ……、急になんなのこの空気……」と困惑した様子で熊野と時雨を見比べている。野獣が、芝居がかった辛そうな貌になった。

 

「どう……? 鈴谷のおっぱいの所為で、せっかくの楽しい雰囲気が駄目になっちゃったけど……」

 

「私の所為なの!?」

 

「そうだよ(悲し気な頷き)」

 

「違うよ! そんな話題振って来た野獣の所為でしょ!?」

 

「じゃあ、どんな話題なら良いのだよ?(ハ●太郎)」

 

「いや、どんなって……」

 

 鈴谷が答えに窮した時だ。さっきまで山風と一緒にケーキを食べていたレ級が、すごい大声と笑顔で「肉の棒!!!!(レ)」と挙手した。熊野と時雨が吹き出して、意味を理解するのに少し時間が掛かったのであろう山風が、時間差で俯いて顔を真っ赤にした。店の奥の方で、調理器具を落としたような派手な音と、皿が割れるような音が聞こえて来た。間宮と伊良子も、いきなりの事に驚いたのだろう。だが、レ級はまだ止まらない。真っ赤になった面々を順番に見てから、白いギザっ歯を見せて快活に笑う。

 

「夏コミに、スティックナンバー♂見に行こうな!!(レ) いざ征かん!!(レ)」

 

「おぉ^~、良いねぇ^~(賛美)」などと、力強く頷いたのは野獣だけだ。

 

「申し訳ないけど、間宮さんのお店で猥談に発展するようなのは流石にNG」

 

 即座にブロックに入る、真顔の鈴谷による迫真のインタラプトが光る。

 

「しょうがねぇな~……(悟空)」

 

 野獣は茶を一口啜ってから、やれやれと言った風に肩を竦めた。そして姿勢を正し、居住まいを正す。

 

「じゃあ今日は、“税金が正しく使われているのかどうか”について、皆で話合いたいと思います……(変態糞真面目)」

 

「扱うテーマが肥大し過ぎィ!!」 鈴谷が叫んだ。

 

「また急ハンドルですの? 壊れますわねぇ……(アンニュイ)」

 

 辟易した貌になった熊野も、疲れたように言う。

 

「この場で話をしたところで、消化しきれないよね」 

 

 苦笑を漏らす時雨に頷いてから、鈴谷も「そうだよ(便乗)」と、疲れたように息を吐く。

 

「皆で美味しいもの食べようって言う時にさぁ……、何でそんなでっかいテーマ持ち込む必要なんか在るの?(セイロン島)」

 

「やっぱり、鈴谷の胸くらい大きい方が良いダルォ?(優しさ)」

 

「社会問題と一緒に並べるほど大きくないよ!」

 

 自分の胸の辺りを両手で隠すようにして、鈴谷が野獣に叫んだ時だ。

 

「やじゅう提督は、その……、胸の大きいひとが……好きなの?」

 

 上目遣いになった山風が、思わずと言った様子で、ぽしょぽしょと言葉を紡いだ。そして、すぐに野獣から視線を逸らし、また俯く。時雨が山風を見た後に、野獣を見た。鈴谷と野獣は顔を見合わせる。野獣が、どんな女性を好むのか。これについては、熊野は知らない。というか、この鎮守府の艦娘達の殆どが知らないのではないか。反応からしても、初期艦である時雨も知っていないようである。数秒の間の、不思議な沈黙だった。

 

 

 そんな奇妙な間だったが、楽し気なレ級は「ぬっふっふ(^ω^)かわいい!(レ)」と、赤面して俯く山風の頬に、頬ずりしている。山風は、特にそれを嫌がる風でもなく、むにむにと唇を動かしていた。熊野は、野獣と山風を交互に見る。現世に召ばれてすぐの頃の山風を知っている熊野は、何だか微笑ましい気持ちになった。

 

 最初の頃の山風は、大人しく引っ込み思案で、自分には構わないで欲しいと言う雰囲気を濃く纏っている艦娘だった。他者と距離を取り、余り近寄らせようとしないところがあった。そんな山風を秘書艦として起用する機会を多く取った野獣は、常に山風の他に、もう一人か二人、秘書艦補佐を置いた。時雨や熊野、鈴谷、その他の艦娘達と交流する機会を増やしたのだ。

 

 野獣は、山風を弄り回したり、無遠慮な振る舞いで振り回すようなこともなかった。相変わらずバカな事を言ったりやらかしたりはしたものの、それは飽くまで、他の艦娘と山風が接点を作る為だったのだろうと熊野は考えている。山風が秘書艦、熊野が秘書艦補佐の時も、野獣が普段通りに馬鹿をやってくれた御陰で、空気が張りつめる事も無く、気まずい沈黙をつくる事も無かった。他者をよく見ている野獣らしい、独特の空気の作り方だった。無防備さや隙を見せる事によって、良い意味で相手の警戒を解くのが上手いのだ。

 

 無論、山風が少しずつ心を開いていって、今のように笑顔を見せるようになったのは、山風自身が、他の艦娘達に歩み寄る姿勢を持ったからだ。少女提督の下に居る、海風や江風達をはじめ、優しい姉妹艦たちの存在も大きかった筈だ。ただ、野獣の奇天烈な言動が、そういった他の艦娘達と山風のコミュニケーションの潤滑油として機能していたのは間違いない。もしも野獣が、隙も余裕も無いような軍人然とした堅苦しい振る舞いだったならば、山風がこの鎮守府に打ち解けるには、もっと時間が掛かっていたに違いない。大人びている山風の事だ。野獣の不器用な気遣いにも気付いているだろうし、感謝もしている事だろう。

 

 

「そうですねぇ~……(思案顔先輩)」

 

 野獣は椅子に座り直しつつ腕を組んだ。

 

「僕はやっぱり、王道を征く、“女性の魅力は、おっぱいじゃない”派ですか」

 

 芝居がかった穏やかな貌で頷いてみせる野獣を見て、レ級が「シシシシシ!」と、面白がるように笑った。時雨もクスリと笑みを零す。

 

「山風ちゃんの前だからって、今更そんな思い出したみたいに真面目くさった事言ってもさぁ、説得力無いよ?」

 

 さっきまで野獣の冗談に振り回されていた鈴谷は、不満そうな貌で湯呑の茶を啜って椅子に凭れる。ただ、俯いていた顔を上げた山風の方は、野獣の答えには、それなりに満足しているようだった。ほっとしたように「そう、なんだ……」と呟いた山風は、綻びそうになる貌を誤魔化すみたいに茶を啜った。

 

「そんなフェミニストな野獣提督は、どんな女性に惹かれるのか聞いてみたいですわ」

 

 熊野は冗談めかして聞いてみた。野獣は、唇の端を持ち上げた。肩の力が抜けたような、自然体な笑みだった。

 

「一緒に居ても、いつもの自分で居られるのがいっちばーん(SRTY)ですよね……」

 

「それは、今のように?」 悪戯っぽく、熊野は重ねて聞いてみた。

 

「おっ、そうだな!(いつもの笑み)」

 

 低く喉を鳴らすように笑う野獣は、恥ずかしがるでも無く、恰好をつけるでも無い。やはり自然体で答えた。余りにも迷いの無いその回答に、不覚にも熊野は少し動揺した。

 

 普段から謎の多い男だし、野獣自身も自分の事を多く語らない。バカ騒ぎや無茶苦茶な言動が、そういう孤高さを覆い隠しているような男だと思う。だが、こういう時に場を白けさせないのは、その声音や表情に、不思議な深みがあるからだろう。これが俗に言う、大人の魅力とでも言うヤツなのかは、熊野には判断できない。ただ、鈴谷と時雨も何だか赤い貌で黙り込んでいるし、山風も顔を上げて野獣を凝視している。

 

「イケメンww? イケメ~ンwww?(レ)」

 

 シシシシシ! と、肩を揺らして笑っていたレ級は、茶化すように言う。

 

「そうだよ(肯定)! 俺みたいなイケメンはモテまくって、いや~キツイっす(素)」

 

 野獣は今までの雰囲気をパッと切り替えて、また芝居がかったアンニュイな表情を浮かべて見せた。

 

「気づいたら、もうバツ364364! 笑っちゃうぜ!!(女の敵)」

 

「いや、笑えないよ……、ろくでなし日本代表じゃん……」

 

 鈴谷が不味そうな貌で言う。それに続いて、「酷いですねキミ!(レ)、それって屑じゃな~い?(レ)」と、こんなバカバカしい会話を楽しむように、レ級は可笑しそうに笑った。時雨と山風も、ふふっ……と、口元を抑えるようにして笑みを零している。熊野も、微苦笑と共に息を一つ吐いた。

 

 今の野獣の態度はまるで、歳の離れた妹達の機嫌を取っているみたいな感じだ。少なくとも、熊野にはそう見える。時雨や赤城、それに山風や鈴谷の感情がどうであれ、男と女の関係になんてなりそうも無い。今までがそうだったように。

 

 まぁ、熊野自身も野獣という男を良く知っている訳では無い。熊野が知っている野獣とは、とにかく滅茶苦茶で、突拍子も無く、馬鹿馬鹿しくて、その癖、面倒見が良くて、周りが見えている。身のこなしと言うか、所作の一つ一つに、何処か武人然とした重みがあったりする。優秀な提督であり、上司だ。同時に、家族と呼べうる距離感だとも思う。熊野が感じている親近感の正体も、きっと家族愛と呼ぶべき感情だろう。それら全ての要素は、飽くまで表層的なものだ。それで良いとも思う。野獣は、今も笑っている。余計な力みのない、いつもの笑みだ。それが腹案によって造られた笑顔には、熊野にはとても見えない。

 

 いや。見えないものが見えるようになっても、野獣は野獣だ。それは変わらない。間宮で過ごすこの暖かな時間は、確かに在るのだ。熊野は、鈴谷や時雨、それに山風やレ級の楽しそうな会話を横目で見つつ、茶を啜った。美味だったものの、先ほどよりも渋みが強くなった気がした。

 

 

 















今回も読んで下さり、有難うございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

浮世の海



暖かなメッセージにも反応が遅れて申し訳ないです……。
お暇潰しにでもなれば幸いです……。



≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 あっ、そうだ!

 ウチの鎮守府用に、Tw●tteのアカウント取っといたから。お前らの為に

 明日から色々呟いていくゾ

 

 

≪長門@nagato.1●●●●●≫

 また訳の分からん事を……

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 仕事に専念してくれない?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 情報を発信していくのも仕事の内だって、それ一番言われてるから

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

 ホント勘弁して下さいよそうやって思い付きで行動するの

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

 そもそも、何の情報を発信するんですかね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 ん、そうですね。取り合えず最初は、

 “今日の霞ちゃんのパンツは、クマさんです”みたいな感じでぇ……

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 アンタさぁ、ねぇ、もう死ぬ? 死んじゃう?

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 ゴミみてぇなアカウントだな

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 皆が知りたがるホットな情報ダルルォ!!? 

 やっぱり、まずはフォロワーを増やさなきゃ……。

 秒間114514ツイートの速射砲で勝負に、で、出ますよ

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 そんな事しなくていいから

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

 サイバー攻撃か何かですか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 これくらいアグレッシブで良いんだ上等だろ?

 

 

≪飛龍@hiryu1.●●●●●≫

 速攻でアカウントロックされてそう

 

 

≪蒼龍@souryu1.●●●●●≫

 仮にフォロワーさんが増えたとしても、常に炎上してそう

 

 

≪鹿島@katori2. ●●●●●≫

 もっと普通というか、穏やかなツイートにしませんか? しましょうよ……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 しょうがねぇな~、

 じゃあ当面は、ウチの日常の一コマ一コマを切り取って、写真と一緒に呟いていくゾ

 

 

≪香取@katori1. ●●●●●≫

 しかし、鎮守府内での艦娘達の様子を表に出すというのは……

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

 @Butcher of Evermind

 本営からの許可は出ているのでしょうか?

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 はい。艦娘の皆さんの戦闘や入渠、改修施術などの軍事的な活動を除いた生活の範囲に限ってではありますが、世間に公開する事を許して貰っています

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 社会の目にお前らを映す方法としてはアリだろうって事で、多少はね?

 最近じゃ、お前ら艦娘の人権を尊重して、守られるべきものだっていう世論が主流になりつつあるからね。本営の上層部も、そういう社会に向けての外面をより頑丈に取り繕いたいんでしょ

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 要するに、本営お得意の『艦娘を大事にしてますよ』っていうアピールの一環って事だろ?

 いつものヤツじゃねぇか

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 確かに、今までと同じような印象操作の一部と言ってしまえばそれだけですが、いずれ大きな意味を持ってくると思います。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そうだよ。今の世論の流れを作ったのは、間違いなくお前らの存在があってこそだってハッキリわかんだね。だから今回も、いろいろと協力してくれよな~頼むよ~

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 まぁ、出来る範囲でならな

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

 私に出来ることなら、喜んで

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 鈴谷も!

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 仕方ありませんね

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 そう言えば、テレビ局が来るとかいう話はどうなったの?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 頓挫ゾ。決戦準備も長引いたからね。

 

 

≪長門@nagato.1●●●●●≫

 仕方のない事だな

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 その代わりィ、ウチで映像を撮って用意すれば、それをテレビ局で流して貰うっていうのはOKらしいっすよ?

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

 えっ、それは……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 いつもの鎮守府の風景を撮りたいから、またレクリエーションしませんか? しましょうよ? 前みたいに “逃●中”とか、もう一回やってみよっか、じゃあ

 

 

≪曙@asasio10. ●●●●●≫

 フザケンナヤメロバカ!

 

 

≪皐月@mutuki5. ●●●●●≫

 無理ぃ~もぉヤダ~!!

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

 それだけは、勘弁して下さい……

 

 

≪ガングート@Gangut1.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 逃●中とは何だ?

 

 

≪ヴェールヌイ@Verunui.●●●●●≫

 知らなくて良い事もあるよ、同志

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 簡単に言えば、鎮守府全体を使った鬼ごっこみたいなモンだゾ

 “艤装召還”不可だから艦娘としてのスペックじゃなくて、個の運動能力がモノを言う感じでぇ。賞品とかも用意して、みんなで盛りあった事があったんだよね

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 手の込んだ用意も仕掛けもあって、楽しかったですね

 

 

≪ガングート@.Gangut1.●●●●●≫

 ほう、なかなか興味深いな

 

 

≪Jervis@J1.●●●●●≫

 へぇ~、面白そう!

 やってみたい!

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

 絶対にNO

 

 

≪榛名@kongou3.●●●●●≫

榛名も許しません

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 楽しかったっつーか、参加者の殆どが必死だったのは間違いねぇな

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

 思い出すと、変な汗が出てきました

 

 

≪アークロイヤル@Ark Royal1.●●●●●≫

 なぁ、ビスマルク。お前は参加したんだろう? 

 どうだったんだ?

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 ノーコメントで

 

 

≪プリンツ・オイゲン@Admiral Hipper3.●●●●●≫

 思い出したらアー吐キソ……

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zepplin1.●●●●●≫

 ……一体、何があったんだ?

 

 

≪ガンビア・ベイ@Gambier Bay.●●●●●≫

 あ、あの、賞品が用意されていたと仰っていましたが

 具体的にはどんなものだったのでしょう?

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 確か、『僕が一日、何でも言う事をきく』というものだったと思います

 

 

≪ウォースパイト@Warspite1.●●●●●≫

 ん?

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zepplin1.●●●●●≫

 ん?

 

 

≪リシュリュー@Richelieu1.●●●●●≫

 ん?

 

 

≪アイオワ@AIOW1.●●●●●≫

 n?

 

 

≪イントレピッド@Essex5.●●●●●≫

 今

 

 

≪サラトガ@Lexington2.●●●●●≫

 何でもするって

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 言ってないんだよなぁ……

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 とにかくさ、もう逃●中はやめた方が良いと思うな

 

 

≪熊野@mogami4.●●●●●≫

 泣いてる子もいましたものね……

 もう少しファミリー向けな内容で考えませんこと?

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 バラエティや料理、クイズ系になるのかしら

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

 料理番組ということであれば、

 鎮守府には、鳳翔さんや間宮さん、それに伊良湖さんも居られますからね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 おっ、そうだな! 料理系は鉄板ですねぇ!

 あと、クイズ系をやるなら、やっぱり王道を征く『アタッ●364364』ですか

 

 

≪長門@nagato.1●●●●●≫

 奪い合うパネルの数が膨大過ぎるだろうが!

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 そんな大規模な番組装置、誰が用意すんねん……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 明石に頼めば大丈夫でしょ? 

 毛穴まで丸見えの1919Kイキスギ・ハイビジョン対応で撮るから、

 その辺の準備も、はいヨロシクぅ!

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

 余計な仕事が増えすぎて、もう気が狂う!!!

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 いや、時間的に見て番組として成り立たないでしょ、

 36万問のパネルなんて、埋まってくるのに何年掛かるのよ……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 その辺はちゃんと解決できるゾ

『アタッ●チャ^~ンス』で、114514枚のパネルを取れるから、安心!

 

 

≪嵐@kagerou16.●●●●●≫

 とんでもなく大味っスね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 お前らの生活から軍事的なモンを取っ払うには、これくらいガバッてる方が良いゾ

 

 

≪朝風@kamikaze2. ●●●●●≫

 自分でガバッてるとか言ってたら世話無いわね

 

 

 

 

 

 

 

 

 艦娘囀線の昼頃のタイムラインを思い出しつつ、時雨は海を眺めている。彼方まで広がる晴れた空の青に、夕日の茜色がグラデーションを作っていた。風が心地よい。

 

 

 今日の秘書艦であった時雨は、早めに仕事を終えた野獣と共に埠頭での釣りに興じていた。野獣の隣には、少年提督も釣竿を持って立っている。そして少し離れた場所には、今日の彼の秘書艦である瑞鶴も、難しい顔で釣竿を構えていた。野獣は少年提督と釣りをする約束をしていたらしい。そこへ、「お前らも、やりますか~? Oh~?」と、時雨と瑞鶴も誘われた形だった。時雨はその誘いに快く応じて、瑞鶴も無言で頷いていた。

 

 釣り始めてそれなりに時間が経つのだが、さっぱり釣れない。時雨は手の中の竿を握り直しつつ、少し離れた場所に立っている野獣を横目で見た。時雨だけでなく、野獣も少年提督も、そして瑞鶴も、釣りを始めてから全く釣れて居なかった。野獣は釣り竿を揺らしながら、何処か遠い目をして夕焼けの海を見詰めている。少年提督は穏やかな表情で、揺れる海の表面を眺めている。瑞鶴だけは、何処か思い詰めた様子で足元を睨んでいた。

 

「場所、変えてみようか?」

 

 時雨が皆に訊くと、「えぇ、ちょっと移動してみましょうか」と、少年提督は微笑んで頷いた。「そうっすっかな~、俺もな~(検討)」と、野獣も苦笑を浮かべる。瑞鶴は時雨の方を見て、すぐに目を逸らした。それと同時だったろうか。

 

 野獣の携帯端末が電子音を鳴らした。Tシャツに海パンという、いつもの恰好の野獣は面倒そうに鼻を鳴らす。本営からの着信だったようだ。野獣は「悪い、ちょっと失礼するゾ~(アンニュイ先輩)」と、掌を縦にして見せた。少年提督が微笑んで頷いていた。同じように野獣へと頷いて見せた時雨は、海パンから携帯端末を取り出した野獣から、視線を海へと流す。遥か彼方の空は海に触れ、紫色に変わろうとしていた。

 

 少年提督と瑞鶴も、彼方の空を見ている。誰も、何も言わなかった。携帯端末を耳にあてた野獣が、誰かと話をしている。夕暮れの風は心地よいが、野獣の声までは攫ってはくれない。艦娘の深海棲艦化という言葉が聞こえた。地面を見ている瑞鶴が、震えた呼吸をしているのには気付かないフリをした。

 

 瑞鶴は、前の作戦から帰って来てから様子が変わった。明るく、溌剌だった筈の彼女は、自分では消化しきれない苦悩を抱えているような、酷く憔悴した面持ちで居ることが多くなった。今もそうだ。瑞鶴は余裕の無い強張った表情で、自分の爪先を睨んでいる。

 

「……気分でも優れませんか?」

 

 そんな瑞鶴へ、少年提督は心配そうに声を掛ける。

 

「うぅん、大丈夫」

 

 瑞鶴は少年提督を一瞥してから、俯き加減で首を振った。

 

 野獣は携帯端末の向こうの人物と話を続けている。その内容をあまり聞きたく無くて、意識を逸らす為に時雨も携帯端末を取り出した。

 

 ただ、携帯端末を取り出したところで、何をするのかまで考えていなかった。片手に釣竿を持ち、もう片手に携帯端末を持つという恰好になった時雨は、この後どうするかを一瞬だけ迷ってから艦娘囀線を開く。息苦しさを感じながら、昼間のタイムラインをもう一度読み返した。タイムラインに見る野獣の馬鹿馬鹿しい言動は、この鎮守府の“日常”というものを象徴しているように思える。

 

 今回の作戦は、過去に例を見ない規模の大きさだった。艦娘達が、艦船としての自身の過去を乗り越える戦いにもなった。決戦装束に身を包んだ瑞鶴の、凛とした後ろ姿は強く印象に残っている。この作戦を戦い抜いた艦娘達は皆、生きるという事に対する答えや哲学を、各々の心の内に得たに違いない。それを新たな価値観や自我として育んでいくのも、この“日常”を拠り所にしてこそだと思う。

 

 時雨は、視線だけで野獣を見た。携帯端末を耳に当てる野獣は、やはり遠い目をして海を睨んでいる。話をしているその声音も、普段のお茶らけているものとは少し違う。軽い調子の中にも、相容れない者と対峙する意思を滲ませている。通話を終えた野獣は、携帯端末を海パンに仕舞ってから、細く静かに息を吐き出した。時雨も自分の携帯端末をポケットに仕舞う。沈黙の間を、また風が通り過ぎていく。時雨は、自分の中にジワジワと広がる不安を、この静けさの中に溶かして有耶無耶にしてしまいたくて堪らなかった。気付くと、オレンジ色の海を見詰めていた。

 

「場所変えますか~?oh~?」

 

「えっ、ぁ、うん」

 

 野獣に声を掛けられ、慌てて顔を上げる。その途中で、得体の知れない後ろめたさを何とか飲み込んだ。自分がちゃんと笑えているのかどうか不安だった。釣りをする場所を変えても、やはり魚は釣れなかった。時雨と野獣、それに少年提督はポツポツと言葉を交わすものの、瑞鶴はずっと無言だった。特に盛り上がることも無く、ぎこちない雰囲気が続いた。いつもなら、野獣と過ごす時間はもっと楽しい筈なのに、今日は違う。いや、正確には、前の大きな作戦が終わってからだ。深海鶴棲姫を目撃して、時雨の中で何かが変わったのは間違いない。時雨は先ほどから黙り込んでいる瑞鶴も、自分と同じような想いを抱えているのを感じていた。だが、それは決して口にしてはいけない事だとも思っていた。また澄んだ風が吹いて、時雨の髪を揺らしていく。

 

 

「Foo~↑!! 涼しくて気持ちィ~!!(ご満悦)」

 

 暢気に笑う野獣は、ずっと変わらない。茫漠とした海も同じく、ただ漫然と波を作っている。少年提督も、本質的には変わっていない。この景色に焦燥を感じてしまうのは、時雨の意識が変わったのだろう。何処か遠い世界に置き去りにされたような気分になり、「ねぇ、提督さん」と、瑞鶴が少年提督を呼んでいなければ、時雨が野獣に声を掛けていたかもしれない。声が震えていた。

 

「はい、何でしょう?」

 

 優しい微笑みと共に、少年提督は瑞鶴に振り返る。余裕の無い瑞鶴の声音に、野獣は少しだけ眼を細めていた。夕日が、瑞鶴の影を伸ばしている。

 

「今、こうして野獣提督も居るし、聞きたい事があるんだ」

 

 瑞鶴は自分の影を見下ろしながら言う。

 

「今だけ……、多分、今しか出来ない話だし、もう、二度と口にしない。だから、聞いていいかな?」

 

 瑞鶴の震える声と言葉に切実さが滲んでいく。顔を上げた瑞鶴と、時雨の眼が合う。瑞鶴の瞳は、頼りなく揺れていた。こんな話の場に巻き込んで、本当にゴメン。そう言われた気がした。少なくとも、瑞鶴の眼差しや声音に積み重なっている感情の中には、時雨に対する申し訳なさのようなものを感じた。だから時雨は何も言わず、小さく頷いて見せた。それが伝わったのだろう。瑞鶴は目を伏せる様にして、時雨に頭を下げる。

 

「えぇ」 少年提督は微笑みを崩さない。

 

「おっ、いいゾ~(深い頷き)」

 

 野獣は少しだけ眼を細めてから、いつもの笑顔を浮かべた。二人の様子を確認した瑞鶴は再び、足元に伸びる自分の影へと視線を落とした。そして、「提督さん達がやろうとしている事って、本当に意味が在るの?」と、細い声で呟いた。時雨は、自分の心臓が冷たくなるのを感じた。それは前の作戦が終わってから、時雨もずっと考えていた事でもあったからだ。

 

 

 

「私達って、本当に人間社会の中に入っていけるの?」

 

 

 瑞鶴は言葉を続ける。野獣と少年提督が、微かに息を詰まらせるのが分かった。

 

 

「提督さんには報告しているから知ってるだろうけど、私ね、前の作戦で深海棲艦になったんだろう“自分”を見たわ。それが何を意味しているのかも、それなりに理解はしてるつもり。艦娘の深海棲艦化なんて、今更だって事も分かってる。それでも私達は、海を取り戻す為に戦わなきゃならないって事も分かってる。抱える事になる色んな感情を全部飲み込んで、自分たちの役目を果たさなきゃいけないって事も分かってる。ここの鎮守府の皆は、それを実践して、自分たちの未来を悲観せずに、誇り高く戦い抜いて来たことも分かってる。それに理解を示してくれる人達が居る事も、私達を『人』として社会に受け入れてくれようとする人達が居る事も分かってる。でも……、でも……」

 

 夕陽を背に受ける瑞鶴は、拳をぶるぶると震わせていた。そうして、足元に燻る自分の影を睨みつけながら、一言一言を噛みしめるように言葉を紡ぐ。

 

「私達から深海棲艦に通じる部分を……、軍事的な部分を……、その全部を引き剥がすことなんて絶対に無理だよ」

 

 その瑞鶴の言葉を聞いて、時雨の胸の中で引っ掛かっていた何かがストンと落ちた。野獣が俯いた。少年提督は、静かな面持ちで瑞鶴を見ている。

 

「野獣提督。今日、艦娘囀線で言ってたよね? 私達の日常を、社会の目に触れさせるって。それが世論と敵対したくないっていう本営の思惑だったとしても、世間の人たちは私達を見て、艦娘は人間と変わらないんだって、そう感じてくれると思う。私だって、人を信じたい。でも……、私達が深海棲艦になるかもしれないって分かったら、社会は絶対に受け容れてくれない」

 

 瑞鶴は顔を上げない。それは、時雨も考えたことはある。艦娘を社会の中に招きいれることになれば、艦娘の深海棲艦化現象を世間に対して隠し続けることは許されない。本営は必ず公表する。そうなれば、艦娘達の立場は大きく変わる。人類の守護者であっても、恐怖の対象になることは想像に難しくない。瑞鶴は、血を吐き出すようにして言う。

 

 

「人間の役に立つ私達の軍事的な部分こそが、私達と社会との本当の接点じゃないの?深海棲艦との戦いが終わって、そこを無価値にされたら……。私達は、人間たちにとって深海棲艦と同質の存在になって……、そうなったら、大好きな皆と過ごす私の大切な“日常”は、“世間”っていうものの中で許されない時間に変わってしまうんじゃないですか……?」

 

 

 冷たい覚悟を滲ませて言葉を紡いだ瑞鶴は、自分の影の上に涙を落とした。それは人格を持つ艦娘達が誰もが思い至る事であり、同時に、最も考えてはいけない事だった。だが、瑞鶴は敢えて問うているのだという事は分かる。じっと自分の影を睨み付ける瑞鶴は、自分の中に在る何かと戦おうとしているように見えた。時雨は、瑞鶴の言っていることが理解できる。

 

 深海棲艦との戦いが終わった後、本営は艦娘達を破棄するつもりである事は、何となく察していた。艦娘達の人格を積極的にアピールしようとしている野獣の姿を見ても、それは伺い知ることが出来た。本営の企みを阻止すべく、少年提督と少女提督が何らかの手を打とうとしている事も分かっていた。だが、深海棲艦との戦いが続く現状では、本営は艦娘達を捨てることが出来ない。今の本営は、艦娘をめぐる世論の顔色を何とか窺おうとしている。だが、そんな本営でも無視できないほどに、今回の作戦で遭遇した深海鶴棲姫の存在は、艦娘が深海棲艦化することを強烈に示唆した。

 

 

 艦娘は、人間を攻撃出来ない。

 艦娘は、人間に危害を加えることが出来ない。

 この2つのルールの下でのみ、艦娘達の人権は保障されている。

 

 深海棲艦化という現象は、このルールを覆す。

 

 

 鳥籠の中の鳥は、その籠から解き放たれて自由になっても、動物としての尊さを保ち続ける事が出来る。だが、艦娘は違う。艦娘達が人間の意思の及ばない存在になろうとする事は、人類に恐怖を与えるだろう。何をどうしようと、時雨達は世間が持つ常識や観念というものから逃れられない。もしも艦娘達がそういったものを徹底的に無視しようとするのならば、艦娘と深海棲艦の差はもっと曖昧になる。

 

 時雨達が“日常”と呼びうる安息の日々を支えているものは、道徳などでは無い。少年提督であり、野獣であり、或いは、少女提督であり、この鎮守府という鳥籠なのだ。そしてそういった要素の全てが、最終的には世間というものに帰属し、価値を得て、存在を許されているのが実情だ。瑞鶴も先ほど言っていたが、そんな事は、もう皆が知っている。だからこそ、少年提督が抱く高邁な理想が眩しいのだ。

 

 夕焼けで、時雨の影も伸びていた。それを踏みながら、少年提督が瑞鶴に歩み寄った。時雨は、少年提督の小さな背中を見詰めた。彼に、瑞鶴の言葉を否定して欲しかった。だが、世界はやはり無情だった。

 

「瑞鶴さんの言う通りです」

 

 やはり、そうなのだ。

 

 少年提督も野獣も、人間という組織生命を無視できない。それでも二人は、人間という種族の善性を信じ抜いて来た。艦娘達は受け入れられるのだと。時雨達が海上で深海棲艦と戦っている間、野獣達は社会の観念と戦ってくれていた。

 

 鎮守府祭など、艦娘達が世間というものに触れあう機会を積極的に作ってくれた。その中で、艦娘達に対し暖かい感情を向けてくれる人々が居る事も実感できた。だから時雨も、未来に対し悲観せずにすんだ。そうして時雨達は、社会や世間の枠組みの中に嵌ることが出来ていた。残酷な世界だが、時折見せる優しい表情は、途方も無く暖かかったのも確かだった。

 

 僕は自分に正直だったろうかと、時雨は思う。

 

 先程も瑞鶴が言っていたように、この鎮守府の艦娘達は、世間に対するあらゆる陰鬱な気分を飲み込んで、人間たちの為に戦ってきた。成すべき事の為に、その命を懸けて来た。戦場海域から帰って来た喜びを分かち合い、馬鹿騒ぎを繰り返し、人格と精神を持って生きて来た。全て理解していてなお、艦船の分霊としての誇りを胸に死線を潜って来た。

 

 決戦と言っていい前の大規模作戦では戦装束を纏い、勇猛果敢に戦い抜いて、自身の過去や因果をすら乗り越えた筈の五航戦は俯いたまま、自分の影に涙を吸わせている。瑞鶴の中で、前の作戦は終わっていないのだ。深海に住まう自分の魂の片割れに出会い、艦娘としての己自身の未来や過去と向き合っている。

 

「じゃあ、提督さんが願う理想は、……幻想じゃない」

 

 両手の拳を握り締めている瑞鶴の声から、温度が抜けていく。そして、波の音が重なるような深い響きを宿し始める。

 

「それでも、最善を尽くしているところです」

 

「私達だって最善を尽くしてきたよ。“平和の為”に戦ってきタ……!」

 

 瑞鶴の髪が白く染まり始め、ゆっくりと逆立っていく。時雨は震えた。瑞鶴は己の影を見据えながら、少年提督を通して“世間”と対峙しようとしているのだと、やっと分かった。野獣は険しい表情で二人を見守っている。夕日を背に、瑞鶴の魂が燃焼しているのを感じた。瑞鶴が顔を上げた。時雨は後ずさる。自分の靴底とコンクリが擦れる音が、耳の中で『万歳』の声に変わって響いた。

 

「まヤかしの理想ヲ私達に語ルより、……“次ハ、平和ノ為に死ネ”って命令シてくれル方ガ……」

 

 少年提督を正面から見据えた瑞鶴の瞳は、緋色に染まっていた。夕日に伸びる瑞鶴の影が、涙を吸いながら少年提督の足元に燻っている。少年提督は、申し訳なさそうに目を伏せた。目を逸らしたのではない。瑞鶴の影へと視線を注いだのだ。「えぇ。……もしかしたらその方が、艦娘の皆さんに対して誠実なのかもしれません」と、少年提督は、瑞鶴の影の中へと踏み入る。

 

 

「一人ハ寂しイ、って、言ったんデす」

 

 今、瑞鶴の姿を変えようとしているものは、瑞鶴自身の感情に違いなかった。

 

「深海棲艦の私ガ、沈んデ行く時ノ……。あの言葉ガ、頭カら離れナい」

 

 唇を震わせる瑞鶴は、正面に立つ少年提督を見下ろす。少年提督は眼帯を外しながら、瑞鶴の緋色の瞳を見詰め返した。同時に、二人の足元に術陣が浮かび上がり、淡い墨色の明滅を始める。記憶と感情の同期を司るものなのだろう。少年提督と瑞鶴は、お互いの眼を見ているようで、その焦点が微妙に合っていない。二人の眼は、瑞鶴の経験を見ているのだ。

 

「私だっテそう。一人は寂シい。此処の皆と過ごす時間ガ、好き。かけがいの無い、何よリも大事なモノだと思っテる。そレを否定しヨうとするものヲ、きっと私は許せナい。例エそれが、世間ヤ社会、世論の中デ正義と呼ばれるモノであっテも。私ハ、ソレを強く憎むよ」

 

 瑞鶴の声は、不穏な波音に混ざりながらも殷々と響いた。

 

「今の私なラきっと、人ヲ殺せル」

 

 瑞鶴は頬を濡らす涙を拭わず、目の前に居る少年提督の眼を覗き込んだ。

 

「ねェ、提督さン」

 

 そこに敵意や殺意はない。瑞鶴の緋色の瞳に浮かんでいるものは、余りに深い苦悩と途方も無い悔しさだった。野獣も時雨も、瑞鶴から眼を逸らせない。少年提督も、瑞鶴を見上げている。

 

「今ノ私って、深海棲艦と何ガ違ウのかナ?」

 

 夕日が暗さを増し、それに比して影が滲んでいく。

 

「瑞鶴さんは、瑞鶴さんですよ」

 

 少年提督は、緩く首を振ってから微笑んだ。時雨は少年提督の事が嫌いになりかけた。この期に及んで、綺麗言で誤魔化そうとしているかのように思えたからだ。だが、違う。野獣が、無念そうに低く呻いた。海の音がさらに遠くなった気がした。瑞鶴の貌が驚愕に歪んだ。時雨も立ち尽くす。

 

「瑞鶴さんは、自分の心の内に芽生えた人間に対する暗い感情を、なんとか否定しようとしてくれていたのですよね? 人間を信じたいのだと、言ってくれました。その葛藤を、瑞鶴さん自身の実直さと結びつけて大きな苦悩へと育ててしまったのは、僕の不実さに違いありません。本当に申し訳ないと思います……」

 

 眼帯を緩めた少年提督の額、その右側から白磁色のツノが生えていたのだ。

 

「同時に、感謝もしています。瑞鶴さんはその苦しみに向き合い続け、正直な心情を僕に打ち明けてくれました。これは、瑞鶴さんが自身の苦悩に対しても誠実であるという証明ではありませんか?」

 

 瑞鶴は顔を強張らせ、口を引き結んでいた。

 

「人間に対する悪感情を持ちながらも、それに抗おうとしてくれる瑞鶴さんの姿は、とても尊いものだと思います。誰にも奪えない美しさだと思います。瑞鶴さん。僕は、それこそが、いつか人間社会の中に新しい道徳や倫理的な観念を耕し、人々を振り向かせるのだと……、社会が艦娘の皆さんを排除しようとする時、その頑強な世論の破れ目になるものだと信じています」

 

 少年提督は細く息を吐きだしてから、ゆっくりと微笑んだ。

 

「だから、瑞鶴さんが抱いている僕への不信も猜疑も、社会への憎悪も、その誠実さと一緒に、どうか大事にして欲しいのです」

 

 それは、これからも瑞鶴が瑞鶴である為に、という事なのだろう。少年提督と瑞鶴を見比べて、時雨は思う。いつか少年提督が語っていた、深海棲艦との共存という理想を反芻していた。瑞鶴は再び視線を落とし、唇を強く噛みながら自分の影を見詰めている。「そうだよ(便乗)」、と。野獣が大きく息を吐き、肩の力を抜くようにして笑ったのも同時だった。

 

「少なくとも俺達は、瑞鶴を見捨てないゾ。例え深海棲艦になっても、お前が帰ってくる場所は此↑処↓だって、はっきり分かんだね(全霊の家族愛)」

 

 少年提督と瑞鶴を交互に見て、野獣は唇の端を歪める。普段と変わらない、不敵な笑みだった。それが野獣の強がりなのか、何らかの覚悟を秘めたものなのかは時雨には分からない。ただ、野獣は瑞鶴の味方でいてくれる。それだけは間違いない。

 

「お前の感情にまで潔癖を求めるなんて、人間の傲慢以外の何物でもないんだよね。それ一番言われてるから。さっきもソイツが言ったようにさぁ、艦娘とか深海棲艦とか以前に、瑞鶴は瑞鶴で良いんだ上等だろ?(畢竟)」

 

 野獣の声音に宿る温もりは何処までも透き通っていて、真実だということは分かった。理屈っぽさの無い曖昧な言葉の方が、心が籠るのかもしない。何も言えないままの自分が情けなかった。

 

「俺達だって、お前らを守る為なら世間と対立する覚悟は出来てるんだからさ!(革命児の風格)その為の拳? あと、その為の右手?」

 

 優し気に目許を緩めた野獣は、左で拳を握った。右手で釣竿を持っていたから間違えたのだろう。少年提督と瑞鶴が、穏やかな野獣の表情と、握られた左拳を見比べている。張りつめた空気が緩んだのを感じて、「野獣、それ左手……」と、時雨はようやく声を出すことが出来た。それから、窒息しそうになっている自分に気付いた。僕は、いつも野獣に助けられている。

 

 時雨にツッコまれ、「あっ、そっかぁ……(素)」と、間抜けな声を上げた野獣は、釣竿を左手に持ち替えた。そして、ワザとらしい真面目な表情を作り直して、少年提督と瑞鶴、そして時雨を順番に見てから、深く頷いて見せる。夕日を横顔に浴びた野獣の顔は、阿保みたいにキリッとしていた。

 

「その為の、右手?(TAKE2)」

 

「いや、別にやり直さなくて良いよ……」 

 

 時雨が控えめに言うと、少年提督は可笑しそうに小さく笑った。それに釣られて、瑞鶴も僅かに目許を緩めた。場を支配していた重苦しい緊張感が、すっとぼけた野獣の言動の御陰で霧散する。こういう意図的な馬鹿馬鹿しさには野獣の作為が透けて見えるのに、それを嫌らしく感じさせないのが不思議だった。澄んだ風が帰って来て、時雨達の間を通り過ぎていく。気付けば、少年提督の額に生えていたツノも消えていた。彼もまた時雨と同じように、野獣の持つ独特の空気に引き摺られて、この“日常”に帰ってくることが出来ている。そんな風に見えるのは、大袈裟なのだろうか。

 

「私は……」

 

 この景色に溶け込めていないのは、髪を逆立てながら俯く瑞鶴だけだ。その声は、明らかに動揺していた。項垂れた瑞鶴の姿は、白い彼岸花が頽れる瞬間のようにも見える。その瑞鶴に、少年提督は更に歩み寄った。

 

「僕は……、艦娘の皆さんが持つ人間性というものを、美化し過ぎでしょうか?」

 

 今度は、少年提督が瑞鶴に問う。瑞鶴は少しの間、見上げて来る少年提督を見詰めていた。そして、泣きそうな顔で小さく笑う。

 

「美化し過ぎって言うか、……提督さんは、お人好し過ぎるんだよ。私は、そんな大層なものなんて抱えてない」

 

「いえ、そんな事はありませんよ」

 

「だからさ、買い被り過ぎ。息苦しいよ」

 

 瑞鶴の声に、柔らかさが帰って来た。逆立っていた髪は澄んだ風に揺れながら流れ落ちて、緋色に濁っていた眼は、いつもの活発そうな色に戻っていた。野獣の言う通りだと思った。瑞鶴が帰ってくる場所は、やはり少年提督の元なのだ。夕暮れに伸びる影を一瞥し、瑞鶴は濡れていた頬をようやく拭った。

 

「私、提督さんの傍に居ても良いのかな?」

 

 少年提督は、申し訳なさそうな笑みを浮かべる。

 

「不実な僕を、また叱って下さい」

 

 時雨は唇を噛んだ。彼の懸命な優しさが、誰かを追い詰めて苦しめる事もあるのだということが、無性に悲しかった。

 

「うん。ありがと、ぅ……」

 

 瑞鶴は少年提督へ何かを言おうとしたようだが、その全ては言葉にならなかった。まるでスイッチが切れたかのように、瑞鶴が少年提督へと倒れ込んだからだ。

 

 

 

 

 

 

 倒れた瑞鶴を特別医務室まで運んだものの、その治療に関しては少年提督に任せるしかなかった。命に別状は無く心配は無いものの、深海棲艦化を体験した瑞鶴の消耗は相当なものだったようで、特殊な精神治癒術が必要らしい。野獣と時雨には手伝えることも無かったので、邪魔にならぬよう医務室をあとにした。廊下に出ると窓の外は暗くなっていて、黒々とした空には星が薄く瞬いている。時雨は俯きがちに、野獣の後ろを歩いた。廊下は少し肌寒い。周りに誰もいなくて静かだった。

 

「野獣」

 

 先程の光景にまだ動揺していて、時雨の声は酷く強張っていた。

 

「ん?」

 

 それに対し、歩きながら肩越しに振り返ってきた野獣は、やはり普段通りだった。

 

「……今日のことを、本営には報告するの?」

 

 時雨の声に、尋問するかのような響きが宿る。野獣は一瞬だけ時雨から視線を逸らした。そしてすぐに肩を竦めて見せる。

 

「深海鶴棲姫に関する報告なんざ山ほど本営に上がってるだろうし、別に必要なんてないじゃん、アゼルバイジャン?(ものぐさ)」

 

「それは、そうかもしれないけど」

 

 時雨は言葉に詰まる。釣りをしている最中にも、野獣は艦娘の深海棲艦化について、本営の誰かと連絡を取り合っていたのを思い出す。

 

「誰が何を言おうと、深海棲艦が居る限り、人類は艦娘に頼らざるを得ないんだよね。それ一番言われてるから(真実の針)」

 

 野獣は肩越しに振り返ったままで、目許を緩めた。自嘲するような、悲し気な笑みに見えた。

 

「……歪だよね。人も、僕達も」

 

 時雨は野獣を見ずに言う。正義では無いものを、理屈をこね回して正義に見せることが出来るのは、人間の卑劣な部分だと思う。しかし、それを頭ごなしに否定する事は、時雨には出来なかった。人間一人ひとりに、嘘で塗り固めた理論を振りかざしてまで守りたいものがある。家族が居て、愛する者が居る。その数だけ切実な生活がある。感情があって人生が在る。それが波折りのように重なって、社会や世間が象られている。それを知っているから、あれほどまでに瑞鶴は苦しんでいたのだ。

 

 人間は、艦娘以上に社会というものから逃げられない。艦娘を排除するのは、本当は人間などでは無く、“世間”なのではないだろうか。浮世の海。そんな、何処かで聞いたことのある言葉を噛みしめる。

 

「おっ、そうだな(厭世の先達)」

 

 余計な力を抜いたような声で言いながら、野獣は前を向いて笑う。

 

「それでも俺達は、『良い世、来いよ!』って言い続けてやるから、見とけよ見とけよ~!」

 

 野獣の背中を見詰める時雨は、唇を強く噛んだ。自分の人生をその言葉に託す事が出来る野獣の純粋な笑い声だって、瑞鶴の持つ誠実さに負けないくらい眩しかった。自分を召還してくれたのが野獣で良かったと思う。それが平凡な偶然であっても、時雨にとっては愛すべき奇跡だ。野獣の奔放な優しさに引き摺られ、時雨達は随分と遠くまで来たような気がする。それでも、まだ途中なのだと信じている。

 

「僕は、野獣にだって幸せになって貰いたいよ」

 

 声が震えた。それは、濁りけのない本音だった。

 

「もう俺は幸せだから、安心しろよ~、もぉ~☆」

 

「あのさ、野獣」

 

野獣は歩く足を止めずに振り向いた。

 

「お、どうしました?」

 

「僕が深海棲艦になっても、野獣のところに還って来ても良いかな?」

 

 野獣は、全く動揺した素振りを見せず、力強く頷いた。

 

「良いよ、来いよ! って言うか、そんなの当たり前だよなぁ?(即応)」

 

「うん。そっか……。そうだね」

 

「帰って来なかったら、もう許さねぇからな~?(穏やかな脅し)」

 

 我ながら、馬鹿な事を言い合っていると思うものの、時雨の日常が此処にしかないのものだと確信する。廊下を一緒に歩いている間、野獣は普段通りの笑顔を崩さなかった。その懸命な優しさが、今は悲しかった。

 









不定期過ぎる更新で申し訳ないです……。
次回があれば、ギャグ寄りの話になれば良いなと思います。

今回も最後まで読んで下さり、本当にありがとうございございます!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ある日の艦娘囀線



暖かなメッセージ、感想を沢山寄せて下さり、本当にありがとうございます!

前回、本文中に入れる事が出来なかった分に肉付けして、艦娘囀線回にチャレンジさせて貰いました。
まだまだ勉強不足、力不足ではありますが、皆様のお暇潰しにでもなれば幸いです。



 

 

 

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 野獣、本営から分厚い書類が届いていたぞ

 お前が自室に帰っていたから、執務机の上に置いてあるからな

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 ありがとナス! もう中身も確認したゾ

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 また大きな作戦でも始まるのかしらね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 ウン、書類の中身も

 “ちょっと大変だけど、軍事衛星を構築して打ち上げるのです”

 っていう内容でぇ……

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

 嘘はやめなよ

 ちょっとどころの話じゃないよ

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 明らかに来るトコ間違えた書類でしょソレ

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 鎮守府に振ってくる仕事じゃないんだよなぁ……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 まぁそれは置いとくとして、お前らに伝えておく事があったゾ

 近いうちにぃ、焼肉会、し、しますよ

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat マジで!? 

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

 随分と話が飛んだけど……、

 そういえば、前にそんな事も言ってたね

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 いつもの冗談かと思っていましたが

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 決戦規模の作戦も、お前ら全員が揃って終える事も出来たし、こういうイベントも多少はね?

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 私達へのお心遣い、感謝いたします

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そんな改まる必要ないゾ、俺も食いたいんだからさ☆

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

 その予算は何処から出るんですかね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 上層部の超お偉いさんに、適当なこと言って捻出して貰ったから安心!

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

 流石だな。やるじゃないか

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 ぉ

 

 

≪大和@yamato1.●●●●●≫

 まずいですよ!?

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 血が冷たくなるようなことを平気で言うのやめてくれない?

 

 

≪蒼龍@souryu1.●●●●●≫

 聞きたくなかったそんな恐ろしいこと

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 野獣お前さぁ、いつか抹殺されるんじゃねぇ? 大丈夫かよ?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 へーきへーき! スッゲーお偉いさんつっても、

 学生時代にやってた部活の先輩と後輩だし、大丈夫でしょ?

 

 

≪飛龍@hiryu1.●●●●●≫

 そんな軽いノリで同意を求められても……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 マジな話をすると、予算はちゃんと本営から出る予定ゾ

 今回の作戦で、お前らのクソデカ貢献は改めて評価されてるんだからさ

 要するに、お前らと世間の機嫌を取るのも、本営の仕事の内や

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 先輩に送られてきていたものと、同じ書類が僕にも届いています。

 艦娘の皆さんへの待遇について、これからの方針と具体案を幾つか纏めたものでした

 

 

≪大和@yamato1.●●●●●≫

 あぁ、なるほど

 そういった内容のものでしたか

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 でも、ちょっとモヤっとするなー

 楽しみが出来たのに、その嬉しさが半減した感じ

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 まぁしかし、本営の金で飲み食い出来るって事だろ

 遠慮はいらねぇな

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 そうね。存分に機嫌を取って貰いましょう

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

 それじゃ、会場のセッティングとかどうしましょう?

 @Beast of Heartbeat 手伝いましょうか?

 

 

≪夕張@yuubari.1●●●●●≫

 この鎮守府の人数を考えると、割と大仕事になりそうですし

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @akasi.1●●●●● 

 妖精たちが協力してくれるから大丈夫大丈夫、へーきへーき!

 お前らも疲れてるダルルォ? ちゃんと休んでて、どうぞ

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

 あの、すみません……

 優しい文章なのに、凄く不気味に感じるんですが

 

 

≪夕張@yuubari.1●●●●●≫

 逆にコワいですよね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @akasi.1●●●●●、@yuubari.1●●●●●

 お前らもう許さねぇからな~?

 

 

≪鳳翔@housyou.1●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat、@Butcher of Evermind

 調理などの面で、私に出来ることがあれば何でも仰ってくださいね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @housyou.1●●●●●  おっ、ありがとナス!!

 でも、大丈夫だって安心しろよー

 間宮と伊良湖にも言ったけど、鳳翔もゆっくりしててくれよな~、頼むよ~

 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 あと、調理とか食材の扱いについては、ここ数か月で俺が妖精達に色々仕込んでるから。普段から兵装や鎮守府の設備ばっかり弄ってる妖精達にも、人間的な生活の目を養ってもらう機会になっていいゾ~、コレ!

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 最近、執務が終わってから姿を見ないとは思っていたが……

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 そういう事はマメって言うか、気が利くのにね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 妖精達が活躍できる場所が増えれば、鳳翔達の普段の仕事も減らせるからね

 ちょっとは楽も出来るようになるでしょ?

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 @housyou.1●●●●●

 鳳翔さん達には、僕達もお世話になりっぱなしですから

 こういう時にこそ羽を伸ばして貰えると、僕達も嬉しく思います

 

 

≪鳳翔@housyou.1●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat、@Butcher of Evermind

 お気遣い下さり、有難うございます

 本当に恐縮ですが、今回はお言葉に甘えさせて頂きますね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @housyou.1●●●●● おっ、いいゾ~!

 ゆっくりしとけよしとけよ~!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 あっ、そうだ! そろそろ注文取って良いっすか~? Oh^~?

 

 

≪曙@ayanami8. ●●●●●≫

 注文とか出来んの? 今から?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 本格的に準備を進めていくから、見積もりの参考に多少はね?

 本営からの許可も出てるし、いくつかの企業とも話はついてるゾ

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 ある程度なら、希望の部位も用意してくれるそうです

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 じゃあ俺は、取り合えずビールビール!!

 

 

≪ポーラ@Zara3. ●●●●●≫

 ワインワイン!!(^^♪

 

 

≪那智@myoukou2. ●●●●●≫

 冷酒冷酒!!

 

 

≪ポーラ@Zara3. ●●●●●≫

 ウィスキーウィスキー!!(*’ω’*)

 

 

≪千歳@titoe1. .●●●●●≫

 熱燗熱燗!!

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

 紅茶紅茶!!

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

 麦茶麦茶!!

 

 

≪暁@akatuki1. ●●●●●≫

 ジュースジュース!!

 

 

≪ポーラ@Zara3. ●●●●●≫

 シャンパンシャンパン!!(*^-^*)

 

 

≪隼鷹@hiyou2. ●●●●●≫

 酒! 

 酒!! 

 酒!!!

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 大惨事になるのが見える見える……

 

 

≪ザラ@Zara1. ●●●●●≫

 @Zara3. ●●●●● 

 ポーラ、後でお話があります

 

 

≪ポーラ@Zara3. ●●●●●≫

(´;ω;`) そんな~……

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

 飲み物はともかく、本気で肉を食べるならウォーミングアップも必要だな

 手始めに、特上ロース、特上カルビ、特上タンを、其々114514人前頼む

 

 

≪大和@yamato1.●●●●●≫

 私も同じものを

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 私も頼む

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

 では、私も

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 取り敢えず私もソレで

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 やべぇよやべぇよ……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 鎮守府が……流通センターになっちゃう……!

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat なんだ?

 遠慮は要らんと言っただろう?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 常識は要るんだよなぁ……

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 貴方の口から常識なんて言葉を聞くと、軽く感動しますね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @kaga1.●●●●● かなり挑戦的じゃな~い?

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 希望の量はともかくとして、部位については一応の要望は出しておきますね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @Butcher of Evermind おっ、頼むゾ 

 人数が人数だけに当日はオーソドックスな食べ放題スタイルになりそう、なる

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

 やっぱり食べ放題じゃないか

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

(無制限にとは言っていない)

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

 お店とかで見る鉄板付きのテーブルとかも用意してくれるんですか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 おっ、そうだな!

 お前らが不自由しない程度には会場は作るから、楽しみにしてて、どうぞ

 あと海外艦娘も増えて来とるだに、

 当日、文化交流も兼ねての大本営ゲームっていうのは?

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat やりますネー!!!

 

 

≪鹿島@katori2. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat やりますやります!!

 

 

≪アークロイヤル@Ark Royal1.●●●●●≫

 大本営ゲーム?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 まぁ、簡単に言えば王様ゲームみたいなモンだゾ

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 僕も何度か参加させて貰っていますけど、盛り上がりますよね

 

 

≪足柄@myoukou3. ●●●●●≫

 えぇホントもう、最高でしたよね……

 

 

≪大和@yamato1.●●●●●≫

 とても満たされた時間を過ごさせて貰いました

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 あぁ、思い出すだけで、胸が熱くなるな

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

 やりました

 

 

≪イントレピッド@Essex5.●●●●●≫

 具体的には、どんな内容のゲームなのかしら? 

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

 テートクとハグをしたり、

『金剛お姉ちゃん』って言って貰えたり

 なでなでヾ(・ω・*)して貰えたりするゲームですヨ!

 

 

≪香取@katori1. ●●●●●≫

 情報が偏っ……て見えるのは、私だけでしょうか……?

 

 

≪皐月@mutuki5. ●●●●●≫

 今、戦艦寮と空母寮の方から凄い音がしたんだけど……

 

 

≪ガングート@Gangut1.●●●●●≫

 @kongou1. ●●●●● それは本当か?

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 なにそれ誘われたこと無いし泣きそう

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 つらい

 

 

≪サラトガ@Lexington2.●●●●●≫

 @kongou1. ●●●●●  羨まし過ぎます、訴訟

 

 

≪アイオワ@AIOW1.●●●●●≫

 @kongou1. ●●●●●  羨まし過ぎるヨ、訴訟

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zepplin1.●●●●●≫

 どうして私は参加したことが無いんだ?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 あのさぁ……、ちょっと落ち着いてくれない?

 そりゃお前らが此処に来る前にやったイベントだからね

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat では今回、

 私達にも参加する機会を作って頂けるということね?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 おう、考えてやるよ

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 

 お願いするわ、何でもするから

 

 

≪ローマV.Veneto4.●●●●●≫

 切実過ぎるでしょ……

 

 

≪リットリオ@V.Veneto2.●●●●●≫

 あの、一番言っちゃいけない言葉が

 

 

≪プリンツ・オイゲン@Admiral Hipper3.●●●●●≫

 どうして姉様はそのワードを選んじゃうのかなぁ……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @Bismarck1.●●●●● よし、それなら

 ビスマルクもYou●uberとしてデビューしよっか、じゃあ

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 あなたから提案されたら怖すぎるんだけど、具体的には何をさせられるの?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 俺が開発したVRホラーゲーム実況をしてもらうから

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 ちょっと待ってそれは許して何でもするから

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @Bismarck1.●●●●●

 じゃあ、長門と一緒に、俺が開発したVRホラーゲーム実況をしてもらうから

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

 無限ループはNGだよ、野獣

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 私まで雑に巻き込むのはやめろ!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 やっぱり人数は多い方が盛り上がるから、多少はね?

 不幸ぉ……ズ(陸奥、扶桑、山城、大鳳)の注目度も上がって来てるんだからさ

 この面子でのチンチロ動画は、まさに神回だったんだよなぁ

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 もちろん悪い意味でね

 

 

≪扶桑@husou.1●●●●●≫

 私達がサイコロを振る度に

 何故か茶碗が割れて、ゲームになりませんでしたよね

 

 

≪山城@husou.1●●●●●≫

 挙句、サイコロに罅が入ったり欠けたりするし

 

 

≪大鳳@taihou.1●●●●●≫

 途中から撮影機材にも異常が発生し始めて、

 よくない何かを私達が引き寄せてるみたいな空気でしたけども……

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 えぇ……

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

 やだこわい

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

 でも、『不幸ぉ……ズ』さんのチャンネル登録者数、凄いですよね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 四人とも凛々しくて恰好良いから、女性ファンも多いんだゾ

 応援メッセージもいっぱい来てて、良いぞ~コレ

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 艦娘の皆さんと世間の人々との心の距離は、こういう分野でも縮めていけるという事を、陸奥さん達が証明してくれているのだと思います

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そうだよ、それに他所の鎮守府でもYou●uberデビューする艦娘が出始めてるし、『不幸ぉ……ズ』の影響力は、お太い!!って、はっきり分かんだね

 俺達が目指すのは更にその一歩先を往く、ネットドラマ界への進出ですか

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 マジで言ってんの?

 

 

≪大和@yamato1.●●●●●≫

 以前のように、私達がまた何かを演じるんですか?

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

 前のは確か、長門と陸奥が主人公の学園ドラマだったな

 

 

≪ガンビア・ベイ@Gambier Bay.●●●●●≫

 此処の鎮守府って、ほんとに何でもやるんですね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 今回のドラマは路線を変えて、

 呂500を主人公にした、本格ハードボイルドで行こうと思うんですって!

 

 

≪プリンツ・オイゲン@Admiral Hipper3.●●●●●≫

 ちょっと何言ってるのか分かんないですね……

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 馬鹿の相手をすると本当に疲れます

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @kaga1.●●●●● 

 何なんですって、その態度?

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat、@kaga1.●●●●●

 まぁまぁ、お二人とも

 

 

≪呂500@rogou.●●●●●≫

 あの、ろーちゃんも精一杯頑張りますって!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @rogou.●●●●● ありがとナス! がるる^~!

 よし! じゃあこの勢いに乗ってグラーフとガングートの二人も

 スク水セーラーに着替えて、ユニット、組もう!

 

 ダンケ!(ろーちゃん)

 ダンケ!(ぐーちゃん)

 レボリューション! (がーちゃん)

 

 って感じでぇ……

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zepplin1.●●●●●≫

 ハードボイルドは何処に行ったんだ

 

 

≪ガングート@Gangut1.●●●●●≫

 呂500やグラーフと何かに取り組むのは頷けるが、なぜスク水を切る必要が在るのか

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 統一感は必要ダルルォ!?

 他の鎮守府との差別化も図らきゃ……

 

 

≪曙@ayanami10. ●●●●●≫

 その統一させる方向に問題が在るって言われてんでしょ?

 

 

≪翔鶴@syoukaku1.●●●●●≫

 しかし、差別化を図る必要があるほどに艦娘達が世間の人々の目に触れるという事は、今までに無かったことでは?

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

 前のT●itterのアカウントの件でもそうですが、軍事的な部分を除いた部分であれば、社会に向けて発信する事は許可されるようになりましたからね

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 だが、悪い変化ではないだろうな

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

 私達と世間との距離は、間違いなく縮んでマス

 最近になって、ようやくそれが分かり易くなって来たんでデスよ

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 艦娘が損得や利害といったものから完全に離れて人々に歩み寄る機会なんて、此処の鎮守府以外だと、本当に数える程度しか無かったでしょうしね

 

 

≪ガングート@Gangut1.●●●●●≫

 そういう機会が他所の鎮守府でも増えれば、自然と差別化を図る必要があるのも頷ける

 

≪アークロイヤル@Ark Royal1.●●●●●≫

 言えているな

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 艦娘っていうのはあくまで分霊だけど、召還された場所が違えば練度も趣向も異なるし

 差別化って言うよりも、区別化って言う方が正しいかもしれないわ

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

 私達の“個性”と言う視点を持ち込むと、やはり複雑な話になりますね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @kagerou2.●●●●● ま、そう深く考え込んでも仕方無いゾ

 仮に不知火が100人いたとして、その一人ひとりに別々の価値観や生い立ちが在るって言うのを理解して貰うにも、こういう動画でもなんでも、人々との交流の場があった方がスムーズだって、それ一番言われてるから

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 せやな~。そういう意識を持ってもらう土壌が無いと、ウチらの持ってる個性っちゅーもんは、世間でいうところの“艦娘”っていう認識と概念の中に埋没してまうからな

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

 社会の中での“艦娘”という認識の中に、“個”という特徴を持ち込む方法としてのYou●uberデビューですか

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

 他所の提督や艦娘達が動きだしたのも、世間と時代の新しい流れってヤツなんでしょうね

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 ただ、こういう活動の全部が、良い方へ取られることなんてあり得へんやろうけどな。同じ顔した艦娘が何人も居てる光景は、やっぱり人間に反射的な恐怖や忌避感を与えるやろうし。それを“個”っていう言葉で包んで、飲み込んで貰うのは簡単な話じゃないで

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 時間は必要でしょうけれど、いつかは理解して貰えると、そう信じたいと思います

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 綺麗ごとじゃすまない部分だけど、私達は艦娘であるという事実を終生背負うんだから、そこを悩んでも仕方無いわ。やれる事をやるだけよ

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 まぁ、そら違いないわ。ウチらから“艦娘”っちゅー部分を剥ぎ取ったら、社会の中でもっと複雑なモンになってまうやろうしな

 

 

≪瑞鶴@syoukaku 2.●●●●●≫

 自分の言葉で、“自分”の達の事を知って貰うのって、やっぱり難しいですよね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @syoukaku 2.●●●●● でも、感情を持ってる事は伝わるゾ

『提督さん、愛してる』って、ああいう真っ直ぐな言葉には、誰の胸にも届く真実が宿るんだよなぁ……

 

 

≪瑞鶴@syoukaku 2.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 

 ちょっと!! 何言ってるんですか急に!!

 爆撃されたいんですか!!?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @Beast of Heartbeat 

 瑞鶴先輩許して! 鎮守府こわれちゃ~^う!

 

 

 

 











今回も最後まで読んで下さり、本当にありがとうございます!
亀更新、不定期更新ですが、またお付き合い頂ければ幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

此処にしか無い景色 前編

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 艦娘達が集まって楽しく食事をしようという場に、自分と言う人間は不要なのではないか。そもそも上官が居合わせてはリラックスもしにくいだろうし、此方に気を遣わせて窮屈な思いをさせてしまうのではないだろうか。提督という立場上、コミュニケーションも仕事の内なのかもしれない。だが、こういう場にまでしゃしゃり出る事は艦娘達の楽しい時間に水を差し、顰蹙を買うのでは無いか。

 

 この鎮守府のイベントに誘われる度にそんな事を考えたりするのだが、此処の艦娘達は提督が居ようが居まいが自然体だ。寧ろ、此方が気を遣えば遣うだけ、向こうから歩み寄って来るような艦娘ばかりなので、そういった心配は全て杞憂に終わっている。

 

 

 艦娘囀線で言っていた通り、焼肉会はちゃんと行われた。その会場は、鎮守府の食堂を改装し、“新たな設備と機能を作り出す”というレベルで用意された。ある種の“店舗”という規模であり、多くの艦娘達を一度に収容できる十分な広さと、食品を扱う清潔さを備えていた。テーブル席と座敷席の2種類があり、艦娘達が皆それぞれ、思い思いの席に腰掛けて盛り上がっている。

 

 食欲旺盛な駆逐艦娘達のテーブルでは、少年提督がトングで肉を焼き、その肉を艦娘達が奪い合う戦場と化していた。時折、「ぶっ殺すぞ!」などと怒号が混じる殺伐さの中に、それを可笑しそうに笑い合う和気藹々さが混在し、かなり特殊な空間を作り出していた。

 

 軽巡、重巡艦娘達のテーブルでは、椅子に座り直そうとした足柄がひっくり返って、酒の入った者の間で爆笑が起きている。また、速攻で酔っぱらって呂律の回っていない様子の那珂が大声で歌いだし、うるせぇとツッコまれていた。川内や神通が居ればもっと優しく止めてくれていたのだろうが、残念ながらこの鎮守府には居ない。最も酒を消費しているグループだけあってマジでうるさい。

 

 一方で、戦艦艦娘達のテーブルは酒よりも肉の消費量が尋常じゃない。うず高く積み上げられた皿が並んでいて、まるで大都会のビル群を模したミニチュアのようだ。ただ、巡洋艦達のように酒で勢いづいて大騒ぎしている訳では無いので、比較的静かだ。大和や長門達が、不気味なほどに神妙な面持ちで何かを話し込んでいるからかもしれない。傍から見たら黒魔術の儀式でもしているみたいだった。陸奥の声で「籤運」という単語が喧噪を縫って聞こえて来たので、この後のお楽しみとして予定されている“大本営ゲーム”について語っているようである。戦艦の彼女達も、彼女達なりにこの場の空気を楽しもうとしているのには違いない。

 

 

 テーブル席の一つに腰掛けた少女提督は、ウーロン茶を静かに飲みながら周りに視線を巡らせる。艦娘達の感情に満ちた声は、食欲をそそる匂いと肉の焼ける音と混ざり合い、瑞々しい活気となって溢れ、華やいでいる。そんな騒がしさと熱気の中を、多くの妖精さん達が忙しなく飛び回っていた。妖精たちはコックの姿をしていて、肉や野菜を盛った皿を抱えていたり、飲み物を載せた盆を運んでいる。艦娘達は、妖精達から皿や盆を受け取る度に笑顔で礼を言い、妖精達もニッコリとした笑顔を返している。少女提督も、自分の目許が緩むのを感じた。

 

 雪風が、陽炎や不知火と言った陽炎型の駆逐艦娘達と談笑している。大井と北上は、鹿島や香取と乾杯をしている。木曾は、近くに腰掛けている球磨と多摩に弄られながら、グラスを片手に天龍と肉を焼いていた。少女提督が召還した艦娘達も、誰かを排除しようとする空気の無いこの鎮守府に随分と馴染んでいた。この風景を描き出しているのは艦娘達一人ひとりが抱える日常と、そこに根付いて育まれてきた思いやりや優しさだ。あまりにも平凡な感想かもしれないが、とても暖かな光景だと思った。

 

 

「ホラホラホラホラ! お前も喰っとけよ喰っとけよ~(おかん先輩)」

 

 少女提督がぼんやりと周囲の様子を眺めていると、眼の前に座っていた野獣が、トングで焼けた肉を皿に盛って渡してくれた。

 

「ん、ありがと」

 

 礼を言いながら、素直に皿を受け取る。野獣と少女提督は、4人掛けのテーブル席に座っていた。少女提督の隣には瑞鳳が腰かけている。明るい性格の筈の彼女だが、何故かこの焼肉会が始まってから随分と静かだった。体調でも優れないのだろうか? 少女提督の今日の秘書艦は瑞鳳だった。その様子は一日を通して見ていたのだが、具合が悪いような素振りは全く無かった筈だ。少女提督は隣の瑞鳳の表情をチラリと窺う。艦娘達の談笑が周囲で弾ける中、背筋を伸ばして座る瑞鳳は何処か緊張した面持ちだ。テーブルの中心に設置された網の上で焼けていく肉や野菜を、瑞鳳はじっと見詰めている。

 

 野獣の隣には山風が行儀よく座っていた。山風はサラダを取り皿に盛り、美味しそうに咀嚼していた。山風は今日、野獣の秘書艦を務めていたようだ。この会場にも、野獣と一緒に入って来るのを見た。

 

「おい、山風ぇ! ちゃんと肉もくわえ入れろ~?(栄養バランス作戦)」

 

「あっ、う、ぅん」

 

「もしかしてお前、肉が嫌いなのか……(青春)」

 

「そ、そぅじゃないよ。野菜が、ぉ、美味しかったから」

 

「あっ、そっかぁ! 好き嫌いがないなんて、山風はお利口さんだね(パパ)」

 

「もぅ、子供扱い、しないで」

 

 山風は困ったように眉尻を下げているのに、口許には微笑みが浮かんでいる。その声音にも、子供扱いしないでと言いながらも、控えめに甘えようとする柔らかな響きが在った。野獣が山風に慕われているのは、見ていて分かった。

 

「おい、せっ、瑞鳳ァ! お前もして欲しいだろ?(先制)」

 

 トングをカチカチと鳴らしながら野獣が瑞鳳に向き直る。焼けた肉を取ってくれようとしているようだ。「えっ!?」と、瑞鳳が弾かれたように顔を上げて、焦ったような笑顔を浮かべた。

 

「あっ、ありがとうございます!」

 

 この場の熱の所為か。瑞鳳の頬や耳元が赤く見える。

 

「あのっ」

 

 瑞鳳が熱っぽい眼差しを野獣に向けた。

 

「ん?(素)」

 

「この後なんですけど、野獣提督は“大本営ゲーム”に参加されるんですよね?」

 

「当たり前だよなぁ(悲劇の足音)」

 

 鷹揚に頷いて見せる野獣から取り皿を受け取った瑞鳳は、自分を落ち着かせるように、切なくも細い息を吐いている。その可憐な横顔は、恋する乙女のように見えた。まさかと思う。気付けば、少女提督は瑞鳳を凝視していた。

 

「瑞鳳」

 

「えっ、どうしたんですか? そんな険しい顔で……」

 

「あのさ」

 

 自分でも驚くぐらい、少女提督の声音は深刻だった。いきなりのことに、野獣と山風が顔を見合わせているのが分かった。「は、はい……」と、瑞鳳が居住まいを正して此方に向き直ってくれる。彼女の真っ直ぐな瞳に見詰められると、言葉が上手く出てこなくなった。聞かない方がいいように思えた。

 

「……ごめん、なんでもない」

 

 少女提督はさっきまでの空気や自分の態度を拭うように、ひらひらと手を振ってウーロン茶を飲む。瑞鳳だけでなく、野獣や山風も怪訝とした表情を浮かべていたが、それには気付かないフリをした。居心地の悪さを誤魔化すようにして、適当に視線を泳がせる。

 

 

 さっきまで駆逐艦娘達の輪の中に居た少年提督が、戦艦達のグループ席に居た。アイオワの持つグラスへとビールを注いでいる。彼は幾つかテーブルを回っているのだろう。グラスを両手で持つアイオワは、初心そうにテレテレと口許を綻ばせている。彼女が居るのは8人掛けの大テーブルで、他には、サラトガ、ウォースパイト、アークロイヤル、リシュリュー、ビスマルク、グラーフが腰かけている。さらに、その隣の席には、イントレピッドやプリンツ、リットリオやローマなどの海外艦娘達が陣取っていた。なかなか壮観である。

 

 彼女達の大テーブルには様々な種類の酒が用意されており、サラトガ、ビスマルク、グラーフ達にビールを注いだ少年提督は、ウォースパイトとアークロイヤルにはワインを、リシュリューにはシャンパンを注いでいた。既に酒が入っている為かもしれないが、彼女達が少年提督へと向ける視線がやけに鋭く迫真に見えるのは、少女提督の気のせいでは無いと思う。会場の空気が温まり切っているのを感じた。

 

 

「おーし、そんじゃそろそろ、“大本営ゲーム”始めますか~?(訪れる嵐)」

 

 タイミングを計っていたのだろう野獣が、おもむろに席を立つ。寂しそうな表情を浮かべた山風の頭を乱暴に撫でながら、野獣は会場を見渡した。「了解でーす!」「は~い、用意しますね~!」と、明石と夕張も席を立つ。他の艦娘達もそれに続いて席を立ち、テキパキとした動きでテーブルを移動させ始める。何人かの艦娘が柔軟体操をしたり、フットワークを踏んだりしていた。会場のボルテージがさらに上がっていく。

 

 少女提督の隣に座っていた瑞鳳は、ちらりと野獣を見てから少女提督に耳打ちしてきた。

 

「提督は、参加されないんですか?」

 

「うん。見てるだけにしとくよ」

 

「彼と仲良くなるチャンスなのに……」

 

 瑞鳳は、少し離れたところに居る少年提督を見遣った。少女提督もその視線の先を追う。彼は酔った様子のイントレピッドに肩を組まれて、困ったような微笑みを浮かべていた。「そんなの、別にいいわよ」と、少女提督は肩を竦める。

 

「あんたこそ、まぁ、何て言うか……、健闘を祈るわ」

 

「はい!」

 

 はにかむ様な可愛らしい笑顔を浮かべた瑞鳳は、またチラリと野獣を見てから席を立った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 提督用の籤箱。

 艦娘用の籤箱。

 大本営の命令箱。

 ペナルティ用の籤箱。

 

 今回の“大本営ゲーム”に用意されたものは、この4つだった。普通の王様ゲームでは、男同士がキスしたり抱き合ったりする事態が起こるのだが、“提督用の籤箱”、“艦娘用の籤箱”という形で、男女が引く籤を分けてあるので、その心配も無い。

 

 

 ゲームの流れとしては、まずは艦娘達でジャンケンを行い、最後まで負け残った者が『大本営』役となる。そして、『大本営』役となった艦娘は、“大本営の命令籤箱”から命令籤を引く。

 

 “提督用の籤箱”には、赤色の籤棒と青の籤棒が入っている。少年提督と野獣が、これを引く。もしも少女提督が参加していた場合は、此処に黄色の籤棒が混ぜる予定だったらしい。続いて艦娘達が、“艦娘用の籤箱”から其々に番号のついた籤棒を引く。

 

 最後に、

 

 “大本営の命令籤の内容”、

 “提督が引いた籤の色”、

 “艦娘達が引いた籤の番号”を一斉に開示する。

 

 これを艦種のグループごとに2回ずつ行い、次のグループへとローテーションしていく。、

 

 

 大本営の命令籤は、

 

『“●色籤の提督”と、“▲番の艦娘”は、●●●せよ』

『“●色籤の提督”は、“▲番の艦娘”に、●●●せよ』

『“▲番の艦娘”は、“●色籤の提督”に●●●出来る』

 

 という風に、提督側が引いた籤の色と、艦娘が引いた籤の番号を指定する形式である。これは野獣が他の鎮守府から聞いたというローカルルールを採用している。予め命令の内容を決めているのは、その場の勢いに任せた過激な命令が出る事を防ぐためとの事だった。

 

 今回は参加する艦娘達も多いので、

 

『“●色籤の提督”と、“▲番、■番の艦娘”は、●●●せよ』

『“●色籤の提督”は、“▲番、■番の艦娘”に、●●●せよ』

『“▲番、■番の艦娘”は、“●色籤の提督”に●●●出来る』

 

 と言った風に、複数の艦娘を対象に取る内容の籤も用意しているそうだ。新たなローカルルールの追加として、命令籤の内容をパスするには、何らかの罰が課されるようになった。その内容は“ペナルティ用の籤箱”で決める。

 

 

 

 

 今回の“大本営ゲーム”は艦種別で行うので、同じ艦種の艦娘達がテーブルを集めて陣を作り、今か今かとスタンバイしている。食堂を改装したこの広い空間に、先程までとは種類の違う熱気が満ちはじめている。

 

 

 今回の“大本営ゲーム”に不参加である艦娘は、鳳翔、間宮、あきつ丸の3人だった。少女提督はこの3人と共に、艦種別のグループ席からは少しは離れた席で見学することになった。鳳翔と間宮は、皆を見守るような表情を浮かべながらも、興味深そうにゲームの進行を注視している。一方、あきつ丸はニヤニヤ笑いを顔に張り付け、足を組んで肘を椅子に乗せている。この意地悪そうな艦娘が、少女提督を横目で見た。

 

「参加されないので?」

 

「えぇ。アンタも?」

 

 あきつ丸はニヤニヤ笑いを深めた。

 

「自分は、他人が騒いでいるのを傍観するのが好きなのであります」

 

「……何かそれ、趣味悪くない?」

 

「そうかもしれませんなぁ」

 

 喉を鳴らすようにして笑って、あきつ丸は会場へと視線を戻した。その横顔を見て気付く。あきつ丸は全く酔っている様子が無い。酒を飲んでいないのだ。手にしているグラスには、オレンジジュースが揺れている。

 

「お酒、飲まないのね」

 

「ん? あぁ、これでありますか?」

 

 あきつ丸は手の中にあるコップを一瞥してから、「自分は出来損ないでありますからなぁ」と、また横目で視線を返して来た。

 

「普通の艦娘なら、どれだけヘベレケでも“抜錨”すれば一気に酔いも醒めるのでしょうが、自分はなかなか酒が抜けないのでありますよ。だから、あまり飲酒はしないようにしているのであります」

 

「……ふーん。でも、いい心掛けね」

 

 少女提督は、あきつ丸とオレンジジュースを見比べる。出来損ない。その言葉は、やけに耳に残った。

 

「自分は、真面目で実直ですから」

 

 冗談めかして言うあきつ丸が、唇の端を吊り上げるような笑みを浮かべて見せた時だ。

 

 

 

 

 

『大本営、だぁぁーーーーーーれだッッッ!!!』

 

 会場全体を震わせるような迫真の掛け声と共に、戦艦達グループの間でジャンケンが始まった。彼女達の気合いの入り方は半端では無かった。この大本営ゲームで最も美味しくないポジションは、命令籤を引くだけの『大本営』役である。つまり、このジャンケンで負けるという事は、艦娘としてのゲーム参加を一回休みにされるという事を意味する。少年提督とのスキンシップを強く望んでいるのであろう彼女達にとっては、今だけは全員が敵なのだ。この最初のジャンケンは初手で勝負が着いた。

 

 陸奥がパーを出して、他の全員がチョキを出していたのだ。

 

「ア゜↑~~~……ッ!!(悲鳴)」 

 

 余りにも速攻な決着に、陸奥がその場に崩れ落ちた。

 

 それを尻目に、他の戦艦達は籤箱から籤を引いていく。誰も陸奥を慰めようとしない。彼女達にとって、これは遊びではないようだ。余興とは思えぬほどにピリピリとした空気の中、戦艦達が籤を引き終わった。少年提督と野獣も、色籤を引き終わる。辛そうな顔をした陸奥が、大本営と掻かれた箱から命令籤を引いて準備が整う。

 

 大本営からの“命令”は、

『▲番の艦娘は、赤色籤の提督とハグせよ』という内容だった。

 

 戦艦達が色めき立つ。どよめく会場。

 

「赤色籤は俺だゾ☆(ビューティー先輩)」 

 

 戦艦達にウィンクする野獣。

 

「チキショーメェェェェェエエエエエエ!!!!(閣下絶叫)」

 

 全身を震わせて天井を仰いだのは、半泣きのビスマルク。

 

「嘘だよ(お茶目先輩)」

 

 唇の端を持ち上げ、肩を竦めるように小さく笑った野獣は、青色の棒籤をヒラヒラと振って見せた。

 

「えぇと、赤色籤は僕なんですけど……」

 

 少年提督が、床に蹲ろうとするビスマルクに声を掛けた。確かに、苦笑を浮かべた少年提督の手には、赤色をした棒籤が握られていた。「む゛ぅ゛ぅ゛う゛ん……(女泣)!!!」ビスマルクが勢いよく立ち上がり、両手を振り挙げて渾身のガッツポーズを作る。少年提督はそんなビスマルクを見上げながら、照れ笑うようにはにかんだ。

 

「やっぱり、ちょっと緊張しちゃいますね」

 

 少年提督の声音は少し恥ずかしそうなものの、性的な何かを期待する熱量が全く無かった。その代わり、ビスマルクを家族として信頼しているが故の、敬意と無防備さを伺わせた。余りにも自然体な少年提督は、ビスマルクを決して拒まない。それに対してビスマルクは、深呼吸をしつこく繰り返し、懸命に呼吸を整えようとしていた。

 

 そんなビスマルクに向けて、大和や長門達が「力む必要は無い。いつも通りで良いぞ」などと声を掛けている。ビスマルクは軽くフットワークを踏みつつ、彼女達に頷きを返している。まるで試合を前にしたボクサーと、それを支えるセコンドみたいな空気だった。少年提督とビスマルクは、これから本当に何らかの方法で戦うのだろうか。傍観している少女提督にそんな錯覚を与えるほど、彼女達が醸し出す笑えない緊張感は周囲に伝播していく。

 

 少年提督がビスマルクに向き直り、両腕を広げて見せた。

 

「背が低くて申し訳ないのですが、こんな感じで良いでしょうか?」

 

 温度の籠らない、澄んだ声音だった。少年提督は微笑みを深める。他の戦艦達に背中を叩かれたビスマルクは、「腕がにゃるわね!(噛み噛み)」と、謎の気合いを入れて少年提督の前へと歩み出る。そして、少年提督と目線を微妙に合わせないまま、ぎこちない動きで片膝立になった。数秒の間、会場が静まり返る。何処かでゴングが鳴ったような気がした。

 

 緊張の一瞬だった。

 

 二人は静かにハグをする。それは確かに、男女が情熱に身を任せて行うそれでは無く、親しい者同士が挨拶をする程度のものだった。その筈なのだが、「アーイキソ……(万感)」と、艶っぽい吐息に乗せて、少年提督の肩に顎を乗せたビスマルクが呟くのが聞こえた。

 

 大きく息を吸い込んだビスマルクが、「ね、ねぇ、提督?」と、ハグをしたままで少年提督に掠れた声を掛ける。

 

「何だか、す、凄く良い香りがするんだけど……、香水か何か付けてるの?」

 

 ビスマルクに訊かれ、少年提督が小さく頷いた。「ほぅ、どれどれ」と、凛々しい表情のままのガングートが、しれっと少年提督に近づこうとしていたが、「いや、乱入するのは不味いでしょ……」、「気持ちはわかるけど、落ち着きましょう」と、ローマとリットリオに止められていた。

 

「前に、リシュリューさんから香水を頂いたんです。それを少しずつ、大切に使わせて頂いているんです」

 

「そ、そう……(興奮)」 

 

 ビスマルクが深呼吸を繰り返しながら、リシュリューの方へと何度も頷いて見せていた。仲間のファインプレーを讃える眼差しだった。リシュリューの方は羨ましそうに爪を噛んでいる。その間にも、少年提督の吐息がビスマルクの耳朶や首筋を擽っていたのかもしれない。ビスマルクは体を細かく震わせつつ「ハーイッタ……(賢者)」と満足そうな溜息を漏らして、ハグを解いた。立ち上がろうとするビスマルクの表情は慈しみに満ちていて、その脚はカクカクと微かに震えている。ちょっとエッチな感じだった。

 

「すみません。お疲れ様です」

 

 相変わらず落ち着いたままの少年提督が、ビスマルクに微笑んだ。

 

「ありがとう。これでまた戦えるわ……(意味不明)」

 

 頬を染めたビスマルクも、少年提督に礼を述べてから戦艦達の元へ。そして、すぐに2回目のゲームが始まる。

 

 

 

 

『大本営、だぁぁーーーーーーれだッッッ!!!』

 

 さっきまでビスマルクを羨ましそうな眼で見ていた大和や長門達の、次こそは自分が!という意思に込められた熱量が、空気を爆発させるかのような掛け声に変わる。

 

「あぁ……、そんな……」

 

 ジャンケンに負けたのは、無念そうに項垂れるウォースパイトだった。陸奥が泣きながら、扶桑や山城と抱き合っている。空母のグループ席からは大鳳が拍手を送っていた。異様なテンションの中、籤引きが行われる。

 

 大本営からの“命令”は、『“青色籤の提督”は、“▲番、■番の艦娘”に、“あ~ん”で何かを食べさせろ』というものだった。

 

 ▲番の籤を引いていたのは、金剛。

 ■番の籤を引いていたのは、アイオワ。

 

 金剛とアイオワは、真剣な表情で互いの顔を見合わせてから、少年提督と野獣を見た。青色籤を引いていたのは、「あ、僕みたいですね」と、微笑んだ少年提督だった。金剛とアイオワは本気の歓声を上げ、二人はその幸運を分かち合うべく、比叡や榛名、霧島たちとハイタッチをしている。金剛姉妹とアイオワは、もうすっかりと打ち解けている様子だ。

 

 

「丁度デザート用のアイスも在るし、それで良いんじゃない?(最適解)」

 

 野獣が傍に居た妖精達に何かを伝える。すぐに一人の妖精が、小さなカップに作られたバニラアイスを持って来てくれた。それを受け取った少年提督の前に、金剛とアイオワが椅子を並べて座った。二人はウキウキとした様子で、食べさせて貰う順番を決める為にジャンケンを始める。その間に、少年提督はカップアイスをスプーンから掬う。

 

「そ、それじゃテートク、お願いしマース!」

 

 ジャンケンには金剛が勝ったようだ。椅子に座った姿勢のままで金剛は、ゆっくりと目を閉じながら唇を舐めて、「あーン……」と口を開けて見せる。隣に座っているアイオワが僅かに赤面するほど、何とも煽情的で艶美な仕種だった。少年提督の方は金剛の色香に全く反応することなく、穏やかな表情のままでスプーンを構えている。「それでは」と。スプーンに乗せられたアイスを、少年提督が優しい手つきで金剛の口へと運ぼうとした時だった。

 

「あっ、そうだ! こっちも美味いゾ!(カットイン)」

 

 少年提督の傍に居た野獣が、絶対に反応出来ないタイミングで、アイスよりも先に金剛の色っぽい唇に何かを近づけていた。いつの間に。少女提督は我が目を疑う。野獣が箸で持っていたのは、湯気を纏ったホカホカのおでん大根だった。

 

「アツゥイ!!!? アッツ!!?!?」

 

 口を押えた金剛は反射的に体を引いて、その勢いで椅子ごと後ろにひっくり返った。

 

「だ、大丈夫!?」

 

 慌てた様子のアイオワが金剛を助け起こす。いきなりの事に、少年提督も困惑した様子で、この状況に着いていけずに立ち尽くしている。体を起こした金剛は椅子を直しながら、アツアツ大根を箸で持っている野獣の笑顔を凝視していた。会場の其処彼処から野獣に冷たい視線が注がれている。状況を把握したのであろう金剛は小さく息を吐いて椅子に座り直し、見る者の背筋を凍らせるような笑顔で野獣を見た。

 

「次にやったら本当に殺すヨ?」

 

 金剛の声は本気だった。

 

「まま、そう怒んないでよ!(反省の色無し)」

 

 ただ、野獣は全く悪びれた様子も見せずに肩を竦める。そのついでに、手にした小皿で大根を一口大に箸で割ってから「じゃあ、コレ」と少年提督へと向けた。野獣が少年提督に“あーん”をする態勢になる。

 

 少年提督は一瞬、どうするか迷ったようだが、大人しく差し出された大根を口に含んだ。全く熱がる様子を見せなかった彼は、「美味しいです」と笑顔を浮かべる。少女提督はその事に少し驚いた。だが、艦娘達の方は違うところに驚いたというか、意識を向けていたようだ。駆逐艦娘の誰かが、「間接キス……」と漏らすのが聞こえた。金剛がちょっと驚いたような顔のままで激しく赤面し、少年提督を見詰めている。アイオワが俯いてモジモジしていた。

 

 その後、少年提督に“あーん”をして貰った金剛は、赤い顔のままでアイスを咀嚼し、何も反応を返すでもなく黙りこんで俯いていた。ソワソワしまくっているアイオワも、野獣の動きに露骨に警戒しつつも、少年提督に“あーん”をして貰い、激しく照れながらも彼に礼を述べている。

 

 

 

 これで戦艦達のグループで2回のゲームを行ったので、少年提督と野獣は次の艦娘達のグループへと移る。次は空母達のグループだった。ジャンケンをするために輪になった空母達も、戦艦達に負けず劣らずの気合いの入り方だった。眼を据わらせた加賀が何らかのオーラを纏っているのが見えるし、サラトガとイントレピッドがコキコキと首を鳴らし、グラーフが腕のストレッチをはじめ、龍驤がそんな加賀達を「キミら、えらい本気やな……」と、若干引き気味の視線を向けて、赤城が優しそうな苦笑を浮かべている。

 

 飛龍と蒼龍は、「大丈夫大丈夫、ゲームだから平気平気!」と、オロオロとしているガンビア・ベイをフォローしていた。大鳳と翔鶴は、凛然とした面持ちで瞑目している。深呼吸をしている瑞鳳の隣で、瑞鶴は微妙に気乗りしない様子である。まず、一回目のジャンケンでは、「あら、残念ですね」と肩を竦めた赤城が大本営役となった。

 

 赤城が引いた大本営籤の“命令”は、『“赤色籤の提督”は、“▲番、■番の艦娘”に、術式フェイスマッサージをしろ』というものだった。

 

 ▲番の籤を引いていたのは、ガンビア・ベイ。

 ■番の籤を引いていたのは、アークロイヤル。

 

 二人は顔を見合わせてから、ゆっくりと少年提督と野獣の方を見遣った。ガンビア・ベイは既に怯えたような半泣きだったし、アークロイヤルは出撃前みたいな顔だった。穏やかな表情を浮かべた少年提督が、青色籤を持っている。ガンビア・ベイが悲鳴を上げて、アークロイヤルが顔を伏せて呻く。赤色籤を持つ野獣が、「よし! じゃあ、ぶち込んでやるぜ!!(アツアツおでん装備)」と、凄い笑顔を浮かべた。

 

 ガンビア・ベイは逃げ出そうとしたようだが、「あっ、おい待てぃ!(江戸っ子)」と、音も無く一瞬で距離を詰めて来た野獣に呆気なく捕まった。次の瞬間には、ガンビア・ベイは椅子に座る姿勢で手足をロープで縛り付けられていた。おまけに目隠しまでされて、口にはボール型の轡まで噛まされていた。少女提督には野獣の動きが全く見えなかった。それは一瞬の早業で、シュパパパパパって感じだった。視界と口まで塞がれ、何が起こったのかも全く分かっていない様子のガンビア・ベイは、「ぅんんっ!? んむっ!? んむむぅー!?」と、くぐもった声を漏らして激しく狼狽している。

 

 ずば抜けた近接戦闘技術を無駄遣いする野獣に対して、険しい表情のアークロイヤルは抵抗しなかった。陸の上、しかも、この至近距離では太刀打ち出来ないと判断したのだろう。冷静だ。途轍もなく苦そうな表情を浮かべたアークロイヤルは、チラリとペナルティー用の籤箱を横目で見た。パスを選ぶかどうかを迷っているに違いない。ただ、態々あんな籤箱を用意して来ているところから見ても、パスする事によって受けるペナルティーも、また過酷である事は予測出来る。得体の知れない籤を引かされるのならば、フェイスマッサージを受けた方がマシだと判断したようだ。アークロイヤルは残酷な処刑を受け容れる罪人のように、ガンビア・ベイと並び、大人しく椅子に座った。それを見た野獣は、力強く一つ頷く。

 

「はい、じゃあケツ出せぇ!!(誤った指図)」

 

 野獣の声に、ガンビア・ベイが「んむぅ!!?」と呻いて、ビクー―ッ!!と肩を震わせた。「何故だ!? 命令はフェイスマッサージだろうが!!!」と叫んだアークロイヤルも、自分の下半身を守るような姿勢で立ち上がった。

 

「はわわ〜、ごめんごめん☆(常習犯の謝罪)」

 

 野獣は、ムカつくぐらいワザとらしい爽やかな笑顔を浮かべる。空母達が白けたような顔で野獣を見ていた。若干の冷え込みを見せる会場内の其処彼処で、「術式フェイスマッサージって、何?」みたいな事を話し合う、ヒソヒソ声が沸いた。野獣は会場を見回してから、空母達に視線を戻して肩を竦めた。

 

「俺達が独自に考案したマッサージ法だゾ。痛いとかそんな事は全然無いから、ヘーキヘーキ(怪しいほどに明るい声)」

 

 胡散臭い笑顔を浮かべる野獣は、アツアツおでんを入れた小鉢を妖精に渡してから、傍に居た少年提督に「なぁ?」と視線を向ける。少年提督は野獣に頷き、艦娘達を順に見た。

 

「艦娘の皆さんのストレスケアの為に、他所の鎮守府が発案したものを、僕達なりに手を加えたものになります。折角なので、ゲーム内に持ち込んでみたのです」

 

 少年提督は艦娘達に説明しながら、両手の掌の上に蒼色の術陣を灯した。そして何かを唱えながら、椅子に座るガンビア・ベイとアークロイヤルの背後まで移動する。すると、二人が座る椅子を囲うように、足元に術陣が浮かび上がる。澄み切った蒼い微光が優しく明滅し、ガンビア・ベイとアークロイヤルを包むようにして淡い揺らぎが立ち上った。

 

 「これは……」と、アークロイヤルは心地よさそうに吐息を漏らし、目を細めた。椅子にくくり付けられているガンビア・ベイの方も、少年提督の声を聞いて落ち着いたのか。「んふぅーーー……」と、ゆっくりと鼻から息を吐き出していた。

 

 

「まずはコイツの治癒術を応用して、血の巡りを良くしとこっか、じゃあ(ふわっとした説明)」

 

 ニヤニヤと笑う野獣は、適当な事を言っているに違いない。だが、少年提督が行使する術式の効果は間違いなく高いので、野獣の言葉のどこまでを否定すればいいのか判断が難しい。艦娘達が渋い顔で野獣と少年提督を見比べる。少女提督も、自分も同じような表情だろうという自覚があった。あきつ丸が喉を鳴らして笑うのが聞こえた。野獣は、治癒術陣の中でリラックスしているアークロイヤルに近づく。陶然とした様子で少年提督に身を任せるアークロイヤルは、もう完全に油断していた。

 

「新陳代謝を活発にするために、あとは顔のツボや表情筋に刺激を与えましょうね~☆」

 

 意識を向ける間も無かった筈だ。野獣の両腕がブレて、消えたように見えた。次の瞬間には、アークロイヤルも手足をロープで拘束され、椅子に縛り付けられていた。ご丁寧に目隠しまでされている。ガンビア・ベイと同じように、胴体も背負凭れに括りつけられている為、あれでは立ち上がる事も移動するのも難しいだろう。

 

「なぁっ!!? し、しまった!?」

 

 アークロイヤルはもがくが、拘束するロープはビクともしない。ガタガタと椅子が揺れるだけだ。ガンビア・ベイの時もそうだったが、あのロープや轡は一体どこから……。そんな疑問を抱く余裕や時間も与えず、ゲームは進行していく。

 

「じゃあ今から、お前らに刺激を与える……、はい返事ぃ!」

 

 野獣の声に、ガンビア・ベイは首をブンブンと横に振りながら、「んむー!! むーー!!」と、ガタガタと体を震わせた。アークロイヤルも、「くそっ、せめて拘束を外せ!」と悪態をつく。

 

「はい。では、治癒・活性化の術式に重ねて、感覚を鋭敏化する術式も展開していきますね」

 

 野獣に返事を返したのは、少年提督だけだった。少年提督は新たに何らかの文言を唱え、それに呼応するように、ガンビア・ベイとアークロイヤルの足元に象られた術陣の形が複雑になっていく。

 

 淡いピンク色の術光が漏れるのを見て、「感覚鋭敏化かぁ……」「またこれか壊れるな……」と、深刻そうに呟く声が聞こえた。駆逐艦のグループと、巡洋艦のグループの方からだ。声の主は、事の成り行きを見守っていた陽炎と那智だった。艦娘の多くが、重たい声を漏らした二人の方を見てから、アークロイヤルとガンビア・ベイへと視線を戻すのが分かった。

 

 少女提督も、感覚鋭敏化という単語に嫌な予感はしていた。その予感は当たっていた。ガンビア・ベイがピクンピクンと体を波打たせているし、ビクンと体を震わせたアークロイヤルが頬を赤く染め、熱っぽい息を吐き出していた。その間に、野獣の元へと妖精が何かを持って来た。空母達がぎょっとした顔になる。

 

「あの……、それは……」と、代表して赤城が野獣に問う。

 

「えっ、フェイスローラーでしょ?(すっとぼけ)」

 

「いや、どう見ても棒コンニャクやんけ……」

 

 困惑した様子の龍驤が、思わずと言った感じで小声でツッコんでいた。だが、野獣も少年提督も、そんな事はお構いなしだ。野獣は太い棒コンニャクを両手に持ち、真剣な表情を作ってから、ガンビア・ベイとアークロイヤルの間に立つ。

 

「ぐっ、ちょ、ちょっと待ってくれ野獣、身体が……!」

 

 アークロイヤルが呼吸を整えながら言うが、野獣はそれを遮る。

 

「ホラホラホラホラ(連撃カットイン)」

 

 野獣は手に持った棒こんにゃくで、ペチペチペチペチペチペチと、二人の頬をリズミカルに叩き出した。

 

「ぐわぁあああッッ!!?」 

「んむむぅぅーーッッ!!?」

(二人とも迫真)

 

 感覚を鋭くされているからだろう。ビクビクと体を震わせたアークロイヤルとガンビア・ベイが悲鳴を上げる。

 

「な、なんだっ!? 頬だけで、こんなっ……!!」

「ふむむぅぅーーッッ!!」

 

 棒コンニャクの水っぽい音が何とも言えず卑猥な感じで、多くの艦娘達が赤面していた。少女提督も顔が熱かった。陽炎が気の毒そうな顔をしているのに気づいた。那智も同情するような表情だった。大鳳だけが、何処か羨ましそうな顔をしていた。

 

「どうだ? キモティカ=キモティーダロ?(古代遺跡)」

 

 野獣の声音は優しいのに、その所為で行為のゲスっぽさが余計に際立っていた。

 

「くそ、何故だ……ッ!! こんな屈辱的なのにッ……!! 」

 

 顔を真っ赤にしながら、アークロイヤルは悔しそうに唇を噛んで、必死に何かを堪えようとしていた。その頬を、棒コンニャクが無情にもペチペチと叩いている。このフェイスマッサージの名を借りた何かは、アークロイヤルとガンビア・ベイの二人が、ぐったりするまで行われた。

 

 

 

 

 空母組での一回目のゲームが終わり、アークロイヤルとガンビア・ベイの二人は、消耗しつくした様子で椅子に座り込んでいた。ただ、二人とも顔色は良いし、心なしか顔の肌ツヤも良くなっているように見えた。これは野獣の適当なマッサージの効果などでは無く、少年提督の術式による効果なのだろう。

 

「お疲れ様でした」と、にこやかに言う少年提督に、アークロイヤルは気まずそうに「あ、あぁ……」と答えて、ガンビア・ベイはペコリと頭を下げている。二人とも、純粋な少年提督の眼を見れずにいる。そこへ、妖精たちが何かを持ってきた。野菜や海藻と一緒に盛りつけられた、瑞々しく色鮮やかなコンニャクサラダだった。このコンニャクは、さっきまで二人の頬をペチペチとしていたものに違いなかった。二人は微妙な表情で顔を見合わせていたが、途中で笑い出す。

 

「お互い、籤運が悪かったな」

 

 アークロイヤルが疲れたように言うと、ガンビア・ベイは眉をハの字にした笑みを浮かべて、可愛らしく頷いていた。他の空母達からも、「大丈夫だった?」と心配そうに声を掛けられているが、その度にガンビア・ベイは両手を小さく振って、自分は平気であることをアピールしていた。その様子を見ていた少女提督は、妖精達に何かを伝えている野獣を一瞥してから、鼻から息を吐く。

 

 無茶苦茶な事をする男だが、その荒唐無稽な振る舞いは、他者の気負いや緊張を不思議と崩す。今のガンビア・ベイにしたってそうだ。このゲームが始まる前の彼女は、周りを見てオロオロとしていた筈だが、そんな雰囲気がもう消えている。控えめながらも明るい笑みを浮かべるガンビア・ベイは、この焼肉会が始まった時よりも、この場に馴染んでいるように見えた。

 

 

 

 

 

「ベイ殿の肩から、余計な力が抜けた様で良かったであります」

 

 視線から考えている事を読まれたようだ。ニヒルな表情を浮かべたあきつ丸が、少女提督の方を見ずに言う。

 

「野獣って、ああいう空気つくるの上手いわよね」

 

「えぇ。我らが提督殿には出来ないことでありますよ」

 

「いいコンビじゃない」

 

「……そうでありますな」

 

 あきつ丸の言葉には、妙な間が在った。少女提督が横目であきつ丸を見ようとしたら、鳳翔が湯呑を渡してくれた。この会場の騒ぎを見守りながら、茶を淹れてくれていたようだ。良い香りがする。ついでに、間宮も羊羹を用意してくれていた。至れり尽くせりである。ゲームには参加していないものの、このテーブルを支配する幸福度は非常に高い。

 

「頂くであります」

 

 あきつ丸も、鳳翔と間宮から茶と羊羹を受け取っている。礼を述べ、小さく頭を下げていた。少女提督は結局何も言わず、何事も無かったかのように鳳翔が淹れてくれた茶を啜る。そうこうしている内に、空母組での2回目のゲームが始まろうとしていた。

 

 

 













“召還”という表現についての貴重な御指摘を頂き、本当にありがとうございます。

もともと、作品内の“召還”という表現は、私の推敲不足による誤字でありました……。前作で読者の皆様に御迷惑をお掛けしてしまったのですが、とても有り難いことに

「誤字かもしれないけれど、海から艦娘達を呼び戻す“召還”の方が作風に合っているかもしれない」

と、大変暖かなフォローと御言葉を、読者様から頂いた事がありました。

これを機に、作品内では前作から

提督が艦娘を召還する
艦娘が艤装を召還する

といったように、海に眠る艦船達の魂を現世に呼び戻しているというニュアンスで、“召還”という言葉を使わせて頂いています。この作品内での“召還”という表現は完全に私のミスでしたが、読者の皆様から特別な意味を与えて頂けたのだと考えております。あらすじでも、“召喚”と“召還”について触れさせて頂いたつもりなのですが、描写が不十分になってしまったのは私の力不足によるものです。読者の皆様には御迷惑をお掛けしてばかりで、本当に申し訳ありません……。

もとは誤字であった“召還”という表現ですが、作品内の世界観に馴染ませつつ、物語の中で何らかの深い役目を持たせる事が出来ればと思います。頭の悪そうな話が続くかもしれませんが、少しでも楽しんで頂けるような内容を目指し、読み易い文章を心掛けて参ります。

長い期間、更新出来ずにいましたが、こうして貴重で丁寧な御指摘を頂けること、そして暖かな御言葉を寄せて頂ける事に大変感謝しております。誤字も多く、頭の悪そうな話が続くかもしれませんが、またお暇つぶし程度にお付き合い頂ければ幸いです。

これから雨も多く蒸し暑い時期になって来ますが、皆様も事故や体調などには十分にお気をつけ下さいませ。今回も最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

此処にしか無い景色 後編





 

 

 

空母組、2回目のジャンケンが終わる。負け残り、大本営役となったのは「ぐ……ッ!」と、恐ろしく低い声で呻いたグラーフだった。命令籤の内容は、『“●、■番の艦娘”は“赤色籤の提督”に、何でも(常識の範囲内で)お願いせよ!』というもの。艦娘側から提督側へと、ある程度の強制力を持って何かを頼めるという内容だった。自身の強化改修や、非番の日に付き合って貰うことだってお願い出来る。単純な命令とは少々毛色が違うこの“命令籤”は、かなりの大当たりに違いなかった。会場が大きくザワつく。

 

 

 ●番の籤を引いていたのは、「あっ、私だ」 瑞鳳。

 ■番の籤を引いていたのは、「やりました」 加賀。

 赤色の籤を持っているのは、「おまたせ!(以暴易暴)」 笑う野獣。

 

 命令籤を引いたグラーフが、申し訳なさそうな顔で黙り込んだ。瑞鳳は満面の笑顔を浮かべ、両手を上げて喜んでいる。「良かったじゃーん!」「良い時に引いたね、さっすが!」と、瑞鳳と一緒に喜んでいるのは飛龍と蒼龍。「ふふ、羨ましいですね」と、赤城も優しそうに微笑んでいる。

 

 一方で加賀は無言のままで、沈痛な面持ちで床の一点を見詰めていた。この場のテンションから弾き出されたかのように、加賀の周囲の温度だけが冷え込んでいる。会場の艦娘達も気遣わし気な視線を注いでいた。翔鶴と瑞鶴、葛城の三人が、加賀に何かを話し掛けていて、何とか元気づけようとしているのが分かった。

 

「おっ、どうしました?(ニヤニヤ笑い先輩)」

 

 すっとぼけたように言う野獣は、そんな様子を明らかに面白がっている様子だ。加賀は黙ったまま、ジトッ……とした視線を返す。しかし、すぐに何を諦めるかのように瞑目して、ゆっくりと大きく息を吐き出した。ついでに、「問題無いわ」と、翔鶴と瑞鶴、葛城に口許を緩めて見せる。後輩たちの気遣いに思わず表情が綻んだのだろう。ただ、その柔らかな表情は一瞬だけのものだった。

 

「何でもお願い出来るというのなら、もう少し誠実さを持って職務に取り組んで貰いたいものね」

 

 瑞鶴達から野獣に顔だけを向けた加賀の表情は、いつものクービューティーに戻っていた。

 

「おう、考えてやるよ(やるとは言っていない)」

 

 野獣も普段の調子で頷いた。加賀が舌打ちをする。しかしそれ以上は何も言わず、自然体に笑う野獣に対して、加賀は不機嫌そうに鼻を鳴らすだけだった。野獣に対して興味を持っていないという意思表示では無く、この男には何を言ってもどうせ無駄であるという事を知っているからこその態度だろう。加賀と野獣の間にある距離感は、長門や陸奥が持つ野獣への距離感とも、また違った種類に見えた。

 

 

「じゃあ次は、私もお願いして良いですかっ?」

 

 黙った加賀に代わり、瑞鳳が声を弾ませて挙手した。野獣が、「おっ、いいゾ~!」と、鷹揚に頷く。瑞鳳は一つ呼吸をしてから、野獣に向き直った。だが、すぐに瑞鳳は視線を泳がせて、「あの、それじゃ、えっと……」と、言い淀む。周りに居る空母艦娘達は、余計な茶々を淹れたり野次ったりすることも無く、瑞鳳を静かに見守っている。それは、会場のどの艦娘達も同じだった。

 

「今すぐっていう、お願いでも無いんですけど……」

 

 そこまで言って、小さく息を吐き出した瑞鳳が顔を上げる。

 

「いつか、都合が悪くない時にでも、私が作った卵焼き、食べて欲しいなって……」

 

 歯切れ悪くも、微かに震える声で何とかそこまで言葉にした瑞鳳は、緊張した様子で頬を染め、上目遣いで野獣を見詰めている。わぁ~……ウチの瑞鳳はホントに可愛いなぁ~……なんて思いながら、少女提督は軽い眩暈を感じていた。「マジっすか(素)」と呟いた野獣は、驚いた表情で瑞鳳を見詰めて居たが、すぐにニカッと笑った。

 

「食べます食べます!(喰い気味) 卵焼き、オッスお願いしま~す!(感謝)」

 

 含みも嫌味も無い笑顔を浮かべた野獣は背筋を伸ばし、瑞鳳に対して誠実そうに頭を下げて見せた。こういう時の野獣の態度に嘘は無い。

 

「そ、それじゃ、野獣提督の都合の良い時に、執務室までお持ちしますね」

 

 赤い顔になって俯きがちに言う瑞鳳は、少女提督には見せた事のない種類の笑顔を浮かべていた。喜びという感情の中に、気恥ずかしさや卑屈さを無理矢理に押し込んでしまおうとするかのような笑みだった。アークロイヤルやガンビア・ベイの時のような騒ぎになることなく、かなり平和にゲームが進む。

 

 

 

 

 

 

 

「可愛い顔が台無しでありますよ」

 

 隣に座るあきつ丸に笑われても、少女提督の表情は渋いままだった。出そうになる溜息を飲み込んでから、鳳翔が淹れてくれた茶を啜る。美味しくて落ち着く。あきつ丸がまだ可笑しそうに笑っている。多分だがコイツは野獣と一緒で、相手にすると付け上がるタイプだ。無視無視。

 

「普段はアレですが、野獣殿も、まぁ佳い男ではありますからな」

 

 あきつ丸が楽しそうに言う。シカトを決め込み、渋い表情のままで黙っている少女提督に代わり、「そうですねぇ」なんて、穏やかな表情の間宮が相槌を打った。鳳翔も微笑みを浮かべて頷いている。少女提督は何も言わず、もう一口茶を啜った。

 

「そう言えば……。少し前ではありますが、野分殿も、野獣殿と二人きりで夜の波止場を歩いておりましたよ」

 

 危うく茶を吹き出しそうになり、少女提督は噎せ返った。「大丈夫ですか!?」と、間宮と鳳翔が心配してくれる。少女提督は咳き込みながら、“へーきへーき”と、頷くことでアピールする。その途中で、あきつ丸を横目で睨んだ。

 

「冗談でありますよ」 あきつ丸は肩を竦める。

 

「ケホッ……。そういう冗談はやめて。びっくりするから」

 

 少女提督が恨めしそうな顔をしても、あきつ丸は笑みを崩さない。寧ろ、楽しそうな笑みを深めるだけだ。しかし、その笑みは少女提督を嗤うものでは無かった。

 

「貴女が、この冗談を驚いてくれる人間で良かったでありますよ」

 

 鳳翔や間宮には聞こえない程度の声でそう呟き、あきつ丸は何かを確かめるような眼で、少女提督を見詰めて来た。少女提督もまた、あきつ丸の言葉の真意を測るように視線を返した。しかし、あきつ丸は何も言わず、唇を薄く歪めるだけで、会場へと視線を戻してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 会場では次の艦種のグループがゲームを始めていた。籤箱の中の籤の数は、艦種別のグループごとに調整され、人数分と等しい番号籤と、それらの番号に対応した命令籤がちゃんと用意されていた。ジャンケンは既に終わっており、籤も引き終わっている様子だ。巡洋艦娘達の中で一人、足柄だけがムスッとした様子で腕を組んでいた。本営役だったのだろう。命令籤の内容が発表される。

 

『“赤色籤の提督”は、“●番籤の艦娘”に“あ~ん”で何かを食べさせろ』

 

 “赤色籤の提督”は、「Foo~~↑」なんて奇声を上げた野獣だった。命令の内容は先程と同じだが、今回は指定される艦娘が一人だけである点に違いがあった。さて、●番の籤を引いたのは誰なのか。

 

 重巡艦娘達を順番に見ていくと、鈴谷だけが異様にソワソワしていた。「そっかー、鈴谷かー、しょうがないなー、あんまり嬉しくないけどなー、籤を引いっちゃったからなー」という、いかにも不本意そうな雰囲気を必死に醸し出している鈴谷は、落ち着きなく視線を泳がせながら唇を尖らせて、自分の髪をくるくると指で弄っていた。野獣が、優しい笑みで鈴谷を見た。

 

「鈴谷はキャンセルするよな?(気遣い)」

 

「しないよ!? なに言い出すの急に!?」

 

 “あーん”される事には興味なさそうな風だったのに、それをパス扱いされそうになっている鈴谷は、必死の形相で野獣に詰め寄った。肩を竦めた野獣が、鈴谷を宥める様に「まぁまぁ」と両手を動かしつつ、傍に居たコック姿の妖精達と短い遣り取りをしていた。その後、妖精達は調理スペースの方へと飛んでいく。妖精達の後ろ姿を見送った野獣はクソ真面目な顔になって、鈴谷にゆっくり頷いた。

 

「やっぱり、鈴谷はイマドキのイケてるギャルだし、悶絶調教くらいじゃないと満足しないかなって……(信頼)」

 

「も、悶絶調教!? いいよそんなの! いらないいらない!!」

 

「いや、しかしですね(食い下がり)」

 

「しかしもヘチマも無いよ! 普通に“あーん”してくれたらいいから!」

 

「あっ、そっかぁ。取り敢えず、スープとかシチューとかで良いかな?(リアクション重視)」

 

「だからさぁ……、熱いよねどっちも? 金剛さんの時みたいにさ、アイスとか在るでしょ?」

 

「そうですねぇ~……(難色)」 

 

 野獣が、不服そうな顔になって腕を組んだ。

 

「じゃあ、麻婆豆腐とか、グラタンならどう? いけそう?」

 

「何が“じゃあ”なのか意味わかんないんだけど……。 結局アツアツじゃん」

 

「ほら、お前さ、前にさ、褒められて伸びるタイプって言ってたよな?(遠い目)」

 

「今それ関係無くない!?」

 

「改二らしいリアクション、ひょろしくね!(鈴谷の図鑑ボイスより)」

 

「ソレやめてよぉ!!(半泣き)」

 

「よし!(ごり押し) ピザは、熱々のチーズ増し増しで良いかな?(情け無用)」

 

「はぇっ、ぴ、ピザ!? って言うか、もうトッピングの話!? 待って待って!」

 

「作りたてだし、美味しいうちに食べないとなぁ?(感謝の気持ち)」

 

 わちゃわちゃと両手を振って慌てる鈴谷に、野獣はニッと笑って見せる。そしてすぐに、携帯端末を取り出して手早く操作する。ほぼ同時だったろうか。妖精達が調理スペースから戻って来た。妖精達は、料理が盛られた小皿や小鉢を抱えて持っている。サイドメニュー的なものなのだろう。おでん、ピザ、マグカップグラタン、麻婆豆腐、茶碗蒸し、串カツ、あとはコーンスープなど、統一性は無いものの、小皿や小鉢に盛られた其々の料理は見た目も綺麗で上品であり、どれも美味しそうだった。

 

 会場の艦娘達から、密度の高い歓声が沸いた。用意されていた大量の肉や野菜を食べつくした彼女達はエネルギーに溢れていながらも、まだまだ満腹の様子では無かった。戦艦や空母達は元より、食べ盛りの駆逐艦娘達にとっても、このままデザートを食べてしまうには物足りなかったに違いない。焼肉用食材を少な目に抑えた分、妖精達が調理する食材に予算を割いたのだろう。怪物の胃袋を持つ艦娘達は、喜んで妖精達の料理を迎えている。

 

 

 

 少女提督も驚いていた。

 

 一般的に妖精達というものは、鎮守府や泊地と言った軍事施設に備わっている“機能”の一種に過ぎない。建設、入渠、工廠での装備の開発や改修など、艦隊を維持する為に必要な部分をサポートする存在だった。そんな妖精達が、あれら全てを調理したものであるという驚きも勿論あったが、焼肉用の肉や野菜を用意しつつ、こんな手の込んだ料理まで準備していたとは。同じテーブルに居た鳳翔や間宮も眼を少しだけ見開き、会場の光景を見詰めている。あきつ丸は喉を低く鳴らすように笑っていた。すぐに会場の其処彼処から、「うわっ、コレ美味しー!」という歓声が上がり、空気が華やいだ。コック姿の妖精達が喜びを表すべく、可愛らしく踊ったり跳ねたりしている。

 

 先程、野獣が妖精達と何らかの短い遣り取りをしていたのを、少女提督は思い出した。あれは恐らく、妖精達が作った料理を艦娘達に大々的に、そしてサプライズ的に披露できるタイミングを計っていたのだろう。そして鈴谷が行う事になった命令内容を見て、そこに便乗したのだ。賑やかになる周囲を見回した鈴谷も、野獣に肩を竦めて見せていた。其処へ、コック姿をした妖精が現れた。手には皿を持っており、綺麗な三角形にカットされたソーセージピザが乗せれられていた。ただチーズの量が明らかに多い。

 

「おまたせ」

 

 爽やかな笑顔を野獣は、コック姿の妖精から皿を受け取ってから鈴谷に向き直る。

 

 

「よし、じゃあ鈴谷のおクチに、アツアツトロトロをぶち込んでやるぜ!(意味深)」

 

「ちょっと言い方ぁ!!!!(赤面)」

 

 怒ったような顔になった鈴谷は、数秒ほど視線を泳がせていたが、観念したように一つ息を吐いた。そして、やはり怒ったような顔のままで野獣を睨む。

 

「ふーふーくらいしても良いでしょ?」

 

「しょうがねぇなぁ~(悟空)」

 

 一体何がしょうがないのか全く分からないが、渋々と言った感じで答えた野獣は、近くのテーブルに置いてあったお手拭きで手を綺麗に拭いた。そして大人しく、鈴谷の前でピザを手に持って構えて見せる。鈴谷がそのピザに顔を近づけ、警戒しつつもふーふーと息を吹き欠けている光景は何ともシュールだ。野獣は「手が滑ったゾ(大嘘)」なんて言って、鈴谷に奇襲を仕掛ける事もなかった。

 

「あーん……」と、鈴谷は口を開けて、ピザに噛り付いた。チーズが伸びる。鈴谷はハフハフと熱そうにしながらも、唇と舌でチーズを器用に絡めとっていた。

 

「どうだぁ~、ウマいか鈴谷ぁ~?」

 

「はふっ、あつ、熱ッ……!」

 

 まだまだ熱の籠るチーズを口の中で咀嚼しつつ、ハフハフと息を吐いて答える鈴谷の顔は赤く、恨みがましい眼で野獣を見ていた。だが、野獣の隣に居る妖精に視線を移した時には、鈴谷はニコッと笑った。

 

「でも、うん……、凄く美味しい」

 

 鈴谷の飾り気のない感想に、野獣とコック姿の妖精が顔を見合わせて、「やったぜ」と、小さく拳を合わせた。

 

 

 妖精は屈託のない笑顔を浮かべ、喜びという感情を小さな拳に乗せて突き出している。それを拳で受け取る野獣もまた、子供みたいに笑っていた。そんな二人の様子を眺める視界の隅の方で、陸奥が少年提督にグラタンを「あ~ん」で食べさせて貰おうとしているのが見えた。ドサクサに紛れた陸奥の抜け駆けに気付いた他の戦艦や空母達は抗議の声を挙げつつも、「じゃあ私も……」と、長蛇の列を作ろうとして更に揉めている様子だった。そのうち、少女提督の方にも妖精達がやってきて、幾つかの小鉢や小皿をテーブルに並べてくれる。

 

「美味しそうだね、ありがとう」

 

 少女提督が妖精達に礼を述べると、はにかんだ様に笑う妖精達がペコリと頭を下げてくれた。間宮と鳳翔がおでんの小鉢を手に取った。少女提督もおでんの大根を貰う。少女提督は再び驚くことになった。よく味の沁み込んだ大根は奥深い味わいで、以前、鳳翔の店で食べたものに負けていない。同じように、妖精達が作ってくれたおでんに舌鼓を打つ鳳翔や間宮も、「これは……、ふふ、私達もうかうかしていられませんね」と、笑みを浮かべて合っている。口許を緩めているあきつ丸は何も言わず、綺麗な茶色に色づいた卵を口に放り込んでほくほくと美味しそうに咀嚼している。

 

 

 

 妖精達のサプライズも成功を見せる中、重巡艦娘達の間で、2回目のゲームが始まった。

 

 

 ジャンケンに負け残ったのは、「うぅぅ……」と、項垂れたプリンツ・オイゲン。

 

 彼女が引いた命令籤の内容は、

『“■番、✖番の艦娘”は“青色籤の提督”に、“おしりペンペン”せよ』。

 

 会場が静まり返る。艦娘達の視線が、ほぼ一斉に少年提督と野獣に注がれた。あきつ丸が「ほほーぅ」なんて、興味深そう呟くのは聞こえた。間宮と鳳翔が、「あらあら……」「まぁまぁ……」と、嬉し恥ずかしそうな声と表情で顔を見合わせている。少女提督は心の中で「あーぁ」と呟いた。見れば、ニヤニヤ笑いの野獣が腕を組み、赤色籤を手に持っている。青色籤を持っているのは、優しげな微苦笑を浮かべる少年提督だった。会場がどよめいた。

 

 ■番の籤を引いていたのは、右手を握り固めて天を突き上げる鹿島。

 ✖番の籤を引いていたのは、赤い顔で半ば放心状態になっている大井。

 会場に居る他の艦娘達が、この二人に羨ましそうな視線を注いでいる。

 

 

「えぇと、こんな感じで良いでしょうか……?」

 

 少し恥ずかしそうに言う少年提督が、お尻ペンペンをされるべく、机に手をついて腰を曲げた。会場の其処彼処から、唾を飲み込む音(迫真)が聞こえた。そっぽを向いている大井は、モジモジして動かない。その間に、鹿島が少年提督に歩み寄り、大きく息を吸い込んで、その豊かな胸を強調するように背筋を伸ばした。

 

「提督さん。私、思うんです」

 

 少年提督のお尻を見詰めながら、鹿島が唇の端をペロッと舐めるのを少女提督は見逃さなかった。

 

「お尻ペンペンって、お仕置きじゃないですか? つまり提督さんは、お仕置きをされるような“何か悪いことをした”っていう、シュチュエーションや設定が必要だと思うんです」

 

 鹿島は難しい事を言い出した。何を言っているんだコイツは、みたいな空気が流れ始める。だが、少年提督が机に手をついていた姿勢を解いて、思案げな顔になって顎に触れていた。彼は真面目な顔で、「そう言われてみれば、確かに……」なんて呟いている。大井が「えぇ……(困惑)」という表情を浮かべていた。普段は沈着で聡明な彼なのだが、急に阿呆になる時があるので、悪い人に騙されないか少女提督は心配になった。

 

「そういうドラマが在っても良いですねぇ!(ロマン派)」

 

 また余計な事を考え付いたのだろう野獣が笑顔を浮かべ、鹿島の言葉にワザとらしく頷いてから、「じゃあこれ(ボイスアプリ)」と、携帯端末を取り出した。野獣が手早く携帯端末を操作すると、『鹿島さん。最近になって、体重増加、感じるんでしたよね?』という、少年提督の澄んだ声が流れた。辛そうな顔になった鹿島が、「スゥゥゥゥ……」と細く息を吐き出しながら、顔の上半分を右手で覆う。その様子からして、鹿島が自身の体重を気にしているのは事実なのだろうことが伺えた。会場に居る他の艦娘達の中にも、似たような仕種を取った者が何人か居た。

 

「あ、あの、そういう、割と心にクるようなボイスはちょっと……。もっとこう、ゲームを進めるにあたって、プレイヤーのテンションを作るようなのをですね……。例えば、その、例えばですよ? 提督さんが、私の部屋から下着をこっそり持ち出していたとか……、そういうトキメキのある味わい深いシュチュエーションをですね……」

 

 鹿島が切実に言葉を紡ぐ途中で、再び野獣の携帯端末から『鹿島さん。最近、お腹がぷよぷよしてきてるの、感じるんでしたよね?』という、少年提督のボイスが再生された。その言葉が少年提督本人のものでは無くても、優しく温みのあるその音声には、威力とでも言うべき無慈悲な何かがあった。

 

『ほわあぁ^~、利くぅ^~……(悲哀まみれ)』

 

 ふにゃふにゃ声になった鹿島が、泣きそうな顔を両手で抑えてしゃがみ込んだ。同じく、会場に居る艦娘達の何人かもしゃがみ込んでいた。

 

「ちょっと。鹿島が立ち直れなくなったらどうするんですか?」

 

 野獣を責める様に睨んだのは大井だ。

 

「あ、あの、僕はそんな事はちっとも思っていませんから、気にしないで下さい」

 

 少年提督は慌てたように言いながら、鹿島の傍に駆け寄る。

 

「ほんとですかぁ……?(震え声)」と、鹿島が少年提督を見上げる。

 

「えぇ。もちろんです。健康的で、健全な活力に満ちた身体をしていると思います」 

 

 鹿島の体が持つセクシーな魅力を無視するのではなく、気付かずに素通りするような彼の言葉は飽くまで清廉で、何処までも嘘が無い。少年提督を見上げていた鹿島が、小さく息を吐き、「そ、そうですよね。提督さんなら、そう言って下さいますよね」と、ほっとしたような、ほんの少しだけ残念そうな苦笑を浮かべて立ち上がる。

 

 

 結局、この“おしりペンペン”については、『少年提督が何か悪い事をした』という余計なシュチュエーションなどは考慮せずに行われることとなった。先程と同じように、テーブルに手をついて、お尻を差し出すような恰好を取っている少年提督のすぐ傍で、鹿島が深呼吸を繰り返している。そんな鹿島の隣では、気まずそうな赤い顔をした大井が、「何をそんなに気合い入れてるのよ」と、掠れた声で鹿島にツッコんだ。

 

「そ、それも、そうですね。ゲームですし、こう、もっと楽しく、リラックスして……」

 

 大井に頷いた鹿島は、少年提督のお尻を凝視しながら、自分に言い聞かすように呟いた。少年提督は苦笑とも困惑ともつかない表情を浮かべていた。会場の艦娘達からは、『はやくしなさいよ!』『羨ましい!』『私と代わってくれ!』『提督の下は脱がせた方がいいんじゃないか?』『おっ、そうだな!(悪ノリ)』という、ヤジにも似た声が飛んでいる。会場に籠る熱気が、さらに密度をましていく。ニヤニヤと笑う野獣は黙ったままで、携帯端末のカメラを起動させ、今の会場の様子を撮影していた。あとで艦娘達を弄るネタにでもするんだろうか。

 

「スゥゥゥ……、それじゃ、行きますよぉ? スゥゥゥ……、いいですかぁ?(ねっとり)」

 

 鹿島は、ふー、ふー、と荒い息を漏らしつつも、精神統一を試みるように瞑目している。

 

「えぇ、お願いします」

 

 お尻を差し出す姿勢の少年提督は、困ったような笑顔で振り向き、鹿島に頷いた。彼の可愛らしくも健気な笑顔は、鹿島の心にどういった作用を齎したのかは定かでは無い。だが、向けられた鹿島には、やはり強烈な効果があったのだろう。

 

 “カッッッッッッッッ!!!!!”と目を鋭く見開いた鹿島は、凄まじい勢いで手を振り上げた。会場に居る全員が、息を止めるのが分かった。「きゃぁ」と、少女提督の傍に座っている鳳翔が、可愛らしい悲鳴を上げていた。間宮もハラハラとした様子で、その光景を見守っている。あきつ丸は忍び笑いを漏らしていて、少女提督は逆に冷静になってきた。

 

 一瞬の、しかし、完全な静寂。鹿島は手首のスナップを利かせ、少年提督のお尻を激しく叩く。と見せかけて、鋭く振り下ろされた鹿島の手は、少年提督のお尻に届く寸前でピタリと止まった。最終的に、お尻をペンペンする為に振り下ろされた鹿島の掌は、少年提督のお尻に、そっ……と添えられただけだった。再び、奇妙な静寂が訪れる。

 

「……えっ?」

 

 少年提督が素の反応を返す。

 

「ありがとうございました……」

 

 鹿島は満たされた表情で、深く、ゆっくりと少年提督に頭を下げた。

 

「えぇ……、貴女、お尻に触れただけじゃない? ペンペンしてなくない?」

 

 急に大人しくなった鹿島に、大井はおずおずと言った感じで声を掛ける。凍り付いた時間の中、頭を上げた鹿島は、凪いだ表情で大井を見た。

 

「いえ、何て言うかもう……、色々と救われたので」

 

 彼女は一体、少年提督のお尻を叩こうとした瞬間に何を垣間見たのだろうか。鹿島の声音や眼差しは、穏やかさを通り越して何処か虚ろだった。さっきまで籠っていた熱量とでも言うべき何かを放出してしまった様子だった。大井は、そんな鹿島を心配そうに見てから、取り合えずといった感じで、「そ、そう……」と、頷きを返していた。そしてすぐに大井は、今度は自分が、少年提督のお尻をペンペンする番になっている事に気付いたようだった。

 

 大井は激しく赤面しつつ咳払いをして、視線を彼方此方に飛ばしまくりながら少年提督の傍に歩み寄る。少年提督は困ったように微笑んでいで、ゲームのルールと役目を全うすべく、律儀にお尻を差し出す姿勢のままだった。

 

「あ、あの……」

 

 自身の緊張や顔の赤さを誤魔化す為か。大井は少年提督に声を掛けたが、その声は震えていた。

 

「なんと言いますか、も、申し訳ありません。こんな事になって……」

 

「いえいえ、謝って貰うような事はありませんよ。ゲームですから」

 

「は、はい。で、では……」

 

 耳まで赤い大井は、出来るだけ少年提督の方を見ないようにしつつ、震える両手をそっと近づけていく。会場から『大井っちー、頑張れー!』と、間延びしながらも芯のある声が聞こえた。北上だった。それに続いて、『せっかくのチャンスだクマ!』『躊躇う事は無いニャ! 揉みくちゃにしてやるニャ!』『ベストを尽くせば結果は出せる!!』と、球磨、多摩、木曾の3人が、大井にエールを送った。他の艦娘達からも、『構うことは無ぇ、やっちまえ!』『出来たら私と変わってくれ!』『ンンンンンン^~~(酔っ払いの奇声)』『早く脱がせろー!』などと怒号も飛び出した。もう無茶苦茶だ。

 

 大井は視線だけで、煩そうに会場を見回してから、邪念を払うように緩く首を振った。そして、精神を統一するように瞑目し、息を吐き出す。大井の動きは素早くも無く、また緩慢でも無かったが、不自然だった。手を動かすというよりも、腕を動かした結果、掌が少年提督のお尻に触れたような、そんな印象を受ける動作だ。冷静な大井は、少年提督のお尻を、両手でポフポフと軽く叩くだけにとどまった。携帯端末で会場を撮影していた野獣が「Foooo~~↑」と声を上げる。

 

「何だよ大井っち、嬉しそうじゃねぇかよ!」

 

 面白がる野獣を、少年提督から離れつつ大井がねめつける。

 

「……『大井っち』って呼ばないで下さいって、前も言いましたよね」

 

「えぇ~? 俺と大井っちの仲じゃん?(不倶戴天)」

 

「は?(殺意)」

 

 大井は一瞬だけ艤装を召還したが、「お疲れ様です」と、ゲームを終えた少年提督に微笑み掛けられて、慌てて抜錨状態を解いていた。

 

『もー大井っちってば、なーに遠慮してんのさー!』

『そうだクマ! もっとこうぎゅー!って、ぎゅー!!ってやれクマ!!』

『いっその事、もう大井が脱ぐニャ! 先手必勝ニャ!!』

『まだロスタイム(?)だ!! 諦めたら其処で終わりだぞ姉貴!!』

 

 球磨型姉妹が、大井へと更なるエールを送る。「脱ぐワケ無いでしょ!!」と、大井が姉妹立へと怒鳴り返すと、会場の艦娘達からも笑いが起きた。その様子を見て、野獣も肩を揺すって唇を歪めていた。少年提督も楽しそうだ。

 

 

 

 

 

 

 少女提督も、いつの間にか笑っていた。それは楽しいという感情から来る笑顔では無く、嬉しいという感情による笑顔だった。北上や大井達が、いや自身が召還した艦娘達が、この鎮守府に馴染み、居場所と仲間を得て、活き活きと感情を発露している事を、改めて嬉しく思ったのだ。艦娘達が其々に違った想いや価値観を抱えながらも、皆がこの光景を願っていることを再確認できた気がした。

 

「帰ってくる場所が在るというのは、有り難いことでありますな」

 

 あきつ丸が眩しそうに目を細め、独り言のように言うのが聞こえた。あきつ丸は脚を組んで、肘をテーブルについて座っている。鳳翔や間宮に背中を向ける姿勢だ。鳳翔達は話をしながら会場を見ている。あきつ丸の呟きは、少女提督にしか聞こえていないようだった。

 

「そうね。……何処でも良いって訳じゃないわよね」

 

 会場の喧噪を見詰める少女提督も、あきつ丸にしか聞こえない程度の声で呟いた。あきつ丸の視線を感じたが、特に反応せずに茶を啜る。この会場に居る艦娘達が身に纏う、華やかで、乱暴で、遠慮の無い熱気が、あきつ丸と少女提督の間にある沈黙を埋めていく。二人の間には冷静や沈着さは混在していても、陰湿さも険悪さは無かった。艦娘達の邪気の無い楽しそうな声が、純粋さを保ったままで実在的に木霊している。そのうち、ゲームを行う艦娘達のグループが変わって、ジャンケンが始まった。次は駆逐艦娘達の番か。

 

 

 

 

 

「駆逐艦は人数が多いからさ、ゲームの回数を増やしてよ」

 

 野獣にそう言ったのは、白熱の『あいこでしょ!!』連打の末に負け残り、しょんぼり顔になっている皐月だ。皐月の言葉に、他の駆逐艦娘達も野獣へと視線を注ぐ。確かに、他の艦種の艦娘達に比べ、駆逐艦娘達の数は多い。その分、大本営役になる確率は低くなるが、命令籤で指定された番号を引ける確立も低くなる。その分、回数を多くして欲しいという事だろう。

 

「(言われてみれば)そうですねぇ~……(思案顔先輩)。此処はやっぱり王道を行く、皐月の意見を採用ですか(応変)」

 

 この決定に異議を唱える者は、他の艦種にも居なかった。まぁ、仕方ないなという空気が流れ、籤の数の調整に入ろうとした時だ。

 

「コレ、人数が多すぎて籤が足りないんじゃないの?」

 

 腕を組んだ曙は言いながら、テーブルの上に置かれている艦娘用の籤箱を睨んでいる。

 

「手は打ってあるからホラ、見ろよ見ろよ!(周到)」

 

 野獣が顎をしゃくって見せたその先を覗いてみると、少年提督が何かを運んでくるところだった。微笑みを浮かべている少年提督は、左右の脇に抱えるようにして2つの籤箱を抱えていた。一方の籤箱には『駆逐艦娘用・番号籤』の文字が、そしてもう一方には、『駆逐艦娘用・命令籤』の文字が記されていた。

 

「人数分の番号籤と、それに対応してある命令籤を用意してあるので、此方を使って下さい」

 

 持って来た籤箱2つを傍にあったテーブルへと置いた少年提督は、駆逐艦娘達を順番に見てから微笑みを深めて見せた。相変わらず、子供っぽく無くて、異様に落ち着き払った笑みだった。ゲームが始まる。駆逐艦娘達は、傍にいた仲間達と顔を見合わせてから、順に籤を引いていく。

 

 

 此処で、ちょっとしたアクシデントが起きる。このゲームで使っている命令籤は、命令の内容を紙に書いてそれを細く畳んだものだ。その為、折ればそれだけ癖がつく。皐月が籤箱から命令籤を引いた時、その手に摘まんでいた命令籤に、別の籤が引っ掛かったままで出て来て、命令籤の外へと零れ落ちたのだ。

 

 野獣は、命令籤は2枚とも有効になるというジャッジを下した。前の大本営ゲームの時も翔鶴が大本営役として籤を引いた時も、誤って2枚の籤を取り出してしまったらしいが、その時も2枚とも有効にしたので、今回もそれに倣うという事だった。

 

野獣が青色籤を引いて、少年提督が赤色籤を引いていた。

 

 

 命令籤は

 

『“青色籤の提督”は、“▲番の艦娘”におしりペンペンせよ!』

『“●番の艦娘”は“赤色籤の提督”に、何でも(常識の範囲内で)お願いせよ!』

 

 

 ▲番の籤を引いていたのは朝風だ。途轍もなく不機嫌そうに眉間に皺を寄せまくり、「はぁぁぁぁぁ~……!!」と、途轍もなく攻撃的な溜息を吐き出している。傍にいる神風と春風が焦ったような笑顔で、松風と旗風が怯えたような笑顔で、そんな朝風を宥めようとしていた。一方で、再び引かれた当たり籤、『お願いせよ!』に対応する●番号を引いていたのは、「しれぇ! 雪風が引きました!」と、少女提督の方を向いて、大きな声で報告をしてくれる無邪気な雪風だ。

 

 天国と地獄と言う言葉が脳裏に浮かんだのは、少女提督だけでは無いのだろう。会場に居る他の艦娘達も、気まずそうな顔をして不自然に黙り込んでいた。野獣は、突き抜けるような青空を思わせる笑顔を浮かべて、噴火寸前の朝風に歩み寄った。

 

「はい、じゃあケツ出せぇ!!(果敢)」

 

 こういう時、空気を読まないと言うか空気を破壊すると言うか、自分の振る舞いを一切変えようとしない野獣が頼もしく見える。睨むようにして顔を上げた朝風が舌打ちをして、「パスで(即答)」と低過ぎる声で答えた。野獣はそれを気にした風でも無く、朝風が予想通りの反応を返したことを笑うように、嫌味無く肩を揺らしていた。

 

「じゃあアレ(ペナルティ籤)」

 

 腰に手を当てて首を傾けた野獣は、唇の端を歪めながら近くのテーブルに置かれているペナルティ箱を一瞥した。不味そうに顔を顰めた朝風が、神風たち姉妹、そして他の艦娘達が見守る中、ペナルティ籤へと近づいていく。

 

 僅かな緊張が会場に走る。一つ深呼吸をしてから、朝風はゆっくりと籤を引いた。ペナルティ籤の内容は、『“青色籤の提督”によるデコピン』だった。つまり、野獣のデコピンだ。会場の彼方此方で、「うわぁ……」とか「あーぁ……」という声が漏れるのが聞こえた。項垂れた朝風が呻いて、野獣が喉を鳴らして低く笑った。

 

 

「はい、じゃあケツ出せぇ!!(エコー)」

 

「なんでよ!? デコピンでしょ!?」

 

「あっ、そっかぁ……、はい、じゃあデコ出せぇ!!(喊声)」

 

「うるさいわね……。出せばいいんでしょ、出せば」

 

 しかめっ面の朝風は、グイッと掌で前髪をかきあげた。

 

「うぉっ眩し!! うぉっ眩しっ!!」

 

 野獣が手で顔を隠し、ワザとらしく怯んで見せた。朝風がまた舌打ちをした。恐ろしい形相になった朝風の顔をまじまじと見つめた野獣は、優しく微笑んだ。

 

「お前のおデコがあんまりピカピカしてるから、お日様が昇って朝が来たのかと思ったゾ♪(小粋なジョーク)」

 

 朝風は、「ふっ」と鋭く息を吐いて、速度も威力も申し分無い前蹴りを野獣の腹目掛けて繰り出した。ブォンと風を切る、豪快な音がした。「あっぶぇ!!(回避)」と、野獣は尻を突き出すような態勢で身を引いてこれを避ける。

 

「あ、お前さ、朝風さ、今、俺のこと蹴ろうとしたよな?(事実確認)」

 

「違うわ。足が滑ったのよ(大嘘)」 

 

「お前のおデコがあんまりピカピカしてるから、お日様が昇って朝が来たのかと思ったゾ♪(小粋な連撃)」

 

「クッソ下らないこと2回も言わなくて良いから。って言うか、私のおデコ、そんな言う程ピカピカなんかしてないから! そもそも光なんて放ってないから!」

 

「じゃあテカテカしてんのかよ、魔法反射装甲みたいによ?(真実への一歩)」

 

「テカってないわよ! 何よ反射装甲って!」

 

「前に松風が言ってたゾ(小粋な飛び火)」

 

 人殺しの顔になった朝風が、松風の方をゆっくりと見た。神風や春風、旗風も、難しい顔で松風を見ていた。「言ってない言ってない!!」と、大慌ての様子の松風は、自身に集まる視線を払うように、両手と首を横に激しく振って否定した。

 

「おいちょっと! 洒落にならない巻き込み方は止めて貰えないか!?」

 

 松風は抗議の声を上げて野獣を睨んだ。「ごめんごめん(謝る気無し)」野獣はひらひらと手を振った。周囲を振り回すこういった無茶苦茶な野獣の態度も、このゲームの一部になりつつあった。会場の艦娘達も白けるのではなく、「またやってるよ」みたいな、悪友の悪癖を笑うような表情を浮かべている。

 

「さて、そろそろデコピンしますか~?(執行者先輩)」

 

 コキコキと首を鳴らした野獣は、改めて朝風の前に立った。今度は、朝風が僅かに怯みかけていた。だが、すぐに朝風は挑むような眼つきになって掌で髪をかきあげて、躊躇うことなくおデコを曝した。勇敢な駆逐艦らしい好戦的なその態度に、会場が沸いた。

 

「おっ、良いねぇ~(称賛)。何処かの“ふふ怖”とは違って、なかなかいい感じじゃん?」

 

 会場に居る巡洋艦娘達のグループの方から、「誰がふふ怖だとテメェ」と言う怒声が上がったが、野獣はそんなものは意に介さない。左手の中指を親指で撓らせ、デコピンをする手の形を作った野獣は、銃の試し撃ちをするみたいに、バチンバチンと何度か指を弾いて見せた。やばい音が会場に響く。かなり痛そうだし、ヤバい感じの音だ。

 

 更に、「よーし、エンジン全開!(情け無用)」と笑う野獣の遠慮の無さが、余計に恐怖を際立たせていた。少年提督が「治癒施術の準備も万端ですので、安心してください」と言った段階で、会場の緊迫感が激増した。周囲の艦娘達が、「やべぇよ……やべぇよ……」と、僅かに身を引くのが分かった。しかし朝風は気丈にも、黙ったままでグッと野獣を睨んでいる。

 

 

「カウントダウンは俺がしてやるからさ!(優しさ)」

 

 場違いな柔らかな声音で言う野獣は、デコピンの形にした左手を朝風のおデコの前で構えた。朝風は何かを言おうとして、やめた。「気を付けろ! カウントの途中で打って来るぞ!!(経験者並みのアドバイス)」と、巡洋艦娘達のグループから声がした。あの声は多分、天龍だ。そんなものはお構いなしに、野獣はカウントを始める。

 

「はい、じゃあ10秒前!!(迫真)」

 

 おデコを曝したままの朝風が、ぎゅっと目を瞑った。

 

「5 !!!(奇襲)」

 

「ちょっ、待ちなさいよ!! 10秒前じゃないの!?」

 

 朝風が閉じていた眼を開けて、驚愕の声を上げる。

 

「4 !!!(無慈悲)」

 

 ニヤニヤ笑いの野獣は、お構いなしにカウントを取る。朝風は焦ったように視線を上や横や下に走らせたが、すぐにまた、ぎゅぎゅぎゅ~と目を瞑って、同じくぎゅぎゅぎゅ~っと、唇も噛んだ。

 

「1 !!!(タイムワープ)」

 

 まともにカウントを取る気など、最初から無かったのだろう。10秒を大幅に短縮し、その瞬間が訪れる。パシャリ。軽い電子音が響いた。野獣のデコピンは止まったまま。

 

「うぇ……?」

 

 長い睫毛を震わせた朝風が、恐る恐るといった感じで開いた。その朝風の前で、携帯端末のカメラを構えた少年提督が立っている。多分だが、朝風の視界には、優しく微笑んでいる少年提督と、その視界の隅の方で、してやったりと笑う野獣の姿が映っていることだろう。眼尻に少しの涙をためていた朝風は、ポカンとした表情で少年提督と野獣、それから、周りで忍び笑いを漏らしている他の艦娘達を視線だけで見てから、顔を真っ赤にした。

 

「ちょ、し、司令官……、な、なにやって……」

 

 状況を飲み込めたのだろう。朝風の声が震える声に答えたのは、ニヤニヤ笑いを浮かべた野獣だ。

 

「Foo~~↑! ビビり顔のお前も中々、可愛いおデコしてんじゃないの~?(いじめっ子)」

 

 完全に面白がっている様子の野獣の手にも携帯端末が握られ、そのディスプレイには、おデコを曝し、ぎゅっと目を瞑って唇を噛んでいる朝風のドアップが映し出されていた。少年提督の携帯端末の画面も同じく、朝風のビビり顔が映っている。

 

「動画も取れたし、鎮守府のT●itterにも上げときましょうね~?(追撃戦)」

 

「やめなさいよぉ!!(半泣き) って言うかぁ!! 司令官も止めてよぉ!!」 

 

 朝風が叫んだのと同時に、少年提督の携帯端末から軽い電子音がした。野獣が、「ホラ、お前も見ろよ見ろよ!(残響)」と笑う。

 

「あっ、僕にも朝風さんの動画が届きました」

 

 まるで、親しい友人から季節の贈り物が届いたような穏やかな表情で、少年提督が携帯端末を操作し始めた。

 

「司令官のバカバカ! 見るな見るなぁ~!! もぉ~~ッ!!」

 

 赤い顔のままで半泣きになっている朝風が、少年提督の肩の辺りをポカポカと叩いている。どんな惨事になるかと思っていたが、結局は微笑ましい景色が出来上がっただけで、滞りなくゲームは進んでいく。

 

 

 

「えぇと……、さっきから考えていたんですけど、お願いごとって難しいです」

 

 命令籤に記されていた、“少年提督に何らかの「お願い」をする”、という内容を実践しようとする雪風は、うんうんと唸るようにして頭を捻っていた。

 

 少年提督は、そんな雪風の前に静かに佇んで、微笑みを浮かべて答えを待っている。その少年提督の傍で携帯端末を操作している野獣も、「別に深く考える必要は無いゾ(アドヴァイス)」と、すぐに答えが浮かんで来ない様子の雪風に声を掛けていた。

 

 

 会場には高揚した空気が籠っているが、時間の流れは穏やかで温かく、雪風を急かさそうとする者は誰も居なかった。先ほど妖精達が用意してくれた料理の全てを既に平らげていた会場の艦娘達は、「ゆっくりで良いよ~」と、デザートを食べながら雪風の答えを暢気に待っている。それは、同じくデザートの間宮アイスを食べている少女提督も同じだった。少女提督が腰かけた席では、鳳翔と間宮もアイスをスプーンで掬っている。あきつ丸はスプーンを噛みながら、雪風の答えを興味深そうな顔で待っていた。

 

 

 

「雪風殿は、一体何をお願いするのでありましょうね?」

 

 あきつ丸がスプーンを噛みながら、少女提督を横目で見て来る。少女提督は視線を返しつつ、「さぁ」と言うように肩を竦めた。純粋な雪風が少年提督に何をお願いするのかは、間宮や鳳翔も気になるようだ。二人が雪風に視線を流している。

 

「あっ、思いつきました! 司令官!」

 

 腕を組んで唸っていた雪風が、ぱっと顔を上げて少年提督を真っ直ぐに見詰めた。雪風は、少女提督のことを『しれぇ』と呼び、少年提督のことを『司令官』、野獣のことを『野獣司令』と呼ぶようになった。余りにも邪気の無い笑顔を浮かべる雪風に怯んだのか、少年提督が僅かに身を引いている。野獣や、会場の艦娘達の視線を集める雪風は、勢いよく頭を下げた。

 

「これからも、しれぇや私達と、仲良くしてください!」

 

 一切の打算が無く、余りにも無防備とも言える雪風の言葉は、熱気を孕む会場に静寂を呼んだ。少女提督は、自分の心臓が痛くなるのを感じた。皆、きょとんとした顔で雪風を見詰めている。少年提督が何度か瞬きをしてから、一瞬だけ苦しそうな表情を浮かべ掛けて、それを隠すように微笑みを深め、ゆっくりと頷いた。

 

「えぇ。もちろんです。僕の方こそ、よろしくお願いします」

 

 少年提督は、一言一言を噛み締めるように言葉を紡ぎ、雪風に左手を差し出し、握手を求めた。子供のように笑った雪風は、少年提督の手を両手で握り返す。少年提督も、ゴツイ手袋をした右手を、両手で握手を返してくれた雪風の、その左手の甲へと、そっと重ねていた。

 

「私達もよろしくね! 提督!」と、会場に居る艦娘の誰かが言った。それに続いて、また違う誰かが「よろしくお願いします! 司令官!」と続いた。次に、また別の、更にまた別の艦娘達の言葉が続いて、彼女達の声が余韻となって連なっていく。途中で、「ひょろしくね!」と、野獣が裏声で続いて、「だからさー! やめてって言ってんじゃん!!」と、鈴谷が情けない声で抗議したところで、艦娘達の間に純粋な笑いが起こっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 笑い合う艦娘達を少し離れた所から眺めていた少女提督は、ただ黙っていた。鳳翔と間宮が、艦娘達に暖かな眼差しを向けていた。雪風が此方を見て、やはり子供のように笑って手を振って来る。少女提督は、自分の胸の辺りで小さく手を振り返す。細い息が漏れた。

 

 

 少女提督は、少年提督や野獣と同じく、“元帥”の称号を持ってこそいる。だが、それは少女提督の戦果に応じて与えられたものではなかった。少女提督は研究・技術分野で評価された人間であり、数ある“提督”達の中でも特殊な来歴だ。それが原因で、どの鎮守府や泊地、基地に居ても疎外感を感じていた。

 

 

 戦艦を召還することも出来ない、脆弱な“元帥”。

 

 

 少女提督は、自身に対するそういった悪評については気にしなかった。だが、自身が召還し、敬意を払っている優秀な艦娘達にまで、自身の悪評がついて回ることに関しては本当に申し訳なく思っていた。ただ、この鎮守府で過ごしていると、矮小な自分自身に対する落胆を忘れる事が出来ていた。疎外感や自己嫌悪も忘れていた。それはきっと、誰をも隔てようとしないこの景色と、そして、この景色を願う艦娘達の御陰である事は間違いない。

 

 

「雪風殿は、いい娘でありますな」

 

 隣に腰掛けているあきつ丸が、首を傾けながら言う。

 

「えぇ、ほんとにね。私には勿体ないくらい」

 

 少女提督は、迷うことなく頷いた。

 

「……貴女に、お願いしたい事が在るのであります」

 

 会場を見詰めたままのあきつ丸が再び、少女提督にだけ聞こえる程度に声を潜める。少女提督は、あきつ丸の横顔を見遣る。

 

「なに、急に。お願いごとって、 あの大本営ゲームの真似事?」

 

「似たようなものであります」

 

 そう言ったあきつ丸の声は、何処か改まった、低い声音だ。普段のお茶らけている風では無い。意地悪そうに間延びした声に、急に芯が入ったような強度を感じさせた。そして、自分たちのことを誰も注目していない事を確かめる為か、数秒ほど黙った。少女提督も何食わぬ顔をして茶を啜り、華やぐ会場を見詰める。少女提督とあきつ丸には、誰の視線も流れて来ていないのはすぐに分かった。

 

「提督殿の事を、見守ってやって欲しいのであります」

 

 あきつ丸の声は平たかった。

 

「雪風が言うように、仲良くしろって事?」

 

「まぁ、そういう意味でもありますが……」

 

 少女提督は、横目であきつ丸を見る。その表情は真剣だった。会場ではゲームが進んでいる。駆逐艦娘達がジャンケンをしていて、「あいこでしょ!の声が響いてきている。

 

「提督殿に“待った”を掛けて欲しい、と言うべきでしょうかな」

 

 其処まで言ってから、あきつ丸は薄く笑う。どこか不吉な笑みだ。あきつ丸の持つ意地悪そうな美貌に、良く似合っていた。少女提督は僅かに目を窄めて、会場に居る少年提督を一瞥した。少年提督は、艦娘達に囲まれつつ、野獣と共に籤を引いていた。

 

「……そういうストッパー役は、野獣に頼むもんじゃないの?」

 

「確かに、野獣殿は頼もしいのですがね。提督殿を止める事はしないでしょう」

 

「どういう意味?」

 

「あのお二人は、二人だけの頑丈な世界観を持っているのでありますよ。……あぁ、一応言っておきますが、別にそういった意味ではありませんよ?」

 

「分かってるわよ」

 

 少女提督は鼻を鳴らして、あきつ丸を半目で見た。あきつ丸の言葉の持つ意味は、だいたい理解出来る。要するにあの二人は、自分達の持つ理想とかビジョンとか、其処に至るまでの過程などを予見しつつ、それに対するコストやリスクも把握し、了承しているという事なのだろう。あきつ丸は薄く笑ったままで、息を静かに吸い込んだ。

 

「向いている方向も一緒で、払う事になる犠牲についても互いが納得している状態とでも言えばいいのでありますかね?」

 

 あきつ丸の声音が普段通りのものになって、愛すべき悪友の馬鹿さ加減を笑って諦めるような響きを宿した。不意に、先程の加賀の表情が脳裏に浮かんだ。温度差こそあるだろうが、あきつ丸と加賀の二人が、野獣に対して抱いている諦観は同質のもののように感じた。それに、少女提督の知っている少年提督と野獣は、あきつ丸の言葉に含まれるイメージに大きくズレていない。自然と少女提督も唇を歪めていた。

 

「お互い、ストップを掛ける立場に無いワケか。……まぁ、傍から見ててもそんな感じよね」

 

「えぇ。それに、何方かが欠ければ、もう片方も消えてしまうような危うさもあります」

 

 それは少女提督も思っていたことだ。光と影というか、表と裏というか。少年提督か野獣の、その片方しか居ないこの鎮守府の光景を想像するのは難しかった。少年提督は、この騒ぎが片付いたあとに深海棲艦達に会いに行く予定らしいし、野獣もそれに付き添うという話も聞いている。彼らが自分自身に課しているものの大きさは窺い知ることは出来ないが、その志が邪悪なものでないことは分かる。

 

 

「じゃあ尚更、やっぱりそういう事を頼むのなら私じゃなくて、不知火とか時雨に頼んだ方が良いんじゃない?」

 

 この鎮守府の艦娘達は皆、人格と自我を持った百戦錬磨の兵ぞろいだが、そんな中でも“不知火”と“時雨”は、他の鎮守府にいる同型の駆逐艦娘達とは一線を画す存在だ。激戦期を戦い、生き残った猛者である。彼女達二人は其々、少年提督と野獣の初期艦だった筈だ。彼らの事を理解しているという点において見れば、ストッパーとしては少女提督などよりも遥かに適任に思えた。だが、あきつ丸は違うらしい。

 

「自分は、貴女にしか頼めない事だと思っております」

 

「えぇ……、何でよ?」

 

「それは勿論」

 

 ニヒルなのに、どこか優しく眼を細めた彼女は、急に椅子を此方に大きく寄せて来て、肩を組んできた。いや、肩を組むと言うよりは抱き寄せられたような感じだった。めちゃくちゃ驚いて、すぐに反応出来なかった。身長差の所為で、少女提督の頬の下あたりに、あきつ丸の豊かな胸が当たっている。何か言ってやろうと思ったが、それよりも先に、あきつ丸が少女提督の側頭部に頬を寄せた。潜めた声を、更に細く隠すように。

 

「この景色の中に、貴女しか“人間”が居ないからでありますよ」

 

 その言葉に、どんな感情が溶け込んでいるのかは分からなかった。

 

 この姿勢では、あきつ丸の表情も見えない。ただ、少女提督にしか聞こえない大きさのその声は、少女提督を不思議と落ち着かせた。視界には、会場で楽しそうに騒いでいる艦娘達と、その中心あたりに居る少年提督と野獣が映っていた。

 

「純粋な人間っていう意味でなら、まぁ、そうかもね」

 

 少女提督は、あの二人が『人間』という種族のカテゴリーから外れている事は理解している。それに、あきつ丸の言葉にも、この景色の中から、誰かを切り取ってしまおうとする意図が無かったから、少女提督は感情を差し挟まず、事実を事実として頷くことが出来た。自分は今、どんな表情をしているのだろう。温度や形の定まらない想いを、何とか言葉にしようとして、あきつ丸と少女提督は黙って会場を眺めた。艦娘達のゲームは騒がしく進んでいる。

 

 

「ふふふ。お二人は仲良しなんですねぇ」

 

 同じテーブルに着いていた鳳翔と間宮が、肩を組んだ少女提督とあきつ丸を見て微笑んでいた。あきつ丸は酔っ払いみたいに笑って、鳳翔達に振り返りながら、少女提督の頭をグリグリと撫でて来た。

 

「自分たちは、マブダチという奴でありますな?」

 

「いや、違うと思うんだけど」

 

 頭を撫でて来るあきつ丸の手を嫌がるように、少女提督が渋い顔で否定する。あきつ丸は「おや、そうでありますか?」なんて、すっとぼけたような表情を浮かべて見せた。その意図的な剽軽さの中にある奇妙な愛嬌は、さっきまで少女提督と話をしていた時の、あきつ丸の不吉さを器用に覆い隠しながら、鳳翔と間宮を楽しませていた。

 

 会場で歓声が上がる。命令籤の内容だったのだろう。優しい笑顔を浮かべている少年提督が、椅子に座った霞の足裏を擽っていた。霞は裸足だ。体をビクビクと跳ねさせながら目に涙をため、声が漏れないように口を両手で押さえている。そんな必死な霞の様子を、「おっ、いいねぇ^~(よくない)」と、野獣が携帯端末で動画撮影を始めていた。酷い状況だが、鳳翔と間宮の視線も、盛り上がる会場に向いた。あきつ丸はそれを確認してから、少女提督と組んでいた肩を解いて、機嫌が良さそうに椅子に座り直した。

 

「我々艦娘では、この景色を何処かに持っていく事も、あのお二人を止める事もままなりません」

 

 あきつ丸の声は、やはり少女提督にしか聞こえない大きさだった。少女提督は口の中を噛んだ。

 

 視界の中にある風景が、裸のままで組みあげたジグソーパズルのように見えて来た。艦娘達一人一人が、そのピースだ。ただ、そのピースは完全には嵌っていない。隙間が在ったり、重なったり、波打ったりしている。不完全でガタガタだ。この全体像を“社会”と言う手で掬いあげようとすれば、バラバラに崩れてしまいそうな脆弱さを孕んでいる。だが、その歪んだ部分を笑って見過ごせる余裕や信頼、或いは愛情が、この会場の喧噪には在った。

 

 野獣に卵焼きを食べて貰えることに対して、嬉しそうに表情を綻ばせていた瑞鳳を思い出す。少女提督は、瑞鳳の感情を否定しない。裏を返せば、艦娘達が抱くことになる負の感情をも肯定しているという事に他ならない。『貴方が、この冗談で驚いてくれる人間で良かったでありますよ』という先程のあきつ丸の言葉が、会場に響く艦娘達の楽しそうな声と混じり合いながら、耳の中で甦る。

 

 

 この会場の喧噪が、決してただのバカ騒ぎでは無いことは、少女提督だって知っていた。

 

 

 艦娘達は、深海棲艦達との戦闘によって齎されえる死や別れとは違う部分で、ちゃんと不安や恐怖を感じている。この時間が無くなることを。帰ってくる場所が無くなることを。少年提督や野獣が居なくなることを。社会から置き去りにされることを。彼女達は、そういった先の見えない未来に対する昏い感情の一切を忘れて、純粋な気持ちでこの瞬間を楽しむために、少年提督や野獣を強く想い、慕い、悪態をついたりして、仲間達と必死に大声を上げている。

 

 瑞鳳が抱いている、人間らしい尊い感情を否定しない少女提督は、艦娘一人一人の誇り高い精神の背後に隠された“人間では無い故の苦悩”を肯定しなければならない。この場合の肯定とは、少年提督や野獣のように、艦娘達の為に社会の観念と戦うことを意味するのではなく、彼女達が抱える不安を癒し、和らげることを意味するのだと思う。それは根本的な解決では無いし、その場凌ぎの気休めかもしれない。でも、一人の人間、一人の提督でしかない少女にとってはそれが限界であることも、きっとあきつ丸も理解している。

 

「出来損ないの艦娘からの、切実な頼みであります」

 

 会場から押し寄せて来る喧噪に寄り添うようなあきつ丸の声は、ひどく頼りなく聞こえた。少女提督は、自身の矮小さを改めて実感し、出そうになる溜息を飲み込んだ。目の前にある血の通った優しい景色を、艦娘達と過ごす濃密な日々を、この鎮守府以外の何処にも持っていくことは出来そうにない。それでも、少女提督は、あきつ丸にだけ聞こえる大きさの声で言う。

 

「まぁ、善処するわ」

 

「感謝するであります」

 

 あきつ丸が、ふっと微笑んだ。優しい眼差しで、少年提督を見ている。

 

「あなたって、“提督LOVE勢”なの?」

 

 以前、金剛が言っていた良く分かるような分からないような単語を思い出して、何気なく聞いてみる。あきつ丸は「どうでしょうなぁ」と曖昧に笑った。酒を飲んでいない筈なのに、あきつ丸の頬が少し赤い気がした。

 










更新が遅くなっており、また誤字も多く申し訳ありません……。
暖かな感想や評価を寄せて頂けることに、いつも感謝しております。
よちよち歩きの不定期更新ですが、何とか完走を目指したいと思います。
今回も最後まで読んで下さり、本当に有難うございました!



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

此処にしか無い景色 終編

沢山の応援のメッセージや暖かい評価を頂き、本当にありがとうございます!
更新が遅くなって申し訳ありません……。


※ 感想で御指摘を頂いた部分を修正させて頂きました。
読んでくださる皆様に御迷惑をお掛けして、申し訳ありません。

※ 今回は、
野獣提督が出ない & シリアス色が非常に強い回になっております……。


 鎮守府の傍に設立された、深海棲艦を研究するための施設。その地下にある特別捕虜房へと向かう少年提督の後ろに控え、不知火と天龍は歩いていた。この研究所は何処も彼処も、息が詰まるような白色で統一されている。壁も床も天井も、重厚さを感じさせる白色の金属で覆われていた。

 

 無機的に響く靴音を聞きながら、不知火は前を見たまま歩く。地下フロアの広い廊下もやはり白く、空調による機械的な冷気が満ちていた。硬い靴音が響いている。不知火の隣を歩く天龍は、眉間に皺を刻んで不機嫌そうな表情を浮かべていた。不知火達の前には、少年提督の他に、二人の男が歩いている。一人は恰幅の良い中年男性で、もう一人は痩せた初老の男性だ。

 

 中年男性は髪を七三に分けて眼鏡をしている事だけが特徴のような、何処にでもいるような風体の男だ。だが、それ故に得体の知れない雰囲気を濃く纏っている。初老の男の方も、痩せているものの眼光が異様に鋭く、迂闊に近寄ってはならないような危険さを感じさせた。二人とも高級そうなスーツを着込んでおり、腕時計や靴も一目で高価だと分かるものを身に付けている。これらのアイテムは、二人の男の社会的な地位が非常に高い事を物語っていた。

 

 

「深海棲艦を欲しがっている者は、キミが思っているよりも多いんじゃないかな」

 

 にこやかな表情を浮かべた中年の男は、歩きながら少年提督の肩に手を置いた。まるで、少年提督を抱き寄せるかのような、馴れ馴れしい手つきだった。

 

「そういった人達は、彼女達を研究素体として欲しがっている、という事でしょうか?」

 

 少年提督は、自分の肩に置かれた手を一瞥しただけで、穏やかな表情を崩さない。中年の男は、少年提督が嫌がる素振りを見せない事に気を良くしたのか。少年提督の肩に置いていた手で、彼の肩を揉んだり、首筋に触れたりし始めた。

 

「私の知る範囲では、そういう輩は少数だね。深海棲艦をただ“所有”したいという人間の方が多いね。私が相手にしている客層が企業では無く、個人だから、余計にそう思うのかもしれない。まぁ飽くまで、私の知る範囲での話だと思っておいてくれ。いや、現状では、という言い方をした方が正しいかもしれないね」

 

「所有、……ですか」

 

「あぁ、そうだ。変わり者も多いが、金払いの良い連中だよ」

 

 中年男も笑顔を崩さず、何処か気持ちよさそうに言う。そんな中年男の傍を歩く初老の男は、会った時に挨拶を交わしただけで、この施設に来てからは黙ったままだった。少年提督も、黙ったままの初老の男に話しかける事も無かった。その間、中年の男だけが饒舌だった。

 

「彼らにとっては、深海棲艦は高価な芸術品や宝石と一緒なんだろうね。所有している事、それ自体がステータスになり得るという点でね。人類の敵である深海棲艦の『姫』や『鬼』は、生まれながらの殺戮兵器だが、怖気を誘う程に、神秘的で麗しい姿をしている。ああいった超然とした存在は、人間の欲望を刺激する。独占し、支配して、愛でるだけなく、それを手中に収めている己の状況を周囲に自慢したいという者は、私の知り合いにも少なくないよ」

 

 

「……僕には、まだ上手く理解できない領域の話です」

 

 

「あぁ。それでも構わないよ。問題無い。重要なのは理解する事では無いよ。そういう世界観が存在することを知っていれば良い。これは常識的な範囲だ。どんな分野にも、好事家やコレクターなどと呼ばれる者は居るものだろう? 彼らは常識では無く、知識や経験といった尺度でモノに価値を見出す。世間から見れば他愛の無いものであっても、彼らの間では信じられない値が付くことも往々にある。だが、その価値を我々が理解する必要は無い。分かる者にだけ分かれば良いし、売買に関わるのは完全に自由だ。それが世間の共通認識だろう。表面上の事実を捉えていれば良いんだ」

 

 

「特殊な価値観の存在も、最終的には、その共通認識の中に埋め込まれていくものだという事は理解できます」

 

 

「あぁ。それが分かっているのなら話は早い。コレクターである者達が権力と地位を持っていれば、彼らの価値観にも説得力が出て来る。彼らの持つ尺度が社会に浸透していって、理解はされずとも、世間の中に新たな価値基準としての輪郭が生まれる。知識となって、人々の頭の中で市場という言葉に結びつく」

 

「……深海棲艦を、“商品”として流通させる可能性が、其処には在ると?」

 

「んん、十分にあると思うけれどね。生活という日常の外にある存在であっても、“一部では高値で取引されている”物品としてね。アンティークや食玩なんてものもそうだろう? 別に珍しくも無い、ありふれた事例だろう? いずれ深海棲艦達も、それと同質の存在になるよ。……勿論、時間は掛かるだろうがね。彼女達は人類の敵であったワケだし、世間から見れば、恐怖や憎悪や怨恨を抜きに語れない存在だ」

 

 

「深海棲艦という生命そのものに経済的な価値を付与するというのは、倫理の面から見ても、世間的には受け入れられないと思いますが」

 

 

「あぁ、すまない。私の言い方が悪かったね。これでは、何十万もする食器や西洋人形と並んで、深海棲艦がカタログに載る様な言い方だったね。すまないね。すまない。私が言いたいのはね、常識の範疇には意識の死角が出来るという話だよ。深海棲艦を売買するという行為は、世間に受け入れられなくても良いんだ。人道的に許される必要は無いんだよ。重要じゃない。私は確かに、深海棲艦達はアンティークや食玩などと同質の存在になると言ったが、深海棲艦達が堂々と取引されるような商品になるという意味では無いよ。ここからが重要な話になる。いいかい? 大企業達の犯罪的な利益追求や麻薬の取引などは違法だが、それが秘密裏に行われている事は誰もが知っている事だろう? 社会が、表と裏の顔を持っている事は皆が知っている。だが日々の生活の中で人は、自分たちに危害が及ばない限り、そういった事に対しては無関心でいられるんだ。純粋な悪徳というものは、表社会の自分たちの暮らしから遠く隔てられた事例としてね。分かるかい? これが理解すべき本質だと、私は考えているよ。そこに、深海棲艦との共存という可能性がある」

 

 

「社会が抱えた闇の中に、深海棲艦という存在を落とし込むという事ですか?」

 

 

「そういう事だね。“かつて人類の執敵怨類であった深海棲艦も、今ではその力も奪われ、違法な取引がなされている哀れな生物”という認識を、世間の中に芽生えさせてやればいい。そうすれば、“一部では高値で取引されている商品”という枠にも嵌るだろう? いずれその認識は、人々にとっての常識の一部に埋没する。特殊な価値と市場が存在することが自然になる。自分達の暮らしには関係が無いものの、社会の影には存在しているものだと見なす。深海棲艦の売買という行為は、表に姿を現さない、ありふれた悪徳になる。誰からも見向きもされなくなる。勿論、その悪徳を裁こうとする者も現れるだろうが、大多数の人々はそういう正義の姿勢を賛美しつつも、結局は自分達の生活を取るだろう。人間達の生業の中にある、この無関心という死角こそが、社会という枠組みの中で深海棲艦が生き残る為の“隙間”になると、私は考えているよ」

 

 

「……深海棲艦との共存という意味に於いて、それが限界だとお考えですか?」

 

 

「現実的な共存のビジョンだと思うけれどね? まぁ、人間の中には、深海棲艦の人権だの何だのと言いだす者が出て来るかもしれない。でも、そんなものは極少数だろう。キミを含めてね。だが結局、この戦いが終結すれば、深海棲艦は人間にとっての海洋資源の一つに過ぎなくなる。本営はね、そういう深海棲艦を金に換える道を開拓したがっている。それを助けるのが私の仕事だ。私の立場から言わせて貰うなら、深海棲艦を商品として人間社会に埋め込むというのは悪くない考えだと思うよ。深海棲艦達は、人間社会の中で新しい役割を担うだろうし、また経済的な効果も齎してくれる。……キミの言う“力による受容”とは、本来こういうものでは無いかね?」

 

 

「しかし……、いえ、そうかもしれません」

 

 

 自身の理論を気持ちよさそうに展開する中年の男に対して、少年提督は穏やかな表情を浮かべたままだった。だが、その声音は寂しさのようなものを纏っていた。「うん。うん。キミは賢いね」と言いながら、中年の男が白い歯を覗かせて、少年提督の頬や髪に触れるのが背後からでも分かった。不知火は反射的に艤装を召還しそうになったが、奥歯を噛み締めてそれを堪える。ゴリゴリゴリッと凄い音が廊下に響いた。

 

「お、おや、何の音かな?」と、中年の男が怯えたように周りを見た。「地下フロアに海水を送る音でしょう。この廊下の壁の中には、何本もパイプが走っているので」と、少年提督が落ち着いた声音で答える。初老の男が、不知火の方を見た。不知火は初老の男とは目を合わさず、少年提督の背中を見詰めた。天龍は気怠そうにそっぽを見ながら歩いている。初老の男は静かな眼差しで不知火と天龍を見比べてから、何も言わずに前を見た。

 

 

 中年の男と、初老の男。

 

 この二人は少年提督の客人であり、執務室での談笑もそこそこに『保護している深海棲艦達の様子を、ぜひ見せて欲しい』と願い出たのだ。本営の上層部からも、彼らを持て成すようにと少年提督に通達があったのを不知火は知っている。あの男たちは大本営にとって、経済的に大きな利益を齎す存在であることが伺えた。会話からして恐らく、あの中年男性は希少動物の売買などに携わっている人間なのかもしれない。或いは、そういった事を請け負う人間と繋がりが在るのだろう。初老の男が何者なのかは分からないが、不知火にとってはどうでも良かった。

 

 気がかりなのは、この男達が特別捕虜房へ向かっている事を、深海棲艦達が知らないという事だった。彼女達は、この男たちにどんな反応を示すのか。例え暴れだしたとしても、彼女達は解体施術を受けている。艦娘である不知火や天龍に掛かれば、暴動を鎮める事は造作もないことだった。だが、そういった生々しい敵意や害意を露にして、深海棲艦との共存を理想とする少年提督の立場に悪影響を与えないかと、不知火は頭の隅で不安を感じていた。

 

 

『深海棲艦との共存』

 

 思考の中を通り過ぎようとした言葉を、不知火は意識で掬う。あの中年男のような者が客人としての少年提督の元を訪れてくるというのは、何を意味するのだろう。少年提督の言う“共存”という言葉を本営なりに解釈した結果、社会の中に用意するべき深海棲艦達の居場所とは、金持ちの道楽としてのペットだという事なのだろうか。不知火は息を吸って、静かに吐いた。

 

 深海棲艦達を人類社会の中に無理なく埋め込もうとするのならば、その解釈は正しくは無くとも、妥当なのかもしれない。少年提督は、保護下にある深海棲艦達に理想を見る。しかし本営の上層部は、その理想が破れた後の現実を見ている。綺麗ごとではなく、実在的な利益を追求しようとしている。例えそれが非道であろうとも、合理的な選択をし続ける姿勢は社会に属する組織としては健全ではないだろうか。

 

 大本営という存在が社会の中で担う役割は、決して小さくない。人々の暮らしの中に在る安らぎの為に、大本営は、人類の勝利の存在を世間に示し続けなければならない。大本営が相手にする世間の認識では、深海棲艦は撃ち滅ぼすべき敵である。それを踏まえた上で深海棲艦達が社会の中で生き残る道を探るならば、あの中年男が言うように、力も尊厳も全て剥奪してしまう事も現実的であるように思えた。

 

 

 もう一度。

 不知火は息を吸って、静かに吐いた。

 

 今。自分は、なんと残酷な事を考えたのだろうと後悔にも似た感情を覚えた。そのこと自体が偽善的であるようにも感じた。不知火は唇を噛んで、前を歩く少年提督の背を見詰める。彼の言う“共存”とは、どういった状態を指すのか。人類と艦娘と、そして深海棲艦達が仲良く手を繋ぎあい、互いに笑みを交わし合うような非現実的なビジョンを指している訳ではないのは理解している。だが、中年の男が言うような未来を指している訳でも無いのだと思う。

 

 想像力に乏しい不知火が頭の中でそれを突き詰めようとすると、“現在”という圧倒的にリアルな場所をグルグルと回るだけだった。海から発生した深海棲艦は、人間を襲う。それに対抗する為、人間は艦娘を必要している。艦娘は人間によって召還されて、存在する事を許されている。この三すくみの“現在”も、歪ではあるが、ある種の“共存”では無いのかと思う。

 

 

 不知火達は地下フロアを進み、深海棲艦達を保護している捕虜房の前まで来た。壁や天井に沈むようにして開いていく重厚なゲートを幾つか潜ったところで、場の空気が明らかに変わった。中年男性が息を呑む音がした。よく見れば、中年男性の頬には汗が浮かんでいる。初老の男性もだ。不知火達が歩を進めるにつれ、人間ではない者達の気配が濃くなっていく。此処で、不知火と天龍が、少年提督や男たちを守るように前へ出る。

 

「おぉ、頼もしい。噂で聞いているよ。キミの不知火と天龍は、他所の同型艦娘を圧倒する性能を持っていると。いやぁ、頼もしいね。うん」

 

 緊張を解す為か。中年の男は明るい声音で言い、少年提督の肩を撫でながら笑う。初老の男も、ハンカチを取り出して顎まで流れていた汗を拭っていた。少年提督達には聞こえない程度に、天龍が軽く鼻を鳴らすのが分かった。不知火もそれに続きそうになったが、また堪える。フロアを進んでいく。深海棲艦達が居る特別捕虜房まで、もうすぐ近くまで来た時だった。

 

 

 ヴェアアアアアアアアアアア!!! 憎ラシヤァァァァァァァ!!!

 

 

 腹の底に響いて来るような、凄絶な絶叫が廊下に響いてきた。「ぉほっ!!?」と奇妙な悲鳴を上げた中年男が尻餅をついた。眼を細めた初老の男が息を呑んで歩を止めた。彼らとの距離を保つために、不知火と天龍も足を止めて振り返る。

 

「い、今のは深海棲艦の声だね!? 解体施術はしているんだろう!? 弱っている風では全く無かったが、だ、大丈夫なのかね!? 」

 

 明らかに狼狽した様子の中年男は不規則に呼吸を弾ませており、少年提督に手を引いて立ち上がらせて貰っていた。初老の男は落ち着いてはいるものの、険しい表情だった。少年提督は二人を交互に見てから、慣れた様子で穏やかな微笑みを浮かべて見せた。他者との距離を測る為の、温度の無い仮面のような笑みだった。少年提督のあの表情を、不知火は久しぶりに見た。

 

「大丈夫ですよ。此処は、とても安全な場所です」

 

 異様な程に落ち着き払った少年提督の声音に、二人の男が微かに息を飲んだのが分かった。「あぁ、そうか、そうだな。そうだとも。私はキミを信じるよ。信じているとも」と、中年男は汗を何度も頷いて、少年提督の肩を抱くようにして立った。頬の筋肉を強張らせている初老の男も、少年提督に深く頷いた。

 

「では、行きましょう」

 

 少年提督の顔に張り付いた微笑みは、全く揺るがない。

 

 

 

 深海棲艦達の捕虜房へと続く最後の扉を通った時点で、不知火と天龍は、艦娘としての力を発揮できる“抜錨”状態に入る。解体施術を受けてスポイルされた人型の深海棲艦達は、見た目通りの女性程度の力しか持っていない為、今の不知火と天龍に太刀打ちする事は到底出来ない。それは、中年男と初老の男も理解しているに違いなかった。艤装としての刀を召還した天龍を見てだろう。中年男が安堵するような息を漏らしているのを背中で聞いた。不知火も自分の手に、武装として錨を召還する。初老の男の視線が、不知火の手の中に在る錨に注がれているのに気付いた。不知火は特に反応を返すことなく、白い通路を歩いた。

 

 捕虜房の通路進むにつれて、深海棲艦達の気配は強くなる。そして同時に、この白一色のフロアの重圧感を和らげる、生活の匂いと温もりが優しく漂って来る。中年男が混乱した様子で、辺りをキョロキョロと見回しているのが、やはり背後の気配で分かった。

 

 

「……本当に此処が、深海棲艦達を収容しておく特別捕虜房なのかね?」

初老の男の声は少し掠れていたが、低く、そして力強かった。

 

 神妙な表情になった初老の男が、少年提督に訊いた。その質問も当然だろうと不知火は思った。このフロアに染み付いている生活感があまりにも暖か過ぎて、とてもでは無いが人類の天敵を収容している雰囲気では無い。少年提督が、「えぇ。そうですよ」と、優しい声で短く答える。初老の男は、再び黙った。「キミは……」と、少年提督に何かを言おうとしていた中年の男も、途中の言葉を飲み込んだ。通路の先に扉があり、その向こうに多くの気配が固まっているのを感じたのだろう。中年男と初老の男が、緊張した面持ちで同時に足を止めた。それに合わせて、不知火と天龍も立ち止まる。

 

「この先は歓談室と言いますか、ちょっとしたサロンのようになっています」

 

 少年提督だけは不知火と天龍の脇を抜けて、扉へと歩いていく。彼が扉を開けると、ふわっと紅茶の香りが通り過ぎて行った。

 

 その部屋は広々としていた。壁も床も、やはり白一色だ。その壁には大型のテレビが立て掛けられており、雑誌などが並べられた棚が置かれ、部屋の隅には簡単なキッチンスペースが設けられていた。部屋の中心には白いソファテーブルが置かれていて、それを囲むように上質そうな白いソファが並んでいる。其処に、戦艦ル級によく似た黒いボディスーツを着込んだ彼女達が腰掛けていた。ソファテーブルの上には、トランプのカードが無造作に積まれている。

 

「グ、グ、グ……! オ、オノレェェ~~……!!!」

 

 少年提督達に続き、不知火達が部屋に入るタイミングで、何らかのゲームが丁度終わったようだ。テーブルの上に置かれたカードを見た不知火は、そのゲームが大富豪であることが分かった。少し前に此処に収容された重巡棲姫だけが、数枚のトランプを手に持ったままで悔しそうに項垂れている。

 

「へっぼwww!(レ)、ワロスwww(レ)」

 

 そんな重巡棲姫を指さして笑っているのは、レ級だった。レ級は一人だけ黒のハーフパンツと黒のTシャツ着て、その上から黒いフード付きパーカーを羽織っていた。

 

「あんまり煽るなよ……。また取っ組み合いの喧嘩になって泣かされるぞお前」

 

 バカ笑いするレ級を、隣に腰かけていた集積地棲姫が、微妙な表情を浮かべて窘める。

 

「調子に乗るのは、良くない」

 

 集積地棲姫に続いて頷いたヲ級は、静かな面持ちのままで此方を見てから、驚いたような顔になった。そのヲ級の様子に他の深海棲艦達も、此方に顔を向けてくる。「あぁん!? お客さん!?(レ)」と、さっきまで笑顔だったレ級が、訝しむような顔で言う。男たちの存在に気付いた集積地棲姫は、冷静な光を眼に宿らせながら「……ちょっと静かにしてろお前」と、再びレ級を窘めていた。

 

「突然お邪魔して、すみません。トランプゲームの途中でしたか」

 

 少年提督がにこやかに言うものの、誰も返事を返さない。沈黙がこの場を包んだ。深海棲艦達は、不知火と天龍を、いや少年提督をすら見ていなかった。中年の男、それから初老の男へと視線が集まっている。浅く早い呼吸になった中年の男が、唾を飲む音がした。初老の男は何も言わずに、深海棲艦達を見詰め返している。

 

 ゲームに負けた悔しさを引きずっているのだろう重巡棲姫が、物騒に眼を細めて男たちを見ている。南方棲鬼はソファに座って足を組んだまま、つまらなさそうに鼻を鳴らした。オロオロとした様子の港湾棲姫の視線は、周囲の深海棲艦と中年の男達の間を行ったり来たりしていた。ただ、この部屋の中で高まっていく緊張感は、長くは続かなかった。

 

 

「ヘイ、ワイと一緒にやらないか? 良いぞ?(レ)」

 

 陰湿さの無い、子供っぽい笑顔を浮かべたレ級が、少年提督や不知火、天龍だけでなく、中年の男と初老の男をゲームに誘ったからだ。他の深海棲艦達も、ぎょっとしたような顔でレ級を見た。不知火は天龍と顔を見合わせた。少年提督も驚いた顔をしている。初老の男は、少女のように笑うレ級を見詰めながら、何度か瞬きをしていた。中年男の方は眼を見開いて息を詰まらせ、「わ、私もかね?」と、しゃっくりみたいな声を出しながら、他の深海棲艦達を見回していた。

 

「あぁん? 見せかけで超ビビってるな? ちと来い!(レ)」

 

 レ級は、少し怯えた様子の中年の男の手を掴んだ。中年の男が体を硬直させて「ぃい!?」と、くぐもった悲鳴を漏らした。そんなものはお構いなしで、レ級は顔を強張らせる中年男をソファの一つに座らせてから、少年提督達に振り返った。

 

「へい、どうぞ!(レ)」

 

 レ級は不知火達にも手招きをする。他の深海棲艦達は若干の困惑を見せつつも、急な客人である人間達に攻撃的な態度をとる事も無く、その輪の中に中年男が入ってくる事を拒まなかった。さっきまでの緊張感は、もう跡形も無い。深海棲艦達の間に出来上がろうとする穏やかな空気は、全てを受け容れる覚悟にも似ているように思えた。ソファに座らされた中年男が、助けを求める眼で少年提督を見ていた。

 

「あぁ、でも、僕達が全員で参加してしまうと、ゲームの人数が増えすぎてしまいますし……」

 

 仮面のような笑顔とは違う、柔らかな微笑を浮かべた少年提督は、初老の男の方を見た。

 

「僕と不知火さん、それに天龍さんの三人で、ここで観戦させて貰います。……僕達の代わりに、参加して上げてくれませんか?」

 

 じっとレ級を見ていた初老の男は、少年提督の視線に気づいて、この日初めて口許を緩めて見せた。優しそうな笑顔だった。レ級の屈託のない笑顔や快活な仕種が、初老の男の心の中にある、何かを捉えたのが分かった。

 

「あぁ。せっかくだ、……お邪魔させて貰うよ」

 

 その声は僅かに震えていて、今にも泣きそうな声にも聞こえた。初老の男は深海棲艦達に会釈をしながら、上品な仕種でソファの一つに腰掛けた。慌てたように立ち上がった港湾棲姫が、中年の男と初老の男に、紅茶、コーヒー、緑茶、どれがいいかなんて事を聞いていた。二人はコーヒーをお願いしたようだ。港湾棲姫がキッチンスペースに向かう。

 

 人間という存在を飲み込んでなお、この場の空気は先程と同じような、気負いのない平凡な空気になりつつあるのを不知火は感じた。この場を支配していた緊張感が緩やかに解けていく。誰もレ級の行動を咎めない。それは何故だ。中年の男と初老の男が、少年提督の客人であること知っているからか。あの二人の前で、“深海棲艦達は、実は人間に友好的な部分を持っている”という事をアピールする為か。そんな風に考えていると、レ級と眼が合う。

 

 少年提督や不知火、それから天龍が参加しない事を察したレ級は、残念そうな顔をして唇を尖らせていた。だが、テーブルに撒かれていたカードを集め、シャッフルし終えた集積地棲姫が再びトランプを配り始めると、レ級はギザッ歯を見せる快活な笑顔を浮かべた。狡猾という言葉とは、およそ無縁そうなレ級の純粋さを目の当たりにすると胸が詰まった。

 

 

 自分は今、余計な事を考え過ぎていると思う。不知火は意識的に呼吸をする。その間に、トランプのカードが配られていく。不知火と天龍は抜錨状態のまま、仮に、もしも仮に何かあったとしても、すぐに深海棲艦達を鎮圧できる距離で、少年提督と共にそれを見守る。

 

 

 カードが配られ、『大富豪』と『大貧民』がカードを2枚交換し、『富豪』と『貧民』がカードを一枚交換する。

 

『大富豪』は、「(>ω<)わふー♪(レ)」と、上機嫌なレ級。相当に強いカードを巻き上げたようだ。『大貧民』は、「憎ラシヤァァァァァアアア……!!」と、頭を抱えて呻く重巡棲姫。あの様子からして、捨てるの

が難しい弱小カードを握らされたのは間違いない。調子に乗ったレ級が、「どんな気分どんな気分?ww(レ)」と、俯く重巡棲姫の顔を覗き込んで煽っている。

 

 

『富豪』は、落ち着いた様子のヲ級。そんなヲ級とカードの交換時、何やらアイコンタクトを取った『貧民』は集積地棲姫だ。何かを狙っているのか。残るプレイヤーは『平民』だ。南方棲鬼と港湾棲姫、途中参加した中年の男と、初老の男である。かなり人数の多い大富豪なので、皆の手札はそんなに多くない。

 

「おっと、その、ちょっと良いかな? 此処のローカルルールについて聞きたいんだが……」

 

 手札を扇状に持っている中年の男が、頬をビキビキに強張らせた笑顔で、おずおずと手を挙げる。深海棲艦達に囲まれている中年の男は、彼女達の存在感に気圧されつつも、ちゃんと勝負はするつもりのようだ。「はい」と、傍に居たヲ級が微笑んで頷いた。

 

「私達の間で採用しているのは、“8切り”と“スぺ3”のみ、“都落ち”もありません。最後に手札に残してはならないカードは、2、8、ジョーカーです」

 

 ヲ級は、ここに収容されて日の浅い重巡棲姫よりも流暢に言葉を話す。その声音には、人間である中年の男を排除しようとするような冷酷さや、距離を作ろうとする意思表示としての事務的な冷たさが無かった。ヲ級が纏う柔和な雰囲気と説明の親切さに、中年の男は目を丸くしていた。

 

「あぁ、ありがとう。シンプルだね。うん……」

 

 中年の男は、ヲ級に礼を述べて頷いてから、渋い顔になって自分の手札を睨んだ。何とか勝ち筋を見出そうとしているようだ。対して初老の男は、特に何も気負った風では無く、ゆったりとした態度でゲームが始まるのを待っている。

 

 最初の親を決めるジャンケンが行われ、勝ち残ったのは南方棲鬼が“ハートの3”を捨てて、ゲームが始まった。そこから時計回りでプレイヤーが順にカードを捨てていく。手札が少ない状態で始まった今回のゲームでは、すぐに上がるものが出て来るだろう。

 

 そんな中、一週目で既にパスをして、グゥゥゥ……!!と心底悔しそうに唸っている重巡棲姫の手札の弱さは如何ほどか。対して『大富豪』のレ級は、満面の笑顔で手札を眺めつつ、自分の番が回ってくるのを待っている。比較的弱いカードを消費出来るタイミング。集積地棲姫とヲ級が、またアイコンタクトを交わした。中年の男がそれに気付いて、カードを捨てる手を止めてパスを宣言。初老の男も気付いていたようだが、何かを調整するようにカードを捨てた。

 

 最終的に、集積地棲姫が“クラブの2”を切ってきた。彼女は『貧民』だ。ただでさえ少ない手札から強いカードを奪われ、代わりに弱いカードを押し付けられた『貧民』が“2”を出すという事は、無理をしてでも場を流して親になりたいという意思が透けて見えた。

 

「思い知らせてあげる!(レ)」

 

 周囲のプレイヤーがパスを宣言する中、冷酷な笑みを浮かべたレ級がジョーカーを切った。集積地棲姫の“2”は潰される。眼鏡をそっと指で押し上げた集積地棲姫が、軽く息を吐いた。2秒後。ヲ級が“スペードの3”を、ジョーカーの上に置いた。ジョーカーを潰されたレ級は、「ハッ、yeah~(レ)」 と、挑発するように肩を竦めて見せた。此処まではレ級も読んでいたに違いない。ワイルドカード扱いのジョーカーを失ってなお、レ級はまだまだ余裕がある。相当に恵まれた手札だという事は明白だった。

 

 しかし、そんなレ級の余裕も、速攻で崩される事になる。

 親になったヲ級が、手札からジョーカーを含む4枚のカード出したのだ。

 

「“革命”」

 

 ヲ級が澄んだ声で宣言する。

 

「嘘ォ!!?(レ)」

 

 目が飛び出しそうな顔になったレ級が叫んだ。ついでに、「おま、ふざけん……!(レ)」と、自分の手札とヲ級を高速で見比べている。「ヴェァ!!?」と、変な声を上げた重巡棲姫は、驚愕の表情を浮かべてソファから立ち上がる。中年の男がビクッと肩を震わせて、大声を上げたレ級と重巡棲姫を見比べた。集積地棲姫は特に表情を変えない。南方棲鬼は手札を一瞥してから鼻を鳴らす。初老の男は、にわかに騒がしくなった面々を何処か遠い目で眺めていた。

 

 ヲ級が序盤で起こしたこの“革命”によって、「馬ァァァアアアアア鹿メェェェェエエ……!!」と、さっきまでとは打って変わって強気になりまくった重巡棲姫が、圧倒的な手札の強さを見せつけて『大富豪』として上がった。弱小札ばかりだった手札が、一気に強カード揃いになったワケだから、これは当然の流れだった。一方でレ級は、場に出された“ダイヤの10”を見て、『アーーッ!! (´;ω;`) もう無理です!!(レ)』と悲鳴を上げている。

 

 

「お前、本当にクッソ強い手札だったんだな……」

 

 集積地棲姫が呆れたように言う。ちなみに、時計回りの順でカードを出しているのだが、集積地棲姫の次の番がレ級、という按配である。つまりレ級は、集積地棲姫が上がらない限り、弱小カードとなった“2”や“A”を殆ど切れない状況にあった。

 

「救いは……!! 救いは無いんですかっ!?(レ)」

 

 喚くレ級を尻目に、ヲ級が『富豪』として上がり、申し訳なさそうな顔をした港湾棲姫が『平民』として続いた。順調に手札を減らした南方棲鬼も上がり、先程の集積地棲姫とヲ級とのアイコンタクトに“革命”の匂いを感じ取り、あえて弱小カードを残していた中年の男も『平民』として上がった。次々とプレイヤーが上がっていく。

 

「(´;ω;`)あぁ、もう最悪ぅ……(レ)」

 

 取り残されているレ級が半泣きになっているが、その様子を見ていた重巡棲姫は「ソノママ沈ンデシマエェェ……!」と、ご満悦だった。残るは、レ級、集積地棲姫、初老の男の3人だけになった。

 

 親になった初老の男が、場にカードを出す。“ハートの7”。初老の男の手札は、残り1枚。何かを測るかのように、集積地棲姫は“スペードの5”。手札と場のカードを見比べたレ級は、「(´;ω;`)おほほほほ~ん……(レ)」と情けない声を出している。

 

 手札の弱さから、単純にレ級はカードを出せないのだろう。それに加えて、2枚出し、3枚出しをするためにカードを温存しているようにも見えるのだが、大ピンチである事に変わりは無い。レ級は再び手札を睨む。その隙に、初老の男が集積地棲姫を見て、片目を閉じた。初対面の“人間”にアイコンタクトをされるとは思っていなかったに違いない。集積地棲姫は初老の男を見詰めて、驚いたように何度か瞬きをした。だがすぐに、集積地棲姫は男の手札の数とレ級の手札の数、それから場に出ているカードを視線だけで見てから、軽く息を吐いた。

 

 集積地棲姫の手札の枚数は、残り4枚。それを2枚出しで消化する。レ級は手札の弱さ故にそれを止められない。初老の男も、手札の枚数的に出すことは出来ない。結果、最後の『平民』として集積地棲姫が上がった。これで、やっと親となったレ級が好きなカードを消化出来る。手札の殆どを消化しきれずに半泣きのレ級だったが、サシで相対する初老の男の手札が一枚しかないのを確認し、その紫水晶のような瞳に光を取り戻した。

 

「(`;ω;´) 全てはチャンス!!(レ)」

 

 やはりレ級は、2枚出し、3枚出しが出来る手札だった。手札が一枚の初老の男は、当然何も出来ない。そのままレ級は手札を吐き出し、なんとか『貧民』として上がって見せた。

 

「どうじゃ!!(レ) 出来る棒人間なんでーちゅ!!(レ)」

 

 レ級は両腕の筋肉をアピールするようなポーズを取りながら、誇らしげにソファの上に立った。「鬱陶しいから座れよもう。アピールしてるけど、お前『貧民』だからな」と、集積地棲姫が半目でツッコむ。港湾棲姫が微笑んで、大きな手で拍手をしている。それに倣い、中年の男も拍手をしつつ、何とかゲームが無事に終わってほっとしているような表情だった。レ級が『大貧民』に落ちなかった事が面白くないのか、重巡棲姫は鬱陶しそうな顔でレ級を見上げている。

 

 南方棲鬼だけが、何かを言いたそうに初老の男を見ていた。ただ、その視線に気付いている筈の初老の男は何の反応も示さず、テーブルに積まれたカードを集めて整え、自分が最後まで持っていたカードを隠すようにシャッフルを始めた。さっきのゲームを見ていた不知火には、初老の男が最後まで持っていたカードが何なのか分かっていた。

 

 “ダイヤの7”だ。

 

 つまり、初老の男は、親が回って来た時点で上がることが出来た。だが、そうしなかった。レ級を庇い、『大貧民』に落ちる為だ。これには集積地棲姫や南方棲鬼も気付いていたに違いないが、見て見ぬふりをしているのも分かった。不知火は怪訝に思う。初老の男は、レ級に対して何らかの特別な感情を抱いているのか。それは何故? シャッフルを終えた初老の男は目許を緩め、「では、カードを配りましょうか」と、深海棲艦達を見回した。

 

 

 その後もゲームは何度か続いて、『大貧民』になった初老の男は、『大貧民』のままで負け続けた。それをレ級に笑われることによって、この場の空気を暖める役目を自然と担っている。中年の男は『富豪』になったりもしたが、深海棲艦達とのカードの交換の度にビビっていた。中年の男と初老の男は、深海棲艦達の輪の中に馴染んではいなくとも、排除される様子も無い。いや、違う。そうでは無いのかもしれない。もっと大きな視野で見るならば、人間が排除されていないのではなく、深海棲艦達が、人間に排除されていないのか。不知火はその光景を、現実感が薄れていく不思議な感覚で眺めていた。

 

 

 

「あ」

 

 扉の開く音と、気の抜けた声が聞こえた。眠たそうな顔をした少女提督が、今日の秘書艦であろう木曾を連れて、この部屋に入って来たのだ。少女提督は、ざっと部屋の中を視線だけで見て状況を把握したようだ。姿勢を正した彼女は、中年の男と初老の男の方へと畏まった礼をして、木曾もそれに続いた。

 

 

 

 

 

 

 トランプゲームを切り上げて、不知火達は大部屋から違う部屋へと移動した。大型の機器類が並んでいて、何らかの研究室であることが分かった。白い部屋の中に、光沢の無い銀色の機械達の低い駆動音が響いている。ここが、少女提督の最近の仕事場だった。

 

「忙しいところ、申し訳ないね」

 

 中年の男が、大型機器のコンソールを操作する少女提督の背に、気安そうな声を掛ける。少女提督は振り返り、彼女の持つニヒルな雰囲気とは似合わない笑顔を浮かべて、「いえいえ」と首を振って見せる。必要最低限しか言葉を返さないのは不機嫌の表れか、或いは、誰かの機嫌を取ったりするのが不得手なのか。少女提督から少し離れた位置では、集積地棲姫と港湾棲姫が、其々に違う機器の前に座っていた。

 

 集積地棲姫は棒付きのキャンディーを咥えてモニターを見ながら、絶えず手を動かしてコンソールを操作している。もの凄いスピードだ。港湾棲姫は外骨格に覆われた凶悪で巨大な手をしているが、その指先の本当に先端だけを器用に使いながら、集積地棲姫に負けない速度で機器類の操作を行っていた。不知火と天龍、木曾の三人は、彼女達の姿を感心したように見つめる。膨大なデータを扱う仕事に入るので、この二人の手を借りようと思い、先程はサロンに足を運んだのだと言う。

 

 人類や艦娘に激しい憎悪や殺意を見せる深海棲艦達だが、その激情の背後に、与えられた環境に適応するための明確な知性を持っているのは明白だった。この捕虜房に居る深海棲艦達に対しては、常識や一般的教養を含め、艦娘達が教育を行ってきた。秘書官見習いとして、彼女達に実務の指導も行ってきた。それが実を結び、今ではこうして高度な業務にも携わるようになっている。『その仕事の様子を、私にも見せて欲しい』と、少年提督と少女提督に頼んだのは、初老の男だった。真剣な顔をした初老の男が、少女提督が操作している機器と、そこに備え付けられているモニターを見比べて何かを話している。恐らくだが、初老の男は医療分野に関わっている人間なのだろうか。人工臓器、生命維持管理装置、新薬開発という単語が聞こえて来る。

 

 

 一方で中年の男は、少年提督の隣に立って、この部屋の隅の方を凝視していた。そこは広めのスペースが取られており、大掛かりな施術ベッドが二つ並んでいる。微光によって象られた術陣が、施術ベッドを囲うように展開されていた。其処に寝かされているのは、被術衣を着た戦艦棲姫と戦艦水鬼だ。彼女達は顔の上半分を覆うようなヘッドギアをしており、首や脊柱、肩などの至るところにプラグが差し込まれていた。ただ、彼女達は眠っている訳では無い。何かを朗々と唱えている。

 

 彼女達の低い声は重なり合い、余韻が連なって互いに混ざり、この白い部屋の中で神秘的に響いている。厳かで、神聖な儀式のようでもあった。彼女達は何らかの術式を構築しながら、それを人間に扱えるデータとして提供しているのだという事は、傍から見ていた不知火にも分かった。少女提督がこの施設の地下に出入りするようになったのも、それが技術研究の為であろう事も知っていたからだ。

 

 彼女達の詠唱は、それから暫く続いた。少女提督と集積地棲姫、港湾棲姫は、休みなく機器類の操作を続けている。不知火と天龍達は、黙したままでそれを見守っていた。その間、天龍が何かを言いたそうに少年提督を見ている事に気付いた。不知火も、視線だけで少年提督を見た。少年提督は、初老の男と中年の男と、また何やら話をしている。

 

「艦娘の皆さんを治療する為の生命鍛冶や金属儀礼の術式を、人間の肉体に応用する研究は以前からされてきましたが、殆ど成果はありませんでした。しかし、深海棲艦である彼女達が扱う術式ならば、それが可能なのです」

 

「だが、人間では深海棲艦達の扱う術式を行使できないのではないかね……」

 

「確かに、人間では扱えないのは事実です。その壁を超える方法を、彼女達は探ってくれています」

 

 少年提督と中年の男が話をしているうちに、戦艦棲姫と戦艦水鬼の詠唱が終わった。軽い電子音が鳴り、彼女達に繋がれていたプラグやヘッドギアが外れていく。

 

「……お疲れ様」

 

 労いの言葉と共に少女提督が立ち上がり、彼女達の傍へと歩み寄る。戦艦棲姫と戦艦水鬼は、外れたプラグやヘッドギアを施術椅子の上に丁寧に置いてから、少女提督に頭を下げた。彼女達は既に中年の男と初老の男の存在には気付いていたようで、立ち上がってすぐに、彼らに深く頭を下げて見せた。その御陰で、先程のサロンの時のような空気になることも無かった。

 

「深海棲艦達の持つ特殊なチカラを、実在的な技術として取り出そうという試みは確かに意義深いね。もっと人員を割いてフロアを増やすなりして、研究の規模を拡大する予定は無いのかね? 」

 

 中年の男は、少女提督と戦艦棲姫と戦艦水鬼を順番に見ながら、少年提督の肩を抱き寄せてから、背中と腰を擦るように手を動かした。それに気づいた不知火は、頬の内側を少しだけ噛みちぎった。天龍が冷たい眼で中年の男を見ている。集積地棲姫も不快そうに片目を細めてそっぽを見ていた。港湾棲姫は何処か悲しげな表情を隠すように俯いている。

 

「えぇ。この研究を進めることが出来るのは、恐らく、彼女だけだと思います」

 

 少女提督を一瞥した少年提督は表情を全く変えない。少女提督は、タブレット型の端末を操作しながら、戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人の体に異常が無いかを調べている。

 

「しかし……、こう言っては何だか……」

 

 中年の男が声を潜めて、少年提督に耳打ちをした。

 

「彼女は“元帥”の中でも特に脆弱だと聞く。何でも、戦艦を召還することも出来ず、戦果による貢献は今まで殆どなかったそうじゃないか……。信用できるのかね?」

 

 その声は確かに小さかったが、抜錨状態にある不知火の耳には、はっきりと聞こえていた。完全な無表情になった木曾が、佩いていた軍刀に手を掛けようとして、それを寸でのところで止めたのが分かった。艦娘は、人間に危害を加える事は出来ないのだ。軍刀を握ろうとした手を、筋肉や骨が軋むほどに強く握る音が聞こえた。

 

「この研究においては、戦果や評価は重要ではありません」

 

 少年提督は、穏やかな表情を崩すことなく、中年の男に緩く首を振った。

 

「生命鍛冶や金属儀礼の術式は理論化されていても、あくまで非実在の領域にあるものです。それを技術として存在させるには、彼女の持つ特質が必要不可欠です」

 

 そこで言葉を切った少年提督は、一度息を吐いた。

 

「僕の人格や思考を模したAIを完成させたのも、彼女なんですよ」

 

「……まさか」

 

「事実です。彼女は情報工学にも造詣が深いだけでなく、非実在に属する術式の理論を、電子とプログラムに変転させて活用できる。そういう特殊で、稀有な資質を持っているんです。『提督』しか扱えない術式も、『深海棲艦』しか扱えない術式も、彼女が居る事によって、それは医用工学や生物工学、遺伝子工学などに応用することが可能になるでしょう。そしてそれは、各分野の発展の大きな助けになると考えています。これからの時代、彼女は誰よりも必要とされる人間になる筈です」

 

「君には……、いや、君たちには、本当に感謝しているよ」

 

 

 少年提督と中年の男との会話を縫うようにして、僅かに声を震わせた初老の男の声が響いた。彼は、今まで話をしていた少女提督に頭を下げてから、戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人の前に立った。初老の男は、真っ直ぐに彼女達を見詰めていた。

 

「彼女から話は聞いた。君たちの協力の御陰で、医療技術は革命的に、そして飛躍的に向上するだろう。本当に、有難う」

 

 不知火と天龍は少しだけ驚いた。少女提督や集積地棲姫、港湾棲姫も、そして木曾も、僅かに眼を見開いている。初老の男の声に、この場に相応しくないほどの熱量が籠っていたからだ。泣き出す寸前のような明らかな感情の高ぶりが滲んでいて、男が口にした感謝という言葉が一切の偽りの無いものだという事が分かった。初老の男は両手を握り、肩をぶるぶると震わせていた。戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人は、初老の男に微笑んで見せた。

 

 

「お礼の御言葉を頂く様な事は、私達はしていません。私達は提督の配下で、私達が引き受ける事が出来る役割を頂いているのです。礼を述べねばならないのは、私達の方です」

 

 

 戦艦棲姫が初老の男にそっと歩み寄って、男の右手の拳を両手で包んだ。初老の男の震えを、優しく鎮めようとするかのようだった。初老の男が驚いたように、繋がれた自分の右手と、戦艦棲姫の顔を見比べた。その間に、戦艦水鬼が初老の男の左手を両手で包んだ。初老の男が抱えている何らかの事情を詮索するのではなく、ただその身体を労わるように。

 

「人類では無い私達だからこそ、難病に伏せる方々や、それを見守るしかない家族、医療関係者たちにとって、新しい希望となる事を提督から聞いております。私達は、とても高貴な使命を賜ったのだと、感謝しております」

 

 戦艦水鬼の静かな声には、揺るがない真摯さがあった。不知火は胸に苦しさを感じた。戦艦水鬼の真摯さは、人類に対する無私の献身や奉仕では無く、深海棲艦である自身の存在を、戦闘や殺戮から無縁の領域で証明しようとする、ある種の健全な決意から来るものだと感じたからだ。

 

「私達は、貴方のお役に立てることを光栄に思います」

 

「……どうか、お疲れのでませんよう」

 

 戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人は、細く節くれだった初老の男の手を包むようにして持ったまま、礼節と敬意を持って、再び頭を下げた。彼女達の言葉が、初老の男の心に届いたのだろう。初老の男の肩の震えは止まっていた。礼を、また、ちゃんと礼をさせて欲しい。君たちが、居てくれた御陰で、私の、私の娘が、まだ、助かる可能性が、見えた。ありがとう。ありがとう。初老の男が絞り出すように細々と紡いだ声は頼りなく揺れていて、彼の頬や、唇、顎が細かく震えていた。

 

 

 その光景を見ていた不知火は、呼吸が難しくなるのを感じた。初老の男が漏らした『娘』という言葉と、レ級を優しく見詰めていた彼の眼差しが頭の中で結びつく。大富豪の時、初老の男はレ級に勝ちを譲った。あの時の懐かしそうなものを見る優しい眼は、娘との昔日の思い出と、レ級の快活な笑顔を重ねていたのかもしれない。

 

 

 初老の男はまだ何かを言おうとしていたが、それは言葉にならなかった。その代わりに、彼の感謝は涙となって流れた。初老の男は、戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人に両手を握られている為、その涙を拭わずに俯く。頬を伝うその涙が床に落ちるよりも先に、「ご無礼を」「お許しください」と、戦艦棲姫と戦艦水鬼の二人が、初老の男の涙を指でそっと拭った。港湾棲姫と集積地棲姫が、人間の涙というものを珍しそうに見ていた。少女提督がハンカチを取り出し、初老の男に駆け寄ろうとしている。

 

 

 

「……先ほどの言葉を、今は撤回しよう」

 

 少しだけバツの悪そうな笑みを浮かべた中年の男は、少年提督の肩を叩いた。

 

「深海棲艦との共存は、私などでは想像する事が出来ない形で、実現が可能なのかもしれないね。その限界は、まだ見定めるべきではないと……、そう認識を改めるよ。ただ、時間が掛かるのは事実だと思うよ。人々の憎悪や恐怖が、深海棲艦達というものから遠のくまではね」

 

 悪徳を担ってきた中年の男の言葉には、不思議な重みのようなものがあった。少年提督は、中年の男に何かを答えようとしたが、曖昧な笑みを浮かべただけで何も言わなかった。中年の男が口にする『時間が掛かる』と言う言葉には、“時間が足りない”という響きが在ったからもしれない。不知火は、自分の胸の中に拡がっていく漠然とした不安を跳ね返すことが出来ないまま、この部屋を見渡した。

 

 此処は、地下に拵えられた、研究施設の一室だ。そして、人間社会の上流階級に巣食う闇と、人類の敵であった筈の深海棲艦達が出会う処だった。ある意味で、深海よりも深く、暗い場所なのではないかと思う。しかし、そんな深淵のような場所であっても、一人の人間の大事な思い出と、大切な人が救われて欲しいという切実な祈りと、涙と、それを受け止めようとする純粋で高潔な意思が存在する事は、何かの奇跡だと思った。

 

 ただ不知火達だけが、この景色の中に馴染めず、中途半端な場所に立ち尽くしている。不知火の息苦しさを無視しながら、重みの無い、優しい静寂がこの部屋に満ちていく。木曾は難しい顔で視線を下げていて、天龍はそんな木曾の横顔を見詰めていた。この場に居る“艦娘”という存在が、酷く場違いで異質な存在に感じたのは不知火だけでは無かったようだ。その事を確認して安心しようとする自分に嫌悪する。

 

 自分の存在を疑いながら、野獣がこの場に居てくれたならと思った。あの突拍子も無い下品で馬鹿馬鹿しい言動は、立ち尽くす不知火達を問答無用でこの景色の中に引きずり込んで、不知火の内部を支配する焦燥や不安を有耶無耶にしてくれるだろう。ただ、この場に野獣は居ない。それだけの事だった。私達は、何の為に戦っているのだろう。不意に頭に浮かんだその問いは、不知火の心の深く暗い部分に落ちて、消えない木霊を残した。

 

 








シリアス色は、これから濃くなっていくかもです……。
少しずつ妄想を形にしているような状況ですが、なんとか次回更新を目指したいと思います。
今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む



 

 

 

 他の艦娘達と一緒に早めの夕食を済ませた鈴谷は、ちょっと用があるからと断って、野獣の執務室に向かっている。鎮守府の廊下は静かだった。鈴谷の足音だけが、弾み、逸るように響いている。食事中に覗いた艦娘囀線では、今日の秘書艦である長門がキレ散らかしており、野獣が昼間の仕事をサボっていたらしい事が分かった。よくある事だ。そしてこういう時、野獣は夜遅くまで一人で仕事をすることが多かった。その場合、秘書艦を付き合わせる事は殆どない。今、野獣は一人で執務室に居るのだろうと思うと、少しだけ胸が高鳴った。

 

 

 鈴谷は最近、演習や出撃に出ることが多かった為、野獣と顔を合わせて話をする機会が少なかった。勿論、作戦内容なんかについては言葉を交わすことはあるが、それは仕事上での報告や連絡の域を出ておらず、事務的で無機質なものだった。まぁ鈴谷も、野獣と何か特別に話をしたい事があったという訳でもないし、どうしても一緒にやりたい事がある訳でも無かった。それなのに、最近の忙しい日々の中、野獣と一緒に過ごす時間がちょっと取れなかっただけで、無性に寂しくなり、早く会いたいと思っている自分が何だか気恥ずかしかった。

 

 野獣の方はどうなのだろう、と思う。鈴谷に会いたいとか、思ったりしてるのかな……。例えば野獣も、一人で執務室に居る時には優しい眼になって、携帯端末で鈴谷の写真を見てるとか……? それから、窓の外に目を遣りながら、「鈴谷……」とか名前を呼んでみたりして……? そんな事を想像しながら歩いていると、鈴谷は自分の頬が緩んでくるのを感じて、慌てて首を振った。何この妄想、恥ずかしい……。息を吐き出しつつ、鈴谷は表情を元に戻すべく、両手で頬をむにむにと揉んだ。

 

 廊下の窓を見ると、薄暮れの鎮守府は澄んだ飴色に染まっていた。この景色に流れる穏やかな時間は、鈴谷の心にも流れている。何も要らないから、この時間がずっと続いて欲しいと思う。野獣の執務室が見えてきた。野獣の執務室の扉が僅かに開いて、廊下に白い光を一つ伸ばしている。鈴谷は扉に近づき、軽くノックした。

 

 

「おっ、入って、どうぞ!(いつもよりちょっと掠れた声)」

 

 中から返事が帰って来たので、鈴谷は「失礼しまーす」と、一応の敬礼と共に執務室の中へ入る。同時に、ちょっと驚いた。執務室の隅の方で、VR機器を頭に付けた野獣が立っていて、コントローラーらしきものを握っていたからだ。コントローラーは一般的なゲーム機に付属しているパッドのような形ではなく、細長い棒状をしている。あの姿勢とコントローラーの構え方は、完全に釣りをしている時のものだ。執務を放ったらかしで、釣りゲームでもして遊んでいたのか。ちょっと苦笑を漏らしそうになったものの、執務机の上に積まれた書類の山の殆どが、既に処理済みであるらしい事に気付く。どうやら、仕事自体は片付けた後のようだ。野獣が自分の時間を過ごしているところを邪魔したのなら、悪い事をしたと思った。

 

「お疲れさま」

 

 取り敢えずと言った感じで鈴谷が柔らかく声を掛けると、野獣はVR機器を装着したままで鈴谷の方を見て、口許を歪めた。

 

「鈴谷もお疲れナス!」

 

「もしかして、趣味の時間だった? お邪魔だったら帰るけど……」

 

 出来るだけ何でもない風に言おうとしたが、ちょっと声音がしょんぼりしてしまった。ちょっと卑怯だったかもしれない。野獣が、「いや全然!(気遣い無用)」と、軽く笑ってくれたものの、その言葉を誘導してしまったかもしれないと思うと後ろめたい。しかし、野獣と一緒に過ごす時間が生まれたことの喜びは、そのネガティブな感情に勝っていた。

 

「ん、そっか。ありがと」

 

 自然と笑みが零れる。

 

「礼なんて別にいいゾ~☆」

 

 釣竿を持つ姿勢のまま、野獣は肩を竦めてVR機器を指さした。

 

「どうせコレも、VRスケベDVDを見てるだけなんだからさ(告白)」

 

「えぇっ!? そのコントローラーと姿勢で!?」 

 

 鈴谷の満たされたような笑みが、驚愕で消し飛ぶ。廊下を歩いていた時の、『実は野獣も鈴谷に会いたくて、切ない時間を過ごしていたのでは?』なんていう想像は、一切の現実味を帯びることなく微塵に砕かれた。やるせない気持ちに押し流され、身体から力が抜けそうになる鈴谷に視線を返した野獣は、「うん(素)」と暢気な笑顔を浮かべている。

 

 

「釣りのゲームか何かじゃないの、それ……?」

 

 困惑しつつも鈴谷は、野獣の前方に拡がる空間を凝視した。勿論、そこには何もない。鈴谷には何も見えない。だが、野獣には何かが見えているんだろう。うぅ……、何だろうこのキモチ……。半泣きになりそうになるのを堪え、鈴谷は唇を尖らせる。

 

「あの、何かゴメン……。めっちゃプライべートな時間に、その、お邪魔しちゃって……」

 

 何だか、ちゃんと言葉が出てこない。「やっぱ、今日は帰るね……」と、いじけたみたいにそっぽを向いて言う鈴谷に、「嘘だよ(いつもの)」と、野獣は喉を鳴らすように低く笑った。

 

 

「鈴谷の言う通り、釣ゲーをしてるトコだゾ。あっ、そうだ!(天才の閃き)」

 

 野獣は頭に装着しているVR機器に触れて何かを操作をした。それは多分、一時的にVR機能を中断する為のものなのだろう。野獣はVR機器を頭に付けたままで執務机に近づいて、コントローラーを机の上に置いた。そして、その引き出しの一つを引いて、中から何かを取り出した。それは、野獣が使用しているものと同じ形状のVR機器と、釣竿型のコントローラーだった。仕事で使う机の中に、一体何を忍ばせているのか。鈴谷がツッコもうとするよりも先に、野獣がVR機器とコントローラーを鈴谷に渡して来た。

 

「まずウチさぁ、もう一組、コントローラーあるんだけど……やってかない?(気さくな誘い)」

 

 そう聞かれると、断れなかった。特に断る理由も無いし、寧ろ、野獣がやっているゲームの内容には興味があった。

 

「わ、同時プレイ出来んの? やるやる!」

 

 鈴谷は受け取ったVR機器を頭に着けてから、棒状の特殊コントローラーを握り、野獣の横に立つ。VR機器の中にある視界は、まだ真っ暗だった。

 

「ねぇ、野獣、こんな感じで良い?」

 

「おっ、そうだな!(スイッチON)」

 

 鈴谷の隣に居る野獣が、鈴谷の頭に装着された機器の、その横の方にある何かを操作したのが分かった。すると、まるで瞼をゆっくりと開けて視界が広がるようにして、鈴谷の目の前に別の世界が広がっていった。

 

 

 其処は、山深い渓流だった。

 

 岸としての岩場には瑞々しい木々が茂っていて、その枝葉の間を通った陽光が足元を照らしている。流れる川水は何処までも澄み渡っていて、川底の苔の濃淡までも艶めいて見える。視界を少し上げると、陽の光を受けた木々の葉が、ほんのりと緑色に透けて揺れていた。その向こう側には、緑に覆われた山が見える。更にその向こうには青く晴れた空が遥か彼方まで広がっていて、全力で伸びをしたくなるような開放感を与えてくれた。川の流れる音に混じり、遠くから小鳥達の声も聞こえる。それに続いて、葉擦れの音が周囲の空間を渡っていく。吹いていない筈の風を感じた。心地よい風が緑の匂いを運んできたのだと錯覚するほど、この景色には瑞々しい生命力と美しく清らかな存在に溢れている。

 

 

「ふわぁぁあ……」と、周囲を見渡した鈴谷は、感嘆の声を漏らしてしまう。

 

「このバーチャル世界の出来栄え、ほら、見ろよ見ろよ!(どことなく誇らしげ)」

 

 鈴谷の隣で、野獣が唇の端を持ち上げる。普通、こういう場所で釣りをするのならば、それに相応しい恰好がある筈だが、野獣の姿は執務室に居るときと変わらない。海パンとTシャツ姿のまま、魚籠も玉網も持っておらず、釣竿を肩に乗せるように持っているだけだ。鈴谷も同じだった。二人は普段通りの恰好のままで、この山深い渓流に立っている。それが、この真に迫る景色が仮想現実であることを証明していた。

 

「いや、想像以上の臨場感って言うか、ホント凄いね、これ!」

 

「ダルォ!? 仕事サボりまくってでも、このフィールドを作った甲斐がありましたよ~(超笑顔)」

 

「や、そういうのはちょっと聞きたくなかったかな……、何か冷静になってきちゃう……」

 

「まぁ、細かい事は良いから!(威風堂々)」

 

 職務放棄寸前の行為の、いったい何が細かい事なのか。鈴谷には理解出来ない感性だが、まぁ、野獣はこういう男だ。鈴谷は軽く笑う。それは苦笑の類だったが、今まで野獣と過ごして来た自分には、よく馴染む表情だと感じた。同時だった。ふと気づく。先程までコントローラーを持っていた鈴谷の手にも、釣竿が握られていた。

 

「ねぇねぇ、コレどうやんの? ちょっと難しい感じ?」 

 

 鈴谷は手の中で釣竿を握り直す、それに合わせて、糸の先にある鉤が揺れた。

 

「平気平気! スゲー簡単だから! 投げたい場所を見ながら、竿を適当に振れば良いゾ(取説先輩)」

 

 野獣は川へと向き直りながらそう言って、手にした釣竿を振って見せた。野獣は鉤に餌を付けていなかった筈だが、宙に細く光る糸の先、その鉤に何かが差し通されているのが分かった。あれは、イクラだろうか。いつの間にと思ったが、これが仮想現実の中の出来事であって、ゲームであることを思い出す。餌がオートで付けられていても不思議では無い。

 

「こんな感じ、かなっ?」

 

 鈴谷は息を吸ってから、竿を両手で握り、軽く振った。中空で鉤に餌が現れる。野獣と同じく、イクラだった。その鉤は対岸の傍にある深みへと正確に落ちて、冷たい川の水に冷やされながら沈んで行った。野獣が、「おっ、良いねぇ~(称賛)」と、鈴谷が鉤を投げ込んだポイントを見ながら言う。鈴谷も何だか照れくさくなって、「へへへっ」と笑った。

 

 ゲームであるこの釣りに、技術的なものは関係ない。それは全て機械側が調整してくれるものだ。だから、釣りに対して本格的に向き合っているような人にとっては退屈でつまらないかもしれない。だが、鈴谷のような釣りの素人にとっては、この雰囲気を味わおうと素直に思えば、十分に楽しめるものだと、野獣の笑顔を見て思った。岩が並ぶ岸に並んだ鈴谷と野獣は、当たりが来るのを待つ。

 

 

「ねぇ、野獣。此処ってさ、どんな魚が釣れるの? 岩魚とか?」

 

「おっ、そうだな! あとは大物のマグロとか、カジキですねぇ!(海の幸)」

 

「ガバガバ過ぎィ!? そんなの急に掛かったら引きずり込まれたちゃうじゃん!?」

 

「ゲームだし、まぁ、多少(の無茶な設定)はね?(遊び心)」

 

「実装されてる超絶グラフィックに比べて、設定されるべきリアリティが貧弱過ぎるでしょ……」

 

「理不尽っていう観点から言えば、現実だって似たようなモンだルルォ?(暴論)」

 

「そんな身も蓋も無い……」

 

 鈴谷が困ったように言うと、野獣は喉を低く鳴らすようにして笑った。そして釣竿を片手に持ち、もう片方の手で携帯端末を取り出す。

 

「あっ、おい、鈴谷ぁ! 今からちょっと設定弄るけど、何か付けて欲しいオプションあるかぁ?(気配り先輩)」

 

「いい予感がしないんだけど……、オプションて何があんの?」

 

「色々ありますねぇ! 例えばギャラリー用のモブを表示して、釣りの大会気分も味わえるゾ(ウキウキ先輩)」

 

「へぇ~、ちょっとやって見てよ」

 

「よし! じゃあぶち込んでやるぜ!(映像データ)」

 

 威勢よく言いながら野獣が携帯端末を操作した。が、周囲の景色には何の変化も見られなかった。美しい自然の風景が広がっているだけだった。川の流れる音と、小鳥の鳴き声が響いている。あれ、何も起きてない……、何も起きてなくない? そう思いながら辺りを見わした鈴谷は、自分のすぐ背後に、見知らぬオジサンがブリーフ一枚で佇み、微笑みを浮かべている事に気付いた。「ぎゃあ!」と素の悲鳴が漏れる。

 

「ちょ、ちょっと!! めっちゃビックリしたんだけど!!」

 

 危うく尻餅を付きそうになった鈴谷は、ブリーフのオジサンから後ずさりつつ野獣を睨む。

 

「もっと他にあるじゃん!? 明らかに釣り大会の恰好じゃないよこのオジサン!」

 

「ファッション的にいえば、四捨五入すればイケてる方でしょ?(謎理論)」

 

「……このオジサン、パンツ一丁なんだけど何処を四捨五入すんのコレ」

 

「この景色にも馴染んでるから、まぁ多少(のカジュアル)はね?」

 

「いや、違和感と存在感の塊なんだけど……」

 

「じゃあ、その微笑みオジサン、鈴谷の背後に固定配置しとくから(宣告)」

 

「しなくて良いよ! こんなんずっと後ろに居られたら凄い消耗するよ! 釣りどころじゃなくなっちゃう!」

 

「森の妖精とでも思えば、そう気にはならないゾ(アドヴァイス)」

 

「無理だよ……、オジサンにしか意識がいかないもん……」

 

「しょうがねぇなぁ~(悟空)」

 

 野獣は不満そうに言いながらもオジサンを消して、代わりに、この空間の季節を弄ったようだ。瑞々しい緑をしていた木々の枝葉が、仄かな橙と鮮やかな朱色のグラデーションを作り始める。暖かな色を身に纏った葉が舞い落ちてきて、足元の岩場を彩った。秋だ。鈴谷は視線を上げる。空が、さっきよりも高くなった気がする。この季節変更のオプションだけで良いのでは……? という質問を野獣にしようと思った時、鈴谷の竿に当たりが来た。

 

 野獣が川面を見て、「おっ、マグロか!?(面白がる顔)」と、テンションを上げる。「げっ、マジで!?」と、顔を強張らせた鈴谷の方は軽く悲鳴を上げそうになったが、身体ごと持っていかれるような、怪物じみた強烈な引きじゃない。でも、強い。「おっ、やべぇ! 大物だな!(歓声)」という、溌剌した野獣の声が聞こえる。仮装現実であっても、確かに糸を伝い、竿を握る手に届いて来る、魚の活力と息吹。初めての経験に、鈴谷は自分が興奮しているのを感じた。唇をペロッと舐めて、竿を引く手に力を籠める。鈴谷の鼓動に水音が応える。透き通る川の水と木漏れ日を纏う魚体が、水面の上で燦然と翻るのを見た。

 

 

 

 

「これは……、山女魚じゃな?」

 

 鈴谷は、自分で釣り上げた魚の糸を掴む恰好で持ち上げ、ちょっとした感動を味わいながら眺めていると、傍まで来ていた野獣が膝立ちになった。魚体の大きさを測るつもりのようだ。野獣は何かを取り出そうとして、それが存在しないことに気付いたように「あっ、そっかぁ(失念)」と呟いていた。本当ならスケールメジャーでも使うつもりだったのだろうが、此処は仮想空間のゲーム内である。メジャーの代わりに、手の指で適当な尺を作った野獣は、山女魚の体をざっと図った。

 

「だいだい25(センチ)……、やっぱ大物だな!」

 

 野獣は膝立の姿勢のままで笑って、「やりますねぇ!(健闘を称えて)」と、右手を挙げた。

 

「鈴谷って、釣りの才能あるかも」

 

 鈴谷も笑って、野獣の右手を、釣竿を持っていない方の手で叩こうとしたが、糸を持っているので無理だった。それを残念に思った時には、鈴谷が釣り上げていた山女魚の魚体は既に粒子となって、この景色の中に解けていこうとしていた。仮想現実なりの『キャッチアンドリリース』なのだろう。山女魚が消えた後には、鉤だけが糸の先で揺れていた。それを確認してから、鈴谷は野獣の右手を、ちょっと強めに自分の右手で叩いた。野獣の手は、仮想現実では無い。実在する温度があって、ヒリヒリするほどに、皮膚に触れる感触があった。鈴谷が現在感じている高揚もまた、その胸の内に確かに存在している。

 

 鈴谷と野獣は、釣りを続ける。今度は野獣にも当たりが来た。鈴谷にも、また大物が掛かった。その現象自体は、ゲームとして設定されているものだったのかもしれない。だから、水面下の魚体と対峙する瞬間に感じた興奮や緊張は、多くの人を魅了する『釣り』の面白さの、その断片的なものでしかないのかもしれないが、それでも鈴谷は、この時間を楽しむ事が出来た。それは多分、野獣と一緒だったという要素も大きいだろうと思う。ふと、テレビか何かでも聞いた事のある、ありきたりで陳腐なフレーズが頭に浮かぶ。

 

 食事は、何を食べるかでは無く、“誰と”食べるか。

 旅行は、何処に行くかでは無く、“誰と”行くか。

 

 それは、真実だと分かった。

 

「野獣ってさ、何処か行きたいトコとかある?」

 

 曖昧な問いだが、何となく聞いてみたくて、釣竿を持ったままの鈴谷は横目で野獣を見る。川の流れる音と、小鳥たちの声が響いた。秋色に染まった枝葉の隙間からは、和らいだ陽の光が漏れている。その燦きに誘われるように、野獣は川面から視線を上げて、「そうですねぇ~……(思案顔先輩)」と、指で顎のあたりに触れる。少ししてから、野獣は穏やかな表情で鈴谷を見詰める。

 

「僕はやっぱり王道を往く、ソープ系、ですか(覇王の威光)」

 

「サイテー! あのさぁ、鈴谷の質問の意図はさぁ……そういうんじゃないんだよね?」

 

「おっ、そうだな!(頷き) でも、特に行きたい所なんて無いからね、しょうがないね」

 

「……ふーん。そっか」

 

「鈴谷はどうだよ?(質問はコミュニケーションの基本)」

 

「えっ」

 

 鈴谷は野獣に向き直る。野獣の方はもう川面を見ていて、玄人っぽく竿を揺らしていた。野獣が黙っているので、鈴谷が何かを喋る番だと気付く。ただ、自分の行きたい場所というのは咄嗟に出てこなかった。頭の中から候補を見つけるべく、さっきの野獣と同じように視線を上げて考えようとするものの、この鎮守府では無い何処かに行こうとするイメージが、ネガティブな印象として鈴谷の思考を阻んだ。

 

「鈴谷も、……あんまし無いかな」

 

 結果、帰って来た自分の質問に対し、そんな風に面白味にかける答えしか出来なかった。深く考える事を恐ろしくも思った。この質問は、今の楽しい雰囲気にそぐわないものだったのではと、ちょっと落ち込みそうになる。ただ、野獣は「あっ、そっかぁ(奇遇)」と、穏やかな表情で頷いてくれた。

 

「じゃあまず、行きたいトコを探してみますかぁ~、oh^~?」

 

「探すって……、このVR機器に、旅行雑誌でも読み込ませでもするの?」

 

「まぁ、似たようなモンだゾ(不敵な笑み)」

 

 そう言いながら、野獣は釣竿を肩に乗せるようにして片手で持ち、空いた方の手で携帯端末を操作する。

 

「まずこのVRさぁ、他の仮想風景にもアクセス出来るんだけど、……飛んでかない?(世界旅行)」

 

 少年のように言う野獣の声に引かれて、鈴谷も挑むように笑って見せた。「面白そうじゃん」と、自然と言葉が漏れる。鈴谷は、野獣という男に振り回されるのでは無く、それに追従して応答できる艦娘になりたかった。野獣の真似をして鈴谷も、釣竿を肩に凭れさせるように持つ。それを確認した野獣が携帯端末を手早く操作した。

 

 すると、鈴谷達が存在していた世界が、光の線となって解け始める。

 

 濃く茂っていた木々も。暖かく色づいた枝葉も。そこから零れた木漏れ日の揺らめきも。空も。山も。地面も。微光を放つ粒子へと分解されて、何処かへ運ばれていく。鈴谷は足元を見る。その下には底の見えない暗黒が広がっていた。頭上にも、無限遠の虚無が広がっている。鈴谷の脳裏に、夜の海が想起された。寒気を感じて、唾を飲む。そのうち、また別の光の粒子が鈴谷達の周囲に降り積もりながら、違う景色を象っていく。再び空と大地が生まれる。平面的な風景に、実在感としての奥行きが齎された。

 

 

 順繰りに、日本のものでは無い風景が鈴谷の目の前に現れていく。

 それは、世界遺産の数々だった。

 

 野獣と鈴谷は、フィレンツェの歴史地区や、アンコールワット、マチュピチュ、ピラミッド地帯、モン–サン–ミシェル修道院など、仮想空間に構築された世界各地の色々な場所へ訪れた。どの場所の風景も緻密であり精巧であり、こういうVRのデータは文化遺産の保護的な側面もあるのかもしれないと、現実的な思考が鈴谷の頭を過った。同時に、野獣と鈴谷が、こんな風に何処か遠くへ出かけることは、多分この先、ずっと無いだろうという予感もしていた。色んなものを置き去りにするようにして、風景は無慈悲に切り替わっていく。

 

「やっぱり俺の執務室も、ヴェルサイユ宮殿風にするかな~、俺もな~(果てしなきエレガンス)」

 

「そんな事したら、また長門さんにどやされるよ……」

 

 野獣は、相変わらず馬鹿な事を言う。鈴谷はそれにツッコむ。鎮守府の日常の中に居る二人は、この世界各地の風景に悲しいぐらい溶け込めていなかった。変容していく世界に取り残されたまま、その時間の上を滑っているような感覚だった。だが、そんな事には気づかないフリをしながら、鈴谷と野獣は、世界を巡る。胸を締め上げてくる心細さなど、実は何の問題も無いんだと開き直ろうとした。鈴谷はこの束の間の旅行の中で、憂鬱な予感を何とか思考の外を押しやろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

「おっ、これで最後だゾ」

 

 夕暮れの万里の長城。その城壁の通路の上に、鈴谷と野獣が立っている。此処がVR世界旅行の終着点らしい。終始、野獣は楽しそうだった。そして、何処か無理をしている様にも見えた。野獣の声が、いつもより少し掠れている所為かもしれない。

 

「今まで廻ったトコ、全部行ってみたくなったよ」

 

 城壁の縁に立った鈴谷は、遠くを眺めながら言う。それは正直な思いだった。靴音が響く。石を踏む音。遥か遠くまで広がる景色と、其処を渡ってくる風の匂い。鮮烈な夕陽の眩しさ。その全てが仮初であっても、此処に居る鈴谷の鼓動は、何処までも本物だ。この感情は、鈴谷のものだ。鈴谷だけのものだ。それがどんな経緯で生まれたものであっても、それを宿したものが人間でなくても、心や想いは、誰のものでもない。私は、野獣と一緒に、色んな所に行ってみたい。

 

 

 でも、それは叶わないんだろうな。

 

 

「おっ、そうだな(同じ方向を見ながら)」

 

 野獣の落ち着いた声音は、やっぱりいつもよりも掠れて聞こえた。二人で景色を眺める。今だと思った。これは確信だった。今、言わなきゃいけないと思った。

 

 

「あのさ、野獣」

 

 自分で思っていたよりも、随分と硬い声が出た。その所為だろう。「おっ、どうしました?(怪訝)」なんて、野獣にしては珍しく身構える様な表情を浮かべていた。それが何だか可笑しくて、鈴谷は緩く手を振った。

 

「いや、そんな真剣な話をするわけじゃないんだけど……、ん~、でも、真剣な話って言えば、真剣な話かな」

 

「どっちだよ?(素)」

 

「じゃあ、その中間って事にしよっか」

 

 鈴谷は、どんな表情を浮かべて良いのか分からず、少し迷ってから結局、困ったような笑顔を浮かべた。

 

「終戦後の鈴谷達が、どうなるかって言う話なんだけどね」

 

 横目で見る野獣の表情が、ほんの少しだけ強張ったのが分かった。鈴谷はそれに気づかないフリをして、また景色に視線を戻した。自分は今、どんな表情をしているのか分からなかった。ただ、どうしても伝えなきゃいけない事があった。だから、一つ呼吸をして、震えて来る喉で唾を飲む。野獣の方を見る。この話は、笑ってするべきだと思った。真面目な顔でするべきじゃない。冗談めかして、何でも無い風を装って、この日常の中に溶かし込んでしまおうと思った。

 

 

「世間がどんな選択をしたって、鈴谷は、野獣を責めることなんて無いから」

 

 でも、出来なかった。鈴谷は、やっぱり困ったような、ぎこちない笑顔を浮かべるのが精いっぱいだった。真剣な話だけど、まぁ鈴谷的には、全然気にしてないからさ~。そんな態で、言うべきだと思っていたのに。全然、出来なかった。でも、声の震えは収まっていたと思う。ただ、何かを言おうとした野獣が、明らかに言葉を詰まらせるのが分かった。

 

「いやっ! 鈴谷達の未来を悲観してる訳じゃないよ!? 」

 

 沈黙が訪れるのが恐ろしくて、鈴谷は慌てて言葉を繋ぐ。

 

「でも、その何て言うのかな……、これって、凄く難しい話じゃん? そもそもさ、艦娘が人間社会の中に入っていくにはさ、法律だとかで滅茶苦茶細かい決め事が一杯あってさ、それを一つずつ厳密に定めていく仕事とかも山みたいにあるだろうし、それは、何か一つにでも綻びがあったら上手く行かなくなるような、とんでもなく精密な事だろうしさ!」

 

 鈴谷は、自分の左手の薬指に嵌っている指輪を意識した。

 仮初の景色の中にあっても、鈴谷の心は本物だ。

 

「……上手く言えないんだけどさ。鈴谷達は、これから社会っていう巨大な意識によって、色んな選択肢を通過する事になるワケじゃん? それってやっぱり、どう転んでもギリギリの綱渡りだと思うんだ。その綱の幅をさ、何とか大きくするために、野獣とかが死ぬ気で知恵絞って、鈴谷達と色んな人達との間に立ってくれてさ、超頑張ってくれてるって、鈴谷は知ってるよ。でもさ、こんなことは言うべきじゃないんだろうけど、社会とか世間が相手なんだし、どうやったって、その綱が途中で切られちゃう可能性もあるし……。それってつまりさ、鈴谷達はさ、……鈴谷達でいられなくなる可能性もあるワケじゃん?」

 

 

 そうなったら、鈴谷は世界を呪うだろう。

 難しい貌になった野獣から目を逸らさず、鈴谷は左手を強く握る。

 

 野獣が、鈴谷を、鈴谷にしてくれた。この鎮守府で関わった誰もが、鈴谷を、鈴谷にしてくれた。そして、また鈴谷も、艦娘である誰かを、“個”としての誰かにしていたのだと思う。でも、その日常は、いつか終わりが来る。人間は、深海棲艦達を相手に優勢を維持している。社会が享受する平穏は、より頑丈になった。深海棲艦を圧倒しつつある艦娘達は、守って来た人間達によって、その存在を問われることになる。息が上手く出来なくなってきた。

 

「でもさ、もしもだよ? もし、そんな時が来たってさ、鈴谷は、野獣を責めないから」

 

 ちょっとずつ視界が揺れて来る。険しい表情をした野獣の顔が滲み始める。不味いと思った。溢れそうになる何かを言葉に変える。「他の娘たちはどうかっていうのは、今は置いといてさ」と、冗談っぽく言う為に、震えそうになる喉に力を籠めた。この何気ない日常でしか伝えられない言葉だ。間に合わなくなる前に、言っておきたい。轟沈とは全く違う形で、もう二度と会えなくなるような別れの時になって、あの時言っておけばよかったと後悔したくない。

 

 

「少なくとも鈴谷は、絶対に野獣を恨んだりしないよ」

 

 笑え。笑うんだ。

 

「うん。言いたかったのは、まぁ、これで全部かな」

 

 嘘だ。言いたい事は、まだある。まだあるよ。まだあるんだよ、野獣。鈴谷は、ずっと鈴谷でいたいよ。野獣の傍で、鈴谷でいたい。私達の為に色々と頑張ってくれて、ありがとう。しんどい事、一杯させちゃって、ほんとごめん。でも今は、それは言うべきじゃないと思った。言わなきゃいけないと思うことはともかく、言いたいことを言うと泣いてしまいそうだったからだ。鈴谷は自分に嘘を吐きながら、自分がちゃんと笑えている事に安心した。

 

 そんな鈴谷を見詰めながら、野獣もまた苦笑を浮かべていた。疲れた笑みだった。ありがとナス。多分、野獣は、そう言ったのだと思う。らしくない掠れた声で、いつもよりも小さな声だったから、鈴谷もちょっと自信が無い。野獣が、続けて何かを言おうとした時、鈴谷達が居る景色が歪み、解け始めた。夕陽と空が消え、視界が暗闇に染まる。3秒ほど暗がりを眺めていたが、VR機器がその映像を終了させたのだという事に気付く。

 

 鈴谷は被っていた機器を脱ぐ。其処に在るのは、山深い渓流でも、仮初の世界でも無い。慣れ親しんだ、野獣の執務室だ。安心する。腕時計を見ると、結構な時間を野獣と過ごしていたようだ。窓の外も、もう真っ暗である。VR機器を脱いだ野獣は、何処か思い詰めた様子で、視線を下げて床を見ていた。

 

「いや、何かさ、遊んでたら喉乾いた……、喉乾かない?」

 

 今は沈黙が怖くて、鈴谷はワザとらしいほどに明るい声で言いながら、執務室の端に備え付けられた冷蔵庫へと向かう。野獣が顔を上げ、鈴谷に向かって何かを言おうとしている気配を感じたが、気付かないフリをした。普段通りの自分を意識する。もう難しい話は終り、閉廷。野獣が勝手に持ち込んだものである冷蔵庫を開けると、中には缶ビールが詰め込まれていた。

 

「わ、ビールしか無いじゃん!」

 

 鈴谷は野獣に振り返って、笑う。

 

「奥の方よく見ろよホラ、他のモンも入ってるだルォォ!?」

 

 野獣も笑って、鈴谷の隣まで歩いてきた。それから、冷蔵庫を占領する缶ビールの群れの中に手を突っ込んでゴソゴソガチャガチャとかき混ぜていたが、その途中で、何かを諦めるようなクソデカ溜息を吐き出した。野獣は一本のペットボトルを取り出し、鈴谷の方を見た。

 

「アイスティーしか無かったけど、良いかな?(いつもの)」

 

「うん。ありがと。ごめんね」

 

 差し出されたペットボトルを受け取って、鈴谷は笑ってから洟を啜った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうぞ、司令」

 

 少女提督が携帯端末のディスプレイを眺めて苦笑を浮かべていると、優しい表情を浮かべた野分が、熱いミルクコーヒーを淹れてくれた。

 

「あー……、ありがとう」

 

 少女提督は、手にした携帯端末を机の上に置いてカップを受け取る。時刻は深夜の1時を過ぎた頃だった。窓の外には、雲の無い夜空で星々が瞬いていた。

 

 この鎮守府に来てから、“研究・技術者”として仕事をすることが増えた。そして、深海棲艦達に対する認識が変わったのを実感している。少女提督の役割は、深海棲艦と人間の間に立つことだった。深海棲艦達の持つ力は、人間の手に負えないものだ。彼女達が扱う法術をそのまま人間に適応することは難しい。しかしその巨大で異質な力には、大きな可能性が秘められている。医用工学、生命工学への応用を経ることによって、深海棲艦達の持つ法術は、人間を救う事が出来るようになる。

 

 先日の、初老の男の涙を思い出す。彼の娘への治療は、名だたる名医達と、少年提督と、そして数名の深海棲艦の協力の下で既に行われた。これは世間には公表されていないが、娘は快復に向かっている。一度だけ初老の男から連絡があり、非常に丁寧な礼と共に、「何かあれば、いつでも声を掛けてくれ」とも言われた。恐ろしいほどに真剣な声だった。それに対して少女提督は、曖昧な返事をしただけだった。それに続いて中年の男からも、「また近い内に会えないか」と連絡あった。金の匂いを嗅ぎ取ったのだろうか。まぁ、とにかく最近は色々とあって、“提督”としての仕事を溜めてしまい、こうして徹夜で書類の山を崩しているところである。それに付き合ってくれている野分には申し訳ない気分だった。

 

 

「野分も、もう終わってね……、残りはやっとくからさ」

 

「いえ、最後まで付き合いますよ」

 

 疲れた様子を見せず、野分は微笑んでくれた。本当に頼りになる。「いつもゴメンね」と謝ってから、出そうになる欠伸を噛み殺してミルクコーヒーを啜る。肩の力がすっと抜けるような、ちょっと甘くて、ホッとする味だった。美味しい。疲れと緊張が解れて、溜め息が漏れた。その姿が、酷く疲れているように見えたのだろう。此方を心配そうに伺う野分の視線を感じた。再び漏れかけた欠伸を飲み込み、少女提督は苦笑を漏らす。

 

「仕事をサボりたくなる野獣の気持ちが、今ならちょっと分かるかも」

 

「奇遇ですね」

 

 そう言った野分も、秘書艦娘用の執務机に積まれた書類を一瞥してから「私もです」と、少女提督と同じように微苦笑を浮かべた。つまらない冗談が心地良い。もう一口ミルクコーヒーを啜ろうとすると、野分が、執務机の上に置かれた携帯端末のディスプレイに視線を流して、優しい表情を見せた。

 

「あぁ、昨日の……、良く撮れてますね」

 

 少女提督は「でしょ?」と笑う。

 

 携帯端末には、握り箸で牛丼を食べる北方棲姫が映っていた。地下捕虜房にある談話室のテーブルに座った彼女は無邪気な笑みを浮かべていて、その口許には御飯粒がついている。北方棲姫の後ろには、同じく牛丼を手にした集積地棲姫が唇をペロッと舐めている姿も見える。彼女達が食べている牛丼は、少年提督が地下の研究施設のキッチンスペースで作ったものだ。

 

 深海棲艦達の戦闘能力をスポイルしつつも、彼女達が持つ超然的な力を封じる器としての肉体を調律すべく、少年提督は定期的に地下捕虜房に出向いている。昨日もそうだった筈だ。彼はその仕事の合間に、深海棲艦達と一緒に料理を作ったりしていた。彼は深海棲艦達に対する教育に熱心だった。秘書艦見習いの中で社会的な常識を学ばせるだけでなく、生活における知恵や知識にも、彼女達に触れて貰おうとしていた。その為の食材を多量に持ち込んでいくのは野獣らしく、地下の捕虜エリアの一室に専用の業務冷蔵庫を運び込み、エリアの一部が厨房に改造されている事にも昨日気付いた。野獣と言う男の無茶苦茶さは知っているつもりだったが、その縦横無尽な振る舞いは場所を問わないという事を改めて実感した。

 

 少女提督と野分も、昨日は夜まで地下の研究施設にいたので、少年提督が作った牛丼をご馳走になったのだが、少し悔しいが、確かに美味だった。少年提督は、作り方は野獣に教わったのだと言っていた。談話室に集まった他の深海棲艦達も、彼が作った牛丼を美味しそうに食べていたのを思い出す。携帯端末に映し出されている北方棲姫は、その時に少女提督が撮ったものだ。

 

 

「そういえばさ、瑞鳳はもう、野獣に卵焼き持って行ったの?」

 

「えぇ。一昨日の昼頃だったと思いますけど、野獣司令の執務室に向かう姿を見ましたよ」

 

「は~……瑞鳳は青春してるなー……」

 

「あの、微妙に辛そうな表情ですね」

 

「や、そんな事は無いよ? 私はさ、瑞鳳を応援してるよ?」

 

「……その相手が野獣司令だと、ちょっと思う所がある感じですか?」

 

「うん」

 

「即答ですね」

 

 野分は小さく笑う。少女提督は、「そういう野分はどうなの?」と、冗談っぽく訊いてみた。野分は意外なことを訊かれたかのように「えっ」と、何度か瞬きをして見せた。

 

「いや、だから、野分から見てさ、野獣ってどうなの?」

 

 少女提督の興味深そうな視線を受け止める野分は、いつもの真面目な思案顔になって俯き、顎に手を当てる。

 

「非常に高い身体能力と鋭い観察眼を持った、優秀な“提督”であると思います」

 

 少女提督の質問は冗談を含む軽いノリなのに、野分から帰ってくる答えは彼女の表情と同じくらい真面目なものだった。少女提督が“提督”として初めて彼女を召還した時から、野分はずっとこんな感じだ。野分の言葉は率直であり、誠実である。会話をする相手の軽口や冗談にはツッコみを入れたりするものの、彼女自身の口から出る言葉には、そういった遊びが極端に少ない。

 

「まぁ、それはそうなんだけど……。聞きたいのそういう事じゃなくて。端的に言えば、野分にも気になる相手が居るのかなと思って」

 

 訊いてみると、「特には居ませんよ」と、野分はまた微苦笑を浮かべた。

 

「ふ~ん……。じゃあそういうひとが居て欲しいって思う時は?」

 

 

「恋愛というものに興味が無いワケではありませんが、あまり意識したことがありません」

 

「そっか。うん。何か、野分らしい答えでほっとした」

 

「どういう意味ですか……」

 

「いや、淹れてくれるミルクコーヒーはいつも美味しいし、私とケッコンして欲しいなって」

 

「はいはい」

 

 つまらない冗談につきあってくれた野分は、優しい微苦笑を崩さずに手元の書類を広げていく。仕事に戻ろうとする野分を横目に見てから、少女提督も手元のファイルを開いて視線を落とした。

 

 幾つかの書類が纏められていて、艦娘を対象とした『“抜錨”状態の無効化術式』、『強制弱化・解体術式』の研究報告の内容が目についた。艦娘を強化する為の施術式については研究が進んでいるものの、その対極にある“艦娘を弱体化させる”研究というものには関しては、最近まで殆どなされていなかった。そもそも提督という存在は、召還した艦娘達の自我を奪い、忠実な道具に変える事を容易く行うことが出来たし、戦場に出す艦娘を弱体・無力化するメリットも無かった。便宜的に『鎮守府』と呼ばれる各地の基地でも、管理できる範囲を超えて召還されてしまった艦娘達は、人格と思考を破壊されて人体実験に回されて来た。人類が追い詰められていた激戦期の頃は、次から次へと艦娘達が召還されていたので、こういったケースは特に多かった。そして艦娘達自身も、そういった現実を冷静に受けとめられる程に、艦娘という種族は人類に抵抗する術を持っていなかった。

 

 そういった背景が存在する中で、今になって本営は“艦娘の弱体化”を躍起になって進めようとしている。その狙いを予想することは容易かった。本営は、深海棲艦達との戦いが終わったあとの事を想定している。

 

 深海棲艦達よりも人類が優位に立ち、仮初ではあっても平穏な時間が社会に流れるようになったのは間違いない。海を戦場にしたこの戦いにも、決着らしきものが見えようとしている。世間はそんな風に思っている。艦娘達の人権を訴える団体の声も日増しに大きくなって来ているし、艦娘達を人間の社会へと迎え入れる為の、その法整備も進んでいる。終戦を迎えれば、軍属から離れる艦娘達も出てくるのは間違いない。それを、今の社会が望んでいるからだ。そうなれば、艦娘達は各々の“提督”の手から離れる。社会との新たな接点を得る。彼女達は、ある種の“個”としての自由を手に入れる事が出来るようになる筈だ。

 

 だが、本営はそれを許そうとはしていない。例え人類を救った艦娘であろうとも、人類と同等の存在として、この社会の中に並び立つことを拒む意図が、少女提督の持つファイルの内容からは透けて見えた。本営は、艦娘達が海では無く、社会の前に立った時の事を想定している。

 

 

 艦娘の深海棲艦化現象。

 

 終戦を迎えた艦娘達の未来を考える上で、これは無視できない。だからこそ本営は、この事実を公表するタイミングを慎重に見計らっている。少女提督の想像は、悪い方へ悪い方へと流れていく。艦娘を対象とした弱体施術式の研究は、『命令によって、人間を攻撃可能な艦娘を作る』という、かつての狂気じみた研究内容を思い出させた。

 

 

 平和になった社会の何処かで、艦娘が人間を攻撃し、殺害し、惨殺したとする。それが仮に極めて例外的な事象であっても、超人的な肉体能力を誇る艦娘が、一般の人間を殺傷する事実が世間に示されれば、艦娘を巡る世相は一気に変わる筈だ。

 

 人間にとって艦娘という存在は危険なものになる。この仕組まれた悲劇によって、艦娘達は、人間にとっての隣人でも恩人でもなくなる。そして深海棲艦達と同じく、人間による変質と支配を受けるべき存在だと見做され、全ての艦娘達は確立された弱体化施術式によって無力化される。人間という種族の前に、艦娘達は跪くことになる。艦娘達の人権も尊厳も否定するような、今まで以上に隷属的な関係も世間の中で是とされることになるだろう。艦娘と世間というものの距離は、大きく広がる。本営は大手を振って艦娘達の存在を掌握し、艦娘一人一人が完全に管理される。そうして、道徳や倫理という観念から艦娘が十分に遊離したタイミングで『艦娘の深海棲艦化』という事象を世間に公表すれば、艦娘は事実上の深海棲艦として世間に認識されるだろう。そうなれば次は……。

 

 

 そこまで考えた少女提督は、目をきつく閉じて息を吐き出した。瞼を指で抑える。安易で陳腐な想像が頭の中で勝手に膨んでいくなかで、“深海棲艦との共存”という言葉が、少年提督の落ち着き払った微笑みと共に脳裏を過る。

 

 

 何もかもが引き返せないところまで来ているような、生ぬるい焦燥感を胸の奥に感じた。コキコキと背中と肩の骨が鳴る。横目で、艦娘用の執務机に座っている野分を見た。彼女は、真剣な眼差しで書類の文字を追っている。自分の職務に真摯に向き合っている。軍属の身で背負う役割が、この世界と野分を繋げている。それは圧倒的に強固であり、野分を“艦娘”たらしめる特別な意味を持っているのも間違いなかった。社会の中に艦娘を招き入れるという事は、この繋がりを希薄にすることだと思う。深海棲艦の脅威が遠ざかりつつある今の社会が、艦娘達への感謝を込めてそれを望んでいたとしても、それは良くも悪くも、今までの彼女達の存在意義を曖昧にすることになるのではないだろうか。

 

  それは同時に、“艦娘”という巨大な認識の中から、目の前にいる“野分”という“個”を取り出し、肯定することと同義であると思う。終戦を迎えた後、“艦娘”として命を懸けて戦ってくれた彼女に釣り合うだけの、本当に相応しい居場所や役割といった、厳粛な対価があるべきだ。それすら否定しようとする本営が憎い。その憎悪は連鎖的に、社会全体にまで向きそうになる。

 

 だが、少女提督は、その感情を飲み込まなくてはならない。少女提督の目に社会が映る限り――、その社会を守る為に艦娘達が使命を果たしている限り――。少なくとも今は。世間の人々が艦娘を必要している今は、少女提督も、その役割の中で使命を果たさねばならない。戦いはまだ終わっていないのだ。だがその事実こそが、人間社会での艦娘の存在を、世間に保証させている。終戦という言葉の背後には、艦娘という種が通過することになる人類の選択が待っている。

 

 結局のところ艦娘達は、深海棲艦と同じく、社会の隙間へと追いやられるしかないのではないか。出口の見えない思考が諦観へと着地しそうになって、少女提督は軽く頭を振った。正しいと思える答えは出ない。ただ、艦娘達の深海棲艦化という厳然として聳える巨大な問題に対して、非道であっても何らかの回答を用意しようとする本営は、世間の人々が願う“平和”というものに対して誠実なのかもしれない。

 

 少年提督や野獣、それに、此処の艦娘達は間違いなく、“艦娘”というものと世間との距離を縮めて来た。それは絶対に無駄では無いと言い切れるし、そこに費やされた時間は何よりも尊いものだった筈だ。しかし、艦娘や社会が抱えた現実を前にすると、それはこんなにも儚く脆いものなのか。呼吸が震える。悔しくて仕方なかった。仕事をサボりたくなる野獣の気持ちも分かる。少女提督は、先程の自分の言葉を思い出して、その言葉の半分を、心の中で取り消した。分かるワケが無い。野獣が、どれだけの想いを込めて世間の観念と戦ってきたのかなど、簡単に“分かる”なんて言っていいものじゃない。唇を噛む。不意に、少年提督の顔が浮かんだ。彼は微笑んでいる。

 

 

「あの、司令……、ご気分でも優れませんか? やはり、もうお休みになられた方が……」

 

 心配そうな野分の声が聞こえて、少女提督は天井を仰いだままで深呼吸をしてから、大きく伸びをした。首を左右に曲げながら、野分に視線だけを向ける。

 

 

「んん~、大丈夫だって。ちょっと眠いだけ。ほんと大丈夫だから」

 

 

 野分にそう言いながら、少女提督は手にしたファイルを一旦閉じて横へと退かし、他の書類に手を伸ばす。野分は何かを言いたそうに口を動かしていたが、結局は何も言わず、仕事に戻った。初期艦である彼女には、心配と苦労ばかり掛けて申し訳なく思う。私は、彼女に何をしてあげられるのだろう。何を返せるのだろう。そしてこの自問も、今までで何度目なのだろう。世界は然るべき段階を踏んで、仕組まれた悲劇を待ちながら、設計された未来へと進んでいく。少女提督は、机の上に置いたままの携帯端末を一瞥した。そのディスプレイには、牛丼を手にした北方棲姫の笑顔が映し出されている。

 

 激戦期から今まで、人類は艦娘達に犠牲者を強いるような無茶な鹵獲を行いながら、凄惨な生体実験を繰り返し、深海棲艦に関する途轍もなく膨大なデータを採取してきた。しかし、それらのデータを全て駆使したとしても、握り箸で牛丼を美味しそうに食べる北方棲姫のこの笑顔を網羅する事は出来ない。それだけは間違いない。しかし人類はこれからも、そういった目に見えないもの全てを形而下に置いて、価値を定め、優劣を決めていくのだろうと思う。その結果として深海棲艦だけでなく艦娘達までをも踏み躙りながら、人類は何を仰ぐのか。出口の無い思考が巡る内に、気付けば携帯端末がスリープモードになっていた。ディスプレイに映し出されていた北方棲姫の笑顔は消えて、真っ暗な闇が在るだけだった。

 

 

 











今回も最後まで読んで下さり、有難うございます!
いつも応援して下さるだけでなく、とても貴重な御指摘も寄せて頂いて、本当に感謝しております……。

内容も更新も亀のような速度ですが何とか更新を続けつつ、完走を目指したいと思います。
次回からもシリアス色が強くなると思いますが、皆様のお暇潰しにでもなれば幸いです。







目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

摩擦

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 なぁ、俺の携帯端末に

『■■市▲▲▲小学校での、不審者侵防犯訓練について』

 っていう通知が来てたんだけどよ、何だよコレ?

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 陸奥や私のところにも来ていたな

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 えぇ。大和や武蔵達にも通知が来てたみたいだけど

 

 

≪大和@yamato1.●●●●●≫

 此方と武蔵の端末には

『●●市◆◆小学校での、交通安全教室について』

 という通知が届いていました

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

 子供達と一緒に、私達も交通ルールを学んでくればいいのか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 まぁ、そんなところですねぇ!

 地元の学校やら警察関係者達にも、本営が話を付けてきたみたいっすよ

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 艦娘の皆さんがこういった形で児童達と交流を持つことに対しても、保護者の方々から理解を得ることが出来たとのことです

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 お前らが子供達と接するイベントっつーか、こういう機会に対しては世間からも安心感を持って貰えてるってハッキリ分かんだね

 

 

≪瑞鶴@syoukaku 2.●●●●●≫

 本営が率先して動いていることについては、割と不穏な感じですけどね

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 まぁ確かに、ちょっとキナ臭ぇよな

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

 でも、これってちょっと凄いことですヨ!

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

 人々の生活風景の中に、私達の存在を認めて貰えたと考えれば、とても喜ばしい事ですね

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 流石に、気分が高揚します

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 何て言うかこう、鈴谷達がより社会に浸透していってる感じがするね~

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 あぁ、胸が熱くなるな

 その信頼に応えるべく、現場の訓練では私もベストを尽くそう

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @nagato1. ●●●●● おっ、頼むゾ!

 でも現場じゃ、長門は『不審者役』だから、あんまり気合いを入れ過ぎないでくれよな~

 子供達の……トラウマになっちゃう……!

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 ちょっと待て、私は子供達を守る方ではないのか

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そうだよ。だってお前、“少年提督@Butcher of Evermind”と絡んでるときは、いっつもボディビルダーみたいにテカテカしだすから、(不審者役になるのも)多少はね?

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 訂正しろ貴様!! そんなテカっていた事などは無い!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 でも、もうそういう形で話が進んでるから、しょうがないね

 不審者役の時は、語尾には忘れずに『ウホ』と『ゴリ』を付けて、どうぞ

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 どういう世界観の不審者なんだ!? もう許せるぞオイ!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 やっぱり俺は、お前らの個性を活かした活躍に期待してるんだよね

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 そうやって言葉面だけ綺麗に言うのやめなさいよ

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

 その流れで行くと、私は自身の頑丈さを活かしてトラックにでも激突すれば良いのか?

 

 

≪大和@yamato1.●●●●●≫

 えっ、何それは

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 どういう事なの……?

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

 交通ルールを守らなければ、とても危ないという事を子供達に示せるだろう

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @yamato2.●●●●●

 お前にトラックが突っ込んだりしたら

 トラックの方がクワガタみたいになって大破するんだよなぁ……

 

 

≪リシュリュー@Richelieu1.●●●●●≫

 リシュリューにも『不審者防犯訓練』の通知が来ていたのだけれど

 まさか、リシュリューに不審者役になれとでも言うつもり?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @Richelieu1.●●●●● (・∀・)ウン!!

 いつもみたいに凛々しく、『性!! 癖!! 全!! 開!!』って感じで頼むわゾ!

 

 

≪リシュリュー@Richelieu1.●●●●●≫

 敵艦発見って言ってるのよ!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 細かい事は気にしない気にしない! 当日の服装はお前に任せるけど、

 グラサン、ニット帽、マスク、黒っぽいジャンパーの4アイテムは必須で、はい、ヨロシクぅ!!

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 ねぇごめん野獣、個性を活かすっていう話は何処に行ったの……

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

 リシュリューの空き巣コーデとは、たまげたなぁ

 

 

≪リシュリュー@Richelieu1.●●●●●≫

 ふ ざ け な い で

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @Richelieu1.●●●●● 

 まぁまぁ、そう怒んないでよ♪

 ウォースパイトとアークロイヤルも一緒に参加するんだからさ

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

 もう許せるわ

 

 

≪アークロイヤル@Ark Royal1.●●●●●≫

 冗談はよしてくれ

 

 

≪曙@ayanami10. ●●●●●≫

 私のトコには『鎮守府・秋刀魚祭り』っていうのが来てんだけど

 

 

≪満潮@asasio3. ●●●●●≫

 私にも、って言うか、他の駆逐艦の娘達にも来てたみたいね。

 また鎮守府で何かするの?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 前の鎮守府祭りみたいな感じでぇ、

 来てくれた一般客に、艦娘達が調理した秋刀魚を食べて貰おうっていう祭りだゾ

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 @ayanami10. ●●●●● @asasio3. ●●●●●

 今までの秋刀魚漁での協力の中で交流を持った、いくつかの漁協さんから提案を頂いたんです。旬の美味しい秋刀魚を、艦娘の皆さんと一緒に人々にPRしたいとのことでした。

 規模の大きいお祭りになりそうですので、本営からは人員や予算の協力の話も来ています。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 深海棲艦達と戦うようになって、海のモンってのは結構な高級品になってたからね

 人類優位が固まって時間も経ったし、今までの食文化の回復を目指そうっていう流れだゾ

 その前向きなイメージとして、お前ら艦娘の元気な姿が欲しいんだよね

 それ一番言われてるから

 

 

≪飛龍@hiryu1.●●●●●≫

 でも、何か凄いですね……、イベントが目白押しっていうか

 

 

≪蒼龍@souryu1.●●●●●≫

 うちの鎮守府でも色々とやって来ましたけど、本営が主導になってると規模が違いますね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @hiryu1.●●●●● @souryu1.●●●●●

 まだまだ色んなヤツに通知は行ってる筈だから、忙しくなりますよ^~

 あとはアメリカから、

 みんなの大先輩であるサスケハナ号の艦娘も呼んであるからな!

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 黒船じゃん

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 緊急来日やめろ

 

 

≪ガンビア・ベイ@Gambier Bay.●●●●●≫

 えっ、本当に来るんですか?

 

 

≪ローマV.Veneto4.●●●●●≫

 いやいや、いつもの戯言に決まってるでしょ……

 

 

≪夕立@siratuyu4. ●●●●●≫

 夕立には『●●学園祭への特別参加・艦娘音頭』って来てたっぽい!

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

 僕も受け取ったよ

 

 

≪白露@siratuyu1. ●●●●●≫

 そういや来てたねー、そんなの

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 歌って踊れる駆逐艦娘達は、華がありますよねやっぱり……

 実は老人ホームなんかからも問い合わせがあったりしてるゾ

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 他にも、加賀さんを呼びたいっていう歌番組からの連絡もありました

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

 わぁ、凄いですね!

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

 加賀さんってホント綺麗だし、歌声も素敵だもんね~

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 鎮守府に連絡を寄越してきた奴も、

『やっぱり加賀が歌う、あの曲を……最高やな!』

 って、言ってましたねぇ! @kaga1.●●●●● おい加賀ぁ! 

 お前のデビュー曲、なんつー名前だっけ?

『リアス式海岸』? 

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

『加賀岬』です

 

 

≪ローマV.Veneto4.●●●●●≫

 どういう間違い方よ……

 

 

≪アイオワ@AIOW1.●●●●●≫

 前は『喜望峰』だとか『獄門島』とか言ってたわネ

 

 

≪サラトガ@Lexington2.●●●●●≫

 二人のレクリエーションみたいなものなんでしょう

 微笑ましくていいじゃない

 

 

≪イントレピッド@Essex5.●●●●●≫

 日本では、“喧嘩するほど仲が良い”って言うみたいだしね♪

 

 

≪翔鶴@syoukaku1.●●●●●≫

 いやでも、この遣り取りのあとの加賀さん、物凄い機嫌悪いんですよ……

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 加賀がテレビに出るんやったら

 もっと柔らかい表情ができるよう、練習しとかなアカンな

 ムスッとしてるんも可愛いけど、誤解を招くし、勿体ないで

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

 @ryuzyo1. ●●●●● 分かります

 加賀さんの怜悧な美貌も魅力的ですが、時折見せる優しい表情は、とても可憐なんですよね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 おっ、そうだな! おい聞いてるか加賀ァ!!

 その無期懲役みたいな顔を変えるんだよ180度!!

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 頭に来ました

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 頭に来ました

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 二回も書き込まなくていいから

 

 

≪ガングート@Gangut1.●●●●●≫

 しかし、本営が手を回しているにしても、見境が無いと言うか無節操だな

 

 

≪少年提督@Butcher of Evermind≫

 えぇ、確かに不自然ではありますが、社会がそれに応えてくれている事は、とても大きな意味を持っていますよ

 

 

≪リットリオ@V.Veneto2.●●●●●≫

 赤城さんも仰っていましたけど、

 戦場から離れた場所にも、私達を求めてくれる人々が居るというのは、

 とても喜ばしいことですね

 

 

 

 

 

 

 そんな艦娘囀線での遣り取りがあってから、暫くの時が経った。戦場である海。そこから離れた場所での艦娘達の活動は、テレビや雑誌にも取り上げられるようになった。以前行われた『鎮守府祭り』の盛況ぶりに匹敵するほど、今回の秋刀魚祭りには多くの一般客が訪れた。調理を担当していた鳳翔、間宮、伊良湖、そしてそこに、大和や曙を始め、他の艦娘達も加わり、戦場と化した厨房を何とか回転させている状態だった。接客には金剛を筆頭に海外艦達も大いに活躍し、漁協から手伝いに来てくれていた漁師達との息のあった連携もあり、膨大な数の客を見事に捌いて見せていた。鳳翔達の秋刀魚料理の味は絶賛されていたし、艦娘達のテキパキとした働きっぷりに見惚れる者が男女問わず居て、ネットでも話題になっていた。

 

 また、各地の小学校へと出向いた艦娘達も、地域の人々の話題となった。現場で空き巣コーデになったリシュリューは、御忍びで日本にやって来た海外の大物女優といった風体だったらしく、その余りの場違い感から最初はリシュリューだと思われず、不審者どころか部外者扱いで、ただの不良娘と間違えられた天龍と一緒に学校の外に締め出されたという。半泣きになって途方に暮れそうになっていたリシュリューと天龍を救ったのが、「彼女達は、私の仲間だウホ」と、不審者になりきった長門だったとのことだ。

 

 護国の化身として世間に知られている“艦娘・長門”だが、その真面目さ故の素朴な愛嬌は、現地の児童や教師からも愛されたし、ウォースパイトやアークロイヤル、それにリシュリュー達も、その無欠の美貌から時折顔を覗かせるポンコツさが親近感を生んで、不審者役だった筈なのに子供達の人気者なっていた。「フフフ……、俺が怖いか?」などと言う天龍にいたっては、誰からも弄られる稀有な才能を遺憾なく発揮し、『可愛いけど馬鹿なお姉ちゃん』というキャラで、一瞬で子供たちのハートを掴んでいたそうだ。地方の情報誌には、子供達に揉みくちゃにされている天龍の写真が載せられていた。長門と同じく、護国の化身としての武蔵は、交通安全教室の中でも持ち前の天然ボケをかまし、大和と子供達にツッコまれることで、艦娘というものに注がれる畏怖や畏敬、人では無い者に対する恐れを濯いでいた。

 

 そういった流れに続いた駆逐艦達の活躍も、確かな存在感を世間に示していた。秋であるこの季節に文化祭などのイベントを行っている高校の数はそれなりで、その幾つかに参加した白露や村雨達は、その美しく澄んだ歌声を披露し、観客を他の参加者を魅了していた。招待された艦娘達に興味深々の学生達に囲まれている白露達の姿は、大きな反響を呼んでいた。ちなみに、時雨達が複数の男子生徒に告白されるという事件があったとかなかったとか。

 

 

 ネットの中で人気だった『不幸ォ……ズ』は、あるバラエティ番組にまで呼ばれていた。陸奥、扶桑、山城、大鳳の四人がスタジオで自分たちのツイてなかったエピソードを話していると、スタジオの照明などが消えたり、カメラの不調が起こっていた。スタジオの芸人たちが「おぉ、ホンマに何か起きそうや!」と、素で驚いていた。山城が「これ、私達の所為ですかね……?」などと、番組の大物MCに言った瞬間、『不幸ォ……ズ』が座っていたセットが崩れて、山城達全員が後ろにひっくり返る事件が起きた。偶然と不運が重なった完全なハプニングだったが、そのタイミングから何から、全てが笑いを誘発する要素になり、スタジオのスタッフや観客全員を巻き込んだ大爆笑を呼んだ。

 

 番組の後半では、大量のワサビが入ったシュークリームを用いたロシアンルーレットが行われたのだが、これにも見事、『不幸ォ……ズ』の4人全員がワサビ入りを食べて、スタジオは大いに沸いた。番組の大物MCまでもが、「4個しかないワサビ入り、全部持ってかれたでオイ!!」と大笑いして、「勘弁して下さいよ『不幸ォ……ズ』さん!」と、芸人たちも笑い転げた。「私は、……、ゴホッ! ゴホッ!! ……スゥウウゥゥ……、ズビビッ!(鼻を啜る音)……ワサビ入りじゃなかったわよ」と、涙目の真っ赤な顔で言う陸奥が、「絶対ウソですやん!!」「もう泣いてますやん!!」と芸人たちにツッコまれて更に笑いを呼んだ。余りの辛さにスタジオに蹲って震える山城の傍では、死にそうな顔になった扶桑が鼻水を啜りながら「食べ物で遊んではいけません!」と、場違いで今更な正論をカメラに向かって切実に訴え、ワサビで悶絶する大鳳は紙コップの水を貰おうとした所、足元に蹲っていた山城に蹴躓いて一緒に観客席に転げ落ち、その場にいた誰もが涙を流すほどの笑いを起こした。

 

 あの番組のスタジオに居た全員が、陸奥、扶桑、山城、大鳳の4人から目を離せなかったし、彼女達が番組内で生み出したあの一体感には誰も敵わなかった。それはテレビを通じて視聴者にも伝わったのも間違いなかった。放送後、艦娘達のテレビ出演などについての好意的な応援メッセージが、番組宛てに数多く寄せられたそうだ。少し先になるが、ある歌番組にも、加賀が出ることが正式に決まった。

 

 こういった活動の現場には必ず、少年提督や野獣と、本営から派遣された兵士たちが同行し、万が一艦娘達が暴れるような事があってもすぐに鎮圧できる態勢を取っていた。だがその事実は、人々にとっての艦娘達は危険な存在であるという意識に結びつくことはなかった。世間の目が、“艦娘”という存在を受け容れようとする空気が濃くなっているのは間違いなかった。それが本営によって仕組まれた一時的なものであっても、不知火から見える世の中には、概ね平穏な時間が流れている。それは要するに、激戦期が終わってからの人類優位が、ただ揺るがずに続いているだけのことだった。

 

 

 

 

 

 

 

 秘書艦用の執務机で仕事をこなしながら、不知火は視線だけで少年提督を見る。彼は静かな面持ちで椅子に腰かけ、ケッコン施術に関する分厚い書類に目を通していた。彼が座る姿勢を少し変えた。書類を机の上に広げ、何かをサインしている。彼の白い髪が、さらさらと揺れている。彼の蒼み掛かった昏い眼が、書類の文字を更に追う。彼は黙ったままだ。そんな彼に従い、まるで執務室に存在する全てが息を潜めるかのように静かだった。その深々と降り積もる静寂の中で、不知火は激しく緊張していた。

 

 ケッコン。それは、対象とする艦娘の能力を上昇させる強化術式の一種である。このケッコンは他の強化術式と違い、対象とする艦娘と提督との間に、恋愛、信頼といった感情的な強い繋がりが必要な術式であるため、一部では“結魂”などと言われている。ただ、艦娘達の間では、“結婚”という言葉を連想するのが普通だ。術式効果を発揮する為にリング状の装備を左手の薬指に嵌めるのだから、それも無理のない事だった。

 

 不知火は真剣な表情を作ったままで、手元の書類を睨み付けはいるが、内容はまるで頭に入って来ない。少年提督がああいった書類を揃えているという事は、誰かとケッコンする事を決めたという事だ。自分の鼓動が早くなっているのと同時に、背中に妙な汗が滲んでいるのを感じた。さっきから何度も唾を飲み、唇を舐めて湿らせている。落ち着かない。静かに、音がしないように大きく息を吸う。冷静になろうとする。ゆっくりと、細く、深く息を吐いた。数秒程、瞑目する。無駄だった。目を開ければ、また心が乱れる。熱くなってくる頬と、緊張している自分に意識が流れてしまう。Pipipipi、という電子音が鳴り、不知火はビクッと肩を震わせた。

 

 少年提督の携帯端末に着信があったようだ。彼は不知火に頭を下げてから、携帯端末を取り出して通話を始めた。相手は、……どうやら少女提督のようだ。深海棲艦、研究室、AIのテスト、などといった言葉が聞こえる。仕事の話に違いない。「……はい。今日の夜には、そちらに伺います」と、少年提督が応えている。最近の少女提督は、深夜まで深海棲艦達の研究施設に居る事が多くなったと、彼女が召還した艦娘達から聞いている。“提督”とは別に、“技術・研究者”としての仕事を抱えた少女提督は、深夜まで忙しそうだと。そして少年提督も、彼女と共に仕事をすることが増えた。

 

 その足を引っ張る訳にはいかない。不知火は深呼吸をする。少年提督のケッコンについて気を取られ過ぎて、仕事が遅れている。不味いと思う。指先が微かに震えている。不知火はチラリと、通話をしている少年提督の方を視線だけで見た。少年提督の机の上に並べられた書類は、殆どが処理済みである。一方で不知火の座る秘書艦用の執務机の上には、未処理の書類が山を作ったままだ。不味い。秘書艦である不知火が、彼の仕事を滞らせている。何をやっているのだろう。焦っている自分に気付く。しかし、緊張は取れず、指先の震えは強くなるばかりだった。情けない。

 

「少し休憩しましょう。コーヒーを淹れましょうか?」

 

 不意に、声を掛けられた。澄んだ声。少年提督のものだ。はっとして顔を上げる。通話を終えた彼は立ち上がり、不知火に微笑んでいた。

 

 

「いえっ、不知火が用意しますので……っ!」

 

「あぁ、座っていて下さい。僕がやりますよ」

 

 不知火は慌てて立ち上がろうとしたが、微笑んだままの彼に手で制された。

 

「コーヒーより、紅茶か緑茶の方が良いですか?」

 

 彼の声には、不知火を責めるような響きは全くない。

 

「司令と同じものを、お願いします。……申し訳ありません」

 

 頭を下げた不知火は、椅子に座り直す。腕時計を見ると、もう午後の3時を少し回っていた。執務室に入り込んでいる陽の光が、淡い琥珀色を湛えている。その光は暖かく、濁りけの無い優しい温もりが静寂の中に満ちていた。彼のケッコン施術の事ばかり考えていた自分が、酷く間抜けに思えた。

 

 

 

 

 休憩をするという事で、少年提督と不知火はソファへと移り、向かい合う形で座った。高級なソファは座り心地が良いが、自身の仕事の進み具合を考えると酷く落ち着かない。ただ、彼が淹れてくれたコーヒーは、驚くほど美味だった。「グラーフさんに淹れ方を教えて貰ったんです」と微笑む彼も、淹れ方を教えてくれたグラーフに対する尊敬や感謝を湛えているのを感じた。

 

 ただ不知火は、その言葉と表情に違和感を覚える。他者を遠ざけようとするのとはまた違う種類の、何かを明確に区別しようとする意思を感じた。彼が淹れたコーヒーが美味であるという事実は、あくまでグラーフ・ツェッペリンという存在の御陰であり、彼自身は関係の無いものだと主張しているかのように見えるのだ。“良好な結果”に対し、その因子としての彼自身の存在を許そうとしない、そんな子供っぽい頑なささえ感じた。

 

「美味しいですね」

 

 コーヒーを啜る彼は、誰に言うでもなく呟いた。不知火は、「はい。とても」と頷いて、彼を見た。彼と眼が合う。彼は、顔の右半分を覆うような、拘束具めいた眼帯をしている。彼の左眼が、不知火を映していた。彼の瞳の中に、不知火が居る。それだけの事で、先ほどまで不知火を捕らえていた緊張や焦燥が、するすると解けていくのが分かった。心が軽くなった。ふっと、彼と出会ってすぐの頃を思い出す。

 

「こうして司令にコーヒーを淹れて貰うのは、久しぶりです」

 

 不知火は、ようやく口許を緩めることが出来た。

 

「そう言われてみれば、そうですね」

 

 彼も、何か思い出すかのような苦笑を浮かべる。

 

 

 不知火が少年提督に召還されたのは、激戦期の真っただ中だった。あの頃の少年提督は、今とは全く違った。彼は臆病で矮小だった。召還した艦娘達に碌に指示を出すことも出来ず、執務と資材管理に追われ右往左往していた。艦娘達が沈むのを誰よりも恐れ、戦果などという言葉とは無縁の提督だった。彼は、他の提督達からの非難と嘲笑の的になっていた。そんな彼を初期艦として支えることになった不知火もかなり苦労したし、この子はいつか心を壊して、駄目になるだろうと思っていた。

 

 そんな日が続く中での、執務中のことだった。不知火は休憩をとる事を提案し、何か飲みものを用意しようかと訊いたところ、「きょ、今日は……その、ぼ、僕が用意しますね」と、卑屈そうに引き攣った笑みを浮かべた彼が、不知火にコーヒーを淹れてくれたのだ。そのコーヒーには砂糖と牛乳が大量に投入されており、ぬるくて、また泥のように甘かったのを覚えている。不知火は礼だけを述べて、文句を言わずに飲み干した。それを見た彼は、ほっとしたように笑っていた。無様で、頼りない笑顔だったのを憶えている。その日から暫くして、彼は本営からの指示で3か月ほど、各地の研究施設を順に訪れる事になる。

 

 彼が鎮守府から離れたあの3か月ほどの間に、彼がどのような状況にあったのかという事は、かつてレ級たちが襲ってきた事件を切っ掛けとして、彼自身が、この鎮守府の艦娘達へと明かしてくれた。“かつての彼”の経験に、“今の彼”が言葉を与えるようかのように。それを知ってから思い返してみれば、あの時の『不知火にコーヒーを淹れる』という彼の行為は、彼なりの精一杯の恩返しだったのかもしれない。あの喉がひりつくように甘いコーヒーの味は、まだ忘れていない。

 

 

 

 

 

 懐かしい気持ちを心の内に仕舞いながら、不知火はコーヒーを啜る。やはり美味だ。あの時のコーヒーとは、全く違う。視線を上げると、落ち着き払った様子の彼が、泰然として微笑んでいた。かつての、顔全体を引き攣らせるような笑みとは程遠い。目を逸らすようにして、不知火は俯く。激戦期のあの頃とは、全てが違う。海を巡る趨勢も。艦娘達の立場も。深海棲艦という存在への解釈も。それらを包括する世間の流れも。揺れる波のように刻々と、そしてこれからも念々と変わっていこうとしている。

 

 つまり世界は、平和に向かっているのだ。少なくとも表面上はそう見える。喜ばしいことだ。ただ、不知火の胸には、妙な胸騒ぎが燻り続けていた。世間の中で躍動する仲間達の姿は、とても達者に見えた。同時に、『何の為に戦っているのか』という自問に答えられない自分自身が、この世界の中で異物に思えた。深海棲艦達による被害がテレビで報道されていたり、社会の中での艦娘達の活躍を快く思わない感想をネットニュースなどで見ると、酷く落ち着いている自分に気付いて、自己嫌悪に陥ることが多くなった。

 

 

 

「不知火さん」

 

 名を呼ばれ、不知火は顔を上げる。彼は穏やかな表情をしている。その眼差しに、強い意思を感じた。不知火はソファに座ったままで居住まいを正す。向かいに座る彼は一瞬だけ視線を下げてから、執務室の扉を見遣る。執務室の扉の向こうに何らかの気配が無いことを確認するかのようだった。彼は、この場に不知火と二人だけであること確認したのだろうと思った。不知火は小さく唾を飲み込む。彼は扉から視線を外し、不知火を真っ直ぐに見る。

 

 

「不知火さんには、人類を憎いと思う時がありますか?」

 

 彼は微笑んでいた。彼の声音も緩やかで温みがあり、不知火の心に沁み込んでくるかのようだった。今の彼が湛えた穏やかさは、不知火にだけ向けられていることを感じた。それは、不知火が如何なる答えを返したとしても、それを受け容れようとする彼の決意や覚悟の表れなのかもしれない。不知火は、彼の視線を受け止めきれなかった。彼の問いに、どのような意図が含まれているのかは分からない。だが、真摯に応えるべきだと思った。

 

「……正直なところ、人間に対して憎悪を抱いた経験はあります。艦娘と人類との関係についても、疑う事もあります」

 

 言いながら俯き、ゆっくりと瞬きをする。彼を異種移植の実験体として、深海棲艦の右眼、右腕を移植するように命じた本営には、不知火は未だに強い憎しみを抱いている。いや、憎悪という言葉では追い付かないほどに深く、暗い感情だ。ただ、この感情はすぐにまた胸の奥へと仕舞う。これは忘れるべき感情ではないだろうが、今の状況で呼び起こしてくる感情ではない。執務室に滲んだ琥珀色が、少しだけ濃くなった。陽の色が、夕日に近づいている。彼は黙したまま、不知火の言葉を待っている。コーヒーの良い香りがする。不知火は自分が今、彼が選択した未来の中に居るのを感じた。舌の中に、あの甘すぎるコーヒーの味を思う。

 

「しかし不知火は、それを通して『人類』の全てを憎むことはしません。仮に、艦娘達が社会から排除されることになってもそれは……、“役目を終えて、消えていく”という事自体は、終戦を迎えた艦娘達が最後の最後に背負うべき役割であり、あくまで艦娘達の使命の一部に過ぎないのかもしれないと、そう思います。もちろんこれは、不知火の個人的な考えです」

 

 だからこそ、彼と二人きりの時にしか出来ない告白だった。

 

「……艦娘である自分たちは、いつか人類の為に消えるべきだと?」

 

 彼の声には抑揚が無かった。拳を軽く握り、不知火は顔を上げる。彼は穏やかな表情を崩していなかった。ただ彼の昏く蒼い瞳は、不知火を映したままで動きを止めていた。部屋に満ちていた陽の光が僅かに翳った。彼の問いに、不知火は肯定も否定もしないままで言葉を続ける。

 

「不知火は、司令から人格を頂きました。そして社会から必要とされ、何らかの意味や役割を持つことの出来る幸福を教えて貰いました。終戦を迎えた後も、その感謝を抱えたまま人類と共存の道を歩けるのであれば、とても尊い道だと思います。しかし、今になって思うのは、……不知火達は、もとは艦船であり、兵器であるという事実です」

 

 彼は何も言わない。黙って不知火の話を聞いている。

 

 “艦娘は所詮、道具であり、兵器である。”

 

 そう信じて疑わない過激な者達は、提督達の中にも、社会の人々の中にも居る。彼らは、少年提督や野獣のことを快く思っていない。それどころか、激しい敵意を向けている。人間と同等として艦娘達を扱うことに関して強い忌避感を抱いているからだ。その原因が、不知火達が抱えた存在理由の中にあるのであれば、人の手によって生まれた不知火には、どうしても取り除くことのできないものだ。

 

 ブラック鎮守府などと呼ばれる場所もあるが、それを望むのは提督だけはない。自らを“兵器”として捉え、“命令の遂行による殺戮”という単純な機能に己の存在価値を見出す艦娘達が集まることによっても、それは実現する。つまり、“人間的な扱いをされることを拒む艦娘達”の存在だ。自らを人間の道具であると信じる彼女達は、過激派の提督達に大いに好まれていたし、艦娘とは本来そうあるべきだと信じさせる強さも持っていた。だが、苛烈な運用を好む彼女達の人格は、間違いなく、彼女達自身のものなのだ。彼女達の意思を、不知火は否定できない。艦娘の非人間性は、認めざるを得ない。

 

 

「不知火の魂や感情の、その最も奥に内封されているものは、何者かを殺傷する為の機能や思想であり、哲学や設計です。それを否定する事は、不知火には出来ないと感じています。この部分こそが“深海棲艦化の種”なのかどうかは分かりませんが……」

 

 

 そこまで言ってから、不知火は一つ息を吐く。

 

 艦娘と深海棲艦との間では、命というものは歪な循環を見せている。そして艦娘が持つ矜持や決意も、深海棲艦が持つ敵意や殺意も、或いは両者の記憶、感情も、波音と共に廻り巡っている。沈んだ艦娘達の想念が集い、強大な“姫”や“鬼”として成り、また戦場としての海に還ってくる。自分は、何の為に戦っているのだろうという問いが、不知火の心の中に木霊する。胸の内に燻っていた言葉を、今は飲み込むべきでは無いと思った。

 

 

「我々艦娘が、人間を傷つける可能性を“深海棲艦化”という現象として潜在的に秘めているのであれば、平和という時間の中で人類と共にあるべきでは無いのかもしれないと、そう考える時もあります。不知火達を信じてくれた人々に危害が及ぶ可能性があるのであれば、それは避けるべきだと……」

 

 

 言い終わった不知火は、息を細く吐いてから彼を見詰めた。彼は瞳を動かさないままで、ソファテーブルの上にあるコーヒーカップを見ている。ただ、訪れた沈黙には不思議と重苦しさや憂鬱さが無かった。

 

「不知火さんは、本当に優しいひとなんですね」

 

 彼が不知火を見た。彼は、笑顔を浮かべている。今まで見せた事の無い種類の笑顔だった。安堵と尊敬、信頼や感謝など、様々な感情を綯い交ぜにした笑みだった。その無防備な感情の発露に、不知火は動揺する。なぜ、そんな風に笑えるのだろう。不知火は、彼の理想を疑っているという胸の内を告白した筈だ。それなのに、なぜ。

 

「いえ、不知火が優しいなどという事は……」

 

 掠れた声で言いながら、不知火は俯く。

 

「優しいですよ。不知火さんは僕だけでなく、世間の人々の事まで気に掛けてくれています」

 

 彼は無邪気に言う。不知火は小さく唇を噛んだ。違う。不知火の思考は、優しさから来るものなどでは無い。彼は視線を下げて、コーヒーカップを見詰めている。

 

「現実的な事には触れず、理想だけを語ってきた僕は、社会や人々といったものの善性を美化し過ぎていたのでしょう。それに比べて不知火さんは、もっと冷静に現実を捉えていると思います」

 

「違いますよ。不知火は、……司令が信じようとしたものと、“艦娘”として対立すべきではないと、そう思うのです」

 

 不知火は、自身が艦娘である事を誇りに思う。彼の下で戦い抜いてきた事を誇りに思う。艦娘の存在意義が殺戮と戦闘だけであれば、このような感情を抱く必要も無かった筈だ。人格も要らないし、言葉も要らない。ただ戦ってさえいればいいのであれば、其処には自我の境界線も不要な筈だ。だが不知火は、明確に他者と己を区別できる。不知火は、他の不知火とは違うのだと認めることが出来る。

 

 人間も同じだ。一人一人が違う。艦娘達を道具として見る者が居れば、艦娘を“一人の人間”として見てくれる者も居る。その差異の中には更に無数の人々が存在し、膨大な数の価値観が渦を巻きながら、時代と世相に沿う形で“艦娘”達へと存在意義を与えている。この世間という坩堝の中には既に、艦娘との共存を目指す人々の思想も存在していて、それは少年提督と野獣、それに艦娘達が培ってきたものだ。

 

 だから、不知火はそれを壊したくはなかった。対立したくなかった。自分たちが生きた証が、そこに在るのだと信じている。深海棲艦化という現実を前に艦娘達が社会から排除されるのであれば、艦娘達が“人類の敵になった”という事実からではなく、“人類の平和の為に、背負うべき最後の役割を選択した”という、艦娘達自身の意思によって社会から去ることで、“艦娘”はその存在意義を余すところなく全う出来るように思える。

 

 ただ、その想い全てを口にすることは憚られた。こういった考え方が、残酷な未来を受け容れようとする覚悟から来るものなのか、諦観による開き直りから来るものなのか判然とせず、不知火自身も持て余しているからだ。黙って俯く不知火を見て、彼は何を思ったのだろう。

 

「これから何が在っても、きっと不知火さんは人々の味方であってくれるのだと、僕は確信しました」

 

 明確な喜びという感情を含んだ彼の声に、不知火は不安と戸惑いを感じた。

 

「司令がそう願うのであれば、不知火は人類の味方であり続けます」

 

 不知火は彼から目を逸らすようにして、何とか笑みを返す。それは恐らく、ぎこちないものだった筈だ。コーヒーを飲み干し、そっとカップに置く。不知火は彼に頭を下げて、ご馳走さまでしたと、そう言おうとしたが出来なかった。それよりも先に彼が「あ、あの……」と、何かを言おうとしていたからだ。普段から落ち着き払っている彼にしては珍しく、言葉を選ぶのに迷っている様子で、俯きがちに視線が泳がせていた。そのうち、何かを飛び越えるように顔を上げた彼は、いつもとは種類の違う真剣な表情を浮かべていた。

 

「不知火さんは、その……、ど、どのような男性が好みですか?」

 

「……えっ?」

 

 不知火は素の反応を返しながら、思わず彼を正面から見詰めてしまった。すると彼は、下唇をきゅっと噛んで、不知火から視線を逸らす。中性的な顔立ちの所為で、彼のその仕種はまるで女の子のようだった。奇妙な沈黙の中で不知火は、彼の愛らしい白い頬が、ほんのりと朱に染まっている事に気付く。不知火は心臓が跳ねるのを感じた。彼の妙な質問の背後に流れている感情や、もじもじとした彼の様子が何を意味しているのかを正確には判断できない。だが、彼の態度や雰囲気を見るに、『どのような男性が好みであるか?』という問いかけは、質問の形をした好意の表出ではないのかと思った。

 

 いや。まさか。

 

 不知火は固まってしまう。少年提督と不知火の間にある静寂に、神妙なのに、何処か甘酸っぱい微熱が灯った。不知火は、ヤバい(語彙力)と思った。涙が出そうなのに、顔が綻んできてどうしようも無い。落ち着け。そうだ、まずは落ち着くのだ。冷静に彼の言葉を受け止め、彼の質問にも答えなければならない。

 

「そうですね……」

 

 不知火はゆっくりと鼻から息を吐き出しながら、自分を落ち着かせるために、テーブルの上にあるカップを眼光だけで粉砕する勢いで睨みながら、口許を手で覆う。

 

「やはり不知火は、王道を征く……司令のような、男性ですか」

 

 何を言っているんだろう、自分は。言ってしまってから、不知火は軽く消えてしまいたくなった。情けなく上擦って震えそうになる声を無理矢理に整えようとしたら、自分でも驚くほど低くなってドスが利いてしまったし、そんな迫真の声音で中学生みたいな言葉を紡いでしまった事に対して、酷い自己嫌悪と羞恥に襲われた。

 

 ドン引きされていたらどうしよう……。ど、ど、どうしよう……。戦艦クラスの眼光のままで、不知火は恐る恐る、ゆっくりと視線を上げて彼を見る。彼は少し驚いたような表情を浮かべて、不知火を見詰めたままで何度か瞬きをしていたが、すぐに照れ笑うようにして、そっとはにかんで見せた。

 

「すみません。妙な事を聞いてしまって」

 

「い、いえ」 妙な事を口走ってしまった不知火も恐縮する。

 

「……実は、不知火さんに受け取って貰いたいものがあるのです」

 

 そう言ってソファから立ち上がった彼は、「もしも不知火さんに、想いを寄せる誰かが居られた場合は、この話自体をするつもりは無かったのですが」と言いながら、執務机の引き出しから何かを取り出した。それが何なのか、不知火はもう、殆ど分かっていた。不知火もソファから立ち上がる。高まっていた鼓動が、いつの間にか落ち着いていた。それは彼が、普段通りの泰然とした雰囲気に戻っていたからかもしれない。彼は、拘束具のような手袋を嵌めた右手に、小箱を持っていた。

 

「……此方を」

 

 彼が小箱を左手で開ける。そこにはやはり、“ケッコン”の為の指輪が収められていた。曇りの無い光沢を湛えた指輪は、陽射しを淡く反射している。二人きりの執務室で、少年提督と不知火は見詰め合う。

 

「僕と、“ケッコン”して頂けませんか?」

 

 彼の声は、穏やかでありながら研ぎ澄まされた迫力があった。まるで互いの魂を預け合う覚悟を問うようで、愛の成就を願う響きは一切無かった。彼の優しい眼差しにも、鋭さと真剣さが宿っていた。不知火は彼の右手を見る。その拘束具のような手袋がなされた彼の右手の五指には、深海棲艦達との“ケッコン”指輪が、幾つされているのだろうと思った。不知火は姿勢を正し、彼に敬礼をする。小箱の中の指輪が蒼く光っていた。

 

 

 

 

 

 それから不知火は、自分がどのようにして積まれていた書類を処理して仕事を終え、駆逐艦娘の寮へと戻ってきたのか記憶が無い。覚えているのは、執務室を出る際に、まだ残って仕事をすると言っていた彼に敬礼をしたことだけだ。彼から渡された指輪の意味を、どのように捉えればいいのかも分からないまま、殆ど気がついたら執務を終えて寮の屋上に居た。

 

 夜空を見上げる。曇っていて星は見えない。不知火の精神内部では、喜悦と不安が葛藤している。フェンスに凭れて息を吐く。吐息が夜気に解けていくのを、屋上の電灯が照らしていた。不知火は小箱をそっと開けて、指輪を眺める。蒼い微光を纏った指輪は、冷えた夜の空気に冴え、暗がりに輪郭を浮かび上がらせていた。この指輪を貰った事は、陽炎にも話をしていない。自分の中で、まだこの事実を消化しきれていないのだろうと思う。浮ついてしまいそうな心を落ち着かせたい。不知火は空を見上げたまま、目を閉じた。

 

『何の為に戦っているのだろう』

 

 未だに胸の奥で木霊する問いに、不知火は耳を傾ける。この手の中にある指輪が、明確な一つの答えであることを望んだ。“少年提督の為に戦う”という、不知火だけの正義を肯定しようとした時だった。携帯端末が鳴った。不知火は小箱を大事に懐に仕舞ってから、端末を確認する。どうやら、艦娘囀線が賑わっているようだった。

 

 

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 

 この時間なら、もう執務は終っているわよね?

 少し話があるのだけれど

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @kaga1.●●●●● おっ、どうしました?

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 白々しいわね

 何故か青いV字ビキニが部屋に届いているのだけれど

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 今度の歌番組は、それを着て出てくれよなぁ^^~

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 貴方、今何処にいるの?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 執務室ゾ

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 今から行きます

 其処を動かないで

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

 また執務室がこわれるなぁ……

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zepplin1.●●●●●≫

 私のところにも来た、

『競泳水着を着て、イベントでの売り子』という通知はなんだ

 @Beast of Heartbeat野獣、説明を願おう

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 私の端末にも届いていたわ

 

 

≪プリンツ・オイゲン@Admiral Hipper3.●●●●●≫

 怖くて添付ファイル開いてないんですけど、私のところにも来てましたね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @Graf Zepplin1.●●●●●

 @Bismarck1.●●●●●

 @Admiral Hipper3.●●●●●

 来月にあるイベントで、俺も同人誌を出す予定だからさ

 お前らには売り子を頼みたいんだよね?

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 おい初耳なんだが

 

 

≪プリンツ・オイゲン@Admiral Hipper3.●●●●●≫

 なんで水着で売り子をする必要があるんですか!?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @Admiral Hipper3.●●●●●

 じゃあ、V字ビキニならどう? いけそう?

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 何が『じゃあ』なのよ……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @Bismarck1.●●●●● 

 じゃあ、ビスマルクはジャガイモの着ぐるみで行こっか、

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 なんで私だけそういう色モノなのよ!!

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zepplin1.●●●●●≫

 いや、そもそも恰好の良し悪しの話をしてるんじゃないぞ

 

 

≪大和@yamato1.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat あの、一応、お聞きしたいんですけど……

 どのような本を出す予定なのですか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 やっぱり僕は王道を征く、青葉本ですか

 タイトルは、『青葉バと、810100081人の盗賊団』

 で、よし、決まりッ!

 

 

≪青葉@aoba1. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 

 ちょっと! 止めてくださいよ本当に!!

 

 

≪嵐@kagerou16.●●●●●≫

 盗賊団の規模、ヤバくないっスか……

 

 

≪香取@katori1. ●●●●●≫

 国際情勢こわれる

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 やっぱり、小さくまとまっちゃうとツマラナイからね!

 何事も、でっかくないとなぁ!

 15ページくらいだけどネームも出来てるし、

 ちゃんと盗賊団も一人一人描き分けて、全員登場させるんだからさ

 

 

≪大井@kuma4.●●●●●≫

 何をアホな事言ってるんですかね……

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

 描かれてる筈の青葉さんをページの中から探すの、途轍もなく大変じゃないですかソレ

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

 多分、超難度の『ウォー●ーを探せ』みたいになっちゃうと思うんですけど

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

 顕微鏡が必要そうですね……

 

 

≪北上@kuma3.●●●●●≫

 読者の人への負担すごい、すごくない……?

 

 

≪鹿島@katori2. ●●●●●≫

 というか、青葉さんの本なのに、ドイツ艦娘の皆さんが売り子に立つんですか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @katori2. ●●●●● そりゃお前、一回のイベントで

 青葉の魅力だけじゃなくて、ドイツ艦娘の水着姿もアピール出来れば

 一石一一四五一四鳥だルォ!!

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

 効果の範囲が広過ぎるでしょ、何が起きてんの?

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 そういう意図があるのに、なんで私だけジャガイモの着ぐるみなのよ

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat いつも言ってますけど

 あんまり無茶な事はしないで下さいね?

 苦情の処理に忙殺されるのはゴメンですよ、私は

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 へーきへーき!! 仮に何かあったとしても、大淀がV字ビキニ着て関係各所に謝りに行ってくれれば、だいたいの事は丸く収まるってはっきり分かんだね!

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

 なんでそんな事をする必要が在るんですか!?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 じゃあ、俺もV字ビキニで謝りに行ってやるか!

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 行かんでいい!!

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 お前がそんなモン着て行ったら、謝罪どころかケンカ売りに来たと思われるぞ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 しょうがねぇなぁ~

 じゃあここは一つ、我が鎮守府の秘密兵器

 龍驤の出番と行きますかぁ^~、Oh^~?

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 雑に巻き込むんやめろや

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 おい、何か“ご注文有り難うございます”とか通知来たで

 何やねんコレ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 龍驤の水着を頼んだだけゾ

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 商品の詳細見たら、どえらいデカいサイズやんけ!

 何処がとは言わんけど!!

 明らかにウチのと違うやろコレ!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 あっ、間違えて高雄用のを注文しちゃったでごわす……

 

 

≪高雄@takao1. ●●●●●≫

 なんで私の名前が出てくるんですか!?

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 ほんまやぞ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @ryuzyo1. ●●●●●

 申し訳ございません!!!!

 申し訳ございません!!!!!!

 誠に!! 誠に!!! 

 申し訳ございません!!!!!!!!!

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 

 どんだけ謝んねん!余計に虚しくなるやろ!

 そこはいつもみたいにアホな事言うて誤魔化せや!

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 おい

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 ちょっと待て

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 アカン

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 侵入者や

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 少なくとも3人

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 今ここ見てるヤツ

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

 周りのモンに声掛けて

 各々の提督のトコへすぐに行け

 

 

 

 

 

 そこまで読んで、不知火は弾かれたように顔を上げて、少年提督のもとへと走りだそうとした。だが、出来なかった。不自然に、余りにも不吉に、体から力が抜けた。不知火は屋上に倒れ込む。懐が小箱から零れ、コンクリートの上をケッコン指輪が転がって倒れた。視界が暗く霞む。倒れる刹那。不知火は屋上に居たから、何か、光の膜のようなものがドームを象り、鎮守府を包みこむのが見えた。結界という言葉が脳裏を過る。何て大掛かりな。これは。明らかな襲撃。思考がそこまで行ったところで、何が起こったのかは分からない。体が動かない。辛うじて呼吸は出来るが、身動きが全く取れない。まるで体が、錆びた鉄屑になったようだ。

 

 不知火の肉体が、何らかの術式の影響を受けているのは間違いない。さっきのドーム状の何かが、不知火の体を殺している。だが、それが分かったところで、どうしようも無い。不知火は何とか動こうとする。彼のもとへ。執務室へ行かねばならない。だが、どれだけ体を動かそうとしても僅かに顔が上げるだけで、それ以上は無理だった。叫ぼうとするが声も出ない。完全な無力だった。星の無い暗い空の下。屋上の床にへばりつく不知火の、その霞む視界の先。転がった“結魂”指輪が、この場の悲劇を望むように蒼く光っていた。

 

 

 











いつも読んで下さり、有難うございます!
皆様の暖かな応援に支えて頂ける事を、本当に感謝しております。
シリアス色が強い話が続いておりますが、なんとか完結を目指したいと思います……。

更新も遅くなるかもしれませんが、何とか更新出来るよう頑張ります。
今回も最後までお付き合い下さり、本当に有難うございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

深海




今回は閲覧注意回かもしれません、
いつもご迷惑をお掛けして申し訳ありませんです……。


 

 

 

 

 

 艦娘囀線での龍驤の書き込みがあってから、少しの時間が在った。侵入者達が何らかの準備を精密に整えているような、不穏な空白だった。加賀は、自分が何者かに担がれているのが分かった。まるで荷物のように、肩に担がれて揺られている。意識に靄が掛かっている。視界が掠れていてハッキリとしない。自分は、人質か何かに利用されようとしているのか。僅かに首と視線を動かす。鎮守府のセキュリティや電気系統を抑えられたようだ。廊下は暗く、設置されている電灯は消えていた。窓から差し込む月明りは、侵入者たちの影を作っている。その数は2つ。黒いボディスーツで身を包んでいる。体つきのシルエットから、それが女性であることが分かった。彼女達は、顔の下半分を黒いマスクで隠している。加賀を担いでいる方は武装をしていないようだが、もう片方は、腰に刀らしきものを佩いている。

 

 彼女達は一切の足音を鳴らさずに廊下を移動している。疾い。それに、その頭が全く上下していないことに気付く。廊下には、他にも何人かの艦娘達が倒れていた。死んではいないようだったが、加賀と同じく身動きが殆ど取れていなかった。侵入者の二人は、そんな艦娘達を一顧だにせず、無暗に傷つけることも無かった。狙いは、やはり野獣と少年提督か。

 

 加賀は、身体に力を入れようとする。侵入者の手から逃れようとする。だが、それは無駄だった。加賀の体は、その意思通りには全く動かない。侵入者の肩の上で僅かに震えただけで、それは抵抗にはなり得なかった。声も出ない。喋ることも出来ない。艦娘としての身体能力を発揮すべく、“抜錨”状態になろうとするが、それも出来なかった。これが、何らかの術式の影響であることは間違いない。月明りの廊下の、その景色だけが流れてく。侵入者たちが、野獣の執務室に近づいているのが分かった。ただ、それが分かったところで、今の加賀は笑えるほどに無力だった。その事実を否定しようと、震える呼吸を漏らしながら体を動かそうとする。

 

「無駄だよ。動けないって」

 

 加賀を担いでいる方の侵入者が、加賀の方を見ないまま、走りながら言う。

 

「大人しくしていて下さい」

 

 加賀を担いでいない方の侵入者もまた、加賀の方を見ない。

 

 彼女達の声は、何処かで、しかし確実に聞いた事のある声だった。廊下を駆ける彼女達は、野獣の執務室の近くで足を止めた。暗い廊下に、微光が灯っているのが分かった。誰かが居る。そう思った時には衝撃があった。加賀は、自分が床に投げ出され、転がり、廊下にうつ伏せになったという事を理解するのに5秒ほど掛かった。背中と肩を打った鈍い痛みがあった。視界が霞みかけるが、そこで気付く。

 

 執務室の前の廊下に居るのは、野獣と時雨だった。野獣は、革ベルトのようなもので日本刀を腰と背中に吊っていて、廊下の床に片膝立ちになっている。片手で携帯端末を耳に当てて、もう片方の手で、倒れている時雨に治癒術式を扱っている状態だった。恐らくだが、艦娘囀線の龍驤の書き込みを見た野獣も、すぐに動いていた筈だ。あの状況からして、携帯端末で何処かに連絡を取りながら、執務室の傍で倒れていた時雨を介抱しようとしていたに違いない。野獣の行動は迅速だったかもしれないが、侵入者たちの大胆さがそれを遥かに上回っているのを感じた。

 

 

「お前(達)は誰だよ?(野獣の眼光)」

 

 野獣は低い声で言いながら、横向きに倒れている時雨を守るように、すっと前に出る。時雨が、途切れ途切れに何かを言おうとしている。だが野獣は、それには応えない。「お前らの所為で鎮守府が、あーもう滅茶苦茶だよ。分かる? この罪の重さ(敵意)」と、低い声で言いながら帯端末を手早く操作し、もう片方の手は背に吊った長刀の柄に添えられていた。対して、倒れる加賀を足元に立つ侵入者達は、臨戦態勢を見せない。

 

 

「その端末を捨てて、両手を挙げてよ」

 

 さっきまで加賀を担いでいた方の侵入者は、野獣に数歩分だけ近づく。特に気を張った風では無い。そしてもう一人の侵入者は、倒れている加賀に近づいて刀を抜いていた。月明りを薄く吸ったその切っ先が、倒れている加賀の首元に突き付けられる。それを見た野獣が僅かに身を沈めたのが分かった。加賀を助けようとしたに違いない。同時だった。

 

「言っとくけど、これは脅しじゃないから」

 

 鈍く、硬いものが砕ける音が廊下に響いた。加賀は微かに呻く。野獣が息を詰まらせた。刀を持っていない方の侵入者が、加賀の右膝を踏みつけて、砕いたのだ。倒れたままで苦し気な表情の時雨が、加賀を見ていた。

 

「余計な動きをしたら、“この加賀さん”を殺すよ。殺した後は、また違う艦娘を殺すね。私達の仲間はまだ鎮守府に潜んでるから。連絡して、一人ずつ殺して貰う」

 

 加賀の膝を踏み砕いた侵入者は、落ち着いた声音で言いながら携帯端末を取り出して見せた。

 

「私達の言葉に大人しく従ってくれれば、これ以上、艦娘には手を出さない。そう命令されてるんだ」

 

 野獣は、今まで見せた事の無い表情で、侵入者2人と加賀を見比べた。野獣の、その逡巡が気に入らなかったのか。侵入者は「どうすんの?」と言いながら、今度は倒れている加賀の右肩を踏み砕いた。加賀は、漏れそうになる呻きを飲み込む。骨が砕ける音が、激痛と共に抜錨も出来ない体内に籠る。

 

「おっ、そうだな……(降伏)」

 

 のたうつ事も出来ない加賀を見た野獣が、手にした携帯端末を地面に捨てて、無防備に両手を挙げた。

 

 

「やっぱり貴方みたいな提督には、こういうのは効果的だね」

 

 侵入者は冷静な声で言う。うつ伏せのままの加賀は唇を噛みながら、視線を動かす。野獣を見る。野獣は、今まで見た事の無い表情で、加賀を見ていた。ただ、狼狽えたりはしていない。

 

「……俺は何をすれば良いんですかね?(覚悟完了)」

 

「取り合えず、その背中の刀を捨てて貰おうかな」

 

 侵入者の声には、殺気も敵意も無い。そして、隙も無い。うつ伏せに倒れる加賀には、野獣との侵入者達の間にある距離が、酷く離れて感じる。それは多分、この距離が、野獣には全く有利には働かないからだろう。そしてそれは、大きく息を吸ってから侵入者に向き直った野獣も理解している筈だった。

 

 

「ん、おかのした(唯々諾々)」

 

 野獣はゆっくりとした動作で、太刀を床に置いた。その最中にも、加賀の首筋には刀の切っ先が触れていた。皮膚が微かに斬れて、血が喉を伝い、床に滴る。

 

「うん。じゃあ次は、……その腰の刀で、自分の心臓を貫いてよ。貴方が死ぬまで、私達は、貴方に近づかない」

 

 侵入者の声は、どこまでも冷静だ。何かを哀願するような顔をした時雨が、床に手をついて、何とか体を起こそうとしている。だが、その肩や腕がぶるぶると震えているだけだった。右膝と右肩を破壊された加賀も立ち上がれないまま、視線だけで野獣を見る。

 

「俺を殺すんなら、頸とか頭とか潰した方が早く無いっすか?(過る疑問)」

 

 野獣は、侵入者の二人を見据えながら腰の刀に手を掛けていた。野獣の凪いだ眼は死んでいない。侵入者達の隙を伺うように、油断なく、沈着だった。其処には明確に、この状況を打破しようとする意思があった。「まぁ、そうなんだけどね」と、侵入者が抑揚の無い声音で言う。

 

「貴方の死体はね、綺麗なままで回収しろって言われてるんだ。首から上は特に」

 

「あっ、ふーん……(察し)」 野獣は鼻を鳴らす。

 

「そう。だから、心臓」 

 

「あっ、そうだ!(唐突) アイツのところにも、お前らみたいなのが遊びに来てるんですかね?」

 

「……その質問は、時間稼ぎか何かのつもりですか?」

 

 今まで黙っていた、加賀の頸元に刃を突きつけている方の侵入者が、冷気のような声で言う。場の空気が張りつめる。時雨が唾を飲み込む音が聞こえた気がした。加賀も、自分の頸に触れる冷たい感触が強くなるのを感じた。切っ先の刃が、更に皮膚を裂いている。冷えた沈黙があったが、それを破ったのは携帯端末を持つ方の侵入者だった。

 

「別に、時間稼ぎでもいいよ。それに応える人は居ないんだから」

 

 それは、明らかにこの場の緊張を解す為の言葉だった。刀を持っている侵入者を宥める様な響きがあったし、同時に、野獣を讃える響きもあった。

 

「こんな状況だけど、貴方は良い眼をしてるよ。何か策でもあるのかな。私達の隙を伺ってるね。“この加賀さん”を見捨てるつもりも無いみたいだ。でも、抵抗しても無駄だって、分かり易く教えた方が良い?」

 

 そう言うと、侵入者はおもむろに顔の半分を隠していたマスクを外して見せる。暗がりの廊下に晒された侵入者達の素顔に、時雨が目を見開いていた。加賀も息を詰まらせる。野獣だけが、詰まらなさそうに鼻を鳴らした。

 

「貴方には選択権なんて無いよ。勿論、私達にもね」

 

 月明かりを横顔に浴び、冷静な笑みを湛えているのは艦娘、川内だった。そんな馬鹿な。今のこの鎮守府は、艦娘の肉体をスポイルする何らかの術式の影響下にある筈だ。実際、加賀や時雨を始め、この鎮守府の艦娘の殆どが行動不能に陥っている。それなのに。何故、この川内は動けるのか。何らかの特殊な調律を施されているとしか思えない。

 

 

「私達も、今回の黒幕……いや、黒幕達って言った方が良いんだろうけど、それが誰かなんて、全く分からない。軍属の人間だけじゃない、色んな業界の指導階級の人間の思惑や要求が複雑に絡んでるんだよ。だから、この襲撃の為に色んな人間が用意されてる。この事件の全貌の、その一切を握り潰す準備をしている人間も居るし、鎮守府のセキュリティを抑える人間も居れば、こうやって……」

 

 川内は言いながら、うつ伏せに倒れている加賀を、顎で指す。

 

「艦娘達を無力化する為の術式を、広範囲で発生させる技術者も居る。ついでに言えば、この鎮守府に一般人が寄らないよう、公安の人間に協力して貰って交通規制も敷いてある。分かるかな? この鎮守府は、もう機能してないんだ」

 

 野獣に向き直る川内は、この圧倒的な状況でも、全く油断をしていない。隙が無い。野獣も動けない。

 

「貴方が稼ごうとする時間に、応える者はいない。碌に動けるのは、貴方と、もう一人の少年提督だけなんだよ」

 

 時雨が何とか上半身を起こし掛ける姿勢で、野獣と川内を見ている。もう一人の侵入者もマスクを外した。神通だった。彼女の眼は冷静だが、ひどく醒めているように見えた。神通は、加賀の喉首に刃を向けてまま、野獣に向き直る。

 

「艦娘である私達なら、戦闘になって髪や睫毛、血液、それに皮膚などが残っても問題ありません。仮に、私達が此処で殺されようと、残るのは艦娘の死体だけです。所属艦娘の記録など、『黒幕』である者達の手に掛かれば、幾らでも改竄出来るでしょう。『一体何処で、誰が召還した川内と神通』かなんて、絶対に分からない。この事件と一緒に、簡単に隠蔽されます」

 

 神通の冷たい声は研ぎ澄まされた刃物のようで、暗がりの廊下によく通った。「私達の“提督”も、それこそ末端の末端だろうし、私達に至っては、数にも入らない駒みたいなものだからね」と、川内が言葉を繋ぐ。つまり、と加賀は思う。野獣が此処で川内達を捕らえた所で、その背後に居る存在には繋がる線は、もう消されているという事だ。彼女達は本当に文字通り、“駒”として存在している。神通が、野獣が床に捨てた携帯端末を一瞥して、緩く息を吐く。

 

「貴方がその端末で何をしようとしていたのかは分かりませんが、もう間に合いませんよ。外部に連絡を取っていても、その記録が残っていても、全ては世間に出る前に揉み消されます。ただ、私達は貴方の肉体を回収したい。だから、貴方に抵抗されるのは絶対に避けたいのです。これは、一つの取引だと思って頂きたい」

 

 神通は言いながら、加賀に突き付けていた刀を一度引いた。そして音も無く、加賀の左肩へとその切っ先を埋め込み、貫通させ、さらに手首を2、3度返して、加賀の左肩の内部を抉り、破壊する。加賀はうつ伏せのまま、「ぅ、あ……っ!!」と呼吸とも呻きともつかない、掠れた苦悶の声を上げながら、野獣がすっと態勢を沈めるのが分かった。加賀を助けようとしたに違いない。だが、野獣は動けない。川内が、携帯端末を持っている。彼女が他の仲間に連絡を取れば、また別に艦娘の体が刻まれるのだろう。野獣の顔は、慙愧に歪んでいる。

 

 

 川内と神通は、徹底的に野獣に近づかない。

 近接戦闘を得意とする野獣の、その間合いの外から、野獣を殺そうとしている。

 

 

 加賀は、今の己の無力さに押し潰されそうになる。それは、野獣の背後で上半身だけを起こそうとしている時雨にしても同じだろう。呼吸を震わせる加賀の首元に、血に濡れた刀の切っ先が、再び突きつけられた。

 

「我々の目的は、貴方の死と、そして肉体の回収です。艦娘達には、出来るだけ傷を与えないよう“命令”されています。しかし、必要最低限であれば、攻撃を加える許可を得ています。必要最低限とは、“貴方が死ぬ”までです。必要であれば、艦娘を何人でも殺します。先程も言いましたが、これは脅しではありません」

 

 神通は事務的な口調で言うが、それ故に有無を言わさない冷徹さが在った。「“抜錨”状態の艦娘は確かに頑丈だけど、そうじゃない時は、まぁ人間と其処まで変わらないからね」と言いながら、川内が携帯端末を耳に当てる。それは、他の仲間に連絡を取り、加賀達と同じように身動きが取れない艦娘達に、いつでも危害を加える準備が出来ているというポーズに他ならない。

 

「妖精と修復材、それに治癒施術なんかを扱える提督が居れば、艦娘の肉体は再構築されて復活する。腕や脚や内臓が吹っ飛んでいてもね。でも、“抜錨”状態ですらない艦娘の頸を撥ねたり、その頭まで潰したら、流石に蘇生は出来ない」

 

 川内は冷静なままだ。この圧倒的な状況に、慢心も愉悦もしない。自身の任務を遂行する上で、必要な分だけ情報を出している。それは、鎮守府に居る艦娘の、その殆どを人質に取られている野獣に対する、冷酷な交渉に違いなかった。くぐもった銃声が、立て続けに十数発響いたのはその時だった。少年提督の執務室の方からだ。青ざめた顔の時雨が、唇を震わせて息を潜めていた。加賀も、自分の血が冷たくなっていくのを感じた。耳の中で、銃声の余韻が不吉に木霊している。

 

「……アイツは、どうなるんですかねぇ?」

 

 ゆっくりと呼吸をした野獣は、携帯端末を耳に当てたままの川内に訊く。川内は、「アイツ……? あぁ、少年提督の事?」と、やはり冷静な眼で、野獣を見詰めた。その間にも、川内が持っている端末からは、誰かの話し声が聞こえる。それは川内への連絡に違いなかった。

 

「貴方と同じように、艦娘達の代わりに死んで貰っただけだよ。……たった今ね。死体を回収しろっていう命令は受けてないから、念入りに死んで貰ったんだ」

 

事実を事実として、川内は答える。少年提督が死んだ。それは圧倒的な現実として、この場にいる全員に訪れる。野獣が稼ごうとする時間は、空虚に霧散していく。観念するように薄く息を吐いた野獣は、川内と神通を見てから、加賀を見た。そして静かな面持ちで腰の太刀を抜いた。その刀身に刻まれた、聖剣“月”の銘が、野獣の手の中で月光を鈍く反射している。野獣は太刀を右の逆手に持って半身立ちになり、その切っ先を自身の左胸に当てた。余りにも迷いの無いその所作には、凛とした佇まいがあった。

 

「一つだけ確認しとくゾ(死出の前に)。お前らはさっき、“俺が大人しく従えば、これ以上は艦娘に手を出さない”って言ったよな?(一千の問い)」

 

 野獣は、自身の心臓を太刀で貫く姿勢を崩さずに、川内と神通を交互に見た。その武人然とした野獣の気迫に、二人が僅かに怯むのが分かった。だが、すぐに川内が頷いて見せる。

 

「うん。そういう“命令”だから。私達の意思とは関係なく、逆らえない。理由もはっきりしてるよ。此処の鎮守府の艦娘達の練度が、本当に高く評価されてるからさ。その純粋な戦力を削りたくは無いんだろうね。人類優位とは言え、深海棲艦との戦いはまだ続く訳だから」

 

 今の状況と川内の言葉に矛盾は無い。加賀は両肩と右膝を破壊されているが、これは治せる。戦場に戻るまでの修復は十分に可能だ。これだけ痛めつけられても、加賀の持つ戦力としての価値は損なわれていない。ただ、この抵抗出来ない無残な姿が、野獣という男を追い詰める為に必要だったのだ。更に、鎮守府に居る艦娘達を人質に取ることで、野獣の抵抗を封じている。

 

 微かに体を強張らせた川内に続いて、神通が頷く。

 

「戦わずに貴方を無力化し、尚且つ、貴方の肉体に出来る限り損傷を残さない為の、その取引の材料として艦娘達を無力したのです。貴方が我々に従ってくれるのであれば、私達が此処の艦娘達に干渉する理由がありません」

 

「……まぁ、襲撃者の言う事だし、信じて貰えないかな?」

 

 川内が言葉を繋ぐと、野獣は大きく息を吐き出した。

 

「信じようが信じまいが、俺に選択権は無いってハッキリ分かんだね(託す者)」

 

 そう言った野獣の声は、全く震えていなかった。適切に乾いていて、その表情も落ち着いている。受け容れざるを得ないものを、静かな覚悟と共に受け止めようといているのが分かった。

 

 今の状況で、野獣に出来ることは殆どない。無論、艦娘達を見捨てて動くことも出来ないことは無いが、野獣という男がそれを選択しないことは加賀も分かっていた。もう、こうするしかないと野獣が判断する事も、加賀だって殆ど分かっていた。冷徹になりきれない野獣という男の甘さを知っているし、此処に居る艦娘達は、そんな野獣を必要としていた。

 

 無念だった。加賀は動けない。ぶちぶちと唇を噛みちぎる。艦娘に対する野獣の優しさや思いやりが、こんな風に利用されてしまう世界が憎い。その世界を動かしている人間達の欲望や利益といったものが憎い。「ぅ、ぅ、ぅ、ぅ、あ、あ、あ、あ、あぁ……!」と、眼に涙を浮かべた時雨が、呼吸が千切れる程に体を震わせている。何とか立とうとしている。それでも、無駄だ。加賀と時雨は、人間達の企みの前に、ただただ無力だった。

 

 侵入者達は動かない。野獣に近づかない。野獣の間合いに入らない。野獣に対するその沈着な殺意と敬意は揺るがない。人質によって動けない野獣は、自身の心臓に太刀の切っ先を突き付けながら、ほんの少しの笑みを湛え、時雨を見て、加賀を見た。次の瞬間だった。一息だった。野獣は、そのまま自分の心臓を太刀で刺し貫いた。

 

 アー逝キソ……(死の淵)

 

 ゴホッと血を吐きだした野獣は、その場に片膝をつく。時雨が、獣のような呻きを挙げる。加賀は、ただ茫然と見ていた。あっという間に、野獣の足元には血の池が出来上がる。左胸から太刀を生やした野獣は、自分の足元を見ている。静かな眼をしていた。何かを思案しているのか血の匂いが、暗い廊下に薄く流れる。侵入者達は、まだ動かない。野獣が完全に死ぬまで、近づかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深海棲艦研究施設の地下フロア。其処に拵えられた研究室にて、少女提督は携帯端末を耳に当てながら、爪を噛んでいた。鎮守府に居る誰とも、その通信が繋がらない。秘書艦として隣に居る野分も、鎮守府に居る姉妹達に連絡を取ろうとしているようだが全て空振りしているようだった。艦娘囀線を見ても、龍驤の書き込みが最後である。“元帥”の権限を持って、鎮守府のセキュリティシステムにアクセスしてみたが、それも沈黙していた。監視カメラの映像を確認し、鎮守府の状況を把握することも不可能だった。本営には救援の要請はしてあるものの、到着するまでの時間を考えれば期待はできない。

 

 

 この研究施設の所長には、鎮守府が何らかの襲撃を受けている事はすぐに、正直に伝えた。所長は職員達が恐慌を起こさずに避難させるために、『危険なガスが漏れている』というアナウンスを行ってくれた。軍属の施設に身を置いている職員達の動きは素早く、貴重な資料や実験サンプルなどを手に、既にほぼ全員が研究所から脱出している事は、警備にあたっていた兵士から先ほど教えて貰っている。本来なら少女提督もこの場から離れるべきなのだろうが、少年提督や野獣、それに艦娘達を置いて逃げる事は出来なかった。空調の利いた研究室は静まり返っている。少女提督は深呼吸をして、手にした携帯端末を睨んだ。

 

 恐らく、この襲撃の首謀者は、艦娘を人間として扱う事を忌避する上層部の一部と、それに共感した過激な提督連中だろう。最近は特に、社会の中での艦娘達の活躍が目立っていたし、艦娘達に対する世間の表情も、より優しくなった。それをどうしても認めたくない者達が居る。艦娘達の人格と個性を人々に強く訴える野獣と少年提督を、目の敵にしている者達の存在が頭に浮かぶ。ああいう人間達の中には巨大な権力との繋がりを持つ者も多いし、そういった社会の闇に掛かれば、鎮守府という狭い空間の中で何が行われようと、揉み消すのも容易いに違いない。どういった形であれ、政治的な力が働くだろう事は想像できる。

 

 ただ、艦娘に対する最近の世相の流れは、本営の意図的なものだった筈だ。多くの艦娘達に活躍の場や、人々との交流の場を用意したのも本営だった。艦娘と世間との距離が縮まれば縮まるほど、いつか『艦娘達の深海棲艦化』という事実が表に出た時の衝撃は大きくなり、人々が抱く恐怖と失望も深くなる。そういった効果を本営は期待しているのだろうと少女提督は考えていた。結果的、将来的に、艦娘達を道具として扱うことが、公然と許されるような価値観を生み出す為の布石のようなものだと。

 

 しかし、過激派の一部の者達は、こういった本営の迂遠なやり方に不満を抱いているのか。艦娘達を『人間と変わらないもの』と捉え始めた今の社会が、例え本営の目論見通りであっても認められずに暴走しただけなのか。無論、今は考えても答えは出ない。少女提督は爪を噛む。

 

「駄目だ。野獣にもアイツにも、やっぱり繋がんない」

 

 顔を上げた野分が、真剣な表情で少女提督を見た。

 

「ハッキングと言うか、私達の端末が外部から干渉されているという可能性はありませんか?」

 

「鎮守府のセキュリティがダウンしてるから、私もそう思ったんだけど……。可能性は低いかも。私の端末は本営にも繋がったし、此処の警備員にも繋がったからね」

 

 苦々しく言った少女提督は眉間に皺を刻み、視線を落とす。少年提督や野獣、それに少女提督が使っている端末は、当然のことながら本営の管理下にあるものだ。何者かがこの鎮守府に存在している端末のシリアルを全て把握し、それらの機能を遠隔で殺している事を想定するのであれば、携帯端末は使い物にならなくなっている筈だった。なら、理由は他にある。

 

「しかし、鎮守府に居る野獣司令や艦娘達と、全く連絡が取れない状態というのは……」

 

「そうなのよね」

 

 少女提督は乱暴な手つきで端末をデスクに置いて、床を睨みながら爪を噛む。ジリジリとした焦燥が心を焼く。侵入者と対峙しているかもしれない少年提督や野獣はともかく、鎮守府に居る艦娘達の、ほぼ全員と連絡が取れないのは何故だ。練度の高さから見ても、こんな短時間で彼女達全員が行動不能になるなんて事は、まず考えられない。理由がある筈だ。それこそ、何か外的な干渉を受けているのでは無いか。とにかく、まずは鎮守府の内部で何が起きているのかを把握する必要が在る。

 

「……今から、鎮守府に戻るわ」

 

「待って下さい」

 

 少女提督は研究室の扉に向かおうとするが、その行く手を阻むように野分が立ち塞がった。野分は険しい表情で首を振る。

 

「危険過ぎます」

 

「どいてよ、野分」

 

「駄目です。もしも司令に何かあれば、姉妹達に申し訳が立ちません」

 

「『これは命令だ』って言いたくないんだけど」

 

「なら、私が鎮守府に行きます。司令は、どうか此処に居て下さい」

 

 一分一秒を争う状況だが、だからこそ、少女提督と野分は睨み合う。少女提督はゆっくりと息を吐いて、視線を落とす。

 

「……ごめん。ちょっと頭を冷やすわ」

 

 野分の言う通りだ。冷静にならなければならない。艦娘囀線で龍驤が書き込んだ通り、野分は『自身の提督』を守れる場所に居るのだ。地下フロアの通路にはセキュリティの一つとして、外敵を遮断する為の強固なシャッターも備えられている。此処は比較的安全な場所なのは間違いない。だが少女提督は地下フロアから出て、わざわざ危険な鎮守府に戻ろうと言うのだから、野分が険しい表情をするのも無理は無い。

 

 だが、どうしても自分だけが安全な場所でじっとしていることは出来ないと思った。この場所で、自分に出来る事は何だと考えようとする。何か無いかと、少女提督は視線を巡らせる。自問自答する。何か。何かある筈だ。自分に出来る事が。何もない筈がない。野分が神妙な顔で佇んでいる。探せ。考えろ。こういう時、野獣はどう動くか。少年提督は何を思うか。彼らは今、どのような状況にあるか。少女提督は床を睨んだままで爪を噛む。

 

 

 次の瞬間だった。

 

 デスクに置いていた少女提督の携帯端末が、pipipipiと電子音を発した。着信だ。少女提督と野分は一瞬だけ顔を見合わせて、少女提督はすぐに端末を手にとった。ディスプレイには≪あきつ丸≫の文字が表示されている。端末を通話状態にして耳に当てると、端末の向こうであきつ丸が息を潜める気配がした。

 

 

『無事でありますか? 今、何処に?』

 

 抑揚のない、ゆっくりとした声だった。酷く落ち着いている。普段のあきつ丸の声とはまるで違うが、今はその冷静さが頼もしい。

 

「地下の研究所よ。傍には野分も居るわ」

 

『それは良かった。事が終わるまでは、其処で大人しくしていて下さい』

 

「そっちはどうなってるの?」

 

『かなり絶望的な状況ですなぁ。ほぼ全ての艦娘が行動不能であります』

 

「……どういう事?」

 

『皆、意識は在るのですがね。自力では立ち上がるどころか、喋ることもままならない状態でありますよ』

 

「それって」

 

『えぇ。艦娘達を対象に取る、何らかの術式の影響を受けているのは間違いありませんな』

 

 あきつ丸の言葉を聞いて、少女提督の脳裏に“艦娘の強制弱体化・解体術式”の報告書の内容が過った。まさかと思う。あの術式自体は複数の艦娘を対象に取れるが、鎮守府全域に効果を及ぼすような規模での運用は想定されていなかった筈だった。仮にそれが可能であったとしても、術式を広範囲に展開する為には多数の“提督”の存在が必要になる。いや、術式の効果を増幅させる何らかの装置を用いれば、少数の人間でも今回のような規模での運用を実現できるのかもしれない。そこで、ふと気づく。

 

「ちょっと待って。あんたは何で無事なのよ」

 

 そうだ。艦娘を対象に取るのであれば、あきつ丸も皆と同じように行動不能に陥っていなければならない。あきつ丸が、端末の向こうでほんの少しだけ笑うのが分かった。

 

『前も言ったでありますが、自分は“出来損ない”の艦娘でありますからな』

 

 あきつ丸の声音には、自嘲も自尊も無い。適度に乾いていて、やはり冷静だ。以前の大本営ゲームの時も、あきつ丸は自分自身を“出来損ない”だと言っていた事を思い出す。少女提督は、一つ呼吸を置いた。

 

「……要するに貴女は、純粋な艦娘じゃないって事ね」

 

『えぇ。御陰で、体に違和感が在って万全とはいきませんが、まぁ、大丈夫であります』

 

 事実を事実としてだけ認識するように努める。あきつ丸の過去は気になるが、それを詮索している場合ではない。

 

「こっちで出来る事は?」

 

『いや、在りませんな。其方で身を隠していて下さい』

 

 つき放すような言い方のそれは、間違いなく、少女提督を思ってのことだった。

 

「でも……!」

 

『襲撃者の狙いは艦娘では無く、提督殿と野獣殿であります。これは間違いないでしょう』

 

 少女提督は息を呑む。

 

『つい先程、黒いボディスーツを着込んだ侵入者達が、加賀殿を担い野獣殿の執務室に向かうのを見ました』

 

 傍に居る野分が、少女提督が握る端末を睨むように見ている。

 

『それと他にも、襲撃者であろう武装した女の姿が幾つか。……彼女達は、身動きの出来ない艦娘達の傍に立って、辺りの様子を伺っていましたな。或いは、何らかの合図を待っているかのようでもあります』

 

「要するに人質じゃない。……状況はホントに最悪ね」

 

 少女提督は吐き捨てるように言う。あきつ丸の話を聞いている限り、鎮守府に居る艦娘達の殆どは行動不能で、襲撃者達の脅威には成り得ない。それに連れて行かれたという加賀も、人質として利用されるのは間違いないだろう。

 

『ただ……、襲撃者達の数、それに様子を見るに、殆どの艦娘達は見逃すつもりなのでしょう。陸の上で艦娘が大量に殺されるような事があれば、今の世間は見逃しません。どういった政治的な力が動くのかは分かりませんが、襲撃者達にしても、“揉み消せる範囲内”でしか動けないという訳でしょうな』

 

 軽い眩暈を憶えた。また爪を噛む。結果的にこの襲撃は、世間の顔色を窺っている本営の首を絞めているように思える。

 

『其方にいる野分殿も、この術式の効果範囲に入れば動けなくなる。鎮守府に戻ろうなどとは思わないで頂きたい』

 

 あきつ丸は抑揚の無い声のままで言ってから、また軽く笑った。

 

『ご存知ではないでしょうが、提督殿と野獣殿は自分たちに何かあった時の為に、我々の管理者として貴女を推薦しているのですよ。そして、それは本営にも受理されています』

 

 少女提督は、一瞬、あきつ丸が何をいっているのか理解が遅れた。

 

「な、によ、それ……」

 

 それはつまり、少女提督ならば、少年提督や野獣の艦娘達を率いていても、本営の脅威にならないと判断されているという事だ。艦娘達の活躍が世間で注目される中では、提督を不自然に失った艦娘達の存在というのは悪目立ちする。特にこの鎮守府の艦娘たちはテレビに出たり秋刀魚祭りをしたりして、世間との距離も近いから尚更だ。艦娘の剥奪命令などは、本営がその気になれいつでも出せる。だが、この襲撃事件が世間の中で大きく取り上げられる前に握り潰すには、宙ぶらりんになった艦娘達を迅速に受け容れて、艦娘達が居るべき場所に仕舞い込んでくれる存在が必要になる。要するに、それが少女提督という訳である。

 

『もしも、提督殿や野獣殿が居なくなっても……、貴女が居れば、この鎮守府は死なない。 我々の帰ってくる場所は、貴女が居れば存続する。良いですか? 我々の帰る場所とは、“提督”の居る場所なのですよ。つまり、貴女なのです』

 

 あきつ丸の声は、優しかった。端末を握る手が震える。以前の大本営ゲームの時、あきつ丸は言っていた。『帰ってくる場所があるというのは、良いものでありますなぁ』と。少女提督は拳を握って、息を吐く。何か言ってやろうと思ったが。言葉が出てこない。唇からは震える呼吸が漏れるだけだった。『では、頼みましたよ』と、端末の向こうで、あきつ丸がまた優しく笑うのが分かった。そしてすぐに、通信は途切れた。頭に血が上っていくのが分かった。いったい、何が“頼みました”なのか。

 

 此処で、ただ嵐が過ぎるのを待っていろと言うのか。

 鎮守府に居る少年提督や野獣を、黙って見捨てろと言うのか。

 残された艦娘達の為に、私は生き残れと。

 

 確かに、それは正しいのだろう。頭の中の冷静な部分は、それを分かっている。少女提督は今、自分が此処に居る偶然を理解している。合理的に判断するのならば、あきつ丸の言う通り、じっとしているべきだ。だが、それを納得できるかどうかと言うと、笑えない。少女提督だって、少年提督や野獣と共に、あの鎮守府で過ごして来た。彼らの傍に居たのだ。舌打ち混じりに端末を乱暴に操作しながら、少女提督は「冗談じゃないわ」と低い声で呟く。

 

「司令……」

 

 野分が低い声を掛けてくる。

 

「野分。私さ」

 

 少女提督は野分を見据える。

 

「此処で動かなかったら多分、一生後悔する。だから悪いんだけど、我が儘言うね」

 

 野分が険しい表情で何かを言おうとした時には、端末が繋がる。

 

『……そろそろ、貴女から掛かって来るだろうと思っていた』

 

 端末の向こうから聞こえる“初老の男”の声は、やけに低く聞こえた。

 

「こんな時間に申し訳ありません」

 

『いや、構わない。急を要する状況なのだろう』

 

 初老の男は、もう既に鎮守府が襲われている事を知っているような、凄みのある、落ち着いた口ぶりだった。少々面食らったが、話が早くて助かる。少女提督は一つ呼吸をして、野分を一瞥した。難しい顔をした野分は黙っている。会話の邪魔をしようとする様子は無い。野分と眼が合うと、彼女は何かを諦める様に俯き、額に手を当てた。

 

「鎮守府が襲われています。恐らくですが、狙いは――」

 

『あぁ。分かっている。彼らが狙われているのだろう。本営上層部の連中も、一枚岩では無い』

 

 初老の男が鼻を鳴らす。

 

『娘の恩を返す時のようだ。……私に出来ることがあれば、何でも言ってくれ』

 

「はい」 

 

 少女提督は、大きく息を吸ってから携帯端末を両手で持つ。

 

「これから私達が行う全ての事を、この事件と共に隠蔽して貰いたいのです」

 

『何をするつもりだね?』

 

「今から私は、深海棲艦達を再活性した上で、彼女達と共に鎮守府に向かおうと思います」

 

『……なるほど』

 

 端末の向こうで、初老の男が低く笑う。傍に居る野分が、今までに見たことない表情を浮かべ、目をまん丸に見開いて此方を見ていた。それを無視して、少女提督は言葉を続ける。

 

「私がやろうとしている事が、狂気の沙汰であることは理解しています。そもそも、スポイルしている深海棲艦達を再活性したところで、言う事を聞いてくれる保証なんてありません。もしかしたら、再活性した瞬間、私はあっという間に殺されるかもしれない。いや、殺されるだけじゃ済まないかもしれません」

 

 少女提督は、自分の声が震えて来るのが分かった。

 

「しかし、深海棲艦達が暴れて“元帥”である私が死ねば、地下のフロアをロックするセキュリティは確実に作動します。もともと、“姫”や“鬼”を捕虜として捉えておくために設計されたフロアですから、再活性した彼女達がどれだけ強力な個体であろうと、彼女達が地上に出る事は不可能です。それに、此処の深海棲艦達は特殊な調律を受けて、リモートで解体施術を行えるようになっています。地下に閉じ込められた彼女達を、遠隔で再びスポイルすることも可能です」

 

 溺れる最中に呼吸を求めるように、頭の中にある言葉を捲し立てる。吐き出された少女提督の声は、哀れなくらい切実な響きを伴って研究室の白い壁に響いた。社会の闇に通じる大穴に向けて、大声で祈りの言葉を叫んでいるような気分だった。

 

「もしも地上に出てから彼女達が暴れ出しても、此処の研究施設の職員達は、既に全員が避難を終えています。深海棲艦達が海に逃げたとしても、リモート解体を行えば、艦娘の脅威となることは無い筈です。もう一度だけ言わせて下さい。殺される危険が在るのは私だけです。私は、どうしても彼らを助けたいんです。もう、これしか無いんです……!!」

 

『…………』

 

 端末の向こうでは、初老の男が黙り込んでいた。野分も、僅かに呼吸を乱しながら、端末を縋りつくように持つ少女提督を見詰めている。

 

『……分かった。此方も手を尽くそう。時間が惜しい。君は移動してくれたまえ』

 

 少女提督が持つ端末の向こうから、初老の男の、喉の奥で笑うような低い声が響いた。しかし、それは嘲う為の嗤いでは無かった。少女提督が見せた覚悟に対する感嘆を含むものだった。端末の向こうで、『こうなるだろうと思っていた。今夜は、何処も彼処も忙しくなるな』と、初老の男が微かに笑う。底知れない響きが潜んでいて、鳥肌が立った。

 

『もしも貴女が失敗しても、その責任を追う者の用意はしてある。何も心配しなくても良い。健闘を祈るよ』

 

 この携帯端末の向こうでは、少女提督が今まで関わった事の無いような、途方も無いほどに深く巨大な闇が立ち上がろうとしているのを感じた。そしてその闇は、これから少女提督と並走しようとしているのだと思った。余りにも頼もしく、恐ろしい。だが、今の鎮守府の状況を引っ繰り返すには、その力が必要だった。善良さや道徳などとは遠く離れた場所に存在する力と、そして、その力の行使を覆い隠す暗闇が。

 

 深海棲艦達を、味方として再活性する。

 この無法と不道徳は、人間社会の闇が肯定する。

 今は正義など必要ない。

 

 

「司令」と、傍にいた野分が、怒ったような顔で近づいてきた。

 

「……本気ですか?」

 

「勿論。これしか無いのよ」

 

 少女提督は野分に短く答えながら、デスクの上に用意してあったVR機器とタブレット端末を脇に抱える。VR機器には、≪少年提督のAI≫を載せてある。このVR機器を装着すれば、“提督”としての適性の低い少女提督であっても、深海棲艦達の再活性は可能だ。ただ、彼女達が暴れ出した時に、それを止めるだけの規模の術式を編むことは出来ない。これは賭けだ。少女提督は、これから命を賭ける。身体が震える。武者震いだと自分に言い聞かせる。恐怖を跳ね返す。

 

「野分、今まで有難う」

 

 少女提督が野分に向き直る。

 

「此処で別れて、貴女は安全な場所へ――」

 

「司令……!!」

 

 野分の低い声が、早口で捲し立てようとする少女提督の言葉を遮る。野分は本気で怒った顔で少女提督を見ていた。

 

「私も行きますよ。何を言っているんですか」

 

「えっ、でも……」

 

「でもじゃないですよ。自分はやりたい放題する癖に、私にだけ逃げろなんて、よく言えますね」

 

 野分は呆れたような溜息を吐き出して、少女提督からタブレットとVR機器を引っ手繰るようにして奪い、研究室の扉に向かう。その途中で、「最後まで付き合いますよ。当然です」と、野分は肩越しに振り返って来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 艦娘囀線での龍驤の書き込みを見た時、霞は朝潮達と共に食堂に居た。すぐに廊下へ飛び出したものの、其処で倒れ込んで動けなくなった。それは、他の艦娘達も皆同じだった。何らかの術式によって肉体がスポイルされているのは分かった。何とか立ち上がろうと体を震わせている時、「すまないな。一緒に来て貰おう」と、誰かに声を掛けられた。低く、落ちついた女性の声だった。それが侵入者のものである事には、すぐに気付いた。

 

 侵入者は長身だった。黒いボディスーツに身を包み、拳銃と軍刀らしきものを装備していて、顔の下半分を黒い特殊なマスクで隠していた。侵入者は物騒な雰囲気を纏っていたが、彼女の目許は柔らかく思慮深そうで、優しそうな印象さえ与えるその眼差しが、酷くちぐはぐだった。彼女が霞を抱える手つきも、場違いな程に丁寧だった。

 

 抱えられて、暗がりの廊下を移動している間に、仲間の艦娘達が地面に転がっているのを見た。伏したままの艦娘達は、他の侵入者達に大型の拳銃を向けられていた。侵入者達は皆、黒いボディスーツを着ていた。侵入者達は艦娘を手荒に扱ったりはしていない。慎重な様子で、一定の距離を取っている。殺意や害意を感じない距離の取り方だった。霞は、自分の心臓に鈍い痛みを感じた。身動きの出来ない艦娘達が、人質に取られているのは明白だった。

 

 今まで少年提督や野獣が抗おうとしていた“現実”というものが、この鎮守府で過ごす日常の中に侵入し、それを呆気なく崩壊させていく。その光景を、呻く程度しか出来ない霞は、ただ見ている事しか出来なかった。そのうち、強烈な倦怠感と虚脱感に、鈍った体の感覚を根こそぎ持っていかれる感覚があった。

 

 

 あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。

 

 霞は今、ソファに座らされていた。少年提督の執務室のソファだ。

 

 執務室の中は薄暗い。電気が消えている。非常用の卓上ランプが点いているだけだ。窓は開いているが、空気が澱んでいるのを感じた。霞の隣には、黒いボディスーツを纏った侵入者が立っている。侵入者は大型の拳銃を持ち、銃口を霞の頭に向けていた。拳銃にはサイレンサーなどは装着していない。つまり、仮に銃声がしようとも、それは問題にならない程度に、この鎮守府は制圧されているという事だ。状況は多分、今までにない程に最悪だ。

 

 霞の向かいのソファに、少年提督が座っている。

 

 侵入者の女が穏やかな声音で、ソファに座るように彼に指示したのだ。彼は大人しくそれに従った。静かな表情を浮かべている少年提督は、これから起こる全ての事を受け容れる覚悟を終えたように、恐ろしい程に落ち着き払っていた。霞はソファに座ったままで、正面に座る少年提督を睨む。

 

 何をそんな風に落ち着いてんのよ。さっさと逃げなさいよ。なんでまだ執務室に居るのよ。今日の夜は、深海棲艦の研究施設に行く予定だったじゃないこのグズ。そんな風に言ってやりたいが、声が出ない。薄く息が漏れるだけで言葉にならない。今の霞は、少年提督を守れない。それどころか、この状況での霞の存在は、少年提督の行動を縛るだけだ。悔しさと申し訳なさで、不覚にも涙が零れた。それを拭うことも出来ない。体が動かない。涙で暈ける視界は薄暗く、何もかもがぼやけて見えた。。

 

「……君には、此処で死んで貰うことになっている」

 

 霞に銃を突きつけたままの侵入者の女は、ゆったりとした声で言う。抑揚の無い声には、不思議な貫録が在った。この女は、少年提督を殺すことに対して微塵も躊躇しないだろうと思わせるだけの、冷たい迫力があった。霞は息を絞り出す。力を込めて、ソファから身を起こそうとする。だが、腕や脚、背中の筋肉、そして、呼吸が震えるだけだった。動けない。動けない。

 

「だが、その前に……。君と少し話がしたいんだ。良いかな?」

 

 侵入者の女は、少年提督を見詰めながら、霞の隣に腰を下ろした。良いかな、などと訊いてはいるが、それを拒む権利など今の少年提督に無いことは明白だった。冷徹な銃口は、ずっと霞を向いたままだ。少年提督は、侵入者の女と霞を視線だけで見比べてから、ゆっくりと瞬きをした。その刹那、彼の胸の内にどのような逡巡と判断があったのかは、霞には分からない。

 

「はい。……僕で良ければ」

 

 少年提督は、いつもと変わらない声と、温度を纏っている。ただ執務室の暗さが増したような気がした。霞は、視線だけで侵入者の女を見る。「うん。ありがとう」と、場違いな程に穏やかな女で応えた女は、マスクの下で薄い笑みを浮かべた様だった。

 

「随分と悠長な事をしているなと、そう思っているかい?」

 

「いえ。それだけの余裕を生み出せる状況を、貴女達が作りだしたという事でしょう」

 

「あぁ。迅速、という訳ではなかったけどね」

 

 女の声には微笑みが混じっている。少年提督の懐から、pipipipiと電子音が鳴った。暗がりに無機質に響く。携帯端末に誰かからの通信が入ったようだ。だが、少年提督は動かない。動けない。霞に銃口が向いているからだ。少年提督は自分の胸元を見下ろしてから、正面に座る女を見据えた。女が緩く息を吐く。

 

「出て貰っても問題は無い。この状況は覆らないさ」

 

「……外部がいくら騒いでも、今の貴女方には関係ないという事ですね」

 

「あぁ。私のすべきことは、頃合いを見てキミを殺す事だけだ。今は、その時を待っている」

 

「……僕に銃を撃てば、弾丸などの証拠が残りますが」

 

「構わない。深海棲艦の細胞から金属を造り出し、それを特殊な加工を施して弾丸にしてあるそうだ。この夜の出来事は世間に出ることは無いだろうが、万が一、表に出るような事があっても、キミは深海棲艦に殺された事になる。少なくとも、世間が知る事実は、そうなる。証拠など無意味だ。此処に真実などない」

 

「最初から、全てを握り潰すつもりなのですね」

 

「まぁ、そういう肚らしい。……キミは」

 

 女は興味深そうに少年提督を見詰める。

 

「随分と落ち着いているね。可愛げが無い」

 

 動けない霞は、完全に人質だった。少年提督の動きを縛り付ける為の存在だった。霞は、自分に苛立つ。怒り、焦り、悔しさなどが入り混じった感情が、次第に恐怖へと変わっていく。恐ろしい。自分が死ぬよりも怖い。この状況が、世界が、霞を置き去りにして進んでいこうとしている。待ってよ。待って。お願いだから。霞は何も出来ないまま、何かを喪おうとしている。世界が、奪っていこうとしている。

 

 

 少年提督が、表情の無い顔で頷いた。

 

「よく言われます」

 

「その態度も、私なんかよりも、遥かに余裕が在るように見えるよ」

 

 女はソファに凭れ、銃を持っていない方の手で携帯端末を取り出した。それは、霞たちが使っている者と同型のものだ。女は携帯端末のディスプレイを手早く操作しながら、表示されている時計を確認した。

 

「既に、この鎮守府の艦娘達は沈静化してある。……それに、軍属の職員達が居ないことも確認済みだ」

 

 その動作の間にも、女には全く隙が無い。

 

「私がこの端末で指示を出せば、この鎮守府に転がっている艦娘達を順に殺す準備も出来ている。だから、余計な事はしない事だ。……さて」

 

 女は携帯端末をソファテーブルの上に置く。ディスプレイには、幾つかの機器と通信している状態が表示されている。何人かの声が聞こえる。『こちら、準備整いました』『こちらもです』『こちらは、もう少し掛かります』『術式陣の出力は、安定しています』『救援部隊が此方に向かっているとの情報が入りました』『予想よりも早い』『通信の遮断はしておくべきでしたね』『いや、問題は無い』『そうだ』『もう間に合わない』『状況は、我々が完全に掌握している』

 

 複数の声が折り重なっている。そのどれもが冷静だった。

 

「……まだ少し時間があるようだ」

 

 女は、ゆったりとした声で言いながら霞に身を寄せて来た。そして、銃口は霞に向けたままで、空いた方の手で霞の太腿に触れる。左の太腿だ。女の手には、黒い軍用手袋がしてある。ごわごわとした感触が在った。霞は視線だけで女を睨む。次の瞬間だった。その女の手が、霞の左の太腿の筋肉を握り潰した。まるで、豆腐を握り砕くように。繊維が千切れる音と、骨がへし折れる鈍い音がした。途轍もない怪力だ。この女は、人間じゃない。咄嗟に理解する。こいつ、艦娘だ。激痛に、身動きが出来ないままの霞は呻く。眼を眇めた少年提督が、咄嗟に立ち上がろうとした。

 

「動くな」

 

 女が、低い声で言う。

 

 霞の左太腿を破壊した女の手が、霞の頸に掛かる。女の黒い手袋は、血で濡れている。その血が、霞の喉を濡らしている。少年提督は霞を見てから、女を見た。少年提督の眉間には、深い皺が刻まれていた。霞が初めてみる表情だった。あれは、怒りか。女が小さく笑う。女の手が、指が、霞の喉首に食い込む。大型拳銃の銃口が、少年提督に向く。女がゆっくりと呼吸をする。執務室の暗がりが、蠢いたように感じた。

 

「さて。これで、私の言葉が口先だけのものではないと言う事は理解して貰えたかな」

 

 女の声が遠い。痛みで視界が掠れる。霞は息を潜める。

 

「もう一度確認しておこう。君が大人しくしてくれれば、艦娘達を無駄に殺すような真似はしない」

 

 女の声は、酷く落ち着いている。

 

「……分かりました」

 

 少年提督が息を吐いて、視線を落とした。彼は霞の方を見ない。霞は、自分の呼吸が震えている事に気付く。この執務室の闇が、囁くようにして霞を取り囲んでいる。少年提督を塗り潰そうとしている。息が詰まる。

 

「物分かりが良いな。ますます、可愛げがない」

 

 女が微かに鼻を鳴らした。少年提督が、静かな眼で女を見る。

 

「今の世相を鑑みれば貴女方も、艦娘の皆さんを政治的に殺すことは避けたい筈です」

 

 彼は霞の方を見ない。霞の太腿の傷ならば、修復材や治癒施術によって治る。問題は無い。そう自分に言い聞かせているかのように、彼の声は平たく潰れていた。

 

「僕と先輩だけを狙うのであれば、貴女方は世間から隠れる事も出来るのでしょう。今日の事も、軍属内部での権力を巡る諍いの一つに過ぎなくなる」

 

「まぁ、そうなるな」

 

 深味のある女の声は、執務室の暗がりによく通った。

 

「ここの艦娘達がいくら声を上げようと、もう世間には届かない。キミと野獣という男さえ黙らせれば、全ては闇の中だ。なぁ……キミは、こうなる事を予想していたのだろう?」

 

「……えぇ、ある程度は」

 

「だから君たちは、世間というものを艦娘達の味方に付ける為に動いていた。人格を持つ艦娘達の存在を、社会の中に大きく映し出した。そしてその影響は、本営も無視できない大きさになった。ここ最近では、特にそうだ。本営までもが主体になって、艦娘達の人間性をアピールし始めている」

 

 何かを確かめる様に、女は朗々とした声で言葉を紡ぐ。

 

「世間も、艦娘達を人間として認めようとしている。今ではそういった思想が多数派だ。人々は艦娘を社会に迎え入れる為に、法整備に着手し、世界の枠組みを作り変えようといている。社会という器を、より広げようとしている。ただ……それが、欺瞞に満ちた擬態である事も、君は知っている筈だろう」

 

 少年提督は無表情のままで、女を見詰めている。女は霞を一瞥した。

 

「艦娘を人間として認めるという事は、今までに人類が艦娘達にしてきた事を認めるということに他ならない。艦娘達の人格・思考の破棄に始まり、人体実験の材料化、捨て艦法……挙句、木偶になった艦娘を金持ち相手の慰み者にして、私腹を肥やす者まで居るのが現状だ」

 

 優しそうな眼をしている女は、ゆったりとした声音で言いながら、その手に力を込めた。霞の頸が軋む。

 

「これらは世相に対する、軍部が抱えた最大のタブーだ。本営は、これらを明るみに出さない為に、“艦娘の深海棲艦化”という現象で、艦娘の過去と未来に蓋をしようとしている。それは明白だ。今の艦娘を歓迎するムードは、深海棲艦と戦う艦娘と人間達との間に、余計な摩擦を生まない為の一時的な方便に過ぎない」

 

「えぇ。分かっています」

 

 彼は頷く。

 

「世間が持つ道徳や倫理というものから、艦娘の皆さんを切り離す為の手段を揃える為に、本営が裏で躍起になっている事も僕達は知っています。そしてそれを、完全に阻むことが難しい事も。……社会は、いつか必ず、人間では無い者を排除しようとするでしょう」

 

 少年提督の声は微塵も揺るがずに、しかし、何処か空虚に、執務室の暗がりに沁み込んでいく。この部屋の闇が蠢くのを感じた。

 

「あぁ。そうだ。キミ達が積み上げてきたものは、全て無に還る」

 

 眼を細めた女が、少年提督を見詰める。

 

「キミはそれを知っていながら、戦うことを止めようとしなかった。だからこうして、目をつけられた」

 

 尋問のような響きを持ち始める女の声は、何処までも真剣だった。誤魔化しを許さない鋭さが在った。同時に、何かを求めているかのようでも、確かめるかのようでもあった。女は、少年提督の目を見ている。

 

「キミは、何の為に此処に居る?」

 

 彼は、その女の問いにすぐには答えなかった。女も黙った。闇が蠢いている。霞は唾を飲み込んだ。この空間にあるすべてが、彼の言葉を待っているかのように静かだった。世界が冷えていく。少年提督はゆっくりと瞬きをしてから、女が突きつける銃口を静かに睨んだ。

 

「……僕に出来る事を、するためです」

 

 やはり、彼の声は揺るがない。其処には、独善的な嘘臭さも無い。何処までも澄み渡っていて、濁りが無い。目前に聳える死というものに対してのその潔癖さは、聖人の持つ穢れの無い博愛などでは無い。霞は少年提督を凝視する。眼帯をしていない、彼の左眼を見る。その蒼み掛かった昏い瞳の中に蹲っているものは、深い絶望と静謐の中で育まれた優しい狂気であり、苦行主義にも似た使命感だった。女が一つ深呼吸をした。その吐息は震えていた。

 

「そうか。うん……。悪くは無い答えだと思う。良くも無いが、だからこそ共感できる」

 

 そう言って、女が微笑む気配と、銃を持つ手に力を籠める気配がした。

 

「何となくだが、キミはそんな風に答えるだろうと思ったよ。そうだな。結局、私達には、それしかない」

 

 執務室の闇が、また濃くなる。ソファテーブルに置かれた、女の携帯端末から音声が漏れている。

 

『遅くなり申し訳ありません。こちらも、準備整いました』『問題は無い』『我々が撤退するまで、まだまだ余裕が在る』『順調と言って良い』『餓鬼の方のターゲットは殺せ』『野獣の方は回収しろ』『術陣効果の継続予定時間を短縮します』『撤収の用意に掛かれ』『油断はするな』『忘れるな。艦娘の強制弱化術式の解除は、我々が完全に撤収してからだ』『状況は、我々が完全に掌握している』

 

 女は携帯端末から漏れて来る音声には応えないままで、少年提督を見据える。彼は、人間では無い。だから艦娘は、彼を殺せる。そう。人間を殺せない艦娘は、世間的には人間である彼を殺せるのだ。恐らく、少年提督が最も避けたかったその構図が、この執務室の暗がりの中に現れていた。人類と艦娘の共存という彼の理想は、彼自身の存在によって、それを根底から揺るがす光景の中で壊死しようとしているように見えた。

 

 

「キミが何と言おうと、私達は兵器であり、道具だ。そう生まれた。戦う為に此処に居る。そして、いつか消える為に此処に居るのだと。決して、人間と並び立つ為では無い。そう思ってきた。それが、私達が存在する理由なのだと信じていた。余計な事を考えるべきではないと」

 

 言いながら、女はマスクを外す。女は、やはり艦娘――日向だった。

 

 

「だが、少しだけ考え方が変わったよ。いつかは消えていくからこそ……。何かの役割を背負い、使命を果たそうとする意思の遂行の中に、私達の幸福が在ったのだろうな」

 

 この場に全くそぐわない優しい眼をした日向は、柔らかく微笑んでいた。まるで、暁の水平線に輝く波を、そっと振り返って眺めるように。現在という時間が、この日向の過去に光を当てたかのように。自身を兵器であり、道具であると信じ、それを貫こうとする彼女の純粋さに報いるのは、使役者である人間では無く、世間に根を張る価値観や常識でもなく、艦娘自身なのかもしれないと思った。

 

 この会話が終わる時、日向は銃を撃つだろう。その確信が在った。霞は渾身の力を振り絞り、腕を持ち上げる。自分の頸を掴んでくる日向の腕を、両手で掴む。力の籠らない手で、必死に、縋るように。日向は、そんな必死な霞を横目で見ただけで、特に反応を示さない。悔しい。自身の役割を果たすのが存在理由なのだとしたら、今の霞は、一体何なのか。艦娘ですらない、不完全な何かではないか。

 

 少年提督は、真剣な表情になって日向を見ている。

 

「……貴女は今、幸せですか?」

 

 彼は、銃口を突きつける日向に問う。霞は叫び出しそうになる。この期に及んで何を。何を言っているのよ。このグズ。こんな時に。何を心配してるのよ。自分の。自分の命を。もっと大事にしなさいよ。貴方を守ろうと必死になってる私が、ピエロみたいじゃない。今までずっと遠くばかりを見て来て。こんな最後の最期になってまで、自分でも、私達でも無く、自分を殺そうとしている相手を慈しむなんて。理解出来ない。馬鹿。クズ。

 

 でも、だからこそ。此処の鎮守府の艦娘達は彼に惹かれたのだ。彼を守ろうとしたのだ。彼の下で戦おうとしたのだ。霞だってその命を、彼に捧げようと決心したのだ。彼は、最後の最期まで、彼で在り続けている。そんな彼を、この鎮守府の艦娘達は必要としてきた。霞は息を震わせる。涙越しに彼を睨む。ねぇ。アンタ、生きようとしなさいよ。何を諦めてんのよ。やめてよ。謝るから。謝るから、生きようとしてよ。私を見なさいよ。そう強く念じる霞の心の熱が、新しい涙になって頬を伝う。言葉が浮かんでくる。

 

 

 この少年は、愚か者だ。

 

 彼は、変わらなかった。誰も、彼を変えられなかった。世界も、変わろうとしない。霞は、少年提督は、日向は、この世界が浮かべる冷酷な表情の、その一部でしかない。余りにも無遠慮で無造作な運命は、平等に、無差別に、霞たちに残酷な選択を迫っている。“世界”という言葉の中に隠れ潜む、巨大な何かが、この場を見下ろしているのを感じた。執務室を囲み、蠢く闇の中で、此方を見ている。霞は、それが憎い。霞にとっての大事な全てを奪おうとしていくその“何か”を、この世界ごと破壊してしまいたいと強く願う。不意に、深海棲艦という言葉が意識を通過する。

 

 もしも霞が深海棲艦だったなら、その“何か”と、堂々と対立出来るのだろうと思った。艦娘としての在り方に迷うことも無く、世間の目も、未来も、何もかもを無視して、自分の欲望を100%、余す事なく開放出来る。私達を突き放そうとする巨大な何かを、この敵意によって振り向かせる事が出来る。霞の内に渦巻く憎悪を、誰にも遠慮することなくこの世界に振り下ろすことが出来る。生まれて初めて霞は、深海棲艦になりたいと思った。此処が深海なら良いと思った。それはこの場限りの、都合の良い現実逃避ではなくなる予感が在った。霞はこの世を、人間を、終生、憎むだろう。涙で滲む視界は暗いままだが、厳然として冷酷だった。

 

「あぁ。……キミに会えて良かったよ」

 

 大型拳銃を少年提督の眉間に突き付けながら、日向が穏やかな微笑みを浮かべた。

 

「最後に、何か言い残す事は無いか」

 

 やめて。やめて下さい、お願いします。お願いします。身動きの出来ない霞は、そう願う。祈るしかない。静かな表情のまま、少年提督が霞を見ている事に気付いた。少年提督は無防備に立ち上がる。銃口に、その身を毅然と曝す。彼は、恐れを見せない。いや、恐れを知らないのか。

 

「霞さん」

 

 彼が、霞を呼んだ。彼は、悲しそうに微笑んでいた。

 

「約束を守れず、申し訳ありません」

 

 霞のよく知っている、優しい声だった。霞は、その声に応えることも出来ない。彼が眼を閉じる。分厚い沈黙が辺りを包んだ。数秒の静寂は、霞には永遠にも思えた。この1秒を彼が生きている。次の1秒も、彼が生きていた。その2秒後、銃声が響く。彼の身体が、空中を移動する。吹っ飛んでいく。彼のしていた眼帯が千切れ飛び、床に落ちた。彼は仰向けに倒れる。日向は歩み寄り、彼の頭部に何度も、作業的に銃弾を撃ち込んだ。銃口から吐き出された濁った閃光が、執務室の闇を照らす。

 

霞は目の前が真っ赤になるのを感じた。日向が携帯端末に何かを言いながら、霞をソファに寝かせた。日向は少年提督の死体を暫く見詰めてから、この場を去ろうとした。殺してやる。霞は呼吸を編むようにして呟いた。絶対に殺してやる。殺してやる。待て。殺してやる。

 

「なに……」

 

日向が硬い声を出して、立ち止まる気配がした。ソファに寝かされたままの霞は、視線を動かす。妙だった。日向は霞を見ていない。彼の死体を見ている。霞もそこで気付いた。彼が立ち上がろうとしている。いや、立ち上がると言うよりも、まるで薄い煙が立ち上るように、操り人形が糸で吊られるように、不自然な動きで身体を持ち上げられている。

 

険しい表情になった日向が、片手で銃を構えながら、もう片方の手で軍刀を抜いた。暗がりの執務室に、彼を中心として術陣が浮かび上がる。破壊された彼の頭部が、再生を始めていた。ぐぶぐぶがばごぼ。がばぐぶごぼぐぶ。水の中に、泡が鳴るような音が響いている。霞は、その音を聞いた事があった。霞は、瞬きも忘れて彼を見ていた。彼は、僅かに宙に浮いている。あっという間に、彼の頭がもと通りになる。彼は床を見ながら、何度も瞬きをしている。肩や首を回している。何かを思い出すように、遠い目をしている。まるで少年提督の中に全く違う何かが入り込み、彼の身体や記憶、もっと言えば、彼の存在や人生の着心地を確かめているかのような、余りにも不気味な仕種だった。

 

がばごぼ、ぐぶぐぶ。ぐぶごぼがぼごぼ。くぐもった泡の音がする。彼の足元に浮かぶ術陣は、光背のように伸びて広がり、暗がりに線を引いていく。彼は何かを唱えている。金屑の経。鉄屑の経。その左眼は昏くて蒼く、彼の右眼は暗くて紅い。彼は、いや彼の中に居る何者かが霞を見た。そして彼の顔に、見る者の背筋が凍るような笑顔を作った。いや、もしかしたら泣く寸前の悲しさを湛えた表情だったのかもしれない。

 

『此処が深海だ』

 

彼の口から響く声は、海鳴りにも似た太い濁り滲ませていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 












最後まで読んで下さり、有難う御座います!
親身な誤字報告で支えて頂き、また暖かい感想で応援を頂いたりと、読者の皆様には本当に感謝しております。
年内更新は難しいかもしれませんが、また皆様に読んで頂けるよう頑張ります。

朝晩寒くなって参りましたが、どうか皆様も体調にお気をつけて下さいませ。
いつも読んで下さり、本当にありがとうございます!






目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

沈む者、昇る者

 

 

 

 

 

 

 

 起き上がった少年提督は、とにかく違和感の塊だった。まるで周囲の時間や法則を解体しながら、無理矢理にこの場に存在を割り込ませているかのような――、彼を中心にしてこの世界に亀裂が入り、その割れ目から、人智の及ばない“何か”が顔を覗かせているような――、そんな悪寒と恐怖が、霞の体を幾重にも包んでいた。霞は身動きが出来ないが、今の彼から視線を逸らせない。彼は、澱み濁った乳白色をした微光と、煤けて掠れたような墨色の燐光を羅のように纏い、禍々しい紋様を描く光背を纏っていた。彼は微かに宙に浮いている。爪先が床から離れている。彼と対峙する日向が息を呑むのが分かった。暗がり執務室は凶悪な静寂に塗り潰されていて、冷たい空気が重くうねっている。それは、生きる者を深い海の底へと誘う、巨大な潮流を思わせた。

 

 霞は、自分と言う存在がこの景色の中で、余りにも小さなものに思えた。息が苦しい。それは肉体を拘束してくる術式の効果の所為だけでは無い。彼の表情は穏やかでありながら、僅かな笑みを口許に湛えている。だが、その微笑みと呼びうる表情は、普段の彼が見せる優しいものではない。圧倒的な存在が、矮弱な他者を哀れみ、慈しむ為の、ある種の隔絶を意味する微笑みだった。それが、途轍もなく恐ろしい。霞の知っている少年提督は今、霞たちが居る世界の“層”とでもいうべき何かから、完全に逸脱しているのを感じた。

 

『何が在った?』『応答しろ』『起爆準備は出来てある』『指示を』『何か問題が?』『指示を』『少年提督は始末した筈だ』『野獣を確保しろ』『日向の指示が無い場合、此方から合図を出す』『艦娘達を見張れ』

 

 ソファテーブルの上に置かれた日向の携帯端末からは、複数の声が漏れている。だが、日向はそれに応えられていない。そんな余裕など、少年提督と対峙している今の日向には無いに違いなかった。

 

「キミは、……何者なんだ?」

 

 頬に汗を伝わせた日向は鋭く眼を細めて、少年提督へと訊く。正確には、少年提督の内側に侵入した“何か”へと。軍刀と銃を持つ日向の手は、微かに震えていた。それを見た彼が、悲しみに暮れる泣き顔にも、優しくて穏やかな微笑みにも見える表情を湛えたままで、緩やかに首を傾ける。奇妙な事だが、動けないままの霞には、彼の表情の印象が、揺れる波のように刻々と変化して見えた。

 

「『“お前たちが“海”と呼ぶ概念の、その中に住まう者の一部だ”』」

 

 彼の声は、幾人もの人間の声を縫い合わせて一人にしたように歪であり、重複した響きが含まれていた。ぶれて重なった彼の声は、執務室に不気味に残響する。底知れないその響きは、執務室の暗がりを震わせる。ぐぶがぼぐぶごぼ。くぐもった泡の音が、四方から聞こえる。臨戦態勢を取っていた日向がすっと重心を落とす。

 

「ふん。化仏みたいなものか……、此処に何の用だ?」

 

 日向の声は冷静を装っているが、硬直していた。今の少年提督の存在感に飲み込まれそうなのを、必死に堪えているのが分かった。霞は日向を見る。強張った日向の頬を、一筋の汗が伝っていた。少年提督の内側に居る者は、その日向の様子を見て、「『“そう身構えなくてもいい”』」と、気の毒そうに緩く首を振って見せた。

 

「『“私は、お前たちと争うつもりは無い。私は、この少年を迎えに来たのだ”』」

 

「なに……?」 訝しむようにして、日向が更に眼を細めた。

 

「『“お前達は、この少年を殺し、棄却した。この世界が、この少年を放逐し、廃棄した。だから、それを回収しに来たのだ。この世から弾かれ、何処にも行き場の無い、この少年の肉体と精神を“海”へと持ち帰る為に。この少年の魂を、我々の領域に招く為に”』」

 

 彼の内側に居る者は、複数の声が重なり合った声で言う。ソファの上から動けないままで、霞は眼を見開いて少年提督を凝視する。背筋に戦慄が走り、呼吸が大きく震えた。“海”が、彼を迎えに来たという事か。言葉にすれば、それは荒唐無稽でバカバカしいものだ。だが、この眼の前に居る少年提督と、その内側に居る者の存在を無視することは出来ない。とんでもない状況の中に、霞は入ってしまっている。日向が少年提督を睨む。

 

「それは困る。私は、その少年を殺すように“命令”されている。私は自身の存在理由を証明する為に、その使命を果たさねばならない」

 

 銃と軍刀を構えた日向が、更に重心を落としつつ、半歩前に出ながら言う。

 

「仕方ない。もう一度、死んで貰おう」

 

 日向は、もう怯んではいなかった。いつもでも飛び出せる姿勢だ。霞は、先程の日向の言葉を思う。“私達は、道具であり、兵器だ”。日向は己が己である為に、この超常の現象を前に、毅然と対立していた。恐れを見せず、ただ自分の役割の中に在ろうとしている。自身の信念を貫徹しようとするその純粋さは、艦娘という存在の“道具・兵器”としての側面を体現しているように見える。だが、少年提督はその日向の姿を見て、憐れむような微笑みを浮かべた。

 

「『“我思う、故に、我在り。お前が実践するその思考は、確かに真理だ。お前は自らを道具であり、兵器であると信じ、そう在ろうとしている”』」

 

 少年提督の柔らかみのある声は、深く濃い濁りと重複を含んでいてる。日向は冷たい眼で少年提督を睨み続けながら、彼我の間合いを測っている。

 

「『“だが“己が望む己であろうとする”お前の執着は、お前の意識の中に、お前自身への善悪や正誤の識別作用を生む。本来、道具や兵器などと言うものは、お前の精神内部で発生するような、あらゆる要求から解き放たれているものだ。願いを持たず、願いを捨てず、善も無く、悪も無い。欲望と感情を持とうとしないのではなく、そして捨て去るのでも無い”』」

 

 彼の泣き顔にも見える笑みは、小さな子供をあやすような、角の無い柔らかい表情だった。だからこそ、ゾッとする程に冷然としていた。日向が何かを言い返そうとして、何も言わず、頬を強張らせて唇を噛んだのが分かった。彼の言葉の隙間を、厳然として聳える静寂が埋める。少年提督の存在が、この空間を飲み込んでいく。

 

「『“お前も、心の底では分かっている筈だ。お前が、お前自身に何かを要求するその時、お前は道具でも、兵器でもなくなっている事を。お前は、感情を捨てきれない。木偶にはなれない。お前が、“望む己で在ろう”とするからだ。その欲望を制止できないお前は――”』」

 

 重複して響く少年提督の声は、耳というよりも頭の中に、意識の中に沁み込んでくる。

 

「『“そうだ……、お前は、人間と同じだ”』」

 

 その言葉は、この日向という存在を構成する何処までを否定するのだろうか。いや、少年提督の泰然とした様子を見れば、もしかしたら、そういった意図を全く含んでいないのかもしれない。ただ、日向が抱いている艦娘としての矜持に、ゆっくりと海水が侵入していくように、影と重みを齎しているのは、眼を細めている日向の表情を見るに間違いなさそうだった。

 

「言いたい事は、それだけか」

 

 日向の声が低く、鋭く尖った。

 

「『“いや、まだ在る”』」

 

 少年提督は変わらず、幼い子供をあやすような笑みを浮かべたままだ。

 

「『“お前がどれだけ願っても、お前は純然たる道具になれない。願えば願う程、それは遠ざかる”』」

 

 不気味な揺らぎを湛えた少年提督の声が、日向を飲み込もうとしているのを感じた。

 

「『“お前が欲する心の境地とは、常在する精神の解体によって至るものだ。我執を捨てられないお前は、永遠に、道具でも兵器でも無い”』」

 

 執務室の暗がりが、日向を蝕むように迫っていくように見えた。

 

「『“お前は、何の為に此処に居る?”』」

 

「黙れよ。その問答は、もう済んだ筈だ」 

 

 日向が動いた。この短い間合いで大型拳銃を撃つ。明るく濁った閃光が、立て続けに5度、執務室を染める。だが、放たれた5発の弾丸は、今度は少年提督には届いていなかった。日向が舌打ちをする。霞は瞬きも忘れて、その光景を見ていた。日向と少年提督の間にある空中で、弾丸が静止している。まるで透明の壁に埋まったように。

 

「『“無駄だ”』」

 

 少年提督がゆったりと言う。彼の纏う白く澱んだ微光が、墨色の燐光が、中空に停滞した5つの弾丸を緩やかに解いていく。それは数秒の出来事だった。弾丸は淡い光の粒子になってから、空中で十匹ほどの金属の蝶へと作り変えられて、執務室をヒラヒラと舞った。新たな生命という造形が、質量保存の法則を超えて銃弾へと無造作に与えられていた。蝶たちの暗紅と紺碧の羽が、窓から差す澄んだ月光を受けて煌めき、暗がりの中に瞬く。

 

 この非常識的な光景は、今の少年提督に対して、艦娘として艤装を召還し、その火力を以て対抗する事の無意味さを雄弁に語っているのだと、チラつく蝶達の煌めきを見ながら、ぼんやりと霞は思った。その蝶達を掻き分けるように、「シッ……!!」と、鋭く息を吐いた日向が前に出る。この間合いでは、艤装を召還しての砲撃も無駄だと悟ったに違いない。

 

 日向は、銃を捨てて軍刀を構えて突進していた。とんでもない踏み込みの鋭さだった。日向の脚力で床が砕ける音が響く。抜錨状態になった日向は一切の躊躇を見せない。少年提督の頭頂部目掛けて、両手で握りこんだ軍刀を真っ直ぐに振り下ろした。それは、暗殺であろうが破壊工作であろうが、“命令”を受けたのならば、それを完遂する為の存在である己を賭けた全身全霊の一撃だった筈だ。

 

「『“私は思う”』」

 

 霞は動けないまま、少年提督と日向を見ている。

 

「『“私を殺そうとするお前の、この懸命さこそが、お前が持つ人間性の証だろう?”』」

 

 月光を反射する蝶達の揺らぎの中で、少年提督は静かな表情をしていた。

 

「『“何度でも言う。お前は、道具などでは無い”』」

 

 振り下ろされたその刀身を、右手の人差し指と中指で、そっと摘まむようにして止めている。「ぬぅううう……!!」と、日向が全身を震わせて、その刀を押しこもうとしているが、ビクともしていない。執務室の暗闇を、その禍々しい光背と共に佇む彼は、気遣わし気に眉尻を下げて日向を見ていた。

 

 一瞬の後。硬く、澄んだ音がした。何かが砕ける音だった。軍刀が折れたという事に霞が気付いた時には、日向は軍刀を捨て、少年提督に躍りかかっていた。あの間合いだ。回避行動は間に合わない。少年提督は逃げられない。日向の手が、宙に浮いている少年提督に触れるそうになった。その瞬間。彼の姿がブレて、横にずれるように動いた。いや、動いたと言うよりも、出現した。映像が歪むような、生物には不可能そうな不自然な移動だった。日向の横合いに動いた彼は、日向の喉首を無造作に右手で掴み上げた。

 

 

「ぐ……ぁ……!」

 

 日向の頸に、彼の指が食い込んでいる。少年提督の体が、また少し浮き上がる。それに合わせて、首を掴まれたままの日向の体も浮き上がった。だが、日向の眼は死んでいなかった。苦悶に表情を歪めた日向は、両手で、喉首を掴んでくる少年提督の右腕を掴んだ。ついでに、首を吊り上げられたままの日向は、彼の腹に、横顔に、側頭部に、蹴りをぶち込んだ。何度も。何度も。しかし、日向の蹴りは届かなった。戦車やダンプ程度なら軽く蹴飛ばすであろう日向の蹴りは、彼の体の数センチ手前で、見えない壁を叩くだけだった。無音だった。何も起こらない。日向の抵抗は、不可視の領域で働く何らかの力によって吸収されている。日向は首を締め上げられ宙に吊られたまま、無力だった。蝶達が音も無く舞っている。

 

「『“無駄だと言った”』」

 

 少年提督が指に力を込めたのが分かった。

 日向の頸の筋肉が軋み、ミシミシと音がする。

 

「がは……ッ!」

 

「『“私を物理的に殺すことなど出来ない”』」

 

 少年提督は日向の頸を片腕で掴み上げ、宙づりにしたままで、気の毒そうに言う。日向の手は、少年提督の右腕を掴んでいる。霞の太腿を握り潰した日向の腕力を以てしても、少年提督の腕を破壊することは出来ていない。彼の肉体が、何らかの理由で強度を増したのか。それとも、日向の力が封じられているのかもしれない。日向は歯を食いしばり、その唇の端から血を零しながら片方の眼を開けて、少年提督を睨んでいる。それに対して少年提督は、やはり物憂げな微笑を浮かべて首を傾けて見せながら、何かを小声で唱えた。それと同時に、日向の額の辺りにコイン程度の大きさの術陣が浮かんだ。

 

「『“お前の過去と未来が、いつか救われん事を”』」

 

 術陣は何度か明滅してから執務室の暗がりに霧散し、それと同時に日向が気を失う。少年提督が日向に対して何らかの術式を展開させたのが分かった。少年提督は日向の喉首から手を放す。日向の体は、力なく床に倒れた。窓から漏れて来る月の光が、日向の頬と髪を儚く、優しく照らしている。

 

 

「『“霞”』」

 

 不意に名を呼ばれる。倒れた日向から視線を上げると、宙に浮いたままの少年提督が此方を見ていた。彼の表情はやはり、泣いている様な、微笑んでいるようにも見える。

 

「『“深海棲艦には深海棲艦の役割が在り、艦娘であるお前には、お前の役割が在る。深海棲艦になろうなどとは考えるな”』」

 

 執務室の中に漂う白濁と墨色の微光が、揺らぎながら霞の周囲を囲んでいる。深海。その言葉が脳裏を過る。彼は、先程の霞の思考を読んだのだろうと思った。宙に佇む彼が、霞に背を向ける。自分の表情を隠すように、遠くを見る眼になって窓の外を見た。彼は、この場から去ろうとしている。霞たちと過ごした時間を置き去りにして、何処かへ行こうとしている。

 

「『“今まで世話になった”』」

 

 動けないままの霞を肩越しに一瞥した彼は、幾重にも折り重なった声で、穏やかに言う。

 

「『“これからは、この少年の事を忘れて生きるといい”』」

 

 彼の声は暖かく優し気ですらあるのに、霞達との別れに、何ら特別な感情を抱いてないかのように空虚に響いた。ただ、その言葉は少年提督のものでは無い。少年提督の内側に居る“何者”かの言葉であるのを感じ、激しい怒りが湧いた。今、霞と少年提督の間に、この“何者”かが無遠慮に立ち塞がっている。少年提督という存在を着込んだ“何者”かが、霞達から少年提督を連れ去ろうとしている。

 

「待ち、な……さ、いよ……」

 

 掠れていたが、ようやく声が出た。同時に霞は、自分の体が僅かに動くのを感じていた。今まで殆ど力が籠らなかった筈の身体に、本当にゆっくりとだったが、感覚が戻って来ている。何らかの術式効果が、今も霞の肉体を拘束しているのは間違いない。だが、確かに身体は動こうとしていた。霞の肉体が、拘束してくる術式効果を跳ね返しつつある。日向には無くて、霞には在る何かが、彼の纏う白濁と墨色の術陣の影響を受けて、霞という存在を艦娘とは別の“何か”にしようとしているのを感じた。霞は少年提督と対峙するようにソファから立ち上がる。日向に破壊された脚が震えた。だが、身体全体に力を籠めていく。少年提督は、立ち上がった霞を見て僅かに眼を細め、振り返った。

 

「もう、一度、……言っ、て、みなさい、……ったら!」

 

 霞は少年提督を、いや、少年提督の中に居る“何者”かを睨み付ける。私の司令官の顔で、司令官の声で、勝手な事を言ってるんじゃないわよ。このクズ。何処にも行かないって、彼は約束してくれたのよ。私は、それをずっと信じて来た。なのに、全然関係ないアンタみたいなのが横からしゃしゃり出て来て、何をいきなり反故にしようとしてるワケ? 殺すわよ。ほんと。

 

 その反射的な感情の爆発は、艦娘の肉体を無力化する術式効果の中であっても、霞を抜錨状態にさせた。霞は自分の体から、碧く暗く澱んだ光が放散されていることに気付く。それが、海で出会う深海棲艦達が纏っている微光と同じ色をしている事にも。深海棲艦化。その現象と状況の中に、自分が入ろうとしている事が分かった。だから何だと思った。上等だ。体が動くなら、何でも良い。少年提督の中から戯けた事を抜かす“何者”かを、此処から追い払う事が出来るなら。少年提督は暗紅の右眼を僅かに細めたままで、泣いている様な、微笑んでいる様な、――人間の真似をしようとしている様な、不自然極まりない表情のままで、霞の様子を冷静に視ている。

 

 霞は思う。

 やはり今の少年提督は、本当の彼では無いのだ。

 だから、今の私を、本当の彼が見たらどう思うんだろう。

 悲しむだろうか。それでも、許してくれるだろうか。

 困ったような笑みを含んだ、あの優しい声で。

 彼の声を聞きたい。彼に会いたい。会いたい。

 思考の隅を過る彼の声と笑顔を、今は、そっと畳置くように息を吐く。

 

 彼を取り返す。

 

 身体の内側に漲ってくる力は熱く、今までない程に熱く、その熱量自体が人格を持ち、霞に同化しようとしているのを感じた。自分が艦娘とは違う何かへと成ろうとして、同時に、何かを踏み外そうとしている感覚だった。霞の中で荒れ狂う憎悪と敵意が、容赦の無い力に変わろうとしている。霞の体に、霞の意思が通い始める。抜錨状態にはなったが、艤装は召還出来なかった。それでも良い。日向によって破壊された太腿の筋肉が、ミシミシと音を立てて血を吹きながら再生していくのが分かる。体が、動く。動く。霞はグッと姿勢を落とす。体の中で、何かが爆発しようとしている。それを抑える必要は、今は無いと思った。

 

「出て、来なさいよ……! 私の、司令官の中から……!」

 

 少年提督の中に居る“何者”かが言っていた。此処が深海だと。

 

「アンタが、“海”だって、……言う、んなら……」

 

 霞は、自分が何処かに沈んで行こうとしているのを思いながら、息を吐く。

 

「司令官の中から引きずり出して……その背骨を、へし折ってやる!」

 

 少年提督を睨みながら、霞は呼吸と声を途切れさせて叫ぶ。そして、飛び出す。獣ように、少年提督へと駆ける。少年提督は動じず、すぅっと左手を翳してくる。その掌に、術陣が発生する。途端に、霞の体は、先程の弾丸のように透明な壁に阻まれる。不可思議な力場が発生して、霞を捕まえる。だが霞は、腕を伸ばして前へ出る。一歩。また一歩と。日向が破れなかった、この非実在の壁を削る。力づくで穴を開けていく。

 

 前へ。前へ。前へ。

 

 自分の瞳から、碧い光が帯を引いているのを感じる。赤い涙が流れているのが分かった。頭が割れそうな程に痛んだ。ミシミシと体中の筋肉が軋んでいる。内臓が捻じれている。それがどうした。歯を食いしばる。金属の蝶が舞っている。暗がりに、澄んだ月光が色を得て点滅している。霞は、彼との距離を詰めようとする。前へ出る。

 

 前へ。前へ。前へ。

 返せ。返せ。返せ。彼を返せ。

 

 ぶちんという音がして、視界の左半分が消し飛んだ。執務室の暗がりが濃くなる。力場に圧されて、左の眼球が潰れたのだと理解した時には、心臓が不規則に跳ねた。内臓が悲鳴を上げている。血の塊を吐き出す。ビシャビシャと床を汚す。倒れそうになる。でも、倒れない。霞の体は、艦娘とは違う性質の活力を宿している。それは強烈で、崩壊していく霞の体を再構築し続けている。霞が居る“層”と、少年提督が居る“層”を隔てる境界線の上で、霞の肉体は絶えまない圧潰と再生の狭間にあった。途切れる事の無い激痛を抱えながら一歩、また一歩と、霞は彼へと近づこうとする。歩みを止めると、この鎮守府で過ごして来た、大切な時間が消えてしまう確信が在った。

 

「返、せ……! かえ、せぇ……!!」

 

 血を吐きながら叫ぶ。一歩ごとに、霞は自分自身が何者だったのかを忘れそうになる。霞が、霞である為に大切な何かが粉々に砕けて、剥がれ落ちて、二度と元には戻れないような気がしていた。それでも彼を。彼に、会いたい。会いたい。何処にも行かないって、約束したじゃない。こんな別れ方って、あんまりじゃない。急過ぎるじゃないのよ。馬鹿。もっと。もっと違う別れ方が在って良いじゃない? 違う? 私、何か間違ったこと言ってる?  ふらつきながらも、霞は前に出る。超常の力場を徒歩渡り、断ち割っていく。

 

「『“この少年が、そんなに大事か?”』」

 

 声が聞こえる。霞は、何かを言おうとするが、それは声にならない。喉が、声帯が潰れている。真っ赤な視界で、彼を睨み据える。少年提督は、霞を冷静に観察している。

 

「『“……その覚悟も、今は胸の内に仕舞っておくと良い”』」

 

 少年提督は落ち着き払ったままで、左の掌を翳している。其処に象られた術陣が姿を変える。霞の額の前に、術陣が浮かんだ。それは日向の意識を奪った術式と同じものだった。少年提督は、自身の肉体を顧みない霞の暴走を止めようとしたに違いなかった。優しさのつもりか。ふざけるんじゃないわよ。今、この状況で意識を奪われる事は、少年提督との永遠の別れを意味しているのだろうと霞は思った。涙は出ない。声も出ない。痛みと血の味がする。大切なものを喪う瞬間が訪れようとしている。深い絶望が、満身創痍の霞を包もうとした時だった。

 

 

「ちょっと失礼するでありますよ^~(FF外から)」

 

 いつの間に空いていた執務室の扉から、音も無く誰かが滑り込んできた。その動きは疾く、暗がりに溶け込むように無音だった。気配がしなかった。気付かなかった。一瞬で霞まで肉薄してきていた。ソイツは、反応できないままだった霞を横あいから抱え上げた。そして、少年提督から素早く距離を取るべく、鋭くバックステップを2度踏んだ。距離のあるバックステップだった為、ソイツと霞は、少年提督から大きく離れる事になった。

 

 少年提督から離れた瞬間、霞は自分の肉体から熱と力が逃げ、精神からは激情が霧散していくのが分かった。そこで気付く。少年提督が、霞に左手を翳して何かを唱えている。日向の意識を奪った術式とは違う。それは治癒術式に違いなかった。彼は、霞を傷つけるのではなく、飽くまで遠ざけようしているのだと分かった。霞の抜錨状態が解けていく。霞の身体が、柔らかく蒼い光が包んでいる。非常に高度な治癒術式によって修復されていこうとしている。

 

 霞は、まだ艦娘のままだった。いや、艦娘とは違う何かへと成ろうとしたが、少年提督によって引き戻されたのだ。激痛が消えて悔しさが残ると同時に、霞の体は再び動かなくなった。情けない程に。艦娘の肉体を拘束する術式効果が、艦娘である霞を再び捕らえている。

 

「随分と面倒な事になっているようでありますなぁ」

 

 だが、霞を抱えているソイツは、そんな術式効果など存在していないかのように平然としている。飄々と間延びした声。やけに白い肌。黒い軍服。腰には軍刀を佩いている。

 

「襲撃されている筈の提督殿を助けに来たのでありますがね……。その提督殿が、血塗れの霞殿と対峙しているというのは、一体どういう状況なので?」

 

 少年提督に挑むような眼を向けるソイツは、意地悪そうな美貌に不敵な笑みを貼り付けて居た。あきつ丸だ。どうしてコイツは、こんな風に動けるのだろう。艦娘達を無力化する術式の影響を受けている筈なのに。頭の隅の方で浮かんだ冷静な疑問と同時に、申し訳無さが胸を満たした。日向から少年提督を守ることが出来れば、このような状況になはならなかったのではないか。霞の無力さが招いた事態なのではないかと。

 

「ごめ、……ん、なさ……」

 

 その曖昧な謝罪の言葉には、艦娘であることを止めようとした事を無意識に含んでいた。霞の目が、無力に濡れて来る。だが、「謝るのは自分の方でありますよ」と、あきつ丸は不敵な笑顔で少年提督を見詰めたまま、掠れた霞の声に応えてくれた。

 

「遅くなったであります。何せ、身を隠しながらだったもので」

 

 そう言いながら霞を抱え直したあきつ丸は、黒いボディースーツを着込んだ日向が、口の端から血を零して倒れているのを一瞥した。そして、金属の蝶達が微光の帯を引きながら舞っている執務室の光景を、視線だけで見回す。少年提督が死んでいない事を無邪気に喜べない状況であることは、馬鹿にでも分かるとでも言う風に鼻を鳴らして、あきつ丸は物騒に眼を細め、少年提督へと向き直る。

 

「……それでは、説明を願えますかな?」

 

「『“見ての通りだ”』」

 

 あきつ丸の鋭い視線を受け止める少年提督は、禍々しい術陣を背負いながら僅かに宙に浮かび、佇んでいる。重複するように重たく響く彼の声に、「ほう。それはそれは」と、あきつ丸は肩を竦める様にして言う。ただ、その仕種に全く隙が無い事には、霞は気付いている。あきつ丸の眼は、少年提督を見ていない。普段は見せない剣呑さや粘度を持ったその視線は、少年提督の内側に居座る“何者”かを見ていた。

 

『日向』『応答しろ』『何が在った?』『何か問題が在ったか?』『何か問題が?』『応答が無い』『少年提督は始末した筈だ』『ああ』『そう報告が在った筈だ』『なら問題は無い』『銃声も聞こえた』『作戦は順調に進んでいる』『本営からの応援の到着には、まだ時間が掛かる』『奴らは我々を捕らえる事は出来ない』『起爆は待て』『艦娘達を見張れ』

 

 複数の声が端末から漏れ、執務室の暗がりに滲むように響いた。今こうしている間にも事態は動いている。あきつ丸が倒れている日向だけでなく、ソファテーブルに置かれている日向の携帯端末を見たのが分かった。

 

 

「『“……ぐ、ぅ……”』」

 

 宙に佇んでいた少年提督が短く呻いたのは、その時だった。

 

 彼は、浮いていられなくなったのか。床に降りて膝をついている。拘束具の様な黒い手袋をした右手で、額を掴むようにして抑えている。少年提督の表情は苦し気に歪んでいた。彼の背後に象られた光背が揺らぐ。月の明かりを受け、軽やかに舞っていた金属の蝶達が床に落ちて硬い音を立てる。執務室を支配していた超常の気配が遠ざかっていく。片膝をついて顔を上げた彼は、何かと戦っているかのように真剣な表情で、微かに息を乱していた。

 

「あきつ丸さん……」

 

 少年提督の声からは、重複と濁りが抜けていた。それは正真正銘、霞の知る、本当の彼の声だった。少年提督が、霞の居る“層”に戻って来たのを感じた。いや。違う。少年提督が、自分の身の内側に居る“何者”かを押さえつけて、意識を表出させている。

 

「今は……、霞さんを連れて、此処から離れて下さい」

 

 急くようにして険しい声音で言った彼は、また「『“ぬ……ぅ、ぅ……”』」と呻きながら、頭を手で抑えて蹲った。あきつ丸が何かを言おうとする気配がして、そして彼に駆け寄ろうとしたのが分かったが、それよりも先に、少年提督が僅かに息を乱しながら、ゆっくりと立ち上がった。

 

「『“……この少年の意思の力を、過少に見ていたようだ”』」

 

 その声には再び、幾人もの人間の声が重なったように不気味に響き、深い濁りを湛えていた。執務室の暗がりが震えている。彼の居る“層”が、また変わった。だが、先程のような遥か彼方まで隔絶した“層”では無く、まだ霞達に近い“層”に居るのを感じた。彼の背後に再び光背が象られていくものの、何者をも寄せ付けない、隔絶した超然さが欠けていた。

 

 少しよろめきながら立ち上がった彼は、もう宙も浮かんでいない。床に足がついている。ただ、その床が大きく凹んでいる。彼がふらつき、足を踏ん張った時だ。ズシン……! という、とんでも無く巨大な生き物の足音にも似た何かが響いた。床がバキバキと音を鳴らして陥没する。彼の体には収まらないものが、重量として現世との接点を持ったかのように。

 

「……顔色が優れませんな?」

 

 霞を抱え、少年提督から少しずつ間合いを取りつつ、あきつ丸は軽く言う。少年提督は冷静な表情のままで口許を緩めた。

 

「『“……あぁ、どうも体の動きが鈍くなった”』」

 

「此処で少し、ゆっくりして行っては如何でありますか?」

 

 あきつ丸の声には、小憎たらしい普段の余裕が戻ってきていた。その理由は、確かな少年提督の存在と意思を確認したからだろう。襲撃者達の存在も無視できない今、あきつ丸に出来る事は多くない。霞を無視して、少年提督に戦いを挑むか。霞を連れて、この場を離れるか。多分、この2つに1つだ。この状況の中で、彼は、その精神内部に侵入してきた“海”に、まだ完全には飲み込まれてはいない。彼は心の内で、“海”と戦っている。そして彼は、あきつ丸に、霞を連れて此処を離れるように頼んだのだ。霞は、信じようと思った。

 

「『“さっさと行くが良い”』」

 

 少年提督は、あきつ丸と霞には執着を見せない。泣き笑いのような表情を浮かべたままで、疲れたように小さく息を吐いている執務室の暗がりが震えた。彼の存在が、再びこの場の空間を支配しつつある。

 

「おや、見逃してくれるのでありますか?」

 

 あきつ丸は彼に訊きながら、霞を抱え直して姿勢を落とす。すっとぼけたような声の調子だったが、油断は無い。あきつ丸は少年提督を注意深く見ている。見据えている。彼が唇の端を少しだけ持ち上げた。

 

「『“私は、お前達を害するつもりは無い。邪魔をするのなら退かしはするが”』」

 

「去る者は追わず、と言う事でありますな?」 

 

「『“それが、この少年の願いだろう”』」

 

「では、此処は退かせて貰うでありますよ」

 

 少年提督に深く目礼したあきつ丸は、迷いや躊躇を見せなかった。それは、少年提督が“海”に屈することなど無いという信頼の現れのようでもあった。

 

 あきつ丸は霞を抱えたままで身を翻す。霞は顔だけを何とか動かし、少年提督へと何かを言おうとするが、意識が朦朧とし始める。ぼやける視界の中で、少年提督は歩き出しているのを見た。体を引き摺るような、サイズの合っていない着ぐるみを纏っているかのようなぎこちない歩みだった。

 

 ズシン……! ズシン……! と、彼が歩を進めるたび、彼の履いた靴が床を砕いている。彼はもう、あきつ丸を見ていなかった。彼は窓から海を見ていた。夜の海を。彼が、海へと出て行こうとしている。それを止められない己の無力さを思いながら、唇を噛む。その間に、あきつ丸は執務室を駆けだし、廊下の窓から庁舎を外へ。夜の空気を感じた。夜空に浮かぶ灰色の雲と、その薄い切れ間からは星と、欠けた月が此方を見下ろしていた。

 

 

 その明かりが落とす庁舎の影を渡るように、あきつ丸は音も無く夜の鎮守府を駆けていく。襲撃者達から隠れながら、霞を何処か安全なところまで運ぶつもりなのだろう。でも、何処かって、何処なのだろう。安全な場所って、何処? 私達が信頼を預ける場所って、何処? あきつ丸の腕の中で揺られる霞の心には、醒めたような冷静さと空虚さが去来していた。

 

 もっと考えることはある筈だと思うが、思考が働かない。ひどく疲れた。痛みが抜けて行った反動か。身体は動かない。意識が溶けて、解けていく。視線だけを動かす。夜空。その月暈に透けて滲む雲に紛れて、何かが夜空を走り去ろうとしているのが見えた。丸い形をしている。それに、獣みたいな耳が上に突き出している。アレは。何で。深海棲艦の。どうして鎮守府の上を……。

 

「ちょっと失礼するでありますよ」

 

 あきつ丸も気付いたようで、庁舎の影に滑り込むように隠れて、頭上を見上げる。それから霞の上半身を大事に抱える姿勢のままで、地面に寝かせた。空いた手で携単端末を取り出し、ディスプレイを手早く操作しながら視線を走らせた。霞は、薄れていく意識の中で焦る。深海棲艦。深海棲艦が、近くに来ている。

 

 艦娘だけでなく、深海棲艦達まで此処を襲いに来るなんて。最悪過ぎる。霞は浅い息を吐いて、あきつ丸を睨むようにしてその服を掴んだ。だが、携帯端末のディスプレイを見詰めるあきつ丸の方は、「この短時間で……、まったく、たまげたでありますなぁ……」と、感嘆するように小声で呟いてから、霞に唇を歪めて見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 艦娘を対象に取る術式効果は、無慈悲に、一切の容赦無く、時雨の体を地面に押さえつけている。廊下の床にうつ伏せに倒れたままの時雨は、胸に太刀を生やしたまま、野獣の呼吸が薄れて消えていくのを見ている事しか出来ない。時雨は声にならない低い呻きを上げながら、身体に力を入れようとする。今まさに愛する者を喪おうとしている焦燥と、その愛する者を奪おうとする者達に向けられる憎悪が時雨を衝き動かそうとする。野獣の死と引き換えにして時雨は、人間を心から憎み、世界を呪う艦娘として生きる権利と資格を得ようとしているのを感じた。

 

 ただ、こんな状況で時雨の頭の片隅には、自身に嫌悪感を抱くほどに悠長な思考が流れ始めていた。正義とは何だろうと思っている自分が居るのだ。野獣を喪ってからの自分たちが、信じるべき正義とは何だろうと。今、胸の内に重く荒れ狂う感情に、自分の未来を託してしまう事は、野獣と過ごして来た今までの日常から、とても遠く離れた場所に行くことを意味しているのだろうと。

 

 だが、それでも構わないと叫び出そうとする自分が、確かに居る。何なら自ら海に沈み、深海棲艦になって人間達の前に還って来て、存分に殺戮の限りを尽くしてやりたいとすら思う激情が、時雨の心を支配しようとしていた。しかし同時に、その暗く獰猛な決意に抵抗しようとする冷静な自分もまた、時雨の中には確かに存在していた。残酷な衝動に身を委ね、野獣と共に歩んできた道を全て否定して、歩み寄ってくれようとしてくれた人間達をすらも憎むような事はしてはいけないのだと。そして、そのどちらが正しいのかという答えは、考えても出ないという事も分かっていた。時雨の中に在る感情たちが、それぞれに人格を持ち、主張し、其処から発生する行動の実現を望み、葛藤しているかのようだった。

 

 ただ、目の前にある事実として、時雨は、人間の企みの前に無力だ。時雨が抱く激情は、時雨の精神の内部でのみ燃焼し、それが物質として現実に影響を与える事は無い。鎮守府の廊下の空気は冷えて、時雨の体から体温を少しずつ攫っている。夜空の雲に透ける月は、薄く、弱く、倒れた時雨を照らしている。しかし時雨の感情は、この世界に何も齎さない。存在していないのと同じように無意味だ。これが世界の本質なのだと思った。

 

 時雨とは全く関係の無い、利益と利得の中に住まう一部の人間達によって定められていく世界は、『艦娘』達を、人間性というものから隔てていくのだろう。野獣を喪いたくないと強く願う時雨の想いなど、彼らにとっては恐ろしく他愛の無いものであり、実体を持たない無価値なものに違いない。

 

 

 時雨は、人間とは何なのだろうと思う。

 

 

 こんな風に目の前で、大事なひとが死のうとしている時、或いは殺されようとしている時には、人間だって時雨と同じように、己の内に湧き上がる悲哀や憎悪に打ちのめされるのではないのか。人間こそが感情の生き物ではないのか。艦娘と人間は、確かに違う。だが、その心と呼びうる精神作用の中に生まれる感情の起伏は、人間のソレとは大きく違わない筈だ。時雨は、自分の眼から涙が溢れていることに気付く。その涙は時雨の体温を受け取りながら頬を伝っている。暗い廊下に零れて、床を濡らしている。窓の外から、月が見ている。時雨の感情は今、確かに世界に触れているのに、それは力を持たない。意味を為さず、無視され、価値を持たず、誰も守れない。体は動かない。押しつぶされて拉げたような声を絞り出しながら時雨は、人間とは何なのだろうと、もう一度思う。

 

 

「……そろそろ死んだかな」

 

 携帯端末を耳に当てている川内は、数歩だけ野獣に近づいて眼を細めている。倒れている加賀の頸元に刀の切っ先を突きつける神通は、冷たい眼で野獣を見据えている。廊下に広がる闇を背に立つ二人の姿は、この世界と時雨達との冷酷な接点そのものだった。彼女達は野獣を見ている。心臓から太刀を生やしたままの野獣は、片膝をついて項垂れる姿勢で動かない。野獣の呼吸は止まっていて、その足元に出来上がった血の池も、廊下の床に黒く大きく広がっている。既に致死量の出血だ。

 

『野獣の回収を』『それで任務は終わりだ』『既に起爆準備は出来てある』『此方もだ』『日向からの応答が無い』『何か問題が?』『応答が無い』『少年提督は始末した筈だ』『トラブルか』『構わない』『日向の死体が残っても、それは問題にならない』『川内』『野獣を確保しろ』

 

 川内の持つ端末から、複数の者が連絡を取り合っている音声が、暗がりの廊下に滲みだすように漏れている。その声達に「分かってる」と短く答えた川内は、更に野獣に近づく。すぐ傍だ。野獣は動かない。川内が野獣の頸筋に触れる。野獣は沈黙している。

 

「脈は無い。……もう心臓が止まってる」

 

 それを確認した川内が、神通に頷いて見せた。

 

「呆気なかったですね」

 

 神通は低い声で川内に言いながら刀を鞘に納めて、倒れている加賀を一瞥した。加賀が首だけを動かして、神通を睨んでいる。私は、貴女達を許さないわ。吐息に紛れてしまうような、微かな声で加賀がそう言うのが分かった。加賀は、神通を睨み続けている。殺意すら込められた加賀のその言葉と視線には関心を払わず、神通は川内へと歩み寄る。

 

「でも、……ちょっと気になるよ」

 

 川内は、端末を見ながら言う。

 

「日向の事ですか?」

 

「うん。……本当に何か在ったのかもしれない」

 

 潜めた声で言う川内は、何とか身を起こそうと震える時雨と、肩や膝を破壊され、身動きの出来ない加賀を交互に見た。日向。戦艦の艦娘。襲撃者の中に居るのか。しかし、何らかトラブルが在ったようだ。「……何か、知ってるかい?」と。川内の眼は、時雨と加賀を探る様に細められていた。日向と連絡が取れない原因についてだろうか。加賀は黙ったままで、鋭く川内を睨んでいる。時雨もまた無力なまま、涙で滲む視界の中で彼女達を見上げ、睨みつける。濃い闇が其処に在る。神通が、冷たい眼で此方を見下ろしている。

 

「……まぁ良いか」

 

 川内が軽く肩を竦める。

 

「此方、川内。野獣を回収する」

 

『了解した』『了解した』『日向からの応答が無い』『少年提督の死体の確認に向かう』『急げ』『起爆装置、作動させます』『艦娘達は巻き込まないように気を付けろ』『了解』『爆破予定ポイントは工廠と』『埠頭の数か所』『それに、入渠ドッグだ』『艦娘達を鎮守府庁舎に集めろ』『任務は終った』『艦娘達には傷を付けるな』『了解』『了解』『(゜∀゜ゞ) イエッサー!!(レ)』

 

 短い応答が続く最後に、明らかに場違いで緊張感の無い声が混ざった。川内と神通が顔を見合わせている。時雨も、倒れている加賀と眼が合った。何かを言おうとしたが、それは声にならない。体も動かない。だが、鎮守府の状況は大きく動こうとしているのは分かった。時雨達が知覚していない領域で、何かが起こっている。

 

「何だ今の……?」

 

 川内は携帯端末を訝し気に見てから、倒れている時雨と加賀を見比べる。同時だった。

 

『なっ!?』『深海棲艦だと!!』『いやぁ、すみませ~ん!(レ)』『バカな!!』『退避しろ!!』『退避だ!!』『だらしねぇな!!(レ)』『うわぁ!!』『なんだ!? 深海棲艦の艦載機が!?』『猫艦戦だ!!』『対処できない!!』『凄い数だ!!』『艦娘達を銜えていくぞ!!』『艦娘達を連れて行こうとしているのか!?』『ちくしょう!!』『まだ撃つな!! 艦娘に当たる!!』『今は交戦するな!!』『まずは退避だ!!』『少年提督は始末した!』『目的は果たした筈だ!!』『川内、野獣を回収して合流ポイントに向かえ!!』

 

 川内の持っている端末から、切羽詰まった複数の声が断続的に響いて、暗い廊下に不穏な残響を残した。今、この鎮守府で何が起ころうとしているのか。時雨は考える。深海棲艦という言葉が在った筈だ。つまり、こんなタイミングでの深海棲艦の襲撃か? この鎮守府のセキュリティが殺されているせいで、深海棲艦の襲撃を感知出来なかったのか? しかし、あの通信の中に混ざっていた声は、レ級のものではなかったか。

 

「了解」

 

 川内が神通と頷きあいながら、携帯端末に応えた時だった。

 

 廊下の窓をぶち破って、誰かが飛び込んできた。位置的には、川内と神通の二人と、廊下に倒れている加賀の中間辺りだ。彼女は、月光を溶かしこんだように白く染まった髪を逆立たせて、鈍く明滅する赤錆色のオーラを纏っていた。暗い廊下に、彼女の輪郭が暗紅に滲み、浮かび上がっている。緋色の眼が、川内と神通を交互に見ている。艦娘の艤装を召還してはいないが、明らかに抜錨状態にある彼女は、加賀を庇うようにして立っている。倒れたままの加賀が、驚愕の表情で彼女を見上げていた。深海鶴棲姫。いや、違う。

 

「遅くなッテ、すミまセン」

 

 肩越しに加賀を見た彼女は――。

 あの艦娘装束を纏っているのは、間違いなく瑞鶴だ。

 

 

 さっきの通信の中に在った猫艦戦は、彼女の仕業なのかと時雨は咄嗟に思う。この鎮守府は、艦娘を無力化する術式効果によって括られている。だが、そうか。“深海棲艦”ならば。今の瑞鶴ならば、その効果の対象にならない。瑞鶴は、少年提督の捕虜である深海棲艦達と共に、鎮守府を制圧しようとしている襲撃者達に混乱を与えて撤退させ、人質となっている艦娘達を解放し、そして、時雨や加賀を助けに来てくれたのだ。時雨は瑞鶴を見る。瑞鶴も時雨を見た。もう大丈夫とでも言うように、目許をほんの少し緩めて見せた瑞鶴は、時雨に頷いてくれた。それを見て時雨は、瑞鶴が、自分自身の中に持つ深海棲艦としての側面を受け容れて、今の行動の決意と覚悟をしたのだろうと思った。

 

 

「へぇ……、こういう迎撃準備もしてあったワケだ。深海棲艦を手懐けるなんてね」

 

 先程まで冷静そのものだった川内が、瑞鶴に向き直った。少しの焦りと驚きが混じった低い声で言いながら身を沈めつつ、すっと両腕を下げている。その両手には、いつの間にか苦無が握られていた。まるで忍者のように。

 

「でも、対応が遅すぎるんじゃない? 少年提督も野獣も、もう死んだ」

 

 薄い笑みを浮かべた川内は、完全に臨戦態勢だ。その隣で、今の状況に僅かに動揺した様子の神通が、刀を構え直そうとした時だった。再び廊下の、別の窓が割れた。澄んだ音が暗がりに響く。誰かが、セーラー服を靡かせて飛び込んできたのだ。彼女は軽やかに廊下に着地して、時雨と川内達との間に陣取った。時雨は息を詰まらせて彼女を見上げる。彼女の上半身の左半分は歪な装甲で覆われていたし、彼女の左眼からは蒼く濁った微光が漏れて、帯を引いていた。蒼い微光を薄く纏った彼女の長い黒髪が、割れた窓から吹き込んだ風に流れている。その後ろ姿は深海棲艦の軽巡・雷巡クラスの姿にも見える。彼女が時雨を振り返って、ウィンクした。

 

「お待たせ~」

 

 間延びした声で言いながら、唇の端で緩い笑みを浮かべたのは――、身体の半分を深海棲艦化させた北上だった。

 

「もう一人か」川内が瑞鶴と対峙したまま、視線だけで北上を見る。それに応えて、神通が北上に向き直った。

 

 時雨は混乱しそうになる頭で、必死に冷静さを保つ。瑞鶴が自身の肉体を深海棲艦へと変容させて、艦娘を無効化する術式に対抗しているというのは、今の状況を見て理解できる。そして、人質となっている加賀を助ける為に此処に現れたのだと。しかし、なぜ、北上まで。いや、今の状況で考えても答えなんて出ない。やはり無意味だ。とにかく、この場に居るのは、野獣を除けば6人。

 

 襲撃者である川内と神通が、死んだ野獣を連れて行こうとしている。

 身動きが出来ないままの時雨と、その時雨を守るように飛び込んできた北上。

 膝や肩を破壊された加賀と、その加賀を庇う位置に立ち塞がる瑞鶴。

 状況としては、川内と神通は、もう時雨と加賀には手を出せない。

 

 この場に、もう余計な会話は無い。睨み合いになる。廊下の空気がビリビリと震えている。ただ、川内と神通の目的が『死んだ野獣の回収』だからだろうか。二人は、瑞鶴と北上の接近を阻むような位置に立っている。同時に、この場から野獣の死体を持ち出して脱出する隙を伺っている。

 

『不味い!』『トレーラーが襲われた!』『港湾棲姫を発見!!』『術式展開の為の機器が!!』『結界術式が乗っ取られようとしてる!』『集積地棲姫がトレーラーを!!』『重巡棲姫も居るぞ!!』『な、なんでこんな所に!』『タ級・ル級と交戦中!!』『武器を捨ててろーー!!(レ)』『重火器じゃ干渉できない!』『通常の銃器では……!!』『(`・ω・´) 痛くないね!(レ)』『艦娘なら、艦娘なら戦える筈だ!!』『部隊の艦娘は何処だ?!』『未だ、日向、川内、神通からの応答ありません!!』『何をやってる!?』『此方、南方棲姫と交戦中!!』『カエッテ、ドウゾ!』『ひぃぃ!!?』『北方棲姫の出現を確認!!』

 

 川内の持っている携帯端末から、複数の声が漏れ続けている。

 

『そんな馬鹿な……!』『戦艦棲姫と、……水鬼!!』『合流ポイント付近だ!!』『大型の艤装獣を確認!!』『くそ!!』『退避しろ!!』『退避だ!!』『駄目だ!!』『逃げろ!!』

 

 

 割れた窓の外から、何かが爆発する音が聞こえる。銃声がしている。巨大な生き物の咆哮と、その生き物が激しく動き回るような轟音が響いて来る。襲撃者達と深海棲艦達との戦闘の音に違いなかった。鎮守府の内部から、そして外からも響いている。あぁ、そうか。深海棲艦。少年提督が保護していた彼女達が、鎮守府を守ろうとしてくれているのか。さっき聞こえた気がしたレ級の声は、やはり彼女のものだったのだと分かった。しかし、捕虜房に戻されている彼女達の肉体は、極端にスポイルされていた筈だ。姫や鬼級の彼女達は、今は人間の女性程度の身体能力しか持っておらず、深海棲艦としての強大な力は封じられていた。大幅に弱体化していた彼女達を、再活性したのは……。

 

『誰も殺しちゃ駄目よ!! 襲撃者を追い払うのが目的なんだから!!』

 

 少女提督の叫ぶ声が、通信の中に混ざる。

 

『不審な大型トレーラーは、鎮守府の周囲に5台確認できます!!』

『OK! 遠慮なくやる!!(レ)』

『いや待て壊すな壊すな! こっちで利用できる!』

 

 続いて野分の声と、レ級、集積地棲姫の声が混ざる。

 

 時雨は鼓動が高鳴るのを感じた。彼女と野分が、深海棲艦達を連れて来てくれたのだと理解した。深海棲艦達を再活性して、それを施設の外へ連れ出したのだ。なんて無茶苦茶な事をするんだろう。普通なら軍法会議ものだろうし、そもそも、再活性した深海棲艦達が彼女の味方になってくれるなんて保証はない筈だ。それでも彼女達は身の危険を承知して、自分の命を懸けたのだと分かった。少年提督と野獣は殺されてしまったが、少女提督はその絶望を力づくで追い払うべく、無慈悲な世界の選択と正面から対峙している。

 

 なんて非常識で頼もしいんだろう。

 まるで少年提督と野獣みたいだ。

 

 そう思うと、今の少女提督達の強行に勇気を貰った気がした。それは、生きる勇気だ。そうだ。時雨は、まだ生きている。これから、野獣の居なくなった世界を生きて行かなければならない。倒れたままの時雨は、渾身の力で首だけを動かして腕で涙を拭う。それだけの動作なのに、とてつもなく体力を消耗した。体は鉛のように重いままだ。立ち上がる事も出来ない。それでも、気持ちが折れてはいけない。野獣が死んだ事は悲しい。苦しい。世界が憎い。それらの感情の強度は、これからも時雨の中で増し続けるだろう。でも、野獣と今まで生きて来た時間を無視してはいけない。野獣が大切にしようとしていたものを、時雨が壊してしまう訳にはいかない。逃げるわけにはいかない。そう思った時だった。時雨は、自分の心臓が止まりそうになるのを感じた。

 

「ぬわぁぁぁん、死ぬかと思ったもぉぉぉん!!(大復活)」

 

 膝立ちの野獣が、血だまりの中で勢い良く立ち上がり、全力バリバリの伸びをしたからだ。

 

「えっ……!?」

「なっ……!?」

 

 位置的に、野獣のすぐ傍に立っていた川内と神通が、素の反応を見せて野獣から飛び退った。二人は表情を驚愕のままで凍りかせている。加賀もだ。それに時雨も、自分が似たような表情を浮かべているのだろうと思った。

 

 胸から太刀を生やしたままで深く息を吐きだした野獣は、首を左右に曲げてコキコキと鳴らしつつ、左手で右肩を揉みながら右腕を回した。当たり前だが、野獣の胸から下は血塗れだし、凄い出血量だ。その凄惨な姿のままで行われる、まるで準備運動の様な暢気で自然体な仕種は、この場に全くそぐわなかった。時雨はそこで気付く。血が。野獣の身体を濡らす血と、床に広がった野獣の血溜まりが、燃え上がるのを待つ熾火のように淡く明滅を始めていた。野獣の姿は、暗い廊下の冷たい空気の中にあっても、陽炎の揺らぎを纏っている。野獣は川内と神通を見比べてから、唇を僅かに歪めて見せる。

 

「おっ、どうしました?(王の帰還)」

 

「ぇ……どっ、どうしたって……」

 

 瞳を揺らす川内が言葉を詰まらせながら、野獣と、その背後に居る北上と時雨を見た。その表情に明らかな焦りを見せる神通も、加賀を守る位置に居る瑞鶴を視線だけで見る。これで川内と神通には、もう人質は一人もいない。深海棲艦化することによって、艦娘を無効化する術式対象から外れた瑞鶴と北上が、動けない時雨と加賀をカバーしている。他の襲撃者達も、既に艦娘達を手放して撤退する旨の通信がさきほど在った。それに、陸上での戦闘が可能な野獣も復活しているのだ。形勢が、完全に逆転した。

 

「何故、生きているのです」

 

 刀を構え直し、神通が野獣を睨む。

 

「貴方の心臓は間違いなく破壊されて、停止していた筈です……」

 

 その神通の鋭い声を聞きながら、野獣は肩を竦めた。

 

「まぁ、俺も見た目通りの人間じゃないからね(アンニュイ先輩)」

 

 そう言いながら、野獣は左胸を刺し貫いたままの太刀を右手で引き抜く。太刀を濡らす野獣の血が、静かに燃え上がった。明るい赤橙の炎が太刀を覆い、廊下の暗がりを払うように照らしている。刀身に刻まれた“聖剣『月』”の銘が、野獣の炎血と沸血に舐められて消え、変わっていく。その炎が持つ熱量が新たな金属として、太刀の鋼に織り込まれていくかのようだった。「抜け目ないね」と、息を薄く吐いた川内が鼻を鳴らす。

 

「私達が撤退して艦娘達が解放された後、貴方は、自分を回収した人間達の手元で目覚めるつもりだったんだね。そうして、黒幕達を暴く為に」

 

「そうだよ(作戦暴露)。まぁ、想定してた状況と大きく変わってきてるみたいだし、死んだフリは此処で終わり!って感じでぇ……(フェードアウト)」

 

「怪物だよ。貴方は」

 

 頬に一筋の汗を流した川内は、数歩下がりながら笑みを浮かべた。

 

「俺達みたいなのが必要になる時代が、すぐそこまで来てたからね。……しょうがないね(万感)」

 

 眉尻を下げて笑う野獣は、自分の胸の傷を一瞥してから、海パンからゴーグルを取り出して装着した。野獣の胸の傷口からは、鼓動の代わりに火の粉が漏れている。足元に出来た血溜まりも乾かずに煮え滾り、薄く炎を上げ始めていた。しかし、その火炎は廊下に燃え移らず、物質には干渉していない。非実在の、炎ならぬ炎だった。野獣が手に持つ太刀には新たに、“夜冥『血繰』”の文字が灼きついている。

 

「……その刀と炎が、貴方の命の原形質ってワケだ」

 

「ウン(首肯)」

 

 特に気負う様子も無く頷いた野獣は、揺らぐ炎を纏う。その炎は捻じれながら、割れた窓から入り込む月明りと混ざり合い、廊下の暗がりに狂猛な獣の陰影を描きだしていた。途轍もなく巨大な獣が炎の揺らぎの奥に潜んでいて、それが野獣に付き従っているかのようだった。宵闇を赤橙に染め、鼓動の様に揺らめく炎は、その獣の息吹と唸りそのものに見える。相対する者の魂を打ち据え、激しく動揺させる。凄いプレッシャーだ。北上が「おぉ~……」なんて声を漏らして、ビビったようにちょっと身を引いた。加賀が息を呑む。瑞鶴は目を細めて、野獣を見詰めている。

 

「燃える刀って、カッコいい……、カッコよく無い?(小学生のノリ)」

 

 クッソ暢気な事を言いながら、野獣は手に握った刀と川内達を見比べる。だが、その仕種には全く隙が無かった。野獣が流した血は炎となってうねり、“夜冥『血繰』”へと収束していく。野獣の体や床を濡らしていた血の跡は、もう何も残っていない。ただ床には、さきほど野獣が捨てた“邪剣『夜』”が鈍い光を湛えているだけだった。野獣はそれを無造作に拾いあげる。川内と神通は、野獣に対して構えたままで、また数歩後ずさる。だが、逃走しようとはしていない。野獣と戦う気なのだ。あの二人の目的は、飽くまで野獣を殺して回収する事であり、逃げると言う選択肢は無いようだ。すぐにでも飛び出せるように姿勢を更に落とす。

 

「……貴方は、この状況を何処まで予想していたの?」

 

 川内の声は、恐ろしく平たかった。

 

「少年提督を見捨てることになる事態まで、互いに了承していたの?」

 

「まぁ、……多少はね?(意味深)」

 

 野獣はもう川内達を見ていなかった。窓から外を見ている。今まで気づかなかった。音が聞こえる。時雨の頭の中へと沁み込むように響いてくる。ぐぶごぼ……。がばぐぶごぼごぼ……。深く澱んだ水の中で、溺れた人間が泡を吐き出すな様な、不気味な音だ。音は外から聞こえている。まるで鎮守府全体を包みながら、この場に居る者達へと囁きかけるように。強い頭痛がし始める。見れば、川内と神通も片手で頭を押さえている。加賀が呻く。北上が表情を歪めている。瑞鶴が野獣を倣い、窓の外を一瞥した。外ではまだ深海棲艦達と、撤退しようとする襲撃者が戦う音が聞こえている。だが、その戦いの音が僅かに緩んだ。

 

『深海棲艦の動きが鈍ったぞ!』『好機だ……!』『今の内に距離を取れ!!』『退避しろ!!』『トレーラーは捨てて行け!!』『もう捕まった奴らが居る!!』『そんなものは捨てて逃げろ!!』『此方の部隊は合流ポイントを無視して、作戦エリアを離れる!!』『川内!!』『応答しろ!!』『川内!!』『神通!!』『野獣の回収はどうなった!!』

 

 川内は答えない。野獣との距離を測っている。神通も同じだ。北上に守られる位置で、時雨はようやく震える身体を起こし、唾を飲む。頭痛がする。「俺達、もう別に戦わなくてもよくないっすか? 人質の艦娘達も解放されたし、俺も復活したし……」と、野獣が川内達を見ながら、肩を竦めた。

 

「それに、もうお前らと遊んでる場合でもなさそうなんだよね。それ、俺の中で一番言われてるから(状況重視)」

 

 野獣は言いながら、“邪剣『夜』”を肩に背負い直す。そして、空いた方の手で携帯端末を拾って、手早く操作し始める。Pipipiと音がした。野獣の端末に通信が入ったのだ。「そうは行かないんだよね……!」それを隙と見た川内と神通が動いた。疾い。時雨には二人の動きが見えなかった。消えた。「お」と、北上が変な声を出していた。川内と神通が野獣の正面、すぐ傍まで迫っていた。野獣は動かない。川内が、再び消えた。上へと跳んだ。そう見えた次の瞬間には、野獣の背後に回っていた。川内と神通の挟み撃ちだ。暗殺術という言葉が、時雨の脳裏を過る。加賀が何かを言おうとしている。北上と瑞鶴は動かない。時雨は眼を奪われた。

 

「おっ、あきつ丸か? アイツは生きてる? 当たり前だよなぁ?」

 

 野獣は携帯端末を耳に当てて会話をしたまま、まず神通の刀を“夜冥『血繰』”で弾きつつ踏み込んで、刈り取る様な足払いを掛けて神通の態勢を崩すついでに体の軸をずらした。前から迫ってくる神通を、ひょいっと横に交わすような動きだった。さらに野獣は、身体を泳がせまくった神通の背中を、かるく押していた。「うっ……!」神通がつんのめり、「ぁ……!?」距離を見誤った川内が、その神通の額に自分の鼻っ面を激突させた。鈍い音が響く。ゴッツーンっと行った。踏み込んだ速度そのままで、二人は激しくゴッツンコしたのだ。

 

「もうちょいしたらアイツの眼を覚ましてやりに行くから、ハイ、よろしくぅ!!」

 

 通話を続ける野獣の傍で、川内が鼻を押さえてよろめく。神通が尻餅をついた。二人は再び構え直そうとしたようだが、その隙に、携帯端末を操作する野獣は術式を唱えて、拘束術式を完成させていた。川内と神通の手首と足首、それに喉首に、動きを拘束する術陣が枷のように嵌る。いや、ついでに猿轡のような奇妙な術陣も形成されて、二人の口まで塞がれていた。鼻血を流す川内が、何とか動こうともがく。神通もだ。だが、野獣が発動させている術式陣は剥がれない。本当に、一瞬で勝負が着いた。

 

「舌を噛んで死のうとか考えないでくれよな^~?(優しさ)」

 

 必死にもがく川内と神通の方を見ない野獣は、端末を操作しながら鼻を鳴らして、加賀へと歩み寄る。少しだけ表情を柔らかくした瑞鶴が、加賀を横抱きに抱き上げていた。加賀は瑞鶴の姿に対しては何も言わず、野獣に対しては、……貴方、ゴキブリみたいにしぶといのねと、掠れた吐息みたいな低い声で言いながら、不機嫌そうに見上げている。かなり酷い怪我をしている筈だが、それを感じさせない加賀の気丈さに、野獣は苦笑していた。

 

「生きてないと、お前がテレビで『加賀岬』を歌う姿を見れないからね(したり顔先輩)」

 

 加賀が、驚いたような顔で野獣を見詰め、何度か瞬きをした。その様子に、瑞鶴が唇の端を少しだけ緩めていた。野獣は加賀の表情には気付かずに、加賀の傍にしゃがみ込んですぐに何かを唱えた。それが治癒と痛覚を消す為のものであるのは間違いなかった。

 

「今の所、奇跡的にみんな無傷ではないけど、なんとか無事?……っていうか、まぁ、良かったよかった」

 

 北上が間延びした声で言いながら、時雨を抱き上げてくれた。時雨に外傷は無い。加賀に治癒施術を行いながら、野獣が時雨を見た。一度だけ視線を逸らした野獣は、何だか申し訳無さそうな笑みを浮かべて見せる。時雨は、野獣に何か言ってやらないとと思った。

 

 本当に死んじゃったのかと思ったんだよ。川内達が言っていたけど、こういう事を想定していたなら、どうして僕達に前もって言ってくれなかったのさ。そりゃあ、野獣と少年提督が大人しく殺されれば、時雨達艦娘は無事に済むことなんだろうけど。そんなの、納得できないよ。出来るワケない。やめてよ。そういうの。言いたい事が頭を巡り、それを言葉にしようとすると、時雨の目から涙が溢れて来た。鼻水もだ。止まらない。みっともない。

 

「時雨、ごめんナス(掠れ声)」

 

 野獣が時雨の眼を見て、少しだけ頭を下げてくれた。時雨は何も言えないままで嗚咽を噛み殺した。生きていて、本当に良かった。ばか。それだけ、何とか言ってやった。野獣が参ったように眉尻を下げる。その、普段は見せないような弱々しい表情に、胸が詰まる。

 

「野獣サンは、大丈夫なノ? 身体」

 

 加賀を横抱きにしている瑞鶴が、野獣を見る。深海鶴棲姫としての、冷静な眼に戻っていた。

 

「当たり前だルルォ!?(天下無双)」

 

 加賀への応急施術が一応終わったらしい野獣は、ばっと立ち上がり、加賀達から距離を取ってから「ホラ見ろよホラ!!」と、ズイズイダンスを踊って見せた。少し離れたのは片手に“夜冥『血繰』”を握ったままだからだろう。その激しい動きに、北上が笑った。加賀が「ぅふっ」と、息を漏らす。「何かムカつくんデ、やメて下さイ」と、瑞鶴が舌打ちをした。時雨も、鼻水を啜りながら笑ってしまった。

 

 本当に、この場で言うべき言葉が見当たらない。時雨は今、深海棲艦達に助けられて、深海棲艦化した仲間達と笑い合っている。互いを助けようとする勇敢さを分かち合い、人間の都合や設計と言ったものと戦っているのだ。隠蔽されて、何も無かった事にされる今夜の、この瞬間の貴重さは如何ほどなのだろう。だが、と時雨は思う。まだ気は抜けない。ここからだ。野獣の御陰で、ほんの少しの安堵を共有出来ているが、鎮守府の状況は、まだ安全とは言えない。野獣はズイズイダンスを踊りつつ、携帯端末を操作している。通信が入ったようだ。その野獣の端末から、再び

 pipipiと電子音が響く。

 

『野獣、生きてるの!?』

 

「バッチェ生きてますよ^~(王の風格)」

 

 少女提督だった。

 

『彼は!? まだ連絡つかないんだけど!』

 

 少しの沈黙が在った。時雨も、北上も、加賀も、瑞鶴も、野獣の言葉を待つ。切羽詰まって不安そうな少女の声に、野獣がズイズイダンスを中断して息を吐く。それに倣うようにして、野獣の手の中に在る“夜冥『血繰』”もまた、一瞬だけ炎を吐いた。ぐぶごぼ……。がばぐぶごぼごぼ……。泡が成る音が、時雨の頭の中に響いている。

 

「へーきへーき! 今から俺が迎えに行くんだからさ(決戦への道)」

 

 

 

 

 

















いつも読んで下さり、有難うございます!
今回の更新内容にも、私の未熟さ故に不自然な点なども多々あるかと思います。
誤字も多く、いつもご迷惑をお掛けして申し訳ありません。
また御指摘、御指導頂ければ幸いです……。
出来る限り、加筆修正させて頂きます。

今年も本当にお世話になりました。
年末年始の事故などには、皆様も十分にお気を付け下さいませ。
最後まで読んで下さり、本当に有難うございます!




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月光の下 前篇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深海棲艦の研究施設から、少年提督や野獣達の居る鎮守府までの道路を、野分は抜錨状態で駆けていた。暗い空に雲が流れている。その隙間から、月が此方を見下ろしていた。不気味な程に澄んだ月明りが、野分達の頭上から漫然と降り注いでいる。それは、今の鎮守府を取り巻く様々な状況を俯瞰している“何らかの存在”と、此方に向けられている温度の無い冷酷な視線を思わせた。また、この事件の黒幕達と、その黒幕達によって利益を得る者達が居ることが確かなように、月も揺るがず、ただ其処に在り続けている。その“視線”を、振り払う事も引き剥がす事も出来ないままで、野分は駆ける。

 

「人間とは恐ろしいものだな。私達などよりも、遥かに戦闘に適した種族に思える」

 

 隣から低い声を掛けて来たのは、野分と並走している南方棲鬼だ。息切れ一つしていない彼女も野分と同じく、人間を遥かに凌ぐ運動能力を発揮しつつ、頭の中で冷静に状況を確認している様子だった。

 

「えぇ。……私も、そう思う時があります」

 

 野分は答えながら、南方棲鬼を横目で見た。彼女は此方を見ていなかった。目の前に広がった道路の暗がりを見据えている。野分の懐から電子音が響く。少女提督からの通信だった。野分達の携帯端末は生きていて、今夜の通話記録や情報の遣り取りは、“初老の男”の影響力の下で、すぐに抹消されるとの事だった。だから遠慮は要らない。この夜、この場で起きている事は全て虚構であり、大いなる嘘なのだ。野分は駆けながら携帯端末を取り出して通話に出る。

 

『こっちで2台トレーラーを抑えたわ。そっちはどう?』

 

 少女提督の話す声の背後で、ヲ級と港湾棲姫の遣り取りが微かに聞こえた。野分達は現在、彼女達の優秀な艦載機によって、広い周囲の状況を把握しながら動いている。野分は、少女提督と別れて行動する事に躊躇いが在ったが、これは少女提督の指示だった。少女提督がヲ級と港湾棲姫から状況を聞き、それを携帯端末で野分に伝える事によって此方の行動精度と確度を上げ、術式結界を発生させるトレーラーを出来る限り素早く抑える為だ。

 

 人質となっている艦娘達を奪還する際にも、大量の艦載機を操ることが出来るヲ級と港湾棲姫は大きく活躍してくれた。彼女達が使役する艦載機達は、広範囲を迅速に策敵し、襲撃者達には大きな混乱と動揺を呼んでくれたのだ。そして、鎮守府と施設の職員達が全員、もう安全なところまで避難しているのも確認してくれている。深海棲艦である彼女達は、海で出会えば恐ろしい相手だが、こうして協力関係にある今、野分は彼女達を頼もしく、そして心強く思う。

 

「はい。此方でもトレーラーを2台、沈黙させました。荷台の中身は、何らかの大掛かりな機材が備え付けられていました。やはり、あれは」

 

『えぇ、結界術式の発生装置よ。しかも、思ってたよりも厄介なヤツだわ。艦娘を無力化するだけじゃなくて、鎮守府の機能も縛ってるみたい』

 

「それは、つまり……」

 

『そう。妖精達まで無力させられてるのよ。“改修”とか“開発”は勿論、今のままじゃ鎮守府から襲撃者達を全部追い払っても、ちまちまとした術式治療しか出来ないわ』

 

 妖精達の協力が無いと言う事は、ドックも機能不全という事だ。

 

『それに、これだけ強力な術式結界の影響下に晒されてるんだから……。結界を解呪したとしても、直ぐには動けない筈よ。艦娘も、妖精もね。野獣から聞いた話だと、こんな状況だっていうのにアイツは何かに憑依されてるみたいだし、鎮守府には幾つか爆発物も仕掛けられてるって話だし、ホント笑えないわ』

 

 端末から聞こえて来る少女提督の声は硬く、強張っていた。アイツ、というのが少年提督の事だという事は分かった。ただ、憑依されている、というのは、どういう状況なのだろうか。その言葉に不穏な何かを感じた。襲撃者たちの仕業に違いないが、鎮守府内に爆発物が在るというのも深刻な状況だ。

 

『鎮守府の被害状況を“深海棲艦の襲撃”に見せ掛けるつもりだったみたい。深海棲艦の死体まで幾つか用意して、既に鎮守府にも運び込んでるって言ってたわ』

 

 それを聞いて、野分は反吐が出る思いだった。

 

 トレーラーごと術式結界を発生させる装置を破壊し、鎮守府を括る結界を強制的に解呪する事にあまり効果は無い。結局、艦娘達は行動不能のままだからだ。おまけに、それを治療する為の妖精達まで無力されている以上、結界術式の解呪自体の優先順位は低い。それでも尚、こうして丁寧にトレーラーを抑えているのには、集積地棲姫の案に従っているからだ。彼女達が言うには、鎮守府を括る結界自体を乗っ取ることさえ出来れば、妖精達を回復させる手段が在るとの事だった。

 

 そうすれば、爆発物の処理や解体も、復活した妖精達に任せることも出来る。彼女の言葉を何処まで信用するかという問題も当然あったが、少女提督は集積地棲姫を一切、疑わなかった。「まぁ、任せろ。これでも“姫”だ」と、眠そうな眼を細めていた集積地棲姫には、自信や慢心も無く、技術者然とした確信を滲ませていたのを思い出す。其処に自分と似た何かを感じたのかもしれないが、少女提督は、集積地棲姫を軸に据えて行動する事を選んだ。野分も、最早何も言わなかった。

 

 ただ、無力化され、身体の自由が利かない艦娘達を安全な場所へ移すことが最優先だった。鎮守府に仕掛けられた爆発物が、一体どれだけの威力を持ったものなのかは分からないし、それに艦娘達が巻き込まれるような事は避けねばならない。これに対しては、既にレ級と戦艦棲姫、戦艦水鬼が鎮守府に向かってくれている。また視線を感じた。頭上からだ。駆けながら、視線だけで空を見る。変わらずに、其処には月だけが在る。忌々しい程に澄んだ月が、雲の隙間から此方を見下ろしていた。

 

『ところで、襲撃者達は?』

 

 端末の向こうから、少女提督の硬い声が聞こえて来た。野分は携帯端末を持ち直し、さらに駆ける速度を上げる。

 

「言われた通り、殺傷する事無く、全て追い払っていますよ」

 

 野分と南方棲鬼は、何か情報を得られればと思い、何人かの襲撃者を捕らえていた。本来なら、艦娘である野分は人間を攻撃出来ない。だが、深海棲艦である南方棲鬼ならば、襲撃者達の体の自由を奪う程度に拘束する事が可能だった。野分は、南方棲鬼が、人間に対して行き過ぎた攻撃行動をとらないように最大限まで警戒しつつ、トレーラーを扱っていた襲撃者達を捕らえ、また追い払っていた。ただ、捕らえた相手に尋問をしている時間も惜しいし、拷問をするわけにもいかない。例え外道が相手でも、自分達まで道を踏み外してはならない。そういう少女提督からの指示もあり、結局はその全員を逃がしていた。それに、この襲撃者達からの得られる情報などは、この事件の黒幕達が用意したものだろうとも零していた。

 

『こんな状況なのに、余計な手間を掛けさせちゃってるわね』

 

「いえ、抜錨状態になれば」

 

 人間など脅威にはなりませんから。そう言い掛けた野分は、喉元まで出かかっていた言葉を飲み込んだ。代わりの言葉を探している内に、端末の向こうで少女提督が息を吐く。

 

「えぇ。……それにしたって、人間を相手にするなんてね」

 

 少女提督の声は、その溜息に溶かすような小声だった。落ち着いてはいるものの、今の状況に、やはり疲れが出ているのだろう。少女提督は人間だ。優秀な頭脳を持っていても、その肉体は年相応の強度しかない。艦娘や深海棲艦とは違う。野分が少女提督に何か言おうとした時だった。少し遠くの方で爆発音がして、炎の色をした光が膨らんで明るくなって、すぐに消えた。駆けていた足を止めて、野分は耳を澄ます。南方棲鬼も立ち止まり、爆発音のした方を見遣った。続いて、数人分の悲鳴が微かに響き、それが遠ざかっていく。

 

 端末の向こうで、少女提督が誰かと話をする気配が在った。相手はやはり、少女提督の護衛として付き従っているヲ級と港湾棲姫だろう。少しして、端末の向こうで少女提督が、また薄く息を吐いた。

 

『トレーラーの残り1台、重巡棲姫が抑えてくれたみたい』

 

 深海棲艦達は、携帯端末などを使わずに離れた仲間と連絡を取り合う術式を持っている。どうやら、トレーラーを抑えた重巡棲姫から、ヲ級、港湾棲姫達に術式の通信が在ったのだろう。

 

『……今の爆発、見た? アレね。あそこで合流しましょう』

 

「わかりました」

 

 

 野分は南方棲鬼と共に再び駆けて、爆発が在った場所に近づく。

 

 そのうち、道路の端に止められた大型のトレーラーが見えて来た。ハザードランプが不穏に点滅している。荷台の扉は、外部からの巨大な力によってこじ開けられたように歪み、拉げていた。電子的あり霊力的にも見える、薄く蒼い光が漏れている。トレーラーの中に積み込まれている術式機器のものだろう。

 

 そのトレーラーの側面では、黒いボディスーツを装着した襲撃者2人が手を挙げて立たされている。2人とも男性だ。彼らの足元には、頭部を全て覆うようなヘルメットともマスクとも言える装備が落ちている。毛髪や睫毛、皮膚片などを落とさない為のものなのだろうが、それを剥がされた彼らは素顔を曝していた。その襲撃者達を威嚇しているのは、物騒に眼を細めて腕を組む、重巡棲姫だ。彼女の腹部からは、大蛇を模した艤装獣が2匹伸びている。艤装獣たちはその鎌首を擡げて、襲撃者達の顔のすぐ前に佇みながら、値踏みでもするように襲撃者達の顔をじろじろと見まわしていた。艤装獣は、いつでも彼らを喰い殺せる位置に居て、襲撃者達の脚はガクガクと震えている。

 

「殺してはダメですよ!」

 

 野分は重巡棲姫の傍に駆け寄る。重巡棲姫は面白くなさそうに野分を見ながら、「分カッテイル」と、面倒そうに言う。彼女の言葉は、南方棲鬼や集積地棲姫達と比べると、まだ少しぎこちない。その分、深海棲艦としての威圧感が濃く滲んでいて、聞く者に恐怖を与える凄味がある。彼女の声を聞いた襲撃者達が震えたのが分かった。それに気付いた南方棲鬼が下らないものを見る様に鼻を鳴らし、重巡棲姫も苛立たし気に襲撃者をねめつける。

 

 一匹の艤装獣が、「Kahaaaaahhh……」と息を漏らしながら長い舌を伸ばし、味見でもするかのように、襲撃者の頬を下から上へと、ゆっくりと舐った。襲撃者は悲鳴を上げこそしたものの、身体を完全に硬直させて動けていない。ただ、余りの恐怖に気を失ってその場に崩れ落ちる。もう片方の襲撃者も、腰を抜かしてその場に尻餅をついていた。

 

 そこで気付く。野分は一瞬、言葉を失う。そんな。

 片方の襲撃者。尻餅を付いている方の顔を、野分は知っている。

 でも、何故。どうして、この人が此処に……?

 

「お久しぶりですね」

 

 野分が呆然としていると、背後の暗がりから声がした。振り向くと、酷く醒めた表情をした少女提督が、頭に装着していたVR機器を外しながら此方に歩いて来るところだった。隣にはヲ級と、それから、港湾棲姫も居る。二人は其々、少女提督を守るように脇を固めていた。

 

「お、お前……、お前……! お前は……!!」

 

 襲撃者のうちの一人。尻餅をついていた方が、眼を見開いて息を乱し、少女提督を見た。信じられないものを見るかのように、彼は身体全体を震わせている。「在り得ない……、在り得ないだろう……!」と、地面に座り込んだままで喉を痙攣させながら言う彼の様子は、目の前の景色を、自分の持つ常識によって必死に否定しようとしているかのようにも見える。彼の戸惑いには関心を払わず、夜はただ深まっていく。

 

 ヲ級は何も言わず、少女提督の傍に控えている。港湾棲姫が伏せがちな眼で、少女提督と襲撃者の男を交互に見た。重巡棲姫と南方棲鬼も、黙って二人を見守っている。野分は僅かに唇を噛む。野分は、この男を知っている。

 

 以前、少女提督が身を置いていた『鎮守府』で、ともに作戦にあたっていた事のある“提督”だ。この男は、指揮下にある全ての艦娘達の意識や自我を破壊し、木偶に変え、苛烈な運用を行っていた。そして、ある作戦で空母棲姫と中間棲姫の鹵獲に走り、出撃させていた艦娘の多くを轟沈させている。ただ鹵獲自体は成功させており、その功績を評価されたことによる昇進から、彼は本営直属の人間となった筈だった。野分が少年提督や野獣と出会ったのは、彼が少女提督の所属する『鎮守府』を去ってからの事である。彼はいつも、“元帥”としての少女提督を目の敵にしていた。それが、本営から高い評価を得ている少女提督への嫉妬から来る、安っぽい憎悪であるという事も、少女提督の秘書艦をしていた野分にも分かっていた。彼は、あの頃と同じ眼をして、少女提督を睨んでいる。

 

「きっ、貴様は、 あ、あの鎮守府でも……、“花盛りの鎮守府”でも、無能だった筈だろうが! それが、何故、何故だっ!? どうして、深海棲艦達を……!!」

 

 地面にへたりこみ、トレーラーのタイヤに背中を擦りつける彼は、身体全体を震わせて怯えながらも、少女提督を睨み、唾を飛ばして叫ぶ。花盛りの鎮守府。艦娘達を苛烈に運用する過激派の提督達が、少年提督や野獣の居る『鎮守府』をそう呼んでいるのは、野分も知っている。その呼び方は、艦娘と人類の共存を目指すこと自体が、まるで花畑のように“御目出度い”思想だと揶揄する蔑称だった。

 

 少年提督と野獣は特に気にすることもなく、逆に、そういった提督達の蔑称こそ、この上無い名誉のある呼び名だと考えているようだが、野分は違う。気に入らなかった。そして何より、少女提督を無能呼ばわりされた事に強く、純粋な怒りを覚えた。奥歯を噛んだ野分の傍で、少女提督の方は表情を変えないままで彼を見下ろし、息を吐いた。

 

「えぇ。仰る通り、私は無能です。“提督”としての資質も低いままです。でも」

 

 少女提督は言いながら、南方棲鬼、重巡棲姫と港湾棲姫、ヲ級を順番に見て、最後に野分に向き直った。月の明かりが、ほんの少しだけ強くなった。その御陰で、少女提督が少しだけ笑みを浮かべているのが分かった。

 

「そんな私を支えてくれる皆が居てくれるからこそ……、私はこうして、“提督”として居られるんです」

 

 少女提督の言葉は、夜の空気に凛と響いた。

 

「そして深海棲艦である彼女達も、無能な私に力を貸してくれています。その力を、今は正しい事に使おうと、……こうして必死になっているのです」

 

 尻餅をついたままの彼は、ただ、何かを言いたそうに唇をぎこちなく動かすだけだった。艦娘達を顧みなかった彼は今、ただ独りで震えている。対して、少女提督は毅然と胸を張り、彼を見下ろしていた。その少女提督と彼の姿を対比するように、月の明かりは沈黙に冴えて、透き通っていく。野分から見る少女提督の姿は、とても崇高で清廉に見えて、誇らしく思えた。「準備は出来た」と、やたら低い声が聞こえたのはその時だ。声がした方を見ると、ガリガリと頭を掻いている集積地棲姫が、のっそりとトレーラーから出て来るところだった。

 

 南方棲鬼、重巡棲姫と港湾棲姫、ヲ級の四人が、集積地棲姫に向き直った。野分もそれに倣ってから、気付く。トレーラー全体が蒼い微光を纏い、それが暗がりの中で、ぼんやりとした揺らぎを象っている。それだけじゃない。トレーラーを基点にして、地面にも蒼い光が伸びて、巨大な術陣を描き出そうとしていた。深海棲艦が扱う高度な術式の一部へ、あのトレーラー自体が組み込まれているかのようにも見える。とにかく、これから集積地棲姫が大規模な術式を展開しようとしているのは間違いない。

 

 少女提督は覚悟を決めるように深呼吸をしてから、へたりこんでいる彼の手を掴み、引っ張り上げる要領で無理矢理に立たせた。彼の方が少女提督よりも背が高い。必然的に、今度は彼が、少女提督を見下ろす形になる。彼は呆然としている。少女提督が、彼に頷く。

 

「……貴方は、この気絶している同僚を連れて、此処から離れて下さい」

 

 有無を言わさない口調で言いながら少女提督は、地面に伸びているもう一人の襲撃者を一瞥した。彼は、「わ、私を、逃がすのか」と、不安と怯えが入り混じった表情で、頼りなく脚を震わせている。冷静な表情を作った少女提督は、静かに彼を見上げている。

 

「今夜の事件は、無かった事になります。万が一、この事件が明るみに出ることがあっても、私達の鎮守府は深海棲艦の襲撃にあったという、ありふれたニュースになるだけでしょう。貴方達がそう仕組もうとしたように」

 

 少女提督の声には、静かな力強さが滲んでいた。深海棲艦達が、少女提督と彼を見守っている。

 

「私達は、その虚構を受け容れます。私達は“深海棲艦の襲撃”に遭いましたが、“被害を最小限に抑えて、それを退けた”と、世間からはそう見えるように動きます。人間の企みを匂わせる貴方達のような存在がこの場に残るのは、私達にとっても、貴方達にとっても都合が悪い。だから、この場から離れて欲しいのですよ」

 

 彼は唾を飲み込んでから、「言いたい事は、わ、分かる」と、少女提督に対して、ガクガクと首を揺らすように頷いた。その様子には、此方に対する抵抗の意思が全く見えない。鬱陶しそうに唇を歪めた重巡棲姫が、艤装獣を消すようにして抜錨状態を解いた。状況的に見ても、もはや彼が脅威では無いからだろう。港湾棲姫が、気を失っている襲撃者を優しい手つきで抱え上げて、彼へと抱き渡した。

 

「もう此処に、近づいては、駄目」

 

 ゆっくりとした口調でそう言った港湾棲姫は、困ったように眉尻を下げながらも、口許を少しだけ緩めていた。彼女の言葉も、野分が出会った頃と比べると、随分と流暢になった。身体を強張らせている彼は仲間を抱えながら、その港湾棲姫の柔らかな表情を、困惑の眼差しで凝視していた。深海棲艦と意思疎通をする経験など、今までの彼には無縁だったろうし、港湾棲姫の人間味のある優しさに衝撃を受けているのかもしれない。固まってしまった彼に、「向こうへ暫く行けば、港町の明かりが見えて来るでしょう」と、声を掛けたのはヲ級だ。

 

「あ、あぁ……、わ、分かった!」

 

 彼は我に返ったようにヲ級に何度も頷き、息を乱してこの場から走り去っていく。さっさと失せろ、という表情を浮かべて彼の背中を見送っている南方棲鬼と、相変わらず機嫌が悪そうに口許を歪めている重巡棲姫、それに、眠そうな眼でボリボリと頭を掻いている集積地棲姫を順に見て、少女提督は「頼もしいわね」と、軽く笑ったようだった。そして、手に持っていたVR機器を装着しながら、もう一度、この場に居る全員の顔を見回した。野分は背筋を伸ばす。

 

「……始めるぞ」

 

 低い声でそう言った集積地棲姫が棒付きの飴を口に咥え、少女提督の方を見ながら艤装を召還した。蒼い燐光が彼女を包み、その光の粒子が両腕に集まりながら、黒く巨大なガントレットへと姿を変えていく。眼鏡の奥にある彼女の眼は、冷たく、そして鋭かった。トレーラーを軸に描かれた術陣が、夜の暗さを払うように一層強く光を放ち始める。

 

「うん」『お願いします』

 

 集積地棲姫に応えたのは、少女提督と、少女提督が装着したVR機器に搭載された少年提督のAIだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 銃声が聞こえていた。巨大な生き物の咆哮と、悲鳴にも似た人の声もだ。遠くからも、近くからも聞こえて来ていたし、その音が遠ざかっていくのも感じていた。今は、随分と静かだ。それが良い事なのか、悪い事なのか。判断がつかない。状況が分からない。

 

 強い焦りと、不甲斐ない自身への怒りが胸の内に燃えている。動けない体を無様に揺らすようにして、不知火は芋虫の様に這い、駆逐艦寮の屋上の手すりまで何とか辿り着いていた。1メートルも無い距離を進むのに、かなり時間が掛かってしまった。急がねばならない。だが、手すりに捕まって立ち上がろうとするが、それも出来ない。手すりを持つ手にも、体を持ち上げるだけの力が入らない。気だけが急いて、笑えるくらいに微かな力だけが、動かない体の中で空回りを続けている。

 

 少年提督の身に危険が迫っている筈なのに、自分は一体、此処で何をしているのだろう。口から洩れて来る呼吸にも、まるで力が無い。結び目の緩んだ風船から空気が漏れるように、細く、頼りない息しか出来ない。不知火は唇を噛む。その顎にすら、上手く力が伝わらなかった。自身の無力さが憎い。俯く姿勢から僅かに顔を上げると、夜に沈む鎮守府が其処にある。冷たい風が吹いて来て、倒れた不知火を無表情のままで撫でて行った。暗い静寂が訪れる。夜空の雲間には切れ目が出来て、月が、下界を覗き込むようにして顔を覗かせている。月は、この世界が不知火を置き去りにしていくのを、ただ眺めている。鳥の羽音が、すぐ傍で聞こえた。

 

 こんな夜に……? 不知火は、羽音がした方へと視線をずらす。不知火の顔の、すぐ傍だった。濡れたように黒い色をした小鳥が一匹、其処に居た。その小鳥の左眼は、蒼み掛かった昏い色していて、右目は、錆を溶かしたように濁った暗紅色をしていた。その二つの眼が月の明かりを吸って、薄ぼんやりとした光を湛えて、不知火を見ていた。

 

 黒い小鳥は首を傾げて不知火を凝視していたが、そのうち、不知火から少し離れた場所へと、跳ねる様にして移動し、何かを嘴に挟んだ。それは先程、不知火の胸ポケットから零れ落ちた“ケッコン指輪”だった。指輪は変わらず、蒼い光を湛えている。指輪を銜えた黒い小鳥は、また跳ねる様にして不知火の下へと近づいて来る。

 

 小鳥はそのまま、手すりを掴んでいた不知火の左手の甲に飛び乗り、不知火の顔と、左手の薬指を見比べた。2度、3度と、小鳥はその動きを繰り返す。ぼやける視界で、不知火は小鳥を見詰めた。『不知火さん』と、小鳥が声を出した。少年提督の声だった。不知火はその現象に反応を返さなかった。まともに身動きの出来ない身体が、不知火に幻聴を聞かせたのだと思ったからだ。

 

『手を。指を、広げてください』

 

 小鳥が、また少年提督の声で、語り掛けて来る。頭の中に沁み込んでくるような声。聞き慣れた、心地よい声だった。不知火は、この幻聴が自身の精神的な部分の弱さから来るものだと思った。小鳥は、不知火の左手の甲の上に居る。不知火の顔と、左手を交互に見ている。その細かな動きには、銜えている指輪を不知火の指に嵌めようとする意図が在るのは明らかだった。

 

『どうか、手を。指を、広げて下さい』

 

 少年提督の声がする。この黒い小鳥は、一体……。ようやく不知火は、僅かな警戒心を抱いた。だが、その慎重さは、今の状況では何の解決に繋がらない事も同時に感じていた。何かを迷うほどの余裕は、もう無かった。気付けば不知火は、縋る様な思いで手すりを手放し、掌を上にして指を曲げていた。黒い小鳥は音も無く羽ばたき、不知火の掌の中に着地して、曲げられた薬指へと、奇妙な程の器用さで指輪を嵌めてくれた。

 

 その瞬間だった。

 

 薬指に嵌められた指輪の、その蒼い微光が、一気に膨張して不知火の身体を包んだ。優しくも深い蒼の光は、すぐに積層型の術陣となって編み上げられて、不知火の肉体に大きな活性を齎していく。五感に精細さが戻り、力が還ってくるのを感じた。水底に沈んでいく最中に、誰かに腕を掴まれて無理矢理に水面へと持ち上げられるような感覚だった。不完全な呼吸しか出来なかった肺に、一気に空気が流れ込んでくる。

 

「う……っ! げほっ! げほっ!! ……ぁ、はぁ、はぁ……っ!」

 

 不知火は咳き込みながらも、自分の力で立ち上がる事が出来た。体が軽い。抜錨状態にもなれる。一体、何が起こったのかわからない。荒い息を整えながら、不知火は自分の両方の手を見てから、体を見下ろした。今まで不知火の肉体を無力化し、地面に押さえつけていた術式結界の効果を跳ね返すように、積層型の術陣は明滅を繰り返している。そして、その術陣に“ケッコン指輪”が共鳴するように、淡い光を揺らめかせていた。これらが、途轍もなく高度な術式である事は、不知火にも分かった。

 

『遅くなって申し訳ありません』

 

 まただ。少年提督の声が聞こえた。すぐ近くだった。不知火は慌てて周囲を見回す。見つけた。傍にある屋上の手すりの上に、黒い小鳥が止まって、此方を見ていた。

 

『特殊な調律用術式を施させて貰いました。体の調子は如何ですか?』

 

 少年提督の声は、明らかにこの黒い小鳥が発している。不知火は静まってくる呼吸に反比例して、鼓動が急いたように早くなっていくのを感じた。小鳥は奇妙な程に強い存在感を放ち、そこに居る。月明りの下に居る小鳥の、その羽毛の黒さには金属を思わせる光沢があって、この夜の暗さの中に溶け込むのではなく、逆に浮き上がっている。

 

「貴方は……」

 

 僅かに身構える不知火に対して、黒い小鳥は何度か瞬きをして首を傾げて見せる。

 

『えぇ。僕は、“僕”のAIの複製です。この小鳥の造形はカモフラージュの為のものであり、同時に、現実世界と僕とを繋ぐインターフェイスとしての役割も果たしています』

 

 不知火は何も答えず、黙って小鳥を見詰める。術式が完成し、その効果の全てが解決したのだろう。不知火を包んでいた積層術陣が解け始めていた。無表情な夜の暗がりが再び、不知火達を包もうとしている。

 

『ただ、やはりこの身体では、高度な金属儀礼術の運用を行うのは難しいですね。術式展開の負荷に耐えきれない。一度が限界ですが、どうやら“僕”は、それで十分だと判断したようです』

 

 小鳥の身体が、力なく傾いて、手すりから落ちる。咄嗟に不知火は動き、落ちていく小鳥の身体を、両手でそっと受け止めた。小鳥の身体は少しずつ、光の粒子になって霧散を始めている。それは、血の通う生き物の死に方では無かったが、“生命”というものを確かに感じさせる散り様だった。

 

「司令は……、司令は無事なのですか!? それに、他の皆も……!」

 

 自分の手の中で消えていく小鳥に、不知火は叫ぶようにして言う。小鳥が首を曲げて、不知火を見上げた。

 

『“僕”は、無事です。そして他の艦娘の皆さんも、深海棲艦の方々の協力もあって、順にではありますが、安全な場所へ移してくれています。襲撃者達も、もう殆ど逃げ散って行った後です」

 

 深海棲艦の協力。その言葉に、不知火は息を呑む。つまり、襲撃者に対し、捕虜として管理していた“姫”や“鬼”クラスの彼女達をぶつけたという事か。尋常では無い規模の反撃だ。それに深海棲艦の再活性に関しても、クリアするべき問題が山積みの筈だ。こんな事が表沙汰になればどうなるのかなど、はっきり言って不知火には予想できない。黙り込んだ不知火を見て、黒い小鳥は横たわったままで、また首を傾げて見せた。

 

『ただ問題なのは、“僕”がこの世界から切り離されて、海へと連れ去られかけているという状況です』

 

「そ、それは……、どういう……」

 

 不知火は、そのAIの言葉を上手く理解できなかった。深海棲艦達の協力によって襲撃者達を追い払い、人質となったのであろう艦娘達が無事なのではあれば、もうこの件は解決したのではないか。そう思ったが、どうやら違うようだ。喉がひりつく。黒い小鳥が、瞬きをした。蒼い眼と、紅の眼が、暗がりに瞬いた。途轍もなく嫌な予感がしていた。

 

『今の“僕”の内側には、別の存在が入りこんでいる状態です。端的に言えば、何者かに肉体を乗っ取られている状態と言えます』

 

 不知火は言葉を失う。思考が回らない。混乱しかける不知火の反応を予想してか、黒い小鳥は「ただ、心配は要りません。“僕”は大丈夫です」と、すぐに言葉を繋いだ。

 

『肉体のコントロールを奪われていますが、まだ“僕”の精神は、艦娘の皆さんと同じように、“召還”できる場所に居ます。この状況を解決する為には、不知火さんの協力が必要になります』

 

 言葉を詰まらせる不知火の掌の上で、小鳥が力なく身体を横たえている。だが、小鳥から漏れてくる声音は、まるで変化を拒むかのように揺らがない。

 

『今、不知火さんの魂は、“僕”の魂と結ばれています。故に、不知火さんの精神は、“僕”の精神世界に繋がるチャンネルとして機能するのです。“僕”を呼戻す“召還”の為には、不知火さんの存在が不可欠なのです』

 

 小鳥の体は霧散を続けながら、その重みを失ってきていた。それでも、小鳥の声には意思と力、それに、不知火に対する信頼が含まれていた。その事に対して不知火は、心強さや頼もしさよりも先に、肩と背中に寒さを感じた。小鳥が発する少年提督の声音の中には、危機感や恐怖感が一切、滲んでいなかったからだ。

 

『この身体は消滅しますが、後程、僕のAI本体からも、不知火さんにコンタクトが在る筈です』

 

 小鳥はその身体を霧散させながらも、まるで、これから起こる事の全てを見て来たかのような冷静さを見せている。不知火はその悪寒を振り払いたかった。このAIは飽くまで人工物であり、死や喪失といった概念に対して忌避感を抱いていないだけだと、純粋にそう思い込もうとする。だが、このAIの音声に宿った確かな温度が、その単純な思考の逃げ道を塞いでいた。何も言葉を返せないままの不知火を見上げた小鳥は、力の籠らない、ゆっくりとした瞬きを残し、夜の暗がりに、溶け出すように消えて行った。不知火の掌の中で淡い光の粒子が霧散し、夜の風に塗されていく。

 

 取り残されたように佇む不知火の身体は、すぐには動かなかった。

 胸がザワつき、余計な思考ばかりが過り始める。

 

 深海棲艦達の何人かは、既に少年提督とケッコンを済ませている事を不知火は知っている。だが彼は、艦娘とのケッコンをしようとしなかった。そんな素振りも殆ど見せなかった筈だ。それは、少年提督に何らかの意図が在っての事だと不知火は考えていた。そして今日、不知火は彼にこの指輪を渡されたのだ。出来過ぎたタイミングだと思う。

 

 不知火は自分の左の薬指に嵌った指輪を見詰める。この指輪が、何らかの特別な術式による儀礼を受けたものであるというのは理解できる。だが先程、あの黒い小鳥が言っていたように、この指輪自体が少年提督の存在そのものを左右する代物であるのならば、それを不知火だけに用意する意図が分からなかった。自身の配下に居る艦娘の複数に、保険として同じ指輪を配って装備させておくことも出来た筈だ。それをしなかったと言う事は、どういう事なのか。

 

 分からない。だが今は、分からなくても良いと、無理矢理に思う。

 悩むのは、この夜を切り抜けてからだ。

 

 余計な思考を振り払うようにして、不知火は携帯端末を取り出す。少年提督に連絡を試みるが、やはり繋がらない。不知火は手早く端末を操作し、続いて、野獣と少女提督と連絡を試みようとした時だった。

 

 何かが寮の屋上に飛び込んできた。正確に言えば、ビヨーンと言った感じで、地面から飛び上がって来た。屋上の床に罅を入れながらドッシィィィン!!! と着地したのは、レ級だった。第六駆逐隊に似たセーラー服の上に、黒いフード付きのパーカーを羽織っている。

 

「おぉっ! 須藤さん!(レ)」

 

 着地した姿勢から立ち上がりつつ不知火の方を見たレ級は、不知火が「不知火です」と真顔で応えると、すぐにニカっと笑って見せた。無事だったか!、というような、安堵と喜びの入り混じった笑みだった。レ級は直ぐに不知火の方に駆け寄ってきて、不知火の体を上から下までを眺める。外傷が無いかどうかを見てくれているのだろう。レ級の掌には碧色の微光が灯っているし、出来る範囲であれば、不知火に対して治癒施術を行ってくれるつもりのようだ。その素直な優しさに、不知火は純粋な感謝の気持ちを込め、「有難う御座います」と頭を下げる。

 

「負傷はありません。直ぐに動けます」

 

 不知火は手短に、先程までの事をレ級に伝える。黒い小鳥との会話と、不知火の持つ指輪と、今の少年提督の状態までを話すと、レ級は驚くでもなく頷いて見せた。

 

「そういうの知ってんし!(レ)」

 

 レ級は唇の端を持ち上げながら、セーラー服のポケットから携帯端末を取り出して見せる。そのディスプレイを見た不知火は、ぎょっとしてしまう。其処には、まだ髪が黒かった頃の少年提督の映像が映っていた。それも、ただ映っているだけでは無い。

 

『先輩やレ級さん達にも、僕の方から今の状況は説明させて貰っています』

 

 少年提督の映像が、まるで生きているかのように不知火を見ている。そして、不知火に語り掛けて来ている。数秒だけ硬直してしまった不知火は、しかし、すぐに冷静になった。これもAIという事だろう。

 

『これから皆さんには、“僕”を止めて貰いたいと思います』

 

「つまり」

 

 涼しく落ち着き払った声で言うAIを、不知火は睨んだ。

 

「不知火達に、司令と戦え、と」

 

『えぇ。先輩の協力も必要になるでしょう』

 

 確かに、人間を攻撃出来ない艦娘であっても、彼と戦闘行為を行うのは可能である。少年提督は、生物としての人間というカテゴリーから大きく外れているからだ。だが当然、それは不知火にとって簡単な事では無い。少年提督が人間であろうが無かろうが、敬愛する己の“提督”であることに変わりない。拳を握ると、左手の薬指に嵌めた指輪の感触が、より強く感じられた。不知火の強い視線を受け止めながら、ディスプレイに映っている少年提督のAIは、『一度、“僕”を殺して下さい』と言い、真剣な眼差しを返して来た。心臓に、冷たく鈍い痛みが走る。

 

『肉体とは器です。これが壊れ、死と言う概念に触れる時、内封されている精神的な領域は無防備になります。何者かが“僕”に侵入したのも、“僕”の肉体が壊されたタイミングだった筈です』

 

 自分の唾を飲み込む音が、やたら大きく聞こえた。レ級は、そういうのは知っていると先程言っていたから、このAIが何を目的としているかについては、もう知っているのだろう。随分と落ち着いた様子のレ級は、不知火とAIを見守ってくれている。

 

『今の“僕”と言う器の中には、“本来の僕の精神”とは別に、何者かの意識が侵入してきている状態です。ですから、もう一度、この器を破壊して欲しいのです。器としての肉体が死ぬ瞬間には、本来の“僕”の意思と、そこに入りこんだ“何者”かの意思は分離します。“僕”の肉体が再生していく束の間であれば、“僕”の精神は、“何者”かと対峙することが出来ます』

 

 余りにも迷いの無い言葉だった。不知火は少年提督のAIから眼を逸らし、返事が出来ないままで俯く。躊躇している暇が無いことも分かっていた。やるべき事もハッキリしている。不知火達は、海へ出て行こうとする“少年提督の肉体”と戦う。次に、本来の“少年提督の精神”が、己の内に入りこんで来た“何者かの精神”と戦う。単純な話だ。

 

『どれだけ苛烈に攻撃をして貰っても問題は在りません。“僕の肉体”は完全には死なず、蘇生を繰り返します。そういう風に造り変え、調律を施して来ましたから』

 

「歪みねぇな!(レ)」

 

 端末を持っているレ級が、不敵そうに唇を歪めて楽しげに笑った。明らかにレ級は、少年提督を心配していない。ただそれは、軽薄さや薄情さから来る、投げやりな態度でもない。あれは余裕だ。レ級は、少年提督を信頼しきっているのだ。今の状況を、必ず打破できるのだと信じている。いや、レ級の中ではもう既に、この襲撃事件は解決しているのかもしれない。不知火は握っていた拳を緩めて、肩の力を抜きながら、端末に映る少年提督へと向き直る。

 

「……了解しました」

 

 もう、そう答えるしかなかった。そういう状況なのだという事も、頭では理解出来た。低い声で短く答え、不知火は敬礼の姿勢を取る。レ級の持つ端末に映る少年提督のAIが、少しだけ頭を下げる様にして、申し訳なさそうに眼を伏せる。

 

『お願いします。それでは、まずは先輩と合流して下さい』

 

「……はい」

 

 そう短く答えた不知火を、レ級が頼もしそうに見上げてくる。PiPiPiPiと軽い電子音が響いた。少女提督からの通信だった。身を翻したレ級が端末をセーラー服に仕舞いながら、「いざ行かん!(レ)」と、掬いあげるような力強い手招きをして見せたのは同時だった。不知火はレ級に頷きを返し、携帯端末を取り出しながら駆けだす。その時には既に、レ級は跳躍し、屋上の手すりを飛び越えていた。不知火も即座に“抜錨”状態になり、手すりを飛び越え、宙に身体を躍らせてレ級に続く。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月光の下 中篇

 

 

 

 

 

 

 

 

「しかし、とんだ事になったものでありますな」

 

 あきつ丸は携帯端末を耳に当てながら夜風を切り、埠頭を目指して駆けていた。夜空を視線だけで見上げると、オーロラのように靡く蒼い光の帯が、鎮守府の上空でゆっくりと編み込まれていくのが見える。光の帯は術陣として収束しながら、複雑な紋様を黒い空に描き出そうとしている。大規模な術式結界だ。

 

『こんなん続いたら止めたくなりますよ~、提督ぅ~(辟易)』

 

 端末の向こうで、野獣が面倒そうな声で答えた。「そうは言っても、野獣殿は提督であり続けてくれるのでありましょう?」と、あきつ丸は喉の奥で笑う。駆ける速度を上げていく。野獣は、『どうすっかな~、俺もな~(アンニュイ先輩)』などと言いながらも、その語調には冗談めかした柔らかさが在り、今の状況に緊張している様子は感じられなかった。自分が行おうとしている事に迷いや恐れを持っていないからだろう。ただそれは、あきつ丸も同じだった。あきつ丸は先程、少年提督のAIから通信を受けた。その内容は、コントロールを奪われた“少年提督の肉体”の破壊であり、つまりは、少年提督を殺すという事だった。

 

 AIは言っていた。

 少年提督の肉体は死なず、必ず蘇生すると。

 そのように、少年提督が自身の肉体を調律してきたのだと。

 まったくと、あきつ丸はもう一度喉の奥で笑う。

 

 AIの言葉を完全に信じるのは難しかったが、信じるより他に無い状況でもある。襲撃者達に対処せねばならないと思っていたら、いつの間にか、少年提督の内側に入りこんだ“何者”かと、少年提督の肉体と精神を巡る戦いになっている。

 

 過激派の人間達の傲慢さや企みが今の状況を呼んだのだと考えるのならば、少年提督と野獣は、いずれこういった事件が起こることを予測していた筈だ。それでも尚、彼らは“人々”という言葉の中に含まれる善性や寛容さを信じて来た。世間に対して艦娘の人間性をアピールする活動が、この事態を呼び寄せることは分かっていても、彼らはその姿勢を崩さなかった。多分だが、彼らはこれから先も変わらないだろう。

 

 だが、艦娘達はどうだろう。自分達の行いが、今日の様な凶行を招くことになる可能性を恐れるようになるかもしれない。人間と言うものの容赦の無さを憎む者も出始めるだろう。人類とは果たして、己の命を賭して守るべきものなのかと、自らの使命を疑う者だって出始めるかもしれない。艦娘の人間性を認めるという事は、とりもなおさず、こうした艦娘達が抱くであろう負の感情を尊重する事だ。果たしてそれが、今の人間という種に、社会や世間に出来るのだろうか。

 

『あっ、そうだ!(現状確認) ついさっきだけど、不知火とも連絡が着いたゾ!』

 

「では、現状で動ける艦娘としては自分と、北上殿、瑞鶴殿、不知火殿、それと、野分殿でありますな」

 

『其処に深海棲艦の奴らと俺を加えれば、もう敵無しだってハッキリわかんだね(無双先輩)』

 

 野獣の言葉に、「ふふ、そうでありますな」などと軽く笑みを零し、あきつ丸は全く自然に頷いていた。野獣や少女提督から状況を聞いた限り、深海棲艦達こそが、今の鎮守府の命綱であることは間違いない。襲撃者達を撃退しつつ、彼女達は皆、其々に役割を果たしてくれていた。

 

 

 艦娘を無力化する術式結界の影響で、殆ど身動きが出来ないままの艦娘達を、安全な場所へ移す為に動いてくれているのは戦艦棲姫・水鬼と、北方棲姫だ。さっきから巨大な生き物が動き回る音が遠くから聞こえているが、あれは戦艦棲姫・水鬼たちの艤装獣が、艦娘達を担ぎ、或いは、抱えて動く音なのは間違いない。猫艦戦を使役する北方棲姫は、同じく、深海棲艦としての能力を発揮している瑞鶴と協力し、多くの艦娘を一度に輸送している。つい先程までは、あきつ丸も霞を抱えて移動していたのだが、途中で瑞鶴と合流することが出来たので、霞を預けて来た。

 

「コっちは任せテ。……私モ直ぐニ行くかラ」

 

 自分の知っている瑞鶴が、深海鶴棲姫と瓜二つの姿をしていた事について、多少は驚いた。だが、その艦娘装束は瑞鶴のものに間違いなかったし、あきつ丸から霞を抱き受けた時の、あの優しくも慎重な手つきは普段の瑞鶴のものだった。少なくとも、あきつ丸にはそう見えた。だから、あきつ丸も安心して、霞を預ける事が出来た。

 

 仕掛けられた爆発物と、逃げ遅れた艦娘達や襲撃者が居ないかを捜索してくれているのは北上とレ級だ。既に爆発物の幾つかは北上が発見し、その爆発範囲に誰も居ない事の確認も済んでおり、レ級も不知火を見つけて合流したとの事だった。

 

 あきつ丸は駆けながら、視線だけで再び空を見る。鎮守府の上空に編み上げられていく術陣は、艦娘を無力化する術式結界を乗っ取り、解呪する為のものだ。あの術陣を構築しているのは集積地棲姫であり、それをフォローしているのが少女提督と野分であるという事も、もう野獣から聞いている。港湾棲姫や重巡棲姫、ヲ級も、広い範囲にわたって配置されていた結界の発生装置を発見する為、大いに活躍してくれた事も聞いた。

 

 本当に、深海棲艦の彼女達には感謝しなければならない。あとは、少年提督の内側に入りこんだ“何者”かをどうにか出来れば、危機的な状況は脱する事が出来る筈だ。

 

「しかし、油断は禁物でありますよ」

 

 あきつ丸は、自分にも言い聞かせるように言う。端末の向こうで『おっ、そうだな(やや低い声)』と答えた野獣は、数秒の沈黙を挟んでから、「まぁ、大丈夫でしょ?(ケセラセラ)」と、軽い調子で笑った。あきつ丸が野獣に何かを言おうとした時だった。突然、『“えぇ。大丈夫の筈です”』と、少年提督の声が聞こえた。あまりにも唐突で驚いた。駆けていたあきつ丸は、危うくつんのめって転び掛ける。あきつ丸と野獣の通信の間に、少年提督のAIが入りこんできたのだ。

 

 端末の向こうでは野獣が『ファッ!?』も驚きの声をあげていたし、何かにぶつかる派手な音がして、それから、重たいものが地面を転がるような音と一緒に、『ハァァ゛ァ゛……、アーイキソ……(悶絶)』という、くぐもった呻き声が聞こえきた。多分、盛大に転んだのだろう。

 

『“あの、だ、大丈夫ですか!?”』

 

 AIの声が明らかに焦っていて、あきつ丸は忍び笑いを漏らす。

 

『あのさぁ……。いきなり会話に割り込まれたりすると、びっくりしちゃうんだよね?(恨めし気な声)』

 

『“す、すみません……”』

 

「まぁまぁ、良いではありませんか、野獣殿。AI殿にも用が在ったのでありましょう」

 

 危機感の無い彼らの遣り取りが心強い。あきつ丸は駆ける速度を更に上げる。

 

『とりあえず聞いてやるか! しょうがねぇな~(悟空)』

 

 野獣が暢気に言うと、AIがまた『“すみません”』と謝った。

 

『“艦娘の皆さん全員に、安全な場所に移って貰うことが出来ました。深海棲艦の研究所から少し離れた山裾にある、あの廃旅館の駐車場です。一時的に使わせて貰っています。逃げた襲撃者達が再び帰ってくる可能性は低いと思いますが、ル級さん、タ級さん、ヲ級さん、それと港湾棲姫さんが、艦娘の皆さんを守ってくれていますから、もう大丈夫の筈です”』

 

 それはつまり、結界術式で弱った艦娘達を、完全に深海棲艦達に預けていると言うことだ。世間的に見れば非常識な判断だろうが、今の状況では深海棲艦達が頼りなのも事実である。艦娘達の中にも文句を言う者も居ない筈だ。彼女達を無事に救い出してくれた深海棲艦達に、誰が何を言えるのだろう。

 

『前に肝試しで使った場所ですねぇ! あそこは結構広いし、うん、いいみたい!(想起)』

 

「それでは、鎮守府の庁舎が崩壊するような派手な戦闘をしても、誰も巻き込む心配も無いという事でありますな」

 

 あきつ丸の問いに、AIが『“はい”』と応えた。

 

『“北上さんからも連絡がありましたが、逃げ遅れていたり、隠れ潜んでいる襲撃者も居ないとの事ですから。施設に大きな損壊が在ったとしても、誰かを巻き込むことは在りません。ただ……』

 

 声を曇らせたAIの代わりに、今度は、『ただ、あんまりド派手にやり過ぎるのはNG』と、少女提督が通信に割り込んで来て、忌々しそうに言葉を引き継いだ。

 

『端末のカメラで撮った写真を北上から送って貰ったんだけどね。工廠やドックに仕掛けられている爆発物なんだけど、時限式の上に、特殊な儀礼が施されてるみたいなのよ。コレがさぁ、マジで最悪なんだけど、土地そのものを術式汚染するヤツっぽいのよね』

 

 言い終わった少女提督が、技術者としての苛立ちを含んだ溜息を吐き出すのが聞こえた。『ヤバそう(小波)』と、野獣が思わずと言った風に声を漏らしていた。

 

『私は技術開発とかの畑に居た人間だから知ってるんだけど……、アレ、もとは深海棲艦が潜む海域制圧を目的としたものなのよ。でも、途中で頓挫したの。開発段階で大事故が在ってね。その現場だった基地自体の損壊は大した事は無かったんだけど……、なんであんなものが……、開発途中だったヤツが横流しされてたのかもしれないし……でも……』

 

 相当焦っているのか。少女提督は余計な説明を始めようとしている。今は要点だけ聞きたい。あきつ丸は、「爆発すると、どのように不味い代物なのでありますか?」と、少女提督の言葉の切れ目に割り込む。『あぁ、ゴメン。私もテンパってるわ』と、少女提督は自分を落ち着かせるように、一つ息を吐く。

 

『要するに、深海棲艦の仕業に見せ掛ける為に建物を壊すだけじゃなくて、土地まで汚染して殺すのよ。それで、鎮守府に宿ってる妖精達を排除しちゃうわけ。ついでに言うと、起爆装置に術式結界が張られてて、弄ろうものなら即起爆するように細工されてるわ。もうタイムカウントも始まってるんだけど、移動させる事も無理』

 

 その言葉に、「……また、手の込んだ事でありますなぁ」なんて、あきつ丸も思わず呻くような声が出た。妖精の排除。これはつまり、事実上の基地破壊だ。

 

 この襲撃の黒幕達からしてみても、この鎮守府に所属している艦娘達は、一人一人の練度も非常に高く、人類を深海棲艦から守る為の重要な戦力である。それはそのまま、黒幕達自身の生活をも守ってくれる存在でもある。ただ、その艦娘達の人間性を世間に訴え続ける目障りな提督と鎮守府だけを闇に葬ろうとする意図は、あきつ丸にも理解する事が出来た。艦娘達と無害な少女提督だけが生き残ればいいと、この事件の黒幕達は判断したのだろうという事も想像できる。

 

 ただ、その手段が此処まで手が込んだものであるという事に、胸騒ぎを覚えた。黒幕達は、本気で少年提督と野獣を抹殺しようとしている。もしかしたら、襲撃事件は今夜だけでは済まないかもしれない。少年提督と野獣が生きている限り、或いは、この二人が今までと同じように艦娘達の人間性を世間に訴え続ける姿勢を崩さない限り、こういった襲撃が幾度も続くかもしれない。そんな不安が頭の隅を掠めていくが、敢えて意識しないように努める。今はとにかく、目の前の状況に集中すべきだ。悩むのは後で良い。端末の向こうで、野獣が面倒そうに舌打ちをするのが聞こえた。

 

『俺やアイツを殺すだけじゃなくて、鎮守府の機能そのものをぶっ壊すつもりだったんすねぇ~……(反吐)』

 

「タイムカウントの方は、どんな具合でありますかな?」

 

『あと半時間よ。それを目処に、貴女達も其処を離脱して。……まぁ、儀礼済み爆発物の解除・解体については、こっちで何とか出来るかどうか、やってみるけどね』

 

「此方に直接出向かれるのは、危険ではありませんか?」

 

『分かってる。無茶はしないから。あと、レ級、重巡棲姫、南方棲鬼がそっちに向かってるから、……協力して、“アイツ”の対処をお願い』

 

 少女提督の切実な声に、『“僕の体に、気遣いは無用です。どうか、お願いします”』と、少年提督のAIも言葉を繋いだ。少年提督のAIの語調には、やはり野獣と同じように迷いが無い。そして、必要以上の焦りも無かった。かと言って、冷徹で無機質な声音でも無い。その沈着さには、降り来る月明りのような透明な真剣さだけが在った。『あっ、良いっすよ(快諾)』と、野獣が答えるのを聞いて、あきつ丸も短く息を吸ってから、「了解であります」と答えた。

 

『あきつ丸も、気を付けてね』

 

 少女提督の強張った声が、通信が途切れる間際に聞こえた。

 

「えぇ、任せるでありますよ」

 

 あきつ丸は普段の声の調子で答えてから、端末を懐に仕舞い、駆ける速度をまた上げる。状況は悪い。だが、自分のやるべき事はハッキリしている。人質になっていた艦娘達は無事だったのだし、鎮守府に仕掛けられた儀礼済みの爆発物を処理する術もまだ残されているようだった。とにかく、余計な事は考えなくても良い。自分の仕事に集中すべきだ。少し遠くで音が聞こえている。埠頭の方角。ズシン……。ズシン……。ズシン……。不規則だが、腹の底に響いて来る。少年提督の足が、地面を踏み砕く音だ。あきつ丸は駆けながら、腰に佩いた軍刀の柄にそっと触れた。慣れ親しんだ感触を指先に灯しながら、庁舎の合間を疾駆し、その足音へと近づいていく。

 

 

 

 

 

 

 大型トレーラーの荷台に積まれた精密機械類の山の前で、“抜錨状態”の集積地棲姫が呆れたように息を吐き出した。彼女の肘から先は巨大なガントレットのような艤装によって覆われていて、その金属の指先からは蒼い光の帯がコードのように無数に伸び、術式結界の発生装置へと繋がっていた。その接続は物理的なものではなく、金属儀礼的なものだ。集積地棲姫が発生させる蒼い光が機器類に注がれ、それらが全て、彼女の支配下に置かれている。

 

「……お前、本気なのか?」

 

 集積地棲姫は眼鏡の奥にある瞳を窄めて、少女提督へと視線を寄越して来た。集積地棲姫は別に凄んでいる訳でも無いのだが、抜錨状態にある彼女の迫力に身体を硬直させてしまう。だが、すぐにその眼を見詰め返して、「本気よ。他に方法なんて無いし」と答え、深く頷いた。

 

「違う手を考えるべきなんだろうけど、そんな時間も無いでしょ」

 

「確かに、そうかもしれんが……」

 

 集積地棲姫が、傍に居た野分へと視線を移した。お前は良いのかと、問いかける様な眼つきだった。集積地棲姫に向き直った野分は軽く息を吐いてから、「こうなると、司令には何を言っても聞きませんから」と、口許を緩めて見せる。諦観と覚悟の両方を滲ませた、頼もしい笑みだった。

 

「流石は私の初期艦ね。良く分かってるじゃない」

 

 集積地棲姫は、そんな野分と少女提督を何度か見比べてから、「そのようだな」と、やはり呆れたように言いながら、機器類の中に備えられているモニターへと視線を移す。

 

 モニターの中に幾つかのウィンドウが開いており、其々が鎮守府内の様子を俯瞰で表示していた。これは、ヲ級やレ級が放った索敵用の艦載機の視界を、このモニターに同期させているものである。深海棲艦の感覚を、人間が作り出した機器類へと接続するというこの特殊な金属儀礼術は、今日、この場で新たに構築されたものだ。集積地棲姫と少女提督の二人が、互いに持っている既存の術式に関わる知識を融合させて研ぎ出した、全く新しい系統の術式である。金属儀礼術を技術分野に応用する事を、特質的に得意としていた少女提督と、後方支援型の個体であることから、深海棲艦達が扱う術式をより高いレベルと規模で運用する集積地棲姫との相性が生み出した、表に出すことの出来ない技術革新だった。

 

 少女提督にしか担えない役割が、此処には確かに在る。

 

「アンタも聞いてた?」

 

 少女提督は、頭に装着したVR機器を操作し、搭載されているAIに呼びかける。

 

『“はい。……無理をさせてしまって、申し訳ありません”』

 

「アンタが謝ることは無いわ。術式汚染を目的とした儀礼兵器なんて厄介なモノ、わざわざ持ち出してくるなんて普通思わないでしょ」

 

 AIの音声はVR機器のスピーカーから発せられている。集積地棲姫と野分には音声しか聞こえないだろうが、VR機器を装着している少女提督の視界には、虚像としての彼の姿が、すぐ傍に見えている。虚像は、申し訳なさそうな表情を浮かべていた。少女提督は鼻を鳴らす。

 

「それに、これは私がやるって決めた事よ」

 

 そうだ。これは、私が決めた事だ。今更の緊張を解す為に息を吐き出す。トレーラーの荷台の空気は冷え込んでいる。重巡棲姫と南方棲鬼の二人には、野獣達と合流して動いて貰うべく、先に鎮守府に向って貰っている。港湾棲姫とヲ級には、艦娘達を護るように頼んだ。だから此処に居るのは、少女提督と野分、それと集積地棲姫の3人だ。正確には、少年提督のAIを入れて、4人。少女提督は拳を軽く握って、開いた。自分を落ち着ける。

 

「それじゃ野分、トレーラーの運転、任せるわよ」

 

「わかりました。出来るだけ飛ばします」

 

 野分が頷く。集積地棲姫が、「ん……?」と、一抹の不安を感じたような表情で野分を見詰める。

 

「お前、運転とか出来るのか?」

 

「一応ですが、訓練は受けています」

 

「野分ってこう見えて、割とスピード狂なのよ」

 

「……大丈夫なのか?」と、訊いてきた集積地棲姫の表情は、えらく神妙だった。その仕種の人間臭さに、「大丈夫よ、ヘーキヘーキ」なんて言いながら、少女提督は何だか笑ってしまった。その間にも野分はトレーラーの荷台を降りて、運転席の方へと移動する。そもそも、まだ“人間”として社会の中に存在しない彼女達は、免許というものに関わる諸々の法律の外に居る。軍属の中でも特殊な立ち位置に居る彼女達は、人間として自動車などを扱う法の“許可”を正式には得ていないが、その“技術”は習得しており、それを咎める法も存在していない。

 

 すぐにトレーラーがゆっくりと動き始めた。そして、グングンと加速し始める。荷台が揺れる。エンジンが唸りを上げている。集積地棲姫が表情と身体を強張らせながら、視線を泳がせはじめる。なるほど。車に乗るという経験は、彼女にとって初めてだからか。こういう親しみ易そうな彼女の仕種には、人間味に溢れた魅力を感じざるを得なかった。

 

「貴女が居てくれて、本当に助かったわ」

 

 トレーラーの振動を感じながら深呼吸をして、少女提督は集積地棲姫に笑った。集積地棲姫が何かを言おうとして、止めるのが分かった。

 

『“感謝しています”』

 

 少女提督の視界の中で、少年提督のAIの虚像も頭を下げていた。虚像の姿は集積地棲姫には見えていない筈だが、彼女は確かに、虚像の居る場所あたりをチラリと見た。彼女はやはり何かを言いたそうに唇を動かしたが、すぐには何も言わず、ワザとらしい不味そうな表情を作ってから、モニターに顎をしゃくった。トレーラーが速度を上げて行こうとしている。

 

「……今から、鎮守府を括っていた術式結界を反転させるぞ」

 

 集積地棲姫の指先から伸びる微光の線が、少女提督の両手にも繋がる。少女提督の足元にも、蒼く輝く術陣が浮かんだ。少女提督が装着しているVR機器にも、碧い光が淡く灯る。それは、精神や思考を研ぎ澄ます光であり、狡知を司る光だ。光は無数の文言を象った帯となってうねり、集積地棲姫と少女提督、それに少年提督のAIの3つの精神を繋げている。集積地棲姫が編み上げるこの光の帯は、術式結界の発生装置を通して、他の4台のトレーラーにも遠隔で干渉している。

 

「鎮守府を私達の領域に変え、支配して、“深海”にする」

 

 集積地棲姫が、少女提督と、少女提督が装着しているVR機器を順に見ながら言う。

 

「……もう後には退けんぞ」

 

 動き出したトレーラーに対する動揺は完全には抜けきってはいないものの、その声音と表情には、彼女らしい気怠げな冷静さが在った。VR機器を装着したままで、少女提督は頷く。「分かってる」そう答えてから息を吸って、吐いた。AIも『“はい”』とだけ、相変わらず落ち着いた声で短く答えていた。トレーラーが速度を上げていく。トレーラーは、“走行する”という己の機能を全うしている。其処に意思や感情は介在せずに、存在価値をその機能に託している。不意に、少年提督のAIとトレーラーの間に、奇妙な相似を感じた時だった。

 

 モニターに、少年提督が映った。虚像では無い。本物だ。その映り方からして、ある程度の距離を保つ形で、猫艦戦が上空から彼を見下ろしているのだろう。彼は、白く澱んだ微光と墨色の燐光を纏いながら、身体を引き摺るようにしてぎこちなく歩いている。ノロノロとした頼りない足取りで、速度も全くも出ていない。まるで、身体に全く合っていない着ぐるみを着た人間が、もがくように足を前に出しているような――、そんな印象を受ける。

 

『“中に居る“僕”が、肉体のコントロールを取り戻そうと足掻いているのでしょう。だから、あんな不自然な動きをしているのだと思います”』

 

 少年提督のAIが硬い声で言う。確かにそう言われてみれば、そんな風に見える。一人の人間の身体の中に二つの人格が存在し、其々が肉体の優先権を争うか、一方の動きを邪魔しようとするのならば、あんな不自然で不格好な歩き方になるのも理解できる。

 

 ただ、その苦し気な姿勢とは対照的に、少年提督の表情は不気味な程に穏やかだ。彼が足を前に進める度に、ズシン……! ズシン……! と、地面が踏み砕かれ、陥没している。彼の中に在るものが、重量を持ってこの世界に実在しているのを感じた。モニター越しに見ていても、凄まじい圧迫感だ。息が詰まる。「なんなんだ、アイツは……」と、集積地棲姫が低い声で零した時だった。少女提督は、モニターに映る彼と眼が合う。背筋に冷たいものが走って、思わず息を呑む。少年提督の中に居る“何者”かは、明らかに此方を見ていた。モニターに繋がっている猫艦戦を通して、このトレーラーの中に居る少女提督という存在に視線を向けている。

 

 恐怖を感じるよりも先に、ヤバイと思った。モニターの向こうに居る少年提督が、此方に右の掌を翳したからだ。次の瞬間には、少年提督が纏っている墨色と白濁の微光が、腕の形を象ってモニターから伸びて来た。怪物がテレビから出て来るホラー映画を思い出しかけて、そんな場合でも無いことを思ったところで、身体が硬直して動かなかった。AIの虚像が、必死な顔で何かを言っている。私に触れて、突っ立ったままで硬直している私を動かそうとしている。でも、虚像の腕は、私をすり抜けている。私は、動けない。『“面白い事を考える”』」。背筋が凍る程に穏やかな声が聞こえた。モニターの向こうの少年提督が、ぎこちなく歩きながら、此方に微笑んでいる。少女提督は、恐怖と畏怖に魅入られていた。光の靄が凝り固まった、腕が、掌が、顔に伸びて来る。目の前に在る。光の指が、前髪に触れる。眼を見開く。息ができない。

 

「伏せろ……ッ!!」と叫んだ集積地棲姫が少女提督を突き飛ばしてくれていなかったら、少女提督はどうなっていたか分からない。トレーラーの中で尻餅を付いて、背中を強打した。肺から息が出ていく。「司令! 荷台で何か!?」野分の声が聞こえて、慌てて顔を上げる。集積地棲姫は、少女提督へと伸びて来ていた腕を、そのガントレットのようにゴツイ手で握り潰すようにして掴んでいた。集積地棲姫が何かを唱えると、実体を持たない微光の腕は、靄のように霧散して消えていく。モニターの向こうに居る少年提督が、今度は集積地棲姫を見た。そして微笑みを深めながら、今度は両手をゆっくりと広げて見せた。まだ何かするつもりなのか。トレーラーの中に、彼の纏う圧倒的な存在感が流れ込んでくる。

 

 舌打ちをした集積地棲姫が、臨戦態勢を取った。

 だが、少年提督が何かをしようとするよりも早かった。

 

『行くぞオラぁ!(レ)』

 

 硬い者が砕ける、ド派手な音がした。モニターに映る少年提督に向って、凄い勢いで何かが突進していくのが見えた。レ級だ。艤装獣である尻尾ごと身体を駒みたいに回転させつつ飛び掛かり、少年提督が居る場所を目掛けて、斜めから上から尻尾を振り下ろしたのだ。

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月光の下 後篇

 

 

 

 

 

 

 

 

 レ級の攻撃をかわした少年提督の動きは、まるで全身に大怪我を負ったかのようにギクシャクしていた。出来損ないの操り人形が糸に吊られて移動するようで、とにかく不自然で違和感だらけだ。筋肉や腱を使う、人間の肉体としての動きには思えなかった。その癖、彼は穏やかな微笑みを絶えず浮かべていて、それが余計に異様さを引き立たせていた。彼と対峙している不知火は抜錨状態であり、艤装を召還し、少年提督に向けて連装砲を構えている。彼は、埠頭に向かおうとしていた。海に出るつもりなのだ。

 

「『“其処を退け”』」

 

 彼の声は穏やかだが、波の音が重なるように、異なった声が幾重にも積み重なって聞こえる。超然とした、得体の知れない荘厳さが在った。今の少年提督は明らかに、不知火の知っている少年提督では無かった。それを実感し、動揺する。不知火の手は震えていた。息もだ。口で呼吸をしている。心臓が跳ねている。言葉が出てこない。歯が鳴りそうになる。その恐怖を捻じ伏せるべく、不知火は少年提督の内側に入りこんだ“何者”かを睨みつけ、手の筋肉が軋むほどに、連装砲を握り締める。

 

 対して、不知火の傍に立っているレ級は、そこまで動揺している風でも無く、獰猛なギザッ歯を見せる好戦的な笑みを浮かべて、ゆらゆらと尻尾の艤装獣を揺らして見せている。そのレ級の体からは、琥珀色のオーラが煙霧のように立ち上っていた。「F●●k you(レ)」なんて言いながら、楽しそうに笑うレ級は物凄い威圧感を放っている。

 

 ただ、物騒極まり無い空気を纏ったレ級と、余裕の無い不知火の表情を交互に見比べた少年提督は、ゆっくりと瞬きをして、拘束具のような手袋をした右手で自分の顔を覆った。

 

「『“そうか。残念な事だ”』」

 

 右肩を吊り上げながら、だらんと左肩を下げた少年提督は、首を右に傾けている。やはり、不格好な操り人形のようだ。彼の右脚は外を向き、左脚は内側に向いている。体も明後日の方を向いていた。二つの人間の身体を無理矢理に一つにしようとして、ちぐはぐに縫い付けたかのようでもある。ゾンビの出来損ないのような奇妙な姿勢の彼は、やはり温度の籠らない微笑みを浮かべている。

 

 いや、あれは、微笑みなのか、泣き顔なのか、分からなくなる。妙な話だが、少年提督の表情を上手く捉えられない。波のように揺らいで、印象が一定しないのだ。動揺を抑えようとすると、呼吸が早まる。これはもう、生物を相手にしている感覚じゃない。山火事とか竜巻とか、そういう巨大な現象を前に対して抱く、畏れに近い。不知火は息を呑む。レ級が「シシシシ」と笑う。彼が再び、身体を引き摺るようにして歩き出す。一歩ごとに、ズシン……! ズシン……!と、地面を陥没させながら、此方に近づいて来る。いや、違う。彼は、やはり海へ出ようとしている。

 

 不知火は連装砲を構えたままで、奥歯を噛み締める。自分の為すべき事は、今の少年提督を殺す事だ。今の彼を、止める事だ。彼は死なない。死なないのだ。だから、迷うな。恐れるな。胸の内で自分に言い聞かせ、左手の薬指にある指輪の感触を思った時だった。

 

 少年提督の少し離れた場所で、何かが閃いた。

 

 それが、軍刀に反射した月明りであるのだと分かった時には、あきつ丸が少年提督のすぐ傍まで肉薄していた。近くの庁舎の影から飛び出して来たのだ。全くの無音だった。それに、なんて疾さだ。躊躇も何もない。不知火は目で追えなかった。不知火とレ級を見ている少年提督も気付いていない。恐らく、あきつ丸はこの初撃で決めるつもりだったに違いない。終る。あきつ丸が鞘から奔らせた軍刀は、少年提督の右肩から左脇腹までを両断する。不知火はそう思った。レ級だってそう思った筈だ。だが、そうはならなかった。

 

 少年提督は不自然な歩き方の姿勢のまま、真横に2メートルほどズレるように移動して、あきつ丸の刀を躱していた。ドゴン……ッ!! っという重い破砕音と共に、少年提督の足元の地面が陥没する。少年提督は眼を細め、視線だけであきつ丸を見ていた。反撃する気か。あきつ丸が舌打ちをして、刀を抜いたままで少年提督に向き直ろうとした。

 

 その次の瞬間には、また別の誰かが少年提督に迫っていた。いつかのように、ゴーグルを掛けた野獣だった。疾い。野獣は二刀流だった。物干し竿と言うのか、取り回すには長過ぎるようにも思える長刀と、熾火にも似た赤橙の揺らぎを纏う太刀を握っている。

 

「ホラホラホラホラ……!(連続斬り)」

 

 野獣は、その二振りの刀を縦横無尽に振るう。目にも止まらぬ早業だった。それが出鱈目に腕を振り回しているだけでは無いのも明らかだった。あの乱舞めいた斬撃の嵐は、練り上げられた技術の塊であるのは間違いない。夜の暗がりを裂いている筈の刀の動きが、まるで見えない。疾過ぎる。だが、少年提督に掠りもしない。彼は微笑みを崩さず、あの不自然で不格好な姿勢のままで、必要最低限の動きと、足の運びと、身体の軸のずらし方で、野獣の斬撃の全てを躱していた。

 

 野獣の持つ“武術”という技能に対して、単純な身体動作だけで対処している。出鱈目だ。少年提督が自身の体重を移動させて足を運ぶだけで、踏まれた地面には、ミシミシ……! バキバキ……! と亀裂が走った。コンクリや石畳が震えて、悲鳴を上げている。

 

 この、3、4秒もない時間の中で、不知火は呆然としている自分に気付く。何を突っ立っているんだ。動け。動け。少年提督が回避行動をしている。自身の肉体が損傷する事を避けている。それはつまり、少年提督の肉体が破壊されるという事態は、彼の内部に入りこんだ“何者”かにとっては好ましくないという事だ。先程の、黒い小鳥との会話を思い出す。本当の少年提督の意識もまた、その精神内部で、侵入してきた“何者”かと戦っている事を思うと、身体から余計な力が抜けた。

 

 不知火は、あきつ丸や野獣を誤射しないよう連装砲の装備を解いた。代わりに、鎖つきの錨を手の中に呼び出しながら、駆けだす。「いざぁ!(レ)」と笑ったレ級は既に、野獣の斬撃を躱している少年提督の背後に迫ろうとしている。不知火はレ級の後を追う形だ。あきつ丸も抜いた軍刀を鞘に戻し、その柄に手を掛けた居合いの構えになって踏み出している。

 

 野獣と対峙する少年提督に、あきつ丸、レ級、そして不知火が迫る。

 1対4。勝てると思った。

 

 大間違いだった。

 

 

 少年提督は手始めに、二刀流の野獣が放つ斬撃の全てを躱しながら、野獣との距離を詰めた。あの不自然な姿勢のままで、地面を踏み砕きながら野獣の懐に潜りこんだのだ。少年提督の身体能力が、野獣の武を凌駕していた。間合いを完全に潰された野獣は、「ウッソだろお前……!(驚愕)」と呻くように言いながら咄嗟に身体を引いていたが、少年提督の方が早かった。

 

 一旦距離を取ろうとする野獣の鳩尾あたりに、彼は手袋をしたままの右の掌を添えていた。拘束具のように黒く、ゴツイ手袋が、墨色と白濁の滲んだ微光を発したのが分かった。刹那、光波とも衝撃波ともつかない揺らぎが少年提督の掌から流れ、野獣の胸から背中までを貫いた。野獣の身体に穴こそ開いていないものの、野獣が来ていたシャツの胸と背中部分が、渦を巻くように千切れ飛んでいた。

 

「ヌ……ッ!(確かなダメージ)」

 

 野獣は口の端から血を吐きながら吹っ飛ぶ。

 

 あきつ丸は、空中を移動する野獣を避けつつ、流れる様に少年提督へと肉薄し、再び、腰の鞘から軍刀を奔らせた。野獣を攻撃した少年提督は、その動作姿勢のままで確かに動きを止めている。あきつ丸は、その攻撃の直後を狙ったのだ。首を刎ねようとしたに違いない。あきつ丸が握る軍刀には、“護刀『燦』”の銘が刻まれており、その切っ先の閃きは野獣のものよりも疾かったかもしれない。普段から只者では無い雰囲気を纏っているあきつ丸だが、こんなに強かったのか。不知火は感嘆しかけたが、そんな場合では全くなかった。

 

 少年提督の体が、強い風に煽られた柳の様に、非常識なレベルで撓った。脚を全く動かさずに身体を逸らせるだけで、あきつ丸の斬撃を躱したのだ。刀を抜き放った姿勢のままで、あきつ丸が僅かに眼を見開いているのが分かった。今度は、攻撃の動作をしきったあきつ丸の動きが止まる番だった。ただ、それは本当に一瞬だ。あきつ丸も、すぐに姿勢を整え、次の攻撃に移ろうとしていた筈だ。だが、それよりも少年提督の方が速かった。体の撓りを利用した少年提督は、あきつ丸の足元に滑り込むように近づいて、その左脚の足首を、右手で引っ掴んで持ち上げた。「なっ……!」という、あきつ丸の上擦った声がした次の瞬間には、少年提督は、距離を詰めて来ようとしているレ級の目の前に、あきつ丸を放った。パスしたのだ。

 

「ちょ……!?(レ)」

 

 意表を突かれたか。レ級は一瞬、どう動くべきかを迷うかのように、ゆっくりと飛んでくるあきつ丸と少年提督を見比べたのが分かった。レ級は冷静だった。尻尾の艤装獣に少年提督を警戒させたまま、あきつ丸を受け止める。当然、僅かにレ級の動きは止まる。不知火は、次の一歩で身体を大きく前に倒し、トップスピードになる。錨を握り締めながらレ級を追い抜く。あきつ丸とレ級を庇う位置に出る。地面が砕ける音がした。それが、少年提督が海へと歩き去ろうとしている足音だと気付いて、身体が震えた。

 

 少年提督は、埠頭の方へと体を向けている。

 すでに海の在る方角を見ている。

 もう、この場の誰をも見ていない。

 

 彼は、不知火も、野獣も、レ級も、あきつ丸も、無視している訳では無い。ただ、碌に相手をするような対象とも見ていない。少年提督が、レ級やあきつ丸、それにさっきまでダウンしていた野獣に追撃をしようとする様子は無い。不知火達の意思や行動を、嘲うでもなく、嫌悪するでもなく、侮蔑するでも無い。ただ、徒歩の邪魔になるものを、そっと退かしただけのような佇まいで、関心を持っていない。不知火は奥歯を噛み締める。錨を右手で握り締め、左手で鎖を持つ。駆ける脚に力を込める。

 

「司令……!」

 

 そう叫んだ不知火は、この場を立ち去ろうとしている彼のすぐ背後に迫る。ただ、どう言う訳か、あきつ丸や野獣が攻撃を仕掛けた時と違い、少年提督は避ける素振りも見せなかった。隙だらけだった。不知火は、握った錨を少年提督の背中に振り抜こうとした。だが、出来なかった。どうしても、身体が動かなかった。少年提督の背を前に、動きを止めてしまう。呼吸と唇が震え、視線が揺れる。体が動かない。視界が狭まる。それが躊躇で在ることは自分でも理解していた。少年提督が肩越しに、不知火を見た。

 

「『“お前が、攻撃を止めることは知っていた”』」

 

 少年提督は、優しい微笑みにも、泣き出す寸前のようにも見える表情を浮かべている。彼の右掌には、白濁の光が渦を巻いていた。それに呼応して、不知火の身体の節々には、拘束具を嵌るかのように墨色の術陣が浮かぶ。不知火は、錨を振り下ろしかけた姿勢のままで、身体を空間に縫い付けられた。「あっ、おい、せっ、不知火ィ!!(大声)」「不知火殿!!」「 ( ゚Д゚) 須藤さん(レ)!!」と、声が聞こえた。不知火はもがく。だが、無駄だ。動けない。不知火の手から、錨が零れる。地面に落ちて、夜の中に重い音を立てた。

 

「『“……結魂か”』」

 

 その場の空間に、ガッチリと身体を縫い付けられた不知火に、少年提督が向き直る。夜の暗さが増していくのを感じた。少年提督は不知火の左手を見ている。その薬指に嵌っている指輪に視線を注いでいた。だが、すぐに興味を失ったかのように、彼は緩く息を吐き出す。

 

「『“生き急ぐ事も無い。大人しくしていると良い”』」

 

 微笑みにも泣き顔にも見える表情のまま、少年提督が、ようやく不知火を見た。ただ、その眼差しは、恐ろしい程に凪いでいた。不知火を、艦娘という概念の一部として見ている目であり、“少年提督の初期艦である不知火”として認識していないのは明らかだった。今まで共に過ごして来た時間、記憶、経験、そういったものを一顧だにしない無機質な眼をした少年提督は、不知火に背を向けて、またぎこちない動きで歩き出す。

 

 待て。そう言おうとしたが、声が出ない。

 

「待って!(レ)」

 

 横合いからだった。不知火の心の内を読んだ訳では無いだろうが、地面を踏み砕きながら、もの凄い勢いでレ級が飛び込んできた

 

「GAAAAAAAHHHHHHHHHHHH!!!」

 

 レ級の尻尾の艤装獣が狂暴にうねりながら膨れ上がり、大口を開いて少年提督に喰らいつこうとした。艤装獣は巨大だが、その動きは不気味なほどにしなやかで、獲物を仕留める肉食獣のような俊敏さが在った。絶対に避けられないタイミングだった筈だ。だが、少年提督は、先程のあきつ丸の斬撃を躱した時のように異様に身体を撓らせ、迫ってくる艤装獣の大口を後ろに跳ねるようにして避ける。彼が地面に着地すると、ズシィィンン……!! と地面が陥没した。

 

 さっきまで少年提督が居た空間を、艤装獣が大口を開けてバクン!!と行くのを不知火が見た時には、レ級が何かの言語らしきものを唱え終えていて、不知火を拘束する術式拘束を解呪してくれていた。レ級は不知火を横目で見て「シシシシ!」と、無邪気に笑って見せる。この爛漫さの所為で忘れがちだが、このレ級は金属儀礼術や生命鍛冶術を始めとした膨大な術式理論を学習・習熟している。個体としての“優秀さ”で見るなら、恐らく最高クラスの深海棲艦だろう。その証拠に、今の少年提督が扱う未知の術式にも、もう対応し、対抗して見せている。

 

「ゲホッ! ぐっ……、……有り難うございます」

 

 喉首を拘束していた術陣が解けて、呼吸が戻ってくる。荒く息を吸い込んで咳き込む不知火が、喉を擦りながらレ級に礼を述べると、レ級は「おうよ!(レ)」と、得意げに笑って親指を立てた。その底抜けに明るい表情には、少年提督を攻撃する事に対して躊躇いを見せた不知火を責めるような意図は微塵も無い。初期艦娘である不知火が少年提督と対峙せねばならない今の状況を、レ級なりに気遣っているのかもしれない。

 

「迷惑を掛けて、申し訳ありません」

 

 取り落とした錨を拾い上げた不知火が、戦闘姿勢を取りつつ、レ級の方を見ずに謝ったその間にも、立ち上がっていた野獣とあきつ丸が、少年提督の背後に回り込むように動いていた。

 

「逃げんじゃねぇよ(先回り先輩)」

 

「そうでありますよ(便乗)」

 

 丁度、少年提督が埠頭へ向かうのを阻む位置に二人で陣取り、立ち塞がっている。右半身を前に出す半身立ちの構えを取っている野獣は、口の端に流れる血を、長刀を持つ右手の甲で拭いながら、左手に持つ太刀の切っ先を、地面スレスレまで落としている。あきつ丸は腰の軍刀の柄に手を掛ける姿勢のままで、すっと重心を下げ、いつでも飛び出せる状態にある。レ級と不知火、あきつ丸と野獣の2手で、挟み撃ち出来る状況だ。

 

「『“邪魔な事だ”』」

 

 微笑んだままの少年提督が、不知火達を順に見てから、夜空を見上げた。不知火も視線だけで空を見る。いつの間に、とは思わなかった。月明りに大粒の影を落としながら、猫艦戦の群れが此方を見下ろしている。とにかく凄い数だった。息を呑んだ不知火の視界の隅、近くの庁舎の屋上に誰かがいるのに気付く。

 

 長く白い髪を逆立たせている。深海鶴棲姫。いや、違う。あの艦娘装束は……、瑞鶴。深海棲艦化しているのか。緋色の眼で此方を見下ろす瑞鶴は、猫艦戦達に何らかの指示を出している。これだけの数だ。ヲ級や港湾棲姫が使役している猫艦戦達も、瑞鶴のコントロール下にあるのかもしれない。

 

 瑞鶴の姿に、あきつ丸も「ほう……」と僅かに声を強張らせていたが、「アイツも味方だから、安心して、どうぞ」と、唇の端を持ち上げた野獣は、瑞鶴を見上げながら言う。その表情からは、今の瑞鶴の姿に対する驚愕も嫌悪も見られない。野獣は今の瑞鶴の事を知っていたのだろうし、受け容れていても居るという事だろう。余計な詮索は良い。野獣が味方と言うなら、味方なのだ。

 

 不知火は冷静になるべく、瞑目し、息を吸い、吐いた。1秒の静寂。夜の空気の冷たさを肺で感じる。眼を開く。状況は刻々と変わっていく。巨大な生き物の足音が、此方に近づいてきている事には気付いていた。地面をドン!ドン!ドン!と叩いて揺るがす様な、腹の底に響いて来る足音と共に、戦艦水鬼と戦艦棲姫の二人が、大型の艤装獣を従えて現れた。彼女達は、其々が引き連れた艤装獣の片腕に抱えられるような姿勢で、手には携帯端末を持っている。恐らく、此処に来るまでに集積地棲姫や少女提督達と連絡を取り合っていたのだろう。

 

 戦艦水鬼は、レ級や不知火、それに野獣、あきつ丸を見て微笑み、頷いて見せる。戦艦棲姫もそれに倣う。黒く美しい彼女達の長髪が、冷えた夜風に靡いている。艤装獣たちは、GuRRRRRRRRRRR……と、低いうなりを喉で鳴らしながら身を低く落とし、大事そうに抱えていた水鬼と棲姫を地面に降ろしてから、少年提督に飛び掛かる姿勢を取った。夜の暗さの中で、艤装獣の黒い巨体が、獰猛な輪郭を浮かび上がらせている。この場の空気が、凍り付くようにジリジリと固まっていく。

 

 瑞鶴のコントロール下にある猫艦戦達が、上空でバキバキガッチガチと歯を鳴らしながら制空権を握っている。あきつ丸が、踏み込む寸前のように、抜刀する構えから更に姿勢を倒す。獰猛な笑みを浮かべたレ級が、尻尾と体をゆらゆらと揺らして一歩前に出る。戦艦水鬼、戦艦棲姫の艤装獣も、そのレ級に続いて半歩前に出る。

 

 多勢に無勢。

 少年提督は、完全に包囲されている。

 

「『“本当に私を止めるつもりか?”』」

 

 だが、少年提督は落ち着き払っている。

 

「そうだよ(決意)」

 

 鼻を鳴らした野獣が、すっと腰を落として頷く。野獣の持つ二振りの刀が、月明かりに照らされ、澄んだ潤色を暗がりに反射している。

 

「『“そうか。なら……”』」

 

 彼は片方の肩を吊り上げた奇妙な姿勢のままで視線を巡らし、訊き分けの無い子供をあやすように眼尻を下げた。

 

「『“出来るかどうか、やってみると良い”』」

 

 幾つもの声が重なるように響く少年提督の声音は、相変わらず不知火達を嘲うでも憎悪するでも無い。やはり穏やかなままだ。同時に、何かを期待しているかのようでもあった。彼の纏う墨色と白濁の微光が、煙霧の様に揺らぎながら禍々しい光背を象り始める。不知火達の居る一帯の空気が、明らかに変わる。

 

「『“遠慮は要らない”』」

 

 彼を中心にした足元にも術陣が描かれ、そこから漏れだす光は塗膜のように広がり、舗装された地面のコンクリや石畳を染め上げて、ざぁぁぁああっと鋼液に変えていく。鋼液はボゴンボゴンと膨らんだり萎んだりしながら、何かの形を取りつつ起き上がろうとしていた。本来、生命という概念を持たない物質が、呼び起こされて“生物”に変わろうとしている。鋼液の範囲は、まだ不知火達が取り囲める範囲だ。だが、広がりつつある。海水が染み込んでくるかのように。少年提督の纏う墨色と白濁の微光の揺らぎが、この夜の鎮守府の景色を侵食し、塗り替えていこうとしている。少年提督の周囲には、鋼液から黒い金属の花が生えてきていた。黒く大きい、あれは、蓮だ。無数に咲き乱れ、その花弁からは深紫の霊気が淡く立ち上りだしている。

 

 不知火は、蓮の花言葉を知っている。

 離れ行く愛。神聖さ。清らかな心。救いを求める心。

 ただ、黒い蓮は自然界には存在しない。

 

「『“存分に頼む”』」

 

 少年提督はそう言って、黒い蓮に覆われた鋼液の海の上を、おもむろに歩き出した。大怪我でもしたみたいな、あのぎこちなくて不自然な歩き方で、埠頭を目指そうとしている。少年提督の足音が消えた。さっきまで地面を踏み砕いていた彼の足を、鋼液が優しく受け止めている。途方も無く不吉な静けさが、周囲一帯を抱き込んだ。

 

 彼は、不知火達を無視するでもなく、積極的に相手をするでも無い。今の少年提督の目的は、海へ出ることだ。 “何者”かは、少年提督という存在を海へと持ち去ろうとしている。それを阻むべく、不知火達は此処に居る。ごぼごぼ。ぐぶがぼ。がばぐぶ。ぐぶごぼ。水の底で、泡が成る音が聞こえる。それは、発生した音ではなく、不知火の耳の中や脳の奥から響いて来るような音だ。頭痛がする。深海。その言葉が、何故か脳裏に浮かぶ。誰かが、静かに息を吐くのが分かった。

 

 まず動いたのは、戦艦水鬼と戦艦棲姫だった。彼女達の眼には、冷たくも強い意志が在った。従えた艤装獣を操る為に、二人は短く何かを唱える。それに応えた二匹の艤装獣は、地面を蹴り砕きながら少年提督に飛び掛かる。二体の艤装獣が、振り上げた拳を、歩み去ろうとしている少年提督を目掛けて振り下ろす。だが、艤装獣たちの拳は届かなかった。「やっぱりな(レ)」と、レ級が楽しそうに言うのが聞こえた。本当に一瞬の間だった。少年提督の足元に揺らぐ鋼液の海が、聳えるように立ち上がった。暗銀の波は形を持って広がりながら精密な造形を与えられ、瞬く間に巨大な何かになって、二匹の艤装獣に襲い掛かったのだ。

 

 ソイツ、いやソイツらは、戦艦水鬼たちの艤装獣に酷似していた。それでいて、戦艦水鬼と戦艦棲姫が操る艤装獣よりも、一回りか二回り大きい。巨人だった。体の色は濁った白磁色で、全身に禍々しい墨色の紋様がびっしりと刻まれている。艤装獣たちが、巨人と取っ組み合う。VOOOOOORRRHHHAAAAAAA――!! 互いに体当たりをぶちかまし、GOOOOOOAAAHHHAAAAAAA――!! 掴み掛かり、殴りつけ、GURRRRAAAAHHH――!!蹴ったくって、ガブッと噛みつき、UUUGGGOOOOOAAAAHHHH――!! 暴れ狂っている。

 

 もう怪獣大決戦だ。この鎮守府の全ての空気を揺るがすような咆哮が4つ、重なりあって響く。普通の人間なら、これだけで気を失うほどの迫力だった。だが、艦娘である不知火は動揺しない。下がらず、冷静に状況を視る。

 

 不知火は一瞬だけ足元を見た。鋼液の波が揺れ、鈍い銀色の光沢がさざめいている。ただ、この鋼液の海には深みが無い。不知火の身体は沈まない。艦娘では無い野獣もだ。地表にある物質が、液状金属へと変質させられた泥濘のようでもある。その表面が風ならぬ風としての少年提督の力に揺れ、それが波のように見えているのだ。この鋼液の海の上に立つ戦艦水鬼と戦艦棲姫の二人は、艤装獣たちが戦うのを冷静に視ながら、携帯端末を手に何かを唱えている。次の行動に備え、機を窺っている。

 

 あきつ丸と野獣は、既に動いている。あの怪獣大戦争の中に乱入していくのは得策では無いと判断したのだろう。再び二人は、直接に少年提督へと迫ろうとしている。レ級もそれに続いて飛び出す。不知火も、先程と同じようレ級に続こうとして、踏みとどまる。少年提督が纏う墨色と白濁の微光がまた大きく広がり、周囲のコンクリや石畳、庁舎の壁面、アスファルト、建物のレンガなどを荒々しく触りながら侵食し、鋼液の海へと急速に飲み込み始めたからだ。

 

 更に、その暗銀の波から立ち上がって来るものは、艤装獣を模した巨人だけじゃない。四足歩行の肉食獣のような姿をしたものや、猛禽を思わせる有翼のもの、蛇のように手足を持たないものなど。ウジャウジャと湧いて来る。どいつもこいつも、深海棲艦達が纏う艤装獣を彷彿とさせる、鋭利で狂暴なフォルムを持っていた。だが正確に言えば、あれは艤装獣では無い。機械獣、もしくは、金属獣とでも言えばいいのか。

 

 いや、呼び方なんてどうでもいい。

 とにかく、鋼液の海から奴らはどんどん出て来る。

 

 不知火達が慣れ親しんだ筈の景色が、全く違う表情を見せて変貌していくのを感じた。少年提督が放散させている微光は周囲の物質を汚染し、無造作に生命と忠誠心を与え、姿と機能を齎して目覚めさせ、その全てを容赦なく徴兵している。まるで景色そのものが少年提督に跪き、変容と隷属を請うかの様だ。

 

 だが、そんな圧倒的な力を持ちながら、金属獣たちを従えた少年提督は孤独に、ただ海を目指している。苦し気な姿勢の彼は、身体を引き摺るようにして夜の鎮守府を歩いている。その行為自体が、少年提督の内部に入りこんだ“何者”かにとっての戦いだとでも言うふうに。不知火は奥歯を噛む。今は、誰もが皆、戦っているのだ。とにかく、溢れ出て来た金属獣の群れは、少年提督と不知火達を隔てる壁であり、明確な障害であり、群れを成す脅威だった。

 

 艤装獣を操る戦艦水鬼と戦艦棲姫が、金属獣達に囲まれた。彼女達は冷静な表情のままで、ゆっくりと後ずさっている。不知火はレ級に追従するのではなく、戦艦水鬼たちのカバーに入る為に駆ける方向を変えた。あの大型の艤装獣を遠隔で操っている間、彼女達を守る者が必要だと思った。無論、戦艦の深海棲艦である彼女達の肉体の頑強さや強靭さを疑うわけではない。だが、彼女達が傷つけられることによって、彼女達が召還した艤装獣の存在を維持できなくなるのは不味い。彼女達の艤装獣が居なければ、大量に湧いて出て来た金属獣だけではなく、あの白い巨人どもまで不知火達が対処することになってしまう。

 

 金属獣の群れが、ジリジリと戦艦水鬼、戦艦棲姫との距離を狭めていく。いつ飛び出してきてもおかしくない距離の詰め方だった。というか、彼女達のもとに向おうとしている不知火の方には、もう飛び掛かって来ていた。四つ足の肉食獣のようなヤツだ。

 

 不知火は左手に連装砲を召ぶついでに、右手に握った錨で、襲い掛かって来た四足の金属獣を殴り飛ばしながら、頭上から襲来してきた有翼の金属獣3匹を連装砲で立て続けに撃墜し、駆けて、戦艦水鬼に噛みつこうとしていた金属の大蛇を蹴飛ばしてから、戦艦棲姫に躍りかかろうとしていたゴリラだか猿だかに似た巨体の金属獣に砲撃をぶち込んで吹き飛ばした。

 

 不知火は短く、鋭く息を吐いて、戦艦水鬼、戦艦棲姫達を庇うように立つ。金属獣達は、わらわら湧いて寄ってくる。数が多すぎる。キリが無い。そう思った時だった。

 

 空に居た猫艦戦達が急降下してきて、金属獣たちを猛襲し始めたのだ。獣の咆哮が幾重にも重なる。猫艦戦達は、金属獣たちに噛み付き、噛み砕き、喰らいついて、また逆に、金属獣たちにも捕まり、引き裂かれ、砕かれ、喰い殺されていた。もう大乱戦だったが、不知火達に押し寄せて来ようとしていた金属獣の群れの勢いは、明らかに分散した。猫艦戦たちの御陰だ。助かったと思ったら、不知火のすぐ隣に、いつの間にか瑞鶴が居た。いや、着地しようとしていた。猫艦戦達に紛れて、此方に飛び込んで来ていたのだ。瑞鶴は着地の瞬間、そのしなやかな脚をそっと曲げることで、衝撃を完全に殺していた。足音が全くしなかった。

 

「うン。不知火が居テくレると、やっパり心強イね」

 

 逆立つ白い髪と、緋色の眼。深海鶴棲姫と同じ姿をした瑞鶴は、見覚えの在る笑みを浮かべて不知火を見た。その瑞鶴の声には多少の強張りが在ったが、今の自分の姿を不知火から隠そうとはしていない。弁解もしない。ただ、今の状況で重要なのは、瑞鶴の姿云々ではないと思った。

 

「それは、不知火の台詞です」

 

 不知火は言いながら、瑞鶴を横目で見て、次に、戦艦水鬼と戦艦棲姫を見た。「有難う」「助かりました」と声を揃えた彼女達も無事だ。瑞鶴も、「アのデッカイ巨人たちヲ抑えとイて」と、二人に頷いて見せてから、頭上を見上げて何かを唱える。それは恐らく、攻撃命令だった。上空を飛び交っていた多くの猫艦戦が、更に激しく金属獣たちを攻撃し始める。大量に居る金属獣達に対しては、瑞鶴のコントロール下にある猫艦戦達をぶつけ、白磁色の巨人に対しては、戦艦水鬼たちの艤装獣が対処する形になった。瑞鶴は更に何かを唱える。すると今度は、10体ほどの猫艦戦達が此方に降りて来て、戦艦水鬼、戦艦棲姫を守るように、三角形の隊列を組んだ。

 

 それと同時だったかもしれない。

 

 白磁色の巨人の片方、その肩口が爆発した。それが砲撃によるものだと分かった時には、

 

「ヴェハハハハハァァァーーーッ!!!」

 

 という、狂暴極まりない哄笑が響き渡った。この場に踊り込んできた重巡棲姫が、腹から伸びる大蛇のような艤装で、白磁色の巨人に対して砲撃を加えていたのだ。彼女はまだ撃つ。撃って撃って撃ちまくった。連続する爆発音と、濁った炎の明かりが辺りを昼間の様に照らす。爆風で近くの庁舎に大穴が開いた。それがどうしたという感じで狂暴に笑う重巡棲姫は、まだまだ砲撃を加えていく。白磁色の巨人も流石に怯む。その隙に、助走をつけた艤装獣が、巨人の顔面にストレートパンチをぶち込んだ。ズッドオオォォォォ――……ン……!! と、とんでもない音がして、白磁色の巨人がひっくり返った。

 

 それを横目に、もう片方の白巨人の頭部に、誰かが飛び乗ったのが見えた。砲撃をしまくる重巡棲姫と共に、この場に駆け付けていたのだろう。南方棲鬼。つまらなさそうな顔をした彼女は、重厚なガントレットのような艤装を両腕に纏っていて、その艤装で持って、白巨人の頭頂部をズゴンズゴンドゴンドゴンと殴って殴って殴りまくった。その威力は巨人の身体が地面に埋まっていくほどで、凄い音が辺りに響いていた。艤装獣と取っ組み合っていた白巨人も、「GAAAAAAAHHH――ッ!!?」っと流石によろめき、その隙を突いて、艤装獣が巨人を押し倒す。白磁色の巨人が倒れる瞬間には、南方棲鬼はポーンと跳んで地面に着地していた。深海棲艦の上位種同士の連携を見ていた瑞鶴は、軽く息を吐いて不知火へと向き直った。

 

「此処は私達ニ任せテよ。……不知火ハ、提督さンをお願イ」

 

 瑞鶴はそう言いながら、不知火の左手の指輪を見て、穏やかだが力強い笑みを浮かべた。今の瑞鶴が確かに味方であり、不知火が共に戦ってきた“少年提督に召還された瑞鶴”である事に、間違いない事を感じた。戦艦水鬼と戦艦棲姫も、不知火を見て頷いてくれている。

 

「必ず、司令を連れ戻します……!」

 

 不知火も彼女達に頷きを返し、駆けだす。大型艤装獣たちの戦いは、まだ続いている。白巨人もタフだった。また起き上がって、取っ組み合いの殴り合いを始めている。見なくても分かる。空気がビリビリと震える打撃音が聞こえる。それに咆哮も。

 

 不知火はそれを背中で聞きながら、横合いから迫って来ていた金属獣に連装砲を向ける。頭が二つある、巨大な犬のような金属獣だった。ソイツを吹き飛ばしつつ、更に前方から突進してくるサイみたいなヤツを躱すついでに、手に握った錨を力任せに叩き込んで、その頭部を粉々に砕き、蹴倒し、また駆ける。金属獣を蹴散らす不知火の視線の先では、あきつ丸と野獣、レ級が、金属獣の群れを割断しながら少年提督に迫っていた。

 

 

「邪魔でありますなぁ……!」

 

 あきつ丸の居合い斬りが、金属獣を次から次へと斬り捨てている。その手や腕の動きがまるで見えない。軍刀を抜き放ち、鞘に収める。その一連の動作が疾過ぎて、あきつ丸は刀を抜いていないのに、金属獣がひとりでに両断されているかのようだ。抜錨状態にある筈の不知火の眼でも、その抜刀を完全に補足できない。それに、あきつ丸はただ前に出ているだけじゃない。突っ込んでくる金属獣を、身を翻して躱しつつ下がる、かと思えば、すぐに半円を描くように足を運びながら無駄なく斬り捨て、時には金属獣達の合間に滑り込み、風が縫うようにすり抜け、少年提督との距離を詰めている。なんて身のこなしだ。

 

「おっ、そうだな(二刀流)」

 

 濁声を低く落とした野獣の方は、あきつ丸と少し離れた位置で両手の刀を縦横無尽に振るっている。特殊歩法や抜刀術を駆使するあきつ丸と比べれば動きは大きいものの、その分、刀の一振りごとに複数の金属獣が両断されていた。あきつ丸の持つ技と、野獣の持つ技では種類が違うのだ。野獣の大幅な足運びや大振りな刀の振るい方も、その全てが噛み合い、結果的に無駄も隙も一切無い。何万という試行錯誤の果てに完成させたような、多対一に特化された動きを平然と実践しているかのようだった。野獣が刀を振るうと5、6体の金属獣達がいっぺんに3枚に下ろされ、次の瞬間には、野獣は体の向きを変えるついでに腕をビュビュンと振るっていて、別の金属獣が5体ほど輪切りにされていた。

 

 あきつ丸と野獣の間合いの中では、金属獣達が断末魔を上げる間もなく、奇妙な程に静かに切り伏せられていく。それに対して、馬鹿みたいにド派手で無茶苦茶だったのはレ級の方だ。

 

「(^ω^) おっほっほっほ~!(レ)」

 

 全身が凶器みたいなレ級は、尻尾をグオングオンとやたらめったらブン回して、金属獣達を跳ね飛ばしたり、叩き潰しまくっている。おまけに尻尾の金属獣も大口を開けて、手当たり次第に金属獣をムシャムシャバキバキと食い散らかしながら、思い出したみたいに砲撃までおっぱじめて酷い状況だ。もう手が付けられない。それにレ級の本体も両手に金属獣を引っ掴んで思うさまに振り回して、周りに居る金属獣を金属獣でぶちのめしながら、スカートの中から魚雷をボトボトボトっと地面に落とし、それを蹴っとばして発射して、ボンボコボンボンボコと爆発が起きている。暴力の塊みたいになったレ級は、金属獣達を蹴散らすどころか、そこらを更地にする勢いで少年提督へと迫ろうとしている。

 

 数の上では圧倒的に不利だが、不知火達が優勢なのは明らかだった。野獣達はこのまま、少年提督の下まで辿り着く。それは時間の問題だと思った。そんな訳が無かった。不知火の足元の鋼液が、不気味に蠕動している事に気付く。それは金属と言うよりも、腐肉を思わせる、有機的な震えだった。

 

 その鋼液の海の上を、少年提督はぎこちなく歩いていく。彼が一歩進むたびに、足元には黒い蓮の花が咲き乱れ、深紫の霊気が狼煙のように揺らぎ、立ち上っている。不知火は思わず立ちどまり、言葉を失う。あの霊気が、粉々に破壊された筈の金属獣達を再生させ始めていた。それだけじゃない。鋼液の海から湧き出て来る金属獣の数が、更に増えた。深紫の微光の妖しい揺らぎに照らされた金属獣達の体表は、夜の暗さの中で神秘的に浮き上がって見えた。その無情な軍勢の彩りは、不知火達と少年提督を隔てる、圧倒的な質量と物量を備えた、生きた金属の壁だった。

 

 足を止めてしまった不知火を、金属獣達が囲んでくる。それを突破すべく、不知火も連装砲を撃ち、錨を振るう。とにかく戦う。疲労は無い。だが、焦る。不知火や野獣達が金属獣を破壊するペースと、あの深紫の霊気が金属獣達を再生するペースが拮抗している。戦艦水鬼や戦艦棲姫、それに瑞鶴達の方を視線だけで見た。2体の白磁色の巨人に対して、水鬼たちの艤装獣は苦戦していた。目の錯覚かと思ったが、違う。白磁の巨人たちの体が、さっきよりも大きく膨れ上がっている。間違いない。あたりに満ちる深紫の霊気が、白磁の巨人たちの体を強化しているのかもしれない。とにかく、南方棲鬼や重巡棲姫が加わって尚、押され始めている。

 

 不知火達は足掻く。此方を押し流してしまおうとする、生きた金属の壁を壊す為に戦う。だが、敵の数に際限は無い。増える一方だ。足元に揺れる暗銀の波は、不知火達の懸命な対抗などには一切の関心を払わず、ただ無慈悲に揺れてさざめき、新たな金属獣を創造している。

 

 このままでは、負ける。負けない為には、戦い続けるしかない。しかし、そんな時間も残されていない。この鎮守府に爆発物が仕掛けられている事は、少女提督から通信を受けて不知火も知っている。

 

 工廠やドックに仕掛けられた術式爆弾が起爆すれば、この土地が死ぬ。少年提督を海へと行かせてしまえば、戦う意味も無くなってしまう。今の状況には間違いなく、時間切れが存在する。不知火はその焦燥を跳ね返すべく、近くに居た金属獣達に連装砲を構えた時だった。夜空の黒に、薄い蒼が混じるのが分かった。光の膜がドームのように広がり、不知火達の頭上を覆い、この鎮守府一帯を包み込んだ。

 

 少年提督が、また何らかの結界術式を新たに展開したのだと思ったが、すぐに違うと分かった。有機的で躍動感に溢れていた金属獣達の動きが、急にガチガチと強張り、鈍りだしたからだ。ギギギギ……、と、錆びた金属同士が、激しく擦れ合うような音が辺りを包む。少年提督によって支配され。徴兵された景色に、何か別の意思が干渉しようとしているのを感じた。

 

 野獣も、あきつ丸も、レ級も、それに、瑞鶴達だって、その異変に気付いている。金属獣達は次々に生まれて再生を繰り返しているが、軍勢としての戦力や圧力を大きく欠いているのは明らかだった。それは、新たに鎮守府を覆った結界術式の影響であることは間違いない。不知火から離れた所で、戦艦水鬼たちの艤装獣達も、南方棲鬼と重巡棲姫と共に、白い巨人二人を押し始めているが分かった。動きに精彩を無くした金属獣達は、猫艦戦達の群れに食い荒らされ、ボロボロにされていく。

 

 

『皆無事!? 聞こえる!?』

 

 頭上から声が降ってくる。可憐な大声だった。頭上を見れば、猫艦戦がふよふよと浮かんでいる。金属獣達との乱戦に加わらず、不知火や野獣、それに、あきつ丸、レ級達に声が届く位置に居る。その猫艦戦が一匹、此方を見下ろしながら喋っている。いや、スピーカーのように音を発生させていると言った方が正しいかもしれない。あれは、少女提督の声だ。

 

『今、私も鎮守府に着いたから!!』

 

『“結界が完成しました。皆さんをサポートします”』

 

 少年提督のAIの、落ち着いた声も続いた。

 

「『“そうだ。その調子だ”』」

 

 更にそれに続いて、少年提督の、いや“何者”かの声が聞こえてきた。近い。何処からだ。右か。左か。それとも背後か。足元か。答えは、その全てだった。上空に居る猫艦戦と同じように、金属獣達が喋りだした。やはりスピーカーのように、今の少年提督の声を出しているのだ。重複した響きを持つ少年提督の声が、さらに重なり深度を持ち、不知火達を包む。ただ、その声音自体は嫌味な程に穏やかで、落ち着き払っていた。それでいて、やはり何かを期待しているかのようでもある。

 

「『“諦めてはいけない”』」

 

 少年提督の声は、夜の空気に深く染み入りながら、神秘的に、殷々と辺りに響いた。誰に向けて放たれたのでもないその言葉は、この場に居るすべての者に届いていた筈だ。

 

『言われなくても分かってるわよ!!』

 

 少女提督が叫んだ。

 

『アンタが何者かなんて、これっぽっちも私には関係ないから! ソイツの中からぶっ飛ばしてやるから覚悟しなさいよね!』

 

「そうだよ(便乗)」

 

 それに即座に応えた野獣は、動きが鈍った金属獣を処理しつつ、着実に少年提督との距離を縮めていた。不知火、レ級、あきつ丸もそれに続く。そこで少年提督が足を止めた。そして肩越しに此方を振り返り、微笑んで見せる。

 

「『“あぁ。私を止めて見せろ。そうすれば、自ずと未来も変わるだろう”』」

 

 此方の動きを観察し、観測するかのような淡々とした声音が、金属獣達の口から洩れて、暗がりに溶け込むように響く。

 

「『“私は、それが見てみたくなった”』」

 

 そこまで言ってから少年提督は、再び埠頭のある方角へと向き直り、鋼液の海の上を歩き始める。不知火達に背を向けて、この場から去ろうとする。無論、不知火も、野獣も、あきつ丸も、レ級も、金属獣達を蹴散らし、彼に追い縋ろうとする。そこに、身体の運動機能をスポイルされて尚、金属獣達は怯みも躊躇も無く群がり、襲って来る。

 

「『“人間という種は、いずれ自壊する。私は、その未来を視て来た”』」

 

 少年提督の声が、“何者”かの声が、再び響きはじめる。未来を見て来た? 何をバカバカしい事を。そう笑い飛ばせる者は、この場に一人も居ない。

 

 少し前だが、不知火は霞から、少年提督が海神モドキと話をしていたと、そう聞いた事が在る。あれは、集積地棲姫が深海棲艦の研究所に運ばれて来た時だった筈だ。海外の神話には、多くの者に姿を変えて、未来を視る事の出来る海神もいるらしいわ、と。何故か不機嫌そうに話していた霞の横顔を思い出す。

 

 不知火は思考の枠を一旦、常識から外す事を意識した。

 眼の前の状況から、余計な動揺を受け取らない為だ。

 

 不知火は世界にいくつもある有名な宗教や、その宗派ついては、特別に詳しいという訳ではないものの、教養の範囲程度でなら知っている。今の少年提督の内部に入りこんだ“何者”かは、その海神に類する何かであるのだろう。もうそれでいい。否定するのも面倒くさい。だが、少年提督の背後に象られた光背の造形は、明らかに仏教の世界観にあるものだ。其処から想起されるものは、“神”という言葉では無く、“仏”という言葉だった。少年提督が足元に咲かせる、あの黒鉄の蓮の群れの所為かもしれない。ただ、それがどうしたとも思う。“何者”かが神でも仏でも、それは不知火には関係のない。少年提督を取り戻すことが重要なのだ。

 

 

「『“私には未来が視える。私が視てきた未来は、木々に似ていた。私の視力は、分かれていく因果の幹の数も、更にそこから広がっていく必然や蓋然の枝葉の先の先までを見渡す。私は、無数の未来を知っている。その筈だったが……”』」

 

 金属獣達の口の内から、“何者”かは、この場の全員で語り掛けてくる。

 

「『“……お前達がこの少年を、私から奪い返した先の未来が、何故か視えなくなった。お前達が紡ぐ歴史や可能性の変貌を、私の視力では追えない。今という時間に対し、徹底して抗戦するお前達の姿の先に……、私の知らない未来が揺蕩っているのを感じる”』」

 

 滔々とした問わず語りが、不知火達の奮闘を見守るように響く。

 

「『“私に、それを見せてくれ”』」

 

 

 

 

 

「じゃあ、大人しく神妙に退治されなさいよ……ッ!!」

 

 頭の血管がぶち切れそうな程の大声で叫びながら、少女提督はトレーラーの荷台扉から飛び降りる。夜風が冷たい。ふーーッ……! と、頭の熱を逃がすように太い息を吐く。OK、大丈夫。冷静になろう。焦ったら負けよ。こっから。こっからだから。頭の中で、自分に言い聞かせた。深呼吸する。夜の空気は澄んでいるのに、やけに重く、身体に纏わりついて来るかのようだった。息苦しささえ感じる。

 

 足元のアスファルトの感触を確かめて、周囲を見渡す。少女提督はAIを搭載したVR機器を頭に装着しているが、カメラの性能が良いので視界は良好だ。暗がりでも良く見える。野分には、トレーラーを鎮守府の正門付近に止めて貰った。すぐ其処に正門がある。

 

「私の身体をインターフェースに使えば、貴方は本物と同等の力を以て、現実世界に干渉出来るのよね?」

 

 少女提督は、AIに言う。

 

『“……はい。しかし、大きな負担を掛けてしまいます”』

 

「さっきも言ったけど、それくらいは覚悟の上よ。寧ろ、この状況で下手な遠慮されたら余計に迷惑だから。私の身体と貴方を同期するのに、どれくらい時間が掛かりそう?」

 

『“……数分、頂ければ”』

 

「オッケー。そんじゃ、貴方はその準備に入って」

 

『“……分かりました”』

 

 VR機器に搭載されている少年提督のAIはそう答えて、何かを唱え始めた。それを確認した少女提督は携帯端末を取り出して、北上に連絡を取る。

 

『こんな手を実際に打っちゃうんだからさ、北上さまもビックリだよ』

 

 端末の向こうで、北上が微かに笑うのが分かった。それに釣られた少女提督も、思わず鼻を鳴らすようにして笑った。VR機器を装着していても、少女提督の視界は確保されている。その視界の中には、VR機器の機能によって、幾つかのウィンドウが開いている。それらは、猫艦戦達との視界を共有したモニターだ。

 

 その一つに、工廠内部に居る北上が映っている。身体の半分を深海棲艦化した北上は忙しく走り回りながら、妖精達に指示を飛ばしながら、驚きの表情に笑みを滲ませていた。その視線の先では、小鬼の群れが発生している。あの小鬼達は、鎮守府を包んでいた襲撃者達の結界術式を乗っ取った集積地棲姫が、地上に召んでくれたものだ。鎮守府を私達の領域に変え、支配して、“深海”にする。先程の集積地棲姫の言葉の意味を理解出来た。

 

 流石は、後方支援型の“姫”と言うべきか。実際、今の鎮守府はほぼ完全に集積地棲姫に掌握されており、工廠だけでなく、入渠ドックを始めとした主要設備に宿る妖精達を、小鬼達が癒してくれている。結界術式の影響を受けて、ぐったりとして動かない妖精達の姿も見えるが、そんな妖精達を再活性すべく、小鬼達が治癒施術を行ってくれているのだ。

 

『深海棲艦の皆が居なかったら、ホントに一巻の終わりだったね~』

 

「えぇ。全くよ」

 

 余計な力の籠らない北上の言葉に、少女提督も頷く。小鬼の一匹一匹が、妖精の一人一人の手を取るようにして、存在する為の霊気やエネルギーを受け渡している。妖精達も目の前に現れた小鬼達に驚き、怯え、敵意を向ける素振りを見せたものも居た。だが、そこは北上が妖精達に状況を話してから、小鬼達と共に、複数仕掛けられた術式爆弾の解体にあたるように頼み、解体すべき爆弾の設置場所などを忙しく説明している。

 

 また北上は、工廠で再活性した妖精達の何人かには、入渠ドックなどにも向かって貰うように頼んでいた。北上が居ない場所でも、今の小鬼達が味方であることを、他の妖精達にも伝えて貰う為だ。無論、入渠ドックに仕掛けられた術式爆弾の場所を伝える事も忘れていない。優れた工匠であり、奇跡の細工師でもある妖精達と小鬼達の手に掛かれば、“人間”が作った術式爆弾の解体など容易い筈だ。そう集積地棲姫も言っていた。妖精と小鬼、それに、北上が裏方で動いてくれている御陰で、この鎮守府自体が死ぬことは避けられそうだ。

 

「取り合えず、そっちは任せたわ」

 

『うん。オッケー。提督もさ、十分に気を付けてね』

 

「もうアンタの提督じゃないけど」

 

 北上を召還したのは少女提督だ。だが、深海棲艦化した事件をきっかけに、北上は少年提督の管理下に置かれる事になった。『うん。知ってるよ』と返って来た北上の声は、人懐っこく間延びしていて、それでいてタフそうな芯が在る。

 

『北上さまにはさぁ、提督が二人いるんだから。間違ってない』

 

「そ。って言うか、アンタはじっとしてろって言わないのね」

 

『いや~、だって提督、言っても聞かないじゃん』

 

 どうせ今も何かやらかそうとしてるんでしょ、とでも言いたげだった。北上の緊張感の無い声の御陰で、肩に入っていた余計な力が解けていくのが分かった。「まぁね」と、少女提督は軽く笑って答えてから、通信を切り、端末を懐に仕舞う。冷えた風が吹いている。音が聞こえてくる。地面が砕ける音だ。金属が拉げ、ねじ曲がり、硬いものに叩きつけられる音。そこに、GuuuooOOOOOOOOOO!!! という、巨大な咆哮が混じっている。それらの音が、夜風と一緒に体にぶつかってくる。

 

「派手にやってるな」

 

 面倒くさそうな顔をした集積地棲姫も、トレーラーの荷台から降りて来る。

 

 彼女は両腕に艤装を展開して、この鎮守府を括る結界を維持しながら、無数の空間モニターのようなものを従えている。やはりモニターには其々、猫艦戦達の視界が同期されていて、不知火や野獣達が戦っている姿が映し出されていた。トレーラーの運転席から降りてきた野分も、響いて来る音と、集積地棲姫が引き連れた空間モニターの映像を見て息を呑んでいる。逆に、少女提督は、徐々に冷静になって来ていた。

 

「アレに今から加わるか? 私は、ああいう殴り合いをするようなタイプじゃないんだがな」

 

 集積地棲姫が鬱陶しそうに鼻を鳴らす。その横顔をよく見れば汗を掻いているし、息も少し上がっているように見える。

 

 無理も無い。この鎮守府を包んだ特殊な結界術式は、集積地棲姫と少年提督のAIが共同で編み上げた、既存のものとは桁違いに高度なものだ。本来、集積地棲姫の持つ深海棲艦の術式を、AIが独自にアレンジし、それを再び、集積地棲姫が展開したものだ。その効果は劇的で、艦娘を無力化させていた術式結界を乗っ取り、打ち消すだけでなく、少年提督が生み出している金属獣の肉体機能をスポイルまでしている。この結界を構築・維持に加え、術式爆弾の解体をする為に大量の小鬼達を召んで使役し、妖精達を再活性してくれたのだ。例え“姫”クラスであったとしても、扱う術式の規模相応に消耗するだろう。

 

「……貴女の結界、どれくらい持ちそう?」

 

 集積地棲姫に、少女提督は訊く。野分も彼女に向き直る。

 

「気を遣わなくても良い。事が終わるまでは持たせる」

 

 集積地棲姫は不味そうな顔になって、少女提督を見下ろしてくる。その言葉を信じようと素直に思う。

 

「そう。じゃあ遠慮なくコキ使わせて貰うわよ」

 

「あぁ。好きにしろ」

 

 少女提督は、彼女の不機嫌そうな表情が好きになって来ていた。「野分」と呼ぶと、「はい」とすぐに冷静な返事が返ってくる。

 

「今から、埠頭へ回り込むわ。アイツを、野獣や不知火達と挟み撃ちにする」

 

 アイツとは無論、少年提督と――その内部に入りこんだ“何者”かの事だ。

 

「……そう言うと思っていました」

 

 眉間に皺を寄せた野分が、鼻から息を吐き出した。集積地棲姫が、空間モニターを順番に見ていく。金属獣たちと交戦している猫艦戦の他にも、偵察用として動かしている個体の数も多い。それら猫艦戦達からの視覚情報は共有され、空間モニターには鎮守府の敷地内の広範囲が映し出されている。それらをざっと見回した集積地棲姫は少女提督に視線を寄越した。

 

「奴らが戦っている場所を、迂回するルート……、問題は無いようだ。あの妙な金属の獣共の姿も無い」

 

「丁度良いじゃない。それじゃ、」

 

 急ぎましょう。そう言葉を続けようとしたところで、「失礼します」と、野分が少女提督をひょいっと抱える。お姫様抱っこだった。野分はこういう事をスッとやっても、かなり様になる。思わず言葉を飲みこんでしまう。VR機器を付けたまま固まったしまった少女提督の顔と、集積地棲姫を交互に見た野分は、「では、急ぎましょう」と頷く。少女提督は、野分に何かを言おうとして、やっぱり止める。

 

 そうだ。野分の言う通り、急ぐべきだ。少女提督の足で走るよりも、野分に抱えて貰った方が遥かに速いのは明白だ。真剣な表情の野分は、態々そんな事は確認しない。埠頭までの最短のルートを確認してすぐに、最適解を行動に移す。口許を僅かに歪めた集積地棲姫が「あぁ」と低い声で答えて頷きを返し、少女提督も「ごめん。お願いするわ」と、肩を竦める。

 

「はい」

 

 表情を揺らすことなく野分が頷いて、走りだす。ドンっという音が聞こえた。抜錨状態の野分が地面を蹴った音だと気付いた時には、突風が身体を撫でていくのを感じた。ロケットスタートだった。ひゃあ。変な声が出る。速っ!、えっ、速……ッ!! 予想はしていたが、それを遥かに超えたスピードだ。

 

 あっという間に鎮守府の正門を抜けて、駆ける野分が、さらに加速しようとしている。うわわわわっ。真っ暗な夜の鎮守府の景色が、ぎゅんぎゅんグングン後ろに流れていく。少女提督は思わず野分にしがみつく。足元の地面を砕きながら、とんでもない速度で走る野分に、集積地棲姫もピッタリついてくる。彼女は空間モニターを展開したままだ。艤装を纏った両手で、それらのモニターに触れながら何かを操作している。なんなのコイツらみたいな気分になるが、そうだ、彼女達は人間じゃない。だからどうした。

 

 VR機器を付けたままの少女提督は、野分の腕の中から、集積地棲姫が展開するモニターを視線だけで見た。モニターと同期している猫艦戦達の視界には、不知火や野獣達が、グロテスクで獰猛な金属獣の群れと戦う姿が映っている。戦う音が聞こえる。近くなってくる。戦艦水鬼と戦艦棲姫が操る艤装獣が吼え猛り、深海棲艦化した瑞鶴や南方棲鬼、重巡棲姫と共に、大暴れする白磁の巨人二人を相手に、真正面からぶつかり在っているのが見える。それに、地面を鋼液の海に変えながら、その波の上を歩いて行こうとしている少年提督の姿も、モニターには映っていた。VR機器を装着している少女提督には、術式文言を唱えるAIの、朗々とした声が聞こえている。

 

 不意に、強烈な頭痛が来た。体が強張り、息が漏れる。思わず呻きそうになるのを堪えた。野分がこっちを見るのが分かった。

 

「どうしました、司令」

 

「いや、ちょっと怖いだけ。こけないでね」

 

「了解です。気を付けます」

 

 野分は頷いて、すぐに前を見た。VR機器を付けている少女提督の顔は、下半分しか見えない。だから、なんとか軽口を叩いて誤魔化せた。集積地棲姫が此方を見ているのにも気付いていたが、もう、それどころじゃない。やばい。何コレ。痛い。痛い。痛い。

 

 頸から上が崩れていくような激痛に、意識が飛びそうになる。少年提督のAIの声が聞こえている。視界と思考がぶつ切りにされる中で、少年提督のAIと少女提督の肉体の同期が、本格的に始まったのだろうと思った。

 

 野分の腕の中で、強張った身体が震えそうになるのを堪える。自我を飲み込もうする痛みを追い払うのではなく、受け入れる。だが、飲み込まれてはならない。自分の意思と、AIの意思を、並列して思考の中に置かなくてはならない。この痛みの正体は、少年提督のAIが持つ意識だ。負けてはならない。意識を、自我を強く持たなくてはならない。私は、私だ。奥歯を噛み締める。VR機器を付けたままで、強く瞬きをする。

 

 いきなりだった。

 

「『“私が視て来た未来を、お前達にも教えてやろう”』」

 

 は? と思った。声がした。

 AIが唱える術式文言とは、違う声だ。重複した声。

 これは、少年提督の、いや、“何者”かの声だ。

 

 掠れる視界を凝らす。VR機器のモニターに映し出された、ウィンドウの一つ。其処に映る少年提督が、視線だけで此方を見ている。トレーラーに居た時のように、此方に手を伸ばしてくるような仕種は見せない。足元に無数の黒い蓮を咲かせながら、少年提督はぎこちない動きで埠頭を目指して歩き続けている。その歩みは遅くとも、確実に海へと向かっている。それを阻むべく、野獣達が奮戦していた。月が、それら全てを見下ろしている。

 

「『“お前達も、知っておくべきだ”』」

 

 月。それは景色の中に在るものだ。

 遥かな高みに在り、触れることなど出来ないものだ。

 

 少女提督のポケットから、携帯端末の電子音が鳴るのが聞こえた。着信。誰からだ。野分に抱えられながら端末を取り出そうとしたら、端末を取り落としてしまった。端末のディスプレイの電子的な明かりが、手元から落下していく。あっ、と声を漏らしたのと同時だった。落下していく携帯端末が、空中で停止するのが分かった。

 

 時間が止まった。いや。違う。

 

 少女提督の意識が、現実とは違う領域を、強く感知しようとしているのだ。

 そんな奇妙な感覚が、全身を包んだ。それを思った途端、意識の中に映像が流れ込んで来た。ノイズに塗れた視界が掠れ、ブレる。瞼を閉じたままで何かを思い出そうとする時のように、思考の中の景色が切り替わっていく。

 

 

「『“人間は、まず深海棲艦を駆逐する”』」

「『“その後。本営は、艦娘が深海棲艦化する可能性を公表する”』」

「『“その現象の存在は、艦娘に対する人間の不実に、正当性を与える”』」

「『“人々は裏切られたような感覚を覚える”』」

「『“艦娘は危険な存在だと、世間が認識する”』」

「『“正当防衛としての、艦娘達の管理権を得たのだと錯覚する”』」

「『“遠のいていた深海棲艦への憎悪や恐怖が、今度は艦娘に向く”』」

「『“艦娘との共存の道は、此処で絶たれる”』」

「『“人々は艦娘達から自我と個性を徹底的に剥奪していく”』」

「『“世間はそれを咎めない。逆に、推奨する”』」

「『“艦娘とは、深海棲艦になり得る危険なものだからだ”』」

「『“艦娘を対象とした非人道的な実験も、大手を振って再開される”』」

「『“その影で、人間を攻撃可能な艦娘の再生産も行われ続ける”』」

「『“艦娘は裏で、傭兵として売買が行われるようになる”』」

「『“艦娘は人では無く、在庫として数えられるようになる”』」

 

 

 これは、未来の出来事なのか。

 少女提督は、頭の中を通り過ぎて行く映像に眼を凝らす。

 

 人々。その言葉の中に存在する、個々の人間。個人という単位で見れば、この歴史の流れを変えようとする者も居た。例え深海棲艦化する可能性を孕んでいるとしても、艦娘達を迫害するのではなく、共存の道を探るべきだと主張する者も少なくなかった。だが、その数は圧倒的に少数で微力だった。権力者層に買収されたマスコミは、艦娘達の深海棲艦化は再び人類を大きな危機に晒すのだと繰り返し世間に訴え、人間社会から艦娘を分断しようとしていた。そして大多数の人々も、艦娘の深海棲艦化という事実を受け止めきれるほど強くなかった。敬意と感謝を払うべきだと思っていた隣人が、いつ怪物になるかも分からないという状況に人々は恐怖していた。

 

「『“そのうち人間は、艦娘という種から人間性を完全に奪い去る”』」

「『“人々は、自らと同じように人間性を持つ種を隷属させる事に、容赦しなくなる”』」

 

 視界が分裂する。まるで古いフィルムをコマ送りするかのように、意識の中に鮮明な情景が流れていく。経験していない筈の記憶を、知識として流し込まれる感覚だった。何とか意識を保つ。少女提督は、やはり、と思ってしまった。人間は、艦娘を迫害する。その陰惨な人類の選択を、予想した事はあった。

 

 少年提督の――“何者”かの声は、まだ続く。

 映像が意識の中に流れ込んでくる。

 

 

「『“その冷酷な判断は、艦娘から人間にも向くことになる”』」

「『“艦娘を対象にした精神拘束施術の、人間への応用が研究され始める”』」

「『“艦娘と深海棲艦の持つ強靭さを、人間の肉体に宿らせる研究も始まる”』」

「『“世の超富裕層たちは、それを機械と技術による、偉大な種の進化だと盲信した”』」

「『“世の支配者層たちは、己の権力と生命を維持するために、その進化を賛美した”』」

「『“思想。思考。感情。信念。信条。価値。生命。死”』」

「『“すべてが消耗品になり、同時に、代替可能なものになる”』」

「『“人間は、魂や心と言った非実在の存在を、現世に取り出す術を得る”』」

「『“人間は、自らが持つ人間性を形而下へと引き摺り下ろすことになる”』」

「『“艦娘という概念を空洞にする事で、その技術を確立させる”』」

「『“人類という概念の中から、人間というものを切り分けてしまう”』」

「『“その禁忌の技術も、世に浸透していく。長い。長い時間を掛けて”』」

「『“気が遠くなるような時間の中で、その技術は、日常を纏い始める”』」

「『“禁忌の上から常識を纏い、嫌悪の上から価値を纏う”』」

「『“倫理や道徳を超越し、合理と優雅を纏い、善や悪という判断を排除する”』」

「『“積み上げた技術そのものが、人類の手を離れ、人類自身の価値を容赦なく問う”』」

 

 その問わず語りは、情報の塊だった。記憶に流れ込んでくる。少年提督が話す言葉の隙間には、十年、百年単位の時間が流れていた。頭の中で映像が浮かび、それが凄まじいスピードで展開されて流れていく。AIの声が聞こえる。頭痛が激しさを増す。千切れ飛びそうになる意識を、何とか掴む。現実とは違う領域に、少女提督の意識が誘われていた。其処は、天も地も無い空間だった。その中に、ただ歴史としての映像だけが在る。

 

「『“かつて人類が、艦娘に対して行った迫害をなぞるように”』」

『“人間性という言葉が内包する全てを網羅された人類は、違う種へと変わる”』」

 

「『“艦娘や深海棲艦を凌ぐ頑強な肉体”』」

「『“いくらでも代替可能な強靭な精神”』」

「『“無駄を一切知らない、合理性に特化した人格”』」

「『“人間性と言う言葉は廃止され、人類は、生物としての脆弱性を捨て去る”』」

「『“もはや人間は、人間ではいられなくなる”』」

「『“そうして人類の中から、人間というものが消滅する”』」

「『“あとに残るのは、機械と技術と、それによって齎された完璧な世界だ”』」

 

 

「『“気付いたか”』」

 

 

「『“艦娘とは、何か”』」

「『“人間性を持っている艦娘とは、何か”』」

「『“感情や意思、自我、人格を持っている、艦娘とは”』」

 

「『“そうだ。人間を映す、曇り鏡だ”』」

「『“艦娘は、常に人間を映し出している”』」

「『“人間の持つ、人間性を映し出している”』」

「『“人間が、艦娘を通して人間性を否定する時、それはもう人間では無い”』」

「『“培われて来た倫理や道徳を超越する時、人間は人間でいられない”』」

 

 少年提督の声は映像と共に、意識の中に響く。

 

「『“食文化という言葉が在るだろう”』」

「『“人間を、人間たらしめている言葉の一つだ”』」

「『“常識や歴史の中で育まれた、尊い言葉だ”』」

「『“人間は料理をする”』」

「『“味を調え、美味なものを求める”』」

「『“作物を育て、動物を飼う”』」

「『“各々の食文化の中で生きる為だ”』」

「『“その文化の中で、人間が、人間そのものを喰い始めれば”』」

「『“それは、もはや人間ではない”』」

「『“それと同じだ”』」

 

 少女提督は声が出せない。だが、意識の中で問いかける。

 

 アンタは、その未来を避けるために……。

 

「『“そうだ”』」

 

 映像の中から、少年提督の声がする。その言葉の内容は映像となり、意識の中に映し出される。それら全てが一瞬で行われる。肉体で流れる時間と、この精神で流れる時間は、全く違う。少女提督は沈黙する。巡ろうとする思考を、自身の意思で阻めない。予感してしまう。いや、それは確信に近い。

 

「『“少女よ”』」

「『“もう気付いている筈だ”』」

 

「『“仮に”』」

「『“もし仮に、だ”』」

「『“深海棲艦が存在せず”』」

「『“艦娘だけが発生したのなら”』」

「『“もっと早い段階で、人類は滅んでいた”』」

「『“艦娘によって”』」

 

 同じことを、思った。

 

「『“超人的な身体能力を持ち”』」

「『“戦艦に匹敵する火力と耐久力を宿していながら”』」

「『“人間に従順な存在”』」

「『“そんなものが、何の準備も無く人類の前に現れたら”』」

「『“果たして、どうなるか”』」

 

 深海棲艦という敵が存在しないなら、人類と艦娘は、友好的に共存できるだろうか。多分、無理だ。深海棲艦という脅威から守って貰う必要が無いのなら、従順な艦娘を悪用しようとする者は今よりももっと多く、それに、早い段階で現れるに違いない。国家的な規模の保護政策で艦娘達を待遇したとしても、社会の裏では、一部の上流階級の人間達の利益が優先されるのも間違いないだろう。その利益とは、艦娘が生み出すものだ。結局、どうあっても艦娘は資源になる。そしてこの利益追求は、次第に加速していく。

 

 今と同じように艦娘を用いた人体実験も繰り返し行われ、精神施術により、人間への攻撃可能な艦娘が用意されるのも間違いない。人間を破壊できる艦娘の軍事的な価値は、今でも図りしれない。艦娘を用いた人体実験に携わる者達は、必ず、殺戮機械としての艦娘を創ろうとする筈だ。創り上げるだけの理由と報酬が存在するからだ。そうして結果的に、深海棲艦を駆逐した後と同じ歴史を辿ることは、想像に難くない。深海棲艦が存在しないという事は、激戦期も存在しない。

 

 まさか、と思う。

 

「『“そうだ”』」

 

 少年提督が応える。

 

「『“私達が、深海棲艦を発生させた”』」

「『“人類が、艦娘という種の力を、自らに向けない為に”』」

「『“人類の手に余る、艦娘という種の力を、差し向ける方角を与えた”』」

 

 

「『“艦娘よりも先に、深海棲艦を発生させ、人類と敵対させた”』」

 

 

 その言葉を聞いて少女提督は、この世界を構築している法則や節理の、その根本的な部分に住まう存在達を思わずにはいられなかった。人智の及ばない領域に住まう巨大な意思が、確かに在るのだと。なんで……。なんで、アンタ達は……、人間を、守ろうと……? 想い浮かぶ問いは、そのまま“何者”かに伝わっているのを感じた。

 

「『“あぁ。そうだ”』」

「『“私達は、人間を必要としている”』」

「『“私達は、人類が生み出したものを拝借している”』」

 

「『“私達は、言語を借りなければ、意思の表出も出来ない”』」

「『“多くの宗教の中にある教義からも、状況によって言葉を借りている”』」

「『“人類が育んだ文化の断片で、私達の存在は形作られている”』」

「『“人類が生み出した神仏という概念を、便宜的に借りている”』」

「『“私達は、私達だけでは存在しえない”』」

「『“この夜の空に浮かぶ、月と同じ”』」

「『“人類が無ければ、私達の存在は、ただの風景の一部になる”』」

「『“ただ漫然と其処にある、空や海と同じ”』」

「『“信仰するものが居なくなった神や仏が、存在しないものと同じように”』」

 

「『“私達は人間を必要としている”』」

「『“だからこそ、深海棲艦を発生させた”』」

「『“深海棲艦は、艦娘達に種としての役割を与えた”』」

 

「『“人類は、深海棲艦を倒せない”』」

「『“人類は、艦娘に縋らざるを得ない”』」

「『“深海棲艦が存在する限り、艦娘もまた存在価値を保ち続ける”』」

「『“艦娘は沈み、深海棲艦になり”』」

「『“それと戦う為に、人間は艦娘を召還し続ける”』」

「『“堂々巡りだ。同じことの繰り返しだ”』」

「『“欺瞞に満ちた共存だが、私達が望んだ停滞でもあった”』」

「『“だが、今のこの状況を、人類は打ち破ろうとしている”』」

「『“深海棲艦を駆逐することによって”』」

 

「『“故に、深海棲艦に変わる、新たな敵が必要になった”』」

「『“艦娘に、明確な存在価値を与える、強力な敵が”』」

「『“深海棲艦と同じく、艦娘でしか対抗できない人類の敵が”』」

「『“人類が、艦娘という種を解体し尽くさない為に”』」

「『“人類と艦娘が、歪でありながらも、共存する為に”』」

「『“世界を振り向かせる、脅威が必要になる”』」

「『“その新たな人類の敵の、血統の種父として”』」

「『“私は、この少年を持ち去るのだ”』」

 

 

 何よ……、それ。

 待ってよ。ちょっと待って……。

 それじゃあ、艦娘は……。

 艦娘は、なんで生まれたのよ。

 まるで、人間を堕落させる為に。

 アンタとは、また別の……。

 違う“何者”かが、態々用意したみたいじゃない。

 

 

「『“そうだ”』」

「『“私達とは違う、また別の存在の意思が働いた結果だ”』」

「『“それは、人類を減縮させようとする意思だ”』」

「『“其処に、因果も哲学も理念も無い”』」

「『“当然に、感情も因縁も怨恨も無い”』」

「『“ただ、人類の滅亡を望んでいる”』」

「『“そういう意思もまた、存在している”』」

「『“人類自身が、その人間性を解体し尽すように仕向ける形で”』」

「『“それを阻むべく、私達は深海棲艦を発生させた”』」

「『“そして、艦娘に、深海棲艦化の種を植えた”』」

 

「『“艦娘と深海棲艦の戦いが、延々と続くように”』」

「『“人間が、艦娘を隷属させてしまわないように”』」

「『“だが、人間は強かった。戦闘種族として非常に優れていた”』」

「『“人間は、深海棲艦を凌駕しようとしている”』」

「『“そして、艦娘をすら踏み台にしていく未来が、すぐそこに在る”』」

「『“種としての高みに行こうとしている”』」

「『“私は、それを止める為に、此処にいるのだ”』」

 

「『“だが、今の私には、未来が視えない”』」

「『“お前達が戦う姿しか、見えなくなった”』」

「『“私達は、艦娘が発生する未来を取り消すことが出来なかった”』」

 

「『“此処には、艦娘が居る”』」

「『“深海棲艦も居る”』」

「『“艦娘と深海棲艦の狭間に居る者も”』」

「『“そのどちらでも無い者も居る”』」

「『“そして、お前と言う人間が、そうだ、人間が居る”』」

「『“お前達は、未来を変えようとしている”』」

「『“何者にも導かれず、自分たちの手で”』」

 

 違うわよ。そんな大層な事を考えてるんじゃないわ。

 ただ、アンタをぶっ飛ばして、ソイツを取り返そうとしてるだけ。

 そんな風にごちゃごちゃ考えてるのは、アンタだけよ。

 

「『“そうか”』」

 

 そうよ。さっきも言ったけど、覚悟しときなさい。

 

「『“あぁ。待っている”』」

 

 

 

 その声が意識の中に響き終わった瞬間、身体に重力を感じた。

 

 空中で動きを止めていた携帯端末が、地面に落ちる音が響く。携帯端末からは電子音が鳴り続けている。精神世界から、現実の世界に意識が還って来たのだ。時間すれば、1秒、在るか無いか。そんなごく短い間だった筈なのに、長い時間を掛けて水の底から浮上し、やっと水面から顔を出したような感覚だった。少年提督のAIと、少女提督の肉体の同期は、まだ途中のようだ。強烈な頭痛が残っている。AIが何かを唱える声も還ってきている。

 

 とにかく、夜の冷たい空気を吸う。呼吸をしているのが自覚できる。息を吐き出してから、唾を飲み込む。自分の状況を確認する。少女提督は野分に抱えられている。その野分は苦悶の表情で、凄い汗をかきながら片膝をついている。集積地棲姫も膝立ちの姿勢で、艤装化した右手で頭を押さえている。野分の腕の中から出て、少女提督は端末を拾う。携帯端末は電子音を鳴らし続けている。ディスプレイには、“初老の男”の番号が表示されている。通話に出るかどうか、一瞬迷う。端末を持つ手が震えている事に気付く。

 

「今のは、一体……」

 

 野分が頭を振って立ち上がり、こっちを見ていた。いつにも増して深刻な表情をしている。野分も、さっきの映像を見せられたのだろう。顔が青い。右手で頭を抑えたまま、不味そうな顔をして立ち上がった集積地棲姫も同じような様子だった。二人とも動揺している。少女提督もだ。一つ息を吐く。同じタイミングで、AIの詠唱が終わった。同期施術が完了したのか。そう思うよりも早く、さっきまでよりも強烈な頭痛が来た。

 

 死ぬかと思った。

 

 叫び出しそうになる。痛覚を基点として、あらゆる感覚が拡充していく。自分とは全く違う存在が持つ思考や知識、知恵、主観的な経験、特質的な技術などが、自身の意識に接続される感覚だ。呼吸が上手く出来ない。それに、瞬きもだ。体の右半分と左半分が、まるで違う意思で動いているかのように、両目で瞬きが出来ない。タイミングがずれる。下手なウィンクを断続的に続けるかのように。意識的に呼吸をして、自分の手を見る。少女提督の身体から、深紫色の微光が立ち上り始めていた。

 

 野分と集積地棲姫が、驚いたような表情で少女提督を視ている事に気付く。気を失いそうな頭痛は、止む気配は無い。自分が白目を剥いているのが分かる。鼻血がドクドク出てるのも分かるし、口の中では血の泡がブクブクきてる。やば。やっぱり死ぬわコレ。もういっその事、倒れてしまいたい。気絶してしまいたいとすら思い掛けた。だが、その苦痛を悟らせない様に、敢えて不敵に笑って見せる。

 

「……色々考えて不安がるのは、後でも出来るわ」

 

 夜風が、少女提督や野分達の間を吹き抜けて行った。

 近くで、戦いの音が聞こえる。立ち止まっている訳にはいかない。

 端末の電子音が止まり、一瞬の静けさが還って来た。

 少女提督の脚が、ガクガクと震える。咄嗟に野分が肩を貸してくれた。

 

 

「“埠頭はすぐ其処よ”」

 

 少女提督の肉声には、少年提督のAIの声が重なっていた。

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

月光の下 終篇

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不知火は、未来を視た。いや、正確には、膨大な情報を記憶や知識として埋め込まれたような感覚だった。戦闘の最中、飛び掛かって来た金属獣の横っ面を、左手に握り込んだ錨で殴り飛ばした時だった。金属を、金属で殴打して破壊する感触が掌に伝わり、その衝撃が消えていくまでの刹那に、不知火は、未来を垣間見ていた。その事に動揺する間もなかった。意識が肉体に戻って来た次の瞬間には、別の金属獣が飛び掛かってくる。不知火は咄嗟にソイツも殴りつけて蹴倒してから、頭を踏み潰した。

 

 乱れかけた呼吸を整える。意識の中に流れ込んできた先程の映像、景色は、真実なのだろうか。もしかしたら、戦闘の最中に見た幻覚では無いのか。人間を亡ぼすのは、深海棲艦では無く、艦娘であるというのは本当なのか。そうやって疑うことで、胸の内に広がっていくザワつきを何とか跳ね返そうとしている自分に気付く。連装砲を立て続けにぶっぱなし、雪崩のように押し寄せて来る金属獣の群れを砕き、吹き飛ばす。野獣達も不知火と同じく、未来の映像を見せられたのだろうかと思う。そんな風に、余計な事を考えているのが不味かった。

 

 右斜め後ろから突っ込んできた、四足の金属獣への反応が遅れた。不知火は体の軸をずらし、金属獣の突進を避けようとした。間に合わなかった。衝撃と同時に、連装砲を持っていた筈の右腕の感覚が消し飛んだ。金属獣が不知火の右腕を、その肩口から食い千切って行ったのだ。動きをスポイルされていて動きが鈍っているとは言え、金属獣の数は、相変わらず脅威だった。次々と襲い掛かってくる。右腕を失って、不知火はよろける。だが、倒れない。倒れてはならない。右肩から血が流れ出ている。それがどうした。

 

 不知火は、残った左腕で握った錨を思うさまに振り回し、次々と金属獣を殴り伏せる。不知火が動くたび、右肩の傷口からは夥しい量の血が散って、足元の鋼液に赤い滲みを打った。片腕を失った不知火を押し潰すように、金属獣達がワラワラと湧いて、囲んでくる。不味いと思った時だった。

 

 

「おっ、やべぇ!119番だな!(助太刀)」

 

 十数匹の金属獣を一瞬で両断した野獣が、劣勢に陥りそうになった不知火の傍に飛び込んで来てくれた。野獣は、妙に腹立たしい下手糞なウィンクをして見せてから、両手に持った刀をビュビュンと振るう。その剣筋は全く見えなかったが、周りに居た金属獣達が吹けば飛ぶ紙屑のようにバラバラに切り刻まれて飛び散った。

 

「そうでありますな(便乗)」

 

 あきつ丸も、野獣が斬り飛ばした金属獣達の破片に飛び移りながらアクロバティックな宙返りジャンプを決めつつ、不知火の傍に着地して来た。あきつ丸も、やはり強かった。腰の軍刀の柄に添えられた彼女の手がブレる度に、間合いに入っていた金属獣の首が、次々と刎ねられて飛んだ。あれが正しい居合い斬りなのかどうかは分からないが、やはり刀を抜いていないようにしか見えなかった。

 

 あきつ丸と野獣が戦う傍で、また新たに湧いてきた金属獣の群れに対しては、「いかん、危ない危ない危ない(レ)」なんて言いながらレ級が、金属獣の群れをぐちゃぐちゃに叩き潰し、巨大化した尻尾の艤装獣で払い除けて吹き飛ばしつつ近寄って来た。まるでブルドーザーみたいにして近寄って来たレ級は、不知火の傷を見て、少しだけ表情を歪めた後、ニッと笑う。

 

「病院に行くべ! 元気になりやす!(レ)」

 

 その子供っぽい表情と場違いな明るい声で言いながらも、レ級は現在進行形で尻尾の艤装獣を振り回して、金属獣を鉄屑の山に変えていた。この3人が、傷を負った不知火のカバーに入ってくれたのは間違いなかった。

 

 状況はなかなか好転しない。集積地棲姫が張った結界の御陰で、金属獣達の動きは鈍っているものの、破壊された金属獣はすぐに修復されて、鋼液の海からも湧き出してくる。片腕失った不知火も、すぐに戦闘に戻る。痛みと共に、潮の匂いと海風を微かに感じた。

 

 気付けば、埠頭はすぐ其処だ。

 不知火達と少年提督との距離は、縮みつつあるが、まだ埋まらない。

 遠い。金属獣の壁が厚過ぎる。このままでは――。

 

「『“まだ此処に着かないか?”』」

 

 少年提督の声が、金属獣の口から響く。やはり、何処までも穏やかな声音だった。此方を煽ったり小馬鹿にしたりするような含みの無い、凪いだ声音だ。

 

「『“どうした、疲れたか? やはり、私を止めることは出来ないのか?”』」

 

 疲れなど……! 不知火は叫びそうになるが、「馬鹿野郎、お前」という野獣の、力を込めた低い声が遮った。

 

「俺達は勝つぞお前(合同勝利へ)」

 

『“私達も混ぜなさいよ”』

 

 この場一体を夜空が撫でてくるような、冷たく澄んだ風が吹いたのを感じた。いや、それは風というよりも、身体の奥深くまで浸透してくる微光の流れだった。何かが起こったのは間違いなかった。金属獣の体に、深紫色をした禍々しい紋様が浮かび始めている。ギチギチと体を強張らせた金属獣達の動きが更に鈍り、その場に倒れ始めた。まるで、術式結界によって動きを封じられた、先程の不知火のようだった。見れば、夜空を覆う術式結界のドームも、深紫色を暗がりに滲ませるように淡く明滅していた。

 

『“遅くなってゴメン”』

 

 この声は。少女提督の声だ。それに、少年提督のAIの声だった。二つの声が重なっている。ただ、重なっている少女提督の声の方だけが、溺れている最中のように震えていた。足元の鋼液の海の上へ、金属獣達が次々と倒れ込んでいく。その向こうに、此方に背を向ける少年提督が見えた。更にその向こうには、少年提督が向かおうとする埠頭への道に、立ち塞がっている人影が、3人分見える。

 

「『“あぁ。来たか、少女よ”』」

 

 少年提督の表情は見えない。だが、幾重にも重なった彼の声が、喜びを含んだ。彼の視線の先には、VR機器を装着し、身体から深紫色の微光を立ち上らせている少女提督と、その少女提督に肩を貸している野分、それに、集積地棲姫の3人の姿がある。

 

 野分に身体を支えて貰っている少女提督の足元には、巨大で複雑な術陣が描き出されている。右の掌を上に向け、左の掌を下に向けていた。その両手の掌には深紫色の術陣が展開されていて、鎮守府を覆っている術式結界に呼応するように明滅している。そうか、と不知火は思う。今こうして金属獣達を無力化してくれたのは、少女提督だったのだと分かった。

 

 ただ、少女提督の様子がおかしい。体が震えていて、荒い息をしているのが此処からでも分かる。それに、凄い量の鼻血を流している。体に負担が掛かり捲るような何かを行使しているのは明白だった。とても言葉を発する事が出来る状態には見えない。そんな少女提督に肩を貸している野分は唇を強く噛み、早く斃されろと呪うかのように少年提督を睨んでいる。

 

 両手に艤装を纏っている集積地棲姫は、幾つもの空間モニターを展開して引き連れており、艤装を装着した分厚い手の指でピアノでも演奏するかのように、モニターを操作している。その其々のモニターからは光の線が伸びて、野分に身体を支えられている少女提督の首や腕、背中に繋がっている。その様子は、病室で死に掛けている患者の命を、懸命に繋ぎ止めようとする延命機械を彷彿とさせた。

 

 不知火達は、数秒だけ動きを止めて、彼女達を見ていた。野獣も、あきつ丸も、レ級も。それに多分、瑞鶴や戦艦水鬼、戦艦棲姫達もだ。さっきまで溢れていた戦いの音が止んでいる。この戦場に居る全員が、束の間の静寂を共有していた。何が起こったのかを把握する必要もあった。不知火達の視線の先では、少女提督の身体から立ち上った深紫色の微光が揺らぎ、髑髏にも似た不気味な陰影を夜の暗がりに象っている。

 

 不知火は、知っている。見た事がある。あの深紫色の光は。そうだ。少年提督が扱う、特質的な術式が放つ色だった筈だ。それを、どうして少女提督が……? 一瞬だけ浮かんだ疑問は、すぐに払拭された。少年提督のAIは、彼女と共に行動していた事を思い出したからだ。少女提督が装着しているVR機器を見る。少女提督の精神に、少年提督のAIが同期しているのか。いや、今の状況を見れば、そう考えるのが自然だ。

 

 少年提督のAIが少女提督の肉体を介して、その性能と機能を、現実世界で発揮しているのだ。そして集積地棲姫は、少女提督が展開している術式結界の補助と同時に、AIと同期している少女提督の精神が、その負荷によって完全に圧潰してしまわない為の、精神治癒施術を同時に行っているのだろう。それは少女提督に出来得る、本当にギリギリ、瀬戸際の状態での対抗に違いない。そして、効果と威力は絶大だ。鋼液によって周囲を汚染し、生命と造形、機能と忠誠を無差別に付与して、あらゆるものを徴兵する“何者”かの力を、正面から抑え込んでいる。

 

 いや、それだけじゃない。埠頭に向おうとしている少年提督が、何かに抑え込まれるように片膝をつく。不知火は眼を凝らす。少年提督の肌にも深紫色の紋様が刻まれ始めていて、その身体を括るように積層術陣が浮かんだ。少女提督とAIが新たに展開した結界は、金属獣だけではなく、“何者”かに乗っ取られている少年提督の肉体までをも拘束しようとしている。術式の出力が桁違いだ。

 

 少年提督が支配していた世界が、ゆっくりと動きを止めていく。

 これは、間違いなく勝機だ。

 

 戦艦棲姫や戦艦水鬼、重巡棲姫、南方棲鬼達が相手にしていた巨人も動きを鈍らせ、艤装獣に掴み倒されている。瑞鶴が操る猫艦戦達も、相手にしていた金属獣がガラクタのように倒れていく。猫艦戦達は標的を変えて、倒れた白い巨人どもに襲い掛かった。まるで水中に落ちた獣に、人食いのピラニアが殺到するかのようだ。向こうでは、もう決着が着こうとしている。

 

 気付けば、不知火は駆けだしていた。倒れ伏していく金属獣を踏みつけながら走り、残った左腕に力を込めて、錨を握り締める。左手の薬指に嵌った指輪が、蒼と碧の光を帯びて、微かに振動しているのを感じた。指輪が少年提督と共鳴している。不知火の肉体と精神もだ。右腕から流れる血は止まっていた。結魂という言葉を想いながら、不知火は走る。決意をしなければならない。少年提督を、一度は殺さねばならない。躊躇ってはならない。

 

「あっ、待ってくださいよぉ!(迫真のフォロー)」

 

「行くぞオラぁ!(レ)」

 

 追い付いてきた野獣が、不知火の右手に並ぶ。

 呵々大笑するレ級は、不知火の左側へ。

 

「終わらせましょう」

 

 冷静なあきつ丸の声は、背後からだ。

 

「『“いや、もう少し時間は掛かるだろう”』」

 

 片膝をついた姿勢の少年提督が――、“何者”かが、俯いたままで安らかな声で言う。足元に広がり地面を覆う鋼液の膜が、ブルブルブルッと、不気味に蠕動したのが分かった。それに、倒れている金属獣達を溶融させつつ飲み込んでいく。まだ何かする気なのか。少年提督が術式文言を紡いでいるのが分かった。黙らせてやる。不知火は、沈んで行く金属獣達を踏み越え、鋼液の海の上を駆ける。少年提督との距離が、グングン縮まっていく。少年提督が此方を見る。

 

「『“此処までは、私にも視えていたからな”』」

 

 鋼液の海が、深呼吸をするように大きく波打つ。

 罠。誘われたのか。そう意識した瞬間には、状況が動いていた。

 

 少年提督の纏う墨色と白濁の微光が、力線となって地面に走る。短く激しい空気の振動が在った。硝子細工を砕くような、細く澄んだ破砕音が鳴った。少年提督を抑え込んでいる術陣が弾け飛んだのだ。少年提督が立ち上がり、不知火達の方へと振り返った。その動きに応えるようにして、鋼液の海がうねり、複雑な術陣を描き出す。大きい。術陣の数は3つ。少年提督へと迫ろうとしている不知火達を、前後から挟む位置に2つ。それに、殆ど身動きが取れない状態の、少女提督の前方に1つ。途轍もない速度で編まれた其々の術陣からは、暗銀の水面を突き破り、巨大な海洋生物が飛び出してくるかのように、黒い巨人が現れた。

 

 溶融しつつあった金属獣達が歪な塊となり、其処にまた新たな造形と生命を与えられて巨人として生まれ変わったのだ。とにかくデカい。幅も厚みも半端じゃない。もう構築物か建築物の類だろう。瑞鶴や南方棲鬼達が交戦していた巨人よりも、もう一回りほど身体が大きく、狂暴な姿をしている。全部で3体。不知火達だけでなく、少女提督達までをも相手に取るつもりなのか。不知火は舌打ちをする。

 

 

 不味い。黒い巨人達はもう、不知火達を挟み撃ちするべく動いている。

 瑞鶴達が此方の様子に気付いたようだが、もうフォローは間に合いそうにない。

 

 巨人は俊敏だった。鍛え抜かれた格闘家のような、鋭く、容赦の無い距離の詰め方だ。あれは木偶じゃない。明らかに生物の動きだった。姿勢を落として突進してくる。しかも前後からだ。少女提督の方へも、巨人は肉薄しようとしている。

 

 血の泡を吹きながら術式結界を維持している少女提督を、焦った様子の野分が抱き上げる。「下がっていろ!」と野分に叫んだ集積地棲姫が、黒い巨人に立ち塞がるように前に出た。この時にはもう、集積地棲姫は気付いていたのかもしれない。この場に飛び込んでくる影が在った。黒巨人の、右斜め上からだった。近くの庁舎の屋上から弾丸のように飛びこんで来た。

 

「前も似たような事したことあるけどさ~」

 

 40もの魚雷の雨を降らせながらだ。

 

「アタシはやっぱ、基本雷撃よね~……ッ!!」

 

 そんな声が聞こえた気がした。魚雷の大爆発と、そこに巻き込まれて砕けていく巨人の絶叫が辺りに響き渡り、音が飽和する。火柱が立ち上がっている。周囲の庁舎が衝撃と熱波で崩れる。だが、爆炎に飲み込まれた筈の野分と少女提督、それに集積地棲姫は無事だ。集積地棲姫が構築した防御陣が、彼女達を守っている。その防御陣の中には、魚雷の雨を降らせた北上の姿が在った。爆風に煽られた着地の際に尻餅でもついたのか。地面に座り込んだ北上は苦笑を浮かべて、腰を擦っている。半深海棲艦化した彼女の制服は、ところどころが黒焦げになっているものの、大きな負傷は無さそうだった。魚雷が爆発する瞬間。飛び込んできた北上を守る範囲で、集積地棲姫が防御陣を張ったのだ。

 

 これら一連の攻防の最中には当然、不知火達へも巨人が迫っていた。

 

 状況の判断が早かったのは、「しょうがねぇなぁ~(悟空)」と零した野獣で、次に、「足止めが必要でありますな」と、あきつ丸が続く。

 

「アイツを頼むゾ(相棒の初期艦への、厚い信頼)」

 

 不知火の右側を走っていた野獣が、此方を視線だけで見た。自身の役割を全うしようとするような、ゆったりとした声だった。不知火が何か言葉を返すよりも先に、野獣はその場で反転する。あきつ丸もだ。不知火が顔だけで振り返ると、もうすぐ其処に黒い巨人が左腕と拳を振り上げて、此方に殴りかからんと迫って来ていた。それを、あきつ丸と野獣が止めに入ってくれたのだ。

 

 グオオオオっと豪快に風を切って、巨人が拳を振り下ろしてくる。まるで隕石だ。完全な攻撃姿勢に入っている巨人を前に、野獣は手にしていた太刀を腰の鞘に直しつつ、長刀だけを背中に担ぐようにして姿勢を落とす。野獣の少し後ろに居るあきつ丸は、身体を極端に前に倒して走り出しつつ軍刀を鞘に納めていた。降ってくる巨人の拳が、野獣に届く。その刹那。野獣は、以前レ級と戦った時のように、半身を塗膜のように鋼で覆いながら、持っていた長刀を後ろに放った。

 

 あきつ丸がその長刀、“邪剣『夜』”を流れるようにキャッチし、直後、巨人の拳が野獣を捉えた。音よりも衝撃が凄かった。地面が揺れて、傾いていた庁舎の一部が崩れる程だった。野獣は両腕で、その巨人の左拳をがっちりとガードしていた。野獣ごと地面を叩き潰す勢いだったが、野獣は両腕を交差させる防御姿勢のままで踏ん張っている。野獣の足元の地面が、クレーターのように砕けて、バキバキバキバキィッ!!と、沈んでいく。

 

「お前重いんだよ!!(パンチが)」なんて悪態をつきながら、黒巨人の拳を野獣が受け止めている間に、あきつ丸が風のように野獣を飛び越えて、黒巨人の拳の上に着地し、そのまま巨人の左腕を音も無く駆けあがっていく。あの二人は昔、コンビを組んで何処かで一緒に傭兵でもやってたんじゃないだろうかと思うぐらい、息の合った行動に見えた。

 

 一瞬で黒巨人の肩まで登り切ったあきつ丸は、“邪剣『夜』”を手の中でグルンと一回転させてつつ握り直し、その巨人の肩から首の後ろを通り、左肩へと駆け抜ける。その途中で、巨人の頭部を横一文字に両断した。人間で言うなら、右耳と左耳を結ぶ線で頭部を切断したのだ。爽快なくらいスパッと行った。野獣が扱う“邪剣『夜』”が特別な刀である事もそうだが、それを扱うあきつ丸の技量もあってこそだろう。

 

 不知火は其処まで見て、いや、見惚れてしまってから、慌てて前を向いた。黒巨人の頭の上半分が地面に落ちた後、巨人の身体が傾き、倒れる音を背中で聞いた。振り返って前を向くまで、時間にすれば2秒も無い。当たり前だが、その僅かな時間の経過の中で、色んな事が起こっている。当然、まだ起ころうとしている。

 

 不知火の目の前。黒巨人が、両腕を組んで振り上げている。ハンマーナックルで不知火とレ級を叩き潰すつもりだ。不知火は怯まない。スピードを落とさない。あくまで突進する。黒巨人の攻撃のタイミングを見極める。左隣に居るレ級が「KAHAッ☆」っと狂暴に笑うのが分かった。楽しそうだ。頼りになる。黒巨人が、組んだ両手を振り上げた姿勢で、身体を前に傾けるのが見えた。

 

 来る。来た。

 

 不知火とレ級は、横へ跳ぶ。不知火達が居た筈の地面を、巨人のハンマーナックルが粉砕し、陥没させた。鎮守府全体が揺れる様な、強烈な一撃だった。だが、不知火には当たっていない。躱した。このまま黒巨人を無視して、少年提督へと向かおうとする。だが、巨人の俊敏さも尋常では無かった。少年提督の下へと行かせまいと、不知火へと向かってビュンと跳んできた。踏み潰す気か。不知火はまた横っ飛びに転がる。不知火が居た地面を、メートル級の巨人の足が踏み砕く。巨人はすぐに体勢を整え、ぬうぅぅっと不知火に手を伸ばしてくる。速い。振り払えない。捕まる。

 

 そう思った時には、「植え付けを行う!(レ)」という声が聞こえた。不知火と巨人の間に割って来ようとしているレ級の声だ。ただ、ギザ歯を見せて笑うレ級は、割って入ってこようとしているだけでは無かった。「なっ……!?」不知火は呆気にとられる。レ級の尻尾の艤装獣が、夜空に向って口を開けて「UUUEEEEEEEEEEEE――ッ!!」っと苦し気に吼えて、大量の魚雷をドババババーーーッ!!と吐きだしていたからだ。凄い数だ。パッと見では分からない。魚雷が。濁った蒼色と、赤錆色の微光を纏った魚雷が。雨みたいに降ってくる。

 

 流石の黒巨人も「な、なんやコイツ」みたいな感じで、動きを止めていた。ついでに、「シシシシシ!!」なんて楽しそうに笑っているレ級と、夜空に吐き出され、此方に向って落ちて来る魚雷の雨を、不知火と一緒に交互に見ていた。だが、それも一瞬だ。黒巨人はすぐさま、降ってくる大量の魚雷と、近づいて来るレ級から距離を取ろうとした。不知火も、魚雷の雨から逃れるべく駆けだそうとした時だ。

 

「須藤さん!(レ)」と、レ級の声が聞こえた。見れば、「(`・ω・´) 行っといで!(レ)」と、今日で何度目かのサムズアップをして見せるレ級と眼が合った。それは、「此処は任せて、お前は少年提督の所に行け!」という意味に違いなかった。不知火は迷わなかった。頷きながら「不知火です!」と答え、すぐに少年提督の方へと駆ける。もう一度、横目でレ級を見る。

 

 それと同時に、度肝を抜かれた。

 

 黒巨人との距離を詰めるレ級の、その尻尾の艤装獣が阿呆みたいに膨れ上がっていて、更に馬鹿みたいな大口を開けてビュンビュン動きながら、降ってくる魚雷全部を空中でキャッチし、歯で銜えて見せたのだ。無数の魚雷をぎっしりと銜え込んだ尻尾の艤装獣を振り上げながら、レ級は「死死死死死死死!!」っと、子供みたいに笑っている。その姿を明確な脅威として捉えたからだろう。黒巨人は下がろうとしている。一旦距離を取ろうとしている。だが、レ級はそれを許さなかった。

 

「(´・ω・`) 逃げるな(レ)!」

 

 姿勢を落としたレ級は、両腕を地面に深々とぶち込んで、巨人ごと地面のコンクリや石畳を、というか、地盤とでもいうべき厚さで持ち上げて引っ繰り返した。ドガァァアアアッと言うか、ズガァァアアアアッと言うか、とにかく途轍も無い破砕音が響く。ちゃぶ台返しという言葉を聞いたことがあるが、あれを舗装された地面でやる感じだった。豪快で無茶苦茶で、効果的だった。文字通り足元を掬われた黒巨人が、バキバキになった地面の上に倒れる。間髪入れずに手をついて起き上がろうとしていたが、魚雷を銜えて膨れ上がった尻尾の艤装獣を振り上げたレ級が、嬉々として飛び掛かっていく方が遥かに速かった。

 

「(^ω^) 燃え尽きろよ~ (レ)」

 

 唇の端を吊り上げて笑うレ級は、グルンと体全体を斜めに回転させて、魚雷を銜えまくってパンパンになった尻尾を思いっきり振り下ろした。白い巨人は腕でそれをガードしようとしていたが、そんなものが何らかの意味を持つとは思えなかった。関係ない。もうああなったら逃げられない。集積地棲姫が扱うような、特別性の防御陣でもない限りはガードなんて無意味だ。容赦なくぶち込まれたレ級の巨大尻尾が、黒巨人を地面に埋め込みながら大爆発を起こす。さっきの北上の魚雷雨に勝るとも劣らない爆発音が辺りに響き渡り、ビリビリバシバシと鎮守府全体の建物を揺らして、崩した。

 

 不知火は爆風に煽られてつんのめる。すぐに体勢を整え、少年提督の元へと走る。巨人はどうなったのかなんて分からないが、考えるまでも無い。あの威力だ。木っ端微塵だろう。じゃあ、レ級は? と思ったら、立ち上る爆炎の方から、「(*´▽`*) ホカ弁の波動が熱いよ~(レ)」なんて、クッソ暢気に笑う声が聞こえて来たので、大丈夫に違いない。戦艦種であるレ級の再生能力が尋常では無い事は、一度戦ったことのある不知火は知っている。ヤツは頭の上半分が吹っ飛んでもすぐに再生する。そして、子供みたいに笑って見せる。そういうヤツだ。知っている。大丈夫だ。大丈夫。そう、今は信じるしかない。

 

 

 思考を振り払う。走る。

 右腕が無いから、バランスがとりにくい。

 だが、速度を上げる。身体を前に倒す。

 艤装を再び召んで、砲撃するという手段も頭に浮かぶ。

 だが、それは無意味だ。金属と炎は、彼に届かない。

 行くしかない。少年提督と不知火の距離は、あと15メートルほどだ。

 鋼液の海が、足元に暗い波を作っている。その上を不知火は駆ける。

 遮るものは無い。左手の錨を握り締める。

 

 あと10メートル。

 薬指の指輪が、深紫色の光を放っている。

 あと5メートル。少年提督が、微笑んでいる。

 

「『“遅かったな”』」

 

 長旅を労うように、彼は言う。

 

「沈め……ッ!!」

 

 不知火は、今度こそ、錨を少年提督に振り下ろした。

 だが、それが少年提督に届くことは無かった。

 艦娘の腕力を持って振るわれた錨を、少年提督は右腕で受け止めていた。

 さっきは、躱す素振りも見せなかった彼が、明確に防御していた。

 それは、不知火の錨に込められた、彼を殺傷する決意と覚悟を物語っている。

 

 だが、今の少年提督も、強い。

 あきつ丸と野獣を相手取り、二人をあしらってしまう程に。

 そんな相手と、不知火は一対一だ。

 奥歯を噛みながら思ったが、違った。

 

 不知火の左手薬指に嵌っていた指輪から、深紫色の光が溢れた。それは不知火の左手を伝い、錨を伝い、彼の右腕にも伝っていく。少年提督は驚きも、怯みもしない。ただ、穏やかな表情を浮かべていた。深紫色の光は、少年提督が纏っていた墨色と白磁の光を濯ぎ、払いながら、浸透していくように彼の身体を覆った。

 

 そこで、不知火は見た。彼の顔の、右半分と左半分で、表情が違う。右半分は今まで同じく、穏やかでありながら超然とした笑みだ。だが左半分の笑みには、不知火の良く知っている温もりが在った。瞬きのタイミングまで、左右の眼で違っている。まるで二人分の人格が、同時に表出しようとしているかのようだ。

 

「『“お前が此処に辿り着いた時点で、私は敗北していた訳か”』」

 

 穏やかな態度を崩さない少年提督は、映画館から出て来て、感想を述べるみたいに言う。少年提督は錨を受け止めた右手を、ガタガタと震える彼の左手が抑えていた。いや、抑えるだけでなく、下ろそうとしている。明らかに不自然な動きだったが、その行動は、不知火の攻撃を受け止めようとする意思と、それを阻もうとする意思が、其々が独立し、彼の肉体の中に同時に存在している事を物語っていた。

 

 不知火は彼の左手を見て、自分の鼓動が強くなるのを感じた。そうだ。分かっていた筈だ。一対一じゃない。不知火の目の前で、少年提督も、“何者”かに抗っている。抗い続けている。

 

 だからこそ、今の、この瞬間が在るのだ。

 

「『“お前達は、強いな”』」

 

 少年提督が、錨を掴んだままの右手から力を抜いたのが分かった。

 

「『“だが、気を抜かない事だ”』」

 

 不知火も、そっと錨を手放す。錨が、重い音を立てて地面に落ちる。

 

「『“艦娘も、深海棲艦も、そのどちらでも無い者も、そして人間も……、皆等しく、例外なく、救われない未来は、すぐ其処に在る”』」

 

 少年提督は、地面に落ちた錨を見ていた。

 

「『“……錨、……あぁ、そうか。だから、この少年は……”』」

 

 そこまで言った彼は、何かに気付いたかのように小さく息を吐いて、無防備な姿を不知火に晒す。不知火の左手の薬指に嵌っている指輪は、まだ光を放ち、それが少年提督に流れ込みながら、彼の持つ超然とした力や、動きを抑制しているのが分かった。奇妙な話だが、指輪から伸びる光の正体は、実体を持たない不知火の魂が可視化したもののように思えた。結魂という言葉の持つ不思議な響きが、自身の呼吸と共に、実在的にこの場に在るのを思った。

 

 息を吐き出しながら、不知火は姿勢を落とし、拳をキツく握り込む。

 今の少年提督を守るものは、全て取り払われている。

 

「『“さっきも言ったが、遠慮は要らない”』」

 

 足元に広がる鋼液の海も凪ぎ、滑らかな塗膜のように静まり返っている。周りも静まり返っていた。野獣や、あきつ丸や、瑞鶴や、戦艦水鬼、棲姫、それに、南方棲鬼や重巡棲姫も、集積地棲姫も、野分も、野分に抱きかかえられた少女提督も、皆が固唾を飲み、此方を見ているのが分かった。

 

「『“この少年は、死なない。もう、死ぬことが出来ない”』」

 

 少年提督は無防備に立ち、ただ静かに佇んでいる。

 

「『“この身体に、気遣いは無用だ”』」

 

 言われるまでも無い。そんな事は分かっている。自分のすべき事もだ。息を吸い込んだ不知火は黙ったまま、下がった2歩分だけの助走を付ける。体重と、艦娘としての力を全部込める。脚と腰の捻りも加える。これ以上ないフォームだった筈だ。御無礼を、お許しください。不知火は、少年提督の顔面目掛けて左の拳を振り抜く。インパクトの瞬間、薬指に在る指輪が、一際強く光った気がしたが、さだかでは無い。ただ、不知火の拳は、間違いなく少年提督の頭部を破壊していた。

 

 少年提督は吹っ飛んでから2バウンド程して、鋼液の海の上を10メートルほど転がった。艦娘のパンチをまともに食らったのだ。無事なワケが無い。仰向けに倒れた少年提督は、起き上がって来ない。嫌に静かだった。耳が痛いほどに。さっきまでの激しい戦闘が、嘘のようだ。誰も彼もが黙り込んでいる。夜の暗がりは冷たく、澄み渡っている。

 

 不知火は其処で、自分が呼吸を止めていた事に気付いた。心臓も止まっていて、今になって動き出したかのような感覚だった。冷たい空気を肺に入れる。唾を飲み込む。気付けば、不知火の指輪の光も消えていた。夜空に残っていた雲も走り去り、遮るものの無い月明りが、辺りの沈黙を照らしている。

 

 倒れている少年提督の指が、ピクリと動いた。不知火は、再び息を止める。彼の頭部が再生を始めているのが分かった。彼は手を着いて、ゆっくりと立ち上がろうとしている。彼の身体からは、まだ、墨色と白濁の微光が漏れていた。足元には、黒鉄の蓮花が次々と咲きながら、霊気を吐き出しそうとしている。まさか。そう思わずにはいられなかった。まさか。まだ、少年提督は、“何者”かに操られたままなのか。あきつ丸や野獣、それに瑞鶴や野分達が、戦いを続けようとする気配が在った。不知火も錨を拾い上げようとした時だった。

 

「有難うございます、不知火さん」

 

 少年提督が此方に向き直り、微笑んで、深く頭を下げてくれた。

 

「御陰で、身体を取り戻すことができました」

 

 彼の声からは、幾重にも重なった不気味な響きが抜けていた。不知火の知っている、彼の声だった。体から力が抜け、涙が出そうになる。だが、完全に安心してしまうのはまだ早そうだった。少年提督の瞬きのタイミングが、左右の目で不一致のままだったからだ。蒼み掛かった昏い左眼と、暗紅の右眼の瞼が、不自然なウィンクのようにバラバラに動いている。二つの人格が、肉体のコントロールを巡り、鬩ぎ合っているかのように。

 

 そうだ。不知火達は、あの“何者”かを、滅した訳ではない。あくまで、“何者”かによってコントロールを奪われた少年提督の肉体を奪還しただけだ。少年提督の精神の内部には、まだ“何者”かが残っている。だが、肉体を取り戻した少年提督は、普段と変わらず、落ち着き払っている。

 

 既に解決策を用意していたのだろう。彼はその場にしゃがみ込み、左の掌で地面に触れ、右の掌を自身の左胸に添えた。その姿勢で術式文言を唱えながら、鋼液の海と夜空に、鎮守府をすっぽり包んでしまうような巨大な術陣を描き出していく。彼が、自分の肉体に大規模な調律と調整を施そうとしているのは、不知火にも分かった。右手を添えられた彼の左胸からは、回路図のような紋様が彼の全身に広がり、心臓が脈動するかのように深紫色の光が奔っている。その光景に圧倒され、不知火は、いや、不知火達は、動けなかった。もう少年提督以外が出来る事は、何も無い。

 

「『“この身体を、私のような存在を捕らえる為の、檻にしようと言う訳か”』」

 

 彼が文言を唱える声の中に、“何者”かの声が混ざった。捕らえる。それは、どういう事だ。何を意味しているのか。そんな不知火の疑問になど関心を払わず、この景色は少年提督と“何者”か以外を置き去りにして、時間を前に進めていく。少年提督は答えず、文言を紡ぎ続ける。

 

「『“お前は最初から、私を取り込むつもりだったのだな”』」

 

 彼の足元に咲き誇った黒蓮は、どんどんと鋼液の海を侵食し、不知火の足元にまで咲き始めた。蓮から溢れる霊気は、少年提督へと流れ込んでいる。地面と夜空の術陣からは、光の線が伸びて編まれ、それは牢のように少年提督を包んでいく。まるで彼の精神内部に居る“何者”かを、拘束するかのように、光の帯は丹念に編み込まれ、彼を中心とした空間を絞っている。

 

 AIと集積地棲姫が展開した術式結界は、既に少年提督によって上書きされて、新たな効果と奇跡を呼び込む装置と化していた。“何者”かは、周囲に存在する物質を汚染し、支配して徴兵していた。そういった超然とした力を振るう存在を、彼は、自身の精神内部に定着させようとしているのだと思った。精神という領域に於いて、彼は、神仏という言葉で類される存在を凌駕しようとしている。

 

「『“少年よ”』」

 

 また、“何者”かの声がした。

 

 それは、彼の意思によって発された言葉では無いのだろう。

 文言の隙間を縫うようにして、少年提督の口から漏れたのだ。

 

「『“此処は、佳いところだな”』」

 

 それは、一体どのような意味と意図があって発せられた言葉なのか、不知火には判然としなかった。温みを含んだその声には、少年提督に対する親しみと、戦い抜いた不知火達に対する賞賛が滲んでいるようにも聞こえた。文言を唱え終えた少年提督は、ゆっくりと呼吸をしながら、周囲を見渡した。「えぇ。歓迎しますよ」と短く答えた彼は、この夜に戦った仲間達の姿を心に刻み付けるかのような、誇らしげで、真剣で、それでいて、少しだけ寂しそうな眼をしていた。

 

「花盛りの鎮守府へようこそ」

 

 この場に居る全員の顔を見回した彼は、自分の内側に語り掛ける。そして、自身の精神に鍵を落とすかのように、胸の前で拳を握り締めた。それが合図となって、鎮守府を包み込んでいた巨大な術陣が一際強い輝きを放ち、少年提督を包んだ。不知火の視界は、その光に埋め尽くされる。時間や、天と地を識別する感覚が奪われるような、圧倒的な光だった。

 

 夜の暗がりと、周囲の景色の輪郭が戻ってくるまで、暫く時間が必要だった。何かを考える事も億劫だった。ただ薄ぼんやりと、視界が戻ってくるのを待っていた。この眩い光の先にあるのは、当たり前だが、現実だ。それ以外は無い。今日と言う日が在って、今夜の事件が在って、それを隠そうとする人間の思惑が在って、それを利用しようとした超常の意思が在った。不知火達は、戦い抜いた。それだけだ。視界が回復すれば、やはり頭上に夜空が在った。雲は流れ去って、戦いが終わった静寂と共に、満目の星がずっしりと垂れこめている。

 

 彼は、夜空に浮かぶ月を睨んでいる。彼の瞬きは、もうチグハグじゃない。

 左右一緒に瞬きをしている。まるで、二つだった人格が一つになったように。

 その彼の瞳が、深紫色に変わっている事にも気付いた。

 

 夜空に浮かぶ月だけが、何も変わらずに此方を見降ろしていた。

 

 

 

 





今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございます!
暖かな感想、応援のメッセージを寄せて頂き、本当に恐縮です、
更新も不定期で申し訳無いです……。

今迄投稿していた話も少しずつ修正しながら、何とか完走を目指したいと思います。
不自然な描写や展開があれば、また御指摘、御指導頂ければ幸いです。

いつも支えて下さり、本当にありがとうございます!




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黒点






 

 

 

 

 

 

 

 

 

 秘書艦娘用の執務机に腰掛けていた鈴谷は、顔を上げて大きく伸びをした。目の前には分厚い書類が積まれているものの、その殆どは処理済みである。今日は仕事の進みが早い。欠伸が漏れそうになり、それを飲み込む。緩い風が吹いて、書類の束を撫でて行った。カサカサと乾いた音を立てる。伸びをした姿勢を解きながら、窓の方へと視線を向けた。晴れた空からは柔らかな日の光が差し込み、執務室を心地よく暖めている。いつもよりも時間が滑らかに、しかし、ゆっくりと流れていくのを感じながら、再び欠伸を飲み込んだ。

 

 空腹感を覚え、腕時計を見る。時刻はもうすぐ正午だ。この時間だと食堂は大いに賑わっていて混雑している事だろう。駆逐艦娘達が多い時には、賑わうというよりも戦場みたいになっている時もある。食堂に行くのなら、もう少し時間をおいてからの方が良いな、と暢気に考えた。そんな平凡で緊張感の無い“日常”的な意識の流れを愛おしく思いながら、深い安堵をそっと噛み締める。

 

 少し空けている窓から、また緩い風が吹き込んできた。その風の向こうに、唸るような低いエンジン音と、鉄が軋む音が薄く混じっている。大規模な工事の音だ。何台もの大型重機の動きが伝わってくる。その無骨な労働のリズムは、鈴谷達の“日常”が、再構築されていく音である。

 

 

 あの襲撃事件があってから、暫く経った。

 

 鈴谷をはじめ、鎮守府の艦娘達は術式結界で身動きを封じられてしまったが、深海棲艦達の助力もあり、艦娘の誰かが襲撃者に殺害されてしまうような事態は避けられた。入渠ドックや工廠など、鎮守府の重要な施設には爆発物まで仕掛けられていたようだが、集積地棲姫が使役する小鬼と妖精達の連携により、爆発物の解体が間に合ったという事も聞いている。御陰で、鎮守府の基地機能が致命的なダメージを受ける事なく済んだ。

 

 術式結界の影響に晒され続けていた艦娘達は、その結界が解呪されたあとも肉体機能がすぐに回復せず、まともに動くことも出来なかったが、入渠ドックや妖精達が無事だった御陰で、高度な治癒施術を迅速に受ける事ができた。鎮守府内の建物にも大きな損害が出ていたが、本営が手配してくれた建設業者が復旧工事に入っているし、その現場では妖精達の協力もあって、工事は順調に進んでいる。今では、艦娘達が其々、出撃、遠征、演習などの任務に就く日々が帰って来ている。あの夜、奮戦してくれた野獣、それに少女提督、“何者”かに肉体を乗っ取られかけた少年提督も、各々の日常を取り戻しつつあった。

 

刺客として送り込まれて来た川内、神通、日向の3人は現在、深海棲艦研究施設の地下エリアに収容している。少年提督は彼女達を深海棲艦と同じく自身の管理下に置こうと考えているようだが、その真意は鈴谷には分からない。

 

 

 

 鈴谷は執務室に視線を巡らせた。

 

 執務机に腰掛けた野獣は、難しい顔をしてタブレットを手早く操作していた。いやに真剣な様子で仕事をしていて、鈴谷としては何だか妙な感じだった。いつもなら「ぬわぁぁぁん!! お腹空いたもぉぉぉん!!(ランチタイム先輩)」なんて言いながら騒がしく立ち上がって来てもおかしくない時間なのに、そんな気配はちっともしない。

 

 タブレットの画面を見据える野獣は、他の提督か、或いは、野獣と繋がりの在る誰かとのメールでの遣り取りを交えつつ、脇に於いてある書類を忙しく捲っている。鈴谷とは少し離れた位置にはもう一組の秘書艦娘用の執務机があり、そこに腰掛けている時雨も黙々とデスクワークをしている。今日は秘書艦が二人だ。姿勢よく座っている時雨も、もう殆どの書類を処理し終えている。仕事が早い。

 

 鈴谷も残りの書類を片付けているうちに、野獣がタブレットを操作する手を止めた。そして、椅子に凭れ掛かりながら携帯端末を取り出し、何処かへ通話するでもなくディスプレイを見詰める。少しくつろいだ姿勢の野獣も、仕事を一段落させた様子だった。

 

「もうお昼だけど、どうする?」

 

 声を掛けるにはいいタイミングだと思った。鈴谷は、野獣と時雨を順に見る。

 

「あぁ、もうそんな時間だったんだね」

 

 書類から顔を上げた時雨は、自分の腕時計を見る。

 

「今だと食堂も混んでいるだろうから、もう少ししてから行こうか」

 

 時雨が、鈴谷と野獣を交互に見た。「私も同じコト考えてた」と鈴谷も軽く笑う。

 

「おっ、そうだな!(同調先輩)」

 

 椅子に凭れた野獣は首をゆっくりと回し、ゴキゴキと鳴らした。その音が、外から聞こえて来る工事の音に混ざる。野獣が窓へと視線を向けた。時雨も、野獣の視線を追う。少しの沈黙が在った。緩やかな時間の流れを含む静けさの中に、空いた窓から澄んだ風が吹いて来る。平和だな、と無邪気に思った。こんな時間が続けば良いのに。そんな風に願ってしまうのは、子供っぽい我が儘なのだろうか。

 

 

「ねぇ、野獣」

 

 優しい静寂の中をそっと潜るように、時雨が野獣を呼んだ。

 

「さっきまで、誰かと連絡をとりあっていたのかい?」

 

 時雨は、野獣の執務机の上に置かれたタブレットと携帯端末を見ている。

 

「そうだよ(首肯)。本営上層部に居る、俺の先輩と後輩に、ちょっとね☆」

 

 野獣は答えながら、下手糞なウィンクを時雨に返す。

 

「前みたいな事がもう起こらないように、色々と手を回して貰おうと思ってさぁ(早期警戒)」

 

「それは心強いね」 時雨は口許を緩める。

 

「ねぇ、前から聞きたかったんだけど、野獣の先輩とか後輩って、どんな人なの?」

 

 鈴谷が言うと、時雨も興味深そうに「僕も気になるな」と頷いた。野獣は「そうですねぇ……(思案顔)」と、宙に視線を投げて右手で顎を触る。

 

「後輩はクッソ有能なイケメン提督だけど、キレると怖かったですね、はい(小声)」

 

 明らかに体験談として語るような口ぶりだった。

 

「その人がキレるような事をしたの?」

 

 時雨が控えめに訊くと、野獣はすっとぼけたような真面目顔で、視線を斜め上に固定した。その不自然な無言が、執務室の中に変な感じの沈黙を生む。きっと、その後輩さんがキレるような事をしたんだろう。時雨が、まだ見た事の無い野獣の後輩に思いを馳せ、気の毒そうに表情を曇らせている。鈴谷は苦笑を漏らしつつも、「じゃあ、先輩は?」と訊いてみる。野獣は真面目顔を崩さず、視線だけで鈴谷を見た。

 

「先輩の方は、どんな重要な会議でも“おっ、そうだな”、“そうだよ(便乗)”、“あっ、そっかぁ……”の3つしか発言パターンが無い男として、提督連中の間でも有名ですねぇ!」

 

「それマジ? 就いてる上層役職に対して主体性が無さ過ぎるでしょ……。居る意味無いって言うか、もはや置物じゃん……」

 

「あっ、でも、“腹減ったなぁ”って俺に話し掛けて来る時もあったゾ!(無価値な想起)」

 

「会議の最中にかい?」

 

 時雨が不安そうな顔で野獣に訊いた。

 

「ウン、そうですね☆」 

 

 爽やかな笑顔を浮かべた野獣が頷く。

 

「先輩を無視する訳にはいかないし、俺もその時は会議そっちのけでラーメン屋の屋台の話をしてましたねぇ!(思い出)」

 

「置物の方がマシとはたまげたなぁ……」

 

 鈴谷は思わず顔を歪め、呆れを通り越して感心してしまう。楽しそうに話す野獣を見ながら、上層部の人物達が集う会議の場面を想像する。静粛で重厚な雰囲気が満ちたホール。一筋縄ではいかない老獪な男達が鋭い視線を飛ばしあう。張り巡らされる策謀。交錯する闇の利益。その場に居るだけで息が詰まる様な駆け引き。そんな強張る空気の一切を撥ね除けて、屋台ラーメンの話に興じる野獣と、その先輩。駄目だ。場違いを通り越して神秘的にさえ思えてきたところで頭が痛くなって来た。時雨も苦笑を溢している。

 

「あと、先輩は猫が好きで、会議中でも構わず“見たけりゃ見せてやるよ!”とか言って、後輩にも猫動画を見せつけてましたねぇ!(懐かしむ目)」

 

「そりゃ、後輩さんもキレるでしょ……」

 

「とにかく、二人ともスゲー奴だからさ、これだけは真実なんだよね(揺るがぬ想い)」

 

「まぁ野獣がそう言うんなら、優秀な人達なんだろうけどさぁ」

 

 鈴谷はちょっとだけ笑って相槌を打つ。

 執務机に座った時雨が、野獣に向き直った。

 

「その二人は、この鎮守府を取り巻く今の状況について、何か言っていた?」

 

 時雨の声には、余計な強張りが無かった。それは鈴谷も気になっていた事だった。鈴谷も野獣に向き直り、姿勢を正す。野獣は落ち着いた様子でタブレットを手に取って、ディスプレイに視線を落とした。

 

「この鎮守府を狙おうって過激派の連中は、やっぱりまだ居るみたいっすよ? ただ、今回みたいな大規模な襲撃事件が失敗に終わってるのを見て、奴等もビビってるからさ~。当分の間は、うん、(平和で)いいみたい!(たいせつたいせつ!)」

 

 野獣は暢気そうに言うが、その暢気さが鈴谷や時雨を安心させようとしている演技のようにも思えた。この鎮守府の存在を、いや、正確に言えば、野獣や少年提督のことを快く思わない人間が、決して少なくないという事を改めて思い知った気分だった。先日の襲撃事件についても『深海棲艦の群れが、ある鎮守府へ襲来した』という事でニュースでも報道されており、あくまで深海棲艦が起こした騒ぎの一つとして片付けられようとしている。

 

 鈴谷はあの夜以来、人間というか、社会というものに対して、より明確に恐怖を抱くようになった。少年提督や野獣を葬ってしまいたいと考える本営上層の一部が関わっていた事は明らかなのに、それが世間の目に触れるような場所には一切出てこない。まるで当たり前のように事実が隠蔽されている現状を見れば、あの襲撃事件の黒幕達が、本営上層部と密接に関係があり、社会的にも大きな影響力を持っているという事は簡単に想像できた。

 

 この鎮守府内や、深海棲艦研究施設内には無数の防犯カメラが設置されているが、あの襲撃事件があった夜の映像は全て、何者かによって破壊されていたという話も聞いた。それが誰の仕業なのか分からないが、恐らくは、野獣か少女提督が、防犯カメラの映像に細工をしたのだと鈴谷は勝手に思っている。それは多分、時雨だって、いや、他の艦娘達にしても同じだろう。だが、その事について野獣達を責め、理由を深く詮索する者は居なかった。

 

 理由は単純だった。今回の事件が表沙汰になれば、暴かれるべきでは無い軍部の裏事情が白日の下に曝されることになるのも間違いなかったからだ。そうなれば、社会に不要な混乱を齎すことになる。世間の人々にとって艦娘とは、決して人類に逆らうことのない、健気で従順な守護者である。だからこそ、艦娘達の今までの命懸けの献身を讃え、感謝し、人間社会に迎え入れようという動きが出て来たのだ。そんな中で、『元帥クラスの提督を、艦娘を用いて暗殺しようとする事件が発生した』などと報道されるような事があれば、本営と艦娘は、世間からの信用を一気に失うだろう。

 

 いや、信用を失うだけならまだマシかもしれない。

 

 人間は、艦娘達が居なければ深海棲艦と戦えない。深海棲艦達を退け続け、ある程度の平和な世界を取り戻してくれたのは、間違いなく艦娘達だ。その艦娘が人間を攻撃するという事件は、人々が心に取り戻しつつあった平穏を根本から覆す。いくら人類優勢の状況とは言え、深海棲艦との戦争はまだ終わっていないのだ。唯一の頼りである艦娘達をすら危険視する世論が形成されることになれば、それが引き金となって恐慌を引き起こしかねない。だから直接に命を狙われた野獣や少年提督の二人も、襲撃事件が隠滅されることに対しては特に対応しようとしていない。

 

 “黒幕”達も、そんな野獣や少年提督の対応を見越しているに違いない。卑劣だと思う。人類と深海棲艦の戦いは、艦娘達の活躍の御陰で、人類優位に固まった。深海棲艦が居なくなった未来が、すぐ其処まで来ている事を人々が実感できる程度には、社会というものの中に平穏が戻って来ている。今の鎮守府の状況は、その平穏そのものを“黒幕”達によって、人質に取られているかのようでもある。

 

 “黒幕”達や過激派の提督達は終戦後、艦娘の深海棲艦化現象を理由に、艦娘達から人格を奪い、世間から切り離し、秘密裏に管理し、利用する事で、大きな利益を得ようと画策している。特に戦争利権に関わるような人間達の目には、世間から見放されて打ち棄てられた艦娘は、さぞ魅力的に映ることだろう。激戦期を過ぎてなお、本営が艦娘の人体実験を秘密裏に続け、『人間を攻撃可能な艦娘』を造り出そうとしていたのも、終戦後の艦娘達に大きな利用価値が在る事に気付いていたからに違いない。そして厄介なことに、こういった人間達は、艦娘達の未来にも大きな影響を与えることが出来る。

 

 

 鈴谷は何も言えず、時雨を見た。

 時雨は俯き、きゅっと下唇を噛んで、膝の上で拳を握っている。

 

 「前みたいな事が起こるのを未然に防ぐことは……、やっぱり難しいのかな?」

 

 「鎮守府のセキュリティーを強化したりする対策ならともかく、過激派の連中全部を牽制し続けるのは、まぁ、限界もありますあります(疲れ気味)」

 

 手に持っていたタブレットから顔を上げた野獣は、首を左右に曲げてゴキゴキと音を鳴らした。

 

 「先輩達も俺達を助けてはくれるとは言ってたけど、飽くまで手が回る範囲までの話だって、それ一番言われてるから(疲れ気味)」

 

 確かにその通りだと、鈴谷も思った。野獣の先輩、後輩の二人が、どれだけ上層部の動きに目を光らせていたとしても限界が在る。上層部の人間達にも其々に政界や経済界の人間と繋がりがあり、さらに社会の影の住人達までが交わってくるのだ。そこで生まれる思惑の一つ一つを具に把握するのは不可能だろう。軽く息を吐いた野獣の顔にも、明らかに疲労の色が滲んでいた。ただ、焦燥や落胆の様子は無かった。冷静に現状を整理し、受け止めている様子だ。

 

 「また誰かが、僕達の鎮守府を襲って来ることもあるのかな?」

 

 そう訊いた時雨の声は、随分と落ち着いていた。時雨を一瞥した野獣は、持っていたタブレットを執務机に置いてから、ゆっくりと息を吐き出した。結論を勿体ぶるのではなく、言いにくい事を言葉にする為に必要な間だったのかもしれない。「まぁ、多少はね?(諦観)」と、時雨に答えた野獣は、力の無い笑みを浮かべていて、胸が詰まった。

 

 「……やっぱり、専守防衛しかない感じ?」

 

 鈴谷も訊く。椅子の背凭れに身体を預けた野獣は、「そうですねぇ……」と眼を窄めて天井を睨んだ。何度かゆっくりと瞬きをして、細く息を吐き出している。鈴谷は野獣の言葉を待つ。時雨も静かに野獣を見詰めていた。工事の音が薄く響いてくる。

 

「先輩達も言ってたけど、“黒幕”全員を暴き出したところで、どうしようも無いんだよなぁ……。社会の中でも重要なポジションに食い込んでる連中ばっかりだろうし、世間から見れば善良な一般人だからね」

 

 そこまで言った野獣は身を起こし、執務机の上に置かれたタブレットに視線を落とし、ディスプレイの上で指を滑らせた。そこに表示されているのは、さきほど遣り取りしていたメールだろう。

 

 「本営とか過激派の提督連中だけならともかく、そういう上流階級の人間まで複数絡んでくると、ソイツ等に結託して美味しい思いをしたい別の企業や集団も、やっぱり釣れて来るみたいですねぇ。社会の表と裏で複雑に思惑が繋がって、そこに関わってくる人間の数も膨れ上がって来てるし、それに比例して世間への影響も強くなるしで……、もう手の出しようが無いゾ(冷酷な現実)」

 

 鈴谷の方を見ようとしない野獣は、自分自身を納得させるかのように重たい声で言う。

 

 「終戦を迎えた後で、色んな業界の牛耳を執るだろう連中にとっちゃ、世間で英雄視されるような艦娘なんざ邪魔なだけだし、その艦娘の人権だの何だのと騒いでる俺みたいなヤツはもっと目障りで鬱陶しいんでしょ? それは前の襲撃事件でもはっきりしたし、俺とかアイツが居る限り、また同じような事は起こるゾ(不可避の未来)」

 

「そんな……、本営だって、艦娘の皆がテレビに出たりする指示を出してるじゃん。それに、世間の人たちだって……」 

 

 力の籠らない声で鈴谷は言うと、野獣は寂しそうな顔つきになる。

 

 「前も言ったけど、あれは本営が自身の世間体を保つための単なるポーズだゾ。世情に沿った道徳的な体制で艦娘達を指揮してるっていう、社会的なアピールなんだよね(クソデカ溜息)。確かに世間では終戦後の艦娘達を“人間”として扱おうっていう世論が主流だけど、“黒幕”共はそれをぶっ壊す準備も同時に進めてるって感じですね……(反吐)」

 

「つまり、表向きは本営が世論の顔色を窺いつつ、その裏では、社会的な影響力を盾にして“黒幕達”が暗躍しているワケだね」

 

 時雨が険しい眼つきで野獣を見詰める。その視線を受け止める野獣は小さく肩を竦め、緩く息を吐いた。ただ、その表情は冷静で、何処か余裕があるようにも見えた。

 

「まぁ、新しい時代の気配が迫って来てるからね。利に敏い人間のアクションが大きくなるのも、しょうがないね(達観)。権力を持ってる奴等なら尚更っすよ」

 

 野獣に落ち着いた声音でそう言われ、鈴谷の言葉は続かなかった。鈴谷は自分の呼吸が震えているのが分かった。本営も、そういった権力者層や超富裕者層の人間達を無視できないが、同時に、深海棲艦達との戦争状態にある今では、その前線で活躍し続ける野獣や少年提督も無視できない。だから本営は、表向きは野獣や少年提督の意向を汲む姿勢を見せ、艦娘と人間の親交を深めるポーズを取っている。そしてその裏では、終戦後の艦娘達の尊厳も人格も奪い去り、秘密裏に生物兵器として売買して利益を得ようと画策している。そのこと自体については、鈴谷もある程度は理解していた。そのつもりだったが、違った。ようやく、鈴谷は今の状況を正しく理解した。

 

 本営を媒介にした人間達のこういった複雑な繋がりは、もはや野獣達では手に負えない程に膨れ上がっているのだ。野獣の先輩と後輩が本営の上層部に身を置き、その立場で構築してきた人脈をどれだけ活用しようと、“黒幕”達の全てを相手取り、黙らせることは不可能な規模なのだということは、野獣の冗談の無い口調からも窺えた。終戦が近づくほど、野獣や少年提督を排除しようとする者達も一層増えていくだろうし、それに比して“黒幕”達の勢力も増幅し、図太く、よりタフになっていく。そんな“黒幕”の連中達が、また鈴谷達の鎮守府を襲う為に動き出そうとするのは、想像に難くない。

 

 つまり、事態は鈴谷が考えていたよりも、ずっと深刻だったのだ。

 

 

「ジリ貧だけど、今の俺じゃ専守防衛がやっとだって、はっきり分かんだね(憂い)」

 

 まるで鈴谷たちに向って懺悔するように言う野獣は、タブレットの画面から手を離し、また椅子に凭れ掛かって天井を眺めた。また執務室に緩い風が吹き込んで来て、書類が渇いた音を立てる。時雨が、何も言わずに俯くのが分かった。鈴谷は、膝の上で手を握る。野獣の言葉は敗北宣言に等しく、同時に、本当に仕方がないことだとも思った。誰が、野獣を責められるのだろう。野獣が悪いのだとは、どうしても思えなかった。

 

 暖かな日差しの中にある執務室の穏やかさと、野獣が話す暗澹とした内容がうまく結びつかない。どうしようもなく重苦しい沈黙が、鈴谷達を沈めて行こうとした時だった。執務室の扉がノックされた。寂しげな顔つきをしていた野獣が即座に身体を起こし、「入って、どうぞ(いつもの調子)」と、能天気そうな声を作り、軽薄な笑みを浮かべ、何事も無かったかのように扉に向き直る。まるで、この鎮守府における“野獣”と言うポジションに意識的に戻ろうとするかのようだった。扉が開いたので、鈴谷と時雨も背筋を伸ばす。

 

「失礼します」

 

 扉を開けたのは加賀だった。演習が終わり、その報告をする為に執務室に訪れたのだろう。冷然とした無表情の加賀が、「これを」と、報告書であろう書類をぶっきらぼうに野獣に提出する。

 

「ありがとナス☆」

 

 野獣は椅子に座ったままで腕を伸ばし、それを受け取った。書類を手渡した加賀が、野獣や時雨、それに鈴谷の執務机の上に積まれた処理済み書類の山を順番に見た。順調に仕事が終わりつつある様子に、不味そうに眉間に皺を寄せた。それに気付いた野獣は書類から顔を上げ、「おっ、どうしました?」と、とぼけた口調で言う。

 

「いえ、……本当に年に2回くらいは、真面目に仕事をしている時があるのだと感心していたの」

 

 冷気そのもののような声で言う加賀は、深々と眉間に皺に刻み、野獣の執務机を見下ろしている。椅子に座ったまま傲然と胸を反り、ついでに足まで汲んだ野獣が「当たり前だよなぁ?(威風堂々)」と、まるで自分の仕事ぶりを誇るように時雨と鈴谷を交互に見た。

 

「野獣、分かってるとは思うけど、別に褒められてるわけじゃないよ?」

 

 切ない表情を浮かべた時雨が、諭すように静かに言う。鈴谷も半目になって頷く。溜息を堪えて口を引き結んだ加賀は、冷然とした下目遣いで野獣を見詰めてから鼻を鳴らす。いつもの、どうせ何を言っても無駄だろうという態度だった。野獣は加賀を見上げて笑う。

 

「だからその無期懲役みたいな顔はやめろっつってんじゃねーかよ(棒)。お前はまた近い内にテレビに出るんだからさ、もうちょっと表情を柔らかくする努力をして、どうぞ」

 

 へらへらした表情の野獣の言葉に、鈴谷は加賀を見上げて、「わっ、本当ですか!?」とテンションが上がってしまった。

 

 以前、テレビの歌番組に初出演した加賀を応援すべく、この鎮守府に居る艦娘達で、食堂のテレビを囲んだことが在る。めいめいに手作りの加賀グッズを手に、熱い視線を画面に向けていた。その時の食堂は、野球やサッカーなどの熱心なスポーツファンが集まり、怒号交じりに叫ぶ観戦会の様相を呈していたのを思い出す。

 

 だが一方で、テレビ画面に映った加賀は、沸き上がった会場からの大きな拍手を受けながらも、まるでベテラン歌手のような泰然とした佇まいで緊張などは一切見せなかった。大物芸能人である司会にコメントを求められた加賀は、その冷然とした美貌をそっと崩し、ほのかな微笑すら湛えて受け答えをしていた。応援するためにテレビの前に集まった艦娘達のほうが、よっぽどハラハラして緊張していたぐらいだ。

 

 番組の中で今の心境をコメントとして求められた加賀は、番組に出演する機会に恵まれたことに感謝を述べ、また、見守ってくれている観客や他の出演者、番組制作に関わる全ての人にも重ねて感謝を述べた。簡潔なコメントだったが、視聴者やスタジオに居る全員に届く真摯さと謙虚さがあり、再び暖かい拍手が起こった。その拍手に応えるように加賀が一度立ち上がり、会場の観客に深々と頭を下げると、また拍手の深味も増した。加賀は、すぐに番組に馴染んだ。凛然とした加賀の立ち居振る舞いと見事な歌声は、他の演者である歌手たちを含め、誰をも魅了していた。

 

 食堂に集まり、その様子をテレビ越し見ていた艦娘達の間に流れた「やっぱり加賀さんて凄いなぁ……」という感想は、畏敬、尊敬の念として共有されたのも間違いなかった。鈴谷を含め、あの場に居た艦娘達は残らず加賀のファンになっていた。だから、また加賀がテレビに出ることが決まっていると知って、鈴谷は素直に嬉しかった。

 

「えぇ。前とは違う歌番組に、少しだけ顔を出させて貰うわ」

 

 口許を薄く緩めた加賀は、鈴谷に頷いて見せる。怜悧な美貌が解け、遠慮がちな親しみを覗かせるような優しい表情だった。同性ながらも鈴谷はドキリとしてしまう。時雨が「頑張ってね、加賀」と、仲間が活躍することの喜びを湛えた声でエールを送る。

 

「こういう依頼が続くってことは、やっぱり『加賀断層』は名曲だって、はっきりわかんだね!(誇らしげ)」

 

 ワザとらしい訳知り顔を浮かべた野獣が、真面目くさって力強い声で言う。微笑みの表情から一瞬で無表情に戻った加賀が、すかさず「『加賀岬』です(半ギレ)」と、言葉を差し込んだ。その一連の様子が、リズムと呼吸の合ったボケとツッコミのようで可笑しく、鈴谷と時雨は小さく笑ってしまう。おかげで、鈴谷の心の中で硬く強張っていた何かが、ゆっくりと解けていくのを感じた。

 

「……まぁ、冗談抜きでお前は凄いゾ(感服)」

 

 不意に、野獣が背筋を伸ばして加賀に向き直った。

 

「お前の歌が名曲である以上に、“お前自身”が求められたってことも、はっきりわかんだね(事実確認)」

 

「貴方が居なければ、私がテレビに出ることなど無かったでしょう」

 

「でも、それをまた見たいと望んだのは視聴者なんだよなぁ……」

 

 余計な力の籠っていない野獣の声には深味があり、加賀に感謝するかのような響きが在った。普段のおちょくった口調とは全く違う。その落差に当惑したのか。加賀は何度か瞬きをしてから、「……そうなのかしらね」と野獣から視線を逸らした。

 

「当たり前だよなぁ?(分かち合う希望)」

 

 再び、野獣が鈴谷と時雨を交互に見た。時雨が頷く。鈴谷も続いて頷いた。加賀が出演していた歌番組での様子を振り返れば、その通りだとも思う。

 

 番組内で多くの人間に囲まれて注目される中で加賀は、温和で友好的な態度を崩さず、知性と道徳、常識、強固な理性を兼ね備えた“人間”として存在していた。あれが人間や社会に対する加賀の打算や忖度から来る演技ではなく、加賀という“個”の人間性から来るものであることを視聴者や他の出演者が察したからこそ、別のテレビ番組からも依頼が来たのは間違いない。テレビに映った加賀の姿は世間にとって、深海棲艦と戦ってくれた感謝と共に、人間社会に受け容れて共存を目指すべき存在であり、人々が求めている完璧な“艦娘”の姿だった筈だ。

 

「世相自体を相手どって、そのクソデカ感情を揺さぶる主役はさぁ、やっぱりお前等なんだよね。それ一番言われてるから(父の顔)」

 

 そう言って唇を歪める野獣を、加賀は静かに見下ろした。

 

「私達には海とはまた別の戦場が在ると、そう言いたいのね」

 

「おっ、そうだな(便乗)」

 

「……随分と、分の悪い戦場ですね」

 

 余裕のある野獣の声音に比べて、加賀の声が僅かに強張るのが分かった。

 

「私は貴方の指揮下にある以上、任務だと言われれば、歌番組でも何でも誠意をもって参加するわ。でも、それは……、最終的に無意味では無いのかしら。“艦娘の深海棲艦化現象”が表沙汰になれば、社会は私達を危険視するでしょう。それに……」

 

 そこで言葉を切った加賀は、野獣から眼を逸らし、俯いた。秘書艦用の執務机に座っていた鈴谷は、加賀が拳を握っているのが分かった。「瑞鶴も似たようなことを言ってたなぁ……(分析)」と、野獣は何かを思い出す顔で呟くのが聞こえた。時雨が野獣に声を掛けようとする気配が在ったが、それよりも先に加賀は顔を上げて、真剣な眼つきで野獣を睨んだ。

 

「私達が精力的に活動すればするほど、過激派の提督達から貴方は疎まれ、より敵を作ることになる。貴方を狙う人間達は、世間の顔色を窺うこともない。そういう人間達は必要な理屈を捏造して、卑劣で無遠慮に襲って来る。私達がどれだけ世間との距離を縮めても、……その活動では貴方を守ることが出来ない」

 

 野獣を見下ろす加賀の低い声は冷静ながらも、深く切実な響きが在った。澄んだ風が吹いて来て、ゆっくりと瞬きをした加賀の髪を揺らす。

 

「そろそろ貴方も彼も、終戦後の艦娘達のことよりも、自身のことを考えるべきだと思うわ」

 

 小指で耳を掻いた野獣は、鼻から息を出して口許を緩めた。加賀が野獣の心配をしていることを察しているのは間違いないが、それを茶化すこともないし、俺のことなんて心配すんなよと笑い飛ばすでもない。「まぁ、多少はね?(一理あるという顔)」という、落ち着いた佇まいで加賀を見上げている。

 

「……実は俺さぁ、この戦争が終わったら、やりたいことが幾つかあるんだよね?(告白)」

 

 急に何を言い出すのかと思い、鈴谷は顔を上げる。口許を緩めた野獣は、椅子に凭れ掛かって手を頭の後ろで組んだ。未来に思いを馳せる眼で天井を仰いでいる。

 

「それは何ですか?」 

 

 加賀が静かに野獣を見詰めた。こういう話題に野獣が自分から触れるのは初めてのことだったから、加賀も興味を惹かれたのかもしれない。鈴谷と時雨も、野獣を注視する。三人分の視線を受け止める野獣は息を大きく吸い、答えるのを勿体ぶるようにたっぷりと間を作ってから、「ラーメン屋の屋台ですねぇ(夢語り先輩)」と不敵に笑って見せた。

 

「……ラーメン屋?」

 

 素朴な堅実さと現実味のある野獣の答えを意外に思ったのか、ちょっと驚いた顔になった加賀が、何度か瞬きをして聞き返す。

 

「そうだよ(鷹揚とした頷き)」

 

 身を起こした野獣はタブレットを手に取り、手早く操作した。

 

「実はさ、もう店の名前も決めてあるんだよね(乾坤一擲)」

 

 野獣は言いながら、まるで新しい元号でも発表するかのように、厳かな空気さえ醸し出しながらタブレットを顔の横に持って行った。ディスプレイには店名であろう“猥々亭”の文字が、達筆な墨文字でデカデカと表示されている。“わいわいてい”と読めばいいのだろうか。加賀の顔が歪んだ。「えぇ……」と、鈴谷も困惑する。何処か誇らしげな表情の野獣は、タブレットを構えた姿勢のままで、時雨にもディスプレイがよく見える様にゆっくりと身体を向けた。急に来た下ネタに失笑したのか、時雨が「ぅふっ」と息を漏らして俯きがちに目を逸らす。一仕事終えたような顔になった野獣が、鈴谷の方を見た。

 

「どうだよ?(自信満々)」

 

「どうもこうも無いよ……。清潔感の欠片も無いじゃん……。飲食系にあるまじき店名でしょ……」

 

 鈴谷は辟易しながら、タブレットと野獣を見比べる。

 

「じゃあ、これ(変更案)」

 

 野獣が持っていたタブレットを軽く操作すると、表示されていた店名が“猥々軒”に変わった。鈴谷は思わず、「あのさぁ……」と半目になってしまう。

 

「肝心な部分がそのまんまなんだけど」

 

「じゃあこれ(メガシンカ)」

 

 タブレットに表示される“猥々軒”が“卑猥軒”に変わった。加賀が鬱陶しそうに息を吐き出した。下ネタがツボったのか、時雨は俯いて肩を震わせている。「開き直るのはNG」と言いながら、半目の鈴谷は溜息を飲み込んだ。

 

「何かイカガワシイお店みたいになってんじゃん……。って言うか、なんでそんな店名にする必要があるの?(正論)」

 

「だってホラ、何て言うか、こう、ただ者じゃないって感じをアピールできるだろ?」

 

「しなくていいよ、そんなアピール……(良心)」

 

「じゃあ何をアピールすれば良いのだよ?(半ギレ)」

 

「いやいや、一杯あると思うんだけどな……。こだわりの材料とか調理法とか、美味しさとか」

 

「それじゃ何か足んねぇよなぁ?(難癖)」

 

「“猥々亭”とかいう店名じゃ、足りてるとか足りてないとかいう問題じゃないでしょ。警戒してお客さん寄って来ないよ」

 

 鈴谷は疲れ気味にツッコミながらも、薄々気付いていた。どこまで本気なのか分からない野獣の馬鹿な振る舞いは、加賀の発言が齎した深刻な空気をかき混ぜて中和するためのもだ。当然、加賀も気付いている筈だ。だから黙って野獣と鈴谷の遣り取りを聞いているのだろう。

 

「まぁ、ラーメン屋の店名は置いといてだな(タイムベンダー先輩)」

 

 タブレットに表示されている画面を切り替えて執務机の上に置いた野獣は、不意にお茶らけた空気を消して加賀を見上げた。

 

「戦争が終わってからやりたい事のもう一つが、これだゾ(本題)」

 

「……何ですか、これは」

 

 加賀は執務机に近づき、タブレットを覗き込む。鈴谷と時雨も席を立ち、野獣の横からディスプレイを覗き込んだ。タブレットには日本地図が表示されている。その地図の各地域の沿岸部には緑色に塗られている部分が多数あり、山間部には青色でマークを付けられている部分もあった。地図の横にはマークされた各地の地方自治体や、農業、漁業などの組合、それに民間企業の名前もずらっと並んでいる。

 

「簡単に言えば、終戦後の艦娘達には、一次産業を支えて貰おうって話だゾ」

 

 野獣はタブレットを操作して、マークされている沿岸地域や山間部の労働人口を表示させた。

 

「深海棲艦が現れてから人口減少も加速しつつあったからね。労働人口の減少にも影響するし、働き手が足りてない地域が出てきてるのはお前らも知ってるダルルォ?」

 

「うん。一応はね」 時雨が頷く。

 

 言いながら、野獣はタブレットに映る地図を拡大し、深海棲艦が出現する前と後での人口の推移と、それに伴う一次産業の規模をグラフで表示した。激戦期を抜け、深海棲艦と戦いながらもシーレーンを確保出来てからは各産業分野の景気も回復しつつあるが、水産・海上運輸に関わる労働者離れの深刻化は依然として続いていた。そういった現場には艦娘達が護衛として派遣されるものの、深海棲艦と遭遇する恐怖を考えれば当然のことだった。

 

「水産業なんかは人が離れていくのは無理無いけど、山間部でも耕作放棄地とか獣害、竹害なんて問題が広がって無いか?(確認)」

 

 鈴谷は地図を覗き込む。それぞれにマークされた沿岸、山間地域ごとに、自治体や地域復興に取り組む企業などが表示されている。加賀はタブレットと野獣を交互に見て、「……なるほど」と、小さく呟いた。

 

「そういった自然を相手にする場所でなら私達も、純粋な労働力として、社会的な居場所を確保しやすいかもしれませんね」

 

「そういう身も蓋もない言い方はやめてくれよな~、頼むよ~(苦笑)此処に表示されてる自治体、民間団体なんかとは、マジでちょっとずつだけど、話を進めてるトコなんだよね(差し込む光明)」

 

「……結局はそれも、本営の『艦娘を大事にしている』というポーズの一環なのでは?」

 

 冷めた顔つきの加賀が言う。鈴谷も加賀と同じことを思った。

 

「おっ、そうだな! でも、本営がそういうポーズを世間に見せたいってんなら、俺達もそれをに乗っかって、大っぴらに動けるからね?(不敵な笑み)」

 

 そう答えた野獣は、タブレットを操作しつつ鼻を鳴らす。

 

「艦娘たちとの共存を強く訴える民間団体ってのは、終戦が近づいてるムードの中で増えつつあるからね。団体の規模としては大小あるけど、やっぱりメディアとか世相への影響力ってのを考えると、本営も放っとけないんでしょ?」

 

 表示されている地図をトントンと右手の人差し指で叩いた。

 

「でも、凄い数だけど、……これ全部と?」 

 

 そう言いながら鈴谷は、野獣とディスプレイを見比べる。マークされている地域は全国規模だし、そこに関わる地元企業や自治団体の数を見れば10とか20とかじゃない。もっとある。数えきれない。だが、野獣は「そうだよ(チャ)」と、こともなげに頷いて見せた。そこで何かに気付いたかのように、時雨がそっと息を吐き出すのが分かった。

 

「……野獣の先輩や後輩の人が、手を回してくれているんだね」

 

「そうだよ(先輩譲り)」

 

 時雨の方へ首をねじった野獣は、肩を竦めながら言う。

 

「本営の意向に逆らう訳じゃないから、先輩と後輩もさぁ、自分のコネを最大限利用できて、うん、美味しい!(環境利用戦法)。本営上層部特有のクソデカ人脈っていうのは、社会の裏だけじゃなくて、ちゃんと表にも伸びてるってハッキリわかんだね(希望)」

 

「そっか、その先輩と後輩の人達が、そういう艦娘に友好的な団体と繋がりあったら……」

 

 鈴谷はタブレットを見詰める。野獣が頷いた。

 

「お偉いさんはお偉いさん同士で繋がってるし、その中にはさぁ、これからの国策に関わる政府の人間だっているからね。先輩と後輩の話じゃ、地方の自治体だけじゃくて、艦娘擁護派の政治家とかにも話を繋いであるみたいで、たまげたなぁ……(感嘆)」

 

「人々の感情に訴えるだけではなく、国策にかかわる人物も味方につけようと言うわけね」

 

 視線を落とした思案顔の加賀は、自分の唇に触れながら呟いてから、「……でも、まだ戦争は終わっていないわ」と、すぐに野獣を射抜く様な視線を向けた。

 

「だからこそ、だルルォ?(早期警戒) 艦娘の活躍をクッソ恩着せがましくアピールするタイミングはよぉ、終戦が近づいてるムードで世間が安堵してる今が一番!! ラブ安堵ピース!!(激うまギャグ)」

 

「は?」 加賀が眉間に皺を彫り込んだ。

 

 野獣は肩を竦める。

 

「まぁ、まだ具体的な取り決めをしてるわけじゃないけど、終戦後の艦娘に対する政策とかについて、ネットとか街頭とかでアンケートを配って、世間からの意見を吸い上げていこうって感じっすねぇ……(フェードアウト)」

 

「ねぇ野獣……。何か本格的な規模で動いてるみたいだけど、そんな事してたらさ、また過激派の提督とか本営に目を付けられたりしない? 大丈夫?」

 

 鈴谷は不安になって、思わず野獣に訪ねてしまう。心細い声が出てしまった。時雨が野獣を見詰めている。野獣が「ヘーキへーキ!(無問題)」と、力強く頷いた。

 

「今は先輩と後輩が主体となって動いてくれてるから、俺みたいな木っ端提督は目立ってないから安心しろって、も^~! さっきも言ったけど、二人とも本営のお偉いさんだし、余計な手出しをしてくる連中なんてそうそう無いゾ。そもそも本営が終戦後の艦娘を受け容れるポーズを取ってるんだから、誰もコソコソする必要も無くていいゾ^~これ(ご満悦)」

 

 鈴谷と時雨の心配そうな表情を濯ぐためか、野獣は明るく暢気な声音で言う。確かに、野獣の先輩と後輩が本営上層部の人間であるなら、彼らを邪魔に思う人間が出て来たとしても、そういった人間への対処法を持っていることは窺える。それに、敵意を向けてくる人間を上回る数の味方や協力者がいるのだろうということも、野獣が深い信頼を寄せる様子からも察することが出来る。本営の狡猾さを逆手に取るなんて大胆なことをする以上、周到な準備をしている筈だとも思った。ただ、そんな一先ずの安堵を鈴谷が味わうよりも先に、加賀が緩く、しかし重い息を吐いた。

 

「艦娘達に対する貴方の清廉な情熱には、頭が下がる思いです。勿論、感謝もしています。……でも。私達の深海棲艦化という事実が、それで消える訳では無いわ」

 

 加賀の声は低く、それでいて平板だった。声音に乗ろうとする感情を意識的に潰しているかのような響きさえ含んでいた。その冷酷な無機質さは、野獣や人々の善意は全て、その事実の前では無力であるのだと言外に主張していた。鈴谷は、加賀に反論しようとしたが、視線が彷徨うだけで言葉が出てこなかった。

 

「僕も、そう思うな」

 

 加賀に続いた時雨も、悲し気な顔で俯いている。それは明確に、野獣が抱いている志への疑問だった。鈴谷にとっても避けては通れない感情と思考だった。雲のせいか、執務室に差し込む陽の光が翳った。唾を飲みこんだ鈴谷は、ゆっくりと野獣を見た。野獣は、「そりゃそうだよな」とでも言うような、落ち着いた表情のままだった。動揺の色は無い。

 

「ま、そう結論を焦んないでよ?(滲む決意)」

 

 自然体の野獣は再びタブレットを操作して、幾つかの動画ファイルを再生した。

 

 動画ウィンドウに映し出されたのは、寂れた雰囲気が漂う港町の埠頭だった。漁師らしき何人かの男性が、こちらを見ている。その男性たちの顔に、鈴谷は見覚えがあった。「あっ」と声を上げた時雨や、一瞬だけ息を詰まらせた加賀も同じだろう。以前、“鎮守府さんま祭り”で、応援として鎮守府に手伝いに来てくれた漁師達だった。皆、笑っている。

 

 “久しぶりだな。いや、さんま祭りの時の礼がしたいって奴が多くてよ”

 

 漁師のうちの一人がカメラに向かって言うと、周りの漁師が笑い合った。

 

 “艦娘の嬢ちゃん達には、漁の時はいつも護衛して貰って世話になってるからな。皆、本当に感謝してるよ”

 

 “どこの国の漁師も、お嬢ちゃん達に足を向けて寝ねる日は来ねぇだろうな”

 

 漁師の一人がそう言うと、束の間の沈黙が降りた。夕暮れの港町を、波音が包んでいる。漁師たちは互いに顔を見合わせ、どうやって本題を切り出そうかと悩んでいる気配が在った。鈴谷も時雨も、そして加賀も、画面を見詰める。漁師の一人が大きく息を吸い込むのが分かった。彼はカメラを見ていない。俯いたまま、口を開いた。

 

 “……でも、嬢ちゃん達にどんなに感謝はしてても、どうしても人は減っていくな。この町でも、残ってる漁師は少ねぇ。もうちょっと年の行った爺さん連中も居るが、新しい働き手なんざ、とんとつかねぇ。”

 

 “まぁ、しょうがねぇ。獲れる魚の値は釣り上がる一方だけどよ、艦娘の嬢ちゃんに船を護ってもらうにも金が要るからな。ちょっと前も、なんたら省の下っ端官僚が視察に来てた。結局、俺達の収入はお上にハネられて、ちっとも増えねぇ。暮らしが良くなる見込みがねぇなんて、若い奴等だってよく分かってるんだろう。まぁそれはこの港町に限ったことじゃねぇんだろうけどな。”

 

 “今も、艦娘の嬢ちゃん達が沖に出てこの町を護ってくれちゃいるがな、やっぱり海の近くに住むってのは怖ぇんだよな。深海棲艦はおっかないからな。無理もねぇ。誰も責めらねぇんだよな。しょうがねぇことだが、このままじゃ、俺達の住んでるちっちぇ町なんざお終いかもしれねぇって思ってた。でも、この戦争が終わって、お嬢ちゃんたちが漁業に参加してくれるかもしれないって話を聞いて、ちょっと希望を持てたよ”

 

 “小さな港町だが、ここにも役場はある。そこに軍部の人間が何人か来てたんだ。なんか、アンケート用紙を持って来ててよ。終戦後のお嬢ちゃん達が、農業とか漁業とかに参加することについて、現場の意見を簡単に書いて欲しいって言ってたんだよ。アナログだよなって笑ったんだが、まぁ、こんな田舎町じゃ、ネット環境が殆ど整ってねぇってのもあるんだろう。……えぇっと、何処まで話したかな”

 

 “アンケートまでだろ。しっかりしろよ。……まぁ、嬢ちゃん達がこの町に来てくれるなんて事が、実際に決定したじゃねぇって事は分かってる。それでも、俺達は嬉しかったぜ。そういう未来の可能性があるんだって、ちょっと前向きな気持ちになれた”

 

 “最近の漁師の間じゃ、『艦娘が深海棲艦になる』なんて噂話も聞くし、艦娘そっくりの深海棲艦を見たって言うヤツも居るな。その真偽については、俺達は何も言えねぇけどよ。もしもだ。もしもの話として聞いてくれよ? 万が一だ。艦娘の嬢ちゃん達が、いつか深海棲艦になっちまうんだとしたら……、俺達はそれを受け容れなきゃいけねぇんだろうな。一緒に生きていく方法を、俺たち人間が真剣に考えるしかねぇ”

 

 “艦娘の嬢ちゃん達に見捨てられたら、俺達人間はお終いさ。俺達は海の傍で生きてるからな。分かるんだ。深海棲艦に、人間は絶対に勝てない。俺達は、艦娘を必要としてる。戦争が終わったからって、嬢ちゃん達を使い捨てるような真似をしたら、それこそ人間はお終いだ。人間として生きていく資格を失っちまう。”

 

 “変な話だがよ、嬢ちゃん達が深海棲艦になって俺達を襲ったとしても、それはもう、どうしようもねぇよ。そうなったらよ、当然だけど、艦娘の嬢ちゃん達を殺したいほどに恨むだろうけどよ。仕方ねぇとは言えねぇけど、……まぁ、それこそが仕方ねぇんだろうな。俺の倅も女房も深海棲艦に殺されたけどよ、今まで嬢ちゃん達が、人間の為に命を張って来てくれたことも事実なんだよな。戦争が終わって、嬢ちゃん達が俺達を助けてくれるんなら、こんな辺鄙でちっぽけな港町も残せるんじゃねぇかと思う。でも、今の時代じゃ、それは俺達の我が儘なのかもしれねぇ。”

 

 “お嬢ちゃん達が俺達の世界に入ってきてくれるってんなら、これに勝る喜びはねぇが、今も海の上で命を張ってる嬢ちゃん達に、戦争が終わってまで、人間の何かを背負って貰おうなんざ筋違いだろうしな。さっきも言ったが、こんな時代だ。誰も責めらねぇんだよな。しょうがねぇことだ。俺達も分かってる。だからよ、せめて俺達は、嬢ちゃん達の味方でいようって、そう決めてる。それがどうしたって言われたら、それまでだけどな”

 

 “暗い話ばっかで申し訳ねぇなぁ……、あっ!ああ、そうだ! そう! テレビ見たよ! バラエティ番組に出てた、扶桑ちゃんとか、山城ちゃんとか、あれ、“秋刀魚祭りの鎮守府”に居るお嬢ちゃん達なんだろ? ワサビ入りのシュークリームを喰うヤツで、腹を抱えて笑ったよ! 美人の陸奥ちゃんが半泣きになって、大鳳ちゃんが客席に転げ落ちて……、いやぁ、あんなに笑ったのは久ぶりだったな! ああ、そうそう! 前に歌番組にも出てたよな! 加賀岬! いい歌だし、加賀っていう艦娘もな、どえらい別嬪で見惚れたし、聞き惚れた! 全部録画して、俺達もしょっちゅう見てるんだ! あぁ、駄目だ、何を言いてぇのかわかんなくなってきたな!”

 

 “さんま祭りの礼だったろ! まったく、言いたい事が一杯あって、話がとっ散らかっていけねぇな”

 

 “ああ、そうだったそうだった!”

 

 漁師達の声音に、まるで言葉そのものをカメラに押し込もうとするかのような力強さを感じた。タブレットに立ち上がったウィンドウの向こうでは、漁師達の男達がカメラに向かい、言いたい事を口々に言いながら、嫌味の無い笑みを浮かべて此方に手を振っている。彼らの背後にある町並みには、夕暮れの薄い橙色が滲んでいた。暗闇の中に沈んで行こうとしている。

 

 そんな中でも漁師の男達は揺るがず、生活の中に根付いた諦念を背負いながらも下を向かず、力強く、此方に手を振ってくれている。彼らは、自分達の暮らしがいつか潰えることを受け容れて、その悲壮な覚悟を携えて笑っている。鈴谷は、この画面に映る港町と漁師達に、野獣の姿が重なって見えた。この薄いタブレットによって繋がった景色に、奇妙な既視感と、やりきれない親近感を覚える。目線だけを動かして加賀を見た。加賀は押し黙り、タブレットを見詰めている。時雨もだ。

 

 「俺の後輩の、その部下が現地の漁師達と話をした時に、ちょうど此処の鎮守府のことが話題になったらしいッスよ(縁結び先輩) 戦後、艦娘達が漁業とかに参加する事について意見を聞いたりしてるうちに、話の流れで、こういうビデオメッセージを取って欲しいって頼まれたらしくてぇ……(フェードアウト)」

 

 野獣が言うには、さんま祭りの時は鎮守府の全員が忙しかったし、祭りの途中で任務に出て行った艦娘も居たため、応援に来てくれた漁師達が、ちゃんと艦娘全員に挨拶が出来なかったということで、改めて礼を伝えたいという旨でこの動画を録ったのだと言う。動画を見ている野獣は、息をゆっくりと吐き出して口許を緩めていた。

 

「お前らが来てくれることを、こんな風に心待ちにしてくれてる人が要るのも確かだからね☆ やっぱり、影が在るってことは、どこかに光が在るってことなんスねぇ……(しみじみ)」

 

 ワザとらしい感嘆の声音を作った野獣が、顎を撫でながら訳知り顔で呟く。そんな芝居がかった仕種にも、気障ったらしい嫌味は全くなかった。冗談めかした言葉の中には、この世界の寛容さや慈悲深さを測り、確かめ、そこに自分の人生と願いを託そうとする決断が垣間見える。もう何を言っても、この野獣と言う男は変わらないだろうと思った。

 

「さっきもお前が言ってたけど、確かに“艦娘の深海棲艦化”については、どうしよう無いゾ……。でも、そういう事実を知って尚、お前等と共存しなきゃ(使命感)って、そういう風に考えてくれるように、何とか世の中に訴えるしかないんだよね(正道を征く)」

 

 

 穏やかな表情の野獣は、言い訳がましく正論を振りかざすのでもなく、綺麗言で現状を包んで誤魔化すのでもない。着地点を見極め、そこに降りるために手を尽くそうとしている。意識の射程を遥か遠くに置いて、淡々と自分に出来ることを積み重ねている。"黒幕"達と戦うことを諦めていない。

 

 鈴谷は、“主役は艦娘である”という、先程の野獣の言葉を思い出す。その艦娘達には見えないところで、これからも野獣は暗躍し続けるに違いない。艦娘達の絶望や悲観に寄り添いながらも、その連鎖を断ち切る為に、無反省で無茶苦茶な振る舞いを続けていく。今までの“日常”が立体的に思い出され、その背後には、野獣と少年提督が共有する孤独な戦いの日々が見え隠れしている。

 

「……本当に、分の悪い勝負ですね」

 

 息を細く吐いてから、加賀はそう呟いた。呆れとも諦観ともつかない笑顔を浮かべている。初めて見る種類の加賀の微笑だった。しんみりとした空気が流れそうになったところで、野獣が椅子から立ち上がり、「ぬわぁぁん!! そう言えば、お腹空いたもぉぉぉん!!(想起)」伸びをした。それが合図だったかのように、雲に隠れていた陽が顔を出し、白い光がまた執務室に飛び込んでくる。今までの翳りが薄れて、窓からは暖かな空気が流れ込んだ。

 

「もう昼飯時だし、難しい話は終わりッ、閉廷!」

 

 深刻な雰囲気を軽々と吹き飛ばした野獣は腕時計を一瞥して、鈴谷達の顔を順番に見回した。

 

「良い時間になったし、そろそろ食堂に行きますか~? Oh^~?」

 

 言いながらも野獣は、その足元に陽光を引き連れ、扉に向って歩き始めている。工事の音が、遠くから聞こえていた。重機の音が重なって実在的に響き、“日常”と地続きにある悲劇を思い出させる。それでも、今のこの瞬間は、掛け替えのない時間に違いなかった。何かを取り戻すように、鈴谷はぐっと体に力を込める。

 

「そうだね。あー、お腹空いた!」

 

 憂鬱な空気を脱ぎ捨てるように言いながら、鈴谷も椅子から立ちあがり、野獣の後に続く。すっと息を吐いて、晴れやかな表情になった時雨もだ。加賀は動かず、動画の再生が終わったタブレットを見詰めている。扉の前で、野獣が振り返る。

 

「おい加賀ァ! お前も昼飯はまだダルルォ!? 一緒に来いホイ! 昼からは赤城とも合流するんだからさ!(改ニ施術に向けて)」

 

 野獣が呼びかけると、加賀は一つ息を吐いてから、野獣に向き直った。

 

「……えぇ。ご一緒させて貰います」

 

「よし!(適当) それじゃ昼からは、次のテレビ出演用に、お前の衣装も作ってやるか、しょうがねぇなぁ~(悟空)」

 

 いつものクールビューティーに戻った加賀に、野獣は恩着せがましく言う。「やっぱり、“加賀トンネル”っていう曲名に似合う衣装って言ったら……」と、真剣味を帯びた言葉を続ける野獣に、先程と同じく加賀は、「加賀岬です」と訂正を入れつつも舌打ちを混ぜた。時雨が小さく笑う。鈴谷も半目で野獣を睨もうとしたが、口許が緩んだ。

 

 

 

 

 

 







最後まで読んで下さり感謝本当にありがとうございます!

誤字報告や暖かな感想、身に余る評価なども頂き、本当に恐縮です、
内容や描写に不自然な点があれば、また御指摘頂ければ幸いです。
不定期更新で誤字も多く、ご迷惑をおかけしてばかりで申し訳ありません……。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

別れ道の前で

 生存報告的なシリアス回が続いており、申し訳ありません……。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 霞が秘書艦となったその日、客人として二人の男が鎮守府を訪れてきた。少年提督が呼びたてたらしく、一人はでっぷりと肥え太った中年の男で、もう一人は肥えた男の秘書らしき男だった。二人とも高級そうなスーツを着こなしており、手首に光る腕時計や履いている靴にしても、他者を遠慮なく威圧する類の上品さを備えていて、彼らが社会的に見ても非常に高い地位にいる人物であることが窺えた。ただ、少年提督の執務室の、その応接スペースのソファに腰掛けた彼らは今、ぎこちない作り笑いを懸命に浮かべていた。見ている霞が滑稽に思うほどに、彼らは青い顔に大量の汗を浮かべて身体を強張らせている。

 

 一方、そんな彼らと向かい合いソファに座っている少年提督は、穏やかな表情のままで泰然としており、静かな威厳と穏やかな貫録を纏っていた。少年提督にそんなつもりは全く無いのだろうが、彼の超然としたその態度が、客人である男達が着込んでいた威風を呆気なく引き剥がして圧倒し、完全に飲み込んでいる。もう少年提督は、拘束具めいた眼帯も手袋もしていない。彼の右手に黒く刻まれた幾何学紋様には、脈を打つように深紫色の微光が緩く走っており、淡い明滅を繰り返している。何かの回路を彷彿させる規則的なその光の強弱は、少年提督が“見た目通りの人間”では無いことを物語っている。

 

 男達は何か話さなければと視線を泳がせているが、少年提督の存在感に押しつぶされて沈黙を余儀なくされている。そんな様子だった。会話が途切れ、執務室には不穏な静寂が漂っていた。つい先程、少年提督が彼らに淹れたコーヒーが、ソファテーブルの上で湯気をくゆらせている。少年提督が息を一つ吐く。

 

「雨の日が続きますね」

 

 落ち着き払った声でそう言った少年提督は、ゆったりとした仕種で窓を見遣る。こういった話し合いの場の作法として、彼は簡単な世間話によって空気を解そうとしたに違いない。だが、太った男が肩をビクつかせ、メガネの男が息を詰まらせるだけで、話が膨らんでいくことは無かった。再び沈黙が訪れ、男達の浅い呼吸音だけが執務室の淀んだ空気に混ざる。彼らが少年提督の挙動の一つ一つに対し、警戒し過ぎるほどに警戒し、気を張りつめているのは明らかだった。

 

 ただ、その理由について霞は、この男達が訪ねてくる前に少年提督本人から聞いて知っていた。この太った男は、あの夜の襲撃事件の“黒幕”達の、そのうちの一人なのだと。少年提督は感情を表に出すことなく、普段と変わらない柔らかな表情で霞に教えてくれた。

 

 正直、耳を疑った。いったい、どうやってこの太った男の素性を暴き、鎮守府に呼び出すことまで出来たのか。それに呼び出した目的は何なのか。訊きたい事が山ほどあった。だが、それを問い質すには勇気が必要だった。これから、“黒幕”達の内の一人が、この鎮守府にやってくる。その事実に対し、混乱と憎悪に振り回されそうになる霞に比べて、命を狙われた本人である筈の少年提督の態度が余りにも従容としていたからだ。結局、霞は、「……分かったわ」と、秘書艦娘としての最低限の言葉を返すのがやっとだった。

 

 今の執務室を世界から切り離すかのように、大粒の水滴が窓を叩いている。

 ソファに腰掛けた少年提督が、男達に向き直った。

 

 

「コーヒーは苦手でしたか?」

 

「あぁ、いや、そんなことは無いんだがね」

 

 太った男は少年提督に話し掛けられて無視することも出来ず、強張った笑顔を貼り付けたままで、ソファに座らせた身体を揺すった。太った男はコーヒーを見て、すぐに視線を彷徨わせて唾を飲み、言葉を詰まらせる。毒でも盛られているのではないか警戒しているのだろう。狼狽する太った男は、コーヒーカップには手を付けないままで少年提督に向き直った。

 

「どうして、私を招いてくれたんだね?」

 

 恐る恐る少年提督の顔色を窺うように、太った男が眉尻を下げる。どうして、と言った男の声は震えており、明確に怯みが在った。

 

「私の個人的な番号にキミから連絡が来たときは驚いたよ。用向きも話さず、一人で鎮守府に来てほしいだなんてね」

 

 太った男は、その時の状況を可笑しそうに話すことによって、今の状況そのものが重大な事態ではないのだと自分に言い聞かせているようでもあった。無理に笑顔を作って会話を広げようとする必死さがあった。途中でハッとした顔になり、「あぁ! ぃ、いやっ! キミのことを無礼者だなどというつもりは無くてね!」と、慌てた顔になって手を振ったりしている。秘書であろう眼鏡の男は、自分の上司が少年提督の機嫌を損ねてしまわないかを恐れるように、強張った眼で太った男を見ている。

 

 霞は唇の端を強く噛んだ。

驚いただと? それはそうだろうと思う。

 

 日向が少年提督の頭部を大型拳銃で破壊、殺害したというリアルタイムの報告は、この鎮守府を襲撃した実働部隊から“黒幕”達にも在った筈だ。だが、実際には少年提督は生きており、暗殺は失敗に終わっている。あの夜のことの詳細を知らない“黒幕”達にとっては、何が起きたのかさっぱり分かってないのが現状だろう。そんな中で、暗殺の対象となった少年提督から直接のコンタクトを迫られた太った男は、今の状況に当惑し、恐怖しているに違いなかった。霞は何も言わず、ただ二人を睨むようにしてこの場を見守る。

 

「呼びつけてしまうような形になって、申し訳ないと思っています」

 

 穏やかな声で言う少年提督の視線が、太った男を捉えた。

 

「実は、お願いしたいことが在ったのです」

 

 執務室の空気が硬直する。

 

「わ、私に?」

 

 太った男の顔から愛想笑いが消え、頬が引き攣り、瞬間的に緊張を見せた。霞も少年提督へと視線を向ける。

 

「はい。こうして直接顔を合わせなければ、出来ない話もあります」

 

ソファに腰かけていた鏡の男が唾を飲む。

 

「僕は、貴方と敵対したくないと思っています。こうして態々、僕のもとを訪れてくれたのですから」

 

 少年提督は微笑みを崩さない。太った男は少年提督の眼を見ないままで、ほっとしたような笑顔を浮かべる。

 

「あぁ。私は、キミの味方だ。キミと対立するつもりなど毛頭無い。嘘じゃない。あぁ、ただね、“一人で鎮守府に来てくれ”とキミには言われていたが、こうして秘書を連れてきたことは許してほしい」

 

 少年提督に敵意を向けられていないことに安堵したのだろう。太った男は肩の力を抜いて、ソファに凭れた。その隣に座っていた秘書の男は黙ったまま、余裕の無い無表情で頭を下げる。

 

「許すも何も。僕は、お二人を信頼していますよ」

 

 静かな口調で言ってから、少年提督はコーヒーを一口啜った。彼の微笑みは揺らがない。太った男はハンカチを取り出して額や首筋の汗を拭い、ようやくリラックス出来るというように息を吐き、ソファに深く身体を預け直した。秘書である眼鏡の男も、長い間潜っていた水中から顔を出した時のように、静かにだが、大きく息を吸い込んでいた。二人は、自分たちが少年提督の害意や憎悪の外に居る事を知って、あからさまに安心して見せている。

 

「それで、私に頼みたいということは?」

 

太った男が頬の肉を揺らし、親切そうに言う。

 

「と言うよりも、なぜ、私に?」

 

 媚びを含んだその声音は湿っぽく、気色悪かった。少年提督に恩を売り、あわよくば彼の懐に潜りこんでしまおうという肚が霞には透けて見えた。知らず、唇を噛んでいた。霞は意識して、身体から力を抜いて静かに、深く呼吸をする。この男達に対する殺意が、自分の中に満ちて来る。それを逃がすことに努める。握り込んだ拳を解いて、掌の汗をスカートで拭う。少年提督はコーヒーの最後の一口を啜ってから、カップをソーサーに置いた。

 

「貴方の管理下にある研究所のいくつかで、僕の生体データを元にした“僕のコピー体”を造ろうという実験・研究が行われているという話を耳にしました」

 

 柔らかく言う少年提督の言葉に、執務室が静まり返る。彼は微笑みを崩さない。泰然としている。一方で、太った男は笑みを貼り付けたままで声と息を詰まらせて、脂肪の付いた頬をビキビキと引き攣らせた。秘書の男も唾を飲み、身体を強張らせるのが分かった。霞は息を飲む。窓を閉めている筈なのに、空気がうねるのを感じた。その透明なうねりは、ソファに座る男達を探るように纏わりつき、締め上げている。

 

「それは、だ、誰から……」

 

 眼を泳がせる太った男は、顎と頬を震わせて、何とか笑みを浮かべている。笑みを浮かべることによって、自分の身を守ろうとしているかのようだった。少年提督は口許の微笑みを絶やさずに眼を細め、二人の男性の名前を口にした。霞はその名を聞いた事が在った。以前、この鎮守府に訪れていた、初老の男と中年の男の名前だった筈だ。彼らの名前を聞いた太った男は眼を見開き、顔に貼り付けて居た笑みを情けなく崩した。

 

「き、キミは……、あの二人と昵懇なのか」

 

「えぇ。お世話になっています」

 

 太った男の問いに、少年提督は軽やかに答えた。霞は少年提督を見詰める。彼の声音には、少年提督自身が持つ人脈をチラつかせることで、太った男を威圧し、威嚇しようとする意思は微塵も含まれていなかった。「まだまだ僕は世間知らずなので、迷惑をかけてばかりですが」と、自嘲交じりの冗談を付け足したりするのを見るに、寧ろ、不穏さを孕みつつあるこの場の空気を少しでも解すために、ゆったりとした態度を取っているように霞には見えた。少年提督は先程、自分の命を狙った筈のこの男達と敵対したくないと言っていたが、それは偽りの無い本心なのだろう。

 

 太った男は、何とか自身の威厳を保つために口許を歪めて、眉を上げようとしている。必死に笑顔を作ろうとして、失敗している。その隣に座る秘書は、俯きがちに視線を彷徨わせて、頻りに眼鏡の位置を指で直していた。二人とも少年提督の眼を見ないまま、また脂汗を掻き始めている。

 

「……既にご存知だと思いますが、僕達の鎮守府は少し前に、大きな規模での襲撃を受けました」

 

 少年提督は何か試すように、話題を変えた。

 

 太った男は「あぁ、し、深海棲艦達に襲われたんだろう?」などと上擦った声で、すっとぼけた相槌を打つ。「世間には、そう公表されていますね」と、ゆっくりと瞬きをした少年提督が頷く。霞はその時、秘書の男が切羽詰まった表情になって、スーツの懐に手を伸ばそうとしている事に気付く。

 

 刃物か、いや、銃か。霞はすぐに動けるように抜錨状態になる。艦娘である霞は、例えこちらに殺意を向けて来る人間であっても攻撃はできない。秘書の男に組み付くことも出来ない。だが、少年提督の前に出て、盾になることならば出来る。

 

 

「実際は違います。僕達は深海棲艦にではなく、人間社会の勢力によって襲われました」

 

そこまで言った少年提督は寂し気な表情を浮かべ、太った男を静かに見る。

 

「貴方は、その勢力に連なる人物の一人ですよね?」

 

 だから、貴方と話がしたかったのだと。申し訳なさそうに言う少年提督の声は、執務室に残響する雨音にそっと混じり合うだけで、太った男を非難し、糾弾する響きは無かった。だが、太った男の笑みが完全に崩れ、「わ、私は……」などと、今まで以上に声を震わせ、余りにも今更過ぎる大きな動揺を見せていた。

 

 秘書の男が少年提督を睨みながら、ソファに腰掛けたままの姿勢を少しだけ前に倒した。何らかの覚悟を漲らせた彼からは、すぐにでもソファから立ち上がり、懐から銃を取り出そうとする気配が漲っていた。その秘書の男の動きに合わせ、咄嗟に少年提督の前に飛び出せるように、抜錨状態の霞も微かに姿勢を落とす。全員が黙り込む時間が数秒あった。雨が窓を叩く音だけが響く。

 

 そのうち、太った男が息を大きく吐き出して、スーツの懐に右手を差し込んだ。やはりと言うべきか、この男も銃を持ち込んでいたのかと、霞は鼻を鳴らしそうになる。太った男は何も言わない。ただ、少年提督を見る眼つきを変えた。その眼差しには、「こうなったら、しょうがない。もうしょうがないな」という開き直りから来る大胆さと、残酷な冷静さが在った。

 

「僕を殺しますか?」

 

 少年提督は気遣わしげな表情で、太った男と、男の秘書を見比べる。

 

「……あぁ。前と同じように、全て揉み消す。まぁ、前よりも面倒なことになるが、どうにかなる」

 

 太った男が、首の贅肉を揺らして頷く。

 

「最初から、こうしておくべきだったのかもな」

 

 太った男は慣れた手つきで懐から銃を取り出し、少年提督に突き付ける。それを見た霞の脳裏に、あの夜の光景がフラッシュバックする。大型拳銃を構える日向が、視界の隅に浮かんだ。次に、頭部を銃弾で砕かれて倒れていく、少年提督の姿が見えた。霞の頭の芯が熱くなる。奥歯を噛み潰すほどに顎に力が入り、太った男を睨む自分の眼差しに明確な殺意が滲むのが分かった。

 

「おい、お前。動くな」

 

太った男が、霞を一瞥した。

 

「余計な事を考えるなよ。俺がこの鎮守府に居る事は、他の“連中”も当然知ってる。俺に何かあれば、“連中”も動く。そういう段取りなんだよ」

 

 太った男は、早口で言う。“奴等”とはつまり、“黒幕達”の事だろう。霞は舌打ちを堪え、男を睨む。太った男は強張った眼をギラつかせ、少年提督と霞を交互に見ている。先程までの丁寧な物腰を捨て、一人称が「俺」となった男の態度は威圧感を振りまくもので、それが堂に入っていた。これが、本来のこの男の姿に違いなかった。

 

「くだらない真似でもしてみやがれ。お前ら全員、廃棄処分にしてやるからな」

 

 太った男は、自分を無理矢理に落ち着かせるような声で言う。それは霞だけではなく、少年提督に対しても明確な脅しだった。やはり、艦娘達は人質になってしまう。これは避けられない。忌々しい事だ。霞は太った男を睨み付けたままで、ゴリゴリと奥歯を噛み締める。少年提督が首を傾け、霞の方を見ているのに気付いたのはその時だ。

 

 彼は霞の動きを制止するように、そっと左の掌を見せていた。彼は「大丈夫ですから」とでも言うように、ひっそりと目許を緩めている。何をそんなに落ち着いているのよ。霞は苛立ちながらも、僅かに身体を前に倒したままで止まる。動かず、少年提督と男達を見比べるだけに留まった。

 

 異様な程に落ち着いている少年提督は、霞に小さく頷いてから男達に向き直り、「やはり貴方は、本営上層部の方々とも繋がりが在るのですね?」と、突きつけられた銃口を見ながら、悲しそうに眉を下げる。「当たり前だろ」と言い放つ太った男の方は、獰猛な笑顔を浮かべた。先程までの窮屈そうな笑みではない。他者を踏み躙ることに慣れた、傲岸不遜な笑みだった。

 

「俺達が此処で何をどうしようが、そんなモンは関係ない。防犯カメラの映像も艦娘の証言も全部、まとめて握り潰せるんだよ。そうじゃなきゃ、こんな所にわざわざ来るか」

 

「……なるほど。残念ですが、言われてみればそうかもしれません」

 

少年提督は寂しそうに頷く。

 

「でも、艦娘の皆さんを廃棄処分することは不可能ですよ。今の平和を支えているのは、彼女達です。それを本営は知っています」 

 

「なら、お前の初期艦娘を廃棄に追い込んでやる。不知火とか言ったか?」

 

 太った男が唇を吊り上げた。霞は少年提督を見る。少年提督が不知火を信頼していることは霞もよく知っているし、不知火もまた少年提督を深く慕っている。二人はケッコンも済ませていた筈だ。その不知火を廃棄処分にしてやると言われても、ソファに腰掛けたままの彼は、哀しげな息を薄く吐き出すだけで、怒りや憎悪といった感情を発露しない。

 

 それは、不知火への愛情が希薄であるが故では無く、太った男の言葉を脅しとして受け止めていないからだろうか。或いは、艦娘達が破棄される事など無いと、あらかじめ知っているかのようでもある。その少年提督の泰然とした雰囲気に引き摺られ、霞も落ち着いて来た。雨音に隠すようにして静かに息を吸い、吐いてみる。心が静まっていく。それと同時に、少年提督を護ろうとする自分の行為を疑問に感じた。

 

 少年提督が頭部を破壊されても、まるで何事も無かったかのように再生する場面を思い出す。少年提督は死なない。死ねない。この現実世界の“層”から離れ、超常の領域に踏み入っている。果たして、そんな少年提督を護ろうとする行為に、どれほどの意味が在るのだろう。今の少年提督に、艦娘達は何が出来るのだろう。自分の胸の内に生じたこの疑問は、霞の心を少なからず削り、身体に籠っていた力を奪う。立ち竦みそうになりながらも、霞は太った男を観察してみる。

 

 太った男は大量の汗を掻いている。焦っているのか。秘書の男も同じだ。強張った眼をしていて、銃を持つ指先が震えていた。自分達は少年提督よりも優位に立っているのだと主張し、余裕を装い、勢いに任せて、この場を切り抜けようとしている。そんな風に見えた。

 

「それに今日は、あの厄介な野獣とかいう奴も此処には居ない。つまり、俺達を咎められるヤツは、この“花盛りの鎮守府”には居ないって事だ。お前の生体データも十分過ぎるほどに集まったしな。いい加減、目障りなんだよお前は」

 

 太った男は微かに息を弾ませ、自分に言い聞かせるように言う。少年提督はゆっくりと瞬きをして、息を吐いた。

 

「……貴方は、僕のクローンを造ろうとしているそうですね」

 

 少年提督のその問いに、秘書の顔色が変えた。そこまで知っているのか、という表情だった。太った男は一瞬だけ眼を見開いて表情を歪めたが、すぐに鼻を鳴らして唇を歪めた。

 

「だったらどうした?」

 

「僕の身体に宿った不死を再現しようとするのは、お勧めしません」

 

「黙れよ。死ぬよりマシだ。生きていた方が良いに決まっているだろうが」

 

太った男の瞳が揺れ、その声にも今までにない切実さが混じったのが分かった。

 

「僕に銃を向けているという事は、貴方はやはり、不死というものを勘違いしているようですね」

 

少年提督は諭すような口調で続ける。

 

「不死という概念が、老衰や病魔からの解放を意味するのは間違いないと思います。しかし、それは同時に、此方の都合で終わることが無い、永久的な生命活動の強制を意味します」

 

 太った男は何かを想像したのだろう。片手で銃を構えたままで一瞬、目を泳がせてから唇を噛んだ。少年提督に視線を戻した男の表情には暗い翳が差し、困惑と後悔、それに焦燥と絶望が浮かんでいた。「そんな馬鹿な事があるか」太った男は、何かを必死に否定しようとするかのように唾を飲み込んで、大きく頭を振った。

 

「不死という言葉の本質は、死なないのではなく、死ねないという点です」

 

少年提督も悲しそうに眉を下げる。

 

「僕の肉体は塵になっても、すぐに再構築されます」

 

「……嘘をつくなよ」

 

「いえ、事実です。つい先日、試しました」

 

 少年提督の言葉は全く冗談には聞こえず、何の諧謔も含まない冷酷な事実なのだろうと思わせるだけの、落ち着いた貫録だけが在った。秘書の男が目を剥いて少年提督を見ている。霞も思わず、少年提督を凝視した。太った男の銃を握る手が、無力に震えている。

 

「ですから、不死などというものには、近づくべきではありません」

 

「それは親切心のつもりか。お前に何が分かる」

 

 鼻の周りに皺を刻んだ太った男は、自分の焦りに急かされるようにして、銃の引き金を引こうとしている。「少しだけ、貴方の来歴について調べさせて貰いました」少年提督は怯まず、ソファに座ったままで男を見ている。

 

「激戦期の頃の貴方は、艦娘の皆さんや深海棲艦を用いた人体実験や、其処から発展していく技術については特に興味を持っていなかった。僕の生体データを集め、それを基にした人体改造の計画を始動させたのは、最近になってからですよね」

 

 気遣わしげな少年提督の声は、太った男の表情を再び崩した。

 

「……それは、ご息女の為にですか?」

 

「黙れ!」

 

 太った男は歯を剥き、荒々しく3度、4度と引き金を引くが、妙なことに、銃弾が発射されることは無かった。カチンカチンと金属音が響くだけだ。霞は飛び出し、少年提督の前に出ようとするが、やはり少年提督が手で制してくる。秘書の男が唇を引き結び、太った男が握った銃を困惑の眼で凝視している。その間にも、「お前も撃て!」と、太った男が秘書に向って喚く。その命令に頷いた秘書が、手にした拳銃を少年提督に突き付けようとした時だった。

 

「うわぁっ!!」

 

 秘書の男が悲鳴を上げる。彼は銃を脇に投げ捨てて、そのままソファに尻餅をついた。太った男も「なっ!?」と驚愕の声を漏らし、銃を手放した。二人が手に握っていた銃が微光を纏い、姿を変え始めたのだ。彼らの手から離れた銃は、床に落ちるまでに輪郭を暈し、光の粒となってうねり、有機的な造形を持ち始めていた。

 

 霞は、少年提督の右掌から深紫の光が淡く漏れていることに気付く。彼の纏う光は、金属や造物に新たな姿と機能、忠誠と主観を与え、徴兵する。瞬く間に生命を宿された二つの銃のうちの一つは、床に落ちる前に空中で、金属の大百足となって床でのたうち、すぐにギチギチギチと不気味な音を立てながらソファテーブルを乗り越えて、少年提督の脚から左の肩口へと這い上る。残るもう一つの銃も、金属の大蜘蛛となって床を這い、少年提督の右太腿まで這い上がった。生々しさを持って動く百足も蜘蛛も、どちらも30センチはあろうかという大きさだ。

 

 太った男と秘書の男は眼を見開き、呼吸も瞬きも忘れて蟲と少年提督を見詰めている。霞もその光景に驚きこそしたが、怯むことなく冷静に受け止める事が出来ている自分に気付く。造命の宗匠。彫命の職工。少年提督が持つ、幾つかの二つ名が脳裏を過った。

 

「僕は、貴方に何らかの復讐を行う為に、此処までお越し頂いたのではありません」

 

 自身の身体に張り付く大百足と大蜘蛛に左手でそっと触れながら、少年提督は緩く首を振った。

 

「少しだけ、僕の話を聞いていただけませんか?」

 

 そこまで言ってから、少年提督は短く文言を唱えた。彼の右腕に燻る深紫の光が脈動し、揺らぎ、煙霧のように蜘蛛と百足に伝う。その光によって輪郭を解かれていく蜘蛛と百足は、再び姿を変えながら床に転がり落ちた。太った男と秘書の男が呆然とその様子に目を奪われているうちに、金属が新たな造形とともに鳴き声を上げた。今度は、子犬と子猫だった。どちらも美しい灰色の毛並みをしている。数秒の出来事だったが、それは蟲から動物への生まれ変わりであり、転生という言葉を連想させる。

 

 子猫は音も無くしなやかに動き、ソファに腰掛けたままで硬直している秘書の男の隣へと飛び乗り、丸くなって眠ろうとしている。秘書の男が声にならない悲鳴を上げた。尻尾を振る子犬は、太った男を見上げながらその足元まで走り寄り、無邪気にじゃれつこうとしていた。

 

「先に俺に質問させてくれ。……なぜ、俺に目をつけた」

 

 深く吐き出す息と一緒に掠れた声を出し、太った男は何もかもを観念したかのように項垂れ、力なくソファに身体を落とした。少年提督が扱う術式を前に、もはや抵抗や反抗を企てている様子は無かった。霞は抜錨状態を解いて、静かに深呼吸をする。先程まで拳銃だった筈の子犬が、太った男に尻尾を振り、じゃれついている。太った男は疲れきった顔になって足元の子犬と目を合わせてから、少年提督に向き直った。

 

「俺と似たような事をやっているヤツなんざ、お前を狙った“連中”の中にだって幾らでも居るだろう? その中で、なんで俺を此処へ呼んだ?」

 

 太った男はその子犬の頭を撫でてやる。太った男の掌に押され、子犬の毛並みが動いた。本物の犬と変わりない。秘書の男は、さっきまで拳銃だった筈の子猫が、自分の太腿に喉を擦りつけて来ること怯えながらも、少年提督と太った男を見比べている。

 

「貴方だけが、人を救う為の研究を率いていたからですよ」

 

少年提督は口許を少しだけ緩めた。

 

「僕の生体データや培養された細胞が多くの研究所に出回り、それを基にして、肉体の強化や再活性する術の模索が始まっていることは、僕も知っています。老いた身体を若返らせるだけでなく、超人的な肉体へとアップグレードさせる技術は、そのまま巨大で魅力的な市場になるでしょう。それに加えて、僕の遺伝子の売買も、近々始まるという話も聞きました」

 

 静かな声で語る少年提督の淡々とした様子に、霞は寒いものを感じた。艦娘達の遺伝子情報は売買の対象になっているという話は、かなり前に聞いた事はある。恵まれた遺伝子によって恣意的に肉体を設計しようという思想や、それによって莫大な利益を発生させようという計画なども、特に珍しいわけでも新しくも無いだろう。だが、それらが確かな現実味を帯び、今の人間社会に劇的な影響を及ぼそうとしていることを、少年提督の落ち着いた態度が雄弁に物語っているように思え、不気味だった。

 

「本営直属の研究機関では、そういった市場が出来上がる事を見越した、“商品”としての肉体改造施術の開発に力を注いでいるのが現状です。……その中で貴方だけが、単純に不死を求める研究を続け、僕のクローン体を造り出すという結論を早急に出していました。利益を求めず、市場に背を向け、特定の病魔を撃退する為の研究を続けていた。だから、お会いしたかったのです」

 

「……よく調べているな」

 

 太った男は自嘲するような、破れかぶれの笑みを浮かべた。疲れた笑みだった。

 

「他の奴等は、研究の成果を金に換えたがっている。なら、今の権力者の老人たちに媚びるのが一番手っ取り早い。倫理や世間体への懸念から表沙汰にはならないだろうが、安全に若返る方法の確立は利益に直結する。超富裕者層からの催促が後を絶たない分野だからな。表に出ようが出まいが関係なく、莫大な金が動く」

 

太った男は片手で頭を抱えて項垂れ、絞り出すように息を吐き出した。

 

「人間の肉体を再活性させることで、損傷や傷跡を癒すことは出来る。だが、身体に根深く居付いた病魔を払うことは出来ない事が分かった。逆に、病魔自体を活性させてしまう。若返るついでに寿命まで引き延ばす技術は、金にはなるが、娘の命を救えん。肉体の修復と活性よりも、……新しい身体が必要だった」

 

「それで、僕の身体をコピーして造り出し、そこに娘さんの脳を移植しようとしている訳ですね」

 

 少年提督が語った内容に、霞は思わず表情を歪める。太った男は答えず、黙り込んで床を見詰めている。その沈黙が、肯定を意味しているのは明白だった。太った男の心の中で、自分の娘への愛情や愛情と、それを失うことへの焦燥と絶望が混ざりあった強い感情が渦巻いているのは、霞にも分かった。その激情に衝き動かされたこの男は、少年提督のコピー体の生産と、そこに記憶と意識を移植するという、狂気の領域に可能性を求めたのだろう。

 

 秘書の男が唇を舐めて湿らせている。何かを喋り出そうとする雰囲気があった。もしかすると、この秘書の男は、太った男の息子か、兄弟なのかもしれない。よく見れば、どことなく雰囲気が似ている気がしないでもない。太った男と秘書の男を霞が見比べていると、太った男が忌々しげに抱えた頭を掻いた。

 

「幾つもの研究所に腕利きの医者やら学者やらを集めて、娘を救うために研究させているが、それにも金が要る。だが、娘には時間の猶予が無い。なりふり構っていられなかった。娘が死ぬ前に、娘の意識を別の身体に移植するしかないと、そう結論付けた。不可能に近いが、やるしかない。そうしなければ、娘の自我は永遠に失われるんだ」

 

血でも零すように言葉を紡いだ太った男に、少年提督は眉尻を下げて、悲しそうに微笑んだ。

 

「貴方は、本当は優しい人なんですね」

 

「優しいものか。……お前は娘のことについても、もう調べているんだろう」

 

そう言葉を続ける男の声と呼吸は、警戒心と諦観に震えていた。

 

「えぇ。貴方が、何とかして病魔から家族を守ろうとしているという事も、僕を殺すことで、貴方の研究を援助しようという話があったことも、調べさせていただきました」

 

少しだけ声を引き締めた少年提督の後ろで、霞は拳を握る。

 

「この鎮守府を襲撃した方々の中には、艦娘の皆さんの肉体を拘束するための術式発生装置を扱うための技術者も多く居ました。彼らは……」

 

「あぁ。お前の考えている通り。俺が用意したんだ」

 

 少年提督の問いに対して、すんなりと答える太った男を見ていると、霞は再び、自分の心の中に、憎悪が燃え立ち始めるのを感じていた。

 

 この太った男は、自分の娘を助けようとして、その為に、少年提督を抹殺する襲撃事件に加担していたのだ。それに、この男が先程まで見せていた怯みや焦りは、少年提督に“黒幕”であることを暴かれて復讐され、娘を救うことが出来なくなることに対してのものに違いなかった。愛する娘と過ごす安らぎの時間を理不尽に奪われる悲しさを知っていながら、それを他者になら強いることが出来る利己的な傲慢さに反吐が出る。

 

 だが同時に、大切な者を想う深い愛情と、他者を闇に葬ってしまおうという冷酷さが、一つの心の中に同じタイミングで混在し、互いに矛盾しないことも、人間という種の強さなのかもしれないと思った。こういった強烈な感情は、それを抱える人間に理性や自制を振り切ることを促す。加減や常識といった概念を欠落させ、良心を麻痺させる。この人間の容赦の無さは、人類最大の敵である筈の深海棲艦を撃ち滅ぼし、味方である筈の艦娘達すら飲み込もうとしている。

 

 艦娘とは、人間にとって何なのか。その軍事力にアイデンティティを括りつけられた艦娘という種は、艦娘の存在価値を保証する深海棲艦が滅びるときに、共に消え去るべきなのか。霞は俯き、握っていた拳を解きながら、視界の焦点がぼやけるのを感じた時だ。

 

「……世間に公表されてはいませんが、ご息女の病を治す方法はあります」

 

 少年提督が、静かに言った。窓を叩く雨音が、遠のくような気配があった。執務室を、この世界から隠してしまうかのように。

 

「なんだと?」

 

顔を上げた太った男の眼には、僅かな希望と共に、暗く深い猜疑の色が滲んでいた。

 

「僕達のような“提督”や妖精さんが、艦娘の皆さんに行う治癒施術の応用になりますが」

 

 少年提督は、太った男の表情や心の強張りを解すかのように、穏やかな声音で言う。彼は、かつて鎮守府に訪れた初老の男にも愛娘が居て、この太った男と同じ病に苦しんでいたこと、そして極秘にではあるが、今ではその病を寛解させることにも成功しているのを説明した。それを聞いた太った男は、顔色を変えて身を乗り出す。

 

「それは本当なのか!?」

 

 真剣な眼で少年提督を見詰める男の足元には、灰色の犬が相変わらずじゃれついている。「えぇ。……ただ、倫理面や世間体への懸念から、まだ公表されていないことですが」と、少年提督が一つ頷く。

 

「医術では不可能でも、僕達“提督”が扱う術式治癒と、深海棲艦が扱う術式治癒を組み合わせることによって、幾つかの難病にも対処が可能になりつつあります」

 

「まさか、そ、それは、つまり……」

 

 思わずと言った様子で、秘書の男が言葉を挟んできた。興奮しているのか、眼を見開き、息を微かに弾ませている。少年提督は秘書の男に頷いてから、太った男に向き直った。

 

「そうです。激戦期の頃から、本営の上層部を始めとした権力者の方々が望んでいた、『提督が扱う術式の“人間への応用”』……、それを半ば実現していると言って良いでしょう。この鎮守府には、僕と先輩の他にも、とても優秀な技術者としての提督が居ます。彼女の地道な研究と、それに、……深海棲艦の皆さんも、協力してくれました」

 

 太った男と秘書の男は、鎮守府の傍に建てられた、あの大規模な深海棲艦の研究施設を思い出したのだろう。少年提督の話す内容について、ある程度の納得と理解を示すように何度か頷いてから、何かを考え込むように俯いた。

 

「お前は、俺が盗聴器を持っている可能性を考慮しないのか?」

 

 俯いたままの太った男は、視線だけで少年提督を見詰めた。敵意のある声の響きでは無かったが、正直なところ、それは霞も考えていたことだ。太った男がこの場での会話を持ち帰り、それを“黒幕”達に提供するのではないかと疑っていた。もしかしたら、今も現在進行形で盗聴され、それを何処かで“黒幕”達が聞いているかもしれない。だが、少年提督は「盗聴されたところで、僕やこの鎮守府に大きな影響はありません」と微笑み、緩く首を振って見せる。

 

「貴方の協力が得られないのであれば、それもまた仕方のないことだと考えています」

 

 この太った男と協力関係を結ぶことは、少年提督にとって、数ある選択肢のうちの一つに過ぎないのだろう。少年提督は、この太った男に対する関心を見せても、執着を全く見せない。一貫して害意も敵意も向けようとしない。適切な距離と敬意、そして礼節が在るだけだ。その彼の態度に対して、太った男や秘書の男が感じたのは、泰然とした神秘的な貫録か、それとも老獪な狡知か。

 

「お前を始末しようとした連中どもは……、いや“俺達”は、お前のことを恐れている。“個”としての高みに上り詰めたお前のことを、未来の人類にとって、計り知れない脅威を装填した爆弾だと捉えてな」

 

太った男は、少年提督の正体を見極めるように眼を鋭く窄めた。

 

「……お前は、魔人などと呼ばれるようなさまになってまで、何がしたいんだ?」

 

 秘書の男も、太った男と同じように少年提督を凝視している。少年提督は微笑みを崩さず、ゆっくりと瞬きをしてから、太った男の眼を見詰め返した。

 

「貴方と同じです。大切なひと達の為に、出来ることをしたいだけですよ」

 

 少年提督の声は雨音と共に、執務室に染み入りながら響いた。この場の緊張を解き、濯いでいく。

 

「秘匿され、世間に公表されていない技術の恩恵を受けられるのは、本当に限られた方々だけです。こうした今の状況は、道徳に悖るでしょう。ですが、その技術によって救える命があることの偉大さに代わりはありません。……これを」

 

 言いながら少年提督は、懐から名刺を取り出し、ソファテーブルの上にそっと置いた。所属、連絡先が幾つか記されているだけで、特に変わったところのないものだ。名刺の名にも見覚えがない。そのことは霞に、この鎮守府の“外”に伸びる少年提督の人脈を覗かせた。太った男は訝し気にその名刺と少年提督の顔を見比べている。

 

「……なんだ、これは」

 

「その名刺にある本営直属の研究施設でなら、ご息女を治療できると思います」

 

 太った男は眼を見開いた。そして、宙から零れ落ちる恵みの雫を慌てて掬い上げるかのように、ソファテーブルの上に置かれた名刺を手に取った。秘書の男も腰を浮かせ、太った男の手の中にある名刺を覗き込んでいた。

 

「その名刺を僕から受け取ったことを伝えて頂ければ」

 

 そこまで少年提督が言うと、太った男が勢いよく顔を上げて、「娘にも、治療を施してくれるのか」と震えた声を繋いだ。少年提督はひっそりと頷く。「……なぜ、こんなことを」と、秘書の男が疑わしいものを見る目で、少年提督を睨んだ。

 

「私達は、貴方を殺そうとしたのだ。なのに、なぜ……。施しを与える代わりに、要求を飲めという取引のつもりか?」

 

 秘書の男の言葉に引き摺られ、太った男の顔にも警戒が浮かんだ。少年提督は、「いえ、そんなつもりは毛頭ありません」と、二人の視線を受け止めたままで緩く首を振って見せる。

 

「何の見返りもなく、娘を助けてくれるのか」

 

 太った男が手にした名刺をぎゅっと掴みながら、少年提督を見ている。

 

「僕は、だれかの命を取引の材料にしようなどとは思っていません。ただ、今の段階では秘匿された禁忌の技術でも、それによって誰かが救われる可能性があるのであれば、僕の出来る範囲で協力したいと思ったのです」

 

「……俺達がお前の要求を飲まず、協力を拒否したとしてもか」

 

「はい。それとは関係なくです」

 

 静かな声で言う少年提督の声と表情には、善を為した満足感や優越感はなく、恩を着せるような圧力も無かった。自身が持つ人脈によって太った男を甚振り、その自尊を砕こうとする悪意も見せない。一切の見返りも求めず、ただただ手を差し伸べているだけだ。「青臭くて幼稚な偽善に思われるかもしれませんが」と自嘲を込めて、彼はそっと目許を緩める。

 

「僕も、大事なひと達を守るために必死ですから」

 

 だから、家族を何とか守ろうとする貴方がたの気持ちも、少しくらいは理解できるつもりです。そう続けた少年提督は、肩越しに霞の方を見てから、太った男に向き直った。男もまた、少年提督と霞を交互に見て渋い表情になる。

 

「お前にとっての家族は、そうか……、その艦娘たちか。“花盛りの鎮守府”らしい」

 

「蔑称らしいですが、その呼び名のことを僕は気に入っているんですがね」

 

「そうか。実りの種が出来るのは、全ての花弁が散った後だがな」

 

霞は、自分の鳩尾あたりをぎゅっと押し込まれたかのような苦しさを感じた。胸が詰まる。

 

「あぁ、タゴールの言葉ですね」

 

少年提督は笑みを深める。

 

「“歴史というものは、虐げられた者たちの勝利を辛抱強く待ち、望んでいる”。……確か、彼の言葉にはそんなものもあったと思います」

 

 

 太った男が一度俯いて息を吐き出し、また顔を上げて少年提督を見詰めた。次の瞬間だった。太った男が、名刺を持っていない方の手をソファテーブルに伸ばした。そして、置かれたままだったカップを湯呑のように引っ掴んで、ぬるくなったコーヒーをゴクゴクと飲み干して見せた。何事かと思い、霞は眼を瞠る。秘書の男も驚いた表情を浮かべて、太った男を見ている。コーヒーを飲み終えた太った男は、カップをソーサーに置いて少年提督に向き直った。

 

「冷めて苦みが強く感じるが、うまいな」

 

太った男は、文字通り苦い顔をしていた。

 

「もう一杯、淹れてくれないか」

 

 その言葉に、少年提督の笑みの種類が変わった。彼の静謐な微笑みに、喜びが色を付けたのだ。少年提督と太った男の間に、遮るものが何もなくなったのを霞は感じた。

 

「えぇ。少しだけ待っていてください」

 

僅かに声を弾ませて、少年提督がそう答えたのと同時だったろうか。

 

「……私の分も、お願いできますか」

 

 秘書の男もコーヒーを飲み干して、軽く頭を下げた。

 

 霞は何も言えないままで、その光景を見ていた。さっきまで毒でも盛られているのではと警戒していたコーヒーを飲み、お代わりを要求するのは、太った男達が少年提督に対する何らかの信頼を向けたということなのだろう。それをすんなりと受け容れる少年提督のお人好しさには、呆れを通り越して苛立ちが募る。

 

 少年提督はソファから立ち上がり、コーヒーを淹れる準備を始めた。その背中に向けて、どうしてそんなに甘いのだと叫びそうになる。自分を殺そうとした者達の一部を、そんな簡単に赦していいのか。私達の気持ちはどうなるのだと。そんな言葉を抱えながら俯き、唇を噛んでいた時だ。

 

「すまなかった」

 

 太った男が、ソファに座ったままで霞にそう言った。いや、もしかしたら、太った男が少年提督へと言葉を発したタイミングで、偶然にも霞と眼が合っただけなのかもしれないが、とにかく、太った男は謝罪の言葉を口にした。

 

「解体破棄するなどと言って、申し訳ないことをした」

 

 太った男の言葉は、霞の感情を激しく揺さぶった。そんなことを謝りだすこの男に、激しい憎悪を抱かずにいられなかった。謝れば許されると思っているのか。霞の感情は爆発しそうになる。気付けば抜錨状態になっていた。

 

 殺したり傷つけたりできずとも、艤装まで召還して完全な敵意を太った男達に向けずに済んだのは、太った男にも家族がいるという事実を再認識したからだ。本当に、ギリギリのところで踏みとどまった。霞は奥歯を噛みしめ、太った男の方を見ずに、「いえ。問題ありません」とだけ答える。無礼な物言いだったかもしれないが、太った男はそれ以上、何も言ってこなかった。

 

 少年提督も、太った男と霞の遣り取りを静かに見守るだけだった。無論、霞が満腔の敵意を漲らせ、太った男に向けて罵声や恨み言をぶつけようものなら、何らかの反応を見せたのだろうが、その必要も無いと判断したに違いなかった。少年提督がコーヒーを用意するまでは沈黙が続いたが、険悪さは無かった。コーヒーの香りと共に緊張が解け、執務室にも弛緩した空気がようやく流れる。

 

「それで、……お前は、俺に何をさせたいんだ? 誰かを殺せば良いのか?」

 

 そう言って目に力を込める太った男は、少年提督の要求を飲み込む覚悟を決めたに違いない。自暴自棄に付着した大胆さからくる開き直りではなく、恵みを求めて縋りつこうとする神に、捧げなければならない供物を窺うような神妙さがあった。秘書の男もソファに座ったままで居住まいを正す。灰色の猫が「にゃあ」と一つ鳴いて、秘書の男の太腿に飛び乗り、ごろんと丸くなる。二人分のコーヒーの用意を済ませた少年提督が、太った男に振り返った。何を言い出すのかと霞も緊張したが、彼は穏やかな苦笑を浮かべて緩く首を振った。

 

「いえ、そんな物騒なことをお願いするつもりはありませんよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年提督が男達に頼んだ内容は、“激戦期の頃に行われていた、艦娘や深海棲艦、それに生きた人間を用いた実験記録や、捨て艦戦法などを用いた作戦記録などが何処に保管されているのかを調べて欲しい”ということだった。それを調べてどうするつもりなのか、という太った男の質問に対して少年提督は、「本営に対する大きな牽制になります」と、落ち着いた笑みを湛えて答えていた。それが嫌に印象に残っている。

 

 ふと、野獣のことが思い浮かんだ。野獣は今、自身の先輩や後輩と共に、艦娘たちと世間との距離を測り、共存の道を模索し続けている。それは政治家や民間団体を相手に交渉と協力を重ねながら、世界に散らばっている希望を拾い集めていくような地道な活動だ。一方で少年提督は、“黒幕達”を相手取り、社会の闇のど真ん中に分け入っていこうとしている。少年提督と太った男との遣り取りを思い返すと、そんなふうに思えて仕方なかった。

 

 

 

 霞は俯き、雨粒に叩かれる足元の舗装道を見詰めながら歩いていた。今は、太った男達が帰るのを見送ったあとで、工廠へ立ち寄る途中だった。雨脚は強くもなく弱くもない。暗い空から粛々と降り続き、鎮守府を濡らしている。少年提督と太った男達の遣り取りを思い返していると、蛇の目傘を持つ手に力が入った。秘書艦娘用に、彼が買ってくれていたものだ。前を歩く少年提督の背中を見詰める。彼も傘をさしている。特別に注文でもしたのだろう、春風と同じ柄の和傘だ。

 

 ただ奇妙なことに、少年提督と、少年提督が差した和傘は、この雨の中にあっても全く濡れていない。本来、それは在り得ないことだ。地面には雨が跳ね、水溜まりが出来上がっているの。少なくとも、濡れていない個所などは無い。それなのに、彼が履いている革靴には雨粒一つ付着していない。

 

 まるで世界が、彼という存在を容赦なく拒んでいるかのようでもあるし、彼自体がこの雨に濡れる景色の一部に溶け込んでいるかのようでもあった。ただ、そんな異様な光景を前にしても、「アンタさ、別に傘なんて差さなくてもいいんじゃないの?」なんて軽口を言える程度には、ここ暫くのあいだで霞も慣れていた。

 

「そうかもしれません。でも、折角ですし」

 

 照れ臭そうでもあり、少々バツが悪そうでもある笑みを浮かべた少年提督が、歩を緩めて霞を振り返った。

 

「それに、僕は雨の日が好きなんですよ」

 

「へぇ。初めて聞いたわ。じゃあ、晴れの日が嫌いなわけ?」

 

霞が彼に追いつき、並んで歩く。

 

「いえ、そんなことは無いですよ。晴れの日も、曇りの日も好きです」

 

「なにそれ。全部好きなんじゃない」

 

 雨音の中で聞く少年提督の言葉は冗談なのか本気なのか判然としない。

 

「春風さんに教えて貰ったんです。何かを好きになるということは、理屈ではないと」

 

「ふぅん。そんなこと言われたのね」

 

「えぇ。物事を難しく考え過ぎだ、とも言われました」

 

 彼は力なく浮かべた笑みには自嘲と自省が混じり合っていた。「まったくその通りじゃない」と霞が鼻を鳴らして見せると、彼は微苦笑のまま「すみません」と零した。雨の中に頼りなく響いた彼の声からは、自身の欠点を自覚しながらも、それを克服する為の努力を放棄する諦めが感じられた。霞はどう答えていいのか分からず、相槌を打つのも遅れた。少年提督が何かを言い掛け、一度それを飲み込む気配があった。沈黙を雨音が埋める。彼が何かを言おうとしている。言葉を促すように、霞は隣を歩く彼を見た。

 

「……今まで当たり前であったことを、とても愛おしく感じるようになったんですよ。いや、感謝するようになったと言った方が正しいのかもしれません」

 

 少年提督は霞を横目で見てから、暗い空を仰いだ。相変わらず、少年提督の持つ傘には雨粒が落ちていない。出来の悪いコントのように寒々しくて、不穏だった。一方で、霞の持つ傘を雨が叩く音は、嫌味ったらしいほどに大きく聞こえる。雨を降らす世界は、霞を絶対に無視しないし、逃がしてはくれない。

 

「日々の些事に無頓着であるよりは、そっちの方が謙虚で良いわ」

 

 霞は歩く速度を落とさず、横目で少年提督を見詰める。彼も歩きながら、「前向きに心を入れ替えた結果として謙虚になったのならば、確かにそうだと思います」と、雨雲が詰まった空から視線を落とした。

 

 

「自分で自分のことを分析するのは得意ではありませんが、僕の場合は、生物として当たり前である筈の“死”というものと無縁となってしまったことが原因ですよ。謙虚とはほど遠いものですよ」

 

彼は濡れた地面と、全く濡れていない自分の靴の爪先を見つめている。

 

「水や空気があることに、僕は感謝したこともありませんでした。在って当たり前だと思っていましたから」

 

 しかし、今は違う。彼には、当たり前である筈のものが大きく欠落したのだ。不死という超常の前では、正論も暴論も意味を為さない。今の少年提督は、一人一種族だ。その孤独は恐らく、積み上げて来た日々の営みをこの上なく愛おしく見せることだろう。

 

「……だから今になって、晴れの日や雨の日が好きになったってわけね」

 

「傲慢なことだと思いませんか」

 

 霞は、どう答えるべきか分からなかったが、無性に苛立つのを感じた。少年提督が自身を卑下する理屈を、どうしようもなく破壊したくなったのだ。霞は息を吸ってから、横目で少年提督を睨んだ。

 

「良いことを思い付いたわ」

 

「えっ」

 

言葉とは裏腹に不機嫌さを隠そうともしない霞の視線に、少年提督が目を僅かに見開いた。

 

「この鎮守府の襲撃を企てた“黒幕”達を全員、アンタと同じように不老不死にしてやれば良いのよ。奴等のお望み通りにね。不死になったアンタの苦痛を分け与えてやればいい。そうすれば“黒幕”達にとっても、自分の日常を見詰め直す良い機会になるわ」

 

 その乱暴な物言いに、最初は少々驚いた様子だった少年提督も次第に笑みを浮かべた。披露された悪戯の内容を面白がるような、少年提督にとっては珍しく、悪ノリを楽しむ笑顔だった。

 

「“黒幕”の皆さんも、晴れの日や雨の日に、感謝するようになるでしょうか」

 

「アンタの理屈で言えばね」

 

 霞は鼻を鳴らしてから、持っていた傘を少しだけ下げて、彼の持つ和傘の中へと入りこむ。遠慮せずに、ぐっと少年提督に顔を近づけた。彼が少し驚いた表情を見せて身を引いた。霞はそれを逃さず、傘を持っていない方の手で人差し指を突き出し、「今のアンタみたいにウジウジ悩んで、見せ掛けだけでも謙虚になるんじゃないの」と、少年提督の鼻の先を3回つついた。彼は眼を丸くして何度か瞬きをし、そのままの表情で霞を見詰めていたが、すぐに笑みを浮かべた。

 

「それは、うん、いい考えだと思います。しかし……」

 

 突然だった。本当に、なんの前触れも無かった。

 

 言葉を切った少年提督は完全な無表情になって、ぐいっと霞の顔を覗きこんで来る。今度は霞が身体を後退させる番だった。少年提督の紫色の無機質な瞳に、自分の顔が映し出されている。雨音が遠ざかっていく。無論、そんな筈は無い。だが、少年提督が纏い始めた超常の雰囲気が、霞の持つ感覚の全てを鷲掴みにしたのだ。

 

「『“その不老不死を一般化する過程で、間違いなく人間という概念は消滅する”』」

 

 少年提督の声の背後には全く違う者の声が十重二十重に響き、波折りのように深く重なっていた。この世界に非ざる者の声だ。懐かしくすら感じた。恐怖も無かった。心の底から気に食わない知人と出くわしたような不愉快さが胸に渦を巻く。彼との話の間に割り込んでこられたことに本気で苛立った。

 

「久しぶりね。元気そうで何より」

 

 遠慮も配慮もなくその苛立ちに任せ、霞は眉間に皺を寄せて少年提督の胸倉を掴んで押し返す。彼は、――彼の内に取り込まれた“何者”か――は、抵抗を見せない。軽口を叩きながらも霞は歯を剥いて少年提督を睨むが、彼は無表情のまま、左右の瞼をちぐはぐのタイミングで瞬きさせるだけだ。

 

「『“この少年によって齎される技術の進化は、人間という種の繁栄に貢献しない”』」

 

“何者”かは無表情のまま、朗々と告げる。霞と会話をするつもりは無いのだろう。表情にも声音にも、コミュニケーションを取ろうという意思が感じられない。

 

「『“お前の考えは、優れた案とは言い難い”』」

 

「あのさぁ、そんなの言われなくても分かってるわよ」

 

「『“何?”』」

 

「冗談に決まってるでしょ」

 

「『“そうなのか?”』」

 

 “何者”かが不思議そうな顔をする。纏う雰囲気に全くそぐわない間抜けな反応だった。遠慮も配慮も無く、霞はもう一度鼻をならした。

 

「ねぇ、アンタみたいなカミサマ達って、ひょっとして馬鹿なワケ?」

 

「『“可能性は否定できん”』」

 

「はぁ~、……あほくさ」

 

 ピントのずれた反応に呆れた、といよりも疲れてきて、霞は掴んでいた胸倉を乱暴に放した時だ。彼は手にしていた和傘を取り落とした。見れば、無表情だった少年提督が表情を歪めて、左手で顔を抑えたまま俯いた。そして、自身の精神内部に存在する“何者”かと、少年提督自身の自我を同期させるかのように、二度、三度と短く何かを唱えながら、頭を振る。頭痛や眩暈を払うような仕種だった。

 

 降り続いている雨は、相変わらず彼を無視したままだ。いや、畏れて、遠巻きに様子を窺うように彼を避けている。彼が手放した傘だけを遠慮がち濡らしていた。頭を抱えた彼に、霞は駆け寄ろうとした。だが、深呼吸をした彼がゆっくりと顔を上げて、頼りない笑みを浮かべる方が早かった。

 

「……すみません。もう大丈夫だと思います」

 

 掠れかけた声で言う少年提督の体からは、あの夜の襲撃の時のように淡い燐光が漏れ出し、捻じれ、立ち昇ろうとしている。ただ、その光の色は深紫色ではなく、琥珀と象牙色が混じり合う、美しい煌めきに満ちたものだった。琥珀色の光は降りくる雨粒を捉えて宝石のような反射を生み出し、象牙色の光は彼の足元で燻る潦を伝い、明滅する帯を引いていた。

 

 そのうち、彼の体から溢れ出した光は、雨水を伝いながら大きく膨れあがり、霞の目の前の空間を飲み込む。空中の雨粒と流れる雨水が一斉に金属へと変質し、姿を変えていく。それは間違いなく奇跡と呼びうる現象に違いなく、不意を突かれた霞は立ち尽くす。

 

 金属となって集まった雨粒が、生物に生まれ変わり、一斉に動き出した。あれは、魚だ。魚の大群だ。大きなものも、小さなものもいる。雨の降る中空を泳ぎ回る魚の群れは、集まっては揺らぎ、その姿を何匹もの鯨や、鮫、鯱、あるいは海豚などに変えながら、少年提督の周囲を泳ぎ回った。少年提督も軽く驚いた表情を浮かべながらも、宙を軽くかき回すように指先をくるくると回し、魚の群れの動きを操ろうとしていた。少々慌てている少年提督の指先にも、琥珀と象牙の色が灯っている。

 

 どうやらあの様子では、この魚の群れが突然に造り出されたのは、彼の意志とは全く関係のない現象のようだ。では、誰の意思なのか? 恐らくだが、誰のものでもない。これは事故だ。少年提督が自身の内側に抑え込んでいるものが溢れ、それが周囲の物質に生命を与えてしまったのだ。

 

「……えぇと、もう、大丈夫だと思います」

 

 さっきと同じようなセリフを口にした少年提督は、ぎこちない笑みを浮かべている。まるで、水の入ったコップを不注意で倒して中身を零してしまい、慌てて後片付けを終えたような、気恥ずかしさと申し訳なさが入り混じった笑みだった。中空を自在に泳ぎ回っていた魚や鯨や鯱、それに海豚などが、ようやく少年提督の指の動きに従うようにして大人しくなり、彼の周りをぐるりと遊泳しはじめている。

 

 

 少し離れた場所からそれを眺めている霞には、まるで目に見えない巨大な水槽が目の前に現れ、その中で、少年提督が魚たちと優雅に戯れているかのようだった。目の前の景色に目を奪われ、その場に立ち尽くしながらも、霞は鬱陶しそうに眼を細めて奥歯を噛み、舌打ちを堪えた。この神秘的であると同時に非現実的な光景の只中にある彼の、一体何がどう大丈夫なのかを問い詰めたい気持ちだったが、そんなことをしても何の意味もないことも分かっている。いちいち驚くのも不毛だ。そう自分に言い聞かせる。

 

「なら良いんだけどね」

 

 霞はワザと声を太くして答えて、地面に落ちた和傘に近づく。この少年提督が大丈夫と言うのならば、大丈夫なのだ。そう思うしかない。仮に大丈夫じゃなくても、霞が彼のために出来ることなど多寡が知れている。霞は艦娘だ。軍属の戦力だ。種族としての役割と居場所が在る。

 

 彼の手から零れたことによって、和傘は彼の持つ超常からも離れ、霞の居る“層”へと戻って来ていた。彼の手の中にあった時には全く濡れていなかった筈だが、今では舗装道を力なく転がり、雨にその全身を曝している。己の機能を取り戻し、黙々と表面で雨を弾いている。誰の手の中になくとも、徹底的に傘は傘だ。それは全く自然なことであり、当然のことだ。だが、そこに揺るがない力強さと、設計された機能美を感じた。一切の迷いも疑いも無く、自分の使命を全うできるその姿に、今の霞は羨望に近い感情を抱きそうになった。開かれたまま転がる和傘の柄を掴み、拾い上げる。ようやく雨に濡れた傘は、霞の手の中で胸を張るかのように堂々として見えた。

 

 私も、こんな風にならねばならない。アイデンティティを軍事力に括りつけられた艦娘である自分も、誰かの為にではなく、己自身の矜持の為に、戦いという役割に自分の存在を預けなければならない時が来る予感が在った。広がった和傘の鮮やかな色の向こうに、雨雲がぎっしりと詰まっているのが見えた。

 

「さっきみたいなの、割と頻繁にあるの? だったら、業務に支障をきたすわよ」

 

 霞がつっけんどんに言いながら、和傘を渡そうと少年提督に近づいた時だ。彼の周りを泳いでいる魚たちが、人懐っこく霞にも近づいてきた。喉や首筋の後ろ、頬や二の腕、太腿などを啄ばむように口を寄せてくる。それも数が少なければ「くすぐったい」で済むかもしれないが、大群で来られると鬱陶しくてかなわなかった。逃げようとしてもついてくる。

 

「だぁぁ! もう! 邪魔くさいわねっ!」

 

 両手に傘を持ったままの霞は、宙を泳ぐ魚たちに追い掛けられる。それを見た少年提督が可笑しそうに笑った。

 

「なに笑ってんのよ!」

 

「あぁ、いえっ、すみません」

 

 霞に怒鳴られ、慌てて少年提督が宙をかき回すように右手の人差し指を振った。すると魚たちは霞を追いかけるのを止めて、再び少年提督を囲むようにして泳ぎ始める。ほっと息を吐いた霞は憮然とした表情を作り、「んっ!」と、少年提督へと和傘を突き返した。

 

「……もう一回聴くけど、本当に大丈夫なワケ?」

 

 何でもないふうを装うつもりでも、声が震えた。少年提督は霞から和傘を受け取り、濡れもしないくせに大事にそうに持っている。ただ和傘の方は、少々不満げに見えるのは霞の気のせいだろうか。彼は「えぇ。すみません」と、霞の問いには曖昧に頷き、ただ柔らかな表情を浮かべている。

 

「まぁ、さっさと工廠に行きましょう」

 

沈黙が続くのが嫌で、霞は顎で歩くように促した。

 

「アンタ、私との約束、ちゃんと覚えてる?」

 

 霞と少年提督が並んで歩くと、雨を縫うようにして魚の群れも付いてくる。肩越しに振り返ってみると、自分が海の中を歩いているかのように錯覚してしまいそうだった。少年提督も背後を振り返り、雨に沈む鎮守府を眺めていることに気付く。彼の眼差しには、まるで今の景色を見納めるかのような憂いと寂しさを含んでいた。

 

「クマさんの下着のことを、誰にも言わない……、だったでしょうか?」

 

「ほっ、なっ! ちっ、違うわよっ!! 黙って此処から居なくならないって約束よ!!」

 

 霞が叫ぶと、魚たちがぶわっと離れた。少年提督は少しだけ苦しそうな笑みを浮かべ、霞から視線を逸らした。それを誤魔化すためか、周囲を泳ぐ魚たちをあやすように右手を動かす。「えぇ、僕は居なくなったりはしませんよ」と、霞の方を見ないままで、少年提督は答えた。雨脚が微かにだが強まり、鎮守府を包もうとする暗がりが深みを増した。空にぎっしりと詰まった雨雲が、こちらを見下ろしている。

 

「……そう」

 

 霞も、短く答えた。この少年提督は、あの太った男たちを泰然とした貫禄で飲み込んでしまうくせに、こういう時につく嘘は本当に下手だと思った。ただ、その下手糞な優しさは、自身の決断を決して翻さない頑なさの裏返しなのだろうとも思う。傘を握る手に力が籠った。

 

「私もね、タゴールって人の言葉を一つだけ知ってるわ」

 

霞は、雨が流れていく足元を見つめながら言う。

 

「“人々は残酷だが、人は優しい”、だったかしら」

 

「えぇ。確か、そんな言葉も在ったと思います」

 

彼が視線を向けてくる気配と同時に、あの太った男の姿が思い出された。

 

「アンタは、まだ人?」

 

「……いえ、違いますよ」

 

少年提督は自虐も迷いもない、穏やかな声で言う。

 

「まぁ、そうよね」

 

 霞も、そう言うより無かった。空を見ると、隙間なく詰まった雨雲が此方を窺うように見下ろしている。予報では明日は晴れるらしいが、この調子では明日も雨ではないか。霞は雨空から視線をずらし、彼の持つ和傘を見遣った。彼の手の中に戻った和傘は、再び彼の纏う超常の内側に取り込まれて雨から遠ざかり、また濡れることが出来なくなっていた。和傘は彼の手の中で俯き、何処か悄然として見える。自身の機能を果たせず、彼の役に立つこともない状態だ。その姿が、今の自分に深く重なって見える。雨脚がまた強くなった。

 

 








 


 いつも読んでくださり、また暖かく応援してくださり、本当にありがとうございます!
 誤字報告までいただき、本当に皆様に助けていただいております……。

 完結を目指し、何とかよちよち歩きを続けていきたいと思います。
 話数としては、あと数話程度に纏められればと考えております。
 不定期更新ですが、またお付き合い頂ければ幸いです。

 今回も最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ある日の艦娘囀線2



●ご指摘、ご指導をいただき、
 短編から連載に変更させていただきました。


 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

FOOOOOO↑!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

お前らに朗報だゾ!

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

聞きたくないです

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

勘弁して下さい

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

昼食を摂りに行ったきり

4時間も帰ってこない提督の言う“朗報”なんて

聞きたくもないんだけど

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

@Beast of Heartbeat おい野獣

貴様、今どこに居る?

 

 

≪飛龍@hiryu1.●●●●●≫

そういえば今日の秘書艦、長門さんと陸奥さんでしたね……

 

 

≪アークロイヤル@Ark Royal1.●●●●●≫

いつもの流れだな

最近、こういうのを見るとホッとするよ

 

 

≪ゴトランド@gotland1.●●●●●≫

えぇ……

 

 

≪イントレピッド@Essex5.●●●●●≫

Gotlandは最近配属されたばかりだから、

此処の日常にまだ慣れてないのね

 

 

≪ゴトランド@gotland1.●●●●●≫

じゃあ、これが普通なの……

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

@gotland1.●●●●● 

残念ながら

 

 

≪ガングート@Gangut1.●●●●●≫

こういうのを風物詩というらしいな

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

多分、全然違うと思うんですけど……

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

風情も何も無いものね

それで? 朗報って言うのは?

私たちの提督が、予定よりも早く出張から帰って来れそうとか?

 

 

≪高雄.takao1.●●●●●≫

確かに、それなら朗報ですね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

アイツが帰ってくるのはもう暫く先だゾ

予定が早まったっていう話は聞かねぇなぁ

@kagerou15. ●●●●● なぁ野分ィ!

 

 

≪野分@kagerou15. ●●●●●≫

はい。私たちも提督からは、特に連絡を受けていません

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

年頃の少年提督と少女提督……。

二人での出張……。

何も起きない筈もなく……。

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

そういうふうに茶化すのは良くないと思うな

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

そうだよ

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

ただ、お二人は護衛も付けずに向かわれましたからね

不安になる皆さんの気持ちは分かります

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

@akagi1.●●●●● えぇ

お二人の身に何事もなければ良いのですが

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

心配ないわよ

仮にその“何か”が起こっても

どうせアイツをどうこう出来ないわ

 

 

≪曙@ayanami10. ●●●●●≫

@asasio10. ●●●●● 

その言い方はちょっと冷たいんじゃない?

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

別に冷たい言い方をしたかったワケじゃないんだけどね

私達があれこれ心配するほど、アイツはヤワじゃないって

そう言いたかったのよ。気を悪くしたなら謝るわ

ごめんなさい

 

 

≪曙@ayanami10. ●●●●●≫

謝って貰わなくてもいいけど

こっちこそ変なこと言ってごめん

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

@asasio10. ●●●●●

不知火は、霞の言葉を正しく受け取っていますよ

謝っていただくほどの事ではありません

お気遣い、感謝します

 

 

≪野分@kagerou15. ●●●●●≫

彼と行動を共にする以上、安全は確約されたようなものだと

私達の提督も仰っていました

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@kagerou15. ●●●●● そうだよ!

だから心配無いって、ヘーキヘーキ!

今のアイツをどうこう出来る奴らなんざ居ないからね

それは本営の連中も理解してるゾ

 

 

≪朝風@kamikaze2. ●●●●●≫

つまり?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

本営の老人共は、今のアイツに心底ビビッてますねぇ!

前みたいな入念で大規模な襲撃準備が整ってからしか動かないゾ

 

 

≪ガングート@Gangut1.●●●●●≫

言い方を変えれば

入念な準備さえ整えば、前のようなことがまた起こるのか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@Gangut1.●●●●● 可能性はありますねぇ!

でもまぁ、俺も知り合いたちと情報を共有してアンテナ張ってるんだからさ!

常にチャンネルをそういう情報に合わせてるから、安心しろよ~☆

何か起こりそうなら、すぐにお前らにも伝えるし

対策も用意してるゾゾゾ

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

具体的にはどのような?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

ひと先ずは

妖精たちに頼んで、この鎮守府を覆うだけの防御陣を張って貰ってるゾ

前みたいな艦娘無力化の術式展開も阻害できて、良いぞ~コレ!

 

 

≪武蔵@yamato2. ●●●●●≫

対応が後手後手だが

打てる手があるだけマシなんだろうな

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

お前はろくに仕事もせんが、

そういう対処法を用意するあたりは

腐っても“元帥”と言うべきか

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

アイツらの協力あってこそだって、それ一

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

それとさぁ……

俺がいつもサボってるみたいな言い草だけど

俺だって別に遊んでるワケじゃねぇんだよなぁ……

今日だってちゃんと執務もしてるんだからさ!

 

 

≪朝風@kamikaze2. ●●●●●≫

@Beast of Heartbeat 

嘘ばっか言いなさいよ

松風と春風がアンタを埠頭で見たって言ってたわ

いつものみたいに釣り竿持ってたらしいじゃない

 

 

≪ガンビア・ベイ@Gambier Bay.●●●●●≫

これは言い逃れできませんね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あれは釣り竿型の万年筆だゾ

クーラーボックスを机代わりにして

デスクワークをしてたんだよなぁ……

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

はいはい

 

 

≪摩耶@takao3.●●●●●≫

舐めてんのか

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@tenryu1. ●●●●● 

@takao3.●●●●●

なんだお前らの態度はオオン!?

俺は海の男だからなぁ

書類仕事も埠頭で片付ける派なんだよ!

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

潮風と日光のせいで、

大事な書類とかガビガビになると思うんですけど

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

何枚か風で飛ばされて海に落ちたけど、これって事故だよな?

 

 

≪翔鶴@syoukaku 1.●●●●●≫

何のための執務室なんですかね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

俺のプライベートルームみたいなモンでしょ?

もしくは、俺の王国!

英語で言うと、KINGDOM!

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

いや、仕事場やろ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

俺の王国には、仕事なんて言葉は存在しないんだよね

そもそも俺が法律みたいなモンやし

 

 

≪曙@ayanami10. ●●●●●≫

最低最悪の王じゃん

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

今の時代、絶対王政は流行らないと思うけれど

 

 

≪アークロイヤル@Ark Royal1.●●●●●≫

革命待った無しだな

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat 

この流れで言う“朗報”と言うのは、

革命……、いえ、

貴方のクビでも決まったのかしら?

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

えっ、それは……

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

マジ?

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

それは本当かい?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

違うに決まってんダルルォ!?

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

じゃあ何なのよ?

 

 

≪摩耶@takao3. ●●●●●≫

どうせ碌なモンじゃねぇんだろう

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

艦娘図鑑において

ギャラリーモードが追加されました ← New‼

サンプルボイスの再生が可能になりました ← New‼

 

 

≪長月.mutuki8 ●●●●●≫

えぇ……

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

イヤな予感

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

本当に碌でもなさそうですね

 

 

≪皐月@mutuki5. ●●●●●≫

ギャラリーモードって?

 

 

≪曙@ayanami10. ●●●●●≫

どうせイカガワシイ感じのモードなんでしょ

あほくさ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

そんな警戒しなくても大丈夫だって安心しろよー☆

お前らの超精密な3Dモデルを用意して、そのモデルを好きなアングルから

舐めくり回すように眺められるモードだゾ

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

そんなモードは即刻廃棄しろ!!

 

 

≪鹿島@katori2. ●●●●●≫

ここまで露骨にイカガワシイと、

何と言うか、潔さのようなものを感じますね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

ズームの倍率は191981010081倍までワンタッチで対応してるし、

細胞一つ一つまで観察できて、うん、いいみたい!

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

倍率がデカ過ぎる

 

 

≪嵐@kagerou16.●●●●●≫

細胞どころか原子配列まで軽く行きそうッスね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

スケベモードにはズーム機能が付きものだし、多少はね?

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

そうは言っても限度がありますよ……

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

自分でスケベモードって言ってるじゃない

 

 

≪香取@katori1. ●●●●●≫

そもそも実装されたズーム機能が桁違い過ぎて

モードの趣旨が崩壊しているように見えるのですが……

 

 

≪リシュリュー@Richelieu1.●●●●●≫

ねぇ、@Beast of Heartbeat

サンプルボイスっていうのは、私たちの声が再生されるんでしょう?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@Richelieu1.●●●●● そうだよ

テスト用に弄って調整した一例が

これだゾ → (鈴谷・音声ファイル.▲▲▲▲)

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

そんなの貼らなくていいから

 

 

≪熊野@mogami4.●●●●●≫

とんでもない大音量で

「チィィィィィィイイイイiiiiiiiiiiiiiッス!!!!」

っていう鈴谷ボイスが再生されましたわ……

 

 

≪ジャーヴィス@J1.●●●●●≫

駆逐艦寮の外に居た小鳥たちが一斉に飛んでったよ

 

 

≪ガンビア・ベイ@Gambier Bay.●●●●●≫

びっくりした~

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zepplin1.●●●●●≫

コーヒーを零した

 

 

≪プリンツ・オイゲン@Admiral Hipper3.●●●●●≫

寮部屋のガラスがビリビリ震えてるんですけど

 

 

≪翔鶴@syoukaku 1.●●●●●≫

空母寮のサロンに居るんですが

長門さんと鈴谷さんの声がいろんな方角から響いてきてます

 

 

≪山城@fusou2. ●●●●●≫

戦艦寮でも聞こえますけど、音量が余りにも迫真なせいか

まるで警報サイレンみたいになってますよ

 

 

≪瑞鶴@syoukaku 2.●●●●●≫

みんな怖いもの見たさで再生してるんですかね……

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat  いくら何でも弄り過ぎィ! 

こんな気合の入りまくった挨拶したことないんだけど!!

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat

下らないことをさせると貴方の右に出る者はいませんね

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

同感です

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

仕事をサボってまで完成させたのに

反応が寒くてアーナキソ……

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

そりゃそうですよ

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

仕事をサボってるってことも白状してるしね

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

もう許せるぞオイ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@nagato1. ●●●●● 

あっ、そうだ!

こっちも貼り忘れてたなぁ

→ (長門・(≧Д≦)ンアァァーー☆.▲▲▲▲)

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

貼らんでいい!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

まま、そう怒んないでよ

たまには俺にだって、気分転換をしたい日があるんだからさ

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

普段の仕事はちゃんとしてるみたいな言い方やな……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな

既に今年は4日ぐらい真面目に働いてるんだからさ!

例年を遥かに上回ってるゾ

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

@Beast of Heartbeat 

ホンマに!? めっちゃ頑張ってるやん!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@ryuzyo1. ●●●●● 

ダルルルォ!?

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

皮肉を言われてるんだよ、野獣

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あっ、そっかぁ……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あっ、そうだ!

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

@Beast of Heartbeat

まだ何かあんの?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

ウン

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

まずうちさぁ、更に何人かの

艦娘のY●uT●beデビューと

テレビ番組への出演を本営から提案されてんだけど……

やってかない?

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

いつものヤツじゃねぇか

 

 

≪大和@yamato1. ●●●●●≫

どうも胡散臭く感じてしまいますね

 

 

≪武蔵@yamato2. ●●●●●≫

あぁ、本営から来る話はどうもな……

艦娘図鑑・強化パッチの話をしている方が、まだ平和だ

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat それはやっぱり

『不幸ォ……ズ』の皆さんのテレビ出演が、

大きな話題を呼んだからでしょうか?

 

 

≪皐月@mutuki5. ●●●●●≫

『不幸ォ……ズ』のチャンネル登録者数って

今だとかなり多いよね?

 

 

≪長月@mutuki8. ●●●●●≫

確か、364364人ぐらいだった筈だ

 

 

≪曙@ayanami10. ●●●●●≫

@mutuki8. ●●●●●

めっちゃ細かく覚えてるじゃん

 

 

≪長月@mutuki8. ●●●●●≫

大ファンだからな

 

 

≪満潮@asasio3. ●●●●●≫

それだけ登録者数が居るともう、

押しも押されもせぬ人気配信者の仲間入りですよね

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

それに加えて、加賀さんも大きな話題になりましたからね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな!

ネットだけで活動してた時よりも反響が大きかったのは間違いないゾ

テレビ局にとっても視聴率が取れるし、うん、美味しい!

って感じでぇ……

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

しかし、この鎮守府が襲撃された事実を把握していながら

そういった案件を持ち込んでくるのはどういった腹積もりなのでしょうか

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

嫌がらせ、と言ってしまうには無神経で悪辣だな

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

本営が絡む話だし、まぁ多少(のキナ臭さ)はね?

艦娘達の活動は前にも増して注目されてるし、

その話題性を利用して、世間の人間には艦娘達を無害に見せたいんでしょ?

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

そういった艦娘達への注目自体が、

マスコミを手懐けた本営による仕組まれた演出なのかもしれませんが

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

終戦を迎えるまでは、是が非でも世間と艦娘の間に溝を作りたくないのね

 

 

≪武蔵@yamato2. ●●●●●≫

ついでに、過激派の提督達の悪感情を煽ることもできる

この鎮守府のことを好ましく思わない輩も増えるのであれば

“黒幕”共にとっても都合がいいんだろうな

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

世間が持つ艦娘への好感度がネットの中でまで育っていくっちゅうのは、

過激派の提督たちにしてみれば面白くないやろうしなぁ

 

 

≪愛宕@takao2. ●●●●●≫

軍属では無い人々と艦娘達の間を取り持ちつつ

提督達を始末したい人間も増やせる、ということね

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

本営にとっては一石二鳥なワケか

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

本営が何を企んでるのか分からないけど

今回はスルーしたらどう?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

それは俺も考えたんだけど、

本営の上層部も一枚岩じゃないからね。過激派の奴らがいれば、

終戦後の艦娘達の居場所を必死に作ろうとしてる奴らも一杯いるんだからさ

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

うん。それは理解してるつもりだよ

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

鈴谷も、って言うか、

此処の皆は、ちゃんと分かってると思うな

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

うちの鎮守府は特に、世間との交流イベントが豊富でしたからね

 

 

≪皐月@mutuki5. ●●●●●≫

鎮守府祭りとか秋刀魚祭りの時なんか、お客さんの数も凄かったもんね

 

 

≪満潮@asasio3. ●●●●●≫

あれは忙しかったわね……

 

 

≪曙@ayanami10. ●●●●●≫

ほんとにね

 

 

≪長月@mutuki8. ●●●●●≫

でも、充実していた

それに楽しかった

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

少なくとも、私たちの活動が世間に受け容れられている実感はありましたね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@akasi.1●●●●● 俺もソーナノ!

やっぱりお前らが積み上げてきた成果はクソデカだし、

それを続けていくのが大事って、それ一番言われてるから

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

@Beast of Heartbeat

私たちの活動が続くことによって

お前自身の命が狙われるようになってもか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

まぁ、ヘーキヘーキ!

案ずるよりも生むが易しだゾ

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat 

真面目な話よ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@nagato2.●●●●●

俺はいつだって大真面目なんだよね

お前らが海の上で命を張ってるんだからさ

俺も陸の上で、

お前らの為に命を懸けるのは当たり前だよなぁ?

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

そんだけ覚悟が固いんやったら、もう何も言わんわ

出来ることやったら協力したる

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

私も、野獣提督が信じるものを、私も信じたいと思います

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat 一つだけ良いかしら?

貴方がいつも「生きて帰って来い」と私たちに言うように、

貴方も、本当に危ないときは必ず逃げて

それだけ約束してくれるのなら、好きにすればいいわ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@kaga1.●●●●●

しょうがねぇな~ (・´з`・)

 

 

≪曙@ayanami10. ●●●●●≫

なんで不服そうなのよ

 

 

≪満潮@asasio3. ●●●●●≫

せっかく加賀さんが心配してくれてるのにさ

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

急に優しくされたから照れてるんでしょ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@ayanami10. ●●●●●

@asasio3. ●●●●●

@asasio10. ●●●●●

 

あっ、おい待てぃ!

加賀が急に優しくなったから照れてるんじゃなくて

なんかちょっと不気味だったから反応に困っただけゾ

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

なんてこと言うのよアンタは

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

構わないわ

約束してくれるのなら、それで

 

 

≪飛龍@hiryu1.●●●●●≫

あの、加賀さん

野獣提督への態度、なんか、凄く柔らかくないですか?

 

 

≪蒼龍@souryu1.●●●●●≫

私も思った

 

 

≪大鳳@taihou 1.●●●●●≫

違和感がありますよね

 

 

≪翔鶴@syoukaku 1.●●●●●≫

もしかして

アカウントが乗っ取られてるんじゃ……

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

何を馬鹿なことを言っているの

貴女たちは

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

@kaga1.●●●●●

何か弱みでも握られているのか?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@nagato1. ●●●●● おいゴラァ!!

何だその俺がパワハラ上司みたいな言い方ぁ!

これは問題だよなぁ?

 

 

≪瑞鶴@syoukaku 2.●●●●●≫

いや、野獣さんの人望の問題だよ

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

そうわよ

私も長門と同じことを思ったもの

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

不知火もです

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

悲しいなぁ……

 

 

≪リシュリュー@Richelieu1.●●●●●≫

迫真のすっとぼけね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

俺の何が悪いのだよ?

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

日頃の行いでしょ

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zepplin1.●●●●●≫

普段の態度だろう

 

 

≪大和@yamato1. ●●●●●≫

これも、今までの積み重ねですね

 

 

≪武蔵@yamato2. ●●●●●≫

これからはもっと善行を積むことだな、野獣

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

善行を積むって意味なら

榛名の3D全部入り(意味深)モデルの無料配布を

既に予定してるんだよぁ……

 

 

≪榛名@kongou3. ●●●●●≫

tyo

 

 

≪摩耶@takao3. ●●●●●≫

@Beast of Heartbeat

そういうのは善行じゃなくて

悪行っつーんだよ

 

 

≪榛名@kongou3. ●●●●●≫

ちょっと!! 止めてくださいよ本当に!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

榛名なら大丈夫……、大丈夫じゃない?

 

 

≪榛名@kongou3. ●●●●●≫

大丈夫じゃないです!!

さすがに許しませんよ!!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あっ、そうだ!

やっぱり榛名といえば、あの名台詞だよな!

榛名は――?

 

 

≪榛名@kongou3. ●●●●●≫

大丈夫じゃないですよ!!

何を言わせようとしてるんですか!?

 

 

≪金剛@kongou1. ●●●●●≫

@Beast of Heartbeat  

Heyheyhey野獣! あんまり榛名を苛めないで下さいヨー!

 

 

≪霧島@kongou4. ●●●●●≫

そうですよ

榛名が怒ったら本当に恐ろしいんですから

野獣提督だって知ってるでしょう

 

 

≪アイオワ@AIOW1.●●●●●≫

そうなの? ちょっと意外かも

 

 

≪イントレピッド@Essex5.●●●●●≫

普段から榛名ってお淑やかだし、そういうイメージが無いわ

 

 

≪比叡@kongou2. ●●●●●≫

榛名はあぁ見えて、

キレたら何をしでかすか分からないタイプなんです

 

 

≪サラトガ@Lexington2.●●●●●≫

Oh……、それは……

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zepplin1.●●●●●≫

いつも優しい者ほど、怒ると恐ろしいものだからな

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

じゃあ、とりあえず

榛名イジリはこのヘンにしとくか

 

 

≪ゴトランド@gotland1.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat

そういう所がダメっていう話なんじゃないの?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あっ、おい、@gotland1.●●●●●

これからはお前にも活躍して貰うから

あとで送る企画書、見とけよ見とけよ~

 

 

≪ゴトランド@gotland1.●●●●●≫

えっ、ゴトも何かやるの?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

そうだよ。一応の予定では

●ゴトゴト☆生命保険

●ゴトゴト☆金融をスタートさせていくから

仮想通貨“ゴトゴト”も発行していくから、はい、よろしくぅ!!

 

 

≪ゴトランド@gotland1.●●●●●≫

何を言ってるのか

ちょっと分かんないんだけど

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

またワケの分からんことを……

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

@Beast of Heartbeat

よろしくぅ!! じゃないですよ!

新しい会社でも立ち上げるんですか!?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな! これからの時代、

艦娘達もビジネスシーンにローションを持ち込まないとな!

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

ソリューションだろ

ローション持ち込んでどうすんだよ

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

取り合えずゴトランドにはまず、CMに出て貰うから

 

 

≪アークロイヤル@Ark Royal1.●●●●●≫

会社としての実態も実績も無いのにCMを用意するのか……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

俺は形から入るタイプなんだよ!

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

いや、まぁCMを用意するだけなら

法律的な問題は無さそうですけど

 

 

≪ゴトランド@gotland1.●●●●●≫

一応訊くけど、

CMって、ゴトは何をすれば良いの?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@gotland1.●●●●● やっぱり印象が大事だから

ゴトランドのステキな笑顔を振りまいてくれればいいゾ!

「スマホでお手軽・簡単、114514秒見積もり!」

って感じでぇ!

 

 

≪飛龍@hiryu1.●●●●●≫

遅すぎィ!!!

 

 

≪嵐@kagerou16. ●●●●●≫

ガッツリ見積もられるんスねぇ……

 

 

≪鹿島@katori2. ●●●●●≫

30時間以上も掛かっているんですがそれは

 

 

≪香取@katori1. ●●●●●≫

お手軽・簡単と銘打つには、難が在るかと

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

そもそも生命保険とか、鎮守府の業務と接点あんの?

畑違いもいいトコだと思うんだけど……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

まぁ、大丈夫でしょ? あとは、

●ゴトゴト☆宇宙旅行

●給食センター☆ゴトゴト

●ゴトゴト☆知育教材

●ゴトゴト☆建設

●ゴトゴト☆生鮮マーケット

●ゴトゴト☆運輸

●ゴトゴト☆鉄鋼

●ゴトゴト☆etc……

って感じで予定してるゾ!

 

 

≪武蔵@yamato2. ●●●●●≫

たまげた手広さだなぁ

 

 

≪大和@yamato1. ●●●●●≫

経済戦争まで視野に入れてるんですかね……

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

もうこれわかんねぇな

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

墓石から宇宙船までカバーする

ゴトゴト☆コーポレーションを宜しく!!

 

 

≪大鳳@taihou1. ●●●●●≫

超大規模なコングロマリット企業ですねコレは……

 

 

≪蒼龍@souryu1.●●●●●≫

業務の幅が厚過ぎる

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

その実務は誰が引き受けるんですかね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

そりゃお前、

ゴトゴト☆ワンオペで決まりッ!

 

 

≪ゴトランド@gotland1.●●●●●≫

物理的に無理でしょ

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

労働時間こわれる

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

ソリューションを齎すどころか

社会問題を鎮守府に招き入れるのは本当にNG

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

ワンチャン、

現代社会に深く切り込んだ風刺になるかもダルルォ?

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

そんな凶悪な開き直り方やめてくだいよ……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

まぁ、細かいところは

コールセンター大淀にも任せるから安心!

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

あぁ^~、仕事が増えすぎて狂う^~~

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

大淀さん可哀そう……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

まぁ、あくまで予定だから

直近でゴトにやってもらう事は稲刈りの手伝いだゾ

●●地方の山村集落に出向いてもらって

現地農家の人達と協力して、美味しいお米を収穫して貰うから

あとは畑仕事にもチャレンジして貰うゾゾゾ

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

その地名、聞いたことあるかも

すっごく美味しいブランド米とか野菜を

作ってるとこじゃないですか?

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

なかなか出回らなくて話題らしいですね

テレビでやってました

確か、◆◆◆◆っていう銘柄だったと思いますが

 

 

≪鈴谷@mogami3.●●●●●≫

その銘柄のお米袋、食堂で見たことあるかも

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

僕も在るよ

食堂の片づけを手伝う時だったかな

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@kagerou1.●●●●● 

@mogami3.●●●●●

@siratuyu2. ●●●●● そうだよ

お前らも美味い米を食べたいダルルォ?

俺が直接買い付けに行ってるうちに、

現地の人達と仲良くなっちゃってさぁ!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

山間部で過疎高齢化が進んでるけど、

地域に根付いた産業は誇れるものだし、

それを残したいって人も多いからね

 

 

≪武蔵@yamato2. ●●●●●≫

地域の農産業を継ぐ者も減少しているということか

農産物を流通に乗せるまでの仕事も負担になりそうだな

 

 

≪大和@yamato1. ●●●●●≫

それを、今まで野獣提督が買い支えてきたと

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

支えるなんて、そんな偉いモンじゃないゾ

まぁとにかく、当日は地元のテレビ局も取材に来るだに、

ここは一つ、若者たちにも影響力のある

お前ら艦娘の出番……、

お前らの出番じゃない?

 

 

≪大和@yamato1. ●●●●●≫

なるほど

本営からの提案というものに対する回答として

艦娘達が農業活動する姿を、地域のテレビ局で放映して貰う

というワケですね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@yamato1. ●●●●●

まぁ、そうなるな

一応、先方と本営には話はつけてあるゾ

 

本営も俺達も、誰も損しない、

良い落としどころだと思ってさぁ!

ゴトランド@gotland1.●●●●● 

お前どう? やってかない?

 

 

≪ゴトランド@gotland1.●●●●●≫

真面目な取り組みなんだね

ゴトも喜んで参加させて貰うよ

って言うかさ、そういうのを先に言ってよ

もうちょっとで携帯端末の電源落とすところだったんだけど

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@gotland1.●●●●● ありがとナス!

せっかくだからここは一つ、他の艦娘も大勢参加して

このイベントを盛り上げねぇか?

 

 

≪アイオワ@AIOW1.●●●●●≫

@Beast of Heartbeat  

それはGood ideaね!

 

 

≪ウォースパイト@Queen Elizabeth2.●●●●●≫

えぇ、いい考えだと思うわ

 

 

≪ローマ@V.Veneto4.●●●●●≫

さっきまでの頭のおかしい話にはついていけないけど

そういうのなら賛成

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

私も参加するわ

お米好きだし

 

 

≪プリンツ・オイゲン@Admiral Hipper3.●●●●●≫

鳳翔さん、間宮さん、それに伊良湖さんのおかげで

姉さまも私も、すっかり日本食のファンになっちゃいましたよね

 

 

≪ローマ@V.Veneto4.●●●●●≫

私もです。美味しいですよね

食べ過ぎに気をつけなきゃいけないぐらい

 

 

≪アークロイヤル@Ark Royal1.●●●●●≫

ビスマルクが参加するなら、私も出よう

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

この流れは良いねぇ~! 

それじゃあ当日は新米を美味しく食べるために

鳳翔たちにも来てもらいますかぁ~、oh^~?

 

 

≪鳳翔@housyou1.●●●●●≫

えぇ、私などで良ければ、喜んでお手伝いさせて貰います

 

 

≪鳳翔@housyou1.●●●●●≫

ちょうど今、食堂の休憩室で

間宮さんと伊良湖ちゃんと一緒にお茶をしていたんですけど

お二人も、お手伝いさせて下さいとのことです

でも、テレビが来るということで、少し緊張しますね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

やったぜ。

これで、若者たちの目に留まって

●●地方に移住して農業をはじめてみたいって人間が出てきたら、

やっぱり……、最高やな!

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

あともう一つデカいイベントがあって、■■地方の漁師町でぇ、

漁師の仕事を体験してもらうってのがあってぇ……

それにお前らも参加して貰うみたいな……

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

深海棲艦が現れてから、消えていった漁師町は多いと聞いています

暮らしを維持していくだけの働き手の確保が難しい業界ですよね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

農業と一緒で自然に左右されるし、

獲れる魚の種類が偏ったり、価格の変動幅も大きかったりで

深海棲艦が現れなくても大変な仕事だからね

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

漁を護衛する艦娘を招くにも、高い費用が必要になるからな

だが、そうか

だからこそ、艦娘自身が漁をすれば良い、という発想か

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

町おこしのプログラムを利用して

私たち艦娘の可能性もアピールできますね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@kagerou2.●●●●● おっ、そうだな!

やっぱり、共存を目指すならWinwinの関係が一番!

他種族からの搾取なんて馬鹿らしいですよ裁判長!

ラブ&ピース!!

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

理想主義的な綺麗事に聞こえますが

まぁ、だからこそ、

それを志すことに価値があるのでしょうね

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

その理想に連れられ、随分遠くに来たような気がします

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

せやな。でも、まだまだ付き合うで

ウチらの提督も、結構な理想主義者やし

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

おっ、そうだな!

でも、アイツと俺じゃ、目指す風景が一緒でも

それを覗くレンズが違うからね

いずれ、違う道を歩くことになるかもしれねぇなぁ……

 

 

≪龍驤@ryuzyo1. ●●●●●≫

ウチからしたらその未来は、ちょっと想像しにくいけどな

何だかんだ在っても、キミらはずっとつるんでるんちゃう?

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

@ryuzyo1. ●●●●●

まぁ、なんにせよ

未来が見えねぇってのは怖ぇなぁ

 








いつも暖かな感想や評価、メッセージを寄せて頂き、ありがとうございます!
誤字も多く、本当に読者の皆様に助けて貰ってばかりで申し訳ありません……。
不定期更新ではありますが、またお付き合い頂ければ幸いです。

暑い日が続いておりますが、皆様も体調には気をつけて下さいませ
今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

本日は晴天なり





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女提督は執務机に腰かけて、自分の前髪を弄っていた。前までは黒髪だった筈だが、一部が白くなっている。あの襲撃の夜からだ。少年提督のAIと意識を同期して、大規模な施術式を扱ったのが原因なのは明白だった。体に負担が掛かりまくって寿命が縮み、それが体のバロメーターである髪に出てきたのだろう。ただ、体調自体に問題は無いし、仕事にも支障のないことだった。染めようかとも思ったが、面倒だからまぁいいかと放置している。

 

 自分の白髪を見ていると、同じような少年提督の白髪が思いだされた。最近の彼は、随分と出張を重ねている。その間、彼の配下にある艦娘の運用は、不知火が預かる形だった。ただ、流石は激戦期を戦い抜いた猛者ぞろいの艦隊であり、任務や遠征での失敗は一つもなく、彼女たちは仕事を完璧にこなしている。執務に関しても、少年提督しか扱えないものを除き、全て処理済みにして彼の帰りを待っている状態である。

 

 野獣の方はといえば、今日もどこかでサボって釣りでもしているのだろう。艦娘囀線で長門がキレ散らかしていたので、やはりいつも通りと言える。大規模な作戦も無事に終え、今日も鎮守府は一応の平穏と日常を送っている。それが惰性であったとしても、貴重な時間に思えた。

 

 

 

 少女提督は一つ息を吐いて、手元にある地方新聞を広げた。野獣が取り寄せてくれたものだ。そこには大きく“艦娘達との交流”の文字が在り、カラーの写真が幾つか並んでいる。写っているのは、農作業着に身を包んだ艦娘達と、農家の人々が共に働く姿だった。少し前に行われた、艦娘達を農村に招くというイベントの記事である。

 

 このイベントに参加にしたのは、駆逐艦娘と海外艦娘が主体だった。これは本営からの指示もあったようだ。小、中校生や海外の学生が、田んぼで稲刈りの体験をしているという景色は、自然学習や観光の面から言っても、珍しいものではない。だから、日本的な農業を学び、体験しているのが駆逐艦娘と海外艦娘であれば、ある種の『艦娘を友好的に演出しようとする意図』が、そこまでワザとらしくならないのでは無いか、という期待が在ったのだろう。ただ、記事で紹介されている写真は、本営のそういった打算的で狡猾な考えを微塵も感じさせないだけの誠実感と臨場感に溢れていた。

 

 

 

 まず、記事の最初の写真には、農作業着に身を包んだアイオワやウォースパイト、それにリットリオが鎌を手に稲を刈っている姿だった。彼女たちは農作業着を、まるで一つの完成されたファッションのように着こなしていながらも、地元の農家の人々から浮くこともなく、その労働の景色の中に溶け込んでいる。写真から見るに、彼女たちが居る田んぼは、その土地の地形、道幅の狭さなどが原因で、コンバインのような農業機械が入っていけない場所にあるようだ。突き抜けるような青空の下、彼女たちの眼差しは真剣ながら、瑞々しい体験を喜ぶ笑顔が浮かんでおり、その頬には透明な汗が伝っている。

 

 別の写真に視線を移すと、コンバインを高級外車のように軽やかに操縦するリシュリューとアークロイヤルの姿が映っていた。農業車両を動かすための免許を、この日の為に軍部の特殊講習・訓練によって取得した彼女達は、その怜悧な蒼い眼で稲穂が風に揺れる波を見詰めている。農業という職業が持つ本来の高貴さを、余すことなく体現するかのような凛とした佇まいを見せている。

 

 有り余る元気を体中から発散させる駆逐艦娘達は、稲刈りだけでなく畑仕事の手伝いもしていた。年配である農家の人々から鍬や鋤の使い方を教わる彼女たちの姿は微笑ましく、写真の中にも優しい雰囲気が溢れていた。続く写真では、陽炎や不知火、それに皐月、長月、霰、曙たちが、耕作が放棄されていた畑地を耕そうとしている場面だった。

 

 背が高く育った雑草を長月が刈って、残ったものを皐月が毟り、霰がそれらを集めてコンテナで運んでいる姿が映っており、また別の写真には、頬を軽く土で汚した曙が陽炎と共に、乾いて固くなった土に鍬を打ち込む姿があった。その後ろの方からは、不知火が重い肥料袋を肩の上に幾つも積み上げて運んできている。

 

 続く写真には、一応の作業が終わったあとか、昼休憩のものなのだろう。農家の人々と艦娘達が、おにぎりを手に談笑している。おにぎりを頬張り目を輝かせている暁とビスマルクの姿を、嬉しそうに眺める農家の人々の様子を見るに地元の米であることに違いなさそうだ。地元の主婦から大粒の氷が入ったコップを手渡され、そこに茶を注いで貰っているグラーフとローマの姿も、なんとも言えず長閑な風景に馴染んでいた。

 

 米が美味しいということは、その米で作る酒もまた美味なのだろう。農作業服のおじさん達に混じり、一升瓶から酒を注いで貰っているポーラの姿も映っている。喜色満面のポーラのふにゃふにゃ笑顔は幸せそうで、気持ちよく酔っぱらったポーラが普段のように服を脱ぎださないかとハラハラした様子のザラも、ポーラの後ろの方に写っている。

 

 取材に来ていたテレビ局のクルー達にも、この地域で採れる野菜を使った料理を振舞っているのは鳳翔と間宮、それに伊良湖だ。彼女たちは地域に伝わる伝統的な野菜料理を教わり、それをまた違ったアプローチで調理してみせた。つまりは、洋風や中華風へのアレンジを加えたのだ。彼女たちの料理を食べてみて、その美味しさに驚いているのはクルーだけではなかった。鳳翔、間宮、伊良湖の3人が地元の主婦たちと微笑みを交し合い、何かを教えあうような様子の写真もある。それは見るからに料理の話題で華やぎ、それぞれに持つ情報を交換しあっているのが窺えた。

 

 少女提督はゆっくりと息を吐きだしてから、もう一度、新聞紙の上から下までをじっくりと眺めた。それらの写真のどれもが奥行きを持ち、色彩を備え、少女提督の五感を捉える。活き活きとした労働のリズムの中になる艦娘達の息遣いが聞こえてくるかのようだ。眺めている少女提督の肌に炎天の暑さと、草の匂いの混じった風の感触を想起させた。艦娘達と地元の人々の活力に満ちた笑い声や掛け声が聞こえてくるような気さえして、自然と笑みが零れる。

 

 

「あぁ、前のイベントの記事ですね」

 

 新聞を眺めることに夢中になっていると、すぐ隣で懐かしむように言う声がした。秘書艦娘である野分が、淹れたコーヒーを執務机に置いてくれたのだ。野分は目元を緩めて、新聞に載っている写真を順に見ている。新聞紙を広げたままで、そっと息を吐いた。コーヒーの香りが、興奮状態にあった少女提督の感覚をゆっくりと沈めてくれる。

 

「当日はめちゃくちゃ暑かったみたいね」

 

「でも、天気には恵まれました」

 

「そうとも言えるわね。どう、楽しかった?」

 

「はい。とても有意義な時間でしたよ」

 

 腕時計を見ると、ちょうどオヤツの時間だった。「いつも淹れて貰って悪いわね。ありがとう」と礼を述べてから、少女提督はコーヒーを一口飲む。美味しい。息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。野分は「何を仰います。これくらいで」と、苦笑交じりで此方に答えながら秘書艦用の執務机に戻り、すぐに仕事を始めようとしている。生真面目なことだ。

 

「少し休憩したら?」

 

「私は、仕事を終わらせてから休憩しますので」

 

そう言って優しくも爽やかな微笑みを見せる野分に、少女提督は軽く肩を竦める。

 

「それは休憩とは言わないわね」

 

「では、キリのいい所まで進めてから休憩をいただきます」

 

 小さく苦笑を浮かべた野分が、秘書艦娘用の執務机に積まれた書類に向き直ったのと同じが、少し遅いタイミングだった。少女提督の執務机の上に置かれたタブレット端末が、短い電子音を鳴らす。メールが届いた。初老の男からだ。心臓が僅か跳ねるのが分かった。呼吸が一瞬だけ止まる。野分が視線だけで此方を見ている。それには気づかないふりをして、少女提督は手にしていた新聞を机の端に置き、コーヒーを一口啜る。それから伸びをし、欠伸をかみ殺すフリをして見せた。今しがたタブレットに届いたメールが、特に気になるものでは無かったことをアピールするかのように。

 

「コーヒーのカフェインが効いてくるのって20分後くらいだっけ?」

 

「えぇ、確かそうだった気がします。15分程度の仮眠の前にコーヒーを飲むと、スッキリと起きることが出来るという話も、聞いたことがありますね」

 

「へぇ、今度試してみるわ。個人差はあるんでしょうけど」

 

「眠いのでしたら、今から試してみては如何ですか? 急ぎの仕事は片付けた筈ですし」

 

「そうしたいけど、溜まってるメールも処理しなきゃなのよね」

 

 少女提督は眠気に耐えているふうを装いながらコーヒーを啜り、タブレット端末を操作する。初老の男からのメールを開く。内容は、本営上層部の老人たちや、襲撃事件の黒幕達が何かを企てているのかについてだ。少女提督が初老の男に調査を頼んだものである。

 

“近いうちに、そちらで管理している全て深海棲艦の引き渡し命令が下る”。

“同時に、少年提督と野獣提督には全艦娘剥奪命令が下される”

“艦娘を剥奪した後、彼らを飼殺す準備も進めている”

 

 

 要点を絞れば、そういう内容が纏められていた。軽い眩暈を覚え、コーヒーの味が分からなくなる。だが、自分を落ち着かせるために、いつものペースで啜る。取り乱しても仕方がない。冷静さが必要だ。のたうつ程の焦燥感や、叫びだす程の絶望感はあったが、こういった状況が社会の裏側で進んでいることは予想していた。ただ、無ければいいなと願っていたが、叶わなかった。それだけの事だ。そう自分に言い聞かせながら、メールにもう一度目を通す。

 

 

 

 

 

 “あの襲撃事件から逃げ帰って来た一人の提督が、深海棲艦を引き連れた少女提督と遭遇したという報告が在った。深海棲艦を手懐け、襲撃部隊を退けたというのだ。それが事実であるとすれば、これは深刻な問題だ。何せ、人類の天敵を味方に付ける者が現れたという事に他ならない”

 

 “だが調べてみれば、少女提督は技術分野での活躍は著しいが、武勲によって元帥となった者ではないことが分かった。提督としての適性が低い少女提督が、強大な深海棲艦を率いることが出来ていたのは、何かカラクリがあるのでは無いかと考える者と、少年提督のAIが開発されていたことを指摘する者が現れた”

 

 “そこで本営上層部や黒幕達は、開発されていた少年提督のAIを少女提督が無断で使用し、深海棲艦のコントロールを得て、襲撃者たちへと差し向けたのだと推察している。危険視すべきは少女提督ではなく、少年提督AIの方だという認識だ”

 

 “少女提督に対しては、何らかのペナルティも予定していた。だが、少年提督と野獣を始末した後、残された艦娘達をどこに預けるかという問題を解決するためには、少女提督の存在は有用だった。”

 

 “野獣達の下に居る艦娘は、すべて人格を持っている。複雑な感情を備えている。これらは兵器として致命的な欠陥である。だが、艦娘達のスペックを大幅に引き上げるのも、この感情である。フォーマットされた人格だけを残し、思考と感情を破壊した木偶の艦娘をいくら集めても、あの鎮守府の艦娘達の戦力には到底及ばない。野獣提督から艦娘を剥奪した後、その艦娘達をどのように制御するかという問題は非常に大きい”

 

 “今の人類優勢を維持するためには、あの鎮守府の艦娘達の存在は必要不可欠だ。そして人格を持つ艦娘達を最高の水準で運用するには、提督との信頼関係が構築されていることが前提となる。新しい提督を野獣の代わりに送り込んだところで、艦娘達に信用され、信頼されるのは至難だろう。そうなれば、あの鎮守府の艦娘達は今までのような大きな戦果を挙げるだけのスペックを維持しづらくなるのも必至だ”

 

 “この観点から、少女提督を残し、少年提督と野獣提督から剥奪した艦娘達を彼女に運用させようとしている”

 

 

 タブレットを見詰めたまま、少女提督はコーヒーをまた一口啜り、小さく息を吐いた。胸に渦巻く焦燥感をゆっくりと飲み込む。気付けば、手元に置いてあった新聞紙をぎゅっと握っていた。新聞紙には皺がより、少女提督の手汗を吸って表面を微かに波打たせている。新聞紙に載っている写真には、野分も映っていた。写真の中の野分は、農家の人々と笑顔を交し合いながら稲の束を運んでいる。

 

 その人々の温もりに満ちた光景と、タブレットに表示されている文面の内容が、同じ現実の中で同時進行している事実も、やはり予想できていた。覚悟もしていたつもりだ。だが、今の少女提督は、明確に打ちのめされていた。違う二つの世界があって、それを交互に覗き込んでいるかのような錯覚を覚える。飲み下した筈の焦燥感が、絶望を伴って喉元にせり上がってくる。奥歯を噛んで目を閉じて、両瞼を指で揉んだ。また、野分の視線を感じる。今の自分の動揺を取り繕うように、再び欠伸を堪えるフリをして感情を飲み込む。

 

気付けば、コーヒーを飲み干していた。

 

「ご馳走様。……やっぱり、ちょっと寝てくる」

 

 少女提督は椅子から立ち上がって伸びをする。無意識に新聞紙を畳んで、丸め、握りこんでいた。タブレットにロックを掛けて、執務机の引き出しにしまう。手が震えそうになるのを堪える。野分が此方を見た。

 

「わかりました。あと、私に出来る仕事があれば」

 

「あぁ、良いって良いって。急ぎの仕事は済ましたし、あとは自分のペースでするからさ」

 

少女提督は軽く手を挙げる。

 

「もしかしたら、一時間くらい帰ってこないかも。その間に野分の仕事が終わっちゃったら、もう今日はあがってくれていいからさ」

 

 心配そうな表情を浮かべた野分は、何かを言おうと視線を一瞬だけ揺らした。だが、「……分かりました」と、すぐに立ち上がって敬礼を見せてくれた。恐らくだが野分は、少女提督の下に届いたメールの内容が、大変な内容であることも察している。それでも何も言わずにいてくれるのは、少女提督への信頼だろうか。それとも、艦娘の身では決して力の及ばぬ領域の話なのだろうと諦め、余計な詮索をすることを避けたのか。それは判然としなかった。

 

 いつまでも頼りない自分が不甲斐なく、心苦しく思う。

 

 少女提督は執務室を出て、自室に向かう。

 窓からの陽の光が、廊下の空気をのんびりと暖めていた。

 青い空は高く、嫌味ったらしいほどに天気がいい。

 早足に歩きながら、携帯端末を取り出す。

 

『情報が集まるのに少し時間が掛かってしまってね』

 

 初老の男への通信は、すぐに繋がった。

 

『此方で調べられることは、粗方調べたつもりだ』

 

「ありがとう御座います。何から何まで助けて頂いて」

 

『いや、礼を言われるほどの事では無い。むしろ、この程度しか役に立てず、申し訳ないと思っているよ。相手も巨大でね。これ以上の深入りは、私にも出来なそうにない』

 

 初老の男の声は低く、物騒な貫禄と威厳に満ち、重厚な威圧感と誠意に溢れている。この声が、不法や非法とは関係の無い領域で、少女提督と裏社会を繋いでいる。端末の向こうで、『……君の睨んだ通りだ』と零し、一つ息を吐きだした。

 

『本営上層部や黒幕達は、少年と野獣を飼い殺そうとしているのは間違いない。彼らを力づくで抹殺するのは諦めたようだがね』

 

「はい……。今回の大規模作戦で、人類優位が揺るぎないものであると確信したのでしょう。優秀な提督である彼らを排除しても、艦娘達さえ居れば、現状に大きな影響は無いだろうと判断したのだと思います」

 

『しかし、艦娘を剥奪するなどという命令は、随分と強引だ』

 

「恐らく、彼らは簡単には従わないでしょう。私には思いつかないような対抗策を用意している可能性もあります」

 

『確かに、あの二人なら何かをやってくれそうな気がするが……、少し気になることが在ってね』

 

「……気になること?」

 

 少女提督は端末を持ち直しながら、周囲を見回した。廊下には少女提督以外、誰もいない。端末の向こうで初老の男が誰かと話をするのが聞こえた。よく聞き取れなかったが不穏な雰囲気であることは分かった。

 

『本営上層部の老人たちは、今まで行ってきた非人道的な活動記録の改竄と偽造を始めているようだ。艦娘の人体実験に関する記録はもとより、艦娘達の精神や思考を制御する術式開発などのね』

 

「そ、それは、やはり……」

 

『あぁ。そういった実験や研究の主導者を、あの少年と野獣に仕立てあげる肚なんだろう。実際に実験を行った者達については、架空の名前を記録書に載せることで守り、その現場を指揮した者の名前を彼らのものへと書き換えている、という話だ』

 

 少女提督はその場にへたり込みそうになるが、足に力を籠めて踏ん張る。こちらを押し潰そうとする絶望を、何とか跳ね返そうとする。

 

「し、しかし、改竄や偽造された事実が隠蔽されているとしても、そういった凄惨な実験記録が表に出れば、本営も世間からの信頼を失います」

 

『確かに、本営も厳しい眼で見られることになるだろうね。……だが、“艦娘を用いた実験が、ある特定の鎮守府と施設で秘密裏に行われていた”という形で発表されたなら、話は変わってくる。確かに本営は責任を負うことになるが、世間からの非難をまともに浴びるのは』

 

「人体実験を行っていたとされる鎮守府と、それを指揮した人物……」

 

『あの少年と野獣提督、それに、君の居る鎮守府、ということになる。記録と世間の中ではね』

 

 少女提督は壁に凭れ掛かる。体から力が抜けていく。

 

 改竄・偽造された記録が出回れば、少年提督と野獣は、表向きは人間と艦娘の共存を目指していながら、裏では艦娘達の体を切り刻み、調べ、データを揃え、それを金に換えようとしていたのだと世間に広まる。この鎮守府の艦娘達が先頭に立ち、人間性のアピールを社会に続けてきた成果もあり、身勝手な欲望に翻弄された艦娘たちに対し、世間は強い憐憫と同情を向けるだろう。同時に、少年提督と野獣は、世間から見て許されない大罪人として認識されることになるのは明白だった。

 

 そうなれば、少年提督と野獣が、艦娘たちを運用する『提督』ではいられなくなるのも疑いようがない。世間から吹き上がる義憤は、非人道的な実験が繰り返された忌むべき場所としてのこの鎮守府を、実質的な閉鎖、解体へと追い込む。それだけではなく、野獣たちと協力関係にあった者達にも疑いの目が向けられることになる。つまり黒幕達は、この艦娘剥奪命令に大人しく従わなければ、少年提督や野獣だけでなく、彼らの活動に関わった全ての人間を巻き込むぞ、と脅迫しているのだ。

 

 無論、艦娘を用いた凄惨な実験が行われていた事実については、本営も責任を負うことになる。世間からの信頼を大きく損なうことになるだろう。これは黒幕達にとっても相当な痛手である筈だ。終戦後、人々を導く立場に立ちたい本営と、その本営の威光のもとで利益を貪ろうとする黒幕達は、世間的にクリーンでなければならない。だからこそ、深海棲艦の襲撃に見せかけた少年提督の暗殺と、野獣の遺体の回収を企てたのだ。

 

 だが、その襲撃事件が失敗に終わった今、黒幕達は、本営が泥を被るリスクを選択した。艦娘に対する友好的なムードが世間に広まる中で、艦娘を用いた凄惨な実験の記録を公表することを厭わなくなった。黒幕達も、出し惜しみをするのをやめたのだ。

 

 それに、世間から失った信頼を取り戻す方法は、比較的簡単に用意できる。もともと過激派の提督達が用意していたシナリオを流用するだけでいい。つまり、艦娘が人間を襲う事件を意図的に起こし、艦娘という種が、実はいつ暴走するか分からない危険な存在であるというイメージを社会に植え付け、それと同時に、艦娘達の深海棲艦化現象の研究報告を発表すれば、最終的に人々は本営を頼らざるを得なくなる。世間からの信用を回復させるシナリオとしては粗末なものかもしれないが、それを実現させうる黒幕達の巨大な影響力の前では、この鎮守府は無力だ。

 

 思わず、長い息が漏れる。

 窓から見える空が、やけに青い。吐き気がする。

 

『それと、……あの少年も、黒幕のうちの数人とコンタクトを取って、何かをしようとしているようだ。つい最近も、テレビなどのメディアに強い力を持った者とも接触している』

 

「えっ、彼が?」

 

 一瞬、思考が止まった。

 確かに、最近はやけに出張が多かったのは確かだ。

『黒幕達の弱みになるようなネタを掴み、協力するように脅したのか、君たちを裏切る準備をしているのかは定かではないがね。彼もどうやら、改竄や偽造がなされている記録の類にアプローチしているようだ。残念ながら、詳しいところまでは調査できなかった。私も、本格的に“奴ら”と敵対するわけにはいかないのでね』

 

「……彼は、黒幕達の不正を暴こうとしているのでしょうか?」

 

『その可能性もあるが、あるいは……』

 

初老の男は、そこで言葉を切った。慎重に言葉を選んでいるようにも、浮かんだ考えをそのまま少女提督に話すことを躊躇したようにも思えた。言葉の続きを待つが、初老の男は、『いや……』と、言葉を濁す。

 

『彼の目的はハッキリとは分からないが、君なら直接本人に訊くこともできるだろう』

 

「本当のことを話してくれるとは思えませんが」

 

『あぁ、その可能性も高い』

 

 初老の男の声が僅かに弾んだ。端末の向こうで、苦い表情で笑みを浮かべているのが分かった。少女提督も、少しだけ笑う。今の状況に参りきっているがゆえの苦笑の類だ。『まぁ、しかし』と言葉を続けた初老の男の声は、低く、鋭さを増していた。

 

『黒幕達の持つ力は、政治的に見ても、経済的に見ても、とてつもなく巨大だ。影響力の塊で、手の出しようがない。だが、どれだけ巨大であろうと、理念ではなく利益で繋がっている以上、一枚岩ではないことは間違いない。終戦後の権力を巡って、黒幕同士で牽制しあい、足を引っ張りあうようなことも当然あるだろう。そこに、あの少年が付け入る隙があるのは事実だ。……少年の動向には気をつけた方がいい』

 

 

 

 初老の男との通話を終了してから、少女提督は廊下の壁に凭れ掛かり、自分の足元を見詰めていた。これから何をすべきかを考えようとするが、上手くいかない。思考が働かない。視界の焦点がぼやけ、曖昧になる。何度か強く瞬きをする。深呼吸をする。顔を上げる。後頭部を壁につけて、窓の外を眺めた。やはり空は晴れ、海は青く、両者はこちらに無関心のままで、漫然と広がっている。どこか遠い世界に、たった一人で置き去りにされたような心細さを感じた。蹲りたくなる。

 

 手の中にある端末に視線を落とす。ほとんど無意識だったが、回線を野獣に繋いだ。なかなか出ない。普段なら舌打ちでもしただろうが、今はそんな気力も無かった。あまりにも大きな衝撃を受けると心の機能がマヒするという話は聞いたことが在る。多くのものを一遍に失うと、それを悲しむ感情よりも先に現実感が抜け落ちるせいだろうか。今の自分の状態がそれなのかもしれない。そんなことをぼんやりと思っていると、回線がつながった。

 

 

 

 

『おっ、どうしました?(波音混じり)』

 

「話したいことがあるのよ」

 

 携帯端末の向こうで、野獣が釣り竿のリールを巻く音が聞こえる。やはり、いつものように埠頭か何処かで釣りを楽しみ、仕事サボりに勤しんでいるらしい。こんな時に何を暢気な事をやっているんだコイツは。流石に頭に血が上りそうになった。ただ、そうはならなかったのは端末の向こうの野獣が『もしかして、本営とか黒幕のことについてッスか?(お見通し先輩)』と、落ち着いた声を出したからだ。

 

「アンタ、知ってたの」

 

『当たり前だよなぁ?(王者の風格) 俺も色々と情報は集めてるんだからさ』

 

「そういえば、本営上層部にはアンタの先輩だか後輩だかが居るんだっけ。で、アンタの人脈を駆使して、何か打てる手はあるワケ?」

 

 結論を急ぐ少女提督に対して、野獣は一瞬だけ黙ってから『そうですねぇ……』と、間延びした声を出した。野獣がなんと答えるのかは、もう半ば予想は出来ていた。

 

『(俺達に出来ることは、基本的にはもう)ないです』

 

「でも、何か……」

 

『確かに、何か出来ることを探したいっていうのは、わかるねんな。そのキモチ(優しさ)。でも、黒幕どもと繋がってる本営上層部が、過去の人体実験記録を表に出す覚悟を固めた以上、もうどうしようもないゾ。俺とアイツを排除するために、持ってる権力とコネを遠慮もクソもなく全部使ってくるとか、あぁ^~、たまらねぇぜ!(反吐)』

 

「彼は、……黒幕達の何人かと接触してるみたいよ」

 

少年提督が何をしようとしているのか、野獣なら知っているかもしれないと思った。その予想は当たっていた。

 

『アイツは、記録の改竄とか偽造の妨害をしようとしてるみたいですねぇ。黒幕どもは、“過去の凄惨な実験は俺達が先導して行っていたもの”って形に持ち込みたいんだから、その為に揃えようとしてる書類なり記録なりの数を減らして、少しでも説得力を削りたいんでしょ? (俺もソーナノ。できる範囲で協力してるけど、どこまで有効なのかはわから)ないです』

 

「何よ、出来ることがあるんじゃん。私に手伝えることは?」

 

『ないです(断言)』

 

「なんでよ」

 

『俺らが今やってることは、マジで悪あがきだゾ。そんなものに付き合わなくていいから(良心)』

 

「でも」

 

『お前には、此処の艦娘どもが帰ってくる場所に、ちゃんと居て貰わないとなぁ!(希 望 を 託 す)』

 

「あきつ丸にも似たようなこと言われたわ。どいつもこいつも勝手なことばっかり言うわね。じゃあ訊くけど……、今の状況、艦娘の皆にどう話すつもりよ?」

 

『世の中には知らない方が良いってこともあるし、まぁ、多少はね?(幸福の側面)』

 

「それ本気で言ってる? 皆に黙ってるつもりなの?」

 

『そうだよ(鷹揚) 前みたいにこの鎮守府が襲撃されるってんなら、すぐにでも準備を始めるけどさぁ……。黒幕の狙いは、あくまで俺とアイツなんだからさ。俺らが大人しくしてれば、艦娘の奴らには危害は無いんだから、もう答えは一つだよなぁ?(名探偵)」

 

 少女提督は野獣の緊張感の無さに苛立つよりも、その暢気さが心強くも在り、同時に、動揺させられた。どうしてコイツには、こんなに余裕があるのだろう。いや、違う。この野獣の落ち着きぶりは、自分のすべきことや出来ることを全てやり尽くした上での、達観と諦観からくるものなのだろう。

 

『これ以上、アイツら巻き込んだらアカンねんな(しみじみ)』

 

 端末から聞こえる野獣の声には、正義を為すために尽力した満足感も、善良な意思を全うしようとする己への肯定も無かった。ただ、自らに訪れる残酷な未来を受け入れるための、冷静な覚悟と決心があった。自身の命を脇に置いてでも艦娘たちを第一に考えようとする野獣の姿勢に、少女提督は何を言うべきか分からなくなる。その沈黙を埋めるように、何かが水面を跳ねる音がした。野獣の釣り竿に魚が掛かったのだ。

 

『Fooo!↑↑ 今日は釣れますねぇ!(大漁先輩)』

 

 携帯端末をクーラーボックスに置く音がした。スピーカーが、野獣の居る埠頭の音を拾う。魚を釣り上げる音。波と風の音も聞こえる。少女提督は何を言うべきか分からないまま、また窓の外を見やる。空は青いままだ。野獣と過ごしてきた時間を思い出す。コイツはサボり魔で、いつも釣りばっかりしてたなぁ。懐かしさを感じている場合ではないが、そんな風に思ってから、気づいた。あぁ。そうか。こいつ、今までも執務室から抜け出してサボってたんじゃなくて、本当は……。

 

「……艦娘の皆に聞かせたくない話は、そうやってサボって釣りに行くフリしてやってたのね」

 

野獣はすぐには答えなかった。

 

「いろんな人に連絡取り合って、アレコレやってたんでしょ?」

 

『ん、何のこったよ?(すっとぼけ)』

 

 野獣は認めようとしない。だが、少女提督は確信した。執務室で殆ど仕事をしていない、ということは、執務室とは違う場所で何かをしていたということだ。少し前の艦娘囀線でもそうだったが、自分がサボっているのだと信じ込ませるために、この男はワケの分からない艦娘図鑑機能を作ったりしたのではないか。艦娘からの顰蹙を買うことで、事態の深刻さを隠し、この鎮守府の日常が翳るのを防いでいたのではないか。面倒で不器用な気遣いだが、この野獣という男が“野獣”でいるために必要なものに違いない。

 

『お前が何を言ってるのかちょっと分からないけど、まぁ、この話はアイツらに黙っといてくれよな~、頼むよ~(親心)』

 

「いいの? 時雨とか鈴谷とか悲しむんじゃない? それに、赤城も加賀も……、」

 

 言いながら少女提督は、自分の指揮下にある瑞鳳もまた、悲しむだろうと思った。それに少年提督の艦娘達だってそうだ。

 

『騒いでもどうしようもないことだし、多少はね? それに、俺達もわざわざ大人しく殺さたりしないんだよね。先輩と後輩に頼んで逃げ道も確保してあるし、その後の隠れ家も用意してあるから、安心!(万全)』

 

「加賀に言われなかったら、アンタ、何かやらかすつもりだったでしょ?」

 

『なんのこったよ?(エコー)』

 

「そりゃ、本営上層部の人なら、アンタたちに新しい戸籍でも何でも用意できるのかもしれないけどさ。……下手したら、みんなと別れの挨拶すらまともに出来ないかもしれないわよ」

 

 遠征や出撃任務に出向いている艦娘達にいたっては、最後の挨拶どころか顔を合わすことすらできないかもしれない。

 

『しょうがないね(覚悟済み)』

 

 その言葉から感じられる野獣の穏やかさには一切の綻びがなく、揺るぎもしない。少女提督が何をどう言おうと、この野獣という男は決心を翻すことは無いだろう。手に力が入った。クシャっと音がする。手の中にある新聞の感触が、ようやく甦った。皺がよった紙面には、先ほどと変わらずに艦娘達が映っている。艦娘達と笑いあう人々の姿が映っている。

 

 少女提督は大きく息を吸う。

 少年提督と野獣は、巨大な力の前に敗北する。

 屈従せざるを得なくなるだろう。

 

 だが、彼らが実践した“人々と艦娘の共存”という理想が破れた訳ではない。彼らの理想は、他の鎮守府の提督達の心にも情熱の根を下ろしつつある。それは間違いなく、この鎮守府の艦娘達自身が、人々との距離を縮めるための活動を、真摯に積み重ねる姿があったからだ。鎮守府祭りも、秋刀魚祭りも、テレビ出演も、この新聞に載る農業体験でも、彼女たちが誠実であり続けたからに他ならない。

 

 もしも黒幕達が、少年提督と野獣を表舞台から排除したとしても、その彼らの理想は、誰かの心の中に残り続けるだろう。終戦を迎え、艦娘の深海棲艦化現象が発表されたとしても、その悲劇的な事実を何とか乗り越え、艦娘と共存しようとする人々が現れるかもしれない。それが余りにもか細い希望であり、現実性も可能性も極めて低いことであることも理解している。深海棲艦に対する世間の憎悪は、まだまだ遠ざかりそうにはない。それでも野獣は、その可能性に賭けようとしているのだ。

 

 この野獣という男は、実は少年提督よりも遥かに理想主義者だったのだと、少女提督はようやく分かった。だが、もう他に手がないことも確かだった。現実に打ちのめされても、窓から見える空の青さは変わらない。海の蒼さも揺るがない。あの襲撃事件の夜に、見せられた未来を思う。あれから未来は変わったかもしれない。だが、細部が形を変えただけで結局は、艦娘たちが人間の奴隷になるかもしれない。

 

 黒幕達は、そういう道に人類を進めようとしている。自分たちを守ってくれた筈の艦娘達の人間性を破棄し、打倒した深海棲艦を磨り潰すように利用する未来が、すぐそこまで来ている。万事が研ぎ澄まされていく中で、人類はどうなるのだろう。

 

『まぁ、俺に出来るのは此処までだって、はっきりわかんだね(献身の果て)』

 

 端末の向こう側で、海を眺めて立ち尽くす野獣の姿が見えた気がした。野獣も少年提督も、諦めたのではない。この鎮守府の艦娘達を守るために、立ち止まらざるを得なくなった。艦娘たちの未来を、世間の人々に預けるしかなくなった。

 

 今の本営の命令に逆らえば、少年提督と野獣を大罪人として仕立て上げる情報が流れ、今まで協力関係にあった人々にも多大な影響が出る。つまり、非人道的な実験を行っていたあの鎮守府を通じて“艦娘の売買”に関わっていたのではないか、という嫌疑がかけられる。その証拠の捏造も可能な黒幕達にとっては、裁判で有罪を量産することも可能だ。

 

 つまり黒幕達は、少年提督や野獣、それに艦娘の人間性を信じてくれた善良な人々を人質に取った。今まで艦娘達が積み上げてきたものを破壊するのではなく、もっとも卑劣な方法で利用することを選んだのだ。もはや、対抗する術も無い。それだけのことだ。私には何が出来るのだろう。少女提督が自らの心に浮かんだその問いに答えを出すよりも、この世界の動きは速く、より残酷だった。

 

 

 この2週間後。野獣たちの鎮守府に、憲兵が押し掛けてくることになる。深海棲艦の引き渡し命令と共に、少年提督と野獣の管理下にある全艦娘の剥奪命令と、不知火と天龍、時雨と鈴谷の解体・破棄命令が下されたのだ。

 

 

 

 

 









 今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございます!
 広げた風呂敷を出来るだけ畳もうと、見苦しくジタバタしている状態ですが、見守って頂ければ幸いです……。
 また、誤字報告で助けて頂くことばかりで、本当に申し訳ありません。
 読者の皆様にはご迷惑をお掛けしております……。

 何とか完走できるよう頑張りたいと思います。
 いつも応援して下さり、本当にありがとうございます!
 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

周到と誤差の神

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日前、政界の大物数人が、“艦娘の売買”を行った疑いがあるとしてニュースが流れ、世間を騒がせた。彼ら社会の裏側で軍属の人間、それも、大本営上層部との繋がりがあったようだ。今回、ニュースにも名前が出た彼らはまず間違いなく、少年提督や野獣を始末しようとしていた“黒幕”達の一部なのだろうが、その悪事が隠蔽されることなく表沙汰になっているのが不穏だった。

 

 あれだけ大掛かりで手の込んだ鎮守府の襲撃に関しては、ほぼ完全に情報が操作、隠蔽されていた筈だ。にも関わらず、こうして世間から注目を浴びるようなニュースが出てくるということは、“黒幕”達の中でも権力や利益を巡った陰謀が渦を巻き、その謀略に嵌められ、蹴落とされた者が出始めたということだろう。

 

 世界は動き始めている。

 鈴谷を置き去りにしていこうとしている。

 

 

 鎮守府庁舎の地下にある禁固房に押し込まれて、どれほどの時間が経っただろう。この禁固房は艦娘用ではない。本来は鎮守府に不法に侵入した者や、軍規違反を起こした提督などを入れておくためのものだ。鉄格子の扉からは、冷えた空気が入ってくる。壁も床もコンクリートが剥き出しである。ベッドとトイレはあるものの、かなり狭い。壁の端から端まで、約4歩ほど。三畳より少し広い程度の広さだろうか。当然、ベッドとトイレも相応の大きさで配置されている。その固いベッドに腰掛けた鈴谷は、俯き、自分の足元を見詰めていた。

 

 どうして、こんなことになったのだろう。どうしていれば、こんなことにならなかったのだろう。何がいけなかったのだろう。何処かで、誰かが、何かを間違えたのだろうか。頭に浮かぶのはそんなことばかりだ。答えなど出ない。鈴谷の心の中に湧き上がろうとする憤りや憎しみといった感情は、それを上回る悲嘆と絶望が飲み込んでいた。体に力が入らないままで、鈴谷は自分の爪先を見つめたままで唇を小さく噛んだ。蛍光灯の無機質な光が冷えた空気に滲み、固いコンクリートの壁を照らしている。

 

 つい先ほどまでは、禁固房の鉄格子の向こう側には見張りの憲兵が立っていたが、今はいない。“抜錨”状態になることが出来ないよう、体の機能を大きくスポイルされた今の鈴谷たちを見張る必要はないと判断したのだろう。今の鈴谷たちでは、禁固房を破ることなど到底できない。解体・破棄施術を受ける時間までに、何らかの行動を起こすことは不可能だった。出来ることと言えば、ただ大人しくしているだけだ。

 

 

 寒い。寒いな。今日は。ひどく寒い。そう感じて、鈴谷は自分の体を抱きくようにして、両肩を手でさすった。指先や顎先が震える。それに呼吸も。寒い。息を吐く。だが、その吐息が白く煙ることはない。温度が低いのではない。ただ鈴谷が震えているだけだ。ぎゅっと目を瞑る。夢なら覚めて欲しい。そう願うが、鈴谷の心を捉える絶望感は、これ以上ないほどの現実感を伴い、体を震わせてくる。寒い。寒い。いや、寒いのではない。怖いのだ。息を震わせながら視線を上げ、鉄格子が嵌められた窓を見る。

 

 四角く切り取られた空は、灰色をしている。あの分厚い雲の層の上に青空が存在していることを思うと、野獣たちと過ごした日々が脳裏を巡り、涙が出そうになるが、それを堪える。息を大きく吸って、喉を震わせながら吐きだすのも、これで何度目だろうか。両手で顔を覆う。堪えていた嗚咽が漏れそうになる。

 

 心の中の水位が上がってくる。一度決壊すれば、もう、どうしようもなくなる予想はついていた。解体されて破棄されるときは、野獣に泣き顔は絶対に見せたくなかった。絶対に笑っててやると自分に誓った。でも、もう無理そうだと感じていた。強がりも理性も崩れ落ちて、心の中に縋るものが何も残らなくなりそうだ。視界が滲んだ。それが涙の雫となって、零れそうになった時だった。

 

「あっ。いっけねぇ」

 

 声が響いてきた。自分の声ではない。ぶっきらぼうな声音だが、芯があって力強い。それでいて、俯く鈴谷の肩を軽く叩いてくれるような優しい声だった。それが、隣の禁固房に入れられている天龍のものだと気づいたのと、ほぼ同時だった。

 

「……何ですか、こんな時に」

 

 天龍のものよりも少し遠くの禁固房から、もっと低い声がした。このドスの効いた重低音は、不知火のものだ。鈴谷は鼻を啜って顔を上げる。二人が会話を始めた。

 

「いや、龍田に借りてた本なんだが、返すの忘れてたんだよ」

 

「それくらいなら許してくれるでしょう。……どんな本を借りたんですか?」

 

「ちょっと昔の文学小説だよ」

 

「えっ」

 

「えっ、てなんだよお前、その反応はよ」

 

「いや、天龍さんが文学とか、笑えるくらい似合ってないと思っただけですよ」

 

「正直過ぎるだろお前」

 

「他意はありません」

 

「だろうな。こんな状況でケンカ売ってくるんだもんな」

 

「そんなつもりはありませんが」

 

「じゃあ、どういうつもりだよ」

 

「正直な感想を述べただけです」

 

「うるせぇんだよお前は」

 

 不知火と天龍のやり取りは、いつもの二人のものであり、日常の中で交わされるコミュニケーションの一つでしかなかった。中身は無いが、緊張も遠慮ない。それに今の状況に対する悲壮も絶望も、そして動揺も無い。他愛のない二人の会話が、胸に沁み込んでくる。今の自分の状況に押し潰されつつあった鈴谷の心を、そっと支えてくれた。おかげで、今にも自暴自棄に陥らずに済んだ。もう一度だけ鼻を啜った鈴谷は、零れかけた瞼の湿りを腕で拭い、顔を上げる。

 

「……それは、なんていう文学作品だったの?」

 

 そこに、また別の声が参加した。また別の禁固房に入れられている時雨だ。彼女の可憐でありながら落ち着いた声が少し震えているのは、多分、鈴谷の気のせいではない。天龍と不知火が持つ“日常”の空気を膨らませ、先ほどこまで禁固房を包んでいた冷たい沈黙を振り払い、遠ざけようとするかのようだった。そしてそれは、鈴谷も望んでいたことだった。時雨が訊かなければ、鈴谷が全く同じ質問を口にしていただろう。

 

 天龍がその作品の名前を答えると、不知火が「あぁ」と声を出し、時雨も「それなら、僕も読んだことあるよ」と答えた。声の様子からすると、どうやら不知火も読んだことがありそうだった。鈴谷はその作品名を聞いたことがある程度で、読んだことが無かった。この冷たい禁固房の中に“日常”の温もりを、出来るだけ持続させたいと思った。

 

「どんな内容なの?」

 

 そう訊いた鈴谷の声も、少し震えていた。だが、涙声にならずに済んだ。

 

「ん~、そうだな。なんか、放火する話だったな」

 

「そんな物騒な話なの……」 

 

 神妙な声で言う天龍に、思わず鈴谷は素の反応をしていた。

 

「まぁ、間違ってはいないけど」

 

 苦笑を浮かべているのだろう時雨の声が続き、そのあとで不知火が一つ息をつくのが聞こえた。

 

「主人公は、自身を追い詰める呪縛や矛盾と、その象徴を破壊する為に放火を決心する……、という内容だったと思います」

 

 不知火の低い声で要約された内容はやはり物騒に感じたものの、その行為の覚悟に至るまでには、その物語の主人公には多くの葛藤や経験の積み重ねがある筈だ。天龍が「そうだな。確かに、そんな内容だった」と、その文学を読んだときに抱えた感情を思い出すような、しんみりとした声をだした。

 

「まぁ、俺達は何かをぶっ壊すことも出来ねぇからな。結局、人間社会の付属品だったってわけだ」

 

「……そんなことは」

 

 時雨はそこまで言ってから、口を噤んだ。鈴谷も、何を言えばいいのか分からなかった。不知火がゆっくりと息を吐きだしたのが分かった。

 

「それでも不知火は、その役割の中で人生を得たのだと思っています」

 

「……俺たちは人間じゃねぇ。だから、人生じゃねぇだろ」

 

「細かいことを気にするくせに、龍田さんに本を返すのは忘れるんですね」

 

「うるせぇんだよお前はよ」

 

 バツが悪そうに言う天龍の声が、禁固房に響いた。鈴谷は視線を動かす。鉄格子がされている窓の外を見た。薄暗く、煤けた色の空が見える。今にも雨が降り出しそうな曇天だ。その雲の向こうには、間違いなく青空が広がっているのを思うと、この鎮守府で過ごしてきた記憶が、自然と溢れてきた。先ほどまで鈴谷の胸の内を支配していた絶望と無念が解け、暖かな気持ちが胸に満ちていくのを感じた。

 

「でもさ、人生って言える程度には、濃い時間だったよね」

 

 無意識のうちに、そう声に出していた。

 

 抗えない現実として、この鎮守府の“日常”は、今日で終わる。それはもう、鈴谷たちにはどうすることも出来ないことだ。少年提督も、少女提督も、野獣も、打つ手はない。この鎮守府の在り様も、圧倒的なこの世界の構造に飲み込まれて、世間が望む形に姿を変えていく。好む好まざるに関わらず、受け入れるしかない。

 

 鈴谷は今日、解体・破棄され、鈴谷では居られなくなる。鈴谷は、鈴谷ではなくなる。だが、それでも、鈴谷が過ごしてきた時間が無かったことになるわけではない。仲間の艦娘達は、この鎮守府での思い出を携えて、これからも戦っていくのだろう。終戦の日まで、海の上で気高く命を張り続ける仲間たちを想う。

 

「うん……、いろいろ在ったよね」

 

 時雨の声が響く。ゆっくりと記憶の蓋を開け、そこに仕舞われた宝物を愛おしむような、様々な感情を宿した声だった。

 

「そりゃ、お前らは野獣に召還されたんだ。色々あっただろうな」

 

 くっくと喉を鳴らして笑うように、しかし、確かに親愛の情を込めた声で天龍が茶化す。

 

「天龍達の提督も、たいがい無茶ばっかりしてるじゃないか」

 

 時雨が軽く笑いながら言うと、「それは言えていますね……」と不知火が呻く。「まぁな。アイツ、頭よさそうに見えて結構バカだからな」なんて、お姉ちゃん風を吹かす天龍が鼻を鳴らすと、「いや、それは……、それも言えていますね」と、一度は否定しようとした不知火が苦しげに言葉を翻すのが聞こえて、鈴谷は笑ってしまった。

 

「加賀が島風の格好してたのは、地方の夏祭りだったっけか」。「えぇ。あの時は、ビスマルクさんも島風の格好をしていましたね」。「そういえば、鎮守府の裏手にある山で肝試ししたのも、同じ頃だったかな」。「……俺と摩耶、それに叢雲がゴキブリに喰われかけた奴だな」。「えぇ、何それ……」。「肝試し系は気合入れてたね、野獣」「おかげで、明石屋敷や逃走中では、ひどい目に遭いましたが」。「あとは、そうだな……、学園ドラマみたいなのも撮ってたよね」。「あれが受けたお陰で、本営に目をつけられたんだよな」

 

 禁固房に入ったままで、誰もはしゃいだ声を出さない。だが、話は途切れなかった。ここに居る4人が、其々に思い出を辿り、懐かしみ、過ぎていった時間を目で追いながら、その尊さを共有していた。

 

「深海棲艦の研究施設が隣に来てから、また賑やかになったよな」。「深海棲艦を、秘書艦見習いにしようなんて考えるのは、君たちの提督ぐらいだろうね」。「……まさか、戦艦レ級に書類の扱いを教えることになるとは思いませんでしたよ」。「二人はレ級と仲いいよね。ほら、前もさ、一緒に餃子か何か作ってたときあったじゃん」。「餃子がポップコーンみたいになってた時だね」。「あぁ。俺がレ級にバックブリーカーをかけた時だな」。「懐かしいですね」。「他の深海棲艦たちとも、僕たちは良い関係を築けた筈だよ」

 

 そうだ。時雨の言う通りだ。あの襲撃事件の夜、艦娘達を助けてくれたのは深海棲艦だった。そして、深海棲艦達を連れてきてくれた少女提督にも、深く感謝している。本当に、いろんな事が在ったのだと、改めて実感した。時雨が洟を啜ったのが分かった。それに、冷たい空気を軽く擽るような息遣いも。時雨が泣いている。

 

 気付かないフリをしようとして、動揺した。すぐに鈴谷の視界もぐちゃぐちゃになった。涙だ。奥歯を噛む。震える胸の中の空気、ゆっくりと吐き出す。大丈夫だ。鈴谷は、野獣を恨んだりしない。そう伝えた。伝えておいて、良かった。

 

「……今日は、良い天気ですか?」

 

 鈴谷も泣き出したことを察したのだろう不知火が、場の空気を取り繕うように言う。

 

「何すっとぼけたこと言ってんだお前はよ。お前の禁固房には窓が無ぇのか?」

 

 天龍が軽く笑った。

 

「今にも一雨来そうな空だろうがよ」

 

 

 

 

 憲兵たちに従うようにと各々の提督から“命令”された艦娘たちは、食堂に集められていた。彼女たちは明らかな憎悪と敵意をこめて見張りの憲兵を睨んでいたり、或いは、沈痛な面持ちで涙を堪えて俯いている。普段なら和気藹藹とした活気に溢れる筈のこの場所も、今は深い悲嘆と激しい憤りで満ちて、やけに暗く見えた。

 

 ここに集められた皆は一様に、不知火や天龍、時雨、鈴谷達が解体破棄されることに異議を唱えたいに違いなかった。だが、感情に任せて騒ぎ立てることも出来ない。その反抗的な態度が、また別の艦娘を解体破棄せよという命令に繋がりかねないからだ。艦娘という種が、人間の従属物であることを改めて思い知る。深く息を吸う。

 

 テーブル席につき、今の食堂の様子を観察する龍驤もまた、自分の胸内に吹き荒ぶ憤怒や憎悪を持て余していた。この激しくも暗い感情が、“社会”や“人間”といった曖昧で巨大なもの向いていることは自覚している。この感情を預けるだけの具体的な行動を起こすことは、今の自分たちには出来そうにないことも十分に理解している。人間である憲兵たちに、艦娘が危害を加えることは不可能だ。

 

 それに加えて今の龍驤たちの喉首には、錨を模した錠前を取り付けた、金属繊維のチョーカーが嵌められてある。強力な儀礼済みの拘束具だ。これのおかげで、龍驤たちは“抜錨”状態になれない。運動能力や筋力も、見た目通りの女性の力を出すのがやっとに抑えられている。さらに言えば、艦娘たちが持っている携帯端末も、今は遠隔で機能を殺されてロックが掛かっている。少年提督や野獣、それに、少女提督に連絡をとることも出来ないし、当然、外部へのアクセスも出来ない。だから、龍驤が自分の端末をおもむろに取り出してみても、憲兵達がそれを咎めてくる気配は無い。

 

 今の龍驤たちは、徹底的に無力だった。

 

 この状況を何とか打破できないかと、特に駆逐艦娘達の中には殺気立っている者が多く、チリチリとした緊張感が漂い始めているが、何か起こすにしても、今の彼女たちではどうしようもない。そもそも、“抜錨”状態にすらなれない以上、今の艦娘達では、大型の銃器で武装している憲兵たちの脅威にはなりそうもない。それを理解しているのだろう戦艦や空母、それに巡洋艦娘たちは、駆逐艦娘と同じく殺気だっていながらも落ち着きを残している様子だった。

 

 龍驤の傍のテーブル席に腰掛けている大和や武蔵、それに長門、陸奥、赤城、加賀なども、神妙な面持ちで黙り込んでいる。今までの事を思い出しているのか。それとも、これからの事を考えているのか。龍驤も椅子に持たれて目を閉じようとした時だった。

 

 

「普段の食事風景も、こんな感じで辛気臭いのか?」

 

 龍驤の目の前で、低い声が響いた。悪質な冗談とも下手糞な皮肉ともつかないことを、この状況で平然と言ってみせたのは、龍驤の向かいに座って穏やかな表情を浮かべている日向だ。どう反応するべきなのか一瞬悩んだあとで龍驤は、「そうやで。楽しそうでええやろ?」 と返して、ふんと鼻を鳴らす。

 

 

 近くのテーブルに居る大和と武蔵が、敵の深海棲艦を見る目で日向を睨んでいる。長門が歯軋りをする音が聞こえた。大型車をプレス機でゴリゴリと潰すような凄い音だった。陸奥も、今までに見たことがないような鋭い眼で日向を見詰めている。赤城と加賀は、ちらりと日向を一瞥しただけで、相手にしようとはしなかった。無論、他のテーブルなどからも、殺意と敵意が籠った視線が流れてきている。

 

 前の襲撃事件で、少年提督の暗殺を担当した日向の隣には、野獣を殺害して回収しようとした川内と神通の姿もある。川内は頭の後ろで頭を組んで、リラックスした様子で食堂を見回している。神通の方は姿勢よく椅子に座り、静かに瞑目したままで動かない。現在の彼女達も一応、肉体機能を抑制するチョーカーを嵌められた上で、少年提督の管理下にある艦娘として食堂に集められていた。

 

「君は、食事をするのか?」

 

 のんびりとした様子の日向が話し掛けてくる。同じ種族でありながら、全く異なる文化について問いかけてられているような気分だった。龍驤は頬杖をついて、日向に視線を向ける。

 

「ウチらが食事してたら、何か悪いんか?」

 

 自分でも驚くくらい、龍驤の声は尖っていた。

 

「いや。なぜ、そんな非効率なことをするのかと疑問に思っていただけだ」

 

 日向は口の端を緩めて、肩を竦めた。この日向はどうやら、過激派の提督達のもとに召還され、自身の存在価値を戦闘と戦果に置いてきたらしいという話は聞いていた。徹底された効率重視の艦娘管理・運用の下で生きてきた目の前の日向は、此処の鎮守府の艦娘達のような人間らしい営みを経験したことも無いのだろう。それを哀れだと思うのは傲慢であり、日向が養ってきた価値観の否定になると思った。

 

 それに日向の問いには、嫌味や皮肉と言うよりも、彼女が生きてきた時間に根付いた価値観の投擲に似た響きがあった。龍驤たちが生きてきた時間を理解しようとする努力の為に、自分の考えを披露したのだ。気付けば、川内と神通も、龍驤の方を見ていた。こんな時に、何を暢気な話をしとるんやろな、ウチは。頬杖をついたままで龍驤は下顎を突き出して、一つ息を吐く。

 

「……美味いモンを、気の置けん仲間と食べたいと思ったりせんの?」

 

「兵器である私達には、そんな人間的な行為は不要じゃないか」

 

「不要やけど、不自然じゃないやろ。兵器の中には人間が居るやん」

 

「居ない場合もある」

 

「いや、居るで。銃でも剣でも、ミサイルでも何でもな。それを作り出す為の設計とか思想とか目的には、必ず人間が関わるやんけ」

 

 龍驤は眼に力を込めて、日向を見た。川内の視線を感じる。神通も龍驤を見ている。

 

「ウチらの中には人間が居るんや。君らだってそうやろ。艦娘一人ひとりに違う人間が居って、そこに個性も感情も宿ってくる。ウチらが人間らしい生き方をする理由なんて、それで十分ちゃうの」

 

 龍驤は、日向と川内、神通を順番に見た。日向は何かを考えるように視線を伏せ、少しの間、そのまま目の動きを止めていた。川内が何かを言おうとしかけて止めたのが分かった。彼女たちは人格を破壊されていない。木偶ではない。“兵器である艦娘としての強さ”を実践する為には、人格が必要だからだ。そこには、明らかな歪さがある。神通も伏し目がちな思案顔になっている。ゆっくりと瞬きをした日向が、龍驤に向き直った。

 

「それでも、人間性を美化する理由にはならないと思うがな。殺戮と従順は、艦娘の天性だ。同時に、兵器としての艦娘の造形美であり機能美だろう」

 

「だから人間性なんざ要らん、って言いたいんか? ……そうやって必死に理屈を捏ね回した言い草自体が、まるで人間みたいになってるけどな」

 

「おい貴様ら、何を騒いでいる!」

 

 憲兵の怒声が響く。見れば、3人の憲兵が龍驤たちの居るテーブル席を囲んでいた。こちらを威圧するように、手にした銃を構える素振りを見せた。ただ、表情を強張らせた憲兵達に余裕はない。“抜錨”状態になれずとも、やはり兵器としての艦娘の力を恐れているからか。わずかな怯みを湛えた憲兵たちの眼差しを向けられて、どうしようもなく、龍驤の胸が軋んだ。あぁ。やっぱり、ウチらは兵器である方がええんかな。

 

「……えらいすんまへん。大人しくしときますんで、勘弁してください」

 

 龍驤は席から立ち上がり、憲兵達に頭を下げる。ここで余計な騒ぎを起こせば、そのしわ寄せは少年提督に行くだろうとも思えた。今でさえ、不知火と天龍を自らの手では解体・破棄しろと命令されているのだ。龍驤の所為で、さらに何人かの駆逐艦娘を破棄せよ、などという命令が出されるのだけは避けたかった。そんな龍驤の心情を察してか、日向も立ちあがり、黙ったままで頭を下げてくれた。川内と神通も黙礼している。龍驤や日向に反抗の意思がないこと見て、憲兵達も心なしかホッとしている様子だった。

 

 憲兵達が遠ざかった後だった。

 

「同じことを君たちの提督からも、いや……、君たちに提督の内に居る“得体の知れない何か”にも、同じことを言われたよ」

 

 自嘲するように、日向が肩を竦めて見せた。その仕草や言葉に含まれた感情は、この日向が、人格を破壊された木偶の艦娘ではないことを雄弁に物語っている。兵器として在るべき己であろうとする、日向の意思の強さを感じた。そして、その意思の強さそのものが、日向の中にある人間性の証明だと思えた。

 

「どうも私は、大きな矛盾を抱えているようだ」

 

 日向の声は重い。艦娘は兵器であれ。その信念を胸に生きてきた日向にとって、この鎮守府の艦娘達の生き方は、相容れないのかもしれない。だが、それでも良いと思えた。少年提督と野獣が目指した“人間と艦娘の共存”とは、こうした艦娘一人ひとりの持つ想いを、善悪と正誤で区別するべきことではない筈だ。

 

 日向のように己を兵器であると信じている艦娘が居るのであれば、その信念は尊重するべきだと、少年提督なら答えるだろう。でも、だからと言って、ブラック鎮守府と言われるような非人道的で過酷な運用を彼女達が望み、自身の消耗を希うようなことがあっても、野獣はそれを許さない筈だとも思えた。

 

 そう言えば昔の赤城も、自身の存在価値を戦果にだけ結び付けたような、冷徹な戦闘マシーンだった。戦闘以外の興味など一切持たず、ただひたすらに深海棲艦を殺して殺して殺しまくる一航戦の話は、多くの味方艦隊を鼓舞し、奮起させながらも、同時に畏怖を抱かせた。そんな赤城が、多様な料理を幸福そうに頬張って表情を蕩けさせている姿を、あの激戦期の頃に誰が想像できただろう。

 

「別にええやん。誰だって矛盾ぐらい抱えるやろ。生きてたら、いろんなこと考えるしな。そういう切っ掛けも山ほどある。信念とか信条とか、力一杯抱えた分だけ垢もつくやん。理想の形が変わることだってあるやん」

 

 龍驤は頬杖をついた姿勢のままで、テーブルの表面を見詰めた。

 

「さっきもな、キミを煽るつもりはなかったんや。ウチは、キミ等の考え方を否定するつもりはない。ただやっぱり、ウチらは人の形をしとるからな。世間っていう言葉も、人間っていう言葉もな、ウチらから引き剥がせんやろ」

 

 憲兵には聞こえない程度に声を抑え、それでも、力を込めて言う。

 

「だからな、キミらも、ウチらも、今まで生きてきた時間は、兵器や道具としての経年やなくて、……それを人生って呼んでも、別にバチは当たらんのとちゃうかな」

 

 大和が低く呻くのが聞こえた。いや、違う。体を震わせて俯き、大和は涙を流していた。唇を噛み、嗚咽を堪えている。洟を啜った武蔵が、震えた息を吐いた。テーブルに両肘をついた長門が、顔を両の掌で抑えて、歯を食い縛り、唇を震わせている。陸奥が泣いている。その悲哀は、周囲から伝播してきたものらしい。

 

 気付けば、先ほどまで物騒に殺気立っていた駆逐艦娘達の多くが啜り泣き、嗚咽を漏らしている。巡洋艦たちも同じような様子だ。悲しみに満ちた今の食堂こそが、この鎮守府の崩壊を明確に示唆していた。愛しい日常の終わりだった。

 

「それにな、ウチらがホンマに、ただ道具で兵器やったら、こんな気持ちにならんでも済んだんやろうしな」

 

 今まで過ごしてきた濃密な時間が、目を閉じる龍驤の瞼の裏を過った。本当に、いろいろとあった。この鎮守府に召還されて良かったと思う。振り返る想い出が優しくて暖かいほど、残酷なほどに龍驤の心を抉る。抜き身の刃物で胸を刺されるような痛みが在った。冷静になればなるほど、今の状況のどうしようもなさを思い知る。言葉の最後が震えそうになるのを堪える。頬が強張るのが分かった。鼻の奥が痺れ、横隔膜が震える。不味いと思って、龍驤は顔を片手で覆う。

 

「……じきに、状況は変わりますよ」

 

 神通の声だった。龍驤にだけ聞こえる程度の声だ。龍驤は袖で眼を軽く拭って、神通を見た。神通は龍驤が顔を上げるのを待ってから、携帯端末を取り出してテーブルの上に置いた。その端末もまた、機能を殺されて遠隔でロックされている。何の役にも立たない。だから、神通の行動を憲兵が咎めてくる気配もない。

 

「そういう風に、貴方たちの提督に、……ううん、“私達の新しい提督”から話を聞いてるんだ」

 

「……なんやて?」

 

 龍驤が眉を顰める。悪戯っぽく唇の端を持ち上げた川内も、携帯端末を取り出してテーブルの上に置いた。これも同じく、ディスプレイには機能ロックの文字が記されていた。そろそろだな……、と呟いた日向も、食堂の時計を確認してから、携帯端末をテーブルに置いた。

 

「一仕事する前に、興味深い話を聞かせて貰ったよ。私の矛盾はそのまま、自分の人生を愛する努力だったというワケだな」

 

 鷹揚とした日向は、穏やかな表情で胸を張る。

 龍驤は、また日向たちの顔を順に見た時だった。

 遠くで爆発音が響いた。

 

 作戦会議室がある庁舎の方角からだ。食堂にどよめきが走る。すぐに一人の憲兵が食堂に駆け込んできた。かなり焦っている様子だった。何らかの緊急事態が起こったのだろうという事は分かった。今まで食堂の艦娘達を見張っていた憲兵達も、駆け込んできた憲兵に駆け寄っている。彼らは何かを話し合っている。耳を澄ませるが、よく聞こえない。食堂の時計を一瞥した川内が、唇の端に笑みを乗せた。

 

「凄いね。提督の言ってた時間通りだよ」

 

「……信じがたいですが、未来を視ることが出来るという話は本当のようですね」

 

 気味悪がるように言う神通は、すぐにでも立ち上がれるように椅子を少し引いた。

 

「ちょっと待ってくれ、君らは何の話をしてるんや」

 

 龍驤は、憲兵達の様子を伺いながら、テーブルに身を乗り出す。何かが起ころうとしている。落ち着いた笑みを浮かべた日向が、龍驤に向き直った。

 

「君は、神仏を信じるタイプか?」

 

「……どういうこっちゃ」

 

 妙な質問ばかりしてくる日向に、龍驤は眉を顰める。

 

「私は、そういう類の存在が提督をしている世界というのも、悪くないと思っているんだがね」

 

 日向はゆったりとした態度で言いながら首を傾け、焦っている憲兵達を見回している。この時点で、龍驤は猛烈に嫌な予感がしていた。薄っすらと、何が起ころうとしているのかが分かりかけていた。先ほどまでとは種類の違う震えが、背筋と呼吸に走る。数人の憲兵達が食堂に残り、他の憲兵達が駆け出していく。それを確認した日向が眼を細めて、視線だけで龍驤を見た。

 

 同時だったろうか。テーブルに置かれていた彼女達の携帯端末のディスプレイが微光を放ち、共鳴するかのように震えた。端末から立ち昇る微光は渦と線を描き、テーブルの上の空間に、深紫色をした巨大な積層術陣を描き出していく。

 

 大和や武蔵、それに長門や陸奥、赤城、加賀は、何事かと驚愕した様子ではあったが、すぐに席を立ち上がって此方を見ていた。何かが起これば、それに対処するべく動こうとしていたに違いなかった。あたり前だが、龍驤だってそうだ。席から立ち上がり、日向たちに向き直ろうとしたが、出来なかった。その場に崩れ落ちてしまう。

 

 体に力が入らない。見れば、他の艦娘も達も同じような様子だった。大和と陸奥は、テーブルの淵を掴み、何とか倒れ込まないように体を支えている。武蔵と長門は膝をついて歯を食い縛り、体を起こそうとしている。またか。また、これか。襲撃事件の夜に喰らったものと同じ、艦娘の肉体を無力化する術式だ。まさかこれを、もう一度喰らうことになるとは。

 

 野獣が言っていた。すでにこうした術式の展開には対策を打ってあると。だが、それはあくまで外からのものを跳ね返すバリアみたいなものだ。こんなにも鎮守府の内部深くで発生した術陣を防ぐことは出来ない。これは、野獣の油断ではない。日向たちが野獣の対策の裏をついたに他ならない。そして、日向、川内、神通の3人だけは、この術式の影響を受けないのも、あの夜と同じだ。

 

 ふざけんなや……!! 龍驤は掠れた呼吸に混じらせて、叫ぶ。いや、それは叫びにすらなっていなかった。蚊の鳴くようか細い息の捻じれでしかなかっただろう。何でや。何をしようとしてんねん。声が出ない。食堂に残っていた数人の憲兵達も、今の食堂の異変に気付いて何かを喚いている。

 

『そろそろ時間です。……日向さん、お願いします』

 

 声がした。愛しさすら感じる、聞き慣れた声だ。機能をロックされている筈の日向たちの携帯端末の中に、“彼”は潜んでいたのだ。テーブルに置かれている彼女達の端末は、少年提督が用意したものに違いない。

 

 龍驤はそこで気づく。積層術陣から漏れる光は食堂の隅々にまで行き渡り、体を動かせずにいる艦娘たちのチョーカーを光の粒に変えて消散させていた。日向や川内、それに、神通が嵌めていたチョーカーもだ。どうやら彼女達が展開した術陣効果は、艦娘の肉体を抑えるだけでなく、儀礼装備の解体にまで及ぶようだ。

 

 動けない龍驤の心の中で、焦燥だけが暴れまわる。とんでもなく高度な術式が行われているということと、日向たちが艦娘としての力を十全に発揮できる状態になったという事だけしかわからない。またウチらは置いてけぼりかい。舐めんなよホンマ殺すでしかし。ちょっと待たんかい。

 

「龍驤。君達の出番は、じきに来る。私たちは先に動いているよ」

 倒れ込んだ龍驤は視線を動かすが、テーブルの陰に隠れて日向たちの姿が見えない。彼女達が席から立ち上がり、テーブルに置いていた携帯端末を其々に仕舞うのが分かった。だが、展開・発動している術陣は消えずに、龍驤たちを無力化する効果と共に、その場に留まり続ける。舌打ちをしそうになってもそれが出来ず、余計に怒りが溜まる。

 

 おい。待てや。何処に行くねん。やはり、声は出ない。息が震えるだけだ。龍驤の代わりに、「おい止まれ!」「何処へ行く!」「貴様、待て!!」という、数人の憲兵の怒声が聞こえた。だが、今の日向達を憲兵が止めることなど不可能だ。だが、日向達を追う形で、焦る憲兵達の隙をついて食堂から駆け出して行こうとする艦娘の気配が幾つかあった。アイツらか。前に続いて、ホンマにスマンな。……頼むで。ウチも、すぐに追いつくさかい。

 

 

 

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

少年提督と野獣提督 前編

 

 

 

 

 

 本営はすでに、少年提督と野獣が、“違法な艦娘売買”に関わった疑いがあるとして、二人の下に所属する艦娘全てを、一時的に剥奪することを公表していた。世間で言われている艦娘売買は、“軍属兵器の横流し”と“自身売買”を併せたイメージで語られていることもあり、すでにニュースにも数日前から取り上げられ、世間の人々の関心と好奇心、想像力や義憤を燃え上がらせていた。

 

 更に、少年提督や野獣のことが公表されるよりも数日前には、政界の大物数人が“艦娘の売買”に関わり、巨額の利益を得ていた疑いがあるというニュースも流れていたのも不味かった。タイミング的にも艦娘関連のニュースで世間が騒がしかったこともあり、少年提督や野獣の件は余計に注目を集めている。数日前から、テレビ局のリポーターや記者などが鎮守府の前に大挙として集まっている始末だ。

 

 巧妙に操られたマスコミの包囲網には、あたかも自分たちのやっていることは正義であるのだと主張する、容赦のない威圧感が在った。少年提督でも野獣でも、もちろん、少女提督でも誰でもいいが、今の鎮守府の外へ出ようとすれば、それを見つけたマスコミ関係者たちは沸き立ち、すぐにマイクとカメラを向けて迫ってくるだろう。この鎮守府は、そうした今までにない緊張感に包まれて誰も彼もが消耗している。

 

 本営は“真実を解明するために全力で調査にあたっている”としているが、既にその責任を問われている状況だ。だが“黒幕”達にとっては、それも計算の範囲内であることも明らかだった。重要なのは、少年提督や野獣が、艦娘を実験材料として扱ってきた悪人である可能性を世間に認識させることだ。このニュースが社会に浸透すれば、少年提督や野獣と共謀して利益を目論んだ者の存在にも説得力を持たせやすい。

 

 これは王手だ。今までの鎮守府での催しや企画の関係者、それに協力者を、野獣たちの共犯者として仕立て上げやすい環境を本営が作り出したのだ。ここで野獣や少年提督が逆らえば、そのレスポンスとして、“黒幕”達は多くの人々の生活と人生を破壊するために動くだろう。仕組まれた悲劇をちらつかせられては、やはり従うしかない。それしかないのだ。少女提督は重い溜息を飲み込んで、俯く。

 

 

 

 腕時計を見た。もう暫くすれば、時雨と鈴谷の解体・破棄を行う時間だった。これに関わる術式は野獣が行うように命令されている。つまり、自らの手で部下の艦娘を消せ、ということだった。これは不知火と天龍も同じで、少年提督の手によって解体・破棄するように命令が出ている。本営による悪意に溢れた報復であることは疑いようがない。

 

 

 少女提督と野獣は、鎮守府庁舎にある作戦会議室で向かい合って座っている。

 

 重厚感のある会議用のテーブルには、普段なら作戦資料が山と積まれているのだが今日は何もない。今はただ、その表面の冷たい光沢の中に、10人以上の憲兵たちの影を反射させていた。張り詰める空気の中で少女提督は、首を動かさずに視線だけを巡らせる。

 

 正面の席に座る野獣は、白い提督服をきっちりと着込み、背筋を伸ばし、瞑目して座っている。いつものお茶らけた雰囲気は微塵もない。力のある武人が精神統一をしているような、或いは、研ぎ澄まされた日本刀が抜き身のままで其処にあるかのような、周囲に沈黙と緊張を強いるような佇まいだった。とにかく今の野獣は、たとえ反抗してくることが無いと分かっていても、決して油断してはならないと思わせる迫力と殺気を備えている。

 

 野獣を見張る憲兵たちの額には汗が光っている。あれは冷や汗か脂汗の類だろう。本来の憲兵というのは、これこそが軍人といった風情で、もっと威圧的、暴力的に物事を進めていくようなイメージを、少女提督は持っていた。だが、この場に居る屈強な憲兵たちは皆一様に余裕なく顔を強張らせ、野獣を取り囲むように立ちながらも、不用意に近づく気配は無い。とにかく慎重だ。ただ、無理もないとも思えた。

 

 ここで野獣が己の自制を振り切り、艦娘も、今まで協力関係にあった人々の未来も無視し、自身の怒りに身を委ねたりすれば、どうなるか。もう、誰も野獣を止められない。野獣は此処にいる憲兵たちを数秒足らずで殺戮し、会議室を飛び出し、鎮守府をうろついている他の憲兵も残らず皆殺しにするだろう。そのあとは、──考えるのも恐ろしいが、今の野獣が纏う剣呑な空気からすれば、黒幕一人ひとりを直接、自分の手で殺害しに向かうだろうと思えた。

 

 この鎮守府を陥れる事を企んだ者達に相応しい結末を、二振りの刀を手に、野獣自身が届けにいく姿を思い浮かんだ。殺戮者としての野獣は、容赦も遠慮も慎みもなく、どこまでも突き進んでいく。復讐心を胸に社会の闇に潜み、邪魔するものを次々と斬り伏せる。黒幕達を守ろうとする者が居ても、容易く両断し、皆殺しにする。黒幕達は、目の前に迫った野獣に命乞いをするだろう。巨額の金品を積み、女を差し出し、私にも家族が居るのだと情に訴え、ありとあらゆる方法で生き延びようとする。

 

 そうやって懸命に跪く黒幕達を前に、「おっ、生きてぇなぁ? (鬼)」と皮肉交じりに笑いながら、刀を振り下ろす野獣の姿が見えた。艦娘達の人間性を世間にアピールし続けた野獣は、今度は自身の人間性を使い果たすまで、その憎悪に任せて刀を振るう。深海棲艦などよりも、もっと恐ろしい何かに変貌を遂げていく野獣を、誰が止められるのだろう。

 

 

 

 そこから先は、考えてはいけないと思う。濁った溜まり水が抜け道を見つけた時のように、悪い想像が思考と共に流れて広がろうとする。それを、少女提督は瞼をきつく閉じて堰き止める。考えてはいけない。もう十分だ。悲劇は。目を開けば、自身の感情を抑え込み、静かに佇む野獣が、まだ目の前に居てくれる。

 

 少女提督は、瞑目したままの野獣を見詰める。野獣は今、どれだけの悔恨と自責を飲み込み、どのような感情を抱えているのだろう。声を掛けるのも憚られた。知らず、膝の上で拳を握り固めていた。肩が震える。じんわりと目の中が熱くなり、鼻の奥がツンとしてきた。顔を覆い、息を吐く。自分の意思の内部に溜まっていく悲観を絞り出すように、ゆっくりと、長く、細く、丁寧に吐き切る。

 

 野獣と少年提督が居なくなるということだけは間違いない。そのあとで、自分に何が出来るのかなど、見当もつかない。ただ、今まで戦い抜いた野獣の覚悟から目を逸らしてはいけない。今日、これから起きることを、自分は最後まで見届けなければならないのだと思った時だった。

 

 軽いノックが響き、会議室の扉が開いた。

 

「……失礼します」

 

 場違いなほどに穏やかな声が響く。黒い提督服を着こんだ少年提督だった。会議室の空気が、また一変する。彼が纏う超然さが、この場に居る誰をも飲み込んだ。野獣の殺気に満ちた静寂の中、先ほどまで頬を強張らせていた憲兵たちが、今度は息を飲んで顔色を失った。少年提督のあとに続き、深海棲艦達がぞろぞろっと会議室に入ってきたからだ。数名の憲兵が僅かに後退り、うっ……と、小さく呻くような声を漏らすのが聞こえた。明らかな身の危険から少しでも自身を守ろうとするかのように、憲兵たちは揃って体の向きを少年提督の方へと向ける。

 

 少女提督は胸騒ぎを覚えた。喉がひりついて鳥肌が立つ。

 なぜか、今まで感じたことが無いほどに、嫌な予感がした。

 明確な違和感を覚えるが、その正体がつかめない。

 心臓が跳ね、息が掠れた。

 

 少年提督は無表情だが、悠然としている。憲兵たちの緊張に意識を払っている様子もない。それは深海棲艦達も同じだった。彼女たちはそれぞれ、会議室の空いている席に腰掛けていく。彼女達の肉体はスポイルされ、人間よりも少し劣る程度の身体能力にされている。不知火や時雨たちを解体・破棄したのち、弱体化された深海棲艦たちは、各地の深海棲艦の研究所に輸送されることになっているからだ。

 

 少年提督の手を離れた深海棲艦達が、どのような扱いを受けるのかは分からない。少女提督は、以前この鎮守府に訪れた“中年の男”を思い出す。あの深海棲艦たちは、力を奪われたままで、金持ちたちのペットになるのだろうか。それとも、何らかの実験の素体となるのか。それは分からない。だが、今までのように保護されて過ごすということは無いだろう。

 

 この会議室の空気を読んでか、深海棲艦達は徹底して従順だ。特に、戦艦棲姫・水鬼などは、憲兵たちに敵意を見せるどころか、目が合えば深く頭を下げてすら見せている。姿勢よく椅子に座るヲ級と集積地棲姫は、テーブルの表面に視線を落としている。タ級、ル級も同じく、大人しく椅子に腰かけている。

 

 南方棲鬼は眉間に皺を刻みながらも、特に暴れだすようなこともなく腕を組み、重巡棲姫はテーブルに頬杖をついて窓の外を睨んでいる。港湾棲姫は北方棲姫を抱き上げる格好で、遠慮がちに椅子に座っていた。普段はやかましいレ級も、フードを被ったままで退屈そうな表情を浮かべ、頭の後ろで手を組み、会議室のテーブルに足を投げだしている。ただ、深海棲艦たちのことを捕虜どころか奴隷程度であると認識しているであろう憲兵たちにとって、そのレ級の態度は看過できなかったのだろう。

 

「貴様っ!! なんだ、その態度はッ!!」

 

 憲兵の一人がレ級に詰め寄り、声を荒げた。勇気がある。だが、野獣と少年提督の持つ雰囲気に完全に飲み込まれていた憲兵にしてみれば、勇気を振り絞ったというよりも、憲兵としての矜持と面子を苦し紛れに保とうとしているようにも見えた。或いは、重要な任務についているという責務が、あの憲兵の誠実さを奮い立たせたのかもしれない。

 

 声を上げた憲兵は若く、背が高い。幅も厚みもあり、大型の銃器で武装している。足をテーブルに投げ出したままのレ級は、被ったフードの奥で、紫水晶のような眼をゆっくりと動かして憲兵を見上げた。会議室に、より強く緊張が走るのが分かった。

 

 少女提督は、レ級に「やめろ」と叫びそうになる。何をやめろというのか全くわからないが、喉元まで言葉が出かかった。祈るような気分で全身に力を込めて、それを飲み込む。他の憲兵たちも固唾を飲んでいる。野獣は瞑目したままだ。少年提督も落ち着き払った無表情を崩さず、成り行きを見守っている。

 

「何の問題ですか? (レ)」

 

 レ級は不思議そうな表情を浮かべて憲兵を見ている。

 

「足を下ろせ!」

 

 どこか必死な様子の憲兵は、怒声を上げながら銃器を構えた。銃口がレ級に向けられる。レ級が片方の眼を、すぅ……っと細めた。それだけで、憲兵が息を詰まらせるような迫力が在った。スポイルされているとは言え、やはり『戦艦レ級』だ。レ級は首を傾け、頭の後ろで組んでいた手を解き、立ち上がろうとしている。やばいと思った。破裂寸前の風船を彷彿とさせるような沈黙が数秒あった。

 

 そこで、深い溜め息を漏らしたのは集積地棲姫だった。「おい。言われた通りにしろ。行儀が悪いぞ」と、やんちゃな子供に注意するかのような口調で言う。「ちゃんと座って」と、ヲ級が続く。戦艦棲姫・水鬼の二人も、レ級を凝視しだした。怒られてやんの、と言った風に鼻を鳴らした重巡棲姫は、意地悪そうに唇を歪めてレ級を見ている。険しい表情のままの野獣はと言えば、何も起こらないことが分かったかのように、再び静かに眼を閉じた。

 

「もぉ、好きにやらせてちょうだい……(レ)」

 

 叱られた子供のように下唇を突き出したレ級は、しぶしぶと言った感じでテーブルから脚を下ろし、背筋を伸ばして座りなおした。あからさまにホッとした様子の港湾棲姫が小さく息をつき、南方棲鬼は不機嫌そうにテーブルの表面を眺めている。少年提督は微笑みを浮かべていた。

 

 

 少女提督は、先ほどからの強烈な違和感の原因に気づく。いや、そうじゃない。気づくというよりも、見ないフリをしようとして、結局それを無視できないと諦めたと言った方が近いかもしれない。

 

 少年提督と野獣の様子が、あまりにも違う。時雨と鈴谷を解体する覚悟を全身全霊で整えている野獣に対して、少年提督は悠然とし過ぎている。全てを受け入れる決意を固めているにしろ、今の状況であれだけ自然体でいられるのはおかしい。自然体であることの異様さが際立ち、どうしようもなく不自然だった。少年提督が腕時計を見た。少女提督も腕時計を見る。不知火や時雨、天龍と鈴谷の解体・破棄時間が迫っている。

 

 それを確認した時だった。少女提督の携帯端末に着信が入る。端末を取り出して確認すると“初老の男”からだった。警戒する顔つきになった憲兵達の視線が流れてきたが、通話に出ていいかを近くに居た憲兵に訊くと、あっさりと許可を貰えた。憲兵達も、この非力な元帥は脅威にはならないと判断しているのか。それとも、少年提督や野獣、深海棲艦たちなどの方がよっぽど注意を払うべき対象だからなのか。何にせよ、ノーマークであることが今は有難かった。

 

 廊下に出て、すぐに端末を操作して通話を繋いだ。

 

『……忙しいところ、すまないね。ただ、どうしても伝えておくべきだと思って連絡させてもらった』

 

 初老の男の声は相変わらず低く、端末越しでも十分な威容と貫禄が在った。だが、何処か緊張しているような硬さも感じた。

 

『状況が変わった。近日中に、本営は君たちを相手にしていられなくなる』

 

 胸騒ぎが大きくなる。心臓が跳ねだす。唇を舐めて湿らし、端末を持ち直す。

 

「どういう事ですか?」

 

 端末の向こうの初老の男が、手元で何らかの資料を捲っているのか。紙がこすれる音が聞こえる。

 

『改めて調べてみたが、艦娘の人体実験や、それに関係する艦娘の精神操作実験……、それに、激戦期の頃に横行した捨て艦法などについての記録は、確かに偽造されて、改竄された形跡があった。だが、その内容が明らかに妙でね』

 

 少女提督は、端末を持つ自分の手が震えていることに気づく。

 

「妙というのは……」

 

『偽造・改竄された記録書の類は膨大だが、その全てに少年提督の名前が在る。だが、野獣の名前は一切、確認できない。あの少年提督が、こうした記録書類の在処を調べていたらしい話は聞いてはいたがね……。恐らく、一度改竄されたものを再び、別の文面に書き換えるか、すり替えるように彼が手を回したんだろう』

 

 内臓が震えて、吐き気がした。少女提督は浅く息をする。

 

『偽造や改竄という行為自体は表沙汰にならないだろうが、その内容については既にマスコミにも流れている。いや、意図的に流されたと言った方が良いかもしれない。マスコミが情報を掴む速度と深度が異常だ。もう隠蔽工作も間に合わない。本営は近々、あの少年によって用意された記録書類の公開を、世間に迫られることになるだろう』

 

 少女提督は、肌が粟立つのを感じた。端末を持ったままで作戦会議室の扉を見る。鼓動が暴れる。この会話が、まるで少年提督に筒抜けになっているかのような気さえしてきた。軽く頭を振ってから手汗を提督服の裾で拭って、もう一度、端末を握りなおす。

 

「情報をマスコミに流し、今の状況を仕組んだのが彼だと?」

 

 少女提督は、やっとの思いで言葉を口にする。

 初老の男はすぐには答えず、結論の前に呼吸を置くような間を作った。

 

『マスコミの中に潜っている者にも話を聞いた。少し前に、ある大企業の重役と政治家が数人、艦娘売買に関わった疑いがあるというニュースが流れたのは知っているね? 報道関係者の多くはアレの続きを夢中で追っていて、流出したデータや記録書類を掴んだそうだ』

 

「……続きというのは、艦娘売買の、“買う方”ではなく、“売る方”を暴こうとしているという事ですか?」

 

『そういう事だ。もう君も気づいているだろうが、あのニュースで名前が出た重役や政治家たちは、君たちの鎮守府を襲う計画を立てた者達の一部だ。あの少年や野獣を始末する算段がついてきて、連中の仲間割れが目立つようになってきている。今までマスコミを操っていた者たちも、護身に必死になってきたようでね。……そこに、あの少年提督が入り込んだんだ』

 

 初老の男が話しの聞きながら、つい最近まで、少年提督が頻繁に出張に出ていたことを思い出す。あれは、“黒幕達に追い詰められた黒幕”に会いに行っていたのか。いや、そうに違いないと思えてきた。全国に散った膨大な量の記録書類に手を加えるには、どうしても権力者の力が必要だろう。そうした権力の源泉は、往々にして社会の闇の中だ。その暗闇のど真ん中に分け入り、自分の要求を通すための取引を行う少年提督の姿を想像する。

 

 彼なら、やりかねない。かつて彼の艦娘の誰かが言っていた。彼は目的の為なら、微笑んだまま助走をつけて、地獄の窯へと跳躍していくヤツだと。更に、先ほどの“艦娘を売る側”という、初老の男の言葉を思い出す。胸が重くなる。眩暈がした。まさか……。そう漏らしてしまいそうになるのを堪え、唾をのむ。

 

『マスコミに巨大な影響力を持つ者たちも、無論だが、艦娘を“買った側”だ。それを隠すために奔走しているうちに、少年提督にコンタクトを迫られたようだね。そこで、何らかの取引が在ったことは間違いない。そうでなければ、艦娘売買に関わる真実を、これ以上マスコミが深追い出来るはずがない。普通ならもっと早い段階で、本営上層部などから大きな圧力が掛かる』

 

 この鎮守府の事よりも先にニュースとなって名前が出た政界の人物達は、少年提督や野獣を始末しようとしていた“黒幕”達の一部なのだろうという事は、少女提督も推察していた。彼らの悪事が隠蔽されることなく表沙汰になっているとうことは、“黒幕”達の中でも権力や利益を巡った陰謀が渦を巻き、その謀略に嵌められ、蹴落とされた者が出始めたに過ぎないのだと。あれだけ大掛かりで手の込んだ鎮守府の襲撃に関しては、ほぼ完全に情報が操作、隠蔽し続けているのを見ても、まず間違いなく、“黒幕”達の都合でマスコミは動いている。

 

 いや、動いていた。つい先日までは。

 

「今では彼が、間接的にマスコミを動かしているという事ですか……」

 

 初老の男は、少女提督の問いには答えなかった。代わりに、息を吐くのが聞こえた。少年提督の周到さを恐れるような、同時に、その大胆さに嘆息を漏らしたかのようでもあった。

 

『状況から推察するに彼は、……今まで本営や大企業が行ってきた悪徳を、全て引き受けるつもりなんだろう。記録書類にまで細工を施したのも恐らく、世間からの在らぬ疑いが野獣や君に掛からぬようにする為だ』

 

「そんな……! そもそもマスコミを動かせるのなら、もっと正当に自分たちの正義を主張すれば良いはずです!」

 

『だが、あの少年はそれを選択しなかった。マスコミは君達の鎮守府を取り囲み、艦娘を剥奪される提督達の姿を世に映そうとしている。……前にも言ったかもしれないが、艦娘絡みのニュースは関心を集める。君達が社会と艦娘の距離を縮めてきたから、余計にその傾向は強くなった。事実も正義も、あとは世間が決めていくだろう』

 

 

 

 そこから、どんな話を初老の男としたのか覚えていない。気付けば少女提督は、携帯端末を握りしめ、廊下に立ち尽くしていた。何かを考えようとするが、上手くいかない。熱を持った頭が思考をガタガタにする。ただ、初老の男の話からすれば、少年提督がマスコミに影響力を持っていられる期間は、そんなに長くない。多分、極めて短い。その間に彼は自分の目的を果たそうとしている。

 

 本当に彼は、この鎮守府の中で自身だけが悪人であるという情報を世間に流し、艦娘たちを剥奪される姿を白日の下に晒すことで、野獣や少女提督に降り掛かる疑念を払うつもりなのか。そんなことが可能なのか。見通しが甘過ぎるのではないか。そもそも、誰か一人を大罪人として吊るし上げるだけで、世間が納得するだろうか。

 

 規模が大き過ぎて、全体を上手く把握できない。明るみに出てくる情報に翻弄される。暗い海の上で、途轍もなく巨大な潮流に漂う一隻の小舟になったような気分だった。自身の命運を完全に他者に委ね、ただ力なく浮かび、流されていくしかない。それでも、じっとしていられない。無駄でも、両手で海の水を漕ぐぐらいはやってやる。腕時計を見た。放心状態にあったのは1分か2分か。その程度だったが、随分と長く感じた。

 

 深呼吸をしてから、気づく。

 手に握ったままの携帯端末だ。

 この中には、少年提督のAIが保存されている。

 

 このAIなら、何か、少年提督本人の真意を知っているのではないかと思った。少女提督は手早く携帯端末を操作し、AIを起動させるための管理者パスワードを打ち込もうとした。そこで度肝を抜かれた。パスワードを入力するボックスは、今まで一つしか無かった。当たり前だが、AIそのものが一体だからだ。

 

 だが、今は違う。ボックスが4つも並んでいた。目玉が飛び出るかと思った。そんな馬鹿な。AIが4体に増えたのか。自己増殖という言葉や、シンギュラリティなんて言葉が脳裏に浮かぶが、それを具に考える時間なんてない。とにかく、ボックスの一つに今まで使っていたパスワードを打ち込む。端末はエラーを吐き出した。信じられなかった。何度やってもエラーが出る。AIを起動することが出来ない。

 

 なんでよ……! 

 

 思わず叫んだ。在り得ない。少年提督のAIを開発・構築する段階で、何度も使ったパスワードだ。間違える筈はない。端末のパスワード自体が変わっている訳ではない。何者かが──少年提督が、この端末を勝手に弄り、AIの設定に関わる何かを変更した形跡も無かった。

 

 いや、そうじゃない。息が震えた。

 

 この端末の中には既に、少年提督のAIが居るのだ。少年提督本人がこの端末に触れる必要などないのではないか。AI自体が己に関わるコンピューターの動きを支配し、自身を作り上げた管理者の権限すら乗っ取り、起動する為のパスワードまで書き換えたのだとしたら、今の状況にも辻褄があうのではないか。

 

 初老の男が先ほど話していた内容が頭を過る。少年提督は、黒幕達の一部を利用、或いは協力関係を結び、各地に存在する膨大な記録文書を書き換えた。それと同じように、少年提督のAIもまた、自身に関わる設定を書き換えたのだと思えた。少女提督を冷徹につっぱねるエラー表示を見詰めて、舌打ちよりも先に呻きが漏れた。まるで彼を閉じ込めていた牢獄そのものが、彼に跪いて姿と機能を変え、堅牢な砦となってデータの中に聳えているような感覚を覚える。

 

 それでも、今できることはこれしかない。

 

 固く閉ざされた扉を拳で何度も叩くように、少女提督は思い付く言葉をパスワードにして、手あたり次第に打ち込む。その度に端末はエラーを吐き出す。波の音が聞こえる気がした。少年提督に執拗に呼びかけ、饒舌に誘い、手招きをするような波音が近くに聞こえる。耳鳴りがしてきて、頭痛が来た。それでも指先を動かす。端末を持つ手が震える。出てきなさいよ。そこから、出てこい。そう念じながら、指先を動かす。エラーが無情に積み上がる。不意に少女提督は、少年提督と出会った日の事を思い出す。

 

 “Are you Happy? ”

 

 咄嗟に、そう打ち込んだ。

 

 積み上がるエラーが崩れる音が聞こえた気がした。強く頑なに握り絞られていた巨大な拳が、そっと解けて開くかのように、少年提督のAIが起動してくる。それと殆ど同時だったろうか。作戦会議室の扉の向こうで、いくつもの怒声が重なり、弾けるのが聞こえた。

 

 何をする気だ、貴様っ!! 

 動くな!! 止まれ!!

 撃つぞ!! 深海棲艦ども!! 

 

 そんな憲兵達の必死の声は、次の瞬間には爆発音にかき消された。強い衝撃が在った。建物が揺れて、軋んだ。少女提督は頭を抱えて伏せようとして尻餅をつく。携帯端末は取り落とさなかった。ディスプレイにはAI起動中の表示が在る。端末を懐に入れてから顔を上げた。作戦会議室の扉が蹴破られるように開けられ、数名の憲兵たちが悲鳴をあげて逃げ出してきた。その背中を見送りながら、少女提督は手をついて立ち上がる。作戦会議室に飛び込んだ。

 

 会議用の机は無残に割れて吹き飛び、粉々になって床に散らばっている。壁には、戦艦の砲弾でも直撃したかのような大穴が空いていた。その破壊を齎した爆発の余熱を掻き混ぜるかのように、曇り空から降りてくる湿った風が会議室に透明な渦を巻いている。

 

 今まで見たことのない表情を浮かべた野獣が、二振りの刀を手に、腰を落として構えを取っていた。逃げずにこの場に残った憲兵達も、恐怖に歯を鳴らしながら銃を構えている。少女提督は、その場にしゃがみこんでしまいたくなった。それでも、廃墟のようになった会議室に佇む、少年提督の姿から目を逸らせない。

 

 少年提督の額の右側からは、白磁色のツノが生えている。深海棲艦化だ。彼が着込んでいた黒い提督服にも禍々しい青黒い文様が浮かび上がっている。彼に付き従うように並び立った深海棲艦達は、琥珀色をした濃い霊気を纏っていた。戦闘の意思を見せてはいないものの、其々に艤装を召還しつつある。

 

 それらが意味するものは一つしかない。

 深海棲艦を率いた少年提督の、人類に対する反逆だ。

 

 憲兵の一人が通信端末を取り出し、何処かに応援を要請している。他の憲兵達は、構えた銃を発砲した。野獣が「あっ、おい、待てぃ! (江戸っ子)」と制止の声を出したが、遅かった。発砲音が重なり合い、ストロボのような閃光が会議室に瞬く。憲兵達の持つ大型の機関銃が、少年提督や深海棲艦達めがけて無数の弾丸を吐き出したのだ。轟音だった。少女提督は耳を抑えて身を屈めた。野獣は構えを解かず、重心を落としている。

 

 銃弾の嵐を前にしても、少年提督と深海棲艦達は平然とそこに立っていた。

 

 憲兵達の撃ち出した無数の弾丸は、琥珀色の光の粒子となって空中で解け、深海棲艦達の纏う霊気に混ざり合うだけだった。まるで、大海原に向けて銃を乱射したかのようだった。人間の暴力や攻撃になど、まるで関心を払わない雄大な風景のように彼らは揺るがない。そして自然の風景が、人間に優しいとは限らない。少年提督達が身に纏う超現実的な現象を前に、憲兵達が後ずさる。

 

「此処は俺が、で、……出ますよ(決死)」

 

 憲兵達が逃げる時間を稼ぐためだろう。両手に握る刀の切っ先をすっと下ろし、野獣が前に出た。野獣は視線だけで憲兵たちを見回してから、会議室の出口に顎をしゃくって見せる。

 

「一旦退きませんか? 退きましょうよ? (悪いことは言わない)」

 

 憲兵達は、野獣が殿に立ってくれることを察したらしい。互いに顔を見合わせ、すぐに踵を返して走り出す。賢明な判断だ。彼らが今の少年提督や深海棲艦を相手に戦いを挑むのは、子犬の群れが山火事に戦いを挑むようなものだろう。

 

「お前も早くしろ~? (背中で語る)」

 

 既に臨戦態勢になった野獣はこちらを向かず、少女提督にも逃げろと言っている。当たり前だ。少女提督が此処に居たって、足手纏いになるのは明白である。少年提督と深海棲艦たちが動き出す気配が在った。一斉にこちらに飛び掛かってくる。そう思った。だが、違った。少年提督と深海棲艦達は、会議室に空いた大穴から外へと飛び出して行ったのだ。此方を強襲するのではく、離脱した。まるで、予め打ち合わせていたかのように澱みの無い揃った動きだった。

 

「あっ、おい、待てぃ! (TAKE2:届かぬ声)」

 

 野獣も反応が遅れていたが、すぐに少年提督や深海棲艦たちを追って、壁の大穴から外へと飛び出して行く。少女提督が声をかけるタイミングは無かった。野獣の背中を見送ってから、自分も壁の大穴から慌てて外へと出ようとしたところで、懐の中に仕舞ってあった携帯端末から電子音が響いた。

 

 端末を取り出してディスプレイを確認する。少年提督のAIの起動準備が整ったのだ。ディスプレイには少年提督のAIアバターが立ち上がっている。ここでも、少女提督は驚かされた。

 

『……勝手な事ばかりして、申し訳ありません』

 

 AIは昔の少年提督の姿をアバターとして表示されていた筈だ。そう設定していたからだ。だが、今は違う。端末の中で悲しげな微笑みを浮かべているのは、白髪と紫水晶の瞳をした少年提督の姿だった。その変貌に面食らいながらも、少女提督は端末を睨みつける。AIのアバターも、少女提督を見ている。視線が交わっているようで、交わらない。アバターの眼は、少女提督を見ているようで、もっと遠くを見ていた。

 

「アンタ、今度は何をやらかすつもりよ!」

 

 少女提督は叫んだ。

 AIのアバターは寂しげな微笑みを深める。

 

『“僕”は、自分の人生に決着をつけようとしているんですよ』

 

「はぐらかすんじゃないわよ……! 」

 

『そんなつもりはありません。ただ、言葉通りの意味です』

 

 アバターは微笑みに綻びはない。それは強い覚悟の裏返しと言うよりも、分かり切った実験結果を観察するような無機質さに満ちていた。

 

『他にも方法を探ったのですが、もう手はありませんでした。このままでは、不知火さんや天龍さん、それに、時雨さんや鈴谷さんを解体破棄するだけでは済まなくなります』

 

 このアバターの、何でもかんでも見透かしたような態度が気に喰わない。

 

「……まるで未来を視てきたような口振りね」

 

 言ってから、改めて思い出す。今の少年提督が内部に宿しているものは、未来視の力を持った何かだ。それも、神仏という言葉で類されるような超常の存在である。襲撃事件の夜も、少女提督は人類の未来を見せられる経験をした。自分の言葉が皮肉や嫌味どころか、比喩にすらならないことが忌々しい。

 

「ねぇ……」

 

 少女提督の声は、とうとう涙声になった。

 

「何でこんなことになるのよ? アンタがさ、ある程度マスコミを動かせるんだったら、私達はちっとも悪いことしてないって、そう言えばいいだけじゃない」

 

『もしもそんなことをすれば今度こそ、無防備な人々を巻き込むでしょう。不知火さんや天龍さん、それに時雨さんや鈴谷さんを解体・破棄せよと命令してくる本営は、きっと今とは比べ物にならない規模で報復を企てる筈です』

 

 分かっている。情報を制して本営の悪徳を暴いたところで、“めでたしめでたし”にはならない。現実にはその続きが必ずあるのだ。アバターの声は、やはり何処までも穏やかだった。

 

『僕は、先輩や貴女とは違う。口が裂けても、自分は無実だとは言えません。……だからこそ、僕に出来る役割があるのだと気づいたんです』

 

 一体誰に似たのか、このクソ頑固なAIアバターの言葉を飲み込むのには時間が必要そうだった。飲み込む必要もないと思ったが、何を言っていいのかも分からない。涙を堪えながら洟を啜ってから、マスコミという言葉から連想される存在を、今になって思いだした。我ながらなんて間抜けなんだろう。ガバっと顔を上げて、会議室の外へと視線を向ける。

 

 今、鎮守府の周りには記者やリポーターが大勢いる筈だ。

 いや、大勢という言葉では追いつかないくらい、居たかもしれない。

 万が一だが、そこに、今の少年提督と深海棲艦達が鉢合わせたら、どうなるか。

 心臓が凍る心地だった。

 

『……お互い、自らの役割を果たしましょう』

 

 手の中にある端末からAIの声がして、慌てて視線を戻す。だが、もうそこには、アバターの姿が無い。それどころか、端末自体がフリーズしている。再起動をかけるが、画面が立ち上がってこない。明らかに、中に居るAIの仕業だと思える挙動だった。少女提督は苛立つよりも先に駆け出す。会議室の大穴から飛び出すと、空から淡い光が降りてきた。曇天に切れ間が出来て、少女提督の居る場所を陽が照らしたのだ。まるで空が少女提督を祝福しているかのようでもあり、その矮小さを嘲笑しているようでもあった。

 

 少女提督はもう一度、洟を啜る。どっちでもいい。上等だと思った。身体に力込める。自分の命が、燃焼しようとしているのを感じる。自分のちっぽけさは、自分が一番よく分かっている。

 

 

 

 

 食堂から飛び出した瑞鶴は、日向達の後を追っていた。だが、既に彼女たちの後ろ姿はもう見えない。見失っている。それでも立ち止まるわけにはいかないと思い、先ほど爆発音が聞こえた方角へと走る。身体が重く、思うように動かない。もう息が上がっている。苦しい。全身の関節が軋みを上げ、筋肉が悲鳴を上げていた。身体を引き摺るように走りながら、自分の喉首に触れた。錨を模した錠前と、それを取り付けた革の首輪の感触は無い。先ほど食堂で展開された術陣効果によって。瑞鶴が装着していた首輪は既に消滅している。

 

 ただ、艦娘の肉体を無力化する術式効果も持続しているためか、瑞鶴の体は艦娘としての力を発揮できずにいる。舌打ちをしようとした瞬間に脚が縺れ、廊下に倒れ込む。すぐに手を付いて起き上がる。走る。廊下の窓に、自分の姿が透けて映っているのを横目で見た。片方の瞳が緋色をしているのが分かった。

 

 前の襲撃事件の時と同じように、瑞鶴は自身の体を深海棲艦化させることで艦娘の肉体を無力化する術式の効果から免れている。だが、その深海棲艦化も不完全にしかできなかった。艦娘として纏う霊気の質と、瞳の色が緋色に変化した程度である。以前のように『深海鶴棲姫』と同じ姿になるには程遠いし、運動能力や肉体の強靭さも全く及ばない。

 

 龍驤や日向達の会話に耳を欹てていた瑞鶴は、その原因も薄々分かっていた。今の鎮守府の内部を覆っているのは、艦娘の肉体を無力化する強力な術陣だ。それを展開したのが、今度は“黒幕”達ではなく、少年提督なのだろう。あの襲撃事件の夜よりも、更に強力な術式効果が瑞鶴の肉体機能を縛っている。状況から見て、そう考えるのが自然だった。

 

 日向達は、“私達の新しい提督”という言葉を使った。それが少年提督か、或いは、少年提督のAIであることは予想できる。深海棲艦研究施設の地下房で、日向たちを管理していたのは少年提督だ。彼ならば、瑞鶴たちが知らないところで日向たちと何らかの計画を準備していたとしても不思議ではない。

 

 しかし、彼が何かを企んでいる可能性については理解できるものの、彼が何を考えているのかはまるで分からない。分からないという事が恐ろしい。早く、速く動きたいのに、その意思に体が追い付いてこない。胸を焼く焦燥が、瑞鶴の冷静さを空回りさせる。日向たちの姿は見えない。何処だ。何処へ行った。更に焦りが増す。

 

 瑞鶴は息を乱しながら、唾を飲み込む。廊下から外に飛び出す。辺りを見回す。身体の力を抑制された上で、無理矢理に深海棲艦化を維持しようとしている所為か、視界がぼやけて狭まり、足元が揺れているような感覚に陥って、余計に焦りが増していく。動けなくなりそうになる。止まるな。動け。日向たちの行方が分からないなら、まずは爆発音がした方へ行くんだ。泥が詰まったように鈍い体を無理やりに動かしながら、瑞鶴は奥歯を噛む。

 

 少年提督が、何かをしようとしている。こういう時が来ることを彼は知っていて、着々と準備を進めていたのだと思った。いや、知っていたのではなく、すでに視ていたのだろう。自分から艦娘を剥奪される日や、艦娘が食堂に集められる景色も全部、分かっていたに違いない。だったら、これから瑞鶴がすべきことが在るという事だ。少年提督が今の状況を避けず、迎え入れたということは、今から数分後か数秒後かは分からないが、瑞鶴には何らかの役割がある筈だと思えた。

 

 いや、瑞鶴だけじゃない。全員だ。この鎮守府の全員に役割がある。少年提督が視た未来の姿の中に、全員の居場所が在るのだと信じる。信じるしかない。自分を鼓舞する。動け動けと自分の体を叱咤する。視線が下がる。斜め前方の地面を見る。舗装されている筈の其処には、黒い波が見えた。そんな気がした。自身の焦燥が見せる幻覚に違いない。自分に言い聞かせようとして、更に動揺する。

 

 次に、身体が沈んでいく感覚が来た。沈む。冷たい潮風が吹いている。いや、吹いていない。でも、寒い。息ができない。海水が体の中に侵入してくる。足が沈む。浮かぶことが出来なくなる。脚が濡れて、膝まで沈んだ。もがく。気付くと半身が海水に浸かっている。2秒後には胸まで沈み、肩まで沈み、顔の半分までが水に浸かる。揺れる水面の下へ、下へと、視界が下がっていく。一人は、寂しい。このまま、深海へ──。

 

「脚が速いでありますな。瑞鶴殿は」

 

「あ゛~、ほんとそれ……」

 

 茫然としていたから、駆け寄ってくる足音には気づくよりも先に、二人分の声が聞こえた。その声に腕を掴まれて、今まさに沈んでいこうとしていた水面から引っ張り上げられたかのように感じた。はっとして振り返る。あきつ丸と北上だ。あきつ丸は息を乱しながらもニヒルな笑みを浮かべているが、北上の方は汗だくだ。肩で息をしながら膝に手をつき、面倒そうな表情で瑞鶴を見上げていた。その北上の右眼には蒼い光が揺らぎ、線を引いている。北上の右半身は深海棲艦化していたが、それはやはり瑞鶴と同じで不完全だった。深海棲艦としての外骨格を纏うまでの変化はなく、肌の色の青白さが目立つ程度だった。

 

 

 瑞鶴は二人の顔を交互に見て、込み上げてくるものをグッと飲み込んだ。

 

 

 前の襲撃事件が在ってから、あきつ丸はどうやら普通の艦娘ではないという事や、今まで伏せられていた北上の深海棲艦化についても、この鎮守府に全員に知れ渡ることになった。もちろん、瑞鶴もだ。それでも、この鎮守府の艦娘達は以前と変わらずに瑞鶴たちに接してくれたし、特に気遣ったり、同情したり、遠ざけたりする空気も無かった。ただ瑞鶴は、贅沢な話だが、それがかえって息苦しく感じることもあった。そんなとき、瑞鶴を落ち着かせてくれたのは、この二人の存在だった。いつでも、この二人の自然体が心強かった。今だってそうだ。涙が出そうになるのを堪えて、息を吸う。吐いた。

 

 もう一度、二人を交互に見る。

 

「日向たちを見失ったわ」

 

 それがまず、今の状況だ。あきつ丸が肩を竦める。

 

「無理もありません。あっちは“抜錨”状態ですからな」

 

「それに、こっちはスポイル状態だしね~……。やっぱり、爆発音がした方に行く? 此処で散ってさ、三人で日向たちを探す手もあるけど」

 

 間延びした声で言う北上の眼には、戦闘海域に居る時と同じ真剣さが在った。

 

「それも手ではありますが、仮に彼女達を見つけても、我々では手も足も出ないでありますよ」

 

 あきつ丸が異議を唱えると、「そうなんだよね~……」と息を吐きだした。確かに、今の瑞鶴と北上では、“抜錨”状態の日向たちには太刀打ちできない。大人と子供どころか、子供と芋虫くらいの差がある。携帯端末を取り出してみるが、やはり遠隔でロックが掛かっている。使い物にならない。

 

「……でも、あんたは良い勝負できるんじゃないの?」

 

 瑞鶴は、あきつ丸の佩いた軍刀を見ながら言う。襲撃事件の夜、あきつ丸は野獣に匹敵しうる刀技で、並み居る金属獣を斬り捨てまくっていた筈だ。ただ、あきつ丸は肩を竦める。

 

「あの夜よりも肉体の拘束が強いでありますからな。3対1では、どうにもなりませんよ」

 

 あきつ丸は余裕のある態度のわりに、声音は酷く冷静だった。瑞鶴ほど焦っている様子でもない。頼もしい。

 

「じゃあ、決まりだね。爆発音がした方へ行こう」

 

 呼吸を整えた北上が駆け出そうとした時だった。

 

 あっ、おい、居たぞ! 此処の艦娘だ! 本当だ! やっと見つけた! 俺達が一番乗りか!? おい、カメラ止めるなよ! 中継! もうスタジオに繋がるか!?

 

 少し離れたところから大人数の声が聞こえて、走り寄ってくる気配が在った。えっ、と思う。あきつ丸も北上もそちらへ視線を向けて、一瞬だけ呆気に取られたあとで、苦々しい表情を浮かべていた。瑞鶴も「何でこんな時に……!」と、零してしまう。

 

 異様な熱気を纏って近づいてくる彼らが、テレビ局のリポーターや記者、マスコミ関係者であることはすぐに分かった。彼らが無断で鎮守府内に入ってこないよう、鎮守府のすべての門扉は閉じていた筈だ。誰かが開けたとしか思えなかった。はっとする。瑞鶴の脳裏に日向たちの姿が脳裏に浮かんだ。嫌な予感がする。鎮守府を取り囲んでいたマスコミ関係者の数は、かなり多かった筈だ。少なくとも、瑞鶴たちに駆け寄ってくる者達の数では少なすぎる。という事は、鎮守府内には他にも多数のリポーターや記者たちが勝手に侵入し、スクープを手に入れる為に取材対象を探しているのか。

 

 瑞鶴が眩暈を堪えているその間にも、彼らは無礼なほどに瑞鶴たちを指差し、興奮した様子でカメラとマイクを携えたまま、此方を取り囲もうとしてくる。あきつ丸と北上、それに瑞鶴は顏を見合わせる。逃げない方が良いと思えた。逃げては逆効果だ。先程の爆発音は、彼らも聞いていたに違いない。アクシデントの匂いを嗅ぎつけている彼らは、逃げ出す瑞鶴たちを必ず追いかけてくるだろう。状況が掴めないままで、彼らをより刺激するに違いない。

 

 瑞鶴たちは、すぐに囲まれた。無数のマイクとカメラのレンズが、まるで槍か刀のように威圧感を持って向けられる。これは、生放送のニュースか何かで放送されているのか。そう思うと、口の中が急速に乾いていく。彼らの熱量に圧倒されそうになりながらも、瑞鶴は叫ぶ。

 

「関係者以外は立ち入り禁止ですよ! 危険ですから、鎮守府の外に避難してください!」

 

 取り囲んでくるマスコミ関係者の一人が、瑞鶴の必死な姿を見て、嬉々とした様子で叫んだ。

 

「危険とは、どういう事ですか!?」

「先ほどの爆発音に何か関係があるんですか!?」

「何が起こっているんですか!?」

「鹵獲した深海棲艦の売買も行われていたという話もありますが!?」

「その深海棲艦たちが、暴れているんですか!?」

 

 威圧感と熱量をたっぷりと含んだマスコミ関係者たちの質問が、取り囲まれて身動きが出来ない瑞鶴たちを目掛け、矢継ぎ早に飛んでくる。答えるつもりがあるのかさえ分からないような言葉の密度だ。瑞鶴も怯んだ。鬱陶しそうに眉間に皺を寄せた北上が何かを言おうとしているが、その気配を質問で塗りつぶす勢いだった。あきつ丸が醒めた無表情になって、マスコミ関係者を睥睨している。

 

「此方の鎮守府の提督が、この前に明るみに出た“艦娘売買事件”に関与していたという話は、本当ですか!?」

 

 その発言を聞いた瞬間、瑞鶴の体の奥から今まで感じたことのない生々しい怒りが湧きあがり、反射的に発言者に掴みかかりそうになった。それをグッと堪える。強張った瑞鶴の表情に気づき、それを面白がるように、カメラのレンズが瑞鶴を映している。まるで銃を突きつけられているような気分だ。中継という言葉が聞こえたのを、もう一度思い出す。下手なことは出来ない。瑞鶴たちを取り囲むマスコミたちは、安全な場所から此方の出かたを観察している。

 

「今はそんなこと言ってる場合じゃなくて、本当に危ないかもしれないからさ~! ほら、とにかく避難してくださいって!」

 

 北上が語気を強めて言う。

 

「そうやって白を切って、私達を追い払うんですか!?」

 

 瑞鶴たちを取り囲んだ者達の一人が声を上げた。

 すると、連鎖的に他の者達も熱狂する。

 

 そうですよ! 説明を願います! 

 爆発音がしましたよね!? 何があったんですか!? 

 私達には真実を世間に伝える使命があります! 

 何が起こっているのか説明してください!

 

 ますます興奮した様子で捲し立てる彼らの姿に、流石の北上も弱り切った表情を浮かべる。自分たちに危険が及ぶ可能性を考慮しない辺り、憲兵なんかよりも質が悪い。ただ、マスコミ関係者たちのそういった図太さは、瑞鶴の怒りを冷ましてくれつつあった。先程までとは全く種類の違う焦燥が、瑞鶴の中で膨れ上がっていく。

 

 このマスコミ関係者たちはもう、今の鎮守府の状況の中に入ってしまっている。何が起こるのか分からないが、目の前の彼らは否応なく巻き込まれてしまう。それは避けなければならない。自分は艦娘だ。艦娘として人々を守らなければならない。その使命に誠実であろうとした瑞鶴は、彼らの安全を確保するために、一刻も早く此処から遠ざけなければならないと思えた。

 

「ですから、早く避難を……!!」

 

 瑞鶴が必死の想いで声を出そうとした時だった。

 

 再び、爆発音が響いた。身体の芯にぶつかってくるような音だ。かなり近い。瑞鶴たちを取り囲んでいたマスコミ関係者たちが悲鳴をあげる。傍にある庁舎に大穴が空いたのだ。粉塵が舞い上がり、瓦礫が飛び散る。曇天の下に満ちた湿った空気が、大きく振動する。断続的に銃声が混ざる。

 

 女性リポーターが身を竦めてしゃがみこんだ。カメラマンが横向きに倒れる。だが、職業病のようなものか、それとも執念か。カメラマンはテレビカメラを庇い、倒れたままで何が起こったのかを撮ろうとしている。大穴が空いた庁舎の方からも、テレビ局やマスコミ関係者であろう者達が必死の形相で駆け寄ってくる。マイクを手にした男性リポーターの姿も確認できる。先ほどの爆発での負傷した様子はないが、かなりの人数だった。瑞鶴たちを取り囲んでいた者達とは別のグループに違いなかった。彼らの様子からして、明らかに何かから逃れようとしている。

 

 マスコミ関係者たちだけではなく、憲兵たちの姿もある。銃を構え、発砲している。あの巻き上がる粉塵の向こうに居る何かと戦いながら、撤退してきているという風情だ。尋常ではない緊迫感の中、憲兵達がこちらを見て怒号を上げた。逃げろ。この場を離れろ。そんなことを叫んでいた。だが、瑞鶴たちを取り囲んでいたマスコミ関係者たちは、「おい、やっぱり何か在ったんだ!」などと、はしゃいだ声を口々に出していた。

 

 

「カメラだ!! カメラを止めるな!!」 

 

 瑞鶴の傍で、そんな怒号まで飛び始める。女性リポーターがカメラの前で、真剣な表情で何かを喚いている。記者であろう者達は、こちらに逃げ散ってくるマスコミ関係者を通せんぼして、或いは、血相を変えている憲兵たちに追いすがり、何があったのかと情報を聞き出そうとしている。絶対に、そんなことをしている場合じゃないのにだ。瑞鶴は歯噛みする。

 

「だからさぁ~……!! はやく逃げなよって!!」

 

 北上も必死な声で叫んだ。だが、スクープを前にした彼らの熱気は、瑞鶴たちの想いを跳ねのけてしまう。逃げてきた者達ですら踵を返し、ただでは帰れないとばかりに息を乱しながらカメラを構える始末だ。彼らの眼は爛々と輝き、今から起きる全てを世間に映し出そうとしている。瑞鶴は言葉を失う。彼らは、報酬や評価を求めているのではなく、彼らの役割と使命を果たそうとしているようにも見えた。

 

 そしてそれは、自分たちと同じだと思えた。ただ、それでも、瑞鶴も黙って今の状況を見ている訳にはいかない。マスコミ関係者たちを守るように動こうとした。彼らを避難させようとしたのだ。だが、もう遅かった。北上が呼吸を詰まらせるのが分かった。瑞鶴も立ち竦む。あきつ丸だけが、腰に佩いた軍刀に手をかけ、緩く息を吐きだしていた。

 

「……なるほど。こういう事でありますか」

 

 あきつ丸がボソッと零すのが聞こえた。北上にも聞こえたようだ。瑞鶴と北上があきつ丸の方を見るよりも早かった。

 

 …………南阿無。頼耶。無夜般。阿陀知魔訶。識。濁如是。精原等何方無在有。周功徳今不二玻瑠璃。楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量天心祁獄楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量因地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊小業劫。境涯外塵。真如妙境深羅進。無迦楼浅苦畢。竟壊小業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐可。舎利水囲。故地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅………………

 

 数多の僧侶が肉声を折り重ね、浪々と読経するかのような詠唱が聞こえてきた。いや、聞こえてきたと言うよりは、脳が作る意識の中に、現実世界に存在しない者達の声が流れ込んでくるかのような響きだった。聴覚が全く違う次元の音を感知し、それがたまたま、読経に似た響きを持っているだけなのかもしれない。頭痛がする。視界が狭まってくる。頭を軽く振って目を凝らす。

 

 …………不二玻瑠璃。楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量天心祁獄楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量因地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊真如妙境深羅楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅………………

 

 濛々と巻き上がる白く濁った粉塵の中から、ゆっくりと少年提督が現れた。彼は象牙色と琥珀色のオーラを纏い、“人間の深海棲艦化”を克明に表すかのように、額の右側からは白磁色のツノが伸びていた。彼が歩くたびに、その足元には黒い蓮が咲いていく。超然とした雰囲気を巻き散らす彼の背後ではオーラが凝り固まり、いつかのように禍々しい光背が象られている。仏教的な荘厳さに満ちていながらも、見る者に沈黙と畏怖を強いる、重厚で厳粛な光景だった。誰もが動きを止め、目を奪われている。

 

 …………徳今不二玻瑠璃。楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量天羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量因竟壊小業劫。境涯外塵神。真如妙境。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐可。舎利水囲。故地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅………………

 

 少年提督は文言を唱えている。彼は一人ではない。

 

 彼の両脇を固めるようにして歩いている戦艦水鬼・棲姫の二人は、既に艤装獣を召びだしている。彼女達の艤装獣は筋骨隆々で、要塞のような巨体を誇っている。数は2体。それだけでも十分すぎる脅威だが、それに加えて、空母ヲ級と、北方棲姫を抱きかかえた港湾棲姫の姿もあり、彼女たちが召還したのであろう大量の猫型艦戦も空中に陣取っていた。

 

 少年提督の右斜め後ろには、集積地棲姫の姿もある。両腕をガントレットのような艤装で覆っている集積地棲姫は、空間に幾つものディスプレイを展開しており、何らかの術式構築の準備をしている風情だ。そんな集積地棲姫を守るべく壁となって傍に控えているのは、戦艦タ・ル級の二人である。深海棲艦の上位種を率いる今の少年提督の姿は明々白々、普通の人間ではない。黙ったままのカメラのレンズ達が、己の姿を隠そうともしない彼を捉えている。現実社会と、そこに住まう多くの人間の瞳と心が、今の少年提督の姿を捉えているのだと思った。

 

 …………螺不。悪阿耨多羅多空。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量天心祁獄楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。空羅。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。竟壊小業劫。境無迦楼浅苦畢。竟如妙境深羅楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅………………

 

 

 あ、あの少年が、深海棲艦を連れているのか。

 彼は、ここの提督じゃないのか……、ほら、“元帥”の……! 

 艦娘たちで人体実験を繰り返したっていう、あの……? 

 

 マスコミの関係者たちは、目の前の光景に慄きながらも強張った声を出す。彼らは少年提督と深海棲艦達の威容に飲まれ、恐怖に立ち竦んでいるがカメラを手放さない。何人かの憲兵が携帯端末を取り出し、何処かへ連絡を取っている。叫ぶようにして通信を繋いでいる。目の前の景色を、自分たちの知っている情報や常識に照らし合わせ、最適な行動を取ろうとしている彼らは、今にもしゃがみこんでしまいそうな瑞鶴などよりも、よほど冷静だった。

 

 やめてよ。やめて。提督さんを撮らないでよ。お願いだから。

 違うんだって。私達の提督さんは、本当は優しい人なんだ。

 今の姿とか状況は、何かの間違いなんだ。違う。違うんだ。

 

 瑞鶴は、自分でも分かるほどに感情のバランスを失いつつあった。だが、取り乱す暇もなかった。「やっばいよ……!」 北上が焦った声を出すのが聞こえた。大穴が空いた庁舎とは、また別の庁舎から、こちら目掛けて何かが飛び込んでくる。漆黒の艤装。白髪のツインテール。南方棲鬼だ。彼女は、瑞鶴たちのすぐ傍に、ズズゥゥゥン……!! と、重たい音を立てて着地した。地面が砕ける。深海棲艦がすぐ傍に出現したことに、大勢のマスコミ関係者も、そして憲兵も、大きく反応が遅れていた。

 

 あきつ丸が軍刀を抜き放つ為に姿勢を落とす。だが、着地姿勢だった南方棲鬼が立ち上がるのと同時に、あきつ丸に肉薄していた。とにかく疾かった。あきつ丸は軍刀を抜くのではなく、盾のように持ち替えて防御姿勢をとった。咄嗟の判断だったに違いない。南方棲鬼は艤装を纏ったゴツイ腕と拳を振りぬき、あきつ丸が構えた軍刀の上から強烈なストレートパンチをぶち込んだ。重くて鈍い音と、軍刀がへし折れる音がした。あきつ丸が吹っ飛んで、舗装された道の上を転がっていく。

 

 地面をバウンドしながらゴロゴロっと派手に転がったあきつ丸は、すぐに手をついて体を持ち上げたが、立ち上がれていない。折れた軍刀を杖のように持った片膝立ちになって、左手を地面についている。「ごほっ……!」と血を吐いて、そのまま崩れ落ちた。

 

 

 マスコミたちはまだ反応しきれていない。今の状況を把握できていない。距離のある少年提督達とは違い、すぐ傍に深海棲艦の“鬼”クラスが居ることの危険さを実感する為には、あと2、3秒ほど必要だろうか。その時間を稼ぐ。「早く逃げなって……!!」北上がマスコミ関係者や憲兵に叫んでいる途中で、南方棲鬼は動いた。奴は北上に突進して腕を振るい、抜錨すらできない北上を軽々と払い飛ばしたのだ。鳥肌が立つような鈍い音がした。僅かながら深海棲艦化していた北上だが、南方棲鬼の攻撃をガードするのがやっとだった。あきつ丸と同じように、北上も舗装された地面を転がる。

 

「くっそ……!」 

 

 倒れた北上も起き上がろうとするが、上半身を持ちあげてそういうのがやっとのようだった。北上のすぐ傍に居た女性リポーターは、目の前で振るわれた圧倒的な暴力の片鱗に圧されて尻餅をついている。南方棲鬼が、その女性リポーターに向き直り、見下ろし、近づこうとしている。5人の憲兵が南方棲鬼の動きを止めようと躍りかかるが、まるで羽虫でも払うかのように、南方棲鬼は腕を数回振るっただけで憲兵達を払い散らしてしまった。地面に転がった憲兵が、装備していた大型の機関銃を撃つ。だが、弾丸は届かない。南方棲鬼が纏うオーラに飲まれ、光の粒子となって消えるだけだ。無力だった。

 

 リポーターの彼女を守れるのは、瑞鶴しか居ない。

 

 マスコミ関係者たちは、まだ動き出せていない。状況を把握できないまま、手にしたカメラを回している。迫っている危険の大きさを彼らが実感し、驚愕に至り、そして逃げ出すまでの硬直した僅か数秒の間に、最悪の事態が起ころうとしている。幾つものカメラが、深海棲艦による殺人を映そうとしている。少なくとも、世間にはそう見えている筈だった。

 

 不意に、南方棲鬼が視線だけで瑞鶴を見た。彼女の紅い瞳には、艦娘である瑞鶴への殺意も敵意も無かった。人間に対する憎悪も害意も無い。ただ落ち着いていた。その眼差しは、瑞鶴の心を貫いている。瑞鶴に訊いている。こういう時、お前は、お前たち艦娘は、どうするんだと。お前が生きてきた時間は、お前自身にどんな決断を迫るのだと。

 

 この瞬間。瑞鶴は、自分の役割が分かった。自分の全存在を預ける決断ができた。今まで生きてきた時間の中で蓄えてきた勇気を、全て使い切る決心だった。現実を破壊する覚悟だった。瑞鶴は地面を蹴って飛び出していた。自分の髪が白く染まり、逆立っていくのが分かる。艦娘のものではない力が、巨大な力が湧きあがってくる。艦娘としての自分が剥がれ落ちていく。艦娘とは違う何かに変わろうとしているのを感じた。構わない。私は、自分の役割が分かった。だから、それを選んだのだ。

 

 瑞鶴は南方棲鬼に飛び掛かって、左の拳でぶん殴った。拳を振りぬいた瞬間には、瑞鶴は、もう瑞鶴の姿をしていなかった。南方棲鬼は避けず、ガードの姿勢をとって受けたが、後ろに圧し飛ばされていた。その隙に瑞鶴は、倒れている女性レポーターをそっと抱え上げて、優しく、しかし、素早く立ち上がらせる。

 

「私ハ貴女たちヲ守りタい。だかラ早く、此処カラ逃げテ下さイ」

 

 瑞鶴は、女性レポーターの眼を見詰めながら言う。若い女性レポーターは、青ざめた顏を強張らせ歯を鳴らし、唇を震わせて瑞鶴を見ている。恐怖に潤む女性レポーターの瞳には間違いなく、深海鶴棲姫の姿が映っていた。それを見て瑞鶴は、いつかの少年提督とのやり取りを思い出す。

 

 瑞鶴さんは、瑞鶴さんですよ。

 

 あの日の少年提督の優しい声が、胸の内で暖かく木霊している。

 今まで瑞鶴が生きてきた時間と、“今の瑞鶴”を結び付けてくれている。

 

 先程まで少年提督を捉えていたテレビカメラのレンズ達が、今度は瑞鶴を捉えている。世間に曝されたままの少年提督は、人間の深海棲艦化を証明した。そして瑞鶴も今、艦娘の深海棲艦化を証明している。深海棲艦化した人間から人々を守ろうとするのが、深海棲艦化した艦娘であるというこの景色を、現実社会はどう受け止めるのだろう。少年提督と瑞鶴は、同じ景色の中に存在し、今まで自分たちを縛り付けていた常識や観念を叩き壊そうとしているのだと思えた。

 

「ぁ、ありがとうございます……!」

 

 女性リポーターが勇気を振り絞る顔になって、瑞鶴に頭を下げた。瑞鶴は頷きを返してから周囲を見渡し、他のマスコミ関係者達にも、この女性リポーターと共にこの場を離れるよう促した。憲兵達には、倒れている北上、あきつ丸を連れて逃げて欲しいと伝える。そこでようやく、マスコミの関係者たちは悲鳴を上げて動いた。その悲鳴が瑞鶴に対するものなのか、少年提督達に対するものなのかは判然としなかったが、どうでもよかった。彼らは逃げていく。憲兵達も、あきつ丸と北上を抱えて逃げてくれた。

 

 …………螺不。悪阿耨多羅多空。遠恐上呪。波不虚。空羅。蜜怖離。三想念。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。法故量天心祁獄楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。空羅。藐三菩提可。視提閣璃舎利水囲。竟壊小業劫。境無迦楼浅苦畢。竟如妙境深羅楼死菩羅螺不。悪阿耨多羅多空乃至中厭。遠恐上呪。波不虚。地天心祁獄進。無迦楼浅苦畢。竟壊業劫。境涯外塵神。真如妙境深羅………………

 

 瑞鶴は一人残され、目の前に広がる景色と向き合う。

 少年提督が、瑞鶴を見ている。

 彼は無表情のままで、文言を唱え続けている。

 この世界を破壊しようとしている。

 瑞鶴は瑞鶴であるために、それを止めなければならない。

 

 呼吸が震えた。瑞鶴の体から霊気が滲む。艤装を召還する。いつかの決戦装束だ。懐かしく思う。深海鶴棲姫としての力を振るう為に、瑞鶴は前に出る。仲間たちと過ごしてきた暖かな日常を想い、砕かれてしまった大切な場所を憂い、溢れる涙を拭うこともせず、瑞鶴は、“鬼”と化した少年提督と、彼が率いる大軍団に、正面から突撃する。

 

「うぁぁぁああああああああああああああああああああああああ!!!!!」

 

 深海棲艦が泣く姿を、人々はどう思うのだろう。

 

「鬼は外、福は内だ」

 

 低い声で言う南方棲鬼が、艤装を展開している。

 

「お前は鬼じゃない」

 

 やはり、こちらに対する殺意も敵意もない。それでも、瑞鶴は戦わなくてはならない。一人は寂しいと言い、沈んでいったもう一人の自分を思う。彼女も、この景色を作り上げるために、瑞鶴の影の中にいるのだと思えた。

 

 

 









親切な誤字報告や、暖かな高評価、感想を寄せて頂き、いつも本当にありがとうございます! 話の中で不自然な個所や整合性が取れていない箇所などがありましたら、また御指導いただければ幸いです。加筆修正しながら、なんとか完走を目指したいと思います。

次回更新も不定期ですが、またお付き合い頂けるよう頑張ります。
いつも支えて下さり、本当にありがとうございます!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

少年提督と野獣提督 中編





 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 分厚く暗い雲がたっぷりと詰まった空の下で、瑞鶴は吠え猛る。

 

 艦娘である自分と、深海棲艦である自分の境界が曖昧になり、その狭間で、己の自我や精神といったものが燃え上がっているのを感じた。今まで海の上で戦っていた時には感じたことない種類の激情が、自分の体を衝き動かしている。正義も悪も無く、瑞鶴が瑞鶴であるための行動を選択する。少年提督と戦う。少年提督を止めるのだ。それは自身の信念を貫く満足感や充足感とは無縁の、もっと切実で、どうしようもない無念に塗れた突撃だった。

 

 瑞鶴は深海鶴棲姫としての脚力で地面を踏み砕きながら南方棲鬼に肉薄しながら、自身の周囲に艦載機を無数に召ぶ。瑞鶴の体から溢れる膨大な霊気は、周囲の空間に爆発的に広がって凝り固まり、そのまま形を持って生きた武力になる。猫艦戦として発生し、瑞鶴の意思に従う。これを、港湾棲姫やヲ級が使役する猫艦戦の対処に回す。

 

 瑞鶴は、この場にいる全てを相手にする覚悟だった。

 これは、艦隊戦ではない。もっと単純な形での闘争だ。

 弓を構えて戦う間合いじゃない。艦娘の空母としては戦えない。

 セオリーも、アウトレンジも、へったくれもない。

 それでも、少年提督を止めなくてはならない。

 さっきの憲兵やマスコミ関係者が逃げる時間を稼がねばならない。

 

 南方棲鬼は、突っ込んでくる瑞鶴を静かに見据えて、艤装の砲身を向けている。ずらっと並んで此方を睨む砲口の中は黒く、容赦や慈悲などとは無縁の冷徹さに満ちていた。一斉砲撃が来る予感が在った。それに、南方棲鬼の背後には、戦艦水鬼と戦艦棲姫をはじめ、ヲ級や港湾棲姫、集積地棲姫、それに戦艦種のタ級、ル級までが居る。あまりに堅牢で強固な布陣だ。彼女達を押し退けなければ、少年提督までは辿り着けない。少年提督は深海棲艦達に守られるようにして、瑞鶴を冷たく眺めていた。彼の紫水晶のような瞳は無機質で、感情も思考も窺わせない眼をしている。

 

「全弾直撃しても、今のお前なら死にはしないだろうが」

 

 南方棲鬼の声が聞こえた。

 

「ちゃんと避けろよ」

 

 次の瞬間だった。南方棲鬼の艤装が文字通り火を噴いた。砲撃だ。瑞鶴は体を倒しながら、左方向へ大きく踏み込んで砲弾を躱す。瑞鶴の背後が着弾点となり、爆発が起こる。近くの庁舎が爆風に飲まれ、一部が崩れる音も聞こえる。轟音と振動が辺りを包む。吹き荒ぶ熱波を置き去りにして踏み込む。南方棲鬼と瑞鶴の距離が潰れる。砲撃戦の距離ではない。瑞鶴は右手を握り固めて、南方棲鬼に殴りかかる。すっと重心を落とした南方棲鬼は身を僅かに引き、艤装を纏った左腕でガードした。金属が拉げる派手な音が響く。

 

 南方棲鬼の左腕を覆う装甲や艤装に亀裂が走り、腕部装甲の一部が砕け飛んだ。艦種で言えば瑞鶴は空母だが、この超クロスレンジでそんなものは関係ない。そもそも、これは艦隊戦ではない。海戦ですらない。使えるものを使って戦う。深海棲艦としての肉体の強さを叩きつけるだけだ。瑞鶴の拳に激痛が走る。その痛覚のなかに、艦娘でも深海棲艦でもない、『瑞鶴』という個としての自身の存在を感じていた。

 

 瑞鶴は南方棲鬼のガードの上から拳の連打を打ち込む。南方棲鬼の足元の地面が陥没していく程に殴る。そんな瑞鶴の猛攻から逃れ、距離を取るべく、鼻を鳴らした南方棲鬼が飛び退る。両腕の艤装と装甲をバキバキのボロボロにされた彼女は、まだまだ冷静で、厄介だ。彼女は瑞鶴から距離を取ろうとしている。逃がさない。それを追う。少し離れた場所でも、爆発音が聞こえた。誰かが、瑞鶴と同じように戦闘の最中に居るのだろう。二振りの刀を持つ野獣の姿が意識の端を流れたが、すぐに消えた。

 

 瑞鶴は叫ぶ。身体に力が漲り、溢れている。

 自分の中に在ったもの開放している感覚だった。

 まだだ。まだ、力は出せる。この体はもっと強くなる。

 頑強になれる筈だ。だから、そうするんだ。

 南方棲鬼に追いついた。また、殴る。

 殴って、殴って、殴って、殴った。

 

 南方棲鬼はガードを固めている。その上から殴る。殴り抜く。拳が割れて、変形し、血が噴き出すが、殴り続けるんだ。私は。提督さんを連れ戻すんだ。目を覚まさせてあげるんだ。血塗れの拳を振り抜いた瞬間だった。ガードを固めていた南方棲鬼が涼し気に眼を細め、こっちのパンチを潜って来たと思ったら、強烈なカウンターを貰った。

 

 艤装を纏った南方棲鬼の右拳だ。左頬と顎の中間あたりにぶちこまれて、左の眼球や頬の肉や顎の骨、頭蓋、耳の中身などが潰れたのも分かったところで、すぐに再生していく感覚も在ったし、視界もすぐに回復したから、わざわざ怯む必要も感じず、パンチを喰らったままで殴り返すけど、これを避けられて、更にカウンターを貰って、やっぱり痛くなくて、しつこく殴り返したけれど、南方棲鬼の動きはボクサーのように軽やかで、こっちの殴打を避けて、また正確なカウンターを放ってくるのも分かっていたし、その度に頭部がめちゃくちゃになった。でも、すぐに再生するし、避ける必要も感じない程度には全然痛くなくて、破壊された眼や頭蓋が再生するたびに、どんどん感覚が研ぎ澄まされていて、気づいたら、目の前に迫って来ていた南方棲鬼のカウンターパンチを頭突きで迎えに行っていた。

 

「ムッ……!」

 

 南方棲鬼は右拳でカウンターパンチを放っていたから、その右拳どころか右腕全部を拉げさせる勢いで頭突きをぶちかますと、流石に良い音がして、実際に南方棲鬼の右腕を覆う艤装が砕けて、その右腕自体も変な方向へ曲がっているように見えたし、痛みと驚きからか南方棲姫の動きが一瞬だけ止まった。隙だらけって感じで、ちょうどよかった。即座に彼女の胴を目掛けて、左脚で回し蹴りを叩きこんでやったら、かなりいい感じのクリーンヒットだった。

 

 そのまま左脚で南方棲鬼を数十メートルほど思い切り蹴飛ばして、半壊した庁舎の壁にぶち込んでやると、今度はその庁舎が崩れて南方棲鬼が瓦礫に下敷きになった。それを確認してから、猫艦戦を更に中空に召びこんで、港湾棲姫やヲ級が従えた猫艦戦を抑え込ませるついでに、更に猫艦戦を召んで召んで召びまくり、制空権を奪い返す。

 

 瑞鶴の体から滲み、溢れる霊気は尽きる気配がない。深海棲艦の中でも、かなりの上位体である深海鶴棲姫として覚醒しつつあるからだろうか。もっと強くなれると思った。そうだ。私なら、まだまだ強くなれる。だって、海の上で出会った“私”は途方もない力を持ち、凄まじい数の艦載機を従えていた筈だ。なら、私にだって出来る。

 

 深海鶴棲姫としての力を存分に発揮しようとする瑞鶴の体は、常に再生と治癒が行われており、骨が砕けて肉が潰れていた両手の拳も既に元に戻っている。顔の腫れも傷も消えていることが自覚できた。自身の体から湧き出す強靭な生命力と戦闘力を、改めて実感する。“本当の自分”とか“本来の自分”なんていう安っぽい言葉が思い浮かぶ。自分の中から出発する深海棲艦としての巨大な力は、とにかく奔放で自由だった。視界が開ける感覚が在り、戦闘を行うことにばかり向いていた意識が、南方棲鬼以外にも届き始める。

 

 視線を動かしながら違和感を覚えた。

 妙だった。追撃が無い。攻撃が来ない。

 

 瑞鶴に攻撃を仕掛けるタイミングを悠長に計っているのかと思ったが、そうでもなさそうだった。前衛として前に出てきていた南方棲鬼が蹴り飛ばされても、港湾棲姫もヲ級も全く焦りを見せていない。自分達の艦載機が駆逐されていく様子を見ても、まるで動揺した様子もない。彼女達を守るための猫艦戦もまだまだ多いからか、瑞鶴の艦載機に対処しようとする気配もない。集積地棲姫も、タ級、ル級も、まだ動かない。戦艦水鬼と戦艦棲姫が、其々の艤装獣に指示を出すのが見えた。

 

 あの筋骨隆々の巨人たちが攻撃に参加してくるか。強敵だが、今の瑞鶴なら戦える。問題ない。艦載機はまだまだ召べる。巨人どころか、港湾棲姫も集積地棲姫もヲ級も、全員を相手にしてやろう。一人残らず伸して、少年提督の暴走を止めて見せる。瑞鶴は体を倒しながらそう思ったが、艤装獣たちは前へ出てこない。それどころか、戦艦水鬼と戦艦棲姫たちは少年提督と共に、この場から移動をしようとしている。瑞鶴を置いて、何処かに行こうとしている。

 

 寒気と共に愕然とした。

 

 曇天から吹く重たい風が、崩れた庁舎から砂埃と石の屑を吹き上げて、薄い煙霧のように掠れて攫われていく。その向こうで、少年提督が瑞鶴から視線を外すのが分かった。通り道に邪魔くさい違法駐車があって、それを迷惑そうに眺めた後に、進行方向を変えるように。港湾棲姫もヲ級も、集積地棲姫も、少年提督たちに続こうとしている。

 

 少年提督達は、今の瑞鶴を相手にしようとしていないことに、ようやく気づく。

 

 港湾棲鬼とヲ級が召んだ猫艦戦と、瑞鶴が召んだ猫艦戦が、空中でぶつかり合っている。猫艦戦たちは互いに噛みついたり体当たりしたり、あるいは自爆して周囲の敵機を巻き込んだりして、もう無茶苦茶だった。艦戦たちの死骸が、鉄屑と金屑となって降り注いでいる。曇天へと視線を上げる。瑞鶴側の猫艦戦が優勢であることが分かった。数も練度も上を行っている。それでも、まだ足りないと思った。私を無視できないほどに、もっともっと艦載機が必要だ。私自身の存在を膨れ上がらせて、この場を圧倒するほどの力が必要なんだ。

 

 瑞鶴は体を折り曲げて、顔と額を掌で覆う。

 これじゃ足りない。全然足りない。艦載機を、まだ召ぶ。

 身体から溢れる霊気を、艦載機を召び込む力へと注ぎ込む。

 もっとだ。この空を埋め尽くすぐらいに召ぶんだ。

 この曇天は私のものだ。誰にも譲らない。

 

 瑞鶴の周囲の空間が短く、しかし、激しく振動し、赤い光の線が走る。その線は瑞鶴を中心に展開する力線として術陣を編み上げて、現世とは違う次元から物質を読み込む。赤い光の線は、砕かれた地面のコンクリートや石の屑、舞い飛ぶ砂埃も火の粉も飲みながら解けてゆき、その輪郭の揺らぎの内側から、無数の猫艦戦が湧き出して浮かび上がる。周囲にある物質が瑞鶴の意思に従い、艦載機へと姿を変えていく。このまま、召び出した艦載機の量にモノを言わせ、今の鎮守府を徹底的に制圧してやろうと思ったが、それを邪魔する奴が居た。

 

 さっき思い切り蹴り飛ばしてやった南方棲鬼だ。

 庁舎の瓦礫の中から飛びだして、横合いから突っ込んでくる。

 もの凄い速さだった。一瞬で距離が詰まる。

 

 瑞鶴は姿勢を変える間も無かったが、視線だけで彼女を見ることは出来た。彼女は琥珀色のオーラを纏っていて、その陰影が、とんでもない速度で彼女の艤装や傷を修復しているのが分かった。まるで世界そのものが、南方棲鬼の損傷による“変化”を否定しているかのようだ。不死という言葉が頭を過った時には、顔面を殴打されていた。殴り飛ばされる。凄まじい勢いで体が空中を移動しているのが分かる。だが、その間にも瑞鶴は艦載機を召び出し続ける。反撃に移るためだ。瑞鶴は砕けた石畳の上に叩きつけられながら転がるが、体勢を整えて手をつき、即座に起き上がる。

 

 頭部の損傷は、もう修復している。

 戦える。私は戦えるんだ。

 

 顔を上げると、視界の隅に何かが映った。

 深海鶴棲姫としての視力が、それを捉えた。

 

 離れた場所の、庁舎の屋上だ。あれは。人の形をしている。派手な色をした上着を着ている。

 テレビ局の、なんらかの番組スタッフ用のジャンバーだ。胸のところにロゴが入っていた。カメラも構えている。こっちを映しているようだ。でも、おかしい。だって。あれは、さっき見失った筈の。「神通……?」 そう声を漏らした瞬間には、右の横っ面をぶん殴られていた。

 南方棲鬼が眼の前に踏み込んで来ていたのだ。

 

「申し訳ないが、1秒以上のカメラ目線はNG」

 

 立ち上がろうとして、南方棲鬼の声を聞いた。

 同時に前蹴りが来る。顔面が潰れて、また吹っ飛ばされる。

 すぐに転がって起き上がる頃には、顔の傷は再生している。

 だが、追撃が続く。反応が遅れたのが不味かった。

 

「奴らの事は気にするな。お前たちの味方だ」

 

 音もなく間合いを詰めてきた南方棲鬼が、やたらケンカ慣れした動きで両拳の連打を打ってくる。連続パンチのインパクトの瞬間には艤装の艦砲もあった。数は10発。瑞鶴はそれを全部喰らった。痛みは無かった。衝撃だけがあった。視界の右半分が消し飛んで右腕が爆ぜ、左の脇腹が吹き飛んで左脚が潰れて、胴体に大穴が空いた。血煙となった自分の姿が分かる。原型を留めないほどに四肢がバラバラに千切れ飛びながらも、すぐに再生と修復、復元が始まる。瑞鶴の体は吹き飛ばされた勢いのまま、空中ですぐに元通りになって、無意識のうちに反撃に移ろうとしていた。

 

 だが反撃に移るよりも先に、瑞鶴の頭の中に神通の姿が浮かんだ。何だ。神通は何故、テレビ局のクルーの格好を? それに、テレビカメラまで構えていた。それが意味しているものは何だ? 目的は? 次々と疑問が浮かんでくる。考えごとをしている場合ではない。戦闘に集中しなければと思う。

 

 ただ、肝心の南方棲鬼の方が、追撃をしてこなかった。重心を落とした戦闘の姿勢を取ってはいるものの、攻勢を維持しようとしていない。修復された艤装を展開しつつ、白く薄い煙を吐き出す砲口を瑞鶴に向けたままで距離を取っている。南方棲鬼には、何が何でも瑞鶴を殺そうという意思が感じられない。落ち着いた余裕も窺える。手加減されていると思った。瑞鶴は自分の顔が歪むのが分かったし、それを見た南方棲鬼が唇の端を微かに持ち上げた。

 

「心配はいらない」

 

 南方棲鬼の落ち着いた声は、殺気立つ瑞鶴を柔らかく諭すようでもあった。

 

「今日、この鎮守府で死傷者は一人も出ない。お前は、お前自身に誠実であればいい」

 

 彼女の低い声を聞きながら、瑞鶴も姿勢を落とす。どういう意味だ? 自身に誠実であればいい? 南方棲鬼の言葉の意味を、頭の中で必死に探ろうとしている自分に気づく。考えても明確な答えの出ない問いだ。

 

 冷静になれと、心の中で声がした。戦いながら違和感の正体を探るんだ。艦娘である自分が、深海棲艦である自分に言う。彼女達の行動が戦闘や殺戮を目的としているのならば、瑞鶴に対して手加減する必要などない筈だし、少年提督たちが瑞鶴を見逃すことも筈だ。しかし、少年提督と、彼が率いる戦艦水鬼や戦艦棲姫、それに港湾棲姫、集積地積姫たちは、瑞鶴を積極的に攻撃しようとはせず、この場を離れていった。

 

 その理由が分からない。少年提督の真意は読み取れない。今は南方棲鬼が壁役として前衛に残り、掛かる火の粉を払うように瑞鶴の相手をしているような状況だ。それも、手加減しながら。それを思うと、頭に血が上っていく感覚と同時に、深い沼に沈んでいくような感覚が同時に来た。焦燥が心に渦を作り、思考が疲弊していきそうになるのを振り払うべく、目の前に立ち塞がる南方棲鬼に意識を向けたまま、視線だけで神通の姿を探そうとした。だが、出来なかった。

 

「言ったはずだ」と、南方棲鬼の砲撃が来たからだ。

 

 瑞鶴は咄嗟に体の軸をずらし、砲弾を回避する。

 

「カメラ目線はNG」

 

 だが、先ほどよりも着弾点が近い。爆発と爆風の熱波が、着弾点から膨らんで吹き荒び、炎と瓦礫の嵐が瑞鶴を飲み込んだ。熱い。熱くはない。痛みも遠い。目の表面が焼ける。身体が崩れ、焼ける。焼けながら再生する。瑞鶴の体は弾けても、すぐに再生する。また砲撃が来る。直撃じゃない。やはり手加減されている。だが、手加減されているのだと分かるのは瑞鶴だけだ。庁舎の上に居る神通からは、瑞鶴が激しい砲撃に曝されているようにしか見えないだろう。それに、この砲撃による爆風が、瑞鶴の目線を隠す為のようにも思えた。

 

「提督も、それを望んでいる」

 

 南方棲鬼の落ち着いた声が、砲撃音の隙間に滑り込んでくる。南方棲鬼の声音には、その“提督”という言葉の感触を確かめ、それを口にする新鮮な喜びを味わうかのような響きが在った。それに、今の鎮守府の状況が、少年提督が仕組んだものであることの告白に違いなかった。

 

 瑞鶴は爆炎の中から飛び出して、一瞬で南方棲鬼との距離を詰めて掴み掛かった。砲撃の射程を潰す。南方棲鬼は反応していた。まるで待っていたかのように、伸びてくる瑞鶴の手を、組み合うようにしてガッチリと掴んできた。とんでもない反応速度だった。瑞鶴と南方棲鬼は額をぶつけ合い、至近距離で見つめ合う格好になる。上位深海棲艦の二人が、互いの両手で相手の体を圧す力に、二人の足元の地面が先に耐えられなくなった。石畳とコンクリで舗装されていた地面が、轟音と共に砕けて陥没していく。

 

「……何ガ目的なノ」

 

 額をぶつけ合ったまま、歯を剝いて南方棲鬼を睨みつける瑞鶴は、これが最後のつもりで問う。南方棲鬼と掴み合う両手と両腕と震える。「すぐに分かる」と、南方棲鬼は赤い眼を細めて、囁くように言う。つまり、瑞鶴の問いに答えるつもりは無いということだ。彼女の声や言葉は滑らかで、この鎮守府で過ごすことになってすぐの頃にあった様な、ぎこちなさは無い。「話にナらなイわ」と、吐き捨てるように言い放った瑞鶴の声音の方が、よっぽど硬く強張っていた。

 

「退きナさイよ……!」

 

 瑞鶴の声に呼応したのは、中空で縺れて喰らい合っていた猫艦戦たちの一部だ。ただ、一部とは言っても相当な数で、20や30では無い。もっと多い。その猫艦戦たちが大口を開けて鋭い牙を剥き出し、急降下してきて、瑞鶴と睨み合う南方棲鬼に襲い掛かった。猫艦戦たちは南方棲鬼に群がり、むしゃむしゃガブガブと噛みつこうとした。南方棲鬼は、艦戦達にぐるっと周囲を取り囲まれているような状態だし、瑞鶴と組み合っている最中だ。もう逃げ場はない。その筈だった。

 

「まだ退くわけにはいかない」

 

 油断していた訳ではない。

 

「あと数分、お前の相手をする手筈になっているんでな」

 

 南方棲鬼が言い終わるのと同時だった。全身に力を込めていた筈の瑞鶴の体がふわっと浮いた。とんでもない力で引き摺られる感覚が同時に在った。次の瞬間には、瑞鶴の足はもう地面から離れている。何が起きたのかを理解するよりも先に、強烈な衝撃を感じた。その衝撃は次々と来る。絶え間ない。瑞鶴の体が、何か硬いものとドカドカバキバキガッツンガッツンとぶつかっている。瑞鶴の体が、何かを破壊している。視界が高速で流れている。南方棲鬼が瑞鶴の両手を掴んだままで、その瑞鶴の体そのものを滅茶苦茶に振り回し、群がってきた猫艦戦達を殴り飛ばし、叩き落とし、跳ね飛ばしているのだ。

 

 身体がバラバラになるような衝撃が続く。顔や腕や肩や腹や脚や背中の肉が潰れ、骨が砕ける。だが、すぐに再生する。瑞鶴は意識を手放さない。全身を包む痛覚は、反撃のチャンスを窺うだけの冷静さをくれた。瑞鶴は南方棲鬼の手を握っている。掴んでいる。離さない。このまま、猫艦戦を召び続ける。瑞鶴を振り回している南方棲鬼に、さらに大量の猫艦戦達が押し寄せる。

 

 南方棲鬼は更にメッタクソの無茶苦茶に瑞鶴をブン回して見せたが、艦戦達を捌ききれなくなってきて、彼女の左肩と右脚に猫艦戦が噛みついた。彼女の頑丈な肉体を食いちぎるまでは行かずとも、僅かに動きが鈍った。チャンスだ。南方棲鬼に噛みついた艦戦を、即座に自爆させる。かなりの大爆発だった。至近距離であったため、瑞鶴も爆風に巻き込まれる。腕と肩の感覚と、視界が消し飛んだ。そんなことは些細なことだった。吹き飛ばされて地面を転がる間に、体は修復される。すぐに手をついて立ち上がろうとして、南方棲鬼と目が合う。

 

 シュゥゥゥゥ…………、と全身から白く細い煙を立ち昇らせる彼女には、顔の左半分と体の左半分が無かった。ついでに、右の腰から右脚にかけてが吹き飛んでいる。それでも、南方棲鬼は倒れてはいない。彼女は左脚だけで立ったまま、落ち着いた表情を顔の半分だけで作り、瑞鶴を見ていた。

 

「出鱈目な戦い方をする」

 

 顔の半分が吹き飛んでいるせいか、流石に喋りにくそうだった。アンタに言われたくない。そう言いかけて、やめた。そんな余裕がない。南方棲鬼の損傷だらけの体が、まるで動画を逆再生するかのように再構築されていく。彼女の体を包んでいる、あの琥珀色をしたオーラの仕業に違いない。今の少年提督が、彼女に付与している特殊な術式効果なのだろうが、悪い夢でも見ているかのような気分だ。瑞鶴の肉体もかなりの速さで再生・再構築しているが、南方棲鬼はそれを上回っていた。

 

 あっという間に元通りになった南方棲鬼が、此方に悠然と近づいてくる。

 強い。素直にそう思う。倒せない。そう思い掛けて、やめた。

 瑞鶴は立ち上がる。少年提督を追わねばならない。

 

 ここで立ち止まっている訳にはいかない。

 何としても押し通らねばならない。

 瑞鶴の身体も、もう完全に再生している。

 南方棲鬼を睨みながら立ち上がる。

 もう一度だ。今度は、再生する間も与えない。

 もっと大量の猫艦戦を仕掛け、圧殺し、爆殺する。

 徹底的に焼き尽くす。

 

 瑞鶴が再び、曇天の中に猫艦戦を召ぼうとした時だった。ブゥンと空気が振動する音がして、南方棲鬼の右の耳元に三角形の術陣が浮かんだ。初めて見る術陣だ。新しい攻撃術式か。警戒する瑞鶴を一瞥した南方棲鬼は、耳元に現れた術陣に指で触れる。

 

『そろそろ戦闘は切り上げてくれ』

 

「……予定より早いな」

 

『提督の指示だ』

 

「わかった」

 

 三角形の術陣からは声がしている。深海棲艦化した瑞鶴は、その五感が研ぎ澄まされている。聴覚も視力も、人間を遥かに凌駕しているから分かる。集積地棲姫の声だ。あの術陣は、深海棲艦が扱う通信用の術式なのだろうと予想がつく。提督という言葉が聞こえた。提督。それが少年提督を指しているのは間違いない。では、少年提督の指示とは何だ。瑞鶴は無意識のうちに、三角形の術陣から漏れる声と南方棲鬼との会話に耳を澄ませていた。何かが分かるかもしれないと思ったが、そう上手くはいかない。

 

 南方棲鬼が早々に会話を切り上げ、三角形の術陣を閉じてしまった。そして瑞鶴に向き直りながら、すっと後ろに下がる。逃がさない。瑞鶴も前に出ようとした。だが、そのタイミングを潰すように、彼女の艤装が火を噴いた。砲撃だ。立て続けに5発。瑞鶴と南方棲鬼の、ちょうど中間あたりの地面だ。そこに砲撃を行ったのだ。爆発と爆風が起こり、煙と石の屑が濛々と舞う。瑞鶴の視界が白く濁る。煙幕か。南方棲鬼の気配が遠ざかる。それを追いかける。瑞鶴も飛び出していく。立ち昇る煙や埃の分厚い層を突っ切ろうとして、視線を上げる。離れた場所に立つ庁舎の屋上に神通の姿を探したが、もう見当たらなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 少女提督は、完全にフリーズしてしまった携帯端末を忌々しく思いながら走る。深海棲艦を率いた少年提督が反逆をしたことや、鎮守府内に残っている憲兵たちを逃がすために動いてほしいと、艦娘達に伝えたい。すぐに食堂に向かい、集められている筈の艦娘達と合流しようと走っている途中で、テレビカメラやマイクを持ったリポーター、記者たちが、数人の憲兵に誘導されて鎮守府の外へと逃げようとしているのを、少し離れた場所に見つけた。

 

 最悪だと思った。

 

 作戦会議室の壁が吹き飛ばされた爆発音を聞いて、大きなアクシデントの匂いを嗅ぎつけたのだろう。こういったマスコミ関係者が鎮守府内部に侵入しているという事実に、軽い眩暈がした。これ以上、状況が複雑になっていくのは勘弁してほしいが、文句を言っても何も変わらない。一般人まで鎮守府に入り込んでいるなら、その全員の身を守り、退避させなければならない。

 

 ただ、今の鎮守府に憲兵が詰め掛けてくれていたのは幸運だった。軍属の憲兵たちであれば、艦娘との連携も可能かもしれない。深海棲艦たちの脅威の届かない範囲でなら、マスコミの関係者への避難誘導を任せることも出来るだろう。そこまで考えたところで、憲兵達も少女提督に気づき、駆け寄ってきた。

 

 

「おい! アンタも提督なのか!? とにかく逃げろ!」

 

 大きなカメラを担いだ男が息を切らせながら、少女提督に大声で言う。テレビ局の人間なのだろう。彼が着込んでいる派手なジャンバーには見覚えのある番組ロゴが入っている。昼の時間帯にやっているニュース番組のロゴだった筈だ。

 

「深海棲艦が暴れ回ってるし、少年の提督が深海棲艦化したそうだ!」

 

 次に少女提督に声を掛けてきた男は、どうやら記者のようだった。少女提督は二人の顔を交互に見て、違和感を覚える。彼らの顔に薄い笑みが浮かびかけていたからだ。それは、このカメラマンと記者だけではない。マイクを持った男性リポーターや他の記者たちも似た表情をしている。

 

 彼らから感じるのは、自分の命を守るために行動する必死さでもなく、自分達は助かるだろうという楽観と油断でもない。スクープを捉えるのに必要な撮影機材を慌てて取りに戻ろうとしているかのような、充実と高揚に満ちた慌ただしさだ。彼らの眼差しには危険なほどにギラついた光が宿っている。今の非日常のスリルが、真実を報道しなければという彼らの使命を燃え上がらせているのかもしれない。此処に憲兵が居なければ、すぐにでも深海棲艦達が暴れている現場へ駆け戻りそうな雰囲気が、彼らにはあった。

 

「元帥殿も、我々と共に避難を!」

「すぐに此処も敵艦載機の索敵範囲に入ります!」

 

 続いて声を掛けてくれた憲兵達は険しい表情をしていて、今の状況をちゃんと理解している様子だった。少年提督が率いる深海棲艦達の中に、大量の艦載機を使役できる個体がいることを知っているのだ。制空権を奪われる事態になれば、すぐに安全な場所など無くなる。

 

「マスコミ関係者は、これで全員ですか?」

 

 少女提督は質問しながら、憲兵二人を交互に見やった。

 

「いえ、まだ避難していない者達も多数いると思われます!」

 

 片方の憲兵が表情を歪めて、もう片方の憲兵が、「彼らからも話を聞きましたが、相当な数が鎮守府に入り込んでいるのは間違いありません」と、マスコミ関係者を一瞥した。少女提督は出そうになった溜息を飲み込み、「まぁ、そうよね」と、胸中で頷いた。

 

 艦娘に非道な人体実験を行ってきた大罪人の疑いがあるとして、少年提督と野獣は世間からも強い関心を集めていた。そんな彼らから艦娘が剥奪される当日に、彼らの所属する鎮守府で爆発が在ったなんてことになれば、どうなるか。決まっている。鎮守府を包囲していたマスコミたちが、黙って成り行きを見ている筈がない。我先にと真相を求めて動き出す。現場が目と鼻の先なら余計だろう。だが、鎮守府の門扉がすべて閉ざされていたのも間違いない筈で、どうやってマスコミ関係者が鎮守府にまで入り込んだのかは分からない。だが、その方法や原因を探っている時間は無い。

 

 少女提督は憲兵達に向き直り、何処かソワソワとして落ち着かない様子のマスコミの関係者たちを一瞥する。

 

「では、彼らの安全な場所までの避難誘導をお願いします。私は鎮守府に残り、テレビ局のクルーや記者たちの捜索にあたります。それに、禁固房に拘束されている艦娘4名の開放もせねばなりません」

 

 その言葉に憲兵だけでなく、マスコミ関係者たちまで驚いたような表情を浮かべ、少女提督に視線を流してくるのが分かった。こんな女の子に、何が出来るのかという疑問を込めた視線だった。

 

「私は此処の“提督”です。一般の人々や艦娘を置いて、先に避難するわけにはいきません」

 

 彼らが何かを言う前に、少女提督は有無を言わせない力を込めて言葉を繋ぐ。少女提督が、提督適性が低い非力な“元帥”であることは、目の前に居る憲兵達も知っている筈だ。だが同時に彼らは、今は人命を最優先しなければならない時であり、その為に果たすべき役割と責任を、其々が背負っていることも分かっている様子だった。

 

「では、その護衛として私も同行させて頂きます!」

 

 少女提督を一人で行動させることに躊躇したのだろう。護衛につこうと申し出てくれた憲兵の一人に、少女提督は緩く首を振った。

 

「いえ、その必要はありません。幸い、禁固房までの距離は知れていますし、禁固房の艦娘を開放すれば、彼女達に護衛して貰うこともできます。それに、捜索に協力して貰うこともできます。大丈夫です。私は一人ではありません」

 

「しかし、今の艦娘達には、抜錨ができない処置が為されているはずです!」

 

 必死な様子の憲兵が食い下がってくる。少女提督を守りたいという気持ちが伝わって来た。彼は優しい人物なのだろうと思う。

 

「その処置の解除なら、私にも出来ます。問題はありません。お気遣い、感謝します。……お二人は、マスコミの皆さんを避難させることを優先してください。ご存じの通り、私は“元帥”ではありますが、いくらでも替えの効く凡人です。私のことは気にせず、確実な任務遂行をお願いします」

 

 憲兵達は少女提督を見詰めて何かを言いかけたが、すぐに表情を引き締めてこちらに敬礼してくれた。彼はマスコミ関係者たちを連れ、鎮守府の外へと誘導すべく、踵を返して駆け出す。自らが果たすべき役割の中に戻っていく彼らの背中を見送りつつ、少女提督も体の向きを変える。地面を蹴って走り出す。自分の息が弾む。そのリズムを感じながら、自身のすべき行動を考える。

 

 微力な今の自分が、必死に鎮守府を掛けずり回っても、その範囲は多寡が知れている。なら、もっと有力な者に協力を請う必要がある。多数のマスコミ関係者を避難させるには、憲兵と艦娘たちの協力が必要になるだろうと思えた。食堂に居る彼女達が装備されているチョーカーを解呪し“抜錨”可能にすれば、艦娘の超人的な力を以て、憲兵もマスコミ関係者も守って貰える。

 

 ただ、今の段階では艦娘たちも肉体をスポイルされている。食堂に居る艦娘たちの場合は、彼女達を監視するために配置されている憲兵が守ってくれるか、避難を誘導してくれることも期待できる。だが、禁固房に拘束されている天龍達の場合では、房の中に取り残されてしまっている可能性があった。

 

 少女提督がせねばならないことは、まずは天龍達を開放し、その次に他の艦娘達の肉体のスポイルを解くことだ。少年提督や深海棲艦との戦闘よりも、艦娘と憲兵達の協力のもとで、鎮守府に入り込んだマスコミ関係者たちを避難させることが優先される。少女提督は走りながら、携帯端末を取り出す。まだフリーズ中であることが忌々しいが、仮に使えたとしても、艦娘達の端末もロックされている。連絡を取り合うことはできない。

 

 そこまで考えて、自分に出来ることがまだあることに気づく。犠牲者を出さないなんてことは、あくまで理想論であることは理解している。ただ、その犠牲者の数を、出来る限りゼロに近づける為の努力を放棄するつもりは一切ない。少女提督は走る速度を上げる。禁固房までは、もうすぐだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷たく、硬い感触が頬に在った。

 それが禁固房の床の温度であることは分かっている。意識はある。思考も動いている。つい先ほど、爆発音があったことも認識している。大人数が使える作戦会議室がある庁舎の方角からだった。その、すぐあとだった筈だ。身体が動かなくなった。力が抜けて、その場に崩れ落ちた。懐かしさすら感じる、身に覚えのある感覚だった。あの襲撃事件の夜にも使われていた、艦娘の肉体を無力化する術式効果だ。間違いない。

 

 だが何故だ?

 何でこんなタイミングで、艦娘の肉体無力化の術式が発生してんだ?

 誰が編んだ? 何が起きてやがる? 

 

 頭の中に無数の疑問が同時に膨らみ、混乱しそうになる。呼吸が上手くできない。うつ伏せに倒れる天龍は、細い息をヒューヒューと漏らしながら、眼球だけを動かし、鉄格子の向こう側を見る。薄暗い廊下に、此方を見張る憲兵の姿はない。戻ってこれない事態になったという可能性が高いと思えた。少し遠くで、地響きのような音が低く聞こえ、石の床に横たわる天龍の体にも振動が届いている。何かが起きて、今の鎮守府の状況が大きく変化しているのだということは分かった。

 

 猛烈に嫌な予感がするのと同時に、天龍の脳裏に、少年提督の顔が浮かんだ。能面のような微笑みを顔に張り付けている。全てを見透かしたような、穏やかな笑みだ。あの、何を考えているのかを分からなくなさせる、天龍の嫌いな微笑みだった。

 

 クソが。笑うんじゃねぇ。何を笑ってやがる。

 

 石の床を掴むようにして指先に力を入れる。指先から、掌へ。掌から、腕、肩へと、力を込めていく。上半身を僅かに動かすだけで、体中から汗が噴き出した。獣のように呻きながら這う。芋虫ほどの速さで、石の床を這う。沼に沈んでいく体を、何とか持ち上げながら移動するような有様だった。

 

「今の爆発音は……」

 

 近くの禁固房から、不知火の深刻そうな声が聞こえる。ただ、禁固房に入れられているため、不知火の居る房室から此方の様子は見えない。同じように、天龍にも不知火の姿は見えない。

 

「天龍さん? どうかされましたか?」

 

 返事がないことを妙に思ったのか。不知火が聞いてくる。天龍は笑いそうになる。おう、どうかしてんだよ。つーかよ、何でお前は平気そうなんだよ。いや、そういえば、前の襲撃事件の時も、不知火は最後まで戦ってたんだよな。なら、艦娘無力化の術陣効果に対して、耐性を付与する施術なり装備なりを持っていたとしても不思議じゃねぇな。何だよ。俺にもやっとけつーんだ。そういう対策はよ。頭の中でぶつくさ言いながら地べたを這う天龍が、鉄格子の扉までたどり着いた時だ。また爆発音がした。禁固房全体が揺れる。間違いない。この鎮守府内で戦闘が行われている。

 

「時雨さん! 鈴谷さんも! 返事をしてください!」

 

 焦った不知火の声が聞こえる。不知火が鉄格子を掴む音も。だが、天龍は何も答えられない。息が細く揺れるだけだ。傍の禁固房に居る時雨も鈴谷も、今の天龍と似たような有様だろう。天龍は舌打ちしようとしたが、上手くできなかった。

 

 全くムカつくぜ。頭にくる。俺達を無視するんじゃねぇ。俺達は此処にいるんだ。傍観者にするんじゃねぇ。もうたくさんだ。何も出来ずにじっとしているのは。もう嫌なんだ。勘弁してくれ。誰でもいい。俺達を舞台にあげてくれ。役割をくれよ。なんか有るだろ。無いってことはねぇだろ。なきゃおかしい。とにかく、こんなトコで寝てるだけなんて、死んだ方がマシだ。誰か居ねぇのかよ。誰でもいいんだよ。あくしろよ。

 

「お待たせ。そろそろ、君たちの出番だよ」

 

 天龍の心の声が届いたのか。鉄格子の向こうに誰かが現れた。禁固房の中に響く声に、うつ伏せの天龍は信じられない気持ちで視線を動かした。薄暗い廊下を見上げる。改二装束を纏った川内が此方を見下ろしていた。川内は唇の端を持ち上げるようにして笑みを浮かべ、腰に手を当てている。

 

「貴様……」

 

 殺気立ち、ドスの効きまくった不知火の声がした。天龍も警戒を込めた眼で川内を睨む。そうか。確かコイツは、艦娘の肉体を無力化する術式の影響を受けない。そういう施術を受けて調律されているという話は聞いた。だからこそ、前の襲撃事件では実動部隊として鎮守府内部にまで侵入してきていたのだ。じゃあ今の状況は、コイツが原因なのか。また少年提督や野獣を襲う為に、俺達の肉体を無力化したのか。

 

「睨まないでよ。おっかないなぁ」

 

 川内は肩を竦めて見せてから、天龍が入れられている禁固房の鉄格子を引っ掴み、無理やりにこじ開ける。脆い紙細工を軽々と破るかのようだった。鉄製の鍵が弾け飛び、檻が拉げ、へし折れる音が響く。“抜錨”状態の艦娘なら造作もない破壊行為だが、その“抜錨”状態はおろか身動きも碌に取れない天龍にとって、今の川内は脅威でしかなかった。

 

 もしも川内が天龍達を始末しに現れたというのなら、とても太刀打ちは出来ない。不知火だけは艦娘の肉体無力化の術式の影響を受けていない様子だが、“抜錨”状態になれないのであれば、やはり相手になどならないだろう。天龍は何とか立ち上がろうとするが、それも無理だ。警戒を漲らせて川内を睨むのがやっとだった。

 

「悪いことは何もしないから、安心してよ」

 

 川内は軽く笑いながら言うが、這い蹲る天龍が眼を細めるのを見て、また肩を竦めた。

 

「まぁ、こっちの言い分を信じて貰うのは難しいよね。ん~……、こんな遣り取り、前にもやった気がするな~」

 

 暢気に言う川内は、ひっぺがした鉄格子の扉をひょいと後ろに投げた。邪魔な紙くずを丸めて放るような仕草だが、重厚な金属扉が空中を移動して、かなり派手な音を響かせて床に落ちる。憲兵達がその音に気づき、戻ってくる気配もない。川内はそのまま鈴谷と時雨、それに不知火の禁固房の鉄格子も順番にこじ開けて破壊していく。

 

「……どういうつもりだ」

 

 壊された鉄格子の扉から、不知火が廊下に歩み出る。不知火は身を僅かに落とし、すぐに動けるように重心を下げていた。油断なく川内を睨んでいる。その不知火の目の前で、川内は携帯端末を操作して、それを床に置いた。何をする気だ。不知火も警戒を漲らせて、半歩下がった。同時だった。床に置かれた携帯端末の上の空間に、積層型の術陣が構築された。術陣の色は見慣れた深紫をしていて、溢れる微光が薄暗い禁固房の空気を濯ぐように流れていく。清らかな潺が、静かな音を立てて流れていくかのようでもあった。

 

 天龍は視線を動かして、展開された術陣を睨んだ。あの光は、明らかに天龍達に作用を及ぼす為のものだ。細かな光の粒が、天龍の体に沁み込んでくる。

 

「君達をスポイルしている術式を解きに来たんだよ。食堂に集められている艦娘たちも、もう少ししたら“抜錨”できるようになる。君達と同じようにね。……それをさ、あの女の子の提督に会ったら伝えて欲しいんだ」

 

 廊下に佇む川内は、睨んでくる不知火にも怯みは見せない。両手の掌をぱんぱんと軽く叩き合わせ埃を払っていた。不知火と交戦しようとする気配は無い。課された仕事をこなしているといった様子だ。

 

「そんなに身構えなくてもいいよ。私は、提督の命令に従ってるだけだから」

 

「司令からだと……」 不知火は川内に詰め寄ろうとしていたが、踏みとどまった。冷静だ。“抜錨”状態の川内に生身で組み付いて勝てるワケがない。その不知火の判断を満足そうに眺めていた川内は、「どういう事かは、すぐに分かるって」と、落ち着いた声で言いながら、腕時計を一瞥した。積層術陣が薄れて、霧散していく。天龍達を照らし、注がれていた深紫色の微光も解け、房内の暗がりに溶けていこうとしていた。

 

「さて、あと10秒もしないうちに、君達の肉体を無力している術式効果は消えるよ。そしたら、君たちの出番だ」

 

 禁固房を見回した川内は、床に置いた端末を拾い上げるついでに、倒れている天龍を見て、それから不知火を見た。それに、天龍と同じように房室内で倒れているだろう時雨や鈴谷を一瞥してから、後ろに下がっていく。全く足音がしない歩法と、川内独特の気配の消し方の所為か、禁固房の廊下の薄暗さに溶けていくかのようにすら見える。忍者という言葉が浮かぶ。陳腐な感想だったが、目の前の川内の静かな佇まいと雰囲気には相応しく思えた。川内の輪郭がぼやけて、すぅっと暗がりに薄れていく。

 

「待て!」

 

 不知火が声を上げて踏み出した時には、既に川内の姿は無かった。

 

「まだ仕事が残ってるんだ。悪いね」

 

 ただ、川内の声だけが薄い響きを暗がりに残っているだけだった。その直後に、天龍を地面に抑えつけている重さが消えた。正常に動く肉体と呼吸が、唐突に還って来た。自身の体が、再び艦娘の姿と機能を取り戻した感覚を握りしめ、大きく息を吸いながら飛び起きる。一気に酸素を取り込んだ肺が震え、咳き込んでしまう。

 

「げほっ……! あぁ、クソ……!」

 

 川内の言う通り、艦娘の肉体を無力化する術式効果が消えたのだと分かった。腕や脚にも力が入る。首に手をあてて回すと、ゴキゴキと音が出た。すぐに“抜錨”状態になれることを確かめ、手の中に刀剣を召還して廊下に飛び出る。時雨と鈴谷も、“抜錨”状態になって房室から駆け出してきた。

 

「川内は!?」

 

 鈴谷が辺りを見回すが、すでに川内の姿は無い。禁固房が並ぶ廊下には、薄暗がりが漫然と在るだけだ。ひとつ呼吸を置いて難しい顔になった時雨が、不知火と天龍を交互に見る。

 

「さっきの川内の口振りだと、彼女は天龍達の提督の指示で動いてるみたいだけど……、何か知ってるかい?」

 

 時雨からそう問われ、不知火と天龍は顏を見合わせる。だがすぐに、「いえ……」「さぁな」と、同時に首を振った。少年提督が何を考えているのか分からないのはいつもの事だ。今までのように結果オーライで済めば良いと思いつつも、今回ばかりは、そうはならないような気がしていた。再び、爆発音と振動が在った。クソが。

 

 舌打ちをした天龍はボリボリと頭を掻いてから、また全員を見た。時雨と鈴谷、不知火も、互いに互いを見て、頷く。この場で何かを議論している暇はない。この場に居る4人が似通った判断をしたに違いなかった。

 

 そして殆ど同じタイミングで、全員が薄暗い廊下を駆け出していた。

 

 天龍は隣を走る不知火を横目で見る。真剣な表情をした不知火の手には、艦娘装束としての手袋が嵌められている。その手袋の中の左手薬指には、恐らく少年提督から渡された“ケッコン指輪”が嵌められているのだろう。そのケッコン指輪が、艦娘の肉体を無力化する術式効果から不知火を守ったに違いない。今日のこの騒ぎにも、不知火には何らかの役割が用意されているように思えた。

 

 そして、天龍にも、時雨にも、鈴谷にも、他の艦娘全員にも、其々に役割が在るのだろうという強い予感も在った。再び、爆発音がした。戦闘が続いている。戦闘。それは、何と、何が戦ってやがるんだ。誰と誰が、何の為に、こんな真面目にドンパチやってんだよ。それを想像すると、本当に嫌になる。

 

 アイツ、まさか“放火”したんじゃねぇだろうな……。

 

 天龍は禁固房の外へと向かう廊下を駆けながら、鬱陶しそうにボヤく。隣を走る不知火の視線を感じたが、無視する。さっきまでしていた、昔の文学作品の内容が頭を過る。その作品に関する解説の中の一つに、“行為者は、その行為を他者に観測されることによって、行為者と行為が重なり、観測者にとっての真実になる”、といった内容のものが在ったのを思い出した。そんな場合でもないのに、余計な思考が働き始めようとしている。

 

 天龍は意識的に、手の中に召んだ刀剣型の艤装を握り直す。冷たい鉄塊の温度が皮膚に伝わり、武骨な重量が掌と腕の筋肉に馴染んでくる。この武装の感触は、艦娘である自分の真実だ。なら、艦娘である自分が、今すべきことは何だ。天龍達は禁固房の廊下を走り抜けて外に出る。灰色の雲が空を覆い、その分厚い雲の一部が明るく見えた。そこに太陽がある。

 

「他の奴らと合流するか、爆発音がした方へ行くかだな」

 

 駆ける速度は緩めず、天龍は他の3人を順に見る。天龍達以外の艦娘は皆、いったん食堂に集められることになっていた筈だ。

 

「“抜錨”できるようになれば、食堂に居る皆も爆発音がした方へ向かうんじゃないかな。憲兵も居るだろうし、此処の皆なら協力して動こうとすると思う」

 

 かなりの速度で走りながらも、呼吸も声も全く乱さない時雨が言う。先ほどの川内は、艦娘たちのスポイルを解いているのだと言っていた。肉体の機能を取り戻した艦娘たちが、どんな行動を取るのかを想像すれば、確かに時雨の言う通りに思えた。

 

 天龍と並走している鈴谷も、「今から食堂に向かうと、すれ違いになるかもだね」と、冷静に頷いて見せる。それと同じタイミングで、轟音が体を揺らしてきた。庁舎が崩れる音だ。戦闘の気配が大きくなっている。おいおい。妖精達と工事業者が協力して、せっかく立て直したってのにな。

 

「では不知火達も、爆発音がした方へ向かいましょう」

 

 不知火が短く言葉を継いで、「あぁ、そうだな」と、天龍が頷こうとした時だった。庁舎の角から、誰かが走り出してくるのが見えた。息を切らせた少女提督だ。荒い息をしている。彼女も此方に気づいて驚いた表情を浮かべたあとで、安堵するように空を仰いで肩を落としている。そんな少女提督の姿を見た天龍も、彼女が無事であったことに安堵した。同時に、先ほどの川内の“少女提督に会ったら、伝えて欲しい”という言葉を思い出していた。

 

 

 

 

 

 

「忘れないうちに言っとくぜ。“俺たち以外の艦娘も、“抜錨”できるそうだ」

 

 合流した天龍は、開口一番にそう言ってきた。いきなりの事に、少女提督は何の話かと思った。だが、すぐに理解できた。目の前に居る天龍が、刀剣型の艤装を手の中に召還しているということは、“抜錨”状態であることを意味している。不知火や時雨、鈴谷にしても、艤装を召んでこそいないが、張り詰めた空気を濃く纏っていて、“抜錨”状態なのだろうことが窺えた。

 

 彼女達は“抜錨”状態にはなれないよう調律を受けていた筈だが、それが解呪されている。誰が、どうやって解呪したのか。そもそも、天龍達を開放したのは誰なのか。頭に浮かんだそういった疑問も、つい先ほどまでの出来事を時雨から聞いて、すぐに解決した。

 

 艦娘の肉体無力化の術式展開があり、不知火以外が禁固房の中で行動不能に陥った。そんな中で、術式の影響を受けない川内が禁固房に現れた。彼女の口振りでは、少年提督の指示によって動いており、天龍達以外の艦娘も“抜錨”可能な状態にしておくと言っていたらしい。そして、その事を少女提督に伝えて欲しいと、川内から頼まれたというのだ。食堂に居る艦娘達と携帯端末で連絡を取り合うことが出来れば、真偽はすぐに確認できるが、そうもいかない。艦娘たちの端末はロックされている。それは目の前に居る天龍達の端末も同じであり、少女提督の端末もフリーズ状態だ。

 

 川内がこの鎮守府の脅威として存在しているのなら、天龍達を見逃す説明がつかない。川内が言うように、彼女が本当に少年提督の指示によって動いていると考えるならば、『他の艦娘たちのスポイルを解除する』という言葉に、異様な真実味が出てくる。艦娘の肉体無力化の術式を展開しつつ、艦娘たちに装着させられたチョーカー型の拘束装備の解呪するなんて芸当も、今の少年提督なら容易くやってのけるだろうからだ。

 

 少年提督が仕込んだ術式が艦娘の動きを止め、その間に川内や日向、神通が何らかの仕事をこなしているという構図も見えてくる。もしかしたらと思う。鎮守府の門扉を開放し、マスコミ関係者この状況に入り込んでくるように仕向けたのは、川内たちなのではないか。少年提督のAIアバターが言っていた「役割」という言葉が、思考の裏側で響き、蘇る。

 

「川内が動いているってことは、日向や神通も動いてると見て間違いなさそうね」

 

 少女提督は右手親指の爪を噛みながら、視線を落とそうとして、気づいた。

 

「なぁ」

 

 天龍が、少女提督を見据えている。

 

「順番がめちゃくちゃになっちまったが、教えてくれ。今の鎮守府で何が起きてんだ?」

 

 天龍の声は酷く落ち着いていて、その眼も強く据わっていた。時雨や鈴谷、それに不知火も、少女提督を見詰めてくる。内臓が縮まるような心地だった。離れた場所で、また轟音が響いた。曇天を震わせる、戦闘の音だった。音の発生源は2か所ある。つまり、2つの場所で戦闘が行われている。一つは野獣と、深海棲艦の誰かだろう。もう一つは分からない。だが、激しい戦闘であろうことは、聞こえてくる轟音で簡単に予想できる。

 

 少女提督は一つ呼吸を置く。余計なことは言わなくていい。事実だけを端的に話せばいい。重要なのは結論であり、今からの対処方と判断だ。感情を乗せる必要はない。頭ではそう理解していても、呼吸が震えた。

 

「彼が、深海棲艦を率いて暴走してるのよ」

 

 自分の言葉に動揺したくなくて、意識して事務的な口調で告げる。時雨と鈴谷が眼を見開いて驚愕し、言葉を失っているのが分かった。一方で、天龍の反応はと言えば、「……そうか」と静かに呟くだけだ。予想していたものを改めて聞いたような反応だった。不知火は何も言わずに俯いて、数秒ほど地面を見詰めたが、すぐに顔を上げる。

 

「憲兵の方々は、既に退避しているのですか?」

 

 無表情の不知火は感情を見せない。少女提督と同じで、動揺に流されたくないのだろう。今の状況に対して、艦娘として冷静な対処に徹しようとしているのが分かった。それは正しいのだと思う。少女提督は不知火たちを視線だけで順に見る。

 

「鎮守府の敷地内に、それなりの数のマスコミまで入り込んで来ててね。先に避難して貰わなきゃなんない状況なのよ」

 

 事態の複雑さを理解したのか、「それって、結構ヤバいんじゃ……」と、鈴谷が焦りを見せる。轟音が聞こえる。戦闘範囲が広がりつつある。「すぐに他の皆にも連絡を取って、僕たちも避難誘導にあたろう!」と時雨が頷いてから、何かに気づいたかのように動きを止めて、唇を噛んだ。

 

「……俺たちの端末は、本営から遠隔でロックされてるからな」

 

「不知火たちだけで連携を取るのは難しいですね」

 

 鬱陶しそうに言いながら、天龍と不知火は自身の端末を取り出す。彼女達の端末のディスプレイには、操作不可を表すメッセージボックスが表示されている。時雨と鈴谷も端末を取り出すが、やはり同じだ。携帯端末さえ使えればという思いは全員一致している。どのような目的なのかは不明だが、裏で動いている川内達は、少女提督たちにとって敵対行動を取っているわけではない。それは、天龍達が無事であることが証明している。彼女達が、食堂に集められた他の艦娘達を“抜錨”可能にするという話を信じ、行動を急ごう。

 

「ねぇ、天龍。ちょっとお願いがあるんだけど」

 

 少女提督は天龍を見上げる。少年提督が召還した天龍は、激戦期を戦い抜いた猛者だ。箆棒に強い。世界で一番強い『天龍』と言っていい。既に改二になっているし、不知火や時雨、それに鈴谷よりも練度が高い。

 

「……何かいい作戦でも思い付いたか?」

 

「えぇ。説明は後でするから。とりあえず私を抱えて、執務室まで送ってくれない?」

 

 体格的に見ても、頼むのなら天龍だと思った。時雨や鈴谷、そして不知火を順に見ると、彼女達も頷いてくれた。一刻を争う今の状況だが、微力な少女提督と行動を共にしてくれるのは有難い。爆発音が2度、立て続けに響いてくる。ビリビリと空気が震え、熱い風が吹き抜けていった。天龍が鼻を鳴らす。

 

「確かに、“人間”の提督には護衛は必要だな。……舌噛むなよ」

 

 天龍は言うが早いか、少女提督を肩に担いで走り出していた。不知火達も追走してくる。とにかく疾い。喋っていたら本当に舌を噛んでしまう。襲撃事件の夜にも野分に抱えられて思ったが、陸の上でも彼女達の身体能力は超人そのものだ。彼女達が全員で協力すれば、尋常では無い速度で鎮守府全体を見て回り、マスコミ関係者や憲兵を退避させることも可能だと思えた。

 

 天龍達が少女提督の執務室がある庁舎の中に駆け込むまで、本当にあっという間だった。途中で、また轟音が聞こえた。少し離れた場所からだ。不穏な静寂に満ちていた庁舎内の空気が震え、廊下が軋みをあげて、冷え込んでいた空気がうねる。その中を、少女提督を抱えた天龍が駆け、扉を蹴飛ばす勢いで執務室に飛び込んだ。

 

「ありがとう!」

 

 少女提督は天龍に礼を言いながら、その腕の中から飛び出す。自分の執務机に駆け寄って、引き出しにしまっておいた大型のタブレット端末を取り出した。フリーズしてしまった携帯端末の代わりが必要だった。

 

「川内達が皆のスポイルを解除してくれてるんだったら、あとは……」

 

 少女提督は言いながらタブレットを起動して、通話専用の軍属アプリを立ち上げて本営に繋ぐべく、手早く操作する。通信が繋がるまでの僅かな時間も惜しい。少女提督は端末に保存していたデータの中から、鎮守府のマップと所属艦娘の艦種別リストを立ち上げる。ついでに、艦娘たち全員の携帯端末にファイルデータを送信できるように操作を行いながら、別のウィンドウを開いた。今の鎮守府の状態を、既にマスコミ関係者が映像としてテレビ中継している可能性に気づき、それを確認したかった。

 

 天龍達もタブレットを覗き込んでくる。

 

 同じタイミングで、立ち上がったウィンドウに幾つかのテレビ番組が映った。主要なチャンネルでは緊急のニュース特番として、この鎮守府の様子が映し出されている。痛みを感じるほどに心臓が跳ねて、強い寒気がした。時雨が息を飲み、鈴谷が浅い呼吸をしているのが聞こえた。天龍が舌打ちをして、不知火が奥歯を噛む音も聞こえた。全員がウィンドウを見詰める。

 

 琥珀色のオーラを纏った南方棲鬼が、あきつ丸を殴り飛ばし、北上を撥ね飛ばし、憲兵達を払い散らしている。彼女は艤装を召還している。“抜錨”状態にあり、人間を遥かに凌駕する力を発揮していた。南方棲鬼は、尻餅をついて腰を抜かしている若い女性リポーターに歩み寄ろうとしている。無慈悲な殺人の予感が在った。少女提督は知らずに息を飲んでいた。目を逸らしそうになるが、全身に力を籠めて映像を睨む。

 

 女性リポーターが殺されることは無かった。深海棲艦化した瑞鶴が南方棲鬼に突進し、女性リポーターを守った瞬間が大写しでテレビに流れている。映像の中で、深海鶴棲姫の姿となった瑞鶴が女性リポーターを優しく、しかし素早く立たせて、「私ハ、貴女たちヲ守りタい。だかラ早く、此処カラ逃げテ下さイ」と、退避を促していた。それは間違いなく瑞鶴による肉声だった。

 

 違うチャンネルでは、深海棲艦達を率いる少年提督の姿が映し出されていた。手振れが激しい映像の中で、完全な無表情になった少年提督は何かを唱えるように唇を薄く動かしている。彼の紫水晶のような瞳は玲瓏でありながらも無機質な光を湛えており、その冷たい眼が此方を見た。カメラを通り越し、そのレンズの向こうに居る者達に冷酷な殺意を注ぐかのような、人類に対する宣戦布告そのもののような眼差しだった。スタジオのコメンテーターなどが軽い悲鳴を上げている。

 

 映像の中の少年提督には、戦艦棲姫や戦艦水鬼に似た白磁色のツノが生えている。額の右側だ。それを得意げに指摘しているコメンテーターは、“人間の深海棲艦化”の可能性について唾を飛ばして語っている。深海棲艦の有識者にも急いで連絡を取っているという旨のテロップが入った。また別のチャンネルでは、深海棲艦化した瑞鶴が人間を助ける姿が、混乱と驚愕を呼んでいた。それら殆どのニュース特番の画面には、『人間の深海棲艦化』、『艦娘の深海棲艦化』という文字が大きく付随していた。これらの映像を提供しているのは言うまでもなく、この鎮守府に入り込んでいるマスコミ関係者たちだ。それは間違いない。

 

「マジかよ、これ……」

 

 冷静だった筈の天龍の声が震えていた。その言葉が、少年提督の今の様子を目の当たりにした感想なのか。それとも、こんな映像をニュースで流しても大丈夫なのかという意味なのかは分からない。正直、少女提督も「これマジ……?」という気分だったし、頭を抱えそうになる。

 

 少年提督が接触していた“黒幕”達の中には、マスコミに大きな影響力を持つ者が居たという話は、“初老の男”から聞いて知っていた。少年提督との間に、何らかの取引が在ったのだろうとも。今の鎮守府の様子を包み隠さずテレビで流すことによって、“黒幕”たちの中に何らかの利益を享受する者か、或いは、その身を守られる者が居るということなのだろう。ただ、そんな事は、今はどうでもいい。やらなければならないことがある。

 

「……今から、本営に連絡を取って、アンタ達の端末のロックを解除して貰うわ。多分、本営には憲兵達からの報告が上がってるだろうけど、具体的な対抗策が降りてくることなんて期待できないから、私達でなんとかするしかない」

 

 少女提督は作業を続けながら、肩越しに彼女達に振り返る。時雨は何も言えずに、ただ目を見開いていた。鈴谷が泣き出す寸前のような表情で、唇を噛んでタブレットを見詰めている。立ち尽くす不知火は無表情のままで拳を握り固めていた。

 

 彼女達に掛ける言葉など思いつかない。ただ少女提督に出来るのは、彼女達に明確な行動を指示し、その任務が達成できるように、可能な限り状況を整えるだけだ。それが今の少女提督の使命であり、役割だった。

 

 少女提督は一度深呼吸をしてから、鎮守府のマップに手を加える。所属艦娘のリストからバランスの良い編成を組んでいく。これ以上は不可能だという速度で作業を続けながら、ニュース番組の音声にも耳を傾ける。『現在、この鎮守府での怪我人は確認されておりません』『艦娘の2名が負傷したという情報が入っていますが……』『軍属関係者以外に負傷者は出ていないとのことです』『取材を続行したいと思います!』『これは大変な事態ですよ!』 情報が入り乱れ、感情的な声が聞こえてくる。

 

 ニュース番組のスタジオは何処も彼処も白熱していたが、タブレットの向こう側で声を荒げる人々の様子は少女提督を落ち着かせた。取り乱して混乱するのは、画面の向こうの人々に任せておけばいい。後のことを心配するのは、今の状況を切り抜けてからだ。余計な思考を削ぎ落し、意識の全てを現在に集中させなければならない。そのうち、本営に繋いでいた通話回線から応答が在った。

 

「反応が遅いのよッ……!!」

 

 キレそうになりながら通話を始め、少女提督は作業の手を緩めない。

 

 少女提督は、“元帥”としての資質は持っているが、それ以外は普通の人間である。野獣のように超人的な近接戦闘の技術を体得している訳でもないし、少年提督のような神懸った規模と精密さを両立した術式を編むこともできない。できることは限られている。今の鎮守府の状況に直接干渉するようなアクションも取れない。だが、鎮守府には優秀な艦娘の皆が居る。少女提督は、彼女たちを指揮できる立場にある。つまり、自身の“提督”という役職こそが、今の自分の最大の武器だ。

 

 

 

 

 

 

 

 食堂のテーブルに展開されていた積層術陣が解けて霧散し、艦娘の肉体を無力化する術式効果も消えた。“抜錨”を抑えるチョーカーも解呪されて消えているため、今の艦娘達は普段通りの力を振るうことが出来る。自分たちの体の状況を把握した艦娘たちはすぐに起き上がり、食堂を外に飛び出そうとしていた。霞もそのうちの一人だった。

 

 ただ、食堂には見張り役の憲兵が数名残っており、彼らは色めき立つ艦娘たちに、まずは大人しくするように大声で言う。それは単なる怒鳴りつけというには余りにも懸命で、必死の説得だった。

 

 彼らは、つい今まで展開していた積層術陣と、その術式効果によって身動きの出来なくなった艦娘達を前に右往左往していた。憲兵たちは術陣を銃や軍刀の柄で殴ろうとしたり、腕を振ってかき消そうとしていたが、そんなものは当然、何の効果も無かった。倒れた艦娘達を抱き起し、「おい! しっかしりしろ!」「どうした! 大丈夫か!?」などと声を掛けて回るのが精々だった彼らからすれば、今も動揺しているからこそ、復活した艦娘達に冷静になることを訴えることで、自分たちも混乱から立ち直り、冷静さを取り戻そうとしているのだと分かった。

 

「一体、今のは何だったんだ!?」

 

 強張った表情をした憲兵の一人が、龍驤に声を掛けているのが見えた。

 

「いや、すんまへん。急に体が動かなくなってしもて……」

 

 龍驤は片方の手で顔を擦りながら、呼吸を整えながら答えている。だが、そんな必要もないほどに、艦娘達が身動きすらできなくなった原因など誰でも分かった。さっきの積層術陣の効果に違いないからだ。ただ、誰が展開したものなのか。どういった目的が在って展開されたものなのかは分からない。ただ、さっきの爆発音を思い出すと、余り悠長なことはしていられない。まず動いたのは武蔵だった。

 

「さっきの爆発音の原因は何だ? お前たちは知っている筈だ」

 

 武蔵は、傍に居た憲兵に詰め寄る。他の憲兵と連絡を取り合っていたのだろう。武蔵に詰め寄られた憲兵は、携帯端末を手にしていた。胸倉どころか喉首を掴み上げるような威圧感を纏う武蔵に迫られて憲兵もたじろいでいたが、彼はすぐに表情を引き締めた。

 

「深海棲艦を率いた少年の提督が、反逆を……!」

 

 彼は武蔵の眼を見据えながら答える。武蔵を召還し、運用してきたのが少年提督であることを彼は知っているのだろう。憲兵の眼差しには、艦娘たちに混乱の余地を与えない真剣さを漲らせていた。艦娘達の間に、大きな動揺が広がるのが分かった。それに、どよめきも。だが、「そんなのは、何かの間違いだ!」などと声を上げる者は居なかった。

 

 霞は、身体から力が抜けていきそうになるのを堪え、感覚がなくなるほどに拳を握る。脚に力を込めて、奥歯を噛みしめる。ぐちゃぐちゃになって暴れだそうとする自身の精神内部を、何とか鎮めるので精いっぱいだった。他の艦娘の様子を、具に観察するような余裕はなかった。だが、大和が息を呑む気配があり、武蔵も頬を強張らせていて、長門が伏し目がちに視線を彷徨わせ、陸奥が悲しげに俯いているのは分かった。

 

「……先ほどの爆発音は、少年提督と深海棲艦達が、庁舎の壁面に砲撃で穴を開けた音だ。奴らはこの場を逃走しようとしている」

 

 他の憲兵が、艦娘達のざわめきを鎮めるように見回しながら言葉を繋いだ。また別の憲兵が、携帯端末を操作しながら鬱陶しそうに舌打ちをして、顔を上げる。

 

「今の鎮守府内に、多数のマスコミ関係者が侵入しているという報告があった。その一部を避難させてはいるが、全員ではないようだ。それと、深海棲艦と交戦し、負傷者した艦娘を2名、この鎮守府の外へと運んでいる。……あきつ丸と北上だ。だが安心してくれ。2人とも意識はある」

 

 日向、川内、神通を追って、食堂から飛び出して行った艦娘が居たことは、霞も気づいていた。艦娘の肉体を無力化する術陣が展開されてすぐ、憲兵達の制止を振り切って駆け出していたのは、あきつ丸、北上、それに瑞鶴の3人だった。その内の2人が負傷しているという事実が、艦娘達にさらに動揺を呼ぼうとしていた時だった。霞の傍に居た野分の、その上着のポケットから電子音が響いた。携帯端末に通信が入ったのだ。

 

 艦娘の持つ携帯端末は遠隔でロックされていた筈だが、そのロックがいつの間にか外れ、本来の機能が蘇っている。野分も驚いた表情を見せていたが、すぐに端末を取り出して確認している。どうやら少女提督からの通信のようだ。野分が通話の許可を求めるように憲兵達を順に見たが、咎める者は居なかった。それを確認した野分は端末を耳に当てる。

 

「司令! ご無事ですか!? すぐに我々と合流を! 深海棲艦達が……!」

 

『えぇ、知ってるわ。とりあえず、私は大丈夫。天龍達と合流できたから。そっちの状況を教えて」

 

 心配そうに声を強張らせた野分と、端末の向こうにいる少女提督のやり取りを聞きながら、霞も携帯端末を取り出して確認してみる。見れば、確かに携帯端末のロックは外れていた。ただ、緊急回線であっても外部には繋がらない。通信可能なのは、あくまでこの鎮守府の艦娘、提督との間だけのようだ。他の艦娘達も端末を取り出し、少年提督や野獣に通信を試みようとしているが繋がっていない。

 

 つまり、少年提督と野獣は通信に出ることができない状況だと考えられる。先程から聞こえる爆発音や、建物が崩れるような轟音の原因である戦闘の最中に居る可能性が高い。それを思うと、霞は今にも駆け出しそうになる。とにかく少年提督に会いたい。会って何かが解決するとも思えないが、彼と話がしたい。そうすることで何かが分かるかもしれないと思うのは、希望的観測に満ちた現実逃避なのだろうか。

 

 殆ど無意識のうちに食堂から駆け出していきそうになっていたのは、どうも霞だけではなさそうだった。少年提督によって召還された艦娘たちの内、その少なくない人数が、霞と同じように体の向きを変えつつあった。

 

「司令から、此処に居る全員に伝えたいことがあるとのことです!」

 

 何とか踏みとどまった霞の耳には、その野分の声がやけに遠くから聞こえた。彼女は携帯端末を右手に持ち、全員の注目を集めるように左手を挙げる。艦娘たちは当然のことながら、憲兵達も顔を見合わせて野分に向き直る。

 

『OK、聞こえてる? 手短に言うわ。よく聞いて』

 

 少女提督の声が、野分の持つ端末のスピーカーから流れた。大音量に設定されているせいか、音が割れている。それが余計に、今が切迫した状況であることを物語っていた。

 

『今の鎮守府については、そっちに居る憲兵達から説明があったって野分から聞いたわ。それに、日向たちが妙な動きを見せてることとか、今のトラブルに便乗したマスコミの関係者が鎮守府に入り込んでることとかもね。……いろいろと手を付けなきゃなんだけど、まず私達が優先すべきは、一般の人達の安全を確保することよ』

 

 一刻を争う状況だからこそか。少女提督は、絶対に譲ってはならない大事なことを全員で確認するかのような真剣な口調だった。彼女は今、この鎮守府の提督の一人として、艦娘達と共に今の状況に対処しようとしている。

 

『貴女たちの端末のロックは解除したわ。これで艦娘囀線も使える筈だから、全員で連携して、鎮守府内に要救助者が居ないかを探って欲しいの。本格的にアイツや深海棲艦の相手するのは、要救助者を守る時と、遭遇して追撃された時に限定して。……みんなの気持ちは分かるけど、戦闘は二の次よ』

 

 先程まで場を支配していた混乱と動揺が鎮まり、艦娘全員が表情を引き締め、野分の持つ携帯端末を見詰めている。すると、全員の持つ携帯端末が電子音を鳴らした。何らかのデータを受信したのだ。霞は手にしていた端末を操作すると、少女提督からファイルが送られて来ていた。他の艦娘たちも、自分の端末を取り出して確認している。

 

『鎮守府をAからIまでの9つのエリアに分けたマップデータを皆の端末に送ったわ。鎮守府祭りとか秋刀魚祭りの時に、来客を避難させるための訓練に使ったヤツだけどね。艦隊の編成もこっちで済ませてあるし、担当して欲しいエリアの指示も添付してるから。すぐに其々のエリアに向かって』

 

 そこまで言った少女提督の声を掻き消すように、また爆発音が響いた。強い衝撃があって食堂を揺らす。深海棲艦の砲撃か。いや、鎮守府で行われている戦闘の流れ弾か。食堂が崩れそうな気配が在った。「司令!」と、野分が端末に向かって大声をあげる。『大丈夫なの!? 凄い音がしたけど!?』少女提督の声が、割れた電子音として鳴っている。「はい! 私達は問題ありません! これより私たちも、鎮守府内の其々のエリアに向かいます!」野分が答え、また轟音と振動が在った。憲兵達が伏せる。あるいは、よろめいた。大和と武蔵、それに長門と陸奥が、傍にいた憲兵を庇うように立ち、支える。他の艦娘達も動く。もう、ここに留まってはいられない。

 

「憲兵を守るんだ! 外へ出るぞ!」

 

 長門が凛然と指示を出す。食堂に居る艦娘の全員が『応!!』と声を合わせる。艦娘たちは即座に“抜錨”し、憲兵を支え、あるいは抱えて駆け出す。霞も憲兵の一人を庇いながら、食堂の外へと向かう。砲撃で壁に穴を開ける方法は、崩落の危険を考えれば選択できなかった。とにかく走る。

 

 神経が研ぎ澄まされていく感覚の中で、呼吸が静まってくる。少年提督が反逆を起こしたということに対する動揺は依然として強く在ったが、憲兵たちを何としても守らなければならないという想いが勝った。艦娘は人を守らなければならない。そう望まれて存在し、今まで戦って来た。だから今この瞬間も、その役割を果たそうと思えた。この場に居る他の艦娘も、同じ想いでいるのだろうという確信もあった。

 

 再び、轟音が聞こえた。廊下が揺れる。傍を走っていた憲兵がよろけた。霞は、その憲兵が倒れる前にその腕を引っ掴んで持ち上げ、右肩に担ぐ。あまりに軽々と持ち上げられたことに驚きながらも、霞の肩に担がれた憲兵は「すまない!」と、こんな状況だが律儀に礼を口にした。駆ける霞は前だけを見据えたままで「舌を噛むわよ」と、ぶっきらぼうに答える。

 

 自身の胸の中にある幾つかの感情が、複雑に混ざり合うのを霞は感じた。

 

 襲撃事件の夜に抱いた、人間や社会への底なし憎悪は、まだ霞の内側に確かに在る。深海棲艦になって、この世界に自分の存在を叩きつけてやりたいという衝動は、一時の気の迷いなどではないと断言できる。あの時に抱いた暗い感情と情熱は、今でも霞の心の深い場所で、熾火のように燻ぶっている。絶対に消えることは無い。だが、そんな霞が、艦娘として人々を守護することを少年提督が望んでいることも、その願望と地続きにあるのが“人間と艦娘”の共存であるのだろうということも知っている。

 

 霞は少年提督の信奉者ではない。彼の部下であり、艦娘だ。だが、彼には姿と使命、機能と居場所を貰った。その恩に報いたいという願いも確かにあった。

 

 人間社会への憎悪と共に、少年提督の理想を貴いと想う自分が居る。

 

 その矛盾に、かつて少年提督の下に訪れていた肥えた男のことを思い出す。あの“黒幕”の一人は、他者に冷酷でありながら、自身の家族の幸せを願う矛盾を抱えていた。彼は一人の人間だった。今の霞は、あの男と同種の、立体的な感情の矛盾を精神の内部に持っている。程度の違いこそあれ、それは霞だけなく、他の艦娘の中にも、霞と同じような感情を抱いている者は居る筈だ。その矛盾を陳腐に言い換えれば、“人間らしさ”とは言えないだろうか。

 

 

 廊下を駆けていると、大きな建物が破壊される轟音が別々の方角から響いてきた。2か所からだ。それと、多数の悲鳴。さきほど憲兵が言っていた、“鎮守府に入り込んだ、マスコミ関係者”という言葉が頭を過る。

 

 霞たちは、憲兵と共に食堂の外へと飛び出す。

 

 複数の気配を感じ、曇天を見上げる。他の艦娘も、視線を上にあげるのが分かった。深海棲艦の艦載機が群れを成し、低空を飛行しているのが見える。緊張が走った。凄い数の猫艦戦だ。距離もそう遠くない。憲兵達を守りながらの、厳しい戦闘になると思った。艦娘達が艤装を召還する。憲兵達は落ち着いていた。自分たちが足手纏いにならないように身を屈め、艦娘の背後に隠れるような位置にすぐに移動してくれた。

 

 霞も、召還した連装砲を握る手に力を籠めて、構える。唾を飲む音がして、それが自分のものであることに数秒掛かった。奥歯を噛み、上空を飛行している敵艦戦の数を見る。少年提督と共に反逆に出た深海棲艦達の、その殆どが上位の“姫”クラスであることを思えば、あの猫艦戦の大群ですら、彼女たちが使役する艦載機の一部に違いない。今の鎮守府の状況に入り込んでいる人々の全てを守ることは不可能に思えた。犠牲の予感に、霞が奥歯を噛む。

 

 上空の猫艦戦たちも此方に気づいた。

 だが、霞たちを襲ってくることは無かった。

 

 奇妙なことに、猫艦戦たちは殺意や攻撃の意思を見せず、ただ自分たちの存在を示すかのように、庁舎の合間を見下ろしながら飛行を続けている。その猫艦戦たちの下から、悲鳴が重なって響いてきていることに気づいた。「こっちだ! こっちへ走れ!!」という、懸命な声も聞こえてくる。彼らは、或いは、彼女たちは、庁舎の角から走り出てきた。必死に逃げようとしている。テレビのリポーターやカメラマン、記者、マスコミ関係者を避難させようとしている憲兵達だった。猫艦戦たちの行動にどういった意味があるのかは判然としないが、見過ごす訳にはいかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪睦月@Bエリア.●●●●●≫

 Bエリアで、野獣提督と重巡棲姫が交戦中です! 

 

 

≪夕立@Bエリア.●●●●●≫

 要救助者の人達を3人保護したっぽい! 

 Bエリアはクリアっぽい! 

 

 

≪吹雪@Bエリア.●●●●●≫

 庁舎の中も、隅々まで確認しました! 

 私達の艦隊は、現段階での戦闘参加を回避

 保護した方々を守りながら、この場を離れます! 

 

 

≪ビスマスルク@Fエリア.●●●●●≫

 こっちでも2人保護したわ

 敷地内の建物内部も全部見て回ったけど、他に人影は無かったから

 これでFエリアもクリアね

 

 

≪プリンツ・オイゲン@Fエリア.●●●●●≫

 近くから戦闘音が聞こえてきます! 

 近くのE、Gエリアの皆さん、気を付けて! 

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Fエリア.●●●●●≫

 深海棲艦の艦載機たち、まったく襲ってくる気配がないな

 艦載機で追い散らして撃墜しているが、まるで無抵抗だ

 

 

≪飛龍@Cエリア.●●●●●≫

 こっちのエリアでも同じです。

 戦闘と言うよりも、一方的な殲滅戦みたいになってます

 

 

 

≪金剛@Eエリア.●●●●●≫

 でも、今は都合が良いネー! 

 艦載機の動きが鈍い今のうちに、

 憲兵サンやマスコミの人達を退避して貰いまショ! 

 

 

≪雷@Cエリア.●●●●●≫

 マスコミ関係者の人達と憲兵さんを合わせて5人、保護したわ! 

 

 

≪木曽@Cエリア.●●●●●≫

 このエリアの敷地内は全部見て回った

 俺達は先に撤退するぞ

 

 

≪満潮@Gエリア.●●●●●≫

 Gエリアで、マスコミ関係者と憲兵、7名を保護

 私達の艦隊は、鎮守府の外へ彼らを送るから

 

 

≪山城@Gエリア.●●●●●≫

 要救助者を安全に送り届けた後、野獣提督の援護に向かいます! 

 

 

≪扶桑@Gエリア.●●●●●≫

 此方も、敷地内にある庁舎、他の建物の内部を確認しています。

 他に一般の方々の姿も無く、退避し遅れた憲兵の方も居ません。

 Gエリアも、F、Bエリアと同じくクリアです

 

 

≪曙@Aエリア.●●●●●≫

 こっちもマスコミ関係者と憲兵、合わせて6名を保護したわ

 

 

≪潮@Aエリア.●●●●●≫

 庁舎内も隈なく見ましたが、他に要救助者の姿はありませんでした! 

 私達も一度、鎮守府の外へ退避します! 

 

 

≪龍驤@Aエリア.●●●●●≫

 ウチの艦載機を全部発艦して捜索してるけど

 Aエリアの敷地内には要救助者の姿は無いで

 こっちもクリアや

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 迅速な行動ね。皆、ありがとう

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 これで9つあるエリアのうち、

 残りは、D、E、H、I、の4つね

 

 

≪ガングート@Hエリア.●●●●●≫

 このエリアも問題無い

 要救助者を探してはいるが、一般人の姿は無いぞ

 ただ、戦艦水鬼と戦艦棲姫たちを引き連れた提督が移動している

 

 

≪ゴトランド@Hエリア.●●●●●≫

 提督達はIエリアに向かってるみたい。

 でも、逃げてるっていう風には見えないよ

 戦闘を仕掛けてくる気配もないし

 

 

≪陽炎@Hエリア.●●●●●≫

 こっちの救助活動を邪魔しないために

 不自然にならない程度に距離を取ってくれてるみたいにも見えます

 

 

≪飛龍@Iエリア.●●●●●≫

 此方もクリアです。人の姿はありません。

 ただ先ほど、無防備な猫艦戦に混じってドローンが飛んでいるのを見つけました

 

 

≪大鳳@Iエリア.●●●●●≫

 今の鎮守府上空を覆う猫艦戦達なんですが、やはり妙です。

 私達の艦載機に抵抗することもしないし

 近くに飛んでくるドローンにも殆ど反応を示しません

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 気味が悪くて嫌な感じだけど、直接の脅威じゃないなら有難いわ

 金剛も言っていたけど、今のうちに動きましょう

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 あとドローンについては確認が取れたわ。テレビ局のヤツよ

 鎮守府の外に陣取ってるクルーが、撮影目的で飛ばしてるみたい

 放っておいても大丈夫。問題ないわ

 

 

≪リットリオ@Dエリア.●●●●●≫

 Dエリアは損壊している建物が多いです

 駆逐艦娘の皆も必死で探してくれていますが、人影はありません

 

 

≪ローマ@Dエリア.●●●●●≫

 ただ、建物が幾つか崩れてるから

 その下敷きになってる可能性もあるわ

 

 

≪野分@Dエリア.●●●●●≫

 可能な限り瓦礫をどかして、捜索にあたります

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 えぇ、お願い。

 各エリアの艦娘達の中で、応援に行けそうな人が居るなら向かって

 遭遇戦に気をつけて

 

 

≪長門@Bエリア.●●●●●≫

 了解だ! 

 

 

≪大和@Hエリア.●●●●●≫

 分かりました! 

 

 

≪武蔵@Aエリア.●●●●●≫

 すぐに向かう

 

 

≪陸奥@Fエリア.●●●●●≫

 扶桑、山城と一緒に向かうわ

 

 

≪リシュリュー@Cエリア.●●●●●≫

 私もすぐに行くわ

 

 

≪高雄@Fエリア.●●●●●≫

 私も、他の駆逐艦娘の子と一緒に向かいます

 

 

≪摩耶@Gエリア.●●●●●≫

 任せろ! 

 

 

≪陽炎@Hエリア.●●●●●≫

 私も行きます! 

 陽炎型で動ける子が居たら、Dエリアに急いで

 

 

≪翔鶴@Eエリア.●●●●●≫

 瑞鶴と合流しました! 

 南方棲鬼と戦闘になったようで、エリア内の庁舎などは損壊が激しい状況です! 

 

 

≪龍田@Eエリア.●●●●●≫

 ただ、瑞鶴ちゃんが言うには、

『今日、この鎮守府で一般人が負傷することは無い』って

 南方棲鬼が言ってたみたい

 

 

≪少女提督@sub.●●●●●≫

 それは有難い情報ね。でも、鵜呑みにするわけには行かないわ

 Dエリアに向かう艦娘たちの中で、

 現状でEエリアに近い人はそっちの応援に向かって

 

 

 

 庁舎の影に隠れるようにして、姿勢を落として走る。その速度を落とさずに雷は、携帯端末を操作し、素早く艦娘囀線を読み込む。タイムラインには短くも貴重な情報が流れていた。そこに在る少女提督の言葉が、雷の心を落ち着かせてくれた。そうだ。とにかく今は、自分が出来ることをやるしかない。自分の役割を十全にこなす。それしかない。端末を制服のポケットに仕舞う。この鎮守府の日常の象徴とも言える艦娘囀線が、人々を助ける為に明確に役立っていることが心強かった。

 

 微かに頬が濡れる感触に、視線だけで空を見た。雨粒か。鎮守府を見下ろす曇天に、殆ど切れ間は見えない。重たそうな雲が頭上を埋めている。ほんの少しだが、雨が降ってきていた。細い雨だ。小雨とすらいえない程度の、幽かな雨だった。

 

 雷のすぐ傍には木曽と大井が居る。そして雷達に守られるようにして、テレビ局の男性スタッフが2人と、女性記者が1人、憲兵2人が並走していた。雷たちは、この5人を鎮守府の外へと退避させるべく動いている。雷達と同じくCエリアを担当していた艦娘の中には、赤城と加賀、アイオワや榛名なども居たが、彼女達は、DとEエリアへ向かってくれていた。崩れた庁舎に巻き込まれた一般人が居ないかを探すためだ。この鎮守府の艦娘全員が、最善を尽くすべく行動している。

 

「皆さんは、あの少年提督の艦娘なのですか?」

 

 木曽に守られるようにして走っていた女性記者が、雷たちを順に見てから訊いてきた。雷は視線だけで彼女を見る。記者の顔は強張っているが、怯えや恐怖は無かった。それは、他のテレビ局のスタッフであろう2人も同じだった。彼らは、今の鎮守府で起こっている事件の、その真相を暴こうとする強い意志と共に、何らかの情報を持ち帰らねばならないという使命感を含んだ、真剣な表情をしていた。

 

 彼らもまた雷達と同じく、自分たちの役割を果たそうとしている。だが、それは場違いだと感じた。どう考えても今は逃げるほうが先決だ。情報収集は後でもいいのではないかと思う。ただ、情報の新鮮さが命である彼女達にとっては、此処に自分が居る意味を全うしようと必死なのかもしれない。

 

 もしくは、自身の身に及ぶであろう危険に対して鈍感で、想像力に乏しいのか。それとも、今の鎮守府の状況に、まだ自分が入り込んでいないとでも思っているのか。雷に並んで走っていた憲兵が厳しい表情を作り、女性記者に何かを言おうするのが分かった。だが、それよりも木曽の冷たい眼が女性記者を捉える方が早かった。

 

「答える義務はない。俺たちの義務は、お前たちを守りながら、安全な場所まで逃がすことだ」

 

 そう毅然と言い放たれた木曽の言葉は、雷を庇うような響きが在った。

 

「何処の誰が召還した艦娘かなど、今は関係が無いし意味も無い」

 

 大井が悲しげに視線を下げている。彼女は、雷の方を見ようとしない。雷たちの提督である少年提督が、本営に対して明確な反逆行為を取ったことは食堂で聞いた。大井にとっても、今の雷に気軽に声を掛けるのは憚られる思いなのかもしれないし、どのように気遣っていいのか判然としていないのかもしれない。彼女のそういった迷いは、そのまま彼女の優しさの証明に違いなかった。

 

 女性記者は何か言葉を繋ごうとしていたが、木曽の低い声に気圧されたようで、大人しく黙ることを選んだ。一方でテレビ局のスタッフ達は走りながら、発言のタイミングを窺うように視線を彷徨わせている。彼らに悪意はない。彼らが今の状況を知りたいと思うのは、世間という巨大な意識な集合もまた、少年提督の行動に納得のいく理由と背景を求めるからこそだ。

 

 社会から見れば、艦娘と深海棲艦が戦うことは全く不自然さがない。だが雷たちは、この鎮守府で秘書官見習いをしていた深海棲艦たちを知っている。数奇な縁を結び、彼女達と日々を過ごしてきた。襲撃事件の夜には、身を挺して雷達を助けてくれた恩人でもある。深海棲艦の姫や鬼である彼女達は、少年提督の下で一般的な良識や常識についての理解を見せていたのも間違いない。その事実だけを切り取って、彼女達が人類にとって完全に無害で安全な存在なのだと主張するつもりも、雷には全くない。

 

 ただ、艦娘と言う完成されて整えられた武力によって、人類が深海棲艦の脅威を安定して退けることが可能になったのならば、深海棲艦を打ち滅ぼすのではなく、住み分けて共存する為の構造やルールを社会の中に作ることも可能なのではないか。

 

 無論、深海棲艦たちによって殺された人々の遺族にとって、共存など受け入れられるものではないだろう。人類に敵意と殺意を持った種族である深海棲艦など、殺し尽くして然るべき存在に違いない。被害者が増えるのを防ぐことを考えても、それは正しい考え方に見えなくもない。だが、その理念を実践することによって深海棲艦を殺し尽くした後、人類の為に懸命に戦い抜いた艦娘達もまた、深海棲艦に変貌する可能性を秘めていたとしたらどうなるか。考えるまでもない。深海棲艦の次に、艦娘たちが迫害されることになるだけだ。

 

 だから、海を巡るこの戦争が人類優位に傾いている今のうちに、何処かで誰かが、今の人類にストップをかける必要があったのではないか。人類による海への侵略戦争の様相を呈している現状に警鐘を鳴らし、停戦を唱える冷静さこそが人類の強さと賢明さであると、少年提督は信じていたのだろう。彼が唱えていた『力による受容』という言葉には、他種族の根絶を是とする人間至上主義の世間から、深海棲艦に対する何らかの妥協点を引き出したいという、少年提督の切実な願いが込められているのではないかと思った時だった。

 

 すぐ近くで、体が揺れるような轟音がした。

 

 何かが飛んできた。雷達の前方だ。その何かは庁舎の外壁を貫通し、破壊しつつ、飛んできた勢いを殺しきれずに庁舎の中へと派手に転がり込んでいった。ただ、砲弾ではない。爆風や熱風が押し寄せてくることは無かったが、一般人にしてみれば気を失うほどに動揺する爆音だったに違いない。悲鳴を上げた女性記者が派手に転びかける。だが、傍に居た木曽が彼女の体を庇うようにして抱えた。憲兵の二人は倒れ込むようにして地面に伏せている。テレビ局のスタッフ2人の方は、すっころんで尻餅をついていた。雷と大井はすぐに、その二人の手を引いて立ち上がらせる。

 

 不味い。

 遭遇戦になった。

 

 木曽の頬を濡らす細い雨を吸いながら、一筋の汗が伝っていた。大井が舌打ちをする。雷も唇を噛んだ。庁舎の中に転がり込んでいった何かは、バキバキドカドカとまた派手な破壊音を鳴らしながら、大穴の開いた庁舎の壁から、元気一杯に飛び出してきた。ソイツは、琥珀色のオーラを纏った抜錨状態で、獰猛そうな巨大艤装獣の尻尾を揺らしている。雷と大差ない体躯に超大型の艤装獣を繋いでいるというアンバランスさは、壮絶な威圧感を相対する者に与え、容赦なく飲み込む迫力に満ちていた。

 

 暴力的な破壊の予感を巻き散らすソイツは、いつも通りの明るい表情できょろきょろと周りを見渡し、雷たちに気づいて、快活な笑顔を浮かべた。その態度があまりにも普段と同じで、胸が大きく軋む。深海棲艦の研究施設で、初めて出会った頃を思い出す。あの時も確か、今と同じような敬礼のポーズをとって、底抜けに明るい笑顔を見せていた。

 

「あっ、こんばんは~! (レ)」

 

 曇天の中に能天気そうな声が響き、雨が少し強くなった。

 






今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございます!
話の内容に整合性を取りつつ、何とか完走を目指しておりますが、何処かで矛盾点や描写がおかしな点があれば、ご指摘、ご指導頂ければ幸いです。次回更新に繋げられるよう、加筆修正させて頂きたいと思います。

暖かな感想や身に余る高評価、親身な誤字報告など、本当に感謝しております。
朝晩寒くなってきましたが、皆様も体調を崩されぬよう、ご自愛くださいませ。
いつも読んで下さり、本当にありがとうございます!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

少年提督と野獣提督 後編

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぬるい風が吹いてきて、曇天が暗さを増してきている。重苦しい雨雲の連なりは、陰鬱さと不吉さを象徴すると言うよりも、余りにも巨大で超越的な何者かが此方を見下ろしているかのようでもあった。幽かな雨粒に肌を濡らしたレ級は、能天気そうで無邪気な笑顔を浮かべたままで視線だけをギョロギョロっと動かして、雷達を眺めている。ヤツの尻尾の艤装獣も、「HAaaaaahhhh……」と白く煙る吐息を漏らしながら、こっちを睨んでいた。とにかく、もの凄い威圧感だ。

 

 ひゅっ、と喉を鳴らすような悲鳴を漏らしたのは、雷に手を引かれて立ち上がったテレビ局クルーだ。すぐそこに現れた戦艦レ級という明確な脅威と死の予感に、顔を強張らせて歯を鳴らしている。大井の傍に居る方のテレビ局のクルーは、まだ状況を飲み込めていないのか。驚いたような表情を浮かべたままで、茫然とレ級を見詰めていた。憲兵達は決死の覚悟を決めた表情で、手にしていた大型の銃機を構えている。通常の火器がレ級に通用する筈は無い。だが、それを理解した上で尚、憲兵達は戦闘態勢を取ろうとしていた。彼らもまた雷と同じく、テレビ局のクルー達を守ろうとしている。

 

 もう一度、雷は息を吸う。誇り高い軍人である彼らも、一般人であるテレビ局のクルー達も、艦娘として守らなければならない。雷は彼らを庇うように前に出て、錨を構える。大井も同じように、彼らの盾となるべく“抜錨”状態のままで姿勢を落とし、雷に並んだ。レ級を見据えながら、雷は唇を舐めて湿らせる。掌の中の錨を両手で握り締めた。少しずつ姿勢を落とす。息を吸う。埃っぽい空気が口の中でザラついた。自分の鼓動が耳の中で聞こえる。

 

 状況は圧倒的に不利だ。レ級が容赦なく砲撃を行ってくれば、それだけで憲兵達を守ることは難しくなる。飛んでくる砲弾全てを体で受け止める方法が思考を過る。だが、それは現実的では無い。とにかく、テレビ局のクルーや憲兵たちを逃がすことが先決だが、臨戦態勢を取っているレ級を前にして、安直な退避行動を取ることは出来そうになかった。雷達は、既にレ級の射程に入っている。隙を見せれば、すぐにでも砲弾が飛んできそうだ。雷は目を凝らす。どんな小さなものであっても、レ級の動きを見逃さない。そのつもりで、更に一歩だけ前に出た時だった。

 

「雷」

 

 名前を呼ばれた。少し離れた位置に居る木曽だ。

 

「憲兵達と一緒に行ってくれ」

 

 えっ、と言いそうになった雷は、視線を木曽に向ける。木曽は軍刀に手をかけつつ前に出て、女性記者を下がらせていた。女性記者は顏を恐怖で引き攣らせながら、木曽と、レ級と、それから雷や憲兵たちを順に見て、雷達の方へと走り寄ってきて、雷と大井の背後へと隠れた。その女性記者の怯えた様子がレ級を刺激しないかと思ったが、レ級は白い歯を見せる楽しげな笑顔を浮かべたままで、此方を眺めている。矮弱な獲物を前に、殺戮と愉悦の予感をゆっくりと味わっているのだろうか。

 

 金属獣の尻尾を悠然と揺らすレ級は、まだ動かない。ただ、それは好機でもあった。位置的に、憲兵やテレビ局のクルー、女性記者たちが、僅かではあるがレ級から距離を取ることも出来た。そして彼らの盾とあるように、木曽を先頭にして、雷と大井が三角形を描くように並んでいる。ゆっくりと大井が息を吐くのが分かった。

 

「……艦娘が3人とも残るわけにはいかないわね」

 

 大井は言いながら木曽と並ぶように前に出て、憲兵や女性記者、それにテレビ局のクルー達を雷に預けるように、「お願いするわ」と、肩越しに振り返った。大井は穏やかでありながらも、覚悟を滲ませた表情をしていた。その大井と木曽の背中を見て、雷は喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。奥歯を噛む。理屈で感情を抑え込む。木曽と大井の判断は、多分、正しい。

 

 海上での艦隊戦としての練度や装備を抜きにして、今のような陸地での闘争で見れば、木曽と大井の方が、雷よりも戦闘力は上だ。あの二人でレ級を食い止めてくれるなら、その間に雷が、憲兵やテレビ局のクルー、女性記者たちを逃がすために動くことが可能だ。この場から離れる最中に上空から猫艦戦が襲ってきたとしても、雷がいれば何とか対処もできる。人命を守ることが最優先であるならば、レ級から離れることに迷うべきではない。躊躇してはならない。雷はすぐに行動に移る。

 

「今の内に、安全な場所まで走って!」

 

 雷は女性記者たちに振り返り、叫ぶように言う。

 

「憲兵さん、先頭をお願い! 雷が殿につくから!」

 

 憲兵達はすぐに状況を理解してくれた。一刻も早くこの場から離れるべく、女性記者やテレビ局のクルー達を引き連れるようにして走り出す。その最後尾に続き、雷も駆け出そうとした時だった。背後、レ級が居る方から、ドゴンッ!! という、硬いものが派手に砕ける音が聞こえた。何の音だろうと思って、木曽や大井の居る方へと視線を向けたのが迂闊だった。木曽も大井も、レ級の身体能力を侮っていた訳ではない。それこそ、命を懸けて対峙していた筈だ。

 

 焦った表情をした大井が、雷に何かを叫んでいる。木曽が忌々しそうに上空を見上げていた。レ級の姿が無かった。嫌な予感がしたのと同時に、足元を影が移動していた。丸い影だ。影は雷を通り過ぎて、追い越していった。上だ。上に、何かが居るのだ。何かが頭上を通り過ぎていった。何かなんて決まっている。レ級だ。ズッシィィンン!! と降って来た。憲兵たちのすぐ傍だ。焦る暇も無い。木曽と大井が、此方に向かって駆け出している。雷もだ。だが、憲兵たちを庇おうにも間に合わない。やられたと思った。レ級は、木曽と大井が前に出てくることを見越して、待っていたのだ。

 

 テレビ局のクルー達が、「えっ」「うわっ」と、気の抜けたような声を出して、レ級の方へと視線を向けて、一瞬だけ固まった。女性記者がへたり込む。憲兵達は一瞬だけ怯みを見せたが、すぐに装備していた銃器を構え、即座に発砲しようとしていた。だが、着地したレ級が動き出す方が早かった。レ級は「シシシ」っと肩を揺らして笑いながら尻尾の艤装獣を振り回し、銃器を構えた憲兵を左右に払い飛ばした。

 

 心臓が凍り、血の気が引いた。憲兵達が死んだと思った。だが、払い飛ばされた憲兵達は地面に倒れて呻きながらも、何とか立ち上がろうとしている。ホッとすると同時に、大きな違和感が在った。人間を相手に、レ級が手加減をした? 雷の脳裏にそんな疑問が過る間に、レ級は動きを硬直させていたテレビ局のクルー達に無造作に近づいていた。疾い。まるで影が滑るかのような、捉えどころのない動きだった。楽しげな笑みを浮かべるレ級は、クルー二人の上着を引っ掴んで、横合いに放り投げて地面に転がしてから、彼らを見下ろした。悲鳴が上がる。

 

「あっは、御馳走♪ (レ)」

 

 嬉しそうに目を細めたレ級は、大人が子供を怖がらせるかのように、『食~べちゃうぞ~☆』といった感じで両手を広げた。微笑ましくコミカルな動作だったが、大口を艤装を展開している深海棲艦である彼女がやると、巨大な死の予感を見る者に与えるだけに違いない。

 

 実際、クルー達は悲鳴を上げることも出来ずに倒れ、怯え切った表情で体を震わせ、レ級を見上げている。レ級の尻尾の艤装獣が、鋭い牙がびっしりと並んだ大口を開け、クルー達に近づいていく。捕食する気か。木曽と大井の援護は間に合いそうにない。雷は艤装を召んで、砲口をレ級に突き付けようとしたが、砲撃は無理だ。憲兵やテレビ局のクルー達まで爆風に巻き込んでしまう。その可能性を認識した時点で、艦娘である雷の艤装は沈黙した。艦娘は、人間を傷つけることは出来ない。

 

 だが、雷の意思と使命と、それを遂行しようとする肉体は動く。熱を帯びた呼吸と共に、鼓動が聞こえる。錨を握る雷の腕と掌からは、力は消えていない。艤装は沈黙しても、艦娘としての雷の肉体は黙らない。細い雨の雫が瞳を濡らした。瞬きをせずに駆けだす。集中力が極限まで高まる。思考が高速で流れる。駆ける雷は、体を更に前に倒す。

 

 地面を蹴る。叫ぶ。数秒後、自分は死ぬ。そう思った。戦艦レ級にタイマンでなんて、逆立ちしても勝てない。殺されるだろう。でも、重要なのはそんな事じゃない。何とか、テレビ局のクルーや憲兵達が逃げだせる状況を作り出すんだ。この場には、まだ木曽と大井が万全の状態で居る。彼女達が、クルー達を助け出すチャンスを作る。その可能性を手繰り寄せるために、命を捨てるんだ。その覚悟はとっくにできている。

 

 駆ける一歩と一歩の刹那。

 脳裏に、いつかの光景が浮かんで消えた。

 

 別の鎮守府の雷が、この鎮守府の辿り着いた時の夜だった。彼女は、雷の腕の中で消えていった。少年提督が、消えていく彼女を近代化改修してくれた。雷へと、彼女の魂を鋳込んでくれた。雷の中には、二人分の勇気と使命がある。無私の正義がある。

 

 それを今、ここで、使うんだ。

 何もかもを置き去りにするつもりで走る。

 脚を前に出す。錨を握りこむ。気付く。

 レ級が、視線だけでこっちを見ている。

 

 位置的に見れば、レ級は雷に左側面を見せている。横っ腹を雷に向けている状況だ。レ級は、さっきと同じ『食~べちゃうぞ~☆』の格好ままで動かない。艤装獣もまた、怯えて震えるテレビ局のクルー達に噛みつく気配はない。大口を開けたままで捕食のポーズを維持している。子供っぽい動作をしているレ級だが、雷を捉える彼女の瞳は酷く冷静だ。先程も感じた違和感が、胸のあたりで燻ぶる。レ級は、雷が突っ込んでくるのを待っているのか。クルー達を餌にして、何らかの罠へと誘っているのかもしれない。

 

 だが、そんなことに構っていられないことも確かだった。黙って見ている訳にはいかない。

 今、雷はクルー達を助けなければならない。それが艦娘としての存在意義であり、同時に、生きてきた時間の中で育んだ、雷の決意でもある。奥歯をゴリゴリと噛みしめる雷は、レ級の横合へ迫る。踏み込む。両手を掲げたままの格好のレ級は、首を僅かに傾け、顔を雷の方へと向けた。尻尾の艤装獣もだ。

 

 反撃が来ると思った。相手はレ級だ。殺される。それでいい。雷の攻撃は、届かなくていい。レ級の意識をクルー達から逸らすんだ。ちょっとの時間で良い。レ級がクルーを喰い殺してしまう前に、木曽と大井がレ級に肉薄できるだけの時間を稼ぐ。死を実践する気持ちで、錨を振りかぶる。雷の全存在を、この瞬間に投入する。極限まで高まった集中力は、何もかもをスローモーションに見せた。

 

「うらぁぁああああああ!!!」

 

 姉妹艦である響の雄叫びを真似て、雷が錨を振り抜こうとする瞬間だった。

 レ級が、雷にだけ分かる角度で片目を閉じるのが分かった。

 

 それが茶目っ気たっぷりのウィンクであり、同時に、雷への信頼と友情を確かめるような真剣さを乗せた眼差しだったことを理解した時には、すでに雷は手にした錨を思いっきり振り抜いて、レ級の横っ面をぶん殴っていた。鈍い音が盛大に響く。当たると思ってはいなかったから、雷も驚いた。

 

「阿吽!? (レ)」

 

 奇妙な悲鳴を上げたレ級は、錐揉みに吹っ飛んで地面を4回ほど大きくバウンドしたあと、その勢いのままで派手に地面を転がり庁舎の壁に激突した。轟音とともに庁舎の壁面が崩れ、瓦礫がレ級に降り注いだ。巨大なコンクリの塊が、レ級の頭部にガッツンガッツンと激突しながら、圧し潰すように降り積もった。細い雨が降る中でも、濛々と白い粉塵が舞い上がる。ただレ級は、大人しく瓦礫に潰されたりなんてしなかった。積もって来た瓦礫の山を、ズガァァァンと尻尾の艤装獣の一振りで払い飛ばして姿を見せる。

 

「痛ァァァアア!! (ノД`)・゜・。(レ)」

 

 半泣きになって立ち上がったレ級の顔は歪んでいた。眼球が潰れて、喉からは折れた骨が飛び出している。雷の攻撃が届いたことを信じられない気持ちで、雷はレ級の姿を眺めていた。

 

 握った錨から伝う感触には、肉と骨を砕いた重みと生々しさが在り、雷は、自分が生きていることを実感する。生きている。レ級は反撃をしてこなかった。それどころか、ウィンクまでして見せた。明らかに、ワザと雷の攻撃を受けた。それは、どういうことだろう。何を意味しているのか。

 

 臨戦態勢を解くことが出来ない緊張の中で、集中力によって加速した思考だけがグルグルと巡る。遭遇してからのレ級は、雷たちに対して砲撃をしてこなかった。そしてつい先ほども、レ級は自分のすぐ近くにテレビ局のクルーを倒して寝転ばせ、雷たちが砲撃を行えない状況を作り出している。その一連の行動は、万が一にも一般人を砲撃戦に巻き込まないために、レ級は自身の身体能力をフルに使って立ち回りながら、艦娘に──雷に、攻撃され、撃退されることを目的としているのではないか。まさかとは思うが、胸の中で燻ぶる違和感は消えない。

 

「あ、ありがとう!」

「ありがとうございます!」

 

 すぐ近くで必死な声が聞こえて、雷はハッとする。そうだ。クルー達だ。彼らは腰を抜かしていたが、生き延びた安心感のせいか涙目になっていた。

 

「大丈夫!? 怪我は無い!?」

 

 雷は錨を構えたまま、視線だけで彼らを交互に見る。大きな負傷をしている様子ではないことに安心するが、危機を脱した訳ではない。雷がレ級に視線を戻した時には、既にレ級は再生と修復を終えていた。とんでもない自己修復速度だ。元通りの可憐な顔貌を取り戻したレ級は、明らかな怯みを見せるかのような苦い表情を作って雷を見ている。その表情もワザとらしい。まるで、『せっかく人間を捕食しようとしたのに雷に邪魔をされ、苦戦しているのだ』と、何処かへ向けてアピールしているかのようでもあった。胸に抱えた違和感が更に膨らんでいく。

 

 平静を保つんだ。雷は自分に言い聞かせるのと同時に、木曽と大井が雷と並んだ。前方のレ級に意識を割きつつ、周囲を確認する。雷の少し背後にいる女性記者も、憲兵達も立ち上がっていた。女性記者に大きな負傷は見られないし、憲兵達も、雷達を援護するかのように銃器を構えようとしていた。雷と木曽、大井は背後にクルー達を守るように位置を取りなおす。これでレ級との遭遇戦は、状況的に振り出しに戻るかと思った。違った。

 

 不味そうな表情を作って雷を見ていたレ級が、「おっ」っという顔になって、手でひさしを作り、空へと視線を上げた。いや、空じゃない。雷達から少し離れた庁舎の上辺りを見た。雷はレ級の視線を追うよりも先に、木曽が舌打ちをするのが聞こえた。何者かがその庁舎上部の壁を蹴って、レ級の隣へと飛び込んできたことに気づいたのだ。雷は舌打ちをするよりも先に、呻きそうになった。大井も鬱陶しそうに息を吐いている。

 

 レ級の隣に音もなく着地したのは、重巡棲姫だった。

 

 彼女も“抜錨”状態にあり、腹部から大蛇のような2匹の艤装獣を展開していた。蛇型の艤装獣たちはうねり、首をもたげ、雷達を睨んでくる。悲鳴を上げたのは女性記者か。憲兵達が息を飲み、クルー達がひゅっと息を詰まらせるのが分かった。それと同時だったろうか。

 

「オッスオッス!! (助太刀)」

 

 近くの庁舎の屋上付近を三角蹴りして、提督服を着こんだ人物がこの場に乱入してきた。雷達よりも前に出た位置に着地した人物が一瞬、誰だが分からなかった。ちゃんと詰襟の服を着ていたからだ。誰だよ? (素)と思いかけたが、それが二振りの刀を手にした野獣であると気づいて、雷は泣きそうになった。重巡棲姫を追って来たのだろう。さきほど見た艦娘囀線でも、野獣が重巡棲姫と交戦中であると、吹雪が書き込んでいた筈だ。

 

 野獣が交戦していたエリアは、雷達の居るエリアと隣接している。重巡棲姫を追う状況になって、雷達が一般人を守ろうとしている場面にでくわした、と言ったところだろうか。だが、それも都合が良すぎる気がした。雷の脳裏に、レ級の不自然な行動の数々が過っていく。全く自覚できないままで、何らかの役割を演じさせられているかのような感覚が在る。タイミングを見計らった重巡棲姫が、交戦中の野獣をこの場に誘い込んだのではないかと思う。

 

 レ級と重巡棲姫は、此方に体を向けたままで言葉を交わしている。気楽な表情を見せるレ級に対し、重巡棲姫は少々疲れた表情を浮かべていた。彼女たちは戦闘中であるという緊張をまるで感じさせない態度だ。仲の良い女子高生が、「職員室に呼び出されてやんの」「うっせぇなぁ黙れ」なんて言い合っているような風情すらある。レ級の隣に立った重巡棲姫に傷は無い。野獣と戦闘を行い無傷というわけでもないだろうから、今のレ級と同じく、修復・再生して間もないだけなのかもしれない。

 

 

「怪我してる奴とか居ないっスかぁ? Oh^~? (現状把握)」

 

 野獣は右手に握った長刀を肩に担ぎ、もう左手に握った刀の切っ先を下ろす独特の構えをとっている。一分の隙も無い。その研ぎ澄まされた佇まいを崩さず、雷達に真剣な視線を寄越してきた。「えぇ」と、大井が頷く。「雷の御蔭でな」と木曽が続いた。その言葉を聞いて、雷の奮戦があったからこそ、テレビ局のクルーや憲兵達を含め、この場での負傷者が出ていないと野獣は判断したのだろう。

 

「やりますねぇ! (惜しみない感謝と賞賛)」

 

 構えを取ったままの野獣は、落ち着いた表情のままで雷にウィンクをして見せる。それは、先程のレ級が雷に見せたウィンクと同じ種類のであることに気づく。雷は内臓を圧されたような気分になり、野獣に何も答えることが出来なかった。喉が僅かに震えただけだ。唇を噛む。勝手に思考が流れ始める。先程までのレ級は、クルー達に危害を加えるようなポーズを取るだけで、実際には何もしなかった。それが何らかの罠なのかとも思ったが、攻撃を仕掛けた雷に対しても、レ級は無防備であり続けていた。もしかしたらと思う。

 

 レ級には、全く敵意など無いのではないか。この鎮守府に入り込んだ人々へ危害を加えるつもりなど微塵も無いのではないか。不可解なレ級の行動にも、何らかの明確な理由と目的があってのことだろう。その目的と理由を与えたのは、今の少年提督に違いない。無意識のうちに俯きかけていた雷は、慌ててレ級達へと視線を戻す。

 

 彼女達は艤装を召んだ臨戦態勢でありながらも、雷達や野獣を見比べたままで動かない。隙も無いが、此方に向かって攻撃してくる気配も無い。雷達から少し離れた位置に、カメラ付きのドローンが飛んでいることに気付いたのはその時だ。猫艦戦達が居ないうちに、この場を撮影しようとしているのだろう。低空を飛行し、雷達や野獣、それにレ級や重巡棲姫へと遠慮なくレンズを向けている。二振りの刀を構えた野獣が、ドローンを一瞥した瞬間だった。

 

 地面を踏み砕く音が二つした。レ級と重巡棲姫が動いたのだ。だが、彼女達は此方に襲い掛かっては来なかった。攻撃ではなく撤退を選んでいた。雷も、木曽も、大井も、上手く反応できていなかった。レ級と重巡棲姫が示し合わせたように飛び下がり、この場から離れていくのを、茫然と見送るような形になった。

 

 ただ、野獣だけは彼女達を追撃しようとして、2歩ほど足を前に出していた。だが、すぐに雷たちを振り返り、そして、憲兵や女性記者、テレビ局のクルー達を順番に見た。「……これもう、(あいつらが何をしたいのか)わかんねぇな」と呟くように言いながら、野獣はレ級達が去って行った方を一瞥してから構えを解き、雷たちの方へと駆け寄ってきた。

 

「一先ず俺も、鎮守府の外まで付いていきますよ今は~(人命優先)」

 

 憲兵や一般人に怪我が無く、雷達も無事であることを再度確認したのだろう野獣は、落ち着いた表情のままで言う。雷達は顏を見合わせてから野獣に頷く。深海棲艦の脅威が遠のいた今のうちに、この場から離れるべきだ。女性記者を、憲兵の一人が背負う。腰を抜かしたテレビ局のクルー2人は、雷と大井が背負った。先頭を木曽、殿を野獣にした列を作り、雷達はすぐに駆け出す。

 

 雷は視線を曇天へと視線を上げる。相変わらず曇天が頭上に広がっているが、幽かに降り始めていた雨はいつの間にか止んでいた。空母艦娘たちが放った艦載機に撃墜されて数は減った筈だが、上空には猫艦戦たちの姿が見えた。中空に佇み、此方を見下ろしている。だが、襲い掛かってくる様子は無い。気味の悪い話だが、見送られているというか、見守られているかのような感じですらある。あれは、瑞鶴のコントロールの下にある猫艦戦なのだろうかと思う。だが、すぐに頭の中でその考えを否定する。

 

 雷は、瑞鶴が深海棲艦化することが出来るのを知っている。以前の襲撃事件で、彼女は深海棲艦化し、艦娘の肉体を無力化する術式を潜り抜け、加賀や時雨たちを助けるために活躍したと聞いている。艦娘囀線での書き込みを思い出す。瑞鶴が戦闘を行っていたとすれば、恐らく、膨大な数の猫艦戦を召び出して戦ったのは想像できる。ただ、少年提督が率いる深海棲艦達の中にも、港湾棲姫をはじめ、大量の艦載機を扱える者も複数いる筈だ。瑞鶴がどれほど深海棲艦の上位体としての力を発揮することが出来たとしても、そう簡単に制空権を奪えるとも思えなかった。交戦エリアだけならともかく、鎮守府の上空と全体なると無理だろう。

 

 瑞鶴のコントロール下にある猫艦戦たちは、翔鶴たちが合流したというEエリアに集中していると考えられるし、雷の居るCエリアまでは少し距離がある。なら、雷達の周囲を飛行しているのは敵機であると判断すべきであり、油断してはならない。雷は背負ったクルーの重みを確かめる。“抜錨”状態であり、艦娘としての力を発揮している雷にとって、大人の男性など羽のように軽いものだった。だが、そのクルーの体が弱々しく震えていることには気付いていた。彼の体温の背後に、彼の家族の存在を想う。

 

「大丈夫よ! 雷がついてるじゃない!」

 

 人々を守るために、戦う。その艦娘である自身の使命を心の中で確かめながら、背負ったクルーの恐怖を少しでも和らげるつもりで言う。クルーは震えた小さな声で「あぁ、ありがとう」と、応えてくれた。その声には人間の温度があった。雷に背負われた彼の意思は、雷の持つ感情や心に呼応していた。自分の命を預け、庇護を求める切実な祈りと感謝が在った。今の彼は雷のことを、ただの兵器などとは思っていないのは確かだった。

 

「やっぱり、お前らは頼りになりますねぇ(本音)」

 

 列の殿の居た野獣が、太い声を出した。雷は駆けながら、一瞬だけ野獣に振り返る。野獣は右手の長刀を肩に担ぐようにして持ち、太刀は腰の後ろの鞘に納めていた。空いた左手で携帯端末を操作しつつも、上空や周囲の気配を注意深く探っている様子だった。「そりゃどうも」と、ぶっきらぼうに答えた大井が鼻を鳴らし、列の先頭を走る木曽が「俺達の指揮官が優秀だからな」と、油断なく周囲へと視線を巡らせつつ、胸を張るような声で言う。

 

 雷達が艦娘囀線で連絡を取り合っているとき、野獣は重巡棲姫との戦闘の最中にあった筈だ。携帯端末を操作している野獣も、このタイミングで少女提督の活躍を把握したのだろう。「おっ、そうだな! (異論無し)」という野獣の同意を、木曽が満足そうに頷くのが分かった。雷はもう一度、視線だけで野獣に振り返る。

 

 携帯端末を操作する野獣が、今までに見たことのない表情を浮かべていることに気付く。声を掛けようとしたが、それよりも早かった。何かが高速で落下してくるような音が聞こえた。雷達の直上からだった。なんでこんなタイミングでと思わざるを得なかった。猫艦戦の群れが雨粒の隙間を縫うようにして、一斉に急降下してきたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女提督の執務室をあとにした不知火は、自身の内部を蝕んでくる焦燥を跳ねのけながら廊下を走る。手にした携帯端末で、艦娘囀線のタイムラインを素早く確認する。他の艦娘達が、鎮守府に入り込んだマスコミ関係者を退避させるために迅速に動いているのが分かった。携帯端末を懐に仕舞おうとする自分の手が、僅かに震えていることに気付く。自身の内部を蝕んでくる焦燥を跳ねのけようとするが上手くいかない。落ち着くんだと己に念じながら、不知火は唇を舐めて湿らせる。

 

 “抜錨”状態にある今の不知火に疲労はない。冷徹な活力に溢れた艦娘の肉体は万全だ。疲労は無い。ただ、自身の呼吸が震えているのを感じる。並走する少女提督に気づかれないように唾を飲みこむ。庁舎の出口が見えてくる。まず、不知火が庁舎を飛び出す。周囲を見て、頭上を見た。深海棲艦や艦載機の姿が無いことを確認すると、すぐに少女提督も走り出してくる。不知火は再び、少女提督と並走する。視線を上げると、曇天の中に籠る明るさが増していた。幽かに雨が降ってはいるが、重厚な雲が崩れるようにして流れ、その亀裂から仄かな茜色が滲んでいる。そろそろ夕刻になろうとしている。

 

 天龍、時雨、鈴谷の3人は、庁舎の損壊が激しいD、Eエリアへと向かった。鎮守府に入り込んだマスコミ関係者が、建物の崩落に巻き込まれていないかを確認し、捜索をするためだ。残った不知火は、少女提督が鎮守府の外へと退避するまでの護衛についている。少女提督は自分もD 、Eエリアに向かうつもりだったようだが、流石にそれは不知火たちも引き留めた。

 

 “元帥”とは言え、少女提督は生身の人間だ。深海棲艦の“姫”や“水鬼”クラスが健在である戦場に飛び込んでいくのは、いくら何でも無謀だったからだ。少女提督は不知火達に何か言いたげな表情を浮かべたものの、不知火達に従ってくれた。この鎮守府の提督の一人として戦闘に参加するのは野獣に任せるべきで、まだ鎮守府の外周に留まっているマスコミ関係者を退避させるのが、自身の役割だと考えてくれたのだろう。

 

「……現場での判断は、皆に任せるしかないわね」

 

 重たい荷物を慎重に手渡すような顔つきになった少女提督は、タブレット画面に映し出された鎮守府の地図と艦娘囀線のタイムラインを一瞥してからすぐに立ち上がった。そして、自身の護衛を不知火に頼んだのだ。その理由については不知火自身も理解している。あの場に居た4人の中で、不知火が最も冷静ではなかった。冷静さを装うつもりで、余計に動揺していた。タブレットに映し出されたニュース画面に現れた少年提督の姿に、明確に打ちのめされ、立ち竦んだ。それを少女提督は見抜いていたのだろう。今のタイミングでは、不知火を戦闘領域に近づけるべきではないと判断したに違いない。一般人の捜索と安全の確認が最優先である現場の判断を艦娘たちに預けた以上、自身の護衛を不知火一人にしたのも納得できた。

 

 視線を戻しながら、不知火は神経を研ぎ澄まし、周囲に深海棲艦の気配を探る。視線を巡らせる。少女提督の通信相手の声が微かに聞こえる。聞き覚えのある声だ。並走する少女提督を横目で見た。息を弾ませる彼女は、大型のタブレットを抱えている。

 

 タブレットには軍属の通信アプリが立ち上がっており、少女提督が何者かと通話している。その相手が、いつかの時の“初老の男”のものだと気づく。深刻な様子で通信を続ける少女提督には声を掛けず、不知火は周囲の警戒を続けた。少女提督が、また違う人物と通話を始める。相手は本営の人間のようだ。外部へのコンタクトを頼んでいる。この鎮守府へと取材班を送ったマスコミ各社に、自社のスタッフ全員の安否確認を急ぐよう伝えているようだ。

 

 不知火が少女提督を護る間に、少女提督は出来る限りの手を打とうとしていた。だが、野獣との連絡がつかない様子だった。彼女が不知火の隣で、走りながら悪態をつくのが分かった。だが、すぐに彼女は別の誰かと通話を始めている。焦燥の中に在りながらも、たっぷりとした冷静さを湛えている彼女が頼もしく思う。彼女の“元帥”の称号が伊達ではないことを改めて実感した。

 

 

 鎮守府の外へと向かう途中、何体かの猫艦戦が此方に気づき、見下ろしてきていたが、猫艦戦達は不知火たちに襲い掛かってくることは無かった。むしろ、不知火たちを見守っているような風情すら在った。拍子抜けするほど何事もなく、不知火と少女提督は、鎮守府の外周へと出ることが出来た。

 

 マスコミ関係者たちを避難させた他の艦娘達と合流すべく、少女提督と不知火も移動する。その途中でも、大型のタブレットを抱えて走る少女提督は、いくつもの本営施設へと通信を行っていた。丁度その通信を終えたタイミングで、少女提督が苦い表情を浮かべた。少女提督の視線の先を見て、不知火も舌打ちをしそうになる。

 

 

 鎮守府から出てすぐの広い道路の端で、悠長なことに人が集まっている。恐らくだが、鎮守府の中から退避してきたマスコミ関係者たちだった。騒がしい声が重なって聞こえてくる。彼らはカメラを構え、或いはマイクを突き出し、此処まで退避してくるのを護衛してくれた筈の憲兵や艦娘たちへと遠慮なく群がっている。けたたましく吠える犬の声が周囲の犬にも伝わっていくように、彼らが異様な熱を込めて口にする質問の殆どが、その詳細こそ違えど、『今の鎮守府で何が起こっているのか』を聞き出すためのものだった。

 

 “マイクやカメラを前に下手なことはするな”と本営から指示でもあったのだろう。憲兵達も大人しいものだった。軍人然とした怒鳴り声をあげて、マスコミを追い散らすようなことはしていない。取り囲んでくる記者やリポーターを前に、憲兵や艦娘達は皆一様に険しい表情を浮かべ、迅速にこの場所から遠く離れるように叫んでいる。その必死な様子を見たマスコミ関係者たちは、この期に及んで何らかの美味しいスクープが隠されているのだと勘繰り、より興奮した声を遠慮なく上げ、唾を飛ばし、相手を突き刺すかのような質問を浴びせかけている。細い雨粒が微かに降る中で、そういう悪循環に嵌り込んだ熱狂が、あの人だかりの中で起きているのは明白だった。

 

 異様な熱気に包まれたマスコミ関係者たちの内の数人が、鎮守府の敷地内から出てきた不知火と少女提督に気づいた。何人かの男たちが、明らかに色めきだった様子で此方に駆け寄って来る。マスコミ関係者たちは鎮守府の外に逃げこそすれ、もっと遠くへと離れるつもりは無いらしい。何かあれば撮影機材を抱え、すぐにでもまた鎮守府の中へと駆け戻っていきそうな興奮が窺える。彼らは命の危険に鈍感なのではなく、すぐ傍に艦娘たちが居るお陰で、此処は安全に違いないと悠長な判断をしているようにしか見えない。

 

「貴女は、此方の鎮守府の提督ですね!?」

「貴女の同僚が、深海棲艦を従えているのは何故ですか!?」

「あの少年提督のツノは、何なのですか!?」

 

 駆け寄ってきたマスコミ関係者たちの様子は、躾のなっていない犬の群れが、威勢よく吠えて集まってくるかのようだった。フラッシュがたかれる中、彼らはあっという間に少女提督と不知火を取り囲む。彼らの声音には此方を責めるような勢いがあった。それに加え、他者の不安をたっぷりと煽るようなワザとらしい深刻な響きを持たせているのが分かった。中継されている番組を盛り上げ、視聴率をあげるためなのだろう。

 

 眉を顰めた不知火は、無礼なマスコミ関係者たちから少女提督を守るように前に出ようとした。だが、少女提督がそれを手で制して、不知火に頷いてくれた。少女提督に怯みは無かった。堂々とカメラの前に立っている。少女提督は一つ呼吸を置いて、周囲のカメラを順番に見た。

 

「皆さんの質問に、ひとつずつ答えている時間はありません。一刻も早く、この場から離れて下さい」

 

 少女提督の声は、曇天から吹いてくるぬるい風の中でも、よく通った。マスコミ関係者たちが不満そうにどよめく。それはすぐに、「説明を!」「はぐらかすのですか!?」「我々を追い払いたいのですか!?」などという喚きに変わったが、「そのようなつもりは在りません。此処は危険です。早急に退避を」と言葉を繋いだ少女提督は、一歩も引かない。

 

「どうか、退避をお願いします!」

 

 少女提督の隣に立つ不知火も、マスコミ関係者たちを見回しつつ大声で言う。だが、やはり彼らは不満そうに喚きだした。不知火は唇を噛む。時間が惜しいが、艦娘の武力で彼らを脅し、力づくでマスコミ関係者を動かすことは出来ない。“人間”に対する、そういった示威行為は艦娘の肉体が許さない。この場で不知火が持っているのは言葉だけだ。それが届かない。彼らには悪意も敵意も無い。だが、彼らは人間だ。艦娘という種の主人だ。その人間を前にした時の自分の無力さを、不知火は改めて思い知る。無遠慮な喧騒の中で、噛んでいた下唇を噛み千切りそうになった時だった。

 

「おい! あれを見ろ!」

 

 少し遠くで声がした。不知火たちを取り囲んだマスコミたちも、その声に釣られて一斉に顔を向けた。少女提督と不知火も、彼らの視線の先を追う。どよめきが大きくなる。

 

 不知火達が来たのと同じ方向から、雷と大井、それから憲兵の二人が走り寄ってくる。雷と大井は其々に男性を一人背負っていた。服装からして、背負われているのはテレビ局のクルーだろうか。憲兵のうちの一人もまた、記者らしき女性を背負っていた。負傷者かと思ったが、背負われている男性、女性共に大きな怪我をしている様子はなく、不知火は安堵の息を吐きだした。マスコミ関係者たちの集団が獲物を捕食する軟体動物のように蠢き、不知火と少女提督だけでなく、雷や大井、それに憲兵達まで囲んだ。

 

「Cエリアに残されてる人は、もう居ない筈よ!」

 

 駆け寄ってきた雷はマスコミ関係者には目もくれず、少女提督に報告した。そして背負っていたテレビ局のクルーを優しい手つきで地面に下ろし、彼の体に怪我がないかを確認するように見た。男性クルーは、駆逐艦娘である雷よりも背が高いが、その場にへたり込むような恰好だったので、雷を見上げる姿勢だった。人が大勢いる場所に来たことで安心したのかもしれない。彼は軽く涙ぐみながら、雷に頭を何度も下げて礼を述べていたが、その声はガタガタに震えていた。少しの笑みを湛えた雷は、男性クルーに敬礼を返した。大井も同じように、背負っていた男性クルーに礼を述べられて敬礼を返している。

 

 背負っていた女性記者を地面に下ろした憲兵の一人が、敬礼と共に少女提督に駆け寄る。「途中で、レ級と重巡棲姫と遭遇しましたが、野獣提督がカバーに入ってくれたおかげで、退けることができました。ただ……」彼は、つい先ほどまで野獣と木曽とも一緒であったが、此処へ退いてくる途中、猫艦戦の群れに捕まったが、二人が足止めになってくれたのだと早口で報告してくれた。

 

 その憲兵の緊張した面持ちと言葉を、幾つものテレビカメラが捉えている。憲兵の切羽詰まった様子に、マスコミ関係者が沸き立つ気配があった。だが、その熱狂を吹き払うかのように、空から何かが急降下してきたことに不知火は気づく。視線を上げて目を細めた。獰猛そうにガッチガチと歯を鳴らす猫艦戦だ。空母艦娘たちが展開した艦載機の攻撃を潜り、此方に迫ってくる。数は6体。上空から突進してくる。不知火達を取り囲み、カメラを構えていた者もマイクを突き出していた者も、揃って悲鳴を上げ、慌てて逃げ始める。

 

「伏せて!!」

 

 少女提督が鋭い声を出す。その声には、周囲に居る人間全てを刃物で斬り付けるかのような迫力が籠っていた。急接近してくる猫艦戦たちに対し、スクープを求めて騒いでいたマスコミ関係者達も、リアルな命の危機を瞬間的に感じたからだろう。異論も反論もする余裕のない状況の彼らは、少女提督の言葉に従い、一斉に頭を抱えてしゃがみこんだ。その時にはすでに、不知火も、雷も、大井も、装備を召んで、戦闘と迎撃態勢を取っていた。

 

 だが、やはり妙だった。猫艦戦たちは、明らかに艦娘である不知火と、雷、それに大井目掛けて接近してくる。非力なマスコミ関係者たちなどには目もくれない。それに、海の上で見る艦戦の動きに比べて遅い。鈍すぎる。全く迫力がない。まるで撃墜してくれと言わんばかりだ。雷と大井、それに不知火は、無防備に突っ込んでくるこの6体の猫艦戦を、距離を詰めさせることなく容易く撃墜した。おかげで、墜落する艦戦達の破片が一般人に降ってくることもなく、怪我人を出さずに済んだ。

 

 伏せていたマスコミ関係者たちが悲鳴を飲み込み、息を細く漏らす気配が不知火の足元に充満する。だが、安堵を味わっている暇もない。更に6体の猫艦戦が、上空からこちらに向かってきている。

 

「彼女達が迎撃を続けます! 早く退避を!!」

 

 再び、少女提督が見回して叫ぶ。立ち上がりかけていたマスコミ達も、この場所が安全な場所だという認識を改めたらしい。彼らはすぐに駆け出し、逃げていく。「ちょっと! ちょっと待ってください!! 撮影用ドローンの回収がまだッスよ!?」「逃げるのが先だ! 全員と連絡を取れ!」と、携帯電話で仲間の安否を確かめる連絡をとり始める者や、「逃げるぞ! 車を回してこい!」と指示を飛ばす者が入り乱れていた。それを横目で見てから、不知火は再び艤装を構える。雷と大井と共に、続いて突進してきた6体の艦戦達を撃墜しながら『この場に居ると戦闘に巻き込まれるぞ!』という切羽つまった焦燥感が、周囲に居るマスコミ達に伝播していくのを感じた。

 

 

 少女提督や不知火たちから少し離れた場所で、憲兵や他の艦娘たちに群がっていたマスコミ関係者も踵を返し、慌てた様子で逃げ出している。しぶとく喚いて騒ぎ立てていた彼らが、蜘蛛の子を散らすかのように逃げていくのを見て、空母艦娘達が更に艦載機を放ち、彼らの安全を上空から確保している。これで何とか一般人たちを鎮守府から遠ざけることが出来そうだ。

 

 その様子を確かめた少女提督は、地面に落ちた艦載機たちの死骸を見回してから、深く息を吐きだした。それが安堵から吐いたものではなく、重い溜息であることは間違いなかった。猫艦戦を撃墜した不知火も、大井も、そして雷も、警戒は解かないままで押し黙る。ほんの僅かに事態は好転したが、楽観は全く出来ない。マスコミ関係者達の中には、鎮守府のD、Eエリアの崩れた庁舎に巻き込まれた者がいるかもしれない。捜索と確認が必要だ。

 

 少女提督が手にしたタブレットの画面を一瞥した。恐らくだが、マスコミ各社からの、自社スタッフの安否確認についての報告が来ていないかをチェックしたのだろう。それと同じか、少し早いぐらいのタイミングだった。ブゥンという音が聞こえた。少女提督が持つタブレットからだ。空気が短く、強く振動するような音だった。雷、大井が、少女提督の持つタブレットに視線を向けて息を呑んだ。不知火も息が詰まる。

 

『怪我は無いか?』

 

 ぶっきらぼうだが、少女提督の身を案じる音声がタブレットから再生される。ディスプレイに表示されているのは、愛嬌のあるマスコットのような姿にデフォルメされた集積地棲姫だった。アバターという表現が正しいのかどうか判断に迷うが、集積地棲姫が軍属の端末に侵入しているのか。不知火は黙ったままで、目の前の現象を見詰めていた。どう反応し、どのような行動を取ればいいのか見当がつかない。立ち尽くす不知火の傍では、驚いた目を何度も瞬かせている雷と、警戒を滲ませた大井も、少女提督が持つタブレットのディスプレイを見詰めている。

 

「……えぇ。何とかね」

 

 一瞬の間を作った少女提督はディスプレイに映し出された集積地棲姫のアバターを見下ろし、眉を顰めながら鼻を鳴らす。

 

『そうか。なら良いんだ』

 

「良くないんだけど。見たらわかると思うんだけど、こっちは忙しいのよ。それに、この端末に侵入とか辞めてくれない? 責任取るの誰だと思ってんの?」

 

 少女提督は軽口を叩きながらも、慎重に言葉を選んでいる気配があった。集積地棲姫の真意を測ろうとしているのだろう。

 

『悪い悪い。だが、このタイミングでお前にコンタクトを取るように指示されていてな。それに、私はお前のサポートだってしているんだから、ちょっとくらい大目に見てくれ』

 

 対して、集積地棲姫の声には緊張は無い。

 

「サポートですって?」

 

『あぁ。猫艦戦どもが役に立っただろう?』

 

 少女提督は周囲を見回す。この場から離れようとするマスコミ関係者と、彼らを護るべく動いている憲兵や艦娘たちは、今の少女提督や不知火達の様子に気づいていない。それを少女提督が確認し終えるのを見計らったかのように、ディスプレイの中の集積地棲姫が鼻を鳴らした。

 

『マスコミと言うのは、情報の新鮮さを重視するらしいな。どれだけ早く情報を提供し、視聴者を沸かせるかを競っている。まるでレーシングカーさながらだ。そういう種類の人間を追い散らすには、分かりやすい脅威を目の前に持って行ってやるのが一番いい』

 

 タブレットから聞こえてくる集積地棲姫の声の冷静さは、混乱しそうなっていた不知火を落ちつかせてくれた。傍に居る雷や大井も、先ほどまでの驚愕や警戒を解いて、集積地棲姫の声を聞いている。「なるほどね……」と零した少女提督がタブレット持つ反対の手で、自分の額を擦った。

 

「……さっき、猫艦戦たちが不自然に突撃してきたのは、アンタの差し金だったワケね」

 

 少女提督がボソッと言う。

 

『お前たちに纏わりついていた命知らずのマスコミ共も、流石に避難を始めた筈だ』

 

「深海棲艦の艦戦が12体も飛んで来たら、マスコミじゃなくても逃げるわよ」

 

『だが、お前は逃げなかった』

 

 ディスプレイの中に映り込んだ集積地棲姫が少女提督を見据えて、そのデフォルメされた丸っこい指を突きつける。まるで揺るがない真理を貫くかのようだった。

 

『お前は艦娘たちに指示を飛ばし、一般人たちを護るために最善の手を尽くしている。そのお前の姿はテレビカメラが捉えて、ニュースにも流れた。既に多くの人間が、命を懸けたお前の行動を目撃している。お前の正義を疑う者は、もうこの国には居ない』

 

 集積地棲姫の言葉に、不知火は無意識のうちに唾を飲み込んでいた。雷や大井と目が合う。彼女たちもまた、険しくも不安そうな表情をしていた。

 

「私達には、任されてる使命とか役割があんのよ。それを全うしようとしているだけで、特別なことは何もしていないわ」

 

 少女提督はディスプレイから指を差してくる集積地棲姫を睨み返す。

 

『そうだな。お前たちの気高さに偽りは無い。私たちはな、“お前たちがその役割を全うして、これだけの大事件であっても一般人に死傷者を出さなかった”という事実が欲しかったんだよ』

 

 タブレットのディスプレイの中から満足そうに言う集積地棲姫は、少女提督を差していた指を引っ込めて肩を竦めた。

 

『私たちの目的は、もう殆ど果たされた。あとはこのまま、事態が動くに任せるだけだ』

 

「何を暢気な事を……っ!」

 

 少女提督の横から、怒気を孕んだ声を挟んだのは大井だった。

 

「その一般人を戦闘に巻き込んだのはアンタ達じゃない! 崩れた庁舎に巻き込まれた人だっているかもしれないのに!!」

 

 大井の言う通り、幾つかのエリアでは庁舎の損壊が激しく、瓦礫の下敷きになった者が居る可能性はあった。これは絶対に無視できない。艦娘囀線でも、大和や長門を含む多くの艦娘たちが、その要救助者の捜索にあたるために連絡を取り合っていた筈だ。

 

『大丈夫だ。誰も巻き込まれてなどいない』

 

 集積地棲姫の口調は、まるで大井を宥めるようだった。きっぱりと断言された大井は、何かを言いかけて黙り込み、訝しむようにディスプレイに映る集積地棲姫をまじまじと見ている。「それは、どういう……」と、不安そうな声を出したのは雷だった。タブレットを持つ少女提督は何も言わず、集積地棲姫の言葉を待っている。不知火もそれに倣う。

 

『簡単な話だ。鎮守府の上空を飛んでいる大量の猫艦戦達が、お前たちよりもずっと前にD、Eエリアの含めた戦闘領域の無人を確認しているんだよ』

 

 退屈な手品のタネ明かしをするかのように、集積地棲姫は軽く息を吐く。

 

『熱源や生体反応によって人間を探せる猫艦戦達の性能は、お前たちが思っているよりもずっと高い。ヲ級や港湾の扱う艦戦なら猶更な。……今の鎮守府上空に陣取っている大量の猫艦戦達なら、ネズミ一匹見逃さんよ』

 

 そこまで聞いて、不知火も状況を飲み込めてきた。害意も殺意も無く、ただ上空から鎮守府内部を見下ろして飛行する猫艦戦達の奇妙な行動には、艦娘囀線でも言及されていた。そうか。あの猫艦戦達は……。「最初から負傷者を出さないために……」と、思わず言葉を零した不知火に対して、タブレットのディスプレイに映る集積地棲姫が『そういう事だ』と頷いて見せた。

 

「じゃあ、さっきのレ級が、本気で人を襲わなかったように見えたのも、……アレも、ワザとだったっていうこと?」

 

 自分の記憶を慎重に辿る顔つきになった雷が、詰め寄るようにして少女提督の持つタブレットに近づいた。それに気づいた集積地棲姫のアバターが肩を竦める。

 

『無論だ。私たちは、一般人を戦闘に巻き込まないよう細心の注意を払っている。さっきも言ったが私達の目的は、“お前たちの活躍によって、死傷者が出なかった”という事実と状況を作り出すことだからな。今の鎮守府には、職員を含めた一般人など一人もいない。安心しろ』

 

「……ねぇ。そろそろ、アンタ達の本当の目的を話してくれない? いい加減、焦れてきたんだけど。彼は、アンタ達に何をやらせようとしてんのよ? 知ってるんでしょ? 教えなさいよ」

 

 歯軋りを混じらせて少女提督は掠れた声で言うと、集積地棲姫は短く鼻を鳴らした。

 

『……提督は、今の世間の認識を破壊したいんだよ』

 

「それを信じろって言うの?」

 

『いや、信じたくないなら信じなくてもいい。だが、既にニュース特番では瑞鶴の深海棲艦化が報じられているし、私達の提督も深海棲艦化した姿を世に曝している。この時点で、今の世界を支えている常識的な観念には大きく亀裂が入った筈だ』

 

 集積地棲姫は恬淡とした口調で続ける。瑞鶴の深海棲艦化がニュースになっていることを知らなかったのか。雷と大井が驚いた表情で息を詰まらせている。

 

『艦娘の深海棲艦化。人間の深海棲艦化。白日の下に曝されたこの2つの現象を、もう人間社会は無視できない。特に提督は、人類に対する裏切者として、その過去から何から全部調べ尽くされることになる。世間の人々がそう望むからな。真相を求める世論の強度は今までにないほどに高まるのは目に見えている。こうなったら黒幕達も本営も、大人しくするしかない。そして明るみ出てくるのは、激戦期の頃に行われていた実験記録というワケだ』

 

「……改竄された大量の記録書は、その時の為に用意されたモノだったのね」

 

『そのようだ。偽造されていようと捏造されていようと関係無い。凄惨な実験記録や作戦記録の内容に登場する提督の名は、今日の事件がこの上ない説得力を与えてくれるからな。あぁ、それから、テレビ局の撮影用のドローンも、既に私達のコントロール下にある。人々を守ろうとする艦娘達の活躍を、世間に向かって発信中だ』

 

 集積地棲姫の物言いは落ち着いていながらも自分の持つ強力な手札を晒し、少女提督の行動を締め上げていくかのような、有無を言わさぬ説得力が在った。

 

「……ご苦労様なことね。アンタってドローンまで操縦できるの?」

 

 軽く頭を抱える少女提督に対して、『いや、操縦しているのは日向と川内だな。テレビカメラを持って動くのは神通に任せている。3人にはマスコミ関係者に紛れて貰って、鎮守府内部の映像を集めて貰っているところだ』と、集積地棲姫が気楽そうに言葉を続ける。重大な内容を無防備に語る彼女の声音には、悪意と共に隠し事をしている気配はない。

 

『どのテレビ局のニュース番組も大いに賑わっているよ。ちょうど今も、“鎮守府庁舎が幾つも崩落し、そこに巻き込まれた人間が居ないかを艦娘たちが捜索しようとしている”場面が映っている。それに、テレビ局の男性クルーをレ級から守った、勇猛果敢な雷の姿もな』

 

 集積地棲姫の話している内容に、理解が追い付いてこない。不知火は顏を片手で覆いながら、思考を必死に回す。雷が茫然とした顔で立ち尽くし、大井も深刻な表情で視線を下げ、何かを考えこむように頻りに唇を触っていた。少女提督が一つ深呼吸するのが聞こえた。

 

「……で、私にその話を聞かせることも、彼の書いたシナリオなの?」

 

『あぁ。お前の行動を決定づける話だろう?』

 

「私って捻くれてるから、ロールプレイって苦手なのよね」

 

『奇遇だな。私もだ』

 

「私達は、アンタの思い通りになんて動かないわよ」

 

『いや、動かざるを得ないさ。お前はもう舞台に上がっているんだ』

 

「飛び降りてやる」

 

『お前ならやりかねんな。だが、やめた方がいい』

 

 集積地棲姫の言葉に、無茶を言う友人を宥めるかのような温もりが不意に滲んだ。

 

『それは“世間”という観客が許さない。Show must go onというヤツだな。舞台上の役者は、役割をこなす義務があり、存在を許されている。お前が舞台のド真ん中から客席に飛び降りたりすれば、お前の部下の艦娘まで巻き込むことになる。深海棲艦の私が言うのもなんだが、観客は厳しい。求められていない行為は容赦なく咎めてくるぞ』

 

 お前は、世間というものから艦娘達を守ろうとしていた筈だろう? と続けた集積地棲姫に、タブレットをぎゅっと抱える少女提督は押し黙って答えなかった。高速で思考を回転させているだろう。少女提督は目の動きを止めている。『まだ伝えておくことが在る』と言葉を繋いだ集積地棲姫のアバターが、タブレットの画面の中で揺らぎ、薄れ始める。

 

『私達は提督と共にD、Eエリアに向かう』

 

 腹に寒々しいものを感じた不知火は、タブレットを凝視する。D、Eエリアは崩れた建物が多く、その瓦礫に巻き込まれた者が居ないかを確かめ、捜索をしようとする艦娘達が集まってきているエリアだ。艦娘囀線でも、長門や武蔵、それに他の艦娘たちも向かおうとしていた筈だ。

 

 集積地棲姫の言葉を信じるのであれば、D、Eエリアに要救助者は既に居ない。だが、鎮守府内に居る艦娘達は、それを知らない。要救助者が居ることを前提に動いている彼女達は、エリアに近づこうとする深海棲艦達の足を止めようする筈だ。戦闘は避けられないが、それも彼女達の狙いなのだろうと思えた。つまり彼女達は、深海棲艦を率いる少年提督と、その部下であった艦娘達が対峙する光景を、世間に向けて公開するつもりに違いない。

 

 この鎮守府で何が起きているのか、ようやく分かって来た。不知火達は、集積地棲姫と敵対しているわけではない。実際には彼女達と共闘し、艦娘や深海棲艦を取り巻く常識や観念を破壊しようとしている。まさにそれは、先ほど彼女が言っていた通りだった。ならば、集積地棲姫が、こうして少女提督とコンタクトを取るタイミングは今しかないという言葉にも頷ける。

 

『それと、この話をしている間に、お前たちの持つ通信端末をロックさせて貰った』

 

「なっ……!?」 

 

 焦った声を出したのは大井だった。雷が慌てた様子で携帯端末を取り出すが、その端末が薄い光を纏い始めていた。海上で出会う深海棲艦達が纏うものと同じく、蒼く濁った微光であり、端末の画面はブラックアウトしているのが分かった。不知火も自分の携帯端末を取り出して確認してみるが、雷のものと同じく完全に沈黙していた。特殊な深海棲艦術式の影響を受けているのは間違いない。これでは艦娘囀線に繋ぐこともできない。崩れた庁舎に巻き込まれた者がいないことを、D、Eエリアの艦娘たちに伝えられない。

 

『お前たち艦娘の正義は、深海棲艦である私達が保証する。入渠施設や工廠にも被害が出ないように立ち回るから、負傷も気にしなくてもいい。お前たち艦娘を殺すつもりもない。……ただお前たちは、お前たちの役割に忠実であればいいんだ』

 

 連絡手段を封じられ、不知火達の戸惑う気配を察したのかもしれない。タブレットの画面から掠れて消えていこうとしている集積地棲姫のアバターが、“心配するな”とでも言うふうに、心の籠った声で不知火達に言う。

 

『ハッピーエンドは決まっている。めでたしめでたし、だ』

 

 それからすぐに、集積地棲姫のアバターはタブレットの画面から消えた。ついでにタブレットもブラックアウトする。不要なものを思考から排除するかのように、少女提督は左手でタブレット抱え直す。ついでに、右手でこめかみに触れて、眉間に皺を寄せ、目をきつく閉じた。重要な念仏や聖句を重々しく唱えるかのように、本当に小さい声で何かを呟き始める。今の彼女が頭の中に無数の選択肢を広げ、これからとるべき行動を吟味しているのは明らかだった。

 

 不知火は今までにないほどに強い胸騒ぎを感じていた。少女提督と集積地棲姫の遣り取りの中に、改竄や偽造といった不穏な言葉が混ざっていたことも気に掛かる。この場で少女提督に聞き出して説明を求めるべきかもしれないと思うが、声を掛けるのも憚られるような鬼気迫る気配を纏う少女提督を前に、不知火は黙り込むしかなかった。雷も大井も黙ったままで、混乱と動揺を抱えて立ち尽くしている。

 

 少し離れたところから、避難を誘導する憲兵や艦娘の声が聞こえてくる。鎮守府の方からは、再び砲撃音と爆発、建物が崩れる音が響いてくる。今の鎮守府の状況は、絶えず動いている。刻々、念々と、取返しがつかなくなっているのは間違いない。体が微かに震えてくる。俯きそうになるのを堪え、無理やりに視線を上げる。頭上を白々しく流れていく暗い雲の群れを見た。分厚く垂れこめた暗雲は不吉でありながらも、荘厳な儀式を遠巻きに見守る群衆を思わせた。

 

 “正義”という言葉が、未だに不知火の心の奥底で木霊し続ける「何の為に戦っているのか」という自問に結びつく。自身の役割とは何かを想いながら、不知火は手袋の上から左手の薬指に触れた。そこには確かに、ケッコン指輪がある。

 

「彼の目的が何であれ、私達のやることは変わらないわ」

 

 集積地棲姫との通信が切れてから10秒ほどが過ぎてから、少女提督が顔を上げた。

 

「大井」

 

 完全な無表情になった少女提督の眼は据わり切っており、異様な迫力を備えていた。名前を呼ばれた大井は、「は、はいっ!」と、背筋を伸ばして姿勢を正した。

 

「退避したテレビ局の人達の安否確認するのを手伝って。安全な場所まで離れたら離れたで、艦娘も憲兵もどうせまたマスコミ関係者に囲まれるだろうから、その相手は私がするわ」

 

 少女提督は言いながら、今度は不知火と雷を順に見た。

 

「来た道を戻らせて悪いんだけど、二人は鎮守府のD、Eエリアに向かって」

 

「さっきの集積地棲姫の話を、皆に伝えればいいのね?」

 

 雷が力強く頷くが、少女提督が首を振った。

 

「それは駄目よ」

 

「えっ、でも……っ」

 

「駄目なのよ。いえ、無駄って言ってもいいかも」

 

 戸惑いを見せる雷に対して、少女提督は静かに言い切る。

 

「撮影用ドローンが、今の艦娘達の姿をテレビに映してる。……もしも今、D、Eエリアに向かってる艦娘達が、いきなり要救助者の捜索を断念して、深海棲艦達との戦闘を避けたりしたら……」

 

「救助を求める人を見捨てたと見做され、許されない行為として世間に映るかもしれません」

 

 低い声で、不知火は少女提督の言葉を繋いだ。雷が泣きそうに顔を歪めるのが分かった。大井が俯いている。「……やられたわ」と、少女提督も憔悴しきった様子で項垂れた。

 

「真実はどうあれ、世間はそういう判断するわ。私達に人々を見捨てる意図が全く無くてもね」

 

「でも、それはっ、鎮守府内に一般人が居なかったってことを説明すれば……!」

 

 雷が必死に反論しようとしているが、大井が首を振った。

 

「それも難しいと思うわ。マスコミ関係者や憲兵、それに鎮守府職員を含めた要救助者が、あのD、Eエリアに居ないと判断した理由を、深海棲艦の姫から通信で聞いたなんて説明できないもの」

 

 重々しく言う大井が、雷を見た。「でも、でも……」と、雷は弱々しく言い返そうとするが、言葉と理由が見つからない様子だった。

 

「こちらの携帯端末をロックしたのも、エリア内に向かう長門さんや武蔵さんへ、不知火達が連絡を取ろうとすることを防ぎたかったでしょうね」

 

 不知火は言いながら、微光に包まれて沈黙する携帯端末を懐に仕舞う。

 

「……アイツにとっては、そこで戦闘を行う必要があるのよ。救助活動をしようとする艦娘達と、それを邪魔しようとする人類の裏切者っていう構図を、世界に叩きつける為にね。しかも、人と艦娘の深海棲艦化現象って言うオマケ付きで」

 

 少女提督が呻くように言ながら、がりがりと頭を掻いた。

 

「今の鎮守府で起きていることは結局、出来の悪いの“劇”なのよ。しかも、国中の人間が見てる。だから、途中退場も許されない」

 

 集積地棲姫の言葉から現状を判断すれば、食堂に集められていた艦娘達が、肉体無力化の術式によって身動きがとれなくなったのにも説明がつく。艦娘たちの動きを止めている間に、少年提督は日向や川内、神通を動かし、マスコミを鎮守府に誘い込む状況を作り出して、この舞台を整えたのだ。集積地棲姫は言っていた。「提督は、この世界の認識を破壊するつもりなのだ」と。つまり少年提督の目的は、人類の反逆ではない。反逆者という“役割”の中に入り込み、人間にとって艦娘とは何かを問う為に、この“劇”を鑑賞している世間そのものを相手にするつもりなのだ。

 

 不知火は、少年提督からケッコン指輪を渡された時のことを思い出す。あの時、少年提督は穏やかな微笑みを浮かべて、言ってくれた。「これから何が在っても、きっと不知火さんは人々の味方であってくれるのだと、僕は確信しました」と。「司令がそう願うのであれば、不知火は人類の味方であり続けます」と、不知火も答えたのを憶えている。あの時の言葉に、一切の嘘は無かった。拳を握りながら、今の自分の“役割”を想う。不知火は少年提督との約束を果たさねばならない。

 

「私は、貴女たちの正義を証明したい。だから、……お願いするわ」

 

 少女提督が覚悟を決める顔になって、不知火と雷をもう一度見た。彼女の眼差しは、その視線によって相手を刺し貫くかのようだった。今の鎮守府は巨大な舞台装置であり、無数の人間の視線や価値観が降り注いでいる。その中に飲み込まれて雁字搦めにされている彼女はそれでも、艦娘の未来を守ろうとしているのだと思えた。そしてそれが、今の彼女が果たそうとする役割なのだろうと分かった。

 

「彼を斃すために、戦ってきて欲しいの」

 

 その命令は恐らく、不知火と雷が、少年提督と顔を合わせる最後の機会になることを察した少女提督なりの、ギリギリの気遣いだったのかもしれない。雷が奥歯を噛んで俯いたが、すぐに顔を上げて敬礼の姿勢をとった。不知火もそれに倣うとすぐに、鎮守府の方から激しい爆発音と破砕音が響いてきた。戦闘が始まったのだと分かった。

 

 不知火は雷と同時に振り返り、すぐに駆け出す。同時に、空に晴れ間が見え始めていることにも気づいた。先程の幽かな雨は、もう止んでいる。千切れた雲を溶かしながら吹き流すような強い風が吹いた。茜色を濃く滲ませた空が、分厚い雲の隙間から此方を見下ろしている。夕暮れが近い。

 

 

 

 









 更新が遅くなっており、申し訳ありません……。また次回も不定期更新になると思いますが、皆様のお暇つぶしにでもなれば幸いです。いつも暖かな応援で支えてくださり、また身に余る高い評価や御感想を寄せて頂き、本当に感謝しております。今回も最後まで読んで下さり、本当にありがとう御座います!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

少年提督と野獣提督 終編






 

 

 

 

 

 

 鎮守府庁舎の損壊が激しいD、Eエリアでの要救助者の捜索、救出に加わろうと、時雨達が移動を始めたときには状況が変わった。さきほど、少女提督の執務室で艦娘囀線を確認した時には、『鎮守府の上空に陣取っている猫艦戦は、特に攻撃的な行動はとっておらず、ただ佇んでいるだけで気味が悪い』という内容の報告があった筈だ。だが、猫艦戦達は明らかに攻撃の意思を持ち、いや、攻撃の意思があるように見える程度には、時雨達に肉薄してくるようになった。

 

「おい、またかよ!」

 

 時雨の隣を走る天龍が鬱陶しそうに吠え、「艦娘囀線での話と違うぞクソが!」などと悪態をつきながら艤装装備を召ぶ。少し後ろからは、鈴谷も舌打ちをするのが聞こえた。時雨も迎撃態勢を取る。上空から猫艦戦の群れが急降下してくる。かなりの数だ。20、30程か。いや、もっと居る。ぱっと見では数えられない。

 

 猫艦戦の大群の襲撃は、これで5回目だ。艦戦たちの動きは鈍い。こちらへの距離を縮めてくるが、容易く迎撃できる速さだった。モグラ叩きを低スピードでやるかのような違和感がある。改二にもなって練度を上げた時雨にとっては、動きの遅い艦戦がゾンビのように群がってきても、撃墜するのは容易いことだった。だが、蹴散らすと言うには、余りにも数が多い。天龍も鈴谷も改二であり、装備と練度のどちらにも申し分はないが、どうしても足を止められてしまう。

 

 猫艦戦の群れを全て処理した頃には、雲の密度が薄れるようにして曇天の明るさが増していた。地面に転がる猫艦戦の残骸からは、薄い煙が立ち上っている。自分たちの周りに出来上がった鉄屑と死骸の山を眺めてから、息を一つ吐いた天龍が鼻を鳴らし、「行くぞ」と先頭を走り出す。時雨もそれに続き、並ぶ。鈴谷がその後に続いた。召び出していた艤装装備を解き、再び走り出しながら時雨は思う。こちらへと群がって来た大量の猫艦戦達は、時雨達の足を止めて、何かの時間を稼ぐためのものなのだろうか? 

 

 暫くしてからだった。

 

「今の状況、どう思う?」

 

 時雨、鈴谷と並走している天龍が重い声で、まるで独り言を零すかのように言う。ぬるい風が吹いている中を、かなりの速度で時雨達は走っている。その速度を落とさず、周囲への警戒や緊張も緩めず、時雨は横目で天龍を見た。天龍は顏を前に向けていた。時雨達には一瞥もくれない。その問いかけが時雨に向けられたものなのか、鈴谷に向けられたものなのかは判然としなかったが、恐らく、時雨と鈴谷の両方に向けられたものだった。

 

「なんか、凄く嫌な感じだよね……。鈴谷たちから見れば不自然なんだけど、外から見たら辻褄が合ってるんだろうなって感じ? 鈴谷達が深海棲艦とか艦戦とかと戦ってたって、誰も違和感を覚えないじゃん。それ自体が隠れ蓑になってるような……」

 

 眉間に皺を寄せた鈴谷が、「上手く言えないだけどさ」と、自分の頭の中にあるイメージを何とか言葉にしようとしているのか、視線を忙しなく動かしている。

 

「この短時間で色んな事が起こってるけどさ、その出来事の一つ一つが噛み合い過ぎてる気がしない?」

 

 鈴谷は走る速度を全く落とさないまま、時雨と天龍の顔を交互に見る。『これって鈴谷の気の所為じゃないよね?』と同意を求める声の調子だった。「やっぱりそうだよな。……いくら何でも、出来過ぎてんだよな」と低い声でボヤいた天龍が、ガシガシと頭を掻いた。鈴谷の言う通りだと時雨も思う。今の鎮守府を取り巻く状況は、入念に準備された厳粛な儀式が進むかのようでもある。

 

「僕たちの身体を無力化する術式が展開されたり、川内達が暗躍したりとかね」

 

 時雨は視線を落としながら言う。食堂に集められていた艦娘たちにしても、少女提督が編制した艦隊に分かれて各エリアで迅速な捜索、救助活動を行い、マスコミ関係者や憲兵を退避させている状況が分かっている。この鎮守府に居る誰も彼もが、途方もなく巨大な舞台装置の中に組み込まれ、否応も無く定められた役割をこなしているかのような違和感は、時雨も心の隅の方で覚えていた。

 

 他にも、マスコミ関係者が鎮守府に入り込んでくるタイミングや、彼らが撮影した映像が中継され、すぐにニュースとして放送されるのも都合が良すぎる気がした。普通なら、本営上層部なり“黒幕”なりの圧力が掛かるのではないかと思う。以前の襲撃事件と同じように、この鎮守府の事件は世間から切り離され、権力によって覆い隠されても全くおかしくない筈だ。

 

 それが、今では全国ニュースの特別番組で取り上げられ、この鎮守府の艦娘達の行動が人々の眼にリアルタイムで触れている。今の時雨達の選択と行動には、“世間”というものの視線が、飛沫を上げて降り注いでいるのだと思うと、口の中が急速に乾いていくのを感じた。先程、少女提督の執務室で見たニュース番組の内容を思い出す。テレビ番組があれだけ大騒ぎしているのなら、ネットの中はもっと熱の籠った意見が飛び交っていることだろう。

 

 この状況は、以前の襲撃事件の時とは真逆だ。あの夜の事を思い出し、胸がざわつく。目の前で野獣を殺されそうな時、時雨は、この世界からの完全な隔絶を感じていた。大事な人の命が奪われる悲しみや激しい怒り、そういった人間らしい時雨の感情の全てが、この世界とは接していなかった。時雨が流した涙は、時雨の頬の体温を受け取っていながらも、何の意味も持たずに零れ落ちて、ただ廊下に吸われただけだった。世間の人々と艦娘の距離が縮まったことなど、一切関係が無かった。時雨という“個人”は、この世界から徹底的に疎外されていて無力であり、それが、この世界の本質だった。

 

 だが、今は違う。

 

 現在進行形で時雨は、いや、時雨達は世界と繋がっている。世間というものと時雨達を隔てるものはない。時雨の一挙手一投足が、この世界と噛み合いながら熱を与えている。時雨の感情は、時雨という“個人”を余すところなく証明している。遥か彼方の、遠く離れた戦場海域に跋扈する深海棲艦にではなく、人々のすぐ近くに現れた恐ろしい不実に、艦娘達が真っ向から立ち向かう。その疑う余地のない、艦娘達の完全な正義を、社会が目撃している。果てしない重量を持つ何かが、時雨の両肩に乗りかかってくるかのように思えた。身体が強張り、僅かに息が詰まりかけた時だった。

 

 

 

「三人は、どういう集まりなんだっけ? (合流先輩)」

 

 横合いから音もなく、携帯端末を耳にあてた野獣が並走してきた。片手に長刀を担いでいる野獣の少し後ろには、抜き身の軍刀を握った木曽が続いている。二人とも気配の消し方が上手いのか、ここまで近づかれるまで全く気付かなかった。

 

 そんな突然の野獣の登場に、鈴谷は「うぇっ!?」と驚いて蹴躓きかけて、それからすぐに「びっくりさせないでよ、もー!」と走る姿勢を立て直しながら、明らかに涙ぐんだ声を出した。時雨も思わず泣きそうになり、呼吸の震えを誤魔化すように洟を啜る。不味いなと思う。野獣の声を聞くと、感情がぐちゃぐちゃになる。ついさっきまでは時雨も鈴谷も、次に野獣と顔を合わせる時は解体破棄されるのだ、という状況で禁固房に居たからに違いない。

 

 ただ、体の強張りが解けた。プレッシャーは変わらずに在ったが、余計な力が抜けて、自分の動きにしなやかさが戻ってくるのを時雨は感じた。これも野獣の御蔭なのかもしれないと思うのは、それだけ時雨にとって野獣の存在が大きいからだろう。

 

「……どういう集まりだと思う?」

 

 天龍が鼻を鳴らすのが聞こえた。

 

「D、Eエリアに向かってるように見える見える(天地明察)」

 

 野獣は言いながら、誰かを探すかのように周囲へと視線を流している。恐らくだが、天龍達と同じように禁固房に押し込まれていた筈の不知火が、今のタイミングで姿が見えないことを不自然に思っているのかもしれない。それに、野獣が艦娘囀線を確認しているか、他の艦娘達と既に連絡を取り合っているのなら、少女提督が天龍達と合流したことも知っていることだろう。

 

 野獣が、不知火と少女提督が今どこに居るのかを気に掛けている様子を見た天龍は、「心配はいらねぇよ」と、また鼻を鳴らした。それから、不知火は少女提督の護衛についており、この付近には居ないということを、野獣と並走しながら簡単に説明した。「さっき執務室で別れたから、もう安全な場所まで移動してると思うよ」と、鈴谷が続く。

 

「不知火と一緒だから、きっと大丈夫」

 

 時雨も頷いてから、野獣に言う。

 

 この鎮守府で、不知火のことを侮る艦娘は居ない。時雨の知る“不知火”は、激戦期を戦い抜いた猛者だ。数多く召還された不知火の中でも、間違いなく最強格だった。時雨が頷いて見せると、「おっ、そうだな! (信頼できる仲間を想う)」野獣の表情が、僅かに和らいだ。「そういう話なら、俺も心置きなく戦えるな」と、普段から少女提督に対する強い忠誠心を窺わせる木曽も、引き結んでいた口許を緩めていた。

 

 野獣が、鈴谷や時雨、それに天龍に、何かを言おうとする気配を感じたのは、その時だった。時雨が野獣に視線を向けると、野獣は視線を逸らした。ついでに、喉まで出掛かった言葉を飲み込むように、不味そうな顔で口を閉じた。普段、馬鹿馬鹿しくて阿保らしいことでも平気で言い放つ野獣が、言葉を選ぶというよりも、発言することそのものに躊躇や迷いを見せるのは珍しいことだった。

 

「おい、野獣」

 

 天龍が、下らない冗談にダメ出しをするような声を出した。

 

「お前、俺らのことを諦めたの、謝ろうとしてるだろ?」

 

 野獣が、唇をひん曲げて天龍を見た。鈴谷がハッとした顔になって、野獣を見た。思わず時雨も野獣の横顔を凝視してしまう。野獣は、時雨や鈴谷を解体・破棄することを受け入れたのは間違いない。だがそれは、他の艦娘や、今までのイベント関係者達の生活や人生を守るためには仕方のないことだということは、時雨は理解している。だから、野獣を憎むようなことは無いし、見捨てられたとも思っていない。むしろ、野獣に余計な苦痛を背負わせてしまうことを申し訳なく思っていたぐらいだった。

 

 だが、時雨や鈴谷を解体・破棄することを認めたということ自体が、仕方が無かったとは言え、それは野獣自身にとって許しがたい選択だったのだろう。ただ時雨にとっては、今の鎮守府の騒動の中で、時雨や鈴谷は解体されることなく再会できたことは、素直に嬉しい。微笑みを浮かべている鈴谷にしても同じだろう。

 

「ねぇ、野獣」

 

 時雨が、野獣の横顔に声を掛ける。

 野獣が、視線だけで時雨を見た。時雨は頷いて見せる。

 

「僕は、野獣を恨んでなんかないからさ」

 

 そう言った時雨に続いて、鈴谷も軽く鼻を鳴らす。

 

「前にも言ったけど、鈴谷もね。誰も悪くないよ」

 

「こいつらの言う通りだ。変な気を遣うなよな。らしくねぇ」

 

 天龍が鬱陶しそうに鼻を鳴らして、野獣を小突いた。野獣が「ん、おかのした(バツの悪い顔)」と答えるのがおかしかったのか、木曽が小さく笑うのが聞こえた。それからすぐだった。

 

『天龍さん達と合流したのですね』

 

 野獣が耳に当てている携帯端末から、鳥肌が立つ程に落ち着いた声が聞こえた。赤城の声だ。空母艦娘である赤城であれば、艦載機を用いた広範囲の状況をリアルタイムで把握し、野獣に伝えることも出来る。まだ赤城との通信が繋がっているということは、赤城との情報の遣り取りをしているタイミングの野獣が、運よく時雨達と合流できたということだろう。

 

『深海棲艦達に動きが在りました。……彼女達はD、Eエリアを横切る形で、埠頭を抜けて海に出るつもりのようです』

 

 温度の無い赤城の声は、戦闘マシーンなどと呼ばれていた頃と同じく、淡々としていながらも穏やかだった。それと同時に、一切の感情を窺わせず、無機質で冷徹でもある。殺意や敵意ではなく、己の正義に粛々と従う者の声だ。「あっ、そっかぁ……(状況把握)」と、平たい声で答えた野獣は、時雨や天龍達を順に見ながら手早く端末を操作し、通信をスピーカーに切り替える。時雨達とも情報を共有する為だろう。

 

「D、Eエリアで捜索、救助にあたってる艦娘の数はどれくらいだ? (希望の明度)」

 

 野獣が低い声で言う。続く赤城の応答を聞き逃すまいと、この場に居る全員が耳を澄ますような静寂が在った。一瞬の間があって、『かなり多いですよ』と、赤城が珍しく曖昧な言い方をした。ただ、その声音に焦燥や動揺はなかった。

 

『駆逐艦娘の子を中心に、潜水艦の子たちも、既に崩れた庁舎の瓦礫を掘り起こしてくれています。瑞鳳さん、ガンビアベイさん、アークロイヤルさんといった空母艦娘達も既にエリアに到着していますから、上空の猫艦戦たちを牽制しつつ、制空権を奪うのも時間の問題でしょう』

 

 赤城の言葉を聞いて、時雨は安堵する。天龍と鈴谷も、薄く息を吐きだす気配があった。赤城の曖昧な返答も、十分な数の艦娘がD、Eエリアに到着していることの裏返しだったのだろう。

 

「俺達はどうする?」

 

 木曽が静かに言うと、野獣が時雨達を見回した。

 

「こっちには、時雨、天龍、鈴谷、木曽が居るけど、D、Eエリアの捜索よりも、深海棲艦どもの進行を止める方が良い……、良くない……? (戦力の分配)」

 

『はい。現状では、マスコミ関係者の捜索と救出にあたる艦娘の数は十分だと判断できます。ですが、……対処が必要な深海棲艦たちは、D、Eエリアに隣接しているFエリアに接近しています』

 

 落ち着き払った赤城の声に、動揺や恐れはない。

 

『長門さんや陸奥さん、それに、武蔵さんや大和さんを始めとした戦艦種の艦娘に連絡を取り、Fエリアへと向かって貰っています。……私も加賀さんと共に向かい、そこで食い止めます』

 

 野獣は頷いてからもう一度、時雨たちを見回した。その野獣の表情は硬く、逡巡するかのように視線を微かに揺らしてから、何かを時雨達に言いかけて、やめた。言葉を飲み込んだ野獣は、だが、すぐに口を開いた。

 

「俺達もFエリアに行きませんか……、行きましょうよ? (決戦)」

 

 心の重心を落とすかのような低い声で言う野獣に、鈴谷が、強い眼差しを見せて頷いた。「それしかねぇよ」と言った天龍が、乱暴に息を吐きだす。「決まりだな」と零した木曽は、表情を動かさずに前を見詰めていた。時雨は何も言わずに息を吸う。もう戦うしかないのだ。覚悟はできている。

 

 ただ、野獣が飲み込んだ言葉が気になった。野獣は、時雨達に何を言おうとしたのだろう。野獣は、今の鎮守府の状況について、真実らしきものを予想できているのではないかと思う。そしてその内容については、時雨が朧気ながら考えている内容と、そこまで変わらないのではないか。脳裏に少年提督の姿が脳裏に浮かぶ。

 

 艦娘達の未来について野獣は、意識の距離を遥か遠くに置いていた。だが、少年提督が視ている未来は更に遠く、より解像度の高いものであるとすれば、人類への反逆と言う大それた彼の行為にも、確実に意味があるはずだと思った時だった。

 

「ヌ……ッ!? (意表を突かれた顔)」

 

 野獣が驚いた声を上げた。見れば、野獣が手にしていた携帯端末が、蒼く濁った微光に包まれていた。画面もブラックアウトしているし、明らかに赤城との通信も途切れている様子だった。あの蒼色は、海の上で深海棲艦たちが纏っている光と同じ色だ。

 

 まさかと思い、時雨も自分の端末を取り出すと、やはり野獣の持つ端末と同じく、蒼い微光によってぼんやりと包まれ、その機能をロックされていた。天龍や鈴谷、それに木曽も自分の端末を取り出して確認しているが、やはりどれも同じ状態だった。微光の色に見覚えがある。海の上で出会う深海棲艦たちが纏っている光の色だ。この現象が、深海棲艦からの干渉であることは簡単に予想できた。Fエリアへと駆けながらも、全員で顔を見合わせる。

 

「はぁ~~……(クソデカ溜息)」

 

 大袈裟に肩を上下させた野獣は、携帯端末を提督服の懐に仕舞いながら、ゆっくりと瞬きをした。艦娘と並走する野獣の速度もかなりのものだが、呼吸に乱れは全くなかった。決心と覚悟を改める静かな面持ちになった野獣が、駆ける速度をさらに上げた。

 

「端末が使えなくなったって、へーきへーき! (熟機を前に)」

 

 時雨達の先頭に立った野獣は、腰に吊っていた太刀を手に握り込み、二刀流になった。

 

「どの道行くしかないって、はっきりわかんだね(不退転)」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 H、I、Fエリアを通るルートで

 D、Eエリアに深海棲艦達が向かっています

 

 D、Eエリアでの捜索、救助活動は既に始まっています

 現在、D、Eエリアの外に居て、尚且つ、戦える艦娘は

 Fエリアに向かってください

 そこで深海棲艦達の足を止めます

 

 

≪翔鶴@syoukaku1.●●●●●≫

 戦艦水鬼、戦艦棲姫、

 港湾棲姫、北方棲姫、

 集積地棲姫、ヲ級、タ級、ル級、

 それに加え、

 レ級、重巡棲姫、南方棲鬼の3体も合流した模様です

 全員で、彼を護衛するかのような隊列を組んで

 D、Eエリアへ移動しています

 

 

 先程、艦娘囀線に加賀と翔鶴の書き込みが在った。それに続いて、飛龍や蒼龍、それにアークロイヤル、グラーフなどの空母艦娘の書き込みが続く。猫艦戦達の多くを撃墜した彼女達たちの索敵により、Fエリアに侵入しようとする少年提督や深海棲艦達の位置は、既に割り出しているとのことだった。あとは、合流した艦隊と連携を取ることで、深海棲艦達を挟撃、先制攻撃を加えることができる状況にあることも、彼女達の書き込みから分かった。

 

 携帯端末のGPS機能を利用し、すぐ近くにいる空母艦娘と合流すべく、D、Eエリアに向かっていた霞はFエリアへと足を向ける。最も霞と近い場所を移動しているのはグラーフだった。無事に合流し、他にも、ビスマルクやプリンツ、リシュリュー、長門や武蔵たちとも合流できた。陽炎やガングート、大鳳などの姿もある。

 

 静かに殺気立った彼女達が、さきほどの加賀の書き込みを見て行動しているのは間違いなく、霞と合流した後も、彼女達が互いに言葉を交わすようなことも特になかった。とにかく、自分たちの役割がハッキリしていて、敗北も失敗も許されない状況であることが明白だった。猫艦戦達を排除しながら、じわじわと制空権を奪いつつある空母艦娘たちは健在であり、長門や武蔵などの戦艦種の艦娘も万全のままで戦闘を迎える準備が出来ている。

 

 ただ、合流してすぐに、霞たち全員の携帯端末が淡い光を発しだして、完全に沈黙してしまう不穏な出来事があったが、深い詮索もせずに捨て置いた。他の艦娘達と合流し、少年提督や深海棲艦たちとのコンタクトを直前に控えている以上、もう携帯端末を使うような状況ではなかったからだ。重要なのは、空母艦娘を軸にした挟撃を成功させることだった。総合的な戦力で見て、霞たちの方が有利であることは疑っていなかった。

 

 だから、霞たちがFエリアに到着してすぐに、横合いから砲撃を受ける奇襲に遭ったのは、流石に動揺した。挟撃による先制攻撃を仕掛けるどころか、呆気なく戦闘に巻き込まれた。そんな馬鹿なと思ったのは霞だけではない筈だ。艦娘囀線でも、深海棲艦たちは全員で少年提督の護りを固めているのだと翔鶴が報告していた。練度の高い翔鶴の艦載機が、南方棲鬼を見逃したとも考えにくい。なら、少年提督が霞たちの裏をかいてきたという事だろう。ただ、そういったことを暢気に考えている間は無かった。

 

 砲撃音が立て続けに響くのを聞いた。その一秒あとには、幾重にも重なった爆風を体の右側に受けた。霞の右半身が黒焦げになって、紙くずのように吹き飛ばされて地面を転がる。他の駆逐艦娘達もだ。回転する視界の端で、頭を下に足が上になって空中を移動する陽炎が映る。陽炎の左腕と左脚が爆ぜるのが見えた。右半身が無くなった曙も、空中でくるくる回って地面に墜落しようとしている。

 

 それがどうしたと思った時には、霞は顔面を地面で強打してバウンドし、次には曇り空が見えて、また地面が見えた。それでも、一瞬も途切れることなく意識は在る。痛みは鈍い。だが、それ以外の感覚が研ぎ澄まされている。霞はすぐに左手をついて起き上がる。自分の身体から霊気が放散されて、艦娘装束と一緒に、右半身の再生が始まっているのは見なくても分かる。数日前、少年提督が、殆ど無理矢理に装備してくれた“儀礼ダメコン”が発動している。おかげで、動ける。問題ない。

 

 身体を前に傾ける霞の前方には、既に起き上がり、駆け出している陽炎と曙が居た。彼女達の体も、ダメコン発動による霊気に包まれて再生を始めている。その陽炎や曙たちより更に前には、今しがたの砲撃、或いは、その爆風をモロに浴びた筈の戦艦種の艦娘達が、ビクともせずに戦闘態勢を取っている。流石と言うべきだろうか。武蔵とビスマルク、プリンツが大鳳を、長門とガングート、リシュリューが、グラーフを庇うようにして、艤装を盾にして立っていた。

 

 大鳳とグラーフは無傷だ。長門と武蔵にも傷がないように見えるし、リシュリューやガングート、ビスマルクやプリンツにしても大きな損傷を負っていないように見えた。だが、そんな筈がない。深海棲艦の上位種の砲撃は、十分な破壊力を持っている。やはり彼女達もダメコンに救われているはずだった。霞が地面を転がっているうちに、彼女たちの肉体の修復が終わったのだろう。少年提督が特別に調律したダメコンは、長門と武蔵たちの艤装も修復している。おかげで、奇襲を受けても実質はノーダメージで済んだ彼女達は、即座に反撃に出ていた。

 

 砲撃戦の間合いに居た南方棲鬼へと、容赦なく砲撃を叩きこんだのだ。6人による一斉砲撃だ。炸裂音が重なって響く。南方棲鬼の艤装も肉体も、膨れ上がる爆炎に飲まれるようにして、粉々に砕け散るのが見えた。見えただけで、違った。信じられなかった。

 

 木端微塵に飛び散るかに見えた南方棲鬼の肉片が、象牙と琥珀の陰影に覆われながら繋がっていき、瞬く間に元通りになったのだ。まるで、深海棲艦式の強力な“ダメコン”が発動しているかのようだった。長門が呻き、武蔵が不機嫌そうに鼻を鳴らすのが分かった。大鳳とグラーフは、長門と武蔵に守られつつ、艤装を展開しながら素早く下がる。艦載機の攻撃部隊を発艦させるつもりなのだ。霞と陽炎、それに曙を含む駆逐艦娘の数人が、下がって来た大鳳とグラーフの護衛につく。霞たちも艤装を構える。

 

 空母艦娘を含む全員で反撃に移ろうとしたところで、南方棲鬼は、再生した体の感触を確かめるように首を回しながら、鋭く大きなバックステップを数回踏んで、この場所から離れていく。疾い。めちゃくちゃ疾い。このままでは逃げられてしまう。そう思った霞たちが追撃を仕掛けるよりも先に、南方棲鬼の横合いから砲撃が届いた。それも、一度や二度ではない。一斉砲撃のような密度だった。再び、炸裂音が幾重にも重なる。

 

 見れば、高雄と愛宕、それに、扶桑と山城、金剛、榛名が艤装を展開していた。D、Eエリアから此方に向かってきてくれたのだろう。彼女達の砲弾の雨を浴びた南方棲鬼の体が、再び砕けてから、また再生する。だが、肉体が再生する一瞬の間だけは、彼女の動きが止まっていた。その隙に、物凄い速度で踏み込んでいく艦娘が居た。龍田だ。

 

「逃がさないからぁ」

 

 甘く蕩けるような低い声で言いながら、彼女は槍型の艤装を突き出す。ただ突き出すだけじゃない。突いて、引いて、また突いた。それを、残像が見えるほどの速度で繰り返す。神速の連続突きだった。一瞬の硬直時間を突かれた南方棲鬼は、だが、無抵抗ではなかった。体をひねり、龍田の連続突きを、両腕を覆うガントレットのような艤装装甲で弾いて弾いて弾きまくり、或いは、避けて避けて避けまくった。2秒ほどの拮抗。龍田が槍を引き込み、今度は槍で突くのではなく、真横に払い、更に踏み込んで、斜め上から薙いだ。龍田の一連の動作は、まさに電光石火だった。南方棲鬼は回避できなかった。払われた龍田の槍が、南方棲鬼の右腕を装甲ごと切り飛ばし、左腕を薙ぎ払った。

 

「これで終わり」

 

 龍田は再び槍を手元に引き込んでから、先ほどまでよりも更に鋭く、疾く、突きを繰り出した。無音のままで繰り出された龍田の槍は、両腕の再生を始めていた南方棲鬼の胸を容易く貫いた。

 

「ぐっ……!」

 

 腕の無い南方棲鬼が、表情を歪めて低い声を漏らす。龍田は止まらない。そのまま南方棲鬼を強引に地面に引き倒した。彼女の胸を貫いたままの槍を地面に埋め込み、縫い付けるかのようだった。無論、南方棲鬼も、再生した両腕と艤装によって抵抗しようとした。だが、そこで龍田のフォローに入ったのが、既に南方棲鬼へと肉薄していた榛名だった。

 

「勝手は、榛名が許しません」

 

 普段からは想像もできないほどに低い声の榛名は、地面に縫い付けられた南方棲鬼を見下ろしながら、彼女の左肩めがけて左足を振り下ろし、バキバキと無造作に踏み潰した。そのついでに、右膝で南方棲鬼の腹を押さえ込み、右手で彼女の喉首をガッシリと掴む。

 

「が、ハッ……!」

 

 南方棲鬼は残った右腕を動かそうとしたが、その右肩と右腕を丹念に踏み砕いたのは、槍に手を掛けたままの龍田だった。大鳳やグラーフが艦載機の攻撃部隊を発艦させるよりも早く、物理的に南方棲鬼を拘束してしまうあたり、この鎮守府の艦娘達の連携は流石だと思う。奇襲を受けた動揺を鎮めつつ、霞は息を吐く。

 

 大鳳とグラーフが、壁役になってくれた長門と武蔵に感謝と礼を述べている。「なに、これぐらい痒いものだ。なぁ、長門」「あぁ。長門型の装甲は伊達ではない。あの程度の攻撃、まるで効かんぞ」などと二人は胸を張っている。「ダメコン積んどいてマジで良かったわ……」「一回死んだわよね、私もアンタも」などと、陽炎と曙も何かを言い合っている。他の艦娘達も短く言葉を交わしながら、拘束された南方棲鬼へと近づく。それに霞も小走りで続こうとして、「霞。顔色悪いけど、大丈夫?」と、此方を振り返った陽炎に声を掛けられた。陽炎型の長女である彼女は、駆逐艦娘の誰に対してもお姉ちゃんの振舞いを崩さない。

 

「えぇ。平気よ。へーきへーき」

 

 軽口に見せかけた深刻な心配の言葉を、霞は鼻を鳴らして受け取る。

 

 地面に仰向けになった南方棲鬼は、槍で磔にされたままで両肩を潰されていた。再生はしているが、すでに榛名と龍田がその動きを封じ込んでいる。武蔵、長門、ビスマルクやプリンツ、高雄、愛宕、それに、山城と扶桑にも囲まれており、身動きは出来ても抵抗は不可能な状態だった。

 

「貴女に訊きたい事がありマス」

 

 引き締めた声で言う金剛が、拘束されている南方棲鬼の傍にしゃがみこみ、その顔を覗き込んだ。榛名に喉首を掴まれている南方棲鬼は、僅かに苦しげな表情を浮かべているものの、金剛と目が合うと、唇の端を歪めて見せた。

 

「何がおかしいのです」

 

 温度の無い、冷酷な声を出した榛名が、南方棲鬼の喉首を掴む手に力を込めるのが分かった。榛名の指が南方棲鬼の首に食い込み、メキメキと音を立てる。瞳孔の開いた榛名の眼は、冷えた重機ライトのように無機質で、普段の優しい雰囲気は一切なかった。「Stopヨ、榛名」と、金剛が手で制さなければ、表情を消し去っている今の榛名は、あのまま南方棲鬼の首をへし折っていただろうと思えた。

 

「鬼は外、福は内。……瑞鶴に言ったあれは、どういう意味デス?」

 

 金剛の問いに、「そのままの意味だ」と、南方棲鬼は榛名に掴まれたままの喉を震わせた。

 

「勿体ぶるなよ。榛名は怒ると怖いんだ。痛い目を見るぞ」

 

 武蔵が茶化すように言うが、その眼差しは酷く剣呑だった。武蔵の張り詰めた表情を見て、秘書官見習いとしての南方棲鬼の面倒をよく見ていたのが武蔵であったことを思い出す。隠し事はするなという忠告は、南方棲鬼のことを想ってのことなのだろう。榛名が姿勢を変えず、目だけを動かして武蔵を見てから、すぐに南方棲鬼へと視線を戻した。唇の隙間から細い息を漏らす南方棲鬼は、喉を鳴らすように笑う。

 

「勿体ぶってなどいない。私達も、お前たちも、今は在るべき場所に在ればいい」

 

「……では、テートクも鬼だと?」 

 

 金剛が顔色を変え、片方の目を物騒に窄めるのが分かった。南方棲鬼は、「提督が、そう望んでいるからな」と、また喉を鳴らすように笑った。そして声を潜め、取り巻く艦娘達を視線だけでゆっくりと見回した。

 

「まるで、我々の顔ぶれを確認しているかのような目つきだな」

 

 眉を寄せた長門が探るように言うと、南方棲鬼は唇を歪めたままで長門に視線を返した。

 

「あぁ。提督から聞いていた通りの面子が揃っていて、安心しているんだよ」

 

 南方棲鬼は穏やかな声で言う。

 

「提督から、お前たちに言伝を預かっている」

 

 武蔵が、「なに……?」と眉間に皺を寄せて、長門が目を細める。近くに陽炎が息を飲み、曙が体を強張らせるのが分かった。険しい表情を作った高雄と愛宕が視線を合わせて、扶桑と山城も顔を見合わせていた。他の艦娘達もザワついている。霞も体に力が入った。

 

「伝えるタイミングも、これが最後だ。ドローンも音声を拾っているからな。大きい声ではお前達に言葉を掛けられない。だが、小さい声では聞こえない。携帯端末もロックされているだろう? こうやってお前たちに囲まれなければ、出来ない話もある」

 

 南方棲鬼の落ち着いた声に被せるように、少し離れた場所で砲撃音が響いた。戦闘の音だ。大和や陸奥の居る艦隊が、他の深海棲艦と交戦しているのだということは直ぐに分かった。「あぁ、アレは重巡棲姫だ」と、貧乏くじを引いた同僚の奮闘を称えるかのように、南方棲鬼が薄く笑った。霞は状況を飲み込めないままで、砲撃音のする方と南方棲鬼を交互に見た。

 

 

 まるで舞台のプログラムが無慈悲に進行していくかのような寒々しさが胸を掠める。霞の目の前で胸を槍で貫かれ、両腕を踏み砕かれている南方棲鬼の口振りからするに、彼女は奇襲を仕掛けてきたのではなく、少年提督からの言葉を届ける為に、意図的に拘束されたのだ。つまり、高雄や扶桑たちからの砲撃も、龍田や榛名による接近戦も、全て知っていて行動していたということになる。

 

「アイツも私と同じように、提督からの言伝を頼まれているんだよ」

 

 霞だけでなく、他の艦娘たちにも動揺が広がるよりも先に、「言ってみなさい」と、ビスマルクが南方棲鬼の言葉を促した。この場に居る艦娘達が、心の準備をするかのように深く息を吸いこむ気配があった。少しずつ雲が晴れつつある空を見ながら、南方棲鬼が穏やかな息を吐いてから、言う。

 

「“どうか、人々の味方であって下さい”」

 

 静寂が在り、湿った風が吹いた。

 

「……提督から預かっている言葉は、それだけだ」

 

 自分の仕事を最後まで無事にこなせた安堵を味わうかのように、南方棲鬼は満足そうに目を細めている。

 

「いい加減、お前たちも気づいているだろう。提督が何をしようとしているのか。この急拵えの“劇場”で、お前たちが何をすべきなのか」

 

 少し遠い眼になり、友人に語りかけるように寛いだ口調になった南方棲鬼は、今まで秘書官見習いとして、この鎮守府で霞たちと共に過ごした時間を思い出しているのかもしれない。

 

 一方で、無表情を崩さない榛名は南方棲鬼の喉首を掴んだままで、呼吸だけを僅かに震わせていた。険しい表情の金剛も目の動きを止めて俯き、少年提督からの言葉を咀嚼しているかのようだった。武蔵が眉間に皺を寄せて瞑目している。長門が拳を握り締めて地面を見詰め、頬を強張らせていた。ビスマルクが、自分の美しい金髪をぐしゃぐしゃと右手で掴みながら下を向き、ギリギリと歯を鳴らしている。

 

 軽い眩暈と共に、霞は目の前が暗くなるのを感じた。南方棲鬼が預かってきたという少年提督の言葉は、彼と深海棲艦達が、この鎮守府の艦娘と敵対していないことを明らかにしている。それに、高雄や愛宕、扶桑も山城も、グラーフもプリンツも、それに、陽炎や曙も、他の艦娘達も、少年提督の言葉に打ちのめされていた。

 

「さて、そろそろ次の幕が上がる。……遅れるなよ」

 

 仰向けに倒れたままの南方棲鬼が、舞台袖から役者を眺めるかのように視線を動かし、霞たちの顔を順に見た。離れた所で鳴っていた砲撃音が止んでいる。大和や陸奥たちに撃破された重巡棲姫が、今の南方棲鬼と同じように、少年提督からの言葉を手渡すような状況になっているのだろうと思えた。ただ、推理や憶測をいくら積み上げても、進む時間は止まらない。

 

「これは“悲劇”かもしれんが、私は、お前たちに出会えてよかったと、そう思っている」

 

 押し黙る艦娘達の間を、南方棲鬼の落ち着いた声音が流れていく。

 

「奇遇だな。私もだ」

 

 諦観と決心を混ぜたような苦笑を浮かべた武蔵が、眼をゆっくりと細めた時だった。仰向けに倒れていた南方棲鬼の体から、象牙と琥珀の霊気が吹き上がった。霞を含め、周囲に居た艦娘たちはその眩さに驚き、顔を腕で覆いながら、2歩ほど後ずさってしまう。腕で顔を覆いながらも霞は、澄んだ光の粒子が、南方棲鬼の体に沁み込み、瞬く間に破壊された両腕を構築していくのを見た。「ダメコン……!?」という、陽炎の焦った声が聞こえてきた時には、一瞬の間に吹き荒れた活力の嵐の中で、南方棲鬼の体は元通りになっていた。

 

 咄嗟に立ち上がった榛名は、再生した南方棲鬼の四肢を改めて破壊しようとしたに違いなかった。榛名の傍にいた龍田や金剛にしても同じだろう。だが、南方棲鬼の行動は、誰よりも疾かった。

 

 まず、南方棲鬼は、自分の胸を貫いていた槍を地面から引き抜きながら立ち上がると同時に、すぐ近くに居る榛名の腕を掴んで、流れるように脚を払った。榛名の体が浮く。「なっ……!?」榛名の驚いた声が響いた時には、南方棲鬼は手に持っていた槍を投げ捨て、榛名をお姫様だっこしていた。今にも踏み込もうという戦闘態勢になっていた金剛も龍田も、武蔵も長門も、それに霞も他の艦娘達も、次の行動を取れずに固まる。榛名の方も現状を理解できないのか、「えっ、えっ!?」と、たじろぐような声を漏らし、南方棲鬼の腕の中で、手や脚を彷徨わせるように揺らしている。

 

 この場の艦娘達の判断を鈍らせるという意味では、南方棲鬼の行動は効果的だった。冷静になった霞は艤装を構えようとしても出来ない。肉の盾よろしく、南方棲鬼が榛名を抱えているからだ。金剛も龍田も攻撃を躊躇い、武蔵も長門も、次の南方棲鬼の挙動を見逃すまいと、重心を落としている。「見せつけてくれるじゃない」と軽口を叩いたビスマルクと、「あぁ。お似合いだ」と続いたガングートは、一歩距離を詰めた。もう一度、榛名ごと南方棲鬼を押さえ込んでしまおうという肚なのか。

 

 ただ、抱えられている榛名の決心と行動も早かった。榛名は南方棲鬼の腕の中で抜錨状態になり、体を丸めるようにして、南方棲鬼の横っ面に膝蹴りをぶち込もうとした。だが、それも空振った。南方棲鬼が、もっとも近くに居た金剛へと、榛名を緩く放り投げた。パスしたのだ。意外そうな表情になった榛名が空中に居る間、金剛は南方棲鬼と榛名を見比べて、榛名を受け止めるべく腕を広げる。

 

 その時にはもう、南方棲鬼は踵を返し、霞たちに背を向けて駆け出していた。今度は追撃が間に合わない。グラーフや大鳳が艦載機を放つが、まるでタイミングを見計らったかのように猫艦戦が空に湧きだし、艦載機たちの行く手を阻んだ。霞たちも南方棲鬼を追う。その先で、巨大な生き物の咆哮が響いてきた。轟音と地鳴りが続く。戦艦水鬼、棲姫の艤装獣のものだろうとすぐに分かった。挟撃をするために別に行動していた大和と陸奥たちの方に、深海棲艦を率いた少年提督が進んだのだ。

 

 南方棲鬼は、最後の幕が上がると言っていた。大和や陸奥に敗北したのだろう重巡棲姫にしても、先ほどの南方棲鬼と同じように復活していることも想像がついた。深海棲艦の数は減っていない。Fエリアの先には、要救助者の捜索が行われているD、Eエリアがある。霞たちは、少年提督と対峙せねばならない。逃げることは“世間”が許さないし、少年提督を赦すことも認められない。自分の役割は頭では分かっている。ただ、今の霞には、人々の味方であり続ける自信はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 不知火と雷はD、Eエリアに向かう途中で、何発もの砲撃音が体にぶつかってくるのを感じた。付近のFエリアで大規模な戦闘が始まったのは、すぐに分かった。不知火と雷は顔を見合わせて頷きあい、D、Eエリアではなく、Fエリアへと体を向ける。今の鎮守府に、救助が必要な一般人はおらず、負傷している憲兵も居ない。不知火と雷は、他の艦娘達とは違い、それを知っている。少女提督からも、『少年提督を斃すために戦え』という命令を受けている。不知火と雷は、迷わずFエリアへと駆けた。

 

 不知火は走る脚に力を籠め、右拳を強く握った。

 顔を少し上げて、Fエリアの上空を見る。

 

 猫艦戦が逆巻くようにして飛び交い、それを空母艦娘の艦載機が次々と撃墜していた。空の激戦に応えるように、また砲撃音が響く。周囲に存在するものを薙ぎ倒すかのように、轟音が重なりあっていた。そこに、巨大な生物が暴れる振動と咆哮が混じっている。火と鉄、血と埃の匂いを感じながら地面を蹴る。灼熱に燻された風が吹いてきて、不知火達に重く纏わりついた。

 

「司令官を止めることなんて、出来るのかな?」

 

 並走する雷が、不知火の方を見ないままで訊いてくる。

 

「止めなくてはなりません。たとえ、司令官を殺すことになっても」

 

 不知火もまた自分に言い聞かせるように、雷の方を見ずに答える。少年提督を殺すことなど不可能だろうが、感傷に流されてはならないという思いもあり、そう答えるしかなかった。「うん。わかってる」と雷が頷く気配があり、同時に、まだ何かを言いたそうにしているのが分かった。不知火は雷を横目で見ると、雷も不知火を横目で見ていた。目が合う。

 

「……でも、無理かもしれない」

 

 ぼそりと零した雷は、一瞬だけ泣きそうな表情になってから不知火から視線を逸らし、俯いたが、すぐに真顔に戻って前を見た。不知火も前へと視線を戻し、戦闘が行われているFエリアの上空を再び見据える。

 

「いえ、我々なら勝てます」

 

 雷の言う「無理」が、戦力的なものを指すのか、それとも、心情的なものを指しているのかは判然としなかった。だが、その両方において、不知火達は艦娘としての存在意義を懸けて戦わねばならないのも確かだった。

 

「……うん。やっぱり強いなぁ、不知火さんは」

 

 雷が言いながら、目元を右手の袖で拭う。

 

「強くなど……」

 

 不知火が言いかけた時だった。空からだ。猫艦戦の群れが、此方へと近づいてきた。数は20ほど。不知火と雷は即座に応戦する。やはり猫艦戦達は爆撃などをしてこない。あくまで噛みつくか、体当たりを仕掛けてくる。

 

 理由は単純だ。この艦戦達は、今の鎮守府での大きな戦闘を演出する為の小道具に過ぎない。本当に艦娘を破壊する為に動いている訳ではないからだ。それを知っている不知火にとっても、あの数は脅威でしかない。無視することはできないし、見逃すこともできない。

 

 艤装を召んだ不知火と雷が、次々と猫艦戦を撃ち落としていく途中で、また別の猫艦戦の群れが近づいてくる。約40機。いや、50機は居るだろうか。空にずらっと並んだ艦戦たちは、不知火と雷を取り囲むように位置を取り、距離を詰めてくる。不知火は舌打ちをする。Fエリアに急いでいるというのに。

 

 雷も焦った表情になって、周囲を飛び回る猫艦戦を視線で追っていた。このままで猫艦戦達とじゃれている暇はない。此処は自分が猫艦戦達を引き付けて、雷には先に行って貰おうという思考が、不知火の頭の中に流れた。だが、不知火がそれを実行に移すよりもさきに、獣の咆哮を思わせる大音声と共に、地鳴りのような巨大な足音が接近してきた。それを追うようにして砲撃音と炸裂音が響き、熱風が吹き付けてくる。

 

 無論だが、Fエリアの方からだ。

 

 不知火と雷は、周囲の上空に陣取った猫艦戦を撃墜しつつ、音が近づいてくる方へと視線を向けた。また舌打ちが出る。戦艦棲姫の艤装獣が、此方へと向かってきているのが分かったからだ。猫艦戦に囲まれている不知火と雷を仕留めるつもりなのか。戦闘になる。とてもではないが、戦艦棲姫は移動しながら戦える相手ではない。不知火と雷は駆ける脚を止めるついでに、近くに居た猫艦戦を次々と撃墜しながら、吠え猛る艤装獣へと向き直る。

 

 だが、そこで気づく。艤装獣の掌の上に優雅に腰掛けている戦艦棲姫は、不知火達を見ていない。戦艦棲姫の艤装獣の右肩のあたりで爆発が起きる。砲撃を受けたのだ。彼女達が意識を向けているのは、彼女達自身の背後だ。戦艦棲姫は追撃されている。巨体を誇る艤装獣に追撃を仕掛けているのは、日本刀を携えた赤城改二と、艤装の刀剣を手にした天龍を先頭にして、その後に続き、巡洋艦娘や駆逐艦娘が追従している。後衛には、加賀と翔鶴が艦載機を展開していた。険しい表情で弓を構える、飛龍と蒼龍の姿もある。更にその後方、少し離れた位置で野獣と木曽がレ級の相手をしているのが見える。

 

 視線を上にあげると、空母艦娘達の艦載機が、大量の猫艦戦を駆逐していく様子が見える。だが、それでも猫艦戦の数は多い。まだまだ居る。減っているように見えない。どこからか湧き出しているとしか思えない。押し寄せてくるのを猫艦戦の群れから空母艦娘たちを守る位置を取っているのは、吹雪や夕立、睦月を含む駆逐艦娘と、対空能力の高い巡洋艦娘達だった。練度の高い彼女達は、空から次々と迫ってくる猫艦戦を、一体も見逃さずに撃墜して見せている。だが、それでも猫艦戦の数は多い。

 

「あ、あれ!」

 

 港湾棲姫の存在に先に気付いたのは、遠くを指差した雷だった。不知火も目を凝らす。この乱戦の場から少し離れた場所で、港湾棲姫が大型の艤装を展開し、大量の猫艦戦を召び出しているのが見えた。乱戦の中に居た艦娘達の何人かが港湾棲姫に気付き、彼女を撃破すべく攻撃を加えている。その中には、鈴谷や時雨の姿も見える。

 

 あの二人も相当な練度の高さを誇っている筈だが、港湾棲姫が召びだす猫艦戦の層が厚すぎて砲撃が届いていない。砲弾が猫艦戦の群れに吸われてしまう。それに港湾棲姫に近寄ろうにも、彼女のすぐ傍には南方棲姫が艤装を展開して艦娘達を牽制しており、そう簡単には距離を縮めることも出来ずにいる。

 

 

 其処彼処で激しい戦闘が行われている。乱戦だ。その範囲は、既に不知火と雷を容易く飲み込み、この状況の中に取り込んでいく。不知火は大量の猫艦戦を撃ち落としながら、此方へと近づいてくる戦艦棲姫たちを横目で見た。

 

 

 戦艦棲姫の艤装獣は、果敢に接近戦を挑んでくる赤城と天龍を巨大な腕で払うようにいなしながら、回避行動を取りつつ移動している。赤城と龍田が近接攻撃を仕掛けないタイミングでは、他の艦娘が砲撃を行っていた。それは非常に息の合った連携攻撃だった。艦娘の砲弾が艤装獣に直撃する。だが、ダメージは無さそうだ。艤装獣の巨体の表面で爆発が起こるが、ビクともしていない。艦載機たちも空中から猛攻撃を仕掛けているが、有効打には全くなっていない。不知火は舌を巻く。なんて堅牢さだ。海で出会う同種の艤装獣とは比べ物にならない。

 

 琥珀と象牙色のオーラを纏った艤装獣は体を傘のようにして、砲撃の雨から戦艦棲姫を守りつつ移動する。赤城達から距離を取ろうとしている。戦艦棲姫は明らかに守勢だが、追い詰められているようには全く見えない。それは多分、艤装獣を操る戦艦棲姫の表情が落ち着き払っているからだ。彼女もまた、“艦娘と深海棲艦との激戦”を演出するために、計算しながら動いているのだろうと思える。戦艦棲姫も、艦娘達を破壊するために戦闘を行っているのではないのだ。

 

 不知火と雷は位置的に見て、戦艦棲姫を赤城達と挟み撃ちできる位置にある。好機だと思うと同時に、深海棲艦達と過ごしてきた日常の風景が頭に浮かびかけて、それを振り払うように、接近してきた猫艦戦5体を一気に撃墜した。猫艦戦の破片が降り注ぐなか、傍に居た雷も4機を撃墜し、不知火の眼を見て頷いた。

 

 互いに頷く。駆け出す。まだ撃墜していない大量の猫艦戦達が不知火たちを追ってくる。

 赤城と加賀が不知火達に気付いた。艤装獣と相対しながらも、赤城は日本刀を鞘に納めると同時に、本来の空母艦娘としての弓を構えて艦載機を放った。それに続き、後衛の加賀も艦載機を放つのが見えた。2秒後には、赤城と加賀の艦載機の編隊が、不知火達に追いすがる猫艦戦達を一掃してくれた。その時にはもう、赤城は弓から日本刀に持ち替え、艤装獣へと踏み込んでいた。続いて、天龍も艤装獣へと距離を詰める。

 

 夕日が近づく淡い茜色の光が、薄くなった雲の隙間から差し込んできた。

 視界が濁った赤橙に薄く染まり、周りが明るくなる。

 不知火と雷も、駆ける速度を上げる。

 

 赤城と天龍は戦艦棲姫、その本体を狙う。戦艦棲姫を片手で抱える艤装獣が、もう片方の腕で、肉薄してくる赤城を払い飛ばそうとした。大人ひとりを易々と掴み上げるほどの巨大な腕と掌が、姿勢を落とした赤城に迫る。

 

 赤城は冷静なままの表情を変えず、全く怯まなかった。それどころか更に前に出て、手にした刀を逆袈裟に振るう。音がしなかった。無音だった。振るわれた刀の潤色に、空の茜が滲み、閃くのが分かった。野獣から鍛錬を受けたからだろう。赤城の太刀筋が、野獣によく似ているように思った時には、艤装獣の巨大な腕が、中ほどから切断されて飛んでいた。艤装獣が吠えた。だが、威嚇するように吠えるだけだ。赤城への反撃には出ない。艤装獣の体には艦砲が生えているが、それを使う素振りもなかった。

 

 艤装獣の動きが止まる。そこへ、落ちた影が滑るような捉えどころの無さで、天龍が踏み込む。片腕になった艤装獣の懐に容易く潜り込んで見せた。艤装獣の腕に腰掛ける戦艦棲姫と、天龍の距離が詰まる。天龍は既に艤装の刀剣を突き出す構えを取っていた。殆ど無防備な戦艦棲姫が、間合いを潰してきた天龍を見て表情を強張らせるのが分かった。不知火は、終わったと思った。天龍が戦艦棲姫を討つ。隣に居た雷も、そう思ったに違いなかった。

 

 だから、さっきまで木曽と野獣と戦っていた筈のレ級が、ミサイルよろしくビューンと飛んできて、とんでもない勢いで天龍の脇腹に頭突きをぶち込んで吹き飛ばしたのを見て、雷は「ぇっ」と声を漏らしていた。不知火も「なっ」と変な声が漏れた。天龍が「クソがぁァァアア!!」と叫びながらゴロゴロと転が来る。いや、転がってくる。こっちに来る。やばい勢いだ。不知火と雷は並んで腰を落とし、転がってくる天龍を受け止めた。だが、大車輪と化した天龍のスピードと重力にまけて、仲良く後ろにひっくり返る。

 

 ひっくり返りながらも、不知火と雷の意識は、“艦娘”としての戦闘の中に在った。迫ってきていた猫艦戦を撃ち落とすことも忘れなかった。火花と鉄屑が降ってくる。煤けた匂いを感じながら、背中に地面を感じる。茜色の滲む空が見えた時には、「野郎、ふざけやがって……!」と、脇腹を摩りながらすぐに起き上がった天龍が、不知火と雷の腕を順に掴み、引っ張り起こしてくれた。

 

「すまねぇな、助かったぜ」 

 

 唇の端を歪めた天龍が不知火と雷を順番に見た。「怪我は……!」と、雷は天龍の体を頭から爪先までを心配そうに何度も見た。一方で天龍は鼻を鳴らして、「屁でもねぇよ、こんぐらい」と言いながら、ぐしぐしと雷の頭を撫でた。その時点で既に、天龍は体の重心を落として、すぐにでも飛び出せる姿勢だった。

 

「遅くなりました」

 

 不知火も姿勢を落として天龍に並ぶ。

 

「おう。状況を説明してる暇は無ぇぞ」

 

 そう言うが早いか、戦艦棲姫とレ級との戦闘に戻るべく、天龍が走り出す。不知火と雷も続く。視線を動かす。乱戦の激しさが増している。このFエリア付近に居た艦娘達も集まってきている様子だ。視線を戦場に戻すと、レ級と戦闘を行っていた筈の野獣が、港湾棲姫と近接戦闘を繰り広げていた。

 

 大型艤装の展開を解いた港湾棲姫は、レ級と入れ替わる形で野獣に肉薄したのだろう。彼女は自らの巨大な掌と頑強な爪を使って、野獣が振るう二振りの刀を弾いている。港湾棲姫の動作は疾くない。どちらかというと緩やかにすら見える。だが、無駄が無い。卓越した戦闘技術を持つ野獣を相手に、正面から渡り合っている。彼女もまた、象牙と琥珀色のオーラを纏っている。あの陰影が、深海棲艦たちの肉体を強化しているのは間違いない。少年提督の扱う深海棲艦への強化術式であろうことは、容易に想像できた。

 

 困った顔をしたままの港湾棲姫は、防御中心に立ち回りながらも野獣を逃がさない。そのすぐ近くで、木曽と激突しているには南方棲鬼だ。レ級との戦闘を邪魔されたのが気に入らないのだろう。鬱陶しそうに眉間に皺を寄せる木曽は、容赦なく斬撃や砲撃を南方棲鬼に加えている。南方棲鬼の方はこれらを巧みに躱し、腕を覆う艤装の装甲で防御しつつ、木曽が相手をせざるを得ない距離を保ち続けている。

 

 港湾棲姫と南方棲鬼の二人は、明確に野獣と木曽の足止めをしながらも、他の艦娘達に対しても自身の存在感を示している。彼女達の巨大な戦力は、周囲の艦娘達の意識も集めながら乱戦に巻き込んでいく。

 

 

 不知火もまた、この乱戦の真っただ中に突入していく。視線を前に戻す。天龍の背中が見える。隣には雷が居る。爆風に間を縫うようにして、熱い風が吹いてくる。肺に熱さを感じている内に、不知火達と戦艦棲姫との距離が詰まってくる。

 

 赤城に斬り飛ばされた筈の艤装獣の腕は、もう再生を終えていた。元通りになっている。艤装獣は砲撃や艦載機の攻撃を全身に浴びながらも、戦艦棲姫を完璧に守護していた。それでいて、あれだけの数の艦娘を相手に単体で立ち回っている。艤装獣の巨体は、打ち崩しがたい巨大な城塞が戦場に聳えているかのようにも見えた。

 

 艤装獣の傍では、レ級が飛んだり跳ねたり地べたに這い蹲るような姿勢になって、赤城の斬撃を巧みに回避している。レ級と対峙する赤城の背後から、肉食獣の俊敏さを見せる艤装獣が、巨大な拳を振り下ろす。赤城は気づいている。横に鋭くステップを踏んで避ける。赤城が居た場所を、艤装獣の拳が大きく陥没させる。地面が揺れる。赤城がまだ下がる。大きく下がる。飛び退る。「シシシシ!」と肩を揺らして笑うレ級が、赤城を追おうとした。

 

「やらせるかよ!」

 

 今度は、天龍がレ級の横合いから斬りかかる。不知火と雷も、艤装獣に抱えられた戦艦棲姫に向けて砲撃を加えた。牽制する。艤装獣は戦艦棲姫を庇うようにして動きを止めた。天龍が袈裟懸けに刀剣を振り抜く。レ級がギリギリのところで身を逸らして、躱すのと同じタイミングで、レ級の尻尾の艤装獣の鎌首を擡げて伸ばし、天龍に食らいつこうとして、それを牽制すべく、不知火と雷が砲撃を連続で叩きこんだ。横っ面に砲撃を受けるレ級の艤装獣が、『Gyohoooo──!!』っと、間抜けで苦しげな、しかし、迫力満点の鳴き声を上げた。

 

「あぁん! ひどぅい! (レ)」

 

 レ級が素っ頓狂な声を上げながら、自分の尻尾の被害を確かめるように振り返った。面白いくらいに隙だらけだった。暢気なレ級に、不知火と雷は二人そろって手の中に錨を召んで肉薄する。レ級の反応が遅れていた。いや、それもワザとだろうと思った。だが、手を抜くわけにはいかない。こんな時でも能天気な強者でいられるレ級に比べて、不知火は、自分がひどく滑稽に思えた。

 

 その思いを振り払うように、不知火は手の中に召んだ錨を握り締める。歯を食い縛って、怒りを振り抜く。不知火はレ級の顔面を、雷はレ級の胴体を殴りつけた。殴られる瞬間、レ級はやはり楽しそうに「シシシ!」と笑って、すぐに錨の殴打を喰らい、「Bu!!」と奇妙な声を上げてよろけた。「お返しだ!!」と、そこへ天龍が飛び込んで、右の回し蹴りをレ級の脇腹に叩きこんで、蹴り飛ばす。

 

「ちゃああああ!? (レ)」

 

 レ級がアホっぽい悲鳴を上げながら、さっきの天龍と同じようにゴロゴロと転がっていく。天龍の蹴りをまともに喰らったレ級は、かなりの勢いで吹っ飛び、戦艦棲姫の艤装獣の脚にゴッツーン! と後頭部から激突し、「にょわぁぁ……(レ)」と頭を押さえて悶絶していた。多数の艦娘を相手取りながらも、そんなレ級を見下ろした艤装獣は巨体を器用に使い「だ、大丈夫?」とでも言いたそうな姿勢で微かな狼狽を見せ、戦艦棲姫の方は、馬鹿な同僚の失態を眺める顔つきになっていた。

 

 だが、すぐに戦艦棲姫は表情を引き締めた。不知火達は今、戦艦棲姫とレ級から一定の距離を取りつつも、艤装による砲撃射程に捉え、更には取り囲むような位置に陣取ることに成功していた。上空の猫艦戦達も、空母艦娘の艦載機に圧されている。不知火達が優勢であり、間違いなく勝機だった。

 

 不知火達の包囲網を突破すべく、艤装獣が周囲を見回すように首を動かした。戦艦棲姫も視線を巡らせている。頭を摩っていたレ級は自分がピンチであることに気付き、愉快そうに肩を揺らして笑った。次の瞬間だった。動きを止めていた戦艦棲姫たちに、十数発の砲弾が降り注いだ。途轍もない大爆発が起こる。炸裂音が重なり、衝撃と爆音で空間が飽和する。

 

 視界が消し飛び、何も聞こえなくなった。肉体の感覚は在る。足の裏に地面があることは分かる。不知火は数歩下がりつつ、腕で顔を庇う。周囲の空気が熱く、細かく振動しているような感覚が在った。分厚い熱風の壁が押し寄せてくる。肌がチリチリと焼けて痛んだ。軽い火傷だ。だが、そんなものは艦娘にとって負傷には入らない。すぐに回復する。

 

 焼けた視界や耳鳴りに切り裂かれていた聴覚も、すぐに戻ってきた。顔の前から腕をどける。着弾点であろう戦艦棲姫やレ級が居た場所には派手にクレーターが出来上がっているのが分かるが、濛々と煙る粉塵と白煙でその中心部は見えない。

 

 

 周りを見ると、天龍や雷も不知火と同じように重心を落とし、腕で顔を庇う姿勢を取っていた。他の艦娘達も、殆どが似たような態勢だった。戦艦棲姫とレ級を容易く飲み込んでしまう程の威力の砲撃だったが、不知火達には被害を出さない途方もない精密な砲撃でもあった。後衛の空母艦娘達の存在を思い、着弾観測という言葉が不知火の頭を過った時には、大和と陸奥が此方に駆け寄って来るのが分かった。彼女達の艤装の砲口からは薄い白煙が上っている。恐らく、いや、間違いなく、今の砲撃は彼女達のものだ。不知火達がレ級と戦艦棲姫の動きを止めたところに、ドンピシャのタイミングで止めを刺したのだ。

 

「まぁ流石っつーか、やっぱり大和型と長門型だな」

 

 不知火の傍に居た天龍が、畏怖と感嘆を込めた息を漏らすのが分かった。雷は大和と陸奥の方を一瞥してから、粉塵と白煙が濛々と昇るクレーターの中心部へと視線を戻していた。不知火から見える雷は唇をぎゅっと噛んだ俯き加減で、その横顔は、泣き出す寸前のように見えた。

 

 雷とレ級が、艦娘や深海棲艦に関する術式理論の研究を独学で行ったりする仲だったのは知っている。不知火自身も、レ級とはそれなりの時間を共に過ごし、友情らしきものを共有していた自覚があった。だから、そのレ級が目の前で破壊される様を見た雷の心境は、やはり複雑なものなのだろうと不知火にも分かった。

 

「援護が遅れてごめんなさい」

 

 不知火達を見回しながら言う大和は、右手に重巡棲姫の喉首を乱暴に引っ掴み、その体を引き摺っていた。重巡棲姫はかなりの傷を負っている。ひゅー、ひゅー……と、浅い息を漏らしている。体中に穴が開き、裂傷が見られる。本来なら彼女の腹から伸びている筈の大蛇のような二体の艤装獣も、今は根元から破壊されて千切れ飛んでいた。あの様子を見るに、少年提督から強化儀礼を受けている筈の重巡棲姫との戦闘を、大和が難なく制した、ということだろうか。ボロ雑巾のようになった重巡棲姫を、まるで邪魔くさい荷物のように引き摺っている大和の眼には、危険な光が炯々として宿っていた。殺戮者の眼をしている。

 

 あの大和の眼は、不知火も久しぶりに見た。普段は優しいお姉さん風の大和だが、艦娘としてのスイッチが完全に入ると、見る者の背筋を凍らせるような無慈悲さと冷徹さを見せ、武蔵でも手に負えない程の清冽な狂暴さを発揮する。あの強烈な二面性の所為で、大和への改二施術の許可が来るのが遅くなっているなどという噂も聞いたことがあるほどだ。激戦期の頃からの付き合いである不知火や天龍、雷にとっては慣れたものだが、今の大和を初めて見る艦娘達は、大和の表情と雰囲気に飲まれ、萎縮し、明らかに体を強張らせていた。

 

「皆、大丈夫そうね。流石だわ」

 

 一方、陽だまりのように柔らかい声で言う陸奥は、不知火達を一人ひとり順番に見て、大きな負傷を負っていないことを確認していた。張り詰めた表情の大和に比べて、陸奥には冷静な余裕がある。それでいて、一切の油断が無い。陸奥は不知火達の無事を確認しつつも、陸奥の艤装の砲口は、戦艦棲姫とレ級が居たクレーターの方を睨んだままで、すぐにでも追撃を加えられる状態だった。

 

 ただ、戦況としては、大和と陸奥の攻撃によって戦艦棲姫とレ級は沈黙・破壊されたと見て間違いないと思えた。彼女達の砲撃で出来上がったクレーターを囲む位置に、刀を携えた赤城も立っている。空母艦娘達が艦載機を更に放ち、上空の猫艦戦たちを蹴散らしている。意識を上に向けると、艦載機と猫艦戦達との空戦の狭間から、ドローンが此方を見下ろしていることに気付く。大和や陸奥、それに天龍や他の艦娘達も、ドローンの存在に気付いたようだが、それと、ほぼ同時だった。

 

 

「『“こうやって敵対してみると、艦娘というのは厄介なものですね”』」

 

 クレーターから濛々と昇る煙の中から、十重二十重に響きが折り重なった声が聞こえた。聞き覚えの在り過ぎる、恐ろしいほどに冷えた声だった。鳥肌が立つ。息が詰まる。戦闘態勢を取る不知火達の目の前で、クレーターから上る煙が不自然に渦を巻きながら薄れていく。

 

「『“忌々しいことです”』」

 

 薄れていく煙の中に、黒い提督服を着こんだ少年提督が居た。いつの間に、とは思わなかった。彼なら、何をやっても不思議じゃない。今の少年提督には、相対する者にそう思わせる神秘さと禍々しさが在る。

 

 象牙と琥珀の陰影を纏っている彼は、だらんと下げた右の掌の中に術陣を展開しており、その術陣と呼応するように、レ級や戦艦棲姫を守るように象牙色の結界が張られていた。大和と陸奥の砲撃を防ぎ、レ級達を護ったのだ。紫水晶のような眼を鬱陶しそうに細めた彼は、大和や陸奥、不知火や天龍、赤城、それに、他の艦娘達を睥睨している。今まで共に過ごしてきた時間の全てを否定するかのような、澄んだ敵意に満ちた表情だった。

 

 この場に居る誰もが怯むのが分かった。事情を知っている不知火ですら、自分の心を打ち砕かれるような思いだった。少年提督の額の右側には、白磁色のツノが生えている。それは、彼の傍に居る戦艦棲姫のものと似通っていて、少年提督が深海棲艦側の存在になったことを雄弁に物語っている。

 

「提督……。貴方は、何を……」

 

 怯みながらも、大和が少年提督を睨み返した。大和の声は低く落ち着いていながらも、確かな戸惑いが在った。何を目的として、今の状況があるのか。この戦闘の背後に、どのような真意があるのか。暗闇の中に目を凝らし、答えを探るような声だった。赤城と天龍が、手にした得物の切っ先を下げて、静かに姿勢を落とすのが分かった。すぐにでも飛び出せる態勢になっている。周囲の乱戦の音が響いてくる。

 

 大和に喉首を掴まれたままの重巡棲姫も、静かに視線を動かして少年提督を見た。不知火は言葉が出ない。余計なことを言うなと圧力をかけてくるかのように、ドローンが此方を見下ろしてきている。俯いた雷がぎゅうぎゅうと下唇を噛んで、血が出るほどに拳を握り込んでいる。

 

「『“見て分かりませんか? ”』」

 

 少年提督は、そんな不知火と雷を一瞥してから、すぐに大和に視線を戻した。

 

「『“これまで僕を散々に利用した挙句、お払い箱にしようとした“ヤツら”に……、いや、この社会や世界に、深海棲艦たちを操って復讐するんですよ”』」

 

 大和の戸惑いを足で退かすかのような、冷え切った残酷な声だった。彼は自身を取り囲んでいる艦娘達をもう一度見回しながら、吐き捨てるように言う。

 

「『“幼稚な表現かもしれませんが、比喩でも何でもなく、僕はこれから世界を破壊しようと思っています”』」

 

 嘘だ。彼は嘘を言っている。不知火は叫び出しそうになるのを堪える。天龍がブチブチと唇の端を噛み千切る音が聞こえた。雷が震える息を吐きだすのが分かった。上空では、艦載機と猫艦戦が縺れ合うようにして戦闘を繰り広げている。少し離れた位置にいる空母艦娘たちも、少年提督の存在に気付いている筈だ。彼女達は新たに艦載機を放ち、不知火達の援護をしてくれるだろう。制空権は奪われない筈だ。総力戦では引けを取っていない。だが、今の少年提督を前にすると、状況が好転するようには全く思えなかった。

 

「『“手始めに、鎮守府に残った人間も、……この鎮守府の周囲にある町村や、街の人々も、残らず皆殺しにしましょうか”』」

 

 他の艦娘達も息を飲む中で、「止めて見せます」と、艤装を展開する大和が、ぐっと姿勢を落とす。少年提督が張った結界ごと、彼とレ級達を吹き飛ばす気だ。場の緊張感が最高潮に達しようとする中、少年提督が一歩、大和に向かって足を出した。彼が歩きだした。彼の足元の地面が、ズシン……ッ! と沈む。

 

 彼が二歩目の足を出した時には、大和の隣に居る陸奥も、すぐにでも攻撃を行う気配に満ちていた。だが、大和と陸奥が砲撃を行うことは出来なかった。彼が三歩目で、大和と陸奥の少し背後に出現したからだ。いや、違う。大和と陸奥の間を、風のように通り過ぎて行ったのだ。何が起こったのか、不知火には理解できなかった。瞬間移動のように少年提督の姿がブレて消え、気が付けば彼の移動が終わっていたという感じだった。

 

「ぐぁ……つ!!?」

 

「う……ぐっ……!?」

 

 大和と陸奥が苦しげに呻き、膝をついた。

 

 見れば、大和の右腕が、肩と右胸の中心あたりから無い。引き千切られたかのように血が噴き出している。陸奥の左腕も同じような有様だった。少年提督だ。彼の右手には、大和の右腕が握られている。彼の左手には、陸奥の左腕があった。彼はすれ違いざまに、大和と陸奥の腕を千切ったのだ。大和の右腕に掴まれたままの重巡棲姫はそのまま少年提督の足元に転がり落ち、喉を摩りながら咳き込んでいる。少年提督が重巡棲姫を助けたのだと理解できた時には、少年提督は新たな術陣を展開していた。

 

「『“皆さんのことは鉄屑にしてから、深海棲艦に造り替えた上で徴兵してあげますよ”』」

 

 彼の纏う象牙と琥珀の霊気は、彼の足元に蹲る重巡棲姫の肉体を高速で再生させていく。体の傷や穴が塞がり立ち上がった彼女の腹部からは、艤装である二匹の大蛇がうねりながら生えてくる。レ級と戦艦棲姫も、再び戦闘態勢を取っていた。

 

「いざぁ! (レ)」

 

 首をボキボキと鳴らし、拳をゴキゴキと鳴らすレ級が笑う。

 

『Gurrrrr……!!』

 

 戦艦棲姫の艤装獣も立ち上がる。

 

 一方で、本来ならすぐに自己修復が始まる筈の大和や陸奥の肉体は、一向に再生していく気配がない。少年提督が何かを囁くように文言を唱えていることに気付く。彼が何らかの術式効果をこの場に齎していると見て間違いなさそうだった。恐らく、深海棲艦には活力を、艦娘には衰微を与えるような、世界中でも彼しか扱えない類の厄介な術式が。

 

 先程までの優勢があっさりと崩され、天龍が舌打ちをする。不知火が手にした連装砲を少年提督に向ける。片膝立ちの大和が、左腕で右肩を抑えながら、艤装の砲身を動かして少年提督に狙いを定める。大和の目は、まだまだ死んでいない。戦う意思を漲らせている。険しい表情の陸奥も同じく、艤装の砲口を少年提督に向けている。怯んでいた艦娘達も、自分の心を奮い立たせるように戦う意思を見せて、艤装を構えた。

 

「『“役に立たないガラクタ共め”』」

 

 そんな艦娘達を眺めて、少年提督は不愉快そうに鼻を鳴らした時には、不知火達の離れたところで轟音が響き、巨大な生き物の咆哮も重なって聞こえてきた。空母艦娘達の近くからだった。何が起こったのかはすぐに分かった。戦艦水鬼を含む他の深海棲艦達が、空母艦娘たちに迫ったのだ。滅茶苦茶な数の猫艦戦を空中に引き連れてきたヲ級と北方棲姫、それに、集積地棲姫と、彼女を守る位置に陣取るタ級とル級の姿もある。

 

 艦娘と深海棲艦が入り乱れる大乱戦だった。

 

 不知火の頭の芯が、焼けるように熱くなっていく。様々な感情が心の中に渦を巻き始める。だが、精神内部から突き上げてくるような激しい憎悪も悲哀も憤怒も、そのどれか一つを選び取る余裕は、今の不知火には無かった。目の前に少年提督が居る。不知火は、約束を果たさねばならない。

 

 まず動いたのは、大和と陸奥だ。

 少年提督に向けて砲撃する。大爆発が起きる。

 

 だが、少年提督は再び瞬間移動にも似た奇妙な移動方法でこれを避けつつ、大和の目の前に迫った。反応の遅れた大和の目の前に、少年提督の右の掌が在る。大和が目を見開いている。陸奥の方は少年提督に反応し、彼の動きを目で追っていた。大和のすぐ隣にいた陸奥は、片腕のままで少年提督に掴み掛かる。だが、肉体の再生を終えた重巡棲姫も、既に動いていた。陸奥に突進した重巡棲姫の動きは俊敏で、とにかく厄介だった。彼女は腹から伸びる艤装獣二匹を拳のように使い、大和を守ろうとした陸奥を跳ね飛ばす。

 

「くっ……!」

 

 陸奥は片腕で防御姿勢を取ってはいたが、かなりの距離を吹っ飛ばされて地面を転がる。重巡棲姫は、陸奥に追撃を仕掛けるべく、飛び掛かろうとしていた。だが、その重巡棲姫の動きを牽制したのは周囲に居た艦娘たちだ。陸奥を巻き込まない角度で重巡棲姫に砲撃を加える者と、陸奥の壁となって庇うように動く者が、連携した動きを見せる。彼女達の瞬間的な判断は流石で、復活したレ級と戦艦棲姫にも後れを取らずに応戦していた。

 

 この鎮守府の艦娘達が、其々に非常に高い練度を持ち、今までの経験を活かして成長する自我と意識を持っていたからこそ出来る、柔軟な対応だった。自分たちの攻撃の隙を埋め合い、相手の攻撃動作やタイミングを潰すように連携を取り、深海棲艦の上位種を相手に互角以上に立ち回っている。

 

 その中には陸奥だけでなく、大和を守るべく動く者も、当然居た。天龍と赤城だ。二人は陸奥を攻撃した重巡棲姫を無視し、少年提督を挟み込むように距離を詰める。不知火と雷も、手の中に錨を握り直しながら飛び出す。

 

 陸奥が重巡棲姫に吹っ飛ばされるのとほぼ同時のタイミングで、大和を解体しようとする少年提督の頸を狙っていたのは赤城だった。天龍も少年提督の心臓を目掛けて、刀剣型の艤装を突き出していた。二人の攻撃は、絶対に回避できないタイミングだった筈だ。だが、少年提督は再び煙のように消えて、この二人の攻撃を空振りさせた。次の瞬間には、少年提督は赤城に背後に出現し、その刹那、彼は日本刀を振りぬいた姿勢の赤城の背に左の掌を差し向けて何かを唱えていた。

 

「がっ、は……!?」

 

 血反吐を吐いて、赤城が吹き飛ぶ。少年提督の掌の中に術陣が閃き、赤城の艦娘装束の背中部分が渦上に破れていた。何らかの力の奔流が渦を巻き、眼に見えない巨大な弾丸となって赤城を撃ち抜いたのだ。赤城が前のめりに倒れるよりも先に、少年提督は再び瞬間移動していた。

 

「なっ!? 赤城っ!」

 

 崩れ落ちる赤城に気を取られた天龍の、すぐ横合いだった。彼は天龍の脇腹に掌を添え、また短く何かを唱えて、天龍を吹き飛ばした。それらは一瞬の出来事だった。瞬く間に赤城と天龍を処理した少年提督の懐へ、今度は不知火と雷が飛び込む。

 

「司令……ッ!!」

 

 艦娘という種族の中に、“不知火”という個人を刻む込む思いで、少年提督に向けた錨を振り抜こうとしたが、出来なかった。少年提督の姿が消えたのだ。次の瞬間には、傍に居た雷が「ぐぅっ!?」と、くぐもった呻き声をあげて地面に崩れ落ち、間髪入れずに、不知火の左の脇腹に衝撃が在った。身体が浮く。空中を移動する浮遊感と共に、肋骨と内臓が大きく軋むのが分かった。血を吐き出しながら地面に墜落し、転がる。

 

 回転する視界の中で、赤城や天龍が受けた攻撃を、不知火と雷も受けたのだと理解する。身体がバラバラになりそうな痛みはあるが、この程度では艦娘は死なない。破壊されない。生きている。少年提督が手加減をしてくれているのは間違いない。彼が本当にその気なら、今の攻撃だけで不知火はもう金屑と鉄屑に還っていたことだろう。だが、ダメージは大きかった。身体が上手く動かない。

 

「ゴホッ……!」と、血の塊を口の端から吐き出しながら、不知火が手を付いて何とか顔を上げた時には、地面を踏み砕いた大和が、少年提督に肉薄しようとしていた。肉弾戦に切り替えたのは砲撃の間合いを潰されているからだろう。少年提督が、赤城や天龍、それに雷や不知火を相手にする間に、癒されない傷を負ったままの大和も体を起こし、攻撃の機会を窺っていたに違いない。そうでなければ、あんな鋭い踏み込みは出来ない。

 

 右腕を失った大和は、肩口から流れ出る大量の血を巻き散らす勢いで、少年提督の側面に踏み込んでいた。巨大な艤装の重さをまるで感じさせない、超人的な運動能力と怪力を発揮する大和は、その勢いのままで右の回し蹴りを少年提督の側頭部に叩きこんだ。周囲の空気や建築物が震えるような打撃音が響く。

 

 間違いなく、大和の蹴りは少年提督の頭部を捉えていた。ように見えただけで、違った。迫ってくるような乱戦の音が、やけに遠くに聞こえた。

 

 不知火たちの方に体を向けたままの少年提督は、大和の蹴りを顔のすぐ左横の位置で、右手で掴むようにして受け止めていた。彼はビクともしない。詰まらなさそうに眉間に皺を寄せる少年提督は、視線だけで大和を見ながら、右の掌に微光を灯した。大和の右脚に、象牙と琥珀の光が伝う。すると、大和の右脚が崩れ始めた。砂で作った城にバケツの水を浴びせたかのように、ボロボロボロっと砕けて、零れ落ちていく。

 

 右腕に続いて右脚を失った大和は、その光景に一瞬の驚愕を見せた。だが、すぐに無表情に戻り、残った左脚で地面を蹴って、跳んだ。左腕だけで少年提督に組み付こうとしたのだ。大和の艤装の砲身は回転し、至近距離の少年提督に向けられていた。殆ど自爆に近い攻撃を仕掛けようとしている。

 

 不知火は黙って見ているしかなかった。それは、不知火と同じように、ダメージを受けた体を何とか起こしている状態の天龍や赤城、雷にしても同じだった。ただ、少年提督は、大和の捨て身の攻撃方法を赦しはしなかった。

 

 猛然と飛び掛かってくる大和を前に、少年提督が囁くように何かを唱えるのが分かった。次の瞬間には、大和の艤装に象牙色の亀裂が無数に入り、琥珀色の炎を上げて砕けた。大和の背中で蒼い火花が盛大に散る。大和と少年提督の距離は潰れている。大和の腕の中に少年提督が居ると言っていい距離だ。

 

 血に染まった大和の瞳には、艦娘としての正義を遂行する為の──、殺戮という使命を果たす為の、無私の決意が在った。そこに、少年提督が映っている。少年提督は鬱陶しそうな表情を変えないままで、掴み掛かってくる大和の左腕に、右の掌で触れる。今度は大和の右腕が爆ぜる。血が飛び散る。どういうわけか、大和の血飛沫は少年提督には全く掛からない。大和は両腕を失うが、それならばと、少年提督の喉首に噛みつこうとした。

 

 少年提督は体の軸をずらし、躱す。大和の歯が宙を噛む。ガチンッ!! 、とも、バツンッ!! 、とも言えない、低く、鳥肌が立つような音が盛大に響いた時には、少年提督は新たに短く文言を唱え、大和の左脚を“解体”していた。大和の左脚が砕け、崩れ落ちる。両腕両脚を失った大和が、ゆっくりと地面に倒れていく。その大和の首を、少年提督が右手で乱暴に掴み上げた。

 

「『“良い眼をしていますね”』」

 

 猫艦戦と艦載機たちが縺れて燃え上がる空から、ドローンがこの場を見下ろしている。少年提督は、乱暴に首を掴み上げた大和の眼を覗き込み、唇の端を酷薄そうに持ち上げた。

 

「『“機械のように無機質で生気が無い。兵器である貴女に、よく似合っていますよ”』」

 

 ただ、彼の目には大和に対する侮蔑や嫌悪に類する暗い光が蹲っているだけで、全く笑ってはいない。一方の大和は腕と脚を破壊されている状態だが、少年提督を冷徹に睨み返している。額から派手に出血している大和は、目や鼻や口からも血を流し、その顔は真っ赤でドロドロだった。見るからに満身創痍だ。これ以上に無いほどにボロボロだ。それでも、大和の眼は死んでいない。少年提督は無機質で生気が無いと言っていたが、違う。大和の眼は潤むような光を湛えながら、心の内にある激しい感情の動きを物語っている。

 

「今の貴方を、艦娘として……、見逃すわけには、いきません」

 

 首を掴まれた大和は、苦しげな声を絞り出す。

 

「例え、……貴方が、私達の提督であったとしても」

 

 大和の声に躊躇は無い。容赦も後悔も無い。怯えも無い。掠れながらも鋭く響く大和の声には、艦娘として果たすべき使命に、己の生命の全てを投入する覚悟が滲み、死を実践しようとする凛冽な気高さが在った。「『“ご苦労なことです”』」と、少年提督は嘲るように言って鼻を鳴らす。ついでに、右手で大和の首を更に締め上げながら、だらんと下げた左手の中に術陣を灯した。

 

「『“ですが、貴方は僕を殺せない。役立たずですね”』」

 

 少年提督は、左手の中に編んだ術陣によって、大和を破壊しようとしている。それが演技だと分かっている不知火にも、少年提督の冷酷な殺意は本物にしか見えない程に生々しかった。

 

「『“貴女の役割は、ここで終わりです”』」

 

 ドローンが見下ろすこの光景は、それを観測する者にとっては真実になる。この場に居る誰もが、何らかの役割を背負っている。戦っている。不知火も雷も、天龍も赤城も、乱戦の中にある他の艦娘達も、少年提督から大和を救い出そうとしている。意識を向けている。

 

 だが、ここに来て猫艦戦達が本来の俊敏さと獰猛さを発揮し、少年提督へと攻撃を加えようとする艦娘の動きを察知し、殺到している。重巡棲姫や戦艦棲姫、レ級、ヲ級も、猫艦戦達と同じく、少年提督の邪魔をしようとする艦娘達の行動を徹底的に締め上げ、妨害するために立ちまわっている。無論だが、戦艦水鬼も、集積地棲姫も、港湾棲姫も、北方棲姫もだ。彼女達は深海棲艦の上位種の力を存分に振るいながら、巧みに戦況をコントロールしている。

 

「『“では、さようなら”』」

 

 少年提督が、大和を解体・破棄する寸前だった。少なくとも、不知火達には、そういう風に見えるタイミングだった。

 

「あっ、待ってくださいよぉ! (刹那)」

 

 この乱戦の最中を縫うようにして駆け抜けてくる者が居た。途方もない疾さと身のこなしだった。ソイツが野獣だと気づいた時には、大和の喉首を掴み上げていた少年提督の右腕が、中ほどで切断されていた。港湾棲姫との戦闘から離れて、大きく劣勢になった此方に駆けつけてくれたのだろう。

 

 野獣は手にした二振りの刀のうち、右手に握っていた長刀を振り抜き、続けざまに、左手に握った太刀を袈裟懸けに振ったのだ。少年提督を右肩から左脇腹にかけて切断する太刀筋だった。だが、これは外れた。少年提督が再び瞬間移動したからだ。少年提督が掴み上げていた大和が地面に落下する。刀を握ったままの野獣が、その大和の体を腕だけで掬うように器用に抱き留めた。

 

 少年提督は野獣に反撃せずに、距離を取った。大和を腕に抱えた野獣もまた、少年提督に追撃を仕掛けなかった。二人は数秒の間、互いを見据える。少年提督の腕が再生していく。切断された提督服までが再生されているのは、何の冗談かと目を疑う。少年提督と野獣が、互いにアイコンタクトを取っている風には見えなかった。野獣の瞳が揺れて、僅かにだが動揺した様子だったからかもしれない。対する少年提督は眉間に皺を寄せ、静かだが不機嫌そうに鼻から息を吐き出している。

 

 当然だが、この数秒の間にも、不知火達の周囲では乱戦が続いている。不知火は体を起こし、立ちあがる。傍に居る天龍や雷、赤城も、ふらつきながらも戦闘態勢を取ろうとしていた。その隙をついて、重巡棲姫やレ級、戦艦棲姫を含む他の深海棲艦達が襲ってくる気配は無い。

 

 不知火は視線を巡らせる。

 

 周囲には爆風と砲撃音が重なり合い響いていた。戦艦棲姫と戦艦水鬼の艤装獣が吠え猛る大音声が混ざる。レ級の楽しげな笑い声も。重巡棲姫の狂暴な笑い声も。聞こえる。身体を突き上げてくるような衝撃。地面の揺れ。空気の振動。艦娘達の怒声。艤装が砕ける音。艦娘たち腕や脚が破壊される鈍い音。その傷が再生する気配。血の匂い。埃、煙の匂い。

 

 それら一つ一つが、この場の戦闘領域を作り出す要素だった。更に、長門や武蔵、霞、曙、ビスマルク、龍田を含む艦隊が、この場に合流してくる。空母艦娘達に強襲を仕掛けてきた戦艦水姫や集積地棲姫たちに対処する為だろう。深海棲艦化した瑞鶴も居る。まるで、ジグソーパズルのピースが嵌っていくかのように、この場の戦闘は順調に激しさを増していく。奇妙な話だが、深海棲艦上位種の戦闘力によって、この場の乱戦が整えられていくようにすら見えた。

 

 レ級や戦艦棲姫、重巡棲姫たちは、多数の艦娘達を相手に滅茶苦茶に暴れまわるのではなく、まるで舞台に上がった名優達が、観客の注目を意図した場所へと集める演出として、戦闘してみせ、立ち回っているかのようだった。その効果が表れているのだろう。この大乱戦の場に在っても、少年提督の周囲には神秘的な空隙と停滞が存在している。

 

 空を覆っていた雲が千切れながら流れ、薄れて、夕日が強く降ってくる。目の前の戦場が、淡い飴色に染まる。黙したままでこの世界を見下ろすドローンの眼下で、深海棲艦を率いて暴走する少年提督と、艦娘達と共に命を懸けて戦う野獣が対峙していた。

 

 野獣の腕の中には、護国の化身と謳われた大和が血塗れで力なく横たわっている。四肢を奪われた大和の姿は、少年提督と野獣の進む道が、明確に分かたれた“しるし”だった。同時に、強力な自己修復能力や耐久力を持つ大和が、再生も回復も出来ない程に衰微している姿は、これから訪れる未来に於ける艦娘の姿を暗示しているかのようでもあった。

 

「『“……こうも抵抗が続くと、鬱陶しくて仕方ありませんね”』」

 

 生死を分ける殺伐した戦場の中で、少年提督の居る場所だけは大霊堂のような厳粛な気配に満ち、少年提督の声が殷々と響き渡る。大和を庇うように抱えた野獣は何も喋らない。油断なく構えを保ち、じりじりと距離を離そうとしている。傷ついた大和を、この場から離す為だろう。野獣が手にした邪剣“夜”が、茜色を吸って鈍く光っていた。

 

「『“此処の艦娘も職員も皆殺しにするつもりではありましたが、そろそろ時間が惜しくなってきました”』」

 

 詰まらなさそうに眉間に皺を寄せて少年提督が、不知火と雷に視線を寄越した。彼の眼差しは、心臓が冷たくなる冷淡さに満ちており、不知火達を生物として見做していないかのような無機質さだった。

 

「『“そろそろ死ね”』」

 

 少年提督が動き出す。野獣に向けて、一歩、踏み出す。彼の足元の地面が陥没する。少年提督の内部から溢れる力が、重量となって顕現している。一人一種族である今の少年提督は、人間や艦娘や深海棲艦と比較しても、もはや生物としての格が違う。あらゆる規を超越し、突破した、人類の新たな敵だった。その少年提督が、また一歩、踏み出す。大和を抱えた野獣が、二歩分、下がる。

 

 戦闘に戻るため、不知火は体に力を入れ直そうとした。だが、胃から血の塊がせり上がって来て、吐き出す。少年提督から攻撃を受けた体内内部は、やはりと言うべきか、上手く再生しない。修復が出来ていない。大和と同じようにダメージが残り続けている。赤城に天龍、雷も、少年提督と戦うべく動こうとして、すぐによろけて膝をついていた。

 

 そんな不知火達に襲い掛かって来たのは、急降下してきた猫艦戦だ。なんてタイミングだと思った。ダメージを負った不知火達が、少年提督との戦闘に参加しようとするのを防ごうとしているのは明白だった。ただ、迫ってくる猫艦戦は、やはり無防備だ。それでいて攻撃の意思も感じられなかった。

 

 少年提督と不知火達の間を隔てるように、猫艦戦は次々と降ってくる。凄い数だ。不知火たちだけでなく他の艦娘も、無抵抗な猫艦戦の相手をせざるを得ない状況になる。ふらつきながらも、不知火は艤装を操り、猫艦戦達を撃墜しまくる。今は、それしかない。己の存在を証明する為に出来ることが、それしかないのだ。

 

 

「おおおおおおおおお──っ!!」

 

 戦う意思が心の中で空回りしている不知火達の代わりに、少年提督に飛び掛かっていく者が居た。不知火は、猫艦戦たちを相手取りながらも、少年提督と野獣の状況を見逃すまいと、視線を向けていたから分かった。乱戦のド真ん中を割って来た、武蔵だ。

 

 野獣と大和を砲撃に巻き込まないために違いないが、武蔵は少年提督に体当たりをぶちかましに掛かった。抜錨し、艤装を召んだ状態の武蔵の本気の体当たりは、ビルどころか要塞にだって穴を開けて打ち崩す威力を持っている。力比べで武蔵の改二に敵う者など、冗談抜きでこの世界に存在しない。不知火は今まで、そういう認識だった。だが、その認識を改めざるを得なかった。

 

「『“あぁ。武蔵さんですか”』」

 

 表情を変えない少年提督は、すっと片手を持ち上げると、その掌で武蔵のタックルを掌で受け止めて見せた。インパクトの瞬間。周囲の空間を激震させ、戦闘が一時的に止まるような衝撃と、一瞬の静寂が生まれた。不知火もよろけて後ずさってしまう。天龍と赤城が膝をつくのが見えた。雷がしゃがみこむ。他の艦娘も似たような様子だったし、深海棲艦たちにしたって、その迫力に気圧されて動きを止めていた。だが、野獣だけは大和を庇うようにバックステップを踏んでいた。

 

「『“……なんだ、思ったより非力なんですね”』」

 

 武蔵の体当たりを受け止めた少年提督の足元は、更に陥没している。だが、少年提督自身はビクともしない。武蔵は怯むことなく、すぐに姿勢を変えて少年提督に躍りかかった。武蔵の両手が、少年提督の喉と左腕を、彼が着込んだ提督服の上からガッチリと掴む。

 

「黙れよ……!!」

 

 武蔵は、捕まえた少年提督をそのまま、地面に引き倒すつもりのようだ。だが、やはりと言うべきか、少年提督は微塵も揺るがない。静かな面持ちのままで、必死な形相の武蔵を醒めたような眼で見ている。

 

「『“手加減してくれているんですか? その場違いな優しさも、いつもの天然ボケですか? ”』」

 

 平板な声で言う少年提督は、掴み掛かってくる武蔵の腕に手をかけ、圧し返すような姿勢を取った。

 

「ぐっ、おおおおおっ!!」

 

 それだけで、武蔵の態勢がガクンと落ちる。今度は武蔵の足元の地面が派手に陥没し、武蔵の下半身が埋まるかのような勢いだった。単純な腕力だけで、少年提督は武蔵を圧倒している。武蔵の腕の筋肉が爆ぜ、血が噴き出す。少年提督の纏う象牙と琥珀のオーラが、武蔵の傷を広げる。武蔵の傷は、やはり再生しない。少年提督と組み合う武蔵が力負けし、先に膝をついた。巨大な岩石を両手で支えるような姿勢になった武蔵に、少年提督が鼻を鳴らす。

 

「『“このまま圧し潰してあげますね”』」

 

「させんぞ!!」

 

 凛とした声が響く。武蔵と同じく、乱戦の中を突っ切って来た長門だ。改二となった長門は、少年提督を背後から羽交い絞めにする。戦艦長門の裸締めなどを食らえば、普通の生物ならそれだけで容易く圧死する。しかし、今の少年提督は涼しい顔で視線だけを動かし、背後の様子を探ってから、「『“今度は長門さんですか……”』」などと、面倒そうに鼻を鳴らす余裕さえある。

 

 猫艦戦を撃墜しつつ、不知火は戦場を視線だけで見渡して、気付く。長門に続き、少年提督に接近しようとしている艦娘達が、乱戦の中を進んできている。ビスマルクや龍田、それに瑞鶴、金剛、榛名などだ。彼女達の後方では、扶桑や山城、リシュリュー、ガングートなどの戦艦艦娘が、空母艦娘を守りながら、戦艦水鬼達と戦っているのが見えた。

 

 他の艦娘達を相手にする戦艦棲姫、重巡棲姫は、少年提督に接近する長門達の妨害には出なかった。あくまで、艦娘との戦闘を演出することに徹している。彼女たちは揺るがない。今の不知火達が、艦娘としての使命を果たそうとするのと同じく、深海棲艦である彼女達もまた“深海棲艦としての役割”を果たすために、命を燃やしているのだろうと思った。

 

 深海棲艦と艦娘が入り乱れる戦場に、巨大な“流れ”が出来ているのを感じる。その“流れ”は、乱戦の様相を呈しているこの場で、艦娘と少年提督を結び付けるシナリオだ。ゲーム盤の上で、必要な駒が要所に置かれるかのように、艦娘達が動いている。その一部に、春風の朝風の姿もあった。彼女達は、少年提督から少し離れた位置まで下がった野獣から、大和を抱き受けている。

 

 ただ、レ級だけは違った。乱戦の中で艦娘達の動きを縛り上げるような立ち回りから、明らかに動きを変えた。慎重に抱えていた大和を、春風と朝風に抱き渡した野獣へと標的を変えたのだ。再び野獣を足止めするためだろう。「死死死死!」レ級が、周囲に居る艦娘を尻尾の艤装獣でバッタバッタと薙ぎ払い、払い飛ばしながら野獣に迫る。レ級が纏う、象牙色と琥珀のオーラは、レ級の戦闘能力を大きく底上げしていることは容易に想像できる。以前のように、野獣がレ級を圧倒するのは難しいだろうと思えた。

 

「いやぁ、(まだ戦えるのは)うれすぃ~……! (レ)」

 

 大和を庇う姿勢の春風と朝風の盾になるべく、野獣が前に出た。

 

「いやぁ~、(冗談)きついッス……!」

 

 心底楽しそうに笑うレ級と、普段の余裕など一切無い野獣とのタイマンが始まる。「死ぬんじゃないわよ……!」と、大和を抱えた朝風が撤退しながら、切羽詰まった声で怒鳴るのが聞こえた。

 

 

「『“邪魔ですよ”』」

 

 その間にも、少年提督は長門への反撃に出ていた。

 

 少年提督はまず、眼の前で膝をついている武蔵に前蹴りをぶち込んで吹っ飛ばしてから両手を開けると、その両の掌で、背後から締め上げてくる長門の両腕に触れる。次の瞬間には、少年提督の掌が明滅した。解体施術だ。長門の腕が中ほどから崩壊し、鉄屑から錆が零れるように、力なく千切れ落ちた。

 

「ぐぅ……!」

 

 一瞬で腕を破壊された長門が、大きく後ずさった。大和のように攻撃を続行するのではなく、間合いを離すことを選んだのだ。少年提督はそれを逃がすまいと振り返り、象牙と琥珀の陰影を纏った掌を長門に伸ばそうとする。彼はまた瞬間移動でもするつもりだったのかもしれないが、それを阻むべく動いていたのは、榛名と金剛だった。

 

 二人は少年提督の両脇から挟み撃ちをするように距離を詰める。金剛は艤装を盾のように展開して、少年提督と長門の間に割り込みつつ防御姿勢を取った。少年提督が行使する凶悪な解体施術から、長門を守ろうとしたのだろう。一方の榛名は、背負う艤装を巨大なアーム状に変形させ、その艤装アームで拳を作って組み、少年提督に振り下ろす。

 

 金剛の防御と、榛名の攻撃は、姉妹艦ならではの息の合った連携だった。だが、今の少年提督にとっては、細やかな抵抗にしかならなかった。少年提督は右手をかざし、盾として展開されている金剛の艤装を容易く解体して粉々に崩しながら、殴りかかってくる榛名の艤装アームを左手で軽々と掴み止めた。次の瞬間には、金剛と長門に目掛けて、引っ掴んだ艤装アームをごと榛名を振り抜いて、叩きつけるように投げ飛ばした。榛名と激突した金剛が吹っ飛び、その榛名と金剛が更に長門を巻き込んで、また派手に吹っ飛んだ。乱戦の中に、新しい轟音が響き渡る。

 

 歴戦の艦娘達が次々と少年提督に挑み掛かり、その度に容易く処理されていく様は、まるで時代劇の殺陣で切り伏せられる小悪党の雑魚のようで、子気味よく、非現実的で、絶望的な光景だった。同時に、少年提督が艦娘達に徹底したトドメを刺そうとしない違和感も、この乱戦の中に紛れて、その不自然さを有耶無耶にしている。

 

 

「調子に乗るんじゃないわよクソ提督!!」

 

「何してんのよ! このクズ……!!」

 

 戦艦種の艦娘3人を一斉に処理した少年提督に、今度は、曙と霞も続いた。少し離れた位置から、二人は艤装を構えている。今の少年提督に周りには艦娘が居ないから、このタイミングなら砲撃を行えると踏んだのだろう。だが、そうはいかなかった。

 

「駄目です!! 曙!! 霞!!」

 

 次から次へと迫ってくる猫艦戦を撃ち落とし、叩き落としながら、不知火は叫ぶ。少年提督は羽虫でも見るかのような無感動な眼で、霞と曙を順に見て、小さく何かを唱えるのが見えたからだ。すぐに、霞と曙の足元に術陣が浮かび上がる。

 

「ぅえっ!?」

「な……っ!?」

 

 曙と霞が驚愕の声を上げる。同時に、その場に崩れ落ちた。操り人形の糸が切れるかのようだった。彼女達が展開していた艤装も、光の粒子となって不穏に霧散していく。原因は明白だ。象牙と琥珀色の微光を放つ術陣は、彼女達の艤装を強制的に解除し、同時に、“抜錨”状態も解除したのだ。霞と曙から、艦娘としての能力を強制的に剥奪している。

 

 それだけじゃない。曙と霞の腕や脚、頬や首などが、パキパキと音を立てて罅割れはじめた。極寒の地で凍った肉体と皮膚が裂けていくかのようだった。二人の体から血が噴き出す。あっと言う間に霞と曙が血塗れになって、彼女達の足元の地面が紅に染まる。その様は、真っ赤な蓮を彷彿とさせた。少年提督は、朗々と文言を唱え続けている。他の艦娘達の足元にも術陣が展開されていく。乱戦の中で、艦娘達が次々に血塗れになっていった。乱戦の砲撃音と破砕音に、艦娘達の悲鳴と呻きが混ざり合うさまは、八寒地獄の紅蓮を連想させる。

 

 猫艦戦の相手をする不知火の足元にも、術陣が開いた。近くに居る天龍や雷の足元にもだ。逃げられない。不味いと思った時には、視界が赤く染まった。脚から力が抜ける。水槽に穴が開いて、何の抵抗もなく中身が漏れ出していくように、不知火の身体から活力が消え失せていく。“抜錨”状態の強制解除だ。同時に、不知火の体中に亀裂が入る。バキバキ、パキパキと音が鳴る。無数の裂傷が出来てくる。不知火の肌と筋肉が容易く裂けていく様子は、淡い薄氷が割れて砕けるのに似ていた。身体中の傷から血が噴き出す。

 

 激痛に膝をつく。這い蹲り、奥歯を噛む。声が出ない。視界が揺れる。気を失う訳にはいかない。立ち上がらないと。まだ、猫艦戦が来る。襲ってくる。対処を。対処しなければ。それに、少年提督との戦闘を、続行しなければ。血でぬめる掌に、連装砲を握る力を籠めなおす。脚に力を入れる。視界が狭まってくる。傍に居る天龍や雷たちの様子は分からない。だが、不知火と似た状況であるのは間違いなかった。不知火が立ち上がろうとしたところで、上から無数の気配が近寄ってくる。猫艦戦どもだ。撃墜しなければ。だが、間に合わない。

 

 

 間に合わないと思った時には、頭上で炸裂音がした。艦載機が飛翔する音も。不知火を守るように、誰かが傍に走り込んでくる気配が在った。ドイツ語が聞こえる。3人分の声。ビスマルク。グラーフ。プリンツの声だ。彼女達が、不知火と雷、天龍のカバーに入ってくれたのだ。

 

 不知火はすぐには立ち上がれなかったが、ビスマルクに礼を述べて視線を動かす。その時にはもう、ビスマルクが少年提督に砲撃を行っていた。険しい表情をしたプリンツもだ。グラーフの艦載機が、不知火達の上空を制圧してくれている。つい先ほど、不知火に迫っていた猫艦戦を撃墜してくれたのが、グラーフなのだと分かった。ビスマルクの砲撃による牽制に続き、少年提督に突撃して肉弾戦を仕掛けたのは瑞鶴だ。

 

 更に、不知火達のカバーに入ってくれたのは、ビスマルク達だけでは無かった。扶桑や山城、アイオワなどの戦艦、それに巡洋艦娘の多くが、少年提督を取り囲むように動きながら、少年提督の術式によって血塗れになった艦娘たちを守りつつ、深海棲艦達を牽制している。空母艦娘達が制空権を奪い、彼女達を護っていた戦艦艦娘や巡洋艦娘、駆逐艦娘が、この乱戦に加わった。

 

 少年提督の攻撃によって再生しない傷を負った長門、金剛、榛名の3人のカバーに入ったのは、陸奥と比叡、霧島の3人だ。陸奥は長門を庇う位置に立ち、比叡と霧島が、金剛と榛名を抱えながら、砲戦を行っている。武蔵に肩を貸しているのは清霜で、その清霜を守るように、野分や磯風が周囲を固めていた。蹲る曙と霞をカバーしているのは陽炎だ。改二となった彼女は、迫ってくる猫艦戦を次々に撃墜しながら、すぐにでも曙と霞を抱え、この場を離れるポジションを維持している。

 

 不知火は仲間の活躍を頼もしく思いながらも、ようやく立ち上がる。赤く染また視線を巡らせると、息が詰まった。誰もが戦っている。艦娘と深海棲艦として、この状況を引き剥がせず、在るべき姿であるために死力を尽くしている。主張も哲学も無い戦場だが、潮の流れが変わるかのように、この場の乱戦の状況が大きく変化しようとしている気配を感じた。

 

 傍若無人な力を振るう少年提督は、変わらず艦娘達を圧倒している。だが、深海棲艦達に対しては、艦娘達が優勢になりつつあるのだ。明確に、南方棲鬼や重巡棲姫を含む深海棲艦達の攻勢が緩んでいた。それは、最後まで戦うことを放棄しなかった艦娘達の力が、深海棲艦達を凌駕しようとしているようにしか見えない。その実相が、予め用意されていたシナリオ通りに、深海棲艦達が手を抜いていたのだとしても、そんなことは舞台裏の話だ。この戦場をリアルタイムで観察している“世間”から見れば、全く関係が無い。

 

 重要なのは、艦娘たちが人類の為に戦い、深海棲艦を圧し始めているということだ。空母艦娘たちが制空権を取った上空を、2機のドローンが長閑に飛行しながら、この凄惨な戦場を見下ろしている。豪奢なオペラ会場の上層階から、優雅に観劇を楽しむかのようだった。状況が変化するという事は、シナリオの進行に必要な役者が、舞台に出揃ったということなのだろう。

 

「『“……役に立たないガラクタどもめ”』」

 

 深海鶴棲姫としての力を十二分に発揮する瑞鶴を相手取りながら、少年提督が周囲を見回し、劣勢に回った深海棲艦たちを順に見てから、鋭い舌打ちをするのが分かった。残忍な少年提督の声をドローンが拾っている。もう片方のドローンが、二振りの刀を駆使し、レ級と渡り合う野獣の姿を、ドローンが見下ろしている。

 

 少年提督の声が合図だったのかのように、一瞬だけ名残惜しそうな表情を見せたレ級が、野獣から逃げるように距離を取ろうとした。戦闘の最中に恐れをなし、野獣に背を向けて逃げ出すような、隙だらけで芝居がかった動作まで見せた。そこを、摩耶を含む他の艦娘達に攻撃を受けて、レ級が倒れる。レ級の体の半分が消し飛ぶ。尻尾の艤装獣が吠える。

 

「(ノД`)あかんもう勘弁してぇ! (レ)」

 

 半べそをかきながら肉体を再生させるレ級は、追撃を仕掛けてくる野獣から逃れるべく、起き上がると同時に逃げ出す。一対一で戦っていた野獣の強さや、この戦場の艦娘達の優位を大袈裟に主張するかのようだった。間合いの外へとレ級に逃げられた野獣は、何かに思い至ったのかのように眉間に皺を寄せ、上空に悠々と浮かぶドローンを見上げようとして、やめた。代わりに、野獣が少年提督へと体を向けた時だった。

 

「『“本当に皆さんは、僕の邪魔ばかりしますよね”』」

 

 瑞鶴の殴る蹴るの攻撃を躱していた少年提督が瞬間移動し、瑞鶴から少し離れた位置へと姿を現した。間髪入れずに、瑞鶴は出現した少年提督へと再び飛び掛かろうとしたが、はっとした顔になって動きを止める。申し訳なさそうな表情を浮かべた少年提督が、ドローンには見えにくい角度に俯いてから、瑞鶴に片目を瞑ったのだ。アイコンタクトだ。一瞬の出来事だったが、少年提督の挙動を注視していた艦娘達は、彼のウィンクを見た筈だ。瑞鶴の隣に、野獣が並ぶように前に出る。野獣も奥歯を強く噛みしめているのか、その頬が強張っている。

 

 レ級が少年提督の傍へと駆け寄り、不知火達に向きなおった。位置的に、深海棲艦であるレ級を率いる少年提督と、艦娘達を率いる野獣の構図が、再び浮かび上がる。ドローンから表情を隠すようにフードを深く被り直したレ級は、雷を見ている。膝立ちになっている雷が息を呑むのが分かった。レ級が、仲の良い友人と別れる子供にも似た、寂しげな笑みを湛えていた。今にも此方に向かって手を振り出しそうな、健気な笑みだった。

 

 その隣で、少年提督は周囲の乱戦を見回す。深海棲艦達は自分たちの劣勢を演出しつつも、少年提督の周囲に空隙を作るよう、相変わらず巧みに立ち回っている。不知火も少年提督を見詰める。不自然な静止状態が続いた。誰も動かず、少年提督の動きを待つ時間があった。本当に演劇の最中にいるかのような錯覚を覚える。

 

「『“僕は、皆さんのことが大嫌いですよ”』」

 

 彼の声は、不知火達を突き放すような残酷さが在った。少年提督は、忌々しいものを見る目になって周囲を見渡し、艦娘たちを順番に見ていく。

 

「『“皆さんは、ただの道具であり、兵器ですよ。何を必死に人間ぶっているんですか? ”』」

 

 乱戦の中にある艦娘達の一人ひとりにも、彼は具に視線を向けていた。不自然なほどに、少年提督の言葉が届く範囲と、激しい乱戦が繰り広げられる領域は重ならない。深海棲艦達が、そうなるように立ち回り、戦場をコントロールしているからだ。

 

「『“ただの道具でしかない皆さんが、まるで人間と対等な存在のように振舞って僕に接してくることが、酷く自尊心に障るんですよね”』」

 

 自身の思想や信条にそぐわない者に対する憎悪を滲ませた彼の言葉は、社会の表でも噂されているブラック鎮守府や、その鎮守府を運用、支配する過激派の提督達の存在を強く匂わせる台詞だった。誰も、何も言えず、少年提督の言葉を聞いている。彼は、本営の持つ裏の顔を、ドローンを介して世間に垣間見せようとしているのだ。瑞鶴が下唇を強く、強く噛み、少年提督を睨んでいた。

 

 この乱戦は既に、艦娘と深海棲艦との戦いではなくなっている。

 

 人間社会の上流階級に巣くう闇が呼び起こした今回の騒動は、少年提督を深海棲艦化させ、更には深海棲艦をすら支配可能にする冒涜的な奇跡を作り出した悲劇として語られることになる。同じように、この悲劇を鎮めるために戦う艦娘達と、その艦娘達と肩を並べて命を張る野獣の姿もまた、歴史の中に残り続けるだろう。

 

 少年提督と野獣提督。

 この二人が居なければ、今の構図は成り立たない。

 

 少年提督の体から溢れる象牙と琥珀色のオーラは、彼の肩から後ろに、高貴な仏像のような光背を象り始める。同時に、この戦場に風ならぬ風が吹いた。オーロラのように揺らめく光の波が、不知火達を優しく撫でていく。確かな暖かさを含んだ光は、途方もなく強力な治癒と沈痛の力を帯びていた。血塗れの不知火の体から痛みを取り除きながら、活力を漲らせてくれる。

 

 それは、巨大な施術式の効果に違いなかった。少年提督の両の掌には、複雑な術陣が浮かび上がっている。彼の術式は、この戦場全てを包み込む規模で構築され、乱戦のなかにある全ての艦娘を対象に取っていた。艦娘の誰もが回復と活力を得ていた。彼が展開する術式は、先ほど負傷した大和、武蔵、長門、陸奥、それに金剛や榛名にも効果を齎している筈だった。

 

 だが、不知火の体には出血痕がそのまま残っているため、傍から見ただけでは、回復と修復の程度は分からない。この場に居る者だけが、癒されていく自身の肉体や、痛みが和らいでいくのを認識できる。ドローンからこの戦場を見ている者には、何が起こっているのかは理解できない。それもまた少年提督の狙い通りであり、この展開が彼の描いたシナリオなのだろう。

 

「『“皆さんの人間性を世間にアピールする仕事は、苦痛で仕方ありませんでしたよ”』」

 

 不知火の隣で、血塗れの顔をした雷が、涙と嗚咽を堪えているのが分かった。膝立ちになっている天龍が、震える息を肺から絞り出している。泣きそうな顔のビスマルクが、ぶるぶると肩を震わせて浅い呼吸をしている。頬を引き攣らせたグラーフの視線が揺れている。打ちのめされたような表情のプリンツが、首を緩く振っていた。どうしようもなく陰鬱で重苦しい空気が、この場に居る全員を圧し潰すようにして包んだ。

 

 少年提督は、艦娘の誰も殺していない。

 もしも彼が本気であれば、大和たちは既に破壊されている。

 この場に居る誰もが、もう気付いている筈だった。

 

「『“まぁその分、大勢の艦娘を用いた人体実験は、とても良いストレスの解消になりましたがね。艦娘の精神を隷属させて体を切り刻んでいる時は、随分と気が安らぎました。これこそが僕の天職だと思いましたよ。僕の居場所は此処に在ったんだと。この世界や社会が、僕の人生を肯定してくれるかのような幸福が在りました”』」

 

 少年提督は、本心とは反対のことを言っている。ドローンが彼の言葉を余すところなく拾い、世間に向けて発信している。誰も、何も言えない。艦娘たちを睨んだ少年提督だけが、黒々とした嫌悪と侮蔑を乗せて言葉を紡いでいく。

 

「『“それなのに皆さんと来たら、まるで家族のような距離感で僕に接してくるんですから。……気持ち悪いんですよ。殺戮の道具の癖に、僕の幸福感に水を差してくる皆さんの事が、鬱陶しくて、大嫌いで、もう顔も見たくもありませんでしたよ”』」

 

 この場に居る艦娘達の体から痛みを取り除き、出血を止めて傷を癒す為に編まれた術式と、その術式を展開している少年提督自身の言葉が全く結びつかない。

 

「『“僕は、いつもいつも、皆さんが出撃する時には、適当に沈んでしまえばいいと思っていたのに。毎回毎回、全員が無事に帰投してくるのも辟易しました。皆さんさえ居なければ、僕は提督という立場から離れて、各地の研究施設を回って、好きなだけ艦娘を使って人体実験を行えたというのに”』」

 

 野獣がじっと少年提督を見詰めている。

 瑞鶴が涙を零し、少年提督を睨んでいる。

 

「『“この鎮守府に居る限り、僕は皆さんのような能天気な艦娘に囲まれ、艦娘の人間性をアピールする行事を続けなければならないと思うと、もう本当に、不幸のどん底に突き落とされるような気分でした。この鎮守府が、『花盛りの鎮守府』なんて揶揄されるのも、自分自身で滑稽でしたね”』」

 

 少年提督はそこで一瞬の間を置いた。それから、周囲の艦娘たちを改めて見回しながら、クソデカ溜息を吐き出して見せる。

 

「『“えぇ、もう、僕が世界で最も不幸だと思うほど、最悪な日々でしたよ”』」

 

「言いたいこと言ってくれるじゃない……っ!!」

 

 辺りを包む重苦しい空気に穴を開けたのは、気の強そうな可憐な声だった。その声は、震えながらも灼熱の感情に溢れていた。少年提督が、声がした方を見る。誰もがその視線の先を追った。見れば、陽炎に肩を支えられて立つ曙が、ボロボロと涙と鼻水を流しながら、少年提督を睨みつけていた。

 

 曙は不知火と同じく、少年提督の展開した治癒術式の影響下に居る。だから曙は血塗れではあるものの、その体の傷は癒え、痛みも止まっている筈だ。だが、血に染まった真っ赤な顔の曙の瞳は、潤みながらも爛々と燃えている。

 

「私だって、アンタのことなんて世界で一番、だいっキライよ!! 私はね、全然、これっぽっちも、アンタのことを家族だなんて思ったことも無いし、感謝なんて微塵もしてない!!!」

 

 曙の声は、この戦場に良く通った。曙に肩を貸す陽炎も、涙を堪えるように下唇を噛みしめながら少年提督を見据えている。命を燃焼させる勢いで、曙は叫ぶ。

 

「皆、みんな、そうなんだから!! アンタのことを家族だなんて思ってる艦娘なんて、一人も居ないわよ!! いっつもヘラヘラして、なに考えてんのかわかんないアンタなんて、さっさとどっか行けば良いのにって、ずっと思ってたんだから!!」

 

 血塗れのままで震える大声を張り上げる曙は、自分の言葉に、全身全霊で祈りや願いを込めるかのようだった。周囲の艦娘たちが、涙を堪えきれなくなった。曙の声に引き摺られる。立ち上がろうとしていた霞が、泣きながら崩れ落ち、肘と膝をつき、嗚咽を漏らしている

 激しい乱戦の音の中にも、悲痛な嗚咽が混じり始める。ドローンが、静かに此方を見下ろしている。

 

「アンタと一緒に過ごした時間は、私にとっても、苦痛でしょうがなかったわよ!! 最低最悪の日常だった!! それも今日で最後だと思うと本当に清々するわ!! アンタこそ、もう、どこか遠いところで適当に死んじゃえばいいのよ!! このクソ提督!!!」

 

 自分を痛めつけるかのように、自分の喉を焼くように、曙は叫び続ける。

 

「死んじゃえ!! バカ!! チビ!! お喋りウンチ!! 死ねぇ!! 死ねぇーッ!!」

 

 最後は、「アンタなんて、どっかに行って、もぅ、死んじゃえぇ……」と、嗚咽に飲まれて言葉になっていなかった。自分の魂を吐き尽すかのような曙の言葉に、少年提督に向けられた懸命な想いが籠めれているのは不知火にも十分に分かった。不知火は、この“劇”の終わりが近づいているのを感じていた。視界が揺れる。目の中に溜まりそうになる涙を拭う。

 

「曙の言うとおりよ。私も、貴方を提督だと認めたことは一度も無いわ」

 

 不知火の傍で艤装を構えるビスマルクが、冷淡な声で言い放つのが聞こえた。不知火の位置からでは、ビスマルクの表情が見えない。ただ、頬が引き攣っているのが見えるだけだ。グラーフとプリンツは何も言わない。艤装と臨戦態勢を取ったままで、呼吸を震わせている。他の艦娘達も同じだった。不知火も、言葉が出なかった。言いたいことは、曙が殆ど言ってくれたからかもしれない。深海鶴棲姫の姿をした瑞鶴が涙を拭い、自らの影を踏みしめるように前傾姿勢を取っている。

 

 この乱戦が、終息に向かおうとしている。不知火は血で赤くなった視界に目を凝らす。少年提督を見据える。身体に力を籠めると、“抜錨”状態になることが出来た。艤装も召べる。血でぬめる掌に、連装砲の重みと感触を確かめる。自分が艦であることを心に刻み付ける。息を吸う。空が晴れていることに気付く。夕日が差している。

 

「『“……言いたいことは、それだけですか? ”』」

 

 うんざりした表情をした少年提督は、曙の言葉を一蹴するように鼻を鳴らした。

 

「いや、まだあるゾ(岐路に立つ友へ)」

 

 姿勢を落とした野獣が、二振り刀の切っ先をすっと下ろしながら、構えを取る。

 

 

「『“僕に勝てるとでも? ”』」

 

 少年提督は不機嫌そうに言う。

 

「馬鹿野郎お前、俺は……」

 

 野獣が表情を変えずに、一歩前に出た。不知火も、一歩前に出る。傍で泣いていた雷が立ち上がり、戦闘態勢を取り直した。殆ど同時に、天龍も刀剣型の艤装を杖のようにして立ち上がった。天龍が一番泣いている。不知火は洟を啜る。血の味がした。涙を堪える。これが最後だ。周りに居る艦娘達も立ち上がり、戦う意思を見せる。それを見計らったかのように、乱戦の範囲が、再び不知火達を飲み込もうとした。戦艦水鬼、戦艦棲姫を含む深海棲艦の上位種や猫艦戦たちが、不知火達の方に急接近してきたからだ。

 

「……いや、“俺達”は勝つぞお前(黎明への道)」

 

 力を籠めた声と共に、野獣が飛び出す。瑞鶴も、ビスマルクも、それに、他の艦娘たちも乱戦の中に入っていく。少年提督が展開していた治癒術式の御蔭で、不知火達の体は既に復活し、大きな活力を漲らせている。天龍も雷も、陽炎も曙も霞も、皆、自らの正義を示すかのように此処に居る。だが、死闘と言うには、この乱戦が終息に向かっていくのは呆気なかった。

 

 南方棲鬼や重巡棲姫が、まず扶桑や山潮、アイオワなどの砲撃によって大破し、この場を撤退していく。海へと逃げるつもりのようだ。それを追おうとする艦娘たちには、港湾棲姫や北方棲姫、ヲ級の艦載機がワラワラと群がり、追撃を妨害した。艦載機を操る彼女達も、徐々に埠頭へと後退しており、この場を離れるつもりのようだ。自分の仕事は此処までだと言わんばかりの集積地棲姫と、彼女を守るべく強固な盾として存在していたタ級、ル級も大破し、埠頭へと撤退し始めている。戦艦水鬼と戦艦棲姫も、従えた艤装獣に守られながら防戦に追い込まれており、もうこの場の勝敗はほぼ決していた。

 

 深海棲艦達が自ら撤退するために、やはり意図的に劣勢を演出しているだけだろうが、間違いなく、この騒動の終わりが近づいてきていた。少年提督も追い詰められている。野獣と瑞鶴が、少年提督を圧倒し始めている。いや、少年提督が手加減しているだけだ。不知火と雷、天龍は、もう反撃すらして来ないレ級に対して、砲撃を加えている。怯えるように頭を抱えて逃げ惑うレ級が、一瞬だけこっちに顔を向けた。レ級は楽しそうに、しかし、寂しそうに笑っている。

 

 レ級にダメージは無い。こちらの攻撃が碌に効いていない。でも、効いているフリをしている。ドローンが見ているからだ。深海棲艦が、艦娘に撃退される映像を提供する為だ。レ級が雷を見ながら、フードの奥で唇を動かすのが見えた。「好きなんでした(レ)」と言ったのが分かった。雷が呻きながら、砲撃をさらに加える。まだ、レ級はフードの奥で唇を動かす。

 

 天龍、ち●こちっちゃい(レ)

 

「生えてねぇっつってんだろ!!」

 

 天龍が泣きながら叫ぶ。砲撃を加え、刀剣型の艤装で斬り付けるが、レ級は怯えたフリをしながらも、これをひらりと躱す。ついでにレ級は、不知火の方を見て唇を動かした。

 

 元気でな、須藤さん(レ)

 

「いえ、不知火です」

 

 涙を堪える不知火が、レ級にそう言い返した瞬間だった。

 

 野獣と瑞鶴が視界に飛び込んできた。正確には、めちゃくちゃな勢いで吹っ飛んできた。もっと正確に言えば、少年提督によって吹き飛ばされて来た。レ級に体を向けていた雷が、なんとか瑞鶴を受け止める。瑞鶴には下半身が無かった。少年提督による特殊な攻撃だからか、その体が再生していない。苦しげに呻く瑞鶴は口の端から粘土の高い血を吐きながら、泣いている。その瑞鶴と雷を目掛けて、3体の猫艦戦が飛んでくる。不知火がそれを即座に撃墜した。戦いは終わっていない。

 

 天龍は反応が遅れ、野獣と激突して一緒に吹っ飛び、地面を転がっていた。天龍はすぐに手をついて起き上がる。それに続いて野獣も起き上がろうとしていたが、無理そうだった。野獣の右腕と左脚が無い。根元が千切れ飛んでいる。その時にはもう、レ級が乱戦の中に消えた。逃がしたと思っている暇は無かった。レ級と入れ替わる形で、時雨と鈴谷が飛び込んでくる。二人は天龍と野獣を守るように立ちながらも、野獣の傷を見て息を呑み、すぐに少年提督を睨んだ。あの二人が、あんなに憎悪を籠めた眼で、少年提督を見る日が来るなんて思わなかった。

 

 本当に、今日で最後なのだ。

 

 不意に、不知火の脳裏に、“何のために自分は戦っているのか? ”という問いが響いた。いつも胸の内にあった暗い残響が、答えを求めて意識の表面に上り、それに呼応するかのように、姿勢を落とした少年提督が、不知火に迫って来ていた。

 

 少年提督が何かを唱えている。詠唱している。だがそれが、不知火に攻撃を加えるものでも、不知火の行動を妨害する為のものでもないこともすぐに分かった。少年提督が紡ぐ文言は、少年提督自身の肉体に亀裂を入れている。彼は、不死となった自分の肉体を解体しようとしているのだと思った。思いながら、戦闘に入る。

 

 少年提督は、ここで死ぬつもりなのだろう。いや、死ぬというよりも、消滅するといった方が正しいのかもしれない。不知火に、彼を助ける術はない。少年提督を助けることなど、この世界の誰も願ってはいない。誰からも望まれない。誰からも赦されない。

 

 ドローンを介してこの戦場を目撃している世間の人々からの憎悪や恐怖、忌避、敵意といった感情は今、うねりと飛沫を上げて、少年提督の小さな両肩に轟轟と降り注いでいる。少年提督の優しさなど、誰も知らない。そんなものなど見向きもされない。少年提督は、この場で、不知火によって撃滅されることによって正しく、彼自身の役割を全うすることになるのだと分かった。

 

 感傷に浸る間もなく、少年提督が不知火に殴りかかってくる。だが、明らかに動きが遅い。鈍い。不知火は、少年提督の拳を軽々と避ける。躱し、反撃する。手にした連装砲で、少年提督の側頭部を殴りつけた。少年提督がよろける。彼の側頭部が裂けて、その横顔が血に染まった。だが、彼は倒れない。不知火に攻撃をさせるためだ。彼を殺すのが、不知火の使命だ。

 

 “何のために、戦っているのか”

 その答えを、不知火は、ようやく得た。

 

 この瞬間の為に、不知火は戦って来た。この場所に辿り着くために、不知火は戦ってきたのだ。ドローンが、不知火と少年提督を見詰めている。今の不知火と少年提督は間違いなく、世間といったものよりも、もっと巨大なものを相手にして戦っている。

 

 その相手は“未来”であり、いつか人々の常識や価値観を飲み込み、遥かな時間の流れに乗せて持ち去っていく“歴史”だ。

 

 人間至上主義の社会によって綿密に仕組まれた“結末”であり、人間が優位に立った深海棲艦との戦争において新たに訪れようとする残酷な“時代”だ。

 

 それら全てが、少年提督が抱き続けた理想に、道を譲る瞬間が来ようとしている。少年提督や不知火達の人生が、この景色に重なろうとしている。今日が終わっても、不知火たちの人生は終わらない。その続きを生きなければならない。不知火は、少年提督から貰った人生の為に、今の少年提督を否定しなければならない。

 

 

 深海棲艦たちが海へと撤退し、乱戦が止みつつある。

 レ級が暴れまわる轟音が、やけに遠くに聞こえる。

 

 不知火が少年提督の顔面を殴りつける。彼がよろけて、数歩下がり、膝をついた。彼はもう立ち上がらなかった。象牙と琥珀色のオーラを纏った彼は膝をついたままで、不知火を見詰めている。彼の傷は治らない。それどころか、彼の肉体が崩れ始めている。彼自身が、己の肉体を解体しつつあるからだ。だが、傍から見ればその姿は、不知火たち艦娘の力が、超常的な力を備えた少年提督の野望を凌駕したように見えるだろう。

 

 夕日が暗くなろうとしている。陽が沈んでいく。

 

 深海棲艦化した少年提督は、明確な害意と悪意を持ち、この社会に対して、容赦なく殺戮と破壊を齎そうとしている。少なくとも、世間の人々はそう思っている。彼がそう演じている以上、傍観者で居られる者など、この世界のどこにもいない。

 

 不知火は、連装砲を少年提督に向ける。

 

 今の彼は、深海棲艦よりも厄介な人類の宿敵だった。彼が世界に解き放たれるということは、彼が、この“舞台”から客席に飛び込んでくるということだ。客席に居る者達は、この鎮守府の艦娘達が彼を撃滅してくれることを祈っている。今この瞬間も、不知火によって遂行される完全な正義を願い、縋っている。不知火は世界を呪いそうになる。その視界を洗うように、涙が溢れてくる。もう自分の顔もボロボロだろう。

 

 少年提督は、まだ何かを唱えている。彼の纏うオーラが渦を巻きながら周囲に吹き荒れ始める。彼のオーラが空に伸びていく。海鳴りが聞こえ始める。彼が詠唱する文言に海が応え、海もまた無限に重なる波音で彼を呼び合う。誰かが、「空が……っ!?」と叫んだ。視線だけで空を見て、不知火は呼吸を忘れた。雲が走り去った後の夕空いっぱいに、この世界を覆いつくさんばかりの巨大な術陣が描き出されていたからだ。光の線が幾重にも複雑に重なり、それが精密機械の回路図のように張り巡らせている。術陣の光の帯は遥か彼方の空の果てまで続き、不知火達を見下ろしている。

 

 不知火には、空に描き出された術陣が何を意味しているのかまでは分からない。だが、この世のありとあらゆる常識や法則を粉砕しかねない規模であることは分かる。何かが起きようとしている。だが、焦りは無かった。この場で少年提督が行う事には何らかの理由があるのだろうし、もう、不知火に出来ることなど一つしかないのだ。不知火は、連装砲を持つ左手に力を籠める。左手の薬指にある結魂指輪を想う。色んな感情が溢れて、どれを選び取れば良いのか分からない。ただ、少年提督と共に過ごしてきた時間が心に過る。

 

 残忍な野望を追い、人間性を使い果たした少年提督が跪いている。その少年提督に裏切られても尚、己の正義を貫き、涙を流す不知火が連装砲を構えている。世間が求める完璧な景色は、不知火が少年提督を撃滅することで、ようやく完成する。多くの艦娘と深海棲艦と、それに、野獣、少女提督、少年提督……、全ての者達が命を燃やして作り上げた、この鎮守府のジオラマは、どのような祝福と警笛を鳴らしながら、今の時代を破壊するのだろう。

 

「司令……」

 

 不知火は、涙声で少年提督を呼ぶ。

 

「『“何でしょう? ”』」

 

 血塗れの彼は、不知火をねめつけるように顔を上げた。誰にも理解を得られない彼の存在が、悔しくて堪らない。不知火は、散り散りになってしまいそうな意思の力を、心のなかで搔き集める思いで、言葉を紡ぐ。

 

「恨みますよ」

 

 少年提督の、いや、曙の真似をして、言葉の裏にメッセージを籠める。ドローンが見下ろす中で、彼に伝えられる言葉など多寡が知れている。それでも、不知火はどうしても伝えなければならないと思った。

 

「不知火は、貴方を恨む」

 

 少年提督は一瞬だけ泣きそうな表情を浮かべたが、すぐに冷酷そうな悪人面を作って鼻を鳴らした。

 

「『“ざまぁみろ”』」

 

 少年提督が言う。空に描かれた術式が、燃え残る夕日の光を吸いながら燦然と輝きだす。吹き消えようとする灯が最後に強く揺らめくように、レ級が暴れている。陽が沈む中で、不知火達を見下ろしながら新たな“時代”が立ち上がろうとしている。決着の到来を告げるように、不知火の連装砲が吼えた。

 

 

 

 

 








いつも読んでくださり、ありがとうございます!
暖かな感想や高評価、誤字報告などで支えて頂き、本当に感謝しております。

駆け足な感じになってしまいましたが、何とか完走を目指して頑張ります……。
内容について不自然な点、また、描写不足が感じられる点などありましたら、御指導いただければ幸いです。修正させて頂きます。

皆様も体調を崩されぬよう、どうかお気をつけ下さいませ。
今回も最後まで読んで下さり、本当にありがとうございます!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

花盛りの鎮守府へようこそ

 

 

 

 

 

 

「今日も平和ね~……」

 

 執務室にソファの上で仰向けに寝転んだ少女提督が、皮肉交じりに言うのが聞こえた。先程、執務机の上に積まれた書類の殆どを片付けて休憩に入った彼女は、手に新聞を持ち、ぼんやりと紙面を眺めている。

 

「平和なら良いことじゃない」

 

 今日の秘書艦である霞は、彼女にコーヒーを淹れながら答える。彼女は甘いコーヒーが好きだ。いつものように、角砂糖を3つとミルクを用意する。カップから昇るコーヒーの香りを、窓から吹いてくる柔らかい風が揺らした。今日は晴れている。心地よい風だった。肩越しに少女提督を見ると、彼女は眠そうな眼をして、欠伸を噛み殺していた。ここ最近は徹夜が続いているからだろう。

 

「眠いんだったら、ブラックにする?」

 

「ブラックは苦いよ。甘いヤツが良いな」

 

 霞がソファテーブルにコーヒーを置くと、身を起こした彼女は小さく笑顔を浮かべて、「ありがと」と礼を述べてくれた。ただ、彼女の声には疲労の色が浮かんでいる。

 

「仕事はある程度片付いたんでしょ?」

 

 言いながら、霞もソファに腰掛ける。少女提督は読んでいた新聞紙をソファテーブルに置いてから、カップを手に取った。

 

「うん。霞の御蔭で、溜まってた書類は処理できたかな~」

 

 一口だけブラックのままのコーヒーを啜った彼女は、苦そうに顔を歪めたあと、すぐに角砂糖を3つとミルクをコーヒーに投入した。「ブラックなんて、何処が美味しいのかしら」などと呟きつつ首を傾げ、スプーンでカップを掻き混ぜる少女提督は、大きな難題を前にしたかのような不可解そうな表情をしている。その様子がなんだか可笑しくて、霞は少しだけ笑った。

 

「あれ? 霞の分は?」

 

 少女提督が顔を上げる。霞は肩を竦めて見せた。

 

「私は、あんまり喉も乾いてないから」

 

「そうなの? じゃあ、お腹とか空いてない? お菓子でも探して来ようか?」

 

「そこまで秘書艦に気を遣わなくても良いわよ」

 

「いや、何か申し訳ないわね。私だけコーヒー用意して貰って」

 

 どこか窮屈そうに言ってから、少女提督は甘くなったコーヒーを一口啜って、ソファに凭れ掛かって大きく伸びをした。パキパキと骨の鳴る音が、彼女の首や肩から軽く響いた。デスクワークで体が硬くなっているのだろうと思い、「マッサージでもした方が良い?」と、霞が両手の指をにぎにぎと動かして見せると、少女提督は小さく笑った。

 

「いいっていいって。霞こそ、そんなに気を遣わないでよ」

 

 少女提督は凭れていたソファから体を少し前に倒し、またコーヒーを一口啜った。執務室に寛いだ雰囲気が流れる。霞は、少女提督がソファテーブルに置いた新聞を手に取ってみた。一面には、読者の不安をたっぷりと煽るように「深海棲艦の出現率、更に増加」という文字が大きく踊っていた。記事の文を目で追うが、特に目新しい情報はない。『依然として深海棲艦の数は増えてはいるが、海に近い町々や重要なシーレーンの安全は、艦娘達の活躍により強固に守られている』といった旨の内容だった。

 

「……多分だけどさ、その記事、本営が書かせたんでしょうね」

 

 少女提督が胡散臭いものを見る目で、霞の手の中にある新聞を見ていた。

 

「“深海棲艦の数は減ってないけど、我々には艦娘が居るから大丈夫! 安心して下さい! ”っていう、世間に対するアピールよ。きっと」

 

「そう言われてみれば、なんか恩着せがましい感じがする」

 

 霞は苦笑しながら、新聞をパラパラと捲ってみる。他の紙面でも、深海棲艦の発生率増加に関わる記事が続いていた。出そうになる溜息を飲み込む。紙面に目を落としながら「……確かに、今日も平和ね」と、思わず皮肉を込めて零してしまった。コーヒーを啜っていた少女提督も、小さく肩を竦める。

 

「まぁ、こういう本営の情報操作も、人や国を落ち着かせるのに必要なんでしょうけど」

 

「実情を正直に書いたら、世間が大騒ぎになるわよ」

 

「恐慌まで引き起こしたりして」

 

 軽く笑ってから少女提督がカップを置いた時、また風が吹いてきた。

 

「今日は天気も良いわね」

 

 窓の外に向けられた彼女の眼は、自身の記憶を振り返るように動きを止めていた。霞も少女提督の視線を追いように、窓の外を見た。突き抜けるような蒼い空が見える。雲も無い。飲み込んだ筈の溜息が、無意識に漏れていた。瞳が潤んでくる。それが涙にならないように堪えるのにも、もう慣れた。霞はゆっくりと瞬きをしてから、嫌みったらしい程に青い空の向こう側に、生々しい感触の残る記憶を辿る。

 

 

 少年提督が暴走事件を引き起こして2年経つ。

 

 

 あの事件の後、世間は大きく揺れた。なにせ、深海棲艦から自分たちを守ってくれる筈の艦娘が、深海棲艦化する現象を目の当たりにしただけでなく、人間の中から深海棲艦化する者まで現れたのだから、人々の動揺は大きかった。

 

 テレビのワイドショーでは少年提督の暴走事件を連日取り上げ、多くのコメンテーターが熱の籠った議論を交わしていた。ほぼ全てと言っていいニュース番組でも、深海棲艦の研究を専門とする者や、他国の“提督”なども呼ばれ、艦娘の深海棲艦化についての意見が飛び交った。本営はと言えば、これらの深海棲艦化現象については今まで確認できておらず、そういった公式の記録は全く無いと、一貫して主張した。つまり、自分たちも初めて遭遇した事態であり、真相の究明に努めるという姿勢を取り続けた。要するに、シラを切ったのだ。

 

 

 無論、本営は世間から強烈な批判を浴びることになった。そんな中で、『艦娘を社会から隔離し、兵器としての完全な品質管理の下で運用すべきだ!』という意見も、世相の中から挙がり始めた。『あの深海棲艦化した瑞鶴を解剖して、ことの真理を解明しろ!』、『いや、解剖実験を行うなら、あの鎮守府の艦娘全員だ!』などと言う過激な声もそれに続いた。人々の安全を守ると言う名目のもとで力と熱の籠ったそれらの意見は、世間の人々の良心を押し流してしまいかねない勢いが在った。

 

 

 ただ、艦娘達の尊厳を蹂躙することを厭わない、こういった意見に対して『今まで命懸けで戦ってきてくれた艦娘達に対して、そんな卑劣な掌返しが在るか!』と、真っ向から対立する集団が現れた。以前、この鎮守府の秋刀魚祭りの時に協力してくれた漁師達だった。艦娘達を“モノ”として扱う風潮が出来上がることを阻止すべく、彼らが各地の漁師たちを集めて本営に直訴しに向かった時には、大きなニュースとして取り上げられた。

 

『艦娘の嬢ちゃん達に、どれだけの人間様が救われたのか理解できないヤツなんて居ないだろ!』『助けて貰ったら、恩を返すのが人の道だろうが! それを、利子を付けて恩返しするどころか、奴隷みたいに管理するだと?』『おい、ふざけるんじゃねぇぞ! そんな事をしてみやがれ! 人間なんて滅んだほうがマシだったって、歴史の中で証明しちまうことになるぞ!』『じゃあどうすんだ? 決まってるだろうが! 今から、俺達全員で考えるんだよ! 嬢ちゃん達が命を懸けて戦って来たように、俺達も命懸けで、知恵を出し合うんだよ!』『部外者なんて地球上に一人も居ねぇぞ! 何もかも、こっからだろ!? 俺たち人間がよぉ、艦娘の嬢ちゃん達に何が出来るのかを真剣に考えるのは、此処からが本番だろうが!』『それを放棄して、艦娘の嬢ちゃん達の未来に蓋をしようとするんじゃねぇ!!』

 

 取材しに来たカメラに取り囲まれた漁師たちが、レンズに向かって指を突きつけて、そう叫んでいたのを思い出す。彼らは一人一人、霞にも見覚えのある顔をしていた。誠実さと使命感を帯びた彼の言葉は、浮足立った世間の人々の弱り切った心を強く叩いた。まるで熱した鉄に重たいハンマーを振り下ろしたかのように、彼らの言葉は加熱していく世論を打ち据えて火花を散らし、様々な議論を呼び起こして火をつけた。

 

 ただ、漁師である彼らの言葉が真摯な重みを伴い人々に届いたのは、マスコミ関係者や憲兵を、身を挺して守った瑞鶴や雷たち、それに、私情に流されることなく少年提督の撃滅を遂行した不知火の徹底された正義が在ったからであり、人々の味方であろうとした、この鎮守府の艦娘達全員の姿が在ったからこそだった。

 

 

 一方で、国中の憎悪や忌避の感情が最終的に流れ込んだのは、やはり少年提督だった。

 

 本営は、少年提督が過去に指揮、指示したとされる冷酷無比な作戦や人体実験の内容を精密に調査し、公表することを、世間の人々から求められた。そうして表沙汰になったのが、少年提督自身が準備していた記録書類の山だった。記録の中では、艦娘の精神を隷属させる精神支配術式の理論をはじめ、捨て艦法などの非道な戦術や、思考や自我を砕いた艦娘を奴隷として売買するといった非道な行為は、少年提督が先頭に立って行っていたということになっている。

 

 数々の記録から見えてくる少年提督は、『普段は温和で優しく、道徳の主体として艦娘たちの人格を社会全体にアピールしているが、実は裏で多くの艦娘たちの肉体を解体し、精神を破壊し、そこから得られる利益を貪る魔人』であったし、実際に今の世間にはそう認識されている。だから、あの暴走事件が起きる直前にマスコミが挙って取り上げていた艦娘売買についても、少年提督が関わっていたのは間違いないとされている。

 

 そして何よりも人々の忌避感と恐怖を煽ったのが、暴走した少年提督が、“深海棲艦の徴兵”を可能にする術式を扱っていたことだった。あの事件の日も、少年提督が深海棲艦を完全にコントロール下に置いて艦娘達と対立していたのは、国中の人間が目撃している。人類の宿敵を率いる者が現れたという事実は、社会の中に大きな波紋を呼んだ。第2、第3の“少年提督”が現れる可能性を、人々は恐れた。

 

 本営はこうした人々の恐怖を取り除くべく、バラバラになった少年提督の死体を回収し、それが再生も復活もしないことを確認した上で、『深海棲艦の精神制御は、あの少年提督だけが扱えるもので、他の人間が使いこなすのは不可能である』と、すぐに発表しているものの、信用されているとは言い難いのが実情だった。

 

 社会の中で渦巻いた少年提督と本営に対する、こうした義憤や疑念の大きさはそのまま、艦娘達に対する人々の罪悪感に繋がった。艦娘達に行われてきた非道な行いをどのように詫びて、どうやって向き合っていけばいいのかを考える時代が訪れようとする気配が在った。ただ、そんな悠長で暢気な時代は、実際には訪れなかった。

 

 その理由は単純で、少年提督の暴走事件以降、深海棲艦の発生率が世界中で跳ね上がったからだ。深海棲艦の目撃情報や発生情報が、激戦期の頃を上回る勢いで増えて増えて増えまくっていく様子を見れば、人類の優勢が容易く覆されるのは誰でも予想できた。

 

 深海棲艦という目に見える脅威が、その勢力を増していくのを敏感に感じとった人々にとっては、もう少年提督が暴走した真相を追求する場合では無かった。艦娘達が深海棲艦化するリスクを考慮した上での、新しい艦娘の運用構造を検討することも、その構造を社会の中で安全に実践する為の法整備を行う余裕も、当然のことながら無くなっていった。人類優勢であった時には余裕綽綽であった本営も、急激に勢力を増していく深海棲艦に対しては、鎮守府を前線基地とした今までの艦娘運用の形態を維持するのが精一杯だった。

 

 そんな中で、更に問題が立ち上がって来た。新しい艦娘の召還が、どの鎮守府でも殆ど不可能になったのだ。ほぼ同時期に世界中で起きたこの現象は、隠匿するには余りにも大き過ぎる問題だった。どの国の軍部も世間に隠す努力はしたものの、呆気なく露見することとなった。この時期は、激戦期の頃に人々が抱いていた絶望が、社会の中で明確に蘇っていた。焦燥と不安が一気に広がり、恐慌寸前だったあの頃の世間の空気は、今でも霞は鮮明に思い出せる。

 

 そこまで来てようやく、人々は根本的な原理に立ち戻った。

 

 深海棲艦に、人類は対抗できない。艦娘に頼らざるを得ない。人類には、艦娘しか居ない。例え艦娘が深海棲艦化する可能性を秘めていたとしても、艦娘に縋るしかないことに改めて気付いた。歴史の裏側で虐げられてきた艦娘達に、護って貰うしかないのだと。結局、人類優位のあとに訪れた“新しい時代”は、深海棲艦を撃滅した人類が、艦娘という新たな種を、人間社会の中へと導いていく共存の時代などではなかった。

 

 全くの逆だ。

 

 勢力を増していく深海棲艦の脅威に怯える人類が、艦娘達の前に跪き、赦しと庇護を請う時代になったのだ。今や艦娘は、社会的な意識の上で、人間よりも“上”に位置している。

 

 

「そう言えば、今日よね。コロラド達が此処に着任するのって」

 

 ぼんやりと窓の外を眺めていた少女提督が、思い出したかのような声を出して霞を見た。

 

「えぇ。彼女達が到着するのは、まだ時間はあるけど」

 

 霞は答えながらソファから立ち上がり、秘書艦用の執務机に置いたままだったファイルを手に取る。そこから今日のスケジュールを取り出して、少女提督に手渡した。

 

「一日の予定を把握しきれてないなんて、珍しいわね」

 

 言いながらソファに座り直した霞に、「研究所と執務室で交互に徹夜すると、曜日感覚が狂ってくるのよね」と、少女提督は生意気そうな苦笑を浮かべた。弱音も吐かない強かな彼女に良く似合う、ニヒルな笑みだった。

 

「深海棲艦の研究にも火が付いてるものね。……やっぱり、向こうも忙しい?」

 

「まぁね。優秀な“助手”達にも逃げられちゃったし」

 

 コーヒーを啜った少女提督は、去って行った誰かを懐かしむような表情になった。彼女の言う“助手”達が、集積地棲姫や港湾棲姫、それに、戦艦水鬼などであることは、霞にも分かった。

 

「もう2年経つけどさ、あの時にドローンで集められた映像を提供してくれっていう話はまだまだ在ってね。今まで用意していた資料と一緒に、纏めないといけなくてさ。これが膨大な量でね~……。ホント、猫の手どころか、深海棲艦の手でも借りたいところよ」

 

 彼女達を思い出しているのだろう少女提督は、遠い眼差しでコーヒーカップを見詰めている。その優しい沈黙に誘われた霞も、“姫”や“鬼”クラスの深海棲艦達が、秘書艦見習いとして職務をこなしていた日常を思い出す。最後まで霞たちと戦っていたレ級が、去り際に残して行った能天気な笑顔が印象に残っていた。そこまで昔のことでもないのに、やけに懐かしく感じるのと同時に、寂しさが胸の内側を掠めた時だった。

 

 執務室の扉がノックされた。

 

「ん、空いてるわよ」

 

「失礼する」

 

 扉を開けて入って来たのは日向だった。手に分厚いファイルや書類の束を持っている彼女は、ソファに腰掛けてコーヒーカップを手にしている少女提督と、新聞を手にした霞を交互に見た。それから、肩を竦めるようにして笑みを浮かべる。

 

「休憩の邪魔をしてしまったようだな」

 

「別に構わないわよ。仕事も大方終わったし」

 

 全く悪びれずに言う日向に、少女提督はひらひらと手を振って見せた。

 

「そうか。野獣に比べて、仕事の速いことだ」

 

 落ち着いた笑みを湛えた日向は、手にした書類の束やファイルを少女提督に手渡す。「ん、あんがと」と礼を述べる少女提督は、コーヒーカップをソーサーに一度置いた。彼女は手渡された書類の束にパラパラと目を通し、ファイルを開いた。中には写真が並んでいる。そのどれもが、あの暴走事件の日に撮影されたドローン映像のものだと分かった。写真には注釈がびっしりと付いており、少年提督が扱った深海棲艦コントロール用の術式を解析しようとする為の書き込みが並んでいた。

 

 それを確認している少女提督は、詰まらなさそうな顔だ。用意している研究資料が、あまり価値を持たないことを理解しているかのようだった。どれだけ研究結果を積み上げても、少年提督の持つ生命鍛冶や金属儀礼の奥義を汲み尽くせる者など居ないだろうことは、恐らく、少女提督が最も理解しているに違いなかった。

 

 日向たちの持っていた端末にインストールされていた少年提督のAIは、端末ごと破壊されている。彼女達自身が、その事件が終わったすぐ後に破壊したのだ。少女提督が管理していたAIも沈黙したまま自己崩壊を起こしていると聞いた。少年提督にまつわる全てを回収しようとした本営も、彼の分身であるAIの回収までは間に合わなかった。少年提督の真意を知る者は、この世に残っていない。

 

 少年提督と過ごした時間が頭を過りそうになって、霞がゆっくりと瞬きをしながら、想起されそうになる想い出を頭の中から追い払おうとした時だった。ソファテーブルに置かれたコーヒーカップを見詰める日向が、「……いい香りだな。霞が淹れたのか?」と、興味深そうな表情を浮かべていることに気付いた。

 

「ええ。そうだけど。アンタにも淹れてあげようか」

 

 冗談半分で霞が言うと、「ん、いいのか?」と日向は嬉しそうな声を出した。こういう落ち着きのある無邪気さや人懐っこさは、日向の魅力の一つだろう。少女提督が、霞と日向の遣り取りを眩しそうに見詰めながら、細く息を吐きだすのが聞こえた。

 

「前から言いたかったんだけど、アンタ達って仲良いわよね」

 

 手にしたファイルをソファテーブルに置いた少女提督が、微笑みを浮かべながら言う。日向は霞を一瞥してから少女提督に向き直ると、「ふふん」と鼻息まで聞こえてきそうな表情を作り、胸を張って見せた。

 

「あぁ。まぁな。羨ましいだろう?」

 

「仲良くは無いわよ」

 

 霞は半目で日向を見遣る。「えっ」と日向が意表を突かれたように霞を見た。

 

「私からすれば親友と言って差し支えない距離感だと思うんだが」

 

「いや、何処がよ? 私とアンタの間、めちゃくちゃ壁あるでしょ?」

 

「なにを馬鹿な」

 

 遺憾そうに言う日向の態度が、どこまで本気か冗談なのか分からない。霞との言い合いを楽しんでいる風情すらある。霞が不味そうに顔を歪めると、「そういう風にお互いに遠慮の無いところとか、仲良さそうに見えるんだけどな」と、コーヒーを啜った少女提督が苦笑を見せた。

 

 以前、霞が日向に人質として利用され、目の前で少年提督を殺されかけたこともあるのは、少女提督も知っている。だから、今の霞と日向に距離感の中に、かつては敵対していた者同士が、互いに手を取り合う瞬間を目撃するような感慨を抱いているのかもしれない。ただ霞自身も、日向のことを憎み続けるほどの情熱を持てなかったのは事実だ。それは霞だけではなく、他の艦娘達にしても同じだったことだろう。

 

 この2年間の時間は、激戦期を超えるほどに濃密だった。少年提督を失ったことを悲しむ暇すらなかった。深海棲艦の爆発的な急増は、平和ボケしかけていた人間社会を激しく動揺させた。その巨大な揺らぎに否応なく飲まれた霞たちには、少年提督と過ごした時間を思い、あの時、あの頃にこうしておけばと、暗い後悔をゆっくりと味わう余裕は無かった。ただただ海へと出撃し、深海棲艦達を退けるだけの毎日だった。

 

 艦娘としての使命を帯びた戦闘の日々は、霞たちの心の時間を無理矢理に押し進めてくれた。海の上で艤装を操っている時は、余計な思考が追い出されていた。戦闘は選択の連続だ。選ばれたジュースを正確に吐き出す自動販売機のような、感情を伴わない冷徹な判断と思考は、虚無感と虚脱感に苛まされる霞の心を埋め尽くしてくれた。“艦娘としての自分”が、“個人としての霞”の心を支えてくれたのは間違いない。少年提督との日々を思い返し、懐かしみながら、自分自身の心に空いた穴をゆっくりと埋めるように悲しむことが出来るようになったのは、本当に最近になってからだ。

 

「……お代わりは?」

 

 ソファから立ち上がりながら少女提督に訊くと、彼女は「お願いするわ」とカップを渡してくれた。霞が日向と少女提督のコーヒーを用意している間、少女提督は日向と、何やら話をしている。内容についてはよく聞こえなかったが、断片的に聞こえてくる単語から、近いうちにある大規模作戦についてだろうことが分かる。

 

 少年提督の暴走事件の少し前に、日向や川内、神通の3人が、“この鎮守府で召還された艦娘”であるという記録も捏造されていたのは分かっている。この3人は事件の後、他の鎮守府に転属する予定だった。少年提督からは、そういう手筈になっているのだと彼女達も告げられていたらしい。

 

 ただ、未来を予見していた筈の少年提督の計算がどこで狂ったのかは定かでは無いが、日向達を受け入れる筈だった鎮守府、と言うか、“過激派”の提督の殆どが蒸発してしまったのだ。本営や“黒幕”たちの思惑が絡んでいるのだろうが、とにかく日向達は行き場を失い、結局、この鎮守府の所属し続けることになった。

 

 最初の頃は日向や川内、神通のことを危険視する艦娘は多かったものの、彼女達の練度や強さを疑う者は居なかった。事実として、海の上で彼女達の活躍に助けられた艦娘も少なくなかった。命を預け合う時間が続くなかで、彼女達にまず歩み寄ったのは龍驤だった。他者を恐れず侮らない龍驤が間に立つことで、日向達と他の艦娘達との距離は縮まりながらも、余計な摩擦を生まない程度の適切な距離感へと収まっていった。

 

 

 

 

 

 

「うむ。やはり、霞の淹れるコーヒーを、……最高だな」

 

 霞の隣に座った日向はコーヒーを一口啜ってから、ご満悦な様子で言う。

 

「それはどうも」

 

 素っ気なく答える霞は、横目で日向を見る。あの襲撃事件の夜も、日向とはこうして隣り合って座っていたのを思い出す。あの時の霞は人質であり、日向は襲撃者だった。少年提督を脅すために霞の太腿を握り潰して来たのは、目の前に居る日向で間違いはない。未来視の力を持っていた少年提督は、今の鎮守府の景色すらも見通していたのだろうか。

 

「どうした? 私の顔に何か付いているか?」

 

「別に……。ただ、アンタも変わったなと思っただけ」

 

「そうだな。人は変わるものだ」

 

「前は自分のことを道具だ何だのと言ってた癖に」

 

 この日向に見られる変化は、かつての赤城に似ていると時雨が言っていたのを思い出す。人間性を獲得したというよりも、元々備わっていた感性が花開き、感情を覚え、日々の些末なことにも楽しみを見出していく成長を経験していると言ったほうが正しいのかもしれない。

 

「2年あれば、考え方だって変わるさ。まぁ……」

 

 コーヒーを片手に目を細めた日向はそこまで言って、テーブルの上の新聞紙を手に取る。日向が見ている記事の一つには、今の艦娘達の社会的な立場における内容が書かれていた。『ブラック鎮守府の根絶』の文字が付随した記事だ。写真も載っている。そこに目を落としていた日向は軽く鼻を鳴らし、新聞紙をソファテーブルに軽く放る。

 

「世間の方では、考え方だけでなく身の振り方も変えざるを得ない者も、少なくなかったようだ」

 

 自嘲的な笑みを薄く浮かべた日向は、何かを思い出す目つきになって窓の外に顔を向ける。霞は視線だけで新聞紙の記事を見た。此処に載っている『ブラック鎮守府』というのは、かつて日向が所属していた鎮守府なのではないかと言う考えが頭を過る。日向の言う身の振り方を変えざるを得ない者というのは、ブラック鎮守府の提督なのか、それとも、以前の日向のように、ブラック鎮守府という過酷な環境を望んだ艦娘たちのことを差すのかは判然としなかった。

 

「どの鎮守府の運営にも民間の眼が入るようになって、影でコソコソするのは難しくなったからね。最近は、それぞれの鎮守府の過去の運営状況の調査も始まって来てるし」

 

 少女提督が、日向の持ってきた書類にもう一度目を通しながら言う。

 

「艦娘達に過酷な運用を強いてきた提督連中にとっては、戦々恐々として夜も眠れない時代になったでしょうね」

 

「政府や軍部が絡んでくる類の悪徳を、あの少年提督は表に引き摺り出したんだ。しかも、その殆どが艦娘に関わる内容だったからな。そういう時代になるのも必然と言える」

 

 落ち着いた低い声で言う日向は、窓の外へと向けていた視線を少女提督へと移した。

 

「本来なら絶対に露見しないような軍部の裏側まで、これでもかと明るみに出てきたからな。実験材料や木偶にした艦娘の正確な数は発表されていないが、艦娘に護って貰わねばならない人間達にとっては、さぞ居心地の悪かったことだろう」

 

 日向の低い声音には、少年提督への敬意を払いつつ、人間至上主義が崩壊しつつある今の世間の様子を意地悪く揶揄するような響きが在った。「でしょうね」と、日向の視線を受け止める少女提督は肩を竦めて見せる。

 

「つまり、あの少年提督が招き入れた時代は、人間の罪悪感を刺激する時代というワケだ」

 

 日向は言いながら、また何かを考えこむように視線を落とした。「……酷い言い草ね」と、霞は鼻でも鳴らしてやろうと思ったが、上手く出来なかった。話題に挙がった少年提督の存在感は、今でも霞の心を動揺させる。

 

「彼がどんな未来を視てたのかは知らないけど、まぁ……、深海棲艦を容赦なく撃滅して、艦娘達まで吊るし上げて搾取するような時代が来るよりは100倍マシよ」

 

 お代わりしたコーヒーを一口だけ啜った少女提督は、日向と霞を見比べてから、ふっと微笑んで見せた。疲れが色を付けたその微笑みには、頑張り過ぎて体を壊した同僚を思い出すような、やるせなさに満ちていた。

 

「あの少年提督は私達にも言っていたよ。いや、正しく言えば、彼のAIだがね。『人間が覇道と進化を窮める道では、その人間性が形而下に引き摺り下ろされてしまう』と」

 

 黙り込んでいる霞の代わりに、緩く息を吐き出した日向が口を開いた。

 

「艦娘を用いた人体実験や捨て艦法で死んでいった艦娘達は、表向きには『艦娘の報国』という形でしか知らされなかった。少年提督が居なければ、彼女達の悲劇は秘匿されたままだったろう」

 

 本心を語る顔つきの日向は、少女提督の方も、霞の方も見ない。カップの中に揺れるコーヒーを見詰めたままで、滔々と言葉を紡いでいく。

 

「あの少年提督が、あらゆる悪徳の黒幕として泥を被ってくれたお陰で、無残に使い捨てられた彼女達にも意味が与えられたんだ。存在すら無かったことにされていた彼女達の無念が、歴史の表に出てきたことは人々の心を少なからず動揺させた。罪悪感を呼び起こしたのも間違いない。今の時代を作り出した一因になっている筈だ」

 

 日向は肩の力を抜くような息を漏らし、少女提督と霞を見た。

 

「決して救われることの無かった彼女達の魂にも、あの少年提督は手を差し伸べたのだと、私は思っている。まぁ、少々好意的過ぎる解釈かもしれないが」

 

「別に良いんじゃない。アイツの行動をどう捉えたって」

 

 少女提督が何かを言う前に、霞は眉間に皺を寄せて言葉を滑り込ませる。

 

「アイツが何を考えてるか分からないなんて、今に始まったことじゃないし」

 

 まるで、今も彼が何処かで生きているかのような口振りになってしまったのは、霞の精神や感情に流れる時間が、2年という時間の経過に追いついていないからかもしれない。少年提督の話題がこれ以上挙がるのを拒みたいわけでは無かったが、霞は自分の表情がどんどん不機嫌になっていくのが分かった。

 

 それが、泣き出すのを我慢するときの自分の癖であることは、少年提督が居なくなったこの2年の間に気づいた。横隔膜が震えて、鼻の奥がツンとしてくる。呼吸が揺れて、涙の気配が混じりそうになる。不味いと思うのと同時だったろうか。日向の懐から軽い電子音が響いた。

 

「ん、すまない」

 

 日向は携帯端末を取り出して、画面を確認した。メッセージが届いていたようだ。日向が端末を操作している間に、霞はそっと洟を啜り、何事も無かったかのように薄く息を吐く。沈黙が訪れる執務室の空気を擽るように、また緩い風が吹いてきた。少女提督は窓の外へと視線を向けている。今の霞の様子に気付かないフリをするためだろうが、今は有難かった。そのうち、日向を懐に仕舞った日向が、カップに残っていたコーヒーを名残惜しそうに啜ってから、「御馳走になった」と手を合わせて、ソファから立ち上がった。

 

「誰かから呼び出しても在った? 何か問題でも起こしたんじゃないでしょうね?」

 

 少女提督が冗談めかして言うと、日向は笑みを堪える顔になって緩く首を振った。

 

「何も問題は無い。龍驤からのメッセージだ。“たこ焼きを焼くのを手伝って欲しい”と在った。何でも、コロラド達を迎える為の宴会を開くと、急に野獣が言い出したらしくてな。そうなると、『龍驤特製のたこ焼き』は外せないという話になったそうだ」

 

「宴会って……、どこで?」 

 

 霞は眉間に皺を寄せながら日向を見上げた。

 

「この鎮守府を修繕した時に、広々とした“庭”を勝手に野獣が作っただろう? 食堂の裏手の、あそこだ。執務は殆ど片付いていないが、会場の設営と料理の下準備はほぼ完璧らしい」

 

「そういう段取りだけは良いのよね、野獣」

 

 感心と呆れが半々程度に混ざった顔で、少女提督が小さく笑った。宴会の準備自体が出来ているということは、間宮や鳳翔、伊良湖たちには前もって話を通しておいて、妖精さん達には会場を作るための資材を渡していたという事だろう。

 

「前から思ってたけど、あのバカってさ、提督とかじゃなくてイベント業界とかの方がよっぽど適正あるんじゃない?」

 

 霞は投げやりに言う。

 

「そうかもしれないな。だが、野獣ほど、この鎮守府の提督に相応しい男も居ないだろう」

 

「言えてるわ」

 

 他人事のように笑った少女提督に対して、「もちろん、貴女もだ」と、日向は嫌味の無い微笑みを見せる。少女提督は一瞬だけ微妙な表情を浮かべたが、何も言わず、すぐに肩を竦めた。日向はもう一度、霞にコーヒーの礼を述べてから執務室を後にして、龍驤の手伝いに向かった。少女提督と霞の二人になる。また少しの間、沈黙が在った。新しい“日常”の時間が流れているのを感じる。少女提督が欠伸を漏らした。

 

「それ飲み終わったら、仮眠でも取ったらどう?」

 

 感傷に流されたくなくて、ワザと声の調子を軽くしたようとして、失敗した。声が揺れる。今の鎮守府には、確かに新しい“日常”が流れている。あれから2年経った。それでも、霞の心の中には瘡蓋が疼くような悲しみが残り続けている。その悲しみ自体が、『人の味方であって欲しい』という少年提督の願いを遂行し続ける霞という“個人”を、保証してくれているようにも思えた。

 

「そうしようかなと思ってたけど、今寝ちゃうと、起きられそうにないわ。顔だけ一回洗ってこようかな」

 

 少女提督は渡されたスケジュールと腕時計を順番に見てから、また大きく伸びをした時だった。窓の外から、また暖かな風が吹き込んできて、執務室の空気をゆっくりと掻き混ぜた。迷い込んだ風は執務室を温めながら、すぐに外へと走り去っていく。疲れを恐れない無邪気な子供が、元気よく走り回り、すぐに別の場所に興味を惹かれて、飛び出して行くかのようだった。少し遅れて、桜の花びらが舞い込んできて、ソファテーブルに置かれた、写真ファイルの上にふわりと落ちた。

 

 少女提督が執務室から出ていく。執務室に残された霞は、テーブルの上に桜の花びらに手を伸ばし、写真ファイルごと手に取る。2年前のあの日を移した写真が収められているファイルは、ずっしりとした重さが在った。勝手に見ては不味いだろうかと思ったが、今日の秘書艦である霞ならば別に構わないだろうと思い、ファイルを開く。

 

 そこに並んだ写真を見て、息を呑む。震える指先から記憶が生々しく蘇り、熱された粉塵と潮の匂いを感じた。身体から汗が滲んでくる。額にツノを生やした少年提督の姿がある。彼と戦う艦娘達の姿も。血塗れなった自分の姿も。深呼吸をする。唇を噛む。ページをめくっていく。写真の脇には注釈が並び、びっしりと文章が並んでいる。それを目で追おうとした時、また風が吹いてきた。

 

 数枚の桜の花びらが舞い込んでくる。そのうちの一枚が、ある写真の上に落ちた。ひらひらと軽やかに舞って落ちてくる花びらを目で追っていた霞は、呼吸が止まりそうになった。陽に透けて澄んだ桜の色の、その下に、霞たちが今まで見落としていたものが映り込んでいたからだ。堪えていた感情が、堰を切っ溢れ出す。あ、あぁ……。情けない声が漏れた。視界が揺れてくる。目の中に溜まってくる涙を、ごしごしと乱暴に腕で拭う。爆発しそうになる心を何とか抑えつけながら、執務室の窓の向こうを睨んだ。この桜の花びらの動きさえ、少年提督は未来に視ていたのだろうか。霞はソファテーブルを蹴飛ばす勢いで立ち上がり、ファイルを抱えたままで執務室を飛び出す。

 

 

 

 

 

 

 

 不知火は鎮守府の廊下を歩きながら、窓の外を見遣る。雲の無い空の蒼と、陽の光が揺蕩う波の碧が溶け合う水平線を見詰めて、眼を細めた。海には“神”が居る。“神々”と言ったほうが正しい。その神の一人が、未来視の力を持った“周到と誤差の神”であることを不知火は知っている。いつかのように、手袋をした左手の薬指に触れた。そこには、ケッコン指輪が嵌っている。手袋越しの指輪の感触に、過ぎて行った時間を想う。気付くと、彼の執務室の前に居た。

 

 ノックをする。返事は無い。失礼します。心の中で言いながら扉を開ける。少年提督の執務室は、彼が居なくなってからも残されていた。流石に彼が扱っていた書類や書物などは全て回収されているし、ソファ、テーブルなどの家具も取り払われている。ただ、彼が使っていた執務机だけが残されていた。

 

 当初は妖精さん達に頼んで全ての家具を分解した上で壁紙も取り換えて、完全な空部屋にするように本営からの指示が在ったらしいが、それを妖精さん達が強く拒んだ。野獣と少女提督も、その指示には従おうとはしなかった。少年提督が抱いていた思惑を辿るのに必要な物品を提供したのだから、これから少年提督の執務室をどのように使うのかは、この鎮守府の判断に任せて貰えるように進言していた。これが受理された背景には、恐らくだが、野獣の先輩や後輩の存在も大きいのだろうと思う。

 

 

 殺風景な執務室に入り、後ろ手にそっと扉を閉めたところで、誰かが居ることに気付く。開け放たれた窓の横だ。彼女は腕を組んで壁に凭れ掛かり、窓の外を眺めている。改二の艦娘装束を身に着けた瑞鶴だ。何か考え事をしていたのだろう。ぼんやりと遠くを見ていた彼女は、不知火の方を視線だけで見てから、はっとした顔になった。

 

「全然気付かなかった。いつの間に入って来たの?」

 

「今ですよ。ノックもしたのですが……、外した方が良いですか?」

 

「いいよそんなの」

 

 瑞鶴は姿勢を変えないままで笑みを浮かべてから、「むしろ、私の方が外した方が良い?」と、気遣わしげな表情になって不知火を見た。不知火は首を振る。

 

「いえ、大丈夫です」

 

「ん、そっか」

 

 短く言葉を交わし、瑞鶴はまた窓の外へ視線を戻した。不知火も窓の近くに歩み寄る。少年提督の執務室からも、海が見える。この窓からの見る景色は見慣れていた筈だが、いやに懐かしく思う。

 

「そういえば、あとで宴会があるみたい」

 

 窓の外を見たままで瑞鶴が言う。

 

「艦娘囀線で、野獣司令が言っていましたね」

 

 不知火も、窓の外を見たままで答えた。

 

「宴会ではなく、花見なのでしょうが」

 

「確かにね。この鎮守府だと、どこで宴会やっても花見になる」

 

 瑞鶴は笑いながら、視線を窓の下に落とした。鎮守府内の舗装胴脇や植え込みには、今や無数の花が咲いている。咲き乱れていると言ってもいい。しかも、春夏秋冬、其々の季節に咲く花が一斉に花を咲かせているのは、美しくも異様な光景ではあった。桜の花びらが舞う中で、背の高い向日葵が元気よく上を向いているのだ。子供が描いた絵のような不自然な景色だが、澱みや邪気がない。歪だが澄んでいて、悪意が無いのだ。

 

 少年提督が不知火に撃破される直前、彼は、天空に巨大な術陣を描き出していた。この地球そのものを包み込んでしまう程の規模の、あの術陣効果こそが、世界各地で艦娘が召還不能になる現象が起こっている原因なのではないかと少女提督は考えているらしかった。ついでに、深海棲艦の爆発的な増加もだ。この鎮守府の土地を覆う霊気に異常をきたし、四季や時間といった概念にバグを起こしたのも、少年提督の仕業に違いないとも言っていた。

 

 ただ、彼が齎したのだろう鎮守府の霊気異常は、悪い結果を呼ぶことはなかった。妖精さん達に活力を与え、この土地に生命力を溢れさせている。そして、この鎮守府だけが、いや、この鎮守府という土地と、野獣が揃えば、艦娘召還が可能であることが分かっている。

 

 野獣に対する評価も大きく変わった。艦娘達と共に立ち、少年提督と深海棲艦に立ち向かった元帥として、少女提督と野獣は世間から熱烈な支持を集めている。当初、少年提督と共に艦娘たちの人間性や社会性を訴えるべく活動してきた野獣も、裏では何かの悪事に手を染めているのでないかと睨まれていた。だが、少年提督の悪徳が次々と明るみになる中でも、野獣に結びつく容疑や記録が出てくることは無かった。野獣に関して分かったことと言えば、野獣が清廉潔白であり、強いて言うならば、激戦期の頃に肉体改造を受けた強化兵の一人であることぐらいだった。

 

 ただ、野獣が表に出て、世間に何かを言うようなことは殆ど無かった。その機会の悉くを、本営が潰していた。余計なことを言われたくなかったのだろう。本営としても、英雄として担ぎ上げられている野獣は、世相の不安を取り除くために役立つと考えたからだろうが、悲劇の戦士としての野獣の無罪を宣言し、この鎮守府を存続させることを決定した。

 

 少年提督と死別することになった野獣が、どのような想いであったのかは推し量れない。だが野獣は、不知火達の前では今までの“野獣”であり続けてくれていた。悲しみを隠し、苦悩や後悔を見せない野獣の姿からは、この鎮守府に所属する艦娘達を支えるために自分を落ち着かせようとする懸命さと、己の心を殺す冷静さが窺えた。

 

 

「……でも、宴会とか、こういうイベントも久しぶりだね」

 

「そうですね。皆、忙しかったですから」

 

「野獣さんなりに、私達のことを労ってくれてるのかな」

 

「恐らく、と言いたいところですが……。自分が騒ぎたいだけかもしれません」

 

 不知火が言うと、瑞鶴が小さく笑った。

 

「まぁ、それでもいいか。野獣さんが率先して羽目を外してくれたら、私達も余計な気を遣う必要もないし」

 

 そう言いながら遠くの海を見遣る瑞鶴は、誰かを探すかのような目つきだった。不知火も、瑞鶴の視線を追うようにして、海を眺める。ただ、そこには茫洋とした青い世界が在るだけで、誰かを見つけることなどは出来そうになかった。千変万化する波間の揺らぎだけが、陽の光の煌めきを反射しながら連なり合い、水平線の彼方へと続いている。

 

 暫くの間、不知火と瑞鶴は無言で海を眺めていた。風の音と波の音が、遠くに聞こえている。不知火はそっと息を吐きだし、執務室の中に視線を巡らせた。彼の面影を探すつもりはなかったが、どうしても彼が居た頃の時間を思い出してしまう。そこで、足元に丸い染みがあることに気付いた。点々とついた黒い染みは、水滴を落としたもののように見えた。乾きかけている。

 

「……私が此処に来た時にさ、金剛さんが居たんだよ。ちょうど、不知火が居る場所に立っててね」

 

 瑞鶴が優しい声で言う。不知火は「あぁ、そうでしたか」と、納得した。多分、金剛は泣いていたのだろう。この染みは、彼女の涙の雫が作った痕なのだと思った。今でも、少年提督の執務室に訪れる艦娘は多い。それは、少年提督との思い出を暖め直すことで、自分の心から悲しみが去って行ってしまわないようにする為であったり、本来なら在った筈の少年提督との時間を、自分の中でだけでも何とか確保する為だった。この執務室で泣き崩れる大和やビスマルクの姿が在ったのは、不知火も知っている。艦娘達の時間は進んだが、そこに感情が追いついていない者は少なくなかった。

 

 恐らく、不知火もそうだ。

 

 少年提督が死んだという実感は、この2年間の間で自分に馴染んだ。涙を流したのは、少年提督に最期の砲撃を加えた、あの時が最後だった。不知火の心は悲しみを乗り越えたと言うよりは、悲しむことを拒否したのかもしない。泣くことが出来なくなった。ただ、悲哀に関わる感情の動きは鈍ったものの、仲間の無事を願い、作戦の成功を喜ぶことは素直にできた。陽炎からは「無理をしていないか」と心配された。少年提督を討ったことを責めてくる者は皆無であったし、不知火の事を気にかけてくれる優しい艦娘ばかりだったが、不知火は自分がひどく冷血な存在に思えていた。

 

「自分を責めてない?」

 

 瑞鶴が訊いてくる。今更な問いだが、此方を見る瑞鶴が心配そうな表情を見ると、その言葉には心が籠っているのが分かった。「えぇ。大丈夫です」と、不知火は少しだけ笑みを浮かべて見せる。

 

「ならいいんだ。変なこと訊いたね。ごめん」

 

「いえ。お気遣い、感謝します」

 

 礼を述べてから、気付く。瑞鶴のツインテールの左側の、その先端の方だ。髪が白い。不知火の視線に気づいた瑞鶴が、「あぁ、これ?」と、自分の髪の毛先を触る。

 

「前に出撃した時にさ、他の鎮守府の子がピンチだったの。だから、ちょっと無理して助けようとしてさ、深海棲艦化したんだけどね。ちゃんと戻らなくなっちゃって」

 

 瑞鶴は自分の毛先を見ながら、参っちゃうよね、と顔全体を強張らせるようにして笑った。不知火はそんな瑞鶴を見詰めたままで、ゆっくりと首を振る。

 

「深海棲艦化しても、仲間であることは変わりありません」

 

 不知火の声に手を引かれるようにして頬の強張りを解いた瑞鶴が、懐かしむような眼差しを向けてくる。

 

「提督さんにも言われたよ。私は私だって」

 

 少年提督の暴走事件により、“深海棲艦化する艦娘”として、瑞鶴は世間からの注目を一身に集めていた。深海棲艦化した瑞鶴は、艦娘と言う種を、ある意味で存亡の危機に追い込みかねない存在だった。とにかく瑞鶴を解剖・分解・解体し、そのメカニズムを解明するのが、今の人類の最重要課題だと騒ぎだす者も多かった。

 

 だが、深海棲艦の勢力が増していく中で、“花盛りの鎮守府に所属する瑞鶴”を失うというのは、戦力的に見ても相当な痛手であったのも確かだった。本営としても、瑞鶴を解剖するか、そのまま運用するかの判断に大いに迷ったようだが、結局、瑞鶴はそのまま艦娘として運用される流れとなった。

 

 瑞鶴を危険視する声は確かに根強くあるが、それ以上に、人類の裏切り者である少年提督を打ち倒した不知火達の姿が、『艦娘は人類の味方である』という印象を世間に深く刻み付けていた。この2年間、瑞鶴を艦娘として運用することに関して大きな反論が世間から出てこなかったのは、仮に瑞鶴が深海棲艦として暴走したとしても、艦娘達は動揺を見せずに私達を護ってくれるだろうと、人々が判断した証拠だった。ただ、不知火にしてみれば、艦娘の庇護を受けねば深海棲艦の脅威から逃れられない人類による、都合の良い卑劣な掌返しに思えないことも無かった。

 

「不知火はさ、どう思う? 今の戦況って言うか、戦果って言うか、深海棲艦達の様子って言うかさ……」

 

 瑞鶴は、また海の方へと目を向けた。風が吹いてくる。

 

「えぇ。深海棲艦から、殺意や敵意が消えたのを感じます」

 

「だよねぇ。……まぁ、そんなことは大っぴらには出来ないんだろうけどさ」

 

 苦笑を漏らしながら言う瑞鶴は、大きく伸びをしてから、窓の枠に肘をついた。不知火も息を吐きだす。

 

「激戦期に匹敵する深海棲艦の出現率の中で、轟沈した艦娘が0人など、余りにも不自然ですから。『深海棲艦を退け、勝利を重ねている』という報道は嘘ではありませんが、実情は隠さざるを得ないのでしょう」

 

「ついでに言えば、深海棲艦を撃沈させた数も、ほぼ0。戦ってるけど、戦ってないって感じだよね」

 

 瑞鶴は、「さっき言ったけどさ。他の鎮守府の子を……、あぁ、如月ちゃんなんだけど」と、先ほどと同じように自分の髪の先を弄りながら、記憶を辿る顔つきになる。

 

「やっぱり深海棲艦側も、決定的なトドメを刺そうって感じじゃなかったな。殺気が無かったよ。相手は戦艦タ級だったし、その気なれば、いつでも如月ちゃんを撃沈させることが出来たと思うんだよね。でも、しなかった。まるで、戦ってるフリをしているみたいに」

 

 不知火は頷く。

 

「それは不知火も思います。どれだけ殺意を籠めても、まるで相手にされていないような感覚が在ったのは、一度や二度ではありません」

 

「そうなんだよね。私達の方が圧倒的に不利な状況でも、最終的には、深海棲艦達が撤退していくしさ。シーレーンが守られてるって言うか、そもそも、深海棲艦側にシーレーンを破壊しようとする意思が見えないんだよ。ちょうど、あの時の猫艦戦達みたいにさ」

 

 気味悪そうに言う瑞鶴は、眼を細めて海を睨んだ。

 

「不知火たちは、手加減されているのかもしれません」

 

 窓枠に肘をついたままで、瑞鶴が顔を傾けてきた。思い当たる節がある表情の瑞鶴は、不知火の言葉を待っている。不知火は頷いてから、海を眺める。恐らく自分も、誰かを探すような目つきで海原を見ているのだろうと思う。

 

「あの日、海へと還って行った戦艦水鬼達が、他の深海棲艦達に指示を出しているのかもしれません」

 

「……不知火もそう思う?」

 

「えぇ。在り得ない話ではないと思っています。この2年間での艦娘の撃沈数0、深海棲艦の撃沈数0というのが、そもそも荒唐無稽です。これが仕組まれたものでないのなら、もはや不自然を通り越して神秘的と言えるでしょう」

 

「だよねぇ。やっぱり提督さんが、そういう風に彼女達にお願いしてたのかもね。“艦娘とは戦っても沈めないであげて下さい”ってさ」

 

 瑞鶴は海へと視線を戻して、ふっと笑みを零しながら言う。その声音には、ずっと自分の中で抱えていた希望的観測を、ようやく誰かと共有できた安堵と喜びが在るのを感じた。不知火も、知らず知らず口許が緩んでいた。

 

「司令なら言いそうですね。それに強靭な彼女達なら、司令の無茶なお願いも難なく実践できます」

 

 憶測に過ぎない話だが、今の深海棲艦達の奇妙な行動の中に、少年提督の面影が垣間見えるのは事実だった。今の艦娘と深海棲艦との停滞を少年提督が仕組んだのだとすれば、彼は、『力による受容』を深海棲艦側から実現したということになる。では、この停滞が何を意味しているのか。それを考えるのは、恐らく人類の役目なのだろうと思った時だった。

 

 不知火と瑞鶴の懐から電子音がした。同時だった。二人で顔を見合わせてから、端末を取り出して確認する。艦娘囀線のポップがディスプレイに表示されている。“コロラド達が到着した”という長門のメッセージがあり、宴会会場に集まるように呼びかける内容の書き込みも続き、それに応える艦娘達の返事が寄せられていた。『霞~、もしかしてファイル持ってった~?』という、少女提督の暢気な書き込みが、妙に浮いている。

 

 

「私達も行こうか。あっ、そう言えばさ、知ってる?」

 

 瑞鶴が携帯端末を仕舞いながら窓を閉めて、不知火を見た。

 

「今日はウチに来るコロラドさんなんだけどさ、野獣さんに一目惚れしてるらしいよ」

 

「えぇ……」

 

 不知火は思わず、素で困惑した声を漏らしてしまう。

 

「それは、何と言うか……、今の戦況にも負けないぐらい神秘的な話ですね」

 

「噂なんだけどね。何でも、野獣さんが戦ってる映像を見て、それでさ、気に入っちゃったんだって」

 

 窓に鍵を掛けながら言う瑞鶴も苦笑を浮かべていた。

 

「最近、時雨がヒンヤリした空気を纏ってる時が多かったでしょ? アレ、コロラドさんから野獣に向けて、頻繁に通信が入ってきてたからだ、って鈴谷が言ってた」

 

「……それで結局、野獣司令はコロラドさんとコンタクトを取ったのですか?」

 

「飛龍さんの話だと、一回も取ってないみたい。野獣さん、日常的に執務とかサボりまくってるから、そもそもコロラドさんから来る通信のタイミングが全部合わなかったんだって」

 

「わが鎮守府の提督ながら、とんでもないロクデナシですね……」

 

「しかも、ここからまだ話が続くんだけど、コロラドさんの通信が野獣に繋がらないのは、鎮守府に訪れた重要人物と話をしているだとか、とにかく仕事が立て込んでて時間が取れないみたいな体で、コロラドさんに話を通してあるみたいでさ」

 

「悪質過ぎませんか……? 誰がそんな事を……?」

 

「長門さんと、陸奥さんみたい。ほら二人とも、コロラドさんと同じBIG7じゃない? やっぱり、コロラドさんの幻想を壊さないための、優しい嘘って言うのかな」

 

「では、今しがた到着したと言うコロラドさんは、まさか……」

 

「うん。野獣さんのことを『毎日の激務にも一切手を抜かない、立派で模範的な軍人』みたいに思ってる筈だよ。前に、蒼龍さんが通信端末越しにコロラドさんと話をしたことあるんだって。その時にコロラドさん、『野獣提督に、はやく逢いたいわ』って言ってたらしいし」

 

 目を伏せた瑞鶴が気の毒そうに言う。

 

「長門さん達の優しい嘘も、悲劇の種にしかならなかったワケですか……。悲しいなぁ……」

 

 不知火と瑞鶴が、少年提督の執務室をあとにしてすぐ、また携帯端末が断続的に鳴った。艦娘囀線だ。確認すると、『もう既に花見を始めてる奴が居るんだけど』という、曙の書き込みと共に、動画が張られていた。

 

 その動画には、見ごろになった桜の木々が並ぶ、食堂裏の広場に設置された宴会会場が移されていた。美しく色づいた桜の花びらが舞い散る風流な景色のド真ん中で、海パンとTシャツ姿の男が、両手に持った缶ビールを交互に飲んでいた。野獣だ。動画の中の野獣は撮影している曙に気付き、両手に持った缶ビールを交互に飲みながら近づいてくるところで動画は途切れた。……ホラー動画かな? 不知火は絶句しながら端末を懐に仕舞いなおしたところで、瑞鶴と目が合う。

 

「コロラドさん、大丈夫ですかね? この動画の男が、コロラドさんの頭の中に居る野獣司令を上書きしてしまうと思うと、居た堪れないのですが……」

 

「まぁ、“花盛りの鎮守府にようこそ”って感じだよね」

 

 瑞鶴が肩を竦めながら笑った。その笑顔の奥に、何の含みも憂いも無いのはすぐに分かった。つられて、不知火も笑ってしまう。こんな風に純粋な笑顔を取り戻せるなんて、2年前には誰も思わなかったことだろう。

 

「不知火!! 瑞鶴も!!」

 

 大きな声を掛けられた。背後からだ。瑞鶴と一緒に振り返ると、霞が走り寄ってくるところだった。脇に大きめのファイルを抱えた彼女は、まさに血相を変えると言った様相だ。ついさきほどの艦娘囀線の、少女提督の書き込みを思い出す。ファイルを持って行ったかと、霞に問う内容だった筈だ。だが、今の霞の必死な様子からは、のんびりと艦娘囀線を覗いているということもなさそうだった。

 

「やっと見つけた……!」

 

 霞は不知火と瑞鶴に追いつくやいなや、すぐに脇に抱えていたファイルを開こうとして、ぐっと思いとどまるように動きを止めた。そして、真剣な眼差しで不知火と瑞鶴を見た。霞の瞳には潤むような光が蹲っていた。

 

「二人に、見て貰いたいものがあるの」

 

 一度唾を飲み込んで喉を震わせた霞は、自分を落ち着かせるように言う。

 

「……このファイル、アイツが暴走した日に撮られた映像から、術式解析とかを行う為に写真に変換されたものみたいなんだけど」

 

 霞の言葉に、不知火と瑞鶴は身構えてしまう。身体が強張り、2年前の景色が頭の中に蘇り、口の中が急速に乾いていくのを感じた。不知火は咄嗟に、霞がファイルを広げようとするのを拒みそうになるが、その霞の声音や眼の色の中には、大きな高揚と喜びを察することが出来た。そのおかげで、過去への忌避感よりも好奇心が勝った。それは、無言で不知火と目を合わせて来た瑞鶴も同じだったようで、二人で一緒に、霞が手にしたファイルを覗き込んだ。

 

「これよ……」

 

 声を震わせた霞は、ある写真を指差して見せた。そこに映っているのは、あの日、最後まで暴れていたレ級が逃げて行こうとしているところだ。あの時のレ級は、追い詰められているように振舞いながらも、その実、十分な余力を持って戦場の中を立ち回っていた。その証拠に、霞が指差した写真の中でもレ級は、追撃を仕掛けようとする艦娘たちを大きく引き離すバックステップを踏み、乱戦の場を離れようとしている。

 

 この場面は、あの日の戦闘の、本当に最後の最後、終わりの場面だ。艦娘達の勝利が確定した場面であり、術式解析で扱うような場面でもなければ、わざわざ確認しなおすような場面でもない。そもそも、肝心の少年提督は不知火によって撃破されているのだから、この場面の映像から汲み取るものなど何もない。展開された術式も映っていないから、他の写真のように注釈も一つも付いていない。空白の一枚だ。だから、見落とした。

 

「あっ!」

 

 まず声を上げたのが瑞鶴であり、不知火もすぐに息を呑んだ。レ級の尻尾の艤装獣の、牙の隙間だ。艤装獣が何かを咥えている。炎と粉塵に隠れていて見えにくいが、よく見れば、それが人間の腕であることが分かる。幾何学文様の入った右腕と、右手だ。少年提督の右腕である。

 

「最後まで、レ級がアイツの隣に居たのは意味が在ったのよ」

 

 掠れて震える声を出す霞は、自分が笑いながら涙を流していることに気付いていないだろう。

 

「アイツ、前に言ってたわ。僕の身体は塵になっても復活するって。だから、最後の最後に、自分の体を回収してくれるヤツが必要だったのよ。こっちに残されたアイツの死体は、全部再生も復活もしてない。でも、レ級が持ち去った右腕から、アイツが生き返る可能性は十分に在るわ!」

 

 この写真に写っているものを理解するのに、時間が掛かった。

 

「曙のお願い、ちゃんときいてくれたんだね。提督さん」

 

 霞に負けないぐらい声を震わせた瑞鶴が、不知火の肩を抱いてくる。茫然と写真を見詰める不知火は、曙の叫びを思い出す。『何処か遠いところで適当に死んじゃえ』と曙は叫んでいた筈だ。その言葉とは反対のメッセージを籠めれば、『何処か遠いところで何とか生き延びろ』となるのだろうか。

 

 そうか。彼は。生きているのか。そう思った瞬間、視界がぐちゃぐちゃに歪んだ。パタパタと音を立てて、ファイルの上に涙が落ちる。溢れて止まらなくなった。揺れる視界の中で、写真の中に居るレ級が、バックステップを踏む姿勢の指先で、ドローンに向かってピースサインを取っていることにも気づいた。フードの奥にあるレ級の視線も隠れてはいるが、明らかにカメラを見ている。

 

「私さぁ、カメラ目線はNGって、南方棲鬼にぶん殴られたんだけど」

 

 瑞鶴は洟を啜り、懐かしい笑い話を披露するような明るい声をだした。

 

「じゃあきっとレ級の奴も、南方棲鬼に殴られたんじゃない?」

 

 霞が笑って、涙を腕で拭った。一番泣いているのは不知火だった。止まっていた時間と感情が一気に動き出し、今の日常に追いついてくるかのような感覚だった。感情をコントロールできない。それでいいと思う。人間だって、感情のコントロールなど出来ない。心の中に湧き上がってくる悲しみを、喜びに変えたりできない。ただ対処するだけだ。自然と、不知火達は抱き合っていた。少年提督が生きている。これを知ったらきっと喜ぶだろうという仲間たちが、あの時から一人も欠けることなく、この鎮守府に居ることが嬉しかった。不知火はそれを幸福に思う。

 

 もちろん、コロラドや新しく着任してくる艦娘たちに大っぴらに伝えることではない。少年提督はこれからも、残忍で冷酷な魔人として語り継がれるだろう。人々の記憶の中にある逸話の中で、人類の裏切り者として暴走を繰り返すだけだ。悪人として死ぬとはそういうことなのだろう。彼の積善の余慶として艦娘達が受け取る時代の恵みが、彼の優しく思慮深い人格を、世間の認識の中に恢復させることも無い。彼は永劫に赦されない。

 

 それでも、彼が生きてくれていることは嬉しかった。そして、不知火も生きている。この鎮守府の艦娘達も、全員だ。だから、バッドエンドではない。ハッピーエンドに向かう途中なのだと信じたい。この日々が続いていくことは間違いないのだ。左手の指輪を想いながら涙を拭う不知火の懐で、艦娘囀線に書き込みが在ったことを知らせる電子音が、また何度か響いた。

 

 










今回の更新で、一応の完結とさせて頂きたいと思います。
皆様からの暖かい応援に支えて頂くだけでなく、完結まで見守って頂けた私は、本当に幸福でした。エピローグ的な話を一つか二つ、更新できればと思います。

今は本当に大変な状況ではありますが、どうか皆様も健康にお気をつけ下さいませ。
今回も最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ 1





 

 

 

 

 

 

 

 

 海の底から水面へと体が引き上げられるかのように、ゆっくりと意識が浮上してくる。身体の感覚は在る。潮の香りがする。それに、微かな風の動きを肌に感じた。自分が仰向けに横たわっていることが分かる。手を動かす。脚も動く。身体を起こそうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。瞼も重いが、青白い光を感じた。懸命に目を開ける。ぼんやりとした視界は狭い。

 

 不知火は、自分が生きていることを理解するのに少しの時間が必要だった。

 

 此処は何処だろう。掠れた視界の中に目を凝らす。少し遠くに、ごつごつとした岩肌が見える。岩の天井だ。洞窟という陳腐な言葉が、じんわりと沁み出してくるように頭に浮かぶ。上半身を起こす。体に痛みは無かった。むしろ、違和感を覚えるほどに軽い。修復・治癒術式の施術を受けた時などよりも、遥かに身体に活力が満ちている。頭の奥の鈍痛だけが妙に現実的だった。

 

 不知火は自分の体を眺めてから、気付く。不知火は、岩肌の上に直接寝ていたのではない。木材を組んで作られた寝台だった。そこに敷かれた、簡素だが清潔なマットの上に不知火は横たわっていたのだ。今更になって岩肌の天井を見上げると、象牙と琥珀色の微光を放つ術陣が描かれていた。術陣から降りくる微光は明滅しながらこの空間に溶け込み、空気の清潔さを保ちながら、艦娘の肉体を活性化させる霊気を溢れさせている。このドームの中に居る限り、不知火の肉体は病魔や衰微に侵されることはまずないだろう。状況的に、細心の注意を払って不知火を安置しようとする何者かの意思が窺えた。

 

 此処は何処なのだという思いが、より強まる。掠れる視界を更に動かす。

 

 暗がりの奥に、岩肌の壁があるのが分かった。どうやら此処は、トンネルのような狭い洞窟ではない。形としてはドーム状だ。それなりに広く、明かりが在る。青白い光が、松明よろしく岩肌に点々と灯り、淡い明滅を繰り返している。その非物質的な光の揺らぎは、陽の光を水面に透かしたかのように不定形な波模様を岩肌に映し出しており、このドームの洞窟内に幻想的な雰囲気を作り出していた。

 

 そこで、ハッとする。青白い光の揺らぎに誘われるようにして、最も近い記憶が立ち上がってくる。深海棲艦と戦闘していた記憶だ。レ級の姿が思い浮かぶ。「シシシシ!」と肩を揺らして、独特な笑い方をするレ級だった。確か自分は、撤退する仲間たちの殿となって、レ級を引き付けたのではなかったか。そうだ。シーレーンを行く船団の護衛に就いていた自分たちの艦隊は、深海棲艦と遭遇したのだ。

 

 思い出された記憶はすぐに鮮明になり、戦闘時の緊張が鼓動の中に蘇った。重なる砲撃音と、うねる波の飛沫、味方の怒号が耳の奥で木霊し始める。息が速くなる。目を瞑って、掌で顔を覆う。もう一度、自分の身体を見下ろす。戦闘で負った筈の傷も肌から消えていて、艦娘装束を汚していた筈の血や汗の汚れも無く、破れた形跡も無い。肉体も衣服も新品に生まれ変わったかのようだった。混乱しかける頭の中で、落ち着けと自分に言い聞かせながら、改めて記憶を辿る。

 

 船団の乗組員に犠牲者は無かった筈だ。少なくとも不知火が思い出せる範囲では、戦場となった海域から離脱できるよう、仲間の艦娘達が動いていたし、被害は無かった筈だ。不知火達の艦隊の艦娘は、撤退する船団を護衛する者と、深海棲艦達からの追撃を阻む者に分かれた。

 

 相変わらず、遭遇した深海棲艦達からは殺意や敵意は見られなかった。だが、以前よりも彼女達は、遥かに強くなっていた。深海棲艦達の練度が上がったとでも言えば良いのだろうか。海の方々で出現する深海棲艦達は、明確に統率の取れた動きを見せるようになるだけでなく、個々の再生能力も段違いに上昇しており、艦隊としての隙が全く無かった。それなのに、彼女達の砲撃は艦娘に決して命中しないような出鱈目な方向へ放たれることが殆どであり、深海棲艦の艦載機もふらふらと飛んでいるだけの的のような風情が在った。

 

 深海棲艦達には、不知火達を駆逐し、船団に追撃を仕掛けるようとする意思が見えなかった。それも珍しいことでは無かった。深海棲艦達は戦うためではなく、自分たちの存在を示すために出没しているのではないか。あの戦闘中に、そんな余計な思考が過ったのは恐らく、疲労が溜まっていたからだ。深海棲艦の足止めとして残った艦娘達が撤退すべく転進し、不知火がその殿を務めた時だった。深海棲艦の艦隊の中からレ級が突出して来た。

 

「シシシシ!」と子供みたいな笑顔を浮かべるレ級は、他にも艦娘が居る中で、不知火だけを見ていた。その目つきはまるで、遠くから古い友人に似た誰かを見つけ、いや、もしかしたら友人本人なのではないかと見詰めてくるような、緊張感の無い期待と高揚が窺えたのを覚えている。

 

 撤退する仲間の殿を務め、レ級を引き付けるべく戦闘を開始した不知火は、すぐにレ級の砲撃を喰らうことになった。普通なら回避できた砲撃だったし、反応もしていた。しかし行動が遅れたのは、やはり疲労のせいだろうと思い返すのと同時に、自分の左半身が粉々になる瞬間の生々しい映像がフラッシュバックした。「ちょ!? 嘘ぉ!? (レ)」などと、攻撃を受けた不知火よりも、レ級の方が大いに焦っていたのも思い出す。

 

 不知火は、自分の両手を眺めてみた。

 血の通う肌の色をしている。傷も無い。

 

 自分は、あの時に死んだ筈だ。でも、今は生きているのは間違いない。生き返った? 何故? どうやって? 何が起きている? 思考の中に次々と疑問が浮かんでくるが、分からないことばかりだ。深呼吸をする。瞑目し、再び過去の記憶に目を凝らそうとするが、自分の身体がレ級の砲撃によって砕かれるところまでしか見えなかった。

 

 背後の、少し離れたところから硬い足音が聞こえてきたのはその時だった。ベッドから飛び降りて振り返る。岩肌の壁面に大穴が開いている。その向こうに、通路代わりの空間があるのだろう。足音は其処から響いてきている。巨体を誇る軍馬の蹄が、石畳を重く叩きながら踏みしめているかのような、それでいて、幼い子供が軽やかにスキップを踏むかのような足音でもある。近づいてくる。深海棲艦か? 

 

 息を潜め、その足音の動きを探っていた不知火は“抜錨”し、艤装を召ぼうとした。しかし、出来ない。“抜錨”状態になれない。気を失っている間に、不知火の肉体が何らかの処置を受けたのか。焦る。だが、それも一瞬だった。冷静になる。退路を探す。このドーム状の岩部屋に、出口は一つしかない。足音が響いてくる穴だけだ。逃げ場はない。武器も無い。積極的に戦闘を行うよりも、まずは大人しくして見せるべきか。不知火が殺されていない今の状況を見るに、すぐに戦闘にはならないのではないか。

 

 不知火の頭の中で思考が巡る。だが、“抜錨”も出来ない状態では、どうあっても先手は取れそうにない。様子を見るしかないのか。不知火はスッと重心を落とす。汗が頬を伝う。覚悟を決める思いで、一つ呼吸をした時だった。壁面に空いた穴から、ソイツがひょこっと顔を出した。

 

「(^ω^) お! (レ)」

 

 レ級だ。起き上がっている不知火を見て、フードの奥で無邪気そうな表情を浮かべている。暢気な笑顔だ。安堵と喜びが見える。それは、不知火が回復したことに対してだろうか。馬鹿な。余計な考えを頭から振り払い、不知火は内心で舌打ちする。

 

 レ級が相手ならば、一対一で勝てる見込みは無い。もしも戦闘になれば、どうにか隙を見つけるか作るかして逃げるしかない。しかし、“抜錨”もせずに逃げ切れるのか。すぐにでも動き出せるよう姿勢を落としたまま唾を飲み込む不知火に対して、レ級は明確な敵意も殺意を向けるでもなかった。襲い掛かってくることも無い。それどころか、ガバっと頭を下げて見せた。

 

「スマン! (レ) 許してや、城之内(レ)」

 

 一瞬、何が起こっているのか理解できなかった。もしや自分は、深海棲艦から謝罪を受けているのか。不知火は、そんなまさかという思いで、目の前で頭を下げるレ級を見詰める。言葉が出てこない。レ級は、硬直する不知火をチラリと見上げてから、もう一度、「すみましぇん! (レ)」と深く頭を下げてみせる。

 

 レ級の行動を、どう捉えればいいのか分からない。深海棲艦が、艦娘の心配をするなど在り得ない。不知火は今までの常識に従い、そう考えた。だが、不知火に対して轟沈必死のダメージを与えてしまったレ級が、酷く焦った声を出していたのを頭の端で思い出す。自分の身に起こっている状況が上手く理解できない。

 

「『“……もう眼を覚まされたのですね”』」

 

 レ級に気を取られているうちに、別の何者かが穴の向こうから現れた。不知火は全身が総毛立つのを感じた。こちらにゆっくりと歩み寄ってくるのは一人の青年だった。黒い提督服を着ている。さらにその上から、複雑な文様が描かれた白地の法衣を纏い、フードを目深く被っている。顔の下半分までしか見えない。彼の、形の良い唇が微笑みを作っている。優しい微笑みだ。不知火に対する害意は微塵も見えない。それでも、不知火は後ずさってしまう。

 

 不知火は、己の戦意が折れる音を生まれて初めて聞いた。

 

 目の前の青年は、違和感の塊だった。浅い呼吸をする不知火が瞬きをするたびに、波が念々と姿を変えるように、彼の印象も変わる。姿は変わらないのに、彼は少年にも、少女にも、老人にも見える。とにかく一定じゃない。口許に微笑みを湛えたままの彼は、周囲の時間や法則を解体しながら無理矢理にこの場に存在を割り込ませているかのような不自然さと、何者にも触れ得ない超越的な雰囲気を同時に纏っている。恐れよりも、畏怖を覚えた。内臓が縮まる感覚だった。

 

「『“御身体に不調はありませんか? ”』」

 

 彼の声には、幾人もの声が十重二十重に残響するかのような、深い響きを湛えている。不知火を見ているレ級は嬉しそうな表情のままで、何も言わない。青年も不知火を見詰めてくる。息が詰まった。何とか唾を飲み込む。不知火は、自分が何かを喋る番なのだと理解する。沈黙を貫くべきかとも思ったが、黙っていても状況が見えないことも確かだった。

 

「……何者だ」

 

 不知火は青年の問いには答えず、自分の声が震えるのを抑えながら訊く。暢気な表情のままのレ級が手を頭の後ろで組み、不知火と青年を見比べている。青年が、「『“何者か……、ですか”』」と、何かを思案するかのように顎に手を振れた。この場で緊張しているのは不知火だけだ。

 

「『“僕はもう、何者でもありませんが……、そうですね、強いて言うのであれば”』」

 

 其処まで言った彼は、レ級を一瞥した

 

「『“彼女達の……、深海棲艦の提督、とでも言えば良いのでしょうか”』」

 

「おうよ! (レ) それで合ってるわ! (レ)」

 

 レ級が頷き、「シシシシ!」と笑った。青年も微笑みを浮かべる。一瞬だけ、フードの奥に覗いた彼の瞳は、紫水晶のような玲瓏な光を湛えていた。

 

「『“先ほどと同じ質問をさせて貰いますが、御身体に不調は在りませんか? ”』」

 

 深海棲艦の提督だと言う青年は、レ級に見せる穏やかな微笑みを崩さないままで不知火に向き直った。重複した響きを宿した彼の声は不吉でありながらも、年老いた医師が患者を心配するかのような、落ち着いた優しさに満ちていた。不知火を欺き、何らかの罠に誘おうとする意思は見えない。或いは、わざわざ駆け引きを行うような相手と見做されていないだけなのかもしれない。不知火は、自分が必死に抱こうとしている反抗心が酷く無意味に思えた。

 

「……身体に不具合はありません」

 

 この青年に従順さを見せるつもりも無かったが、虚言を弄する意味があるとも思えず、正直に答えた。

 

「元気になったお(^ω^)! そうなったお(^ω^)!」

 

 はしゃいだ声を出したレ級は、トテテテと無警戒に不知火に近づいてきた。思わず身構えてしまう。レ級は不知火の頭から爪先までを、怪我が残っていないかを確認するように眺めてから、また「シシシシ!」と笑った。青年も頷く。

 

 

 素直そうに言う青年を、不知火は睨む。

 

「……貴方が、不知火を助けたのですか?」

 

 自分は死んだ筈だ。だが、生き返った。それは、目の前の青年の仕業であることは間違いないのだろう。

 

「『“僕たちは、貴女を敵だと思っていませんから”』」

 

「それは、どういう……」

 

 不知火が言いかけたところで、傍に居たレ級が不知火の手をグイグイと引いてきた。「晩御飯、一緒に食べような? な? (レ)」と、楽しそうに言うレ級の無邪気さは、不知火が漲らせている警戒心を軽々と飛び越えてくる。その手を振り払う間も、当惑を見せる暇もない。というか、すごい力だ。

 

「なっ、待っ、待って下さい!」

 

 踏ん張ろうとするが、“抜錨”状態になれない不知火では、レ級に抗う術などもとよりない。まるで腕白な大型犬を散歩に連れ出した少女が、手にしたリードごと犬の力に引っ張られていくかのように、不知火はレ級に引き摺られていく。場違いな長閑さを醸し出すレ級の御蔭で、不知火の制止を求める声は洞窟内に虚しく響くだけだった。その様子を見ていた青年がフードの奥で、懐かしい景色に息を漏らすような、微かな笑みを零す気配が在ったが、不知火は振り返ることも出来ないまま洞窟の通路へと手を引かれていく。

 

 レ級の勢いに負けて手を引かれるままの不知火の後を、青年はゆっくりと付いてくる。洞窟内の通路には、先ほどのドーム状の部屋と同じく、明かりとしての青白い光が連なっていた。空気が澄んでおり、風の流れを感じた。それに、大きな気配も。この洞窟の出口が近く、其処に、他の深海棲艦が居るのだろう。それが“鬼”や“姫”クラスの上位体であることも予想出来る。知らず、唾を飲んでいた。

 

「“そう身構えなくとも大丈夫ですよ”』」

 

 穏やかな青年の声が、背後から聞こえる。楽しそうなレ級に手を引かれたままの不知火に、返事をする余裕は無い。気配が近くなってくる。坂道になった通路の向こうに暗がりが見えた。それが、雲の無い夜空であることに気付く。星が瞬いている。雲は無い。この洞窟の出口だ。レ級に連れられて外に出る。森、というよりも、林の中に出た。洞窟を振り返ってみる。その入り口は、岩山にぽっかりと口を開けた洞穴といった風情だった。草木の持つ緑の匂いを、潮風が乱暴に運んできた。周りの木々が揺れ、その奥に波の音が聞こえる。近くに海があるのが分かった。

 

「ん、……目が覚めたのか?」

 

 洞窟から出てすぐに、横合いから声を掛けられた。難しそうな表情を浮かべた重巡棲姫だ。手に、ストローの付いた容器を持っている。ファストフード店でジュースが入っているものによく似ているが、その中身はジュースなどでは無いのだろうと予想できる。

 

 思わず体を強張らせて身構えそうになる不知火の前で、「そうなんでーちゅ! (レ)」とレ級が嬉しそうな声を出した。能天気そのものと言ったレ級の様子を一瞥した重巡棲姫は、不知火を視線だけで見てから、「……お前もエライ目に遭ったな」と、気の毒そうに言ってくれた。少なくとも、不知火を排除しようとする敵意は感じなかった。

 

 深海棲艦の資料の中で見た重巡棲姫は、その目つきも狂暴で、大蛇のような艤装も禍々しく、恐ろしい存在にしか思えなかった。だが、眠そうな眼でストローを口に咥えて、ズゾゾゾ……と容器の中身を啜っている目の前の重巡棲姫の姿からは、同じような印象を抱きにくい。むしろ、親近感すら覚えそうになる。

 

「『“彼女の肉体と精神の同期が、僕の視た未来よりも早まったようです”』」

 

 何も言えないままの不知火の背後で、青年が言う。

 

「で、どうするんだ?」

 

 重巡棲姫が青年に目を向ける。

 

「この不知火をドロップ艦として艦娘達に渡すには、明後日の昼頃なんだろう? 意識が戻っているというのは不味いんじゃないのか?」

 

「『“問題はありません。明日は戦艦水鬼さんを旗艦として、予定通り出撃してください”』」

 

 青年は、まるで誤差を楽しむかのように軽やかに重巡棲姫に答える。迷いがない。「まぁ、提督が言うなら、それに従うだけなんだがな」と、重巡棲姫はストローを口から放して、軽く鼻を鳴らした。

 

「あぁ、それと、そろそろ夕飯ができるぞ」

 

「『“呼びに来てくれたんですね”』」

 

「提督が居る時は全員揃ってからイタダキマスをするんだと、ほっぽのヤツが五月蠅いんだ」

 

「『“分かりました。……では、行きましょうか”』」

 

 不知火が肩越しに振り返って見た青年の微笑みは、やはり優しいものだった。不知火達は、重巡棲姫を先頭にして林の中を歩く。足元の地面には細かい砂の感触がある。すぐ近くが砂浜なのだろう。不知火達は林の中を歩いていく。木々の間を縫うように、青白い光の球が宙に漂いながら連なり、眩しすぎない程度に周囲の暗がりを照らしている。そのおかげで、夜の林の中であっても完全な暗がりに飲み込まれている訳ではない。

 

 これらの光球を展開しているのは、やはり背後に居る青年なのだろうか。殆どバラバラであった不知火の身体を再生し、蘇生させるような治癒術式を扱えるのであれば、照明代わりの術式を編み出すなど容易いに違いない。不知火がもう一度、深海棲艦の提督を名乗る青年へと、肩越しに背後を振り返ろうとした時だった。

 

「『“そう言えば、今日の夕飯は……”』」

 

 青年が長閑な声を出した。

 

「餡掛けチャーハン! (レ)」

 

 今まで黙っていたレ級が、ここぞとばかりに力強い声を出す。

 

「全然違うぞ。カレーだ」

 

「えぇ!? なんで!? (レ)」

 

「何でって……、食材が手に入ったからだろうが」

 

「『“カレーは苦手ですか? ”』」

 

 重巡棲姫とレ級が言い合っているうちに、青年が不知火に訊いてくる。レ級に手を引かれるままの姿勢で青年に振り返ったが、なんと答えればいいのか分からなかった。深海棲艦に捕まっている状態で、カレーが苦手かなどを訊かれるなど、余りにも想定外で現実感が無い。

 

「いえ、苦手ということは……」

 

 不知火は上手く答えることが出来ず、青年から視線を外そうとした時だった。青年の右手の甲に、複雑で禍々しい、幾何学的な紋様が刻まれていることに気付く。その黒い紋様を見た一瞬あとに、2年ほど前の暴走事件を思い出した。レ級に手を引かれるままの不知火が思わず、フードで上半分が隠れた青年の顔を凝視してしまったのと同時だったろうか。

 

 不知火達が歩いてきた林が途切れて、広々とした浜辺に出た。潮風が不知火の頬を強く撫でて行く。黒々とした海が波音を運んでくる。砂浜に明かりが在る。今までの見てきたような光球によるものではない。炎の揺らぎだった。夜の浜辺の真ん中で、火を焚いている者が居る。野外用の調理器具らしきものが幾つか、焚火の周りに見えた。不知火が今の状況でなければ、家族連れが浜辺でバーベキューでも楽しんでいるように見えたかもしれない。だが、今の状況ではそんな筈はなかった。砂浜に映る幾つかの人影が、此方に向き直る気配が在った。

 

 やはり、深海棲艦達だ。

 

 戦艦棲姫に、戦艦水鬼、それに、集積地棲姫や港湾棲姫、北方棲姫が、焚火の周りに置かれた岩や巨大な木の幹らしきものに腰掛けている。他にも、南方棲鬼、空母ヲ級、空母棲姫の姿もある。空母棲姫だけが、他の深海棲艦たちから少し離れた場所に腰掛けていた。何処か居心地が悪そうに見える。

 

 彼女達の視線が不知火に流れ込んでくるのが分かった。不知火は歩きながら、薄く、長く息を吐きだす。あれだけの戦力を前に隙を作るか見つけるかして逃げ出すなど、どう転んでも不可能だ。改めて死の覚悟をする。潮の香りに、カレーの匂いが混ざる。焚火に近づくと、その火でカレーを煮込んでいる鍋があるのが分かった。それに、木組みに吊るされた大きめの飯盒が幾つか並んでいる。まるっきりキャンプの食事風景だ。

 

「『“お待たせしました”』」

 

 青年が穏やかな声で彼女達に言うと、深海棲艦達が立ち上がり、敬礼に似た所作を行おうとした。青年はそれを、少し慌てた様子で「『“あぁ、座っていてください”』」と制する。戦艦棲姫が、そんな青年と不知火を見比べて微笑みを見せた。

 

「……目を覚まされたのですね」

 

「おうよ! (レ)」

 

 レ級が胸を張り、「何でお前が偉そうなんだ?」と、重巡棲姫が続いた。青年は戦艦棲姫に一度頷いてから、他の深海棲艦達を見回す。

 

「『“彼女をドロップ艦として、艦娘の皆さんのもとへと戻って貰う予定は変わりません。明後日には、幾つかの艦隊がこの島を包囲し、上陸してくるでしょう。そのタイミングで、彼女を発見して貰いましょう”』」

 

「……つまり、私達はいつも通り、適当なところで撤退すれば良いんだな?」

 

 脚を組んで朽木に腰掛けた集積地棲姫が、くいっと眼鏡のブリッジを押し上げながら冷静な声で言う。青年が顎を引いた。

 

「『“そうなります。いつも無茶ばかり言って申し訳ありません”』」

 

「いちいち気にするな。私はレ級と違って、腕力にモノを言わせるタイプじゃない。相手を打ちのめすより、距離を取る方が気楽な性分だ」

 

 軽い笑みを混じらせて言う集積地棲姫に続き、北方棲姫が「撤退戦! ほっぽ得意!」と両拳を力強く掲げるポーズを取った。「では、退路の確保と、艦娘の追撃を払うための殿は、私が」と、困り眉を作った港湾棲姫が片手を挙げ、もう片方の手で北方棲姫の頭を撫でる。港湾棲姫の腕は巨大なガントレットのように狂暴な形状をしているが、北方棲姫の頭を撫でる彼女の手つきは非常に優しく、北方棲姫も気持ちよさそうに目を細めていた。

 

 港湾棲姫と北方棲姫のほのぼのとした空気が伝播し、暗がりの浜辺の雰囲気が、ふんわりと和らいだ。「私も、港湾の補助につきます」と、ヲ級がひっそりと微笑む。

 

「えぇ。お願いします」

 

 青年が頷くと、南方棲鬼が軽く鼻を鳴らした。

 

「相手にする艦娘の数が一段と多いな。轟沈レベルのダメージを負わせてしまうと、今回のように回収するのが困難だ」

 

「皆で注意を払いましょう」

 

 戦艦水鬼が南方棲鬼の言葉に続き、この暗がりの浜辺でも炯々と輝く赤い瞳で、この場に居る全員を順に見た。

 

「OK! すみませぇん! (レ)」

 

 レ級は敬礼のポーズを取ってから、もう一度不知火に頭を下げた。それに倣うようにして、空母棲姫以外の他の深海棲艦達も揃って、頭を下げて見せた。その景色に面食らいながらも、不知火は必死に状況を理解しようと頭を回転させる。

 

 彼女たちが、不知火に大きな損壊を与えてしまったことに対して、誠意をもって詫びてくれているのだろうというのは察することが出来た。ただ、察することが出来たところで、不知火にはそれに応える言葉が見つからない。今まで殺し合って来た相手が突然、傷を負わせて申し訳ないと謝ってきたら、まずは何らかの企てを疑うだろう。

 

 不知火は深海棲艦達を順に見る。彼女達に、不知火に対する敵意は見えない。いや、駆逐艦一人など、殺意を向ける必要すらないと判断されているのだろうか。混乱してしまう。少し離れた所に居る空母棲姫も、奇妙なものを見る目で此方を見ていた。不知火が立ち尽くしていると、くぅぅ……、という可愛らしい音が聞こえてきた。重巡棲姫からだ。お腹が鳴ったらしい。不知火に頭を下げたままの彼女の頬が、少し赤いような気がする。

 

「カレー! 食べよう!」

 

 がばっと顔を上げた北方棲姫は、もう待ちきれないと言った風に、この場の全員の顔を見回してから、キラキラと瞳を輝かせて青年を見詰めた。青年は緩く息を吐き出してから北方棲姫にゆっくりと頷いて「『“……では、食事の時間にしましょうか”』」と、微笑みを深めた。

 

 

 

 本当に、どんな経験をするか分からないものだと思う。

 

 まさか深海棲艦と肩を並べてカレーライスを食べる日が来るなんて、考えたことも無かった。不知火は手の中にある大きめの皿に盛られたカレーを見詰める。シーフードカレーだった。大きめの具がゴロゴロと入っている。本格的だ。カレーをよそい分けていた青年の姿は、さっきまでの超然とした雰囲気を掻き消すほどに所帯じみていて、妙に似合っていた。

 

「このカレーの材料は……、一体どこから……」

 

 思わずというか、気付いた時には不知火は、隣で岩に腰掛けている集積地棲姫に訪ねていた。

 

「あぁ。シーレーンで乗り捨てられた船の中から拝借したんだ。腐らせるのも勿体ないだろう?」

 

 集積地棲姫は手にしたスプーンでカレーと米を掬い、ふーふーと息を吹きかけながら暗い海の彼方を一瞥してから、不知火を横目で見た。蒼い光を湛えた彼女の瞳の中で、焚火の橙が揺れている。幻想的な色をしていた。

 

「ついでに言えば、船体や積み荷なども解体して、私達の物資として使わせて貰っている。お前たち艦娘が船の回収をしに来るまで、幽霊船として放置しておくことも考えたんだが、海にとっては有害でしかないからな」

 

 そこまで言った集積地棲姫は、カレーライスを一口食べる。「美味いな」と零した彼女の顔は僅かに綻んでおり、食事を楽しんでいるのが分かった。そんな集積地棲姫の様子を凝視していると、彼女が怪訝そうに視線を返して来た。

 

「どうした? 食べないのか?」

 

「いえ……」

 

 不知火は手の中にあるカレーに、再び視線を落とした。

 

 艦娘はシーレーンを行く船団を護るが、深海棲艦と遭遇して戦闘になった際、砲撃の流れ弾が船体にあたり、航行不能になる船という話は珍しくなかった。そんなときも、艦娘達が深海棲艦を引き付け、その隙に乗組員たちは同じ船団の船に移り退避することが出来ていた。人的被害は今まで出ていなかった筈だ。航行不能に陥った船はそのまま乗り捨てられていたが、集積地棲姫の言葉を信じるなら、そういった船の冷蔵・冷凍機材に残されていた食材を使い、このシーフードカレーを作ったということだ。

 

「普段から、こういった食事をしているのですか?」

 

 不知火が再び集積地棲姫に訊ねると、彼女は緩く首を振った。

 

「普段からという程、頻繁ではない。海水から塩を作ったり、魚を採って食べることもあるがな。料理と呼べるようなものを作るの稀だ。まぁ、本音を言えば、美味なものなら毎日でも食べたいんだが」

 

 ちなみに、この皿もスプーンも私が作ったんだ。そこまで言い終えた集積地棲姫は、さらに一口、二口とカレーを口に運び、美味しそうに咀嚼する。自身の身体が持つ“味わう”という機能を存分に堪能している様子の彼女は、ペロッと唇の端を舐めてから、不知火の顔と、不知火の持つカレーを見比べた。

 

「艦娘の中には食事に興味がない者達も居るそうだが、お前もそうか?」

 

「……そうですね。あまり、重要な要素とは思っていません」

 

 不知火が答えると、「そうか。そう考えるのも、別に悪いことではないな」と、集積地棲姫は一定の理解を示した上で、「だが、知識と経験は多くても損はない」と言葉を繋いだ。

 

「食べたくないなら食べなくてもいい。どれだけ残ろうが、どうせレ級あたりが全部平らげてしまうからな。だが折角だ。良いことを教えてやろう。カレーは暖かい内に食べる方が美味いんだ」

 

 集積地棲姫は自分の経験を語る口振りで言う。

 

「ついでに言えば、最初の一口が、一番美味い」

 

「……果物でも食肉でも、最初の一口が最も甘く感じるというのは聞いたことがあります」

 

「なんだ、知っているのか」

 

「ついでに言えば、食事の経験も在ります」

 

「なら話が早いな。冷めないうちに食べると良い」

 

 唇の端を持ちあげた彼女は言い終わると、またカレーを食べ始める。不知火は周りに視線を動かした。他の深海棲艦達も行儀よく姿勢を正し、美味しそうにカレーを食べている。いや、空母棲姫だけがカレーを食べていない。

 

 彼女はまるで不可解なものを見詰める顔になって、手にしたカレーの皿を睨み、時折、周囲の仲間たちの様子を視線だけで窺っている。見るからに食事の経験が無いことが見て取れる。また、くぅぅ……と、可愛らしい音がした。お腹が鳴る音だ。不知火は反射的に重巡棲姫に視線を向けてしまう。ご機嫌な様子でカレーにパクついていた彼女は、不知火の視線に気づいて物騒な表情を作り、「何だ?」と、威圧的な低い声を出した。食いしん坊キャラと思われることが気に喰わないのかもしれない。

 

「いえ、何も……」

 

 重巡棲姫から視線を逸らしながら答えつつ、先ほどの音が空母棲姫から出たものであることに気付く。港湾棲姫とヲ級が、空母棲姫に何かを話し掛けている。どうやら、スプーンの使い方を教えている様子だ。そこに、リスみたいに頬を膨らませた北方棲姫が近づいて行って、「カレー、美味しい!」と力説している。さきほども感じたことだが、空母棲姫だけが、明らかにこの場に馴染んでいない。

 

「アイツは、つい最近になって私達と合流したんだ。正確には、人間たちの研究所から帰って来たという方が正しいんだが」

 

 不知火が興味深そうに空母棲姫を見ていることに気付いた集積地棲姫が、小声で教えてくれた。そういえばと思う。ここ数年の間で、各地の深海棲艦研究所で立て続けに不可解な事故が続き、保管していた深海棲艦の上位体が逃げ出す事件が続いていたのを思い出す。

 

「……あれも、貴女たちが……?」

 

 集積地棲姫は肩を竦めてから、「いや、提督の仕業だ」と言う。焚火の傍に横たわった朽ち木に腰掛けた青年を一瞥した。彼は何も食べていない。ただ微笑みを湛えて、この場の景色を見守っている。

 

「表向きには事故ということになっているがな。実際のところは、提督が一人で研究機関に出向いて、深海棲艦達を解放して回っているんだ」

 

「それは……、深海棲艦の研究施設を虱潰しに襲撃しているということですか……」

 

 不知火は無意識のうちに唾を飲み込んでいた。

 

「襲撃なんて物騒なものじゃない。出迎えさ」

 

 不知火の言葉を否定するように、集積地棲姫は緩くスプーンを振る。

 

「提督は人間社会の表と裏の両方で、強力な影響力を持つ人物との繋がりが在った。本営上層部や政治家を含めてな。そういう権力の源泉を司る者達と、人間であった頃の提督の間にどんな取り決めがあったのかは、私も詳しくは知らない。だが、権力者や支配者、指導者階級の人間達は、今も提督との取り決めを遵守しているのは間違いなさそうだ」

 

「そんな……。それでは、捕えていた深海棲艦達が逃げ出しているのは……」

 

「全部、提督の予定通りのことだ。幼稚な表現ですまないが簡単に言えば、闇の組織から各地の研究所に命令が来るワケだ。“深海棲艦の上位体を、事故に見せかけて海に逃がせ”とな」

 

「信じられない」

 

「無理も無いな。上流階級の人間達は、世間を欺く嘘を作り出すのが得意だ。事故を演出する現場では、もっと複雑で繊細なシナリオが用意されている。存在しない人間が書類上でだけ処罰されているのも、それが大きなニュースにならないのも、別に珍しいことでもないんじゃないか」

 

「その話が本当なら、人間社会の裏側は深海棲艦と繋がっているということになります」

 

「まぁ、そうなるな。だが、私達が鎮守府に居る頃から、上流社会には私達との繋がりを求める者達は多かった筈だ。感謝さえされることだってあったぞ」

 

 何でもないことのように言う集積地棲姫を、不知火は横目で睨む。

 

「やはり貴女たちは、あの、花盛りの……」

 

 不知火がそう言いかけたところで、集積地棲姫が、「おっ」と興味深そうな声を出した。彼女は空母棲姫の方を見ている。不知火も途中まで出ていた言葉を飲み込み、彼女の視線の先を追う。空母棲姫が難しい表情を浮かべて、港湾棲姫と北方棲姫を交互に視ながらも、ぎこちなくスプーンを動かし、カレーを一口食べようとしていた。緊張を漲らせた彼女の様子には、美人女優がテレビ番組で、えげつないゲテモノ料理を初めて口にするかのような風情があった。

 

 空母棲姫は目をきつく閉じ、カレーを口に含んだ。もぐ……、もぐ……、という感じで咀嚼してから、とんでもない衝撃を受けた顔になって目を見開き、手の中にあるカレーを凝視し始めた。「何ダ、コレハ……、タマゲタナァ……」と、呼吸も瞬きも忘れた様子の彼女を見て、港湾棲姫と北方棲姫も何処となく嬉しそうに顔を見合わせている。

 

「一口目は美味いだろう?」

 

 凍り付いたように動きを止めた空母棲姫を見て、集積地棲姫が楽しげな声で言う。

 

「お前の皿には、提督が厚切りの牛タンを盛ってくれているだろう。冷凍されていたものだが、美味いぞ」

 

 唇の端を僅かに持ち上げた南方棲鬼が続いた。

 

「んんっ!?」

「嘘ォ!? (レ)」

 

 素で驚いた声を出したのは重巡棲姫とレ級だった。二人は自分たちのカレーの皿と空母棲姫のカレー皿を見比べてから顔を見合わせ、何か言いたげに青年の方を見詰め始めた。いや、見詰めるだけでなく、何かをアピールするように手に持ったカレー皿と青年を交互に見た。オヤツを必死にねだる超大型犬のような彼女達に、青年は口許だけで苦笑を浮かべている。

 

「お前らはこの前に存分に、と言うか、私の分まで喰っただろうが」

 

 眉間に皺を寄せた南方棲鬼が溜息を吐いた。

 

「今日は我慢して、空母棲姫に譲るべき」

 

 ヲ級も険しい表情を浮かべている。やんちゃで聞き分けのない妹達を諭すかのように言う二人の言葉に、「そうだな……」「仕方ないね……(レ)」と、重巡棲姫とレ級は再び顔を見合わせ、しょんぼりと肩を落とした。ちょっと寂しそうな表情を浮かべた二人だったが、すぐにカレーを食べることに夢中になっている。

 

 空母棲姫は顔を上げ、神妙な表情を作って見せるものの何も言わず、すぐにまたカレーを食べ始める。言葉を発しないのは、喋ると口の中の風味が逃げるとでも思っているからだろうか。そんな空母棲姫を見守りながら、深海棲艦達がそれぞれに寛いだ雰囲気を共有し、カレーを一緒に食べている。暗がりの浜辺を照らす焚火の明かりは、時折吹いてくる海風に揺らぎながらも、この場の空気を優しく暖めていた。穏やかな時間が流れている。

 

 今までに想像したことのない光景だった。

 

 ぼんやりしながら、不知火も一口、カレーを食べてみる。美味しかった。妙な懐かしさを感じるのは、一度死んで蘇ったからだろうか。空腹を覚える心理的な余裕は無かったが、カレーが美味しいと思う程度には冷静になっている自分の状態を理解した。

 

「コレガ、“美味”トイウ感覚カ……」

 

 カレーを食べていた空母棲姫が、深い実感をそのまま零すかのような声を出した。空母棲姫の言葉遣いは、他の深海棲艦達に比べて片言に聞こえる。一つ一つの言葉を確かめながら発音しているかのようでもある。

 

「オ前達ハ、イツモ、コンナ美味イ物ヲ食ベテイルノカ?」

 

「そう頻繁ではないけれど」「えぇ、時々ね」

 

 空母棲姫にゆったりとした口調で答えたのは、戦艦棲姫と水鬼だ。二人は既にカレーを食べ終えている。彼女達の上品な佇まいと静かな貫禄の中には、空母棲姫の持つ緊張や警戒を解そうとする優しさが窺えた。

 

「調理をするのは、その時々で違うな。確か、この前は私が海鮮パエリアを作った」

 

 カレーを食べ終えた南方棲鬼が、記憶を辿る顔つきで会話に混ざる。

 

「牛丼が食べたい。アレは腹だけでなく、心も満たすな」

 

 切ない表情になった集積地棲姫が、ふぅ……と息を漏らした。

 

「ぱえりあ、ぎゅうどん、ト言ウ物モ、美味イノカ?」

 

 空母棲姫が真剣な表情をつくり、他の深海棲艦を見回して訊く。「美味い!」北方棲姫が大袈裟に頷いた。「えぇ、とても」「うん。美味しい」ヲ級と港湾棲姫がひっそりと微笑む。他の深海棲艦も、誰も否定の言葉を口にしなかった。

 

「その美味いものを作り出す技術や知識は、滅ぼすより、学ぶほうがずっと良い」

 

 並々ならぬ情熱を滲ませる声で言う重巡棲姫は真剣な表情をつくり、カレーのおかわりを青年に要求していた。青年はカレーの鍋をゆっくりと掻き混ぜながら、重巡棲姫の皿を受け取っている。そこに、「俺もー! (レ)」とレ級が続く。年の離れた優しい兄が、キャンプについてきた妹の世話でもしている風情がある。

 

 人間社会の中で育まれて来た食文化に敬意を払う彼女達の様子に、空母棲姫は、未だ経験したことのない世界や分野に想いを馳せるような目つきになり、揺れる焚火に視線を移した。そしてすぐに、重巡棲姫やレ級と同じように、そっと皿を青年に差し出して見せた。

 

 食事が終わると、レ級が2組のトランプを持ち出して大富豪が始まった。楽しそうにはしゃぐレ級と、そのレ級の底抜けに明るい空気に引き摺られた他の深海棲艦達も、満更でもなさそうにゲーム興じている。焚火の明かりを頼りに行われるトランプゲームは、高級で優雅な遊戯とは程遠いものだったが、其処に居る者達の距離を縮める娯楽としての純粋な盛り上がりを見せ、それはもう、まるっきりキャンプの夜の様相だった。

 

 

 

「……生きていたのですね」

 

 トランプゲームに興じる深海棲艦達を、少し離れた場所から見詰めながら、不知火は隣に立つ青年に訊ねた。青年は答えず、深海棲艦達を見守っている。涼やかな波の音が、二人の間に在る沈黙を攫う。不知火は、青年の言葉を待つ。視線を上げると、雲も疎らな夜空に星々が瞬いている。此方を見下ろし、何かを囁き合っているかのようだった。

 

 暗がりの空から降りてくる夜風が、不知火の肌を撫でていく。不知火の髪や肌に、潮風によるべたつきは無かった。汗をかいている感触も無い。自分の身体が、常に清潔に保たれていることに気付く。不知火を蘇生させるに際して、何らかの特殊な防御術式が施されている事は推察できた。トランプゲームに興じる深海棲艦たちの身体にも傷や汚れも無く、その瑞々しい肌を見るに、彼女達もまた不知火と同じような術式が施されているのだろう。

 

「『“世間的には、死んだということになっていますが”』」

 

 

 隣に立つ青年が、響いてくる波音に声を添えるように言う。青年はゆったりとした足取りで浜辺を歩き、波打ち際に近づく。微笑みを浮かべた青年の右手の甲には、やはり、幾何学的な文様が脈打つように明滅している。

 

「その姿は……? 2年前のニュースで見た貴方の姿と、今の背格好では差が在り過ぎます。そんなに成長する筈が……」

 

「『“僕も、見た目通りの人間ではありませんから”』」

 

 不知火をはぐらかすかのような物言いだが、それは真理を突いているとは思った。確かに、彼は人間などでは決してない。目に見える姿形など、彼にとっては全く無意味なものなのだろう。この青年こそが、2年前に世界を震撼させた少年提督であることを確信する。

 

「……貴方は、何をしようとしているのですか?」

 

 単刀直入な訊き方だったが、もう不知火には、今の状況の何をどう訊ねれば良いのか分からないでいた。深海棲艦の攻撃を受けて沈んだと思ったら、どういう訳か蘇り、その後に深海棲艦からカレーを振舞われ、今は彼女達が楽しそうにトランプゲームをする姿を見詰めているのだ。理解できないことの連続での中で、恐怖や緊張といった感覚が麻痺している。

 

「『“未来を変えたいと思いました”』」

 

 青年は法衣のフードの奥から海を見詰めながら、言う。

 

「『“その為に、深海棲艦の皆さんの力をお借りしているんです”』」

 

 そこまで言った青年は、不知火に向き直った。顔の下半分しか見えないが、彼は穏やかな微笑みを浮かべたままだ。不知火は、かつてのニュースの映像を思い出す。部下の艦娘達に悪辣な言葉を浴びせかけていた少年提督と、今の青年の言動が上手く繋がらない。

 

 2年前の暴走事件は、艦娘売買の容疑によって世間から注目を集めていた少年提督が、部下である艦娘の全てを剥奪する命まで受けるほどに追い詰められ、最終的に、特別捕虜として預かっていたという深海棲艦を率いて起こしたものだと聞いている。また事件のその後、少年提督が関わったとされる凄惨な悪徳の数々が表沙汰になり、彼は歴史の裏で暗躍し続けていた怪人として、世間にも認識されていた。ただ、この青年を目の前にして話をしてみると、ニュースで見たあの少年提督と同一人物であるとは思えない。

 

「未来を変える……?」

 

「『“えぇ。僕は未来を視ることが出来るのですよ”』」

 

 本気か冗談か分からない口調で言って、青年が微笑みを深めて見せる。

 

「『“この眼が、悲劇的な未来を僕に見せたのです”』」

 

「そ、そんな馬鹿な」

 

 掠れた声を返した不知火は、その荒唐無稽な話に顔を顰めるよりも先に、広大無辺な自然に纏わる神秘に触れたような気分になった。

 

「『“あぁ、少しだけ失礼しますね。……ここからは遠いですが、夜戦で大きな損傷を負った方が居られるようです”』」

 

 青年は暗い海へと向き直り、朗々と何らかの文言を唱え始めた。読経にも似た彼の声の響きが、波音と潮風に混ざっていく。青年が右の掌を海に翳す。掌や腕に刻まれている幾何学紋様が象牙と琥珀色に明滅し、彼の掌の中に光が灯された。彼の足元の砂浜にも、複雑な術陣が浮かび上がってきている。

 

「『“艦娘の方が1人、それに、深海棲艦の方が1人……”』」

 

 青年は暗がりの海の、遥か先を見据えている。彼の掌に灯された象牙と琥珀色の光は、まるで花弁が風の中に散るかのように、暗い海の波間へとふわりと落ちた。光は黒々とした波間に冴え、折り重なる波の飛沫に溶けながら、遥かな水平線へと延びて繋がり、海全体に広がっていく。暗い海が青年の唱える声に応え、彼の持つ神秘的な力や現象を受け取り、それを波に乗せて何処かへ運び去っていくかのようだ。

 

 トランプゲームに没頭している深海棲艦達は此方の様子に気づいていない。いや、もしかしたら、深海棲艦達にとっては見慣れたというか、全く特別な光景なのではないのかもしれない。彼女たちの暢気な歓声が聞こえる中で、不知火は瞬きを忘れて、青年を見詰めていた。

 

「今のは、何を……?」

 

「『“応急処置ではありますが、遠隔で治癒術式を行いました。後ほど防空棲姫さんが、負傷した艦娘の方を此処まで連れて来てくれるので、本格的な治癒再生施術を行うのは、その時になってからですね”』」

 

 未来の時間を眺めながら、自分のすべき行動を確認するかのように青年は言う。不知火も暗い海の向こうを見遣るが、戦闘の気配はおろか、砲火の光すら見えない。不知火の目に映る黒く広大な海は黙したままで、夜空に浮かぶ月の明かりを受け止めているだけだ。ただ、この目の前の青年には、全く違う景色が見えているに違いない。

 

「不知火の身体をここまで完全に修復したのも、貴方なのですね」

 

 殆ど反射的に訊いてしまってから、不知火はハッとする。自分は一度死んで蘇ったのだ。それが、この目の前の青年の仕業だとするならば、艦娘の轟沈数0、深海棲艦の撃沈数0という現在の異様な状況も、妙に納得できてしまう。息を呑みそうになる不知火には気づかない様子で、青年は事も無げに顎を引いた。

 

「『“艦娘の方々を撃沈させてしまうような戦闘は極力避けて貰っていますが、砲撃を行う海戦では、どうしても事故のような形で大きな損傷を与えてしまう場合はあります。同じように、深海棲艦の誰かが、大きな損傷を与えられる場合も”』」

 

 不知火は眩暈と共に、レ級との戦闘を思い出す。確かレ級は、不知火に砲撃を命中させてしまい、酷く焦っていたのを思い出す。

 

「艦娘も深海棲艦も誰一人沈まない、不自然極まりない今の戦況は全て、貴方の仕業だったワケですか」

 

「『“端的に言えば、そういう事になります”』」

 

 青年の温和な微笑みに、反魂という言葉が脳裏を過る。つまりこの青年は、遍く戦場で沈みかけた艦娘や深海棲艦の肉体を再生させて、再活性を齎し、潮水に失われていく筈だった人格と命を修復してきたのだ。その途方もない御業の規模は、不知火では捉えきれない。ただ生物の限界を超えた規模の術式を軽々と扱う彼にとっては、この海そのものが巨大な入渠施設なのだろう。この青年の前ではどのような生命であれ、朽ちることなく、何もかもが瑞々しく蘇るのではないだろうかと思えた。波音がやけに大きく聞こえる。足元の地面が、波に攫われていくかのような感覚がジワジワと這い上がってくる。

 

「不知火達は一体、何の為に戦っているのですか……? この戦況の停滞は、何の意味が……?」

 

 夜風に触れる不知火の声は、頼りなく震えていた。ひどく寒い。気づけば、不知火は青年を見詰めていた。不知火は無意識のうちに、己が抱く疑問の全てに対して、この青年は答えを持っているのではないかと期待していたのかもしれなかった。

 

「『“この停滞の本質は、深海棲艦との戦争に対する人々の意識に、大きな変化を齎すための時間を作り出すものです。悲劇の未来を回避する為に、不可欠な時間でもあります”』」

 

 その期待が、あながち間違いでもなさそうであることが、不知火の動揺や混乱を鎮めてくれる。

 

「『“悲劇を回避した更に未来において、僕は、深海棲艦の皆さんが勝利する未来を観測していません。そして、人類側が勝利する未来もです。勝者は居ません。そして、敗者も”』」

 

 未来を語る彼の口調は、高名な年代史家が、歴史の移り変わりを解説するかのようだった。勝者が居ないということは、深海棲艦と人類との戦争は、いずれ停戦を迎えるということなのだろうか。何度目か分からないが、そんな馬鹿な、と思う。そもそも、未来を見通すなどと言う話自体が荒唐無稽であり、今からでも、彼の話した内容は全て出鱈目だと考えるべきなのか。口を噤んで俯いた不知火を見て、青年が小さく息を漏らすのが分かった。

 

「『“艦娘の皆さんと深海棲艦の皆さんが、同じ百貨店で買い物をするようになると言ったら、貴女は信じますか? ”』」

 

「……そんな未来が来るとは、到底思えません」

 

 顔を上げた不知火は、しかし、青年の方を見ずに、夜の海へと視線を向けて答える。

 

「『“えぇ。無理もないと思います。しかし、時代が変わるということは、価値観や常識が変化することです。人類の文明が歩んできた時間を考えれば、何が起きても不思議では在りません”』」

 

 穏やかに語る彼の声音は超然とした神秘に満ちていた。だが、その神聖さの奥には、血の通った温もりが感じられた。不知火は、じっと青年の横顔を見詰めてしまう。

 

「部下の艦娘達に罵詈雑言を浴びせかけていた人物の言葉とは思えませんね」

 

「『“あぁ。い、いえ、あれは……、その”』」

 

 何かを思い出す口調になった青年は、不知火へと顔を向けかけて途中でやめた。彼がフードの奥で左の頬を指で掻いている。今まで彼が纏っていた、相手に緊張と畏怖を強いるような超然さが、ふわりと消えた。代わりに、困ったように言葉を探す、人間らしい頼りなさが漂ってくる。

 

「『“あれは、演技なんです。本心とは真逆のことを言ったんですよ”』」

 

 中途半端に俯いた彼が、フードの奥で照れ笑うのを誤魔化すような微苦笑になったのは、その雰囲気からも明らかだった。彼は手短に、あの日の暴走事件の背後にあった真実を不知火に語ってくれた。

 

「『“今の人間社会が、艦娘の深海棲艦化現象を受け入れてなお、艦娘の皆さんと共存する道には、深海棲艦の存在が不可欠でした。未来を変えるためのこの戦況の停滞には、今……誰もが必要だったのです”』」

 

 微苦笑を浮かべながら静かに言い切る彼の声の中には、自身の行動を肯定する開き直りも、他の道を選べなかった遺憾さも無かった。何もかもを諦めた上での、消去法的な選択を後悔するでもない。ただ、自分の運命を粛々と受け入れる無私の決意だけが在る。

 

 もう、どれだけ明るい未来が訪れたとしても、“少年提督”が赦される未来は存在しない。“少年提督”は、赦されない存在として歴史に残り続ける。だが、彼はそれを望んでいる。人間も艦娘も深海棲艦も存在する未来に於いて彼は、過去の悲劇の中から人類に問いかけ続けるのだ。『人類至上主義が極まれば人間性が窮まり、僕のようなヤツが再び現れるぞ』と。

 

「聞いておいてなんですが……、そんなことを、不知火に話してしまっても良いのですか?」

 

「『“えぇ。……この夜の記憶は、一応、消させて頂きますから”』」

 

 青年が申し訳なさそうに言うのは、なんとなく予想が出来ていた。フードの奥で僅かに顔を俯かせた彼が、短く文言を唱える。すると、砂浜に立つ不知火の足元と、不知火の額の前に術陣が象られた。暗がりの海から吹く風の中に、術陣の澄んだ微光が淡く塗されていく。術陣から漏れる象牙と琥珀色をした光の粒子は、夜空の星々とささめき合うように明滅しながら、不知火の身体を優しく包んでくる。ザザザ……、と波の音が一際大きく聞こえた。不知火は、目の前に黒々と広がる海を見詰める。

 

「貴方が居る限り、この海から真実を持ち帰ってくる艦娘は居ないというワケですね」

 

「『“僕の生存を確定させる証拠は何も残していませんが、まだ時間が必要ですから。僕もこの場所から『良い世、来いよ』と、願い続けるつもりです”』」

 

「……この停滞の中で、生きる意味を見つけるのは簡単ではありませんね。記憶を消される前に訊ねておきたいのですが、この戦争は結局、いつまで続くのでしょう?」

 

「『“期間を明言することは難しいですね。強いて言うならば、そうですね……、僕が終わったと言うまで、でしょうか”』」

 

「恐ろしいことを言いますね」

 

「『“何事にも誤差はありますし、僕は独善的ですから。実のところ、今こうして貴女と会話をしている時間すら、僕は観測できていませんでした”』」

 

「貴方が観測した大方の流れから逸れていないのであれば、誤差というには些末な事態でしょう」

 

 言ってから、不知火は一度、深呼吸をした。或いは、その些末な誤差の集積こそが、未来なのもしれないと思った。視線を上に上げる。青年の編んだ術陣から漏れる光の向こうに、大きな月が浮かんでいる。丸くはない。僅かに欠けた月だ。黙ったままで此方を見下ろしている。広大な景色の一部である月の存在感は、この青年によく似ていると思った。

 

 他者からの理解を拒むでも受け入れるでもなく、ただ煌々と在り続ける。摂理や法則の奥に住まう神々が、その姿を見せずとも、存在と力を示し続けるかのように。

 

「……不知火は、もう一度、貴方に会えますか?」

 

 不知火が訊くと、青年は遥か遠くを見渡すように再び海を見遣った。数秒の無言の間を、波音が埋めていく。この1秒、そして次の1秒を、不知火は確かに生きている。不知火は、不知火として通過している。だが、眼の前の青年は、全く違う時間の中にいるのだと思えた。

 

 青年が不知火に向き直り、微笑みを浮かべる。同時だった。不知火の身体から力が抜けた。彼の編んだ術式によるものだと理解する。降り終えた雨の水が流れて、乾き、消えていくように、この夜の時間は無かったことになる。声が出ないまま、砂浜の上に崩れ落ちる。寸前に、体を誰かに受け止められた。横抱きに抱えられている。青年だ。不知火は青年の腕の中から、霞んでいく視界で彼を見上げている。彼の形の良い唇が動く。

 

「『“えぇ。会えると良いですね”』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい!! 起きろ!! 死んでる暇なんて無ぇぞ!!」

 

 乱暴な声が聞こえてきた。

 聞き覚えのある声だ。

 これは、確か、天龍型1番艦の……。

 そうだ。天龍の声だ。

 揺れを感じる。

 

 目を開けると、此方を見下ろしてくる天龍と目が合う。自分が、艤装を展開している天龍改二に抱えられているという状況に気付く。顔を動かす。不知火を抱えた天龍は、浜辺から海へ出ようとしている。空は晴れているものの雲が在り、陽射しも柔らかい。緩やかな風が頬を撫でていく。同時に、砲撃音が響いてきた。近くで戦闘が行われているのだと理解する。

 

 戦闘。自分も、戦闘に参加しなければ。そう思うが、上手く“抜錨”出来ない。艤装も召べない。身体が思うように動かない。痛みや倦怠感は無いのに、身体が酷く重い。唇を噛む。そもそも自分は、何故、天龍に背負われているのだ。何が起きているか分からない。

 

「無理をしてはいけません。恐らくですが、貴女の身体には“抜錨”を妨害するエフェクトが掛けられています」

 

 すぐ隣から声、自分と同じ声が聞こえてきた。不知火改二だ。天龍の腕の中で、何とか動こうとしている様子を見て、声を掛けてきたようだ。改二の彼女が、肩に触れてくる。

 

「戦闘は不知火達に任せて下さい。今は、貴女の生還こそが最優先です」

 

 落ち着いた低い声で言う彼女に、頷くしかなかった。“抜錨”も出来ないのであれば、戦闘の邪魔にしかならないのは自分でも分かる。了解しましたとだけ答え、不知火は天龍改二の腕に体を委ねた。

 

「聞き分けが良いな」

 

 唇の端を釣り上げた天龍改二は暢気な声を出しながら、浜辺から波打ち際へと走りこんで、そのまま滑るように波の上へと飛び乗っていく。凄いスピードだった。身のこなしや視線の配り方にもまるで無駄が無い。不知火改二も、懐から携帯端末を取り出しながら、全く遅れずに横に並んでくる。この二人が相当に練度の高い艦娘なのだろうと分かった。

 

 折り重なって響いてくる砲撃音を聞きながら、天龍改二と不知火改二は、ぐんぐんと沖へと向かっていく。戦闘の気配が遠ざかっていくのは明白だった。天龍改二の腕の中から少し体をひねり、自分が倒れていた浜辺を振り返る。大きくは無い島が、遠ざかっていくのが見える。あの島は、深海棲艦の拠点か何かなのか。そんな事すら分からない今の自分の状態がもどかしい。

 

 必死に記憶を辿ろうとするが、上手くいかない。戦闘の記憶だけがぼんやりと浮かんでくるだけだ。「シシシシ!」という笑い声が聞こえる気がした。レ級。そうだ。レ級と戦って、それから……。だめだ。分からない。思い出せない。苛立ちを隠すように強く目を閉じると、不知火改二が、浜辺で倒れている不知火を回収したと、何処かに報告をしている声が聞こえた。

 

 不知火改二が持つ携帯端末からは、他にも一名の艦娘を回収したという内容に続き、防空棲姫を含む深海棲艦の上位種の撤退を確認したという音声も聞こえてきた。不知火改二たちは、今から他の艦娘とも合流するようだ。合流ポイントの確認を取っているのが聞こえる。頭上を見上げると、空母艦娘の艦載機たちが飛んでいた。制空権も完全に奪っている様子を見るに、あの島を中心とした戦闘は、艦娘の勝利であることは間違いなさそうだった。

 

 

「この海域一帯に陣取っていた深海棲艦達も、一斉に撤退を始めているようです」

 

 携帯端末を仕舞いながら、不知火改二は誰かを探すような目つきになって周囲を見渡した。天龍改二も視線を周りの海へと巡らせてから、先ほどまで居た島を見遣る。

 

「いつもの展開だ。こうも撤退を繰り返されると、……最初の頃の、アイツの指揮を思い出すな」

 

 目当ての誰かを見つけられなかった軽い落胆を誤魔化すように、天龍改二は鼻を鳴らした。「えぇ。懐かしいですね」と続いた不知火も、溜息なのか深呼吸なのか分からない息を吐いた。その後に在った無言の間は束の間のことで、「……まぁ、何にせよ」と、すぐに天龍改二が、腕の中に居る不知火を見下ろして来た。

 

「お前に大きな怪我が無くて何よりだ。お前の仲間も随分心配してたしな」

 

 快活に言う天龍改二のその言葉が、本心から来る言葉であることはすぐに分かった。深海棲艦の脅威が去ってもなお艤装を解かない彼女の笑顔には、不知火を護り通そうとする力強さが満ちていたからだ。自分が護られる立場にあることを理解すると同時に、混乱も収まってくる。自分がドロップ艦として回収されている状況であることも、ようやく飲み込めてきた。

 

「聞いたぜ? 殿を引き受けてレ級とやり合ったんだろ。ガッツ在るぜ」

 

「……ありがとう御座います」

 

 不知火は腕の中からではあったが、頭を下げる。すると、天龍改二が擽ったそうに笑って、隣に居る不知火改二を横目で見た。

 

「お前も、こんくらい素直だと良いのによ」

 

「それは此方の台詞ですよ。昔のホラー映画を見た夜に、『フフフ、怖いか?』とか言って、トイレに行くのを誘いに来るのは、本当に如何なものかと思います」

 

「あれはな、俺が秘書艦やってるときに、野獣が勝手に見始めたんだよ。アイツ、執務室に私物のクソデカモニター置いただろ? あれの試運転だとか抜かしやがってよー」

 

「経緯はどうでも良いんですよ。素直さの話です。『フフフ、トイレに行くのが怖いか?』の後に、せめて、『俺は怖い』と素直に付け足してくれれば、まだ可愛げもあるのですが……」

 

「うるせぇんだよお前はよ」

 

 場違いで緊張感の無い会話を続ける彼女達には、実際には全く隙が無く、自然体のままで死線を潜っていく歴戦の兵としての貫禄が在った。

 

「それでよ……、お前が戦ったって言うそのレ級なんだが、その……、なんだ、変わった笑い方してなかったか?」

 

 不意に天龍が、久しく出会っていない友人を思い出すような顔つきになって、不知火を見下ろしてくるのが分かった。

 

「こう、子供みたいに肩を揺らしてよ」

 

「えぇ、シシシシと、歯を見せる笑い方をしていましたね。それだけは覚えています」

 

「……やっぱそうか。悪い。変なこと訊いたな」

 

「あのレ級を知っているのですか?」

 

「まぁな。俺も何度かやり合ったことがある」

 

 天龍改二が言うと、「腐れ縁というヤツですね」と、不知火改二が言葉を繋いだ。

 

「……ただ、他の事は何も思い出せないので」

 

「構わねぇよ。怪我も消えて健康な身体で還ってくるなら、誰も文句なんざ言わねぇさ」

 

 天龍改二が笑いながら言う。自分がドロップ艦として生還した事実を、不知火は改めて実感した。抜け落ちた記憶は、どうしても思い出せない。何か、とても重要なことを忘れている。そんな気がしてならない。もどかしく思った時、不知火改二と天龍改二が、誰かとすれ違った。天龍の腕の中に居た不知火は、視界の端に、一人の青年の姿を捉える。黒い提督服の上に、複雑な文様が描かれた白い法衣を纏った彼は──。

 

 不知火はガバっと体を起こし、海の上を見回す。

 だが、遮るもののない波の上には、誰もいない。

 

「ん? どうした? 潜水艦か?」

 

 天龍も警戒して周りを見るが、敵影は無い。不知火改二も周囲を見回してから、視線を上げた。深海棲艦の艦載機の姿は無かった。艦娘が勝利を収めたあとの、平穏な海の景色がそこに在るだけだ。現実の時間が流れる青い世界が、ただ渺茫として広がり、不知火達を包んでいる。

 

「深海棲艦の姿は在りませんね。十分な索敵も行ってくれていますから、合流ポイントまでは安全の筈ですが……」

 

 不知火改二が再び携帯端末を取り出そうとしている。「油断はしてないつもりだぜ」と、天龍改二が鼻を鳴らして、雲が流れていく蒼い空を見上げた。

 

「今夜も晴れそうだな。月が見れるぞ」

 

 

 










 たくさんの暖かなメッセージを寄せて下さり、本当に有難う御座います! シリアスな話ばかりで申し訳ありません……。114514字は無理そうですが、次回更新があれば、もっとギャグ寄りな話にも挑戦出来ればと思います。
 もう普通の風邪もひけない、体調も崩せないような日々が続いておりますが、皆様もどうか、お体にはお気をつけ下さいませ。今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございました!

 

 
 


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

エピローグ 2


エピローグなので、初投稿です(朦朧)
更新が非常に遅れてしまって、本当に申し訳ありません……。



 

 

 

 

 

 

 

 執務室の窓から差し込む光に、夕暮れの気配が混じり始めるころだった。

 

「はぁぁ~~~……(クソデカ溜息)」

 

 秘書艦用の執務机でデスクワークをこなしていた鈴谷は、地面に落ちるかのような溜息を近くで聞いた。思わず苦笑が漏れそうになるのを堪える。重厚な溜息の主は、鈴谷と同じく、今日の野獣の秘書艦であるコロラドだ。彼女は秘書艦用の執務机に肘をついて頭を抱え、その姿勢を変えないまま、もうやるせないと言った感じの迫真過ぎる溜息を「はぁぁあぁぁあああああ~~…………」と、再び吐き出して見せた。

 

「ちょっと休憩しましょう。暖かいお茶でも淹れますね」

 

 執務用の椅子から腰を上げつつ、鈴谷はコロラドに言う。腕時計を見れば、そろそろ15時になろうとしていた。

 

「……えぇ。いつもありがとう」

 

 此方に顔を上げたコロラドは、眉尻を下げたままの笑みを浮かべて見せた。素直に礼を述べてくれる彼女は、いつも誠実で実直であり、戦場海域での勇猛さと強さは言うまでもないが、鎮守府の生活の中でも周囲への気遣いを忘れない。そんな彼女のことを、鈴谷だけでなく、皆が好ましく思っている。いえいえ、と鈴谷は答えつつ、軽く伸びをしてから茶の用意をしていく。

 

「それにしても、何時になったら帰ってくるのかしら」

 

 疲れたような声で言うコロラドが、野獣の執務机へと視線を向けるのが、背中で感じる気配で分かった。野獣がトイレに行くと言って執務室を離れたのが昼過ぎだったから、もう2時間以上が経っている。鈴谷は肩越しで、野獣の執務机へと振り返る。そこには大量の書類が山となっており、誰がどう見てもこれは徹夜必至だろうという積み上がり具合だ。

 

「もう戻ってくると思いますよ。ほら、そろそろオヤツの時間じゃないですか」

 

「仕事にしに戻ってくるんじゃないのね……」

 

 呆れた声を出すコロラドに、鈴谷も軽く笑ってしまう。

 

「まぁ、野獣はマイペースと言うか、ゴーイングマイウェイな奴ですから」

 

「それ、勤務態度に対するフォローに全くなってないけど」

 

「確かに」

 

 鈴谷は苦笑を浮かべながらも、湯飲みに淹れたお茶をコロラドに渡し、間宮の羊羹も用意する。それを見たコロラドの表情が、ぱぁっと明るくなった。次の瞬間だった。執務室の扉がバァン! と勢いよく開け放たれて、鈴谷とコロラドはビクッと肩を跳ねさせる。

 

「ぬわぁぁあぁぁん、オヤツの時間だもぉぉぉぉん!!」

 

 野獣だ。相変わらずのTシャツと海パン姿で、携帯端末に指を滑らせている。

 

「ビール! ビール! 冷えてるか~? (休日気分)」

 

 執務室に勝手に持ち込んだ冷蔵庫をゴソゴソとやり始める野獣の背中に、「あのさぁ……」と鈴谷は声を掛ける。

 

「仕事が山積みなんだから、ビール飲むのは後にしてくんない?」

 

 諫めるつもりで言うのだが、野獣の方は「まぁ、(気分転換の為の飲酒も)多少はね?」なとど全く悪びれた様子もなく、下手クソなウィンクを返してくる始末だ。

 

「職務中に飲酒して許されるワケないでしょ」

 

 眉間に皺を寄せたコロラドが、険のある声で野獣を刺すように言う。だが野獣の方はと言えば既に聞き流している様子で、冷蔵庫の中をガサガサと掻き混ぜながら、コロラドにも下手クソなウィンクをして見せた。

 

「まぁ、今は俺もシーズンオフだし、多少はね? (慢心)」

 

「そんなん無いよ……。鎮守府はずっとオンシーズンだよ……」

 

 とりあえずツッコミながら、鈴谷は野獣にも茶を淹れる。

 

「はい。ビールの代わりにコレ。間宮さんから羊羹も貰ったから、一緒に食べよ」

 

「おっ、ありがとナス! (気が利いてて)良いねぇ~! (ご満悦先輩)」

 

 茶托に乗せた湯飲みを自分の執務机の上に置いて貰った野獣は、暢気な声を出して冷蔵庫の中をゴソゴソとさせるのを止めた。携帯端末を操作しながら執務机まで歩いてくると、ドカッと執務用の椅子に腰かけ、湯気をくゆらせる湯飲みを引っ掴んでからグイっと一口煽った。「アツゥイ!! (素)」野獣が間抜けな悲鳴を上げる。

 

「端末ばっかり見てると火傷するよ。今淹れたばっかりなんだから」

 

 秘書艦用の執務机に戻りつつ鈴谷が呆れながら言うと、今までムスッとした様子で黙っていたコロラドが鼻を鳴らした。

 

「……随分と長いトイレだったわね」

 

 普段よりも低い声で言うコロラドの眼は、鋭く野獣を睨んでいる。

 

「もう2時間半ほど経ってるんだけど。お腹でも痛かったの?」

 

 その言葉は野獣に対する心配ではなく、明らかにサボりを責める口調であり皮肉に違いなかった。だが野獣はと言えば、「そうだよ(素直な肯定)」と、よくぞ聞いてくれたとでも言わんばかりの迫真の苦労顔を作り、「腹が下っちゃってさぁ~(アンニュイ先輩)」などと洩らし始めた。

 

「消防隊の放水さながらで、マジで参るゾ……(げっそり)」

 

「ねぇゴメン野獣、今さ、おやつ食べてるからさ、そういう話は後にしてくれない?」

 

 顔を顰めた鈴谷は即座にインタラプトに入る。せっかく間宮の羊羹を美味しく食べようと言う時に、野獣のトイレ状況の話が盛り上がってはかなわない。コロラドも死ぬほど不味そうに顔を歪めている。「昨日は全裸で寝たからかなぁ……(分析)」なんて零しつつ、野獣は茶を啜り、羊羹を切り分けて口の中に放り込む。

 

「うん、美味しい! (大声)」

 

 目の前にうず高く積まれた書類など、まるで見えていないかのような長閑な雰囲気を醸し出す野獣は、満足そうに羊羹にパクつき、茶を啜る。「……アナタ、のんびり構えていて大丈夫なの?」と、溜息を飲み込むついでのようにコロラドが言うが、野獣は「へーきへーき!」なんて笑いながら、ひらひらと手を振った。

 

「……そう。ならいいんだけど」

 

 コロラドはふいっと野獣から視線を逸らし、上品な仕種で羊羹を口に運ぶ。真面目なコロラドにとって野獣の仕事ぶりは、さぞ無茶苦茶なものに見えることだろう。鈴谷は羊羹を口の中で溶かしながら、コロラドの歓迎会を兼ねた花見の席の事を思い出す。

 

 柔らかな陽射しを受け、咲き誇る桜の花と、その花びらが緩やかに舞い落ちてくる広場の景色は、絵葉書にでもできそうなほどに風情に溢れたものだった。その風景のド真ん中で、野獣という男の素顔を見た彼女は終始茫然としていたし、その目からハイライトが完全に消えていたのも忘れられない。

 

 長門と陸奥は、生気が抜けたような顔のコロラドに謝り倒していたし、その横では昼間から酒を飲めることにテンションを爆上げした隼鷹や那智、それにポーラなどが乱痴気騒ぎを起こし、そこに酔った武蔵の天然ボケが炸裂しまくり、すかさず野獣が混ぜっ返すという酷い有様だった。花見自体をゆったりと楽しんでいる艦娘達も当然居た筈だが、あのバカ騒ぎの方が強烈に印象に残っている。

 

 あの日の景色を思い出し、そこに改めて目を凝らしてみると、新しい仲間を迎える場としては全く相応しくない光景ではあるものの、この鎮守府らしいなんていう感想が苦笑と一緒に漏れてくるから不思議だ。

 

「あっ、そうだ(カットイン)今度の演習編成、先方に送らなきゃ……(使命感)」

 

 執務机の上に積まれた書類の一つを手に取った野獣は、机の中からタブレット端末を取り出した。ディスプレイに素早く指を滑らせ、何らかの文章を作成している様子だ。

 

「ウチの鎮守府にぃ、明日から配属されてくるイタリア艦の姉妹は……、バリバリ☆バルカンパンチ姉妹だっけ? ()」

 

 文書を作成し終え、報告を送ったのだろう。タブレット端末を机の上に置いた野獣は、茶を啜りながら顔を上げた。

 

「ガリバルディさんだよ……。殆ど原型が無いじゃん……」

 

 鈴谷は疲れ気味に突っ込むが、野獣は一瞥を寄越して「あっ、そっかぁ(記憶の欠落)」などと適当な相槌を返してくる。

 

「覚える気ないでしょ、アナタ」

 

 低い声で言いながら、コロラドは野獣を半目で睨んだ。全く怯んだ様子を見せない野獣は、「重要なのは名前じゃなくて、信頼だってそれ一番言われてるから(迫真)」と穏やかな口振りで言いながら肩を竦めて見せる。腹立たしいほどの余裕を見せつける仕種だった。

 

「あんまり細かいこと気にしていると、コロ助も戦艦になれないゾ☆(優しいお兄ちゃん風)」

 

「私は戦艦よ!! あと、誰がコロ助ですって!?」

 

 コロラドが執務机をぶん殴る勢いで言うと、野獣は「えっ」と意表を突かれたような顔になった。「『えっ』て何よ!?」間髪入れずにコロラドが怒声を上げるが、野獣は全く怯んだ様子を見せず、先ほどのタブレットを手に持って眺めた。

 

「次回演習のお前の名前、コロ助で登録しちゃったなぁ……(凡ミス)」

 

「えぇ……(困惑)」鈴谷は顔を歪ませ、「は……? (威圧)」コロラドが真顔になる。

 

「ほらこれ(悠長)」

 

 まるで他人事のように言う野獣は、タブレット此方に向けてくる。そこには編成を入力する画面が映っており、この鎮守府から選ばれた艦娘の名前が以下のように並んでいる。

 

 コロ助

 余っちゃん

 火炙り

 ベイベベイ

 バリバリバルカンパンチ

 ソードフィッシュゥゥウ──! 

 

 

「もう、何がなんだか」

 

 怒る気すら失せたのか、掠れた声を出したコロラドが頭を抱える。

 

「怪文書みたいになってんじゃん……」

 

 デイスプレイを見詰めたままで、鈴谷も呆れながら言う。

 

「余っちゃんて、ネルソンさんのこと? 怒られるよ? それにバルカンパンチ直ってないし。『あっ、そっかぁ』って言ってたよね?」

 

 鈴谷に指摘された野獣は意外そうな顔になってディスプレイを一瞥すると、また肩を竦めた。

 

「人はミスをする生き物だから、まぁ多少はね? (寛大な心)」

 

「いや、自分のミスに甘過ぎるでしょ……。それにさぁ、こんな編成送ってこられても、他の鎮守府の提督さんは誰が誰だか分かんないよ」

 

「ギリギリ分かるでしょ? (希望的観測) ベイベベイはガンビアベイだし、ソードフィッシュは言わずもがな、アーちゃんだしな(学校のクラスLI●Eのノリ)」

 

 余裕のある喋り方をする野獣を一瞥したコロラドが、「……この火炙りって誰?」と眉間に皺を寄せて再びタブレットを見詰める。

 

「それは日振だゾ。練度を上げる為に編成に入れたんだけど(適当)、……そこもタイプミスしてるなぁ(遅過ぎる分析)」

 

「何もかもガバガバじゃない……」

 

 コロラドが顔を顰めたところで、軽い電子音が響いた。タブレットが新しいメールを受信したのだ。野獣はディスプレイに手早く指を滑らせてメールの内容を確認してから、面倒くさそうに息を洩らした。

 

「先方からウチの艦隊編成について、『なんすかこれ?』ってメールが来たゾ(アンニュイ先輩)」

 

「そりゃそうでしょ」鈴谷が強く頷く。

 

「世間でヒーロー扱いされてる男が、編成した艦娘の名前もまともに表記してこないなんて、誰も予想しないわよ。……早急に手直しして、送り返しなさい」

 

 気を取り直すように息を吐いたコロラドは、残りの羊羹を口に運び、茶を啜った。もう仕事に戻るつもりなのだろう。背筋を伸ばした彼女は手を合わせ、御馳さまと鈴谷に小さく頭を下げてくれた。礼儀正しい彼女に軽く恐縮しつつ、鈴谷も手を合わせてから湯飲みや小皿を片付けようとした時だった。

 

 軽やかな電子音が再び響く。タブレットが再びメールを受信したようだ。野獣は携帯端末の方で新しい文書を作りながら、タブレットに指を滑らせて新着のメールを確認している。束の間ではあったが、そのテキパキとした動きにコロラドが目を瞠っているのが分かった。メールを返信し終えた野獣が、再び携帯端末を手早く操作した。すると、執務室の壁に立てかけてある大型モニターに、壁紙の画面が立ち上がってくる。何をする気なの……? 、とでも言いたげな表情のコロラドは、野獣とモニターを見比べている。

 

「まずウチのさぁ……、動画チャンネルが復活するんだけど、(お前も)やってかない?」

 

 タブレットから顔を上げた野獣が、コロラドに視線を向けた。

 

「……えっ」

 

 訝し気な顔つきになったコロラドが低い声を出したが、すぐにハッとした顔になった。野獣、というか、この鎮守府の艦娘がテレビに出演したり、動画サイトで活動を続けていることを思い出したようだ。

 

「そういう活動も再開するんだ」

 

 湯飲みや小皿を片付け終え、自分の執務机に戻った鈴谷は、自分の気分が高揚するのが分かった。

 

「俺の先輩と後輩が、色々と手を回してくれたんだよなぁ……(遠い眼差し)。社会的なイベントとかへの艦娘の参加は難しくなるだろうけど、ネットの中での活動くらいは、まぁ、多少はね? (垣根を崩す)」

 

 少年提督の暴走事件以降、この鎮守府の艦娘達のメディアへの露出は殆ど無くなった。世間にしても見ても、人体実験や捨て艦法が横行した激戦期での艦娘達への冷酷な待遇が表沙汰になってからは、艦娘達への距離感が掴めないでいるようなところがあった。艦娘に対し、心からの感謝を表し、いつか深海棲艦化する存在として警戒し、罪悪感を抱えて謝罪の限りを尽くさねばならない立場に立たされた人間社会は、そのどれをも直ぐには選択できない状態だった。

 

 そんな中で深海棲艦の出現率が急上昇し、尚且つ、新たな艦娘を召還できないという事態は、

 社会的な存在において艦娘を人間よりも上位に押し上げた。

 

 ここ最近になって、ようやく深海棲艦の出現率も落ち着いてきた。社会の中にも、少年提督の暴走事件のすぐあとにあったような、恐慌や混乱の色濃い気配は薄まりつつある。人類が大きく優勢に出ていた時と同じとまではいかないまでも、ある程度の穏やかさが帰って来ている。それらは全て艦娘達が、シーレーンを含む社会の基盤を深海棲艦から守り抜いた結果として捉えられている。少年提督が招き入れた今の時代は、人間が艦娘の前に跪き、赦しと庇護を請う時代だ。

 

 だが野獣は、それを少しずつ崩して行こうとしているのだと鈴谷は思った。野獣はタブレット端末にキーボードを接続すると、カタカタとやり始める。ネットに接続しているだろう。

 

「動画配信の収益化も通ったし、その収益もチャリティに回して社会貢献しよう! って感じでぇ……(巡る善カルマ)本営上層部のお偉いさんからも許可が出たし、Foooo↑ 気持ちィィィ! (錦の旗)」

 

「みんなの活動自体は止まってたのに、そういう収益化とか通るものなの?」

 

 鈴谷が素朴なことを訊くと、「こういう時こそ、コネの使い所さん!? なワケだよなぁ(したり顔先輩)」と、野獣は似合わないニヒルな笑みを作って見せた。鈴谷は、あぁ、なるほどと思う。野獣の言う“先輩”や“後輩”が、軍部上層に属する人物であることは前に聞いている。その二人の持つ巨大な人脈を辿れば、動画サイトに影響力を持つ人物だっていることだろう。発生する利益をすべて社会に還元するのならば、そういった無茶でも大きく角が立たないのではないかと思えた。

 

「そういう活動を再開するにあたってぇ、新しいグループを作るってのはどうスか? (スカウト攻撃)」

 

「……この鎮守府には、人気の艦娘が揃ってるじゃない。ほら、陸奥とか扶桑とかのグループだってそうでしょ? 私は良いわよ」

 

 執務椅子に座ったままで身を引いたコロラドは、野獣から距離をとるような物言いをする。得体の知れない思い付きに付き合わされることを警戒しているに違いない。

 

「『不幸ォ……ズ』は確かに、活動再開を強く希望してくれる視聴者も多いし、人気も高いんだよね。でもウチの鎮守府は、アイツらに追いつけるポテンシャルを秘めた艦娘ばっかりだから、新しいチャレンジもしていくべきなんと違うか!? (漢気)」

 

「いや、そんな熱く語られても……」

 

 熱意を漲らせる野獣に、コロラドが更に身を引いた。

 

「そこまで野獣が言うなら、ある程度の人選も頭の中で決まってるんでしょ?」

 

 そんな二人の様子を眺めながら、鈴谷は執務用の椅子に凭れ掛かりつつ、軽く笑みを零しながら息を吐いた。「おっ、そうだな!」と意気揚々に答えた野獣は、手元に在る携帯端末を操作した。すると、壁に立てかけてある大型モニターの画面が立ち上がってくる。

 

「とりあえず、そのあたりの話をしながら仕事も片付けていくかなぁ~、俺もなぁ~(マルチタスク先輩)」

 

 執務椅子に座り直した野獣は、タブレットの時刻を確認しつつ、執務机に積まれた書類をバサバサと乱暴に崩し、重要度が高いものを選び取りって目の前に広げた。そのついでのようにタブレットのキーボードを叩き、携帯端末も操作している。それらの動作に全く澱みが無く、野獣の腕が3本も4本もあるかのように見える。

 

 突然の仕事モードに切り替わった野獣を見て、コロラドが目を丸くした。ただ彼女の表情には、野獣のデキる男オーラに驚いたと言うよりも、なぜ最初からそうやって仕事に取り組まないのかという非難の色を濃く浮かばせているので、鈴谷は苦笑を堪えた。鈴谷とコロラドも仕事に戻ろうとしたところで、立ち上がっていた大型のモニターに、ウィンドウが5つ開いた。

 

 そのうちの4つには、提督服をキッチリと着込んだ男性が3人と、女性が一人、映し出される。それが他の鎮守府の提督であり、この執務室がオンラインで繋がった会議室になったことにはすぐに気づいた。せめて一声かけてよと、小声で悪態をついた鈴谷とコロラドは席から立ち上がり、慌てて敬礼の姿勢を取るが、「俺しか見えてないから、そんな気を遣わなくてもいいゾ~これ」と野獣が暢気な声を出す。確かに、モニターに映る提督達には、野獣しか見えていないようだった。モニターからは、「あぁ、秘書艦の方が居られるのですね」などと音声が漏れてくる。

 

 ウィンドウに映しだされた提督達は、一時期世間でも話題になった野獣と話をすることに緊張しているのか、画面越しでも分かるぐらいに顔が強張っていた。一方で野獣と言えば海パンにTシャツというラフ過ぎる格好であり、野獣の背景が執務室でなければ、オンライン会議どころではない通信事故を疑う様相である。ただ、その場の空気を破壊している野獣本人がやけに寛いだ雰囲気であり、その緩んだ空気に引き摺られるようにして、他の提督達の表情から強張りが解けていく様子も見て取れた。

 

 他の提督達が挨拶もそこそこに会議を始めたるのを横目で見ながら、鈴谷はコロラドに目配らせする。コロラドは溜息を堪える顔つきで静かに息を吐きだしていて、鈴谷も苦笑を洩らす。こういう仕事ぶりを見ると、やっぱり野獣も提督なんだなぁ……、などと今更すぎるズレた感想を抱いていると、モニターに映して出されているもう一つのウィンドウに気付く。

 

 見覚えのある画面を見て、鈴谷もコロラドもギョッとする。

 立ち上がってるアレは艦娘囀線だ。新しい書き込みがある。

 

 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 とりあえず新しい配信グループとして

 天龍とビスマルクに配信者デビューして貰うけど

 良いかな? 

 

 

 

 書類を片付けつつ会議に参加している野獣は、ワザとらしいクールな表情を作り、「おっ、そうだな(先輩直伝)」「あっ、そっかぁ……(先輩直伝)」「そうだよ(先輩直伝)」の3パターンだけの適当過ぎる相槌を連発して、さも会議に積極的に参加している雰囲気を醸しだしつつ、会議での他者の発言をまとめるかのような素振りでタブレット端末のキーボードを叩き、艦娘囀線に書き込みを行っている。あのスタイルを取っているのは、不自然に携帯端末を触らずに済むからだろうか。

 

 モニターに映し出されているウィンドウには、天龍とビスマルクの書き込みが続く。一見すると厳粛なオンライン会議が開かれているような風情もあるが、野獣の書き込みの不穏さは相当なものだった。鈴谷もコロラドも一応は仕事に戻ってはいるが、大型モニターに流れていく書き込みがどうしても気になる。

 

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 いきなりだなオイ

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 そういう活動は停止状態だったはずだけど、もう再開になったのね

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 そうだよ。取り合えずお前らには、

 俺が作ったVRホラーゲームを実況して貰うから

 チャンネル名は

 

 天龍とビスマルクの突撃☆ホラゲチャレンジ!! 

 天龍「ふふふ、怖いか?」 ビスマル子「私は怖い」

 ~~音量注意!! ガチ絶叫マシマシ配信チャンネル!! ~~

 

 って感じでぇ……

 お前らが泣き叫ぶたびにスパチャが飛び交う、

 かなりゴキゲンな配信チャンネルになる予定だから

 

 

≪天龍@tenryu1. ●●●●●≫

 ふざけんなよテメェ

 

 

≪ビスマルク@Bismarck1.●●●●●≫

 絶対イヤよ!! 

 あと誰がビスマル子ですって!? 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 二人ともやる気マンマンで、嬉しい……嬉しい……

 初回ゲストは長門とグラーフで決まりっ! 

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 もう許せるぞオイ!! 

 

 

≪グラーフ・ツェッペリン@Graf Zepplin1.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 冗談はよしてくれ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 じゃあ、霞とか曙も読んでやるか! 

 初回から豪華ゲストが目白押しって感じだな! 

 

 

≪霞@asasio10. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 何が『じゃあ』なワケ? 

 

 

≪曙@ayanami10. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 絶対行かない

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 でも、もうチャンネルは作っちゃったし、

 俺の自作ホラゲは第1919作まで出来上がってるゾ……

 

 

≪プリンツ・オイゲン@Admiral Hipper3.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 ちょっと勇み足が過ぎませんかね……? 

 

 

≪摩耶@takao3. ●●●●●≫

 仕事サボって自作のクソゲー作ってる提督なんて

 世界広しと言えどお前ぐらいだろ

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @takao3. ●●●●●

 あっ、オイ、待てぃ!! 

 今回のホラゲは別にクソゲーじゃないゾ

 テストプレイに参加させたアトランタが死ぬほど泣き叫んでたから

 クオリティは十分だってハッキリ分かんだね

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 アトランタちゃん可哀そう

 

 

≪陽炎@kagerou1.●●●●●≫

 そう言えば少し前ですけど

 消耗しきったような青い顔のアトランタさんが

 放心状態で食堂に座り込んでましたね……

 

 

≪嵐@kagerou16.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 そんな恐ろしいホラゲ実況なんて、配信して大丈夫なんスかね……

 年齢制限とか、グロテスクな表現とか

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @kagerou16.●●●●●

 その辺はちゃんと考慮してあるから、へーきへーき! 

 配信中はその返の表現にはモザイクどころか

 キレイな花畑映像が流れるようにしてあるから、安心! 

 天龍と長門、ビスマルクの新鮮な悲鳴だけお届けするから

 

 

≪長門@nagato1. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 私がホラゲー実況のレギュラー枠みたいな書き方は本当にやめろ

 

 

≪不知火@kagerou2.●●●●●≫

 牧歌的な花畑の映像から

 泣き叫びの狂乱音声が聞こえてくるというワケですね

 

 

≪吹雪@fubuki1.●●●●●≫

 絵面的にもっと洒落にならなそうなんですがそれは

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 楽しそうで和気藹藹とした雰囲気を出せれば問題ないゾ

 じゃあ、アトランタも飛び入り参加しよっか

 

 

≪アトランタ@Atlanta1. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat

 ほんとにゆるして

 何でもするから

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 @Atlanta1. ●●●●● 

 ん? 今、何でもするって言ったよね? 

 

 

≪時雨@siratuyu2. ●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat 

 やめなよ野獣

 もうパワハラ一歩手前だよ

 

 

 時雨の書き込みが在ったあたりで、オンライン会議ではパワハラの話題が上がっていた。各々の提督達が艦娘に対する接し方について話している間、モニターを見詰めている野獣は、「いや、やっぱり、艦娘に対するパワハラとかセクハラとか、赦せへんし(正義の男)」などと熱く語っている。

 

 いったい、どの口で言うのか。そう言わんばかりのコロラドは信じられないものを見る顔になって、モニターに流れていく艦娘囀線の書き込みと、真面目くさった野獣の横顔を高速で見比べている。野獣の方はと言えば、手元の書類の処理も進めていた。高精度なマルチタスクを発揮する野獣は他の提督達の発言への関心を装いつつ、タブレットのキーボードを叩き、艦娘囀線への書き込みを続けている。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 まぁ、俺のパワハラは

 フレッシュでアットホームだから、安心! 

 

 

≪飛龍@hiryu1.●●●●●≫

 一体何が安心なんですかね……

 

 

≪蒼龍@hiryu2.●●●●●≫

 フレッシュとかアットホームって言葉が

 こんな邪悪な響きを持ってるの初めて見ましたよ

 

 

≪明石@akasi.1●●●●●≫

 要するに普通のパワハラですよね? 

 

 

≪大淀@ooyodo.1●●●●●≫

 そういう開き直りはやめて下さいよ本当に

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 オオン!? 俺がいつ開き直ったって!? 

 そりゃ何月何日何時何秒

 地球が何週回った時だオラララァァァン!! 

 

 

≪コロラド@Colorado1.●●●●●≫

 申し訳ないんだけど、軍事端末上の遣り取りで

 子供裁判の有能検事みたいな事を言い出すのはNG

 

 

 艦娘囀線の書き込みを見ていたコロラドも、野獣を横目に睨みながら書き込んだ。それを見た野獣が一瞬、「おっ(タゲ変更)」という顔になったところで、オンライン会議での話題が大きく動いた。画面に映し出されている提督の1人が、この鎮守府の動画配信活動について言及したのだ。『私共の鎮守府でも、野獣提督の配信活動を見習いたい』という、ことだった。

 

 鈴谷とコロラドは顔を見合わせ、2人して何だか擽ったいものを我慢するような表情になってしまった。野獣が評価されていることを実感して、何だかソワソワしてしまう。

 

「見習うってんなら俺じゃなくて、ウチの艦娘達だって、それ一番言われてるから(揺るがぬ信頼)」

 

 ただ野獣の方は、そういった評価をそのまま受け取るのではなく、賞賛の声が向かう先をそっと変えるように言う。

 

「人間との共存っていうことに関しては、アイツらも真剣だゾ。自分自身の存在と役目に誠実なアイツらを、俺も尊敬してるんだよね(大胆な告白)」

 

 野獣は真面目な顔と声で言いながら、カタカタとキーボードを叩いている。艦娘囀線に新しい書き込みがふえた。

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 じゃあ、コロラドと陸奥あたりに、野球拳でもして貰うってのはどうっすか? 

 

 

 コロラドが吹き出して、すぐに野獣を睨みつけた。

 

 

≪コロラド@Colorado1.●●●●●≫

 そんなクソ真面目な話をしながら、

 妖しいセクシーチャンネルに私を巻き込もうとするのは許せるわよ! 

 

 

 乱暴にキーボードを叩くコロラドの姿に、鈴谷は苦笑を堪える。その間にも、まだ艦娘囀線の書き込みは続いていく。

 

 

≪陸奥@nagato2.●●●●●≫

 @Beast of Heartbeat だからさぁ、

 何が『じゃあ』なのよ? 

 

 

≪大和@yamato1.●●●●●≫

 急に動画の内容が妖しくなりましたね……

 

 

≪武蔵@yamato2.●●●●●≫

 まぁ、いつものことだな

 こういう何気ない日常こそ、貴重なものだと

 最近はよく思う

 

 

≪赤城@akagi1.●●●●●≫

 えぇ。変わらない味、というものですね

 

 

≪翔鶴@syoukaku1.●●●●●≫

 @yamato2.●●●●●

 @akagi1.●●●●●

 お2人とも暢気すぎじゃありませんかね……

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 変わらない味と言えば、

 鳳翔! 間宮! 伊良湖! って感じでぇ……

 お料理チャンネルも、あぁ~^たまらねぇぜ! 

 

 

≪野獣@Beast of Heartbeat≫

 他にも歌系チャンネルなら、加賀にも活躍して貰うか! 

 デビュー曲の『加賀ダム』で、スタートダッシュを頼むゾ! 

 

 

≪加賀@kaga1.●●●●●≫

 加賀岬です

 

 

≪瑞鶴@syoukaku2.●●●●●≫

 加賀さんの怒ってる顔が見える見える……

 

 

 

 艦娘囀線に流れていく書き込みと、野獣が参加するオンライン会議の様子を交互に眺めながら、鈴谷は胸の中が少し熱くなってくるのを感じていた。鈴谷達が今まで生きてきた時間と、この鎮守府の外に流れている時間が、野獣を介して接続されているのを見ているからかもしれない。

 

 少年提督が居たころとは、多くのものが変わった。過ごしていた日常も、その表情を変えている。もう戻ることはないし、取り戻すこともできない。そして元通りになることも、少年提督も野獣も、望んではいないのだろう。

 

 いつか。この新しい日常にも終わりが来る。この鎮守府の日常は、少年提督が齎した時代に付随するものだ。深海棲艦達との睨み合いが終わり、海を巡るこの世界の状況が一変するとき、また別の時間と日常が流れ出すことだろう。

 

 鈴谷は、そっと息をつく。その遥かな未来において、この賑やかで馬鹿馬鹿しく、そして愛おしい時間を、思い出として温め直せる幸福を思う。過去が大きな意味を持ち、現在の鈴谷を形作っている。

 

 鈴谷は自分自身の居場所を確かめるように、その幸福の感触を味わい直すように、艦娘囀線へと何かを書き込もうとした。だが、もう少しだけ。この賑やかさを傍で眺めて居たいと思った。

 






 最後まで読んで下さり、本当にありがとうございます!
 最後の最後まで更新が非常に遅くなって、申し訳ありません……。
 暖かい感想とメッセージを寄せていただき、本当に感謝しております。
 
 次回作や新作といったものは、また書いてみたいと思っております……。
 また何か書かせていただいた時には、お暇つぶし程度にでも読んで貰えれば幸いです
 
 流行りのものもありますが、厳しい暑さも続いておりますので、
 皆様もどうか、御身体に御自愛なさって下さいませ。

 いつも支えて見守って下さるだけでなく、暖かく励まして下さり、本当にありがとうございました! 
 
 
 


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10についてはそれぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。