ラビュリントスの肖像 (*Lycoris)
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第一部(ハリー・ポッターと秘密の部屋)
序章 理(ことわり)/一章 魔法社会へのいざない 一学年九月


  序章 (ことわり)


 運命とは、はじめから定まっているものだろうか。
 それはわからない。だが、「何の因果でこんな目に遭うんだ」といったことは、往々にして起こりうるものだ。
 それでも、因果が渦巻く、不条理な世界で生きていくしかない。
 たぶんそれを、運命(さだめ)と呼ぶのだろう。


  一章 魔法社会へのいざない 一学年九月

 

 

 ガタンゴトン、ガタンゴトンという音が響く汽車の車両のコンパートメントのひとつで、小柄で青い眼、長い赤毛をポニーテールにしたレベッカ・バーンズは所在なげに座っていた。

 これから入学する学校――ホグワーツ魔法魔術学校への、不安と戸惑いからだった。

 

          †

 

 父とふたりで住んでいるアパートにホグワーツの職員がやってきて、レベッカが魔女だと告げ、入学許可証を持ってきたのは、十一歳の誕生日を迎えてしばらく経った時だった。

 魔法など御伽噺の世界のものだと思っていた親子にとって、職員の言うことは信じ難かった。だが一方で、これまでの親子の知識では説明のつかない現象が起こっていたのは確かだった――それもレベッカの周りで。

 小学校でいじめっ子たちに追いかけられていた時、ふと後ろから何かが落ちる音がして振り返ると、いじめっ子のひとりが頭を押さえており、その近くにはロッカーの上に置かれていたはずのバケツが転がっていた。また、同級生と口論になっていた時、不意に、ドーンという音が響き、その音の方を見ると、立っていたはずのロッカーが前のめりに倒れていた。――もちろんどれも、レベッカが意図してやったことではない。強いて言うならば、追いかけられていた時はどうやったら振り切れるかと必死に考え、口論をしていた時は感情が少し(たか)ぶっていたぐらいだった。

 そうした不思議な出来事の数々を話すと、職員は、それはレベッカの中にある魔力――魔法を行使する力だと、それが制御できない、あるいはレベッカ自身が無意識にそれを使ったために、そのような現象が起こったのだろうと言った。自分たちの学校では、そうした力を制御し、自分の意思で行使するための勉強をするのだと説明し、レベッカにはその資格があるということだった。――そうしてレベッカは今、ホグワーツへ向かう汽車の中にいるのである。

 

          †

 

「そこ座ってもいい? 他はどこも空いてなくて」

 回想に耽っていたレベッカの思考は、突如耳に飛び込んできた声によって、現実へと引き戻される。

 声の方を見ると、いつの間にかコンパートメントのドアが開いていた。ホグワーツの制服の黒いローブを着た少女が立っている。

 ――わぁ……綺麗な子。

 この車両にいるということは一年生だろうか。それにしては同年代の女子よりもかなり背が高い。両顎にかかる程度のさらさらしたショートカットの黒髪に、長い睫毛(まつげ)に縁取られた黒い眼、瓜実の端正な顔立ちに、レベッカの眼は無意識に奪われていた。

「駄目?」

 少女がそう言うと、レベッカはようやく、はっとする。

「あ、ううん! 駄目じゃないよ。……どうぞ」

 レベッカが慌てて言う。少女は「ありがとう」と言って、レベッカの向かいに腰掛けた。ローブの内ポケットから文庫本を取り出して開き、長い脚を組む。

 二人が言葉を交わすことはなく、沈黙が流れた。

 ――……この子もホグワーツ入学ってことは、もしかしてお父さんやお母さんも魔法が使えるのかな? もしかしたらホグワーツや魔法社会のこと、少しは聞けるかな?

 レベッカは緊張しながら、しかし意を決して口を開く。

「……あの」

 少女が本から顔を上げる。

「何?」

「えっと……お父さんやお母さんって、魔法使いと魔女だったりする?」

「そうだけど……どうしてそんなこと訊くの?」

 レベッカは言葉を選びながら、慎重に言う。

「私はその、お父さんもお母さんも――お母さんは私が小さい頃に死んじゃったんだけど……両親のどっちも魔法が使えない、魔法社会で言うマグルで……謂わばマグル出身ってやつなんだよね。だから、その、ホグワーツのこともそうだけど、魔法を使う人たちのこととかも、全然わからなくて……教科書とかも読んでみたけど、いまいちピンと来なくて……だから、魔法社会やホグワーツについて、聞ける人がいないかなーって、思ったんだけど……」

 少女がレベッカを見つめる。しばらくして、本を閉じる。

「それで?」

「え?」

「何が訊きたいの?」

「え……教えて、くれるの?」

「答えられる範囲でなら」

「あ……、それで、十分だよ! ありがとう! えーと、じゃあ……ホグワーツに入学する時って、入る寮を決める、組分けの儀式があるって聞いたんだけど……一体どんなものなの?」

「組分けの前に、組分け帽子って呼ばれる帽子が、それぞれの寮の特徴を表した歌を歌うの」

「歌う!? 帽子が喋るの?」

「そう。で、歌が終わったら、名前を呼ばれた順に帽子を被るの。そしたら帽子がその新入生の入る寮を叫ぶって、私はお父さんやお母さんからそう聞いたよ」

「へぇー……じゃあ、ホグワーツって四つの寮があるって聞いたんだけど……グリフィンドールとハッフルパフと、あとえーと……」

「レイブンクローとスリザリン」

「そうそう、それそれ。その入る寮を決める時の基準とかって、何かあるのかな?」

「どうだろう……組分けは家系で決まるっていう説も聞いたことはあるけど……」

「家系?」

「うん。ある家系はグリフィンドールの人が多かったり、またある家系はスリザリンの人が多かったりみたいな」

「……それじゃあ私にはその説は当てはまらないね。だって元々魔法使いの家系ですらないんだもの」

「それはそうだね。……まあ、そんなこと言ったら、私だってどうなるかわからないけど」

「え? どうして?」

「私の場合、お母さんの家系はお母さんや、おじいちゃんやおばあちゃんも含めて、レイブンクローの出身の人が多いけど、お父さんはハッフルパフの出身だから」

「それはつまり……お父さんの家系がそうってこと?」

「いや……お父さんの義理のお兄さんがハッフルパフの出身だって聞いたことはあるけど……私が生まれた時にはその人も含めて、お父さんの家族はほとんどいなくなっちゃってたみたいだから……」

 思いもよらない言葉に、レベッカはどう言えばいいか一瞬迷った末にこう言った。

「……えーと、その……なんか、ごめん」

「なんで謝るの」

「いや、なんかマズイこと訊いちゃったかなー……って」

「別に。気にしてないからいいよ」

 その時、ドアが開いた。食べ物を積んだカートを持った丸っこい中年女性が、にこにこしながらこちらを見ている。

「車内販売よ。何かいりませんか?」

 言われてレベッカが腕時計を見ると、十二時半近くを回っていた。

 少女は立ち上がってカートへ向かい、蛙チョコレートとパンプキンパイを注文した。

「買わないの?」

 少女が尋ねる。

「あ、私はいいよ。どんなのかわからないし、お父さんがお弁当を用意してくれてるから………うーん、でもせっかくだし……」

 レベッカはカートに近付き、商品を眺める。

「蛙チョコだけでも買おうかな……ひとつください」

「はい、ありがとう」

 蛙チョコレートを渡しながら、女性が言う。

 支払いの時、少女の革袋からジャラリ、という音と共に金貨一枚と銀貨数枚が現れた。もしかしてお金持ちなのだろうか、とレベッカは思った。

 弁当を食べ終わったレベッカが、蛙チョコレートの封を開けようとした。その時、少女が声を上げた。

「それ、開ける時気をつけて」

「え? ――きゃあ!」

 開いた封からチョコレート色の蛙が飛び出した。本物の蛙さながらに壁をよじ登りながら窓へ近づき、外へ出ていった。

「……びっくりした……まさか動くなんて……」

「どんなのを想像してたの」

「いや、その……単に蛙の形をしたチョコレートかと……」

 少女がパンプキンパイの一切れを差し出す。

「なら、パイでも食べる? これなら動かないから」

「いいの?」

「いいよ。というより少し買いすぎたかもしれないから、食べてくれると有り難いんだけど」

「ありがとう」

 パンプキンパイを受け取りながら、レベッカが言う。

 少女は「どういたしまして」と答える。

 

「そういえば、どこの寮に入りたいとかってある?」

 パイを食べ終えた時、レベッカが尋ねた。

「いや、まだ決まってないけど。キミはあるの?」

「うん。私はハップルパフかな。と言ってもすごくそこに行きたいとか、そういうのじゃなくて、漠然とした希望だけど」

「どうして?」

「えっとね……」

 レベッカは汽車に乗る以前のことを話した。

 

          †

 

 入学許可証が届いた後日、レベッカと父はふわふわ散らばった髪につぎはぎだらけの帽子、ずんぐりした小柄な女性――ホグワーツで薬草学を担当するポモーナ・スプラウト教授に案内され、ダイアゴン横丁を歩いていた。小鬼(ゴブリン)が経営する銀行、グリンゴッツで口座を作って両替し、許可証と一緒に届いた学用品のリストに書かれた大鍋や望遠鏡などを買った。教科書を買いにフローリシュ・アンド・ブロッツ書店を訪れた時、スプラウト教授が「お父様が教科書を買っている間に杖を見に行きましょう」と言ったので、一旦父と別れた。

 スプラウト教授に案内されたのは小さなみすぼらしい店で、扉にははがれかかった金色の文字で『オリバンダーの店――高級杖メーカー』と書かれていた。中に入ると、古くさい椅子にやや小柄で、両耳が半分隠れる長さに切り揃えられた黒髪に、長い睫毛に縁取られた黒い眼をした童顔の男性が座っていた。男性はこちらを見ると立ち上がり、「スプラウト先生」と声を掛けた。

 スプラウト教授は男性に気づくと、おや、という小声を上げた。

「グレイではありませんか。いえ、今はユルスナールでしたね」

「お久しぶりです」

 レベッカは「あの……」と割って入り、スプラウト教授に尋ねる。

「お知り合いですか?」

「ああ。彼は昔ホグワーツの学生で、私が寮長を務めるハッフルパフの卒業生です」

 男性はレベッカを見、挨拶をする。

「こんにちは。君も杖を買いに来たの?」

「はい」

 男性は申し訳ないという顔になる。

「あー……ごめんね。僕の娘の杖選びがまだ終わってなくて……。もうしばらくしたら空くと思うから」

「そんなにかかっているのですか?」

 スプラウト教授が尋ねる。

「ええ。何でもオリバンダーさんいわく、稀に見る難しい客とのことでして……」

 

 フローリシュ・アンド・ブロッツ書店に戻って父と合流し、しばらくそこで立ち読みした。三人で再び『オリバンダーの店――高級杖メーカー』を訪れると、先ほどの男性の姿はなかった。

 もう帰ったのかな。そう思っていると不意に「いらっしゃいませ」という柔らかい声がした。

 声の方を見ると、月のように輝く淡い色の大きな眼をした老人――店長のオリバンダーが立っていた。

「スプラウト先生、こちらはホグワーツの新入生ですかな?」

 オリバンダーはレベッカを指して尋ねる。

「ええ。今日はこの子の杖を見に来たのです」

「はじめまして。レベッカ・バーンズです」

 レベッカは少し緊張気味に挨拶をする。オリバンダーはレベッカに向き直って言う。

「オリバンダーと申します。ではバーンズさん、拝見しましょうか」

 オリバンダーはポケットから銀色の目盛りが入った長い巻尺を取り出して尋ねる。

「杖腕はどちらですかな?」

 言葉の意味がわからず、レベッカはスプラウト教授を見る。スプラウト教授は「利き腕のことですよ」と言った。

「えっと、右利きです」

「腕を伸ばしてください……そうそう」

 オリバンダーはレベッカの肩から指先、手首から肘、肩から床、膝から脇の下、頭の周り、と寸法を測っていく。

 レベッカは気になっていたことを尋ねた。

「あの、さっきのお客さん、杖決まったんですか?」

「おお。もちろん、決まりましたとも。いやはや、非常に難しいお客様でございました」

 測りながら、オリバンダーは満足げに答える。

「どんな杖ですか?」

「胡桃にユニコーン(一角獣)のたてがみ、三十センチ、しなりにくい。かなり珍しい組み合わせでしてな。なかなか持ち主が現れなかったのです」

「持ち主が現れなかった? 杖ってその、お客さんが選ぶんじゃないんですか?」

 オリバンダーはきっぱり「そうではございません」と答える。

 オリバンダーは続けた。

「杖というのはお客様が選ぶのではなく、その杖が持ち主を選ぶのです。オリバンダーの杖は一本一本、強力な魔力を持ったものを芯に使っております。ユニコーンのたてがみ、ドラゴンの心臓の琴線、不死鳥の尾羽。ユニコーンもドラゴンも不死鳥も、皆それぞれに違うのですから、オリバンダーの杖にはひとつとして同じものはございません。他の方の杖を使っても、決して自分の杖ほどの力は出せないのです」

 測り終えると、オリバンダーは棚の間を行き交い、杖が入った細長い箱をいくつか取り出した。

「ではバーンズさん、これをお試しください。梨にユニコーンのたてがみ、二十七センチ、振りやすい」

 レベッカは差し出された杖を受け取り、振ってみる。次の瞬間、天井近くまで積み上がっていた箱の山のひとつが雪崩のように崩れ落ちた。

「ご、ごめんなさい」

「いえ、大丈夫です。あまりよろしくないようですな。では次は……」

 二本目を試してみる。が、振り下ろすか振り下ろさないかのうちに、オリバンダーは杖をひったくった。

「これもいかん。さて次は……」

 それからいくつか試してみたものの、合う杖は見つからなかった。少し不安になるレベッカとは対照的に、オリバンダーはどこか嬉しそうにしていた。

「今年は難しい客が多いようじゃの。何、心配なされますな。必ずぴったり合うのをお探しいたしますので」

「あの、さっきのお客さんは決まるまでにどれぐらいかかったんですか?」

「正確な数は覚えておりませんが、少なくとも三十本以上は試されたかと」

「さ、三十本もですか?」

 レベッカは驚きの声を上げる。オリバンダーはうなずき、店の奥へ視線を向ける。

「奥にあるのは作ったはよいもののなかなか持ち主が現れず、未だこの店に眠ったままとなっているものです。先ほどのお客様が買われた胡桃の杖も、長い間眠っていたもののひとつでございました」

 レベッカは父とスプラウト教授の方を見る。どうやらふたりも同じ気持ちだったらしく、眼を見開いていた。

 オリバンダーはまたいくつか箱を取り出す。

「さて次はどうするか……そうじゃ、これはどうでしょう。柳にドラゴンの心臓の琴線、二十九センチ、ほどよくしなる」

「振る前に訊いてもいいですか?」

「何でしょう?」

「自分に合ってるかどうかって、どうやったらわかるんですか?」

「それは人によって様々です。先ほどのお客様の場合ですと、杖の先から青白い光の玉がいくつも出て、店内を照らしていかれました」

「つまり、振ってみるまではわからないと?」

「そういうことですな」

 気が遠くなりそう……。レベッカは内心そう感じながら、差し出された杖を受け取る。すると、妙に手に馴染む気がした。

 ――もしかして……

 緊張しながら、上から下へ振り下ろす。杖の先から小さな玉がいくつか出る。次の瞬間、それらは色とりどりの花火となって弾けた。

Bravo(ブラヴオー)!」

 オリバンダーは感嘆の声を上げる。

「どうやらその杖が、あなたにぴったりのようですな。いや、見つかってよかったです」

 茶色の紙で包装された杖を受け取り、代金を支払う。オリバンダーのお辞儀に見送られ、三人は店を後にした。

 

          †

 

「……スプラウト先生は親切だったし、オリバンダーさんの店で会った男の人も優しそうだったから、そういう人が多いなら安心かなって」

 少女は沈黙する。が、やがて「……そう」とひとこと言った。

 

 そうこうしているうちに時間は過ぎ、日が暮れてきた。

「もうそろそろ着くかな?」

 レベッカは窓の外にちらりと眼を遣る。少女が答える。

「かもね。心配ならローブを着た方がいいんじゃない?」

「そうだね。えーと、ローブは……――」

 車内に声が響く。

「あと五分でホグワーツに到着します。荷物は別に学校に届けますので、車内に置いたままにしてください」

 ――言ってるそばから!?

 レベッカは慌てて荷物からローブを取り出し、頭から被る。袖を通して少し経つと、汽車が停まった。

 コンパートメントの外に出ると、通路は人でごった返していた。人ごみでもみくちゃにされながら、どうにか外に出た。ふと見ると、はぐれてしまったのか、少女の姿はなかった。

(イツチ)年生! (イツチ)年生はこっち!」

 声の方を見ると、レベッカは一瞬、どきりとした。

 ――この人も、魔法使い……なのかな? ……それにしても……

 大きい、と思った。身長は一般男性の二倍、横幅は一般男性の三倍はあろうかという体格に、もじゃもじゃした黒い長髪と髭をしている。

 ホグワーツの森の番人、ルビウス・ハグリッドがランプを片手に、笑いかける。

「さあ、ついて来いよ――あと(イツチ)年生はいないか? 足元に気をつけろ。いいか! (イツチ)年生、ついて来い!」

 

 ――すごい……これがホグワーツ?

 自動ドアならぬ、自動ボートに乗り、湖を渡りながら、レベッカは学校――高い山の頂上にある、様々な大きさの塔が立ち並ぶ壮大な城に、息を呑んだ。

「頭、下げぇー!」

 ハグリッドの掛け声に合わせて、頭を下げる。ボートがツタのカーテンをくぐる。崖の入口から暗いトンネルを進み、船着き場へ到着する。ボートを降り、ごつごつした岩の路地を歩く。石段を登ると、樫の木で造られた扉の前に出た。

 ハグリッドは全員がいることを確認すると、扉をノックした。




(2016/10/04)誤字指摘ありがとうございます。修正しました。


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二章 組分け帽子の難題 一学年九月

 すでに別の章を読んでくれている方々へ
 一章に要素を詰め込みすぎた気がしたので、急遽新しい章を作り、構成を変更しました。内容は変えていませんが、ややこしく感じたら申し訳ありません。


 黒髪をきっちりしたシニョンにした厳格な顔つきの、背が高く、四角い眼鏡をかけた女性に連れられて、生徒たちは広い玄関ホールを横切り、脇の空き部屋に入る。狭いため、部屋はすし詰め状態だった。

 慣れないローブに足元を取られ、裾を踏んでしまい、レベッカは前のめりに傾く。

 ――わわっ!

 その時、不意に二の腕を掴まれ、引き戻された。

「ほら。ボーッとしてると、また転ぶよ」

 振り向くと、汽車の中で出会った端正な顔立ちの少女がいた。

「あ、さっきの……ありがとう」

 レベッカが小声で言う。

 先導してきた女性――変身術を担当するホグワーツ副校長にして、グリフィンドール寮寮長、ミネルバ・マクゴナガル教授が口を開いた。

「ホグワーツ入学おめでとうございます。入学式がまもなく始まりますが、大広間の席に着く前に、皆さんが入る寮を決めなくてはなりません。寮の組分けはとても大切な儀式です。ホグワーツにいる間、寮生が皆さんの家族のようなものです。教室でも寮生と一緒に勉強し、寝るのも寮、自由時間は寮の談話室で過ごすことになります。寮は四つあります。グリフィンドール、ハッフルパフ、レイブンクロー、スリザリン――それぞれ輝かしい歴史があって、偉大な人物が卒業しました。ホグワーツにいる間、皆さんのよい行いは、自分の属する寮の得点になりますし、反対に規則に違反した時は寮の減点になります。学年末には、最高得点の寮に大変名誉ある寮杯が与えられます。どの寮に入るにしても、皆さんひとりひとりが寮にとって誇りとなるよう望みます」

 

 大広間には無数の宙に浮かぶ蝋燭に照らされた各寮それぞれの長テーブルがあり、奧には教授陣が座る長テーブルがあった。

 奥まで進むと、マクゴナガル教授が生徒たちを一列に並ばせ、その前に椅子を置き、ボロボロでつぎはぎだらけの三角帽子――組分け帽子を椅子に載せた。

 組分け帽子はぴくぴく動き、つばの縁の破れ目を開いて、歌う。

 歌で表現された四寮それぞれで求められる資質をまとめると、以下のような具合だった。

 グリフィンドール寮は『勇敢さ』と『騎士道』。

 ハッフルパフ寮は『忠実さ』と『忍耐』。

 レイブンクロー寮は『賢明さ』と『知性』。

 スリザリン寮は『狡猾さ』と『機知』。

 一体どれが自分に当てはまるのだろう。そこまで考えて、レベッカは思い直す。

 ――それを帽子が考えるんだっけ……。

「名字のABC順に名前を呼ばれたら、帽子を被って椅子に座り、組分けを受けてください」

 マクゴナガル教授が長い羊皮紙の巻紙を広げて、言う。

 名前が呼ばれ始める。

 ふと見ると、少女の視線が教授陣のテーブルに向けられていた。

 レベッカが小声で尋ねる。

「どうしたの?」

「あ、いや……何でもない」

 少女も小声で返事をする。その時、マクゴナガル教授の声が飛び込んだ。

「レベッカ・バーンズ!」

「あっ、はい!」

 レベッカは慌てて椅子へ向かう。腰を掛けると、帽子が被せられる。

「ハッフルパフを望むのかね?」

 低い声が、帽子の中で聞こえた。

「ふむ、忠実さや忍耐強さがないわけではない。だがそこでは君の才能は活かせまい」

 え、じゃあどうなるの? レベッカの不安をよそに、帽子は続ける。

「……知識欲がある。頭も悪くない。となれば……レイブンクロー!」

 レイブンクロー寮のテーブルから歓声と拍手が上がる。マクゴナガル教授に促され、レベッカはテーブルに着く。

「おめでとう」

 艶やかな長い黒髪の、とても可愛らしい女子生徒が声を掛ける。レベッカは緊張しつつ答える。

「あ、ありがとう」

 その後も名前が呼ばれ、組分けがされていった。レベッカが座ってから大分時間が経過した。その時、マクゴナガル教授がひとりの名前を呼んだ。

「シオン・ユルスナール!」

 端正な顔立ちの少女が椅子へ歩いていく。レベッカは、あ、と思った。

 ――そういえば名前、訊いてなかった……。

 ふと、スプラウト教授の言葉が脳裏に甦る。

 ――今はユルスナールでしたね。

 あ、そうか。レベッカは確信する。『オリバンダーの店――高級杖メーカー』で出会った男性は、今椅子に座った少女の父親だったのだ。

 帽子がシオンに被せられる。これまでの組分けは多少の時間差はあったものの、短くて数秒、長くて一分程度といったところだった。ところが、一分、二分、三分近く経っても、帽子が口を開く気配はない。

 ざわめきがさざ波のように広がる。

 ――一体いつ決まるの?

 レベッカが心中で呟く。その時、黒髪の女子生徒が言った。

「もしかして、『組分け困難者』かしら?」

 レベッカは、え? と小声で言って、尋ねる。

「『組分け困難者』って?」

「組分けに五分以上かかる人のことを、『組分け困難者』って呼ぶらしいの。滅多に現れないって聞いたけど」

「そうなの!? え、ちょっと待って。今何分経った?」

「もう三分は経ってると思うわ。もしかしたら四分を過ぎているかも……」

 レベッカは腕時計を見る。秒針は六の文字を過ぎようとしていた。

 マクゴナガル教授の方を見ると、困惑していると同時に不思議に思っているような、複雑な顔をしていた。

 ――もしかして先生も私と同じ気持ちなんじゃ……

 その時、帽子が叫んだ。

「レイブンクロー!」

 レベッカは、はっとした。周囲のレイブンクロー寮生たちが拍手をしているのを見て、すぐさまそれに倣う。

「えーと……おめで、とう?」

 シオンがテーブルに着くのを見ながら、レベッカが声をかける。シオンは「どうも」と答えた。

 

          †

 

 新聞を咥えたフクロウが、コンコン、と窓を叩く。

「あら」

 男性にも引けを取らない長身に、肉付きのいいグラマーな肢体、肩にぎりぎり届くか届かないかの長さのゆるやかにウエーブしたアッシュブロンドの髪、パールグレイの大きな眼、左眼がやや長めの前髪で隠された、瓜実の端正な顔立ちの女性が顔を上げる。

「『日刊預言者新聞』かな? いつもより少し早い気もするけど……」

 ビーチェ・ユルスナールが朝食の席から立とうとする。

「あ、僕が取ってくるよ」

 ラファエル・ユルスナールが言う。

「ありがとう、ラファエル」

 ラファエルが窓を開けて新聞を受け取る。脚に括り付けられた袋に銅貨を五枚入れると、フクロウは空へ飛んでいった。

「えーっと……――って、ええっ!?」

 新聞を広げながらテーブルへ戻ろうとしたラファエルが声を上げる。

 ビーチェが尋ねる。

「どうしたの?」

「ビーチェ、ここ、見て」

 ビーチェは立ち上がってラファエルに近付き、指で指された一面を見て、タイトルを読む。

「『空飛ぶフォード・アングリア、いぶかるマグル』――」

 ビーチェは眼を見開く。

「ウソでしょー!? とうとうやっちゃったの?」

 ふたりの脳裏には、政務機関である魔法省の一部署、マグル製品不正使用取締局に勤める、魔法社会の旧家のひとつであるウィーズリー家当主、アーサー・ウィーズリーのことが浮かんでいた。

 ラファエルが記事を読む。

「『ロンドンで二人のマグルが、中古のアングリアが郵便局のタワーの上を飛んでいるのを見たと断言した――今日昼頃、ノーフォークのヘティ・ベイリス氏は、洗濯物を干している時――ピーブルズのアンガス・フリート氏は警察に通報した――全部で六、七人のマグルが――』……」

 ラファエルは片手で頭を押さえる。

「ウィーズリーさんがマグル贔屓というか、マグルの人たちのことに興味津々だっていうのは知ってたけど……まさか車を飛ばしちゃうなんて……」

「私も聞いてたけど……無茶するなあ」

 ビーチェはため息をついた。

 

          †

 

 大広間は朝食を摂る生徒たちで賑わっていた。

「おはよう」

 テーブルに着いていたレベッカの背後で声がした。振り返ると、シオンが立っていた。

「あ、おはよう。……昨日は、ありがとう。その、色々教えてくれて」

「どういたしまして」

 シオンが隣に座る。

 その時、窓から無数のフクロウが飛び込んできた。

 レベッカは思わず、わっ、と声を上げて、頭を伏せる。

「な、何……?」

「ああ、フクロウ便だよ」

 シオンが答える。レベッカが驚きの声を上げる。

「えっ、フクロウ便って――フクロウが手紙とか荷物届けるの?」

「そう」

「へぇー……何と言うか、やっぱり不思議なことだらけだね、魔法社会って」

「まあ、マグル社会しか知らない人たちからすればそうだろうね」

 その時、大広間に女性の怒鳴り声が響き渡った。

「――車を盗み出すなんて、退校処分になっても当たり前です! 首を洗って待ってらっしゃい。承知しませんからね! 車がなくなっているのを見て、私とお父さんがどんな思いだったか、お前はちょっとでも考えたんですか――」

 レベッカは両耳を押さえる。

 ――一体どこから?

 辺りを見渡す。その間にも怒鳴り声は続く。

「――昨夜ダンブルドアからの手紙が来て、お父さんは恥ずかしさのあまり死んでしまうのではと心配しました。こんなことをする子に育てた覚えはありません! お前もハリーも、まかり間違えば死ぬところだった――」

 ――もしかして、アレ?

 右隣にあるグリフィンドール寮のテーブルの上に、赤い封筒が浮かんでいた。開けられた封が上下に動いている。

「――まったく愛想が尽きました! お父さんは役所で尋問を受けたのですよ! みんなお前のせいです。今度ちょっとでも規則を破ってご覧。私たちがすぐお前を家に引っ張って帰ります!」

 声が締めくくられた。途端、封筒が燃え上がる。火事になる――そう思った瞬間、灰になってパラパラとテーブルに落ちた。

「……何事なの、アレ?」

 レベッカが片耳を押さえながら、呆然として尋ねる。

「吠えメールだよ」

 シオンがレベッカと同様、片耳を押さえながら答える。

「吠えメールって?」

「その名の通り、手紙の内容を()()()手紙なの。今みたいに」

「へ、へぇー……」

 レベッカは改めて思う。

 ――やっぱり不思議だらけだ。

 

 授業に必要な教科書などを用意して、レベッカは廊下を歩く。ふと、視界の端に白い何かが入る。近付いてみると、羊皮紙だった。拾って見てみると、課題のレポートらしく、タイトルの近くに『ネビル・ロングボトム』と書かれている。落とし物だろうか。内容を読んでみる。

 ――魔法薬学かな? でも私の学年じゃまだ習ってない部分……いや、私が習ってないだけで、他の寮の人たちは授業でもうやってるのかも……

 もしくは他の学年の人だろうか。そこまで思い至った時、不意に声がした。

「どうしたの、それ?」

 声の方を見ると、シオンがいた。

「あ、ユルスナールさん、さっきここで拾ったの。この名前の人が落としたんだと思うけど」

 レベッカは名前を指して言う。

「どこの寮の何年生かわからなくて……知ってる?」

「いや、わからない」

「そっか。私が通ってた小学校――マグルの人たちの学校だと、落とし物はここに入れてくださいっていう箱があったりしたんだけど……ここにはないのかな?」

「少なくとも私は聞いたことないけど、どうせなら研究室に届けた方が手っ取り早いんじゃない」

「え、研究室って――先生に直接渡すってこと?」

「他にどういう意味があるの」

 さらりと言われて、レベッカは言葉に詰まる。

 魔法薬学を担当するスリザリン寮寮長、セブルス・スネイプ教授は偏屈な毒舌家で、自身の寮の生徒を依怙贔屓する傾向があるため、生徒たちからは嫌われていた。

 シオンが尋ねる。

「どうしたの?」

「あ、いや……スネイプ先生ってこう、近付きづらいというか……仕事の邪魔とかしたら怒られそうな気がして……」

 シオンがレベッカを見つめる。しばらくして、口を開く。

「なら、私がついていくっていうのは?」

「えっ――一緒に来てくれるの?」

 レベッカは驚きの声を上げる。シオンがうなずく。

「ひとりじゃ不安でも、ふたりならまだマシなんじゃない? ……それとも、私ひとりだけじゃ不満?」

「あ、いや、そんなことないよ! ……ありがとう、ユルスナールさん」

「シオン、でいいよ。私もキミのこと名前で呼んでるし」

「そ、そう? ……じゃあ、ありがとう、シオン」

「研究室の入口まではついてってあげるから、どこで拾ったかとかはちゃんと自分で説明しなよ」

「う、うん」

 レベッカは緊張しつつうなずく。

 ふたりは研究室へと続く地下への階段に向かった。

 

          †

 

 魔法薬の材料が入った瓶が並ぶ戸棚が置かれた地下室の一つでは、生徒たちが課題のレポートを机に置いていた。

「あの……」

 生徒の声に、肩にかかる脂っぽい黒髪、虚ろな黒い眼、頬のこけた土気色の顔、やせぎすの体に、黒いローブとマントの男性が顔を上げる。

 グリフィンドール寮の二年生、ネビル・ロングボトムが続ける。

「レポートは書いたんですけど……その、なくしちゃって……」

「ロングボトム、その必要はない」

 スネイプがネビルの席へ歩く。ローブの内ポケットから羊皮紙を取り出し、机に置く。

 ネビルが眼を見開く。

「これ、僕のレポート……どうして先生が?」

「授業が始まる前、ミス・バーンズが研究室に届けに来てくれた。ミス・バーンズに、せいぜい感謝することだ」

 スネイプは再びレポートを手に、教壇へ戻っていった。

 

          †

 

 夜。シオンが廊下を歩いていると、人影がふたつ見えた。ひとつはスネイプ、もうひとつはスネイプの頭と同じぐらいの位置に、ゆるやかにウエーブしたアッシュブロンドの髪が見える。

 ――まさか。

 人影に駆け寄り、確認する。予感は的中した。

「お母さん」

 ビーチェは娘に気づくと、笑顔を見せる。

「久しぶり。元気にしてた?」

 ビーチェが手を伸ばす。が、シオンはすぐさま後ろに下がる。

「私なら平気だよ。それよりここにいるってことは、共同研究?」

「そういうこと」

「それなら事前に言ってよ。手紙とかで」

「どうせダンブルドア先生が明日の朝話すだろうからいいかなって」

 シオンはため息をついた。



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三章 地下の女神(ヴィーナス) 一学年九月

 九月下旬。朝食の席で、背が高く、長い銀髪、口と顎に生やした髪と同じぐらいの長さの髭、淡い青の眼に半月形の眼鏡をかけたホグワーツ校長、アルバス・ダンブルドアが、民間の魔法薬研究所、『ヒルデガルト・ポーション・ラボラトリー』と提携して研究を行うことになったと発表した。

 ダンブルドアが言う。

「その一環として、ヒルデガルト・ポーション・ラボラトリー主任研究員、ビーチェ・ユルスナール先生にお越しいただいた」

 ビーチェが立ち上がる。大広間から、ほう、とため息が漏れる。

 ビーチェは教授陣、生徒たちの順にお辞儀をし、腰を掛ける。

 ダンブルドアが続ける。

「ユルスナール先生にはしばらくの間、スネイプ先生の助手として、ホグワーツで働いていただくこととなった。皆、よろしく頼むの」

 大広間がどよめいた。

「スネイプの助手だって?」「冗談じゃないの?」「でも、魔法薬(ポーシヨン)(Potion)だから……」「そういうことか……」「ウソだろ……」

 生徒たち、主に男性陣の視線がスネイプに集中する。が、スネイプはいつもの仏頂面だった。

 

 ビーチェは大広間に入り、教授陣のテーブルに着く。

「セブルス」

 ビーチェが隣のスネイプに声を掛ける。が、返事はない。思案顔で、考えに没頭しているようだった。

 再び名前を呼ぶ。「セブルス」

 無反応。顔が近付き、パールグレイの眼が覗き込む。

「セブルスってば」

 スネイプがようやく、はっとする。それからぎょっとした。

 教授と助手、ふたりは対照的だった。ぎすぎすとまろやか。とげとげとおっとり。

 スネイプが言う。

「いきなり顔を近付けるな」

「キミがいくら呼んでも反応してくれないからでしょ」

「……それで、何かね?」

「レポートのこと。夕方までに研究所に提出しなきゃいけないから」

 ビーチェはローブの内ポケットから、羊皮紙を取り出す。

 ビーチェが言う。

「所長から意見はひとつにまとめてくれって言われてるから、先に書いてきたんだけど、これでいい?」

「そのことだが」

 今度はスネイプがローブの内ポケットから羊皮紙を取り出した。

 スネイプが続ける。

「先日の実験なら、私も考察をまとめてある」

「えー、ちょっと待って……この前キミの意見、研究所で採用したじゃない」

「ならば君のレポートを見せてみたまえ」

「いいよ。じゃあセブルスのも見せてよ」

 二人はレポートを交換し、目を通す。

「……どう?」

 スネイプ・レポートを読み終えたビーチェが尋ねる。

 ビーチェ・レポートに視線を向けたまま、スネイプが答える。

「……相変わらず君の発想は奇抜というか……だがこのような現象が起こる可能性は低いのではないのか?」

「でもゼロじゃないでしょ? それを言ったらセブルスのだって、ガチガチの鉄板じゃない。まあ、粘着質のセブルスらしいと言えばらしいけど……私に言わせればちょっと面白みに欠けるかなあ」

「……面白いかどうかという基準で判断するものではないと思うが」

「まあ、そうだけどさ」

 ビーチェは女性にしては少し大きな手をひらひらとさせ、続ける。

「でも面白くないよりかは面白い方がいいでしょ? 前にも言ったかもしれないけど、まだ誰も発見してない現象や物事を見つけ出す――そういうお宝探しみたいなところが、学問や研究の醍醐味だと思うけど? ガチガチの鉄板とは言ったけど、キミのレポートだって興味深い点はあるし」

 スネイプは沈黙する。が、やがて口を開いた。

「それなら意見をまとめよう」

「え、いいの? でも授業は?」

「午後からは授業はない。生徒が何かしらのトラブルを起こして、後始末に追われなければ、レポートをまとめるぐらいの時間は作れるだろう」

「そっか……」

 ビーチェは楽しげに笑う。

「そうだね。そうと決まれば、朝ご飯食べて、さっさと雑用を片付けるとしますか、教授」

「言われるまでもない」

 スネイプは素っ気なく答えた。

 

 一階にあるビーチェの部屋には雑談や談笑を目的とする生徒の多くが訪れた。生徒たちからの質問で多いのは、やはりスネイプとの関係についてだった。そのたびにビーチェは「監督生時代からの腐れ縁」と答えた。

 時にはこんなこともあった。

 女子生徒が訪れ、相談したいことがあると言った。

「誰にも、言わないでもらえますか?」

 アプリコットティーのカップをテーブルに置くビーチェを見ながら、生徒がおそるおそる尋ねる。

 ビーチェが答える。

「わかった。言わない」

「スネイプ先生にも?」

「うん、大丈夫。……それで、相談って何かな?」

 生徒はカップに口をつける。少し間を置いて、口を開いた。

「……この前、男子に呼び出されたんです。教室に。私は、その人のことは友達だと思ってたんですけど。……そしたら――告白されて、付き合って欲しいと言われてしまって……どうしたらいいですか?」

 思いもよらない言葉に、ビーチェは一瞬眼を(みは)る。それから尋ねる。

「なんでそんなこと私に訊くの?」

「だって先生モテそうですし」

「……告白されて、その後どうしたの?」

「どうしていいかわからなくて……そのまま何も言わずに、教室を出てしまいました」

「うーん……」

 ビーチェは少し考えて、口を開く。

「モテるモテないは別として、私の経験を話すなら……まあ、学生時代は何人かの男の人と付き合ったことはあるけど、どれも長続きしなかったんだよね」

「どうしてですか?」

 ビーチェは苦笑する。

「私、何かに縛られるのが嫌いで……他の男の人とちょっと話してただけなのに嫉妬とかされると、『あー、この人とは合わないな』って思って、すぐ切り捨ててちゃってたんだよね」

「そんな中で先生の眼に留まった人っているんですか?」

「いるよ」

「どんな人ですか?」

 ビーチェはにっこり笑う。

「夫」

 生徒はわあ、と口許に手をあてる。

「いいなあ。旦那さんとの馴れ初めとかってあるんですか?」

「そうだね……元々は今のキミみたいに、親しい友達って感じで、時々レポートを手伝ったり、勉強を教えたりしてたの。でもある時、いつもみたいにレポートを手伝ってたら、夫が『そっか。そういうことだったのか』って言って……その時の〝わからなかったことが、やっとわかった〟っていう嬉しそうな顔が、何と言うか、こう、きらきらして見えたというか、可愛く見えて……それで、『あ、私、この人のこと好きなんだ』って気づいたの」

「それで、どうしたんですか?」

 生徒が急き込んで尋ねる。ビーチェは少し照れくさそうに答える。

「嫌味に聞こえるかもしれないけど、自分から告白したことってほとんどなくて……夫は私より少し背が低いんだけど、私みたいに大柄な女はもしかして好みじゃないのかもって、もっとこう、小柄でキュートな女の子の方が好みなんじゃないかって……そんなこと考えてたら、なかなか言い出せなくて……でも何とかふたりで会いたいって言って、教室に呼び出して、告白したの。そしたら、自分もずっと前から好きだったけど、言い出せずにいたって、自分みたいな冴えない男には見向きもしないんじゃないかって思ってたって……それからお付き合いが始まって、今に至る、というわけ」

 生徒が黄色い声を上げる。

「もう、妬けちゃいます」

「キミの相談内容に戻るけど、その子のことが嫌い、というわけじゃないんだよね?」

「あ、はい。でもまだ付き合うとかは考えられなくて……」

「それなら、まだそういうのは考えられないけど、友達でいたいって、ちゃんと伝えた方がいいんじゃないかな。その方がいい関係でいられると思うし、もしかしたら私みたいに、気持ちが変わるってこともあるかもしれないしね」

「はい!」

 生徒は深くうなずいた。

 

 ビーチェの人気が高まる一方、話題となったのはその娘のシオンだった。

 顔立ちはそっくりだが、雰囲気の違う親子は比較の対象となった。

「親子なのに全然性格似てないよね」「なんであそこまで違うんだろうね」

 こうした言葉を耳にするたびに、シオンは、当たり前だ、と思う。もっと言えば母方の祖父母とも自分は似ていない、と考えていた。

 ――どんなに顔形が似てたって、私とお母さんは別の人間なんだから当たり前でしょ。私はお母さんにはなれないのに。他の誰にもなれないのに……

 

「シオン」

 夜。廊下を歩いていると、背後で声がした。ビーチェがこちらに歩み寄ってくる。

「何?」

「何かあったの?」

「何って?」

「最近元気なさそうに見えるから……」

「別に。何でもないよ」

 シオンは背を向けて、歩き出す。ビーチェが後を追う。

「何か悩んでるなら、今度時間作るから。ため込まないで――」

「構わないでよ!」

 シオンが振り返る。きっとビーチェを睨む。

 シオンが続ける。

「私の気持ちなんて、お母さんにはわからないよ!」

 シオンがその場を走り去る。ビーチェが「シオン!」と呼ぶ声が追いかける。が、今度は振り返らない。

 

          †

 

 研究室に戻ると、スネイプは暖炉に向かって歩く。その上に置かれた瓶からきらめく粉を一握り取り、暖炉に投げる。エメラルドグリーンの炎が燃え上がる。

「ラファエル、話がある」

 スネイプの言葉に呼応するかのように、輪郭が炎の中で回転しながら浮かび上がる。

「セブルス、呼んだ?」

 埃を落としながら、異母弟のラファエルが部屋へ入る。家事の途中だったのか、黒髪の上にギンガムチェックの三角巾が載っていた。

 スネイプが答えた。

「いかにも。シオンのことだ」



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四章 人間が繋がるということ 一学年九月

 朝。シオンは大広間へ続く道を歩いていた。足取りは重く、表情も冴えない。

 八つ当たりしてどうなるというのだろう。シオンは密かに自分をなじる。

 大広間に入り、テーブルに着く。視線を感じて顔を上げると、ビーチェと眼が合う。すかさず視線を逸らし、朝食をそこそこに済ませ、シオンは足早に立ち去っていく。

 

 昼食の時間になる。厨房で食べ物をもらってこようか。が、シオンはその考えをすぐさま抹殺する。却って怪しまれるのがオチだ。その時、背後で声がした。

「シオン」

 振り返ると、片手にバスケットを持ったラファエルが立っていた。

「お父さん」

 シオンが駆け寄る。

「伯父さんに呼ばれて来たの?」

「あれ、バレちゃった?」

「だってお父さんを学校に呼び出す人なんて、お母さんか伯父さん以外に考えられないし」

 ラファエルは小さく笑う。

「そっか。そうだよね。お弁当作ったから、天気もいいし、外で一緒に食べよう。おばあちゃんが作ったマドレーヌもあるよ」

 シオンの口許が、(かす)かにほころぶ。

「……うん」

 

 校庭のベンチに座りながら、ふたりは他愛もない話をした。学校の勉強のこと、家のこと。

「何か変わったことはあった?」

 貝殻型のマドレーヌをかじり、シオンが尋ねる。

「特にこれといったことはないかな」

「そう」

 沈黙が流れる。しばらくして、ラファエルが口を開く。

「セブルスから大体の事情は聞いたよ。一体何があったのかな?」

 シオンは口ごもる。が、やがて自分と母が比較の対象になっていること、それに対する自分の考えを話した。

 ラファエルはうなずく。

「そうだよね。理不尽だよね。シオンはこの世にシオンだけなのにね」

 シオンがうなずく。ラファエルは続ける。

「でも人の気持ちってなかなか変わらないものだから、気にしない方がいいと思う。今は難しいかもしれないけど、少しずつ、そうできるようになればいいんじゃないかな」

「うん……。……あのね、お父さん」

「ん?」

 シオンは親しくなりたいと思っている人がいること、その人にスネイプのことを話そうかどうか迷っていると話した。

 ラファエルは沈黙する。しばらくして、口を開く。

「これもシオンにはまだ少し難しいかもしれないけど……人生で出会うすべての人とうまくやっていける人間なんて、いないと僕は思うんだ。だからシオンは、シオンが大切にしたいと思う人、友達でいたいと思う人との関係を大事にすればいいと思う。たとえば僕にとってのシオンやビーチェや、セブルスみたいに」

 ラファエルは言葉を切る。

「もしその子が、セブルスのことでシオンを拒絶するようだったら、その人とは縁がなかったと思って、諦めた方がいいと思う。それに囚われてると、シオン自身が辛くなっちゃうと思うから」

「……お父さんは、怖くなかった?」

「何が?」

「伯父さんのことをお母さんに話すことが」

「ああ……そりゃあ緊張はしたよ。どんな風に思われるかとか、受け容れてくれるだろうかとか。まあ、受け容れてくれたから、シオンは今ここにいるわけなんだけど」

 ラファエルは娘の髪を撫でる。

 シオンが言う。

「でもそれって逆に言えば、お母さんがお父さんや伯父さんを受け容れてくれなかったら、そもそも私は生まれてないってことだよね?」

「……うん。……そうだね。そういうことになるね」

 シオンは長い睫毛を伏せる。

「それなのに私、お母さんにひどいこと言っちゃった」

「……そっか」

 ラファエルは、それ以上は何も言わずに、シオンを見つめた。

 

          †

 

「首尾はどうだ?」

 研究室に来たラファエルにスネイプは尋ねる。

「そうだね……僕から言えることは言ったはずだから、後はシオン次第ってところかな」

「そうか。……感謝する」

「いや、僕こそセブルスが教えてくれなかったら、シオンの相談に乗ってあげられなかっただろうから」

 ラファエルは暖炉の上に置かれた煙突飛行粉(フルーパウダー)を一握り取り、暖炉に投げる。

「それじゃあ」

 スネイプがうなずく。ラファエルはエメラルドグリーンの炎へ入り、姿を消した。



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五章 面影の玉手箱 一学年九月

 ようやくある程度の区切りがついたので、二話連続の投稿となります。
 ずっと更新されなかったにもかかわらず、読んでくれる方が少しずつでも増えていることを有り難く思うと同時に、筆が進まなくて申し訳なくなります。
 名前は伏せておきますが、ある方に作品を褒めていただけたことがとても励みになりました。
 ひとまず一番言いたいのは、読んでくれた方々に心から感謝しているということです。本当にありがとうございます。


 父と話した後も、シオンは答えを出せずにいた。玉手箱がパンドラの箱になってしまうのではないかと思うと、決心がつかないのだった。もっとも、それは人によって変わってしまうのだが。

 それでも、シオンとこの玉手箱は切り離せない。玉手箱の存在なくして、シオンがここにいることはないのだから。

 そういえば、パンドラの箱で最後に残ったのは〝希望〟だったっけ。シオンはふと、そんなことを思い出す。

 自分の玉手箱にも、果たしてそれはあるのだろうか。もしあるのなら、それを信じてみたい、とシオンは思った。

 

          †

 

 魔法薬学の授業では、実際に薬を作る実習が行われていた。

 声が聞こえてレベッカが顔を上げると、別の生徒がスネイプに何かを注意されていた。

 相変わらず厳しいな、と思う。と同時に、自分も何か不手際をしていないだろうかと思いながら、作業に戻ろうとする。その時、レベッカの脳裏に、端正なシオンの顔が浮かんだ。

 ――え?

 レベッカは改めて、スネイプを見る。その顔とシオンの顔が、レベッカの中で重なる。

 ――どうして?

 レベッカの脳裏に、ひとつの可能性が浮かぶ。

 ――まさか。

「ミス・バーンズ、何をしているのかね?」

 スネイプの声にレベッカは、はっとする。

「いえ、何でもないです」

「それなら作業に戻りたまえ」

「はい」

 レベッカは慌てて材料を切る作業に戻った。

 

 授業が終わると、レベッカは目の前で起こった現象について考える。

 シオンは、父方の家族は自分が生まれる前にほとんどいなくなってしまったと言っていた。だが〝ほとんど〟ということは、まだ存在しているということか? そしてそれは、今シオンと面影が重なった人物なのか?

 シオンに確かめてみたい、とレベッカは思う。

 ――でも、どうやって切り出そう?

 

 夕食時。シオンの母・ビーチェについて、それからシオンについて話す声が聞こえてきた。

 隣で『ホグワーツの歴史』を読んでいるシオンに、レベッカが眼を遣ると、その眉が僅わずかに上がっていた。その横顔が一瞬、スネイプと重なる。

「お母さんのこと、嫌い?」

 レベッカが尋ねると、シオンはえ? と不思議そうな顔をする。

「どうして?」

「お母さん――ユルスナール先生のこと話してるのが聞こえると、今みたいに嫌そうな顔するから」

「それは……」

 シオンが口ごもる。が、やがて口を開いた。

「お母さんじゃなくて、お母さんと比較されるのが嫌いなの」

 簡潔、かつ端的な答えが、すとんと腑に落ちる。

 ややあって、シオンが言う。

「……贅沢な悩みだって思う?」

「え? いや、そんなことないけど……どうして?」

「だって、ホグワーツ特急の汽車の中で、キミ言ってたじゃない。お母さん、小さい頃に死んじゃったって」

 あ、そういうことか。レベッカは少し考えて、答える。

「確かに、シオンのお母さん――ユルスナール先生を見てて、素敵な人だなって思うことはあるけど、それとこれとは別だから。……でもシオンは、強いね」

「何が」

「いや、その……上手く言えないけど、そういう風に自分の気持ちがはっきりしてるというか、自分の気持ちを正確に表現できるところが、強いなって。私にはなかなか、真似できないから」

 シオンは眼を見開く。が、すぐに冷静な表情に戻って言う。

「持ち上げても何も出ないよ」

 素っ気ない返事に、レベッカは思わず吹き出す。

 シオンはでも、と呟くように付け足す。

「……ありがと」

 

          †

 

 レベッカは無意識のうちに、シオンとスネイプ、ふたりの姿を眼で追うようになっていた。魔法薬学の実習の時に浮かんだ可能性のこともあったが、なぜふたりの姿が重なることがあるのかが不思議だった。

 そうしているうちに、ひとつの事実に辿りつく。

 ――そうか。眼の色合いが同じなんだ。

 ただ見ているだけではわからなかっただろう。レベッカの中で、可能性の線が濃くなりつつあった。

 だが、答えは出なかった。果たして本人に確かめていいものだろうか?

 

「どうしたの?」

 不意に声を掛けられ、レベッカは思わずびくりとする。

 振り向くと、ゆるやかにウエーブしたアッシュブロンドの髪から覗くパールグレイの大きな眼が、こちらを見ていた。

「ユルスナール先生……あの、ちょっと考え事をしてて」

 突如現れたビーチェに戸惑いながらも、レベッカは答える。

 ビーチェが鸚鵡(おうむ)返しに尋ねる。

「考え事?」

「はい」

 その時、レベッカの中で、ひとつの考えが浮かんだ。

 ――この人になら、話をしても大丈夫かも。

「あの、先生、ちょっとお話できますか?」

「話? いいよ。じゃあ私の部屋行こうか」

 レベッカはうなずき、ビーチェの後をついていった。



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六章 陽だまりと三日月 一学年九月

  注釈
 ※作中では、魔法社会の通貨を以下のように換算する。

 ・ガリオン金貨
  一ガリオン=十七シックル=四百九十三クヌート
  一ガリオン=約五ポンド十二ペンス=約八百七十円

 ・シックル銀貨
  一シックル=二十九クヌート
  一シックル=約三十ペンス=約六十四円

 ・クヌート銅貨
  一クヌート=約一ペンス=約二円
                 (出典:ウィキペディア)


 ソファに座ったレベッカの前に、ティーカップが置かれる。甘く、爽やかな香りが鼻を突く。

「いい香りですね」

 レベッカが感想を漏らすと、ビーチェは説明する。

「ピーチティーだよ」

「ピーチティー、ですか?」

「そう。フレーバーティーのひとつ」

「へえ……」

 レベッカは手にしたカップの中を覗き込む。

「こういうのは初めて?」

「はい。ウチにはこういう、何と言うか、お洒落なものはないので……」

「そう? ティーバッグでもふつうに売ってると思うけど……」

 茶を口に含むと、優しい甘さと瑞々しさが広がる。

 ――それにしても……

 レベッカは向かいに座るビーチェに眼を遣る。

 ビーチェはいつものローブ姿ではなく、白いポロシャツを着ており、紺のミニスカートから綺麗な長い脚が覗いている。

「どうしたの?」

 レベッカの視線に気づいたのか、ビーチェが尋ねる。

「あ、いや……ローブじゃないと、何か雰囲気違うなって」

 ビーチェは、ああ、という小声を上げる。

「今日から週末だから、昼頃には一旦家に帰る予定なの。ローブを着てもいいんだけど、まだちょっと暑いから」

 ビーチェはカップを傾ける。ローブ姿ではあまり目立たないグラマラスな体の線に眼が行きそうになり、レベッカは慌てて視線を自分の分のカップに向ける。

 ――おっさんじゃないんだから。

 レベッカはふと脳裏に浮かんだ疑問を口にする。

「そういえば、どうしてさっき私に声掛けてきたんですか?」

「ああ、よくシオンと一緒にいたり、話したりしてるのを見かけるから。シオンと仲良くしてくれて、ありがとう」

 ビーチェはにこっと微笑む。その屈託のない笑顔に、レベッカは思わず照れてしまう。ビーチェが柔らかい陽だまりなら、シオンは闇夜を淡く、静かに照らす三日月といったところだ。

「いや、仲良くというよりはお世話になってるといいますか……」

 これは本当だった。シオンが助言してくれなければ、今も魔法社会で右も左もわからないままだっただろう。マグル出身のレベッカにとっては理解に苦しむ部分もあったが、それでもシオンは根気強く教えた。

「あら、そう? シオンはまんざらでもなさそうだけど……」

 そうだろうか。レベッカは、改めてシオンの様子を振り返る。

 基本的には簡潔な物言いで、態度も素っ気ない。が、訊かれたことに対しては誠実に答えてくれる。

 ――そういえばシオンに質問して、嫌な顔されたことってないかも。

「そういえば、私に何か話したいことがあるんじゃなかったっけ?」

 ビーチェの言葉にレベッカは、はっとする。危うくここに来た目的を忘れるところだった。

「あ、はい。実は……」

 レベッカは魔法薬学の授業で眼にした不思議な現象、それをシオンの言葉と照らし合わせた際に浮かんだひとつの可能性について話した。

 数秒の沈黙。やがて、ビーチェが口を開いた。

「残念だけど、それに関して私からは何も言えない。ただ気になるなら、シオンに直接訊いてみたら?」

 やっぱりそうなるか。レベッカは内心ため息をつく。

「ですよね……。ただ……」

「ただ?」

「……こんなことシオンに訊いたら、失礼というか、嫌な顔するんじゃないかって、思ってしまって……」

 ビーチェはレベッカを見つめる。やがて、カップを置きながら言う。

「確かに、怖いよね。人の気持ちを知るのって」

「先生にも経験あるんですか?」

「そりゃああるよ」

「どんなことですか?」

「どんなこと……うーん色々あるけど、一番よく覚えているのは、やっぱり夫に告白しようとした時かな。どんな反応されるかなとか」

「そうなんですか……」

「でも、人との関係を発展させたかったら、相手のことを知らなきゃ始まらないし、時には気持ちを確かめるってことも、やっぱり必要になるんじゃないかな。もちろん焦る必要はないし、自分がそうしようって思えた時にするのが、一番いいんじゃないかって思うけど」

 ビーチェの言葉に胸に巣くっていたわだかまりが、すっと消えるような気がした。

「……そうですね。ありがとうございます」

 レベッカは茶を飲み干す。

「ごちそうさま。お茶、おいしかったです」

「そう? よかった」

「もしよかったら、このお茶のティーバッグ見せてもらえますか?」

「え? あー、私の場合、ティーバッグじゃないんだけど……」

 ビーチェは立ち上がり、部屋の奥へ移動する。少しして戻ってくると、その手には茶葉の袋があった。

「お茶っ葉から淹れてたんですか」

 道理でおいしいわけだ、とレベッカは納得する。

 レベッカは尋ねる。

「これ一袋でいくらですか?」

「そうだね……ピンキリもあるけど、大体一ガリオンくらいあれば十分じゃないかな」

 レベッカは、しまった、と思った。

 ――両替する時にお父さん説明受けてたけど、覚えてない。

「……ポンドに直すといくらですか?」

「ポンドって?」

「え……、ポンドを知らないってことは、まさかペンスも?」

「うん。……それって、マグルの人たちのお金?」

「はい」

「あー……ごめん。私マグル社会のこと、ほとんど知らないんだ」

「そうですか……」

 レベッカの声が少し残念そうなのを見て、ビーチェは言う。

「今度夫に一ガリオンってマグルの人たちのお金に直すといくらか聞いてこよっか?」

「え? 旦那さんってマグル出身なんですか?」

「いや、正確にはマグル出身じゃないけど、結婚する前はマグルの人たちがいる地域で暮らしてたから、私よりずっとマグル社会のことには詳しいの」

 なるほど、とレベッカは思う。

「でも、いいんですか?」

「構わないよ。聞いてくるだけだし」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 ビーチェは柔らかく微笑んだ。

 

          †

 

「朝一番から魔法薬学なんて、ツイてないなあ」

 廊下を歩きながら、赤毛にそばかす、長身で細身のグリフィンドール寮の二年生、ロン(ロナルド)・ウィーズリーがこぼした。

「でも、もしかしたらユルスナール先生に会えるかもしれないよ」

 小柄で細身、明るい緑の眼にくしゃくしゃの黒髪、額に稲妻形の傷跡が薄く残っている同じ寮の二年生、ハリー・ポッターが慰めるように言う。

 スネイプの助手を務めるビーチェは、時折授業で使う大鍋やビーカー、試験管、フラスコなどの準備をしており、その際に姿を見かけることがあった。

 ロンが言う。

「それもそうか。それだけが救いだよな。でもなんであの人が教授じゃないんだろ? スネイプなんかよりよっぽど先生に向いてると思うけどな」

「ロン、あなたは単にあの人が美人だから、そんなことを言っているだけよ」

 栗色の髪がふさふさと広がった同じ寮の二年生、ハーマイオニー・グレンジャーが割って入る。

 すかさずロンが言い返す。

「君だって人のこと言えるのかい? ロックハートの肩を持ってるくせに」

 ギルデロイ・ロックハート教授は今年から闇の魔術に対する防衛術の科目を担当することになった人物で、教科書である自身の著作に書かれている功績と、そのハンサムな容姿で、主に女性層の人気を集めていた。

 ハーマイオニーが顔を赤らめる。

「それは……、ロックハート先生は本に書いてあるように、あんなにすごいことをやっているじゃない。それに比べたらユルスナール先生は未知数だわ。スネイプと同じぐらい魔法薬作りの腕が優れているかどうかもわからないじゃない。それなのにちょっと美人だからってみんなでれでれして……」

「悪かったね。うちの母がでしゃばってて」

 ハーマイオニーの言葉は、背後から聞こえた冷たい声に遮られる。振り向くと、ビーチェの娘・シオンが鞄を後ろ手に持ちながら立っていた。

「あ、シオン、これは……その……」

 ハーマイオニーはしどろもどろになって言う。シオンはハーマイオニーを見下ろす。

「そのでしゃばっている母の娘から忠告しておくよ、グレンジャー。あまり人をとやかく言わない方がいいよ」

 シオンは背を向けて、その場を立ち去る。ショートカットの黒髪が、さらさらと揺れる。

 ハーマイオニーは何かを言おうとしていたが、やがてしゅんと肩を落とした。

「……顔はそっくりだけど、中身は真逆だよな」

 ロンの言葉にハリーはうなずいた。

 

 ――まったく、くだらない焼き餅もほどほどにしてよね。ま、お母さんにとっては痛くも痒くもないだろうけど。

 心中で呟きながら、シオンは廊下を歩く。ついでに言うならば、ロックハートなどと母を同列に見ないで欲しいと思った。

 教科書の内容を取り上げて大仰に話すだけで、実践的な呪文などは何ひとつ教えない授業など、つまらないのひとことに尽きた。ロックハート自身も、シオンからすれば薄っぺらな人物に見えていた。

 ふと、話し声が耳に入る。壁の影に身を隠し、様子をうかがう。廊下の向こうに人影が見えた。ひとつはビーチェ、もうひとつは波打つ金髪に鮮やかな青の眼――ギルデロイ・ロックハートだった。

 話を聞く限り、どうやらビーチェは校医のポピー・ポンフリーに頼まれた薬の材料を持っていく途中でロックハートに出くわしたようで、手には薬草らしき植物が入った籠があった。

 ロックハートの声がする。

「……なるほど。そういうことでしたら私もお手伝いしましょう」

「あ、いえ、大丈夫です」

 ビーチェが困ったような声で言う。しかしロックハートは構わず続ける。

「どうぞ遠慮なさらずに。これでも私は魔法薬学についても心得があります。ポンフリー先生に、より効果的な薬を作るアドバイスぐらいはできますよ」

「いえ、本当に大丈夫ですので……」

 シオンは内心舌打ちする。

 ――うざい……。マクゴナガル先生がいればな……びしっと言ってくれそうなのに……

 そこまで考えて、シオンは思い直す。

 ――いや、マクゴナガル先生がいても、アレはものともしないか……。

 放っておこうか。そのうち自分で何とかするだろう。シオンは向きを変える。だがその足は、意思に反して動かない。

 シオンは逡巡する。が、やがて再び向きを変えた。

 

「いい加減にしてください、ロックハート先生」

 背後の声に、ロックハートが振り返る。近くにいたシオンがロックハートを見上げる。

 ロックハートは少し驚いたような声を出す。

「ミス・ユルスナール、いつの間に……」

 シオンが即座に言い返す。

「先ほどから母は言っているではありませんか。ひとりで大丈夫だと。あなたの専門分野は闇の魔術に対する防衛術であって、魔法薬学ではないはずです。それに母はスネイプ先生の助手もしているんです。あなたも教授でしたら、こんなところで油を売っている余裕などないのではありませんか?」

 ロックハートが狼狽する。言葉に迷っていたようだが、やがて口を開いた。

「ああ、えー……そうです、ね。では次の授業の準備がありますので。ユルスナール先生、ご機嫌よう」

 ロックハートはそそくさとその場を後にする。シオンはビーチェにちらりと視線を投げると、足早に去っていった。

 

          †

 

 深夜。レベッカが眼を覚ますと隣のベッドにシオンの姿がなかった。

 朝に起きるとシオンがいつの間にかいなくなっていることは、これまでにも何回かあったが、自分や他の同室の生徒たちよりも早く起きているのだろうと思い、気にしなかった。だが深夜に部屋から姿を消しているのはこれが初めてだった。

 同室の生徒たちを起こさないように部屋を出て、トイレに向かう。が、そこにもシオンはいなかった。

 ――どこに行ったんだろう?

 深夜に校内を歩き回るのは規則違反であり、シオンがそうしたことをするとは思えなかった。

 トイレを出たレベッカはもしやと思い、談話室へ向かう。ドアを開けると、部屋の中心あたりにあるソファのひとつに人影が見えた。近付いてみると、パジャマの上に薄手の黒い上着を羽織り、肘掛けを枕にしてすうすうと寝息を立てているシオンがいた。

 なんでこんなところに? 一瞬戸惑ったものの、冷静さを取り戻したレベッカはシオンの寝顔に視線を向ける。端正で少々近寄り難くも見える横顔が、いつもよりずっと無防備に見えた。

 レベッカは少し迷ったが、ひとまず起こすことにした。

「シオン、聞こえる? シオン」

 長い睫毛が僅かに動く。やがてうっすら眼を開ける。

「何なの、こんな時間に」

「こんなところで寝てたら風邪ひいちゃうよ?」

「大丈夫だよ。上着着てるし」

「いや、大丈夫というか……いいの、こんなところで寝てて?」

 シオンは上体を起こす。

「ひとりで横になって寝られればどこだっていいの」

「……そうなの?」

「部屋の外に出ちゃいけないなんていう規則はないでしょ。寮の外に出なきゃいいだけの話なんだから」

 言われてみればそうか。レベッカは妙に納得する。だがシオンの長身にこのソファは窮屈ではないだろうか。

 ふと、レベッカは考える。

 ――これって、もしかしたらチャンスなんじゃ?

「まだ何か用?」

 シオンが尋ねる。

「あ、用というか、その、話したいことがあって……」

「話したいこと?」

 レベッカはうなずく。「実は……」

 以前ビーチェに聞かせた内容を話した。

 シオンはレベッカを見つめる。やがて、口を開いた。

「それが本当だって言ったらどうする?」

「え、じゃあスネイプ先生は……」

 シオンはうなずく。

「その通り。スネイプ先生は私のお父さんの腹違いのお兄さん、つまり私にとっては伯父さんにあたるってわけ」

 あっさり答えるシオンを前に、レベッカは拍子抜けする。どう反応していいかわからなかった。

 レベッカから眼をそらさずに、シオンは言う。

「それで、正解に辿りついた感想は?」

「え、感想? うーん……ああ、そうだったんだ、みたいな?」

「それだけ?」

「うん」

「……そう」

「……どうしたの?」

「……てっきり、嫌われるかなとか思ってたから、ちょっと拍子抜けしたというか」

「ええ? なんで?」

「いやだってスネイプ先生、みんなに嫌われてるから……。キミにはいずれ話そうと思ってたけど……どんな反応されるか不安で……」

 ようやく意図がわかった。何のことはない。シオンも自分と似たようなことを考えていたというだけのことだったのだ。拍子抜けしたのはむしろこちらだとレベッカは思った。

「私は、気にしないよ。たとえスネイプ先生と血が繋がっていたとしても、シオンとスネイプ先生は別の人間だもの。むしろ、これからもその、色々教えてもらえたり、助けてもらえると、有り難いなー、と」

 沈黙が流れる。やがて、シオンが優しく微笑む。月明かりに照らされたその微笑は、ビーチェにそっくりだった。

「喜んで。……ありがとう」

 

          †

 

 共同研究室の奥のソファで、ビーチェは研究所から届いた資料に眼を通していた。部屋の中央には魔法薬の調合に使われる器材が置かれたテーブルがあり、それを挟んだ左右にスネイプとビーチェ、それぞれの机があった。

 ノックの音に顔を上げる。立ち上がって資料を机に置き、ドアを開けるとシオンが立っていた。

「シオン? どうしたの?」

 シオンは少しためらいがちに、口を開いた。

「……この前は、ごめん。ひどいこと言って」

 ビーチェはシオンを見つめる。それから首を振り、ふんわり抱き締める。

「ううん。私こそごめんね。シオンの気持ち、汲み取ってあげられなくて」

 シオンは気恥ずかしそうに心持ち身じろぎしたが、振り払うことはなかった。

 ビーチェは娘を離すと、にっこり笑う。

「あの時はありがとう。助かったよ」

「どういたしまして」

 シオンはローブの内ポケットからメモを取り出す。

「これ、伯父さんに渡しておいてくれる?」

「セブルスに? いいよ」

「ありがとう」

 ビーチェがメモを受け取ると、シオンは「それじゃ」と言い、部屋を後にした。

 メモに眼を通す。次の瞬間、ビーチェは噴き出した。それとほぼ同時にスネイプがドアを開けて入ってきた。

「どうした?」

「あ、セブルス、丁度よかった。ついさっきシオンが来て、これキミに渡しておいてって」

「シオンが?」

 スネイプがメモを受け取り、眼を通す。途端、面食らったような表情になった。

 メモにはこう記されていた。

 

 ――伯父さんへ

 お父さんを呼んでくれて、ありがとう。

                                   シオン

 

 ビーチェがくすくす笑う。

「セブルスはバレないようにやったつもりだろうけど、シオンにはバレバレだったみたいね」

「……勘がいいのは母親である君に似たのかもしれんな」

「そう? 勘のよさならキミだって負けてないと思うけど?」

 スネイプは複雑な顔をする。ビーチェはまたくすくす笑った。

 ビーチェがくすくす笑う。

「セブルスはバレないようにやったつもりだろうけど、シオンにはバレバレだったみたいね」

「……勘がいいのは母親である君に似たのかもしれんな」

「そう? 勘のよさならキミだって負けてないと思うけど?」

 スネイプは複雑な顔をする。ビーチェはまたくすくす笑った。



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