恋姫異聞 白武伝 (惰眠)
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「厄介なことをしてくれたわね…」

 

「あら、例の因子を外史へと導くことには、あなたも賛成していたと思ったのだけれど?」

 

「ええ、因子を遷移させること、そのものには賛成していたのよ。外史を本来の歴史から逸脱させて、それを観察する、それこそが外史の役割のひとつであるのだから…

 でも、それは、特定の因子だけを規定の方策をもってして外史へと遷移させる、それだけに尽きる。そこに、異型が入りこむ余地はない。だというのに、あなたがたが外史へと因子を遷移させた、その同時位点において、もうひとつの因子を遷移ではなく消失させてしまうとは…

 それで生じる影響は計り知れない。本来の歴史のほうが大きく変遷してしまう可能性がある。それこそ歴史そのものの危機にまで発展してしまう可能性も否定はできない…()()()()()()()()()、ということはそれほどのことよ」

 

「あら、でも『ご主人様』のほうは無事に遷移できているわ。巻き込まれた彼には悪いけれど、もともとひとり分がいなくなることは計算の上なのでしょう? もうひとり分増えたところで誤差の範囲で対応できるのではなくて?」

 

「あなたの言う『ご主人様』は消失したわけではないわ。あくまで遷移しただけ。その魂魄(こんぱく)は外史に送りこまれたけれど、存在根源そのものは彼が失認した時点に未だある。要するに彼は()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()だけ。

 でも巻き込まれた彼は…いえ、巻き込まれたからこそ、その存在根源から弾き飛ばされてしまった」

 

「…え、っと、それって…」

 

「ええ、その彼はすでに本来の歴史から完全に切り離されて…もう()()()()()()()()()()()()()()()()()されてしまった。魂魄そのものは、なんとかその残滓(ざんし)を捕まえることができたけれど…これではもう本来の歴史に復帰させることはできない」

 

「ええ~、それって大問題じゃない。人ひとり分が、その存在そのものから完全に消失した、ってことよねっ」

 

「…だから、先程からそう言っているのだけれど…」

 

「そんな、どうするの、どうするのよっ」

 

「…方法はひとつ。一度は消失した存在を復活させて辻褄を合せるしかないわ」

 

「だって歴史からは、もう切り離されちゃっているんでしょ。そんな魂魄を修復して戻したところで、それはその根源とは別物なわけで、もっと齟齬(そご)が大きくなるだけじゃないの?」

 

「ええ、本来の歴史にはもう戻せない。でもそんな、行き場のない魂魄でも、存在することを許されるところがあるでしょう?」

 

「…外史…」

 

「そう、外史への完全遷移…根源との断絶の影響は無にすることはできないけれど、存在の消失そのものは防ぐことができる。たとえ外史にであっても、その存在の認識さえできていれば、最低限の辻褄合わせはできるはず…

 さあ、手伝いなさいな。まずは彼の魂魄を修復する。

 遷移の影響で、塵芥(ちりあくた)と言ってもいいくらいに粉砕されてしまったから、元通りに修復するには私の力だけでは届かない。いえ、全く元通りというわけにはいかないのだろうけれど、少しでも精度を上げるために、あなたがたの力も必要になる。

 そして外史に送りこむ…因子が規定より増えてしまうけれど、そのくらいは許容できるでしょう…」

 

 



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一章 漂着
一 初戦闘


 

 ひょう、と音を立てて風が吹き抜けていった。

 乾いた風だ。混じる匂いは、黄色い砂の匂い。

 ぱらぱらと、軽い音をたててそれが頬をなで、その感触で少年は目を覚ました。

 

「う…ん…と、いたた」

 

 寝違えたか、固いところに寝ていたからか、首から背中にかけて走る痛みにうめきながら身体を起こして、少年は寝惚け眼で周囲を見回して、絶句した。

 辺り一帯、遮るもののない広大で平坦な荒野。その地平の先にそびえる尖った岩山。

 天空から降り注ぐ陽光は、じりじりと強く照りつけてくる。

 そのどれもが、身に覚えのない、少年のこれまでの、長いとは言えない人生ではあるものの、その中にはありえなかったものだった。いや、直接的な経験外であるならば記憶にないこともなかった。

 

「え、と…中国とかモンゴルとか、ってこんな感じだったっけ?」

 

 それは、某国営放送のドキュメンタリーを好んだ父親とともに見たテレビのなかの光景だ。その光景の中に自分がいる…まったく現実感がない。

 

(夢、か…いや…)

 

 まず考えたのはそれだった。が、否定する。それを今までに経験したことがなかったからだ。夢の中で、これは夢だ、と認識するようなことは。高校生時代に授業で読んだ山月記の中で、李徴がそうした夢を何度も見ていると記されていて、クラスメイトもそれに違和感を持っていなかったようで、そうか、自分のほうが少数派(マイノリティ)なのか、と思ったりしたので、その辺りは心に残っている。

 

「む~、よし、とりあえず自分を振り返ってみよう」

 

 荒野に胡座をかいて腕を組み、自分の耳に音として聞こえるように声に出してみる。

 

「オレの名前は、白河(しらかわ)(れん)。東京都在住の浪人生。18才。高校卒業後に上京して一人暮らし中、彼女なし…うわ、言ってて、へこむな、これ…で、今朝はバイトに行こうと歩いてて背中に何かがぶつかってきたかと思ったら…ふむ、そこから記憶がないな…それで、目が覚めたら、ここ、か…」

 

 もう一度周囲を見回す。

 

「…どう見ても日本じゃないよな…これだけだだっ広いのとか、あの山の形とか、やっぱり中国とかモンゴルとか、かな…て、ことは…え、と、どういうことなんだ?」

 

 状況を把握しきれずにどうしても唸る以外になくなり、そんなときだった。

 

「おい、兄ちゃん、こんなところでなにしてんだ?」

 

「え?」

 

 背後からかかる声に少年…錬は立ち上がりつつ振り返ると、そこにいたのは見慣れない格好をした三人組だった。

 年齢は錬よりいくらか上か。平成の世では平均な体格の錬より背丈は少々低いが横幅は上回っている。太っているというのではなく、力仕事に慣れているが故の頑健さが表れた体格だ。問題はその身にまとっているモノにあった。みすぼらしい、そう言ってもいいような(あわせ)のような服の上に、胸部だけを堅そうな皮革製のモノで覆っている。そして腰には細長いモノ。それは…

 

「鎧と…剣…」

 

 錬がそうつぶやくのが聞こえたのか、男のひとりがすらりとその腰のモノを抜いて、錬に突きつける。

 

「ああ、そうさ、剣だ。これでおまえを殺すことなんざ、訳もない。て、わけでだ、有り金全部出しな。ついでにその珍しい着物も脱いで渡せ。うまくすりゃ、そこそこの値で売れそうだしな」

 

 言われて見直す我が身は、見慣れたシャツとジーンズ、そして、スニーカー。平成の世では、ごくごく普通の、ありふれたファッションだが、それが珍しいと言う。この男たちも含め、自分を取り巻く現状の現実感のなさにいまひとつ頭の働かない錬は、突きつけられた剣の切っ先に視線を合わせて、ぼうっと考える。

 

(鎧と剣が普通…で、オレのこの恰好が珍しい? て、場所どころか時代も違うのか?)

 

「おい、なんとか言いやがれ、殺しちまうぞ」

 

 苛立った声をかけられ、我に返る。そこでようやく理解し、恐怖が走る。

 

(え、と、あれ、オレ、殺されちまうのか?)

 

 生まれて初めて感じた殺気にガタガタと身体が震え出す。

 高校時代に所属していたのは弓道部。格闘技など、剣道や柔道を授業で復習(さら)った程度で、荒事に巻き込まれた経験など18年生きてきて皆無だ。そんな平和に慣れ切った少年が、前触れもなく殺気に曝されればパニック状態になるのは当然だ。急激に視野が狭くなり、錬の頭の回転は再び鈍く、いやほとんど止まる。

 

「チッ、面倒くせえな。どうします、アニキ」

 

「…まあいいや、殺しちまえ」

 

 男が後ろを振り向くことなく伺うと、背後にいた男のひとりがあっさりと殺人を指示し、それに答えるように、突きつけられていた剣が振り上げられ、振り下ろされる。

 

(死…)

 

 覚悟…なんてできるわけがない。ただただ今から押しつけられる死を黙って受け入れるしかない。錬の意識はそう思った。だが…

 

「え?」

 

 一連の動きが終わったときに、そんな声が(こぼ)れたのは錬の口からだった。その驚きの原因は視覚と左拳の感触から。なによりその光景を生じさせたのが自分自身だということが、最たる驚きだった。

 

 振り下ろされる剣に為す術もなく斬殺されるしかないと、自身でも諦めかけていたというのに、身体は意思によらず動いた。腰を落とし、膝を軽く曲げ、両足の親指の根元に重心を移す。要するに身構えた。

 そして自分の頭部へと落ちかかる剣に右腕が動く。剣の持ち手の柄元へと右掌を添えるように合わせると、内から外へ-左から右へと払うように振るわれ、その剣筋を弾き逸らす。その動きの流れで右半身は後ろへ引かれ、代わりに左半身が前に出るのに合わせて左足が前へと踏み出されると、その踏込みに継いで握りしめた左拳が突き出された。剣筋を逸らされたがために無様なほどに体勢を崩した男の右脇腹へ目掛けて。その結果、声も上げられずに男が吹き飛んだ。

 

 改めて言うが、錬には格闘技の、他人と物理的に戦うというような経験はほとんどない。そんな錬が放った拳で人が吹き飛ぶなどありえない、いや戦いの経験の有無に関わりなく、単なる拳打で人は飛ばない。だが、今、目の前でそれが起こった。

 もう、なにがなんだかわからない、それが錬の脳裏に走った思考だったが、それは錬以外のふたり――吹き飛ばされた男は昏倒していたため――も同様だったようで、数瞬の沈黙が流れ、そののちに我に返ったように揃って剣を抜いた。

 

「て、てめえ、なにしやがるっ」

 

 殺そうとした相手にかける言葉じゃないだろう、と思い、いやそんな呑気なことを考えている場合でもないだろう、とも思いつつ、錬は右手にある剣を…どうやら斬りかかられた剣を弾き逸らした際に奪っていたらしい――両手で構え直す。

 それはほとんど、先程の危機を回避した際と同様に無意識な行動で、それから先もまた同様だった。

 斬りかかる二人目の剣が袈裟掛けに斬りおろされるのを、両手に持った剣を振り上げるようにして弾き上げ、次いで一歩踏み出しつつ水平に振るう。血飛沫が舞い、剣を持った右手が肘の先辺りから飛んだ。

 続いて突き出された三人目の剣は、飛び退(すさ)ることでかわし、着地の反動を利用して前へ飛び込みつつ剣を振り下ろす。狙いは突き出された腕だったが、これは引き戻しのほうが一瞬早く、しかし相手の剣を中途で断ち切った。

 

「く、くそっ」

 

 剣を折られたことに悪態をつきながらも三人目の、アニキと呼ばれていた男は、素早く錬の攻撃範囲から逃れるように後退する。男は錬を警戒するように折れた剣を構えながら、初めに吹き飛ばされた男のもとに向かった。

 

「おい、おきろ」

 

 頭を蹴りながら声をかけると、それほど深い昏倒ではなかったのか、唸りながら男は目を覚まし、

 

「…ア、アニキ…」

 

 自分の手に剣はなく、アニキの剣は折られ、もうひとりの子分は右腕を切断された衝撃で気を失ったのか微動すらしない、そんな現状を把握して、情けない声を上げながら起きあがる。そんな腰の引けた子分に、

 

「…そいつ、生きていたら連れて来い…さっさとずらかるぞ」

 

 敵わない、そう理解したアニキは、動かないもうひとりの子分を顎で示して言い、子分はその指図に従って仲間に近付き、声をかけた。返事はないが、まだ生きてはいるようで、錬のほうを気にしつつも切断された腕の元をきつく縛って止血したのちに肩に担ぎあげた。

 それを、錬はただ黙って見ていたわけでは…あった。状況を把握しては、いた。だが錬の思考は未だにずっと斬り殺されそうになったときの忘我状態にあった。

 その状態は、男たちがこちらへの警戒を緩めないまま逃げ去り、その姿が見えなくなるまで、そしてそれをしっかりと視界に収めて意味を認識しながらも変わることなく、それゆえに能動的な行動を全く起こせなかった。

 

「…助かった?」

 

 どのくらいののちか、そんな(つぶや)きが錬から零れた。そして周囲を見回す。

 少し離れたところに切断された剣を握ったままの腕。それを為したのは錬が右手に提げている、男たちから奪った剣だ。それを承知して、しかし錬の心中に浮かんだのは、

 

「…どうしてオレにあんなことができたんだ?」

 

 という疑問だけだった。

 今までの人生の中で戦闘行為など、ほとんどしたことはない。運動能力にしても人並みでしかなく、腕力などは同年齢に比べて足りないくらいだった。そんな錬が、ひとりは拳ひとつで昏倒させ、同時に掛かってきたふたりは剣戟で圧倒し、撃退した。相手の、人への攻撃に慣れていそうな、それなりに鋭い剣筋にしっかりと反応して余裕を持って反撃した。もしその気になれば、三人ともを斬り捨てることも容易だった、との自覚さえもある。

 とても信じられない。

 だが、それ以上に人間の右腕を切断しておいて、そのことに何の感慨も湧かなかったことに首を傾げた。

 あれほどの重傷であれば、下手をすれば死ぬかも知れない。それも理解している。だが、それでも、人を殺したかもしれない、ということに対しての衝撃は、まるで感じなかった。

 あまりのことに感情が麻痺しているのか、とも考える。あまりにも冷静な思考で、自己防御的な思考停止が働いているのか、と。

 考えても結論は出なかった。答えの出ないことを考えても仕方がない、と半ば開き直った思いで錬は、

 

「さて、これからどうしようか?」

 

 という、ある意味で根源的な疑問を思った。

 

 まずあれはなんだったのか、と逃亡した三人組について考える。おそらくは盗賊や山賊の類。

 ここがどこでいつなのかは未だに不明だが、剣や鎧で武装していたり、地平線までなにもないような荒野が広がっていたりすることなどから、少なくとも錬の生まれ育った平成時代の日本でないことは、時代と場所の両方の意味で確かだ。

 現代――錬の感覚からしての――であれば、どのような辺境であっても所持している武器は銃器だろう。密林の最奥のような秘境でもない限りは。つまりは剣が主要な武器だった時代だということだ。そして山がちな日本にこんな広大な荒野は、今も昔もないだろう。

 どうしてこんな状況に陥ったのか、は分かるはずもなく。

 それ以上は、自分の身体が異常に動けるということと同様に、今は考えてもどうしようもない。

 

 だから今、考えるべきはあの三人組のことだった。少なくとも、今この段階で、この()()で唯一出会った人間が彼らだ。これからどうするのか、その行動指針の端緒は、それがどのようなものであれ、そこにしかないのだろう。

 そして、彼らが賊であるのなら、逃げた方向が彼らのアジトである可能性が高い。そしてそちらは彼らが声を掛けてきたときに錬が向いていた方向だった。ならば彼らが来た方向に村か何かがあるのでは、という予測が成り立つ。なんらかの()()を成し遂げて、彼らはアジトに帰る途中だったのだろう。

 

 そう結論付けて、錬はその方向を向く。太陽は高く、ほぼ真上にあるために自分が向かっている方角の検討はつかないが、ともかくそちらに何かがあることを願いながら、錬は歩き始めた。

 

 

 

 

 歩くこと2時間くらい。

 時計もないために体感的な感覚でしかないが、それほどの時間を歩き続けても、全く疲労感はない。以前でもその程度を歩ける体力はあったが、疲労を感じないということはなかった。やはりこの身体はどうかしてしまったらしい。そう思う。

 

 歩きながら色々と自分について確認してみたが、服装については気を失う前と変わったことはない。だが、携帯や腕時計、財布、アパートの鍵といった物品については所持していなかった。理由は不明だ。

 そして身体的特徴として左の二の腕にあった、それなりに大きな古い裂傷跡がきれいさっぱりなくなっていた。弓道部活動の一環として近所の神社で行っていた流鏑馬(やぶさめ)の練習中に落馬したときに切った傷跡で、2年たった今でもはっきりと残っていたものだったのだが。これについても理由が皆目見当もつかない。推測すら思いつかなくて、これについても考えても無駄、と錬は思考を放棄した。

 

 太陽は、錬の右斜め後方へと居場所を移していて、彼が進む方角が東だと知らせていた。その傾きからもそれなりの時間が経っていることが分かる。

 すでに周辺は畑らしきものが広がり、農村の耕作範囲になっていることがうかがえる。すでに収穫を終えた様子の畑の、その間を縫うように踏みしめられた土が道らしきものを形成していて、錬が今、歩いているのはその道だ。畑の向こうには森だと思われる緑も見えていて、この辺りが先程までいた荒野と違って水気に恵まれていることが分かる。

 そして前方に予想通りに村のようなものが見えてきた。

 周囲を、土を盛った塀、というより土塁に囲まれ、その外周には堀も見受けられる。だがどちらも人の背丈の半分程度の規模でしかなく、申し訳程度、といった感が否めない。その中には、木造と思われる家屋の外壁や屋根が並んでいる様が覗いて見える。向かっている正面には、木製の両開き扉を設けた門らしきものがあった。1枚が両手を広げたよりも多少大きいくらいの、その扉は開かれているが全開でない。人が2人並んで通れるかどうかほどの隙間を見せている。

 その様子に錬は、なんとなく違和感を抱いた。

 ここが農村であるなら、まだ畑仕事に出ている者がいたり、森へ狩りに行っている者などがいたりして、それらのために門は大きく開かれているのではないだろうか。あるいはすでに全員が戻っているのならば完全に閉じられていてもおかしくない。

 

「ま、オレに分かるわけもないか…まったく分からないことだらけだな…」

 

 ぼやきに近い呟きが漏れる。未だに錬の思考は冷静を保ったままで、自分自身でどうにも違和感を否めない。

 自分はこんなにも精神的に強靭だっただろうか。いや、はっきり言えば、図太かっただろうか。

 そんなことを考えながら門に近付いたときだった。

 

「止まれっ」

 

 門の内側から制止の声が上がった。

 素直に立ち止まる。狙われているな、何の根拠もなく、そう感じた。それでも心は乱されることもなく、錬はただ反応を待った。

 

「…なにものだ、何しに来た?」

 

 しばしの後には誰何(すいか)の声。それに数瞬、考え込む。いや本当になにものなんだろうな、と。

 

「…旅のものです。一晩の宿をお願いしたいのですが」

 

「本当か? ずいぶん変な格好をしているが…あと、その抜き身はなんだ?」

 

 言われて、錬は自分の右手にある剣を見る。賊から奪ったままのため鞘はなく、その言葉のとおりに抜き身のままだ。不審と言えば不審である。

 

「はい、遠い場所の出身ですので見慣れないのでしょう。この剣は鞘をなくしてしまいましたので仕方なくこのように。村に入れていただけるのであればお預けしますが」

 

「…少し待て、村長(むらおさ)に相談…」

 

 その言葉が終るか終らないかのうちに、背後に気配を感じて、錬は振り向いた。

 その様子を見て、声に怪訝そうな色が混じる。

 

「おい、なにをやって…」

 

「…門を閉じてください」

 

「なに?」

 

「おそらく賊です。門を開いていては、なだれこまれますよ」

 

 その錬の言葉を訝しみながらも、それを見届けたのだろう。中が騒がしくなり門が音を立てて閉じられる。

 その音を背後に聞きながら、錬は気負いもなくそれを眺めていた。遠くに人数が揃って移動しているかのように砂煙が上がっている。それが近くまで寄ってくるのにさほど時間はかからなかった。

 

 人数は、100人ほどか。手に持つは剣や槍、あるものは鎧を身にまとい、あるものは武器とは別の手に盾を持ち、漂わす雰囲気は荒々しい野卑な暴性、数人の騎乗しているのは幹部格だろうか。予想通り賊の一味と見て違いなかった。それは、

 

「てめえはっ! やっぱりこの村のもんだったのか!」

 

 そんな叫びが聞こえてきたことからも察せられた。

 

(いや、それは無理があるってもんだろう…)

 

 内心でツッコみつつ見れば、そこにいたのは先程、錬と一戦やらかした三人組の、アニキと呼ばれていた男だった。馬に乗っていることから見て、それなりの地位にいるらしい。

 だが、その男を抑えて、別の男が馬を進めてきた。

 賊の首領だろうか。その体格は明らかに他の者たちより大きく、左眼の下から顎にかけて走る切り傷が、凶相を際立たせている。

 

「今日、な…」

 

 地の底から響くような声音で凄むように言う。

 

「こいつに、この村へ通告をさせたんだ。食い物の半分を差し出せ。出さなければ殺して奪う、とな。その帰りにてめえに襲われた、てことなんだが…それでいいか?」

 

 恐怖で震え上がってもいい状況だった。少なくとも先程、目が覚めたばかりのときには、これよりも弱い威圧に(すく)み上がった。だが、今の錬には、心に細波(さざなみ)さえ立たない。ただ落ち着いて首領らしき男の言葉を受け止め、こんな状況でも冷静さを保てているという、自分の精神状態の異常さを思う。

 

「…多少、違うけど…まあ、大筋で間違ってないかな」

 

「そうか。で、てめえ、この村のもんか?」

 

「いや、この村にはさっき着いたばかりだ。これから厄介になろうか、てところだったんだけどね」

 

「…そうか。なら、ひとつ提案だ。てめえ、ずいぶん腕が立つようじゃねえか。俺の下につけ。働き次第で幹部にだってしてやるぜ」

 

 何の感情も交えずに配下になれ、と言ってくる。その言葉に撃退された例の男が表情を変えるが、異を挟むことはない。首領の統率が行き届いているようで、ただ憎々しげに錬を睨みつけるだけだ。他の男たちはにやにやと表情を崩して傍観している。100対1だ。断る馬鹿はいまい、と思っているのだろう。

 

「…断る」

 

 だが、錬は事もなげに拒絶した。その言葉に賊たちが一様に嘲笑を浮かべる。例の男などは喜色を示している。これで誰(はばか)ることなくこの小僧を殺せる、とでも思ったのだろう。そして、

 

「じゃあ、死ね」

 

 首領の言葉は端的だった。そしてその言葉を合図に賊たちが錬に向けて斬りかかる。

 嘆息混じりの悲鳴が聞こえたのは、門内から様子を伺っていた村人のものだろうか。その場に居合わせたものは、皆が門前に(たたず)む少年が、あえなく斬り殺される光景を想像した。

 血煙が舞い、人が地面に倒れる音がして…だが、倒れたのは、賊のほうだった。瞬きをする間もあらばこそ、錬のもつ剣が閃き、斬りかかった三人が逆に斬り伏せられたのだ。それぞれ、袈裟掛け、斬首、心臓への突きをもって、物言わぬ死体へと変ずる。

 それを見て、首領が、ほう、と感心したように息をつき、

 

「まとめてかかれ」

 

 と、指図する。

 それに従って賊たちが再び殺到する。だが同じ光景が再現されるだけで、しかし今度は賊たちの攻撃が止まらない。三人が斬り殺されても次の三人が、次の三人が斬り殺されてもそのまた次が、というように波状的に攻撃を続けられれば、最初のように剣を合わせることもなく斬り伏せる、というわけにはいかず、賊の剣閃を自らの剣で受け止め、あるいは(さば)く必要があり、それは攻撃の手が減ることを意味した。加えて遠間から槍による突きも繰り出される。それさえも弾き、捌き、あるいは穂先を切り飛ばして防いだが、このままでは次第に決定打が打てなくなっていくのは目に見えていた。

 それでも、この程度の賊相手に不覚をとることはない、との確信があり、こんな状況ながらも冷静に自己分析ができていることに、錬は奇妙な感覚を抱きながら、賊の攻撃を捌き続ける。それでも、いつまでもこのままというわけにもいかない。さてどうしたものか、考えて、ふと足元に倒れている賊の死体が視界に入る。正確にはその死体の傍らに落ちている剣に。

 思いついて、その剣を蹴り上げ、左手でつかむ。二刀流だ。これならば片方で防御しつつ片方で攻撃ができる。まったくもって、その場凌ぎの思いつき。だが、その思いつきが型にはまった。

 初めの三人に続いて、五人を戦闘不能にした後で停滞していた戦果が、瞬く間に積み重なる。

 受け止め、弾き、払い、押し戻す。

 袈裟斬り、薙ぎ払い、突き、首を斬り飛ばす。

 縦横無尽、接敵必殺といわんばかりに錬は、賊を相手に殺戮を重ね…

 

「退け」

 

 首領が手下に攻撃中止の号令をかけたのは、30人ほどが殺され、あるいは重傷を負って戦闘不能になったときだった。もっともそのときには、賊のほとんどが錬を相手取ることに腰が引けて、言われなくても距離を置き始めようとしていたところだったのだが。あるいはそんな空気を敏感に察したからこその号令だったのか。

 そうだとしたら、その首領は確かに凡百ではなかったのだろう。

 

「…ずいぶんとやってくれたもんだな。これ以上、手下を殺られたら今後に響く。てめえは俺が直々にぶっ殺してやる」

 

 言いつつ、首領は馬から降りると、その馬の背から武器を取って構える。

 戦斧。

 伐採用の斧ではなく、柄を長くして両手で振り回しやすくした長柄の重量武器だ。

 それを見て、さすがに錬も気を引き締めて両手の剣を構えた。まともに受ければ数十人を斬って刃毀(はこぼ)れも見える剣など瞬間もなく粉砕されるだろう。それこそ剣を持つ錬の腕や身体ごと分断されるかもしれない。

 これまでと違って避けるしかない。そんな不利に思える状況に、それでも錬の表情に焦燥は浮かばなかった。

 ただ構えを変えた。腰を落として重心を後ろに残し、相手を待ち受ける型から、爪先立ちになって全身から無駄な力を抜き、いつでも即時に動き出せる型に。あまつさえ拍子をとるように、軽く跳びはねてさえ見せる。

 

 ヴォンッ!

 

 そんな風切音さえ生じさせて戦斧が振るわれた。今までの首領の寡黙さのままに無言で。

 だが、錬はそれをあっさりと避けた。身体を滑らすように、わずかに立ち位置を後方へとずらすだけで。続けて振るわれる、破壊的な戦斧の第二、第三撃も、横にずれ、後ろに下がり、あるいは体勢を低くして、避け続ける。

 ただ回避、それに徹すれば、そして一手を誤らなければ、錬にとって首領の戦斧は恐れるものではない。ないが、僅かな齟齬が生じれば、()()はあっさりと錬の命を吹き飛ばすだろう。それが分かっているからこそ、錬は、首領の動きに目を凝らし、その攻撃を避けることに集中する。そしていずれ訪れるだろう隙を見逃すことのないように。

 そして何撃目なのか、攻撃を掠らせることさえ覚束ない状況に、首領が焦りを覚え始める。このままじっくりと慎重に攻撃を重ねれば、勝てないまでも負けることはないだろう。だが、それでは首領としての立場に傷がつく。手下どもを撫で斬りにした相手なのだから容易(たやす)く勝てるはずはない。だが、だからこそ、そんな相手に圧倒して勝つことによって首領としての面子が保たれると、そう考えるからこその焦りだ。そして、その焦りから早々の決着を求めて攻撃がわずかに力任せになる、その隙を錬は見逃さなかった。

 錬を脳天から防ぐ剣ごと唐竹割にせん、と振り下ろされた戦斧に、左手の剣をこちらもまた力任せに、しかし真っ向からではなく、内から外へと払うように叩きつけて戦斧の軌線を逸らす。その衝撃に左手の剣は砕け散ったが、力を逸らされた首領は体勢を崩し、戦斧の重量を支えきれずに地面へと叩きつけてしまい、その結果、頭から胴までががら空きになった。そこに錬の右手に握った剣が突きこまれる。それは吸い込まれるように首領の喉に突きたてられ、頸部を貫き、盆の窪から切っ先を突き出させ、首領は何が起こったのかも理解できないままに吐血、一瞬で絶命した。

 錬は、確実に首領が死んだのを確認すると、その死体に足をかけて剣を引き抜き、まとわりつく血を飛ばすように剣を振り払うと、遠巻きにしている残りの賊へと向き直る。

 その横で、どう、と音を立てて賊たちの首領だったものが地に倒れ伏す。そして錬が冷徹に告げる。

 

「さて…次は誰が死にたい?」

 

「う…うわぁあああああ、逃げろ、逃げろぉっ!」

 

 崩壊は一瞬だった。

 おそらくは圧倒的な暴力で賊たちに君臨していた首領があっさりと屠られ、さらにそれ以前には仲間たちが、すでに30人以上も為す術もなく殺されている。

 適うはずもない。

 この場に残れば必ず殺される。

 そう理解すれば、賊に身を落とす程度のものたちなど、統制も連帯もなく逃走するしかない。

 

 時をおかず、門前には錬と、彼に殺された30余の死体、そして首領が乗っていた馬だけがどうすればいいのか分からない、とばかりに首を振りながら錬を見つめていた。

 

 

 

 



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二 現状を知る


サブタイトル変更しました。




 逃亡する賊たちが、すっかりと視界から消え去ってから、錬は、背にしていた村の門に向き直った。

 歓声が上がる…こともなく、村内はひっそりと静まり返っている。

 

 さもありなん、と錬は思った。確かに錬は、村に損害を与えようとしていた賊の首領を(ほふ)り、その手下どもを逃亡させることを為して、村から賊の略奪という脅威を遠ざけた。しかし村の立場からすれば、今度は賊に替わって、それを撃退した少年が害悪にならないとは限らない。賊をひとりで撃退できるほどだからこそ、その武が脅威となる。

 

 そんな村人の不安が理解できるからといって、だが、錬としては諦めて引き下がるわけにはいかない。錬には、あらゆる意味で当てがない。信頼を得るほどではなくとも、まずは受け入れてもらい、これからの糧を、生きていくための方途を手に入れなければならない。

 

 さあ、どうしよう…と、考えて、しかし錬に良策は思いつかない。なにせ()()についての知識がなさすぎる。過去の中国だろうか、と推測してはいるが、だからといって錬に古代、あるいは中世中国についての知識、それもこういった村で通用するような、いわゆる常識がなければ、この状況下ではあまり意味がない。『拱手(きょうしゅ)』という、拳を(てのひら)で包むような挨拶の仕方がある、という程度のことは知っていたが、さて、拳にするのは左だったか右だったか…間違えれば侮辱になってしまうかもしれない、と思えば、半端な知識で行動するような下手な真似はできない。だから錬にできることは限られていた。

 

 両手の剣を放り捨て、空手であることを示すように掌を広げ、両腕を顔の横に掲げるようにしてみせる。顔はできるかぎり笑顔を――幾分か引きつっていたかもしれないが――心がけ、ゆっくりと村の入口である門へと歩を進めた。つまりは武装解除して敵意がないことを示した…つもりだ。それが功を奏したか、

 

「そこで止まりなさい」

 

 門まで十数歩、門と捨てた剣のちょうど中間といったところで、年老いた者だと思われる声が掛かり、門がゆっくりと、少しだけ――賊と戦闘になる前と同じくらいに開いていく。そしてそこから、三人が姿を現した。

 先んじて若者ふたりが、次いで老人が杖をついて門から出てくる。若者はそれぞれ弓と槍を構えており、当然のようにそれを錬に向けている。

 

 声に従って歩みを止めている錬に、あまり感情を見せない視線を向けながら老人が口を開く。

 

「儂はこの村の長をしているものです。それで、あんたはどんな用でこの村にいらっしゃったのかな。ご覧のように、ありふれた村です。あんたのような武芸者が好んで来るようなところではありませんがの」

 

 その言葉に、錬は村の長を名乗る老人の誠実さを見た。いや、さしてない人生経験からして、それほどの眼力があるわけではないのだが、それでもこの老人の言葉は、すんなりと錬の内に落ちて、居座るような感覚を覚えたのだ。だから、錬は正直に言ってしまおう、と思った。ただ全てを話しても呑み込めないだろう、自分自身でも分からないことばかりなのだから。

 

「…オレは、ここではない、遠いところから来ました。はっきり言って、この近辺はおろか、この国にも伝手はありません。この国のことも、それ以外のことも分からないことだらけです。だから、お願いです。オレを助けてくれませんか。お願いします」

 

 そう言って、頭を下げる。

 

「ふむ…頭を上げなされ」

 

 村長の言葉に、錬はゆっくりと頭を上げて、その老人へと視線を向ける。と、老人もじっと錬を、その目を、まるで見透かすかのように見つめてくる。そして幾許(いくばく)か、考え込むようにしたのちに、

 

「…ふむ…悪い者ではなさそうだの。よろしかろう、儂らの村はあんたを受け入れよう」

 

 そう言った。その言葉に、錬は、ほっ、と安堵の息をつく。

 

「だが、儂らも無駄飯喰いを養うほど裕福ではないのでな。あんた、なにかできることがあるかの?」

 

「…それも含めて相談にのっていただけませんか…とりあえずそれなりに腕が立つことはお見せできたとは思いますが、それ以外となると何がお役に立てるのか、が…」

 

「ほっほっほ、それなり、とは控え目に過ぎるでしょうな。まずはお入りなされ。今後のことは落ち着いて話すとしましょうか」

 

 笑いながら言う老村長に、ありがとうございます、と再び頭を下げてから錬は、門の中へと戻る村長を追いかけて村に足を踏み入れた。その背に警戒も露わに睨みつける若者ふたりの視線を感じながら。

 

 

 

 

 杖を突きつつ、ゆっくりと歩く老村長の後ろに従いながら、錬も歩を合わせて、近付き過ぎないように――あまり近付き過ぎると後ろのふたりの敵意の度合いが上がるので――ゆっくりと歩く。村人たちの、好奇と警戒の視線を感じながら。

 

 連れて行かれた先は、村の中央付近だと思われる広場に面した平屋の建物だった。他の家屋にはない、腰くらいの高さの柵に囲われた、その家屋は、他の建物に比べてひとまわりほど大きく、その敷地内には何本もの柱と大きな屋根だけの、雨だけを凌げればよいとでもいうような建物が隣接している。不思議そうにそれを眺めていると、家屋へ入る扉を開けて迎え入れようとする相手が向ける視線の先と浮かべている表情に気づいた村長は、含み笑いを浮かべるようにして錬に声をかける。

 

「そこは、主に村の集会に使うところですじゃ。今晩辺り使うかもしれんのう」

 

「議題は、オレの待遇について、ですか?」

 

 笑いを浮かべて言葉を返す錬に、村長は笑みを深めるだけで答えず、改めて錬を建物の中へと招き入れる。通されたのは玄関からすぐの部屋だった。部屋といっても入口にあたるところに扉はなく、代わりに肩くらいまでの衝立が置かれ、それ以外の三方が壁で仕切られた、おそらくは接客用の、玄関から直接には客が見えないことだけに配慮しているのだろう、そんな空間だ。そこには、小さな円い卓と椅子が四つあり、村長はそのひとつへ腰を下ろし、その後ろに護衛よろしく、ついてきたふたりの若者が佇立する。そして、錬にはその対面の椅子に座るようにと、村長が勧め、錬はそれに素直に従って席に着くと、まずは、とばかりに自ら口を開く。

 

「とりあえずは、自己紹介を。オレの名前は、白河(しらかわ)(れん)、といいます」

 

「…白河錬…珍しい、というよりも聞き及びのない名ですな…姓と(いみな)ですかな?」

 

「…はい、姓が白河、名が錬、となります」

 

「…ふむ…では、(あざな)は? もしやまだ付けておられぬのかの?」

 

「字…というと、一人前になったときに付ける名のことですか?」

 

 錬の返しに、瞬間、怪訝そうな表情を浮かべた村長だったが、ああ、と息をつき、得心がいったかのように頷いた。

 

「そう言えば、遠いところから来た、と、仰っておられましたな。そのとおりですじゃ。あんたの言うとおり、字とは、一人前になったという証に自ら付ける名で、字を付けた以降は、諱ではなくその字で呼ばれることになります」

 

 村長の言葉に、なるほど、と錬は頷いた。姓、諱、そして、字。この命名の文化はある意味で馴染みのあるものだった。すなわち以前に読んだ小説の中で。『封神演義』や『項羽と劉邦』、『三国志演義』などだ。ということは、やはり()()は、過去の中国、ということなのだろう。

 

「字は、ありません。というより、オレの暮らしていたところには、字を付けるような習慣がなかったのです。ですが、こちらの習慣に合わせて、オレも字を付けたほうがいいでしょうかね?」

 

「ふむ…今後、この国で暮らしていくつもりなのでしたら、それがよろしかろう」

 

 その言葉に、錬はしばし考え込む。自分で自分の名を考える、それは楽しいもののような気がして、少し心が浮足立つのを感じた。芸名とかペンネームを考えるのは、こんな気持ちなのだろうか、と。そんなだからだっただろうか、次の村長の、

 

「それでは、真名(まな)もないのかの?」

 

 という言葉に、錬は放心したように、は…、と息を()いた。

 

「…真名(まな)、ですか?」

 

「うむ、諱とはまた違った意味で、己の本義天質を示すもの、それが真名ですじゃ。故に、簡単に呼ぶことは許されず、心よりの信頼の証として預け、そこで初めて呼ぶことを許す、何よりも大切にすべきもの。もし許しもなく口にすれば、問答無用に斬り殺されて致し方なし、とも言われておるのじゃ」

 

(…そんなの、あったっけ?)

 

 それがそのときの錬の素直な感想だった。いや、錬にしても中国の歴史や風習に詳しいわけではないし、むしろ無知に近いと言ってもいい。だが、そんな風習があったのなら、少しくらいは耳に挟んだことがあってもおかしくはないだろう、そう思う。平成の情報化社会のことだ。地球の裏側のような国のことならいざ知らず、隣国の、それもそこまで重要な風習なら、なんらかの方法で伝わっていたはずで…いや、考えても無駄か…

 

「…そう、ですか…斬り殺されても、ですか…今後は注意することにします…」

 

 半ば呆然としてつぶやく。と、ふと気がついたように、

 

「…と、いうことは、村長殿にも真名はあるのですか?」

 

 そう質問すると、後ろの若者が、すわ、と色めき立つ。これまでは泰然自若としていた村長も、不快気に目を細めて錬を見遣った。

 

「…それは、儂に真名を名乗れ、と、そうおっしゃっているのですかな?」

 

「いや、申し訳ありません、そういうつもりではなかったのです。ただ、この国では誰もが持っているものなのだろうか、と…」

 

 そう言って頭を下げる錬に、村長は軽く息を吐くと、身の緊張を解いた。

 

「ふむ…はい、あります。先程も言ったように、真名とは本義天質を示すもの。故に、全ての者が持っております」

 

「そうですか…では、それも含めて考えたほうが良さそうですね…」

 

 白河錬という姓名は、()()()にはそぐわないだろうことは、こちらの名前を聞いたときの村長の言葉で知れる。ということは、この名前を名乗る限りにおいては、錬は必ず浮く、ということだ。

 

 たったひとり、この国の人々に関わることなく生きていけるのなら、それでも構わないだろう。だが、それは無理だ。少なくとも、この村で、()()で生きていくための方策を見つけるか、あるいは身につけなければならず、そのためには、()()()()()()()()()()がある。であるならば、この国に見合った名前にするべきで、それは、この国で大切だという真名は、特に重要だ。真名がない、などと言えば、他人(ひと)によっては、人間(ひと)として見てもらえない、などということさえあるかもしれない。幸いにして、今現在に錬にとって命綱に近い、目の前の村長は、そのような人物ではなかったが。

 

「そうですな。まあ、それはまた、ゆっくりと考えるがよろしかろう」

 

 そんな錬の思考を読んだかのように、村長は、うんうん、と頷きながら言い、おお、と何かを失念していたことに気がついたかのように声を上げた。

 

「そう言えば、儂らは名乗っておりませなんだな。儂は、姓は(てい)、諱は(せん)、字は回豊(かいほう)、と申す。後ろのふたりじゃが、こちらは儂の孫で…」

 

「姓は(てい)、諱は(えん)、字は長基(ちょうき)、だ」

 

 と、弓を携えたほうが名乗れば、

 

「…李壮(りそう)、字は以勇(いゆう)…」

 

 と、続いて、槍を片手に、剣を腰に下げた若者が無愛想に言う。どちらも村長が名乗り、それをふたりにも促してきたから致し方なく、という感を隠しもせずに。それを聞いて、錬は笑顔を浮かべて、

 

「村長殿が、丁回豊どの、後ろの方々が、丁長基どのに李以勇どの、ですな。これから、よろしく」

 

 そう言って軽く会釈をする。そんな錬に、馴れ合う気はない、とばかりに、丁延はそっぽを向き、李壮は、その真意を見透かそうとでもいうかのように、じっと錬の顔を見つめてくる。

 

「…さて、続いて、じゃが…」

 

 村長――丁旋が話題を切り替える。

 

「あんたが、この村でどのような働きができるか、ですがのう…」

 

「…それなんですが、名の件でも分かるでしょうが、オレは、この国の、あなたがたの風習を始めとした文化に疎い。だから今の段階で、できることといえば、賊に対しての対応戦力くらいしか思いつかない。初めに村長どのが、オレのことを武芸者とおっしゃいましたが、はっきり言ってオレには武芸の心得なんてないんです」

 

 返ってきた錬の言葉に、丁旋は首を傾げる。

 

「…しかし、あんた、賊相手に戦っておったじゃないか?」

 

「あれは、身体が動くようにしていただけで、ただ身体能力…腕力とか敏捷とかで圧倒しただけなんです。オレが剣術とかを修得していたからってわけじゃない。それに戦ったのも人を斬ったのも、さっきのが初めてのようなもので…だから戦闘経験そのものはない、と言ってもいいくらいなんです」

 

「むう…それでは、もし再び賊が村を襲ってきた場合に、村の若い衆を指揮して戦ってもらう、というのは…」

 

「ええ、厳しいかと…むしろそちらの方々に指揮してもらって、オレは最前線でそれに従う、ってほうが効率的かもしれません」

 

「…それしかないかもしれんのう…」

 

 丁旋から漏れるのは溜息。てっきり腕の立つ経験豊富な武芸者だと思っていたので、少々当てが外れた印象だ。だが、それでも、この少年がめっぽう強いことには違いない。であるならば、少年の言う通りに対応戦力としてならば十分に頼りにはなるだろう。そこで、ふと丁旋に疑問が湧いた。

 

「しかし、あんた、戦いが初めて、と言ったが、それで最前線に出るのはよいのかの?」

 

「ええ、さっきの賊程度の相手なら、後れをとることもないと思います。そこにこの村の方々からの援護があれば、それ以上の規模であっても対応は可能かと」

 

「ふむ、そうか。では、とりあえずはその方向性で頼りにさせてもらうとするかの。おそらく遠からずに先程の賊の残党が再来するじゃろうから、まずはそれですな」

 

 そんな丁旋の言葉に、錬が神妙な表情になって言う。

 

「…来ますか、また…」

 

「来るじゃろう。あれだけ蹂躙されたのじゃ、あやつらだけではその気にならぬじゃろうが、この近辺の賊の集団はひとつだけではない。それぞれ縄張りがあるから、この村に来るのは本来ならばあやつらだけじゃが、その首領が討ち取られたとあれば、他の賊がその縄張りを侵すか、あるいは跡を継いだ者が他の賊を糾合するか…そんなふうにして新たに現れた脅威を排除しようとするじゃろうな」

 

 老村長の返答に、錬は、なるほど、と頷き、

 

「しかし…村長どの、お詳しいですね」

 

 感心したと言わんばかりの錬の視線に、ほっほっほ、と声を上げて丁旋は笑った。

 

「若いころは兵士として漢に仕えておったからの。これでも伯長(はくちょう)までいったでの。戦術の嚆矢(こうし)程度は(わきま)えておるよ。もう何十年も前のことじゃがの」

 

 それは控えめながらも老村長の自慢話だったのだろうが、錬に引っ掛かったのは別の言葉だった。

 

「…漢、ですか…それでは、都は長安ですか?」

 

「いや、それは王莽(おうもう)の大乱の前の都ですな。今の都は洛陽です」

 

 と、いうことは、今は後漢の時代か…そのいつ頃だ?

 

「では、光武帝が国を建ててからどのくらいが経っていますか?」

 

「ふむ…おおよそ160年くらいですかな。今は光和4年で…」

 

 光武帝が後漢を再興したのが西暦20年だか30年。それからすると今は西暦180年くらい。ということは…

 

「あの、今、なにか大きな反乱は起こっていますか?」

 

 黄巾の乱…あの三国志を語る上で欠かすことのできない、あまりにも有名な農民反乱は、起こっているのか…

 

「いや、そのような大乱が起きているという話は、噂でも聞きませんな」

 

「…では、ここ最近でなにか大きな出来事はありましたか? 例えば、後世で史書に記されるような…」

 

「ふむ…史書に記されるような、ですか…思いつくところですと、昨年、何皇后が立てられた、というようなことでしょうかの」

 

(何皇后! 間違いない、後漢末の大将軍何進(かしん)の妹だ。やはり、()()は…今は三国時代の直前だ!)

 

 内心で叫び声を上げ、錬は、目を(つぶ)って天を仰いだ。よりによって激動の時代か、と。

 その様子に丁旋が心配そうに声をかける。

 

「…どうされましたかの?」

 

「いえ…申し訳ありません。不躾に質問ばかり重ねてしまって…」

 

「…いやいや、なにやら儂らには分からぬ苦悶がおありのようで…まあ、詮索はしますまい」

 

 心からそう思っているかのように、にこやかな笑みを浮かべて言う丁旋に、ありがとうございます、と頭を下げると、錬は、少しすっきりした表情で、親切な老村長に視線を向けた。

 

「なんとか、自分の立場というか、現状の一端を知ることができました。まあ、それでも分からないことばかりですが…」

 

 そして居住いを正す。

 

「やはりこの村の、村長どのの親切に(すが)るしかないようです。どうか、よろしくお願いします」

 

 そう言って、錬は改めて頭を下げた。

 

 

 

 



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三 名を称す


サブタイトルを変更しました。




 何が起こったのかは分かった。

 

 もっとも原因や理由は分からず、すなわち元に戻る方法も分からない。まあ、そのことについては、すでにほとんど諦めがついている錬だった。もしかしたら、なんの前触れもなく唐突に戻る、ということもあるのかもしれないが、望みは薄いだろう。

 で、あるからには、できるだけ早く後漢末(このじだい)に馴染むことを考えたほうが、より建設的だろう。そしてそれにはやはり、自ら言葉にしたように、しばらくはこの村に滞在してその第一歩とするのが、現状では一番だと思われる。

 

「さて、申し訳ありません、話を戻しましょうか」

 

 とりあえず自らの現状を表面的には理解したところで、錬は丁旋村長との会話を続ける。

 

「賊が来襲するとして、この村としてはどうするのですか? やつらはこの村に、食料を寄越せ、と態々(わざわざ)通告したと言っていたのですが…」

 

 それが普通なのか、いきなり襲撃して略奪したりはせずに…言外にそんな意を込めて。

 

「そりゃあ、賊は賊じゃて。通常は通告なぞせん。いきなり略奪するじゃろうし、他の村には、そうじゃったそうじゃ」

 

 丁旋の話をまとめるとこうだ。

 この村――呼び名を丁荘里という――の近辺、50里――徒歩で半日程度の距離――には他に五つの村が点在する。

 そのうちの、丁荘里より西に位置する2つの村は、これまでに幾度か(くだん)の賊による略奪を受けており、犠牲者も出ていた、とのことだ。西の村々から要請されて、丁荘里からもその復旧作業の手伝いに人員を派遣したこともある。今回のことは、賊が縄張りの拡大、さらに丁荘里も己らの縄張りだと他の賊に示すために恭順を強いてきた、ということだろう。

 そして、いずれはそうなるだろうということを、丁旋村長は見通していて、それに対抗するために、村で戦いの(すべ)を持ち合わせている者たちを集めて集団戦闘の訓練を施していた。それだけでなく、この近辺を治める県都である博望(はくぼう)へと救援を求めたり、未だ略奪を受けていない東の二村へと共闘を持ちかける使いを出したりもしていた、とのことだが、それらは芳しい結果にはならなかったようだ。

 

「博望への救援は、話は通ったようじゃが、時期を見て、などと返答されたそうじゃ。体のいい断り文句じゃな。東の村からは幾人かの若者を寄越す、とのことじゃったが、あまり危急を感じておらんようじゃ」

 

「まだ襲われていない村では、直接的な危機を感じ取れないでしょうからね。まあ、そうなってからでは遅いんですけど…でも、博望への救援、それって役所に願い出た、ってことですよね。それで、ほぼ放置、ですか…いや、まあ役所の対応が遅い、ってのは、洋の東西、時の古今を問わず、ってことなんでしょうけど…」

 

「…うむ、官を動かすには、それ相応の手管が必要じゃろうの。袖の下を渡すか、もっと上への伝手から命を下してもらうか…どちらも儂らには無理なことじゃが…」

 

「…賄賂に癒着、ですか…それはまたずいぶんと…」

 

 腐っているなあ、とは錬の心の声だ。それにしても、“博望”って、なにか聞き覚えがあるような…

 

「ところで、この辺りってどういう地名になるんですか。いや、聞いても分からないかもしれないですが…」

 

「ふむ、正式に言うならば、荊州南陽郡博望県柳河郷丁荘里、といったところじゃの」

 

(ああ、荊州の博望といえば、“博望坡の戦い”の…たしか劉備軍が、諸葛亮孔明の指揮で夏候惇率いる曹操軍を撃退したんだっけ…あとは南陽郡の主要な都市って宛城だったっけ…宛と博望って近かったんだな…)

 

 所詮、小説とゲームをかじった程度の知識では、そんなものである。

 

「まあ、どうであれ、他からの救援はあまり期待できんが、それでも賊に膝を屈するわけにもいかぬでの。博望辺りで兵を募るなど、するつもりじゃった。間に合わず、賊に先んじられた形になってしまったところじゃったのだが…」

 

「そこにオレが紛れ込んできたってことですか…」

 

 錬が肩を竦めて言う。自分の存在が丁旋の思惑を裏切ってしまったのは間違いがない。だが、

 

「うむ、予測外ではあったが、良い方向に動いた、といってよかろう」

 

 という丁旋の言葉通りに、それは良い方向への裏切りとなった。

 

「恫喝を受けて、まさか半日もせずに本隊が襲来するとは思わなんだ。おそらくは近辺に待機しておったのじゃろうな。ああまで早くやって来られたのでは、儂らの打った手は間に合わず、いくらか、あるいは存分に略奪されてしまったことじゃろう。そういう意味では、あんたが来てくれたことは良い結果になった。より良い、にするにはこれからの行動次第じゃろうがの」

 

「そうですね…賊の根城の場所は分かっているのでしょうか?」

 

「うむ、北西にある村よりさらに先にあるとのことじゃ。そこに古い廃棄された砦があるでの、おそらくそこを根城にしておるのじゃろう。それで、あんたならどうするべきじゃと思う?」

 

「これを時機として壊滅を狙うべきではないか、と。あるいは、他の近辺の賊が進出するのを防ぐ意味でも、取り込むことを考えるのも一手ではないでしょうか」

 

 その返答に、丁延と李壮の二人は訝しげに眉をひそめ、丁旋村長は面白そうに瞠目する。

 

「ほう、取り込む、か…どういう意味かの?」

 

「賊の現状次第ですが、できるだけ犠牲を出さないように成敗したあと、忠順を誓わせて、村の防衛を担う部隊として運用します」

 

「賊に情けをかけると言うのか!」

 

 怒声を上げたのは、丁延だ。見れば、李壮も不快げな表情を浮かべている。

 

「やつらは、自ら畑を耕すこともせず、他者から奪うことを良しとしてきた獣のごとき輩だ。そんな獣が、大人しく我らに従うものか」

 

 ふたりの言葉ももっともだ。特に丁延は、この丁荘里の長の孫であり、他の者に比べて、村に対しての責任感が強い。祖父、父に継いで、いずれは自分が長として治めていかなければならない、という思いがあり、今でもすでに若手のまとめ役として村の警備などを自任している。李壮にしても、こうして(不審者)に対していることから、警備体制の一翼を担っているのだろう。故に、村に危難をもたらしかねない事態を看過することはできないのだ。

 

「まあ、どうにせよ、賊どものを成敗してのちのことじゃて」

 

「そうですね、あちらがどう対してくるかにも因りますし…それを考えるのはそれからでもよろしいか、と」

 

 そんな若者ふたりの心情を慮ったか、丁旋村長も錬も取り成すような言葉を紡ぎ、続いて丁旋が、

 

「…それでは、早速、明日にでもやつらの根城に向かうべきだと思うのじゃが…」

 

 言いながら、錬へと思わせぶりな視線を向ける。それを受けて、

 

「もちろん、オレも手伝わせていただきます」

 

 錬は、言葉とともに、応諾の意を込めて頭と下げた。

 

 

 

 

「さて、賊への対処については、それでいいとして、じゃ…」

 

 丁旋村長が、これまでの話から切り替えるように、軽い口調で話す。

 

「…オレのことですか?」

 

 切り替えた先の話が、自分のことでは、と察して錬が言うと、うむ、と村長は頷いた。

 

「そろそろ、事の次第を整理できたようじゃと思うてな。まあ、表向きには落ちついとるように見えたがのう」

 

 その言葉に、事情を把握できないこちらを焦らせることのないように配慮してくれていたことに気付き、錬は、村長に何度目かの頭を下げた。

 

「そうですね、オレも全てを理解したわけではないのですが、とりあえず…」

 

 そうして、自分の身の上に起こったことを、かいつまんで話し始めた。

 

 と、言っても、話しても混乱させるだけのことは、自分が存在した世界(いたところ)が、どうやら1800年近く未来らしいなどといったことは、避けた。

 

 話したことは、ひとつ、自分は(このくに)とは遠く離れた国で生活していたこと。そこは、漢とは文化や常識も違い、とにかく平和なところで、故に自分が漢の文化や常識――拱手という礼のことは知っているが正式な作法は知らない、などで、このときに右拳を左掌で包む、と教えられた――には疎く、戦いや人の生き死にといったことに慣れていない、ということ。

 ひとつ、気が付いたら、この丁荘里近くの荒野に転がっていて、どうしてこのようなところにいたのかは全く分からない、ということ。

 ひとつ、今までいたところでも戦いをした経験も、その訓練もしたことはないが、なぜか敵の動きがよく見え、想定以上に身体が素早く力強く動き、または考えるまでもなく動く、ということ。先の賊との戦闘も、言ってしまえば身体能力に任せただけの本能的なものでしかなかった、ということだ。

 

 それについては、李壮が頷いて言葉を発した。

 

「たしかに、こいつの動きは正式な鍛錬をした者の動きではありません。なんらかの武術を習っているにしては、芯がない上に動きに無駄が多過ぎる。ただ、姿勢はいいのですが…」

 

「それは弓道をやっていたからかもしれませんね。オレのいたところでは、武術ではなくて武道と呼ばれていて、その目的は、身体を鍛えるのは当然なのですが、むしろ精神修養をこそ主な目的としているんです。弓道というのも、そのひとつとしてあるんです」

 

「分かる気がするな」

 

 そう言うのは、丁延だ。

 

「弓を射る、というのは、とにかく集中することが大事だ。でなければ的確に当てることは難しい」

 

 閑話休題――

 

 

「なるほどのう、あんたの置かれた状況は、なんとなく分かった。まあ、なんとなく、じゃがな」

 

「まあ、当のオレも、なんとなく、ですからねえ…そんなわけですから、これからよろしくお願いします。と、言っても、他の方々が認めてもらわなけりゃいけないんでしょうけど」

 

「それについては安心しろ。村長が、受け入れる、と言うのだ。反対する者など村にはおらん」

 

 そう言う丁延の言葉に、錬は、確認するように村長たる丁旋へ視線を向けると、老村長は笑みを浮かべて、

 

「まあ、信頼の証、ということにしておこうかの。皆、儂の方針に意見を言うが、大概は受け入れてくれとるよ」

 

 誇るように言う。それは、言うように丁旋が村人から信頼され敬仰されているからか、それともただ単に村の実力者だからか。それは今後の付き合いで判別できるだろう。とは言え、なんとなく前者だろう、と錬には感じられていたが、それは文字通り感取でしかない。

 

「あとは、先も言っておったように、あんたの呼び名じゃな」

 

「そうですね…姓、諱、字、真名、でしたか…」

 

「うむ、あんたの名の響きはこの国では珍しい。諱のほうはそうでもないが、姓のほうはの。儂らに馴染もうと言うのであれば考えたほうがいいかもしれんな」

 

 丁旋の言葉に腕を組んで考え込み、そうですねぇ…と呟く。そんな錬に質問を投げかけたのは、丁延だった。

 

「おまえの名はどんな字を書くんだ? いや、そもそも我らと同じ文字なのか、が問題か…」

 

「ああ、おそらく似たような文字だとは思います」

 

 錬が答える。同じ漢字文化圏であることは変わらないだろう。使われている漢字が変遷していることはあるだろうが、大まかには違わないと思われるので、なんとなくは読み取れるだろう。もっとも、平仮名はさすがにないだろうから、文章の形態はかなり相違があるだろうことは想像に難くない。それにしては言葉が通じているのが不思議だが、それはもう、そういうものだ、と納得するしかない。

 

「ふむ、延。砂版を持ってきてくれ」

 

 丁旋が頼み、孫が頷いて席を外すと、しばらくして四角い木の板のようなものを持ってくる。厚みがあり、蓋のようなものを開けると、囲われた木枠の中に砂が薄く敷き詰められていた。

 

「それは?」

 

「これは、砂版といってな、この砂に指や竹棒で書いて文字の練習をするものじゃ。これならば木簡や竹簡に比べて書き直しが楽なのでな」

 

 説明とともに卓の上に置かれたそれを錬のほうへと押しやる。錬はそれを頷きながら受けると、そこに自分の名前を書いた。

 

『 白河 錬 』

 

「オレの(ところ)では、白河(これ)で、しらかわ、(これ)で、れん、と読みます」

 

「ほう、文字は確かにおなじじゃの。しかし、やはり読み方は違うようじゃ。儂らは、その姓を、シラカワ、とは読まぬ。読むならば、はくが、か。諱のほうは珍しいものではないのう」

 

「そうですか、では、名のほうはそのままで…いや、諱とか真名とかもありましたっけ」

 

 そこで先程の丁旋村長の説明を思い出す。

 

「真名は、本義天質を示すもの、でしたよね…なら、“錬”を真名にするべきなのかな」

 

「そうじゃな、あんたの名が、それひとつであるならば、真名とするか、諱とするか、じゃろう。あんたのその名を、あんたの親があんたに、そうあってほしい、と思って名付けたのならば、真名にするのがよいかもしれんな。その字は、鍛え上げる、より良くする、といったような意味を持つ。真名としても相応しかろう」

 

 なるほど、と、錬は頷く。

 

「それで、諱とは、どのように付けられるのですか?」

 

「諱は、出生に際して真名とともに名付けられるものじゃ。真名とは違い、万人に表し、しかし呼ぶことを敬避される。たいていは真名から派生して名付けられることが多いことから、似た意味や関連した意味であることが多いのう…まあ最近はあまり気にしていないこともあるのじゃが…」

 

「つまり、オレの真名を、錬、とするなら、鍛える等の意味から関連される文字を当てるといい、ということですか…」

 

 頷く老村長に、錬は考え込む。錬、とは鍛え上げる、の意…鍛え上げれば強く堅くなる。“堅”では、有名な孫堅がいたし…そういえば、中学の同級生に(つよし)ってやつがいたな。なら、と、砂版の“錬”の文字の横に“毅”と書き、“白河”の“河”の字を消す。

 

「…()、というのはどうでしょう? 姓は、(はく)、諱は毅…」

 

「ほう、良いの。戦国期の燕の将であった、かの楽将軍の諱も毅であったし、斉を滅亡寸前まで追い込んだ名将の諱に(あやか)るのじゃな」

 

 感心する丁旋だが、それに、いえ楽将軍とか知らないのですが、と困惑しつつも、錬は、ならばそれでいこう、と決める。

 

「あとは、字ですね。これも諱から派生させるのが普通なんでしたっけ?」

 

「うむ、じゃが、そうするのが多い、のであって、絶対ではない。一人前になった証に、諱の代りに呼ばせるための名を自ら付ける、というものじゃからな。人によって好きなように付けておるようじゃな」

 

 と、なると…毅だと、毅然とか剛毅とか…精神的な強さとか物事に動じないとか…泰然している、とか言うよな…

 

「…士泰(したい)とか、どうでしょう?」

 

「ふむ、心強く不動なる丈夫、とでも言ったところかの。即興で考え付いたにしては良い字じゃと思うぞ。のう、ふたりとも」

 

 同意を求められ、村長の後ろに立つ丁延、李壮のふたりも頷いて答える。

 その様子に、錬、改め、白毅は、安心したように頬を緩めると、立ち上がって、右拳を左掌で包んで胸に当てて頭を下げる、拱手の礼をした。

 

「それでは、今後は、姓は白、諱は毅、字は士泰、そう名乗らせていただきます。よろしくお願いします」

 

 こうして、後漢末(このせかい)に、白毅、字は士泰が誕生することになった。

 

 

 

 

 



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四 会合

 

 結論から言えば、その夜に行われた集会で、錬のことは村人たちに認められ、受け入れられた。あっさりと…そう、錬自身が、それでいいのか、と不安になるほどに、実にあっさりと。

 

「丁旋村長が決めたことなら…」

 

 村人たちの総意としては、そういうことのようだった。

 そして、村を脅かした危難の残滓を積極的に解決するために、賊の討伐を行うことも。

 

 村の守りもあるため、賊の根城へと派遣する人員は5名と少ない。だが、その中には、ひとりで賊30人を斬り捨てたのちに、その首領をも討ち取った錬も含まれる。賊の残党について、その規模は明らかではないが、あれほどの武を示した錬をもって奇襲をなせば、すでに刷り込まれていると思われる錬という存在への恐怖もあって、制圧するに難くないだろう、との判断がある。

 だが、村人たちの反応からは、それだけでない感触を、錬は抱いた。その要因は、錬とともに討伐に赴く者たちにあるようだった。

 

 そのうちのふたりについては、すでに錬も顔見知りである。丁延と李壮だ。丁延は、その弓の腕前と村長の孫という立場からのまとめ役として、李壮は、村で最も剣槍の扱いに長け、また常から丁延の補佐役を担っていることから、このふたりが主として討伐に赴くのは、村の総意として既定であるらしかった。それについては先の丁旋村長との対話中に、それらしいことを聞いていたので、錬に否やはない。というより、否定するだけの、村についての知識がないのだが。

 

 そして残るふたり。そちらが錬には意外、というか、驚きの人選だった。

 どちらも、うら若い、人によっては、年端もいかない、と表現するような、そんな少女だったからだ。だが、村人たちの反応を見る限り、そのふたりの少女が討伐に同行することに、彼らは反対どころか不安さえ抱いていないかのようだった。むしろ、そのふたりを連れていかないで誰をつれていくのか、という雰囲気さえ漂っているのを感じ取って、錬は疑問を口にするのを止めた。

 

 見れば、会合に出席しているのは男女問わず、だ。ということは、錬が知っている古代国家における男尊女卑の風潮は、この村にはないのだろう。そんなことを考えながら、錬は、集会所の上座で椅子に座って会合を進める丁旋の後ろに控えるように立って、敷き詰められた茣蓙(ござ)の上に思い思いに座って彼らの長に視線を向ける村人たちを、見るともなしに見ていた。

 

 会合では、錬が感じた空気を補強するように、男女の別なく発言していて、彼らがそれに違和とか忌避とかを感じている様子も見られない。

 錬の知識からすれば、古代中国や日本は完全に男尊女卑の社会だと認識していた。それは、社会の成立からして致し方がないことでもあろう。今この時より更に時代を遡り、村や邑という狭い範囲だけで世界が閉じていた社会では、そのような風潮が醸成されることもなく、あるいは逆に子を為せる女性のほうが優位な社会さえ成立したかもしれないが、国が興り、その利害により(いさか)いが起こるようになれば、相争うための能力である腕力に優れる男性が、社会の主導権を握るようになる。それは、ただ単に社会的役割による性差区別であって、男女のどちらがすぐれているかという理由によるものではないのだが、社会が成立するための必然性として、そういうものだと思っていた。

 にもかかわらず、この村では、公共の場で、男女が等しく振る舞っている。それは、彼らが平成人である錬と同基準の精神性を有しているか、あるいは、男女での社会的役割に対する能力差が格差を生じさせないほどに少ないか、だろう。

 

 そう思って、明朝、共に賊討伐に赴くと紹介された、ふたりの少女に目を向ける。

 

 ひとりは、錬と同じ年くらいに見える娘で、皆からは、豊、とか、季宛、とか呼ばれていた。

 背の高い娘だ。並んで立てば、錬とそう変わらないくらいだろう。少し緑がかった色合いの黒髪を、腰の辺りまで伸ばして首の少し下辺りで括っている。揺れればさらさらと音がしそうなほどに、癖がなく真っ直ぐな、その髪は、近くにあれば思わず手で触れてしまいそうに美しい。

 顔立ちも、それに負けない美貌をしていて、色白な細面で少し尖った顎が怜悧な印象を与えている。瞳の色も見えないほど切れ長で細い目元が、さらに冷徹そうな雰囲気を増長しているが、その美貌に瑕疵をつけるほどではない。ただ、それにも増して、内面を読ませない無表情が、冷徹を通り越して、酷薄さを見る者に抱かせる。もし下心ありきで声でもかけようものなら、そんな軽薄男など冷笑ひとつで再起不能なほどに粉砕しそうだ。

 体格は背の高さに似合わず、細身で、華奢。武器として手に持てば、小刀でさえ、その重さに耐えかねて、逆に振り回されそうなほどに見える。そんな華奢な体格で、賊討伐に同道できるとは、やはり思えないのだが、それはまあ考えても仕方がない。細面の容貌からすれば、なるほど、と思わせるように肉付きは薄いようで…と、そこまで考えて錬は無意識的に思考を止めた。

 秘かに観察していたはずの娘と視線が交錯したからで、目が合った、とまではいかなかったが、なんとなく、それ以上はやめろ、という警告を、何かが発したような気がしたからだ。己の内側から、本能的な何かが。

 ふと気になって、一旦は逸らした視線を、そうとは悟らせないように十分に注意しながら娘のほうに向けると、それにもかかわらず今度は明らかに目が合い、その美貌が笑みの形を浮かべる。

 

(あ、うん、だめだ、これ、だめなやつだ…いまならまだゆるしてもらえそうだから、かんがえるのをやめよう…)

 

 三度、その娘から――にっこり、とはとても表現できない、その微笑みから、錬は目を逸らした。

 

 そして、その逸らした視線の先には、隣に座る、もうひとりの少女がいた。と、こちらとは初めから目が合い、すなわち、錬の注目が自分に向いたことに気付いた少女の、その面に、満面の、と評してもいいほどの笑顔が弾ける。その笑顔には、人生経験豊かとはとても言えない錬でさえも見てとれるほどの、親愛の情と好奇の心が溢れていて、錬は呆気にとられて思わず表情を無くした。

 現状、錬がわずかなりとも交流らしきものをもっているのは、村長である丁旋と、彼との会合の際に同席していた丁延と李壮の三人のみであり、当然のこと、その少女と会話はおろか挨拶さえ交わしておらず、せいぜいが討伐行への参加者として、就、と名を呼ばれた際に、とても元気のいい返事で声をきいたくらいだ。とてもではないが、好奇はまだしも親愛を向けられるような心当たりなどあるわけもなく、だから心中で渦を巻いた驚愕や疑問、困惑などが湧出し、しかし混じり合ってしまったために無表情になったのだ。

 だが、それは見る者によっては、気分を害したように見えたようで、それはその少女もそうであった。

 少女の表情が曇る。その眉を下げてしまった表情は、まるで、構ってもらおうと近付いたら、叱られて拒絶されてしまった仔犬のように哀しげで、それでもなんとか認めてほしいとばかりに見つめてくる様に、錬は限りない罪悪感に苛まれた。結果、錬は、なんとか内心の動揺を押し隠して、かろうじて笑顔と呼べる表情を――多少引きつっているように感じながらも――浮かべる。それを見た少女は、一瞬驚いたように目を丸くしたのちに、先に浮かべたのと勝るとも劣らないほどに明るく顔を綻ばせる。

 その様子に、ほっと息をつきつつ、錬も、今度は自然に表情を緩めて、改めて少女を見た。

 

 先程の娘とは対照的に、全体的に小柄。年の頃は、錬より三つ四つ下くらいだろうか。顔立ちは整っているが、その体格と相まって、美人というより可愛らしい、という言葉が似合うだろう。明るい(はしばみ)色の瞳は大きく、その内面を映し出すようにきらきらと輝いて見える。栗色の柔らかそうな髪は、肩に届くかどうかという辺りで切り揃えられていて、くるくると動く表情の通りに活発な印象の、まさしく遊び足りずにはしゃぎ回っている仔犬のような、そんな少女だ。

 

 やはり、このふたりの少女に、賊討伐のような荒事は似合わない、と、改めて錬は思う。思いつつも、結局はこれまでと同じところに、思考は行きついてしまう。知識が、情報が、足りないために自分で結論を出すことはできない。今は、彼らがそうだ、とするならば、それを受け入れて動くしかない。

 

(まあ、隣村までの道中で確かめればいいか…)

 

 明日は、ひとまず北西の隣村へと向かうことになった。賊が根拠地としていると思われる廃砦に近い村で、そこまで行き、改めて情報を集め、可能ならばその村からも手を借りて、廃砦へと向かうことになるのだが、その隣村まで徒歩で半日ほどかかるので、その道中でいろいろと確認することができるだろう。

 

 そんなことを錬が考えている間に、話は進んでおり、

 

「ふむ。では、賊の討伐には、丁延、李以勇、李季宛、楽就、そして白士泰どのの5人にて、差配は延が取るように。士泰どのは、帰還してのちには、丁家の食客として遇することにする。その後は、村の防備を担ってもらおう」

 

 丁旋が会合の結論をまとめて、その言葉で締めようとしたところで、錬はふと気になったことがあり、

 

「丁村長どの、申し訳ありませんが、ひとつ質問しても?」

 

 と、発言の許可を求めた。

 

「ん? なんじゃな、士泰どの?」

 

「はい、門外の、賊の亡骸について、どうするのか、と思いまして…」

 

「…ふむ、そうじゃな、どうしたものかのう…」

 

 錬の言葉に、丁旋が場を見渡して言うと、村人たちから口々に意見が上がる。

 曰く、こちらを襲おうとした賊なのだから放っておけばいい。

 曰く、だが、門外すぐに散乱していては邪魔、少なくとも道の脇にどかす程度はしたほうがいい。

 曰く、村の周りの堀にでも放り込んでおけば、いずれ朽ちて無くなるだろう。

 曰く、見栄えが悪ければ、古くなった筵でも被せて隠しておけばいい、等々…

 

 聞いて錬は唖然とした。

 錬の感覚では、たとえ賊であっても死して屍となったからには、丁重に葬送されるべきだ、というのが()()であり、そこに生前における行為の善悪は考慮されないもので、要するに、死後は尊重されるべきだ、という考えがある。まあ、それが平成時代の日本だからこその感覚(もの)であることは理解できるし、自分の生きてきたところは平和だったんだなあ、と思うばかりで、感情を排してみれば、あるいは違う観点で感情を入れてみれば、賊の死体など放っておけばいい、という村人たちの対応も理解できる。

 

 だから、この際、それはいい。だが、そういった意味とは違う観点で、この、死体に対する対応には賛成できない。だから、恐る恐るだが提案してみる。が…、

 

「その、埋葬を、する、というわけにはいきませんか?」

 

 言った途端に非難が上がる。取りまとめれば、賊を相手に礼を守る必要はない、という意見になる。なかには、賊など死体を晒して見せしめにするべきだ、という意見さえも上がる。それを聞いて、ああ、やっぱり…と、錬は思った。やはり敵対者への反感意識は、錬の感覚からすれば過激なようだ。

 

「え、と、それでは、まとめて燃やす、というのは?」

 

 という提案に、今度は恐惧したように息を呑む音が響くと、続いて気まずげな沈黙が落ちる。

 

(あれ、なんだろう、この空気…)

 

 秘かに心中に汗をかきつつ、そっと人々を見回す。誰もが、信じられないもの、恐るべきものを見るかのような視線を向けてきている。先程は、愛らしい笑顔を見せてくれていた少女――楽就も、その表情は引きつっていた。

 

「…いや、士泰どの、いくら賊とは言え、さすがにそれは…」

 

 丁旋でさえも、若干引き気味に、それでも気を使ってか、そう言ってきて、

 

(あ、これ、なにか、禁忌に触れることだったか?…)

 

 そう悟った。のちに知ったことだが、漢代では、春秋時代に孔()により体系化された儒家思想が、国家を支える正統な学問思想とされており、その根本である儒教は、祖先を敬う“孝”の精神から遺体への毀損行為を禁忌としている。ゆえに火葬さえ、それであるとして、葬送の方法としては基本的に土葬が選択される。

 

「それならやはり、せめて埋めることにしましょう。いえ、決して弔いのためではありません」

 

 そして、説明を始める。

 死体を放置すれば、いずれ腐敗、それを苗床として発生した細菌が空気感染することによって、疫病等の危険性がある、ということを、分かりやすく。

 

「肉や野菜を放っておくと腐っていくでしょう。そしてそれを食べると、体調を崩す、下手をすれば命を落とすこともあるでしょう。死体を放置すれば、そういったことの端緒となることがありえるのです。聞いたことはありませんか? 多くの死者を出した戦場の近くの村が疫病で全滅した、とか、そういう話を…」

 

 錬の言葉に、丁旋村長が頷く。村長自身、かつて従軍した経験があり、またその人生経験も長く、そういった話を聞いたことは一度や二度ではない。

 

「しかし、そのような理由だとは知らなかったのう。その知識は士泰どのの国ではありふれた考えなのかの?」

 

「ええ。ですからオレのいたところでは、火葬が常でした。火で焼骨して、その遺骨を埋葬するんです。まあ、それは文化の違いですから、聞き流してください…とにかく、そんな羽目になるのを防ぐためにも、死体を埋めることにしませんか?」

 

「ふむ、そういうことなら…」

 

 言いつつ、村長が見回すと、表情は様々ながらも村人たちは承諾の意を示して頷きを返す。

 

「士泰どのの言うように取り計らうとしよう。明日の午後より死体を埋めるための穴を掘る。昼食後、男衆は門前に集まるように。それで、士泰どの?」

 

 そして錬に視線を向け、

 

「なにか気をつけたほうがよいことはあるかの?」

 

 そう確認してくる村長に、はい、と返事をして、皆に聞こえるように続きを告げる。明日の午後、ということは、錬はもちろん西に向かっているため、立ち会うことも手伝うこともできない。

 

「先程のお伝えしたように、疫病を防ぐのが目的ですので、埋める場所の選定が問題です。村の風上は避け、出来るだけ遠くが好ましい。そして穴は深ければ深いほどいいでしょう。大変な作業を押し付けるようで申し訳ありませんが、よろしくお願いします」

 

 言葉とともに頭を下げる。そんな錬に対して、口々に、気にするな、とか、むしろ我らのことを気にしてくれたのだから礼を言うのはこちらだ、とか、言ってくれる。それらの言葉に、錬は、こんな、やってきたばかりで身元も不明な自分を信頼してくれ、優しく親しげな言葉をかけてくれる人々に、心からの感謝を抱いた。

 そして、

 

(…いい人たちだよな。うん、この人たちのためにも、まずは賊の脅威を取り除かなきゃな)

 

 錬は、目を細めて村人たちを見渡しながら、そう決意を新たに胸に抱いた。

 

 

 

 

 





みなさま、はじめまして。
四話目にして(序は除く)、こう挨拶するのもどうか、とは思いますが、まあ、前書き後書きは、初めてですので、こう挨拶させていただきます。

そして、拙作を読んでいただいた方、さらにお気に入りにしてくださった方、さらにさらに評価してくださった方々、まことにありがとうございます。

基本、読むだけだった自分が、乏しい創作意欲を刺激され、なんとなく拙作を書き、投稿をしてみて、気がつけば、お気に入り登録が100件を超えている、ということに、驚喜半ば動揺半ばの心持ちで、これは一度、挨拶をせねば、と思った次第なのです。

基本、手が早いほうではないので、お待たせしてしまうことが多いとは思いますが――待っていてくれるといいなぁ――、頑張って書きますので今後もお付き合いよろしくお願いいたします。

先話で地名、今話で人名、と固有名詞が出てきたので、なんとなく今後の展開が読める方もいるかもしれません。まあ、そういうことです。ただそうなるのはもう少し先の話になると思いますが。あと登場人物の、真名はもちろんですが、字についても、オリジナルなものがありますことをご了承ください。なんとかおかしくないように、と考えてはいますが、当然実際の字について不明なものは勝手に想像してつけるしかないのです。まあ恋姫の二次を読み慣れている方は、そんなこと百も承知だとは思いますが…一応念のため…


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五 早朝

2週間空けてしまいました…

筆の遅さはいかんともしがたいのです…




 翌朝――

 

 錬は、まだ早い時間に目が覚めた。

 いつもなら、もう少し、いや、下手をすれば目覚し(アラーム)に起こされるまで朝寝を貪っているところだが、すでに眠気はない。固い寝台から起き上がり、部屋の突上戸(つきあげど)を少し開いて外を窺えば、朝日が顔を出すにはまだ先のようで、まだ辺りは仄暗い。

 昨夜、集会が解散したあと、丁旋村長の歓待を受け、勧められるまま、食事とともに一献傾けることになった。その後は一室を借り受け、そのまま時を置かずに眠りについたのだが、秘かに心配したような心理的なアレコレについては兆候さえなかった。

 

(人をあれだけ殺した、ってのに、眠れないこともなく、うなされることもなく…オレ、こんなに神経太くなかったはずだけどなあ…)

 

 なにやら人格的に問題を抱えていそうな自分の精神性を思って、多少へこみつつ、改めて、外の村の様子を窺えば、一部の村人には、もう起床して活動を始めている者もいるような気配があるが、それはまだ少数のようだ。

 だからだろうか、錬はその気配に気がついた。

 どこからか、微かにだが、空気を切り裂くような音、何かを打ちつけるような音が入り混じって、錬の聴覚に届いてくる。微か過ぎて、これまでの錬なら気がつくことのなかった音であり、気配だった。聴覚なのか、感覚神経なのか、平成の世にいたとき以上になっているのは、腕力や敏捷性などの身体能力だけではないようだ。

 

(まあ、この時代で生きていくのなら、それはありがたいことだけどな…)

 

 そう考えつつ、錬は部屋を、村長の家を出て、音のするほうへと歩く。

 村の中央にある村長の家から、東へと向かうと門があった。昨日、錬が通ってきた西側の門と同じような造りの、東の門の前は少し広くなっており、そこでふたりの人物が、それぞれの得物を手に素振り、あるいは立木に向かって振るっている。

 どちらも見覚えがある。今日、錬とともに賊討伐に赴くふたりだ。

 と、近付く錬に、まず反応を示したのは、立木相手に棍を振るっていた小柄な少女だった。鋭い踏込みとともに放たれた棍による突きが立木を穿ち、木端(こっぱ)を散らす。その意外に力強い突きの引き戻しの際に、体勢を入れ替えるように、錬のほうへと身体を向けた。

 

「あっ…」

 

 誰かが近くにいたことにではなく、それが錬だったということに驚いた、そんな感じの驚き方をした少女は、続いて昨夜も見せたような笑顔を浮かべる。が、

 

「おはよう、ご、ざいます、あ…え~と…白、どの?」

 

 その言葉は、笑顔に似合わずぎこちない。その理由が、使い慣れない言葉遣いを使おうとしているせいだと思い、

 

「ああ、おはよう。士泰、でいいよ。あと敬語も使わなくてもいい。で、オレはキミのこと、なんて呼べばいいのかな?」

 

 こちらは昨夜の集会で、皆の前で名乗っているので省略、だが村人を紹介されてはいないので、勝手に呼ぶわけにもいかない。

 

「あ、はい、士泰、どの。あたしは、姓は楽、諱は就、だ…です。字はまだないので、就、と呼んで…ください」

 

 やはりぎこちない。

 

「無理をしなくてもいいよ。あと、どの、もいらないし」

 

「あ、でも、村長もそう呼んでるし…います、し…」

 

「キミがそれでいいのならいいけど、でも、気を使ってると疲れちゃうだろ。だったら気楽にしたほうがいいんじゃないかな」

 

 笑いかけながら錬が言うと、楽就は少し考えるようにしたあとに、にっ、と笑い、

 

「うん、それじゃそうするね…え、と、士泰兄ちゃん、って呼んでも?」

 

 と、小首を傾げて言う。その様子に、

 

「…兄ちゃん…」

 

 少なくなく心を揺らされて、錬は思わずつぶやく。

 錬に、そちら系の属性はない。少なくともこれまで感じたことはなく、周囲で盛り上がっている連中もいたが、共感を覚えたことは一度もない。だが、楽就からそう呼ばれて、初めて彼らの気持ちが少し理解できた気がした。だから、

 

「あ…だめ?」

 

 と、哀しげに眉を下げる楽就に、慌てて頷きを返す。

 

「いや、好きに呼んでくれていい」

 

「うん、士泰兄ちゃん、これからよろしくね」

 

「ああ、こちらこそよろしく、就ちゃん」

 

(いや、少しだけ…少しだけだからな、少しだけ…)

 

 一転、嬉しそうに笑う楽就に言葉を返しつつ、心の中で言い訳をする錬である。

 

「挨拶は済んだか?」

 

 そんなふたりに声をかけてきたのは、剣での素振りの手を止めた李壮だ。

 

「ええ、おはようございます、以勇どの」

 

 ふたりに近付きながら声をかけてきた李壮に、どこか少し救われたような気分で朝の挨拶をすると、李壮も、おはよう、と挨拶を返しつつ、先程のやりとりを聞いていたようで、

 

「俺にも敬称はいらん。こちらも、士泰と呼ばせてもらおう。それで、こんな朝早くからどうした?」

 

「いえ、なんとなく目が覚めたもので…」

 

「ふむ、では、少し打ち合ってみるか?」

 

 錬は言葉にはしなかったが、鍛錬の音に引かれて顔を出したということが、李壮には分かったのか、そう誘いをかけると、それに反応したのが、楽就だった。

 

「はい、はい、は~い、それならあたしが相手するっ!」

 

 その様子を見ての李壮の呟きが、錬の耳にも届く。そうか、ずいぶんと気にしていたのはそういうわけか…

 要するに、昨日の賊との戦闘を見て手合せをしてみたい、と、ずっと考えていたらしい。そう察した錬だが、

 

「…士泰、それでいいか?」

 

 溜息混じりの李壮の問いかけには、ひとつ確認しなければならないことがある。

 

「相手をすること自体は構わないんですが…オレが相手でいいんでしょうかね?」

 

 先程に垣間見た鍛錬の様子の、棍の振りの鋭さや打ち込みの力強さから、楽就の戦闘力がその見た目に似合わず相当に高くあることは、よく分かった。その小柄な身体で、どうしてあれほどの力強い突きが出せるのか、不思議に思うところではあるが、その一突きで立木を穿つことができるのは確かだ。ゆえに、錬はその少女の強さを疑っているわけではなく、その問いに内包されているのは、錬には武芸の心得がない、ということについて、だ。

 その事実を知っている李壮は、その問いの意味を正確に理解したが、楽就は首を傾げる。

 

「え? だって士泰兄ちゃん、あんなに強いじゃない。相手に取って不足なし、だよ」

 

「…そうだな。まあ、まずは立ち合ってみるがいい」

 

 そう言う李壮の様子に、面白がっているような気配が混じっているように感じるのは、気のせいなのだろうか。

 思わず半眼になる錬だったが、わくわく、というか、うきうき、というか、そんな楽しげで嬉しそうな表情を隠そうともしない楽就を見て、錬は諦めたようにため息を吐く。

 

「よし、では、始めようか…と、士泰、おまえ、得物はどうする?」

 

 李壮の問いかけに、一瞬考え込んだ錬だったが、楽就の手元を見て答える。

 

「それでは、就ちゃんと同じものを」

 

「棍を、か?」

 

 錬の答えに、訝しげな声を上げた李壮だったが、

 

「…それなら、俺のを使うといい…まあ、棍は長柄の基本だからな、馴れておくに越したことはない」

 

 そう言いつつ、門の脇に立てかけてあった一本の棍を手に取り、錬へと差し出す。それを受け取る錬へと向ける李壮の視線は、真意を探るような、それでいて、何かを見通しているかのような眼差しをしていて、錬は内心で肩を竦めた。

 李壮が口に出しては何も言わないのをいいことに、錬は、李壮から目を逸らし、受け取った棍の感触を確かめるように両手で構えて軽く振るう。重さは問題なく、なんとかなりそうだ、と錬は思った。

 だが裏腹に、錬のその様子に違和感を覚えたのか、

 

「…士泰兄ちゃん、剣じゃなくて棍なの?」

 

 と、楽就が問いかけてくる。錬は、ああ、よろしく、と頷き返すと、正面の楽就に向かって棍を突き出すようにして構えた。だが、それを見て、楽就の表情が変わる。はっきりと言ってしまえば、しかめ面に。

 

「…まあ、いいや…いくよ、士泰兄ちゃん」

 

 不満げなのを隠そうともせずに言うと、楽就は棍を構え直して、次の瞬間には一息に突いてきた。

 無造作で、明らかに小手調べ。速さも力の乗せ具合もそれなりの突きだと、錬には見えたため、次の動作につなげようとの思惑から軽く弾くように、突きに合わせて横から棍を払おうとした。が、その突きには見た目以上の力が内包されていた。錬の棍は逆に弾かれ、楽就の突き筋は揺らぐことなく真っ直ぐに伸びてくる。

 

「くっ」

 

 弾かれた棍を手元に引き戻して防御することなどできるわけもなく、錬は身体を横に逸らすことで楽就の突きをかわすしかない。となれば、当然にして体勢は崩れる。そこを見逃してくれるほど、楽就は甘くはなかった。

 かわされた突きが、手首を返しただけで薙ぎ払いへと切り替わり、横跳びに逃げた錬を追撃する。それをかろうじて引き戻した棍で防いだが、それはただ防いだだけで、弾き返したり押し返したりしたわけではなく、ゆえに、楽就の棍は、その主の意志に従って舞うように宙に円を描き、今度は頭上から錬に襲いかかる。

 それを防ぐか、かわすか、錬は一瞬逡巡した。と、いうより、防ごうとして間に合わず、後ろ跳びにかわした。そのまま、距離を取ろうとするが、楽就はそれを許すまいと追いすがり、

 

「…ふっ!」

 

 気合いを込めた息を吐きつつ、再び突きを放つ。逃げ切れない、と悟った錬は、立て直した体勢から、その突きを叩き落とそうと棍を、今度は力の限りに振り下ろし、しかし、楽就はわずかに突きの軌道を逸らすだけで受けることなく無効化して、そのまま突き込んでくる。

 力任せの振り下ろしのために体勢が前がかっていた錬は、身体を逸らすことも棍で受けることもできず、窮余として左手を棍から離し、

 

「このぉっ!」

 

 その掌底で横殴りに突きを無理やり逸らした。

 

「わっ、と、と…」

 

 さすがにそんな避け方は予想外だったらしく、弾かれた棍に引っ張られるように体勢を崩されそうになった楽就は、慌てたような声を零しつつ、飛び退くようにして後退し、

 

「はあっ!」

 

 しかし一瞬で立て直して、飛び込みつつ横薙ぎに棍を振るう。それに対して錬は棍を縦にして防ぎ、しかしその強撃に飛ばされまい、と抗ったがために身体は硬直し、足は止まった。そうなれば、もはや有効的に対応することは不可能だった。

 薙ぎ払い、打ち下ろし、跳ね上げ、そして突き、と、楽就の攻撃を、三、四合とかろうじて防いだものの、その後が続かない、と追い詰められたところで、

 

「そこまでっ!」

 

 李壮の制止の声で、楽就の棍が止まった。と、

 

「…う~~、弱いっ、つまんないっ、おもしろくないっっ!」

 

 楽就の不満が爆発する。

 

「剣っ、士泰兄ちゃん、なんで剣、使わないのっ。昨日は剣で戦ってたじゃない。あれからずっと楽しみにしてたのにっ」

 

「…ああ、やはり、昨夜からずいぶんとご機嫌だったのは、そういうわけだったか…」

 

 うがーっ、とでも唸り声をあげそうな勢いで、棍を握った両手を天に突き上げたのが楽就で、呆れたかのように、得心がいったかのように呟いたのは李壮である。

 

「だって、せっかく本気で打ち合えると思ってたのにーっ」

 

(…なるほど、昨夜の笑顔はそういうわけか…)

 

 得心がいった錬である。

 賊の討伐に派遣されるほどだ。楽就の武の高さは推して知るべし。おそらく村内で相手ができるものも限られ、普段は存分にその力を発揮できないのだろう。と、そこまで考えて違和感に気付く。

 

「…打ち合えないって、なぜです?」

 

 疑問を呈する錬に、李壮が視線で先を促す。

 

「いえ、昨夜、村で剣や槍を一番使えるのは、以勇さんだと言ってましたよね? あと、李季宛さん、でしたっけ、もうひとりの女性…あの人も強いんでしょう? だったら…」

 

「ああ、そういうことか。はっきり言えば、この村で就と互角に仕合えるのは、季宛だけだ。たしかに剣や槍の技倆ということなら、ふたりより俺のほうがいくらか勝っている。季宛は、妹弟子だし、就は俺の弟子でもあるしな。だが、“昂武(こうぶ)の才”を持つふたりが本気になれば、技倆だけで太刀打ちできるわけもあるまい」

 

「なんです? “昂武の才”って?」

 

 また分からない言葉が出てきた。そう言いたげな錬の疑問に、李壮は一瞬訝しげに眉をひそめたが、すぐに、ああ、そうか、と頷いた。

 

「そう言えば、士泰は我らの慣習に疎いんだったな」

 

 そう前置いてからの説明を要約するとこうだ。

 

 “昂武の才”とは、氣を操る資質のことで、その資質を持つ者のことを指す。身体内にて生じる氣を練り、循環させることで、体力や筋力などの身体能力、すなわち戦いのための力を飛躍的に向上させることができる。その才は、本能のように無意識的に作用しているものだが、意識して使役すればその効力はより高くなり、さらに鍛錬によっては、武器にまとわせて、その切れ味や破壊力、あるいは強度を上昇させたりすることもできるという。

 

「…へえ、氣、ですか。じゃあ手から撃ち出して攻撃したり、とかできたりするんですかね?」

 

「いるぞ、それ、できるやつ」

 

 半ば冗談めかして言った錬の言葉に返ってきたのは肯定。呆気にとられつつも、その意味を理解した錬は内心で頭を抱えた。

 …なんでもアリ、か? この世界…

 思わずそう愚痴りたくなった錬である。

 

「そして、その才を持つのは決まって女だ。だから武官でも高位の将軍職に就くのは女が多い。男の将軍がいないわけではないが、それらの多くは指揮能力や管理能力を買われてのことで、前線での直接戦闘を行う部隊の将は間違いなく女だ」

 

 ただ“昂武の才”を持つ者は多くはなく、将軍直下の部隊長などには経験を積んだ男性が就くことになる。これは単純に、兵士に向いているのはやはり腕力に長けた男がなることが多く、そこから叩上げで昇進して隊長職に就くからだ。ちなみに“昂武”の女性は、一足飛びで将軍直属の副将辺りに抜擢される。

 

「歴史上に“昂武”だった男がいないわけじゃないが、な。俺の知っている限りでひとりだけ。“楚の項王”は、男でありながら氣を使えたそうだ」

 

「“楚の項王”って、項羽ですか?」

 

 “楚の項王”、すなわち、項羽、諱は籍、である。秦を滅ぼし、漢の高祖劉邦と天下を争い、敗れた英傑。思わぬところで出てくる名前がでかい。

 

「まあ、そうだったらしい、という程度で真偽のほどは分からんが、な」

 

 李壮は、“昂武の才”についての説明をそう言って締めくくった。

 

 李壮の父は、かつて軍に属していたそうで、李壮の剣技や知識は、その父から受け継いだものだという。

 剣に優れていたその父は、若くして頭角を現し、一時はとある郡太守の親衛隊に抜擢されるまでになり、その隊長直々に剣技を仕込まれるほどだったが、ある事件で復帰できないほどの重傷を負って退役した。その際に、その隊長の知己だった丁旋のもとへ身を寄せるよう勧められたことから、父ともども丁荘里へと移り住んだ。その後は、村の若者や子供に、剣を教えたり狩りをしたりしていたが、数年前に帰らぬ人となった。

 その子供の中に、丁延がいて、季宛がいる。ゆえに丁延や季宛は、李壮からすれば弟弟子であり妹弟子だった。楽就は、李壮の父が存命中には、まだ幼かったため直接に教わったことはない。

 

 そんな李壮の身の上話も交えつつの説明ののちに、

 

「そんなわけで、就が本気で仕合えるのは、同じ“昂武”の季宛しかいないが、それだけにふたりとも互いの手の内は分かっているからな。やっても面白くない、ということらしい」

 

「そうっ、季宛姉さん相手だと思いっきりできるけど、こう、なんて言うのかな、いつもおんなじになっちゃうの」

 

 なんとなく言いたいことは分かった錬である。

 

「だから、士泰兄ちゃんとなら面白い仕合ができると思ってたのにっ」

 

「そう言われてもね…」

 

「しかし、士泰。先程の棍捌きはあまりにも粗末だったぞ。昨日の戦闘は俺も見ていたが、あのときの剣捌きにはなかった停滞が見られた。まるで右手と左手が別々に…ああ、そうか…士泰、おまえ、長柄物を使ったことがないのか?」

 

 言葉の途中で気がついた李壮の言葉に、錬は頷く。

 

「剣なら、片手でも両手でも、似たような感じの動きはしたことがあるんで、違和感はないんですが、両手の間がここまで離れた状態でひとつのモノを振るった経験はないもので…」

 

 例えるなら、テニスのラケットや野球のバット、それこそ剣道の竹刀など。だが槍や棍、薙刀のような長柄武器に相当するものを扱う機会など、平成時代の若者にそうそうあるものではないだろう。

 

「そうか。だが、さっきも言ったように、長柄に馴れておいたほうがいいのは確かだ。それにおまえの目的のためにも、な。まあ、賊の根拠までそれなりに時間はある。その道中にでも馴れておくがいいさ。だが、いざ、というときには剣を使えよ。そこを躊躇すれば、どうなるかぐらいはわかっているだろう?」

 

 錬から棍を受け取りながら、李壮は視線を厳しくして、錬を睨むようにして見つめた。神妙に頷く錬に、厳格な表情を崩した李壮は振り向いて、今度は楽就に、妙に楽しそうな笑顔を浮かべる弟子を見遣る。

 

「楽しみにしてるところ、悪いがな、就。士泰との手合せはお預けだ。朝飯やらなにやらを考慮するに、もう切り上げなければ集合に遅れかねん。残念ながら時間だな」

 

「ええ~~、そんなあ~~」

 

 心から悲しげに肩を落とす楽就の様子を、畑仕事に向かおうとする村人たちが、温かな微笑みで見守っていた。

 

 

 

 

 




話が、というか、時間が進みません。
いや、全部、自分のせいなんですがね…
当初の予定なら、もうそろそろ賊の根城についてる話数だったんですが。

たぶん、今後もこんな感じです。

そんなんでよろしければ、お付き合いよろしくお願いします。



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六 出立

前話までの村名を訂正しました。

内容については全く変えていませんので、読み直すほどではないことをお伝えしておきます。




 

 剣を使う錬との手合せを、時間切れ、と先送りにされてむくれる楽就をなだめつつ、道中での手合せを約束させられながら、李壮の言葉に従ってそれぞれ一旦、家へと帰る。

 当然、錬については、帰るのは寄宿中の村長の家であり、

 

「おや、士泰どの、おはよう。朝の散歩ですかな?」

 

 ちょうど門前に出ていた丁旋村長に会った。

 

「おはようございます、丁村長どの。散歩というか…東門の前の広場まで行ってました」

 

「というと、以勇らの鍛錬に加わっておられたのかな?」

 

「ええ。就ちゃんに軽く捻られましたよ」

 

 錬が苦笑いとともに答えると、

 

「ほう、就にの。あの子は、季宛と並んでこの村で最も強いからの。士泰どのでも敵いませんでしたか」

 

 納得するように頷きながら、丁旋が呟く。

 

「はい…というか、李季宛さんも就ちゃんと同じくらいの強さなんですよね…それならそのふたりがいれば、昨日のってなんとかなったりしましたか?」

 

 そんな疑問をぶつけられた老村長は、思わしげな笑みを浮かべて錬を見遣ると、言葉にして返答をすることなく(きびす)を返すと屋敷の中に戻っていく。

 

(やっぱりそうか…)

 

 思わず音を立てるほどに溜息を吐く錬。つまりは、丁旋は、今回の賊の来襲をそれほど脅威には感じていなかった、ということだ。錬にできたことが、錬より強い“昂武”のふたりにできないわけがない。であるならば、錬が賊と戦わなかったとしても、丁荘里(このむら)がその襲撃によって大きな害を被ることはなかっただろう。

 では、なぜ、村長は錬を引き入れたのか。悪い人間には見えず、また腕も立つと見て、ということはあるだろうが、今以上に村の防備を固めたかった、ということがあるのではないか。

 これから(このくに)には大乱が吹き荒れる。それを錬は、歴史(ちしき)として知っているが、この国に住むものたちの中にも、それを敏感に感じ取っているものがいるだろう。政治や情勢、歴史などの知識や情報から類推しているもの、なんとなく不穏な気配を感じ取っているもの、あるいはその両方。丁旋もそのひとりなのではないか、と錬は考えていた。村長という立場、兵士としての経験、そして流布される風聞などから、これから世が乱れることを予想しているのではないか、と。その規模などは想定していないにしても。

 であれば、丁荘里はもちろんのこと、この周辺の村々も含めた防備について、当てにならない官に頼るのではなく、自衛する必要性を感じていたとしても不思議ではなく、錬を引き入れたり、あるいは錬の語った、賊を取り込む、という言葉に興味を示したりしたことも理解できる。

  “昂武の才”のふたりは十分な戦力だ。だが、広範囲、そして長期にわたる防衛に必要になるのは兵力、すなわち数であり、個に頼るばかりでは、いずれ破綻する。それを防ぐために、賊であっても心を入れ替えて村のために働くのならば、活用することの可能性を排除するべきではない。

 さらに“昂武の才”は希少であり、権力者ならば(こぞ)って取り立てたがる。ゆえに、いずれこの村のふたりも世に出ていき、もっと大きな舞台で名をあげていくだろう。そうなれば、この村の周辺――柳河郷の治安に寄与することは難しくなる。そのときになって慌てていては遅すぎる。

 そんな思索に、錬ですらたどりつく。丁旋ならば当然に考慮のうちだろう。

 

(うまく乗せられた、ってことかな?)

 

 そう思うが気を悪くしたわけではない。そこに、いくらかの打算があったとしても、得体のしれない流れ者である錬を受け入れてくれたことに変わりはない。そのことには恩を感じている。こんな状況に陥ってしまった錬だからこそ、恩知らずにはなりたくはなかったし、せっかくできた縁は大事にしたい。この村のために、という感情を言葉にすればそんなところだが、そんな理屈はむしろとってつけたもので、ただ単に錬はこの村のことが気に入り始めていたのだった。

 

 

 

 

 村の西門前、いまだに昨日の戦闘の痕跡――すなわち賊の死体だが――が残る外側、ではなく内側にはほぼ全ての村人が集まっていた。賊討伐に発つ五人の見送りのためだ。

 丁延を始め、楽就や李季宛も家族と思しき人たちに囲まれている。李壮などは幅広い年頃の子供たちに群がられているのを、苦笑しながらあしらっている。そんな光景を所在なげに眺めるしかない錬である。

 まあ、仕方がない。そもそも知己が当事者――送り出される者とその家族――にしかいない。

 そう自らを慰めている錬にまず近付いてきたのは、子供たちをあしらいきった李壮だった。

 

「慕われていますね、以勇さん」

 

「…懐かれてる、というんだ、あれは…」

 

 毒づく李壮。苦笑いで、なるほど、と返す錬は、それが照れ隠しだと見抜いている。そのことは、笑われている李壮にも理解できたようで、不機嫌さを隠そうともしない。

 

「まあ、あいつらの剣の師でもあるんでな。帰ってきたら武勇伝を聞かせろ、とせがまれていたんだ」

 

「あら、それだけではないでしょう、師兄?」

 

 その声に振り返れば、長い黒髪の麗人。

 

「師兄は、剣術に関しては厳しい師ですが、その合間に都城(まち)にいたころの話や師父の武勇伝などをよく話されているでしょう? 子供たちからすれば、厳しくも優しい兄のような存在です。慕われていますよね」

 

 自分の行状をよく知る妹弟子から言われては、李壮としてはそっぽを向くしかない。そんな兄弟子を横目で見やりつつ、李季宛は錬に向けて拱手する。

 

「白どの、昨夜は挨拶もできませんでしたので、改めまして。姓は李、諱は豊、字は季宛、と申します。今後ともよろしくお願い申し上げます」

 

「こちらこそ。改めて、白毅です。どうぞ、士泰、と呼んでください」

 

 錬も拱手を返すと、季宛こと李豊はじっと何かを見透かすかのように錬の目を見つめて、

 

「はい、士泰どの。私のことも、季宛、と字で呼んでくださいませ。あと、そのように畏まった話し方でなくても結構ですよ」

 

「分かりました、季宛さん。オレのほうも気にしないので敬語でなくていいですよ」

 

「いえ、私のこの話し方は元からですので、このままで。ああ、あと呼び捨てでも構いませんよ?」

 

「あ、はい、その辺りは追々…」

 

 いささか気圧されながら返す錬に、意味ありげな視線と微笑みを向けたのちに李豊は、彼女の兄弟子へと視線を送る。

 

「師兄、そろそろ時間では?」

 

「ああ、そうだな」

 

 李豊の言葉に李壮は頷くと、丁延のほうへと向かう。そちらに村長である丁旋もいるわけで、錬もその後に続いた。

 

「私は、就を呼んでまいりますので」

 

 そう言って楽就のいるほうへと向かう李豊に頷いて。

 

 

 

 

 錬が丁旋らの前に来たところで、李豊と楽就もやってきた。

 

「あれ、士泰兄ちゃん、着替えたの?」

 

「ああ、村長に勧められてね」

 

 楽就の言葉通り、錬はこちらに来た当初のシャツにジーンズ姿から、他の人々と同じような恰好に着替えていた。馴染むにはそのほうが都合はいい。また弓道をやっていた錬にとって和装は慣れたもので、それに似たところのある、この恰好にも違和感はない。

 そして、左の腰には剣を提げ、背中には弓と矢筒、手には棍。どれも丁旋から受け取ったものだ。とはいえ、特別なものではなく、剣は賊が落していったものの中から比較的にマシなものを選んだだけであったし、弓も棍も丁延の予備を借りた形になっている。弓は慣れたものよりかなり短い、というか小さいものだが、問題なく使用できることは試射して確認した。よほどのことがないかぎり、狙いを外すことはないだろう。もっとも、賊の山塞(さんさい)へは奇襲になる可能性が高く、であれば、弓を撃つ機会はないだろう、と思っているし、錬の心積もりとしては、そのほうが都合はいい。同行者の理解が得られるかは分からないが、賊の残党をどうにかして村の防衛に組み込むには、余計な血を流してこれ以上の怨恨の種を撒くべきではない。

 まあ、相手次第ではあるし、従順にならないのであれば撫で斬りにするもやむなし、とは思っているが。

 

「さて、それでは準備はよいかの?」

 

 丁旋が前に並ぶ五人に声をかける。

 丁延、字は長基。

 李壮、字は以勇。

 李豊、字は季宛。

 楽就。

 そして、錬こと、白毅、字は士泰。

 いずれも武に長ずる者たちで、この五人が揃えば賊など物の数ではない、と思わせる。が、だからといって、心配をしない、というわけではない。丁旋の後ろには、出発する五人を不安げに見つめる村人たちがおり、彼らの代弁をするかのように丁旋が言葉を続ける。

 

「それでは、皆、気をつけていってくるのじゃ。目的は賊の討伐とはいえ、無理は禁物、留意すべきは身の安全、必ずや五人揃って無事に帰ってくるのじゃぞ」

 

「もちろんです、村長。我ら五名、村長の言葉を心して、必ずや賊を平らげて帰還してみせます」

 

 丁延が、祖父の言葉に拱手して返答すると、他の四人も無言ながらも同意するように拱手して頭を下げる。

 

「では、行ってまいります」

 

 丁延の言葉を合図に、五人は決然と(こうべ)を上げると身を翻し、門をくぐって討伐行へと出立していった。

 

 

 

 

 まずは丁荘里の西に位置する隣村への道行きである。

 そこまで徒歩でほぼ半日、その間での危険といえば、この近辺を荒らす可能性のある賊だけであり、その賊は現在、半壊状態であるはずだった。錬の活躍によって。

 ということで、その道中は平穏に過ぎ去り、なにごともなく隣村へ到着する、はずだった。

 

「さあ、士泰兄ちゃん、朝の続きやろうっ」

 

 楽就のその言葉さえなければ。

 

「いや、待て、就」

 

 村を出た瞬間から妙にそわそわしているな、と思っていたのだが、一刻ほども歩いて我慢できなくなったのか、いきなりの対戦申請である。一同、呆気にとられるも、我に返った李壮が楽就を止める。

 

「いきなり何を言っている。まだ道中だ。控えろよ」

 

「う~、で~も~」

 

「まあ、いますぐは、ちょっと、ね…」

 

 不満げに唸る楽就に苦笑を浮かべて、錬は丁延へと視線を向ける。

 

「長基さん、これからの予定はどうなっていますか?」

 

「とりあえず、隣村の藤泉里には昼過ぎには着けるだろう。そのあとは、あちらの村長との会合次第だが、賊の根城が予想通りの廃砦であれば、藤泉里から半日と少し。そのまま出れば夜襲になる。俺としてはそれがいいと思うのだがな」

 

 攻撃はこちらから、おそらくは先手を取れる。そしてこちらが少数ならば、同士討ちの危険は少ない。様々な要因から夜陰に紛れることの利点は多い。丁延が語るのはもっともで、錬も頷く。

 

「問題はオレたちの疲労具合、といったところでしょうか?」

 

「そんなところだろう。ただ…」

 

 思わせぶりに言葉を切り、丁延は錬を見遣る。

 

「ただ?」

 

「…村長が、な。士泰(おまえ)の言葉に耳を傾けろ、と」

 

「…オレの?」

 

「ああ、昨日のおまえとの話し合いに、どうも思うところがあったらしい。士泰(おまえ)とよく話し合って、冷静に判断しろ、と言われた…おまえにはどういうことか、分かるか?」

 

 その視線に疑問の色はなく、妙に確信めいていた。そしてそれに錬も気付く。

 

「そうですね、おそらくは…でも、それは長基さんも分かっているんじゃないですか?」

 

「まあ、な…」

 

 それは、昨日の話し合いの中で、一度は錬の口から出され、そして感情論で丁延らから拒絶された提案。

 

「…今後のことを考えて、村の守りのために人手がいる、ということはよく分かる。今は遠いが、并州や冀州などでは不穏な空気が漂っているという話も聞いた。その余波が荊州(ここ)まで流れてこないとも限らない。今のうちに備えておくことは無用とはいえない」

 

「長基さんも今はそう考えている、ってことですか?」

 

「そう…だな。落ち着いて考えてみれば、その考えも分かる。その“人手”に賊を宛がう、という目論見も、な。だが、所詮は賊に身を持ち崩した連中だ。思い通りに使えるかどうかは疑問だ。大人しく我らに降って従うならばいいが…」

 

「…従わないならば、撲滅するしかないでしょうね。オレたちに降伏するのは大前提ですから。今後のことを考えれば従ってほしいものですが…」

 

「それに、これから行く村など、奴らの被害を受けた人たちも当然いる」

 

 横からそう言うのは李壮だ。

 

「もし賊を取り込むとするなら、そういった人たちの反感は計り知れないだろう。その対処も考える必要があるぞ?」

 

「ああ~、そうか…丁荘里だけの問題じゃないんだった…」

 

 思わず頭を抱える錬。が、そこは精神的に強靭…というより図太くなっている錬である。

 

「まあ、今、考えても仕方がないか。それは、あとで考えましょう。まずは賊を制圧するのが第一ですしね」

 

 立ち直りが早いな、と苦笑する丁延は、

 

「ああ、まずは賊の対処が先決だ。そして、村人の説得は、俺の、あるいは村長の仕事だ。それこそ、後で考えよう」

 

 新たな仲間にならって、そんな言葉とともに問題を先送りにするのだった。

 

 

 

「あ、いや、本題…というわけでもないですけど、話がずれました」

 

 言って、錬が頭をかく。

 

「これからの予定のことですが、隣村での会合なのですが、それは全員が行く必要がありますか?」

 

「いや、挨拶と情報の確認程度の話だ。俺と以勇だけで構わないだろう」

 

「それなら、オレと就ちゃんは、村の外で待機、で構いませんよね?」

 

 質問を重ねる錬に、丁延と李壮は、ああ、そういうことか、と頷きを返す。

 

「それなら、就ちゃん。隣村に着くまで待ってくれないか? ふたりが会合をしている間に手合せをしていよう。オレとしても、棍の練習もしておきたいし」

 

「え、ほんと?」

 

 年長組の難しい話についていけずに、ずっとむくれていた楽就が、錬の言葉に一瞬呆気にとられるが、内容を理解すると途端に笑顔になる。

 

「やったっ、今度はちゃんと剣で相手してよね、士泰兄ちゃんっ」

 

 あっさりと機嫌を直した楽就に、今夜の戦闘もあり得ることを考慮した李壮が、やりすぎないようにな、と刺した釘は、効かぬままに抜け落ちたようで、少女は上機嫌に鼻唄まじりで隣村へと足を向けるのだった。

 

 

 

 

 



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七 小憩


ちょっと少ないですが、キリのいいところまで書けたので…




 

 予定通り、隣村の藤泉里には昼過ぎに着いた。

 藤泉里は、丁荘里とほぼ同じ規模の村だった。同じような木製の門に、掘った土をそのまま横に積み上げただけの堀と土塁。その奥に木製の塀――というか柵というか――があることが違うところか。その辺りは、丁荘里に比べて賊の本拠に近いがための対処なのだろう。それを示すかのように、門にしても塀にしても、古い部分と新しい部分が入り混じり、襲撃の際に壊れたところを修復した様子が見て取れる。

 

 丁延と李壮のふたりが藤泉里の村長への挨拶のために村内に入っていき、錬と楽就、李豊の三人は門の外に残った。そして…

 

「さあ、手合せしようっ、士泰兄ちゃんっ」

 

 嬉々として棍を振り回す楽就である。その様子に、思わず腰が引ける錬だったが、

 

「そうですね、約束されましたもの。約束は守りませんとね」

 

 と言って退路を断つ李豊が、錬に手を差し出す。

 

「棍と弓を預かりますわ。剣での手合せにはお邪魔でしょうし。ああ、あとで私もお願いしますね、手合せ」

 

「…楽しんでませんか、季宛さん?」

 

 引きつりかける表情を隠しきれない錬に、あら、なんのことでしょう? とばかりに小首を傾げつつ笑顔を向ける李豊。そこに質問の答えを見つけた気がした錬は、なにかを諦めながら弓と矢筒を背から外すと、棍とともに微笑む李豊に手渡す。受け取ったそれらを自らの槍とともに抱え直した李豊は、数歩後退(あとずさ)り、錬が剣を抜いて構えたのを確認すると、それでは、と声をかけ、

 

「はじめっ」

 

 思いの外に鋭い李豊の一声で、その場の空気が一瞬にして引き締まり、くるりと一回転させた棍を構え直した楽就が一息に突き込む。

 それはまるで早朝のときの焼き直し。

 対して錬は、両手で剣を握って正眼に構えていた。剣らしきものの経験と言えば、体育の授業の剣道程度しかないため、剣の構えといっても中段(それ)くらいが関の山だったからだが。

 ともあれ、朝の手合せから無造作に見える突きでも油断できないことはすでに分かっている。錬は小手を打つ要領で――素早く小さい動作で――剣を、突き出された棍へと打ち下ろした。突きの強さに負けないように力を込めて。

 その甲斐もあってか、今度は力負けすることもなく、しっかりと楽就の突きを打ち落とし、しかしそれで体勢を崩す楽就ではない。打ち落とされた勢いをそのまま利用して、持ち手を変えながら棍を回し、改めて錬の頭上へと振り下ろす。それを錬は、反発を利用して剣を跳ね上げて弾き返すと引き戻し、腰だめにしてから突きを放つ。その突きを、楽就は後ろ跳びにかわし、着地と同時に棍を大振りに横薙ぎにした。それは間を詰めようとした錬への牽制であり、その狙い通り、錬は跳び込もうとした動きを急停止させた。しかし、棍を相手に剣では間合いを詰めるしかない。縮地とか使えたらいいのに、などと考えながら、それでも素人離れした速さの足捌きで前進する。速さ重視であれば跳び込んだほうが速いが、すでに体勢を整えている楽就に向かって跳躍すれば、空中で身動きの取れないまま打ち落とされるだけだろう。

 近付く錬に対して、楽就の棍が突き出される。錬はそれに対して打ち合うのではなく、右にかわしながら剣を横薙ぎに胴を打った。右に避けたのは、楽就が棍を身体の右側に構えていたため、その逆を取ればかわしにくそうだと感じたからだ。それが正解だったのかは分からないが楽就は、錬の薙ぎを棍で受けることなく横跳びに避けると、お返しとばかりに棍を振り払い、錬も今度は合せるように剣を振るい、ふたりの真ん中で棍と剣がぶつかり合う。

 弾かれたように、ふたりが跳び退き、数瞬の攻防が終わる。

 

 どちらも構えは解かないが、錬は緊張から大きく息を吐いた。困憊(こんぱい)というわけではないが、すでに相当の疲労を感じている。それは、どちらかといえば精神的なものが大であろうが、精神(それ)が肉体に与える影響は大きく、そのせいか、錬の構えは当初の正眼ではなく、下段、土の構え、と呼ばれる構え(それ)に近いものになっていた。膝を軽く曲げて腰を落とし、上半身は前のめり、剣は切っ先を下げ、少し右へずらしている。力が抜けたせいか、無意識的に自然とそんな構えになっていたのだが、どうやら錬にとってはこれが両手で剣を扱う場合にしっくりくる構えであったらしい。のちに、楽就も李豊も揃って、獲物に飛び掛ろうとする獣の構え、と称したように。

 もっともこのとき、錬にそんな余裕はなく、ただ息を整え、楽就の攻撃に備えることしか考えていなかった。

 その楽就は、といえば、

 

「ん~~~~、たっのし~~~~~っ」

 

 ご満悦だった。

 

「うん、やっぱり剣だと強いね、士泰兄ちゃん。思ったのと違うとこから思ったより速い攻撃が来るから、おもしろいっ」

 

 もしこの場に李壮がいれば、楽就の言葉に付け加えて、体捌きに遅滞がない、と評したことだろう。それほどに、朝、棍で相手をしたときとは格段の差があったのだが、錬にその実感はない。むしろ、

 

(より押されてる気がするんだけど…)

 

 それは、手応えのある錬を相手に楽就の攻撃がいささか()()()せいなのだが、錬には分からない。ただ、ゆっくりと深呼吸を繰り返すことで息を整え、整え切ったところで、

 

「それじゃ、本気でいっくよ~っ」

 

「…え゛…」

 

 それを待っていたかのような楽就の楽しげな掛け声に、顔が引きつる。

 そして、楽就の猛攻が始まった。

 

 薙ぎ払い、突き、打ち下ろし、跳ね上げ――棍によるあらゆる攻撃が錬を襲う。それらを、捌き、受け止め、弾き返して、かろうじて防ぐ錬だったが、なまじ遅滞なく対応できることで、さらに楽就の振るう棍の速度が、威力が上がっていく。そして、

 

「はあっ!」

 

 耐え切れなくなった錬に振るわれた薙ぎ払いに、剣が弾かれて宙を舞った。からん、という乾いた音を立てて地に転がった剣を見遣って、構えを解いた楽就が棍を両肩にかつぐようにして笑う。

 

「へっへ~ん、まだまだ、だね、士泰兄ちゃん」

 

「…うん、参った。やっぱり就ちゃんは強いね」

 

 得意げに胸を張る楽就に苦笑して答えて、錬はゆっくりと息を()く。適わない、ということは朝の段階で判明していたが、まさかこれほどとは思っていなかった。その差は歴然、土台からして違う、並べて比べることさえ憚られる、そんな思いが浮かぶ錬である。さすがは“昂武”、伊達ではない、ということか。そしてそんな武力(ちから)をもつ、もうひとりの少女が、飛ばされた剣を拾い上げ、錬へと差し出す。

 

「どうぞ、士泰どの」

 

「ありがとう、季宛さん。いや、やっぱり強いですね、本気になってからは、まったく手も足も出なかった」

 

「ですが、よく捌いておられたと思いますよ。師兄に聞きましたが、戦闘経験もそれほどなく、剣の教えを受けたこともないのでしょう? たしかに体捌き剣捌きについては、まだまだ改善の余地があるように、お見受けしました。今後、経験を積まれれば、あるいは就に並ばれることも不可能ではないか、と」

 

「そうですか? そうなればうれしいんですけど…」

 

「ええ、ですので…」

 

 剣を受け取りながら苦笑する錬に、李豊が微笑む。

 

「次は、私の番ですわ、士泰どの。お相手をお願いしますね?」

 

 

 

 

 二刻(約30分)ほどのち――

 

「…待たせたな。三人とも。やはり賊どもの根城は…」

 

 藤泉里での打合せを終えて戻ってきた丁延が、状況を見て言葉途中で固まる。

 同じように一瞬は動きを止めた李壮は、ふたりの少女の様子を見て、改めて、()()()()()()()()()()()()()錬を見遣って、呆れたように大きく溜め息を吐いた。

 

「…やり過ぎだ、ふたりとも…」

 

「…え、え~と、その、ごめんなさい…」

 

「…も、申し訳ありません、師兄…」

 

 決まり悪げに頬を指でかく楽就と、ひたすら恐縮して身を縮める李豊が謝罪の言葉を口にする。それを聞きながら、もう一度大きく息を吐いた李壮は、倒れたままの錬に近寄り、

 

「士泰、大丈夫か?」

 

「…え、ええ…す、少し、休ま、せて…もらえ、れば…」

 

 呆れた様子も隠さずに聞いてくる李壮に、錬は息も絶え絶えに、少し時間をくれ、と答える。

 

「…我らの疲労具合が問題だ、という話はしたと思ったんだがな…」

 

 その様子に、状況を理解した丁延から無意識の呟きが漏れ、楽就は気まずげに顔を逸らし、李豊はますます身体を小さくし、錬は、すみません、と謝る。もっとも一息には言えなかったが。

 

「…就はまだしも、だが…」

 

 そう次ぐ李壮の言葉に、楽就は不満そうになるも言葉もなく、李豊は、

 

「申し訳ありません。その、楽しくなってしまって…」

 

 要するに、こちらの本気にある程度までつき合える相手が現れたことで(たが)が外れた、ということらしい。常から全力を出すことを制御していたことへの反動でもあったのだろう。楽就はまだしも、というのは、普段から感情豊かな楽就に比べて、常に冷静さを崩さない李豊への、ある意味での信頼から出た言葉であり、丁延も李壮も意外には思ったのだが、思い返せば、李豊にしてもまだ十代の少女だ。感情を抑制できないことがあっても不思議でもあるまい。

 

「まあ、いい。士泰はそのままで聞いてくれ」

 

 気を取り直すように咳払いをひとつ、丁延が話を切り出す。

 

「賊どもの根城は、予想通りここから更に西に60里(約26km)、使われなくなった古砦で間違いないらしい。今から出れば着くのは日暮れ後だろう。丘の上にあり、門は西と東にひとつずつ。麓までは森が迫っているらしい。夜陰に紛れれば、見つからずに近付くことは不可能ではないだろう、とのことだ。

 人数はおそらく200人ほど。昨日、士泰が斬り捨てたのを抜けば、残りは170、80といったところだろう。予想より多いが、士泰もいれば、季宛、就もいる。奇襲が決まればなんとかなるだろう。

 あと藤泉里(こちら)では、丁荘里(われら)への襲撃については把握していなかったようだ。撃退したことを伝えたら随分と驚かれておられた。このまま反撃することについては、おおむね了承をしてもらえたが、取り逃がして報復されるようなことにはならないように、とのことだ。まあ、当然の危惧だな」

 

「…そうなると、ふたつの門から同時に、あるいは突入する門とは別のほうに見張りを置く必要がありますね。相手の人数を考えれば、戦闘に参加しないまでも人手が欲しいところですが…」

 

 息を落ち着けて半身を起こした錬が口を挟み、丁延はそれに頷き返した。

 

「残念ながら人手は期待できん。藤泉里(このむら)の人たちは、どうにも腰が引けているようでな。まあ、何度も襲撃されているのでは仕方のないことだろうし、無理に連れて行って取り返しのつかないことになっては、それこそ言い訳もできんしな。

 配置についてだが、実際に砦を見てから打ち合わせよう。遠目からの確認になるだろうが、そのほうが間違いはないだろう。

 あとは、討伐後の賊の扱いについてだが…」

 

「…やはり、納得してはもらえませんでしたか…」

 

 言い淀む丁延の様子に、錬は眉間にしわを寄せた。だが、

 

「いや、服従を誓った賊に防衛を担わせる、という考えそのものには理解を得られた。どうも賊の中にも穏健な、というと奇妙ではあるが、暴力を良しとしない者どもがいるようでな…」

 

 藤泉里の村長の話では、賊の中に、ただ襲撃をして略奪するのではなく、食料その他の譲渡を促すことによって人的被害を抑えようという交渉をしてくる幹部がおり、ここ最近はその幹部を仲介役とすることにより、襲撃そのものは避けることができていたのだという。それは藤泉里と同じように略奪されていた隣村でも同様で、不本意ながら二村によって賊を養うという状況になっていたのだが、抵抗する術を持たない二村からすれば、背に腹は代えられない。致し方ないことだろう。

 

「ということで、その幹部が賊の残党をまとめるのなら、信頼はできないまでも許容はできる、ということらしい。もちろん、賊だったものにすべてを任せるわけにもいかんからな。その統御については丁荘里(われら)にて責任を持て、とのことだ」

 

「…なるほど…それで問題は?」

 

「ない、とは言わんがな。まあ、賊を降伏させたとして服従を()いるには、藤泉里(このむら)にしても隣村にしても戦力的に荷が勝ちすぎるのは確かだからな。丁荘里(われら)が中心になって統御しろ、と言われるのは当然と言えば当然だろう」

 

「そうですか。では、あとは賊を降すだけですね」

 

 よっ、という掛け声とともに立ち上がりつつ、錬は周りに集まる四人を見回して言うと、申し訳なさそうな表情の李豊が近付き、

 

「あの、もうよろしいのですか? いえ、その、ずいぶんお疲れになられたと…」

 

「ああ、もう大丈夫ですよ。うん…どうも丈夫にできてるらしいので」

 

 あちこち動かして身体の状態を確認しながら、未だに心配そうな李豊に笑いかけて、錬は手を差し出し、首を傾げる李豊に、

 

「弓と矢筒を」

 

「あ、はい」

 

 李豊が差し出す矢筒、弓と受け取り、背負い、次いで近付いてきた楽就から棍を受け取る。

 準備が整った錬を見て、丁延が、

 

「よし、それでは、向かうとするか」

 

 気合いを入れ直すように言うと、

 

「おう」

「はい」

「ええ」

「うん」

 

 四人の声が、決意を込めて答えた。

 

 

 

 

 





タイトルに偽りあり、です。
まったく休めていませんね…

作中の時間および距離についてですが、
1刻≒14.5分
1里≒430m
にて計算しています。
なんとなく
1刻≒30分
1里≒4km
という日本の単位があるので自分でも違和感がありますが、
どうも後漢ころの単位はこうだったようですので、これに
準拠させていただきました。



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八 帰服


すみません、お待たせ…しました…か?

読んでいただけると嬉しく思います。




 

 日が落ちた。

 闇夜であれば、奇襲、夜襲に利すことになっただろうが、あいにくと夜空に浮かぶは満月、煌々と地を照らしている。おかげで道を間違うこともなく、古ぼけた砦が頂にそびえる丘の麓に到着していた。

 もちろん身を晒して近付くような真似はせず、丘の麓まで迫るように茂っている森の中を進んできている。今もその木陰から覗くように丘の上を見上げていた。

 

 それほど高い丘ではない。が、一息に駆け登ることができるほど低いわけでもない。

 

「…バレますね、これは。普通なら…」

 

「ああ、確かにこれ以上は隠れて近付くことはできないだろうが…」

 

 溜息まじりの錬の呟きに、李壮は同意を示しつつも怪訝そうに眉間に皺を寄せる。

 

「…俺には、見張りがいるように思えないんだが…」

 

「…奇遇ですね、オレにも、です…」

 

 今いる場所から見える範囲に人影はない。砦に人がいない、というわけではない。閉じられた門の奥は中空が赤く染まっていて、篝火のように大きな灯りが()かれていることを示している。だが、それは明らかに門から離れた奥のほうのことであり、気配を探るに、確実にそうだとは断言できないが、門の付近に人がいるようには感じられない。

 

「ん~、もう突っ込んじゃってもいいんじゃないかなあ?」

 

 同じように様子を窺っていたものの、じっとしているのに飽きたのか、若干なげやり気味に言い放った楽就が棍を片手に立ち上がろうとする。

 

「い、いやいやいや、ちょっと待って」

 

「そうだ、ちょっと待て、就。先走るんじゃない。少なくとも長基たちが戻ってきてからだ」

 

 砦に門はふたつ。今、錬、李壮、そして楽就が監視しているのは東門にあたる。そして、丘をぐるりと回って西側にあると思われる門の確認には、丁延と李豊が向かっている。その結果によってこれからの行動は変わってくるのは当然だ。

 向こうの門もこちら同様に無防備なのか。まさか、とは思うが、近隣の村々が長らく従順だったことを考えると反撃があることなど思いも寄らないのかもしれない。そうであるならば、それは好機に他ならない。一気に片をつけようと、楽就の言うことも分からなくもないのだが、こちらも合わせて無策になる必要もない。なにより、賊を逃がしてしまうわけにはいかない。ひとりふたりなら構わないが多くを逃してしまえば、更なる報復の危険性もある上に、計画にも支障が出る。当然にして逃げ道はふさぐ必要があり、一方の門から突入するのなら、別の門を封鎖しなければならない。そのために丁延と李豊のふたりにふたつめの門の様子を探りに行ってもらったのだが…

 

「…全く警戒の様子もありません。もう、このまま突撃して蹴散らしてしまっていいのではないでしょうか?」

 

「いや、季宛さんまで…」

 

 合流してすぐに憮然とした表情を隠しもせずに言う李豊に、思わず顔を引きつらせる錬である。

 

「ただ季宛の言うことにも一理ある。ここまで油断してくれているのなら、十分に虚を突くことができるだろう。西側の門にひとり置いて、残りでこちらから突入する、それだけで十分に制圧できるのではないかな?」

 

「…であれば、あちらに回ってもらうのは、季宛か就のどちらかだが…」

 

「では、私があちらに参りましょう。そうですね…200ほど数えたのちに突入ということで、どうでしょうか?」

 

「そうだな、では、そののちにこちら側から四人で突入としよう。迅速に近付き、以勇が足場になって就に門を乗り越えてもらい、中から門を開ける、ということでいいな?」

 

 向こう側を確認してきた丁延が言い、李壮、李豊と受け合い、丁延が細かな流れを決めて確認を取る。それに全員が頷くのを見て、丁延が李豊へと向き直る。

 

「季宛はあちらの門から一息のところで待機、逃げ出すものがあるようであれば阻止するように。門を越えて突入するかどうかは季宛の判断に任せる」

 

「承知いたしました」

 

「よし。では、もう一度確認しておくぞ。まずは我ら全員が無事に帰ることが第一だ。第二に賊の制圧、可能な限り殺さず無力化することを目指す、ということでいいな?」

 

 改めて丁延が方針を確認して、四人が再び頷き、丁延が頷き返す。

 

「それでは始めよう」

 

 その言葉に全員が行動を開始した。

 

 

 

「…200。よし、いくぞ」

 

 丁延が合図を出し、四人が一斉に走り出した。先頭は李壮、次いで楽就、錬と丁延が少し遅れて後に続く。姿勢を低く、摺り足に近い足捌きで、可能な限り素早く。半ばまで登っても砦側に動きは見られない。やはり油断か、見張りの類はいないようだ。そうと分かれば、とばかりに李壮が走る速さを上げ、なんの障害もなく門までたどり着く。

 丸太を組み合わせた防壁や同じ造りの両開きの門の高さは15尺(約3.6m)ほど。その門にもたれるように李壮は向きを変えて背をつけ、両手を組んで構えた。続く楽就は、走る勢いを緩めないまま、構える李壮の両手に片足を掛けると、李壮が両手を振り上げる力も利用して跳び上がり、手や足を掛けることもなく門を越える。

 15尺以上の高さを危なげなく着地すると、楽就は素早く周りを見回し、人影がないことを確認する。

 

(なにやってんの、こいつら?)

 

 賊のあまりにもな体たらくに、筋違いな怒りのような呆れのような感想を抱きつつ、楽就は振り返って門の内側へと目をやる。門は内側に太い角材2本を閂にしてある。それを急いで外すと、振り返って砦の奥へと警戒を向けながら棍を構え直すと、後ろ向きに棍を突き出して門を叩いた。

 その音と振動は門に身体をつけていた李壮へ合図として伝わる。追いついた錬と丁延のふたりに頷くと、三人で協力して門を引き開ける。さすがにその音は大きく響く。

 

「おい、なんだ、今の音は?」

 

「東門のほうだぞ?」

 

 そんな声が砦の奥、中央へ向かう広い通路の向こう、灯りのほうから聞こえると、何人かが走る足音が続く。

 

「来るよ」

 

 楽就が短い警告を発し、それを聞いた三人は、門をくぐりながらそれぞれの得物を、錬と李壮は棍を、丁延は弓を構えた。

 

「よし、そのまま、中に就、左に以勇、右に士泰だ。いくぞ」

 

 三人の後ろで矢を矢筒から抜きながら、丁延が警戒の視線を前方の大路へと向けると、角を曲がって数人の賊徒が姿を現す。ひとりふたりと松明を灯りとしており、矢で狙い撃つには絶好の的だが、丁延は自重した。当たり所によっては殺してしまう可能性が高いし、なによりこちらに飛び道具があると知らしめることで賊の警戒を引き上げてしまうからだ。ゆえに賊側が飛び道具を使うことにのみ注意を向けることにした。もっとも砦にいて外部へと警戒しているのならまだしも、これほどに油断している賊がこの状況で弓を武装しているとは考え難く、杞憂になりそうなことは分かっていたのだが。

 

 棍を構えた楽就が先頭を切って走り、遅れまいと李壮と錬が続く。向かう先は大路の先に現れた賊徒どもだ。

 

「な、なにものだ、きさ…ぐあっ」

 

 こちらに気付いた賊のひとりが上げた誰何(すいか)の声は、楽就による棍の一撃によって断絶させられる。

 勢いが乗った跳び込み突きでその賊徒を吹き飛ばして昏倒させたが、楽就はそれに一瞥もくれることなく、着地とともに横薙ぎで次のひとりを叩きのめす。

 その左右では、李壮と錬も棍を振るって賊徒を叩き伏せ、止めを突き込むことで意識を断つ。

 一瞬で四人を、次の瞬間で更に三人の意識を刈り取ると、さすがに賊側も気を取り直し、剣を抜いて構えるが、その動きさえ隙として、あるいはそんなものには関わらずに攻め手を加え、更に四人が地に伏せる。

 

「あっ、おまえ…くっ」

 

 そこまできて、後ろにいた賊のひとりが錬を見て目を丸くすると、

 

「おい、おまえ、戻って大将に伝えろっ! こいつら、丁荘里のやつらだっ!」

 

 仲間のひとりを捕まえてそう言いつけ、覚悟を決めた表情で錬に向かって斬りかかる。錬を見知っていることから丁荘里を襲撃した集団にいた者のひとりだろう、その賊徒の剣を棍で払い除けた錬は、持ち手を替えつつ放った突きはかわされたものの、そのまま二度、三度と突きを重ねることで、その賊徒の防御を突き崩して眉間を打ち抜き、昏倒させた。

 

「よし、とりあえずは制圧したな」

 

「ひとり逃げた。そこの角を右だ」

 

 周りを見渡して、立っている賊徒がいないことを確認した李壮が言い、一歩引いて状況を注視していた丁延が指摘する。それに頷いて錬が続ける。

 

「追いかけましょう。このままの勢いで屈服させるべきです」

 

「士泰の言う通りだ。よし、行こう」

 

 丁延の言葉に止めていた足を動かし、四人は再び走り出す。

 

 大路の角を曲がると、その先に煌々と燃える篝火が見えた。

 篝火に照らされた、そこは開けた広場になっていて、その広場には100人以上と思われる人々がいた。手前には剣や槍を構えた賊徒どもが立ちふさがるようにしていたが、その後ろにはどうにも賊らしからぬ人々が怯えたように身を寄せ合っているのも見える。

 その光景に違和感を覚えた錬だったが、今は余計なことを考えている場合ではない、と足を速め、

 

「よし、突っ込んでかき回せっ!」

 

 という丁延の背後からの声に、おう、と答えたところで、

 

「待ってくれっ、降参するっ!」

 

 前方からの精一杯の大音声に、つんのめるようにして急停止した。

 

 

 

 唐突な降参宣言に、攻め込んだ四人は動きを止めた。降伏(それ)こそが第一目標だったのだから当然のことだが、かといって警戒を緩めるわけにはいかない。擬態である可能性を捨てきれない限りは。ゆえに立ち止まったものの構えを解くことなく、四人は賊の集団へ変わらず警戒の視線を向ける。

 その視線に応えるように賊徒のひとりが歩み出た。その男は、内心はどうであれ、怯みを見せずにゆっくりと錬たちのほうへと近付き、そして四人から5丈(約12m)ほどを空けて立ち止まった。それに、丁延が声をかける。

 

「…降参する、と言ったか?」

 

「ああ、受け入れてもらえるか?」

 

「まずは武器を捨ててもらおう。もちろん全員が、だ。話はそれからだ」

 

 丁延の横柄とも言える要請に、賊徒の代表らしい男は眉をひそめるが、堪えるようにして口を開く。

 

「…武器を置くのは構わない。ただ、命の保証をしてくれ。これ以上は誰も傷付けない、と」

 

「…望みを言える立場だと思うか」

 

 だが、丁延は飽くまで強気を貫く。

 それは優位に立つためだった。急襲の勢いはすでになく、もし賊らが精神的劣勢から立ち直れば、敗北はしないまでも梃子摺(てこず)ることは想像に難くない。ゆえに賊らの反抗する意志を殺いでおく必要がある。そのためにも武装解除は必須であり、精神的にも優位に立っておく必要がある。だから、

 

「まあ、いいだろう。抵抗したり逃げ出したりしない限りは、こちらから手は出さないと誓おう」

 

 と、その賊徒の要望を受け入れる。

 強圧を示しながらも寛容さを見せることによって、相手は決裂を避けるため、交渉の余地のある間に決着を得ようとする。

 

「…分かった。すぐに皆に伝えよう…」

 

 男は、溜息を隠すことなく答えると背後を振り向き、

 

「全員、武器を置け。手向かいは考えるな。今は命あるだけでも有難い、と考えよう…」

 

 その声に、騒がしく金属が落ちる音がこだまして応えた。

 

 

 

「さて、まずは質問といこうか」

 

 武装解除を確認した後で丁延は、賊徒の代表に気絶させた賊どもを広場まで運ぶよう命じた。その間に錬に李豊を呼びに行かせる。そして、それらが一段落したところで、賊徒代表の男に視線を向けた。

 

「まずは、どうして降参する気になった?」

 

「…その前に質問に質問を返すようで悪いが、あんたがたが丁荘里から来たというのは本当か?」

 

 その言葉に丁延が代表して頷く。

 

「やはりそうか…昨日、そっちから帰ってきたやつらから、散々に蹴散らされたという話は聞いている。それで討伐隊が来る前にどこか別の場所に逃げ出そうと、残った者たちで話し合っていたところだったんだが、そこへあんたがたが襲いかかってきたってわけだ」

 

 話だけ聞いていると、こっちが悪者みたいだな…そんな感想を抱きながら、錬は両腕を組んだ姿勢で、じっと男の話に耳を傾ける。どうやらこちらの思惑に近いことになりそうだな、と思いながら。

 

「音がして、門の様子を見に行ったやつの話によれば、丁荘里の小ぞ…若者に加えて、手練(てだれ)ばかりが四人。そう聞けば、無駄に抗って撫で斬りにされる危険を冒すより、降参して生き延びることに望むを託すほうがいいんじゃないか、という結論に至ったんだ」

 

「なるほど…それで、それはあんたらの総意ということでいいんだな?」

 

「ああ、そう思ってもらって構わない…構わないが、俺たちをどうするつもりだ?」

 

 丁延の問いに男は頷いて答え、しかし顔を歪め、苦しげな表情を浮かべる。

 

「通常なら、捕らえた賊は官憲に引き渡して裁きを受けさせるところだと思うが…」

 

「…なにが言いたい?」

 

「見逃してくれないか。いや、俺はいい。どのような裁きも受けるつもりだ。だが、こいつらはもう足を洗いたいと思っているんだ。見逃してくれるなら、二度と略奪を働かないように誓わせる」

 

「…随分と虫のいい考えだな」

 

 そう言ったのは丁延ではなく、錬だった。本来は、交渉は丁延に任せて口を挟むつもりはなかったのだが、思わず非難が口を突いて出た。

 

「足を洗いたいと言うが、あんたらは、これまでどれだけの他の人たちを虐げてきたんだ? 命を奪った人はどれほどいる? 今度は自分が殺されるかもしれないからもう止めたい、などとその人たちが聞いたらどう思うか、考えたことがあるか? そもそも、本当に足を洗うかどうか、信用できるとでも思っているのか?」

 

 辛辣な言葉を連ねる。その羅列に、代表の男が、そして後ろで聞いていた賊たちが、打ちのめされたかのように項垂れた。それを見た丁延に、落ち着けとばかりに肩を叩かれて、錬は気まずげに一旦は口を噤むが、丁延に視線を向け、このまま続けさせろ、という意志を伝える。それに溜息とともに顎をしゃくることで応えて、丁延が先を促す。

 

「…このまま無罪放免されようなどと考えが甘いにもほどがある。あんたらにそれが許されていいはずがない」

 

「それならっ!」

 

 悲鳴のような声は、項垂れていた賊たちの中からだった。若い、錬よりも年下に見える少年が立ち上がって叫ぶ。

 

「それなら、俺たちはどうしたらいい? もう殺したくない、奪いたくないんだ。今でも夢に見るんだ、殺したやつの顔が夢に出てくるんだ。でも殺さなけりゃ…殺して奪わなけりゃ、俺が死んでた…俺はどうすればよかったんだよっ!」

 

 それは心からの声だったのだろう。そうしなければ自分の命がなかった、と。

 それを利己的と非難するのは簡単だが、人は誰しも聖人君子ではなく、利己的であって然るべき、とも言える。

 だが、

 

「だからそれを、死んだ人に向かって言ってみろ。あるいは、その遺族に、な」

 

 錬は冷たく跳ね退けた。

 

「あんたらが不幸だったのは確かだろう。だけど、あんたらはその不幸を他の人に押し付けて自分だけ助かろうとしたんだ。それを、辛い、と言って誰が納得してくれると思っているんだ?」

 

「それじゃ…それじゃあ、俺たちはどうすればいいんだ? どうすれば許してもらえるんだ?」

 

 力なく(くずお)れると、少年は呟き、項垂れる。

 

「あんたらを許せる人たちはもういない。それができるのは、あんたらに殺された人たちだけだからだ。だから、せめて、その人たちの遺志を遂げて、その無念を晴らすことくらいしかできることはないだろう」

 

 錬が告げる言葉に、今度は少年の横にいた男が問う。

 

「それは、それには、どうしたらいい?」

 

「知らん、と言いたいところだけどな…殺された人たちにも家族はいただろう。大事な人や守りたい人が。なら、せめてその人たちを、死んだ人に代わって守るくらいのことはするべきじゃないのか?」

 

「…そうすれば、許されるのだろうか?」

 

 今度の問いは賊徒の代表の男からだった。

 

「さて、な、さっきも言ったように、本当の意味で赦しを与えられる人はもうこの世にいないし、遺族や略奪された人たちが許してくれるかも分からない。おそらくは許してなどくれないだろう。だが、あんたらがこれまでの行為が罪だと感じているのなら、改心して、その罪を償いたいと思っているのなら、許されるかどうかなんて問題じゃないだろう?」

 

 錬の言葉に、代表の男は頬を張られたかのように目を見開き、そしてその目に決意を込める。

 

「それは…そうすることは、許されるのだろうか?」

 

「それも、許されるかどうか、ではないだろうな」

 

 男の問いに答えたのは丁延だった。

 

「それこそ、あんたらに憎しみや恨みをぶつけてくる人もいるだろうし、信用されることもないだろう。それは、あんたらが甘んじて受けるべき罰だ。それでも、あんたらがそうしたい、というのなら、俺たちが話をつけてもいい。だが、よく考えろよ。そうするってことは、今度はあんたらがその守るべき人たちの代りになるってことだぞ?」

 

「ああ、分かっているさ…」

 

 男は、苦しげに顔を歪めながら返答すると、彼の仲間たちに振り向いた。

 

「みんな、俺はそうしたい。そうしたところで彼らに許されるとも限らない。むしろ憎まれたままかもしれない。それでも、少しでも罪を償えるのなら…いや、自分を納得させるために、俺は、俺が奪ってしまったものを守りたいと思う。そうすることで怪我をするかもしれないし、死ぬかもしれない。だが、そうしたいと思う。みんなに無理強いはしない。だが、もし俺と同じような気持ちでいるのなら、助けてくれないか?」

 

「お、俺は、大将についていくぞ。俺も自分の罪を償いたい。もう夢に怯えたくはないんだ!」

 

 一番にそう叫んだのは、錬に喰ってかかった、あの少年だった。それを皮切りに次々と同意の声が上がっていく。

 そして、全員が、男の言葉に賛意を示すのにそれほど時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 





ムリヤリ感がすごい…
いや、自分でもこんな簡単に説得されんだろう、とは思うんですが…
こんな簡単に改心するなら、賊になどならんだろう、とか、ね…

大目に見てくださると助かります…



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九 砦にて


サブタイトルって難しいですね…

ムリにつけようとするもんじゃない、ということを実感しました…




 

 盛り上がった熱が下がり、落ち着いたところで、仲間を見渡していた賊の代表の男は振り返ると、丁延に向かって拱手して、頭を下げた。

 

「こういうことになった。残った者たち全員であんたらに従うことを俺の名にかけて誓う。俺の名は、郭平(かくへい)、字は安進(あんしん)、真名を坦海(たんかい)という。よろしく頼む」

 

 その言葉に、その場にいたほぼ全員が驚きを露わにする。代表の男――郭平が真名を名乗り、真名(それ)にかけて誓いを述べたゆえの驚きだった。その誓いの言葉に込められた決意は、聞いた者をして無意識に居住まいを正すほど強く、特に背後にいる賊の仲間たちは、自分たちの代表である郭平の思いに圧倒されていた。それは覚悟であり、その強さは賊徒たちをして身を引き締めるものだったのだ。

 そしてその思いは丁延を始めとする丁里荘の面々にも――ただ一人錬だけは今一つ理解が及んでいなかったが――伝わっていた。だから、丁延も神妙に拱手で挨拶を返す。

 

「承知した。村々との橋渡しは請け合おう。俺の名は、丁延、字は長基。真名は預けんが、郭安進、おまえの覚悟は信頼しよう」

 

 それに続けて、李壮、錬、李豊、楽就も名乗ると、改めて丁延が話を続ける。

 

「ところで、全員と言ったが、実際に何人いるんだ?」

 

 その疑問に、少し待ってくれと答えた郭平が、指示を出して仲間たちを整列させて、その人数を確かめる。

 

「…113人だな」

 

「…あちらは?」

 

 人数の報告に、その整列に加わらなかった人々を見ながら錬が聞くと、郭平は気まずげにしながら、

 

「…下働き、といったところだ。彼女らは賊徒ではないのでな…」

 

 そう答える。その言葉通りに、年齢は様々ながらその全てが女性である。その十数人の女性たちは、賊徒からも錬たちからも距離を置いたところに身を寄せ合って集まり、怯えた表情を浮かべている。

 その様子を見て、丁延は得心がいったかのように嘆息すると、李豊へと声をかける。

 

「季宛、あの人たちの対応を頼めるか?」

 

「はい、分かりました」

 

 丁延が気付いたことに、李豊も思い至ったのだろう。李豊は素直に頷くと、その女性たちのほうへと向かい、微笑みかけながら話しかけている。

 その様子を横目で見ながら、思い至れなかった錬が隣にいる李壮に疑問を投げる。

 

「…どういうことなんですかね?」

 

「…(さら)われた人たちなんだろう。下働きとか、ほかのこととか、そんなことをさせるために生かされていたんだろうな…」

 

「…聞くんじゃなかった…」

 

 言いにくそうながらも答える李壮の言葉を聞いて、げんなりとした表情を隠すことなく、錬は吐き捨てた。

 そして気持ちを切り替えるようにして、丁延と郭平の会話へと注意を向ける。

 

「…113人? 藤泉里で聞いた話では200人近くいるとのことだったが、数が合わないな」

 

 丁延が不審に思うのはもっともだ。

 もともとの賊の数が200人いたとして、錬に斬り捨てられたのが約30人とすれば、残り170人近くはいるはず。丁荘里からの逃亡に近い撤退に際して逃亡した者がいたとしても、5、60人近い人数が消えてしまっている、ということになる。それは少々どころか、かなりおかしい。

 それに郭平が答える。

 

「足りない人数は逃亡した…というより、他の勢力に走った、というほうが近いな」

 

「どういうことだ?」

 

「丁荘里を襲いに行った奴らが戻ってきてから、全員で話をしたんだが、意見がまとまらなくてな。(かしら)や仲間をたったひとりで斬り殺せるようなのが丁荘里にはいて、俺たちはそこに喧嘩を売った。なら、遠からず討伐されるかもしれない。そうなる前に、逃げて生き長らえようという考えと、他の勢力の助けを借りて牛耳(ぎゅうじ)ろうという考えの、ふたつに割れたんだ」

 

「なるほど、そういうことか…」

 

 丁延も、横から聞いていた錬も李壮も、理解して頷く。

 

「え、と、どゆこと?」

 

 そう疑問の声を上げたのは楽就で、それに錬が答える。

 

「要するに、賊の中の血の気の多い連中が、丁荘里に仕返しするために他の賊に手助けを頼みに行った、ということだよ」

 

「えっ、それって大事(おおごと)じゃないっ」

 

「まあ、そうだな。それで、郭安進、その賊の根城まではどのくらいの距離がある?」

 

 楽就の驚きをあしらうようにいなして、李壮が郭平へと聞く。

 

「ざっとだが、100里くらいだろうか。あいつらが出てったのが今日の昼前だったから、取って返したとして、戻ってくるのは早くても明日の夕刻以降だと思う」

 

「それで、そいつらもあんたらのように考えを改めることがあると思うか?」

 

「…ないだろうな」

 

 李壮の問いに、郭平は首を振る。

 

「出ていった奴らは、丁荘里(あんたら)を襲撃した奴らがほとんどなんだが、もともと藤泉里や高丹里と食糧とかを上納させる交渉をしたことで、略奪する必要はなくなっていたんだ。それなのに襲撃をしようとした、血の気が多い、というよりも血を好む連中なんだよ。そんな奴らでも仲間だった奴らだ。こんなことは言いたくはないが…」

 

「…更生する可能性はない、か…」

 

 郭平の言葉を受けた錬の呟きに、郭平が頷き、それを見た錬が吐き捨てるように言う。

 

「…なら、叩きのめすほかないな」

 

 その言葉に、郭平は苦しそうに、哀しそうに、顔を歪ませるが、

 

「覚悟を決めろ、郭安進。あんたはもう守る側になったんだろう。それなら襲い来る奴らはあんたの敵だ」

 

 錬のその言葉に、口元を引き締めて頷いた。

 

「ところで、さっきの話の交渉をしたっていうのは、あんただったのか?」

 

「ああ、少しでも犠牲を減らせたらと思ってな。まあ、偽善に過ぎないことは分かっちゃいたが…」

 

 丁延の問いに、郭平は自嘲気味に答えるが、

 

「いや、それでもそれが藤泉里の人たちの気持ちを和らげたことに間違いはない。あんたが残党をまとめるのなら受け入れることも許容しよう、というのが村長の意見だ。そういう意味でも、あんたが残っていてくれたことは都合がよかったな」

 

「…そうか、そんなことでも無駄ではなかったか…」

 

 感慨深げな呟きが郭平から(こぼ)れた。

 

 

 

「失礼しますね、ちょっとよろしいですか?」

 

 丁延に言われた李豊は微笑みながら、その女たちに声をかけた。

 かなり気を使ったつもりだったが、それでも女たちは、びくりと身体を震わせる。その様子にいたたまれなさと腹立たしさを覚えながらも、李豊はそんな感情を面に出さないように注意して、柔らかな口調を心掛けながら更に続ける。

 

「怖がらないでくださいな、私たちはあなたがたに危害を加えるものではありません」

 

「…あんたらは、どっかほかの賊じゃないのかね?」

 

 恐々と、中でも年嵩(としかさ)だろう女が聞く。

 ああ、逃げ出した連中が戻ってきたのかと思ったのね…そう気付いた李豊は、殊更に柔らかさを意識して微笑む。自分にそれは苦手だと理解してはいたが、それでも同じ女性だということで女たちに与える安心感は大きなものだったようで、

 

「いえ、私たちは丁荘里の者です。()()()()()匪賊(ひぞく)を退治に来たのです」

 

 李豊がそう告げると、

 

「え、隣村の?」

 

「それじゃ、あたしら、解放されるのかい?」

 

「ほ、ほんとにかい?」

 

 などと、半信半疑な様子で、かすかな希望を乗せた言葉を口々に上げる。

 

「はい。少なくとも、もうあなたがたが不当に虐げられるようなことはありません」

 

 頷きながら告げられた李豊の言葉に、女たちは安堵のあまり脱力してしゃがみこみ、中には泣き出すものさえいる。

 

「それで、これからのことですけれど…」

 

 落ち着くのを待って、李豊はそう声をかける。

 

「なにかお望みがあればお聞きしますが。どうやら藤泉里や高丹里の方もおられるようですし、それぞれの村にお帰りになられるのでしたらお力添えもいたします。もちろん、いますぐに急いでお決めになられなくとも構いませんので…」

 

「あの…」

 

 李豊の、あくまでも丁寧で親切な言葉を聞いて勇気を出したのか、ひとりの女が言葉を発する。それは、丁荘里を“隣村”と言った、李豊と同じ年頃の少女だった。

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「…あの人たちのことはどうなるの?」

 

 そう聞く少女が指差すほうへと目を向けると、錬や丁延らが郭平と話し合っている。

 ああ、と心中で嘆息して、李豊はどう答えようかと瞬間悩んだ。心を安んじることを考えれば、誤魔化しておくほうがいいのかもしれない。だが、いずれ分かることで嘘を言っても仕方がなく、

 

「あの方たちには、今後は村々の防備を担っていただくことになります。どの村にも入ることはできないでしょうから、どこか近隣に拠点を作ることになると思いますけれど」

 

 だから心苦しく思いながらも正直に言うことにした。だが、少女の反応は、李豊の想像の外を行く。

 

「それなら、あたしもそこに行きます」

 

「…は?」

 

 らしからぬ声が零れ、呆気にとられて表情が抜け落ち、思考と動きが止まった。数瞬の後に、我に返った李豊だったが、それでも動揺は抜け切らない。

 

「あ、あの、それは、どういう…」

 

「あ、その、駄目ですか?」

 

「いえ、駄目ということはないのですけれど…理由をお聞きしても?」

 

「その、村に戻っても、もう家族もいないし、行くところもないから…それに、非道いことした人たちはもういないから…」

 

 うつむきながら言う少女の言葉に、釈然としないながらも、李豊は頷きを返した。

 

「分かりました。そのように取り計らうことを提言いたしましょう。確約はできませんけれど、きっとそうできると思います」

 

 少女の言葉から、彼女の境遇を理解したからこそ、その希望を叶えてあげたいと思ったからだ。もっともその心境のほうは理解できない。

 

「それじゃ、あたしもそうするよ」

 

 続いて一番初めに話をした年嵩の女もそう言うと、口々に女たちが同意を示し始める。

 

(…理解できません…)

 

 正直な感想だった。

 皆、行くところがないことや、他の村に入ったとしても居心地が悪いだろうことは想像に難くない。一時でも賊に捕らわれていた女への偏見はきっとなくならないだろうから。だが、そんな境遇に落し込んだ元凶とともにいることを望む心境には、全くもって理解が及ばない。例え残っている者たちには、直接に虐待されていなかったとしても、その仲間であったことには代わりないのだから。

 それが、ひとりふたりだけでなく、全員が、である。いったいなんなのだろう、と考えてしまっても不思議ではない。

 

「季宛さん、話は済みましたか?」

 

 面には出さずに悩んでいるところに、やってきた錬が声をかける。その声に、和み始めていた雰囲気が再び緊張する気配に気付いた錬は、必要以上に近付かないように数歩手前で立ち止まった。

 そのため、李豊は女たちに、大丈夫だというように微笑みを見せてから、錬へと歩み寄る。

 

「はい、一応は、話はつきました。みなさん、落ち着いていただけましたわ。ただ…」

 

「どうしました?」

 

 眉を曇らせ、言葉を濁す李豊に、錬も訝しげに聞く。

 

「いえ、みなさん、あの方たちとともにいる、とおっしゃるものですから…」

 

 理解(わか)らない、と眉間にしわを寄せる李豊から説明を受けて、錬は、なるほど、と呟いた。

 

「…ストックホルム症候群、のようなものかな?」

 

「…すと、く?…なんです?」

 

 聞き慣れない言葉に首を傾げる李豊に、すみません、と錬が謝る。

 

「監禁されている人が、監禁者に親近感を持ってしまう心理状態のことを指す言葉なんです。大抵は、自分の身を守る意識から、そうなってしまうらしいんですが。うろ覚えの知識ですけどね」

 

 つまりは、攫われ、虐待され、いつ殺されるともしれない状況下で、自分の身を案じてくれる人物がいれば、その人物に(すが)ることによって少しでも生存確率を上げようとするために、その人物への依存が生じる。そして共通の外敵――この場合はそれ以外の賊徒――の存在が、その依存を好意や信頼にまで押し上げた、ということだろう。

 言葉として説明はできないものの、漠然と理解した錬は、納得したように何度か頷く。

 それに対して、いまだに納得できないらしく首を傾げ続ける李豊の様子に苦笑いを浮かべつつ、錬は今後の方針を李豊へと伝える。

 

「とりあえず今夜のところは、このままこの広場で休むことになります。他の賊の集団に逃げた奴らが戻ってくるのは早くても明日の夕刻以降だろうとのことなので。念のため、彼らの中から交代で門での見張りをさせることになりました。オレたちも交代で見張りを立てますが…」

 

 声を潜めて、この場合、見張るのは彼らを、ですが、と呟き、

 

「それで、明日の朝、この砦を()ちます。とりあえずは藤泉里まで引き上げることになるんでしょうね」

 

「戻ってくる賊は放置するのですか?」

 

 引き上げるという錬の言葉に李豊は非難めいた口調の問いを発するが、錬はそれに首を振り、口の端を上げながら言った。

 

「いえ、何人かで麓の森に隠れ、賊がこの砦にやってきたところで、奇襲をかけて殲滅します」

 

 

 

 

 

 





と、いうわけで新キャラ、賊徒代表の郭平です。
またもオリジナル、さらに初めて真名を名乗ったのがこいつって…
話の展開上、真名を名乗らせるのが一番しっくりくるから仕方がないんですが、
初の--主人公以外の--真名の披露が男キャラって…
こんなことなら、李豊か楽就に名乗らせとくんだった、とか後悔してます…

原作キャラの登場もまだだったりするし…

いいかげんになんとかしなきゃ、と思いつつ、
まだしばらくこんな感じのまま進行しそうです…



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一〇 奇襲


ずいぶんと遅くなってしまいました。
もう2、3日早く書きたかったんですが…

戦闘シーン、難しいんですよね…




 

 山道を下り、森を抜けると、その丘が見えてくる。

 それほど高い丘ではないが、東側に森が広がっている以外、周辺には平野が広がっており、たった今抜けてきた山道からもまだ距離があることもあって、その頂に立てばかなり遠くまで見渡すことができるだろう。そして、それこそがその丘に砦が築かれた理由でもあった。

 往時、砦は山岳地帯を抜けてくる山賊や敵軍への備えとして、この辺りへと睨みを利かせていたに違いない。

 しかし時を経て、駐在していた軍はその任を解かれ、砦がその役目を終え、放棄されて久しい。そしてそのような砦を再生利用するのは、決まって法の下から逃奔した者ども――すなわち匪賊(ひぞく)とされる者どもだ。

 

 そして今、日が暮れようとしている中を、その丘の砦へと至るべく山道を抜けてきた集団も、そうした者どもであった。

 数にして、150。全員が徒歩(かち)で、その武装に統一性はなく、行軍の様子もばらばらで、とても組織的な統制の為された集団には見えない。

 そんな集団だが、指揮をするものは当然いる。

 

「全員、止まれっ! おいっ、止まれっつってんだよ、ぶっ殺すぞ、てめえらっ!」

 

 森を抜けたところで、集団の先頭にいた男が声を張り上げた。だが、その怒声にもかかわらず、歩くのを止めない者もいて、命令を発した男が、腰から抜いた剣を頭上で振り回し、怒気も露わに叫んでようやく止まる。まさしく烏合の衆と呼ぶに相応しい集団だ。その様子に舌打ちしながら、集団の頭たる男は傍らの賊徒のひとりに視線を向ける。

 

「おい、趙。砦に100人くらい残ってんだよな」

 

「へい、俺らが出てきたときに残ってたんは、そんくらいっす」

 

 趙、と呼ばれた賊徒の答えに、賊の頭は不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 

「ふん、その割には灯りがねえなぁ…もう逃げたか?」

 

「そうっすね、近いうちに逃げ出そうって言ってた奴らっすから、昼間のうちに逃げたかもしれねえっすね」

 

 すでに日は山の向こうへと沈み、空の色は濃くなりはじめている。普通に考えれば、見張りのためにも火を灯す頃合いだ。だが、ここから見える砦にはその様子がない。となれば、人がいない、ということになる。

 

「とりあえず、趙、おまえ、様子見て来い。おい、何人か趙についていけっ」

 

 賊の頭の言葉に、趙は頷くと小走りで砦へと向かい、三人ほどがその後に続くのを頭は見送った。

 

 

 

 一刻と少しの後。

 賊の集団がしばしの休憩をしていたところに、偵察に出ていた趙たちが戻ってきた。

 

「やっぱり、もぬけの殻っすね」

 

「趙の言う通りでさぁ。人っ子ひとりいませんや」

 

 それを聞いた頭は、そうか、と頷くと号令をかける。

 

「よし、てめえら、休息は終わりだ、立ちやがれ、ひとまず砦まで行くぞ」

 

 

 

 賊の集団が砦に着くころには、辺りは完全に夜の(とばり)が下りていた。

 砦の門を潜ったところで待機を決めた賊の頭は、まずは部下たちに命じて、砦の中を手分けして見て回らせ、人気(ひとけ)がないことを改めて確認した。その際に、食料や酒、薪炭(しんたん)などの多くが残されているとの報告を受け、頭は鼻で笑うように吐き捨てた。

 

「ふん、やっぱり逃げ出してやがったか。それも随分と泡食ってたみてえだな」

 

「そうっすね。さすがに飯をいくらかは持ってったみてえですが。あと馬は残っちゃいませんな」

 

「そうか、馬がいねえのは残念といやあ残念だが…他に気がついたことはあるか?」

 

 趙や他の部下の報告を聞きながら、賊の頭は考え込むようにして問う。

 

「…そういや、薪やなんか残ってやしたが、油はほとんどありやせんでしたね」

 

 その言葉に、賊の頭は顔をしかめた。取るものも取り敢えず逃げ出したにしては不審である。油は運搬するにはかさばる。燃料として持ち出すのなら、薪を置いて油を持っていくというのは考えられないからだ。だが、所詮は逃げ出した奴らのことだ。それを思い悩んだところで徒労というものだろう。そう結論付けて、賊の頭は、その事柄を忘れることにした。

 

「まあいい。とりあえず、それぞれの門にふたりずつで見張りを立てろ。灯り点けんの忘れんなよ」

 

 命令しながら、賊の頭は、見張りに立つ以外の部下を引き連れて砦の中央部へと歩き出す。

 

「残りの奴らは腹ごしらえだ。酒も許す。ただし見張りに立つ奴は、ほどほどにしとけよ」

 

 部下たちから歓声が上がった。

 

 

 

 開け放たれているせいか、門の外まで、砦の奥の喧噪は聞こえてきていた。

 

「…くそ、いいなあ、俺も呑みてえなあ…」

 

 東側の門を見張る賊徒のひとりが、それを聞いて羨望の声を洩らすと、隣に立つ見張りの相方も同意を示して頷く。

 

「…だよなあ…見張りなんて貧乏くじ引いちまったよなあ…どうせ来る奴なんて、いやしねえんだしよ」

 

 所詮は賊だ。他を襲うことに慣れ、また反撃されることもなかった者どもは、自分が襲われるということに対して鈍感になる。更に、もともと居た賊が逃げ出した後の砦だ。彼らには襲われることなど思いもよらないのだろう。

 だから、()()に気がついたときにも、不思議には思えど不審には思わなかった。

 

「ん?」

 

 ふと、何か感付いたように見張りの男のひとりが、宙の匂いを嗅ぐように鼻を鳴らした。

 

「どうした?」

 

「いや、なんか変な匂いが…」

 

 言いながら辺りを見回すと、門の脇に樽が置いてあるのに気がつく。

 

「なんで、こんなところに樽が?」

 

 樽につめるものといえば水や酒などの液体で、となればそれらが門のそば(こんなところ)にあることなど通常はないだろう。

 不思議に思いながら、見張りの男は樽に近付き、手を触れる。べたついた感触に顔をしかめながら、触れた手の匂いを嗅ぎ、

 

「…油?」

 

 不思議そうに呟く。そういえば、油がほとんどないとか言ってたなあ、と思った、そのとき、

 

 どぉん…

 

 と、太鼓を叩いたような音が鳴り響き、次いで、ひょう、という風を切る音とともに、男の目の端に赤く光る何かが過ぎり、()()が音を立てて目の前の樽へと突き立った。

 

(…火?…)

 

 認識した瞬間、(それ)が爆ぜるように膨れ上がり、視界を赤一色に染め上げる。それは勢い激しく飛び散ると、樽を覗きこんでいた男ばかりか、砦の防壁をも呑みこむようにして燃え上がらせた。

 

「あ、あああああ、あついあつ、い゛、あ゛、づ…」

 

 全身を炎に包まれた男が、痛苦に叫びながら転げ回り、しかしその絶叫は数瞬もおかずに立ち消える。その様子に、

 

「お、おい…」

 

 もうひとりの見張りがたじろぎつつ、声をかけるが、それは余りにも現状への認識に欠けた対応だった。そして、その過誤の報いが、その賊徒に襲いかかる。

 

「あ、が…」

 

 再び、ひょう、という風切音を耳にした賊徒は、首に走った激痛に絶叫を上げようとした。だが、その声は喉で詰まってしまって外に出ることはなく、ただ喘鳴(ぜんめい)のように空気だけが口から洩れる。

 

(あ、あ、ああ…)

 

 湧き上がる絶望感に、ゆっくりと激痛のもとに手をやれば、その手は、喉を貫くものを、そこから流れ出る熱さを感じ取り、そして、視界は暗転した。

 

 

 

 己の放った矢の行方を見守るように眺めていた錬は、弓を下ろすと、ほうっ、と溜め息を吐いた。

 思い描いた通りに、第一の火矢で油を詰めた樽を射抜いて出火を誘引し、第二矢で見張りを倒すことに成功した。見れば、引火した樽の油が飛び散ったことによって、燃え上がった火炎は砦の防壁へと飛び火し、また門の際に設けられていた篝火をも呑みこんで延焼を広げようとしている。これで、

 

「よし、これで準備は整った」

 

 錬は呟くと、背後を振り返り、

 

「いくぞ、突入だ!」

 

 号令を出すと、それを聞いて弾かれたように真っ先に砦へと走り出したのは楽就だ。それに錬が続き、元賊徒たち、20人が続いた。

 坂を登り上がり、開かれたままの門を通り抜ける。

 

「それぞれ決まったとおりに動けっ! いいな、火付けのほうは無理をするなよっ!」

 

 錬の叫びに、続いて突入した元賊徒たちの半数が返事を叫びながら、数人の組に分かれて走り去る。

 彼らの仕事は、錬の言葉通りに火を付けて回ることだ。砦を出る際に、油を小分けに袋詰めにしたものを各所にぶら下げる形で仕込んであり、紐を切って油をぶちまけ、火を付けて回るだけで事足りるようにしてある。

 そして、楽就、錬のふたりと残った元賊徒たちは更に先へと進み、昨日と同じように砦の広場へと向かう。

 走りながら周囲へと視線をやれば、すでにそこ彼処(かしこ)で火の手が上がり始めており、それは砦の西側でも同様で、それは西門からも同じように突入が為されているということだ。

 それを表すかのように、その西門の方向から李豊を先頭に元賊徒たちが駆けてきており、そして――

 

「て、てめえらっ」

 

 動揺も露わに飛び出してきた賊たちを、丁度挟撃する形になった。

 

「く、くそっ」

 

 そのことに気がついた賊どもは、己に降りかかりつつある状況に恐慌を来したのか、連携もなく、ただ我武者羅に斬りかかろうとし、ひと際速く飛び出した李豊の槍と楽就の棍によって、貫かれ、叩きのめされて地に伏せる。そのふたりを援護するように、錬が、西側では同じように丁延が矢を放って、ふたりに斬りかかろうとする賊を射抜いていく。

 

「あんたらは控えて退路の確保をしながら自分の身を守れ。あとは火の手に注意してヤバそうになったら声をかけろっ」

 

 錬は後ろの元賊徒たちにそう命令を下してから、再び弓に矢を番え、無造作に放つ。矢は、死角から楽就に斬りかかろうとしていた賊徒の側頭部へと突き立ち、その命を絶ち切った。

 

 完全な奇襲、そして焼き討ちにより、敵賊徒どもの戦意は粉微塵に砕け散っている。反抗するも、それは目前に現れた敵への反射的な行動であって、なんらかの意志が働いたゆえのものではなかった。また酒気に侵され、身体的にも精神的にも万全には程遠い状態のものも多数いる。

 そんな状態の賊徒どもが、李豊と楽就、ふたりの昂武に加えて、援護の矢を放つ丁延と錬の攻撃に対抗できるはずもなく、次々と、槍で、棍で、弓矢で倒されていき、

 

「だ、だめだ、殺されるっ」

 

「に、にげろっ」

 

 彼らにできることは、迫る直近の死からの逃亡だけだった。

 

「逃がさないっ」

 

 当然のこととして、楽就はそれを追いかけようとして、

 

「待った!」

 

 錬の制止の声に急制動をかけて立ち止まる。

 

「なにっ? 逃がしちゃうじゃないっ!」

 

 戦闘に()てられたのか、楽就は苛立ちを含んだ声で叫び、制止した錬を睨んだ。

 辺りに転がる賊徒は100にもなろうかという状況で、この勢いでこのまま追撃をかければ、ひとり残らず打ち倒すことも可能だろう。だが、

 

「思ったよりも火の回りが早い。深追いすれば脱出できなくなる恐れもある。予定より早いけど撤退したほうがいい」

 

 合流した元賊徒たちからの報告を受け、実際に砦の各所で上がる火の手を見て、そう結論づけた錬が言うと、それに口添えするように、火を付けて回っていた元賊徒が告げる。

 

「その通りで。俺らの入ってきた東の門は、もう燃えちまって出られねえくらいでさあ」

 

「て、ことだから、このまま全員で西門から出るよ」

 

「む~、それじゃ、あいつら、ほっとくの?」

 

 錬の撤退指示に、楽就は賊の逃げた広場のほうを睨みながら不満げに唸る。

 

「あっちのほう、まだ火が回ってないみたいだし、逃げられちゃうんじゃない?」

 

「いや、油は防壁に沿って仕込んであるからね。逃げ道はない。それに火事で怖いのは、火そのものだけじゃない。早く逃げるに越したことはないよ」

 

 錬の頭にあるのは、一酸化炭素中毒のことだ。実際、火事による死因では、火に焼かれたものと一酸化炭素中毒によるものは、ほぼ同率だ。もっともそれは、平成時代の火事が密閉された空間で起こることが多いからであって、この砦のような上部が開放された場所で同様なのかは不明だ。それでも火は思いも寄らない広がり方をすることは変わりなく、余裕をもって脱出したほうがいいのは間違いがない。

 

「でも…」

 

「士泰の言う通りだ。俺たちの最優先は無事に帰ることだぞ」

 

 と、丁延が言えば、楽就も渋々ながら頷く。

 

「それで、もう全員揃いましたの? それなら早々に外へ参りましょうか」

 

 集まった人々を見回しながら李豊が問いを投げると、それぞれから肯定の声が返ってくる。それを聞いた李豊が撤退を促し、丁延が頷く。

 

「ああ、それじゃ、撤退するぞ。西門へ急げっ」

 

 丁延の号令に、全員が西門へと走り出した。

 

 

 

 奇襲は成功だった。大成功と言ってもいいだろう。

 

 敵が拠点を欲して、まずは砦を目指すだろうことを予測して、奇襲を仕掛けるために資材をそのまま残して油断を誘う。上手くいけば酒に溺れることもあるだろう。

 そして焼き討ちを効果的に行うために砦の各所に油を仕込んでおく。容易く火を付けるために、油を詰めた袋をぶら下げておき、その紐を切るだけで油が飛び散るように。そこに松明を投げ込むだけで火を付けられるように。

 

 奇襲そのものは、両側の門から。太鼓を合図として、東門では錬が、西門では丁延が、弓矢でもって見張りを倒したのちに突入する。突入するのは、東門から錬と楽就、そして20人の元賊徒。西門からは丁延と李豊、そして東と同じく元賊徒20人。残りの元賊徒は、李壮と郭平が率いて藤泉里近辺まで退いている。戦闘に慣れていない者や非戦闘員がいること、そして場合によっては砦ではなく村を襲撃する可能性を否定しきれないため、その見張りを兼ねて念のため、である。こちらに李壮をつけたのは、元賊徒たちの心変わりを防ぐためと、もし藤泉里にその存在が知れた場合に交渉役となるためだ。

 

 それら全てが、錬の頭脳から出た作戦だった。

 細部については、丁延や李壮、郭平との打ち合わせから詰めたものもあるが、基本的な筋道は錬の考えから外れたものではない。それがことごとく図に当たったのは、決して錬の深謀遠慮というわけではなく、ただ相手が所詮は賊でしかなかったから、ということだろう。

 だが、それでもその作戦が大成功を収めたことに変わりなく、それは元賊徒たちにあるひとつの心情を植え付けた。それは元賊徒たちに限ったことでなく。

 

「それで、これからどうする?」

 

 西門から脱出したところで、丁延が錬に質問を投げかける。それに少し考え込むようにしてから、

 

「…丘の中腹辺りまで下りましょうか」

 

 そう錬は答えた。

 

「門から逃げてくる奴らはどうするの? 門の前で待ち伏せたほうがいいんじゃない?」

 

「いや、それだと破れかぶれになられるかもしれない。そうなると余計な被害が出かねない。だから、丘の途中で、道から逸れたところで伏せておく。それで逃げてきた奴らが通り過ぎたところを後ろから突っ込む。そうすれば逃げることしか考えられなくなるだろうからね」

 

 そして、錬の予想通りの結末を迎えることになった。

 

 

 

 

 





さて、ようやく賊討伐に決着がつきました。
次話でその後始末をして、一章完了の予定です。

最後のほう、駆け足になっちゃって少し凹んでます…




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一一 帰還


やっと一章が終了です。

事後処理話の今回は少なめです。




 

 門から辛うじて逃げ出した賊の残党が、敗北感を抱えたまま本拠地へと撤退しようした、その背後から追い討ちをかけて、散々に蹴散らした。それゆえに、

 

「数人が逃げ延びましたけれど、追いかけますか?」

 

 と、李豊が言うように討ち洩らしが生じた。だがそれに対して錬は首を横に振る。

 

「いや、これ以上の追撃は必要ありませんよ。逃げた奴ら、こっちの名乗りを聞きましたよね?」

 

「ええ、私も就もしっかりと名乗りましたので、聞いたとは思いますけれど…」

 

 錬が言うのは、追い討ちをかける際に、こちらの正体を賊に知らしめるために名乗りを上げるように指示していたことだ。余計な恨みを買ったのではないか、と心配する李豊だが、

 

「これだけ一方的に蹴散らされたんです。恨みより恐怖が先に立ちますよ。あとはこれが噂話にでも広まれば…」

 

「…なるほど。私たちに手を出す愚を知らしめる、というわけですか」

 

 錬の答えを聞き、得心する。さすがに、今回のことだけで賊の来襲が皆無になるまでの成果は望めないだろうが、多少でも二の足を踏ませることができるというわけだ。そして、それでも襲撃を行おうという賊がいるのならば、これを撃退してさらに噂を広める一手にすればいい。

 

「…お人が悪いですわね、士泰どの」

 

「戦略的だと言ってほしいなあ」

 

 冗談めかした半眼横目(じと目)を寄越す李豊に、こちらも冗談めかして軽薄に笑いながら錬は背後の丘を振り返った。頂にある砦は、絶賛炎上中だ。

 

「…燃えてるなあ。大丈夫かな? 簡単に鎮まりそうもないけど、火災(あれ)…」

 

「…その指示をお出しになったのも士泰どのだったはずですけれど?」

 

 話を逸らした先で、改めて捕まった錬である。焼き討ちを提案したのは、砦を使いものにならなくすることで、帰順した元賊徒たちの精神的な逃げ口を断ち切る意味合いもあった。だから錬は、砦を可能な限り全焼させるような仕込みを指示していたわけで、その錬が先程のようなことを言えば、どの口が、と呆れかえるのは、確かに李豊だけではないだろう。

 やりこめられた錬が、言葉もなく視線を宙に彷徨(さまよ)わせるのを見て、李豊はくすりと笑みを浮かべた。

 

「丘の草木はまだ水気を保っていますから、類焼の恐れはないでしょう。明日には鎮まるのではないでしょうか」

 

 

 

 李豊の言葉の通りに、砦の火災は明け方ころには勢いを弱め、ほぼ鎮火したように見えた。

 念のため、熱が冷めるのを昼頃まで待ってから、手分けをして砦内の見分を指示する。

 まず居なかろうが、賊の生き残りがいないかどうか。さらには燻ったままの火種が再燃を起こす危険性について確認をしておくためだった。

 幸いにして、火災は完全に治まったようで、見回りから戻ってきた全員から、問題なし、との報告が上がってくる。その報告をする元賊徒たちが、一様に何かを堪えるような表情を浮かべ、中には涙ぐんでいる者もいるのを見て、錬は罪悪感に駆られるが、必要な措置だったと言い聞かせて表情を引き締めた。引き締めたつもりだったのだが、

 

「これは奴らも同意したことだ。気にすることはないぞ、士泰」

 

「彼らも覚悟を持って臨んだはずです。滅入り過ぎては反対に失礼ですわよ、士泰どの」

 

「士泰兄ちゃん、大丈夫?」

 

 などと心配される始末。そんなに分かりやすいのか、オレ…と、違う意味でへこむ錬であった。

 

 ともかく――

 

「それでは、撤収する。行き先は藤泉里だ」

 

 整列させた元賊徒たちに向かっての一声で丁延は、今回の賊討伐の終わりを告げた。

 

 

 

 藤泉里近郊へ先に撤退していた集団と合流したころには、すでに日は西の空に落ちかかっていた。

 合流地点には昨夜より宿営の準備がある程度は整っていたため、そのまま同じ場所で野営することにする。もっとも天幕などがあるわけではなく、四方に杭と縄で囲いを作り、簡易なかまどで炊事ができるようにした程度のものだが。そしてその準備の間に、丁延が藤泉里の村長のもとへと赴き、事の次第の報告をする。

 翌日、李壮が馬を駆って、もうひとつの村である高丹里へと報せるために別行動へと移り、そして元賊徒を率いて、丁延らは丁荘里への帰還の途に着いた。

 

 元賊徒たちに村外での待機を指示し、丁延、李豊、楽就、錬、そして賊徒の代表として郭平が門をくぐった。

 

「おお、長基。無事にもどったか」

 

「季宛ちゃん、就ちゃん、怪我はない? よかったねえ」

 

「白どの、以勇から聞きましたぞ。活躍だったようですなあ」

 

 集まってくる村人たちが、彼らの無事を喜び、その健闘を称える。その中には、錬へと掛けられた言葉(もの)もあって、思わず目を丸くしてしまった錬だったが、我に返って礼を返した。

 その言葉にあったように、高丹里へと向かっていた李壮はすでに戻っていたようで、村長宅である丁家へと向かえば、その入口前に村長である丁旋とともに待っていた。

 

「丁老。ただいま戻りました」

 

「うむ、よう戻った。無事で何よりじゃ。皆も、の。御苦労じゃった」

 

 丁延が拱手して帰還の挨拶をすると、丁旋は満足げに答え、そして孫の後ろの三人へと労いの言葉をかける。三人もそれに応えるように拱手してみせ、最後のひとりも無言で拱手する。

 

「…ふむ、そちらは?」

 

「はい、彼が降伏した賊徒の代表の郭安進です」

 

 丁旋の疑問に、丁延が答え、続いて郭平が拱手したまま、名を名乗る。

 

「お初にお目にかかります、丁村長どの。郭平、字を安進と申します。我が真名、坦海に懸けて、我が部下とともに丁荘里のために尽力させていただきます。今後、よろしくお願いいたします」

 

 その名乗りに、丁旋は一瞬、目を丸くしたものの、ひとつ頷く。

 

「うむ、儂は、丁旋、字は回豊と申す。今後はよろしく頼む」

 

「はっ」

 

 そういった挨拶ののちに、三村の防備を担うことになる元賊徒たちについての話し合いが進められる。

 まずは情報の伝達。元賊徒の人数や構成、組織形態などについて郭平が報告する。とはいえ、元賊徒。組織だって切り盛りされていたわけではなく、そういった事柄は今後の課題ということになるだろう。

 今後については、丁延らが話した通りに、三村の中間地を拠点として三村の防備を行うことになる。当然にして現状では、その周辺に拠点となるものはなく、これから築く必要があり、それまではとりあえずとして、この丁荘里に滞在することを許された。

 そして――

 

「その防備に関する指揮は、士泰どの、あんたにとってもらおうかの」

 

「…は?」

 

 まさしく、面喰った、という表情で、(ほう)けた声を上げる錬である。正直にいえば、自分にはあまり関連がないと思っていたのだ。

 

「え、いや、オレ、ですか?」

 

 戸惑いから疑問を口にする錬を横目に、丁村長の言葉に頷いて見せたのは丁延だ。

 

「そうですね、俺も士泰に任せるのがいいかと思う。戦闘の際の指揮ぶりを見ても不足があるとは思えませんし、指揮下に入る奴らと面識もある。郭安進、あんたはどう思う?」

 

「はい、異存はありません。士泰どのが指揮を執られるのならば安心できるというものです」

 

 先日の砦での戦闘で、ひとりの犠牲も出さずに敵を撃退する策を考え出したという事実が、錬への信頼を生み出していた。とはいえ、それは周囲の感慨であって、当の本人にいたっては全く自覚はないのである。

 

「いや、しかし、オレは、余所者ですし、前に言ったように経験もありませんし…そりゃあ、今回で多少は積みましたけど…まとめ役というのなら、長基さんか以勇さんのほうがいいんじゃないですか?」

 

「俺や以勇には、丁荘里(このむら)での役割もあるんでな。それを放ってそちらに専念はできん」

 

「そういうことじゃ、士泰どの。是非に彼らの長を頼みたい。無論、士泰どのへの指示は、儂や長基らからさせてもらうことになるじゃろう。なにもかもをあんたに任せようというわけでもない。そう重く考えんでも、まずはやってみてくれんかの?」

 

 丁旋からも言われ、錬は唸りながら考え込む。

 丁村長の言葉を考えれば、最終的な責任者というわけでもない。例えるなら、丁旋が校長で、丁延が生徒会長。そして錬が風紀委員長、といったところか。状況によっては、副会長たる李壮や会計、書記の李豊、楽就辺りの手助けも得られるだろうし、郭平副委員長も協力してくれるのは間違いがない。

 

(それなら、まあ、なんとかできないこともないか…な?)

 

 そう結論付けて、錬は自分に降りかかった数奇に思わず内心でため息を吐いた。

 

後漢末(ここ)に来て、まだ5日なんだよなあ。なんて言うか…怒涛の展開ってこういうのを言うんだろうなあ…)

 

 そして、覚悟を決めるように深呼吸をひとつすると、丁旋へと拱手する。

 

「分かりました。どこまでやれるか分かりませんが、引き受けさせていただきます」

 

 

 

 

 

 





一章がようやく終わりました。
ということで、防備隊隊長の白士泰の誕生です。

二章は、この数か月後、錬も隊長職に慣れて、という辺りからになります。
そろそろ錬も身の振り方が決まってくるはずです。
ようやく原作キャラも、ちらほらと名前が出てくる予定です。

いや、自分でも一章で全く原作キャラが出てこないとは思っていませんでした…




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二章 仕官
一 警備隊


二章の始まりです。

錬たちによる賊討伐から四か月後となります。




 晩夏の空は、抜けるように青く透き通って見えていた。

 その下を吹き抜ける北風は、乾いた冷気を内包していて、遠く北の地には早や冬の訪れが近付いていることを知らせてくる。

 

 そんな涼風に吹かれる前髪が視界で揺らめく様子に眉をひそめながら、錬は手綱から離した左手で髪をかき上げると、

 

「長くなったな。そろそろ切るか」

 

 と、独りごちた。手綱を離されたことを敏感に察知した馬が、立ち止まり、どうかしたのか、と問いたげに首を巡らせて見つめてくるのに、苦笑を浮かべて、なんでもないと答えるように首筋を叩いて前進を促す。

 馬を進めながら錬は、空に、風に、周囲の光景に、季節の移り変わりを見つけて、感慨深げに大きく息を吐き出した。

 

「そりゃあ髪も伸びるか。それなりに経ったもんなあ」

 

 あれから四か月が過ぎていた。

 あれから、とは、錬がこの世界に迷い込んでからであり、匪賊を討伐してからであり、錬が警備隊の隊長に就いてから、のことである。

 

 季節は、盛夏を過ぎ、秋を越えようとしている。

 

 その間、丁荘里の周囲が平穏だったか、と言えばそうではない。

 やはり、と言おうか、錬たちが討伐した匪賊がこの周辺を縄張りとしていたことが、他の匪賊の介入を防ぐ役割をはたしていたようで、その障壁が除かれたことが彼らの欲望を刺激したらしい。

 この四か月で三度、匪賊の襲撃があった。数十人程度の集団によるものである。

 その三度ともを錬率いる警備隊は、負傷者や戦死者を出したものの、守るべき三村に被害を出すことなく撃退していた。そしてその成果によって、藤泉里と高丹里の人々の対応は徐々に軟化してきている。今はまだ信頼を得ることはできずとも、いずれは受け入れてもらえるだろう、と錬は考えている。

 

 警備隊の運営は順調と言えるだろう。

 拠点は徐々に整い始めている。宿舎や井戸、炊事場などの生活必需施設は設置が終わり、警備隊の人員は丁荘里から居を移している。今は、倉庫や厩舎、練兵場などの兵舎施設を造り始めているところだ。また拠点周辺の土地を耕作地として開拓も始めている。今はまだ三村から食料等のすべてを融通してもらっているが、いずれは拠点である程度を賄えるようにするつもりだ。

 そういった作業と並行して、戦闘訓練も行っている。今のところは個々の体力や戦闘技術の向上を目標に、隊長である錬や元兵士という経歴の郭平副隊長だけでなく、李壮や李豊、楽就が指導してくれている。今では、李壮曰く、“新兵以上”にはなっており、そろそろ集団戦闘の訓練を始めたい、とのことだ。

 

 それらの日常業務を効率よく進めるために、近隣の哨戒任務、藤泉里と高丹里の歩哨任務、拠点整備作業、開拓作業の四つに分け、五つの組が交代でそれぞれの任務に就く。余る一組は非番として休息だ。そうすると一組が20人ほどになるが、実際には更に細かく、五人を一組としての伍を隊の最小単位として、郭平副隊長が管理し、それぞれの伍を、それぞれの任務に割り振っている。

 かつては捕らわれていた女性たちには、拠点における炊事や掃除、洗濯などをお願いしたのだが、快く引き受けてくれ、錬としては感謝したものである。錬もそうなのだが、元賊徒たちは一様にそういった作業を苦手としていたので。

 

 そういった運営について、根本は錬が考えたものだが、それは構想だけで、実際に詳細を詰めて実践することについては、錬は全くの役立たずだった。まあ、当然と言えば当然だろう。つい数か月前まで平成時代で浪人生をしていたのだから、そんな組織運営のことなど知る由もない。思いつきに近い錬の構想を、画し、形にしたのは、丁延であり、郭平である。

 

 ともかく当初の思惑通りに多くの助けを得ながら、警備隊は順調に三村の間で存在感を増している。

 今、錬が馬を進めているのも、その影響によるもので、高丹里の村長のもとを訪れ、警備隊の歩哨や村の防衛施設の建設などについて相談をした、その帰りだった。

 

 ゆっくりと馬を進める錬は、高丹里でのことを思い返す。

 高丹里でも、ようやく見張り台を村内に建設することを許された。それは、元賊徒でもある警備隊が村内へ立ち入ることを許された、ということであり、

 

「また一歩前進ってところだな」

 

 ということであった。

 実際に歩哨に立つ者も、そういった村人からの対応が変わってきていることを肌で感じていて、認められ始めていることを喜びつつも、受け入れられていいのか、という戸惑いを伝えてきていた。

 

「…あのとき、虐め過ぎたかな?」

 

 思い返すのは、彼らを降したときのことだ。いささか感情的になり過ぎた、あのときのことは自分でもあまり思い出したくはない事柄であったりするのだが。

 

 麦の刈入れののちに蒔かれた大豆が、すでに収穫を待つほどになった畑に囲まれた中を、錬はそんなようなことをぼんやりと考えながら、拠点へと馬を進めていった。

 

 

 

「おかえりなさい、隊長」

 

 拠点の門をくぐる錬に、少年が駆け寄ってくる。それは錬に詰られたときに喰ってかかった少年だ。姓名を、梁綱(りょうこう)、字を奉武(しんぶ)という。何故か錬を敬慕しているようで、錬の侍従のような労務に率先して就こうとする。例えば今のように出迎える等、その様子はまるで主人を迎える忠犬のようで、錬は口元に笑みを浮かべて下馬すると、その少年に手綱を預けながら、

 

「ただいま、奉武。なにか変わったことは?」

 

 と、尋ねた。

 

「いえ、特には…あ、李さんが来てますよ。なんでも丁村長さんからの使いだとか」

 

 この場合の、李とは李豊のことだ。李壮だと、警備隊の面々は、李師範、もしくは師範とだけ呼ぶ。

 

「ふむ、そうか…なにかあったのかな?」

 

 呟くと、馬の世話を梁綱に任せて宿舎へと向かう。正確には、その一角にある隊長室だ。もっとも言葉ほど立派なものでもなく、ただ事務処理を行う部屋というだけで、その事務処理は隊長の錬と副隊長の郭平しかしないため、隊長室と呼ばれているだけなのだが。と、言っても、その事務処理自体を錬ができるようになったのもごく最近のことで、その理由は錬が(このくに)の文字を解さなかったためだ。最近ようやく、なんとか、かろうじて、漢語の読み書きができるようになるまでは、主に郭平が担い、また丁延や李豊も拠点に来たときには手伝ってくれていた。

 

 考えてみれば、この四か月で随分と変わったものである。

 完全とは言えないまでも漢語を使えるようになり、平成の日本では当然だった(くら)(あぶみ)などの馬具を用いないでも馬に乗れるようになり、李壮を相手に剣なら互角、槍でもそこそこ打ち合えるようになった。匪賊相手ではあるが集団戦闘の指揮も経験し、警備隊という組織運営の職務にも慣れ、警備隊の隊長として敬意を払われるようになった。

 そして、

 

「あら、おかえりなさいませ、士泰さま」

 

 李豊からは何故か、様付けで呼ばれるようになった。

 

「…ええ、ただいま戻りました、季宛さん」

 

 正直、落ち着かない錬である。

 こんなふうに呼ばれるようになったのは、いつからだったろうか。今となっては曖昧だが、錬としては当然、理由を聞きもしたし、また以前の呼び方に戻してくれとも頼みもしたのだが、結果は言わずもがな、である。

 

「お疲れさまでした、隊長。それで首尾はいかがでしたか?」

 

 微妙な表情を浮かべる錬に、表情に変化はないものの明らかに愉快がっている李豊。そんなふたりを見て、内心で溜め息をつきながら、郭平は問いを投げる。

 

「あ、ああ。上手くいったと言っていいだろうな。見張り台の設置許可は得られたから、任務に組み込む準備を頼む。調整できたら高丹里の村長に報告して対応してくれ」

 

 「了解しました」

 

 指示に頷くと、郭平は一礼しながら、錬に分かるように李豊へと視線をやって見せる。元賊徒とは思えない気配りの良さに感謝しつつ、錬は再び李豊へと向き直る。

 

「…さて、お待たせしました、季宛さん。それでどうしたんですか?」

 

 気を取り直して聞くと、何故か李豊が表情を無くした。いや、もともとあまり感情を面に出す女性ではないのだが、何時にも増しての無表情っぷりは逆に内心を際立たせる。つまりは不機嫌。

 

「…丁老のところに(えん)どのがいらっしゃいまして…また、士泰さまに頼みごとがあるのだとか…」

 

 なるほど、と錬は頷く。

 

 李豊の言う“閻どの”とは、閻象(えんしょう)、字を方全(ほうねん)と言い、以前より丁旋村長と面識があり、丁荘里に出入りしていた博望の女性商人のことだ。博望でも十指に入る大きさの商家の主で、行商を幾人も抱えて差配する立場から各地の情勢にも詳しい。なんでも先代だった彼女の父親と丁旋村長が友人であり、その伝手で互いに融通し合う間柄だということだ。

 そして、錬配下の警備隊発足後の、とある事情による資金不足に援助を申し出てくれた人物でもあった。もっとも無償援助であるわけはなく、要請があれば、錬あるいは警備隊の力を提供することを交換条件として、である。それくらいならば、と当時は軽く考えて了承したのだが、以降、何かにつけて錬は彼女に連れ回されることになった。主に彼女自身が他都市へ赴く際の護衛役として。閻家には勤仕する護衛もいるのだが、彼らには隊商の護衛を優先させることも多いため、その代わりとして錬に御鉢(おはち)が回ってくるのである。

 

 それは、この四か月で三回にも及ぶ。その都度、錬やその他数人が数日から十数日、留守をすることになり、警備隊に関わる人々の、少なからぬ不安と不満の原因となっている。隊長の留守時に匪賊の襲来があればどうするのか、というわけだ。

 もっとも錬からすれば、留守を預かる郭平は信頼に値するし、その場合には李豊や楽就が率先して警備隊の補佐をしてくれているため、それほど心配はしていない。

 更に、閻象が護衛を依頼してくるようになったのは、ここ二か月ほどのことなのだが、その二か月間に丁荘里を含む柳河郷近辺に賊の気配はすでになく、ゆえに賊の襲来などはあるわけがない。閻象はそういった情報をつかんでおり、警備隊が危機に陥ることがない時宜を選んでいるようで、十分に配慮してくれている、と錬には感じられていた。

 まあ、そうでなくとも閻象は警備隊の後援者であり、その意向を無碍(むげ)にはできないのだが。

 

「わかりました、すぐに向かいましょう」

 

 李豊へはそう返答し、次いで郭平へと向き直る。

 

「安進、すまないが、また留守を頼むことになりそうだ。高丹里の見張り台の件だが、完成までは周辺の哨戒を強化してくれ。無用な心配だとは思うが、村の人たちに少しでも安心してもらえるように、な。仔細は任せる」

 

「はっ」

 

 錬の指示に郭平が(うべな)ったところで、梁綱が厩に馬を入れたことを報告にやってきた。

 だが当然、馬をもう一度引き出す必要が出来てしまっている。

 

「ああ、すまん、奉武。すぐに丁荘里へ行くことになった。入れてすぐですまないが、馬の準備を頼む。お前も、とりあえず丁里荘までは一緒に来てもらうから、そのつもりでな…季宛さんは?」

 

「私は歩いて来ましたので…後ろを貸していただけますか?」

 

「分かりました。では、オレの後ろですみませんが、お願いします…と、言うわけで、奉武。二頭準備してくれ」

 

 

 

 というわけで、錬は拠点に戻ってすぐに、梁綱を伴い、李豊を後ろに乗せて、丁荘里へと馬を走らせることになった。

 

 

 

 

 

 

 




短いですが、二章の一話目です。

四か月、とびました。
錬、成長しました。

正直、短いかな、と思わないでもないですが、これ以上時間かけると違うところに違和感が出そうだったので、まあ、そういうものだと思ってくれると助かります。

さて、新オリキャラの梁綱くんの登場です。
いえ、登場だけは以前にしていましたが…
あと、オリキャラしかいませんが…
…とにかく錬の側近副官候補になる予定です。

実際に錬にひっついていくのは少し先になりますが。

次回は、また新キャラの閻象さん登場。
そして(多分)次々回で”あの人”が登場予定です。
乞うご期待!…て、自信持って言えたらいいなあ…



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二 閻象

 

 馬を走らせれば、拠点から丁荘里までそれほど時間はかからない。

 日が暮れる前に丁荘里に到着した錬たちが、門の前で馬を止めると、

 

「お疲れ様です、隊長」

 

 近付く騎馬が自分たちの隊長だと気付いて警戒を緩めた警備隊の歩哨が拱手して挨拶をしてくる。それに、

 

「ああ、ご苦労さん」

 

 そう答えて錬は、後ろの李豊が馬から降りるのに手を貸すと、自らも下馬した。そして、

 

「通らせてもらうよ」

 

 と伝え、そのまま手綱を引くと、李豊と、同じように手綱を引く梁綱を伴い、門をくぐって村内へと入る。

 そんな錬や李豊らに気付いた村人たちが気安げに寄越す挨拶に答えつつ歩きながら、錬は首だけで李豊へと振り向いて、

 

「丁村長の家でいいんですよね、季宛さん?」

 

「…ええ」

 

 錬の問いに、相変わらず無表情に不機嫌そうな李豊の(いら)えが返る。それに内心で苦笑を浮かべながら、錬は勝手知ったる丁荘里を村長宅へと向かう。

 

(…本当に相性が悪いんだな、このふたり…)

 

 などと、どこか少しズレた感想を抱きながら。

 

 程なく村の中央にある村長宅に着けば、中からちょうど丁延が出てくる。

 

「おう、来たか、士泰」

 

「ええ、呼び出されてしまいましたからね。方全さんは中に?」

 

「ああ、中で丁老と話してる。俺は用事があって出るから、勝手に入ってくれ」

 

 言い残して入れ違うように門のほうへと出ていく丁延を見送ると、錬は手綱を梁綱に渡して馬の世話を頼み、李豊を伴って村長宅の中へと入る。

 

 警備隊の拠点が整って居を移すまでは丁家(ここ)で起居していた錬だ。勝手知ったるとばかりに、親しい間柄の相手を応接するときに使われる部屋まで、迷うことなく歩を進める。案の定、近付けば丁老と女性の談笑の声が聞こえてきた。

 

「失礼します、丁老。白士泰、参りました」

 

 部屋の前で立ち止まって声をかけると、入りなされ、と入室の許しの声が返る。それに改めて、失礼します、と断りを入れてから扉を開けて、錬は部屋へと入った。

 

 部屋の中央には、丸い卓があり、その四方に四つの椅子がある。

 卓の上には急須と茶杯があり、その卓を囲うように二人の人物が座っていた。

 ひとりは丁荘里(このむら)の長である丁旋、もうひとりの女性が閻象であった。

 

 姓は(えん)、諱は(しょう)、字は方全(ほうねん)、博望を拠点に多くの行商人を束ねる商家の代表たる女性だ。

 年の頃は、20代半ば。黒を基調とした衣装に身を包み、金茶色の髪を後ろに結い上げた姿も、常に柔らかくにこやかな応対も、彼女が落ち着いた大人の女性だとの印象を強く与えている。だが、その鳩羽色の瞳は、見通すような理知的なきらめきを(たた)えていて、彼女がやり手の商人であることを示している。

 

「御足労いただき、ありがとうございます、士泰さん」

 

 入室する錬に、閻象はその印象のままに柔らかく微笑みながら、そう来訪を労う。そして錬に続いて入ってきた李豊にも同じように笑みを向ける。

 

「ああ、李さんもありがとうございました」

 

「いえ…」

 

 それに対する李豊の返しは相変わらず無感情で無愛想だったが、閻象は気にしていないかのように穏やかな笑顔を浮かべている。その、まるで聞き分けのない子供をあしらっているかのような相手の笑顔に、李豊の目元が微かにひくつくのを横目に見取って、錬は内心に冷や汗が流れるのを感じた。

 

 そんな錬の胸中を知ってか知らずか、

 

「士泰どの、まあ座りなされ。季宛も、の」

 

 と、丁旋が取り成すように着席を勧める。

 

「喉も渇いたじゃろう。方全どのより頂いた茶もあるでな。あんたらも頂くがよかろう」

 

 言われるのに無意識に鼻から息を吸えば、微かに香ばしい芳香が嗅覚を刺激した。

 なるほど、白湯(さゆ)ではなく茶だったか、と卓の上の茶杯を見て思いながら、丁旋の言葉に従って、彼の対面の椅子に座りながら、そっと閻象へと視線をやると彼女の変わらない微笑みが目に入る。

 この時代、茶が貴重品だということは、錬もすでに知っている。そんな貴重な茶だが、漢都である洛陽にまで取引の手を伸ばしている閻象であれば入手も可能だ。土産としては高価に過ぎようが、丁家と閻家の交誼の長さと深さとを思えば、それくらいはなんということもない、ということなのだろう。そして一度進呈した以上は、それを他の者に供することにも忌避はしないようだ。

 閻象の笑顔に、そんなことを考えて遠慮を捨てた錬は、

 

「では、ありがたく」

 

 そう答える。ふと、季宛さんはどうするのかな、と思いつき、隣の椅子に座ろうとする李豊へと目を向けると、その視線を感じたのか、李豊は観念したかのように微かに息を()いて、

 

「…頂きます」

 

 辛うじて他の三人に聞こえるくらいの声量で答えた。

 

 そんなふたりの答えに、笑みを深めた閻象が手慣れた手付きで新たに茶を淹れる。それを見るとは無しに眺めていた錬に、丁旋が警備隊の現状について問いかけ、拠点施設は順調に整備拡張が進んでいること、藤泉里や高丹里との係りが進展していること、だが、それらのために人手が不足し始めていること、などを錬が答える。

 

「緊急性があるわけではないんですがね。今は、警備と施設の建設に優先して力を入れるようにしているのですが、拠点周りの開墾が進めば、農作業にも人手が要るようになるでしょう。そうなればいずれ警備隊本来の任務に支障が出ることも考えられる。先の戦闘では少なからず戦死者も出ていますので、そろそろ考えなければなりませんね」

 

「うむ、そうじゃのう…とは言え、村人から人手を割くのは、今はまだ厳しかろう。交わって仕事をするには今少し時間が要るじゃろうしの。他の村や郷から募ることも考えていくべきじゃろう」

 

「それは可能ですか?」

 

「うむ。今すぐ、と言うわけにはいかんがの。それに、それで集まる者と言えば、食詰め者か荒くれ者じゃろう。それらを差し障りなく束ねるには、上に立つ人材が育っておるまい」

 

「…ですねえ…」

 

 丁旋の言葉に、錬はため息を()きながら同意を示す。

 現状の警備隊は、それぞれの伍――五人の組――をまとめる伍長が、隊長の錬と副隊長の郭平の直下に配される形で組織されている。四つから五つの伍が各作業に振り分けられるために、その伍長のうちから小隊長を任じている形を採っているが、それはそれほど厳しく規制しているわけではない。警備隊に所属しているのは全てが元は同じ匪賊にいた者たちであり、その辺りの呼吸というのは互いに疎通ができており、ゆえに厳密に統率せずとも問題なく運営をしてこられた。

 だが、そこに異物が組み入れられた場合、堅実な指揮命令系統を構築しておかなければ組織が瓦解してしまう。そうならないためには、錬や郭平以外にもしっかりとした統率を執れる人材が少なくとも四、五人は必要だろう。が、錬の見る限り、

 

「一応は、小隊長候補について安進と話し合ってはいるんですが、まだ候補止まりなんですよねえ」

 

 というのが現状である。

 

「まあ、今のところは賊やらの兆候は見られないので、しばらくは猶予があると思いますが」

 

 肩を竦めつつ告げる錬の前に、そっと茶を淹れた杯が置かれる。

 

「そうですね。おそらく半年から一年は、柳河郷近辺(このあたり)で匪賊が現れることはないでしょう」

 

 錬に続いて李豊にも茶杯を差し出しながら言う閻象に、錬と丁旋の視線が向けられる。

 

「ああ、そういう噂が流れてきているのですよ。柳河郷で新しく設立された警備隊は恐ろしく精強で、いくつもの匪賊が返り討ちに遭い、壊滅に追い込まれた、と」

 

「へえ、そんな噂が…」

 

 錬が驚いたような声を上げると、閻象は見透かすような笑みを浮かべて錬を見遣る。

 

「士泰さんのお考えの通りなのではないですか? そのために見逃すようなことをしたのでしょう?」

 

 その言葉に、錬は口を(つぐ)んで押し黙った。

 

 閻象の言う通りだ。

 匪賊との戦闘の際に、錬は数名の賊徒の逃亡をわざと見逃している。それは、あの丘の砦での戦闘後にもそうしたのと同じ理由だ。その狙いは、匪賊を壊滅にまで追い込み、恐怖を刷り込んだ賊徒を逃がすことによって、他の匪賊らの心境に手を出すことへの躊躇を引き出すことであり、閻象から聞かされた情報によれば、それは功を奏したということになる。

 ただそれは裏を返せば、柳河郷(じぶんのまわり)だけを脅威から遠ざけた、とも言える。

 閻象がそんな意味のことを言っているわけではないことは、錬には分かっている。分かってはいるが、そう考えついてしまった以上、忘れることができるほどに錬は器用ではなく、思わず黙然としてしまったのだ。

 

 柳河郷周辺を守る。それ以上のことは、今の錬にどうこうできることではない。それは誰もが――錬も、丁旋や李豊、閻象も――当然のこととして理解している。

 だから、そんなことを気に病むのは無益であり、ある意味では傲慢でさえある――そう考えるのが丁旋や閻象だ。そうであっても、自分の決断と行動で無用な惨禍を被る人がいることに、罪悪感を思えるのが錬である。どちらが正しいか、ということではなく、それは生まれ育った環境による違いというものだ。

 

 今は考えても仕方がない。錬はいくらかむりやりにそう思い込むことを自らに強いて、意識を切り替えようと茶を口に含む。久しく――四か月振りくらいは――接していなかったふくよかな芳香に目を細めた錬は、思惑通りに気を落ち着かせて、閻象へと顔を向けた。

 

「それで、今回はどうされたんですか、方全さん?」

 

 気持ちとともに話題も切り替えて錬が問うと、実に珍しいことに閻象の顔が曇る。あまつさえ眉間に皺を寄せつつ嘆息さえもして見せる。

 

「ええ…実は、宛まで赴く必要ができまして、その護衛をお願いしたいのです」

 

 顔を曇らせたまま、閻象が言う。

 

 宛。荊州北部南陽郡の郡治府があり、南陽郡を治める太守が駐在する。すなわち南陽郡の都である。

 南陽郡はかなり発展している郡である。帝都洛陽を擁する司隷河南郡の南に隣接し、人口は一州に匹敵すると言われるほど。そんな郡の都であれば、有力な商人である閻象が係わりのないはずがなく、また彼女の本拠たる博望は、宛と洛陽を結ぶ街道に位置している。当然、閻象は幾度も宛へと足を運んだことがあるだろう。

 であるのに、暗い表情を浮かべるということは、閻象が宛へと赴かざるを得ない理由のほうに、その原因があるということだ。それは――

 

「先程、赴任されました南陽太守様に召致(しょうち)を受けまして、伺候(しこう)しなければならなくて…いったいどのような用件なのやら…」

 

 言いつつ再び嘆息する。

 

「新しい南陽太守ですか…」

 

 訝しげに呟く錬に、

 

「ええ、赴任されて一年。これまで何事もなかったので一安心かと思っていたのですが」

 

 と、閻象は三度(みたび)ため息。

 

「…あまり良い噂を聞かないので、あまり係わり合いにはなりたくはなかったのですが…まあ、名門名士の出の方なので、こういった風聞はよくある話ではあるのですけど」

 

「それは、悩ましいことじゃな。新しい太守様と言えば、あの汝南袁家の御曹司じゃろ。確かに良い噂を聞かんのう」

 

「…汝南袁家の御曹司、ですか?」

 

 丁旋が気遣わしげに眉をひそめると、そういった政事(まつりごと)向きのことに疎い錬が聞く。

 

「うむ、四世三公を輩出した名門汝南袁家。その御曹司、袁公路さまが今の南陽太守じゃよ」

 

 へえ、と何の気なしに聞き流そうとした錬だったが、ふと丁旋の言葉のひとつがひっかかった。

 

 四世三公。

 それは、たしか、三国志において北方に君臨し、あの曹操と争って滅ぼされた、とある諸侯の枕詞とされた言葉ではなかっただろうか。

 その諸侯とは、袁紹。では、その南陽太守とは、袁紹なのだろうか。いや、袁紹が割拠したのは北方冀州だったはずだ。それに、袁紹の字はたしか本初とかいったはず。ということは他の袁家だろう。

 と、そこまで思考を進めて、錬は思わず血の気が引く思いがした。

 もうひとり、三国志には有名な袁姓の諸侯が登場する。それはどちらかと言えば悪名に近い。錬にとっての印象は、玉璽を手に入れたことで思い上がり、帝位を僭称するが、他の諸侯と対立して滅ぼされた、愚かな偽帝。

 

「え、と、その太守様の名前って…」

 

 恐る恐る尋ねる錬に、閻象が答える。

 

「たしか、術。姓は袁、諱は術、字は公路。御先祖の威光を笠に着る、典型的な名門御曹司ですわ」

 

 

 

 

 





ということで、お待たせしました。
ようやく、原作キャラが登場です…名前だけですが…

…これで登場とか言ったら詐欺ですな…

でも次です。
次こそは、名ばかりじゃなく、登場です。
恋姫きってのおバカキャラ、美羽こと袁術が登場するんです。

…不安しかありませんが…あの、おバカっぷりを書けるかどうか…
今から不安で仕方がありません。
更新が遅れましたら、苦労してんだなあ、と生温かく見守っていただければ
幸いに存じます…

さて、ひとつ注釈です。
御曹司、というと感覚的に『名家の若様(御坊ちゃま)』のことだと思いますが、
本作では、男女問わずの『名家の子』として用いました。
違和感があるかもしれませんが、ご容赦願えればと思います。



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三 宛へ

 

 汝南袁氏。

 光武帝の御代に県令を務めた袁良に端を発し、その孫の袁安の代に司空、司徒と三公職を歴任して繁栄の礎を築くと、その袁安の二子の袁敞、袁安の孫の袁湯、袁湯の二子袁逢、三子袁隗までも三公にのぼり、そのことから四世三公と呼ばれるようになった。

 袁湯には三人の子がいた。長子袁成、そして先述の二子袁逢、三子袁隗であり、袁湯の死後に汝南袁氏の総領を継いだのは二子の袁逢だった。長子である袁成が跡を継がなかったのは、親である袁湯より早く死んだからであり、袁成に子はいたものの、庶子であり、また袁湯が死んだときにはまだ幼かったため、後継候補とはならなかった。その庶子は姓名を袁紹といい、長じて今は冀州(きしゅう)勃海(ぼっかい)郡太守として辣腕を奮っているという。

 そして袁逢亡きあと、三子の袁隗は失脚したものの、総領を継いだ袁逢が長子袁基は九卿(きゅうけい)のひとつ、太僕(たいぼく)の地位にあり、帝都洛陽にて名門貴族としての権勢を誇っている。

 

「その汝南袁氏総領の袁基は、南陽太守袁術の実の兄に当たります」

 

 茶を飲みながら、錬は閻象からそんな話を聞いていた。

 

 錬たちが丁荘里に到着したのは、すでに日も傾き始めていた頃合いであったため、閻象が博望に戻り、宛へと向かうのは翌日ということになった。閻象が言うには、袁南陽の招請は近日中であって期限を切られているわけではないため、一日やそこら遅くなったところで問題はないらしい。もちろん遅くなりすぎるわけにはいかないのだろうが。

 

「とすると、南陽太守も勃海太守も、袁家では傍流になるということですか?」

 

 汝南袁氏についての説明を聞いた錬は、そう質問した。

 

 現在、表に出ている袁氏は三人。総領たる袁基は九卿のひとり。袁術にしても袁紹にしても太守であり、地位としては一段劣る。漢の官職制度としては、中央政府の大臣も、地方官たる州刺史、郡太守も、制度上の管轄範囲による違いがあるだけで、上下関係はなく同格とされているが、錬の感覚としては、やはり中央のほうが上位で、担当する範囲が広いほど権力も大きいと感じるため、そのような感想が心を過ぎるのだ。だが、同時にそんな感想に違和感も抱く。錬からすれば、袁紹に袁術と言えば三国志の群雄としてその名は知識にあるが、袁基など聞いたこともない。三国志という物語では、袁紹と袁術(そちら)のほうが主流だと言っていいだろう。

 

 そんな錬の複雑な感想に、閻象がひとつの答えを出す。

 

「袁氏の本流という意味では、総領たる袁基がそうでしょう。ただ先代の袁逢は中常侍ら宦官との関係が深かったようで、その辺りで敵を作っていたようです。今代の袁基もその政策を踏襲しているようですね。

 一方、早世した袁成は宦官勢力と関係を結ぶことはなく、その子袁紹も親に(なら)っているようで、そのことから清流派辺りから期待を寄せられているようです。袁紹の宦官嫌いは有名ですしね。

 袁術については、名声は高くないものの、もし袁基が失脚、処罰されるようなことになれば、汝南袁氏の総領の座が転がり込んでくるでしょう。少なくとも、そう考える輩がその周りに集っているようです。総領袁基には相手にされない二流以下の輩ですが、であるからこそ狡猾に立ち回るのはお手の物でしょうし、どうにか袁術を権力の座に押し上げ、そのおこぼれに(あずか)ろうと画策していることでしょう。

 袁紹も袁術も太守として治めているのは恵まれた地方です。雌伏して力を蓄えるには良い立ち位置と言えます。今後の展開次第でどう転がるかは分かりませんね」

 

 なるほど、と錬は頷いた。

 これから――具体的にいつごろかは分からないが――漢は戦乱に荒れる。歴史通りなら、黄巾の乱が起こり、それが鎮圧されたかと思えば、董卓の専横から反董卓連合が結成され、その戦乱は洛陽を灰燼に帰す。そうなれば、中央での官職など意味をなさなくなり、力を付けた地方が雄飛する。まさしく群雄割拠に時代の到来である。そこで名を上げるのが、袁紹であり、袁術なのだろう。

 

「本流も傍流も状況次第。趨勢を見極めて時流をつかんだ者が主流となる、といったところですか」

 

 言う錬に閻象が微笑む。まるで、良くできました、とでも言われているような気がして錬は内心で苦笑した。

 それにしても、と錬は考える。閻象の情報力は驚きだ。商人だからこそ、と言ってしまえばそれまでだが、錬は、それだけではない、なにか凄味のようなものを感じていた。柳河郷(このあたり)に匪賊が手を出しかねている、という噂を知っていたことにしてもそうだ。自分に関連しそうな情報であれば大小問わず収集して分析し、活用する。それは策謀家としての資質と言っていいだろう。

 

(ひょっとして名のある人だったのかな?)

 

 錬には覚えがないが、閻象も史実に名を残しているのかもしれない。というか、むしろそうであってほしい。

 

(こんなことまで見通すのが普通だってんなら、有名な軍師なんてどれだけだって話だよなあ…)

 

 自分が表舞台に出ようなどと考えもしていない錬ではあるが、そんな智の怪物がいると思えばうんざりしてしまうのである。自分が生涯関わらないのだとしても。

 

「まあ、それでも袁南陽が台頭することはおそらくないと思いますが」

 

「なぜです?」

 

「聞こえてくる噂話が、あまりにも、なものばかりなのです…」

 

 政事(まつりごと)に興味を示さず、乱を鎮めようともせず、すべて部下任せ。

 我欲が強く、奢侈(しゃし)を好み、ただただ放蕩に(ふけ)る。

 そんなだから、部下も上に(なら)い、南陽治府は政治腐敗の温床と化しているという。

 いずれ周囲を取り巻く佞臣らに牛耳られ、傀儡になるだろう、というのが閻象の考えとのことだった。

 

「なるほど、この先そんな陣営が存続できるはずがない、と…」

 

 閻象の説明に頷く錬だったが、ふと思い出したかのように、少し愉快そうに口の端を上げる。

 

「…そんな袁南陽どのに呼び出されたわけですか、方全(ほうねん)さんは?」

 

「…そーなんですよねー…」

 

 虚ろな声音で呟く閻象である。

 

「単なる資金供与の要請程度の話ならいいのですけど…」

 

「そうでない可能性があるのかの?」

 

 閻象が浮かべる懸念に丁旋が疑問を投げかけると、少し考え込むように沈黙したのちに口を開く。

 

「…このところ少し派手に動き過ぎましたから。目をつけられてしまったかもしれません」

 

 今までであれば、自分の抱えている隊商の派遣に合わせてしか遠出をしなかったのが、錬に護衛を依頼できるようになったことで、宛や洛陽などの大都市での商談に単独でも赴けるようになり、商売の幅が広がったということらしい。

 

「場合によっては、資金提供(それ)以上の協力を強制されるかもしれない、という危惧はあります。もともと南陽郡に属していた官吏は別として、袁家の名に群がる有象無象(やつばら)は、能力的にも人品的にも二流がいいところです。となれば実務的な人材を欲してもおかしくはありませんから…」

 

「勢力下の有能な人物、ということで出仕を求められる、ということですか?」

 

「ええ…困ったことに、もしそうなった場合、拒否することはできないでしょうしね」

 

 嘆息しつつの言葉に、錬が怪訝そうな表情を浮かべているのを見て、閻象が続ける。

 

「袁家の要請を断れば、その影響は計り知れないのですよ」

 

「袁家は名門。その権勢は本拠である汝南から、ここ南陽、そして洛陽、冀州までと広範に(わた)る。商売人にとっては致命的じゃの」

 

 閻象と丁旋の説明に錬は、なるほど、と納得の表情を浮かべた。

 

「まあ、そんなことにならんことを願っておるよ。そろそろ夕餉(ゆうげ)の用意もできたじゃろうて。とりあえず飯にでもするとしようか。今日は延が鹿を仕留めてきたでの。馳走しよう」

 

 そんなわけで、その夜、錬と閻象は丁家の歓待を受け、翌朝、宛へと向けて出発した。

 

 

 

「これくらいなら大丈夫ですか、方全さん?」

 

 馬を進めながら、錬は自分の後ろに乗る人物に声をかけた。

 

「ええ、これくらいなら…いえっ、もう少し緩めてくださいっ」

 

 ぎゅ、と背中にしがみつく感触に、錬は手綱を軽く引いて速度を緩める。

 

 丁荘里にて閻象らと汝南袁氏について話をした翌朝、錬は警備隊副隊長の郭平への言伝(ことづて)を梁綱に託して拠点へと送り出すと、閻象とともに宛へと向かうことになったのだが、

 

「馬がいないんですか? それじゃ、方全さん、どうやって丁荘里(ここ)まで?」

 

「洛陽に行く隊商に便乗して寄り道をしてもらいました。ですので、士泰さんの後ろに乗せていただければ、と」

 

「それは構いませんが…」

 

 ということで、昨日の李豊に続いて、錬は閻象を後ろに乗せることになったわけだが、ひとつ問題があった。それは、

 

「あら、馬の背中って思ったよりも高いのですね」

 

「え、方全さん、馬に乗ったことないんですか?」

 

「はい、普段の移動は馬車ばかりでしたから…」

 

 と、いうことにあった。そして、先の会話へと続くのである。

 

(まあ、慣れてないと馬の上が怖いのは分かるけど…)

 

 馬の速さを常足(なみあし)からさらに遅く、人の歩く速さくらいにまで落すと、ようやく背中から回された腕の締め付けが緩む。それでもしっかりと回された腕が(ほど)かれることはなく、その様子に苦笑する錬である。

 

 実際、錬も初めて馬に乗った時にはその高さに、速足(はやあし)程度だったが走らせた時にはその速さと揺れに恐怖を感じたものだ。閻象の怖がりようは、度を越えているとは思うものの理解はできる。だから、(すが)るように抱き締められていることに否やはない。それどころか、

 

(まあ、役得ではあるし…)

 

 などと、少々不埒な感想を抱くに至った。背中に当たる柔らかい感触は、そのほっそりとした外見に似合わず、閻象の身体つきがなかなかのものだということが分かる。錬とて健全な青少年であり、そういったことに気恥ずかしさは感じるものの、忌避するなどあるわけがない。

 

(季宛さんや就ちゃんじゃ、馬に乗る程度で怖がるなんてことないしな…もっともあの二人じゃ、押しつけられたとしても…いやいやいや…)

 

 危険な領域に入りそうになった思考を慌てて散らす錬である。

 

 そんなことを考えられているとは知らず、というよりも忖度(そんたく)する余裕などあるわけがない閻象は、腕以上に力を込めて(つむ)っていた眼をようやく開き、なんとか許容できる程度まで馬の脚が落ちていることを確認して、ほっと息をつくと、小さく呟くように言った。

 

「…とりあえず、博望に寄りましょう。馬車を用意します…」

 

 

 

 途中、博望の閻家に寄り、馬車に乗り換えてから南西へと向かうこと一日半。

 見えてきた城壁に囲われた巨大な城市こそが、人口二○○万超を擁する南陽郡、その漢帝国最大級の郡を統括する治府たる宛である。

 無論、帝都洛陽には比するべくもないのだが、その巨大さに錬は圧倒される。見上げれば目も(くら)むような高さ、ということであれば、それはもちろん平成時代の東京の超高層ビル群に敵うはずもない。だが、見渡して端がないかのような広がりを見せる建造物ともなれば、宛城をはじめとする城市の防壁こそが、これまでの経験の中で随一のものであり、すでに三度目の来訪であるというのに、相変わらずため息が出るのを止められない錬であった。

 

 そんな錬の感慨を意に介することもなく、閻象は城市門の役人へと通行証を見せて許可を得ると、

 

「どうされました、士泰どの。許可は下りましたよ?」

 

 御者をしている錬を促す。その言葉に我に返った錬はいささか慌てると、やっ、と掛け声を上げながら手綱を(さば)いて馬車を進めると城門を通り抜けた。

 

「まずは、閻家(うち)の屋敷に参りましょう。場所は分かりますよね?」

 

「ええ、以前に来たところでいいんですよね? それなら覚えていますので。このまま登城するんじゃないんですか?」

 

 大路の真ん中近くの馬車用路をゆったりと進みながら、錬が問うと、

 

「それはもちろん…ああ、こういうところが士泰さんですね」

 

 何を言っているのか、と眉を寄せた閻象だったが、ふと思い出したように愉快気に微笑みを浮かべる。

 

「直接に赴いては礼を失することになりますので。一度、屋敷(うち)に滞在して、到着した旨を伝える使いを城に向かわせるのです。その使いが登城の許可と日時の返答を頂いてきますので、それから、ということになります。おそらくは明日、遅くとも明後日、ということになるでしょうね」

 

 と、変わらず微笑みを浮かべたまま言う。その表情が示すものが、錬の妙な常識のなさが物珍しく興をそそる、ということだと気付き、珍獣を見て面白がってるようなものじゃないか、と憮然として嘆息する錬であった。

 

 

 

 翌日、指定された時刻に城へと向かった閻象は、城門の少し前で止めた馬車を降りると、城門までは歩いて近付き、門番をする兵へと拱手をした。その後ろに従者よろしく追随する錬も、閻象に倣って拱手する。

 

「ご召致により(まか)り越しました、博望の閻家総代、閻象、字は方全、と申します。袁南陽さま、ならびに張長史さまにお目通りをお願いいたします」

 

「うむ、話は聞いている。取り次ぐゆえ、しばし待たれよ」

 

 閻象の丁寧な挨拶に、いささか横柄に思える態度で門兵は頷くと、城門脇の通用門から中へと声をかけた。

 しばらく待たされたのちに、その通用門が内側から開き、女官が顔を出す。

 

「閻方全どのですね。張長史さまがお待ちしております。どうぞこちらへ…」

 

 その言葉に、閻象と錬は女官の後に従って通用門をくぐった。無論、錬の腰の剣はそこで門兵へと預けられたが。

 門をくぐって後の前庭を横切るように女官は進み、正面にある建物へと入る。前庭での閲兵(えっぺい)の際に立つ張出しを上部に備えたその建物は、太い丸柱が何本も規則正しく並んでおり、それらが高い天井を支えることで、非常に大きな空間を作り出している。磨き上げられた柱や梁は赤や黄に塗られ、それに付随する腕木や欄間などには鳥や植物などの精緻な彫刻が彫り込まれている。

 それらは漢代(この時代)における最高級の建築様式に数えられるのだろう。さすがにそのようなものを初めて見た錬は、物珍しさに視線が動き回るのを止めることができなった。

 

(なるほど、想像していた中国の建物って感じだなあ。壮大さというか華麗さというか、は想像以上だけど…)

 

 できるだけ失礼にならないように、と自分なりに注意しながら観察していた錬のことなど、意に介さないまま、女官は閻象と錬のふたりを先導して、建物の中を進んでいくと、中庭に面する廊下に出た。そこで立ち止まった女官は振り返ると、錬へと視線を向ける。

 

「それでは、お付きの方はここまでとさせていただきます」

 

 それに、錬は問うように閻象へと視線を投げると、閻象が顎を引くようにして頷く。

 

「分かりました。それでどうしていればよろしいでしょうか?」

 

 錬が聞くと、女官は中庭のほうへと手で示した。その先には生い茂った木々に埋もれるようにして、それなりの大きさの、柱と屋根と、申し訳程度の腰壁だけの建物がある。

 

「あちらにあります、四阿(あずまや)にてお待ちください。もちろんですが、あまり出歩くことなどなさいませんよう」

 

「それほどお待たせすることもないでしょう。申し訳ありませんが、行儀よく待っていてください」

 

 女官の言葉に了承の意を表すように拱手してみせた錬に、閻象は冗談めかして言うと、促す女官に従って更に奥へと足を向けた。

 ふたりを見送った錬は、なんとなくため息をひとつ吐いてから、中庭へと足を下ろした。

 

 

 

 四阿には、円い卓と椅子があった。

 ここで待て、と言われたのだから遠慮はいらないだろう、と椅子のひとつに腰を下ろすと、錬は天を仰ぐようにして椅子の背もたれに身体を預け、息をひとつ吐く。

 四阿は、二面が開け、二面を植樹に囲われていて、屋根だけでなく枝葉によって陽光を遮られるようになっていた。その向こうには水場でもあるのか、木々の間を抜けてくる風が涼気を運んで錬の体を撫でていく。

 心地よい、と思えただろう。今が晩秋でなかったなら。

 さすがに風邪の心配をするほどではないものの、すでに冬の足音が聞こえようかという、この季節にはいささか涼し過ぎ、居心地のいいところとは言えなかった。とは言え、釘を刺された以上、四阿(ここ)に留まるしかないのだが。

 

「…手持無沙汰になり…」

 

 小さな呟きが途切れる。

 微かな気配を感じて、錬は右後方、生い茂る木々の向こうへと意識を向けた。

 

(敵意、はない。こちらを意識しているわけでもないか…というより気付いてないんだろうな)

 

 背後より近付いてくる気配を分析しながら、錬はゆっくりと気を抜いた。

 

(足音が軽い。子供か? 自分では忍んでいるつもりのようだけど…)

 

 そんなことを考えていると、足音だけでなく、がさりと枝葉をかき分ける音を立てて、その人物が姿を現した。

 予想通りに身体は小さく、まだ子供のようだった。来ている服は(きら)びやかで、その少女が裕福な家庭に属していることが(うかが)える。まあ城の中で自由に行動している時点で、上流階級の子供だろうことは明白だろうが。

 どういった状況でそうなったのか、自分がやってきた方向を気にしながら背中から出てきたために、顔を見ることはできないが、そのために見ることのできた腰の辺りまである長い髪は金色で、毛先に従って巻きが入っている。ところどころに葉っぱがひっついているのは御愛嬌だろう。

 

(…というか、金髪!? 金髪ってなに!? 東洋人じゃねえのっ!?)

 

 思わずツッコむ。

 村ではほぼ全ての人が東洋人の範疇内に収まる容姿をしていた。街に出れば、たしかに疑問に思う髪色の人々もいるにはいたが――閻象にしてからが金赤色なわけだし――、それでもここまで飛び抜けてはいなかった。完璧な金髪(ブロンド)。錬の時代でも、ここまで見事な金髪は珍しいだろう、と思えるほどの綺麗な金色だった。

 

「ふむ、どうやら撒いたようじゃの。あいつら、しつこいからの。このあたりでしばらく身を隠して…」

 

 鈴を転がすような声で、そんな不穏なことを呟きながら、四阿のほうへと身体を向けた少女は、それを視界に収めて――四阿の中に座る錬とばっちりと目が合って――一瞬にして硬直した。

 

(へえ、可愛らしい子だな)

 

 その少女の顔を正面から見て、錬が抱いた感想がそれだった。幼さはあるものの気品が感じられる顔立ち、少し吊り上がった眼は勝気さが垣間見える。今は感情が抜け落ちたような表情をしているが、笑えば花が咲くような美少女――いや、その十になるかならぬかと見える容貌からすれば、美幼女というべきか――だ。

 などと、錬が考えていると、その美幼女の表情がゆっくりと崩れ始める。目には潤みが、頬は引きつり始め、口は大きく開かれ、

 

「にょわわああ~~~っ!!」

 

 悲鳴を響き渡らせた。

 

 

 

 

 

 



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四 四阿の講義

更新が遅くなりました。
お待たせしてしまった方々には申し訳ありません。

今回、少し長くなりましたが、切り所が難しかったので、
そのまま上げることにしました。





「にょわわああ~~~っ!!」

 

 奇妙な悲鳴だな、などと場違いで暢気(のんき)な考えを頭の片隅に()ぎらせたのも一瞬のこと。

 

(いや、これはマズいだろうっ!)

 

 と、錬は顔を引きつらせた。

 育ちの良さそうな幼気(いたいけ)な幼女が、見知らぬ怪しげな男を前に、怯えて悲鳴を上げている図。

 これは、誰が見ても明らかな、通報に値する事案である。

 

「な、なんなのじゃ、そなたっ! なにものなのじゃっ! ま、まさか、(わらわ)をさらう気かえ!?」

 

 言いながら、両手で我が身を抱きしめて、ガタガタと震え始める幼女に、錬は慌てて言葉を紡ぐ。

 

「い、いや、ちょっと待って。そんなことしないからっ。怪しくないからっ、自分で言うのもなんだけどっ。ここで人を待ってるだけだからっ」

 

 その、錬の必死さが功を奏したのか、身体の震えが止まった幼女は、(うかが)うかのように上目遣いで錬を見遣る。未だに涙目ではあったが。

 

「ほ、ほんとかえ? 痛いことをしたりはせんのかの?」

 

「ああ、大丈夫だ。今日、ここの城に呼び出された人の付き添いで来ただけなんだ。そっちの用件が済むまで、ここで待っててくれってことでさ」

 

「おお、そう言えば、七乃(ななの)がどこぞの商人と会うとか言うておったの」

 

 七乃というのが誰なのかは知らないが、どうやら疑いは晴れたらしいと、ほっと一息を吐いたところで、

 

「さっきの悲鳴はこっちからか?」

 

「あれは、お嬢さまの声のようでしたが…」

 

 などという声が近付いてくるのを聞いて、幼女が慌て始める。

 

「のわっ、まずいのじゃ。つかまってしまうのじゃ」

 

「…え~と、追いかけられてるのかい?」

 

「う、うむ。つかまってしまうと連れ戻されてしまうのじゃ。妾はまだ戻りたくないのじゃ」

 

 ああ、城に勤めている親についてきて、探検に出たってところかな、と結論付けて、錬は微苦笑を浮かべると、幼女が来たほうにある四阿(あずまや)の腰壁を指し示す。

 

「ほら、そこの陰に隠れてな。誤魔化してやるから」

 

「おおっ、ほんとうかや。それでは頼むぞよっ」

 

 喜色を表して幼女が腰壁の裏にしゃがみこむのを見取った錬は、先にしていたように椅子へと座り直した。

 そこへふたりの人物がやってくる。

 ひとりは、腰に剣を差し、槍を携えた衛兵らしき男で、もうひとりは年若い女官だ。どちらも当然のことながら、錬と顔見知りではない。ゆえに、幼子の悲鳴が上がったと思しき四阿(ところ)で、泰然と座している見知らぬ男に、不審げな視線を向けるのは致しかたない。

 

「失礼だが、貴殿は?」

 

「本日、召喚を受けております(えん)方全(ほうねん)どのの付き添いのものにございます。案内の方に、謁見が終わるまでここで待つようにと言われております」

 

 礼を失しない程度の態度で衛兵が問いを発し、錬はそれに拱手しながら答える。

 

「そうか。それでだが…」

 

「あ、あの、あなた、お嬢さまを見ませんでしたかっ?」

 

 錬の答えに、さらに質問を重ねようとした衛兵の言葉に被せるようにして、今度は女官が問いかけてきた。その慌てぶりを気の毒に思いながらも、錬は(とぼ)けて見せる。

 

「お嬢さまですか? さっき悲鳴を上げて逃げていった子のことかな?」

 

「は、はい、その方のことですっ。どちらに行きましたかっ?」

 

「それなら、あっちのほうへ行きましたよ」

 

 しれっと見当違いの方向を示すと、女官は取る物も取り敢えず、というさまで、

 

「ありがとうございますっ」

 

 と、礼を言いつつ身を翻して小走りで去っていく。その背中に心の中で手を合わせて謝りながら錬は、残った衛兵もこの場から去るのを見送ったのちに背後へと声をかける。

 

「もう出てきていいよ、お嬢ちゃん」

 

「おお、礼を言うのじゃ…て、妾はお嬢ちゃんではないっ。立派な淑女なのじゃ。子供扱いは心外なのじゃ」

 

「ああ、それはすまなかった」

 

 どう見ても子供の見栄(せのび)としか見えない、幼女の癇癪(かんしゃく)に、内心では苦笑を浮かべながら、錬は態々(わざわざ)椅子から立ち上がってから頭を下げた。そんな表向きは殊勝な態度を示す錬に、

 

「うむ、よかろう。許してつかわすぞよ」

 

 と、無い胸を張って幼女は尊大に告げる。

 

「それに褒めてつかわすぞ。あやつらを良う追っ払ったの」

 

「はっ、お褒めいただき光栄の至り」

 

 いささか大げさな口振りで頭を下げる錬だが、心中では子供の遊びにつき合っている気分だ。それでも幼女は得意げ満足げに、さらに胸を張ってみせ、

 

「うむっ、苦しゅうないぞ、楽にするがよい」

 

 言いながら椅子のひとつに座ると、じっと錬へと目を向けてくる。その表情、その視線に、錬は気を引き締められるような感覚を覚えた。威圧ではなく、自分の内面を見透かされているかのような感覚。おそらく彼女自身が意識してのものではないのだろうが、見極めようとしているかのようだ。

 その眼鏡にかなったのか、幼女はにこやかな笑みを見せて、錬へと問いを投げかける。

 

「して、そなた、なにものなのじゃ?」

 

「姓は(はく)、諱は()、字は士泰(したい)、だ。博望県柳河郷で警備隊の隊長をやってる。今は、警備隊のスポ…いや、出資してくれている博望商人の閻方全(えんほうねん)さんの護衛で(ここ)に来たんだ」

 

 子供相手にするかのような砕けた口調が癇に障ったのか、幼女の片眉が一瞬ぴくりと上がるが、むしろその放縦(ほうじゅう)さに興が乗ったのか、愉快気に身を乗り出すと、

 

「ほほう、警備隊の隊長とな。妾は、え…いや…」

 

 名乗ろうとして、口籠り、考え込む。

 

「うむ、妾のことは、コウと呼ぶがよいぞ」

 

「ああ、了解した。コウちゃん」

 

「むう…子供扱いするでないというに、この無礼者め」

 

 その物言いに憮然として両腕を組むと錬を睨みつけるが、すぐに諦めたようにため息を()いた。

 

「…まあ、良かろう、無礼を許す。感謝するがよいぞ。代わりに妾の暇つぶしに付き合うのじゃ。ほれ、さっさと座らぬか」

 

 そんな言葉に従って、錬は再び椅子に腰掛けると、コウと名乗る幼女へと顔を向ける。

 

「それで、何をすればいいんだい?」

 

「そうじゃのう…ふむ、なんぞ面白い話でもしてたも?」

 

「いや、面白いって言ってもね…」

 

「なんでもよいぞ。つまらなければ、そう言うからの」

 

 “面白い話”と言われて困惑すれば、ダメ出し宣言までされて、錬は頭を抱えた。この世界に来てから幼少の子供と接する機会はあったが、それは農村の子供たちであり、こちらは警備隊の隊長として接すればよく、またそれ以前の平成時代では、そんな機会さえ皆無に近かった。よって、コウのような漢の上流階級の子供が面白がる話題など見当もつかない。

 さて、何の話をすればいいんだか…そんなふうに空を仰いだ錬だったが、まあいいか、と思い直した。面白くなければそう言うというのだから、それから話題を変えればいい。この四か月でずいぶんと楽観的、というかむしろ図太くなった錬は、ある意味で開き直った。

 

 そんなわけで錬は、自分の体験談を話してみる。

 鬼ごっこで逃げていて、気付かずに硝子戸に突っ込んで跳ね返され、脳震盪(のうしんとう)を起こした話。

 学校の階段の手摺を滑り降りて遊んでいて、勢い余って窓から転落、しかし植込みに落ちたため軽傷ですんだ友人の話。

 自転車で坂道を下っていて、前後のブレーキワイヤーが一遍に切れて泡を喰った話、等々。

 要するにこの世界に来る前の話であり、当然に話せない、というよりも話しようのない事柄――学校や自転車など――もあるので、どこか漠然とした話し方にはなったのだが。

 

 結局のところ、錬から見れば大して面白くもない馬鹿話になってしまったわけで、それでもコウは目を輝かせながら笑い、相槌を打ち、時折質問を投げながら話に聞き入っていた。自分が取り立てて話し上手というわけでもないことを知っている錬は、その様子に知らないことを聞けるのが楽しいようだと察して、結局なんでもいいんだな、と悟った。

 

 そんなこんなで、もう少し気楽になった錬の話が丁荘里や警備隊でのことになると、コウがふと考え込むような表情で腕を組む。

 

「そういえば、そなた、警備隊の隊長をしておる、と言っておったの?」

 

「ああ、そうだね」

 

「その警備隊、というのは、何をするのじゃ?」

 

 思わず椅子から転げ落ちそうになった錬である。

 

「いや、そりゃ、読んで字のごとく、警備をするんだが…」

 

「?」

 

 心なし引きつった顔で返す錬の言葉に、コウは首を傾げて疑問を呈す。

 

「つまり、近隣の村を守るんだよ。賊とかから」

 

「賊の討伐ということかえ? それは、軍の仕事ではないのかや?」

 

 錬の説明に、コウが新たな疑問を浮かべる。それは正しい疑問である。本来ならば、官軍が正しく機能していれば、私設的な警備隊など不要なのだから。だが、

 

「…軍が当てにならないからね」

 

 肩を竦めて、苦笑を浮かべて錬が答える。

 

「以前に博望県へ救援を依頼したそうだけどね。動いてくれなかったそうだよ」

 

「むう、それはそやつらが仕事をしておらぬということではないか…」

 

 顔をしかめてコウが唸るのに、錬は言葉を出さず、苦笑を浮かべるのみ。下手に答えれば批判と受け取られかねない。この幼女がどうこういうのではなく、話が変に伝わって警備隊に不利益をもたらすことになるのは不味いと考えたからだ。まあ、コウが、白毅という警備隊の隊長から聞いた、と誰かに伝えたとしたら、その時点ですでに遅くなってしまうわけだが。

 そんな錬の内心を知ってか知らずか、コウは改めて錬へと視線を向ける。

 

「それで、そなたらが警備隊を作って賊を退治した、というわけかや。なるほどの。それは、まこと天晴なことよ。褒めてつかわすぞよ」

 

「ははあ、ありがたく…」

 

 などと、子供からの“お褒めの言葉”に大げさに礼を返す錬に、コウは、うむうむ、と満足げに頷いてみせた。だが、

 

「…でも、それは本来ならあまりよいことではないんだけどね…」

 

 そんなコウに、錬は強くなりすぎないように注意しながらも反駁(はんばく)してみせる。

 この幼女に少し現状の問題点を伝えてみよう、と、錬はふと思いついた。もちろん、この幼女が何らかの政治性を発揮して問題を解決するなどということを期待したわけでない。

 コウが高い地位にある貴族の令嬢であるということは初めから分かっていたが、これまでの会話や態度から、それが予想以上であることが推察できた。であれば、教えたことをコウが、その親に話をすることがあるかもしれず、そこから多少なりとも改善の糸口になりはしないだろうか、そう考えたのだ。

 錬が、身分は低くとも官憲の地位にあれば、いささか不味い事態になったかもしれないが、所詮は田舎の一警備隊長、その身分は平民と変わりない。そんな下賤の者が多少の世の不満を述べたからといって、罰しようなどとするほど暇な相手でもあるまいし。

 そんな、ある意味で軽く考えた錬だったが、まさかそれがとんでもない思い違いだった、などとはこの時は思い至るはずもない。

 

「どういうことなのじゃ?」

 

 案の定、錬の呟きに喰い付き、疑問を投げかける幼女に、錬は心の中で黒い笑みを浮かべると、その疑問に答えるべく口を開く。

 

「それについてなんだけど、その前に、コウちゃんは民からどういうふうに税が納められるか知ってるかい?」

 

「うむ、租税と人頭税じゃろ」

 

「うん、そのとおりだ。よく知ってるね、偉いじゃないか」

 

「この程度、あたりまえじゃ、馬鹿にするでないわ」

 

 こともなげに答えるコウに錬が感心したように褒めると、コウは言葉とは裏腹に自慢げに胸を張ってみせる。

 それを微笑ましげに眺めながら、錬は話を続ける。

 

「その租税ってのは、要するに民の収入に掛かる税なわけだけど、ということは、民の収入が減れば税の収入も減るのは分かるよね?」

 

「うむ、日照りなどで作物の出来が悪いと減るというのは聞いたことがあるのじゃ。場合によっては税を取らないようにすることもあると聞いておるぞ」

 

「うん、天候などで農作物の収穫量が減れば、当然税収も減る。でもそれ以外にも減る場合がある。それは農作物を作る人が減る場合だ」

 

「それは、賊によって民が殺されてしまうということかや? でも、それはそなたの警備隊が守るのであろ?」

 

「そうだね。確かに警備隊が民を守れば、その守られた民からの税収は保たれる。でもその場合、警備隊の人員は生産的な仕事をしないんだ。その警備隊の人からの税収はなくなるんだよ」

 

「おお、なるほど。では、警備隊のものたちにも畑を耕させればよいのではないかや?」

 

 錬の説明に感心してコウは、それならば、と思いついた意見を口にする。

 実際、錬の警備隊ではそれに近いことをやろうとしている。無論、それは税収のためではなく、どちらかといえば自分たちが食べるためで、その仕組みが上手くいったとしても、村々からの援助は相変わらず必要不可欠ではあるのだが。

 だが、ここではそういうことが問題なのではなく。

 

「でも、そうすると警備の仕事ができなくて、民が賊に襲われてしまうね」

 

「むう…では、どうすればよいというのじゃ?」

 

 単純化すれば、そういうことになるわけで、その容赦ない返答にコウは憮然と口を尖らせた。

 

「うん、だから本来なら、官が軍を出して民を守るべきなんだよ。そのために税を集めているんだから」

 

 そんな錬の言葉に、コウは、む~、と唸りながら考え込むことしばらく、おおっ、と手を叩く。

 

「そうか、そういう意味では、軍もそなたの警備隊も同じだということなのじゃな。どちらも税を納めることにはならんのじゃから。であれば、警備隊のやっとることを軍にしっかりとやらせれば、警備隊にいるものには税を納めさせる仕事をさせることができるというわけじゃっ」

 

 コウの出した結論に、錬は、よくできました、と拍手を送った。なんか授業じみてきたな、などと思いながら。

 そんな錬に、コウは先程の錬の言葉に新たに覚えた疑問を投げかける。

 

「ところで、そのために税を、というのはなんなのじゃ?」

 

「ん?」

 

 その疑問に錬が一瞬、首を傾げるが、

 

「…ああ、そういうことか。コウちゃん、税ってのは何のために集めるのか、分かるかい?」

 

(くに)に納めるためじゃろう?」

 

「じゃあ、納められた(くに)は、税を何に使うのかな?」

 

 と、そこまで問われれば、コウが言葉に窮する。本当にモノを教えるのならば、もう少し考えさせるところだが、ここはあっさりと答えを告げることにする。

 

「税ってのはね、少し乱暴で簡単にした言い方になるけど、支配者たちの給料になるんだよ。さっきの軍の話と同じなんだけど、官や将、兵士ってのは、自分たちで畑を耕して糧を得ているわけじゃない。ならどうしてるのかと言えば、民から集めた税の中から給料をもらっているんだ。民が平穏に暮らしていけるように、街を整備したり揉め事の仲裁をしたり、外敵を追っ払ったりした、その報酬としてね」

 

 そこで、国家の成り立ちへと説明が及んでいく。

 

 どうして国家という仕組みが成立したのか。

 少人数で成立した村社会であれば、ほぼ全ての構成者が第一次生産者であり、単純であろうと複雑であろうと社会的な活動というものは、それほど必要ではなかった。だが、人々の生活圏が広がり、その集団が多人数を抱えるようになると、多くの問題が浮上し、その解決のために社会が組織されるようになる。

 集団の方針を定めるため、あるいは集団内の揉め事を裁定するために王が起ち、外敵から集団を守るために軍が置かれ、王や軍を補佐するために官が調(ととの)えられる。そしてそれらを維持するために、民から税が集められる。その集団が大きくなればなるほど、その仕組みは複雑になっていき、国家という体を成していく。

 国家というのは、損益を公平に分配する仕組み(システム)である。

 かなり、相当に、乱暴な言い方ではあるが、そんな概要を錬はコウに語って聞かせた。もちろん、分かりやすい言葉を選び、かみ砕いた表現をし、ときにコウの質問に答えつつ、説明が固くなり過ぎないように注意をしながらである。

 

「…で、そのために税ってのは集められるわけだから、国や軍は民を守る義務があるんだよ」

 

 そう締め括った錬による税制講座に、コウが、なるほど、と得心がいったかのように何度も頷く。

 

「そういうことであったか。たしかにそれでは、軍が賊を()っとくというのは、やってはいけないことなんじゃなあ」

 

 呟き、考え込むようにして、むう、と唸るコウを、錬は微笑ましく見守る。

 

 この子はたしかにあまりモノを知らない。だがそれは知らないのであって分からないのではないのだ。しっかりと説明すれば理解は及ぶし、自分が何を知らないのか、を考えることもできる。頭が悪いわけではなく、これまで使ってこなかったために、使い方が分かっていない状態なのではないか、と錬には思えた。だから教え方次第では、この子はしっかりと理解するだろう。そしてこの錬との会話で、その知的好奇心を刺激されてもいるらしい。

 

「それにしても、そなたの話は分かりやすくていいのう。さっきのような話を聞かされたことはあったのじゃが、そやつらの言っとることは難しくて訳が分からんかったのじゃ。ゆえにずっと聞き流しておったのじゃが、そなたの話であれば、もっと聞かせてほしいものじゃ」

 

 目を輝かせて言ってくるコウに、錬も満足感を覚えた。こうも素直に知識欲を示されれば、錬としてもいろいろと教えたくなってくる。

 どうにも、錬には教育者としての資質が備わっているらしかった。高度な教育となれば不明だが、少なくとも、幼児や児童などに理解しやすく物事を教えることができ、その過程と結果に満足を覚えることができる程度には。

 

 それでは次はどんなことを話そうか、と意気込んだところで、錬はようやくその気配に気がついた。どうやらコウとの話に夢中になっていて勘が働いていなかったらしく、気がついたときにはその存在はすでに四阿(あずまや)のすぐそばにやってきていた。

 

「おや、お嬢さまじゃないですか~、こんなところにいらしてたんですね~」

 

 かけられた声に振り返れば、そこにはにこにこと笑顔を浮かべる女性がいた。動きやすそうに短くした青い髪、その前髪を簡素な髪止めで右に流した様は、言葉にすれば活動的な印象だが、その笑顔もあってか、全体としてはむしろ大人しげな女性に感じられる。実際、武という意味からすれば、錬には脅威とは感じられない。だが、表面ではにこやかでありながら、彼女の“お嬢さま”に近付いている錬に対して警戒し、しかしその猜疑心を微かにしか感じさえない様子に得体のしれなさを覚えて、錬は思わず背中に寒気を感じた。

 そんな錬を知ってか知らずか、コウが能天気とも言える口調で、その女性に答える。

 

「おお、七乃(ななの)、どうしたのじゃ?」

 

「はい、閻さんとのお話が終わったのでお送りしてきたのですよ~」

 

 その言葉に、七乃と呼ばれた女性の後ろを見れば、見知った女商人がいる。目が合った閻象(えんしょう)が軽く頷くのを見て、この女性が張長史か、と錬は察し、ゆっくりとした所作で立ち上がるとその女性に拱手をしてみせる。

 

「お初に御目にかかります。私は、白毅、字は士泰と申します。そちらの閻方全どのの護衛をしております」

 

 錬の言葉に、今度は青髪の女性が閻象を振り向き、確認を取る。頷きを返す閻象を見て、とりあえずは納得した女性は、改めて錬へと視線を向けると、表向きは和やかに返礼をして、

 

「私は、姓は張、諱は勲、字は栄之(えいし)といいます。この宛で南陽郡長史をしております。それで…」

 

 そこでがらりと雰囲気が変わる。隠すこともなく探るような視線をぶつけてくる張勲に、錬の背筋が震える。

 

「…あなた、ここでお嬢さまと何をされていたのですか?」

 

 だがその質問、いや詰問に答えたのは錬ではなかった。

 

「うむ、この白と話をしておったのじゃ。いろいろと面白い話を聞いたのじゃ。税の使い方とかをのう」

 

「はあ、税の、ですか~」

 

 場の空気を読まない能天気なコウの言葉に、張勲も毒気を抜かれたかのように呆気に取られて呟く。そんなふうに緊迫しかけた空気をぶち破ってくれたことに、ほっと息をついた錬だが、ふと視線を感じて顔を上げる。見れば、張勲どころか閻象からも呆れたような視線を投げられている。

 そんな状況に戸惑いを隠せない錬に、張勲はため息を吐きつつ、

 

「…あなた、お嬢さまに税制のお話をされたんですか?」

 

「…ええ、多分に成り行きでしたが…」

 

 その返答に、変わらずに呆れた様子を示しながら、張勲のため息がさらに深くなる。

 

「…どうやら、なにも知らなかっただけのようですね~。まあ、お嬢さまが(なつ)いてる時点で悪人ではなさそうですけどね~」

 

「え、と、七乃や、なにか不味かったのかの?」

 

 何度もため息を吐く張勲に、コウが不安げに聞くが、張勲はそんなお嬢さまを安心させるかのように笑いかけた。にこやかな、その笑顔は、間違いなくお嬢さまの不安を払拭させるものだったが、なぜか錬には黒いものに思えて、顔が引きつるのを止められない。だが、それに続く言葉は、それ以上に錬に衝撃を与えることになる。

 

「いえいえ、なにも悪いことはないですよ。ただこのモノを知らない方に呆れていただけですから~。まさか()()()()()()に税制について説くなんて、って」

 

 

 

 

 

 




さて、こうなりました。

やっと書けました。
やっぱり原作キャラは難しい。
みなさんの持っているイメージと乖離しすぎてないかが心配ですが、ある程度は仕方がないかな、と開き直っております。ご容赦願えれば助かります。

実際に性格的にも能力的にも少し上方修正しているつもりです。
南陽太守としての実権を握る前なので、まだ思い上がっていないという設定で考えていて、ここで教育が為されて成長していくと考えています。

それにしても、まだ本名は出ていませんがね…





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五 袁術


間が空きました…
なんとか書けました。




 

「まさか()()()()()()に税制について説くなんて、って」

 

 その言葉に錬の思考は一瞬停止した。

 

 現南陽太守?

 え? それって、あの袁術?

 なんで? なんでこんな子供なの? というか、幼女? 女の子? なんで? 男じゃねえの?

 あれ、太守? 子供に太守やらせてんの? どうなってんの、この国?

 

 次いで、そんな疑問とも言えない思考がぐるぐると脳内を駆け巡る。とはいえ、それらはまだ切迫した疑問ではない。そういうものだ、と納得してしまえばそれで済む話だ。混乱に侵されていても、錬の頭の片隅でこれまでに丁旋や閻象に聞いた話が思い出される。政府や軍の重鎮には女性も多いということや、袁術の実家である汝南袁家が名門だということなどだ。そんな知識から思考を進めれば、()()()()()()もあるのだろう、とは思いつく。

 そんなアレコレより、なによりも、

 

(なんで、太守が、南陽郡の首長(トップ)が、こんなところをうろちょろしてんだよっ!)

 

 錬の疑問の中で、それこそが最も切実な疑問だっただろう。

 愕然として自分を見つめてくる錬が、そんなことになっているとは露知らずにコウ、改め南陽太守袁術は、悪戯がばれてしまった子供の表情を浮かべる。

 

「むう、ばれてしまったのう。それでは、改めて名乗るのじゃ。姓は袁、諱は術、字は公路、この南陽郡の太守をしておるのじゃ」

 

 初めは申し訳なさげに苦笑いを浮かべたものの、名乗りの辺りでは誇るように胸を張って得意げに告げた。

 その袁術の微笑ましさに、錬は先程までの“コウ”との会話を思い出させられ、落ち着きを取り戻すことができた。だから、ひとつ大きく息を吐くと、袁術へと向き直り、拱手を掲げる。

 

「改めて袁南陽様に拝謁を得ます、白毅、字は士泰と申します」

 

 意識的に態度を改め、かしこまって挨拶をすると、錬はそっと上目で礼を受ける幼女の様子を(うかが)った。錬に(おもね)る意図はない。不遜とは思いながらも、コウこと袁術が、急に態度を変えた自分にどう対応するのか、それを見たくなったのだ。

 

「それはやめい、馬鹿者め」

 

 果たして、袁術は不機嫌そうに睨んでくる。

 

「堅苦しいのはいらないのじゃ。さっきまでの話し方でよい」

 

 その真意は分からないが、南陽太守としてではなく、コウとして接してほしがっている、ということは分かった。と言っても、それだけで馬鹿正直に従うわけにもいかない。そう考えた錬が今度は横目で青髪の女性へと視線をやれば、彼女は仕方がないと言わんばかりに嘆息すると小さく頷いて見せた。

 

「分かったよ、コウちゃん。これでいいかい?」

 

 錬が苦笑しつつ言うと、張勲は一瞬気色ばむが気を抑えて目を(つむ)り、袁術は満足げな笑顔で頷く。

 

「うむ、それでよいぞ。それでは、話の続きを…」

 

「ところで、美羽お嬢さま?」

 

「なんじゃ、七乃? (わらわ)は白士泰と話を…」

 

 勢い込んで錬へと話の続きをせがもうとしたところで、それを遮るように張勲に声をかけられて、袁術は不機嫌そうに答えるが、

 

「今はお部屋でお勉強の時間のはずだったのでは?」

 

 張勲の指摘に、硬直すると冷や汗を流し始める。それを見て、楽しそうな、実にいい笑顔で、張勲が言葉を続ける。

 

「先程、私のところにもお嬢さまを探しに女官の方がいらっしゃったんですけど~」

 

「や、それはじゃの…」

 

「先生も御冠(おかんむり)でしたよ~。今月に入ってこれで三度目ですしね~。これは、そろそろ次陽(じよう)さまにご報告なさらなければなりませんかね~」

 

「にょわあっ、七乃っ、それは許してたもっ。叔母上に報せるのだけは許してたもっ」

 

 ここまでくれば、袁術はもう完全に涙目で、張勲へと縋りついて懇願しはじめ、縋りつかれる張勲は恍惚とした表情を浮かべて身悶える。

 

「ああ、目に涙を浮かべて怯える美羽お嬢さま…なんて可愛らしい。さいこ~です~」

 

「…えーと、いいんですかね、これ、ちょっと普通じゃない気がするんですが…」

 

「…人間関係というのは人それぞれですから、他人が関与するべきではないでしょう…」

 

 錬と閻象が(はた)でそんな言葉を交わしているのを他所(よそ)に、張勲は瞳を輝かせ、頬を朱に染めたまま、袁術へと笑いかける。

 

「大丈夫ですよ~、私は美羽お嬢さまの味方ですから~。そんなことなど致しませんとも~」

 

「そ、そうかや? そうよな。七乃は妾の味方じゃものなっ。叔母上に告げ口したりはせんのよな?」

 

「もちろんですとも。私が美羽お嬢さまの苦しまれることなどするわけがないじゃないですか~」

 

「七乃~」

 

「美羽さま~」

 

 感激して抱き締めあっているふたりから少し距離を取って、再び錬が閻象に(ささや)く。

 

「…あ~、これでも()っといてもいい、と?」

 

「…人それぞれ、他人には分からないものもあるでしょうし…」

 

「…目を逸らさずに言ってもらえますかね、方全(ほうねん)さん…」

 

 

 

 

 

 ちなみに、次陽とは袁術の叔母にあたる袁隗の字である。袁隗は中央政界からは追われたものの、本拠である汝南郡に健在であり、袁家全体への影響力は未だに大きなものがあり、幼い袁術からすれば、おっかない叔母上なのであった。

 

 

 

 

 

 その後、場が落ち着いたところで、袁術の、

 

「妾はもっと士泰と話したいのじゃ」

 

 という言葉によって、四人は近くの応接室に場所を移した。

 その際に、錬が閻象へと質問を投げかけ、

 

「方全さんはよかったんですか?」

 

「ええ、急ぐ理由はありませんし…これから主になる方の御言葉は尊重しませんと」

 

 ため息を(こら)える苦笑未満の表情で言う閻象に、心中で御愁傷さまと手を合わせる錬であった。

 

(まあ、この間の話ほど酷くはないみたいなのは、一安心ではあるけどね)

 

「とりあえず、方全さんには主簿の地位を用意しますので、よろしくお願いしますね~」

 

 とは、張勲の言葉である。

 

「おお、閻方全は、妾に仕えてくれるのかや。ならば、士泰も、かの?」

 

 閻象が主簿になると聞き、喜色を露わにした袁術は期待を込めて錬を見遣った。だが、

 

「ん? どうしてそうなる?」

 

「だって、士泰は方全の護衛なのであろ? ならば一緒なのではないのかや?」

 

「いや、方全さんの護衛ってのは、一時的なものでね。警備隊こそが本職なんだ。だからあまり長く隊を離れるわけにはいかないな」

 

 今は危機がないとはいえ、これ以降もそうであるという保証もない。丁荘里を始めとする村々の安全を守るために警備隊を離れるわけにはいかないのは当然だ。

 

「む、そうか、残念なのじゃ…」

 

 錬の返答に哀しそうに俯いた袁術だったが、すぐにいいことを思いついたとばかりに顔を上げる。

 

「そうじゃ、我らの軍によって士泰の村を守ればよいのじゃ。なにせそれこそが本来の仕事であるのであろ? 七乃、すぐに…」

 

「いえ、お嬢さま。それはちょっと…」

 

 だが、張勲は難色を示して言い淀む。

 

「む…だめなのか? なぜじゃ、七乃?」

 

「え~と、ですね~…あ、ほら、今のところ、その村に危険はないのでしょう? なら、軍を派遣しても無駄になりそうじゃないですか。それにほら、そんなふうに無駄なことしてると、お嬢さまの蜂蜜を買うお金がなくなっちゃいますよ~」

 

「なんと、蜂蜜が…それはいやなのじゃ…て、そんな問題ではないのじゃ! 民を守るために軍があるのじゃろ? なら放っとくわけにはいかないのじゃ!」

 

 張勲の誤魔化しに流されそうになった袁術だが、ついさっき錬から教えられたことは、心にしっかりと根を張ったらしく、なんとか思い留まると、両手を突き上げて主張する。その様子に、どうしたものか、と表情を曇らせた張勲が、余計なことを教えて、と言わんばかりに錬を睨みつけるのを他所に、袁術は続けて言い募る。

 

「士泰の村に軍を向かわせるのじゃ。警備隊を助けるのじゃ」

 

「いえ、その、ですね~…」

 

 常になく誤魔化されない袁術に困惑を隠せない張勲が、視線を泳がせながら口籠る。その視線が袁術と錬とを行き来するのを見て、

 

「張長史どの」

 

 そう声をかけたのは閻象だった。

 

「彼のことは、信用してもよろしいかと。私が見るところ、士泰さんは義理堅い方です。そして、話してはいけないことを理解して、秘密を守ることができる方ですよ」

 

「…随分と評価しているんですね…」

 

「ええ。でなければ護衛をお願いなど致しません」

 

 閻象の言葉に、張勲が考え込む。その様子に、錬はなんとなく不穏なものを感じ、

 

「…そうですね、巻き込ませてもらいましょうか」

 

 そう呟く張勲の歪んだ口元を見て、それが気のせいではないことを確信した。だから、

 

「…都合が悪いようでしたら、オレは席を外しますので…」

 

「いえ、そんな必要はないですよ~。そのまま聞いていてください~」

 

 逃げようと腰を浮かせかけたところを、黒い微笑みを浮かべた張勲にあっさりと引き止められた。

 

「その上で、しっかりと酷使させて(お手伝いして)いただきますので~」

 

 

 

 

 

「さて、それでは、軍を派遣できない、というよりも、したくない理由なのですけども…」

 

 錬の退席(逃亡)を阻止した張勲は、仕切り直すようにひとつ手を鳴らすと、彼女の主君へと目を向け、

 

「…本当はお嬢さまにはお伝えするつもりはなかったんですけど…」

 

 少し伏し目がちな表情を浮かべると、そう前置いてから、人差し指を立てた。

 

「お嬢さまの権力の問題なんですね~。実を言いますと、お嬢さま個人としては南陽郡を完全に掌握できていないのですよ。というよりもむしろ、公的な権限のほとんどを自由には執行できない状況でして~」

 

 張勲の説明を受け、錬は眉をひそめたが、ふと袁術へと気遣わしげに目を向ける。その袁術は、眉を寄せて悲しげな表情で俯くと、

 

「…どういう意味なのじゃ?」

 

 その言葉に、錬は脱力感に襲われて卓に突っ伏し、閻象は天を仰いで嘆息し、張勲は恍惚の表情で目を潤ませる。

 

「…あ~、え~とだな…要するに、今のコウちゃんには南陽郡の人たち――役人とか部将とかに好きなように命令を聞かせられない、ってことだよ」

 

「な、何故(なにゆえ)なのじゃ? 妾は南陽郡太守じゃぞ? 名門袁氏の御曹司じゃぞ? 何故、妾が南陽郡の者たちに言うことを聞かせられないのじゃ!?」

 

 要約した錬の言葉に、袁術は愕然として叫ぶ。その疑問に答えを返せるのは、この場ではひとりだけ。

 

「派閥の問題なんですよ、お嬢さま~」

 

 その答えを持っている張勲が小さく呟くと、神妙な表情で三人を見回す。

 

「現在の南陽郡治府を始めとする官府上層部には、大きくふたつの派閥がありまして~、お嬢さまの実家の袁家に連なる者たちによる派閥(もの)がひとつ。これは、お嬢さまの太守赴任とともに袁家から派遣された形になっている、文官たちを中心とした派閥ですね~。もうひとつは南陽郡出身者たちからなる派閥(もの)で、こちらは、いわゆる地元豪族の武官中心の派閥なんですが…」

 

 土佐藩の上士と郷士のようなものかな、とは錬の感想である。

 江戸時代初期に土佐藩主になった山内家に元から仕えていた上士と、元々は地元長宗我部家の家臣だった郷士による二重支配構造。

 実際には似て非なるものだが。

 

「その袁家派閥も、完全なお嬢さまの味方とは言えません。彼らの忠誠は、お嬢さま個人にではなく、袁家本家に向いて…いえ、それも正確ではありませんね~。彼らが重視するのは自らの権益。そのために袁本家に(へつら)っているだけ。そこに忠誠などという殊勝な心持ちなどあるわけもありません」

 

 それを聞いて、錬は先日の閻象の話を思い出した。

 なるほど、袁家周辺に(たか)る者たちにとって、袁術という存在そのものは重きを為してはいないらしい。

 それは、続く張勲の言葉にも表されていた。

 

「もし、お嬢さまの存在が自分たちにとって害になると判断したならば、彼らはお嬢さまを排除しようと動くことでしょうね~。そしてそれは決して不可能なことでもありません。お嬢さまは袁家の次期総領候補のひとりです。潜在的な敵は、洛陽(中央)にも、冀州()にも、それ以外にも…」

 

「な、なんと…」

 

 張勲の話を聞いて、驚きに力なく呟く袁術は、哀しげに表情を崩して(うつむ)く。

 

「わ、妾は、いらない子じゃったのか…」

 

 その呟きに罪悪感から表情を歪ませた張勲が、立ち上がると袁術へと身を乗り出して叫ぶ。

 

「そんなことはありませんっ。お嬢さまを軽視しているのは、そいつらの性根が卑しいからです。お嬢さまの素晴らしさを理解できない三流以下の奴らなんです。そんな奴らに、お嬢さまが気を(わずら)わせる必要なんて、これっぽっちもありませんっ」

 

「…七乃~」

 

「それに…」

 

 涙を浮かべながら顔を上げた袁術に、張勲は穏やかに微笑むと、落ち着いた口調で話しかける。

 

「私は何があってもお嬢さまの味方ですから」

 

 それは正しく慈母の笑み。物心つくかのころに母と死に別れた幼女にとっては、初めて目にする無償の愛を感じさせる微笑みであった。そのことを感じ取った袁術は、先までとは違う理由で涙ぐみ、しかし、笑顔を浮かべて張勲を見つめ返す。

 ふたりの信頼関係が窺えるその様子に、錬も閻象も表情を崩した。錬はただ微笑ましかっただけだが、閻象はそれだけではない。今後、このふたりを支えていく立場になる閻象にとって、それは好ましいもの。仕えることが決まったのならば、仕え甲斐のある、少なくとも不快を感じない相手であってほしい、と思うのは当然のことだろう。

 だが、感激から今にも抱擁しそうな主従に、こちらまで情を同じくしていては今後に差し障る。そう冷静に考えて、閻象は少々わざとらしい咳払いで、場の空気を引き戻す。

 

「それで、張長史どの。その袁本家の威を借る者らは、袁南陽さまが政務に口を出すことを好まない、と?」

 

「ええ、その通りです。彼らにとっての最善は、自分たちだけで南陽郡の政務を取り仕切ること。そして、その際に生じる利権を貪ること、です。そのためには、お嬢さまに余計な知恵はつけてほしくはない。政務に興味を抱いてほしくはない」

 

「つまり、コウちゃんの命令で軍を派遣しようとすると、そいつらを刺激することになって…」

 

「ええ、彼らに警戒を抱かせることになるでしょうね~。軍の派遣案も財政不足とかなんとか理由をつけて潰されるでしょうし~。せっかく、お嬢さまのワガママでおバカなところを見せて油断させているところなのに、そんなことになったらいろいろと台無しです~」

 

 錬の言葉を受けて、張勲が見解を示し、愚痴をこぼす。その内容に思わず顔を引きつらせた錬は、そっと横目で袁術へと視線を向けるが、当の袁術は気にした様子もない。

 

「せめて、そいつらを南陽官府の中枢から排除するまでは、今の状況を維持していたいんですよね~」

 

「排除、ですか…その、当てはある、と?」

 

「ん~、まだ、当てと言えるほどではないんですけど~…」

 

 人差し指を口元に当てて、少し上を見上げるようにする張勲は、

 

「アレをあーして、コチラをこーすれば…あと一年もあれば、なんとかなると思いますけれどね~」

 

 事もなげに言い切る。

 その言い様に、錬は今日何度目かになる寒気を背中に感じた。

 先ほどの話から、今の張勲はこの南陽郡において孤立無援の状況にあるはずで、だがその状況からたった一年でなんとかなる――おそらくはこの南陽の実権を握ることができる、張勲はそう言っている。

 いったいどれほどの謀略の才を秘めているのか。

 

(うん、この女性(ひと)は、敵に回さないように気をつけよう…)

 

 錬がじわりと湧いてくる恐怖とともに、そう考えるのは当然と言えるだろう。

 そして、

 

「おお、さすがは七乃じゃ。良く分からぬが、よろしく頼むのじゃ」

 

 と、張勲へと称賛の声を上げるのは袁術だ。

 

(あ、そうか、分かってなかったんだな、コウちゃん。結構、(ちょく)毒づか(ディスら)れてたんだけど…)

 

 話が難しくなった辺りから聞いてなかったらしい袁術に、内心で苦笑を禁じ得ない錬であった。

 

 

 

 

 

 





会話だけで、話数が終わっていく…
なんとか場面を進めたいんですけど…
書いてると間延びしてしまうのは、ままなりません。
すみませんが、こういう話だと思ってお付き合いくださいませ。




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六 意企策謀

 

 

「おお、さすがは七乃じゃ。良く分からぬが、よろしく頼むのじゃ」

 

 という袁術の能天気な称賛の言葉に、

 

「は~い、お嬢さま。おまかせください~」

 

 と、こちらも能天気を装った口調で返す張勲である。しかし、

 

「とは、言うものの、なんですけど…」

 

 立てた人差し指を口元に当てた仕草で、張勲はにこやかな微笑みを浮かべ、錬へと視線を流す。

 

「せっかくの新しい手駒(お手伝い)なんですし~、有効的に働いていただきたいんですけどね~」

 

(あ~、もう味方するのは確定なのな…いや、異論はないけども…)

 

 内心でボヤきつつ、錬は張勲からの視線に向き直る。

 

「それで、オレに何をやらせようっていうんです?」

 

「そーですね~…貴方のほうに何か考えはあったりしませんか~?」

 

 こちらを試すように質問に質問を返す張勲に、錬は、ふむ、と一瞬考え込み、

 

「袁家派閥は排除する方向性だとして、武官たちについてはどうするつもりなんですか?」

 

「ん~、武官たち(そちら)については、今のところは積極的に敵対してきてはいないので、とりあえずは後回しですね~。まあ、あちらもあちらで、こちらに構うよりも先になんとかしたいことがあるようなんですよ~」

 

「と、いうと?」

 

「ん~、まあ、よくある武官の派閥争いなんですけどね~。南陽豪族と他地方からの仕官組とで対立がありまして~」

 

 張勲が、しれっと語るのは南陽郡の内情で、本来、部外者に知らせていいものではない。だが、南陽郡の権力争いに錬を味方として巻き込むことをすでに決定事項として、新たな手駒を効率よく動かすことに思案を巡らせていた張勲は、そのためにある程度の情報を与える必要があることを理解している。

 であるから、武官らの状況を伝えることについて、張勲に躊躇(ちゅうちょ)はない。

 

 そして、その状況とは、張勲の言葉通りによくある対立構造。

 単純に、出自による派閥争い。

 

 張勲の説明によれば、地元南陽郡の豪族出身者やその係累からなる派閥は武官の八割を占め、また当然のように兵士のほとんどが地元出身であることから、彼らが南陽郡の軍組織に及ぼす影響力はかなり大きい。

 一方、他地方出身者からなる派閥は、数は少ないものの、縁故などに頼らずに任官したものがほとんどであるから、その人品の良さと能力の高さは豪族出の武官らを上回る。ゆえに見識ある文官や兵士などからは地方組(こちら)の武官らのほうが信頼を得ており、表向きはともかく裏に回れば支持は高い。

 

 そういった事柄を並べれば、武官内の派閥の力関係は、表面上、南陽豪族側に分があるように見えるが、潜在する事情を勘案すればそれほどの差はない、というのが実状らしい。

 

 現在、南陽郡の軍権を預かる郡都尉(とい)の地位にあるのは、舞陰(ぶいん)の有力豪族である韓氏に連なる韓宜(かんぎ)という男だ。その出自から南陽の豪族ら、そして彼らが抱える部曲と呼ばれる私兵集団へも大きな影響力を持っている、この男は、すなわち南陽郡の軍事力のほぼすべてを手中に収めていると言って過言ではない。

 もし、この韓宜という男が身に余る野心を抱いていれば、南陽郡は、そして太守袁術の身柄は彼の手の中に落ちていただろう。だが、

 

「…この韓郡都尉どのというのが珍妙な方でして、袁家派を排除しようとか、自ら権力を握ろうとか、そういったことを考えてらっしゃらないようにしか見えないんですよね~…地方豪族なんて累代の特権に執着する俗悪(ろくでなし)しかいないはずなのに…」

 

 と、張勲は言う。

 それはさすがに偏見に過ぎるだろう、と、錬も、閻象も、苦笑を浮かべる。

 

「それは、普通に常識人だというだけじゃないんですかね?」

 

「韓郡都尉どのと言えば、人格者として名を聞きますよ。見たままの人でいいのではないですか?」

 

「…まあ、それが本当ならいいんですけどね~」

 

 錬と閻象が呆れたように言うのに、少し拗ねたかのように口を尖らせる張勲であるが、そこは気を取り直すかのように話を進める。

 

「いえいえ、問題はそこじゃなくて、ですね、彼の部下なんですよ~」

 

 韓宜の部下、副将格にあたる武官に、韓忠(かんちゅう)という男がいる。韓宜の甥であり、韓本家の後嗣(あとつぎ)と目されている男だ。ただこの男が伯父に似ず、尊大で、いかにも豪族らしい男で、同僚や部下と問題を起こしたのも一度や二度ではない。そんな男がどうして副将格に就いていられるか、といえば、武に優れ、また韓氏の出身であるからだ。その立場から、次期郡都尉を自任しており、それもまた韓忠の傲慢さを助長している。

 その韓忠が現在(いま)、目の敵にしているのが、もうひとりの副将格であるひとりの武官だ。

 その武官は、姓を()、諱を(れい)という地方から仕官した女性武官で、彼女こそが仕官組武官らの中心となっている。ひとりで数十人からなる匪賊を討ち取ったという武勇の持ち主で、その武勇を韓宜に見出されて仕官することになった紀霊は、上には忠実で、下には厳しくも気配りを欠かさず、よって武官、兵士問わずに人望を集めている。つまりは、よくできた女性で、上司の韓宜の信頼も厚く、それもあって、韓忠の嫉視(しっし)を受けることになってしまった、ということのようだ。

 

「その二人の副将格が、豪族派と仕官組の対立を起こしている、というわけですか…」

 

「対立というか、叔礼(しゅくれい)どのが一方的に長成(ちょうせい)どのに敵意を抱いているだけで、長成どののほうは礼儀正しく素知らぬ振りをしているんですけどね~。まあ、対立そのものは、ふたりだけの問題でもないんで、しっかり巻き込まれてしまってるんですけど~」

 

 要するに、韓忠の独り相撲に対し、本人ではなく紀霊を慕う周りが過敏に反応している、ということらしい。紀霊には、迷惑なことだろうが。

 ちなみに、叔礼とは韓忠の字であり、長成が紀霊の字だ。

 

「そういうことであれば…張長史どの」

 

 そこまで聞いて考えがまとまったのか、錬が張勲へと向き直る。

 

「紀長成どのをこちらに取り込むように動くのが最上だと思いますが」

 

「まあ、それがいいのは分かるんですけど~…」

 

 仕官組の武官を引き入れようという錬の提案に、張勲が気遣わしげに眉を曇らすと、それに錬は頷きつつも言葉を続ける。

 

「ええ、その場合、豪族らを揃って敵に回してしまう危険は確かにあります。それでも、味方にするなら良識的(まとも)な人のほうがいいでしょう。まあ、豪族らも敵にならないならそのほうがいいし、そうならないように、韓郡都尉どのに渡りをつけることも考えるべきでしょうね。どちらにしろ、分かりやすい武力は必要でしょう? 今すぐというわけではなくても、将来的には…」

 

 豪族らへの影響の大きい韓宜が、閻象の言うように人格者であれば、理を()って説けば、少なくとも敵対行動を起こさせることは避けられるかもしれない。

 そんな考えから、張勲(あいて)理解して(わかって)いることを知りながらも、わざわざ告げる錬に、なぜか張勲は、にこやかに笑いかける。

 

 これは、言わされたか?

 

 その笑顔を見て、錬が思ったことがこれである。

 

「そうですね~、では、武官連中(そちら)への対応(こと)は、貴方に動いていただくということで」

 

「…やっぱり、そうなりますか?」

 

 案の定、である。

 

「ええ、細かいことはお任せしますので、よろしくお願いしますね~。細かくないことは報告してくれないと困りますけれど~」

 

 細かいのと細かくないの、の境界ってどこなんだろうな、などと(らち)もないことを考えながらも、錬は張勲に頷きを返す。

 

「分かりました。とりあえず、韓叔礼どの、ですか? その武官のことを探ってみることにします。細かいことは、それから考えますよ」

 

 諦め半分な気分でため息とともに言い返して錬は、しかし表情を改めて次を続ける。

 

「ともかく、今のオレなら太守陣営(そちら)との関連を疑われるようなこともないでしょうし、城下でいろいろと動いてみます。どこか拠点になるところがあればいいんですが」

 

「拠点、ですか~。そういうことなら私のほうで用意はしないほうがよさそうですね~」

 

「それなら、私のほうで準備をしましょう。閻家の伝手を使えば、気付かれるようなこともないでしょう」

 

 張勲、閻象が言い、粗方の方針を決めていく。

 

 話通りに、錬が城下で活動する際の拠点を閻象が商家の伝手をもって準備し、武官や袁家派閥の情報などについては、書簡に記したものを、張勲がその拠点に用意しておくことになった。

 というのも、錬にしても閻象にしても、一度は戻る必要があるからだ。錬は丁荘里および警備隊の拠点に、閻象にしても博望の閻本家に戻り、引継ぎをしなければならない。ふたりとも、それから再び宛にやって来ることになる。

 もっとも戻るのは別々に、だ。

 宛に戻ってくれば、閻象は主簿として袁術の臣下になる。錬と袁術との関わりを疑われないために、接触を控えるべきなのは当然だろう。

 ゆえに宛に戻って後、錬は個別に動くことになるが、連絡を取る必要がないわけではない。その連絡方法としては、錬が拠点に腰を据えたところで、張勲が囲っている細作を遣わせることにした。それ以降については、錬とその細作で話し合えば十分だろう。

 

「そんなところでよろしいでしょうか? お嬢さま…あらあら…」

 

 そんな細々(こまごま)を打ち合わせて話がまとまったところで、張勲が了承を得ようと主君へと目を向け、その目を丸くした。その視線の先で、規則正しく頭を上下に揺らす袁術の姿を見て。

 

「静かにしてると思ったら…お話が難しくて眠くなっちゃうなんてお嬢さまらしいですね~」

 

 そして、柔らかな微笑みを浮かべる。どうやら、起こす、という選択肢は彼女の中には存在しないようだ。

 

「それでは、私たちはそろそろ御暇(おいとま)させていただくとしましょうか」

 

 その様子に、話はこれまで、と見た閻象が退出の意を告げ、そっと立ち上がる。

 それに頷くと、錬も席を立ち、張勲へと向き直った。

 

「コウちゃ…いや、袁太守さまによろしくお伝えください。黙っていなくなってすまない、また会おう、と」

 

「分かりました~。その約束、守ってくださいね~。破られるとお嬢さまが悲しまれますので~」

 

 袁術への伝言にしっかりと頷いて微笑む張勲に、錬は不思議なものでも見るかのような表情を浮かべた。

 

「すみませんが、ひとつ質問してもいいですか?」

 

 堪え切れなくなったというほどでもないのだが、張勲の醸す空気に()てられたか、気がつけば錬はそう切り出していた。唐突な質問に、張勲は何も言わずに頷いて先を促す。

 

「先程の話は、結構大事(おおごと)です。昨日今日会ったばかりのオレのような相手にしていい話じゃないはずです。いくら方全さんが請け合ったとは言え、どうしてオレなんかを信用されたんですか?」

 

 その問いに、張勲はしばし思考を巡らしてから、口を開く。

 

「別にあなたを信用したわけじゃないですよ。方全さんの保証もありますが、第一にはお嬢さまが懐いていたからです。こう見えて、人を見る目だけはあるんですよ、うちのお嬢さまは。なにしろ、幼いころから()()()()大人たちの中で育ってきたんですから」

 

 そう言いながら、張勲は舟をこぐ袁術へと目を向ける。その視線は、どこまでも穏やかで優しい。

 

「名門氏族ですからね~。それこそ、有象無象が雲霞のごとくってやつです。ご両親がお亡くなりになられたのも物心つく前とのことですし…」

 

 そりゃ人品を見抜く目も養われるってものです、と小さく呟くのを聞いて、錬も袁術へと目をやる。

 今や半ば椅子からずり落ちかけて、口を半開きにした寝顔を晒す袁術。可憐さも霞む、その様子を見ても、呆れるよりも痛ましさを覚えたのは、張勲の言葉でその境遇に思いを馳せたからだ。能天気にさえ思える言動の裏に抱える悲嘆(もの)に。こんな幼い少女が、人を見極める直感を得た――得てしまった事情(こと)に。

 ゆえに、ただ決意を込めて囁くように、

 

「…そうですね。また会いに来ますよ、必ず」

 

 そう呟いた。

 

 

 

 

 

 城を辞して屋敷に戻ると、閻象は駐在する部下に幾つかの指示を飛ばし、その日のうちに錬を伴って宛を離れた。

 出した指示とは、宛に置ける拠点の確保と準備、そして閻象が袁術に仕官することと商家としての閻家総代を実弟閻統へ譲ることを知らせる博望への早馬の手配である。そしてそういった諸々(もろもろ)の手続きのために本拠である博望へと急ぎ戻る必要があったのは、閻象が宛に()く舞い戻る必要があるからだ。

 

「手早く手続きを終えて戻らなければ、なんらかの妨害がある可能性を捨て切れませんからね」

 

 太守袁術の主簿という地位。

 それを決めたのが、袁術の腹心たる長史張勲。

 誰が見ても、閻象の仕官は袁術を輔翼するためだというのは明らかで、袁術が力をつけることを避けたい面々がそれを知ればどう思うか。排除できるものなら排除したいだろう。可能ならば正式に仕官する前に。特に袁家派閥は文官の集まりであり、太守の側近である主簿という文官に納まることになる閻象は、彼らにとって直接的な政敵となる。心穏やかではいられまい。

 更に、その新たな政敵が卑賎の身である商人であるとなれば、名士としての誇りも刺激することだろう。

 閻象としては、早々に宛に戻り、出仕して、公的に護衛を配して身の安全を図りたいところだ。

 

 博望への道すがら、錬と閻象は今後の行動についての話し合いを行いつつ、馬車を走らせた。

 

「宛での拠点については、博望の閻家に連絡が来るようになっています。宛に行く前に寄るようにしてください」

 

「了解です。ところで、武官、豪族について、方全さんのほうでも調べられませんか?」

 

「分かりました、閻家を通して商人たちから情報を集めてみます。その情報の渡し方については改めて考えましょう」

 

 等々。

 そんなこんなを話しつつ、博望は閻本家へと閻象を送り届けると、錬は挨拶もそこそこに馬に乗り換えて博望を発つ。

 

 一路、丁荘里へと馬を走らせながら、錬は宛で出会った人のことを考えていた。

 コウこと南陽太守の袁術と、その配下の長史張勲。

 張勲については知らないが、袁術については知識がある。古代中国の三国時代、あるいは三国志演義に名を残す群雄の一人として。

 だが当然にして、その群雄のひとりが女性だったなどという荒唐無稽な話は聞いたことがなく、実際に会って話をするまで、そんな可能性など錬は思いつきもしなかった。

 今になってみれば、それに思い至らなかったのは、少々考えが浅かったと思わないでもない。李豊や楽就、閻象という実例が間近にいたのだから。

 まあ、袁術のような“名のある人物”が女性であったからこそ実感できたというわけだが。

 すなわち、

 

「オレの知ってる三国志とは別物だと思ったほうがいいかなあ」

 

 ということである。

 大まかな歴史は変わりないかもしれない。

 実際に、春秋戦国、秦、前漢から後漢への流れは同じなようだ。現状でも、何進が妹を後宮に上げている。やがて大将軍へと就任することだろう。

 だが性別以外にも明らかに違う状況もある。

 何進が大将軍になるのは黄巾の乱が興ってからで、その黄巾の乱で名を上げるのが、曹操や劉備といった後の英雄たちだ。そして袁術も曹操と同年代であったはずだ。本来なら。

 明らかにおかしい。

 黄巾の乱があとどれくらいで始まるかは不明だが、十年も先ということはないだろう。早くて一年以内、遅くても四、五年といったところではないだろうか。それを前提として数えて十代前半。黄巾討伐に派遣される将軍皇甫嵩の下で一隊を率いた曹操が、十歳そこそこだったということはないだろう。

 それでは、この世界では?――

 十に満たない袁術が――形式上のことだけであっても――太守をしているくらいである。曹操が十代前半で軍を率いていても不思議ではない、のかもしれない。いや、年齢がおかしいのは袁術だけかもしれない。

 などと考えるも、答えなどでない。出るわけがない。それに――

 

「金髪だもんなあ…東洋人の髪色じゃないじゃん…」

 

 ということもある。

 

「…考えても無駄、か…」

 

 結局のところ、行きつくところはそこであり、多くもない三国志の知識は役に立たないと思っておいたほうがいいだろう、ということだった。

 

「まあ、いいさ。不十分な知識なんて逆に悪い影響にもなりかねんだろうさ」

 

 そう独りごちると、錬は手綱をしごいて馬足を速めた。

 

 

 

 

 

「ふむ…袁南陽太守様に力を貸す、というのじゃな?」

 

 丁旋は、問うようにそう言った。宛から帰還した錬から、張勲との会合についての報告を聞いてのことである。

 

「ええ、そういうことになりました」

 

「本気か?」

 

 事もなげに肯定する錬に、眉根を寄せて言ったのは丁旋の孫の丁延だ。

 

「袁南陽って、()()袁術だろう? 碌な噂を聞かんぞ、あの太守様は…」

 

 その言葉に、

 

「言葉が過ぎるぞ、延」

 

 と、(たしな)めるのは丁洪(ていこう)、丁延の父である壮年の男だ。がっしりとした身体つきに無精髭という一見粗野な風貌ながら、寡黙で理知的な男性であり、その性質はさすが丁旋の息子、といったところだろう。その理性的な男が、息子の不遜を咎めながらも、やはり不審さを露わにする。

 

「だが、確かに不可解ではあるな、士泰どの。前任が優れていたわけではないが、今の南陽が悪政を()いているのは間違いのないところだ」

 

 丁洪の言葉は、南陽郡下の民に共通した思いだろう。

 その言葉に、同席する皆が――丁旋、丁延、そして丁洪とともに丁旋を補佐する二人の村人が――首を縦に振る。

 南陽郡治府が人民を慮っていないのは事実だ。だが、悪政(それ)について、現太守に直接的な非がないことを錬は知っている。

 

「そうなんですけどね…それってどうも、実権を握ってる袁家の取巻き連中が好き勝手にやってるせいらしいんですよ。いわゆる側奸ってやつですね。あと、それに対抗すべき地元の豪族も武官内での勢力争いに(うつつ)を抜かしてるみたいで…」

 

 嘆息しつつの錬の言葉に、丁家の三人は暫時(しばらく)考え込むように押し黙ると、丁旋が代表するように錬へと視線を向ける。

 

「…すなわち、その側奸を除けば、郡治府は正道に立ち返る、と見たわけじゃな? 士泰どのは」

 

「はい、袁公路は幼く無知ではありますが暗愚ではないと思います。仕え、支える者次第でしょう」

 

 首肯する錬に、丁旋は、ふむふむ、と幾度か頷き、丁洪は瞑目して黙考し、丁延は、大丈夫か、とばかりに疑わしげに眉根を寄せる。

 場に沈黙が流れ、

 

「…それで、どうなさいますか、丁老?」

 

 しばしのちに、卓を囲む村人の一人が質問する。

 

「儂は、士泰どのの考えを支持しよう」

 

 その言葉に、丁延や補佐の二人は驚いたように目を見開いた。

 それを見て、丁旋は落ち着いて説明をする。

 

 現状で悪政を為す者らを除き、袁術が実権を握ることによって、政治が正されるのであればそれが一番良い。

 閻象が主簿として仕え、さらに何の因果か、錬もが袁術の知己を得、場合によっては仕官も叶うとなれば、より人民を慮る政道に近付かせることへの期待は高まる。ならば、一時の危険性を負ったとしても、後の安定につながる可能性のある方策を採るべきだろう。

 だから今は、目先ではなく、その先を見据えるべきだ。

 丁旋が言うのはそういうことで、そう説明されれば皆にも否やはなく、錬が留守の間は、丁延、李壮、李豊を警備隊に派遣することで助力することを、丁旋が決める。

 

「まあ、その必要もないかもしれぬがの。匪賊も柳河郷(このあたり)には出張る様子はないようじゃ。官を改めて治を正すには、今がよい時期かもしれぬの」

 

 その言葉を締め括りとして、丁荘里での話し合いは終わった。

 

 

 

 

 

 そして、話し合い、というか、錬の事後報告は、警備隊の拠点へと移り。

 

「丁老らにはすでに話したんだが、袁南陽太守が実権を握るための手助けをすることになった」

 

 と言えば。

 

「隊長のなさりたいように…」

 

 副隊長の郭平があっさりと言い、錬不在の穴を埋めるために拠点に詰めていた、李壮、楽就も。

 

「丁老が承認したのならば否やはないな」

 

「まあ、いいんじゃないの?」

 

 と、錬が拍子抜けするほどだった。それを埋め合わせるというわけでもなかろうが。

 

「…それは、閻どのに合わせて、ということなのでしょうか?」

 

 いつもの感情の見えない面差で、これまた平坦な声音で、李豊が問う。

 その言葉には、責める様子も、詰る気配もなく、単なる疑問から出たようではあったが、その場の空気が若干冷えたような感覚を皆は覚えた。

 

「いえいえ、あれはなし崩しみたいなものでして…」

 

 平静を装いつつ、錬は答える。

 

「どちらかと言えば、張長史どのに嵌められた、というのが近いですね。とはいえ、利がないわけでもないですし」

 

 そうして、丁荘里で丁旋らと話し合った内容を改めて話す。

 理にかなっている話であり、全員が賛意を示した。無論、李豊も。無表情に、だが、分かる者には分かるように、幾分、不機嫌そうに。

 

「あれって、やっぱりそういうことなのか?」

 

「ん~、前はそんな気持ちはないって言ってたけど…どうなんだろ?」

 

「…悋気(りんき)にしか思えんのだがな、俺には」

 

「…あたしもそんな気がするけど…」

 

 以上、李壮と楽就の師弟が小声で交わしたやりとりである。向けられた刺すような冷徹な視線に、それ以上の詮索は中断を余儀なくされたのだが。

 

「それで、隊長」

 

 流れる微妙な空気を払拭しようとしてか、郭平が口を開く。

 

「具体的にどう対応するつもりですか?」

 

「とりあえず、武官らに対する諜報が、先ず一番だからな。少人数で目立たずに宛に入り込まなけりゃならん」

 

 錬の言葉を聞いて、郭平は顎に手を当てて考える。

 

「とすると、隊長の他にひとりかふたり、ってところですか…誰を連れていきますか?」

 

「そうだな。まずひとりは、奉武を。あれで目端が利くからな。打ってつけだろう」

 

 郭平の問いに、錬が梁綱の名を挙げたのは、言うようにその少年が機転の利く性質であることを知っていたからだ。慕う錬に近侍するがゆえに、そういった能力が伸びたのだろう。加えて、錬との相性も良く、補佐としては最適と言える。だが。

 

「それで…他にいるか?」

 

「…思い当たりませんね、他には…」

 

 梁綱以外の適任が出てこない。修練や実践を積んだとはいえ、数か月前まで賊徒だった者らだ。良く言って奔放、悪く言えば粗雑な警備隊下の者らに諜報工作が向くはずがない。

 

「仕方がないか、オレと奉武だけで…」

 

 錬がため息とともに、そう口から(こぼ)すと、

 

「えっ、あたし、行こうかと思ってたのにっ」

 

 驚きの声を上げたのは楽就だったが。

 

「いやいやいや、ないから」

 

「ありえませんでしょう?」

 

「おまえは一番ないだろう」

 

「……」

 

 周囲から否定が続出して、楽就は不満げに頬を膨らませる。

 

「ええ~、なんで~?」

 

「いや、さっきも言ったけど、目立っちゃいけないから」

 

 楽就が宛へ赴けば必ず衆目を集める。

 特段、武装している女性が珍しいというわけではない。特に宛ほどの大都市であれば、なおさらだ。だが女性の武人であれば、“昂武の才”であることを誰もが思い浮かべる。特に権勢の近くにいる者は、召し抱えることを考える。目立ってはいけないのに、最も避けたい権力者から注目されてしまうわけだ。

 さらに、楽就は見目も悪くない。むしろ美少女と言っていいだろう。目立たないわけがない。

 同じ理由で、李豊も除外される。もっともこちらは騒いだりはしないが。そんなことは承知の上だし、性格的にもそういう性質(たち)ではないし。

 

 そう説明されて、渋々ながらも納得はしたようで、口を尖らせながらも楽就が黙る。

 その様子に苦笑を滲ませながら、錬はその場にいる皆を見回すと、

 

「そんな訳なんで、今回は長くなりそうですが、留守をお願いします」

 

 そう言って頭を下げた。

 

 

 

 

 

 





ずいぶん間を空けてしまいました。
申し訳ないです。

もう忘れられちゃってるかもしれないなあ、と危機感がありはしたのですが、どうにも会話が多くなると、文章のリズムが狂ってしまうような気がして、なかなか筆が進みませんでした。
かと言って、時間を掛けたから良くなるものでもないという……

遅くなってなんですが、読んでいただけたなら幸いです。

ちなみに『意企策謀』という四字熟語はありません。





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七 暗躍

 

 

 途中、博望の(えん)家に滞在して、拠点の情報が届くのを待つこと一日、錬が宛に到着したのは、先だって離れてから七日後の昼頃だった。

 閻家の伝手(つて)で手に入れた別の商家の紹介状を使って無事に城門を通過した、錬と梁綱のふたりは、閻家で聞いた拠点を探して、宛城下を歩く。

 

「…対角に結び目をつけた布を門先に下げた家。あれか」

 

 それはそれほど手間をかけることなく見つかった。

 情報通りの場所に、情報通りの目印。それを確認し、何食わぬ顔でその門をくぐって屋敷へと入る。

 

 とある商家が食客のために用意した屋敷。

 そんな設定で用意した拠点だ。

 設定というが、それ自体は本当の話だ。某商家が護衛に雇った食客を住まわせていた、というのは。ただ今は、その商家自体が衰退し、その屋敷も他の商家への抵当になってしまっていたりする。それを閻家が手を回して確保した。

 そんな理由から、錬と梁綱のふたりは、とある商家の元護衛で、仕官先を探して宛へとやってきた、ということになっている。屋敷は、元雇い主の商家からの好意で使わせてもらっている、というわけだ。

 なぜそんな設定を決めているのかといえば、この屋敷がごく普通の住宅街区に立地しているからで、任務の性質上、目立つわけにはいかず、周囲に不審がられるわけにはいかない。できるだけ周囲に溶け込みたい。そんな理由から、周辺住民から受け入れられる立場でいる必要がある。

 それが、仕官志望の武人、というわけだ。

 そんなわけで、というだけのことでもないのだが、ふたりともそれなりに武装していた。

 錬は長剣と二本の短剣を腰に、弓矢を背に、梁綱は槍と中剣を、それぞれ携えている。今回は騎乗せずに徒歩で、これも流れの武人には馬までは手が出ないだろうからだ。金銭的に、入手はまだしも維持できずに。

 

 食客を住まわせていた、というだけあって広い屋敷だった。

 広間や食堂に厨房、個室にしても十以上ある。鍛錬するに十分な広さの中庭に、寛ぐための四阿(あずまや)まである。

 そのうちの食堂の卓の上に積み重なった竹簡があった。一番上の竹簡を手に取って中を検める錬に、

 

「なんですか、それ?」

 

 梁綱が聞く。

 

「…韓宜伯正、南陽郡舞陰県…これは武官名簿だな。こっちは部曲の台帳か。これが南陽郡の情報ってわけだ」

 

「…それ、全部、ですか?」

 

「だろうな」

 

 どことなく引きつった声音で言う梁綱に、嘆息気味に答えると、錬は意を決したように、その竹簡の山の前に腰を下ろした。

 

「仕方がない、目を通すか。ああ、奉武、表の目印の布を仕舞っておいてくれないか。あと近所に挨拶回りも頼めるか」

 

「分かりました、隊ち…いえ、すみません、士泰さん…」

 

 隊長、と返しかけて睨まれた梁綱が言い直す。呼び方には注意しろ、とは道中で言われていたことだ。ただの仕官志望の武人が隊長呼ばわりは不審を呼ぶだろう、ということで。だが、慣れとはなかなか抜けないものだ。

 意識して気をつけなきゃな、と心に言い聞かせて、梁綱は門に下げられた目印を片付けると、そのまま近所回りへと出て行った。

 

 それから、近所回りから帰ってきた梁綱が、屋敷内の掃除を始め、日が沈み、夕食を摂りに外へ一度出ただけで、錬はぶっ通しで竹簡に目を通し続けた。検めながら、目を通しておけばいいだけのものと、改めて確認するべきもの、後で再検する可能性のあるものに分けていく。

 そんな作業を、ほぼ機械的に続けていた錬だが、ふいにその手が止まり、視線だけが窓の外へと流れる。

 

「どうかしましたか?」

 

「落ち着いて、気配を探ってみな」

 

 竹簡の仕分けを手伝っていた梁綱が、その様子を見て(いぶか)しげに聞くと、表情を変えないままに錬が小声で答える。

 それに、梁綱は素直に従って、半眼になり、

 

「?……あ…」

 

 何かに気付き、びく、と身体を震わせると、錬が視線をやる窓へと顔を向けた。

 

「誰だっ」

 

 その声を受けて、窓から黒装束がひとり、影が滲み出るかのように入り込んでくると、身構える梁綱へと制止するように左の掌を掲げた。

 

「まあ、待て。敵ではない」

 

「あんたが遣いの細作か?」

 

 そう問うたのは錬。明らかな不審者の侵入にも、慌てず姿勢すら変えることなく、目を細めて見遣る。

 

「ああ、目印がなくなっていたので、な。それでは、貴様が白士泰か」

 

 名を呼ばれて初めて、錬は黒装束へと身体ごと向き直った。

 

「ああ、オレが白士泰だ。こっちは梁奉武。オレの部下だ。それで、そっちは何と呼べばいい?」

 

「ふむ…それでは、“壱”とでも」

 

 明らかに偽名、しかし、それは当然でもある。この男は細作――影の仕事に携わる人間だ。その立場上、名は秘すものだろう。それを察して、錬は頷く。

 

「了解した、壱。それで、あちらからなにか伝言はあるか?」

 

「いや、ない。新しい情報も特にはないな」

 

「そうか。それで、今後の連絡はどうする?」

 

「こちらからはこれくらいの時間に来ることにしよう。誰も居なければ何らかの目印は残しておく。そちらから連絡を取りたいときは、日が沈む前に例の目印を軒先に下げておいてくれ。それを確認したら同じように来るようにする」

 

「了解した。他に決めておくことはあるか?」

 

「今はそれくらいでよかろう。それではこれで…」

 

 素気なく、そんな会話を並べると、壱と名乗った細作は現れたときと同じように姿を消した。

 

 

 

 

 

 それから数日、錬と梁綱は街を歩き、食堂や酒場などで噂を聞き込み、主な武官の屋敷で働く人々にも接触して内情を探った。

 その結果、分かったことと言えば、通り一遍の評判――韓宜や紀霊の人気の高さとそれに比して韓忠らの主だった豪族武官の悪評――であり、このところ、韓忠がその一党であるところの豪族との交流を深めている、ということだった。その豪族というのが、伊俊(いしゅん)という姓名()であり、この男がつい最近、街の破落戸(ごろつき)を屋敷に囲った、ということも。だが、

 

「まあ、なにか企んでるんだろうが…」

 

 この程度の情報では、それ以上のことに、推論でさえも進まない。

 

「…やはり、忍び込むしかない、かな?」

 

「まあ、そうだろうな」

 

 錬の嘆息交じりの言葉にそう答えた、壱と名乗る細作だが、

 

「そっちで動くことは?」

 

 続く問いには首を横に振る。

 

「我らも手が多いわけではないのでな。(あるじ)らの警備と対象への監視の他に回せるほどではない」

 

 それもそうか、と錬は頷く。韓忠もしくは伊俊の屋敷を探るにしても、意味もなく忍び込むわけにはいかない。どちらかの訪れを待つ等の機を(うかが)わなければ意味がない。となれば一日二日で済む話ではなくなるわけだ。

 そして、袁術陣営の細作の手が武官の派閥争いにまで回るのならば、張勲が武官(そちら)への対応を、錬に任せる必要もない。

 

「となれば、自分で何とかするしかないわけだが」

 

 とは言え、それが可能かどうかの判断が錬にはできない。

 

「と言うわけで、予行演習を手伝ってくれないか?」

 

「…どういうことだ?」

 

「オレと奉武に隠密活動が可能かどうか。それを確認したい。具体的には、あんたらが警備する所への潜入を試したい」

 

「ふむ…警備(こちら)は通常通りでいいのか?」

 

「ああ、でなければ意味がないだろう」

 

 聞けば、宛城でも奥に――袁術や張勲らの部屋に近いほど、張勲配下の細作でも手練(てだ)れが警備していると言う。つまりは、張勲の執務室を目標としてどこまで潜入できるかで、隠密能力の尺度としようというわけだ。

 

「承知した。実行は明日の夜ということでいいか?」

 

 壱の確認の言葉に錬が頷く。

 それから、錬、梁綱ともに、壱から隠密行動の要領を聞き、指導を受ける。音を立てない足運びや体(さば)き、見張りの死角のつき方など。

 

 そして、翌日の夜――

 結果、梁綱は通常の警備には発見されなかったものの細作に捕まり、錬は外縁の細作らこそかわしたものの中心部へと差し掛かる辺りの手練れには見つかってしまった。とは言え、ふたりとも潜入など初めての素人であることを考えれば、上等な結果だろう。壱からの評価もそのようなものだった。

 

「ふたりとも、隠密に長けた者がいなければ問題はないだろう。無論、過信は禁物、慎重に行動するのが前提だが」

 

 言われずとも慢心などしようとも思わない。頭領である壱以外の細作にも察知されているのだ。上には上がいる。油断など出来ようはずもない。

 だが、それでも、これで目途はついた。今後は、より踏み込んだ諜報をすることになるだろう。

 

 

 

 

 

 それは、三日後の夜のことだった。

 

 物陰から韓忠の屋敷を監視していると、伊俊の監視をしているはずの梁綱が音もなくやってきた。

 

「どうした?」

 

「伊俊が外出しまして、おそらくはこちらに…」

 

 その言葉が終わらないうちに、やってきた者がいる。伊俊である。

 そのような必要もなかろうに、不審なほど周囲へと気を配りながら韓忠の屋敷へと入っていく。

 これから悪巧みをしますよ、と、そう言っているようなものだ。

 いくらか呆れて脱力を感じながらも、錬はするべきことをやろうと気を取り直す。

 

「さて、それでは忍び込んでみようか」

 

 気を取り直した、というより、どこか浮かれたような口調の錬に、どことなく不安を覚える梁綱。

 

「え~と、大丈夫ですか?」

 

「ん? あ、ああ、壱にも認めてもらえてはいるし、まあ大丈夫だろう。細作の警護もいないようだしな」

 

 梁綱が向けてくるにしては珍しく疑念の混じった声音に、錬は多少狼狽(うろた)えつつも屋敷の気配を探って答える。南陽豪族らに優秀な細作が存在しないことは、壱から聞かされてもいる。壱配下の細作にも匹敵する錬であれば、忍び込むのが韓忠の屋敷である限りは問題ないだろう。

 

「奉武は門を見張っていてくれ。伊俊が戻るようなら、そのまま伊俊(そっち)を頼む」

 

 指示に梁綱が頷くのを確認して、錬は音もなく塀へと跳び上がり、屋敷の中へと消えた。

 

 

 

 

 

 塀を越え、木立の陰を抜け、屋根の上を音もなく走る。

 細作の頭領に教えてもらった知識と技術を駆使して、錬は人目を忍んで進む。ただ、それは優れた隠密技術というよりも、この世界に来た際に跳ね上がった身体能力によるものだ。主棟の屋根上まで何事もなくたどりついて、錬はそのこと――柳河郷で警備隊をやりながら心の中から消え始めていた、その事実を改めて実感した。

 屋根の上に(うずく)まり、周辺の気配を探る。

 屋敷内の護衛や家人に感付かれた様子はなく、錬は無意識に口の端を上げた。思った以上に上手くいっているじゃないか。そう考えて。

 しかし、同時に気がつく。どうも、主棟内に韓忠と伊俊らしき気配がない。もちろん、感じ取れていないだけ、ということもあるだろうが、と錬は考えを巡らせる。

 ふたりが後ろ暗い相談をしているとして、どこにいるか。余人に聞かれたくないだろうことから、誰も来ない奥まった部屋か、誰かが来てもすぐ分かる離れか。

 見回して、庭先の離れを見つける。闇に慣れた目に、その離れに灯火が灯っているのを見つける。

 

(そこか…)

 

 目を細めて見遣り、離れへと向かおうとして、ふと首だけで振り向いた。

 振り向いた、そうして初めて、その所作が何かの気配を感じたからであったことに、錬は気がついた。微かな、本当に微かな、見られていたような気配。後ろの首筋を羽毛で撫でられたかのような感触だったが、今はもう霧散して微塵も感じられない。

 あるいは気のせいだったか、とも思われる感触に軽く首を捻りながら、改めて気配を探ってみるが何か特別なものは感じ取れない。

 やはり気のせいか。そう思いながら、しかし、どことなく小骨が喉に引っ掛かるような感覚を覚えながら、錬は離れへと向かった。

 

 

 

 

 

「…そっちは大丈夫だ。金を掴ませておけば問題ないだろう」

 

 離れの屋根の上についた錬が耳をそばだてれば、足下からそんな声が聞こえてくる。伊俊だ。

 

「襲うのは郡都尉の叔父上だ。一歩間違えれば命はないが、それを知っていても、か?」

 

「仕組であることは言ってあるからな。護衛に協力者がいるから、適当に仕掛けて、適当に退けばいい、とな。上手くいけば、金をやって、南陽から逃がしてやる約束になっている」

 

 そう言う伊俊の声に嘲笑の響きが混じる。

 

「まあ、そんな訳はないが、な」

 

「ああ、裏を知る者は殺しておくに限る。死人に口なし、ってな。その場で斬り捨てる」

 

 相手――韓忠も同様に嘲る。

 

「それで、ブツは手に入ったのか?」

 

「いや、まだだが、目途はついたようだ。破落戸のひとりが、ヤツの屋敷の下女を(たら)し込めたようでな。近日中に何か手に入れられる、とさ」

 

「そうか。じゃあ、それが手に入ったら、決行日を決めるとしよう。ははっ、もう少しだな」

 

「ああ、もう少しで、ヤツを排除できるぞ」

 

 暗い笑声を聞きながら、錬は会話の内容を整理する。

 (はかりごと)の表向きは、郡都尉韓宜への襲撃。襲撃には伊俊が雇った破落戸を使い、韓宜の護衛につく韓忠がそれを迎え撃つ。破落戸には、あらかじめ裏で入手した紀霊の身元を示すものを持たせておいて、襲撃が紀霊の企てたものだと、韓宜に誤認させ、罪に問う。

 そんなところだろう。それが正しく運ぶかどうかは別として。

 破落戸には上手いことを言うも、実際は襲撃の際に皆殺しにするつもりなのは当然だが――そんなものは騙されるほうが悪い――、噂に聞く韓宜や紀霊の性質を考えれば、そう簡単に嵌まるとも思えない。

 ただ、韓忠も南陽武官の有力者だ。ごり押しで紀霊を貶めることはできるかもしれない。

 

 対処法としては、襲撃に介入して、破落戸を殺させずに確保する一方、逃げ切った破落戸を始末するために待機しているだろう伊俊を確保すれば、言い逃れもできまい。

 

 そんなことを考えている間に、打ち合わせは終わり、韓忠も伊俊も離れを出て行こうとしていた。

 それを錬は、じっと屋根の上で身を潜めながら見送る。ここまで露呈していないのだから気にすることもないのだろうが念のためだ。周辺から人の気配がなくなるまで待ってから身を起こし――

 

(また、だ…)

 

 再び、羽毛が頬を撫でるかのような微かな感触に、無意識に視線が動く。しかし先程同様、掴み損ねた霞のように、掻き消える。

 反応を見せなければどうだったのだろうか。ふと、そんな思いが心を過ぎり、今しばらく身動きを止めて様子を見る。が、なにも起こらない。

 やはり、気のせいだったのか。そう考えるも、どことなく腑に落ちないものを感じながら、錬は軽くため息を吐くと動き始める。

 今一度、主棟へと向かい、伊俊がすでに退去していることを確認してから、錬は忍び込んだのとは反対側の、屋敷の裏手へと抜け出した。

 

 誰もいない路地へと降り立ち、念のための警戒にと周辺の気配を探る。

 なにも感じない。問題ないか、と、ほっと安堵のため息を吐くと、帰ろうとして歩き出し――

 

 ちり、と首の後ろを(あぶ)られたかのような感触に、反射的に身を前方に投げ出した。

 ひゅん、と背後に風を切る音を聞きながら、地面を転がるようにして距離をとると、素早く身を起こし、手を腰の長剣へとやり、身構える。

 身構えながらも、身を襲った現実と自分の咄嗟の反応とに、恐怖と安堵から、ぞくりと身を震わせつつ、錬はそれを見て、驚きに目を見開いた。

 

 横薙ぎに振り抜いた、日本刀にも似た長剣を引き戻して構え直す、それは長い黒髪の少女だった。

 全体に丈の短い、紫紺の服をまとい、額には鉢金(はちがね)、足元は脛当て、どことなく日本の忍者にも似た雰囲気の出で立ちの、その襲撃者が年端もいかない少女だということに、錬は驚いたのだが、考えてみればこの世界では優秀な女性が多い。とすれば、それほど不思議なことでもない。

 

 一方、少女のほうも驚きの表情を浮かべていた。

 声を発してはいないが、その理由に錬は察しがつく。気配を消した背後からの初撃をかわせたことに、自分でも驚きを禁じ得ない。おそらく必殺の意気をもって振るった一撃をかわされるとは思っていなかったのだろう。

 だが、それも一瞬のことだった。

 気を取り直して、目を細めて錬を睨みつける少女が、無言で斬りかかる。

 それに錬は抜き打ち気味に長剣を合わせて弾き返す。

 そこから、一閃、二閃、そして、三閃。

 疾風、いや雷光のような少女の剣光が閃き、しかし錬もそれを弾き、逸らし、受け流す。

 

(はや)い。捷すぎるっ)

 

 一瞬の三閃をかろうじて防ぎ切り、間合いをとった錬は、冷たい汗を流して震え上がった。防いだ、といっても、ほとんど反射だけの対応が(たま)さか図に当たったに過ぎない。少女の振るう剣閃は、これまでの何より捷い。楽就の棍よりも、李豊の槍よりも。それでも、もし、そのふたりとの修練を経験していなかったら、この攻防で錬の命は確実に刈り取られていただろう。

 だが、それも時間の問題だと思われた。このまま攻め続けられたら、必ずどこかで破綻するだろう。それは錬の命の終わりを意味する。

 その事実に、錬は恐怖とともに後悔した。たった一度、潜入が上手くいっただけで、自分は自惚れてはいなかったか。慢心から重要なことを忘れていた。理解したつもりでいて、実際には全く理解できていなかった。上には上がいる。自分は、武では楽就にも李豊にも、隠密では壱にも及ばない程度だというのに。

 

 冷静に間合いを測っていた少女が、無言のまま、再び斬りかかろうと姿勢を落とすのを見て、錬は歯軋りを噛み締めて長剣を構え直す。死ぬにしても抗えるだけ抗ってやる。そんな半ば捨鉢な気合いを抱いた錬の耳に、その声は届いた。

 

「おい、今の音はなんだ?」

 

「打ち合いの音じゃないのか? どこだ?」

 

「屋敷の裏だ。行くぞ」

 

 そんな声が、先程まで錬が潜入していた韓忠の屋敷から響いてくる。

 

 ふ、と、少女から殺気が薄れたのを感じて、錬が訝しげな視線を送ると、少女は無言、無感情なまま、構えを解き、音もなく姿を消した。

 その様子に逆に錬は警戒を強め、周囲の気配を探るが、感じ取れるのは屋敷の警備の者たちが騒ぐ気配だけだ。

 

「…助かった、のか?」

 

 半ば呆然と呟き、自ら発したその声に我に返ると、錬は走り出した。

 走り近付いてくる警備から、そしてついさっきまで自らにまとわりついていた死の気配から逃げるように。

 

 

 

 

 

 

 

 





更新遅くなりまして申し訳ありませんでした。

今話最後の、あの少女との対決に持っていくのに四苦八苦でした。
なんとなく走った感があるのは自覚してます…



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八 降りかかる危難

 

 急き立てられるように、形振(なりふ)り構わずに、走り、逃げ出した錬は、駆けつける警備の声を振り切り、1里(約430m)ほども走ったころには、冷静さを取り戻していた。だが、走り出したときの速さを落とすことのないまま、錬は走り続ける。走り続けながら、自分を追う気配を探り、考えを巡らす。

 あの黒髪の少女の隠密能力は、自分のそれを数段上回って余りある。今、気配を感じ取れないからと言って、追われていないとは限らない。だから十分に距離を稼いだと判断したところで、徐々に速度を落としつつ、気配を探ることに感覚を割いていく。

 無論、全力ではないものの走ることを止めたわけではない。後先考えない全力疾走から、中距離走程度に移った、という辺りだが、それでも息切れも動悸も回復しつつあり、思考を妨げることもなくなっていく。

 

(まったく、ふざけた身体能力だよな…)

 

 苦笑交じりに思う。この四か月で、何度も実感しながら慣れてしまい、ここ最近では考えることもなくなっていた、尋常ではない身体能力の高さ。そして、ほんの数十秒前まで捕らわれていた死の恐怖から、すでに抜け出せている精神の異常さ。

 

 そう、すでに錬は完全に冷静に思考していた。

 それは、精神的な強さでもって冷静さを取り戻した、というような感覚ではなく、恐怖による精神の混乱を消し去った、あるいは切り捨てたかのような、そんな感覚とでも言おうか。死に直面したときならば知らず、そこから抜け出したならば、不要なものとして意識すらしないかのような、そんな精神活動は、錬の感覚からすれば、十分に異常だと感じられた。

 思えば、この世界に訪れたときもそうだった。三人の賊に囲まれて斬りかかられたときこそ、死の恐怖に怯えたが、それを脱した瞬間から、その感覚は自分の中から消え去った。普通は、後で思い出して身体が震えたりするものではないだろうか。そして、人を傷付け、あるいは殺しながら、動揺もしなかったこともそうだ。

 この手はすでに数十人の命を絶っている。それに()()()()()()()()

 人の命を奪う、ということは禁忌に属することで罪深いことだ。それは理解している。平成時代に生まれ育った者として、それは錬の中に根付いている倫理観だ。だが、人殺しという罪悪に対して、感覚として忌避感がない。頭では理解しているが、心では感受しない。それは、人として何かが壊れているのではないだろうか。

 

(気をつけなきゃいけないかな…放っておけば、“死”をなんとも思わなくなるかもしれない…)

 

 錬は戒めるように、そう考えた。

 

 そんな思考をしながら、そして走り続けながら、それでも錬の意識にいくらかは索敵へと向いている。

 自分に向けられる気配は、依然として感じられない。

 かなりの距離を走っている。もちろん真っ直ぐ拠点に向かっているわけがない。何度も角を曲がり、ときには戻りつつ、追跡を撒くような動きをしたが、その気配はない。

 追われてはいないのだろう。確信はないが、これで追われていたのだとすれば、もはや自分にはどうしようもない。そう考えて、錬はようやく走るのを止め、歩き始めた。その足は、拠点の屋敷へと向かう。

 

 そうして考えるのは、あの少女は一体何者なのか、ということだった。

 

 まず、南陽郡の豪族らに属するものではないだろう。少なくとも韓忠、伊俊の関係者ではないはずだ。

 今にして思えば、韓忠の屋敷で感じた、あの気配こそが彼女だったのだろう。つまりは、彼女も韓忠を探っていたということだ。敵として、あるいはそれに準ずる相手として。それにもし彼女が豪族側であったならば、警備から逃げる必要もない。捕らえて突き出せば、恩を売ることもできただろう。

 

 袁術陣営でもないのは、張勲配下の細作が袁家派の名士らに対することに手一杯だということから当然だ。それにそうであれば襲われる理由もない。

 

 では、その袁家派か。と言えば、その可能性も少なかろう。壱ら細作が袁家派に掛り切りであるように、袁家派も南陽豪族に手を出す余裕はないだろう。彼らが向いているのは仮の主である袁術ですらなく、洛陽であり、汝南であるからだ。それに袁家派に彼女のような手練(てだ)れの細作がいるならば、壱らにも被害が出ているはずで、もっと警戒を厳に対応しているはずだろう。

 

 紀霊ら仕官組武官かとも思うが、あれほどの手練(てだ)れの細作がいるならば、すでに豪族らを席巻していてもおかしくはない。これまで集めた噂話や今夜の韓忠らの会話などから、豪族らは叩けば埃が出るだろうことは予想に難くなく、それを根拠にして太守に処罰を求めてきていてもいい。

 可能性としては一番高いが、決定打には欠ける、といったところだろう。

 

 それ以外の勢力までを考慮するとなると、錬にはその情報がない。もうお手上げである。

 

 

 

 

 

「貴様の、その考え方は概ねで正しかろうな」

 

 錬の報告を聞き、細作頭の壱が言った。

 韓忠の屋敷に潜入した翌日の夜のことである。呼び出した壱に、潜入して知り得た情報とともに、襲撃を受けたことを伝えるためだ。

 

「南陽に拠点を置く者らの中に、張家に従う我ら以上の細作を味方につけている勢力は存在しない。であるのに、貴様が圧倒されるほどの細作が活動しているというのであれば、考えられるのは、洛陽か、それとも汝南か」

 

 錬の報告に、壱は表には出さないものの驚きを抱いていた。

 錬の、気配察知や対人戦闘の能力は、壱から見てもかなり高い。だが、その少女の細作は、錬の感知を潜り抜け、武においても錬を圧倒したという。壱の、先程の言葉は自惚れではなく、冷徹に客観視しての結論だ。南陽において壱らの活動が致命的に阻害されたことがなかったからである。それほどの手練(てだ)れに心当たりはなかった。

 

「どちらにせよ、今後は警戒を厳にする必要があるな」

 

「それで、こちらはどう動けばいいと思う?」

 

 壱が懸念を口にするのに、錬が質問するが、壱は首を振ることで応える。

 

「相手の素性も目的も判らんでは、どのように動くのかも知りようがない。また遭遇するのかも判らん。手の打ちようがないな。まあ、警戒はしておくんだな」

 

 などと言われたところで、警戒したところでどうにかなる気もしない錬だった。思わずこぼれる気の抜けた苦笑に、壱も不憫に思ったのか。

 

「まあ、状況から考えるに、その女も積極的に活動するつもりはないのではないか。貴様が襲われたのも察知されたと思ったからだろうし、おそらく危険を冒してまで表立つこともないだろう」

 

 と、宥めるような壱の言葉に、錬は疑問を示して先を促す。

 

「屋敷を脱した後で襲ってきたこと。貴様を殺し切ることより目撃されないことを優先したこと。撤退を優先して追撃を仕掛けなかったこと。それらから考慮するに、主たる目的は諜報、さらに行動の秘匿に注力している。表立っては動くまい」

 

 説明に、なるほど、と頷く錬は、それならばこれ以降襲われる可能性は低いか、と考える。不運にも遭遇しない限りは。

 

(なんて、油断してると出会っちまったりなんかしたりして、なぁ)

 

 などと内心で苦笑を浮かべる。

 無論、冗談である。冗談のつもりだった。

 

 

 

 

 

「伊俊が紀長成どのの短剣を手に入れたようです」

 

 伊俊を見張っていた梁綱から、そんな報告を受けたのは、錬と壱が話し合った二日後のことだった。

 そして今夜、再び韓忠の屋敷に赴くと言う。となれば、おそらくは(はかりごと)の最終確認といったところだろう。

 そう考えて、錬は梁綱を伴って韓忠の屋敷へと忍び込んだ。

 三日前と同様に、屋敷の離れの屋根に伏して、屋内の会話に耳をすませば、韓忠と伊俊の会話が届いてくる。

 

 謀の内容は、以前に盗み聞いたものと変わりない。

 伊俊が抱えている破落戸(ごろつき)に、南陽郡都尉韓宜(かんぎ)を襲撃させ、裏で入手した紀霊の短剣をもって襲撃を紀霊の所業だと誤認させる。そこまで行かなくとも嫌疑をかけ、紀霊の信用を失墜させる。

 二日後に韓忠の屋敷で催される宴がある。招待されているのは、韓宜を始めとした南陽豪族の有力者たち。

 実行は、その酒宴の帰りだ。

 韓宜の酒好きは有名だ。好きな割に弱い。陽気な酒であり、性質(たち)の悪い酔い方をするわけではないが、呑めば止まらず、ほぼ沈没するまで呑む。特に韓忠宅で呑んだ場合は、身内の気安さもあってか、確実に寝入る。そして酒宴の散会後に覚醒してからゆっくりと帰宅するのだが、その場合、通常の護衛は任を解いて帰らせ、韓忠に送らせるのが常であった。いつとも知れぬ帰宅につき合わせるのは申し訳ない、という韓宜の部下思いの性質が分かる逸話だが、不用心といえば不用心であり、暗躍するものにとっては好都合である。

 

 韓忠と伊俊が離れから引き上げるのを見送った後に、錬は韓忠の屋敷を脱するべく、梁綱に視線だけで指示を送る。

 脳裏に()ぎるのは、三日前の背後からの襲撃。だからこそ、錬は過敏なほどに神経を張り詰めて、周囲の気配を探りながら、慎重に屋敷の外へと向かった。

 何事もなく、屋敷の塀の外へと降り立ち、何食わぬ顔でふたりは路地を行く。

 

「今夜はもう戻りますか?」

 

 それなりに韓忠の屋敷から離れたところで、梁綱が聞く。

 

「そうだな、目的は達した。戻って休むか」

 

 頷きを返して錬は、明日からの行動を説明する。

 まずは、明日の夜に壱を呼び出して、韓忠の企みについて報告し、対処を相談する。錬、そして梁綱が中心になるであろうが、手助けは欲しい。特に、紀霊への繋ぎは頼みたいところだ。

 

 そんなことを話しているところだった。

 

 背後で、圧倒的な存在感が膨れ上がり、ふたりして反射的に振り返る。

 

 そこに、女がいた。

 

 離れた距離と暗がりとが、詳細を掴ませないが、その女が濃密な殺気を漂わせていることは分かる。

 猛獣と同じ檻に入れられたかのような、そんな感覚が錬を襲う。

 陳腐な表現だと思いながら、そんな(たと)えくらいしか思いつかない。

 決して、油断していたわけではなかった。彼我の距離は、12、3丈(約30m)といったところで、切迫というわけではない。十二分に対応できる距離だ。通常の相手であれば。

 

 つ、と冷汗が頬を落ちるのを感じながら、錬はいつでも抜けるように長剣の柄を握った。

 その気配を感じ取ったのか否か。女がゆっくりと近付いてくる。

 と、同時に、ひりつくような威圧感が、じりじりと全身を縛りつけるように圧し掛かってくる。

 

(ま、まだ上があるのか、よ…)

 

 知らずに退けそうになるが、歯を喰いしばり、内心で己を叱咤する。

 

(どうする? この場面、なにが最善だ? 考えろ…)

 

 ほとんど絶望的な気分で、しかし冷静に思考を走らせる。

 この相手に、本能的にどうにもならないのが分かる。コレは生物としての格が違う。勝とうなどと考えることすら烏滸(おこ)がましい。時間稼ぎ、足止めでも満足にできるかどうか。

 

奉武(しんぶ)、行け。オレが足止めする」

 

 分かっていながら、錬はそう指示を出した。

 

「でもっ!」

 

 当然、梁綱は反対する。長を生き延びさせるために部下が犠牲になるのであって、逆ではない。

 だが今は、誰かが情報を――韓忠の企みを伝えなければならず、そのためには、ひとりを逃がすためにひとりが足止めを全うしなければならない。少しでも時を稼ぐ必要がある。だから、

 

「行けっ、足手まといだっ」

 

 錬は、長剣を抜きながら叫んだ。

 その声に、梁綱は、表情を歪めると脱兎の如く走り去る。無論、梁綱にも錬の思いは伝わっている。であれば、隊長の窮地を救うためには早く味方を呼んでくるしかない。

 

「へえ、いい判断ね」

 

 女の楽しそうな声が錬の耳へと届く。

 彼我の距離は、4丈(約10m)ほどに縮まっていた。

 

 まだ若い。錬と同年代だろうか。

 淡い桃色の髪を腰まで伸ばし、露出の多い赤紫色の衣から覗く褐色の肌はなんとなく南方の人種を思わせる、目を奪われるような美女だ。その美女が楽しそうに、心の底から愉快だと思わせる微笑みを浮かべて、錬へと視線を向ける。

 このような場面でなければ、錬の心臓は早鐘を打つのに忙しくなったことだろう。今は、別の意味で動悸が激しい。

 緊張から荒れる呼吸を、必死の思いで落ち着かせようとしながら、錬はじっと女を見遣る。

 その視線を、足の運びを、手の動きを、そして、無造作に提げた抜身の長剣を。

 

「…でも、時間、稼げるかしらね?」

 

 決して油断していたわけではない。油断など出来るわけがない。

 だが、その瞬間、錬の思考は真っ白になった。

 迫る影、風を切る音、そして閃く白光。

 本能的に思考を放棄して、反射に任せて身体の前に剣を立てる。

 爆発したかと思うような衝撃と、金属同士がぶつかり合ったと思えないような鈍い音を感じたかどうかの瞬間に、錬は吹き飛ばされた。

 頭ではなく、身体の感じるままに逆らわず、勢いのままに地面を転がされ、止まったところで跳ね起きる。

 

 女との距離は、再び12、3丈に開いていた。

 

 大きく息を吐き、自分の剣を見る。

 ひびが入っていた。もう一撃とて耐えられないだろう。

 今の一撃にしても、運がよかったに過ぎない。跳ね飛ばされなければ、防ぐために立てた剣ごと錬の身体は上下に分かたれていたことだろう。それを察して自ら跳んだ、のだとしたら、多少は気分も落ち着くのだろうが違う。女の殺気に腰が退けていたがために踏ん張りが利かなかっただけで、本当に運が良かっただけの、紙一重だった。

 

 だが、女はそう思わなかったのか。

 

「へえ、やるじゃない」

 

 小さく称賛を呟くと、面白い、と言わんばかりに微笑む。まるで虎のように獰猛に。

 

 その笑みに絡めとられ、錬はごくりと喉を鳴らすと、長剣を捨て去り、代わりに短剣を両手に握る。

 力では敵わない。対抗しようとすれば剣ごと、だ。速さも尋常ではない。剣閃だけなら、先日の黒髪の少女に匹敵する。当然、錬よりも速い。

 では、どうするか。手数を増やすしかない。そのための双剣。

 勝てるなどとは思えない。逃げ切ることなど考えない。

 ただ、一瞬でも長く凌ぐことに、凌ぎ切ることに渾身をもって尽力する。

 そう腹を(くく)り、構える。

 

「ふぅん、なかなか、いい気迫ね」

 

 戦意を漲らせて自分を睨みつける錬に、変わらず愉快そうな微笑みを浮かべる褐色肌の女は、

 

「それじゃ、もう少し楽しませてもらいましょうか」

 

 その感情を隠すことなく、にやりと笑うと、先の一撃と同じく一瞬で間を詰め、長剣を薙ぎ払った。

 (はや)い。

 だが、覚悟を決め、沈着を取り戻した今では、かろうじて見失わずにすむ捷さだ。

 錬の左側から首を刎ねんと迫る長剣に、左の短剣を合わせた瞬間に押し上げるように逸らしつつ身を(かが)める。逸らされた長剣が音を立てて吹き抜け、次の瞬間、頭上で跳ね返るかのように打ち下ろされる。それに対して反射的に右の短剣を長剣の外から押し当てると、後ろに足を引くようにして剣閃の外へと体を(かわ)す。

 通常なら、この辺りで体勢が崩れるところだ。だが、女は全て想定通りとでもいうかのように、長剣を舞うようにくるりと閃かせると、間髪を入れずに今度は胴へと横薙ぎを振るう。その横撃に、受けるも逸らすもできない、と判断して錬は横跳びに逃げた。軽く、中途半端に。

 それは悪手だった。

 長剣が目の前で急停止する。そしてまだ圏内にいる錬を追い撃つように突きへと転じた。

 相手は、そこらの賊徒ではないのだ。逃げるのならば、確実に逃げなければ、それは単なる隙にしかならない。

 そんなことを思い知らされると同時に、ぞわり、と震える身体の命じるままに両の短剣を胸元で交差させ、そこで金属音が弾けた。

 瞬間、咄嗟に勢いに押されるまま、少しでも衝撃を逃がそうと後方へと跳び退(すさ)る。現状で可能な限り、力の限り。

 

 間が、3丈(約7m)ほど空いた。

 

 が、一息つく間もなく、女が切迫し、剣撃が襲う。

 打ち下ろし、薙ぎ払い、斬り上げ、突き込む。

 その攻撃を、刃を合わせて逸らし、受け流し、足捌きで、体捌きで躱し、凌ぐ。

 まるで詰将棋のような攻防に神経を張り巡らせる。ただし詰められるのは錬のほうだ。たった一手しかないような受けで剣撃を捌きながら、しかし追い詰められていく恐怖が脳裏を過ぎる。

 

 捷さだけで言えば、先日の黒髪の少女のほうがわずかに勝るだろう。剣閃だけでなく、身体の動き全てで捷さを追求したような黒髪の少女の剣は、速度特化の、ある意味では(いびつ)な剣だ。対して、この褐色肌の女は、剣閃は黒髪の少女に匹敵するほど捷いが、体捌きはそうではない。というよりも、捷さ(そこ)に重点を置いていない。ゆえに、その剣撃は比較にならないほどに重い。黒髪の少女の剣が雷光だとすれば、この女の剣はまるで暴風だ。ほんの少しでも気を抜けば、全てを砕く嵐に巻き込まれるように、瞬く間に命を刈り取られることになるだろう。

 

 現実感さえ喪失するような、ひりひりとした緊迫感の中、どれほどの剣撃を凌いだだろうか。

 幾度(いくたび)も殺意を逸らし続けた刃を砕かんと振るわれる横撃を、両の短剣で防ぎ、その衝撃をも利用して跳び退()き、間を空けた。

 疲労困憊に気も遠くなりそうになりながら、追撃に備えて短剣を構え、荒く乱れる息を整えることに意識を向ける。もちろん、視線は女を捉えて注意を逸らすことはない。

 酸欠で霞む視界の中、褐色肌の女は、間を詰めることもなく、長剣を無造作に提げた恰好で突っ立っていた。その顔には相変わらずの微笑みが浮かぶ。

 

「ふふ、なかなかやるわね、あなた。あれを凌ぐのだもの」

 

 思わぬ称賛の声に、錬の口元が苦笑に歪む。

 

「…そりゃどうも」

 

「あなたみたいな男がいるとは思わなかったわ。様子を見に来てよかった、ってところね。いろいろと聞きたいところだけど…」

 

「…話すと思うか?」

 

「ん~、それもそうね。それじゃ、もう少し付き合ってもらいましょうか。頑張ってね、次はもう少し本気よ」

 

 軽口の末に告げられた言葉に、錬の背筋に怖気が走る。まだ上があるのか、と。

 

「…化け物め」

 

「あら、失礼ね。こんな可愛い乙女をつかまえて」

 

 思わず漏れた錬の言葉に、女は冗談めかして口を尖らせるが、すぐに悪戯っぽく微笑む。

 

「そんなあなたにはお仕置きが必要よね?」

 

 来るか、と錬が身構えるが、女はなにかに気がついたように動きを止める。

 

「あら、戻ってきちゃった。時間切れね」

 

 そんな呟きが終わるか終らないかのうちに、女の(そば)に影が降り立った。

 長い黒髪に、丈の短い紫紺の衣、そして、日本刀のような長剣を背負った少女。

 その肩から(かつ)がれていた荷が放り出される。それは、

 

「…奉武っ」

 

 梁綱だった。

 

「殺しちゃった?」

 

 息を呑む錬を余所に、褐色肌の女が聞く。その言葉はなんの気負いもなく軽く、

 

「いえ、意識を奪っただけです」

 

 答える少女の言葉も機械的で、そこに感情的なものはなにもない。

 そのやりとりを聞いて、安堵しながら、錬は構えを解いた。女がこちらを見ていたからだ。どうするの、と問うような視線を、その微笑みに乗せて。

 こうなってしまえば、取れる行動など限られる。錬の行動指針としての第一は、入手した情報をもって、韓忠らの企てを阻止することだ。少なくとも企ての情報を張勲辺りに伝えなければならない。そのためには、錬か梁綱のどちらかは生還する必要がある。

 

 そう考えて、錬は大きく諦観を込めたため息を吐くと、

 

「降参する」

 

 言いながら、短剣を捨てた。

 あっさりと投降を示した錬に、女は驚きに目を見開くも、すぐに微笑みを浮かべる。

 

「いい判断ね。ちょっと諦めが良すぎる気がしないでもないけど」

 

「助けを呼びに行った奉武が捕らえられて、自分以上の強者がふたり。逃げ切れる可能性も皆無に等しい、となれば、諦めるしかないだろう?」

 

「殺されるかもしれないのに?」

 

「簡単に殺すつもりなら、オレの目の届かないところで奉武を捕まえるようなことはしないだろう」

 

 こちらを探るように笑いかける女に答えつつ、錬は肩を竦めた。

 言うように、すぐに殺されるという危機感はなかった。

 女たちにとって手っ取り早いのは、逃げ出した瞬間に梁綱を殺すことだ。そして錬を挟撃する。殺すにしろ、降すにしろ、そのほうが早い。あるいは持って来るのは首だけでもいい。それをできるだけの力をもっているふたりだ。でありながら、生かしたまま捕らえるということは、錬の心情までも考えて、投降しやすいように事を進めているのではなかろうか。

 懐柔か、屈服か。その真意までは分からないが。

 

 などと考えつつも、ただ面白そうだから殺すには惜しい、とかいうのが実情だったりするんじゃなかろうな、という思いが、僅かながらも心を過ぎる。褐色肌の女の笑顔を見ていると、それがあながち間違いじゃないような気がして、どうにもこうにも奇妙な気分なのだが。

 

 錬の答えを聞いた褐色肌の女の笑みが深くなる。

 

「ふうん、分かってるじゃない。それじゃ、尋問といきましょうか」

 

 長剣を鞘に納めながら言う。

 

「まずは、名乗ってもらいましょうか。当然、素性もね」

 

「オレは、白士泰。そっちのは弟分の梁奉武。流れの武人だ」

 

 錬にしてみれば、ここで話すのは当然に()()のほうだ。馬鹿正直に本当のことを話すわけにはいかない。どうみても不自然な話に、女の眉が上がり、目が(すが)められたとしても。

 

「…流れの、ね。どこの陣営にも属してない、と?」

 

「ああ、現在仕官先を検討中だ」

 

「…まあ、いいわ。そういうことにしておいてあげる。それで、あの屋敷で何を探っていたのかしら?」

 

「あの屋敷の主が、何やら企んでるらしいって噂を聞いてな。それを突き止めて、敵対勢力に売り込む(ネタ)にでもならないか、ってね」

 

「その程度の動機にしては、忍び込むのは危険過ぎない? ただの武人の行動じゃないわよ」

 

以前(まえ)に世話になってた商人のところで、間者の真似事をしたことがあって、多少は慣れてる。あの程度の警備なら出し抜けるさ」

 

「話の筋は通ってるように聞こえるわね。聞こえるだけで納得とは程遠いけども」

 

 白眼を向ける女に、錬は肩を竦めて苦笑を浮かべた。こちらは真実を語っている、信じる信じないはそちらの勝手だ、と言わんばかりの態度だ。もっとも、動悸は鎮まらず、内心では冷汗を流しているのだが。

 

「まあ、いいわ、それで」

 

 あからさまに妥協の言葉を口にしながら、女はあからさまなため息を吐く。

 

「で、あの屋敷で何を掴んだの? あれは南陽の有力豪族のひとつ、韓家、その後継者とされる韓忠の屋敷というのは知っているのよね?」

 

「ああ、知っていて入り込んだからな。で、屋敷で得た情報について、か…」

 

 心中でほっと安堵の息を吐きつつ、錬は考える。こちらの素性については、()()()()()()()()。だが、容赦を期待できるのはここまでだろう。これ以降の欺瞞(ぎまん)は命取りになりかねない。そして、韓忠の悪巧みについては、黒髪の少女がいる以上は相手も掴んでいる可能性がある。ここは正直に話すしかない。

 

「韓忠と伊俊とで、紀霊の失脚を狙っている。明後日の夜、手の者で韓宜を襲い、紀霊に罪をなすりつけるつもりのようだ」

 

「ふうん。それで、あなたはそれを知ってどうするつもりなの?」

 

 聞く褐色肌の女の顔に、再び愉快げな悪戯っぽい笑顔が浮かぶのを見て、錬はため息を吐きながら答える。

 だが、これは正直には答えられない。すでに決定している対応は所属を明らかにしてしまうからだ。だから、

 

「…実は、まだ決めていない。まあ、紀霊辺りに流して恩を売る、とかかな、と…」

 

 という、曖昧な答えになる。それに女はしばし考え込むようにした後に、

 

「それは悪くはないけれど、良くもないわね」

 

 一蹴し、自分の考えを口にする。その言葉に、

 

「私だったら、南陽太守に告げ口して、紀霊を太守麾下(きか)に取り込む材料にするわ」

 

 錬は驚愕に絶句した。まさか、こちらの素性なんてとっくに知ってるんじゃないのか、と。

 が、すぐに我に返り、表情を引き締める。表情を見るに、今の女の言葉にはなんの魂胆もないように見えた。であれば、下手に動揺を示せば、そこから何かを悟らせてしまうかもしれない。

 気にして視線を動かせば、驚きの表情で隣を見上げる黒髪の少女がいる。おかげでこちらの動揺を見抜かれはしなかったようだが、少女の驚愕(これ)はどういうことか。

 思わず考え込みそうになるが、今はそのような場合ではないと思い直して、女との会話に意識を戻す。

 

「…なるほど。参考にさせてもらうよ」

 

 だから無表情を装って、そう言う。

 

「そうね、存分に参考にしてちょうだい」

 

 あくまで軽く、(おど)けるように言う女は、さて、と呟いて傍らに控える黒髪の少女へと視線を向ける。

 

「私から聞くことはそんなものね。あなたからは何かある?」

 

「いえ、ありません」

 

「そ。それじゃ、最後に提案よ。あなた、仕官先を探してるのよね。私の下に来る気ない?」

 

「…なに?」

 

「あら、そんなに驚くようなこと?」

 

 訝しげに目を見開く錬に、女は不思議そうに首を(かし)げる。

 

「私の攻撃を凌ぐ武力と、冷静に状況を判断する胆力。それに加えて優れた隠密能力。そんな有能な人材なら配下に欲しいと思って当然でしょ」

 

 その言葉に錬は黙り込んだ。

 思わぬ高評価に口元が綻ぶのを(こら)える。彼女ほどの武才をもつ者に評価されて嬉しくないわけがなく、心が揺れなかった、と言えば嘘になる。だが、

 

「…ありがたい話だが、何者とも知れない相手の配下になる気はないな」

 

 なにより、錬には袁術を裏切る気は毛頭ない。今はまだ無所属だとしても、その味方になると決めたのだから、それを覆す気はなかった。

 相手もその決意を見てとったのか、

 

「こっちも配下になるかどうかも知れない相手に名乗る気はないし、仕方ないわね」

 

 実にあっさりと前言を撤回した。そしてその声音が変わる。

 

「ということで、お話はここまでね」

 

 その変化に、危機を覚えて精神的に身構えさせられた錬は、しかしそれを態度に出さないように注意する。それは、相手を下手に刺激しないためだ。少しでも生存の可能性を高めるために。だったのだが…

 

「それじゃ、仕官のほう頑張ってね。縁があったら、また会いましょう」

 

「…は…え、と…ええ?」

 

 と言い捨てて(きびす)を返す褐色肌の女に、錬は呆気にとられて妙な声をこぼした。肩透かしを食らったのだ。

 その声に引き止められたかのように、女は足を止めると首だけで振り返って錬を見る。

 

「ん、なに、どうしたの?」

 

「いや…見逃してくれるのか?」

 

「あら、なぁに。殺されたかったの?」

 

「いや、まさか」

 

 思わず漏れた疑問だったが、それに返ってきた言葉に、錬は冷汗を流して頬を引きつらせる。

 

「ただ、ちょっと疑問に思っただけで…」

 

 つい(おもね)るような苦笑いを浮かべる錬に、女は悪戯っぽく微笑みながら、

 

「ん~、そうね。見逃してあげたほうが面白そうだな、って思っただけよ。じゃあね」

 

 そう言い残すと、褐色肌の女は黒髪の少女を伴って闇の中に去っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 





遅くなりました。
そして長くなりました。
やっと登場させられました。




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九 茶番への介入


あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

と、言いつつ、もう松の内も過ぎてしまっていますが…





 

 気を失ったままの梁綱を背負って、錬は拠点へと戻ってきた。

 ひとまず梁綱を寝台へと寝かせると、台所へと向かい、(かめ)から柄杓(ひしゃく)で水を汲んで飲み干す。

 

「ふう…」

 

 そして大きく息を吐く。

 

「…なんとか、生きて戻れた、な」

 

 呟き、思い返す。脳裏に浮かぶのは褐色肌の女の姿だ。

 まさしく次元の違う、思わず口をついた“化け物”という表現が大袈裟に思えないほどの強さだった。あんなのがいるのか、と天を仰ぐ。あの女は何者だろうか。あれほどの武力、きっと名のある武将に違いあるまい。呂布とか、関羽とか。というか、そうであってくれ、と思わずにはいられない錬である。

 まあ、どちらも北の方の人だったから、あの褐色肌の女は違うのだろうが。

 

 そういえば、あれはなんだったのか。

 そんなふうに思い出されるのは、褐色肌の女が、自分なら太守陣営に、と口にしたときに、黒髪の少女が驚きを表していたことだ。

 内容自体は突拍子もないことではない。韓忠らの企みを知ったならば考えつく対処であり、その内容については驚くようなことではない。ということは、あの驚きの理由は、内容についてではなく、その対処法を伝え、それが有効だと断じた、ということに対してだったのだろう。

 おそらく、彼女らは、今の混沌とした南陽郡の状況が好転することを望んでいない、と思われる。だから、袁術を助けるような対応を、自分の仲間が口にしたことに、黒髪の少女は驚愕を表した。その対処が実行されれば、太守袁術が南陽郡を掌握する、ひとつのきっかけになりうるからだ。

 そしてあの褐色肌の女は、そんなことを理解していないような愚者ではないだろう。それなのに、あんなことを言った、その意図が分からない。そのときは錬に対しての鎌かけかとも思ったが、そんな気配もなかった。

 

「まさか、本当に面白そうだったから、とかじゃないだろうな…」

 

 苦笑混じりに、思いつきで口にした、そんな言葉が耳から入って、錬は思わず憮然としてしまった。なんとなく、それが真実だったような思いに捕らわれて。

 そんな考えを振り払うように首を振ると、錬はもう一度柄杓で水を汲み、喉を潤そうとして、それに気付き、視線だけを窓の外へと向けた。

 

「…帰っていたようだな、士泰…」

 

 その視線の先に現れたのは、細作頭の壱だ。

 相変わらず音もなく現れるな、などと思いながら、錬は視線に訝しげな色を乗せて見遣る。

 今夜は例の合図の印を出していないし、訪れる時間も常よりもかなり遅い。そんな錬の疑問を察したのか、

 

「韓忠の屋敷に忍び込むのは、今夜だったのだろう? ならばなにか進展があったのではないか、とな」

 

 そう答えた壱は、ふと目を(すが)めた。

 

「…なにかあったのか? 随分と気が(たかぶ)っているようだが」

 

「分かるのか?」

 

「ああ、微かだが殺気立って見える」

 

 その言葉に、錬は瞑目してひとつ息を吐いた。

 自分ではもう落ち着いたつもりだったが、他から見れば分かるものには分かるらしい。

 

「先日、襲われたと言っただろう。その仲間の女に殺されかけた」

 

 その言葉に壱は驚いたように目を見開いた。表立っては動かないだろう、と言ったのは自分だ。それが、まさか、と。

 

 そんな壱を咎めるでもなく、錬は事の次第を説明する。

 それを黙然と腕を組んで聞き終えて、壱はひとつ嘆息した。

 

「…訳が分からんな。話を聞くに、その女ども、思惑はあれども局外のものだろう。おまえを襲ったことも、その末に見逃したことも、そいつらに利があるとも思えん…どんなやつらだった?」

 

「ひとりはこの間の黒髪の女。もうひとりは、髪は薄桃色、肌の色は褐色で、背は高かったな。強いは強いが、それよりも怖かったな」

 

「褐色の肌といえば、南方人だが…かつて遠目に見たことがあるが、江東の虎と言われた女がそうだったな」

 

 錬の言葉に壱が答え、その答えに錬が目を眇めた。

 

「…江東の虎…孫堅、だったか。そうか、あれが孫堅、か」

 

 だが。

 

「ほう、知っていたか。だが、孫堅であるはずがない。彼女はすでに死んでいるからな」

 

 続くその言葉に錬が目を見張る。

 

 孫堅がすでに死んでいる?

 あれ? 孫堅って董卓討伐に参加してたよな? で、玉璽拾ってたよな?

 

 錬の知識はそうであった。だから軽い混乱を来たした。

 だが、考えてみれば、ここは三国時代のようで、錬の知っている三国時代(そのもの)ではない。有力者は女性になっているし、髪の色や年齢などもそぐわない。

 

 そう思いつけば、そういうもんだよな、という諦めにも似た思考に落ち着く。

 

「そういうことなら、あれは誰だったんだ?」

 

「孫堅には娘が三人いたという。跡を継いだのは、長女の孫策だろう。もしその女が孫家の者だとしたら、孫策の可能性が高いだろうな」

 

 孫策。

 その名について、錬が知っていることはそれほど多くはない。

 江東の虎と異名をとった孫堅の嫡子で、孫堅の死後は一時雌伏したが、玉璽(ぎょくじ)(かた)に兵を借り受けると、義兄弟の周瑜とともに揚州を席捲、独立を果たし、後の孫呉の礎を築いた。小覇王と呼ばれるほど武勇に優れたが、奇禍に遭い、若くして没した。その後を継いだのが、弟の孫権で、彼が孫呉の初代皇帝になった。

 錬の知識にあるのは、そんな人物像だった。

 

 その孫策が兵を借りた相手というのが袁術であり、つまりは袁術と孫策には繋がりがある。

 ということは、ここで袁術治下に孫策が現れたというのも、奇妙なことではない。奇妙なことではないが、その理由と思惑については、錬には予想もつかない。

 

「その孫策が、どうして宛に?」

 

「正直、我にも分からん。ただ、当主を喪い、孫家は拠点だった長沙を離れることになったはずだ」

 

「長沙? 孫家の本拠地は呉じゃないのか?」

 

「本拠地は、な。当時、孫堅は長沙太守だったのだ。これが、呉がある江東であれば、後ろ盾も得られ、少しは違っただろうが、な」

 

 壱が言うには、孫堅が死に、長沙の支配権を失った孫家からは配下の多くが離れたという。無論、軍兵は郡治府に所属するものであり、これも失った。そして、呉には朝廷から任命された太守が存在しており、それもあって孫家が呉に帰還することはできないだろう、とのことだ。

 

「それで、ここ南陽郡で足掛りを得よう、と?」

 

「そんなところだろう、が、どういう形で狙っているか、が問題ではあるが…」

 

 そう言って目を眇める壱は嘆息すると、気を取り直すようにひとつ頷くと錬へと向き直る。

 

「とりあえず、その件は我のほうから張栄之(えいし)様にお伝えしておく。確かなことは言えんが、そちらのことは、もう気にせずともよいだろう。それで、例の企みのほうはどうなのだ?」

 

 どんな経緯でその結論に至った?

 あっさりと孫策の話題を流した壱に、そう問い詰めたい思いを押し殺しながら、錬は大きく嘆息すると、先程、孫策に問われて説明したのと同じことを壱に話す。

 

「明後日の夜、韓忠の屋敷で宴が開かれる。その帰り道で、伊俊の手の者が韓宜を襲うようだ。だが、これは(かた)りで、韓宜を害すのが目的ではなく、それが紀霊の手に()るものだと思わせること。それにより紀霊の失脚を狙っているらしい」

 

 説明(そこ)に目新しいものはない。せいぜいが、韓忠らの企みの実行が明後日の夜に決まったということくらいだ。だから、

 

「そうか」

 

 壱の返答もあっさりしたものだった。だが、話さなければならない続きはある。

 

「それで、どう持っていくつもりだ?」

 

「ああ、それなんだが…」

 

 

 

 

 

 韓宜は、少しふらつく脚を叱咤しながら夜道を歩いていた。

 甥の韓忠の屋敷で呑んだときの常のまま、酔いつぶれ、目を覚ましたのちも醒めぬ酔いに、儂ももう歳か、などと自嘲する。

 頭髪に白いものが目立ち始めたとは言え、世間一般からすれば老け込む年齢ではないが、長く武官として務めてきた韓宜からすれば、身体が思うように動かなくなってきたことは、身を引くことを考えさせるに足ることだった。

 

「叔父上、大丈夫ですか?」

 

「うむ、少し呑み過ぎたが、のんびり帰れば問題なかろう。おぬしには手数を掛けるがな」

 

 背中から掛けられた声に、そう返しながら韓宜は、酒のせいだけではない息を吐いた。

 

 この甥に今少し配慮が足れば、都尉の官を譲って儂も楽ができるものを。

 そんな吐き出せぬ思いが内心を巡る。

 武に不足はないが、短慮で酷薄なところがある。

 韓宜は、甥の韓忠をそう評価していた。身内であり、子のない韓宜にとっては息子代わりと言っても過言ではないが、南陽郡の軍権を預かるものとして、公私を混同するわけにはいかない。少しは刺激になれば、と紀霊という武才を抜擢してみたが、どうやら逆効果だったようで、その性質は直るどころか酷くなる一方だ。

 

 今少しは儂が気張るしかないか。

 

 これまでも何度も考えた結論(こと)に行き着いたときだった。

 

 後ろに着いてきていた韓忠が、前に出ると韓宜を制して、その足を止めさせた。

 どうした、と聞こうとして、韓忠の右手が剣の柄に添えられているのも気付く。それを見て韓宜は変事が降りかかったことを悟り、一歩退くといつでも抜剣できるように構えた。

 韓宜も備えたことを察して、韓忠は叔父をかばう位置に身を置くと、前方の暗がりを睨みつけ、

 

「何者だ?」

 

 鋭く誰何(すいか)の声を上げた。

 しばしの空白、その後に姿を現したのは、すでに抜身を手にし、顔を隠した男どもが五人。

 それを見て、韓忠が素早く剣を抜いて構える。韓宜も一拍遅れて抜剣するが、顔をしかめると、後ろへと下がった。身体に残る酔いが動きを妨げており、足を引っ張りかねないことに思い至ったからだ。

 

 そんなふたりの行動に呼応するように、襲撃者らは前に出た韓忠を囲むようにして剣を向ける。

 

「貴様ら、こちらが郡都尉韓伯正(はくせい)どのと知っての狼藉かっ」

 

 襲撃者どもに油断なく睨みを利かせながら、韓忠が怒鳴った。その声に気圧されて怯みを見せた襲撃者どもだったが、逃げ出すことはなく、気を取り直し、改めてそれぞれ剣を構え直す。

 その襲撃者どもの様子に、韓宜は気を抜かないまでも安堵を抱いた。韓宜から見て、襲撃者どもは、衰えの見え始めた韓宜であっても凌ぐに容易い相手であり、韓忠であれば傷ひとつ負うことなく撃退できるだろうことが分かる。であれば、万が一にならないように警戒はするが、韓忠に任せるのが最善というものだ。

 

「そうか、ならば死を以って己の不明を悔やめっ」

 

 韓忠が吠え、無造作にも見える動作で斬りかかる。あからさまな上段からの打ち下ろしに、さすがに斬りかかられた男も剣を掲げて防ぎ、だが、何故かその体勢で男の動きが止まった。その様子に韓宜のうちに微かな疑念が湧く。見れば、覆面からわずかに覗く目は大きく見開かれ、唖然として目前に迫る白刃を見上げている。

 

 なにかおかしい。

 そう思いかける韓宜だったが、韓忠の脇を抜けてこちらに迫り来た男の斬撃により、余計な思考は霧散する。危なげなく剣で打ち払って防ぐが、これもおかしいと感じた。酒気に侵されているために反撃まではままならない韓宜だが、防御に支障がでるほどではない。だが剣を合わせて、あまりにも手応えが軽かったのだ。まるでこちらを本気で斬る気がないかのように。

 不審に思うも、再び襲いかかる襲撃者に、韓宜の思考は再び中断を余儀なくされ、その剣撃に剣を振り払って跳ね退ける。

 構え直し、目前に立つ男へと警戒の視線を向けた、その瞬間、

 

「ぐ、が…」

 

 その視線の先で、襲撃者が呻き声とともに(くずお)れる。その背後には、いつの間に現れたのか、ひとりの青年が立っていた。

 左の拳を裏拳気味に打ち下ろした姿勢で倒れた襲撃者を見下ろしていた、その青年は、突然の出来事に呆然とする韓宜を余所に、地面に伏せて呻く男へと止めとばかりに足を踏み下ろして、意識を刈り取る。

 特に目立つところのない青年だった。だが、争闘の場に無手で立ち入り、瞬く間に抵抗を許すこともなく襲撃者を無力化した。その手際は韓宜から見てもそつがなく、泰然とした在り方も只者とは思われない。

 思わぬ乱入者に一瞬は呆気にとられた韓宜だが、すぐに気を取り直したのは、さすが郡都尉といったところだろう。

 

「おぬしはいったい…」

 

 呟くように問う韓宜へと向き直り、青年は軽く頭を下げる。

 

「なに、通りすがりの者です。お困りのようでしたので手を出しましたが…」

 

「う、うむ、助かった。礼を…」

 

 場に似合わず涼しげに名乗る青年に、韓宜が礼を言いかけたところで、

 

「ぐ、あがぁ…」

 

 苦悶に満ちた呻き声が上がる。その声にふたりが目をやれば、韓忠が襲撃者のひとりを斬り捨てたところだった。

 

 

 

 

 

 随分と梃子摺らされた。

 まあ、一対三での斬り合いで、ひとりを数合で始末できたのならば良しとするべきだろう。

 嘲笑うように口の端を歪めて、韓忠は目前のふたりへと視線を向ける。

 見れば、どちらも仲間が斬り殺されたことが理解できないかのように呆然と目を見開いていた。隙だらけのその様子に、さらに笑みを深くしながら韓忠は、剣を突き入れる。吸い込まれるように白刃が喉を貫き、声もなく、男が白目をむいた。相手へと足を掛けて、蹴り飛ばすようにして剣を引き抜く。

 そうしながら、韓忠は背後へと一瞬だけ意識を向けた。

 乱入者が現れたのは確認できていた。叔父のほうへと向かった男は、その乱入者に打ち倒されている。

 

 あと()()()

 

 想定外のことに多少の苛立ちを覚えながらも、韓忠はそう心を改めると、剣を向け直す。その剣を向けられたことで、ようやく自分を取り戻した男は、怯えたように、ひっ、と悲鳴を上げると、韓忠から身を退きながら、ひとりだけ後ろに離れていた男へと顔を向けた。

 

「お、おいっ、話がちが…」

 

 口にしようとした、その言葉に、言わせるか、と韓忠は退いた分だけ踏み込み、斬りつける。男はかろうじて、その斬撃に剣を上げて防ぎ、そのまま斬り合いになる。だが、その力量差は五分を許さず、韓忠にたたみかけられ、防御ばかりに追いやられていった。

 その斬り合いの最中、韓忠は後ろにいる()()()()()へと視線を向け、顎をしゃくって見せる。

 後ろの男は韓忠の仕草(それ)に軽く頷いて見せると、じりじりと後退(あとずさ)りしていき、身を翻したその瞬間、

 

奉武(しんぶ)っ、逃がすなっ」

 

 韓宜のそばにいた青年から声が飛び、それに応えるように小柄な影が躍り出る。逃げ出そうとした男へと片手に持った中剣を突き付けて牽制する影は、まだ幼さの残る少年だった。

 一瞬、気圧されたかのように足を止めた男だったが、相手を少年と見て侮ったか、無造作に振り払うように斬りかかり、だがその剣は、あっさりと少年の剣によって受け止められ、跳ね退けられる。そのまま少年は素早く剣撃を繰り出し、男は完全に足を止められた。そこへ韓宜を助けた青年が風のように駆け寄ると、横合いから拳打と組討(くみうち)とをもって打ち倒して、その意識を奪う。

 

 その様子を、斬り結ぶ男越しに見て取った韓忠は焦りに顔を歪めた。

 その男が捕まるのは拙い。早々に切りをつけて場を仕切らなければならない。

 考えて、力任せの打ち下ろしを放った。隙だらけの大振り。だが、その剣撃は男の手から剣を弾き飛ばす。身を守る術を失い、絶望に硬直する男を斬り伏せようと剣を振るい、だが韓忠の手に人を斬る感触が伝わることはなく、代わりに金属を叩いたことによる微かな痺れが響く。

 

「…そう簡単に殺すもんじゃないだろう。こういう場合、捕らえて尋問するべきだと思うんだけどな?」

 

 韓忠の剣が男に届く前に止めたのは、青年がいつの間にか抜き放った短剣だった。韓忠が両手で放った剣を左手だけで受け止めた青年は涼しい顔でそう言うと、視線を右手の先へと動かす。その先にはもう一本の短剣を首筋に突き付けられ、両手を上げて震える覆面の男がいる。

 

「あんたも。とりあえず顔を見せな。で、素直に従えば、最悪なことにはならないんじゃないかな。まあ、なんらかの罰は覚悟したほうがいいと思うけど」

 

「…ほ、本当か?」

 

 青年の言葉に一縷の望みを見出して、覆面をむしり取りながら縋りつくような声を男がこぼす。

 

「ん? まあ、正直に事情を話せば、な…」

 

「勝手なことをっ、貴様ごときが決めるなっ」

 

 激昂して叫んだのは韓忠だ。剣を青年へと突き付けて睨みつける。

 

「こいつらは罪人だ。死を以って償わせるのみだ」

 

 憎しみさえ窺わせる声音で吐き捨てる韓忠に、青年は冷めた視線を返しながら、

 

「いや。そう言うなら、決めるのはあんたでもないだろう」

 

 乾いた声でそう返してから、ふっと口の端に笑みを浮かべて韓忠の背後へと言葉を投げる。

 

「でしょう? 韓郡都尉どの?」

 

 

 

 

 

「無論、決められるのは袁南陽さまよ」

 

 憤激する韓忠を通り越して掛けた問いに、答えが返る。助けられたとは言え、見知らぬ青年に呼びかけられながらも、厳然と答えを返した韓宜に、青年――白毅、真名を錬は、浮かべる笑みを深くした。

 さすがは郡都尉といったところか。威風ある態度に、錬は感心を向ける。

 一方、韓忠は苦虫を噛み潰したような顔で、ぎり、と歯を食いしばっている。身内とは言え上役を、あるいは正体の知れぬ武人を、前にして不満げな様子を隠しもしない。

 その甥の、至らない態度に内心で嘆息しながら、韓宜は錬へと意味ありげな視線を向ける。

 

「それにしても、おぬし、儂のことを知っておったのだな。通りすがりなどと適当なことを言いおって」

 

「それについては、謝罪を。ただまあ、お助け差し上げたのは、赤心からですので…」

 

 苦笑を浮かべて頭を下げる錬へと、まあよい、と返しておいて、韓宜は覆面をとった襲撃者へと顔を向けた。

 

「先も言ったように、おぬしの処遇を決めるは袁南陽太守さまだ。今のままでは、ただ単に郡都尉を襲った狼藉者に過ぎんが、裏にあるものを話すのならば、それが変わることもあろう」

 

 それを聞いて、男はちら、と背後へと視線を投げてから、畏まったように頷く。それを見て、錬と韓宜も、男の背後、逃げ出そうとして錬に打ち倒され、今は少年――梁綱に取り押さえられている男へと目を向ける。

 

「ふむ。やはり其奴(そやつ)が鍵となるものか…」

 

「…奉武、そいつの覆面を取れ」

 

 韓宜の得心がいったような呟きに合わせるように、錬が梁綱へと指示を出す。出しながら、錬がそっと韓忠に目を遣れば、その表情はより一層苦々しく歪んでいる。忌々しくこちらを睨みながらも、口を出そうともせずに何か考えを巡らしているように、錬には見えた。

 その向こうで、

 

「こ、此奴(こやつ)は…」

 

 覆面を外された男の顔を見て、韓宜が目を見開く。

 

「顔見知りで?」

 

「…うむ。儂と同じ舞陰県の豪族伊家の三男で、伊俊、字を示英(じえい)という。南陽治府で武官をしておる」

 

 錬が聞くと、顔をしかめた韓宜が答える。

 

「儂の部下…いや、正しくは、甥の叔礼(しゅくれい)の直接の部下だ」

 

 言いつつ、何とも言えない表情で韓忠へと目を向ける韓宜に合わせて、錬も視線を向けた。それに不機嫌な内心を隠そうともせずに歩み寄ってきた韓忠は、目を細めて気を失っている男を見遣り、口を開く。

 

「確かに示英ですな。だが、私の知らぬことです。此奴が己でやったか、他に共謀した者がいるのかもしれませんが…」

 

 平然と言ってのける韓忠だが、裏を知っている錬からすれば、ふてぶてしいにも程があるというものだ。切り捨てると決めたか、と眉をひそめるが、伊俊を始めとした生き残った襲撃者どもを尋問すれば、事情は知れる。知らぬ存ぜぬ、で押し通せるつもりか、と錬は訝しく思うが。

 

「…その手に握っている短剣には見覚えがありますな」

 

 韓忠のその言葉に皆が伊俊の左手へと注目する。その手は、懐から取り出そうとするかのように短剣の鞘を握っていた。なかなか見事な細工の施された短剣である。

 そうか、これか。

 錬は思い至り、目を細める。短剣(これ)で疑いを自分から逸らすつもりか、と。

 

「儂にも見覚えがある。これは、長成(ちょうせい)の持っていたものだ」

 

 苦悩の色を含んだ声は韓宜である。

 それを聞いて、韓忠の顔が嘲笑に歪んだ。

 

「なるほど。どこで繋がったかは知りませんが、此度のことは、紀霊と伊俊が通じて起こした、ということなのでしょうな」

 

「…しかし、示英も、長成のことをずっと敵視しておった。それが通じるとは…」

 

「ですが、その短剣こそが証。動かせぬ事実か、と」

 

 納得できぬ気に呟く韓宜に、得意げに韓忠が言い放ち、

 

「いえ、残念ながら、その短剣が、そのようなことの証にはなりませんよ」

 

 反論する女の声が夜闇に響いた。

 

 

 

 

「何者だっ」

 

 揶揄するような言葉に反応して、韓忠が誰何の声を上げた。

 それに応えるように、暗がりからふたつの影が歩み出てくる。それはふたりの女だった。前を歩くひとりは、文官服に似た黒い服を身につけた20代半ばの女で、その女に韓宜は見覚えがあった。

 

「おぬしはたしか、袁南陽さまの主簿になった…」

 

「はい、郡都尉どのには先にご挨拶をさせていただきましたが、そちらは初めてでしたね。(えん)方全(ほうねん)と申します。このたび、袁南陽太守さまの主簿を務めることになりました」

 

 ゆったりと頭を下げて挨拶をする閻象だったが、韓忠の目はすでに別の人物を見ていた。

 

「貴様、紀霊…」

 

 憎しみを込めて、韓忠が睨みつけるのは、閻象の後ろについてきた女だ。

 背の高い女だった。だが、ひょろりとした体格のためか、威圧感はない。短くした暗赤色の髪を無理矢理に頭の上で結んでいるため、頭上(そこ)で爆ぜているようにも見える。錬は、髷のようだな、と思った。

 表情を押し殺そうとするかのように口を真一文字に結んでいるが、その紅色の目は怒りを宿して、自分を睨む男を睨み返している。

 睨み合いながら、韓忠は倒れている伊俊を示して詰問する。

 

「紀霊。貴様、短剣(これ)をどう説明する?」

 

「ですから、短剣(それ)は長成どのが不忠を働いた証にはなりませんよ」

 

 だが、その詰問を閻象の言葉が遮る。それに韓忠が睨む対象を移して叫ぼうとするが、それを遮るように問いを口にしたのは韓宜だ。

 

「それはどういう意味かな、主簿どの?」

 

「その、長成どのの短剣ですが、盗まれたものだからです」

 

 悠然と、まるでこの場の空気に気付かないかのように閻象が答える。

 

「盗まれたのは3日前。事が判明したのは昨日。私が、長成どのに確認致しました。そして、盗まれた状況も分かっております。誰が盗み、誰に渡したのか」

 

「あとは、こいつらを尋問して裏を取れば、事情は判明する、ということですかね?」

 

 閻象に継いで、これからの対応を口にしたのは錬だ。

 その言葉に暗に含ませたのは、韓忠への示唆である。もう分かっているぞ、観念しろ、と。

 

「ええ、その通りです」

 

 答える閻象が手を上げると、槍を持った十数人の兵が韓忠の背後から現れ、逃げ道を塞ぐように展開する。

 

「あとはこちらで処理致します。そちらのふたりを連行してください。韓叔礼どの、ご同行願えますね?」

 

 それは韓忠に対する最後通告のようなものだった。もう逃げることはできないぞ、と。

 だが。

 

「方全、下がれっ」

 

 鋭い声とともに閻象の手が背後から引かれる。引いたのは紀霊で、閻象を守るかのように後ろに下がらせると代わりに自分が前に出た。

 そうした理由はひとつ。

 韓忠が身を翻して走り出したからだ。向かう先は閻象、そして紀霊のいる方向だ。

 韓忠がどうしてそちらへと向かったのか。それは本人にしか分からない。逆側には十数人からなる兵がいて抜けられないと思ったからなのか。それとも憎しみに駆られて紀霊に一太刀浴びせたかったのか。

 

 ともあれ、剣を片手に走り来る韓忠に、紀霊も腰の剣へと手をやって抜剣できるよう構えを取ると、全身から殺気を溢れさせる。

 そして、接敵する瞬間、

 

「長成どのっ、殺すなっ」

 

 鋭く飛んだ怒号に、紀霊は表情を微かに動かすが、傍目には気にした様子もなく白刃を閃かせた。

 そして、すれ違い――

 一歩、二歩、とよろめき、韓忠が倒れる。

 

「あー、えーと、殺しました?」

 

 数瞬の沈黙、紀霊が剣を納めたところで、近付いた錬がそう聞くと、紀霊はむっとしたように口を尖らせる。

 

「…殺すな、と言ったのは、そなたじゃないか。だから、面倒だが平で叩いたというのに」

 

「ああ、すみません、ありがとうございます」

 

 機嫌を損ねたようにそっぽを向いた紀霊に、錬は頭を下げて礼を言う。

 それにそっぽを向いたままの紀霊は、横目で錬へと視線をやり、

 

「…いや、いい。そなたが尽力してくれていたのは、方全から聞いている。だから、いい」

 

 放り投げるようにそう言って、兵らに指示を出すためにそちらへ歩いていってしまう。

 いささか呆気にとられた錬に、閻象が苦笑を浮かべて歩み寄る。

 

「言葉通りに受け取ってください、士泰さん。あれで感謝しているんですよ」

 

「それならいいんですが…」

 

 なんとなく不安の残る声音で錬が呟くと、伊俊の身柄を兵に預けた梁綱がこちらへとやってくる。その顔は一仕事終えて、ほっとした表情を浮かべていた。それを見て、錬もようやく実感が湧いてくる。

 

「いろいろあったが、これで任務完了、って言えそうだな」

 

 梁綱に笑いかけながら、そう言って錬は、ほうっ、と息を吐き出した。

 

 その嘆息は、思いの外、大きく夜闇に響いていった。

 

 

 

 

 

 

 





企みを潰しました。

次回、落着です。



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一〇 南陽評定



ご無沙汰をしておりました…





 

 

 韓忠らの企みを阻止し、彼らを捕らえた翌朝。

 

「おはようございます、士泰さん、奉武さん」

 

 登城した錬と梁綱を、城門で出迎えて朝の挨拶をした閻象は、返礼するふたりを促して身を翻すと、城内へと足を進め、

 

「まずは、張長史どののもとへ参りましょう。例の件についての下打合せをしておきたいとのことです」

 

 歩きながら背中越しに、これからのことを話す。

 

「下打合せ、ですか?」

 

「はい。そのあとで、文武官を招集しての評議となります」

 

 つまりは、内々で方向性を決めておこう、ということのようだ。

 漢や南陽の法やら慣例やらに疎い、というより無知に近い錬には、()われたところで言える意見などなく、その場に自分が居る必要があるのか、と疑問には思うものの、言われるままに黙って閻象についていく。

 当事者だと言われればその通りで、報告を、と言われれば断るべきでないのも確かだ。さらに言えば、法や慣例についての知識を得る、いい機会でもある。これから袁術に仕えるのならば、知らないでは済まされないことでもあるだろう。

 

 そんなことを考えていた錬が案内されたのは、先日に袁術や張勲と顔を合わせた部屋だった。

 

「長史どの、閻方全です。白士泰さんをお連れしました」

 

 扉の外から閻象がそう声を掛ければ、

 

「は~い、どうぞ入ってくださいな」

 

 返ってきたのは、どことなくお気楽さを感じさせる声。その声に従って扉を開けた閻象とともに、錬と梁綱も部屋へと入った。

 中に居たのはふたり。顔を隠すようにして口につけた碗を傾けている袁術と、その様子を微笑ましそうに見つめている張勲だ。三人が部屋に入った拍子に碗の中身を飲み干したのか、袁術は、ぷはーっ、と満足げに息を吐き出すと、入ってきた三人へと視線を向けた。

 

「おおっ、そこにおるのは士泰ではないか」

 

「いらっしゃいませ~、士泰さん…と?」

 

 袁術が錬の姿を見て取って目を輝かせ、張勲はにこやかな笑みを浮かべて歓迎の言葉を投げかけ、見知らぬ少年の姿に首を傾げる。

 

「白士泰、お呼びに従い、参上しました。こちらは我が部下の、梁綱、字を奉武、と申す者です」

 

 そんな張勲の様子に、錬が梁綱の紹介をしつつ拱手すると、むっ、と顔をしかめたのが袁術である。

 

「その話し方はやめよ、士泰。堅苦しいのは嫌いじゃ」

 

 不機嫌を露わにして睨む袁術に、苦笑を引きつらせた錬が張勲へと目を移せば、目を合わせた張勲がため息をつきつつ、顎を引くように軽く頷いて見せる。

 

「分かったよ、コウちゃん…これでいいかい?」

 

 ため息をついて気安い様子で言えば、袁術は満足げに、うむ、と頷き、錬の後ろでは梁綱が目を丸くしていた。

 警備隊の隊長とはいえ、身分としては庶人と変わりない錬が、名門袁家の御曹司にして南陽郡太守である袁術にする対応ではない。下手をすれば無礼討ちもありうるとすれば、梁綱が動揺するのも当然だ。

 だが、そんな梁綱の動揺を余所に、袁術や張勲の対応は和やかだ。

 

「おお、そう言えば、士泰の用事は済んだのかや? それが済めば、そなたはまた顔を出すと七乃から聞いておったのじゃが」

 

「ああ、用事(そっち)はなんとか片付いた。まあ、後始末が残ってると言えば残ってるんだろうが」

 

「そうですね~、というか、その後始末のために集まってもらったんですけど~」

 

「後始末、とな?」

 

 錬、張勲と続けた“後始末”という言葉に袁術が不思議そうに首を傾げると、その様子に皆が怪訝そうな表情を浮かべるなか、張勲だけがうっすらと笑みを浮かべて袁術へと向き直る。

 

「あら、美羽さま。そのことは先程お話ししたはずですけど~? ひょっとして、覚えてらっしゃらないのですか?」

 

「にょ!?」

 

 邪念などないと言わんばかりの笑顔で問う張勲に、袁術は狼狽えた奇声を上げて、びくりと肩を揺らした。

 

「いや、そんなわけなかろう? 覚えておる、覚えておるに決まっておろうっ」

 

(…忘れてたな)

 

(…忘れてましたね)

 

(…忘れてたんだろうな)

 

「ですよね~。つい先程のことですもの、覚えていないわけがありませんものね~」

 

 三人が内心で指摘する(ツッコむ)なか、ひとりだけがわざとらしく同意をして見せると、

 

「も、もちろんじゃ。忘れるわけがないのじゃ。しっかりと覚えておるのじゃ」

 

 袁術はのけぞるように胸を張って言い切る。もっとも、その声が不安定に揺れていることからも、その言葉が強がり以外の何物でもないのは明白で、また視線も周りを窺うかのように泳いでいる。

 そんなふうにうろたえる袁術を、胸の前で手を組んだ姿勢で、頬を染め、瞳を潤ませて見つめる張勲の様子に、大きくため息を吐いたのは閻象である。

 

「…とにかく、その話をしましょうか。時間もそれほど余裕があるわけでもありませんし」

 

 その言葉に、錬から物問いたげな視線を送られて、閻象が続ける。

 

「このあと、四刻(約1時間)ほど後に、文武官を集めての評議が予定されています。主たる議事は当然、韓忠らの謀事について。つまりそれまでに方針を決めておかなければなりません」

 

「方針、というと?」

 

「例の方々の処罰について、ですね~。簡単に言うと」

 

 錬の問いかけに答えたのは、我を取り戻した張勲だ。

 

「処罰、というと、通常はどんなふうになるんです?」

 

「その時々ですよ~。犯した罪を、奸計を巡らして郡政を乱した、と解釈すれば極刑もありえますし、単なる地方武官の権力争いとして扱えば、免官とか蟄居(ちっきょ)とかで済ませられることもありますね~」

 

 と、刑罰の話をしているにしては、明るく屈託のない微笑みを浮かべて、軽い調子の張勲が言葉を続ける。

 

「まあ、今回は、あの韓家の後継にして武官の主要人物が罪人ですから、とある方々がこれ幸いと追及するんじゃないですかね~。地元豪族の権勢を削るには絶好の機会ですから~」

 

 張勲はそう言うが、今回の件が失態となるのは地元豪族らだけではない。南陽郡下の武官らにとってもこれは失態であり、対立する他派閥のすべてを牽制できるこの機を、袁家派が見過ごすわけがない。

 

「韓忠らの行為を郡太守に弓を引いたとして、連座して韓家にまでその罪を及ぼす。武官らの不祥事として、彼らの威を(くじ)き、その力を()ぐ。そんなところでしょうか」

 

 閻象の推察に、なるほどと頷きつつ、錬はその視線を張勲へと向ける。

 

「それで、そうするんですか?」

 

「まっさか~。そんなお馬鹿さんたちの思い通りになんてさせるわけないじゃないですか~」

 

「それじゃ、どうするんです?」

 

「それはですね~…」

 

 錬の疑問に張勲は、立てた人差し指を口元に当てると、にんまりと茶目っ気たっぷりの笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 南陽郡宛城の評定の間。

 南陽郡治府という大府に相応しく、壮麗に彩られたその広間に、多くの人々が――上座からみて左に文官、右に武官と分かれて整列していた。

 文官の筆頭は、郡丞(ぐんじょう)の地位にある楊建(ようけん)という男であり、南陽郡袁家派の領袖(りょうしゅう)でもある。武官の筆頭は、郡都尉である韓宜だ。そのふたりを先頭として並ぶ文武官が、鳴らされた銅鑼(どら)を聞いて頭を下げる中、郡太守袁術が上座に現れて席につき、その左右に側近として長史張勲と主簿閻象が立つ。

 

「皆の者、頭を上げよ」

 

 その言葉で、全員が頭を上げるのを見て、袁術が満足げに頷く。

 

「うむ、皆、急な呼び出しにも関わらずの列席、ご苦労である」

 

「皆様、お集まりですね~、それでは評議を始めましょうか」

 

「いや、張長史どの」

 

 袁術の挨拶に続いての張勲の言葉に、文官の列から楊建が声を上げた。

 

「皆と言うが、まだ来ていない者がいるようだが?」

 

 そう言って武官の列へと訝しげな視線を向ける。その揶揄するような言葉にも張勲は常と変わらない微笑を浮かべたままだ。

 

「紀長成(ちょうせい)さんには、ちょ~っとお願いを聞いていただいてまして、出動中なんですよ~。で、韓叔礼(しゅくれい)さんは…」

 

 そう言いながら、張勲が誰かを呼ぶかのように手をふたつ打つと、評定の間の扉が開かれた。入ってきたのは、武装した衛兵と、縄を打たれた男が四人。その拘引された男らに官人たちが目を丸くする。

 

「…今日は、評議()()()側におられまして~」

 

「昨夜のことですが、そちらの韓叔礼どのと伊示英(じえい)どのが共謀して、韓郡都尉どのに襲撃をいたしました。ただ、それは欺瞞(ぎまん)。始めから郡都尉どのを害するつもりではなく、紀長成どのの所業と誤認させ、その罪を問わんとしておりました。他のふたりは、伊示英どのが襲撃に雇った半端者で、謀議そのものには関わってはおりません」

 

「と、いうようなことを私の手の者が突き止めまして、対応させていただいたんですよ~」

 

 閻象が事情説明をし、張勲が話を締めると、場が騒然とする。そして、張勲と閻象の弾劾にも黙して語らない韓忠と伊俊の姿に、それが事実だとの認識が評定の間に広がっていく。その中で、賎しい悦が透けて見える表情を浮かべた男が口を開く。

 

「それでは、今日の評議はこの件についての裁断ということでよろしいですかな?」

 

 楊建である。その薄ら笑い一つ手前の表情を浮かべての訊ねに、こちらは通常運転の微笑みのままで張勲が頷く。

 

「まあ、()()は、そちらのお二方の処罰についてのお話ですね~。それでは、ご意見のある方はいらっしゃいますか~?」

 

「それでは僭越ながら、私から…」

 

 真っ先に言葉を発したのは、再び楊建だった。

 

「犯した罪は南陽郡武官の首座への襲撃。害意はなかったとしても、その本意からして事が成れば郡政を乱れさせたことでしょう。()いては、郡太守さまの威光を翳らせ、郡下を無用に騒がせる要因になったことは明白。ここは断固たる断罪が必要不可欠かと」

 

「具体的には?」

 

「当人らは斬首。また、その一族にも何らか処罰を科すのが適当かと愚考いたします」

 

 ざわり、と、場がどよめく。

 その言葉は殊勝だが、内容は苛烈で、表情は劣俗である。

 錬らの事前の打ち合わせで話し合った通り、ここぞとばかりに攻勢をかけてきた。韓忠の一族といえば舞陰県の韓家であり、すなわち現郡都尉の韓宜もこれに含まれる。それらが処罰されるとなれば、地元豪族への抑圧と、楊建ら袁家派閥による南陽郡への権勢とが強まることになるだろう。

 豪族に属する武官らは顔を険しくさせながらも、誰も言葉を発しない。下手に庇うようなことを言えば、関連を疑われ、連座で処断されるかもしれない。そう考えれば、苦々しく思えども口を噤むしかない。

 それを理解しているからか、己の提言に異を唱えるものなどいない、とばかりに、楊建は余裕の笑みを浮かべる。これで南陽郡の権勢は自分のものだ、と言わんばかりに。

 

 が――

 

「ちょっと待つのじゃ」

 

 制止の声を上がった。まるで空気を読まないかのように。

 その声で水を差された感に、楊建が笑みを消して目を細めるが、誰が発言したかを察してさすがに黙する。そんな人物はこの場にひとりしかいない。その唯一、南陽郡太守袁術が、無表情で瞑目している人物へと声をかける。

 

「韓宜よ、そなたは何ぞ言うことはないかや?」

 

 声に詰問ではなく気遣いの気配があるのは、韓宜の無表情に隠された内心を敏感に感じ取ったからか。その声音に韓宜は瞑目したまま、頭を下げる。

 

「何もありませぬ。皆の裁決に従いまする」

 

「しかし、そなたには非はなかろうに…七乃よ、どうにかならぬのかの?」

 

「そうですね~…」

 

 心配げに振り返る主に、張勲は人差し指を口元に当てる仕草で、しばし考え込むようにして視線を巡らせた。その眼が何かを捉えたかのように細められると、その顔に満足げな、そして意地悪げな微笑みが浮かぶ。

 

「それでは、こうしてはいかがでしょうか? 首謀者のお二方は南陽郡からの追放、従犯の半端者さんたちは強制懲役。連座する方はなし、ということで」

 

「なにを言われるっ」

 

 袁術の意を汲んだ張勲が寛容な裁定を述べるのに、異を唱えたのは楊建だ。

 

「それでは(ぬる)過ぎましょう。この件は郡政を乱す暴挙です。厳しく裁定すべきかと」

 

 声高に言い募り、厳刑を迫るが、そんな楊建に張勲は薄笑いを浮かべて答える。

 

「まあ、確かに少し寛大かもしれませんけど、()()()のことを考えるとこれくらいが妥当なんですよね~」

 

「この次?」

 

 訝しげに眉根を寄せる楊建に、笑みを深くした張勲は再び手を打つ。今度は三つ。

 それを合図に、評定の間の四方から幾人もの兵が新たに現れ、殺到し、

 

「な、なにをするっ」

 

 取り押さえられたのは、楊建であった。

 

 

 

 

 

 手を打つ音が三つ。その合図に錬は、ともに控える兵たちを従えて評定の間へと跳び出した。

 ともに突入した兵たちが他の文武官への抑えとして牽制するなか、錬は、真っ直ぐに文官の列の先頭に立って張勲と対峙している男、楊建へと掴みかかり、左腕を取って捻り上げる。右腕を取って同様にするのは梁綱だ。そのまま相手の足を、軽く蹴って跪かせる。

 

「な、なにをするっ」

 

 楊建が拘束から逃れようと暴れるが、

 

「動くな。いらん怪我をするぞ」

 

 錬が脅しとともに捻る腕に力を込めると、痛みに動きを止めて呻く。

 

「貴様ら、私を郡丞と知ってのことかっ」

 

「もちろん、知らないわけがないじゃないですか~」

 

 憤懣に満ちた楊建の言葉に答えたのは、張勲の嘲笑うような声。

 

「ど、どういうことだ、張長史。この狼藉はいかなることか」

 

「これが、さっき言った()()()ですよ、()()さん」

 

 狼狽まじりの怒気を込められた睨みを、冷ややかに受け流して張勲が微笑み、(いみな)で言い放つ。

 

「ある商家と結託しての商税の横領や物資の横流し、(じょう)県や安衆(あんしゅう)県から献上された玉帛(ぎょくはく)の摺り替え、丹水(たんすい)県の匪賊との裏取引、郡下からの収賄、洛陽の官人への贈賄……」

 

 張勲が羅列していくにつれて、楊建は顔色を失っていく。見渡せば、彼の背後の文官らのなかにも同じように顔を青ざめさせる者もいる。それらを見て、張勲は口の端を上げ、魔性めいた微笑みを浮かべた。

 

「心当たり、ありますよね~」

 

 心当たりはある。あり過ぎる。だが、認めるわけにはいかない。

 

「しょ、証拠はっ、証拠があるのかっ」

 

「今、この場にはありませんけどね~。でも、楊建さん。あなたのお屋敷になら、帳簿やら覚書やら実物やら、ありますでしょう?」

 

 苦し紛れに証拠の提示を求め、返った言葉に、楊建は安堵を抱いた。屋敷には私兵、食客が幾十人といる。手勢のない張勲には、屋敷にあるそれらを手に入れることはできまい。であれば、ここを乗り切れば、と。だが。

 

「…はは、そ、そんなもの知るものか。言い掛かりも程々にするがいい」

 

「まさか、お屋敷には手を出せない、などと思ってらっしゃるんだとしたら間違いですよ。すでに接収は完了していますので~」

 

「な…まさか、そんなばかな…」

 

 絶句する。張勲に手勢はない。それは確かだ。細作は充実しているようだが、実戦力では自分の方が上回っているはずだ。自分の屋敷が、そう簡単に制圧されるわけがない。ならば、張勲のこの自信はなんだというのか。

 

「気がつきませんか? 評議が始まる前に言ったんですけどね~。お願いしてるって」

 

「き、紀霊…」

 

「は~い、正解で~す。長成さんには評議が始まる前に楊建さんのお屋敷の制圧をお願いしておきました。もちろん、楊建さんの家人(かじん)や私兵、食客、従僕に至るまで、お屋敷にいらっしゃる方々はひとり残らず捕縛していただくことになってます。で、先程、完了したとの報せが届きまして~」

 

 その言葉に、楊建はがくりと項垂れる。

 紀霊が向かったとなれば、率いるのは正規兵。私兵や食客がどれほどいようが抗えるわけがない。

 

「さて、さっき言った事柄ですけど、南陽郡のみならず、漢朝への背信でもありますし、その罪は韓叔礼さんたちとは比べ物になりません。接収した証拠を精査したのちに正式に決定しますが、極刑は免れないと思ってくださいね~」

 

 そう言い、張勲が文官を見渡す。すなわち袁家派閥の者たちを。

 

「このことに加担した人たちも同様ですよ。楊建さんを取り調べて判明したら覚悟をしておいてくださいね~」

 

 続いて武官――豪族らを、そして跪いている韓忠、伊俊へと視線を向ける。

 

「楊建さんのことと、叔礼さんと示英さんのことを同列には扱えません。よってさっき言ったように、叔礼さんと示英さんは南陽郡から追放、そちらのふたりは強制懲役。それ以上は罪に問いません」

 

 そして、振り向いて袁術へと頭を下げる。

 

「――ということで、よろしいでしょうか、美羽さま?」

 

 問い掛けに、袁術が頷き、落着したと思われたところで、

 

「――公路さま…」

 

 落ち着いた声が、呼びかけた。

 

「…どうしたのじゃ、韓宜?」

 

 声を上げたのは、郡都尉の地位にある武人だった。

 初老の武人は、澄んだ目を袁術へと向けて拱手を捧げる。

 

此度(こたび)のこと、武官らの派閥争いに端を発したものにして、事を起こしたのが我が一門に連なる者であり申した。これは、(ひとえ)にそれがしの不徳の致すところにして、それがしにも償うべき罪がありましょう。ゆえに郡都尉の職を辞すべきと存じます」

 

 決然と己が意志を表した韓宜の言葉に、評定の間に静寂が広がった。

 その静かな覚悟に気圧されて、袁術は、助けを求めるかのように傍らの張勲へと顔を向ける。その視線に首を横に振って応えた張勲を見て、袁術は悲しげに眉尻を下げて韓宜へと顔を戻した。

 

「…うむ、わかったのじゃ。韓宜の言うようにせよ」

 

「聞き入れてくださり、感謝いたします、公路さま。今ひとつ。後任には紀長成を推します。今後は全武官が紀長成を長として、公路さまを支え、南陽の安寧のために尽力いたしましょう」

 

 それは、今回の騒動を抑えきれなかった武人の悔恨が言わせた言葉だった。ゆえにその覚悟の言葉は、この場にいた武官の胸を打った。この矜持を見せられたからには、武人たるもの、徒に派閥争いなどしている場合ではない、と。

 

 ざっ、という音が評定の間に響いた。

 それは、武官らが揃って、袁術へと跪いた音だった。

 

 

 

 

 

 



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一一 仕官


後始末の説明回です。




 

 

 

 

「――それで、あれからどうなったんです?」

 

 挨拶もそこそこに、錬は張勲にそう聞いた。

 あの評議から三日後のこと、場所は相変わらずの()()()()部屋である。

 評議のあと、拘束された楊建や韓忠らのことは張勲に任せて、錬は閻象と今後のことを話して、宛城を後にした。今回の立役者ではあるが、官職にない者が、郡の要職である郡丞が逮捕されるという混乱の内にある城内にいるべきではないだろうし。

 そして三日後、その間に拠点として利用していた屋敷を引き払い、撤収の準備を完了させた錬と梁綱は、その報告も兼ねて、宛城に張勲を訪ねた、というわけである。

 

「…方全さん、説明よろしくです~」

 

 茶で口を潤した張勲は、どことなく(だる)そうに茶杯を卓へと置くと、閻象に視線も向けずにそう言う。それを受けて、閻象は軽く息を吐くと錬へと向き直った。

 

「評議のときに張長史どのが言ったとおりですよ。楊建の裁定は斬首。関与していた家令始め幾人かの従僕も連座して同じく斬首、家人(かじん)に深く関与した者はいませんでしたので、私財没収の上で南陽郡から追放と決まりました。また、それらの調査で、楊建に加担していた者についても判明したのですが…」

 

 そこで沈鬱そうに口を(つぐ)む閻象に、錬が訝しげな視線を送る。視線(それ)を察して、再びため息を吐くと、閻象は口を開いた。

 

「…逃亡いたしました。有罪確定な輩だけでなく、どちらとも明断できない者も。それどころか、特に注視していなかった者まで。要するに、袁家派閥のほぼ全ての官吏が、です」

 

「それはまた、潔いと言えばいいのか、目端が利くと言えばいい、の、か…」

 

 うんざりしたような閻象の言葉に苦笑を浮かべた錬は、言いかけたところで、ふと気がついたように眉間にしわを寄せて、疑問を口にする。

 

「…袁家派閥のほぼ全て?」

 

 疑問(それ)に返るのは、苦々しさを含んだ無言の頷きで。

 

「…それって、職務放棄?」

 

「まさしくその通り。しかも要職にあった者ばかりなので…」

 

「…大変なんですよ~。後始末ではなく、その、空いた業務の穴埋めをするのが~…」

 

 閻象と張勲が、そろって愚痴とともに大きく息を吐く。

 

「…それはまた、なんと言えばいいのか…ご愁傷様です」

 

 錬に言えることはその程度だった。

 

 

 

 

 

「…そんなわけですので、楊建に関する件については、彼の周辺のみの始末で手仕舞いということになりそうですね。袁家派の方々の逃亡先も捜索できないわけではないのですが、追手をかけるのも手間ですし、捕らえたとしても気慰み以上の意味があるとも思えませんし…」

 

「まあ、放免するのも業腹ですけど、所詮は二流以下の輩ですし、放っておいても害にもならないでしょうしね~。ほんと~に腹立たしいですけど~」

 

 気を取り直した閻象と張勲だが、散々な言い様である。

 まあ、ふたりの今の状況を思えば、その気持ちも分からないこともない。などと思えるのは、錬には直接の関わりがないからだろう。それが分かっているから、錬は下手なことを言わないように口を噤んだ。ふたりの感情を逆撫でして八つ当たりされる、などは勘弁願いたいところだ。

 それに、いくら張勲や閻象がこれ以上の追及はしないとしても、郡政を放棄しての逐電だ。それは漢朝への不義でもあり、今後、彼らが表舞台に上がる方途は消えたと言えるだろう。言葉通りに憂さ晴らしになる以外に意味はない。

 

 それはそれとして、今回の件、袁家派閥に対しては、張勲の計画通りで(かた)がついた形だ。

 実際、錬が韓忠らの謀を探っているころには、楊建が行っていた悪事のほぼ全てについての詳細を、張勲は掴んでいたのだが、楊建を追い詰めるための実戦力がなかった。ゆえに、追及の手を上げたところで、力尽くで反撃され、逆に張勲が為す術もなく排除された可能性が高い。そうなれば南陽郡は、袁術を傀儡とした楊建によって実効支配されることになっただろう。

 だがそこへ、例の件で貸しのできた紀霊という実戦力を得たことで、一気に事を進めることができたというわけだった。

 

 そして本来ならば、楊建の屋敷から接収した資料をもとに、その悪事に深く加担した者どもは厳罰に処し、関与の浅い者らは軽く罰するに留めることによって貸しを作り、縛り付ける予定だった。つまり、いち早く逃亡されてしまったのは誤算であり、そのせいで、彼らが携わっていた業務が滞ることになったわけだ。

 それでも、抑えつけるように上にいた袁家派閥の官吏が消えたおかげか、袁術就任前からいた、いわゆる地元の官吏らが意欲的に業務に取り組んでくれるようになり、今は混乱から苦労も多いが、体制が整えば、これまで以上に円滑に進展するだろう、とのことだ。もっとも、居なくなった官吏の職分については、張勲と閻象に負担されることに違いはないのだが。

 

 そして、韓忠と伊俊について。

 これも事前に決めていたとおりに、実行犯であるふたりについては南陽郡からの追放、ということになった。評定時に意見を求めたのは、楊建ら袁家派から厳罰を提示させ、それを袁術から温情を示す形で減刑することにより、韓宜、延いては韓家を始めとする南陽豪族への歩み寄りを示唆して融和を図るためであり、韓宜と親交のある豪族武官らに対しては、それはほぼ図に当たっている。

 ただこちらの件にも誤算はあった。韓宜が郡都尉の職を辞したことであるが、これに関しては韓宜自らが後任として紀霊を指名したことと、皆の前で袁術に忠節を表明したこともあって、紛糾することなく新たな郡都尉の下で足並みを揃えている。

 

「ひとまず、これで落ち着きそうなのは、なによりですよ」

 

 そんなこんなの、南陽郡の実状を語って、張勲が言う。

 

「袁家派を追い払ったことで、官吏や豪族の方々には信用していただけそうですし~、南陽郡下全域についてはまだまだですが、郡治府と宛城周辺についてはこのまま掌握できそうですね~」

 

 いつもの微笑みを浮かべて、張勲が言ったところで、室外(そと)から声が掛かる。

 

「張長史、紀長成だ。入るぞ」

 

「は~い、どうぞ~」

 

 張勲の返事に扉を開いたのは、言葉の通りに紀霊だったが、彼女だけでもなかった。

 

「あら、美羽さまもいらっしゃったのですか?」

 

「うむ、来たのじゃ」

 

「調練場からの道中でお会いしたのでな。お連れしたのだ」

 

 胸を張って存在を主張する袁術の後ろから入室して、そう説明した紀霊は、部屋を見回すとひとりの人物へと目を向けた。

 

「おお、士泰ではないか、いつ城に来たのじゃ?」

 

「こんにちは、コウちゃん。ついさっきだよ」

 

 部屋に入るや駆け寄った袁術と挨拶を交わす、その人物――錬へと歩み寄ると、

 

「白どの、だったな。あのときは(ろく)な挨拶もせずに申し訳なかった。この紀霊、字を長成、改めて、礼を言う」

 

 そう言って頭を下げる。そんな紀霊に、瞬間、面喰ったように目を瞬かせた錬だったが、すぐに居住いを正すと謝意を示す紀霊に向き直った。

 

「お気に為さらず。お互い様ですしね」

 

「そう言ってもらえると助かる」

 

 あまり重くならないように返す錬に、紀霊は口端を上げるだけの笑みを浮かべて、こちらも軽く答えた。

 そんな紀霊に、閻象が着席を促し、慣れた手つきで淹れた茶を勧める。

 錬の横の椅子に座りつつ話しかける袁術の前には、いつの間にか、張勲によって蜂蜜水が用意されている。

 

 改めて話し合いが再開される。

 

「それで、武官らの掌握は順調ですか?」

 

 そう、閻象が聞けば、

 

「ああ、今のところは従順だな。伯正(韓宜)さまが目を光らせてくださってもいるしな」

 

 茶で口を湿らせながら紀霊が答える。続いて口を開いたのは張勲だ。

 

「では、編成はどうですか? 郡都尉が交代したのですから再編が必要でしょう?」

 

「うむ。再編は必要だ。まずは、新たに部隊長級の武官について考えねばならん」

 

 南陽郡の軍を統括していた郡都尉韓宜はその職を辞し、副将格だった紀霊へと譲っている。そしてもうひとりの副将格だった韓忠は追放され、その部下の伊俊も同様だ。そして逃亡した袁家派のなかには、武官職に就いていた者もいた。張勲や閻象が苦労させられている政務ほどに穴を開けられているわけではないが、万どころか千を率いることのできる武官でさえ、その数を減じている、というのが、紀霊からの報告だ。

 

「まあ、幾人か目星をつけてはいるのでな。いましばらくすれば、下級武官については選定ができるだろう」

 

「ん~、そうすると、郡下の各所に軍を派遣、駐留させるとかに手を付けることは、まだ無理そうですね~」

 

 紀霊の語る軍兵再編についての見通しに、張勲が多少の憂いを浮かべて嘆息すれば、その言葉を聞いて紀霊が驚きに目を丸くする。

 

「いやいや、駐留(そんなこと)しようとすれば、以前でも武官は足りていなかったぞ。兵卒も数が揃えられん。それに郡下全域を統制しようとするなら、不足するのは兵馬だけではなかろう?」

 

 そう言われれば、張勲とて(がえ)んじざるをえない。

 

 そもそも、郡太守が抱える常備兵力は多いものではない。せいぜいが数千である。無論、有事にはそれに数倍する兵数を集めることになるのだが、それはその都度に徴兵したり、豪族らの私兵を借り受けたりして間に合わせるものだ。郡太守の軍兵は、郡都内とその周辺、そして街道の安全を確保することさえできれば、それで事足りる。それ以外の郡下の各地域の治安については、それぞれを管轄する県令であったり、豪族であったりが担うものだ。

 

 大都市である宛を擁する南陽郡であっても、常備が可能な兵数は、現状では一万が限度だ。それを、郡下全域を統制するべく派遣しようとすれば、細分化された軍兵(それ)は、軍としての体をなさなくなる。では、派遣し、駐留させる軍兵を軍として機能できるように、とすれば、その規模は膨れ上がり、その維持のための費用は、南陽郡を干上がらせても(あがな)えないだろう。

 さらに、郡太守の軍兵が各地に派遣され、駐留すれば、それぞれの地域に支配力をもつ県令や豪族は反発を覚えるだろう。それは、ようやく郡下の掌握に手を掛け始めたばかりの袁術陣営にとっては避けるべきことだ。

 

 だからと言って手を拱いていれば、いつまでたっても郡下の治安は不安定なままだ。本来ならば、それは県令や豪族が責任を負うべきことなのだが、彼らにその認識がなければどうにもならない。

 

 張勲と紀霊との会話に、錬の横では袁術が頭から煙を出しそうになっている。そんな袁術に気がついた張勲が内容を噛み砕いて説明し、錬や閻象も説明(それ)に加わるものの、首をひねる袁術。

 

「つまりは、どういうことなのじゃ?」

 

「簡単に言ってしまえば、郡下を安全にするにはもう少し時間がかかるということですね~」

 

「豪族らの振る舞い次第だが、早くても数か月から一年はかかるでしょうな」

 

 袁術の疑問に答える張勲に続き、紀霊が具体的な見通しを告げる。それでも不得要領な様子を見せていた袁術だったが、そこでようやく何かに気がついたように首を傾げた。

 

「…うにゅ?…ということは、じゃ。妾は兵を自由に動かせぬ、ということかの?」

 

 結局のところ、袁術が抱いた当初の懸念はそれである。すなわち、太守であるはずの袁術がその権限を自由に行使することができない、という。つまりは、それがゆえに。

 

「では、士泰が妾の下に()ってくれるようになるのは、まだ先になるということかの?」

 

 疑問とも確認ともつかない言葉を、眉を八の字にしながら袁術がこぼし、俯く。

 

 ――今までなら癇癪(かんしゃく)を起されておられただろうに。ああ、お嬢さまは、ほんの数日で御成長されておられる。

 

 袁術の様子に目を細める張勲は言葉もない。主の憂いを晴らせないことに対する忸怩たる思いと、主の精神的な成長を嬉しく感じる想いとが複雑に絡み合って、渦巻いて、胸を締め付けていたからだ。何故か、その表情には悶えているような喜色が見え隠れしていたが。

 そして、張勲ほどの深い感慨ではないものの、錬と閻象は表情(かお)に憂慮を浮かべて押し黙る。

 

 が。

 

「ふむ、少し良いか?」

 

 室に漂う空気など知らぬとばかりに、暢気ささえをも感じさせて、声を発するものがいた。

 紀霊である。

 

「先ほどの公路さまの言葉を聞くに、白どのは公路さまにお仕えしているわけではないのか?」

 

 その言葉に、皆が呆気にとられて目を丸くした。

 

 ――なにを言っているんだ、長成どのは?

 

 そんな言葉が聞こえてきそうな視線を受けて身動(みじろ)ぎする紀霊だが、しばしの後に息を洩らすように、あ、と閻象が声を上げる。

 

「…そういえば、士泰さんの立場については、お教えしてませんでしたね」

 

「それなら、あたしが知らなくても仕方がないじゃないか」

 

 眉間にしわを寄せて憮然と口を尖らせる紀霊に、申し訳ありませんでした、と閻象が素直に頭を下げる。

 

 今回の件で、紀霊に渡りをつけたのは、もともと商人として付き合いのあった閻象であり、それは多少でも話を通せそうなのが彼女しかいなかったからだ。というわけで、紀霊が得られる情報は閻象から伝えられたものだけであり、白毅という同志が袁南陽のために動いている、と聞けば、その通りにしか認識できないのは当然であり、つまりは、気分を害して不機嫌になるのも当然なことだろう。

 

 もっとも、すぐに閻象が素直に謝罪したおかげか、気を持ち直した紀霊に、閻象が説明を始める。

 錬が、博望県丁荘里の人で、自衛のための警備隊の隊長を務めていること、閻象の護衛として宛へやって来て袁術と出会ったこと、そして、錬を気に入った袁術が出仕を望んだが、警備隊の職務を無責任に放棄できないために応じられないこと、などである。

 

「ふむ、在郷(いなか)の治安の問題か。となると、やはり県令らの自主性に期待するしかなかろうな」

 

 事情を聞いて腕を組みながら、そうこぼす紀霊に答えたのは、張勲のため息だった。

 

「…やっぱり無理ですかね~、私たちで直接に各地を掌握するのは…」

 

「無理だな。さっきも言ったように手が足りん。宛城(ここ)の守りも疎かにはできんし、であれば、各地に回せる兵力は、多く見積もっても四、五千といったところだろう。とてもではないが、郡下各地に駐留させて安寧を得ることはできまい。動かせる兵力が少な過ぎよう」

 

 改めての紀霊の言葉に、張勲も閻象も、大きく息を()く。

 分かっていたことだ。今回の件で南陽郡治府の掌握を果たしはしたが、郡下の各県以下に影響を及ぼすことはできても、完全に支配下に置いたわけではない。県令や豪族の囲っている兵力は当てにし切れないし、かと言って郡治府の軍兵を回すわけにいかないのは前に述べた通りだ。

 

「ところで、先程から軍を駐留させる前提で話をしていますが…」

 

 と、そこで疑問の声を上げたのは、誰あろう錬である。

 

「パトロール…いや、巡回、かな? そういう形での対応はできないものなんですか?」

 

「できないわけではないが、それもまた効果的ではないだろう。多少の兵を巡回させたところで、反対に匪賊に蹴散らされる懸念は拭えないし、巡回の間隙を突かれれば徒労にもなりかねん」

 

 錬の疑問を紀霊が首を振って否定する。が、そこに異を唱えたのは張勲だった。

 

「いえ、そうとばかりも言えませんよ」

 

 口元に手を当てた恰好の張勲が、考え込むように半眼のまま、巡らせた思考を囁く。

 

「通常のように小隊、中隊規模の巡回兵では、長成さんのおっしゃった通りになるでしょう。ですが、巡回を大隊(500人隊)単位で行えば…」

 

「…ふむ。であれば、数の問題は解消できるであろうが、巡回に空隙ができることに変わりはなかろう」

 

「いえ、通常の巡回の規模で考えず、可能な限りの最大限の兵数を巡回する部隊に回すんです。大隊十隊で郡内を有機的に運用すれば、空隙もある程度は潰せるんじゃないかな~、と思うんですが~」

 

「む…各隊で連携を取って巡回するということか。それならば可能かもしれんが、宛に駐在する兵にしても、巡回する兵にしても、負担が重くなりすぎるぞ?」

 

「ええ。ですから、宛城の守備と郡内の巡回とを順送りにしたりしてですね~、それぞれの軍務の合間でそれなりの休暇を与えるようにすれば、ある程度の負担は減らせるでしょう? なにより、巡回を行軍訓練として全将兵に義務付ければ、練度の上昇も期待できるでしょうし~」

 

 思考を進めるうちに、いつもの調子が戻ってきた張勲の言葉を受けて、閻象が頷いて補足する。

 

「なるほど。常に十隊程度が郡下を巡回していることになるのですね。巡回範囲を振り分ければ、一度の巡回期間が二、三か月、宛城での軍務も同じくらいでしょうか。それくらいなら、楽とは言いませんけど、厳し過ぎるということもないのではないですか? それにその方法であれば、各地も一月毎程度に巡回が来ることになるでしょうし、十分な効果が見込めるのではないでしょうか」

 

「それに、軍兵の派遣ではなくて、あくまで訓練の一環としての行軍巡回と言っておけば、豪族の皆さんを刺激することもないでしょうし~」

 

「ふむ。そう聞くと、良いこと尽くめに聞こえるな」

 

 閻象、張勲の説明に、紀霊が考え込むように頷く。

 

「問題がないってことはないのでしょうけれど、特に費用面では。まあ、試行錯誤を前提に実施していくしかないでしょうね」

 

「そうだな。となれば、やはり早々に隊長級武官の選定をせねばならんな」

 

「いっそのこと、その行軍そのものも、武官の選定基準に盛り込んではどうですか~?」

 

「ふむ、それもいいかもしれんな」

 

 矢継ぎ早に言葉を交わす張勲、閻象、紀霊の三人に、錬がいささか呆気に取られているうちに、次々と方策が決まっていき。

 

「と、いうわけで、郡下の治安については、これである程度の回復が見込めると思いますが、士泰さんはどうでしょうか~?」

 

「ええと、それは、なにについて、ですか?」

 

 そう振られて、錬は戸惑いながら質問に質問で返すが、にっこり笑顔で、

 

「分かってることを聞き返すなんて男らしくありませんよ~?」

 

 などと更に返されれば、大きくため息を吐きつつ、覚悟を決めるしかない。

 

 ()()することに異存はないが、悩んでいたことは確かだ。丁荘里の安全のためには、丁荘里周辺だけでなく南陽郡全体も安定させる必要があり、そのためには、()()するのが近道なのは間違いない。それでもそれが正しい道なのかは不明で。では、他に道があるか、と考えれば、おそらく別の道(それ)は真逆の方向性のものだろう。だが、その道を採るには、すでに彼らに関わり過ぎている。

 

「分かりました。もともと、安全が確保されれば、とは考えていましたしね」

 

 決められた方策で郡下が安定するかどうか、錬には断定できないが、張勲や閻象が有効だと判断しているのならば、有効(そう)なのだろう。であるのならば。

 

「袁南陽さま」

 

 錬は立ち上がると袁術へと向き直り、拱手を捧げる。

 と、見るからに眉間にしわを寄せ、頬を膨らませた袁術が文句を言おうとするのを見て。

 

「…いや、ここは畏まらせてくれよ、コウちゃん…」

 

 情けなさそうに肩を落とす錬だった。

 その言葉に、うにゅ、と唸り、不満げに睨みながらも、その意を汲んでくれたのか、口を噤む袁術に、錬は気を取り直そうと深呼吸をひとつ、姿勢を正し、表情(かお)を引き締めて袁術を見つめる。

 

「この白士泰、南陽郡の安寧のため、袁南陽さまにお仕え致したく。お許し願えますか?」

 

 瞬間、きょとんとして錬を見つめる袁術だったが、その表情が緩んでいき、やがて浮かぶのは満面の笑み。

 

「うむ、許す!」

 

 そして、立ち上がると錬へと向き直り、両手を腰に当て、上機嫌に高笑う。

 

「うははーっ! よかろうなのじゃ、妾のために励むがよいのじゃーっ!」

 

 

 

 

 

 いろいろと、台無しな気分になる錬だった……

 

 

 

 

 

 

 

 





なんとか章題の”仕官”まで来れました。

内容に関して、整合性があるか疑問もあるでしょうが、ご容赦ください。
自分の能力ではこれくらいが限界なので。

サブタイトルが同じになってしまったのも自分の限界のせいです。

さてこれで二章完です。
ようやく原作開始時間に追いつきました(予定)。

時間はかかるかもしれませんが、よろしければお付き合いくださいませ。





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三章 黄巾
一 客将



三章開始です。

ですが、冒頭でミスしています。
詳しくは後書きで……



 

 高笑う袁術に、遠い目をしつつ、内心でこっそりと肩を落とす錬だったが、それを余所に――

 

「さすがはお嬢さま。士泰さんの言葉を、ご自分に都合のいいように曲解する、その独善的な身勝手さには、私も脱帽です~。よっ、漢朝一の唯我独尊我田引水お嬢さまっ!」

 

「うははーっ、もっと褒めてたも、褒めてたも~」

 

 主従の間でそんな会話が繰り広げられれば、深くため息を()きそうになっても致し方ないというものだろう。咄嗟に気付いて、飲み込むことはできたのだが、ちらっと見れば意味ありげな微笑みを浮かべて、錬へと流し目を送る張勲がいた。

 

「――さぁて、これでめでたく、士泰さんがお仲間になったわけですけど~」

 

 そんな張勲が、人差し指を顔の横で、ぴんと立てて口を開く。

 

「士泰さんは、これからどうされるつもりですか~?」

 

 そう聞かれはしたものの、その意図がつかめず、錬は口籠った。先の笑みを思えば、こちらの内心を読み取られたような気がするのだが、言葉にはそんな響きは感じられなかったからだ。あと、ふたりの会話に微妙に気を抜かれていたりしたのも理由の一つだったりする。

 

「張長史どの、それでは質問が抽象的ではありませんか?」

 

 たじろぐ錬を見かねて、そう助け船を出したのは閻象だ。

 

「なにについてなのか、分からなくては士泰さんも答えようがないかと思われますが……」

 

 そう言われて、張勲は思うところなどないかのように、にこやかに言葉を紡ぐ。

 

「そうですね~、とりあえずはこれからの予定ですね」

 

 上に視線をやりながら、立てた人差し指を口元に当てて、張勲が聞くのは、錬の行動予定について。要するに、いつから出仕するのか、ということ。ということであれば、錬にはやっておかなければならないことがある。

 

「とりあえずは報告しなければいけないので、一旦、村に戻ろうと思います。警備隊の引き継ぎやらなにやらもありますしね。こちらに戻れるのは、十日後といったところでしょうか」

 

「了解です。それでは、そのつもりでお話を進めておきますね~。あとは、士泰さんの立場というか、身分というか、ですけども~」

 

 錬の言葉を受けて、張勲が言えば。

 

「白どのは、警備隊をされているのだったな。ならば、武官ということになるのか?」

 

 そう、武官の筆頭たる紀霊が問う。

 

「そうですね。適性という意味ではっきりしているのは武官でしょう」

 

 その問いに答えたのは、多少なりとも錬のことを知っている閻象だ。

 

「ただ、士泰さんの警備隊は百人ほどでしたので、いきなり軍の指揮をお任せするのはどうか、と……」

 

「あとは、諜報方面でも役立っていただけそうなことを考えると、しばらくは太守府直属として……」

 

 張勲がそう言いかけたところだった。扉の向こうから入室の許しを得る声が掛かる。

 その声に、そっと目を細めた張勲が「どうぞ~」と許しを与えると、入ってきたのはひとりの侍女だった。その侍女へと目を向けた張勲が「どうしたんですか~?」と尋ねるも、侍女はすぐに答えずにそっと近寄ると耳打ちをするようになにやらと囁いた。それを聞いて、張勲が目を見開く。

 

「……わかりました。すぐに向かいますので、謁見の間に通しておいてください」

 

 指示を受けた侍女が一礼して下がるのを見送ってから、錬らへと向き直った張勲は、すでにいつもの表情だ。その微笑みのままで、張勲は錬へと人差し指を立てて見せる。

 

「すみませんが、村へ戻るのは少し後回しにしてください。士泰さんにお願いしたいことができちゃいましたから」

 

「お願い、ですか?」

 

「ええ、お嬢さま――南陽太守への謁見の申し込みがあったんですが、そこに同席していただきたいんですよ」

 

 そして、意味ありげな視線を向けて、言葉を続ける。

 

「謁見者は、周瑜、字を公瑾(こうきん)。あの、孫策さんの義姉妹にして懐刀とされる人物です~」

 

 

 

 

 

 朝議などの多数が参集するためのものが評定の間だとすれば、謁見の間とは、太守が少数と目通りをするための部屋で、その造りは似通っているが、より小作りになっている。

 そんなことを説明しつつ、張勲《ちょうくん》が廊下を歩いていく。その背中を、閻象(えんしょう)、紀霊、錬の三人が追う。

 

「ところで、周瑜さん――つまり、孫策さんの思惑は、どんなものだと思われますか~?」

 

 前を歩く張勲からそんな質問が発せられた。質問(それ)に、しばし考えながらも、まず答えたのは閻象だ。

 

「まあ、順当に考えて、援助の申し入れでしょうか」

 

 呉郡孫家の前当主孫堅死後の、その状況については、情報通であれば把握していて当然のことだ。閻象が、そして張勲が知らないわけがない。窮状にある孫策が、名家にして南陽郡太守である袁術に接触を図るとなれば、その意図を推測することは難しくはない。

 その辺りのことを細作頭から聞いていた錬も、閻象の言葉に、なるほど、と頷く。

 

「ということは、資金とか物資とか?」

 

「そうですね~。あるいはもっと直截的に庇護を依頼してくるかも、ですね~」

 

 ――まあ、そうほいほいと信用したりはしませんけど~。

 

 囁くように続けた、その小さな独白を、辛うじて耳に拾った錬は、前を行く女が浮かべているだろう微笑みを思って、震えるように肩を竦めると、口の中で、孫策か、と呟いた。

 思い起こすのは、あの晩に出会った褐色肌の女だ。細作頭の推測では、()()が孫策ではないか、ということだった。だとするならば、あんな獰猛な微笑みを浮かべる女が、そんな殊勝なだけのことを考えるだろうか。もっと物騒だろう、と確信的に思う。が、別れ際の無邪気にも見えた笑顔を思い出せば、そんな印象は霧散して消えていく。

 結局のところ、錬は、彼女に対して悪い印象を抱けないようだった。

 

 襲撃の件については、細作頭から張勲へと伝えられている。

 細作頭の推測が当たっていたのだとしたら、孫策は隠密能力に優れた部下を使い、宛城下の情報を収集し、そして今回、宛の主たる袁術に接触してきた、ということになるわけだが、それを直接に確認できるのは、例の女に襲われた錬と梁綱のふたりしかいない。それもあって張勲は、錬が村へと帰還するのを引き留め、周瑜との謁見、そしてその後にあるだろう、孫策との謁見に立ち会わせることを優先したのだ。

 その代わりに、と言ってはなんだが、今回の顛末を村と警備隊へと伝えるために、梁綱が馬を走らせている。

 

 そんなことを考えているうちに、張勲の先導によって、四人は謁見の間へと到着した。扉の前に立つ歩哨が一礼ののちに、扉を開ける。その先は、太守の座がある壇上ではなく、その直下へと続いていた。扉を開けて再び礼をする歩哨の前を通り過ぎて、張勲を先頭に謁見の間へと進み入る。

 

 謁見の間には、壇上に正対するようにひとりの女性が佇んでいた。その女性が、こちらの入室に合わせて、拱手をとるとともに頭を下げる。その礼を受けつつ、張勲が太守の座を背にして立ち、錬らはその脇へと控えた。

 

「お待たせしました~。あなたが周公瑾さんですか~?」

 

「はっ、姓は周、諱は()、字は公瑾と申します」

 

 張勲の確認に、女性が畏まったままに名乗れば、微笑みを浮かべた張勲が言葉を返す。

 

「私は、南陽郡長史の張栄之(えいし)と申します。申し訳ありませんが、袁公路さまは御加減が優れないとのことですので、代わりに私がお話を伺いますが、よろしいですか~?」

 

 その言葉に、女性――周瑜が承服の意を示すのを聞いて、張勲がその微笑みを深めて頷く。

 

「ありがとうございます。それでは早速、ご用件をお聞きしましようか~」

 

「はっ、実は……」

 

 そう話し始める周瑜を、錬は感慨深く眺めた。

 

 周瑜と言えば、三国の一角である呉を支えた名軍師だ。もっとも有名な功績と言えば、南下する曹操軍を撃退した赤壁の戦いに勝利したことだろう。その赤壁で共闘した諸葛亮には出し抜かれたり、赤壁以後は病を得て早逝したりと不遇な感があるが、知勇兼備の将としての評価を(いな)む者はいないだろう。また、美周郎と渾名されるように美男子であったと言われ、歌舞音曲にも才を示した風流人でもあったという。

 

 もちろん、錬の知る歴史に記された周瑜という人物は、紛うことなく男性のはずだった。

 だったのだが、今、謁見の間にて張勲と話している人物は、どう見ても、というか、(しか)と見るまでもなく女性だ。

 異国的な雰囲気を漂わす褐色の肌、その肢体を包むように流れる長く伸ばされた黒髪と掛けられた眼鏡の奥の理知的な瞳が印象的だ。そして、年頃である錬が目を奪われるような、魅惑的な肢体。

 うん、それはもう、見間違えようもなく、立派に女性だった。

 

 ――ああ、やっぱり、女の人なんだな……と、言うか、眼鏡?

 

 どこか諦観的に心の中で呟き、その装身具に軽く目を見張る。

 

 ――眼鏡って、こんな時代からあったんだ……

 

 そんな訳はない。

 ないのだが、眼鏡の歴史についての知識などない錬は、ほう、と感心の息を吐くだけであった。

 

 そんな、とりとめもないことを考えながらも聞いていた周瑜の話をまとめれば、こういうことだ。

 

 呉郡孫家の先代当主だった孫堅が奇禍に遭ったのは、長沙太守に就任してそれほど経っていないころだった。それゆえに孫家は、長沙郡に基盤を築くことがまだできておらず、また嫡子孫策もようやく初陣を終えたばかりの若輩であったため、長沙郡での統制権を存続させることも、新たに他所に官を得ることもできなかった。

 そのせいもあって、配下のほとんどが麾下(きか)を離れることを許さざるを得なかった。

 もともと孫堅の武名に惹かれて集まった郎党らであり、その武勇が喪われたならば致し方ないと言えるだろう。周瑜を始めとする孫策に期待を寄せる幾人かが残っただけでも僥倖というものだった。

 

 何はともあれ、孫策は今後の展望というものを模索しなければならなくなった。

 故郷である呉郡に戻れば生活することくらいはできたであろうが、孫家は呉郡の一豪族に過ぎない立場であり、この状況での呉郡への帰郷は、他の豪族の後塵を拝することになるだろうと思われる。

 そこで孫策は賭けに出ることにした。辺境ではなく、中原の有力者の庇護のもとで、功績を積み、名声を轟かせ、それによって官を得ようと考えたのだ。賭け、というが、孫策の才覚をもってすれば、それは容易ではなかろうが、充分に勝算のある目論見だろう。少なくとも孫策、そして周瑜らはそう考えた。

 

 それでは、誰の庇護下に入るのか。

 有名どころでは、何皇后の兄である何進や将軍職にある皇甫嵩(こうほすう)朱儁(しゅしゅん)などの名が挙がるが、彼らのように帝都洛陽に居を構える人物は、すでに多くの配下を抱えているため、すぐには重用されない可能性が高い。なにより長沙から洛陽は遠い。では、より近場で、ということなら、皇族であり、荊州刺史にして荊州南郡太守を兼任する劉表ということになるのだが、先代孫堅が、(かね)てより劉表とは折合いが悪かったため、頼りにし難い。

 

 さて次に、ということで、南陽郡太守の袁術の名が挙がった。

 袁術の実家である汝南袁家はもちろん名家である。南陽郡も有数の大府であり、申し分もない。そして、ともに亡くなってはいるが、孫堅と袁術の母である袁逢(えんほう)には少なからぬ縁があった。過去に一軍の大将と副将を務めたことがあり、その縁を理由に頼ることは可能だ。

 あとは、袁術の為人(ひととなり)と南陽郡の状況によるわけだが、ここ数日の郡下や宛城を見るに、これも不足はなかろう、ということで、こうして謁見を願い出た、ということだった。

 

 もちろん、すべて本心を言っているわけではないだろう。

 郡下を見て不足がない、などということがありえないのは、張勲はもちろん、錬でさえも理解している。南陽郡の施政は、お世辞にも善政と言えるものではない。むしろ悪政と言えるもので、元凶だった袁家派閥を追放できはしたものの、郡政の改革に取り掛かることなどできているわけがなく、巷間(ちまた)での袁術の評価はかなり悪い。好んで仕えようなど思いはしないだろう。

 それを踏まえた上で仕官を望むのならば、そこには下心が見え隠れするだろう。取り入って傀儡と為さしめようとするか、あるいはもっと直截的に実権を奪おうとするか。それが容易い陣営だと見たからこそ、こうして麾下に入ろうとしているのかもしれないのだ。

 

 そういった事情(こと)を理解していないことなどないだろうに、張勲は和やかに、ときに相槌を打ち、ときに質問を交えながら、周瑜から話を聞き出している。一方の周瑜にしても、張勲(あいて)がそう認識していることを承知しているだろうに、それを微かにも表面(おもて)に出さずに話を進めていく。

 

「……お話は分かりました。お申し出は、改めて検討させていただくとして、ですね~。ひとつ質問なんですが、伯符さんはどのような立場をお望みですか?」

 

「はい、我らとしては、いずれ官を得て、独り立ちすることを目標としております。ですので、不躾ではありますが、まずは客将としての立場で遇していただきたく。さらに官を得るに口添えを頂ければ幸いに存じます」

 

「分かりました。それでは、その条件で考えておきますね~」

 

「ありがとうございます」

 

 何を考えているのか分からない、いつもの微笑みを浮かべた張勲が言い、内心を読み取らせない無表情の周瑜が礼を返す。

 

「それでは、この件について明朝にはお返事できると思いますが、公瑾さんはそれまでどうされますか? よろしければ城内にお部屋を用意しますけど~」

 

「いえ、それには及びません。城下に宿を取っておりますので……」

 

「そうですか……ひょっとして、伯符さん方も宿(そちら)に?」

 

 話の流れで出た話題だ。だが、そこに形容しがたい応酬があったように、錬には思われた。そして、それはまだ終わってはおらず。周瑜は一瞬だけ、ほんの僅かに、張勲を窺うかのように眼鏡の奥で目を細め。

 

「……はい、我が主、孫伯符もそちらに逗留しております」

 

 そこに逡巡がなかったはずはなかろうが、それを感じさせることなく周瑜は答えた。

 

「わかりました~。それでは、明日の朝、そちらの宿に使者を遣わしますね。そのまま、登城することはできますか?」

 

「はい、可能です。それでは準備を済ませておくよう、主に伝えておきましょう」

 

 事もなげに答える周瑜は、そのまま退出の挨拶をすませると、颯爽という言葉を体現するかのように、悠然と謁見の間から立ち去っていった。

 

 

 

 

 

「……ん~、やりにくい人ですねえ~……」

 

 それが、立ち去る周瑜の背を見送った張勲がこぼした呟きである。

 その呟きに、もの問いたげな三つの視線が集まるのを感じて、張勲は軽くため息を吐いて、言葉を続ける。

 

「さすがは美周嬢、ということです。博識にして、情勢の把握も正確。こちらの意図を量るのも明敏で、対応も臨機応変。それでいて、胆力も備えている、なんて、交渉や策謀の相手としては最悪の相手ですよ」

 

 その言葉に、さもありなん、と錬は内心で頷く。

 ()()周瑜なのだから、若くあろうとも軍師的な才能については約束されているようなものだ。

 そんな訳で、錬にとっては張勲の所感は当然のものなのだが、他の者にはそうではなかったようで。

 

「それほどの才器なのか、あの女?」

 

 訝しげに言うのは紀霊である。

 口を挟むことなく、張勲とのやりとりを眺めていたわけだが、その談義から才能の有無を感じ取ったりはしなかった。なにより紀霊は武人であり、発言や態度から内面を見通すことに長けているわけではない。それでも、その立ち居振る舞いから、その武の方面については見抜いたようで、そこそこ腕は立つようだが、と呟く。

 

「才覚に優れた方なのは間違いないようですね」

 

 一方、そう言うのは閻象だ。元商人として情報の収集に長けた閻象に、美周嬢という渾名は才媛として聞こえていた。その評に違わぬ才覚の持ち主だと、閻象はその言葉の端々から見取っている。

 

「であれば、その才子を従える孫策も傑物でありましょうが……」

 

 そう言いながら張勲へと物問いたげな視線を投げる。それを受けて、張勲は大きくため息を吐いて、三人を見回した。

 

「……方全さんの言う通り、孫策さんは傑物でしょうし、野心も抱いているでしょう。周瑜さんもそう言ってましたしね~」

 

 張勲が言うのは、孫策が“客将”という、自由な立場を望んでいる、ということだ。それは袁術の庇護は欲しいが傘下には入りたくない、という意味を持つ。さらに言えば、任官への推薦を、とまで意志表明している。

 錬からしてみれば、虫のいい申し出に思えるが、張勲を始め、閻象も紀霊も、不快げな様子を見せないことから、客将志願(それ)はそれほど特別なことでもないようだ。そう思い、錬は話を聞くことに意識を切り替える。

 

「底意を掴みきれないというのは、一抹の不安を残すものではありますけど……皆さんは、彼らの申し出についてどう思われますか~?」

 

 言葉ほど深刻そうにもない張勲の問いに、まずは紀霊が答える。

 

「考えものではあるな。先の政変による混乱はまだ収まり切ってはいないだろう。そんな状況なのに、好んで不穏の種を抱え込むことになるのは避けるべきではないか?」

 

「長成どののおっしゃることも尤もなのですが……」

 

 きっぱりと武人らしい意見を言う紀霊に、左手を頬に宛がった閻象が困ったように言葉を紡ぐ。

 

「今のままでは、その混乱自体がいつまでも尾を引きそうな気配なのです。主に、人手不足のせいで……」

 

 そう言われれば、心当たりのないでもない紀霊も、口を噤んで考え込まざるを得ない。落ち着きつつあるとはいえども、何かに追われているような浮ついた空気が、現在の郡府内に流れているのは確かだ。それが、人材不足からくる焦燥や不安によるものだ、と言われれば、紀霊にも腑に落ちるところはある。

 

「孫策にしても、周瑜にしても、人材として出色であることに間違いはないでしょうし、他にも孫策に付き従う者もいるとのことです。彼らを有意に用いることができれば、その辺りの懸念は払拭することができるものと、私は考えています。まあ、別の不安が生ずることは否定できませんが……」

 

「その、別の不安というやつが問題だと、あたしは思うのだが、な。だが、まあ、方全の言うことも分からんでもない。有能な配下ならば、あたしとて欲しているからな」

 

 片目を瞑って口を尖らせた表情で、ぼやくように紀霊が言う。有能だからこそ不安が募るのだが、などと呟きつつ。

 

 ふたりの意見は、消極的な同意、といったところであろう。

 孫策一行を迎え入れるということもついて、不安はあろうとも利点が勝る、というのは、張勲も考えていたことだ。ふたりも同じような結論に至ったのであれば、説き伏せる必要もない、と内心で笑みを浮かべる。

 すでに張勲は決めていた。孫策を陣営に迎え入れることを。

 質したのは、ただ単に独断という心象を抱かせないためで、腹心たる閻象と武官の頂点たる紀霊が賛同を示すのならば、説得に余計な手間をかける必要はない。あとは、太守である袁術の承認を得なければならないが、張勲にとって主君(おじょうさま)説得す(言いくるめ)るのは片手間でも済む。つまりは、孫策を客将として用いることはほぼ確定であり、この件については落着ということになるのだが、ふと張勲は無言で佇む青年へと視線を向けた。

 

「ところで、あなたはどう思われますか、士泰さん?」

 

 そう問うたのは、気紛れからだった。閻象や紀霊と違って南陽郡府との関わりがまだ薄いとは言え、思うことがないというほどの盆暗(考えなし)ではないだろう錬が、先程から一言も発しないことがいささか気になったということもある。

 実際には、自分と世間との意識の相違に気付き、的外れなことを言わないようにしていただけなのだが、まあ、錬も思考を停止していたわけではない。聞かれたからには、と思いを巡らせながら口を開く。

 

「そうですね……孫策らを受け入れる、ということに異存はありません。人手不足ということであれば、彼らを活用しようとするのは意味があると、オレも思います」

 

 もちろん錬には、孫策や周瑜という人物が才能にあふれる傑物だと知っている。また、孫家初期の配下にも名のある人物はいた。程普や黄蓋、韓当など、錬でも名前を覚えている武将がいるならば、さらに期待は高まるだろう。

 問題はやはり、信用できるか、ということで、それについて。

 

「それで、まあ、長成どのの心配されていることなのですが、監視するのは当然だとして、いっそのこと、彼らの希望に沿うようにしてしまえば、どうでしょうか?」

 

 そう錬が言えば、三人が三人とも、呆気に取られた表情で錬へと視線を向ける。

 張勲は様子を見るように上目遣いで沈黙を守り、紀霊は首を傾げて不審げな様子だ。

 であったから、数瞬の静寂のあと、然るべく問いを発したのは閻象だった。

 

「え、と……それは、どういう意味なのでしょうか?」

 

「はい。客将として迎え入れるとして、周瑜も言っていたように、彼らが求めているのは独自に立つことでしょう。ということは、下手に縛り付ければ反感を買うだけです。ですので、しばらくは適度に任務を与えて、いずれは功に報いて、県令辺りにでも推薦すれば、逆に恩を売ることにもなるでしょう。問題は、そのタイミ……時機ですけど、それまでに孫策らが抜けてもいいように、陣営を充実させる必要がありますが……」

 

 言われてみれば、なぜ思いつかなかったのか、と不思議に思うような方策だった。

 周瑜の意気に()てられたのか、彼らの野心をどう抑えるか、ということばかりに意識が向いていた。張勲などは、遣い潰すために如何に弱みを握るか、ということにまで思いが及んでいたほどだ。

 だが、そうなのだ。ここで孫策を受け入れ、その独り立ちを手助けすれば、その恩は無視できない。もし、(それ)を裏切り、仇で返すようなことをすれば、孫策の名声は地に落ちる。それが分からない孫策や周瑜ではないだろう。つまりは――

 

「……つまりは、ごく一般的に、ただ誠実に遇すればいい、と、そういうことですか~」

 

 どことなく消沈したような様子で呟く張勲が上目遣いを向けると、錬は、はい、と首肯する。

 それを見取って、張勲が、ふっと息を吐く。難しく考えすぎてましたかねぇ、などと呟いて。

 袁家派や豪族らとの謀略に浸かりすぎていたようで、どうにも穿った思考に偏っているようだ、と反省を浮かべつつ、張勲はじっと錬を見つめた。

 注視を受ける錬は、そんな内心など分かろうはずもなく、狼狽えて精神的に後退(あとずさ)る。甘いとか、楽観に過ぎるとか、そんなふうに言われるのでは、と思いつつ。自分でもそう思わないでもないので。

 だから――

 

「……そうですね~、それでは、士泰さんのおっしゃるのを基本方針として対応しましょうか~」

 

 と、張勲が言うのを聞いて、錬は、ほっと安堵の息を吐き、だが次の言葉で顔を引きつらせた。

 

「ということで~、士泰さんにはその言葉の責任を取っていただくとして~、孫策さん一行との調整役をよろしくお願いしますね~」

 

 お得意の、立てた人差し指をくるくる回しながら、張勲がにんまりと微笑む。

 

 錬には、それが、獲物を見守る悪魔の微笑に見えた。

 

 

 

 

 

 




さて、冒頭部分、違和感を覚える方もいるかもしれませんが、
まさしく本来は二章一一話に入るべき部分です。

三章一話を書き始めて、周瑜の訪問を書いてみて、話の流れとしてこうなり、
これは二章のだなあ、と気づきました。

変なタイミングで変更すると混乱するかと思いますので、しばらくは
このままにしておきますが、しかるべきタイミングで訂正しますので、
ご容赦ねがいます。






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