【完結】吸血鬼さんは友達が欲しい (河蛸)
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プロローグ
0.「その男、帰還」


 プロローグなので滅茶苦茶短いです。正直すっ飛ばしても多分問題ないかなと。




 夜の闇が支配する静寂があった。

 獣も虫も草も、生きるもの全てが眠りについているような、あらゆる音が存在しない空間がそこにあった。

 

 満月の光に当てられ、妖しく照り輝く草木の中に、音が一つ。

 植物に覆われ、お世辞にも人が住むようなところではない地に彼は現れた。

 

 野生が織り成す幻想的な光景と似つかわしくない、中世の貴族を彷彿させる黒のマントとスーツを纏い、革靴で土を踏みしめながら彼は歩き続ける。

 身の丈190センチ以上はあろうその男は、一寸先の足元も怪しい暗闇の中を、まるで昼間の町を散歩しているかのように軽やかに、静かに、一つの汚れも擦り付ける事無く、瀟洒に歩を進めていく。

 

 木々の間を風が吹く。つられて癖のある灰色の髪が靡き、紫水晶を思わせる様な、透き通った紫の瞳が前髪の間から月光を反射した。

 

 ガサリ、と男は森を難なく通過する。

 開けた先に現れた情景を前に、男は思わず感嘆の息を漏らした。

 

 月明かりが周囲に立ち込める濃霧のせいでモヤモヤと反射し、鬱屈ながらもこの世のものとは思えない、神秘的な演出が施された大きな湖だった。

 その先には、まるでわざとその存在を主張するために血液でも塗布しているかのような、紅い洋風の屋敷が一つ鎮座している。

 

 男はふわりとした笑みを浮かべた。毒々しい紅を放つ屋敷を見つけて喜んでいるのか。はたまた妖しくも美しいこの光景を前に感動しているのか。

 おそらく、その両方だったのではないだろうか。

 

 ただ一つだけ、男は端的に、誰に言うでもなく呟いた。

 

「随分と久しい光景だ」

 

 息が、晩夏の蒸し暑さが肌に吸い付く闇夜の空気に溶け込んでいく。それがまるで引き金となったかのように、背後の森から、今の今まで夢の世界へ浸っていた鳥獣や闇夜の住人(ようかい)たちが、一斉にその場を後にした。

 

 バタバタと、バサバサと。しかし一切の声は聞こえず、ただ生き物たちの立ち去る羽音と足音だけが反響する。まるで草食動物の群れの中に、突然肉食獣が放り込まれたかのような反応だった。

 

 男はそれをまるで意に介さずに、目を細めて館を見つめた。獣から本能的に恐れられた男は慈愛の色を瞳に宿す。

 視線の先にあるものは館ではなく、おそらくその中へ住まう住民へと向けられているのだろう。

 

 彼は言葉を再び紡ぐ。

 

「帰ったぞ、紅魔館。そして初めまして、幻想郷」

 

 応えるように、草木がざわざわと揺れ動く。湖に波紋が走り、風が一際強く吹き荒れた。それはまるで、自然そのものがこの男の到来に騒然としているかのようだった。

 




一話目はそれなりにありますのでご安心を!


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第一章「来訪と会合、再会と」
1.「瀟洒な従者は凍り付く」


 私は十六夜咲夜。数年前、妖怪たちの楽園と呼ばれる幻想郷へ主と共に引っ越して来たしがないメイドである。特技は時間を操る事。人の身ではあるけれど、おかげで無駄に広い屋敷でも仕事が捗って重宝している。

 

『咲夜! 大至急私の部屋にお茶を二つ用意しなさい。それもとびきり上等な奴よ。最速最短で持ってくること。いいわね!』

 

 そんな私に、見た目十歳程度の幼子の姿をしてはいるが、五百年近くもの時を生きこの紅魔館の現当主として君臨している絶対不変の我が主、レミリア・スカーレットお嬢様が以上の様に命令を告げられたのは、つい十五分ほど前の話だ。と言っても、止まった時の世界を行き来している私以外からしてみれば、数分にも達していない間の出来事かもしれないが。

 

 唐突だが、私の主について少し話をしよう。私が仕えているレミリアお嬢様は普段、五百年近くを生きてきたとは思えない程気まぐれで我の強いお方だ。平たく言えば我儘、もっと言えば見た目相応に子供っぽい。突拍子もなく無茶ぶりに近い要求を突きつけてくる事は日常茶飯事。気に食わなければ拗ねるし、とても見栄っ張りだ。実に困ったお嬢様である。

 

 しかし別に私は陰口を叩いているつもりは無い。見た目も仕草も子供っぽいと言う事は、とても愛らしい姿を見せてくださると言う事でもある。ぶっちゃけ目の保養になる。先ほども、お嬢様が酷く慌てた様子で、衣服や髪の乱れを一切気にする素振りも見せず、私が洗濯物を畳んでいた衣裳部屋へ飛び込んできたかと思えば、そのまま足をもつれさせて派手に転がりながら入室してきた光景は今も鮮明に思い出せる出来事だ。

 

 この様に一見すると見た目や言動はまんま子供だが、しかし場合によってはちゃんと人間の畏怖の対象である吸血鬼らしく、高貴で優美な、当主の名に恥じないカリスマ性を遺憾なく発揮する一面もある。やる時はやるお嬢様なのだ。TPOは大事である。

 

 話を戻そう。常日頃から淑女としての素行に磨きをかけているお嬢様が、わざとすっ転ぶような真似をするはずがない。その証拠に転んで先ほどの用件を告げた後、顔をトマトの様に真っ赤に染めつつ『邪魔したわね』と気丈に振る舞いながら部屋を後にしていった。

 多分、慌てるにしても転ぶ予定ではなかったのではないだろうか。本当に面白い方だ。思わず時間を止めて笑ってしまうくらいには。

 

 それ故、私はふと疑問を抱いてしまったのだ。傲慢でプライドが高く、ドジを踏んでも決して挫ける姿勢を見せないお嬢様をあそこまで狼狽させたものとは、一体何なのだろうかと。

 怖い夢を見た訳では無いだろうし、Gと称される謎の黒光り生命体が大量発生したわけでも無い筈だ。つまり恐怖に関連したものではないのだろう。お茶をご所望だったところから伺えるのは、とどのつまり予想外の来客がいらっしゃったというところか。

 

 しかしそれならば尚の事妙だ。来客が来れば門番である美鈴から何かしらの連絡があるだろうし、お嬢様の『運命を操る程度の能力』の応用によって、この館に関連して起こる大まかな出来事は予測できるはずだ。

 今までがそうだったのだから、そこに疑いの余地はない。と言うことはつまり、お嬢様の力をもってしても予想外と言える事態が起こったと言うことか。

 

 ……しかし、一メイドでしかない私が疑問を持ったところでどうにかなる話ではない。私はお嬢様の命令をこなせば良いのだ。

 お嬢様の乱れた服装と髪をさりげなく時間を止めて整えた後、言われた通りに淹れ方も茶葉も拘った最高品質の紅茶を用意した。茶菓子も完璧だ。後はお嬢様の部屋へ向かうだけ。

 

 お嬢様が部屋へと戻った頃合いを計って、私は時間を止めた。理由は紅茶の温度を保つため、そして現実時間において迅速に行動するためだ。

 部屋の前に辿り着いたら時間停止を解除して、木製の一際豪華なドアを軽めに叩く。

 

『誰?』

「咲夜です。お茶をお持ちしました」

『入りなさい』

「失礼します」

 

 許しを得て、私はドアノブを引いた。礼をして、いつもの様にティーセットを運ぶ。

 ふと。

 私はそこで、視界に違和感を覚えた。

 いや、これは少しばかり語弊があったか。

 私の視界に、本来ならばそこに居るはずの無い誰かが居座っていたのだ。

 

 お嬢様の対面に、灰色の髪と宝石の様な紫眼を持った美麗な男が足を組んで椅子へ腰かけている。

 この館へやってくる者は元から少ないが、男の客人はさらに少ない。と言うより、もしかすると初めてではないだろうか。この男性が放つ異様とも言える雰囲気も相まって、凄まじい存在感を放っていた。

 

 普通に考えると、ただのお客様だろう。

 しかしそうであれば、必ず美鈴から一報が届くか、お嬢様からその旨が告げられるはずなのだ。それが無かったと言う事は、彼は正規の客人ではない、と考えるべきか。

 お嬢様の眼へと視線を移す。『早く置け』と訴えているように感じた。

 

「紅茶とスコーン、木苺のジャムになります。どうぞごゆっくり」

 

 完璧なメイドは、そうそう冷静さを崩してはならない。あくまで平静に、私はティーセットを並べていく。

 二人のティーセットを用意し終えた、その時だった。

 男が静かに、唇を動かしたのだ。

 

「君は―――――」

 

 背筋が、凍った。

 

 彼は、まだ言葉を言い終えていない。にもかかわらず、たった三文字の言葉を耳にした瞬間、心臓を直接鷲掴みにされたかのような悍ましい感覚が、私に襲い掛かった。

 思わず動きを止めてしまう。否、体が勝手に動きを停止した。

 まるで天敵を前にしたカエルが、動けば食われてしまうと本能的に察知してしまったかのように。

 

「――――新しく、ここに雇われた使用人の様だね?」

 

 イメージは、氷。

 次に脳裏へ浮かんだものは、夜桜の花吹雪の様な妖艶さ。

 冷たく、重く。それでいて果てしない透明感があり、聞く者の耳から心の中へ優しく寄り添ってくるような、甘くも冷ややかで、美しい声色だった。

 

 たった一言の質問なのに、その声は私の体をいとも容易く縛り上げた。指先はおろか唇すらも動かせない。まるで氷の中に閉じ込められたかのような感覚だった。

 返答を返せずにいると、彼は私から視線を外して紅茶を手に取り、一口含む。

 煙草の煙を吐くように、ふう、と彼は静かに息を吐いた。

 

「……驚いた。香り、色、味……どれをとっても一級品だ。私は長い事生きてきたが、これ程までに美味しい紅茶を飲んだのは生まれて初めてだよ。君からは、ほんの僅かだが良い茶葉の香りがする。つまり、君がこの紅茶を淹れたのかな? 見た所随分と若そうだが、完璧な出来栄えだ。素晴らしいの一言に尽きる」

「……恐悦至極にございます」

 

 賛辞の言葉を貰った瞬間、私を縛り付けていた謎の緊張が解け、雪解け水が地面を柔らかくしていくかのように、心が解されじわりとした安心感が滲み出てくるのが分かった。

 心にゆとりが出来て、私は改めてこの男の異常性に気が付く。

 

 ただ言葉を発するだけで、人の心を容易く掻き乱す魔性とも言える性質。この世のものとは思えない整い過ぎた美貌。そして平然と草木も眠る丑三つ時に現れた彼は、まるで吸血鬼であるお嬢様の生活リズムを予め把握しているかのような振る舞いだ。

 まさか、この男は、お嬢様と同じく。

 

「……別に、そんなに緊張しなくても良いのだよ」

「っ」

 

 読まれている。

 私の鉄仮面ぶりには定評があるし、私自身も感情を表に出す人格ではないと自覚はある。それに、不測の事態で慌てる素振りを見せるなどと言う失態は、紅魔館のメイド長としてのプライドが許さない。

 常に徹底した冷静さを表面上だけでも心掛けているつもりだ。お蔭で機械染みた人間でいるつもりは無くても、お嬢様には冷たすぎるとまで言われたが。

 

 だと言うのに、この男はあっさりと私の心情を読み取った。

 焦りの種が、心に芽吹き成長していくのが分かった。

 

「ところで、君の名前をまだ聞いていなかったね。こんなに素晴らしい紅茶を淹れることが出来る君の名前を是非とも知りたい。教えてはくれないか?」

「……十六夜咲夜です。メイド長を務めさせて頂いております」

 

 一礼。

 何とか言えた。何とか形に出来た。

 幾ら変に緊張しているとはいえ、お嬢様の前で客人に対して無礼な真似など出来るワケがない。そんなことがあろうものなら紅魔館の従者失格だ。

 

 対応に満足してくださったのか、彼は緩やかに微笑む。彼はれっきとした男なのに、女の私ですらも『色気』を感じてしまうほどの妖艶な、魔性の微笑みを覗かせた。

 

「優美な振る舞いに相応しい、美しい名前だ。私の名前はナハト。気軽にナハトと呼んでくれ」

「かしこまりました、ナハト様」

「様、なんてつけなくても良いさ。変に気を遣わなくて結構。これからは家族として接してくれ」

 

 ――――流石に、今の発言には私も驚愕を抑えきれなかった。

 家族になる? それは一体どういう意味だ。

 

 単純に私を篭絡するつもりの宣戦布告なのか。それとも紅魔館を乗っ取り、私を含めた全員を支配しようと考えているのか。ただの冗談には聞こえない。この男の眼は、嘘を言っている眼ではない。

 

 ではこの男は、私たちの敵か?

 

 焦りに呑み込まれた思考が、突拍子もない理論をはじき出していく。しかし私にはそれを止める術が無かった。それほどまでに、今の『十六夜咲夜』は動揺していたのだ。

 私の混乱を見越してか、ナハトと名乗った男は、ああ、と何かに気が付いたように声を発した。

 

「失敬。誤解を招くような発言をしてしまったね。この件に関してはレミリアの方から説明してもらった方がいいだろう。頼めるかね?」

 

 今の今まで黙り込んでいたが、話を振られたお嬢様は一口紅茶を口に含むと、静かにカップをテーブルに置き、言った。

 

「彼は私の義理の父よ。血は繋がっていないから、一応おじ様と呼んでいるわ。長旅から今日帰省してきて、またここに住むことが先ほど決まったの。以後、彼とは私と同等に接するように。良いわね」

 

 お嬢様の言葉に彼は神妙な顔つきをした。どこか腑に落ちないでいるらしい。

 

「レミリア。私はあくまで屋根を共にするだけの、厳密な立場で言えばしがない客人でしかない。なのに当主のお前と同格と言うのは、いささか変じゃあないかね」

「そんなことは無いわ。おじ様は私よりも偉大な吸血鬼なんですもの。これ位当然よ。本当はこんなものじゃ足りない程なんだから」

 

 ……やはり、彼はお嬢様と同じ吸血鬼か。

 

 妖怪の外見はその人物がどれほどの時を過ごしているか推し量る基準にならない。良い例として、お嬢様は500年もの時を生きているのに対し、姿は人間でいえば10歳程度の子供だ。

 幻想郷には、そう言った年齢詐欺とも言える妖怪少女たちがうじゃうじゃと住んでいる。

 

 だが、それでもはっきりとわかった。彼は見た目こそ20代後半の好青年だが、間違いなくお嬢様よりも長い時を生きている吸血鬼だ。人間で言えば、成人している個体なのだろう。もしかすると老成しているかもしれない。

 

 少なくとも滅多なことでは他者を同格として扱わない傲慢不遜なお嬢様が『おじ様』と敬い、偉大な吸血鬼と称える程度には年を重ねているのは間違いない。

 その年の功を示すかのように、彼はまるで娘の我儘を聞く父親のような困った笑みを浮かべて、言った。

 

「しかしだな……ふむ、ならばこうしようか。咲夜、私から一つ、お願いを聞いてもらえるかい?」

「はい、なんでしょうか」

「私の身辺管理はしなくていい。私の事は私がやろう。だからそこまで、私に対して気を負ってもらわなくて結構だ」

「!?」

 

 彼は私を驚かせるのが余程好きなようだ。でなければ、こんな言葉を間違っても吹っかけてくることはあるまい。

 吸血鬼が、悪魔が。自分の事は自分でやるからそんなに気を遣うな、と相手を気遣う言葉をストレートに言ってのけるだなんて、一体誰が思い浮かべるだろうか。

 

 吸血鬼狩りを盛んに行ったという当時の排他的な十字教徒がこの言葉を聞いたらどんな顔をするのだろう。まず間違いなく罠だと疑うに違いない。今の私と似たような心境の筈だ。

 だって、普段のお嬢様が『アレ』なのだ。この発言も、悪魔が得意とする相手を油断させるための甘言の類なのだろうか。

 

 しかし私には不思議と、そう思うことが出来なかった。

 何故だか彼の言っている言葉の意味は、そのまま本心の現れなのだろうと心の底から思えたのだ。彼の声には、その言葉を信用させる何かがあった。

 

「さて。名残惜しいが私はここで席を外させていただくよ。久しぶりに来てみれば、随分この館も構造が変わっている。今後迷わないよう、散歩がてらに館を回らせてもらおう」

 

 そう言って、彼は椅子から腰を上げた。

 改めて見ると、大きい。身長は190センチ以上あるだろう。ただでさえ小柄なお嬢様の隣に立たれれてはお嬢様が一際小さく映ってしまう。

 

 お嬢様は「そう」とだけ呟いて、次に、

 

「なら咲夜をつけるわ。迷ったら戻ってこれなくなるでしょ?」

「心配いらないさ。この部屋の場所は覚えたからね。あとは見ていないところを一通り回るだけだ。なに、これから住まう場所で迷子になるなんて経験も初めの頃にしかできないんだ。堪能させてもらうよ」

 

 それじゃあ、と涼しげな笑顔を浮かべて、彼は部屋を後にした。

 カツ、カツ、カツとブーツの音が遠ざかっていく。するとお嬢様は急に空気が抜けた風船のように萎びて、糸が切れた操り人形の如くテーブルに突っ伏してしまった。

 

「疲れた……おじ様がまたここに来るなんて聞いてないわよぉ……」

「……お嬢様。失礼ながら一つご質問をしてもよろしいでしょうか?」

「言わなくても良いわ。おじ様の事でしょう?」

 

 お嬢様は若干疲れたせいか、どこか張りを無くした顔をこちらに向けて言った。

 

「あの方はね、この紅魔館にまだいっぱい吸血鬼やら妖怪が居た時に、一緒に住んでた吸血鬼の一人なの。親を早くに亡くした私たちの、まさに親代わりの様な存在だったわ。まぁ、400年くらい前にフラッと出かけてそのまま戻ってこなかったから、もしかしたら……って思ってたけど。どうやらそれも杞憂(きゆう)だったみたいね」

「それは、初耳ですわね」

「こうして話のネタにする機会もなかったからねぇ。私もおじ様が家を空けていた時間が時間なだけに、今まですっかり頭から抜け落ちていた訳だし」

「……あの方は、どういったお方なので?」

「どういった人……ね」

 

 お嬢様は、ナハト様の事をまるで知らない赤の他人だとでも言う様に、言葉を詰まらせた。

 

「分からないわ」

 

 どこか悲しそうで、どこか寂しそうな、複雑な色がお嬢様の表情に浮かぶ。

 

「分からないのよ、おじ様の事は。あの人は私たちに殆ど素の面を見せなかった。百年ぽっちだけど、それでも一緒に過ごした私でさえ知っているのは、そんじょそこらの吸血鬼やら妖怪とは別格の存在だと言う事実のみ。咲夜も感じたでしょう? あの圧力を伴う重々しい瘴気を。普通の吸血鬼が常日頃からあんな瘴気を放てる訳がないわ。大妖怪ですら、死闘で本気を覗かせた時でしかあんな圧迫感を出すことはないというのに」

 

 私は静かに頷いた。

 もう二度と忘れることはないだろう。あの、言葉一つで心臓を直接触られたかのような、言い知れない謎の圧力。まだ幻覚として、胸の奥に感覚が残っているほどだ。

 

「館に居た吸血鬼たちは、皆おじ様を恐れていたわ。同じ吸血鬼とは思えない紳士的で柔らかな態度なのに、常に纏っているのは得体の知れない禍々しい空気。――おじ様には、普通の吸血鬼には無い特別な何かがある。それだけは分かっているのだけど、出自も親族も生い立ちも一切分からない。確かに存在しているけれど、謎の塊のような人物。それがあの人よ」

 

 ――――どういう、ことなのだろう。

 お嬢様とナハト様は過去、この館に住んでいて、寝食を共にしていた。その当時は吸血鬼たちが大勢居たと言う。だと言うのに、彼の事を詳細に知る者が誰一人としていなくて、けれどもその圧倒的な存在感から畏怖の対象とされていた吸血鬼。

 こんな不可解なことがあるだろうか。話によれば、ナハト様はお嬢様の親代わりだったそうではないか。なのに、何も知らないなんてことがありえるのか? 

 

 彼は別段、無口と言う訳では無かった。それどころか逆に、初対面の私に向かって積極的に話しかけてくださるほどには饒舌だった。

 圧迫感に威圧され、固まっていた私に対して不快な表情を一切見せることなく、何度も柔らかく話しかけてくださっていた。故に、彼が無口故に素性が分からないと言う線は薄いように思える。

 

 では、何故? 何故数多の人外たちが彼と共に暮らしながら、彼の素性を掴むことが出来なかったのだ?

 

 ナハト様。お嬢様の親代わりだった人物であり、数多の吸血鬼に畏れられた吸血鬼。

 彼は一体、何者なのだろうか。

 私の胸の中に、大きなしこりのような不安感が、密かに生まれつつあった。

 

 

 夜の静寂が心地いい。近くに大きな湖があるせいか、夏だと言うのにほんの少しばかり涼しく感じる。こんな夜は、散歩がいつもより気持ちいいものだ。

 

 私の名前はナハト。苗字は無い。昔からそう呼ばれていたから、こう名乗っている。何の変哲もないただの一妖怪である。

 ……と言えば、嘘になるだろうか。まぁ、正確にはただの妖怪ではない。ちょっと不幸体質な妖怪である。

 

 一体全体何が不幸体質なのか。それは至極単純、私に宿っている忌々しい能力が原因だ。

 

 私は周囲に恐怖を呼び起こす魔性を放つ、ただその程度の能力を持っている。言ってしまえばこの能力は私の体からはもちろん、私の所有物、果てには視線や声にまで、相手に影響を及ぼす瘴気に近いナニカを無意識に発してしまうというものだ。能力より最早体質に近い。故に不幸体質である。

 

 これがまた厄介で、私の魔性を受けた者は例外なく畏怖や恐怖を植え付けられてしまうらしい。魔性は動物や人間はもちろん、妖怪にまで作用してしまう困った代物で、特に精神を本体とする妖怪には、どうも私の魔性は相性の悪いものの様だ。そのせいか、私は他者とのコミュニケーションが上手く取れないでいる。

 

 何故こんな能力による副次的効果にわざわざ言及したかと聞かれれば、答えは一つしかない。私にとってこの答えが、死活問題に等しい悩みの種だからだ。

 

 実のところ、私には一人として友達と呼べるものがいない。

 

 この加減が制御できない能力のせいで、今までの長い妖怪生において私は一人も友達と呼べるものが出来た事が無い。

 気のおけない仲は居るかと聞かれれば、レミリアを筆頭とした同族の子たちだろうが、やはりどうも私と接するのは辛いらしかった。同じ屋根の下で過ごした同族達であるにも関わらず、何故か私に対してまるで怖いパワハラ上司を相手にしているかのような余所余所しい態度を、吸血鬼狩りの影響で散り散りになってしまったその日まで終始崩さなかった。何もしていないのに泣きたくなった。実際陰で泣いた。

 

 無論、私だってこの魔性の影響に負けないように努力はしているつもりだ。能力のコントロール練習はもちろんのこと、話題の幅を広げるために世界を巡り見聞も深めたし、様々なジャンルの趣味嗜好にも挑戦してみた。

 

 お蔭で色々なスキルが身についた上、どの様な文化や特性、癖のある人物でも受け入れる事の出来る包容力を獲得したと思っている。今の私ならゴキブリですら友達になれる自信がある。例えどんな者であっても友達になってくれるならば、受け入れる準備は万端だ。

 

 しかし、この魔性の効果は私の想定を上回る曲者だった。加減が効かないのは言わずもがな、旅先で出会った人妖はまず私を見ると恐怖に硬直するか、咽び泣くか、逆上して襲い掛かってくるか、何かに目覚めて忠誠を誓おうとしてきた。

 私は普通に、何気ないお喋りをしながらのんびりとした時間を過ごせる極普通の友達が欲しくて声をかけたつもりだったのに、毎度ながらどうもまともに応対してくれないのだ。受け入れようにも相手から拒絶されては意味が無い。大抵が空回りに終わってしまった。

 

 これがつまり、私のちょっとした不幸履歴という奴だ。簡潔に纏めると、私は体質に孤独運命を左右されてしまったキャリアうん千年のエリートボッチである。世界中どこを探しても私よりボッチキャリアの長い人物は存在しないだろう。

 

 話を戻そう。結果私には、世界中を渡り歩いても友達になってくれる者は見つけられなかった。命乞いをされるか、討伐隊が組まれるか、変な宗教が出来ただけだった。私は討伐隊や狂信者たちから逃げつつ、ずっと友達になってくれる存在を探し続けた。

 

 そうした末に行き着いたのが、妖怪たちが楽園として住まう東の国の隠れ里、幻想郷の情報だ。

 

 草の根をかき分けるように様々な妖怪たちへ話を聞けば(質問しただけで命乞いをされながら情報提供をされたのは甚だ遺憾だが)、私にとっては愛娘も同然であるレミリアもそこへ移住したというではないか。吸血鬼狩りに遭い、多くの仲間が散っていったと旅の途中に噂が届きハラハラさせられる中、義娘たちが生存していたという吉報を聞いた時はつい嬉しくて舞い上がったものだ。

 

 さらに聞く限りでは、幻想郷とはこの現代社会で妖怪に残された最後の楽園とまで称される場所だという。多くの魑魅魍魎が、人間と共に絶妙なバランスを保ちながら生きている、まさに隠れ里なのだとか。

 

 常に敵対しあっていた人間と妖怪が、どの様な形であれ共存しているだなんて他に聞いた事が無い。そのような場所ならばきっと、私と友達になってくれる者も居るに違いない! そう信じて、このたび幻想郷へとやってきた訳である。理由がフワフワし過ぎだなんて言ってはいけない。私はいたって真剣だ。

 

 そして旅の末、どうにかこうにか幻想郷へ入り込み、周囲の風景以外昔と何一つ変わらない姿の紅魔館に辿り着いたという訳だ。

 

 私がこの館へ訪れて初めに出迎えてくれたのはレミリアだった。迎えてくれたと言うよりは、久しぶりの再会だから少し驚かせようと思って忍び込んだら偶然レミリアの部屋に入ってしまい、そこでばったり会ったと表現するのが正しいか。

 

 私が忍び込んだ当初、彼女は仕事を全うしていた。小さな椅子に座って書類をテーブルに広げ、黙々と責務に励んでいたのだ。あんなに小さくて天真爛漫だったレミリアが立派に成長した姿をこの目で見ることが出来た感動で、つい私は忍び込んだまま、過去の思い出に浸りながらハンカチで目元を拭いつつ、しばしの間その光景を眺めていた。

 

 ふとした拍子に、彼女は腕を伸ばして思い切り伸びをしたかと思えば気まぐれに振り返り、そしておもむろに目が合った。

 目を合わせた瞬間、少女は椅子から派手に転げ落ちた。

 

 手を差し伸べれば、先ほど仕事をしていた時の落ち着き払っていた様子とはまるで別人のように、レミリアは震える手で私の手を掴んだ。

 あの様子では、私のどっきり訪問サプライズはばっちりだったと言う訳だ。しかし何も本気で怖がって顔面蒼白にならなくてもいいじゃないかレミリア。短い間とは言え、人並み以上に愛情を注いで育てた経緯もあるというのに。ちょっとだけ胸が痛む。

 

 怖がらせまいと笑顔を浮かべてみたが、ビクッとするだけだった。ここ数百年笑顔の練習を欠かしたことは無いのだが、まだ魔性を凌駕出来るほどのグッドスマイルに辿り着けてはいないと言う事か。アルカイックスマイルを手に入れる日はいつになったら来るのだろうか。私は妖怪だけれども。

 

 レミリアは立ち上がると、酷く動揺したまま部屋を飛び出していった。数分後、憑き物が落ちたように落ち着いた様子で戻って来たかと思えば、今度は人間の使用人を呼び出した。

 

 使用人が居る事には別段驚きは無いが、これがまた、よく出来た人間の娘だった。

 人間は妖怪と違い、見た目がそのまま年齢と直結する。おおよそ10代後半から20代前半であろうその若々しい少女は、礼節と落ち着きを持って私をもてなしてくれた。

 

 本当にいつぶりだろう、他人が淹れてくれた紅茶を飲んだのは。これがとびきり美味いときたものだから、私は感動のあまり思わず涙するところだった。たとえ初対面と言えど、人の淹れてくれた紅茶のなんと暖かい事か。

 

 その少女は、まぁ当然ながら、レミリアに仕えている新しい使用人らしかった。名は十六夜咲夜。清楚で瀟洒な印象を受ける彼女にぴったりな美しい名前だ。名前に反して東洋人らしくない外見から考えて、レミリアが彼女を雇った時にでも付けたのだろう。

 

 だとすれば、彼女を拾い上げたその判断は間違っていないと断言できる。彼女は素晴らしい逸材だ。冷静沈着で、私の魔性を前に正気を失う事もなく瀟洒な対応を貫いてみせたあの少女とは、願わくば是非とも親密になりたいものだ。

 もっとも、レミリアの従者であると言う点から考えて、私にとってあの子は娘同然のポジションに収まりそうではある。他人との立ち位置を決めつけるなど独りよがりで勝手な考えだが、考えるだけならば罰は当たらんだろう。

 

 取り敢えず、親密に歩み寄るための第一歩として、私に対する緊張感を少しでも無くしてあげるよう努めることにした。

 私は昔レミリアの親代わりをしていたが、予め主人に当たるレミリアとは同列にせず、一歩引いた立場をとると明言する。身辺の管理は全て私がやると宣言もした。これで、私と彼女との間に生まれる話題の種から事務的な話が摘み取られ、必然的に世間話や他愛もない話題に置き換える事が出来る筈だ。

 

 見た所、彼女は紅茶を淹れるのがとても上手い。世界各国の紅茶の話をすると面白がるだろう。皮肉なことに、ありとあらゆる趣味に没頭した私は話題にだけは事欠かない。淹れ方や味、風味などの些細なものからナハトオリジナルブレンドティー制作に至る範囲まで話題を広げられる自信がある。何せネタを考えたり試行錯誤する時間はたっぷりとあったのだから。

 

 もしかすると、久方ぶりに私の話題の宝石箱が開かれる時が来るかもしれないな。ああ、その時が楽しみで仕方がない。想像するだけで胸が高鳴る。今日は本当に良い日だ。この調子なら、私を灰にする太陽を前におはようを言える日も近いかもしれない。

 

 だが、浮かれすぎて強引に行き過ぎると好まれない事は、今までの経験から知っている。一日で一気に距離を縮めようとするのではなく、少しずつ近づいていくのがベストだろう。今日のところはここで退散して、明日からゆっくり親睦を深めていこうと思う。

 

 そんな経緯を経て私は今、懐かしき紅魔館の廊下を歩いているわけだ。何だか昔より広い気がしなくもないが、きっと古くなって改築したのだろう。まるで新居を見学に来たかのような新鮮な気分になった。

 

「ここは……」

 

 ぶらぶら歩き続けて、大体30分程度が経過した。そうして私の前に現れたのは、他のドアとは一線を画す大きな木製の扉だった。

 

 私はこの場所を、ドアの先の空間を知っている。紅魔館に一つだけ存在する図書館だ。

 懐かしい。見聞を広める目的で、ジャンルを問わずありとあらゆる本を掻き集めた大昔の光景がまるで昨日の出来事の様だ。

 

 周りの同胞たちは私が魔導書を集めて何かを企んでいると勘違いして近づいてもくれなかったが、何てことは無い。この図書館は、いわば私のボッチ体質を克服するための私立学校(創設者兼生徒一名のみ)なのだ。

 生徒は私一人で教師は本。マンツーマンどころか相手は生物ですらないのが泣けてくる。あまりにも悲しくて少し魔力が漏れ出してしまったのは記憶に新しい。これも悪い癖だ。ブルーになると無意識に魔力が漏れ出してしまう。そのせいで幾つかファンタジーゲームに登場するびっくり箱型モンスターの様な、鋭い歯を生やした魔本が出来上がってしまった。

 

 私のミスで命を宿しておいて焚書するのも少し可愛そうだったので、本棚の奥に突っ込んだままにしてある。今も多分、処分されていなければ本棚に収まっているだろう。後でどうなっているか見ておこうか。

 

 さてさて気持ちを切り替えよう。ブルーで良い事なんて一つもない。精神に存在の比重を置く妖怪はポジティブ第一だ。

 苦い思い出を頭から振り払い、私は大きなドアノブに手をかけた。

 



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2.「真夜中の図書館」

 最近、思うように研究が進まない。

 我が親友にしてこの館の主、レミリア・スカーレットことレミィの起こした紅い霧の異変から、丁度今頃で一年になるか。黒白の鼠がこの図書館に入り浸るようになって、私の研究スピードは明らかな低迷を見せていた。

 その原因とは甚だ気に食わない事ではあるが、あの自称魔法使いが私の研究に使う予定だった魔導書を勝手に『借りていく』からだ。

 

 いざ必要になって探してみれば無くなっているのは当たり前で、返せと言っても死んだら返すの一点張り。それがこの一年イタチごっこに続いており、もはや日常の出来事へとなりかけていた。 

 何故あそこまで私が必要とする本をピンポイントに『借りていく』のだろうか。まるで魔法の様な鼻の持ち主だ。もちろん褒めている訳では無い。

 

 説得を試みたが幾度も飄々(ひょうひょう)と躱され、力ずくで止めようにも体調不良のせいで肝心な時に満足な詠唱が出来ず、いつも返り討ちに遭い続けている。

 

 スペルカードルールを抜きにすれば食い止めることは容易なのだが、そんな事をすれば幻想郷のルールに反したとして博麗の巫女とあの恐ろしいインチキ妖怪が鬼となって襲い掛かってくる。『弾幕ごっこ』のルールに沿いつつ紅魔館の勢力をもってして撃破しようとしても、あのコソ泥のゲームの強さは半端ではない。

 無論だが、我が使い魔たる小悪魔ではまるで歯が立たないときた。まぁ、あの子の上位種たる吸血鬼でも敗北を喫した相手なのだ。責めるのは酷と言うものか。

 

 そんな訳で正直なところ、完全な手詰まりだった。

 

 一言、どの本をどれくらいの期間借りるのかさえ伝えてくれればちゃんと許可は出すつもりでいるのに。私とてそこまで狭量ではないつもりだ。現に、この図書館を正式に利用する人物だって存在している。魔法の森の人形使いがそれだ。

 

 彼女は優秀な魔法使いだ。私にはない聡明さを彼女は持っている。同じ本でも私とはまた違った解釈を持ち込んでくれるから、思考の幅が広がると言うもの。こちらは本を貸す代わりに、彼女には対価として『思考』を払ってもらっている。

 

 私としては、この様な魅力的で生産的で、良いこと尽くめの素晴らしい協力関係を、あの黒白とも築きたいと思うのだけれど……件の頑固者はまるで聞く耳を持たない。

 

 たかが齢十数年程度しか生きていない小娘だろうと、他者である限り生まれる思考の差異は、時として思いがけない発想を生み出したりするものである。 

 特に彼女は向上心が強く知識や力に対して貪欲で、しかも非常に若いが故に思考がどの色にも染まっていない。アレとまともな会話さえ出来れば、良い発想の転換を得る事が出来るのではないかと踏んでいる。

 

 だからこそ、彼女とは根強く協力関係を築こうとしているのだが……現状はお世辞にも芳しいものとは言えまい。

 

 そもそも、だ。こんな膨大な書籍を私一人で食い潰すと言うのは、少々贅沢な話ではないかと思う。魔法使い同士互いに研鑽しあう良い材料があるのだから、私の魔法技術の向上を図るうえでも出来うる限り友好的でありたいのだ。

 しかしこんなことを面と向かって言ったが最後、さらに彼女はつけあがるだろうから絶対に言わないけれど。

 

「パチュリー様、紅茶をお持ち致しました」

 

 私の名前を呼んだ使い魔――――小悪魔が、眼前のテーブルにティーカップを置いた。捨虫と捨食の法を体得した私に飲食は不要だが、人形使いの意見から趣味嗜好の一つとして紅茶だけは日課にしている。こんな風に、ブルーな気持ちになった時は気分転換の引き金にもなってくれるので割とお気に入りだ。

 

 カップを手に取り、鮮やかな紅色の液体を口の中へと流し込む。いつもとは違う茶葉の様だが、悪くない香りだ。ハーブティーの一種だろうか。

 

「そう言えば、つい先ほど咲夜さんから伝言を預かりました」

「……へぇ? 珍しいわね。レミィ絡みで何かあったのかしら」

「いえ。それが、ただ今お客様がいらっしゃっている様でして」

 

 ……客? 

 それが私と何か関係があるのだろうか。

 

 基本ここにはほんの少しの例外を除いて訪れる者は稀だ。さらに『客人』となればほぼゼロと言って良い。つまり極少数派だ。ここは観光地でも何でもないのだから、当然と言えば当然だが。

 私の微妙な表情を読み取った小悪魔が、さらに補足を加えた。

 

「そのお客様が暫く紅魔館にて厄介になるそうなので、同じ住居者であるパチュリー様にも伝えておくように、との事でした」

 

 ここに住む?

 客人が?

 

 ……まさか、この私以外にそんな事を言い出す愉快な者が存在するとは思わなかった。私もここに住み着いてもう百に近い年月になるが、今までそんな輩は誰一人として現れた事が無い。ここは吸血鬼の根城だ。好き好んで来る方が珍しいと言うのに、住むなどもっての外だろう。

 

 少々驚いたが、まぁ私から言うべきことは何もない。私はここの主ではないし、立場で言えば新入居者と同じ客人だ。レミィが許可を出し決定を下したのならば、それに従うまで。

 『分かったわ、ありがとう』とだけ告げて、小悪魔を下がらせる。

 まだやらなければならないことがあるから挨拶は後だ。それに時が経てば相手から挨拶してくるだろうから、その時に済ませればいい。それまでは研究に没頭する事にしよう。

 

 そう思った矢先だった。

 ガチャリ、と図書館の入り口が開かれる音が、静寂の中に木霊したかと思えば。

 全身に纏わりつくような魔力の奔流が、ほんの一瞬だけ、崩壊した河川の鉄砲水の如く流れ込んできたのだ。

 

「ひゃああああああああっ!!?」

 

 同時に入口の方から、小悪魔の悲鳴がけたたましく炸裂した。

 一瞬謎の瘴気に呑み込まれかけていた私は、その叫びで我に返る。

 

「小悪魔!?」

 

 一体、何が起こった。本棚が崩れた訳でも、あの黒白がやってきたわけでも無い。今現在はさして問題は起こっていないはずだ。なぜ彼女が、悲鳴を上げなければならなかったのか。

 

 いや、理由は分かっている。どう考えてもあの魔力の発生源が原因だろう。正体は不明だが、この悍ましい感覚からして久しぶりに手練れた賊でも入り込んだのか。全く、突然の新入居者といい、今日は騒がしい日だ。落ち着いて本も読めやしない。

 

 私はすぐさま飛行魔法を編み込み、椅子から浮かび上がる。そのまま滑るように飛んで入口の方へと向かった。

 入口付近にある巨大本棚の角に差し掛かり曲がった所で、事件が起こっただろう現場が視界に入りこむ。

 

 そこで私の目に最初に映ったのは、尻餅を着いてガタガタと振るえながら、開かれた入り口を凝視する小悪魔の姿――――――ではなく。

 入口に悠然と佇む、大きなマントを身に纏った全身黒づくめの大男だった。

 

 背丈は、190cmはあるだろうか。地べたに転がっている小悪魔があまりにも小さく見えてしまう、線は細いが圧倒的な存在感を放つ長身の男。

 髪は灰色で、瞳は柴水晶の如き透明な紫で染まっており、薄暗い図書館の中で宝石のように爛々と光り輝いている。ランプの炎を照り返す彼の肌は、男だというのに私と同じか、それ以上に白かった。まるで太陽と言うものを知らずに育ったかのように白磁器の如く白い肌の持ち主は、私たちを視界に捉えると口元から鋭い八重歯を覗かせ、桃色の唇を柔らかく吊り上げた。

 

 それは、夜を闊歩する逸話の美女の様に妖艶で、童話の王子様の様に優しい微笑みだった。

 

 知っている。

 私は、この『雰囲気』をよく知っている。

 

 一年前、異変を起こしたこの館の幼き主が、博麗の巫女と満月の下で一戦交えた時に垣間見せた、圧倒的な魔性だ。まるで全ての生物を平等に見下ろしている捕食者のような、絶対的で恐ろしく、しかしそれでいて目を向けずにはいられない、魅惑と畏怖の覇気。人間は確かそれを、畏れだとか、威厳だとか、カリスマと称していたか。

 

 彼が放つ、あまりに禍々しくもどこか美しいとさえ思えるこの気配はまさに、吸血鬼の放つそれと間違えようのないものだった。

 

 何者だ、この男は。

 吸血鬼と雰囲気が似ているが、レミィの知り合いか? いや、だとしたら、この暴圧的な瘴気を私たちへ向ける理由はなんだ。これではまるで、私たちを今にも叩き潰そうと威嚇しているかのようだ。間違いなく敵意の類である。

 

 ここまで禍々しい空気を前にしては、流石にそうとしか思えない。それ以外に、こんな重苦しい威圧を笑みを浮かべながら嗾けてくる理由が無い。

 ではこの男は、何らかの目的があってここへ入り込んだ賊という事か? よりによって私の元へ訪れた訳は何だ。まさか、レミィに対して私たちを人質に使う算段でも立てているのか。

 

 私の魔女の脳が、緊急事態を前にして瞬時にフル回転した。可能性と言う可能性を拾い上げ、的確な答えを紡ごうと躍起になる。思考により時間が拡張され、男と対面してから僅か数秒足らずの合間が、酷く長く感じられた。

 

「こんばんは」

 

 ぐるぐると回る思考の渦の中に居た私を引き摺り上げるように、彼は言った。

 社交場で相見えたレディに話しかける紳士の様に、優しく、甘く。

 大人が子供に向ける慈愛の感情の様に暖かく、穏やかに一言だけ、言葉を発した。

 ただ、それだけ。

 

 ――たったそれだけで、この私が呆気なく呑みこまれかけたのだ。

 

 彼が放った言葉は、紛れもないただの挨拶だ。何の変哲もない日常会話に用いられるその一言だけで、150年以上も生き抜き七曜の魔女とまで謳われたこのパチュリー・ノーレッジが、一瞬だけだが9割方意識を呑み込まれかけた。

透明な水へ絵の具を垂らせばそれが急速に広がっていくように、心の中へじわりと這いずり込んできた『言葉』だけで、精神を空白に染められそうになったのだ。

 

 なんて圧迫感と存在感だ。例えるならば、神話に出てくる怪物でも相手にしているかのような、そんな絶望にも等しい生理的恐怖感を彼の言葉から肌で感じた。

 闇夜の王たる吸血鬼であるレミィと初めて出会った時も、またその妹君に出会った時も、これ程のプレッシャーを感じたことは無かった。ドクドクと心臓の脈打つ音が頭蓋を揺らす感覚なんて、ここまで鮮明に味わった事は無かった。

 

 おかしい。どう考えても体が普通ではない。もしや、気づかないうちに何らかの精神攻撃でも仕掛けられたのか? だとすれば、不味い。攻撃は男の思惑通りか、それ以上の効果を上げている。

 

 背中が嫌な汗でしっとりとし始めた感触を味わいながら、私は内心歯噛みした。

 落ち着け。思考をクリアに保て。場合によってはこの男をすぐさま消し炭にしなければならないのだ。慌てていては、いざという時に満足な詠唱も出来はしない。魔法使いは冷静な思考能力が命なのだ。

 

「夜分に失礼するよ。君は見たところ――――魔女かな? そこのお嬢さんは使い魔の様だが」

 

 立てるかい? と男は柔和に小悪魔へと手を差し伸べる。しかしその手を、小悪魔はガチガチと歯を鳴らしながら凝視するだけで受け取ろうとはしなかった。いや、もしかしたら彼女は懸命に腕を伸ばそうとしていたのかもしれない。しかし完全に彼の放つ膨大な瘴気に呑み込まれてしまった小悪魔は、体の支配権を無意識に手放してしまっているのだ。故にその手を掴めない。

 

 虚空を切った彼の手は、どこか物寂しそうに引っ込む。

 代わりに私が、思考の焼き切れた小悪魔を引きずり起こした。小悪魔は何が起こっているのかまるで分かっていない様子で、『あうあうあうあうあうあうあうあうあう』と壊れた蓄音機の様に譫言を漏らし続けている。

 

「どちらさまかしら。この図書館へ一体何の用? 観光目的なら地下をお勧めするわよ」

 

 私の問いに、彼は苦笑を覗かせ、

 

「急な来訪、失礼した。私はナハト。この館に昔、レミリアと共に住んでいた元住人だ。今日からまた、ここに住むことになってね。随分構造が変わったこの館の道を覚えるついでに少し、覗いてみようとしたただけだなんだ。安心してくれ、私は君たちの敵ではない。だから、そんなに怯えないでくれると嬉しいのだが」

 

 言葉の爆弾を、投げ込んだ。

 あまりの威力に、呆然自失となって一瞬視界が白くなる。

 

 ―――――今、何と言った?

 住む? 

 この男が?

 ここに? 

 この、紅魔館に?

 では小悪魔の言っていた件の客人とは、この男なのか。

 

 しかし仮にそうだとして、何故彼は私と小悪魔に堂々と精神攻撃を振りかけてきたのだ。

 同居人として礼をしに来たのならば、こんな非平和的な挨拶に出る筈がない。はっきり言ってこんな行動は有り得ない。誰が好き好んで、同居者と関係を悪化させるような真似をするというのか。

 

 ……待て。精神攻撃……?

 

 小悪魔は言っていた。『咲夜が』伝言をここへ伝えに来たと。

 であれば咲夜は必然的に、彼の存在を知った事になる筈だ。レミィに対して絶対の忠誠を誓う彼女が、こんな不安要素の塊みたいな男を平然と通す訳がない。過程はどうであれ、彼女の品定めが必ず入る筈である。

 

 即ち、咲夜とこの男は一度対面した事になる。

 

 だが、150年を生きた魔女と下級であれど悪魔に属するものが会話しただけでこれなのに、人間である咲夜が平然と伝言を伝えに来られたのは何故だ。

 まるで私と小悪魔の警戒心を予め紐解いておこうとするかのような伝言を、偶然と呼ぶにはあまりに疑わしいタイミングで伝えてきたのは何故だ。

 

 …………、

 

 まさか。

 まさか。

 まさか。

 

 

 

 血液が、冷めていく。

 あれだけ五月蠅かった心臓の鼓動音が、嘘のように静まり返っていた。まるで私の命が終わりに向かおうとしている様に、四肢の末端から冷たくなっていく感覚が伝わって来た。

 

 この男は既に、レミィと咲夜を―――――!

 

 絶望にも近い想像を前に、私の体の時が止まる。

 そして次の瞬間。

 体の内側で、ナニカが爆ぜたかと錯覚した。

 

「……けほっ、えほっえほっ、ゲホッゲホッ!! えほ、ハ、あ、かひゅッ!!?」

 

 ――ああなんてことだ。マズい。これは、非常にマズい。

 よりによってこんな時に、喘息の発作が顔を覗かせた。それもせき込む程度の軽いものではない。早く薬を飲まなければ手遅れになる重度の発作だ。

 

 一度火が付いたら止まらない。連鎖的に、爆発的に。発作の症状は一気に激しさを増していった。

 息が。

 呼吸ができない。

 暴れ狂う喘息が呼吸器を狂わせる。不規則に乱れた体の機能が、私から酸素を根こそぎ奪い取る。私は不老ではあるが不死ではない。頭を砕かれれば死ぬし、病にもかかる。息が出来なければ当然命を落とす。魔法を使える点を取り除けば、ただの女でしかないのだ。

 

 それ故にこの状況は極めて危険だ。朦朧とする意識では満足に魔法が使えない。それどころか体を動かすこともままならない。正真正銘、どうしようも、ない。

 思わず喉を押さえて、膝から崩れ落ちる。もはや力は入らなくなっていた。

 止まらない。発作が止まらない。

 薬を、誰か、誰か。

 

 小悪魔が目に涙をため、こちらへ懸命に縋り付く。何度も何度も私の名前を叫んだ。立ち上がって薬を取ろうとしてくれているのは分かっている。

 だが、腰が抜け私の支え無くしては満足に自立できなくなった小悪魔にはそれが出来ない。

 

 いつもは出来る仕事を成し遂げることが出来ない。危機的状況だからか、あの男の威圧に押されているからか、動けない歯がゆさを噛み締めているせいか。小悪魔は遂に、大粒の涙をぼろぼろと零し始めた。

 その様子を見て、私は朧となった意識の中、妙な確信を持った。

 

 あぁ、死ぬ。

 私は、ここで死んでしまうのだ。

 残酷なまでに冷ややかな解答だった。明解過ぎる結論が、異様に落ち着き払った私の頭の中で大きく膨らみ、確かな質量を持ったかのような錯覚さえ覚えた。

 

 あっけないなぁ。まだ、あの子から本も返して貰ってないのに。

 死ぬまで借りていくとあの子は言っていたけれど、私が先に死んだらどうなるのだろう。この本は全てあの子の所有物になるのだろうか。

 

 今際の際、頭に思い浮かんだのは、そんなどうしようもなくくだらないことで。

 力尽き床へ伏した私に向かって、何かが規則正しく床を叩いて近づいてくる音が、最後まで耳の中に響き渡っていた。

 

 

 少し覗いていこうと思って図書館に入ったら、中に居た赤い髪の少女がこちらを見た瞬間悲鳴を上げてすっ転び、騒ぎを聞いて駆けつけて来た紫色の魔法使いと思わしき少女が、私が自己紹介と突然の訪問に対する謝罪を終えたと同時に呼吸困難を起こして倒れ伏し、赤髪の少女が紫の少女に縋り付いて号泣し始めるという阿鼻叫喚の地獄絵図が完成した。 

 入室からここまで僅か五分足らず。テロリストも真っ青な制圧力である。

 

 

 敢えて言わせて貰おう。どうしてこうなった。

 

 

 いや、こう言いはしたが大体の見当はついている。むしろ見当しかないのだ。これまた、私の放つ魔性が影響してしまったのだろう。

 

 この紫の少女――――赤髪の付き人らしき少女が叫んでいる名前から察するにパチュリーは、どうやら持病持ちだったらしい。それも呼吸器にだ。私の瘴気に当てられ、精神的に一気に負荷が掛かった為に突発的な発作を引き起こしてしまったのだと推測する。私はただ挨拶を交わしたかっただけなのだが、ナハト式挨拶は彼女の体に毒だった様だ。たかが挨拶が人をここまで苦しめるなんて誰が予想出来るだろうか。私以外は鼻で笑うに違いない。私も鼻で笑う側に居たかった。

 

 ここまで怖がらせてしまうと申し訳ない気持ちでいっぱいだが、それはさておき、放っておくのは非常に不味い状況なのに変わりない。早急に処置を施さねば冗談抜きに命に関わる。

 

 私は少女の下に歩み寄った。

 腰の抜けている赤髪の少女は私の挙動を見て、恐らく何か害あることをされると思ったのだろうか、紫の少女を抱き寄せ、親の仇でも見るかのように鋭く睨み付けて来た。

 

 ううむ、状況が状況だけに致し方ないが、ここまで露骨に敵意と嫌悪を向けられると流石の私でも少々傷つく。不可抗力とは言え、申し訳なさ過ぎて日光浴をして灰になってしまいたい気分だ。

 

 だが灰になるのは後でいい。パチュリーの治療が先決だ。どうも喘息による発作の様だから、治癒魔法をかけて発作の原因たる炎症を引かせ、気管を広げれば症状は収まるだろう。悠長に薬を探している時間などない。

 

「少し、退いてくれないか」

「……ッ、退きません! パチュリー様には指一本触れさせません!!」

 

 ……健気な子だ。それでいて、悪魔の一員とは思えないほど一途で純粋だ。

 

 認めたくはないが、この少女には私がとても恐ろしい怪物に見えているだろうに、決して投げ出さず逃げださず、我が身を挺してまで魔女の子を守ろうとしている。薬を与えればそれで解決する状況だと分かっていても、目の前の脅威を前に動くことが叶わない。故に彼女は、パチュリーを眼前の脅威から己が命に代えても守るという選択肢をとったのだ。

 

 この子はおそらく、今伏している魔法使いと使い魔の関係にある。彼女の種族は感じ取れる魔力の強さから見て小悪魔だろう。言っては悪いが、悪魔の中でも力の弱い部類に入る存在だ。そんな彼女が、カッターシャツとレディースーツできっちりと引き締めた礼装を身に纏い、パチュリーを敬称で名指しているところから、主従関係にあると容易に伺える。

 

 しかし主従と呼ぶにはあまりに情の厚いこの様子は、主と従者の関係と言うより庇い合う友人同士か、姉妹の様にも見て取れる。

 絆と呼ぶべきものを、この少女達から確かに感じたのだ。

 主従を超えた友情関係。異種族の絆。呼び方は色々あるだろうが、どの呼称も私には眩しく輝いているものばかりだ。とても、とても羨ましい。

 

 やはり友情とは、親愛とは、かくも素晴らしく美しい。彼女たちの様な関係に憧れ、恋い焦がれるからこそ、友達探しは止められない。

 そしてなによりも、私を前にして尚美しい輝きを失わなかった、こんな素敵な少女達を放っておく理由はない。

 

「誤解だよ。何も取って食おうとしているわけじゃないんだ。ただ治療をしてあげるだけさ。それに、そんな風に抱きしめたままじゃあその娘は本当に死んでしまうぞ」

 

 私に言われて漸く気が付いたのか、赤髪の少女は青い顔をしてパチュリーの顔を覗き込む。パチュリーの呼吸はほぼ途絶えかけ、意識は切れてしまっていた。

 已むを得まい、少々強引に行かせてもらおう。

 

「失礼」

 

 私は少女の隙をついて、パチュリーの喉に指を当てた。同時に魔力を指先に集中させる。

 

 種族としての特性上、知識人が多い魔法使いと友達になれれば、実に興味深い話がたくさん出来るのではと思った事がある。そこで私は我武者羅に魔導書を掻き集め、食い漁るように本を読み続けた。

 無論、話に着いていけるようにするためだ。要は魔法関連の話題を共有して交友関係を広めようとする事が目的である。お蔭で、基礎的な魔法はほぼ習得するに至った経緯があり、そこからさらに応用を利かせられたので魔法は割と得意な方だ。

 しかし誠に残念ながら、この知識を分かち合いトークに花咲かせる相手は今のところ見つかっていない。

 

 治癒魔法の魔法陣を展開。彼女を苦しめる発作の原因を突き止め、解析し、壊れた肉体組織の治癒を促進させる。さらに吸血鬼たる私の魔力をほんの微量流し込むことによって再生能力を爆発的に高め、本来ならば治癒困難な部分もまとめて再生させる。

 

 ……言ってしまえばそれだけだ。流石に病を根本から治すなんて真似は出来ないが、前より幾分かはマシになっただろう。

 証拠に、あれだけ乱れていた呼吸が嘘のように穏やかなものへと変わっている。迷惑をかけた謝罪と良いものを見せて貰ったサービスを兼ねて、増血と血行改善の効果がある治癒魔力因子を与えたので血色も戻ってきた。意識は直ぐに回復するだろう。数日すれば、再生した呼吸器も馴染む筈だ。

 

「もう大丈夫だ」

「えっ!? あ、パ、パチュリー様!!」

 

 小悪魔の声に、パチュリーが眉を曲げた。耳元で大声を出されたせいで頭に響いたのだろう。夢を見ている最中に目覚まし時計が耳元でけたたましく鳴るようなものだ。顔を顰めるのも無理はない。

 

 この小悪魔は、もう少し落ち着きを持ち配慮が出来るようになれば、立派な使い魔になるに違いない。しかし逆に考えると、ある程度未熟な方が良いのかもしれない。

 手のかかる部下ほど可愛いという方便もあるし、実際そう思う。最も、昔館で過ごしていた時の部下―――と呼ぶには少々狂信的だった上にそもそも部下をとった記憶すらないのだが、彼らは全く手が掛からなかった。むしろ別の意味で手が掛かった程だ。

 

 彼らは私のティーカップを割ろうものなら、一時間懺悔を述べた後に自らの指で、刃物ではなく『指』で腹を裂こうとしたのである。毎度毎度狂気的に謝られる度に宥め、自殺未遂を幾度も止める羽目になったあれらの言動には少々、いやかなり参った。彼らは私を魔王か恐怖政治の帝王であるかの如く恐れていたのに、実際ハラスメントを受けていたのは私だったりするのだから、流石に理不尽だと感じても仕方がないと思う。

 さらに追い打ちをかけるように、何故か私への周囲の評価は滝下りする始末。全くもって遺憾である。

 

 しみじみと過去の苦々しい思い出を脳裏に浮かべていると、紫の魔女さんはゆっくりと瞼を開いた。

 

「小悪魔? …………っ!!」

「おっと、混乱するとまた呼吸が乱れるぞ。落ち着きなさい、何度でも言うが、私は敵ではないよ」

 

 意識が覚醒し、状況を把握した途端表情を歪めて立ち上がり、小悪魔と共に距離をとった魔女を、私は片手を軽く上げて制する。無理な挙動をしてまた倒れられたらたまったものではない。

 

「あなた、本当に何者なの? 出合い頭に精神攻撃を仕掛けてくるなんて、一体どういうつもりよ」

 

 ふむ。想定の範囲内ではあるけれど、やはり治療しただけでは警戒心を完全に解くのは難しいか。ここは絡み合った釣り糸をゆっくり解いていくように、丁寧に距離を縮めるとしよう。急がば回れ、回るは近道である。しかし精神攻撃とは、なかなか心を抉り出す表現を使ってくれる。

 

「ではもう一度、自己紹介をさせて頂こうか。私はナハト。種族は……吸血鬼みたいなものだ。気軽にナハトと呼んでくれ。ここの主との関わりは、短い間だったが昔親代わりをしていた。勿論、その当時はここに住んでいたよ。暫く留守にしていたが、色々思う所があって今夜から紅魔館に再び住まわせてもらう事になった。因みに君は精神攻撃と言ったが、それは誤解だ。私の体からは、意識に関係なく瘴気のようなものが常に漏れていてね。物理的な害は無いが、浴びた者はこれが精神的に酷く重圧に感じるらしい。君はこの瘴気の影響で精神へ負荷が掛かってしまって呼吸が乱れ、持病の発作が運悪く出てしまっただけなのだ。迷惑をかけたが、本当に敵意は無いよ。証拠に君を治療したし、使い魔にも何もしていない。……今の言葉に、嘘偽りは決してないと誓おう。どうにか納得してもらえると嬉しいよ」

 

 自己紹介としてはこんなもので十分だろう。義娘の名前を挙げ、親しい間柄だとアピールすれば、おそらくレミリアと何かしらの交友を持っているだろう彼女の警戒心を和らげることが出来るはずだ。泣きたくなったが精神攻撃に対する弁解も忘れない。

 少々考える素振りを見せたパチュリーは、何やら詠唱を唱えて全身を青い光で包み込んだ。その数拍の後、彼女はほんの少しだけ眉間の皺を緩め、口を開く。

 

「どうやら本当に術の類はかけていないみたいね」

「心の底から誓って。疑いが晴れないなら、気が済むまで疑問要素を調べてくれて構わない。君が満足するまで、私はここから一歩も動かずにいよう」

 

 両手を上げたまま、私は無抵抗のジェスチャーを保つ。ついでにスマイルも忘れない。

 ここで動いたら最後、折角敵意から疑念にまでダウンした警戒レベルをまた引き上げる事になってしまう。今は彫像の様に振る舞うのが最善の選択だ。私は彫像。題して『無抵抗の青年』。何故か呪いの像扱いされて誰にも近づかれず風化していく光景が脳裏に浮かび無性に悲しくなった。本当にありそうだから困る。

 

 パチュリーは私から一切視線を外さず、小悪魔に何かを告げた。伝えられた小悪魔はバタバタと外へ飛び出していき、沈黙だけが取り残される。

 数分経つと、息を荒くした小悪魔がまたも慌ただしく戻ってきて、パチュリーに何かを手渡した。それは一枚の紙だった。チラリと見えたのはレミリアの署名だ。しかも血で書かれているのが分かった。

 

 成程。パチュリーは、私がレミリアに洗脳か何かを施してないかと疑ったのだろう。

 悪魔は契約を重んずる存在だ。故に名前や血の証明に対して絶対の服従性、即ち血と名前の下に綴られた言葉に嘘を交えられず逆らえないという性質を持つ。

 悪魔の真名が綴られた本を奪い取り、悪魔を従えさせた少年の話は有名だ。悪魔の類は少なからずこの性質を持ち合わせているので、この性質を逆手に取り、レミリアに私が何もしていないと潔白を証明させる書類を書かせたのだろう。

 

 もし私がレミリアに洗脳を施していれば、あの書類にレミリアが『洗脳を施され自分の意志で動けないでいる』とでも記す事になる。

 当然そんな事は書かれている筈がない。私は地獄の審判も太鼓判を押す程度には無実だ。疑われやすいだけで真っ当な吸血鬼なのだ。まさかここまで用心深く疑われるとは思わなかったが。

 

 証明書を読み終えたパチュリーはどこか納得したように目を瞑り、書類を火炎魔法で焼き捨てた。一先ず安堵する。

 

「……パチュリー・ノーレッジよ。レミィ……レミリア・スカーレットの友人。100年ほど前から、ここに住まわせてもらっているわ。種族はお察しの通り魔法使い。ちなみにそっちの娘は小悪魔。私の使い魔で、ここの司書よ」

 

 こここここここ小悪魔ですっ、とパチュリーに続いて緊張をふんだんに含ませながら一礼した、目と鼻の赤い小悪魔に私は微笑みで返答する。そして彼女の尻尾と頭についている二枚の小さな翼が萎びたのを見て、心の中で燃え尽きてしまいそうな私だった。

 

 しかし挨拶を交わせたと言うことは取り敢えず、受け入れてくれる態勢をとっているのではないだろうか。そう思うと俄然元気が出て来た。どうやらマイナスイメージをある程度拭い去る事に成功したらしい。

 

「納得してもらえて何よりだ。改めてこれからよろしく頼むよ、パチュリー、小悪魔。ところでパチュリー。今君は、小悪魔がここの司書だと言ったね。と言う事は、今この図書館は君たちが主に使っているのかな?」

「ええ、そうなるわね。貴方が館に居た頃からこの図書館は存在していたのかしら」

「そうだな。正確に言えば、この図書館は私のコレクションの、ちょっとした集大成の一つなんだ」

 

 む。今確かにパチュリーの表情が、水面にさざ波が立つ程度には揺れ動いた。やはりここの利用者なだけあって、図書館の生い立ちについて興味がある様子だ。これは話を円滑に進める絶好の機会だろう。逃す手立てはない。言うまでも無いが、私は、彼女たちとも親交を深めたいと思っている。この館に住まう者の一人として、レミリアの親代わりを務めたものとして、この娘たちとは良い関係を築いていきたいものだ。

 

 義娘の友達なので私と彼女の関係は友達とはまた違ったものになりそうだが、何時の日か、彼女と魔法について何気ない談話でも出来る日が来れば実に素晴らしい。家族として見た場合は、瀟洒な咲夜は次女、レミリアが三女で、クールかつ大人の余裕に似た雰囲気を持つ彼女がこの館の長女ポジションだ。私は親戚のおじさんポジに居付ければ満足である。最悪、鬱陶しがられるお祖父さんでも問題ない。

 

「こう見えて蒐集家でね。当時様々な物を集めていた。この図書館の蔵書もその一つと言う訳だ」

「この膨大な魔導書や書籍の数々を、貴方一人で?」

「ああ。随分長い事集め続けた。どうだね、幅広く様々な知識が拾える場所になっているだろう? 知識の探求者である魔法使いには、人間の指す大型図書館級の質があるのではと密かに思っているのだが」

「ええ、言うまでもないわね。私は、ここ以上に多種多様の本がある場所なんて、生まれてこの方見た事が無いわ。もう離れることが考えられないくらいに気に入っている」

 

 うむ、嬉しい事を言ってくれるじゃないか。そうだろう、そうだろう。生まれてからプライベートの殆どをボッチで過ごしていた私には、物を集めるか何かを調べるか友達を探すかくらいしかする事が無かったのだ。

 

 これでも私は人外連中の中でもかなりの古株に入る。妖怪としての長すぎる生の大半を蒐集に費やせば、これだけの品々が集まるのは自然な成り行きと言って良いだろう。もっとも、要らない本を譲ってくれと同族や妖怪に頼む度に、まるで私に対する専用の挨拶とでも言わんばかりに『命だけは』と必ず返され続けたのは未だに納得いかないが。私が何をしたというのだ。

 

 背景から覗く少しばかり悲しい経緯はどうあれ、頑張って集めたコレクションを有効活用してくれる上に賛辞の言葉を投げられて、嬉しくないわけがない。

 

 しかし、私の上機嫌ぶりとは裏腹に、パチュリーはどことなく不安の色を浮かべた。

 

「もしかして、私は追い出されたりするのかしら」

「まさか。私が集めたと言ったが、別にこれからも遠慮せずに使ってくれて構わない。私はここにある本は粗方読みつくしたからね。むしろ、活かしてくれる者に使われる方が道具冥利に尽きると言うものだから、こちらから使ってくれと頼みたいくらいだ」

「願っても無い言葉ね。有難く使わせてもらうわ」

「是非ともそうしてくれ」

 

 ふむ。微量に警戒の色は残っている様子だが、まぁ許容範囲内であるのは確かだろう。『マインドコントロールで自分たちを洗脳しに来た化け物』という印象から、『取り敢えず無害だが怪しい男』に格下げして貰えた効果は大きい。

 

 少なくとも、これから無暗に拒絶される事はなくなっただろう。信頼を築くにしても、これからじっくりと交友を温めていけばいい。焦る必要などどこにもないのだ。時間は持て余す程度にたっぷりとある。

 改めて、この図書館が未だに健在していて、新しい司書や利用者が出来ていたと言う少し想像してもみなかった出来事につい心が躍った。

 

 今日は本当に良い日だと思う。義娘に会え、素晴らしい従者に会え、さらに目の前の彼女たちと出会い、少し波乱はあったが無事和解することが出来ただけでも、幻想郷に来た価値は十分過ぎるほどにあった。

 

 落ち着いたら、この幻想の地を散策してみるとしよう。吸血鬼というある種妖怪からも畏れられる高位妖怪が安心して住める様な土地だ、他にも素敵な出会いがあるに違いない。

 

 幸せは歩いてこない、だから歩いてゆかねば、とは誰の言葉だっただろうか。まさにその通りだ。私はこの地で、自らの足で、また改めて友達探しに勤しむとしよう。想像するだけでワクワクが止まらない。明日も明日で良い日になりそうである。

 

「ああ、そうだ。パチュリー、少しばかり質問をしてもいいだろうか」

「ええ、構わないわよ。一体何を聞きたいのかしら?」

「大したことじゃないよ。君はレミリアと何時から知り合ったのかが気になってね」

「およそ100年前ね。それがどうかしたのかしら?」

「成程、それなりにあの子とは付き合いがあるようだ。では改めてもう一つだけ聞こう」

 

 この館に着き、暫く散歩をして内部を粗方見回った私だが、一つだけ気になる事があった。

 なんてことは無い。実はまだ、ここに来て会っていない家族がいるのだ。

 最後に会った日から400年近くも経過しているから、もしかしたらとっくに館を離れているかもしれないが、あの子の事だ。きっとレミリアにべったりなままの筈だろう。おそらくこの館にまだ居るに違いない。

 その家族とは何を隠そう、私のもう一人の義娘であり、

 

「フランドール・スカーレットがどこにいるか、君は知らないか?」

 

 レミリア・スカーレットの、たった一人の血を分けた妹の事である。

 

 

 私は門番である。名前はまだない。

 勿論嘘だ。私には紅美鈴と言うちゃんとした名前がある。二度目だが、私は門番である。職務は基本、来客者への応対と侵入者の排除。ついでに庭師も兼ねていたりする。来客なんて殆ど来ないし、侵入者も黒白鼠程度だからむしろそっちが本業かもしれないが、私は紛うこと無き門番である。

 

 私はこれでも妖怪なので、肉体が損傷でもしない限り別に休息をとったりする必要は無い。けれど一日中番人をしていては流石に小腹が空いてしまう。お嬢様からは適当に休憩を取ってもいいと言われているので、休憩を挟むのも兼ねてうちの自慢のメイドさんに間食を作って貰おうと、館へ足を運ぶことにした。一日三食プラスこの間食の時間が、何気に日頃の楽しみだったりする。

 

 館へ踏み入った私はふと、ある違和感に気が付いた。

 それはまるで、一年前にお嬢様が幻想郷を紅い霧で覆った時の様な、空気の中に妖力が溶け込んでいる感覚だ。何か館でイベントでもあるのか、もしくは異変でも起こそうとしているのか。気になった私は能力を使って館の中をサーチしてみることにした。

 両手を合わせて、エントランスで目を瞑る。同時に館全体を包み込むようなイメージを浮かべる。

 

 恥ずかしながら、妖怪のくせに妖力の操作は得意ではない。お蔭で弾幕ごっこは人間である咲夜さんに手も足も出ないくらい弱いが、しかし私には特技がある。生命エネルギー、即ち『気』を使い、察知する事だ。応用すれば今の様に、離れている生き物の『気』を掴んで大まかな現状を把握できたりする。お蔭で休憩中に賊が入り込んでもすぐに対応できるから便利だ。

 

 サーチの範囲を広げていく。お嬢様と咲夜さんが、部屋で何か話している様子が見えた。流石に何を喋っているかまでは分からないが、取り敢えず咲夜さんは見つかったので、話が終わった頃合いを見計らって頼みに行こう。

 

 しかし、どうやらこの妙な力の発生源はお嬢様ではないらしい。では一体誰だろう。妹様が発生源だろうか? ……どうやら違う。地下室にも反応は無い。もう夜なのだが、まだまだ妹様はおねむの様子だ。

 

 一番目ぼしそうな吸血鬼姉妹の気配でないとしたらどこだろう。パチュリー様か? いや、あの方は魔法使いだ。お嬢様の紅い霧と似た妖怪独特の気配を発生させる手立ても理由も無い。

 ではまさか、賊の進入を知らずして許してしまったのか?

 

 想像して、頬が引き攣った。

 やばい、お嬢様に怒られる。

 

 私はあわてて探索範囲を広げる。鼠一匹も逃がさない精度で、館の中を調べ上げた。

 妖精メイド、妖精メイド、妖精メイド―――――違う。どれも違う。どこだ。発生源はどこだ。

 館の中を巡りに巡り、遂に気の探知は図書館まで及ぶ。

 そして私は、突如脳内にどす黒い瘴気の塊の様なイメージが飛び込んできて、思わず目を見開いた。

 

 汗が額を伝う。断じて蒸し暑さからくる汗ではない。これは、そんななまっちょろいものなんかじゃ決してない。

 喉が鳴った。微かに指が震えた。これ以上にないくらい動揺した。集中して練った気が、情けなく空気に溶けていく感覚が嫌らしく鮮明に伝わった。

 

 馬鹿な。

 そんな馬鹿な。

 有り得る筈がない。

 何時ここへ来たのだ。どうやって中に侵入したのだ。

 何故あの、一度覚えたら二度と忘れる事の無い圧倒的な『気』を、今の今まで見逃していたのだ。

 

 何より何故、あの方がこの幻想郷へ来ている―――――!?

 

 私は駆けだした。もはや余裕や空腹感など消え失せていた。一刻も早く、お嬢様に確認を取らなければならない使命感に駆られた。『運命を操る程度の能力』を持つお嬢様ならば、事の経緯がきっと分かる筈だ。

 

 吹き抜けを一気に跳躍し、私は最速最短のルートで、お嬢様の部屋へと駆け込んだ。

 



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3.「偽者」

 ぱちりと、目が覚めた。

 瞼が開き、霞んでいた視力のピントが合わさっていく。何百何千何万回と見続けてきた、何一つ変わらない赤一色の毒々しい天井が、視界一面に映り込んだ。

 微睡(まどろ)みから解放され、ぼうっとしている頭が、ゆっくりと現実に馴染んでいく。

 

 一日が始まった。

 

 言葉に出ていたか分からないけれど、そのたった一文がしゃぼん玉のように浮かんできて、直ぐさまぱちんと消える。同時に私の胸の中へ空洞が生まれたかのような、言いようのない虚無感が顔を覗かせて、しかしそれもまた直ぐに萎びて消えてしまった。

 

「…………、」

 

 周囲を見渡す。私が居るこの地下室にこれと言った変化はない。慣れ親しんだ、親しみ過ぎてしまった部屋の劣化具合が、少しだけ増しているように感じる程度だ。古いままの壁と、一部新しくなっている壁との色の差は、ある意味私がつけた思い出の証となって、どれ程ここで過ごしているのかを改めて実感させられる。

 

 私は随分長いこと、この薄暗い地下の部屋へ幽閉されている。他ならぬ実の肉親の手によって、およそ400年以上。でも、かなり前にここに居た時間を数えるのも飽きてしまったから正確には分からない。もしかしたら500年くらい経っているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。まぁ、どうでもいい事だけれど。 

 閉じ込められた理由は、私の持つ能力をアイツが疎ましく思っているからだろう。実際に聞いた訳では無いが、多分そうだ。それ以外に何かあるとは思えない。

 

『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。

 

 私の力を知っている人はみんな、この力をそう呼んでいた。

 私はあらゆる物体に存在する力の歪み、『目』を手のひらに吸い寄せ握り潰すことで、ほぼ全ての存在を粉微塵に破壊することが出来る。例えそれが生き物であっても、強靭な生命力を持つ妖怪であったとしても例外じゃない。

 この力があるから、姉は私をここに閉じ込めた。悔しいけれど当然だとは思う。不条理にも感じはしたけれど異論は無い。私も同じ立場だったら多分そうする。いや、きっと殺してしまうかもしれない。凄まじい不死性を持つ吸血鬼でさえ一握りで葬り去る力が近くにあって、しかもそれが肉親とは言え他人の手にあると来た。怖くないわけがない。言うなれば何時でも自分を気まぐれに処刑出来る執行人が、隣で生活しているようなものなのだから。

 そんな訳で、私はここに長い事閉じ込められているのである。確かこう言うのをハコイリムスメと呼ぶのだったか。まぁ、私は別段、特に外に出たいとも思わないし、そこまで寂しく無いから不満は無い。

 もちろん、こんな気の滅入りそうな場所にずっとずっと閉じ込められていて、それでもあまり苦にならないのにはちゃんとした訳がある。

 

『おはよう、私の愛しいフラン。今日はよく眠れたかね?』

 

 私の頭の中から、唐突に声が響く。優しい大人の男の声。まるで寝起きの娘に語り掛ける父のような、そんな慈愛に満ちた囁きだった。

 そう。これこそが、長年閉じ込められようとも私が寂しさを感じない理由。これこそが、皆から疎まれ蔑まれようとも、理性を保っていられる理由。

 

「ええ、今日もぐっすりと眠れたわ。()()()()()()()

 

 思わず、頬が緩んだ。

 義父の声が頭の中で反響するたびに、私の中には、親を早くに亡くした私たち姉妹へ、実の親の様に沢山の愛情を注いでくれた、親愛なるおじさまが住んでいるんだと、再確認できるからだ。

 

 数百年前。おじさまがある日突然姿を消してから暫くの後、何時からか声だけで頭の中から話しかけてくれるようになった。この声はどうやら私にしか聞こえない様だけれど、こうして毎日起きたらおはようのご挨拶をしてくれて、毎日面白いお話をしてくれて、私の話も楽しそうに聞いてくれる。初めは少し驚いたが、慣れればなんてことは無かった。むしろ、こんなにも近くにおじさまの存在を感じることが出来て嬉しくなった程だ。

 だから寂しくなんてないし、悲しくもない。アイツはこの声が幻覚だなんて言うけれど、そんな訳はないのだ。記憶にあるおじさまと同じ声だし、私が知らないお話をいつも沢山してくれるのだもの。幻聴なんかである筈がない。

 

 だからその事実を何度かアイツに伝えたら、アイツは私の気が触れたと言い放った。おじさまは旅に出られているから、おじさまが貴女の頭に居座るワケが無い。それは紛れもなく幻覚だ。……そう言ってアイツは、魔法や呪術や薬を使って何度も何度も私とおじさまを引き離そうとした。

 

 当然私は拒んだ。数えきれないくらい喧嘩もした。聞き分けの無いアイツの四肢を吹っ飛ばした時もあった。反対に私が肉塊にされかけたこともあった。でも私は耐えた。抵抗を止めれば、アイツは私からおじさまを奪うと分かっていたから。

 

 私は知っている。本当は、おじさまは旅になんか出ていないってことを。

 おじさまから聞いたのだ。当時過激化していた吸血鬼狩りから紅魔館を守るために、集団で攻撃を仕掛けて来た卑怯なバンパイアハンターに殺されてしまって、それでも今よりまだ幼かった私を守護霊として守るために、最後の力を振り絞って私の中へ魂だけを移したのだと。

 アイツは、私がおじさまにとても懐いていたから、おじさまの死を知ったら深く傷つくと思ったのだろう。だから、おじさまが旅に出ただなんて嘘を吐いた。だから私の中に居るおじさまを否定した。幻覚だと思っているアイツが、まだおじさまは生きているんだと信じさせる為にだ。

 その優しさについては素直に感謝する。もしおじさまが私の中に居なくて、おじさまの死を知ったら、アイツの読み通り私は心を痛めていただろう。吸血鬼狩りを行った人間への憎しみで、本当におかしくなっていたかもしれない。

 だがしかし、それとこれとは話は別。だからと言ってアイツがおじさまを否定していい理由になんかならないのだ。

 

『ところでフラン。起きたばかりでまだ頭が晴れていないかもしれないが、上の方から何か感じ取ってはいないかい?』

「え? 感じ取るって、何を?」

『大きな力だよ。まるで満月のエネルギーがそのまま地上へ降り立ったかのような、巨大な力の波動。耳を澄ませるようにして意識してごらん。感じないかい?』

「んー……?」

 

 吸血鬼の感覚を研ぎ澄ませ、私は視線で地上を射抜くように天井を見つめる。数秒の後にふと、地上の一ヵ所から何か大きなエネルギーの波を感じた。昔、私に本気で挑みかかって来た時のアイツが出していた魔力の威圧みたいだ。いや、もしかしたらそれよりも大きいかもしれない。

 

『どうやら分かったようだね』

「うん。でも、あの力はなに? アイツと誰かが喧嘩でもしてるのかな」

『こらこら、お姉さんの事をアイツだなんて呼んではいけないよ。――――それはさておき、どうやらあの力は私自身のもののようだ。信じられない事だがね』

「えっ?」

 

 言葉を噛み砕くのに、一瞬だけ思考へ余白が生まれた。

 直訳するとつまり、『おじさまの力』が上にいるということなのだろうか? おじさまは時々回りくどく物を言うから、よく分からない。

 でも言われてみれば確かに、遥か昔の朧気な記憶の奥底で、おじさまが常にあんな感じの大きな力を放っていた覚えがある。力の質も、とてもよく似ている。

 どういうことだろう。おじさまの魂は私の中に居て、肉体は日の光にさらされて灰にされてしまったと聞いた。なのに、『おじさまの力』だけが外で活動しているというのは、誰がどう聞いても矛盾しきった話だ。そんな話が起こり得る訳が無い。外の世界をあまり知らず、世間一般常識に欠いていると自覚のある私ですらも分かる事だ。

 

「それって……一体何が起こっているの?」 

『さぁ。全容は私にも掴むことは出来ないが……仮説を立てるとしたら、昔私の遺灰を誰かが悪用して、私の力を取り込んだ者が居たのかもしれないな。吸血鬼の灰は、灰を取り込んだ者へ不死の命と力を与える。その誰かさんが上手く私の力を手に入れて、今日の今日まで生き延び続けたというのは、可能性としてあり得ない事ではない』

「てことは、上の奴はおじさまを殺して力を奪った偽者だってこと?」

『その線が濃いだろう。そうだとすれば、この館へ訪れた理由も説明できる。強力な私の灰を取り込んで力を手に入れたとすれば、その者は私の体と馴染み易かったと言うことだ。容姿も私と近いものに変異しているだろう。であれば、レミリアに近づき油断させて襲う事は可能だ。仮に殺害が目的でなくとも、レミリアや紅魔館を利用する可能性だってある。狙いはレミリアの命か、はたまたこの館の財産や権力か』

「でも、何で今更? それに幻想郷は結界で覆われているから、普通には入ってこれないって聞いたよ」

『人間を辞めているのならば、幻想郷へ入り込む手立ても確立出来るだろうから来れたとして不自然ではない。今更なのはおそらく、幻想郷と我々が転移したという情報を入手した時期が遅かったのだろう。大方、手始めに紅魔館を乗っ取り、あわよくば妖怪にとって最後の楽園たる幻想郷も手中に収めようなどと、思いあがった強欲な考えを持っているに違いない。私の灰を取り込んでまで力を手に入れようとしたような愚か者だからな。なんにせよ、放っておけない事に変わりはないが』

 

 だね、と私は二つ返事を返して、フラン、とおじさまは続けた。

 

『このままではレミリアが危ない。咲夜も、美鈴も、パチュリーも、小悪魔も、それに妖精メイドもだ。私の力を無暗に使われれば、皆あっと言う間に殺されてしまうだろう。――――私が何を言いたいのか、お利口なフランなら分かるね?』

「うん。偽者を殺してアイツを……お姉様達を守ってあげればいいんだよね? ()()()()()()()()()()()()()()

『ああ、君は本当に賢い子だ、私の愛しいフランドール。さぁ、そうと決まればお姉さんと皆を助けに行こう。例え敵が私の姿だったとしても遠慮はいらない。徹底的に叩き潰してあげなさい』

 

 分かった、と私はベッドから飛び降りる。そしてこの部屋を密室にしている、パチュリーの封印魔法が施された、たった一つのドアへと足を運んだ。

 

 アイツの事は気に食わないけれど、私の事を大事に思ってくれているのは知っている。他の皆が優しいことも勿論知っている。私が普通にしていれば、時折この部屋に皆がやってくる事があるから知っているのだ。パチュリーと小悪魔は知らない魔法を教えてくれて、さらに色んな本を貸してくれる。綺麗な虹色の『気』ってやつで遊んでくれる美鈴は面白いし、咲夜の料理とおやつはとっても美味しい。何時か私とおじさまに対する誤解が解けて、みんなと楽しく毎日が過ごせるようになる時の為にも、偽物に皆を取られるなんて真っ平御免だ。一人でも欠けてしまったら、今より素敵な紅魔館じゃなくなってしまう。そんなのは絶対に嫌だ。許せるものか。輝かしい皆の笑顔を、ただおじさまの力を奪っただけの偽者なんかに塗りつぶされて良い訳があるもんか。

 

 それに紅魔館だけじゃない。偽物が最終的に幻想郷を支配しようとしているなら、その矛先はいつか自然と黒白の魔法使い―――魔理沙にも向くはずだ。私の、たった一人の友達に。まだ面会したことは無いけれど、あの霊夢にも、いずれは。

 やっぱり魔理沙とはまた遊びたい。会った事のない霊夢とは、お姉様が最近のお気に入りだと言っていた、神社でお茶を飲みながらまったり過ごすというのもやってみたい。勿論弾幕ごっこだってしたい。出ようとは思わないと言ったけれど、やりたい事はまだ沢山残っている。最近になってようやく少し出して貰えるようになったのに、その楽しみを奪われるだなんて、ましてや友達と友達候補が傷つけられるだなんて、想像しただけで腸が煮えくり返る勢いだ。

 

 だから、きゅっとしてあげよう。浅はかにも、敬愛するおじさまの姿を真似てお姉様達を騙そうとする愚か者を。他人から奪った力を我が物顔で振るい、楽園を破壊しようとする大罪人を。その肉片の一片たりともこの世に残す事の無いよう、徹底的に破壊し尽してやろう。何せそれが、私の持つ只唯一の特技なのだから。

 

 私はドアに掛けられている魔法とドア自身の『目』に、手のひらの標準を合わせる。昔まだ力の制御が下手くそだった時に、おじさまと沢山練習して編み出した、ロックオンすることで局所部分の『目』のみを狙って奪い破壊するという、能力の制御法だ。それを駆使して二点の『目』のみを、両手のひらに吸い寄せる。そして一切の加減を加えずに、二つの『目』を思い切り握り潰した。

 

 

 立ち話もなんだとの事で、私とパチュリーは図書館の応接間へ移動する事にした。歩きながら周囲を見ていて思ったが、昔よりも蔵書が増えている様である。パチュリーがここへ居座り始めてから150年間、彼女も彼女でせっせと本を集めていたのかもしれない。そう思うと少しだけ親近感が湧いてくるが、彼女はレミリアと言う唯一無二の友人を持っている。この時点で私は彼女にぐうの音も出ない程の敗北をしている訳なのだが、よく考えてみれば彼女は友達の作り方の模範になるのではないだろうか。私と少し雰囲気が似ていると思うのは気のせいではない筈だ。であれば、彼女を観察すればおのずと友達の作り方が分かるのではないか。この際魔性の影響は度外視して、どう努めればもっと受け入れられやすい私に成れるか参考にさせて頂こう。

 

 そんな事を考えながら、互いに対面する形で応接間のフカフカのソファーに腰を下ろす。小悪魔が紅茶を淹れてくれているのを待つ間、彼女を観察してみることにした。

 だが、パチュリーは魔法でどこからか本を取り寄せ、待っている間は黙々と読み耽っているだけである。一瞬だけ彼女はこちらを見たが、その時の眼が疑わしい何かを見る目一色に染まり切っていたので、私は見るのを止めて他意は無いと謝罪した。思えば、無暗に女性を注視するというのは少々失礼だったか。悪い事をしたな。どうも今日は良いことが続いたせいか、少し浮かれてしまっている様だ。気を引き締めねばなるまい。親しき仲にも礼儀ありという言葉を忘れてはならない。

 

 反省していたその時、丁度小悪魔から淹れたての紅茶が届く。カップを手に取り一息入れる。芳醇なハーブティーの香りが鼻腔を抜けていく感覚がなんとも心地良い。やはり、他人が淹れてくれた飲み物は格別だ。今日は二杯も飲めたので、これから200年は不眠不休で働ける気がする。後は小悪魔が私の事を怖がってくれなければ完璧なのだが、初対面が初対面だっただけに今すぐ態度を変えろと言うのは酷なものだろう。私も、そんな人の感情を無視するようなことは望んでいない。別にゆっくりでも良いのだ。私が無害であると彼女が納得してくれて、そしていつか何気ない談話が出来るようになれば万々歳なのである。

 やはりレミリアの親代わりと言うフレーズと、レミリアの血の証明書が功を奏したのか、彼女たちは今まで出会った者たちと比較してとてもよく受け入れてくれている。願わくば、何時しか家族の一員と認めてくれれば良いのだが。

 

 私は改めて、パチュリーにフランの所在を聞いてみる。

 そして、返って来た予想だにしない返答に、思わず眉を顰めることとなった。

 

「地下室に幽閉? ……それは本当かい?」

「ええ。残念なことに本当よ。フランは今、レミィの判断で地下に閉じ込められている」

 

 私の質問に、パチュリーは端的にそう告げた。

 フランの幽閉。そしてそれを実行したレミリアの判断。二つのワードが、私の脳内で何度も反芻を繰り返す。

 私が居ない間に、あの二人に何があったと言うのか。あの子たちの仲は決して悪いものではなかった。むしろ双方べったりだったと言って良い。フランに関しては、何時どこへ行く時でもレミリアの隣にくっ付いていた。これほどまでに仲のいい姉妹が他に居るのかと、世界中に発信したくなるくらいの相性だったのだ。

 ……しかし心とはまさに諸行無常の代表格。不変であることは決して無い。私が離れて経過した400年以上の年月の間に、何らかの(わだかま)りが起こっていたとしても不思議な事ではないだろう。それが肥大化し、取り返しのつかない亀裂を生んでしまったとも容易に想像できる。

 だがもし仮にそうだとして、それを放って見ておけるほど私は家族へ無関心にはなれない。例えお節介と言われようとも見過ごす訳にはいかないのだ。かつて義理の父を務めたものとしては、尚の事。

 

「それはまた何故? よければ理由を聞かせてくれないか」

「……、」

 

 パチュリーは表情を曇らせ、目を逸らす。発言すべきかどうか葛藤しているのだろう。なにせこの館が抱える、いわば『闇』の部分だろうから躊躇して当然だ。無害と認められてもまだ私は少なからず怪しまれている。何より彼女の親友も関わっている話題のため、迂闊に話す事が出来ない立場であるとも容易に伺える。

 

 数拍の間の後、彼女は薄桃色の唇を動かした。

 

「あなたが、あの姉妹の親代わりをしていた事は紛れもない事実。そうでしょう?」

「無論だ。さらに確証が欲しいのならレミリアにもう一度直接聞いてみると良い。改めて確認が取れるまで待っていよう」

「……別に良いわ。話してあげる」

「質問をした私が言うのもなんだが、大丈夫なのか? 私と君は、会ってまだ間もない仲だ。誤解が解けたとはいえ、この手の深い話題を聞けるほど信用されてはいないだろうから、君が私へ話すに値すると確証を得るまで控えようかとも考えていたのだが」

「先ほどのアレが偶然の重なった事故だと分かった今、あなたがここに居て何の騒ぎも起こっていないだけで十分な証拠になるわよ。そんなに目立つ力を放っているのに、レミィが放っておくわけないもの」

 

 言われてみれば、それもそうだ。常に魔性を放ち続け、他者へ恐怖を無条件に植え付けてしまう私を無暗に受け入れるとなると、私がどの様な者かある程度知る人物のみに限られる。私の事など露も知らない者たちは皆、例外なく私を排除しようとして来たから、彼女の弁は酷く納得がいく。

 そう考えると理由はどうであれ、必然的にパチュリーは私をほんの少しでも受け入れてくれようとしているということだろうか。だとしたら、こんなに嬉しいことは無いのだが。

 

「話を戻すわよ。フランが地下に幽閉された理由は……彼女が、心を狂気に蝕まれてしまっているから」

「――――狂気、だって?」

「ええ」

 

 あまりに予想外で、到底信じる事の出来ない答えを前に、私は自分の耳を疑った。

 今この少女は、認めたくはないが確かに、『狂気』と口にしたのだ。

 

 狂気。簡単に言えば、何らかの要因で調律が取れなくなり、崩壊してしまった精神を指す。

 しかし妖怪に対しての狂気とは、ただの精神崩壊を表す言葉ではない。妖怪にとっての狂気とは即ち、生物だろうと無生物であろうと目につく存在を排除する破壊衝動に呑み込まれた、文字通り狂化した精神状態を表している。破壊行為そのものが快楽と直結し、自らの意志ではその行為を拒絶したとしても、何かを壊さずにはいられなくなるのだ。

 それはまさしく、妖怪にとっての麻薬だ。そして麻薬とは、最も甘美な劇薬としてあまりにも名が知られている。ここで言う麻薬……即ち『狂気』が及ぼす影響は、例え妖怪であっても人間と大差がない状態異常を引き起こすのだ。

 

 壊す事への快感に身を委ね、完全に狂気に呑み込まれた妖怪は、やがてその破壊の矛先を自分自身へと向けてしまう。自身の存在理由―――妖怪にとって主にそれは、人間に恐れを抱かせる行為――――を圧倒的に凌駕し、精神的キャパシティの限界を超えた破壊衝動が、知的生物が持ちうる理性との拮抗を生み、そしてその反動が精神に『矛盾』を生み出し、多大な負荷となって心へ押しかけるからだ。そこまで狂気が進行してしまえば、精神に存在の重心を据える妖怪は終わりだ。自らの破壊衝動で己の心と体を完膚なきまでに破壊し尽し、そして残されるのは妖怪だった残骸のみとなる。それはさながら、快楽に溺れ薬に脳を徹底的に破壊された人間の末路の様に。

 

 稀に狂気と適応し、他に類を見ないバーサーカーと化す怪物も存在する様だが、その身に万物を破壊する絶対的な能力を秘めながら、ペットに飼っていた小鳥を心から愛する事の出来る優しさを持つあのフランに限ってそれはない。初めは身の内に沸いた狂気に酔いしれていたとしても、何時かあの子は理性と狂気の板挟みに遭い、自分の持つ破壊の力で『フランドール・スカーレット』という存在そのものを崩壊させてしまうだろう。

 ギリッ、と奥歯が微かに鳴った。あの無邪気で、物を壊してしまうたびに己の力を嘆き涙していた純粋なフランが、能力で自らを血の海に沈める光景を思い浮かべてしまったのだ。

 

「治療は、試みたのか」

「……残念ながら、現状打つ手なしよ。古今東西ありとあらゆる方法を用いても、あの子の心から狂気を取り除くことは叶わなかった。少なくとも、私がここに来た150年前からずっと」

 

 言葉が、出ない。

 絶句とは正に、この様な状態を指すものなのかと身をもって実感した。

 まさか、そこまで深刻な事態になっていたとは露ほども思わなかった。成長したからもう私の助けは要らないだろうと判断し、暢気に旅に出てあの子の事を放った過去の自分を殴りたくなる。何故あの時、あの子の心の闇に気付いてあげられなかったのだ。

 

 パチュリーが口にした年数から推察する限り、どうやらフランは強靭な精神力で狂気を抑え込んでいるようだが、それも何時まで持つか分かったものではない。もしかしたら一年後、一か月後、一週間後……いや、数時間後には精神が決壊するかもしれない。時間が無いのは明白だろう。こうしてはいられない。直ぐにでもあの子の下へ行って現状を確認し、狂気の緩和対策を立案しなければ。

 

 地下室の場所は知っている。あそこはそもそも、フランの私室として与えられた場所だ。あの子が生まれて言葉を喋れるようになるまで成長した頃、能力が発現したばかりのフランは、力の制御が非常に不安定だった。その力をコントロールする特訓を行うため、比較的被害の出にくい地下に私室と訓練室を作ればよいと、当時まだ生きていた彼女たちの本当の父に意見を言ったことを覚えている。

 直後に、両親が吸血鬼狩りに命を奪われ亡くなったため、亡くなる前の父親からの頼みと他者からの推薦もあり、私があの子たちの面倒を見る事となった。フランの能力制御の練習には随分と付き合ったものだ。

 だが今は思い出に浸っている場合ではない。確か、ここと比較的近い位置に入り口があった筈だ。急がなくては。打てる手は早いうちに打っておくに越したことは無い。

 

 私が席を立ち、地下へ向かおうとするその時だった。突然私の眼前に一冊の本が現れて、進行を塞いだのだ。パチュリーが本を操作して、私を止めようとしたのだろう。何かまだ私に言う事でもあるのだろうか。

 ……しかしよく見るとこの本、鋭い牙がズラリと生えている。もしかして、昔私が粗相をして作ってしまった魔本だろうか。元気そうで何よりである。それとパチュリー。この子を今にも噛みつきそうなくらい近づけないでくれると有難いのだが。もしかして先ほどの事を少なからず根に持っているのだろうか?

 

 生暖かい吐息の様な魔力を私へ吐きかけてくる魔本と睨めっこしていると、魔本はクウンと情けない犬の鳴き声の様なものを出してしょんぼり萎れてしまった。私はとうとう本にすら怖がられるようになってしまったのか。

 

「待って。今、地下室に掛けてあったドアの防護魔法の魔力が消失したわ」

「……それは、つまり」

「ええ、理由は分からないけれど、たった今フランが脱走した。しかも――――」

 

 ああ、なんてことなの。そうパチュリーは狼狽の色を声に含ませて付け加えた。眉間に皺を寄せ、苦虫を噛み潰すような表情を浮かべる。

 彼女の柴水晶の瞳は、図書館のある一点へと注がれた。

 

「――――真っ直ぐこっちへ向かって来ている」

 

 瞬間。図書館のただ唯一の入り口が、轟音と共に弾け飛んだ。

 原因は、言うまでも無く。

 硝煙の中から紅い大きな瞳を爛々と輝かせ、七色の宝石が散りばめられた様な奇妙な翼で力強く羽ばたきながら、音すらも置き去りにするかの如き威力を伴い私へ突撃してきたフランによるものだった。

 刹那の際に見えたのは、彼女が手に握る、紅蓮の炎を纏わせた魔剣の輪郭。幼い顔に張り付けられた、歪みきった凄惨な笑みだ。

 400年ぶりの再会を前に、愛しの愛娘は大きく縦に炎の剣を振りかぶる。

 

「偽者め、死んじゃえ」

 

 直後、途方もない爆熱と衝撃が、一切の加減を持たずに私へ襲い掛かった。

 

 

「―――――――っ!」

「ふわあああああああああああっ! パ、パチュリー様あああああああああっ!!」

 

 フランの持つ最大級の破壊力を持ったスペルカード、レーヴァテインが、スペルカードルールを無視した威力を伴い、至近距離で炸裂した瞬間。訪れたのは身を焦がす熱の旋風でも、内臓を破裂させる衝撃波でも、鼓膜を引き裂く音の津波でもなく、悪魔のくせに人一倍怖がりな、情けない司書の悲鳴だった。

 咄嗟に防御障壁を展開しようとしたが、先ほどの発作で喉が馴染んでいなかったためか魔法のスペルを唱える所作が遅れ、ほんの一瞬隙が生じてしまった。その須臾にも等しい小さな遅れが、致命的なミスとなって私たちの足元を掬いとる筈だった。

 ……筈だったのだ。

 

「あ、あれ? 痛くない……?」

 

 ようやく気が付いたのか、頭を抱えていた小悪魔が顔を上げる。一呼吸を置いた後、彼女はフランの熾烈な攻撃から私たちを守り抜いたものの正体を見て、目を剥いた。

 

 そこには私たちを囲むように、紫色をした小さなドーム状の障壁が出来上がっていたのだ。

 

 考えるまでも無い。これを展開したのはあの男―――ナハトだったか―――で間違いないだろう。あの冷静な男は、どうやらこの危機的な状況下においても平静でいられたらしい。私よりも早く、精密に、あの攻撃を防ぎ切る性能を持った障壁を、私たちを守る範囲だけだが瞬時に展開して見せた。いくら私の喉が不調で遅れたからとはいえ、この緻密な魔法式を一瞬の内に構築した技能たるや凄まじいものだ。レミィの親と謳うのも納得である。

 彼の魔法の腕は、どうやら上級魔法使い以上と見立てて間違いはないだろう。考えてみればそれもそうだ。彼は、この図書館を事実上たったひとりで創設した怪物なのだから。

 思いがけない彼の能力を前に、私は緊急事態であるにも関わらず、場違いな感心を抱かずにはいられなかった。流石、()()()()()()()()()()()()()()()()()私を狂わせただけはある。

 

「パチュリー、小悪魔、大丈夫?」

 

 鈴の音の様な声に、ハッと我に返った。

 目を向けると、魔法障壁の外から私たちを心配そうに見ているフランの姿があった。くりくりとした紅い瞳やこちらを心配そうに伺うあどけない表情からは、先ほどの大惨劇を生み出した同一人物とは到底思えない。

 彼女は今開けるね、と呟いて左手を握り締めた。途端に、私たちを守り抜いた魔法障壁が、呆気なくガラスを砕いたかのような高音と共に砕け散った。

 

「ごめんね。ちょっと頭の中が一杯になってて、パチュリー達に気が付かなかった」

「大丈夫よ。それより、急にどうしたというの? 珍しく出てきたかと思えばあの人を―――お客様を攻撃するだなんて」

「お客様……ああ、うん、うん、そう、そうだった。ごめんなさい。直ぐにとどめを刺しに行くわ。皆を傷つける悪い偽者は、とっとと八つ裂きにしなきゃだもんね。それじゃあね、パチュリー。私、まだやらなきゃいけない事があるの。終わったらちゃんと部屋に戻るわ。ドア壊しちゃってごめんね」

 

 唐突な変化だった。

 私たちを心配した時の優しい眼とは打って変わって、冷酷な光が瞳に宿る。まるで見えない誰かと話をしているかのように不自然な相槌を打ちながら、フランはゆらりと体を動かした。

 これだ。これさえなければ、この子は家族思いの、ただの普通の女の子なのに。

 

 ナハトにはフランが割り込んでしまったせいで伝えそびれたが、実のところ彼女は破壊衝動に支配されたが故に、心の中に狂気の占領を許した訳ではない。何時何処で入り込んだのかまったくもって不明だが、フランの頭の中には何か別の精神的存在が入り込んでおり、それが巣食って離れないせいで狂気に蝕まれてしまっているのである。不幸中の幸いなのは、狂気に侵されながらもそのナニカとフランは擬似的な共生関係にあるお蔭で、精神が侵食されるスピードそのものが格段に遅い事だろう。

 

 しかしこれは、限りなく黒に近いグレーと判断できる良性の腫瘍を放置している行為に等しい。いつそれが悪性に変異してフランの精神を食い破らないか、誰にも保証は出来ない状態なのだ。

 一刻も早く正体不明のソレを取り除きたいのは私もレミィも同じ考えだが、そのナニカを退けるには、認めたくはないが力が足りない。心の中枢に、まるで根を張るようにして食い込んでいるのだ。無理やり引き剥がせば言うまでも無く、フランの精神にも多大なダメージが残ってしまう。

 最も効率的かつ安全な除去方法は、フランが精神的存在と別離する事を心から望む事である。そうすれば、あとはこちらからほんの少し背を押す形で力を貸せば、容易く引き剥がすことが出来るのだ。そのためにも私とレミィ、そしてフランと比較的仲のいい門番が幾度も説得を試みたが、めぼしい成果は上げられなかった。それどころか精神的存在が私たちを疎ましく思って彼女に何かを吹き込んだのか、フランは私たちの説得に耳を貸そうとしなくなってしまったのだ。

 技術も駄目。力技も駄目。心からの訴えも駄目。故に手詰まり。これがチェスの試合なのだとすれば、チェックメイトに嵌ったのも同然だった。

 

 だからこそ、あの男には。

 吸血鬼姉妹の親代わりを務めたと言うあの男には。淡く微かな希望を抱いたのだ。

 信用はしていない。信頼の情も無い。現状、彼のあまりに強すぎる力の余波の影響以外は無害であると判断しただけで、あの男を心の底から慕う事など、まだ到底出来そうにはない。だが私は、それでもあの男に賭ける事にしたのだ。無自覚に体の内から外へ漏れ出す程のパワーを秘め、なおかつ瞬発的に、魔法を的確かつ精巧に編み出せる精密性を兼ね備えた、あの男の未知の力に。

 故に、この館の抱える闇について話した。そうすれば、私たちが成す事の出来なかった事が、実現できるかもしれないから。

 もしかしたら彼ならば、フランの心に絡みついた病魔を取り除くことが出来るかもしれないと、一握の望みを掴んだから。

 

 だからこそ、何としてでもこのチャンスを利用してフランを救い出さねばならない。紅魔館の未来のために。そしてなにより我が親友の笑顔の為にも。

 

 私の覚悟を余所に、フランは取り憑かれているかのように、ゆらゆらとナハトが飛ばされた方向へ足を動かす。何故彼女が、先ほどこの館へ訪れたばかりだと言う彼の存在を察知して、あまつさえ攻撃を加えたのか理由は定かではないが、十中八九とどめを刺す気だろう。

 行かせるわけにはいかない。ナハトはレミィと同じ吸血鬼らしいから、あのくらいじゃ死にはしないだろうが回復するまでの時間は稼がなければ。フランの持つ能力は、吸血鬼ですら存在ごと消滅してしまいかねない危険極まりない代物だ。ダメージを負った状態で食らえばおそらく、成体の吸血鬼である彼でも死は免れられない。

 

「待ちなさいフラン。あなたは何故彼を狙うの? 過去に何か、あの人に恨みを抱くような出来事でもあったのかしら」

「……違うのよ、パチュリー。あの人はおじさまなんかじゃないの。偽者なの。おじさまの力と姿を真似て私たちを騙そうとしている、とんでもない愚か者なのよ」

「フラン……? あなた、一体何を言って……?」

「大丈夫、大丈夫だよパチュリー。直ぐに偽者を退治して、私が皆を守ってあげるから」

 

 会話の流れが支離滅裂だ。こちらの伝えたい意思が欠片も伝わっていない。彼女の中では、この一連の事件すべてが自己完結している様に思える。原因としては、彼女の頭の中に巣食う精神的存在から何らかの干渉を受けたと考えるのが妥当か。

 今のフランはまともではない。いつも以上に、完全に自分の世界へ閉じこもってしまっている。

 食い止めねば。

 彼女に、ナハトを壊させるわけにはいかない。

 

「止まりなさいフラン。あの人を壊してはいけない」

「……なんで邪魔するのパチュリー。どいてよ」

「それは出来ないわ。あの人があなたに壊されてしまえば、あなたを救い出すことが出来なくなるかもしれない。だから、今ここを通す訳にはいかないの」

「………………うん、そうだね。どうやらパチュリーは、偽物に騙されてしまったみたい。どうすれば助けてあげられるかな? ……ん、分かった。心が痛むけど、私頑張る。絶対助けてみせるから、応援してくれる? ……ありがとう、やってみせるよ」

「フラン、聞きなさい。あの人は偽者なんかじゃないわ。正真正銘、あなたの義理のお父様よ。そうでなければ、レミィが気づかない訳がないでしょう? あなたの姉は偽者と本人の区別がつかないほど愚鈍ではないわ。それに、レミィの『血の証明』があの人を本物だと断定したの。同じ吸血鬼のあなたならこの意味が分かる筈よ。あなたの頭の中に居るそいつに、これ以上耳を傾けては駄目」

「違うよパチュリー。アレの方が偽者なの。パチュリーは騙されてるだけ……ううん、アレに記憶を弄られて、そう思い込まされているだけなの。大丈夫、パチュリーは悪くない。悪いのはパチュリーを騙す偽者の方だから。だから、ごめんね?」

 

 ゾワリ、と背筋を氷が滑り抜けたかのような悪寒が走った。炎の剣を携えたフランドールが、内に秘める吸血鬼の膨大な魔力を完全に開放したのだ。その目に光は見当たらない。あるのは狂信にも近い、ただ一つの目的の遂行のみ。言うまでも無く、ナハトを完膚なきまでに滅する事だろう。

 手始めに彼女は、障害となる私を無力化しようと考えている。幸運なことに殺す気は無いらしいが、まともにやり合えば暫くの間再起不能にされるのは間違いない。さらに残念なことに、喉も体も調子が悪い今の私では、フランと真正面からぶつかりあって打ち勝てる確率はほぼゼロだ。

 しかしここを退くのは駄目だ。ここで私が退けば、賭けるべき希望が無くなってしまう。

 

 私は彼女の発言から得た情報から、ある種の確信を得ていた。

 どうも、フランに取り憑いた精神的存在にとってナハトは邪魔であるらしい。根本的な理由は分からず仕舞いだが、奴はナハトが自身にとって危険だと悟っているのだろう。だからフランを言葉巧みに騙し、問答無用にナハトを排除させるよう(けしか)けたのだ。そうでなければ、数百年ものブランクを空けてここを訪れたと言うナハトを、存在を認知した瞬間から襲い掛かったりなどしない筈である。何の障害にも成り得ないならば、むしろ無関心に徹してナリを潜めておくのが定石だろう。敵を排除する理由はいつだって、それが脅威足り得るからなのだ。

 

 結論からして、フランに憑いている精神的存在にとってナハトが脅威であると伺える。であれば、取るべき選択肢は一つ。

 やるしかない。全力を持って、ナハトが復帰するまで食い止める。

 

 私はグリモアを手のひらに召還し、魔力と術式を接続する。小悪魔に合図を送り、レミィに伝えるよう促した。彼女が飛び去っていく様子を尻目に、私は深く息を吐き出す。

 体調は全快と言えない。喉の調子も芳しくない。だがそれを理由に逃げ出すことは出来ない。

 100%ではないが、ナハトはこの現状を打破する可能性をもった存在なのだ。今まで様々な手段を用いてフランを治そうとしたがどれも実を結ばず、八方塞がりだった私たちの前に垂れて来た一筋の蜘蛛の糸なのだ。例えそれがどれだけ細い糸だろうと、掴み取らない理由は無い。それを逃せば、待っているのは緩やかな破滅なのだと十分に理解しているからだ。

 

 いい加減、この狂った演目にも幕を下ろす時が来たのだろう。彼女には、頭のナニカに操られる役者ではなく、一人の妹として、家族として。親友の明るい未来の為にも、この先を共に歩いてもらわなければ困るのだ。

 

 覚悟を決め、悪魔の妹と相対する。対する彼女は絶対零度の瞳で私を見据え、凍えるような微笑みを浮かべた。

 

 

「ちょっと痛くしちゃうけど許して、パチュリー。目が覚めたらまた、平和な紅魔館が戻っているからさ!」

「目を覚ますのはあなたよフランドール。寝ぼけ眼で幻想を見るのはもう終わり。夢からはいつか、醒めなくてはならないのよ!」

 

 



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4.「巣食うもの」

 紅魔館の廊下を走る。床を蹴り、腕を忙しく動かし、ここ最近じゃ比べ物にならない程の全速力で、無駄に長い紅魔館の廊下を駆けていく。咲夜さんの空間拡張が恨めしく思えたのは、恐らく後にも先にもこれが最後となるだろう。

 先ほどお嬢様の部屋へ飛び込んでから、開口一番に私はこう言われた。

 

『美鈴、貴女の言いたいことは分かっているわ。でも今は図書館へ向かいなさい。おじ様とフランが激突していると小悪魔から報告を受けたの。このままだと手遅れになるかもしれない。私と咲夜も直ぐ向かうから、貴女は先に行ってて頂戴』

 

 全てを察した私は、そのままお嬢様の部屋を飛び出し今に至る。

 私の『気』のサーチは、正確に当たっていた。

 あの方が、ナハトさんが帰って来ていた。

 

 今になって帰ってきた理由だとかなんだとか、そんなものはどうだっていい。今は妹様がナハトさんと戦闘になっている方が遥かに問題だ。妹様は頭に巣食うナニカのせいで狂気に陥り、正常な判断が効かなくなってしまっている。それが原因でもし、何らかの拍子に妹様がナハトさんの逆鱗へ触れてしまえば、間違いなく妹様は…………。

 想像もしたくない未来が脳裏を掠めた。頭を振るい、ネガティブな妄想を追い出すようにして掻き消す。手のひらが異常に湿っているのは、走って疲れたせいではないだろう。

 

 ……ナハトさんは、私に『紅美鈴』としての道を示してくれた人物である。大変な恩をあの方には感じている。しかし同時に、私はあの方からこの世で最も恐ろしいものを教えられた身でもあるのだ。

 それは、言うまでもなくナハトさん……あの方の怒りだ。冗談でも思い浮かべてしまえば、背筋を駆け抜ける悪寒が止まらなくなる。

 思い出してしまうのだ。あの方と私が、初めてお会いした満月の夜の出来事を。同時に、私がお嬢様たちへ仕える道を選んだ、彼との因果の経歴を。

 

 

 

 ―――私はかつて、流浪の妖怪だった。人間の武術を習得し、力とは、強さとは何たるかという問答に答えを導き出すため、長く世界を放浪していた身の上だったのだ。

 その旅の途中、私はひょんなことから、当時まだ沢山の吸血鬼が住んでいた紅魔館の用心棒として雇われる事になった。ご飯にもありつけるし、用心棒稼業で腕も磨けるしと一石二鳥だなと軽く考えて、私はすぐに承諾した。

 

 だがそれが甘かった。私が用心棒として初めに就いたのが、紅魔館に住むとあるバンパイアロードのとんでもないドラ息子だったのだ。これがまた、目にかけて性根の腐った下郎だった。何かと親の権力を振り回し、理由もなく紅魔館で従属として働いていた妖怪へ暴力を振るうのは日常茶飯事。まさにやりたい放題の毎日を、アレは送っていた。その癖実力が他の吸血鬼よりもあったものだから、余計に手が付けられなかったのだ。

 そんな彼はある日、最悪の暴挙へと身を乗り出した。手下格の吸血鬼を従え、あろうことか私を近くの森へ攫い、手籠めにしようとしたのだ。女っ気の少なかった当時の紅魔館では、私は彼らの誘引剤になってしまっていたらしい。

 

『お前はただの奴隷だ。当然お前の体は俺のものだ。なら奴隷は奴隷らしく、俺に傅き奉仕しろ』

 

 ……今でも思い出すと吐き気がしてくる。あの姑息な男達の、下卑た笑いと言葉の数々には。

 当然私は拒んだ。あんな男に私の純潔を捧げてやる気なんて、起こる筈も無かった。あの少年一人ならば叩きのめすのに何も問題無かったのだが、それはあのドラ息子も承知していた。だから、たとえ素人でも個々が強力な力を持つ吸血鬼を共に引き連れて来たのだ。そして抵抗も空しく、私はボロ雑巾の様に地面へ這わされる結果となった。

 悔しかった。惨めだった。何よりいまからこんな奴らに辱めを受けるだなんて考えると、気持ち悪さと自分の情けなさで涙が止まらなかった。

 

 服を引き裂かれ、手足を拘束され、もう終わりだと絶望の渦中に呑み込まれ、希望も何もかも無くしてしまった、まさにその時だった。満月の輝きの下に彼が姿を現したのは。

 

 氷河の如き冷酷さを柴水晶の瞳に宿らせて、彼はただ沈黙の森の中、私たちを見下ろすように立っていたのだ。何の前触れもなく、まるで最初から居たとでも言わんばかりに、深夜の森へ、ぽつんと。

 灰色の髪のその男性は、凄まじい威圧感を迸らせながらゆっくりとこちらへ歩いてきた。彼の姿を目撃し、その存在に気が付いた吸血鬼の少年達は、ただでさえ白い顔をさらに青白くさせて途端に震えだした。悪い事をしているところを見られた幼子の様に、冷や汗を流しながらブルブルと情けなく縮こまってしまったのだ。

 

 恐ろしかった。

 言葉は無く、ただ悠然とこちらへ歩いてくるその男が、私はどうしようもなく怖かった。犯される危機感などではない。それはまさに死の恐怖だった。動けば首を刈られる。心の臓を抉り出される。そう思わされてしまう、得体の知れない禍々しい瘴気のようなものを彼から感じたのだ。

 今の自分が置かれていた状況など、その時はすっかり忘れ去ってしまっていた。一刻も早くこの男から逃げ出さねばならない衝動に駆られた。でも、私は立ち去ることが出来なかった。満月を背後に私たちの前で立ち止まった彼の姿は、視界に彼の姿以外を映す事は許されないと言わんばかりに、それはそれは美しかったのだ。

 

 闇夜に光る紫の瞳が。月光を反射する灰色の癖毛が。この世のものとは思えない黄金比を備えた顔貌が。白磁の名器が霞んで見えるような透明感のある白い肌が。成熟し、一個の完成形となったしなやかな体躯が。柔らかい夜風に靡く漆黒のマントが。どれもこれもが、一級の芸術品の様な魅惑を醸し出していた。視線を向けるだけで、一歩一歩の足音が耳に入り込むだけで、悪寒と冷や汗が止まらなくなるのに、それでも彼に目を向けずにはいられなかった。

 

『違うんです! これには訳が――――』

『俺たちはこの不出来な使用人に罰を与えようとしただけで―――』

『これはただの躾であって――――』

 

 堰を切ったように、見苦しい言い訳の嵐が起こった。矢雨の如く、次々と潔白を証明するべく並べられた嘘偽りの美辞麗句が、私をあの方の魔性から現実へ引き戻した。

 それと同時に、館での勤務中、何気なく小耳に挟んだある一文句が脳裏にふと蘇った。

 

【闇夜の支配者を怒らせるな。彼の者の怒りを買うならば、迷わず竜の逆鱗に触れろ】

 

 そして、私は確信に至った。吸血鬼の少年たちが突然血相を変え、恐怖したこの男の正体が分かったのだ。

 何時からこの世に存在していたのかは全く不明。素性も出自も何もなく、ただ絶対的な力を持つが故に皆が畏れた、とある一人の吸血鬼。

 数多の悪魔が往来跋扈する紅魔館で最強と謳われた、今は亡きスカーレット卿が唯一絶対の服従を示した、紛うこと無き闇夜の支配者。

 彼こそが、ナハトその人であるのだと。

 

『言い訳は止さないか、少年たち』

 

 彼は言った。独裁者の如く冷血に、教師が教え子を諭す様に柔らかく、しかしその場の雑音全てを制圧するかのように、重々しく言い放った。

 彼の言葉は衝撃を伴った。まるで今にも自分の喉を食い破らんとする眼前の魔物が、凄まじい形相で吠えたかのような幻さえ感じた。事実、少年の内二人は彼の凄まじい気迫を前に、呆気なく気を失った。例のドラ息子は辛うじて意識は保っているが腰は砕け、無残にも履物を濡らしながら地面を転がっていた。

 

 

『吸血鬼たるもの、常に誇りを持て。夜を制する者として、高潔さを忘れるべからず。……これは、君たちが慕っていたスカーレット卿の言葉だ』

 

 そんな少年に彼は近づき、囁くのだ。死の宣告を告げる死神が如く、緩やかに唇を動かしながら。

 

『今君がしようとしていた行動は、高潔で誇りのある行いか? 夜を制する吸血鬼に相応しい高貴な行いか?』

『い、いいえ、いいえ、いいえ、いいえ……!』

『そうだな、その通りだ。勘違いをしてはいけない。己が強者たる吸血鬼だからと言って、驕っていい理由にはならないのだ、少年よ。さて、自分の罪が自覚できた今、君に反省の心意気はあるのかね』

 

 命乞い、弁護の言葉が飛び散らかる。それを彼は、冷酷な眼差しで聞き流すのみで。

 

『謝る相手が、違うんじゃあないか?』

 

 闇夜の支配者の怒りを買った少年の行動は早かった。恥も外聞もなく、私へあらん限りの謝罪を投げかけた。あまり必死に謝るものだから、私も今更どうこうしようとは思えなくなっていた。まずそんな事よりも、少年を言葉だけで屈服させた男の静かな怒りが、茨に絡みつかれたかのように私の心を蝕み、最早少年どころではなくなっていたのだ。

 もし、もしあの男の怒りが私に向けられていたら、一体どうなっていたのだろうか? 睨まれただけで心臓を止められそうなあの視線の対象となってしまっていたら、私はどうなってしまっていたのだろうか?

 起こり得ない事なのに、頭の片隅に負の可能性が膿の如く湧いて出た。男の逆鱗を撫でた立場がもし私だったらと、想像を爆発的に膨らませられたのだ。それほどまでに強い恐怖を私は抱いた。この世にこんな恐ろしい事が有り得たのかと、何度も頭の中で再確認してしまう程に。

 

 彼は後始末をしておくようにとだけ少年に告げて、私にマントを被せ、館の中へ連れ戻した。彼の後ろを着いて歩く私は気が気でなかった。私の一挙一動が、この男の怒りを触発するかもしれない。そう考えると、ロクに歩くことすらままならない状態だった。

 だが例えようのない恐怖と同時に、私の心にはある感情が芽生えつつあった。

 

 それは、憧れだったのかもしれない。または羨望だったのかもしれない。ただ確実に言えることは、私は彼の他の追随を許さない圧倒的な力に対して、強い畏敬の念を抱いていた。武を学び、強さとは何たるかを追い求め、そしてこの悪魔の館へ辿り着いた今までの出来事その全てが、もしかするとこの強大な男と引き合わされる因果だったのではないかとすら思い始めた。まず、正常な判断能力を失っていたことは確かだった。

 

 だから私は、まだ彼の事など露も知らないというのに、とんでもない事を口走ってしまったのだ。

 

『あ、あの。私、美鈴と言います。用心棒として雇われていまして、そ、その』

『…………どうした? 急に畏まって。具合でも悪いの――――』

『私に、あなたの強大さの秘密を教えて頂けませんか?』

 

 今思い返してみると、あれがどれだけ命知らずな行為だったのかがはっきり分かる。機嫌を損ねられ、振り向かれたと同時に首を撥ねられたとしても文句は言えない所業だった。それでもあの時の私は、彼は私を更なる高みに導いてくれるだろうと、素っ頓狂な確信を持っていたのだ。

 

 彼は一瞬だけ眉を上げると、困ったような笑みを浮かべた。

 不味い。不快にさせてしまったのかと、私は冷や汗で衣服が張り付く感触を覚えた。もう終わりだと思って、私はぎゅっと目を瞑った。

 しかし私の心境に反して、彼は柔らかく返答した。

 

『強大……私はそんな、大層な者ではないさ』

『い、いえ! その様な事は決してありません! お噂はかねがね聞いております。漆黒の魔王、古の夜の化身、無上の吸血鬼、闇夜の支配者。二つ名に相応しき貴方様の強大さは、私のような末端にも強く伝わっております。その様なお方が大層でないなど、とんでもないことです』

 

 その時の彼は、私が耳にした二つ名を並べるたびにみるみる険しい表情になっていったのを覚えている。遂には渋柿を口一杯に含んでいるかのような顔になってしまい、私はとうとう地雷を踏んだかと、軽率な発言を心底後悔した。

 重苦しい沈黙の後に、口を開いたのは彼の方だった。

 

『君は何故、私の力に熱心になっているのかな』

 

 彼の言葉を耳にして、私は無我夢中で訳を述べた。この館までの道のり、生きる意味、それら全てを、私は口と体を使って精一杯説明した。彼はその全てを静かに聞き入れ、私が話を終えると、静かに言った。

 

『強さとはなにか……か。成程。君は一人の武術家として武を追い求め、己を昇華する道を探している訳だ』

『は、はい!』

『……言ったように、私は君が思い描く様な強さを持った者ではない。だけど、それなりに長くは生きた身だ。だから年長者として一つだけ、君にアドバイスをあげよう』

 

 まるでオーロラの様に神秘的な笑みを浮かべた彼は、私にある一つの命を下した。

 それは、スカーレット卿の遺した子供たち……後のお嬢様と妹様を守る役目だった。幼い彼女たちを守ってあげてくれ。そうすれば、君は力とはなんたるかをきっと理解するだろう。彼は私にそう告げた。

 

 私は、彼の提案と指示を二つ返事で承諾した。もとよりあの少年の下で用心棒をやる気などとうに失せていた。少年の親に事情を伝えると、あの方の怒りを買う原因となった私を手元に置いておきたくなかったのか、一言二言の皮肉を残して直ぐに承諾してくれた。私はすぐに、彼の命に従ってお嬢様のお世話をする事となった。

 

 それから実に、90年近くの時が過ぎた。その間、私は夢中で己の研鑽と、お嬢様の警護に時間を費やし続けた。

 最初は只の、使命に似た義務行動だった。彼女たちを守り続ければ、私の望む答えが見つかる。そう信じ続け、半分機械的に仕事をこなし続けた。

 だが途中から、私はそれを仕事とは思えなくなっていた。天真爛漫なお嬢様や、能力を克服した愛らしい妹様たちの世話をする度に、なんだか年の離れた妹が二人も出来た気分になっていたのだ。いつしか己を高めるためだけの修練が、何が何でもお嬢様たちを守り抜くという目的にすり替わっていった。

 

 そして、ある事件が起きた。

 

 彼―――ナハトさんが急遽館を空けると告げ、私にお嬢様たちを一任して旅に出られた直後の事だった。紅魔館の覇権を狙いながらも、ナハトさんの存在によって上手く行動できずにいた吸血鬼たちによる、血で血を洗う覇権争いが巻き起こったのだ。

 

 当然、お嬢様たちもその争いに巻き込まれた。下賤な吸血鬼は、お嬢様たちの運命を操る能力と破壊の力を狙ったのだ。

 私は、お嬢様たちを守るために日夜戦い続けた。襲い来る吸血鬼や使い魔を片っ端から叩きのめし、紅魔館には次々と気絶した吸血鬼や使い魔が積み上げられていった。

 

 何十もの悪魔の軍勢を退けた所で、私は漸く自身の異変に気が付いた。

 強くなっている。

 確実に、90年前のあの夜より強くなっていたのだ。

 

 ナハトさんの言いたいことがまさにこれだったのだと、身をもって実感した瞬間だった。己の為だけでなく、何かを背負い守り抜く為に修練を積み、信念をもって力を振るう事。それこそが強さ。これこそが、私の追い求めた力の意味だったのだと。

 

 捻じ伏せた幾多の悪魔たちの前で、固く拳を握りしめ、私は覚悟を胸に刻んだ。

 守ってみせる。言われたからなのではなく、守りたいと思える存在を守り抜くために、さらに強くなってみせる。

 

 何時かまた彼がこの館に戻って来た時に、私は彼へ精一杯のお礼を言おう。そして今度こそ、彼の本当の弟子にして貰えるか頼んでみよう。彼が私を認めてくれるほどに日々研鑽を積み、あの方が私へ託した二人を必ずや守り抜くと、そう心に誓った。

 奇しくもその日は、闇夜の王と初めて相見えた晩のように、夜空へ黄金の月が輝く妖艶な夜だった。

 

 

 力の意味を求め続けた流浪の妖怪は、こうして紅い館の門番としての生を歩み始めたのだ。あの方は、私にとって恐怖の源泉であり、答えを導いてくれた偉大な恩人でもあるのだ。そしてお嬢様と妹様は、今では私の命に代えても守り抜くと誓った大切な家族である。

 どちらかが欠ける運命だなんて認めたくない。私は、そんな未来を見るために今日この日まで己を鍛え続けたのではないのだ。

 

 間に合え、間に合え!

 

 それだけを一心に念じ続け、ようやく視界に捉えた図書館の入口へ、私は全速力で突進した。

 

 

 バサバサバサバサ、と何かが立て続けに落下してくる音がした。

 そのうちの一つ―――具体的には、使い方を間違えれば鈍器にもなりかねないハードカバーが、私の頭頂部へ容赦なく本棚からお見舞いされた。

 

 ………………………………、

 うむ。

 どうしようもなく痛い。

 

 突如図書館へ突っ込んできたフランから、いくら間に400年もの歳月を挟んだとはいえ、あまりに激しすぎる歓迎の挨拶を貰った。反射的にパチュリー達を保護したのは良いものの、私自身は攻撃をモロに食らって吹っ飛ばされ今に至るわけだが、予想以上のダメージを食らってしまっている。フランの魔力と力の扱いがまた成長したと褒めるべきか、いきなり人を襲うのはいけないことだと叱るべきか悩むところだ。

 

 ただ、私にはもうあの子を叱る権利もないかもしれない。

 そんな考えが過ったのは、出合い頭に膨大な殺気を向けられたあの瞬間だ。あの殺気は、決して喧嘩相手に向けるような生温いものではなかった。必ず相手を殺すという必殺の意思に加え、殺しても殺したりないとでも言うかのような、漆黒の憎悪の色を孕ませた、純粋で迷いのない本物の殺気だった。

 

 殺意を向けられる原因は考えられる限り、私が400年前にあの子を置いて出て行った事だろうか―――その様な結論に辿り着き、私は少しばかり、父を務めたものとして罪悪感に駆られている。

 

 その当時レミリアが100を数える年になり、フランも同じく立派に成長した。あの子たちはもう一人でも大丈夫だろうと判断して、暫く停滞していた友人探しの長旅へ立った経緯がある。無論レミリアに出発の旨を伝えてから旅に出たと言えども、フランからしてみれば親に捨てられた心境だったのかもしれない。それが原因で精神を病み、狂気を生み出してしまった可能性は、無いと決して言い切ることは出来ない。

 

 あの子は珍しく、私の魔性の影響を受けて怖がるどころか、まるで本当の父親と見てくれているかの様に、とてもよく懐いてくれた稀有な子だった。だからこそ、深く傷ついてしまったという仮説は成り立ってしまうのだ。

 でなければ、出合い頭に私を殺そうとするわけがない。客観的に見ても、他に類を見ないほど私に懐いてくれていたあの子が、私を殺そうとするなど到底考えることが出来ないのだ。

 

 狂気を生み出すきっかけになったやもしれぬこの私が、今更どの面を下げて親のように振る舞えと言うのか。

 

「しかし、随分派手にやられたものだ。流石は彼の娘といったところかな。……左半身が綺麗に吹っ飛んでしまった」

 

 不意打ちで消し飛ばされた半身の傷を眺めながら、私は独り言ちる。やはり同族からの本気の攻撃は手痛い。しかも、あの炎の剣を模した魔法には再生能力を阻害させる因子かナニカが含まれていたのか、肉体の再生スピードが極端に遅い。まるで純銀製の剣で切り落とされた上に、銀粉を傷口に塗りたくられたかのようだ。

 

 私も一応、吸血鬼の端くれである。この程度の傷で命を落とすことは無いが、それでも現状は極めて危険な事に変わりはない。あの子は私を殺そうとしている。もうすぐ仕留め損ねたと気がついて、とどめを刺しに来る筈だ。

 幾ら簡単に死なない身とは言え、私とて完全な不死身ではない筈である。と言うより死んだことが無いので、どの程度の物理的ダメージで死ぬかが分からないのだ。この状態でフランの攻撃を立て続けに食らえば、存在が消滅する可能性だって十分に考えられる。故に危険と判断する。対策を立てねばならないのは自明の理だ。

 

 フランが、自らに狂気を生み出すきっかけを作った私を恨んで殺そうとするのは、動機としては筋が通っている。私が文句を言えたものではない。だがしかし、ここで殺されてやる訳にもいかないのだ。私にはまだ、友達を作るという長年の夢がある。一人の親友も作れずして、どうしてあの世に旅立てようか。

 

 すまないフラン。私の我儘に、随分と君の人生を振り回してしまった様だ。

 だからせめての償いに、私は責任をもって君を受け止めよう。

 フランと私の間に生まれてしまった隔たりに、真正面からぶつかろう。フランの狂気を含めた思いを全て甘受し、そしてまた、共に生きていけるように溝を埋めるのだ。

 その為には、先にこの傷を治さねばなるまい。

 

 まず傷の再生を妨害する呪いの因子を解除するため、解呪魔法を使用し傷の再生力を向上させた。さらに用心を兼ねて、コートの裏ポケットに仕舞ってある血入りの小瓶を取り出し、蓋を開けて一気に飲む。芳醇な鉄の香りが口の中へ充満し、同時に傷口から、肉が生えてくる痒さと言うべきか、あまり気持ちの良いものではない感覚が伝わってきた。

 

 やはり人間の若い女性の血はよく効く。昔に少々拝借したものを魔法で保存して持ち歩いていて良かった。今度機会があったら、咲夜に少しだけ貰えるか頼んでみよう。失礼な話だが、レミリアが一目置いているだろう彼女の血には少しばかり興味がある。吸血鬼ゆえにこればかりは仕方がない。全ての生き物は空腹の奴隷なのだ。別に飲む必要は他の同族に比べて殆ど無いとはいえ、私とて例外ではない。

 

 そうこうしているうちに、取り敢えず肉体はほぼ再生し終わった。が、流石に吹っ飛ばされた衣服までは戻らないので、立ち上がって修復魔法をかけ、元に戻す。術を編み発動させるのが面倒だが、やはり魔法とは便利なものだ。ここぞと言う時に、勉強しておいて良かったと心から思える。勉強目的が達成できていない件に関してはこの際目を瞑ろう。

 

 さて、動ける態勢は整った。後は、どうやって暴れ狂う愛娘に対抗するかだが……。

 戦闘は避けられないにしても、傷つけるのは論外だ。私が攻撃する事は絶対に許されない。これは喧嘩でもなければ制裁でもなく、あくまで対話、説得である。如何にフランの攻撃を捌きつつ無力化し、こちらの言葉を耳に入れてもらうかが鍵になるだろう。

 

 実に皮肉だが、良くも悪くも――いや、悪いばかりか。ともかくこちらに意識を惹きつけるトークは得意だ。放たれる魔性が嫌でも勝手に注意を引いてくれるので、不本意だが言葉を相手に投げるだけに関しては楽なのだ。

 

 ただ、魔性の効果や影響の強弱は強い個人差がある。どう転ぶかは予測不能だ。しかし赤子同然の頃から私の傍にいたあの子なら、少なくともマイナスの影響は出にくい筈である。私と昔生活を共にした経験のあるレミリアが再会の際に比較的早く平静さを取り戻したように、パチュリーが私の魔力を微量に取り込んだことで僅かにだが耐性が着いたように、魔性は私と近ければ近いほど、浴び続けた時間が長ければ長いほど順応出来るようになる特性がある。

 

 この仮説からすれば、今まで私と出会った中で一番耐性の強い子は紛れもなくフランだ。だから離れていたブランクはあれども、魔性の影響で心を引き離される確率は低いだろう。

 

 蛇足だが、魔性は慣れることが出来るのに今まで誰一人友達が出来なかった原因は、やはり怖がって最初から近づいてくれないか、極端に狂信的になるもしくは恐慌状態に陥る事が殆どだからだ。そもそもこの性質に気づいたのだって、乳飲み子同然だったフランをずっと世話をしているうちに、私に殆ど怯えなくなった所から発見したほどである。なにせこの長すぎる妖怪生の中で初めて私に本物の笑顔を向けてくれたのは、幼気なフランのそれだった程だ。世知辛いとは正にこの事か。

 

 現在の問題へ戻ろう。取り敢えず、魔性による会話の弊害はこの際無視するとして、どうやってフランの熾烈極まりない攻撃を凌ぐかだ。

 あの炎の剣は厄介だ。リーチも長ければ余波の威力も大きい。防ぐのに素手では心もとない。現に、先ほど半身を引き裂かれたばかりだ。二度も同じ轍を踏むわけにはいくまい。

 であれば、対抗できる武器を用意すれば解決と言う訳だ。

 

 ところで、吸血鬼は強大な魔力を持つ種族である。元々のポテンシャルが他の種族と比べて非常に高いため、普通は何も鍛錬などせずとも、ただ乱雑に力を振るうだけで他を圧倒する暴君を演出することが可能だ。特に魔法関連に関してはそれが顕著と言えるだろう。

 ならば、その基礎能力をもってして何十、何百、何千年と研鑽を積み重ねれば、一体どうなるか。

 

 答えはこうだ。純粋な魔力のみを結晶化させ、何もない空間から己に合った最高の武具を顕現させる事が可能となる。

 

 右手を水平にかざす。地面へ手のひらを向け、そこへ魔力を思い切り集中させた。

 武器が形を成すイメージを鮮明に思い浮かべる。なるべく精巧に、緻密に、繊細に。柄の形状、鍔、そして刃の長さ、切っ先の形までを、細部まで頭の中に作り出す。

 

 イメージは魔力を伴って現実へと転写され、漆黒の魔力が渦を巻き、それが一本の刀剣へと瞬く間に姿を変えた。

 十字型の鍔に長めの柄。すらりとした刀身は、典型的な西洋の剣のそれだ。見た目はさして、世間一般がイメージする剣と大差ないだろう。

 刀剣全体が目に見えて瘴気を放ち、光を呑み込む暗黒の穴の様な漆黒に染まっているという点を除けば。

 

 紅魔館に住んでいた時、同族達はこの剣を『魔剣グラム』と呼んでいた。北欧神話の武器を元に名を考案したらしいが、折角着けてくれた名前なので私もそう呼ぶことにしている。

 

 グラムの柄を取り、試し切りをするように軽く振るう。剣が通った軌道上を、魔力の粒子が線を描いた。最近使う機会が無かったので出来るか心配だったが、調子は良好。魔力は霧散せず、結晶化と存在の固着に成功している。

 

 戦闘態勢は整った。後は彼女を迎え撃ち、説得を試みるのみ。

 

 床を蹴り飛ばし、飛ばされた方向へ一気に移動する。吸血鬼の身体能力は、瞬く間にフランの近くまで私を運んだ。

 件の少女は、パチュリーと激戦を繰り広げていた。夥しい魔力弾を互いに乱射し、図書館を戦場に変えてしまわんばかりの弾幕合戦を繰り広げている。

 

 見る限り、パチュリーが劣勢だ。流石に病み上がりではフランに打ち勝つのは難しいか。服は所々焼け焦げており、様々な精霊魔法を打ち放つ彼女の表情は苦悶の色を滲ませている。

 潮時だろうな。後は私が引き継ごう。

 私が回復するまでよく持ってくれたと感謝の念を浮かべつつ、私はフランへ言葉を投げた。

 

「フラン」

 

 私の声が彼女の耳に届いた瞬間。フランの小さな頭が、ぐるりと勢いよくこちらへ振り向いた。鮮紅の眼に獰猛な殺気が宿り、幼気な口元が思い切り吊り上がる。どうやら、無事に標的をこちらへと変えられた様だ。

 その隙にパチュリーへ避難するよう目配せして、私は愛娘へと視線を移す。顔立ちが整っている分、その表情はあまりに狂気へ満ちていた。

 

「君の狙いは私ではないのかね。さあ、こっちへおいで。積もる話もあるのだろう? 私と少し話をしようじゃないか」

「―――ッはははははははは!! わざわざそっちから来てくれたのね。お望み通りお話しましょう? けど、壊れちゃっても文句は言わせないから!」

 

 瞬間、爆発的な速度でフランは肉薄した。小さな両手に握りしめた炎剣を、彼女は力任せに思い切り薙ぎ払う。その一撃は、一振りで私の半身を削り飛ばす程の恐ろしい威力を秘めている。

 だが、ただ己の力のみで振るうだけでは、武器は武器足り得ない。如何にして相手に軌道を読ませず一撃を叩き込み、無力化するかが武器を扱う上での肝となる。破壊力の凄まじい炎剣でも、大振りゆえに対処しやすい。

 

 炎剣の軌道上にグラムを置き、刃を滑らせるかのようにして横へ受け流す。態勢を崩し、自身の回転力に振り回されて吹き飛んで行きそうになったフランを、柔らかく受け止めた。

 

「フラン。君はどうしてそこまで私に殺意を向ける? 私が離れてから400年間、一体何があったのか教えてくれないか」

「――――うるッッさい!!!」

 

 耳を劈く怒号が炸裂し、彼女の体から全方位に向かって魔力の炸裂弾が放たれた。私は瞬時に距離を取り、跳弾してきた流れ弾をグラムで弾く。

 対するフランは、額に青筋を走らせる勢いで、明確な怒りを露わにした。

 

「偽者のくせに、一丁前に魔剣グラムまで使ってくれちゃってさぁ。どこまでも私を怒らせる気なのね。もしかして動揺を誘うつもりでいたのかしら? 大外れよ、この出来損ないのドッペルゲンガー。そんなことしたって火に油を注ぐ真似でしかないわ」

 

 ……ニセモノ? 

 はて。フランは一体どのような意味で今の言葉を使ったのだろうか。まさかグラムが盗作だなどと指摘してきた訳ではあるまい。名前は確かに神話の武具が元ネタだが、剣のデザインに関してはオリジナルだ。剣を作ろうと思ったらこの形にしかならないので、こればっかりはどうしようもない。

 

 普通に考えると私が偽者だという意味に当て嵌まる。そう言えば、私が炎剣で弾き飛ばされた時も彼女は同じことを言っていたが……これは、もう少し探りを入れる必要があるな。決めつけるには情報があまりに足りなさ過ぎる。

 

「偽者とはどういう意味だ? まさか、私が誰だか分かっていないのか?」

「……ふん。良いわ、その挑発に乗ってあげる。もう後悔したって遅いんだから」

 

 フランは天上高くまで飛翔すると、炎剣に纏わりつく炎の魔力を霧散させ、魔力を被せていた芯の部分だろう捻子くれたステッキを掲げた。

 彼女の、七色の宝石が散りばめられた翼が光を放つ。魔力の鼓動が空気を振動させ、それは衝撃波となって肌を打った。遠距離から砲撃を仕掛けるつもりか。

 

「絶対不可避の弾幕攻撃。精々足掻けばいいわ」

 

 紅の眼が煌めき光る。フランがステッキを振り下ろす。それを引き金とするように、私の周囲を檻状の魔力弾が、緑色の輝きを伴って展開された。機動力を封じ込め、私の進路と退路を塞ぐ目的だろう。

 

 立て続けにフランは青白い閃光を両手に発生させる。それは日本の手裏剣に酷似した、ブレード状のレーザーだった。手のひらサイズだった光の手裏剣は、フランの妖力の上昇に応じて一気に膨張し、掠りでもすれば肉も骨も関係なく切断されてしまうだろう極悪な凶器へと変貌する。

 フランはそれを高速で回転させながら私へ放つ。手に生じた二つだけではない。三つ、四つ、五つと、逆時計回りに回転する殺人ディスクが、追い打ちに流星群の如きレーザーが、私へ怒涛の勢いをもって押し掛けた。

 

 魔剣を構え、魔力の檻へ向かって斜めに切り込むようにして一閃する。

 莫大な魔力が刀身から解き放たれた。それは魔力の竜巻を引き起こし、緑の檻を蝋燭の火を仰ぐようにして吹き飛ばす。続いて迫りくる光の手裏剣の一つをグラムで切り伏せ、上へ向かって跳躍する事で残りのレーザーを躱し切る。

 そのまま、一気に空気を蹴り飛ばした。同時に飛行魔法を発動し、フランへ向かって空間を滑るように奔り抜けていく。

 

 彼女は憎々しげに表情を歪め、翼を大きく羽ばたいて図書館を舞った。夜空を制するとまで言われた吸血鬼の機動力は伊達ではなく、フランは赤い閃光を軌道上に描きながら縦横無尽に飛び回り、背後を追尾する私に向かって無数の弾幕を打ち放った。

 漆黒の剣を振るい、次々に殺到する妖力弾を弾きつつ後を追う。彼女は途中、意表を突くように壁に向かって巨大な妖力弾を放ったかと思えば、それはゴムの様な弾力を持って跳弾し、まるでビリヤードの如く私を狙った。

 

 私は身を捩り、弾を跳ね上がるようにして避け切ると、そのまま壁に向かって着地し、魔力で強化した脚力の思うが儘に壁を駆け上がった。重力を無視した凄まじい挙動に、空気を切り裂く風切り音が耳を突く。

 天井付近まで駆け上がり、私はそのまま天井へと足を突き刺した。さながら蝙蝠の如く宙ぶらりんの状態になった私を、フランは怪訝な顔をして睨み付ける。

 

「気に入らないわ。さっきから何のつもり? 剣を持って追っかけて来たかと思えば急に逃げて、今度は蝙蝠ごっこなんて。死の恐怖のあまり頭がオカシクなってしまったのかしら」

「私は最初から君の話を聞くことが目的だよ。フラン、君をそこまで破壊に追い込んだものは何だ? 心優しかった君が、ここまで敵意を持って苛烈に攻撃してくるなんてとても想像がつかないんだ。そこまで君を追いつめてしまったものの正体を教えて欲しい。悩みがあるならば私が力になろう。恨みがあるのなら、それを真摯に受け止めよう。だがそのためには、君の口から心の核を話して貰わなければ、どうしようもないんだ」

 

 フランドールの目が、奇妙なものを見るように開かれた。彼女の細い首がかくんと横に倒れる。金色の柔らかい前髪が流れ、くりくりとしたガラス玉の様な眼が一際露わになった。

 

「悩み? 恨み? 私が追いつめられている? 何を言っているの。私は貴方に恨みなんて無いよ。悩みなんてこれっぽっちも無い。追いつめられているだなんて履き違えもイイところよ。でもね、私は貴方が許せないの。敬愛するおじさまの力を奪って、それを私利私欲のために利用して、あまつさえそれで私の家族を、友達を! 傷つけようだなんて思い上がった考えを持つ愚か者の存在が、私は絶対に許せない!!」

 

 心で煮えたぎる怒りの業火を口から吐き出すかのごとく、フランは絶叫した。怒号に等しい叫びだった。その感情爆発に呼応するかのように、彼女から発せられる魔力量が圧倒的に上昇する。高濃度の魔力は可視化され、陽炎の如く彼女の周囲を歪め始めた。

 

 かつて天使の様な笑顔を浮かべていた愛娘は、同一人物とは到底思えない悪魔の如き形相を浮かべ、私を視線で殺さんとばかりに凝視した。

 

「だからッ! 貴方を殺すッッ!!」

 

 刹那。今までの比ではない光の波が、周囲一帯へ襲い掛かった。

 縦横無尽に、四方八方に、自由自在に。辺り一面に放たれた無差別の白光魔力弾が、視界一面を白で覆い尽くすが如き勢いを伴い、津波となって押しかかったのだ。

 

 私は天井から離れ図書館の宙を素早く舞いながら、二本目のグラムを顕現させ両手にそれぞれ剣を持ち、ありとあらゆる方向から迫る怒涛の弾幕を弾き、叩き落とす。だがこれは、流石に数が多すぎた。大部分を捌いても、打ち漏らした一発一発が私の身を的確に焼き穿いていく。瞬時に再生する為にダメージは無いに等しいが、さて、どうしたものか。

 

 しかし、今しがたのフランの発言は、一体どういうことだ?

 彼女は、私が400年前に置いて旅に出て行ったことを心底恨んでいた訳では無いのか?

 私の推測では、私に捨てられたと勘違いした繊細なあの子が心を痛めたが故に、ここまでの破壊衝動に侵されたのではないかと言うものだったが、どうやら全く違うらしい。そもそも『おじさまの力を奪って』とは、何だ? 

 

 思い返せば、彼女の言動には何か強い違和感があった。そもそも狂気に侵されている様に思えないのだ。過去に何度か、完全に狂気へ侵された者たちを見たことがあるが、アレは会話が成り立つとか、そう言った次元ではなかった。もはや言葉が意味を成さないような状態に成り果てていたのだ。侵食が軽度であっても、発狂すれば重度と同じような状態になる。フランの今の状態が発狂を指し示すものだとすると、会話の受け答えが出来ている時点で不自然極まりないのである。リンゴに足が生えて勝手に市場へ出回ったとでも言われたかのような、大きな不審の念を私は抱いた。

 

 おかしい。やはり何かが決定的におかしいのだ。不揃いな歯車が無理やり時計の針を進めているかのような、傍目から見ても決定的過ぎる気持ちの悪い違和感が確実に存在している。

 

 狂気。

 理性。

 殺意。

 目的。

 

 疑いを持った様々なワードが、頭の中で乱立する。それら一つ一つを絡めさせ、解き、また別の答えへと繋げていく。

 そして私は、ある一つの答えを弾き出した。

 暗闇に光が差すかのように、これまでになく頭が鮮明になる。天啓に等しい閃きが、私の感覚を思考の一点に引き絞り、至極単純明快な解答を生み出した。

 

 もしかすると私は、とんでもない思い違いをしているのではないか?

 

 あまりに拍子抜けた答えだが、不思議と私はこれが正しいように思えた。そもそもの前提条件が間違っているのだと、今までのパーツから理解出来たのだ。

 そこで私は、一つの前提を覆す事にした。

 彼女は狂気に侵されてなどおらず、理性の下に動いているという、至極真っ当な仮説へと。

 

 この仮説を元に考えた場合、フランの行動を説明する為に必要となるのは動機だ。完全に狂った妖怪に理由など無い。あるのは本能、そして衝動の解放それ一つである。しかし理性ある者は違う。理由を持ち、動機を得てから、形はどうあれ理に従った行動を行う。

 であれば、フランが私を殺そうとする動機を得たのには、何かしらの理由が存在するはずである。ここで気になるのが彼女の『偽者』という発言だ。フランが私を見て偽物と断定したと言うことは、彼女が本物と判断している別のナニカが、どこかに必ずある筈である。

 

 濃厚な線を挙げるならば、単純に私へ成りすましている何かが存在する可能性か。

 だが、フランが私よりも本物らしいと思えるような者が、この世に存在し得るのか? 実に皮肉的だが、私の存在感は並ではない。むしろ邪魔だと言えるレベルである。この魔性を私と見分けがつかない程に再現しきる者がいるなど、俄かに信じ難いのだ。それに、もしフランが本物だと言い張れるほどの気配の持ち主が近くに居れば、私が今の今まで勘付かない訳がない。

 そもそもフランは、狂気に侵されていると判断されて幽閉された身だ。外部からの接触はほぼ絶たれているに等しい。そんな状況では、偽の私を本物と判断するどころか出会う事すら………………待て、『出会う機会が無い』だと?

 

 ――――――あるな。

 一つだけ、この状況を作り出せる『本物』の立ち位置がある。信じられない手法だが、これだと納得はいく。あの子が紅魔館の少女達に狂気に侵されたと判断され、さらに幽閉された身であっても、私の偽者と出会いそして『本物』と判断する、いや、『判断させられる』方法が。

 

 確かめるしかない。

 こればかりは、自分の目で確認せねばならない。私の予測が正しければ、これは狂気だとか、そんな枠から大きく外れた事件に一転することとなる。

 

「何!? 闇雲に剣を振り回して弾くだけ!? どうせおじさまの力を奪って、今まで悦に浸ってただけなんでしょ。少しはやるかと思ったけど、もういいわ。やっぱり貴方におじさまの力は相応しくない。一気にケリをつけてやる!!」

 

 痺れを切らしたフランが、一方的に弾幕を解いた。彼女は憤怒の色に表情を染めたまま、小さな手のひらをこちらへ向ける。

 私の『目』を奪い、破壊する気か。どうやら本気で終わりにするつもりらしい。

 だがしかし、彼女の能力の弱点は分かっている。あのように手のひらで標準を合わせ、狙った『目』だけを奪いとる方法を考案したのは私だ。能力が不安定だった時のフランは、自分の意思に関係なく周りの『目』を奪っていた。それに比べれば、狙われていると分かる分だけ対処のしようがある。

 あれを避けるのは簡単だ。要は手を向けられた瞬間に、フランの視界から外れればいい。

 

「きゅっとして――――」

 

 飛行魔法を応用し、空気を足場へと変える。そのまま固形化した空気を蹴り飛ばし、フランの『目』を奪う所作よりも早く真横へと回り込んだ。

 フランはいきなり横へと現れた私に驚愕し、反射的に右手を振りかぶった。手には、鋭利な深紅の爪がズラリと伸びている。槍の様に振るい、私を貫く気だろう。

 それを、避けることなく体で受けとめる。

 

 ズグッ、と生理的嫌悪感を催す嫌な音が腹から伝わる。吸血鬼の怪力と容易く肉を引き裂く鋭利な爪によって、一切の強化を施していない私の肉体は容易く貫かれた。内臓諸々を爪で掻き潰されたようだが、私は吸血鬼だ。この程度は問題ではない。これでいいのだ。これでフランは、私から離れることは出来なくなった。

 

「フラン」

 

 当たったことが予想外だったのか、目を大きく見開いたフランの頬を、私は剣を放った手でそっと包む。そして彼女の顔を私の方へと向けた。

 丁度、目と目が合う角度へと。

 

「私の目をよく見なさい」

 

 吸血鬼は、目を合わせた相手の心へ干渉できる魔眼を持っている。人間を糧とする種族が故に、警戒されるより術を掛けて相手を陥落する方が遥かに効率良いからだ。それを応用すると、心の中を見る事が可能となるのである。

 フランの瞳から、彼女の心を覗き込む。表層は無視し、その奥へと深く、深く潜っていく。私の予測が当たっているのなら、そこにきっと答えがある筈なのだが……。

 

 ―――――――――――――――見つけた。

 

 

「離せ!!」

 

 攻撃をわざと食らって私を拘束し、私の眼を通して何かを行った偽物の脇腹へ全力の魔力弾をぶち当てた。

 おじさまの力を奪って出鱈目な機動力を手にしているとはいえ、流石にこの至近距離で避ける事は不可能だったようだ。私の腕が貫いた腹部の穴と脇腹の熱傷が、黒づくめの衣服の中に酷く痛々しく映える。

 だがそれも、時間が巻き戻っていくかのようにみるみる再生してしまう。やはりおじさまの力は凄まじい。同じ吸血鬼でも別次元の身体能力だ。普通の吸血鬼なら、重要な内臓にあれだけの損傷を受ければ一日かけて眠らないとまず治らない。ところが偽者はものの数秒と来た。化け物とは、まさにアレを指すんだろう。

 

 ああ、忌々しい。忌々しい。忌々しい!!

 

 偽者が平然とおじさまの力を使う姿を見るたびに、胸の内からどす黒い感情が湯水の如く湧き上がってくるのが分かる。私は少しだけ喧嘩っ早い性格だけど、それでもここまで黒い感情を抱いたことは無い。これが憎しみと言うものなのだろうか。こいつがおじさまを殺し、力を奪って生を謳歌していると考えるだけで、魂すらも破壊して輪廻の輪から外してやりたくなる衝動に駆られる。

 

 でも、何よりも一番忌々しいのは……この偽物が、本物のおじさまなんじゃないかと、思い始めてしまっている私自身だ。

 

 あの息が詰まりそうになる、格の違う吸血鬼の覇気。純粋な魔力を結晶化させるというとんでもない荒業をもって形成される魔剣グラム。私の攻撃をいとも簡単に掻い潜り、何度も何度も私へ優しく語りかけてくる、あの表情と仕草。何より一番揺さぶられたのが、私の眼を覗き込んだ眩い紫の瞳だ。

 

 私がまだ本当に本当に小さかった時、一度だけ高熱を出して倒れた事があった。妖怪は滅多に病に罹らない。吸血鬼となれば尚のことで、おじさまは酷く焦ったらしい。その時うなされていた私を心配そうに覗き込んだおじさまの優しい眼に、奴の眼はとてもよく似ていたのだ。

 さらに私の眼を向けさせるために頬へ添えられた手が、熱を吸い取ろうとするかのように額に当てられたおじさまの手の感覚を、鮮明に思い出させた。

 

 いや、待て。私は一体何を考えている。アレは偽者だ。とてもよく似ているだけの偽者だ。おじさまは私の中に、魂だけとなって残っている。アレが本物なわけがない。アレは、私の家族に手を出そうとしている最悪の侵略者なのだ。

 

 ……でも、私はふと思ってしまった。

 いくらおじさまの灰を吸い込み、力を奪ったと言っても、殺した相手とここまで似てくるようなことなんて、本当にあるのだろうか?

 偽者はおじさまの事なんて何も知らない筈なのに、一挙一動まで似ているだなんてことが……。

 

『フラン、落ち着きなさい。奴の行動に惑わされてはいけない。アレは私の姿をしているだけの紛い物なのだ』

 

 突然響いたおじさまの叱責が、私を空想から現実に引き摺り戻した。頭を振るい、偽者を見る。偽者は微動だにしようとせず、ただこちらを静かに見つめているだけだ。手元にあった剣は、いつの間にか消失していた。

 

「分かってるよ、おじさま」

『……大分疲弊しているようだね。私の姿をした者を葬ろうとするのが辛いのだろう? ならば、さっさとトドメを刺してしまうに限る。私が見た限りだが、奴は君の能力が発動する瞬間、明らかに意図して避けていた。裏を返せば、君の能力は偽の私にとって有効打に成り得るのだ』

「でも、偽物が速すぎて『目』を捉えられないよ。まるで私の力を知っているみたいに避けたし、多分当たらない。私の力は隙が大きすぎる」

『ああ、そうだな。今の君の使い方では、偽の私に攻撃を加えるのは難しい。だからフラン、枷を外しなさい』

「えっ?」

 

 枷を外せ。この言葉の意味を、おじさまは分かっているのだろうか?

 私は手のひらで対象の『目』に標準を合わせ、奪い取る手法を普段使っているのだけれど、この能力は最初からこういった使い方だったわけではない。昔の私はとても能力が不安定で、一度発動させれば、私の周囲にある『目』を無差別に奪い取ってしまっていたのだ。それを、おじさまと共に試行錯誤を重ねて今の形へ収めたのである。

 つまり、そういうこと。

 おじさまは、枷を外して無差別攻撃を仕掛けろと言っているのだ。これは照準を合わせる必要が無い。代わりに周囲の狙ったもの以外を破壊してしまう恐れがある。しかも今の私は、昔より魔力や諸々が格段に成長している。『目』を奪える範囲や量が、どれだけ肥大化してしまっているのか想像もつかない。

 

「でも、おじさま。まだ図書館にはパチュリーもいるよ? それに、パチュリーの大切な本だって沢山――――」

『大丈夫、パチュリーなら障壁を用いて君の力に抗える筈さ。それにだ、奴を生かしていた方が、後々の被害は格段に大きくなる。本はまた補える。図書館も直せばいい。だが奴をこのまま泳がせるわけにはいかない。安心しなさい、フラン。君なら出来る。さぁ、枷を解いて、奴の息の根を止めるのだ。紅魔館と幻想郷の未来の為にも』

 

 自分の手のひらに、視線を落とす。

 出来るのか? 本当に?

 

 枷を外そうと試みたところで、かつてのトラウマが、思い出の底から這いずるように出て来た。能力が暴走して、おじさまの体の一部を壊してしまった時の記憶が。飼っていた小鳥さんを壊してしまった時の、取り返しのつかない事をしてしまったと言う絶望的な感情の渦が。紅魔館の覇権争いに巻き込まれたお姉様を守るために、同族達を全員、破裂した血袋に変えたあの地獄のような光景が。それらの悍ましい記憶の数々が、私の心に躊躇を生んだ。目の前に、茨の森が出来上がったかのような幻覚さえ見えた程に。

 

 手が震える。足が竦む。

 どうしよう、怖い。怖いよ。

 もし、もし事故でパチュリーの『目』を壊してしまったら、私は、私は……!

 

『フラン』

 

 おじさまの声が響く。いつもとは違う、どこか苛立ちを含んだ様な声色だった。

 

『さぁ、やるんだ』

 

 どうしても、やらなきゃ駄目なの? もしかしたらパチュリーが死んじゃうかもしれないんだよ?

 

『何をしている。今しか奴を葬るチャンスは無いのだぞ』

 

 おじさまの怒気が強くなる。頭が揺れたかのようにすら思えた。

 あぁ、ごめんなさい。ごめんなさい。臆病でごめんなさい。だから、そんなに怒らないで。おじさまにまで見放されてしまったら、私は、私でいられなくなってしまう。

 

『さぁ、やれ。フラン!!』

 

 ―――ごめんなさい。

 枷を外して、能力を発動する。それだけでいい。後は、何も考えなくていい。そうすれば、おじさまに怒られる事はもうない。また私は皆に嫌われちゃうかもしれないけれど、振出しに戻るだけだ。また、あの地下室に戻るだけだ。

 そう、それだけ。

 それだけ、なんだ。

 だから、頬に伝うこの暖かい感触なんて、すぐに忘れられるに決まってる!

 

「――――――妹様ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」

 

 手に力を集中させようとした、その時だった。

 けたたましい咆哮が聞こえた。図書館中に響いた思いがけない叫び声に、私は能力の発動を反射的に解除した。

 陽だまりの様な張りのある活気に満ちた、風鈴の如く美しいこの声は。

 私たち姉妹をずっとずっと守ってくれた、大切な門番さんの―――美鈴の声だ。

 

「美鈴!」

「すみません、妹様! どうか、どうかお許しください!」

 

 彼女の手が、虹色の『気』を纏っているのが見えた。ああ、そう言えば美鈴は私とお姉様の喧嘩を止めるとき、あれで二人とも気を失わせていたんだっけ。

 いつもは何で分かってくれないんだろうって思っていたけれど、今日は、本当に良いところで私を止めに来てくれた。

 ありがとう、美鈴。私は、貴女のお蔭で大切な家族を壊さずに済んだのかもしれない。

 

 彼女の手が私の首筋へ優しく当てられたと感じた時、私の意識は、暗闇の奥へと呑み込まれていった。

 

 

 何やら突然様子がおかしくなったフランの様子を伺っていると、虹色のエネルギーを纏った紅髪の女性が突如乱入し、フランの意識を刈り取った。

 絶妙なタイミングだった。もしかしたらフランは、故意的に能力を暴走させようとしていたのかもしれない。理由は分からないが、手を見つめて震えだした時から、何かをしようとしているのがハッキリと分かった。

 

 私が止めるのも良かったのだが、下手に動いて刺激してしまえば、咄嗟に能力を発動されかねない状態だった。故にどうする事も出来なかったのだ。私はフランの能力を食らっても再生に時間はかかるが、多少は平気だ。だが物陰で休んでいるパチュリーは違う。無差別破壊に巻き込まれれば、彼女は間違いなく爆砕されていた事だろう。あの紅い髪の女性には感謝しなくてはならない。

 

「ナハトさん!」

 

 フランを抱えた紅い髪の女性が、私の名を呼んだ。はて、どこかで知り合った子だっただろうか――――いや、思い出した。彼女の名は美鈴。私がまだ紅魔館に居た時、私の不在時に姉妹のお守りを一任していた少女だ。確か、会ってまもなく強さとは何たるか教えてくれだとか奇妙な事を言われた記憶がある。私の魔性に少々崇拝寄りな影響を受けていたようだが、根が真っ直ぐで芯のある少女の様だったので、二人を任せるに至ったのだったか。

 それにしても、かつて彼女の口から飛び出た私の二つ名の数々にはほとほと参った。お蔭で、紅魔館の裏ではあんな呼ばれ方をされていたのだと気づいてしまったのだ。知らぬが仏とはまさにこの事である。

 しかし彼女がこの館に居ると言うことは、どうやらずっと我が愛娘たちを守ってくれていた様子だ。実にありがたい。今度何かお礼をしなくてはならないな。

 

「ナハトさん、その、息災の様で」

「そちらこそ、美鈴。長い事館を開けていてすまなかったね。それにしても、まさかまだここに残ってくれているとは思わなかったよ。ありがとう、ずっと姉妹たちを守ってくれて」

 

 彼女は目を見開き、しばしの余韻の後に下へ俯いてしまった。心なしか、肩が震えている。

 

「私には、勿体ないお言葉です」

「そんなことは無いさ。現にこうして、フランを止めてくれたじゃないか。……ああ、そうだ。再会の時間をまだ喜び合いたかったのだが、今は急を要する。一つ、頼みを聞いてもらえるかね」

「はい、私に出来る事ならばなんなりと。この身に代えても遂行して見せます」

 

 ……そこまで畏まらなくても、良いのだがなぁ。恐怖による狂信ではなく恐怖による羨望で接してくれている分にはまだありがたい方なのだが、彼女の私に対する呼び名の矯正は、また随分と苦労したものだったか。様付けならまだ我慢は効いたかもしれないが、流石に『闇の君』と呼ばれた時はどうにもならなかった。私は魔王でもなんでも無いのだから、気軽にナハトで良いと言っても受け入れてもらえず、結局ナハトさんで落ち着いた過去がある。

 

 まぁ、そんな事はどうだっていい。今はフランの方が重要だ。

 

「フランを地下室で見張っていてくれないか。おそらく、まだ彼女は落ち着いていないだろう。目覚めて錯乱すれば、再び暴れだしかねない。私が見張ってもまた争いになるだけだからね。見知った顔の君なら、フランも手を出してくることはないだろうから、頼めるかな?」

「承知しました」

「そのフランの見張り役、私も同行していいかしら?」

 

 いつの間にか近くに来ていたパチュリーが、魔導書を抱えたまま言った。もう体調も回復できたのだろうか。

 

「平気か?」

「無論よ。それに、水の精霊魔法で拘束しておいた方が安全でいいじゃない。……あなたがこんな事を頼むということは、フランの狂気を取り除く策が浮かんだと言うことでしょう?」

 

 流石、知識の先駆者たる魔法使いだ。頭の回転の速さには感服する。

 フランの心を覗き込んだあの時、私は確かにこの目で見た。彼女の心の横へ、絡みつくかのように巣食うものの姿を見たのだ。アレばかりは、流石の私も驚愕を隠せなかった。まさか、アレがフランを惑わせていたモノの正体などと、予想だにもしなかったのだ。

 パチュリーの発言に、美鈴は眉を上げて私を見た。

 

「もしかして、妹様に巣食うナニカの正体が分かったのですか?」

「その通りだ。だがまず、レミリアに色々と確認をとる必要がある。これは紅魔館……いや、あの子達姉妹に関わる重大な出来事だ。だからそれまでの間少し、フランを見ていて欲しい」

 

 そう、これは狂気だとかそんな問題ではなかったのだ。フランは狂気に取り込まれてなどいない。心の奥底に寄生した、ある人物に騙され続けたが故の凶行だったのだ。

 終わらせなくてはなるまい。もしかすると義娘たちは心に深い傷を負う事になるかもしれないが、ここで躊躇してしまえば、フランと紅魔館に生まれてしまっている溝が埋まる事は決してないのだ。

 

 因果で狂ってしまった彼女たちの歯車を元に戻す決意を胸に、私は宣言する。

 

「今夜中に決着を付けてみせよう。フランドールはようやく、姉と共に夜空へ羽ばたく時が来たのだ」

 



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5.「親愛なるあなたへ、愛の手を」

 壁紙や絨毯といった、部屋を構成する殆どが紅を基調とした洋室。大きなベッドの上には艶やかな棺桶が重々しく置かれており、部屋に一つも窓は無い。人間の視点から見れば、ここは牢獄か霊安室だとでも勘違いする者もいるだろう。

 しかしここは、誰が何と言おうと私の私室だ。

 そしてこの絶対的プライベートゾーンとも言える場には今、私以外にもう一人存在していた。

 かつて闇夜の支配者とまで謳われ、最強の吸血鬼の称号を欲しいままにした亡き実父すら一目置いたと言う義理の父。ナハトおじ様その人である。

 

『レミリア、少し時間をくれないか。フランの事で話があるんだ』

 

 咲夜と共に図書館へ向かう道中だった。丁度入れ違いになりかける形でおじ様と遭遇し、この言葉で私は再び自室へ引き返す事となり、今に至る。無論、従者と言えど咲夜はこの部屋に入れていない。あの子には地下室で、美鈴やパチュリーと共にフランの様子を見て貰っているところだ。

 件のおじ様は相変わらずこちらの産毛が逆立つ様な威圧感を放ちながら、咲夜が去り際に気を遣って置いて行った紅茶を飲んでいる。

 

「それで、フランの話って何かしら?」

「……その前に少しだけ確認したい。君は、あの子の狂気に対してどのように認識しているのかな?」

「狂気ね……。美鈴やパチェと調べた限り、あの子の精神には何か別の精神的存在が寄生していて、それがあの子の心へ干渉し精神状態を攪乱させている。今は共存関係にあるのか侵食はされていない様だけれど、いつ精神的存在が活性化するか分からない。文字通り爆弾を抱えているような状態と言ったところね。分かる事と言えば、それくらいかしら」

「では、その何かの正体については?」

「分からなかったわ。私やパチェの分析魔法や美鈴の『気』を使っても、高度なプロテクトが掛かっていて詳細を見る事は叶わな――――まさか、おじ様はアレの正体が分かったの?」

「ああ。先ほどあの子の心を覗き見た時に、正体が分かった」

 

 ガタンッ、と椅子を蹴り飛ばす勢いで私は立ち上がった。じっとして居られる訳が無かった。妹の心へ巣食い続け、あまつさえ400年前にあんな大惨事をフランに引き起こさせたような奴の正体が分かったと言うのだ。今回ばかりは感情が昂るのも、致し方ないとさえ思えてしまう。

 

「おじ様、そいつは一体誰? どこの馬の骨なの? あの子にとり憑いたどうしようもない愚か者の正体は何!?」

「レミリア、少し落ち着きなさい」

「これが落ち着いていられるものですか!!」

「座りなさい」

 

 おじ様の口調がほんの少しだけ、諭す様に強くなったと思ったその瞬間。ビリッ、と電気のような衝撃が肌を走り抜けた。冷水を脊髄に注入されたかのような寒気が全身を襲い、沸騰しかけた頭が急激に冷めていくのを実感する。

 

 ……熱くなりすぎた。冷静な対話ができない状態では、おじ様も喋りたいことが話せないのだ。まだ、この長年溜まり続けた怒りを爆発させる時ではない。

 ごめんなさい、と謝罪して私は席へ着く。冷えた血の気を少し温めるように、紅茶を口に含んだ。

 

「すまない、少しキツく言い過ぎたね。しかし焦れば思考に膿が生じてしまう。今回の事件……特にその正体に対する対応は、熱を持った判断では到底手に負えるものではないのだ。分かってくれ」

「いえ、私が熱を持ち過ぎたのが悪いのよ。……それで、他に何か聞きたい事はある?」

「最後に一つ。私が館を離れてから、一体何があったのかを教えて欲しい。特に、フランがとり憑かれたと初めて発覚した頃の事を、詳細にだ」

「…………ええ、分かったわ」

 

 フランが取り憑かれたと分かった日。それは紛れもなく、400年前のあの日だ。あの忌まわしい、吸血鬼たちによる覇権争いが起こり、そしてそれが終息を迎えた日だ。

 

 400年前の当時、吸血鬼狩りの影響で同族たちが次々と紅魔館を去り、他の地へ安息を求めて移住していった。結局館にはもう、おじ様に私とフラン、そして最後まで残っていた美鈴だけとなったのである。更におじ様が急遽館を空けると私や美鈴に伝え、そのまま旅立ってから一月ほど経った後の事だ。

 

 突如、様々な派閥の吸血鬼たちが紅魔館へと攻めてきた。

 

 奴らは、おじ様を極度に恐れていた。故に、吸血鬼にとって支配者の証とも言える紅魔館の実権を欲しくても手が出せずにいたのだが、おじ様が館を離れたと知って、紅魔館を乗っ取ろうと我先に舞い戻って来たのである。

 

 それからの日々は、まさに地獄だった。連日の如く攻めてくる吸血鬼や使い魔の対処に、私と美鈴は追われ続けたのだ。

 どうやら奴らはおじ様にこの事件の情報が伝わらないよう情報封鎖を施していたらしく、おじ様の援軍も望めずに私たちはジリ貧へと追い込まれていった。私は特に、齧る程度しか戦う術を学ばなかったので、傭兵家業を本職としている美鈴より疲弊が強く、眠りにつくときは半ば気を失うような形で夢の世界へ旅立っていた。

 

 それでも何とか、おじ様に託され先祖から受け継いだこの家を、そして戦う事を知らず怯えて震えていた妹を守りたい一心で、私たちはずっと戦い続けた。

 しかし、限界と言うものは必ず訪れる。

 数の不利、能力の不利、力の差など、半ば無理やり埋めていた格差は再び開かれ、遂に私たち三人は地下室にまで追い込まれてしまったのだ。

 

 籠城するため、最後の力を振り絞って施した封印魔法が破壊されるまでのタイムリミットが近づいていく極限状態に、私と美鈴は絶望に近い感情を抱いていた。

 もう終わりだと実感した。どう足掻いても死の未来しか有り得ないと理解していた。

 運命を覗き見ても、そこには真っ赤な肉塊の様なものが転がっている光景だけ。この肉塊が誰なのかはわからないが、恐らく自分たちなんだろうな、と嫌に冷静な頭で思い浮かべていたのを覚えている。

 

 ……この時までの私は、実はおじ様の事が嫌いだった。

 憎んですらいたと思う。幼い記憶に僅かだけ残っている、スカーレット卿と称えられた父。そして妻たる母が吸血鬼狩りに殺され、そのまま私はおじ様の義娘となったのだが、当時の幼い私はそれが不満で仕方がなかったのだ。

 

 何故、私の両親が殺されなくてはならなかったのか。

 どうして闇夜の支配者とまで称えられ、最強と誰しもが認めた実の父ですら力を認めたこの恐ろしい吸血鬼が紅魔館に居ながら、親は無残に死の屈辱の味を舐めなければならなかったのか。

 おじ様は私の親を見殺しにして、紅魔館元当主の血筋たる私を駒にしよう等と思っているのではないか。

 

 そんな根も葉もない考えばかりを浮かべていては、ずっとずっと憎んでいた。こいつは、私の両親を見殺しにした逆賊なんだと。

 逆恨みに等しい感情だった。だから常に凄まじい威圧感を放ち、それでいてニコニコと薄気味悪い笑顔で接してくるおじ様の事が、堪らなく嫌いだった。

 館を出て行くと聞いた時は、本当に心の底から喜んだほどだ。やっとあの禍々しい瘴気から解放される。もうあの逆賊の顔を拝まずに済むんだ、と。

 

 それが間違いだった。自身の命があと一歩で消えるという所で、ようやく私は自分の考えが間違っていたのだと気づいたのだ。

 

 おじ様があんな威圧感を常日頃放っていたのは、私たち姉妹に欲深い吸血鬼の魔の手が迫らないようにする為の防護策だったのだ。自身の娘として扱ったのも、闇夜の支配者とまで言われたおじ様の家族に手を出せば、どうなるか分かったものではないと思わせる為の予防線だ。

 

 あの人は常に、私たち姉妹のことを一番に考えて行動してくれていたのだ。例えその結果、娘の一人に嫌われるような事になろうとも。

 そして吸血鬼たちが去って、漸く安全が確保できたと判断し、彼は私たちに安心の出来る生活を静かに送ってほしいと、館から身を引いたのだと悟った。

 

 私の中にあるおじ様の像が、完膚なきまでに崩れ去った瞬間だった。彼の事は、私たちを懐柔しようとして近づいてきているだけの反逆者だとばかり思っていた。だけど実際は、私たちの事を親身に考えてくれていた、ただの一人の義父だったのだ。

 

 途端におじ様の事が解らなくなった。私は、あの人の事など何も知らない。知ろうとすらしなかった。格の違う吸血鬼で、私たちを操り権力を手に入れようとする最悪の義父だと、そればかり思っていた私は、子想いの親切な父の姿と、偉大で恐ろしい吸血鬼のどちらがおじ様の本当の姿なのか分からなくなってしまっていた。

 

 でも、その時一つだけ分かった事は。

 

 私がおじ様を信じて、避けたり反抗的な態度さえ取っていなければ、おじ様も身を引いて私たちだけの安心できる生活を叶えようなどとはせず、ずっと館に居てくれただろうという事だ。そうすれば、こんな結末を迎える事は無かっただろうという事だ。

 

 壁に寄りかかり、震えるフランを抱きしめて、私は一人涙した。美鈴がずっと、私の頭を撫でてくれていたのを、今でもはっきり覚えている。

 

『お願い、助けて』

 

 悪魔が言うのも変な話だが、神に縋る思いで私は呟いた。もうそんな事を言ったところで、どうにもならないというのは分かっていたのに。

 しかし、予想に反して事態は一変した。まるで私のその言葉が、運命を逆転させるトリガーとなったかのように。

 変化はすぐ傍で起こった。私が抱きしめていたフランが突如、何かを独り呟き始めたのだ。

 

『おじさま……? え、う、うん。そうだよ、フランだよ。それより、一体どうなってるの? 何でおじさまの声が聞こえるの? うん、うん。えっ!? おじさま、な、なんで!? 何でそんな事に!?』

『…………フラン? どうしたの?』

『うん………うん。でも、でもおじさま。私の力は危ないよ。きゅってしたら皆死んじゃうよ。でも、そうだけど……嫌だよ。怖いよ』

『フラン? フラン!? どうしたの、気をしっかり持って!』

『でも……でも…………うん……そう、だね。このままだと、皆死んじゃうもんね。…………分かった。分かったよ、おじさま。私が守る。私が、美鈴とお姉様を守ってみせる。だからお願い、私に皆を守る勇気を頂戴』

『フラ―――――――』

 

 気が弱くて、大人しくて、虫さえも殺せず優しすぎるとさえ思えたフランが、その会話を境に一気に豹変した。

 私の腕からすり抜けて、まるで何者かから指示を受けているかのように、的確な動きで封印魔法を粉微塵に破壊してしまったのだ。

 突然の行動に、私と美鈴は呆気に取られてしまっていた。

 

『妹様!?』

『フラン! 貴女、何をしているの!? その魔法を壊してしまえば奴らが!』

『大丈夫』

 

 冷ややかな声色だった。いつもニコニコと笑っていて、私の後ろを子犬の様に着いて回ったフランのものとは到底思えない、鋭いナイフの様な冷酷さを孕んだ声だった。

 瞳はどこか別の場所を見ているようで、その眼を見た私は、この子がどこか取り返しのつかないくらい遠くへ行ってしまうのではないかと恐怖を抱いたほどだ。

 

 そして彼女は笑った。いつもの朗らかで、吸血鬼らしくない陽だまりの様に暖かい笑顔を、ふわりと浮かべた。

 

『私が、皆を守ってあげるからね』

 

 それが口火となった。あの子は部屋を普段からは考えられない豪速で飛び出し、私たちが静止を掛ける暇もなく、吸血鬼の戦争が行われている紅魔館の本館へ走り去っていったのだ。

 

 直後だった。男女を問わない凄まじい悲鳴のコーラスが、上の方から喧しく響き渡って来たのは。

 

 私たちは反射的に部屋を飛び出した。長い階段を飛んでいる最中も、悲鳴が止むことは決して無かった。

 地上へ近づけば近づくほど、今度は何か液体の詰まった袋が破裂しているかのような、耳にするのも悍ましい音が鼓膜を突いた。まさか、まさかと頭の片隅に湧き上がってくる想像を叩き伏せて、私は全力で上へ向かった。

 

 やっとの思いで地上へ辿り着き、そして目にした光景に、私は言葉も、動きすらも失った。

 

 アカだった。

 辺り一面……否、視界一面が、真っ赤な液体で染め上げられていた。

 

 紅魔館の元々の装飾ではなく、純粋に生き物の体液のみで、この黒混じりのアカを演出していたのだ。

 だがそれだけではなかった。むせ返るほどの鉄の匂いが充満し、ぶよぶよとした大小謎の塊や、まだ脈を打ち液体を吹き出す心臓。痙攣する単品の手足に、誰の物とも分からないガラス細工の様な眼。顎から下を全て失くし、虚空を見つめる頭だったものさえ、そこら中に散らばっていた。

 

 言うまでもなく、それら全てが、この館を我が物にしようとしていた吸血鬼や、それに従う使い魔たちのもので。

 

 私が運命を覗き垣間見た地獄がまさに、広がっていた。

 

 事態を把握して、突発的に胃の中のもの全てをぶちまけてしまいそうになった私は、口元を抑えて気合で押し込んだ。隣を見ると、それなりの修羅場をくぐって来ただろう美鈴ですら青い顔をしていた。

 

 私は顔を前に向け、惨劇の爆心地へと視線を移す。

 彼女はぼうっと立っていた。役目を終えた機械の様に、血だまりの中で静かに、両手を見つめながら立っていた。

 

『フラン、貴女……!』

『ん? お姉様……。終わったよ』

 

 終わったよ、とは何なのか。何を指して終わったと、フランは言っているのか。

 その時の私は、彼女の言葉を一つも理解できなかった。理解したくなかっただけなのかもしれない。

 

『貴女、なんで。なんでこんなことを……ッ!』

『だって、こうしないと皆殺されちゃうから。皆を守れないから』

 

 仕方ないでしょ? と彼女は言った。ただただ、平坦と言ってのけた。それが私には、どうしようもなく恐ろしかった。

 一体、何が原因だったのか。とにかく彼女は、もうあの優しくて臆病なフランドール・スカーレットでは無くなってしまったと思った。

 美しい金糸の髪すらも赤に染め上げて、虚ろな表情のまま薄く笑う少女が、おじ様よりも恐ろしい怪物に見えてしまったのだ。

 

 館の残骸を全て片づけた私と美鈴は、直ぐにフランを地下へ閉じ込めた。

 理由は二つ。狂気に汚染されてしまったのではと判断したこと。そしてもう一つは、彼女の存在を明るみに出させないようにすることだった。

 

 数多の悪魔を単身で葬った吸血鬼がいるなんて知られれば、当然吸血鬼狩りの矛先全てがフランへと向く。おじ様が居た頃ならばまだしも、今襲撃を受けると確実に殺されてしまうのは明白だ。

 

 だから情報封鎖を徹底して行った。周囲一帯の妖怪は吸血鬼の死骸を投げつけて脅し、紅魔館で死した同族は全て、吸血鬼狩りに遭って殺されたものだという事にした。フランの存在は絶対に明るみに出ないようにした。

 そして自然と、真実を知る周辺の妖怪たちからは、私は紅魔館の当主として認識されるようになり、パチェが訪れるその日まで誰も傍に近づくことは無くなった。

 

 それからフランの狂気の正体を探り続け、何かに取り憑かれていると判断した私はずっと治療を試み続けた。結果は惨敗に終わり、そして現在に至る。

 

 これが、フランの狂気と私が過ごして来た400年の、大まかな概要だ。血みどろに濡れてしまった、悍ましい記憶の一幕だ。

 私はそれを、おじ様が嫌いだったことは伏せ、その他全てを包み隠さず話した。全てを聞いたおじ様は、その目に明らかな罪悪感を湛えていた。

 

「まさか、あれからそこまでの惨事となっていたとは……すまなかった。私の配慮が至らなかったばかりに、随分と辛い思いをさせてしまった」

「いいのよ。私も、自分を過信し過ぎた非があるわ。それに、別に悪い事ばかりじゃない。パチェにも会えたし、咲夜とも会えた。二人に会えたのも、あの事件があって今の紅魔館の基盤が出来たからこそよ。……フランに関しては、ずっと気づいてあげられなかった私の方こそが悪いのだから」

「……ありがとう、辛い記憶を話してくれて。お蔭で合点がいった。奴が何故、フランの心に取り憑いたのかが。出来れば、こうであって欲しくないと思っていたのだが」

 

 フランに憑いたモノ。その言葉を前に、私は再び頭が熱くなって、しかし同じ轍を踏まないように深呼吸をした。会話を乱すのは時間の無駄だ。淑女たるもの冷静さを崩すべからず。ただの方便だが、今回はその言葉にあやかる事にした。

 

「私の話せることは話し終えたわ。次は、おじ様が話して頂戴。フランの心に、一体何が食らいついているのかを」

「…………いいか、レミリア。私は包み隠さず、正直に正体について話す。ここに嘘偽りは存在しない。だけど、どんな答えであっても冷静さを失ってはいけないよ。誓えるかい?」

「覚悟はできているわ」

「分かった。話そう。あの子の心に憑いたモノの正体、それは―――――――」

 

 おじ様の口から、長年フランを蝕み続けたものの名が語られる。

 そしてそれを耳にした瞬間。あまりに予想外な答えを前に、私は視界が白く光り、爆発したかのような幻覚を垣間見た。

 

 

 目が覚めて初めに目にしたのは、私を心配そうに覗き込む美鈴の顔だった。

 柔らかい花の様な優しい香りが、彼女の美しい紅髪からふわりと薫る。途端に現実へ意識が向いて、私はベッドから上体を起こし、周囲の状況を見渡した。

 地下室だ。私がいつも寝食を行う場所にいる。と言う事は、あの後美鈴にここへ運ばれたのだろう。

 

「美鈴……?」

「あ、気が付かれましたか。すみません、無礼な真似をしました。お許しください」

「ううん、いいの。美鈴は悪くないから。……アイツ以外は皆、ここに居るんだね」

 

 何を企んでいるのかは知らないが、普段の地下室を知る私からしてみれば、信じられない程の大所帯となっていた。

 

 部屋の隅には咲夜が居て、鉄仮面な彼女にしては珍しく、心配そうにこちらを見ている。その反対側の壁際にはパチュリーと小悪魔が居た。パチュリーはグリモアを展開して、何か魔法を発動させている様だ。

 

 そう言えば、体に力が入らない。手を見てみると、八の字を描くように水が流れている、さながら流水の手錠だ。パチュリーの精霊魔法だろう。これが私の力を封じて拘束しているのは一目瞭然だろう。

 

 と言う事は、だ。私をここに放って帰らず、わざわざ拘束して見張っているところから見て、ヤツがやってくると見て間違いない。

 

 丁度タイミングよく、地下室のドアがゆっくりと開かれた。

 同時に濃厚な力の気配が肌に纏わりついてくる。懐かしいおじさまの気配だ。でも今は別に嬉しくもなんともない。だってこの気配を出している人物は、おじさまを殺して力を奪った最低な偽者なんだから。

 

 ドアが開くと、予測通り偽者とアイツ……お姉様が居た。お姉様の顔が何やら焦りというか、まるで信じられないものを見たかのような顔をしている。一体何があったのだろう。まさか偽者に、色々と吹き込まれたんじゃないだろうか。

 

 お姉様は咲夜の傍に待機して、偽者だけがベッドの近くまで寄る。そして奴は美鈴が差し出した椅子へ腰かけた。丁度、半身を起こした私と対面する形だ。

 

「……一体何をするつもりなの。私をこんな風に拘束して、皆を騙して丸め込んで包囲網まで作って。流石元バンパイアハンターは違うわ、とことん性根が腐ってる」

「何のつもり、と聞かれてもね。言っただろう? 私はフランと話をしたいだけなんだ」

 

 ビキッ、と血管が浮かび上がる様な感触を覚えた。

 こんな風に、本当のおじさまの様に優しく名前を呼ばれると無性に腹が立つ。その声で名前を呼んでいいのは、正真正銘の本物だけだ。紛い物なんかじゃ決してない。ドッペルゲンガーはお呼びじゃないんだ。

 

 唾でも吐き掛けてやりたい気分だった。でも、そんな下劣な真似は絶対にしない。そんな事をしたら、この偽者と同じ格にまで堕ちてしまう。

 

「話……ねぇ。いったい何を話すというの? 私は貴方なんかと一秒でも話していたくないわ」

「なぁ、フラン。信じて貰えないのは分かっているが、私は正真正銘本物のナハトだ。君の幼い頃の事は、この場の誰よりもよく知っている。折角再会したんだ。少し、思い出話をしようじゃないか」

 

 血が沸騰しそうになる。もし枷が無ければ、今の私は爪が伸び、牙が生え揃った吸血鬼らしい容姿へ変異していた筈だ。多少は憤怒の影響が出ているのか、眼が充血して熱くなっている感覚があった。

 

 こいつは、まだ言う気か。まだ私を懐柔しようとしているのか。

 そこまでして私を、私たちを駒にしたいのか。そうまでして紅魔館の権力と財宝が欲しいのか。私とおじさまの思い出を土足で踏みにじりますと、わざわざ宣言まで下して。

 不愉快、極まりない。

 この流水の手枷さえなければ、その減らず口を叩く唇を、頭ごと粉微塵に爆砕してやるのに。

 

「…………れ」

「君は能力の制御が、最初はとても下手だった。私と共に、よく練習したものだ。君は誤って物を壊すたびに、いつも泣いていた」

「黙れ」

「5年もかけて漸く能力を克服して、レミリアと初めて会った日の事を覚えているか? 君は本当に嬉しそうに、何度も何度も私へレミリアと話した内容を報告してきたな」

「黙れ……!」

「レミリアと喧嘩して、どうやって仲直りしたら良いか分からなかった君は、私へ謝り方を聞きに来たのだったか。そしていざ行こうとするとレミリアの方が先に謝りに来たものだから、毒気を抜かれて、姉妹二人でずっと笑い転げていた事もあった」

「黙れ!! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れええええええ!!」

 

 我慢の限界だ。殺してやる。何が何でも、こいつを八つ裂きにして殺してやる。

 生きている事を後悔させてやろう。かつて私とお姉様を利用しようとした同族達と同じ、いやそれ以上に凄惨な目にあわせてやる。地獄が生温いと言う事をその身に叩き込んでくれる。

 

 私とおじさまの思い出を、知った風に語るその口が許せない。笑顔で宥めるように語り掛けて、おじさまの仕草を真似ているのが腹立たしい。だが、そんな事よりも。

 

「その顔で、その声で、その姿で!! これ以上私に話しかけるなッッ!! 消えろ偽者! お前は、お前はおじさまなんかじゃない!! お前は、おじさまなんかじゃ……!!」

 

 偽者なのに、こいつの事が本物に思えてしまう自分が、心の底から許せない。

 400年間もずっと一緒に居てくれた魂のおじさまを否定する様で、400年間を全て台無しにしてしまう様で、私はそれがどうしようもなく許せなかった。なんて、なんて傲慢な娘なのだろうかと。

 

 ああ駄目だ。さっきの戦いのときに生まれた疑いの種が、私を駄目な私にしている。いつも私とお話をしてくれていたおじさまを疑う様な、悪い子に成ってしまおうとしている。

 

 恐らくアレだ。あの眼で覗き込まれたときに何かをされたんだ。精神干渉術でも仕掛けられたんだろう。そうだ。きっとそうに違いない。

 じゃなきゃ、そうじゃなきゃ、何でこんなに辛い。どうしてこの偽者に暴言を吐くことが苦痛に思えてしまう。私がそんな心を抱くわけがないんだ。奴は紛い物、偽者、最悪のドッペルゲンガーでしかない筈だ。そんな相手に、こんな、こんな感情を抱くわけがない。

 

 この感情は、術を掛けられて偽者に騙されているだけだ。私は、フランドール・スカーレットは卑劣な妖術如きに絶対騙されたりなどするものか。

 

「私は騙されない。おじさまは私の中に居る。おじさまの灰を吸い込み、力を奪って姿を真似ただけのお前を、認めてなんかやるもんか」

 

 殺意を漲らせ、私は偽者を睨み付ける。それしかできない自分が、本当に歯痒かった。

 偽者は、私の言葉を黙って聞いていた。噛み締めているのか、何かを企んでいるかはわからない。偽者のくせに、考えを読み取る事の出来ないおじさま独特の神妙な顔つきのまま、ずっと黙り込んでしまった。

 

 暫くして、奴は右手を静かに挙げた。何をするつもりだろうか。

 

「パチュリー。フランの拘束を解いてくれ」

「……あなた、本気? 今のフランは酷い興奮状態にある。解いた瞬間、破壊されるわよ」

「対話とは、話し合う二人が対等の立場となって初めて成立するものだと思っている。この様に縛られたままでは、フェアではないと気が付いてね。フランが話を聞いてくれないのももっともだ。だから、外して欲しい。頼む」

 

 パチュリーは数拍の間迷いを浮かべて、渋々グリモアを閉じた。瞬間、私の両手を封じていた流水の手枷が泡の様に消え去り、自由な両手が露わとなる。

 力が戻り、魔力が漲る。今なら、直ぐにでもこの男を爆砕してやれる。

 

 フェアじゃない? 対話にならない? 私は元より贋作と会話をする気なんてさらさらない。

 吸血鬼の誇りある行動を気取っているつもりか。ならば後悔させてやる。私に好機を与えた事の愚かさを。己の罪深さを。

 

 私は右手のひらを偽者へ向けた。力を右手に集中させ、頭の『目』を奪い取る準備段階へ入る。後は『目』を奪って握り潰せばいい。その一アクションで、この男はただの腐臭漂う屍に成り下がる。

 

 でも、殺意に右手は反応しなかった。手を向けても、『目』を奪う気配すらない。指が一寸たりとも動かず、見えない糸で固定されているのかと思ってしまう。

 

「フラン」

「っ……私の名前を、呼ぶな」

「君がこれから私に何をしようとも、私は決して君を責めたりなんかしない。それで証明されるのは、私が君に本物だと信用されない、ただの不出来な義父だったという事実だけだ。躊躇はしなくていい。君の正しいと思った方向を選びなさい。私はその結果を全て受け止めよう」

「五月蠅い。言われなくてもその口、封殺してやる……!」

 

 手が、震える。

 指が動かせず、『目』が奪えない。頭以外の体がアクションを拒否しているかのようだ。本能とでも言うべきなのか、この男を壊したら、絶対に後悔すると私の心が警報を鳴らしているのだ。それはもう、とても、とても五月蠅く。

 

 これは偽者の放つ威圧感に気圧されたからではない。そんなもの、とうの昔に慣れてしまっている。

 殺意が足りない? 違う。今でもこの男を血祭りにあげてやりたい衝動に駆られている。おじさまの生を奪い、思い出まで踏みにじった相手だ。殺す決意は、十分すぎるほどに溜まっている。

 

 でも、出来ない。

 私は、彼を殺すことが出来ないでいる。

 気が付けば、私の手はだらりと情けなく下がってしまっていた。

 

「なんでぇ……っ……なんで殺せないの……!」

「……それは君が、心のどこかで私を本物なんじゃないかと思っているからだ。そうでなければ、君は今の瞬間迷うことなく私を殺したはずだろう。しかし今の君には、私を本物と認めるだけの材料が、とっくに揃っているんじゃないか?」

「違う……私は、貴方を本物と認めていない!」

「では、何故私が君との記憶をここまで鮮明に知っていると思う?」

「ッ!?」

「吸血鬼の灰を吸い込めば力を得られるのは正しい。でもね、姿や記憶までは一緒にならないんだ。そうなってしまうのなら、それは遠回しの乗っ取りと何の変りも無い。吸血鬼は、そこまで万能な生き物ではない」

 

 彼の手が、私の頬に触れた。大きくて、少し硬い手のひらの感触。それが、どうしようもなく過去のおじさまを思い出させた。

 

「言葉ではまだ確証を得るのは難しいだろう。だから少しだけ……ほんの少しだけ、私の記憶を君に見せよう。どうかこれを見て、事の真偽を見極めて欲しい」

 

 もう片方の手が、私の眼前へ広げられた。手のひらに強い魔力が集中しているのが分かる。黒い靄が渦を巻いて、そしてそれが、布を広げるようにして拡散した。

 

 闇が見えた。一寸先も見通せない、光の無い暗黒の空間がそこにあった。

 でもこれは、決して恐ろしい類の闇ではなかった。病気の時の悪夢の様に、早く逃げださなければと感じる闇ではなく、例えるなら親の毛布の中に潜り込んで目を瞑っている時の様な、絶対的な安心感が体を包み込む、心地の良い闇だった。

 

 目を凝らしていると、光の泡が見えた。それが、闇の中からあちこちと浮かんでくる。遂には満天の星空の様に、美しい光の泡のイルミネーションが飾るプラネタリウムへと変貌した。

 

 泡が一つ、二つと近づいてくる。そこには、私の知らない光景が広がっていた。

 初めに見えたのは、ベッドの上にごろんと転がっている赤子の映像だった。

 まだ完全に生え揃ってはいないけれど、金糸の様にキラキラしていて、指を通せばスルリと通り抜けてしまう様な髪の赤ちゃんだ。何故か凄く泣いている。あんまり皺くちゃな表情で泣くものだから、思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 

 光るシャボン玉が変わり、同時に映像も切り替わる。そこには一歳くらいの子供が映っていた。

 この子も金髪で、背中にはキラキラと輝く宝石の様な羽が揃う、見慣れた翼が一対生えている。

 

 この翼。瞳の色。髪の色。どこか面影を感じる、この顔立ち。

 まさか、この子は、私か?

 

 食い入るように映像を見てしまう。流石に一歳近い時の記憶など、残り屑程度も残っていない。

 まるでホームビデオを見ているような気分になった。この映像が偽者に見せられている事実なんて、いつの間にか頭からすっぽり抜け落ちてしまっていた。

 

 玩具で遊んでいた金髪の子供は、視界の主に気が付くと笑顔で歩いてきた。おぼつかない様子でよちよちと、こちらが頑張れと応援したくなるような足取りだ。

 案の定、途中でこけた。そしたら堰を切ったように泣き出して、視界の主は映像の子へ近づき、優しく頭を撫で始める。

 

 映像が変わる。今度は今までの和やかな雰囲気とは違い、殺伐とした部屋の映像だった。

 壁には穴が開き、絨毯はボロボロで、ぬいぐるみは弾け飛んでいる。そして部屋の中心には、ぬいぐるみの手らしき部分を握りしめて、大泣きしている金髪の子が映っていた。

 

 さらに映像が変わっていく。時間が経ったのか、金髪の子はかなり大きくなっていた。どうやら言葉をもうちゃんと喋れているらしく、視界の主と何かを話している。 

 ドクン、と心臓が一際強く脈打った。全身がざわざわと痒みの様な感覚を訴え、喉が一瞬にして干上がっていく。

 

 知っている。

 私は、この映像の事を知っている。この映像の未来を知っている。

 確か、私はこの時に。

 

 私の思考よりも早く、映像の事態は一転した。突如視界の主が、床に倒れ伏したのだ。

 よく見ると、徐々に床へ赤い染みが広がっていっている。視点が視界の主の足へ移った。そこには、本来ある筈の右足が見当たらず、膝から下にかけて切断されたかのように無くなっている。

 

 ああ、やっぱり、これは。

 私の能力制御の練習に失敗して、おじさまの右足を壊してしまった時の映像だ。

 

 泣きじゃくりながら視界の主へ縋り付く女の子は、声にならないような声でずっとずっと謝り続けていた。

 おじさま大丈夫? ごめんなさい。ごめんなさい。嫌いにならないで。

 まるで壊れたラジオの様だ。延々と、同じことを言いながら視界の主へ泣きついている。

 声は聞こえないけれど何を言っているのか分かるのだ。だってこの時の記憶は、トラウマになってしまうくらい鮮明に覚えているのだから。

 

 この時の私は、おじさまに嫌われれば本当に一人ぼっちになってしまうと思っていた。

 だから、文字通り心底必死だった。おじさまの事も心配だったけれど、幼い私は嫌われる事が何より怖かった。地下室にずっと閉じ込められてしまうとさえ思っていた。まだ会った事の無いお姉様とも、もう永遠に会えないとも。

 

 でも、そうはならなかった。

 視界の主は直ぐに体を起こして、右足を金髪の子へと見せた。そこにはあの惨状はどこにもなく、綺麗に服や靴まで完璧に元通りになっている。

 

 きょとんとしている私の頭を、掴み取れそうなくらい大きな手が優しく撫でた。何が起こったのか分かっていない様子の女の子は、足と視界の主へ交互に視線を動かしている。

 

『心配いらない。何事にも失敗はつきものだよ。ここではどれだけ失敗しても良いんだ。それを次の挑戦に活かせればいい。失敗したくらいで、君を嫌いになんかなったりしない』

 

 唐突に、優しい声が頭へ響いた。今の私に向けられたものではないが、その声が含んでいる感情が、まるで私自身が口にしているかのように伝わってくる。

 それは、春風の様に暖かい慈しみだった。幼い子供が傷つく事の無いようにと願う、精一杯の加護の想い。健やかに成長して欲しいと想う、溢れんばかりの親心。これはまさに、親が子へと向ける慈愛の感情以外の何物でもなかった。

 

 温かい。とても、温かい。

 心臓の鼓動が、血と骨を伝い鼓膜へと届いてくる。トクン、トクンと、赤子を守る揺り籠のリズムの様に、心地のいい拍動だった。

 

 この気持ちは、映像の私の気持ちだ。忘却の彼方へ飛ばされていったと疑わなかった古い記憶がこの映像で、そして映像から伝わる視界の主の感情で、火を付けられたように呼び起こされたのだ。

 

『安心しなさい。君が何と言おうと、何があろうと、私は君の味方だ』

 

 撫でられていた女の子が、涙と鼻水で汚れたくしゃくしゃな笑顔を浮かべた。それが、とても眩しいものに思えて、眼がチカチカと痛みだす。

 気が付くと私は、幾重もの雫を頬へ伝わらせていた。

 

 それに気が付いて両手で拭う。でも止まらない。どれだけ拭おうとも、人肌の温かさを持つ雫は留まるところを知らない。あの煩わしい雨の様に、ずっとずっと流れ続けた。

 

 嗚咽が喉を震わせる。鼻の奥がツンとした痛みを訴える。目頭が熱い。肩が震えて、最早自分の意思ではどうする事も出来なかった。

 ここまで来てようやく、素直になれない私は、自分の本当の心を発掘できたかのように感じた。

 もう、認めるしかなかった。

 

 私は怖かったのだ。

 

 私は、彼を本物と認めてしまうのが怖かった。そうすれば、私の中に居るおじさまを全て否定する事に繋がる。

 それだけではない。400年間ずっと私を見捨てることなく、真実を訴え続けてくれた姉を蔑ろにしていたのだと、気づいてしまうのが怖かった。沢山酷い事を言って、沢山酷い事をしたと認めてしまうのが怖かった。

 

 美鈴にも迷惑をかけた。パチュリーや小悪魔が行おうとした『治療』を強引に破壊したことだってあった。咲夜にだって来たばかりの頃に、お前は真実すらも見抜けないどうしようもなく愚かな人間だ、なんてとても酷い事を口走ってしまった。 

 自分が間違っていると、認めてしまうのが怖かったんだ。

 

 でも私だって、最初から彼が本物なんじゃないかと思っていた訳ではない。最初は偽者なんだと、信じて疑わなかった。

 だけど、彼と戦う最中で垣間見えた仕草の一つ一つが。危機的な状況なはずなのに、私へ一切危害を加えず説得を試みて来た事への不信感が。私の中に疑問の種を撒き、徐々に徐々に、芽吹いた種を成長させていった。

 

 多分、本当に切っ掛けとなったのは、『おじさま』が私へ怒鳴って能力の枷を外せと言って来た時だと思う。

 能力の枷を外せだなんて、その力の恐ろしさを、そして私と共に約束してまで何があっても枷を外さないと誓った事を知っていれば、そんな言葉が出てくるはずがないんだ。

 

 おじさまは、私との約束を95年間一度たりとも破ったことは無かった。ましてやパチュリーを巻き込む危険を孕んでまで、能力を行使させることは絶対にない。

 

 お姉様の証言が。偽者の一挙一動が。『おじさま』の不審な発言が。そして、最後に見せられた彼の記憶とその心が。私に真実を齎した。

 でもそれに気づくのが怖くて、蓋をして見ないフリをする為にムキになっていただけだったんだ。

 もう誤魔化せない。気づいてしまった。どちらが本物なのか分かってしまった。

 

 凄まじい罪悪感の刃が、私へ深く突き刺さった。

 本物だと訴えるおじさまを信じなかった事。お姉様の言葉に耳を貸さなかった事。皆に酷い事をして酷い言葉を沢山ぶつけた事。

 そして、事実に気付いてしまうのが怖くて、逃げようとした自分自身の臆病な心。それら全ての事実が、一気に私へ押し掛けた。

 

「あ、あああ……、」

 

 ごめんなさい、と思わず口にしてしまいそうになる。

 こんな言葉だけで、今更許してもらえると、本当に思っているのか? そんな甘ったれた事が、今更受け入れられると思っているのか?

 

 全ては、自分自身の弱さが招いた結末だ。『偽者』と『本物』を見分ける目を捨てて、ただ妄信を抱え込んで己を守る事に徹した、その弱さが原因なんだ。

 

「うァあ…………ああああああ…………!」

 

 壊してしまおう。

 こんなどうしようもない私なんて、もういらない。私の『目』を破壊して、命をもって償おう。それ以外に、もう道なんてない。私は取り返しのつかない過ちを沢山犯してしまった。

 

 たくさんたくさん酷いことを言って怪我をさせた私を、おじさまと皆が許すはずがない。糾弾されて、それで終わりだ。私は一人、この地下室へ取り残される。

 ならもういっそ、自分の手で終わりにしてしまおう。嫌いだって真正面から言われるよりは、その方が良い。

 

 最後の最後まで、皆から逃げようとする自分が本当に嫌になって、更に自己嫌悪を加速させた。

 両手で顔を覆い、力を籠める。頭の『目』を奪う準備を整える。

 

「ごめんなさい、私が、私が間違ってた。ごめ、ごめんなさい。皆を、信じれなくて、ごめんなさい…………!」

 

 ああ、どうしてこんな事になったんだろう。皆に疎まれて、嫌われて、それでも皆は優しいから手を差し伸べてくれたのに、私はその手を払いのけた。

 自分が正しくて、それ以外は全て贋物。ただそれだけが真実だと信じて殻に閉じこもって、結局私は破滅を迎えた。

 

『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。確かに、これは何でも破壊できる代物だ。もしこの力が無ければ、私はまた違った生を歩んでいたかもしれないのに。

 ……いや、そんなものは言い訳だ。私は己の弱さに溺れ、そして壊れる運命を迎えた。それだけだ。我儘な悪魔に相応しい最期じゃないか。

 

「沢山迷惑かけて、ごめん。こんな出来の悪い子でごめん。皆を信じられない弱い子でごめん。そして、ありがとう。こんな私に優しくしてくれて、本当にありがとう。でもこれ以上、皆に迷惑は掛けられない。だから、だから……ごめんね。バイバイ」

 

 でも、一つだけ。

 最後に一つだけ、私の願いが叶うのなら。

 どうか、どうかお願いします。

 こんな出来損ないの私を。弱さに打ち勝てない臆病な私を。壊す事しか能のない愚かな私を。

 

 どうか、最後にもう一度だけ。

 一人の家族として。私のことを、愛してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フラン」

 

 

 

 

 

 

 

 誰かの優しい声が、私を呼んだ。真っ暗な空から光が差し込んで来るかのような、美しい声色だった。

 顔を覆っていた私の手を、誰かの手が優しく触れる。それはゆっくりと私の手を受け取って、顔から剥がしていくように、両手で優しく包み込んだ。

 

 涙で歪んだ視界を向ければ、柔らかい笑みを浮かべた偽者――――おじさまが、そこにいた。私がおじさまの足を壊してしまった時と変わらない、月明りの様に優しい微笑みがあった。

 

「どこに行くというのだ」

「あ、は、離して……!」

「離さない」

「離してよぉ…………! なんで、なんで……!」

「離さない。離せば君は、自分を壊そうとするだろう。違うか?」

「だって、だってだって! わ、私はあんなに皆へ酷い事を、取り返しのつかない過ちをずっとずっと犯し続けたのよ!? もう、どれだけ謝ったって遅いに決まってるじゃない! 皆私を嫌いになるに決まってる。また、独りぼっちになるに決まって……!」

「それは違う」

 

 彼の笑みは、真剣な表情のそれに変わった。真っ直ぐと、一切視線を逸らすことなく私を見つめている。

 

「私が昔言った言葉、覚えているかい?」

 

 涙で視界が霞む。嗚咽が止まらない。多分鼻水だって凄い事になっている。今の私の顔は、到底見れたものじゃないだろう。

 

「安心しなさい。君が何と言おうと、何があろうと、私は君の味方だ。ほんの少しだけ失敗した程度で、私は君を嫌いになったりなんかしない。それにね、見てみなさい」

 

 彼は体を動かして、背後の光景を私の眼に映した。

 そこには、涙を浮かべてこちらを力強く見守る美鈴が。顔を伏せているが肩を震わせるパチュリーが。号泣して顔をぐちゃぐちゃにしている小悪魔が。相変わらずの鉄仮面だが、目元を赤くした咲夜が。

 そして、そして。

 

 いつもの傲慢な態度が嘘のように、大粒の涙を流すお姉様の姿があった。

 

 我慢が効かなくなったのか、お姉様は私とおじさまの下へ駆け寄った。そのまま私の首へ腕を回して、もう離さないと言わんばかりに強く、強く抱き締めたのだ。『ごめんねフラン。私も貴女から目を背けていた。真っ直ぐ貴女を見ようとしなかった』と、懺悔の言葉を漏らしながら。

 

 違うよお姉様。悪いのは私で、お姉様は何も悪くないのに。

 言葉にならなかったその感情は、代わりに涙となって溢れ出し、お姉様の肩口を濡らす。

 彼はその様子を微笑ましく見つめながら、優しく、しかし強く、私へ訴えるように語り掛けた。

 

「フラン。彼女たちが皆、君を糾弾し許さないと関係を絶つように見えるか? 君を独りにしようとしている者達の顔に見えるか? ずっとずっと君を守り、支えようとしてきた者達が、そんな薄情に見えるのか?」

「……っ」

「…………それにね、フラン。謝るなら私の方なんだ。私が君たちを置いて行かなければ、こんな事にはならなかった」

「違う!! おじさまは悪くない。おじさまは、私たちを見捨てず立派に育ててくれた。一人で何も出来なかった、弱い私が悪いんだ!」

「君が言うのなら、そうなのかもしれない。それもきっと本当の事だ。私も悪いし、君も悪いのだろう。でも誰か一人が悪いなんてことは無かったのだ。これは、運悪く色々な要因が重なって生まれてしまった、只の勘違いだった。それだけの事だったんだ。だから私は、全て一からやり直そうと思う。思えば、久しく再会した君にこの言葉を言っていなかったね」

 

 彼は笑った。泣きじゃくる私を慰めるように、大丈夫だよと宥めるように。

 そして彼の唇が、ゆっくりと言の葉を紡いでいく。

 

「ただいま、フラン」

「……おかえりなさい……おじさま」

 

 応じるように、顔を真っ赤にしたお姉様が、私へ力強く囁いた。

 

「おかえりなさい……! フラン!」

「……た、だいま……お姉様ぁ……!」

 

 それから、私とお姉様は強く互いを抱きしめた。従者の前だとか、親友の前だとか、そんなものはどうでも良かった。今の私たちは紅魔館の当主と妹様ではなく、ただ擦れ違っていただけの姉妹になれたんだと思う。

 私は、漸くこの館の一員に成れたんだと、心の底から実感できたような気がした。

 

 

 ひとしきり涙し、400年越しに漸く和解できたスカーレット姉妹とナハトさんを見守り続けて、はや10分が経過したか。なんだか、今日一日が凄く長いようでいて短いような、不思議な感覚を覚える。咲夜さんが時間を操ったわけでも無いというのに。

 

 不覚にも、長年の蟠りを見続けてきた分、この光景には少し涙してしまった。昔から脆くていけない。私は笑って二人を迎えなければならないというのに。こんなんじゃ前衛たる門番失格だ。

 

 ……でも、最も重要な部分がまだ解消されていない。言うまでも無く、妹様に取り憑いている精神的存在についてだ。

 

 ナハトさんは正体が掴めていると言っていた。これからその姿を暴く工程が始まる筈である。ずっと気になっていた。妹様が『おじさま』と慕っていた精神的存在が、ナハトさんでないならば一体誰が成りすましているのかと。

 

 まず、成りすませると言う事はナハトさんの事を少なからず知っている者だと判断できる。

 ……のだが、過去にお嬢様と妹様以外、彼の傍へいた者は居なかったように思える。いや、ナハトさんに対して狂信的な崇拝を掲げていた吸血鬼一派が居たか。でもあれはナハトさんに近づこうとはしていなかった。

 恐れ多いと思っていたのだろう。時折遠巻きから跪いているところしか見た事が無い。妹様を騙せるほどナハトさんの口調や人格を再現できるとは、とても思えないのだ。

 

 ならば、一体誰だと言うのか。

 ようやく、400年に渡って私たちを蝕み続けたその謎が解明される。

 

「さて、フラン。済まないが、私にはまだやらなければならない事がある。少し、話をさせて欲しいんだ。……分かるね?」

「……うん」

「君は今日、よく動いてよく泣いて疲れただろう。少し眠りなさい。大丈夫、これは夢ではないのだから、起きたら消えてなくなったりしないよ」

「分かった。信じるね、おじさま」

「ああ、信じてくれ。それじゃあ、お休み、フラン」

「おやすみなさい」

 

 ナハトさんが、何やら水色に光る術を妹様の頭に施した。恐らく睡眠魔法の類だろう。証拠に、妹様の体から力が抜けてナハトさんの体に寄りかかっている。

 しばし、静寂の時が流れた。

 時計は無いけれど、妙に心臓が五月蠅くて、耳元でチクタクと鳴っている錯覚を覚える。

 ナハトさんは、タイミングを計ったように深く息を吐き出した。

 

「そろそろ、出てきたらどうだ」

 

 ドクン、と心拍音が跳ね上がる。遂に来るのだ。長年に渡り妹様へ巣食っていたモノの正体が、露わになる時が。

 ナハトさんの傍にいるお嬢様の顔が、どこか優れない色をしている。もしかすると、先ほどナハトさんと話をしていた際に答えを聞いたのかもしれない。

 

 私も、漸く知れる。手に汗がにじんだ。何故か呼吸が荒くなり、嫌な緊張を体全体が訴え始める。

 

 王手の言葉が、彼の口から語られた。

 

 

「なぁ、スカーレット卿」

 

 

     ……………………………………………………………………………………………………………………………………………は?

 

 スカーレット卿? 今ナハトさんは、スカーレット卿と言ったのか?

 その名前は、間違えようのないあの人の呼称だ。

 紅魔館の元当主にして、お嬢様たちの実の父親。最強の吸血鬼と謳われ、吸血鬼狩りに殺されたと情報が入った時は紅魔館に大混乱を(もたら)した、あの男の呼び名だ。

 

 その呼び名が何故、この場で出て来たのだ?

 いや、取り憑いていたモノの正体がそうだとしても、何故娘である妹様にずっと取り憑いていて、400年もの長きにわたって騙し続けていたと言うのだ――――!?

 

 予想の欠片もしなかった答えを前に、私は目の前が真っ黒になった。お嬢様が顔色を悪くするのも頷ける。

 だって、妹様に取り憑き狂気へ走らせた者の正体が、亡くなった筈の実の父親だと言うのだ。私よりも受けた衝撃は遥かに大きいに違いない。

 

 力の抜けたままだった妹様が、突然目を開いた。しかしその眼は、朗らかな少女の眼ではない。それなりの場数を踏んだ様子を伺わせる、威厳のある覇気に満ちていた。

 

「……流石ですな、ナハト殿。やはり貴方の眼は誤魔化しきれないか。感服致した」

 

 何か音声を組み替える魔法を使ったのか、声が低い。それは決して妹様の鈴の音の様な声ではない。そして私は知っている。紅魔館に属したものとして、お会いしたことが少なからずあるから知っているのだ。

 本当に本当に、正真正銘のスカーレット卿がそこに居た。

 

「して、何故私と分かったのですかな? いや、魂を見たからという事を聞いているのではないのですよ。貴方の事だ、もしかすると私だと勘付いていて、敢えて確認したのではないかと思いましてね」

「……最初に怪しいと感じたのは、フランが私を偽者と呼んだ時だ。偽者と言う事はフランが本物と判断する何かが存在していると言う事。その存在の候補として挙げられるのは、フランが本物と勘違いするほどの演技ができる……つまり、私の事を少なからず知っている者に限られる。私の口調や声などをコピーできるほど近しかったものは、姉妹と美鈴を除けば卿、君のみだ。それだけではない。力が不安定故に誰も近づこうとしなかった幼きフランへ接触し、魂の一部を植え付ける行為が出来た者も、直属の親たる君しか存在し得ない」

「成程、そこまで見抜かれていましたか。しかしよく、フランの内部に潜んでいることまで分かりましたな」

「私が最初に館へ訪れて会ったのはレミリアだ。その時彼女は、私を義父として扱った。しかしフランは、幽閉され接触を絶たれている身でありながら瞬時に私を察知し、偽者として扱った。矛盾しているのだよ。もし実体を伴った偽物が存在しているのならば、レミリアも同じく騙され、私を偽者として対応した筈だ。なのにそれが無かった。加えて、フランが狂気に蝕まれていると言う彼女たちの弁も事実と合致していなかった。実際に話してみれば、フランは理性をちゃんと持っているではないか。だが彼女たちには狂気に侵されたと判断されている。それは、両者の間に何らかの要因によって深い齟齬が生まれていたからなのだろう。ならば『狂気』の正体とは、『フランにしか知覚出来ずにナハト本人だと思い込ませている存在』なのではないかと思い至ったのだ。そんな事が可能となる場所は、術にしろ憑依にしろフランの精神中以外に有り得ない」

「流石ですな! いやはや、少ない手掛かりからそこまで辿り着ける洞察力には参りましたぞ。私が勝てるはずがないのも頷ける」

 

 はははは、と妹様――――いや、スカーレット卿は笑った。心の底から称賛しているかのような高笑いだった。

 半面、ナハトさんは一切表情を動かそうとしなかった。何か、思惑があるように思える顔をしている。まるで品定めを行っているかのような、ドライな印象を受けた。

 一方、スカーレット卿は、それで、と会話を繋ぐ。

 

「これから私をどうするおつもりですかな? 貴方の力ならば、私を追い出す事も十分可能でしょうに」

「……スカーレット卿。一つ交渉をしないか」

「何でしょう」

「君は、新しくこの館でやり直す気持ちは無いか? 偽の私としてではなく、レミリアとフランドールの父として、新しい生を歩んでいこうとは思わないか?」

「ふむ」

「フランの肉体に居座るのは不可能だ。今ですら、君らはかなり危うい均衡なのではないかね。元々肉体一つに魂二つは、いくら妖怪とて無理があるのは知っているだろう。三日だけ時間をくれれば、私が君の肉体を作り直してやれる。そこに移って、またやり直そうとは思わないか?」

「……成程。実に魅力的な提案ですな。私は自由を手に入れ、そして新しく平和な人生を歩めると」

「ああ、そうだ」

 

 ナハトさんの提案した策は、和解だった。今までの所業を全て洗い流し、一からまたやり直そうと言うものだった。

 今までのスカーレット卿の蛮行から考えれば、私はあまり受け入れたいものではない。でももし、ここで彼が承諾すれば、お嬢様や妹様は父親を失わずに済む。誰も傷つく事の無い、大団円へと収まるだろう。

 

 だが。

 私はスカーレット卿が浮かべた邪悪な笑みを目撃して、直ぐにその思考を破棄する事となった。

 お嬢様も、その異変にすぐさま勘付き表情を歪めた。

 

「しかし一つだけ、申し上げる事があります」

「――ッ!? おじ様逃げて!! お父様は手を握っている!!」

「私は平和だとかそう言った温いものが、吐き気を催す程に御免なのだよ」

 

 お嬢様がスカーレット卿に飛び掛かった瞬間、バンッ!! と水風船を思い切り地面へ叩きつけたような破裂音が、地下室に炸裂した。

 遅れて、何か重々しいものが落下したような、鈍い音が床を震わせる。

 

 ―――見るまでも無い。そんな行動をとらずとも、一体何が起こったのか鮮明に理解できた。

 

 床には、頭と心臓を木端微塵に破壊された、ナハトさんだったものが転がっていた。

 吸血鬼の弱点を、完膚なきまで破壊されてしまっている。しかも妹様の能力で。

 サァッ、と血液が急激に冷えていく感覚が全身の血管を走り抜けた。

 

「おじ様!!」

「離れろ。鬱陶しいぞ小娘が」

 

 乱雑に腕を振るわれ、お嬢様が弾き飛ばされる。そこを、咲夜さんが俊敏に受け止めた。

 私は『気』を両腕に纏わせて、スカーレット卿を睨む。だが私には攻撃出来ない。あの体は、妹様の体でもあるのだ。奴を仕留めるには、必然的に妹様まで仕留める結果となってしまう。

 それだけは出来ない。そんな真似が、出来る筈もない。

 

 それを見透かしているのだろう。スカーレット卿は低い笑い声を漏らしながら、実に愉快そうにナハトさんの死体を踏みにじった。

 ガツン、ガツンと、肉を叩くにしては凶暴な音が響き続ける。

 

「さっきは心の底から焦った……ああ、焦ったぞ。拘束され、抵抗する術もなく、本当にチェックメイトを掛けられた気分だった……。フフフフフ、だが貴様が甘かったお蔭で、こうして盤は引っ繰り返ったな。ああ、正直ホッとしているよ。最も厄介だったお前をこうして始末することが出来て。やはりフランドールの能力はよく効くな。うん? 再び貴様が現れたおかげでほんの少しばかり予定がズレたが……軌道修正できる範囲だ。材料はこうして揃えてくれたのだからな。はははははははははは!」

「予定……? 貴方が妹様に取り憑いたのも、今までの事も全て企んでの事だったと!?」

「……誰だお前は? ああ、私の館で傭兵をしていた木端妖怪だったな。礼を言うぞ木端。お前がナハトに絆され、覇権争いの時に娘を守ってくれたおかげで、私が娘の恐怖で覚醒する時間を稼いでくれた。実に楽しかったぞ、私に謀反を企てようとしていた愚か者共が、一斉に惨たらしく娘の手で破壊されていく光景は!!」

 

 こいつはまさか、最初からそのつもりだったと言うのか? そのつもりで、妹様へ魂を移植するなどをやってのけたとでも言うのか?

 

 覚醒と、魂の移植。私の浅い知識でも二つのワードから連想できるのは、恐らく分霊の術だ。高度な魔法技術を習得したものは、魂を小分けして様々な器に封じ込める事で、肉体の破滅と死の関連を無くすことが出来ると言う。

 

 その邪法に縋った魔法使いの成れの果てを、確かリッチと呼ぶのだったか。それを奴は応用したのだ。

 本来ならば魔力を持った鉱石で出来た箱などに魂の欠片を封じるところを、妹様に仕立てたのである。おそらく最初は自我すら無かったはずだろう。しかし95年もの間妹様の魔力を吸い続け、覇権争いに巻き込まれた際の妹様が抱いた恐怖という強い感情を受けて覚醒したのだ。

 

 そうでなければ、ナハトさんが妹様の体内に魂が入り込んでいると気づかない訳がない。魂の欠片として潜んでいたからこそ、あの方の視線を掻い潜ることが出来たのだ。

 そして覚醒のトリガーである妹様が非常に強い恐怖を感じる時は、絶対強者たるナハトさんが不在で、何者かから強襲を受けた時に限られる。

 

 しかしそうなると、一つだけ疑問が浮かんでくる。

 彼は、スカーレット卿は本当に殺されたのか?

 

 リッチが分霊の術を行うように保険としてではなく、計画的に魂を移植したのならば、彼と夫人の死は偶然ではなく必然性を帯び始める。

 最悪に近い予想が、私の脳裏を過ぎった。

 

「妹様に魂を移植したにしても、貴方自身は亡くなった。吸血鬼狩りに命を奪われたはずだ。保険として妹様に魂を植えたと言うには、その行動にいささか疑問を拭えません」

「保険? 違うな、本命だよ。あの死も私が仕組んだものだ。野心を燻らせる邪魔な反逆者を炙り出すためにな。そもそも最強の吸血鬼と謳われたこの私が、木の杭と十字架でしか抵抗出来ない人間如きに後れを取ると本気で思ったのか? 呆れ果てるほど能天気な頭だ」

「では……では……!」

 

 咲夜さんから立ち直り、紅い瞳に深紅の魔力を灯らせたお嬢様が、ギリッ、と奥歯を噛み締めながら言った。 

 明らかに怒髪天を突いている。だがそれだけではない。実の父が、紅魔館を守るために誇りある死を迎えたはずのスカーレット卿が、娘を利用していたと言う事実を半ば受け止めきれていないようにさえ見えた。

 

「ではお母様は!? お母様の死は一体何だったのですか!? 何故、お母様まで貴方の偽装の死に巻き込まれたというのですか!?」

「……我が娘ながら愚鈍極まりない。ああ実に不愉快だ。分からんか? あの女は悪魔に最も不要な愛情などという、虫の体液よりも下卑た唾棄すべき感情に惑わされた。私の計画に勘付いて止めようとしたのだよ。奴を生かしたまま私が死ねば、必ずあの女は邪魔をする。だから、私が直々に葬ってやったのだ。共に吸血鬼狩りから子を守ろうと説得したら、嘘のように軽々しく引っ付いてきたなぁ。心臓を抉り出し、首を撥ね、吸血鬼狩り共にくれてやった。そして私は自ら銀の剣で心臓を貫き、自害したと言う訳だ。これで満足か?」

 

 カツ、カツ、カツ、と一歩ずつスカーレット卿はお嬢様へと近づき、強引に顎を掴んだ。

 咄嗟に止めようとした私と咲夜さん、パチュリー様に小悪魔は、彼女―――いや、彼が眼から放った凄まじい紅蓮の瘴気に当てられ、動きを阻害されてしまう。

 吸血鬼の魔眼だ。麻痺効果を持った幻術を掛けられてしまっている。なんて事だ、完全に油断した。

 

「レミリア……お前は本当に不愉快極まりない存在だった。私をフランドールから引き剥がそうとしている様は、腐肉にたかるハエの様に鬱陶しかったぞ。あの女と同じく本当に邪魔な存在だった。しかも貴様は、フランドールと違って実用性のない能力を持って生まれた欠陥品だったではないか。出来損ないの上に、あの女と同じ水色の髪をしているときた。いつも見ていて吐き気がしたほどだ。どいつもこいつも、潜在能力しか利用価値のないガラクタでしかない」

「っ!!」

「なんだ、その反抗的な目は? 私を殺したいか? 母を殺し、義父を殺し、妹を騙して同族を虐殺させた私が憎いか? ならばお得意の魔力弾で私の心臓を破壊し、首を撥ねて銀の剣で斬り潰せばよかろう。そこの雌の人間が丁度、銀のナイフを持っているではないか。絶好のチャンスだと思わないかね」

 

 悍ましい笑顔だった。全てを手のひらで転がして弄ぶ悪魔の表情。先にある全ての駒の動きを掌握しているイカサマ師の様に、愉悦と支配の快楽に酔い切った表情だ。とても、妹様の顔だとは思えない。

 

 彼は張り裂けんばかりの高笑いを上げる。それは、勝利の角笛を吹き鳴らしているかのようにさえ聞こえた。

 奴は勝ったと確信しているのだ。向こうは手を出せて、こちらは妹様を傷つけられないが故に手を出せない。脅威だったナハトさんは無残に息絶え、私たちも動きを封じられている。私たちが切れるカードは、もう何も残っていない有様だった。

 

「出来んよなぁ。情なんぞに悪魔としての本分を見失わされたお前には、妹を殺す事など到底できた真似ではないのだろう?」

 

 ぐりっ、とスカーレット卿の指が、お嬢様の喉元に食い込んだ。鋭い爪の先が柔肌を突き破り、静かに赤い液体を溢れ出させる。

 

「ぐッ……!!」

「あの男にも呆れたものだ。和平交渉など持ち出さずに直ぐ私を引き剥がしてさえいれば、こんな事にはならなかっただろうに。何が闇夜の支配者だ。ただ年老いて甘ったれただけの老害ではないか。これでは、昔あれだけ警戒した意味も無かったな。あの男の影響力のせいで私が吸血鬼の王として君臨できなかったが故に、こんな面倒な方法をとったと言うものを……」

 

 ……黙っていれば、聞き捨てならない事を言ってくれる。

 ナハトさんがどんな気持ちで、和解の手を差し伸べたのかまるで分っていない。お嬢様がどれだけ妹様の事を親身に想い続けて来たのか、露ほども理解しようとしていない。

 彼はまさに悪魔だ。他人の心などどうでもよくて、己の野心を叶えるためならば自分の命はおろか、妻や娘まで手駒として扱う最悪の悪魔だ。

 

 歯痒かった。すぐにこいつを妹様から引き剥がして、叩き伏せてやりたい気分に侵食されている。お嬢様が味わった精神的苦痛の、ほんの一部でも与えてやりたい。

 こいつは、そんな程度で怒りが収まる悪党なんかじゃないけれど―――いや、悪党ですらない。外道だ。こいつは道を踏み外す事を厭わない真正の外道なのだ。

 

 私と同じ心境なのだろう。咲夜さんも、パチュリー様も、あの臆病な小悪魔でさえ、激怒に表情を染め上げていた。これ程までに明確に怒り狂った彼女たちを、私は今まで見た事が無い。

 

「……解せないわね」

 

 パチュリー様が、絞り出すように言った。

 

「あなたがナハトの存在が邪魔で、吸血鬼の実権を確実に握るためにフランへ魂の移植を行い、死まで装ってナハトの眼を欺いた事は理解できた。でも何故、今の和平交渉を蹴ったの? 従順に従うフリでもしていれば肉体も戻るし、もっと効率よく事を運べたはずよ」

「お前の様に打算的な思考は嫌いではないぞ、若き魔女よ。簡単な事だ、今が紛れもない好機でしかないからだよ」

「好機、ですって?」

「ああ。ところで魔女よ、怨霊が魂を食らい増幅する理論が分かるかね」

「何ですって? ――まさか、あなた!!」

 

 ギイイイイッ、とスカーレット卿の口が三日月状に裂けていく。白い牙の間から覗く、蛇の様な舌の動きが生々しかった。

 

「魂の移植術も、フランドールの魂を侵食する準備もとうに出来ている。後はお前たちの心臓を破壊し、魂が冥界に渡る寸前で、私の増量した魂の欠片を植え付けてやる。他者の能力が操作可能なのは、フランドールの肉体で実証済みだ。私の意思で思い通りに動く、力を持った肉の兵隊が、完成すると言う訳だ!」

「それを繰り返して、ネズミ算式に自分の魂を移植した傀儡を作り続けていく訳ね……最低……! 生きる者に対して冒涜でしかない行為だわ。体を乗っ取り私物化するどころか、魂まで取り込んで寄生の為の材料にするだなんて!」

「フン、光栄に思うがいい。お前たちの肉体は永遠に、私が愛玩道具として可愛がってやろう。貴様たちの起こした吸血鬼異変や紅霧異変のお蔭で、この幻想郷の妖怪の力も、博麗の巫女の力も大方把握できた。改めて礼を言うぞ、間抜けな小娘ども。私に計画のピースを、わざわざせっせと運んできてくれて」

 

 ――――吸血鬼異変。私たちが幻想郷に移住したばかりの時に、在住の活気を無くした妖怪たちをまとめ上げ、革命を試みた大異変だ。

 だがあの異変は直ぐに、幻想郷の管理者である八雲紫を筆頭とした妖怪集団に惨敗し、呆気なく幕を閉じた過去がある。まさかそれすらも、こいつの計画の材料にされていたとは。

 

 奴は吸血鬼異変も、紅霧異変も、ずっと見ていたのだ。幻想郷の住人がどれほどの力を秘めているのか推し量り、その対抗策を練り上げるために。

 そして今、妹様の魂を侵食し、その体積を増やして私たちへ植え付け、強制的に使い魔と化させることで、幻想郷に反旗を翻そうとしている。

 

 乗っ取る気だ。

 こいつは、紅魔館どころか幻想郷を本気で支配するつもりでいる……!

 

「材料は揃い、好機も得た! おまけに、闇夜の支配者とまで崇められた最古の吸血鬼の遺体と血液までも手に入った。ははははははは!! 本来ならばフランドールの肉体が完全に成熟するまで待つつもりだったが、予定が変わった。ナハトよ、天敵だった貴様の血を啜り、私は吸血鬼を超えた更なる高みへと昇華しよう! そして、お前がせっせと育て上げた義娘どもの肉体で、絢爛たる我が夜の世界を、この楽園を礎に築き上げてやろうではないか!!」  

 

 だが、とスカーレット卿はお嬢様を勢いよく投げ飛ばし、壁に叩きつけた。咲夜さんの怒号が飛ぶ。その声を、スカーレット卿はまるで喫茶店で流れるジャズ音楽でも楽しんでいるかのように、愉悦で満ち満ちた表情を浮かべて嗤った。

 ありとあらゆるものを破壊する理不尽な力を宿した悪魔の右手を、お嬢様に向けて。

 

「その前に、奴隷を作る試運転をしてみるとしようか。栄えある人形兵第一号はレミリアッ! 私を(ことごと)く邪魔し続けた、貴様からだッ!!」

 

 完全な、詰みに嵌った。

 動けない。止めようにも、指先一つ動かせない。私の持ちうる全ての『気』を連動させこの幻術を打ち破ろうとしても、スカーレット卿の呪縛から逃れることが出来なかった。それは他の皆も同じだ。この中では真っ先に動きそうな咲夜さんですらも、悔しさと怒りで涙を滲ませ、その場から微動だに出来ずにいるほどだ。

 

 スカーレット卿の指が、無慈悲に折りたたまれていく。右手に魔力が集約されていて、お嬢様の『目』を奪ったのが分かった。それは明確に、紅魔館の終わりを示していた。

 私は思わず、ほんの数秒後に起こるだろう惨劇から目を背け、瞼を閉じてしまう。

 私たちどころか、幻想郷を巻き込んだ破滅へのカウントダウンが、静かに始まりを告げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――ビシッ

 

 

 



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6.「闇夜の支配者」

 ―――――――――――――ビシッ

 

 私は初め、それが変化だと気が付くことが出来なかった。

 唐突に響く、固いものに強い亀裂が走ったかのような、何かが勢いよく裂ける音。私はそれが、スカーレット卿が手中に収めただろうお嬢様の『目』を握りしめた事で、『目』に亀裂が入り込んだ音だと思い咄嗟に視線を避けてしまっていた。

 しかし、何秒経っても次の音が―――具体的には、肉体が破壊されたことで生じる破裂音が―――鼓膜へ届かなくて、恐る恐る瞼を開いてみる。

 

 状況は、あれから全く変わっていない。妹様の肉体を乗っ取ったスカーレット卿が、投げ飛ばされ壁に寄りかかっているお嬢様に破壊の右手を向けたままでいる。

 ただ、そこから先が無いのだ。スカーレット卿は微動だに動こうとしていない。指令を絶たれたゴーレムの様に手をかざしたまま突っ立っている。

 何だ? 奴は一体何を躊躇しているんだ?

 謎の静止状態に、思わず咲夜さんが時間を局所的に止めたのかと思ったが、どうやら違うらしい。私たちを縛る幻術は、能力を阻害する魔力因子が組み込まれているのだ。目を向けて見れば、咲夜さんも何が起こっているのか分からないと言った表情だった。

 

 ビシッ。

 

 再び亀裂が入る音がする。それも、さらに大きな音となって。

 それがトリガーだったのか。スカーレット卿はだらりと、水平に保っていた右手を床へむけてゆっくり下したのだ。

 

「……本当に、流石としか言いようがないな。天敵ながらそのゴキブリの如き生命力には、称賛を送らざるを得ないぞ」

 

 ぐるり、とスカーレット卿の首が動く。その視線が射抜く先は、私たちの背後だった。厳密には、ナハトさんの死体が転がっている場所だ。

 そして、スカーレット卿が何を口走っているのかを漸く理解した瞬間。私の心臓はまるで警報でも鳴らしているかの如く、とんでもない早さで脈打ち始めた。

 まさか。

 いくらナハトさんでも、そんな事が有り得るのか?

 普通の吸血鬼なら一撃で冥府に直送されてしまう妹様の恐ろしい破壊の力を、吸血鬼の二大弱点とも言える頭部と心臓へまともに食らって、生きている事なんてあり得るのか?

 それは、最早吸血鬼と呼べるのか?

 

 ビシッ、ビシビシビシビシビシビシビシビシッッ!!

 

 ガラスに亀裂が放射状に広がっていくかのような音が連続で轟いた。音だけではない。細い亀裂が本当に、私の背後からゆっくりと床を走っていくのだ。まるで地震でも起こっているかのような光景だった。

 その直後、背後から雪崩の如く訪れた、全身を握り潰されると錯覚するほどの莫大な瘴気に、私は思わず自分の体を抱き締めてしまっていた。

 幻術が解けているだとか、今ならスカーレット卿を抑えられる好機だとか、そんな考えは頭の中から吹っ飛んだ。両腕でしっかり体を抱いておかないと、自分がどこかへ消えてしまう。そんな理不尽とも言える危機感が私を襲い、思考能力を遥か彼方へ吹き飛ばしたのである。

 ゆっくり、背後へ体を向ける。

 

 絶句した。

 

 そこには確かに、疑いようのないナハトさんが居た。致命傷を受け、確実に絶命したはずのナハトさんが、何事も無かったかのように二本の足で立っていたのだ。

 けれどそれは、私の知るナハトさんではなかった。

 彼は普段、凄まじい威圧を伴う瘴気を常に纏っているが、見た目は非常に美麗な青年の姿をしている。私は彼の姿を見るたびに、禁忌の類に近い禍々しい印象を抱きつつも、同時に兼ね備えられた芸術品が霞むほどの『美』によって、この世のものとは思えない神々しさを強く感じていたのだ。

 今、私の眼に映る彼に、神々しさや美しさは欠片も存在していない。

 

 彼の頭部……黄金比率を体現していた顔貌は、中途半端に再生しているせいなのかどす黒い魔力の黒煙のみで形成され、さながら黒い靄が顔の輪郭を保っているだけの状態となっていた。再生途中の灰色の髪は、まるで水中に潜っているかのように揺らめいている。

 黒い靄の中に浮かんでいるのは、二つの眼とズラリと並んだ歯のみだ。眼の周囲に瞼はなく、歯を隠す唇は見当たらない。ゾッとする様な紫の瞳を持つ眼球と、ピアノの鍵盤の様に乱れず並んだ白い歯だけが、暗黒の中にくっきりと存在していた。

 彼の変化は顔だけではなかった。全身からは可視化された尋常ではない密度の瘴気が、まるで蛇の如くうねりながら彼の周囲に渦を巻き、見るだけで発狂しそうになるようなエネルギーを放っている。余波は彼の足元に現れ、革靴が接した床の部分から、細い亀裂が放射状に広がっていた。これが、あの音と亀裂の発生源だったのだ。

 

 さらにもう一つだけ、無視できない存在がそこにあった。

 彼の背後に形成された、15本もの漆黒の剣。それら全てが、スカーレット卿へ照準を合わせる鏃のように、彼の背後へ配置されていたのである。

 古い言葉で、『怒り』を意味する魔剣グラム。純粋な魔力を結晶化させると言う出鱈目な製法で生成される黒き剣が、かつてない数をもって展開された光景を目撃して、私はあの言葉を思い出さざるを得なかった。

 

【闇夜の支配者を怒らせるな。彼の者の怒りを買うならば、迷わず竜の逆鱗に触れろ】

 

 ああ成程、確かにそうだ、その通りだ。これなら喜んで竜の逆鱗を撫でてやる。その方が絶対に、生き残れると確信できる。

 ナハトさんと初めて会った満月の夜。私はナハトさんの怒りを見て、恐怖に震えたと思っていた。彼は絶対に怒らせてはならない存在だと、知った気になっていた。

 でも違ったんだ。あの時の彼は、欠片も怒ってなんていなかった。ただ、道を踏み外しそうになった少年たちを叱っただけだった。たったそれだけの事だったんだ。

 目の前に君臨する、怒りに全身を染め上げ黒い怪物と化したナハトさんを見てしまえば、あんなものは只の戯れだったんだと気づかされてしまう。

 

「……私は、妖怪として生を受けて長くなる」

 

 歯のみの口が僅かに開き、瘴気と共に口から音が発せられる。重低音のノイズが伴うその声は、聴く者の頭蓋を激しく揺さぶった。

 

「今まで様々な物を見て、聞いて、感じて、経験を積んできた。私は、例えどれ程の重罪人だろうが、業の深い者だろうが、礼節を持って受け入れられる様になったと思っていたよ」

 

 だが。と彼は一歩前へと足を踏み出した。ビシビシビシッ! と細い亀裂がさらに床を侵食し、無機質な悲鳴があがる。怒りの矛先が向いていない筈の私ですら思わず二、三歩下がってしまう程の尋常ではない威圧が、暴風の様に襲い掛かった。

 

「まさかこの世にまだ、ここまで不愉快な気分にさせられる者が存在しているとは思わなかった」

 

 彼の怒りに呼応して、紫の瞳が薄暗い輝きを放つ。発せられる声にはいつもの鼓膜から脳に吸い込まれていくような擦り寄る艶やかさは無く、体が直ぐに全ての動作を放棄してしまう程の、激しすぎる憤怒が含まれていた。

 

 恐ろしい。この上なく、彼の存在が恐ろしいと私は感じてしまっていた。彼の眼に射抜かれれば、吸血鬼異変で垣間見た八雲紫の絶対零度の眼差しが可愛く思えてしまう程に身の毛がよだち、彼の声を耳にすれば、地獄の唸り声が子守歌に聞こえてしまう程に体が竦み上がる。

 彼は敵ではない。そんなことは分かっている。彼の敵意は間違いなくスカーレット卿ただ一人のみへと向いている。だが、頭では分かっていても他全てが理解してくれない。視界が揺れる。彼の強すぎる魔力の影響で空間が歪んだのかと思ったが、全くの誤解だった。体が震えすぎて、視界が定まっていないだけだったのだ。彼は危険だと全身のいたる箇所が警鐘を鳴らし、それが震えとなって姿を現しているのだ。

 目を向けられたものは心臓を凍らされ、声は本能から恐怖を呼び、前に立つ存在を許さないと言わんばかりのその絶対的でおどろおどろしい姿は、まさに魔王。闇夜の支配者と称されるに相応しい、他の全てを制圧する恐怖の覇気を帯びた、最古の吸血鬼がそこに居た。

 

「勉強になったよ、スカーレット卿。どうやら私は、まだ他者を不愉快に思えるらしい」

「――――――――――ハッ」

 

 対してスカーレット卿は、その場に居合わせた少女達とは違い、恐怖に精神を歪めることなくナハトさんと向き合った。数多の黒い刃を向けられ、彼の怒りをその身一身に受けていると言うのに。

 理由は分かっている。彼の眼からはまだ、勝利の二文字が揺らいでいない。確信しているのだ。あの黒い怪物に真正面から挑み、そして打ち破れると自らの絶対優位性を信じているのだ。

 

「それで? 今の貴様に何ができる? フランドールの力を食らって尚蘇ったその卑しい生命力は認めよう。だが、だから何だ! 貴様に切れるカードは最早何も残っていないのだぞ、ナハト。お前が手塩にかけて育てた娘の体は、魂は、私の手の中にある。ここに居る無様な小娘共の生殺与奪の権利も我が手にある!! それは貴様に対しても同じことよ。一切躊躇はせん、今度こそ確実に冥府の闇に落としてくれる。死にぞこないの老蝙蝠が」

 

 スカーレット卿の手がナハトさんへと向けられた。だがナハトさんはピクリとも動こうとはしない。闇の中から覗く悍ましい二つの眼球が、その手を静かに見つめているだけだ。

 

「死ね」

 

 ボンッ!! とナハトさんの腹部が、勢いよく弾け飛んだ。

 しかし、内側から爆散されたが如く散った彼の肉体は撒き散らされることなく、黒い瘴気へと変換されて腹部へ吸い込まれ、また元に戻ってしまう。

 全く通用していない。

 妹様の力が、ほんの一ミリも効果を表していない。

 考えてみれば当然か、彼はずっと妹様の破壊の力と向かって来たのだから。

 ゴバァ、とナハトさんの鋭い歯だけが並ぶ口から、黒い瘴気が漏れ出した。それはまるで、湧き出して止まらない怒りを外へ吐き出している動作に見えた。

 

「チッ、化け物が。最早肉体そのものが単一としての意味を成していないのか。ならばその状態を解除しろ。さもなくば、お前のもう一人の娘を殺す」

 

 視線は一切外さないまま、スカーレット卿はお嬢様へと右手を向ける。口の端はぐにゃりと歪み、かつて恐れた相手を屈服させる快感に満ちていた。

 ナハトさんは嵐の前の静けさを表すように、ただ静かに、しかし激流の様な鋭さを添え、言葉を繋ぐ。

 

「……お前は、誰の許可を得てその力を使っている?」

「娘は私の血肉から生まれた。ならば娘の全てを使う権利が私にあるのは必然よ。ましてや、今この体は私のも――――」

「誰の許可を得てその力を使っているのか、と聞いているのだよ。スカーレット卿」

「っ」

 

 初めて、スカーレット卿が怯み後退した。人を殺せるほどの気配を浴び続けては、いくら私たちより頑丈な吸血鬼たる妹様の肉体でも負担が大きいのだろう。私ですら、『気』を全力で巡らせて漸く震える程度で済んでいるのだ。あのまま普通で居られる訳がない。

 

 ――そう言えば、咲夜さんたちはどうしている? 人間の彼女がこの瘴気を浴びて、まともでいられているのか?

 

 嫌な予感が頭を掠めたが、それも直ぐに解消された。ナハトさんが手を掲げたと認識した瞬間、背後から五本のグラムが舞い踊り、それぞれがスカーレット卿を除く私達の足元へ突き刺さったのだ。剣からは私たちを覆うように魔力が放たれ、ナハトさんの息が詰まりそうになるほどの瘴気を相殺し始めている。

 素人目だが、これは毒を以て毒を制する手法と似ている様に思える。瘴気と魔力をぶつけ合い、効果を打ち消しているのだろう。それでも、剣から放たれる魔力は心臓の脈を上げるのに十分だった。人間の咲夜さんはどうにか、『今にも吐きそうなくらい青くなる程度』までには回復している様だ。

 

「なぁ、スカーレット卿……お前はあの子の体の中にずっと居座りながら、欠片もあの子を見てこなかったのか? いくら覚醒していないとはいえ、魂は周囲の情報を取り込み続ける。特に違う魂が隣接しているのならば尚の事だ。誰よりもあの子の心の傍に居ながら、僅かな消し屑程度の感情も汲み取ってやれなかったのか?」

 

 スカーレット卿が忌々しく歯噛みする。彼の額から脂汗が流れ始めた。

 憤怒の重圧が、凄まじい勢いで上がっていく。

 

「お前が今我が物顔で振るっている力をあの子が克服すると決意したのはな、姉妹が欲しかったからだ。力が制御できなくては、まだ見ぬ姉を壊してしまう。それが嫌で、会った事も無い姉へただ普通の妹の様に甘えたい一心で、いつか姉と外の世界を共に過ごしたい一心で、あの子は5年もの歳月を地下に籠り、己の力に打ち勝つ術を磨き続けてきたのだ。あの子が何度力に負けたか知っているか? あの子がどれだけ優しい涙を流したか知っているか? あの子が何度絶望に打ちのめされたか知っているか? あの子がそれら全てを乗り越えて、姉と共に夜を歩ける日を迎えた時の喜びを……家族として生きていけると報われた時の喜びを、貴様は知っているか」

 

 彼の怒号は、爆発としてその場全てを蹂躙した。激しく巻き上がる黒の瘴気が部屋中を包み込み、生きるもの全てを憎悪し奈落へ落とそうとする怨霊の如く、空間をうねりながら漂い始める。絡みつく黒い瘴気を、スカーレット卿は疎ましそうに払い除けた。

 

「娘の努力を、覚悟を、決意を。ただの一欠片も理解せんお前に、その力を振るう資格は無い。ましてやあの子が心の底から望んだ最愛の姉へ力を向けるなど、言語道断。お前はフランドールの魂と誇りを踏みにじり、その手すらも姉の血で染め上げようとした。それだけではない。姉妹の母を陥れ亡き者にした挙句、野心のためだけに同族を、あろうことか娘を騙し虐殺させたと来た。レミリアを欠陥品だと貶め、道具の様に軽んじもしたな。断じて許さん。私が直々に、報いを与えてやろう」

「ほざくな……ほざくなよ、ナハトォ!! 貴様がどれだけ怒り狂おうが、状況は何も変わらん。小娘一人を傷つけられない甘ったれの老いぼれが、この私に報いを与えるだと? 笑わせるな。私の指示に従わなかった罰だ。レミリアが弾け飛ぶ光景をその眼球に焼き付け」

 

 彼は、その言葉を最後まで言い終えることが出来なかった。

 ズバンッ、と何かが空気を切り裂くような音が、彼の言葉を唐突に遮ったのだ。

 スカーレット卿は、突如異変が起こった自分の体へと眼を向ける。

 

 その肩には、黒く禍々しい瘴気を放つ剣が―――ナハトさんの背後から、妖怪の動体視力すらも凌駕するスピードで放たれた魔剣グラムが、深々と突き刺さっていたのだ。

 

「――――あ?」

 

 何が起こったのか分かっていない様子のスカーレット卿は、一拍呼吸を止めて、自分の置かれた状況に眼を剥いた。

 次の瞬間、二発目のグラムがまた別の肩に突き刺さったところで。

 彼は大きく仰け反りながら、凄まじい悲鳴を部屋中に轟かせた。

 

「があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!?」

「おじ様やめて! それは、それはフランの体でもあるのよ!? あの子が死んでしまう!!」

「案ずるなレミリア。私がこの下衆の為に、フランドールの体や魂に傷一つでも付ける訳がないだろう」

 

 ナハトさんはそう言うが、傍目から見ればとてもそうには見えない。どう見ても、黒々とした剣がスカーレット卿の――妹様の肩に突き刺さっている。貫通しているのだ。これで損傷を受けていない訳が…………いや待て、貫通している? 妹様の腕よりも明らかに刃の広い剣が、突き刺さったままでいるのか?

 おかしい。あんな剣が貫通しているのであれば、普通肩から先は切断され、千切り飛ばされてしまうのは明白だ。それなのに、まるで剣越しに腕を体へと繋げているかのようにそのまま存在している。しかも、溢れる筈の血液が一滴も零れ出していない。

 スカーレット卿は顔中から汗を拭きだして、乱れる焦点を必死に合わせながらナハトさんを睨み付けた。

 

「き、貴様一体何を……! 気でも狂ったか!? これは、お前があれ程守り通そうとしていたフランドールの体だぞ!? それを、こんなにいとも容易く……ッ!」

「……グラムは、肉を抉り骨を断つ鋼の剣ではない。これは私の混じり気の無い魔力で生み出した剣なのだ。いわば武器であり、私の一部でもある。見た目は貫通してはいるが、剣を構成する魔力の方向性を調節すれば、フランドールを傷つけることなくお前の精神部分のみを斬り裂く事など造作もないのだよ。あまり私を舐めるな、若造」

「ぐ、ううう!」

「どうした? 顔が青いぞ。私に娘の惨殺現場を見せつけるのではなかったのかね」

 

 一歩、また一歩と近寄るナハトさんに怯み、スカーレット卿は足を縺れさせて後ろへ倒れ込みそうになる。

 しかし倒れることは無かった。彼の前では倒れる事すらも許されなかった。

 

「その体は借り物だろう。粗末に扱わない程度の気配りは見せよ」

 

 スカーレット卿の足元の床から、突然触手のようなものが生え伸びたかと思った瞬間、それが卿の体を雁字搦めに縛り上げてしまったのだ。

 その触手は生物的な動きをしてはいるが、生きるものの気配がしなかった。床そのものが意思を持ち、卿へ腕を伸ばしているかのような光景だった。

 これは、ナハトさんの魔力が物体に影響して起こる現象の一つだ。確か昔にも同じように、ふとした拍子に本を魔本へ変えた事があった気がする。それと同じく、彼の魔力が床に擬似的な命を吹き込んだのだろう。魔力は超自然エネルギーの具現体だ。魂は宿らせずとも、無尽蔵の魔力を供給すればゴーレムの様に『生き物らしい行動』をとらせることが可能となるらしい。

 石の触手は、スカーレット卿の体に絡まり固定すると、元からその形があるべき姿だったと言わんばかりに硬直し、ただのモニュメントと化してしまった。

 身動きを完全に封殺されたスカーレット卿が、唾液を撒き散らしながら叫ぶ。その眼からは先ほどの余裕などとうに失せ、焦燥一色に塗りたくられていた。

 

「お、前は、どこまで化け物だ!! 床を―――無機物を『使い魔』に変えただと!? こんな、こんな出鱈目な真似が」

 

 再度、彼の発言は強制的に封じられた。ナハトさんの背後から射出されたグラムが次々と、石の触手ごとスカーレット卿を縫い付けるかのように突き刺したのだ。

 おそらく意識を保てるギリギリのラインで斬っているのだろうが、精神を直接切り裂かれるのは想像を絶する苦痛なのだろう。スカーレット卿は悲鳴を上げる事すら許されず、般若の様な苦悶の表情を浮かべることしか出来なかった。

 

「今ならフランドールの気持ちがよく分かる……親愛を向ける者が下賤な輩に乗っ取られている光景を見せつけられるのが、これほど不快だとは。あの子が憤るのも無理はないか」

「ナ……ハ……トォ」

 

 スカーレット卿は荒い息を吐き出しながら、それでも不敵な笑みを浮かべる。絶体絶命である筈なのに、まだ隠し玉を持っていると言わんばかりの表情だった。なんて往生際の悪い奴だ。

 

「勝ったと思っているな? 盤をひっくり返したと思い込んでいるのだろう? フフフフフフ、忘れてはいないか。フランドールの魂はまだ私の手元にある!! 何時でも侵食し、食らってやる準備は出来ているんだよォ! 貴様がどれだけ私を封じようが、こいつだけは冥府へ道連れにしてくれよう! それを拒むのならば、然るべき処置をとるがいい。愛しの娘を、輪廻の輪から外したくなければなァ。ハハハハハハハッ!!」

「…………それで?」

「は――――――」

「それで?」

 

 ナハトさんはまるで意に介さない。狙いを定めるかのように、ただ眼球をスカーレット卿へと向け続けている。顔が無いから尚の事だが、全く彼は動揺していない事が解った。

 スカーレット卿は、それが挑発されていると思ったのだろう。激しい歯軋りを立てて、唸るように言葉を発する。

 

「どこまでもコケにする気か……私が娘の魂を食らう事を躊躇する様な者だと、まだ思っているのか? 舐めるなァッ!! その肉の無い顔を後悔に歪めさせてや……あ……!?」

 

 ビクンッ、とスカーレット卿の体が突如痙攣を起こした。がくがくと縫い止められた体を揺らし、瞳を絶えず泳がせ続けている。

 一体何が起こったのか。今ナハトさんは何もしていない。グラムを使ったわけでも、魔法を使ったわけでも無い。何もしていないのだ。それなのに、スカーレット卿は明らかな狼狽を露わにしている。

 スカーレット卿は、必死に絞り出すように声を出した。

 

「何故だ……? 何故魂が侵食出来ん? フランドールの魂は私の手の中に―――まさか、さっきのアレか!」

 

 スカーレット卿は妹様の魂を食い潰すことが出来ていない様だった。青い顔をさらに青くし、妹様の顔とは思えない凄惨な表情を作り出している。

 さっきのアレという言葉で思い浮かぶのは、妹様を眠らせた睡眠魔法だろうか。あの時既に、ナハトさんは妹様の魂へプロテクトを同時に仕掛けていたのだろう。だから、スカーレット卿は妹様を食らい我がものとすることが出来ずにいる。

 合点がいった。何故ナハトさんが笑顔の欠片も見せず、品定めをするかのように交渉を持ち出したのかが。彼はスカーレット卿の心情を把握した上で、正真正銘最後のチャンスを与えていたのだ。その手を跳ね除けられた場合、一番救出の難しい妹様の魂が悪用されないよう保険を掛け、自身が破壊される事も全て計算の内に入れて。

 しかし、なんて魔法の精密さだ。ほぼ隣接した形で精神内に居座っていただろうスカーレット卿に気付かれることなく、プロテクトを妹様の魂に一瞬で施すなんて。

 

「手札は切り終えたか? 作戦は終いか? 駒は手元に残っていないか? ならばもう、お前に終幕を告げてやっても良いのだな?」

 

 ナハトさんは、身動ぎ一つとれないスカーレット卿の眼前にまで歩み寄る。体から放たれる瘴気が、スカーレット卿の頬を撫でるほどの距離までに。

 あまりに、圧倒的だった。

 妹様の魂と力を奪い取られ、攻撃の手段を潰され、生殺与奪の権利を握られ、どう足掻いても逆転は不可能だった状況が。

 妹様の魂は守られ、力は封じられ、一方的な攻撃を受け入れさせ、生殺与奪の権利を奪い返している。

 私たちの絶体絶命が、いつの間にかスカーレット卿の物へと置き換わってしまっていた。

 それを悟っているのか、ギリギリと歯を噛み締めながらスカーレット卿はナハトさんを睨み付ける。頭の中では如何にしてこの状況を切り抜けるか、惨め垂らしく策を講じているのだろう。

 

 ふと。

 ずっと憎悪の視線を向けていたスカーレット卿は、急に憑き物が落ちたかのような清々しい笑みを浮かべ始めた。

 

「完敗だ」

「……、」

「やはり私では、どう足掻いても貴方を超えることは出来なかったか。悪かったな、こんな薄汚い真似をして……だが私は、どうしても全力の貴方と戦ってみたかったのだ。許してくれとは言わない。敗者は敗者らしく、甘んじて死を受け入れよう。さぁ、そのグラムで私の魂を冥府へ送ってくれ。貴方に殺されるのならば悔いはない」

 

 ―――何を、言っているのだ? この男は。

 今までの悪逆非道な態度が嘘のように、スカーレット卿は紳士的な対応を取り始めた。命乞いをしている訳では無い。むしろ逆だ。この男はさっさと殺せと言っている。こんな奇妙なことがあるのか? 妹様に魂を植え付けて、肉体を自ら滅ぼしてまで野望を掴もうとしたこの男が、こうもあっさり身を引くなど、考えられる事ではない。

 何か裏があるのか。しかし裏があったとしても、ここから逆転を狙えるような要素がどこにあると言うのだろう。私の頭では、どうにも答えを探し出すことが出来なかった。

 

「さぁ、グラムを引き抜いて私の魂を肉体から解放してくれ。この状態では、グラムが抜けたところで抵抗は出来ん。大人しくあの世へ旅立つとするよ」

 

 頭を垂れ、無抵抗の意思を示すスカーレット卿へ、ナハトさんは重々しく口を開く。

 

「死は生きる者への平等たる最後の救いとは、よく言ったものだ」

「……突然どうなされましたかな?」

「貴様はこう考えている。この状況ではどう足掻いても勝ち目はない。魂を直接切り捨てることが可能なグラムがある以上、更に抵抗すれば魂そのものを消されかねない。命乞いも無意味。ならばいっそ死を受け入れ、地獄で責め苦を受けてから輪廻の輪に加わり新しい生を受ける方が遥かにマシだ、と」

 

 スカーレット卿の表情が、 死刑宣告を食らった重罪人の様に青ざめた。唇は震え、歯が微かに鳴っている。

 

「ところで」

 

 闇夜の支配者の指が動く。それは徐々に上を向き、やがて彼自身の顔を指差した。

 肉は無く、眼球と白い歯のみが存在している、靄の塊と化した頭部へと。

 

「私が何故、この顔の傷を未だ治さないでいると思うかね?」

 

 沈黙が、刹那の間室内を支配する。

 初め、私はナハトさんが何を言っているのか分からなかった。だけど、彼の言葉を噛み砕いているうちに分かってしまった。

 輪廻の輪。来世への望み。

 それを許さないと断ち切るように、自身の傷は『わざと』治していないのだと言い放った訳は。

 

「―――――あ、ああああああああああああああああああッッ!! 待て待て待て待て待て待て待て!! 考え直せナハトォ!!」

 

 スカーレット卿の薄い化けの皮が、一気に引き剥がされた。自身へ襲い掛かるだろう最悪の未来を想像して、絶望の叫びを喉がはち切れんばかりに炸裂させる。そこに声と言う概念は無く、あるのは獣の咆哮に似た、感情の爆発表現だった。

 彼が悲鳴を上げるのも無理はない。ナハトさんは、奴の魂を食らう気なのだ。魂そのものを治癒する為に必要なエネルギーに変えて、あの顔の傷を癒すつもりでいる。その先にスカーレット卿を待ち受けているのは無だ。地獄も来世も存在しない、『次』が来る事の無い永劫の終わりなのだ。

 スカーレット卿は引き攣る頬を無理やり抑え、目を白黒させながら懸命にナハトさんへと訴える。

 

「なぁ、ナハト、貴方は吸血鬼だろう? ならばその誇りを持って、敗者に鞭を打つような真似はよそうと思わないのか? 名誉ある死を迎えさせようとは思わないのか?」

「何が名誉ある死だ、笑わせるな。そもそもお前が用いた分霊の術は、輪廻の輪に加わる事を拒否した魔法使いが、醜い執念によって生み出した邪法だろう。それに縋ったお前が輪廻の輪に加わりたいなどと、虫の良すぎる話だとは思わないか?」

「だ、がそんな事が許されると思っているのか!? 魂を消滅させるなど、貴様、それでも吸血鬼の頂点に立つ者か!? 弱者をいたぶる事がお前の本性なのか!? 違うだろう!?」

「そうだな。私は弱者を虐める趣味など無い。だからこそだよ、スカーレット卿。子を想い、そしてお前の手によって無残にも殺されたあの子たちの母は今、あちらで安息を迎えているだろう。そこにお前を送り込んで、折角の平穏を乱す訳にはいかんだろうに。例え、天国と地獄で分かれていようともだ」

「―――――――レ、レミリアアアアアアアアッ!!」

 

 死よりも恐ろしい現実から目を背けるかのように、スカーレット卿はお嬢様の名を叫んだ。眼は充血し、口からは泡が噴き出ている。恐怖のあまり、最早彼は悪党としての体裁を保つことすら不可能となっていた。

 

「私を殺せええええ!! 貴様の魔力弾で首を撥ねろ! 心配するな、フランドールはその程度で死ぬことは無い! 私の魂をグラムと肉の器から放つ手伝いをしてくれるだけで良い! 私が憎いのだろう? 積年の恨みを晴らす絶好の機会だぞ! さぁ殺れ、殺れ! 私への恨みを今こそ存分に晴らせ!!」

「……折角の申し出ですが」

 

 お嬢様はスカートを両手で摘み、腰を曲げて深く頭を下げた。令嬢特有のお辞儀をスカーレット卿へ送ったその動作は実に優雅で、吸血鬼としての気品を感じさせるものだった。

 上げられた彼女の顔には、およそ10歳程度の姿をした少女が見せるものとは思えない、妖艶な微笑みが浮かんでいる。

 

「私は妹に親愛の情を抱いたために、妹を傷つけることが出来なくなった出来損ないにございます。それ故、妹へ手を上げることなど到底不可能なのです。どうかお許しください」

「レ、レミリア、私はお前の父親だぞ!? 最期くらい情けを掛けようとは思わんのか!? 誰のおかげでこの世に生を受けられたと思っている!」

「生憎ですが、私の父はナハトおじ様ただ一人。情け、と言われましても、私には何を意味しているのかが分かりません」

 

 スカーレット卿は絶句し、金魚の様に口をパクパクさせるだけとなってしまう。直後、ビシッ、とナハトさんの足が動いた音を聞いて、すぐさま正面へ振り向いた。余裕など消し飛んだスカーレット卿の表情は、恐怖の二文字で完全に塗り固められていた。

 あの表情は、私にも見覚えがある。かつて私を手籠めにしようとした少年たちが、ナハトさんに見つかった時の様な、あまりに情けなくて、惨めな表情のそれだった。

 

「い、嫌だ……!」

「終わりで良いだろう。引き際を弁えよ、下郎」

「待て、待て!! そうだ、取引をしよう。私はお前の永遠の奴隷になる。私はこれでも有能だぞ、最強の吸血鬼の名は伊達ではないと言う事を証明しよう! 私が隠した館の財宝の在処も教える! だから頼む、どうか考え直してくれ!」

「駄目だ」

「なら後生だ、殺せ! 殺してくれ!! それでいいじゃないか、鬱憤を晴らせて終わりで良いだろう!?」

「貴様に後生は、無い」

 

 白い歯が、ゆっくりと上下に開いていく。そこから覗くのは何もない暗黒の空間だった。それこそが、スカーレット卿の未来を表しているとでも言うかのように。

 ナハトさんは両手をスカーレット卿の頭へ添える。そのまま齧りつくような勢いで口が開き、スカーレット卿の目と鼻の先には暗黒の空間が展開された。

 

「滅びを受け入れよ、スカーレット卿」

 

 バチバチッ!! とナハトさんの両手から、紫色の電気の様なエネルギーが駆け抜け、妹様の肉体が淡い紫色の光の膜に包まれる。スカーレット卿の魂を引き剥がそうとしているのが瞭然だ。

 これで、終わりなのだ。最早彼に未来は無く、魂は養分へと変えられる。

 スカーレット卿は悍ましい口の先を凝視したまま、これまでにない断末魔の叫びを館中へ轟かせた。

 

「嫌だ、やめろ、やめ、やァァめろォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」

 

 スカーレット卿の魂が、紫色の光の膜と共に引き剥がされていき、少しずつナハトさんの体へと吸い込まれていく。僅かながら抵抗を見せたスカーレット卿だったが、部屋中に漂っていた瘴気や突き刺さっていたグラムも纏めて取り込み始めたナハトさんから逃れる術はなく、呆気なく体内へと収められてしまった。

 更に、部屋全体を覆っていた黒い魔力が、渦を巻きながらナハトさんへと吸収されていく。刹那の際に黒い竜巻と化し、そしてその暴風が晴れると、あの恐ろしい眼球と歯のみだった顔は元の美麗な青年のものへと戻っていた。

 

 彼は指を軽快に打ち鳴らす。すると、妹様の肉体を縛り、縫い止めていたグラムと石の触手がボロボロに崩れ落ち、無傷な妹様が露わとなった。

 私たちはすぐさま妹様の傍へ駆け寄った。私は彼女に『気』を流し込み、どこか悪いところが無いか懸命にサーチする。

 ……反応は無かった。ナハトさんの言う通り、あれだけ痛ましい姿だったにも関わらず、彼女の体には傷がどこにも見当たらなかった。むしろ健康そのものだ。

 

「ん……んぅ?」

「フラン!」

「妹様!」

 

 ゆっくりと瞼を開いた妹様が、囲むようにして覗き込む私たちを見渡した。その眼にあの邪悪な色は残っていない。昔の様に、朗らかな少女の温かさで満ちていた。

 妹様は飛び跳ねるようにして上体を起こし、私たちを眺めるように立っているナハトさんへと視線を向けた。

 

「おじさま……その」

「……『彼』は旅立ったよ」

「そっか……騙されちゃってたけど、最後に一言、400年間ありがとうって言いたかったな」

 

 ……そうか、妹様は眠らされていたから、今の今まで何が起こっていたのか分かっていないのだ。自分の心に、結局何が巣食っていたのかさえも。

 純粋すぎる彼女の姿勢に、私は思わず歯噛みする。どうして、ここまで優しくなれる彼女をスカーレット卿は利用しようなどと思えたのだろうか。本物の悪魔とは、ああまで汚くなれてしまうものなのか。

 寂しそうな表情を浮かべる妹様の頭に、ナハトさんは手を乗せた。髪を梳かすように頭を撫でる。

 

「その気持ちがあれば十分さ。君はもう一人ではない。姉が居て、家族がいる。もう寂しがる必要は無いのだ。今までを無かったことにしろとは言わない。しかし、何時までも縛られていると駄目なのは、君が一番理解できている筈だろう?」

「うん」

「なら次に君がすることは、誰に縛られるでも、縛るわけでも無く、彼女たちと共に多くの笑顔を作っていく事だと私は思う。過去に囚われる意味が無くなった今、君は未来に目を向けるべきなのだ」

 

 彼はいつもの様に、優しく艶やかな微笑みを浮かべて、フランの頭から手を離した。踵を返し、地下室の出口へと足を運んでいく。

 そんな彼を、妹様は不安気に引き留めた。もしかしたら、また居なくなってしまうと思ってしまったのかもしれない。

 

「どこへ行くの?」

「少し外の空気を吸いたい。君たちも互いに積もる話があるだろうから、私は席を外すよ。安心しなさい、今度は居なくなったりしない。約束だ」

 

 その言葉を口火に、彼は部屋を静かに後にした。

 

 ――――こうして、400年間もの長きに渡り館を縛り続けてきた呪いはこの夜を境に霧散し、私たちはあるべき形へと収まっていくこととなった。

 お嬢様と妹様が今までの溝を埋めるかのように、一緒になって過ごしている様子を眺める日が増えた事は、言うまでもない。

 

 

 紅茶がカップへ注がれる細やかな音色が部屋を満たす。白い陶器製のティーカップに紅色の液体が張られると、香ばしい葉の香りが湯気と共に立ち上り、思わず頬が緩んでいくのが分かった。今日はいつもより上手く出来たらしい。葉の調合は少々面倒だが、やはり手を加えた分、質が上がっている様に感じるのは気のせいではないだろう。

 火炎魔法を消し、私は自室で淹れた紅茶を口に含みながら、分厚い一冊の本を開く。栞が何故か抜け落ちてしまっていたので、まずは以前に読んだページを探す工程から始まった。

 

 ――――――あの夜から、大体一週間ほど経過した。どうやら私はあの子たちに紅魔館の一員として無事迎え入れて貰えたらしく、こうして自室も設けて貰い、実に優雅な日々を送っている。何せ家に人がいるのだ。これだけでも十分嬉しい事なのだが、それに加えて会話も出来るサービスまでついている。私の中で彼女たちは友達と言うより家族なのだが、それでも何気ない話が時折出来るのは、非常に心安らぐのだ。

 まぁ、美鈴は相変わらず畏まっているし、パチュリーはどこか品定めする様な目線を投げてくるし、咲夜はメイド然としていて鉄仮面を崩さない。さらに、小悪魔には尻尾と耳を立てて緊張されるのは日常茶飯事となっている。まだあまり面識のない妖精メイドたちには悲鳴を上げられるのだが、それでも十分と言えるだろう。今までのじめじめした私の過去に比べれば、その爽快感は樹海と草原の差だ。今なら太陽に向かって走る少年たちの気持ちが分かるような気がした。私がやれば即刻灰になるので、取り敢えず満月で我慢しよう。

 

 しかし実は今、私には密かな悩みが出来てしまっている。友達関連ではなく、レミリアとフランの事だ。

 あの夜を境に、私はあの子たちから避けられるようになってしまっていた。理由は分からないが、どうにも余所余所しいのだ。レミリアに話しかければ何時も絶妙なタイミングで咲夜が現れ、レミリアはどこかへ連れていかれてしまう。フランは何故か酷く慌てだし、『また今度ね!』と走り去っていくのだ。

 最初は接し方が分からず慣れていないのかとも思ったのだが、流石に1週間も続けば怪しまざるを得ない。何が原因なのかを考えてふと、私はあの夜の事を思い出した。

 

 結論から言おう。私は多分、やりすぎた。

 

 別に後悔もしていないし、罪悪感などまるで無いのだが、流石に魂を取り込んだのはやりすぎだったかもしれない。しかもあの時の私の顔は恐らく、再生していない肉体を魔力で補っていた為に魔王か何かにでも見えてしまっていた事だろう。致し方なかったとはいえ、平常より恐怖感が倍増された私を見て怖い父親だと思い込まれた可能性がある。具体的には、怒らせると比喩表現抜きに魂を喰われる義父だとでも。なんて事だ。400年越しに私はドメスティックバイオレンスパパにデビューしてしまったとでも言うのか。

 

 美鈴やパチュリーに相談しても大丈夫だの一点張りで、何が大丈夫なのか教えてくれない。咲夜に関しては失礼しますと目の前からいなくなる始末である。あの子は瞬間移動能力か何かを持っているのだろうか。能力を使ってまで逃げられる内容とは、やはり私へ知られるのがマズい類なのだろう。そこがまた、私の不安を(くすぐ)るわけで。

 

 上手く出来た紅茶だが、どこか味がしなくなったように感じて、私はテーブルへとカップを置き、息を吐く。

 すると部屋のドアから4回、ノックの音が軽快に鳴り響いた。と言う事は咲夜か。別に私の世話をする必要は無いと言ったのだが、彼女はどうにも我慢がならないらしく、『私にはこの様な形でしか恩を返せないのです』と半ば強引に何かしらの世話を焼かれることが多くなった。と言っても、私は宣言通り自分のことは殆どやってしまっているので、ベッドをメイクする程度で終わってしまうのだが。

 

「咲夜か。入っても構わないよ」

「失礼します」

 

 君も大変だろうから別に構わないのに、と言おうとしたところで、ふと、咲夜の手に銀に輝く半球状の物体が乗せられている事に気が付いた。具体的には、運ぶ料理に被せるクロシュと言う蓋である。

 食事の時間にしては、いささか早過ぎはしないだろうか。食事をとったのはつい先ほどの事なのに、どうしたと言うのだろう。

 

「それは?」

「お嬢様と妹様からの差し入れにございます」

「差し入れとは……一体何を?」

「申し訳ありません。お嬢様の命によりお答えできないのです」

 

 咲夜の手から、テーブルへ差し入れが置かれた。何とも仰々しい差し入れだ。一体何が入っているのか。妙な好奇心と開けてもいいのかという不安感が靄のように浮かんでくる。

 

「開けても?」

「はい。勿論です」

 

 取っ手を摘み、クロシュをゆっくりと引き上げて、私は中身と対面した。

 ケーキだった。

 ベリーソースが全体にコーティングされた、タルト生地の紅いホールケーキ。上には苺やらブラックベリーやらオレンジやら、果物が盛り沢山に置かれていて、パッと見ただけでも贅沢で豪華な見栄えとなっている。

 全体的に赤色をしたこのケーキは、如何にもあの二人らしいチョイスだ。見ると、フルーツの切断面がどことなく粗く、大きさもバラバラである。ソースの塗も少し、乱れがあるように思えた。

 しかし私には、このケーキがどの名パティシエの作ったものよりも甘美に思えた。思わず見惚れてしまう程に、私はケーキを眺める事に夢中になってしまった。

 そんな私の意識を引き戻すかのように、咲夜はふわりとした調子で告げる。

 

「お嬢様と妹様は、ずっとずっと練習なさっていたのですよ。仲直りをさせてくれたお礼がしたいと、それはもう必死に。思わず口を滑らせないよう、ナハト様を避ける行動をとってしまった事は申し訳なく思いますが、どうかお気持ちを汲んで頂ければ……」

「別に気にしてはいないさ。しかし、成程。いやはや全く意表を突かれたよ。普段家事なんてやらないだろうあの子たちの事だ、相当練習したのではないか?」

「ええ。教えている身が大変になるほどに」

 

 そう言って、咲夜は珍しく鉄仮面を綻ばせて微笑んだ。そうか、彼女が作り方を教えていたのか。紅魔館の家事を一手に引き受けている彼女なら、適任と言えるだろう。付き合ってあげてありがとうと言いたいところだが、今は別の言葉を言うのが先だ。彼女自身も、そちらの方を望んでいる。

 

「伝言を頼まれてくれないか。この上なく素晴らしい、ありがとうと」

「承知いたしました」

 

 こちら、食器になりますと咲夜から食器一式を渡され、直後に彼女は礼を言って姿を消した。相変わらず一切無駄が無い少女だ。一口でも食べて行けばよかったのに。

 ふと、クロシュの裏側に何かが張り付いている事に気が付いて、私は蓋の裏側を覗き込んだ。

 そこには、一枚の黄色い紙が張り付けられていたのだ。『ありがとう』。記されているのはその一言のみで、端に小さくRとFの文字が書かれていた。

 無論、それは小さな送り主二人の頭文字をとったもので。

 

「……、」

 

 思えば私はこの長すぎる生の中で、一度たりとも他人から贈り物を貰った事が無かった。交友関係が殆どないのだから当然と言えば当然なのだが、いざ貰ってみれば、これがどれ程美しく尊いものなのかがよく実感できる。食べるのが勿体ないと言う言葉は、本当に存在していたのだ。ナイフを入刀するのが(はばか)られてしまうのも無理は無かった。

 意を決して、ピースを一つ小皿に取る。フォークで切り分け、その欠片を口へと送った。

 舌がケーキを迎え入れた瞬間、深い感嘆が、吐息となって漏れ出した。

 

「…………良いものだな」

 

 私は紅茶を淹れなおして、次々とケーキを口に運んだ。一人で食べきれる量ではないと思っていたのだが、これが不思議と胃袋に収まっていく。味気なかったはずの紅茶が進む。なんとも胸焼けが心地いい。気が付いたころには、プレートの上には何も残されていなかった。我ながら、あの量をよく食べきれたものだと思う。

 

 その後、図書館を訪れた際にパチュリーから『小悪魔が怯えるからにやにやするのをやめて頂戴』と一喝されたのは、また別の話だ。

 



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EX1「賢者さんの憂鬱」

 

 パタン、と本を閉じて、テーブルへと置く。読み終えた後の微かな余韻に浸りながら、私は椅子の背もたれへ大きく腰掛けた。

 

 自然と、深めの溜息が漏れる。傍にあるティーカップの中は既に空になっていて、どこか寂しい印象を私に与える。紅色の液体を少しばかり恋しく思うが、今はそこまで積極的に淹れようと思えないので、そのまま放置しておく事にする。

 

 今は丁度、正午を回る頃合いだ。太陽が空を支配している時間帯であり、一切外へ出る事が出来ない。

 私は眠る必要が殆どないため、こうして窓のない自室で、夜までの時間を潰すために活字の世界へ入り浸っていた訳である。

 

 しかし、借りて来た本はたったいま全て読み切ってしまった。紅茶で気を紛らわせようにもそう何杯も飲むものではない。他の飲み物を飲む気も今のところ起きない。水腹になってしまうのは遠慮したいところだ。

 

 誰かと時間を過ごそうとも思ったのだが、レミリアは日の射す中だと言うのに日傘を咲夜に持たせて、果敢にも博麗神社と言う巫女さんの住む所へ行ってしまった。

 吸血鬼が人間のシャーマンと仲がいいのは少し驚いたがそれはさておき、体が小さいのはこういう時に羨ましいものだ。私は傘に体が入りきらないから日光でダメージを受けてしまうため、下手に外を出歩けない。日の元に出られないのはほとほと困ったものだ。

 

 姉妹の片割れのフランはどうかと言うと、何やら最近パチュリーや小悪魔と共に『すぺるかーど』なるものの新開発に忙しいらしい。

 妖力や魔力、人間でいえば霊力と言ったオカルティックエネルギーを弾幕として顕現させて対戦相手と撃ち合い、弾幕の美しさや強さで勝負する遊びを『弾幕ごっこ』と言い、『すぺるかーど』は宣言用の道具なのだそうだ。

 

 最近の幻想郷では、その自身で考案した弾幕を撃ち合う遊びが力ある少女達の間で流行中なのだとか。

 これは本来、妖怪と人間の圧倒的実力差を埋めるべく考案された決闘法らしいが、言ってしまえば女の子のままごとだと説明された。故にごっこなのだと言う。

 

 女の子の遊びと言われたものの、パチュリーとフランが練習試合をしている光景を見て興味が湧いたので、物は試しにとパチュリーに細かなルールや弾幕の作り方を聞いてみたら『幻想郷と戦争を起こすつもりなのか』と険悪な表情を向けられ却下された。何故そのように解釈したのだろう。私は少し試したい気持ちで遊んでみたかっただけなのに。

 

 美鈴の場合、日光は元より門番をしているため、邪魔をする訳にはいかない。以前夜の門番勤務中に差し入れを持っていったら跪かれる勢いで礼をされ、ガチガチになってしまった事がある。それ故、勤務中は遠慮することにしているのだ。

 

 いい加減私は恐怖の魔王でもなんでもないと認識して欲しいのだが、あの夜の事がどうにも彼女の心へ根付いてしまったようである。追々、あれはただ熱を持ち過ぎただけであんな激情に身を任せるようなことは滅多に無いのだと説明して、早く誤解を解いて貰わねば。

 

 最後に妖精メイドだが、彼女たちは未だ心を開いてくれないでいる。自然の具現体であるが故に純粋な彼女たちは、モロに魔性の悪影響を食らってしまうようだ。咲夜からは、『ただでさえ仕事をしない彼女たちが更に使い物にならなくなるので、無暗に脅さないでください』と注意される始末である。交流のきっかけを掴むために手を振るのが脅しと取られるとは、やはり他者と関わりを持つのは難しいのだと実感させられた。

 

 さて、そんなこんなで私は絶賛暇である。誰か私の所へお客さんでも来ないかなぁと妄想に耽っては見たが、よく考えてみれば私が幻想郷に存在していると紅魔館の住人以外は知らない。訪れる者が現れる訳がないのだ。いや、仮に知られていた場合に訪れる者が来るのかと聞かれれば、今までの経験からして沈黙せざるを得ない訳なのだが。

 

 仕方がないので、図書館から本をもう一度取って来ようと立ち上がる。以前借りていた返却分を用意して、部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。

 

「こんにちは」

 

 風鈴の様に凛としていて、どこか月の光を思わせる神秘的な声色が、突然耳に入りこんだ。

 誰だろうか。館の者の声ではないが……と振り返れば、そこに15から17歳程度の少女が、扇子を片手に佇んでいるではないか。

 

 太極図らしきものが描かれた中華風の服装に、レミリアやフランの物と形状が似ているリボンをあしらった帽子。髪は美しい黄金で、本来はそれなりに長いのかもしれないが、今はキャップの中に纏められている。瞳は私と同じ紫色だった。

 

 浮世離れした美貌をもち、全身から只ならぬ妖気を纏わせているところから見て妖怪であるのは間違い無いだろう。しかもこの妖気の濃さは、私と同等の時を生きた妖怪であると伺えた。

 

 何にせよ、私に一切存在を気付かれることなく部屋へ忍び込んだ時点で只者ではない。

 しかし、別に争う気も無い上に私としてはなるべく荒事は遠慮願いたいので、只者ではないからと言って無暗に敵意を振りまくようなことは絶対にしない。

 それでも、魔性の受け取られ方によっては敵意と勘違いされてしまうから困りものなのだが。

 

 ……そう言えば、レミリアやパチュリーから幻想郷の管理者の立場に就いている妖怪について、少し説明を受けたことがあった。

 なんでも物理非物理はおろか、概念染みたもの、果ては存在に関わる境界ですら操れるという非常に強い力を持った妖怪の話だ。名を確か、八雲紫と言っていたか。

 

 境界を操る、というのが今一つピンとこないのだが、レミリア達の説明が誇張表現でないとしたら、空間の境界を操る事も可能ではないだろうか。

 そうであれば、気配も無くここへ現れた不可解な現象も説明できる。仮説が正しいなら、彼女は空間と空間の境界を操り、接続してここを訪れたと言ったところか。

 

「少しお時間を頂けるかしら」

「ああ、構わないよ。ところで君は、もしかして八雲紫と言う名前かな?」

 

 彼女は眼を細めながら、手に持っている扇子で口元を隠した。非常に穏やかな雰囲気ではあるのだが、どこか睨んでいる様な印象を受けるのは気のせいだと願いたい。

 

「ご名答。お宅のお嬢様から第一印象でも聞いたのかしら。でも一方的に知られているのは不公平ですわ。せめて、貴方のお名前を聞かせてくれる?」

「ふむ、それは失礼した。私はナハト。最近ここに引っ越してきた新参者だ。初めまして」

「……ええ、初めまして。改めて自己紹介させて頂きますわ。私は八雲紫。一応、この幻想郷の管理者みたいなものを務めています」

 

 柔らかく、妖艶な笑みを浮かべて少女は言う。

 それにしても、我が瘴気に対してここまで平然として居られるのは少々驚いた。先天的に耐性の強い者なのだろうか? 

 いや、もしかしたら境界を操る力で何とかしているのかもしれない。非物理まで干渉が可能ならばおそらく可能ではあると思う。無効化されたことが今の今までに無いものだから、確証はないのだけれど。

 

 しかしだ。これはひょっとすると非常に恵まれた好機なのではないか?

 

 彼女は今私の手元にある情報で推察するに、とても強力な妖怪である。さらに私の魔性による悪影響を受けている様子がほとんど見当たらない。

 余裕を保ち、淡々とした態度をファーストコンタクトの時点で保って見せた。前例がない訳では無いが、非常に稀なケースなのは違いない。もう奇跡の確率と言って良い程だ。

 

 言うまでもなく、魔性耐性有りだという事実に加えて、私と同等クラスの妖怪であるのならば。これ即ち、高い確率で友達になれる可能性を秘めた人物と言う事になる。

 

 その想像にまで至って思わず頬が緩んでしまうが、いきなり脈絡もなく笑うのは失礼な上に不気味だと直ぐに頬を硬直させた。

 久しぶりの友達候補を見つけて、どうにも舞い上がってしまう自分に気付く。幾ら年を重ねても、慣れない事には慣れないものなのだなと身をもって実感した。

 

 立ち話もなんだと、私と紫はテーブル越しに対面する形で椅子に腰かける。

 本を傍に置き、一息。久方ぶりの紅魔館以外の人物とのコミュニケーションに、少しばかり妙な緊張を覚えつつ彼女を見る。

 いかんな。初対面が恐らく世間一般の『普通』な対応だっただけあって、期待を抱かずにはいられなくなってしまっている。私らしくも無い。

 

「それで、何か私に用かな? 大方、新参者たる私の査察だと伺えるが」

 

 私の言葉に、彼女はどこか冷たいようで清らかな、さながら雪解け水の様に透明感のある微笑みを浮かべた。

 

「その通りですわ。私、貴方が何時ここに訪れたのかだとか、詳しい事をまるで知らないの。だから少し、その辺りも兼ねて貴方とお話をしようと思って」

 

 …………、

 これは、夢か? 

 もしかして私は、友達欲しさのあまりこの年で遂にイマジナリーフレンドを作り出してしまったとでも言うのか?

 

 待て。慌てるな。精神を平静に保て。幾ら初対面がスムーズに進みそれどころか相手の方から私と話をすることを望んでくるという、どれだけシミュレーションを重ねたかも分からないような事態に直面したからと言って、混乱して折角の機会を台無しにしてはいけない。

 

 思考がいたく早口になってしまった気がするが、一周回って逆に冷静になり、幾らかの落ち着きを取り戻す事に成功する。

 

 そうだ、落ち着くのだ。勘違いしてはいけない。彼女が私に対して興味を抱いたのは、あくまで管理者と言う立場であるが故だ。

 私が幻想郷に仇なす存在か、そうでないかを見極めに来ているだけである。プライベートで来ている訳では無いという事実を頭に叩き込んでおかねばならない。

 

 そこで浮上してくる問題が、私に対する『印象』である。ここで不躾な態度をとって有害だと判断されれば終わりだ。管理者に疎まれ幻想郷で生き辛くなることは勿論、彼女自身との交友の橋が崩れ落ちてしまう。

 絶対に避けねばなるまい。この状況は私にとって、ある意味ではあの夜より遥かに危険な綱渡りとなるだろう。

 

「そういう事なら、歓迎だよ。気になる点があるなら何でも聞いてくれ」

「そうさせて頂くわ。じゃあまず最初の質問。貴方は何時頃から幻想郷へ?」

「およそ十日前の夜かな」

「ふうん。じゃあ、幻想郷の情報をどこで知ったの?」

「私は当時旅をしていてね。外に残っていた数少ない人ならざる者達の噂を小耳に挟んだのだ。東方の地に、人と妖が共に暮らす隠れ里の様な場所があるとね」

「成程ね。それで貴方がここを知り、訪れることが出来たって訳」

 

 紫は扇子をパチンとたたみ、瑞々しい桜色の唇に陶器の様な指を這わせる。考えるときに唇に指を当てる癖でもあるのだろうか。

 

「あと少しだけ、お話を聞いても?」

「勿論」

「ありがとう。……貴方自身、幻想郷についてどう思っているのか、聞かせて貰える?」

 

 ふむ。幻想郷について、か。これはまた、答えにくい質問をしてくれたものだ。

 はっきり言ってしまえば、私は幻想郷の事を全くと言っていい程知らない。

 

 ここがどういった場所なのかは分かる。だが、どれほどの広さで、どの様な妖怪が生息していて、どの様なコミュニティが存在していて、どの様に各々が生活を営んでいるのかなどは露ほども知らないのだ。

 答えようにも、私の中の幻想郷は未だ紅魔館の範囲で収まっているために彼女が望む明確な回答が浮かばない。

 

 しかしここで何とも思っていない、知らない等と口にするのはよろしくない。適当な返事は幻想郷へ興味が無いのだと取られてしまうだろう。

 

 管理者の彼女はそれに傷ついてしまうかもしれない。幾ら大妖怪であったとしても、愛着のあるものを否定されれば良い気はしないなど自明の理だ。

 私だってもし、あの時パチュリーから私が基盤を完成させた図書館を貶されていたら、暫く部屋に引き籠っていた自信がある。

 だから私は、思った事を率直に述べてみる事にした。

 

「恥ずかしながら、私はまだ幻想郷の事をよく知らないんだ」

「……そう」

「だが」

 

 少女が瞳へ妙な光を微かに宿したところで、私は言葉を繋ぐ。

 

「ここへ来てまだ十日程度しか経っていないが、その短い間で、私は紅魔館に住む彼女らの笑っている顔をよく拝んだよ。レミィは人間の巫女さんの所へ行く時間を楽しみにしている様だし、フランは『弾幕ごっこ』に夢中になっている。パチュリーは外より落ち着いて本が読めると言っていたな。美鈴は……これは良いのか分からないが、よく気持ちよさそうに昼寝をしていると咲夜から聞いている。咲夜は館の雰囲気が以前より丸くなったと言っていた。……ここに住まう者は皆、外の世界では受け入れられ難い力を持った存在だ。そんなあの子たちが、ここへ訪れてから各々の平穏を手に入れ、穏やかな笑みを浮かべている。それだけこの地が過ごしやすいと言う事なのだろう」

 

 事実、私はこの幻想郷以上に、人ならざる存在が和やかに過ごしている光景を見た事が無い。

 妖怪と人間は本来相容れない存在であり、少し前までは人間と妖怪の争いなんて日常茶飯事だった。吸血鬼狩りや魔女狩りが良い例だ。我々は常日頃から、争いに備えてビリビリとした空気を纏わりつかせていたと思う。

 

 それが今、この館では見当たらない。もし争いの火種があるのならば、レミリアがあそこまで無警戒になる筈がないだろう。

 あの子は私が退いてから、400年近くも立派に当主を務めていたのだ。それも外の世界で過ごしていた時間の方が遥かに長い。敵意や悪意に関しては人一倍敏感である筈である。

 そんな彼女の反応が無いと言う事はつまり、ここが真に平和な地である証拠と言えよう。

 

「私は、とても良い場所なのだろうと思っているよ。時が来れば、自分の足でこの地を見て回りたいものだ」

 

 今は何故か、レミリアやパチュリーに外出を止められているので館からは動けないが、いずれは全てを見て回ろうと思う。この少女の様に私を受け入れてくれそうな者達と出会える事を願うばかりだ。

 

 紫は目を閉じて噛み締めるように頷き、畳んだ扇子を袖の中へと仕舞い込んだ。どうやら、及第点は貰えた様子である。

 ふと、ある疑問が頭に浮かんだので、口にしてみる事にした。

 

「今更だとは思うが、私は幻想郷へ来て良かったのかな? もしかしたら正式な手続きが必要だったのかと、ふと思ったのだが」

「いいえ、必要ありませんわ。ここは全てを受け入れる幻想郷。勿論貴方も歓迎します。でもここで暮らす上では、貴方に守って貰わなければならないルールがあるの」

「ほう、ルールか。是非聞かせて貰いたい」

 

 そこから私は、紫に幻想郷で暮らす上での主なルールの説明を一通り受けた。

 

 一つ。幻想郷には人間の集落である『人間の里』があり、その中では如何なる理由があろうとも妖怪が人を襲ってはならない。

 一つ。人間の退治屋と戦闘になった場合のスペルカードルールの適応。

 一つ。地上の妖怪が地底に赴いてはならない。

 一つ。博麗大結界を破壊してはならない。

 

 概要として見れば、大きなルールはこの位だろう。人を襲ってはならないのではなく、人里の中ではご法度であるらしい。

 つまり外では良いと言う事なのだろうが、私は人間を襲う必要が殆ど無いので必然的に問題は無い。

 加えて妖怪にとっての食料は、月に一度館へ配分されるらしい。レミリア達が人を襲わずに生活できているのはこれが要因だろう。

 

 スペルカードルールは、はっきり言って私には意味を成さない。そもそも戦闘など御免なのだ。退治されそうになった時は、適当にその場を去らせていただくとしよう。

 

 次に地底についてだが、そもそも地底の入り口がどこにあるのかが分からない。大まかな地底の説明を受けたものの、特に行ってみようとは思わないので問題ないだろう。

 ただ、地上で嫌われた者が集う地だという説明には、少しだけ興味が湧いた。もしかしたら私もそこへ行けば受け入れて貰えるのではと考えたが、そこですら拒絶されると本当に後が無くなるので最終手段とする。

 

 最後に、幻想郷を覆う結界についての説明だった。

 常識と非常識を外の世界と分け隔てている結界があり、この結界のお蔭で、外の世界において非常識―――具体的には忘れ去られたもの――となった存在が入り込んで来るらしい。妖怪や神の類も、その様にして入り込んで来るのだとか。

 

 ただこの博麗大結界。実は少し覚えがある。幻想郷へ訪れる直前の事なのだが、最初に森の中を隔てるように存在する力場の様なものを発見して、もしやこれが幻想郷を隠している隠密術の類では、とグラムで斬って入り込んだのだ。

 結果、私は無事に幻想郷へ入り込むことに成功したのである。無論、放置しておいて無用な騒ぎを起こすのは本意ではないので、斬った部分はちゃんとくっ付けておいた。

 

 その結界が、よもやそこまで重要なものだとは思わなかった。今度からは無暗に手を出すのは控えよう。触らぬ神に祟りなしである。

 

 ルールの説明と解釈が一通り済んだところでふと、折角私の部屋へ訪れてわざわざ確認やルールの説明までしてくれたと言うのに、お茶の一つも出していない自分の失態に気が付いた。

 私としたことが、何という初歩的なミスを犯したのだ。やはり、頭は冷えてもいつもの様に平常を保てていない様である。いかんいかん。

 

「説明してくれてありがとう。そういえば、長話で喉が渇いていないかね? 折角だから何か飲んでいってくれ。今は持ち合わせが紅茶と緑茶しかないのだが、どちらがお好みかな?」

「そうね。折角だから紅茶を頂けるかしら」

「うむ、了解した」

 

 席を立ち、自室の食器置き場へと向かう。

 部屋にある家具はベッドと本棚、それとテーブルに椅子という組み合わせで、一種の宿泊室のような雰囲気である。さらに少しだけ無理を言って、レミリアから茶葉とティー用品を仕舞える小さな戸棚を貰った。これで、わざわざ咲夜に出張って貰わなくても自分で淹れられると言う訳である。

 

 戸棚からティーポットとやかん、更に水を取り出し、水をやかんに入れて火炎魔法で熱する。 

 沸騰し始めた所でティーポットへ注ぎ、ポットの中を手早く洗い流す。洗った分の湯を水流操作魔法で取り出して分解、霧散させ、再びやかんで水を加熱しつつポットに茶葉を仕込む。

 ぼこぼことお湯が沸騰し始めたのでポットへと注ぎ、後は3分ほど待てば完成だ。

 

 ただ黙っているのもどうかと思い、ポットの様子を伺いつつ、私は背を向けたまま紫へ話しかける事にした。

 

「ところで私から一つ、図々しい様だが、貴女に頼みごとをしても良いだろうか?」

「……なにかしら」

「私は吸血鬼である故に、日の元に出る事の叶わない身の上だ。幻想郷の事を知りたくても、日中に出られないとなると知る事の出来る部分が限られてしまう。ここは人間も共存している地だと伺ったから、幻想郷が人間の時間帯にどの様な姿をしているのか是非見てみたい。そこで一つ―――君の力を少しだけ貸してくれると、嬉しいのだけれど」

 

 境界を操る力を使って太陽を克服させてくれ、などと言うつもりはない。しかし境界操作の力を応用すれば、見た目の面積よりも日光を遮断できる境界線を広くした傘などを作ることが出来る筈だ。

 図々しい願いだとは百も承知だが、お礼は弾むつもりでいる。金品だろうと助力だろうと惜しまないつもりだ。

 

「あぁ、勘違いしないでくれ。別に悪巧みを考えている訳じゃないんだ。ただ、君の力を使えば私の体を隠せるほどの日除け道具が作れるのではないかと思ってね。具体的には、私の用意する日傘に君の力を付与して欲しいのさ。勿論、日中に出られるようになるからと言って、人間や他の妖怪に危害を加えないと誓おう。私としては君と友好的な関係を築いていきたいのだ、わざわざ敵対する様な真似はしないさ。……お待たせした、出来上がったよ」

 

 葉を蒸し終え、出来上がった紅茶をカップへ注ぎ終えたところで、二つのカップを手に後ろへ振り替える。

 そこには、居る筈だった少女の姿はどこにもなく、ポツンと椅子とテーブルだけが残されていた。

 

 ふむ、どうやら話の間に帰宅してしまったらしい。幻想郷の管理者ともなれば、相当に多忙なのだろうか。私が少し強引に話を持ち掛けてしまったという感覚も否めないが、考えてみれば彼女の用は私の品定めとルールの説明だ。用件の済んだ彼女が、ここを後にしてもなんら不思議ではない。

 

 一言告げてくれれば、何か土産でも用意したのだけれど。残念だがまあ、また縁があればその内会えるだろう。

 ここは幻想郷、つまり彼女のテリトリーだ。会わないという方が不自然なレベルである。その時は、改めて友人となってくれるか聞いてみるとしようか。

 

 

 

 ……そう言えば、彼女は面識のない私を何時何処で、ここに住んでいると知ったのだろうか?

 

 

 スキマの中に、椅子に腰かける一人の男が映っている。

 灰色のウェーブがかかった髪が特徴的な、全身黒ずくめの男だ。気品を漂わせる西洋風の格好をした青年は、先ほどから分厚いハードカバーの世界に浸りながら、手元のティーカップの中身を空にしていた。

 

 私がこの男をこうしてずっと見ているのは、別に気になる異性だとか、そんなロマンチックな理由などではない。むしろ真逆だと言って良い。

 私は、幻想郷に悪影響を齎すかもしれない危険分子を監視している真っ最中なのである。

 

 何故この男を危険と判断したのかは、およそ十日前の深夜までに遡る。

 

 その夜、博麗大結界に異常な反応が見られて、何が起こったのだろうと異変が起きた結界周辺を私は偵察していた。

 丁度、悪魔の住む館付近の森である。些細な反応だったので発生源を探すのに手間取ったが、どうにか異常が見られた場所を特定することが出来た。

 

 しかし調べてみても結局、結界そのものに異常は見られなかった。

 杞憂だったかと胸を撫で下ろし、もう用は無いとスキマを開いて帰ろうとした、まさにその時だ。

 何の前触れも無く突然館の方から、まるで臓物を握り潰しにかかる様な、馬鹿げた瘴気が発生したのだ。

 

 喉が干上がる様な感覚を覚えるほどの、濃厚で膨大な殺気と威圧感。私は館へ視線を釘付けにされてしまった。

 一体どれほどの怪物が全力で力を解き放てばこうなるのか。まさかあの小さな吸血鬼ではあるまい。あの青二才がここまで暴力的で、私をほんの少しでも圧倒する威圧を放てる訳が無い。

 

 ここで私は、結界に起きた些細な異常と、館の中で起きている異常事態に何か関係があるのではと疑った。

 距離的にも、アクシデントの発生時間的にも、あまりに偶然が過ぎる出来事だ。放置しておける筈が無かった。紅魔館の連中が何かよからぬ事を企んでいるのならば、その計画を先取りして対策を練っておかなければならない。

 

 後悔は先に立たない。手は打てる時に打っておかねば、取り返しのつかない事態にまで発展する事は今までの経験から嫌と言うほど知っている。吸血鬼異変がその最たる例と言えるだろう。

 

 力の発生源が館の最深部―――地下にあると特定した私は、森の中でスキマを開いて現場の光景を映し出した。

 

 そこには、眼を疑う光景が広がっていた。

 

 石で出来た蛸の足の様なモニュメントに体を拘束され、全身をどす黒い剣で刺し貫かれた、吸血鬼妹の姿があった。

 それだけでも意表を突かれたのだが、真の問題は妹の視線の先に居る男にあった。

 

 スキマ越しでも感じる、肌から体の中を這いずりこんでくるような悍ましい殺気を放つ、全身黒づくめの大男。

 何があったのかは知る由もないが、頭は黒い魔力の靄で覆われ、目玉と歯だけがくっきりと黒煙の中に浮かんでいる。まさに異形と形容すべき怪物がそこに居た。

 

 ――――何だ、あの男は。あんなものが幻想郷に居たのか? いやそれよりも、一体あの男は何をしているのだ?

 

 見るからに異常な光景を前に、思わず視界を縫い止められてしまっていた。

 音を拾えるように調整し、繰り広げられている会話を一字一句見逃さず脳へ叩き込んでいく。

 

 会話から推察するに、どうやら悪魔の妹は何かに取り憑かれてしまっていたらしい。しかもその正体は、亡くなった姉妹の父親だそうだ。

 これがまた、どうしようもない下衆な父親だった。目的の為ならば手段を択ばない、実に悪魔らしい性分であると言える。

 

 その父親は取り憑いている妹の魂を人質に取り、姉妹の関係者かつ吸血鬼らしき異形の男を幾度も脅迫していた。

 しかしそれを含めた対抗策全てを異形の男に悉く潰され、そして遂には、何も出来ない手足を捥がれた虫同然の状態にされてしまった。

 

 一方的だった。どちらが倫理として正しい方なのか疑ってしまうようなゾッとする光景は、どう考えてもここからの逆転劇は有り得ないと判断を下さざるを得なかった。

 追いつめられている父親の魂も同様に感じていたようで、観念した彼は、自らの命を異形の男へと差し出してしまう。

 

 これで終わりだと思った。あの禍々しい気配を放つ剣で魂を体から剥がされ、館で起きた惨劇は終幕を迎えるのだろうと、私は信じて疑わなかった。

 しかし、それは大きな間違いだった。

 

 異形の男は父親の思惑を見破り、命を持って償わせるどころか、その魂を何の躊躇いもなく食らったのだ。

 

 妖怪は血を啜り、肉を食らう捕食者である。被捕食者は主に人間が対象となるが、妖怪は時として手っ取り早く力を得るために、妖怪を食い殺す時がある。

 無論、食らうのは肉とそれに含まれる魔力や妖力と言った力のみだ。断じて、魂を食らい消滅させることは無い。

 

 そもそもそんなことが出来る筈もないのだ。もしそれが可能ならば、輪廻転生の魂の量が狂ってしまう。魂を食らう事を許された存在は、神の類か地獄に属する人外に限られた所業である。

 

 幾ら悪魔の類とは言え魂を……それも大妖怪クラスの魂魄を食らう事はそうそうない。

 そんな事をするくらいなら奴隷として扱った方が遥かに利用価値があるし、なによりリスクが大きすぎる。

 強大な妖怪の命を一つ動かせる程の莫大なエネルギーを取り込むのだ。並の存在なら、保有するエネルギーや情報の量に耐え切れず発狂してしまうだろう。他者の魂と触れ合い過ぎて、自我を保てなくなった怨霊の成れの果てが良い例か。

 

 それをあの男は、平然とやってのけた。本来ならば不可能である魂の捕食を、まるで木から林檎を捥ぎ取るかのように容易くやってのけたのだ。

 

 こんな男が知らないうちに幻想入りしていたという事実にゾッとした。心の底から背筋が凍る感覚を、私は鮮明に感じた。下手をすれば、大昔に月へ戦争を吹っ掛けた時以来かもしれない。

 

 それはつまり、私がこの男をそれと同等に危険視したという確固たる証拠となる。

 ただの吸血鬼ならそれで良かった。今の幻想郷は、スペルカードルールの導入によってかつての吸血鬼異変の様なクーデターが起こり得ない環境となっている。今更一匹悪魔が増えた所で、そのまま受け入れるのみだったのだ。

 

 しかし状況が変わった。この男を放置しておくわけにはいかない。魂を食らうことが出来る悪魔を鎖も無しに野へ放てば、吸血鬼異変どころではない大異変に発展する可能性がある。

 

 危機感を覚えた私は、あの男を監視する事にした。

 途中、館の住人からの呼称で男は『ナハト』と言う名前だと知り、式神の藍へ外の世界でのナハトの記録を徹底的に探してくるよう命じた。

 私はそれからも、幻想郷の管理とナハトの監視を並行して行い続けることとなった。

 

 彼の行動はいたってシンプルなものだった。自室で黙々と本を読み続けるか、気まぐれに館を歩き回って妖精を脅かすか、門番を跪かせるか、吸血鬼姉妹や引き籠りの魔法使いと少し話をする程度で、あの地下室での暴走が嘘の様に静かな日々を過ごしていた。

 

 おかしい。あまりにノーアクションが過ぎる。奴が何か考えを持って幻想入りを果たしたのならば、何らかの行動に出てもおかしくない筈だ。何故、奴は館から離れずじっとしているのだろう。幾らなんでも十日間も外に出ないのは不自然である。

 

 煮え切った私は、強硬手段に身を乗り出すことにした。直接会ってナハトと言う男がどの様な存在か、見極めてやろうと考えたのだ。

 

 そして今現在、彼をスキマから覗いている状態に至る。

 

 出来るだけ奴を動揺させるために隙を伺い、敢えて男が自室を出る為に背中を見せた瞬間を狙って、私はスキマに身を投じる。意表を突けば、心に隙が生まれ、私が探りを入れやすくなるのだ。出来うる限り手玉に取る手法を選択する方がやりやすい。

 

「こんにちは」

 

 私の突然の訪問に対しての彼の反応は、非常に淡白なものだった。

 驚く訳でも、声を上げるわけでも無い。ただドアノブを回す寸前だった手を止めて、ゆっくりと振り返る。予期せぬ出来事である筈なのに、彼はたったそれだけの動作しかしなかった。

 

 勘付かれる事を警戒して背後から監視していた為にこの男を正面から見たことは無かったのだが、改めて観察すると、見る者を凍り付かせるような美貌を持った青年だった。

 

 陶器の様な肌。氷柱の様な紫の眼差し。桜色の唇。

 人間を誘惑する悪魔らしい、世離れした容姿の男だった。不覚にも一瞬、魔性とも言える彼の存在感に吸い寄せられるかと錯覚を覚えてしまうほどだ。全身から放たれるオーラは並ではなく、そこいらの妖怪ならば対面しただけで錯乱を起こしてもおかしくないだろう。

 

 この私でさえ、対面した瞬間に喉が引き攣ってしまった。藍がこの場に居たら、頭の固いあの子は反射的に男の首を撥ねにかかっていたかもしれない。

 一瞬だけ波が生じた心を静めるように、私は言葉を繋げる。

 

「少しだけお時間を頂けるかしら」

「ああ、構わないよ。ところで君は、もしかして八雲紫と言う名前かな?」

 

 虚を突き動揺させるつもりだったはずが、彼の口から出て来た私の名前にこちらが動揺させられてしまった。

 私の存在を知っていること自体は不自然ではない。小さな当主が男に説明でもしたのだろう。それは考えるまでもなく分かる。私が驚いたのは、会った事の無い私を一目見ただけで『八雲紫』と判断を下せたことなのだ。

 

 目についた微かな情報だけで判断できるほどの凄まじい洞察力の持ち主なのか、それとも……『分かっていた』のか。

 

 私は動揺を悟られぬよう口元を扇子で隠して、出来うる限り涼し気に、彼との会話を続行する。

 

「ご名答。お宅のお嬢様から第一印象でも聞いたのかしら。でも一方的に知られているのは不公平ですわ。せめて、貴方のお名前を聞かせてくれる?」

 

 男の名前は知っているが、敢えて平静を保って聞き出す事で、私にその程度のカマを掛けても意味は無いと考えさせて私の立場を劣位から対等の位置に組み替える。

 頭の切れる大妖怪クラスを相手取る時は、会話の立ち位置にも気を配らなければならない。舐められてしまえば、そこから一気に付け込まれてしまうからだ。

 

「ふむ、それは失礼した。私はナハト。最近ここに引っ越してきた新参者だ。初めまして」

「……ええ、初めまして。改めて自己紹介させて頂きますわ。私は八雲紫。一応、この幻想郷の管理者みたいなものを務めています」

 

 挨拶を交わして対等であると暗喩しつつも、私は彼に起こった一瞬の異変を見逃さなかった。彼が微かに私を見て笑みを浮かべた瞬間を、はっきりとこの目で捉えたのだ。

 たかが蝙蝠と侮っていた慢心が、音を立てて崩れ落ちる。扇子を持つ手にしっとりとした感触が生まれ、舌打ちをしそうな心境に駆られた。

 

 嵌められたのだ。

 この男は、私がここへ訪れるこの瞬間を待っていた。

 だから、まるで私の到来に対して備えていたかのように、一瞬で八雲紫と断じる事が出来たのだろう。なんてことだ。この男が十日間ずっと大人しくしていたのは、わざと私に怪しませて誘い出すためのフェイクだったのか。

 

 だが気が付いたところでもう遅い。私は奴のテリトリーに踏み込んでしまっている。

 この男が私の到来を予期し、備えていた以上、私が妙な動きをすればすぐさま対処できる罠を仕掛けているはずである。例えば、魂にさえ干渉できる非物理的なあの黒い剣を、壁の中に忍ばせているとか。

 濃い魔力の気配は無いが、それなりの実力を持った吸血鬼だ。気配を消すなどワケないだろう。

 

 ―――面白い。

 この男は『八雲紫』と真正面から渡り合う気なのだ。ならばこちらも相応の対処をさせて貰おう。言葉で誘導し、彼の裏に潜む真意を露見させ、私の当初の用件である『脅威度の検査』も済ませる。その上で、奴が私を誘い出した目的を封殺してしまえば私の勝利である。

 

 私が貴方を見極めるのが先か、それとも貴方が私を利用する状況まで追い込むのが先か勝負と行こう。(ナハト)の名を冠する吸血鬼よ。

 妖怪の賢者と謳われた私をどこまで出し抜けるか、思う存分試してみるといい。

 

「それで、何か私に用かな? 大方、新参者たる私の査察だと伺えるが」

「その通りですわ。私、貴方が何時ここに訪れたのかだとか、詳しい事をまるで知らないの。だから少し、その辺りも兼ねて貴方とお話をしようと思って」

 

 取り敢えず、ここへ訪れた時期やそれに至った経緯など、辺り触りの無い質問を展開する。彼は素直に応じたが、話半分に聞き流した。別に入り込んだ時期などはどうでもいい。問題は入り込んだ『目的』の一点のみに絞られる。

 

「成程ね。それで貴方がここを知り、訪れることが出来たって訳」

 

 ここからが本題だ。奴の目的について探りを入れる段階に入る。私を油断させて吸い寄せる程度には頭の切れる妖怪だ。馬鹿正直に目的を聞いたところで、嘘を返されるのは目に見えている。だから、質問を歪曲させて投げ込む。その反応から、奴がどの様な思考を抱いているかを推測する。

 

「あと少しだけ、お話を聞いても?」

「勿論」

「ありがとう。……貴方自身、幻想郷についてどう思っているのか、聞かせて貰える?」

 

 この問題は、実は回答者のYesかNoかで判断できる質問なのである。

 例えばこの男が幻想郷に対して興味が無い場合、『新参者だから知らない』、『詳しい事はまだ分からないから、どうとも思っていない』等と辺り触りの無いNoの答えを出す。

 

 こう答えたと言う事は、十日間を幻想郷で過ごしても特に興味を抱かなかったと捉える事ができ、幻想郷に対して故意的に危害を加えてくる可能性が一気に減るのである。

  要するに、私が今まで抱いた危機感が杞憂になると言って良い。私を誘い出したのも、小さな吸血鬼から私の事を知って、管理者と早いうちに対面する事で自身が不確定要素ではないと伝えようとでも考えての事だったとも考えられる。

 

 しかしYes―――即ち『気に入っている』などの興味を持つ類の反応を示した場合、何らかの目的を持ってアクションを起こす危険性が一気に増加するのだ。

 幻想郷へ魅力を見出したのならば尚の事である。悪魔は自分にとって魅力的なものを独占しようとする習性を持つ生き物だと有名だ。

 かつて、レミリア・スカーレットが、幻想郷を征服しようと吸血鬼異変を起こした時の様に。

 

 さぁ、ナハトとやら。貴方の答えは如何に。

 

「恥ずかしながら、私はまだ幻想郷の事をよく知らないんだ」

「……そう」

 

 答えは、Noか。

 つまり彼は、幻想郷に対して興味が無い。

 

 今度こそ、私の凍り付いていた精神が氷解していく感触があった。

 杞憂だったのだ。彼は幻想郷に来ることが目的なだけであって、別にここで何かをしようとは考えていない。大方、レミリア・スカーレットの様に外の世界で疲れ果て、平穏を求めて来たのだろう。私を誘い出したというのも多分勘違いか、対面を早く済ませたかったからだ。

 

 何てことは無い。私は一人で、勝負だ何だと盛り上がっていただけだったのだろう。あまりに凄まじい威圧を向けられるものだから、つい宣戦布告と受け取ってしまった。

 よく考えたら吸血鬼はもともと傲慢な種族だ。ただ力を誇示するために威圧を振りまいている。それだけの事だった。あの薄い笑みも見間違いだったのかもしれない。

 

「だが」

 

 そんな私の思考を遮り、彼は言った。

 かつてあらゆる存在をその美しさで吸い寄せ、死へ誘った妖怪桜を思わせる、妖艶で危険な香りを放つ微笑みを浮かべて、彼は話に橋を掛けたのだ。

 

「―――――私は、とても良い場所なのだろうと思っているよ。時が来れば、自分の足でこの地を見て回りたいものだ」

 

 最後のその一言以外が、耳から頭に入ってこなかった。

 判断出来てしまった。審判はたった今、残酷なまでに下ったのだ。

 

 間違いない。この男は目的を持っている。幻想郷で何かをするつもりでいる。来ることが目的ではなく、何かを成す事を目的として幻想郷へ入り込んだのである。

 私が垣間見たあの笑みは、やはり見間違いなどではなかった。であれば、私を誘い出したことにも何かしらの思惑があるのは明白だ。

 

 ――撤退せねば。

 私の目的は完遂した。この男が要注意人物である事が知れた今、隙を伺ってここから脱出せねばならない。

 さもなくば、私はこの男の口車に乗せられて利用される方向へ持ち運ばれてしまうだろう。いきなり不用意に逃げ出そうとすれば、罠を発動される。それは即ち、行動の決定権を握られたも同然なのだ。奴が何らかの隙を作る、その瞬間を待たねばならない。

 

「今更だとは思うが、私は幻想郷へ来て良かったのかな? もしかしたら正式な手続きが必要だったのかと、ふと思ったのだが」

 

 ……これは暗に、私の口から容認の言葉を吐き出させるのが目的か。

 

 話を敵対的ではなく平和的に始めたのが仇となったか。ここで拒絶し、手のひらを返せば、話の筋が通らないとして反撃の隙を与えてしまう。

 この場合、いつもの様に受け入れる姿勢を崩さなければ問題ないか。ついでに、この男へ枷をはめてしまおう。

 

「いいえ、必要ありませんわ。ここは全てを受け入れる幻想郷。勿論貴方も歓迎します。でもここで暮らす上では、貴方に守って貰わなければならないルールがあるの」

「ほう、ルールか。是非聞かせて貰いたい」

 

 それから私は、幻想郷で生きていく上でのルールを説明し、男に枷を施しつつどうやってこの場を去るか算段を企てていた。

 

 用事があるといっても引き留められる可能性が高い。そこから婉曲した脅迫と要求を投げつけられ、面倒な事態に発展する危険性がある。さて、妙案は何かないものか。

 そうこうしている内に話が終わってしまった。この男の戦闘能力が未知数である以上、下手に動けないのが腹立たしい。

 

 しかしそこで、思いもよらぬ転機が訪れる。

 

「説明してくれてありがとう。そういえば、長話で喉が渇いていないかね? 折角だから何か飲んでいってくれ。今は持ち合わせが紅茶と緑茶しかないのだが、どちらがお好みかな?」

 

 チャンスだ。

 口ぶりからして、奴は自分で淹れるつもりだ。催眠効果のある薬の類でも盛る気だろうが、奴が席を立って背を向け、隙を見せた瞬間にスキマを開く。それで終わりだ。この駆け引きは幕を閉じる。

 

「そうね。折角だから紅茶を頂けるかしら」

「うむ、了解した」

 

 彼が席を立ち、戸棚へと赴く。丁度背を向けた所から、私はゆっくりとスキマを展開していった。

 椅子の下に大きく作れば、椅子が傾く音でばれる。みっともないがここは、お尻と椅子の接触面上にスキマを展開し、そのまま椅子へ吸い込まれるように帰還する事にしよう。

 

「ところで私から一つ、図々しい様だが、貴女に頼みごとをしても良いだろうか?」

 

 耳から脳髄へ滑り込んでくるような妖しい彼の声に、思わず肩が跳ねそうになる。バレたかと思ったが、幸運な事に彼の注意は茶葉の蒸れ具合へ向かっているようだ。

 

 ただ、会話の流れがいけない。奴は私に要求を突きつけるつもりだ。これが私を誘き出した目的なのだろう。

 脱出までの時間もそうだが、奴に要求を突きつけられるのは非常にマズい。この男の声は麻薬と似た効果がある。話をまともに聞いていると、心を吸い寄せられるのだ。

 

 悪魔として最上級にまで上り詰め、声に魅了の属性を付与するまでに至ったのだろう。先ほどは話を殆ど聞き流していた為にそこまで影響は無かったが、奴が何時振り返るか分からず全神経を集中させている今、精神を激しく揺さぶられてしまっている。

 

「……なにかしら」

 

 あと少し。あと少し開けば、スキマへ潜りこめる。

 念じるように、繊細に能力を操っていく。体の幅の半分程度が開き、残り数秒で事が終わる。

 

「私は吸血鬼である故に、日の元に出る事の叶わない身の上だ。幻想郷の事を知りたくても、日中に出られないとなると知る事の出来る部分が限られてしまう。ここは人間も共存している地だと伺ったから、幻想郷が人間の時間帯にどの様な姿をしているのか是非見てみたい。そこで一つ――――」

 

 彼の背から放たれる威圧感と、精神の中心に絡みつく様な声が、私の集中を鈍らせる。早く、早くせねば。彼が振り向いたら終わりだ。これまでの努力が水の泡となってしまう。

 

「―――君の力を少しだけ貸してくれると、嬉しいのだけれど」

 

 静電気にも似た衝撃が鼓膜をくすぐる中、どうにか私はスキマの中へ自分を落とし込むことに成功した。

 

 降りた瞬間スキマを閉じる。咄嗟の行動だったため他の判断へ頭が回らず、転移先で思い切り尻餅を着き、鈍い痛みが臀部を包み込んだが、この際それは無視した。

 

 何とかあの男のテリトリーから抜け出す事が出来た安堵に、今は心を傾けるべきである。もし男の操る黒い剣で全方位から貫かれていたら、いくら私と言えども只では済まなかったはずだから。

 

 しかし、危なかった。スキマを開くタイミングもそうだったが、奴が私に交渉を持ちかけてくるという二重苦の状況に陥らされたのが本当に危なかった。

 

 奴が振り向き、私をあの場に縫い止めていたとしたら、魔性の魅力を孕ませるあの声を用いられ、どう足掻いても面倒な交渉を受けさせられていた筈だ。それも、恐らく一方的な形で。

 

 やはり力を持っていても油断は禁物か。長らくあのクラスの危険分子と接触していなかったものだから、どうにも慢心が生まれてしまっていたらしい。今後奴と再び渡り合う事も考えて、気を引き締めなければなるまい。

 

「失礼します。お帰りなさいませ、紫様」

 

 私が転移した先は、マヨヒガと言う妖怪の山の近くに存在する屋敷だ。 

 ここには私の式神の式神が普段生活しており、私の別荘の様な場所となっている。つまり、私が普段から寝食を営んでいるのはこの屋敷ではない。

 

 何故ここを選んだのかと言うと、直接私の屋敷にスキマを繋げた際、奴に私の本拠地がばれてしまう可能性が捨てきれなかったからだ。最悪、バレたとしてもこの屋敷を管理している橙を連れて私の本拠地へ逃亡できる。敢えてここに私の式神と落ち合うよう策を練ったと言う訳である。

 

 その作戦通りに待機してくれた私の自慢の式神こそが、今襖を開けて入った来た九尾の狐だ。名を、八雲藍という。

 

「……顔色が優れない様ですが、大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫。久しぶりに骨のある相手だったのよ。敵前逃亡を選択したのなんて何時ぶりかしらね」

「……それはまた、厄介な吸血鬼の様で」

「全くだわ。たかが吸血鬼と少しばかり慢心していたとはいえ、嵌められるとは思わなかった。……それで、頼んでおいた件は済んだのかしら?」

 

 はい、と藍が返答を返す。奴の事について調べさせた結果は上々の成果らしい。さて、どんな蛇が飛び出して来ることやら。

 

「教えて頂戴。あの男は、一体何者なの?」

「古い吸血鬼です。それも私たちと同じか、もしかするともっと長い時を生きているかもしれません」

 

 ……何?

 私たちより長く生きているかもしれない吸血鬼、ですって?

 まさか、そんな事があるのだろうか。吸血鬼は妖怪の歴史から見てかなりの若輩者だ。精々ここ千年以内……表立って現れ始めたのは七百年前から五百年付近の話である。つまりその程度の歴史しかない。

 

 故に、それ以上の過去を持つなど、あまり信じられる話ではないのだ。特異な個体にしてもはっきり言って異常である。

 

「情報はどこから?」

「ヨーロッパで隠遁生活を送っている吸血鬼の生き残りから聞き出しました。何でもナハトと言う男は、吸血鬼の間で生きる伝説として語られていた存在の様です。絶対的な力を持つが故に悪魔が皆平伏した闇夜の支配者。吸血鬼たちがその存在を認知する前は、『夜の恐怖』として人間から恐れられていたとも。その『夜の恐怖』についての情報を洗ったところ、一番古い記録は神の子生誕の時期とほぼ同じになります」

「馬鹿げた話ね。千年どころか二千年近く前から生きながらえているなんて」

「仰る通りです。あまりに与太話が過ぎます。ですが真実ならば、人間に存在を認知されているのがその時期なので、もしかしたらもっと古いのかもしれません」

「……他には何か、分かった事はある?」

 

 結局のところ、藍の力をもってしてもあの男の根本的な正体までは掴めなかったらしい。 

 話を聞く限り、謎の塊と言うよりは概念のような人物だ。ただ強大で恐れられ、伝説となっている灰髪紫眼の吸血鬼。

 プロフィールはそれ位で、さらに分かる事と言えば400年前に忽然と姿を消してからは、動向を掴めなくなったくらいか。

 

 おそらく、その400年間でここの情報を掴み、何らかの計画を立てて幻想入りを果たしたとみて間違いないだろう。

 

 長い時を生き強い力を持ち、頭が切れ、魂を食らう事ができ、そして何らかの目的で幻想入りを果たした吸血鬼か。

 警戒するには十分すぎる逸材だ。場合によってはあのフラワーマスター以上の危険分子になりかねないだろう。

 

 ……いや、あちらの方がまだ動きが読みやすく、話が平常に出来る分マシな部類だ。

 奴に関しては会話すらも普通に出来ない。まともに話を聞き入れれば、あの魅了の声に精神を占有されてしまいかねないのだ。

 

「藍。厳重警戒対象のリストにナハトの名を追加して頂戴」

「了解いたしました」

「それと今晩、対策会議も開くわ。準備をお願い」

 

 畏まりました、と藍が礼をして部屋を後にする。畳の和室に、不気味にすら思える静けさだけが取り残された。

 コチコチと秒針を刻む古時計に目を向ける。夜までにまだ十分時間がある様だ。奴と対面して少しばかり疲れた。会議を万全の状態で臨めるように、少し休息をとっておこう。

 力を抜き、目を瞑る。深く息を吐き出して、私は頭のスイッチを切り替えた。

 

 

 紫様に命じられた通りリストに名前を書き込み、会議に必要な備品も部屋も揃えた。後は時間が来るのを待つのみとなって、少しばかりの暇が生まれる。

 じっとしているのも何なので、化け猫の式神である橙の修行様子を見に行くことにした。

 無駄に長ったらしい廊下を歩きながら、私は紫様の言葉を思い出していく。

 

 ナハトと言う吸血鬼……私は対面した事は無いが、紫様をあそこまで焦燥させる相手とは、いったいどれ程の存在なのだろうか。

 

 鬼の四天王相手にも余裕を崩さなかったあの方が冷や汗を流している姿など、随分珍しい光景だった様に思える。私を同行させなかったのも納得だ。あの方が焦りを覚える相手なら、私が共にいた所で足手纏いにしかならなかっただろうから。

 

 精進が足りんな、と少しだけ自己嫌悪に陥る。そんなところで丁度、屋敷の庭園が見えてきた。庭で修行中の筈の橙の様子を伺う。

 

「修行は進んでいるか」

 

 ……返事は無い。どうやらここには居ない様子だ。

 どうしたのだろうか。あの真面目で純真な子が鍛錬をサボるというのは、あまり記憶にない事である。

 

 橙に取り憑けてある式神の反応を探知し、場所を探り出す。意外な事に橙は紫様のいる部屋の前に居た。

 スキマを開き、橙の背後へ回り込む。サボっては駄目だと一喝するつもりだったが、何やら真剣そうに襖を覗き込む橙の後姿を見て、どうしたものかと首を捻った。

 

「何故紫様を見ているんだ? 橙」

「あ、藍さま」

 

 私に見つかった橙が、どこか狼狽えているような眼を向けた。サボっているのがバレたと言うよりは、何かマズいものを見てしまったかのような反応である。

 

「紫様に何か用でもあったのか?」

「いえ、その。偶然通りかかったのですけど、何だか紫さまの様子がおかしいんです」

 

 ……紫様の様子がおかしい?

 ピン、と頭の中に電撃が走る。同時にこれ以上ここに橙を置いておくのは不味いと判断し、橙をこの場から下がらせた。

 

 退去を命じられた橙は心配そうに何度もこちらを振り返りながら、とてとてと廊下を歩いていく。曲がり角を曲がって姿が見えなくなったところで、私は薄く息を吐いた。

 

 さて、件の紫様だが、どうもスイッチが切れてしまったらしい。

 あの方は冷徹かと思いきや時々ひょうきんになる、掴みどころのない妖怪だともっぱらの噂だが、実は単純明快な二面性を持っているだけなのだ。

 

 管理者たる賢者としての八雲紫の顔と、ただの妖怪少女としての顔。心のスイッチを使い分ける事で、精神に負担が圧し掛かりすぎないようにするという長い年月をかけて編み出した処世術なのだとか。

 

 要は真剣になる時は真剣で、楽しむときは楽しんじゃおうという感じである。それを極端にしたものと捉えていい。

 橙が覗いていた襖の間から、私は中の様子を伺う。状況によっては用意するものが増えるかもしれない。

 

『……お尻痛い……グスッ、私が何をしたっていうのよぉ……折角吸血鬼異変が終わって、やっと理想的な形に収まったと思ったのに、また厄介事が出て来るなんて……。あの館、次から次へと問題を運んできてくれちゃって、本当に悪魔の館じゃないの。私を心労で暗殺する気なのね。きっとそう。そうに違いないわ。……うう、もうやだぁ、賢者やめたい……藍に継いで貰ってずっとお布団に籠っていたい。大体何なのあの男。意味わかんないわよ。何であんなビリビリ敵意向けてくるの? おかしくない? 私何も悪いことしてないのに……はぁ、お腹も痛い。霊夢の作ってくれた雑炊が食べたいよう』

 

 えぐえぐグスグスとちゃぶ台に塞ぎ込む我が主の声に、思わず眉間を指で押さえた。何だか頭痛すら湧いてくる勢いである。

 

 仕方ない。あの巫女に頼んだところで妖怪に食わせる飯は無いと一蹴されるだろうから、一先ず私の作る雑炊で我慢してもらおう。あんなにじめじめとキノコを生やされ続けては主としての面目も何もない。だから早く立ち直って貰わなくては。

 

 何の雑炊にしようかな、と献立のメニューを考えながら台所へ歩いていく。そこで卵を切らしている事を思い出して、ついでに油揚げも買ってこようと人里へ続くスキマを開き、私はマヨヒガを後にした。

 



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EX2「フ エ ル カ ゲ」

―――執務室に一枚のメモが落ちている。

 

 

「おねーさまー、ひまー」

 

 執務室での事。だるーん、という表現が似合いそうなくらい力の抜けた声でそう言い放ったのは、七色の翼をぱたぱたと羽ばたかせながら私の座る机の周囲をくるくる飛び回っている妹のフランドールである。

 唐突な妹の発言はさておいて、手も足も何もかもをさも無気力ですと言わんばかりに垂れさせて、飛ぶというよりはホバリングするのは如何なものだろう。傍目から見ると、西洋人形の様な容姿と幼気な丸みを兼ね備えた彼女の飛ぶ姿は妖精と言う表現がぴったりかもしれないが、吸血鬼と言う事実を織り込んでみると、手足を投げ出してホバリングしているところから巨大な蚊トンボが飛んでいる様にも思えて情けない。はしたないので襟首を引っ掴んで無理やり床へと立たせた。

 彼女は床に足を付けても腕の筋肉を弛緩させたままダレており、間の抜けた声で九官鳥のように繰り返す。

 

「ひまー」

「ひまーって、あなたね……」

 

 フランは私と違って、当主だのなんだの、堅苦しい肩書も立場も持ち合わせていないので当然仕事など無く……つまるところ、何もする事が無い。それは分かる。反面、私にはフランと違って仕事があるのだ。八雲紫と契約した月一の『配給』に対して必要な書類作成から始まり、館の備品管理表の記入とチェック、修繕費用の見積もりエトセトラ、エトセトラ。こう見えて私は意外と多忙な身の上なのである。自分で意外と言うのは何だかおかしい気もするが、それは言葉の綾であって、決して普段怠けている自覚があるからではない。決して。

 要するに、そう簡単に彼女と一日中遊んでいられる身分ではないのである。私はこれでも立派な紅魔館現当主なのだから。

 

「フラン、お姉様は仕事で忙しいの。美鈴とかパチェと遊んでて頂戴」

「うーん、それも良いと思うんだけど、ほら、私たちって一緒に何かをやることがあまりないじゃない? だからさ、たまには皆で遊びたいなーって」

「だからはこっちの台詞よ、もう。私はお仕事があるの。遊んでられないの。アンダースタン?」

「……私、知ってるよ。オシゴトが面倒になった時、時々咲夜に丸投げしてるの」

 

 んー、さっきお風呂に入った時、耳の中に水が入ったままになっているのだろうか。誠に残念ながら妹の声が聞き取れやしない。

 聞こえないものは仕方がないので、書類の記入を進めるために羽ペンへ墨を付けていると、痺れを切らした妹は私の背後へと立ち、肩を鷲掴んで激しくゆすり始めた。傍目から見ればじゃれついているように見えるかもしれないが、鬼の怪力に天狗の速さを持つと言われる吸血鬼の腕力は伊達ではなく、がくんがくんと頭が振り子の様に揺れて視界がスパークし始める。

 

「ねーねーねーねーねー、あーそーぼーおーよー」

「うぇっ、ちょっ、ふっ、ふらんっ、まちなさっ、やめ、止めなさいってばぁ! あーもう。あちらにおじ様がいるでしょう。おじ様に遊んで貰えばいいじゃない」

「おじさま……おじさま……そうだ! おじさま!」

 

 何を思い付いたのか、フランはパッと目を輝かせて肩から手を離し、まるで玩具を見つけた猫の様に走り去っていった。言うまでもなく、この部屋の談話スペースで置物の様に本を読みふけっているおじ様の所である。おじ様は時折、こうして執務室にまで出向いて本を読んでいる。というより、図書館だったり自分の部屋だったり色んなところで本を読んでいる気がする。昔はおじ様の事を避けていたから知らなかったけれど、意外に読書家らしい。それもかなりの雑食だ。

 今読んでいる本も確か、『モンキーでも友達が出来るコミュニケーションガイドブック』とかいう名前だったか。あんな本が図書館にあったのかどうかはさておき、やはりおじ様は凄い。どれだけ力を蓄え吸血鬼の頂点に上り詰めるまでに至っても、その力の根幹を形成したのだろう初心を忘れていない。常日頃、ああして基礎を叩き込んでいるからこそ、鶴の一声だけで相手の心を縛り付ける話術を身につけられたのだ。おじ様は能力のせいだとか言って謙遜していたけれど、こうして一緒に暮らし、四百年前と違って避けることなく観察してはっきりと分かった。おじ様が、どれ程長い間研鑽を重ねて、あの魔性にも近いカリスマ性を手に入れたのかが。私も力を手に入れるための貪欲さを見習わなくてはなるまい。

 

「ねぇおじさま。お姉様が遊んでくれない」

「まぁ、レミリアも忙しいのだ。その意図を汲んで身を引いてあげるのも、良き妹となる一歩だと私は思うよ」

「だけどおじさま、私も漸く外に出られるようになって、おじさまもこうして一緒に暮らせるようになったじゃない? だからここで一つ、もっと紅魔館の皆が仲良くなれるように館の皆と親睦を深めるゲーム大会とか開けばいいんじゃないかなと思うの」

「…………ふむ。親睦会、か」

 

 考え込むように背後で相槌を打つおじ様。何だかとっても嫌な予感がするのは気のせいだと願いたい。そう、気のせいである筈なのに、何故かこれから私はおろか館の全員を巻き込んで盛大な催し物が開かれる運命が見える。私の能力を使えば逃れられると思うけど、おじ様相手だと強引に捻じ曲げられそうな気がするのは何故だろう。運命とは全てにおいて万能ではないのだなとこんな状況で悟りを開く私であった。

 が、予想外な言葉がおじ様の口から飛び出した。

 

「……実に魅力的ではあるが、仕事の方が大事だ。やるべきことは先にやらねば、ズルズルと惰性に呑み込まれてしまうからね。今日の所は諦めなさい」

「そんなぁ」

 

 悲痛な妹の声とおじ様の発言に、内心私はガッツポーズをする。流石おじ様。公私混同がどれだけ非生産的な結果しか生み出さないかをよく理解している。全くもってその通りだ。より良い生活を手に入れるために、仕事というものはちゃんとこなさなければならない。だから私はのんびりと、重要な生活の糧となるお仕事にとりかからせてもら――――

 

「しかし今日中に、レミリアが仕事を終わらせてくれれば、結果的には何も問題ないと思うのだ」

 

 ―――おうとしたその瞬間、『のんびり』の部分を無理やり引っこ抜かれてしまった。

 ああ、振り向かなくても分かる。今、我が愛しの妹はぐるんと勢いよく顔をこちらに向けて、ギラギラとした眼を忌まわしき太陽の如く輝かせているに違いない。だって背中が夕日を当てられたようにチクチクするのだ。これは間違いなくあの子の熱すぎる視線のせいである。視線とは本当に熱エネルギーを伴うものだったのかーそうなのかーと思いがけない発見に目が虚ろになっていく感覚が確かにあった。もし鏡に姿が映るのなら、眼からハイライトの消えたビューティーバンパイアが優雅に机と向き合っている姿が映るに違いない。

 

「聞いていたぞ、レミリア。君は咲夜に仕事を丸投げする事があるそうじゃないか。いけないな。咲夜はよく働いてくれている。その負担を無意味に増やすのは、主のする事ではないと思うのだがね」

 

 ざわざわと産毛が逆立っていく。防音室で大音量の音楽を拝聴している時に、耳から首筋にかけて何かが這いずり回るような、痺れとも痒みともつかない感覚が走り抜けた。

 やばい。これは、やばい。おじ様の声が全身の骨を撫で、末梢から中枢までの神経に纏わりつき始めている。数多の悪魔が誰一人として逆らう事の出来なかった魔法の声が、私へと向けられているのだ。それの表す所は、つまり。

 

「自分のやるべきことは自分ですべきだ。明日の晩にでも親睦会を安心して開けるように、頑張りなさい」

「ハイ」

 

 震えるような言葉の魔力が筋肉の力を根こそぎ奪いとり、私に肯定の言葉を吐き出させる。終わった。私ののんびりデスクワークプランが、薄い氷に杭を打ち付けたように呆気なく瓦解した。おじ様は咲夜に私の仕事を手伝わせないよう外堀を埋めるに違いないから、序でに企てていた咲夜へ丸投げ保険も、一緒に音を立てて崩れ去る始末である。

 轟沈する私を余所に、フランは遠足へ行く日を決めた子供の様に燥ぎながら、灰になりそうな私を余所におじ様と親睦会の内容を相談し始めていた。

 

「それで、フラン。君は何かやりたいことはあるのか?」

「皆で鬼ごっこがしたい!」

「ほう、鬼ごっこか。私はやったことは無いが、ルールは知っているぞ」

「でもねおじさま。普通の鬼ごっこだとただ追いかけて捕まえて鬼を交代してーって繰り返しで、大きなゲーム大会としてはつまらないじゃない? だからちょっと特別なルールを設けたいの」

「どんなルールだね?」

「その前にぃー」

 

 声色から明瞭に分かるくらいに上機嫌さを孕ませながら、フランはおじ様へ言った。

 

「おじ様って分身とか出来る?」

 

 

【ルールその1:館から外へ出てはいけない。また、わざと捕まってはいけない。これらに違反した場合、罰ゲームが課せられる】

 

 

 夏も終わりごろに近づいて、ちらほらと季節が秋に成り替わる準備を始めているせいなのか、今頃の夜は蒸し暑くもなく寒くもなく、とても過ごしやすい環境になっている。スズムシやコオロギの鳴き声が静かな演奏となって耳を潤し、空を駆ける際に頬を撫でる夜風の感触がまたなんとも心地良い。

 それ即ち、絶好の借り(狩り)日和だと言う事に他ならない。目的地は言うまでもなく、紅い館の紫魔女さんの住居兼ホームグラウンドたる図書館だ。

 

 普通は、妖怪が活発になる夜にわざわざ悪魔の館を訪れようなど、考えようとすらしないだろう。だが私の場合は話が違ってくる。単身であの館に乗り込んでも無謀とは言わせない程度に力を付けたし、なにより今日はちんまい館の主様を怒らせないようにする為に夜を選んだのだ。以前、昼間に本を借りに行ってパチュリーの奴と交戦した際に、弾幕ごっこの爆音で叩き起こされたレミリアが滅茶苦茶怒った時がある。そんな経緯があって、最近は昼に行くのを自重している訳だ。まぁ、ほとぼりが冷める頃を狙ってまた昼に行くようにするけれど。だって夜更かしは肌に悪いのだから。

 

 そうこうしている内に、月明りのせいで夜でもはっきりと紅く染まり切っているのが分かる洋館が見えてきた。飛行魔法を操作して腰かける箒を降下させ、門の先の入口にまで近づいていく。この館は窓が異常に少ない上に、申し訳程度の窓には大抵罠やら何やらが仕掛けられているから、意外と正門から堂々と入る方が安全だったりするのだ。

 

「……んー? 変だな、仕事熱心な頼れる門番(みどりのおきもの)が居ないぜ」

 

 常に門の傍で寄りかかって寝ているお馴染の門番が居ない事に、少しばかり不審な点を見出したが偶然休憩中の時間に当たったのだろうと割り切った。むしろ好都合だと思考を切り替えて、門の前に箒から降り立つ。

 やたら大きな扉を開いて、周囲を見る。相変わらず中は豪華なインテリアをしているくせに、明かりがランプの蝋燭やシャンデリアの魔力光源程度しかないものだから、昼とは違ってお化け屋敷の様に不気味だ。

 

「こんばんは。邪魔するよーっと」

 

 誰にも聞こえない程度に挨拶の声をかける。礼儀は大事だ。忘れるとロクな奴に成長しない。

 それにしても、やけに館の中が静かだ。いや、元々そんなに賑やかな場所ではないのだけれど、今日は特に閑散としている。妖精メイドの一匹や二匹くらい、見かけてもおかしくない筈なのに。

 まぁ、好都合はあっても不都合は無いので、ありがたく図書館へ足を運ばせてもらおう。時を止めるメイドに気をつけて行けば、図書館までの道のりはイージーモードである。

 善は急げと足を動かそうとした、その時だった。

 

 バタンッ!

 

「ひゃっ」

 

 静寂の空間を砕き割るように、背後から突然響き渡った大きな物音に驚いて、思わず変な声が出た。後ろを振り返れば、重々しい扉がぴたりと閉まっている。風だろうか? 噂をしていたから件のメイド長が私の顔を見に来たのかと思った。

 気を取り直して、足を動かす。カツ、カツ、カツ、と靴の音だけが、長ったらしい廊下の中で嫌に反響した。

 

「だーれも居ないねぇ。大事なお客さんが来てるんだぞー」

 

 対応に来られたら来られたでマズいのだが、余りに人気が無いのでついこんな言葉が口から弾み出てしまう。しかしやはり、誰かが反応した気配は無い。実に奇妙だ。幾ら夜とは言え―――いや、夜だからこそ誰も居ないのはおかしい。そもそも妖精メイドの一匹すら見当たらないのは何故だ。妖精どもが仕事をしている光景は見たこと無いが、子どもの仕事である『遊び』に熱中している光景はよく見るのに、今日はそれすらないと来た。これはいよいよ、館で何かがあったか、もしくは何かが起こっているとみて間違いないだろう。ひょっとすると私は、異変を先取りしてしまったのかもしれない。もしそうならパパッと解決して霊夢に自慢してやろう。アイツの事だから、面倒事が消えて助かったとお茶の一つでもご馳走してくれるかもしれない。おやつが付いて来れば尚グッドだ。

 

 ふと。

 前方の最奥……長ったらしい廊下の曲がり角で、何かが動いたのが一瞬だけだが視界に映った。何か黒い影のようなものが動いていた気がする。はて、紅魔館に紅色をした奴以外いたっけか。よく考えたら沢山いるな。主に紫の魔女さんとか、スカーレットデビルなのに青っぽいお嬢様とか。むしろ紅い方が少ない気がするのは気のせいだろうか。

 

「誰かいるのか?」

 

 しかし何だろう。この、背筋をなぞられる様な感覚に似た悪寒は。あの影を見た瞬間、私はぶるりと震えるような寒気を感じた。いくら夏の終わりに差し掛かって少しばかり涼しくても、肌寒く思える季節ではない。肝試しが最適な時期なのだ。その異常さたるや、語るまでも無いだろう。

 何だか妙に心臓が五月蠅くなって、あの影を追うべきかどうかの葛藤が生まれつつあった。好奇心が私を突き動かそうとする。だがその反面、私の危機管理能力がアレを追ってはならないと警報を鳴らしているのだ。

 私はこれでも魔法使いである。魔法使いとは即ち知識の探究者だ。好奇心は猫をも殺すというものだが、魔法使いは殺せない。私は魔法使いの燃料たる好奇心が燃やされる衝動に抗うことなく、影の正体を突き止めようと動いた。

 

 小走りで廊下の角まで到着し、そっと曲がり角を覗き込む。

 そこには妙なレミリアが居た。

 館の主が廊下を歩いていること自体は不自然ではない。問題はそこではなく、彼女の挙動だ。まるでストーカーにでも狙われている乙女の様に、しきりに周囲を気にしながら奥へ向かって歩いている。故に『妙な』レミリアな訳である。どうやら先ほどの影は、彼女の翼か何かだったらしい。

 彼女が一体何を警戒しているのかは分からないが、どうやら私の緊迫感は夏の夜に当てられただけかと胸を撫で下ろす。見つかるとまた面倒なので、私はレミリアを無視し図書館へ向かおうとした、その時だった。

 

 突如、レミリアの向かう先――――さらに奥の曲がり角から、黒い人形(ひとがた)の影が顔を覗かせたのだ。

 一瞬にして、私の全神経が乱れに乱れた。ぶるりと体が震えあがり、足ががくがくと小鹿の様に情けなく主張し始める。影を視界に捉えた刹那から、フランと弾幕ごっこをしたときと似た、命の危険を感じさせる類の恐怖感が私を包み込んだ。心臓が跳ね、喉が干上がり、視界が酷く鮮明になる。妙に頭が冴え切っているのは、走馬灯と同じ原理なのだろうかと変な思考が湧いて出てくる始末だった。

 恐らく、レミリアも似た心境だったのだろう。影を見た瞬間、全速力でこちらへ向かって走ってくるのが分かった。しかし彼女も激しく動揺していたのか、足を(もつ)れさせて派手に転がってしまう。

 人形の影が、レミリアに追いつく。それは二本の腕を伸ばしてレミリアを掴むと、そのまま奥まで素早く連れ去ってしまった。

 ほんの一瞬……レミリアが腕に捕まった瞬間に私と眼が合ったが、彼女の眼はどこか、絶望にも近い虚の色を浮かべていた様に見えてしまい、思わず唇を引き締めてしまう。

 

 訳が分からないが、とにかくヤバい……!

 私は一歩、二歩と後ろへ下がった。レミリアが何に捕まったのかは分からないが、明らかに危険だと言う事は直観で理解できた。嘘の様な静寂に館が包み込まれ、加えて影が蠢きレミリアを攫うだなんて馬鹿げた光景を目の当たりにしてしまえば、この館がいつもの紅魔館ではないと誰だって理解できるだろう。

 私は元来た通路を走った。私は妖怪と違って脆弱な人間だ。頭を弾かれれば当然死ぬ。引き際を間違えると言う事は自殺をするという事と同義なのである。ここが引き際なのだ。今日の所は霊夢に救援を要請するために撤退するのが得策だ。

 

 もう少しで正門へ続く扉が見えてくるところまで走り抜ける。ものの数秒で、私は館から脱出できる。

 しかし、私は外へと出る事は叶わなかった。突如横から伸びて来た白い腕が私を絡めとり、部屋の中へ引き摺りこんだのだ。

 

「っ!!? 離――――」

「落ち着いて魔理沙。私よ」

 

 反射的に強化魔法を発動した箒の柄を握り締め、掴んできた相手を叩きのめそうとした瞬間。冷たい手で口が塞がれ、さらに箒を持つ手も魔法障壁で拘束され、身動きを封じられてしまう。

 何が起こったのか分からないままその手の持ち主へと顔をやると、意外な事に犯人は、ここに居る筈のないパチュリー・ノーレッジ本人であった。

 何故、動かない大図書館と名高い少女がこんなところまで出てきて、私の口を塞いでいるのだろうか。そんなどうでもいい疑問が、混乱で支配された私の頭に沈静剤として働く。影を見た恐怖とレミリアが攫われた現場を目撃してパニックになっていた頭が、まるで針を突き刺された風船のように萎んでいき、どうにか面と向かって会話できる程度に落ち着きを取り戻す。

 

「冷静になれた様ね」

 

 パチュリーが私の口から手を離し、腕を拘束した魔法を解除すると、慎重な手つきで部屋のドアを閉じた。まるで誰かに気付かれる事を防いでいるかのようだ。憶測だが、正確にはあの影に居場所を知られないようにしているのだろう。

 

「なぁ、パチュリー。さっきレミリアが……っ」

 

 連れ去られた、と口に出しかけて、パチュリーの今までに見た事の無いような深刻な表情を目にし、押し黙ってしまう。

 数拍の沈黙が私たちの間を占有し、部屋に置かれた古時計の秒針の音が、何かのタイムリミットを示さんばかりに五月蠅く聞こえた。

 

「いつの間にか、とは正にこの事を言うのかしら。まさかあなたまで巻き込まれていたとは思わなかった」

「巻き込まれるって、なにに?」

「無意味にとぼける必要は無いわ。見たのでしょう? レミィが攫われたところを」

 

 パチュリーに言われて、脳裏に、あの黒い影が思い浮かぶ。ただでさえ背の低いレミリアがさらに小さく見えてしまう位大きくて、視神経が影の映像を受信し脳へ送り込んだ瞬間から警報が発せられた、生理的な恐怖感を覚えるあの姿が。

 鳥肌が布を擦る感覚を出来るだけ意識しないようにして、私は言葉を引き出した。

 

「一体全体、紅魔館で何が起きているっていうんだ?」

「さぁ。私にもわからない」

「おいおい、そいつは変な話だぜ。何かしら物事が起こるには導入が必要不可欠なはずだろ」

「私はその導入を省かれたクチなのよ。気が付いたら、追われる事になっていたわ」

 

 パチュリーは部屋の中の適当な椅子に腰かける。私も習って、テーブルの上に座り込んだ。

 

「魔理沙、いい? 今紅魔館は完全に閉鎖されている状況にある。日付が変わるまでは絶対に外へ出る事は出来ないわ。だから、あなたは日付が変わるその時間まで捕まらずに逃げなさい。自分の身の為にも」

 

 …………閉鎖、だって?

 それはおかしい。この館が出入り不可能にされているのだったら、私がエントランスに入る事など出来なかったはずだ。閉鎖と呼ぶにはあまりにも優しすぎる。外からつっかえ棒をドアに掛けて鍵を掛けているんですって言う位滑稽な話だ。

 

「私は普通に入ってこれたぜ? 正門からなら出られるんじゃないか」

「この館に張り巡らされた閉鎖魔法は、『とおりゃんせ』と似た性質を持っているの。あなたが入る事が出来たのは多分そのせいね。でも出る事は叶わない。私も魔法で壁を破って脱出しようと思ったけれど、どれだけやっても傷一つ付かなかったわ。試すのは自由だけどお勧めしない。魔力の残り香を探知されて見つかるのがオチよ」

 

 とおりゃんせと言えば、あの有名な童話の事で間違いないだろう。成程、入れるけど出られないって性質は、行きはよいよい帰りは恐い、の歌詞を指しているのか。

 しかし、そうなると非常に厄介だ。パチュリーは皮肉をよく口にするが嘘を吐く奴じゃない。おそらく今言ったこと全てが本当の事なんだろう。理由は分からず仕舞いだが、この館からは日付変更時まで出る事は叶わず、紅魔館のメンバー全員が、あの黒い影に追われているという奇奇怪怪な状況下に置かれている。そして私は、運悪くその事件に巻き込まれてしまったと言う訳だ。

 

「レミリアが連れていかれたが、まさか食われたり、なんて事は無いよな?」

「ある意味それよりも恐ろしい目に遭うわ。それだけじゃない。一人捕まるたびに増えていくのよ。逃げ延びる事がどんどん困難になっていくの」

 

 増える……? 食べられるよりも恐ろしい目に遭う?

 パチュリーが静かに言い放った二つのキーワードが、私の脳内に悍ましい想像を作り上げていく。想像はフラッシュバックの引き金となったかの様に、あの影を見た瞬間に感じとった恐怖を、目の前で体験しているかの如く呼び起こした。

 捕まったら、怖ろしい目に遭う。そして、あの黒い影が増えていく。それが示す所はつまり、取り込まれて眷属にでもされてしまう、という所だろうか。

 そう言えば、パチュリーから借りた本で読んだことがある。何でも『ウィルス』という菌よりも小さな生物に似た存在は、生き物の細胞に入り込むと自分の素を植え付けて、その細胞を材料に仲間を作る事で増殖していく性質を持つと。それに似た能力を持っているのなら、レミリアはもう既に――――!

 

 落ち着いた筈の頭が、再び火にかけられたやかんの様に熱を持ち始めた。そんな私を余所にパチュリーは、至極淡々とした口調で告げる。

 

「事が始まって五分で小悪魔が捕えられて、さっきレミィもやられたみたいだから、今は少なくとも三体存在している訳ね。厄介極まりない状況だわ」

「……何で、そんなに平静でいられるんだ。お前の大切な親友が、パートナーが()られてるんだぞ!? 何とも思わないのかよ!?」

()られてしまったものは仕方がないじゃない。今は自分たちが生き残る事に集中すべきよ」

 

 こいつ……! クールな奴だとは思っていたけれど、まさかここまで冷血な魔女だとは思わなかった。パチュリーにとっては、私には想像もできない長い時を共に過ごした筈の親友や、あれだけ慕ってくれていた小悪魔がどうなろうが知った事ではないんだ。

 

「お前、そんなに冷たい奴だったんだな。見損なったぜ」

「何を見損なったのかは知らないけど、とにかくここを離れるわよ。さっきあなたの攻撃を止めるために発動した魔法の気配に勘付いて、この部屋に向かってきている筈だから」

 

 パチュリーは椅子から立ち上がってスカートの汚れを落とすと、静かにドアを開けて外の様子を伺った。パチュリーは手で大丈夫だと合図して、さっさと部屋を後にしてしまう。

 

 ……私はもう、何が何だか分からない状態だった。

 いつものように本を借りに来て、いつものように誰かに見つかって、いつものように弾幕ごっこで遊んで。勝負に勝ったらそのまま家に帰って、もし負けたらパチュリーとくだらない雑談をして帰る。それだけの日常の筈だった。何も変わらない、普通の日々の一節の筈だったんだ。

 それが何で、この短い間に二人も命を落としてしまう非日常になってしまったんだろう。どうして、どこで歯車が狂ってこんな事に……。

 

 無意識の内に、ポケットの中のミニ八卦炉へ手が伸びる。香霖から作って貰ったこの魔法道具を触っていると、何だか勇気を貰えるような気がしたのだ。

 すぅ、と息を吸って、吐く。生きるために当たり前のように行っている一息が、私に力をくれた。あの仏頂面で不器用な優しさを持つ店主がくれた八卦炉が、私に勇気をくれた。

 やってやる。

 レミリアと小悪魔の仇をとる。脱出が出来ないなら、この館を密室に仕立て上げた元凶を退治してやればいい。なんて事は無い。いつも霊夢とやってる異変解決だ。それにもしかしたら、元凶を退治すれば眷属にされたレミリア達も戻ってくるかもしれない。

 俄然、戦う意思が湧いてきた。私は部屋を出ようと箒を手に、外へ出ようとして、

 

『えっ、ちょ、そんな、う、嘘でしょむきゅあーっ!!?』

 

 ザザッ! と何かが床に降り立つ音と、聞いたことも無いパチュリーの悲鳴が私の体へ急ブレーキを掛けた。

 

「パ――――っ!」

 

 叫びそうになって、思わず手で口を塞ぐ。

 外に、居る。

 待ち伏せしていたのだ。多分、床に降りた音がしたところからして、天井にでも張り付いていたんだろう。パチュリーが外へ出たのを確認して、襲い掛かったに違いない。

 奇襲をかけて助けよう。今ならまだ間に合う筈だ―――そう考えた矢先に、反対方向から足音が規則正しく聞こえて来た。パチュリーが言っていたもう一体の影だ。

 マズい。流石に二体を同時に相手取るのは無謀すぎる。一体を目にしただけでも恐慌状態に陥りかけたのだ。そんな怪物二体と戦って勝てるわけがない。

 

 落ち着け。打開策を脳ミソから絞り出すんだ。

 ああそうだ。思い返せば、奴は獲物を攫ってどこかへ運んでいた。もしかしたら獲物を持ち帰る巣のような場所が、この館のどこかへ作られているのかもしれない。でなければ捕まえた瞬間から眷属にしてしまう筈だ。

 私はあの影が、獲物を材料に仲間を増やすタイプなのかと考えていたがどうやら違うらしい。獲物を持ち帰る理由を考えると、全く別の答えが頭に浮かび上がったのだ。

 おそらく奴は、獲物そのものを材料にして分身を作らない。捕え、巣に拘束した獲物の持つ強大な魔力や妖力といった力を糧に、分身を作り出している可能性が高いように思える。パチュリーが仄めかしていたじゃないか。奴は魔力の残り香に敏感だと。それは、強い力を持った獲物を見分けるための機能なのだろう。

 だとしたら希望はある。巣があるのなら、そこに皆のエネルギーを吸い出しているマザーが居座っている可能性が高い。力を吸われても命が無事ならば、そいつを叩けば皆を解放してやれるかもしれないのだ。

 

 すまない、パチュリー。後で必ず助け出すからな。

 

 兎に角、救出するにしても今見つかっては元も子もない。私は周囲を見渡して、丁度私一人が隠れられそうなクローゼットを発見した。迷わずそこに飛び込んで、音を立てないよう静かに戸を閉める。口を両手で押さえ、暗闇の中全神経を耳に集中させた。

 フー、フー、と指の間から漏れ出す呼気だけが、クローゼットの中で唯一存在する音になる。それさえも五月蠅く聞こえてしまって、私はなるべく呼吸音を発生させないよう、息を深く吸って控えめにゆっくりと吐く呼吸を繰り返した。

 足音が遠ざかっていく。どうやら気づかれていないらしい。念のため、私は暫くこの中に居座る事にした。

 暗闇の中、気力との勝負が始まりを告げる。

 

 

【ルールその2:捕まった者は拠点に送られる。しかし、鬼の手を掻い潜り拠点へ仲間が辿り着けば解放される】

 

 

 どれくらい時間が経っただろうか。秒針が進む音の回数を数える事を止めてから、随分経過した様に思える。もしかしたら30分も過ぎていないかもしれないが、体感的には一時間弱もここに閉じ込められている様に感じた。別に閉所恐怖症と言う訳ではなのだが、胸の内から湧いて出てくるこの緊迫感を保ったままクローゼットで籠城し続けると、気が狂ってしまいそうだ。

 時間的にも精神的にも、そろそろ良い頃合いだろう。パチュリーの情報から考えて、敵はおそらく現時点で四体だ。数的には相当な脅威だが、ここは咲夜の能力でただでさえ広いスペースが更に広くなっている紅魔館である。四体それぞれが巡回しているにしても、移動にはそれなりに時間を食う筈だ。

 意識を押し殺してクローゼットから脱出しようとした、その時。何かがパタパタとこちらへ向かってくる音がして、私は戸を押しかけた手を引っ込めた。

 奴が戻って来たのか? と冷や汗が滲み、じわりとした感触が手の内側に生じる。

 しかし私の心配に反して、次に聞こえて来たのは聞き慣れた鈴の音の様な声だった。

 

「この『気』は、やっぱり間違いない。魔理沙さーん、そこに居るん……ですよね?」

「…………美鈴か?」

 

 おそるおそる戸を開くと、そこには様子を伺うように首を傾げている、紅い髪の見知った門番の姿があった。

 傷も無く、あの影に取り込まれた様子も見られない。正真正銘、よく昼寝をして咲夜に怒られている、妖怪の癖にお人好しで朗らかな美鈴だ。

 目の前でレミリアとパチュリーを失った反動もあってか、思わず私は美鈴へ突撃し、力の限り抱き締めた。柔らかい感触が腕を伝い、同時に彼女の声帯からぐえっと潰された蛙の様な声が漏れ出す。

 

「く、苦じいれす……と言うかあの、いつの間に魔理沙さんも参加したので―――――」

「良かった……! 美鈴は無事だったんだな!」

「―――えぅ? 無事? はい、私はこの通り元気ですよ……?」

「良かった。本当に良かった。レミリアもパチュリーもやられちゃったから、お前も駄目なんじゃないかと思ってたよ」

「それは本当なの?」

 

 ドアの外から、美鈴とは違う凛とした声が部屋へと響いた。ああ、この清水の流れるせせらぎの様に繊細で、どこかふわりとした陽だまりの温かさを含んだ声は間違いない。紅魔館のメイド長、十六夜咲夜その人だ。どうやら部屋の外で、あの影が来ないか見張っていたらしい。

 私は咲夜の方にも抱き付こうと飛び掛かったが、眼前にナイフを突きつけられて拒否された。イケズな奴だ。ここは生き残った者同士、感動の再会を分かち合う所だろうに。

 

「お嬢様がやられてしまったというのは、本当?」

「……ああ。私の目の前で、連れ去られちまった」

 

 レミリアの悲壮感漂うあの眼を思い出してしまい、唇を噛む。心なしか、拳に籠る力も強くなった。

 私の様子を見て、咲夜の氷像の様な鉄仮面が揺らぐ。お嬢様の事になると直ぐに芯がブレるこの少女の仕草が、何だか長い時を隔てて再会した友達の様に思えて、堪らなく愛おしかった。

 

「そう言えば、フランは? フランはどうしたんだ」

「妹様は行方不明よ。追われ始めてから直ぐに飛んで行ったわ。無事かは分からない」

「ご心配なく。『気』で探ってみたところ、敵影の数は現在四つです。小悪魔とお嬢様、パチュリー様が捕まってしまわれているのでしたら、増加数はこれで合います。妹様はまだ捕まっておられないのでしょう」

「じゃあ、一先ずは安心ってところなのか……。なぁ美鈴、咲夜。奴の巣を叩けば、皆を助けてやれる何てことは、有り得ないのか?」

「巣……? ああ、拠点の事ですか。一応可能ではありますが」

 

 美鈴の表情が明らかに曇る。それが示す意味は、私の頭に組み立てられた、巣に居座って高みの見物をしているだろう影の母体を叩きのめし、皆を呪縛から解き放つ奪還作戦が至難の道を極めているとみて間違いないだろう。

 

「拠点付近には、分身が常に徘徊して見張っています。分身とは言え、その眼を掻い潜って突破するのは非常に困難かと」

「……見張ってて邪魔なら、退かしてしまえば良いんだ」

 

 カンッ、と箒で床を突き、私は戦意を表明する。レミリアが攫われた時、そしてパチュリーが奇襲された時。情けなく尻尾を巻いて逃げ出した私だが、今は頼もしい仲間が出来た。人間は、強大な敵と戦う時は力を合わせて打ち勝ってきた。力を合わせた人間が、時として想定以上の戦果を挙げる事は人と妖怪の歴史が証明している。一人より二人、二人より三人だ。

 美鈴は人間じゃないけれど、その分仲間でいてくれたら心強いことこの上ない。咲夜も言うまでもなく、頼もしい味方になってくれる。

 

「別に、敵を攻撃しちゃダメなんてルールは無いんだぜ」

「……言われてみれば確かにそうですが……いや、しかし、相手は―――」

「頼む、力を貸してくれ。私は、あいつらの無念を晴らさなくちゃならない。散っていったパチュリーとレミリアの為にも、これは成し遂げなくちゃならないんだ。それがあいつらを助ける事に繋がるのなら、尚の事。でも私ひとりじゃ到底立ち向かえない」

 

 だからどうか、協力して欲しい――――頭を下げて、私は美鈴へと懇願する。

 暫しの沈黙の後、美鈴は観念したかのような溜息を吐いた。

 

「私としては、はっきり言いますと立ち向かいたくなんてありません。足が竦むほど恐ろしい。ですが、分かりました。引き受けます、貴女との共闘を」

「多分、弾幕ごっこなんかとは違って危険な戦いになる。それでも、一緒に戦ってくれるのか?」

「……魔理沙さん。私はどうやら貴女の事を過小評価していたようなのです。例えどんな些細な事でも全力で立ち向かおうとするその姿勢、強く胸を打たれました。私の十分の一も生きていない子にそんな眩しい姿を見せられて、私自身が縮こまっている訳にはいきませんよ。―――戦いましょう。力を合わせて、皆の勝利を目指すんです」

 

 そう言って私の手を取った美鈴の顔は、今までに見た事も無い闘志に溢れていた。もう、幸せそうに涎を垂らして熟睡している門前の置物としての情けなさはどこにも無い。武勇をその胸に燃やし、仲間の為に身を削って立ち上がる事を覚悟した、一人の戦士がそこに居た。

 頼もしい。美鈴がこんなにも頼もしいと思える日が来るなんて夢にも思っていなかった。私は、この勇敢な妖怪と共に戦えることを誇りに思う。例えその先に、影に囚われ新たな分身を作るための苗床となり果てる未来が待ち受けていたとしても。

 

 私は美鈴と熱く握手を交わしつつ、咲夜を見る。彼女は珍しく、頭痛を抱えている様に額へ手を当てていた。

 

「咲夜も、手伝ってくれるか」

「え? あ、うん。良いわよ」

「サンキュ! 流石は咲夜だぜ。レミリアはさぞかし鼻が高いだろうよ。こんなに立派な従者が付いているんだもんな」

 

 親指を立てて、咲夜に私は精一杯の笑顔を送った。咲夜はふん、と鼻を鳴らして、そっぽを向いて黙ってしまう。素直じゃないな。でも私には分かる。間違いなくコイツは照れている。

 

「じゃあ、早速作戦を伝えたいが……敵の本拠地はどこにあるか知ってるか?」

「二階にあるお嬢様の執務室です。見張りの分身は、執務室と接した廊下を徘徊しています。二階に繋がる階段を昇れば、必ず鉢合わせになるでしょう」

「なら方法は一つだな。二手に分かれて挟み撃ち。どちらか片方が生き残れば、必然的に本拠地を叩ける。そうすりゃ文句なしの王手だ」

「ですね。後はタイミングですが……っ!!」

 

 突然、美鈴の表情が険しくなる。視線は部屋の外へと向き、その行動が自然と危機的状況を告げる警報となった。

 

「流石、と言うべきなのでしょうか。左右から挟み込むようにしてこっちへ向かって来ています。端的に言えば囲まれました」

「何だって!?」

「最早隠れても、意味はないみたいですね」

 

 そう言うと、美鈴は躊躇いもなく室外へ飛び出した。私と咲夜も続いて、外へと出る。

 美鈴の言う通りだった。

 廊下の端と端から、それぞれ一体ずつの影が迫ってきている。走ってはいない。ただゆっくりと、私たちを追いつめるようににじり寄ってきているのだ。

 ただでさえ明かりの少ない上に夜だったために、奴の姿が今の今まで明瞭に見えなかったのだが、廊下の天井を照らすシャンデリアの元を潜った事で、漸く影の確かな輪郭が露わとなった。

 男だ。

 顔は遠く暗くてよく分からない。しかしこの距離でもはっきりと存在が認識できる。影の正体は、後ずさりしてしまいそうな捕食者の圧迫感を背後に携える、およそ190以上はある大男だった。

 

 足が震える。

 貧相なカスタネットの様にカチカチと、歯が情けない音を鳴らす。

 吐きそうになるような威圧感。絶対に立ち向かってはいけないと本能が訴える禍々しい気配。

 どうしよう。怖い。勇気を出して立ち向かうと決めたけど、いざ対面してみると悲鳴を上げて逃げだしそうなくらい怖い。レミリアとパチュリーを抵抗の隙を与える間もなく捕縛した、分身でしかない筈の、男の姿をした影がどうしようもない悪寒を呼び起こす。奴の輪郭を視界に捉えるだけで、恐怖と言う名の粘質な物体が、獲物を取り込むアメーバのように精神を侵食してくる。

 しかもそれが、前だけでなく後ろにもいるのだ。私の命を支える大切な臓器が、過労を訴えて止まるんじゃないかと思うくらい働き始めた。ドッドッドッドッドッと、脈が太鼓の如く胸の内側から勢いを増しつつ叩かれ続ける。状況は絶望的だが、私の心臓は祭りの様に賑やかだった。

 

 ぎりっ、と奥歯を噛み締め、どうやってここを突破するか考えを巡らせていた、その時。

 私を縛り、包み、落とし込んだ恐怖を打ち砕くように。美鈴が一歩、私たちの前へと踏み出した。

 その手には虹色の『気』が立ち込めていて、微かに紅い絹の様な髪が揺らめいている。

 

「ここは私が食い止めます」

「美鈴……!」

「その隙に突破してください。貴女の素早さならここを抜けられる筈です」

 

 彼女の言葉は事実上、進んで犠牲になると表明している事に他ならなかった。

 

「でも、それじゃお前が!」

「行ってください!! 何が何でも皆さんを助けると言ったのは、他でもない貴女自身じゃないですか! 成し遂げるんです。私を踏み越えて、その先の勝利を掴み取るんです! 貴女にはその義務がある!!」

 

 春風がそよぐ原っぱの様に朗らかなイメージとは違う、戦闘の覇気に満ちた怒号が飛ぶ。その激励が、私の心を縫い止めていた恐怖の鎖を打ち砕き、体に活力を取り戻させていく。

 魔女の正装を模した帽子を直し、私と咲夜は箒に跨った。穂の中に八卦炉を挿し込み、魔力を充填していく。

 言うべき言葉は、ただ一つ。

 

「―――必ず助ける」

「これも修行の成果を示す良い機会です。さぁ行け! 霧雨魔理沙!!」

 

 美鈴の腕から、眩い虹色の弾幕が一斉に放たれた。それが影の動きを絶妙に牽制し、弾幕の波に乗った私たちを廊下の最奥へと突破させる。怖ろしい速度のまま突き抜けた私たちは、目的地へ続く方向へ飛行魔法の流動性を調節する。

 止まるような事はしなかった。美鈴の助言通り、私は魔力を操作して莫大な推進力に任せるまま、二階の執務室へ迷うことなく一直線に突き進んでいく。

 階段を抜け、執務室へ続く廊下へ差し掛かった時。分身の姿が視界に映った。奴らの母体が居座る巣を守る、番人的存在だ。

 八卦炉に接続した魔力の噴射を切り、停滞して浮遊状態を保つ。丁度、影と睨みあう様な形となった。相変わらず相手の顔は暗すぎて見えないが、心なしか驚いているようにも見える。そうであれば、してやったりと言ったところだ。

 

 だがしかし、どうする。このまま突っ込んでもおそらくただ捕まるだろう。だってあの分身は、いくら足を縺れさせてこけたとはいえ、吸血鬼であるレミリアを一瞬で追い詰めるほどの敏捷性を持っているのだ。いくらスピードに自信があるとはいえ、妖怪が本気を出せば、普通の魔法使いでしかない私がどうなるかは考えるまでもないだろう。ならば機動力を封じるために、美鈴と同じように弾幕で攪乱するか? いや、箒を推し進める為に八卦炉へ力を回せば、奴を圧倒するほどの密度を持つ弾幕は作れない。

 どうする。どうする。

 

「次は私の出番の様ね」

 

 思考の渦に呑まれた私を引き上げるように、腰にしがみ付いていた咲夜が言う。薄く振り返れば、彼女は何か妙案を思いついた切れ者の眼をしていた。

 何をしようとしているのか大体は予想できる。時間を操るという反則に近い能力を持つ彼女が、時間を止めて避けようのないナイフの弾幕を展開する気なのだろう。

 しかしそれを実行するには、大きな問題が壁となって立ちはだかる。

 

「いくら時間を止めても、唯一能力の対象外であるお前自身は、時間を止めた瞬間のエネルギーの影響をモロに食らうんだろ? あの速さの中で時間を止めれば、ワケの分からない方向に吹っ飛んじまうぞ。時間を止めずにナイフを投げても、ナイフが奴に刺さるより私たちが分身の元へ到着する方が速いぜ」

「いいえ、ナイフは投げないし時間も止めないわ。使うのは私自身。分身と接触する寸前で、空間を歪曲させて私を分身の目の前に放り出すのよ。その隙に執務室へ行って頂戴」

「そんな事が出来るのか?」

「知らない様ならこの機会に教えてあげる。時間を操ると言う事は即ち、空間をも支配下に置く能力だという事をね」

 

 十六夜咲夜は、決して自信家と言う訳では無い。彼女は客観的に物事を見る能力に長けていて、己に対して適切な評価を下している。出来ない事は出来ないと言い張り、出来る事は出来ると言うタイプなのだ。つまり彼女が出来ると言った以上、それは能力に対する過信でも何でもなく、必ず成功できるという確証があっての事なのだろう。

 ならば、そいつを信じる事に何の躊躇も無い。

 

「タイミングはどうする」

「そのためのスペルカード宣言でしょ。合図にはうってつけ」

「決まりだな。任せた」

「任された」

 

 八卦炉に魔力を再度注ぎ込み、充填させる。あとは後ろへ撃ち放てば、ジェットの如く私たちを分身の元へと押し流すだろう。

 咲夜が手元にカードを持つ。カードの名を宣言された瞬間が、勝負の行く末を握るカギとなるのだ。

 気合十分。魔力十分。勝利は目前。後退は、無い。

 

「いくぜ」

 

 ドバンッ!! と八卦炉が轟音と共に炸裂した。穂先から背後へ流れる魔力の奔流が爆発的に推進力を生み出し、私たちを彗星へと変えていく。一気に分身との距離が縮まり、それに合わせて風を切る音が私たちを歓迎した。

 勝利への道が、姿を現し始めていた。

 決め手となったのは、カードを手にスペルを囁く彼女の声だ。弾幕を伴わない、ただ合図としての、スペルカード宣言。

 

「幻世『ザ・ワールド』」

 

 私の腰に回っていたか細い腕の感触が消える。空間を操り、私の背後から一瞬にして分身の前に移動した咲夜は、そのまま分身を巻き込み派手に廊下を転がっていった。

 その隙に私は魔力を箒の先端から逆噴射させ、推進力を相殺して執務室の前へと体を放る。宙を舞う中、反動でお尻の下から弾き飛んだ箒を捕まえ、穂の中の八卦炉を取り出すと、ドアを蹴り破る勢いで執務室の中へ侵入した。何時でも発射できるように八卦炉を魔力で満たし、内部のターゲットへ向けて照準を合わせる。

 私は、自身の最も得意とする魔法を―――スペルを、勝利宣告の如く宣言した。

 

「マスタ――――スパァ―――――――」

 

 

【ルールその3:勝利条件は日付変更まで逃げ延びる事とする】

 

 

 紅魔館の皆を捕え、力を吸い出しているだろう巨悪の根源たる母体に向けて極大の閃光を叩き込もうと執務室へ入った私は、信じられない光景を目の当たりにして固まった。

 執務室に広がっていたのは、紅魔館の住人が卑劣な影の母体に捕えられている凄惨な現場などではなく。

 和気藹々とお茶会を楽しむ、少女たちの姿だった。

 

「日付変更まで1時間切っちゃったわねぇ。あーあ、咲夜か美鈴が助けに来ないかしら。ずっと待ってるだけだと暇で暇でしょうがないわ。このままだと罰ゲーム受けちゃうし」

「罰ゲームはともかく、私としては、走り回るよりこうして静かに紅茶を飲みながら本を読める方が好ましいのだけれど―――小悪魔。この紅茶、砂糖と塩を間違えているわよ」

「ひゃいっ!? あ、も、申し訳ありません! 直ぐに取り替えます!」

「全く……あなたもいい加減、ある程度ナハトの瘴気に慣れなさいな。この先やっていけないわよ」

「うぅ、分かってるんです。分かってるんですけど、でも、どうしても眼を合わせると緊張しちゃって……!」

 

 机の上でぶっすーと不貞腐れているレミリアが。本を読みつつ紅茶を啜り、違和感しかない味に顔を顰めて小悪魔を叱責するパチュリーが。何故かカチコチに緊張して狼狽えている、いつも以上に気弱な小悪魔が。

 要約すると、いつもの紅魔館がそこにあった。

 何一つ変わった様子のない紅魔館が―――――、

 

「おい」

「あら魔理沙。さっきぶりね。もしかして助けに来てくれたの? もっと遅くても良かったのに」

「……そう言えば私も、捕まる瞬間にチラッとだけ見たわね。いつの間に参加してたのかしら」

「え? レミィが呼んだ訳じゃないの?」

「違うわよ。多分フランが呼んだんでしょ。あの子魔理沙が大好きだし」

 

 至極どうでもよさそうに結論付けるレミリアと、その可能性が濃さそうね、と適当な相槌を打ちつつ黙々と活字の世界へ没頭するパチュリー。

 私の中の何かに、猛烈に大きなヒビが入り込んだ気がした。

 気がついた時には、私は内側から込み上げてくる激情を晴らすかのように叫んでいた。

 

「―――なんっっっっだよこれぇ!!?」

 

 ビクッ、と小悪魔の肩が跳ねて、レミリアの眼が細くなり、パチュリーが唇を引き締めて耳を塞ぐ。でも今の私は彼女らの鼓膜を心配していられる余裕なんて無かった。

 

「五月蠅いわねぇ。なんだよこれー、はこっちの台詞よ」

「おまっ、お、レミリアッ!! お前は分身を作るための栄養源にされていたんじゃなかったのかよ!? パチュリーも、小悪魔もだ!! 紅魔館が何者かに強襲されて、そんでお前らがどんどん捕まっていって、壊滅の危機を迎えかけてたんじゃないのか!!?」

「……パチェ。貴女、あの黒白が一体何を言っているのか理解できる?」

「残念だけど翻訳できないわ。何となく、若気の至りから妄想を爆発させて変な方向に拗らせちゃったのかなとはニュアンス的に捉えられたけれど」

 

 いやー若いってのはパワーだねーと、吸血鬼とその親友からセットで生暖かい視線を送られた。なんだ。なんだこれは。これではまるで私が、何か盛大な勘違いをして空回りを繰り返した間抜けな道化の様ではないか。

 なんとなく事件の全貌が見え始めて、私は首から顔がどんどん熱を帯びていく感覚を覚えた。

 やばい。もしかしたら私、凄く恥ずかしい奴になってしまったのかもしれない。

 

 思い返すと、不自然な点はいくらでもあった。危機的状況なのにどうして日付が変われば館に掛けられた魔法が解けて解放されるのか。何故パチュリーが、仲間がやられたというのにあそこまで淡白だったのか。普段外に居る筈の美鈴まで偶然館に閉じ込められていたのは何故か。咲夜が私と美鈴の結託を見て頭が痛そうにしていたのは何故なのか。レミリアがやられたと聞いて咲夜がそれほど取り乱さなかったのは何故なのか。

 あぁ、ざっと思い浮かべるだけでもこれだけ不審な点が浮かび上がってくる。普通ならすぐに気づくことが出来たはずなのに、あの影が私に植え付けた理不尽な恐怖のせいで目が曇り、事の真偽を見極める事が出来なかったのだ。

 

「あ、あのさ」

「なに?」

「お前ら、い、一体何をしていたんだ……?」

「何って」

 

 レミリアとパチュリーが、互いに顔を合わせ、首を傾げる。どうでもいいことだが妙に息の合った仕草だった。

 そして、レミリアは蝙蝠の様な翼をパタパタと動かしつつ、言葉を紡ぐ。

 

「鬼ごっこでしょ」

 

 ………………?

 鬼ごっこ? おにごっこ? ONIGOKKO?

 一つの言葉が、私の頭で竜巻の様に回転し、狭い屋内で思い切りゴムのボールを投げたかのように跳ね返り続ける。遂にはゲシュタルト崩壊の一歩手前まで足を突っ込んでしまった。

 鬼ごっことは、アレだ。一人がハンターの役割を担って、ゲームに参加した他者を次々と捕まえていく、至極単純なルールでありながら、少年少女の心を掴んで離さず、過去から黙々と受け継がれているミームに等しい遊びの一種だ。

 何が起こっていたのか。そして自分が今何をしようとしていたのか。それら二つの要素を半ば自動的に理解する。理解してしまう。

 そして唐突に訪れる、羞恥心の津波。顔はこれ以上に無いくらい沸騰し始め、パクパクと金魚みたいに口を動かすことしか出来なくなってしまっていた。

 私は、こいつらの盛大な鬼ごっこの為に、命を賭けようとしていたのか。そんな事の為に、あんなに思い切った啖呵を吐いてしまったというのか。

 美鈴の言葉が、頭の中にふと蘇る。

 

 ――――例えどんな些細な事でも全力で立ち向かおうとするその姿勢、強く胸を打たれました。

 

 例えどんな些細な事でも、全力で。

 つまるところ私は、傍目から見れば鬼ごっこに命を賭ける熱血な女の子に見えていた訳で。

 それを理解した瞬間。心の底から、死にたいと思った。

 ぷしう、と頭から湯気を出して膝を抱えて蹲ってしまった私に、パチュリーが無駄に暖かみを込めた声で告げる。

 

「人生色々よ。気にすると毒だわ」

 

 グサリ、と頭頂部辺りに言葉の刃が突き刺さる。時として励ましはどんな罵倒よりも強力な武器になる事を、この魔女は知らないのだろうか。

 

「~~~~~っ!!? も、もとはと言えばお前があの時ちゃんと説明してくれなかったから……!」

「これはフランの気紛れで生まれた、所謂一つの親睦会みたいなものでね。フランに好かれているあなたなら、レミィかフランに招待されて途中参加をしていても不自然ではないと思っていたの。あなたの事だから壁をくりぬいて時間切れまで逃げようとするんじゃないかと思って、釘を刺す事しか考えていなかったわ」

 

 ちなみに、とパチュリーは付け足し、

 

「あなたの後ろに居る方が、件の増える鬼さんよ」

 

 パチュリーの言葉通りに、ゆっくりと後ろを向く。

 部屋の入り口に、魔王が居た。

 灰色の髪と紫の瞳をした大男が、尋常ではない威圧感を放ちながらこちらを見ている。

 口元から一対の氷柱の様な牙を覗かせ、彼はやんわりと微笑んだ。

 その笑顔が、春が来なくなる異変の時に冥界でほんの少しだけ封印が解け、力を放出した西行妖の如く禍々しく、妖艶で。

 ヒートアップした体が悪寒と恐怖で一気に冷めた反動なのか、私の意識は呆気なくブラックアウトした。

 

 

【ルールその4:勝者は敗者に好きな罰ゲームを課す事が出来る】

 

 

 知らない女の子が執務室に入って行ったと分身から得た情報で気がつき、何事かと見に行ってみると、昔の魔法使いの様な格好をした少女が私の顔を見て気を失って倒れた。面会してからここまで数秒足らずの出来事である。もしかしたら私と顔を合わせて気絶するまでのベストタイム記録を更新したかもしれない。

 それはさておき、分身から得た情報を見るに、この少女は人間の魔法使いであることは間違いない様だ。……つくづく思うのだが、魔法使いさんと私は相性が悪いのだろうか。パチュリー然り、顔を合わせると必ず気絶されている気がする。お蔭で弁明の余地も何もなかった。せめてもう少し魔性の効力が薄ければ、大分楽にコミュニケーションをとれると思うのだがなぁ。

 

「おじ様、お帰りなさい。皆捕まったの?」

「いや、フランがまだだ。どこかに隠れているのか、逃げ続けているのかは分からないが全く見当たらない」

「申し訳ありませんお嬢様、捕まってしまいました」

「咲夜さんに同じく……あはは。いや流石にあの状況からは無茶にも程があるかなって弁解してみたりははははは」

 

 私の後ろから、どことなく悔しそうな咲夜と目が虚ろになっている美鈴が顔を出す。あの魔法使いの少女をここまで突破させるために、まさか彼女たちが分身に挑みかかってくるなんて思わなかった。特に咲夜は、外の世界のスタントマンの様に分身へ向かって凄まじい勢いで飛び掛かって来たものだから、いつものクールな印象とは違った一面を垣間見る事が出来た気がする。もしかしたら表はクールで内面はホットな少女なのかもしれない。

 床で伸びている魔法少女を見て、美鈴が目を丸くした。

 

「ありゃ、魔理沙さん捕まっちゃったんです?」

「いいえ。そもそも彼女はゲームに参加していなかったらしいわ。ナハトの事を、紅魔館を襲う怪物か何かだと思ったらしくてね。捕まった私たちが餌にされていると、盛大に勘違いしたみたいなの」

「ああ、そう言う事ですか。だからあんなに魔理沙さん熱くなってたんですね……ってそう考えると私は誤解に誤解を重ねてヒートアップしていただけって事になるんでしょうか。う、うぅ。か、顔が熱いです」

 

 美鈴が顔を茹蛸の様に紅潮させつつ、手を頬に当てて項垂れた。そしてパチュリーからさらりと聞き捨てならない事を言われた気がするが、この際放っておこう。一見で誤解されるのはもう慣れてしまっている。

 が、このまま私に悪い印象を抱かれたままだと、心苦しいのも事実だ。あまりこんな事はしたくないのだがやむを得まい。記憶をほんの少しだけ弄らせてもらおう。元より彼女はこのゲームに参加する事の無かった人物だ。今晩の記憶が抜け落ちても、夢か何かで済ます事が出来る筈である。勿論記憶を弄る代償として、お詫びはさせて貰うつもりだ。

 この子の名は、魔理沙と美鈴が言っていたから、普段パチュリーが頭を悩ませている霧雨魔理沙という少女で間違いないだろう。であれば、またこの館へ訪れる事がある筈である。その時は互いに知らない者同士と言う体で接触させて頂くとしようか。挨拶の後に私の能力の事を説明して、信じてくれれば良いのだけれど。

 だがそれ以前に、彼女に働く魔性の影響は『恐怖』寄りの様子だから、パニックを起こされないよう注意を払わなければならないか。ほとほと難儀な能力である。

 

「ところで、誰かこの少女の家を知る者はいるか? この館で目を覚ましたらまたパニックを引き起こすだろうから、送ってあげた方が良いと思うのだが」

「私が彼女の家を存じておりますわ」

「では咲夜、すまないが案内を頼めるかね」

「お任せを」

 

 彼女を無事に送る算段が整ったところで、どんなお詫びを持っていこうか考える。彼女は魔法使いだから、魔法に強く関係する物が良いだろうか。私が作った魔法道具は……いささか強力過ぎて人間には危険だ。ならば、少しばかり希少な素材をプレゼントするとしよう。喜んでくれればいいのだけれど。

 

 

 こうして、私たちの第一回紅魔館親睦会は、乱入者の出現がバタフライエフェクトとして働き、なんとも奇妙な形で終わりを迎えた。親睦を深めるという点ではよく分からない結果となったが、私としては普段目に出来ない彼女たちの一面を知れただけで満足である。主に、咲夜やパチュリーが意外とコミカルな少女だと分かったのは大変な収穫だ。この調子で少しづつ、あの夜の恐怖を拭い去る事が出来れば素晴らしい。

 

 ちなみにこの直後、日付が変わったと同時にフランが勝った勝ったと喜びの声を上げながら執務室へ帰って来て、一堂に会している私たちを見ると『何でみんな楽しそうに和気藹々としてるの仲間はずれなんてずるいずるいずるいーっ!!』と癇癪を起し、それを止めるレミリアと一悶着が巻き起こる羽目となる。

 言うまでもなく、最初に設定したルール通り、私たちは彼女が下した罰ゲーム……第二回親睦会の開催を約束させられた。そして今度は何故か、紅魔館で一番料理が上手い咲夜を審判に置いた、全員を巻き込む料理対決となったのはまた別の話だ。

 

 

 ぱちり、と目が覚める。

 酷くグラグラする視界が見慣れた天井を映し、二日酔いの後の様な気持ちの悪い浮遊感が私へ襲い掛かった。お蔭で、否が応にも意識が現実に向かわされていく。

 上体を起こして周囲を見渡す。相変わらず散らかりきった素敵な我が家が――――と思ったが、何故か酷く清掃され見違えるようにスペースが生まれた霧雨魔法店の姿がそこにあった。

 

「あっれー……? 私、片付けとかしたっけな……?」

 

 眠る前に何があったのか思い出そうとするが、黒い靄が差し掛かったように昨晩の事が思い出せない。何だか凄く恥ずかしくて怖い思いをしたような気がしなくもないが、それが一体何なのかが分からず仕舞いだった。

 大方、酒でも飲み過ぎて酔った勢いで部屋を片付けたとか、そんなものだろう。そう結論付けて、埃一つないフローリングに足を着ける。こんなに綺麗になるのなら、今度から片付けたいときは思い切り酔っぱらってしまおうか。

 

 しかし、どこに何を片付けたのかまったく覚えていなかったので、魔法の研究材料だとかが知らないうちにどこかへ行ってしまっていないか心配になる。だが、それも杞憂だった様子だ。ちゃんと綺麗に研究机へ、分かり易く分野ごとに分類されて揃えられてある。偉いぞ、昨晩の私。

 

「……ん? 何だ、これ」

 

 魔法薬の調合へ使うために蒐集していたキノコの横に、見慣れない棒が横たわっていた。長さは人差し指から手の付け根あたりまでで、形は金の延べ棒の様だ。色調は金と反対の銀色をしており、しかし普通の銀よりも明らかに光沢が強く、美しい輝きを放っている。

 手に取り、謎の金属塊を眺める。見た目に反してこの延べ棒は驚くほど軽かった。洗い立ての食器よりもつるつるしていて、日の光を当てればキラキラと煌めく鏡の様に私の顔を映し出す。

 こんなものが、家にあったのだろうか。

 もしかしたら昔にどこかで拾って来て忘れていたものを、酔った私が昨晩発掘し直したのかもしれない。そう考えると何だかお宝を発見したような気分になって、無性に嬉しくなった。

 今度、香霖の所へ行って名前を聞いてみよう。どんな物の名前でも分かるあの古道具屋なら、きっとこの軽くて綺麗で不思議な魅力がある金属の名前が分かる筈だ。

 

 部屋は綺麗になっているし、お宝っぽいものも発見できた。朝から何だか調子がいい気がするものだから、今日はこれからも良い事が起こりそうな気がして、私は霊夢の所へ遊びに行こうと決意した。もしかしたらタダでお菓子にありつけるかもしれない。それに、たまには神社の経済状況を支えるのも悪くは無い。

 無くさない様に金属塊を机の中へ仕舞い込んで、お気に入りの帽子を手に取り、玄関を出る。私は文字通りの相棒たる箒と共に、空に向かって飛び出した。

 

 メレンゲの雲と絶好調な夏の太陽が、今日も変わらず水色の空を彩っている。

 

 



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EX3「少女達のさいきょーお食事会」

 39度4分。

 これが一体何を表す数値だと思い浮かべるかと聞かれれば、大半の人は体温だと答えるのではないだろうか。その答えは正しい。人間の平常時を考えると明らかに異常なこの数字は、たった今脇の下で計った水銀体温計が無慈悲にも表示した私の体温である。

 つまるところ、私こと十六夜咲夜は完璧に風邪を拗らせていた。

 

 最初は微熱程度だった上に、症状なんて殆ど無かった。むしろ熱にすら気づいていなかったほどである。皆の食事を作り食堂へ運んでいた時に、美鈴から『気』が乱れていると指摘を受けて検査したところ発覚したくらいだ。

 そんな微熱程度だった風邪が意識した途端、急激に悪化したのである。頭が揺れ、体の節々が針を刺されたかのように痛みだし、強い催眠薬を飲まされたかのように思考能力は破壊され、時間操作は当然の如くコントロール不可能な状態となった。控えめにも仕事が出来るなんて言っていられる状態で無くなったところを、お嬢様に休養を申し付けられ、こうして横になった次第である。

 不覚だった。自身の体調管理が出来ていなかったという失態は勿論のこと、よりによって重要な日に重なるようにして体を壊してしまうとは、己だけでなく神をも呪う勢いである。

 件の重要な日とは一体何なのかと言うと、ベッドの傍らで心配そうに私を見守りつつ、おろおろしている妹様に大きく関係しているイベントの事だ。

 

 実は、先日妹様に友達が出来たのだ。

 あの忌まわしい夜が明け、正真正銘自由の身となった妹様は、お嬢様から最低限の常識を教えられると直ぐに外へ飛び出していった。とは言っても、紅魔館の周辺程度に留まってはいるのだが。それでもやはり、籠りっぱなしより外で開放的に遊ぶ方が楽しいらしく、目に映る全てのものが新鮮に思えるらしい。最近の妹様は見違えるように明るくなり、タンポポの花の様に朗らかな少女となった。そんな妹様は、ある日偶然出会った妖怪たちと意気投合して瞬く間に友達になったらしい。

 妹様はずっと地下に幽閉された身であったため、外界の刺激経験が少なく精神年齢がかなり幼い。妹様が友達になったルーミアという名の妖怪と氷精に大妖精は、控えめに見ても成熟した精神の持ち主ではない者達だ。つまり、出会ったばかりの子供同士が魔法の様に仲良くなる原理と同じ現象が起こったと考えていいだろう。

 初めてのお友達が出来て大変嬉しかったのか、先日妹様は館に彼女たちを招待したいと言った。お嬢様もそれを止めるようなことはせず、むしろ吸血鬼の寛容さを知らしめる為に連れてきなさいとの事で二つ返事に承諾し、いよいよ初めての招待日を明日へ控える事となったのだ。

 

 それなのにこの体たらくである。情けないを通り越して自分に憎しみすら湧いてくる。どうしてこの体は、ここぞという時に動かなくなってしまったのだろうか。妹様は私の作る料理で食事会をすることをとても楽しみにしておられたのに、それを裏切るような真似をしてしまった。首を切っても償えない大罪に等しい失態である。『大丈夫だから早く治ってね』と励ましてくださる妹様の純真な心が罪悪感と言う名の凶器となり、私の精神を酷く苛ませた。

 

「ご心配、なさらないでください。明日はこの身に変えても食事会を成功させてみせますから」

「駄目だよ! 人間は直ぐに壊れちゃうから、休む時は休まないとってお姉様が言ってた。だから、動いちゃダメ。もう気にしなくていいから、早く治ってね。皆はまた呼べばいいんだからさ」

 

 妹様の言う通り、人間は妖怪と比べて圧倒的に脆く、そして壊れやすい。たかが風邪が悪化した程度でこのザマなのだ。何が完全で瀟洒な従者か。妹様に今にも泣きだしてしまいそうな顔をさせて、さらに心配までかけさせて、私はメイド長失格もいいところだ。この日ばかりは、人間に生まれた事を心の底から恨んだ。いっそのこと盛大に罵倒してくれた方が、心も休まるという程である。

 そんな時、部屋のドアが柔らかくノックされた。同時にドア越しからでも感じる冷たい気配から、ナハト様が来られたと言う事が一瞬で分かった。

 

 ところで、私は当然のように寝間着姿である。ずっと横になっているために髪もボサボサだ。立つことも辛い状態であるためにお風呂にも入れない上に、熱のせいで沢山汗をかいている。だから、まぁ、うん。少しばかり……匂うはずである。ナハト様を『そういう目』で見たことは一度たりともないが、それでも異性であることに変わりはない。こんな姿のまま面会するのは、お嬢様のお義父様に対して大変失礼であるという考えもあるが、まず先に羞恥心が働いた。私だって、これでも女の子の端くれなのだ。最低限のプライドと言うか、守るべきものがある。

 

『夜分に失礼。レミリアから君が体調を崩したと聞いて来たのだが、入っても大丈夫かな?』

 

 お見舞いに来てくださったのに突き放すのは、お嬢様の義父であるナハト様に向かってするような事では絶対にないが、それでも恥ずかしい事に変わりはない。どう答えようか迷っていたら、妹様がドアへ突撃して呆気なく招き入れてしまった。羞恥の為に止めようと妹様に伸びた手が、虚しく空を切る。

 

「平気ではないだろうが、調子はどうかね」

 

 聞くだけで熱が下がりそうな、甘く魅了に満ちた声に私は頭を下げた。熱で頭がやられているせいか、いつもよりも彼の声が心に入り込んでくる様に感じる。

 

「大丈夫です。ご心配をおかけしてしまって、申し訳ありません」

「こう言っては失礼かもしれないが、君は人間なのだから、そこまで気を負わない方が良いさ。体調を崩すと言う事は、君が必死に生きている証拠だ。レミィもフランもちゃんと分かってくれているだろう」

「しかし……明日は、妹様の」

「ああ、それもレミリアから聞いたよ。その話の事も含めて、私はここに来たのさ」

 

 ナハト様は椅子に腰かけ、妹様を傍の椅子に座らせると、手に下げた籠の中からお見舞い品だろうリンゴと包丁を取り出した。彼は鮮やかな手つきでリンゴを剥き始め、あっという間に剥かれた皮が一匹の蛇の姿となり、皮の下に守られていた瑞々しい果実が露わとなる。それを小分けして皿に盛ると、私の前へと差し出した。

 

「食すほどの元気はあるか? もし固形物を噛むのが辛いようなら、摩り下ろしてジュースを作ってあげよう」

「大丈夫です、ありがとうございます」

 

 一切れ受け取り、口に運ぶ。歯が果実に切り込みを入れた途端、じゅわりと口の中に溢れる甘い果汁が、炎症を起こした咽頭を慰める。

 彼は満足そうに微笑みながら、今度は妹様へと視線を移した。

 

「フラン。君は友達と食事会を開きたいのだろう?」

「うん……そうだけど、咲夜が体調崩しちゃったから、また今度にする」

「家族を思いやるその心は立派だ。しかし、中止にする必要は無いさ」

 

 ナハト様は優しい笑みを浮かべて、妹様の柔らかな髪を撫でる。こうしてみると、本当に血が繋がっていないのかと疑ってしまうくらい親子そのものだ。

 そして彼は、穏やかな口調で静かに告げた。

 

「その料理担当、私に任せてみてはくれないか。これでも料理の腕には自信がある。良い機会だから、咲夜には今後の為にもしっかりと休養をとって貰おうじゃないか。大丈夫、客人を失望させるような真似はしないと約束しよう」

 

 ………………、

 何故だろう。ナハト様だから料理の腕前については、以前行った親睦会の料理対決からみてとても信用できるのだが、全く別の心配が、巣穴から獲物を探し出そうと這いずり出てくる蛇の様に顔を覗かせてくる。

 妹様とは違って、それほど力の強くない妹様の友達がナハト様を見て、果たして無事でいられるのだろうか。そんな心配だ。

 しかしそんな事は口が裂けても言えるはずが無く、また妹様の眼がキラキラと輝き始めたので、止められる筈なんてない訳で。

 

 かくして、妹様のお食事会を成功させよう大作戦が、特大級の爆弾を抱えたまま決行されようとしていた。

 

 

「ふわぁ、改めて見ると、立派な御屋敷だね」

「心臓みたいに赤いなぁ~」

 

 太陽がお月様と入れ替わった時間帯に、私は友人の二人と一緒に、霧の湖の近くに建っている館の門の前へ訪れていた。

 ここは、少し前にチルノちゃんを通じて意気投合した、吸血鬼のフランちゃんが住んでいる館である。紅魔館と言う名前なだけあって、館全体が沢山のトマトを被せたかのように真っ赤っかだ。ルーミアちゃんが心臓みたいだと言うのも頷ける。

 私たちがこの館へ訪れた理由は、フランちゃんに食事へ招待して貰ったからだ。何でも私たちが初めての友達だったらしくて、是非自慢のメイドさんが作る美味しい料理を食べて欲しいとの事。勿論、私たちは二つ返事で承諾した。前からこの建物の中がどうなっているのか気になっていたし、美味しい料理を食べられると聞けて行かない理由が無い。しかし誤解しないでほしい。私は別に食いしん坊と言う訳じゃない。美味しいものが好きなだけで、決して食い意地が張ってる残念な子と言う訳では無い。食いしん坊は、隣で『お料理お料理なんだろなぁ♪』と鼻歌を歌っているルーミアちゃんの担当だ。うん。

 

 巨大な鉄の檻の様な印象を受ける門の前に到着して、私たちは門番の紅さんへと挨拶する。何時の間に仲が良くなったのか、チルノちゃんが手をあげて元気に挨拶を投げかけながら紅さんの元へ駆け寄った。フランちゃんの時と言い、チルノちゃんは謎の人脈構築技術を持っている。驚くほど顔が広いのだ。

 

「みすずー! こんばんは!」

「おや、いらっしゃいチルノさん。それにルーミアさんと大妖精さんも。チルノさんは相変わらず元気ですねぇ。それと私の名前は『みすず』ではなく『メイリン』です」

「でもみすずって読めるじゃん。ならおっけーね!」

「あはは……まぁ良いでしょう。お嬢様からお話は聞いておりますので、どうぞお入りくださいな」

 

 美鈴さんが、巨大な門をいとも容易く押し開ける。妖精は人間より身体能力が低いから、力持ちな妖怪さんって少し憧れてしまう。何気に三人の中で一番力持ちなのもルーミアちゃんだ。いつものほほんとしているけれど、立派な妖怪さんなのである。

 お邪魔しますと挨拶を交わして、私たちは館へと足を踏み入れた。門ほどではないけれど玄関も大きくて、ノッカーへ手を届かせるのも一苦労だった。二、三回チルノちゃんがぴょんぴょん跳ねて届かない事に気付き、ルーミアちゃんが浮遊してノッカーを鳴らす。三十秒程経つと、パタパタと足音が聞こえてきて、内側から玄関が開かれた。出て来たのは、綺麗な七色の翼に左側に纏められたサイドテールが特徴的な女の子。私たちを招待してくれたフランちゃんのお出迎えだ。

 

「よっすフラン! 遊びに来たわ!」

「いらっしゃい。待ってたわ。ルーミアも大ちゃんも久しぶり」

「お久しぶりです。本日はお招きいただき……」

「そんなに畏まらなくてもいいよー。ルーミアとかチルノと同じくらいフランクで良いわ」

 

 カラカラとフランちゃんは笑う。ちょっと前までは吸血鬼って凄くおっかなくて危険な妖怪なんだと思っていた私だけれど、いざ話してみれば、こんなにも笑顔が素敵な女の子だったので、川下りをするように毒気が抜かれていったのを覚えている。

 

「早く美味しいご飯が食べたいな」

「本当ルーミアは食いしん坊ね。じゃあ早速行きましょ!」

「おー!」

 

 チルノちゃんの掛け声とともに、私たちは館の中へ足を踏み入れる。フランちゃんを先頭に目的地まで歩き続けた。

 歩きながら周囲を観察して思ったのだけれど、このお屋敷は本当に広い。飛んで弾幕ごっこが出来るくらい天井が高くて、横幅もそれに準じている。廊下は一番奥が僅かに見える程長く、ここで暮らしていたら移動だけで疲れないかなぁとさえ思えてくる。何だか外で見た館の外見よりも大きい気がするけれど、錯覚か何かだろうか。

 

「ほい、到着! 中にテーブルがあるから、適当に座って」

 

 フランちゃんがニパニパと笑いながら、数多くある部屋のドアを一つ開けた。中は完全に洋風の内装で、紅を基調とした壁紙や金の刺繍が施された赤絨毯が広がり、部屋の中心に丸いテーブルが鎮座している。椅子が四つ周囲を囲っていて、それぞれの席には予めナイフやフォークなどの食器が置かれていた。

 普段を森で過ごし続けてきているからか、何だか整えられた絢爛な部屋と言うのはとても新鮮に感じる。チルノちゃんは大はしゃぎで部屋の中を駆け回った。

 

「すげーとっても絨毯がふかふかする! あー寝っ転がると気持ちいい……まさにさいきょーの絨毯ね……何だか眠くなってきたかも」

「チルノお休みするの? なら私も……おおー気持ちいいー」

「もう二人とも、今日はお食事会ですよ? ほら、ゴロゴロしないで席について」

「あはは。まぁ、自由に寛いでていいよ。私料理取ってくるから、ここで待っててね」

「あ、手伝いますよ。一人じゃ大変でしょう?」

「いーのいーの。今日の皆はお客様だから、スカーレット家次女として精一杯おもてなししなきゃだもん」

 

 それじゃあね、とフランちゃんは背中の翼をはばたかせて、まるで空気を滑るように外へ出て行った。

 改めて、本当に吸血鬼さんなのかなぁと思わされるくらい、とっても親しみやすい女の子だと思う。私が人里に遊びに行って古本屋さんで本を読んだ時、幻想郷縁起という幻想郷の妖怪の特徴などを記した書物には、吸血鬼さんは非常に強い力を持った種族の妖怪だと書かれていた。何でも一声で大量の悪魔を召還したり、片手で樹齢千年の大木を持ち上げられたり、さらに瞬きをする間に人里を駆け抜ける事が出来、自らを蝙蝠または霧状に分解する事でどこにでも侵入可能で、頭を吹き飛ばされなければどんな傷を負ってもたった一日で回復してしまう……らしい。しかも、悪魔の近縁だからとても凶暴だとも。

 

 そんな知識が私の頭にあったものだから、私は最初、フランちゃんが怖くて仕方がなかった。チルノちゃんと意気投合した彼女が笑顔で挨拶をしてきた時は、実は笑顔で騙して頭からパックリ食べちゃうつもりなんじゃないかとさえ思っていた程だ。

 でもそんな事は全然なくて、彼女は心の底から私たちと親しくしたいだけなんだって直ぐに分かった。だってチルノちゃんが信頼を寄せたのだ。チルノちゃんは、臆病で疑り癖のある私と違って、人を純粋な目でみる能力に長けている。チルノちゃんと仲のいい人たちは皆、例外なく優しくて思いやりのある人たちばかりだ。彼女の目が曇った所なんて、私は今まで一度たりとも見た事が無い。彼女が友達だと言った以上、フランちゃんはとても良い子なんだろうし、事実そうだった。フランちゃんと会えて、私は先入観で人を見るのを止めようと思えたのだ。

 

「お料理お料理なんだろなぁ、はーやくご飯が食べたいなぁ」

 

 椅子に座り、テーブルに顎を乗せて揺れ動きながらルーミアちゃんが歌を歌う。とても単調な歌なのに、どこか引き込まれるのは何故だろう。彼女が持つ純粋な食への愛が溢れているからだろうか、なんて。

 

「楽しみですねー。確か、すっごくお料理が上手な美人のメイドさんが居るんでしたよね。何だか憧れちゃうなぁ」

 

 頭の中に、ほわほわとイメージ像が浮かび上がってくる。笑顔が可憐で、凛々しくて、台所に立つ姿はまさに美しき女性の鑑と言えるような、そんなメイドさん。きっと凄く綺麗な人なんだろうなぁと想像が膨らんでくる。出来るなら今夜会ってみたい。

 

「私、一回だけ会った事あるぞ。寝てるみすずに向かってナイフを投げて叩き起こしてた。凄いナイフ捌きが上手かったんだ。だから料理上手なのよ!」

 

 私のイメージ像に、ナイフを手に美鈴さんへ詰め寄る冷酷な一面が追加された。怒ると怖い人なのかな。で、でも普段怒らない人ほど怖いって事は、いつもはとっても優しい筈。そう自分を納得させる。

 それとチルノちゃん。いい加減ちゃんと美鈴さんの名前を覚えてあげよう?

 

 そんな時。ゆっくりドアが開いたかと思えば、銀色の丸いお盆の様な食器を器用に浮かせながら運んできたフランちゃんが再登場したのである。浮かせているのは魔法の応用だろうか。やっぱり吸血鬼って凄い。

 

「お待たせ。オードブルにスープとパンだよ」

 

 本当はコース順にゆっくり出そうかと思っていたんだけど、お腹空いてるだろうしいいよね。そう言って、フランちゃんはゆっくりと銀に輝く食器を私たちの元へと降下させた。何だか、こんな風に食器が降りてきて蓋が開く光景を見ると、自分が不思議の国に迷い込んでしまった様に思えて、思わず笑みがこぼれてしまう。

 

 半球状のプレートの中には、小さな竹林が広がっていた。

 

 これは、アスパラガスだ。鮮やかな緑色の茎が均等な長さに切り分けられ、それが円を作るように並べられている。中心の空洞部分には、食欲を掻き立てるクリーム色のチーズが流し込まれていた。新緑の縁に黄金のチーズが組み合わさり、皿の上で織り成すその光景は、まさに光る竹で出来た竹林だ。加えて、周囲に散りばめられた色とりどりのスパイス粉が、適度に盛り付けられた葉野菜のサラダが、まるで夏の憧憬を切り取ってここに乗せているかのような臨場感を演出する。

 

 続いて目に映るは野菜スープだ。一体どれ程の野菜の旨みを凝縮してこの一杯を作ったのか、厨房の神秘を感じさせる金色のスープは、さながら砂漠の中のオアシスの様な魅力を放っている。喉が、胃が、全身が。早くこのスープを飲んでくれとしきりに訴えてくるのだ。立ち上る湯気が匂いを伝えるよりも早く、眼にした瞬間から生唾が舌を潤わせた。

 

 控えめに存在を主張しているパンもまた素晴らしい。物語に出てくるパンが酷く美味しそうに見えてしまう現象があるけれど、これはまさにそれだ。きっと、本当に物語からパンを引っ張り出してきているに違いない。

 酵母の魔法が生み出した芸術は、触らなくても分かる程にふっくらとしていて、指で押せば先が柔らかく生地に沈んでいく事だろう。これをスープに浸して口に運んだ暁には、頬が緩み落ちること間違いなしである。

 

「ふわぁ、綺麗ですね……まるで作品の様です」

「凄い美味そう! あたいこんな料理見たことないぞ!」

「ねーねーねー、は、はやく頂きますしよう? 待ちきれないよ!」

 

 キラキラと目を輝かせながらチルノちゃんが燥ぎ、ルーミアちゃんはもう今にも皿へ飛び掛からん勢いでフランちゃんへ催促した。その様子を、本当に嬉しそうにフランちゃんは眺めている。

 

「うんそうだね、食べよっか。それじゃあ、お友達記念と言う事で、今夜はパーッといきましょ!」

 

 いただきまーす、と合掌に加えて食材への感謝を込め、私たちはお皿の上の料理を堪能する作業に取り掛かった。

 まず先手をとったのは、意外にもチルノちゃんだった。フォークをアスパラガスの竹に突き刺して、そのまま口に運んでいく。何度か咀嚼を繰り返して、途端にカッと眼を見開いた。

 

「お、おーいしぃーっ! 凄いぞこれ! なんか、こう、何て言うのかなぁ! アスパラがシャキッとしたと思ったら、間髪入れずに中からアツアツのチーズが溢れてくるんだ! あたい、熱い食べ物って苦手なんだけどさ、これはその熱さが全然気にならない。アツアツじゃなきゃ生み出せないトロリとした状態を保ちつつ、控えめな温度を絶妙に保っているのよ。だから噛めば噛むほど、舌にチーズがアスパラガスと一緒に寄り添ってくるんだわ! まるであたいとアスパラガスをチーズが引き合わせてくれているみたい!」 

 

 それに対して、ルーミアちゃんがぶんぶんと激しく首を振り、キラキラとした眼で賛同の意を表す。見ると皿の上がもう空になっていた。それなりの量があった筈なのだけれど、よっぽどお腹が空いていたんだろう。

 私もアスパラ料理を堪能して、次にスープへ取りかかる。

 スプーンで掬った透明感溢れる黄金の雫を、一口。

 途端に、まるでそれが一連のマナーであるかの如く、温かい息が自然と漏れ出した。

 

 見た目は静かな湖を思わせる大人しい姿なのに、口に含んだ途端野菜の旨みが暴れ狂うのだ。しかしそれは決して不快なものではなく、むしろ甘受すべきものだと本能的に思えた。この味のインパクトを例えるならばまさに、野菜が繰り広げる弾幕ごっこだろう。互いが互いを主張しあい、しかし相手を食い潰すことなく、各々の美しさを存分に発揮している絶景の招来。

 スープが通り過ぎた喉が喜び、全身が歓声を上げた。その反動が熱い吐息となって漏れ出していく。体が熱い。けれどそれは、疑うでもなく夏の蒸し暑さではない筈だ。

 

 パンを千切り、吸い寄せられるように黄金色の湖へと浸す。瞬時に生地へ汁が吸い込まれて、しっとりとした香り立つスポンジへと姿を変えた。

 はむ、と唇でそれを歓迎する。これがまた何とも心地よかった。水分を多く含んだ部分は潤沢な感触を舌に伝えつつ味のプレゼントを味蕾に届け、水分の少ないふわふわとした部分が歯を出迎え楽しませる。黄金調和と言っても過言ではない食感と味覚の二重奏は、目尻が下がっても致し方のない事だろう。

 

「すっごく美味しいなぁ……これを作ったメイドさんに是非会ってみたいですね」

「あ……えっと、これを作ったの咲夜――――うちのメイドさんじゃないんだ。私のおじさまなの」

「おじ様、ですか?」

「うん。義理だけど、私の自慢のお父様。運悪く咲夜が体壊しちゃって、代打におじさまが料理を作ってくれたんだ」

 

 そう言って、彼女は笑った。それはまるで、自分の大切な宝物を褒められて喜んでいるように見えて、なんだかとても微笑ましくて。

 そんな幸せそうな表情を見ていたら、フランちゃんが自慢に思うおじさまと言う人に会いたくなってしまった。

 

「あたい、そのおじさまに会ってみたいぞ!」

「私も会いたいな」

 

 二人とも同じ考えに辿り着いたのか、フォークを握りしめた手で万歳しながら賛同を表現する。フランちゃんは困ったように頬を掻いた。

 

「う、うーん。会うのは良いんだけど……その、おじさまって色々と凄い人でね、慣れてないと怖いと思う」

「怖い人なの?」

「ううん、凄く優しいよ。だけど雰囲気がちょっとね」

 

 つまり、フランちゃんが言いたいのは見た目が怖いから私たちが怯えるんじゃないかって事なんだろう。例えば、凄く強面で仏頂面なおじさんだとか。でも、こうしてお食事も作ってくれてフランちゃんが優しいと言う人なのだから、見た目に反して本当に心優しい人なのだろう。

 それだけだったら別に、私たちは気にしない。私はフランちゃんと会ってから、先入観でだけで人を見ないと決めたのだ。それは他の二人も同じだった。

 

「あたいは別に怖いとか気にしないぞっ。なんて言ったって、あたいはさいきょーだからな!」

「私も大丈夫ですよ。見た目で判断なんてしませんから」

「大ちゃんにおなじーく」

「う、うん分かった。じゃあ、メインディッシュを持ってくるついでに呼んで来るね」

 

 そう言って、彼女は嬉しさ半分不安半分と言った表情を浮かべつつ、空になったお皿とお盆を魔法で浮かせて部屋を後にした。

 残された私たちは、まだ見ぬ『おじさま』の姿を想像しつつ、どんな人柄なのかを話し合う。

 

「フランちゃん、見た目が怖いって言ってたけれど、おじさまってどんな人なんでしょうね」

「怖いと言うよりカッコイイかもしれないぞ。こう、歴戦の勇者みたいな」

「ムキムキおじさまー?」

 

 手を水平に広げてニコニコ笑うルーミアちゃんに釣られて、思わず笑ってしまう。うん、ありそうだ。強面と言うより凄く体の大きい人なのかもしれない。だから雰囲気が怖いって言ったのかも。私たちは皆背が低くて小さいから、威圧的に見えるとの事だったのかな。

 おじさまの姿談議に花を咲かせていると、木製のドアを軽く叩く音が聞こえた。続いてフランちゃんが、さっきと同じくお盆を周囲に浮遊させながら入場してくる。

 

「お待たせ、メインディッシュだよ」

 

 わあー、と歓声が上がる。テンションが上がった私たちは、拍手で彼女を出迎えた。フランちゃんは照れくさそうに頬を掻きながら、照れを吹き飛ばすように咳払いをして背後のドアへと手を向ける。

 

「そしてこちらが、お料理を作ってくれた臨時のコックさんで、私の義理の父。ナハトおじ様よ」

 

 どんな人なんだろう、とドキドキしながら部屋の入口へと眼を向ける。妖精に親と言う者は存在せず、さらに妖怪でも親と共に暮らしている者は非常に少ない。だからだろうか。吸血鬼と言う特色も相まって、何だかとても新鮮に感じるのだ。

 そして。

 コツン、と言う革靴が床と接する音と共に、件のおじさまが入場し――――、

 

 …………………………………………、

 

 あれ?

 何だろう。

 私は幻を見ているのだろうか。

 私の頭の中には、強面で髭の生えた筋骨隆々な男性で、けれど柔らかい笑顔を浮かべていそうな、不器用な優しさを湛えているイメージ像が作られていた。優しいけれど見た目が怖いと言われれば、自然とその様な想像図しか頭に出てこなかったのだ。

 

 だがそのイメージ図が、ほんの一部分しか合っていない。

 

 服装は、本に載せられていた外の世界の『コックさん』に該当する格好だと思う。白地のコートに円柱状の長い帽子。知っている人が見れば、直ぐに料理へ携わる人だと言う事が理解できる。

 けれど彼は、料理は料理でも子供を捕まえて鍋で煮込む様な料理をしそうな人だった。

 全身からビリビリと大妖怪の怒気に似た威圧感を放ち、見る者を引き寄せる、どこまでも冷たい魅惑の微笑みを浮かべる彼は、まさに悪魔の長そのものである。

 こんなの知らない。と言うより、私たちを見下ろすくらい大きくて風見幽香さんみたいなコックさんなんて、私の知ってるコックさんじゃない……!?

 

 ふと脳裏に蘇る、幻想郷縁起の一説。

 岩を容易く砕くパワーに、天狗を上回るスピード。圧倒的な力を持ち、一声で大量の使い魔を呼び出して戦争を起こせるほどの絶対強者。

 フランちゃんの朗らかなイメージとは180度異なる、正真正銘本物の悪魔と言える印象を受ける男性だった。

 私は何かの見間違いをしているのかと思ったが、視線を横にやればルーミアちゃんが死んだ魚の様な眼をして虚空を見つめていた。どうやら彼女にも同じく、眼を向けるだけで体の芯から震えが止まらなくなる男の人がはっきりと見えている様だ。

 

 彼は長い帽子をとり、灰色の癖毛を露わにした。見つめていると魂が吸い取られそうになる紫の瞳を私たちへ向けながら、湖の水面を走る波紋の様に穏やかな口調で告げる。

 

「紹介に預かったナハトと言う者だ。今日はフランドールの我儘を聞いてくれてありがとう。君たちを心から歓迎しよう。思う存分堪能していってくれ」

 

 優しく、甘く。擦り寄るような声色に、恐怖が柔らかく溶けていく。

 ど、どうしよう。何か言わなきゃ。返事を言わなきゃとても失礼な対応になってしまう。私たちが無理を言ってわざわざ来てもらったのに、怖くて口が開けませんだなんて、あまりにもあんまりだ。それに何より、おじさまに失礼を働いて友達のフランちゃんを傷つけるような真似はしたくない。

 それでも現実とは無情なもので、私の舌も唇も、何もかもが仕事を放棄してしまっていた。

 しかし、絶体絶命の壁を打ち砕くべく、私たちのヒーローが立ち上がる。

 チルノちゃんが、まるでナハトさんの威圧を全くものともしていないかのように、元気な声を上げた。

 

「お料理作ってくれてありがとう! とっても美味しかったわ、内藤のおっちゃん!」

 

 ヒーローなんて居なかった。チルノちゃんはいつもと変わりなく、しかし変わらないからこそ特大の爆弾を投げ込んでくれた。

 内藤さんじゃないよ!? ナハトさんだよ!? そう突っ込みたいけど口が動かない。でも、突拍子もない発言のお蔭で威圧感の束縛からほんの少し脱出する事に成功する。後は自分の意識を引き摺り上げるように、太ももを抓って体の主導権を取り戻した。

 

「チルノちゃん! 内藤さんじゃなくてナハトさんです! す、すみません。チルノちゃん、人の名前を覚えるのが苦手で、悪気はないんです!」

「ごめんなさぁーい」

「ん? ああいや、大丈夫だ。フフ、名前を間違えられるとは、中々珍しい経験をさせて貰ったよ。別にその位で気に障ることは無い。むしろ微笑ましいと思っているくらいだ。だからそんなに戦々恐々としなくても大丈夫さ」

 

 何とか許してもらえたみたいだ。心の広いお方で良かった。怒りを買って頭から食べられちゃうかと思っていたので、ほっと内心胸を撫で下ろす。

 彼はニコニコと微笑みながら、さて、とお盆の方へ手を向けた。食べなさい、と暗に言っているのだろうか。

 

「君たちの中にお肉が好きな子がいると聞いていたからね、メインは肉料理にさせて貰ったよ。折角だから、感想を聞かせて貰えると嬉しい」

 

 促され、緊張の渦が巻く中、半球状の蓋を取る。

 意外な事に、今度は洋風料理ではなく和風仕上がりの料理となっていた。

 さっと火を通して出来上がったお肉を、惜しみなく贅沢に切り分けられている。赤くてらてらとした光沢をもつ断面が、緊張で食べ物を拒絶したお腹を再び呼び起こす。

 傍に備え付けられた調味料は三種類だ。お肉の友達とも言える粉雪の様なお塩に、滑らかな黒を湛えるあっさりテイストのわさび醤油。最後は、醤油に摩り下ろしたにんにくとタマネギを和えた濃厚和風ソースだ。

 どうしよう。こんなの、絶対に美味しいに決まっている。どの調味料にお肉を浸して食べるのか、想像しただけで胸が高鳴る。いやしかし決して誤解しないでほしいのが、私はルーミアちゃんと違って普段から食いしん坊な子じゃない。妖精なのに最近重くなった事実なんて絶対にない。悪いのはこのお肉なのだ。ピンクに近い赤みの中に、舌の上で蕩けそうな脂身がバランスよく配合されているこのお肉がいけないのだ。

 

 意を決して、お肉料理と一緒に付いて来た箸を手に、一切れ摘まんでまずはお塩を着ける。そのままパクリと行った。

 さっと表面だけ焼いたお肉を切り分けると言うシンプルな調理法だけれど、だからこそ素材の旨みが存分に発揮されるものだ。それを塩という調味料の中で最も簡単な装飾のみを施したこの味わいは、まさにシンプルイズベストと言う他ない。柔らかな肉の食感に、どこかさらりとした断面の舌触り。噛めば噛むほど脂の旨みが出てきて、それをお塩が引き立ててくれる。

 あつあつの白米と一緒に掻き込んでしまいたい衝動が胸の中に燻り始め、それが山火事の如く広がっていった。

 

 ことり、とテーブルの上にお茶碗が置かれた。

 お茶碗の中には、炊き立てツヤツヤのお米が君臨していて。

 見上げれば、太陽の畑の妖怪さんよりも恐ろしい空気を放つナハトさんが、食欲の悪魔の化身とでも言わんばかりに、私に誘惑の言葉を囁いた。

 

「一緒に食べてみなさい」

 

 ――――そんな事を言われて、止められる訳が無かった。

 ほかほかのお米と、今度はわさび醤油に付けたお肉を一緒に口の中に放り込む。

 爆ぜた。

 そう形容せざるを得なかった。

 ああ、ああ、ああ! 食事に対する幸せの念がこれでもかと溢れ出てくる。これは、最早言葉で語れるものではなかった。お米とお肉と醤油とわさび。たったそれだけの要素しかない筈なのに、どうして噛むのを止められないんだろう。加えて、もう一度この組み合わせで食べてみたいと言う強い欲求が泉の如く湧いてくる。

 止まらない。箸が止まらない。それは、私だけでなくルーミアちゃんもチルノちゃんも同じだった。

 

「ふおおおおお―――っ!! 内藤のおっちゃん、これ本当に普通のお米とお肉なの? 凄いわっ! 脂とお米とお肉とソースが一緒に踊ってるみたい! ううん、ご飯が進む! 進めなきゃいけないって思っちゃう! 沢山食べてるはずなのにどんどんお腹が空いてくるわ……これぞまさにさいきょーの黄金調和って奴なのね! 」

 

 感情のまま、喜びのまま、チルノちゃんが思いを口にしていく。物覚えがあまり得意じゃない筈なのに、有頂天になるとこんなに比喩を繰り出してくるのは何故だろう。

 一方ルーミアちゃんは、頬を紅潮させてとろんとした表情を浮かべていた。幸せの絶頂に浸っている……そう思わせる至福の顔に満ち溢れている。

 

「お肉美味しいぃ……しあわしぇ……まるで最後の晩さ――――」

「な、ナハトさんこれすっごく美味しいです!! 何かやっぱり、く、工夫とかしているのでしょうか!?」

 

 ルーミアちゃん、分かるよ。言いたいことはすっっごく分かるよ。本当に本当に美味しいんだからそう言うのも無理ないよ。でもね、今だけはその例えを出しちゃダメ!! それはフラグ発言ってやつなんだよ!? 

 

「工夫か。まぁ、少しだけね。急ごしらえだったので、肉に氷魔法とほんの少しの魔力を与えたんだ。調節すれば、普通に熟成するよりも品質の高い熟成肉を完成させられるのさ。紅魔館オリジナルミート、と言うべきかね」

「へぇ~内藤のおっちゃんって魔法使いだったのね!」

「チルノちゃん、だから、ナハトさんだって…………」

「そんなに焦らなくていいさ。気にしなくて大丈夫だ。しかし、一つだけ訂正する所がある。……本当はこの料理、私が全て作ったわけではないのだよ」

 

 えっ、と思わず口から声が漏れ出した。

 確か料理上手なメイドさんが体調不良になって、その代わりにナハトさんが作る事になったと聞いていたのだけれど。

 では、他に誰か料理上手な人が……。

 そう疑問を膨らませていた時に、今まで黙っていたフランちゃんが、わたわたと慌てている様子が視界の端に映り込んだ。

 

「私がやったのは、材料の品質向上と補佐、後は指示だけだった。前菜もパンもスープも肉料理のソースも、全てフランが作ったものなのだよ」

「ちょっ、おじさまっ、それは恥ずかしいから内緒にしてって……!」

「何を恥ずかしがる必要があるのかね。それに、君が心の底から彼女たちをもてなそうと頑張った努力を、私のものにする訳にはいかないだろうに」

 

 ぽんぽん、とフランちゃんの頭を優しく叩いた彼は、私たちへ再び笑いかけた。その顔は、まさに娘を想う父親のそれに違いなくて。

 

「この子は吸血鬼で、しかもあまり外の事情を知らない。さらについ最近、やっと外に出られるようになったばかりでね。色々と迷惑をかける事があるかもしれない。しかし彼女はこの通り優しい子だ。どれだけ強い力を持とうとも、決して友達を傷つけるような子ではないよ。だからどうか、これからも怖がったりせずに、フランと仲良くして欲しいんだ」

 

 真っ赤になって俯いちゃったフランちゃんを見て、私たちは顔を合わせて微笑んだ。答えなんて、考えるまでも無い。私たちは最初っから、そのつもりでいるのだから。

 

「なんだ、そんな事なら全然オッケーよ!」

「こちらこそ、よろしくお願いしますね」

「今度一緒にご飯探しに行こうなー」

 

 フランちゃんは真っ赤っかなままだけど、花が咲くように笑顔を浮かべた。それが、同性の筈なのにどうしようもなく可愛く思えてしまう。

 そこで私は、彼女が最初何を不安がっていたのか、理由が分かった気がした。

 最初にフランちゃんがナハトさんの紹介を渋ったのは、怖がられて関係が壊れちゃうと思ったからなんだろう。確かにフランちゃんの言う通り、ナハトさんは怖い。多分二人きりにされると気絶しちゃうと思う。でもそれとこれとは話が別だ。フランちゃんが勇気を出して紹介してくれたのだから、今度は私たちが勇気を出して迎えるべきだ。いや、勇気なんて必要ない。そんなもの無くたって、友達である事には変わりない。

 

「……さて、いつまでも私が居ては気まずいだろう。ここにおかわり用のワゴンを置いておくから、好きなだけ食べなさい」

 

 指を弾き、ナハトさんは沢山の料理が乗ったワゴンをどこからか呼び出した。テレポートに近い魔法だろうか。

 そして彼は、静かに部屋を後にする。残されたフランちゃんを、私たちは笑顔で迎えた。

 真っ赤っかになっている彼女を手で招いて、もう一度食事を再開する。

 今度はワゴンにあったお酒を貰って、私たちはそれぞれグラスを持った。

 お酒を注ぎ、準備を整える。次に掛ける言葉といえば、これ以外に不要だろう。

 

 新しい友達が出来た事を祝して。

 

「かんぱい!」

 

 

 

「お料理凄かったですねー。ほっぺたが落ちちゃうかと思いました」

「本当美味しかった! にしてもフランってあんなに料理が上手かったんだなー。ねぇ、今度何か作って貰おうよ!」

「食べても良い人類でミートパイ作る?」

「うーん、あたいは人間食べられないからちょっと……」

「そうなのか……残念だなぁ」

「じ、じゃあ皆でお菓子作りましょう? それだったら皆好きだと思うから」

「おお、さっすが大ちゃん頭良い!」

「頭脳明晰なのだ」

「あはは……そう言えばチルノちゃん、ナハトさんが全然怖そうじゃなかったけれど、大丈夫だったの?」

「ん? いや、怖かったわよ。あたいを震えさせるなんて、やっぱり内藤のおっちゃんはただものじゃないわ! ……でも」

「でも?」

「大ちゃんとルーミアが、内藤のおっちゃん見た時に怯えてたじゃん? その時、おっちゃんが寂しそうな顔してたから、もしかしたら何時も怖がられてるのかなって。だから、あたいだけでも怖がらない様にしようって思ったんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 ―――――この言葉が、魔性によって歪められた認識を抱える彼の真髄に、限りなく近い答えだと言う事を、氷精は知る由もない。

 




料理を想像しながら書いたらセルフ飯テロになってとても苦しかったです(血涙)


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第二章「終らぬ夜に明けの日差しを」
7.「そして彼はいなくなった」


 今回、第二章の導入に当たる話なので、視点がめまぐるしく変動します。
 ちょっと分かり辛い話かもしれません(汗)




 ―――――――永夜異変・三日前

 

 

 真夜中の図書館にて。いつものように紅茶を飲みながらゆったりと本を読んでいた私は、同席しているレミリアに向かって徐に呟いた。

 

「少し散歩に行って来ても良いかね」

「そう言えばおじ様、以前お話になっていたオリジナルティーの事なのですが……」

 

 ――――外出許可を得ようとレミリアに尋ね続けること、早二週間弱。この様にはぐらかされるか話題をすり替えられるかで、今の今まで私は紅魔館から出る事が出来ずにいた。

 紫に出会い、彼女の反応を見て幻想郷では友達が出来る可能性が非常に高いと考えた私は、一刻も早く外へ出て様々な人妖達と交流を育みたい気持ちでいっぱいになっている。しかし今私を取り囲んでいる現実は、誰かと遭遇するどころか紅魔館から先の世界を知ることは許されないと言わんばかりの有様である。何だかここまでくるとお預けを食らっている気分になってしまうのだが、致し方のない事ではないだろうか。

 

 まぁ、彼女たちが何故私を頑なに外へ出そうとしないのかは分かる。そこまで鈍感であるつもりはない。言うまでも無く、私の魔性が及ぼす影響を危惧しての事なのだろう。

 レミリアは私が紅魔館に住んでいた時の、私に対する周囲からの評価をよく知っている。全くもって遺憾極まりないが、私は当時の吸血鬼達からは恐怖の大王の如く扱われていた。廊下を歩けば道を譲られるどころか例外なく膝を突かれ、さらには一度も頼んだ覚えが無いのに背後に側近が付いてくる始末。一応弁解しておくが、私は何もしていない。力で同胞達を制圧した訳でも、攻めて来た妖怪を単体で一掃した訳でも、吸血鬼狩りの軍団を虐殺した訳でも無い。ただ毎日通りすがる皆に挨拶をして歩いていただけである。それなのにいつの間にか魔王になっていると来た。当時の私は遠い目をしていた時が多かった気がする。唯一、まともに対応してくれた義娘二人がいなければどうなっていた事だろうか。多分ずっと不貞寝していたに違いない。

 

 話を軌道修正しよう。魔性の影響が幻想郷の住民たちを刺激し、何らかのアクシデントを生み出す事を恐れて私を外に出したくないと言う意見は至極真っ当な考えではあるのだが、それで納得できるかと言われれば、答えはノーである。この希望の地で私は必ず友達を作るのだ。そして何気ない日常を友と共に穏やかに過ごしていくと言う夢がある。

 

「レミリア。君は私から話題を逸らす時、あからさまに敬語になる癖があると気づいているかね」

「うっ……」

「そうはぐらかさなくても、君の言いたいことはよく分かっているつもりだ。私の力が及ぼす影響がどれだけの規模となるのか、想像がつかなくて怖いのだろう? 安心しなさい、大丈夫だ。前にも言ったように、紫は私と対等に接する事が出来たのだ。彼女だけが普通に接する事が出来る、なんてことはあるまい」

「……おじ様は自分の持つカリスマ性がどれだけ凄まじいのか分かっていないのよ。それに、八雲紫がどれだけインチキな存在なのかもまるで理解していないわ。本当に八雲紫と対等に渡り合えたのか、ある意味信じられない位なんだから」

 

 紫とはそんなに恐れられている妖怪なのだろうか。私から見れば、幻想郷のルールをわざわざ教えに来てくれた親切な妖怪さんのイメージしかないのだが。

 しかし、レミリアよ。そのカリスマ性云々は誤解だと何度も言っているのに……。魔性が声や仕草にも反映されるから、他者からはそう感じるのかもしれないが、私は友達が欲しいだけの吸血鬼である。カリスマどころか友達一人もまともに作れないのに、他者の心を惹き付ける代名詞を与えられるとは如何なものか。こうして普通に話が出来る家族を得た事すら、私にとっては奇跡に等しいと言うのに。

 まぁ、長く生きたが故に少しばかり特異なのは流石に自覚しているが、それでも心は寂しがり屋の吸血鬼だ。そこだけは譲らない。

 

「……ねぇ、ナハト」

 

 今までじっと本を読み続けていたパチュリーが、徐に口を開いた。彼女は読書をする時にしばしば掛けている眼鏡の位置を正しながら、私へ視線を向ける。

 

「あなたの言う、魔性? は無くすことが出来なくても、軽減する事は出来ないのかしら」

「……ふむ」

 

 今まで色々な手段を使ってこの疎ましい能力を克服しようと試してきたが、めぼしい効果は得られなかった。出来たとしてもその場凌ぎである。魔法道具の類を使って抑え込んでも、道具がキャパシティの限界を迎えて短時間の内に破壊されてしまうのだ。しかもその反動なのか、抑えられていた分の瘴気が一斉に放たれてしまうと言う最悪のデメリットがある。昔道具を駆使して魔性を抑え、とある人間の町に足を踏み入れたことがあったが、途中道具の効果が瘴気に破壊されて、閉じ込められていた瘴気が一気に蔓延したことがある。災害が起こったわけでも何でもないのに、その町は民が逃げ惑い泡を吹いて倒れる阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。以来、無暗に押さえつける方針は取っていない。ただでさえ大きな爆弾を更に強化する様な真似になるからだ。

 

「軽減する方法は難しくてね。出来ることは出来るが、デメリットが大きいんだ。さらにこの力は制御が効かないものだから、私の意思ではどうしようもないと来ている」

「じゃあ、中和はどう?」

 

 中和? つまり魔性の瘴気を反対の属性をもって打ち消そうと言う手段はどうなのかと聞いているのか。

 それも一応、試す事はしたのだが……これもボツだ。魔性はどうやら禍の性質を兼ねているらしく、ある程度強力な浄化の力を持つ聖遺物などを用いて相殺することは出来る。出来るのだが、魔性を永続的に中和できる代物を今までに見た事が無い。必ず耐え切れなくなって壊れてしまう。聖遺物を塩基に、魔性を酸に例えると、私が身に着けた聖遺物には酸が絶えず流し込まれている状態になる。当然、何時かは性質が逆転してしまうのは自明の理だ。

 

「それも難しい。半永久的に祝福を受けた聖遺物でもないと、完全な中和は恐らく不可能だろう」

「……あまりに規格外で出鱈目な話だけど、納得してしまってる自分が怖くなるわ」

 

 はぁ、とパチュリーはうんざりしたように溜息を吐いた。私も溜息を吐きたいが、幸せが逃げてしまうので口を閉じる。日頃の行いは大切である。

 彼女は本を静かに閉じると、眼鏡を取って真剣な表情を私へと向けた。

 

「ナハト。少しだけ試してみたい事があるのだけれど、協力してくれる?」

「別に構わないが」

「ありがとう。……あの夜、フランに取り憑いたスカーレット卿とあなたが戦った時の事なのだけれど」

 

 一瞬、レミリアが明確に顔を顰めたが、私はそれを手で制した。あの話は紅魔館にとってタブー染みた暗黙の了解に包まれているが、パチュリーが何の意味も無くこの話題を引き出してくるわけがない。何か考えがあるのだろう。

 

「あの時、あなたは自分から漏れ出した瘴気の影響から私たちを守るために、グラムから放たれる高濃度の魔力を使って瘴気を相殺していたわよね?」

「正確には相互に妨害作用を起こさせて、度が過ぎた影響が出ないようにしていたのだ。毒を以て毒を制すると言ったところかね」

「それよ。軽減が出来ないのなら、別の効果で上書きしてしまえば良いのよ」

 

 ……成程。瘴気の影響を打ち消すのではなく、別の力で誤魔化すと言う事か。それは考えた事が無かった。私はずっと魔性の悪影響を取り除く事しか頭に無かったものだから、これは思いがけない盲点だ。あの手段は魔力による圧が生まれるため、魔性とはまた違った影響が出ると考えて無意識に選択肢から除外していた。思えばその方法を試した事が無かったな。

 この方法なら、魔力による圧迫感は新たに生まれるだろうが魔性の力は最小限に抑えられる筈だ。まともに会話が成立する機会がぐっと上がるかもしれない。

やはり他者と思考を交換できるのは素晴らしい。自分では見えない部分を発掘してくれる。これぞ会話の醍醐味というものだろう。

 

「今まで試そうと思わなかったが、改めて考えると良い案だね。少し試してみようかな」

「そう言ってくれて助かったわ。これが無駄にならずに済んで良かった」

 

 そう言って、パチュリーは懐から何かを取り出した。

 それは、灰色の金属質の基盤と中央部分に装飾された大きな卵形の赤い石が特徴的な、実にシンプルなデザインの腕輪だった。

 これはなに? と私より先にレミリアが問う。

 

「一種の魔力増幅装置よ。中心の魔晶石には、魔力を内側で増幅させて放出する性質がある。腕に装着して魔力を流し続ければ、魔力が枯渇しない限り妨害作用を発動できるんじゃないかしら」

 

 着けてみてと言われ、私は腕輪を装着し、手始めに少量の魔力を石に流し込む。すると、パチュリーの言う通り一際強くなった魔力が放出され、私の体表を覆うように展開されたのが分かった。魔力は余程高密度かつ一点に凝固させなければ目に見えないので、傍目から見ても変化は無いかもしれない。

 

「具合はどうかな?」

「うーん……以前と比べて随分慣れてしまっている私たちじゃあ、おじ様の変化をいまいち掴めないわね」

 

 レミリアが難しそうな表情で言った。それはつまり、腕輪が全く意味を成していないと言う事なのだろうか。だとしたら、効果の程を期待していただけにかなりショックなのだが。

 すると、パチュリーが静かに手を叩いた。乾いた音が広大な図書館へ響き渡る。応じて、バタバタと慌ただしく小悪魔が本棚の森から姿を現した。

 

「お呼びでしょうか、パチュリー様」

「ええ。一つ質問があるのだけれど、あなた確かナハトが未だに心底怖いのよね?」

「ぴぃっ!? あああああのパチュリー様そんな誤解を招くような言い方は止めてください私は生来臆病なのでお力の強いナハト様を前にすると妙に緊張しちゃうだけでべべ別に恐ろしいと思っている訳じゃなくてですねあのあの誤解しないでくださいナハト様私は別にナハト様を怪物の様に思っている訳では無くていやあの今のは言葉の綾と言いますか本当にそんな事は思ってないんですああああごめんなさいぃ――――っ!!」

 

 パチュリーの一言が引き金となり、錯乱を起こしてわんわんと泣き出してしまう小悪魔。私は何もしていない潔白の身である筈なのだが、こんなにも罪悪感が胸を突き刺してくるのは何故だろう。何だか無性にベッドの上で膝を抱えたくなる衝動に駆られた。

 

「落ち着きなさい。配慮が足りなかったのは謝るわ。ただ、あなたに少し訊ねたい事があるのよ」

「グスッ……はい、何でしょう」

「あなたは今、ナハトを見て寒気が止まらなかったり、無性に逃げ出したくなったりしない?」

 

 ズバズバと率直に物を言う性格故、パチュリーに悪意は全く無い事は分かっているのだが、改めて私の影響下に置かれた者の心情を他者から聞くと泣きたくなってくる。

 小悪魔がチラチラと、様子を伺うように目線を向けて来た。怖い上司さんを前に意見を言えない子の気持ちなのだろうか。兎に角助け舟を出さねばなるまい。

 

「小悪魔、君の意見はむしろ私の助けになるんだ。気に病む必要は無いのだよ。だから、正直に意見を言ってくれると嬉しい」

「うぅ……分かりました。えっと、正直に申し上げますと、ちょっぴり、ほんのちょっぴりだけ怖いですが……何時もより威圧感が感じられない気がします」

 

 小悪魔の弁明から、私たちは腕輪に効果があったのだと確信した。

 どうも100%阻害する事は出来ない様だが、それでも軽減させる効果はあったらしい。パチュリーの仮説は正しかったと言う訳だ。

 頑張って意見を述べてくれた小悪魔に礼を言い、このままでは心臓に悪いだろうから下がって貰った。いずれは彼女とも何気なく会話ができる日が来ればいいのだが。

 さて、それでは本題に戻るとしようか。とは言っても、最早結果は見えたようなものだけれど。

 

「さて、レミリアよ。改めて効果が証明された事だから、少し外出をしてきても問題ないかね?」

 

 この日初めて、私は紅魔館の外へと足を踏み出せる切符を手に入れた。

 

 ◆

 

「……パチェ。これからどうなると思う?」

 

 ナハトが図書館から退出した後、我が親友が憂鬱そうな表情を浮かべながら話を振って来た。考えるまでも無いが、ナハトが外へ出た結果生じる影響の事だろう。

 

「さぁ。意外となるようになるんじゃないかしら。それこそ、あなたの得意な運命操作を応用してナハトの近い将来を見てみればいいのに」

「見たわ。だから不安なの」

 

 なに? と私は活字の海からレミィへ視線を移した。

 彼女は『運命を操る程度の能力』と言う仰々しい能力を持っているが、言ってしまえば軽い未来予知と、ほんの少し手を加えて運命にバタフライエフェクトを生じさせる能力らしい。

 運命とは、あらゆる因果が絡みついた末に生じる道筋である。計算で言えば途中式と言ったところか。1と1を足せば無論2になるが、そこでさらに1を3回足せば5になる。レミィの能力は、この途中式に少しだけ手を加えて自分の望んだ数値に近いものに書き換える力なのだ。それは、レミィと関係が近くエフェクトを操作しやすければしやすい程強い効果を発揮する。逆を言えば、自分の力が及ばない範囲では効果が無い。

 しかし応用すると、自らを含めた対象者と言う名の計算式からどの様な答えが生じるのかを見る事が出来、また制限付きだがある程度の操作も可能となる。なんだか小難しい講釈をしてしまったが、要は自分の意思で結果を少し弄れる占いの力だと思って良い。それも、軽い未来予知と言う点に限ればどんな占いよりも的確に将来を当ててみせる程の。

 

 そんな彼女が、不安だと言ってのけた。つまり自分の力に自信が持てていないのだ。正確無比である筈の未来予知が。

 

「もともと、他人の運命は断片的にしか見えないと言うのもあるんだけど……今回ばかりは、ちょっと訳が分からないのよ」

「……一体何を見たの?」

 

 レミィは眉間に皺をよせて、紅茶を含んで唇を湿らせる。先ほどナハトと随分話し込んでいたせいで、紅茶はすっかり温くなってしまっている様だ。

 

「満月の中に訪れる、津波の如き凄まじい光と二つの大きな力。一面を覆い尽くす業火に、それを呑みこむ暗黒の闇。最後に見えたのは……矢だったわ」

 

 訳が分かんないわ、と彼女は呟いた。全くもってその通りだ。まるで訳が分からない。

 未来予知と言う事はつまり、今彼女が述べたこと全てが近い将来に起きる出来事であると意味している。何をどう過ごしたら、光の波やら業火やら暗黒やらと遭遇する様な未来に辿り着くと言うのだ。本当にそんな未来があるとしたら最早戦争の域である。

 

 …………いや、そんな筈はない。思い付きで例えたけれど、戦争なんてそんな馬鹿な事がある筈はない。彼は散歩に行っただけだ。散歩に行って争いが起こるなんて阿呆みたいなことがある訳がない。

 

 と、そこで一つ、彼についての疑問が浮上してきた。

 そう言えば、彼は何故今になって幻想郷にやって来たのだろうか。

 彼は紅魔館をふらりと出て行ってから実に400年近くも姿を消し、たった一人で人外には住み辛くなった外の世界を生き延びて、またもふらりと舞い戻って来ている。帰省の為と言ってしまえば簡単だが、あの底が全く見えない深淵そのものの様な男が、何の理由も無く幻想郷へやって来るだろうか? 

 彼は思う所があってこの館へ帰って来たと言っていた。つまり、外で忘却され自然に幻想入りを果たした訳では無い。意図的に入り込んだのだ。博麗大結界を突破したことに対しては別に驚きはしないが、私が疑問を抱かざるを得ないのは彼が幻想入りを決行すると決意した理由である。

 

 何故彼は、この幻想郷へ足を踏み入れたのだ? 

 頑なに幻想郷へ出歩きたいと訴え続けて来た理由は何だ?

 彼の運命の先にある異常な光景を、レミィが目撃したその意味は――――

 

 そこまで考えて、私は頭を振った。いけない。不味い方向に思考が傾こうとしていた。彼は紅魔館をあるべき姿へ戻してくれた恩人だ。例え何かを企んでいたとしても、それが有害な事であるとは限らない。スカーレット姉妹の為にあそこまで怒り狂えるほど親愛を持つ彼が、彼女たちに危害を加えるような真似をする訳が無い。

 

 けれど同時に、一つの確信を覚えた。

 確実に、近い将来何かが起こる。

 これは最早確定事項だ。彼を中心としてか、また彼が関わる出来事で、近いうちに予想だにしない大きな出来事が発生するのは間違いないだろう。それがどれ程の規模なのかは想像する由もないが、兎に角何かが起こる。私はレミィを筆頭とした紅魔館の古株と比べて彼をよく知らないが、彼の影響力を舐めて捉えない方が良いと言う事だけは明確に理解している。

 

 対策を練る必要があるか。彼が何を思って幻想郷へ入り込んだのかは分からないし、問い詰めようとも思わないけれど、万が一に備えて準備を進めておかねばなるまい。

 この館の住人は、どの様な形であれほぼ全員が彼の事を信頼している。ならば私だけが、唯一疑う疑心でいよう。彼の事は信用しているが、信じすぎて万が一の泥沼に落ち込んでしまわないように、その結果レミィが酷く傷ついてしまわないように、私だけが紅魔館の悪心となるのだ。

 

 私にとっての一番は今も昔も、悪魔の癖にお人よしで妹想いな親友なのだから。

 

「ねぇ、パチェ」

「なに? レミィ」

 

 彼女はクスクスと何故か屈託のない笑顔を浮かべながら、私に悪戯っ子のように囁いた。

 

「パチェって確か推理小説好きだったわよね? ここはひとつ、私の見た運命がどんな未来なのか、この断片から推理してみてよ。これを機に図書館探偵ノーレッジって名乗って、幻想郷の探偵になっちゃうのはどう?」

 

 そんな無茶な。

 

 

 日付が変わった頃合いの幻想郷を歩き始めて、早くも数時間が経っただろうか。一歩一歩の歩幅が大きい私は、随分な距離を歩いているような気がする。

 初めに紅魔館が見えなくなり、霧に覆われた湖を離れ、そして獣道に等しい道を歩き続けていると、見慣れない場所に出た。ここから先が、私の知らない幻想郷と言う事になるのだろう。何だか未開拓の大地に足を踏み込んだ探検家の気分だ。一歩一歩の足取りが、慎重且つ軽快なものとなっていく。

 

 初めての幻想郷ウォーキングだが、今日は友達探しと言うよりはただの視察目的で歩いている。取り敢えず、この地がどんな地形をしているのか観察したかったのだ。大体の地形さえ把握すれば、立地からどの様な場所に多くの人々や妖怪が住んでいるか、大まかに割り出す事が出来る。住める場所と言うのは一見するとどこでも良いように感じられるかもしれないが、集団で暮らす所となると意外と限られたものなのだ。特に、外と違って殆ど整備されず、多く自然が残されているこの環境では特定しやすい。

 

 そして思った通り、遠巻きだが道中に人間の里らしき集落を発見した。どんな所なのか非常に興味をそそられるが、我慢である。今日はあくまで様子見だ。ここで浮かれたまま調子づいて人里に入ろうものなら、レミリア達の呼ぶ『異変』として扱われてしまう可能性がある。そうなれば博麗の巫女さんが元凶を懲らしめにやって来るらしいので御免こうむりたい。なるべくなら、彼女とは穏便な接触を望みたいところなのだ。

 

 しかし改めて観察してみると、成程妖怪たちが過ごし易いと言われるのも頷ける。緑の存在が大地の大半を占め、そのお蔭か空気は澄み渡り、微かに草木のスガスガしい香りが混ざっている。普通、活気のない印象を受けるのが夜ではあるが、虫の合唱と梟の何気ない会話が命の気配を感じさせた。川の水は全く淀んでおらず、月光の煌めきを美しく反射させている。最奥の上流まで行かずとも、そこそこ水の循環が速い場所では、人間でも十分飲める水なのだろう。

 妖怪は人間の心から生まれた存在だが、同時に自然と密接な関係を持つ者も少なくない。主な例を挙げれば河童や天狗、狒々や妖獣、最たるもので言えば妖精だろう。これらはコンクリートジャングルで生きていく事は出来ない。そもそもコンクリートジャングルの中では、彼らは脅威として認識されにくいのだ。過去では熊が降りてくれば大騒ぎになったらしいが、今では分厚い家に守られている上に連絡手段が発達したため、昔より格段に安心を得られるからと言えば分かり易いだろうか。まぁ、科学技術が発達してオカルトが否定されているから、と言ってしまえば一括りに出来るのだけれど。

 ともかく、この幻想郷は妖怪にとって過ごしやすい環境なのは間違いない。まさに楽園と称するに相応しい場所だ。

 

 ただ、結構な距離を歩いた筈なのだが全く妖怪を見かけないな。物の怪の類は基本的に夜を主軸に生活している者が多い筈なのだが、幻想郷では昼行性の妖怪が多いのだろうか。人間に紛れて生活する妖怪が外と比べると格段に多いと言うし、まずレミリアが博麗の巫女へ会うために太陽の元を行動するほどなのだ。そうであっても不思議ではないか。

 

 何気ない妄想を夜の空気に溶け込ませながら歩いていると、何やらいたく広大な竹林が見えて来た。視界一杯が竹、竹、竹である。外の世界でも、かなり奥地へ足を踏み入れなければこの様な光景は見られないのではないだろうか。微かな夜風が竹を扇ぎ、しなった幹がぶつかり合う事でカラコロと音楽を演奏している。何だか自然の和楽器演奏を聴いているような気分になって、思わず目を閉じて聞き入ってしまう。

 

 そんな時だった。竹の奏でる音色とは別に、突然響いた凛とした声が、私の鼓膜を振動させた。

 

「そこのあんた。こんな時間に、こんな所で何をしているの」

「…………?」

「上よ、上」

 

 声の主の弁を辿れば、そこには一人の少女が、輝く月の元を浮遊していた。

 見た目の年齢は大体十代半ばと言ったところか。月明りを美しく反射させる白のロングヘアーに、頭頂部に飾り付けられた白地に赤い模様が描かれているリボンが特徴的な、どこか熟練の覇気を感じさせる女の子。カッターシャツの様な服を着ていて、サスペンダー着きのズボンを装着していた。いや、あれは確か、指貫袴とかいう履物だったか? 記憶が正しければ、極東に住んでいた昔の貴族の服装だったように思える。

 服のいたるところにお札が張り付けられ、さらにリボン代わりとして髪の先を束ねる為に結び付けられている点や、人間特有の霊力が感じられるところから見て陰陽師関係の者だろうか。微かに妖力の気も感じられるが、まさか散歩の初日で東の国の退魔師に遭遇するとは思わなかった。

 取り敢えず、敵意は無い事を証明しておこうか。見た所力を持った人間の様だし、魔性や魔力の圧を抜きにしても、妖怪に少なからず敵対心を抱いている事だろう。現に、彼女は凄まじい気迫を漲らせている。まずは矛を収めて貰えるように努めねばならないな。

 

「こんばんは」

「こんばんは。さて、親切にもう一度だけ聞いてあげるわ。あなたは何者? ここに何の用?」

 

 明らかに力の放出が強くなった。何故だ。やはり人間の彼女には、夜を闊歩する私が不審者以外の何物でもないのだろうか。魔性の影響故に致し方のない事とは分かっているのだが、ちょっと凹んでしまう。

 それはともかくとして、これは素晴らしい。何が素晴らしいのかと聞かれれば、このパチュリー発案の腕輪の効果に対してとしか言いようがない。彼女は明らかに敵対心を滾らせてはいるが、こうして初手の会話がちゃんと成立している。これは地味だが非常に大きな成果なのだ。

 私に友達が出来ない最大の要因は、魔性によって会話が全く成立しないと言う点が大きい。この様に攻撃的な感情を覚えている者に挨拶すると、高確率で『こんばんは』から『こんばんは死ね』と攻撃されるのが今までのテンプレだった。だが今、その流れが無い。誰も銀の槍で突いてきたり魔法で火を放ったり矢を射ったりしてきていないのである。腕輪が放つ魔力が魔性を誤魔化しているお蔭で、普段の三割近く影響力が削られていると見ていいだろうか。

 

 よし、早速だが彼女との接触を続行しよう。慎重に行けば上手く交流の橋を掛けられるかもしれない。

 

「夜分に失礼した。私はナハト。最近幻想郷にやって来た新人の妖怪だ。私は、日光を受け付けない体質でね。夜にしかあまり動けないものだから、この時間に散歩しているんだ。偶然ここへ辿り着いただけで、他に他意は無いよ」

「そんなに力を振りまいて、周りを鼓舞させているのに?」

 

 ……ふーむ、魔性の影響が減ってもその穴埋めとして魔力の圧が強く働くのか。しかし、周りを鼓舞させているとはどういう事だろう? 周囲を見渡しても、誰かが勢いづいている様子などは見当たらないのだが。

 と言う事は、もしや煽られていると勘違いしているのだろうか。

 

「誤解だよ。私は少々厄介な能力を持っていて、どうも私を見る者は敵対心や恐怖を覚えてしまうらしいのだ。これがまた難儀な力で、私の意思では到底制御できないでいる。心の底から誓って、君や周囲の者達に危害を加えるつもりは無いよ」

「……、」

「ところで、ここで会ったのも何かの縁だ。良ければ君の名前を聞かせてはくれないか?」

 

 少々の間が空き、やがて彼女は口を開いた。

 

「藤原妹紅よ。妖怪さん」

「妹紅か。良い響きだな」

「それはどうも。……ところで、あんたはこれからどこへ行くつもり?」

「当てはないな。気の向くままに歩いていこうと考えている。何か指標になる目的地でもあれば良いのだが、新人の身の上なので土地勘が無くてね」

「そう。じゃあ、この竹林をお勧めするわ。上手く抜ける事が出来れば面白いものが見れるかもよ」

「そうなのか。それは良い事を教えて貰った。さっそく行ってみるとするよ」

「……せいぜい迷わないように気をつける事ね」

 

 それだけを告げると、彼女は足早に空を駆けて去って行った。

 出来れば、その面白いものが見られると言う場所まで案内をして欲しかったのだが、考えてみれば人間の彼女が安易に妖怪たる私へ近づく訳が無いか。退魔師に縁があるだろう彼女なら尚の事であるし、ましてや今は夜である。余程酔狂な者でも無い限り誘いに乗ることは無いだろう。ファーストコンタクトが良かっただけに、少しばかり残念な気分になった。

 

 ともあれ、腕輪の効果が実証されたのはかなりの収穫だった。これがあれば、本当に近いうちに友達が出来るのも夢ではないのではなかろうか。そう考えると何だか足取りが軽くなった気分だ。また今度彼女に会った時に友達になって貰えるか聞いてみようか。丁寧に誤解を解いて行けば、もしかしたら史上初めてで人間の友達が出来るかもしれない。

 

 脳裏に浮かぶ素晴らしき未来図はさておいて、まずは鬱蒼とした竹林へと目を向ける。一応、僅かながら獣道の様なルートが見えているが他に道らしき道は見当たらない。では、この獣道を歩いていけば件の場所へ辿り着けると言う事なのだろうか。

 折角彼女が親切に教えてくれたのだ。本当はこの辺りで引き返そうかとも思っていたのだが、少し覗いてみるとしようか。幸い、夜明けまで時間に余裕はある。

 足に一層力を籠めて、竹林へと足を踏み入れる。ざわざわと揺らぐ竹たちが、何だか私の来訪に驚いているかのような錯覚を覚えた。

 

 

 男の存在を察知したのは、竹林の古小屋の中で仮眠をとっていた時の事だった。

 

 元より色々思う所があってあまり深く眠らない質なのだけれど、その時は普段より鮮明に意識が覚醒したのを覚えている。目を瞑って微睡みの中に溶け込んでいたら、首筋に電気を当てられたかのような感覚が走ったのだ。

 それは大昔に妖怪退治を生業としていた時に幾度か経験した、大妖怪独特の覇気だった。しかも、人間と本気で争う時に見せる必殺の威圧感だ。

 最近は妖怪関係の荒事が減っていたから、一体何事かと思わず力の放たれる方向へ頭を向けた。時間帯も時間帯だった事から、もしかしたら大妖怪同士が珍しく争っているのかと思って、私は取り敢えず状況の確認をしてみる事にした。力の発生源がかなり近いものだから、こっちにまで飛び火が移らないよう見張らなければならない。ただでさえ輝夜の奴と盛大な喧嘩をして疲れたばかりだと言うのに、大妖怪の戦いに巻き込まれるなんて御免だ。

 

 竹林の上空にまで浮遊して、周囲を観察する。しかし特に争った形跡も、これから争いが起こる兆候も見当たらなかった。いつもと変わらない、閑散とした夜の幻想郷が広がっている。

 気のせいかとも思ったが、今も尚、力の余波が肌をビリビリさせているのにそんな訳がある筈も無く。私は直ぐに、力の発生源が竹林の手前にあると言う事を察知した。

 空中浮遊状態を保ったまま、私は発生源の元へと向かった。そして竹林の影の裏側に、件の男が佇んでいたのである。

 

 突然だが、私には腐れ縁と言うべきか宿敵と言うべきか、蓬莱山輝夜と言う名の殺し合う程度の関係を持った因縁の相手がいる。アイツと初めて会った時、私は思わず父上が寵愛の情を向けるのも無理はないと納得してしまった。それくらい素晴らしい美貌の持ち主なのである。本人にこんな事を言えば必ずドヤ顔で煽ってくるだろうから絶対に言わないが、見てくれだけは女の『美』の極点と言っても過言ではない奴なのだ。

 一体全体この弁と男が何の関係があるのかと聞かれれば、それはこの男がその対―――即ち、男の『美』の集大成の様な容貌をしていたからだ。肌に纏わりつく膨大な力の不快感を忘れてしまう程の、不気味なくらい美麗な姿をした男だったからだ。

 

 目を瞑ったまま夜の闇と一体化しようとしているかの如く微動だにしない彼は、間違いなく大和の出身ではない。女の私よりも白い肌に、月の光を食らう灰色の癖毛。全身を包む黒装束は西洋の貴族を彷彿させた。

 ただ静かに佇んでいるだけなのにその様があまりに画になっていて、思いがけず思考を空白にして、吸いこまれる様に見惚れてしまう。そんな自分に気がついて、頭を振って神経を男に集中させた。

 だが奴がこんな所で目を瞑ったまま何をしているのかと疑問を浮かべるより先に、私の意識へ滑り込んできたものは、彼の背後に広がる、あまりに異様な光景だった。

 

 妖怪の群れだ。

 

 草の影に。木の根元に。樹上の枝に。男から離れた至る箇所に無数の眼が、まるで夜に煌めく猫眼の如く、ギラギラと光を放っていたのである。

 数も多ければ種類も多い。パッと見渡しただけでも人の形をしていない下級妖怪をはじめ、人間を食らって力を得た様々な妖獣や妖蟲、さらに妖精の類までもが、まるで男を遠巻きに見守るように隠れ潜んでいるのだ。

 それはまさに、過去に見た百鬼夜行を記憶の底から蘇らせる光景で。

 私は思わず、この尋常ではない景色を前に生唾を飲み込んだ。

 

 一体全体、ここで何が起きている。

 あの妖怪たちは、それ程知能も高くなければ群れる習性すらない者ばかりだ。それなのに、提灯の灯に吸い寄せられた羽虫の大群の様に、細かな塊りとなって一堂に会している。どこからどう見てもただ事ではないのは明らかだ。まさか本当に、あの男を筆頭とした百鬼夜行が新しく編成されているとでも言うのか。

 私は出不精の自覚はあるがそれでも、あんな男を幻想郷で一度も見たことが無い。もしかしたら最近幻想入りを果たした新人なのかもしれないが、そうなると余計に事態は深刻さを増してくる。ほんの少し前に、湖の辺りに突如引っ越してきた吸血鬼が、妖怪を従えて一揆を起こしたことがあったばかりだ。私には、この光景が再び起こるかもしれない妖怪反乱の狼煙にしか見えなかった。

 

 こんなものを目撃してしまった以上見過ごす訳にはいかない。私は訳あって絶対に死ぬ事の無い身の上だが、ここから近い人里に住む連中は違う。ただの人間は、妖怪が軽く腕を振るうだけで首をぽっきり折られて死んでしまうのだ。あんな数の魑魅魍魎が人里に雪崩れ込んだら、不幸中の幸いにも人間の死傷者は出なかったらしい吸血鬼異変の時とは、比べ物にならない被害が生じてしまう。そう思った私は、気がつけば男に向かって言葉を発してしまっていた。

 

「そこのあんた。こんな時間に、こんな所で何をしているの」

 

 男は静かに瞼を開いて、ゆったりとした動きで周囲を見渡す。全く動揺の色が見えない所から見て、わざとやっているのだろうか。

 

「上よ、上」

 

 奴は声を辿り私の姿を視認すると、月光に照り返された百合の花の様に神秘的な笑みを浮かべた。

 

「こんばんは」

 

 ビリリ、と奴の声が電気の様に鼓膜を刺激したかと思えば、そのまま脳にまで滑り込んで来て、思わず奥歯を噛み締めた。

 一瞬だけだが、何故か妙に心が安らいだ感覚があった。恐ろしい師父から賛辞の言葉を掛けられた時の様な安堵感が、奴の言葉を耳にした瞬間に胸の内側で拡散したのである。それがあまりに不気味な感触で、私はその気味の悪さを上書きするように、苛立ちを露わにした。

 

「こんばんは。さて、親切にもう一度だけ聞いてあげるわ。あなたは何者? ここに何の用?」

 

 奴は笑顔を崩さない。本当に妖怪なのかと疑うくらい物腰柔らかに、彼は言葉を紡ぐ。

 

「夜分に失礼した。私はナハト。最近幻想郷にやって来た新人の妖怪だ。私は、日光を受け付けない体質でね。夜にしかあまり動けないものだから、この時間に散歩しているんだ。偶然ここへ辿り着いただけで、他に他意は無いよ」

 

 他意は無い? じゃああの後ろの魑魅魍魎の群れは何だ。誰がどう見ても今から戦争に行きますと言わんばかりの態勢だろうに。流石にその嘘を他人に信じ込ませるには無理があるだろう。

 

「そんなに力を振りまいて、周りを鼓舞させているのに?」

 

 ナハトと名乗った彼は、私の言葉を噛み締めるとゆっくり振り返った。

 その瞬間。彼が振り返るよりも早く、そして音も立てることなく、魑魅魍魎の気配が一気に闇夜へ溶け込んでいったのである。

 まるで、天敵に睨まれた動物の群れが、蜘蛛の子を散らして逃げ出したかのように。

 彼は私へ紫に輝く瞳を向ける。表情は、私の神経が凍り付くほど穏やかなものだった。

 

「誤解だよ。私は少々厄介な能力を持っていて、どうも私を見る者は敵対心や恐怖を覚えてしまうらしいのだ。これがまた難儀な力で、私の意思では到底制御できないでいる。心の底から誓って、君や周囲の者達に危害を加えるつもりは無いよ」

 

 ……どうやら、素直に白状する気は無いらしい。それもそうか。何か企んでいるんですかと聞かれて、はい私はこんな事を企んでいますと口外するような奴は、余程の間抜けでしかない。しかし話の感触からするに、奴は幻想郷を偵察する目的で歩いているのではないだろうか。見知らぬ土地で反乱を起こすよりは、一度地形を理解してから事を起こした方が成功率は高い。その為に、なるべく私たち幻想郷の住人に企みを悟られぬよう、柔和な態度で接して警戒心を剥がそうとしている。つまり、今の所彼は戦うつもりだとか、そう言った考えは無いと言う事か。あくまで、現段階においてではあるけれど。

 

 次のアクションをどうするか考えるのも束の間、今度は自分の手番だとでも言う様に、彼は私へ言葉を投げた。

 

「ところで、ここで会ったのも何かの縁だ。良ければ君の名前を聞かせてはくれないか?」

 

 聞き入るものを魅了するかのような声が、私の脳を揺さぶる。永遠亭の兎の一匹が使う、狂気の幻術を浴びた時の様な感覚があった。この男の声を聴くと、強い不安感を抱くと同時に無条件に心が安らぐのだ。彼が穏やかに話している内は無事でいられる――そう思わされてしまう、言葉の魔力の様な力が確かにあった。

 

「藤原妹紅よ。妖怪さん」

 

 気がつけば、私は言うつもりのない名前を口に出していた。塞ごうとしてももう遅く、自白剤を飲まされたように言葉が流れ出て、その事実に背筋がゾッとした。

 

「妹紅か。良い響きだな」

 

 彼は笑った。それがまた、酷い安心感を生み出した。

 同時に私は確信する。この男は危険だと。もし、このまま男が人里へ向かうようなことがあれば、想像を絶する事態を招く事になるだろうと。

 私は、自惚れでも何でもなく精神的にはかなり打たれ強い方だ。それなのに、奴の言葉を耳にしてこうも簡単にブレている。奴の声に何らかの術が混じっているのかは定かではないが、兎に角人里の人間が耳にしてはいけないと言う事は分かった。耳にすれば、もしかすると先ほどの妖怪たちの様に懐柔されてしまうかもしれない。何より、慧音をそんな目に遭わせるわけには絶対にいかない。

 奴はどうやら新人の様だから、人里へ意識を向けさせないようにする必要がある。慣れないけれど少しだけ、意識を誘導させてもらおう。幸い奴は計画の下準備をしている様子だから、私の言葉を無暗に拒否して敵対心を(くすぐ)るような真似はしないだろう。言った事は素直に聞き入れて行動するはずだ。状況としては私の方に分がある。

 

「それはどうも。……ところで、あんたはこれからどこへ行くつもり?」

「当てはないな。気の向くままに歩いていこうと考えている。何か指標になる目的地でもあれば良いのだが、新人の身の上なので土地勘が無くてね」

 

 驚くほど簡単に望んだ言葉を吐いてくれた。後は、アイツの居る所へ誘導すればいい。輝夜は私と同じ完全な不老不死だ。輝夜の従者である月の薬師も同じ不死の身で、しかも相当頭が切れる。彼女らなら万が一と言う事は絶対に起こり得ないし、上手く行けばこの男を対処してくれるかもしれない。

 

「そう。じゃあ、この竹林をお勧めするわ。上手く抜ける事が出来れば面白いものが見れるかもよ」

「そうなのか。それは良い事を教えて貰った。さっそく行ってみるとするよ」

 

 尤も、この竹林を突破する事が出来ればの話なのだけれど。

 

「……せいぜい迷わないように気をつける事ね」

 

 誘導は終えた。奴は敵対しないために確実に竹林の中へと足を踏み入れる。私が気配を察知して存在に勘付いたと奴も気付いているだろうから、私が離れても意見を無視して何処かへ行くことは無いだろう。大妖怪はそこまで迂闊な存在じゃない。狡猾な部分は怖ろしく狡猾なのだ。何せ、人間と違って持っている時間の量は文字通り桁が違う。年単位を誤差としているような奴だって居るのだ。ここが妖怪と人間の感覚の差である。これが、今回ばかりは幸いしたと言ったところだろう。

 

 私は急いで人里へ進路を変えた。正確には慧音の家だ。彼女に彼の存在を知らせて、早いうちに防護策を練っておかないといけない。吸血鬼異変よりもさらに大きなクーデターが起きないうちに、守れる身はちゃんと守れる様にしておかなければ。

 そうしないと多分、きっと、私は後悔するだろうから。

 

 だって慧音は、私と違って呆気なく死んでしまうのだから。

 

 

 ―――――永夜異変・当日

 

 

 月の様子がおかしいと気がついたのは、つい数刻前の事だった。

 今夜は綺麗な満月だから、月に一度の楽しみにと月光浴を堪能しつつ夜のティータイムを楽しんでいた訳なのだけれど、ふと、月の光から感じる魔力が異様に強くなっている事に気がついたのだ。異変はそれだけではない。月が少しだけだが欠けている。自然現象として起こる月の変形ではなく、明らかに不自然な欠け方をしているのである。それは、月そのものが贋作の月と入れ替えられてしまっているかのような強い違和感だった。

 しかも、だ。月の異常事態もさることながら、まるで時間が止まっている様に夜が明ける様子を見せない。星や月の位置が、微動だに動いていないのである。

 

 妖怪にとって月とは魔力の源泉ともいえる存在であり、また同時に狂気の象徴であるとも言える。

 月の光は妖怪に力を与える。代表的な例は、満月で覚醒する狼男だろう。私たち吸血鬼も例外ではなく、満月の時期には力が増大し、同時に食欲も上がる。新月であれば真逆の現象が起きるのだ。

 一見してみると、満月の時は良いこと尽くめな気がするが決してそうではない。月は力と共に、狂気のエネルギーも地上に降り注いでいる。満月の影響を最も受ける狼男が、覚醒すると尋常ではない凶暴性を手にするのはそのためだ。薬と毒は表裏一体とはよく言ったもので、力を授ける満月の光も永劫に浴び続けると精神崩壊を起こし、狂気に呑まれた怪物と化してしまう。

 

 それが、つまる所この『異変』だろう現象の最たる危険性と言ったところか。このまま贋作の強い光を夜が明ける事無く浴び続ければ、まず間違いなく狂う。折角、妹の狂気問題が狂気に囚われたモノでは無いと分かり解決した直後だと言うのに、今度は本当に狂気に取り憑かれてしまうなんて堪ったものじゃない。早々にあの煩わしい月を退かしてしまわなければ。

 こう言った異変解決専門家の霊夢は、まだ動いている様子を見せていない。人間である彼女には、この月の異常に気付くのは難しいか。まぁ、もしこのまま動かない様であれば、私が解決しに行けばいい話だ。妖怪が異変解決を行うのは暗黙の了解でご法度だが、今回ばかりは妖怪の存続に関わる話だ。恐らく八雲紫も既に動き始めているに違いない。

 ならば、私も動かずにどうすると言うのか。

 

「咲夜」

「こちらに」

 

 音も無く、時空を司る自慢の従者が傍に現れる。美しい銀色の髪が煌めく冷然とした立ち振る舞いは、月光の下で異様に映えて見えた。

 

「貴女、あの月がおかしいと思わない?」

「月……ですか?」

 

 はて、と目をぱちくりさせて、彼女は満月を凝視する。何かを考えるように顎に手を当てて、そして徐に呟いた。

 

「月が綺麗ですね」

「お前は何を言っているの」

「冗談ですよ。いつもは菜の花色なのに、今日は山吹色になっている事でしょう?」

「違う! と言うか何でそんな細かい所に気がつくのに月の異常には気付かないの!? 私ですら色の変化なんて分かんなかったわよ」

「これも違いますか。……いつもの満月よりお団子度がアップしている、とか」

「…………貴女、わざと言っているんじゃないでしょうね」

 

 滅相も無い、と揺れ動かない表情でメイドは言う。咲夜はとっても優秀な従者なのだけれど、時折トンチンカンな事を言ったり行動に移したりするのが困りものだ。しかもまるで悪意と故意が無いとくる。これが俗に言う天然ボケと言う奴なのだろうか。どうでも良いが、取り敢えず変な紅茶を淹れるのだけは止めて欲しい。フランとおじ様にはちゃんとしたものを淹れる癖に、私だけわざわざ専用のポットを使って変な紅茶を作る徹底ぶりだ。止めろと言っても間を置いてまた再開する所から見て、これに関しては最早わざとか。育て方を間違えたのかしら。

 

「満月の筈なのに、月が不自然に欠けているでしょう。貴女には分からないかもしれないけれど、月の魔力がおかしいの。明らかに魔力量が多いし、禍々しいわ。加えて夜までも完璧に止まっている」

「となると、異変でしょうか。しかし夜が止まっているのはかなりの問題ですね。このままでは洗濯物が効率よく乾きません」

「月の方も大問題よこの馬鹿。このままじゃあ、月の狂気に当てられ続けて、フランが正真正銘の狂気に蝕まれてしまう可能性があるのよ」

 

 一瞬にして、咲夜の雰囲気がガラリと変わった。フランの身に何かが起こるかもしれない……そう認知して、ようやくスイッチが入ったのだろう。私たちの事になると直ぐ血の気が多くなるのが彼女の強みであり、同時に欠点でもある。忠誠心が強い事は喜ばしいけれど、こういった事態で冷静さを失ってはいけない。

 

「だからさっさとこの異変を終わらせたいのよ。夜が止まっているのなら好都合だわ。この夜が明けるまでに、何が何でも解決する。霊夢はまだ動いていないみたいだし、私たちで動くわよ」

「して、どの様に解決するおつもりで?」

「あれは忌まわしい偽物の月。誰かが本物の月を隠してしまっている。元凶を叩いて月を取り戻すわ。それしか方法は無い」

「と言う事は、いつもの異変解決になるのですね」

「そうなるわ。さぁ、準備なさい。夜は好きだけれど、この夜はさっさと終わらせなくちゃならないわ」

「準備完了しました。何時でも出撃できます」

 

 間髪入れずに咲夜が答える。横目で見れば、先ほどの会話から一寸たりとも動いてはいないが、明らかに異なる覇気を携えた咲夜が居た。

 ……どうやら時間を止めて、文字通り一瞬の内に準備を終わらせて来たらしい。折角頑張って尊大っぽそうに仕上げたと言うのに、こうも余韻が無いと何だか調子を狂わされる。どうやら、フランや私に危険が及ぶと頭にインプットされたせいか、完全にやる気満々の様子だ。元凶を勢い余って、標本用に手足を展足された虫の様にしなければ良いのだけれど。この子、もしやフランより一足早く月の狂気に当てられたりしていないだろうか。

 

「その意気込みやよし。では直ぐに出発―――と言いたいところだけれど」

 

 最後に、残った懸念に対して確認を取る。いや、懸念と言うよりは、現在進行形で動き続けている問題なのだけれど。

 

「最後に質問。おじ様はどう?」

「……いえ。まだお戻りになられておりません」

「……そう」

 

 最早語るまでも無いかもしれないけれど、実は今現在、予想外の事態が紅魔館で巻き起こっている。

 事件の発端は三日前に遡る。あの日、いつもの様におじ様は外を散歩したいと私に言ってきた。正直な話、あの莫大なオーラを放ちながら外を無暗に出歩かれると、霊夢に異変だと勘違いされて襲撃されかねないと私は思った。だからその三日前までは何とか言いくるめてきたのだけれど、とうとうそれも限界となり、パチェの案でおじ様の溢れ出る瘴気をどうにか軽減させる魔法道具を作って貰って、それを肌身離さず着けると言う条件のもと、外出を許可したと言う経緯がある。

 敢えて、簡潔にその結果を述べさせて頂こう。

 

 

 おじ様は三日前に外出したっきり、一度も紅魔館へ戻ってきていないのだ。

 とどのつまり、行方不明である。

 

 

 



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8.「難題の姫君」

 ――――永夜異変・前日

 

 

 サク、サク、サク。

 柔らかな土を踏みしめるたびに、降り積もった竹の葉がしなる音が耳に滲み込む。僅かに吹き込む風が背の高い竹を揺らしぶつけ合い、硬質でありながら何とも和やかな、竹独特の音色を奏でていた。

 私が今いる位置は、取り敢えず竹林の中である。異常なまでに竹の植生密度が濃く、またとてつもなく範囲の広い竹林の中である。どこを見ても竹しかない為になんとも形容しがたいこの土地は、背の高い竹の葉が重なり合い一種のカーテンの役割を生み出しており、さらに霧が濃いお蔭で、日中でも日が殆ど差し込まない。その為に、日の光を苦手とする私でも日傘無しで十分歩ける親切設計となっていた。

 

 しかし私は、別にここが昼時でも過ごし易くて好きだから歩いている訳では無い。むしろその逆だ。鬱蒼とする竹の光景には、流石に飽きが来始めている。何せ、この林に足を踏み入れて以降の日の入りと日の出の回数を考えると、およそ二日間は閉じ込められている計算になるのだ。私は妖怪であるが故に物理的な飢えや渇きに滅法強いが、飽きというものには弱い。ずっと竹林の中に囲まれていたら、何だか私を囲う竹たちが自然の作り出した檻に見え始めてきた。

 

 まぁはっきり言うと、私は絶賛迷子である。

 

 二日ほど前に漸く幻想郷へ外出する許可が下りて、これでやっと友達探しが再開できると浮足立ちながら散歩へ出かけた。その道中に藤原妹紅と言う少女と出会い、竹林の先に面白いものがあると教えられて足を踏み入れてから、今の今までずっと竹林を歩き続けている。私は妖怪の身であるために疲労に対して極端に強く、その為散歩に歯止めがかかり辛い。昔からいつもフラフラとしていたものだから、つい癖でずっと止まらず歩いてしまっていた。竹林に入ってから迷ったと気がついたのも、二度目の日の出が竹の壁越しにうっすらと見えてきて漸く、である。

 やはり無計画かつ気紛れに歩き続けたのがいけなかったか。せめて妹紅に道標でも聞いておくべきだった。

 

 しかしどうも、この竹林には侵入者を迷わせる結界に似た術式が施されている様で、それが私の行く手を阻んでいるらしい。調べてみたところ、これは幻術の類ではなく地形や風景そのものに干渉するタイプの術の様だ。その影響なのか、ここは常に濃霧が立ち込めていてとにかく竹の成長スピードが早い。十数歩歩いて振り返れば全く別の林に姿を変えているのは当たり前であり、何だか成長しきった竹が枯れて倒れてくる事が無いのが不思議に思えるほどである。霧が濃すぎるために、ただ見えていないだけなのかもしれないが。

 

 術を破壊して無理やり脱出しようかとも考えたのだが、博麗大結界に手を出してしまった経験から憚られた。

 この様に大仰な術を用いている上に、ちらほらと罠が仕掛けてあるところから考えて、十中八九妹紅の言う通りこの竹林の奥には何かが存在しているのだろう。それも厳重に隠さなければない類のものである。であれば、術を破壊しその隠してあるものに悪影響を及ぼしてしまう様な事態を招く方法をとるのは得策ではない。それが万が一幻想郷に関わる重大な秘匿であった場合は最悪だ。紫にはっきりと嫌われてしまう可能性がある。彼女が私の友達候補ナンバーワンの座に就いている以上、それだけは避けねばなるまい。そうでなくても他人に嫌われる要素は魔性だけでお腹一杯なのである。

 

 今は日光が空を支配しているため、飛行による脱出は出来ないが、まぁ嫌でもその内日は沈む。夜になったら飛んで竹林から抜け出せばいい話だ。それまでは、この散歩を続行させてもらうとしよう。

 

 散歩の続行を決めて一歩踏み出そうとしたとき、落ち葉の下に縄が張られている事に気がついた。試しに棒で突いて引っ張ってみると、術で不可視にされていたのだろう一本の竹が突如姿を現したかと思えば凄まじい勢いで跳ね上がり、地面の縄を遥か上の方へ連れ去ってしまった。足を引っかければ忽ち宙吊りにされてしまう獣用のトラップだろう。竹を隠蔽する術と言い、罠の仕掛け方と言い、相当手が込んでいる。よく見ればあちこちに仕掛けられているものだから恐ろしい。紅魔館に訪れるより昔、私を狙っていた討伐隊の者達から住処の周囲に様々な罠を仕掛けられた事があったが、それを掻い潜り続けた経験がこんな所で活かされるとは思わなかった。もっとも、非殺傷用と殺傷用では罠の厭らしさは比べるまでも無いが。

 

 ただこの竹林に仕掛けられた罠達。随分前に仕掛けられたものから、真新しいものまで状態に差異が見られる。今吹っ飛んで行った縄はあまり解れが見られない新品そのものだった。竹を隠していた隠蔽術も、妖力の残滓の濃さから見て最近掛けられたものである。と言う事は、かなりの頻度で罠を仕掛ける何者かがこの近辺を訪れていると言う事ではないだろうか。

 そうなると術を使用して竹林を迷宮化させている理由は、一種の隠れ家を生成する為だと考えられる。日本では確か、『シノビ』と言う隠密集団の隠れ里は、この様に罠や地形を利用した自然の要塞の奥に築き上げていたのだったか。だとすれば、竹林の奥には誰かが住んでいると見て間違いは無い。そこの住民は竹林の構造に精通しているだろうし、何らかの脱出手段も心得ている事だろう。彼らに出会う事が出来、脱出方法を教えて貰えれば私は竹林を抜け出せるかもしれない。

 まぁそれが分かった所で、肝心の彼らを見つけられないのでは意味が無いのだが……。

 

 と、そこで私はある逆転の発想を思い付いた。

 そうだ。押して駄目なら引いてみろと同じように、私が彼らを見つけられないのであれば、見つけてもらえば良いのである。

 罠を仕掛ける者がここを巡回する可能性が高いと分かった以上、わざと罠にかかって待ち伏せしていれば、罠を点検に来るだろう仕掛け人と確実に出会う事が出来る。そこで竹林の出口を教えて貰えばいいのだ。どうせ夜までには時間が有り余っているのだから、少々待つ程度は何てことない。

 

 ただのんびりと散歩する方針から罠にかかって待機する方向性に切り替え、早速待つのに丁度良さそうな罠を探す。数分間探し続けた後、少し深めな落とし穴を見つけた。人間が落ちれば足を挫きそうな程度には深いが、よく見ると穴の底に緩衝材らしき腐葉土が盛られている。先ほどから思っていたのだが、この罠達には一貫して殺傷性が欠片も無く、所々被害者に対する親切心……と言えばおかしいが、とにかく配慮が垣間見える。罠にかけて脅かして竹林を追い出すのが目的なのか、それとも単純に悪戯が目的だったりするのかもしれない。

 取り敢えず仕掛け人の思惑は後々で暇つぶしに考えるとして、私は余計な葉っぱを全て取り去り、ゆっくりと穴の底に降り立った。丁度すっぽり穴の中に納まった所から、大体二メートル弱の深さだろうか。これは仕掛け人の苦労が伺える。

 

 私は早く仕掛け人に気がついて貰えるように、魔力弾を穴底から打ち上げ、空中で勢いよく炸裂させた。盛大な音が竹林内へ浸透していき、ざわざわと竹たちが驚いて身を揺する。

 さて、準備は整った事だし、こうして待っているのも正直暇だ。今後の予定について考えを巡らせておくとしようか。

 そう言えば、紅魔館の者達にお土産でも拵えた方が良いのだろうか? 

 

 

 私は兎である。名前は因幡てゐ。竹の迷宮奥に存在する永遠亭と言う屋敷で暮らしている、しがない兎の一羽だ。趣味は悪戯。特技は幸運を授ける事。ちびっ子妖怪兎たちのリーダーなんかもやっている。

 品行方正な私は今日も一日、お師匠の手伝いを誤差の範囲でサボりつつこなし、厄介事を鈴仙に押し付け、時折私の仕掛けた罠にかかっている人間を麓まで送り返すエキセントリックな日常を過ごしていくために、程ほどに頑張ろうと決意する。ここ最近の私の日常は、基本そのレールの上を気ままに往来しつつある。

 

「リーダー! てゐのリーダーっ!」

 

 そんな時、霧と竹が侵入者の行く手を阻む林の奥にぽつんと、大昔の日本屋敷が存在している空間で、童女の声が突然甲高く響き渡った。続いて門の外から、垂れた兎の耳を頭に生やす、見た目二桁もいっていない程度の幼い容姿をした妖怪兎が、わたわたと足を動かして永遠亭へと駆け込んできた。

 その子は仕事をしている(フリをしていた)私の元へ大急ぎで走り寄ってくると、膝に手を着いて荒い呼吸を繰り返し、私に対して必死に何かを訴えようとしているのか、よく分からないジェスチャーを展開して見せた。

 

「り、りーだっ! 林の奥! 罠! 空の怪物が怯えてるのっ!」

「どうしたおちび。何言ってるのかよく分かんないから少し落ち着きなさいって。深呼吸してちゃんと話してごらん?」

 

 部下である妖怪兎集団の中でも比較的若く幼いこの子の頭を優しく叩きながら、私は報告を促した。イナバのちびっ子は体操の様に深呼吸を繰り返すと、また呼吸が乱れるのではないかと言うくらい大慌てで説明を再開した。

 

「あのね、あのね! リーダーの落とし穴からぽーんって爆弾が飛んでね! それがどっかーんってなったの。そしたら、竹林の上の怪物が落ちてきてね、怖がって泣いてどっかに行っちゃったの!」

 

 余りに突拍子もない発言に、なんだいそりゃ、と思わず口から声が漏れ出せば、ほんとだよっ! とちびっ子は力強く訴えた。

 この屋敷―――お師匠たちが永遠亭と称する建物を囲う竹林には、私がお師匠と契約した為に、人間たちを永遠亭へ近寄らせないよう防護装置兼悪戯用に沢山の罠を仕掛けてある。時折それに林へ迷い込んだ人間が引っ掛かるので、その様を眺めつつ介抱し、竹林の出口を見つけられる幸運を授けるのが私の趣味の一つなのだけれど、はて、今回は妖怪でも掛かったのだろうか。だとすれば放っておけばいい話なのだが、竹林の怪物が怯えたと言う発言が気になる。と言うかあの怪物、まだ竹林に住んでいたのか。ずっと上空の霧の中に潜んでいるもんだから、全く見かけなくなったところもあってもう居なくなったのかと思っていた。ちびっ子の言からどうやら息災だった様だが、アレが怯えるなんて何があったのだろう。たかが爆弾如きで尻尾を巻いて逃げるような、弱っちい奴じゃなかったはずなのだけれど。

 

「取り敢えず何かあったんだね。んじゃ、ちょっくら私が見てくるよ。その爆弾が飛び出したのってどこの罠だい?」

「北北東の十番落とし穴!」

「了解。それじゃあアンタは他のイナバを集めておきな。私がOKと言うまで竹林に出ない事。良いね?」

「分かった。リーダーも気をつけてねっ」

「あいあい」

 

 軽く手を振りながら、北北東の落とし穴へ向かって歩いていく。この竹林は普通なら一度迷えば永遠亭に辿り着くどころか、引き返す事も出来ない迷宮だけれど、私にとっては庭みたいなものだ。自分の仕掛けた罠を掻い潜って件の落とし穴に辿り着くまで、十分と少ししかかからなかった。

 落とし穴が見えてきたところで、周囲を一度確認する。特に目立った損壊だとかは見当たらない。誰かが暴れた訳では無いらしい。まぁこんな所で暴れる奴なんて、姫様と藤原の娘以外に居る訳が無いのだけれど。

 さてさて、罠にかかったお間抜けな奴は誰かな? と私は落とし穴の中を覗き込んだ。穴から爆弾が飛び出してきたという所から、もしかしたら人間が爆竹を鳴らして救援でも呼ぼうとしたのかと思ったからだ。

 

 ……思えば、周囲をもっとよく観察しておくべきだったかもしれない。

 

 例えば、落とし穴に何かが落ちたはずなのに、穴の周辺が全く乱れていなかったり。

 例えば、爆弾が飛んだという所から穴の中に何かが居る筈なのに、中から物音や呻き声の一つも聞こえなかったり。

 

 本気で注意深く徹していれば、確かに気づくはずの違和感があったのだ。でもそれを、私は慢心にかまけて警戒を怠った。結果、不用意に中を覗き込んでしまった。

 そこで、見てしまったのだ。

 覗いたと思ったら、こちらを覗き込んでいた、あの禍々しい瞳を。

 穴の中からまるで蛇の様な二つの瞳が、薄らぼんやりと紫色の光を放ちながら、じっと私を見据えていたのだ。まるで疑似餌に誘き寄せられた獲物を眺めるような、そんな目付きで。

 よく見てみれば、紫水晶の様な瞳の持ち主は、どうやらかなり体格のいい男みたいで。

 もっとよく見れば、何だかすんごく怒っているような雰囲気を垂れ流しにしていて。しかもそれは紫クラスの大妖怪がブチ切れた時に放つ、息が詰まりそうな瘴気と凄く似ていて。

 反面、私を視認した彼の顔には見惚れるような笑みが浮かび上がった。

 

 強者は常に笑顔であると、誰かがそんな言葉を言っていたなぁ―――そんなどうでも良い事を、私は静かに思い出していた。

 ただ、笑顔だからと言って決して機嫌が良い訳では無いのは、長い兎生の中で身をもって経験している。

 ところで、この落とし穴は私が掘ったものである。紛れもない作品のうちの一つである。

 であれば、この怒気とも瘴気ともつかない禍々しいオーラを放ち、目を合わせていると魂を吸いこまれそうになる瞳を湛えるこの男が、次の瞬間罠を仕掛けた張本人たる私にすることは何か。

 

 唐突に、私の頭の中でフラッシュが瞬いた。それは鮮烈な記憶の残滓だった。もう年月を数えるのも億劫になる遥か昔、ちょっとした悪事の末に味わわされたあの凄惨な記憶が鮮明に――――

 

「――――ひィいいやあああああああああああああああああああああああっっ!!?」

 

 気がつけば、私は文字通り脱兎の如く竹林を駆け出していた。最近の私じゃあ考えられないくらい足と腕を思い切り動かして、一切後ろを振り返ることなく一目散に永遠亭へ向かって突っ走った。

 私は兎の妖怪だ。全力で走れば並大抵の妖怪は置いてけぼりにするくらいの自信はある。ましてやここは迷いの竹林と言う名の迷宮だ。この速さで逃げれば、追いつかれる事も永遠亭の場所が露見される事も絶対にない。

 無我夢中で永遠亭の敷地内へ飛び込み、一室の襖を開けて転がり込む。バクバクと高鳴る心臓を抑え込むように胸に手を当てて、何度も深呼吸を繰り返した。

 

「あ、あっぶなかったぁ……まさか大妖怪クラスが落とし穴に引っ掛かってるなんて。爆弾ってのは妖力弾の事だったのかな。あんなおっそろしい瘴気を放つ妖怪が妖力弾を投げれば、そりゃあ怪物も逃げるわね」

 

 ふぅ、と息を吐き出して、頬を叩く。骨の髄が痺れるような感覚が少し残っているが、取り敢えず安全地帯に帰れたことで精神状態は安定してきた。

 漸く平静さを取り戻し、私は入って来た襖を開ける。今日はイナバ達に外へ出ない様忠告をしておかなければならない。もしあの紫眼の大妖怪にイナバ達が見つかって永遠亭の居場所が露見すれば、大妖怪だけでなくお師匠にも殺される。温厚な人物は一度プッツンするととんでもなく恐ろしいのだ。

 木の板で出来た廊下を歩き、私はイナバ達が集っているだろう部屋を目指していく。

 すると、曲がり角で何か固いものにぶつかった。跳ね返される様に仰け反った私は、そのまま尻餅を着いてしまう。鈍い痛みが臀部を波状に駆け抜けた。

 尻を摩りつつ、私はぶつかった相手に対して少し毒づいてしまう。

 

「痛ったぁ……あーもう今日は踏んだり蹴ったりだよ。ちゃんと前見てよね、鈴仙」

「あ、ごめんてゐ。洗濯籠で前が見えなかった」

 

 私にぶつかったらしき人物は、大量の洗濯物が入った竹籠を下ろして私の手を掴んだ。そのまま腕の力を借りて立ち上がる。

 ぶつかった人物は、永遠亭のメンバーの中では比較的最近やってきた新入りだった。

 私たちとは違い、外の世界の『ぶれざー』とかいう制服を模した服に丈の短いスカートを身に纏い、サラサラと流れる長い薄紫の髪やすらっとした手足が特徴的な兎少女―――鈴仙・優曇華院・イナバは、私の顔を見るとぎょっとした様に目を見開いた。

 

「ちょ、ちょっとてゐ大丈夫? 何だか顔が青いけど……」

 

 言われて、額に手を当ててみると心なしかいつもより体温が低いように感じられた。

 どうやら私は、あの男を見て余程のパニックを起こしたらしい。それこそまさに、血の気が引いてしまう程にだ。

 何でもないよ、とだけ鈴仙に伝えて、私はふとある事を思い付いた。

 鈴仙は、実は地上の兎が妖怪化したものではない。そもそもこの星では無くて、月の世界の兎なのだ。同じ月の出身であるお師匠たちは確か、彼女たちのことを玉兎と呼んでいたかな。兎に角、月の都出身の鈴仙は、ある能力が使える。その名も『狂気を操る程度の能力』。名前の通り、鈴仙の瞳を見た相手の感情の振れ幅を極端に短くすることで、短気を通り越して狂気に走らせる能力だ。

 ……とは言うものの、実際の能力は波長を操る力である。音や光を筆頭とした波長を自在にコントロールし位相をずらす事で幻覚を見せたり、光を収束してレーザーを放つことが可能だ。この能力の副産物として、感情の波長を乱れさせることで狂気を生み出すのである。鈴仙の能力は、とにかく応用性が広いのが特徴なのだ。

 つまり、使いようによっては波長を精密にコントロールする事で、ある程度離れた物体の位置が分かると言う事になる。エコーロケーション然り、生体電磁波の受信然り。

 

「鈴仙っ。あんた、ちょっと能力使って永遠亭の周囲をサーチしてみて」

「へ?」

「理由はあとで説明するから。さ、早く!」

「もう……また何か企んでるんじゃないでしょうね。えーっと、何を探せばいいの?」

「取り敢えず見慣れない……って言い方は変なのかな? まぁ感じた事の無い波長を見つけたらその位置を教えて」

 

 分かった、と鈴仙は瞼を閉じて、能力に意識を集中させた。普段垂れている耳が、ほんの少しピンと背筋を伸ばす。

 

「ん、んー……? 何これ。何だかすっごい滅茶苦茶な波長を放ってる奴がいるんだけど……もしかしてこれがてゐの探してるもの?」

「多分それね。で、どこにいるの?」

「どこにいるも何も、永遠亭の門の前に居るわよ」

 

 ―――――――は?

 

「ごめん、鈴仙聞き間違えたかも。もう一回言って?」

「だから、玄関の前に居るのよ」

 

 ビシリ、と石化した私の体に細い亀裂が幾重にも刻まれた感覚を、確かに感じた。

 まさか。何かの冗談だろう――そう言えたら、どれだけ良かったことだろうか。

 あの男は穴から直ぐに脱出したどころか、濃霧と竹が覆い尽くす迷いの竹林の中で逃亡した私を見失うことなく、追跡してここまで辿り着いたと言うのか?  

 直後、脳裏に電流の様な衝撃が走った感覚があった。それは私の汗腺をこじ開けて、冷や汗を額と手のひらに滲ませる。

 よく考えてみろ。あの男は何故、直ぐに出られる穴の中でわざわざじっとしていたのだ。何故妖力弾を使って私たちにその居場所を知らせるような真似をしたのだ。

 

 答えは簡単。罠を仕掛けた私を誘き寄せて、その後を追う事で竹林を脱出しようと考えたからだ。

 更にもっと疑えば、奴は永遠亭の存在を何らかの手段で掴み取って、ここを探していた可能性がある。その場合、竹林から抜け出そうとしたのではなくこの永遠亭を見つけ出す事が目的になってくる。

 更に更に、つい先日鈴仙が月の都から招集の指令を受け取っていたらしいではないか。内容はこうだ。『満月の夜に迎えに行く。抵抗しても無駄だ』……そしてメッセージが示す満月の夜とは、他でもない今夜なのである。

 つまり、私は。

 月の都から派遣された妖怪兵器を、ここまで招き入れてしまったと言う事に――――!?

 目の前が真っ暗どころか、真っ赤になった気さえした。ぐらぐらと視界が揺れて、頭の血液全てが下降していくような気さえした。

 

 ああ、それもこれも鈴仙が日頃の恨みを仕返しする為に、能力を使って私を狂気に沈めて見せている幻覚なんだろうそうなんだろうお願いそうだと言って私は怒らないからぁ!

 

 ごちゃごちゃになった脳内で私は壮絶な悲鳴を上げるも、現実の私はお先真っ暗な未来を前に呆然とすることしか出来なかった。ただ、以前お師匠から聞いた死の直前には頭が酷く鮮明になると言う言葉通りに、私はとてもクリアな思考の海の中で、簡素な一文を思い浮かべていた。

 やべぇ、殺される。

 月の都から逃亡した姫様を一途に守り続けるお師匠に、私が間接的かつ不可抗力にも裏切り行為を働いたと知れたらどうなるか。そんなの、空の色は何色ですかと言う質問より単純明快だ。

 

 どうしよう、逃げるか? いや無理だ。ならもういっそのこと被害者面全開……と言うより今回ばかりは本当に被害者だからお師匠に早く助けを求めるか。でもお師匠は何やらずっと術を編み続けているし、ああもうどうすればこの危機から逃れる事が出来る―――

 

「んん? しかも、これって」

 

 目からハイライトが確実に消えている私を引き上げるように、鈴仙は言葉を再び紡ぎ始めた。

 同時に、彼女自身の表情へ焦りの色が濃厚に浮かび上がる。

 

「え? なんで姫様が門にいるの?」

 

 その一言が確実なトドメの一撃となり、私のハートは完膚なきまでに破壊された。

 灰になりそうな心情の中、白目を剥いた私はただ静かな確信を得る。

 

 ああ、完璧に終わった。

 さよなら、私の華麗なる兎生。

 

 近いうちに訪れる、見知らぬ大妖怪とお師匠の怒りを受けるだろう未来を前に、今度こそ視界が黒一色に染まった。

 

 

 童話の世界にでも入り込んだような気分になった。

 と言うのも、落とし穴の中で仕掛け人を待とう作戦を行った結果やって来た仕掛け人―――妖怪兎の少女が私を見て悲鳴を上げながら逃走したため、見失えば竹林から夜まで出られなくなると考えた私はその少女を頑張って追跡したのだが、何やら幻想的な地に辿り着いてしまったからである。幻想郷なのに幻想的な地とはこれ如何に。

 

 そこには、私の記憶が正しければ随分前の日本屋敷がそのままの形で存在していた。

 竹林の中とは考えられないほどに霧が晴れていて、屋敷の周辺だけが竹林にぽっかりと穴が空いている様な感覚だ。屋敷の上空には認識阻害結界が張り巡らされている以外にこれと言って違いは無く、今まで忘れかけていた太陽の光が燦々と降り注いでいる。日の光は漆の様に黒い瓦を輝かせ、そして木の柱を、門を、屋敷の全てを光で修飾し、深く自然と調和させていた。これが和の齎す『ワビサビ』なのかと妙な確信を抱いてしまう程に、それはそれは美しい景観だった。

 目的としていた人の住処を見つけられた事は喜ばしい。しかしここで、一つだけ問題が浮上してくる。

 私はこの降り注ぐ日光の下を歩けない……つまり竹林から屋敷にまで辿り着けないと言う事であるのだが。

 

 さて、困った。たった十数メートルの距離なのに、日光のせいであまりに遠い。まるで私と誰とも分からない将来の友達までを隔てる果てしない道のりの様である。しかしここまで来てまた竹林の中に引き返すと言うのはあまり選択したくない決断だ。友人探しをする点から見ればこの様な秘境の隠れ家に辿り着けたのは大きいが、今回の散歩目的はあくまで視察だ。ならばこれ以上住民を刺激しないよう出口までの道のりを伺って……出来る事なら日傘を借りて帰宅するとしようか。ここの住人がとても良い人だった場合は是非とも友達になりたいし、その時はまた、借りた傘を返す為にここを訪れて接触すればいい話だ。

 そうと決まれば……と言いたいところだが、根本的にどうやって門の前まで移動しようか考えて、また思考が手詰まりを起こす。何だかこのままでは無限ループに陥りそうである。

 

 物は試しに、人差し指の先だけを日光に晒してみる事にした。もしかしたら昔よりほんの少しは耐性がついているかもしれな―――

 

「っ」

 

 燃えた。呆気なく黒い煙の様なものを巻き上げて、指先はいとも容易く炭化してしまった。

 猛烈な激痛が指を襲う。じゅうじゅうと音を立てて崩れる指を慌てて引っ込めて、魔力を循環させ再生を促す。

 前々から思っているのだが、何故私だけ他の吸血鬼よりも日光耐性が低いのだろうか。昔、私の言いつけを破って好奇心の赴くままに昼の外へ飛び出したレミリアやフランも、日光を浴びてから私が見つけるまでの5分近くの間、燃える事無く活動出来たと言うのに。ただ、燃えないとは言っても全身が日焼けで猛烈に赤くなっていたが。そしてその様子を見た他の吸血鬼達が何を勘違いしたか、私が言う事を聞かない彼女たちへ罰を与えるためにわざと太陽の下へ放り投げたと思い込んで、スパルタ大魔王だと誤認されたのは言うまでもない。

 

 指が生え治った所で、改めて屋敷を見る。

 ふーむ、やはり夜だけの散歩だと高を括って日傘を持たなかったのがいけなかったか。折角自分用にカスタマイズした広範囲の日光を遮断する日傘を作ったと言うのに。

 しかしこのままじっとしている訳にもいかない。仕方がないので、私は強硬手段をとる事にした。

 コートを脱ぎ、それで頭部を覆い隠す。直射日光さえ当たらなければ問題ではないのだ。確実に露出している両手は間違いなくやられるが、全身が灰にならなければ再生は可能である。全身を灰にした事が無いのでそこはあまり自信が無いのだけれど、兎に角治るのなら多少の怪我は目を瞑ろう。

 

 意を決して、私は日光の中に飛び込んだ。日の元に晒された途端両手が悲鳴を上げ、炭から舞い上がる煤の様に分解されていく。激痛を抑え込みながらも、私は瞬時に門の日陰部分まで辿り着いた。

 どうにか、一息。

 無くなった両手を再生させて、さてこれからどうやって住人と接触しようか考える。建造物自体があまりに古く、当然ながら電気など通っている訳が無いので呼び鈴は無い。ノッカーも見当たらず、そもそもこの屋敷は来客が来ることを想定した造りとなっていない事が伺えた。私は招かれていない家に入れないなんてことは無いが、無用に侵入する事など出来る筈がない。住人から一気に警戒される事は元より、失礼極まりないのは明白である。感性がずれていることは認めるが、常識は弁えているつもりだ。

 取り敢えず、一旦休憩しようと顔を覆うコートを剥いで門の影に腰かける。未だにジクジクと痛む手を見ると、やはり日光のダメージは大きいのか、骨と肉までは完璧に戻ったものの手の皮膚は酷く焼け爛れていた。魔力を回してはいるが、再生がなかなか進まない。難儀な体質である。

 

「あら、貴方は誰?」

 

 唐突だった。怪我の具合を見ていた私の耳に、澄み渡った青空の様な美しい声が聞こえたのだ。

 振り向くと、それはそれは美麗な少女が、不思議そうに私を伺っていた。

 腰元まで伸びる艶やかな黒髪に、白磁の様に白い肌。西洋出身者の多い紅魔館の彼女たちとはまた違った美しさを持つ顔貌。ピンクを基調とした上着に、赤い下地へ竹や梅、月や桜と言った日本の象徴を連想させる金の刺繍が施された長いスカートは、和の着物と言うより和風のドレスの様な印象を私に与えた。

 

「こんな所に人が来るなんて……いえ、妖怪さんかしら? 珍しい事もあるものねー」

 

 宝石の球の様に大きな眼で私を捉えながら、少女はコロコロと笑った。その可憐な笑顔に、私は驚きを隠す事が出来なかった。無論惚れただとかそういう意味合いでは無くて、彼女が何の敵意も示さず笑いかけてきた事実に対してである。

 あまりに驚愕したものだから、ついこんな事を口走ってしまった。

 

「君は、私が怖くないのかい?」

「んー? 多分怖いわよ。何だかあなたを見てると背中の辺りがぞわぞわするもの。でも長らくこんな感情抱いた事が無かったから、何だか新鮮な気持ち。それより、そんな事を自分から聞いてくるあなたの方がもっと新鮮よ」

「……本当かい?」

「ええ。ずっと長い事のんびり生きていると、感覚が麻痺してくるのよね。だから真新しいものが何でも面白く感じるの。ところであなたは何て名前? どんな種族の妖怪なの?」

 

 ―――私は、あまりの衝撃に思考が焼き切れたかと錯覚した。実はあの時コートがずれて日光をモロに浴びた私は死んでいて、あの世の慈悲深い天女が私を憐れんで最期の幻覚を見せているのではないかとすら思えた。

 この少女、私に対して警戒だとか、そんなマイナスの感情を全く抱いている様子がない。それどころか私に興味を向けている様にも見える。紫とはまた違った、とても暖かな交友の橋が掛かったように感じた。

 もしかしたら、今の私はどうしようもなく頬が緩んでいるかもしれない。正直な話、自分がどの様な顔をしているのか、まるで見当がつかないのだ。

 

「失礼した。私はナハト。一応吸血鬼と言う種族だ。誤解しないでほしいのだけれど、私は君に一切危害を加える様な真似をするつもりは無いよ。君が怖いと感じているのは、私の体から人の心に作用する瘴気が制御できずに放たれているからで、私自身が威圧をしている訳では無いのだ。分かってもらえると嬉しい」

「へぇー、不便な能力ね。制御できないなんて。他人を怖がらせちゃうのは結構大変なんじゃない?」

 

 能力の事を説明しても、彼女は疑う素振りすら見せない。そうなんだ、と簡単に納得してくれて、何事も無いように信じてくれている。

 なんて、なんて素晴らしい少女なのだろう。本当にこれは夢ではないのだろうか。夢だとしたら醒めないでほしい。切実に。

 

「お蔭でよく誤解されて困っている。君も私を追い出すのではないかと思って冷や冷やしていた位だ」

「こんな面白そうなこと、わざわざ自分から手放す様な真似なんてしないわ。あ、所できゅーけつきって言ってたわよね? もしかして串刺し公で有名なあの貴族の親戚だったりするのかしら」

「彼は人間からの畏怖を受けて吸血鬼になった者だが、私は生まれた時から吸血鬼だ。だから直接的な関係は無いよ」

「そうなの。でも私、吸血鬼って初めて見たわ。手が酷い火傷だけど、それはやっぱり日光のせいなの?」

「ああすまない。見苦しいものを見せてしまった。君の言う通り、私は日の元に出られない体なんだ」

「それなのに真昼間からこんな所に?」

「本当は二日前の夜に引き返す予定だったのだがね。少し魔が差して竹林に足を踏み入れたら、迷子になってしまったのだ」

 

 ええ? と彼女は驚いた様に口に手を当てた。直後に、クスクスと子供の様な笑みを浮かべる。

 

「それで今までずっと迷い続けてたって訳? あははははっ。あなた、見かけは凄く威厳に溢れているのにドジな妖怪さんなのね。面白いわ」

「恥ずかしい限りだね」

 

 …………この気持ちを、どう形容すればいいのか分からない。嬉しいと言うべきなのか、達成感と言うべきなのか。あぁ、やっとこの時が来たかと待ち焦がれていた気持ちなのか。一つだけ言える事は、彼女はもしかして本物の女神なのではないかと言う事だ。

 初対面だと言うのに他愛のない会話が弾み、会話相手の彼女はコロコロと笑顔を浮かべている。何千何百年と探し続けた出会いがこうもあっさりと訪れて、内心色々な感情がぐちゃぐちゃになっていた。

 紫よ、改めて私は君にお礼を言いたい。私に楽園へ住む許可をくれてありがとう。まだ捕らぬ狸の皮算用でも、私は幻想郷に来た甲斐があったというものだ。

 

 彼女はポン、と手を叩くと、ちょっと待っていてとだけ言い残して屋敷の中に引き返していった。

 続いて、中から声が聞こえてくる。

 

『イナバー居るー? ちょっと大きめの唐傘を持ってきてほしいのだけれど……あら、何でてゐが白目剥いて気絶してるの?』

『姫様! いや、それがよく分からないのですが、何故かいきなり気を失っちゃって』

『あらら、年かしら。後で永琳に診て貰わないとね。それにしてもてゐが気絶するだなんて珍しい事もあるものね。本当、今日は珍しい事尽くしだわ。永琳も術の展開準備を進めてるみたいだし……ああ、そうそう傘よ、傘。イナバ、傘はどこ?』 

『えっと、物置にある筈ですが……どうかされましたか?』

『お客さん用に要るのよ。今そこにいるのだけれど、日光が駄目みたいで苦労してるの。だから貸してあげようと思って。大丈夫、あの穢れ方からして月の手先じゃないわ』

『そ、そうなんですか』

『あなたはてゐを安静にしておいてあげて。私は傘取って来るから』

『あ、はい。分かりました。何かあったらすぐに駆けつけますから』

『平気よ。永琳もいるし』

 

 それから暫くの後、彼女は唐傘をもって現れた。それを私に渡すと、ちょいちょいと小さく手招きをした。入れ、と言っているのだろうか。

 私はそれに応じて、日本屋敷の中へ足を踏み入れる事にした。日傘を差し、彼女の背中を付いていく。

 玄関口に通され、姫様と呼ばれていた少女の後をただ歩き続けた。靴を脱いで屋内に上がるのが何だか新鮮に感じ、ソックス越しに感じる木の板の感触が何だか心地良い。

 改めて内装を見ると、時間が止まっているのではないかと思うくらい綺麗に整っていた。痛んでいる箇所が一つも見当たらないのだ。まるで新築そのもので、まさに童話の世界と言った印象を受けた。

 

 一つの座敷にまで通されて、私と少女は対面する形で腰を下ろした。座布団や畳と言った物も大昔に少し体験した程度で縁が無かったので、とても鮮烈だ。

 

「そう言えば、私の名前を言ってなかったわね。私は蓬莱山輝夜よ。輝夜で良いわ」

「了解した、輝夜。私も気軽にナハトと呼んでくれて構わないよ」

 

 やっぱり西洋の名前って新鮮ね、と彼女は薄く笑った。

 

「日の光から匿ってくれてありがとう。何かお礼をしたいのだが……今は生憎手持ちが無くてね」

「気にしなくていいわ。お礼がしたいなら、私はあなたの話が聞きたい。ここで暮らしていると退屈で仕方がないのよ」

「そんな事でいいのならば、お安い御用だ」

 

 それから私は、彼女に様々な話を語り続けた。大昔の大災害の話。私が不可抗力にも巻き込まれた事件の話。他愛もない趣味の話。様々な文化圏の話。旅の途中で出会った信じられないものの話。外の世界の多彩な武芸の話。植物や動物の話。魔法や術に関する話、エトセトラ。兎に角、私が今まで経験してきた膨大な知識を全て解放した。それらの話題全てに彼女は相槌を丁寧に打ってくれて、時には笑い、時には驚き、時にはとても真剣な表情を浮かべて食い入るように聞いてくれた。

 その時間はまさに、私が今まで渇望してやまなかったものの全てと言っても過言では無くて。気がつくと私は、日が完全に沈んでしまう時間帯までずっと話を続けていた。

 

「おっと、少し話し込み過ぎてしまった。もう暗くなっている様だね」

「あら、もうそんな時間なのね。楽しいと時間っていうものは本当にあっという間だわ。こんなに早い一日は久しぶり」

 

 楽しい―――そんな風に言われたのは、もしかして初めてなのではないだろうか。今まで蔑まれ、拒絶され、排斥され続けた私にとっては、むしろこちらの方こそ本当に楽しいと思える時間だった。このまま紅魔館に帰るのが億劫に感じてしまう程だ。楽しすぎて帰りたくないと言う感情が私にもあるとは、何だか妙に照れ臭く感じる。

 

 ……よく考えてみれば―――いや、考えずともこれはまたとないチャンスではないか。彼女自身との相性もよさそうだし、何より私を拒絶する素振りが全くない。今の今までずっと探し求め続けて来た人物が今、目の前にいるのだ。私の友達となってくれるかもしれない、蓬莱山輝夜と言う素晴らしい少女が。

 これはもう、頼むしかないだろう。言うしか、無いだろう。

 

「輝夜」

「なに?」

 

 友達になってくれないか。それだけを言えばいいのに、酷い緊張を私は覚えた。全身が硬直し、落ち着かない。何だこれは。これではまるで告白しようとする初心な子供の様ではないか。一体どれだけの年月を生き続けてきたと思っている。

 感情を抑え込む。今は少しだけ冷たく、穏やかになろう。そうしなければ、間違いなく失敗してしまう。紫の時の様に機会を逃すような事があってはならない。

 

「私は言ったように、今まで能力のせいで誤解され続けて来てね。そのせいで、友人と呼べるものが居ないんだ。だから、もしよければ、私と友達になってはくれないか」

 

 彼女が返事を口から紡ぐまでの、ほんの僅かな時間が、あまりに重く、あまりに苦しい沈黙であるかのように感じた。

 彼女は、ぱちぱちと瞬きをして、花吹雪のように艶やかな微笑みを浮かべ、

 

「良いわよ」

 

 とても穏やかに、簡素に。拍子抜けする位呆気なく、二つ返事を返したのだ。

 内心、思い切りガッツポーズをしたい強い衝動に駆られる。驚くほど頭が晴れた。途方に暮れるような永い時の中、ずっとずっと求め続けて来た答えが今、遂に現実のものとなったのだと確かに実感したのだ。

 

「でも、条件があるわ」

 

 そこで彼女は、悪戯っ子の様な口調で付け足した。私はその言葉で、完全な平静を取り戻す。成程、本題はここからと言う事か。どうやら浮かれている場合では無い様だ。

 

「ナハト。あなたは竹取物語のかぐや姫を知ってる?」

 

 彼女が口にしたワードから、私は該当する知識を掘り起こす。

 竹取物語。たしか平安時代初期に成立した日本最古の物語だったか。内容はざっくばらんに解説すれば、光る竹から生まれた小さな女の子を翁が拾い育てる所から始まり、美しく成長した女の子はその後都へ住居を移すと、その美麗さから都中の公達の注目の的となり、求婚され続けるようになる。その末に女の子―――かぐや姫を諦めなかった五人の公達へ姫は難題を与え、最終的にこれを退ける。するとかぐや姫の噂は遂に当時の帝の耳にまで及び、かぐや姫は帝に迫られるも、姫は月からの使者が自分を連れ戻しに来ると伝え、十五夜の夜に使者に迎えられて月に帰って行った、と言う話だ。

 ……もしや、かぐや姫と『輝夜』とは。

 

「知っているとも。もしかしてだが、君はかぐや姫の関係者か、血縁者なのかな?」

「いいえ、私がかぐや姫本人よ」

 

 やはり、か。

 別段、これと言って驚きはしなかった。話の通りならばかぐや姫は月の住人であり、地上人とは違う事は明白な上、物語には不死の薬などと言う代物まで登場する程だ。何が要因となってかは知らないが、大昔から永らく生き続けていたとしても不思議ではない。 

 であれば、かぐや姫本人である彼女が私に与えようとしている条件は、言うまでも無く。

 

「まぁ、あの物語を知っているのなら話は早いわ。私は昔から、親密になりたがる男の人には難題を与えるようにしているの。私に対する、気持ちの強さを証明してもらうために」

「……難題、か。私は別に、求婚しようとしている訳でないのだけれどね」

「でも、昔の人たちに対して不公平じゃない? だからあなたにも難題は受けて貰うわ。それをクリアできれば、私はあなたと友達になってあげる」

 

 そういう彼女は、悪戯っ子の様な笑顔を浮かべた。

 こうは言っているが、恐らく只の暇つぶしか何かなのではないか。話していてよく分かったが、彼女はとても好奇心が強く、退屈を嫌う。そんな彼女が難題を出すと言って来たのは、ただ単純に友達になるのはつまらない―――そんな風に考えての事だろう。

 ならば私はそれに応えようではないか。元より一癖も二癖もある者を受け入れる準備はとうの昔に出来ているのだ。むしろ私の方こそ誰にも受け入れて貰えなかった身の上である。この提案を突っぱねると言う愚考が浮かぶはずも無かった。

 

「して、その難題とは?」

「そうねぇ」

 

 彼女は顎に手を当てて、視線を上にやる。

 数拍の間考えを巡らせた彼女は、徐に手を叩いて、私に柔らかく微笑みかけた。そして彼女が出した難題とは――――

 

「蓬莱人の死……なんてどう?」

 

 

 

 

 ―――――――――なに?

 

 

 少女が一人、誰も居ない部屋で静かに座っている空間があった。見慣れた座敷の筈なのに、どこか別世界のように感じるその空間は、ずっと見守っていた私の感覚を狂わせようとする。並々ならぬ雰囲気が、その部屋を漂っていたのだ。

 それはまさに、月の狂気の様な。

 

「永琳、術の準備はもう終わったの?」

 

 静かで淑やかなあの子の声が響く。応じて私は、隠れていた壁の影から身を乗り出し、彼女の背後へ歩み寄った。

 優美に足を下ろしている少女―――輝夜は、私に振り向く事無く、ただただ、静かに前を見つめている。先ほどまで、あの男が座っていた空間へ。

 

「気づいていたのね」

「そりゃあね。あれだけ後ろから殺気を放たれてたら嫌でも気づくわ。もう、折角のお客さんだったのにそんな風に敵意を出してちゃ駄目じゃない。途中で帰っちゃうかと思って冷や冷やしたわよ」

 

 お客さんとは、どうやってここまで辿り着いたのか分からないが、突然この屋敷を訪れた妖怪の事だ。視線を釘付けにされそうになる芸術の域に達した容姿を持ち、それに相反するように、全身から途轍もない穢れと魔力を放ち続けるあの青年の事だ。

 先ほどの彼女たちのやり取りを思い出して、思わず私は歯噛みする。

 

「あの男はただの妖怪ではないわ。いや、むしろ妖怪と言うカテゴリーに分類すべきかどうかも怪しいものよ。疑って当然でしょう」

「そうなの? まぁ、確かに一緒にいると怖いけれどね。本当、足が震えそうになったのも久しぶりで面白かったわ」

 

 彼女は笑う。からからと、まるで恐怖が何事でもないかのように笑う。

 一見すると眩しいその笑顔が、どうしようもなく私の心を蝕んだ。

 輝夜は、今自分がどの様な状態に陥っているのかまるで分かっていない。それだけではなくて、私たち蓬莱人が怖いと言う感情を覚えたあの青年の存在が、どの様な意味を持っているのかも理解出来ていない。

 けれど私が今説明したところで、きっと輝夜は耳を貸さないだろう。いや、今の彼女では理解できないのだ。今の輝夜では、私の真意は伝わらない。汲み取ることが出来ない。

 

「……ところで、輝夜。貴女は何故、あの男にあんな難題を出したの? 丁寧に妹紅の存在まで教えて。あれじゃあ妹紅を殺してくれと言っているようなものよ」

「えー? そんなつもりは無かったんだけどなぁ。だって、別に求婚されてる訳じゃないんだもん。ヒントのあるイージーモードでも良いじゃない? 結果としても友達になるだけなんだから」

「あの男が、本当に妹紅を殺せるような存在だとしても?」

 

 静かに、私は輝夜へ問う。この言葉に偽りはない。彼を見た私の予測が、計測が、すべて正しいのであるならば。あの男は例外的に、絶対の不死者である私たち蓬莱人を確実に葬る力を兼ね備えている。穢れがどうとかいう問題ではない。あの男は、この目で見るまで信じることは出来なかったのだが、まさしく私たちにとって天敵と言える存在なのだ。本来ならば存在する事すらなかっただろう、唯一無二の天敵なのである。

 聡い彼女は、私の言葉に含まれる真意を理解しているだろう。事実、彼女はあっけらかんとした調子で、私に答えた。

 

「万が一なんてものが起こったら、その時はその時じゃない? 居なくなった妹紅の代わりに、ナハトには蓬莱人にでもなって貰って、ずっと一緒に居て貰おうかしら。むしろその方が、彼にとっても良いのかもしれないわね。あまり難題に乗り気じゃなかった様子だけれど」

 

 本来ならばこの世のどんな物より可憐である筈の彼女の笑顔が。この世のどんなものよりも恐ろしいものとして私の眼に映った。背筋が凍る。ぞくりとした感覚が脊髄から脳まで駆け抜けていった。

 確かに、輝夜と妹紅と言う少女は殺し殺される関係である。でもそれは、死なない蓬莱人同士だからこそ……永劫を宿命づけられた蓬莱人だからこそ出来る、ちょっとしたスキンシップのようなものなのだ。彼女たちが互いにいがみ合うでも、憎み合うでも、心の燃料を燃やし続けている限り精神は死ぬことは無い。長すぎる生の中での彼女たちの因縁は、歪な持ちつ持たれつの関係にあるのだ。それを彼女たちは、意識的にも無意識的にもちゃんと理解している。例えどれだけ衝突し喧嘩しても、互いに無くてはならないものなのだと、ちゃんと理解している。

 

 理解している、筈だった。

 

 ああ、自覚は無いけれど、この子はやはり……っ。

 私はもう、いてもたってもいられなくなった。限界だ。これ以上彼女を放置しておくわけにはいかない。今の私ではどうする事も出来ないのは分かっている。だからこそ、猫の手でも借りるくらいの気持ちで頼るしかない。

 あの男に……蓬莱人に恐怖を呼び覚ました異端の吸血鬼の力に、今は頼るしか道は無い。

 

 ごめんなさい、失礼するわと彼女に伝えて、私は足早に外へと駆けだした。あの男はまだ屋敷を出てからそんなに経っていない。案内通りに竹林を抜け出すまで遠くには行っていない筈だ。今ならまだ間に合う。

 足を忙しく動かして、走る。靴を履く余裕なんてなかった。まるで運命が導いてくれたようなこのチャンスを、逃してしまう訳にはいかないからだ。

 予測通り、彼は屋敷から直ぐ近くにいた。闇夜に溶け込むように月を眺めていた彼の背中に、私は深呼吸をして声をかける。

 

「ごめんなさい、ちょっとだけ時間を貰えないかしら」

 

 彼はゆっくりと振り返り、私を見た。相変わらず、視界に映すだけでも、遥かな時を生き続けた蓬莱人の私でさえ理不尽なほどに身震いを起こしそうな、禍々しくも美しい青年だった。

 震えを殺し、私は言葉を絞り出す。時間は無い。猶予も無い。ならば一刻も早く策を講じるのみ。

 

「私は永琳。八意永琳。輝夜の従者をしている者よ。初対面の貴方にこんな事を言うのは、無礼だと分かってる。でも、どうしても貴方にお願いしたいことがあるの」

「……わざわざ私に尋ねてくるなんて、それは一体どんなお願いだね? 私で良ければ力になろう」

 

 魂に溶け込んで来るかのような、甘美な声を響かせて彼は言った。魔性の声に負けないよう意識を強く保ち、私は言う。天敵であり、そしてあの子を救う要と成り得る、この青年に向かって強く、懇願の意を示す。

 

「恥を忍んで単刀直入に言うわ。――――お願い、姫を助けて」

 

 

 







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9.「月下で踊れ、乱れ桜と境界の乙女」

 

 

 ――――永夜異変・始動

 

 

 

「この位の時期って夜は結構過ごし易いわよねー。何だかいいお散歩日和だわっ。あの月が本物だったら尚いいのに。ねね、霊夢もそう思わない?」

「……、」

「あ、霊夢もしかしてこれ欲しい? 藍特製の甘納豆。甘くてヘルシーでとっても美味しいのよ」

「ああーっ! 紫だけ甘いもの食べてるずるい私にも頂戴! さもないと甘納豆一粒につき体重が一キロ増える呪いをかけるわっ」

「何それ地味に怖い……!? まったく、幽々子は昔から甘いものに目が無いんだから。はい、あーん」

「あーぐ」

「ひぎぃっ!? 何で指ごと齧りつくのよこの馬鹿!」

「紫は袋一杯に持ってるのに、私には一粒しかくれないなんてケチケチするからよう」

 

 ……私は。

 私は、異変解決に向けて出撃している真っ最中の筈だ。至極面倒臭くて、それでも巫女としてちゃんと解決しなくてはならないから眠いのを我慢してこんな真夜中に異変解決を完遂するため、幻想郷を奔走している筈なのだ。他ならない、幻想郷の平穏の為に。

 

 それを何がどうなれば、最近品格を疑いつつあるけれど一応幻想郷の賢者らしい紫と冥界の管轄者たる亡霊姫がぎゃあぎゃあ甘納豆を取り合いながら異変解決を行うと言う、奇天烈極まりない状況になってしまうのか。頭が痛いのは気のせいでは無いはずだ。

 

 今回は紫が直接出てくる位の大異変らしいので、珍しく……と言うか多分初めて協力して行動しているのだけれど、これだけ五月蠅いともう彼女たちを異変の元凶認定してしまっていいんじゃないかなと思い始めてしまう。そもそも今が異変の真っ最中だし、どさくさに紛れて退治してしまっても誰も文句を言わないのではないか。いや、言ってくるか。主に目の前のポンコツ賢者が、涙目で拗ねて文句を垂れてくるだろう。面倒臭いので取り敢えず放置しておくことにする。

 

 私は頭痛の様な感覚を額に覚えながら、何故こんな事になったのか、つい先ほどの記憶を掘り起こす作業を始めた。

 

 

 

『霊夢ぅ♪ なんか月が凄い事になってるから異変解決にいっくわよーってあいたぁっ!? な、なんで陰陽玉ぶつけるの!? それ妖怪にはすっごく痛いんだからね!?』

 

 それは、虫の囁きしか聞こえない様な真夜中の出来事だった。その日はいつもの様に神社を掃除して、お茶を飲んで、洗濯をして、のんびり一日を終える事が出来たから、また明日もこんな日だと良いなぁおやすみー、と気持ちよく寝床についてお布団の心地よさを思う存分堪能していた訳なのだが、突如スキマ妖怪が神経を二往復ぐらい逆撫でする猫みたいな声で私を叩き起こして来た。一日の締めとも言える睡眠を邪魔された事と、同性に対してはイラつかせる効果しかない甘え声で起こされたと言う二重苦を味わった末、私はスキマに思い切り陰陽玉を食らわせてやった。そしたら涙目でふぇぇとか抜かして来たので陰陽玉を振りかぶり直すと、『はい冗談でーすごめんなさいこれからゆかりん品行方正な妖怪になるわだからもう陰陽玉でいぢめないでぇ!?』と喚きだす始末。これ以上攻撃するとさらに喧しくなるのは分かっていたので、その時は取り敢えず矛を収めた。

 

 彼女は咳ばらいを一つするとパンパンと手を叩き、乾いた音を勢いよく鳴らした。寝起きの耳にはそれが怒鳴り声の如く五月蠅かった。

 

『改めて、霊夢。夜中だけど早速お仕事の時間よ。異変が起きたわっ』

 

 そう言って紫は、夜空で絢爛と輝く満月を指差した。何が異変なのだろうかと、ぼんやりとした頭で紫の言葉を探ったのを覚えている。私には月見酒が進みそうな真ん丸お月様が浮かんでいる様にしか見えないのだが、と眉間に皺を寄せた。すると彼女は、現在月に起こっている異常について説明を始めたのである。

 

 曰く、何者かに本物の月が隠されてしまっているとの事。

 曰く、その月は普通ではありえない量の魔力と狂気を地上に降り注いでいて、このまま放置しておけば月の力を存分に食らわされた妖怪が錯乱を起こしてしまい、幻想郷が危険に晒される可能性が高くなるとの事。

 曰く、だからこの夜が明ける前に異変解決をしちゃいましょう、その為に夜を止めておいたわとの事。

 

 人間の私にはいまいち月に起こった明確な変化が掴み取れなかったが、何となく月を眺めていたら確かに嫌な予感はした。紫の弁もあるし、早速私は支度をして異変を起こした元凶を探そうと飛び立ったわけである。そうしたら何故か、いつもは監視に徹底している筈の紫がついて来た。ふよふよと周囲を飛び回るものだから追い払ったのだが、それでもしつこくくっ付いて来るのである。諦めて静観を決め込んでいると、時折スキマから何かを取り出し一人で色々やり始める始末。いちいち構っていられないので基本的にスルーしていた。

 

 そんな時、何の縁か以前異変を起こした冥界のほんわか亡霊と半人半霊のペアに遭遇した。彼女たちもあの月を放置しておくのは不味いと考えているようで、その話をして意気投合した紫と幽々子が、じゃあ一緒に異変の元凶を探そうそうしようと頓珍漢な事を口に出し、今に至ると言う訳である。ピクニックじゃないんだぞと言いたかったが、お花畑ワールドに巻き込まれそうで口に出すのを憚られた。

 

 

 ……思い返してみても、何でこうなったのか全くもって見当もつかない。頭痛が更に酷くなったかのように感じる。取り敢えず全部ポンコツなスキマが悪い。そう結論付ける事にした。 

 私と同じような心境なのか分からないが、半人半霊―――確か、コンパクト妖夢だったっけ? は引き攣った苦笑いを浮かべていた。

 

「幽々子様……出発前にあれだけ召し上がられたのに、まだ食べられる余裕があるのですか……」

 

 そっちか。

 

「妖夢……あんた従者なんでしょ? あれ止めてきなさいよ……」

「む、無理です。あの間に邪魔しに入ったら幽々子様に半霊を齧られてしまいますよっ」

 

 青ざめた妖夢が無理無理と高速で手を振った。仮にも主に対してどうしてそんな判断を下したの……とは思ってみたけれど、幽々子と言う名の亡霊姫が持つ胃袋は本当に底が知れないのは事実だ。他人に関心が無さ過ぎると魔理沙に言われる私でも、幽々子が以前の宴会の時にお釜を抱えて幸せそうに中身を平らげていた光景は今でも鮮明に覚えている。しかも空になったお釜が二つ傍に転がっていたという惨劇っぷりだ。妖夢が半霊を齧られると怯えるのも無理は無いのかもしれない。

 その体のどこにお釜三つ分の量が入るのかと聞いてみれば、本人曰く霊体を半実体化させるためにはかなりのエネルギーが必要なのだとの事だ。紫はそれを聞いて、卑怯なダイエットだ反則だと言いながらハンカチを噛み締めて嫉妬の念をこれでもかと放っていたが。

 

 そんな紫は口の端に砂糖を着けたまま、私達の元へ寄って来た。手にはまだ甘納豆の袋が握られている。

 

「ねぇねぇ、霊夢も妖夢も食べないの? 本当に美味しいのよこれ……って、よく考えたら二人の名前、何だか似てるわねっ。髪の色は違うけど、こうして並んでると姉妹みたいじゃない?」

「まぁ。じゃあ霊夢、明日から白玉楼に住んでみない? 妖夢は一人っ子だから喜ぶと思うわぁ」

「アンタ達はさっきから何を言ってるの」

「幽々子様、落ち着いてください。巫女さんが冥界に住んだら色々アウトですから」

「妖夢それフォローになってないわ」

「はい霊夢。私の一番のお気に入り、白花美人甘納豆あげるわ。あーんって痛いっ!? ぶ、ぶったわね!? 藍にも少ししかぶたれた事ないのに!」

「いい加減ぶん殴っても良いかしら」

「お祓い棒で殴ってから言わないでぇっ」

 

 涙目で頭を抑えつつぷんすかと憤慨しながら、妖怪の賢者の形をしたナニカは抗議する。普段なら別に私もイラつかないのだろうが、流石に異変中の神経を使う時にここまでほんわかされると殴りたくなっても仕方がないと思う。いくら私でも、甘納豆を片手に異変解決をしたことなんて一度も無い。改めて大妖怪とは何だったのかと考えさせられても仕方のない事だろう。

 

 と言うよりこのスキマ妖怪、時折この様なふざけた態度から一転し、物凄く真剣な佇まいに豹変する事がある。何を切っ掛けにして切り替わるのかは分からないのだが、その時の彼女は今の様なちゃらんぽらんとはまるで別人であり、賢者と呼ばれるのも納得な、大妖怪の威厳を確かに纏うようになるのだ。そもそも彼女は、元々の性格も振る舞いも大妖怪の筈なのである。少なくとも私が初めて彼女を見た時は、ああこれが真の大妖怪なんだなと人間ながら模範にさえ思った程だった。

 

 氷柱の様な眼差しは見る者の口を塞ぎ、紡がれる言の葉の真意を理解する事は常人には叶わず、振る舞いはまるで『優雅』をそのまま体現しているかのよう。神にすら匹敵すると囁かれる圧倒的な力もさることながら、彼女の在り方を幻想郷の誰しもが認め、誰しもが畏怖の念を向ける事を決して厭わない。神出鬼没で大胆不敵。それこそが、幻想郷の設立者の一人にして『八雲紫』と言う大妖怪なのである。

 

 しかし本当に何が引き金となってポンコツが賢者にシフトチェンジしているのかが分からないので、私からしてみれば会うたびに性格が変わっている情緒不安定な奴にしか見えない。本当は頭がおかしいだけなのではないかとすら思ってしまうのだが、私の気のせいなのだろうか。

 

 兎に角、このままでは何時まで経っても埒があかない。私は三人を置いて飛行速度を速めつつ、高度を上げる事にした。

 幻想郷の夜には基本、星と月明り以外に光は無い。人里まで行けば提灯の明かりがちらほら見えるけれど、それ以外は本当に真っ暗だ。妖怪たちはよくこんなに暗い中をスイスイと移動できるなぁと思ったけれど、考えてみれば日中も自分で闇を展開して視界を遮り、よく木にぶつかって泣いている妖怪が居たか。もしかしたら眼ではないコツがあるのかもしれない。

 

「……ん?」

 

 そんな事を考えていると、満月の中心あたりに何か小さな影の様な物がある事に気がついた。目を凝らすとそれは、人の形をしている物体だった。この距離から考えて、人間目線で見ればかなり大きな人形の何かだ。視認して初めて気がついたが、そいつは明らかに大きな力を体から放ち続けていた。まるで月の光を大量に浴びて、力を蓄えようとしているように見える。

 

 あからさまに怪しい。何だアレは。肌を突いてくる魔力や妖力からみて妖怪である事には間違いない様だが、あんな奴が幻想郷に居るなんて知らなかった。見た所男の様だが、だからこそ珍しく感じる。満月の中心で浮遊するその姿は、紅い霧の異変で相手した小さな吸血鬼を連想させた。最も、どうやら奴に翼は無い様だけれど。

 兎に角、こんな時に紫の言う偽物の月を眺めている妖怪なんて絶対に怪しい。私の勘がアレは異変の元凶と関係があると訴えているのだ。ならば、何時もの様に行動するしか選択肢は無いだろう。それが私の仕事なのだから。

 

 私は、まだ甘納豆を幸せそうに頬張っている暢気妖怪に向かって言った。

 

「紫。怪しい奴見つけたからちょっと退治してくるわ。甘納豆持たれたままだと邪魔だから、そこで待ってなさい」

「えっ? もう元凶を見つけた…………の」

 

 その時、紫に明確な変化が起こった。

 私の発言に驚いた顔をした紫が、私のお祓い棒の指し示している月下の妖怪へと視線を移した途端、まるで食卓に嫌いな食べ物が出て来た時の子供の様な複雑な表情を浮かべたかと思えば、急に氷の様に冷たい空気を纏い始めたのだ。

 その顔貌に、先ほどまでの陽気さは欠片も無く。あるのは大妖怪『八雲紫』が見せる、冷徹な鉄仮面のみだった。

 

 急に一変した紫に驚いて『ひぃっ!?』と仰け反った妖夢を尻目に、紫は私に甘納豆の袋を手渡した。

 

「霊夢。貴女は少しここで待っていなさいな」

「……急にどうしたのよ。もしかしてアレ、知り合い?」

「……その様なものですわ。けれど、彼を貴女に任せるには荷が重過ぎる。なるべく視界に入れないようにして待機なさい。私が少し話を伺ってきますわ」

「ちょっと待ちなさいよ。流石にアイツが異変と関係あるなら私も黙っていられな―――」

「霊夢」

 

 ぴたり、といつの間にか目の前まで移動していた紫が、私の唇に扇子を押し当て発言を封じる。

 彼女は妖美な微笑みを浮かべながら、子供を宥めるように言葉を吐いた。

 

「お願い。今回だけは、言う事を聞いて頂戴?」

「……、」

 

 紫がここまで真剣に介入してくる事なんて、今までにあっただろうか。いや、多分そんな事は一度たりとも無かった。異変中の彼女は常に傍観者で、関わるとしても意味深な言葉だけを残したり、曖昧なヒントを何かしらの形で与えるのみ。この様に表立って意見をしてきた印象は限りなく薄い。

 つまり逆説的に言えば、今回は口を挟まなければならない程の問題だと言う事か。どうやらあの妖怪は紫並の大妖怪みたいだし、私でも手古摺ると判断しての事だろう。もしくはスペルカードルールを完全に無視している奴なのかもしれない。男の妖怪であることから見ても、それは容易に伺える。

 

 しかし私は博麗の巫女だ。それでも退治して見せる自信はあるが、今回は紫に譲る事にした。紫と同じく、あれを視界に捉えた幽々子までもが、何やら只ならぬ雰囲気を放ち始めたからである。

 

「分かったわよ。でもあんまり待たせないでよ。長くなったら置いてくから」

「是非そうしてくださいな」

 

 即答だった。それはつまり、短時間では決着がつかない事を暗喩しているのか。幻想郷最強格の妖怪である、あの紫が。

 そこで私は、扇子を持つ彼女の手が、ほんの微かに震えている事に気がつく。目の前で凝視しないと気がつかないくらいの、些細な変化だった。

 

「……紫、もしかして不安なの?」

「―――いいえ。ただ、手間を取る相手であることは確かです」

 

 否定する彼女の言葉に、どこか力が感じられず。それは明瞭に、彼女が心に孕んだ不安を露わにしていた。

 紫は背を向けて、静かに夜空を仰いだ。彼女の視線の先には、偽の月と男が居る。奴は背中を向けたままで、まだこちらの存在に気がついていない様だった。

 眺める紫の隣へ、静かに幽々子が着く。

 

「ねぇねぇ、彼が件の妖怪さん?」

「そうよ。貴女も油断しない方が良いわ。奴は、その気になれば何の躊躇いも無く魂を消滅させる」

「あらあら……それは怖いわねぇ。道理で見ているだけで、とっても嫌な予感がする殿方な訳だわ」

 

 言葉を交わす二人に、妖夢が近づく。背中に背負った二振りの刀を腰に下げ、彼女は柄に手を当てた。

 

「幽々子様、お供致します」

「駄目よ妖夢。あの月も、あの殿方も目にしては駄目。だからあなたはここに霊夢と残るのよ。それに、万が一何てものが起こったら大変だわ」

「大丈夫です。必ずや奴を斬ってご覧に入れましょう」

「そうじゃなくてね。私と紫の間にあなたがいて、撃ち落としてしまわない自信が無いの」

 

 ふわりと微笑んだ幽々子を前に、妖夢は唾を飲み込んで刀から手を引いた。

 本気なのだ。

 彼女たち二人は、いざという時に本気であの男を迎え撃つつもりでいる。おそらくスペルカードルールが適用されるかも分からない、正真正銘大妖怪同士の決闘になるのだろう。逆を言えば、二人がかりで全力をもってして相手をしなければならない程の妖怪だと言う事か。

 

「さぁ、いきましょうか」

「はぁい」

 

 先ほどの大騒ぎが嘘のように、氷結した空気を纏った二人の少女が夜空を舞う。彼女たちは一直線に、月の下にまで飛翔を開始した。

 

 

 別に、想定していなかった訳では無い。むしろ可能性としては、私の中で大半を占めていたと言って良い。

 

 月が偽物の―――それも大昔の禍々しい月にすり替えられたという、妖怪の存続に関わる前代未聞の大異変が発生したと認識した時、私の脳裏を掠めたのは、あの吸血鬼の姿だった。

 太古から生きながらえている異端の吸血鬼であり、レミリア・スカーレットを上回る力の持ち主たる彼ならば、月をすり替える事など造作もないだろう。加えて、奴は確実に幻想郷で何かをする腹積もりでいる妖怪だ。更に時間的に考えると、現在奴が幻想入りを果たしてからおよそ二週間と少し経過している。行動を起こすにしても、タイミング的には申し分ないだろう。

 

 そしてこの通り、奴は月の異変が起こっているこんな時に姿を現している。偽りの満月と向き合い、静かに佇むその後ろ姿は魔王と称するに相応しいものだった。

背後からも放たれる禍々しい瘴気は月の狂気と入り交じり、筆舌に尽くしがたい悪寒を呼び起こす。境界を操作して無効化しようとも考えたが、驚くことにこの瘴気、何故かは分からないが境界線が存在しないのだ。この世に存在するほぼ全ての物に境界は存在している。一見完全無欠に見えても、反転の境界と言ったものは存在するのだ。それが彼の瘴気には無い。まるで反転したとしても全く同じ性質を持ち合わせている――――否、その一つだけで完成しきってしまっている代物の様だ。

例えるなら、『点』。かれの瘴気は、一つの『点』でしかないのである。線も無ければ面も無い。無論立体でもある訳が無い。ただ『点』として機能を果たしているかのような、そんな存在だった。私が言うのもなんだけれど、無茶苦茶にも程がある。

 

 ふと、私は幽々子の方をちらりと見た。彼女は変わらない様子でふわりとした笑みを浮かべているが、目が全く笑っていない。危惧してはいたけれど、亡霊の身であっても奴の瘴気は届くというのか。全くもって、存在自体が眉唾物の様な男である。神代から存在していたらしいという藍の報告は、もしかしたら本当なのかもしれない。

 

「こんばんは」

 

 あの夜の時と同じように、私は彼へ挨拶の言葉を掛ける。彼もまたあの時と同じように、静かに私たちの方へと振り返った。

 彼は微笑む。光の届かない水の底を体現するかのような魔力の波と瘴気の渦を放ちながら、しかし西行妖の如き妖艶さを湛えた笑みを浮かべる。

 

「こんばんは。久しぶりだね。この前は急に居なくなってしまって心配したのだが、どうやら息災の様で安心したよ」

 

 相変わらず、耳にするだけで内臓全てを絡み取られるかのような、甘くも痺れる声だった。この声で、奴は闇夜の支配者と謳われる程に、数多の魑魅魍魎の心を縫い止めて来たのだろう。

 

「ええ、お蔭様で」

「それは何よりだ。……ところで、そちらのお嬢さんは君の友人かね?」

 

 彼の紫眼が幽々子を射止める。対して彼女は、平常時と変わらないふわふわとした口調で、律儀に自己紹介を行った。

 

「初めまして、西行寺幽々子と申します。冥界の管理者を務めていまして、紫のお友達ですわ」

「自己紹介、恐縮の至りだ。私はナハト。最近幻想郷へやってきた吸血鬼だよ。よろしく」

「これはこれは、ご丁寧に」

 

 あくまで『よろしく』と返さないあたり、幽々子らしいと言ったところだろうか。彼もそれを理解しているのか分からないけれど、何食わぬ様子で、不敵かつ柔らかな笑みを浮かべている。

 兎に角彼のペースに呑みこまれないうちに、私から流れを構築しなければ。以前の二の舞になる訳には絶対にいかない。

 

「ところで、貴方はここで何をしているのかしら?」

 

 私の問いに、彼はうむ、と相槌を打つ。

 そしてただ簡潔に、一言で答えを出す。

 

「少し、人を探していた」

 

 ……探して『いた』。それはつまり、もう見つかったと言う事なのだろう。

 人探しで奴が誰を探していたのかなど、いちいち考えるまでも無い。十中八九私の事で間違いないだろう。奴はずっと偽の月を眺めていた。まるで月の異変に気がつき、駆けつけて来る者達を待ち受けるかのように――――そう、探していたのではなく、奴は『待っていた』のだ。この私を迎えるために、吸血鬼にとって不都合が出辛い月に関わる異変を起こして。

 だが奴の狙いはそれだけではないだろう。ナハトを異変の元凶だと仮定した場合、異変を起こした理由も幾つか説明可能なものとなる。

 

 一つは、幻想郷に自らの影響力を知らしめる為。

 一つは、奴が胸の内に抱える計画を遂行する上でのピース、または本筋としての機能を果たす為。

 一つは、無視できないレベルの異変を起こして私を呼び出し、以前失敗した交渉を持ち出す為。

 

 どれもこれも仮説の域を出ないが、可能性としては十二分にも足りている。もしかしたらこれら全てが奴の目的なのかもしれない。

 しかし今は、幽々子も傍にいる。彼女は一見、飄々とした印象を受ける和やかな亡霊だが、その実非常に頭の切れる女性だ。私の真意を言葉で語らずとも汲み取ってくれる、数少ない友人なのである。

 そんな彼女と私を同時に相手にして、奴が思い通りに事を運べるとは思えない。それは恐らく、奴自身も既に理解しているだろう。そのせいで新たに予防線を張り巡らそうとしているのか、彼はいくらか地上の方向へ視線を逸らし、何かを確認する動作を行っていた。

 何をするつもりなのかは分からないが、逃がす訳にはいかない。今度は私が追いつめる番だ。

 

「その人は無事に見つかったのかしら?」

「ああ、たった今ね」

 

 即答した彼に、私は歯噛みする。

 やはり、仮説は正しかった。奴は私を再度誘き寄せるつもりでいたのだ。だが今回は二度も同じ轍を踏むつもりは無い。今は幽々子も居るし、私にも考えがある。

 

「それで、何故その人を探していたの?」

「とても大事な用があるんだ。それを達成するには、その者の力を借りないと上手く事を運べなくてね」

 

 ―――そう言えば彼は以前、脳漿が麻痺を起こしそうな甘美の声で私に協力を要請してきていた。つまり奴の目的を成すには、私の境界を操る力が必要だと言う事か。

 ただ、ここで注目すべきは私を狙っている事ではなく、『上手く事を運べない』と言う発言である。裏を返せばつまり、面倒にはなるが別の手段でも達成できない事は無いという意味に繋がるのだ。

 

 何だ? 彼は一体何を成し遂げようとしているのだ? 境界を操れば安易に進み、自分の力だけでは面倒な事柄……はっきり言ってそんなものは掃いて捨てるほどに存在する。自分で言ってしまうのもアレだけれど、境界を操る力は万能性が非常に高い。それこそ、空間転移から夜を停止させるに至るまで―――いやそれ以上に幅が効く。

 だからこそ、真実を掴み取り辛い。解釈できるパターンが多すぎるのだ。その中からどれが真の目的なのかを引き当てようとする行為は、砂丘の中に埋まったガラス球を探し出す様なものである。砂丘に埋もれてしまっているせいで、彼が何の目的をもって幻想入りを果たしたのかが、全貌すらも見えてこないのだ。

 

 幻想郷を支配しようとしている様には見えない。そうであれば、この異変はあまりに効率の悪い手段である。いくら月がすり替えられ狂気が強まろうとも、何日も浴び続けなければ妖怪が狂うことはまず無い。精神を不安定にさせて魔性の声を駆使し、支配下に置こうとするのであれば、むしろ彼自身が直接様々な地へ侵略する方が手っ取り早い話である。認めたくはないが奴の声なら、仕草なら、力なら。格の低い妖怪を手中に収める程度など、造作も無い事だろう。しかし、彼はその手段を取らなかった。

 

 では。では。では。

 

 ぐるぐると、思考が回転を繰り返す。それでも彼の本当の目的を探り出す事は叶わなかった。

 ならば、異変の目的は何だろうか。まさか私を誘き出す為だけに異変を起こした訳ではあるま――――

 

「さて。折角再会出来た所で名残惜しいのだが、残念なことに今夜ばかりは都合が悪い。すまないが、私はここでお暇させて貰うよ」

 

 ―――い?

 予想とは全く異なる彼の発言に、私は頭の中が一瞬純白に染め上げられた。

 お暇させて貰おうとは、まさかそのままの意味で使っているのだろうか? 本当に? 本気でこの場から、彼は去るつもりだというのか?

 私の混乱を知る由も無く、彼は『それでは、また』とだけ言い残して、静かに下降を開始した。まるで、もうあの月をどうとでもしてくれと背中で語るかのように。

 

 何だ。何故彼は、こんなにもあっさり身を引いたのだ。異変を起こしたのは別に私を呼び出す為だけではあるまい。ここまで大仰な術を用いたのだ。たったそれだけの理由では目的を完遂する効率が悪いどころの騒ぎではない。この様に幽々子の乱入などの予測不可能なアクシデントが起きて失敗すれば、リターンなんてものは発生し得ないのだ。

 

 それとも、まさか本気で彼は――私を只呼び出す為だけに異変を起こしたとでも言うのか?

 たったその為だけに、下手をすれば幻想郷が狂うかもしれない大異変を起こしたとでも?

 

 血流の感触が、失せた。

 

 こんなの、認めたくない。こんな事が、あってたまる訳が無い。彼が、たった一人の妖怪を誘き寄せる為だけに、ここまで大きな異変を起こしただなんて、考えたくも、無い。

 でも、仮説を証明する為のピースは揃い過ぎている。嫌と言う程に揃ってしまっている。それ故に、断じて認めるわけにはいかないこの答え以外、私は弾き出す事が出来ない。

 冷静さを欠いているのは分かっていた。理性では私は今何処かがおかしくなっていると理解しているつもりだった。ひょっとしたら、精神に纏わりつく彼の瘴気と忌々しい偽の月の光が、私の心を狂わせていたのかもしれない。

 

 ただ、その時確かにはっきりしていた事は。

 この男の些細な戯れの為だけに、私の愛しき幻想が破壊されそうになっていたという現状が、頭の全てを埋め尽くしている事だけだった。

 

「待ちなさい」

 

 気がつけば言葉を放っていた。視界が歪むほどの妖気が、体から放たれている自覚はあった。

 

「そう言えば一つだけ、訊ねそびれていたことがありましたわ」

 

 私は扇子を広げ、夜空に掲げる。それを合図として、空間に無数の亀裂が生じた。

 

「貴方の実力、計らせて頂いてもよろしくて?」

 

 加減など無かった。スペルカードルールとして成り立っているかも分からなかった。そもそも、男である彼はスペルカードルールを適用しないかもしれない。まぁ、そんな事はどうでも良い。ただ今この時だけは。幻想郷を崩壊にまで追い込んでいたかもしれない下手人にだけは、少々きつめのお灸を据えなくてはなるまいとだけ、思い込んでいた。

 

 私は彼の体を圧し潰すかのように、全方位から無数の弾幕を叩き込んだ。

 

 

 さて、色々と突っ込みどころはあるが、取り敢えずは状況を整理しようか。

 

 私は外出をする許可をレミリアから貰って、初めての幻想郷見学を楽しんでいた。道中に藤原妹紅と言う少女に遭遇し、勧められるままに竹林へと足を踏み入れて迷子となった。迷いに迷った末、偶然にも人の住処を発見し、そこで輝夜と言う素晴らしい少女と出会った。私は彼女に友達になってくれと懇願し、そして友達になる為にこの条件を踏破せよと難題を授けられた。

 しかしその内容とは、蓬莱人の死を持って来いというものだった。

 

 輝夜曰く蓬莱人とは、輝夜自身やあの妹紅を主とした、蓬莱の薬を飲み絶対の不老不死と化した人間の事らしい。正直なところ、私は確かに友達が欲しいのだが、誰かの命を対価にしてまで得ようとは毛ほども考えていない。流石にそこまで腐っているつもりは無いのだ。幾ら難題の対象が、老いる事も死ぬことも無い完全無欠の不滅な存在であったとしてもである。そもそもの前提として、私は完全な不死を殺せるような怪物ではないのだ。当然殺したいだなんて欠片も思っていない。

 

 だから私は初め、至極残念ではあったが丁重にお断りした―――のだが、その次に語られた輝夜の弁から察するに、どうもこの難題、直接的な意味ではなかったらしい。私はてっきり妹紅を殺せと暗喩されているのかと思ったのだが実はそうではなく、『蓬莱人の死』を『見つける』事が出来れば良いらしいのである。つまるところは問答だ。私が彼女に献上するのは竹取物語に登場した貝や鉢などの様な物では無く、的確な『解答』。彼女が望む『答え』を導き出せばいいのである。これが何を指しているのかはまだ分からないが、兎に角、難題に直接的な死は関係無いと理解した私は、この難題を受理し、永遠亭と言う名の屋敷を後にした。

 

 次に、私の足を引き留めた輝夜の従者―――八意永琳と言う名の女性から、私はある願いを託された。その願いは私にとって凶報そのものであり、また同時に必ず遂行しなくてはならないものでもあった。私は二つ返事にそれを承諾し、その願いを叶えるために再び幻想郷へ繰り出した訳である。

 第一目的はまず、妹紅を探す事だった。彼女の協力があれば、永琳の望みを叶えられる可能性が高くなる。

 

 しかし問題がここで顔を覗かせる。私は幻想郷の地理を知らない。故に、三日前に別れた妹紅の行く処など見当もつかないのである。永琳曰く竹林の傍に住居を構えているとの事で何とか探し出したものの、彼女は留守だった。いきなり手詰まりとなってしまったのである。

 

 そこで私は、霊視の範囲を拡張させて広範囲に存在する魂の色を見極める手法を取った。簡潔に言えば魂の探知である。本来ならば月の光を借りてエネルギーを補充した方が消費は少なくて済むのだが、今夜ばかりはそうはいかない。永琳曰く、永遠亭の住人の一人と輝夜を迎えに来る月の使者とやらから守るために一晩だけ月を隠さねばならないらしく、その為、今現在天蓋で輝いている月は幻影でしかないからだ。試しに月光を浴びて力を補充できるか試してみれば、何だか凶悪な粗悪品を掴まされた気分になった。月光の性質が昔の懐かしいものに似ているせいもあるかもしれない。

 

 しかし蓬莱人の魂は桁が違う程にエネルギーの量が多いので、見つけられれば判別は容易だった。それでも数多く存在する魂の中から発掘するのに10分近くかかってしまったが。しかも居場所が、私のすぐ足元にある人間の里の中だというのだから笑えて来る。灯台下暗しとはよく言ったものだった。

 

 そんな時、紫と西行寺幽々子と言う名の亡霊さんに出会った。彼女たちはわざわざ挨拶をしに来てくれた様だ。しかし、折角話しかけてくれたというのに心の底から申し訳なく思っているが、今夜ばかりは本当に時間が迫っているのでお暇させて頂いた。今度会った時は前回の件も含めて何かお礼をしよう等と考えて妹紅の元へ向かおうとしたわけなのだが……。

 

 

 何故か私は今、紫と幽々子の二人から弾幕ごっこを吹っ掛けられていた。

 

 

 未だに何が起こったのかが分からない。紫は私の力を試したいと言っているが、どうも怒っている様子である。だが私には全くもって彼女を憤慨させるような事柄に身に覚えが無い。もしやまた魔性が影響して何かすれ違いを引き起こしたのだろうか。兎に角先ほどからとんでもない量の妖力弾に追われている。

 

 これがまた、桁が違う攻撃だった。以前戦闘を行ったフランのそれとは比較にならない圧倒的な弾幕密度である。と言うよりそもそもこれは弾なのだろうか。あまりに密度が濃すぎてレーザーにしか見えない有様だ。実際にレーザーらしきものも撃たれている。それでも尚、弾の放つ輝きが夜空を彩る光景は、場違いながらも美しいという感想を抱かざるを得なかった。

 

 しかもそれが一人ではない。幽々子もまた、同程度の凄まじい一清掃射を、まるで夜空を舞台に踊る演者の様に、くるくると可憐な舞を披露しながら撃ち放ってくるのだ。舞台を飾る桜吹雪をそのまま再現し、さらに昇華させたかのような攻撃は、吹雪と称するより最早台風と言ったところだろう。確かに見惚れるような絶景ではあるのだが、弾幕ごっことはここまで苛烈なものだったのか。成程、以前パチュリーが弾幕ごっこを試したいと言い出した私に対して『幻想郷と戦争を起こすつもりなのか』と言ったのも頷ける。これは私からすれば最早『ごっこ』などではない。戦争の領域だ。こんな遊びを『ごっこ』と称するのだから、幻想郷の少女たちは想像以上に逞しいのだなと妙な感心を胸に抱いた。

 

 縦横無尽に夜空を駆けまわり、兎に角回避に徹する。ふーむ、これでは埒があかない。こんな状況で妹紅の居る元へ逃げ込めば最後、人間の里は一瞬で更地と化すのではないか。紫がそんな事をするとは到底思わないが、間接的に進んで人質を取るような真似は御免だ。かと言って現状維持を続けるのも苦しい。

 

 仕方がない。何に怒りを抱いているのかはまた原因を探るとしても、まずは応戦して活路を開こう。適度に戦闘を繰り広げて私が撃墜されれば、その場凌ぎではあるが彼女たちも納得してくれるはずだ。本来を言えば、心から説得を試みて彼女たちの怒りを解消したい所だが、今夜ばかりは時間が惜しい。方向性は違うものの、強行突破をさせて頂こうか。その為にも、出来うる限り彼女たちを傷つけない様に反抗しなくては。

 

 私は豪速で天空を斬り裂き、夜空の遥か上空までに身を移した。彼女たちもまた、流星の如き速さで私との距離を詰めてくる。

 そこで私は、背後に魔剣グラムを可能な限り展開した。数は一五本。これで降りかかる全ての弾幕を捌ききる。

 紫と幽々子は、私を挟み撃つ様に位置を整える。右手には紫が、左手には幽々子が。それぞれ膨大な妖力と霊力を纏いながら、優雅に夜空へ君臨した。

 

「やはりそれが、貴方の切り札の様ね」

「何だか嫌な雰囲気のする剣ねぇ」

「君たちの様な実力者を相手に慢心なんてものは出来ないさ。すまないが、今回ばかりは本当に急を要する。また改めて謝罪をさせて頂くよ。どれだけ罵詈雑言を掛けてくれても構わない。だから、心苦しいが全力で抵抗させてもらう」

 

 その言葉を皮切りに、二つの方向から同時に世にも美しき光の波が放たれた。

 一本のグラムを右手に据え、残った剣をそれぞれ七本ずつ両者の光の波と対峙させる。剣を扇状に配置して高速回転させることで、迫りくる弾幕を打ち払い続けた。さながらそれは、黒い巨大扇風機と言ったところか。

 

 一斉射撃から抜け出し脇から迫りくる弾丸を。次々と空間に生じる亀裂から吐き出される華やかな光球を。私は手に持つ魔剣で払い、弾き、身を捩って回避する。

 

 この二人の攻撃は凄まじいの一言に尽きる。グラムを修復する為に使う魔力量が段違いに多いのだ。それだけこの二人が、頭一つ抜けた実力の持ち主だと言う事なのだろう。もしかしたら、わざと撃墜されるなんて余裕が生まれないかもしれない。

 

 突如、ほんの少しの距離で空間が縦に裂けた。その中から、ぎょろりとした幾つもの眼が私を睨む異形の空間が顔を覗かせる。次の瞬間、桃色の光を纏った蝶の群れが一斉に、堰を切ったかの如く解き放たれた。

 その蝶を見た瞬間、私ははっきりとした身の危険を肌で感じ取った。

 

 ――これに直撃するのは不味い。

 

 躱しきれないと判断した初撃の数頭をグラムで叩き斬り、残りの群れを一気に上昇する事で回避した。態勢を整え、私に被弾しなかった蝶がキラキラと眩い光の粉を散らして消滅していく様を見届ける。

 

 あの蝶は一体なんだ。生き物ではないのは明白だが、明らかな死の臭いを感じた。どう考えてもこの世の性質のものではない。どちらかと言えば彼岸の性質へ寄った物だ。まさか、幽々子の弾幕か?

 

 そう言えば彼女は冥界の管理者だと名乗っていた。彼女自身も亡霊であり、改めて言うまでも無くこの世ならざる者である。死の気配を漂わせるエネルギーを操るとすれば、彼女しかこの場に存在し得ないだろう。紫とて生者だ。生者が死そのものの様なエネルギーを放つのは、理に適わない。

 

 何にせよ、私の認識が甘かったと言う事か。ごっこだからと少々軽んじていたのが間違いだった。

 

「流石、と言うべきかしら。まさか今の攻撃を避けられるとは思わなかったわ」

「運動神経がとても良いのねぇ。活発で果敢な殿方さんだわ」

 

 背後の空間が裂け、紫が姿を現したかと思えば、桜吹雪の様な光の波が巻き起こり、中からふわふわとした笑顔を浮かべた幽々子が顕現した。彼女の周囲には、先ほどと同じ蝶が羽ばたいている。

 蝶が持つ性質を霊視から観察して、私は一つの答えを得た。

 

「……成程、反魂の性質か」

 

 反魂。本来ならば死者を蘇らせる、呼び戻すと言った意味合いがあるが、その性質を逆手に取った戦法なのだろう。反魂が魂を冥府から呼び戻す……即ち魂の性質を現世(うつしよ)へ反転させるのならば、生者の魂を幽世(かくりよ)の性質へ反転させることも強引だが可能となる。そしてそれは即ち死を意味する。

 

「差し詰めそれは反魂蝶と言ったところかな」

「似たようなものねぇ。どうかしら。とても綺麗でしょう?」

「ああ、とても」

「でも、綺麗な薔薇には棘がつきもの。世の中の蝶には毒を持つ種も居たりするそうです」

「さらに蝶は、よく魂と結び付けられる生き物でもあるね」

「ええ。美しさは時に魂を奪うのですわ」

 

 掴み処のない言葉の数々に、飄々とした態度。ベクトルは違うが、紫と似ている様な気がする。友人と名乗るのも納得だ。私にも『るいとも』と外の世界で言われる様な者に、いつか会えればよいのだけれど。

 

「しかし幽々子。私と君は先ほど顔を合わせたばかりだ。私の力を計りたいと言う紫はともかく、君にまで攻撃される様な覚えは残念ながら私には無い。よければ理由を教えてはくれないか」

「あら、ふふ。そうねぇ、言ってしまえばとても簡単な事。異変において、疑わしきは罰せよが原則なのよ」

「……む? 待て、それではまるで――――」

「それに、紫がここまで気に掛ける妖怪さんがどんなものなのか知りたい気持ちもあるのよねぇ」

 

 再び、神々しいイルミネーションショーが幕を開ける。怒涛の如く迫る蝶の舞と紫の妖力弾をグラムで弾き飛ばしつつ、私は旋回を開始した。まずは全力で空中を移動し続け、思考を展開できる時間を稼ぐ。

 

 幽々子の発言から私が攻撃されている理由を考察してみたが、どうやら私は異変の首謀者と間違われているらしい。恐らく異変とはあの月の事だろう。考えてみれば、月は妖怪にとって非常に重要な役割を担う存在だ。人間にとっての太陽と言って良い。それが偽物の幻影にすり替えられたとあれば、普通の異変ならば必ず解決に赴いてくるという博麗の巫女では無く、紫自身が動くのも説明できる。そして私は吸血鬼だ。日の元では存在できない夜の住人の代表格である。そんな私が異常な月の元に佇んでいれば、先ず疑いにかかるのは当然と言って良いだろう。

 それになにより、同族たるレミリアが以前に引き起こした二つの異変……即ち前科もある。これらの要素から、私への疑いはますます強くなったと言ったところか。

 

 であれば、紫がどこか怒っている原因は、私が月をすり替えて幻想郷の妖怪へ悪影響――即ち幻想郷のバランスを崩そうとしているのかと勘繰ったからではないか。

 

 あの冷静で親切な紫がここまで取り乱しているのも、私の魔性で心が掻き乱され、更に愛着のある幻想郷が私の手によって危険に晒されたと思い込んだからだ。でなければ、賢者たる彼女がここまで直接的な手段を講じる事はあるまい。

 だとすれば厄介だ。異変の元凶は言うなれば月をすり替えた永琳だが、彼女も彼女で、大切な者を守ろうとする故に行動を起こしてある。ここで私が誤解を解いたとして、その矛先が彼女に向いた場合はどうなるだろうか。最悪の場合、本物の月を戻され月の使者の通り道を作り出してしまう。

 

 事情を説明すれば紫も永琳の事を理解して一晩だけ見過ごしてくれるかもしれないが、何せ今の彼女は頭に血が上っている状態だ。強行突破の末に、月の返還が行われると言ったアクシデントも起こり得る。

 

 ならば、どうする。

 

 私は亀裂から照射されたレーザーを数本のグラムで押し留める。残った剣を、牽制の為に二人へ放ち、追尾させる。二人が防御態勢に入ったため、僅かな隙が生じた。

 チラリと、偽の月を見る。

 本来ならばここにある本物の月が、所謂月の民の住まう月と重なった時に道が開ける為、贋作とすり替えてその道を塞ごうというのが永琳の案らしい。正確には偽の月を用いて幻想郷を密室化させる事で進路を絶つというものだ。ではどうにか、偽の月とはまた別の手段で道を塞ぐ方法は無いもの――――

 

 ―――――――……………………、

 

 いや、待て。密室だと?

 そのワードを思い浮かべた瞬間。唐突に、脳裏へ電撃が走り抜けた。

 

「…………結界だ」

 

 そうだ。博麗大結界。外の世界と常識や位相を『隔離』する機能を持ったこの結界の効力があるならば、もしかすると月の民の入り口を初めから防いでいる状態なのではないか? 博麗大結界も言い換えれば、幻想郷と言う名の密室を作り出している事に変わりないのだから。

 

 外の世界の月からこちらへ干渉してくるのならば、当然隔離された幻想郷では無く外の世界の『幻想郷のある場所』へ月の照準は向けられる。そこには当然、何も存在しない。あるのは只の森なのだ。

 活路が見えた。まずはこの疑問を確実なものとしなければ。

 

 グラムを手元に招集させ、私は休戦の合図を取る。彼女たちは私の行動を訝しんだのか、動きを止めて様子見に徹した。

 ここで、言葉を投げる。

 

「紫よ、一つだけ質問をさせて欲しい。博麗大結界は外の月から直接的な干渉を阻む効力があるのか?」

「……唐突過ぎて質問の意図が読めませんわ。そんな事を聞いてどうなさるおつもり?」

「月をすり替えた元凶の動機を解消する為だよ」

「なに?」

「はっきり言おう。君は思い違いをしている。私は月をすり替えた犯人ではない。そもそもそんな事をして得られるメリットが私に無いとは思わないか。私の頭に浮かぶのはどれもこれもデメリットばかりだ。その中の例を一つ挙げるのならば、何故私が、君とわざわざ敵対する火種を作る必要があるというのかね」

「……貴方は何を知っているの?」

「恐らく、君が知る事を望む答えだ」

 

 まだ永琳の名を出す訳にはいかない。暗に黒幕が居ると仄めかすだけで良い。これで私の意図はどんな形であれ伝わる筈だ。

 

 しかし彼女はこう考えている。結界の特性を知った私が、私欲のために結界を破壊しようと強硬手段に出る、もしくは利用する可能性があるかもしれないと。だから素直に答えられない。当然だ。今の私は、非常に悲しいが信頼を失ったも同然な状態なのだから。そんな相手に要求された情報を安易に開示するのは避けたいところだろう。

 

 ならば、更に対価を払うまでだ。時間を考えても躊躇している余裕はない。

 

「信用が足りない事は重々理解しているつもりでいる。だからどうかこれで、私の言葉を信用して頂けるか」

 

 私は、手に持つグラムを背後に放った。

 剣を操作し、構成する魔力を更に物質に近い性質へと練り上げていく。それこそ魂やエネルギーだけでなく、本当に物質が斬れる刀剣へと。

 調整を終えた刃を勢いよく横に薙ぐ。ビュンッ、と空気を斬り裂く音が耳を劈き、そして。

 

 私の首を、刎ねた。

 

 正確には、胴を刎ねたと言った方が良いのか。私の胴体を完全に切り離し、真下へと放棄する。胴体は夜の闇の中へと溶け込んでいった。いわば私は生首だけが浮いている状態に成り下がり、ただの頭と化した。

 流石にこの行動には紫も驚いたようで随分目を丸くし、幽々子はあらぁ、と穏やかに口にしていた。

 しかしこれでは声帯で声を調達できないので、スカーレット卿が使ったものと同じく、魔力操作で大気の振動を意図的に起こし人工音声を作り出す。

 

「『ご覧の通り、胴を捨てた。私は妖怪であるが故に頭だけになっても油断を捨てられない気持ちは分かるが、君ならば今の私をどうとでも対処できるだろう。不穏な動きを見せたら排除してくれて構わない。だからどうか、私の質問に答えてはくれないか』」

「…………、」

 

 しばしの沈黙が闇夜を支配する。紫は目を細めて私を観察すると、瞼を閉じて小さく息を吐いた。

 

「博麗大結界は月の干渉を跳ね除けるわ。ここが月に直接手を出される事は、無いに等しい」

 

 よし。幸運なことに推測は正しかった。正直なところ、これで違うと言われたらどうしようかと思っていたところだ。流石に頭一つで対抗できるとは思えないし、その様な無様な真似を晒すのは御免だ。

 

 兎に角これで、永遠亭の彼女たちの身の安全は確保されたのも同然と言ったところか。ならば、彼女たちに永遠亭の居場所を教えてこの異変を止めてしまっても構わないだろう。少なくともあちらの方へ紫たちの意識が向けば、妹紅に会いに行くことが出来る。それからまず、永琳の依頼を達成する為に動かなくては。

 

「『解答ありがとう。今度は私の番だな。――――竹林の奥だ。そこに君たちが探している者がいる』」

 

 紫は暫しの間、私の答えを頭で巡らせている様子を見せると、パチリ、と扇を畳んで袖の中に仕舞い込んだ。どうやら信じてくれるらしい。胴を撥ねた甲斐があったというものだ。これ以上を求められたらどうすればいいのかと考えていたが、杞憂に終わったのが不幸中の幸いと言ったところか。

 

「……まだ、貴方に謝罪をすることは出来ません」

「『分かっているさ。事の真偽を確かめる必要があるからね』」

「貴方の言葉が真実ならば、また近いうちに」

「『私も君に対して、少々乱暴な手段に出てしまったからね。謝罪と茶菓子を用意して待っているよ』」

 

 それが最後となった。空間の亀裂を生み出した紫は、その中に幽々子と共に姿を消していったのだ。

 ……至極今更だが、あれが彼女の愛用らしいスキマと呼ばれているものなのか。イメージ的にはもっとコンパクトな見た目をしているかと思っていた。

 

 さて、事態が沈下したところで、早速妹紅に会いに行かねばならないな。丁度胴体が落ちた場所の近くに居るようだから、ついでに体を回収して行こう。

 それにしても、紫に嫌われたかもしれないというのは、中々辛い現実だな。まぁ、今度顔を出してくれるようだから、その時に汚名返上が出来ればよいのだが。色々と頑張らねばなるまい。

 

 

「……またしても、してやられたわね。まさか彼が、異変の元凶の影武者を演出するとは思わなかったわ」

「どうやら時間稼ぎをされちゃったみたいねぇ」

「加えて、その立場を巧みに利用し、どう足掻いても交渉を持ちかけられる場を作らされてしまうなんてね。こうも心を揺さぶられ、踊らされ、失態を続けるだなんて、私も耄碌したのかしら」

「全部計算の内に行動していたとしたら、とっても凄い策士さんだわぁ、あの吸血鬼さん。藍ちゃんの調査結果がますます真実味を帯びてきているわねぇ」

「……………………幽々子」

「なぁに?」

「異変だとか、何もかも全部終わって一段落着いたらさ。晩酌、付き合ってくれる?」

「もちろん。幽々子お姉さんに任せなさいな~」

 



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10.「吸血鬼さんと不死鳥の血」

 アリス・マーガトロイドと言う名の魔法使い……いや、人形使いか? どっちで呼ぶべきなのか迷うけれど、まぁいい。

 

 とにかくアリスと言う名の友人から突然イブニングコールを貰い、これまた唐突に、無視できない異変が起こっているから原因を探すのを手伝えとご指名を受けて、私は晩夏の夜を箒に腰かけて飛んでいた。

 

 当然隣には、私の美容の邪魔をしてくれたアリスが、数多の人形とグリモワールを携え浮遊している。

 

「もう、夜に起こしたのは悪かったって謝ってるじゃない。だからそんなにジトっとした眼で何時までも睨まないで頂戴。言ったように人間の貴女にはピンと来なくても、これは本当に無視できないレベルの異変なの。……でも良い機会だから、これを機に月の有難さを知っておくべきだわ。貴女も魔法使いの端くれなんだし」

「へいへい、私には月を愛でる乙女心なんか無いですよーだ。ところで、こうして私が肌寿命を削ってまで異変解決を手伝ってるんだからさ、終わった暁には何か私にくれちゃったりするのかい?」

「都合のいい時は本当に厚かましいわね貴女は。だから頼りたくなかったのに……はぁ、しょうがないわね。少し珍しい魔法素材をあげるわ。それで良い?」

「魔理沙さんはアリスの愛の籠ったフルーツタルトもご所望だぜ」

「……了解。それで良いなら安いものよ」

「えっ? お前、まさか本当にソッチの気が……?」

「貴女をここで一度解体して意識を残したまま人形にしてやってもいいのだけれど、どうする?」

「せ、折角だが遠慮しておくぜ。人形は好きだけど眺めるに限る」

 

 アリスの相棒とも言うべき、フリルをふんだんに施された衣装を身に纏う上海人形達が、槍やらナイフやら鋏やらを構えこちらに突き付けて来た。操り主たるアリスは、光の無い目をこちらに向けて底の知れない黒い笑みを湛えている。どうやらちょっとからかい過ぎてしまったらしいので、素直に手を引いた。引き際を見極めるのは肝心だ。私だってまだ剥製モドキにされたくはない。

 

 ふと、人間の里から少しだけ外れた所を通過しそうな時だった。 

 私たちの高度より遥か上空で弾幕ごっこが開催され始めた事に気がつき、私は飛行を止めて、首を上へと向けた。

 

 丁度満月と重なる絶妙な位置で光の応酬が繰り広げられている……弾幕ごっこか? 

 首を傾げる。私の知っているスペルカードのみたいな決まった法則性が全く見受けられないからだ。

 とにかく派手で、とにかく速く、とにかく濃い――そんな印象を受ける空中戦だった。

 

 よく見ると、空を引き裂かんばかりの妖力弾を撃ちまくっている犯人は、幻想郷でも屈指の実力者たる紫と幽々子の二人ではないか。私は思わずぽかんと口を開けてしまった。

 

 互いに本気の弾幕戦をしているんじゃない。何やら二人で一つの飛行物体を撃墜しようとしているように見えた。

 飛行物体はあまりに速すぎて私の眼では全く追えない。なんて例えれば良いのか分からないが、とにかく物凄く速いナニカがびゅんびゅんと弾幕を潜り続けているのである。

 

 一体全体どんな化け物があいつらの本気弾幕をいなし続けているのかと注目していたら、彼女らは突然動きを止めた。

 どうやら何かを話しているらしい。止まってくれたお陰で、私は謎の飛行物体の姿を遠巻きに確認することが出来た。

 

 そいつは男の妖怪だった。月光の反射であまりよく見えないけれど、夜空で丈の長い服を靡かせている長身の男―――――

 

「――――っ!!」

「……魔理沙、どうしたの? 顔が青くて赤いわよ」

 

 どんな状態だそれは、と突っ込みたかったが、今の私にそんな余裕は欠片も存在していなかった。

 

 何故かは分からない。全くもって理解不能だが、あの男を眺めていたら無性に怖くて恥ずかしい気持ちが腹の底からマグマの如く込み上がって来たのだ。

 

 まるで昔書いた恋文をふとした拍子に読み返した時のような羞恥心の激流と、ヘビに睨まれた蛙の気持ちをごちゃごちゃに混ぜた、絶対不可避とも言える恐怖の触手が同時に押し寄せてきた。呼吸は全力疾走後のように荒くなって、心臓の打ち鳴らす音が二重の意味で喧しくなった。

 

 何だこれは。何だこれは。何だこれは。

 何故あの男を見た瞬間、まるでトラウマの映像を見せつけられたが如く心が掻き乱されたんだ? まさか視界に捉えると不味い類の術でも展開しているじゃないだろうな。

 異常事態が不安を呼び、私はアリスに縋り付くような声で言った。

 

「アリ、ス。お前、何ともないか……?」 

「ちょっと、本当にどうしたのよ。さっきから本当に様子が変よ?」

「お前は、あの男を見て何も感じないのか?」

「男……いや、感じるわ。禍々しい気配がこの距離でも伝わってくる。あの男と相対している二人からも、凄まじい妖気が溢れ出しているわね。……まさか、あの男がこの異変の元凶なのかしら。だとしたら賢者が動いているのも説明がつくけれど、あそこまで賢者を本気にさせるあの男は一体―――」

 

 眉間に皺を寄せたと思ったら、ぶつぶつと何かを独り呟きながら考え始めるアリス。こんな時でも自分の世界に浸れる都会派インテリの思考には着いていけない。

 

 私は謎の男の姿をなるべく目の中心に入れないようにして、再び開戦された弾幕合戦を目に焼き付ける事にした。

 まだ動揺がナリを潜めてはいないが、あの二人の本気弾幕を拝めるチャンスを逃す訳にはいかない。

 

 しかし、改めて見てみると何て凄まじい攻防だろう。男が月を背景に生み出した黒い剣が、たった十数本で二人の弾幕を捌き続けている。

 けれどそれを踏まえて見ても、二人の攻撃の熾烈さは目に余るほどだった。だって弾の密度が濃すぎて最早レーザーにしか見えないのだ。それが、男の何倍もの質量を持ってノンストップで放たれている始末である。

 

 加えて、全方位に出現した何十何百のスキマが一斉射撃を絶えず行い、負けず劣らずの桜吹雪の台風が夜を蹂躙するという、ありとあらゆる手を駆使した妖力弾の一斉射撃が男を仕留めにかかっていた。

 

 それはもはや、スペルカードルールなんて置き去りにした被弾必至の―――いや、必死の回避不可能弾幕である。

 少なくとも、あれはゲームなんかじゃ決して無い。例えるなら戦争だ。あんな弾幕、普通なら展開されただけで絶望してもおかしくない。

 

 でも男はその全てを凌ぎ切っていた。止まっていないと言った方が正しいか。

 一度もひるむことなく、文字通り目にも止まらぬ速さで弾の嵐を剣撃で切り伏せ、薙ぎ払い、防ぎ切っている。斬撃のスピードが速過ぎて、何百もの黒い線が弾幕を呑みこんでいるかのようだった。

 

 男が剣を放ち、反撃を開始してから暫くして、再び三者は遥か上空で動きを止めた。決着がついたのかは知らないが、十数本の剣は月明りに溶け込むようにして姿を消し、戦闘の気配が薄れ始めている。

 

 ……なんだか随分呆気ない終わり方だなぁ、と言うのが率直な感想だった。

 どちらかが撃墜されるかと思っていたのだけれど、まさかドローで終了だとは。後半、男が剣に二人を追尾させたときは紫の珍しい撃墜姿が見られるのかと思ったのだけれど。

 

 ――期待外れの結末に溜息を漏らしそうになった、その時だ。

 

 何やら上空で影が新たに生じたかと思えば、それがどんどん視界一杯に広がってきて。

 影が近づいてくるごとに、私の体は何故か氷の中に閉じ込められたかのように動かなくなった。

 

 ボスン、と何かが私の背後―――正確には箒の上に落下してきた音と感触があった。

 途端に私を侵食し始める神経毒のような悪寒の波濤。どこかデジャヴを覚える感覚を噛み締めながら、私は圧倒的な恐怖に呑みこまれた。

 

 振り返りたくない。振り返りたくない。振り返りたくない。

 

 何度も心の中で願い続けているのに、気持ちに反して勝手に首が後方へと曲がっていく。危険な不確定要素を視認しなければならないと本能が訴え、私の肉体の自由を奪ってしまっていた。

 

 映りこむ。

 首の無い死体だった。

 

 月光を照り返す白い肌の、私なんか簡単に抱えてしまえそうな大男。首から上に存在するはずの物体は見当たらず、一滴の血も流れない断面は、中身の有無が確認できない程の黒い靄に覆われていた。

 

 声が出なかった。脊髄反射に近い行動だった。 

 気がついた時には、私は帽子の中からミニ八卦炉を取り出して、遺体に向けて零距離射撃を始めていた。

 

 横から『何をしてるの!? 早く振りほどきなさい!』と言うアリスの怒声が聞こえたが、耳の穴から綺麗に抜け出していく。冷静さを完全に欠いた私は、ただただ眩い光の連続を遺体に向けて浴びせ続けた。

 

 この前偶然我が家で発見した退魔効果を高める金属で八卦炉を強化してもらったお蔭か、光線が打ち抜くたびに、頑丈な妖怪から肉の溶解していく生々しい音が生み出されていく。

 

 その時だった。ただ撃たれ続けるだけだった男の体が腕を伸ばし、私の八卦炉を掴み取ったのだ。

 しかし男の指が八卦炉の金属(フレーム)に触れた途端赤熱し、皮の表面が焼け始め、怯んだように指を離す。

 

 次の瞬間、怪物は思いもよらない行動をとった。首の無い体が跳ね上がるように上体を起こすと、これ以上私に八卦炉を撃たせないよう、抱えるように私を拘束したのである。

 そのまま私を抱えた体は自由落下を始め、人里の入り口方面へ向けて夜空を流れるように滑空した。

 

 

「た、助けてぇええええ――――っ!!」

「魔理沙!」

 

 振りほどこうにも、妖怪の力の前に私の細腕で敵う訳も無い。抵抗空しく、私は絶叫を上げながら首無しの肉体に連れ去られた。

 

 首無しが放つ謎の瘴気に精神を蝕まれ、霞む視界が捉えた最後の映像は、魔法陣を展開するアリスの横を人間の頭程度のナニカが通り過ぎて、豪速でこっちに向かって来ているというものだった。

 

 ――そのナニカが頭であると理解した瞬間。私は闇夜の中に、呆気なく意識を手放した。

 

 

 三日前の晩の事だ。

 あの夜、突然友人の妹紅が私の家に転がり込んできたかと思えば、直ぐに夜間外出禁止令を出すよう里の長や稗田家に掛け合ってくれと頼みこまれた。

 

 普段から人に対して関心を持とうとはせず、それどころか避けるような姿勢を取っていた妹紅がこの様な頼みを託してきた事に心底驚いた私は、彼女からその様な発想に至った事情を聞き出した。

 

 彼女曰く、その晩、あまりに奇妙な男と出会ったという。

 その男は見るだけで心の奥底から不安を駆り立てるような瘴気を発しており、また同時に、何故か片時も目を離す事が出来なくなる、魅了にも似た魔性を兼ね備えた妖怪らしい。背後に百鬼夜行を従え、里からそう遠くない距離を不自然にうろついていたとのことだ。

 

 永い時を生き、時には妖怪退治で生計を立てていた期間もあったという妹紅が不安を覚えるような妖怪で、百鬼夜行を従えていたとあれば動かない訳にはいかない。私は直ぐに里の有力者へと掛け合い、五日間だけ様子見として、夜間の間里の中であっても外出する事を禁止した。

 幸い里の者達はすんなりと納得してくれて、五日間は夜間営業をする事も控えてくれた。

 

 今では、妹紅の意見に耳を傾けていて良かったと心の底から思える。

 妹紅の話していた件の男では無いが、紅い館の吸血鬼が従者を引き連れ、突然里へ侵入しようとしてきたのだ。

 そして私は今、妹紅と共に彼女たちと交戦している状況下に置かれていた。

 

「不死『火の鳥-鳳翼天翔-』――――ッ!」

 

 妹紅がスペルカード宣言と共に、火炎で生み出された怪鳥型弾幕を豪速と共に撃ち放つ。夜を斬り裂く火の鳥は、そのまま幼い吸血鬼の体を呑みこもうと大口を開けて突進した。

 対する吸血鬼は紅蓮の瞳を輝かせ、火の鳥の一撃を目にも止まらぬ速さで潜り抜ける。しかし、火の鳥の軌跡から拡散して放たれた弾幕の一発に被弾しよろめいた。彼女はすぐさま体勢を立て直したかと思えば、お返しと言わんばかりに稲妻状のエネルギーを放つ光球を妹紅に向けて投擲した。光球はあまりの速度に槍の如く引き伸ばされ、絶大な威力と共に妹紅の体を穿ち抜ける。

 

「妹紅っ!」

 

 私が叫ぶと同時に、原形を失った妹紅の肉体は、すぐさま凄まじい炎を纏って再び元の姿へと復活した。その光景は、自らを灰にして生まれ変わる不死鳥の如き絢爛さを醸し出していた。

 

「大丈夫だって。と言うより慧音、今勝負中だって事忘れてない?」

 

 そう言って彼女は、私の背後に迫っていたナイフの弾幕を業火をもって打ち払った。

 すまない、と私は告げて、相手をしていた吸血鬼の従者と再び相対する。だが内心、私は何時まで経っても慣れない感覚に歯噛みしていた。原因は、妹紅の歪んでしまった姿勢にある。

 昔から妹紅は、例え手足が無くなろうとも平気だと、あっけらかんとした調子で言う。それは冗談でも何でもなくて、老いる事も死ぬことも無い特性を持ってしまった蓬莱人故に彼女は死生観が極限にまで薄まってしまい、自分を犠牲にすることに躊躇が無くなってしまっているのだ。先ほどの一撃だって、妹紅なら避ける事だって出来たはずだ。それを彼女は身を挺して受け止めた。私が心配の情を向けて妹紅へと意識を逸らしてしまった為に、吸血鬼の従者から攻撃される隙を作って妹紅の手を借りるような事にならなければ、復活で意表を突くと共に吸血鬼へ攻撃していただろう。それほどまでに、彼女は自身の安否に対して頓着が無い。

 それが何だか、自分は人間ではない形だけが似ているナニカだと諦めているように見えるのだ。例え、自分の口では人間だと言っていたとしても。

 

 彼女の歩んできた、人としては長すぎる生と過酷な経験がこの価値観を育んだのは分かっている。私が何を言ってもどうしようもない事だとは理解している。それでも、私は彼女の身を案じない訳にはいかないのだ。友人の怪我をする姿を好き好んでみたい者がどこにいると言うのか。

 だが心の中でどう思ったとしても、何も変えられない無力な自分が歯がゆくて、戦闘に集中しなければならないのについ思考が掻き乱されてしまう。

 

「私に被弾させた上に、粉々になっても死なないだなんてやるじゃない。見た所は人間っぽいけれど、お前は本当に人間なのかしら」

 

 唐突に、幼き吸血鬼がパタパタと蝙蝠に似た翼をはばたかせつつ顎に手を当てて言った。声色はどこか楽し気な雰囲気を孕んでいて、それを示すように顔には無邪気な笑顔が浮かんでいる。只の人間の子供であればさぞかし愛らしいと思えるのだろうが、吸血鬼の要素を付け加えると、それが途端に不気味に思えてくる。

 

「私は少し火が使えて、死なないだけの人間よ」

「そう? 私には無理して人間の真似をしている人の形の様に見えるけれど」

 

 途端に、妹紅の表情が曇る。会話の渦中にいない私も、脳裏に浮かべていた不安を見透かされたかのように思えて、無性に息苦しく感じてしまう。

 

「…………で、アンタ等は何故こんな時に、人里へ侵入しようとしているわけ? ついこの間賢者にこっぴどく叱られたって聞いたけど、もう幻想郷のルールを忘れたのかしら」

「まさか。忘れてなんかいないわ。私達はただ、あの月をすり替えた元凶を探し出す道中にこの里を通ろうとしただけ。別に人間を襲うためじゃないわ、お腹空いて無いもの。それなのに、お前たちが通せんぼしたんじゃない」

「当然だ。こんな怪しい夜に、里へ悪魔を通す訳が無いだろう」

 

 前へ踏み出すも、吸血鬼の言葉に私は思い当たる節があった。

 月のすり替え……そんな事が出来る人物は、妹紅と馴染み深いかぐや姫に仕えるあの従者しか私は知らない。月より飛来し、莫大な月の知恵を保有すると言う彼女しか。

 そう言えば妹紅がつい先日言っていたな。満月に訪れるらしい月の使いを跳ね除ける為に、八意永琳女史が一晩だけ、偽の月と本物の月を入れ替える術を行使する計画を練っていると。すり替えるのは一晩だけ……要するに次の満月の晩のみ、私の白沢としての力が不完全になる事を許容してくれと頼まれていたのだった。

 

 吸血鬼の発言と妹紅の伝言。そして月の力の不安定化。

 

 これらの要素から考えるとつまり、彼女たちは別に人里を襲おうとしていた訳では無かったと言う事になるのだろうか。

 甘言を用いて人を惑わす悪魔の特性を考えると判断を下すにはまだ早いが、日の光を嫌い月の満ち欠けに力を左右されるという吸血鬼なら、月の異常を解決する為に動いたとしても不思議ではないか。

 では里の安全を確実に守る事を考えると、元凶の方へ視点を誘導する事が得策だろう。

 

「しかし、月をすり替えた者の居る場所は知っている」

「慧音?」

「大丈夫、何の考えも無しにこんな事を言ったわけではないさ」

 

 因縁の宿敵だと言ってはいるが、誰よりも共に時間を過ごし、腐れ縁とも悪友とも言える奇妙な友情を持ったかぐや姫が月の使者に連れ去られる事態になることを懸念したのか、妹紅は冷えた声で私に耳打ちした。私は、大丈夫だと宥めるようにして告げる。

 

 永琳女史はかつて月の頭脳と謳われていた偉大な賢人だと、かぐや姫―――蓬莱山輝夜が豪語するほどに頭の良いお方だ。それこそ寺子屋の一教師を務めている私程度じゃあ遠く及ばない位に。

 

 現に月をすり替える案も術も、全て永琳女史が自力で発案、開発したものらしい。その知力の高さは、あの妖怪の賢者にすら匹敵……いや、もしかしたらそれを上回るのではないかとすら考えている。

 

 そんな彼女が、一妖怪に後れを取るとは思えない。例えそれが、かつて幻想郷の妖怪を絶大な力をもって統率した吸血鬼を相手にしたとしてもだ。

 相当な実力を持つ妹紅ですら、過去に一度だけ永琳と戦った際、手も足も出なかったと言っていた。だから私は永琳女史の力を信じて彼女たちを誘導する。

 

 こんな他人に縋るだけの様な真似は主義に反するが、里に無用な混乱と危険を招く訳にはいかないのだ。

 

「竹林だ。あちらの方角にある林の先に、元凶は居る」

「ふぅん」

 

 値踏みする様な視線を、吸血鬼は私に向けた。ここが誘導における最大の難所と言って良い。彼女が私の言葉を信じずに無理やり里を突破しようとすれば、戦闘は避けられないのだ。その時は、覚悟を決めるしかない。

 しかし私の覚悟とは裏腹に、彼女はパタパタと翼を動かして竹林へと向かい始めた。

 

「行くわよ、咲夜」

「よろしいのですか?」

「ええ。だって不完全な状態の半獣が月をすり替えられる訳が無いし、別に人里自体に用事は無いからね」

 

 私が半分白沢であるとバレていたのか。しかしここはその洞察力の高さに助けられたと言ったところだろう。お蔭で、余計な混乱を生み出さずに済んだ。

 

 そう思っていた矢先だった。

 不意に、背中に氷が放り込まれたのかのような正体不明の感覚が襲い掛かって来たのだ。

 

 ぞわりと背筋を這いまわる悪寒は全身にまで迸り、何が起こっているのかも分からないまま、私の体は一瞬で機能停止を引き起こして石像の如く固まってしまう。

 私だけなのかと必死に視線を動かせば、妹紅も眉間に皺を寄せ、その背に業火の翼を生み出していた。完全な戦闘態勢に入っている。

 

 彼女は唸るような声で、周りを見渡しながら言った。

 

「この底冷えする様な感覚……! 慧音、奴が近くに居る! 前に話したあの男よ!」

 

 対して、その場を立ち去ろうとした吸血鬼と従者は、何かを察したような表情を浮かべていた。

 

「お嬢様、この気配は……」

「ええ、間違いなくおじ様ね」

「上でしょうか」

「上っぽいわね」

 

 吸血鬼の少女が上を見上げた瞬間、反対に、何かが凄まじい勢いで地面に落下した。丁度紅い館の少女達と、私たちを隔てるような位置へと。

 土煙が爆発の如く巻き上がり、思わず腕で目を庇う。すぐさま妹紅は炎を操作して硝煙を払いのけた。

 

 私は、妹紅が警戒心を抱いたと言う『彼』の姿を目撃する事になる。

 男には頭というものが無かった。

 

 妹紅が言うには息を飲むほど美麗な男だったと言うが、首から上は完全に消失し、断面から黒い靄の様なものが溢れ出ている異形の姿となっている。

 元々は紳士然としていただろう洋風の黒装束は背中を中心に破損が見当たり、どこか焦げた布のような匂いが砂煙の埃臭さと共に鼻を突いた。

 

 しかし、何より驚愕すべき事案は。

 彼の腕に、ぐったりと項垂れる少女の姿があったことだ。

 魔法使いを思わせる帽子と衣装。金色の美しい髪に、共に抱えられている彼女の物なのだろう箒。

 

 それは、到底間違えようのない少女で。

 紛うこと無く、霧雨家から勘当され魔法使いとしての道を歩んだ少女―――霧雨魔理沙に他ならない。

 

 ゾクッ、と。考えたくも無い推測が、煩わしく思えるほどの速度で脳裏に花を咲かせた。

 目にするだけで膝と手が情けなく笑い始める圧倒的な瘴気を纏う妖怪が、明らかに意識の無い魔理沙を抱えている。

 誰がどう見ても、彼女の状態が彼と無関係の様には思えない。そして魔理沙が無事であるようにも到底思えない。

 

 それこそ、呼吸をしているかどうかすらも怪しく思えるほどで。

 

「ちぃっ!!」

「止まりなさい」

 

 真っ先に事態の深刻さへ反応した妹紅が炎を纏い、続いて私も駆けだして、男から魔理沙を奪い返す為に攻撃を加えようとした瞬間だった。吸血鬼の少女が妹紅の前へ槍状に引き伸ばしたエネルギーを突きつけ、私の首筋には従者のナイフが置かれていた。

 

 吸血鬼の少女からは先ほどの可憐な笑顔は失われ、明確な敵意を宿した鋭い表情が浮かんでいる。

 妹紅は炎を消すことなく、吸血鬼の少女を睨んだ。

 

「やっぱり、アンタはこの男の仲間ってわけ?」

「仲間も何も、この方は紛うこと無き私の義父よ。攻撃する様な真似は許さないわ」

 

 互いが互いを牽制し合い、微動だに出来ない張りつめた空気が辺りを支配する。

 この場の誰かが一歩でも動けば、至近距離で凄まじい攻防が繰り広げられそうな勢いだ。緊迫感が喉を干上がらせ、私は思わず生唾を呑みこんだ。

 

「『そこまでだ』」

 

 このまま永劫が続くかと錯覚するほどの静寂に杭を打ち込んだのは、頭上から鼓膜を射抜いた凛然たる声だった。

 

 首無し妖怪から発せられる瘴気とは違う、花蜜の香のように脳髄を痺れさせる魔性の声。耳にすれば理不尽なまでに恐怖を増長させられるのに、心と体は声の方向へ吸い寄せられていく。さながらそれは、麻薬に似た魅惑の瘴気であった。

 

 声の主へと目線を動かそうとしたその時、意識を逸らしたほんの一瞬、首無しの肉体がビクンと跳ね上がる。

 

 何事かと視線を戻せば、頭部を得た完全無欠の青年の姿があった。

 兆候も無く元通りになった灰色の髪の青年を前に、私と妹紅は茫然自失としていると、吸血鬼の少女がジトッとした眼を青年へと向けて。

 

「おじ様、今までどこにいってたの? 流石に三日ぶりの再会が胴体だけとは思わなかったわ」

「心配をかけて済まない。色々とやむを得ない事情があったのだよ」

「魔理沙を抱えている理由も?」

「不慮の事故だ。気を失っているだけで命に別状はない。……済まないが魔理沙の友人よ、この子を介抱してやってはくれないか」

 

 彼が上に向けて放った言葉と共に、また一人、ふわりと少女が姿を現す。

 

 金糸を思わせる滑らかな髪に琥珀の様な瞳。青を基調としたワンピースに丈の長いスカートを着こなし、肩にはケープが掛けられている。

 頭には赤いリボンがあしらわれたヘアバンドが装着されていて、どこか無機質な冷たさを湛えるその姿は、傑作の人形とでも形容すべき美しい少女だった。

 

 彼女の名はアリス・マーガトロイド。魔法使いであり人形使いでもあるらしく、稀に里を訪れて子供たちに人形劇を披露している姿を見かける。

 

 彼女は無言のまま、周囲に従えている人形を駆使して魔理沙を受け取ると、直ぐに青年から距離を取った。

 どうやら見知った間柄ではなく、彼女もまた青年を警戒している者の一人のようだ。青年は苦笑を浮かべ、アリスへ向けて言葉を紡ぐ。

 

「驚かせてしまって申し訳ない。ところで魔法使いよ、君と魔理沙はもしかして月の異変を解決しようと動いていたのかね」

「…………そうよ。月をすり替えた犯人を捜していたの」

「君たち二人も?」

「ええ。月が盗まれただなんて、妖怪にとっては前代未聞の大異変だもの。私たちも動かざるを得なかったわ」

「ふむ」

 

 彼は顎に手を当てて、暫しの沈黙の後に、再び口を開いた。

 

「君たちはもう家に帰りなさい。無論、異変の事は心配しなくていい。恐らくあと少しで異変は終息を迎え、夜明けの到来より前に月は元通りとなるだろう。これ以上は無暗に疲労を増やすだけの結果となる上、場を掻き乱しかねない」

 

 まるで月に起こった異変、そしてその経緯の全てを知っているかのような口ぶりで彼は言った。もしかして、青年は八意女史と面識を持っているのだろうか。

 類似した疑問を抱いたのは、当然私だけではない。

 

「……おじ様は、この異変と何か関係が?」

「と言うよりは、貴方がその元凶ではないのかしら」

 

 アリスが、鋭い目つきでそう告げた。口から出まかせに言ったのではなく、その表情からは確証をもっているように見受けられる。力強い視線はまるで、証拠を突き止め犯人を追いつめる探偵のソレだ。

 

「見たのよ、貴方が紫と西行寺の亡霊姫を相手に戦っているところを。あの二人に本気を出させるなんて、それ相応の理由があるからではないの?」

 

 その言葉に一番過敏な反応を示したのは、意外な事に吸血鬼の少女だった。彼女は驚きに目を見開くと、すぐに青年へと詰め寄っていく。

 

「まさか、さっき上で騒いでいたのっておじ様と八雲達だったの!?」

「そうだな。異変の元凶と誤解されてしまったのだよ」

「首を切られたのも、あの二人に?」

「いや、自ら切り落とした。彼女たちの誤解を解消するには、そうするしか方法が無くてね。ああ、服がボロボロなのは運悪く切り離した胴体が魔理沙の近くに落ちて、混乱した彼女が胴体を撃ったからだ。現場を見ていないから推測の域は出ないが、とにかくあの二人のせいではないよ。……すまないが、詳しく説明する時間が惜しい。これを見て納得してくれ」

 

 彼は吸血鬼の少女の前に立つと、彼女の眼前に白く、大きな手を広げた。

 黒い靄と共に光の泡のような物が放たれたかと思えば、泡が少女の額へ吸い込まれていく。 

 数拍の余韻が生じた後、少女は青年へ『任せて』とだけ、端的に呟いた。

 

 全く話の内容が掴めずにいたのだが、それはどうやら私だけではないらしく、その場にいる全員が訝しそうな表情を浮かべている。

 彼はそういった周囲の反応に慣れているのか、顔色一つ変えず直ぐに話の路線を修正した。

 

「先ほど、紫と幽々子が異変の元凶の元へ向かった。そう遠くないうちに月の異変が解決されるのは間違いない。君たちは帰りたまえ。そして魔理沙の友人―――」

「アリスよ」

「―――失礼した。アリスよ、再三に渡り押し付けてしまって申し訳ないが、魔理沙の面倒を見てはくれないか。彼女はどうも私の瘴気と相性が悪いらしくてね。恐らく、数時間は目を覚まさないだろう。かと言って放っておくわけにもいかない。本来ならば私が面倒を見るべきなのだろうが、私用が残っているためにそれが叶わないのだ。どうか頼みを聞き入れてはくれないか」

「なら、私の館に来なさい。おじ様が帰れと言うなら私が従わない理由は無いし、用件が無くなって暇だし」

 

 返事をしたのは、吸血鬼の少女の方だった。

 彼女はピリピリとした敵意を既に解除しており、従者に対して何らかのハンドサインを送っている。すると、指示を理解したのか一瞬にして従者の姿が消えてしまった。

 

「咲夜に来客の準備をしておくように言っておいた。我が館へ招待するわ、アリス。この状況下で、貴女もおじ様に色々と聞きたい話があるのでしょう? 無理も無いから、おじ様に代わって私が代弁してあげる」

「…………じゃあ、お言葉に甘えさせていただくとしましょうか」

 

 アリスの同意を得た吸血鬼の少女は『邪魔したわね』と告げて翼を力強くはばたかせると、アリスと共に空中へ身を乗り出していく。ふと、彼女は思い出したようにこちらへと振り返った。

 

「おじ様! フランが寂しがってるから、終わったらちゃんと帰って来てよ!」

「埋め合わせは必ずすると伝えてくれ」

 

 吸血鬼の少女は、返事を聞くと直ぐに湖の方角へ飛び去って行った。

 嵐の様に出来事が終息していく中、残された私と妹紅は、いまだ処理が追いついていない頭を必死に整理しつつ青年へと目を向ける。

 青年は相変わらず凄まじい魔力や瘴気を放ちながら、妹紅の元へと歩を寄せた。妹紅は思わず後ずさる。

 

 ……後ずさる?

 死の恐怖など全く持ち合わせておらず、それどころか死を求める素振りすら見せ続けてきたあの妹紅が、明確に不安の色を濃厚に表情へ浮かべて後ずさっている?

 

 本来ならば何も不自然では無いはずの光景に、私は違和感のような不思議な感覚を胸に抱いた。

 だって妹紅は、避けられる筈の吸血鬼の槍を避けようともせずに受け止め、肉体の損壊など視界の外に追いやってしまっている少女なのだ。

 そんな彼女が何故、ここまであからさまに焦っているのだ? 

 

 普通の人間や妖怪ならば、そこに不自然な要素などある筈がない。私だって、この男の傍に一秒でも居ようとは思わない。

 後ろに守るべき里が無くて、大切な友人たる妹紅も居なければ、確実に撤退を下している所だ。不安や恐怖を覚えるのが正しい反応であり、妹紅が焦りを覚えている光景に違和感を覚える私の方こそおかしいのだろう。

 

 違和感が風船に空気を入れるように膨らんでいく。それは最早妹紅に対してのものではなくなっていた。

 

 否、正確には妹紅に対する印象への違和感が生まれ始めているのだ。

 その正体が掴めないままでいる中、青年は妹紅の前へと立つ。

 唇を動かし、緩やかに、扇情的に言葉を紡いでいく。

 もやもやを胸の内に抱える私の鼓膜へ浸潤する彼の声はまるで、冷たく透き通った冬の清流のような声だった。

 

「さて、妹紅。君が今起きている事態をあまり掴めていないのは分かっているが、一つ私の頼みを聞いてくれないか。君にしか―――いや、君だからこそ頼める事なのだ」

「……嫌だと言ったら?」

「無論、説得させてもらう」

 

 とても穏やかで、子供に語り掛けているような口調なのに、体から放たれている瘴気はまさに暴圧そのものだ。『優しく言っているうちに従わなければ只では済まない』――そう言っているようにすら私は感じた。

 妹紅を擁護しようと口を開きかけるが、それを妹紅に手で制された。文字通り口出し無用と言いたいのだろう。私は再び唇を締めざるを得なかった。

 

「聞くだけ聞くわ。アンタは私を使って、一体全体何をしたいの?」

「蓬莱山輝夜の事で、少しね」

 

 名を耳にした瞬間。あからさまに妹紅の雰囲気が豹変した。

 目に宿るのは完全な敵意のそれだった。妹紅はこの男が輝夜に差し向けられた新しい刺客と思っているのだろう。

 確かに、異変の詳細を知っている風で輝夜の名前が出てくれば、敵対心を向けるに値する理由となるだろう。

 

 男はただ、冷静に告げていく。

 

「気持ちはわかるが、そう怯えないでくれ……いや、今は恐怖してもらわねば困るのか。承知の上で変な事を尋ねるが、妹紅よ。君は私が恐ろしいか?」

「誰が、アンタを恐れるって?」

「……そうか」

 

 噛みつくように妹紅は返す。それに対して、彼は困ったような表情を浮かべるのみだ。

 妹紅に纏わりつく火炎が勢いを増し、周囲に熱波と光を齎していく。私に飛び火しないよう調整してくれているのは分かっているけれど、傍で見る彼女の炎は、見る者を無差別にその業火で呑みこんでしまいそうな迫力があった。

 

 彼は一切臆する様子を見せることなく、どこか悲しそうに『すまない、許してくれ』と告げたかと思えば、唐突に袖をまくり、晒された腕に装着してある紅い石が嵌め込まれた腕輪を徐に外した。

 

 それが、変化のトリガーとなった。

 放つ瘴気の圧が爆発的に上昇したのだ。今までの彼の瘴気が春風程度に思えるような、圧倒的で、理不尽で、暴力的な瘴気が一斉に解き放たれた。

 

 視界が歪み、彼の静かな息遣いが夜風に乗って耳骨に直接這いずり寄って来る。神経が汚染されたかとさえ錯覚した。ありとあらゆる身体機能が正常に機能しない違和を覚え、膝がこれまでに無く笑いを起こす。

 

 両腕で体を抱き締めずにはいられない。私の中の神獣白沢の因子とも言える要素が、悲鳴を上げているのがはっきりと分かった。

 

「う……あ……ッ!」

 

 怪物。化け物。魔王。悪魔。

 あらゆる恐怖の象徴が頭に浮かんでは消えていく。

 しかしはっきりと分かるのは、この男が大妖怪八雲紫に匹敵するほどの怪物で、何故か私たちに凄まじい威圧を向けているという事実のみ。

 

 私の身も心も蝕んだ恐怖が解けたのは、妹紅が反射的に爆炎を撃ち放った瞬間だった。弾幕ごっこの比ではない爆炎が植物を、大気を、青年を丸呑みにし、盛大な火の粉を辺りに撒き散らす。

 

「はぁ……はっ、はぁ……う……!」

 

 激しい呼吸を繰り返し、滝の様に汗を流す妹紅は、未だに燃え続ける炎の塊から視線を離そうとはしなかった。

 あの男が、威圧一つで魂を持って行かれそうになるほどの瘴気を放つ男が、この程度で力尽きるとは到底思えなかった。

 案の定、炎は容易く引き裂かれた。

 炎を呑みこまんばかりの―――いや、月の光すらも食らい尽くしてしまいそうな漆黒の闇が、炎を内側から纏めて飲み干したのだ。

 

「君は、どうやら輝夜ほど深刻ではいない様だな。まぁこれで一先ずは安心と言ったところか。後は引き金を引くのみだが」

 

 悠然と、男は炎から歩み出す。

 焼け爛れた肌や衣服を瞬く間に修復させながら、堂々と、一切の戸惑いも見せずに。

 それはまさに、魔界の底より地上を支配するべく君臨した魔王のそれであった。

 

 妹紅は追撃を加えるが、それでも男は怯まない。炎が着弾しても直ぐに修復する出鱈目な再生能力を持つ彼は、一身に爆炎を受けつつ話を進めていく。

 

「口で伝えても、恐らく私の行動に君たちが納得してくれる事はあるまい。それも私が不用意に怯えさせてしまったせいだとは分かっているのだが、致し方のない事なのだ。難しいだろうがどうか理解してほしい。そして妹紅。君にはあと少し付き合って貰わねばならない。厚かましいのは重々承知している。だが彼女の為に、これを見て事態を把握してくれ」

 

 彼は再び腕輪の嵌められた腕を妹紅に伸ばし、もう片方の腕を私へと伸ばした。最早逃げる体力すら根こそぎ奪い取られた私と妹紅に、これから行われるナニカから逃れられる術がある筈が無く。

 妹紅は金色に輝く光の泡を突きつけられ、石像の様に動きを止めてしまった。

 

「しかし妹紅の友人よ。君はここで退場しておいた方が良いだろう。ここから先は、彼女たちの問題だ」

 

 妹紅とは違う、青く輝く光の泡が視界の前に蛍火の様に現れて。

 唐突に、視界が靄に包まれていく。爆発的に脳を侵していく睡魔が、無情なまでに私の意識を斬り裂き始めた。

 フラフラと足の感覚が不鮮明になって来たと感じたその時、妹紅が私の背を支えた。彼女の顔を覗けば、先ほどまで彼に向けていた敵対心は何処にも見当たらない。何か決心を着けた様な、燃えるような眼を妹紅は湛えていた。

 

「妹紅。輝夜を救うにはまず君の血が必要なのだ。ほんの少し、私に分けてくれると嬉しいのだが……」

 

 霞んでいく瞳が最後に捉えたものは、青年の口元から鋭い二本の牙が、炎に照らされ輝く光景で。

 暗闇に呑まれていく中に妹紅が何かを青年へ訴える声が、最後まで熱く鼓膜を叩いていた。

 

 

「どうやらまたも嵌められた様ね。何だか今夜は罠三昧だわ。暫くは遠慮したいくらい」

「きっとさっきの弾幕戦で疲れた後に甘いものを食べなかったから、頭が回らなかったのよ~」

「幽々子は呑気ねぇ」

 

 竹林の奥で発見した物凄く怪しい屋敷に侵入し、美しい銀色の髪を三つ編みにした妙な女に誘い込まれたその先で、紫と幽々子がのんびりとした調子で呟いた。

 

 目の前には銀髪の女が不敵な笑みを浮かべて浮遊している。どうやら月をすり替えた犯人は彼女で間違いない様だ。紫があの謎の男から聞き出したと言う情報は正しかった。

 

 しかしどうやら私たちは、彼女にまんまと誘い込まれてしまったらしい。

 果てしなく長い通路を追いかけ続けたと思ったら、いつの間にか偽の月が浮かぶ異空間の様な場所まで誘き寄せられていた。退路は絶たれ、今この場には紫と幽々子、私と妖夢、そしてあの女しか存在していない。

 

 あの時、分かれ道で勘を頼りに行った方が良かったのだろうか。しかし何故だかあっちへ行ってはいけないような気もしたのだ。何か見てはならないと言うか、関わるべきではない何かが起こるような気がして已まなかった。

 

 まぁ過ぎ去ったことは仕方ないので、目の前の敵をコテンパンにすることだけを考えるよう思考をリセットしておく。どちらにせよ元凶であることには変わりないのだ。倒せば月も返ってくるだろう。

 

「慌てなくても、朝になったら月は返すわ。でも今返す訳にはいかないのよ」

 

 余裕たっぷりで言ってのける女に、私はお祓い棒を突きつける。同じように妖夢は刀へ手を掛けた。返すと言われても悠長に待っている理由なんて無いのだ。

 

「そう言う訳にはいかないわ。朝になる前に月を取り返すために来たんだから、さっさと返して貰うわよ」

「幽々子様の命ですので、斬らせて頂きます」

「最近の若い子ってせっかちね。まぁ、朝まで遊ぶこと位はできるわよ。どうせ貴女達はここから出られないのだから」

 

 一気に威圧感が増した女と、今すぐにでも弾幕戦が開幕する空気が辺りを支配する。応じるように私は札と針を取り出し、妖夢が刀を構えた。

 

 いざ突撃――という所で、唐突に紫が私の眼前で扇子を開き、割り込んだ。

 なんで邪魔するのよ、と文句の一つでも言いたくなったが、紫の氷柱の様な瞳を見て口を閉じる。余程大事な事らしい。

 

「始める前に、貴女に一つ聞いておきたいことがある」

「何かしら。時間稼ぎは歓迎よ」

「ナハト、という男に心当たりは?」

 

 途端に、女の表情が明らかな曇り模様を見せた。

 紫の発言した『ナハト』と言う名前。おそらく先ほどの男の事だろう。元凶も知っているって事はやっぱり、異変の関係者だったのだろうか。さっきとっちめておけば良かった。

 

「知ってるわ。と言っても、つい数時間前に会った程度の顔見知りだけれど。貴女は彼の友人か何か?」

「いいえ、知り合いよ。素性を知らない程度の知り合い」

「……貴女、彼の正体を知らないのね」

 

 意味深な事を女は言う。彼女の発言に対し、紫は扇子で口元を隠した。どうやら興味があるらしい。と言うより、その言葉を待っていましたと言う風だった。

 

()()()()()()()()()()()()。でもその口ぶりだと、貴女はその先を知っているのね?」

「ええ、把握して本当に驚いたわ。知りたいのなら教えてあげても良いけれど」

「是非ご拝聴願いたいですわ。私も幻想郷を管理するものとして、奴の事を可能な限り把握しておかなければならないから」

「では、終わった後にでもゆっくり」

「ありがとう」

「私も貴女と話す事がそれなりにありそうだもの、お礼はいいわ」

 

 何だか知らない間に話がトントン進んでいく。置いて行かれた私には何をそんなに真剣そうに話しているのかちんぷんかんぷんだった。

 横目でチラリと見てみると、幽々子は―――分かっているのか分かっていないのか判別つかない。平常時と変わらずニコニコ微笑みながら宙に浮かんでいる。 

 反面、妖夢は全然理解できていない様子だった。頭上に沢山クエスチョンマークが浮かんでいるのが見えたから間違いない。

 

 まぁ、一段落着いた様なので、私は改めて決闘を申し込む事にした。

 

「井戸端会議は終わり? それじゃあ早速ブチのめさせて貰うわよ、兎の頭領さん!」

「あ、え、ええっと、参ります! 覚悟しろ! 悪兎のボス女郎め!!」

「兎のボスはてゐなのだけれど……まぁいいわ。かかって来なさい、幻想郷の明けの明星達よ!」



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11.「ただ、潤いを求めて」

「さて、人形師アリス。約束通りおじ様に代わって私が彼の知り得た情報を代弁するわ。貴女はまず何から聞いてみたいの?」

 

 首と胴体、それぞれ別々に遭遇するという珍妙怪奇な出会いを果たした謎の男に促され、更にレミリアの言葉に誘われるがまま紅魔館へと訪れた私は、魔理沙の介抱を成し遂げた後、レミリアと座談会を館の一室にて行っていた。

 内容は勿論、あの男と今回の異変について、だ。

 

「月がすり替えられた異変の詳細について説明して貰えないかしら」

 

 あの時、魔理沙が行動不能な状況に陥ったからこそ、レミリアと彼女がおじ様と呼ぶ男の言葉に従って撤退する方針を取ったが、それで納得もしろと言うのは無理な話だ。何故月があと少しで元に戻るのか、説明をしてもらわねばならない。

 

「異変の元凶は、竹林の先に居る宇宙人よ」

「宇宙人?」

 

 あまりに耳に馴染まない言葉を前に、私は首を傾げる。話し手のレミリア自身も、どこか信用出来ていない節がある様だ。

 

「正確には、月から亡命してきた民らしいわ。満月の夜―――つまり今晩にここへ迎えを寄越すって信号を、その月の民の一員が傍受したらしくてね。それを阻止する事が異変の発端となったのよ」

「……と言う事は、偽の月とすり替えて使者の通り道を塞ごうとしたと?」

「そう。お迎えさんが来られないよう、幻想郷を一時的な密室にしたってワケ」

 

 ……成程、それなら月があと少しで戻ると言うのも頷ける。その月の使者とやらがこちらへ来れる期間が満月の夜のみならば、朝を迎えてしまえば自ずと使者の妨害に成功したと言う意味に繋がるのだから。

 …………? しかしそうすると、紫や亡霊姫が異変解決―――即ち本物の月の奪還に赴いたと言うのは、かなり不都合なのではないか?

 

「心配いらないわ。おじ様の記憶……と言うより、記憶にある八雲の言葉によれば、博麗大結界が宇宙人の考えた策略と同じ効果を持っているらしいの。だから月の奪還が八雲紫の手によって遂行されたとしても、結果は変わらないとの事よ。つまりこの異変自体が、最初から無意味な事だったの」

「……私の考えてることがよく分かったわね」

「だって貴女、パチェと似てるんだもん。なんとなく次はこう考えそうだなぁって思って口に出したら当たってたワケ」

 

 読みが当たったことが嬉しいのか、幼気な面影が残る顔貌にレミリアは笑みを浮かべ、楽しそうにカラカラと笑った。そんなに私と彼女は似ているのだろうか。私からしてみればインドア派とアウトドア派、更に魔法の系統等がキッパリ分かれている点から見て、似ているとは思えないのだけれど。

 そう言えば、最近図書館へ行っていないと思い至った。件の彼女の顔を見に行く序でに、本の貸し出し予約を帰りにでもしていこうか。

 

「じゃあ、次に私が質問したい事も、言わずとも分かるのね?」

「勿論。おじ様の事でしょう?」

 

 またも正解だ。まぁ、流石にこれ以外に尋ねるものは見当たらないか。

 しかし件の男……思い出すだけで背筋に鳥肌が立つかのようだ。大妖怪と冥界の管理者二人を同時に相手取っても引けを取らない、近くに居るだけで胃の内容物が逆流してしまいそうになる禍々しい瘴気を常に放ちながら、言動はその対極。柔らかで紳士的な態度を決して崩さず、それがあまりに不気味に思えてくる。はっきり言って気色が悪い。

 

 想像してみて欲しい。どこからどう見ても魔王としか言いようの無い風格を持ち、事実一人の少女の意識を容易く刈り取った怪物が、ニコニコと涼し気な笑みを浮かべながら柔和に他者と接している光景を。結論は語るまでも無いだろう。

 

「おじ様はただ、偶然に月の民と会って異変の全貌を知った。本当にそれだけよ。異変自体とは関係が無いわ。八雲たちに誤解されて一戦交えたのも、まさしく運命の巡り合わせと言えばいいのかしらね」

 

 レミリアが運命と言う言葉を使えば、妙な説得力が湧いてくるのは何故だろうか。恐らく真実だけを述べているだろうから、余計に信憑性が湧いてくる。

 しかし私が知りたいのは、その先なのだ。

 

「では、何故異変と無関係の彼があの場に? 異変を起こしていないにせよ、あんな瘴気を放ちながら上空に居座っていたら、誰だって疑いの目を向けるわ。むしろ疑って貰う事を目的にしているのかと勘繰る程よ」

「人を探していたのよ。あの人はただ、探し人を見つけ易くするために、よく見渡せる空を飛んでいただけに過ぎない」

「ではその人探しをしていた理由は?」

「さぁ? そこまでは見せて貰えなかったわ」

 

 そう言って、彼女は咲夜が置いて行った紅茶を一口、口へと含む。

 おそらく、今の発言は嘘だろう。人を探していた事を知っていて、その理由を知れない訳が無い。つまり知られたらマズいのか、知らない方がいい情報なのだろうか。どちらにせよ、良い情報でないことに変わりはないに違いない。

 

「アリス」

「なに?」

 

 紅茶を置いたレミリアが、先ほどまでの余裕のあった笑みを掻き消し、真剣な表情を浮かべて私を射抜くように見た。

 思わず、糸の魔力が通るか動作確認を無意識下で行ってしまう。

 

「念の為に言っておくけれど、おじ様について探るのは止めた方が良い」

 

 紅い瞳が爛々と輝いている。紛うこと無く、彼女は本気で告げていた。

 受け取れる意味としては、下手に探って来れば容赦はしないと言う宣告、そして知らない方が自身の身のためだと言う警告の二つか。どちらに解釈すればいいのかまだ判断するには早いが、それ程までに秘密裏にしておかなければならないものなのだろうか。

 

「素性を探るなと言いたい訳?」

「そうじゃないわ。関わらない方が身のためだと言うことよ」

「……そこまで危険と捉えているなら、何故貴女達が共に暮らしているのかが分からないわね」

「違う違う、危険と言う意味じゃない。何が起こるか分からないから不用意に近づくなと言っているのよ」

 

 レミリアは、静かに息を吐き出した。それは、まるで過去の光景を思い出し、その記憶に愁いを感じているかのようだった。

 

「貴女は見たことがある? 木端妖怪の群れ如きなら腕っぷしだけで叩きのめす事の出来る吸血鬼達が、皆頭を垂れている光景を。その中でも最強と謳われた吸血鬼でさえもが、悲鳴を上げて許しを請う光景を」

「……、」

「おじ様は優しいわ。本当に悪魔とは思えないくらいの人格者よ。でもね、彼が持つ力も、カリスマ性も、そして大勢の悪魔を無条件に屈服させる程のモノを持っている事も事実。史上最凶最古の吸血鬼である事も歪みない現実なの。もし……もし万が一、貴女がおじ様の逆鱗に触れでもしたらもう止められないわ。紅魔館全戦力を持ってしても貴女の命は……いいえ、魂は助けられない。彼の怒りを買うことは即ち死を意味する。だから、あまり不快を買う様な真似をしでかさないよう、無暗に接触する事は避けた方が無難だと言いたかったの。魔法使いは突飛な奴が多いから、念には念をね」

「警告ありがとう。肝に銘じておくわ」

「賢明ね。貴女はパチェの数少ない友人だから死なれたりしたら困るのよ。パチェが泣いちゃうわ」

 

 そう言って、レミリアはまたカラカラと笑った。そこにはもう刺々しい気配はどこにもない。いつもの小悪魔的な笑みを浮かべるレミリア・スカーレットだった。

 私もパチュリーが涙を流すと言う、億が一にも起こり得ない事態を想像して思わず笑みを零しながら、レミリアが発言した言葉を脳裏で回転させていく。

 

 今でこそ丸くなったが、幻想入り直後の彼女は他の追随を許さない程傲慢な性格の少女だった……らしい。魔理沙やパチュリー曰く、少し前まで自分以外は全て下等と決めつけるどこぞの帝王の様な振る舞いをしていたとの事だ。

 そんな彼女がここまで念入りに警告してくる男とは、果たしてどれ程の怪物なのか。だがそうと分かった以上、対策は練っておくべきだろう。レミリアの言う通り、念には念を入れておかなければなるまい。

 

 私は紅茶を飲み干しながら、今後の予定を組み替えるべく思考の海に身を投げ出した。

 

 

 不死の霊薬を飲み、呪いを受けてから私は、人間の一生から見れば途方もない時を……実に千と三百年近い時を過ごし続けてきた。

 

 初めの三百年は閑散とした地獄だった。幾年過ぎようとも変わらぬ容姿に幽鬼の如く白い髪、そして血の如く赤い瞳は、当時の人間を遠ざけるには十分すぎる効果を持っていた。故郷を追われ、一ヵ所に安住する事が出来ずに転々とする日々。無論私の傍には誰一人の影も無く、ただその身一つで、己の過ちと不遇に苛まされる日々を送った。

 私は、いつも孤独だった。

 

 次の三百年は血に濡れた地獄だった。世を恨み、こんな体になってしまった不条理を恨み、何より全ての元凶たる蓬莱山輝夜を恨み、積もり積もる恨みをどこにぶつけていいのか分からない日々を過ごしていた。そんな時だ。妖共は風の噂で私が不死と知るや否や、自身もその不死にあやかろうと私に襲い掛かって来た。

 初めの頃は全身を引き裂かれ、食われた。しかし私は死にながら戦う術を学び、妖術を習得していった。徐々に戦いで負う傷の数が減っていくと、遂に私は並の妖怪からは油断しても負けない程の力を手に入れた。流れるように私は、今までに抱き続けた恨みの全てを妖怪に叩きつける日々を送り続ける事となった。

 私は、意味の無い力に虚無を垣間見た。

 

 次の三百年は乾ききった地獄だった。妖怪退治に意味を見出せなくなり、自身の存在に意味を見出せなくなり、そろそろ終わりたいと何度も願った。けれど、何が起ころうとも何をしようとも死ねなくて、そんな体を心底呪った。何時しかこの世の全てに興味を失くし、絶望と言う概念……理性を保つ最後の砦すらも失いかけていた。

 食事は摂らず、水も飲まず、座り込んだままの日々も過ごした。餓死して蘇り、また空虚な時を過ごす。行く当てなどある筈も無く、まるで呪術に操られた死体の様に大和を彷徨い続けた。

 その先で偶然、輝夜と出会った。

 

 私の父を奪った女郎。私をこんな体にした張本人。月に帰った筈の、会う事などとうの昔に諦めていた怨敵。

 だが彼女もまた、私と同じ蓬莱の不死者であり、そして月の民から身を隠している身の上だと知った。

 怨敵に出会ったせいか、同じ境遇の者を見つけたせいか。乾いた井戸から水が再び湧き上がって来る様な感覚が、私の胸の内に芽吹いた。そして思考が生じたのだ。思う存分、積年の恨みをぶつける事が出来るのだと。私の今までの生が無駄ではなかったのだと。

 

 永遠の渇きを、分かち合う者がまだこの世に居たのだと。

 

 歪んでいるなんてとうの昔から理解していた。狂ってるなんて他の誰よりも分かり切っている事だった。

 それでも、例え誰が何と言おうとも。

 私の世界が、再び色を取り戻した瞬間だった。

 

 

 退屈。

 そんな感覚すらも曖昧になったのは、一体何時の頃からだっただろうか。ふと何気なくそんな疑問が浮かんでも、木から枯葉が一枚落ちた程度にしか気に留めなくなってしまったのは、本当に何時の頃からだっただろうか。

 

 私はこれでも、永い、永すぎる時の中を生き続けて来た。月で生まれ、月の潔癖さに飽きを覚え、地上の穢れに憧れを見出し、禁忌の秘薬を受け入れ不死となり、極罪を犯したとして処刑され、しかし私の力と薬の効力が相まって死なないが故に地上への流刑を受け、堕ちた先で翁達と瞬きの間を共に過ごし、刑期を終え迎えに来た月の使者を永琳と共に葬り、そして月の民から身を隠す逃亡者として竹林に身を潜め続け、ひょんな事から同じ不死者となっていた妹紅と偶然の再会を果たし、今日の今日まで殺し合いを続ける様な日々を過ごして来た。

 不老不死として過ごした期間を省いても、私は本当に永い時を生きたと思う。永琳には及ばないけれど、本当に本当に、私は気の遠くなるような永劫を歩み続けて来た。そしてこれからも、私は永遠を彷徨い歩いていく。終わりのない果てまで――いや他の全て、その何もかもが終わってしまう果ての果てまで、私は今の様にずっと、のんびりと全ての終焉を眺めていくのだろう。

 

 そんな想像を思い浮かべるたびに、私はふと思うのだ。最果てまで辿り着いた私は、その時までに経過した過去をどの様に振り返るのだろうかと。

 私はきっと、第三者から見て想像もつかない時間を、『須臾』と例えて一蹴してしまうに違いない。以前は色々あったけれど、それはほんの瞬きをするような一瞬の出来事だったのだと。

 昔、ふとした拍子に翁達と過ごした僅か十数年余りの時を振り返った時。私はそれが本当に小さな、儚すぎる時間だったのだと気がついた。当時はこの時間が永遠に続くのかもしれないと、淡く甘い錯覚すらも抱いていたのに。とても煌びやかで、この世のどんな美しいものよりも輝いていたのに。それは風雨に晒され腐食した金属の様に、時間の流れと共に残酷なほど劣化していった。

 その瞬間から、もはや私にとって『思い出』とは、フィルムに焼き付けられた『画』の連続にしか思えなくなっていた。

 

 枯れ果てた思い出を自覚した時。途端に今までの出来事全てが、本当にちっぽけなものの様に思えてしまった。同時にこれからも作られていくだろう思い出も、何時の日か時の流れに削られて、砂粒として指の中からすり抜けていくのだろうと悟った。

 時は残酷なまでに流れていく。激流の様に、清流の様に、暴風の様に、そよ風の様に。時間の流動は決して止まらない。流されていく物も止まらない。『物』は時間の流れを受けて『変化』を起こし、形を変えて流されていく。この世でただ一つ時間に流されない例外は、私や永琳、妹紅の様に変化を拒絶した……いや、『時の流れから逃げ出した』蓬莱人のみなのだ。

 私達だけは、他の全てが枯渇しても何もかもが瑞々しいままで存在し続ける。変わらぬ容姿。変わらぬ体。変わらぬ魂。未来永劫不変の個として地に足を着け続けるのだ。

 不老不死とは変化を受け入れまいとした者だ。絶対的な『個』となり、時の流れが作る『輪』の中から抜け出した脱走者だ。

 そう。変わらないのは蓬莱人と言う究極の個人だけ。変化を拒絶した愚か者だけ。その他は全て形を変え、流れていく。土は草へ。草は虫へ、虫は蛙へ、蛙は蛇へ、蛇は鳥へ、鳥は死して土へと還る様に、万物は時間と共に移ろっていくのだ。

 

 ありとあらゆる者達は不老不死を求めている。時間から逸脱し、変わる事を拒んだ逃亡者を。しかしその先に待つのは極限の孤独に他ならない。周りの物が、関わってきた者達が、果ては心に残る思い出さえもが次々と朽ち果てていく中で、私たちは取り残されてしまう未来が決定しているのだから。

 

 その事実を理解してしまった瞬間から、私の心から色が消え、音は完全な消滅を迎えた。

 耳を癒した春風の音は只の現象に置き換わり、確かな輝きを持つ色とりどりの草花や景色は無残な灰を被った。極め付けには、最近一番心が躍っていたと思う妹紅との殺し合いすらも、ただ日々を過ごす上での機能となってしまったのだ。精神の衰弱は、一度発症すれば疫病よりも早く私の心を蝕んだ。

 

 何を見ても、何を聞いても、何を感じても、心が拍動する事の無くなった私は、正真正銘のゾンビなのかもしれない。老いる事も死ぬ事も無く、同時に生きてすらもいない。まさに生ける屍と言う奴だ。それ以外に、この状況をどう例えられようか。

 しかしそれを自覚しても、特に感じるものは何も無かった。悲しいとも、虚しいとさえも思えない。これが薬を飲んだ罰なのだろうかと思っても、後悔の念すら湧いてこない。ただ目の前に『事実』と言う名のシャボン玉が浮かんでいるのを眺めている……そんな感覚が漠然と存在しているだけだった。そして自覚するほどの心の衰退に、私は危機感も何も抱いていない。

 風化し内側が枯れ果てた自分が。そして風化を予定している『物』が、目の前にある。それだけ。他には何も思わない。何も感じない。私はただ、成り行きを眺めているだけでしかなくなったのだ。

 

 生も。死も。変化も。時間も。色も。音も。光も。感情も。私自身も。

 この世の全てを枯れ果てた心で眺める事だけが、私に残された唯一の『出来る事』だった。

 

 だからこそ、今朝は本当に驚いたものだった。

 ナハトと言う青年。陽の光を嫌う本物の吸血鬼さん。日光を避け、永遠亭の門の日陰で休んでいた彼を見た時、本当に久しぶりに心が動かされた。

 率直に言って、私は彼を怖いと思った……のだと思う。多分、これが『恐怖』というやつだったんだろうなと感じた。死を完璧に取り除かれた蓬莱人は、一番初めに恐怖を失くす傾向があるらしい。私もその例に漏れず、大昔から死の恐怖を感じなかったものだから、久方ぶりに本気で怖いと感じた事実に驚いたものだった。

 

 理由は分からないけれど、多分彼から放たれている今までに感じた事の無い程の穢れに似たナニカ……彼は瘴気と言っていたかしら? それが原因だと思う。視界が映像として彼を捉えた瞬間に、全身を支える骨の髄へ氷を叩き込まれたかと勘違いするほどの悪寒が走り抜けたのだ。

 それ故に、私は彼に興味を抱いた。切っ掛けは些細な疑問だったのかもしれない。何故蓬莱人たる私がよりによって『恐怖』を感じたのかが、気になった。私が『気になった』と言う事実も気になった。

 

 だからちょっと彼と話をしてみる事にしたのだ。もしかしたら面白いと思えるかもしれないと。久方ぶりに、この心の渇きが潤うのかもしれないと。何かを感じる事が出来るのかもしれないと。乾ききった獣が水辺を見つけ、引き寄せられるのに似た本能に近い行動だったのかもしれない。

 そして結果は大方成功を収めた。彼の言葉は、声は、比喩表現を抜きに精神へ直接入り込んで来て、それが連鎖的に冷えた精神を解凍させてくるのだ。彼の口から物語が紡がれる度に、砂漠と化した心に雨が降ったような心地を得た。例えそれが小雨でも、私はその変化を『面白い』と感じていた。

 彼を見れば背筋が凍る。彼の瘴気は鳥肌を生み出す。彼の声は心を揺さぶる。それら全てが、とてもとても新鮮で。何時振りかは忘れてしまったけれど、時間を忘れるなんて体験をもう一度感じる事が出来たのだ。

 

 彼が友達になってくれと言って来た時は、好機だと思った。もっと私はこの躍動を楽しみたかった。恐怖に震える足の感覚を、鳥肌が布を擦る感覚を、喉が干上がる緊張感を、もっともっと堪能したいと思ったのだ。

 だから私は彼に難題を吹っ掛けた。別にすんなりと友達になっても良かったのだけれど、やっぱりこの『出会い』を引き伸ばしたいと思った。そうすれば、思い出としての一ページの時間が長くなる。長くなればそれだけ思い出の風化が遅れる。即ち、余韻を長く楽しめると言う事だ。

 難題に彼がどの様に挑戦するのかシミュレートするのもまた新鮮だ。私の下した『蓬莱人の死』と言う難題を攻略するには、文字通り蓬莱人の死体でも持ってくるか、もしくは蓬莱人の死を概念的に突き止める二種類の方法がある。彼は殺生に対して苦い顔をしていたので、恐らく後者を取るだろう。どんな答えを出してくるのか、それもまた楽しみとなった。

 

 だがそんな時、永琳はもし彼が本当の意味で妹紅を殺して来たらどうするのかと尋ねて来た。正直なところ、そこまで考えていなかった。だって蓬莱人が不滅だという弁を私に説いたのは、他ならない永琳自身なのだ。私の教師にして、姉にして、母にして、月の都の創設者の一人でもある彼女がそう答えたのならば、それが絶対である事に変わりはない。蓬莱人が死ぬだなんて考える方が可笑しいというものだろう。

 

 でもそう考えると、永琳が危惧したのにはちゃんとした理由がある訳で。つまり本当に妹紅が死ぬ可能性が出てくるわけで。

 それに気がついた私は内心、自分の過失に対して焦るかなと思っていたけれど、驚くほど心は平坦そのものだった。

 妹紅が死んで、いなくなる。私に野犬の如く食らい付いて来た彼女がいなくなる。同じ不死仲間の彼女が………………―――――――、

 

 

 

 

 

 まぁ、いいや。

 

 

 

 

 

 それが私の抱いた感想だった。

 いなくなったのなら、それで良し。その代り、妹紅の分までナハトに暇潰しをさせて貰おうと思った。妖怪を蓬莱人にする実験でもやってみようかなとも、私は思考に耽っていた。

 気がつけば、笑みまで浮かんでくる始末だった。とにかく心が動くもののほうが良い。渇きを潤せるものが良い。そしてそれを見つけられた。他の事など、考える意味も無いと思った。と言うより、考える事など出来なかった。

 

「…………永琳とイナバ、今頃戦ってるのかなぁ」

 

 座敷にポツンと座り込んでいる中で、私はシャボン玉を眺めるように、今しがた起こった出来事を思い返していた。

 先ほど永遠亭に月を取り返すべく侵入してきたらしい、妖怪と巫女、幽霊と侍の相手をしているだろう永琳の事だ。

 永琳は上手い事、本物の月を隠している私の部屋が露見するのを防いだみたいだけれど、どうせならここへ連れて来ても良かったのに。ああ、いや駄目なのか。月を取り返されたらイナバが月の民に連れ去られちゃうから阻止していたのだった。序でに私の存在もバレてしまう可能性が高まるから、尚の事永琳は張り切っているんだろう。

 

 しかし別に連れ去られてもどうでもいいと思えてしまうあたり、やっぱり私はおかしくなっているのだろうと霞の様な思考を浮かべた。直後にまぁいいかと、脳の隅へ放り投げてしまう。それよりも今は、早くナハトが見つけて来た難題の答えを聞く方が大事なのだ。

 正直、難題の答えなんてどうでも良かったりする。ただ彼の行動が私の心を再び揺するのか、それだけが気になる事項なのだ。

 

「失礼するよ」

 

 ふと。

 何の前触れもなく、突然響いた澄み渡る様な声と共に、視線の先にある襖が開かれた。

 途端に肌を打つ、禍々しい穢れに酷似した瘴気の渦。心臓が悲鳴を上げ、喉が瞬く間に乾き始めた。不愉快で愉快な感覚が体を包み込んでいく。

 そんな実感を経て、私は瞬時に訪問者の正体を突き止めた。別に考えるまでも無い事なのだけれど、顔を覗かせたのはやはり、今しがた思い浮かべていたナハト本人の姿だった。

 

 まさか、もう難題の答えを導き出したのだろうか。あれから数時間と経っていないというのに。

 期待と同時に、早すぎてつまらないとさえ感じる。けれど、そんな風に思えるのだから収穫か。

 

「早いわね。もう答えを見つけて来たの?」

「ああ。少しばかり手間取ったがね」

「難題を手間取ったの一言で済ませられたのは初めてよ。……そう言えば、よくこの部屋に私が居るって分かったわね?」

「親切な兎さんに部屋を教えて貰ったんだ」

 

 この位の、と彼は手で道案内された兎の背丈を示す。多分てゐの事だろう。彼女はイナバの中ではイナバ―――ややこしい―――鈴仙の次に背が高い。丁度彼の手が示す程の高さだ。

 彼は襖を閉め、私の前へと移動した。座ってと勧めると、このままで良いと返される。そのまま彼は、神妙な顔つきをしたまま、私へ問いかけて来た。

 

「一つ聞きたい。本当に良かったのかね?」

 

 質問の意味が分からなかった。

 

「何のこと?」

「難題の事だよ。君は『蓬莱人の死』を望んだ。本当にそれで良かったのかと気になってね」

「……? ごめんなさい、貴方の言っている事の意図がいまいち分からないわ。具体的に何が気がかりになっているの?」

「この結果となったのが、果たして最良なのかと思ったのだよ」

 

 そう言って彼は、パチンと指を軽快に鳴らした。

 黒い靄が、畳の上に滲み出てくるように姿を現す。およそ人一人が寝転がる程度の大きさにまで広がると、靄は畳の中へ吸い込まれる様に消えていった。

 

 現れたのは、人の形をしたモノだった。

 サスペンダー付きの赤いモンペに、内側に覗く白いシャツ。袖口から顔を出しているのは、雪の様に白くすらりと伸びた造形美を感じさせる手指。

 目に映った瞬間に、それが妹紅であると識別は出来た。

 しかし、私はそれが妹紅であるのか、認める事に躊躇を覚えてしまった。

 

 頭が無かったのだ。

 

 彼女自身は呪われているも同然と疎ましがっていたけれど、雪の様に儚く透き通った、手櫛を通せば指の間からするりと抜け出していくだろう美しき白髪はどこにも見当たらず、中性寄りで目鼻立ちの整った顔貌は完全に消滅していた。

 例えるまでも無い。首の無い妹紅が、私の前に横たわっていたのだ。

 

「君の望んだとおり、『蓬莱人の死』を用意した」

 

 脳を包み込むような彼の声に、ドクンと心臓が一際強く脈を打った。血液が体中を駆け回るのと同じくして、脳裏に永琳の言葉が浮かび上がり渦を巻く。

 

『あの男が、本当に妹紅を殺せるような存在だとしても?』

 

 他でもないあの永琳が、そう言った。月の頭脳と称えられ、月夜見様と同等に近い時を生き続けたと言う、最も偉大な賢者がそう言ってのけたのだ。

 それが示す所は、つまり。

 妹紅は本当に……?

 

 力なく畳に置かれた白磁の肌の手を握る。それは凍り付いているのではと勘繰る程に冷たく、そしてビクとも動かない。完全に死後硬直を終えた肉体の硬さだった。

 蓬莱人が死後硬直を起こすなんてことは有り得ない。言うまでも無く、薬効で不滅と化した魂を基盤に、肉体は何度でも復活するからだ。その際に『以前の肉体』は細かな粒子と化して消えてしまう。まるで同じ存在はこの世に存在してはならないと、世界が拒絶するかの様に。

 しかし現に妹紅の肉体は目の前にあって、血の流れも、命の温もりも消えてしまっている。

 余計な事など、考えるまでも無かった。

 

「本当に……死んでしまったの?」

「君の希望だろう。それを実行したまでに過ぎないよ」

 

 余りにも穏やかな声に、どこかむず痒い違和感を覚えて顔を上げれば、彼は笑みを浮かべていた―――のだと思う。

 天井から照らされる光の加減なのか、はたまた背後の月の光の反射か。彼の顔は影に覆われ、口元が歪んでいる様にしか見えなかった。

 気がつけば、私は思わず震えた声で口に出していた。

 

「何故こんな事を……? 私は妹紅を殺せとは一言も―――」

「どうして焦っているのかね?」

 

 私の発言を遮った彼の言葉が、精神の中枢をずぶりと貫いた。

 焦っている? 私が? 

 妹紅の死を目撃して、焦っていると?

 私は平常通りだ。ドクドクと心臓が脈を打って、足が震えそうになって、額の辺りがじんわりと湿ってきているけれど、焦っている何てことはない。そんな心は多分、もう忘れてしまっている筈だ。一人の死で簡単に揺れ動く様な心は。

 

 心は。

 

 …………?

 おかしい。

 何かがおかしい。

 ついさっきまで妹紅の事なんてどうでも良かったのに、何故だか胸の内が締め付けられる様な感覚がする。彼女の冷たい手をとった瞬間から、砂漠の様だった景色が途端に青で染められたかと思った。

 何故私は、こんなにも手が震えているのだろう。ナハトの悍ましい瘴気のせい? 多分、それもある。それもあるけれど、根本的に別のナニカが私の心を激しく揺さぶっているせいだ。

 その揺さぶって来るものの正体が、分からない。これは一体何だ。五臓六腑を締め付けてくるものの正体は――――

 

「君は私に『蓬莱人の死』を望み、そして獲物に妹紅を提示した。だから私はそれに従って処理を行った。それだけではないか。君が私へ頼んだことだろう? 当然の結末だと言うのに、どうしてそんな風に狼狽えているのかね」

「待って、待って。分からない、分からないのよ……! 頭の中が、何故だか滅茶苦茶で……!」

「分からない? 私には君が、妹紅の死を悲しんでいるように見えるのだが」

 

 悲しむ?

 慣れない単語に、私はぱちぱちと瞬きを繰り返した。

 この腸に氷を叩きつけられ、頭を強く打たれた様な感覚が、悲しいというものなのか?

 分からない。分からない。

 怒涛の如き混乱が、私の頭をぐちゃぐちゃに掻き回していく。

 

「輝夜―――」

「ッ! 寄らないで!!」

 

 伸ばされた手を、反射的に思い切り跳ね除けてしまった。月人の持つ本気の身体能力は彼の手を容易く捥ぎ取り、後方の襖まで吹っ飛ばしてしまう。

 ハッと我に返って、私は彼の手を見た。身に付ていた腕輪の部分まで見事に弾け飛んでいて、煙にも似た黒い靄が溢れ出している悲惨な腕の姿が、ざわざわと背筋を撫で返す。

 同時に、彼の放つ瘴気が明らかに勢いを増した。いや、『濃くなった』。まるで一酸化炭素中毒にかかった様に肺が酸素を取り込めなくなり、失くしたはずの防衛本能が全身の産毛を逆立たせる感覚が確かにあった。朝に感じたものの比では無い。直ぐに逃げ出さなければと、脳が私の体に訴える程のものだった。

 しかし、私の体は動かない。得体の知れない感覚はもとより、何故この様な気持ちが生まれているのか、当てのない自問自答が私の脳裏で絶えず繰り返されているせいだ。

 

 いや。だが。しかし。なぜ。

 

 湯水の如く湧き上がってくる得体の知れない激情の数々と、それを不審に感じてしまう枯れ果てた心が相反する反応を引き起こす。矛盾が生じた私の思考は泥の様な粘質さを持ち始め、何が正しいのかさえ判別がつかなくなっていた。

 そんな私を差し置いて、彼は言う。まるで別人の様に態度が豹変した彼は、私に次々と言葉を突きつける。

 

「何故そんなに怯える。難題を授けた君の口ぶりから、君はてっきり妹紅の事などどうでも良いと思っているのかと感じていたのだが、もしかして私の勘違いだったのか?」

「わ、私、私は……っ!」

「動揺しているが、それはつまり確信を得たからではないのかね。自分の心は自分が一番よく分かっている筈だろう。君は機械ではない。死者ではない。ましてや人形などでは決してない。君は生きて、感じて、考える事が出来る生き物だ。どれだけ長い時を生きようとも、終わりの無い不死であろうとも、君は今を生きる人間なのだ。ならば君が今感じている心の正体も解る筈だろうに」

 

 今を生きる、人間。

 この言葉が、私の胸に深々と突き刺さった。たかが一言で何故ここまで、彼の言う動揺が強くなったのかは分からない。本当に分からない。

 でも何だかほんの少しだけ、自分が一体何をしたのか、どんな状況下に置かれているのか、霧が晴れ陽の光が少しずつ竹林に差し込んで来るかのように、胸の内で鮮明になりつつあった。

 途端に私は恐怖した。ナハトの近くに居る事で感じる類のモノでは無い。これの正体を知ってしまえば、私は今の私ではいられなくなる―――そんな恐ろしさ。未曽有の新天地を恐れる恐怖と酷似していた。

 だから私は、それを思い切り封じ込めた。ただでさえ波風一つ絶たなかった心が、突然の嵐に襲われているのだ。キャパシティオーバーと言っていい。私は、この感覚を受け止める事が出来なかった。受け止める勇気が無かったのだ。

 

「分かんない……!」

 

 頭を抱えて、私は振り絞るような声で言った。それを聞いたナハトは、ただ静かに、『そうか』と相槌を打つのみだった

 

「ところで、私は難題を無事にクリアできたと言う事で良いのか?」

 

 ――――沈黙。

 彼が何故、こんなタイミングで訊ねて来たのか、処理落ちを起こした脳ミソでは把握する事さえ叶わなかった。

 混乱しきっている頭は彼の質問に対する答えを弾きだす事すら出来ない。ただただ、震える視界で彼を捉えることが精一杯だった。

 ふと。

 彼の顔に二つ、紫色の輝きが瞬いた様な気がした。

 それを目にしたとき。私は初めて彼を疑った。

 

 彼は、何だ?

 今私の前に立っているこの男は、本当にあのナハトと同一人物なのか?

 

「沈黙は肯定と捉えさせてもらう。では、改めて申告させて頂こうか。輝夜よ、難題も無事達成できたことだ」

 

 ナハトの腕が、こちらに向かって伸びて来る。それは正に、悪魔が魂を奪い取らんと迫る腕の様で。

 全身を震え上がらせる瘴気を纏う彼は、魂を魅惑の底に突き落とすかのような甘い声で、私の耳へと柔らかく囁き、

 

 

「―――――約束を果たしてもらおうか」

 

 

 ぞわりと、首筋に百足が這いまわったかのような悪寒が走り抜けた。

 

「――――うァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」

 

 私がとった行動は、絶叫と共に彼を跡形も無く吹き飛ばす事だった。それはまさに、身を守るの為の自衛行動に他ならなかった。

 弾幕を形成する莫大な力を、無我夢中に前方へ放出する。心の中心へ纏わりついてくる彼の言葉に心底恐怖を覚えた私は、気がつけば脊髄反射の要領で彼の体を木端微塵に打ち砕いていた。

 我に帰った頃には、視界にもう誰も存在しておらず。

 弾幕の大仰なエネルギーに焼け焦がされた物体が、部屋中に散乱している惨たらしい光景が広がっていた。

 

「は、はっ、はぁっ……ああ……!」

 

 音を立てて黒い煙と化し、彼だったものが消滅していく様を見届けながら、私は荒い呼吸を繰り返し続ける。

 私の頭はぐちゃぐちゃだった。つい数分前まで砂漠の如く乾ききり、何もかもが平坦だった心象風景は天変地異に見舞われたが如く荒らされ、その反動なのか湧水が噴出してくるかのように、次から次へと感情の暴発が巻き起こった。忘れていた心の原風景が、全て舞い戻ってくるかのように感じ、思わず頭を抑える。

 そして私は、胸の内に押さえつけられていた感情の爆発とともに、認めようとしなかった心の正体を掴む。掴んでしまう。

 

 悲哀。

 それは、例えようのない悲しみだった。

 失ってから気付く……その極限と言うべきか。私は眼を向けたくなかった心の色を前にして、目の奥の灼熱感を確かに感じとった。

 ここまで来て漸く、私は自分が犯してしまった事の深刻さを完璧に理解したのだ。

 

 死なない事に慢心を覚え、ただ乾いた心を潤す為に、因縁の宿敵であり数少ない蓬莱人の理解者である妹紅を手に掛けた。例え殺し殺される様な関係であったとしても、私は彼女の命を、一番に信じるべき永琳の警告すら楽観視して『難題』と言う遊び目的の為に利用した。

 その結果がこれだ。ナハトは悪くない。彼はただ、友達が欲しくて難題をこなしただけ。彼もまた、心の渇きを潤す為に実行に移しただけに過ぎない。

 悪いのは、彼女を殺したのは。同じ境遇を持った友達を殺したのは、他でもない私自身だ。

 渇きを潤す為に血を啜ろうとした吸血鬼は、目の前に君臨していた彼ではなく、この私自身だったのだ。

 

 逃れようのない事実が、私の心へ突き刺さる。気がつけば妹紅の遺体に寄り添って、ただただ謝罪と後悔の涙を流すだけとなっていく。

 

「……ごめん……ごめんなさい……」

 

 私は不死ゆえに全てが果てた未来が怖かった。私は不死ゆえに朽ちていく過去が怖かった。

 その結果、私は究極の現実逃避を実行してしまった。それは『現在』を捨てる行為。永琳も、イナバ達も、妹紅も。周囲の全てを拒絶して、ただ風化していく事に慣れようとする逃避行。周りの心など考えるのも馬鹿らしいと、いつか訪れる結末に怯えてただ目を背けてしまったのだ。

 これは、その我儘が(もたら)した罰なのだろう。私よりも遥か長い時を生きた永琳の様に強く在れなかった、臆病な私に対するツケが回って来たのだろう。

 それのなんと、滑稽な事か。

 

「私、馬鹿だった。あんたがこんなに冷たくなって、やっと気がついた。逃げてたの。不死身を言い訳にずっと逃げてたの。あ、あんただって同じ思いをしてた筈なのに、ううん、身寄りを失くしたあんたの方が、私より強く生きていた筈なのに、私は自分だけ取り残されるんだって決めつけて、目を背けた。それがあんたを死なせてしまった。本当に、ごめんなさい……っ!」

 

 懺悔とは正に、今の様な状況を指すのだろうか。しかしどれ程悔いようとも、失われた命は戻らない。

 そんな事、分かり切っていた筈なのに。だからこそ、現在から目を背けていた筈なのに。

 我儘の雫は、絶えず頬を濡らし続けた。

 戻らない唯一無二の友人へ、送ることしか出来ない涙を。

 

「輝夜」

 

 声が聞こえる。もう二度と、罵声も挑発も喧嘩口上も聞くことが叶わなくなった妹紅の声が。

 罪悪感が生み出した幻聴か。やっぱり私は、どこまでも弱い。

 

「おーい、輝夜。聞こえてる?」

 

 頭を叩かれた。ぺちぺちと、まるで寝ぼけている子供を叩き起こすかのような感覚で。

 幻覚まで感じ始めたのかと、私は一層強く、冷たい妹紅の体に縋り付いた。

 

「ああもう! こっちを見なさいっての!」

 

 頭を勢いよく掴まれ、思い切り持ち上げられた。

 何事かと目を見開けば、そこには、もう二度と見る事は叶わなくなったはずの妹紅が。不機嫌そうな顔で私を睨んでいた。

 ぽかん、と思考停止した私は、何が起こっているのか分からないまま、考えた事を直接口に出していた。

 

「……妹紅なの?」

「そうよ」

「本当に?」

「本当に」

「本当の本当の本当に?」

「本当の本当の本当によ」

 

 ほら、と妹紅は私の手を掴み、両手でそれを覆った。血が巡り、暖かみを持つ柔らかな肌。人肌の温もりが、確かにそこへ存在していた。

 幻覚ではない。彼女は、本物の藤原妹紅だ。

 では、では、では。

 この首無し妹紅の死体は、一体全体何なのか?

 

「あんた、何で? 死んじゃったんじゃ、あ、これ、どういう事なの……?」

「私が死ぬわけないでしょ。これは全部、アンタを夢から醒めさせる為の芝居よ」

「芝居?」

「そう、芝居。アンタ、自分の心が死にかけてた事に気づいて無かったんでしょ。いや、気づいてても自分じゃどうしようもなかったんじゃない? 違う?」

 

 心が、死にかけていた。

 妹紅の言葉に、つい先ほどまでの乾ききった心を思い出す。空虚で、乾燥して、何もかもが灰色に塗りたくられたあの心象風景。全てを拒絶した、まっさらな閉鎖空間。

 アレが、心の衰退だったのだろう。危機感が無かったものだから、当時は何も思わなかったけれど、今は不思議と怖く感じた。

 

「無敵の蓬莱人も精神衰弱だけには敵わないらしくてね。もう心が死ぬ一歩手前まで行っていたアンタを心配した永琳が、あの男に一芝居打つよう頼んだらしいわ。彼の瘴気を利用して強いショックを与えて、感情を呼び覚ます即席療法なんですって。でもまさかアンタが、死ぬわけのない私が本当に死んだと思い込むくらい思考能力を破壊されていたとは思わなかったけどね」

「じゃあ、この死体は……?」

「あの男が私の血を元に作ったデコイよ。よく出来てるわよね」

 

 似すぎてて気持ちが悪いわ、と妹紅はその人形を焼き払った。見た目や質感は人間のソレなのに、不思議と肉を焼く様な匂いは全然しなくて、炭と化した人形は黒い霧に姿を変えて霧散してしまう。残ったのは煤けた畳のみとなった。

 

「あんたは、何でここに?」

「アフターケアよ。頼まれたの。強いショックでトラウマを負ってしまったら意味が無いからね。私は生きているんだって事を示して安心させろってさ。全く、アンタが廃人になったら私の鬱憤を晴らす奴が居なくなっちゃうっての。手間かけさせんな」

 

 サバサバとした調子で、彼女は言う。悪態は吐いているがどこか優しい雰囲気がそこにあった。

 

「でも、これで少し……本当に、本当に癪なんだけど、アンタに借りを返せるのかね」

「え……?」

「実は私も、この間まで同じだったのよ」

 

 妹紅は語る。私が身を隠してから、妹紅が体験した日々の事を。

 知り合いがどんどん死んでいったこと。ふと気がついた時には一人ぼっちになってしまったこと。化け物扱いされたこと。死ねない事に絶望したこと。この世の全てを恨んだこと。妖怪を退治して回ったこと。全てが虚しくなったこと。何も感じる事が出来なくなったこと。

 そして私に偶然出会って、再び火が付いたこと。

 

 今まで喧嘩ばかりだったから知る由も無かった彼女に、知る由も無い心中を吐露されて、私は激しい共感を覚えた。

 同じだった。

 過程は違えども、方向は異なれども。同じ永遠を生きる者同士、似た様な悩みを抱えていた事を知った。もしかしたら妹紅もこうなのかな、と言った程度に漠然と想像していた事が、本当に当たっていたのだ。

 

「別に感謝なんてしてないわよ。ただアンタをどうやって殺してやろうかって考えたら、もう一度生きる気力が湧いて来た。それだけ。けれどそうしたら何故か、周りの物が少しづつ綺麗に見えるようになっていった。あれだけ灰を被ってた風景に色が着いたの。それに気がついた時、変な話……生まれ変わったような気分だったわ」

 

 アンタのせいで死ねない体になったってのに、皮肉なものよねと彼女は言う。

 

「そして今はアンタが前の私と同じように、内側の人間が死にかけていた。けどアンタにゃ今まで通り、高飛車で余裕たっぷりで、姫様姫様して貰わなきゃ捌け口が無くなっちゃって困るの。だから今生まれ変わりなさい。ただ生きるだけの蓬莱人じゃなくて、人間の蓬莱山輝夜にさ」

「っ」

 

 もしかして。

 彼が示したかった『蓬莱人の死』とは、本当はこの事だったのではないだろうか。

 生きながら死に、心が摩耗した『人の形をしたもの』を蓬莱人と例えるならば、それを激情のショックによって心も生きた人間へ戻す事―――即ち、『蓬莱人』を殺す事。

 これがもし、彼が永琳の頼みを聞き、承知した上でこれほど苛烈な手段を用いて、依頼も難題もクリアするよう計算した上で実行に移したのだとしたら――――

 

「―――妹紅」

「ん?」

「一発殴ってくれない?」

「あいよ」

 

 バチンッ、と景気の良い音がした。容赦なく叩き込まれた張り手の痛みが、頬からじわりと波紋状に広がっていく。

 その痛みと、躊躇なく頷いてくれた妹紅の優しさが、私の胸の内に残っていた蟠りを弾き飛ばした。

 彼女はこれでチャラにすると言ってくれているのだ。自分の事をどうでも良いと切って捨てて、難題の生贄にしようとした私の暴挙を、張り手一つで許すと。

 少し前まで分からなかった痛みの意味が、言葉無き彼女の心が、今は手に取る様に分かる。同時に、今はここで泣きべそをかいている場合ではないと理解した。私は、ここで立ち止まっているべきではない。

 

「……ありがとう。目、醒めたわ」

「うん」

「やらなきゃいけない事も、分かった」

「それでこそ輝夜よ」

 

 立ち上がり、自分の成すべき事を成し遂げるべく移動しようとした、その時だった。

 蹴破らんばかりに―――いや、実際思い切り蹴破られて、突如襖が足元にまで吹っ飛んできた。

 何者の襲撃かと前を見れば、そこには紅白を基調とした衣装を纏う巫女と、魂を周囲に浮遊させている剣士の姿が。

 瞬時に永琳が敗北したのだと悟った私は、先ずは客人を迎える事に思考を転換した。

 

「リハビリには丁度良いわ。妹紅、あんたも手伝って」

「仕方ないわね。今回だけ、老いぼれの介護の為に付き合ってやるわ」

「私は永遠の女の子よ。あんたも年だけ人間視点から見れば、老いぼれ通り越してミイラでしょうが」

「悪態吐ける位には治ってきてるじゃん。先にアンタからぶちのめしてやろうかと思ったけど、その調子よ輝夜」

「――るっさい。足手纏いになったら頭ぶちぬいてやるからね」

「それはこっちの台詞だっての!」

 



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12.「それぞれの夜明け」

 私が起こした月の使者の通り道を封鎖する異変は、案外呆気ない形で幕を下ろす事となった。

 決まり手は、鬼の様に弾幕戦の強い巫女と半人半霊の剣士による抜群のコンビネーションによって、私が弾幕戦で2回目の撃墜を迎えた後の事だ。唐突に背後で彼女たちの活躍を見守り、時たまに援護を行っていた大妖怪―――八雲紫が、私に異変を起こした意図を尋ねて来たのだ。

 私は素直に自身の目的を教えた。その状況下では隠したところでさほど意味は無いし、なにより私が生成した偽の月の空間に誘い込んだ時点で勝利は確定していたのだ。時間稼ぎの利点も鑑みると、ひた隠しにする理由など無いも同然だろう。

 

 そして私の計画を聞いた紫さんは、偽の月による幻想郷の密室化は意味の無いものだと、私にとある理論を述べ始めた。

 幻想郷を管理しているらしい彼女曰く、博麗大結界は偽の月の密室と同じように幻想郷を隔離する効力を持っているらしく、私が術を行使しても密室を密室で囲うだけとなり、結局のところ異変を起こした意味は無いと言うものだった。彼女は証拠にと小規模の二重結界を不思議な能力で生み出し、偽の月の光を用いて実験したところ、彼女の弁は正しいと証明され、月を奪っておく理由を失った私は素直に投降する事となったのである。

 

 そして少しばかり巫女に怒られて、今に至る。

 

 月が戻り、夜の進行を妨げていたらしい紫さんの術も解除され、元通りとなった夜空を私は誰も居ない永遠亭の庭先で見上げていた。

 優曇華や輝夜が月の民に連れ去られる危険が消滅した今、気がかりなのは私が彼に依頼した件の結果のみだ。

 彼には残酷な事を強いてしまったという自覚はある。私は、輝夜を真に友人として欲していた彼に自ら縁を切らせるよう仕向けたに等しいのだから。

 依頼をする際彼と直に話をして、彼が本当に悪意の無い妖怪だと気づいてしまったからこそ、罪悪感が胸の内で確かに成長した感触があった。恐らく彼もそれを理解した上で承諾してくれたのだから、尚の事罪の意識は強まり、柄にも無く憂鬱な気持ちになる。

 

 私が彼を、輝夜の精神を蘇らせる『起爆剤』として用いたのにはちゃんとした理由がある。それは彼の素性と言うべきか、ルーツがもたらす力……彼にとっての弊害が、蓬莱人に有効だったからだ。

 

 蓬莱人は恐怖を覚えない。恐怖とは全て、根源的に死を前提として育まれる感情だからである。

 外敵に襲われると死亡するから、生き物は敵を恐れる。毒を飲むと命尽きるから、生き物は毒を嫌う。逆らえば生きていけないから、社会性を持つ生物は上位の生き物には逆らわない。

 それらの習性の根本に伴うのは恐怖だ。そして恐怖があるからこそ、感情を持つ生き物はより効率的に生き延びる事が出来る。しかし蓬莱人はこの世で死と最も関わりの無い存在である。故に恐怖を持たない。いくら人格を保とうとも、他の全ての感情を保有していようとも、恐怖だけは確実に失われてしまうのだ。かくいう私も、恐怖だけは完全に失くしたと思っていた。

 しかしそんな蓬莱人に、恐怖を覚えさせた―――否、恐怖を呼び起こさせた彼は、その感情を下火にして、乾ききった心を再発火させるのに最も適していた。それ故に私は、最後の望みを賭けて彼との交渉に出たと言う訳だ。

 

 だが、ここで一つ疑問が浮上してくるだろう。恐怖を失くしたはずの蓬莱人にまで、何故彼の瘴気が有効なのか? と言う点だ。

 答えは、彼を構成するもの―――いや、厳密には彼の出自そのものにある。

 

 この世全ての存在には、ありとあらゆる経過に分岐しているとはいえ、遍く終わりが存在する。そしてそれこそが、この世で最初の恐怖の源だと言って良い。

 森羅万象を創造した八百万の神々も、神に対抗する暴虐の化身たる悪魔も、等しく皆消滅を恐れた。しかしその恐れは死に対するものではない。魂となって安息を迎えられる死ではなく、存在の消滅を恐れたのだ。

 そうして恐怖と言う感情がこの世に生み出され、それが気の遠くなるような永い間、あらゆる知的存在の中で継承されていった。結果、確かな形を獲得し、不安定な輪郭が形成されると、恐怖と言う絶対確実な『概念』が、人の思想から妖怪の種が芽吹く様にして産み落とされてしまったのだ。

 消え去り、無になると言う不可避の恐ろしさが生まれてしまったからこそ、消滅と言うこの世全てが確実に迎える終焉が、確かな存在として概念上に生み出されてしまったのである。

 消滅の概念は、概念であるからこそ現世にも幽世にも直接的な効果は無い。けれどそれは確かに実在していて、そしてそれは八百万の神々だろうが何だろうが、最終的には全てのものへ平等に降りかかる存在となっている。

 

 ここで結論を言おう。彼は、永劫の時を経て生まれた恐怖そのものの概念から、バグとして生まれてしまった異形である。

 

 何の因果か、運命の悪戯か。おそらくここ数千年ほどのごく最近に、ただ存在していただけの概念が本来有り得ないバグを起こす形で、奇跡的に人格を形成した。人間の思想が集まって妖怪が形を成すように、あらゆる生き物の根源から発生した消滅の恐怖と言う根っこから、『ナハト』と言う人格が生まれてしまったのである。

 しかし概念そのものが実体化すれば、近くにあるもの全てに甚大な被害が訪れる。いや、被害なんてものは生温い。それと相対し接触するだけで、問答無用に消滅を迎えてしまうに等しいのだ。

 だからこそ生まれてしまったバグは、現世で活動する為に妖怪と言うレベルまで無意識下に格を落とした。そして妖の特性を手に入れた人格は、生命の象徴たる血を啜り、人間の恐怖の源となった夜の闇を生き、魔としての象徴を掲げる絶対的な『禍々しいもの』としてこの世に降り立ったのである。

 もっとも、概念の破片から生まれた性質上、象る『素材』は凄まじいものであれ、他の妖怪と同じく記憶も何もない、人格だけの真っ新な状態として生まれた様子だ。彼に自分が何処でどの様にして生まれたのか覚えているかと聞けば、気がついた時にはそこに居たと言っていた点から察する事が出来た。

 

 それが彼のルーツ。彼自身も知り得ない、太古の昔からあらゆるものを目にした私だけが気づく事の出来た、ナハトと言う男の生誕秘話だ。

 

 幸いな事に、彼を初めて見た時に私が懸念した、消滅の特性を用いられ蓬莱人すらも問答無用に終わらせられてしまうのではないかと言う心配は、今では完全に霧散している。吸血鬼の特性を持った、言うなれば亜種とも呼べる枠にまで格を落としたせいなのか、彼を構成する素材が放つ瘴気は、見る者全ての恐怖を呼び覚まさせるだけに留まっているからだ。それが他の感情と混ざり合い、印象として表面化する事で、畏怖などの様々な色を持った感情が芽生えてしまう現象が、彼を目にしただけで精神を揺さぶられる原理だろう。この力に名を着けるとすれば、差し詰め『恐怖を呼び起こす程度の能力』と言ったところだろうか。

 

 これが、彼の力が我々蓬莱人にまで及んだ理由なのだけれど……何の因果で、あのような温和な人格に生まれてしまったのだろうかと、思わず世の不条理さを恨みそうになる。彼が極悪非道の、それこそ悪魔の様な性格であれば、どれだけ気が楽だったことか。

 ソレを懸念してしまうせいか、どうしても、この胸の内に生まれたしこりを取り除くことが出来なかった。

 何故なら、何故なら彼は――――

 

「永琳」

 

 不意に背後から投げかけられた声に反応して、私は静かに振り返った。そこには霧状の黒い靄がたちこめていて、徐々に徐々に人の形へ整えられていくと、あの青年の姿と成って現れた。まどろっこしい登場の仕方をしたのは、おそらく限界を超えた恐怖により反射的に放たれた輝夜の一撃に爆砕され、そのままの状態を保っていたからだろう。

 

「探したよ。どこに行っていたんだ?」

「異変解決の専門家達と、少し別室でお喋りを。時間を取ってしまってごめんなさい」

「いや、別に良いんだ。……君に頼まれた件、どうやら成功したようだよ。輝夜の心は活性を取り戻した。後は手筈通り、妹紅と君がケアをすれば完全に『人間』へと戻るだろう」

「……ありがとう、本当に」

 

 ただ形に現さざるを得なくて、私は頭を下げようとしたが、よしてくれと彼に手で制されてしまう。

 それでも彼には、感謝をしてもしきれない。私ではどうする事も出来なかった輝夜の心を、再び蘇らせてくれた彼には、例えどれだけ頭を下げても足りないだろうから。

 ただ気になる所が、今更ながら一つだけ。

 

「一つ聞いて良い?」

「何かな」

「どうしてこの頼みを承諾してくれたの? 私が言うのはお門違いだけれど、貴方にメリットなんて欠片も無いと分かっていた筈なのに。むしろデメリットしかなかったと言うのに」

 

 恐怖を利用して、凍結した心を起爆し解凍する方法。一歩間違えれば深いトラウマを心に刻みかねない諸刃の剣であり、そしてそれを実行に移すナハトへの信頼性が極端に失墜する、まさに荒療治と言う奴だ。

 それを理解した上で、彼は依頼を承諾した。その理由が、私の頭の中にずっと引っかかっていたのである。

 ふむ、と彼は頷いて、夜に溶け込むような穏やかな口調で、言の葉を導き出した。

 

「輝夜には、夢を見させてもらったからね」

「夢?」

 

 想像していなかった返答に、思わず私は鸚鵡返しをしてしまう。てっきり、借りを作らされるだろうと考えていたのだけれど。

 彼はどこか満足している様子を見せながら、話を続ける。

 

「そうだ。知っての通り私は昔から、この不条理な魔性のせいで孤独でね。家族以外と和やかな団欒を過ごした事なんて無かったのだ。例え心が壊れていたとしても、彼女は私と対等に接してくれて、夢を見せてくれた。その恩返しさ。私が嫌われるだけで彼女がもう一度、本当の心で世界を見る事が出来るのならば、天秤にかけるまでもない。元より怯えられるのには慣れている」

 

 ―――一周回って、正気かとさえ疑った。ハッと我に帰る様に言葉の意味を呑みこんで、私は思わず歯噛みする。

 本当に、本当に人の良い妖怪だ。普通ならば、赤の他人からあの様な面倒極まりない頼みを託されたところで、わざわざ聞いてくれる訳が無いのに。ましてや彼の目的が友人を作る事それ一筋ならば、人から嫌われる様な行動は絶対に避けるべきなのだから。

 それなのに彼は実行して見せた。一時の夢を見せて貰ったと言う、あまりに儚いちっぽけな理由だけで。

 ギリッ、と無意識の内に拳へ力が籠った。凄惨な真似を強いてしまった私自身への嫌悪感と、彼の今後に纏わりつく、残酷すぎる運命を前に。

 

「……それじゃあ、私は帰るとするよ。世話になったね」

「こちらの方こそ……よ。本当に、ありがとう」

 

 彼は踵を返して、竹林の出口を目指して歩を進めた。私はその背中を、ただ見つめることしか出来ない。引き留める事は許されない。それだけはしてはいけない。

 しかある程度進んだところで彼は立ち止まると、徐にこちらへ振り返った。

 

「永琳」

「何?」

「もし、もし良ければだが、またここに来ても良いだろうか? 例え嫌われているとしてももう一度輝夜と話をしてみたいし、出来れば君とも――――」

「駄目よ」

 

 私は、彼の細やかな願いを無慈悲なまでに両断した。

 …………両断せざるを、得ないのだ。彼の特性を、彼の今後を考えるならば、人との接触を推進するような真似をするべきではない。

 それが、例え彼を踏みにじるような残酷な判断であるとしても。

 私は、心を鬼にしなければならないのだ。

 

「絶対に駄目。今後貴方がここの敷地へ足を踏み入れる事は許さないわ。姫とも、優曇華とも、てゐとも―――私とも関わる事は許さない」

「…………それは、一体何故? せめて理由を教えてくれ――――」

 

 私は術を用いて手元に弓矢を呼び出すと、彼の眉間へ向けて寸分違わず矢を射った。威嚇のつもりなど毛頭なく、完全な軌道を描いた矢は豪速で空気を切り裂きながらナハトへと襲い掛かる。

 彼もまた、魔力で形成された剣を生み出し矢を弾いた。その表情は困惑の一色に染まり切っていて、彼の口から語られずとも、私の行動に対する疑問で一杯だと容易に把握できた。

 

「……永琳」

「帰りなさい。今なら見逃してあげる。次は無いわ」

 

 辛辣な言葉の刃はブーメランとなって、私の心に突き刺さる。それを、この様な仕打ちを恩人へ執行してしまっている自分への罰だと甘んじて受け入れ、奥歯を砕かんばかりに噛み締めた。

 彼は私の只ならぬ雰囲気を感じ取り、交渉は無駄だと判断したのか、暗い表情を浮かべて背を向けた。ザクザクと、段々足音が遠ざかっていく。

 彼の姿が竹林の奥に消えたのを見届けて、私は弓矢を乱雑に投げ捨てた。

 

「……ごめんなさい」

 

 誰の耳にも聞こえない謝罪の言葉を、吐き出さずにはいられなかった。致し方の無い事とは言え、こんな仕打ちで報いてしまった自分を責めずにはいられなかった。

 

 彼の存在は、恐怖によって成り立っている。ルーツが恐怖の概念そのものであり、その欠片から生まれた彼は、他者の恐れなしには生きていけない。だが自動的に恐れを量産する能力である為に、人間生まれの妖怪の様に暴虐の限りを尽くすなどして畏怖を捥ぎ取る必要が無いせいか、彼は酷く温和な性格をしている。それ故、積極的に恐怖を得ようとはせずむしろ友人を求めている程なのだが、それが結果的に自分の首を絞める事態へと繋がってしまうのだ。

 

 彼は物理的に消滅する事は決してないだろう。死や狂気と言った性質を持つ月光とは逆の性質の太陽光を浴びて灰になったとしても、恐らく夜になると暫くの時を経て復活する。物理的な要素には、他の妖怪以上に強力なはずだ。精神面に大きく存在の比重を傾ける妖怪が、更に比重を傾けているようなものなのだから。

 だがその反面、他者からの親愛の情は彼にとって、この世のどんなものよりも恐ろしい猛毒となる。

 

 要約すると、つまり。

 

 彼は友達を作れば作るほど、他者から親愛の情を集めれば集めるほど、自らの身を蝕んでいき、やがて死―――消滅にまで至ってしまうのだ。

 しかも性質上、精神的な要素……即ち親愛に対して凄まじく相性が悪いせいで、どれだけの者達と友好を育めば存在を保てなくなるのかが分からない。例え存在を維持したとしても、弱体化した肉体を誰かに攻撃されるような事態に陥れば、蝋燭の火を吹き消すように容易く壊れてしまうだろう。

 

 私は、恩人を死に追いやるような真似はしたくない。例えそれが彼の望まない結末であるとしても、彼の死に加担する行動こそが、一つの心を―――命を救おうと身を粉にして動いてみせた彼に対する、最大の裏切りに他ならないからだ。

 私に出来る事はこの真実を伏せて、彼が家族と称した者達と、少しでも長い時間を過ごせるようにする事。ただそれだけだ。それ以外に、彼にしてあげられることは現状何もない。もしこの真実を知ってしまえば、彼は間違いなく絶望するだろう。心の底から欲する友人を作れば作るほど、自らの寿命を破壊し友人と過ごす時間が壊されていく事に繋がるのだから。最悪の場合、夢や希望を絶たれた彼の存在が崩壊する危険性がある。脆弱な精神の持ち主ではない事は百も承知だが、時として希望を絶たれると言う行為は、何重にも祝福や祈祷を捧げた退魔の札を張り付けられるより恐ろしい効果を妖怪に及ぼしてしまう。不確定である以上、無暗に伝えるべきではない。

 

 これから私に出来る事は、この頭脳に内包された全ての知識を全力をもって使役して、彼の性質を、彼の人格から引き剥がす手法を探しだす事だろう。

 そうする他に、彼に対する罪を贖う道は無いのだと、私は強く決心を固める。

 

 だからこそ、どうしようもなく歯がゆくて。

 こんな歪みに歪んだ行動でしか、現状彼に報えない不条理と無力さが恨めしくて。

 私はただ唇を引き絞りながら、呆然と夜空を仰ぐことしか出来なかった。

 

 

 永琳から矢を放たれ、永遠亭を追い出されてからも私は、どうにも歩く気力を削がれて竹林の中を呆然と佇んでいた。ぶっちゃけてしまうと泣きたい。もう夜明けを待って灰になってしまっても良いかもしれないと思い始めている自分が居る。

 

 思い切り怖がらせてくれと、輝夜から私が忌避される事を前提とした永琳の依頼を承諾した時から覚悟してはいた事だが、正直な所、予想の上をさらに突き抜ける勢いで拒絶されてしまったので、流石の私もノーダメージと言う訳にはいかなかった。ほんの少し……ほんの少しだけ、挽回できる機会を恵んでもらえるかもと思っていたのだが、やはりそう簡単な話ではなかったらしい。もっとも、演技とは言え全力で脅しにかかった私に対して輝夜が好意的に接してくれる可能性はゼロに近いのだから、挽回したところで意味は無いと言えば無いのかもしれないが。

 

 しかし永琳の逆鱗に触れてしまった点を考えれば考えるほど、何がいけなかったのかが分からなくて思わず熟慮してしまう……が、ああ平常通りに全部か、と直ぐに結論が出てしまって一層気が沈んだ。魔性による効力もさることながら、演技であっても彼女の大切な姫をトラウマ一歩手前に至るまで脅したのだ。私に嫌悪感を抱いても仕方のない事なのかもしれない。

 明確な答えが欲しくても他人の心の内は当人にしか分からないのだから、こればっかりは推測を浮かべるしか方法が無いのが残念だ。

 ポジティブに考えれば、とても聡明な彼女の事だから何か考えがあった上で私を拒絶したのかもしれないが……残念ながらその理由に皆目見当がつかない。つまりその線は限りなく薄いと言う事では無かろうか。

 そしていつもの事かと割り切れてしまいそうになる辺り、何だか私に友達が出来ない要因が色濃く目の前に映し出されたような気がした。

 

 うーむ、悩ましいがやはり今までの様に行動する方針では駄目なのだろう。積極的に他者と接して受け入れてくれる者を探す様な、例えは悪いが下手な鉄砲数撃ちゃ当たる作戦が効果を成さないのであれば、別の作戦を考えなければなるまい。

 私が直接赴けば悉く失敗していると言う点を考えると、直接会わない方法―――つまり接触以外でイメージアップを図り、第三者からの言伝で好印象を広げていく方法はどうだろうか。例えば幻想郷のボランティアに参加して、私がただの幻想郷好きのおじさんなのだと周知されるよう頑張ってみたり――――

 

「…………、」

 

 幻想郷のボランティアってなんだ?

 自分で言い出しておいて酷く頓珍漢なアイディアだなと、思わず溜息が出てしまう。ここは自然と妖怪と人間が良い均衡を保って生活を営んでいる楽園だ。ゴミ拾いをするために無料で募集を掛けている所なんてある筈がない。と言うよりは、そもそもボランティア等が行われている場所は人間や一部の妖怪などが固まって暮らし、十分な社会が成り立っている地域に限られる。そしてそんな地域は幻想郷内で考えると、人里以外に私は知らない。そこでボランティアをしようものならば、逆に私を排除するボランティアが出てくる事など考えるまでも無いだろう。

 

 では、私が表にほとんど出ないスタイルの飲食店を開くと言うのはどうか。美味しいものは人の心を和ませる。店を好きになって貰えば私に対しても好感触を持ってもらえるかもしれない。

 …………と考えたところで、私が表に出ないにあたって必然的に接客の代わりを担う店員が必要になってくる訳で、そして店員を得る事そのものが非常に厳しいと気がつき、私は思考を放棄した。これ以上考えるとドツボに嵌り続けてしまいそうだ。

 こんな所で考え続けても仕方がないか。今は取り敢えず紅魔館へ帰還して、休養しつつじっくり考えていく事としよう。幸い、時間だけならたっぷりと持て余しているのだから。

 

 と。

 そこで私は、周囲に起こっている異変に気がついて、動かし始めた足を再びその場に縫い留めた。

 

 止まっているのだ。無論私ではなく、周囲の全てが。

 今までそよ風に揺られていた竹がピクリとも動いておらず、それどころか隣に落下しかけていた笹の葉が空中で動きを停止していた。よく目を凝らせば、竹林全体を覆っている霧が全く流動していない。まるで時間が止まっているかのように。

 

 何者かの能力によって空間を切り取られたのかと勘繰って、私は周囲を見渡した。そして背後を確認したその時、私は驚愕に目を見張った。

 目の前に居る筈の無い少女が、私を拒絶している筈の輝夜が。悪戯っ子の様な笑みを浮かべて立っているではないか。

 

「あら、驚かないのね」

「………………、どうしてここに君が?」

「あ、それで一応驚いてたのね」

「何故私の追ってきている? 君は私に嫌悪を抱いているのではないのか?」

「なんで?」

「なんで、と言われてもだな。私が君にしたことを忘れた訳では―――」

「忘れてなんかないわ。でも、あの後全部を把握したのよ。何故温厚だった貴方が、突然人が変わったように私を怖がらせたのかをね」

 

 ……成程、妹紅か。錯乱状態に陥っていた彼女が、そう易々と平常心を取り戻して真実を見極められるわけが無い。ケアを任せた妹紅から、今回の顛末を耳にしたのだろう。私が永琳の依頼を受けて動いていた身の上なのだと。

 恐怖を植え付けられた輝夜は、それを知ったとしても傷つきもう二度と私と会おうとはしないだろうと考えていたが、その予想は外れたらしいと目の前の少女が物語っている。

 彼女は、私を半ば捲し立てるように話を再開した。

 

「もしかして、アレがトラウマになって私があなたを怖がると思った? それ半分正解。確かに今あなたが、会った時よりも断然怖い。けれどそれは、私の心が平常値にまで戻ったからこそ感じられているものよ。幾ら怖くても、その事実を度外視するほど目は腐ってないわ。と言うより、あなたのお蔭で目が戻ったと言った方が正しいのかしらね」

 

 お蔭で何だか清々しいくらいよ、と輝夜は言った。出合った時に比べると淑やかさが薄れているが、明らかに活気に溢れるその様子こそが、本来の輝夜のものなのだろう。

 荒療治が成功していることは喜ばしい事だが、余りに予想外過ぎる展開を前に、私は困惑の渦へと巻き込まれてしまった。周囲の全てが静止した異様な空間も相まって、私はパラレルワールドに移動してしまったか、幻覚を見せられているのではないかと勘繰ってしまう。

 しかしどれほど混乱しようとも、はっきりとした玉虫色の声で訴えられては、これが現実なのだと再認識せざるを得なかった。

 

「だからこそ、私はあなたにちゃんとお礼を言いたい。私に嫌われる事を覚悟してまで、永琳の頼みを聞いてくれたことに。あのままだと多分、私は私の形をした『蓬莱人』のままだったと思う。どんな形であれ、どんな過程であれ、あなたは私を戻すきっかけを作ってくれた。それの何に引け目を感じているの。別にあなたは何も間違えてなんか無かったじゃない。あなたは永琳の頼みをお人好しに受諾して、それに応えただけ。そしてそれが私を戻すための行動だったのだもの、一言くらい言っておかなきゃ気が済まないわ」

 

 直後に、彼女は満天の星空の様に微笑んで。

 

「―――――ありがとう、ナハト」

 

 ただ簡素に、しかしこれ程までに無い想いを込めたと言わんばかりの感謝を、彼女は柔らかく私へと手渡した。

 その表情は、この世のものとは思えない、花よりも美しき可憐な微笑みで。本来その笑顔を向けられる立場に無いはずの私が、その笑顔を目にしても良かったのかと、疑ってしまう程のものだった。

 事態について行けず、硬直した私を尻目に彼女は続ける。

 

「それともう一つ。ナハト、あなたは難題を乗り越えて見せたわね。生きながら死んでいる存在……私の形をした『蓬莱人』を殺し、心も生きる人間へと戻す事で」

 

 だから、約束は守らなきゃねと彼女は言った。私は耳を疑い、目の前で濁流の如く急変していく現実を受け入れる心構えすら弾け飛んだ。

 なよ竹のかぐや姫と称されるに相応しい優美な足取りで、少女は私に手を伸ばす。

 

「改めて、私と友達になってくれる?」

 

 

 

 ―――無意識の内に、その手を受け取ってしまいそうになった。

 

 

 だが寸での所で、私はその手を引き留める。

 拒否している訳では無い。むしろ願っても無い申し出だ。この言葉を、一体どれほどの時間の中待ち焦がれたことか。二つ返事で承知したいのは当然の事、すぐさま両手を空に突き出して、この言い知れぬ高揚と喜びを高らかに表現してしまいたいほどだ。

 しかしそれは残酷な事に叶わない。永琳に、私は輝夜とも交流してはならないと宣告された。私が処断されるのは良い。けれど永琳が友好関係を知り、私との友好を絶つために輝夜の行動が制限される様な事になれば堪ったものではない。人の自由を奪ってまで、私は―――

 

「永琳の言葉が引っ掛かってるんでしょ?」

 

 輝夜が放った、私の考えを見透かしたその言葉に、思わず息を詰まらせた。

 

「聞いていたのか」

「ええ。私、物凄く平たく言ってしまえば瞬間移動と時間停止が意のままに出来るからね。これが意外と永琳に気付かれないよう移動したり、盗み聞きするのに使えるのよ」

 

 ちなみに今、あなたと私以外の空間を永遠に固定しています、と輝夜は自慢げに胸を張る。

 

「まぁ確かに、あなたの危惧している事は分かるわ。永琳結構過保護だからねー、そうなっても不思議じゃないと思う」

「では、尚の事避けるべきではないか。君は折角、様々な事を楽しめるようになったと言うのに――――」

「そこで私に良い考えがあります」

 

 彼女は袖の中から、徐に紙を取り出した。それは便箋だった。彼女が封を開いて中を見せれば、そこには一枚の綺麗な和紙が折りたたまれていて。

 分かる? と彼女は笑ってみせた。

 

「友達ってあなたが考えてるほど重たいものじゃないし、色々なタイプがあるのよ。だから永琳の目を効率的に掻い潜りかつ友達になるには、これが一番適していると思うわ」

「それは、一体なんだ?」

「あなた、変な所で鈍いわね。これはつまり」

 

 これまたどこに仕舞ってあったのか、彼女は毛筆と墨の入った入れ物を袖の奥から取り出せば、便箋の中の紙にすらすらと、何やら文字を書き記していく。

 そして出来上がった便箋を、彼女は私に見せつけた。そこには見惚れるような達筆で『拝啓、ナハト殿』と書き記されていて。

 彼女は高らかな声と共に、私へ再び手を伸ばした。

 

 

「私と文通友達になりましょうって事よ!」

 

 

 

 

 ―――――この夜を境に、定期的に鈴仙と言う名の兎妖怪が、薬売りの名目で紅魔館を訪れるようになり。

 私は竹林に住まう友人と、文通と言うものを始める事となった。

 幾らかやり取りをして知った事なのだが、あの日を境に彼女は積極的に外へ出て、人間の里と交流を持つようになったらしい。時折現れては子供たちに昔話を語らうお姫様として、大層有名になったそうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なーんかちょっと見ないうちに面白そうなヤツが入って来てるねぇ。こりゃあもう、眺めるだけなんて無理ってもんさな。ようっし! 私が腰を上げるっきゃないね! 久しぶりに楽しめそうだ。にゃっはっはっは!」

 



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EX4「賢者さんの憂鬱 その2」

第2回アンケートで採用されたお話です。

※見返してみると内容があまりに酷かったので、一部シーンを大きく改訂しました。ストーリーの内容に変更点はありません。


「――――今、なんと?」

 

 竹林の奥地にぽつんと佇む、不気味なほどに整理された古い日本屋敷の中。つい先日、月をすり替える異変を引き起こした人物との、和平会談での出来事だった。

 腰まで伸びる輝かしい銀の三つ編みが特徴的な不老不死の女性、八意永琳の口から飛び出した衝撃的な言葉を前に、私は思わず自分の耳を疑ってしまい、何とも間抜けな返事を返してしまった。

 しかし彼女は、絶世の美貌と例えられても何ら遜色のない麗しき顔貌に波風一つ立たせること無く、私を驚愕の渦に突き落とした言葉を、美しい声色で再び並べていく。まるで、私の反応が想定内であったとでも言うかのように。

 

「ナハトと言う男は、言うまでも無くただの吸血鬼ではないわ。彼のルーツは人間の幻想によるものではなく、もっと根本的なもの―――即ち、八百万の神々も含め全ての存在に例外なく平等に降りかかる、万物の終点たる『消滅』……その概念から奇跡とも呼べる確率でバグが生じ、自我を得て、妖怪としての身にまで格を落とした存在。それが彼の正体なの」

 

 もっとも、概念から発生したとはいえ生まれた時期は長くても二千年かその付近の様だけど、と彼女は情報をつけ足していく。

 

 そんな馬鹿げた話があるものか、と声を大にして反論を返したかった。しかし、彼女の述べた発言には抗い難い説得力が滲み出ていて、私の反論を喉の奥に押し戻してしまう。

 理由は、そもそも私が何故あそこまで理不尽極まりない恐怖を、彼を目にしただけで無条件に感じてしまったのかと言う点だ。

 私もそれなりには長い時間を生きて来た。そんな妖怪生の中で、月の民や閻魔、神仏の類に鬼、更に天魔などを筆頭とした猛者達と巡り合う機会は、勿論数多く存在した。しかしだ。それらの経験の中でも、ただ目にしただけで危機感を体感した事など一度たりとも無い。あの圧倒的な力を持つ月の使者に対してだって、この目でその惨劇を、どうしようもない格の差を見せつけられたその時までは、危機感を抱いたことは無かったのだ。ましてや一個人に対して、思考を鈍らされる程の怖れを対面するだけで抱かされるなど、客観的に見ても経験したことは無い。

 なのにあの男は違った。姿形を目にするだけで、声を耳に受け入れるだけで。どうしようもなく体と心が縛り上げられてしまい、明らかに普段の私ではいられなくなってしまった。これが異常と言えずして、何と言うのか。

 

 その原因が『消滅の概念』の欠片から生まれたが故となれば、かなり突飛かつ奇天烈な理論ではあるが、理不尽な怖れを抱かされた理由は説明出来る。証拠に、魂を不滅化させ完全な不死身と化した彼女たち蓬莱人ですら明瞭な恐怖を感じたと言う。八意永琳の弁によると、完全な不死による副作用とでも言うべきか、蓬莱人は真っ先に恐怖の感情を失くしてしまう傾向にあるらしい。そんな存在に例外なく恐怖を呼び覚まさせる彼が、ただ強い魔たる性質を持ち合わせただけの妖怪程度である筈が無く、事実述べた通りの馬鹿げた存在であったからこそ、恐怖を感じ取ったとの事である。

 

 呑み込むにはあまりに難解な真実を前にして、私は辟易とした感情を抱かざるを得なかった。

 と同時に、ある疑問が水泡の如く胸の奥底から浮上してくる。

 あの男の存在を認めた瞬間からずっと抱き続けてきたもの。それは、彼が幻想郷へ入り込んだ目的とは一体全体どういったものなのかという、至極単純な疑問だ。

 

 私は初め、彼は幻想郷を手中に収めようとしているのかと疑った。かつてレミリア・スカーレットが吸血鬼異変を起こした時の様に、彼もまた、幻想郷の環境を笑顔の裏で狙っているのではないかと。しかしその疑いは、あの永夜の晩に霧散した。否、正確には『幻想郷に対して』直接何かをしようとしている様には見えなくなったのだ。もし幻想郷を乗っ取ろうと考えているのであれば、あの様に自分を異変の主と疑ってくれと言わんばかりのパフォーマンスを繰り広げ、冤罪をわざと被らせる様に仕向けて私に謝罪の場を設けさせようと画策してまで私と接触する機会を生むなど、回りくどい事をする必要は無いからだ。その圧倒的な魔性で水面下に仲間を増やし、隙を見て決起する方針を取る方がよっぽど成功率は高い。

 しかし奴はそれを選択しなかった。奴は着々と誰にも気づかれぬよう計画を進行すると言った動きに出ず、ただ私と接触する為だけに、あまりにも面倒臭いが嵌れば確実に実を結べる行動へと打って出て来たのだ。この事から、奴は『幻想郷そのもの』ではなく『八雲紫』……もっと言えば、八意永琳と接触した点から考察するに『力ある者』を何らかの理由で狙っている可能性が非常に高い。

 

 そしてこの要素が顔を覗かせてきてしまったからこそ、奴の目的が濃霧の奥に存在するかのように見えて来ないでいるのだ。

 

 何故彼が積極的に他者と接点を持ち、恐怖の威圧を振りまきながらも、血を流す事の無い『平和的な交渉』を持ち出してくるのかが分からない。あの夜、奴はやろうと思えば私と幽々子に傷を負わせることも出来ただろう。だが奴は牽制するだけに攻撃を留め、実質本気で敵意の籠った刃を向けてくることは無かった。まるで、それが最後の一線だとでも意識しているかのように。

 

「……貴女は彼の事を知りたがっている様だけれど、ナハトに対して友好的な感情は持ち合わせているの?」

 

 八意永琳が、底の知れない瞳を私に向けながら、何の前触れも無く唐突に伺ってきた。

 

「いいえ。現状、腹の底に抱えている真意を掴めない彼は、私にとって一つの警戒対象……それも、最も警戒に値する人物に過ぎません。友好的など、もっての外ですわ」

 

 そう、と八意永琳は相槌を打つ。その表情はどこか安堵しているような、どこか愁いを帯びているような、複雑な色を湛えていた。だがそれもすぐに、元の凛とした表情へと戻る。

 

「友好的に思っていないのならその方が良い。彼とはなるべく関わるべきではないわ。これは貴女に限った話ではなく、幻想郷の全員に言える事よ。……可能なら、第三者が彼と関わろうとする火種を消していく事をお勧めするわね。特に、人間の集落に対しては」

「その心は?」

「…………危険だから、よ」

 

 その危険とは、一体何を指す言葉なのか。まぁそのままの意味で受け取れば、出会う事でナハトの影響下に置かれてしまう者達が危険に晒されると言う事だろう。幾ら妖怪の範疇に収まっているとはいえ、中身が未知の素材で構成されている事に変わりはない。不確定要素である以上、下手に接触を許容して想像も出来ない結果を生み出さないよう厳重に注意せねばならない事に変わりはないのだ。

 

 今後の課題の一つとして、情報操作を決行しなければならないか。幻想郷縁起に彼を記載するよう仕向け、少なくとも人間の里の間には、あの男へ不用意に近づこうと言う気を起こさせないよう、印象を植え付けねばなるまい。最近はスペルカードルールが適用され、弾幕の輝きに彩られた、目の癒しになる決闘劇を人間も目にする機会が増え、遠目から見る分には十分楽しめる要素として認識されてしまっているせいか、人間が妖怪に対してフランクになり過ぎつつある傾向にある。何時愚かな考えに囚われた人間が、物珍しさにあの男へ接触を試みようとするか分からない。かつて風見幽香に対して人間たちが楽観視し過ぎたが故に起きた、あの様な事故を繰り返さない為にも、先手は打っておくに限るだろう。

 

「成程。月の頭脳のご忠告、しかと胸に刻みましたわ」

「やっぱり、バレていたのね。月に対して理解があるからもしかしたら、と思っていたけれど」

「八意の名前はかつて耳にした覚えがあったの。そこで月が関連してくるとくれば、流石にね」

「でも一つだけ誤解しないでほしいのだけれど、今の私はもう月の民ではないの。ただの一人の薬師よ」

 

 彼女が言わんとしていることは容易に把握できる。私たちに対して敵意は無いと告げたいのだ。それに関しては、彼女が現在月から遠ざかろうとしている行動から簡単に察せるだろう。敵の敵は味方である。即ち、同じく月をあまり良く思っていない者同士、いがみ合う意味も無く利害も一致している所から、彼女を―――正確には彼女が仕えている主人を筆頭とした永遠亭は、幻想郷へ正式に帰属する事が決定したも同然なのだ。

 

 そしてそんな彼女たちには、医療の発達が少々遅れている幻想郷で、八意永琳の知識と力を活かした人妖共同の診療所をオープンして貰う事にした。その代り、幻想郷から追い出す事もこちらから何かを仕掛ける事もしない。働いてくれさえすれば、双方無暗に干渉し合わない取り決めである。要は平和的な不可侵条約と言ったところだろう。実は、今回の会談はこちらの方がメインの話し合いだったりする。

 

 私は更に条約を確かなものとするべく、細かな決め事を永琳と共に提案し、語り合った。 

 思考の片隅で、未だ紐解ける兆しの見えて来ない謎――――ナハトの抱く真の目的、その内容について考察しながら。

 

 ひたひたひた。

 足袋が埃一つないフローリングを滑る音が、大きな屋敷の廊下を駆けていた。

 有って無いような足音の正体は、八雲藍の式神、橙である。化け猫少女は今、敬愛する主人からある重大な任務を仰せつかっていた。

 重大な任務とは、八雲藍の主人である八雲紫――つまり橙にとってはご主人様のご主人様にあたる人物を、長い微睡みの中から連れ出してくる事だった。

 

 橙は普段、八雲の姓を持つ者達が住まう『本拠地』で寝食を共にしてはいない。普段の少女は山の中にひっそりと建つマヨヒガと呼ばれる屋敷にて、日々修練の時間を過ごしている。

 しかし今日は珍しく事情の違う日だったらしい。橙は時折八雲藍へ呼び出され、こうして任務を与えられることが度々あるのだ。それについて橙は別段苦に思ってなどいない。むしろ尊敬する藍の役に立てることが、彼女にとって小さな誇りでもあった。

 

 そんな訳で、橙は任務を果たそうと張り切っている。目的地の襖にまで辿り着いた橙は、猫らしく音を立てない仕草で襖をそっと開き、偉大なる大妖怪の寝室へと入り込んだ。

 飾り気のない、一つの布団だけが存在する和室。八雲紫の仮眠所である。紫が疲労を貯めた時、床に就く時にのみ使用される部屋だ。けれど橙には、自分の想像の遥か高みに立つ妖怪の部屋であるからか、どこか神聖な場所にすら感じていた。

 

「失礼しまーす……」

 

 小声で挨拶。そして忍び足で部屋を進む。以前に同じ任務を任された際、橙は大胆不敵に部屋へと突撃して、藍から無礼だと怒られた事があった。だから今度は怒られないよう、物音立てずに侵入した。橙は同じ失敗を繰り返さない子なのである。

 そそくさと布団にまで進み、橙は紫の隣へ鎮座した。

 覗き込むと、境界の妖怪は寝息一つすら立てずに眠っている。どこか儚く、そして美しい寝顔だった。微動だにもせず聖女のような寝顔を披露している彼女は、傍目から見れば死んでいると勘違いされてもおかしくないかもしれない。

 

「紫さま。お夕餉の時間でございますよ」

 

 枕元にしゃがんで、肩を叩きながら起こしてみた。返事はない。

 橙は、紫が寝坊助さんだという事を知っている。なので今度は揺すろうと思い立った。

 肩を掴み、優しく揺れ動かす。けれど目覚める気配は無い。どうしたものかと橙は困惑した。いっそ飛び込んでやろうかと思ったけれど、また藍さまに怒られてしまうと頭を振って考えを捨てる。

 となれば、頑張って起こすしかない。頑張ればいつか起きてくれる。なので橙はもっと頑張る事にした。

 

「紫さま、起きて下さ――わひゃっ!?」

 

 ミッションを再度遂行しようとした瞬間、布の中から細い腕がにゅっと伸びてきて、まるで蝦蛄のように橙を毛布へと引き摺りこんでしまった。

 視界が回り、心地のいい温もりに包まれる。恐る恐る目を開けば、紫の顔がそこにあった。金糸のようにサラリと輝く前髪が表情を隠しているが、僅かに下から覗く桃色の唇は、優しい微笑みを浮かべている。

 

「おはよう橙。起こしに来てくれたの?」

「おっ、おはようございます紫さま。起きてられたんですね」

「ええ。眠りが浅かったの」

 

 いつもは熟睡しているのに珍しいなぁと、橙は布団の中で首を傾げる。すると背中に手を回され、ぎゅっと抱き締められてしまった。

 突然のアクションに驚いて、ひゃっ、と変な声が出る。けれど勿論、橙が逆らう事など出来ないので、成すがままにされてしまう。

 いつもとは違う紫の様子に、橙は再度クエスチョンマークを浮かべた。

 

「紫さま、何か嫌な事でもあったんですか?」

「……色々と、ね」

 

 何か含みのあるニュアンスで、紫はそうポツリと零す。妖怪としての経験が浅く、紫はおろか藍の足元にすら及ばない橙には、紫の抱える事情へ深く踏み込めるほどの洞察力は無かったが、何か嫌な事があったんだと直感的に察知した。

 けれどどうすれば良いのか分からなかったので、取り敢えず紫の背へと手を伸ばし、子供のように抱き付いてみる事にした。こうすると胸の辺りがぽかぽか温かくなるので、紫さまもきっと温かくなる筈――そう考えての行動である。

 

「紫さまに何があったのかは分かりませんが、元気出してください。藍さまも心配しちゃいます」

 

 橙の言動に驚いたのか、一瞬目を丸くする紫。しかし直ぐにクスクスと笑いながら、更に橙を抱き返した。

 

「そうね。元気出して、頑張らなくちゃあ駄目よね。ふふ、ありがとう橙」

「お役に立てて光栄です」

 

 子供は時として、最も察知能力の高い生き物へと変化する。妖怪として見れば幼子に等しい橙は、無意識の内に紫が最も欲しているものを察したのかもしれない。

 ともあれ。橙の行動によって、紫の内に溜まっていたナハトに対する心労は幾許か取り除かれた様子だった。目覚めよりもすっきりとした微笑みを浮かべる紫を見て、自然と橙も笑顔になる。

 あー、と紫の間延びした声が橙の耳をくすぐった。

 

「でも今は、もうちょっとこのままで居たいわ。そうだ、橙。このまま一緒にお昼寝しない?」

「ええっ。今はもう夕方ですよ? お夕餉の支度ももうすぐ終わるって藍さまが」

「いいからいいから。もし本当に時間が来たら、藍が直々に起こしに来るわよ」

「ええ。慧眼通り、起こしに来ましたよ、紫さま」

「あらぁー……」

 

 パッと光が差し込んできたかと思えば、突然肌寒い空気が橙の肌をするりと撫でた。急に寒くなったせいで反射的に紫へと引っ付くが、寒気を招き入れた元凶を目にして、橙はすぐさま布団の上へと正座する。

 言うまでもなく、団欒毛布を剝ぎ取ったのは橙の直属的上司にあたる藍である。クールビューティーな印象を受けるその顔貌は苦味を加えられた表情をしていて、橙はしまったと俯いた。

 

「橙、駄目じゃないか。言われた事はちゃんと成し遂げなければ」

「はい、ごめんなさい藍さま……」

「まぁまぁ。私が引き留めちゃったのが悪いんだし、大目に見てあげて」

「紫様も紫様です。いつまで眠っておられるつもりですか。もうとっくに夕陽が射し込む時間帯ですよ」

「ふふ、ごめんね。どうも疲れが取れなくて」

「……夕餉と湯浴み、どちらになさいますか。両方すぐに準備できるようにしてあります」

「お風呂湧かしてくれたの? 良いわねー、目覚めのひとっ風呂と行きたいわ」

「畏まりました」

「あっそうだ。どうせなら、橙も来る?」

 

 ふぇっ、と、急に話を振られた橙は素っ頓狂な声を上げた。紫が橙には到底推し量る事の出来ない存在であるせいか、何故自分を湯浴みへ誘ったのか、まるで理解出来なかったからだ。

 クスクスと紫は笑う。まるでその反応を待ってましたと言わんばかりに。

 反して、藍は冷静だった。

 

「紫様、橙は化け猫故に水に弱く、更に橙に着く式もまた水に弱いのです。入浴は中々難しいのではないかと」

「あら、まだ式に完全防水を着けるまで届いてなかったの? まだまだね」

「うぐっ……め、面目ないです」

 

 目に見えてしょんぼりとする藍。『八雲』の姓を与えられた――つまり一人前と認められた九尾の狐であっても、やはり主人から呆れられるのは堪える様だ。

 微笑みで受け流し、紫は言う。

 

「境界操作でその辺りはどうとでも出来るわよ。さぁどうする橙? あっちでお話の続きでもしない?」

 

 暫く、橙は迷った。と言うのも、何度も述べたように橙にとって八雲紫とは遥か雲の上に位置する大妖怪である。自分の主人すら軽々と上回る実力に、人知を凌駕する思考能力。更には幻想郷と言う楽園を作り上げ、それを維持する圧倒的手腕。藍は時折紫の事を『たまにポンコツになる変な主人』と言うけれど、橙には逆立ちしても妖怪の神様にしか見えない訳で。

 

 つまるところ、恐れ多くてとても即答できるものではなかったのだ。本心で言えば、このような誘いは光栄極まりないので是非受けたい。ただ自分如きがそれでいいものかと、橙の小さな葛藤が答えを喉元で食い止めていたのである。 

 すると、黙りこくっていた藍が紫と橙へ視線を交差させ、

 

「橙。今日は紫様に付き合いなさい。それでさっきの失敗は帳消しとする」

 

 助け舟をひっそりと差し出した。

 あら、と微笑む紫。パッと表情を輝かせる橙。

 

「はい! 紫さま、よろしくお願いしますっ!」

「ええ、こちらこそ」

「では準備をしてきますので、暫しお待ちくださいませ」

 

 藍は一礼して、スキマの中へと消えていく。橙は憧れの妖怪と湯を共に出来る事に、まるで遠足を控えた小学生のような気持ちになるのだった。

 

 

 

 可愛げのある化け猫の式に癒された後の事。全ての用件を済ませた私は一人、博麗神社の屋根上に腰かけていた。

 涼しげな天蓋には、初秋を思わせる仄かに輝きを増した本物の月が夜空で自らを主張していて、御身を流れる雲に隠されても、彼の光は懸命に幻想郷を照らしている。

 

 ここは私にとって、所謂特別な場所だ。何百年も前から幻想郷の景色を眺めて来た、思い出と歴史の詰まった場所。ここから一望できる風景だけは変わらなくて、一人考え事に浸りたい時は結構足を運んでいたりする。霊夢に見つかれば、屋根に上るなと怒られてしまうけれど。

 

 私がコオロギの合唱を耳に挟みながら物思いに耽っているのは、言うまでもなく、未だ顔すら覗かせてこないあの男の目的についてだ。

 

 先ほどの事だった。先日の異変時にて、冤罪を吹っ掛けてしまった件を形式的にも謝罪せねばならない状況に追い込まれていた私は紅魔館を訪ねたのだが、その訪問は全く予想もしていなかった結果に終わったのである。

 

 奴は、私に何も要求してこなかったのだ。

 

 私は当初、奴はわざと私に異変の元凶と勘繰らせて攻撃させる事で、その冤罪を口実にこちらへ自分の望みを押し付けてくるものだとばかり考えていた。何か要求してくるようならばその要求から逆算して目的を暴き、逆手にとって釘を刺してやろうと思っていたのだけれど、奴が私に言った事と言えば『気にするな』や『何か飲むか』だとか、まるで仲違いをしてしまった友人と仲直りをしようとしているかのような言葉だけだった。他には、一切何もない。

 

 結局、あの男と紅魔館の小さな当主、そしてその妹君を交えた、ビリビリとした雰囲気のお茶会を済ませるのみで終わってしまったのである。何時本性を出すかと気を張り詰めていたのに、気がついた時には解散となっていたのだから、私は暫くスキマの中で動くことが出来なかった。それ程までに、あのお茶会の意味がまるで理解できなかったのだ。

 

 奴の行動には不可解な点が多すぎる。初対面時には私を試す様な真似をして罠に掛けたかと思えば、別段それ以上の行動を起こす事は無く。二度目の会合の際にも、またも私を策に嵌めたかと思えばその行動の先にあった筈の利益を掴み取ろうとしなかった。かと言って奴は何の目的も持たずに行動している訳でもなくて、確かに内に秘めた望みを現実のものにしようと動いているのだ。しかしその実態を欠片も掴ませようとはせず、口八丁手八丁で誤魔化して、まるで煙の様にうろうろとしている。

 

 分からない。ここまで来ても、奴の考えが分からない。あの男は一体全体、この幻想郷で何を成そうとしていると言うのか。何のために、今まであのような行動をわざわざとっていたと言うのか。

 

 今までの動きから分かっているのは、奴は私を含め、何かしらの能力を持った存在と関わる、もしくは探し出そうとしている事だ。理由は言わずもがな、奴の望みを叶えるために必要だからに違いない。

 更に記憶を振り返ると、あの男が私を初めて見た時口元を一瞬だけ歪めたのは、万能に近い境界操作能力を持った私との顔合わせが想定以上に早かったからか、むしろ想定内だったからだろう。奴はその時から明らかに私を―――正確には私の力を狙っている様な動きをするようになった。そうでなければ、あの晩にあのような行動へわざわざ打って出るわけが無い。大妖怪特有の気紛れにしてはメリットが無さ過ぎる。まさか、ただ散歩に出ていて偶然私と鉢合わせただけだなんてことはあるまいに。

 

 これらの要素から考えるに奴の目的は、万能性の高い私の能力を用いなければ―――要するに自分一人では達成できない類のモノであると言う事だ。だがそれはもう既に予測がついている。問題はその先にある。

 考えろ。奴の胸に秘められた目的を。何故奴は私の力を必要としている? 何故奴一人では目的を達成できない? 何故奴は―――――――――――――――――

 

 その時、電流が頭を駆け回るように、私の脳裏へ姿を現して来たものは、昨晩の会談にて八意永琳が語った言葉だった。

 彼女は言っていた。あの男はその真実を把握していないが、彼は大昔から存在する途方もない概念から生じたバグが、妖怪としての格にまで堕ちた存在であると。

 そして彼女はこうも言っていた。『関わるな』と。理由は『危険だから』だと。あの言葉は簡素ではあったが、鉄塊の様な重みが添えられていた。

 

 これまでに見つけて来た奴の要素を、頭の中でパズルを嵌めるように組み合わせていく。

 輪郭が、炙り出し文字の様に浮かび上がってくる。

 奴は自分の力ではどうにも出来ず、万能性に富んだ力を求めている。ここで一つの前提を覆すと、世にも悍ましい答えが色を持ち始めてくるのだ。

 

 永琳は言っていた。彼は自身の正体を把握していないと。

 だがもし、それが彼女の間違いであったとしたら? 正確に把握しておらずとも、何らかの形で自身の正体を察知していたとしたら?

 ふと、つい最近親友の亡霊姫が、興味本位で妖怪桜の封印を解こうとしたと言う話を思い出す。

 

 パチンと、何かが嵌りこむ音がした。

 

 導き出された答えは、とてもとても単純なもので。しかしその影響は、私ですらも計り知れないもので。

 まさかではあるのだが。まさかであって欲しいのだが。

 奴は自身の秘密に勘付いていて、元来持ち合わせていた筈の本当の力を、その身に取り戻そうとしているのではないか?

 森羅万象に対して平等に降りかかる、『消滅』の特性そのものを。

 

 ――――ゾワッッッ、と、例えようも無い悪寒が私の体でのたうち回った。まだほんのり暑さの残る残暑の夜風が、急に真冬の様な冷たさを持ち始める。

 もし、もしこれが奴の考えている内容だとすれば、これ程までに無い大惨事が幻想郷で巻き起こりかねない。否、大惨事どころでは済まない。終わりそのものが現れようとしているのだ。そこから波紋状に行き渡っていくだろう影響の強さは想像もつかない。そもそもソレがどの様な結果を齎すのかさえ、正確に掴み取る事は不可能だ。

 ただ一つ確実に言えるのは、奴が目的を完遂すればその先には『最悪』が口を開けて待ち構えていると言う事だけだ。

 

 ならば最悪の事態を想定し、可能な限りの手を打たねばなるまい。

 永琳は奴と関わるなと言っていたが、それはほぼ不可能だろう。奴の監視を徹底化し、事の真偽を確かめなければ。無論今すぐ手を下す事は容易だが、それは得策ではない。私の予測が正しいと100%の確証が持てない現状、迂闊に手を出せばまた以前の様に逆手に取られてしまいかねないからだ。慎重かつ念入りに、これまで以上に奴の警戒を強めなければならないか。

 同時に最悪の場合が起こってしまった時の対処法も考案せねばならないだろう。わざわざ丸腰で立ち向かってやれるほど、甘い事態では無くなりつつあるのだ。

 さて、どうしたものかと扇子で風を煽ぐ。未曽有の危機が迫りつつあるかもしれない恐ろしさなど、実に何時振りの事だろうか。

 

『紫ぃ~』

 

 不意に、どこか抑揚の外れた甲高い声が、緩やかに私の意識を其方へ注目させた。

 白い煙の様な物体が収束をはじめ、左隣に形を作り出していく。声から脳裏に浮かんだ想像通り、見知った仲が姿を現した。

 小柄な体躯に、その背丈ほどの長さもある薄茶色の髪。側頭部には身長と不釣り合いな捻じれた角が二本生えており、それが彼女の種族を物語っていた。

 かつて妖怪の山の頂に君臨し、その名を世に轟かせた大妖怪、鬼の四天王こと伊吹萃香である。

 

 そんなおどろおどろしい二つ名とは裏腹に童女の様な笑顔を浮かべつつ、常備している瓢箪から一気に酒を煽り、酒気の籠った呼気を軽快に吐き出した。見た目は子供でも、彼女は立派な鬼の頭領だ。彼女にとって酒は水であり、命である。

 

「こんばんは~っと。久しぶり、元気にしてたかい?」

「ええ。貴女も息災の様で何よりよ」

「鬼から元気取ったらそりゃ鬼じゃないからね。私は何時でも元気さ。……それはそうと、今日はソッチ(・・・)なのかぁ。アッチ(・・・)の紫の方が、からかい甲斐があって面白いんだけどねぇ」

「人を二重人格者みたいに呼ばないで。私はただメリハリをつけてるだけよ」

「いや、紫の場合それが自分の境界を弄っちゃうレベルだから極端すぎるんだって。霊夢も情緒不安定に見えるって言ってたぞ?」

 

 ぐさり、と言葉の刃が私の胸に深々と突き刺さった。承知してはいたが、直に言われると結構来るものがある。それでもはっちゃける時ははっちゃける主義なのだ。今後もこのスタンスを変えていくつもりは無い。

 

「……それはそうと、貴女がわざわざ尋ねて来るなんて、何か私に用事があるのではなくて?」

「おっ、そうだったそうだった。ちょっと頼みごとがあってさ~。まぁ、話すと長くなって面倒だし、これ見て察してよ」

 

 ちんからほいっ、と萃香は奇妙な掛け声とともに、私の目の前へ一つの封筒を生み出した。彼女の『密と疎を操る程度の能力』も、中々応用性が高いと思い知らされる。この様に物体を『疎』にして色々なモノを持ち運べたりするのだから便利だ。恐らくだが、今すぐ宴会を開こうと言ったらよし来たと膨大な酒瓶を『密』にして取り出してくるに違いない。

 

 私は封を切り、中の手紙を取り出した。綴られた文字に目を通していく。

 比喩表現を抜きに、血の気が引いた。

 ぎぎっ、と錆び付いたブリキの様な仕草で首を動かせば、萃香は実に鬼らしい、愉悦に満ちた笑顔を浮かべているではないか。

 

「萃香、貴女、何時の間にこんな勝手な事を……!?」

「あー止めようったって無駄だよ。もうアッチの許可は取ってあるんだ。頷く頷かないじゃなくて、協力してくれないと困るんだよね」

 

 私もだけど、紫も……と彼女は言った。それはそれは楽しそうに、伊吹鬼は微笑んだ。

 

「……それでもこれはあまりに危険すぎる。止めなさい、取り下げればまだ間に合うわ」

「それで納得してくれるタマかねアイツは? ううん、アイツだけじゃなく私も納得しないよ。紫が手伝ってくれないなら、しょうがないから勝手にやるけど本当に良いの? 私は鬼だから、紫みたいな配慮なんて利かないよ?」

 

 萃香は剣呑な光を鮮紅の瞳に宿し、妖しく口角を釣り上げた。

 こうなってしまってはもう止められない事は、昔からの付き合いで骨身に染みるほど把握している。否、この場合、むしろ止めた方が被害は大きくなってしまうのだ。ここは素直に彼女の要望を聞き入れる方が吉と言ったところか。

 思わず、溜息。

 

「………………昔から勝手ねぇ、貴女は。ここ最近で随分丸くなったと思っていたのに」

「にゃははっ、(かど)が取れたらそれは鬼じゃないさねっ。勝手なのも鬼だからこそ、だ。褒めてくれてありがとよん」

「欠片も褒めてなんかないわよ」

 

 まぁまぁ、辛気臭い顔してないで一杯どうだい? と辛気臭い顔をさせた張本人が、凄まじい酒気を飲み口から漂わせる瓢箪を突き出して来た。

 避けられない未来を前に、スキマから猪口を取り出して半ばやけくそ気味に一口。途端に強烈な灼熱感が食道一帯へ襲い掛かった。

 

「相変わらず強いわね、コレ。外の世界でアルコールが危険視されつつある理由が分かる気がするわ」

「にひっ、天下のスキマ妖怪にも流石にキツかったかな? まぁでも嫌な事は飲んで忘れるに限るっさ!」

 

 がぶがぶと、萃香は再び瓢箪を煽る。いつもの事ながら酔ってはいるみたいだが、泥酔しないのが不思議だ。鬼の中でも一際強い彼女の酒好き具合には目を見張るものがある。

 私は再び手紙の文字に目を通し、再度内容を確認していく。

 そこでふと、もしかしてこれは利用できるのではないかと妙案が思い浮かんだ。

 奴に対しての対策を考案できる良い機会だし、何より一見すると危険極まりないが、用意さえしておけば鎮火は可能ではある。問題は萃香が余計に付け足してしまった彼女(・・)だが、まぁ、彼女は彼女で扱いやすいと言えば扱いやすいので、あの男ほど事態を掻き乱す様な事にはならないだろう。

 取り敢えず、こちらから話は着けておくべきか、と明日の予定を脳内で組み上げていく。

 

 最後にもう一度だけ萃香から酒を貰い、それを喉に流し込んだ。

 今度の灼熱感は、何だかさっきより一層強く感じた。

 



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第三章「狂瀾怒濤の鬼神伝」
13.「始まりはお便りから」


「おっ、咲夜ちゃんじゃないか。今日もえらい別嬪さんだねぇ! どうだい、今年も豊作で野菜も果物も安いよ、買ってかないかい? 今ならサービスであまーいお芋も付けちゃうぞ!」

「おーい咲夜さんよう、今日はお肉も安いぜ! 仕入れたての新鮮な牛、豚、鶏がどの部位も大特価販売中だ! 序でに買っていきな!!」

「お米が豊作でお酒も安いよー。晩酌や宴会にいかがかねー」

「さっきゅううう――――――んッ!! おいらの血を寄付するからこっちにきてェェ―――――ッ!!」

 

 今日、人間の里の商店街では毎週恒例の朝市が開かれている。人里に数多く存在する商人たちが、それぞれ仕入れたての品々を活気と共に顧客へ売り込む小さな市場だ。雄鶏の鳴き声を吹き飛ばさんばかりに賑わうこの朝市は、早朝だと言うのにまるで宴会の様に騒がしい。加えて、夏の過ぎ去った今は実りの秋真っ只中だ。豊作の喜びと言うスパイスがより濃厚に働くせいか、他の季節よりもどこか活気が強まっている様に思える。もしかしたら秋の神様も、この喧騒に釣られてふらりと紛れ込んでいるかもしれない。

 

 前々から私は、人里へ買い物に来ることがあった。特に毎週行われている朝市の日を狙って来ていて、おまけに私は服装も髪の色も人里の人間にはあまり馴染みのないものであるせいか、今ではすっかり顔が知れ渡ってしまっている。二、三回訪れた頃にはいつの間にか名前まで広まっていた。恐らく霊夢かその辺りが教えたんだろう。別に構わないのだけれど、時々呼び込み以外の用で私を呼ぶ声が聞こえて来るようになって少しばかり怖い。直接手を出してこない分、良識的なのかもしれないが。

 まぁ、人里の人間たちは妖怪を身近に感じる生活を送っているせいで外の世界と比べて非常に逞しく、適応能力も高いので良くも悪くも大らかなのだ。細かい事を気にしないと言って良い。排他されてきた外と比べれば、この賑わいも悪くないと思える。

 

「鶏を一羽まるまる、あと卵を二箱くださいな」

「毎度有り! いつもの牛じゃないって事は、お嬢様のリクエストか?」

 

 そう言って豪快な笑みを見せる男性は、急ごしらえを要する際に朝市平時を問わず世話になる肉屋の主人だ。この人は見かけの豪傑さに寄らず読書家で、幻想郷の妖怪やその対抗策、危険区域などを記した、いわば一種のガイドブックである幻想郷縁起と言う名の書物を愛読しているせいか幻想郷の妖怪事情にやたら詳しい。その為私が紅魔館に属する者と噂で知るや否やお嬢様について興味を持ち、買い物ついでの談話で主人の日常などを話した結果、よく気にかけてくれる様になった稀有な人だ。

 

 外の世界なら、吸血鬼を気遣う人間なんて考えられたものではなかった。改めて幻想郷とは凄い所なんだなと実感させられる。

 ……ただ時折、お嬢様に血を飲んでもらいたいと自らやってくる物好きを超越した人間がいるのが困りものだが。

 

「ええ。昨晩、北京ダックが食べたいと仰せられたの」

「へぇ『ぺきんだっく』……ん? それって確かアヒルの料理じゃなかったかね? 鈴奈庵の外来本で読んだことがあるぞ。鶏で良いのかい?」

「フフ、お嬢様は純真な側面が強いお方ですから」

「――はっはっは! 成程、じゃあサービスでアヒルの卵二箱もツケておくよ!」

「ありがとう」

 

 料金を支払い、品物を受け取って持ち合わせていた袋に入れる。また来てくれよーと背後から主人の別れの挨拶を受け止めながら、食後のデザートはスイートポテトにしようと思い至って、八百屋にも足を運ぶことにした。確か秋は香りで顧客を呼び込むために作りたての焼き芋も売ってるはずだから、試しに買って食べてみよう。だが誤解しないで欲しい。これは味見をして真に美味な芋なのか見極めるために買うのであって、決して自分が食べたいからなんかではない。あくまで味見なのである。良い品を主人に提供する為に見極めるのも従者の務めなのだ。間違っても私が焼き芋大好きメイドさんと言う訳では無い。

 

「すみません、焼き芋一つとサツマイモを一箱――――」

「店主、サツマイモを一箱分貰えるか――――」

 

 偶然声が重なったと横を見れば、いつぞやの半人半獣の女性がそこに居た。

 彼女と私は目を合わせると、『あ、こんにちは』といった具合に軽い挨拶を交わす。間にはもう敵対の空気は無く、あるのはこの奇遇に驚く雰囲気のみだ。

 戦いが終われば(わだかま)りを残さないのが、幻想郷特有の暗黙の了解と言って良い。元よりあの戦闘は不可抗力な勘違いによるものだったのだ。今も険悪である必要などどこにも無い。

 それは、彼女の方も心得ている様で。

 

「先日はどうも。えっと、咲夜さん、で合ってるかな?」

「はい。十六夜咲夜と申します。紅魔館で従者を務めております」

「上白沢慧音だ。一応、寺子屋で教鞭を執らせて貰っている。改めてよろしく」

「こちらこそ」

 

 あの晩の戦いが嘘のように、和やかな空気が私たちを包む。

 しかし店の前で買い物を続けず会話をするのも何だとの事で、それぞれ必要な品を手に、一旦場を離れてから会話を再開した。

 

「かなりの量を購入されたようですが、上白沢様も今晩芋料理を?」

「いや、流石にこの量を一人では完食できないさ。今日は妹紅に竹細工の課外授業を頼んでいてね、その序でに子供たちと焼き芋でもしようかと」

 

 そう言って彼女は、何だか遠足を楽しみにしている子供の様に朗らかな笑顔を浮かべる。余程寺子屋の子供たちが可愛いのだろう。確か以前美鈴が『手のかかる子ほど可愛く思える』と言っていた事があった。それと似た様な気持ちなのかもしれない。

 因みに美鈴の言う手のかかる子は私の事ではないと言っておく。そう、決して私の事ではない。私は過去を振り返る女では無いのである。断じて。

 

 閑話休題。

 

 件の妹紅と言えば、確かお嬢様の槍をまともに食らい散り散りになりながらも瞬時に復活して見せた、あの炎を操る人間――と呼ぶには少しばかり規格外だが――の事だろうか。竹細工の授業を任されているという点から考えるに彼女は器用だろうから、何だか火加減も上手そうに思えてくる。子供たちが笑顔で跳ねる様な、美味しい焼き芋を簡単に作ってしまいそうだ。もしそうならば私も食べてみた―――いや、火加減の調節方法を参考にさせて頂きたい。

 

「……ところで、一つだけ質問したいことがあるのだが、大丈夫かな?」

「なんでしょう」

「あの晩に現れた男についてなのだが……ああ、勘違いしないで欲しい。別に他意は無いんだ。ただ、妹紅は彼の事をあまり話してくれなかったので、気になって」

 

 恥ずかしながら、あの後気を失ってしまって記憶が無くてね―――彼女はそう言って、苦々しい笑みを浮かべた。そこに悪意は見当たらない。純粋に、ナハト様について知りたいと思っているのだろう。

 ……別に黙秘する必要は見当たらないし、お嬢様からナハト様の事を口外するなと命令が下されている訳でもない。ならば、根の深い部分以外は話しても問題ないか。

 

「少しなら大丈夫ですよ。して、あの方の何を?」

「ありがとう。……ただ純粋に、彼がどう言った妖怪なのか知っておきたいんだ。危険なのか、危険でないのか、簡単な所だけで構わない」

「……危険か危険でないかで言えば、勿論危険なのでしょう」

 

 嘘は言っていない。事実、あの方は人知を超えた力を持つ吸血鬼だ。しかも強大極まりないお嬢様よりも頭一つ、いや二つは抜けていると言っても過言ではない。

 吸血鬼のソレを更に超越した再生能力。漏れ出した瘴気を浴びるだけで人体に重篤な影響が出るほどの濃密かつ莫大な魔力。それを具現化しコントロールを可能とするほどの精密さ。そして豊富な知識と非常に高い洞察力。能力面のみで見れば、これ程厄介で強力な妖怪はそうそうお目にかかれるものではないだろう。事実、彼と総合的に考えて匹敵すると思われる怪物は、八雲紫以外に私は知らない。

 

 しかし、妖怪の中でも文句なしのバケモノと称せるポテンシャルを持つ反面、普段のあの方は非常に穏やかで紳士的な妖怪だ。人間から罵詈雑言を投げられたり、理不尽な攻撃を受ける程度では、怒りを滲ませている様子が浮かび上がって来ない。丁寧な対応に気を配り、あの瘴気にさえある程度馴れてしまえば、ナハト様は恐らく危険ではないのだろう。

 

 だが、それでもだ。

 

 私は決して忘れない。あの忌まわしい夜の出来事を。そして抱かされた、あの方の真の恐ろしさを。

 彼の怒りは、怒りの矛先を向けられていない私ですら死を予感したほどのものだった。彼の指先が動けば死ぬ。彼が声を発すれば死ぬ。彼の視線に射抜かれれば死ぬ―――そう覚悟させられてしまう、理不尽なまでの圧力と力があった。 

 勝てる勝てないの問題ではない。許す許されるの問題でもない。彼の怒りを買えば死ぬのだ。いや、実際は死なんて生温いと両断できるような処断を下されてしまう。夜の怒りを前には人間の力など、蟻が象に挑むよりも無謀な事である。

 だからこそ、安全などとは程遠い。いや、そもそも妖怪の時点で人間にとって安全な存在など無いに等しいのだが、それでもはっきりとこう言える。彼は決して安全な吸血鬼などではないと。

 

 あの方は恩人だ。それは本当に、心の底から理解している。私の様なちっぽけな従者風情では、到底返す事の叶わない恩義を感じている。

 けれど、だからこそ。彼との間に存在する尺を計り間違えてはいけない。彼の強大さを計り間違えるような事があってはいけないのだ。

 

「ですがあの方は寛大です。並大抵のことではピクリとも動じる事はありません。事実、上白沢様はナハト様に敵意を向けても処刑される事が無かった。お嬢様のお話では、その様な些細な事でも他の吸血鬼達は不敬だと一蹴して、殺害にまで及ぶことが多々あったそうですから、あの方が吸血鬼としてどれだけ大らかなのか察する事が出来るかと思います。しかし、あの方の持つ力は―――いえ、あの方の怒りは危険以外の何物でもありません。これは仮定の話ですが、もしあなたがナハト様の怒りを買ってしまったとしましょう。そうすれば、最悪人里は無くなります。賢者の守護があったとしても只では済みません。これは絶対です」

 

 つい語気が強くなり、荒々しい空気を帯びてしまう。

 その効果が如実に表れたのか、ごくりと音がはっきり聞こえてきそうなほど、彼女は喉を蠕動させた。教鞭を執る者である以上、彼女は聡明なはずだ。今の言葉だけで十二分に彼の実態を理解出来たのだろう。

 けれど別に、脅すつもりなんてない訳で。

 

「―――と、脅し文句みたいな事を言いましたが、彼は不用意に手を出される様な事でもなければ他者に襲い掛かる事はまずありませんから。まさに触らぬ神に祟りなしですわ」

「その様だな、肝に銘じておくよ。……っと、いけない時間だ。仕事だから、私はこの辺りで」

「ええ、お達者で」

「時間を割いて付き合ってくれてありがとう。それでは」

 

 彼女は頭を下げた後、箱を抱えて足早に去って行った。言われてみれば、それなりに時間が経過している。授業の準備などで忙しいだろう彼女はこれから大変そうだ。それでも彼女は、自分の仕事が好きなんだろうなぁと別れ際の笑顔を見て私は感じた。

 そして仕事と言えば、私にもやるべき事があるのだった。このままぼうっと佇んでいる訳にはいかない。済ませる用は済んだ事だし、芋を食べながら帰るとしよう。

 

 八百屋から買った焼き芋を袋から取り出しつつ、私は振り返る。皮を剥いてさぁ実食だと思い至ったその時、何か弾力のあるものに強く弾かれ、私は大きく後退し、よろめいた。

 拍子に、焼き芋が無慈悲にも手から転げ落ちる。

 

「!」

 

 即座に時間停止。間一髪で焼き芋を救出する事に成功し、止まった時の中で安堵の息が零れ落ちる。危ない危ない。

 態勢を整えて、時間の流れを正常に戻す。何にぶつかったのかと振り返って前を見れば、そこには何も存在していなかった。

 はて、と首を傾げつつ周囲を見るが、不審なものは見当たらない。だが確かに今、何か柔らかいものにぶつかった感触があったのだ。時間停止中はずっと焼き芋に意識を持っていかれたとはいえ、解除して直ぐに振り返れば、衝突した物を当然視界に捉える事が出来るはずである。

 それが無かったと言う事は、本当に私の気のせいだったのだろうか。

 

「……不思議な事もあるものね」

 

 だからこその幻想郷か、と一先ず自己完結をさせておく。うだうだと考え込んで時間を食ってしまったら本末転倒だ。ここは手早く焼き芋を処理しつつ迅速に帰宅する事が先決である。

 改めて、九死に一生を得た焼き芋を見る。時間操作の応用で温度を維持できるのがこういう時に便利なもので、時間が経過してもアツアツの状態で吟味する事が出来るのだ。

 

 そして頂きます、と漸く口にしようとしたその時だ。手提げ袋から何かがはみ出している事に気がついて、私はそれを何気なく手に取った。

 端正に作られた、ラベンダーの栞だった。

 こんなものが何故袋に? と疑問を抱くも、パチュリー様の栞をメイド妖精が悪戯で袋に隠した線が浮かび上がってきて、直ぐに考えるのを止めた。こんなのはよくある事だ。特に最近は妹様がやんちゃになりつつあって、メイド妖精と悪戯をする事が増えたせいか物がよく隠されたり移動したりすることが多くなった。以前と比べれば大変微笑ましい事ではあるが、だからと言ってやりたい放題で放置していい理由にはならない。良い機会だから、戻ったらお嬢様の許可を頂いて少しお話をしよう。そろそろ誰かが注意しなければならない頃合いだと、お嬢様も思っておられる事だろうから。

 

 私は栞を折れないよう袋に仕舞って、紅魔館へ続く帰路を歩み出す。

 久しぶりの焼き芋は、思わず頬が緩くなるほど甘かった。

 

 

 相も変わらず、秋空の下でも私は門番である。と言うより一年中門番である。元来体が頑丈なせいか、それほど暑さも寒さも気にならないので環境に関しては別段苦しい所は無かったりする。しかし一日中門前で立っているだけではかなり暇なので、その部分が辛かったりする。

 昔はそれなりに修羅場と言うか、紅魔館に侵入しようとしてくる賊が定期的に訪れてきて良くも悪くも暇では無かったのだが、最近は滅多な事ではやってこない。来る者と言えば、私を倒して強さを証明したいと謳う物好きな人里の格闘家か、黒白のシーフマジシャンか、

 

「おはようございます、美鈴さん」

「あっ、おはようです。鈴仙さん」

 

 迷いの竹林の奥にある永遠亭と言う場所からやってくる、鈴仙さんくらいだ。

 

 彼女は時折、永遠亭に住まうナハトさんの友人からナハトさんへ手紙を届ける為に、遠方よりわざわざここまで訪問してくれる頑張り屋さんな妖怪兎だ。最も用件はそれだけではなく、序でに薬箱の管理もしてくれている。彼女が師匠と敬う人物がそれはそれは凄い薬師さんらしく、事実そのお師匠さんが作った薬の効力は抜群で、咲夜さん曰く調子が悪い時に服用すると直ぐに体調が改善されるとのこと。

 言うまでも無いが薬箱の管理が必要なのは、私たち妖怪と比較するとどうしても肉体的に脆い咲夜さんの為だ。ついこの間熱を出して倒れた事があったからか、お嬢様は鈴仙さんの来訪をそう言った面でも歓迎したと言う裏話がある。昔から吸血鬼にしてはお優しい方だったが、ここ数年で本当に丸くなられたものだ。

 

「これ、お手紙です」

「ありがとうございます。いつも遠くから大変ですね、この後人里にも向かうのでしょう?」

「師匠に扱かれるのは今に始まった事じゃないから大丈夫ですよ。それに私、こう見えて力持ちなんで、重い荷物もへっちゃらです」

 

 むん、と力こぶを作る仕草をする鈴仙さん。パッと見ただけでは華奢に映るかもしれないが、相当肉体を引き絞っている名残が私には伺えた。気の流れも非常に安定かつ活発だし、もしかしたら昔は鍛えていたのかもしれない。

 

「前の点検から薬は使われました?」

「いえ、以前薬箱の補充をしてもらってからは使ってないですね。皆健康体そのものですよ」

「では、薬の点検は必要ありませんね。それじゃあ私はこの辺りで」

「おや? 珍しいですね、今日はお茶を飲んで行かないんですか?」

「ふふ……実は以前お邪魔した時、時間を忘れてしまったせいでその日のお仕事が終わらなくて師匠に怒られちゃいまして。今は絶賛反省中なんですあはははー」

 

 そう述べる鈴仙さんの目は、濁り切った池の水の様に不気味な色を湛えていた。何だか若干気が乱れ始めている。トラウマになる程とは、一体どんな風に怒られたのだろうか。

 お師匠さんの怒りがよほど怖いのか、鈴仙さんは『それではー』とだけ言い残して忙しなく人里の方へ飛び去って行った。

 手を振りながら見送って、私は手紙を届けに行くために門を開こうと手を掛ける。

 

 そう言えば、ナハトさんが身内以外と交流を持つなんて凄く珍しいなぁと、今更になって気がついた。昔の彼は紅魔館の中でも特に近しかったお嬢様達とそのご両親くらいしか、積極的に関わっている所を見たことが無かったものだから、一層物珍しく感じてしまう。

 そうなると必然的に、この手紙の内容が気になってくるものである。が、無論頼まれたって聞かない。例えこればかりはお嬢様や妹様の命令であっても聞くことは無いだろう。彼のプライベートを無許可に覗こうなど、盛大な自殺行為以外のなにものでもない。過去の紅魔館に居た吸血鬼達であれば、この手紙を手に取る事さえ忌避しそうだ。

 そう考えていると、いち早くこの手紙を届けねばと言う強迫観念に駆られてしまい、私は直ぐに門を開いた。ここで衝動に負けて全力疾走のまま紅魔館へ帰れば確実に咲夜さんからナイフと共にお説教を頂く事になるので、気のサーチを駆使しナハトさんまでの最短最速のルートを割り出しつつ足早に目的地へと向かう。

 

 ふと、背後に小さな反応が二つ。

 

「みすずー!」

「チルノちゃん、美鈴さんですよ!」

 

 よく見知った妖精たちの元気な声が、私の背中を優しく押した。

 妹様の所へ遊びにやって来たのだろうか。しかし今は真昼間で太陽が制空権を握っている状況な上、妹様から彼女たちに関しての伝言を受け取った覚えはない。つまり予定に組み込まれていないと言う事実に繋がる。となると私に用事がある様に思えてくるのだが、今はこれを届ける方が優先だ。取り敢えず私が不在の間、勝手に館へ入らないよう釘を刺しておこう。この二人は妖精にしては非常に聞き分けが良いので、ちゃんと理解してくれるはずである。チルノさんが好奇心に負けなければの話だが。

 

「こんにちは二人とも。すみませんが、ちょっと待っていて頂けますか? ナハトさんにお届け物があってここを離れなくてはならないので―――」

「おお、それは丁度いいわねっ。これ、内藤のおっちゃんへのお手紙だから渡しといて!」

「チルノちゃん、内藤さんじゃなくてナハトさんですよ」

 

 大妖精さんの訂正もなんのその、『ん!』と元気よくチルノさんの手から一通の封筒が手渡された。はて、彼女もナハトさんと交流があったのだろうか。あまりにも意外過ぎて、受け取った後に手紙とチルノさんを二度見してしまった。

 私の心中を悟ったのか、大妖精さんが説明を加えてくる。

 

「さっき二人で遊んでいたら、これを紅魔館に住んでいる男に渡してくれって言われたんです。多分、ナハトさんの事じゃないかなと思って」

 

 大妖精さんの言葉に訝しみを覚えた私は、手元の封筒へと視線を移した。

 裏にも表にも文字は書かれておらず、差出人は一切不明だ。魔力などの力が感じられない所から見て術による罠の可能性は無いだろうが、どう考えても怪しい事に変わりは無かった。手紙に関しては鈴仙さんから受け取るものについてしか、ナハトさんから聞いていなかったからだ。連絡が無かったのであれば、当然ナハトさんが予期していないお便りと言う事になる。

 

「一体、どなたからこれを?」

「分かんない。なんか霧みたいなヤツだったわ」

「霧?」

「形が無かったんです。突然目の前に現れて、伝言と一緒に手紙を落としていきました」

 

 霧の様な姿をしたもの……普通に考えれば身元が明かされる事を恐れて変化の術かそれに類似したものを行使していたのだろうが、だとすれば余計に怪しさが増してくる。誰が、何の目的でナハトさんにこれを渡そうと企んだのだろうか。

 ……いや、私があれこれと考えても仕方がない。もしこれが何らかの術が施された手紙型の罠であれば即座に処分する所だが、そうでない以上この手紙の意図を見出すのは、宛先の人物であるナハトさんであって私ではないのだ。ならば、共に届けておくのが最良の選択と言えるだろう。

 

「分かりました。それでは、責任をもってしっかりと届けておきますね」

 

 あと勝手に門の中に入っては駄目ですよ、と再度釘を刺しておく。元気よく返事をするチルノさんと頭を下げる大妖精さんの見送りを背に、私は門を後にした。

 

 

「遂に追いつめたわ、お姉様。次の一手で確実にチェックにしてあげる。もう逃れられないわよ。お姉様の運命は今ここで完全に潰え、私に勝利がもたらされるのよ!」

「――――」

「腕を組んで余裕を装ったって無駄だよ。分かってるんだから。悔しいのよね? ねぇねぇ悔しいのよね? 妹に窮地に立たされるなんて、プライドの高いお姉様に我慢できる筈がないんだもの。さぁ、是非今のその気持ちを私に聞かせてよ、お・ね・え・さ・まぁ!」

「……クックックッ。甘いわねぇ、フラン。そうやって勝ちを確信して、水面下の脅威に気付かずに踊り狂う様が本当に滑稽だわ」

「なんですって?」

「貴女の負けって事よ、フランドール」

「…………ハン、この状況で盤をどう引っ繰り返すと言うの? お得意の運命操作で勝ちの糸を手繰り寄せるつもり? 出来るものなら寄せて見なさいよ、出来るもんならねぇ!! 負け惜しみなんてみっともないよ、レミリアお姉様ァ――――――」

「はいチェックメイトー」

「――――――――――――――――――う?」

「……忘れていたの? ポーンは相手陣地の最終列にまで潜りこめば、クイーンへと昇格出来るって事を! お前は私が意味も無く外れにあるコイツを動かしていると本気で思っていたの?ルールブックはちゃんとよく読みなさいとアドバイスまであげたって言うのに、完璧に失念していたなフランドール・スカーレットッ!」

「な、な、なななぁ………っ!」

「さらによぉーく見てみなさい、私が配置した駒の数々を」

「!? わ、私のキングが! クイーンが完成した事で完全に包囲されている!?」

「お前は目先の勝利ばかりに囚われて、周りに一切気を配らなかった。それが敗因に繋がった! 改めて周囲に目を凝らしてみなさいな。どう? 貴女の視界に、果たしてここからの逃走経路は映し出されているかしら?」

「そ、そんな! こんな、こんな事って……!」

「たかが雑兵と思って見過ごしたのが仇になったわね。まさに油断大敵って奴よ」

「ふ、ふにゃああああああ~~~~ッ!?」

 

 ガツン、とフランがテーブルに頭を打ち付ける音が図書館中に響き渡り、それが試合終了のゴングとなった。

 一部始終を観戦していた私は、手作業を止めて彼女たちへ声をかける。

 

「惜しかったね。まぁまぁ良い線を行っていたとは思うのだが、そこはやはり経験の差と言ったところかな」

「うー……」

「フン、ボードゲームで私に勝とうなんて500年早いわっ」

 

 負けた事がよほど悔しいのか、自慢げに胸を張ってドヤ顔を向けるレミリアに腹が立つのか。フランは呻き声を上げたまま机から一向に顔を上げようとしない。腕をクッションにしていないので鼻が潰れて痛いと思うのだが、大丈夫なのだろうか。

 

「しかし初心者相手に少し大人気なかったのではないか?」

「そうよ。フランはチェスをやったことが殆ど無かったんでしょう? それを上げてから叩き落とすなんて可哀想に。お姉さんらしくない」

 

 私と共に観戦していたパチュリーが、賛同して非難の声を上げる。だがレミリアは『強さこそが正義なのよ』と悪魔的な笑みを浮かべるだけだ。活動的な妹と違って、策略や陰謀を好むレミリアらしいと言ったところか。

 

 そして実は意外な事に、フランはボードゲームを殆どした事が無かったりする。彼女はもっぱら活動的な少女で、自由の身だった400年前も盤上で思考を働かせるより体を動かして活動することが多かった。幽閉されていた間も、ただひたすらに眠っては起きるか、時たまボールを壁に投げて一人キャッチボールをするか、本を読むか、あの卿と話をして時間を過ごす事しかしなかったそうである。哀愁漂う彼女の経歴を思い返すと、どことなく自分にも共通した点が浮き彫りになって変な笑いが出た。こんな事でシンパシーを感じてどうすると言うのか。主に年長者として自分が情けなくなってくる。

 

 しかし今の私は以前の様なボッチではない。最近になって漸く……苦節数千年の末に漸く、初めての友人を獲得した。尤も、諸事情あって手紙でのやりとりしか出来ない状況ではあるが、私はそれでも大変満足である。そしてこんな関係を輝夜は『ぶんとも』と呼んでいたが、友人にも色々な種類があるのだと、輝夜と知り合って初めて知ることが出来たと言えよう。私は本や映像、体験と言った情報媒体からしか知識を習得していないが故に交流によって生まれる文化的情報に疎い。その為、他者との交流と言うものの重要さが身に染みて理解できる。

 兎に角、やはり友人とは素晴らしいものだ。得るまでの経過で様々な事があったが、今では花に話しかけている様を見られて引かれても全く気にしない位に気分が良い。

 

「さて、こんなもので良いか」

 

 彼女たちの試合を見守る傍ら行っていた作業が終わり、私は完成した品をテーブルへと置いた。

 すると対面座席へ座っているパチュリーが、活字の海から興味深そうにチラリと視線を寄越す。

 

「それは……前に私が作った腕輪かしら?」

「その模造品だな。残念なことに以前の異変で壊してしまったから、自分で作ってみた。折角作って貰ったのに申し訳ない」

 

 そう。あの時錯乱した輝夜へ手を伸ばした際、私は腕ごと輝夜に装飾品を砕かれてしまっていた。種族的に彼女は人間の筈なのだが、実は相当な力持ちだったらしい。流石に木端微塵になった腕輪を組み立て直すのは骨なので、今度は自分の手で作ってみる事にした。幸いどの様な素材と構造をしているかを把握していたので、後は手順を踏めば容易だったが。

 

「別に構わないのだけれど、要の石はどこから?」

「大昔に集めていた収集品の中へ紛れていた物を使った。魔石の類だ、問題ないだろう」

 

 400年前に館を発つ際、この館に存在する様々な絡繰り部屋へ隠した物の一つだ。長い間放っておいたのでもしかしたら劣化しているかもしれないと危惧していたが、どうやら無用な心配だったらしい。証拠に腕輪へ魔力を通した瞬間、小悪魔の尻尾が少しだけ柔軟さを取り戻している。彼女は魔性が及ぼす私への緊張具合を計る指標になってくれているのだが、それでもフランクになってくれた方が百倍好ましい。小悪魔から信頼を得るには、まだまだ先が長そうである。

 

 パチュリーが、徐に本を閉じて私に言った。

 

「ねぇ、その石ってまだ残っていたりする?」

「恐らく探せば出てくるだろうが……」

 

 もしかして欲しいのか? と聞いてみれば、案の定そうだったらしい。彼女の抱えている魔法実験のアイテムとして欲しいのだとか。

 まぁ問題は無いだろう。と言うより使って貰った方がありがたい。大切なコレクションではあるが、使いたいと願う者が居るならば使われた方が良い筈だ。今現在あの品々は本当の意味でお蔵入りしてしまっており、まさしく宝の持ち腐れとなってしまう危険性が高い。大事に扱ってくれるのならば、彼女へ絡繰り部屋への行き方を教えるのも吝かではないか。

 と、そんな事を思慮していた時。

 

「失礼します」

 

 ノックと共に、美鈴が図書館へと姿を現した。

 普段は門番に勤しんでおり、休憩中を除けばずっと外に居座っている彼女がここまで来たと言う事は、理由は一つしかないだろう。

 

「こちら、お便りです」

 

 レミリア達へ一礼した彼女が、予想通り私へ便箋を手渡した。輝夜からのものだろう。前回からの日数的に考えてそろそろかとは思っていたが、どうやら読みは当たっていたらしい。

 二通の手紙を受け取った私は、まじまじと封筒を見ながら―――

 

「……ん? 二通あるようだが、これは両方とも永遠亭からの便りなのかね?」

「いえ、それが……」

 

 美鈴は、異例として加えられていたもう一つの手紙について私に説明を施した。何でもフランの友人であるあの妖精達が身元不明の人物から私宛への手紙を受け取り、それを美鈴へと渡したらしい。訝しんだ美鈴は手紙に罠が無い事を確認して、この手紙の処断を決めて貰うべくここへ持ってきたそうだ。

 はて、私に便りを寄越す様な人物が輝夜の他にも居ただろうか。いや、もしそんな仲の人物が存在するならば私が忘れるわけが無い。であれば、これは必然的に私の知らぬ人物からの物となってきそうだが。

 

「……、」

 

 先に差出人不明の封を開けて中身を見れば、案の定私の知らない者からの便りだった。と言うよりは名前が書かれていないので、誰の者からなのか分からないと言った方が正しいか。

 

「なんて書かれているの?」

 

 レミリアが興味深そうに伺う。彼女から半ば警戒の色が見て取れた。

 私は文を読み上げ、内容を彼女たちに提示する。

 

「『ナハト殿。次の満月の晩、貴方を妖怪の山の祭りへ招待します』……これだけだな」

「妖怪の山ですって?」

 

 概要を耳にしたレミリアの表情が、結露を帯びたガラスの様に一気に曇る。妖怪の山とは、レミリアがそこまで不安を煽られる様な場所なのだろうか。

 確かふらりとレミリアやパチュリーに聞いた話によれば、その山は天狗を中心とした様々な妖怪による縦社会が築かれている地であったか。噂だと外界に匹敵する高度な文明を所有しているとか何とか、関係者ではない者には噂の尾ひれを掴み辛い未開の土地だ。

 

 兎に角、見方を変えれば一国から招待を受けたと考えればいいのだろう。ただ、招待を受ける由縁が全く見当たらないのが引っ掛かるのだが。

 

「何か不味い事でも?」

「……いいえ。ただあまりにも不自然だと思って。その手紙は、指定地からしてどう考えても天狗の関係が寄越したものじゃない。おじ様の名が天狗に知れ渡っているとは考え難いから……いや、有り得るわね。パパラッチカラスが異変中のおじ様を偶然発見した可能性は捨て切れないか」

 

 でも、とレミリアは区切りを入れた。

 

「だとすれば尚更怪し過ぎるわ。表面上は招待する理由も差出人も一切不明。おまけに事情説明の為にこちらへ天狗を寄越す気配も無し。浅く読んだとしてもこれは罠よ。罠に掛ける理由が分からないのだけど」

「確かに。だが逆に不自然ではないかね。何故この様な、断られる事が当然とも言える態度で私を招待したのかが。まるで断られない確信を持っているかのように思えるな」

 

 もしくは、断られても痛手にならないと捉えるべきか。だが前者の場合は引っ掛かるものがある。断れなくなる理由として考えられるものは第一に弱みだろう。だが弱みなど思い当たる節が無い。あるとすればレミリアたちの事だろうが、そもそも彼女たちは並の者では手も足も出せない猛者達ばかりだ。アクションを起こそうにも、相手側も相当な痛手を負う事必至である。

 となると、また別の要素が考えられるが……。

 

 ふと。

 手紙を読み返している最中、私の目に『祭り』の文字が、酷く強調されて焼き付いた。

 瞬間、稲妻が駆ける様に私の脳裏へ閃きが誕生する。

 これは、まさかではあるが。

 

「親睦会への招待か?」

「へっ」

 

 素っ頓狂な声を上げ、ぱちぱちと目を丸くするレミリアを余所に、私は思考を展開していく。

 天狗は絶対的に上下関係を重きに置く種族だと聞く。それは同族間に限った話では無く、他種族においても適応されるらしい。例えるならば人間。天狗は彼らに対して、絶対に対等な形で接しようとはしない。あくまで自分たちが上で、人間は下。幾ら対応が丁寧だとしても、その根底が覆る事は決して有り得ないのだ。

 そして当然の様に、その逆もまた成立する。

 例えるなら賢者たる紫。彼女と天狗達は、有事の際を除けば互いに干渉する事を控えている関係にあるとレミリアは言っていた。敢えてその関係性を示すならば対等と言ったところだろう。これらの例から考えるに、つまり天狗と言う種族は、幾ら力量的に相手が勝ろうとも上の立場に妖怪を置くことは決して有り得ないのである。身内ならば上下が徹底していようが、他者に対しては絶対に対等以上を譲らない。この性質は国同士の干渉に似ているような気がする。

 

 ここで、私の存在が彼ら天狗たちに知られていると仮定しよう。そして私の存在が露見する様な切っ掛けになったのは、間違いなく紫と幽々子のタッグと戦闘を繰り広げた際だ。あの戦いは余りにも目立ち過ぎた。空中戦とは言えあそこまで暴れ回れば、一人や二人に目撃されていてもおかしくは無い。

 それに加えて、私の魔性の性質をプラスする。するとどうだろう。客観的に見れば、凄まじい威圧を放つ謎の吸血鬼が、妖怪の賢者と冥界の管理人を相手に平然と戦っていたと言うとんでもない構図が出来上がってしまうではないか。どうしてそうなるだなんて言葉は今更である。不本意だが今までの経験からして、そう思われていても何ら不思議ではない。

 

 つまり、これらから導き出される天狗の思惑は単純明快。

 敵対してしまう前に、強大だと判断した私と友好を取り持って対等の位置にまで持っていこうと言う魂胆なのである。

 

 そしてもしそうならば、これは好都合と呼ぶに他ならない。

 

 この様な事は以前にもあった。最たる例があのスカーレット卿だ。彼もまた同じ理由で私に近づき、そこから紅魔館との縁が出来た。実際の所は甚だ不本意ながら上司と部下の様な関係で、最後には裏切られてしまうと言うオチだったが、形はどうあれこの形式は表面上プラス方向の縁が出来る局面である。これを利用せずしてどう友達を作ろうと言うのか。

 これはまたとないチャンスなのだ。私にも友人が出来る事が証明され、さらにこの間のお茶会で紫と関係性を『知り合い』レベルにまで修復できた今、現在までの経験をフル活用して私の悪印象を取り除く事の出来る絶好の機会である。上手くいけば友達が増え、最悪失敗してたとしても、関係を悪化させられない相手側の都合上、表だけでも仲良くしてくれるはずである。何だか相手の都合を手玉に取るようで胸の内から嫌悪感が顔を覗かせるが、ここは少し目を瞑ろう。双方の関係性を安定化させるために必要な事でもあるのだ。

 

 では、この招待に頷かない道理無し。

 

「彼らの意図が読めた。満月の晩は三日後だったかな。時間もある事だ、この招待に乗るとしようか」

「い、意図が読めたって、具体的には何が分かったの?」

「恐らくただの社交パーティーへの誘いだろう。大方異変時の私を見て、敵対する前に友好的に接して取り込もうとしているのではないかね」

「誘い込まれて叩かれる危険性は?」

「わざわざ彼らが争いの火種を起こすメリットが見当たらない。万が一そうだったとしても、直ぐに後退するさ。速さには少し自信がある」

「……はぁ、分かったわ。もうこうなったら私なんかじゃ止められないのは承知してるしね。でも一つだけ条件がある」

「何かね」

「美鈴を同行させること。それだけよ」

「!?」

 

 突然話題の矛先を自分に向けられた美鈴が、限界にまで目を見開いてレミリアを凝視した。全く予想だにしていなかったのだろう。私も彼女を同行させろと言われるなど想像もしていなかった。ただ美鈴よ、何故そんなに不安そうな表情を浮かべているのだね。

 

「お、お嬢様? 何故私が……?」

「前の異変の時、アクシデントに巻き込まれていたとはいえおじ様が迷子になってたでしょう。おじ様に放浪癖があるのは知っているわよね? それの予防策よ。貴女がブレーキ役になるの」

 

 ……確かにフラフラと歩きまわってしまう癖があるのは認めよう。事実、昔から私は旅好きだ。だがそのボケてしまった老人を扱う様な物言いは如何なものか。いや、年齢からしてみれば私も十分お爺さんなのかもしれないが、それでも物忘れなどは起きていない。

 

「ですが、門番はどうなさるので? 咲夜さんは言わずもがな多忙ですし、小悪魔さんも……」

「今、門の前に妖精が二匹いるじゃない。そいつらを臨時で雇うわ」

 

 あの子達ならフランの相手にもなるし一石二鳥でしょ、とレミリアは朗らかに笑う。その提案に反応したのは、言うまでも無くフランだった。

 がばっと起き上った彼女は、目をキラキラさせながら姉に問いかける。

 

「じゃあその日の夜は皆と一緒に門番やってもいいの!?」

「ええ、そうね」

「面白そう! と言う訳で美鈴いってらっしゃい!」

「妹様ァ!?」

 

 美鈴の悲鳴もなんのその。紅魔館を取り仕切る姉妹から勅命が下された今、彼女が反対の意を押し切る事など出来る筈も無く。

 晴れて、私と美鈴による妖怪の山社交パーティーへの参戦が決定する事となった。

 しかし美鈴は何時になったら私を前に緊張してくれる事が無くなるのだろうか。この機会に、その壁を取っ払う事が出来れば良いのだが。

 

 どうやらこの旅は、山と良好な関係を築く他にも目標が出来そうである。

 



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14.「天狗前線を突破せよ」

 今夜は山で祭りが行われる……らしい。

 らしいと言うのは、その祭りが山の行事項目に乗っていない、つまり最近突然に開催が決定したイレギュラーな催し物であり、私たち下っ端が祭りの開催を知ったのは、ここ3日ほどのごく最近の事であったからだ。

 

 そして私は山の麓の警備を担うしがない白狼天狗だ。元々予定に組み込まれていなかった突飛な祭りである為、当然休みである筈も無く。加えて不幸は重なるものなのか、今日に限って見回り当番だったりする訳で。

 まぁとどのつまり、私は山の祭りに参加する事が出来ずにいた。

 今朝、『今日は何だか厄い香りがプンプンするわっ』と若干テンションがおかしな方向になりつつあった厄神様に言われた言葉は、どうやら間違っていなかったようである。今日の運勢はまさしく最悪の一言だ。

 

 非番の同僚たちが、今頃里の方でわいわい楽しんでいるのかなぁと少しばかりの嫉妬に駆られつつ、優しい友人たちがこの寂しい白狼天狗に屋台の食べ物でも恵んできてはくれないだろうかと思いを馳せながら、私は背の高い木の枝の上でひっそりと、『千里先まで見通す程度の能力』を行使して山の周囲を監視していた。

 

 本日も晴夜、お祭り日和なり。何故今日に限って非番じゃないんだと自嘲染みた笑いが浮き上がってくる。

 

 見回りと言っても別に異常事態なんて滅多に起こるものじゃない。だからこの仕事は少々……いや、かなり暇だ。それは山が平和である証拠なのだから喜ぶべきなのだろうけれど、暇なものは暇なのである。こんな時は友人の河童や同胞と将棋の一つでも指したい所だが、いやいや自分の役目はきっちり果たさねばと無理やり自分を奮い立たせた。

 

 ……ちょっとだけ、祭りの風景を覗いてみても良いだろうか。いやしかし、ここで楽しそうな光景を目にしてしまえば仕事に響く可能性大だ。でもどんな賑わいを見せているのかどうしても気になってしまう。山の祭りは大きいからさぞ盛大な―――――

 

「もーみーじーちゃんっ」

 

 ―――――………………。

 何だか、口にすれば河童が川に転げ落ちるレベルの渋柿を頬張ったような気分になった。

 

「もーみーじー、聞こえてますかぁ~?」

 

 私のよく知る人物が、相当酒気に当てられているのか妙に酒臭く艶めかしい声で私の鼓膜を撫でた。同時にあぁ今日は本当に厄日だなと思わず溜息を吐き出してしまう。

 

「……こんな所までわざわざ何の用ですか、文さん」

「あやややや、ツレないれすねぇ~。いつから犬走椛ちゃんはそんな不愛想な子に育ってしまったんでちゅかぁ~」

 

 振り返れば、案の定顔を夕焼けの様に真っ赤に染めた鴉天狗の腐れ縁、射命丸文が、蕩けた目をこちらへ向けて、えへえへとだらしのない笑顔を浮かべながら、虚空を不安定に上下しつつ浮遊していた。

 彼女は山の連中の中でも相当酒に強い筈なのだが、ここまで酔いが回るとは、一体どれほど強い酒をどのくらい煽ったのだろうか。舌が回らない程ベロベロになった文さんなんて、記憶の中に残っていない。

 それでも、取り敢えず凄く面倒臭そうだと言う事は分かった。

 

「で、私に何の用なんですか」

「お祭りなのに勤務に駆り出されてかぁいそうな椛ちゃんにぃ、おしゃけと食べ物をもっれ来まひた」

 

 感謝(かんひゃ)したまえ椛くん、と私の横に腰かけた文さんが、袋をおぼつかない手つきで渡してくる。それを半ば訝しみながらも受け取った。いつも嫌味と皮肉で私をからかいまくる文さんが、こんな親切を施してくれるなんてどんな風の吹き回しだろうと。

 しかしこの人、本当に大丈夫なのだろうか。何だか居眠りを起こして枝から落ちてしまいそうなほど回っている。しかしまぁ、落ちた時は落ちた時か。この程度の高さから落下してどうにかなってしまうほど、天狗は軟な妖怪では無いのだから。

 

 改めて、手渡された袋に手を掛ける。

 袋を開いた瞬間、パァンッ! と火薬が炸裂した鋭い音響と共に、ドヤ顔の文さんの写真が張り付けられたバネがびよんびよんと飛び出して来た。

 唖然とする私を余所に、隣で文さんが腹を抱えて大笑いする。まさに抱腹絶倒と言う奴だ。

 

「いっひひひひっ! 引っ掛かった引っ掛かった。河童しゃん特製のびっくり袋れすよぅ」

 

 おお、間抜け間抜け。と文さんが盛大に私を煽って来る。蟀谷に青筋が奔っていく感触を感じた。

 一瞬でも私に差し入れを持ってきてくれる優しさがこの人にあったんだなと感動した私が馬鹿だった。幸いな事に彼女は泥酔している。ここで殺ってしまっても、飛行中に事故を起こしたとして不慮の事故扱いになるのではないだろうか。刀で斬れば特定されかねないので、撲殺と行こう。計画を企てつつ、手ごろな石が落ちていないかと能力を行使して付近を見渡していく。

 

 そんな時だった。

 私は何かチラリと、視界の端に確かな違和感を感じ取った。

 まるで見慣れた森の中に突然彫像が出現したかのような、そんなあからさま過ぎる違和感を。

 

「………………ん?」

「あ~椛しゃん。あとね、うんと。そう、伝言がありまふ。とってもとっても大事な伝言が―――――――」

「文さん、少し黙って」

 

 椛が冷たいれすぅ、と泣き真似をする文さんを無視して、私は違和感の正体を探ろうと能力の精度を上げていく。

 より詳細に、より精密に。

 倍率と解像度が上がっていく光景の中、必死になってその違和感を探している内に、私は。

 

 私は。

 

「――――――ッ!!?」

 

 ソレに気がついてしまった瞬間。全身の毛が、まるで磁石に吸い寄せられた砂鉄の様に逆立った。同時に怒涛の如く押し寄せる不安の波。肌の表面から細胞の隙間を浸透し、肉と骨をグズグズに侵していくような、生まれてから一度も感じた事の無い悍ましい感覚が私を隅から隅まで一瞬にして蹂躙した。

 毒を盛られたように段々と息が荒くなる。心臓は全力で走り回ったかの如く自己主張が激しい。早く目を逸らしたいのに、ソレから視線を外す事は許さないと瞼が抗議しているのか、限界まで見開かれた瞼は閉じる気配を一切現さなかった。

 

「何だ……これは……っ!?」

 

 視界に星の様な白点がチカチカと瞬き始める。不条理とも言えるような緊張感が全身の感受性を爆発的に上昇させ、眼球を走る毛細血管が血を巡らせている感覚さえはっきりと感じ取れる程までとなった。

 

 身体機能を司る司令塔に手を突っ込まれ、一気に掻き回された様な混沌とした感触。全身を舐め回し、這い回る様な不安と恐怖。これはどう考えても異常だ。異常過ぎる。明らかに私の体と精神が異変をきたしている。このまま呼吸さえもが狂ってしまうのではないかと錯覚を覚えてしまう程に。

 しかし私には、この滅茶苦茶な状態異常にほんの少しだけ覚えがあった。いや、正確には呼び覚まされたと言って良い。私の中に眠り続けていたソレが、この目が捉えて離さないモノを目にした瞬間に叩き起こされたのだ。

 それは獣の本能だった。遠い昔に失った筈の、野獣が持つ鋭敏過ぎる危機察知能力。私の中に未だ残っていた消し屑程度の『野生』が、アレは危険だと全力で警鐘を鳴らしているのだ。

 

 そしてこの本能に刃を突き立て目覚めさせた原因など、最早考えるまでも無い。

 

 私の千里眼が意思を無視して補足を続ける、一人の男。

 見慣れない黒装束に身を包み、死人を連想させる灰色の髪をした大柄な男だ。

 そう。ただの男。変わった風貌をしただけの、異国風の男。

 だがこの男をはっきりと視界に映したその瞬間、全身を襲う悪寒を止める事が出来なくなった。喉から絞り出される唸り声を止める術を失った。

 それだけではない。奴の背後には、山の麓で徘徊している筈の下級妖怪たちが、ギラギラと目を光らせながら男の後を音も立てず、木々の間や草葉の陰から追従しているではないか。

 百鬼夜行。かつて日の本で猛威を振るった妖怪行列を彷彿させるその光景に、私は幾重もの冷や汗を流さざるを得なかった。

 

 奴が何者かは分からない。そんなもの、一白狼天狗でしかない私なんかに理解できる筈がない。

 でも、これだけは言えた。絶対な自信を持って確信出来た。

 

 あの闇夜の中心を歩む男は、間違いなく山の脅威になると。

 そして気付く。奴の足が向かう先は山の奥、我々の里がある方角だと言う事に。

 

 思考が追いついた瞬間、無意識に懐刀の柄へ手を当てていた。刀身は既に鞘の中から食み出すまでに引き抜かれ、覗いた白銀の刃が鈍く月明りを反射させている。

 その輝きに魅せられたのか、あの男から感じるどうしようもない不安と恐怖がそうさせるのか。私はまるで月の狂気に当てられたかのように、思考が泥の中へと埋もれ始めていった。

 

 どうする。私一人で奴と戦うか? いや、無理だ。アレには勝てない。一人では絶対に勝てない。隣でヘベレケになってはいるが、こう見えて屈指の実力者である文さんでも難しいとさえ思えてくる。単身でさえもそう思わされるのに、奴の後ろには百鬼の大群が率いられているのだ。

 どう考えても戦力差は絶望的の一言。ならば応援を呼ぶか? 白狼の全部隊をもってすれば、奴らの進軍を食い止められるかもしれない。

 

 けれど。

 

 私は、白狼天狗の全部隊をぶつけても、視界に映るだけで喉の奥から内容物をぶちまけてしまいそうになるあの男に勝利している光景を、欠片も思い浮かべる事が出来なかった。

 変わりに私の脳裏を塗りつぶしたのは、全身を真っ赤に染められた同胞たちの上で独り優雅に君臨する、闇夜の様な男の歪んだ笑みで――――――

 

「もみじぃ、お顔が怖いれすよぅ」

 

 唐突に文さんから肩を掴まれ、大きく揺さぶられたせいで能力が解除された。視界から男が消え、私を襲っていたどうしようもない不安感が徐々に徐々に失われていく。

 安堵が顔を覗かせると、唐突に濁流のような勢いで肺へ空気が流れ込んだ。私は呼吸のリズムを掻き乱され、その場で強く咽込んだ。

 

「ぶはっ!! は、はぁっ! はふっ、はぁ、ぁう……っ!」

 

 深呼吸を繰り返しながら胸を抑え、呼吸のリズムを戻していく。未だに鳴りやまない心臓が嫌に五月蠅く、とても苦しかった。

 けれど大分楽になった感触はある。あの男を視界から外せたお蔭か、動悸は時間が進むごとに収まりつつあった。今回は酔っ払い鴉天狗に感謝した方が良さそうだ。

 

「ありがとう、ございます」

「んぅ~? よきにはからえ」

 

 変わらぬ様子で蕩けた笑顔を浮かべる文さん。しかしこの様子から察するに、あの男は他者の精神に影響を与える何かを放っている事は間違いなさそうだ。それも、視覚に映せば発動するタイプのものと考えられる。現に奴を視認していない文さんは正気を失っていなかった。つまり、目を逸らしていれば問題ないと言う事になるか。

 ……だがしかし、奴から目を離す訳にはいかないのもまた事実。奴らは間違いなく山へ侵入を試みていた。今も祭りのある里の方角へ向かっている筈だ。ここで見失えば、対処が遅れてしまうかもしれない。

 ならば、ここで腹を括るべきか。取り敢えず一瞬、ほんの一瞬だけ奴の所在地を確認して、それから増援を呼ぶことにしよう。

 その為にも、予防線を張っておく必要がある。

 

「文さん」

「あい」

「私の顔がもう一度怖くなったら、また私を引っ張り戻してください」

「あーい」

 

 柔らかく敬礼する文さんに、お茶らけつつも無駄に凛々しい何時もの面影は見当たらない。今一つ心もとないが、今は彼女が頼りだ。信じる事にしよう。

 私は再び、千里を覗く能力を発動する。

 

 だが、私はそこである事に気がついてしまった。『あっ』と不意に口から声が漏れてしまうように、どこか呆気なくも勘付いてしまったのだ。

 奴の動きが止まっていると言う事に。

 奴の姿が私の肉眼の内に収まっていると言う事に。

 奴の二つの目が、遠方からこちらを覗いていると言う事に。

 

 能力が。

 奴の顔を大きく映し出し。

 魂を引き摺り出されてしまいそうな禍々しい双眼が、私の目と合わさって。

 頭の中でゾブッと、沼の底に引き摺りこまれる様な音がした。

 

 恐怖が。

 私を蝕んでいく。

 

「――――――――――――――――――――――」

 

 気付かれ。危険。どうする。警告。増援。強敵。侵入者。百鬼夜行。

 緊急事態発生。緊急事態発生。緊急事態発生。

 増援を、増援を、増援を。

 

 山が。

 山が。

 

 山が、危ない。

 

「■■■■■■■■■―――――――――ッッッッ!!」

「わひゃあっ!? み、耳がぁっ!!?」

 

 私は叫んだ。山の同胞達へこの危機を伝えるために。

 私は叫んだ。我らが役目を全うするために。

 私は叫んだ。我らの山を、守り通す為に。

 

 

 食欲の秋。芸術の秋。読書の秋。スポーツの秋。外界では様々な言葉が冠されている所から見て取れるように、秋とは四季の中で春と肩を並べるほど賑わいが目立つ季節である。理由としては夏が過ぎ去り残暑を解消した秋の気温が様々な活動に対して非常に適しており、更に多くの穀物や果実が実りを迎え豊穣の潤いを人々へと施し、多年生の動物たちが冬ごもりの為に活発となるからではないだろうか。

 

 幻想郷の秋も、例に漏れず騒がしかった。開発の進んだ外の世界と比べて自然の密度が高いこの大地は、原生生物は元より逞しく日々を過ごしている人間、そして彼らを襲い退治される妖怪までもが、秋の過ごし易い空気に心身共々解されて活動的になっている。

 

 そんな秋の恩恵を色濃く授かっている地の一つに、無論妖怪の山も含まれていた。

 イガに包まれた山栗や秋の山の代表格とも言える団栗がそこかしこに転がり、銀杏独特の匂いが鼻を撫でる。実った果実を胃袋に収めようと躍起になる野生動物たちの姿があちこちに映り、自然の賑やかさは衰える事を知らない。加えて山全体は秋の雅な色に覆われ、空から見下ろしても遠くから一望しても歪む事の無い絶景を生み出している。

 

 尤も、それは昼間限定の事ではあるのだが。

 

 日はとっくの前に沈み、満月が制空権を獲得した山の麓は多くの者達が眠りについているせいか、驚くほど静かな空間となっている。耳に流れ込んでくるのは落ち葉が地面に落ちる音と梟の鳴き声、そして私たちの足音と言ったところだろうか。

 

 それにしても、太陽の光で装飾された時のこの山は、著名な芸術家が思わず唸る程の壮観な風景だった事だろう。しかし私は吸血鬼。それも他のヴァンパイアより日光耐性の低いポンコツだ。昼間に動けない事はないが、リスクが大きすぎるが故に専ら行動は夜中となってしまう。すると当然、月下の山を目にする機会にしか巡り合えない訳だ。月光に照らされ、不気味ながらも神秘的な雰囲気を孕むこの光景も勿論美しくはあるのだが、やはり日の元に憧憬を抱いてしまうのは致し方の無い事だろう。例えるならば、人間が空を飛びたいと願う様なものである。

 しかし、幻想郷の人間の中には例外的に飛べる者も存在する。身近な人物では咲夜がそれの一人に該当するが……そう言えば咲夜はどう言ったメカニズムで飛行しているのだろうか。確か魔法の類は使えないと言っていた覚えがあるのだが。

 

 まぁ、そんな事はさておき。

 

「……静かな山だな」

 

 紛れも無い本物の満月が夜を支配していると言うのに、一向に妖怪を見かけない。今こそ、暗闇に生きる妖怪が本領を発揮する時刻だと言うのにだ。ここは本当に妖怪の山なのかと思わず疑ってしまう。

 

「…………、」

 

 別に相槌や会話を求めた訳では無かったのだが、やむを得ず意識してしまう程に、山に足を踏み入れてから美鈴が一言も口に出さない。ただ黙々と、私の背後を専属の従者の様に着いて来るのみだ。

 

 ぶっちゃけると気まずい。物凄く気まずい。

 

 彼女が前々から―――正確には初めて顔を合わせた時から、何というか、私の事を館の住人の中でも特に畏怖している節がある事は知っている。小悪魔の様に純粋な恐怖を抱いているのではなく、どこか過大評価し過ぎている面が強いのだ。それは私の不条理な魔性のせいで錯覚しているだけだと何度も説得しているのだが、毎回ガチガチになってしまうのみで芳しい成果は今のところ上げられていない。現に、私と二人きりの彼女は魂の抜けた人形の様に見える。

 

「美鈴」

「! は、はい」

「この状況で緊張するのは分かる。だが我々は祭りに招かれた身だ。暗い空気は押し込んで、今夜は思う存分楽しもうじゃないか。これからは無礼講で構わない」

「……承知、しました」

 

 ……ふーむ、やはり私の言葉では精神を余計に揺すってしまうだけで、かえって逆効果なのだろうか。何だか美鈴の放つ雰囲気が更に刺々しくなってしまった様な気がする。

 であれば黙って山奥を目指すのみとなるのだが、やはり気まずいな。招待状の裏側に隠された目的はさておき、祭りに招待されている筈なのに気分はまるで通夜である。山との良好な関係を築くためにも、なるべく明るい雰囲気を心がけたいところだが。

 

「……ん?」

 

 ふと、一瞬だけ森の奥で何かが光ったように見えた。滑らかな金属が反射した光の様な、チカッとしたものがチラリとだけ瞬いたのだ。

 こんな鬱蒼とした夜の森の中で光を強く反射させるものなどあるのだろうか。ああ、もしかしたらあの方角に天狗たちの里があるのかもしれないな。何にせよ、気になったのならば確認すれば早い事だ。

 

 そう思い至った私は、身体改造の魔法を眼球に対して行使する。

 夜の闇の中でも問題なく地形や色を把握できるのが吸血鬼の目だが、生憎遠距離を捉える望遠性能は着いていない。そこでこの魔法である。目の構造そのものを改造し、長距離を眺める事の出来る仕組みへ組み替えた。無理やり体を作り変えるから少し痛いのが欠点だな。

 

 改造が終わり、視界が鮮明になった所で先ほどの場所へと目を向ける。どうやら光の発生源は、大きな樹木の枝の上だった様だ。

 そしてよく目を凝らせば、あちらからも誰かが私を注視している事が伺えた。

 月明りを反射する白い髪に、頭襟と似た形の小さな帽子。頭部へ存在する犬の様な二つの耳。修行僧を思わせる、ゆったりとした服装。これらの要素から察するに天狗の一種……更に言えば、イヌ科と類似した耳が見られる事からおそらく、年を取った狼が変化したと言われる白狼天狗ではないだろうか。

 白狼天狗は天狗の中でも地位が低いと聞く。妖怪の山が縦社会となっている以上、俗に言う下っ端が山の麓を警備していてもおかしくは無いか。

 

 取り敢えずいつもの様に警戒される訳にもいかないので、まずは敵で無い事を証明しておかねばなるまい。この距離で私の姿が見えているのだ、恐らくこれも見えるだろう。補足としてリップモーションもハッキリと送ればこちらの意図が理解出来るはずだ。

 懐に手を伸ばし、招待状を取り出そうとする。

 

 ―――その時だった。

 

『ォォオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――――――――ッッ!!』

 

 山全体へ響き渡る程の、力強い遠吠えが山に爆撃でも行われたかのように轟く。それは眠っていた野鳥も起きていた獣も全て一帯から遠ざけ、更に何か情報を仲間へ伝達したのか、周囲の森の影より次から次へと高速で飛び交うナニカが出現した。

 

 そして、一拍の静寂が訪れた後には。

 既に円を描く様に、白狼天狗の集団に完全包囲されてしまっていた。

 

「…………、」

 

 何だか無性に、手で顔を覆って夜空を仰ぎたくなる衝動に駆られる。

 油断していたと言うよりは、失念していたと言うべきだろう。私の魔性は本来ならばこれ程までに他者へと作用するモノであると知っていた筈なのに、輝夜や紅魔館の者達と出会う内に平常の感覚が麻痺していたらしい。考えてみれば、招待されている程度で私の魔性の効果を上回る好印象を、山の住人全てが抱いている筈が無いのだ。山への来客について伝令が渡っているのは恐らく間違いないだろうが、そうであっても平常の思考を錯乱させてしまうのが私の瘴気である。加えて彼らはどう考えても山の哨戒部隊だ。侵入者に対しての警戒心は人一倍強い。そこに私の瘴気が拍車を掛けたと見て良いか。

 

 そして更に厄介な事に、恐怖と言うものは伝染する。一人が恐慌に陥れば近くの仲間が、更に仲間が……と言った具合に、集団は圧倒的な恐怖を前にするとその恐怖にズブズブはまり込んでしまい易いのだ。

 ここでの恐慌とは、重度の混乱によるパニックを引き起こしている事を指しているのではない。正常な判断能力を、警戒心と恐怖で完璧に塗りつぶされてしまっている状態を指す。

 

 つまり、だ。

 今の彼らは、私の事を山へ侵攻してきた敵だと信じて疑っていない。

 不味いな。状況はかなり悪い方向へと傾きつつある。魔力を発して瘴気の効果を攪乱させる腕輪を嵌めてこれとは、私の体質も本当に厄介極まりない。出来る事ならこの体質を大特価で市場に売り出してやりたい気分である。

 

「そこの妖怪ども」

 

 唸るように、白狼天狗の一人が言葉を投げた。どうやら、先ほど私を観察していた者の様だ。

 

「誰の許可を得て山へ足を踏み入れた。ここが我らの山と知っての事か」

 

 私たちは、山の誰かに招かれてここへ来た――――そう口にしようとしたが、ふとある事に気がついて、私は咄嗟に口を噤んだ。

 今の彼女たちは、言うなれば起爆寸前の爆弾の様な状態だ。あとほんの少しでも背中を押されれば、問答無用で私たちへと襲い掛かってくる事だろう。私の声にも魔性の影響が上乗せされてしまう以上、下手に私自らが意見を述べるべきではない。いつもの二の舞を演じるわけにはいかないのだから。

 ここは、瘴気も何もない綺麗な美鈴に任せるのが適切な判断か。

 

 静かに彼女の肩へ手を伸ばし、掴む。同時に催眠魔法を発動。非常に効力を弱めた催眠を応用し、美鈴に私の伝えたい言葉を暗示として直接心へと送り届ける。言うなれば一方通行のテレパシーの様なものだ。直接私と思考を繋ぐと瘴気に精神を汚染され、錯乱を起こしかねないが故に可逆性を持ったテレパシーは不可能だが、これで十分望んだ効果は得られる筈だ。

 

『美鈴。私の代わりにこの場を収めてくれ。君の力を借りたい』

 

 彼女は、注視しなければ気付かない程微細な動きで頷き、肯定の意を示す。

 突然の精神干渉に多少混乱するかと思っていたが、意外な事に美鈴は冷静だった。この方法は私から美鈴へ言葉を送り付けるだけなので、彼女の心中は読めないがきっと私の考えを察してくれた事だろう。

 

 美鈴は私から招待状を受け取ると、それを手に前進していく。

 進軍先には一人の白狼天狗。最早刀と呼ぶにはあまりに乱暴な、巨大な鉈とも言える獲物を手に、彼女は狼の眼力で美鈴を睨み付ける。

 美鈴はいつもの和やかな雰囲気を全て掻き消して、竜の如き鋭い目を携えたまま、臆することなく白狼天狗と対峙した。

 手紙を開き、彼女は白狼天狗に突き付ける。

 

「我々はそちらの招待によってこの山へ参りました。だと言うのに、この様に客人を出迎えるとは何事ですか」

「招待? ……それをこちらへ見せてみろ」

 

 白狼天狗は手紙を取り、内容へと目を通していく。眉間に皺が刻まれた険しい顔つきが、文を読み終えると同時にまた一層険しくなった。

 

「……お前は山から招待を受けたと言ったが、どこに大天狗様や天魔様の印がある。山の印すらも見当たらんではないか。嘘を吐くならばもう少し上手く吐いてはどうだ、賊風情が」

「その手紙をこちら側の自作自演だとおっしゃるのですか。そんな事をして私達になんの得があると? 貴女方の連絡不備ではないのですか」

「たわけ。大天狗様や天魔様が、その様な些細な失態をすると思うか。我々を何だと思っている」

「今の私には、客人を無下に扱う無礼者の群れにしか見えませんが」

「……貴様、山を愚弄するか。これ以上減らず口を叩く様では只では済まさんぞ」

 

 白狼天狗が、振るえば頭から人体を斬り潰せるだろう大鉈を美鈴の鼻先に突き付ける。

 明らかな敵意、そして殺意が、距離を置いている私にもハッキリと伝わってきた。

 しかし美鈴。交渉を買って出てくれたことはありがたいのだが、少々言葉に棘があり過ぎるのではないか。もう少しソフトに対応せねば、さらに余計な反感を買ってしまう。

 

 一触即発の状況を前に、何とかして内心の焦りを美鈴に伝え冷静さを取り戻してもらいたい所ではあるが、最悪な事に声も出せずテレパシーも不可能。かと言って発光魔法で文字のイルミネーションを作って見せても、白狼天狗達に攻撃だと誤解されかねない。ならばどうする。このままだと何だか果てしなく不味い事態に陥る気がしてならないのだが。

 

「……良いでしょう」

 

 美鈴は、深く深く、森に身を溶かしていくように息を吐いた。

 その瞬間。彼女の全身が淡い虹色の輝きを放ち、真夜中の森林を眩く照らし始めた。それは誰がどう見ても、彼女の能力が発動した確固たる証拠であった。

 と言う事は、つまり。

 

「そちらがそう出るのならば、私も引くことは出来ません。無様な退却は紅魔の名折れ。貴女方が噛みついて来るのならば、我々はその牙を折る事も辞さない」

「ほう、それは宣戦布告と捉えて良いのだな?」

「貴女が躾のなってない犬だから、私もこう対応せざるを得ないのですよ」

「…………我々は狼、誇り高き白狼だ。犬畜生などと一緒にするな、木端妖怪風情が!!」

 

 ブォンッ!! と横薙ぎに振るわれた大鉈の斬撃を、美鈴は身を翻して華麗に回避する。軽やかに着地した彼女は、中国武術の構えを取り、爆発的に気の練度を跳ね上げた。

 

「ただでは帰さんぞ。山を侵す不届き者どもッ!!」

「よろしい、ならばかかって来なさい。客人一つも持て成せない蛮族風情が、束になった所で我々に敵うものか!!」

 

 白狼天狗の集団が雄叫びを轟かせる。刃を掲げ眩い光弾を解き放ちながら、全軍が一気に突撃を開始した。対する美鈴も負けじと咆哮を轟かせ、虹の気を全身から放出しながら牙を剥く白狼天狗たちへ一気に突き進んでいく。

 私は空を仰ぎ、この喧騒に似つかわしくない満月を眺めながら、ぎこちない笑みを浮かべた。頬が引き攣り、唇の間から吐息が漏れ出していく。

 

 私は一体、何を間違えてしまったのだろうか。

 

 雄大な月に問えども、その答えは返ってこない。私の耳を貫くのは、血の気をふんだんに含んだ獣の咆哮のみだった。

 

 

 文句のつけようも無い、美しい本物の満月の下。

 お嬢様の気紛れと、私の些細な不運と、その他色々な巡り合わせが原因で、私はあのナハトさんと山を練り歩くと言う、門番らしからぬ奇妙な現象が出来上がってしまっていた。

 

 つい数日前に突然届いた、差出人不明の謎の手紙。ただ山へ招待するとだけ綴られた怪しさ満点なその手紙に隠された真実を探るため、私たちは山へと訪れている訳なのだが、実は私には何が何だかよく分かっていなかったりする。と言うのも、ある種罠としても見て取れる手紙を只の招待状だと一蹴して、あっさり乗ってしまったナハトさんの真意がまるで読めないからだ。

 

 あの夏の夜、些細な情報だけで妹様に取り憑いた者の正体を暴いてみせたこの方の洞察力と思考能力は目を見張るものがある。吸血鬼異変で私たちに格の違いを見せつけた、あの八雲紫ですら手玉にとれない程のものと言えば、その凄まじさが理解できるのではないだろうか。

 それを踏まえた私が述べたい事はただ一つ。彼は間違いなく、手紙に隠された真実に勘付いているだろうと言う事。

 だがそれは、まだ確証が持てる程のものではないのだろう。そうでなければ、私たちに真実を説明しない筈がない。『ただ招待されているだけ』などと、取って付けた様な理由で誤魔化す必要性はどこにもないのだ。つまり彼は、その仮説を証明する目的も含めて、天狗の根城へ足を踏み入れようとしている。

 

 改めて、彼の行動力の違いには驚かされる。普通妙な手紙の真意を確認するために、どんな危険が待っているかも分からない未開の地へ足を踏み入れようなどと思い至るワケが無い。ましてやここは妖怪の山だ。天狗を始め、河童や八百万の神々、果ては仙人までもが住み着いていると噂の、幻想郷指折りの巨大コロニーである。しかも相当高度な社会が形成されていて、余所者に対して非常に厳しい態度を持つとも聞く。

 それを踏まえて彼は、ある意味要塞とも言えるこの地を、私たち二人だけで歩こうと言うのだ。それは暗に、妖怪の山程度など歯牙にもかけていないと比喩しているかの様に感じてしまう。

 

 でなければ、彼がこの状況下で悠然と歩を進められていられる筈がない。

 

 チラリ、と微細な動作で背後へと目を向ける。私たちの後から感じる、膨大な数の妖気。気の強さから下級妖怪や妖獣、妖精の類だろうが、それが至る所から私たちを眺め、見下ろしているのだ。まるで八雲紫のスキマに存在する異形の目の様に、四方八方からの視線が私たちへと突き刺さっている。

 

 山の麓に入ってから直ぐの事か。私たちを囲う様に、奴らの気配が顔を覗かせたのは。

 視線から敵意は感じ取れない。反面何か我々に思いを抱いている様子もない。彼らはただ、私たちを見ているだけ。本当にそれだけだ。だからこそ、この状況は不気味以外の何物でもなかった。

 彼らの視線の的は、疑うまでも無くナハトさんに違いない。彼から常に放たれている、何時実体化してもおかしくない濃密な瘴気と魔力の香りに誘われて来たのだろうと容易に推測出来る。だがこれは、あまり良い状況だとは言えないだろう。魑魅魍魎の視線を縫い留めて尚、天狗の拠点へ乗り込もうなど、下手をすれば山の化生どもを従えて進軍している風にも見えかねないのだ。ましてや悍ましい悪魔が先陣を切っているのであれば、尚の事。

 いつもの事だがどうにも意図が読めなくて、思わず熟慮してしまう。

 

 いや、だが待てよ。

 もしかして、ナハトさんはそれが狙いだったりするのだろうか。

 

 私たちが所属する紅魔館も、言ってしまえば幻想郷の勢力の一つである。巷では悪魔が住む紅い館、吸血鬼異変を起こした大妖怪が住む場所として噂され、事実その噂の脅威度に相応しい戦力を有している。そして勢力を持った一派である以上、易々と天狗に(へりくだ)り、媚びを売る様な真似は避けるべきだ。狡猾な妖は他者の足元を掬う術に長けている。下手に出れば最後、口八丁手八丁で利用されてしまう結果を予測する事は容易だろう。かつての狡猾な吸血鬼達が下級妖怪を従える際の常套手段だったから、私も良く知っている。

 

 つまり彼は、わざとこの状況を維持したまま向かっていると言うのか。

 下級妖怪如きは赤子の手を捻る様に容易く支配出来るのだと、紅魔の名を見下される事が無い様に、相手に足元を掬われる隙を生まない様に。

 

 何てことだ。やはり彼は、ただ祭りに参加しようとしていただけではなかった。一瞬でも気紛れに山へ行こうとしているだけなのでは、と疑ってしまった私の愚考が実に浅はかに思えてくる。

 彼は今夜、単身で山の妖怪全てと対等に立つ腹積もりだ。この機会に自らの力を掲げ、紅魔の名と彼の存在を山の者達に焼き付けようとしている。山の相手は一人でも事足りるのだと、そんな怪物が紅い館に住み着いているのだと。他でもないお嬢様達の安全の為に、この機会に予防線を張り巡らそうとしているのだ。

 

 何という、絶対的な力の自信と果てしない度胸だろうか。普通そんな事は考えても実行に移そうとなんてしない。一歩間違えれば山と戦争を起こしかねない干渉だ。そしてもしそうなったとしても、彼はたった一人で争いを収める算段でいる。

 これが、八雲に匹敵する大妖の胆力か。掴める糸は根こそぎ掴みとり、その糸でさらに大きな獲物を捕まえる実行能力と力量は、妖怪の私から見ても怪物と称さざるを得ないだろう。

 

 しかし、余りにも規模の大きい彼の策略を察した私は、一抹の不安を胸に抱いてしまった。

 このまま私が着いて行っても、有事の際には彼の足手纏いになるだけではないか? 私の力では、いざという時に山と立ち向かうことは出来ない。精々自分の身を守る程度だ。それでは何時か、私が押された時に彼の足を思い切り引っ張ってしまう事態になりかねない。ナハトさん一人で解決できる問題が、私のせいで大きく暗転してしまう様な事になるのでは。

 ぐるぐると、不安が渦を巻いて粘質を持ち始め、頭の中に絡みつく。

 

「美鈴」

「!」

 

 唐突に、ビリッと聴覚神経へ直接触れてくるような、鋭くも脳髄を柔らかく浸食してくる声に名前を呼ばれ、私は『はい』と脊髄反射で返答した。

 彼の歩みが止まる。追従するように、私も動きを止めた。

 

「この状況で不安を感じるのは分かる。だが我々は祭りに招かれた身だ。暗い空気は押し込んで、今夜は思う存分楽しもうじゃないか。これからは無礼講で構わない」

 

 それは、まるで。

 まるで私の頭を読み、見つけ出した不安の塊を、大きな手で掴み取って引き剥がしてしまうかのようで。

 彼はただ大丈夫だと、力強くも透き通る様な口調で私に言った。

 

 ――――ああ、やっぱり私はとんだ間抜けだ。真正のド阿呆だ。この最古の吸血鬼が、闇夜の支配者とまで恐れられた王が。私如きの影響で支障をきたす筈なんて無かったのだ。

 彼はこう言っている。何も気に掛ける必要など無いと。お前はただ、祭りを楽しむように自然体で居れば良いのだと。

 

「……承知、しました」

 

 言葉の節から覗く、彼の確固たる自信と強大さに、唯々畏怖が増していく。同時に私は戦力として数えられてはいないと言う事実を突きつけられて、胸が引き裂けるような思いだった。

 何か、役に立てることは無いのか。そう頭の中で思考を巡らせるも、良い答えは浮かんでこない。それがまた、私の実力不足を表している様で。

 ギリッ、と無意識の内に拳へ力が籠ってしまう。

 

 そんな、己の無力感に苛まされている最中だった。

 

『ゥゥォォオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――――――――ッッ!!』

 

 突然狼の遠吠えに似た咆哮が山を揺るがし、周囲一帯へ襲い掛かった。怒号にも近い強烈な叫び声に反応した魑魅魍魎たちが次々と姿を消して行き、それと入れ替わるようにして、今度は前方から幾つもの強い妖気の反応が、豪速でこちらへと飛来してきた。

 

 妖気の持ち主たちは統率された動きで私たちの周囲を旋回すると、瞬く間に逃げ道を塞いでいく。動きからして、長年の訓練による賜物だと直ぐに分かった。

 そしてその正体は、私の予測通りのもので。

 天狗の中でも下位に属す天狗達。恐らく山の警備を任されているのだろう、武装した白狼天狗の集団が現れた。

 

「そこの妖怪ども。誰の許可を得て山へ足を踏み入れた。ここが我らの山と知っての事か」

 

 リーダー格と思わしき白狼天狗が、牙を剥いて威嚇する。その目は激しい敵意と恐怖を孕み、私たちをまるで親の仇でも見るかのように睨み付けていた。

 

 予想よりも修羅場と巡り合うタイミングが早い。まさか麓で第一戦を繰り広げかねない一触即発の事態に陥るとは、頭の隅に掠りもしなかった展開だ。

 下手な刺激を避けるため、無駄な動作を取らずナハトさんの動きを待つ。彼は暫しの間、周囲の状況を観察したかと思えば、ほんの些細な動きで私の肩をおもむろに叩いた。

 

 次の瞬間、頭に何かが挿し込まれたかのような、形容しがたい感覚が降りかかった。刹那の際視界が明滅したかと思えば、脳裏に霞みがかった何かのイメージが浮かび上がってくる。

 イメージは徐々に輪郭を現し、意味を成す形へと姿を変えていく。それは一つの文となり、私へ意思を語り掛けた。

 

『美鈴。私の代わりにこの場を収めてくれ。君の力を借りたい』

 

 ―――ああ、ここで私を頼るのか。

 頼って、くれると言うのか。

 

 彼自らが鶴の一声を放てば、白狼天狗の集団を言葉の重みで圧倒し、誰の血も流すことなく道を開く事が可能だっただろう。しかし彼はその選択肢を取らなかった。何故か。それは私の抱いたこの無力感を拭い去る機会を与えるために他ならない。

 

 彼は言っている。その手で道を開いて見せよと。紅魔の名を守って見せよと。

 不覚にも、胸が高鳴った。熱い血潮が巡りに巡る感覚が確かにあった。

 私は試されている。他でもない、五百年もの昔に私が憧憬を抱いた絶対強者に、夜の覇者に。お前の能力を私に見せてみろと、この窮地を打開して見せろと。

 

 私は門番だ。紅魔の名を守れずして門番が名乗れるか。

 私は戦士だ。強者の期待に応えれずして何が館の精鋭か。

 

 やってやる。この窮地を必ず乗り越えて見せる。過去の私とは違うのだと、彼の目に留めて貰えるように。

 

 覚悟を決め、微弱に頷くと私はナハトさんの手から手紙を受け取り、歩を進めた。これが試合開始のゴングとなる。

 私の役目は、紅魔の名を汚すことなくこの場を収める事。穏便に終わればそれでよし。武力を行使せざるを得ないならば、撤退の二文字を捨てて戦うのみだ。

 ここから先は、背を向ける事は許されない。

 

 それは相手も同じであった。手紙を受け取った彼女らはそれを我らの自演だと宣い、己の失態をもみ消そうと頑なに態度を和らげない。客人を連絡ミスによって無下に扱ってしまったと言う、小さいながらも重大なミスを、私たちに悟らせるわけにはいかないから……山の面子がかかっている状況だからだ。薄っぺらい面の皮だが、プライドの高い妖怪とは総じてこんなものである。かつての吸血鬼達が―――スカーレット卿が手本となる良い例だった。

 

 お互い、引く事の出来ない理由がある。それは言葉で崩せるものでは決してない。こんな時こそ、妖怪らしく雌雄を決する他に無い。

 力を持って相手を捻じ伏せろ。どちらが上か証明してやれ。

 至極単純で、泥くさくて、蟠りの無い暗黙の了解に今は感謝せねばならないだろう。

 

「よろしい、ならばかかって来なさい。客人一つ持て成せない蛮族風情が、束になった所で我々に敵うものか!!」

 

 お蔭で私は、自らの成長を彼に証明できる機会に恵まれたのだから。

 



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15.「小鬼の策謀」

「ぶひゃっひゃっひゃっひゃ! ひーっひひっひひひひ、ぶはっ、あはっ、あっはっはっはっは! な、何これ面白すぎるだろ! やばいっお腹捩れて千切れそう! 紫助けてぇっひっひひひひひ!!」

 

 妖怪の山最深部にある、山の元締めたる天魔の大屋敷。そのまた奥の、天魔の座す間。

 ある事情からその場に集った私と藍、天魔、萃香の四名で酒を飲み交わしていたところ、何の前触れも無く腐れ縁の小鬼が発狂した。下品な笑い声を張り裂けんばかりに上げながら、文字通り抱腹絶倒の状態となり床を転がっている。酒の飲み過ぎでとうとう頭がおかしくなったのだろうか、ガツンガツンと角が当たろうがお構いなしだ。天魔も藍もあまりの豹変ぶりに驚きを越して白い目を向ける始末である。

 溜息。

 

「いきなり何を笑い出してるのよ、気色悪い」

「いやさぁ、聞いてよ紫! い、今ね、アイツが山に到着したところなのさ!」

 

 アイツという単語に、酒を啜る口を閉じる。萃香が指し示している人物は他でもない、例のヴァンパイアの事だろう。どうやら萃香は能力を使って分身を飛ばし、あの男のいる光景を生中継しているらしい。

 そしてこの反応から、また奴が何かしらアクションを起こしたと見て良いか。

 

「そしたらさ、白狼天狗と戦争になってやがんの! 面白すぎるにも程があるって!」

 

 どうやら悪い方向に予想が的中してしまったらしい。戦争と言う単語が耳に入り、私は二重の意味で額に手を当てずにはいられなかった。一つは萃香の笑いのツボが度し難かったこと。もう一つは、幾らこちらが――――正確には萃香が招いたからとはいえ、あの男はそれほどまでに場を引っ掻き回すのが好きなのだろうかと憂鬱な気分にさせられた点だ。想定内ではあるけれど、やはり穏便に事が進む訳が無いと再認識させられて気が重くなる。

 

「萃香……貴女そうなると分かってて、文の伝言を遅らせる為にわざと酒を煽らせたの?」

「いやぁ、うん、半分は正解さね。もう半分は文の野郎が私に嘘を吐いていた罰さ。でもここまで大事になるとは思ってなかったけど」

「……私の部下は無事なのでしょうな、萃香殿?」

 

 黙々と日本酒を喉に通していた天魔が、不意に口を開いた。鼻から顔の上半分を覆うマスクのせいで詳細な表情は読み取れないが、どことなく心配の気を帯びている様に伺える。

 

「ああ、無事だよ。ナハトに食ってかかってる奴は全員無傷だ。でも付き人の紅い髪の奴と相手してる子らはやられてるね。仕留められてはいないけどさ。いやー紅髪の奴強いなぁ、畜生。見てるとウズいちまうよ」

 

 萃香の抱く欲求が、そわそわとした態度となって現れる。もう待ちきれないと言った表情だ。ここで誰かが弾幕ごっこの一つでもしようかと口にすれば最後、たちまち百花繚乱の如き光弾で溢れ返る事になるだろう。

 

「てかあの野郎、なに臨戦態勢に入っておきながらボサッとしたまま動かないんだよう、焦れったいなぁ! あーもう待てん! 無理っ! 文も遅いし、私が迎えに行くっ!」

「行くのはいいけど、あの男には気をつけなさいよ。何をされようとも喧嘩なんかしたら駄目だからね」

「分かってるって。約束は破らないさ、鬼だからね。んじゃあちょっくら行ってくるよっと」

 

 最後にお猪口の酒を勢いよく煽った萃香は、そのまま霧散して姿を消した。妖力の残り香も直ぐに消えてしまった事から、どうやら完全にこの場を去っていった様である。

 藍が私の空いた猪口に酒を注いでくれた。ありがとうと礼を言って、透き通る液体を口にする。心地良い灼熱感が喉を癒した。

 

「そう言えば天魔さん。幾ら鬼のお願いとは言え、よく萃香の頼みを受諾したわね。無茶な難題だったでしょうに」

「……」

「理由を聞いても?」

 

 天魔は暫しの間沈黙を浮かばせ、何かを考える様な仕草を見せた。もしかしたら、萃香の耳に入る事を警戒していたのかもしれない。

 数拍の後、仮面の下の唇が動く。

 

「今この山は、鬼が留守の間、我ら天狗を筆頭とした妖怪連合が預かっている状況下にあるのは存じておるな?」

「ええ」

「つまり、この山は真に我らの物ではない。只の預かり物に過ぎんのだ。裏を返せば、我々は未だ鬼に縛られている身の上であると言うこと」

 

 天魔が酒を注ぎ足す。丁度、徳利の中身が空となった。

 

「萃香殿の頼みは、まさに鬼の如き難解な願いではあった。しかしあの方は私と約束を交わして下さったのだ。この頼みを受諾した暁には、我らに山を譲り今後関わる真似をしないと」

「……要するに、萃香の最後の我儘って訳ね」

「そうだな。最後で最大の我儘だ」

 

 だが得られる物は大きい、と天魔は言った。山を譲ると言うことは即ち、鬼の支配から完全に解放される意味と繋がる。真の意味で自由になれる以上、引き受けない訳にはいかなかったのだろう。

 

「さて、次は八雲殿の番であろう」

「あら」

「誤解なきよう予め言っておくが、力の無い我々の補助を買って出てくれた事は理解しておるし、感謝もしておる。しかし貴女が純粋な善意のみで我々へ手を差し伸べる様な人物でない事も承知しておるのだ。何故貴女がこの場に居るのか、その理由が知りたい」

「知りたい事があるからですわ」

 

 あっけらかんと私は返答する。別に、隠す様な事でもない。今回に限っては至極単純な策しか講じていないのだ。喋らずとも天魔には見抜かれるだろう。そして見抜かれた所で何の意味も無いのだ。喋る事が害に繋がらない以上、黙る方が余計な弊害を生む場合もある。

 

「萃香が招いた男は、少しばかり特殊な妖怪なの。しかも何らかの目的を持って幻想入りを果たした妖怪。その目的の全貌を掴むことが、私には叶わなかった」

「ほう、あの八雲殿が」

「ええ、お恥ずかしながら。でも最近になって、漸くその片鱗らしきものを掴むことが出来た。私はそれを確かめたい。ただそれだけよ」

 

 萃香の計画は、否が応でもあの男の本性を暴き出す事になる。狡猾な策謀も精神干渉も全て押しのけ、丸裸の奴と対面する事になるのだ。

 その時こそチャンスと言えよう。機会に乗じて今度こそ奴の目的を暴き出す。真実さえ掴む事が出来れば、あの男の脅威度を著しく引き下げる事が可能となるのだ。この機会を逃す訳にはいかない。正真正銘の勝負どころである。

 だがその反面、大きな危険も伴う事になるのだけれど。

 

「……それにしても、遅いわね。伝えておいた時間はとっくに過ぎているのに、全く」

「紫様、天魔様」

 

 未だ到着を匂わせない、もう一人の人物への愚痴を吐いた直後。まるで打ち合わせでもしたかのようなタイミングで藍が口を開いた。横目で見れば、連絡用の式神が藍の傍を漂っている。噂をすればなんとやら、か。

 

「漸く着いた様ね」

「はい。直ぐ近くまで来ております」

「出迎え……は必要ない様だな」

 

 天魔が片手を上げ、隅に控えていた側近の天狗へ合図を送ったと同時に扉が開く。

 私は扇で火照った頬を煽ぎながら、最後の待ち人へ向けて微笑んだ。

 

「久しぶり」

 

 

 

 

 土の匂いがする。

 

「…………うっ……く」

 

 目が覚めると、真夜中の森の中だった。

 

「…………どこですか、ここ」

 

 この場に自分が居る脈絡が理解出来ていない時点で察せる事ではあるが、私は何故こんな所で横たわっているのか思い出す事が出来なかった。さながら陽炎の如く記憶が揺らめいているせいで、思い出せそうなのに思い出せないモヤモヤとした状態に陥ってしまっている。

 

 おまけに体が重く、頭が内側から破裂しそうなくらい痛い。喉は咽頭を切り取って日干しでもされたかの如く渇き切っていて、段々と意識が明瞭になっていく程に、体が水を要求し始めて来た。

 その癖、胃に石でも詰められたかと錯覚する程にお腹が重苦しく、地面に内容物を晒してしまいそうになった。

 

 土を握りしめながら、私は懸命に上体を起こして周囲を見渡す。

 暗くてあまりよく見えない。恐らく山の麓辺りだろうか。この木の立ち並びには少し見覚えがある。

 

 私は何故こんなところで寝そべっていたのだろう。何だか、胸に絡み付くムカムカがそのまま靄になって頭に張り付いているようで、上手く記憶を掘り起こせずにいた。

 

 ……ん? ムカムカ?

 …………ああ、そうか。私はさっきまで、あの方に泥酔するほど飲まされていたんだっけか。

 

 記憶に久しい二日酔いの症状をヒントに、頭蓋の内側から太鼓でも叩いているのかと思わされる頭痛を手で押さえつつ、私は自分の身に何が起こったのかを断片的に思い出していく。

 

 確か、三日ほど前に大天狗から何の前触れも無く祭りの準備をしろと山中に言い渡され、急遽始まった謎の祝宴での出来事だったか。祭り好きな私は思いがけない幸福を存分に楽しもうと意気込んでいたのだが、祭りが始まった直後――つまり先ほど、これまた突然天魔様の屋敷へ呼び出しを食らい、強制連行されてしまった。

 

 最近は重鎮に呼び出される様な問題行動など起こしていないのにと不満を抱きながら向かえば、相変わらず無駄に広い間に我らの天魔様が鎮座していた。

 

 だがそれだけではなかった。その間にはあのスキマ妖怪とその式の姿があり、更にはもう大昔に山を離れたはずの元上司―――伊吹萃香様が、大広間の中央で胡坐をかいて座っていたのである。

 

 あの時は本当に参ったものだ。本気で逃げ出してやろうかと逃走ルートを確認した程だった。尤も萃香様の能力の前には、どこへ逃げたって最終的に必ず吸い寄せられてしまうので、逃走したところで何の意味も無い。

 むしろ逃げるとは何事かと余計に逆鱗を撫でてしまい、制裁されて終わりだ。やはり四天王のリーダーを担っていたお方は格も能力も理不尽極まりない。だから鬼は昔から苦手なのだ。

 

 閑話休題。

 

 どうやら私が呼び出されたのは、理由は不明ながら山へ戻って来た萃香様が私に用があったかららしい。

 曰く、肩書の無い身で使い勝手がよく、旧知の仲だったから頼ろうと思ったのだそうだ。用事があると語られた時は、大昔に嘘をついた事でも咎められるのかと戦々恐々としたものだが、普通に白狼天狗宛への伝言を頼まれるのみで終わった。

 

 しかしほっとしたのも束の間。そこで私は、緊張が解けた開放感のあまりとんでもない失態を犯してしまう事になる。

 いや、もしかしたら私の裏を察知した萃香様が、私の『裏』を表へ吸い寄せたのかもしれないが兎に角、

 

『な、なーんだ伝言ですか。私が昔伊吹瓢を失敬してその時に嘘吐いた事をお咎めになろうとした訳ではなかったんですね――――――』

 

 と言った具合に、私は思い切り自分の首を絞めるような真似をしてしまった。

 この馬鹿げた失言の後、視界一杯に萃香様の拳が広がった辺りから鮮明な記憶は途切れている。

 

 正確には、断片的ながら許してもらう代わりに鬼の酒を浴びるほど飲まされたこと、そして酒気に歪められた世界の中、椛を探して飛んで行った事を覚えているのみだ。その後何がどうなって地面に伏していたのかは分からない。

 

「……そうだ、伝言」

 

 思い出した重要案件を口に出しながら、渋る頭を懸命に動かして思考を巡らせる。

 恐らく、この体たらくでは椛に伝言を伝えられていないだろう。伝言は萃香様から下された命令だ。やり遂げると約束した以上、完遂しなければ今度こそ命に関わる。こんな下らない事で死にたくはない。

 

 鳴り響く頭痛を気合で押し込み、私は何とか立ち上がった。まずは自分の居場所を確認する事が先決だ。そこから椛の担当区域を見つけ出さないと。

 

「今は大体あそこの辺りだろうから、椛の担当は、ええと」

『ここはその椛とやらの担当区だよ』

「うっひょあ!?」

 

 突如耳元から囁かれた声に、私は肩を跳ね上げん勢いで驚き尻餅を着いた。

 声の元へ目を向ければ、案の定霧が立ち込めている。そして私は、この霧の正体を知っている。

 

 噂をすれば何とやら。そして何故このタイミングで現れるのか。上で酒を飲んでいたのではなかったのか。

 小さな百鬼夜行と謳われた、決して見た目で侮ってはならない怪力無双の大妖怪伊吹萃香様が、自らを『疎』にした状態で現れた。

 

「す、萃香様!? どうしてこちらに!?」

『お前帰ってくるの遅いんだよう。スピードが自慢だって言ってたのに、ぜーんぜん帰ってこないじゃんか。だから直接見に来たのさ。……それで、伝言は哨戒天狗に伝えられたのかい?』

 

 萃香様の質問に、私の世界が凍った。やべぇ、と頬が引き攣る。マジやべぇ、と冷や汗が止まらない。

 ここで嘘を吐くのは論外だ。それは自ら斬首台へ首を置く行為に他ならない。であれば、誠実に本当の事を話すべきなのはわざわざ語るまでも無いだろう。

 

 ……でも、長生きな天狗の癖にあの程度で酔って寝るなと言った感じで一発拳骨を落とされそうだ。

 ああ逃げたい。萃香様の拳骨は本当に痛いのだ。一夜で二発も貰いたくないのだが、背に腹は代えられない。腹を括るしか道は無いか。

 

「すみません、酔って気を失ってたみたいで……そもそも伝えられたかどうかも記憶が曖昧でして」

『あー? 寝ぼけて伝えられてない?』

 

 あぁ、殴られる。記憶が飛ばないと良いなぁ。恐ろしさのあまり思わず白目を剥きそうになった。

 

 衝撃に備え、歯を食いしばって目を瞑る。完全防御体制に移行。我ながらまるで親に叱られる子供の様だ。

 しかし、幾ら待てども岩で殴られたような拳骨は飛んでこない。

 目を開けると、未だ霧のままの萃香様。

 

『うむ、正直者でよろしい。意地悪して悪かったね』

「……あの、お咎めにならないのですか?」

『ん? いや、酔わせたのは私だからね。元はと言えば文が私に嘘を吐いてたのが原因だけど……まぁいいのさ。お前が伝言を伝えそびれたお蔭で、愉快なモン見せて貰えたからチャラにしとくよ』

 

 そんな事よりあっち見てみろ、と霧の流動で方向を示され、促されるまま私は眼を向ける。

 

 森の奥に、椛が居た。

 膝を着き、荒々しい呼吸を繰り返しながら、視線を一切前方から動かさない椛の姿があった。月の輝きを反射する白い頭髪を逆立たせ、射殺さんばかりの眼でナニカを睨むその様は、まるで外敵と遭遇した狼のようだ。

 

 鳥目を凝らして周りを見てみれば、椛以外の白狼天狗達の姿。

 皆同じように足を曲げ、しかし椛と違って力無く項垂れている。傍から見ても明らかに異様な光景だった。

 

 何が起こっている? ―――――そう思考が一巡するよりも先に、私はこの異常事態を引き起こしたのだろう元凶を見つけ出してしまう。

 

 異常な光景の中心には、一人の男が立っていた。

 全身に何本もの刃が突き刺さっているにもかかわらず、まるでその状態が日常なのだと言わんばかりに平然としている異形の男。

 だが見た目よりも問題なのは、男から放たれる、形容しがたい瘴気のようなナニカにあった。

 

 見れば見るほど、男の姿に水晶体のピントが合わされば合わさるほど。まるで膿んだ傷から滲む漿液の様なナニカが、私の脳髄をみるみる満たしていき―――

 

『おっと、それ以上視界に入れるんじゃないよ。お前にまで錯乱されたら事が進まなくなる』

 

 完全に思考が黒色で汚染されるその直前。萃香様が自らの霧で私の視界を覆い隠し、男から感じた謎の呪縛から解き放たれた。

 

 どうやら私は息を止めていたらしい。それも僅か数秒の出来事の筈なのに、自発呼吸を取り戻した反動で大きく咽返り咳込んだ。酸素が奪われ、頭がくらりと揺らぐ。

 一息。漸く正気を取り戻す。

 

「……あの男は、一体全体何者なんですか? 明らかに山の妖怪じゃない。雰囲気が厄神様に似ていましたが、なんでしょう、アレはもっと、怖ろしいモノの類に思えます」

『厄神? あっはっは! 違う違う。アイツは神なんかじゃないさ。私たちと同じ妖怪だよ。何百年振りかも分からない、見てるだけでゾクゾクが込み上げてくる稀有な奴だけど、それは間違いない。まぁ、私もそれ以上アイツの詳しいプロフィールは知らんが』

 

 と言うか知ったのはここ数ヶ月の間だもん、と彼女は付け加えて。

 

『さておき、アイツが私の招いた客人だ。アイツの瘴気に当てられて敵だと勘違いした白狼ちゃん達が一斉攻撃しちまってるけど客人なんだ。あはははっ、いやぁ、面白いね。余興を用意してたつもりだったのに、まさか余興の余興に巡り合うなんて』

「笑い事ではないですよ、萃香様。このままでは白狼天狗達が全滅してしまう……っ!」

『あ? あー、それは無いから安心しな。私としては気に食わないけど。いっそ戦争起こしてくれた方が観客の身としては愉快なんだがねぇ。幸か不幸か、あの男は手なんて出さないよ。多分』

 

 けど、と萃香様は再び話に区切りを入れる。

 

『白狼ちゃん側は仕掛けるだろうね。特にあの顔を下げてない根性が座った奴、アレは食って掛かるよ。野獣の目をしている。ただ、もしあの子がアイツに手を出した場合、どんな結果になるかは分かんないが』

 

 萃香様の言葉で、脳裏に映し出される未来予想図。私の頭脳が描いたそれは、椛が反撃を食らい男から致命傷を負わされている、凄惨な現場の画だった。

 サッと、血の気が引いていく。

 

「っ!! 止めないと……っ!」

『その方が良いね。これ以上長引かれても面倒極まりないしな』

 

 萃香様の霧中から、跳ね飛ぶようにして脱出。そのまま私は『風を操る程度の能力』を行使し、全速力で椛の元へ飛んだ。酒の酔いなど、とうの昔に置き去りになっていた。

 

 椛の方にも動きがあった。彼女はまるで野生を取り戻したかのように爪と牙を剥き出しにして、男へ食って掛かったのだ。

 

 地を蹴り、土を巻き上げ、目にも止まらぬ俊敏な動きで突撃する彼女へ立ち塞がって止めるには時間が足りない。ならば、音を使って距離を補うしか方法は無い。

 

「椛! 待ちなさいッ!!」

 

 

 

 深く深く、息を吸い込んだ。

 大きな鉈の如き刃を掲げ、喉を張り裂かんばかりの怒号を爆発させた。

 

「同志達よ、戦いの時だ! 山を汚す愚か者共に、我らの力を思い知らせてやれッ!!」

「ォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお―――――――――ッ!!」

 

 私の号令と共に、四方八方から同士の咆哮が炸裂する。白狼天狗達が地を、木々を、空を駆け、二つの標的に向けて散開し、刃を携え物量と連携を最大限に活用した攻撃が始まった。

 対峙する紅髪の妖怪が、拳を突き出し覇気を放つ。

 

「来いッ! 何匹でも相手になってやる!」

「いいや、私は貴様とは戦わない。白狼の名を、山の誇りを汚した貴様は八つ裂きにしてやりたい所だが、それは我が同胞達に譲ろう。先ずはお前の先に立つ男を狩らねばならん! それが最善手だ!!」

 

 眼前の紅髪妖怪は同士に任せ、私は最大の脅威である黒尽くめの男の元へ向かうべく地を蹴った。土煙が舞い、視界が急加速によって歪んでいく。

 

「行かせません!」

 

 間髪入れず、虹色のエネルギーを纏う紅髪の腕が私を通すまいと振り下ろされる。だが直後に同士の盾が紅髪を打ち、軌道を逸らした。まともに食らえば岩を両断するだろう威力を秘めた剛撃は私の髪を掠めるに留め、一次戦線から通過させる。

 

 こちらには地と数の利がある。その優位性を活用すれば、この戦いに負ける道理など存在しない。

 奴との距離が縮まる毎にざわざわと毛が逆立ってくる感覚を押し殺し、そう心に言い聞かせながら、指を銜え口笛を吹き鳴らす。指令を受けた数名の同士が私の背後に着き、挙動させる暇も与えず男を包囲した。

 

 男の周囲を素早く旋回し、攪乱する。奴は視界に映すだけで、心の柱をポッキリと折られそうになる程の禍々しい瘴気を放つ男だ。相手の隙を奪うと共に、こちらの隙も与えぬ様にせねばならない。

 

 男は動かない。視線すらも――いや、瞼すらも開こうとしていなかった。

 

「その首、貰い受ける! 覚悟ッ!!」

 

 柄を握りしめ、旋回の輪より飛び出し刀を振るう。銀に煌めく武骨な刃は、寸分違わず男の首元めがけて一気に叩き込まれた。

 

 ドカッ、と金属が肉を断ち骨まで食い込む生々しい感触が刃を伝う。それは確かな手ごたえとなって、恐怖と焦燥に支配された私の心に幾つかの安心を生み出していく。

 

 私の行動に乗じて同士が動く。男を囲う白狼の輪は崩れ、銀の閃光が次々と闇夜を斬り裂いた。

 腕へ、腹へ、背中へ、足へ、肩へ。次々と男の体へ凶器が突き刺さっていく。

 鉄砲水のような血飛沫が舞った。粘質な液体が降りかかる。それは確かな勝利の狼煙となって、私たちの視界を彩った。

 

「どうした。何故動かない。何故躱そうともしない。それとも我らの連携が、貴様の予想を上回っていたの―――――――――!?」

 

 だが。

 そこで私は気づいてしまう。

 確かな攻撃、確かな手ごたえ。それは紛れも無く『確かなモノ』であった。疑いようの無い実感である筈だった。

 なのに、私はこの感触が、現実のものとは思えなくなってしまっていた。

 

 ――――妖怪の剛力をもってしても、肉に切れ込みを入れる程度で刃が止まっている。

 いやそれどころか、これだけの攻撃を叩き込まれたにも関わらず、男の体が一ミリも動いていないではないか。

 

 ゾクリ。

 背筋に百足が這う様な感覚が走り抜けた。

 

 男を視界に映すと問答無用で纏わりついて来る、言いようの無い圧迫感では無い。それとはまた気色の違った、不気味な『未知』と相対したかの様な恐怖が、私の中身を蹂躙しつつあった。

 

「白狼天狗の諸君」

 

 蝋燭の火を吹き消すように、音が消えて無くなった。

 否、この男の囁き以外が、私の耳に入らなくなってしまったのだ。

 

「私の話に耳を傾けてはくれないか」

 

 刹那。男が初めて発したその声は質量を伴い、まるで爆風にでも直撃したかのような圧迫感を私に与えた。

 

 何だ、音響系能力の類か。いや違う。これは、眼前の男の声だ。

 鼓膜を伝い、聴覚も平衡感覚もごちゃ混ぜに掻き回しながら、神経を経て脳髄へ侵食してくる魅惑的で悍ましいこの音波は、口から絶える事の無い赤い液体を滴らせ、もう満足に声帯を震わせることも叶わない筈の、彼から発せられた純真な声以外の何物でもなかった。

 

 脳漿が麻痺を起こし、放たれた言葉の持つ意味を解釈する事が出来ない。奴が何を私たちへ言い放ったのかが欠片も理解出来なかった。

 

 ただ、奴の言葉を耳にしたその瞬間。腐敗ガスで泡立つ沼の様な皮膚に、数えきれない程の眼球が張り付けられた悍ましい怪物の腕が、私の首へ纏わりついているイメージが、はっきりと脳裏に浮かんできて。

 気がつくと私は、男と離れた地に膝を着いていた。荒れ狂う呼吸を必死に整え、汗で滲む視界を必死に拭い取りながら。

 

 ふと、手元が軽くなっている事に気付く。眼球を動かせば我が手に白狼の刃は無く、盾も見当たらない。動悸で揺れる視界を必死に制御し、周囲を見渡せば、私と同じような状態に陥っている同志たちの姿が。

 震えが、止まらない。

 

「君たちの抱いているその気持ちは、痛い程に理解している。どうしようもなく私が恐ろしいのだろう。訳の分からない恐怖を抱いているのだろう。言いようも無い不安と悪寒が全身を蝕み、脳髄へ汚水を注射されたかのように思考が淀んでいるのだろう」

 

 失われた私たちの刃は、目の前に存在していた。血反吐を流しながらも流暢に言葉を紡ぐ、不気味な異形の体へ置き去りにされたままだったのだ。

 

 ズルリ、ズルズル、ベシャリ。

 

 大きな蛞蝓が体を引き摺ったかのような生理的嫌悪感を呼び起す音が、闇夜の中を這い回る。

 男の体から刃が押し出される音だった。体が蠢き、異物を押し出そうと躍動している。

 一本、また一本と、身も凍る粘質な音を私たちへ届けながら、刃は男の体から吐き出されていく。

 

「だが誤解しないで欲しい。私は君達の敵ではないのだ。君達と刃を交えるつもりも、血みどろの戦を繰り広げるつもりも毛頭ない」

 

 頬で何かが動いた感触があった。背筋が凍る不快感があった。それでも体を動かす事は叶わなかった。

 粘液の様な感触が頬を伝い、顎へ伝い、やがて地面へと零れ落ちる。そこで漸く、私は顔貌を這い回っていたモノの正体を目撃し、思わず喉を引き攣らせた。

 

 それは、私が浴びた奴の血液だった。

 

 血の雫が、まるで意思を持つアメーバのように動いている。行き先は語るまでも無く男の元。よく目を凝らせば、同志たちの白い衣服や髪からも赤い雫が剥がれ落ち、次々と主の元へ殺到しているではないか。

 

 背筋が、凍結を始める。

 

「故に私は動かない。君達へ一切の手を加えない。だから君達の心に巣食う靄が晴れるまで、存分に嬲ると良いさ。再生の調子が悪く見苦しい有様だが見ての通り、ちょっとやそっとじゃ死なない身の上だ。飽きるまで付き合おう」

 

 そして、と彼は繋げる。冬の木枯らしの様に冷たく、夏の熱帯夜の様な熱を帯びた、聞く者の意識を惹き付けて離さない魔性の声で。

 

「落ち着いたその時は、改めて私と話をしよう。不毛な争いは終わりにするべきとは思わないか?」

 

 全身に肉片を、蠢く赤を纏わりつかせた異形の怪物は、まるで私たちへ手を差し伸べるように両手を広げながら締め括った。

 

 どの口が、と反論したかった。そちらが我が物顔で人の領地を荒らしておいて、一体何を言っているんだと叫びたかった。

 それでも、今の私には声を出す事さえ許されない。たった数秒の交戦だけで、戦意を根こそぎ刈り取られたのも同然の状態だった。

 

 挑んでみて分かったのだ。脳裏に過ったあの凄惨な光景を、この男は再現出来る怪物なのだと言うことを。決して私達では敵わない化け物なのだと言う事を。

 

 恐怖に混じる諦めと脱力が、筋肉の力を奪った。敵を前に屈するとは、まさにこの様な心情を指し示すのだろうか。

 首を取られても良い、私には何も出来ないーーそう思い込まされてしまう。絶対的な力に弱い天狗の性と言う奴なのだろうか。

 

「気は済んだかね」

 

 男は言う。もう抵抗は止めるのかと。大人しく強大な力の前に膝を折るのかと。威勢よく啖呵を切ったお前達の力はその程度なのかと。

 

 反抗する気力も、言い返す気力も無く。私はただ、頭を垂れて山の土を見つめることしか出来なくなった。

 頭の中に浮かんでくるのは、奴がこの後どう行動するのかという、些細な疑問だけだ。

 

 この男は我々をどうする気だろうか。嬲り返すか。蹂躙するのか。それとも洗脳を施し軍門へ下らせるのか。

 これが一番濃い線と見て良いだろう。奴は山の歴史に名を残している、鬼と匹敵する程の力を持った化け物――それも精神系の干渉に長けた異形だ。私たちの心を圧し折り、あの百鬼夜行の群れと化していた下級妖怪の様に、隊列へ加えさせる事など造作も無いだろう。

 

 だがそうなったとして、後はどうなる? 

 操られた先の私たちは、一体どの様な結末を迎えてしまう?

 

 想像が膨らんでいく。傀儡となり果てた私たちが、この夜の畏怖と月の狂気を掻き混ぜて出来上がったような男に、何をさせられてしまうのだろうか。

 

 人質? 生温い。天狗の仲間意識は他の妖怪に比べて強いが、また同時に冷酷だ。個よりも集団を優先する性質がある。私たちの命と山の皆の命など、天秤に賭けるまでも無い。

 では都合の良い肉の盾として扱われるか? これも同上だ。敵に利用されるだけの仲間に、裏切り者に、山は一切の容赦をしない。

 

 ならば、私たちと山の仲間とを戦わせるか?

 私の刃を、仲間の血で濡らせるつもりか?

 

「…………」

 

 私の剣が……山を守る事を使命とされ、大天狗様より与えられた私の(誇り)が、友人や家族へ突き立てられるかもしれない――――想像がそこまで至ったその瞬間。私の心臓が、勢いよく跳ね上がったのを実感した。

 

 それは河童の作り出したエンジンに似た拍動だった。冷え切ってしまっていた血液が、心臓を介して熱を帯び、再び巡る様な感覚。血潮のエネルギーは私を内部から暖め直し、再び心の活性を取り戻させていく。

 

 私の名は犬走椛。しがなく平凡な下級天狗の一匹に過ぎない。

 力は大天狗様に到底及ばない。悔しい事に鴉天狗にさえも届かない。

 けれど、これだけは誰にも負けないと思える物が、一つだけ存在する。

 

 それは山への忠義に他ならない。腕が捥げようが足を吹き飛ばされようが、山の為に尽くすと剣を授与された時に誓ったのだ。

 例えそれが普段、山の見回り位しか内容の詰まっていない仕事であったとしても、山への忠を投げ捨てた事など一度たりとも無かった。

 

 だと言うのに、これは何だ。私は、あんな男の瘴気に当てられた程度で抵抗を諦めるのか。今までの私の誇りを、自ら泥水に漬け込むような真似をするのか。

 ――馬鹿馬鹿しい。ああ、あまりにも馬鹿馬鹿しい。こんなの、最高に格好悪いぞ。犬走椛!

 

「……まだ、終わってなどいない」

 

 自らの不甲斐なさが心の柱を建て直す。屈辱はバネへとすり替わる。

 文字通り、闘争心に火が付いた。それは私の膝を持ち上げる為の勇気となった。

 

「私は、山の前衛だ。この身が砕け灰塵に帰そうとも、この牙が貴様の命に届かずとも、最期の火が燃え尽きるまで戦ってやる。何度でも、貴様の喉笛を噛み切ってくれる」

 

 本能に擦り寄る恐怖? そんなもの捻じ伏せろ。

 勝利の見えない戦い? だから何だ。

 

  例え私が血の海に沈むことになったとしても、今は膝を着いている同志が勝ちを取るかもしれない。増援が訪れるまでの時間は稼げるかもしれない。

 生き残る事は考えるな。私の役目を果たす事だけを考えろ。

 

「覚悟しろ、化け物。追い詰められた獣の恐ろしさを、その身に一欠片でも味わっていけ」

 

 理性を外す。今まで眠っていた野生の部分が顔を覗かせ、私に変化を齎していく。

 牙は猛々しく、爪は鋭利に。野生の武器を、極限まで強化していく。

 妖と成り果てた白狼の一族が、理性を得る代わりに摩耗させた獣の性。それを今、私はこの身へ呼び起こした。

 

「ガァァあああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!!」

 

 全力で地面を蹴り飛ばし、牙と爪で男を掻き切るべく一直線に跳躍する。男は微塵も動く気配を見せない。好都合だ。奴が油断しきっているその間に、何回でも傷を植え付けてやろう。

 肉を裂くまでの距離、残り数メートル。

 

「椛! 待ちなさいッ!!」

 

 いよいよ私の攻撃が到達する、その瞬間。突然耳を穿つ声に、まるで首へ縄を掛けられ思い切り引っ張られたかのように、私の意識が男から外されてしまった。

 

 意識を逸らされた事でバランスを崩し、男に食いかかるどころかそのまま衝突してしまう。生身の弾力で跳ね返された私は落ち葉を巻き上げながら地面を転がったが、すぐさま体勢を立て直した。

 

 声の方向へ首を向け、発生源を確認する。

 私を引き留めたのは、先ほどまで酒気に当てられていた文さんの声だった。

 その場で心折れていた同志達や、紅髪と激闘を繰り広げていた者達が――果てには男と紅髪の意識までもが、文さん一点に集中していく。

 

 彼女は表情を青く染め上げたまま、必死に言葉を絞り出す。

 

「椛。そこの彼は、山へ押し入った敵ではありません。立派な客人なのです」

「…………どういう、事ですか?」

 

 言葉の意味を汲むことが、出来なかった。

 客人? 何を言っている。私たちはそんな伝令を受け取った覚えはない。

 

 天狗組織はズボラな態度を嫌悪する。山へ正式に招かれる客人……ましてやそれが高位の妖怪であれば、持て成しの準備や我々への伝令も含めて入念な準備が施されるのだ。

 

 友達との約束じゃあるまいし、今朝約束して夜迎えるなどと言った杜撰(ずさん)極まりない行為など有り得ない。三日前に突如決まった祭りでさえも相当なイレギュラーなのだ。今でさえ、何の記念で祭りが行われているのかすら分かっていないと言うのに。

 

「お言葉ですが、その発言は信用できません。大天狗様や天魔様が、我々に一報も知らせずこの様な者共を招くわけが無い。知らせなければこうして我々に排斥される結末が待っている事など、子供でも予測出来るものでしょう」

「それは、我々の上層部が、招いた客人では、無いからですよ」

「……では仮にそうだとして、一体誰が?」

「…………」

 

 文さんが梅干しでも口に放り込んだかのように口籠ってしまう。何なのだ。一体彼女は、さっきから何を案じていると言うのか。

 

 血生臭かった雰囲気が、文さんの奇怪な言動に別の色を帯び始めていく。互いの覇気は薄れ、我々の置かれている状況は一体どういうことなのか、各々が疑問を浮かべ始めた。

 そんな時。ゆらりと動く、影が一つ。

 

 

『私だよ』

 

 否。それは影ではなく、まるで意思を持つ霧であった。言葉を発し、明らかな自由意識を持って行動する霧であった。

 

 霧の塊は文さんの体から噴き出る様に現れたかと思えば、まるでバラバラだった水蒸気が一ヵ所に凝縮されていくように姿を成していく。

 そして、遂に彼女は姿を現した。

 

 背丈は童女。薄茶の髪は腰より長く、先で荒々しく纏められている。腰や腕からは奇妙な形の分銅が接続された大仰な鎖が三本釣り下げられ、まるで拘束を引き千切って脱出した少女の様な印象を与えた。

 しかしそれよりも存在を主張しているのは、彼女の側頭にある、頭部と不釣り合いな長さの捻子くれた二本角だ。

 

 ……待て。この容姿には見覚えが……いや、聞き覚えと言うか、何かデジャブに似たものを感じるぞ。

 例え太刀を用いても切断する事は叶わなく思える猛々しい角。濃密な妖気の気配。大天狗様相手でも物怖じしない文さんの、縮こまり切ったこの態度。

 

 まさか、まさかではあるが。

 彼女は、かつて山の頂に君臨していた本物の鬼なのではないか?

 

 角の少女が何たるかを察知したその瞬間。男の禍々しいものとはまた種類の違う緊張感が私を包み込み、一気に毛を逆立てさせた。

 その昔、山を圧倒的な力を持って統率し、今の支配階級の基礎を築き上げた種族、鬼。だが大昔に……それも私がまだ私が小さかった頃に山を去った筈だが、何故鬼がこの山へ……!?

 

「そいつは、私の客人さ。私が山へ呼んだんだ」

 

 酒気を匂わせる口調から、相当酔っぱらっている事が伺える。彼女の手元には札の様なものが張り付けられた瓢箪があった。

 尋常では無く強い酒なのか、それとも私の鼻が良すぎるせいなのか。瓢箪から漂うアルコール独特の臭いは、離れた私の鼻を容易く突いた。一歩後ろに立つ文さんは、青い顔をして口元を覆っている。

 

 顔を朱に染め、だらしない笑みを浮かべる童女は、フラフラと前進を始めた。

 

「ちょっとした手違いで随分場が乱れたけど、持て成しご苦労! 白狼天狗の諸君。お前達の奮闘は、見守っていて心の底から清々しいものだったよ。ああ、特にお前が良かった。最後の最後に死力を振り絞って、よくぞ立ち上がったな! その勇気と根性を讃えて、後で何かプレゼントを上げよう。健闘賞って奴さね。にゃはは」

 

 謎の小鬼の登場によって、その場にどよめきが巻き起こる。それもそうだ。今は過去の存在となった鬼が山へ足を下ろしていて、あまつさえ先ほどまで血で血を洗う様な戦いを繰り広げた相手が、彼女の客だと言うのだ。混乱しない筈がない。

 

「さておきだ。妖怪の山へようこそ、吸血鬼とその付き人さん。私の手紙を怪しまず真摯に受け止めてくれた様で嬉しいよ」

 

 彼女は男の傍に近寄ると、腕を強引に掴み取って振り回さんばかりに握手を交わす。だが男は予期せぬ事態に遭遇していながら、不気味なほどに平静だった。

 

「こちらこそ、招いて頂いて光栄だ。私はナハト。君の名は?」

「私かい? 私は萃香。伊吹萃香だよ」

 

 ――――伊吹、萃香?

 今、彼女は伊吹萃香と名乗ったのか?

 

 その名はかつて、山の頂に君臨していた絶対王者の名だ。

 鬼の中でも更に秀でた力を持つ四人の怪物、『山の四天王』のリーダー格に収まっていた、名実ともに最強の鬼。その名に連なる伝説は数知れず、彼女が山より姿を消した今でも、お伽噺として若い妖怪の間に語り継がれている程の存在である。

 

 冷や汗が、決壊した川の鉄砲水の様に飛び出した。心臓が跳ね、歯がカチカチと楽曲を奏でる。男から感じる莫大な不安感と、最強最悪と謳われた鬼への畏怖のせいで、立ち上がったばかりの心柱が再び粉砕されそうになった。

 

 その可愛らしい細腕で山を砕く小鬼は笑う。さも愉快そうに。そしてこれから何かとびきりの楽しみが控えている時の子供の様に。

 

「よろしくね、丑三つ時の鬼さんよう」

 



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16.「夜へ轟け、演武の宴」

 誤解が解けたと喜ぶべきか、この状況に困惑すべきか。実に迷う所ではあると思う。だがまぁ、何とか数回刃を叩き込まれただけで事が収束したので、一応喜ぶべきなのだろう。私の怪我は全くの無駄では無かったと言う事だ。

 ……自分で言っておきながら何だか哀れになって来た。いかんな、初顔合わせイコール流血沙汰だなんて常識に支配されてしまっている気がする。最近は好調なものだからそれでもいいかと流されてしまっているのかもしれない。それは駄目だ。最低限の倫理観だけでも保っておかねば。

 

 さて。発端となった手紙の送り主が伊吹萃香と名乗る角の妖怪少女だと発覚し、主に私が――と言うよりは私だけが血塗れになったあの修羅場は、どうにかこうにか無事に幕を下ろす事が出来た。まぁ、何故かヒートアップしていた美鈴がかなりの数の白狼天狗達を気でダウンさせてしまっていたのだが、『我々は混乱していたが故にきちんと手紙の正否を上へ確認しなかった責任がある。その失態をそちらへ押し付ける訳にはいかない』と、私へ一番最初に斬りかかって来た犬走椛と言う名の少女の発言によってお咎め無しとなった。混乱の原因は十中八九私であるが故に、かなり罪悪感で胸が痛む。せめてものお詫びに怪我をしてしまった彼女らの治療を美鈴と共に手伝おうとしたものの、触れたら殺すと言う目付きで睨まれたので何も出来なかった。客人は客人だがあくまで警戒対象に過ぎないらしい。それでこそ警備を務める者の在り方だと言えるが、彼女たちの目が、ここへ来た当初の夜パチュリーを失神させてしまった際に小悪魔が私へ向けた目とそっくりだった。うーむ、視線が刺さるとは正にこの事か。

 

 ネガティブシンキングに呑まれそうなので、着眼点を変えるとしよう。

 現在私たちは妖怪の山、その深部を歩いている。山の麓は木々と小川に囲まれた、いわゆる原風景そのものな環境だったが、修験道の様な道をひたすら上って行った奥は森が切り開かれ、天狗達が活動の拠点を置いている集落へと辿り着いた。規模としては、人里より少々広めな里と言った印象だ。

 ただこちらの方が技術的に進歩しているのか、かなり複雑な建築物もちらほらと建っている。しかしそれに反して、見事なまでに自然との調和を保っていた。外界の様に自然を侵していないのである。自然現象と密接な関係を持つ妖怪ならではの文化や技術は流石と言ったところだろうか。

 そして招待状の内容に偽りなく、今日は祭りが開かれている様で、奥に見える広場と思わしき場には屋台があちこちで展開されており、日本の祭り独特の賑やかさで溢れ返っていた。

 

「先ほどは、とんだ無礼を。まさか伊吹様が招かれた方々とは露ほども知らず……」

「あ、いえいえ、そうお気になさらず。お互い、譲れぬものがあったのですから、仕方ないですよ。むしろ私としては良い機会だったんです。色々と証明する事が出来ましたから」

「かたじけない」

 

 美鈴と椛は、私達の立場に対する誤解が解けてからずっとこの調子である。お互い生真面目な性格ゆえの現象と言えるだろう。しかし、美鈴が一体何を証明しようと躍起になっていたのかが気になる所だ。もしかして長らく本気で体を動かせていなかったが故に、ちょっとした敵との遭遇で昂ってしまう程鈍っていたのだろうか。

 

 妖怪の中には、元来の性格として戦闘を好む者が多々存在する。美鈴も昔は武者修行をしていた身らしいので、その傾向があるのだろう。

 ふーむ、これは時折手合わせなど相手をしてストレス発散の手伝いを担った方が良いのだろうか。妖怪にとって過度なストレスは天敵に等しい。極論で言えば、趣味嗜好や生きがいを潰された妖怪は驚くほど呆気なく衰弱し、さらに進行すれば一気に老け込み、やがて老衰にまで至ってしまう。人形を保つ妖怪の実年齢と容姿が全く比例しないのは成長を捨てたが故の副作用だが、それは精神面にも強く影響されるのだ。

 つまり言い換えれば、精神が若々しくなければ容姿も潤いを保てないと言う事になる。

 彼女に健康でいて貰うためにも、これはレミリアと相談するべき案件だと言えよう。

 

 因みに、一行のメンバーは私と美鈴、萃香に椛、そして鴉天狗の射命丸文と言う名の少女である。どうも天狗達は萃香に弱いのか、彼女に対しては先ほどの勇姿が嘘の様に弱腰で、半ば無理やり連れて来られていた。恐らく萃香は山の中でもそれなりの地位に立つ妖怪なのだろう。

 角が特徴的な妖怪で、『伊吹』の名字を持つとなると鬼――しかも、極東の地では白面金毛九尾や崇徳上皇と名を連ねる、あの酒呑童子と関係のある少女、もしくは本人ではないだろうかと推測している。あくまで推測の域を出ないのだが、現実にかぐや姫本人が住んでいるのが幻想郷だ。人々に語り継がれている物語とは違い、生き永らえた酒呑童子が、ここで余生を過ごしていたとしても不思議ではあるまい。

 

 そんな彼女は今、霧状に体を変化させて漂いながら私たちを案内していた。成程、手紙の差出人が喋る霧だったというチルノたちの証言はこれを指していたのか。納得した。

 

『ところで、お前さんよう。その道行く妖怪全てに喧嘩を売ってるような威圧感、どうにかならないのかい? 擦れ違う天狗が皆怯えているよ』

「これは体質のせいでな。私の意思ではまるで制御が効かないんだ。お蔭で私自身が困っている程だよ」

『ふーん……まぁ、そう言う事にしとくよ。取り敢えず白狼ちゃんと文にくっ付いていれば、外敵として判断される事も無いだろうさ。さぁさぁ、祭りなんだからシケた面してないで楽しみな。山の祭りなんて、下で暮らしてる奴には滅多に巡り合えない貴重な機会なんだぞ?』

「ごもっともだ。楽しませて貰うとしよう」

「…………」

 

 もう長らく賑わいの場に出ていない身としては、つい祭りの熱気に当てられ内心浮足立ってしまいそうになる。が、そんな私と反するかのように、鴉天狗の少女はどこからどう見ても意気消沈してしまっていた。丁度萃香と私の間を歩く文の形相はまるでゾンビそのものだ。とても平気の様に思えない。私の魔性の作用なのだろうか。取り敢えず、数歩引いた位置へ距離を取っておく事にした。

 

「屋台は人間のものと変わらないのか」

『んにゃ、妖怪は人間と違って手を出す範囲が広いから、一口に屋台と言っても色々なモンがあるよ。スタンダードな食べ物は大体揃ってるし、グルメな奴の為に外来人の血肉専門とかもあれば、中にはどこで採って来たんだって言うゲテモノもある。河童の奴なんかは意味の分からない機械や工芸品なんかも売ってるなぁ』

 

 酔っ払いの様に、所々アクセントのズレた口調で萃香は言う。そんな彼女は『ああ、アレだよアレ』と何かを発見したかのような発言をすると、フラフラ漂いながらどこかへ移動し始めた。

 椛を筆頭として美鈴や文が後を着いていくが、私はその場で待機する事にした。私が行けば、また余計な混乱を生みかねない。今でさえ突き刺さる様な視線がところどころから寄せられているのだ。ここが屋台の立ち並ぶ広場の外れで、文や椛の同伴もあってか先ほどの様な荒事にまで発展しないのが幸いか。

 

 萃香が向かった先は、ありふれた一つの屋台だった。暖簾にはダイナミックな文字で『お値段以上のにとり』と書かれている。どこかで聞いた事のある様なフレーズだな。

 萃香は霧から実体化すると、屋台のベルを乱雑に叩く。リンリンと小気味良い鈴の音が反響した。見た目は普通の屋台なのだが、布で隠されている奥にスペースが存在しているのだろうか。店舗の外観から考えてその線は薄そうだが、もしかしたら地面の下に別の空間が存在しているのかもしれない。妖怪ならば即席で穴を掘るなどお手の物だろう。

 

「おぅい、にとり。居るかい?」

「へいらっしゃ――ひゅいっ!? す、萃香様ァッ!? どどどうして山にもがァッッ!?」

「しーっ。今はあんまり騒がれたくないのさ。静かにな。大丈夫、今は何もしやしないよ」

 

 蝦蛄(シャコ)の一撃の如き俊敏さで、萃香は二つに纏められた空色の髪と緑の帽子が特徴的な店主の顎を掴み取った。哀れにとりと言う名の河童らしい妖怪少女は、脅迫犯から詰め寄られた被害者の様に首肯をするだけの人形と化してしまう。

 よし良い子だ、と萃香は手を離す。解放された少女は、顔から血の気を引かせながら引き攣った笑顔を浮かべた。どうやら彼女も、椛や文と同じく萃香に頭が上がらない様子だ。

 

「げふん。ら、らっしゃい! 何をお求めですか?」

「何か面白い奴は無いかい?」

「面白い奴……じゃあこれなんてどうでしょう」

 

 にとりは台座の下をなにやらごそごそと漁ると、二つの筒の様なものを取り出した。長さはおよそ三十センチ程度で、形状は握り易さを追求したのか、中央部分が緩やかなカーブを描き、親指が当たる部分にスイッチの様なものが見られた。それぞれ筒の片面には空洞が存在していて、素材は鉱石らしきもので構成されている。

 はて、これは一体どの様に使う道具なのだろうか。ボディに鉱石を使っている点や妙な記号らしき印が全体に彫られている外観からマジックアイテムの様に見えるが、機械的なスイッチがある所からどこか外界の科学製品と似た雰囲気も感じる。

 

 萃香は異国で初めて目にした特産品を眺めるかのように視線を集中させながら、『ふーん?』と声を漏らした。

 

「そいつは?」

「新発明品でさ。ほら、テレポートってあるでしょう? 魔法使いや一部の妖怪が使ってるアレです。あの空間転移を道具で再現してみたくて、出来上がったのがこれなんですよ。具体的には筒の中に小さな重力場発生装置を――」

「あー、分かった、分かったから。細かい所は良いからさ、具体的には何をどうする道具なのか教えてよ」

 

 一刀両断され、見るからにしょんぼりとするにとり。典型的な発明家気質なのか、自身の作品発表が出来ずに不満らしい。

 

「――えっと、要するに片方の筒からもう片方の筒へ物を移動させる事ができるんですよ! そして驚くなかれ、これの凄いところは筒の直径より遥かに大きなものでも転移可能な点なのです。ほら、見てくださいな」

 

 ほいっ、と言う掛け声と共に、にとりが片方の筒を宙へと放る。それは孤を描きながら、迷うことなく私の方へと向かって来た。

 故意か? と一瞬勘繰ったが、その疑いは直ぐに霧散する事と成る。彼女は萃香に意識を全て持っていかれているのか、欠片もこちらの存在へ気が付いていないのだ。魔性の気配を感じ取っている様子もない。

 ふと。河童の少女が語っていた筒の効果を頭の中で反芻させたところ、ある懸念が思い浮かんだ。

 マズい、と脳裏に電流が駆け抜けたのも束の間。にとりは既に、自らへ穴を向けたもう一つの筒のスイッチを、深く押し込み終えた後だった。

 

 ブォン。

 何かが凄まじいスピードで挙動したかのような音がして。

 続いて、にとりの持っていた筒が力無く地面へ落下し。

 最後に、私の眼前を舞っていた筒から、どういう原理なのかにとりが勢いよくポンッと飛び出してきた。

 となると、説明などするまでも無く。

 

「っとまぁこんな感じで実のところ私二人分ぐらいの大きさならこの通り転移出来るのでふぎゃあああああああああああああああああああ化け物ォォおおお――――――――――ッ!!?」

 

 宙に放り出されたにとりが私を視認し、魔性に感染、絶叫。更に飛んで私を回避するために変な方向へ力が入ったのか、にとりはきりもみ回転しながら遥か後ろへすっ飛んで行ってしまった。

 にとりを打ち出した筒が地面に落ちて、一同沈黙。例えようも無い複雑な気持ちが胸の中へ滲んでいく。

 

「あー……うん。まぁ、不幸な事故って奴さね」

「にとりさん……」

「にとり……」

 

 何だか河童少女が殉職してしまったかのような反応である。確かに凄まじい勢いでミサイルの如く飛んで行ってしまったが、流石に死んではいないだろう。さらに河童と言う妖怪はその和やかな印象に反し、相撲好きで屈強な種族だと聞く。恐らく怪我も無い筈だ。

 

 彼女の落としていった発明品を拾い、土を落とす。ふーむ、どうやらあの少女はかなり腕の立つ技術者らしい。一目ではこの筒がどの様な仕組みで成り立っているのかさっぱりだ。少し興味が出てくる。

 

「欲しいなら買ってやればいいんじゃない? 一応商品なんだから、金さえ払えば持って行っても良い筈さ。売れた方があいつも喜ぶだろうし」

「ふむ……是非そうしたいところだが、残念ながら私は幻想郷で使える金銭を持ち合わせていないのだ」

「あー、なら金目のものでも置いておけばいいよ」

 

 そんな適当で大丈夫なのだろうか。しかし物を交換する価値観にそこまで差が無いのであれば、館の隠し部屋から持ってきた金貨でも問題ないか。五枚程度置いておけば恐らく足りるだろう。

 金貨の包みを屋台に置き、筒を購入する事にした。が、どんな仕組みであるか分からない以上、私が持っておくと機能が瘴気や魔力で破壊される恐れもあるので、念のため美鈴に渡しておく。

 

 再び霧状へ姿を変えた萃香が、ふよふよと我々の前を漂い始めた。どこか苛立ちを含んだような声で、彼女は言う。

 

『祭りも良いけど、この調子だとまた問題が起こってその度に足が詰まりそうだしさ、もう直接目的地に連れていくよ。本命は祭りじゃなくて、もっと別の場所にあるんだ』

「そうなのか。ならば頼む」

 

 屋台を見て回れないのは残念だが、萃香の言う通り、無用な混乱は避けるべきか。先ほどの様なやり取りが続けばあっという間に陽が昇ってしまう。私は素直に彼女の言葉へ従う事にした。

 そうして萃香に連れられるまま、私たちは天狗の里を通り抜け、更に奥へ深くへと道案内されていった。道中、他とは一線を画す巨大で豪華絢爛な建造物が見えたのだが、どうやらそこが目的地と言う訳では無い様で、あっさりスルーされた。少し観光してみたかったので残念だが、傍目から見ると非常に警備が厳重なので、いわば観る(・・)為の施設では無いようだ。

 建物の横道を通り過ぎ、更に歩き続ける事一時間弱。終わりの見えない山登りは、遂に終着点を迎えた。

 

『到着っ。さぁ、ここがお前さん方を招きたかった場所だよ』

 

 実体化していれば、その場で燥ぎ回りそうなほどに喜色を含んだ声で萃香は言った。

 彼女が私達を招待したかった場所。それはただただ広大で、何もない真っ新な円状の敷地だった。

 位置として考えれば、山の頂上付近だ。草どころか石一つ転がっていない真っ平に整備された土地の奥には、この空間の異様な更地具合と相まって巨大すぎる椅子の背もたれにさえ見える切り立った断崖が鎮座しており、崖をなぞるように視線を上へ向ければ山頂が雲を貫いている。

 周囲を見れば、壁があった。草の根一つない真っ白な土の壁が、このフィールドを丸く囲っている。そこで漸く私は、このフィールドが山の一部を更地にして造られたものではなく、山の一部を抉って造り出されたものだと言う事を理解した。

 

 しかしこの造形。どこかで見覚えがある。

 無駄に整備された更地。更地と上層部を隔てる様な壁。そして壁の上に見える、お椀状に広がっている観客席らしき座の数々。そこに座り、我々へ夥しい視線を向ける数多の妖怪たち。

 そう、これはまるで――――

 

「改めて、歓迎するよ」

 

 何時の間にか実体化していた萃香が、私へ向かって笑った。

 実に豪快に、実に愉快そうに。角の少女は歯を剥いてにっと笑った。

 

「ようこそっ! かつて私たち鬼が幾多の猛者と拳を交えた、霊峰の闘技場へ!」

 

 ――――ああ、やはりそうなのか。

 どこか既視感のある光景だと思ったら、アレと似ているのだ。今では観光地として有名な、欧州にある巨大円形闘技場に。

 であれば、この地へ招待された理由など、もう子供でも想像がつく。

 

「…………私は、祭りへの招待だと伺っていたのだが」

「ああ、これがその祭りだよ。もう二度とお目にかかれない、一世一代の大闘技。メインキャストは私とお前さ。どうだい、素晴らしい晴れ舞台に心躍るだろう? 血肉湧き立つこの状況に声も出ないだろう?」

 

 うむ、心躍らないどころか、踊る前に足を攣ってしまったかのような残念な心境だ。別の意味で声も出ない。私の想像していた祭りは、先ほどの屋台で閉宴してしまったと言うのか。

 

「……狙いは何だ?」

「狙い、ねぇ」

 

 萃香は腰に下げた紫色の瓢箪を取り、一気に煽ぐと深く息を吐き出した。猛烈な酒気が漂い、鼻を突く。

 

「理由はちゃんとあるよ。何の意味も無く、長年放置されて錆び付いていたこの闘技場を、せっせと河童に掃除して貰うよう天魔に言った訳じゃあないのさ。まぁ私としては理由なんて無くても良かったんだけど……何の理由も無く暴れたら、アイツが五月蠅いからさぁ」

 

 萃香は親指を立てると、面倒臭そうに背後を指した。示された方角には、雲を突き抜ける程の途方もない高さの崖しか存在しない――――かと思われたが、よく見ると断崖を掘って観覧席が設備されているではないか。まるでVIP専用席と言った感じだ。

 眼を再び改造し、ピントを合わせていく。映像が鮮明になるにつれてVIPの正体が分かってきた。

 席は三つ。一つは空席だが、その中央には他の天狗とはまるで異なる仰々しい雰囲気の法衣を身に纏い、無機質な純白のアイマスクを着けた天狗が悠然と腰かけている。恐らく山を総べる頭領の立場にある者だろう。しかしそれよりも驚くべきは、天狗の隣に幻想郷の管理者こと八雲紫が、淑やかに鎮座している事だった。

 隣に従者と思わしき狐の妖怪が立っているのは、幻想郷の管理者としてこの地へ集ったと言う事か。これはそこまで大事な行事なのか?

 

「闘技と演目を掲げた理由は、ナハト。お前さんの本当の実力を計っておきたいからだよ」

「実力……だと?」

「そうさ。あの偽の月の晩に見たんだよ私は。紫と幽々子二人がかりのごっこじゃない本気弾幕を、お前さんが捌いて見せた光景をさ」

 

 ……確かに、私はあの晩、盛大に暴れ回った。否、正確には追い掛け回されたと言った方が正しいだろう。とにか、私はあの夜に二人と一戦交えた。それはもう、夜空一面を彩らんばかりの絢爛な弾幕で持成された。

 あれだけ派手に動けば誰かには見られただろうとは思ったが……どうやらその誰か(・・)が彼女だったらしい。

 

「でもよう、あの時お前さん本気じゃなかっただろ?」

 

 萃香はあらゆる真実を射抜く矢の様に、鋭い眼光を私へ向けた。

 しかし本気でなかったなど誤解もいい所だ。確かに攻撃へ転じてはいなかったが、あの時の私は二人の攻撃を避ける事に全力を注いでいた。それは紛れも無い事実である。

 

「いいや、全力だった」

「嘘はよくないなぁ、嘘は」

 

 補足を付け加えようとしたその瞬間、得体の知れない圧力を放つ萃香の言葉に、私の発言は見事なまでに両断された。どうやら怒っている様である。

 何故だ? どこかで彼女の地雷を踏んでしまったのだろうか。声を放てばそれだけで地雷原を猛ダッシュしてしまう様な理不尽効果を持つ私としては、何が彼女の琴線に触れたのかが分からない。

 

 萃香は続ける。今度は浅く、瓢箪に口づけをしながら。

 

「昂ったあの二人を前にして、自ら胴を刎ねる余裕があったくせに全力だったって? 嘘も休み休み言えってんだ。いや、言うな。私は虚言が嫌いなんだ」

「それは誤解だ。あの時は――――」

「よしな。言い訳は聞きたくない。と言うか、今は過去のお前さんを糾弾したい訳じゃないんだよ」

 

 そう言って彼女は、脱線した話を払いのける様にひらひらと手を振る。うーむ、これ以上何かを喋ればまた話が抉れそうな雰囲気だ。黙っておく方が吉か。

 ただ、彼女の場合魔性のせいで話を聞いてくれないと言うよりは、私へ苛立ちを覚えているために突っぱねている様にも感じる。そこまで嘘が嫌いなのだろうか。無論、嘘を吐いたつもりはないのだが。

 そう言えば、にとりの屋台の辺りからあまりいい顔をしていなかったな。もしや私そのものが癪に障るのか。だとすれば私はどうすればいいのだ。

 

「ともかく、この場を設けた理由はたった一つのシンプルなものなんだ。それはお前さんの本当の実力を見極める事。それだけだよ」

「……」

「実のところ、あの夜でお前さんを直接的にしろ間接的にしろ、目撃した奴は結構多いんだぜ。そんな連中の中には、お前さんへかなりの警戒心を抱いている輩がそれなりに居る。何故だと思う?」

「……それは、この私の瘴気のせいだと思うのだが」

「? ――ああ、それもあるだろうよ。でももっと根本的な問題なのさ。この場に居るどの妖怪も、その付き人の門番でさえも、お前さんが底を曝け出したところを見た事が無いからだ」

 

 想像してごらんよ、と彼女は繋げる。

 

「ある日突然、一目見ただけで紫級だと確信できる、見た事も無いトンデモ妖怪が現れた。そいつは常に周りへ威圧感を振りまいて喧嘩を売ってるんだ。そしていざそいつが戦ってるところを見れば、まるで底の見えない実力の持ち主と来た。おまけにそいつは、視界に映すだけで有無を言わせず心を支配してしまう意味の分からない力も持っている。噛み砕いちまえば皆、お前さんの事がまるで理解出来ていないんだよ。理解出来ないものほど恐ろしいものはない。お前さんも妖怪なら、私の言っている意味くらい分かるだろう? 本来ならば理解出来ない闇の恐怖を人間へ植え付ける筈の妖怪が、逆に理解の出来ない恐怖に怯えちまってるのさ。これほどおかしな話も無いよね。だから今夜は、その不可解を取っ払っちまおうって魂胆なのよ」

 

 そう言って、にかっ、と萃香は悪戯っ子の様な笑顔を浮かべた。

 成程、これはある種の披露宴の様なものなのだろう。開催理由は彼女の言う『理解の出来ない恐怖』である私を『理解の出来る物』に変えるためであり、手っ取り早く私の全力を表出させて底を露見させる事で、ある程度私に対しての心の余裕を生じさせようとしている訳だ。真っ暗な谷底であっても、奥底までの深ささえ分かってしまえば、どうにか対処のしようがあるものである。何より心のゆとりが出来る。

 

 であれば、これはチャンスだろう。例え建前上だとしてもこれはあくまで『祭り』であり、戦争では無い。第三者視点から見れば合法的に、平和的に、私の危険度合いを測ってくれると言うのだ。捻くれた交流会とでも言うべきか。手段や閉幕に至るまでの経緯はどうあれ、利用せずにはいられない。上手くいけば、私は『意味不明な化け物』から『見た目怖いだけの吸血鬼』にランクダウンし、様々な者達との間に生じた擦れ違いを解消する事の出来る波紋を生み出せるかもしれないのだから。

 

「……まぁ、前置きはこんなものでいいよね。さぁ事情は説明したぞ。舞台に上がってくれるよねっ?」

「ああ喜んで。この祭りを存分に楽しませて貰うとも」

「ナハトさん、お待ちください」

 

 萃香の提案に何か思う所があったのか、美鈴の声が私を引き留めた。

 

「この状況、何かしら裏がある様に思えます。八雲紫と言い、咲夜さんやパチュリー様、更にはお嬢様までもが苦戦を強いられたと言う鬼の彼女が出揃っていて、おまけに山の妖怪までも集結している様な状態です。相手の口車へ乗れば、かえって厄介なのでは」

 

 ほう。恐らくは弾幕ごっこかそれに類似する遊びの試合だろうが、あの子達に苦戦を強いらせるとは、やはり萃香はかなり力の強い妖怪であるらしい。それも種族は鬼と来ている。この極東の地での鬼とは怪力の持ち主で乱暴で、加えてその名には『怖ろしい』や『強大』と言った意味も含む、まさしく畏怖の権化とすら謳える存在だった筈だ。

 しかし彼女の力が山一つを動かせるほど強いか否かだけで、状況を判断してはいけない。それではやっている事がブーメラン行為だ。私も強大過ぎると誤解され、認識を曇らされているのだから。

 

「確かに、君の言い分にも一理ある。だが美鈴、後ろを見てみなさい」

 

 私の言葉に従い、美鈴は背後へ振り返った。勿論そこには、我々と行動を共にしていた文と椛の姿がある。私が見て欲しかったものはそれだ。厳密には、私が注目して欲しいのは彼女達では無く、彼女たちの表情だが。

 

「表情から察するに、どうやら彼女たちも萃香の思惑を知らされていなかったのではないかね。それだけではない。観覧席で騒めいている妖怪たちも同様なのだろう。違うか? 文」

「……ええ、その通りです。霊峰が整備されているとは聞いていましたが、てっきり広いスペースを使って大規模な祭囃子でも演奏するのかと思ってましたよ。萃香様を筆頭とした鬼の方々が山を下りられて以来、ここは本来の目的ではめっきり使われなくなりましたからね」

 

 文の発言に、嘘を嫌う萃香は難色を示さなかった。それは文の発言が真実だと言う事を証明していると考えていいだろう。つまり、裏があるとしても萃香や紫、そして紫の隣に座っている天狗の長らしき妖怪だけに限られると言う事だ。山全体が一丸として敵となっている様な状況ではないのである。

 私が伝えたい事を美鈴は察してくれたようだが、どうにも表情から曇りが取れなかった。

 

「まぁまぁ紅髪の。ちょーっと面貸してよ」

「えっ? あ、ちょっ」

 

 美鈴をどう納得させようかと思慮していたところ、突然萃香が美鈴の肩を掴んでその場を離れたかと思えば、私と離れた場所でなにやらごにょごにょと内緒話を始めた。聞かれたくない内容なのだろうか。まぁ、何にせよ盗み聞きはよくないだろう。話が終わるまで聴覚を弱化させておく。

 暫くして、二人が戻って来た。何を話したのかは分からないが、美鈴の表情から曇りが消えている。それどころか、謎の使命感に燃えてすらいる様に見える。白狼天狗達との戦いの時に見せた、百戦錬磨の戦士の如き鋭い顔つきだ。本当に何があったのだ。

 

「お待たせ。話はついたよ。ささ、一先ずは開幕の儀と行こうじゃないか」

 

 けたけたと笑う萃香を尻目に、私は美鈴へ視線をやる。力強く頷かれた。同意を得られたのは喜ばしい事なのだが、なんだろうか、どこか私と彼女の間に、この『祭り』に対する参加理由がまるで異なっている様に思える。互いに考えている事は少なからず共通点がある筈なのだが、まるで透明な壁に阻まれているかのような感覚だ。

 

「おーい、出番だよ」

 

 開幕の儀とやらに人手が必要なのか、手をメガホンの形にして何処からか助っ人を呼ぶ萃香。

 応じて、萃香の前に突如空間の穴が出現した。炎が輪郭を包む、サーカスの火の輪くぐりの様な風貌の穴だ。その中から姿を現したのは、見かければすぐさま存在に気がつくほど視認性の高い身なりをしている幻想郷の妖怪たちの中でも、更に目立った風姿をした少女だった。

 

 桃色の頭髪には団子状のシニョンキャップが二つ乗っており、左腕には萃香のものと似た鎖付きの枷が嵌められている。胸元には大きな牡丹の花飾りが咲いていて、その造花がまるで衣服へ絡み付いているかのように、花の下に繋がる前掛けへ茨模様が走っていた。

 これだけでも十分特徴的なのだが、更に目を引いたのは彼女の右腕だ。肩の袖口から覗く右腕全体は清潔感の漂う包帯に覆われており、素肌は一切空気の元へ晒されていない。生身の左腕との対比のせいか、ミイラの様に乾き切った印象を受けた。

 少女は空間の穴を閉じた後、桃色の瞳をこちらへ向けて、まるで私を値踏みするかのように視線を動かす。気難しい性格なのだろうか。『へ』の字に曲がった唇は、堅牢な城の重門の様に一切開かれる様子を見せな――――

 

「紹介するよ、華扇だ。今は仙人やってるらしい。以上」

「ちょっと! 幾ら何でもその紹介は雑すぎるんじゃないの!?」

 

 ――――どうやら思い違いだったらしい。単に私を不審に思っていただけだった様だ。

 華扇と言う名らしい少女は、萃香のぶっきらぼうな説明が気に食わなかったらしく、おほんと咳ばらいをすると腕を組んで自ら名乗り直した。

 

「茨木華扇よ。萃香の言う通り、一応仙人やってるわ。以上」

 

 ……はて、萃香の紹介と何か変わった所があっただろうか。訂正されたと言えば苗字が追加された程度なのだが……細かい事を気にしては駄目か。

 

「吸血鬼のナハトだ。よろしく」

 

 握手を交わそうと手を差し伸べたが、手を凝視されるだけで受け取って貰えなかった。

 ふーむ。悲鳴も罵倒も攻撃も無い比較的友好な顔合わせだったから、ひょっとすると好感触なのかと思ったのだが、どうやら多少なりとも警戒されているらしい。当然と言えば当然か。当然であって欲しくは無いものだが。

 

「お前、さっきまでどこ行ってたのさ? 折角紫たちと同じ特別席を用意したってのにー」

「ちょっとした野暮用よ。どうせ始まったら呼ばれるだろうと思って席を外してたの」

「…………ははーん、さては出店巡りしてたね? 主にB級グルメの奴を片っ端から」

「ぎくっ」

「おっ、こりゃあ一番星並に分かり易い図星だね。仙人になった癖に修行不足だなぁ。禁欲はどうしたのさ」

「う、五月蠅いっ! 余計なお世話よ」

「……それで、開幕の儀とやらは一体何をすれば良いのかね」

 

 ハッとした様に意識をこちらへ向ける二人。緊張感が出たり引っ込んだり、どこかのらりくらりとした二人だ。特に萃香は不機嫌な時は不機嫌、上機嫌な時は上機嫌と言った風に纏う雰囲気の上下が激しい。まるで胸の内に渦巻く感情全てを、隠すところなく曝け出している様だ。

 

 萃香は華扇へ何かをねだる様に手を煽ぐ。察した華扇は、懐から木製の桝を取り出した。面には植物の蔦のような模様がある、不思議な一升桝だ。

 萃香は桝を受け取ると、今度は自らの腰に提げてある瓢箪を手に取り、桝へ中身を注ぎ始めた。離れた距離でも酒気を匂わせる透明な液体が、とぷとぷと桝の中を満たしていく。

 それを萃香は、勢いよく一息で飲み干した。

 

「っぷはぁ、美味いっ! いやぁ、やっぱりお酒は良いよね。心の洗濯飲むバージョンだよ。ささ、お前さんも」

「む。これがその儀とやらなのか?」

「そうそう。まぁ儀式なんて言ったっていわば様式美みたいなもんさ。お互い健闘しましょうって感じのね。そう肩肘張る必要ないよ」

 

 酒が注がれ、桝を手渡される。燗をしている様には見えなかったが、どこかほんのりとした熱気が立ち上り、鼻腔を刺激した。

 酒を眺めていた私を不審に思ったのか、萃香が私を覗き込みながら伺う。

 

「まさかお酒飲めないなんてことは無いよね?」

「無論だ。有難く受け取らせて貰うよ」

 

 しかし考えてみると、最近はあまり飲酒の機会が無かったように思える。しかも飲むとすればほぼ洋酒だったものだから、考えれば考えるほど東洋の酒は久しぶりだ。

 少しばかり味を楽しみに思いつつ、私は受け取った桝へと口を付けた。

 

 

 

 

 ドクン

 

 

 

『紅髪の……確か紅美鈴だっけ? まぁそれは重要じゃない。美鈴、あんたは今の状態で満足しているのかい?』

『満足……ですか?』

『ああ、そうさ。私はね、こう見えて結構な数の猛者どもと闘りあって来たから分かるんだ。戦士の眼を見れば、どんな事を考えているのかがさ』

『っ』

『私はあんたの事をよく知ってるわよ。あんたがここへ来る代表に館の連中から選ばれた時から、あんたの事も観察してたんだから』

『……』

『あんたは普段呑気しちゃあいるが、根っこの部分では武人の魂が燃えている。自分がどれだけ強くなれるのか、強くなっているのか、知りたくて知りたくて仕方がない。でもそれは出来ない。何故なら、今の幻想郷はスペルカードルールが蔓延っていて本気を出せる環境は殆ど無いから。あんたはそんな居場所でも良いと思っているけれど、機会があれば本気の一戦を交えたいとも思っている』

『…………』

『でも戦いたいと思っている理由は、ただ力を振るいたいからなんてもんじゃない。過去に何があったのかは知らないが、あんた、ナハトに力を認めて貰いたいんじゃないのかい?』

『っ!』

『あはは、やっぱり図星だね。ナハトはあんたの師か何かなのかな? まぁいいや。とにかく! 私があんたに機会を与えてやろう。白狼ちゃんの時とは違う、正真正銘手加減なしの本気でぶつかり合える舞台を。さぁ、どうする美鈴? 自分の実力を真正面から受け止められる、今の幻想郷じゃあ滅多に巡り合えない絶好のチャンスだぜ?』

 

 

 萃香さんが私に言った事は全部当たっている。そしてそれこそが、この場に私が同伴した理由を考えると不適切極まりない欲望であると言う事も。

 認めて欲しい。そう、私は認めて欲しいのだ。あの絶対強者に、私の道を示した偉大なる闇夜の支配者に。

 勿論、お嬢様や妹様に対する忠誠は決して嘘じゃないけれど、私が五百年近い時を紅魔館で過ごし続けた根幹には、この願望が染みついて離れなかったと言うのもまた事実なんだ。

 

 だから私は、霊峰の闘技場と萃香さんが謳っていた舞台へと、立ち上がる事を決意した。

 

「行ってきます」

 

 気合よし。覚悟よし。『気』構えよし。戦闘準備オールクリア。

 私はナハトさんへ背を向けて、闘技場へと歩を進める。

 

「美鈴」

 

 私の名を呼ぶ、纏わりつく様な彼の声が、私の足を地面へ縫った。大分馴れてきているとは思っていたが、やはり彼の放つ魔の瘴気は凄まじい。油断している時に声を掛けられたら、未だに体中の水を抜き取られてしまうかのように喉が干上がってしまう。

 彼は一拍の間を空けて、私の背へと言い放った。

 

「勝て」

 

 その一言の重みたるや、さながら魔王に下された勅命の如き重圧感。

 心なしかいつもより、声に含まれる圧力が強い様に私は感じた。ちらりとだけ振り返ると、彼の表情には恐ろしく冷たいながらも見る者の視線を凍結させてしまう柔和な笑みも何もなく、あるのは無機質な鉄仮面を思わせる無表情。

 ただ紫色の輝きを放つ二つの瞳が、私の全てを見透かすようにこちらを射抜いている。

 いつもとまるで様子が違う。文字通り鬼気迫ると言うかのような、今まで見た事も無い程の緊迫感を纏っていた。

 

 肌を粟立たされ、眼を釘付けられ、筋肉を強張らせられ、歯を鳴らされながらも、湧水の様に澄み切った畏怖の念を生み出させるこの雰囲気を例えるならば、まさに悪魔の王の重圧だ。お嬢様も時折顔を覗かせる、夜の頂に立つ王者としての覇気に他ならなかった。

 

 ああ、怖ろしい。その闇の暗黒を映す眼球から視線を向けられるだけで、心臓が動きを止めてしまいそうになる。温度の無い冷酷な無表情を見れば、脳髄から五臓六腑までもが瞬く間に冷凍されていく。恐怖に蝕まれる。いっそこの瘴気に呑みこまれた方が楽なのではとすら思わされてしまう。

 

 だが、だからこそ。

 

 この闇の権化の様な大妖怪に私の成長を認めて貰う事が出来れば、晴れて私は紅魔の門番を名乗れるのだ。彼の言葉に従って鍛錬を積み続けたこの五百年は、一日たりとも無駄なものでは無かったと誇りに思えるのだ。

 彼に対する畏怖の心も、お嬢様に対する忠義も、全て本物なんだと胸を張って言えるのだ。

 それを証明する為には、ひとつしか方法は存在しない。

 勝利を手にし、彼の期待に応えるのみ。

 

「紅魔の名に懸けて、必ずや勝利を掴んで見せましょう」

 

 だから私は、『勝て』と渾身の期待が込められた言葉に、湧き上がる武者震いのせいで声が震えそうになるのを必死に堪えながら、自分にも言い聞かせるように宣言した。

 

 ああ、ナハトさんのお目付け役をお嬢様に任されていたけれど、これは土下座して謝らなくちゃならないかもしれない。私情で戦うだなんて、ブレーキ役を仰せつかった身としては命令違反もいい所だ。けれど、今回ばかりは譲れない。あんなことを言われたら、首を横に振るなんて出来やしない。

 ごめんなさい、お嬢様。この馬鹿な門番の我儘を、どうか一度だけお許しください。

 

 再び歩を進め、闘技場の中心に立つ。対するは、茨木華扇と名乗る山の仙人だ。

 

「まったく、面倒臭い事に巻き込まれたわよね。萃香の奴は昔から勝手で困るわ」

「あはは。私も色んな事に巻き込まれやすい質なので、その気持ちはちょっぴり共感出来ちゃいますね」

「いやいや、他人事じゃなくて、これはあなたに対しても言ってるのよ。お互い大変ねーってこと」

「? そうでしょうか。ナイフで刺されたりレーザーで丸焦げにされたり爆発に巻き込まれたりするよりかは、お手合わせをするだけだなんて随分平和な方だなぁと思うのですが……」

「……あなたって、見かけによらず相当苦労してるのね。これが終わったら食事でもどう?奢るわよ」

 

 哀れみの籠った眼を向けられた。ぶっちゃけそこまで苦労してはいないのだけれど、他人の目にはそう映るのだろうか。そう言えばこの間チルノさんにも心配された気がする。彼女の言っていた『ぶらっくきぎょー』なる現象と関連があるのかもしれない。

 

「そう言えば、華扇様は――――」

「華扇で良いわ。敬称で呼ばれるのは天狗と河童だけで十分よ」

「―――華扇は何故萃香さんに協力を? 見た所お知り合いの様ですが」

「あー、まぁ、うん。腐れ縁みたいなものなのよ。でも受けたのはそれが理由じゃなくて萃香が美味しい甘味をご馳走してくれるっ―――――」

 

 華扇が慌てて口を閉じ、わざとらしく咳込んだ。そう言えばさっきもB級グルメがどうとか言われていた気がする。……もしかして、

 

「あなたって、仙人だけど実は食いしん坊さんです?」

「むぐっ」

 

 見事なまでに思いっきり言葉を詰まらせる華扇。『気』を使う必要性が無いくらい分かり易いなあこの人。

 

「い、良いじゃないまだ私は修行の身だし、甘味が大好きでもさ! 悔しいけど萃香が美味いって言った奴は本当に美味しいから食べたいのよ! 安請け合いで悪かったわね!」

「いえ、別に悪いだなんて一言も」

「うぐっ……!」

 

 そもそもまだ絶賛修行中とも言える私が大それた意見なんて言えるわけが無い。見事なまでに華扇は自爆してしまった様だ。

 顔を真っ赤にした華扇は暫くプルプルと震えていたが、次第に落ち着きを取り戻していった。

 

「んんっ! ……理由はどうあれ、請け負ったからにはきっちり戦わせて貰うわ。勿論、手を抜く様な真似なんてしないから。まぁ、怪我しても傷に効く良い薬を調合してあげるし、安心して頂戴」

「まるで私に勝ち目がないかの様な言い草ですね。無論私だって素直に負けてあげるつもりはありませんよ」

「だってこれは弾幕戦(ごっこあそび)じゃないもの。泥臭い格闘戦じゃあ私、結構手強い自信があるの」

「手強いならば、その不思議な包帯の手もろとも折って差し上げましょう」

 

 煽りは十分。互いに構え、臨戦態勢へ入り込んだ。

 私達の間に、まるで相撲の行司の様に萃香さんが割り込む。

 

「ようし! 準備はいいか? それじゃあ祭りの余興と行こうじゃないか。楽しませておくれよ二人とも! さぁ紫、代表して開宴の音頭をっ!」

『………………へっ?』

 

 いきなり振られて反応が出来なかったのか、妖怪の賢者の驚いた声が山に響いた。八雲紫のいる席からかなり離れているのに、嫌に声が大きい。もしかしたら萃香さんが能力の類で何かしているのかもしれない。

 

『いきなり何……!? いや、こういうのってまず立場的に天魔がやるべきじゃないの!?』

『折角だが遠慮しておこう。山の代表より、幻想郷の代表が口上を述べた方が引き締まるというものだ。今回は賢者のお手並み拝見と行こうかの』

「紫はやく! 祭りの熱気が冷める!」

『えっ、あぅっ、あっ、よ、よーいどんっ!』

 

 ……………。

 一同、沈黙。

『えっ、えっ?』と八雲紫の慌てる声、そして隣の天魔と言う名らしい人物が、必死に笑いを堪える息遣いだけが支配する空間と成り果てる。どうしてこうなった。

 八雲紫とは、果たしてここまで茶目っ気のある妖怪だっただろうか。吸血鬼異変で我ら紅魔館を一方的に蹂躙したあの大妖怪は、一体何だったのだろう。

 

「紫ィッ! いくらなんでもそれは無いんじゃないかなぁ!?」

『だ、だってぇ! こんなの打ち合わせに無かったじゃない! いくらなんでも突飛過ぎるわよもーっ!』

「あーもうイイからなんかバシッと決めてよ! 賢者だろう!?」

『うぐぐ……なんて理不尽な無茶ぶりなの……!』

 

 再び沈黙が訪れ、数拍後の事。

 お惚けていた空気が、全て換気でもされたかのようにガラリと入れ替わった。

 遥か高みの席から腰を上げ、こちらを見下ろす八雲紫。その瞳は、吸血鬼異変にて圧倒的な力を振るった大妖怪の色を帯びていた。

 

『――――代表、八雲紫の名において、門番「紅美鈴」と仙人「茨木華扇」の決闘を許可する』

 

 ナハトさんとはまた違う、圧倒的な力の波が声へ乗せられ、耳へと運ばれてくる。彼の声は耳に入り込むと五臓六腑を侵食し絡みつくかのような魅惑の声だが、彼女の声音は、耳にすると自然と背筋を引き伸ばされる様な、冷たくも凛とした威厳溢れる響に満ちていた。

 

『双方、祭典に相応しき勇ましい戦となるよう、誇りと死力を尽くして闘いなさい』

 

 自然と、私と華扇は構えを取った。小鬼の少女がにやりと笑う。それはそれは楽しそうに、されどどこか待ち遠しそうに。

 彼女は霧となって、霊峰の空気へ溶け込んでいく。それが開戦の狼煙となった。

 

『いざ、尋常に勝負!』

 

 八雲紫の覇気ある号令が轟く。と同時に私達は、一直線に互いへ向けて駆けだした。

 両の拳へ気を集中させる。生命の熱が渦を巻く。それは虹色の光となって可視化され、華美な気の塊へと変貌した。

 それを、全力で前方へ投擲する。さながら砲弾の如き豪速で空を切り裂く二発の虹色気弾は、軌道に一切のブレを見せず彼女のど真ん中を射抜いてみせた。

 破裂音が、霊峰の闘技場に炸裂する。

 

「……へぇ。あなた、仙道と似た力を持っているのね」

 

 しかし返ってきた反応は苦悶でも焦りでもなく、どころか好奇心に満ちた明るい声だった。

 

「綺麗な『気』ね。その美しい虹の輝きは、あなたの心が気高い証拠なのかしら。妖怪だけど好感が持てるわ」

「それはどう、もっ!!」

 

 肺から思い切り空気を吐き出し、垂直に足を蹴り上げる。彼女を狙った蹴りでは無い。蹴りで生じる余波に『気』を乗せたのだ。

 結果、衝撃波は虹の刃となって片腕の仙人へと襲い掛かった。

 

「はっ!」

 

 華扇の掛け声と共に包帯の腕が紐解かれる。中身は空洞。本来ある筈の生身の腕は存在していない偽物の腕だ。言い換えれば、あの腕は伸縮自在の魔法の手だと言う事になる。

 ロケットの如く発射された包帯の右拳は、布とは思えない破壊力を伴って『気』の衝撃波を打ち砕いた。『気』は破壊され、ガラスを割るような高周波が周囲に飛び散る。

 

 ―――包帯と舐めてかかれば痛い目を見るか。

 

 奥歯を噛み、不規則に動く右腕へ注意を向けながら、私は一気に彼女の懐へ潜り込んだ。

 間髪入れず、打つ。

 拳打、手刀、掌打、肘打ち、蹴り、蹴り、回し蹴り。

 息を吐く暇も与えず、隙など生み出さず、流れる様に急所を狙い、打つ、打つ、打つ。

 だが彼女も当然黙って打たれ続けはしない。私の拳を、蹴りを、的確に捌き避けて見せた。武道の心得があるのか、それとも身体能力が抜きんでているのか。徐々に攻撃の殆どが捌かれ、虹の軌跡が空を切り始めた。それをすり抜け直撃を与えたとしても、まるで暖簾を押した様に手応えの無いものだ。

 

「大陸の武術かしら? 妖怪なのに珍しい。やっぱり見れば見る程、あなたって人間とそっくりね。もしかして憧れて真似てるの? そうだとしたら、あなたは自身が妖怪であると言う自覚をもっと持つべきよ」

「確かに私は結構な人間好きですが、これは我流ですよ。まぁ参考にする程度には、人間の技術って捨てたものじゃないと思うんです」

「……そうね。普段の人間は恐怖におののくだけの脆弱な存在だけど、矮小な人間が大妖怪に一矢報いる事もままある。だからこそ、人間の技を取り入れた、妖怪らしからぬその技術は侮れない!」

 

 彼女の姿が、一瞬にして視界から消えた。

 違う、屈んだのだ。となると次に来るのは、

 

「足払い!」

 

 反射的に地を蹴った。砂埃が舞い、その下を鎌の様に鋭い蹴りが通り抜ける。妖怪の脚力は、まるで鞭を振るったかのように空気を破裂させ、地面を削り取った。人外と言う点を考えても凄まじいパワーだと戦慄すら覚える。だがチャンスだ。彼女の背後が、打ってくれと言わんばかりにがら空きになった。

 

「隙ありッ!」

 

 『気』を練り、両腕へと集中させていく。指を絡め、鈍器のように形を成した。

 渾身のハンマーブローを、落下と共に桃色の頭頂へ叩き込む!

 

「かかったわね」

 

 だが。

 華扇はまるで私が足払いを避ける事を想定していたかのように、不安定な態勢からコマの如く回転すると一瞬にして立て直してみせた。

 桃色の瞳が私を射抜く。その瞳孔は、まるで竜の如き鋭さを帯びていて、

 

「ドラゴンズクロウル!!」

 

 瞬間、華扇の右腕が爆発した。

 純白の拳は瞬く間に膨張し、華奢な細腕は丸太の如く巨大化する。反して五指は引き絞られ、それら一本一本が太刀と見紛う鋭利さを身に着けた。

 まさに竜の爪だった。布で形作られた純白の竜の爪。華扇の肩から竜巻の如く荒れ狂う包帯の腕が五つの刃を成し、私を引き裂きながら空へ打ち上げる様に薙ぎ払った。

 メギメギッ!! と脇腹の内から悲鳴が上がる。爪が掠めた部分は刀で斬りかかられた様に皮膚が裂け、雷に打たれたかの様な衝撃と痛みが走り抜けた。

 空中で態勢を立て直し、何とか着地に成功する。脇腹に手を当てると、炎症の熱と暖かな血潮の温度がぬるりと伝わってきた。

 

 咄嗟に体を捻り、痛恨の一撃は免れたと言うのにこの威力。昔癇癪を起こした妹様に本気で殴られた時……いやそれ以上の一撃だ。幾ら人外の存在とは言え、吸血鬼に匹敵するほどのパワーが出せるものなのだろうか? 私の知る限り、吸血鬼とガチンコで殴り合える様な怪物(しゅぞく)は鬼しか知らない。であれば、仙人らしく何らかの術で身体能力を底上げしていると見て良いか。

 

「お見事。手加減無しのアレを受けて立ち上がれるとは思わなかったわ。本当なら一撃で決めるつもりだったんだけどね」

「生憎、頑丈なのが取り柄でして」

「でも二発目、三発目は耐えられるかしら」

 

 華扇が地を蹴り、爆発的な瞬発力で駆け出した。今度は左拳を構えている。注視すると、何やら薄い光の膜の様なものが右腕を覆っているのが見えた。

 そこで私は確信する。あの光の正体は『気』だと。華扇はあの一瞬の内に学習し、気を操る術を習得したのだ。何という学習能力と類稀なる才能か。戦いの最中に成長するなんて、まるで仙人らしくない。どちらかと言うと戦闘種族だ。

 

 しかし、これは不味い。『気』とは生きるもの全てが持ちうる、いわば生命の原動力とも言えるエネルギーである。微量であれば他者の『気』を浴びても害は無く、むしろ活性を得る程なのだが、過剰に打ち込まれれば話は別だ。薬も転じて毒と成り得るように、膨大な『気』を注入されると元の『気』の流れが著しく乱され、文字通り気絶してしまう。それは即ち敗北へと直結する。

 見たところまだ完全に術を掌握出来ていない様だが、当たる訳にはいかない。むしろコントロールが不出来だからこそ危険だと言えるだろう。

 

「……っ!」

 

 膝が笑い、重心がガクンとずれ落ちた。

 ダメージが響いているせいで、まともに体を動かせない。『気』を巡らせて回復しようにも決定的に間に合わない。

 この状況、どう切り抜ける……!?

 

「思った以上に響いてるみたいね。けど、言ったように手加減しないから!」

 

 華扇は飛び上がり、左拳を引き絞った。反して伸ばされた包帯の右手のひらが狙うは、私の顔面。さながらその右手は、拳銃の照準装置の様だった。

 ミシリ、と音が聞こえてきそうなほどに、華扇の拳が固く握り締められる。避けようにも間に合わない。そしてこの一撃を食らえば、間違いなく敗北を喫する事になる。

 どうする。ガードするか? いや、耐えられない。さっきの一撃ですらアレなのだ。とても立っていられる自信が無い。

 

「……そうだ」

 

 あるアイディアが、私の脳裏を過った。少しばかり卑怯だが、これで決めさえしなければ問題ない筈だ。負けてしまえば、みっともないけれどこれしかない

 私は無我夢中で懐を漁り、目的の物を手に取った。

 それを、無我夢中で華扇の背後へ放り投げる!

 

「とどめッ!!」

 

 視界一杯に、破壊の拳が広がって。

 華扇の怒号が、私に耳を劈いた。

 

 

 ダゴォンッ!! と猛烈な破壊音が轟く。気を巡らせた華扇の拳は、さながらクッキーを砕くフォークの如く地面へ突き刺さり、見事なまでに破壊の亀裂を放射状に広げてみせた。

 見た目華奢な少女から放たれたものとは思えない、絶大な一撃。それによって巻き上がる粉塵が視界を塞ぐが、観客席に座る魑魅魍魎は皆、勝負の結末を確信していた。あの状況では逆転など出来やしないと、誰もが緊張を解き一息ついていた。

 

 白い煙幕が、山風に吹き消されるその時までは。

 

「へぇ」

 

 片腕有角の仙人は、さも意外そうに呟いた。拳で撃ち抜いた眼前には打撃痕だけが残され、あの華人小娘の姿がどこにも見当たらなかったからだ。

 華扇は背後へと、静かに眼を向ける。

 そこには言うまでも無く彼女がいた。ほんの数秒前まで満身創痍に等しかった紅魔の門番が、虹色の輝きを全身から迸らせながら、腰を低く落とし、拳を構えていたのだ。

 

「あなた、瞬間移動なんて出来たの?」

「いえ、少しズルをしました」

 

 そう言う美鈴の足元には、機械的な二つの筒が転がっている。華扇はそれを目にしてすぐに河童の発明品だと理解し、成程ねと声を漏らした。

 大方、片方の筒から、もう片方へ物を移動させる道具なのだろう。先ほど美鈴が何かを投げていたから、それに向けて転移したのか。華扇はそう解釈した。

 

「まぁズルと言ったら、私の右腕も言うなれば道具みたいなものだし文句は無いわ。でも腑に落ちないわね。それを使えば、背後から私に一撃見舞う事が出来たんじゃない?」

「別に不意打ちをしたかった訳じゃないんです。あの様に一方的な負け方はしたくなかった。ただそれだけですよ。だからこうして『気』を巡らせ、回復させてもらいました」

 

 眉を顰めていた華扇は、なるほど、と笑みを浮かべていた。

 美鈴は正面から打ち合いたいらしい。正々堂々決着を着けるつもりなのだ。

 華扇はそれを、好ましいと思った。

 

「次で決着をつけようってわけね。面白いじゃない」

「乗って頂けるようで嬉しい限りです」

 

 反則負け貰うかもと思ってました、と美鈴は言う。本当に律儀な、珍しい妖怪だと華扇は笑った。

 だからこそ、その勝負を受けて立とうと華扇は拳を握りしめた。

 右腕に術を掛け、包帯の強度を遥かに高める。華扇の右腕は今、鬼の体すら撃ち抜く最強の矛と化したのだ。

 対する美鈴は虹の『気』を巡らせ、構える。少女達が織り成す弾幕と匹敵する美しさをその身に纏い、茨木華扇を見据える。

 

 次が最後だと、少女たちは確信した。

 次で決めると、少女たちは決意した。

 

 静寂がバトルフィールドを包み込む。華扇も美鈴も、銅像の様に身動ぎしない。互いに互いの隙を探り、雰囲気に当てられた客席の妖怪たちは、固唾を飲んでその光景を見守った。

 

「――――」

「――――」

 

 風が吹き、砂煙が足元を撫でる。秋の夜風は、二人の間に一枚の紅葉を運び込んだ。

 ひらひらと、秋神によって装飾された雅な葉が舞い降りる。ふわふわと、まるで天使が落とした柔羽の様に。

 そして遂に、葉が地に落ちた(ゴングが鳴った)

 

「シッッ!!」

「はああああああああああッ!!」

 

 華扇の右腕が弩の如く射出される。瞬きをする間も無く距離を詰め、一気に美鈴へと襲い掛かった。

 美鈴は顔を逸らし、間一髪で必殺の一撃を回避する。頬を掠めた包帯が皮を削り、一筋の傷を刻み込んだ。だが美鈴は怯まない。あと数センチずれていれば頭蓋を打ち砕かれていただろう攻撃を前にしても背を向けない。彼女の目には、標的たる華扇の姿しか映されていなかった。

 華扇は笑う。

 瞬時に包帯を巻き戻しながら、猪突猛進する美鈴を迎え撃つ。

 

「背中がガラ空きよ!」

 

 戻す過程で、華扇は包帯をしならせ鞭のように美鈴を打った。ズバヂィッ!! と強烈な打撃が叩き込まれる。人間であれば肉を削ぎ落とされ、骨を砕かれる程の一撃を。

 だが美鈴は耐えた。倒れる事も後ずさる事も無く耐え凌いだ。鍛え抜かれた足は瞬く間に距離を殺し、一瞬の内に美鈴を華扇の懐まで辿り着かせてしまう。

 華扇は迎撃せんと左拳を振りかぶった。だが遅い。既に美鈴は姿勢を低くし、虹の『気』を纏う拳を打ち上げる様に放っていた。

 急所である鳩尾へ、重機の如き威力を伴った渾身の一撃が無慈悲に叩き込まれる。

 

 肺を突き上げられ、がふっ、と華扇は呻きよろめいた。土を踏みにじり後退する華扇。それを逃すまいと更に深く、強く、美鈴は退く華扇へ一歩を踏みしめた。

 だが華扇もただではやられない。未だ胸に残るダメージを気力で封じ、奥歯を噛み締め右腕を振るう。それは再び、紅魔の門番を葬り去る竜の爪へと形を変えた。

 

 虹の光が軌跡を描き、竜の爪が大気を切り裂く。

 とどめを刺さんと、その一撃に勝負を賭ける。

 

「彩光蓮華掌!!」

「ドラゴンズ、クロウル!!」

 

 二人は、須臾の間に交差した。

 何度目か分からない爆発音を轟かせ、眩い虹と白の光を撒き散らし、霊峰全域を爆風が蹂躙する。客席の人外たちは悲鳴を上げた。本気の妖怪同士が繰り出す一撃は、圧倒的な破壊を生みだすのだ。

 あまりの余波に、煙幕すら生まれなかった。故に勝敗は、残酷なまでにはっきりと周囲の目に晒されてしまう。

 

 闘技場へ倒れ伏していたのは、紅髪の門番の方だった。

 

 

 数拍の沈黙。 

 音の無い世界を破ったのは、高みの席から立ち上がり、扇子を掲げる賢者の一声。

 

『そこまで。勝者、茨木華扇!』

 

 そして、火を着けられた油の様に猛烈な熱狂が巻き起こった。

 祭りと銘打たれたこの演目。詳細を知らされていない山の妖怪たちにとっては、何が何だか分からないものだった。だがそんな疑問は、この瞬間に塵と消えた。呑まれたのだ。感化されたのだ。知る者は知る、あの山の仙人と互角の激闘を繰り広げた紅魔の強者に。そしてそれを打ち破った仙人の勇ましさに。

 弾幕勝負とはまた異なる、勝負の美しさと熱さ。それは、喧騒を好む山の妖に火を着けるには十分すぎるものだった。

 

 

 

 

 

 だが。

 

「違うわ」

 

 山を震わせる雄叫びと熱波は、闘技場に立つ勝者の声によって遮られてしまう。

 

「この勝負――――」

 

 最後まで言い切ることなく、プツリと華扇の言葉が途絶えた。同時にそれを目にした妖怪たちの、驚愕に満ちた声が次々と沸き上がる。

 原因は、華扇の身に起きた不可解な現象にあった。

 

 眼が眩むほどの光を伴ったエネルギーの大爆発が、何の前触れも無く、華扇を中心に巻き起こったのである。

 

 

 彩光蓮華掌。相手の体へ莫大な『気』を流し込み、暴発させる美鈴独自の奥義である。

 あの一瞬、美鈴は華扇よりも早く一撃を叩き込んでいた。同時に華扇の猛打を受け倒れ伏してしまったが、その時既に美鈴の『気』は華扇の体に送り込まれていたのである。

 しかし『気』を送り込んだのはその瞬間だけではない。美鈴は最初の連打の時も、鳩尾を打ち抜いた時も、華扇へ『気』を送り続けていた。例えるなら、爆薬を仕込み続ける様なもの。美鈴の攻撃は、気づかぬ間に着々と華扇の体へ爆弾を埋め続けていたのである。

 そして、最後の一撃によって全ての爆弾が連鎖的に着火した。

 結果、美鈴の奮闘は実を結ぶこととなったのだ。

 鬼の如き凄まじい耐久性を持つ華扇の体は、蓄積したダメージと体内からの熾烈な攻撃を受け、遂に、重々しく地面へと倒れ伏した。

 

 その一部始終を見届けていた妖怪たちは、一瞬何が起こったのかが理解できなかった。

 ただ、両者が伏している戦場の様を見続けている内に、

 

「引き分けだ……」

 

 現実を受け入れた誰かがポツリと呟くと、

 

「引き分けだ」

「華扇様が引き分けた」

「と言う事はどうなるんだ?」

「次へ持ち越しとなろう」

「次は誰じゃ」

「萃香様とあの男だ」

「萃香様が戦われるぞ!」

「山の四天王の大闘争が見られるぞ!」

 

 まるで核分裂反応のように、一人が反応すれば次々と昂る者が現れ始め、そして訪れるだろう最強の鬼と山を震え上がらせる謎の吸血鬼の大勝負の到来に心震わせる者達の、熱い歓声が遂に解き放たれた。

 妖怪は、思考能力が単純な者が多い。それは長寿故に、考えを詰めすぎると自己を保てなくなるからだ。天才が世を憂い、自ら命を絶ってしまう様に、果ての無い時間と思考は命を削る。八雲紫がメリハリをつける理由もそこにある。

 

 つまり、単純な彼らは熱気に当てられた。ひょっとしたら伊吹萃香の力が働いていたのかもしれない。

 だがそんな事は彼らにとってどうでも良い事だった。名勝負を繰り広げた門番と仙人への敬意と感動、そして今世紀一番の勝負が見られるかもしれないと言う期待が、妖怪の底に眠る闘争心を湧き立たせるのだ。 それはいつの間にか華扇と萃香、そして美鈴とナハトをチームとして区切り、対戦形式へと変貌させたのである。

 

 萃香の思惑により始まった、偽物の祭りは。

 今この瞬間に、本物の祭りへと生まれ変わった。

 

「さぁ、野郎ども!」

 

 いつの間にか実体化した萃香が、美鈴と華扇を抱き寄せ、立ち上がらせた。満身創痍の彼女たちは必死に足を奮い立たせ、どうにかこうにか直立する。

 背の高い二人と並べない萃香はふわりと浮かび、二人の手を勢いよく天へと掲げた。

 

「この二人の勇姿に心震わされた猛者は手を叩け! 雄叫びを上げて称賛しろ! 安心しやがれ、お前たちの期待通り次は私の番だ。だがそれを求めるにはまだ早い! まずは二人の健闘に、盛大な喝采を送りやがれッ!!」

 

 次の瞬間、拍手の洪水が起こった。雄叫びの噴火が炸裂した。

 祭りのクライマックスを思わせる様な圧倒的喧騒の中心で、萃香は笑う。争いを好む鬼の性が二人を讃えて喜色満面と化す。だがそれと同時に、闇を孕む妖怪の笑みも浮かび上がっていた。

 

 全ては順調。計画通り。それでは最後のフィナーレを飾ろうか。

 笑顔でそう、物語るかのように。

 

 



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17.「萃無双」

「ッはははっ、すげぇすげぇ! いやぁ、やっぱり私の目に狂いは無かったなぁ! 不意打ち出来る状況だったってのに、真正面からぶつかったどころか華扇相手に引き分けを捥ぎ取るだなんて、実に気持ちのいい奴だ! あいつが倒れる所なんてもう何十年と見てないよ! いいぞいいぞー! はははは!」

 

『密と疎を操る程度の能力』を使い、分身して一寸よりも小さくなったミニ萃香が、私の肩の上で手を叩きながら歓声を上げた。同じくしてこの崖上の席から一望できる霊峰では、本体である大きい方の萃香が健闘者二名を掲げて豪快な締めの言葉を飛ばし、闘技場のテンションを湧き立たせていた。

 

「……それで、萃香。奴の事について少し質問をしても良いかしら」

「あん?」

 

 奴とは無論、あの吸血鬼の事である。

 燃え上がる様な宴の喧騒に呑み込まれ、珍しく奴の異常な存在感がこの場から封殺されてはいるが、私の目には、あの男が一際強く視界の中心に映ったまま離れなかった。

 あまりに落ち着き過ぎているのだ。肝が据わったと言うより、凍ったと例えるべきか。おそらく彼にとって予想外だったのだろう、この演武宴を目の当たりにした当初は、彼も困惑の色を覗かせていたのだが、ある瞬間から突然、いきなり人が変わったかのように感情の色が消え失せた。まるで真夜中に蝋燭の炎で照らされた能面の様な、無機質で不気味な無表情が張り付いてしまっているのだ。

 その切っ掛けとして思い当たると言えば、萃香が行った開幕の儀――即ち、伊吹瓢の酒を茨木の百薬桝に注いで互いに酌み交わした、あの瞬間だろう。

 

 そこを不審に思い問い質したが、萃香はきょとんとした表情でこちらを見つめているのみだ。どうやら何かを企てていた訳では無いらしい。

 

「開幕の儀は、茨木の百薬桝で互いの調子を万全にすることが目的だった筈よね。なのに何故、彼が酒を口にした途端あのような状態に陥ったのか、説明してくださる?」

「んん? いや、アレに関しては特に悪巧みなんてしてないよ。強いて言うなら、あいつ吸血鬼らしいから私の血を酒に混ぜたくらいだけど。鬼の血を飲んだ吸血鬼はさぞや強いだろうなぁって思ってね、ちょっとしたサービスさ」

「…………なぁーに勝手な事してくれちゃってるのよ、この小鬼はぁっ!」

「いっ!? いいだだだだだだぁっ!? 止めろ摘まむな捻るな潰すなぁ!」

 

 ネズミをひっ捕まえる様に、肩の上の萃香を捕獲して思い切り捩じる。ただの焚火にガソリンを放り込むような真似をしてくれたこの腐れ縁には、少しばかりお灸が必要だ。

 

「萃香……あなた、桝の副作用を知った上でそんな事をしたの? 蛇足って言葉の意味を忘れちゃったのかしら」

「いや、何も考えなかった訳じゃないさ! 知っての通り、あの桝は少なくとも一晩経たなきゃ副作用は出ないんだって! それに紫も言ってたじゃん、百薬桝の効果は体に入った酒を取り除けば―――つまり私がボッコボコにして絞り出してやれば消失する筈だってよう! 私が責任もってアイツを八つ裂きにしてやるから大丈夫だってば!」

「あなたの実力を疑っている訳じゃないけど、そう言う問題じゃないの! 桝の持つ呪いに鬼の血……それもあなたの血なんて特上品を掛け合わせたら、ただでさえ予測不可能なあの化け物がどんな超常的存在に変異するか、分かったものじゃないでしょうって言ってるの!」

 

 華扇の所有物である茨木の百薬桝と言う特殊なマジックアイテムは、桝に注いだ酒をあらゆる怪我や病を治癒させ、怪力を授ける薬酒へと変化させる性質を持つ、まさに『酒は百薬の長』の言葉を体現するかのようなアイテムである。

 この一面だけを浮き彫りにしてみると非常に魅力的なアイテムなのだが、そんな美味い話がある筈も無く、勿論デメリットも存在する。桝の酒を飲んだ者には、ある副作用が生じるのだ。

 それは鬼化の呪いとでも例えるべきか。酒を飲んだ者は一晩程度経つと、鬼のように豪快で乱暴な性格へと変貌してしまうのである。更にこの時、恩恵の怪力もそのまま残っているため、周囲に多大な二次被害を発生させてしまうと言う厄介な側面を持つのだ。

 

 節度を持って普通に使用するのであれば、実はそこまで使い勝手の悪いマジックアイテムではない。だが今回は話が違ってくる。服用者はあのナハトなのだ。未知の領域が他の妖に比べてずば抜けて多く、八意永琳の話によればそもそも既存の吸血鬼に当て嵌まるかどうかも怪しいアンノウンなのである。

 万全の奴と闘いたいから桝を使うと言って聞かない萃香の我儘を聞くために、条件として決闘中に奴の体へ取り込まれた酒を分散させる程のダメージを与える様にと約束し、今回は漸く使用する許可を下せた。しかし萃香は、鬼の呪いを持つマジックアイテムの酒へ更に鬼の血を――四天王の頂点に君臨した最高峰の隠し味(鬼の血)を混ぜてしまった。

 もたらされる影響は、考えるに鬼化の呪いの増強と促進だろう。萃香の血と桝の呪いの相乗効果があの男に働き、怪物をさらに二回り近く大きな怪物へ成長させかねない懸念が生まれてしまった。

 

「でも私にしろナハトにしろ、暴走して手に負えなくなった時の予防策に、紫と藍へ協力を仰いだんじゃないか。紫と藍に華扇と天魔も居れば、流石にどうにかなるんじゃないかなぁ? 華扇は手負いだけど、そんな程度でへこたれる様な奴じゃないよ!」

「だからと言って予定を無視して余計な危険を生むんじゃありません。素直に反省なさいっ!」

「いだぁーっ!?」

 

 手加減無しの本気デコピンを萃香に食らわせる。小さいくせに思いの外萃香の頭が固かったせいで指がジンジンするが、お仕置きした側がダメージを負うとはなんとも情けないので当然顔には出さない。でも痛い。

 萃香はおでこを抑えながら、私を上目で睨み付けて来た。

 

「……紫。思ったんだけどさ、よくよく考えてみればアイツちょいとおかしくないかね?」

「何?」

「いやさ、ナハトの感情の起伏が異常なまでに無くなったのが桝と血の副作用によるものなら、矛盾していないかと思ってさ」

「……奴が鬼の素材を取り込んで落ち着き払っている現象そのものがおかしいって言いたい訳?」

「そうそう。鬼に近づくと言う事はつまり、平静なんてものの真逆を行くって事だからね。そりゃあまぁ、鬼の中には禅に精通する様な変わった奴もいるにはいるよ? けど鬼じゃない奴が鬼化なんてしたら、顔が能面になるくらい達観しちまうなんて絶対有り得ないんだよ。アレが副作用なら普通、逆の事が起こる筈だろう? 質の悪い酔っ払いみたいに、片っ端から暴れまわったりって具合にさ」

「それは分かっているわ。でも私は鬼ではないから、あなたほど鬼を理解出来ていない。だからあの症状が何なのか聞いたのよ。それも無意味だったみたいだけれど」

「だなぁ。残念ながら私にもさっぱりだ」

 

 でもデメリットばかりじゃない筈だ、と萃香は言った。

 

「桝の酒と鬼の血を飲んであんな状態に成った奴は今まで見たこと無いが、とにかく。アレが鬼化の副作用の一つだとすれば、程度の差はあれ間違いなく鬼化の症状が表面化してるんだろう。それはつまり、本性を曝け出す事に戸惑いが無くなるってことなんだ」

「……と言う事は」

「ああ、紫が知りたいナハトのホンネを知れるだろうし、私も私で、心置きなくやりたい事やれるって訳だよ。何せ、嘘が付けなくなる事と同義なんだからさ」

 

 ……萃香が言うのならば、それは間違いではないのだろう。

 彼女は良くも悪くも極端な性格をしている。確証が持てない話は決して真実だと語らず、逆に確信を得た事柄はきっぱりと断言する妖怪だ。人里で幻想郷の妖怪について書物を綴り続けているある少女は、鬼ほど誠実な妖怪はいないと評していた。故に萃香の意見は恐ろしく信頼性が高い。

 であれば、今は強制介入を慎み、暫く様子を見る方が吉なのだろう。どちらにせよ萃香が相手を務めるのだ。決闘とやらが終わるまでは、まだ安全だと見て良いか。

 念のため、頼まれていた非常用結界の起動を準備しておくよう、藍に思念による指令を送っておく。

 

「さぁて、そろそろあっちの私の準備も終わったみたいだよ」

 

 萃香は再び私の肩へ腰を下ろし、小さな瓢箪から酒を啜り始めた。零して私のお気に入りを汚してくれないと良いのだけれど。

 ぷはっ、と瓢箪から口を離した萃香は、口元を拭いながら流し目でこちらに視線を向けた。

 

「まどろっこしい事を考えるのが紫の仕事だってのは分かってるけど、私があいつの本音を引き摺りだすからさ、こっから先はのんびり観戦と行こうじゃないか。あぁ、楽しみだなぁ。あの吸血鬼は一体どのくらい強いんだろうなぁ。()()()()じゃなきゃ良いんだけど」

 

 本当に楽しそうに、伊吹鬼はカラコロと笑う。それもそうだろう。彼女は私にこの()()の案件を持ちかけて来たその日から、この満月の晩を心の底から楽しみにしていたのだから。

 

 萃香が天魔と直接交渉してまでこの場を設けたのにはさほど捻られた理由など無い。他の妖怪へ奴の不鮮明な部分を明らかにすると言う開催理由は、私が表向けに考えた大義名分に過ぎないのだ。

 ただ彼女は、自らが全力で戦える場を設けたかっただけである。

 古来より鬼は、人間の宿敵としてその力を振るって来た。ところが最近は鬼の好む正々堂々とした猛者が減り、知恵を着け狡猾な手法を取る人間が多くなったため、萃香を筆頭とした鬼達は半ば人間に幻滅している傾向がある。加えてスペルカードルールの施行により、鬼はますますその内に秘める『鬼』を発散する手立てを失くしてしまった。これらの要因により、鬼は平和な地上から地底へと身を移して幾らか鬼の安息を得た経緯がある訳だが、やはり全力で戦えないと言うのは、鬼にとって中々の苦痛であるらしい。その点は逆にスペルカードルールの応用によって幾らか不満は解消されただろうが、それは例えるなら魚を水槽で飼う様なものなのだ。小魚ならば水槽の中でも全力で泳げるだろうが、(萃香)となると話は違ってくる。例えどれほど大きな水槽でも、鯨にとっては大海こそが最も力強く、そしてありのままで居られる環境なのである。

 

 つまり、萃香はスペルカードルールから解き放たれた闘いを望んでいた。己が持てる力を、なんの遠慮もなく振るう事の出来る機会を渇望していたのだ。

 

 それを実現するために、私と藍、そして華扇や天魔が招集された。山の四天王クラスの妖怪が本気を出せば、妖怪の山など砂の山と変わらない。むしろ被害が山だけで終われば御の字のレベルである。放っておけば周囲にまで被害が降りかかるのは最早語るまでも無い結末だ。だからこそ、舞台を整える存在が必要だった。彼女がどれほどの力を振るおうとも、山を守れる力を持った存在が。

 

 こうして私はこの場に腰を下ろしている訳なのだけれど……私には一つだけ、萃香に対して腑に落ちていない部分を持っている。

 至極単純に、萃香はナハトと言う異形をどの様に思っているのだろうか、と言う点だ。

 

 今更な事だが、彼女は奴に対して警戒心や恐怖の類を抱いている様に思えないのだ。八意永琳の弁によると、ナハトと言う吸血鬼の『素材』は万物の消滅――即ち消滅の恐怖の概念そのものであり、一度彼を認識すれば、例え恐怖を失くした不死身の蓬莱人だろうが、千年単位を生き抜いた大妖怪だろうが、古き時代の神々だろうが、問答無用で恐怖を呼び起こされてしまうとの事だった。

 それが、何故か萃香には見られない。どころか喜々として受け入れてすらいる様に思える。私でも、未だに奴を視界に捉えれば背骨の中心から全身にかけて氷結されていくかのような感覚に侵されてしまうのに。

 幾ら彼女がかつて日の本を揺るがせた大妖怪で、物事の疎密と濃淡を操る強力無比な能力を持つ萃香であっても、果たして欠片も恐怖を感じないなんてことがあるのだろうか?

 

 もし、彼女が奴の瘴気に対する対抗策を持ち合わせているのならば、それをこの機会に解析する事が出来るだろう。彼女の能力が有効かどうかも分かるかもしれない。この戦いで知れる事は多い筈だ。

 そう、知る事になるのは、なにも萃香の秘密に限った話ではない。あの男の真相についてもである。何せ異形の吸血鬼が戦う相手は鬼の頭とも言える存在だ。どこまでも直線的で、何よりも偽りを嫌う山の総元締めだった妖怪だ。今まで奴が置かれた状況とはまるで訳が違う。はぐらかしも、逃走も、一切合切通用しない。

 

 この晩で私は、きっと沢山の真実を目撃する事となるだろう。

 だから、さぁ、闇夜の支配者を名乗る吸血鬼さん。

 私にあなたの真の姿を、この場でよく見せてくださいな。

 

 

 体の節々が、ズキズキと悲鳴を上げている。二発もの大技をまともに食らった私の肉体は、吸血鬼異変以来の大ダメージに見舞われていた。

 特に脇腹からのコールが酷い。一撃目のドラゴンズクロウルを受けたところへ更に猛打を叩き込まれたのだから納得だ。彼女の手加減無しと言う言葉に偽りは無かったらしい。

 戦った者としては手加減をしてくれないのはありがたい事なんだけれど、効くものはやっぱり効くなぁ……。

 

「歩けますか?」

「あ……はは、すみません。補助、お願いします」

 

 萃香さんは華扇へ、椛さんが私へ肩を貸してくれて、なんとか闘技場を後にする事が出来た。滅茶苦茶体が痛いけど、反して気分は清々しいとさえ感じる。最近は、こんな風に誰かと思いっきりぶつかり合える機会なんて無かったから。

 まぁ、肝心の試合に勝つことは出来なかったのだけれど。

 

「……、」

 

 そう、勝てなかった。勝てなかったのだ。

 お嬢様の命令を無視して、おまけにあれだけ大見栄張っておいて、この体たらく。自分がなんとも情けなくなってくる。私は、ナハトさんとお嬢様の顔に泥を塗ったに等しいのだ。

 椛さんの肩を借りて、彼の前までなんとか歩を進めていく。けれど合わせる顔なんて無い。足取りが重いのは怪我のせいだけではないのだろう。

 勝てと言われたのに、報いる事の出来なかった私など、失望されて当たり前なのではないか。ひょっとすると、お前にはもう門番など任せないと首を撥ねられるかもしれない。そんな想像が、風船のように頭の中で膨らんでいく。

 

 ナハトさんとの距離が近くなるほど圧力を増す禍々しい瘴気に身も心も震わせながら、私は己の力量の無さを、心の底から嘆いた。

 そして、私を無言のまま迎えた夜の王に、項垂れたまま戦果を告げる。

 

「申し訳ありません。勝ちを、捥ぎ取れませんでした」

 

 声が震える。恐ろしいのは勿論の事、期待を裏切ってしまったと言う無念の感情が、渦を巻いて私を苛ませているのだ。

 顔を上げる勇気なんてない。どんな表情をしているかなんて、確認しようとするだけで恐ろしい。

 沈黙が、三途の川を彷彿させる程に長かった。

 

 

 

 

「……君と私が会った夜の事を、覚えているか」

 

 唐突に投げかけられたのは、予想に反したものだった。

 体がピクリと反応する。それは瘴気の禍々しい感触だけではない。彼の言葉そのものにあった。

 彼が私の前に現れた五百年前のあの夜を、私は一度たりとも忘れた事など無いのだ。長い妖怪生の中で、当時もっとも強い力を誇っていた吸血鬼すらも恐れ慄いた存在と巡り合った光景を、どうして忘れる事が出来ようか。

 

「あの時の君は、子供の吸血鬼に苦戦を強いられるほど弱かった」

 

 弱い、と言う言葉が刃の様に胸へ刺さる。

 しかし彼はその刃を引き抜くように、そっと私を諭し続ける。

 

「だが今の君は、山の仙人と相討つところまで奮闘してみせた。恐らくレミリアと同等――いやそれ以上の強者だろう、茨木華扇を相手にだ。それは、君が姉妹を守り通すために日々精進を怠らなかったが故の結果であり、証明なのだろう。少なくとも、私はそう考えている」

 

 ドクン、と心臓が強く波打った感触が、波紋状に広がった。

 心臓から送り出された血潮が、溶岩の様な灼熱感を伴って全身を満たした。

 

「改めて、レミリアとフランドールを君に任せた私の目に狂いは無かったと、確信できたところだ」

 

 

 

 

 

 気がつけば私は椛さんの手を離れ、痛む足腰を無理やり働かせて直立し、右拳を左掌へ当てていた。拳包礼と呼ばれる礼を、無意識の内に構えていた。

 言葉は出ない。絞り出そうにも、まるで声帯を失くしてしまったかのように喉から音が出てこない。ただ、胸の内側から湧き上がってくるこの感情は止まる事を知らなかった。

 今までの全てはこの瞬間の為に積み重ねてきたものだと言う確信が、無上の達成感を生み出した。それは例えようも無い歓喜となり、深く、強く、彼とお嬢様への―――紅魔への忠の心が固められていく。

 

「故に私から送れる言葉はただ一つ。――――見事だった」

 

 彼はそう私に囁くと、静かに横を通り過ぎていった。

 擦れ違いざまに回復魔法を私へ施し、武功を労うと言う、慈悲を施しながら。

 

 ああ。

 ああ、やっぱり。

 彼の言葉を信じ続けた過去の私は。

 お嬢様と妹様を、この身に代えても守ると誓ったあの夜の私は。

 

 

 間違って、いなかった……っ!

 

 

 

 手のひらに治癒魔法の術式を展開する。小さな魔法陣からは穏やかな緑の光が溢れ、蛍火の様な癒しの光球を生み出し、闇夜を漂っていく。

 私は労いを込めて、レミリアの誇る紅魔の門番へその手をかざした。

 癒しの魔法が傷を塞ぎ、疲労を拭う。しかし魔法は万能でこそあれ全能の代物では無い。回復魔法では、精々治癒能力を促進する程度が限界だ。それでも、妖怪の頑丈さと相乗効果が生まれて大分楽になることだろう。

 何故か拳包礼の形から身動ぎ一つしなくなった美鈴の横を通り過ぎ、私は闘技場へと赴いていく。

 

 しかしなんだろうな。この得体の知れない奇妙な感覚は。

 

 酒を煽った頃からだろうか。奇妙な事だが、アルコールを摂ったにも関わらず異様に頭が冴え渡っている。開放感に満ち溢れているとでも言うべきか。まるで全身を縛っていた鎖が全て千切れ飛んだかのように身軽で、そしてどこか火照る様な、例えるなら精神に燃料を投下されたとばかりに、今すぐにでも雄叫びを上げてしまいそうな猛烈な熱と清々しい気分が、私を包み込んでいるのだ。本当に叫んでしまいそうなので、実のところ頑張って表情を引き締めていたりする。

 

 私は別段酒に強いわけではない。かと言って、いくら萃香の酒が非常に強いものだったと言えども、一杯ひっかけた程度で酔いが回るほど貧弱でも無い。故に酔いの症状とは考えにくいのだが、はてさて、なにかあの酒には絡繰りがあったのだろうか。

 まぁ、別段支障は無いだろう。萃香の律儀で嘘を嫌う性格からして毒を盛られたとは思えないし、何より数ヶ月近くぐっすりと寝て起きた晴夜の様に気分が良いのだ。

 

 妙に高揚した心境のまま、私はリングへと足を下ろす。感覚が鋭敏になっているのか、いつもより星の輝きが増している様に感じた。いや、それだけではないか。客席全体から、眩い白の瞬きが点滅しているところからみて、カメラのフラッシュによるせいもあるだろう。

 それを鑑みても、普段より眩しいと感じるな。

 

 しかも、どうやら感覚や気分にだけ変化が起きている訳では無いらしい。

 やはり、少しばかり酔ってしまったのだろうか。そんな筈はないと思いたいのだが、目立つことは疎ましく思っていた筈なのに、今は注目の集中線を浴びているこの状況が何とも心地よく感じてしまっている。今までこんな感覚が私を支配した事は無かった。

 実に、清々しい気分だ。

 

「なんともまぁ、見事なまでに落ち着いてるねぇ、吸血鬼さんよう」

 

 私の直線状に立つ、二本角の少女が値踏みをする様な笑みを浮かべて呟いた。出合った頃とは異なり、頬も染まっていなければ呂律もキチンと順転していて、萃香の体から溢れる様な酒気がさっぱりと消え去っていた。どうやら素面になったらしい。

 

「祭りの熱気に当てられないとは、とことん珍妙な妖怪だねお前さんは」

「いいや、これでもかつてない程に高揚している。まるで霊格の高い生娘の巫女(シャーマン)の血でも飲んだかの様に力が漲るのだ」

「……混ぜたのは私の血なんだけど……まぁ、万全ならそれでいいや。ようし! ここらで一丁、祭りのフィナーレを共に飾ってやろうじゃないかっ!」

「望むところだ」

 

 歓声が炸裂する。山の妖達は活性を取り戻した火山のように、内側から噴出して止まらない熱を声として形に変えて、怒号の如く解き放っていた。既に私に対する恐怖も何もかもは塗り潰されてしまった事だろう。今まで公衆の面前に私が立った場面で、これほどまでの熱狂ぶりを見た事は無い故に容易に察せる。妄執に憑かれた狂信者や殺意に呑まれた討伐隊のものとは違う、盛宴の喧騒がそこにあった。

 

「それじゃあ紫、景気のイイ音頭を頼む!」

『はいはい――――八雲の名の下に、鬼「伊吹萃香」と吸血鬼「ナハト」の決闘を許可する』

 

 凛とした紫の声が晴夜を抜ける。雲が晴れ、絢爛な中秋の満月が霊峰を彩った。

 

『いざ、尋常に勝負!』

「だァァらッッしゃあああああああああああああ―――――ッ!!!」

 

 ゴングと共に先手を取ったのは、鬼の少女の方だった。

 声量だけで大気を震わせる豪胆さ、まさしく砲声。音波による波動を撒き散らしながら、大地を蹴り飛ばした萃香は砲弾の如きスピードと破壊力を引き連れて、一気に私の元へと跳躍し、杭を打ち込むように拳を振るった。

 泥酔していた少女のものとは思えない挙動に面を食らうが、咄嗟にグラムを生成し、萃香の振るう剛拳を受け止める。

 

 だが、ガラスを殴り割ったかのような高周波と共に、黒い剣は呆気なく砕き割られてしまった。

 

 もともと耐久性はそこまで高くないグラムではあるが、魔力を絶えず注げば紫と幽々子の弾幕豪雨を凌ぎきれる程度の実績はあった。それをこうも容易く木端微塵にするとは、素の身体能力――特にパワーはレミリアら吸血鬼を軽く上回っていると見て間違いないだろう。

 一本ではまず持たない。展開できる限界、十五の剣で相手取らねば即座にやられる。

 

 背から射出する様にして、私は扇状にグラムを展開する。

 それを目撃した萃香は、玩具を貰った子供の様な輝きを瞳に宿した。

 

「純粋な魔力の塊をそんなに具現化出来るなんて、なんっだいそりゃ!? ははははっ! いいね、いいねぇ! もっともっと楽しませておくれよなぁっ!」

 

 着地した萃香は、すぐさま私の懐へと潜り込んだ。

 次の瞬間、猛烈なインファイトの衝撃が私へ襲い掛かった。

 怪力の鈍重そうな印象と反する、視認する事すら困難を極める突きの連打。それは拳を弾丸とした機関銃の連続射撃に他ならなかった。一撃一撃に骨肉をミンチへ変える威力の籠められた猛打撃が、瞬く間に何十何百と叩き込まれる。

 

「ちぇいやっ!」

 

 分厚いゴムを思い切り殴りつけた様な轟音と共に、フィニッシュブローが私の鳩尾へ突き刺さった。内臓、肉、骨を全て混ぜ込まれ、筆舌に尽くしがたき悍ましい感覚が全身を蹂躙する。それだけでは飽き足らず、鬼の持つ破壊のパワーは私の体を軽々と吹っ飛ばし、遥か彼方の空へ放り出してしまう。

 空中で無理やり回転を加え、態勢を立て直す。同時に破壊された肉体の修復を行い、着地に成功する事が出来た。

 その間の追撃を警戒したものの、萃香は呆れた様な目でこちらを見てくるのみで、行動に移ってこなかった。どうしたのだろうか。今は彼女にとって絶好のチャンスだっただろうに。

 

「……お前さんよう、今の攻撃、やろうと思えば躱せただろう? いや、その大量の剣で反撃することだって出来た筈だ。なのに何でやらなかった?」

「大した理由じゃない。君の姿に少々重なるものがあったから、少しばかり躊躇が生まれてしまっただけだ。それが隙に繋がったに過ぎない。私の過失だ」

「………………はぁ、うん。分かった。じゃあ配慮してやる」

 

 その言葉を皮切りに、萃香に物理的な変化が訪れた。

 小柄な童女ほどでしかなかった萃香の体は、一度霧状に分解されるとみるみる質量を増していき、そして再び形を成した暁には、私を軽々と見下ろせるほどにまで巨大化してしまった。数値で表せば、身の丈三メートルほどと言ったところだろうか。

 しかし彼女の変身は、なにも巨大化しただけに留まらなかった。華奢だった少女の肉体は、全身の筋肉が隆起した筋骨隆々な巨躯へ、そして健康的な白肌は血染めの如く紅蓮に染め上げられたのである。

 獅子を思わせる黄金の輝きを月光で照り返す長髪が振り乱され、獰猛な鋭さを帯びた鬼神の瞳は月下でなお存在感を失わない。牙は夜を引き裂かんばかりの凶暴なものへ変化を遂げた。

 それはまさに、伝承の絵巻物に描かれる、人々を恐怖のどん底に陥れた『鬼』の姿に他ならなかった。

 成程、童女の姿と伝承の鬼の容姿に乖離が生じていたのは、人間の恐怖による幻覚のみではなくこの様なカラクリがあったが故なのか。

 

 ざわざわと、周囲の妖達の動揺が露わになった騒ぎが耳へと入る。かく言う私もそうだった。妖怪が肉体に縛られないのは重々承知していることだが、ここまで変化のギャップが激しいと驚かざるを得ない。

 

「この姿は昔、人間を脅かすように考えたものだったんだけど、まさか人攫いをしなくなった今日になって変身するとは思わなかったねぇ」

 

 屈強な見た目に反して鈴の音の様な少女の声がやけに響く。見た目が変化しただけで中身は変わっていないのだろうか。狐や狸が得意とする変身の陰陽術と類似したものなのかもしれない。

 

「まぁ戦えるなら何だろうと構わないさ。さぁ、これなら心置きなくお前さんもやれるよなぁ、もう手を抜く様な真似なんてしないよなぁっ!?」

「ッ!」

 

 突如視界を真っ赤な岩石の様なものが覆いつくし、絶大なインパクトをもたらした。それは巨大化した萃香の拳に他ならなかった。

 瞬時に地を蹴り、大鬼の打ち下ろしを回避する。彼女の拳は霊峰へ軽々と突き刺さると基盤を放射状に捲りあげ、怒涛の土煙を発生させた。視界が白に覆われる。私はすぐさまグラムで扇風し、砂煙を取り払う事で視界を取り戻した。

 だが、次の瞬間。

 

「■■■■■■■■―――――――――――ッッ!!」

 

 神話の巨人と匹敵する猛烈な怒号と共に、闘技場を包む煙幕が突き破られた。丸太の様な剛脚から放たれるキックが暴風を生み、周囲一帯へ衝撃波を撒き散らして蹂躙したのだ。

 瞬発的にグラムを二本手に取り、まともに食らえば肉片一つ残らないだろう蹴りを受け止める。あまりの剛力に足元の地面が凹んだ感触があった。木端微塵に砕けそうな剣を補うべく全力で魔力を注ぎ込みながら、背後に漂う十三もの刃を萃香へ一気に突き立て、穿つ。

 

「!? いっだぁ!?」

 

 萃香の悲鳴が上がり、足の力が弱まる。その隙を逃さず、私は萃香の足を蹴り飛ばし、思い切り地面へと転倒させた。巨大な建造物が倒壊したかのような衝撃が山を揺らし、動物たちが一斉に周囲の森を後にしていく。

 

 かつてフランドールに寄生していたスカーレット卿の魂のみを切り刻んだ様に、グラムは肉体へ突き刺した刃から指向性を持った魔力を押し流す事で、精神体のみにダメージを与える事が出来る。妖怪は肉体に縛られにくい存在であるが故に効果は高く、グラムは言うなれば妖怪殺しとも言える性能を発揮するのだ。鬼とてただでは済まないだろう。

 けれど私の予想に反して、萃香は獰猛な笑みを浮かべるのみ。

 

「ッはぁ! 痛いなぁ! そうそう、その意気だよナハトォ! もっとだ、もっと私に鬼の喜びをくれ! もっともっと血肉を湧き立たせておくれ!!」

 

 嗤う萃香の次の一手に、自分の眼を疑った。

 萃香の体中に突き刺さっていたグラムが、幻想郷中に轟かんばかりの咆哮と共に筋肉の収縮だけで呆気なく圧し折られ、霧散し空気へ解けてしまったのだ。

 

 確かにグラムの耐久性は高いとは言えない。だが今の魔剣は肉体を、ひいては物質そのものを透過出来るよう調節してあった。精神のみを切り裂くためにわざと透過していたと言うのに、それを彼女は完全な物理で叩き割ったのだ。一体全体どんな手品を使ったと言うのか。

 一瞬の混乱が私の思考を貫き、淀ませる。それが彼女へ先攻を譲る隙を生み出してしまう。

 

「密」

 

 萃香は徐に人差し指と中指を合わせ、陰陽師が術印を結ぶように手を振るった。微かながら放たれた妖力の波動が、私の肌をざわりと撫でる。

 その時だった。

 吹き散らされた筈の砂煙が物理法則を無視した凝縮を始め、空中で大小さまざまな土塊へと変化していったのだ。

 砂は圧縮されるだけに留まらず、膨大な熱を帯びて朱に染まり、ただの土の球だったはずのものは、終いに骨すらも溶かし尽くすだろう溶岩球へと変貌を遂げた。

 私の周囲を、彗星の如く溶岩球が旋回し始める。ぐるぐると、徐々に徐々に回転する速度が増していく。

 唐突に、時は来た。

 

「密!!」

 

 鬼の号令が晴夜へ轟き、流星の大演武が開幕した。四方八方からランダムな軌道を描く溶岩球が次々と、まるで意思を持った生き物のように私めがけて襲い掛かる。

 当然十五の魔剣で応戦する。だが相手は、斬り伏せたところで霧散する妖力の弾では無い。自然物質、溶岩の塊だ。斬ろうが叩き伏せようが瞬時に萃香の力によって修復、果てには分裂し、自動追尾弾としてさらにその凶悪さを増していった。

 

 これでは埒があかない。いずれジリ貧に追い込まれてしまうだろう。ならば術には術を、自然には自然を。即ち、溶岩に反する自然を魔法としてぶつけてやれば突破できる。

 

 剣を手放し、半自動操縦で溶岩球を打ち払いながら、両手のひらに意識を集中する。魔導書(グリモア)があれば万全なのだがこの際贅沢は言えない。質は劣るが、即席で対抗するとしよう。

 

「凍れ」

 

 両手に水色の魔法陣が生み出される。それは呪文と魔力の制御を受けると猛吹雪を吐き出す砲身となり、極低温の息吹を辺り一面に撒き散らした。

 空気が凍り、氷霧の幕がばら撒かれる。絶対零度の銀幕に触れた溶岩は次々と熱を奪い取られ、砕け、物言わぬ岩石へと戻されていった。

 しかし当然、萃香もただ無力化されていく光景を眺めるだけでは無いワケで。

 

「むむむむむぅ~~~~~せいやぁっっ!!」

 

 一際力強く術を編んだ萃香は、これまでとは一線を画す巨大さを誇る溶岩塊を頭上に作り出すと、私めがけて一気に撃ち放った。

 その一撃、まさに隕石。場違いな感想だが、小惑星が眼前にまで迫っていた時の恐竜は、こんな心境だったのではないだろうか。

 しかし、成程。レミリアが苦戦を強いられたと言うのも頷ける実力だ。萃香は間違いなく紫と同等クラスの大妖怪だろう。あらゆる法則に縛られず、思うがままに個を振るう事を許された絶対強者。椛やにとりが怯えていた理由も今なら分かる。

 

「撃ち落とせ」

 

 十五のグラムを連続発射し、加えてブリザードを一斉放射しながら隕石を迎え撃つ。溶岩塊は体積を削られ凍り漬けにされると共に減速を始め、間一髪のところで落下を食い止め―――――

 

 

「疎」

 

 

 刹那、爆散。

 食い止めたはずの溶岩塊は、内部から破裂させられたかのように爆発四散し、未だ高熱を帯びている中身を思い切り私へぶちまけた。

 至近距離に居た私は、当然の如く溶岩のシャワーを浴びるハメになる。肉が溶け、骨が黒い煙を上げた。全身の感覚器官が焼き尽くされ、思考能力以外の全てを奪い取られていく。

 幸い、今夜は満月だ。満月時の吸血鬼は蓬莱人と匹敵する不死性を誇る。故に微かな余裕が生じ、ほんの一瞬だけ、彼女の奇妙な力について考察を行う余地が開けた。

 

 彼女の攻撃……物体の圧縮と爆散――いや、分解か? 思い返せ。彼女は体を霧状にして別の形へと作り変える事を可能としていた。更に彼女の圧縮は膨大な熱を発生させ、分解は物体を霧散させるまでに至る。どんなものであろうとも自由自在にだ。

 つまり、彼女の力の正体は、

 

「構造? ……いや、密度を操るのか、君は」

 

 溶岩を払いのけ、膨大な魔力で強引に体を修復しつつ、宙へ飛び上がり、再生が終わると同時に着地する。私と目線を合わせた萃香は、異形の顔を愉快そうに歪めた。

 

「ほんと、鬼の私も呆れちまうくらいの不死身具合だねお前さんは。ああ、能力については概ね正解だよ。私は密と疎を操れるんだ。物体だけじゃあなく、応用すれば人を集めたり散らしたり出来るし、もっとやればこんな事だって出来る」

 

 パチンと、指を弾く音が一つ。

 途端に、音が消えた。

 正確には、観覧席から聞こえていた喧騒が、防音壁を隔てたように遮断されたのだ。

 

「周りの音を()遠にした。これで私達の声は向こうへ届かないし、逆に向こうの音もこっちにゃ届かない」

 

 萃香は続ける。

 

「さぁて、この機会にお前さんへ問答タイムといこうかね」

「問答だと?」

「ああ。紫からお願いされていてね、お前さんに聞きたい事があるんだと。私はまどろっこしい言い方は嫌いだから、単刀直入に聞くよ」

 

 萃香は鋭い黄色の爪を生やした指を、をこちらへ突き付けて、

 

 

「お前さん、一体何が目的で幻想郷へやって来たんだ?」

 

 

 本当に、ただただシンプルに、私へ一つの疑問を送り付けた。

 

「聞いた話だと、お前さんは結界を自分から乗り越えてやってきたそうじゃないか。外に忘れられて送られて来たんじゃなくて、自らの意思で。そこン所が紫は気がかりなんだとさ」

 

 ……と言われても、という所が率直な感想だった。

 何をしに来たのかと聞かれれば、友人が欲しかったからに他ならない。外ではまずコミュニケーションそのものが不可能で、どれだけ長い年月を渡り歩こうとも希望が見えなかったが故に、ここへ流れ着いた。それだけに過ぎないのだ。

 だから、ここであらぬ誤解を招かないように、私も直球で核心部分を語る事にした。

 この時の私には、何故だか心中をそのまま暴露せねばならないという強制力のようなものが働いていた。

 

「私が幻想郷へ来たのは、友となってくれる者を探す為だ」

「……すまん、何だって?」

 

 呆ける萃香。間に流れる微妙な空気。予想通りの反応である。しかしここで挫けてはいけない。押し通すのだ。私に纏わりつく認証のすれ違いを、今ここで取り払う一歩を踏み出すのだ。

 こんな機会、そう滅多に訪れるものではない。千載一遇のチャンスは、是が非でもものにしなければ。

 

「理解してくれるまで、何度だって言おう」

 

 一際深く、息を吸いこんで、

 

 

 

「私は友達が欲しいだけだ。この疎ましい我が力を恐れず接してくれる仲間が欲しい。ただそれだけなのだよ」

 

 

 

 

「力を恐れない……仲間が欲しい……だって?」

 

 萃香が能力を使って音を遮断してから、数秒の事だった。それまで意気揚々と私の肩で酒を飲み耽っていた萃香は声を震わせながら、なにやら唐突に独り言を呟いた。

 何が起こったのか、私は彼女へと尋ねる。

 

「奴はなんと?」

「あいつが……幻想郷へ来た理由ってさ、自分を恐れない友達が欲しいからなんだって。嘘じゃない、本当だ。あいつは今、確かにそう言ったよ」

 

 ―――――――――――――――は?

 一瞬、私はとうとう耄碌してしまったのかと脳が揺らいだ。思考が焼き切れ、真っ白になった空間が脳裏に広がる錯覚さえ覚えてしまった。

 

 

「冗談ではないのよね」

「私を誰だと思っているんだい」

 

 説得力を伴う鬼の一言が、有無を言わせず私を黙らせた。言葉の裏があるのかとありとあらゆる婉曲した解釈を試みても―――どう足掻いても、答えは一点に絞られてしまう訳で。

 

 つまり、本当にナハトは友達が欲しいだけなのか?

 計算高く狡猾で、私と幽々子を欺いたほどの、あの魔王の様な男が?

 有り得ない。そんな答えは決して有り得ない。そうであるなら今までの奴の行動は全てなんだったのか。

 そう、有り得ない。絶対に絶対に有り得ない。

 

 

 ……有り得ない、筈なのだけれど。

 

「…………………………………」

 

 反論しようにも、材料が無いのもまた事実だった。

 否。たった今萃香の発言と行動によって材料を全て叩き潰されたのだ。なにせ今のナハトは鬼の血と茨木の百薬桝の複合作用が効いている状態である。加えて萃香自身が……あの天下の嘘嫌いである萃香が、こうして『嘘だ』と憤らずに受け止めてしまっている。

 それの指し示す所は、つまり。

 奴の友達が欲しいと言う発言は、嘘偽りの無い本心だと言うワケで。 

 

「…………成程、友達、友達か。言い得て妙成りって所だね……くっくっくっくっくっくっ。ふふ、ふはは、あはっ、あっははははははははっ!!」

 

 

 唐突だった。

 私の思考を遮る様に、どこか意気消沈としている様子だった萃香が、何の前触れも無く高笑いを炸裂させたのだ。

 しかしその笑いに、喜びや愉快と言ったプラス方面の感情は一切含まれていない。

 それどころか、この乾き切った大笑いは。

 まるで、呆れを通り越して自暴自棄(ヤケクソ)になってしまっている様で。

 

 彼女は瓢箪を私の肩へと置き、酒器を離した手で顔を覆った。

 

「ああ、なんて、なんて―――――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――なんて、不愉快な野郎なんだろうね」

 

 

 

「ふざッッッけんじゃねぇぞ吸血鬼ィッッ!!!」

 

 

 

 我慢の限界だった。

 奴と麓で会った時から自分の気持ちを抑え、堪え、蓋をし続けてきたけれど、もう無理だった。臨界点は突破した。今の奴の一言が、私の爆弾へ無慈悲に点してしまったのだ。

 

 私には、大嫌いなものが三つ存在する。

 一つ目は嘘つきな奴。これはもう言うまでもないだろう。問答無用の論外って奴だ。

 二つ目は弱い奴。私は強い奴が好きだ。体が弱くても心の強い奴は好きだ。でも心も体も弱い奴は思いっきりぶん殴りたくなる。

 三つ目は臆病な奴。中でも特に、本当は強いのに自分の力を拒絶して、強者の責任も何もかもを全部放り投げて、自分自身の強さと影響力にビクビク怯えながら、嫌わないで怖がらないでーって周りの顔色を窺い続ける奴なんざ反吐が出る。

 

 その三つ目にたった今当て嵌まってしまったのが、ナハトだった。本当はそうじゃないと信じたかったけれど、明らかになってしまった。なってしまったんだ。

 大いに期待していた分、裏切られたと言う事実の刃が心の奥まで突き刺さって、そのまま引き裂かれたかのような傷を生んだ。

 本当に、本当に期待していたんだ。それはもう、思わず童心に返ってしまいそうになるくらいには。

 

 私が奴を初めて見た時、どうしようもなく心が躍ったものだった。今の幻想郷は少しばかり平和過ぎるから、道行く存在全てに喧嘩を売る様に瘴気を振りまくアイツは、まるで味気の無い料理を一級品に仕立て上げてくれるスパイスみたいに思えたんだ。

 だってこの私が……百戦錬磨のこの伊吹萃香が、たった一目見ただけで体の芯からブルっと来てしまう様な、真正の化け物だったんだから。

 もちろん、今の幻想郷が嫌いって訳じゃあない。霊夢たちと神社で宴会したり、のんびり日向ぼっこしたり、時々悪戯して怒られる様な日常も良いけれど、鬼の私にはほんの少し物足りない節があったのもまた事実だ。

 だからこそ、怒涛の威圧で妖怪どもの心を一切合切縛り上げ、ただ道を歩くだけで木端どもを百鬼夜行に纏めて引き摺りこんでいた永夜のアイツを見つけた時は、長らく探し求めていた最上の馳走を見つけたかのような、得も言われぬ感動があったものだった。

 

 事実その期待通り、ナハトは凄まじいの一言に尽きた。放たれる圧迫感は力の弱い有象無象ならばあっという間に屈服させて配下にしてしまうその風格は、まさにカリスマの具現。肝心の力量は紫と幽々子のタッグを軽くあしらう程の強靭さを持ち、私の他にも覗き見をしていた連中へ、その圧倒的な力を大胆に示して見せた程だ。

 こいつは大当たりだと、私は直ぐに確信したさ。平和な空気に牙を抜かれる前の、大昔の妖怪がまだ残っていたんだって、信じて疑わなかった。アイツなら、長い事空きっ腹にしていた鬼の腹を満たしてくれるだろうって、本当に本当に期待を寄せていたんだ。

 

 でもそれが、段々疑惑的なものに変わっていってしまった。

 

 切っ掛けは奴を張り込もうと決意した時からだ。私は、奴が一体全体どんな妖怪なのか、気になって気になって仕方がなくなって、逐一奴を観察する事にしたんだ。強者を知ろうとするのは鬼の性だ。私はその性質が特に強い。今だって、破格の強さを誇る人間の霊夢にも夢中になっている。お蔭で勇儀の奴には猛者マニアなんて言われたっけか。あいつも他人の――いや、他鬼(ひと)のこと言えない癖になぁ。

 ともかく、私は奴を徹底的に観察した。人間の猛者を選別していた昔を思い出す様で、観察していた時は実に愉快なものだったよ。

 

 でも、そんな私の興奮に反して館の中でのナハトは、まるで呑気したおっさんそのものだった。

 

 ギャップが凄まじかったんだ。傍目から見れば第六天魔王みたいな野郎なのに、妖精どもに自ら茶や菓子を振る舞おうとしたり、それで逃げられてしょぼくれたり、図書館の小悪魔の仕事を手伝おうとして逃げられてまたしょぼくれたり、それで魔法使いに仕事の邪魔をするなと怒られていたり……挙げていったらキリが無いが、およそ自分が高位の妖怪だと自覚していない様な行動ばかりとっていた。いや、あれは気弱だとでも言うべきか。

 仕草に覇気と瘴気は有れど、姿勢は軟弱。あえて例えるなら、目も眩むようなド派手な衣装に身を包んだ凡骨だろう。そんな印象が脳裏を過った記憶を、今でも鮮明に覚えている。

 いやいやそんな事があるもんか、こいつは間違いなく、私と同じ百鬼夜行を総べる真正の怪物だ――――そう自分に言い聞かせながら、諦めずにずっとずっと観察を続けた。これらの行動はカモフラージュで、隠している怪物としての尻尾はまだあると信じて、それを掴むために一日中張り込んだ。

 だけど結局、私の期待が報われる事は無かった。

 

 日を追うごとに、薄皮を引き剥がしている感触があった。そうしている内に、私はあの分厚い瘴気の裏側にある本性を見抜いてしまった。でも私はずっとそれを押さえつけていた。答えを保留するなんて鬼らしからぬ行動だったのは自覚している。普通なら認めちまうところだけれど、言わば奴は極上の酒だったものだから、手放すのが惜しくて躊躇してしまった。それに、確固たる証拠も無かったものだから、余計に拍車が掛かってしまったんだろう。

 だけど今、アイツの一言で確信してしまった。奴の本質がとうとう浮き彫りになってしまったんだ。

 

 

 ナハトの奴は、自分の力を受け入れきれず完璧に拒絶しちまってるだけの、ただの軟弱野郎なんだって。

 

「……お前さんよう。そんな甘ったれた事を、いつまで続けるつもりなんだ?」

 

 ナハトは強い。持ってる力だけなら紫と同等か、それ以上のインチキ野郎だ。今でさえ、ナハトは私の攻撃をまともに食らっても顔色一つ変えやしなかった。素直に認めるよ、ナハトは恐ろしく強い妖怪だと。

 でも肝心の心が駄目だ。アイツは、自分の強さを全然受け入れられていない。強者が持つべき責任を、どっかに放り投げてしまっている。

 

 力を持つものには相応の責任が降りかかる。当然だ。そうでなければ強さなんて意味が無くなる。強者が強者らしく振る舞い、弱者がそれに歯を剥いて抗って、そして強者を打倒するからこそ、『強弱』の持つ美しさは形を成すのだ。だから、強者が弱者にまで腰を低くするなんて、最大の侮辱行為だと私は思っている。

 そして奴はその侮辱行為を行っていた。己の強さを拒否して、強者らしく振る舞う事も、弱者に挑まれる事も恐れて逃げた。自分の力が、そしてそれを恐れて人が離れていく孤独が、怖くて怖くて仕方が無いからだ。

 現に奴は、孤独を埋めるために積極的に他者と関わって、拒絶される様なら直ぐに諦めて退くを繰り返し続けていた。紫と幽々子の時も、椛の時も、にとりの時も――――私の、時も。

 何故なら、自分の底を曝け出すのが怖いから。曝け出して、今以上に他人から疎まれるのが恐ろしいから。ありのままの自分なんて受け入れられるわけが無いと、諦めて眼を背けてしまっているから。

 

 その考え方を否定するつもりは無い。でもそう考えるなら、他者と関わるなんて止めてしまえと思うんだ。独りで生きていくのもまた強さだろう。しかし奴は、惨めたらしく我儘に温もりを求めた。自分の力を拒絶してるのに、自分が自分を受け入れられてないのに。奴は自分自身が恐れている部分を刺激しない、都合の良い配下(ともだち)を欲しがった。独りよがりな百鬼夜行を欲しがった。

 

 そんな甘ったれた態度なんざ、反吐が出る。

 

「なぁ、ナハトよう。お前は自分の生まれ持った力について考えた事はあるかい? ああ、『なんでこんなもの持って生まれてしまったんだろう』だとかそう言う事を聞いてるんじゃあないよ。自分の力と接して受け入れようとしたことがあるか、それを聞いているんだ」

「……、」

「当ててやろうか。大方、自分の力を捻じ伏せようとするか、見てみぬフリをしようとするか、背を向けて逃げようとすることしかしなかった。違う?」

 

 ナハトは身動ぎ一つしない。肯定も、否定も示さない。それは、文字通りの黙認を表していた。

 ビキッと、額に青筋が走る感覚が鮮明に走り抜けた。

 熱い息が、込み上げてくる。

 

「お前さんは強い。この私の攻撃をあれだけ食らって平然としていられるお前さんはとびっきり強い。なのによう、どうして逃げるんだ? 何で恐れられる事から逃げるんだよ。……まさかそんな臆病な姿勢のまま、本気で子分(ともだち)が百人出来るなんて思っちゃあいないよね?」

「…………、」

「だとしたら甘い。甘すぎるぞ吸血鬼。幾らお前に『目にされただけで怯えられる瘴気があるから』なんて逃げ口があってもな、お前がそんなんじゃあ着いて来るものも着いてきやしないさ」

「……!」

 

 酒を飲んでから能面の様だったナハトの顔に、動揺の色が初めて浮かび上がった。

 それは、核心を突かれた奴が必ず見せる表情に他ならないもので。

 

「ナハト。真の仲間ってもんは、互いの全部をひっくるめて笑って受け止めてやれるような、そんな奴の事を指すんじゃあないのか? お前が手紙でやりとりしてる、あの竹林のお姫様みたいにさ」

「ッ」

「お前とあの姫の間に何があって同士になったのかなんざ私は知らないし、知った事じゃない。でもこれだけは分かるよ。姫はお前の本性を、瘴気なんてちっぽけなモンに惑わされずに見てくれた筈だ。そして着いて来てくれるようになったはずだ」

 

 指を突きつける。私の怒りの槍を向ける様に。どうしようもなく不甲斐ないこのヴァンパイアへ、真実を気付かせてやる様に。

 

「それこそがッ!! お前さんがこれからも真に望むべきものだろう!? 真に見つけ出すべきものだろう!? お前さんにはもう既によう、本当の意味で着いて来てくれる奴が居るんじゃねぇか。なのになんでお前はっ! 不自然に媚びへつらって自分を隠すんだ!? そんな腕輪で自分を抑え込んでしまうんだ!? なんで……なんで、自分の全てを晒けだして、拒絶されるだとかそんな小さいもんは全部無視して、ありのまま本気でぶつかってやれば良いって事が、分かンねえんだッッ!! 仲間が欲しい? その為にはよう、まず自分が自分を受け入れなきゃ話にならねぇって事が、どうして理解出来ねえんだよッ!!」

 

 百鬼夜行は、自分の都合の良い玩具(ともだち)を並べる行列なんかじゃない。己の魅力に惹かれ、憧れた奴らを、頭が責任もって引っ張っていって、そうして出来た隊列を言うんだ。

 なのに、頭が弱気になってどうする。頭が自分を受け入れられなくてどうする。頭が行列の真ん中に入っちまってどうする。

 そんなんじゃ駄目だ。仲間なんて出来っこない。頼りにならない頭に着いていく奴なんざいる訳無い。わざと腰を下げる様な行為は、着いて来てくれる奴への裏切りでしかないんだ。だから堂々としなくちゃいけない。理想を見せてやれるように強く在らなくちゃいけない。

 それこそが、強者の責任って奴なのだから。

 

「怯えてねぇで前を向け」

 

 後ろを向いて前を歩く頭がいるか。

 

「ありのままの自分を受け入れろ」

 

 自分を受け入れきれない奴が、どうして手下に認めて貰えるってんだ。

 

「そして何度でもぶつかって仲間を引っ張り込め! お前だけが持つ魅力で引き込んで見せろ! ナヨナヨしてんじゃねぇ、自分を曝け出す事を恐れてんじゃねぇ!! そうしたらいつか、お前に着いて来る奴が絶対に現れる。そう言うもんなんだよ! 姫の時だってそうだったんじゃねぇのかよ!」

 

 どれだけ疎まれたっていいじゃないか。嫌われ者万歳で良いじゃないか。確かにお前さんは仲間を得るのが難しいかもしれない。でも大勢嫌ってる輩がいるその中で、お前に着いていきたいと思ってくれた奴を、引き込んでやればいいだけの話じゃねえか。

 そいつらさえいれば、お前の後ろには百鬼が着いたも同然。そうじゃあないのかい、ナハト!

 どこに、怯える必要があるってんだ!

 

「そうやって、作って行けばいいだろうが! テメエのッ! 他の誰でもない、テメエだけのッ!! 百鬼夜行ってヤツをよ!!」

 

 

 

 核心を突いた彼女の叱責は、私が今まで目を逸らして来た物全てを固め上げた鈍器を使って殴り飛ばしたかのような衝撃となり、私の内部の隅々にまで響き渡った。

 お蔭で、乾いた息が自然と漏れ出す。

 それは自分に対する、呆れとしか言えない感情の表れで。

 

「……そうだな、まったくもって君の言う通りだ。どうやら私は、長い時間の中で耄碌しきっていたらしい」

 

 まさに頭を殴られた気分だった。言葉と言う衝撃が、かつてない程に重く感じた。銀のナイフで心臓を突き刺される事よりも、直射日光を浴びる事よりも、深く重く強烈に、言霊の力が浸透していった。

 だがそれと同時に、パズルのピースがカチリと嵌った様な、もどかしさが消えた感触も確かに感じた。私だけでは辿り着けなかった境地へ辿り着いた、奇妙な爽快感が私を包み込んでいた。

 

 本当に、萃香の言う通りだ。私は自分を相手にぶつける事を心のどこかで恐れ、忌避していたのだろう。今まで誰も受け入れられなかったのだから、これからもそうだと無意識に守りへ入ってしまっていた。拒絶されればすぐそこで諦めていたのが良い証拠だ。友人を欲する余り、私は恐怖を抱かれる姿を――恐怖の吸血鬼としての自分を恐れていたのだ。他者へ悪影響しか与えないこんな私が友人なぞおこがましいと、腹の底で否定していたのかもしれない。

 

 なんと愚かな思想か。それでは一体輝夜は何だったのかと言う話になってくるではないか。この考え方こそが、彼女への裏切り行為に他ならないと言うのに。

 我ながら呆れて声も出ない。今までコミュ障記録の歴史的数値を打ち出し続けていたのも納得である。

 上っ面だけの私を示したところで一体何の意味があるのか。例え上辺だけで受け入れられたとしても、それは私を瘴気だけで恐怖し、忌避する者となんら変わらないではないか。輝夜の様な者であるからこそ友人としての意味があると言うのに、私はそれに気付けなかった。必要のない部分まで飢えてしまっていたのだ。

 

 こんな無様な真似はもう終わりにするべきか。私は、今ここで、己の恐怖を克服せねばならない。

 嫌われる事を恐れるのではなく、受け入れる。当たって砕けろの精神である。シンプルながらこれ以上に無い最適解だろう。

 必要以上に欲張らず、しかし理想は捨てずに気高く堂々と。私の友人であることが誇らしく思える様な、そんなヴァンパイアでなくてはならんのだ。

 ならば手始めに、忌々しい殻を破り捨てるとしよう。

 

「もう、この腕輪など必要ないな」

 

 萃香の猛攻からも障壁を掛けて守って来た腕輪を、私は取り外し、そして握り潰した。途端に、私から放たれる瘴気の純度が増していく感覚が訪れる。観客席から悲鳴が上がった。取り返しのつかない恐怖を私に抱いてしまった者もいるだろう。

 だがそれがどうした。私は、ありのままの私でいる。ありのままで、長い年月がかかろうとも誤解を解いて見せよう。

 もう恐れない。無意識の恐怖は克服した。

 

「心から感謝を、伊吹萃香。君のお蔭で私は成長する事が出来た」

 

 私が行く道の過程で何度忌避されても構わない。ただ私が真摯であればそれでいい。諦めなければ、いつか輝夜の時の様に巡り合えるだろうから。

 しかし、百鬼夜行か。言い得て妙成りだな。妖怪の身として分かり易く砕いた言葉で説教して貰えるとは、恐悦至極、感謝の至りである。彼女が妖怪の上に立っていたらしいのも納得だ。

 

 ―――百鬼夜行(友人百人)、作ってやろうではないか。真正面から、皆が私に抱く印象のすれ違いを、解消していこうではないか。

 

「敬意を表し、一切の加減を捨てて君の相手を務めよう。もう君を侮辱する様な真似はしないとここに誓おう。――――見ろ、萃香。これが私の全力だ」

 

 本物のグラムを、最大本数の十五本まで展開する。体から溢れる尋常ではない魔力の圧で空気が歪み、足元の地面へ亀裂が走った。だが躊躇はしない。それが非礼であると、たった今思い知った所だからだ。

 魔力を解き放ち、魔術を発動。霊峰に含まれる土の魔力をベースとした金属魔法から大小様々な剣を何十何百と生成し、更に魔法を重ね掛けする。精霊魔法の持つ五大属性を始めとするあらゆる性質が、魔法の剣へ植え付けられていく。

 千紫万紅の彩りを放つ刃の輝きはあらゆる角度から萃香へと向けられ、スポットライトの様に彼女を照らした。

 

 戦闘準備は、これ以上に無く万端となっただろう。

 

「……私が、この勝負に勝った暁には」

 

 ザリッ、と土を踏みしめ、大きく腕を広げた。

 我が背後で浮かぶ魔法と剣を指揮するコンダクターの様に。

 

「我が友となれ、伊吹萃香」

「―――――――――――――――――」

 

 萃香は一瞬、これまでにない程に大きく目を見開いて。

 

「この私に、お前の手下(とも)になれだって……?」

 

 獰猛な笑みを、鬼の顔に刻み込んだ。

 それは悍ましくも怖ろしく。だがしかしどこまでも痛快な、喜色に溢れた豪傑の笑顔だった。

 

「―――――上ォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお等ォォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおうッッッ!!!」

 

 咆哮、炸裂。鬼は地を蹴り山を揺るがし、私は全魔力を一斉放射する。

 刹那、私と萃香は疾風迅雷の如く激突した。

 

 

 初めに動いたのは、紅蓮の鬼だった。

 霊峰を踏み砕かんばかりに蹴り飛ばし、三メートルもの巨躯が披露出来るとは思えない勢いで、萃香は標的たる吸血鬼に向かって突進した。弾幕(あそびどうぐ)は使わない。彼女は己が身一つでナハトを粉砕し屈服させる事だけを頭に置いた。

 その様子を、ナハトは黙って見届けない。数秒も経たずに自らを細切れにするだろう鬼を迎撃すべく、あらゆる属性を帯びた魔法の剣へ主人(ナハト)からの指令が下される。

 

 萃香の視界から、ナハトの背後へ待機していた刃が霞の様に姿を消した。

 瞬間、インパクト。肩、腹、足、腕、顔面――――あらゆる部位に魔法の刃が殺到した。ある刃は灼熱で萃香を焼き焦がし、ある刃は鬼の肉体を凍結させ、ある刃は傷口から命を埋め込みドス黒い蔦を体へ食いこませ、ある刃は落雷に匹敵する大電流を流し込んだ。

 百花繚乱の輝きが瞬く。混沌とした属性剣の衝突は互いに融合し合い、過負荷は爆発となって鬼を巻き込む。

 

 だがしかし、鬼はそれでも止まる事を知らなかった。

 

 肉体に傷はある。けれども表面を削り取ったのみに過ぎない。萃香の持つ『密と疎を操る程度の能力』が、萃香自身へ神話の武具すらも寄せ付けない圧倒的な強度を与えたのだ。

 驀進する鬼は豪雨の如く襲い掛かる猛攻を突き破り、吸血鬼の元へ易々と辿り着く。

 暴帝の瞳が、魔王を穿つ。

 

「オオオオオオオオオオオオオオオアアアア――――――――ッッ!!」

 

 音をも破裂させる咆哮が山を蹂躙した。

 萃香の剛腕が顕現させた剣へ更なる指令を与えようとするナハトを捕え、力任せに右腕を引き千切る。けれどナハトも止まらない。十のグラムは萃香の背へと突き刺さった。

 激痛が萃香を内側から侵食していく。妖怪殺しと言えるグラムとの相性は、萃香にとって最悪の一言に尽きるのだろう。

 だが怯まない。止まらない。退かない。

 たかが全身を引き裂かれる程度で、かつて山の四天王として君臨した暴虐の王は蹂躙の手を休めなどしない。

 千切った腕を放り投げ、拳を強く、堅く、花果山の大岩のように握りしめる。萃香はその凶器を、力任せに振り下ろした。

 ナハトもまた、残された左腕で鬼の一撃を受け止める。力は流動体の様に受け流され、霊峰がクレーターと亀裂を刻まれ悲鳴を上げた。空気が弾け鎌鼬を生むと、更なる傷を闘技場へと叩き込んでいく。

 

 鬼と吸血鬼の鍔競り合いは、鬼の方へ軍配が上がった。

 

 ギリギリと膠着していた状態から、ナハトの体が不安定に揺らいだ。その瞬間、萃香は渾身の力でナハトの体を地面へめり込ませた。

 血袋が弾けたように赤が舞う。萃香は勝機を逃さず、重機の様な威力を秘めた無数の拳を叩き込んだ。

 念入りに、念入りに。不死身の怪物へ回復する隙すら与えず、打つ、打つ、打つ。

 とどめと言わんばかりに、萃香は剛腕を一際大きく振り上げて。

 

 

 

 ―――――その腕が、振り下ろされる前に掴み取られた。

 

 萃香は、自らの意思に反して失速した腕へと眼球を動かし。

 何が起こったのかを把握すると。

 驚愕に、大きく眼を見開いた。

 

 千切り飛ばした筈の腕が、まるで巨大な蛭の様に萃香の剛腕に食らい付いていたのである。

 吸血鬼のものだった腕は異常なまでに伸展され、萃香の腕全体に大蛇の如く巻き付いており、肘だった部分から生え伸びた蝙蝠の様な翼が羽ばたく力で、萃香の腕の力を相殺していた。

 異形の腕は、萃香を食い止めるだけでは終わらなかった。

 ボコボコと、生理的嫌悪感を催す異音が吸血鬼の腕から発生したかと思えば、肉が蠢き、骨格までもが異常な速度で組み替えられた。瞬く間に五指は針のような鋭利さを獲得し、手のひらに八目鰻を思い起こさせる異形の口が形成される。

 萃香が呆気にとられていた瞬間、怪物の腕は奇声と共に萃香の皮膚を食い破り、五指の針を突きさすと、鬼の血液をポンプの様に吸い上げ始めた。

 

「邪魔ッ!!」

 

 肉塊と化した地面のナハトを掴み放り投げると、萃香は異形の排除を優先した。

 蚊を叩き潰すように手を振るう。しかし着弾よりも早く異形は腕を離れ、投げ飛ばされた主の元へ羽ばたき、特上の血を届けてしまう。

 腕が同化すると同時に、既に体が再構成され始めていたナハトの肉体は、まるで映像の逆再生でも行っているかのように修復された。

 衣服すらも元通りに回復した不死者を前に、萃香は半ば呆れ気味に頭を掻く。

 

「お前さん、いくら妖怪とは言えちと不死身過ぎやしないかい?」

「これでも吸血鬼なんだ。血と満月さえあれば何度でも蘇るさ。……ところで、余所見をしている場合かね」

 

 萃香はナハトの言葉に促され、周囲をぐるりと見渡した。

 霊峰の至る所に、どす黒く変色した血だまりと肉片が散乱している。萃香の攻撃によって爆砕されたナハトの遺留品だった。

 それら全てに、先ほど萃香へ襲いかかりそして跳ね除けられた、魔法の剣が突き刺さっている。

 

 萃香が理解を得るよりも早く。

 変化は、明確に訪れる。

 

 どんな理屈か原理か、萃香がその現象を納得する事は叶わなかった。

 ありのまま起こった事態を解析するならば至極簡単な事だ。ありとあらゆる箇所に飛び散ったナハトの血肉が黒く変色し、底なし沼の様に剣を呑みこんだかと思えば、それらが千変万化の異形へ生まれ変わったのである。

 やがて黒い泥状の肉体を持った様々な獣や人形の怪物達が、みるみる萃香を包囲してしまった。

 異形は顔と思わしき部分に複数形成された、ストロベリームーンの様に妖しく輝く眼球を全方位から萃香へ向け、飢えた獣の如き唸り声を上げる。

 

 異形の主は指を掲げ。

 朱天の鬼は笑みを浮かべた。

 

「ここは既に私の領域だ」

 

 パチンと、軽快に指が弾かれて。

 異形の軍勢が、鬼の元へと殺到した。

 

 背筋も凍る雄叫びを上げ、鬼の血肉を貪らんと迫る異形の群れ。それを前に伊吹鬼は三日月の如く口を引き裂き、歯を剥き出して大いに笑う。

地獄よりも地獄らしい光景だったが、それは萃香にとって豪華絢爛な舞踏会場となんら変わらなかった。

 歓喜が、無双少女に渦を巻く。

 

「しゃらくせぇッッ!! だァああああららららららッッしゃあああああああああああああああああ――――――――ッ!!」

 

 音すら共に粉砕する神速の突き(ラッシュ)が骨肉を爆砕し、山を削り飛ばさん威力を秘めた蹴りが異形を悉く破壊する。天蓋を砕かんばかりの轟音が連続して発生した。

 奥義や妖術などの小細工は何もない、ただ力任せに、感情的に体を振るうだけの鬼の暴力。それは計算などでは測る事の叶わない絶大な破壊を刻み付けた。

 一対多数と言う、傍から見れば絶対的不利な状況を拳一つで打ち砕き、突破する。それが伊吹萃香という鬼である。単純なフィジカルで蹂躙を可能とするが故に、彼女は山の四天王として恐れられたのだ。

 

 その闘争、まさに天下無双の豪傑が如く。

 

 だが壊せど潰せど、異形は飛び散った肉片から更なる分裂を繰り返し、一向に減る気配を見せることがない。それどころか次第に萃香の攻撃を掻い潜り、浅くない傷を次々と刻み始めていた。

 肉を裂かれ、骨に食らいつかれ、赤が舞い、悪魔の使徒に鮮血を奪われていく。

 それでも尚、鬼は牙を剥いて嗤った。

 

「ッははは! こりゃキリが無いなぁっ! ならこれならどう、だいっ!!」

 

 萃香は肉弾戦を止め、体に巻き付く大仰な分銅付き鎖を引っ掴むと、円を描く様に全力で振り回した。

 あまりの威力にハリケーンの如き暴風が周囲一帯へ襲い掛かる。八雲紫が力の境界を逆転させ無力へ変える結界を闘技場に張り巡らせていなければ、今頃山は更地と化し観客席の妖怪は全て息絶えていた事だろう。

 紫の実力とそのサポートを理解しているからか、萃香から遠慮や加減と言う文字が完全に弾け飛んでしまっていた。

 

「そうらァッ!!」

「ぬん!」

 

 纏わりついていた異形を全て塵へと変えた萃香は、加速した分銅をナハトへと叩きつけた。ナハトは二つのグラムと共にそれを受け止め防ぎ切る。

 だが力は萃香の方が上である。全て受け止めきれないと悟ったナハトは相殺しきれなかった力を受け流すと、勢いよく独楽のように旋転しながら鎖を切り飛ばし、上空へ分銅を放り投げた。

 分銅の落下と同時に、ナハトはそれを萃香へ向けて蹴り飛ばす。吸血鬼もまた、鬼に匹敵すると謳われた怪力の持ち主である。四天王の長であり、自身の身体強度を跳ね上げられる力を持つ萃香には及ばずとも、分銅を砲弾とするには十分な脚力だった。

 

 分銅は風切り音を吹き散らしながら猛進し、萃香の鼻先へと激突した。

 

「ぐっ!?」

 

 衝撃が頭蓋へと染み込まれ、視界に星が瞬いた。その隙をナハトは見逃さず、一気呵成に突撃を始める。

 天高く跳躍し、両手へ刃を生成する。漆黒の瘴気を纏い、常闇の迫撃砲と化したナハトは勢いに身を任せるまま、胸元めがけて躊躇なく剣を突き立て。

 

 バキンッ。

 

 肉を突き破ったものとは思えない、硬質な音が辺りへ響き渡った。

 ナハトの思考の行く先へ、通行止めの看板が突き立てられる。

 

 音の正体は目に見えていた。萃香の精神へ直接斬り付けられる筈だったグラムが、萃香の衣服にさえその刃を通すことなく真っ二つに砕き折れたのである。

 物体を透過し、精神体のみを切り裂く筈の魔力剣が、刺さるどころか呆気なく食い止められた。

 それは、長過ぎる年月を生き抜いた妖怪にも予想外の事態だったのだ。

 

 密と疎を操る程度の能力。即ち、密度を操る力。

 

 萃香は分銅が直撃した瞬間から、ナハトの刃すらも通さないほど体を高密度に変化させていた。これが、刃を防ぎ切ったトリックの正体だったのだ。

 萃香はグラムの性質と相性が最悪だった。天敵と言っても差し支えない。しかし同時に、グラムの持つ無敵とも言える性質に対する萃香の能力も、火と水の様に最悪な組み合わせだったのである。

 その真実に気づいた時にはもう遅く。ナハトはまるで新聞紙に叩きのめされたハエのように、萃香の剛腕によって闘技場の端まで吹き飛ばされてしまった。

 

「……こりゃあ、決着つかないねぇ。参ったな」

 

 萃香はナハトが着弾した方角へと眼を向けた。

 硝煙の中から、衣服までも修復されたナハトが姿を現した。息も切れておらず、どころかダメージも無い。いくら満月の下では絶好調になる吸血鬼と言えど、鬼の目から見ても異常過ぎると言える再生能力に、内心萃香は舌を巻いた。

 

 戦況を見る限り、萃香は力と耐久性で軍配を上げているが、速さと再生能力はナハトが圧倒的に勝っている。今は萃香の方が力押ししている状況だが、時間を掛ければジリ貧に追い込まれるのは萃香の方だろう。その前に早期に決着をつける必要があると小鬼は悟った。

 だがナハトは、恐らくこの世に塵一つ残さなくするレベルの攻撃を当てなければ倒すことが出来ない。奴は血液の一滴でもこの世に残っていれば、自慢のプラナリアの如き再生能力を披露してくれるだろうから。

 火力が要ると、萃香は唸った。ナハトを倒すにはナハト自身を葬り去る事に念頭を置くのではなく、ナハトもろとも山を粉砕し、周囲一帯へ致命的なダメージを与える程の、絶対的な火力が必要だ。こう言った不死身に近い妖怪には特有の精神的弱点を突く方法もあるが、それはあくまで虚弱な人間が強大な妖怪を退治するために存在する美しき手法である。妖怪が妖怪を打ち倒すと言うシチュエーションにおいては適切でないと、萃香の闘いにおける美学が選択をかなぐり捨てた。

 ならば、選ぶべき答えはただ一つ。

 圧倒的なパワーを持って、有無を言わさず捻じ伏せるのみ。

 

「お前さんの実力、よーく分かった。実力だけは認めるよ。うん、素直に凄い。そこだけは見込んだ通りだった」

 

 萃香の体が、みるみる内に萎んでいく。やがて彼女は元通りの童女へと姿を変えた。

 ただし、肌は未だに血を浴びたように朱色に染まったままだ。体表からは謎の熱が放出されており、尋常ではない雰囲気を醸し出している。

 空気を歪めるほどの熱が陽炎を生み、月下の鬼を妖しく揺らめかせた。それはさながら酔いの揺らぎである様に。

 

「お前さんに敬意を表して、私の奥の手を見せてやろう。スペルカードルールなんて遊び用なんかじゃない、正真正銘の、鬼の奥義って奴を」

 

 腰を落とし、萃香は赤熱する拳を地面へ置いた。

 足腰に最大限の力を籠め、彼女は能力を使って何かを掻き(あつ)めていく。中心の萃香へ、砂埃や小石が引き込まれ始めた。

 引力の原点に君臨する鬼の頭領は、血走る眼球で不死身の吸血鬼へと狙いを定め、口角を釣り上げ牙を剥く。

 

 

 

「四天王奥義」

 



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18.「崩壊」

 山は哭いていた。

 頂の霊峰から降りかかる、山を呑み込まんばかりの重圧が大自然を苛ませ、あらゆる動植物を恐怖のどん底に陥れていた。

 木々や草花はざわざわと絶えず騒ぎ立て、動物は皆逃げる事すらも忘れて地に伏している。彼らは、一刻も早く災害と見紛う力の圧迫感が過ぎ去ってくれる事を、ただただ切に祈り続けることしか出来なかった。

 それは、獣や鳥、蛇に蛙、蟲と草木に限った話ではなく。

 人間に恐れを与える存在、妖怪すらも決して例外では無かった。

 山は、大声を上げて哭いていた。

 

「とうとう来るのね、萃香」

 

 震源地と最も近い場所に居座る幻想の賢者は、穏やかながらも鋭い意思を携えた瞳で、弱小妖怪ならば撒き散らされている圧力だけで存在を消し飛ばされそうなほどの、膨大な妖力と瘴気を放っている二つの発生源を見据えていた。

 これから起こる展開を予測しているのだろう彼女は、人知を超えた頭脳からこの場を無事に収束させる最適解を導き出していく。

 

 扇を一振り。

 

 すると、今の今まで一言も声を発する事の無かった賢者の式神が薄く目を開き、黄金の瞳で周囲に目を配りつつ、簡素に主へ問いを投げた。

 

「どうやら出番の様ですが、如何いたしましょうか」

「闘技場から飛び散る破壊の余波は全て私が防ぎ切るわ。その分、観覧席一帯が手薄になるから、あなたは山を補助する保険用の結界の維持に努めなさい。私の演算領域を貸してあげるから、全力でね」

「御意」

 

 紫は知っている。伊吹萃香と言う災害の脅威を、嫌と言う程知っている。

 伊吹萃香は妖怪の最強種族、鬼である。おまけにただの鬼ではない。かつて山の四天王と呼ばれた強大な四匹の鬼の中で、リーダー格として君臨していた鬼である。彼女はその童女の様な見た目に反して、鬼の頂点と言っても差し支えない存在だった。

 彼女が絶対不変の鬼の王として君臨出来たのには様々な要因がある。それは彼女が、鬼の中でも類稀なる戦闘能力と不思議なカリスマ性を持ち合わせていた事。そして、紫にすらも脅威だと感じさせる強力無比な能力が原因だ。

 密と疎を操る程度の能力。それは対象を疎にすると、例え神話の金属だろうが霧状にまで分解する事が可能で、逆に密へと力を傾ければ、対象を膨大な熱を帯びて溶解させるに至るまで圧縮する事の出来る能力である。

 

 だがしかし、これは物体に限った場合の話でしかないのだ。

 

 萃香の能力の真髄は、そこから更に飛躍した場所に存在する。

 故に、これからもたらされる被害を何の防護も省みずに計算した場合、想像を絶する結論が弾き出される事になるのだ。

 存在が天災そのもの。それが、伊吹萃香と言う怪物なのである。

 

「紫殿、山の妖怪は私に任せよ。この山は我らの山、自衛が出来ずしてどうして山の主と名乗れようか」

 

 事の様子を静かに見守っていた天魔は、手元に大仰な錫杖を呼び寄せると、柄で足場をコツンと突いた。リン、と鈴の音が風を呼び、天魔へ自然の力を与えていく。

 元来、幻想郷では天狗もまた、鬼と並んで強力な種族として名を刻む妖怪である。身体能力に関しては鬼に劣るものの、その知能と技術力は時に鬼を凌ぐ。

 中でも特筆すべきは、やはり法力の高さだろう。

 天狗は八大天狗を筆頭に、神格化された妖怪の代表格とも言える存在である。ある説では不動明王の化身とされ、ある説では鬼神そのものとして名を馳せた。

 それらの前例が示す通り、経験と知恵を重ねた霊格の高い天狗の中には、時に鬼と匹敵する程の神通力を体得する者が現れる。

 まさしく、天魔がその内の一人であった。

 

「さて」

 

 幻想郷の頂に立つ妖怪変化、八雲紫とその式は妖力を漲らせ、結界の強度を、境界の力を、万端なものへ強化、展開していく。山の王たる天魔は、錫杖を通じて神通力を清水の様に霊峰の観客席へと染み渡らせていった。

 賢者と称された妖怪たちの加護が、山を覆い尽くしていく。

 

 あらゆるダメージを無効化させる不可視の城塞と化した霊峰を、静かに見下ろす八雲紫。だが、これほどまでの堅牢性を手に入れて尚、彼女に油断の二文字は浮かばない。

 扇を開き、彼女は月光を煽ぐように差し出した。

 

「気合を入れて引き締めましょう。私達が油断など抱こうものならばこの山は――――いいえ、幻想郷はただの泥団子と化しますわ」

 

 

「四天王奥義」

 

 一歩。地が爆ぜた。

 膨大な熱を帯びた小さな鬼は、たったの一蹴りで打ち出された花火の様に跳躍し、山の頂すらも軽々と飛び越えてしまう。

 ボヒュンと、雲の中へ小さな体躯は呑み込まれて。

 

 二歩。轟雷の如き衝撃と共に雲が爆ぜた。

 空気を踏み砕き、更に更に高く、萃香は己が身を押し出していく。それに伴って体を包む熱が増すと、眩い光を生み出した。

 一筋の赤い軌跡を描きながら宙を舞うその姿は、さながら天へ昇る龍の如く。

 高く、高く、彼方を目指して鬼は舞う。夜空の月を手に入れんと言わんばかりに鬼は飛ぶ。

 そして遂に、伊吹萃香は天蓋にまで辿り着き。

 同じくして、明瞭な変化が訪れた。

 

 莫大なエネルギーの集約が巻き起こった。収束の中心点を漂う鬼は目に見えて輝きを増し、遂には月の存在感すらも奪い去ってしまう。

 力を蓄え続ける鬼の様が、事の異変を如実に物語っていく。

 満月の下を漂う雲が。草木も眠りへ誘う夜の空気が。果てには幻想郷を照らす月の輝きまでもが。

 大空の頂点にまで上り詰めた萃香によって吸い込まれていた。

  

 萃香が己の中へ萃めているもの。

 それは、『速さ』と『重さ』である。

 幻想郷中に存在する速さと重さ。それをほんの少しずつ、消し屑の様に微々たるものを、萃香は自身へと掻き集めているのだ。

 一つ一つは些細な力。しかし幾重にも積み上げれば何時しか塵も山と成り、小は大へと姿を変える。

 それを一気に解き放てば、果たして何が巻き起こるのか。

 

「ナハト、よーく見てろ! これが私の全力だ、これが私の最大奥義だ!! お前さんも男なら、根性見せて凌ぎ切って見せなぁッ!!」

 

 伊吹鬼が空中で姿勢を変えていく。

 小さな足を突き出して、照準を地上の吸血鬼へと狙い定める。

 それこそが、三歩目の着地点に他ならず。

 刹那、伊吹萃香は破壊と化した。

 

 

「三歩壊廃ッッッ!!」

 

 

 鬼の絶叫が空を引き裂き、夜は真っ二つに叩き割られた。

 掻き集めた『速さ』と『重さ』。それらを一気に解き放ち、常識を超えた破壊力を伴って急速落下を開始した事で、莫大なエネルギーが萃香と共に、紅蓮の閃光となって地表へ一気に降り注いだのだ。

 その様、まさに星を砕き割らんと迫る隕石の如く。

 枷などあろうはずもない災厄の一撃は、たった一人の吸血鬼へ――――否、幻想郷目がけて襲い掛かった。

 

 対する吸血鬼もまた、絶大な力を駆使して立ちはだかる。

 大地から伝わる土の魔力から金属を生成。さらに精度を高め、この世のものとは思えない輝きを放つ白銀の刃を夥しく展開した。しかしそれらは武器としての意味を成さず、与えられた役割に沿って落英繽紛に舞い踊る。

 金属片が規則正しく闘技場へと突き刺さる。それは次々と不可思議な陣を形成していった。金属を伝い、黒の魔力が闘技場を蝕み侵す。

 ナハトは物体に自らの魔力を流し込む事で、擬似生命として使役する技能を持つ。例えば、牙を生やし魔物と化した地下図書館の蔵書。例えば、スカーレット卿を拘束した石造りの触手。これらは言うなれば、吸血鬼の使い魔召喚能力の延長である。

 

 夜の鬼はそれらと同じように、闘技場を支配下へと置いた。

 

「迎えよ」

 

 一言、魔性の号令が星の海へと染み渡る。それが起爆の信号となった。

 地鳴りが起こる。瞬きをするよりも早く闘技場が姿を変えていく。あまりに無茶な変異は、八雲紫の防護が無ければ一瞬にして山そのものを崩壊させる程のものであった。

 そして現れたのは、腐敗した血液を掻き集めて作り出された様な、見上げてもその頂を視界に収める事すら叶わない黒染めの巨人(ダイダラボッチ)

 かつて霊峰で行われた幾千幾万の戦いの果てにこの地へ染みつき、濃縮、純化された魔力と闘いの『遺志』をベースとして生み出された、超弩級のゴーレムである。

 

 山を砕き割る力を誇る規格外の鬼と、山を須臾の間に支配下へと置いた規格外の吸血鬼。

 直後、真正の怪物同士は激突した。

 

「うォォおおおおおおおおおおりゃあああああああああああああああああああああああああああああああ―――――――ッ!!」

「ッ!」

 

 莫大な魔力で補助され、砕ける事を知らないゴーレムの拳と、あらゆる存在を踏み抜く唯我独尊の鬼がぶつかり合い、怒涛の疾風と爆音が天界にまで轟き奔る。長年妖の闘技に耐え続けた闘技場の地盤は易々と損壊し、大気が悲鳴を上げて泣き叫ぶ。常識と言う枠組みを遥かに凌駕した破壊は八雲の境界に塞き止められることで、なんとか山は命を繋ぎ止めるに留まった。

 そうであって尚、止まらぬは歴戦の覇者たる小さな百鬼夜行。対する闇夜の支配者もまた、一歩も引き退く素振りを見せず奮闘した。

 萃香は叫ぶ。紅蓮に染まった顔を歪ませ、獅子の如き髪を振り乱しながら。

 

「そんな土塊(つちくれ)如きでぇ、この私を止められると本気で思ってンのかい!?」

「確信があるからこそ実行に移したのだ。さぁ、そんな事よりもっと全力を出して来い、伊吹萃香!」

「ッはははっ!! 上等、上等、上等ォォッ!! 何が何でも踏み潰してやるよッ!!」

 

 萃香は黒のゴーレムと拮抗しながらも、更に力を増し、徐々に徐々に押していく。留まる事を知らないエネルギーの余波は易々と客席にまで及び、天魔と八雲の障壁に阻まれると、凄まじい炸裂音と共に掻き消された。

 止まらぬ猛攻、崩れぬ巨兵。両者、共に一歩も譲らず。決着までの道のりは、終点がまるで見えぬほどに果てしない。

 これではそもそも勝負が着くのだろうか。下手をすれば、飽和した力が山を押し崩し、災害の傷痕だけを色濃く残す結果に終わってしまうのではないか。

 激闘の光景を目に焼き付ける誰しもが、終末の未来を信じて疑わなかった。

 

 

 しかし、止まない雨など存在しない。

 

「!」

 

 岩盤へ鉄杭を思い切り叩きつけて砕き割ったが如き、強烈な破壊音が響き渡り。

 巨兵の拳が、唐竹を割ったかの様に勢いよく二手に裂け、両断される。

 常に力を吸収し爆発し続ける萃香の膂力が、幾重にも闘技場へ積み重なった戦の怨念(ゴーレム)を打ち砕いたのだ。

 

 そして訪れる、圧倒的なインパクトと爆砕現象。

 

 ゴーレムの大柄な体躯が、内側に思い切り空気を吹き込まれたかのように膨張、破裂した次の瞬間には、既に消滅を迎えていて。

 天災に匹敵する萃香のストンプが、操り主へと神速を伴って襲い掛かった。

 

「ずォおおおおおおあああああああああああああッ!! ブッッ潰れろォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお――――――――ッッ!!」

 

 

 

 ―――その時だった。

 鬼の剛脚がナハトの顔面を無慈悲に捉えるまでの、刹那の際。

 萃香は目撃してしまった。今まさに決着をつけんと奥義を振りかざす敵の瞳に、得体の知れない淀みが浮かび上がっている事を。

 

 果ての無い闇だった。

 

 白目も黒目も無く、月明りすら眼窩から吸いこんでしまいそうな、ドス黒いなどと言う表現を超越した闇。そもそもこれを闇と言い表していいのかどうかすら判断に迷う、そんな暗黒が吸血鬼の目の奥へと巣食っていたのだ。

 瞬時に鬼の本能が、百戦錬磨の戦闘狂の魂が。宴の大演奏よりも喧しい警報を、萃香の中で打ち鳴らした。追い詰めたのは紛れも無く自分である筈なのに、今まさに吸血鬼を仕留めんと爆進する萃香は、滝の様な冷や汗を止める事が出来なかった。

 

 ヤバい。なにか分からないが、このまま進めばとにかくヤバい。

 

 萃香は恐怖した。ここに来て初めて、ナハトに対する明確な恐怖を己の内に認めた。戦で散る事を華とする鬼であるが故に、闇夜の王の圧倒的な瘴気をスパイスだと一蹴出来た彼女の不屈の心が、あまりにも呆気なく黒一色に蝕まれてしまった瞬間だった。

 このまま衝突すればただでは済まない。間違いなくとんでもない事が起こる。それも想像を絶する様なナニカに巻き込まれてしまうだろう。小鬼は確かな自信を持って予測し、不相応な鳥肌を出現させる。

 果ての無い不安が萃香を須臾の内に侵食、蹂躙し、ぐちゃぐちゃに掻き回して混沌へと引き摺りこもうとする。頑強極まる心の大黒柱が、メキメキと悲鳴を上げ始めた。

 

 だがしかし。

 伊吹萃香と言う鬼は。

 例え勝負の果てに、二度と好物の酒を飲む事が叶わなくなる身になろうとも。

 最後の肉片がこの世から消え去るその時まで、死力を尽くして(いくさ)を望む猛者である。

 

 だからこそ、彼女は最高の笑顔を恐怖の権化へと見せつけて、これ以上に無い怒号を上げた。

 

「最後の最後に立つのは果たして私かお前さんかッ!! さぁ今こそ雌雄を決するぞ! 吸血鬼さんよぉッ!!」

 

 

 ゴボゴボと。

 何かが溢れる、音がした。

 

 

 

 ザシュン、と肉を断つような生々しい音が、無音の霊峰へと染み渡って。

 

 

 信じられない出来事が巻き起こった。

 

 

 伊吹萃香の三歩壊廃が間違いなくナハトを仕留め、濃厚過ぎる激闘にとうとう幕が下ろされたと、幻想の賢者さえもが確信を抱いた、まさにその瞬間だった。

 萃香の破壊行進が突如として急停止したかと思えば、吸血鬼の足元から突き出された十五の黒剣によって、無残にも全身を貫かれたのである。

 理解不能な光景だった。本来ならば血溜まりと化していた筈の吸血鬼は仁王立ちしていて、勝利の雄叫びを上げる筈の二角鬼が惨たらしい串刺し死体へと成り果てていたのだ。それは天下無双を誇る伊吹萃香の内情を知る山の妖怪にとって、あまりに信じ難い光景であった。

 無論その混乱は山の妖怪のみに限らず、一部始終を見守っていた八雲紫にも当て嵌まる。

 

 ただ、混乱の渦へ巻きこまれた者達は、共通の印象を一つだけ植え付けられていた。

 鬼と吸血鬼が激突する、まさにその一瞬。正確には、萃香の猛進が急遽停止したほんの僅かな一時。

 その時の光景はまるで、萃香が掻き集めたエネルギーを()()()()()()()()()かの様であったと。

 

「紫」

 

 思考を捥ぎ取る様な、魔の声が霊峰へと吹き込まれた。

 発生源たる吸血鬼は、崖の上にて見下ろす賢者を見据え、萃香を示す。

 

「判定を頼む」

『―――――っ、それまで。勝者、吸血鬼ナハ』

「ふんぬらばッ!!」

 

 紫の審判を掻き消すように、怒号が夜へ炸裂した。

 合わせて、萃香の全身を刺し貫いていた剣が、咆哮と共に金属音を立てながら砕き割られ、ボロボロと小さな肢体から抜け落ちていく。

 未だ体を朱一色に染めたままである伊吹萃香は、決して無事ではない筈の体を軽快に動かしながら、血染めの眼球をナハトへと向けた。

 

「……お前さん、今なにをやったんだ?」

 

 それは純粋な興味の声だった。

 あの一瞬で、自分が一体何をされたのかが分からない。そんな疑問がありありと現れた質問だった。当然だろう。八雲紫ですら、『力』を『無力』に変える境界を常に張り巡らせて、それでも被害は最小限にしか止められない様な必殺の一撃を、まるでパワー全てを暗黒空間へ放り投げてしまったかのように消滅させられたのだ。興味を抱かないと言う方が不自然である。

 しかしナハトは答えない。口を噤んだまま、萃香から視線を動かさない。

 萃香はその沈黙を、答えと受け取った。

 

「そうかそうか、言いたくないか。いや、良いんだ。喋りたくないならそれで良いのさ」

 

 ケラケラと、とても愉快そうに鬼は笑い、

 

「なぁ、今のアレ……もう一回私に見せてくれよ」

 

 バキリ、と滅茶苦茶になった闘技場の地面へ、更に亀裂が刻み込まれた。

 

「この通り私はピンピンしている。まだ勝負はついてないぜ? だからさぁ、もう一度受け止めておくれよ。今の力の正体が知りたくて知りたくて仕方がないんだ。疼いちまってしょうがないんだよ」

 

 再び萃香は、深くその場へ腰を落とし、

 

「必殺技は一回しか打てない、何て甘いことはこの私には通用しないのさ。さぁ行くぞナハト三歩壊は」

「はいそこまでー」

「ぶッ」

 

 いつの間にか崖上から瞬間移動した紫が、必殺技だと意気込んでいた萃香の頭へ扇を一閃した。華奢な細腕から繰り出されたものとは思えない優雅な一撃は、容易く萃香の体で小さなクレーターを作り上げ、埋め込んでしまう。

 突き刺さった角を引っこ抜くのに悪戦苦闘しつつも、萃香は何とか復活して、元気よく怒号を上げた。

 

「何するんだ紫! イイ所なんだから邪魔すんな!」

「邪魔も何もあなた、私との約束はどうしたのよ」

「あー? 約束――――あっ」

 

 しまった、と言う風に萃香は口へと手を当てる。応じて紫は、小さなスキマから一枚の和紙を取り出した。

 広げて、デカデカと萃香に見せつける。序でに指で注釈を加えて。

 

「あなたから貰ったこの誓約書。被害を最小限に抑えるために、三歩壊廃は一回までとすると、ここにあなたが直筆で書いてるんだけど」

「うぐっ」

「まさか、約束を破る気じゃあ無いでしょうね?」

「わ、忘れてたんだ。ごめんよ紫、本当だよ!」

「あなたが言うのだから本当なのでしょうけど。であれば、これで勝負はついたのでしょう? 見たところ、凌ぎ切った彼に軍配が上がりそうだけど……前半の萃香の攻め具合からして実質引き分けかしらね。あなたピンピンしてるし」

「う、うううううう~~~~~~~!」

 

 萃香は親指を噛み締めながら、紫の持つ書状とナハトへ視線を交差し続けた。勝敗の有無が決まる事に対して懸念を抱いているのでは無く、戦いが終わってしまうと言う事実に歯噛みしているのだろう。まだ終わりたくない、もっと楽しみたい――――そんな感情が、これでもかと言わんばかりに溢れ出していた。

 

「……そうだ! 三歩壊廃は一回だけど他の四天王奥義は一回だけなんて決めてないし、勇儀の技を借りちゃおう! そうと決まれば続けるぞナハト! 食らえ四天王奥義三歩必さ」

「粛清ゆかりんチョップ!!」

「うわらばっ!!?」

 

 再び埋没。瞬時に復活。

 

「なぁなぁ頼むよ後生だ紫! こんな機会本当に無いんだって! 三歩壊廃はしないからさ、三歩必殺だけ許して! これなら約束は破ってないだろう!? お願い!」

「あれは被害を抑えるための誓約書だって言ったでしょこの馬鹿鬼! 屁理屈こねない! それに見なさい周りが怯えてるでしょうが!」

 

 紫があれを見ろと指し示す観客席では、ぐったりと項垂れる河童や終末に怯えて身を寄せ合う白狼天狗、手をこすり合わせつつ何かの念仏でも唱えている鼻高天狗、そして白目を剥いて気絶している鴉天狗がちらほらと見受けられた。更に言えば、天魔もけほけほと咳込みながら、仕えの天狗に背中を摩られている始末である。

 百歩譲っても大惨事であった。

 

「と言うかね、あなたの奥義からここを守るのにどれだけの負荷が掛かるか分かっているの? 闘技場全体の物理的補助、山そのものへの影響遮断、藍への援助、その他諸々の余波を処理するための境界演算いっぱい! 幾ら私がパーフェクト賢者だとしてもキツイものがあるのよ! 見なさい力を使い過ぎて鼻血出ちゃったじゃない!」

「わ、分かったごめんって諦めるってだから近づくなばっちいぞ!」

「誰のせいでこうなってるって言うのよー!」

 

 もう怒った! と八雲紫は憤慨し、白い手袋に包まれた指で何かを空に描く。

 すると萃香の周囲に隙間が現れ、目にも止まらぬ速さで萃香を呑み込み、そして吐き出した。

 放り出された萃香は驚天動地と言わんばかりに目を見開き、絶叫する。

 

「ちょっ、紫ィ!?」

「罰として九割、あなたの力を剥奪します。暫く反省なさい!」

「うぐっ!?」

「あなたが鬼の中で破天荒である事は分かっているけれど、けじめをつけるのは当然の事です」

「うぐぐぐッ……さ、参考までに、いつまで?」

「五年」

「五年ン!? 五年も一割で過ごせってのかい!?」

「なんなら百年でも良いのよ? 私は気にしないわ」

「むぅ……しょうがない。まぁ、悪いのは私だし、うん。甘んじて罰は受けるよ。たまにはこう言うのも良いかもな!」

 

 豪快に笑い飛ばしながら、萃香は瓢箪を取り出して酒を煽った。そこにはもう、戦意の覇気は見当たらない。前向きに、余韻を楽しもうと言う姿勢が見て取れた。

 そんな中、萃香は勢いよく指をナハトへ突き付けて、指差の爪と同じ鋭さをもって告げる。

 

「勝負はお預けだよ。こんな形で終わりじゃあ納得できない」

「ふむ」

「次は是が非でも決着を着けよう。どっちもピンピンしているこんな状態じゃなくて、どっちかが地を舐める事になる様な、有無を言わせない勝敗をね。今度こそぐうの音も出ないほど捻じ伏せて見せるよ」

「受けて立とう。次こそは君を友としてみせようではないか」

 

 ナハトの言葉を受けて、萃香は豪快に笑い飛ばした。未だ自らを手下にすると諦めない意気込みには、敬意を表した様である。

 さて、と萃香は二人の元から離れて、

 

「野郎ども! 待たせたな!!」

 

 豪快な声量に、意気消沈していた山の妖怪たちが上体を起こした。視線の全てが、闘技場の萃香へと萃まっていく。

 

「天魔との約束通り、この山はお前らにやるよ! これからは好き放題やってくれて構わない! だが最後の思い出によう、ここらで一丁盛大な宴を開いても構わないか!?」

 

 おおっ、とどよめきが波紋状に広がる。次の言葉を今か今かと待ちわびる。

 応える様に、萃香はにっと笑った。

 

「勿論今夜は無礼講だ! サービスに私のとっておきの酒をたらふく用意してやる! さぁ、まだまだくたばっちゃあいないよな!? ――――祭りはこれからだぜ、野郎ども!!」

「おおおおおおおおおおおおおお――――――――!」

 

 宴好きな妖怪たちの歓声が、目に見えて爆発した。幻想郷暗黙の了解とも言える、波乱の後は宴で全てを水に流す。それも元四天王の大盤振る舞い宣言かつ無礼講を望んでいるとあれば、彼らが湧き立つと言うのも無理は無かった。

 

 かくして、狂瀾怒濤の大演武は一先ず幕を下ろす事となり、山は再び平和な喧騒を取り戻す事となった。

 余談ではあるが、四天王最強の鬼と全く引けを取らなかった怪物として認知されたナハトは、その闘いを見ていた妖怪たちから現代の悪鬼羅刹として水面下にて恐れられる様になったのだが、それはまた別の話である。

 

 

 萃香の我儘が収束を迎えてすぐ、私は宴に参加することはせず、とある場所へスキマを繋ぎ移動行っていた。

 目的地は迷いの竹林、その奥にひっそりと佇む永遠亭。

 そして訪ねるは月の賢者、八意永琳である。

 

「こんばんは」

 

 机に向かって何かを書き走っている八意永琳の背後に私は立ち、挨拶を投げる。

 突然の来訪に永琳は驚く素振りも無く、ゆっくりと椅子を回転させ、その場から振り返った。

 

「お久しぶりね、紫さん」

「親し気に紫で結構よ、私よりあなたの方が――――と、そんな事はさておき。今、お時間を頂いてもよろしくて?」

「ええ、構わないわ」

 

 ありがとう、と私はスキマに腰かける。永琳は筆を机へと置いて、両手を膝に乗せた。

 真剣な雰囲気が、小さな研究室を漂い始める。

 

「あなたに聞きたい事があるの」

「して、内容は?」

「まずは、ナハトについてどこまで知っているのか答えて頂戴」

 

 永琳はほんの少し目を開き、しばし驚いた素振りを見せた。しかし直ぐに平静さを取り戻し、優秀な頭脳を駆使して最適解を導き出す。

 目を静かに閉じた彼女の答えは、こんなものだった。

 

「経歴は知らない。周りの交友関係も深くは知らないわ。でも彼の性格と生い立ちは知っている」

 

 それは前に話したでしょう? と彼女は言った。それとは生い立ちについてだ。ナハトの抱える、消滅の概念と言う与太話とさえ疑われる様な誕生秘話。ほんの少し前まで私も疑念を抱いていたが、今では霧散してしまっている。

 私が掘り起こしたい部分はそこではない。彼の性格こそが、今知るべき真実なのだ。

 もっと言えば、彼の行動原理についてだが。

 

「彼の裏側を掴んだ様ね」

 

 私が口に出すよりも早く永琳は言った。それは言外に、彼の行動原理を把握したのだろうと告げていた。

 私は頷き、答え合わせを行う。

 

「あの吸血鬼は友達が欲しいだけ。幻想郷へ訪れたのも、様々な人物へ関わりを持とうとしたのも、たったそれだけが行動理由だった。どうかしら?」

 

 認めたくない答ではある。しかし私には、どれほど認知したくなくても、認めざるを得ない真実に見えて仕方がないのだ。

 決め手は、今までの不可解なナハトの行動と、萃香の放った言葉にある。

 

 萃香は言った。彼は自らを恐れない友人が欲しいだけなのだと。鬼の血によって増強された百薬桝の効力がナハトに吐き出させた答えが、そうであったのだと。

 鬼は嘘を吐かない。鬼にとって嘘とは裏切りと禁忌(タブー)の代名詞だからだ。鬼の中でも特に虚言を忌避する萃香の血と百薬桝の酒を取り込み、急速な鬼化を迎えたナハトは無意識的に嘘の吐けない体質となった。加えて嘘に敏感な萃香が真実と認めたのである。これは、下手をすればどんな物的証拠よりも確固たる真実の証明となるのだ。

 ここで仮説を一つ立てる。あの威圧感は実は自らの意思に反したものであって、それ故にコミュニケーションが破綻し続けていた。そして彼はただ友達を欲して行動していただけであり、誰にも危害を加えようなどとは全く考えていなかった、と言う可能性を。

 この仮説をベースに、今までの奴の行動を洗っていく。すると不思議な事に、バラバラになっていたピースが別の形で繋がっていくのだ。

 

 奴を確認してから暫くの間、どうして幻想郷へ出歩こうとはせず、妖精や紅魔館の住人と親睦を深める様な真似をしていたのか。

 初めて会合したその時、魔性の威圧を駆使すればもっと効率よく私を利用できたはずなのに、何故奴は悠長に紅茶を淹れて歓迎しようとしていたのか。

 何故奴は私と幽々子に攻撃をされ続けて尚、一切の反撃をしないどころか、あれ程懇切丁寧に私達の警戒心を解こうとしていたのか。

 何故、消滅の概念などと言う危険極まりない存在に対して、八意永琳が全く敵対心や警戒心を抱いていないのか。

 

 諸々のピースが、今まで私の抱いていたものとは全く異なる真実を形作っていく。

 ナハトは己の瘴気に交友を悩ませられているだけの、人畜無害な吸血鬼であるのだと。

 

「……そうね。知ってしまったのね。時間の問題だとは思っていたけれど、まさかこんなにも早く答えを見つけてしまうだなんて」

 

 永琳は深く息を吐く。それは暗に、私が知ることを望んでいる答えの輪郭を浮き彫りにしていて。

 

「――――良いでしょう、お話します。あなたの知りたがる、彼の真実について」

 

 

 山の宴が終わりを迎え、酔い潰れた妖達の寝息が祭囃子となった後の事。私と美鈴は日の出を迎える前に、紅魔館へと帰宅する事にした。

 因みに、祭りは盛況の一言に尽きた。流石に彼らの中へ溶け込むのは魔性によって不可能ではあったが、それでも遠巻きながら楽しめたので満足である。健闘賞として萃香が酌をしてくれたので気分が良い。今の内に帰還しておかねば、日光に焼き焦がされて折角の余韻が台無しとなってしまう。それだけは避けたいところだ。

 華扇と共に飲み比べを行い、半ば潰れかけている美鈴へ回復魔法を施しつつ、声を掛ける。

 

「そろそろお暇するとしよう。門前がフランに荒らされていないか様子見もせねばなるまい」

「承知しました」

「帰るのかい?」

 

 死屍累々となっている霊峰の中から、萃香が上体を起こして訊ねる。膝元では文と椛、そして名の知らぬ茶色い髪をしたツインテールの天狗が潰れている。大方、飲み比べでもしていたのだろう。三人もの天狗を相手に楽勝を捥ぎ取るとは、流石と言ったところだろうか。

 

「ああ。今宵は実に楽しかった。改めて感謝を」

「いいさ。私も楽しかった。次は完膚無き決着を着けよう。約束だ」

 

 そう言って、萃香は私へと手を伸ばす。私はそれを受け取り、いつか再戦を行う事を約束する。

 しかし、先ほどのあれは一体全体何だったのだろうか。

 萃香の必殺技を食らう直前、あれをどうにかしなければと強く念じていたら、私の中から目に見えない何かが飛び出して来て、それが萃香に纏わりついていたパワーを全て消滅させてしまった。お蔭で形勢を逆転できたと言って良いが、私はあの時グラムの射出以外、魔力や術の類を行使していなかったのだ。何がどうなってあの隙が生まれたのか、私にはさっぱり理解出来ずにいた。

 文字通り正体不明の何かが、戦況を一瞬にして変えてしまった。その事実が、胸の中で未だに消火不良な火種となって燻り続けている。

 ……だがまぁ、起因となったであろう私が考えて分からないのであれば、また今度調べれば良い話か。どうやら萃香もあの現象に心当りは無い様だし、もしかしたら今は姿の見えない紫が何か知っているかもしれない。機会があれば尋ねてみるのも悪くないだろう。

 

 ところで、これはひょっとしてアレなのだろうか。萃香は俗に言う悪友、もしくは喧嘩友達と言う奴なのだろうか。交わした握手を見ながら、そんな発想がぼんやりとながら浮かび上がって来た。

 萃香は私の性格そのものは気に入らない様子だが、実力を認めてはくれている様である。ならば友達かと聞かれれば実に奇妙な感覚ではあるのだが、この際勝手にそう思わせて貰うとしようか。その方が、後味が良くて祭りの余韻には丁度いい。彼女は私の喧嘩友達だ。いがみ合う仲が居ても良いだろう。

 

「……? ナハトさん、その手、どうなされたのですか?」

 

 ふと、物思いに耽っていた私に向かって、美鈴が何かを訝しんでいる風に私へ問いかけて来た。

 手がどうかしたのだろうか。萃香との握手に対して変化はない。と言う事はもう片方になるが――――

 

「ナハト、お前さん……」

 

 萃香の言葉が、嫌によく頭の中へ響き渡る。 

 私も彼女の声と同じ程に、驚きに満ちて目を開く。同時に盛大な疑問符を浮かべざるを得なかった。

 視界の中心には、私の手であったものが映っていたのだ。

 

 灰色に染まり、ひび割れ、亀裂から黒い靄のようなものが噴き出している私の手。どう考えても尋常ではない様子がありありと映し出されており、視覚的なものだけではなく、明らかに感覚が喪失してしまっている。

 これは、なんだ? 今は別に術の類も肉体変化も行使していない。なのに明らかな異変が私の手に起こっている。魔力を使い過ぎたか? いや、それならば強い疲労感を覚えるのみだろう。幸い今のところまだ魔力にゆとりはある。魔力欠乏による症状とは考え難い。

 では、一体全体何が起こって――――

 

「!? ナハトさん!?」

「おいナハト、どうした!?」

 

 美鈴と萃香の声が聞こえる。だが声に反して二人の容貌がまったく見えなくなった。暗いのだ。まるで突如暗黒の中に放り投げられてしまったかのように何も見えない。

 目へと手をやる。すると、本来ならば肌に触れる筈の手が顔の奥へと吸い込まれてしまった。

 顔が、無い。

 更に頬や首周りを確認する。バラバラと、皮膚と思わしき破片が崩れ落ちる感触が伝わった。

 崩れている。古びた石膏が壁から剥がれたように、ボロボロと肉体の表面が謎の崩壊を始めている。

 その時、不意に背中へ衝撃が走った。足が砕けて転倒したらしい。遂には片足の感覚までもが無くなってしまった。

 

「萃香さ、ど、どうしましょう、これ、気が滅茶苦茶です! 一体何が――――」

 

 美鈴の声を皮切りに、とうとう音さえもが、一欠けらも拾えなくなってしまう。

 肉体の再生を魔力で促す。効果は見られない。まるで私の全てが体の外へ漏れ出しているかのような、表現しがたい感覚が私へと襲い掛かっていた。

 音も、光も、感覚も無い。さながらそれは無の空間。しかし奇妙な事に、私の思考は酷く冷静なままで。

 

 一体、私の身に、

 何が――――――――――――――――

 

 

「……私の話は終わりよ。これが真実。覆す事の出来ない彼の裏側なのよ」

「…………………、」

 

 なんという、ことだろうか。

 八意永琳に告げられた真実を前に、力が抜けて項垂れてしまう。反面、金槌で殴られたような衝撃があった。脱力と鈍痛に似た衝撃が私を苛み、あらゆる力を奪い取ってしまう。

 正しかった。私の考えは、正しかった。

 しかしそれと同じく、私の誤解は大きかった。下手をすれば取り返しのつかない程に、異常な勘違いを抱いてしまっていた。

 

 彼は幻想郷の有力者を狙って、内側に潜む消滅の力を復活させようと目論む魔王の様な男では無かったのだ。自らの力に悩まされながらも、ただ友人と共に和やかな日々を過ごす事を望んだだけの吸血鬼。消滅の概念を腹の底に抱え、恐怖を無作為に捥ぎ取るが故に能動的な恐怖の収穫を必要としなくなった結果、妖怪と言う常識からは考えられない程のお人好しと化した異端のヴァンパイア。

 私の求めた奴の正体は、あまりにシンプルで平和的なもので。加えて私の罪悪感を破裂させるような、認知しがたい真実であった。

 

「本当なら、あなたにはこの真実に気がついて欲しくなかった」

 

 永琳は言う。憂いの様な色を帯びた黒曜石の瞳で、私を優しく射抜きながら。

 

「彼は消滅の概念から生じたバグ。もっと言えば、恐怖そのものが具現化した存在。故に彼は物理的な影響を受け難く、逆に精神的な要素には他の妖怪よりも左右されやすい。……つまり、」

「彼に対しての敵対心や恐怖がそのまま栄養となり、対となる親愛や好感は猛毒となる」

 

 私の回答に対して永琳は清楚に頷き、残酷すぎる真実を示した。

 これは暗に、私が誤解を解いた事で恐怖を抱く度合いが下がってしまった事が、かえって彼の命綱に刃を入れ込む結果に繋がったと言う事実を表していた。逆に皆が蛇蝎の如く嫌悪すれば、彼は命を繋ぐ事が出来る代わりに、心から望む結末を絶対に迎える事が出来ない。

 理不尽な存在だとは思っていたが、まさかここまで理不尽な境遇にあったとは。私が今までナハトに対して行って来た非道と相まって、強く強く歯噛みしてしまう。

 

「……今、その問題を解決する方法を模索しているの」

 

 永琳は、机の上にあった紙束を私へ受け渡した。紙面には、膨大な数式や魔術記号が延々と綴られている。一種の魔導書と言っても差し支えない代物だ。

 内容は、噛み砕けばナハトの人格と性質を分離するために必要な術の方程式の証明である。答えとなる術式は、まだ完成していない様子だが。

 ふと、途方もない式を眺めていたところで、ある案が脳裏に思い浮かぶ。

 

「これって、私の境界操作を導入してみればどうなのかしら。理論的には可能だと思うのだけれど」

「確かにね。でも危険過ぎる。彼は分離した概念の末端とは言え、中身は消滅の概念そのものなの。言うなれば『無の暗黒』が肉の壁に包まれている様なもの。境界操作であなたが内側に入り込めば、恐らくただでは済まない」

 

 永琳の返答に、私は永夜の晩を思い返す。

 あの時私は、彼から溢れ出す瘴気を無効化しようと力を振るった。しかし結果は惨敗。無効化するどころか、その性質の端を掴む事すら叶わなかった始末。

 であれば、更に深淵を覗けば必然的に私も呑み込まれてしまう危険がある訳で。それも、ほぼ確実に失敗に終わってしまう形で……だ。

 つまるところ、私の能力の応用による分離は無力に等しい。

 

「現状はなるべく彼との接触を断ちつつ、この式の完成を急ぐ事が最善手よ。あまり時間が無いかもしれないの」

「時間が無い、とは?」

「……信仰がどの様にして神霊や土着神に働くのか、その影響範囲は知っている?」

「ええ、勿論ですわ」

「それを踏まえて考えて頂戴。何故、彼が今の今まで幻と実体の境界による影響を受けずに、外の世界で生活できていたのかを」

 

 ――――目の前が真っ暗になった。

 彼女が何を言おうとしているのかを、察知してしまったから……幻と実体の境界を、この場に引きずり出して来たその意図を理解してしまったからだ。

 幻と実体の境界とは、私が幻想郷へ施した外との境界線である。幻想郷はこの結界と博麗大結界を軸に空間閉鎖を行っているのだが、それぞれにちゃんとした役割が存在するのだ。

 前者は、外の世界で幻となった存在を引き込む誘いの結界である。これによって外の幻が幻想郷の実体となって供給され、妖怪や物質のバランスが取り持たれているのだ。

 つまり、だ。これに影響されなかったと言う事は、彼は未だ外の世界で幻となっていなかった、と言う意味に繋がる。

 しかしそれは正確ではない。『ナハト』と言う存在は外の世界で殆ど認知されていなかった。認知されていたのは、消滅に対する恐怖――――即ち、飽和した『死への恐怖』なのだ。

 

 外の世界は技術革新が進み続けているとはいえ、精神までもが進化している訳では無い。よほどの修練を積んだ者でもない限り、大衆の精神は大昔から大して進歩していないのだ。精々価値観に変動があっただけに過ぎない。故に皆等しく死を恐れる。それが、外の世界の『消滅の概念』へ婉曲的な糧と成り、ナハトと言う吸血鬼に存在の力を与えていた。だから境界の効力から逃れる事が出来たのだ。

 だが、彼はここに自らの意思で立ち入ってしまった。強力な二つの結界を超えて、こちら側の住人になってしまったのだ。

 

 結果、何が起こってしまったのか。

 答えは、至極単純。

 

「彼は、外の信仰(・・)を全てリセットした状態で、持ち前の容積のみの状態で幻想入りを果たした……と?」

「その通り。つまり彼の中身は、最早()()()()()()しか無くなってしまっているのよ」

「……つまり、このままだと」

「ええ。大幅に削減された恐怖の供給と、外の世界では得られなかった紅魔館を筆頭とした親愛の影響で、加速的に彼は『毒』に蝕まれてしまっている」

「そう遠くない未来に、彼自身が消滅を迎えるかもしれないって訳」

「可能性は大いにあるわ」

 

 ――ああ、やはり、なんと言う事だ。

 全てが、裏目に出てしまった。私の誤解も、そして誤解を解いてしまった事も。幻と実体の境界も、常識と非常識を分け隔てる博麗大結界も。何もかもが裏目に出てしまっていた。

 博麗大結界の効果で、外の世界の非常識がこの幻想郷に溢れている。故に彼は受け入れられた。常識では無い彼は外の世界で排他される代わりに存在を繋ぎ止め、その逆である幻想郷では、外の世界と比較して紅魔館の住人や妖精などに、徐々に徐々にではあるが受け入れられてしまった。それが事の進行に拍車を掛けているのだ。

 今の状態を例えるならば、彼は呼吸が出来ない海の中に鎮座し、更に延々と毒を注入され続けているような壮絶極まりない状態である。そんな無茶な環境で存在を保てていられるわけが無い。如何に規格外な妖怪と言えども、限界と言うものは必ず存在するのだ。

 それが、概念系の妖怪であれば尚の事だろう。

 

「進行を食い止めるには、一人でも多く彼を恐怖し、嫌悪しなければならないわ」

 

 永琳は視線だけで岩をも両断できそうな、真剣な眼差しを携えはっきりと私に告げた。

 

「以前あなたに伝えたように、情報操作を徹底した方が良いでしょう。それも、彼のイメージを出来る限り最悪なものへ落とし込めるように」

「……心苦しいわね。今までの狼藉に加えて、今度は意図的に彼を蔑ろにしなければならないなんて」

「意外と傷心気味なのね。てっきりあまり気にしていないのかと思っていたのだけれど」

「これでも心豊かな妖怪ですもの。センチメンタルなラブストーリーに涙だって流しますわ」

「センチメンタルなのはお互い様の様ね。あなたは妖怪だけど好感が持てそう」

 

 そうね、その書は紫にあげるわ、と彼女は言った。

 

「私も彼に借りがある。あなたも彼には負い目がある。利害の一致よ。ここは協力するとしましょう? おそらく、私一人で事を進めるよりも早く答えが見つけられるだろうから」

「喜んで。八雲の汚名を返上する為にも助力は惜しみませんわ」

 

 書類をスキマへと送還し、差し出された八意永琳の手を取る。決意が確固たるものとして固まっていく。

 ふと。

 私の頭脳とリンクしている、藍の式に反応が見られた。同時に、彼女の言葉が直接私へと流れ込んで来る。

 

『紫様、ご報告いたします』

「手短に」

 

 一拍の間が空いて。

 藍は、衝撃の一言を私に放った。

 

『件の吸血鬼が倒れました。原因不明の崩壊が始まっています』

 

 ――――条件反射に等しかった。私はすぐさまスキマを藍の元へと繋ぎ、八意永琳と共に座標移動を開始した。彼女が居た方が事態の収束がより安全なものになると判断したからだ。

 スキマの先に辿り着く。強烈な酒気と、得体の知れない悪寒が私を同時に襲った。

 しかしそんなものは直ぐに消し飛んだ。目の前で、今まさに話していた事態が巻き起こっていたからだ。

 

 変わり果てた吸血鬼の姿が、霊峰の地に転がっていた。

 

 全身は風化した石像の様な灰褐色に染め上げられ、左腕と右足は、手足を捥がれた昆虫の様に根元から欠損している。顔に当たる部分は暗黒の空洞と化していて、五感の内頭部で司っているほとんどの器官がどこにも見当たらない。

 加えて、露出している肌の至る所へ生じた亀裂や穴から、彼の『内容物』が黒煙となって漏れ出していた。

 溢れ出る黒い瘴気の悍ましい感覚に背筋を凍りつかせられながらも、私は瞬時に理解する事が出来た。これは、先ほど萃香の三歩壊廃を受け止めたあの現象(・・・・)が起因していると言う事に。

 

 偶然か必然か、意識的にか無意識的にか、そこまで真実を手繰り寄せることは出来ないが、彼は『消滅の概念』としての力を行使したのだ。いや、力と言うよりは()()()()()()()()と言った方が正しいか。

 彼の中身は、永琳の言う通り『消滅の概念』のエネルギーが敷き詰められている。例えるならば満タンの水が入った水筒の様なものなのだ。

 つまりナハトは萃香の攻撃を受ける直前、萃香が集めた莫大なパワーを、中身を吹き掛ける事で消し飛ばしたのである。結果、エネルギーを消滅させる事に成功したのは良いものの、今まで供給を断たれていた分消費が進んでいた水筒が、更に中身を吐き出してしまったために中身の不足――即ちバランスの崩壊に陥ったのである。人間で例えるならば大量出血と同じだ。彼は今、大きなエネルギーを失った事で自らのバランスを取れなくなってしまっているのだ。

 そうであれば、今私に出来る事は一つしかない。永琳にアイコンタクトを送り、私は前へと進んでいく。

 

「萃香さ、ど、どうしましょう、これ、気が滅茶苦茶です! 一体何が!?」

「分からん! さっきまでピンピンしてたのにどうしたんだ!? この漏れ出してる奴がやばいんだろうけど、集めても集めても出てくるしっ……! っああ紫、いい所に来た! なんだかよう、ナハトの様子が変なんだ――――」

「どきなさい」

 

 中身の漏れを防ぐべく、即席の結界を施してナハトそのものを封じ込める。間髪入れずに永琳が処置にとりかかった。

 

「紫、どこでも良いわ。私と彼を閉鎖した空間へ」

「言われずとも」

 

 誰の感情(どく)にも触れない、独立した空間へスキマを通じて二人を放り込む。後は永琳に任せれば大丈夫な筈だ。月の賢人と謳われた彼女ならば、この危機を乗り越える事が出来るだろう。

 私の仕事は、事態の鎮静化か。

 

「紫、あいつの身に何が起こったんだ? 知ってるんだろう?」

「話せば長くなるわ。それに今は知る時ではありません。彼女に任せなさい」

「そんな……! あの方は無事なのですか!?」

「言ったでしょう、彼女に任せるしかないのよ。我々は今、彼に対して限りなく無力に等しい。でも出来る事はあるでしょう」

 

 取り乱している門番の妖怪を嗜め、私は紅魔館へと続くスキマを展開する。

 

「ここから紅魔館へと戻れるわ。今すぐに彼が使用していた棺を用意なさい。あなたの主人には私からもフォローを入れておきます。だから早く」

「……っ」

 

 彼女も、私に言いたい事は山程あったに違いない。歪んだ表情からは容易に察することが出来る。しかし紅美鈴はそれらを全て喉の奥に流し込んで、スキマの中へと飛び込んでいった。

 仕上げにと、私は周囲を見渡しながら。

 

「萃香、あなたはナハトに対してそれほど良い感情は抱いていないのでしょう?」

「……ん、まぁね。実力は認めているけど、あの度を越した紳士振りはどうも好きになれそうにないが……でも何で急にそんな事を?」

 

 ならば良し。萃香に書き加えは必要ないらしい。

 であれば、ここで寝そべっている妖怪たちの改変を今のうちに行っておくべきだろう。

 強い力と絶大な瘴気を目の当たりにした山の妖の中には、彼に対して強い畏敬の念を抱いた者もいる。そんな彼らの心の境界を、私は逆転させる事を決意した。

 

 敬意は不敬へ。好感は嫌悪へ。

 境界を、逆さまに書き換える。

 

 作業時間にしてほんの数秒。境界を指揮していた指を止め、私は新しくスキマを開いた。

 目的地は紅魔館。全貌とまでは行かないが、事の粗筋を彼女たちに説明せねばなるまい。

 

「萃香、後は任せるわ。藍と一緒に頼むわよ」

「……何が何だかよく分からないけど、任されたよ」

 

 あとさ、と彼女は繋げて。

 

「私がこんな台詞を吐くのは間違いなんだろうが……言わせてくれ。どうにかアイツを頼むよ。こんな形で終わりだなんて、絶対に納得できない」

「……勘違いしないで、萃香。確かにトリガーとなったのはあなたかもしれない。でも責任を負う必要はないの。むしろ私の方こそ責は重い。だからと言って今の我々では、どうする事も出来ないわ」

「……、」

「だからこそ、今は出来る限りの最善を尽くすしかない。萃香、あなたはあなたの役目を果たして」

「ああ、分かった」

 

 陽気では無い萃香の返事を背に、私は霊峰を後にした。

 

 

 

 

 

 

「…………む」

 

 暗い。

 ここは、どこだろうか。

 濃厚な樹木の匂いがする。どこか懐かしい香りだ。

 場所を探るために、暗闇の中で手を動かす。手足の感覚があった。朧げな記憶では、私は確か左腕を失っていた筈なのだが……酒に酔った夢だったのだろうか。指を動かしても、正常に機能している様だ。指先の感触も確かにある。

 夢だったのだろうと思いながら、周囲へと手を触れる。ふくよかで高貴な布の感触。ふむ。どうやらここは私が昔使っていた棺の中の様だ。大方、酔い潰れた私を美鈴が運んでくれたのだろう。起きたら何か礼をせねばならないな。

 

 蓋に手を掛け、ゆっくりと押す。ギィッと、古びた金具が動く音が鼓膜を触った。

 天井につり下げられた、紅魔館特有の魔力稼働型シャンデリアの光が私の網膜を突いた。明暗の差による影響か、僅かな光が嫌に眩しく感じてしまう。

 

 上体を起こし、周囲を見る。本棚に簡素なテーブルセット、そしてミニキッチン。疑いようも無く私の自室だ。テーブルには、山の様に見慣れない紙の束が積み重ねられてはいるが。

 棺から抜け出して、私はテーブルの紙を一枚手に取った。便箋だ。しかも輝夜からのものである。

 

「……?」

 

 妙だな。輝夜から手紙があるのは納得出来るが、何故こんなにも大量に積み重なっているのだろうか。

 一週間二週間と言う量では無い。これではまるで――――

 

「目が覚めたのね」

「……パチュリーか」

 

 今の今まで気づかなかったが、本棚の影に椅子と共に隠れていたパチュリーが、ハードカバーを閉じる重厚な音と共に私へ声をかけて来た。

 何故ここに、とパチュリーへ問う前に、私は彼女から得体の知れない違和感を感じ取った。私を見据える彼女の目がどうにも不思議な、場の空気に似つかわしくない奇妙な色を湛えている事に気がついたのだ。

 例えるならば、古い知人と久方ぶりに顔を合わせた者の表情と言ったところだろうか。

 

「おはようならぬ、おそようになるのかしら。妖怪は人間と比べて時間に無頓着な存在だけれど、随分長く眠っていたものね」

「……、」

 

 彼女の言葉と態度、そしてこの異様な量の便箋たち。

 目と耳で掬いとれる怪しげな要素が、とある仮説を私にもたらした。それは私の中で水泡の様にフワフワと浮上しつつも、確かなものとなって表出を始めてくる。

 思わず、声が低くなった。

 

「パチュリー。私は、どのくらい眠っていたのかい?」

「そうねぇ」

 

 指を丁寧に折りつつ、彼女は数字を数えていく。

 

「あなたが唐突に眠りへ就いたのが、第119季の秋だったわ」

 

 嫌な汗が、背中へじわりと滲んでいった。

 

「そして今が、第123季の晩夏になるから」

 

 彼女のアメジストの様な瞳が、てらてらとシャンデリアの光を反射し、妖しく光る。私はそれに魅せられる様に、パチュリーから視線を外す事も、耳を塞ぐことも出来なくて。

 私は、彼女の口から決定的な言葉を耳にしてしまう。

 

「約4年間、その棺の中で眠り続けていた計算になるわね」

 

 

 

 

 

 …………………………………………………………………………。

 

 なん……だと?

 

 



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EX5「幻想のサヴァンと邪悪な吸血鬼」


※演出のために、幻想郷縁起風の紹介が挿し込まれています。ご了承下さい。


 事の発端は四年前。ナハトが妖怪の山の祭りへ赴いた十五夜にまで遡る。

 レミィやフランと共に満月のお茶会を楽しんでいた夜の事だった。ナハトのお目付け役として同行していた美鈴が、突如現れたスキマから飛び出して来たかと思えば、普段の穏やかな彼女からは考えられない取り乱し様で、ナハトに何が起こったのかを説明したのが始まりだ。

 彼女曰く、終わらない花見の異変で私はおろかあのレミィにまで苦戦を強いらせた小鬼と一戦交えたらしいナハトは、戦闘そのものは実質勝利を勝ち取ったものの、その後肉体が原因不明の崩壊を起こし、緊急を要する容態になっているとの事だった。

 その話を耳にしたフランは元より、レミィまでもが美鈴に詰め寄ったが、直後に現れたスキマ妖怪によって沈静化させられる。

 

『レミリア・スカーレット。代表として、まず貴女に真相をお話します。その内容を他の者へ語るかどうかは、貴女の裁量で判断なさい』

 

 その言葉と共にレミィがスキマへ消えて四半刻(30分)。解放された彼女は、意外な事に平素と変わらない穏やかな表情で顔を出し、軽々とした口調でこう言った。

 

『おじ様はどうやら、萃香との戦いで魔力を使い過ぎて調子を崩しただけらしいわ。だから心配は要らないみたいよ。ったく、あのスキマ妖怪め迫真の演技まで付けてくれちゃって。冗談にしても質が悪いわ。美鈴、お前も焦り過ぎ。変な心配しちゃったじゃない』

 

 おじ様は疲れてるらしいから、体力回復の為に長く眠るらしいわ。だから美鈴、就寝用の棺桶を用意なさい――――あの時レミィはそう言い切って、部屋を飄々と後にしてしまった。

 四年経った今でもはっきり覚えている。胸の内で今にも飛び出そうと暴れ狂う心を必死に押し殺して、愛しい妹に余計な心配を掛けさせまいと気丈に振る舞う、我が親友の小さくて大きな背中を。

 レミィの名演技の甲斐あってか、どうやらフランはそれで納得してくれたらしかった。だからその時は、一先ず一件落着に至った……のだが。

 当然、直ぐに私と美鈴は自室へ引き籠ったレミィの元に話を着けに向かった。

 嘘だなんて分かり切っていたし、まだ精神が成長しきっていないフランの為の配慮だと言う事も容易に察せた。察せたからこそ、私は彼女の後を追わずにはいられなかったのだ。

 

 解散のタイミングを見計らい、美鈴と共に彼女の部屋へ転送魔法で入り込めば、豪勢な寝台の上に置かれた黒棺に腰かけ、憂いの目を浮かべる吸血鬼が居て。

 

『パチェ……っ』

 

 私と目を合わせた瞬間、今にも壊れてしまいそうな儚さを、彼女は静かに浮かべて言った。

 

『わ、私はっ、どうすれば良いのかなぁっ……』

 

 スカーレット卿に仕組まれた悲劇によって一族全てを失いながらも、四百年の長きに渡りこの館を治めて来た偉大な当主が、私に向かって初めて零した少女の弱音。

 それが、如何に事が深刻であるかを切実に物語っていた。

 

 彼女はポツリポツリと、振り絞る様に言葉を吐いた。当主としてではなく、一人のヴァンパイアとしてのレミィがそこに居た。

 消滅の概念と言う、途方もないナハトのルーツ。

 向けられる親愛を毒に、恐怖を糧に変えて吸収する異常な性質。

 幻想郷の結界に隔てられたことによる恐怖の供給遮断。その二次被害として生じた、加速的な存在の崩壊。

 そして彼の命を最も蝕んでいるモノの正体が、他ならない我々の存在だと言う事。

 

 ……強烈な葛藤に遭っているのだと、直ぐに感じ取った。

 彼女は元々、ナハトを心の底から嫌っていたらしい。父と母を亡くし、肉親は妹だけとなった幼い身に紅魔館を背負わされる運命を押し付けられて、そこを狙ったかのようなタイミングで殆ど素性の知らない強大な吸血鬼が近づいて来たのだ。警戒するのも無理はなかっただろう。

 しかしその嫌悪感は、百年近い年月の果てにナハトの行動の真実を見出した事で解消されたのだ。けれど彼は館から姿を消し、舞い戻るまでの四百年間一度も顔を合わせる事は無かった。故にもうどこかで息絶えたと思い込み、記憶の底へ封印していたと言う。事実、レミィは義父の存在を、ナハトが戻るまで一度たりとも私に話したことは無かったのだから。

 

 だがナハトが予想を外して現代に復活した事で、今まで封じ込めていた感情とフランの抱える闇へ向き合わざるを得なくなった。

 その結果、レミィは彼に対する感情を未だ定め切れずにいたのだと言う。

 尊敬はある。感謝の念もある。フランを救ってくれた恩義も感じている。しかしまた同時に、彼女は理不尽と自覚しながらも、何故ナハトが自分たちを長く放置しておいたのか、その点に憤りを感じずにはいられなかったのだ。

 

 敬意と嫌悪。憤慨と感謝。過去と現在の感情が入り乱れ、喉に魚の骨が引っ掛かったような不快感を抱える日々。そんな中へ投げ込まれたナハトの厄介すぎる性質と生命問題は、鎮火しかけていた火種へ油を注ぐ結果となってしまったのである。

 レミィは彼に対して、先祖に対するものと似た畏敬を強く抱いている。だからこそ、彼女は感謝と共に生まれてしまった負の感情から、そろそろ決別を果たすべきだと腹を括っていた。そこに来てこれだ。負の感情を捨てて心から向き合おうとした矢先に、正の感情を向ければ瀕死のナハトの命へ更に刃を突き立てる結果になると来た。

 レミィの持つ仁義と誇り、そして敬愛へ現実とのギャップが生じ、矛盾と言う名の妖怪の天敵が、心の内に生み出されてしまったのである。

 かつて蛇蝎の如く嫌っていた異形の吸血鬼が、実は裏で百年もの間姉妹を守り続け、そして現代になってなお最愛の妹を救い出した。そんな義父を再び嫌わなければ、いずれ命を食い破ってしまうかもしれないと言う恐怖が、レミィの精神に木の杭を叩き込んだのだ。

 

 あれから早くも四年の月日が流れていった。そろそろフランにも、ナハトは力の強い吸血鬼だから長く眠らなければならないと言う誤魔化しも通用しなくなってきた所である。日々葛藤を続けているレミィも、表では気丈に振る舞ってはいるが限界が近いかもしれない。

 そう思っていた矢先に、ナハトが目を覚ました。前触れも無く、平素となんら変わらない様子で棺桶から身を起こした彼は、四年前に重体へ陥っていた者とはとても思えない健康体で。

 彼の復活がレミィやフランの不安を少しでも取り除いてくれるだろうと嬉しく思う半面、記憶の底から浮かび上がった厄介すぎる彼の性質が、私にまで悶々とした歯痒さを齎した。

 

 正直なところ、彼とどう接すればいいのか分からないと言うのが率直な感想だ。レミィは敢えて多くを語らなかったし、私も訊くことが出来なかった。故に、ナハトとの正確な距離を上手く測れずにいる。

 だがまぁ、それはレミィも同じことだろう。むしろ彼女の方が数倍複雑な筈だ。それは態度へ如実に表れている。彼女は、以前よりもナハトに対して余所余所しくなってしまった。

 レミィの葛藤が解けるまでに、まだしばらく時間がかかりそうである。親友としてどうにか支えてあげたい所なのだけれど……。

 

「……ん?」

 

 どうにも気分が晴れなくて館を散策していたら、ナハトの自室から声が聞こえて来た。フランの声だ。事実を耳にしていないあの子は、レミィと違って何の気兼ねも無く接している。ボードゲームの特訓でもしているのかもしれない。

 少し様子が気になって、ドアをノックしてみた。

 

「入ってもいいかしら」

 

 ……返事は無い。

 と言うより、聞こえていない様子だ。中から声はするのにこちらへ反応が無いのだ。普通なら、ドタドタと足音を立ててフランが開けてくる筈なのだが。

 取り合えずノックはしたので、ドアを開けて中を伺ってみる。

 

 

 紙の台風が巻き起こっていた。

 

 

「……は?」

 

 比喩では無く、本当に紙の台風である。何百もの紙面が意思を持つかのように宙を浮かび、台風の目に居座るナハトの周囲をくるくると旋回しているのだ。

 恐らくこの現象を引き起こしているだろうナハトの全身にはいたる箇所に目が生み出されており、全方位から周囲を漂う紙面へと目を通していた。

 

「……何をやってるのよ貴方は」

「ん? パチュリーか」

「こんばんはパチュリー。お散歩?」

 

 いや、パチュリーかじゃなくて。こんばんはでもなくて。

 

「……ああ、これか」

 

 多分、それだ。

 

「私が眠っている間に、友人からの手紙が山の様に溜まっていてね。流石に全てへ返事を書く事は出来ないが、誠意に応えて目を通しておこうと思ったのだよ。フランには『文々。新聞』を捲って貰って、この四年で幻想郷に起こった出来事を把握するための手伝いをして貰っている所だ」

 

 余程私の表情が困惑に満ち溢れていたのか、ナハトは私の疑問を察して懇切丁寧にそう答えた。フランが『お手伝いー』と屈託のない笑顔を浮かべつつ合の手を入れる。

 なんというか、やはり彼は常識で推し量りがたい存在だ。どこの世界にこんな、目と手が足りないから目を生やしつつ魔法を駆使して一気に情報を吸い取ろうと考える者が居ると言うのか。

 元より、彼の性質が分かったところで彼の思考や真意などは欠片も理解することは出来ないのだ。理解しようとしても無理な話だろう。

 

「四年間で起こった幻想郷の情報、ねぇ」

 

 思考の視点を切り替える。

 あの鴉天狗が書く新聞は、別に捏造された情報が書かれている訳ではないのだが、いかんせん情報媒体として力不足気味だ。正確な情報を得るには、他の情報媒体を絡めた方がより精度を増すだろう。同じ分野で他の著者が書いた本を読み漁るようなものである。その方が良い知識を得られる事は間違いない。少なくとも、誰よりも多くの書物を漁って魔導を体得した私はそう思っている。

 何か、良い情報の供給源となるものが地下の図書館に無かっただろうか。図書館の現管理人として、良い情報媒体の一つや二つ提供できなければ沽券にかかわる。

 

 しばし記憶を探り、そして一つの書を思い出す。

 そう言えば確か、大分前に咲夜が人里で配布されていた本を持ち帰っていた様な気がする。幻想郷縁起と言う、主に幻想郷の妖怪に対する対抗策や考察等が書かれた書物の最新版だ。なんでも人里の人間たちに、著者とその側近がやたら忙しく配っていたものを序でに受け取ったらしい。

 それを興味本位で流し読みしたレミィが、紅魔館の住人は元よりナハトについての記述が書いてあると言っていた記憶がある。私は自分の載っている記事を目にするのが気恥ずかしくてまだ読めずにいるが、レミィの言う通りならば、ナハトに対する人間の考察から新たに情報を得る事が可能なのではないだろうか。それに、咲夜曰く縁起は幻想郷のガイドブックであるそうだから、異変や事件について記されている可能性もある。提供する品として悪くないのではなかろうか。

 それに序でだ。この機会に私も読んでしまおう。効率的に一石二鳥である。

 

 私は転送魔法を発動し、地下の図書館から幻想郷縁起を手元に呼び出した。

 

「ナハト、情報が欲しいならこれを読んでみて。何か知れるものがあるかもしれない」

「ほう」

 

 彼はすぐさま興味を示し、こちらへと視線を幾つか向けた。

 ……黒魔術の演習でグロテスクなものは見慣れているつもりだったけど、相変わらず喉が引き攣りそうになる瘴気に加えてそんな異形の姿を見せられたら気味が悪いわ。

 

「取り敢えず普通に座って、落ち着いて読んだらどう? 焦っていたら頭に入るものも入らないわよ」

「焦っているわけではないのだが……ふむ、一理ある。少し休憩と行こうか」

 

 舞っていた手紙が次々と便箋へ帰宅を始め、無数の眼球が瞼を閉じて姿を消した。これで漸く落ち着いてナハトを視野に入れられる。それでも、四年と言うブランクが生まれたせいか鳥肌が止まらないのだけれど。

 縁起を手渡し、受け取った彼が椅子へ腰かけると、私とフランは後ろからそっと書物を覗き込む。

 

「……どうした?」

「私、この本をまだ読んでないの。序でに読ませて」

「私も私も。お姉様が愉快そうに笑ってたから気になってたのよね」

 

 そうか、と呟いた彼は指を弾き、二つの椅子を部屋の隅から呼び出した。どうやらこの部屋はもうナハトの支配下に置かれてしまっている様である。

 椅子に座り直し、改めて本を見た。

 

「では、早速拝読と行こうか」

 

 

 ――――遡ること四年前

 

 

「ねぇねぇ阿求」

「なに? 小鈴」

「この間のアレ、見た?」

「アレ? ……あー、あの光の事ね」

 

 いつものように、貸本屋の鈴奈庵で借りる本を探していた時の事だった。その店の番をしている友人、本居小鈴が、丸眼鏡の位置を正しながら徐に私へ問いを投げかけて来た。

 その問いを反芻しつつ、私は該当する情報を導き出していく。

 

 先日――正確には、第一十九季神無月の十五の晩――私は不可解な現象を目撃した。

 

 きっかけは丑の刻を過ぎた真夜中の事だった。当時夜の里が嫌に騒がしく、ついつい気になって寝床から抜け出したのが始まりだ。

 外へと出て見れば案の定、喧騒に見合う人だかりが出来上がっていた。皆口々に何かを相談し合い、そして視線をある一ヵ所へと集中させていたのである。

 住人たちの目を釘付けにしていたのは、遠くに鬱蒼と佇む不可侵の土地、妖怪の山と呼ばれる場所だった。

 その山の頂が、山とかなり距離のあるこの人里からでもはっきりと視認できるほどの、強烈なフラッシュを何度も瞬かせていたのである。

 

「アレがどうかしたの?」

「いやね。阿求はあの光の事をどう思ってるのかなぁって気になって」

「どう、ねぇ」

 

 再び、あの時の光景を鮮明に思い浮かべていく。

 

 虹色に輝く雨の様な煌めき。山火事を彷彿させる灼熱の赤。竜の昇天かと見紛う光の上昇。そして、落雷に匹敵する白の閃光。

 一度見聞きした情報を絶対に忘れない私でも、ここ最近の出来事の中で一際強く脳細胞に焼き付けられた光景だった。

 しかし不思議な事に、あの現象は莫大な光こそ伴えども、付随するはずの音波は欠片も耳を揺さぶってこなかった。仮にあの光がスペルカードルールにのっとった決闘によるものならば、少なくとも花火に似た炸裂音は聞こえてくる筈なのにだ。それも山の噴火かと勘違いしてしまう規模のものなら、尚の事である。

 この不可解な現象から……と言うより妖怪の山が発生源という所から、語るまでも無く妖怪の仕業なのは容易に察する事が出来るだろう。

 ただ、私の記憶では今まであんな出来事が起こった覚えは無い。非常に珍しく、またそれ故に不吉の前触れかと思わされる様な出来事だった。

 

「そう言われても、妖怪の仕業としか解釈のしようがないわね。犯人を特定できれば縁起の編集に役立つ情報になるけど、流石に妖怪の山へ取材なんて行けないし、気にしない事にしているわ」

「その事なんだけど……私、犯人の目星が着いたかもしれないの」

「え?」

 

 予想外の小鈴の言葉に、私は思わず数秒硬直してしまった。

 

「それって、どういう意味?」

「……あのさ、先月慧音先生が倒れた事件があったじゃない?」

 

 どこかおどろおどろしい表情を浮かべつつ、小鈴は意図的に質問を質問で返してみせた。応じて、私は再び記憶を掘り返す作業を始める。

 先月、夜が中々明けない異変――後に永夜異変と名付けられた怪現象が巻き起こった。

当時、迷いの竹林に住む藤原妹紅と言う名の謎多き少女が友人である慧音さんに告げた『近いうちに妖怪が里を攻めてくるかもしれない』と言う警告から、三日ほど里に夜間外出禁止令が発令されたのは記憶に新しい。あの時は確か、慧音さんと藤原妹紅が里の守護に当たっていたんだっけ。

 ……そう、当たっていたのだけれど、不幸な事に事件が起こってしまった。それが、慧音さんの意識喪失である。

 意識を失った原因は、正体不明の妖怪に遭遇、そして戦闘の末、濃い邪気に当てられせいと言う噂だ。

 幸い同伴していた藤原妹紅は不死者故に難を逃れたようだが、瘴気を放った妖怪を同定する為にインタビューをしても、彼女は事の顛末を多くは語ってくれなかった。故に、未だ妖怪の正体を掴めずにいるのだが。

 

「もしかして、その妖怪の正体が分かったとでも?」

「違う違う、正体を掴めたとかそんなんじゃないわ。ただ、変わった人からちょっと気になる話を聞いて」

「変わった人……?」 

「うん。金色の髪で紫の着物が似合う凄い美人と、二股に分かれた不思議な帽子の美人さんが井戸端会議をしてて、それを小耳に挟んだのよ。なんでも、あの光は山の妖怪と吸血鬼が争ったものだとかなんとか」

「吸血鬼……レミリア・スカーレットかしら」

「それが、そうじゃないらしいのよ」

 

 吸血鬼と言うワードから紅魔館に住む二人の吸血鬼を思い浮かべていたところ、小鈴の言葉によってその思考は切断されてしまった。

 

「幻想郷に混乱をもたらした吸血鬼異変。あれって確か、レミリア・スカーレットが首謀者として動いていたって話よね」

「そうね。少なくとも私はそう考えてるわ」

「実はそれが間違いで、本当は黒幕が裏に居たらしいの」

 

 すっと、小鈴は一息深く吸いこんで、

 

「噂ではその黒幕こそが、ナハトと言う名の吸血鬼。永夜異変を起こした犯人であり、慧音先生を襲った怪物であり、山の妖怪と争った大妖怪であり、吸血鬼異変の真の首謀者なんだって」

 

 

 小鈴が井戸端会議で耳にしたと言う吸血鬼ナハト。噂すら全く耳にした事も無い妖怪だった。

 幻想郷には未だ存在を確認されていない妖怪が意外と多く存在する。妖怪とは少し違うが、幻想郷の最高神である龍神様がその例の一つだ。だから、私の知らない吸血鬼が幻想郷に居たとしてもなんら不思議ではない。

 問題なのは、何故それを里の者が知っていたのかと言う事だ。

 私は恐らく、話をしていたと言う二人組は妖怪なのではないかと推測している。恐ろしい話だが、人間の里にはしばしば妖怪が紛れ込んでいる事例があるのだ。先の光が本当に山の妖怪と吸血鬼が争ったものならば、力の弱い妖が難を逃れる為に人里へ紛れ込んだとしても不思議ではないだろう。

 ともかく、小鈴の話がただの眉唾物では無い可能性が出て来たわけだ。であれば私も私なりに調査をして、事の真偽をこの目と耳で確かめなければならない。未だ整理されていない永夜異変のデータを確立させる事も出来るし、吸血鬼異変の真相にも迫れる。更には芋づる式に、慧音さんを襲った妖怪の正体も解る事だろう。それになにより、話を聞く限り吸血鬼ナハトは相当凶悪な妖怪の可能性もある。なにせ吸血鬼異変の裏を操っていたと言うのだ。誇り高く傲慢で有名なレミリア・スカーレットが、実は吸血鬼ナハトの傀儡である可能性だって浮上してしまう。そうであれば、かなりの大問題である。

 

 だからまず私は、事の真実を見極めるために聞き込みを行う事にした。

 初めのターゲットは藤原妹紅だ。気絶した慧音さんの近くに居合わせた彼女なら、有益な情報を知っていること間違いなしである。

 けれど私は普段竹林付近に居る彼女の元へ行く術を持ち合わせていないうえに、そもそも彼女の所在地を知らないので、

 

「――こうして剣聖大和は暗黒四天王を見事打ち倒し、諸悪の根源である大魔王との壮絶な戦いへと身を投じるのでした。はい、今日はここでおしまーい!」

「えぇーっ!」

「良いところなのに!」

「やまとはっ? そのあとやまとはどうなったのっ?」

「ふっふっふ、行く末が気になるかいチビッ子ども。でも話が一気に終わってしまってはつまらないでしょう? だから今度私が里に来るまで、良い子にして待ってなさいな。次は感動の決着編よー」

「気になるー!!」

 

 藤原妹紅と接点があるらしく、そして最近よく人里へ姿を見せる様になった蓬莱山輝夜へコンタクトを取り、藤原妹紅の居場所を聞き出す事にした。

 

「こんにちは、蓬莱山輝夜さん」

「あら、貴女は?」

 

 続き続き―! と子供たちから物語の催促を受けつつも笑顔で窘めながら、彼女はこちらへと振り向いた。

 

「稗田阿求と言います。妖怪の学者を務めている者です」

「へぇー、学者さんなの。でもそんな学者さんが私に何の用?」

「藤原妹紅さんの居場所を教えて頂きたくて」

「へっ、妹紅の?」

 

 私がその名を口にしたことが意外だったのか、ぱちぱちと彼女は瞬きをして、

 

「それまた何故」

「妖怪についての調査です。藤原妹紅さんがある妖怪の情報を握っている可能性があるので、インタビューをしたいなと」

「そうなの。うーん残念だけど、あの不死身の焼き鳥ウーマンは神出鬼没だから、今どこにいるかまでは流石に分からないわねぇ」

「誰が不死身の焼き鳥ウーマンよ、ミレニアム男たらしが」

 

 噂をすれば、とは正にこの事だろうか。蓬莱山輝夜の背後から、棘を含んだ女性の声が聞こえて来た。

 案の定、その声の主は藤原妹紅だった。日光を反射させる白い長髪を靡かせながら、鋭い目つきで蓬莱山輝夜を後ろから睨み付けている。噂通り、どうやらあまり仲がよろしくないらしい。

 

「あら、もこたん。奇遇ね。独り寂しくお散歩かしら?」

「もこたん言うなバ輝夜。依頼された竹炭の納品に来てたのよ。てか、そう言うアンタこそ独りぼっちじゃない」

「ぶぶー、私はイナバと一緒に子供たちへお話を聞かせに来てるんですー。だからもこたんと違って独りじゃありませんー」

 

 ビキッ。

 藤原妹紅の芸術作品の様に整った顔貌へ、怒りの皺が刻まれた。

 

「もこたん言うなって言ってるでしょうがこの貧乳! 三秒前の話も忘れちゃうような安っぽい脳ミソしてるからそんな貧しい体なのかしらね!?」

 

 ブチッ。

 なよ竹のかぐや姫を彷彿させる蓬莱山輝夜の麗しい顔立ちに、青い血管が走り抜けた。

 

「どぅァあれが貧乳だとコラァァ――ッ!! そもそもアンタと私はそんな変わんないでしょうがァーッ!!」

「ハンッ。とうとう目まで節穴になってしまったのね。どう見たって私とアンタじゃ歴然とした差があるっつーの!」

「節穴はお前だこの切り干し大根め! その燃え尽きた脳細胞に現実を思い知らせてやるわ!!」

「上等よ受けて立ってやるわこの酢昆布女!!」

「お、お二方、里で喧嘩は不味いですってえっ!」

「うっさい乳兎!」

「邪魔するなら捥ぐわよ!!」

「ぴぃっ!?」

 

 仲が良いのか悪いのかはともかく、藤原妹紅が出現した途端、まるで雪だるまのように事態が膨らんでしまい、遂には取っ組み合いの喧嘩にまで発展してしまった。今までちょこんと隅に居たので目立たなかったが、唐傘頭巾を被った蓬莱山輝夜の付き人らしい人物が仲裁に入るも二人の凄まじい剣幕に当てられあえなく撃沈してしまう。

 遂には子供たちの『ひめさまがんばれーっ』や『もこたんまけるなーっ』などの声援が加わり、不死人同士の喧嘩は増々ヒートアップ。とても取材が出来る雰囲気ではなくなった。

 

 しかし案外簡単に、二人の熾烈な戦いは幕を下ろす事と成る。

 喧嘩の間に現れたのは、腰程まで伸びる青のメッシュが入った銀の髪。

 髪の持ち主の胸元に咲く赤いリボンが、ふわりと揺れて。

 

「里の中で」

 

 ぐわしっ、と猫の様な決闘を繰り広げている二人の頭を容易く掴み取ったかと思えば。

 

「喧嘩をするなと言ってるだろうが、この馬鹿者どもッ!!」

 

 鐘の様に鈍い轟音が、里一帯へ轟いた。

 猛烈な頭突きで額を射抜かれた二人は、語るまでも無く一撃KOに終わり。

 崩れ落ちた二人の間に君臨する慧音さんが、なんだか目から光を放つ歴戦の猛者のように見えてしまった。

 

 

「私はあなた達二人の関係に口出しをしようとしている訳ではありません。その程度の理解力は持ち合わせているつもりです。でも人里で喧嘩はするなとあれ程言ってるでしょうが! もう今月で何度目になりますか! 目を合わせるたびに大暴れして、少しは節操のある態度を心がけて頂きたい!」

「はい……ごめんなさい……」

「誠に申し訳ありません……」

 

 服や髪が土埃で汚れるだとか、そんな事はお構いなしに公衆の真っただ中で正座をさせられる蓬莱人と、二人を叱りつける上白沢慧音。

 一体全体どうしてこうなってしまったのか。私は取材をしたかっただけなのに。

 そう、取材。取材である。よくよく考えてみれば、永夜異変で吸血鬼ナハトに襲撃されたと想定される慧音さんと藤原妹紅が今、目の前に揃っているのだ。これは千載一遇のチャンスではないだろうか。

 しかしこのままだと慧音さんが二人を連行してしまいそうなので、私は仲裁を買って出る事にした。

 

「まぁまぁ慧音さん。今日の所はその辺にしてあげましょう。もとはと言えば私が火種を作ってしまった様なものなのですから、二人に代わって私が謝罪しますので、どうか穏便に」

「むう……。しかし阿求殿、この二人のいざこざは今に始まった事じゃあなくてだな」

「喧嘩するほど仲が良いと言いますし、誰も巻き込まれて怪我をしていませんから、今回は大目に見ましょう? ね?」

「待って、勘違いしてるみたいだけどこいつはただの腐れ縁であって友達だとかそんなんじゃあ」

「ちょっと黙れ」

「いえすまむ」

 

 猛獣の様な目をした慧音さんに睨まれ、背筋をピンと伸ばして石像化する藤原妹紅。この二人は普通に仲が良いらしい。多分蓬莱山輝夜と藤原妹紅も仲が良いとは思うのだけれど。

 っと、いけないまた話が脱線してしまった。

 

「ところで藤原妹紅さん」

「妹紅で良いわ。私も阿求って呼ぶから」

「―――妹紅さん。少し質問をさせて頂いても?」

「ああ、良いわよ。何が聞きたいの?」

「ナハトと言う名の吸血鬼に、覚えはありませんか?」

 

 

 空気が凍った。

 そう形容せざるを得ない程に、その場の雰囲気が凍結してしまった。

 妹紅さんだけじゃない。慧音さんも、蓬莱山輝夜も、先ほどまでの喧騒が嘘の様に無表情と化してしまったのだ。

 重々しい緊張が支配する中、封を切ったのは妹紅さんだった。

 

「その名前、どこで聞いたの?」

 

 ビリビリと、得体の知れない緊迫感が私を支配する。それは彼女が吸血鬼ナハトの情報を認知しており、更に架空のヴァンパイアがこの世の存在であると言う証拠を確立させていた。

 禁忌の類なのだろうか。この先に踏み入るのが、三人の尋常ではない雰囲気と相まって怖くなる。

 けれどここで退く訳にはいかない。私の使命は幻想郷縁起をより良い物へ昇華し、綴り続ける事なのだ。

 女は度胸。掴んだ機会は引き寄せる!

 

「風の噂で耳にしたんです。何でも永夜の異変と深く関わり、先の山での異常事態にも一枚噛んでいた妖怪だと」

「……敢えて聞くけど、知ってどうするの?」

「幻想郷縁起に記載します」

 

 一息、間を空けて。

 

「阿礼乙女である私の務めは、妖怪の実態や対策法を記録し人々の安全を確保する手伝いをする事です。話を聞く限り、吸血鬼ナハトは他の妖怪と比較しても恐ろしく危険度が高い妖怪であると想定しています。その存在が眉唾ではない以上、私は記録として残さなければなりません」

「……そうよね。それが貴女の仕事だもんね」

 

 はぁ、と妹紅さんは諦めたように息を吐き、真剣な光をその炎の様な瞳へ宿した。

 

「いいわ、奴について話してあげる。でも期待しないで。アイツは異様に謎の多い妖怪なの。だから私達の話を聞いても、完全な真実へ辿り着くことは出来ないかもしれないわ」

 

 

「ふう、こんな所かしら」

 

 蝋燭の火が闇夜を仄かに照らし出す中、私は書き上げた縁起の最新版を眺めつつ、緊張の解された息を吐いた。

 

「しかし、本当にこんな吸血鬼が存在するのかしら?」

 

 私はあの後、ナハトを知っていたらしい三人からそれぞれ話を伺った。だが不思議な事に、三人が話す内容はどれもこれも食い違いが起こっていたのだ。

 彼女たちが語るに、ナハトは妖怪の中でも飛び抜けて力の強い妖怪らしい。常に禍々しい瘴気を纏っていて、気の弱い者であれば視認するだけで失神してしまうと言う。事実、噂通り慧音さんは瘴気に当てられて気を失ってしまったらしく、遭遇した前後の記憶が曖昧になってしまったのだそうだ。

 これだけでは非常に危険で凶暴な妖怪だと判断せざるを得なかったのだが、蓬莱山輝夜の弁によると、ナハトは異常な雰囲気と反して非常に紳士的な妖怪だと私に言った。これは吸血鬼の種族自体に当て嵌る事項だ。吸血鬼は異変時を除けば穏やかかつ紳士的な妖怪であり、怒りを買わなければ危害を加えてくる事は無い。

 反して、妹紅さんの意見は異なった。確かにナハトは一見物腰穏やかではあるが、危険極まりない妖怪だと言うのだ。

 理由は、ナハトが有無を言わせない精神掌握能力を保有しているからとの事。

 曰く、ナハトは永夜異変の前日に数多の妖怪を率いて夜を闊歩していたらしい。それを目撃したが為に、慧音さんへ『妖怪が攻めてくるかもしれない』と忠告するきっかけとなったとそうなのだ。

 ここで反発が起こった。蓬莱山輝夜はナハトが危険な妖怪では無いと異議を申し立てたのだ。それからは例によって再び泥沼状態へと陥り、慧音さんの頭突きで沈静化され、強制お開きとなってしまったのである。

 

 結局、ナハトと言う妖怪の素性を知る事は出来なかった。だから一先ずはそう言う吸血鬼が存在すると項目を立て、今後追記を加えていく方針を執る事にしたのだった。

 

「ふあ……いけない。もう結構な時間になってる。寝ないと……」

 

 片づけを済ませ、私はいそいそと寝床へ向かう。自室の襖を開き、そして――――

 

「はぁい、阿礼乙女さん。こんばんは」

 

 ――――私の寝床に座り込み、柔和な笑顔を向けてくる侵入者と目が合った。

 しかも、その侵入者と言うのが。

 妖怪の賢者に名を連ね、数多の逸話を幻想郷に残した境界の大妖怪、八雲紫だったのである。

 

「―――――っ!?」

「慌てないで。大丈夫、あなたを食べに来たわけでも攫いに来たわけではありませんわ」

 

 声を上げる直前に、いつの間にか眼前へ移動していた八雲紫の扇子が、私の口を塞いでしまった。

 この世のものとは思えない眉目秀麗な顔貌が暗闇に映え、それが言いようの無い不気味さを私の心へ植え付けていく。

 

「落ち着いた?」

「…………、」

 

 冷静に状況を判断。どうやら本当に危害を加えようとしている訳では無い様だ。証拠は私が今も無事な事だろう。

 彼女の能力は境界操作。即ち論理的な創造と破壊の力である。彼女がこのタイミングで姿を現したのは、十中八九私がナハトの情報を掴んだからだろう。これが不都合なのであればとっくに私の記憶を消去し、今日体験したこと全てを不自然の生じないレベルで改修する筈である。それが無く私と対面したと言う事は、彼女の目的は私との『対話』であると絞られるのだ。

 

 首肯を示し、私は無抵抗を貫く。

 

「結構」

 

 ふわりとした笑みを浮かべた彼女は、直ぐに私の元から離れていった。

 

「さて。聡明な貴女の事だから、この場に何故私が姿を現したのか、おおよその見当は着いているのではなくて?」

「……吸血鬼ナハト、についてでしょうか」

「ええ、その通りですわ」

 

 パチン、と彼女は扇を畳んで、懐へと仕舞い込む。同時に私は問いを投げかけた。

 

「もしや、小鈴に入れ知恵して私へ情報が流れるよう仕組んだのも貴女の仕業で?」

「ご名答。と言っても、ほんの少し彼女の境界を弄って私達の会話に耳を傾けやすくなるようにしただけですが」

「でも全部計算通りだったのでしょう?」

「全部ではありません。竹林の姫は少し想定外でした」

 

 まさかあそこまでナハトを擁護するとは、と彼女は繋げて、

 

「ともかく、私がここに来たのは貴女に真実をお伝えする為です。ナハトと言う吸血鬼の、本当の裏側をね」

 

 妖しく、彼女は指で空をなぞりながら笑みを浮かべた。

 

「……一つ、腑に落ちない事があります」

「あら、なにかしら?」

「何故、ここまで回りくどい真似をしたのかなと。私にナハトの存在を伝えたいのであれば、今の様に直接訪れた方が効率は良かったはずなのに」

「大事なのは認知する事では無く、疑問を抱く事なのです。ただ知るだけでは、心の機微は浅く終わる。貴女には今日抱いた『疑問』を下火に、危機感を抱いて貰わねばならないのですから」

 

 ……? 

 今のは、どういう意味なのだろう。知ることが重要なのではなく、知るために私が好奇心を働かせることが重要だと言いたいのだろうか。

 では、その意図はなんだ? 彼女の言う危機感とは一体……?

 

「ともかく、これを見なさい」

 

 彼女は遊ばせていた指を、徐に止める。同時に、私の目の前の空間へ砕けた硝子の様な亀裂が放射状に走った。

 境界を操作したのか――――八雲紫の行動を認識した、まさにその瞬間。

 

 息が、止まった。

 

 亀裂の間から漂う、得体の知れない黒い靄。この世のものとは思えない悍ましいナニカ。

 背筋を引き剥がされ、骨に冷水を注がれたかと錯覚した。まるで虫が皮膚の下を這い回っているかのような悪寒が全身を蝕む。無意識の内に歯がカチカチと無様な楽曲を奏で始めた。一刻も早く目を逸らしたいと願っているのに、釘付けにされた眼球は一向に亀裂から視線を逸らす気配を見せない。

 舌が引き攣る。嗚咽の様な音が喉から漏れ出す。湯浴みをしたばかりなのに全身は汗でぐしゃぐしゃになり、太腿からは暖かな感触が伝わってくる。

 

 怖い。怖い。怖い。

 ただその一言が私の脳髄で無数の繁殖を繰り返し、遂には一色に染め上げて――――

 

「大丈夫」

 

 ぴたりと、額へ柔らかな感触が訪れた。

 すると、不思議な事に、病床へ伏せた時に感じる母親の温かさの様な、得も言われぬ安心感が身を包んで。

 安堵がやってくると、まるで息を止める競争でもしていたかの様に肺へ空気が雪崩れ込んできて、思わず私は盛大に咳込んだ。

 

「大丈夫よ。今見た光景は貴女の記憶に焼き付かせない。焼き付けば貴女の心が壊れてしまうもの。安心して。そう、大丈夫よ。怖がらせてごめんなさいね」

 

 子供をあやすように彼女は私の背を撫で、慰める。妖怪の手なのに、どうしようもなく暖かかくて、侵された心が彩を取り戻し始めていく。

 八雲紫の言う通り、恐怖の記憶が他の記憶と比べて不確かなものとなっていた。境界操作によるものだろう。暫くは忘れられそうにないが、いつかは時間が解消してくれると言う安心感があった。

 

「でもこれで貴女の『疑問』は『確信』へと変わった。今の貴女の心には、揺るがない芯が作られたはずよ」

「い、今のは……っ!?」

「もう分かっているのでしょう? あれがナハトよ。貴女が今見て、感じたモノ。それこそがナハトの正体なのよ」

「っ」

「改めて教えてあげましょう。今貴女が垣間見た、ナハトと言う妖怪の真実を。あの吸血鬼の持つ、真の恐ろしさを」

 

 ……これは、早急な対策が必要となるかもしれない。

 今、私は『確信』した。ナハトは決して安全な妖怪などではないと。妹紅さんの言う通りだった。今私が見たあの『闇』は、決して人間に安息を齎す様な代物では無い。

 今までの妖怪とはわけが違う。こんな怪物が幻想郷に存在していて、しかも噂通り様々な事件に関与しているのならば、賢者に守護された人里であっても他人事ではなくなってくる。

 寝ている場合じゃない。眠気なんてとうに吹っ飛んだ。今すぐにでも縁起の編集に尽力しなければ。

 ……でも。

 

「そ、その前に……」

「?」

「……湯浴みを……させてください」

 

 

 

「ナハトは吸血鬼異変の裏の首謀者であり、今の今まで我々の手によって封印されていたの」

 

「ナハトは非常に邪悪で凶悪極まりない妖怪であり、生けとし生ける者全てを支配下に置くことのみを目的に生きている魔の集合体の様な存在です」

 

「ナハトは、『片腕で樹齢千年の樹木を持ち上げる』や『一声で悪魔を大量に召喚する』と言った吸血鬼の逸話全てのルーツなのです」

 

「ナハトは人間を殺しません。人間は血を飲み干し、永遠の奴隷としてしまうから」

 

「ナハトは逆らう者も逆らわない者にも容赦しない。彼にとってすべては玩具と同じなの」

 

「ナハトは―――――」

 

 ◆

 

【幻想郷縁起・吸血鬼の項】

 

 闇夜の支配者  ナハト

 能力      命を邪悪で蝕む程度の能力

 危険度     最高

 人間友好度   皆無 

 主な活動場所  紅魔館

 

 これまで紅魔館には二人の吸血鬼のみが暮らしていると思われていたが、最近になって新たな吸血鬼の存在が確認された。それがナハトである(※1)。

 彼は吸血鬼の保有する絶大な力や、付随する逸話の元となった怪物だ。その力はレミリア・スカーレットを遥かに凌駕し、凶暴性も比較にならないほど高い恐ろしい存在である。孕む危険性は幻想郷の賢者が自ら出向き、封印を施す程であったと言う(※2)。

 吸血鬼の概要にて、私は『異変時を除けば紳士的で大人しい』と記述したが、ナハトに関しては当てはまらないだろう。何故なら彼はこの世に生きる全ての生物を支配下に置く事のみを目的としており、それが最高の喜びだと考えているからだ。

 彼の狩猟対象は人間も妖怪も無く、目についた生き物へ気まぐれに虐殺や洗脳を行い、その命尽きるまで悪逆の限りを尽くす。特に子供を虐げる事を好み、剥ぎ取った心臓を蒐集する趣味を持つと言う、類稀に凶悪な妖怪なのである。

 

《悪行の数々》

・先の吸血鬼異変の真の首謀者、それがナハトである。彼は幻想郷を手中に収めようと暗躍し、賢者との激闘の末封印された。

 

・時を経て封印を破った彼は幻想郷の夜を止め、再び支配を目論んだ。しかしこれは博麗の巫女の活躍によって失敗に終わる。これが永夜異変の概要である。

 

・先の山の怪光の正体が彼である。永夜異変の計画が失敗に終わった彼は、次に妖怪の山へと目を付け、山で最強の妖怪と闘い、再び賢者の手によって封印された。

 

(※3)

 

 

《能力》

 彼は溢れる負のエネルギーを常に周囲へ向けて放出し続けている。それは高濃度の邪気となって無差別に生命を蝕み、枯らしてしまう。

 効果は彼の存在を認知した瞬間に発揮される。例を挙げれば視認だ。視界に捉えた瞬間から、彼の邪気に命を貪り食われてしまうのである(※4)。

 若く生命力に溢れた者ならば、辛うじて正気を保つことが出来るかもしれない。しかし子供や老人、病人であれば瞬く間にあの世行きだ。いや、もしかせずとも血を抜き取られ、永遠にゾンビとして従属させられてしまう可能性の方が高いだろう。つまりナハトに目を着けられた場合、死神のお迎えが最高峰の持て成しと思えるような最期を迎える事となる。

 

《対策》

 現状、遭遇した場合人間が対策出来る術は無い。運よく博麗の巫女が通りかかるか、ナハトの気紛れがあなたを生かすしか、助かる見込みはゼロに等しいだろう(※5)。

 ただし、今現在は妖怪の賢者たちの手によって紅魔館に封印されている。当分復活の見込みは無いとの事だが、復活してしまえば手に負えないのは間違いない。これは決して我々里の人間に無関係な話ではないのだ。

 彼の復活を阻止するためには、人間の恐怖が必要である。しかし普通、人間の恐怖によって妖怪は生を得る。それは周知の事実だと思う。だから怖がればナハトの力が増すのではないか? と不安に思われる事だろう。実はそこを逆手に取り、妖怪の賢者が知恵を働かせたのだ。

 ナハトのような妖怪を親しめと言う方が難しい。恐怖を覚える方が遥かに容易である。それはつまり、親しみ等の正の感情や精神的対策によって妖怪としての存在感を弱める手法が困難だと言う意味に繋がるのだ。

 そこで妖怪の賢者は、ある術を用いた。それは恐怖を反転させ、親しみに交換する封印術である。つまり我々が恐れれば恐れるほど、施された逆転の術によって恐怖は親愛に変わり、ナハトの力を弱め、封印を長引かせる結果へと繋がるのだ。

 これを読んだあなたは、まずナハトを恐怖して欲しい。彼を恐れれば恐れるほど封印は長引き、我々の生活は大きな安全を約束されるのである。

 

 素敵な貴方に安全な幻想郷ライフを。

 

 

(※1)背の高い美麗な男の容姿をしているらしい。甘い見た目はカモフラージュなので騙されてはいけない。

(※2)八雲紫のお墨付きである。

(※3)これらの行動に加え残虐極まりない性格と非常に強力なパワーから、危険度は例外的に最も高い、即ち『最高』と定義した。

(※4)邪気に当てられると失禁するほどの恐怖に襲われる。逃げられない。

(※5)なので不運に巡り合わないためにも日頃の行いは良くしておこう。

 

 

 

 

「……………………、」

「うわー、凄いね。おじさまの項目嘘ばっかり」

「この著者は、どこからこんなにも曲がった情報を掻き集めて来たのかしら。化け物染みた挿絵(イメージ)と言い、最早エンターテイメントの領域にすら届いている様に思えるわ」

「でも面白いわねっ。悪名高き吸血鬼も悪くないんじゃないかしら。だっておじさまはこれくらい、いえ、もっともっと凄い吸血鬼なんだもの――――って、おじさまどこへ行くの? おじさまー? ……行っちゃったわ」

「……まるで苦虫100%のスムージーを鼻から飲んだみたいな顔をしてたわね。それほど記事が不愉快だったのかしら」

「お、怒ってるのかな? どうしようパチュリー、怒ってる時のおじさまは凄く怖いのよ」

「骨身に染みるほど理解しているわ。取り敢えず、今はそっとしておいた方が双方の為にも良さそうね。人里に攻め込んだりしなければいいのだけれど」

 

 

 

 

 

 

 

 

「あらおじ様。こんな時間にどうしたの?」

「レミリアか。なに、少しばかり全力で走りたい気分になったのさ。ところで、今太陽は出ているかね?」

「なに言ってるの? もうとっくに月の支配時間よ」

「……そうか。残念だ」

「変なおじ様。あ、一応言っておくけれどまだ外出禁止だから。お散歩はご遠慮くださいな」

「………………」



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第四章「侵蝕の兆し」
19.「いざ行かん、魔王の住まう紅き城へ」


 ――――ナハト覚醒の数ヶ月前

 

 

 ナハトがこの館を住処としていた大昔、彼は長い生の中で集めた蒐集品を、館のいたるところへ隠したらしい。私が普段居を構えている地下図書館の蔵書もその一つである。

 当時はスカーレット卿が紅魔館を治めていたにも関わらず、私には見当もつかない規模の品々が紅魔館の随所に眠っていると言う。

 

 そんな彼のコレクションの中には、希少な魔法素材も含まれていた。

 

 気が付いたのは、彼が眠りに就いた三年前の事だ。

 私が作った瘴気の作用を攪乱する腕輪を不慮の事故で壊したらしいナハトは、材料を自ら調達して腕輪の模造品を作って見せた。いずれも、希少性の高い素材を揃えて。

 一朝一夕で掻き集められる代物ではないので不思議に思い、材料を何処から仕入れたのかと尋ねたところで、隠し部屋と蒐集品の存在を知ったのだ。

 

 私は、眠る前の彼から魔法素材を使用する許可を得ていた。あの当時はまだ、別件の魔法研究に忙しかったものだから、素材が必要な時になるまで使用を控えようと保留にしていた……のだが、しかし案外あっさりと、その時が来てしまった。新たに開発の余地が見えた精霊魔法の発動に必要な素材が、幾つか足りないと分かったのである。

 その時は丁度、彼が眠りに就いて数週間が経過した頃だったか。眠っているところで悪いとは思ったが、予め許可を得ている私は早速秘密の倉庫を使わせて貰おうと腰を上げる事にした。

 だがここで問題が起こった。隠し部屋の場所は聞いたのは良いが、入り方を聞き忘れていたのである。我ながら何という情けないミスをしてしまったのかと頭を抱えたのは記憶に新しい。

 

 私は捨虫と捨食の魔法によって不老を体得している。故に時間に対して余裕はあるものだから、彼が目覚めるまで気長に待とうと、当時は楽観的に考えていた。けれどそろそろ四年も経とうとしていると言うのに、未だ目を覚ます気配を見せないナハトを待つのも辛いと感じてきてしまった。魔法使いにとって知識欲とは即ち原動力に他ならない。目の前に知識の未開拓地が見えているのにずっとお預けを食らっている様な状態では、長く持つはずも無かったのだ。

 

 結局のところ、私は自らの知識欲に負けた。なので現在、件の隠し部屋と侵入方法を自力で探し出す為に館を探索している真っ最中である。

 パートナーとして連れてきた小悪魔はと言うと、まるで宝探しを楽しむ子供の様に気分を上昇させながら隣を歩いていた。

 

「……あなた、やけに機嫌が良いわね。隠し部屋探しがそんなに楽しいの?」

「いやぁ、えへへ、何と言いますか。悪魔の性とでも言うべきなのでしょうか? 力の強いお方が残した秘密の財宝やらを暴くのって、無性に楽しくなっちゃうんですよね」

 

 金銀財宝がわぁっと出てきたら感動ですよ! と小悪魔は背の翼を動かしながら、興奮気味に気分を表す。

 悪魔は時折『罪』と結び付けられる存在である。この子は悪魔にしては力が弱く、更に悪魔の性と呼べるものがあまり強くない個体なのだが、ナハトのコレクションを暴けると来て強欲の性が刺激されたのだろう。

 まぁなんにせよ、働いてくれるのならそれに越したことは無い。モチベーションの向上は歓迎だ。

 

「ところでパチュリー様、それは一体?」

「ん? ああ、魔力の探知機よ。これで微弱な魔力の痕跡を追ってるの」

 

 私達の前を漂う青い球体に疑問を抱いた小悪魔へ答えを返しながら、私は球体を指で突く。レミィが秘密の部屋の在処を知らなかったものだから、こうして彼の残滓を辿って探し出すほか無いのである。

 ふと、青い球体がとある通路の壁で淡く光を放ち反応を示した。一見するとただの壁だが、ふむ、成程……。

 

「ここ……ですか? 私には壁に見えますけど」

「そうね、あなたの言う通りこれは壁よ。高度な隠蔽魔法が施してあるけれどね」

 

 だが、破れない程ではない。

 小悪魔に持たせた魔導書(グリモア)を受け取り、解呪に該当するページを導き出す。

 壁に触れた指先に神経を集中させながら、壁の存在を惑わせている術式を紐解く作業を始めていく。

 術式の解析――――完了。プロテクト解除。

 

「おおー!」

 

 小悪魔の拍手が通路へ響く。術を解かれた紅い壁は霞の様に消え去り、今まで目にした事の無い隠し扉が姿を現した。

 防護魔法を自らに施したのち、ドアノブへと手を掛け、開く。先に部屋らしきものは何もなく、暗闇が下方へ存在するのみの空間がそこにあった。

 即ち、底の見えない暗黒が先を支配する、秘密の地下階段である。

 

「うわーっ、うわわわーっ! 凄いですねパチュリー様! 本当に隠し通路が出てきましたよっ」

「そうね……って、待ちなさい小悪魔!」

「はい? ――――ひぃえっ!?」

 

 興奮した小悪魔が不用意に飛び出した瞬間、罠として仕掛けられていた魔法が発動し、廊下の奥から眩い光弾が放たれた。

 私は咄嗟に障壁を展開し、光の弾丸を打ち消す。驚いた小悪魔は激しく尻餅を着いてしまった。

 

「まったく、侵入者迎撃用の罠くらいあるに決まっているでしょう。気をつけなさい」

「す、すみません……つい」

 

 小悪魔を起こし、火炎魔法を発動。明かりを確保した私達は、トラップ魔法を慎重に解除していきながら、徐々にではあるが確実に地下へと潜って行った。

 

「何だかいつもの紅魔館じゃない様な気さえしてきますね。初めて来る場所だからでしょうか? 心なしか肌寒いような……」

「地下だもの。上に比べたら気温は低いわ。……あら、思ったよりすんなり奥へ来れたわね」

 

 足元の魔法を解呪し終え、先を照らすと行き止まりが視界に映った。

 しかしこれで終わりではないだろう。今までの夥しい罠と隠蔽工作を見れば、何かが隠されていると猿でも分かる。後は、ここの壁にカモフラージュしているだろう秘密の部屋の入り口を暴けばいいだけだ。

 早速私は、行き止まり付近の調査に取り掛かった。壁に指を這わせ、微弱な魔力を探っていく。

 そうこうしていると、壁に隠蔽魔法が施されている箇所を発見する事に成功した。

 だが入口の魔法よりもプロテクトが固い。流石と言うべきか、中々時間が掛かりそうである。

 

「えっ」

 

 術の解析に全神経を注いでいた時だった。背後から素っ頓狂な小悪魔の声が、突然私の鼓膜を撫でてきた。

 何に驚いたのかは分からないが、解析の方が先だ。小悪魔を無視して作業を続行し、解呪を着々と進めていく。

 

「ちょ、ちょっといいですかパチュリー様」

 

 トントンと指で肩を叩かれ、集中が乱される。お蔭で解呪をほんの少し誤り、隠蔽魔法の防護機能が発動、解除番号とも呼べる記号の羅列が再構成されてしまった。あともう少しだったのに。

 半ばイラつきを覚えながらも、私は背後へと視線を向ける。

 

 目を、見開いた。

 

「あの、何でか分からないんですけれど、扉が出てきました」

 

 驚愕のあまり刹那の間、思考に空白が生じてしまう。

 動揺する小悪魔の細指が指し示す先に、古めかしい木製のドアが出現していたからだ。

 力が弱く、ナハトが施した隠蔽魔法を解こうものなら全力で取り組んでも数日はかかるだろうこの小悪魔が、あっさりと隠し扉を見つけてみせた。驚愕に値しない訳なんて無かった。文字通り度肝を抜かれたかのような気分にさえなった。

 それだけではない。彼女はこの扉を、ナハトの魔力残滓が反応しなかった箇所から発見したのだ。驚くには十分すぎる要素である。

 

「あなた、これどうやったの?」

「私にも何が何だか……。無意識に壁を触ってたら、突然扉が出てきたんです」

「なに?」

「本当なんですよ! 多分、偶然絡繰りを解除しちゃったんじゃないでしょうか」

 

 ……そんな事が有り得るのだろうか?

 魔法とは即ち学問である。故に、今までの隠蔽魔法や呪いなどの魔法に関係した『鍵』を紐解くには、ちゃんとした専門の理論に基づく方法を実践しなければ不可能なのだ。数学を勉強した事の無い者が、どうして数式を解けるだろうか。小悪魔が起こした現象はまさしくそれなのである。ビギナーズラックと呼ぶには、あまりに無茶と言える成果だろう。

 

 不審に思いながらも、私はドアノブへと手を触れる。無論防護魔法は施し済みの状態で。

 しかし私の警戒は見事に空振り、魔力や術の発動などの反応はとんと見られなかった。ひんやりとした金属の冷たさが、静かに肌を這う感触があるだけだ。

 ノブを捻り、ドアを押す。ぎこちない金具の音と共に、隠された空間が露わになる。

 

「これは……宝物庫?」

 

 絢爛な輝きを暗室の中で瞬かせるそれは、たった一言で表せる部屋だった。

 紅魔館にある平均的な部屋のサイズよりはかなり大きなもので、室内の至る所に、フィクションの中でしか目に出来ないような、金銀財宝の山がこれでもかと積み上げられていた。

 金貨銀貨は当たり前で、豪勢な宝石が幾つも散りばめられた装飾品や、さらには金の彫像なんかも点在している。整理を知らない財宝山脈は乱雑に置かれているものの、これこそが本来の光景なのではと思わされてしまうほど、目を見張る財の数々だった。外の世界に持ち運べば、これだけで博物館が建造されてしまうかもしれない。

 

 他に目に映る物と言えば、財宝から隔離されているように、中央で鎮座している黄金の台座くらいか。遠目からだが、どうやら小さな本と水晶玉らしき物が少々安置されているらしい。

 

 私はその極小さな範囲だけ、まるで時間が置き去りにされているかの様な印象を感じ取った。財宝にはそれなりに埃の層が重なっており、人が入らなくなって長い歳月を過ごして来たのだろう哀愁が伝わってくるのだが、あの台座にはそれがない。埃どころか、何の汚れすらも着いていないのだ。数メートル先の地点からでも、はっきりと確認出来る程に。

 

「何でしょう、この部屋。物凄いお宝の山なのに、どこか薄気味悪いですね……。見たところ、お嬢様の宝物庫なのでしょうか」

「かもしれないわね。それにどうも、私が求めている場所ではないらしい」

「えっ。この部屋は調べないんですか? 魔石の一つ二つ、転がっていそうですけれど」

「それは無いわね。ナハトはコレクションを分別する癖が染みついている。地下図書館が良い例でしょう? 彼が魔石と貴金属をごっちゃにしておくなんて有り得ないわ。他に魔石だけがある保管庫がある筈よ。だから、目に見えて不必要な場所まで物色するべきではないの」

「はぁ、成程」

「おまけにこの部屋からはナハトの魔力残滓が見当たらないし、過去の紅魔館には多くの吸血鬼が居たそうだから、ナハトやレミィ以外のヴァンパイアが秘密の金庫を作っていたとしても不思議じゃあないわ。あなたの言う通り、レミィのへそくり金庫の可能性も高い。よって目的地とは別物だから探る価値無し。分かった?」

「うーん、残念です……ちょっとこの金貨の大山にダイブしたかったんですけれど」

「飛び込みたいならレミィに聞いてからにしなさいな。それよりもナハトの反応がある対面部屋の方が気になるわ。まずはそっちから探るとしましょう」

 

 

 

 

 

 改めて隠蔽魔法を解いたところ、対面の部屋は魔力を持つ鉱石を多数保管していた部屋だった。この広すぎる館中を探し回らずに済んだ事は、ある意味幸運だったと言えるだろう。

 

 

 

 ――――現在

 

 

 

「魔理沙さん、一緒に魔王を討伐しに行きませんかっ!」

 

 

 

 緋想の異変が幕を下ろし、暫く経った中秋の早朝。昨晩の霧が残した露が未だ渇き切っておらず、少しばかり冷え込む秋らしい明け方の事だった。

 魔法の森に蔓延する胞子の害を最小レベルにまで落とす魔法薬を飲んだ私は、いざ魔法薬の調合に使える素材を探しに行かんと我が家の玄関を開けた訳なのだが、何故か家の前に最近幻想郷へ越して来たばかりの現人神が立っていた。しかも私の姿を目にするやいなや一瞬の内に私の手を掴み、訳の分からない勧誘をして来る始末である。

 胞子は大丈夫なのか? と言った疑問は、まぁ問題なさそうなのでさておき。

 取り敢えず私は、新参者の東風谷早苗と晴れやかな挨拶を交わす。

 

「おはよう早苗、今日は清々しい朝だな。最近の調子はどうだ? お前が幻想郷に来てそろそろ一年経つ頃だが、馴染めてきたか?」

「えっ。あ、はい。お蔭様で徐々にですが、皆さんに受け入れて貰えて信仰も増え、大分安定してきましたよ」

「おっ、そうか。そりゃあ良かった。なぁなぁ、折角だから今度神社に寄ってもいいか? 守矢神社引っ越し一周年記念に何かパーッとやろうぜ。勿論私も酒と食い物を持っていくからさ」

「わぁ、良いですね良いですね! それ是非やりましょう!」

「よっし、そうと決まれば早速準備だな! 私とお前らだけじゃあ何だか寂しいし、他にも何人か声掛けとくよ。早苗の方からも頼むぜ」

「まっかせてくださーい! ああー久しぶりの宴会楽しみだなぁ。今から張り切ってしまいますね!」

「ははは、私も楽しみにしてるぜ。じゃあ神奈子と諏訪子にもよろしくなー」

「はーいっ」

 

 企てた宴会を成功させるため、早苗はウキウキした笑顔を浮かべながら空を飛んで去っていく。おそらく、今から守矢の二柱を筆頭に四方八方へ開催の旨を伝えに行くつもりだろう。

 私も手を振りながら離れていく早苗へ応じる様に笑顔を浮かべて見送り、実に晴れ晴れとした気分の中、再度素材探しへ向かおうと足を動かした。

 ああ、それにしても、宴会楽しみだなぁ。

 

「――――ってちょちょちょちょ! そうじゃないんです待ってくださいよ魔理沙さん!」

「チッ」

 

 どうやらあしらわれた事に気がついてしまったらしい。勘の良い奴め。折角厄介払いと宴会の約束を同時にこぎつけて好調だったのに。

 大慌てで旋回してきた早苗は、私の前にふわりと降り立って行く手を塞いでしまう。邪魔だそこをどけ。

 

「なんだ? 私の用はもう済んだぜ」

「いや用があるのは私の方ですよ!? 本題の魔王討伐です、魔王討伐」

 

 ……さっきから引っ掛かっていたのだが、その魔王ってのは何なのだろう。果たして幻想郷にそんなけったいなモノが居ただろうかと、思わず首を捻って考えてしまう。けれど残念ながら思い当たる節は無い。強いて言えばレミリアが当て嵌まるのかもしれないが、アイツは魔王なんて雰囲気が似合う柄じゃないだろう。確かに昔はギラギラしていたけれど、今ではすっかり丸くなってしまっているのだ。この前なんか宴会で悪い飲み方をしたのか直ぐに酔っぱらってしまい、咲夜の膝上で可愛らしい寝顔を披露していた程である。アレが魔王なら、異変時の霊夢の方がよっぽど魔王らしい。

 

「その、なんだ。さっきから連呼してる魔王ってのは一体全体何なんだ?」

「あれ? 魔理沙さんもしかしてご存じない?」

 

 意外そうに驚く早苗へ、私は首肯を示す。すると早苗は、来た時からずっと握りしめていた一枚の紙を徐に広げた。

 それはどうやら、幻想郷縁起の一ページを写したものらしかった。どうやって複製したのかは知らないが、紙面には阿求の筆跡をそのまま盗み取ったかのように精巧な字で、恐らく何かの妖怪についての説明が綴られている。

 

 早苗は羅列する文を指差しながら、

 

「これです。ナハトという名の恐ろしい吸血鬼の事ですよ。随分前から里で有名らしいのですが、知らなかったのですか?」

「ナハト……? あーそう言えば、そんなのちょっと前に流行ったなぁ。まだ噂されてたんだなソレ」

 

 腕を頭の後ろで組んで、私は苦笑いを浮かべる。

 

 大体四年くらい前の事だっただろうか。ある日突然、阿求が血相を変えて幻想郷縁起を人間の里中にばら撒いた事があった。今まで阿求がそんな行動をとった事が無かったものだから、私も霊夢も疑問符を浮かべたものだ。

 

 当の阿求曰く、幻想郷でとんでもなく危険な妖怪の存在が明らかになったらしくて、その危険性や対抗策を載せた縁起の号外を至急配布していたのだそうだ。

 どんな奴が載ってるんだと記事に目を通してみれば、私も霊夢もとんと心当たりの無い――いや、霊夢はチラッと見た事があるかもと言っていたか。とにかく記事の脅威度と反比例して全く噂に聞かない妖怪だったものだから、何故阿求がそんな妖怪の情報を手に入れたんだと霊夢と共に問い詰めた記憶が微かに残っている。

 

 だがそこで阿求がゲロッたのは『突然現れた紫から聞いた』と言った証言だったため、私と霊夢は直ぐに警戒を解いて解散した。

 何故かと問われれば、理由として霊夢が『紫は妖怪だけど、人間の里へ絶対に危害を加える様な真似はしないわ。そもそも暗黙の了解として人里不干渉のルールを妖怪どもへ植え付けたのは他ならないあいつ自身だし、紫自身動くこと自体が稀だもの。何か考えがあるんでしょ』とあっさりスルーしたのが大きい。アイツが危険ではないと判断した物事は、意外と大事にならないのだ。

 

 それになにより、紫の奴は何を考えているか分からない胡散臭さの塊みたいな妖怪だけれど、考え無しに行動を起こす愚者では無いと私も知っているからだ。これが低級妖怪の起こした陰謀ならば何かしらの悪意を疑っても不思議ではないが、紫なら一周回って信用できる。いや、本来は信用しちゃ不味いんだけれども。

 あとはまぁ、強いて述べるならば、何故かは分からないのだが私は『ナハト』に関する話を聞くと無性に恥ずかしくなったり悪寒が止まらなくなったりしてしまうのだ。この不可解な現象が不気味で、なるべく関わりたくないからそっぽを向いていたのも、究明に乗り出さなかった理由の一つだろう。

 

 とまぁそんな訳で、人里から退治や原因究明の依頼などが特に舞い込んでこなかった事も重なって、私達の記憶からはすっかりと消えてしまっていたのである。

 

 

「で、お前は大昔の流行を掘り起こして一体全体どうしたいんだよ。まさかソイツを見つけ出して退治、そこからあわよくば名声を広めて信仰獲得……ってな具合に余計な企みを抱いてる訳じゃないよな?」

「うぐっ……」

 

 図星である。風祝は頬を引き攣らせて一歩後退した。

 誤魔化すようにこほん、と早苗は咳払いをして、

 

「ええっと……実のところ半分は正解です。信仰拡大の狙いが無いと言ったら嘘になっちゃいますから。でも、もう半分は違います」

「ほう、その心は?」

「依頼されたんです。里の方から」

 

 意外な返答に思わず眉を顰める。今更なんでその吸血鬼の討伐依頼が湧いて来たのか、そして何故よりにもよって守矢神社に託されたのか。そもそもあの吸血鬼は今、確か紫とかその辺りに封印されたと言う話ではなかったか。

 疑問はどんどん湧いて来るが、一先ず話を聞くことにした。

 

「実は最近、妖怪の()()が里の内外で頻繁に見つかっているそうなんです。それも殆ど生まれたばかりか、準じて力の弱い妖怪ばかり」

「なに? 妖怪の死体だと?」

「はい。いずれも干物の様な状態で、表情は恐怖に歪んだ惨たらしい有様だったと」

 

 ……そいつはまた妙な話だ、と私は眉を顰めた。

 妖怪は肉体に縛られ難い存在だ。無論、だからと言って死なないなんてことは無い。ただ妖怪が()()()()()のは獣上がりの妖怪、即ち精神では無くまだ肉体に存在の比重が傾いている妖獣や付喪神と言った、依代に依存する者のみなのだ。

 天狗や河童など一部の例外を除いて、普通妖怪にとっての死とは雲散霧消、消滅である。だからこそ妖怪の死体なんてものが残っていれば、結構な騒ぎになったりする。それも惨たらしい状態だったのであれば、里の人間が不安を煽られるのも仕方のない事だろう。

 

 けれど私が気になるのは、誰が何の目的で妖怪を殺めて、どんな方法で死体を残すよう仕組んだのか、だ。

 

「妖怪の死体が残るとは珍しいな。それも干からびてなんて」

「でしょう? 退治されるなりなんなりして存在を保てなくなったのであれば普通、綺麗さっぱり消えて無くなっちゃうはずですよね。弱小妖怪であれば尚の事です。それなのにミイラ状態とは言え残っていた」

「しかも被害者が人間じゃなくて妖怪ってのがまた引っ掛かる。確かに退治屋は博麗の巫女(博麗霊夢)だけじゃなく何人か里にいるが、依頼でもされない限り妖怪狩りなんて恐ろしい真似をやる筈がないしメリットも無い。そもそも退治屋の犯行なら妖怪は消滅するか、封印されて何かしらの器に封じ込められている筈だからな」

「そう。そこで依頼者さんは、これは逆に人外の仕業ではないかと考えた訳です」

 

 先ほどまでのお茶らけた表情とは一変。守矢の風祝は真剣な眼差しをこちらへ向けた。

 しかし成る程、少しずつだが事の全容が見えて来た気がするぞ。

 

 犯人は里の退治屋とは考え難く、霊夢は有り得ないのは言わずもがな。早苗の勢力でもないと見ると、これは人外の犯行の可能性が高くなる。

 次に目的だが、人外の凶行だとする仮定を鑑みると、少しばかり目的が絞られてくる。

 妖怪が妖怪を襲うのは縄張り争いや決闘か、もしくは力の略奪が主な動機だ。ミイラの様なカラカラの変死体が残った点から考えるに、憶測だがオカルトなエネルギーを根こそぎ奪われた為に、抜け殻の肉体が残った可能性が高い。

 ナメクジに塩を振りかけると一見溶けたように見えるが、実は水分を吐き出させられただけで極限に萎んだ本体が残されている様に、干からびる程エネルギーを吸い取られた事で、存在の比重を僅かな肉体の方へ傾けられたのではないだろうか。

 更に恐怖に歪んだ表情を浮かべて死んだと言う事は、被害者は命を一瞬で吸い取られたのではなく、徐々に徐々に追い詰められて引導を渡されたと言うケースも想定できる。恐らく、まるで歯が立たない敵から一方的に嬲られたのだろう。

 

 これらの要素から導き出される空想上の犯人は、弱小妖怪ならば手玉にとれるような上位の妖怪であり、力を吸い取る能力を持った存在であり、力を吸い取る理由を持つ者で、悪趣味な事に弱い者いじめを行う様な残酷極まりない性格をした人外である。

 つまり、

 

「それで依頼者の推測した答えが、件の吸血鬼って訳か」

「はい。当たってます」

「でも変だな。確か噂のヴァンパイアは紫に封印されているんだろう? あいつの封印を破って復活出来るとは到底思えないんだが」

「私もそう思っていたのですが、この記事を見てください」

 

 早苗が一つの項目を指し示す。そこには、ナハトと言う吸血鬼が積み上げて来た悪行の数々についての記載があった。

 目を通せば、吸血鬼異変の黒幕説と共にこんな一文が。

 

『彼は幻想郷を手中に収めようと暗躍し、賢者との激闘の末封印された』

 

 ――封印()()()

 他ならない、あの紫の手によって。

 それなのに、永夜異変の時期にて一度封印が破られていると言うではないか。

 

「これは……!」

「ええ、破られているんです。妖怪の賢者が仕掛けた堅牢な封印を、この吸血鬼は自力で破って出てきているんですよ」

「こいつが封印を破れる可能性は十分って訳か」

「それだけじゃありません。ここに記されている賢者の施した『親愛と恐怖を逆転させる封印術』ですが、四年前よりも効果が薄まっていると依頼者さんは考えています。私は四年前の幻想郷を知らないので何とも言えませんけれど、依頼者のお方が危惧するほどには、里の中で以前より噂されなくなったのではないでしょうか」

 

 そりゃそうだ。なにせアレは四年も昔の出来事なのだ。今日まで皆がナハトとかいう吸血鬼を恐れてビクビクしているなんて事があったら、それは最早精神的な流行り病の領域である。

 

「てことは、封印の力が弱まって逃げ出していても不思議じゃないと」

「そうなりますね。そして最近の連続干からび死体事件です。強力な封印を破る時に使ったエネルギーを、吸血鬼が補充しようとして行った凶行の残滓と考えれば……」

 

 ――合点が行く、って訳か。

 

 ぞわりと、全身の鳥肌が一斉に芽吹いた感覚があった。それは、直面してしまった事態の深刻さを私の脳ミソが真に理解した証拠に他ならなかった。

 本当ならばとんでもない事だ。あの阿求が危険度『最高』と定義して、里の住人全員の耳にタコが出来るくらい警告して回っていた妖怪が復活しているかもしれないなんて。それだけじゃなく、早苗の話では里の内側にも奴が訪れている可能性があるだなんて。

 

 第二次吸血鬼異変。

 

 私の脳裏に、不穏な気配が浮かび上がって来る感触があった。

 

「……と、深刻に話し込んじゃいましたが、これはあくまで依頼者さんの仮説の領域であって別にそうと決まった訳ではありませんからねー」

 

 一瞬前の重苦しい雰囲気は何だったのか。まるで先の会話は通り雨だったとでも言わんばかりにコロッと表情が一変し、人懐こい笑顔を浮かべる早苗。思わず脱力してしまった。

 私はズレた帽子の位置を正しながら、

 

「まぁ、大まかな事情は把握した。んで? 推理タイムの次は一体何をやろうってんだ」

「だから、そこで魔王討伐ですよ」

 

 いや何でそうなる。

 早苗に依頼したらしい人間が、奇怪な事件の発端をナハトと結び付けて恐怖し、退治を依頼したのは分かった。けどそれは早苗の言う通り机上の空論に過ぎない。阿求が記述した様な妖怪が本当に解き放たれていたとしたら他の妖怪勢も黙ってないだろうし、そもそもあの紫が封印の突破を見過ごすとは思えない。件の吸血鬼が紫を出し抜けるほどの力と知能を持っているのであれば話は別だが、そこまで強力な妖怪なら犯行の証拠を残すとは考え難い。

 

 私が言いたいのは、依頼者の推理は一見事件の真相と合致していそうで穴が開いていると言う事だ。いや、完全に否定出来るかと問われればまた違うんだが、これ以上続けると泥沼になるので思考を切り替える事にする。

 さておき。何故早苗は今、近所の森へ冒険に出かけようと意気込む少年の様に目を輝かせながら、魔王討伐などと張り切っているのだろうか。

 

「不確定要素だらけなのに、全部無視して紅魔館へ乗り込もうってのか?」

「実のところ、事件の真相について私が出来る事は殆どないんです。というより本筋は神奈子様と諏訪子様が調べて下さるそうなので、私は別件で動いている訳なのですよ」

「その別件が館へ行く理由だと?」

「はい。言ってしまえば、この依頼はクライアントの不安を取り除けば良い訳ですからね。先人がかつて妖怪退治の証として、視覚的効果が得やすくなるよう動物のミイラを偽りの証拠として用いた様に、依頼者さんが安心出来る『素材』を発見できれば良いのです。例えば魔王の所有物とか、体の一部とかね。後は二柱がやってくださいますから」

「……お前、意外と腹黒いんだな」

「失礼な。依頼者さんの不安は取り除かれて信仰は増え、神奈子様と諏訪子様のお力で事件の内容も明るみになって解決しますし、良い事尽くめで素敵な作戦じゃないですか」

 

 それに、もし魔王が復活していたら倒せばいいのです。封印で弱っているでしょうし、勝機は十分にありますよ――――そう言いながら、早苗は幣を威勢よく振り回す。

 まぁ、一応こいつなりにちゃんと依頼を解決しようとしているのは理解出来た。だが紅魔館へ行くならまた別の問題が顔を出してくる。次はそこを攻略せねばならないのだ。

 

「言っておくが、今の時間から正面突破するのは相当キツイぞ」

「ええ? 吸血鬼は日光が苦手だから陽が上っている内は弱る筈ですよね。むしろ好機なのでは?」

「ところがどっこいそうじゃない。あの館のお嬢は無理やり叩き起こされるのが大嫌いなんだよ。攻め込めば確実に、美鈴から始まって妖精メイドやら咲夜との弾幕戦へ発展するだろう? その音で起きたらさぁ大変だ。安眠を妨害されて怒り狂ったレミリアが、寝ぼけ頭かつ手加減無しの殺す気弾幕で大歓迎してくれるんだぜ」

 

 しかも運が悪けりゃ妹と一緒にな、と付け加えたら、早苗の笑顔が大きく引き攣った。幾ら凄い神様二柱の加護を持つ現人神と言えど、本気になった吸血鬼を相手にするのは怖ろしいだろう。これは私や霊夢の様に館と深く関わった事のある者しか知らない裏事情……と言うか、攻略法の一つなのである。

 以前私も昔早苗と同じ考えで昼に押しかけた事があったが、あの時は本当に死ぬかと思った。レミリア安眠妨害激怒事件以来、私は館へ行く時はもっぱら夜と決めている。私の睡眠時間が削られて肌にダメージを負う危険性があるが、命には代えられない。

 

 もっとも、ここのところずっと紅魔館には行ってないのだけれども。何故かあの館に忌避感が出来てしまったのだ。理由は分からないが。

 

「……だ、大丈夫ですよ! 正攻法じゃなければいいんですから。ほら、魔理沙さんそういうの得意そうですもん。裏口から忍び込むとか泥棒みたいな真似事が」

「おい」

「要は見つからなければいいのですよ。スニーキングミッションって奴です。目立たず騒がず、影を縫うように目的(ミッション)のみを遂行する蛇になるのです」

 

 ……駄目だこりゃ。どう説得しても折れそうにない。

 任務を遂行しようと燃え上がる強力な意思に加えて、彼女の持つ好奇心が不屈の実行力を生んだらしい。早苗は霊夢と違ってかなりアクティブな性格をしているが、こう言ったところの頑固さは似通っているのではないだろうか。やはり巫女は巫女なのか。

 

 奮闘しようと意気込む早苗が、一度やると決めたらテコでも動かない霊夢の姿勢と重なって見えたせいか、これ以上抵抗しても無駄だと私は悟った。どうやら、今は私が折れるべきシチュエーションらしい。

 一息。

 

「うーん……忍び込むのは別に問題ないが、館中をサーチ出来る美鈴が居るからなぁ。裏から潜入しても一発で気付かれるぜ」

 

 もっとも、弾幕ごっこで一戦交えて撃破すると本人が()()使()()()見逃してくれる場合もある。むしろそっちの方が多いと思うのは、私の気のせいでは無い筈だ。レミリアは良い部下に恵まれているなぁとつくづく思う。

 けれど事実、あの館は潜入し続けるのもまた難しい。例え美鈴が見逃してくれてもその先には時を操る超人メイドが館をうろついているし、数多の妖精メイドの目もある。

 奴らに見つかれば最後、弾幕ごっこへ突入からのレミリア起床、そして手加減無用の大暴れと言うデスコンボは免れられないだろう。

 

 それを説明して尚、早苗は胸を叩いて誇らしげな笑みを浮かべた。

 

「そこで私の奇跡ですよ」

「……あー、そう言えばそんなチカラの持ち主だったなお前」

 

 そう、東風谷早苗は『奇跡を起こす程度の能力』を持つ現人神なのである。力の原理としては、神奈子や諏訪子の力を借りて自然現象に関する奇跡――例えば恵みの雨や神風など――を引き起こすものであるらしい。

 

「だがお前の能力って、御神籤(おみくじ)の大吉が当たるだとかそういった幸運に作用する代物じゃないんじゃなかったか?」

「ええ、少し前まではそうでした。でも最近、力にちょっぴりと変化が起きたんです」

「変化?」

「はい。この力は元々、神奈子様と諏訪子様のお力を借りて発動させていた能力でした。だから(けん)(こん)に関する奇跡が主な効力だった訳なのですが……ここのところ、二柱だけでなく私自身にも信仰が集まっている様でして。そのせいなのかどうも力の境界が曖昧になっちゃって、お蔭でほんの少し変質しちゃったんです」

 

 具体的には軽い詠唱だとアイスの当たり棒を引けるくらいになりました、と早苗は締め括った。アイスの当たり棒が何なのかよく分からないが、とにかく微々たるものながら運勢に干渉できるようになったと考えていいのだろうか。だとしたら、相当心強いのだが。

 

「これを駆使して人に出会う確率、言うなれば巡り合わせの運を下げられるかどうか、ちょっと頑張ってみます。もっとも見つからないなんてのは流石に不可能ですから、ちゃんと忍んでいないとあっさり発見されちゃいますけどね」

「無いよりはマシと考えるべきか。まぁ十分だろう」

「おおっ、その反応、同行して下さると言う訳ですかっ?」

「お前ひとりで行かせるわけには行かないだろ。直ぐにレミリアからボコボコにされる未来が見えてる様なもんだからな。紅魔館初心者の早苗を私がサポートしてやるよ」

「流石っ! やっぱり魔理沙さんに頼んで正解でしたよ!」

 

 早苗は今にも飛び跳ねそうに喜びながら、ようしそうと決まれば早速乗り込みましょう今こそ魔王に天誅を下す時が来たのですーっと意気込んで、幣をぶんぶんと振り回す。

 その様子を眺めつつ、やれやれだとは思いながらも、内心楽しみに感じている私も居た。ここの所刺激の無い生活が続いていたし、一丁ここいらでスリルとハプニングが起こる冒険をするのも悪くない。人生はいつでも冒険の連続なのだから。

 

 

 

 

「そう言えば、何で霊夢とかじゃなくて私を誘ったんだ?」

「いやー、やっぱり同業者へ無暗に助けを乞う訳にはいきませんし、それに……」

「それに?」

「……やっぱり魔王の城へ攻め込むパーティには、魔法使いのポジションが必要不可欠だと思うのですよっ!」

 

 あとは剣士とか格闘家とか、近接ファイターが居ればなお良かったのですが――とぼやく早苗は、やっぱりよく分からない奴だった。 

 

 

 四年間に渡るブランクと言うものは、存外厄介なものであるのだなとつくづく思い知らされる今日この頃。

 目覚めを迎えて早くも数週間が経とうとする中、私は情報の収集に明け暮れる毎日を送っていた。

 無論、私の知らない空白の幻想郷について、である。

 

 助かる事に、輝夜が幻想郷の日々の出来事を綴った(ふみ)を眠りに就いている間も送り続けてくれたお蔭で、その手紙が幻想郷が辿った四年間の経緯を把握するのに大変役立った。私は良い友人を持ったものだとつくづく思う。今度何らかの形で礼をせねばなるまい。

 もっとも、輝夜の手紙だけで全てを知れた訳では無いので、館の住人を筆頭に聞き込みを行ったり、射命丸文の書いた新聞を読み解いていく事で精査を重ねている最中ではある。何故か館の者達が余所余所しくなってしまったので聞き込みに苦労を強いられたが、まぁ仕方のない事だろう。魔性を浴びる事の無かった四年の空白が溝を生んでいても不思議ではない。私の瘴気とはそういうものなのである。むしろ数百年の果てに再会したレミリアとフラン、そして美鈴が私を許容しただけ奇跡と呼べるのだ。

 

 さておき、四年の間に幻想郷は様々な変化を迎えていたらしい。私が知った粗筋は、六十年に一度起こると言う結界の異変、新たな巫女と神社の出現、レミリア達の月への侵攻や博麗神社の倒壊事件と言ったところだろうか。うーむ、こうして出来事を並べてみるだけで、眠っていた時間がとても惜しく感じてしまう。

 

 中でも守矢神社と言う新たな勢力の幻想入りに立ち会えなかったのは痛い。これは私が歓迎の音頭を取って神社との友好を深め、引っ越して来た神々へ私が人畜無害な吸血鬼である事を表明すると共に、友人をゲット出来るかもしれなかった数少ないチャンスだったのだ。相手は神なので不審な妖怪代表と言っても過言ではない私を無条件に嫌悪するかもしれないが、モノは試しと言う奴である。意外と成功していたかもしれない。確率は須臾に等しいだろうが。

 なんにせよ、最大の機会を逃した事実は大きい。今ではすっかり私の悪評が広まってしまっていると容易に想像がつくし、イメージの塗り替えは非常に難しくなった事だろう。

 

 次いでレミリア主催の月面旅行――即ち輝夜や永琳の故郷へ彼女達が出向いた出来事である。月がどの様な所なのか実に興味を惹かれたものだ。残念ながらレミリアが月の話題を口にする事を酷く渋った為に深く聞き込めなかったものだから、余計に気になってしまった。果たして彼女は何を目撃したのだろうか。

 

 そして極めつけに、幻想郷中に花が咲き乱れたと噂の異変である。

 幻想郷縁起曰く、約六十年周期のペースで幻想郷を包む大結界に綻びが生じ、外の世界との繋がりが一時的に生まれる事で小さな異変が起こるらしい。今回は外の世界から大量の魂がこちらへ溢れ、彷徨う魂魄たちが植物に宿る事で四季折々の花が一斉に咲く現象が起こったと言う。大元の原因は、外の世界で戦争が起こったり災害に見舞われたり、とにかく大規模な事件が起こって多くの命が失われてしまったからだそうだ。

 こう言っては不謹慎なのかもしれないが、四季の草花が一挙に輝く光景を拝む事が出来なかったのは非常に残念でならない。自然の摂理に反する現象とは言えど、さぞ壮観な風景が広がっていた事だろう。ほんの少しくらい焦げても良いから、一度日の下で眺めて見たかったものだ。

 

 とまぁ長々と回想を述べてはみたものの、私が声を大にして言いたいのは、貴重な経験を得られる機会を失くした事が大変惜しいものであったと言う事だ。惰眠を貪るとはまさにこの様な事態を指すのだろう。幾ら萃香との戦いで無意識に力を使い果たしていたらしいとは言え、あまりにもあんまりな結果である。

 

「…………」

 

 さておき、今の私は療養のため強制リハビリ中の身だったりする。具体的には体が本調子を取り戻すまでの間――四年前の私を診てくれたらしい永琳からの伝言曰く数ヶ月――館から出してもらえなくなったのだ。

 永琳から事情を伺ったレミリアによると、私は自身の存在を繋ぎ止めるのが難しくなるほど力を消耗していたらしい。四年も熟睡していたところから、当時の私がどれだけ悲惨な状況だったか用意に察する事が出来るだろう。今までこんな事は無かったのだが、私もとうとう年になってしまったと言う事なのだろうか。無茶が禁物になってしまうとは、存外虚しく感じてしまうものである。

 

「……退屈だな」

 

 自然と、潤いを失った吐息が漏れ出していく。

 情報収集をしているとは言え、基本は本当に暇なのだ。紅魔の住人が各々の役割をこなしている中、独りアウェイな今の私が他に許されたモノと言えば読書か館内の散歩、そしてフランがチルノ達友人へと振る舞う料理の材料にスパイスを加える作業くらいである。見方を変えれば完全に隠居した老人の生活だろう。椅子に座ってただボーっと紅茶を飲んでいる今の状況など、正にそのものではないか。

 このままでは精神が腐ってしまいそうである。今となっては、私が擬似生命を与えた魔本さえ恋しく感じてしまう様にさえなってしまった。ただ、あの本は丁度私が目覚める数ヶ月前からさっぱり見られなくなったとパチュリーが言っていた事から、恐らくただの本に戻ったのだろう。偶然が生んだ産物で、あるべき形に戻ったとは言えども、やはりどこか寂しく感じてしまう。

 

「おじ様」

 

 ふとした拍子にノックが響いたかと思えば、、鈴の音の様に澄んだ声と共にレミリアが姿を現した。

 

「君がここへ来るとは珍しいな。一体何の用だ?」

「これ、天狗の新聞。今フランが調理中で手が離せないから、代わりに私が持ってきたのよ」

「新しく届いたのか。わざわざありがとう」

「妖精メイドに頼んでも怖がって行きやしないし、他は手一杯だったみたいだから私が動いただけよ。気にしないで」

 

 どこか余所余所しく、レミリアは手をひらひらと振った。

 やはり私が目を覚ましてから様子がおかしい。何かを隠している様にも見える。

 いい機会だ。ここで腹を割って話してみるとするか。

 

「……君は、私に何か隠している事があるのではないかね」

「……、」

「そう緊張しなくていいさ。別に咎めている訳じゃないんだ。ああ、折角だからお茶でも飲んでリラックスして行くのはどうかな。丁度、新しいブレンドの感想を第三者から聞きたかった所だ」

「折角だけど、今日は遠慮するわ。ごめんなさい」

「そうか。まぁ時間が空いたらいつでも来なさい。歓迎しよう」

「ありがとう」

 

 それじゃあ、と言い残して、レミリアは足早に私の部屋を去って行った。

 やはりと言うか、レミリアは何かを隠している様だ。昔から本当に隠し事の分かり易い子である。しかし無理に聞く必要も無いのだ、今はそっとしておくとしよう。彼女は彼女で何か考えがあるのだろうからな。

 まぁ至極楽観的に考えれば、ただの反抗期の様な気がしなくも無い。四百年越しの反抗期とは、どういった反応を示せば良いのだろうな。成長を喜ぶべきなのか不思議な所だ。

 

 さておき、折角持ってきてくれたので、早速新聞へと目を通す事にした。

 

「……む、怪死事件?」

 

 すぐさま目に映ったのは、デカデカとした文字でピックアップされている出来事の内容である。なんでも妖怪の干からびた死体が各地で発見される事件が多発しているらしい。奇妙な事だ。妖獣や付喪神でもない限り、妖怪の死体が残る事は稀なのに。

 

 しかしこれは、不謹慎かもしれないが良い暇つぶしになるかもしれない。この様な怪死事件が起こったとなれば十中八九人外の仕業、つまり異変かその類だろう。わざわざ人間が危険な妖怪の死体を放置するとは考え難い。であればその内博麗の巫女が動くのだろうが、彼女が解決するまでの間、犯人がどの様な人物か推理するのも悪くないかもしれないな。

 要は安楽椅子探偵の真似事である。咲夜や美鈴から適当に情報を入手して貰って、そこから考察するだけだけのごっこ遊びと言ったところか。だが別に犯人を捕まえる訳では無い。幻想郷では、妖怪が起こした怪事件の解決は巫女の専売特許なのだ。私が解決するのは筋違いと言う奴だろう。

 

 そうと決まれば早速、協力者を集めるとしようか。精神的な惰眠から醒める、いい刺激になりそうである。

 

 

 

 

 

 

 幻想郷の、どことも知れない大地に少女は居た。

 

 薄桃色の日傘を差す緑髪の少女が視線を向ける先には、土が捲れ荒れ果てた草原の上でのた打ち回り、もがき苦しむ妖怪の姿。

 少女は苦しむ妖怪を助ける素振りなど欠片も見せることなく、ただただ冷ややかにその光景を見下ろし続けている。

 やがて足掻き続けた妖怪は、ふとした拍子に石像の如く動かなくなり、

 

 ――劇的な変化が起こった。

 

 今の今まで血色を保っていた妖怪の肉体はみるみる萎び始め、何百年もの年月を過ごしたミイラの様に乾き朽ち果ててしまったのだ。

 その光景はまさに、吸血鬼から全身の血液を吸い取られていく獲物の様で。

 ものの数秒もしないうちに、少女の眼前には変わり果てた妖怪の死体が出来上がった。

 

「……、」

 

 暫し死体を眺め続けていた少女は何を思ったか、遺骸の足を恐れも無く引っ掴むと乱雑に遺体を引き摺り始め、土を擦る音を生々しく立てながら、何処かに姿を消し去ってしまう。

 

 後に残されたのは、何事も無かったかのように黄金色の草葉が揺れ踊る、一つの原風景のみだった。

 



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20.「絡み合うイト」

 事件の裏を暴くには、何といっても情報が必要不可欠である。

 

 しかし私は現在軟禁中の身だ。自ら外部へ赴いて情報を集め難い状況下に置かれている。

 なので動けない自分の代わりに少しでも情報を集めてくれないかと、フランドールに館内へ連れ込まれていた美鈴に頼みこんでみた。するとどうやら、チルノやルーミアを筆頭とした外部の者から情報を得てくれたらしい。

 

 だが美鈴は、門の傍から殆ど離れる事の出来ない立場にある。

 

 

「――以上が、怪死事件について分かっている情報になります」

「ふむ。なるほど」

 

 そんな彼女に代わって情報を運んできてくれたのが、相変わらず私の前で尻尾の硬直を解いてくれない、地下図書館の司書だった。

 普段はパチュリーの下で働く彼女が何故私の元へ来てくれたのかと聞かれれば、それは満足に身動きの取れない私と、普通ならばそう言った雑務を引き受けてくれる咲夜が昼夜を問わず多忙の身であるから、パチュリーが双方に気を遣って彼女を派遣してくれたと答えるのが正解だろう。

 

 こんな面倒な連絡手段を取らずとも直接門へ出向ければいいのだが、外出禁止令に加えて外は快晴の為、私は一歩も外へ出歩けない。先ほど多少灰になる覚悟で忍び出ようとしたら、咲夜に一瞬で止められてしまったので、恐らく私が外へ出ないよう何か探知魔法か監視の仕掛けを施されている可能性がある。まさか庭先に足を運ぶ事すら禁じられるとは思わなかったが。

 まぁ、四年前にそれだけ心配をかけてしまったという事なのだろうから、甘んじて受け止めてはいる。いるのだが、不便な状況に変わりはない。軟禁解除とお達しの来る日が、一日でも早く来ることを願うしかないだろう。

 

 っと、そんな些細な事情はさておき。

 

「大体のところは把握できたよ。忙しいのにすまなかったね」

「いえいえ、お気になさらず。あっ、それとこれ、パチュリー様から渡してほしいと」

 

 そう言って、小悪魔は小さな首飾りを差し出してきた。

 静かな輝きを湛える金属の輪を受け取り、小さなシャンデリアの明かりへ照らす。鈍くも鋭い煌めきが瞬いた。

 

 これは私が密かにパチュリーへ依頼していた、月の魔力のヴェールを装着者へ纏わせる『日除け』である。私は日光にとびきり弱く、対処をしようにも私の手で作ったものは例外なく陽の光を浴びると灰になってしまう為、今まで手をこまねいていたのだ。そこで七つの属性魔法を操る一流の魔法使いたる彼女に、特製の日除けを依頼していたのだ。

 

 身に着けてみると、仄かな魔力の膜が私を覆った。これで日光を中和出来るか、実践が楽しみである。

 

「ありがとう。パチュリーに後でお礼に出向くと伝えてくれ」

 

 礼を述べつつ、部屋に常備してある菓子を差し出す。小悪魔はサブレを緊張気味ながらも受け取って、小動物のように口へと運んだ。一瞬頬が緩んだので、どうやら味は上出来の様である。

 ……しかし、あからさまに小悪魔の元気がない。普段から白い肌は不健康的な青さを増しており、目の下には隈まで出来ている。まるで恋人の死にでも遭ったかのようなやつれ具合だ。

 

 どうにも気になったので、訊ねてみる事にした。

 

「随分顔色が悪いが、どこか具合でも悪いのか?」

「あっ、いえ。ただ最近、何だかちょっと気分が悪くて……少しだけ熱っぽいんですよね」

 

 菓子を平らげながらもどこか気怠そうに息を吐く小悪魔は、俄かに信じ難い答えを返して来た。気分が悪く熱っぽいとはつまり、人間と同じ様な風邪を引いていると言う事だろうか?

 

「悪魔は風邪を引くのかね?」

「うーん……少なくとも私は引いた事など無いのですが、どうなのでしょう。これが風邪なのかな」

 

 どうやら初めての体調不良に困惑している様子だが、述べられた症状はどう考えても病の類である。悪魔が風邪を引くとは奇妙な事もあるものだ――と一瞬思ったが、そう言えば大昔に一度だけ、フランドールが病に伏せた事があったな。であれば、稀な事態とは言え別に不思議な事ではないのだろうか。

 古い記憶が蘇って懐古の情に囚われそうになるが、今は小悪魔の体調を改善させる方が先決である。まずは病原を特定するために、解析の魔法を準備しよう。

 

「よければ診てあげようか。軽い体調不良ならば私でも治せ――」

「あっ、大丈夫です。ナハト様に診て貰ったらむしろ悪化しそ――ああああああああああああ違うんです違うんですこれは悪意的な意味ではなくて私なんぞが貴方様に診て頂くのは恐れ多過ぎて逆に悪くなりそうって意味であって違うんですそうじゃないんです生意気言ってごめんなさい舌を抜かないでえっ!!」

「――………………」

 

 前から思っているのだが、彼女は未だそんなにも私が怖ろしいのだろうか。別に危害を加えたことなど一度も無いし、それなりに蟠りも解けたと思っていたのだが……。

 どうやら彼女の中の私はまだ、冗談も何も通じない極悪悪魔か何からしい。何も本気で泣かなくてもいいだろうに。

 

「そんな事はしないから、落ち着いてくれ」

「うう……す、すみません。本当に悪気は無いんです」

「気にしないで良いさ、慣れているからな。……ところで君の風邪についてだが、確か月に一度、紅魔館は永遠亭から薬を頂戴しているのだろう? 主に咲夜用と聞いているが、その中に妖怪用の物も少しばかりあった筈だ。咲夜に頼んで出してもらうと良い」

「そうさせて頂きます……」

「うむ、養生は大事だ。後で私の方からもパチュリーに言っておこう」

 

 さておき、妖怪が罹る病として考えられるのは、基本的に『気からなる病』である。過度なストレスによって鬱屈した感情が溜まり過ぎると、調子を崩すことが稀にあるのだ。精神的な要因に弱い妖怪の特徴と言えるものであり、共通の弱点とも言えるだろう。

 なので小悪魔の要望通り、私は診察へ携わらない事にした。体調が悪いのに余計なストレスを与えてしまっては、彼女の言う通り病状を悪化させかねないからだ。

 

 微妙にふらつきを覚える足取りで、小悪魔は部屋を退場していく。心配だが連れ添う方が迷惑だろう。幸いそんなに図書館まで距離は無いから大丈夫だろうが。

 

「……」

 

 小悪魔が居なくなって訪れる沈黙の中、私は早速、物思いの海へと沈んでいった。

 と言っても、耳にしたミイラ化事件についての情報整理である。

 

 彼女から聞いたところによると、例の変死事件は私が目覚める数ヶ月前から起こっていたものらしい。初めは妖怪の山付近で発見され、それから徐々に徐々に発見場所が幻想郷全体へと広がっていったと言う。

 とは言っても大量死が起こっている訳では無いらしく、稀に自然死した獣の亡骸が見つかる様に、ポツポツと発見されているとのことだ。氷精一味も幾つか見つけたらしく、一時期彼女たちも面白半分に真相を探っていたのだとか。

 

「……考えれば考えるほど、奇妙な事件だな」

 

 一周回って、これは本当に事件なのかとさえ疑いを持ってしまいそうになる。妖獣でも付喪神でもない妖怪が死体を残す事から明らかに異常事態であり、加えて()()()()()()()がまるで見えて来ない所が実に奇妙と言えよう。

 

 妖怪にとっての死とは、大まかに分けると二種類だ。一つは完全に忘れ去られてしまうことである。妖怪は一応肉体を持ってはいるものの、その出自や特性から、存在の鎖を人間の幻想に頼っている身だ。人間から存在を否定され、忘れ去られてしまえば、どれ程力の強い魑魅魍魎であろうと存在を霧散させてしまうのだ。

 もう一つの死因は、精神的な要素で退治される場合だろう。吸血鬼なら日光、悪魔なら聖書と言うように、人外には弱点を持つ種が非常に多い。個々の力が脆弱な人間は、そこを攻めて超常の者を始末する。いわば退治と呼ばれるものである。

 

 だがしかし、これらの死因がミイラ化に関連があるのかと聞かれれば答え難い。忘れ去られて存在を繋ぎ止めなくなったのであれば消滅する筈であり、退治されても同じように消滅……もしくは何らかの器に封印されるのが定石なのだ。何故姿形を残した状態で枯渇を迎えたのか、そこが気になる所である。

 ここから第三の選択肢として考えられるのは、何者かによる意図的な殺害、もしくは伝染性のナニカに感染し、『病』を患った事による結果と考えられそうだが……。

 

「……、」

 

 前者はさておき、後者は中々無理のある考えだな、と自嘲を含めて鼻を鳴らした。

 

 そもそも人外は、人間と根本的に異なる生物である。妖怪の間にペストの様な致死性の流行り病が広がった事例など今まで聞いたことも無い。そんなものが起こり得るとすれば、恐怖や憂鬱に怒りと言った、極限状態において伝染する精神的要素が原因となった場合のみだろう。

 例えば、潜在意識からくる集団催眠だとか。

 

「……ならば果たして、これは偶然なのだろうか」

 

 仮に伝染する精神的要素が事の発端だとして、それを偶発的に生じた現象だと決めつけられるだろうか? このような精神感染はウィルスや細菌、原虫などと違って、発生するのに何者かの意図が必要になってくるだろう。宗教による信仰の統一、統率者の下の集団行動や洗脳が良い例だ。アレらの現象もざっくりと言ってしまえば、第三者が感情のベクトルを操作して感染を広げていった結果、生じてしまうものなのだから。

 

「……まぁ、この可能性は限りなく低いと考えていいか」

 

 椅子に深く座り直し、足を組む。カップを手に取ると紅茶が空になっていたので、再びポットから注ぎ入れた。

 

 敢えて突拍子もない推理を試みてはみたが、しかし結局のところ、どの方向からアプローチを試みても答えはほぼ同じである。この事件は、どこぞの黒幕が策を弄した為に引き起こされたモノである、という点だ。

 ただこの場合、問題となってくるのが動機なのだ。何故、犯人はわざわざ妖怪をミイラ化させる必要があったのか? この一点とミイラ化の直接的な原因が、謎と言う名の濃霧に包まれてまるで見えてこない。ただ殺害を目的とするならば、証拠を残さないよう隠蔽工作を施すのがセオリーだと言うのに。

 

 やはり、枯れ果てた死体の現物を直接調べなければ断定出来ないか。

 さて困った。どうにかしてサンプルを手に入れられれば良いのだが……。

 

 

 

 

「魔理沙さん、ダンボール持ってませんか?」

「いきなり何を言い出すんだお前は」

 

 紅魔館の数少ない窓から侵入を果たした直後の事だ。早苗の奴が突然、影へ潜む様に壁へ身を寄せしゃがみこんだかと思えばだんぼーるとか言う訳の分からない物を要求してきた。

 

 阿求はコイツの性格を『変わり種だが普通の人間』と称していたが、私には一体全体こいつの頭の中でどの様な物語が展開されているのかまるで見当もつかない。アレか。馬鹿と天才は紙一重と謳う様に、普通と不思議の間にも、紙一枚程度の薄い境界線しか引かれていないのではないだろうか。

 いやまぁ、今はこんなのだけど、平常時の早苗は本当に良く出来た真面目な奴だって事はちゃんと理解している。ただ、ほんの少しネジが外れ易いだけで。

 

「なにって、潜入と言えばダンボールと相場が決まっているのですよ」

「その相場、私にゃ朝飯と言えば絶対にパンを食うってのと同じくらい馴染みの無いモンだぜ」

「幻想郷にダンボールは無いのですか?」

「そうだなぁ、幻想郷生まれかつ幻想郷育ちな生粋の都会派娘の私だが、そんな奇妙な名前は耳たぶに掠った事すら無いな」

「そうですか……ありませんか。うむむ、こういうシチュエーションって少し憧れていたので、ちゃんと形から入りたかったのですけれど……残念です。せめてドラム缶は無いのでしょうか」

「日本語を話せ。ここは幻想郷だ」

「あっ。そう言えば魔理沙さん、ちょっとこれを見てくださいよっ」

 

 駄目だこれは、聞いちゃいない。完全に自分の世界へ浸ってしまっている。

 

 東風谷早苗と言う現人神は、何というか、この通り一直線な部分が強い女だ。夢中になるものにはとことん夢中になるタイプだろう。悪く言えば安直で、良く言えば熱心な女である。時折こうして話を聞かなくなるのが玉に瑕だが、神社繁栄の為に努力を惜しまないひたむきな姿勢は嫌いじゃない。むしろ好感すら持てる程だ。

 そんな早苗さんは、私の前に二枚の札を差し出して来た。

 

「そいつは?」

「私の変質してしまった奇跡の力と二柱の御力を、ほんの少し封じ込めたお札です。効果は消音と気配遮断の二つ。隠密行動には役立つかなって」

「へぇー」

「あーっ、微妙に信じてませんね? ならば論より証拠、まずは着けてみてくださいな」

 

 促されるまま、私は札を手に取った。どうやら貼り付く機能があるらしく、腕にでも引っ付けておけばいいと言われたので、素直に従い貼り付けてみる。

 

「どうですか?」

「どう……って言われてもな。正直よく分からな」

『ぃィよう魔理沙ァッ!! ひっっさしぶりだねぇッッ!!』

「きゃあっ!?」

 

 訝しむ様に札を眺めていたその時。いきなり守矢家一柱の絶叫が、頭の中で花火の爆発でも起こったかのように炸裂した。急に甲高い叫びが聞こえたモノだから、館の奴らにバレると焦るあまり条件反射で遮蔽物へと隠れてしまう。

 そんな私をおかしそうにクスクスと笑う早苗が『大丈夫です、諏訪子様の声は札越しに神通力を接続した私と魔理沙さんにしか聞こえていませんから』と楽しそうに説明を述べた。勿論、その間も札の先に居る絶叫の犯人――洩矢諏訪子は絶賛大爆笑中だ。腹を抱えて畳の上を転げ回っている光景が、この場でスケッチブックに書き出せるくらい容易に想像できる。

 

「お、お前らなぁ! 脅かすなよ、折角忍び込んだのにバレちゃうだろうが!」

「あはは、ごめんなさい。流石におふざけが過ぎましたね。でも大丈夫です。このお札を貼った今、私達からは一切の音も気配も外部に出ていませんから。この会話も、普通に話している様に見えますが実は札を通じて音を繋げているのですよ」

『へへ。そいつはなー、私の力作なんだぞ。気を抜いてる奴の背後なら簡単にとれちゃうくらい気配を消せるし、もっと言えば真後ろで漫才をやっても気付かれない程の代物さ。どうだい、凄いでしょ? 早苗から面白い注文が入ったから、久々に頑張ってみたよ』

 

 お茶目で悪戯好きな洩矢諏訪子は、未だ笑いの余韻で声を引き攣らせながら言った。

 

「それはありがたい……んだが、諏訪子よ。お前って結構暇なんだな。神社の裏方ってのはそんなに退屈なのか?」

『う、五月蠅いな。なんだい、折角親切設計にしてあげたっていうのに。文句あるなら返してよねー』

「まぁまぁ、そう拗ねるなって。でもお前たちが担ったらしい事件の調査はどうしたんだよ?」

『問題なくちゃんと進めてるよ。今、神奈子の奴が調べてるところさ』

「……やっぱりお前自身は暇なんだな」

『あーあーあーあー、聞こえない聞こえないやっぱり札の効果は本物だ。っと、それよりも魔理沙。ちょっとその場で音を立てて見てよ。ちゃんと消音効果は出てるはずだから』

 

 自信満々な諏訪子へ応じる様に、私はその場で足踏みをしてみた。

 おお、足音が全く鳴ってない。確かに靴が床を踏みしめているのに、欠片も音が耳へと伝わってこないのだ。視覚と聴覚の齟齬のせいで、軽い不安感を覚えてしまう程である。

 本当に凄いな。完璧に気配を消せるマジックアイテムじゃないか。諏訪子が張り切ったと声高に宣うのも頷ける。

 

「おおー! 良いアイテムだなぁコレ。なぁなぁ早苗、今度コレの作り方を教えてくれないか?」

「残念、企業秘密でーす」

『ウチに入信するなら教えてあげても良いよ』

「ちぇっ。ケチんぼだな」

「……っと、誰か来たみたいですね」

 

 何かを察知した早苗と同時に、遠くで誰かが勢いよく駆け回っている足音が耳へと入った。

 音の主はどうやらこちらへ向かって来ているらしい。私達はすぐさま近くの物陰へと身を潜めた。

 

 目立ちたがりなレミリアの趣向によるせいなのか、紅魔館は無駄に豪華絢爛な内装をしている。なので意外と隠れられる場所が多い。柱や階段の裏はもちろんのこと、壺などのインテリアや家具を置く台すらも、私たちくらいの人間ならすっぽり隠してしまうほどの規模を誇っているのだ。

 陰に息を潜め、通行人が去るのをひたすら待つ。バタバタと、何かが走る音が確実に近くなってくる。

 

 現れたのは時を操るメイド長と、この館に住む二人目の吸血鬼だった。

 

「さ、咲夜ぁっ! 時間操作のオンオフで瞬間移動しながら追いかけてくるの止めてよ怖いよぉっ!!」

「残念ながら、今の私はお嬢様に妹様の教育を一任されている身ですので命令をお受けすることは出来ません。大人しく捕まってくださいな」

「と言うかなんで追いかけてくるの!? 最近は何も悪いことしてないでしょ!?」

「ここの所、館の物がよく行方不明になっているのですよ。お嬢様の帽子だったり地下図書館の本だったり食器だったり私のお召し変えだったりと、それはもう様々に。さて妹様。ついこの間、貴女様は物を隠す悪戯をしてお嬢様からお叱りを受けたばかりでしたよね? なので一先ず、重要参考人として連行させて頂きたく思います。弁解はそちらで存分にお試しくださいな。ああ、勿論『クロ』ならお仕置きですよ。必殺お尻プライベートスクウェアぺんぺんの刑です」

「うわああああああああん! 今回は本当に私じゃないんだってばああああああああっ!!」

 

 飛ぶことも忘れて恐怖に泣きじゃくりながら全力で逃げ惑うフランドールと、消えては現れを繰り返し優雅に()()()フランを追い回す咲夜が、まるで嵐のように廊下を通り抜けていった。

 

「……咲夜がフランを追いかけるだなんて、珍しい事もあるもんだ」

 

 フランの奴、距離を放したと思った次の瞬間には耳元で涼し気に会話を繋げてくる咲夜から追い掛け回されるとは、さぞや恐怖へ駆られているに違いない。おまけに絶対咲夜はフランをわざと泳がせている。あの調子だと、もう暫くこのレースは続きそうだ。だってあの咲夜が良い笑顔だったのだ。ちょっと前までは鉄仮面みたいな顔しか出来なかった咲夜が、あんなに楽しそうな笑顔を浮かべていたのだ。日頃のストレスやらなんやらを、ここで存分に発散する腹積もりなのかもしれない。

 つまりこれは、アレだろうか。ひょっとすると『さでずむ』って奴なのだろうか。

 

「なんにせよ、グッジョブだぜフラン。私達のための尊い犠牲になってくれ」

 

 時空間を意のままに操るアイツから逃げ延びるなんて真似は、撃退でもしない限り不可能に等しい。フランには悪いが、このまま奴の眼を惹きつけてもらおう。

 

「あの、魔理沙さん。彼女、レミリアさんの妹ですよね? 確か吸血鬼はこの時間帯だと眠っている筈じゃあ……」

 

 当初の計画とは随分食い違った光景を前に、早苗は不安の色を混ぜた声を上げた。ごもっともな意見である。

 うーんおかしいな、最後に館へ行った時は確かに夜型の生活をしていた筈なのだけれど。いつの間に生活リズムを変えたのだろう。

 

「昔はそうだったんだが、参ったな。人間の血を吸い過ぎて健康的な生活リズムに目覚めてしまったのかもしれん」

「ど、どうしましょう」

「焦るな早苗、まだレミリアが起きていると決まった訳じゃない。あの二人は別にいつもくっ付いて行動してるんじゃ無いからな。それによく考えてみろ、仮にレミリアが起きているとしたら、それだけで寝坊助さんに襲い掛かられる危険性が無くなるんだ。起きているなら弾幕で十分撃退できる。見つかるリスクが高まった事を除いちまえば、決してデメリットばかりじゃあないのさ」

「なんだか限りなく前向きに近い後ろ向きなポジティブの気がします……」

「なぁに、後ろを向いても前へ歩けば前進するもんだぜ。さ、今のうちに行こう。咲夜の目が無い内に進めるだけ進んだ方が良い」

 

 物陰から抜け出し、静かに行動しようと壁伝いに移動していく。

 ――その時だった。

 

『ねー、美鈴さんから言われたところどっちだっけ?』

『こっちこっち! ここの辺りを調べろって言ってた!』

 

 丁度咲夜たちが去って行った方角から、幼い声が複数響く。間違えようもなく、この館の妖精メイドどもだ。

 なんてこった、美鈴の奴め。まさか妖精を駆使して私達を捕まえるよう仕向けて来るとは。フランと咲夜と言い、今日の紅魔館は新しいイベント尽くしの様子だ。

 

「えっえっ? なんでバレてるんですか? 札の効果はちゃんと出ている筈なのに」

「落ち着け、美鈴自身が来た訳じゃない。多分、私たちが札を貼る前の大まかな位置しか分かっていない筈だ。隠れれば問題ないぜ」

 

 手近にあった適当なドアを開き、中へと入る。どうやらそこは、地下へ続く階段らしかった。

 早苗と私は弾幕を形成するエネルギーを小さな光源として作り出し、足元に気をつけながら、階段の続く限り潜っていく。

 

「ここで行き止まりの様ですね」

 

 終点の壁が姿を現し、同時に私達の進行も止まった。石造りの壁に囲まれた地下にいるせいか、上と比べてかなり肌寒い。氷室として使われていてもおかしくなさそうだ。

 

「図書館以外の地下階段とはな。こんなモンが紅魔館にあったなんて知らなかったわ」

「……魔王の住む紅い洋館に、隠された秘密の階段っぽい場所……! ああ、幻想郷はなんてファンタジーな世界なのでしょうっ。こんなシチュエーション、一度で良いから体験してみたかったんですよね。感激だなぁっ」

「私にはお前の価値観の方がよほどファンタジーだけどな。まぁ、未知のエリアを発見した喜びは分からんでもないが」

『ねぇ、こっちに居るんじゃない?』

「!」

 

 上方から薄く光が差し込んできたかと思えば、妖精メイドの声が再び鼓膜を刺激した。美鈴の奴、どうやら私達を本気で探し出そうとしているのか、虱潰しに探すよう命令した様だ。じゃなきゃ飽きっぽい妖精がここまで執拗になるわけが無い。

 普段は能力で気付いても見逃してくれる事の方が多いのに、とことん珍しい対応だな。こんな時に限ってやる気になってしまったのだろうか。

 

 しかしこれはマズい状況だ。妖精どもは絶対に奥まで確かめに来る。だが逃げ場なんてものはどこにも存在しない。降りて来られたら間違いなく見つかってしまう。見つかれば最後、ここまで来た苦労が水泡に帰し、面倒な事態へ雪だるま式に膨らんでいくのは確実と言って良いだろう。

 

 ならばいっそ、強行突破に踏み切るか? 

 私はポケットの中の八卦炉を確かめながら、思考の渦を脳裏に巻いた。

 

「魔理沙さん」

 

 それを遮るように囁かれる、小さな早苗の声。

 

「よく見たらここ、二つドアがありますよ」

「なに?」

 

 早苗が光球で照らし出した壁には、対面する二つのドアが存在していた。

 まるで、天国と地獄どちらかへ通じる分かれ道であるかの様に。

 

「このドアは開くのかな……あれ、何でしょうコレ。ドアに何か術が掛かってて開きません」

「見せてみろ。……あー、封印の魔法だなこりゃ。しかもかなり厳重に仕掛けてあるぜ。私には解けそうにない。そっちはどうだ?」

「ん……開きました! 入れます!」

「よし!」

 

 四の五の言っている場合では無かった。見つからないのであればそれに越したことはない。早苗の見つけた新たな暗闇の中へ、転がり込む様に避難する。

 ドアを閉め、降りて来る妖精たちの対策をどうするか懸命に頭を働かせながら、私はドアから距離を置いた。

 

「ここでやり過ごすしかないな。問題は、見つかるまでの時間をただ先延ばしにしただけって事だが」

「任せてください」

 

 悩む私の前へ早苗は乗り出すと、ブツブツと呪文の様な言葉を紡ぎ始め、

 

「はっ!」

 

 小さな掛け声と共に、閉じられたドアへ力を放った。眩い光が一瞬暗闇を照らすが、再び暗黒の空間へと染め上げられていく。

 突然の発光にチカチカする目を擦りながら、私は早苗へ問いかけた。

 

「一体何をしたんだ?」

「諏訪子様のお力を借りて、ドアに薄く壁を被せました。明るい所で見れば色の違いでバレちゃうかもですが、薄暗いですし妖精なら外見上の判別は出来ないでしょう」

 

 ……成程、坤を創造する力か。大地の属性を操るのだから、この建物と同じ材質の壁を薄く張るなど造作も無いのだろう。流石にあの妖精たちが見破れるとは思えないし、これで索敵の目からは潜り抜けられそうだ。

 ホッとした矢先、壁の向こう側から少女達の声が聞こえて来た。

 

『誰も居ないね』

『おっかしいなー、この辺りに忍び込んでるって言ってたんだけど……美鈴さんの気のせいだったのかしら』

『気のせいと言えば、こんな階段前からあったっけ?』

『あったんじゃない? そんな事より、誰も居なかったんだから早く戻ろうよ。ここ、何だか気味が悪いよ』

『そうね、戻りましょっか』

 

 パタパタと階段を昇っていく足音を聞き送り、一先ずの安堵を得る。

 しかし今の会話、妖精メイドもここの存在を知らなかったと言う事か。いや、妖精メイドだけじゃないな。恐らく咲夜もここの存在を認知していない筈である。アイツが床に埃を貯めて放っておくなんて有り得ない。大量の蜘蛛の巣なんてもっての外だ。お蔭でスカートと帽子が汚れちまった。

 

「どうやら去ったみたいですよ。タイミングを見て行動しましょう」

「良い案だが、先ずはここが何なのかちょっと知っておきたいな」

 

 懐から小瓶を取り出し、栓を開ける。魔法の森の光るキノコを粉末状にして固め、特殊な火薬と一緒に混ぜたものだ。これをばら撒くと空気に反応して、制限時間付きだが広い範囲に光源を確保できるのだ。

 瓶の中身を勢いよく撒き、私は空間の全貌を明らかにした。

 

 息を、呑んだ。

 

「おお……!?」

「これは……っ!」

 

 姿を現した部屋の正体に喉が鳴った。情報処理が追いつかなかった脳は、私の体を硬直させてしまう。

 

 現れたのは、床から天井まで積み上げられた金貨銀貨の大山脈。積まれた金の延べ棒のグレートウォール。宝石や貴金属がふんだんに使用された、目も眩むような装飾品の数々。それら全てが絢爛とした輝きと共に、部屋中を占拠していたのである。

 どこからどう見ても、それは紛れもない宝物庫だった。

 

 なんて、なんて圧倒される光景だろう。もし香霖がこの場にいたのなら、冷静なアイツでも理性のタガが外れてしまいかねない規模の品数である。隣の早苗は完全に目を奪われ、まるで光に吸い寄せられる羽虫の様にフラフラと、財宝の山脈へ近づく始末だった。

 

「こここ、これ全部マジモンの()()()()()ですか……!? もしかして、正真正銘本物の宝物庫って奴なのでせうか!?」

「……信じられんが、どうやら全部本物みたいだな。見た感じの質感もリアルだ。お前は、いつの間に新しい能力を発動させたんだ?」

「いえいえ何もしてませんよっ。うわぁー、凄いなぁ。外の博物館でも見た事の無い物がいっぱいある! ねぇねぇ魔理沙さん、金貨の山にダイブしても良いですかねっ。外で冒険ものの映画を見た時から、密かに憧れていたんですよっ」

「やめとけ、何があるか分からないんだぞ」

 

 目を輝かせて燥ぐ早苗を嗜めながら、私は帽子の位置を正す。

 テンションが上がるのはよく分かるが、どうにもきな臭い部屋だ。こんな量の貴重品を保管している場所を、何の警備も無しに放置しているなんて明らかに怪しい。仮にこの部屋は侵入者が入っても問題ないようセットされているならば、下手人を自動で排除する罠なんかが仕掛けられていたとしても不思議ではないだろう。例えば、この金貨のどれかに触れた瞬間毒ガスでも噴射されるとかな。不用意に探るのは避けるべきだ。

 

 しかし私の忠告を受けた早苗は、『あれ?』と言ったように首を傾げた。どこか不思議に思った点があったらしい。

 

「ちょっと意外な反応ですね」

「? 何がだ?」

「いえ。てっきり『うひょーっ、これぜーんぶ私のもんだぜーっ!』って飛びつくかと思ってましたから」

「お前は私を何だと思ってるんだ」

 

 まったく。早苗と言いパチュリーと言い、私は悪質な盗人じゃないと何度言えば分かる。だがそんな事よりも『私のモノマネちょっと似てましたよね?』と言わんばかりのドヤ顔を今すぐ止めろ。全然似てなんてなかったからな。

 

「生憎、金目の物にはさほど興味が無いんだ。私にとっての金銀財宝は、パチュリーの図書館にある魔導書たちの方だしな」

「結局、物が違うだけで盗るんじゃないですか」

「違う違う、盗むんじゃなくて借りるんだ。冤罪は何よりも残酷な罪だと知ってたか?」

「ええー……そう言いつつきっちり財宝を調べ回ってる時点で説得力無いですよう」

「チャラチャラしたものには興味ないが、希少な魔法素材となると話は別だからな。念のために把握だけしておくぜ」

 

 あくまで念のためである。意味を履き違えてはいけない。

 私は罠を警戒しつつ、黄金の山を隅から隅までじっくりと眺めていった。

 しかしやはりと言うべきか、私の興味を引くようなものは見当たらない。どうやらただの宝物庫でしかないらしい。財宝山脈からはぐれた一枚の金貨を拾い上げながら、何の気なしに溜息を吐いた。

 

 ふと。

 

「ん?」

 

 一ヵ所だけ、異色を放っている部分を見つけ、足が止まる。

 何かが、財宝の渓谷部分にポツンと佇んでいるのだ。近づいてみると、それは小さな台座だった。古めかしい本が一冊だけ乗せられ、他には一本の雅な羽ペンだけが置かれている。ただそれだけの豪華な台座である。

 

「なんだ、こいつは」

 

 吸い寄せられるように足が動く。無意識とでもいうべきか。ふと気がつくと、私は台の前に立っていた。

 今の今まで罠の事を警戒していたのに、私はあっさりと目の前の台座へ触れ、本を手に取ってしまう。自分でも何故こんな事をしているのか分からなかったが、不思議な事に、この本からは何故か()()を抱けるナニカを感じ取ったのである。これは大丈夫、これは危険じゃないと、まるで誰かがそっと教えてくれているような安心感。そのせいで、警戒によって棘が立った私の心が宥められてしまったのだ

 

 本から誘われる様に、そっと表紙を開く。見出しには赤茶色に掠れた文字でGrimoire(グリモワール)と綴られていた。

 一先ず、本の種類を確認できたところで本を閉じる。魔導書の中には、何の準備も無しに読むと精神を食い破られてしまう危険な代物が紛れている。帰ってから準備を整えて読むに限るだろう。

 

「魔理沙さん、何ですかそれ?」

「扉ページからして多分、魔導書だ。グリモワールって書いてあるからな」

「へぇ、それ魔導書なんですか。私には古い日記帳か何かにしか見えないですねー」

「傍目から見ればそうかもしれないな。だが私にはあの金塊たちよりも輝いて見えるぜ」

「……それが欲しいんですか?」

「ああ。わざわざ一冊だけ財宝の中に安置されていたんだ。どう考えても有象無象の品じゃないだろう。勘だが、結構な年代物だと思う。ならば借りない手はないぜ」 

「いやいや、泥棒は駄目ですよ。せめてレミリアさんに一言言ってから――ああいや今は無理なんだった。とにかく止めた方が良いですって。良心に身を委ねるのです」

「だーかーら、借りてるだけだってば。借りたものは絶対に返すさ。別に売って金にしようとか下賤な事を考えてる訳じゃないんだぞ。その証拠にほら、私の良心は本を戻そうとはしていないぜ?」

「でも」

「じゃあこうしよう。これを秘匿にする事が、お前からの依頼料の代わりにさせてもらう。それならイーブンだろう?」

「うっ」

 

 早苗の顔が明らかに引き攣る。立場的弱点を突くのは心苦しいが、ここは私としても引けない所なのだ。どんなものであれ、掴んだチャンスは必ずモノにするのが私の信条である。あらゆる知識の先駆者である魔法使いに妥協は無い。

 

 早苗は暫し悩んだ挙句、溜息と共に肩を落とした。

 

「一週間です。一週間後、必ず私と返しに来るって約束してください」

「おう、勿論だ」

 

 了解を得た私は、手に入れた魔導書を慎重に袋へと包み、帽子の中の安置所へ収納した。こうして仕舞えるのは、パチュリーの蔵書から学んだ空間魔法の一種によるものだ。まだ完全にマスター出来ていないけれど、スペースとしてリンゴ五つ分程度のスペースは確保できている。拡張は今後の課題ってとこだな。

 

「さ、いつまでもここに居ると日が暮れちまうかもしれない。そろそろ行動に移るとしよう」

 

 予想外に時間を食ってしまった私達は、まるで狩りを終えた鼠の様にそそくさとその場を後にした。

 

 

 コンコンコンコン。

 滅多に聞く事の無いドアノックの音が、軽快に室内へと弾んだ。

 近々人間の里で劇を公演する予定の人形達を整備していた私は、作業の手を止めて玄関へと向かう。

 

「はいはい、どちらさま」

 

 上海人形がドアノブを回すよう魔法の糸で操作しつつ、わざわざ危険な魔法の森にまで訪ねて来た珍妙な客を迎え入れ――

 

「おはよう」

「…………」

「今日は良い朝ね」

「………………………………」

 

 ――――ようと思ったけれど、訂正。どうやらお客さんなんていなかったらしい。そう、私は何も見ていない。わが家へ訪れて来た人物が、まさかあのフラワーマスターだなんて知るわけが無い。しかもその手に異形の死骸を引き摺って来ただなんて、これはもういよいよ白昼夢の領域だ。

 どうやら、連日の作業で疲労が溜まっていたらしい。こんな幻覚を見てしまう程度には困憊していたのだろう。疲れた時は、温かいミルクティーでも飲みながらしっかりとした休息を取るのがセオリーだ。たまの休みも必要である。だから今日はゆっくりしようそうしよう。

 結論を得た私は、すぐさまドアを閉めにかかった。

 

 瞬きもしない間に指を挟みこまれ、ドアの動きを止められた。

 

 隙間越しに目と目が合う。力が込められ過ぎてそろそろドアが悲鳴を上げそうな中、彼女は画家がその美しさを表現出来ずに筆を折ってしまいかねないほど、華麗な笑みを浮かべて、

 

「いきなり閉めるなんて酷いわ。まだ何もしていないから私はお客様の筈よ」

「生憎、マーガトロイド家では死体を引き摺り回してやってくる奴をお客様だなんて呼ばないの。何をしにここまで来たのか知らないけれど、厄介事は御免よ、幽香」

「大丈夫、用が済んだらすぐ帰るから。巻き込まないとも約束する。だからお願い、少し相談に乗って? あなたしか頼れないの」

「……、」

 

 相変わらず底の見えない笑顔を浮かべているのみだが、嘘を言っている様には見えない。そもそも幽香が嘘を吐く事など滅多に無い。何故なら、彼女の辞書に『隠す』だとか『取り繕う』などと言う言葉は存在しないからである。

 幽香に争うつもりが無いのなら、変に警戒する必要も無いか。私は魔法糸を解除し、上海を背後へ待機させた。

 ドアを開き、決して余裕と笑みを崩さない花の大妖怪、風見幽香と改めて対峙する。

 

「入れる前に幾つか質問。よりによって何故私を頼るの? その干からびたミイラはなに? 用件の内容は?」

「一つ目の回答はあなたが魔法使いさんだから。二つ目は私にも分からない。三つめは、あなたにこれを調べて欲しいのよ」

 

 幽香は妖怪の死骸らしきものから手を離す。ぱさり、と枯葉の様な音が鳴った。

 本来ならば有り得ない筈の妖怪の死体を観察しながら、私は更に問いかける。

 

「念のために聞くけど、あなたがやった訳じゃないの?」

「ここ最近は控えているわ」

 

 見惚れる様な微笑みからは考えられない台詞を吐く幽香。恐らくジョークなのだろうけれど、彼女が言うと全く冗談に聞こえない。

 幽香は常に持ち歩いている桃色の日傘を折り畳むと、傘の先端で死骸を(つつ)きだし、

 

「この子はね、無名の丘近くで暴れているところを見つけたの。通りかかった所でいきなり襲い掛かられたものだから、ちょっぴり叱ったのだけれど」

「…………、」

 

 やっぱり幽香がやったんじゃないのか、という言葉を喉元で抑えつつ、続きを待つ。

 

「突然もがき苦しみながら干からびてしまったわ。全身から負のエネルギーを周囲に撒き散らしてね。まるで体に入り込んだ異物を必死に吐き出そうとしているみたいだった」

「……不可解極まりないわね。本当にあなたが絞ったりした訳じゃないのよね?」

「誓って何も。けれどこんな現象、生まれてこの方目にした事が無かったものだから、私なりにちょっと調べてみたのよ」

 

 そうしたらね、と彼女は繋げて、

 

「魔力の残滓らしきものが中から見つかったの。でも私は魔法関連にそこまで詳しくない。だから、この妖怪がミイラになった原因が分からないの」

「……それで、私の元に来たってわけ」

「ええ、私の知ってる魔法使いさんはあなただけですもの」

 

 だから調べるの手伝って? と幽香は両手を合わせ、ねだる仕草を私に見せた。

 

 ……仕方ない。昔のよしみで引き受けるとしよう。調べるだけならそこまで時間はかからない筈だ。それになにより、もしここで断ろうものなら、言う事を聞くか否かで確実にスペルカードバトルへと発展してしまう。私の家の近くでそれは避けたいところだった。

 

「概ねの事情は分かったわ。入って」

「ありがとう。お邪魔します」

「はいはい――って待った待った! ソレを引き摺ってこないで!」

 

 流石に死体をズルズル家の中で這わせる訳には行かない。そんなの絶対嫌だ。

 すぐさま人形を数体駆使してミイラを受け取り、宙に浮かばせて中へと持ち込んだ。

 

 作業用の台座まで戻り、使い捨ての布を数枚重ねて敷く。これで精神衛生的にも幾許かゆとりが出来る。

 そっと遺骸を安置して、私は幽香へと尋ねた。

 

「調べるのに少し時間を貰うわよ。適当に座ってて頂戴」

「分かったわ。ソレ、お願いね」

「……これを見ながら飲むのは気が引けるだろうけど、一応聞いておくわ。何か飲み物はいる?」

「あら、いいの? じゃあハーブティーをお願いしようかしら」

 

 即答である。この程度で食欲の減退を招かないのは流石と言ったところだろうか。けれど私はくつろげそうにない。常に冷静さを保つよう務めるには、まだまだ修練が足りない様だ。

 助手に上海人形を使っているので、蓬莱人形を使役する。簡易命令を魔法糸で施し、飲み物の準備を任せた後、私は調査へ取りかかった。

 

 ざっと見た限り、遺体の種族は妖怪と言う以外に分からない。恐らく、生まれてすぐ消える筈だった力の弱い物の怪なのだろう。

 しかし不可解な事に、消える筈の存在がこうして原形を保っている。ありとあらゆる潤いを奪われたような悍ましい姿は、まるで崩壊寸前の乾燥標本の様だった。

 魔力の残滓を見つけたと幽香は言っていたので、簡易なサーチを施してみる。魔力の属性や種類などを見分ける時に使う手法である。

 

「……これね」

 

 調べてみると、確かにあった。ほんの少し、本当の本当に残りカス程度しかない魔力の欠片ではあるけれど、体の奥に煤の如くこびり付いている。

 優しく削ぎ取るように体から引き剥がし、魔力の残滓を抽出する。それを更に細かくスキャンし、一体何の魔力なのかを確かめていく。

 私の知る類なら、これで結果が出る筈だ。

 

「……? これって……」

「もう分かったのかしら」

 

 背後から幽香のふわりとした声が届く。横目で見ると、紅茶を美味しそうに飲んでいる幽香が真横に立っていて、思わずビクッとなってしまった。音も無く近づいて来るのは止めて欲しい。心臓に悪い。

 コホンと一つ咳払い。

 

「一応ね。残念ながら魔力源は特定できなかったけど、どんな術に使われたのかは、大まかに把握出来たわ」

「へぇ。どんな術だったの?」

「西洋魔術よ。仙術や陰陽術、妖術とも違う、外の世界の海を渡った先にある魔法のことね。幻想郷じゃあ使い手はかなり絞られてくる技術だわ」

 

 そう。スキャンの結果、私が導き出した答えは西洋魔術の魔力痕跡だった。記憶との照合結果が間違っていなければ、これはレミリアやフランドールが弾幕に応用している魔法と似た代物である。

 ただ、彼女達との相違点を挙げるとすれば、

 

「精霊魔法というより、魂魄に関わる魔術の気配を感じるわね。交霊か死霊の術かしら? 流石に完璧な術の同定は不可能だから、分かる事はそれくらい」

「ふぅん。で、幻想郷じゃあ誰が使ってるの? そのせーよー魔法とやらは」

「私の知る限り、魂に関われる領域まで西洋魔法の類を体得している人物と言えば、私と――ああ勿論私は犯人じゃないわよ? 勘違いしないで」

 

 私の名を上げた途端に笑顔が冷たくなったので、手を振りながら訂正を加えた。お節介で協力した挙句いわれの無い罪で断罪されるなんて展開は御免である。

 再び咳払いをして話を続ける。

 

「他には紅魔館のパチュリー……いえ、彼女は精霊魔法を専攻していたわね。とすると、思い当たる人物はあの吸血鬼姉妹くらいかしら」

 

 紅魔館に住む二人の吸血鬼、レミリア・スカーレットとフランドール・スカーレット。彼女達は、吸血鬼の膨大な魔力を惜しみなく魔法として使う事が出来るポテンシャルを持っている。特にフランドールは、魔導を専門的に体得していた筈だ。恐らくレミリアも幾らか使えるのだろう。それに種族が種族なので、霊魂の扱いに長けていても別に不自然な事ではない。

 

 取り敢えず、私の頭にパッと思い浮かぶ西洋方面の知り合いはこれ位だ。東方の地である幻想郷では、それほど西の技術というものは珍しいのである。

 

「吸血鬼……ね」

 

 結論を耳にした幽香は、薔薇の如く紅い瞳にどこか冷たい雰囲気を宿しながら、さながら冬空の下で溜息を吐く様に相槌を打った。

 彼女は余ったハーブティーを静かに飲み干すと、カップを蓬莱人形へ手渡し、椅子に掛けていた傘を拾う。それは言外に、用済みの意を表していた。

 

「ご馳走様。そしてありがとう、助かったわ。約束通りお暇するわね」

 

 振り向きざまにふわりと浮かぶ、花が咲いた様に素敵な笑顔。しかし彼女とそれなりに付き合いのある私には、笑顔の裏側に秘められたブラックボックスの中身が分かっていた。彼女の()()は、決して穏やかな意味合いなど含んでいない。この笑顔は、ある種の戦争宣言を意味しているも同然なのである。

 

 その事実がどうにもモヤモヤして、思わず立ち去ろうとする幽香へと声をかけてしまった。

 

「……ねぇ、幽香。最後に質問しても良い?」

「あら、何かしら」

「何故あなたが、死体(コレ)の真相を追う様な真似をしているの? 他でもない()()()()

 

 ずっと引っかかっていた。何故彼女が、あの風見幽香が。如何に不自然な変死体と言えども、この名も無き妖怪の身に降りかかった災難の正体を突き止めようとしているのだろうかと。

 彼女を知る私からしてみれば違和感を覚えざるを得ない、彼女らしからぬ行動だったからだ。

 

 風見幽香は非常に気紛れでマイペースな妖怪だ。気分が乗らなければ本当に何もしないし、逆に興味を持ったものはとことん追求していく癖がある。

 

 彼女が好むものは、四季のフラワーマスターの通り名が示す通り花である。彼女は草花を愛でる行為を至上の喜びとしていて、それ以外にはあまり興味を示すことは無い。巷では無類の嗜虐趣味を持つと噂されているが、それは一時期彼女の気に入った花畑を荒らす者が絶えなかったがゆえに起こった事故だ。他人に興味を持つことが少ない彼女が見ず知らずの無礼者へ加減などする筈も無く、下手人へ圧倒的な蹂躙を繰り広げた後、その光景を目にした者から尾鰭の着いた噂が伝播していった結果に過ぎない。

 それに、幽香は自分を恐れさせれば花を無暗に荒らす者が出てこないと知っているから、あえてそう言うスタンスを取っている部分もある。

 

 そんな彼女が。自身へのイメージだとか、他者への配慮だとか、そう言ったもの全てにまるで頓着の無いあの風見幽香が。赤の他人であろう妖怪の身に起こった怪異を突き止めようとしているなど、違和感を覚えざるを得なかったのだ。

 

「……無名の丘は、美しい鈴蘭が辺り一面に咲き誇る素敵な場所なの。春になると、それは感動的な光景を見せてくれるのよ」

 

 私の質問に対して、幽香は静かに語り始めた。

 どこか、凍り付く様な雰囲気を纏いながら。

 

「さっき私が言ったこと、覚えてる? このミイラは負のエネルギーを一面に撒き散らしながら息絶えたって」

「……!」

「お蔭で能力を使わざるを得なかったわ。本当に、久しぶりにね」

 

 ――その一言が、私に彼女の言わんとする答えをもたらした。

 

 撒き散らされた妖怪のエネルギーは現世(うつしよ)へ生きる者にダメージを与える。生命力の強い人間などならまだ病気になる程度で済んだかもしれない。しかし植物はどうだ? 実りの秋を迎え、次世代を残す為に新たな命を果実へ注ぐ真っ最中の植物へ毒素が降りかかれば、一体どうなってしまうだろうか?

 答えは明白。朽ち果てるのみだ。冬の木枯らしに誘われ、春の温かさが戻ってくるまでの束の間の眠りに入るわけではない。それは完全な死滅を意味していた。

 

 幽香は花を操る力を持っているが、むやみやたらに使うことは無い。花の本来あるべき姿を何よりも愛する妖怪だからだ。故に幽香は無名の丘や太陽の畑と言った場所を、季節に合わせて転々とする生活を送っている。だからこそ、彼女は四季のフラワーマスターと囁かれている。

 そんな彼女の目の前で、無残にも鈴蘭が破壊された。しかも事故や自然淘汰では無く、無名の妖に術を施し暴走させた犯人の、身勝手な暴挙に巻き込まれて。

 つまり鈴蘭の死は自然がもたらした結果ではなく、どこかの誰かが振り乱した悪意によって招かれたモノだと、幽香は捉えたのである。

 

 愛する花の無残な死が、何者かの悪意による仕業かもしれない。 

 それだけで十分なのだ。風見幽香が、引き金に指を掛けるには十分すぎる理由なのだ。

 

「だから、少しお話をする事にした」

 

 では犯人の目星を付けた幽香が、次に起こす行動とは? 

 考えるまでも無い。答えなど、直観だけで十二分に理解出来る。

 どこまでも透き通った微笑みを浮かべて、冷徹なまでに彼女は言った。それは、一種の宣戦布告を意味していた。 

 

 ――風見幽香は敵対した者へ容赦を加える様な人柄ではないが、決して狂人などではない。むしろ美徳を重んじる性格と言えるだろう。故に紅魔館との全面戦争といった大事には絶対に至らないと確信を持てるが、何だか一波乱は起きそうである。

 具体的には、普通よりちょっと激しい弾幕戦が繰り広げられそうだ。

 

「それじゃあ、そろそろ行くわね。相談に乗ってくれてありがとう」

 

 優雅に手を振りながら、花の妖怪はあっさりと我が家から立ち去った。登場のインパクトが大きかっただけに、あまりに呆気ない淡白な退場は、どこか閑散とした空気を部屋にもたらす。

 

「……それにしても、何故西洋魔術の因子がこの中から……?」

 

 残された私は誰に言うでも無く、ミイラの傍で呟いた。

 

 実に不可解な発見だと思う。この因子の源が仮にレミリアだとして、彼女が一体なぜこんな真似をしたというのだろうか。そもそも、この干からびた状態になった原因はなんなのだ?

 

 確かに西洋魔術の痕跡を遺体から感じ取った。しかしそれと妖怪がミイラ化した現象に直接的な因果関係は無い。この干からびた死体は、魂魄の魔術とは別の何らかの要因によって生み出されたモノであり、その術を仕掛けた犯人が西の流派を嗜む人物と言うだけなのだ。

 そして現在幻想郷にて西洋魔術の有力候補と言えるのが、紅魔館に住むパチュリー・ノーレッジにレミリア・スカーレット、フランドール・スカーレットの三人のみ――――

 

「……!」

 

 ――いや、違う。二人だけではない。

 忘れもしない。忘れる事など出来やしない。四年前の晩夏の夜、妖怪の賢者と亡霊姫を相手に激戦を繰り広げた、異形の吸血鬼が居たではないか。

 確か、奴の名はナハトと言ったか。

 

「……まさか」

 

 月が沈むことを止めたあの晩、紅魔の当主は私にこう言った。『何が起こるか分からないから不用意にナハトを探るな』と。自らを運命を操る吸血鬼と謳う彼女が、不確定要素を全面に押し出して警告してきたのだ。

 彼女の警告と言い、あの目にするだけで臓器が委縮する様な気味の悪い瘴気と言い、ナハトと言うヴァンパイアが只者ではない事は容易に把握できた。それこそ、レミリアが自らの能力を信用できなくなる程度には測定不能な存在なのだろう。

 

 そんな規格外な人物である以上、死体の発生源がナハトである可能性は十分に有り得る。むしろ人物像的に考えて、レミリアやフランドールより的確と言えるのではないか。

 

「…………、」

 

 だがしかし、それだけでは確証までに至らないのもまた事実だ。

 理由として一つ目は、レミリアがナハトを一定以上評価していた事。あの時の彼女はナハトへ敵対している様な素振りは無く、むしろ逆だとすら感じた。あのレミリアが信頼を示している人物が、果たしてこの様な暴挙を引き起こすものだろうか?

 

 二つ目は、ナハトは今も眠ったままだろうと言う事。あの晩から幾度か館を訪れた日はあったが、一度も奴を見かけたことは無かった。魔が差してパチュリーに奴の動向を尋ねれば、『眠っている』とだけ答えが返って来たのを覚えている。それ以上深くは訊けなかったから現状は分からないままだが、少なくともあの夜から四年近く経った最近でも眠り続けている筈である。つまり、未だ目覚めていないのならば、ナハトによる犯行だとは考え難い。

 

 であれば、やはりレミリアかフランドールに絞られてしまうのだろうか?

 

 思考が渦を巻き、形を変え、霧散し、再び別の形へ姿を変えていく。

 そんな作業を幾つか繰り返した後に、私は力無く息を吐き出した。

 

「まぁ、私が考えても仕方のない事よね」

 

 よくよく考えてみれば、私がこの件に対して深く関わる必要は無いのだと気づき、思考を切り替える事にした。取り敢えず私の中でこの件は終わりだ。私は私でやる事がある。そちらを優先するとしよう。

 

 途中で止まっていた人形の整備を再開するために、私は作業台へと振り返った。

 

 

「……ああっ!? どさくさに紛れてミイラ(これ)置いてかれてる!? ちょっと幽香――って、そう言えばもう居ないんだったわね。ああもうっ」

 

 

 

「早苗? おーい早苗やーい。あれ、おかしいな。魔理沙も聞こえてるー?」

 

 秋神に彩られた紅の葉が森を支配し、生き物の活気が溢れる妖怪の山。その山に一つだけ存在する湖の神社から、幼さの残る甲高い声が響き、滲み渡っていく。

 声の主にして、彼女の居座る守矢神社に祀られし神の一柱、洩矢諏訪子は、小首を傾げながら何度も虚空へと問いかけていた。

 

 言うまでもないが彼女が必死に語り掛けている相手とは、現在紅魔の館へ潜入している二人の少女である。

 しかしそうは言っても一人で何もない所へ話しかけている様子が不気味だったのか、守矢神社を仕切る表の祭神、八坂神奈子が怪訝な表情を浮かべながら諏訪子へと話しかけた。

 

「ここに居たのか諏訪子。一人でブツブツ何を言ってるのよ」

「うん? あー、いやさ。いま早苗との遊び――もとい仕事をサポートしていたんだけど、いきなり通信が切れちゃってねぇ。持たせた札に呼びかけてもまるで反応がないし、どうしたものかと」

「……早苗の身に何かあったとでも?」

「何かあったのかもしれないが、危険な目に遭ってる訳では無いみたいよ。札とは別に持たせたお守りから、ちゃんと早苗の反応は感じ取れてる。ただ、何が起こっているのかが分からない」

 

 諏訪子曰く、どうやら『受信』は出来るが『発信』出来ない環境に東風谷早苗は置かれているらしかった。それが彼女の身に降りかかったアクシデントを説明する材料にはならないが、安全だと諏訪子が断言するならば安全なのだろうと納得し、神奈子は不安を排除する様に息を吐いた。

 しかし、それでも心配なものは心配である。神奈子は更に目を細めながら諏訪子を睨んだ。

 

「本当に大丈夫なんだろうね」

「大丈夫だって。いざとなったら私たちがお守り(分社)を通じて守ればいい話なんだからさ」

「でもあの子に万が一の事があったら……」

「神奈子は心配性だなあ。あの子の血縁たる私よりも過保護ってどうなのさ。少しはそっと見守るのも、育成に必要な事だと思うよ私は」

「それが、そうも言ってられないみたいなのよ」

 

 ケロケロと軽やかな笑いを浮かべていた諏訪子が、神妙な顔つきを浮かべる神奈子の言葉を聞いて、きゅっと引き締まった。

 

「どういう事?」

「件の依頼だけど、調べてみたら少々引っ掛かる要素が出てきたの」

 

 件の依頼。それは東風谷早苗が里の住人から引き受けた、ナハトと言う吸血鬼の討伐を願われたものである。

 

 早苗からその旨を報告された神奈子は、『ナハト』の名をどこかで聞きかじった覚えがあったらしい。遠い昔、会話の中でさらりと聞き流していた様な、うっすらとした朧の感覚。神奈子はその記憶の違和感を探るため、そして事件の真相を掴むため、独自に調査を行っていたのだ。

 結果、ある答えへと彼女は辿り着いた。

 

「早苗が討伐に向かっている、ナハトと言う吸血鬼……どこかで聞き覚えがあると思ったら、大昔に西を騒がせていた悪魔だったのよ」

 

 神奈子の発言に対して、諏訪子は首を傾げた。彼女は過去で、そんな噂を耳にした記憶が全く無かったからだ。

 

「悪魔ぁー? 聞いた事も無いわね。天津神(ソッチ)じゃ有名だったの?」

「さぁ、私も詳しい事は知らないわ。ただ、天津神の間で一時期話題になった事があった。西の海を越えた先に、飛び抜けて強大な悪魔がいたとかなんとか」

 

 ああ成程、だから聞いた事がなかったのか、と諏訪子は納得する。天津神の神奈子と違い、土着神である諏訪子は彼女たちのネットワークへ参入する事も無かったため、持っている情報に差が生まれてしまっていたのだろう。

 

 それで? と続きを催促する諏訪子に対し、神奈子は言う。

 

「正直、話題になった当時でも耳を疑う様な噂ばかりが飛び交っていたものだから、海の向こうにはそういう奴も居るんだなぁって思っていた程度よ。まさか今になって、本人と巡り合う地に立つとは思わなかったけど」

「……でもそいつは悪魔――というか吸血鬼なんでしょ? たかがコウモリ如きに、そこまでピリピリする必要なんて無いと思うけどなあ。それにほら、あの、なんだっけ。幻想郷縁起? に書かれてる内容もどこか胡散臭いし、一妖怪でしかないなら私達に敵う筈なんてないでしょ。いざとなれば、どうとでも出来ると思うよ」

「確かに、並みの吸血鬼なら心配に値しないでしょうね。ただどうも、奴だけは例外と考えた方が良いらしい」

 

 神奈子は胸の下に腕を組み、悩まし気に眉間へ皺を寄せる。

 

「よく考えてみなさい。奴は神々の間でも噂になっていた程の妖怪なのよ。多分……と言うか確実に噂の殆どは眉唾なんでしょうけれど、仮にそれら全てが事実だとしたら、私たちの知る妖怪と言うカテゴリーでは推し量れない存在かもしれないわ」

 

 神奈子の発言に対し、表情を顰めさせる諏訪子。放っておくと爪を齧ってしまいそうな、そんな表情だった。

 

 八坂神奈子は風神であると共に、軍神としての神の側面も持つ。戦の神の呼称に恥じず、かつて神奈子は諏訪大戦と呼ばれる大きな聖戦で諏訪子を下し、実質侵略するまでに至った経緯がある。

 そんな相手が――かつて自分を打ちのめした好敵手であり親友が。ただのコウモリ妖怪如きに一抹の不安を抱いている。それがどうしようもなく、諏訪子の神経を逆撫でたのだ。

 

「あんたがそこまで不安を煽られるなんて、一体全体どんな噂が流れてたって言うのさ」

「…………例えば、そうね。妖怪の癖に西の信仰を総なめしていただとか、信仰を奪われて危機感を覚えた名立たる西方の神々が、信徒を使ってあの手この手で討伐を試みたけれど、全て失敗に終わっただとか。他にも、到底信じられない様な与太話がたくさん」

「……名立たる神々が討伐を試みる……?」

 

 そんな馬鹿げたホラが有り得るかと、諏訪子は驚愕と疑問に表情を塗り潰した。

 神は基本的に信仰を糧とし、信仰を力とする存在である。その点に関してだけは、国津神だろうが天津神だろうが西方の神だろうが変わらない。そして信仰の厚い神々は現代でも名を馳せている猛者ばかりであり、当然ながら、生まれてはすぐ消える弱小とは存在の強度が違う。

 その様な神々が信仰を横取りされることを恐れて、一妖怪でしかない吸血鬼を討伐しにかかるなど、到底信用できる話ではなかった。前代未聞と言って良い。確かに妖怪の中には、民からの信仰によって半ば神格を得ている者も存在する。佐渡の二ツ岩大明神や山の天魔が良い例だろう。しかし、それはあくまで一部の狭い範囲に過ぎない。一部地域の信仰を集めた程度で、神々が危機感を抱くなんてことが起こり得る筈がないのだ。神託で討伐を命じるなど、そして討伐が失敗に終わるなどもっての外である。吸血鬼であれば尚の事だった。

 

 街談巷説もいいところである。間違いなく眉唾モノだ――諏訪子はそう結論付けた。だがそれと同時に、神奈子が本当に警戒しているモノの正体が噂の真偽などではなく、この様な出鱈目が生まれてしまっている程の妖怪が居て、かつその吸血鬼がこの地に根を下ろしている事なのだと理解した。

 

 火のないところに煙は立たない。噂が遠方から伝わってくるにつれて誇張されたとしても、その噂の火種になったナニカは確かに存在していたのだろう。

 であれば必然的に、ナハトと言う吸血鬼が只者である筈もなく。

 例え現人神と言えども圧倒的に経験値の少ない早苗が、万が一遭遇したとして太刀打ちできるかと問われれば、無言で首を振るほか無いのである。

 

「……でもさ、だからと言って私たちが直接手を出すのはマズいでしょ」

「ええ、そうね。けれどそれは向こうも同じことよ。その程度は彼方も理解出来ているだろうから、無暗に命を奪いにかかるような愚行へ打って出る事は無いだろうね。幾ら残酷無比な性格の持ち主だとしても、今の今まで生き延びて来れたのならばそこまで頭が回らないなんて事は無い筈よ」

「それに早苗は、言うなれば『異変』の解決に行っているのだからね。人間が妖怪と戦う状況である以上、幻想郷のルールは適応される。幻想郷でルールを破る行為なんて、妖怪側にとっては自滅行為に他ならない。奴らには百害あって一利なしの状況なのに、百害を選ぶなんてことは無いでしょう」

「だから私たちは、万が一に備えているだけで良い。しかし、その万が一が起こったその時は……」

「すっ飛んで行かなきゃいけない訳だ。やれやれ、面倒なことになりそうだね」

 

 流石に戦争にまで発展する事は無いだろうが、取り敢えず腹を括る準備だけはしておいた方が良さそうだと、諏訪子は帽子の鍔を押さえながら独り言ちた。最悪の場合、博麗の巫女に私達も含めてとっちめて貰えば良いと、修羅場になった際の打開策を練る事も忘れない。

 

 博麗の巫女が騒動の原因――この場合、紅魔館の妖怪と守矢神社の神々――を懲らしめたのならば、それは如何なる経緯があったにせよ解決された事になるのだ。あとは全員で酒でも酌み交わせば、禍根は全て洗い流され閉幕となるのである。

 暗黙の了解とは言え、このシステムを作り上げた賢者は流石の手腕だと、神の身でありながら諏訪子は内心妖怪の賢者へ称賛を送った。

 

「で、ナハトの事は分かったけどさ。ミイラの方は調べがついたの?」

「ええ、まぁ。調べがついたと言えばついたけど」

 

 神奈子は右手の指先で眉間を叩きながら、悩まし気に唸り声を上げた。

 

「ぶっちゃけ、原因は分かったのだけど、遺体を見ただけじゃあ何が火種なのか分からなかったわ。どうしてあんな状態になったのかがサッパリなのよ。あんな症例、今まで見たことも無い。取り敢えず分かった事と言えば、アレは人為的に引き起こされた現象だって事くらいね」

「誰かの悪巧みは確実ってワケかぁ。こりゃあ、新しい異変の兆しと捉えてもいいのかねぇ」

「異変になるとしたら、今までとは少しばかり事情が違ってくるかもしれないわね」

 

 かもね、と諏訪子は相槌を打った。

 神奈子は晴天の彼方へと視線を移しながら目を細める。その眼は、果てにある仮定の未来を見据えているのかもしれない。

 

「これは、紛れもない悪意で引き起こされたものよ。純粋な悪意が異変へ絡んでくる以上、それは最早、いつもの異変では済まなくなってしまうかもしれないわ」

 

 八坂神奈子の瞳に、剣呑な光が瞬く。とある小さな確信を抱きながら、軍神は燦々とした日の光を煽ぐのだった。

 

 



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21.「魂魄の病」

「いやー、この札を着けてると本当にバレないな。ちょっとは守矢を信奉しても良い気がしてきたぜ」

「おおっ、遂に魔理沙さんが我らの信徒にっ」

「いや、ならないけどな?」

「折角ですから一緒に風祝やりましょうよ。魔理沙さんほどのお力があれば、きっと素晴らしい祝子になれますよ! そうと決まれば新しい巫女服を調達しなきゃですねー。ふふふ、久しぶりに裁縫張り切っちゃいますかーっ」

「だから、ならないからな?」

 

 またもやスイッチが入ってしまった様子の早苗。しかしこの熱意から察するに、もしかしたら同年代の同業者が欲しいのかもしれない。大分幻想郷に馴染んだとはいえ、外との関係を全て捨てねばならなかったこいつは潜在的な寂しさを抱えているのだろう。今度、宴会とかじゃなく普通に遊びに行ってやろうかな。妖夢あたりを引っ張り込んだら面白いことになりそうだ。

 

 それはそれとして、私は風祝なんぞになる気はない。再三の訂正を経て早苗は『そんなー』とがっくり肩を落とすが、私の夢は立派な魔法使いなので巫女なんかになる訳にはいかないのだ。それに巫女なんぞになってしまったら、絶対に霊夢の奴から茶々を入れられるに決まってる。それは御免だ。アイツと私は対等に立てる立場でなくちゃいけないのだ。

 

「しかし、目的の魔王様が一向に見つからないな」

「そうですねぇ。これはとうとう、本当に目覚めているかどうかも怪しくなってきました。いや、別に封印されているならそれに越したことは無いんですけれど」

「全くもってその通りだが、そもそもこの屋敷が広すぎるせいもあると思う。どうやって維持してるんだろうなぁ、謎だぜ」

「確か咲夜さんの力で空間を拡張してるんでしたっけ? しかも彼女は時まで止められるんですよね。いいなー、私も時間操作能力欲しいなぁ」

 

 一度でいいから時よ止まれって力いっぱい叫びたいです、と早苗は力こぶを作りつつ、どこか興奮気味に力説した。何故『ファウスト』の名言がここで出てくるのだろう。相変わらずよく分からない奴だ。

 

「……にしても、さっきから嫌に諏訪子が大人しいな。飽きて寝てるのか?」

「あれ、そう言えば静かですね。いつもならお話に混ざってこられる筈ですが。……ん? おかしいな、何故か諏訪子様に繋がりません。本当に寝てるのかもしれないですね」

「相変わらず呑気な奴だな。祟り神の癖に」

「おっと、それは間違いですよ魔理沙さん。厳密には諏訪子様自身が祟り神なのではなく元は祟り神たるミジャグジ様を操る山の神こそが諏訪子様であり――」

 

 どうやら、早苗にとって譲れない一線に触れてしまったらしい。唐突な正しい神様講座が始まってしまった。

 早苗の言いたい事は分かるんだが、私にとって祟りを起こす神なんて皆等しく祟り神である。……ん? そうなると日本の神様はほぼ全員祟り神か? まぁどうでもいいや。ここは自分の耳を馬の耳へ変身させて、のんびりとやり過ごす事にしよう。

 

 と、思った矢先のことだった。

 

「そうも言ってられないみたいだ。早苗、止まれ」

「はい? どうしまし――あっ」

 

 私が歩を止めると、早苗も釣られて動きを止めた。そして気付く。何故私が、札の効果によって誰にもバレる筈の無いこの状況で早苗に注意を促したのかを。

 レミリアだ。

 紅い絨毯が道のりの中央を飾る、紅魔館二階層へと続く豪華な階段。その踊り場からゆっくりと、館の主レミリア・スカーレットが、軽やかな靴音を奏でつつ下って来ているのである。

 

「まさかレミリアさんまで起きているとは……吸血鬼ってなんでしたっけ」

「どうやら本気で生活リズムを変えているらしいな。動機は霊夢の奴ってところか。まぁなんにせよ誤算だったぜ」

 

 だが起きてしまっているものは仕方がない。慎重に行動して、アイツをやり過ごすとしよう。大丈夫、こっちは守矢の護符と早苗の能力がある。追いかけっこに夢中だったとは言え、フランと咲夜の目を潜り抜けられたのだ。見つかるわけが無い。

 

 心を強く保ちつつ、私たちは前進する。もちろん、既に二人の間に会話は無い。流石に吸血鬼の前を通り過ぎる時に油断など出来ないからだ。

 手に汗を滲ませながら、そっと抜き足差し足。やっとの気持ちで階段の陰に身を潜める。これで死角に入り込めただろう。

 

 

「さてと」

 

 レミリアが、私達の隠れている大仰な手摺の傍を通過しようとする、まさにその時だった。

 不意に動きを止めると、その場に幾らかの間を生んで。

 

 途端に、あの可愛げのある童女の様な容姿からは考えられない程の圧迫感が、周囲一帯を圧し潰す様に解き放たれた。

 

 ビリビリとした莫大な妖気が、私の肌を遮蔽物越しに掻き毟る。まるで、私たちの状況をレミリアに全て察知されているかの様な錯覚まで覚えた。

 例えようもない緊張が走る。そんな中でも、大きな手摺越しに彼女は言う。

 お見通しだと言わんばかりに、吸血鬼特有の魅惑の声を弾ませながら。

 

「その程度で、このレミリアの目から逃れられると本気で思っているのか?」

 

 ――ぞわりと、緊張の悪寒が脊髄を走り抜けた。

 バレている。何故だか分からないが、札の効果がこいつに全く効いていない。

 いや、もしかして音と気配は掻き消せていても、()()までは消せていなかったのか?

 吸血鬼は人間を襲って血を啜り上げる捕食者だ。しかもその身体能力は我々ホモサピエンスを軽々と超越している。この至近距離だと、()()()()()()匂いで感づかれてしまっていてもおかしくない。

 

 ああ畜生。そうとなると、アイツの反応は間違いない。完璧にこちらの存在がばれている!

 

「――しょうがねぇ。一丁強行突破といかせてもらうぜッ!」

 

 懐から八卦炉を取り出し、物陰から身を乗り出しながら瞬時に構えた。魔力を注ぎ込みつつ箒を握り、今すぐにでも弾幕戦を始められる準備を整える。

 だがレミリアの目はこちらを捉えておらず、どこか別の方向へと、その鮮紅の瞳は向けられていた。

 

 紅い当主の視線に違和感を覚えたその瞬間。私は大きな過ちを犯してしまったのだと、この時漸く気がついた。

 私の過失を知らせるように、背後から早苗の叫びが炸裂して。

 

「駄目です魔理沙さん!! これは彼女の――――」

「あら」

 

 しかしそれを遮るように、風鈴の様な声が鼓膜をそよいだ。

 それはまるで、ずっと待ち続けていた釣り竿にやっと魚が食い掛かったと言わんばかりの、忍耐の喜びを孕んだ声色で。

 

()()()()()()()。ああ、認識したらぼんやりとだけど段々見えてきたわ。その特徴的な帽子の輪郭と魔力、霧雨魔理沙ね?」

「――――!」

「やられました……! 今の言葉は全部フェイクだったんだ! もう札はダメです、一度認識されてしまった以上、気配遮断の効果は解けてしまう!」 

 

 早苗の言う通り、私たちの腕に張り付いていた札は、力無く地面へと剥がれ落ちてしまった。流石に一度認識された気配を、もう一度消すことまでは出来ないのか。

 ああ畜生、見事に一本取られてしまった。よく思い出してみれば、先ほど私たちを探していた妖精メイドも、美鈴から大まかな位置を教えられていたではないか。札を貼って気配を遮断する前の位置を掴まれていたのであれば、私たちの平均的な移動速度から大体の範囲を予測して、絞り込まれていてもおかしくはない。

 無論、私の推測通り『人間の気配』もあったんだろう。だからこいつは、確信をもって滑稽なフェイクを演じられたんだ。

 

 敗北の苦味を噛み締めつつ、私はレミリアと向き合った。

 

「ようレミリア、久しぶりだな」

「久しぶりね。以前ここへ訪れたのは初夏だったかしら?」

「そんな所だな。だがんな事よりレミリアよ。まさか、今の演技をずっと繰り返しながら館中を歩き回って、私たちを探してたのか?」

「そんなワケ無いでしょ、まだ二回目よ。私の能力を忘れたのかしら?」

 

 ……あー、成程。運命を操る程度の能力ってヤツか。力の概要は詳しく知らないが、恐らく私たちの来訪を特定しただとか、ほんの少し未来視をやってのけただとか、そんな感じだろう。さっきから予測が見事に外れっぱなしでちょっとだけ悔しくなる。

 

「お前の能力って、そんなに応用の利く代物だったんだな。私はてっきりお嬢様の壮大な夢物語だと思ってたぜ」

「どれだけ皮肉を吐こうとも、今となっては負け犬の遠吠えにしかならないわよ。まぁこれで、お前も運命を操る我が力が如何に恐ろしいものか、よーく理解できた事でしょう」

「ああ、明日の運勢を占って欲しいくらいには理解出来た。なんなら昔のよしみで占ってくれてもいいぜ?」

 

 茶目っ気交りに頼んでみれば、相変わらず図々しい女ね、とジト目で返された。代わりに私はとびっきりの笑顔を送り返してやった。

 レミリアは私を見下ろしつつも、余裕を孕んだ態度で腕を組む。

 

「しかし、二回目のチャレンジでお前たちが出てきてくれて良かったわ。不発に終わると凄く恥ずかしいのよ、コレ」

「だろうな。傍から見れば、誰も居ない所で敵を威圧する練習に励んでるチビコウモリにしか見えないもん」

「き、客観的に解説するんじゃないわよ羞恥心が舞い戻って来たじゃない! と言うか誰がチビコウモリだ誰が! 私はこれでもお前の何十倍も生きてるんだぞ!」

 

 日に当たる事を知らない雪原のような柔肌を紅魔の名に相応しい朱色に染め上げながら、レミリアはキーキーと憤慨した。

 しかし直ぐに、ハッとした様に冷静さを取り戻して、

 

「ゴホン。さておき、小童魔法使いと……えっと、」

「あ、東風谷早苗です」

「そうそう、早苗。――小童魔法使いと新参巫女よ、早急にここから立ち去りなさい。今なら吸い殺さずに見逃してやるわ」

「小食の癖によく言うぜ。しかしその口ぶり、私たちに探られたら不味い物がこの先にありますと言ってる様なもんだよな。美鈴の警護が固いのも不自然だ。そうなると、お前を突っ切ってでもソイツを拝みたくなっちまうのが、人情って奴なんだよなぁ」

 

 こんな事ではいそうですかと食い下がっていたら、異変解決なんて出来やしない。箒へ腰かけ、私は浮遊の準備を整えた。

 同じく、早苗もまた臨戦態勢へと突入する。風一つない廊下に突風が巻き起こり、五芒星の印が早苗を囲むように空間へと浮き上がった。

 

「これも里の人々の平穏を守る為です。押し通らせて頂きますッ!」

「……愚かな人間共め。大人しく言う事を聞いていれば良いものを。わざわざ茨の道を選んだことを後悔するがいいわ」

 

 放たれる威圧感が、目に見えて増大していく。フェイクを仕掛けてきた時の比ではない。全身全霊の敵意を私達へとぶつけているのだ。相対するだけで心臓を握りつぶされてしまいそうな圧迫感が私たちへと襲い掛かった。それはあの紅い霧の異変を想起させられ、体の芯から武者震いを引き起こされる。

 

 私たちの戦いが弾幕ごっことは言っても、相手は人外。それも指先一つで人間の命を容易く刈り取ってしまうような存在だ。どれだけ経験値を積もうとも、大妖怪を相手にこの緊張感が失われてしまう事は無いだろう。

 

 だが。

 だからこそ、私は強敵(ぎゃっきょう)に向かって笑顔を浮かべる。

 いつの時代も、難しいゲームの方がやり甲斐を感じるモノだから。

 

「これは異変解決だ。我儘な妖怪お嬢に勝ち目は無い」

「何時も人間が勝ち続けられるとは思わないことよ。弾幕ごっこは人妖公平なお遊戯合戦。だからたまには、人間側にもゲームオーバーが必要だとは思わない?」

「残念ながら、昔お前の妹にコンテニューは出来ないと言われたんでな。まだゲームを楽しみたい私としては、このままお前をブチのめさせてもらう以外に選択肢はないんだぜ。レミリア!」

「ハン、今日はよく吠えるわね霧雨魔理沙。面倒だから二人纏めて相手をしてあげましょう。何を解決しに来たのかは知らないけど、ここから先へ行かせるわけにはいかないの」

 

 レミリアの黒翼が広がる。紅い霧が仄かに広がり、奴の使い魔である蝙蝠の群れが姿を現した。

 

「さぁ。白昼の紅い悪夢を前に、無様に泣いて帰るがいいわ!」

「里の安眠を守るため……その悪夢ッ! 打ち砕いて見せましょう!」

 

 互いの雄叫びを合図として、夥しい数の光の玉が両陣営に展開されていく。

 人数はこちらの方が勝っているが、相手は夜の帝王レミリアだ。しかも何か訳アリらしく、紅霧異変の時よりも本気の気迫を滲ませている。そんな奴を前にして私に余裕の字なんてあるはずもなく、下手をすれば一瞬で撃墜されてしまいそうだとさえ冷や汗を背中に掻いてしまった。

 だがそんな事、異変の時は日常茶飯事だ。いつだって私は乗り越えて来た。今回も超えられる。その確信に、一片の曇りなどある筈もない。

 激戦の覚悟を腹に決め、私たちは光と共に、紅い悪魔へ突撃した。

 

 

 

 

「レミリア」

 

 

 

 ――歩幅にしてわずか三歩ほどの距離で、急ブレーキがかかる。

 

 階段の上から突然全身を撫でた声の正体を見極めるよりも早く、まるで熱い鍋に触れた途端手を引っ込めてしまうかの様に、私の体は、反射的に動きを止めてしまったのだ。

 それに伴い、心臓が驚くほど躍動していくのが分かった。飢えた熊に追われ続けた後の様な、僅かな爽快感も含まない拍動。全身に血を行き渡らせ、常に酸素を確保しておかなければ取り返しのつかない目に合うと、体が本能で察知しているかのような、血潮の温かさがまるで感じられない、底冷えしていく心臓の働きだった。

 

「ま、まりさ、さん」

 

 喉に手を掛けられているかのように、掠れた声で早苗は呻く。硬直を解かない体を動かし、必死に早苗へ視線を移せば、五芒星の印も風も消して、くりくりとした眼を限界にまで見開く早苗の顔がはっきりと見えた。

 

 驚愕と衝撃に心を塗り潰されている彼女の視線は、レミリアの後ろ、ただ一点へと注がれていて。

 

 そこには、感じた事も無い圧迫感を放つ、規格外の化け物が居た。

 

 汗が瞼に入り込み、ピントのブレた視界では鮮明にその姿を捉えられないが、たったそれだけの情報で私は大きな確信を得た。

 稗田阿求自らが警戒を呼び掛け、例外の縁起増版を行う程の極悪妖怪。

 賢者の手によって封印されている筈の吸血鬼。

 階段の頂上から私たちを見下ろす、漆黒の衣に身を包んだ奴こそが、魔王ナハト本人であるのだと。

 

「騒がしい様だが……お客さんかね」

 

 たった一言放たれただけで、全身の毛穴が引き絞られる。体を巡る血の流動が鮮明に感じ取れて、けれども温度は感じなくて。奴が階段の一歩を踏みしめる度に、私の呼吸器が悲鳴を上げた。

 それは早苗も同じだった。それどころかレミリアさえも霧と蝙蝠を引っ込めて、困惑の色を浮かべているではないか。

 

「おじ様、どうしてここへ? 部屋に居る筈じゃ……!?」

「図書館へ野暮用が出来ただけさ。偶然通りかかったんだ、別に邪魔をしに来た訳では無いよ」

「……なら、今すぐ部屋へ戻って貰えないかしら。おじ様がここに居るのは少し、いやかなり不都合だわ」

「別に参戦するつもりはないよ。ここを通らせてもらえるだけで良いんだ。引き返すと図書館まで遠いからね」

「いいから、戻って頂戴。こいつらは私が相手をするから、おじ様は部屋に戻って。お願いだから」

「……ああ、彼女達の集中が乱されるのか。それは失礼した。配慮が足りなかったな――」

「おい」

 

 こちらを無視してレミリアと談話をする怪物に、私は全霊の勇気をもって声を投げた。すると奴は、暗い洞窟の奥に生える水晶を固めて作ったかの様に冷たい眼球をこちらへ向けて、どこまでも冷酷に見下ろした。

 

 レミリアの威圧感が春のそよ風にしか思えなくなるほどの圧力を前に胃の中身を全部吐き出してしまいそうになる。絶対に勝てない、早く逃げろと本能が必死に訴えかけてくる。視線が刺さるとはまさにこの事を言うんだろう。体感した事も無い膨大な恐怖を前に、私の細足は情けなく爆笑する始末だ。

 だが私はそれを全て気合で封じ込め、漆黒の魔王へ戦意を向ける。

 

「お前が、ナハトって吸血鬼か?」

 

 質問から、一拍の余白が空いた。何を考えているのか分からない黒ずんだ紫色の瞳は、目を合わせ続けていると魂を吸い込まれてしまいそうだった。

 やがて異形の男は、静かに口を動かし始め、

 

「そう、私の名はナハトだ。初めましてになるのかな、人間の魔法使いと……守矢神社のシャーマンで合っているかね?」

「っ」

 

 矛先が向けられた途端、早苗は極度の恐怖と緊張からか、全く声が絞り出せなくなってしまった。そう言えばこいつは『外』出身の人間だ。私や霊夢と違って、人外に対する免疫が圧倒的に少ないのだろう。神奈子や諏訪子も相当な部類に入るだろうが、あの二人は早苗の味方だ。目を合わせるだけで心臓発作を起こしそうになる化け物から、皮膚の上から骨の髄まで侵食してくる様な悍ましい敵意を浴びせかけられた経験など皆無に違いない。

 

 こいつは動けない。敵の強大さが予想外過ぎた。今の早苗が、比喩や二つ名でも何でもない正真正銘の魔王を相手するには余りにも荷が重過ぎる。

 私が、守らなければ。まだ動ける私が、この怪物から早苗を守ってやらなければ。

 両手で身を抱きながら体を震わせ続ける早苗の前に立ち、私は魔王へ向けて八卦炉を構えた。

 

「そうさ。こいつは東風谷早苗。守矢神社の新参巫女だよ」

 

 魔力を貯め、八卦炉の火力を底上げしていく。帽子の鍔を押さえながら、私はナハトへ射線を引いて、

 

「そして私が霧雨魔理沙だ。お前を退治する為にやってきた、ごく普通の魔法使いだぜ」

 

 威力を一点集中に引き絞ったレーザーを、私は思い切りぶちかました。

 白線が空間を切り裂き、黒い吸血鬼へと襲い掛かる。しかし奴は微動だにせず、そのままレーザーの通過を動揺すら見せずに見過ごした。

 だがそれでいい。私の標的は奴自身じゃあない。

 今は昼前。つまり日はまだ空を見下ろしている。私が狙ったのは紅魔館、吸血鬼を日光から守る防護壁だ。

 

 レーザーは館の壁を容易く貫き、一筋の光を館の中へ注ぎ入れた。

 無論レミリアに対してではなく、階段の上で仁王立つ、黒い悪魔の頭上に降り注ぐよう計算して。

 

「むっ」

 

 退魔の光線が、容赦なく吸血鬼へと覆い被さった。阿求の縁起通りこいつはどうやら規格外にも程がある大妖怪らしいが、弱点が無いなんてことは無い筈だ。まともに陽の光を浴びれば、幾らなんでもタダで済むはずが――――

 

「成程……これは素晴らしい」

「は?」

 

 ――はず、が……。

 

 予想を遥かに裏切る光景に目を疑い、八卦炉を持つ手が力を失くした。心を奮い立たせる希望の柱がメシメシと悲鳴を上げ、ひび割れていく音が鮮明に聞こえる。代わりに、腹の底からヘドロの様な粘質と臭気を纏った何かが込み上がってくるような不快感が、私をぞぶぞぶと侵食していた。

 

 効いていない。

 

 破魔の光に焼き焦がされ、苦痛に悶える筈の吸血鬼が。カーテンから漏れた朝日を鬱陶しがるような仕草を見せただけで、欠片もダメージを受けていないのだ。

 嘘だ、と私は目の前の光景に向かって怒鳴り散らしたくなる衝動に駆られた。有り得ない。吸血鬼が直射日光を食らって無事でいられる筈がない。レミリアだって、特注の傘と日焼け止めの重ね塗りで漸く昼の神社に行ける程なのだ。屋内に居て何の対策もしていないだろうナハトが、ダメージを受けないなんて、有り得る筈がない。

 

「レミリア、無事かい?」

「当たってないから大丈夫よ。それよりおじ様は? モロに浴びたように見えたけど」

「少し焦げたが問題ない。ああ、君はそのまま日陰にいなさい。すぐに壁を塞ぐから」

 

 日常の光景とでも言わんばかりに、吸血鬼は柔らかな対応を繰り広げる。奴は壁へと手を振れると、一体全体どんな術を用いたのか、一瞬で穴を塞ぎきってしまった。

 ゆらりと、男は緩慢な動作で振り返る。その仕草にすら、私は内臓を引き絞られるような思いだった。

 

「……さて。どうやらレミリア、君の言う通り私はこの場に居てはならない様子だ。忠告通り大人しく迂回する事にするよ」

 

 だがしかし、と男は不気味なほどに白い人差し指を天井へ向け、

 

「魔理沙。君にどんな理由があって私を倒しに来たのかは分からないが、周りには気をつけたまえよ。レミリアは君の友人でもあるのだろう? ちゃんと計算をして弾を撃ち込んだのだろうが、もし彼女が火傷をしたらどうするつもりだったのかね」

 

 ――――奴の言葉が鼓膜に触れたその瞬間、強烈な幻惑が、私の脳髄へ襲い掛かった。

 泥の様に不定形な姿を持った化け物から無数の腕で掴みかかられ、臓物を引きずり出されていく。

 鮮烈で身も凍る様な悍ましいヴィジョンが、確かに網膜の表面へと広がった。それは奴の言葉が錯覚となって具現化された結果、引き起こされた幻だったのだ。

 確かに軽率な行動だったと反省はしたが、はっきり言ってそれどころじゃない。口から私の中身を全て戻してしまいそうな吐き気が込み上げ、細胞一つ一つが絶叫した。もし早苗が後ろに居なかったら、私はそのまま紅い絨毯へ突っ伏していたかもしれない。

 

 しかし、何だ? この強烈な違和感は。

 

 私は、以前にも似た経験をした事があるような気がする。奴とは今ここで初めて対面したはずなのに、妖怪と言う常識から考えても逸脱しているとしか思えないこの不気味さを、どこかで体験した覚えがある気がするのだ。例えるなら、夢で見た内容が現実と合わさった感覚。俗に言うデジャヴと言う奴だろうか。

 謎の既視感がこの身を震え上がらせてくれる。そんな中、私は瘤のように大きく育った違和感のしこりへ、猛烈な不快感を膨らませていった。

 

 

 ()()が何かの引き金になったのか、私にも分からない。

 けれど、()()は今この瞬間、確実に引き起こされたものだった。

 

 バキン、と鎖が引き千切れたかの様な高周波が、突如頭蓋骨の内側で鳴り響いたかと思えば。

 私の脳の奥底から川の鉄砲水の如く、身に覚えの無い記憶の濁流が一気に圧しかかって来たのだ。

 

「―――――――いづッ!!?」

 

 瞬間、脳漿が破裂したかと錯覚した。経験したことも無い強烈な痛みに襲われ、平衡感覚があっという間に消し飛ばされる。堪らず両膝を折り、頭を抱えて蹲った。

 じくじくと、ズキズキと。火傷の様な、打撲の様な。苦痛という苦痛を掻き混ぜて作った煮凝りの様に混沌とした痛みが、頭蓋の内側で渦を巻く。しかし私は衝撃と共に現れた不可解な映像に、痛みを塗り潰す程の驚愕を覚えさせられていた。

 

 四年前の夏の夜。明けない宵の小さな異変。

 あの時の私は、霊夢に負けて我が家へ帰宅し、そのまま不貞寝していた()()()()。なのに今脳裏で再生されている映像は、本来正しい筈の記憶を大きく逸脱していたのだ。

 映像の中の私は、突如頭上から降って来た胴体と思わしき物に襲い掛かられ、そして次の場面では、

 

「ぁ――――」

 

 体の持ち主らしい生首が、満天の星空から肉薄して。

 

「――ああ……思い出した」

 

 あの生首。

 紫と幽々子の弾幕演武が繰り広げられた不気味な満月を背景に、生者を妬む魂魄の如く揺らめきながら迫って来た、あの恐ろしい顔。

 月明りすら跳ね返す、石灰を被ったように白い肌。闇夜の中で尚輝いていた、暗紫色の薄気味悪い瞳。死人を想起させる灰色に染まった頭髪。なにより、産毛の毛先から神経の中枢まで蝕まんばかりの邪気を孕む、圧倒的な負の波動。

 

 そっくりどころの騒ぎではない。見知らぬ記憶の中で恐怖の刻印を私に刻み込んでいるその男は、紛れもなく踊り場に君臨するこの男なのだ。

 

 間違いない。私は、この男と一度出会っている。

 

 この男を――――紫と幽々子を相手に平然と一人で立ち回ったこの邪悪な怪物を、私は以前から知っている!!

 

「私の頭を弄って、記憶を封じ込めていやがったな……!? ぜんぶ、全部思い出したぞ、吸血鬼!!」

「…………」

 

 灰被りの吸血鬼は答えない。しかし幾らか動揺しているらしく、僅かに瞳が揺れ動いた。奴の図星を突いたらしい。どうやら、私の記憶が蘇る事は計算外だった様だ。

 吸血鬼は、興味深そうに顎へと手を当て、呟く。

 

「驚いたな、まさか私の魔法が解けるとは思わなかった。やはり、人間の成長とは早いものなのか。たったの四年で打ち破れるようになるまで力を上げるとは」

「てことはやっぱり、私の記憶を弄ってやがったんだな? あの晩、何の目的で、私に何をしやがったッ!!」

「……先ずは、勝手に君の記憶を操作した非礼を詫びよう。すまなかった、霧雨魔理沙」

 

 目を疑う光景だった。傲慢で誇り高いと知られる吸血鬼が、いともたやすく人間に頭を下げ、謝罪の言葉を口にしたのだ。

 萃香と互角に戦ったレミリアすら比にならない瘴気を纏いながら、表すは作法の模範の様な仕草。それがどうしようもなく、奴の不気味さを跳ね上げていく。

 

 私が呆気に取られている最中、けれど誤解しないでほしい、と奴はつなげて、

 

「私が記憶を改修したのは、君にトラウマを植え付けないようにする為なのだ」

「なに……?」

「君が今一番よく分かっていると思うが、私を目にした者は皆、私の意思に関係なく途方もない恐怖を植え付けられてしまうのさ。それにあの夜の会合は、はっきり言って最悪の出会いだった。妖怪のパーティータイムである満月の下、それも異変が起こっている状況で、あんな形の出会いを迎えてしまっては、君は確実に私の悪夢によって苛まされていた事だろう。それを避けるためなんだ」

 

 

 ……何を、言っているんだこいつは?

 つまり、こういう事か。自分は問答無用で他者を怯えさせてしまう性質の持ち主であり、私の記憶を弄ったのは不可抗力で怯えさせてしまったからで、その記憶を消してトラウマを植え付けないように配慮した結果なのだと、そう言いたいのだろうか?

 

 馬鹿にしているのか。それともそんな言い訳で、私を丸め込めると本気で思っているのか。

 

 有り得ない。奴は完全に遊んでいる。五感から染み込んで来る悪魔の魅惑(チャーム)を使って、問答無用に納得させようとしているに違いない。

 確か、縁起にも書いてあったな。奴の甘い見た目に騙されるなと。それは暗に、荒唐無稽な理論でも無理やり納得させられてしまいそうになる、この魅惑と恐怖の瘴気に屈するなと伝えたかったんじゃないだろうか。

 

 ――甘く見られたもんだ。この百戦錬磨の霧雨魔理沙を、人間の底力を。舐めて貰っては困るぞ、人外。

 

「そんな大根役者以下の安っぽい演技じゃあ騙されねえよ。私を丸め込みたけりゃ、閻魔の口を塞ぎこめる程度の説得力を持ってきな」

「……いや、当然の反応だ。君の猜疑心は正しいとも。記憶を弄られた相手からこの様な言い訳を述べられて、そうですかと素直に納得出来るわけが無い。全ての非は私にある。君は何も悪くない。……だからその疑いを晴らすか否かは、君の一存に委ねよう」

「あん?」

「君には私を嫌悪する権利がある。勝手に怯えさせて、勝手に事実を消したのだ。これは私の身勝手極まりない行動故に生まれた擦れ違いと言えるだろう。故にこの状況を受け入れ、選択を君に託す。望むならば擦れ違いを埋める助力は惜しまないし、君が私と会話もしたくないと跳ね除けるならそれでもいい」

 

 だからここで選んでくれ、と奴は言った。

 薄黒い爪で階段を指差しながら、奴は地獄の審判のように選択を迫ってきたのだ。

 

「私は今から上へ戻る。私の言葉が欠片も信用できなければ、流石に退治されるわけにはいかないのでそのままレミリアと遊んで貰う。逆に私の言葉を一ミリでも信用できると思えたのなら、そのまま階段を上って来てくれ」

 

 ……それは、どういう意図を孕んでいるのか。

 長く生きた妖怪は、言葉遊び染みた頓珍漢なワードを使って人間を惑わせる事がままある。人外は文字通り人から外れた場所に立つ存在なのだ。容姿や思考回路が人間と近い者はいるものの、決して同じではない。故に、言葉が直訳として働くことは意外と少なかったりする。この様な張りつめた状況においては特に顕著と言えるだろう。

 更に大前提として、こいつは一般に浸透している幽香のイメージが可愛く思えてしまうほど凶悪極まりない妖怪だ。紳士然とした態度の裏には、縁起に綴られていた残酷無比な性格が隠れているに違いない。能ある鷹は爪を隠すように、賢明なヴァンパイアは易々と牙を見せず、獲物を安心させてから毒牙に掛けるのだ。

 

 つまり奴の言葉は、そのままの柔らかな意味合いではない。一見すると礼節を重んじているかのように受け止められるが、そうではない。私に頭を下げたのは、印象を操作して隙を作らせるためのカモフラージュだろう。ならば裏側から見えてくる奴の隠された真意は、『今なら見逃してレミリアに相手をさせる。命までは取らない。しかしこれ以上深追いするならば命を貰う』と言ったところだろうか。

 

「………………、」

 

 裏側に仕込まれた暗黒の選択を私が導き出している最中、奴は這いずる影のように、音もなく階段を昇って行った。視覚から奴が完全に消えると、体を蝕んでいた途方もない重圧が解けて、鋭敏になっていた五感が徐々に和らいでいく感覚が訪れてくる。

 途端に、早苗が床へ崩れ落ちた。あまりの緊張から解放されて腰を抜かしたらしい。無理もない。早苗よりも経験豊富な私でさえ下腹部の紐を解いてしまいそうになったのだ。むしろよく持った方だと思う。

 

「な、何なんですかっ、あの妖怪は……っ!? あ、あんな、あんな禍々しくて気持ちの悪い瘴気、私の知っている妖怪じゃない……っ!」

 

 震える体を押さえようと必死に抱き締める早苗の口から、息も絶え絶えな弱々しい悲鳴が零れ出す。私は早苗に肩を貸しながら、歩行の手伝いを買って出た。なにか励ましの言葉をかけてやりたいが、そこまで私にも余裕はなかった。立たせてやるだけでも精一杯だったのだ。

 

 そんな私たちへ、レミリアは哀れみを含んだ眼差しを向けてくる。

 

「……さて、二人とも。疲れてるところ悪いけど、昇っていくか引き返すか早く選んで頂戴。もっとも、昇っていくつもりなら全力で邪魔するけど」

「………………なぁ、レミリア。一つだけ聞かせてくれ」

「なにかしら?」

「アイツは、お前にとっての何なんだ? 何故お前は、あの怪物が館を歩いても平然としていられ」

「そんな事はどうだっていい。お前には関係ない」

「ッ、レミリアっ!」

「あの方は、お前が感じた通りの存在よ。会っただけでもう十二分に分かったでしょう? 貴女たち程度が幾ら束になって挑もうが、敵いっこない吸血鬼だと本能で理解出来たでしょう? 理解したのなら、あの方の恐怖を刻み込んだままさっさと帰れ。それが双方の為ってものよ」

 

 懇願とも取れる言葉だった。

 冷徹な言動に垣間見れる、温情の様な何か。それは暗に、私達へ精一杯の警告を示している様で。

 

「……ああ、分かった。今回は撤退する。すまんな早苗、どうやら今は依頼に応えられそうにない」

「いえ……」

 

 早苗も現状では遂行不可能だと悟った様だった。復活した魔王とやらがここまで尋常ではない輩だとは、露ほども思わなかったのだろう。いや、例え思っていたとしてもピンと来ていなかったに違いない。幻想郷は妖怪が往来跋扈しているとはいえ割と平穏な世界なのだ。幻想郷は()()()()()()なんだと、やっとこさ納得出来ていたところだったのに、あんな未知の異形と遭遇する羽目になるだなんて想像出来るわけが無い。

 とにかく、今とれる最良の選択肢は戦略的撤退だ。流石に日光が効かないのは想定外過ぎた。一度戻って戦略を立て直す必要があるだろう。

 

 私たちは階段に立ち塞がるレミリアに背を向けて、館の出口を目指すべく歩き出した。

 

 

 魔理沙と守矢の巫女、東風谷早苗との会合後のこと。彼女たちへ伝えた通り上で待っていたのだがこちらへ来る気配が無かったので、現在図書館へ向かっている最中である。

 長い廊下をひたすらに歩き続けながら、私は先ほどの対面について少しばかりの考察を広げていた。

 

 誤解が解けなかったのは致し方無いとしても、記憶の封印を解かれたのは予想外だったと言わざるを得ない。そう簡単に突破できる封印を仕掛けたつもりは無かったのだが、やはり人間の成長は恐ろしく早いものらしい。四年前と比べて相当力を着けている様だった。

 何にせよ、彼女には悪い事をしてしまった。親切と考えて施した過去がこんな形で裏目に出るとは、運命とはよくわからないものである。

 

 しかし、彼女たちは何故絶賛引き籠り中である私をわざわざ倒しに来たのだろうか。今の私は確か、紫の手によって封印されている認識が広まっている筈だ。レミリアの監視のせいで外に出られない以上、その認識は未だ崩れていない筈である。

 

 考えられるのは、例の死体事件の犯人を私だと誤解しているパターンか。一応吸血鬼なので、干からびた死体から封印の解けた私が妖怪を襲い続けていると勘違いされていてもおかしくはない。悪評も相まって槍玉に挙げられやすいのも頷ける。

 

 であれば、私は異変の首謀者として捉えられたと考えていいのだろうか?

 

「……、」

 

 まぁそうなっているのなら、いずれ博麗の巫女が来るだろう。よくよく考えてみたらそのまま退治されてしまった方が良いかもしれない。私が退治された後も事件が続くようならば私の冤罪も証明できる上に、そこを起点に悪評を取り下げる活動を始めるのも悪くないだろう。

 そうなると、ああ、しまった。ならば魔理沙と早苗に退治されておけばよかったではないか。魔理沙に対して非礼を詫びる事しか頭になかったせいで、完全に失念していた。痛恨の失態である。色々な意味で数十分前の私を本気で殴ってやりたい。

 

 そうこう考えている内に、地下図書館へと辿り着いてしまった。何だか複雑な心境のままだが、過ぎた事を悔やんでも仕方がない。気持ちを切り替えて、当初の目的を果たすことに専念するとしよう。

 

 ノックを終え、図書館の扉を開く。

 

「失礼する――っと、ここにも来客か。今日は珍しい日だな」

 

 図書館内の客間には現図書館の管理者たるパチュリーと、いつか出会った魔理沙の友人がテーブルを囲っていた。

 フランドールよりも癖の強い、金糸の様に煌びやかな髪。フリルのあしらわれた赤いカチューシャ。青を基調とした清廉な服装。僅かに滲み出る魔に関する者の気配。

 確か、名をアリスと言ったか。

 

「その口ぶり、上にも客人が来ているみたいね」

「霧雨魔理沙と守矢の巫女が来ていた。つい先ほど帰ったところだがね」

「……へぇ? レミィが人間の立ち入りを禁じていた筈なのだけど、どうやって集中している美鈴の眼を潜り抜けて入ったのかしら。まぁそれはさておき、貴方はここに何の用?」

「このネックレスのお礼さ。先ほど紆余曲折あって日光を浴びてしまったのだが、この道具のお蔭で表皮が焼けただけで済んだ。本当に素晴らしい。代りに私にできる事があれば何でも言ってくれ」

「相変わらず律儀なヴァンパイアね。礼ならいいと言ったのに……」

 

 けどそれなら、とパチュリーは一呼吸を開けた後、

 

「彼女の相手をしてくれる? どうやら貴方に用があるらしいのよ」

 

 対面座席に腰かけている、口を固く結ぶアリスを指し示した。はて、何か彼女と由縁のある様な出来事があっただろうか。

 

「本当かい?」

「…………、」

 

 訊ねると、無言のまま値踏みをするような視線を向けて来るアリス。只ならぬ雰囲気である。どうやら魔法談義だとか、そう言った平和な用事ではないらしい。

 

「まさかアリス、君も私を退治しようと?」

「…………いいえ。厄介事に肩まで浸かる気はないわ」

 

 首を振り、否定を表す金髪の少女。今回に限ってそれは少しばかり残念である。ここで退治されていれば、冤罪の証明を少しでも早めることが出来たかもしれな――――いや、彼女に退治されてもあまり意味がないのか。妖怪が妖怪を屈服させても、それは退治ではなくただの争いとして扱われてしまう。異変解決は人間の仕事なのである。人間に倒されなければ、私の求める結果は訪れ難い。

 

 ほんの少し肩を落としつつ、私は続きを待った。

 すると彼女は、意外な言葉を口にした。

 

「吸血鬼。あなたに伝えたい事があるのよ」

「何かな」

「……私はあなたと戦わない。戦う理由がない。けれど別の者があなたを狙っている。それを伝えるために急いで先回りして来たの。……本当は、色々と備えておくようパチュリーにだけ教える予定だったのだけれど」

 

 …………この数時間の間だけで、私を狙っている人物が少なくとも三人発覚してしまったのだが、巷では私の首に賞金でも掛けられているのだろうか。なんだか、私を討伐しようと皆が奮い上がっていた大昔の雰囲気と近い臭いを感じて、内心げんなりとしてしまう。幻想郷の住人は温和でいて血の気が強いので、下手をすると私の首を誰が一番早く取るか、なんて競争もされていそうだ。

 

「わざわざ警告に来てくれたと言う事は、近い内にかなり厄介な人物が私の元へ訪れると考えて間違いないかな?」

「ご名答。――――そしてやってくる者こそが、風見幽香と言う大妖怪。四季のフラワーマスターって通り名、耳にしたことは無いかしら?」

「……」

 

 彼女の口から飛び出して来た予想外のワードに、私は己が耳を疑った。

 会ったことは無いのだが、その存在は知っている。幻想郷の中でも特に知名度の高い妖怪だ。比較的新参者の私が聞き覚えのある程度に彼女の名が知れ渡っているのは、幻想郷縁起の中でも頭一つ抜けて危険な妖怪だと紹介されているからだろう。

 

 風見幽香は長い時を生きた妖怪らしく、邪魔者や縄張りを荒らした者へは絶大な力を持って滅ぼしにかかる性格の持ち主だという。しかも純粋な妖怪としての能力――即ち身体能力が飛び抜けて高いらしく、縁起の記述から察するに鬼と負けず劣らずの力を持っていると考えられる。

 何故そのような人物が私を狙うまでに至ったのか、その経緯は分からないし心当たりも無いのだが、狙われているとあれば相当に厄介だ。わざわざ他の妖怪の縄張りを侵してまで私を狙っている所から察するに怒髪天を衝いてしまっていると容易に考えられる。仮に風見幽香が萃香と同等の実力を持った大妖怪であるのならば、妖怪の山での様な被害がここで巻き起こりかねないだろう。あの時は紫の補助があったからこそ山はほぼ無傷だったが、今回はそうもいかない。館は良くて半壊、最悪更地にしてしまいかねないかもしれない。

 

 しかし風見幽香はその圧倒的な力を持つ反面、長い時を生きた者としての礼節も持ち合わせている人物と聞く。なので出合い頭に即戦争となる確立は低いだろう。大事に至ってしまうのは変わりないかもしれないが……うむう、今日はただ座椅子探偵の真似事をするだけの日であったはずなのに、どんどんアクシデントが舞い込んで来るな。まるで因果的に事件を招いてしまっている探偵になったかの様な心地だ。

 

「知っているとも。しかし何故、私が彼女に狙われなければならないんだ? 標的にされる様な因縁など、全く思い当たる節は無いのだが」

「これよ」

 

 アリスが視線をテーブルへ――正確には、テーブル上の布を被った巨大な塊りへ――と移す。すると彼女は五指で何かを手繰る様な仕草を取り、背後に控えさせていたらしい西洋人形を巧みに操ると、謎の物体に被せられていた布をすっぱりと剥ぎ取った。

 露わになった物体に、本日三度目の驚愕を叩きつけられた。

 

「これは、」

「例の怪死事件の死体かしら?」

 

 私が答えを出すよりも早く、パチュリーがアリスへと問いかけた。アリスは視線を遺骸へ釘付けにしたまま、首を縦に動かし応える。

 

「このミイラは、幽香のお気に入りの花畑を壊して息絶えた妖怪の成れの果てらしいの。幽香はコレが生前花を荒らした原因が、第三者の介入によるものだと知って怒り狂った。その第三者として槍玉に挙がったのが、紅魔館の吸血鬼だったのよ」

 

 幽香は花を踏みにじられる行為を何よりも嫌悪するから、とアリスは付け足して口を閉じた。怒髪天を衝いているかもしれないと予測していたが、彼女の発言で確定となってしまった様子である。参ったな。

 

「う……む。事の粗筋は理解出来た。だが何故、風見幽香は私の仕業だと勘繰ったのかな? その結論へ至った証拠の出所が引っ掛かる」

「正確には、幽香が疑っているのはレミリアもしくはフランの方なのよ。で、あなたをピンポイントに疑っているのは、むしろ私の方」

 

 人形使いの少女は立ち上がり、快晴の夏空の様に蒼い瞳を私へ向けた。銀の槍を携えた人形を従え、その手には魔導書を抱えている。控えめに見ても戦闘態勢と受け取れた。

 

「この遺体からは西洋魔術の痕跡が見つかったわ。幻想郷で西の技術を使える魔法使いはそう多くない。魔理沙はまだ半人前だし、インドア派の極みみたいなパチュリーもわざわざ外に出てこんな事件を引き起こすとは考え難いし、メリットも見当たらない」

「ちょっと?」

「となると他に考えられる使い手と言えば、異変の元凶(前科持ち)たるあなたたちに絞られるのではないか、と私は考えたのよ」

 

 西洋の魔法……か。確かに極東の地であるこの幻想郷では、中々お目にかかれる技術ではないだろう。西側の色が強い私達へ矛先が向くのは当然の帰結と言える。決め手となった魔法の他にも、西洋の文化が色濃く浮き出ている紅魔館であった事や、死体の惨状から血液を啜り生き永らえる吸血鬼に疑惑の眼が向きやすかった点などが、彼女たちの疑いを後押しする要因となったのだろう。

 

 干からびた死体。西の魔法。吸血鬼。縁起による私の風評被害。最悪の第一印象。

 

 成程、私は気付かぬ間にリーチを掛けられていたという訳か。流石にここまで露骨な要素が並べられては、疑わない方が不自然と言えるレベルである。

 

 しかし何故わざわざ私へ教えてくれたのだ? ――と思ったが、言動から察するに、アリスはここで私と相対するつもりなどさらさら無かったらしい。ただ彼女にとって友人であるパチュリーに被害が及ぶかもしれないと配慮した結果、風見幽香よりも早く先回りしたのである。そこで偶然私と鉢合わせた為に、こうして真意を問おうとしている訳か。

 

 彼女は人形に持たせている銀の槍よりも尖った視線を私へ浴びせながら、桃色の唇を操り声を紡ぐ。

 

「正直、あなたの事なんて欠片も知らない。けれど、あなたが常軌を逸した存在である事くらいは理解しているつもりよ。だから……単刀直入に切り込むわ。あなたがこの妖怪に何か細工を施した元凶ね?」

「違う」

 

 人形使いの少女が投げた言葉を、私は両断し切り捨てた。今まで通り曖昧な解答をしていては誤解もまた増えてしまう。直せるタイミングを掴めたのならば、積極的に修正していかなければなるまい。

 眉を顰めるアリスに向けて、私は一息の間を空け、告げる。

 

「私は、諸事情あってつい数週間前まで長い眠りに就いていた。おまけに目覚めてから、レミリアに屋外へ出歩くことを固く禁じられていてね。君や風見幽香を翻弄している怪事件の内容も、つい今朝知ったばかりという程なのだよ」

「……あなたの様な妖怪が長い休眠をとるのは、まだ理解出来なくもない。パチュリーからも耳にはしていたし、紫だって冬眠するからね。けれど、タイミングがあまりに不自然すぎるんじゃないかしら。何故こんな()()()()()()()に目覚められたの? 偶然にしては出来過ぎと考えるのが妥当よね」

「残念ながら偶然と言う他ないのだ。しかし当然、こんな言葉だけで信用を得るのは難しいと理解している。なのでパチュリーに聞くと良い。彼女ならば、私のアリバイを証明してくれるはずだ」

「……」 

 

 アリスの鋭利な疑惑の眼差しは一向に丸みを帯びる気配を見せない。無理もないか。私を知る者は昔から、何かしらの厄災が起こると必ず私へ結び付けてしまうのだ。それもこれも全てこの忌々しい魔性が原因である。この瘴気さえ無くなればとどれ程願った事か。

 だが憂鬱になっても仕方がない。今回は丁度良く、アリバイを証明してくれるパチュリーが居る。彼女の言葉なら、アリスの棘を引き抜く事もできるだろう。

 

「パチュリー、彼の言っている事は本当なの?」

 

 視線と疑問を託されたパチュリーは、静かに唇を開き、

 

 

 彼女が言葉を発するより先に、突如として爆撃を思わせるかの様に盛大な爆発音が図書館へ轟き、揺るがした。

 何の前触れもない突然の爆発は、地上ではなくこの図書館から巻き起こった。方角からして、紅魔館の出口へと続く天井部分。そこから硝煙が逆さキノコのように膨れ上がり、瓦礫の土砂を本の森へ散乱させる。

 急激な事態の変化へ真っ先に反応したのは、私でもパチュリーでもなくアリスだった。

 

「まさか、幽香……? そんな馬鹿な、彼女はまだ人里付近にまでしか辿り着いていないはず。なのに、こんなに早く到着するなんて!」

「? ナハトを狙ってるのなら一目散にここへ来る筈じゃ―――ああ、そう言えば風見幽香って相当マイペースな妖怪だったっけ。月面旅行の記念パーティーの時もかなり遅れていた記憶が……ってそんな事はどうでもいいか。なんにせよ貴重な蔵書を壊されちゃ堪らないわ。早々にお帰り願おうかしら」

 

 手元に魔導書を召還したパチュリーは、空気へ腰かけるようにして浮かび上がると、背後に七色の魔法陣を召還させた。

 応じて、私自身も援護に向かおうと魔力を漲らせる。元より風見幽香の狙いは私だ。ここから去れば図書館への被害も最小限に留められるだろうし、幾らか相手をすれば彼女の機嫌も紛らわす事が出来るかもしれない。

 

 だがそう思慮した私の進行を、アリスの魔力糸が食い止めた。

 その瞳に宿るは、明確な敵対の遺志。

 

「私はあなたを信じている訳じゃない。むしろ、今の私は幽香の味方よ。彼女の代わりに私が相手をするわ」 

「別に、無暗に争うつもりなど無いさ。話をして誤解を解くだけ――――む?」

 

 サファイアの様な双眼へ無実を訴えかける最中、私は、視界の隅に違和感を感じ取って目を向けた。

 アリスが持ち込んだ、ミイラのサンプルが安置されているテーブル。

 しかしそこに、ある筈の物体は存在せず。私の目に映っているのは、どう見てもテーブルの木版のみで。

 

「――――死体が、無い……?」

「!?」

 

 私の言葉に、アリスも驚愕し目を見開いた。私も彼女と同じ心境だったことだろう。

 音も無く、気配もなく。まるで遺体が神隠しにでも遭ったかのように、忽然と姿を消したのである。

 何が起こったのかを把握し終えたその瞬間、私の脳裏に稲妻の様な閃光が走り抜けた。

 

 不自然な爆発。遺体の消失。

 そして、来客があったにも関わらず一度も姿を見せない彼女はどこだ?

 

「まさか」

 

 大図書館中を探るように、四方八方へ眼を向ける。

 そして私は、地下図書館の出入り口で視線を固定させた。

 小悪魔がいた。

 今の今まで姿を見せなかったパチュリーの従者が。脇に大きな遺体を抱えたまま、こちらを生気のない瞳で呆然と眺めていたのだ。

 

 何故彼女がそこに? 何故彼女が遺体を? 

 

 疑問は尽きる事なく、脳髄から湯水の如く湧き上がる。しかしどれもこれも、答えを得るヒントとは成り得なかった。

 ただ一つ言えるのは、あの爆発は陽動だったという事だ。アリスやパチュリーと比べると圧倒的に力の弱い小悪魔がどうやってあの規模の爆発を引き起こし、遺体を私に悟られる事無く奪取してみせたのかは分からないが、爆心地へ向かったパチュリーから何時まで経っても弾幕による戦闘音が響かない事から風見幽香の襲撃でないのは明白だ。

 

「小悪魔!」

 

 司書の名を叫ぶ。しかし彼女は、ただ不自然に頬を釣り上げ不気味な笑みを浮かべるのみで。

 直後、小悪魔は霞に呑まれたかのように姿を消した。

 

「テレポート……?」

 

 傍で一部始終を眺めていたアリスが、ポツリと呟いた言葉。私が知りうる小悪魔の魔法技能では有り得ない事だが、彼女は確かに魔術の類で空間を歪め、転移して見せたのである。座標の特定と空間の操作には、相当高度な魔法技術が要求されるというのに、だ。

 あまりに不可解な現象の連続が、私の脳を驚愕一色に染め上げる。

 

 小悪魔に何が起こったのかは分からないが、彼女の身に異常事態が起こった事は確かだろう。契約でしか結ばれない従者と主人の関係でありながら、主従を超えた信頼をパチュリーへと寄せている彼女が、こんな勝手な行動に出る筈がない。そもそも彼女に遺体を盗む理由が、全くもって見当たらない。

 けれど小悪魔の行動はまるで、これ以上遺体を調べられるのが不都合とでも言わんばかりのアクションだった。仮に小悪魔にとって遺体の秘密を探られるのが不都合なのだとしたら、もしかしなくとも、この事件の黒幕とは……?

 

 ふと、朝方の彼女との会合が、微かに脳裏へ過った。

 

 確か小悪魔は、珍しく不調を訴えていた。それも私を前にして、衰弱ぶりを隠せない程に弱っていたのだ。元々人外が肉体の不調を訴えること自体が珍しいのに、この事態である。偶然とは到底思えない。

 嫌な予感が、水垢のように精神の表面へこびり付くかの様な感触。私はそれを拭い去るように、上空のパチュリーへ向けて声を張り上げた。

 

「パチュリー、その爆発は陽動だ」

「ええ、たった今気がついたところよ。風見幽香は来ていない。――――そして貴方の意図は分かっている。任せて頂戴」

 

 説明は不要。パチュリーは上空に居座ったまま、細く呪文を唱え始めた。

 小悪魔はパチュリーに召喚された使い魔、即ち従者だ。契約者の命令は絶対であり、契約者が特定の魔術記号を唱える事で強制的な命令を施す事が可能となる。つまりパチュリーは、独断行動を行った小悪魔を、この場を呼び戻そうとしている訳だ。

 しかし、呪文の後に訪れたのは、パチュリーの困惑を帯びた声だった。

 

「どういうこと……? あの子から命令を弾かれた」

「なんだって?」

「止まらない……! どれだけ呪文を与えても止まらないのよ!」

 

 滅多な事でも取り乱さない七曜の魔女が明らかな動揺を露わにしている光景は、事の異常性を如実に物語っていた。

 一体何が起こったのか――ただその一言に尽きる出来事だった。あらゆる予測から外れた連続のイレギュラーが、この場に居る全ての者達へ混乱を植え込んだのだ。

 だが戸惑っている場合ではない。如何なる理由があるにせよ、まるで私たちの目から遠ざけたいが為に遺体を奪い去ったかの様な小悪魔は、一度連れ戻さねばならない。

 パチュリーの命令が効果を発揮しない現状、この中で最も素早い私が動くのが最善か。外は昼間だが、首飾りのある今なら多少の無茶は働ける。直ぐに追いついて、直ぐに連れ戻せばいいのだ。

 

 私は空間転移の痕跡を辿りながら、豪速を伴って地下図書館から飛び出した。

 

 

 

 

「レミリアの奴……完全に弱みを握られてやがるな。プライドの高いあいつが館を乗っ取った野郎に『あの方』だなんて敬称を使うわけが無い。あいつは、そう易々と誇りを捨てる様な奴じゃあない。絶対に何かある。待ってろよ、直ぐにナハトをぶっ倒して助け出してやるからな……っ」

 

 紅魔館の館を後にした直後。ようやく抜けた腰が戻った私は、魔理沙さんと共に霧の湖をゆっくりと横断していた。

 今日は視界が普通に確保できる程度に霧が薄く、日輪は湖からも顔を拝むことは出来るけれど、やはり水辺は秋の気候も相まってかなり冷え込む。しかも嫌な汗を沢山かいてしまったせいで余計に寒く感じてしまう。

 その寒さを紛らわせるようと私は唇を動かす。たった今そこで経験した出来事の中で、歯の間に引っかかった小骨のように取れない違和感を、魔理沙さんへ打ち明ける事にしたのだ。

 

「あの、魔理沙さん。少し気になった事があるんですけど」

「……なんだ?」

「彼は――ナハトは、本当に邪悪極まりない吸血鬼なのでしょうか?」

 

 質問を振られた彼女の顔は、何を問いかけられたのか分からないと言う風に、空白の表情を貼り付けて。

 直後、魔理沙さんは血相を変えて私の肩へ掴みかかって来た。

 

「どうしたんだ早苗……!? まさかさっき奴に洗脳でもされて――」

「違います違います! ただ、少し彼に――いえ、正確には彼の現状に違和感を感じただけですよ」

「違和感?」

 

 魔理沙さんの鸚鵡返しに私は首肯を示し、続ける。

 

「縁起の情報によると確か、あの吸血鬼は過去に吸血鬼異変、永夜異変、そして四年前の妖怪の山での事件と三つもの大きな事件を引き起こして、その度に賢者や力の強い妖怪によって打倒されているんでしたよね?」

「らしいが、それがどうした?」

「おかしくありませんか? ここまで前科を重ねていて、しかも筋金入りの悪妖怪であるならば、幾ら何でもこの現状を妖怪の賢者が黙って見過ごしている筈がないと思うんです。ましてや今まで彼を封印していたのは他ならぬ賢者自身。あの紫さんが、封印が解けた事に気付かずそのまま放置するだなんて有り得る話でしょうか?」

 

 これ以外にも違和感を感じた部分はある。咲夜さんとレミリアさんの妹君だ。

 魔理沙さんの言う通り弱みを握られているというのならば、果たしてあの様に和気藹々と生活を営んでいられるだろうか。私には到底考えられない。例え演技に徹しているとしても、あんなに楽しそうに過ごすなんてどう足掻いても不可能だろう。もっと言えば妖精のメイドさんだっておかしい。本当にあの悍ましい吸血鬼に支配されているのならば、良くも悪くも純真無垢と名高い妖精が、平常心を保っていられるワケが無い。

 

 あの様子はまるで、吸血鬼ナハトが最初から『生活環境の一つ』として受け入れられているとでも言わんばかりの風景だった。そこに私は強い違和感を感じたのだ。

 

「……すると奴は、別に放置していても問題ない妖怪だと認識されてるってワケか? 有り得ない。封印を長引かせるために(アイツ)は阿求を介して情報操作したんだぜ? 他ならない、あの紫がだ。お前はあまり知らないのかもしれないが、紫が直接出張ってくるなんて滅多に無いことなんだよ。余程の事態じゃなきゃあ、アイツが表立って行動するのは稀なんだ」

「しかし、それでは尚更彼を放置したままでいるこの現状が、矛盾している事になりませんか?」

 

 私には、今見て体験した出来事の中に、明らかな間違いが紛れ込んでいる気がしてならなかった。それは本当に些細な矛盾の感覚。金魚すくいの水槽の中、小赤の群れに一匹だけ赤い鯉の幼魚が混ざっているかのような、パッと見ただけでは気付けない程度の違和感だ。

 魔理沙さんは顎に手を当てて暫く考える素振りを見せると、徐に帽子の眼深く被り直して。

 

「……なんにせよ、奴を放置しておく理由は無いだろ」

「魔理沙さん?」

「早苗だって、骨身に染みるほど分かったんじゃないのか? あれは危険だ。どう考えても幻想郷に見合った妖怪じゃあない。例え今は大人しくても、いつか必ずデカい事件を引き起こすに決まってる。それも致命的に質の悪い大異変を、だ。ならそうなる前に、私たちの手で一刻も早く始末を着けておかなきゃ駄目じゃないか」

 

 ――雰囲気が、変わっていた。

 

 それは、ほんの僅かな変化だったのかもしれない。気紛れに装飾品の色を変えてみただとか、そんな程度の小さな変化。しかしそれは、私の眼には明らかな異変としてくっきりと映り込んでいた。

 だって、どこか斜に構えた振る舞いを崩さず、しかし冷静沈着で分析能力に長けている魔理沙さんが、考える事を半ば放棄していたのだから。

 

「……ん? 何の音だ?」

 

 ふと、背後から何やら爆発音の様なものが聞こえたかと思えば、魔理沙さんは上空へと眼を向けた。私も釣られて空を仰ぐ。

 すると、青空の中で空間転移を繰り返し、目にも止まらぬスピードで移動している謎の飛行物体と、それを追って空を切り裂く黒い吸血鬼の姿があった。

 何の前触れもなく訪れた突拍子もない光景に目を奪われ、呆然とその光景を見過ごしてしまう。しかしそんな状況下でも、魔理沙さんは嫌に冷静な態度のままだった。

 

「あれは……人里の方角へ向かってるな。野郎、あのまま人間を襲いに行くつもりかもしれないぞ」 

「えっ?」

 

 魔理沙さんから発せられた言葉に、私は思わず疑問符を浮かべてしまった。

 確かにアレは人里の方角へ向かってはいたが、私には吸血鬼が飛行物体を追っている様にしか見えなかった。ただ方角が同じだけなのかもしれないのに、どうして魔理沙さんは、真っ先に人間を襲いに行ってると解釈したのだろう。

 

 確かに、魔理沙さんの言う通りあの吸血鬼は危険なのだろう。それは彼女や霊夢さんのように、百戦錬磨の経歴を持つ方たちと比べて圧倒的に経験の少ない私でも理解できる。けれど、私はあの吸血鬼を取り巻く真実が()()()()()()()()と思えて仕方がないのだ。

 正確には、吸血鬼に対する評価に何処か食い違いがあるように思えてならない。危険なのは百も承知している。だけど、多分それだけじゃない気がする。実際の紅魔館を見ていて、私は確かにそう感じたのだ。

 こんな違和感、普段の魔理沙さんなら絶対見逃さないだろう。彼女の年齢にそぐわない頭の切れに、私が何度舌を巻いた事か。類稀なる努力と持ち前の器用さであらゆる困難を跳ね除けてきた少女が、この程度の疑問を抱かないなんて考えられない。

 

 けれど、今の魔理沙さんは考える事を放棄している。いや、思考の方向性が狂っている様にすら見えた。ハッキリ言って様子がおかしい。まるで一つ歯車を抜き取られた機械のように不自然だ。

 

 あの吸血鬼を前にした時とは別の種類の嫌な汗が、じんわりと背中へ滲む。

 不気味だ。私は、魔理沙さんの事を不気味だと思ってしまっている。

 彼女は。

 私の目の前に居る、この魔法使いの女の子は。

 

 本当に、私の知っている霧雨魔理沙なのだろうか?

 

「そう言えばあの晩、奴は私の八卦炉を触って火傷をしていたな。……奴を打ち負かす術は無いと思っていたが、こいつが使えるかもしれない」

 

 既に見えなくなった飛行物体を未だ視界に収めているかの様に、彼女は一切視線を外すことなく、帽子の中のナニカを握りしめながら呟いた。

 そんな彼女の瞳は、神託の使命感に駆られている狂信者のような、盲目的な光を灯していて。

 吸血鬼ナハトを倒すこと以外は眼中に無いと言わんばかりの、異常過ぎる執念の炎が、傍目から見てもハッキリと感じられるほど、瞳の奥で燃え盛っていた。

 

「奴だけは絶対に始末しなければならない。どんな手を使ってでも、アイツはこの幻想郷から消し去らなければならない妖怪なんだ。絶対に、絶対にだ」

 

 とても、怖い目をしていた。




 
 魔理沙が何やら怪しい雰囲気。
 一応明言しておきますが、普段の彼女なら絶対こんな物騒かつ穴と矛盾だらけの考えには至りません。ナハトに対する考察も含めて。


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22.「にくにくしい疑似餌」

 今話から4章の気色がこれでもかと浮き彫りになって来ます。1~3章とは全く別の方向性です。
 なので、ちょっと心の準備をしていた方が良いかもしれません。


「秋が来~た、どこへ~来た~っと」

 

 秋、それは実りの最盛期。そして、四季の中で幻想郷が春と並ぶ活気に包まれる憩いの季節でもある。

 その例に漏れず、私も秋は大好きだ。何といっても食べ物が美味しい。お米に始まりナスに松茸、栗やぶどうに梨とリンゴ、柿に銀杏などなどなど、挙げていけばキリが無い。

 しかしそんな中で別格とも言える食材は、やっぱりサツマイモではなかろうか。

 本当は更に気温の低くなった冬の方が甘味は凝縮されているのだけれど、過ごし易い秋の気候の中でのんびり焼く方が私の性にあっている。ついでに神社の落ち葉処理も出来るから一石二鳥というヤツだ。良い事尽くめでこの上ない。

 だから私が、こうして博麗神社の境内を掃除しながら、母屋のキッチンでじっくり蒸されている芋の完成を心待ちにしつつ鼻歌を奏でるのも、仕方のない事なのである。

 

「ふんふーん、そろそろ良いかなぁ」

 

 あの芳醇な秋の甘みが直ぐにでも味わいたくて、まだ焼けていないと分かっていてもしょっちゅう様子を見に行ってしまう。けれどもう頃合いの筈だ。私は確認用の竹串を手に、母屋の調理スペースへと向かった。もうすぐ味わえると思うと、心なしか足取りが軽くなる。

 

「やっきいもちゃーん、お待たせ――」

「あっあつッあつっ、あちちちっ」

「――あ?」

 

 母屋の襖を開いた所で、私の行進は見事なまでに硬直した。

 原因など、言うまでもない。例の境界を操る妖怪がスキマから身を乗り出しながら、釜戸から芋を取り出している真っ最中だったからだ。

 芋を取る事に夢中なのか知らないが、紫はこちらに一切気付く素振りも見せず、私の大切なアツアツ芋と必死に格闘している。

 

「ふー、ふー。んふふー、良い感じに焼けてるわねー」

 

 なんとか芋を取り出した紫は丁寧に皮を剥き、いただきまーすと頬張った。秋神の恵みである豊穣の甘みを噛み締めながら、頬に手を当ててだらしない笑顔を浮かべている。

 

「おーいしーい! 流石は秋神のお芋ねぇ。しっとりと舌に絡み付くも決してクドさを感じさせないこの甘美な味わい、堪らないっ!」

「あー分かるわー、秋姉妹産の焼き芋は本当、病みつきになるくらい美味しいのよねー」

「うんうん、この心地良い旨みは何年経っても飽きないもの――――あっ」

 

 ようやくこちらの存在に気づいた紫の表情が、みるみる青ざめ始めた。文字通り血の気が引いていくという感じである。

 だが容赦はしない。お祓い棒と陰陽玉を完全装備した私は、ついでに素敵な笑顔も心掛けて紫の元へ詰め寄っていく。

 彼女も、引き攣った笑顔を浮かべつつ私を出迎えてくれた。

 

「おはよう霊夢。今日は良い朝ね」

「そうねぇ。澄み渡る様な秋の空気が清々しくて、焼き芋に最適なとーっても良い朝よねぇ」

 

 焼き芋、というフレーズで、思い切り肩を跳ねさせる紫。

 ああ、可哀そうに。まだ冬には幾許か時間が残されているというのに、紫は今にも凍えてしまいそうな顔をしている。これは是が非でも暖めてあげなくてはなるまい。無論拒否権など無い。

 

「紫。私にはね、この世に三つだけ、堪忍袋の緒が耐えられないものがあるの」

 

 ゴキン、と指の骨が鳴る。それは私の怒りを表す警告音だった。

 

「一つ目は、訳の分からない異変を起こして私の手を煩わせる妖怪(バカ)。二つ目は、私の神社で宴会(すきかって)したあと片付けず帰っていく妖怪(バカ)。そして三つめは、私のささやかな楽しみを奪おうとする目の前の大馬鹿よ」

 

 ギギギギッと聞こえてきそうなくらい、紫はぎこちない動作で首を傾げながら、

 

「……こ、こんなに沢山あるんだから、一つくらい大目に見てくれても」

「ならん死なす」

「戦略的撤退!!」

「すっとろいわァッ!!」

 

 能力を使って逃走を試みた様だがもう遅い。スキマが閉じる瞬間目がけて、思い切り封魔針をぶん投げた。もちろん陰陽玉の突撃も忘れない。

 暫くして、閉じるのをやめたスキマから紫が落っこちて来た。きゅう、とだらしなく地面に伸びてしまっている。

 

「こ、この私をいともたやすく撃墜するなんて……腕を上げたわね霊夢。流石は私の見込んだ博麗の巫女だわ……ッ!」

「ワザと手加減してやられてる癖になーに寝言言ってんのよこの馬鹿賢者。ほらさっさと起きなさい。冷めないうちに食べるわよ」

 

 ハッとするように紫は起き上ると、パチパチ瞬きをしながら素っ頓狂な声を上げた。

 

「食べてもいいの?」

「こんな量、流石に一人じゃ食べきれないっての。どうせもう少ししたら神社へ何人か来るだろうし、来た奴には最初から配るつもりだったのよ。ったく、今度から食べたい時は盗むんじゃなくて、堂々と食わせろって言ってきなさいよね」

「~~~っ、霊夢優しい大好き愛してぶッ!?」

「ええいくっ付くな鬱陶しいぶん殴るわよ!」

「だから毎度叩いてから言わないでよね!?」

 

 頭を押さえてぷんすこ言ってる紫は放置し、私はいい加減危なくなってきた芋の救出へ取りかかった。蒸気で火傷をしない様に、長箸を用いて竈から秘宝を取り出していく。

 おお、紫の言う通りどうやら丁度いい塩梅の様だ。竹串が抵抗なく沈んでいく感触が、何だかとても嬉しかった。

 紫が藍と橙の分も欲しいと言って来たので、土産用の芋も確保してから、神社の縁側に座って実食へと移る。

 うん、やっぱり美味しい。自然と頬が綻んでしまう優しい甘みだ。紫が夢中になるのも頷けるというものだろう。これ一つで今日一日元気に過ごせる気がしてきた。

 

 半分平らげたところで、幸せそうに芋を頬張っている紫へと眼を向ける。

 

「で、実際のところ何の用? ただ芋を盗みに来ただけじゃあないんでしょ」

「…………まったく、つくづくあなたは妖怪より察しが良いわねぇ。妖怪巫女って噂は本当じゃ危なッ!? お芋を凶器にするんじゃありません!」

「今度妖怪巫女って言ってみろ。泣くまでイモ突っ込んでやるから」

 

 どこに……!? と戦慄する紫を放置し、私は再び芋に齧りつく。血が上って食べ物を粗末にしかけたのは、素直に反省だ。

 気を取り直した紫は、コホンと咳払いして、

 

「最近、妖怪の間で奇妙な怪死事件が起きているのだけど、霊夢は知ってる?」

 

 先ほどとは打って変わった冷たいトーンで、紫は私へ問いかけた。

 言われたキーワードから、そう言えばちょっと前に鴉天狗の新聞でそんな記事が取り上げられていたな、と思い起こす。しかし詳しくは知らないので、私は『うーん』と首を捻った。

 

「妖怪のミイラがポコポコ見つかってるってやつ? 原因までは知らないけどさ」

「当たっているわ。で、貴女はそれについてどう思う?」

「別に。被害が出てるのは妖怪だけみたいだし、どっかの馬鹿同士の縄張り争いか何かじゃないの」

「相変わらず危機感が薄いわね。今後人間に被害が出るかもしれない、とは考えないの?」

「もちろんそれくらい考えたわ。でも、多分人間に被害は出ないと思う」

「……お得意の勘、かしら?」

「まぁね」

 

 昔から、私の勘はよく当たる。特に妖怪関連での的中率は自分でも驚くほど高い。

 今回起こっている事件とも異変とも取れない怪現象も、何となく人間に被害は出ないと予想している。少なくとも里の人間に直接的な被害は出ない。これは多分絶対だ。

 私がこう予測しているのは、漠然と『人には被害は出ない』と考えているからではない。この事件の引き金となった人物、即ち黒幕の目的が、()()()()()()()()()()()ように思えてならないからだ。

 

 私の答えを聞いた紫は、呆れたように溜息を吐いた。

 

「貴女の勘、下手をすると私や藍の推測よりも正確な時があるから一概に無視できないのよねぇ。私も欲しいわ、ソレ」

「毎日お茶飲んで日向ぼっこしてれば自然と身につくわよ」

「まぁそうなの? なら私も早く隠居しなくちゃね」

「なに言ってんの、もう隠居してるも同然じゃな――あー、冗談だからそんなハンカチ噛み締めそうな目でこっちを見ない」

 

 よく分からないが地雷だったらしい。こういう時の紫は下手に目を合わせると凶暴化するので、逸らしてやり過ごそう。熊や猪と同じである。

 

「けどそういうアンタはどうなのよ。実はもう原因なんて分かってるんじゃあないの?」

「ええ、まぁ」

 

 意外にもあっさりとした回答だった。あまりにサラリと解決宣言をされたせいで、思わず『へっ』と気の抜けた声が漏れてしまう。

 いやしかし、流石に事の全貌まで掴んだ訳では無いのだろう。もし全てを掌握しているのならば、こいつの性格から考えてそっけなく事件の解決にまで誘導するのが定石だ。それになにより、今の紫は扇子を取り出して頬へと静かに当てる仕草を取っている。この時の紫は、思慮の湖に浸かり切っている時の紫なのだ。

 だがそれを察知したところで、私はやはり捻くれ者らしい。口から出るのは、どうにもそっけない言葉ばかりで。

 

「なんだ、分かってるならそれで良いじゃん。どうも妖怪側の問題みたいだし、アンタの管轄でしょ。アンタが境界操ってちちんぷいぷいすれば、ハイ終わり。無事問題解決で仕舞いじゃないの?」

「原因自体を突き止めはしましたが、肝心の黒幕が誰かは分からない、と言う事よ」

 

 途端に、剣呑な光が紫の瞳へ瞬く。それは、彼女の愛する幻想郷が荒らされている事に対する怒りか、はたまた別の思惑なのか。私の勘でも、窺い知る事は出来ない。

 

「……なるほどね。で、その原因ってのは何だっていうの?」

「怨霊よ」

「怨霊?」

「そう、怨霊」

 

 予想外の答えに、思わず鸚鵡返しをしてしまった。私は顔を青空から紫へ向けて、答えの続きを聞き逃さないよう耳に神経を集中させる。

 紫は何かへ思い馳せる様に目を瞑りながら、静かに語り始めた。

 

「霊夢は、食中毒になった事があるかしら」

「は? あーうん、まぁ昔に一度だけ」

「悪いものを食べた時、人間は食べ物を吐き出すでしょう? あれは体にとって有害なものを胃の中から追い出そうとする生理的な応急処置よね。これは分かる?」

 

 まぁ、流石に理解してはいるけれど……それとこれと何の因果が絡まっているというのか。

 案の定、食中毒がミイラと何の関係があるのよと突っ込めば、まぁ聞きなさいと窘められた。

 

「件のミイラは、例えるなら人間が体の中身を全部吐き出してしまったようなもの。体の中に入り込んだ怨霊に対して無茶な拒否反応が引き起こされ、妖怪の薄い肉体から全てを放出してしまった結果、残された成れの果てなのよ」

「……ええ? いくらなんでも怨霊に憑かれてそんな事になるって聞いたこともないわよ。いやそれよりも、怨霊って基本的に地獄を漂ってる霊魂でしょ? なんで幻想郷に湧いてるのよ」

「だからこそ頭を痛めているのです。今まで見たこともない症例だし、それに本来ならばこちら側の()()()()で怨霊は出てこれないようになっているのだけど、こうして事が起こっている以上、何かしらの目的を持った第三者による人為的な介入が否めませんから」

 

 忌々しそうに唇を歪めつつ、紫は扇子で肩を叩きながら言った。

 ……むぅ、少々難しい話だったが、つまるところこんな話だろうか。何らかの要因で怨霊の魂が妖怪の内側へ入り込み、魂魄同士の拒絶反応が起きて、妖怪の本体たる精神体の均衡が崩壊する。その結果、精神の均衡を保つために紫の言う食中毒の嘔吐の様な防衛反応が引き起こされて、精神的要素を全て吐き出させられた結果、僅かながら妖怪の持つ現世側の残り粕、即ち肉のミイラが落とされてしまうのだと。

 

 腕を組んでそれらしい空論を必死に考えていると、紫が補足をするように言葉を紡ぎ始めた。

 

「今、私に分かっている事はそれだけ。怨霊の発生源も、感染ルートも、感染させた黒幕の目的も、まだ何も分かっていないの。遺体がミイラ化すると同時に異物である怨霊までも溶けて無くなってしまうせいで、表面上の解析は出来こそすれ、もっと奥深くを追及できずにいる。この魂魄術を考案した奴は大したものだわ。忌々しいったらありゃしない」

「……あらゆる境界を操れる全知全能妖怪のアンタに、突き止められないなんて有り得るの?」

「誤解しては駄目。別に私は全知の存在では無いし、この力も、万能でこそあれど決して全能ではないわ。全能なんてものはこの世に存在しない。私の能力は倫理的に新しい存在を創造し、物事を否定するだけの力。新しい境界を創造したり、現存する境界を破壊することは出来ても、無くなった境界を完璧に作り直す事だけは不可能なのよ」

「………う、ん? でも散り散りになった萃香を集められるなら、飛散した魂を掻き集めて修理したりとか――」

「出来ないわ。萃香は萃香だから集めれば萃香になるけれど、例えば私が雪舟の水墨画と全く同じものを描いても『雪舟の画』にはならないでしょう? そこの違いよ」

「……ん? んんー……?」

 

 紫め、相変わらず意味の分かり辛い言葉で私を混乱させてくれる。もう既にチンプンカンプンだ。もっと分かり易く言って欲しいものである。

 すると心が通じたのか、紫は苦笑いを浮かべながら付け足して来た。

 

「えっとね。原因究明に必要な怨霊は皆、感染者のミイラ化と一緒に跡形も無く消えてしまってるの。それを再構成しようにも、魂とはそんなにシンプルな代物じゃない。形だけ元に戻す事は出来るけれど、あくまでそれっぽい別物が出来上がるだけ。消えた魂はゼロから完全に復元することは出来ないのね。だから怨霊を捕まえて、情報を搾り出す事は不可能って訳。OK?」

 

 ああ、そういう事か。最初からそう言ってくれれば分かり易いのに。

 取り敢えず理解できたので、おーけー、と返しておく。

 

「ならさ、その、感染? してそうな奴を片っ端から調べればいいじゃない。発症する前なら潜伏してる悪玉を見つけられる筈でしょ。それを引きずり出して情報を絞れば勝ちじゃん」

「あのね霊夢。付喪神やら妖精、更に精霊なんかも含めると、この幻想郷には一体どれだけの魑魅魍魎が往来跋扈(おうらいばっこ)しているか分かる?」

 

 知らん。妖怪どもの数になんぞ興味無い。

 この心情が顔に出ていたのだろうか。紫はあからさまに眉間を押さえた。

 

「まぁ確かに出来なくはないわ。でも問題なのは数じゃなくて対処法が不明な所なの。想像して頂戴。貴女の予測通り、この一連の事件が妖怪を狙った犯行だとする。その場合、一番犯人が警戒するのは何?」

「……アンタね。幻想郷で一番厄介なアンタの妨害を、計画の障害と捉えるわ」

 

 これくらいは、深く考えずとも想像がつく。

 その犯人とやらは、天狗の新聞に載るくらい大胆な行動に出ている。隠そうとしている意図は無いと考えて良いだろう。この場合、妖怪の賢者の耳と目に入る事は想定されていると言っても過言ではない。

 つまり、特定される危険性を踏まえた上で妖怪を狙った事件を引き起こしていると言う事は、少なくとも何らかの形で紫に対する策が練られている可能性が高いのである。

 例えば、紫の能力が作動した瞬間、ミイラ化が一気に進むとか。

 

 私の考えは合っていたのか、ご名答、と紫は口にして、 

 

「感染している者には()()()()を着けられている可能性が高い。私がスキャンを施せば、それが引き金となってパンデミックが起きかねないのよ」

「あー……そういう事か。治療する方法が確立していない状態じゃあ、もし大勢の引き金が引かれちゃった場合、対処が難しくなってしまうものね」

「その通り。この事件が()()()()()()()ではなく、第三者による未知の技術でもたらされた介入である以上、下手に刺激する行為は失策以外の何ものでもないのよ。それを分かってくれて嬉しいわ」

 

 何故か良い子良い子と頭を撫でられた。鬱陶しいので跳ねのける。しかしこの状態の紫は余裕たっぷりなので、別段しょげたりする事も無く、底の知れない微笑みを浮かべるのみである。何だか悔しい。

 

「ならいつも通り、元凶を見つけてぶっ飛ばすしかないんじゃない」

「出来るならもうやっていますわ。如何なる術を用いているのか知りませんが、残されたミイラからは微々たる痕跡しか辿れないんだもの。しかもある程度まで調査を進めると、そこから先の足跡がサッパリ消えてしまっていて探れない。こんな事初めてですわ。何か得体の知れない相当な手練れが影で蠢いて――――」

「んなもんゴチャゴチャ考える必要なんて無いっての」

 

 最後の欠片を口の中に放り込んで手をはたき、立ち上がって伸びをした。

 さて。いい具合にお腹も膨れた事だし、次は食後の運動にでも洒落込むとしようか。

 

「怪しい奴を全員ぶっ飛ばしていけばそのうち見つかるでしょ。今までそうやって解決してきたんだもの。今回も例外なく、どこに隠れていようが見つけ出して叩きのめしてやればいいんだわ」

「……あら。もしかしてやる気になってくれたのかしら?」

「妖怪だけの乱痴気騒ぎなら別にどうでも良かったんだけどね。怨霊が絡んでるとあっちゃあ黙ってはおけないもの」

 

 怨霊とは、強い恨みや悪意を抱く人間が死後輪廻転生の輪から外れ、永劫を幽霊の身として囚われてしまった悲しい存在を指す。そんな負の塊とも呼べる怨霊は、人間と妖怪双方の天敵に成り得る存在なのだ。

 

 人間が怨霊にとり憑かれると、激しい負の念に汚染され目に映るもの全てを敵と見做してしまう様になる。特に、人間同士で争い合う様になってしまうのだ。

 これが幻想郷にとって非常によろしくない。怨霊により『人間の敵が人間』という認識へと変えられてしまえば、幻想郷の重要なシステムである『人間の敵は妖怪』の図式が完璧に崩されてしまうのである。紫曰く、それは外の世界と同じ環境へ組み込まれる事と何ら変わり無いらしい。

 こうなってしまえば、幻想郷のバランスは崩壊したも同然だ。人間の敵として居られなくなった妖怪は存在を安定させる事が出来ずに死に絶え、幻想のユートピアは人間の争いに呑み込まれたディストピアと化してしまう。

 

 それだけは絶対に避けねばならない。

 博麗の巫女として。人間の味方として。幻想郷のバランサーとして。

 怨霊なんて危険物を操り善からぬ事を企んでいる不埒な輩は、この私が成敗しなければならないだろう。

 

 ……しかし、ああ成程。そういう事か。

 

「アンタ、最初から()()が目的だったわね?」

「だってぇ。普通に急かしたところで霊夢は簡単に動いてくれないじゃない」

 

 私の追及に対し、してやったりと目を細める紫の笑顔は、まさしく狡猾な妖怪のソレだった。

 つまるところコイツは、私の腰を上げさせる為だけにこんな回りくどい言葉遊びを繰り広げたのである。その成果は上々と言って良いだろう。その証拠に、私へ火を着ける作戦が上手くいったせいなのか、いつもより五割増しに不遜な笑顔だ。見ていたら何だか腹が立ってきた。先ずはお前から退治してやろうか。

 

 しかしこれ以上遊んでいる場合ではない。面倒事はサクッと終わらせてしまうに限る。

 私は身支度を整えて、早速異変解決に向けて神社を飛び出した。

 

 

 まさに、その時だった。

 

 突然の轟音が幻想郷を揺り動かし、大気を破裂させる衝撃波が、霧の湖から炸裂したのだ。

 それだけではない。空を引き裂く様な莫大な閃光が天蓋を貫き、更には眩い光の嵐が、遠目から見てはっきり捉えられるほど展開されているのである。

 普通に考えると弾幕ごっこだろうが、遠方からでも垣間見えたあの破壊力は遊戯のそれではない。本気の殺意をもった者同士が、全力で衝突しているのは決定的に明らかだった。

 ただごとではない。そう察知した私はすぐさま紫へと目配せする。紫は私の意図を汲み取ると、私の眼前へスキマを展開した。

 

 躊躇なく、無数の眼が泳ぐ異形の空間へと身を投じる。

 歪む次元の狭間の中、私の勘は、先ほどとは打って変わった激しい警鐘を鳴り響かせていた。

 

 

 紅魔館を飛び出し、ものの十数秒も経っていないにも拘らず、突如遺体を持ち去った小悪魔とそれを追う私は、もう遠目に人間の里が見える程の距離にまで飛翔を続けていた。

 連続して空間移動を繰り返し、私のスピードでも追いつけない速度で前方を飛び回る小悪魔を追跡しながら、私は青天の霹靂のように巻き起こった事態へ内心の動揺を隠せずにいた。

 

 おかしい。一連の出来事があまりにも不可解すぎる。あらゆる面から見て異常と呼べる自体が今、私の目の前で繰り広げられている。

 それは、何の思惑か怪死死体を攫った小悪魔の行動そのものについてではない。無論その点に対しても疑問は尽きないが、最も異常なのは彼女の魔法能力なのだ。

 小悪魔は悪魔ではあるが名前を持つ事も無く、パチュリーの手によって召喚された力弱き一人の少女である。悪魔の端くれとして平均的な能力は中級妖怪を上回るが、しかしここまで連続的かつ高度な空間移動を行える程ではない。空間魔法を行使するにしても、呪文詠唱や移動する座標の特定で二呼吸程度の間が必要になってくる筈なのだ。ノータイムでこれ程の距離をジャンプし続けるなど、最早小悪魔と呼べる領域では無くなっている。

 

 何かが起きている。私の想像を更に上回る気味の悪い出来事が、彼女の身に降りかかっている。そう思慮せざるを得なかった。

 

「待て」

「…………」

 

 呼びかけに応じず、彼女はひたすら移動を繰り返す。目的を持って移動しているのか、私を撒こうとしているのかは分からない。しかしどちらにせよ、ここで彼女を見失うわけにはいかなかった。

 彼女の一度の空間跳躍距離から、次点の座標を推測する。同時に簡易な詠唱を走らせ、瞬時に小悪魔の前方へ回り込んだ。

 

「止まるんだ、小悪魔」

「――――」

 

 しかし彼女は私と衝突するその瞬間、私の視界から霞の様に消え去った。

 背後を見る。姿は無い。瞬時に視点を変更。そこで、地面へ向かって一気に急降下している小悪魔の姿を捉えた。

 空を蹴り、小さな背中を追う。地面スレスレにまで滑空した小悪魔は大地へ足を突き刺し、一気に減速を開始した。

 同時に私も着地を行う。ザザザザザッ!! と靴底が草原を抉り取る豪快な摩擦が起こった。

 

 舞い上がった土煙が秋風に攫われ、晴れていく。相対する小悪魔と向き合い、私は彼女へ語り掛けた。

 

「何故だ。何故君が、あの遺体を持って逃げ去るなど――――」

 

 そこで、私の言葉は一度途絶える。

 会話など、中断せざるを得なかったのだ。

 

 原因は、小悪魔の身に起きている明確な異変にあった。

 

 露出の少ない服装から覗く彼女の肌には、葉脈の様に浮き出た血管が走り抜けており、皮膚は紫色の斑が表出していた。内出血の痕だろう。そして普段の水晶玉を思わせる眼に至っては毛細血管が破裂し、涙袋から血が滴った跡が頬を描いていた。

 

 どう見ても、無茶な魔法行使による副作用の症状だ。魔力量の限界値を超えた魔法を発動し続けた結果、彼女の肉体へ直接反動がフィードバックしてしまっている。やはりあの空間転移は、相当な負荷が肉体へ圧し掛かっていたのだろう。

 異変は痛ましい外観だけに留まらない。幾ら精神に本体を据える妖怪の身とは言え、ここまでダメージを蓄積させれば狂い悶える程の激痛が彼女へ襲い掛かっている筈なのだ。なのに彼女はその容貌と反して、不気味なまでの平静さを保っていた。

 まるで、痛みなど存在しないかのような振る舞いで。

 

「…………、」

 

 感情豊かな普段の小悪魔とはかけ離れた、生気の無い瞳が私を見据えた。自らの苦痛さえ歯牙にもかけてないその有様は、彼女によく似た別人なのではとさえ思わされる。

 いや、この考えは恐らく正しい。正確には、彼女が何者かに乗り移られている可能性が高い。

 

 脈絡の無い不可解な行動の数々。彼女には実行不可能な魔法の強制行使。傍目から見ても異様過ぎる立ち振る舞い。疑念を得るには、十分すぎる要素だった。

 

 単刀直入に、小悪魔の肉体を奪ったナニカへコンタクトを試みる。これは彼女の身に何が起こったのかを確認する試験でもあった。

 

「何者だ。その子の体で何を企んでいる」

 

 返答はない。憑依者は言葉を持たないものなのか、敢えてコミュニケーションを取らないのか、はたまた本当に小悪魔の意思でそうしているのか。その真意は終ぞ定まらかった。

 彼女は淀んだ瞳を浮かべたまま、呆然と私を凝視し続ける。

 しかし不意に視線を背けたかと思えば、彼女はソックスで覆われた細足を、思い切りミイラへと突き立てた。

 

「!」

 

 バギリッ、と乾いた木を踏み砕く様な音が響く。漆黒のヒールを容赦なく突き刺された途端、ミイラの体積はみるみる減少を始め、覆っていた布の隙間からミイラだった粒子が空気へ溶け込み消え去ってしまった。

 ぐりぐりと、中身を失くした布袋を踏みにじる彼女の顔には、三日月の様に引き裂かれた笑顔が浮かぶ。限界まで歯を剥き出し、普段の端正な顔立ちなど見る影もなくなった壮絶な表情は、私を戦慄させるには十分なものだった。

 

 彼女の眼球が不気味に蠢く。それを合図とするかのように、小悪魔の特徴ともいえる翼が縮小を始め、すっぽりと背中に収納されてしまった。外見からすれば、紅い髪のただの女の子にしか見えないだろう。

 

 音も立てず、小悪魔は自らの手を己が首筋へそっと添える。細指の黒い爪が鋭利な刃物のように引き伸ばされており、さながら魔女の手の様な不気味さを演出していて。

 

 彼女は、何の躊躇もなく自らの皮膚を引き裂いた。

 

「ッ!!」 

 

 裂かれた箇所から流血の飛沫が噴き出す光景を前に、私は反射的に地を蹴った。時間と言う単位を置き去りにするほどの速度で一気に肉薄する。

 今の自傷行為で確信した。彼女は何者かに乗っ取られてしまっている。ならばこれ以上彼女の肉体を、どこの誰とも分からぬ者へ好き勝手にさせる訳にはいかない。一刻も早く蛮行を阻止し、彼女の中から異物を摘まみ出してやらねばならないのは決定的だった。

 

 全力で手を伸ばし、腕を掴み取ろうと意識を集中させる。

 しかしあと一歩という所で、再び小悪魔は歪の中へ転移した。

 凄惨な笑顔を浮かべたまま空間の亀裂へ消えた彼女を追う為に、閉じ行く隙間へ手を挿し込む。同時に接触した空間から魔法を逆算、再発動を行った。

 張り裂く様に空間をこじ開け、再び開いた穴の中へ私はすぐさま身を投じる。

 彼女の名を、叫んだ。

 

「小悪魔―――――……!?」

「うぁ、あああああ…………っ!!」

 

 

 転移した先に待ち受けていたのは、粘質な赤に濡れた体で地べたを這いずり、必死に逃げ延びようとする小悪魔の姿――――ではなく。

 ざわざわと混乱の声を漏らし、私達へ数多の視線を注ぐ、大勢の人間の姿だった。

 

 悲鳴を上げて逃げ惑う人間。腰を抜かして逃走の手段を潰された人間。錯乱してその場に蹲ってしまった人間。幼子を抱きかかえ、私の瘴気から必死に庇おうと身を挺する人間。

 千差万別の反応を示す人間達と、彼らの生活拠点たる家屋で埋め尽くされた光景が、私の視界全域に広がっていて。

 

 自分の身に何が起こったのかを理解するまで、数秒の時間を必要とした。

 

 しかし段々と現実が脳髄の奥まで染み渡って行き、遂に光景の正体を、そして自らが置かれている状況を認識した。認識してしまった。

 ここは、人間の里なのだと。

 私は、この小悪魔の姿をした正体不明に()()()()()()のだと。

 

 先ほどとは打って変わった、思わず目を背けたくなるような小悪魔の態度。

 顔を苦痛に歪ませ、血の道標を描きながら芋虫の様にのたうつ姿。

 苦痛すら感じずにいた空虚な姿勢を知る私にとってそれは、まさに迫真ともいえる演技に他ならず。しかしこの場において、これ以上に無い効果を発揮している。

 

 人々の恐怖を、視線を、全て私達へと集中させているのだ。それも最悪極まりない、負のベクトルを植え付けて。

 

「助けて、お願い、ああ、誰か助けてぇ……! 痛い、痛いよぉっ……!!」

 

 ズルズルと、体を引きずりながら、小悪魔を模したナニカは必死に周りの人間へ助けを願った。だが誰一人として手を伸ばすものなどいない。人間は、私の魔性を間近に浴びて肉体の操作能力を失っているからだ。

 それらの反応も全て、我が計算の内とでも言わんばかりに。

 悲痛な叫びを上げる小悪魔の口角は、私に見える角度からだけ、不自然にぐにゃりと歪みきっていた。

 

 彼女は仰向けに身を捩ると、私から一切視線を外さず後ずさっていく。

 

「こ、来ないで、来ないでよぉ……! 殺さないで、ひっ、お願いだから、殺さないでぇっ……!」

 

 小悪魔の悲鳴は波紋となり、里の人間へ伝播していく。それは拭い去る事の出来ない負の感情を人々の心へ縫い付け、確実に増大させていった。

 想像を絶する罠へまんまと誘き出されたと理解した私は、全身から感覚を喪失させた。白昼夢を操る妖怪にでも襲われたのかとさえ錯覚し、久しく現実から逃避しそうになった。

 

 こればっかりは無理もないと言いたい。ミイラの怪死事件から繋がった小悪魔の変貌が、どうしたらこのような事態を巻き起こすと想像できようか。

 

 かつてない混乱をもたらされ、完全停止を迎えていた私の凍結を打ち破ったのは、小悪魔の肉体に起こった明確な変化だった。 

 一瞬、彼女が人間には聞こえない音量の舌打ちを、確かに一瞥すると。

 歯を食いしばり、右腕を押さえてもがき始めたのだ。

 

「ぎっ――――ぎゃああああああああああああああああッ!! やめて、やめてぇ!! ひぎっ、ああああお願い助けて、殺さないで、あ、がああああっ!! 痛い、痛い痛いィィ!!」

 

 庇われた右腕が、まるで幾千の時の中を一瞬の内に通り過ぎていくかのように、目を疑うスピードで枯渇を始めた。それは見間違う筈もなく、アリスが持ち運んだミイラと同じものへ変異が始まった兆候に他ならなかった。

 

 即ち、明確な死へのカウントダウンである。

 

 停止していた神経が一気に熱を帯びていく。刻一刻と迫る小悪魔の危機を解決するべく、脳髄が高速回転し唸りを上げた。時の狭間は引き伸ばされ、一秒がまるで数時間にも広がったかのような錯覚にさえ見舞われる。

 

 どうする。小悪魔と小悪魔を乗っ取っているモノをグラムで切り離すか? ――いや駄目だ。瞳を覗き、精神の奥まで入り込まなければフランの時の様な『判別』が出来ない。無作為に魔剣で斬り払えば彼女そのものも切り裂いてしまう。おまけに今は真昼間だ。首飾りで私自身への日光を中和出来ていても、我が純粋な魔力を凝縮して作り出すグラムは日の下で像を保つことすら難しい。

 かと言って、今から彼女に巣食うバグを解析して新たな魔法を組み立てる猶予など残されていない。

 

 ならば、どう手を打つ。

 

 

 「――吸い出すしか、ないか……!」

 

 自然と眉間に皺が寄る。拳に力が籠る感触が、指の骨から鮮明に伝わって来る。

 これしかない。彼女をミイラ化から救い出す方法は、これしか残されていない。

 

 傷口から毒を吸い出すように、彼女へ牙を突き立てて異常の原因を吸収する。同時に私の魔力を彼女へと流し、枯渇した彼女の中身を即席で補うのである。これならば、グラムと違って憑依体の『判別』を必要としない。毒と思わしきものを纏めて吸い尽くせばいい話だ。

 しかしこの状況で私が彼女に牙を突き立てでもしたら、周囲の眼は私を決定的に――――

 

 

「――――――――……………………」

 

 

 今、私は何を心配しようとしていた?

 

 まさか私は、この場で彼女を吸血する場面を目撃され、更なる誤解が招かれる事を恐れようとしていたのか?

 一歩間違えれば取り返しのつかない未来になる、この瀬戸際に及んで……?

 

 血が冷えた。

 我が身が屍と化したかと誤認するほどに、体内から温度が消えた。

 しかし同時に、腹の底から溶岩の様な熱が込み上がって来る感覚があった。

 

「ッ!!」

 

 

 下らん。

 下らん、下らん、下らんッ!!

 

 愚劣極まりない思考を生み出そうとしていた自分自身に反吐が出る。恥知らずの愚か者めと、面と向かって罵ってやりたい衝動に駆り立てられた。

 何を迷う必要があると言うのか。迷うことそのものが愚考ではないか。この未練たらしさこそが萃香の怒りを招き、あの晩に省みると決意させられた、私にとって最大の汚点だったのではないのか。

 

 敢えて認めよう。確かにこの状況が、私の目的にとって致命的なシチュエーションである事は素直に認めよう。

 だがそれは、彼女と天秤に掛ける価値があるものでは断じてない!

 

 地を蹴った。景色が瞬間的に入れ替わる。

 全身に広がる侵食の苦しみに喘ぐ小悪魔の姿が、私の前へと現れて。

 私は暴れる彼女の肩を掴むと、白い首筋へ一気に牙を突き立てた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「吸血鬼さん、見ーつけた」

 



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23.「四面楚歌」

「魔理沙さん……あれは……ッ!?」

「何が起こってんだよ…………ありゃあ……」

 

 今まで目にした事も無い惨劇が、私のすぐ下で巻き起こっていて。私は一気に凍り付いた心臓の冷気を口から逃がすように、呆然と言葉を吐き出した。

 何故ならば。紅魔の屋敷で遭遇し、私たちを恐怖のどん底へ陥れたあのドス黒い吸血鬼が、パチュリーの相棒を血塗れになるまでいたぶった挙句、首筋にかぶりついて命の源を存分に啜り上げていたからだ。

 

 しかも信じ難い事に、人里のど真ん中で。

 

 理解不能。ただその一言に尽きるばかりだった。

 焦燥と混乱が脳漿を掻き回し、現実を受け入れる事を無残にも拒む。こんな事が起こっていい筈がないと、私の理性が直下の光景を否定した。

 だがそんな逃避が通用する筈もなく。ほどなくして、これが現実であると認めざるを得なくなる。

 

 何故奴が、わざわざこんな場所にまで小悪魔を追いつめて生き血を啜っているのか。奴は人間を襲いに来たのではないのか。人里へ深く関わりを持たないのが妖怪側のルールではなかったのか。やはりそれすら歯牙にかけないほどの怪物だったのか。

 不可解すぎる行動に対して疑問は尽きない。この現場には、私の手では到底負えない謎と陰謀で満ち溢れている様にさえ感じた。

 

 だがしかし、最早そんな事はどうでも良かった。

 

 あの化け物が。悪魔の癖に妙に人懐こくて、パチュリーからも優しすぎると呆れられた小悪魔を襲った挙句、人里を恐怖へと陥れている。

 それだけで、十分だ。十分過ぎるのだ。

 私が、八卦炉を忌まわしき怨敵へ向ける理由など!

 

「あの子、早く助け出さないと!」

「んなもん分かってるぜ!!」

 

 ガリッと、奥歯から憤怒の音響が伝わって。

 私の中で、漆黒の何かが渦巻き踊る。

 

「ナァァハトォォォオオオオオオオオオオオオオオオオ――――――ッ!!」

 

 纏わりつく恐怖を吹き飛ばすように、張り裂けんばかりの咆哮を爆発させた。私は早苗と共に一気に急降下し、黒い怪物の背へ向けて無数の光弾を打ち放っていく。

 破裂音を瞬かせながら、光球は全弾命中。奴の背中へ豪快な風穴を穿ち抜く。吸血鬼は私たちの存在に気がつくと、小悪魔を抱えてロケットの如く跳躍した。

 

「逃がすか!」

 

 早苗へ目配せして合図を送る。早苗は私の意図を察してくれたのか、すぐさま祈祷の準備に取り掛かった。

 早苗の元を離れ、全力全開の速度でナハトを追い回す。奴をできるだけ人里から遠くに、被害の起きない方角へ、弾幕をばら撒いて誘導していく。

 

 被害の生じにくい霧の湖へ誘い出した私は、本格的な攻撃を開始した。

 ミニ八卦炉を箒へ突き刺し、全開の魔力を注ぎ込んだ。八卦炉の内部が魔力の循環を速め、爆発を引き起こしブーストしていく。一気に瞬間速度を飛躍させた私は、瞬きをする暇さえ奴に与えず、吸血鬼の軌道へピッタリと張り付いた。

 

「小悪魔を、離しやがれッ!!」

「――――」

 

 奴が何かを口走る。しかしノイズの様なさざめきが入り混じって耳へ届かない。元より、奴の言葉へ耳を貸すつもりなど毛頭ない。

 一切の容赦を与えず魔弾を連射。小悪魔に被弾しないよう、奴の足や背中へ集中砲火を繰り返した。しかし紫や幽々子と渡り合ったコイツの実力は確かなものなのか、並みの弾ではまるで怯む様子すら見せやしない。

 やはりマスタースパーク級の火力か、こいつの弱点を的確に突く必要がある。しかし火力の高い攻撃を展開すれば、小悪魔まで巻き込んでしまいかねない。

 

 となれば、私に残された攻撃手段は一つしかない。

 

 ショットを放射する傍ら、私は帽子の異空間から目的のものを取り出しすと爆発する効果を持った魔法薬の瓶へと押し込んだ。

 魔力を込め、奴の眼前へ向けて投擲する。

 瞬間、光が瞬き、銀白の粉塵がナハトの顔面へと降りかかった。

 こいつの正体は、あの夜にナハトの手を焼いた金属を、香霖が私の八卦炉へ加工してくれた際に生じた金属の削り節だ。

 即ち、対吸血鬼版の即席白燐弾である。

 

「――――」

 

 不愉快な雑音の入り交じった呻き声が、小悪魔の血で濡れた奴の口から吐き出される。金属の効果はあったらしく、奴の顔は肉の焼ける様な音と共に沸騰した湯の如く泡立ち、みるまに爛れ溶け落ちた。

 視界を奪ったところで肩を打ち抜き、一時的に腕の力を奪い取る。小悪魔は宙に放り出され、重力に従うまま落下した。それを受け止めて、私は空へ向かって怒号を放つ。

 

「早苗ッ!!」

「はい!」

 

 祈祷を終えた早苗が、風を纏いながら天女の様に舞い降りる。彼女は幣を規則的に振るい、空間へ五芒星の焼き印を作り出した。

 星型の印は激しく旋回しながら、遥か上空へ向けて一気に上昇していく。

 神の光が、怒涛と瞬く。

 

 ――奇跡『白昼の客星』

 

 幻想郷最高クラスの神々から得た力を、風祝は一気にナハトへ解き放った。

 太陽の存在を霞ませる程の巨大な光弾が空から堕ちる。それは大気を引き裂く白き流星となって、怒涛の勢いを伴い吸血鬼へと襲い掛かる。

 その時だ。吸血鬼の目玉が逆再生の如くぎょろりと再生され、客星の軌道を視認されてしまった。だがもう遅い。大柄な黒い体躯へ次々と爆撃が襲い掛かり、無数の矢に射られた鴉の様に、錐揉み回転しながら湖そばの森林まで吹っ飛んでいった。

 激しい土埃が森から噴き出す。バキバキと木々が悲鳴を上げて崩れ落ちた。

 

 一時の静寂が訪れる。頬を撫でる風の感触が、何故か異様に不気味だと感じた。

 大技を放った早苗が舞い降り、私の横で浮遊する。

 

「今ので倒せた……のでしょうか」

「いいや、まだだ。アイツは紫と幽々子の二人を相手にして、全く引けを取らなかったような化け物だからな。悔しいけど、この程度で降参する様な相手じゃあないだろう」

 

 紫と幽々子の力は、新参である早苗もよく知っている。だからこそ大きな説得力となって、更に早苗の気を引き締めた。

 

「……ところで、彼女の容体は……?」

「おっと、そうだった。今はこっちが優先だな。おい小悪魔、大丈夫――――か?」

 

 救出した小悪魔へと目を向けて、私は思わず硬直した。

 傷が無かったのだ。

 出血も負傷も何もない。まるで安心の中熟睡しているとでも言わんばかりの状態だった。

 里で見かけた時は全身が赤に塗りたくられていて、それどころか腕が枯れ木の様に惨たらしく変化していて、とても目を向けられるものではない惨状だったというのに。

 早苗も吃驚に目を剥きながら、覚醒する様子を見せない小悪魔の首筋を撫でた。奴の牙がハッキリと食い込んでいた箇所だ。

 

「どういうこと……!? あれだけボロボロだったのに噛み痕すらないなんて! 出血だって、どこにもない!」

「悪魔の再生能力か? レミリアも、例えバラバラになっても一晩経てば元通りになるって言ってたし――――あぐっ!?」

 

 不意の激痛。それは頭部から爆発し、一瞬にして爪先にまで浸透していった。

 堪らず頭を押さえ、箒の上で屈みこむ。頭蓋骨の裏側を焼けた鉄棒でゴリゴリ削られているかのような、筆舌に尽くしがたい痛みだった。

 

 この痛み、身に覚えがある。館で奴を見た時に訪れた、記憶の痛みだ。封じられていた記憶が蘇って来た時の、焼きつく様な痛みだ。

 でもあの時は、まるで記憶に掛けられていた鎖が千切れたかのような、一種の解放に似た感覚があった。今はそれが無い。どちらかと言えば、間違っていた記憶の歪みが修正されているかのような――――

 

『――しは、彼女を襲っ――いない』

 

 不意打ちの如く、脳裏に響いた言葉に、私の心臓が勢いよく跳ね上がった。

 ノイズ交じりの、奴の声。神経全てを黒い墨で塗り潰していくかのような、悍ましい声色。それが無実を訴えかけている声が、耳の奥から響いて来たのだ。

 

『彼女は――に取り憑かれていた。それを吸い出し――だ。この言葉が信じ難い――分かる。けれど騙され――いでくれ霧――沙。恐らく取り憑いた――の目的は、君の様に敵意を私へ集中――だ。君の敵意は仕組まれたものなん――――』

 

 

 

 

 ぷちん。

 

 

「………………あれ。私、今何を……?」

 

「――沙さん、大丈夫ですか? 魔理沙さん!」

 

「っ。あ、ああ悪い。大丈夫だ」

 

「大丈夫って……凄く顔色が悪いじゃないですか! それで大丈夫なはずがありませんよ!」

 

「ははは、平気だって。心配性だなぁ、早苗は。それよりも、早くこいつを紅魔館へ届けて奴を追うぞ。とどめを刺しに行かないと、また人里が危険に晒されちまうからな」

 

「ッ……でも、今の魔理沙さんを行かせるわけには行きません。危険すぎます。せめて霊夢さんに助けを求めましょう? このままでは魔理沙さんが」

 

「五月蠅いな」

 

「っ」

 

「お前も、結局は霊夢なのか。霊夢、霊夢って。ああ五月蠅い、五月蠅い。ちょっと黙っててくれないか。除夜の鐘みたいにガンガンガンガン頭の中で響くんだ。クソッたれ、何で黙ってくれない……」

 

「魔理沙さん……やはり今のあなたはどこかおかしい。もしや奴の邪気に当てられて精神が崩壊しかけているのでは――――って、あっ、ちょっと! 魔理沙さん!」

 

 

 堅強な樹木を薙ぎ倒し、柔らかな土をバウンドし続け、数十回に渡る熾烈な衝撃の果てに、私の体は漸く勢いを止める事が出来た。

 

「っ……!」

 

 だが物理的なダメージはさして問題ではない。腕が捥げようが臓物が飛び出そうが、吸血鬼たる私にとって大きな障害には成り得ないのだ。

 問題なのは、私の顔へ降りかかった金属粉の方である。

 アレは間違いなく、私が彼女へ謝礼代わりに譲った銀だ。しかもただの銀ではない。かつて私を目の敵にしていた者達が精製した、銀の持つ破魔の力を魔法的に極限まで高めた代物である。便宜上、ミスリル銀と呼ばれていた。

 

 人間の魔法使いである彼女には、あの金属が保有する破魔の力と魔力増幅効果が大いに役立つだろうと考えて渡したのだが、まさか、ここに来て私へ牙を剥く事になろうとは。

 

「…………っ!」

 

 グズグズと、爛れていく顔面の苦痛が私を苛ませる。再生しようにも上手く力が働かない。四年前に誤って手を焼いてしまった時もそうだったが、やはり銀や太陽にだけは弱いのだ。

 付け加えれば、やはり昼空の下では普段の何十倍も力を削ぎ落されてしまっている様子である。ネックレスの日除け効果で99%近い日光を遮断出来てはいるものの、持って生まれた性だけはどう足掻いても捻じ曲げられないらしい。

 なんとか眼球だけは再生したが、破魔の力が完全に染み込んでしまった顔面は、夜にならなければ完全に再生は出来ないだろう。

 

 しかし、応急処置は出来る。

 

 爪に魔力を集中させ、メスの様に引き伸ばす。それを頬から一気に差し込んで、汚染された顔の皮を引き剥がした。

 ベリベリベリッ、と嫌な音が背筋を粟立たせるが、無視する。これ以上、ミスリル銀の侵食を進めるわけにはいかないのだ。

 

 剥いだ皮膚を火炎魔法で焼き捨てて、私は立ち上がった。顔の筋肉が剥き出しになってしまったが、半日も経てば元通りになるだろう。

 

「さて……どうした、ものか……」

 

 本当にどうしたものか。森を抜け出そうにも、外にはまだ魔理沙と早苗が居る。今の戦いで私を退治できたと安心して帰ってくれていれば良いのだが、魔理沙は永夜の私を思い出してしまっている。用心深くとどめを刺しに来るかもしれない。

 だがまぁ、ぶっちゃけると別にそれでもいい。人間に退治されたのならば里の混乱も手早く収まるだろうから、願ったり叶ったりではある。

 ……あるのだが、引っ掛かる部分が一つ。魔理沙の様子が明らかに異様であった事だ。館で私と会合した時とは、眼の光り方がまるで別人のソレだった。人間らしい勇気と義憤に満ち溢れていた勇ましい瞳が、殺意と憎悪で溢れる呪怨の色に塗り潰されていたのである。

 

 私が小悪魔を襲っていたと――更には人里を恐怖に陥れていたと勘違いした彼女が、大きな敵意を抱くのは別段不自然なことではない。だが、あの眼はソレより深く踏み込んだ邪悪な黒を湛えていた。一朝一夕で抱ける感情ではない。何十年もの恨み憎しみを重ねた怨敵を前にして、初めて抱くレベルの情動だ。

 それが何故、彼女の中に芽生えていたのか。

 

「…………」

 

 引っ掛かった違和感はその点だけに限らない。小悪魔に憑いていた異物の正体も気がかりだった。

 怨霊だったのだ。負の念の果てに輪廻から外れ、マイナスのエネルギーを振りまく事しか出来なくなった哀れな霊魂。それが彼女の内側に巣食い、触手を伸ばして操っていたのである。

 

 しかし結論を言おう。そんな事は有り得ない。

 

 怨霊は思考回路を有してなどいない。純化された負の感情のみに突き動かされるだけの存在であり、他者をマイナス面へ引き摺りこむ事は出来ても、計画的に私を誘い出し、ましてや罠へ掛ける程の知恵や策略性を発揮するなど有り得ないのだ。小悪魔の体を行使した演技などもっての外である。怨霊が宿主の感情を暴走させることはあっても、宿主の主導権を掌握するなど前代未聞と言っても過言ではない。 

 そもそも、普段は紅魔館に常在している小悪魔がどんな経緯を辿って怨霊にとり憑かれたのか。なぜただの怨霊が、私の立場を幻想郷の敵へと追い立てる必要があったのか。

 

 疑問は尽きないが、これらの不審点から率直に考えられる犯人像とは、『怨霊を遠隔操作できる人物』であり、『私の立場を追いやる事でメリットを得る人物』であろう。

 私が知る中でこの条件に当て嵌まるのは、現状一人のみ。

 だがそれは、願わくば推測が外れて欲しくある者で。

 仮に当たっているとしたら、私は私の想定よりも、周囲から嫌悪を掻き集めていたという事実にも繋がる。

 

 ……しかし、ああ、なんと忌々しい我が瘴気か。

 今この時でさえもまた一人、敵意と嫌悪を私へ吸い寄せるとは。

 

「こんにちは」

「……こんにちは」

 

 背後から、風に舞う花びらの様にふわりとした声がして。

 振り返ると、影に覆われる森の中だというのに、桃色の日傘を差している不思議な少女が立っていた。

 新緑を彷彿させる色合いの、ウェーブがかかった頭髪。林檎の様に丸くて赤い瞳に、チェック模様があしらわれたロングスカート。幻想郷では珍しくカッターシャツを着込んでいて、首元のリボンは向日葵の様に鮮やかな黄色を映えさせていた。

 

 だがそれよりも、私が意識を向けさせられたのは。

 並みの者ならば浴びただけで意識を混濁させてしまいかねない程の、尋常ならざる威圧感だった。

 

 紫から感じた、全てを見透かされていると錯覚させられる透明の覇気ではない。萃香の様に、全てを蹂躙するが如き圧倒的な暴帝の気迫でもない。

 この少女から感じるのは、お前は既に詰みへ嵌っているのだと語らんばかりの、死刑宣告に近い圧迫感だった。私と相対した者達の気持ちが、少しだけ理解出来た様な気さえする程の。

 けれど少女はそんな気配と反して、清涼な森林の様に穏やかな微笑みを浮かべている。さながら、私の瘴気を苦とすらも感じていないかのように。

 

 この強大な気配。この余裕を表す立ち振る舞い。そして、アリスが私へ告げた情報群。

 私の中で一つの人物像が、じんわりと浮かび上がって来る感触があった。

 

「あなた、吸血鬼さんよね?」

「……いかにも、私は吸血鬼だ。名をナハトと言う。そういう君は風見幽香で合っているかな?」

「あら、知っているのね。そうよ、私は風見幽香。初めまして」

「こちらこそ初めまして」

 

 私を前にしても柔和な態度を崩さず、掴み処の無い雰囲気を醸し出す彼女は初対面の紫を思い起こさせた。ただあの時との決定的な相違点は、彼女が明確な敵意を私へ向けていると言う事だ。

 しかし彼女の敵意も例に漏れず、完璧な誤解に他ならない。同時に、それを誤解だとこの場で立証するのは至難の極みでもある。

 何故ならば。致し方ない状況だったとはいえ、私は人里で決定的な場面を演出させられてしまったからだ。

 傍目から見れば、『一人の少女をミイラ化させるまでに追いつめて、白昼堂々と命乞いをする少女の血を啜った極悪吸血鬼』にしか見えなかっただろう、あの状況。

 もし、彼女がそれを目撃していたのならば。

 私の容疑は、金剛石の如き堅強さで固められてしまっているも同然だろう。

 

 だから今の私には、その現場を見られていないようにと祈りながら、無実を訴えかける以外に、持ちうる手札など無い訳で。

 

「……君が何故私に怒りを向けているのか、アリスから聞いて知っている」

 

 私の発言に、風見幽香は『へぇ』と意外そうな声を上げた。

 

「アリスがねぇ。もしかして彼女もグルだったり?」

「そうではない。彼女は君と君の疑う吸血鬼が戦闘になった際、友人の魔法使いにまで被害が及ぶかもしれないと考えて、先回りをして警告してくれただけだよ。私はそれを偶然耳にする機会に恵まれたに過ぎない。アリスは君の怒りと何も関係はない」

「ふうん。じゃあ、あなたは関係あるのね?」

 

 銀の刃を喉元へ向けられているかのような緊迫感が這い寄ってくる。ここで背を向けようものならば最後、次の瞬間には問答無用で真っ二つにされてしまいそうな、無情の迫力があった。

 ただ『違う』と簡潔に否定するだけでは足りない。直感で分かるのだ。彼女の眼は『疑問』ではなく『確信』の光を帯びているのだと。彼女は容疑者の前に立っているのではなく、罪人の前に立っているも同然なのだと。

 ならば然るべき言葉を選んで、説明と説得を試みねばならないだろう。

 

「……これから話す私の言葉に、どうか耳を傾けてくれないか、風見幽香」

 

 無言。私はそれを肯定と見做した。

 

「花畑が破壊される原因を作ったのは私ではない。無論レミリアでも、フランドールでもない。しかし同時に、大元の原因も掴めてはいない状態だ。しかし確実に言えるのは、この事件の影に裏で手を引いている者がいるという事だ。その人物が幻想郷の下級妖怪たちへ怨霊を植え付け、どういう術を用いてか操っている。しかし、肉体一つに魂二つは共存できない。無茶な乗っ取りの反動と怨霊に対する拒否反応で、乗っ取られた者は最終的に『中身』を吐き出し、息絶えてしまうのだ。その影響が、悔やむべきことに君の領域にまで及んでしまったのだ」

「…………」

「この話を信じるのは難しいかもしれないが、信じて欲しい。そして君に約束する。私が必ず、一連の犯人を見つけてみせると誓う。だからどうか今は、矛を収めてはくれな―――」

「ねぇ」

 

 刀の様な鋭さを帯びた声に、私の発言は無残にも切り捨てられた。

 当然、微笑みを浮かべる彼女の瞳から、私への敵意を燃やす炎は消えていない。

 あまりに残酷に、そして冷ややかに。彼女はすらりと伸びた細指を頬へ当てながら続ける。

 

「例えば、あなたの近くで殺人事件が起こっていたとするじゃない?」

「……」

「一人が血濡れで倒れていて、一人は刃物を持って佇んでいる。彼の衣に血痕は無いけれど、刃物は真っ赤でべとべとなの。けれど刃を持った人はこう言ったわ。『自分は犯人じゃないんだ』って」

 

 真紅の瞳が細まっていく。的を絞るように、標的の中心を射抜くように。

 

「あなたは果たして、彼を犯人じゃないと信じられるのかしら」

 

 ――――全てを、察した。 

 弁明の余地など、ある筈が無かったのだ。

 

 彼女はアレを見ていたのだ。身元不明の怨霊によって――否、怨霊を操っていた者によって仕組まれた私の蛮行を。冤罪を鎖で私へと縛り付ける決定打を。彼女は二つの彼岸花の様な紅い瞳に、しっかりと焼き付けていたのだ。

 これではどう釈明しようとも、ただの聞き苦しい言い訳にしか聞こえないだろう。彼女の眼には差し詰め、追い込まれて必死に弁護を計ろうと躍起になる哀れな吸血鬼が映っているに違いない。

 

「……私の言葉は信用に足らないか。無理もない。ならば私の無実を証明できる者と立ち会えば、信じて貰えるかい?」

「普段なら、一考の余地くらいあったかもね。でもあなたは例外」

「どうして」

「知らないの? あなた結構有名人なのよ。少し前は妖怪の間でも噂になってたわ。『風見幽香より恐ろしい化け物が幻想郷に現れた』って。心当たりはない? 危険度『最高』さん」

「成程、幻想郷縁起か。あれは大分、人間の偏見が混ざっていると感じたのだが、そこまで信憑性の高い代物なのかな」

「いいえ。アレの内容は所々盛られていると、幻想郷に住んで長い妖怪なら誰でも知っているわ。縁起の内容は自己申告によるものが多いもの。でも、八雲紫が絡んでいる事も知っている」

 

 何気なく――本当に何気なく、ぽつりと吐き出されたその言葉は、先ほどの攻撃よりも遥かに大きな衝撃を私へ与えた。

 それは瞼の無い眼球が、更に大きくなったかと錯覚を覚える程で。

 言語にならない乾いた声が、知らないうちに漏れ出していた程だった。

 風見幽香は視線を逸らして、可憐な日傘を畳んでいく。畳みながら、彼女はぽつぽつと続けていく。

 

「あなたも知っているでしょう? 幻想郷を管理している頑張り屋さんの名前よ。彼女は縁起の推敲も担っているの。縁起がバランスよく人々へ恐怖を与え、また同時に、人間へ対抗策と言う名の拠り所を授けるように」

 

 続けざまに吐き出されていく真実を前に、ぐらぐらと視界が揺れる。頭の先から血がストンと地面へ落ちて、染み込んで消えてしまったかのような冷感があった。同時に銀の矢が心臓へ刺さったような灼熱感もあった。彼女と対峙していなければ、私は今頃地面へ膝を折っていたのかもしれない。

 

 ああ、納得がいった。人間と関わりを持たなかった私の情報が縁起へ記載されていたのは、彼女が原因だったからなのか。彼女が、私の悪評を振りまく様に仕向けていたという事なのか。

 

 しかし彼女は、私怨で他者を追いやる様な人物ではない。彼女は思慮深く、理由も無しに他人を追いつめる真似などするような妖怪ではないのだ。だって、今までの彼女の行動全てには、確固たる理由が伴っていたのだから。

 明けない夜の空で私へ怒りを向けた時も、山での決闘の時も、彼女の根底には幻想郷に対する愛があった。その愛情故に、傍目から見れば核爆弾にしか見えない私を警戒していた。それは誰も責める事の出来ないもっともな反応だ。だから私を攻撃したし、萃香の要望を叶えると共に、私の力を推し量ろうとしたのだ。

 だから恐らく、今回も同じだろう。彼女にも何か理由があって、私の悪評を広めたに違いない。萃香を通して、私がただ友人が欲しいだけのハリボテ吸血鬼に過ぎないと理解した上で、その様な行動を起こさざるを得ない理由が、八雲紫にはあったのだ。

 

 分かっている。頭では、紫が無情な妖怪ではないと理解している。

 だがそうであっても、この事実が私を抉る傷の、なんと深いことか。

 

 パチン。

 ボタンの閉じる音で、眼が覚める。

 

「そんな紫が、たとえ一時的にでも個の妖怪へ恐怖を一極集中させる判断を下した。理由はどうあれ、彼女の色眼鏡に叶う妖怪が用意した弁護人なんて、まだ悪魔の契約の方が信用できるものではなくて?」

「……そう、だな。君の言う通りだ」

 

 彼女の言葉が、上手く頭に入ってこなかった。舌がふやけているような生返事が、唇の無い口から漏れ出してしまう。

 皮の無い顔が、ジクジクと痛みを訴えた。

 

「それでも無実と言うならば、この場で立証してくれればいい。それが出来るなら、私はあなたを責めないわ。あなたの言う黒幕さんが見つかるまで、大人しくお家の中で待ちましょう」

 

 最後の関門。まさにそう呼ぶべき機会だろう。

 けれど、私には残された手札など無い。弁護人は効果を成さず、決定的な場面は目撃された。言葉など何の意味も無い。逆に逃げ出せば、それは罪を認めた事に直結してしまう。

 私の周囲、三六十度その全てが、断崖絶壁と化したかのような気分だった。

 

「……無理だな」

「じゃあギルティ。さようなら」

 

 刹那、首元へ砲弾が直撃したかのような衝撃が襲い掛かった。

 それが彼女に首を掴み取られただけと認識するまでに、数拍の間が空いてしまう。

 しかし気がついた時にはもう遅く。私の体は、森の遥か彼方にまで放り出されてしまっていた。

 

 空が青く、日の光が僅かに私へ突き刺さる。こんな時でさえ、やはりこのネックレスの力は本物だと不相応な感心が生まれてくる。

 風を切る音。私の落下が始まったらしい。下を見れば、森の中心で大きな光が瞬いていた。恐らく風見幽香の攻撃だ。次の瞬間、私は光に焼かれるのだろう。

 確実に訪れる未来を前にしても、私は抵抗の意思を浮かべる事は出来なかった。別に死ぬわけでも無いし、小悪魔は無事に治療できたのだ。今はこれ以上を望むまい。それに現状、私の無実を証明できる手立てはない。風見幽香の言う通り、私の有罪判決(ギルティ)は下されたも同然なのだ。今私が置かれている状況では、この判決を覆すには材料が足りなさ過ぎる。

 

 八方塞がりのチェックメイト。逃げ場のない現実が私を囚える。フッ、と力の無い笑みが勝手に浮かび上がってきた。

 ああ、実に空虚な心地だ。

 怨霊を手繰る黒幕よ。何の目的があるかは知らないが、お前は何の疑いようもない勝利を得た。

 もしこうなる事まで計算していたのだとしたら、想定以上の戦果を上げているぞ。

 

 見えない敵へ敗北宣言を送りながら、私は眼前へ意識を向けた。

 目下で極大の閃光が爆発する。光の奔流が、熱を伴い肉薄した。それでも避けようとする意志は生まれず、私は流れに身を委ねる選択肢を選んだ。

 目を瞑る事の出来ない私は、光に呑まれるその瞬間まで、白熱する世界を見届けていた。

 

 

 

 小悪魔と言う名らしい少女を館へ届けた私は、客星で墜落した場所から再び吸血鬼が放り出され、莫大な閃光に焼き焦がされる光景を目にして、身動きを取れなくなってしまっていた。

 光線によって生じたあまりに大きな衝撃波は大気を激しく揺り動かし、湖面へ龍の如き波濤を生んだ。それは水面付近で遊んでいた妖精を幾つか巻き込み、水の中へと連れ去ってしまう。

 

「今度はなんなの……? 本当に、何が起こっているの……!?」 

 

 朝、魔理沙さんを誘ってから今に至るまで、時間は半日たりとも経過していない。それなのに、日常から大きく逸脱した出来事が立て続けに巻き起こって、私はすっかり混乱の渦へと呑み込まれてしまっていた。

 

 そんな最中でも、ここから遠く離れた上空で、私と同じ光景を魔理沙さんは見ていた。箒に腰かけ、極大のレーザーが吸血鬼を呑み込んだ決定的瞬間を。

 先ほどから挙動不審な魔理沙さんへ注意を寄せていると、再び森から轟音が響いた。それはレーザーが放たれた地点とは、離れた場所に位置する森だ。恐らく、あの吸血鬼が二度目の墜落を迎えたのだろう。

 空中に佇む魔理沙さんの行動は早かった。箒へ跨り直した彼女は一気に速さを獲得して、流星の如く着弾地点へ躍進していってしまう。

 

 私も反射的に彼女を追った。小悪魔さんを預けた紅魔の門番さんが、彼女を治療した後にすぐ向かうから待っててと言ってくれたけれど、悠長に待機なんて出来なかった。

 今の魔理沙さんは普通じゃない。あの吸血鬼と相対した時から様子がおかしいのは明らかだ。確かに魔理沙さんは粗野な所があるけれど、妖怪に対してあんなに殺意を剥き出しにする様な苛烈な人じゃない。きっとあの吸血鬼の強烈な邪気に当てられて、狂わされてしまっている。

 止めないと。普段の魔理沙さんならいざ知らず、あんな状態じゃあ逆立ちしたって吸血鬼に敵いっこない。小悪魔さんの時みたいに、カラカラになるまで血を啜られてしまう。

 想像したくもない未来の事を思い浮かべてしまって、ぎゅっと、唇を噛む力が強くなった。

 

『――い、早苗! 聞こえる?』

「諏訪子様?」

 

 ふと、今まで音信不通だった諏訪子様の声が、頭の中で響いた。通信用の札は何故か機能不全に陥っていた筈なのだけれど、どうやら復帰したらしい。

 次いで、神奈子様の声も聞こえてくる。

 

『早苗! ああ良かった、無事だったんだね!』

「え、ええ。私は無事です」

『そうかそうか、いやぁ安心した。突然私たちの力を沢山使ってたから、何かあったんじゃないかって冷や冷やしたよもう! どう言う訳か、諏訪子のお守りもぶっ壊れて通信できなくなっちゃってるし』

 

 まるで事故に遭った娘へ接する母の様に声を荒げる神奈子様。反して、諏訪子様は冷静に私へ質問を投げて来た。

 

『ところで早苗、魔理沙はどうしたの? 魔理沙の方が全く繋がらないんだけど』

「それが……よく分からないのですが、さっきから魔理沙さんの様子がおかしくて」

『……何かあったんだね?』

 

 問いに対し、私は飛行を続けながら事の流れを細かく述べた。

 吸血鬼が本当に復活していた事。彼と相対した瞬間から魔理沙さんがおかしくなってしまった事。件の吸血鬼が人里で正気とは思えない暴挙へ乗り出した事。

 全てを耳にした諏訪子様は、普段の和やかな雰囲気とはガラリと変わった、刀剣のような鋭さを帯びて言った。

 

『そうか、そんな事が。……魔理沙はおそらく、吸血鬼の邪気に当てられたんだろうね。お前は私と神奈子の加護が働いてるからまだ邪気の侵食を軽減できたんだろうけど、あの子はそういかなかったんだろう。まともに浴びて、精神の波長を乱されているのかもしれない』

『だとしたら早急に対処せねばならんだろうな。今なら私たちが清めれば間に合うだろうが、完全に狂気へ陥ってしまえば、そこから這い上がらせるのは相当難しくなる』

「そんな……っ!」

 

 ――タイムリミットを宣告されて漸く、事の深刻さを理解出来た私は、なんて愚か者なんだろうか。

 眉間に皺が寄っていく。湧き上がる悔しさを食いしばって耐えるように、これでもかと奥歯を噛み締めた。

 私が悪いんだ。私が魔理沙さんを誘わなければ、こんな事にはならなかった。ちょっと強い力を使えるだけで、どんな強大な妖怪でもなんだかんだ倒せて大団円を迎えられると思い違いをしていたからこうなったんだ。私が妖怪の持つ本当の恐ろしさを知らなかったから、無関係の彼女がこんな目に――

 

『早苗、今は自分を責める時じゃない』

 

 凛と澄み渡る神奈子様の声。

 

『優しいお前は、お前が巻き込んだから魔理沙が危険な目に遭ったと思っているんだろう。確かにそうかもしれない。それは我々だって同じだ。だが今優先すべきは、魔理沙をその窮地から助け出すことだ。それが私たちが今出来る一番の責任って奴だよ。お前がクヨクヨして最良の判断を逃してしまうような事態に陥ったら、それこそ最悪じゃないか』

「っ!」

『嘆くのは取り返しがつかなくなった未来が来た時だけだ。今は魔理沙を止めて、五体無事な彼女へ謝れる未来を掴み取る事だけに集中しなさい。その時は私達も頭下げてあげる。だから今だけは、後悔を吹っ飛ばして前へ進め、早苗!』

「は、はい!」

 

 

 神の威厳と共に、八坂の風神は私へ大きな勇気をくれた。猛る果敢な心を胸に、私は速度を押し上げていく。

 ちゃんと償いが出来るように。彼女の暴走を止めなくちゃいけない。

 魔理沙さんと約束した宴会で笑えなくなるような結末なんて、そんなの絶対に嫌だから。私が責任を持って、彼女を元に戻さなくちゃいけないのだから。



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24.「死灰はまた燃ゆ、不滅の如く」

 古風な魔法使いの少女、霧雨魔理沙は緩やかに飛行速度を落としつつ、一部薙ぎ倒された木々が散らばる森の中へ降りていった。

 細枝を潜り抜ける際にスカートが裂かれないよう注意しながら、枝の要塞をどうにか潜り抜ける事に成功する。地に足が着きそうな高度まで降下すると、魔理沙は箒を跨いで地面へと降りた。ザクッと積み重なった落ち葉のクッション音が静寂の森に反響して、驚いた昆虫たちは木の葉の影へと身を隠していく。

 ザクザクと、魔理沙はそのまま歩を進めた。足取りに戸惑いは無く、ただ一直線に、目指すべき場所へと彼女は移動していく。

 

 ()()が落ちたらしき爆心地まで辿り着くと、魔理沙は周囲の景色を一望した。

 一ヵ所だけ深く地面が抉れており、そこを中心として周囲の草木が破壊されている。突然放たれた極大のレーザーに吹っ飛ばされ、墜落した吸血鬼の着弾痕だ。

 しかしどこを眺めても、吸血鬼の姿は見つからない。穴の中には既に邪悪なヴァンパイアの姿はなく、あるのはどす黒い液体が、穴の外へ点々と続く道筋のみだ。

 

「……」

 

 手負いの獣を仕留める狩人のように、魔理沙は黒液の道標を辿った。

 日の光が差し込む場所を避ける様に続く痕跡に沿うと、やがて一本の巨木が目に入る。

 木の根元には、やはり吸血鬼の姿があった。

 ただし、おおよそ人型とは表しがたい有様である。衣服はぼろきれと化し、四肢の内三つは正常な形をしておらず、外から覗く肌は総じて酷いケロイドに覆われていた。

 

 こんな状態でも、視界に入れるだけで体の芯から震えそうになった。生理的に、本能的に、存在的に相容れない。そう直感で理解できる、禍々しい負の気配だ。

 だがしかし、このあまりにもみすぼらしい容貌からは、紅魔館で相対した時のような悍ましくも神々しい超越者の風格は感じ取れない。道路の真ん中で踏み潰されている虫の死骸のような、哀れむ事すら忘れてしまいそうになるほどの無力さを滲み出していた。

 

 魔理沙はミニ八卦炉を手に取り、構える。普段のナハトならば普通の射撃など何の意味も無いだろうが、魔理沙は確信していた。いや、それは一種の神託に等しかったのかもしれない。何かが囁くように魔理沙へ告げるのだ。今のナハトは取るに足らない存在だと。通常のショットでも、幻想郷に平和を取り戻す事が出来るのだと。

 魔力を八卦炉へ集中させていく。力を増幅させるタービンが唸りを上げた。光が瞬き、発射シークエンスの終了を告げる。

 

「……っ」

 

 しかし。

 寸でのところで、霧雨魔理沙は踏みとどまった。

 良心の呵責と言うべきか、理性のブレーキとでも言うべきか。魔理沙の心にある白の部分が、最後の引き金を引かせなかったのである。

 

「違う……こんなのは違う。私は、一体何をしているんだ? 幾らこいつが邪悪な妖怪でも、虫の息にまで弱っているのに、わざわざ嬲るような真似なんて……」

 

 頭を抱え、困惑の表情を浮かべて退がる。自分自身の行動を理解できていない様な素振りだった。まるで誰かにそそのかされた悪行に対し、最終局面で理性と倫理の目を覚ましたかの様に。

 

「そ、そうだ。霊夢に相談しよう。こういう案件は、本職の退治屋に任せるに限―――」

 

 だが次の瞬間、再び魔理沙の瞳から光が消えた。眉間に皺を寄せ、両手で頭を抱えて後ずさる。

 ポスッ、とミニ八卦炉が枯葉の絨毯へと落下した。

 

「づッ……!? い、痛……ッ!?」

 

 ぐらぐらと、視界が陽炎のフィルターを取り付けられたように揺れ動く。堰を切ったように脂汗が滲み出て止まらず、魔理沙は謎の苦痛に喘ぎ、遂にはその場にしゃがみ込んでしまった。

 

 秒とも、分とも解釈できない、空白の時間が清涼な森を支配する。

 

「………………」

 

 魔理沙の瞳は、八卦炉へと移っていた。親しい半妖の店主から作って貰った、大切なプレゼント。その縁取りを飾る退魔の煌めきを、ただただじっと見つめていた。

 乾いた唇が動く。手繰り糸に操られる人形のように、パクパクとした機械的な動きで。

 

「いいや。奴は、奴だけは、私がとどめを刺さないと」

 

 執念の()表情だった。果ての無い恨み辛みを抱えた復讐鬼のように、何が何でも命を刈り取らんとする恐ろしい虚無の表情。若々しい力に溢れていた筈の瞳は暗黒を湛え、そのどす黒い感情を注ぐかのように八卦炉へと視線を向けていた。

 ゆらり、と木漏れ日を弾く柔肌の腕が伸びる。胸の内から膿の如く噴き出る漆黒の意思に従うまま、魔理沙はミニ八卦炉を掴み取った。

 立ち上がるも、少女はスカートの落ち葉を払おうともせず、ただただ前へと前進していく。

 

「やらないと。私がやらないと、()()()()()()()()()()()。手の届かないところに行かれちまう」

 

 この場の状況とは何の関係もない言葉を、呪詛のように少女は呟く。一向に再生する気配のない吸血鬼の元へと辿り着くまで、ブツブツと、止める事無く。

 死骸のような吸血鬼との距離、およそ七メートル。しかし射程距離としてはこの上なく十分だった。万が一を警戒しつつ相対し、魔理沙は八卦炉を再びかざす。キン、と魔力の漲る音が木霊した。

 水分を失った少女の唇が、機械的な重みを伴い、動く。

 

「それだけは、嫌なんだよなぁ」

 

 魔法使いは、鋭い白光を躊躇なく撃ち放った。

 空を切り裂き、光の弾丸は一直線に突き進む。肉を焼き貫く球電は閃光となって、森にフラッシュを瞬いた。

 

 だが、しかし。

 

 光は吸血鬼を穿つことなく、進行方向に突如現れた空間のスキマの中へと吸い込まれてしまった。

 魔理沙の眉がピクリと上がる。何が起こったのかを理解すると、錆びたブリキの様に緩慢な動作で首を動かし、少女の眼は自分の背後へ向けられた。

 魔理沙の肩には、彼女の見慣れた小さな手が置かれている。

 数日に一度は目にする白袖。脇の部分だけ切り抜かれた特徴的な紅白の巫女服。艶の映える漆黒の髪。何物にも染まらない凛とした目付き。

 幻想郷のバランサーにして霧雨魔理沙の親友(ライバル)、博麗霊夢がそこに居た。

 

「魔理沙」

「……霊夢か」

 

 交差する少女の瞳。しかし直ぐに、魔法使いの眼は肩に置かれた手へと移った。

 

「何で止めるんだ? もうちょっとでこいつを退治できるのに」

「……」

「スキマが出て来たって事は、紫も居るな? なんだお前ら揃いも揃って。これで幻想郷の平和を取り戻せるんだぞ、折角のチャンスを棒に振ろうとするなよ」

「魔理沙、アンタ物凄く顔色が悪いわよ」

「そりゃあこんな化け物をずっと眺めてたら気分も悪くなるさ。阿求のアレに書いてたじゃないか。この吸血鬼は、他者から生気を吸い取るって。そのせいさ、きっと」

「そうかもね。ならアンタはここで去りなさい。後は私たちが引き受けるから」

「……あー?」

 

 魔理沙は振り返ると霊夢と面を合わせ、ぎょろりとした眼で巫女を見た。

 ただ事ではない。霊夢も直感で魔理沙の異常を察知する。恐らく強烈な邪気によって精神を乱されているのだろうと、博麗の巫女は明察した。

 魔理沙は肩をすくませながら言う。不満の色を、ありありと声に乗せて。

 

「なんだよなんだよ、結局手柄を横取りする気か? こいつは私と早苗が追い込んだんだ。最後のオイシイ所だけを持って行こうだなんて、そうは霧雨魔法店が卸さねぇぜ」

「私もアレを退治する気なんか無いわ、釘を刺されてるからね。用があるのは紫の方よ。アイツが決着を着けるみたいだから、私たちの出る幕は無いってワケ」

 

 だからアンタは早く帰って休みなさい、と霊夢は自分の肩をお祓い棒で叩きながら告げた。

 魔理沙は背後を一瞥し、紫が本当にナハトへ何かを話し掛けている場面を目撃すると、前髪を掻き上げながら『そうか』と呟く。あまりに冷淡な情動が表れていた。

 

「で、霊夢はどうするんだ。帰るのか?」

「いや、私はこのまま仕事よ。紫の用件が済むまで待ってる。アンタは先に神社に行ってて休んで頂戴。まだ幾つか焼き芋も残っているし、それでも摘まんでのんびりと疲れを――――」

「ああ、やっぱりお前は特別なんだ。こっち側に胡坐をかいている様な人間じゃあないんだよなぁ」

 

 クスクスと、魔理沙は笑った。愉快からくる音色ではない。自嘲とも呼ぶべき負の感情が粘着質を伴って、霧雨魔理沙という少女に纏わりついているかの様だった。

 顔を片手で覆いながらケタケタと笑う少女に、霊夢は怪訝な表情を浮かべる。

 

「……魔理沙?」

「お前は、私に無いものを沢山持ってるよな。才能も、力も、立場も、心も。だからお前は今、紫と共にいるんだ。そうじゃなきゃあ、私と一緒に帰ろうとするはずだもんな。これが壁って奴なんだろうな、きっと」

「アンタ、さっきから何を言っているの? まるで会話になってないわよ?」

「魔理沙さん、霊夢さん!」

 

 二人の間へ割り込むように、一つの影が掛け声と共に降り立った。魔理沙の後を追ってきた東風谷早苗である。

 霊夢は風祝の現人神を一瞥して、言った。

 

「ちょっと早苗、魔理沙に何があったの。明らかに様子がおかしいじゃない」

「それが……原因は定かではありませんが、恐らくあの吸血鬼の強い瘴気に当てられたせいで錯乱しているのではないかと」

 

 私の責任です、と早苗は零して、魔理沙へ謝る様に俯いた。

 そのやりとりを眺めていた魔理沙は、おいおい、と手を振りながら声を上げる。無論、瞳に光は無い。

 

「人を狂人扱いするんじゃない。私は冷静だぞ。頭の中は夏の晴天のように澄み渡ってるくらいだぜ」

 

 死人のように顔を青くしながらも、にっこりと微笑む霧雨魔理沙。それはまるで、無理やり力を注がれ動かされている呪い人形の様な印象を二人の心へ植え付けた。

 誰がどう見ても、彼女の言動に説得力などある筈も無く。

 

「……彼女がああなったのは、私が吸血鬼の討伐へ誘ってしまったからです。妖怪の恐ろしさを甘く見た私の責任なんです。治療はこちらで引き受けます。守矢の二柱の浄化ならば、精神に巣食った邪気を取り払う事が出来るはずですから」

「……分かった。アイツの事、任せたからね。あんなシケた面、魔理沙には似合わないし」

 

 明確な怒りを滾らせながら、霊夢は早苗の肩を叩く。怒りの矛先は早苗に対してのものでは無い。昔からの幼馴染、腐れ縁、友人――どの様な言葉でも表せて、どの様な言葉でも表す事の出来ないたった一人の存在を狂わせた、件のヴァンパイアに対してだ。

 本来ならば、霊夢が直々に退治へと名乗り出る所だろう。しかしあの吸血鬼は、紫曰く犯人ではないという。霊夢の眼にはどう見ても()()()()にしか見えないのだが、紫を深層部分で信頼している霊夢は、一先ず紫の行動を信じてみる事にしたのだ。

 

「話は済んだのか」

「ええ、アンタの看護計画は済んだわ。さっさと守矢神社に行って療養してきなさい。今のアンタは放っておけない」

「そんな面倒な事するより、そのお祓い棒で私をぶん殴りゃ一発で目が覚めるだろうよ」

「……八卦炉なんか構えてどういうつもり?」

「元からこういうつもりだぜ。アイツは始末しなきゃならない。だけど、紫もお前もなんだかんだで甘いからな。奴が弱り切っている今、確実に私がとどめを刺してやるんだよ」

 

 その為には、と魔理沙は繋げて。

 八卦炉を、手に取った。

 

「まずお前らが邪魔だ。早苗が裏切るとは思わなかったが、まあいいさ。いつも通りの弾幕ごっこで白黒つけるとしようぜ。私が勝ったら後の行動に口を出すな。いいな」

 

 宣戦布告。同時に魔理沙は箒へ跨り、ふわりと宙に浮かび上がった。帽子を整え、いつものように懐からカードを取り出す。宣告用のスペルカードである。

 

「早苗、ここは私に任せて。アイツをぶん殴って正気に戻してきてやるわ」

 

 霊夢も応じて、地から足を離した。

 ふわふわと浮かぶ博麗の巫女と魔法使いを、早苗は不安そうに胸へ手を当てながら、見守る以外に選択肢など残されていなかった。

 ぎゅっと、唇を噛む力が強くなる。

 

 

「また随分と、派手にやられましたわね」

 

 中華風のドレスに身を包む大妖怪、八雲紫は、視線の先に崩れ落ちている吸血鬼へと声をかけた。

 返事は無く、どころか呼吸音すらない。妖怪の身であるから呼吸などそもそも必要ないのだが、傍目から見れば死んでいると勘違いされても何ら不思議ではない状態だ。

 パチン。扇子の閉じる音がした。

 

「聞こえているのでしょう? あなたがこの程度で冥府へ逝ってしまうような妖怪だとは到底思えませんわ」

「…………ゆかり、か。久しぶりだな」

 

 亡者の様な呻き声が、皮も唇も失った歯だけの口から弱々しく吐き出された。

 かつて紫へ多くの危機感を与え、その危機感に見合う力を見せつけてきた異形の吸血鬼。如何なる攻撃をも退け、妖怪最強種たる鬼の頂に立つ少女の奥義を受けてなお、涼しい顔を崩さなかった不死身の怪物が、目に見えて衰弱している。それは少なからず、紫の内心に動揺を与えていた。

 

 ナハトは対物理において、どんな妖怪よりも不死に等しい存在と言える。首を切られようが爆発四散しようが、常識をかなぐり捨てた再生能力で復活してしまうのだ。場合によっては蓬莱人よりもしぶといのではと、紫が錯覚させられる程である。

 そんな彼が、一向に修復可能な傷すら治す気配も見せず、木の根元で崩れ落ちている。妖怪の常識から測るに、精神へダメージを負っているのは明白と言えるだろう。ナハトにとっての『毒』の侵食とはまた違う、かつてない事態を前に思わず紫は身構えた。

 

「四年ぶりですわね。……その傷、治さなくていいの?」

「はは。今はどうも治す気分になれなくてね」

「そう……」

「……やはり君も、私を追いやりに来たのかい?」

 

 血を吐くように、ナハトは声を振り絞った。喋ることすら億劫であると、言外に語っているかの様に。

 

「いいえ。ただ改めて、あなたに聞きたい事があるだけですわ」

「それは、奇遇だね。私も君に色々と尋ねたい事があるんだ」

 

 間が開く。しかし以前と違うのは、両者の間に腹の探り合いが全く無い所か。――否。正確には、二人の立場が完全に逆転していると言うべきか。

 この二人の関係性は、四年前に生まれた紫からの敵意に始まっている。悍ましい瘴気と、それに反した冷静過ぎる立ち振る舞い――総じて『気味が悪い』と言える未知の吸血鬼に対し、紫はあの手この手で真意を暴こうと躍起になっていた。

 だが彼女の求めた『真実』は四年前に姿を現し、紫がナハトへ向ける敵意の矢印は、とっくに消滅を迎えている。

 

 つまり、立場が逆転しているその真の意味とは。

 今度はナハトが、紫へ疑念の矢印を向けている事なのだ。

 

「聞きたい事、ね。どうぞ先に質問してくださいな」

「……先ず一つ目だ。君は私の情報を縁起によって操り、眠りに就いている数年間、幻想郷へ私の悪評を広めていた。これに相違は?」

 

 初手で確信を貫かれる。しかし紫は動じない。この言葉を投げかけられる未来を、彼女はとうの昔に想定していたからだ。異常な洞察力を誇る吸血鬼が、縁起の真実にずっと気づかない筈がない。それが遅いか早いか、タイミングの問題であったに過ぎないのだ。

 そして同時に、今は()()を教えるべきではないと紫は判断した。

 ナハトが精神にダメージを負っている今、彼の目的と最大の矛盾を孕む『ナハトの本当の真実』を告げるのは愚策以外の何ものでもない。今度こそ完全に、存在を崩してしまいかねないからだ。

 

 嘘で誤魔化しても仕方がない。もとよりこの吸血鬼に嘘など通用しない。ならば可能な真実を伝えるのみだろう。それが、今紫が選べる中で最善手なのだ。

 だから紫は、簡潔に答える事を選択した。

 

「相違無いわ。私がやったのは、事実よ」

 

 淡白なアンサーに、鈍重な息を吐く音が交差していく。混じり合う白と黒は、灰に塗れた()を生み出した。

 

「……そうか。ノーと答えてくれるのを、仄かに期待してはいたのだが」

「確信は無かったのね。つまり、誰かから縁起のウラを耳にしたに過ぎないと」

「風見幽香から聞いたんだ。君は、幻想郷のバランスを保つために縁起の編集を担っているのだと。……私を知らない筈の著者に情報を与えた者が居るとは思っていたが、まさか、君だったとは。私の真実を知る、数少ない理解者だと思っていたのに」

 

 川のせせらぎのように静かな号哭。ナハトの体から一層力が抜けていくのが、声だけでもありありと紫へ伝わる。

 次だ、と彼は諦める様に言った。紫は無言のままに受け入れた。

 

「話は変わるが、私は見ての通り襲撃を受けた。襲撃に至った者達の根底には君の縁起も一枚噛んでいた様子だったが、まぁ、そこはあまり重要ではない。妖怪の悪評が広まったと言う事は、退治しようとする者は必ず現れるからだ」

「……」

「問題なのは、それ以外の手法で私を貶めようとしている者が現れた事だよ」

「……と、言うと?」

「君ならもちろん知っているだろう? 力の弱い妖怪が、次々とミイラにされている事件さ」

 

 紫の眼が細まっていく。ナハトの声にも、僅かな力が込められた気配があった。

 

「その被害に、館の司書が遭った」

「……!」

「厳密にはミイラ化が起こった訳ではない。彼女は突然、何者かに乗り移られたかのように行動し、私を人里へ誘き出したのだ。実際彼女はどう言う訳か、怨霊に乗り移られていた。無論それで終わりではない。彼女は、人里の中心で私に襲われている風体を装ったのだよ。客観的にシチュエーションを例えるならば、『怪物が、命乞いをする少女を情け容赦なく追いつめている』……と言った所かな」

 

 ――八雲紫は、人間の里に一種のスパイを紛れ込ませている。座敷童と呼ばれる妖怪たちがそれだ。彼女らは家に幸福をもたらす物の怪であるため人間から親しまれやすく、そこを逆手にとって、人里の情報を収集する役目を担っている。

 

 紫は、博麗神社からこの森に移動するまでの僅かの間、座敷童から報告を受けていた。妖力を介した通信からでもひしひしと伝わるほど怯えた様子で、『先ほど恐ろしい妖怪が現れ、人里で暴動を引き起こした』と。

 伝えられた外見の特徴、吸血という行為、そして尋常ではない恐れ具合から、紫は直ぐにナハトによるものだと理解した。だが同時に困惑もした。山での一件で無害だと分かった吸血鬼が、幻想郷で唯一人間を襲ってはならない不可侵領域を攻めた理由が、まるで見当もつかなかったからだ。

 

 何か理由がある筈だ。そう信じて、紫は真意を訪ねようと対面した。その結果がこれだ。こんな経緯を、一体誰が予測できようか。

 

「……怨霊に対する拒否反応で肉体(こあくま)が枯渇していく中、()は圧巻の演技力で見事に演出してくれたよ。傍目から見れば、どう足掻いても私が悪者に映ってしまうミッドポイントを」

「…………」

「お蔭で、それを目撃した風見幽香や魔理沙、守矢の巫女にまで襲われてしまったよ」

 

 流石の紫も、想定の範囲外でしかなかった。

 

 縁起による悪評の余波で、人里の退治屋が名乗りを上げる可能性は予測していた。こればっかりは致し方ない事なのだ。昔から妖怪と人間は敵対関係にあり、人々の心を脅かす妖怪は退治される宿命にあるのだから。

 だがその敵意すらもナハトにとっては糧となる。更には幻想郷のシステム上、ナハトほどの実力があれば完全な退治に至る事はまず有り得ないために、根本的な生命を脅かされる危険性は無に等しい。表現的には『懲らしめられる』だけに過ぎないのだ。

 そして彼へ向けられる敵意の範囲も、精々人間から恐怖を向けられる程度で収まる筈だった。何故なら幻想郷で暮らす力の強い妖怪は、幻想郷縁起の裏を知っているから。どれほど大仰な噂が流れても、『何か賢者に意図があって恐怖の操作が施されてるんだな』程度の認識しか、幻想郷に馴染んだ妖怪からは持たれないのである。

 

 故に明確なデメリットと言えば、ナハトの真の目的である『友達探し』が人間に対してのみ不可能となる程度で収束する予定だったのだ。死の淵から引き摺り上げる代償としては格安と言えるだろう。

 

 しかし現実はミイラ化の被害に紅魔館の住人が遭った挙句、その原因である怨霊が感染者を操り、意図的に吸血鬼を貶めるというイレギュラー極まりない展開が起こり、事態は急速降下を始めてしまっていた。

 

 予想の枠を超えたイレギュラーは、未来への道筋に歪みを生む。それは今回、風見幽香の敵対と言う形で現れた。だがこれはまだ表面上の問題に過ぎない。『人里でナハトが他者を襲った』という場面は、風見幽香に収まらず他の妖怪にも波紋を及ぼすことだろう。何故なら人里は妖怪共有の命綱であり、だからこそ妖怪不可侵の地として扱われている特別な場所だからだ。誰かが我が物顔で蹂躙して良い場所ではないと、暗黙の了解が敷かれているからだ。

 それを、不可抗力とはいえナハトは破った。これがどう言った余震を生み出すか、想像に難くはない。

 

 ミイラ事件における初めての情報と事例。これから起こるだろう不測の事態の数々。未知の脅威の発覚。

 それらの要素は、紫の思考速度をさらに加速させる燃料となった。

 

「だが重要なのは私の被った損害ではない。重要なのは小悪魔の事例から、一連の事件にある確定要素が生み出された事だ。それは君にも分かるだろう?」

「――事件は偶発的かつ自然的に起こったものでは無く、第三者の介入によるものである。それも、明らかな悪意と敵意を交えた目的を持った人物が、暗幕の裏に隠れている」

「その通り。……君も知るように、怨霊には他者を操る力など無い。せいぜい憑いた者の心を負へ引き摺りこもうと誘いかけるだけだ。人の体を使った演技などもっての外さ。そんな所業はむしろ西洋悪魔の仕業に等しいだろう。だが実際に小悪魔へ巣食っていたのは怨霊のみだった。他には何も存在しなかったのだ」

「……」

「ならば何故、怨霊は小悪魔の体を精巧に操れたのか? 彼女には使えない魔法を展開できたのか? 意思を持って被害者を演じたのか? ――――これだけの材料が揃っていれば、深く考えずとも分かる。小悪魔は、怨霊越しに操られていたのだと」

 

 怨霊の常識から考えるに、当然の如く辿り着く答えと言える。

 彼らは思考すら保てなくなるほど負の感情に呑み込まれた罪人の魂だ。他者をその人物であるかのように操るなど出来はしない。とり憑かれた人間が明瞭な言葉を発音できなくなったり、錯乱したような動作を取るのが良い例だろう。単純化された魂魄が、肉体で複雑な意思を体現するのは不可能なのだ。だからこそ、霊とのシンクロを高めるための方法として交霊・降霊術が存在するのである。

 

 しかし小悪魔に憑いた邪魂はそれを可能としたという。であれば考えられるのは、怨霊を媒介して遠隔操作を施した者が居るという事だ。小悪魔をハードと例えるならば、怨霊はコントローラー。黒幕はプレイヤーと言ったところだろう。ナハトの証言によって、紫の黒幕説は正しいと証明されたと言える。

 そう。この事件は間違いなく、何者かが裏で糸を引いている。更にナハトの証言で絞り込めたのが、ナハトを追いつめる事で益を被る人物であるという事だ。

 

 だがその事実を、ナハトの目線で裏返せば。

 その矛先は、言うまでもなく一人へ向けられる事となる。

 

「私は、幻想郷に来て日が浅い。時は四年と過ぎ去っていても、体感で言えば半年も過ごしたかどうかすら怪しい身だ」

「……」

「だから私の持つ情報には限りがある。私の知らぬ者は幻想郷にまだ沢山住んでいることだろう。けれど、その中でも犯人像は絞り込めるものだった」

 

 つまり、と、ナハトの崩れかけた肉体が、ここで初めて動きを見せた。

 比較的形を保っている左手が、幽鬼のようにゆらりと伸びる。人差し指が紫にぴたりと照準を合わせた、そのまま彫像のように固定された。

 

「万物へ干渉する境界操作の力を持ち、私の悪評を振りまく何らかの行動理由を持つ君こそが、怨霊を操っていた張本人なのではないのかね?」

 

 身内を穢された事に対する、途方もない憤怒。信じた者から裏切られた消失感。あらゆる激情がナハトの内側で渦巻いているのだろう。それは如実に、周囲の環境へ現れていた。ボロ雑巾の様なナハトの周りに生える草花たちが、膨大な邪気によって一気に萎縮を始めたからである。

 

 そんな圧力によるものとは全く別の、体の中心を穿つ様な衝撃が紫を襲った。心の臓腑が、一層跳ね上がったのを感じ取った。

 

 ナハトの指摘に対して図星だったわけではない。事実、彼女は全くの無罪なのは間違いない。

 紫の胸に堪えたのは、ナハトから陰謀の黒幕として疑われたという現実であった。

 それは過去、紫がナハトへ行ってきた行為の反射に他ならず。だからこそ、紫に突き付けられた人差し指の槍は、大きな意味を持って彼女の胸を貫いたのだ。

 

 誤解が解けたと思ったら、今度は誤解を被せられる立場となった。

 実に皮肉的だと、紫は自嘲を込めて薄く笑う。それを隠すように扇子を添えた。

 

「君なら幻想郷の住人に細工を施すなど容易いだろう。君なら地獄の怨霊を引き連れてくるなど造作も無いだろう。……答えてくれ、紫。君は黒なのか、白なのか。どっちなんだ?」

「――成るほど。貴方の言う通り、私も十分容疑者足り得るわね」

 

 紫に降り注いでいた木漏れ日が消えていく。陽が雲に隠されたらしい。薄暗い森の中は、またさらに影を深めていった。

 一陣の風が吹く。ブロンドの髪がふわりと揺れた。

 

「けれど私は何もしていない。正真正銘の白よ」

「……!」

「確かに怨霊の操作も、やろうと思えば出来ない事は無い。けれど私は、何の罪もない子へ怨霊を植え付けて利用するほどの畜生に堕ちた覚えはないわ」

「……そうか。君は黒幕ではなかったのか。そうか、そうか」

 

 心の底から湧き上がる安堵が、ほうっと漏れ出したかの様な相槌。ナハトにとってこの問答は、余程超えていて欲しくない一線だったのだろう。

 滲み出る安堵は、吸血鬼の体を少しばかり修復させていく。

 

「予測が外れて安心したよ。ああ本当に安心した。やはり君はそんな真似をする妖怪ではなかったのだな」

「……今の言葉だけで、私を信じられるの?」

「勿論だとも。それに今私が述べた要素は君を容疑に挙げるなら十分だが、決定打に欠ける。幻想郷へ深い愛情を持つ君が、たかだか私程度を追いやるために住人の命を犠牲にして、自らこの楽園を荒らす様な手段へ打って出るとは到底思えなかったのだ」

 

 だから、信じられる。

 ナハトは満足そうに、その一言で締め括った。

 

 ――つくづく紫は思う。何故彼は、ここまで温和な性格を持って生まれてしまったのだろうかと。何故、噂に違わぬ極悪非道の吸血鬼として生まれなかったのだろうかと。

 

 度の過ぎた許容の精神を持ちながら、内包する真髄は博愛と真逆を行く代物。心から求めるは血肉どころか友人との安寧であり、しかしそれを得ようとすれば命が蝕まれてしまう始末。

 妖怪の常識から考えれば、ナハトと言う男の(さが)は歪極まりないものだ。真に理解を得た紫でさえも、不気味だと感じてしまう程に。

 それ故に、紫や永琳の知る真実は、あまりにも残酷無比な凶器と成り得るだろう。

 

 心の底から、紫は哀れなお人好しに対して歯噛みした。

 どうして彼は、冷酷残忍な妖怪として生まれてくれなかったのだろうかと。

 

「しかし一つだけ、気になる点がまだある」

「何かしら」

「君は、何故私の悪評を振りまいたんだ? 君の事だから何かそうしなければならない理由があったのだろうが、私には皆目見当もつかなくてね。その訳を教えてくれないか」

 

 答えを告げるのは簡単だ。だがそれは、苦渋の選択であった。

 今のナハトは、再会時よりは精神的に回復している様子である。しかしだからと言って、ナハトの真実を簡単に吐くのは愚行でしかない。むしろ悪手ですらある。

 紫はこれまでの会話や経験から既に理解していた。ナハトはどれだけの嫌悪や敵意を向けられようともビクともしないが、『一度信頼した者から裏切られる』行為を酷く苦手とするのだと。

 事実、それは正鵠を射た解釈だった。

 

 喉から手が出るほど友人を欲しながらも、自らの性質によって中々願いの叶わないナハトは、友人というものを神聖視している節すらある。だからナハトは『自分の性質を理解してくれた筈の紫が悪意を持って貶めに来た』という誤解に対し、精神的に多大なダメージを負ったのだ。それもついさっき人間からの誤解によって得た莫大な恐怖によるカバーがあって尚、体力の減衰にまで至るほどに。

 

 つまり。

 

 信頼していた者から裏切られたと勘違いして、肉体の再生が億劫になるほどの傷を受けたのであれば。

 親愛を得れば得るほど命を蝕まれるという究極の矛盾を突きつけられた場合、一切の混じり気も無い絶望の闇へ突き落としてしまいかねないのである。

 絶望と言う感情は、物質に依存する人間ですら魂のバランスを崩してしまう強力な毒だ。それが精神を主軸とする妖怪に降りかかった場合など、ましてや更に精神的要素を強めたナハトの場合など、敢えて語るまでも無い。

 

 ――普通の者ならばここで、まず絶望しても体を保てるよう、一旦()へ帰して()()を補充し、再び引き入れてから説明すればいいのでは、と考えるだろう。しかしそれはもう取れない選択なのだ。四年前の一件で重傷を負い、永琳の応急処置で一命をとりとめたナハトは、その生命を食つなぐ代わりに『幻想郷の恐怖』へ馴染んでしまっているのである。プラグの形が変わったと考えればいい。永琳の施術によって『幻想郷』と言う名の差込口へ適応した結果、外のコンセントには接続出来なくなったのだ。

 

 こうしなければ完全な崩壊を迎えていたとはいえ、退路を断たれたも同然と言える状況である。彼は幻想の箱庭の中で、己が性質を克服しなければならなくなった。しかも時間は無限にあらず有限であり、今も刻一刻と死の闇に向かって行進を続けている有様だ。

 ある意味、ナハトは幸運だったと言える。もし八雲紫と八意永琳からの理解を得ていなければ、とっくの昔に死滅を迎えていただろうから。

 

 ……もしこの状況から一発逆転を掴み取るのであれば、ナハトというプラグを再び戻せるような、()()()()()()()()()()()の協力が必要不可欠であると紫は考えている。彼の性質とは、それ程までに厄介極まりないのである。

 

 だから紫に喋るという選択肢は無い。今のナハトへ真実を伝えるなど、切れかけの命綱へ刃を入れる行為と同等なのだから。

 

「ごめんなさい。今は言えないの」

「……どうして」

「貴方の推測通り、私には悪評を広めなければならない理由がある。けれど信じて欲しい。私は決して、私怨の様な下卑た感情で貴方を貶めている訳では無いのだと」

「……不可抗力、と言う事かね」

「そうとも言えるし、そうとも言えない。でもこれは、今の貴方に必要不可欠な処置なの。貴方の望みを知った今でもそれは変わらない。いえ、だからこそこれは必要な事なのよ」

 

 緩やかな沈黙が二人を包む。

 破ったのは、ナハトの方だった。

 

「分かった。今はその言葉を信じよう。けれど、いつかその訳を話す事が出来るようになった暁には、私に教えると約束してくれないか」

「ええ、勿論ですわ」

 

 再び静寂。今度は紫が封を切った。

 

「さて。次はこの状況をどう切り抜けるかですが」

「ああ……」

 

 一先ず問題を横に置き、二人は目先の壁へと意識を向けた。

 壁とは即ち、ナハトを取り囲む四面楚歌の状態である。

 

 今のナハトの立場は、幻想郷において大罪を犯した下手人に等しい立ち位置にある。罠に嵌められたとはいえ、第三者からすればどう見繕っても妖怪不可侵の人里を蹂躙しようと目論んだ怪物に外ならず、更にはミイラ事件の主犯としても扱われつつあるのだ。おまけにスパイスを加えるならば、捏造された数々の前科も合わさって印象と信憑性は地の底にまで墜落している。最早『疑われる』と言う段階をスキップして『判決』にまで持ち上げられている程である。

 

 しかも最悪なことに、今現在紫たちをあらゆる勢力から遣わされた式神や使い魔が、動植物に扮して彼らを四方八方から監視している始末だった。木の陰からはこっそりと、四季のフラワーマスターまでもが様子を見守っているという退路の塞ぎぶりだ。

 言うまでもなく、彼女たちは伺っているのだ。幻想郷を管理する者が、目の前の大罪人を前にどの様な処遇を下すのかを、ひっそりと待っているのだ。

 

 今までの会話は全て境界操作によって遮断していたため、外にナハトと紫の関係性は明るみになっていない。しかしこれからどうするべきか、と紫は首を捻った。

 

 全体から見れば、今のナハトは幻想郷のバランスを崩しかねない天敵であり、反して紫は幻想郷を守る守護者である。八雲紫は一個人である以前に、幻想郷の戒律としての立場もあるのだ。冤罪を拭い去れる確かな証拠が無い以上、紫が不自然にナハトを擁護するのは愚策であろう。下手な対応を取れば、紫の失脚を狙う妖怪から揚げ足を取られて下剋上を起こされかねない上に、最悪の場合、二人が徒党を組んでこの事件を仕組んだのではと疑いの眼を向けられてしまうかもしれない。そうなれば完全な詰みへと嵌る。ナハトは紫や永琳のバックアップによって幻想郷へ居住する事が許されているも同然であり、それが失われればナハト自身は言わずもがな、紫が保ってきた幻想郷という理想の国が根底から崩壊しかねないのだ。

 

 一見飛躍し過ぎている発想だが、ナハトの精神を歪ませる瘴気の前では十分起こり得る未来である。紫は過去からそれを、嫌と言うほど学習していた。

 と言う事は、だ。この場の監視者達に不必要な混乱の波紋を生ませず、紫の立場も崩すことなく、かつナハトをこの窮地から抜け出させる選択が必要となってくるだろう。

 窮地の中、紫の頭脳がかつてない程の速さで回転する。あらゆるパターンから無数の未来を仮想し、取捨選択を繰り返しながら、最善手を炙り出していく。

 やがて答えは、一つの道筋となって導き出された。

 

「ナハト」

 

 パチンと、扇子の閉じる乾いた音が弾けた。

 

「八方面を敵対者に囲まれた現状を打開する作戦が、一つだけあるわ。協力して頂いてもよろしくて?」

 

 

「ち、くしょ。やっぱり、本気のお前にゃ敵わない、か」

 

 ピチュン。

 独特な被弾音と共に、魔法使いの帽子が枯葉の山へと落下する。遅れて少女もまた、落ち葉のクッションへ身を埋める結果を迎えた。

 弾幕戦は、博麗霊夢の勝利に終わったのだ。

 

 墜落した魔理沙に駆け寄る早苗。同じく、魔理沙の元へ舞い降りる霊夢。

 

「魔理沙さん!」

「……気を失っているだけみたいね。当たっただけじゃ普通こんなことにはならない筈だけど……。思っていた以上に弱っていたのかしら」

「直ぐにでも治療を!」

「悪いけど任せるわ。どうやら、私の出番がまた来たみたいだから」

 

 霊夢の視線が射抜く先には、八雲紫と木の根元に転がっている異端の吸血鬼。そして、花の大妖怪と恐れられる少女の姿があった。

 紫と目が合う。こちらへ来なさいと、言外に訴えかけている様だった。霊夢は己が直感を信じるままに歩を進め、紫の元へと合流を果たす。

 

「揃いましたね」

 

 役者が揃うのを待っていたかのような口ぶりだった。どうにも胡散臭い空気が漂うせいか、霊夢の直感が『コイツ絶対にロクなことを考えてない』と警鐘を鳴らしてくる。

 しかしここはぐっとこらえて、霊夢は紫のアクションを待った。

 

「さて、この吸血鬼の件についてですが」

 

 紫の言葉は、この場に立つ霊夢と幽香にのみ向けられたものでは無かった。周囲で監視の眼を向けている、鳥や動物の姿を模した式神――その先で胡坐をかいて座っている者達に語り掛けているのだ。

 さながら、バラエティ番組のメインキャスターのように。

 

「知っての通り、この者は再三の忠告を無視した挙句、際限のない愚行を重ね、あまりにも罪を犯し過ぎた。よって、私はこう処断する事に決めました」

 

 話に一旦区切りが入った、その時だった。

 おもむろに、紫の腕が空気を薙ぎ払ったのだ。

 手に握られた紫色の扇が、空間を切り裂く様に振るわれる。それは刀の様に鋭い切れ味を伴った衝撃波を打ち放つと、唯一残されていた吸血鬼の腕を無情にも一閃した。

 

 音も無く、斬り飛ばされた腕が宙を舞う。流血も伴わない生々しい塊りを紫は掴み取ると、それを霊夢へ投げ渡した。

 わわわっ、と急に厄介なものを押し付けられたせいで巫女の少女は混乱した。忌々し気に紫を睨みつけ、少女は怒声を張り上げる。

 

「ちょっと! こんなのどうしろってのよ!?」

「それを封印して神社に祀っておきなさい。そして皆に退治を果たしたと伝えるのよ。情報が広まれば、人里の喧騒は自然消滅を果たすでしょうから」

「は? 人里の、喧騒……?」

「後で説明してあげるから、今はただ頷いて頂戴。重要なのはここからなのです」

 

 紫は扇を突きつけ、声高に彼女は謳う。妖美なる覇気と共に、冷徹な審判を叩きつける。

 

「悪逆の吸血鬼ナハトよ。貴方を地底の奥底へ封印します。自分が引き起こした暴挙の数々を、暗い地の底で悔いるがいいわ」

 

 

 

「――協力して頂いてもよろしくて?」

 

「……ふむ。この有様を打破できるだなんて、むしろ願ったり叶ったりだよ。是非協力させてほしい。どんな作戦なんだい?」

 

「まずは確認から。ナハト。あなたは今、自分の置かれている状況はちゃんと理解出来ているかしら?」

 

「そうだな……。少なくとも汚名返上の機会と材料を悉く潰されていて、かつ今すぐにでも磔刑に処されそうな崖っぷちにあるとは理解している」

 

「それを踏まえたうえで考えて頂戴。このままでは、貴方を心底危険視した妖怪たちが徒党を組み、いずれ追いやりに来るでしょう。これは人間も例外ではありません。もしそうなれば、そこに居る博麗霊夢や()()()()()貴方を撲滅する刃となってしまう」

 

「? ……ああ、そうだった。君には脅かしてはならない役柄があるのだったな」

 

「ええ。……ごめんなさい、事が大きくなりすぎている以上、私は思うが儘には動けないの」

 

「いやいや、協力してくれるだけでも十分過ぎる程だ。むしろ謝るのは私の方さ。……それで、作戦とは?」

 

「それについてですが、これは貴方の立場を許容範囲まで戻させるものではありません。現状、ここからの一転攻勢は不可能に近い。だから先んじて、冤罪を払拭する為の材料を揃える必要があるでしょう」

 

「つまり、まずは黒幕を暴かねばならないと」

 

「その通り。そして此度の事件は怨霊が中核を担っています。しかしながら、幻想郷に怨霊が発生してしまうような環境は殆ど無い。なので私は、あれら全ては地底からやって来たものではないかと考えています」

 

「地底……以前君が言っていた場所か。確か、地獄の跡地が広がる洞窟世界だったか?」

 

「ええ。地底は怨霊がここと比べ物にならないほど往来跋扈している環境なの。なにせ旧とは言えど地獄ですからね」

 

「黒幕が数多の怨霊を数多く用意、使役している以上、地底に居座っているもしくは関係している者の可能性が高いという事か。ああ、だんだん話が読めてきたぞ。挽回のチャンスに恵まれない以上、真犯人を探し出して検挙しなければならない。それが出来るまで私は幻想郷の大罪人であり続けてしまう。であれば――」

 

「その立場を利用して、貴方を地底に送り込むのよ。表面上は追放という形でね」

 

「無暗に戦闘や混乱を生じさせることも無く、君の立場も守られる。双方で尽力すれば、いずれ犯人を炙り出せる」

 

「そう、貴方は地底で」

 

「君は地上で」

 

「「黒幕を追いつめ、探し出す」」

 

 

 

 

 

「……だがその前に、先ずは周囲を鎮静化させる必要があるな。私が健常では、皆の不安も拭えまい」

 

「ええ。だから申し訳ないのだけど、(ソレ)を一つ貰えないかしら」

 

「? ……成程、物的証拠か。勿論さ、持って行ってくれ」

 



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EX6「東方羅針裁判」

「はい、検査しゅーりょー! もう服着ていいよ」

「うう……この季節に下着だけってのは流石に堪えるぜ……」

 

 守矢神社の母屋にて、私と神社に祀られる二柱の神様は、先ほどまで謎の暴走状態にあった魔理沙さんの介抱を行っていた。と言うのも、彼女の体に何が起こったのかを調べる検査の為である。

 何か知らない間に呪印を刻み込まれていないか、術を掛けられていないか、それらを諏訪子様と神奈子様が隅から隅まで徹底的に調べたのだ。

 しかし検査の結果は陰性。不思議なことに、明確な異常をきたしている部分は精神の波長以外に見当たらなかったのだ。二柱の見解だと、加護のある私と違って普通の人間である魔理沙さんは、強烈な邪気を一身に受けてしまったせいで精神の波長を激しく乱され、原始的な感情――特に怒りと恐怖を強く呼び起こされてしまったのではないかとの事だ。結果、あのような状態に陥ったのだと言う。

 一先ずは、取り返しのつかない異常が無くて良かった。これがもし何かに取り憑かれていると言ったパターンだったら、大掛かりな()()が必要だっただろうから。

 

「お疲れ様です。念のためにもう一度確認しますが、どこか異常はありませんか? 不自然に気持ちが高揚したり、反対に何も感じなかったり」

「っくしっ! ああ、ちょっと風邪ひきそうなくらいで別にどうってことは無いよ。本当にすまないな。なんだか、知らない間に凄い迷惑をかけちまったみたいで……」

 

 少しばかり暗雲の色を孕む表情で、魔理沙さんはポツリと零す。私は彼女を不安にさせないよう、何より責任感を感じさせないよう、精一杯明るく彼女へと接した。

 

「いえ、元はと言えば私が誘ったから魔理沙さんがこんな目に遭ったようなものなので……謝るのは、むしろ私の方ですよ」

「なーに言ってんだ、あの時私がお前に着いていくと決めた以上、それに伴う責任は全て私のせいだろう? 早苗が落ち込む必要なんて全然無いんだぞ」

「魔理沙さん……」

 

 自然とこちらも笑顔になりそうな、爽快な表情でカラカラと笑う魔理沙さん。そこにはあの狂気に満ちた面影はなく、この現実が私にいつもの魔理沙さんが戻って来たと知らせる福音となった。

 

「それじゃあ、私はここでお暇させて貰うぜ。お詫びとお礼に、今度私が秘蔵にしてる酒を持ってくるよ」

「ホント!? やったぁ魔理沙太っ腹じゃんよ!」

「諏訪子、今はよしなさい。魔理沙はああ言ったけど守矢が迷惑を掛けたのには変わりないんだからさ」

「うん、だけど辛気臭くする方が魔理沙は嫌かなって思って」

「そうだな、そっちの方が私としては遠慮しなくていい」

「でももし何か異常が出た時は、直ぐに永遠亭へ行って下さいね? 本当は、今から行った方が良いかなと思うのですが」

「ははは、大丈夫だって。お前らが診てくれたお陰で私は完全回復、この通り元気ハツラツだぜっ。何で気を失ったのかが分からない位だ。うっすらとしか覚えてないが、本当に頭が参っていたらしいな、あの時の私は」

「それなら、良いのですが」

 

 一応、諏訪子様や神奈子様の浄化で精神の波長を戻したら魔理沙さんは健康状態に戻ってはいる。原因が魔術や妖術の類で無いのであれば、やはり吸血鬼から生気を吸い取られ過ぎたが故に起こった精神的錯乱なのだろう。一部記憶が曖昧になっているのも、その後遺症と考えられる。

 

 そう。魔理沙さんには一連の事件に関する記憶が殆ど残っていない。正確にはあの禍々しい吸血鬼と相対して紅魔館を立ち去った辺りから、記憶がほぼ抜け落ちているのだそうだ。当人曰く過去にナハトと相見えた記憶は取り戻したらしいのだが、不可解なことに先ほどまで魔理沙さんがとっていた異常行動については、断片的にしか覚えが無いのだとか。

 

 記憶喪失に関しては、諏訪子様も神奈子様も原因が分からないらしい。体中を調べても記憶の封印術などは掛けられておらず、見つかったと言えば精神波長の異常な乱れのみ。こうなってくると、極度のストレスから脳が記憶を除外したのではと言う推測が有力化してくるだろう。

 

 しかし少なくとも二柱の検査をパスできるほど健常で、これと言った肉体的な創傷がないのであれば大丈夫だろうと一時帰宅の診断を下された魔理沙さんは、魔法の森にある家へと戻っていった。念のために何か症状が出ていないかどうか、定期的にここへ通うよう約束をつけて。

 

 

 

 

 それが間違いだったと、私は後悔する事になる。

 

 この時、私は彼女を引き留めておくべきだったのだ。念には念をと、執念深く蛇のように疑っておくべきだったのだ。目の前の()()に胡坐をかいて、見守る選択を取るべきではなかったのだ。弾幕ごっこを吹っ掛けて彼女を撃ち落としてでも、永遠亭に連行するべきだったのだ。

 

 

 

 この日を境に、魔理沙さんが私たちの前へ姿を現す事は無かった。

 

 

 

 久方ぶりに、図書館から出た気がする。

 

 普段の私は、滅多なことでは広大なマイルームとも言える地下図書館から出ることはしない。わざわざ外へ出ても魔法の研究時間を削られるばかりか、髪は痛むし、肌は荒れるし、疲れるし、良い事なんて殆ど無いからである。

 それでも、今は図書館から腰を上げずにいられなかった。小悪魔の身に起こった凄惨な事件とナハトの話から、私はどうしても彼女に聞いておかなければならない話が出来てしまったからだ。

 

「レミィ、入るわよ」

「どうぞ、パチェ」

 

 ノック。承諾。入室。それら三工程を素早く済ませ、私は自分でも珍しいと思える程に、急ぎ足で部屋の中へと足を踏み入れた。

 もう三桁近い年数を共に過ごしてきた吸血鬼の友人、レミリア・スカーレットの私室に入れば、彼女はいつものように優雅なティータイムを過ごしていた。紅茶の甘くて芳醇なフレグランスは、ドアを開いた瞬間から咲夜の仕事ぶりを教えてくれる程だった。 

 

 しかし今は紅茶を飲みに来た訳では無い。私は傍に咲夜を控えさせているレミィに対し、急いだために乱れてしまった呼吸を整えながら言った。

 

「お茶の時間を邪魔してごめんなさい。けれど、今すぐ貴女へ聞きたい事があるの」

「へぇ、パチェが図書館を出てまで私に物申したいなんて珍しいわね。別に構わないわ。――咲夜」

「はい。それでは、咲夜は失礼致します」

 

 レミィからの合図を受けると、メイド長は一礼と共に姿を消した。どうやら空気を呼んでくれたらしい。つくづく出来のいい従者だと思う。

 座って頂戴、と催促されたので、私はレミィの対面へと着席した。紅茶を勧められたが手でそれを制する。今は悠長に過ごす時間すら惜しい。

 

「で、そんなに急いでまで聞きたい事って何かしら?」

 

 シャンデリアの仄かな明かりが、レミィの日焼けを知らない真珠の様な肌を照らす。見た目は童女のソレなのに、どこか妖艶さを感じさせる風格があった。吸血鬼の保有する魔の魅力と言う奴だろう。一瞬私の抱く焦燥と場の雰囲気が緊張へ拍車を掛けてしまい、その魔性に呑見込まれてしまいそうになった。

 私は唾と共にそれを飲み下し、冷静を取り戻す。

 

「……レミィ。小悪魔の話は、ナハトから聞いた?」

「ええ。一応ね」

 

 肯定と共に、吸血令嬢は紅茶を啜る。そこに動揺や不安と言った色は見られなかった。

 

「何か爆発音がしたとは思ったけど、まさかそんな事件が起こっているとは思わなかったわ。流石の私にも、小悪魔が何かに取り憑かれた挙句、その取り憑いた人物の手によっておじ様が地底へ追放される羽目になるとは夢にも思わなかった」

「その事なのよ。私が、貴女へ訪ねたい事は」

「……と言うと?」

 

 レミィの大きくて真っ赤な瞳が私を射抜く。普段のお茶らけた態度からは考えられない、吸血鬼としてのオーラが垣間見えた。

 喉の渇きを覚えつつも、私は覚悟して口を開く。

 

「ナハトは言っていたわ。小悪魔に憑いたナニカが、人里で彼の印象を最悪に貶める為の演技をしたと。でもそれは人里だけを狙ったものじゃなく、人里に紛れ込んだ妖怪や、人里を監視している妖怪勢力からも敵意を集中させるための演技だったと。……この証言が本当ならば、小悪魔を操った者の正体は必然的に、ナハトを貶める事で利益を被る人物になるわよね」

「……」

「注意するべきはその点だけじゃない。そもそもの問題として何故小悪魔が操られたのか。普段は図書館から離れる事も無い私の使い魔が、一体何時の間に怨霊を植え付けられたのか。ここが一番不思議だと思わない?」

「……パチェ」

「レミィ。私は今から、貴女に親友として最低な事を訊ねるわ」

 

 手が震える。緊張と不安と焦燥が胸の内に渦を巻いて、どうしようもなく締め付けられる。私が今から吐き出すこの問いが、どうか外れていますようにと、柄にも無く神へ祈りを捧げてしまう程に。

 

「ナハトの()を知る者の一人であり、紅魔館に在住していて小悪魔へ接触する機会があり、かつ上級西洋魔法を体得している人物。――――それは、貴女が小悪魔を操った犯人だという証明にならないかしら」

 

 ドクン、ドクンと。いつもは怠けているのではと思わされる程、心臓の拍動が強くなるのを感じた。一秒の単位が果てしなく思えてしまう。果ての先に訪れる答えを聞くのが、とてもとても怖かった。

 

 私がこの結論に至ったのは、レミィがナハトへ負の感情を向けさせる動機を持ち合わせていて且つアリバイの無い人物でもあり、更には魔法技能として可能な領域に達している者だからだ。

 他に考えられる者と言えば真実を知る紫や紅魔館の住民達だが、どれも犯人とは考え難い。紫はナハト曰く黒幕じゃないと結論が出たらしいので端から対象の外であり、フランは高い魔法技術を持つものの、ナハトの真実を知らないため動機が発生し得ない。美鈴や咲夜は言わずもがな、そもそも怨霊を介して他者を操れるほどの高度な西洋魔法を体得していないから除外できる。

 となれば、私の考えられる範囲では、どうしてもレミィへ照準が合わさってしまうのだ。私にしてみれば、最悪の答えではあるのだが。

 

 ……レミィにとって、義父であるナハトが重要な存在であることは理解している。だからこそ私は彼女を疑った。犯人を探し出すにはまず、私情を全て排さなければならないからだ。

 

 けれどもしこの推測が当たっていたとしたら、私はこの友人と何時振りかも分からない喧嘩をしなければならないだろう。幾ら何でも、同じ館に住む者の命を危険に晒してまでナハトの命を食い繋ごうとするのは間違っている。これがレミィの暴走の兆しであるのならば、私が今ここで、日の魔法を行使してでも彼女の眼を覚ましてやらねばならない。

 

 最善なのは、この推測が全て的外れである展開なのだけれど。

 

「……もし私がパチェと同じ立場だったなら、同じ結論に達していたのでしょうね」

「っ」

 

 血のポンプが、一際強く波打った。

 

「でも安心して、パチェ。私は身内に手を出してまでおじ様の力を回復させようとするほど落ちぶれてはいないから」

 

 ――答えを得て、体中の力という力がすとんと全て抜け落ちた。

 安堵や安心が私を包む。心の底から当てが外れていて良かったと、少し泣きそうにまでなってしまった。

 

「良かった。貴女が実行者じゃなくて本当に良かった」

「ふふ、無粋だとは分かっているけど、そんなに焦るパチェは何だか新鮮ね」

「笑い事じゃないわよ、もう。心底心配していたんだからね」

「そこまで気にかけて貰えるとは親友冥利に尽きるってもんよ。ところで、もし私が黒幕だったらパチェはどうするつもりだったのかしら?」

「泣いて改めるまでロイヤルフレア」

「そ、それはぞっとしないわね」

 

 引き攣った笑みで紅茶を飲むレミィ。身内の命までもを利用してたりしたら当然である。もっともその必要は無くなったみたいでホッとしているのだけれど。

 

「でもそれなら、一体どこの誰が何の目的であの子を食い物にしたっていうのかしら。ましてやナハトを嵌めるだなんて、デメリットの方が遥かに大きいでしょうに」

「考えられるのはやっぱり、パチェの言う紅魔館と深く関わっている者か、もしくはおじ様へ私怨を抱いている人物でしょうね。昔からおじ様はあちこちから恐怖と怨恨を買っていたし、幻想郷に流れ着いた者の中にそんな輩が紛れ込んでいたとしても不思議ではないわ」

「うーん……そうなってくると、ますます絞り込むのが難しくなるわね……」

 

 幻想郷は外界で忘れ去られたものが辿り着く終点のような場所だ。動植物や物品は言わずもがな、幻想郷の存在理由を担う数多の魑魅魍魎が、日々この箱庭へと流れ着いている。であればその中に、外での事件か何かでナハトへ怨念を抱いた人物が紛れ込んでいたとしても不思議ではない訳だ。

 が、私はこの線を有力とはあまり考えられなかった。もし犯人が『外から流れ込んだ余所者』ならば、小悪魔が利用されるまでの経緯が証明できないからである。

 

 そもそも館から外へ出る事の無い彼女へ接触し、気付かれないうちに怨霊を植え付けるとなると、紅魔館へ相当精通した者に限られてしまう。しかも小悪魔は弱小とはいえ悪魔の一員だ。普通なら植え付けられた時点ですぐさま気付くはずだろう。なのにその自覚が無かったどころか、本人曰く操られる前後の記憶がまるで無いと来ている。

 つまり最初から、小悪魔は自らの内に異物を挿し込まれた認識すら持っていなかったという事だ。

 

 こうなってくると、犯人は紅魔館を知り尽くしていて、かつ悪魔にも全く気付かれない気配遮断能力と高度な死霊術を体得した相当な使い手になってしまうのだが、該当する人物には残念ながら心当たりがない。紅魔館はもともと人の出入りが少ない場所なので、幻想郷で館の構造や人間関係を隅から隅まで知り尽くしている人物は意外と少ないのだ。雇われている妖精メイドでさえ、中には私や小悪魔の存在を知らない者までいる始末なのに、外部で精密に内情を知る者となるといよいよ皆無の気配を覗かせてくるだろう。

 

 的はかなり絞り込めているのに、肝心の標的がどこにも見当たらない。数学式は成立しているのに、答えとなる文字を知らないから分からないとでも言えようか。本来なら有り得ない歪な違和感が私の胸の中で渦を巻き、その旋回を止めようとしないのである。

 そう。歪、歪だ。私はこの事件に対して、何かとても大事なものを見落としている様な気がするんだ。それがピースを失くしたジグソーパズルのように、あからさまながらも取り返しのつかない違和感を作り出しているのだ。

 

 ああ、モヤモヤする。答えがもう喉から出てきそうなのに出てこなくて、不愉快極まりない。ここまでくると、誰かから意図的に思考の方向性を捻じ曲げられている様な気さえしてくる始末である。

 

「まぁなんにせよ、不届き者を炙り出す事に変わりはないわ。紅魔館に手を出した俗物は、例え天岩戸に隠れていても引きずり出して仕留める。このレミリア・スカーレットの身内に手を出した事を、十字を切って血を捧げるまで後悔させてやる」

 

 飲み干したティーカップを音も立てずに置きながら、我が親友はそう宣言した。

 紅い瞳が仄かな光を帯びていて、それは一つの決意を私へと表明していた。

 

 

 

「レミリアが裏で糸を引いていた訳ではない……か」

 

 パチュリーの尋問を盗み聞きする形になってしまったが、彼女と同じように懸念していたレミリアへの容疑が晴れて一息吐く。想像もしたくないものだったが、あの子が小悪魔を利用して私を嵌めようなどと企てていなくて本当に良かった。これで心から安心出来ると言ったところか。

 

 だがそうなってくると、いよいよ犯人像が分からない。これで私が仮想に描いた黒幕の容疑者は全て霧散してしまった。小悪魔に干渉する事が出来るほどの西洋魔法の体得者、レミリアやフラン、パチュリーが見当違いとなれば、一体全体誰がどの様な方法で、小悪魔に怨霊を移植したと言うのか。

 

 何か、見落としている部分がある気がする。それも重要極まる要素をだ。しかしそれが、霧の中に隠れた羽虫のようにとんと区別がつかない。そちらへ意識を向けられなくなっているとさえ感じる程だ。

 

 ……しかしあのパチュリーとレミリアの口ぶり。彼女たちも紫と同じように、私に関する秘密を何か隠し持っている様子だった。非常に気になるところだが、問い詰めたところで口を割ってくれることは無いだろう。紫の言う『来るべき時』が来るのをゆっくりと待つしかない様だな。

 

 さておき、暫くすれば私は地底へ行かなければならない。準備としてこの館の住人には既に説明したし、輝夜にも文を送っておいた。残った仕事と言えば荷造りのみだが、別段私は必需品を持ち合わせていないので必要は無い。部屋の整理整頓だけしてお暇するとしようか。

 

 重要な地底への移動についてだが、それに関しては紫の方から何かバックアップがあるらしい。もしや宿泊先の取り付けでもしてくれたのだろうか。だとしたらありがたい事だが……いやいや、この考えは流石に呑気が過ぎるな。そもそも地上と地底の妖怪は不可侵条約が結ばれているのだ。それは紫とて例外ではない筈だろう。であれば、仲介人の手配をしてくれていると考えるのが妥当なところか。

 まぁ、仮に仲介をしてくれていたとしても、目に見えて関係の悪い地底の住人が地上の私を易々と受け入れてくれるはずはないのだろうが

 

 風や水の魔法を行使し、部屋の掃除を進めながら今後の行動を考えていた、そんな時だった。不自然な風が首筋を撫でたかと思えば、背後から突如何者かの気配が発生したのだ。

 なんだかこの状況には覚えがある。そう、確か紫と初めて顔を合わせた時と同じシチュエーションだ。しかし一つ異なっているのが気配の種類である。紫からは濃密な妖力が漂っていたが、今私の背後から放たれているのは妖力と反する力だ。霊力の類、しかしそれよりももっと純粋な、霊験あらたかな雰囲気が背筋から伝わってくるのである。

 

「夜分に失礼します、吸血鬼ナハト」

 

 凛と張った美しい声色を奏でる人物は、どうやら私の事を知っている人物らしい。まぁ、私の部屋を特定して空間移動してきたのであれば、当然であると言えるのだが。

 

 振り返れば、二人の少女の姿があった。

 

 片方は幽香や早苗と同じ緑色の髪をした少女だ。全体的に髪は短いが右側だけ伸びているのが特徴的で、頭上には紺色を基調とした帽子に紅白のリボンが装飾されたものがちょこんと乗っている。全体的に見て、どこかパリッとした清廉な印象を受ける少女だった。

 もう片方は、紅蓮の炎の如き赤い髪をサイドに束ねた娘である。着物と洋服を合体させたような和洋折衷の服装に身を包んでおり、手には華奢な細腕では持ち上げる事すら困難に思えてしまう程の大鎌を持っていた。随分と個性的な子である。

 

「唐突な来訪失礼します。少々お時間を頂いても?」

 

 緑髪の少女は、木製の棒を携えながら私にそう語り掛けた。しかし不思議なことに私の魔性を前にしても声は震えておらず、どころか欠片も怯えの兆候は見られなかった。その点から、彼女が紫や永琳と同じく、私の瘴気に対して冷静な思考を働ける人物だと理解するのは容易だった。

 そして、直に相対したからこそ分かる彼女の只ならない霊力に加え、付添人と思わしき赤髪少女の大きな鎌は、私へ良い判断材料を提供してくれた。

 

「全然かまわないとも。ところで君たちは、もしや彼岸の関係者だろうか。そちらの子は死神で合っているだろう?」

「ええ、相違ありません。私は四季映姫。是非曲直庁にて閻魔を務めている者です。そして彼女は死神の小野塚小町、私の部下です。初めまして」

「なんと、閻魔様だったのか。こちらこそ初めまして。私の名はナハト、こう見えても無害な吸血鬼だよ。私の事は既に知っている様子だが、どうぞよろしく」

「これはご丁寧に」

「……ところで、君達の様な幽世(かくりよ)の者が――ましてや閻魔様ともあろうお方が私へ直接干渉してくるとは、一体どんな用件なんだい?」

「なに、単純な用事です。貴方へ地底への正式な移住許可を通達する事が一つと、我々からの依頼についての説明をするだけですよ」

 

 噂をすれば何とやら、どうやら彼女が私の想像していた仲介人の様子であった。

 曰く、地底と地上の間には妖怪同士の不可侵条約が結ばれており、何人たりとも干渉してはならない取り決めが作られていると聞く。便宜上の追放とは言え、何らかの形で手続きをしなければ不味かったのだろう。

 となると、平等を尊ぶ閻魔である映姫は、地底と地上間における調停者とでも言うべき立場にあるのだろうか。そうでなければ手続き役を買って出るわけが無い。地獄の裁判官たる閻魔は何事にも中立な立場にあるから、幻想郷ではうってつけな人物だったと言う訳か。

 

 さておき、ピンと来ないのは後者の方である。閻魔直々に私へ依頼とは奇妙な事だ。奇妙過ぎて全く想像がつかない。なにせ彼女とはこれが初対面なのだ。依頼を持ち込まれる縁も所縁もないのである。

 

「先ずはナハト、貴方の地底行きの件ですが、八雲紫から大まかな経緯は耳にしました。四季映姫の名の下に地底へ赴く許可を正式に言い渡します。向かった際には旧都の中心にある地霊殿を頼りなさい。その建物の主、古明地さとりは地底の代表者を兼ねた妖怪ですから話を通してあります。名乗れば出迎えてくれるでしょう」 

「おお、それは本当にありがたい。向こうへ事情を説明してくれたとは、感謝してもしきれないな」

「これも条約と平和を守るためですのでお気になさらず。むしろ不用意に貴方を放り込む方が却って危険を伴うでしょう?」

 

 うむ、ぐうの音も出ないとはまさにこの事である。魔性を振りまき、他者へ否応なしの恐怖を植え付ける私を何の前触れも無しに地底へ放り込めば、戦争の火種となってしまうのは明白だ。

 

「次に依頼についてですが……これは初めに、貴方の犯した過ちから話さなければなりませんね」

「過ち? ……私は知らないうちに何かやってしまったのだろうか。すまないが、これといって心当たりがない」

「先代紅魔館当主、サー・スカーレットについてです」

「!」

 

 もう耳にすることは無いと思っていた名を聞き、思わず私は身構えてしまった。しかし直ぐに何故彼女がその名を口にしたのかを理解して、私は冷静さを取り戻す。

 映姫は閻魔、即ち地獄にて死者を捌く裁判長である。自らの命を絶ち、死者として活動していたスカーレット卿の処遇を決めるのは彼女ら彼岸側の役割だ。しかしそれを私が激情に身を任せて横から奪い取り、魂魄を粉微塵に破壊してしまった。それについて、彼女は私を糾弾するつもりなのだろう。映姫の役柄を考えれば、当然の判断であると言える。

 

「ナハト。他者を黒く塗り潰すその魔性の威圧とは裏腹に、貴方が素行の良い類稀な吸血鬼である事実は、この全てを見通す浄玻璃の鏡で既に知り得ています。しかし、それはそれです。幾らサー・スカーレットの邪知暴虐としか言いようのない行いが無視出来なかったとはいえ、貴方が他者を断罪して良い理由にはなりません。魂魄の破壊などもっての外。彼を裁くのは我々閻魔の役割なのです。生者が死者を裁くなど、思い上がりも甚だしいと知りなさい」

「ああ、君の言う通りだ。今では年甲斐もなく血を昇らせ過ぎたと反省しているよ。君たち彼岸の者へ、あの魂を届ければ良かったのにな」

「反省しているならばよろしい。その気持ちを忘れない事です。しかし我々彼岸にも、生者の理へ背いた魂を発見出来なかった落ち度はあります。後ほど回収係の鬼神長へキツく注意を促しておきますので。……さて、ここからが本題となります。貴方には過去の(あやまち)を白へ戻す為の善行を積んで頂きたいと思っているのですが、」

「それが、件の依頼なのかな?」

「――左様。理解が早くて助かります」

「して、内容は?」

「……貴方には旧地獄へ取り残されている怨霊の浄化、及び回収を手伝って頂きたい。数量で言えばおよそ百人分ほどですが」

 

 怨霊の浄化と回収……か。皮肉なことに、今の私としては却って好都合な依頼である。例の一件が怨霊を介して行われた事に加え、その怨霊の発生源が地底にあるかもしれないと予測が立てられている以上、怨霊の調査は避けて通れない道なのだ。調べるついでに済ませていけば、彼女の要望にも応えられるだろう。

 

「ふむ、了解した。しかし君の言う浄化とは一体? 癒しの魔法でも付与すればいいのかな」

「いいえ、貴方の得意とする魔力の剣を使うのです。その剣の性質は、どちらかと言えば彼岸(われわれ)のものに近い。貴方が魂へ精密な干渉を行う事が出来るのも、知識や経験もさることながら、その性質が一端を担っているからでしょう。ですので、それを行使し怨霊の怨霊たる部分を取り除き、回収して頂きたいのです」

 

 ……うーむ。中々含みのある物言いである。私の魔力塊たるグラムが彼岸寄りの性質となれば、根源たる私自身も幽世に沿った存在という事なのだろうか。何だか紫やレミリア達が隠している情報との関係性が否めないのだが、はてさて。

 まぁ考えても仕方ない題は一先ず棚の上に置いておこう。つまり彼女は私のグラムで怨霊の妄執と魂魄を切り離し、理性の余白を取り戻させた魂を彼岸へ届けてくれと言っているのだろう。紫が地底――即ち旧地獄は地獄の縮小化に伴って生み出された跡地だと言っていたから、人手不足のせいで裁判出来ずにいた怨霊をこの機会に再審し、輪廻へ戻すつもりなのではなかろうか。だとしたら、怨霊の手助けにもなるというものである。

 

「承諾した。では、贖罪に務めさせてもらうよ」

「それは重畳。良い成果(つぐない)を期待しています」

 

 映姫は凛然とした態度で締め括り、行儀よく頭を下げた。話に一段落着いたところでお茶を出してなかったと思い出し、飲むかどうかと尋ねれば不要だと言われたので、私は自分用の飲み物の準備へと取り掛かった。何だか最近お茶の誘いを断られる事が多い気がする。よく考えてみれば幻想郷へ来る前はずっとアローン・ティータイムではあったのだが、やはり寂しく感じてしまうものだ。

 

「さて。これで私の伝えるべき用件は全て済みましたが……折角ですし、貴方に一つ忠告をしておきましょう」

「うん? 何かな」

「浄玻璃の鏡を通して私が思った事です。ナハト、貴方は自分の及ぼす影響力についてきちんと把握していますか?」

 

 葉を蒸らし終え、カップへ注ぎ入れている最中だった。映姫が再び改まったかと思えば、切れ味を伴った声色で、私へそう訊ねて来たのだ。

 

「貴方の目的、目標は把握しています。しかしナハト、貴方は自らが他者へ放つ波紋の大きさを、正確に理解出来ていないのではありませんか?」

「……つまり、私の瘴気に対する見解かな? それは十二分にも把握しているつもりなのだが」

「それはあくまで体質上の問題でしょう。私が指摘しているのは、貴方の瘴気に対する外部意識に他ならない。ナハト、よく聞きなさい。貴方は先天の魔性が他者へ招く異常性を理解していながら、その反省を行動にまるで活かせていないのです。言うなれば――そう、貴方は少し現状に馴染み過ぎてしまっている」

 

 清水のせせらぎのように、幽かでありながら耳を傾けずにはいられない語り口調は、自然と私の意識を映姫の声へ引き寄せた。

 

「例を挙げるならば、永夜異変や妖怪の山での一件でしょう。あの時、貴方は自らの思うが儘に行動しました。それが間接的にも直接的にも、大きな騒乱の火種となってしまった。ここが矛盾なのです。永夜に至る前、貴方はレミリア・スカーレットを通じて幻想郷に自分の存在を紹介してもらってから、単独行動を試みるべきだった。妖怪の山へ赴く前に、確認の文を山へ送っておくべきだった。その一アクションさえ踏んでおけば、貴方の望む友人を得る機会はぐんと増えたはずです。何故なら住人に対して初見の誤解を拭い去っておくことで、瘴気の効果を緩和できたかもしれないのですから」

「……確かに」

「貴方は自らが持つ精神的影響性を把握しておきながら、その実それに伴った行動をしていないのです。嫌悪される事に慣れ過ぎた結果、目的を成すには矛盾とも捉えられる選択をしてしまっている。さながら、目的を遂行するためだけに一直線に突き進む機械のよう。それではいけません。貴方はまず弱者へ寄り添うのではなく、弱者の立場に立つことを覚えるべきです」

 

 それは、萃香に激励を受けた時以来の衝撃だった。成る程全くもって彼女の言う通りである。言われてみればどうしてその工程を踏まなかったのか、どうしてその発想に至らなかったのか、不思議で不思議で仕方がない。

 どうやら私は、あまりに自重出来ていなかった様だ。彼女の説教通り、私は今の環境に馴染み過ぎて思考の範囲を破壊されていたのだ。彼女の『弱者の立場に立つ』という言葉は、今後の大きな課題となってくるだろう。早速地底で活かさねばなるまい。

 

「――目から鱗とは、まさしくこの様な心情を指すのだろう。本当に素晴らしい話をありがとう。とても為になる説法だった。やはり第三者からの意見とは非常に重要なのだと再認識させられたよ」

「礼には及びません。職務の様なものですから。しかし誤解しないで頂きたいのは、貴方の行動で少なからず救われた者も居るという事です。吸血鬼の妹や竹林の姫、大図書館の司書は最たる例でしょう。行動の指針に改める余地は有れども、今の貴方の在り方までは、努々お忘れなきよう」

 

 その言葉が、彼女の最後の言葉だった。映姫の目配せと共に従者である死神少女が傍についたかと思えば、二人もろとも、部屋から姿を消し去ったのだ。どうやら帰った様子である。

 しかし、何だか晴れ晴れとした気持ちだ。彼女の説教は実に身に染みる話だった。折角新天地へと赴くのだから、活かさなければ彼女に申し訳ないというものだろう。

 無論、黒幕の調査も忘れない。私の名誉の為にも、それよりも小悪魔や幽香の汚された誇りの為にも、黒幕は必ず突き止め、白日の下に晒さなければならないのだ。

 

 ……これはただの勘なのだが、恐らく近い内に、犯人の正体は暴かれる事になる気がする。

 その時が、私にとって最後の戦いになるだろうと言う事も。

 理由は特にないのだが、なんだかそんな気がして已まないのだ。

 

 紅茶を啜りながら、地底へ移る最終前夜の事だった。

 

 

「四季様……ちょっと質問させて貰ってもいいですかい?」

「何でしょう? 小町」

 

 距離操作能力を応用し、冥府へと戻る道すがらの事だった。三途の川の船頭、小野塚小町は妙に顔を白くさせながら、先を歩く閻魔へと声を投げたのだ。

 

「いやぁ、はは。何と言いますか、何故四季様があのナハトとか言う吸血鬼に協力したのか、そこがちょっと気になっちゃって。ああいや、四季様が妖怪の賢者に頼まれた不可侵条約の関係で責務を果たす為に訪れたってのは分かってますよ? あたいが言いたいのは、何故奴にこちら側の仕事を手伝わせるような真似をしたのかなと。そこが疑問だったんです」

 

 ――小町の言い分はこうだ。是非曲直庁は現在万年人手不足に陥っており、半ば放棄されたに等しい怨霊たちの再審にまで手が回らない状況となっている。故に猫の手も借りたい忙しなさに包まれているのだが、しかし例えどれだけ人手が足りない状況下であったとしても、幽世(かくりよ)の存在が現世(うつしよ)の存在に仕事の肩代わりを願うのは前代未聞なのである。四季映姫の言葉を借りるなら、『生者に死者の仕事を担わせるなんてもっての外』と言ったところだろう。

 それなのに映姫は、何の思惑があってか、あの吸血鬼へ幽世の仕事を言い渡したのだ。それだけではなく、魂魄破壊の罪をそれで帳消しにするとまで言っている。仕事に対し厳格で、何者にも左右されない四季映姫・ヤマザナドゥを知る小町からすれば、これは考えられない選択だった。

 対して、映姫は静かに答えを返す。

 

「世の中には、適材適所と言う言葉がありますね」

「はい?」

「持って生まれた能力を最大限活かす場所と言うものは、必ず何処かに存在するものです。例えば、霊の心までも透視し支配する事の出来る古明地さとりは、地底の怨霊を管理する地霊殿の主となりました。また、死を操る西行寺幽々子は冥界の管理人に適していました。一見すると危険で利の無い力でも、使いようによっては徳へと変わる場合は数多い。そして私は地蔵出身の閻魔。迷える者へ正しい道を指し示すのも、私の責務の一つと言う事なのですよ」

「……てことは、あれですかい? つまりナハトを使えるか()()()()()と? 冗談でしょう四季様。だってあいつは、あいつの中身は吸血鬼なんかじゃあない。ありゃあ深淵だとか無間地獄だとか、そんなものがなまっちろいとさえ思えてしまう様な――――」

「口を慎みなさい、小野塚小町。私は何者であっても平等性を崩す事はありません。……例え彼が本来この世界に居てはならない純黒の存在であったとしても、それは変わらない。私は、私の役目を果たすのみですから」

 

 凛然と、一切刃こぼれの無い鋭さを声に伴って映姫は言った。そこまで強く宣言されてしまえば、小町と言えど口を閉じる他はない。

 それと交代するかのように、今度は映姫の方が小町へ問いかけた。

 

「ところで小町。話は変わりますが、回収班から何か伺っていますか?」

「……いえ、相変わらず空振りとしか聞いてないですね。ついこの間、その件で鬼神長がヒステリックになってましたよ。火種の無い煙のように居所の分からん獲物だって」

「左様ですか。ふむ。やはり妙ですね。回収の精鋭たちがこうも手古摺らされているとなると、やはり意図的に隠れているとしか思えない。仙人のように堂々と撃退しない分、厄介極まりないわ。居場所が掴めないのであれば、こちらから手の施しようがない」

「うーん……あたいはソッチに疎いもんでよく分からないのですが、本当に現世へ残ってるんでしょうか? 自分にゃどうも、もう自然消滅したようにしか思えないのですが」

「いいえ、確実に残っています。()()()()簿()の計算が合わないのですよ。恐らく最多であと三……いや四つは残っているでしょう。これは絶対です」

「はぁ。まぁ四季様がそう仰るなら、間違いは無いんでしょうけどねぇ……」

 

 どうにも疑問が晴れないのか、小町は脳裏の靄に対して腕を組み、首を捻った。映姫はその様子を尻目に少しばかりの溜息を吐きながら、再び鋭い眼光を宿して、

 

「そんな事より小町。さっきからずっとぐるぐる回り続けている気がするのですが、ちゃんと行先をコントロールしているのでしょうね? 流石の私と言えども気分が悪くなってきましたよ」

「えっ。……ああっ!? やっべ話に夢中でうっかりしてました! 直ぐ向こうへ繋げますので!」

「まったく。しっかりなさいっ」

「ごめんなさーい!」

 



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第五章「Subterranean_Lobelia」
25.「木枯らしと共に」


「ふぃ~、つッッッかれたぁぁぁ……」

 

 紙の声がペラペラと聞こえるだけの、紅魔館地下図書館。そんな静謐の空間にて、疲労をこれでもかと盛り付けた呻きが染み渡った。

 まるで大変な力仕事を終えた大工が風呂場で漏らす様な声を漏らした張本人、レミリア・スカーレットに対し、その妹君であるフランドールは分厚いハードカバーの世界から顔を上げ、どこか呆れた様な視線を寄越す。

 

「どうしたのお姉様。そんな急に場末のおっさんみたいな声出して」

「あー、いや、ちょっとねぇ。これを作るのに魔力を注ぎ込み過ぎたのよ」

 

 明らかに力の抜けた声を絞り出しながら、レミリアはくたくたになった指でテーブルの一ヵ所を指し示す。

 そこには、妙に力を漲らせた蝙蝠が。

 

「なにこれ。お姉様のプラモ?」

「流石にこんなケモケモしてないわ。これはアレよ。おじ様追跡用の使い魔を弄ってたのよ」

「…………うわぁ」

「いや待って、何で生ごみに集る油虫を見る様な目を私に向けるの? 言っておくけどストーキング的な意味で使う訳じゃないから!」

 

 妹から氷河期の永久氷塊よりも冷え切った眼を向けられた姉は激しく手を振りながら弁解する。幾ら何でもそこまで心酔はしていない。レミリアの親愛度を測るならば、あくまで親戚のおじさん程度である。

 ならば何故追跡用の蝙蝠(つかいま)を作成したのか。それは、今までのナハトに対する対応の反省に他ならない。

 レミリアは咳払いをしながら、人差し指を立てつつ妹と向き合った。

 

「フラン。おじ様が地底へ追放されるって話は聞いたわよね?」

「うん……」

 

 表情が曇る。フランドールとしては、何故あの完全無欠にして絶対無敵ともいえる吸血鬼が罠にかけられた挙句、地底へ追いやられなければならなかったのかが甚だ理解し難いらしい。

 フランドールは吸血鬼にしては非常に穏やかな性分の持ち主である。紅魔館の住人を誰よりも大切に思う彼女にとって、小悪魔とナハトが誰かに踏みにじられたという事実は、握り拳から血が滲んでしまいそうになるくらい屈辱的なものだった。

 それを理解しつつ、姉は手を叩き乾いた音を鳴らして諫める。ここで血を昇らせては、話になるものもならない。

 

「はい、暗い顔にならない。私が振っといてなんだけど、一先ずおじ様の問題は横へ置いておきましょう」

「ん」

「でよ、フラン。昔の記憶をちょっと掘り起こしてみて頂戴? 具体的にはおじ様が単身外出した時の事を、全部」

「それがどうかしたの?」

「如何なる理由であれ、今までおじ様が一人家を出て、何も起きなかった事なんてあった?」

「……あー」

 

 聡明なフランドールは理解した。姉が何故、目の前の蝙蝠一匹に疲弊を表す程の魔力を注ぎ込んでいたのかを理解した。

 ナハトは先日の件を含めると、過去に三度紅魔館から外出している。そしてその全てにおいて、彼は大きな問題の渦中に巻き込まれていた。否、引き起こす火種になっていたと言った方が正しいかもしれない。

 とにかく、彼は何かしら騒動を引き起こす性質がある。それも些細なものではなく、全てが一大事件と謳える様な大騒ぎだ。しかしレミリアやフランも含めて、今まで起こった事件の詳細を知る者は数少ない。例外的に妖怪の山の件では美鈴が付き添ったが、やはり口伝では知れる情報には限度がある。そこでレミリアは、先日の小悪魔事件を省みて、自らの()をナハトへ付き添わせようと考えたのだ。

 要約するとつまり、災厄的トラブル製造おじさんの監視である。

 

「なるほどね。確かに私も昔から気になってたなぁ。何でおじさまって行く先々で大問題を起こして帰ってくるのかが。いえ、原因は分かり切ってるんだけど、経緯がね」

「大体はあの威圧感のせいなのでしょうけれど、流石に今回ばかりは別の要因が絡んでるとみて間違いないからね。あの山での一件だってそう。でも私たちはその一部始終を見ていなかった。だからおじ様に何があったのかが分からないし、あの小悪魔の事件を引き起こした()()()()が何なのかも知り得ていない」

「そこで今度は私たちの()を放って、より細かく情報を得ようって訳ね。で、こっちで原因が分かったら解決しちゃおうと」

 

 吸血鬼の持つ固有能力に、体の一部を蝙蝠化させて使い魔とする力がある。彼らは普段、本体から魔力を供給されるため活動停止に陥る事はまずないが、それはあくまで本体が近くに居る場合のみに限られる。本体から離れれば離れるほど魔力の消耗は激しさを増し、加えて本体からの供給量も落ちてしまうのだ。であれば当然、活動能力は着々と鈍っていき、いずれ魔力切れを起こして消滅へと至ってしまう。

 ならば逆に、予め魔力を沢山注いでおけばどうだろうか? それも幼いとはいえ、元々種族からして莫大な魔力を保有している吸血鬼が、疲労困憊になってしまうほどのありったけの魔力を。

 事情を把握したフランドールは『なら私も魔力注ぐ!』 と冬服の長袖を捲り上げながら息を巻いた。

 

 暫くして、へとへとになったフランドールは糸の切れたマリオネットのように机へ突っ伏した。顔が思い切り机と激突して鈍い音が図書館へ響いたが、別段苦悶の声は無い。あるのはやり遂げた感満載のサムズアップと、二人の吸血鬼に猛烈なドーピングを施されたせいで、若干ハイになりながらナハトを追いかける蝙蝠の後姿だった。

 

 

 つい先日まで秋だったかと思えば、もう冬の色に染まりかけている幻想郷。

 まだ完全とは言い難いものの、ここ最近気温は明らかな下り坂を見せていた。息ははっきりとした白を纏い始め、色彩を失った枯葉を引き連れた木枯らしが足元を寒々しく撫でに来るほどである。過ごした時間はどうあれ私が幻想郷の冬を体験するのは初めてなので、いつもこの時期から始まるのかどうかは知らないのだが、そんな私でも近い内に雪の到来を予感してしまうほどだ。

 

 そんな中、私は地底へ繋がる底の見えない縦穴を一直線に下っていた。

 

 この先に広がっているのは旧地獄。いわば廃棄された地獄の跡地だ。なんでも映姫の所属する地獄は大昔にスリム化を狙って一部の土地を切り離したらしく、現在そこには地上に住めない――つまり一癖も二癖もある古来からの妖怪たちが住み着いており、地上とはまるで違う、完全に力がものを言う世界になっている……とは紫の弁だ。

 しかしどうにも妖怪の影は見えない。早くも数百メートル近く下っている筈なのだが、岩肌に住む化生の類を一人も見かけないのだ。こんな薄暗くじめじめとした環境を好む妖怪の一匹や二匹、居てもおかしくない筈なのだが、単に私の思い過ごしなのだろうか。

 

「む」

 

 と、言ってる傍から体が何かに引っかかった。弾性を持つその障害物はゴム糸のように私を勢いよく引き戻し、暗闇の中で宙ぶらりんにされてしまう。

 よく見れば、腕に粘着性を持ったきめの細かい糸が絡み付いていた。性質は蜘蛛の糸とよく似ている。微弱な妖気を感じることから妖怪のもので間違いないだろう。旅の始まりから巨大な蜘蛛の巣にかかるとは、何とも間抜けな有様である。

 

「……むう。家主は留守か。では悪いが、斬らせてもらおう」

 

 暫く静止してはいたものの、不思議な事に巣の主が一向に姿を現さなかった。なので糸を魔剣で切断し、そのまま降下を再開することにした。もし巣の主が言葉の通じる妖怪だったのならば地霊殿への行き方を訊ねたかったのだが、残念である。

 

 ふと。また漸く降下していると、視界の奥から光が差し込んでくるのが見えて。

 

 それを感じた時には、既に我が身は地底空間へと足を踏み入れていた。あの縦穴も相応に広かったとはいえ、その穴が一つの毛穴程度かと思えてしまうほど、広大な地下空間が姿を現したのである。

 恐らく地底世界の外れなのだろう現在地からは果てを覗くことすら叶わず、ここは最早別の次元に存在しているのではないかと錯覚するほどの領域を誇っている。奥には数多の灯篭が爛々と輝く町が広がっており、話に聞く『旧都』の存在を認識させてくれた。

 映姫は確か、地霊殿は旧都の中心に建っていると言っていたな。ならばあそこを目指せばいいのだろう。流石に私が空を突っ切って行けば警戒されること請け合いなので、ここからは徒歩で向かおう。門番か何かが居れば事情を説明して通してもらう事にすればいい。映姫の伝達が行き渡っているのであれば、そこまで揉め事は起こらない筈だ。

 

 地へ足を下ろした私は、旧都のある陸へ続く橋に差し掛かった。精巧に設計された木材が織り成す、純和製の橋である。

 カン、カン、カン、と子気味の良い靴音の独奏に耳を傾けつつ橋を渡り、ただひたすらに旧都を目指して歩き続けた。

 しかし、以前紫から耳にしていたほど人気に溢れた場所ではない様だ。暗く冷たい環境は実に妖怪(われわれ)好みな場所だというのに、妖怪っ子一人どころか怨霊すら見かけない。この辺りが偶然誰も寄り付かない場所という可能性もあるが、それでも静かすぎるのではないか?

 

 閑散とした空気を訝しみながらも、私は旧都の入り口らしき場所へと辿り着いた。

 石造りの立派な門がそびえ立っており、私を無言で出迎えた。外観から門であると察する事は容易なのだが、その巨大さ、壮大さは最早城の領域である。これを他に例えるなら、アレが相応しいだろう。極東の(みやこ)にある名門、羅城門だ。もしかしたらこの先には、古の京と同じような風景が広がっているのかもしれない。

 さておき、こんな壮大な門が在るのであれば関守がどこかに居てもおかしくはない。苔一つ生えないほどに清掃管理されていて、かつ扉が閉まっているのに無人と言う訳は無いだろう。おそらく美鈴の様な門番が――――

 

「おっと」

 

 やはり居た。正面に二人と、見晴らし台からこちらを見つけ、警告を知らせる鐘らしきものを鳴らそうと慌てふためいている妖怪が。

 だがこのまま鐘を鳴らされればまた厄介な事になりかねない。なので警鐘を鳴らされる直前に気付かれぬよう極細の魔力針を放ち、鐘を侵食。組成を作り変え、音を発しないガラクタへと作り変えた。

 別に映姫の助言を無視している訳では無い。むしろその逆である。ここで騒ぎを立てれば、いつもと同じような顛末を迎えるのは自明の理だから先手を取ったのだ。後は無抵抗を示しつつ正門の番人と接触し、地底代表の古明地さとりから私に関する伝令を受けていないかを質問すればいい。受けていないのであれば退散して再び機会を伺えば良いし、受けていれば招き入れて貰えるだろう。毎度ながらこの瘴気さえ無ければこんな面倒を掛けずに済むのだが、もう今更と言ったところか。

 

 両手を上げてホールドアップの姿勢を取る。そのままゆっくり歩きながら、遠方から声を張って門番に事情を説明する事にした。

 

「旧都の門番よ、冷静に話を聞いてくれ。私の名はナハト。地上から追放された一妖怪だ。決して敵意ある者では無いよ」

 

 流石に近づきすぎるとまた警戒されてしまうので、一先ず距離を取った状態で静止する。

 再び、言葉を投げる。

 

「古明地さとりから『ナハト』に関する情報を聞き及んだ者はいないかね? もし居るのであれば、私が新しく地霊殿へ招かれた者だと分かって貰えるはずだ。居なければ潔くこの場を去ろう。繰り返すが、私は決して仇なす者では無い」

 

 もし全く情報が行き渡っていなければいつも通り非常にマズい状況へ転がり込んでしまうのだろうが、今回ばかりは話が違う。私の影響性を深く理解しているあの閻魔様が仲介を担ってくれたのだ。友人と遊ぶ約束を取り付ける様なちょっとした伝言程度である筈がなく、予測通り門番たちは私に関する情報を持っていたのか、何処か合点を得た反応を示してくれた。

 ジェスチャーを交えながら『そこで待て』と私へ告げ、門番たちは町の中へと消えていく。

 暫くして、彼らは一人の女性を連れて戻って来た。と言う事は、あの少女が町の代表なのだろうか。

 

「おーい、こっちへ来な!」

 

 太鼓の様に力強く、張りのある少女の声が私を呼んだ。応じて、私は声の元へと静かに向かう。

 門前で私を出迎えたのは、星の模様が入った赤い一本角が特徴的な鬼の少女だった。着崩された和装は花魁のそれを彷彿とさせるが、艶やかな立ち姿に反して眼つきは凛とした鋭さを帯びており、腰まで伸びる黄金の頭髪も、金糸と言うよりは獅子の鬣の様な雄々しい印象を受ける。

 妖艶で剛健な印象と言い、鬼らしき容貌と言い、どことなく萃香と似た雰囲気があるのだが、その関係性や如何に。

 

「話はさとりから聞いてるよ。あんた、上を追い出された夜の鬼なんだって?」

 

 怖気もせず、敵意も出さず、軽快さを含んだ声色で少女は問う。いかにも、と私が返事を返せば、少女は二カッと歯を覗かせて、長袖から覗く細腕をこちらへ伸ばした。

 

「星熊勇儀だ。別に肩書があるって訳じゃないが旧都(ここ)の代表みたいなもんさ。よろしく」

「私はナハト。聞いての通り、地上を追いやられた哀れな吸血鬼だよ。こちらこそよろしく」

 

 にこやかに握手を交わせば、『あー……なるほど。萃香の言ってた通りだ』と呟かれた。推測通り、やはり萃香とは既知の仲だったらしい。

 

「なにか萃香から聞いていたのかい?」

「まあね。確かお前さん、萃香とちょっと前に殴り合ったんだろう? 以前飲みの席で話を聞いてね。その時萃香が『尋常じゃない雰囲気に見合って恐ろしく強いヤツだけど、気色悪い程に礼儀正しい怪物』とあんたを評してたもんで、それを実感しただけさ」

 

 うむ、萃香らしい手加減抜きのストレートな人物評価である。考えてみれば力の強い神魔の類は傲慢不遜かつ尊大な性格をした者が大多数を占めているので、力と人格が釣り合っていない私は極めて異色かつ不気味に映るのかもしれない。成程、快活な性格をした萃香や彼女が渋い顔をする訳である。恐らく私の性格は鬼と根本的に相容れないものなのだろう。だがしかし今からこの性格を変えるなど不可能に近いので、相性の問題として受け入れる他ない。無念。

 

「しかし惜しいね。()()()()のが本当に、心の底から残念でならないよ。まぁでも、萃香にあそこまで言わしめたあんたには興味あるからさ。このまま立ち話もなんだし、地霊殿へ行きながら話でもしようじゃないか」

「承知した。では道案内をよろしく頼むよ」

「おう。任せな」

 

 門の内へ招かれ、石床が果てしなく続く都町へと足を踏み入れた。

 予想した通り、町風景は京とよく似ている。しかし幾らか近代的な様で、橙に輝く灯篭の他にも、酒場や屋台に住人の住処の行燈が、暗い地の底のイメージを拭い去るほど明るく照らしていた。建築様式も千年前と比べればかなり発達した方式を採用している様で、古き良き雰囲気を保ちつつ繁栄の香りを感じさせるその光景は、旧地獄という前身からは想像も出来ない活気に満ちあふれている。

 

 カランコロン、と少し前を歩く勇儀の下駄が鳴る。それもまた風流を誘う。

 

「ところで、君は闘えないと言ったが何か事情でもあるのかね? いや、別に一戦交えたい訳では無いのだが」

「あー……それはね、ちょっと前にここへ来た閻魔様と約束しちまったからなんさ。近々ここへ来るだろう吸血鬼と会った時は決して戦わず、地霊殿への道案内に徹するって忌々しい約束をね。こんな事情が有りでもしなきゃあ、お前さんを見た(わたし)が決闘の一つや二つ、申し込まないわけが無い。萃香(おに)を知る身なら分かるだろう?」

「そうだな、だからこそ不自然に思ったのさ」

「あっははは、よく分かってるじゃんか! しかし不自然繋がりで言えば、お前さんも相当違和感のある存在に見えるけど? これでもそれなりに長生きしてるが、視界に入れただけで鳥肌が立つ様な覇気の持ち主だってのに、ここまで冷静沈着なヤツは見た事が無いねぇ。しかも()の妖怪ときた。ますますもって不気味さな。鬼の私でも、思わずそのいけすかない微笑みの裏に何かあるんじゃないかって勘繰っちまうくらいには」

 

 ……ふむ。一瞬萃香の様な、流砂の如くサラサラとした悪意なき罵倒を吐かれたのかと思ったが、少しばかり引っ掛かる部分のあるセリフだ。

 よくよく考えてみれば、彼女の言う通り『男』で『長寿』な妖怪は、今では非常に珍しい存在になっている。何故かと聞かれれば、それは女型との性格や生存能力の差のせいによるものだろう。

 

 男型の妖怪は基本、人間と同じく大雑把な性格の者が多数派を占める。そこに妖怪基本法則の一つである『年齢=強大さ』の事実を鑑みると、雑な性格に力を手にしたが故の傲慢さが加算され、重ねに重ねた油絵の様に癖が色濃くなっていくのである。スカーレット卿がまさに典型的な例と言えるのではなかろうか。

 これが年齢を重ねた男型妖怪の珍しさと何の関係があるのか? 答えは至ってシンプルだ。今述べたように、この性格が生存能力に大きく差を開けるのである。

 男型の妖怪は女型と比べても尊大かつ不遜だ。おまけにプライドも相応に高く、酷く高飛車な者が多い。すると必然的に人間へ行う悪事は過激化していき、加えて彼らは『矮小な人間なんぞに負ける筈がない』と潜在意識から信じ込むようになっていく。これが慢心と油断、そして人間の討伐対象となるシチュエーションを自ら産み出してしまい、結果、数と技術の化け物たる人間にあっけなく討ち取られてしまうのである。なんともマヌケだと思うだろうが、事実そのせいで彼らはめっきり姿を消した。どんな生き物であれ、ある程度のしたたかさとプライドを捨てる柔軟さを持たなければ、自然淘汰の波からは決して逃れる事は出来ないのだ。

 

 これらの背景を踏まえると、なるほど、私が皆から過剰に不気味がられる原因の一つがまた解明された気がしてきた。瘴気だけでなく、性別と性格にも問題があったのだ。レミリアの様に女性妖怪ですら相応にプライド高いのに、更に一回りも二回りも傲慢な筈の男型が物腰柔らかでは、違和感も強まると言うものである。 

 ……ん? となると、つまりアレか。傍目から見れば性格も性別も雰囲気も能力も全てにおいて不気味かつ理解不能で不信感満載なこの私は、存在そのものが友達作りに適していないと言う事が証明されたも同然ではないのか?

 

 うむ。改めて辛い現実を突きつけられたせいか、なんだか猛烈に死にたくなってきたぞ。

 

 新しい心の傷を自動的に刻みながらも私は勇儀と談笑を交えつつ、旧都の中心部へ辿り着いた。

 即ち、目的地たる地霊殿である。勇儀が指を指して『アレさね』と言ったので間違い無い。

 徐々に近づいて来る地霊殿の外観は、今しがた通り過ぎた和風街道とは真逆の道をいく西洋風の館であった。しかも、まるで町から隔離されているかの様に少しばかりの平地を挟んで建っているので、その違和感は一層浮き彫りとなっている。しかし、紅蓮一色でまさに悪魔的本拠地な雰囲気を醸し出す紅魔館とはまるで違う、正統派な洋館のその姿は、幻想郷に来てさほど長居をしていない身であるにもかかわらず、どこか懐かしさを感じずにはいられなかった。やはり私の故郷は西の大陸であるらしい。

 

「おーい、例の奴を連れてきたよ。入っていいかい?」

 

 やっとこさ到着するやいなや、勇儀は門に向かって徐に語り掛けた。紅魔館の様に門番が居るのかと思っていたのだが姿が見えないので、彼女が誰に話しかけているのかと首を捻っていると、視界の端で影が動いている事に気付き、眼をやった。

 門の上に、鳥が居た。ただの鳥では無い。人間の子供程度なら余裕で攫ってしまいそうな大型の猛禽類である。確か、扇鷲だっただろうか。

 どうやら、勇儀が話しかけていたのは彼(?)らしい。番鳥は私と勇儀へ刃物の如く鋭い眼光で一瞥すると、けたたましい鳴き声を上げながら館の方へ去っていってしまった。怖がられたのだろうか。

 

「入っていいみたいだね」

 

 いいのか。

 

「それじゃあ私の役目はここで終わりだ。さとりの私室は館の二階、東棟の最奥にある。結構分かり易いからすぐ見つかるよ」

「勝手に入っても構わんのかね?」

「はは、とことん礼儀正しいなぁ。妖怪同士でそんなの気にする奴なんてお前さんくらいだぜ。普通は火車が迎えに来るんだけど、この様子だと別の仕事で外れてるみたいだし入っていいよ。大丈夫、館の連中はお前さんが来ること知ってるし、あの鳥公が知らせてくれるだろ」

「ふむ、そうか。何から何まで恩に着る。とても助かった」

「礼なら今度拳で返してくれれば十分さね」

「では、パンチの利いた酒でも持っていこう」

 

 鬼の活気ある笑い声が響く。私は別れ際に、彼女へ一つ質問を投げる事にした。

 

「ところで、君は旧都の代表格と言っていたね。地底では顔は広いのかい?」

「あん? あー、まぁそうだねぇ。少なくとも旧都で私の顔を知らない奴はいないだろうよ。それがどうかした?」

「最後に一つ、訊ねておきたい事があるんだ。この地底で、怨霊への干渉術に長けた西洋出身の者はいないかね?」

 

 ――――そう。私は別に、呑気を抱えて地霊殿へ引っ越して来た訳では無い。それはあくまで紫の作戦上仕方なく演出している行動に過ぎず、目的はあくまで地底に身を潜めているかもしれない黒幕の捜索である。

 しかし地の利も無ければこの地に住まう者達と面識も何も無い私は、地底世界に対する情報が圧倒的に欠如している。なのでまず初めに、この世界と馴染み深い者から情報を得る必要があった。勇儀はまさにその適役だ。鬼故に嘘は吐かず、しかも映姫の根回しもあって敵対していない中立な立ち位置にある彼女は、この右も左も解らない旧地獄におけるキーパーソンと言っても過言ではない。故に私は、旧都の立地、全体構造、人口、町の中心的種族、魔法や術に関する異能分野の文化、私が幻想入りを果たした時期から今まで起こった旧都での出来事などなどなど、彼女から談笑と共に情報を出来うる限り搾り取ったのだ。

 そして締めがこの質問である。私や紫が思い浮かべる、犯人の全体像だ。これに該当する者がいるならば、先ず第一容疑者として把握する事が出来る。後は外堀から証拠を埋めていけばいい。

 

 彼女は暫し首を捻った後、頬を掻きながら言った。

 

「うーん、思い当たんないねぇ。大和の地獄跡地にあたるここじゃあ当たり前の事だけど、西出身の奴は本当に少ないんだ。加えて怨霊との交渉に長けてる奴となれば、すまんが全く心当たりがない。大和以外の出身で良いなら、大陸由来に一応いるにはいるんだけどねぇ」

「ほう。念のため伺っても?」

「こう、後ろに二つ輪っかを作ってる青髪の仙人さ。名前は確か、えーっと……にゃんにゃん?」

 

 ……それは、果たして名前なのか?

 まぁ、大陸出身や仙人というワードから察するにあちらの民間信仰における尊称、娘々(にゃんにゃん)の事だとは思うのだが。

 

「……ああっ、思い出した。青娥だよ青娥。あいつは青娥娘々と名乗っていたね。そいつ以外に海外出身の怨霊使いに長けた奴は居ないよ。なんだい、探し人かい?」

「そんな所さ。答えてくれてありがとう」

 

 ふむ。会心の一手とは行かなかったが、一応のところのターゲットは絞れたか。西洋出身でないならば可能性は低いだろうが、あとで念のため当たってみるとしよう。それに西出身が非常に少ないと知れただけ収穫である。

 勇儀から青娥娘々をよく見かける場所と残りの西出身者に関する情報を聞き出し、私は勇儀に再度礼を告げてその場を立ち去ろうと踵を返した。

 

 しかしその時勇儀が私の背へ声を投げたため、直ぐに私の進行は阻まれてしまう。

 

「なぁ。私からも質問、いいかい?」

「もちろん。構わないとも」

「……旧都へ来る途中、縦穴と橋を通って来ただろう?」

「ああ」

「道中、お団子髪の土蜘蛛とか、緑の眼をした橋姫とか見なかった? 二人とも金髪で、背丈はこんくらいだ」

 

 手で大まかな身長を現しつつ、勇儀は言う。対して私は肩を竦める事しか出来ない。土蜘蛛も橋姫も伝承に名を載せる著名な妖怪たちだが、地底に来てからは一度も遭遇していないのだ。

 

「残念だが、心当たりはないな。縦穴には巨大な蜘蛛の巣があったが主は居なかったし、橋にも人影は見当たらなかった」

 

 勇儀は『そうかい』と呟くと、少し残念そうな面持ちのまま去って行った。察するにその二人は友人か何かで、しばらく姿を見ていないのだろう。

 それにしても、友人か。私が幻想入りを果たした頃から――否、もはや数えるのも億劫になるほど大昔から求め続けている大業であるが、この地底での生活においてそれを求められないのが残念でならない。

 

 何故なら、今の私は他人を疑うべき立ち位置にあるからだ。

 

 黒幕の性格は、小悪魔の一件で非常に狡猾かつ冷酷無比であると分かっている。加えて高度な技術を悪意で加工し、計画の下に振るう知性を持つ。そんな人物は、基本的に異常な執念と警戒心を兼ね備えている場合が多い。事実、あの紫すら手古摺らせるほどの猛者なのだ。仮に私が友人をここで得たとして、その信頼が曇りガラスとなって黒幕から視点を逸らせてしまった、なんてことが万が一にでも起これば話にならない。故に、私は四季映姫のサポートによって先見の嫌悪を幾許か拭い去れているこの状況下でも、友人を得ようと行動するのは自重しなければならないのだ。

 

 まぁ、今私の置かれている状況が『そんな事をしている場合ではない』と言うのは十二分にも理解している。そもそも映姫の影響があるからと言って友人が出来ると決まった訳でも無いのだから、そこまで重視する必要は無いのだが……やはり灰塵に等しいレベルで惜しいと感じてしまうものなのだ。それを取り払う為に、こうして正論と言い訳を混じり合わせ、自分へ言い聞かせているのである。

 

 私は最後の溜息を吐き出しながら、勇儀に教えられたさとりの私室へと移動を開始した。

 

「……?」

 

 ……はて。気のせいだろうか。

 一瞬。なにやら視線を感じた気がしたのだが。

 



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26.「古明地さとりは静かに暮らしたい」

 さとりんパートだけで9千字超えちゃった……



 私は本が好きだ。

 

 本は良い。知的生命体と違って醜い心を持たない本は()()()()嫌な気分にならない。それに奇想天外な活字の世界は『(さとり)』の性を持つ私にも先の展開を読むことなど叶わないから、ページを捲るたびに心地いい刺激を与えてくれる。なにより静かだ。これは大きい。今の私の部屋の様な、ただページが裏返っていく音だけがBGM代わりの素晴らしき静寂の世界で本が口煩く喋ったりなんかしたら、折角の清涼な雰囲気もぶち壊しだろう。

 

 おほん。

 

 私の名は古明地さとり。種族は覚妖怪。年齢は秘密。無論独身だ。

 巷では心を無作為に読み取るこの第三の眼(サードアイ)を使って、他人の心を抉る趣味を持ついけすかない妖怪だと囁かれているけれど、実はそんな事は無い。いや、昔のやんちゃしてた時は確かにそうだったかもしれないが、誰にでも若さ故の過ちはあるものだろう。黒歴史と呼ばれるアレだ。日夜ベットで己を苛むほろ苦い毒である。私の黒歴史がソレなのだろう。まぁ、それで痛い目を見たお蔭で平穏の尊さを実感できたのだから、私専用に黒教材と名前を変えておくとしよう。

 

 話がそれた。ええと。つまり今の私は、人を弄ぶ意地悪妖怪を卒業した身なのだ。そもそもパワーイズジャスティスの風潮が未だこびり付いている旧都で私の様な貧弱もやしがあまり大きな顔をすればどうなるか、想像に難くないでしょう? 

 

 さておき。だからと言うか、私は本と同じくらい平穏な生活が好きだ。

 朝八時を目標に起きて一杯の珈琲から一日を始め、ペットと和やかな時間を堪能したら仕事へ取りかかり、きっちり十七時に仕事を止めて、午後の余暇を本と共に静かに過ごし、自前の温泉で垢を落としたら、無垢になった体をホットミルクで更に浄化して床に就く。そんな生活こそが私の生き甲斐であり、今後も保ち続けていきたいと願う数少ない目標なのだ。

 

 だが最近は、平穏な生活が乱されてしまうイレギュラーな日々が続いてしまっている。

 

 と言うのも、近々ここ地霊殿へ新たな入居者がやって来ることになったからだ。なんでも諸事情あって地上を追放されてしまった妖怪が来るらしい。更にまた諸事情あってその妖怪は人口の多い所へ住めないらしく、そこで人気が少なく居住スペースを持て余している我が地霊殿に白羽の矢が立った訳だ。

 

 これを聞いても、それの何が問題なのかと首を捻られる事だろう。

 私が頭を抱えているのは、件の妖怪の素性にある。

 

 閻魔様が言うに、種族は吸血鬼らしい。地底引き籠り選手権栄えある第一位を獲得し続けている私でもその種族名は知っている。色んなフィクションに登場するし、この間妹が地上から持って帰った幻想郷縁起なる本にも細かく記載されていた。

 

 というか、思いっきりその人物がデカデカと取り上げられていた。

 

 曰く、常に命を蝕む邪気を放ち続けている凶悪な妖怪で、吸血鬼の逸話の元となったような怪物らしい。心を読む事しか能の無いちっぽけな私と比べれば、まさに蟻と象の如き対極位置に立つ存在と言える。しかも男だとか。吸血鬼は色物家が多いと噂されている上に縁起には子供を虐げる趣味を持つと書いてあるから、幼児体系の私が狙われないことを祈るばかりである。

 

 ただ不思議な事に、閻魔様はこの本に書かれている事の九割が眉唾で、実際は非常に礼儀正しく人畜無害な紳士だと言っていた。彼女は頭の中も白黒はっきりしているので、第三の眼でも会話から脳内に連想されるはずの吸血鬼ナハトを読み取る事が出来ず、本当にそのような人物なのかどうかは分からなかったのだが、まあ閻魔様がそう評価したのならそうなのだろう。

 

 が、だからと言って私が安心出来る理由にはならないわけで。そもそも上を追放されるなんて、余程の事をしでかすか私の様に嫌われるかしないと有り得ないわけで。仮に性格は良くてもヤマメさんの様に能力が凶悪極まりないような人物かもしれないわけで。

 つまるところ、どっちにしたって問題児を引き受けることは確定なのである。

 

 問題児じゃないと謳うならせめて件の人物が追放された理由を聞かせて欲しかったのだが、『地底に必要以上の情報を流してしまうと、もし漏れた場合彼らの作戦が破綻しかねない』とかなんとか心から訴えられて教えて貰えなかった。まず作戦とはなんぞや。もう既に不安要素バリバリである。

 

「まったく、どうしてこんな事を引き受けちゃったのかしら……」

 

 もう何年分吐いたかも分からない溜息が、ぽろりと口から零れ落ちる。

 憂鬱だ。閻魔様相手じゃあ引き受ける以外の結末から逃れる事など出来ないと、相談を持ち掛けられた瞬間から心得ていた筈なのに、やっぱり気分は憂鬱だ。

 

 そもそもの問題。この地霊殿――ひいては灼熱地獄と怨霊の管理を引き受けたのだって、立地やら生活環境やら仕事やらその他諸々が、私の欲する至高にして至純の孤独生活とマッチしていたからこそに他ならない。なのに訳の分からない同居人が増えては意味がない。

 同居人なんて、ペットと違って気を使わないといけないから嫌いだ。おまけに私を癒してくれないじゃないか。もふもふの妖獣だったなら、まだ救いはあったのだけど。むしろゴッドハンドさとりと恐れられた撫でスキルに賭けて懐かせてみせるのだけど。

 

「はぁ」

 

 ああ、忌々しい、忌々しい。お蔭で最近は全然本の素敵世界に入り込めない。そもそも同居人はいつやって来るんだろう。さっさと新入居者をマイルームから一番距離のある部屋へ割り当てて、元の安寧な生活へ戻りたいのに。

 

 やはりどうにも気分が晴れないので、私は仕方なく椅子を引いた。コーヒーでも飲んで気分を変えようと自室のミニキッチンへ向かい、湯を沸かす。

 

 むふふ。やはり自室に台所を増設した私の判断は間違っていなかった。わざわざお燐に持ってきてもらう必要も無いし、気分に最も合った飲み物を自分で淹れられる。それに豆の香ばしさが鼻腔を擽るこの一時は、私のお気に入りの時間でもある。

 

 暫くして、出来上がったコーヒーをカップへ移し、一口啜る。香り豊かな苦みと酸味が口いっぱいに広がって、脳がフレッシュされていく爽快感が訪れた。

 

「うーん、美味しい」

 

 不思議なものだ。昔はこんな苦いの絶対飲めないと思っていたのに、今じゃ一日一回は飲まないと落ち着かない。ちょっぴり大人な気分になって、奇妙な優越感が湧いてくる。

 

 そんなほろ苦い癒しにほっこりしていると、連続したノック音が唐突に響き渡った。

 

 このノック、番犬ならぬ番鳥ちゃんのものだ。ずっと鳴りやまないのは、嘴で必死にドアを叩いているからだろう。

 一先ずカップを置き、ドアノブへと手を掛けた。

 

「はいはい。あら、やっぱりあなただったのね」

 

 ドアを開けると、予想通り扇鷲ちゃんが凛とした佇まいで視界の下に居た。

 第三の眼を駆使して彼の心を読む。これのお蔭で動物との意思疎通は得意分野だ。

 

「用件は何かしら? ……ああ、件の人が来たのね。報告ありがとう」

 

 噂をすればなんとやら。例の新入居者が漸く到着した様だった。どうやら勇儀さんがこちらへ向かわせているらしいので、最後に身嗜みでも整えようと扇鷲ちゃんにお礼を伝えて踵を返す。

 しかし何故か袖をつままれ、行動を止められた。ちょっと待てと言っているらしい。

 振り返って再度心を読めば、一緒に居ると彼は訴えていた。事務連絡以外ではあまり自分の意見を示さない寡黙な彼が、積極的にコンタクトをとろうとするなんて珍しい事もあるものだ。

 何かあったのかと、心を観察する。

 

「……なに? あのお客さんが私と会うのは危険だから一人で相手させられない?」

 

 どうやら彼は、やってきた入居者を怖がっている様子だった。威厳のある見た目に恥じない神経の太さを持つ彼がここまで怯えるなんて、一体来訪者殿は何をしでかしてくれたのだろう。

 殆ど妖怪化の進んでいない動物からは、簡易的な感情や意思しか伝わってこないのがネックだ。その場で起こった出来事を鮮明に読み取ることが出来ない。お燐やお空くらい力を得た子ならちゃんと読めるのだけど。

 

 取り敢えず不安を取り除くために腰を下ろす。優しく頭を撫でながら、精一杯微笑みかけた。

 

「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。映姫さんが人畜無害な人格者だって言ってたから身の危険は無いわ。閻魔様のお言葉がどれだけ信用に足るか、あなたも知っているでしょう?」

 

 もっとも、彼女が入居者さんの説明をする時に『精神に影響を及ぼす特異な瘴気を放っているから呑まれぬよう』やら『しかし瘴気自体に害はありません』だとか気になる事を言っていたが、多分大丈夫だろう。こう見えても私はブチ切れモードの鬼と真っ向から対峙出来るくらいタフな精神力を持っているのだ。そもそも精神衛生上よろしくない心ばかりを目にしてしまう覚妖怪が豆腐メンタルでは、色々と問題になってしまう。……妹が、その最たる例だ。

 さておき、精神干渉に関して私ほど耐性のある妖怪は地底に二人といない。腕っぷしに自信は無いけれど、そこだけは胸を張って言える。えへん。

 

「それじゃあ、お客さんをお迎えする準備をするから、あなたは持ち場に戻って頂戴」

 

 どうしても私を一人にさせたくないと渋り続けた彼だったが、宥め続けて漸く折れてくれた。大方、映姫さんの言っていた瘴気に当てられたせいで少し混乱しただけなのだろう。ちょっと休めば回復する筈だ。

 今日はもう休むようにと伝えて、部屋へ戻る。すぐさま自室の整理を始め、姿鏡で身嗜みを軽く整えた。

 これからの共同生活でほぼ関わる事は無いだろうと言えど、私だって女なので最低限の清潔感は保っておきたい。それに何より、力の強い妖怪に第一印象で舐められては非常に不味い。

 妖怪は力でモノを語る脳筋生命体だ。だから私の様な頭脳派モヤシ妖怪はハッタリでも威風堂々としておかなければ、吸血鬼の様な怪物にはあっさり手のひらで転がされてしまう。それは言うまでも無くよろしくない。

 

「……よし。これで大丈夫」

 

 心構えも準備バッチリだ。いつでもどんとこい。そして光の速さで部屋を割り当て、平穏な古明地ライフへ戻るのだ。

 

 と、言ってる傍からノックが鳴った。やっとお出ましらしい。

 

「はい、今出ますよ」

 

 返事を投げつつ、急がずゆっくり歩いていく。

 ドアを。

 開けた。

 

 

 

 でっかい 男が いた。

 黒づくめで 紫の眼の 男が。

 その男の 心は。

 

 心は。

 

「――――――!!?」

 

 ドアを開いた瞬間、第三の眼に飛び込んできたもの。それは途方もない黒によって塗りつぶされた、激しいノイズの応酬だった。

 無間地獄の闇の様に、光すら捕えて離さない純黒の渦。本来形すら保っていられない筈の暗黒が、男の内側でぐじゅぐじゅと胎動していたのである。

 異様な心象風景が第三の眼に焼き付いたその瞬間。まるで黒曜石で出来た砂嵐が第三の眼に突き刺さって来るかのような、筆舌に尽くしがたい激痛が頭蓋の内側に襲い掛かった。それは私の神経をあっという間に侵食、活動をブロックし、動作の選択肢を破壊していく。しかし顔の筋肉だけは、はっきりと歪んでいく感触があった。

 声を張ろうにも喉は震えず。心の中で悲鳴を上げるも、体は石像の様に動かない。今すぐにでも逸らしたい第三の眼は意思に逆らって絶えず男を見つめており、私の頭へドス黒いノイズを垂れ流し続けた。

 

 やばい。これは冗談抜きにやばい。

 このまま見続けたら、間違いなく私のナニカが壊れる――――いや、跡形も無く消えてしまう!

 

 視界が明滅していく。血流の感触が失せた。呼吸なんて、とっくの昔に止まっていた。 

 私が耐え難い苦悶の嵐に喘ぐ中、男は薄く口を開いて、

 

「こんにちは。はじめま」

「ッ!!」

 

 その言葉が私の起爆剤となった。

 声が耳に入り込んだ瞬間。凍り付いていた私の神経が一斉に目を覚ましたのである。すると私は、膨大な熱を湛える鍋を触った時の様に、反射的にドアを閉めてしまった。

 力を籠めすぎたせいか、叩きつけるような音が耳を打つ。

 しかしドアが男と私の間を隔ててくれたおかげか、今の今まで私を侵食していた深淵の底で揺蕩う怨念の如きノイズはピタリと止み。

 痛みが、嘘のように引いていった。

 

「な。なななな、なんっ、なんっ……!?」

 

 一歩、二歩、三歩。私の意思など無関係に、体はどんどん後ろへ下がっていく。来客用のソファーに躓くと、私は見事にひっくり返った。

 視界が天井へ強制移動する。仄かな照明が網膜に染み入り、酷く眩しい。私を受け止めたソファーのクッションの感触が、嫌な現実感を与えてきた。

 と、同時に。まるで間欠泉が噴き出すが如く、心臓が一気に血液を送り始めて。

 血の熱と共に、思考が徐々に加速を開始した。

 

「あばっ、あばばっ、あばばばっ」

 

 何。

 何あの男。

 何あの心!?

 

 心を持つ者ならば神だろうが悪魔だろうが表層心理を読み解くこの第三の眼をもってしても、欠片も奴の思考を読み抜けない。いや、()()()()()()。第三の眼が、あのノイズを解析する事を無意識に拒否している様に感じた。拒否したからこそ、ノイズとして目に映った様にさえ思えた。アレを解読すれば最後、私の心は黒い砂嵐の中に取り込まれて消えてしまう――そう『覚』の本能が告げていたのだ。

 あんな妖怪、今まで出会った事がない。あんな、あんな底の見えない黒を精神へ纏わせて――いや、精神が黒そのものな妖怪なんて、見たことがない!!

 

 ――ふと、胸元に違和感を覚えて視線を向けた。

 絶句。

 

「……は!? えっ、あ、あれ? ふぇっ!?」

 

 第三の眼が白目を剥いていた。

 あの莫大な黒の情報をシャットアウトしようとしたのだろうか。我が体の一部ながらどうしてこんな事になっているのかまるで分からない。こんな事初めてだ。いやそもそも第三の眼は白目を剥けるんですかと、長い覚生の中で今初めて知ったくらいだ。

 

「どうなってンのこれ……!? 戻りなさい、このっ! 戻れ戻れっ!」

 

 ………………戻んない。

 どうしよう。揺すっても、叩いても、引っ張っても、痛いだけで白目が元に戻らない。どうしようどうしようどうしよう。

 いかん泣きそう。これは堪らん。本気で涙腺決壊五秒前だ。この私が不安や恐怖で涙ぐむなんて、大昔に喧嘩した妹から大嫌いだと叫ばれた時以来な気がする。

 いや、いやいやいや。今はそんな事はどうでもいい。それよりも外で放置しているあの男をどう対処するか、そしてこの第三の眼をどうやって元のクリクリおめめに戻すかが問題だ。

 

「どう、どうする? どうすればいいのっ? い、いいえ。パパパニックになっては駄目。かん、考えるのよ。冷静に、深呼吸して考えるの古明地さとりっ。ひっひっふーよ、ひっひっふー」

 

 男から感じた尋常じゃない恐怖とインパクトによるショックのせいか、さっきから舌も頭も全然回ってくれない。それが一層私を焦りの蟻地獄へ沈みこませていった。

 

 落ち着け。落ち着くんだ私。長い妖怪生の中で、こんな危機的状況が今まで一度も無かった訳じゃあないだろう。絶体絶命の時こそ冷静であるべきだ。

 そう、私は頭脳派妖怪の古明地さとり。今までどんなピンチだろうと、相手の心を読みつつ思考を武器にして網の目を掻い潜り、生き残ってきた女だ。今回だって、相手の心を読みつつ、ドライな思考を駆使して乗り切って――――――

 

「乗り、切って」

 

 

 あいつ、心読めないじゃん。

 

 

「ふぇ」

 

 

 ……こ……こんな事がっ。こんな事が、あっていい筈がない……!

 誰にも干渉されず、誰にも干渉しない。小川で暮らすサワガニよりも穏やかな生活を送りたいだけのこの私がこんなッ、こんな中枢神経が処理落ちどころか爆発してしまいそうな不幸に、巡り合っていい筈がないッッ!!

 

「うぐっ、おのれ四季映姫めぇぇ……! 無害な人って言ったじゃん嘘つきぃぃ……!」

 

 彼女の言っていた人畜無害とはどんな意味なのか、脳内辞書で思わず検索してしまう。しかしどう探ってもアレは私の中の人畜無害と違う。人畜無害とは、生まれて間もない子犬のような存在を指すのだ。断じて冥界の三つ首番犬を太郎とか名付けて散歩させてる様な、ぶっ飛んだ怪物を示す言葉なんかじゃあない。断じて。

 

「…………」

 

 人は極度の危機的状況に陥ると、かえって冷静になる時があると昔本で読んだことがある。それは危機に瀕した生命が、その状況を打開しようと一次的に脳をフル覚醒させるが故に起こる現象なのだとか。

 

 例に漏れず、私の頭は木々の生えない高山地帯の様に静まり返っていた。

 

 終わった。ああこれは終わった。

 私の平穏な覚生に今、終了の鐘がごーんごーんと鳴り響くのをこれ以上なく実感した。もう駄目だ。せっかく一歩も地霊殿から出ずとも快適な生活を送れる永久機関コメイジ・システムを完成させたというのに、こんなにも早く崩壊が始まってしまった。まだ五百年もダラダラするノルマが残っているのに。……残っているのに!!

 

「……何か。何か無いのかしら。この状況を打開できる、切り札は無いの……!?」

 

 嫌だ。このままあの男に心を掻き乱されたまま生活するなんて絶対に嫌だ。なんとしてもこの現状を打破しなければ――少なくとも彼と最低限の接触で過ごせるようにしなければ、私はいずれストレスで首を掻き毟って灼熱地獄に身を投げかねない。最大限精神的ダメージを減らす環境を、今から構築しなければ。

 必死に頭を捻る。前頭部が熱を持ち始め、痛みは無いのに頭痛を抱えている様な気分になった。多分、ここ数年で一番頭を働かせているのではなかろうか。今なら新たに推理小説が一冊書けそうな勢いだ。

 

 ふと。

 あらゆる可能性を取捨選択していた私の脳裏に、一筋の光明が射し込んだ。

 

「……そうだ。確かここに」 

 

 ああ、すっかり失念していた。

 そう言えば、閻魔様が私にあるプレゼントをくれていたのだ。新入居者と目を合わせるのが辛かった時はこれを使いなさいと口添えて。

 棚の奥から渡されていた小包を引っ張り出し、我武者羅に袋を開けた。最早丁寧な開封なんて頭の中から消し飛んでいた。

 

 小包から出て来たのは、小さな目薬とかなり大きめのコンタクトレンズが入った瓶だった。

 ラベルには『永』という文字が大きくラッピングされてある。

 

「……なにこのオバケレンズ。これを着ければいいってこと?」

 

 一先ず、付属の説明書を読む。どうやら目薬は第三の眼専用の点眼薬であり、同じくレンズも第三の眼へ装着する専用のものらしい。一体誰が作ったんだこんなの。

 とにかくこの目薬は第三の眼に起きた異常を回復させ、コンタクトはあの男の精神――つまり妖怪で言う所の本体――から放たれている有害な邪気をシャットアウトし、無効化してくれる代物なんだとか。

 

 ……こんな小さな目薬で第三の白目が元のくりくりおめめに治るのだろうか。それにコンタクトも、幾らサイズが大きくたってこんな薄っぺらいレンズであの凄まじい邪気が無効化できるのだろうか。

 何だかちょっと――いやかなり胡散臭いが、四の五の言ってられる場合じゃなかった。彼をそのまま突き返せば事態がどう転がるか分かったものじゃ無いし、一度結んだ閻魔様との約束を破るわけにはいかない。であれば、このオバケコンタクトを使って邪気が遮断される可能性に賭け、さっさとあの男を私の生活範囲外へ左遷するのが、現状最も改善効果のある選択だろう。

 

 躊躇なく目薬を点眼。すると不思議な事に、さっきまでうんともすんとも言わなかった白目ちゃんが、いつものくりっとした可愛らしい覚の瞳を取り戻したではないか。

 しかしその喜びも束の間に過ぎない。まだ彼と相対する準備は終わっていないからだ。私は保存液に浸ったコンタクトを瓶から取り出し、恐る恐る第三の眼へと装着した。

 

「これでいいのかしら……?」

 

 コンタクトなんて初めて使ったものだから、思わず自問してしまう。眼にモノを被せるのはちょっぴり抵抗があったけれど、案外違和感は無いんだなぁと変な感心を浮かんできた。

 しかしこれでもし効果が無かったら、またあのノイズを見るハメになるのだろうか?

 想像するだけで背筋が凍りそうになる。でもこのまま籠城する訳にいかないのが現実だ。この状況で、逃れる事など出来やしないのだ。

 であれば、いい加減腹を括ってやるしかない。女は度胸である。

 

「…………」

 

 息を吸う。第三の眼の頭を撫で、覚悟を決める。

 よし、と私は頬を叩き、気合を入れてドアノブに手を掛けた。

 回して、ゆっくりと引いていく。

 闇の化生と、遂に二度目の会合を果たす。

 

「すみません、失礼しました。吸血鬼ナハトですね? どうぞお入りください」

 

 私はいつもの調子を崩さぬよう、なるべく冷静を装いながら、外の彼へと声を掛けた。

 と、同時に。すぐさまあの二つのお助けアイテムの効果に驚嘆した。

 まったく痛く無いのだ。

 あれほど私を苛ませていた不条理な痛みが、欠片も襲って来ないのだ。コンタクトのせいなのか未だ心は読めないままだけれど、もうこの際あの苦痛に襲われないだけマシだろう。胡散臭いアイテムの力は本物だったのだ。やはり四季映姫・ヤマザナドゥの助言に嘘は無かった。

 

 

 

 でもえいきっき。この人、それでもめっちゃ怖いんですけど?

 

 

 いや――まてまてウェイト。そう言えば、あの小包の取扱説明書には注意書きがあったじゃないか。確か、『本製品はあくまで覚妖怪の第三の眼を介した害悪から使用者を保護する為の製品であり、恐怖心を抑制する代物ではありません』と。

 成程、アレは第三の眼を通した害は打ち消せるけれど、彼の瘴気がもたらす精神的な影響までは中和出来ないのだ。だから痛みは無くなった今でも、私は尋常じゃない恐怖に襲われているのか。

 

 邪気による苦痛の試練に打ち勝った勇者コメイジを待ち受けていた第二の試練は、魔王の威圧感による恐怖を克服する為の戦いだったって所か。ちくしょうなんだこのデスコンボは休憩させろちくしょう。

 

 待て、落ち着け、取り乱すな。ネガティブに呑まれるんじゃない古明地さとり。ここは痛みが無くなっただけ対処のしようが出来たんだと、ポジティブに考えて心を落ち着かせるのだ。

 

「平気なのかい?」

「ええ。少し、部屋を整理していただけですから」

「では、お言葉に甘えて」

 

 長く外に締め出していたにもかかわらず、苦い顔一つ浮かべない闇の吸血鬼。彼は一礼と共にドアを潜ると、表向き鉄仮面内心錯乱状態な私の催促に従うまま、ソファーへ静かに腰を下ろした。

 同じく、私も対面に腰を下ろす。

 

 改めて、来訪者を見た。

 

 外見だけなら非常に洗練されている印象なのに、何だろう、この、死の淵にまで追い詰められた子兎の様に絶望的な恐怖感は。

 見てるだけで鳥肌が立つ。舌が乾く。生存本能がこいつはとびきりヤベェぞと訴えてくる。今なら私のお尻が乗っているソファーへ黄金の世界地図を描ける自信があった。乙女の誇りにかけて絶対に発行は阻止してやるが。

 とにかく、この心境を一言で表すならば『洒落にならない』が的を射ているだろう。正直予想外中の予想外だった。確かに映姫さんが『彼には人に強い恐怖を呼び起こさせる魔性がある』と言っていたけれど、ここまで強烈なんて一体誰が予想できるのか? 

 

 でも。

 でも、耐えられないほどじゃない。繰り返すが、あの激痛が無くなっただけ遥かにマシなのだ。

 

 心は読めない。素性は知れない。おまけに魂が抜けそうなくらい超怖い。

 けど、言い換えれば怖いだけだ。そう、怖いだけなのだ。さっきと違って、私に直接的なダメージが降りかかってくる訳じゃない。

 初心を思い出せ、覚妖怪。人々の移り変わる心を読み続けて学習したじゃないか。心の機微なんて所詮、持ち主の手綱の握り方次第でどうとでも変わると言う事を。それは自分も例外ではないと言う事を。

 

 ならば、敢えて気丈に振る舞ってやろう。アンタの瘴気なんてへっちゃらなんだぞとこの場で証明してやろう。お前とはあくまで対等なんだと示してやろう。

 大丈夫。もし今の私が『覚』最大のアドバンテージである読心が出来ないと悟られたとしても、嘘と真実を交えた言葉で、有耶無耶の闇に真実を隠してしまえば良いのだから。

 口八丁手八丁なら、私の右に出る者は居ない。

 

 ――さぁ、正念場だ。

 

 踏ん張りどころは見極めた。ここで彼に見下される様な事になれば、私の平穏な生活は完全に崩されてしまうことだろう。しかし逆に体裁を保てば、私の幸せはある程度繋ぎ止める事が出来る。その為に、あとほんの少しだけ頑張ればいいんだ、私。

 

 

「まずは初めまして、吸血鬼ナハト。あなたの来訪を、私は心より歓迎しましょう」

 

 

 ハッタリ上等。ダイヤモンドメンタルの古明地さとりを舐めるなよ!

 

 

「ここか」

 

 案内が無ければ古明地さとりの私室を探すのにかなりの苦労を強いられただろう、広々とした地霊殿を彷徨う事はや十数分。勇儀の助言もあって、思いの外簡単にそれらしい部屋を見つけることが出来た。

 

『さとり ノックしないダメ絶対』

 

 ……まぁ、この様にドアへ大きな看板がぶら下げられていれば嫌でも分かる。勇儀が結構分かり易いと言っていたのはこれを指していたのだろう。随分とポップな字体だが、古明地さとり本人が書いたものなのだろうか? 

 

 さておき、私は迷わずドアをノックした。

 

「はい、今出ますよ」

 

 どこかダウナーな気色を帯びた少女の声とともに、さとりの部屋はゆっくりと開かれて。

 地霊殿の主が、姿を現した。

 

「…………」

 

 ふむ。悪感触である。私を見た瞬間、桃色の癖っ毛少女はまるで露出狂に向けるかのような軽蔑と嫌悪感をありありと含んだ表情を浮かべたのだ。

 谷が出来るほど刻まれた眉間の皺。液体ヘリウムよりも冷たい目。今にも舌打ちをしそうなくらい曲がった口。フッ、百点満点である。

 しかしこれでへこたれる様な私ではない。映姫から話を聞いた少女なのであれば、第一印象が悪かろうとも私が如何に無害であるかをよく理解している筈である。なので、誠意を見せ続ければきっと分かってくれるはずだ。

 怖がらせないよう、動作は最小限にしつつ、先ずは挨拶。

 

「こんにちは、はじめまして」

 

 閉められた。

 

「……」

 

 なにやら中でバタバタと音がしている。このまま乙女のプライベートを盗み聞くのも良くないので、私は聴覚を最低レベルにまで落とし込んだ。

 ほぼ無音の世界がやってくる。彼女が開けてくれる暫しの間まで、このまま待つことにしよう。

 

 しかし妙だな。恐らくこの地底世界で最も私に対して詳しい筈の古明地さとりが、何故ああも私に嫌悪を示したのだろうか。道中に出会った勇儀は、まるで敵意など向けて来なかったというのに。

 

「ん? ……待てよ」

 

 彼女の胸元にあった、心臓程度の大きさの眼球を思い出す。

 あれはもしや、他者の心を見透かす第三の眼なのではないか? 

 昔私の首を狙った数多の人外たちの中に、あの眼と同じようなものを持った読心系の妖怪がいた記憶がある。仮にそうだとすれば、彼女の『さとり』と言う名の由来は日本妖怪『覚』から来ている事になるが……。

 

「……しまった。これは最悪だ」

 

 マズい。これは、映姫のフォローなど関係なく非常にマズい。

 何が心配なのかと聞かれれば、それは私と最も相性の悪い相手が、読心の力を持った者達に他ならないからだ。

 萃香や勇儀の様に、妖怪の誇りと仁義が中核を担う者達は性格面で相容れないが、読心者はまず存在的に相容れないのである。原因は不明だが、私の心を読んだ者は皆例外なく精神を破壊されてしまったのだ。精神を本体とする人外にとってそれは即ち死を意味する。

 

 無論、別に何か恐ろしい事を頭に浮かべていた訳ではないし、ましてや心に呪いの類を防護として貼り付けていた訳でもない。彼らが私の何を見て心を失くしたのかは知らないが、とにかくこのまま彼女と相対するのは非常にマズい事に変わりは無いだろう。これは瘴気による誤解だとかそう言ったレベルの問題ではないのだ。水と油、光と闇、神と悪魔の様に、互いに決して相容れられない存在なのである。出会った矢先にさとりが顔を顰めたのも、読心者たる彼女が、私の中のナニカを見て嫌悪したからなのではないだろうか。

 

 どうする? このまま会うのは得策ではない。かと言って地霊殿から立ち退くにしても――そう、思考を繰り広げていた矢先だった。

 キィ、とドアが再び動き出し、私が行動へ移るよりも早く、中から古明地さとりが姿を現したのである。

 

「すみません、失礼しました。吸血鬼ナハトですね? どうぞお入りください」

 

 ――しかし彼女は先程と打って変わって、実に穏やかに私を迎えた。

 私の内側を覗いた者達のように発狂の兆しを見せる事なく、まるで普通の来客を招き入れるかのように。

 

「平気なのかい?」

 

 思わず、こんな言葉が漏れてしまった。

 だが彼女は『ええ。少し、部屋を整理していただけですから』とたおやかに告げ、私の入室を促すのみだ。

 催促されるまま、私は部屋へと立ち入りソファーへ腰かける。

 

「まずは初めまして、吸血鬼ナハト。あなたの来訪を、私は心より歓迎しましょう」

 

 同じく対面に座った彼女は、実に淑やかに、私へ向かって微笑んだ。

 ……どういうことだ? 彼女は『覚』では無いのか?

 いや、それはない。改めて彼女の第三の眼を見て確信した。今まで見てきたものと形状はかなり異なるが、紛れもなく心を読みとく眼球である。彼女は正真正銘の『覚』なのだろう。

 であればますます妙だ。今の彼女から異常がまるで見当たらない。まさしく平静そのものであり、初対面にも拘らず紫や永琳、輝夜、映姫に匹敵――いやそれ以上に落ち着き払っている様にすら思える。

 

 何故だ。何故彼女に一切の害が出ていないのだ。いや、それは本来喜ばしい事なのだが、過去の経験から考えてもあまりに違和感がある。何せ過去の読心者は百%精神に異常をきたしていたのだ。私が相性最悪と謳うのも、それなりの根拠があってこそである。

 そこに来てこれだ。彼女は至って平静かつ平常であり、一般常識から観ればどこにも異常は見当たらない。だからこそ、あまりに大きな違和感が胸の内にしこりとなって生まれてしまう。

 

「話は映姫さん――ああ、四季映姫・ヤマザナドゥから伺っています。なんでも高名な吸血鬼であるとか」

「いや……そんな事は無い。私は、ただ長生きなだけの吸血鬼に過ぎないとも」

「ご謙遜を。まぁそれはともかく、早速あなたの居住についてお話ししましょう。それが終わってからでも、雑談は遅くないでしょう?」

 

 手際よく地霊殿の見取り図を取り出した彼女から分かり易い建物の解説を受け、流れる様に居住区を割り当てられたかと思えば、私がここで生活する上で必要な話はあっという間に終わってしまった。

 あまりに淡々。まるで私の様な存在を相手取る事に慣れているかのようだ。

 

「さて。私が話せる事は以上になりますが、質問はありますか?」

「いや……特にないよ。ありがとう」

「そうですか。では休憩に飲み物を淹れましょう。何かリクエストは?」

「では、紅茶はあるかい?」

「もちろん。甘めがお好みですか?」

「ストレートで構わないよ」

「分かりました。それでは茶菓子はどうしますか? 心臓? それとも肝がお好み?」

 

 ……ん? 

 聞き間違いだろうか。それとも歳のせいでとうとう耄碌してきたのだろうか。茶菓子にしては、えらくハードな名前が聞こえた様な。

 私が反応に悩んでいる事を察したのか、彼女はどこか意外そうに目を瞬かせて、

 

「好きなんでしょう? 人の子の臓器。ここは腐っても地獄跡地なので無垢な高級品は提供できませんが、一応ツテはあります。一般品程度なら直ぐに用意できますよ」

「いや、別に人の臓物を好んで喰らう嗜好は持ち合わせていないよ」

「ぇっ?」

「ん?」

「失礼、しゃっくりです。最近横隔膜の調子が悪くて。しかしそうですか、臓器はお好きではないですか。これは想定外ですね……うーん、お燐は血のストックまで持ってたかしら?」

「……意外だな、君は人間主食派なのか。一応手土産に菓子を持ってきたのだが、ふむ。()()()の方が良かったかな? お気に召さないようであれば、コレはこちらで処分させてもらおう」

「ぇっ?」

「む?」

「しゃっくりです」

 

 ……なんだか、独特な子だな。

 ただ、私とコミュニケーションをとっても何とも無さそうな態度といい、幻想郷では今まで出会った事の無いマイペースな雰囲気といい、只者ではない事は確かなようだ。

 彼女はコホンと咳払いをして、じとっとした眼を私へ向ける。

 

「――まぁお気遣いなく。こんなナリですが、私も一人の妖怪ですからね。むしろ妖怪たるもの人を食らわずしてどうします? ましてやここは旧き地獄、そして私はここの管理を任された地霊殿の主。好まない理由がありません」

「そうか、地霊殿の主はグルメなのだな。私は人など、ここ暫く口にしていないよ」

「……ふふふ。私は地霊殿の主ですからね、ええ。これでも管理者ですから? 地位相応に振る舞いますとも」

 

 不気味な笑みを浮かべ、半目でこちらを見やりつつ紅茶の準備にかかるさとり。その笑いからは、彼女の真意を窺い知ることは出来なかった。

 紫や永琳の様な、透明感のある品格を漂わせた賢人の雰囲気とは違う。萃香や勇儀の様な剛の者の貫禄とも違う。映姫の様な凛とした毅然の姿勢ともまた異なる。今まで遭遇した者達の中でも、他に類を見ない異質な気配をさとりからは感じた。言い方は変だが、まるで尻尾を掴めないのだ。

 

 一見すると平凡な少女のそれに見える。しかし彼女は心を読む覚妖怪であり、今までの事例から考えると、彼女にとって私は最悪の天敵となる筈なのだ。しかし私の予想に反してその対応は世間一般の普通の一言に尽き、だからこそ際立った異常として見えてしまう。

 そしてもう一つ言えるのが、彼女は私に対して素で接していないと言う事だ。平たく言えば演技をしている。これは挙動を見れば確実である。彼女は何かを装っているのだ。しかしそれが何を隠匿しているのかが分からない。まるであらゆる悪事の黒幕のような、でも実はそうでもないような、絶妙な雰囲気である。

 

 私の知りうる強者たちとはまた違う、底の知れない妖怪だ。流石は地霊殿の主と言ったところだろうか。

 

「話は変わるが、地霊殿には君以外にも妖怪は住んでいるのかね? 居るならば一言挨拶をしておきたい所なのだが」

「……居るにはいます。完全な妖怪と言えるレベルの存在は、今のところ地獄鴉と火車と妹だけですが」

 

 あとは動物や妖獣のペットばかりです、と彼女は締め括った。なるほど、門にいた猛禽も彼女のペットだったのか。

 

「妹君が居るのかい?」

「ええ。と言っても、四六時中フラフラと外を出歩ているので滅多に帰って来ませんし、帰って来たとしても気付けないのですが」

「……それは、どういう?」

「ちょっと複雑な事情がありまして、普段の妹はその存在を知覚出来ないのです。少なくとも有意識に生きる我々には――――っと、話が過ぎましたね。ええと、何の話でしたっけ? ああそうそう挨拶です。その件に関しては出来ればご遠慮願います。貴方の瘴気は、力の弱いあの子達にとって少々荷が重い。あなたの事は私の方から伝えておきますので、なるべく関わりませんよう」

 

 どうせ短期滞在なのですから、と彼女は言う。言われてみれば、確かにそうなのだが。

 しかしこれで話す事は概ね無くなってしまったな。地霊殿の設備についても十分説明してくれたし、私から彼女へ訊ねる事は今のところ無いだろう。強いて言えば西の怨霊使いに関する情報だが、広大な旧都全域に顔が知れていると謳う勇儀ですら把握していない者を、彼女だけが知り得ているとは考えにくい。捜査が行き詰った時の保険で良いだろう。

 そうなると、他に気になるような事となれば……。

 

「……最後に一つ、質問してもいいかな?」

「何でしょう」

「さとり。君は私の心が読めないのではないかね?」

 

 何てことは無い。読心者たる彼女が、どうして私を前にしても平常で居られるのかが、先ほどから胸に引っ掛かるだけだ。

 無論、この疑問を抱いた根拠はある。

 

 ティーセットを私の前に置いた彼女は、表情を変えぬまま、じっとりとした眼で私を見据えた。

 

「……ふふ、面白い質問ですね。覚の私に、心が読めないのかなんて。どうしてそんな疑いを持ったのかちょっと興味が湧きましたよ。お聞かせ願えますか?」

「なに、ちょっとした違和感さ。挙げるなら……そうだな。君は心を読める妖怪の筈なのに、私の発言を先取りしなかっただろう?」

「ほうほう」

「ついでに言えば、私にリクエストを訊ねた事にも違和感がある。心を読めるならば、私の答えなど聞くまでも無かっただろうからね」

「……ふふっ」

 

 帰ってきた答えは、蠱惑的で掴み処の無い笑みだった。

 まるで幾つもの修羅場を策略で潜り抜けた参謀の様な、そんな微笑みだ。

 

「確かに、言われてみればそうですねぇ。でもこうは考えなかったのですか? あなたの発言を尊重するために、私が敢えて訊ねたという見解は」

「仮にそうだとしても、茶菓子の好みを間違える事など無いだろう?」

 

 あまりにも単純で、簡潔な指摘。それを彼女は暗い笑顔で受け入れた。

 

「…………ふくっ、ふふふふふ。ふふふふふふふふ」

 

 愉快犯の様に、あるいは悪の親玉のように。彼女はどこか退廃的な雰囲気を匂わせる笑いを漏らした。それは図星を表している様な、どこか愉悦を孕んでいる様な、しかしそれでいて逆境に対する執念の様なものを絡めている様な、複雑な色を交えた笑いだった。

 

「くっくっくっ――失礼。ええ、確かにその通りですね。いやはや、試す様な真似をしてしまって申し訳ありません」

 

 直ぐに口を繋ぎ、私に謝罪を述べる。しかし試すとは、何を指しているのだろうか。

 答えは直ぐに、彼女の口から語られた。

 

「実はですね、私は意図的にあなたの心を読んでいないのですよ。ピントをずらすとでも言いましょうか。私のこの第三の眼は今、あなたの中を覗いてません」

「どうして? 勘繰るようで悪いが、心を読める力は妖怪相手に大きなアドバンテージとなるだろうに」

「単純な話ですよ。人の心を読むのがつまらないと感じたから、ただそれだけです」

「……覚の君がかね?」

「覚の私が、です。だって、想像してみてください。心を読めば、会話は常に私で完結してしまう。醍醐味であるキャッチボールが出来ない。心を読めば、相手の裏側が嫌でも見えてしまう。シンプルに疲れたんですよ、この力にね。現に妹のこいしは、私より先に疲れ果てて覚の瞳を閉ざしてしまいました」

「ふむ……先程言っていた妹君か」

「そうです。あの子は『覚』にとっての存在証明でもある瞳を閉ざして力を封じ、あまつさえ自らの心までも閉ざしてしまった。その結果、彼女は無意識のみで彷徨う存在へと変化してしまったのです。故に我々有意識の住人は、あの子が傍にいても故意に認識する事が出来なくなった」

 

 なにせ、我々の無意識の合間を縫って動ている事と同じなのですから――彼女は、どこかもの悲しそうにそう告げた。

 

「っと、また余計に話してしまいましたね。ええとつまり、覚も無暗に心を読むばかりではないと言う事です」

「そうなのか。……すまない。無神経な質問をしてしまっ――」

「まぁ読もうと思えば普通に読めるんですけどね。こんな風に」

 

 ――止める暇など、ありはしなかった。

 彼女の発言の意味を汲み取ったその時には、既にさとりは、自らの第三の眼へそっと手を添えていた。

 それが表す所は、つまり。

 

「止せ、私の心を見るんじゃない!!」

 

 立ち上がり手を伸ばす。強引だが眼の視点を逸らさせようと躍起になった。今までは彼女の言う『ピントをずらす』手法で事なきを得ていたから良いものの、直視すればさとりがどうなるか、考えるまでもない。何としても阻止せねばならなかった。

 

 だが。

 

「そんな怖い顔をしなくても良いじゃあありませんか。暗に見てみろと言ったのは、他でもないあなた自身でしょうに。んふふ」

 

 飄々とした言葉が、私の手を寸前のところで食い止めた。

 声の主は、紛れもなく古明地さとり。眼に手を添えたまま、にやにやとこちらをさも愉快そうに観察しているジト目の少女。

 錯乱も、出血も、恐慌も無い。平常の少女さとりが、私に奇異の視線を向けていた。

 

 波の消えた心電図の様に、脳髄の活動へ空白が生まれる。

『心を見た彼女に何も起きていない』――その結果が私へ大きなインパクトをもたらし、思考を全て焼き払ったのだ。

 呆然自失。それ以外に、今の状態を表現する言葉は見つからない。

 

「……平気、なのか?」

「うふふ。恐らく見たままの状態だと思いますよ」

「…………」

「ええ、ええ、見えておりますとも。あなたの心、あなたの動揺、そして――あなたの抱える()()が、私の眼にはっきりとね」

「……ソレ、とは?」

「さぁ? ふふ、何でしょうね?」

 

 飄々と、霞の様に掴み処の無い笑顔で彼女は言う。

 

 恐らく彼女が見ているモノは、今まで私を覗いて来た者達を苦しめた異物に違いないのだろう。だがさとりはそれを目にしても顔色一つ変えていない。どころか、まるで()()()()()()()()()()()()()()()()口ぶりをしている。

 信じられない出来事だった。私の内側を見て無事で済んでいるのみならず、私の中に私の知り得ないモノが巣食っていると証明された、この事実が。

 

「気になりますか?」

 

 紅魔館の小悪魔よりも小悪魔染みた少女は、口元を艶やかに釣り上げた。

 当然、その質問にはYesと答えざるを得ない。何故ならそれは今まで他者へ植え付けていた恐怖の根源、魔性の解明に大きく近づく答えかもしれないからだ。長年突き止めようと苦心し続け、終ぞ紐解けなかった忌まわしいアンノウンの正体を知るチャンスだからだ。

 それに……これはまだ勘の領域なのだが、さとりの言う()()が、紫やレミリア達が秘匿する私の()()()に関わっている気がしてやまない。確固たる証拠がある訳では無い。だが恐らく無関係では無いと、私の第六感が告げているのだ。

 迷わず、私は肯定を口にした。

 

「……ああ」

「知りたいですか?」

「ああ、知りたいとも」

「では条件があります」

 

 覚の瞳から手を離し、少女は指をくねらせた。しなやかな五指が収束し、やがて一つだけ突き立てられ、数字の一を指し示す。

 

「一つ。あなたがここに住む間、私に厄介事を持ち込まない」

 

 二つ。

 

「私や妹には何があってもなるべく関わらない、近づかない」

 

 三つ。

 

「ペットに悪さをしない」

 

 四つ。

 

「この提案に異論をはさまない――以上です。あなたが退去するまでこの四則を守って頂けさえすれば、あなたの知りたい事をお教えしましょう。たったこれだけです。簡単でしょう?」

 

 実に簡単な要求だ。そんな事だけで情報が手に入るのならばお安い御用である。

 

 しかし……どうやら私は、古明地さとりと言う妖怪の事を酷く見くびっていたらしい。私を前にしても物怖じすらせず、それはおろか心を覗いてもケロリとしている精神力。おまけにこうして私へ自らの要求を飲み込ませる場を組む誘導力も素晴らしい。仮に出会った瞬間から今に至るまでの全てが彼女の手のひらの内であったのならば、古明地さとりは相当な策士なのだろう。

 

 そう考えると……ああ、成程。私が最初に感じた彼女の『演技感』は伏線だったという事か。敢えて心が読めていない様に演じて疑念を持たせ、私にその疑問を問いかけさせたところから、今のステージへ流れる様に一計していたのだろう。彼女の望む四則を、なるべく平和的に私へ受諾させるように。

 

 ……いや。実のところ、彼女の真の狙いは『立場の確立』だったのかもしれない。

 

 人間はそうでもないが、妖怪は相手との立ち位置を重んじる生命体である。特に力を持った妖怪にその傾向は多い。何故なら、妖怪の上下関係とは一度構築されればそう易々と引き剥がせるものではないからだ。鬼に対する天狗や河童が分かり易いだろう。

 端的に言えば、『見下されたら負け』なのである。特に群れを成さないタイプの妖怪は、これが結構命綱だったりするのだ。高慢ちきな高位妖怪に下手に見られれば、最悪隷属させられる可能性だってあるだろうから。

 

 つまりさとりは映姫から事情を伺いながらも、強豪種族である吸血鬼の私とはあくまで対等なのだとこの場で示して見せたのだ。

 

 あっぱれだと言わざるを得まい。古明地さとりは我が瘴気と内に巣食うアンノウンに耐えうる精神力を持ち合わせているどころか、吸血鬼と対等の位置を言葉だけで築き上げる手腕を持った妖怪なのだ。私がもし傲慢な吸血鬼であったのならば、彼女の策は大きな効果をもたらしていた事だろう。さとりが地霊殿を、ひいては旧都の代表として抜擢されたのも頷ける。

 

「その程度で良いなら、お安い御用さ」

「助かります。……それでは紅茶も空になっちゃいましたし、お開きとしましょうか」

「そうだな――と言いたいところだが、すまない。最後にもう一つだけ質問させてくれないか? 本当は質問するつもりなど無かったのだが、今後あまり関わらない様にする方針を執る以上、狙って質問の機会を得る事は難しいからね」

「ふむ、構いませんよ。どうぞ」

「西の交霊術を使う者に、心当たりはあるかい?」

 

 パチパチと、彼女は瞬きをして。

 

「すみません、存じないですね」

 

 今度は本当に知らなさそうに、さとりは肩を竦めた。

 

 

「ふんふ~ん。本日も特にいじょーなし。いつも通り平和な灼熱の空気ね」

 

 灼熱地獄跡。その中層にて。

 漆黒の翼を持つ地獄鴉の少女、霊烏路空は鼻歌を交えつつ、意気揚々と仕事に勤しんでいた。

 彼女の仕事は、地霊殿の中庭から下に位置する灼熱地獄跡の見張りである。かつての最盛期と比べるとほぼ休止に近い状態となっているが、それでも地獄は地獄なので、火の用心が必要なのだ。

 

「そろそろお昼ご飯だなぁ。たまにはさとり様の手作りご飯が食べたいなー」

 

 くるくると、ふよふよと。空は気ままに宙を舞う。右手を覆う長い多角柱状の物体が壁に当たりそうだが、馴れているのか掠りもしない。

 しかしよく見ると、その他にも少女には異彩を放つオプションがちらちらと見受けられた。

 右手を覆う柱。左足を旋回する光球。右足の金属質なブーツ。宇宙空間を彷彿させる模様が、裏地いっぱいに広がる大きなマント。

 そして、胸元の大部分を覆う紅蓮の目玉の様な装飾。

 これらは全て、()()()()を取り込んだが故に発現したパーツなのである。いや、恐らくは空の趣味も若干混じっているのかもしれないが、それはさておき。見ての通り、霊烏路空はただの地獄鴉ではないのだ。

 

 正確には、普通の地獄鴉ではなくなったと言ったところだろうか。

 

 ある日変な神様がやってきて、働き者の空へ大いなる力を与えた。それがなんと、日本神話の中でも高名な太陽の化身、八咫烏その人だったのである。

 具体的な力は核融合を自在に操るという、『外』の技術者が知れば血の泡を吹いて倒れかねない夢の様な能力だ。太陽の力そのものを操作出来ると考えて良いだろう。

 

 そんなドリームパワーを宿す空はご機嫌だった。自分でもよく分からないが凄い力を手に入れられて、もっと敬愛するご主人様の役に立てられることが。そして何より毎日が平和で楽しい事が、空には嬉しいのだ。最近はテンションが鰻登りなせいか、『今の灼熱地獄は寂れてさみしいしこの力を使って地上を灼熱地獄に変えてみようかなー』などと思い始めている程である。

 

 ふと。

 空中遊泳を楽しんでいた空の背中に、突然のしっと重みが増えた。

 

「お空、久しぶり!」

 

 同時に、背中から元気のいい声がした。いつも気だるげなご主人様と違って、子供の様な活力に満ちた声である。

 空は精一杯背中に目をやりながら、喜色満面に声の主へと尋ねた。

 

「こいし様ですか?」

「せいかーい」

 

 答えと共に、空は一回転宙がえり。背中から声の主が離れ、空の前へと舞い降りた。

 空の翼と同じ黒色の帽子。黄色のリボン。薄黄緑色の髪。閉じた第三の眼。

 古明地さとりの実妹、古明地こいしであった。

 

「うわー! お久しぶりですこいし様っ! お元気でした? 空は寂しかったです」

「うん、元気だよー。最近は色々と楽しい事があってね、つい皆と会うのを忘れちゃってんだ。ごめんねー」

「でも会えて嬉しいです。こいしさまー!」

 

 鴉なのに犬の様にこいしへ擦り寄る空。こいしはそれをニコニコ笑いながら受け止めて、空の黒髪を優しく撫でた。

 次いで、耳元でこいしは会話を紡ぐ。

 

「でね、お空。長く留守にしちゃってたからお土産にプレゼントをあげたいの。受け取ってくれる?」

「本当ですかっ」

「本当よー。はいこれ」

 

 こいしは帽子の中から、一つの水晶玉を取り出した。曇り一つない、手のひら大の水晶は業火の光を反射し、幻想的に炎を揺らめかせている。

 空は鴉なので、ピカピカキラキラする光ものが大好きだ。空は水晶に負けないくらい目を輝かせながら、こいしから水晶玉を受けった。

 

「うわぁー、綺麗だなぁ。ありがとうございます! 大切に、宝物にしますーっ」

「うむうむ、そうするがよい」

 

 微笑ましい光景が続く。地獄の真上なのに平和な世界が広がっていた。

 暫く水晶を弄ったり撫でたりしていた空はおもむろにこいしへ視線を向けると、首を傾げながら言った。

 

「ところでこいし様」

「ほいほい」

「なんだか、雰囲気変わりました?」

 

 素朴な疑問だった。空も空で確信があった訳では無いのだが、髪形がちょっと変わっただとか、アクセサリーが新調されてるだとか、そんな小さな違和感をこいしから感じたのである。

 対してこいしは、ゆらゆらと揺れ動きながら太陽の様に笑う。

 

「えーそう? いつも通りだと思うけどなー。なんで?」

「うーん。なんて言えば良いんでしょう? こう、空気が美味しい空気になったような、お水が美味しいお水になったような。そんな気がしたんです」

「あはは、なにそれー。お空は私が美味しそうに見えたの?」

「んー……そうじゃないんですよね。どう例えればいいのやら。……むぐう、ごいりょくが無くてごめんなさい」

「いいよいいよ。今度良い例えが浮かんだら教えてね!」

 

 じゃあ私はもう行くねーと、少女は笑顔で手を振った。すると今の今まで目の前に居た筈のこいしが、まるで最初からそこに居なかったかのように姿を晦ませてしまったではないか。

 古明地こいしは第三の眼を閉じた代わりに、無意識を操る力を体得している。それを使って、空の無意識へ溶け込んだのだろう。恐らくまだ近くに居る筈なのだが、空にはもう感知する術など無い。

 でもまぁ割といつもの事なので、空はどこにいるとも分からない主の妹へバイバイと手を振りながら、貰ったプレゼントを大事に抱きしめた。

 

 丁度良くお腹も鳴った。もうすっかりお昼である。空は宝物を灼熱の業火へ落とさないようしっかり抱えて、お昼ご飯を食べるべく地上層へ上昇を開始した。

 

 数分後、さとりの部屋で何故か真っ白に燃え尽きているご主人様を見つけて大慌てしてしまうのだが、それはまた別の話だ。

 






 なお、心が読めない云々の理由は18.「崩壊」での永琳の発言が答えです。


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27.「霧中の手掛かり」

「これで百体目か」

 

 目の前を逃げ惑う魂魄に向けて魔剣を振るう。漆黒の刃は魂を斬り裂き、しかしそれを破壊することなく、魂にこびり付いたどす黒い煤だけを切除した。

 魂が明らかに清廉された色へ変化した事を確認し、休眠の魔法を施したうえで袋へと詰め込む。流石に百もの怨霊を掻き集めると数個の袋があっという間に満タンになって、私に割り当てられた部屋の一角は既に埋め尽くしてしまった。

 ともあれ、これで映姫の依頼は達成である。後は頃合いを見て幽世へ届ければ問題ないだろう。

 もっとも、肝心の怨霊使いに関する手掛かりをまるで掴めていないので、私としては進歩も何も無いのだけれど。

 

「参ったな。読みを間違えたか? いやしかし、地上に怨霊が蔓延っていない以上発生源はこことしか……」

 

 普通、考えられないだろう。

 だがその常識を崩されかねない事実に絶賛直面中な私としては、前提に確信を持つことが難しくなっていた。

 

 と言うのもこの地底、明らかに怨霊の数が少ないのである。

 

 いくらここが放棄された跡地だとしても地獄は地獄だ。本来ならば寄る辺の無い怨霊がそこかしこに漂っていてもなんら不思議ではない。むしろ溢れてる方が正常と言える。

 なのにここへ来て早くも二週間が経とうとする中、見つけられた怨霊は今の個体を合わせてたったの百体ぽっちときた。あまりに少なすぎて、映姫の依頼を達成できるか不安を煽られた程である。

 おまけにこの怨霊達には一切手掛かりらしきものが見当たらなかった。魔法の痕跡は当然ながら、干渉された形跡すら無い。怨霊に対してこの言い方は変かもしれないが、清廉潔白な魂だったのである。

 

「……であれば、次の当てとなると」

 

 魔法を使い、満杯の袋を私の部屋へ転移させつつ、これからの行動を模索する。

 もうこの地底で調べられる事と言えば、勇儀に教えてもらった青娥娘々なる人物くらいだろう。しかしどうも娘々は中国出身な上に仙人らしいので、事件のキーポイントである西洋魔法とはかけ離れた人物である。有力な情報を得られる可能性はあまりに低い。

 

 が、だからと言ってこのまま呑気している訳にもいかないし、得られる物が少ないと分かっていても、それを得るに越したことは無いのだ。

 私はすぐさま、勇儀に与えられた青娥娘々の居る方角へ転移する事にした。

 右手を開き、魔力を回す。人差し指に青白い光が灯って、それを筆代わりに宙へ光の陣を描いた。流石にテリトリーのど真ん中に現れたら混乱は避けられないだろうから、若干距離を置いた座標を術式に入力していく。

 魔法陣を形成。チェックを終え、魔力を流す。

 空間の接続に成功し、目の前へ現れた穴の中へ、私はそっと足を踏み入れた。

 

「……」

 

 転移成功。

 周囲を観察。背後からは旧都の光が幽かに見える。だが前方に広がっているのは、無数の朽ちた石材や卒塔婆が転がる荒廃した墓地だった。旧都や地霊殿が地獄らしくない清潔感溢れる場所だっただけに、この荒れた魔境の不気味さが一層際立って見えてしまう。

 

 注意を怠らぬよう、歩を進めていく。

 風も無ければ音も無い、まさに虚ろな空間である。生命の息吹など欠片も無く、地獄特有の濃厚な死の匂いが漂っていた。

 

 地獄跡地の一部なので当然と言えば当然の雰囲気なのだが、それにしても気配が無い。ここまで陰気の立ち込める空間ならば、地獄の妖精や精霊、悪霊の一つや二つ、遠目から確認できても不思議ではないだろうに。

 

「やはり奇妙だな。何故ここまで閑散としている……? 旧地獄は、私の知る地獄とはいささか異なる環境なのだろうか。元々住人が少ないのであれば、この静けさは日常風景なのだろうが」

 

 しかし、それはあまりに考え難い。あらゆる環境に適応する妖精すら殆ど見かけないのであれば、旧都で魑魅魍魎が営みを築ける筈がないのだから。

 つまり環境のせいでないとなると、別の理由が存在するのだろう。

 思い浮かぶとすれば、やはり、あのミイラ事件と何か関係が――――

 

「はぁーい、そこのあなた。ちょっと止まってー」

 

 ――甘く蕩ける様に妖艶で、されど貴婦人の如く凛とした女性の声が、突如背後から鼓膜をなぞり、私の思考を遮った。

 流石に考え事をしていたとはいえ、易々と背後を取らせるほど私の感覚は鈍っていない。少なくとも、声が聞こえるその時まで彼女の気配は微塵も無かった。文字通り、何の前触れも無く現れたのだ。

 

「おっと、動かない動かない。そのままじっとしてなさい。フリーズよフリーズ」

 

 振り返ろうとしたが、何か棒状の物を背中へ押し付けられ、行動を制限されてしまう。

 どうやら武器の類か何からしい。抵抗すれば状況を拗らせかねないと判断した私は、両手を挙げて素直に従う事にした。

 

「見知らぬ女性よ、どうか落ち着いて欲しい。私は決して君に害成す者では無い」

「ならせめて、名前くらいは教えて下さらない?」

 

 あと、どうしてこんな所に一人うろついていたのか――女性は私へ問いかけた。

 次いで、応じる。

 

「私はナハト。つい最近地上を追放された、ただの情けない吸血鬼さ。ここに来たのは、青娥娘々なる人物にちょっと尋ねたい話があったからだ」

「新参さんなのに、何故その青娥娘々がここに居ると分かったの?」

「星熊勇儀と言う、鬼の少女から聞いたんだ。ここで青娥娘々がいるだろうとね」

「……ふーん?」

 

 どうやら脳内審議中らしい。これでもファーストコミュニケーションとしては穏やかな方なので、穏便に事が運ぶよう祈りつつ待機する。

 やがて結論が出たのか、背中の圧力がふわりと消えた。

 

「振り返っていいわよ」

「ありがとう」

 

 言われた通り、背後を向く。

 そこにはワンビースと天女の衣を合わせた様な衣装に身を包む青い髪の少女が、いつの間にかぽっかりと空いた地面の穴の上をふよふよと浮かんでいた。

 頭頂部は稚児髷と呼ばれる∞の形に結われており、髪を止める簪の代わりなのか、絢爛な装飾が施された(のみ)が刺さっている。瞳の色は瑠璃よりも深い青に染まっており、どこか吸い込まれそうな雰囲気があった。

 ふーむ。薄暗い中でもその輝きを失わない青い髪に特徴的なヘアースタイルに中国伝承を彷彿させるその出で立ちは、勇儀の言っていた人物像と完全に一致している。この少女が私の探していた人物なのだろう。

 

 直球で、彼女へ問う。

 

「君が青娥娘々かい?」

「はいはい、私が娘々です。フルネームは霍青娥。娘々でも青娥でも、気軽にお呼びくださいな~」

 

 まるで陽だまり溢れる温かな団地で交わす様な笑顔を浮かべ、にこやかに自己紹介を行う仙人少女。

 一見すると非常にフレンドリーな人物に写るのだが、眼が全く笑っていなかった。永夜の晩に会合した時の幽々子の様である。警戒心を完全に紐解けていないのは明白だ。

 

「それで、私に聞きたい事とは一体何でしょう?」

 

 けれどそれに反して、屈託のない声色で青娥は問う。

 私は言葉を選びつつ、ゆっくりと舌を動かした。

 

「私は故あって交霊術に長けた人物を探しているんだ。話を聞くに、君は死霊を操る術を得意とする仙人らしいね」

「えぇ、まぁ。それに限らず一通りの仙術は体得しておりますわ」

「では、そんな君に一つ聞きたい。怨霊を操作媒体として寄生させ、その宿主を精密にコントールする事は可能なのだろうか?」

 

 ぱちぱちと、青娥は数回瞬きをして。

 質問の意味を噛み砕き終えると、そっと頬へ手を当てた。

 

「それって……憑依かしら? うーん、出来ない事はないわね。でも生きてるにせよ死んでるにせよ、操るには精密とは絶対にいきません。精々ゾンビみたいにノロノロ動かすくらいしか」

「それは、原則としてどの様な技術でも?」

「そうねぇ。怨霊を媒体にしてその魂魄越しに操るだなんて、無駄が多すぎますもの。わざわざマリオネットの操り糸を、偶然道端に落ちていたよく分からない操作盤へ繋げて、更にその操作盤を人形へ取り着けて扱う事なんてまず無いでしょう? それをするくらいなら、素直に糸を人形に繋げた方が手っ取り早いわ」

 

 ……警戒しているであろう私に対し、ここまでスラスラ喋ってくれたのは予想外だったが、さておき。どうやら今の発言に嘘はない様子だ。

 

 解釈するに、操る事は可能だが精密な動作は難しく、それよりも本人が直接操った方が明らかに手っ取り早いと言う事か。妖術であれ仙術であれ魔術であれ、そしてそれが東の流派であれ西の流派であれ、術だけを頼りにあのような演技を披露出来るほど制御するのは至難を極めるのだろう。

 私に対してこうも平常を保っていられる所から見て、彼女は相当手練れな仙人と推測出来るが、そんな青娥でさえ難しいとくれば、最早不可能だと太鼓判を押されたも同然では無いだろうか?

 

 しかし、だとすれば今までの事実と矛盾している。小悪魔は確かに怨霊を媒体として操られていたのだ。彼女曰く、非効率かつほぼ実現不可能な技術によって。

 

 ……あまりに安直な考えだが、つまり黒幕は、青娥を超える程の手練れになるのだろうか? 

 確かに、あの紫に僅かしか痕跡を辿らせない隠蔽能力は目を見張るものがある。私の解析能力をもってしても、小悪魔に憑いていた怨霊から掴めた手掛かりは、霞程度のものでしかない。だが私はさておき、数多の妖怪の中でも間違いなく最高峰の力を持つあの紫を超える存在が、果たして幻想郷に存在するのだろうか? それも私に恨みを持つと言う、ある種極めて限定的な要素も併せ持っている輩が。

 

 壁を一つ乗り越えたと思ったら、また大きな壁が目の前に現れたかの様な錯覚が、私を襲った。

 

「ねぇねぇ、吸血鬼の旦那さん。私もちょっと質問しても良い?」

「っと、すまない。なんだい?」

 

 青娥の声で意識を引き戻される。参ったな。最近はどうも耄碌しているらしい。

 彼女はまるで貴金属の鑑定士の様な目付きで私を眺めつつ、薄いグロスが照る唇を動かしていく。私は彼女から語られる言葉へ耳を傾けた。

 

「私も探している人がいるの。このくらいの背をしていて、帽子がトレードマークな可愛いキョンシーよ」

「キョンシーか。残念ながら見た覚えはないな。なにしろ、この荒れ墓地に来て出会ったのは君が初めてだからね」

「あら……そうですか。うぅ、何処へ行ってしまったのかしら。私の可愛い芳香ちゃん」

 

 肩を落とし、うつむき、みるみるしょんぼりしていく青娥。

 

 ふむ。キョンシーとは確か、大陸発祥の歩く屍妖怪だったか。この落ち込みようから察するに余程大事な人物か、情の移ったキョンシーなのだろう。仙人がキョンシーに愛着を持つというのは、中々耳にしない例ではあるが。

 

 青娥は落胆の姿勢を崩さぬまま、そのままふよふよと、まるで風船の様にゆっくり上昇し始めた。どうやら去るつもりらしい。急に浮かび始めたので少々驚いたが、さとりと言い、地底の住人は基本マイペースなのだろうか? 

 

 ……しかし、ふーむ。事前情報無しに私を見ても取り乱さなかった事と言い、いやに親切な対応と言い、なんとも不思議で例外的な仙人である。願わくば、事件が全て解決した暁に再度会ってみたいもの――――

 

「あっ、そうそう! 忘れてたわっ」

 

 と、私が再会を願いつつ立ち去ろうとした、その時だった。

 ヒュンッと鋭い風切り音を纏いながら、青娥が猛スピードで舞い戻って来たのである。

 予想だにしなかった行動を前に呆気に取られていると、彼女は懐から素早く何かを取り出し、有無を言わせず私の手へ捩じりこんだ。

 目を下へ向ければ、名刺がちょこんと鎮座している。自画像(イラスト)付きで、青娥娘々とポップに名前が綴られていた。

 初めて貰った名刺のインパクトもあってか、私は彼女がまるで相当な場数を踏んだキャリアウーマンか何かに見えてしまった。それ程までに、今の所作は流れる様な工程だったのである。 

 

「改めまして、(わたくし)、名前を霍青娥と申します」

 

 にっこりと、青娥はまるで極上の玩具を見つけた子供のように笑顔を輝かせながら、

 

「私、これでも人を導くのが得意な仙人なのです。特に素晴らしいポテンシャルを秘めた方を見つけると、つい疼いてしまうのですわ」

 

 何故か、再び自己紹介をされた。

 急な展開に、表情が曖昧になっていく感覚があった。

 

「う、うむ」

「あなた、ただの妖怪じゃあないでしょう? 地獄の鬼神長すら欺くこの青娥が体の芯から凍えそうになるほどの恐怖を感じる妖怪なんて、滅多にお目にかかれるものじゃないですもの」

「いや、私は諸事情あって人に恐れをばら撒いてしまうだけで――」

「まったくもって素晴らしい! その資質を、この手で昇華して差し上げたいほどに!」

 

 ……何だ?

 彼女、どこか様子がおかしいぞ。

 

「吸血鬼の旦那さん、あなたは間違いなく魔王になれる逸材ですわ。いえ、貫禄からして既に魔王の身なのかしら? でもでも、地上を追放されちゃったという事はつまり、一度敗北の苦味を味わった身の上なのよね。ならば! まだまだ伸び代は十分残っているって訳よねっ。そうと来れば話は早い。この青娥さんに任せなさい! あなたに我が仙道の極意と知恵を授け、再び地上へ返り咲かせてあげましょう。私ならそれを叶えられるわっ」

「少し落ち着いてくれ」

「今のあなたは、例えるなら翼を捥がれた鷲の様なもの。しかし私が強い翼を与えれば、あなたは間違いなく、夜空を支配する覇者と成りましょう。欲望のままに、名誉も富も権力も、全てがあなたの掌へ収まる事となりましょう!」

「待て、全く話が見えてこない」

「この青娥、才を見抜く眼力には自信がありましてよ!」

 

 まさしく自信満々と言ったように、青娥は勢いよく胸を叩く。

 次に彼女は両腕を大きく広げると、私へ締めの言葉を投げ放った。

 

「さぁ、漆黒の覇気を纏う吸血鬼さん。私と共に大魔王の道を駆け上がり、その手に世界を掴んではみませんかっ!?」

「ははは。断る」

 

 あまりの剣幕で捲し立てられたせいか、反射的に突き放す言葉を出してしまった。いや、それで正解なのだろうが、しかし。何だこの少女は? 令嬢のように淑やかな立ち振る舞いをどこかの穴ぐらへ放り投げたとでも言わんばかりに鼻息を荒くしながら、ギラギラとした眼で迫って来るでは無いか。

 

 だが、この盲目的な瞳には見覚えがある。

 

 あまりに久しくて忘れていたが、どうやら我が瘴気によって狂信寄りの影響を受けてしまっているらしい。たまに出会うのだ。魔性の恐怖が妙なベクトルへ働いて、私を異常に過大評価してしまう者が。

 しかも大抵の場合、そんな者達は恐怖と興奮で麻痺した思考をフル稼働させ、こちらの想像を遥かに凌駕するぶっ飛んだ結論の元に行動する。なので、ある意味怯えられるより数段厄介な事態となってしまう。

 目の前の光景が、まさにそれである。

 

「すまないが、君の提案に乗る事は出来ない。こう見えて平和主義者でね、争いなんてもっての外なん――」

「あらあらまぁまぁ、そんなに強い波動をお持ちなのに、絶対強者の味を知らないとは! 征服者としては童貞の身でありましたか。うふふ。ではでは私が未だ知らない蜜の味を教えて差し上げましょう。蹂躙がもたらす蠱惑的で抗いようのない甘美は、一度味わうと病みつきになるのですよ?」

「いやいや、そういう話ではなくてだな。悪いがこの話は無かったと考えてく――」

「大丈夫、怖がらないでくださいまし。不安は私が全て取り払ってさしあげます。だから、そう。あなたは頷いてくれるだけで良い。私の言葉を辿ってくれるだけで良い。たったそれだけで、あなたの覇道はこの青娥娘々の名の下に約束されるのです!」

 

 ……駄目だ。まるで話が通じない。そもそも聞いてすらもらえない。

 過去、紅魔館に在住していた吸血鬼の中には私を神聖視しているかの如き素振りを見せた者は居たが、この様な勧誘をしてきた者は居なかった。スカーレット卿が私を紅魔館へ招いた例はあれども、あれはただ私と言うパッと見核爆弾な吸血鬼を引き入れることで、私の無力化と勢力の拡大を狙った算段があっての行動である。

 私は初めての強迫的な勧誘を前に、柄にも無く混乱してしまった。

 

 結果。

 

「――失礼する」

「あぁんっ」

 

 文字通り脱兎と化す。それ以外に選択肢など存在しなかった。

 魔力で強化した脚力を使い、全力の離脱を図る。遠ざかっていく背後から『気が向いたらいつでも訪ねてくださいな~!』と聞こえた気がしたが、構わず足を動かし続けた。

 

 魔性の影響さえなければ何とも魅力的な別れ言葉だけに、大層複雑な気持ちになる。

 全くもって、是非も無し。

 

 

 幻想郷の冬は早い。

 それこそ実りの季節なんてものは本当にあっという間で、ちょっと前まであたり一面を紅葉が覆っていたかと思えば、気づいたころには厳しい寒さを乗り越えるべく余分な要素を全て取り去った枯れ木が立ち並ぶ殺風景にすり替わっている程だ。

 今年も例年に漏れず、やはり冬の到来は早かった。魔法の森には既に雪が積もり始めており、それが銀の絨毯となって、閑散とした枯れ木街道を飾っている。流石にこの季節ばかりは、お化けキノコたちも鳴りを潜めている様だ。

 そんな森を歩くのは、いつもの紅白衣装に細やかながら防寒具を付け足した博麗霊夢と、反対にばっちり着込んでいるアリス・マーガトロイドのコンビである。

 

「くちっ。んーもうすっかり冷え込む時期に入っちゃったわねー。こんなだとワンシーズンずっと神社に引き籠っちゃいたくなるへくちっ! うぅー、さむっ」

「そりゃあこんな日まで腋なんか晒してたら寒いに決まってるじゃないの。見てるこっちが凍えちゃいそうだわ」

「うっさいわね、これが正装なんだから仕方ないでしょ。私だって好きでこんな恰好してる訳じゃないっての。あ、でもほらちゃんと冬仕様にしてし、大丈夫だもん」

「……マフラー一枚上乗せしただけで寒さ対策万全だと? あなたは人間なんだからもうちょっと気をつける事を覚えなさい、お馬鹿」

「七色魔法莫迦に馬鹿って言われた……死にたい……」

「あらぁ、そんな事言っちゃうの? じゃあこの予備に持ってきたもっふもふな羽織は貸してあげないけどそれで良いのね? あーあ、こんなにモフモフあったかなのになー、あーあ」

「ちょっ、アリスごめんって私が馬鹿だったからお願いそれ貸して本当はすっごく寒いの!」

 

 目指す先はお互い一致している。だからと言うべきか、軽口を叩きながらも仲良く歩を進める巫女と魔法使いである。もちろん動物に害を及ぼす胞子などまるで眼中に無しだ。いやそもそも、この二人が胞子云々の対策をしていないはずが無いのは、今更と言ったところか。

 

「おっふ……これはぬくぬく」

「ふふ、見事に顔だらけさせちゃってまぁ。でも本当にマフラーしか無かったの? 去年はもっといっぱい着てたような気がするんだけど」

「いやー……今丁度霖之助さんに冬服を仕立てて貰ってるんだけど、取りに行くのめんどくさくってさぁー……」

「何というぐうたら巫女……紫や店主の苦労が今なら分かる気がするわ」

 

 白い溜息が空気へ溶け込む。しかし霊夢は我関せずとばかりにアリス特性ダウンジャケットで温まっていた。さりげなく付いているフードの存在がアリスの仕事人気質を伺わせる。

 因みに、何故予備を持ち歩いているのかと聞かれれば、それはこの展開を半ば予測していたからに他ならない。かなり適当な性格をしている霊夢はこのくらいの寒さだったら碌に対策しないだろうなぁと、変な勘のようなものが働いて、神社へ向かう前に自宅から引っ張り出して来たのだ。どうやら面倒見のいい性格らしい。

 

「ところでさ、魔理沙の家ってまだなの? 私、冬はあんまりアイツの家に行った事無いから雪のせいで方向感覚無いのよね」

「……あなた、それでよく魔理沙の様子を見に行こうとしたわね。もし私が神社に来なかったらどうするつもりだったの?」

「きっと博麗の流儀にのっとって、木の棒が倒れた方向を目印に向かっていたわ」

「それで本当に辿り着けそうだから霊夢怖いわ……。っと、あの子の家は直ぐそこよ。ほら、もう煙突が見えてる」

「あ、ホントだ。木に隠れて気付かなかった」

 

 そう、この二人は別に気紛れに従って魔法の森を散策していた訳では無い。向かう場所が同じだからこそ、歩みを共にしていたのだ。

 そして件の目的地こそが、すっかり雪に覆われた霧雨魔理沙の邸宅だった。

 

 ――事の発端は数週間ほど前に遡る。当時幻想郷ではちょっとした騒ぎが起こっていて、その騒動の中心に霧雨魔理沙が関わっていた。だが彼女は騒動の最中、突然不審な行動を示し始め、紆余曲折を経て霊夢に撃墜される事となったのだ。

 魔理沙の挙動が怪しくなった原因は、事件の中核を担っていた一人の大妖怪――吸血鬼ナハトの邪気をモロに浴び、精神の波長が掻き乱された為だと守矢の祭神は言った。事実それは正しく、早苗いわく治療後は本当に健康体となって神社を飛び去って行ったらしい。

 こうして霧雨魔理沙の関わった事件は、中規模の異変として一旦片づけられたのである。

 

 だがその事件以降、魔理沙は全く姿を見せなくなったのだ。一日一回……いや、少なくとも二日に一度は神社へ顔を見せに来る、あの活発な魔法使いが。

 それを霊夢は訝しんだ。持ち前の直感と今までに無い魔理沙の行動から、もしや魔理沙の身に何かあったのではないかと――あの事件が、あれで終わっていなかったのではないかと疑惑の念を持ち、思い立ったが吉日と言わんばかりに即行動へ移ったのである。

 

 そんな時、丁度良く神社へやって来たのがアリスだった。彼女も暫く魔理沙の姿を見ておらず、霊夢の所へ所在を訪ねに来たところだったのだ。なんでも貸した魔導書の返却期限を過ぎているらしく、一先ず直接家へ尋ねたのだが、しかし留守だったので神社へ足を運んだのだとか。

 後は言わずもがな、アリスをお供に加えて今に至ると言う訳だ。

 

「さっきも言ったけど、魔理沙は家に居なかったわよ? それでもいいの?」

「居留守の可能性もあるじゃない。もしくはタイミング悪く寝てたり外出してたりとかさ。アンタも家の中にまで入った訳じゃあ無いんでしょ?」

「まぁ、そうだけど」

「だから入って確かめるの。さ、行くわよ」

 

 霊夢は歩幅を大きくし、一直線に霧雨魔法店へと突き進む。アリスもまた霊夢に続こうとして歩き出すが、しかし何かを見つけたように進行をピタリとやめた。

 彼女の視線の先には、物干し用のロープがあった。魔理沙の家から伸びるそれには、魔理沙のものと思わしき衣服がかかっている。

 洗濯物には、()()()()()()()()()()()()()()

 

「…………」

「ちょっとアリス、なにボーっとしてんのー?」

「ん。今行く」

 

 名を呼ばれ、アリスは霊夢の元へと急ぐ。

 どうやら鍵が掛かっていて中に入れないらしい。当然である。故に霊夢はアリスに鍵を開けてくれと頼んだ。

 アリスは細い魔力糸を操り、繊細な動作で鍵穴へと通していく。カチャリと音が聞こえるとすかさず霊夢はノブを掴み、勢いよくドアをこじ開けた。

 

「まーりさー! お邪魔するわ――――」

「ん? 霊夢じゃないか。それにアリスも。どうしたんだ急に」

「――よ……?」

 

 居た。

 紅茶と思わしき薄紅色の液体が入ったポットを片手に持つ古風な魔法使いが、奥の居間から何食わぬ顔で、あっさりと出て来たのだ。

 

 数週間顔を見なかった事実とアリスによる留守情報が重なっていた霊夢としては、かなり面を食らう展開だった。まさか普通に生活していて、さも日常の様に出迎えられるとは露程も思わなかったのである。

 そして、それはアリスも例外ではない。困惑の表情が彼女の心情を如実に物語っていた。

 

「あら? なによ魔理沙、全然普通じゃないの」

「おう、こちとら普通がウリの魔法使いだぜ。それより何だ揃いも揃って、宗教勧誘なら全部断ってるからな。あ、新聞もノーセンキューだぞ」

「んな訳ないでしょ。あの日以来アンタが全然神社に来ないから、様子を見に来てやったのよ。アリスはアンタに貸した本を返して欲しいんだってさ」

 

 けど心配して損したわ、と肩を竦める霊夢。魔理沙は愉快そうにコロコロと笑った

 

「そりゃすまんかったな。ここの所ずっと魔法の研究で忙しくて、外出する暇すら無かったんだよ。アリスも悪かったなぁ、引き籠ってるとどうも時間の感覚が無くなっちまうんだ」

「返してくれさえすればいいのよ。そうすれば何も文句は言わないわ」

「はは、助かる。まぁそれはさておき、立ち話もなんだから上がってくれよ。丁度紅茶も入ったし、そろそろクッキーも焼けるんだぜ?」

 

 ジャスチャーを交えつつ、魔理沙は二人に入るよう促した。寒空の下を歩いていた二人にとって、温かい紅茶の休憩は砂漠の長旅で巡り合えたオアシスの様なものである。いそいそと家へ上がり込み、特に霊夢はルンルン気分で居間へと直行した。

 

 招かれるまま客間の椅子へ腰かけ、霊夢はぐでっとテーブルに上体を投げ出す。

 

「あぁ~おうちって暖かいわぁ。生き返る……」

「こら、だらしない真似しないの。……ところで魔理沙、何で私が来た時には出てくれなかったの?」

「いやぁ、すまんすまん。最近二階へ研究に必要なものを全部移してな、そこでずっと熱中してたもんだから、全く気付かなかったんだ。証拠にホラ、リビングは綺麗になっただろう?」

 

 言われて、二人は周囲を見渡した。

 魔理沙が自慢げに胸を張る通り、確かに清掃されてある。別にゴミ屋敷の様に荒れていた訳では無いのだが、それでも魔法使いと言う半ば研究職の様な存在を目指している魔理沙の家は、そこかしこに魔導書やらフラスコやら魔法素材の詰まった袋やらその他色々なガラクタが乱雑していて、お世辞にも綺麗な家とは言い難かった。

 それが今では見る影もなく、綺麗さっぱり整理整頓されているのである。

 

 しかし以前訪れた時は結構散らかっていただけに、それらを一挙に引き受けさせられただろう二階の惨状を想像して、アリスは思わず戦慄を覚えそうになった。

 

「ほい、お待たせ。魔理沙さん特製のティータイムセットだぜ」

 

 運ばれて来た紅茶とクッキーの匂いに意識を引き戻され、アリスは我へと返る。

 霊夢は百万ワットの笑顔をぱぁっと咲かせると、まるで小動物の様に素早くクッキーを手に取った。雪模様の外を薄着で来た霊夢にとって、焼きたてのお菓子に勝る優先事項は今のところ無いらしい。

 その様子を苦笑しつつ、魔理沙はカップを煽いだ。

 

「こりゃ大目に作ってて正解だったなぁ。齧歯類並みに食いだめされてるぜ」

はんはの(あんたの)おはひふぁ(お菓子が)おいひい(美味しい)ほあ(のが)ふぁふい(わるい)

「あはは。博麗の巫女お墨付きのブランドゲットだな」

「こら、口に物を入れたまま喋らない」

 

 アリスにハンカチで口元を拭われつつも、その表情は笑顔のままである。

 感情豊かながらも普段はどこかクールな印象の強い霊夢も、おやつ時にはすっかり年相応な子供になる。あまりに幸せそうに食べるので、実はそれを見て気を良くした様々な者達が博麗神社に結構な差し入れを持ってくるのだが、当の本人はその裏事情を知らない。

 

 魔理沙はカップの中身を飲み干すと席を立ち、直ぐ傍にある本棚から数冊の本を取り出した。どうやらアリスから借りていた品物の様子である。

 少女は手に取った本をアリスの前に重ねると、

 

「これで借りていたのは全部だよな? 一応確認してくれ」

「はいはい……ん、大丈夫よ」

「そうか。ありがとなー、お蔭で色々と勉強になったぜ。特に身体強化に関する魔法の文献は――」

「ちょっと待って魔理沙。あなた、身体強化魔法って、もしかしてこれ全部読んだの?」

「? ……変な事を聞くなぁ、本は読むものだろ? 流石の私でもそれくらい知ってるぞー」

 

 

 ――アリスがこの様な疑問の声を上げたのには理由がある。

 それは、魔理沙がこの魔導書を()()()()()事に他ならない。

 

 魔導書とは、主に魔法使いが記した魔法に関する文献の事である。その種類は千差万別であり、ごく初歩的な魔法の触りのみが記されただけの物もあれば、中にはその本自体が一個の禁術として機能している様な、特大級の危険文書までと様々だ。

 そんなグリモワールは、当然種類も本の数だけ在ると言って良いだろう。

 ただし、それは内容の話ではない。本を読み解くための()()である。

 

 魔導書には、稀に内容を解読するのに『資格』を必要とする場合があるのだ。

 

 この場における『資格』とは、読み手の魔法使いとしての実力を指す。魔法知識や経験値、魔力量、魔力耐性、そして魔力の使用方法を如何に理解しているかが『資格』となるのだ。それらの要素は読み手に魔を見通す眼力――俗に言う魔眼や霊視――を与え、隠された文章を読み解かせるのである。

 

 端的に説明するならば、実力不足の者にアリスが渡した本の全ては読み解けない。本を開いても、それは白紙としてしか視界に写らない。

 故に、アリスは魔理沙が本を読めた事実を訝しんだ。

 

「…………」

 

 アリスが魔理沙へ貸した本こそ、まさに『資格』を必要とする本である。それも後編へ行くにしたがって『資格』の位は上がって行き、最後まで解読するには上級魔法使い以上の実力者でなくてはならないのだ。

 

 確かに霧雨魔理沙は天才的だ。長年魔法使いをやっているアリスもそれを認めている。彼女の努力とそれを結果に繋ぐ力、行動力、精神力は並のものでは無いだろう。全てを直感でこなす博麗霊夢とは全く違うベクトルだが、ある種の天才だと誇れる人材に間違いはない。

 しかし彼女は、魔法使いとしての経験値が絶対的に足りていない。こればかりはどうしようもないのだ。半世紀も生きていない少女が上級魔法使い以上の経験値を獲得するなど、どう足掻いても有り得ないのだから。

 

「本当に読めたの?」

「ああ、ちゃんとこの目で読んだよ」

「……この本、前編はそこそこの実力さえあれば読めるんだけど、後編からは魔眼クラスの眼力が無いと読めないカモフラージュが著者から掛けられているの」

「あん?」

「どうやって読んだの? 気を悪くしないでほしいのだけど、今の魔理沙にはこれを全て読み解けると思えない」

 

 アリスの疑問に、パチパチと魔理沙は瞬きをして。

 ああ何だそんな事か、と手を頭の後ろへ組んで悪戯っ子のように笑った。

 

「別に私一人で読んだとは言ってないぞ。助っ人に解読を頼んだんだよ」

「助っ人?」

「おう、超凄腕の助っ人さ。今はちょいと都合が悪くて会わせられないが、何時かアリスにも紹介するよ」

「それは……是非一度、直接お話してみたいわね」

 

 アリスの知る限り、幻想郷に居る高レベルの魔法使いは今のところパチュリー・ノーレッジだけだ。もし他に魔法使いが居るならば是非顔を見ておきたい。その人物がどんな魔法を専攻としているのか、どんな経緯で魔理沙と知り合ったのかが、アリスの興味を強く引いたのだ。

 

「ねぇ魔理沙、これなに?」

 

 ふと。暇を持て余していた霊夢が徐に声を上げた。察するに、どこからか何かを見つけてきたようである。

 二人の視線が霊夢の元へ集中する。

 彼女は何かを明かりに透かせながら眺めていた。よく見ると、紅白巫女の手には小さな小瓶が握られている。ガラス製なのか透明で、肌色をした粘質の強い液体が詰まっていた。 

 

 アリスはそれを見て、直ぐに正体を理解した。

 何てことは無い。ただの化粧道具である。『外』の世界でリキッドファンデーションと呼ばれる代物が当て嵌まるだろう。主に顔のシミや毛穴などを隠すために使う道具である。

 

 まぁ、霊夢が知らないのも無理はない。彼女は基本、化粧なんてしないからだ。興味が無いのは言わずもがな、元々幻想郷には舞台に立つ役者用と冠婚葬祭用くらいしか化粧道具は普及しておらず、そもそも霊夢はまだ化粧を必要としない年齢である。

 しかしそれを踏まえると、少しばかり不思議な部分が浮かび上がってくる。入手経路の事ではない。大方、多種多様過ぎる品物が商品棚に並んでいる事で有名な香霖堂から盗ったもとい買ったのだろう。

 

 不思議なのは、霊夢とそう年齢に差は無い筈の魔理沙が何故こんなものを持っているのか、という点だ。

 

 アリスの知る限り、霊夢と同じく魔理沙が化粧を嗜んでいた記憶は無い。二人とも化粧に頼らずとも映える顔立ちをしていると言った理由もあるのかもしれないが、揃いも揃って細かい部分を気にしない大雑把コンビなので、意識自体が希薄なのである。

 だからこそ、そのリキッドファンデーションがここにある事が、アリスには少しだけ不思議だった。彼女がお洒落に目覚めただけならば、何も不思議では無いのだが。

 

 当の魔理沙はと言うと、手をひらひらと振りながら乾いた笑い声を漏らし、

 

「そりゃただの化粧道具だよ。香霖とこで買ったんだ」

「へぇ~。アンタ、化粧なんてしてたのね」

「これでも魔理沙さんは華の乙女だからな、美容にはそれなりに気を使ってる――なんてのは、勿論冗談だぜ。単に最近寝てなくて隈が酷いんだ。毎度毎度鏡で見せつけられるのもなんか滅入るからさ、それを隠すために……な」

 

 そうなの、と霊夢は生返事を返しつつ、魔理沙の元へ詰め寄った。化粧がどうなっているのか興味があるらしく、ずいずいと顔を近づけていく。

 確かに、注視すれば目元だけ肌の色が違う。それに白目も若干充血気味だ。寝不足というのは本当らしい。

 

「お、おい。顔が近いぞ」

「……」

「あのー、霊夢さん? あんまり近くに寄られると、その、なんだ。あーもう化粧が気になるならコレ貸してやるからさ、早く退いてく――」

「魔理沙」

「あん?」

「アンタ、何か隠してない?」

 

 霊夢の謎を孕んだ問いに、居間へ空白の時間が訪れた。

 質問内容を理解するまで、魔理沙は微動だに動かなかった。動けなかったのかもしれない。

 

「隠すも何も、全部喋っただろ? ここの所、四六時中ずっと沸いたアイディアを実現させるために引き籠ってたんだって。研究に没頭し過ぎて風呂もロクに入れてないくらいなんだぜ? さぁ分かったらとっとと離れてくれ。お前から匂うとか指摘された日にゃ流石の私も没落した王朝の如く落ち込む自信があるぞ」

「ふーん……アンタがそういうなら、まぁ良いけどさ」

 

 納得したのか、保留としたのか。霊夢は魔理沙から離れると、テーブルに寄りかけていたお祓い棒を手に取った。どうやら帰宅するらしい。

 

「研究も大事かもしれないけど、あんまり無茶しないようにね。体は資本よ。壊しちゃ世話ないわ」

「そうだな。肝に銘じとくぜ」

 

 じゃあ久しぶりに寝るとするか、と魔理沙は大きく伸びをした。その言葉に満足したらしい霊夢は、ご馳走様と魔理沙へ手を合わせ、

 

「様子見も済んだし、私たちは帰るわ。早くゆっくり休みなさいね」

「そうする。わざわざありがとなー、二人とも」

「今度、疲労に効く魔法薬を調合して持って来ましょうか? ルナティック苦いけど効果覿面よ」

「うへぇ、苦いの嫌だぜ。私、コーヒーはミルクたっぷり砂糖どさどさ派なんだよう」

 

 魔理沙の意見も虚しく、苦情だってどこ吹く風なアリスは、もう魔理沙に薬を届ける算段を立ててしまったのか、材料らしき名前を呟きながら手帳にメモを記し始めた。その様子を見て、魔理沙はとても曖昧な表情を浮かべて固まってしまう。

 霊夢は思わず笑ってしまった。

 

「それじゃあ、また日を開けて来るわ。その時はゆっくりお茶しましょ」

「完成したらその魔法、ちょっと見せてね。貴女がどれくらい成長したのか気になるし」

「おう、その機会を楽しみにしてるよ」

「……ああ、言い忘れてた。外、洗濯物干しっ放しで雪積もってたわよ。取り込んだ方が良いんじゃない?」

「え……ま、マジかよ! あー、畜生また洗い直しか。後で回収しとくぜ、サンキューなアリス」

 

 そうして軽く手を振りながら、両者は互いに別れを告げた。

 パタンと居間のドアが閉じる音がした後は、静寂のみが空間を漂う。

 

 ふりふりと振られていた魔理沙の手が止まり、ゆっくりと降ろされて。

 

「けどまぁ、もう日を開ける必要なんて無いんだけどな」

 

 誰も居ない部屋の中で、誰にも聞こえない声量で、霧雨魔理沙はポツリと零した。

 

 

「……追って来ないのは幸いだったな。さとりとの約束を破りかねん」

 

 旧都外れの荒れ地から逃げ帰り、地霊殿の廊下まで来て、ようやく一息。

 どうやら青娥は私の扱いを一旦保留にしてくれたらしい。彼女が蛇の様な女性じゃなくて助かった。本当に執拗な者は信じられないくらい執念深く追って来るものだから、中々気が休まらないのである。

 

 一先ず、もう大丈夫だろう。後は自室へ戻り、転送した浄化済みの怨霊たちを再調査して今日を終えるとしようか。

 紅魔館に負けず劣らずの長い廊下を独り歩きつつ、青娥との会合で得られた情報を頭の中で整理していく。

 

 彼女がもたらした新たな情報は、今後の調査でとても役立つキーワードばかりだった。特に『術者が怨霊を間接媒体として他人を操る事はほぼ不可能に近い』と知れたのは大きい。今まで凝り固まっていた視野を打ち砕き、新しい可能性を開拓できる。

 

 まず、今までの要点を纏めてみよう。

 

 一つ。黒幕は怨霊を媒体として他者を精密に操っている。それも小悪魔に限った話ではなく、幻想郷には他にも魂を植え付けられた者がいる可能性がある。

 二つ。怨霊(ばいたい)には、西洋の交霊魔法らしき痕跡が残されていた。

 三つ。しかし青娥曰く、術の実現は不可能に近い。

 四つ。黒幕は私へ明確な悪意を持つ者である。

 五つ。黒幕は手練れ揃いの紅魔館へ手掛かり一つ残さず忍び込み、小悪魔へ気付かれずに怨霊を植え付けられるほど、気配遮断能力に長けている。

 六つ。黒幕は咲夜によって拡張されている紅魔館でも迷わず、どころか私から逃げ切れたほど、屋敷の構造に精通する者である。

 

「……不自然な程に、一貫性が無いな」

 

 あまりに矛盾が多すぎる。不可能な筈である術を可能にしているのは言わずもがな、身内でしか分からない情報を持っているのに手掛かりが外部からの干渉しか残されていないと来た。

 難解だ。まるで糸口が掴めない。条件は相当絞り込めているのに、該当する人物がまるで姿を現してこない。

 このままでは永遠に答えなど見えてきそうにないとさえ思えてくる。そう判断した私は、今までの情報を()()させて整理する事にした。

 

 例えば、一つ目の矛盾。不可能な術を可能にしている点だ。

 媒体代わりの怨霊を寄生させた宿主を操る高度な技術である。しかし欠点として、これは他人の体を精密にコントロール出来るものでは無い。せいぜい緩慢な動きを再現する程度なのだそうだ。

 この魔法における怨霊は、俗な例えだがコントローラーの役割を果たしていると言っていい。小悪魔の例で例えるならば、そのコントローラーを小悪魔の魂と言うハードに差し込み、小悪魔(アバター)を操っていたのだ。

 しかしどのボタンがどの動きをするのか分からなければ、正確に操作など出来やしない。当然だ。何故なら人によってスイッチの位置も種類も違うからだ。例え操作に慣れたとしても、それは精密な操作とはいかない。だから不可能なのだろう。

 

 では、この欠点を克服する方法は何だろうか?

 

 例えば、そう。黒幕は怨霊(・・)越し(・・)に操っていたのではなく、()()()()()怨霊だったイフの想像を。

 即ち、黒幕が小悪魔(アバター)と同化していた可能性を。

 

「……ん?」

 

 物思いに耽っていた、その時だ。ふとした拍子に何やら視界の端へ違和感を感じて、私は顎から手を離した。

 眼を動かし、違和感の正体を探る。

 そこには、この地霊殿にある筈の無い物体が鎮座していた。

 

「これは」

 

 急ぎ足で駆け寄り、()()を拾い上げる。

 白色に近い、うっすらとした桃色の生地。周りにぐるりと纏わりつく鮮やかな赤のリボン。ふんわりとした丸みのあるフォルム。

 見間違えるはずもない。どこからどう見てもレミリアのナイトキャップである。

 

「どうしてあの子の帽子が……?」

 

 レミリアの帽子は確か、咲夜がオリジナルで仕立て上げた唯一無二の代物だ。ましてやここは地獄の最果て。この帽子が市販などされているわけが無い。

 では何故ここに帽子があるのだ? 風が運んできたと言うには、あまりに無理のある状況だ。

 

「……そう言えば、この前帽子が無くなったと言っていたな」

 

 地底へ追放される前の日々を、出来うる限り思い起こしていく。

 確か、咲夜やレミリアがげんなりとした様子でボヤいていた記憶がある。咲夜の服やレミリアの帽子を始め、食器に図書館の本など、実に様々な物が無くなっていると。かく言う私自身も、服を一式無くしていたのだけれど。

 

 さておき。以前、フランドールが友人たちと館の物を隠す悪戯をした事があった。その前科もあってか、今回もフランが咲夜にこってり絞られていたのを覚えている。

 しかし幾ら尋問しても無くなったものは終ぞ戻らなかったため、レミリア達はフランではなくルーミアや妖精の友人が悪戯をしたのだろうと結論付け、フランに取り返してくるよう命じていたのだったか。

 

 

 

「いや、ちょっと待て」

 

 

 脳裏で閃光が瞬いた感覚があった。

 難問を紐解く答えの糸口を見つけたかのような、鮮烈な感覚。私はその閃きに導かれるまま、思考速度を著しく引き上げた。

 過去の記憶を掘削するが如く掘り返していく。かつて私が感じた小さな違和感全てをピックアップし、とことん洗い出していく。

 

 やがて、それは探り当てられた。

 

 私が四年振りに目を覚まして直ぐの事だ。私が復活したことが館に知れ渡り、レミリアやフラン、パチュリーとの会話が一通り済んだ後、咲夜から呼び止められたことがあった。

 その時彼女は、四年の歳月を経ても相変わらず瀟洒なまま、私へ一枚の栞を手渡した。

 よく見るとそれは、私がスカーレット卿を倒した直後に失くした栞だったのだ。

 咲夜は述べた。身に覚えの無い栞がいつの間にか服のポケットへ紛れ込んでいた事。パチュリーへ訊ねても栞は使っていないと言われ、おまけにレミリアやフラン、美鈴の物でも無く首を傾げた事。なので私の物では無いかと思い、ずっと保管していた事。

 

 あの時の私は、完全無欠な彼女にも人間らしいミスをする日があるのだなと、和やかな気持ちで受け止めていた。断ってはいたものの、咲夜は私の私室を時折清掃していたので、その際誤ってポケットへ入ってしまったのだろうと解釈していたのだ。

 

 だが私は知っている。十六夜咲夜と言う人間が、時を操る力もさる事ながら、人間離れした無欠さを誇る完全な従者であると言うことを。

 何せあの紅魔館をほぼ一人で取り仕切っている子なのだ。しかも彼女は今まで失態らしい失態を何一つ起こしていないときた。あの我儘っ気のあるレミリアですら、館関係の仕事は咲夜の言葉に従う程なのだ。『最近咲夜に主導権を握られてる気がする』とは主の弁である。

 

 そんな咲夜が、私の私物を誤って持ち出してしまうなんて平凡なミスを犯すだろうか? 

 

 答えは否だ。今にして思えば有り得ない。そもそも従者に徹する彼女が、清掃の為でも栞の挟まった読みかけの本をわざわざ手に取って開く必要がない。悲しい事だが、私の私室であれば一層物の扱いに注意を払いそうなものである。

 

 私は今までそれを咲夜の凡ミスだと思い込んでいた。それ以外に納得のいく答えなんて無かったからだ。

 だが今は違う。新しい答えを現像するピースが、この地霊殿でもたらされてしまった。

 

 一度失くし、何故か咲夜の元へ戻って来た栞。

 不自然な物の消失。

 ここにある筈の無いレミリアの帽子。

 そして、さとりが口にした言葉。

 

「――――」

 

 彼女は自身に妹が居ると言った。その妹君は故あって、人の無意識に潜む不可視の妖怪と化したと言った。

 加えて、妹はよく外出をしてあまり帰ってこないのだと。

 

 もし。

 もし彼女の散歩が、地底の範囲に留まって居なかったとしたら?

 もし彼女が、地上へよく出向いていたとしたら?

 もし彼女が、紅魔館をよく出入りしていたとしたら?

 栞が無くなった日を考慮するに、実に四年も前から館の構造を知っていたとしたら?

 

「まさか」

 

 突拍子も無い、穴だらけな推測だとは理解している。だが一部辻褄が合う箇所があるのは確かだ。

 妹君が本当に誰からも気付かれない妖怪で、長年紅魔館へひっそりと通い続けていたのならば。紅魔館へ人知れず忍び込み、物を盗み出す事だって可能だろう。ここにレミリアの帽子がある事も説明出来る。むしろそれしか考えられない。

 もっと言えば、幻想郷の妖怪たちへ気付かれずに接触する事だって不可能ではない筈だ。無意識に潜めるのなら、認識の外から小悪魔へ近づく事など造作も無い筈だ。であれば、魂を気付かれずに植え付けることだって……。

 

 カチカチと、まるでパズルのピースが噛み合っていくかのような音が、頭蓋の内に木霊する。それは無情にも、考えたくも無い可能性を色濃く浮き上がらせていく。

 

 だが、しかし。

 

「――まだだ。まだ決めつけるには情報が足りない」

 

 これだけでは確実な決定打に成り得ない。まだ解決していない部分は残されている。

 仮に私の妄想空論が正しいとしても、動機が欠片も説明できない。間違いなく、さとりの妹と私に接点なんて無いからだ。面識すらないのであれば、憎悪の火種だって生まれようにも生まれまい。

 それに仙人ですら不可能と言い張った術を成し遂げている点も引っ掛かる。無意識に生きる少女ならば、複雑な理論や法則の理解を必要とする高位魔法を扱うなど、出来る筈がないのだから。

 ざっと考えただけで、こんなに穴が見えてくるのだ。少なくともこの二つの壁をクリアしなければ、断定など夢のまた夢だろう。

 

 しかし、逆に考えると。

 もっと細かく調べ上げれば、そこから矛盾を打ち砕く突破口が見えてくるかもしれない訳だ。

 

「何にせよ、確かめる必要があるか。……さとりとの約束を、破ってしまう羽目になるが」

 

 背に腹は代えられない。最優先すべきは事件の解決であり、私の正体を知る事では無いのだから。

 私は踵を返し、自室と反対側にあるさとりの部屋へと向かった。

 

 

「うーん、それにしても芳香ちゃん、どこに行っちゃったのかしら。お札に呼びかけても反応が無いし、どこかの川に落ちたりなんかしてないと良いのだけど」

 

 ナハトと別れた後の事。青娥娘々は、ふよふよと荒れ地の空を漂っていた。

 お気に入りのキョンシーが、まだ見つかっていないのである。

 

「おーい、芳香ちゃんやーい。はぁ、あの殿方にも逃げられちゃうし、最近ツイてませんわねー……」

 

 半ば面倒くさくなってきたのだろうか。青娥は明らかにやる気の無い声でキョンシー、宮古芳香の名を呼びながら、蚊トンボのように旋回を続ける。

 しかし案外あっさりと、青娥の苦労は報われる事となった。

 草木の一本も生えていない開けた墓地に、見覚えのある人影を見つけたのである。

 

「あっ! あの帽子、あの後ろ姿は間違いないわ。芳香ちゃーん」

 

 ひゅーん、と宙を滑りつつ、青娥は芳香の元へ向かっていく。

 パラシュートで降りたかのように地面へ着地した青娥は、そのままとてとてと芳香の後ろへ駆け寄って、

 

「んもう芳香ちゃん、どこいってたのよ。心配したんですからね?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「芳香ちゃん?」

 




 


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28.「悪の発露」

 吸血鬼ナハトの内に巣食う漆黒の渦の正体。それは、この世全ての終末の元となった概念である。

 

 存在を持つ者であれば、例え無窮の時を生きる神であれ悪魔であれ、等しく終わりが存在する。これはどう足掻いても覆せない森羅万象の理である。

 太古の昔から、意志ある者は死や消滅を恐れ、時には忌避し、時には認識をすり替え、時には死に理由を与え怖れを削いだ。そうやって、彼らは終末と向かい合って来た。

 当然だろう。誰だって自分が無くなってしまうのは嫌だ。至純の恐怖でしかない。それは生命が生まれついて持つ性であり、逃れる事の出来ない運命なのだ。無関心でいられる筈がなかった。

 

 しかしそんな強力な感情や意志は、時として強い力を現世に産み落とす。信仰や闇夜への畏れを糧に生まれる八百万の神々と魑魅魍魎が良い例だろう。

 で、あれば。

 死の恐怖、消滅という概念――遥かな過去から万物へ恐怖を植え続けて来た根源が何かの拍子に意志を持ってしまっても、存在の核を手に入れてしまったとしても、別段不思議なことではない。

 まさにナハトがそれだ。彼が生けとし生ける物へ恐怖の雨を降らせ続け、絶対的な恐れの象徴として君臨したそのワケは、彼を形作る枠組みが、我々一般の妖怪とは大いに異なる根源的恐怖の結晶だったからに他ならなびりびりびりびりびりびり――――――っ

 

「ああああああああもぉぉぉぉ――――――ッ!! 納得のいく答えなんて見つけられるワケ無いでしょうがぁぁぁぁぁ―――――ッ!!」

 

 一週間後にでも目を通せば最後、その痛烈な黒歴史オーラに悶え苦しんで息絶えてしまうだろう妄想(げきぶつ)を綴った紙をこれでもかと言わんばかりに切り裂いて、私は既に紙屑で満杯になっているゴミ箱へと放り込んだ。

 間髪入れずにベッドへダイブ。足をバタバタ。バタバタバタ。ただしこれは甘酸っぱいピンク色のハートに苛まされている思春期的症候群などではなく、私のこの上ない苛立ちの表れに他ならない。

 罪の無い枕へ頭突きを放ちつつ、ぎりぎりと歯を噛みしめて、

 

「あ、あんのファッ●ンヴァンパイアめぇぇ……どこまで私を苦しめるつもりなの!? ただ平和で居たいだけのこの私が、一体何をしたって言うのってはいそうですね、私が口から出まかせ吐いたばっかりにこんな目にあってるんですよね自業自得ですねそうですねバーカバーカうわあああああああああああん!!」

 

 傍目から見れば、今の私はどれだけ異常に映る事だろう。しかしそんなものはお構いなしだ。だってここ私の部屋だし。だからどれだけ暴れても何の問題もないし!

 けれど誤解しないで欲しい。私がこんなにも発狂しているのには、ちゃんとした訳があってのことだ。断じて四六時中ヒステリックと言う訳では無いんだぞ。

 

 閑話休題。

 

 事の発端は大体二週間くらい前の事だ。あんまり細かい日付は覚えていない。

 けれど確かにはっきりしているのは、あの日、私は運命の出会いを果たしたって事だ。もちろん喜ばしい出会いじゃない。むしろ最悪の出会いである。

 そのお相手と言うのが、尋常ではない恐怖を纏い、私の心から平和を嵐のように奪い去った吸血鬼ナハトだった。

 

 あの日私は彼と会合し、どうにかこうにか、傍にいるだけで心が地獄の拷問を受けた亡者の如き悲鳴を上げてしまうナハトを生活圏に近づけないシチュエーションへ持っていく事が出来た。

 

 ただ、その代償が大きかったのだ。

 

 心が読めなかったせいで、私は『覚』にあるまじきミスを連発してしまった。すると彼が私の不自然さを感じ取り、心が読めるかどうかを問いかけて来たのだ。

 焦った。とても焦った。とてもとてもとっっても焦った。

 だって、『覚』唯一の武器が使用不能になっているだなんて超エリート妖怪の吸血鬼さんに知れたりすれば、堪ったものじゃ無いでしょう? 礼儀も何もない野蛮な妖怪相手だったら即蹂躙コースだ。いわゆる薄い本的な展開に引きずり込まれたと思われる。

 流石にそんな事にはならないだろうが、アドバンテージを失う事に焦った私は、図星を突かれて真っ白になった脳髄を必死に働かせて、話題を逸らす為にデマを振り絞った。

 結果、私は何故か彼の内部に巣食う瘴気の源っぽいアンノウンの正体を、ナハトが地霊殿を立ち去る日までに特定しなければならなくなったのだ。

 

 いやほんと。どうしてこうなった?

 

「そもそも、私も私よ! ナハトは最後私に心を読ませまいと止めに来てたじゃない! あそこでビビらず『ワタシは第三の目のピントをずらせるからわざと読まないだけなんだぜへっへーん』で通していれば、こんな事にならなかったのに!」

 

 自分の犯した選択ミスの多さに泡を吹きそうになる。キューティクルなんてクソ食らえな勢いで髪を搔き毟った。

 でも言い訳をさせて欲しい。逃げ場のない一対一のあの状況で、滅茶苦茶怖い人が、目にも止まらぬ速さで手を伸ばしてきてごらん? 間違いなく思考スパーク失禁不可避だと、古明地さとりは思うのです。

 

 ………………漏らしてないからね!

 

「って、こんな事してる場合じゃないわ。早く考えないと」

 

 彼が地霊殿を去る日は未定だ。彼や映姫さんの発言から察するに、何かを終えれば地上へ戻る様だが、それは明日かもしれないし、下手をすれば数時間後にでも楔となっている用事が解決して立ち去ってしまう可能性もあるわけで。つまり悠長な事を言ってる暇は無いワケで。

 

 魚の如くベッドから跳ね上がり、再度机へ向かう。

 新しい紙を広げ、羽ペンにインクを着ける。筆先を紙に添えて、いざ正体の上手いでっち上げシナリオを執筆開始――――

 

「……もうやだぁ。むりぃ」

 

 轟沈。なんだか頭から湯気が出そうな心境である。と言うより、最早頭頂部とかハゲてるんじゃないだろうか。念のため頭部を触る。ふさふさだ。やったぁ。

 ああ無理。ホントに無理。流石に二週間も案を絞り出し続けたら、アイデアなんて欠片も沸いて来ないのです。

 

 そう。あのゴミ箱に積まれた紙屑マウンテンは全部、あの男の正体についてそれらしい妄想と空想を書き散らした、言い訳の結晶たちなのだ。

 

 最初は楽勝だと思った。これでも私は、誤魔化しや誘導、嘘を交えた心理戦に限れば自分の右に出る者はいないと自負している。だからアレの正体なんて、簡単にでっち上げられると高を括っていた。

 

 けれど実際に書き上げて、読み上げて、直ぐに考えを改める羽目になった。

 

 よく考えてみて欲しい。あの吸血鬼ですら未だ辿り着けていない未知の領域なのだ。年齢イコールパワーな妖怪の尺度から考えて、下手をすれば八雲紫さん並みの歳月を生きていても不思議じゃない、あのヴァンパイアが。

 私が思い浮かべた、スカスカな泡風呂の水泡程度の安直で陳腐な発想なんて、とうの昔に発掘されているに決まってる。適当な答えを差し出して嘘がバレたりなんかすれば最悪、『お前は嘘をついた挙句自分に都合の良い条件を一方的に私へ呑ませたのか卑怯者めが首を出せ』な展開になりかねないだろう。つまりゲームオーバーだ。無論コンテニューなど無い。

 

 そんな不安が私の胸に芽吹いてしまい、書いては捨て、書いては捨ての無限ループへ沈んでいったのだ。

 もうやだ。まぢむり。

 

「神話級の魔王様だから格が違う説……は無理あり過ぎ。超凄いパワー説も、ひねりが無い上に彼の発言と矛盾しちゃう。過去に食べた人間の怨嗟が蓄積した説は……それじゃあ他の長寿妖怪たちはどうなるのって話になるし、実は恐怖の根源が存在の核なんです説は与太話って次元じゃない。他には、他には……」

 

 つらつらと、二週間分の妄想が口から洩れては泡沫となって消えてゆく。気分はさながら酸欠の金魚ちゃんだ。

 

「もし嘘だったってバレたらどうなるのかしら……。間違いなく怒るわよね。冷静な人がキレると凄く怖いって言うし、きっと私は箱詰めにされて三途の川へ沈められちゃうんだわ。ふふ、うふふふふふふ」

 

 あの川ってどれくらい深かったんだっけ? などと暗黒の未来が脳裏に生まれては弾け、再び浮かび上がってくる。

 それを、幾らか繰り返した時だった。

 

「おねーちゃんっ! 何書いてるの?」

「わひゃあっ!?」

 

 両肩に衝撃。同時に聞き慣れた声が耳元で炸裂。私の心臓は爆発した。

 不意の一撃に心底驚き、ドキドキと鼓動を止めない心臓を手で押さえながら、私は悪戯っ子の元へ振り返った。

 

「こいし! 帰って来たならもう少し普通に話しかけて頂戴!」

「えー? もう二週間前には帰って来てたよ。なのに全然気付かなかったお姉ちゃんが悪いんじゃん」

 

 ぷんぷんと怒る、薄緑に灰が混じったような髪色をした女の子。頭には黄色いリボンが撒かれた真っ黒な帽子が乗っていて、彼女の挙動に合わせて僅かに揺れる。

 逆立ちしたって見間違えない。紛れもなく私の妹、古明地こいしがそこに居た。

 

「帰ったらまず手洗いうがい、そしてちゃんとした挨拶。いつも口を酸っぱくして言ってるでしょう? そうしてくれないと、お姉ちゃんはあなたに美味しいご飯のひとつも作ってあげられないのよ」

「あ、そうだった。ごめんなさい」

 

 ぺこりと頭を下げる妹。珍しく素直に反省している様子だ。

 こいしの胸元へと視線をやる。相変わらず第三の目は閉じたままだ。そのせいで彼女は心を読めなくなった挙句、自信の心も閉ざして人の無意識を彷徨う妖怪になってしまったのだ。

 だから人はこいしを認識することは出来ない。

 姉である私も含めて。

 

「ところで、こいし」

「なに?」

「最近どう? 何か楽しい事はあった? しばらく日記を見せてくれてないから、あなたの行動が分からなくてお姉ちゃん心配なのよ」

 

 こいしはその特性故、動向を掴むのがとても難しい。はっきり言ってほぼ不可能に近い。

 だから私は、数年前に日記をプレゼントして習慣づけさせていた。日記とは言うが、例えるなら報告書の代わりである。彼女がどこで何をしていたのか、危険な事や危ない目に遭っていないかを把握するために、こいしが館へ戻って来た時、体験した出来事を読ませてもらっているのである。

 

「あはは、ごめんね。日記はもう少し待ってもらえないかな。今はまだ秘密にしておきたい事があるの。時期が来たらちゃんと見せるから」

 

 あっ、悪い事でも危ない事でもないから大丈夫だよ! と指を立てつつ、強調するこいし。まぁこの通り、最近は全然読ませてもらえなくなったのだけれど。

 うーん、やっぱり自分の日記を読まれるのって恥ずかしいかしら? でも堅苦しい報告書を書けって言ってもこの子は放棄するだろうし、むう。何かいい案は無いものか。

 しかし、以前から頑なに私へ見せたがらない秘密ってなんだろう。時期が来れば見せるってずっと言われ続けて、もう数ヶ月にもなる。

 

「……ん? まって、あなたもしかして」

 

 それは唐突な閃きだった。

 キュピン、と私の中の姉センサーに、何か大物が引っ掛かった反応が神経を駆け巡ったのである。

 

 もしやこの子――意中の殿方でも出来たんじゃあるまいな?

 で、時期が来たら『私達結婚します』とか唐突に告白されちゃったりして?

 しかもお相手の横で、照れ臭いながらも幸せそうにお腹を摩るこいしから、甘々な日々を綴った秘密日記を見せつけられちゃったりするのでは?

 

 ……………………………―――――――。

 

 あかん。想像したら血反吐吐きそうになった。

 主に私が妹から先を越されている喪姉の烙印を焼き付けられた可能性と、こんな幼気な子に手を出す男を地霊殿へ迎えねばならない結末を幻視して。

 フッ、フフフ。この古明地さとり、素面でブチギレた鬼やら殺る気百パーセントの紫さんを相手取るならば心の中で号泣しながら耐えられるが、流石にロリコンを祝福出来るほど図太い神経は持ち合わせておらんわ!! 

 

「どうしたのお姉ちゃん。今にも血涙流しながら斧を振り回さんばかりの般若顔して。絵面的に結構アウトだよそれ」

「うふ、うふふふ。こいし、相手はこの第三の目にも適う清廉潔白な人を選んでくるのよ。生半可な人なんて、お姉ちゃん絶対に認めませんからね」

「? 変なお姉ちゃんだなぁ」

 

 こいしは頭上にクエスチョンを浮かべつつ、脳の過労とかこいしの生活とかその他諸々で頭がシェイク状態になっている私をおかしそうにコロコロ笑った。

 その様を見て、ほんの少しだけ気持ちが軽くなる。やっぱりここにいない間にどんな生活を送っているのかは気になるけれど、どうあれ元気でいてくれるのは、姉として嬉しいものである。

 

 こいしもこいしで私と話せて満足したのか、チラリと時計を見やりつつ、

 

「おっと、もうこんな時間。私、お空と約束してるからそろそろ行くね」

「ん、分かった。次に家を出るときは一言言ってから行くのよ?」

「はーい」

 

 パタパタと、こいしは足音を立てつつドアへ向かっていく。

 途中、こちらへ振り替えると、彼女は小さく手を振った。

 

「じゃあね、ばいばい」

 

 その言葉を境に、こいしの姿は私の視界から消え去った。

 ドアは開いているから、出て行ったらしい。元気なのは良いことだけど、もう少しゆっくりしていけば良いのに。

 

「……なんだかあの子、前に会った時より会話がハッキリしてたわね。少しは改善してるって事なのかしら」

 

 ほんの僅かな再会の一時を反芻つつ、ドアを閉める。

 あの子は無意識に従って生きているから、突飛な発言がやや多い。なにせ思考が無いのだ。ところどころ会話が噛み合わない時がある。

 けれどそれが先程の会話に見当たらなかった。喜ばしい兆候なのかもしれない。

 無力な姉で申し訳ないけれど、ゆっくりでも良いから、心が戻ってきてくれる事を祈るばかりだ。

 

「さて、私も続きを頑張るとしましょうか。今ならキングバンパイアを唸らせる、捻りの利いた誤魔化しが思い付きそう」

 

 思いの外リフレッシュ出来たので、伸びをして筋肉をほぐしつつ、いざ執務机へ向き直って。

 ――コンコンコンコン。

 軽快なノックが、私の歩みを縫い留めた。

 

「はい、どちら様」

「ナハトだ。急用ですまないが、一つ相談事があって来た。少し時間を貰えないかい?」

 

 ひょえっ!?

 

 予想外の来客に心臓が鯉の如く跳ね上がる。完全に不意を突かれた私は後ずさり、腰元に机の角が当たってようやく止まった。

 視線が無意識にゴミ箱へと移る。

 そこには例の如く、没案の屍が築き上げられており。

 一際強く喉が鳴って、悪夢を見たかの様な脂汗が吹き出た。

 

「約束したはずなのにどうして……!? あっ。ひょっとして、退出の挨拶に来たのかしら……!?」

 

 だとしたら不味い。ひじょーに不味い。この状態でどうやってアレを釈明すればいいと言うのか。

 無理である。詰みである。王手である。私は死ぬ。QED。

 

「……と、取り敢えずコンタクトレンズを」

 

 言い訳のしようもなく、現実逃避だった。

 目の前の悲劇から目を背けるために、私は引き出しを開き、レンズを取り出して目へ着ける。

 よし、これで瘴気のダメージは大丈夫。後はどうにか頑張るだけだ。

 

 うん、どうやって?

 

 脳内で古明地緊急速報が騒がしく鳴り響く。どう対処していいか分からずあわあわしていると、再び彼の声が聞こえて来た。

 

「約束を破ってしまってすまない。だがどうしても訊ねておかなければならない問題が出来てしまったのだ。あの件を教えてくれなくて構わないから、どうか話を聞いてもらえないか」

 

 ーーーーその言葉は、私にとって天使が吹き鳴らす福音となった。

 噂をすれば何とやらパターンで地霊殿を去る相談に来たのかと肝を冷やしたが、まさかの展開である。しかも私にとって、これは地獄に垂らされた蜘蛛の糸並みに千載一遇のビッグチャンスだ。場所が旧地獄だけに割と本気で御釈迦様の加護なんじゃないかと思わされてしまう。

 

「お待たせしました。ささ、お入りください」

 

 ドアを開け、吸血鬼を招き入れる。超怖いけど自然と笑顔が漏れた。嘘を吐いていた事がバレて首を撥ねられるより、怖い方が百倍マシだ。

 会った当初と同じように席へ着き、私は彼と向き合った。

 

「さて。もうご理解頂けていると思いますが、約束の件は無かった事にしても構わないのですね? 一応契約は契約ですから、人情を掛けるつもりはありませんので悪しからず」

「ああ、大丈夫だ」

 

 快諾する吸血鬼。机の下で密かに拳を握り、ガッツする私。

 以前と言い、今と言い、どうやら私は悪運が結構強いらしい。フフフ、今ならある程度の難題でも、受け入れた上で解決出来そうな気さえするぞ。

 嘘ですごめんなさい。無茶ぶりだけは勘弁して。

 

「それで、相談とは?」

「……君の妹についてなのだが」

 

 ――神経が凍った。

 妹。私の、たった一人の妹。

 何故そのワードが彼の口から出て来たのか、その真意を知る事はまだ出来ない。しかし理由はどうあれ、この驚異的なバンパイアの矛先が妹へ向いているという事実に血液は一気に凍結を始め、瞬く間に私の自由を奪い取った。

 唇が渇く。潤そうとカップへ手を伸ばすが、紅茶を淹れ忘れていたので指先は虚空を切り、行き場を失くした。

 

「こいしが、どうかしましたか?」

 

 紫の眼を見据えながら、声が震えないよう必死に言葉を繕った。たった一言だけなのに、尋ねるのがこんなにも恐ろしい。

 一拍の間が空く。秒針が一つ進む程度の間でしかないのに、無窮の時を過ごしているのかの様な錯覚を覚えた。

 

「確か、以前よく外へ出かけていると言っていたね」

「ええ。フラフラとよく放浪していますよ。私としては心配なので、なるべく家に居て欲しいんですけどね」

 

 それが何か? ――もう一度問いを投げると、彼は懐へ手を入れて。

 

「これを見て欲しい」

 

 可愛らしいナイトキャップを、私の眼前へそっと置いた。

 

「それは?」

「地上に居る私の義娘がいつも身に着けている帽子だよ。何故か、私の自室近くの廊下に落ちていた。身に覚えは無いかい?」

「……いいえ、そんな帽子は一度も見た事が無いですね。それと妹に何の関係が」

 

 言いかけて、私は彼が言わんとしている事を理解した。

 妹は、古明地こいしはよく地霊殿の外を歩き回っている。あの子の日記を思い出すに、地上へ出ていた事もあったらしい。無論地上との条約もあるので止めたのだが、こいしの能力と性格の前に説得など通用せず、そのまま野放しになっていた。

 これが、私に答えを与えた鍵だった。

 地上に居る人の帽子が、地上と最も縁の無い地の底に落ちていて。この場所にその不可解な現象を可能とする人物が居たとしたら、彼が眼を向けるのは致し方の無い事だろう。

 

「誤解しないでほしいが、別に君の妹へ何か危害を加えようとしている訳では無い。それだけは信じて欲しい」

 

 真っ直ぐな瞳を向けて、ナハトは静かに言った。瘴気の他にも、真摯な感情が垣間見えた。

 彼は繋げる。語気を乱さず、冷静に、諭す様な穏やかさで。

 

「映姫から耳にしているかもしれないが、私は地上を追放された身だ。しかしそれは、許され難い罪を犯したからではない。むしろ逆なのだ」

「……と、言いますと?」

「端的に言えば、罠に嵌められた。私を敵視する何者かによって、地底へ行かざるを得ない状況へと追い込まれたのだ」

「…………」

「私は――否。私たちは今、その真犯人の行方を追っている。地上と地底を八雲紫と共に手分けして捜査している最中なのだ。そして微かな手掛かりから、この地に黒幕が潜んでいる可能性が高いことも推測が着いていた。故に私は、地上と関係のありそうな人物を洗っていたのだが」

「待ってください」

 

 思わず、声が荒んだ。それでも静止せざるを得なかったのだ。

 だって、こんなの、止めない訳にはいかないだろう。これじゃあまるで、

 

「まるで、私の妹がその犯人だとでも言うかのような口振りですが?」

「そうは言っていない。ただ、重要な手掛かりを持つ人物だと踏んでいる」

「……」

「何度でも言おう。私は君の妹に危害を加えるつもりなど毛頭無い。ただ少し調べさせてほしい。彼女から、とても重要な手掛かりが掴めるかもしれないんだ。頼む」

 

 そう言って、ナハトは私に向かって頭を下げた。上級妖怪の持つ独特の誇りから考えて、信じ難い光景である。

 ……彼の事は、はっきり言って信用している訳じゃない。むしろ不安要素の塊とすら思っている。だって、彼に関する情報はどれが正しいのか分からないし、内側に変な物を抱えているし、おまけに心は欠片も読めない。これで無条件に信用してしまうのは、流石に判断力不足と言われる他ないだろう。

 

 けれど、その事実に反して納得のいく部分が少し出来たのも事実だ。何故彼がここへ来たのか。何故四季映姫・ヤマザナドゥが一妖怪でしかない彼のサポートを買って出たのか。この疑問が、ようやく氷解の兆しを見せたからだ。

 特に、映姫さんがどうして吸血鬼へ肩入れしているのかがずっと引っかかっていた。彼女は私の知る限り誰よりも平等で、誰よりも公正な人物である。故に映姫さんは、一個人へ強く寄りかかる様な真似は決してしない。それは平等性を欠く行為に他ならないからだ。

 だが例外はある。四季映姫・ヤマザナドゥが唯一親身になって手を差し伸べるケースが、実は一つだけ存在する。

 

 それは、いわれの無い罪を被せられた者達だ。

 

 白は白、黒は黒と裁く彼女は、無実の罪を決して認める事は無い。理不尽と不条理に巻き込まれ、白が黒へと歪められる事を許さない。

 だから彼女は冤罪を被った者に対してだけ、死者も生者も善人も悪人も老若男女も関係なく、自ら救おうと動くのだ。

 

 そうなると、ナハトの発言には納得がいく。むしろそうでなければ、映姫さんが一個人でしかない妖怪にここまで干渉する訳が無いのだ。

 私は彼女の曇りなき黄金の精神をよく知っている。だから、この事実はナハトと言う人物を推し量るうえで、重要な鍵と成った。

 今まで私が抱いていた彼の印象に、亀裂を入れる程度には。

 

「頭を上げてください」

 

 静かに、息を吐く。

 それを合図に、彼はゆっくりと頭を上げて私を見た。

 私は、彼へ答えを告げる。

 

「私はあの子の姉です。あの子にとって、たった一人の肉親です。だから私は、何が何でも彼女だけは守ると誓っています。はっきり言って、私はあなたをあの子と会わせたくない。精神へ異常を与えるあなたを無意識に生きるあの子へ会わせれば、どんな現象が起こるか予測不可能ですから。ようやく改善の兆しを見せつつあるこいしを再び狂気の渦へ落としてしまいかねないと来れば、到底選べる選択肢ではありません」

「……」

「けれど、もしあの子が悪さをしているのであれば、姉として戒める事も役割だと思っています」

「!」

 

 息を継ぐ。

 視線は外さず、言葉を紡ぐ。

 

「あなたはここに来てから二週間、ただの一度も問題を起こさず、私との約束を守り続けました。加えて、あなたはあの映姫さんから直接的な助けを貰っている。これは揺るぎようのない事実であり、あなたを計る重要な物差しでもあります。ですから、ええ。私は今、あなたを一度信じる事に決めました」

「……さとり」

「言ったように、あなたをあの子と会わせる訳にはいきません。ですが会う以外なら、私を同伴した上であの子を調べる事を許可します。それで真実を見極めて下さい。これが絶対条件です」

「いや、十分さ。もしかしたら信じてもらえないとすら思っていたんだ。協力してくれるだけでありがたい」

「私も早く妹の疑惑を晴らしたいのです。その為に協力は惜しみません。しかしあなたも私からの信用を裏切らぬようお願いします」

「誓って」

 

 決まりですね。では早速確認に行くとしましょう――私はそう言って席を立った。

 こいしに会わずにあの子の無罪を証明できそうな場所はただ一つ。こいしの部屋だ。

 彼女が日頃の行動を記した日記も、あるとすればそこにある。

 勝手に乙女の日記を覗くなんて、しかも殿方に見せるなんて姉として最低の行為だが、これもあなたの無実を証明する為だと心の内で謝って、同時に心を鬼にして、ナハトを率いて外へと踏み出した。

 

 何もありませんように。ただ一つの願いが、胸の内に滲んでいく。

 

 

 こいしの部屋は目と鼻の先と言う程ではないが、別段私のところからそう離れていない。なのでナハトの発言に煽られた不安感を御する暇もないまま、私たちはあっさりと辿り着いてしまった。

 ポケットからマスターキーを取り出しつつ、念のためノックする。

 返事が無かったので、そっとドアを開けた。

 

「こいし、お邪魔するわよ」

 

 ナハトにハンドシグナルで待機を促し、まず私が中へ入って確認する。

 ざっと見た限り、こいしの尊厳を踏みにじってしまいそうな物は見当たらない。私は彼の入室を、心の中でこいしに謝りながら許可した。

 

「捜査だとは分かっていますが、あまり邪な気持ちで荒らさないようお願いします。私には直ぐ分かりますので、肝に銘じてください」

「心配無用さ。礼節は心得ているとも」

 

 幸い、まだ私が心を読めない事はバレていない。今はその立場を利用して、釘を刺させて貰った。

 彼がどんな行動に出るかいまいち分からないので、取り敢えず私は彼の挙動を見張りつつ、日記を探す。あの子の日記さえ見つかれば、別に他を物色する必要は無いだろうから。

 ――ああ、そうだ。なら日記を探すよう彼に促しておこう。その方が視点も絞れるし、丁度いい。

 

「あの子には、日頃の活動を日記として留めるよう言いつけています。無意識にフラフラ漂っているあの子が、危険な事をしていないか知るためにですね。まぁ、言ってしまえば日記とは名ばかりの生存報告書の様なものです。それさえ見つかれば、恐らくあなたの知りたい情報は手に入る事でしょう」

 

 目標の特徴を彼に伝える。ナハトは素直にそれを聞き入れ、何やら指で虚空をなぞりながら日記探しに取り掛かった。

 

「……これは」

 

 呟きが耳に入り、其方へ視線をやる。

 部屋の一角に屈むナハトの手には、フリルのあしらわれた可憐で瀟洒な服が握られていて。

 

「間違いない、咲夜の衣装だ。それにこの皿も、本も、紅魔館の物じゃないか」

 

 彼が視線を向ける先には、数多の物体が無造作に積まれた山があった。服、食器、本、帽子など一貫性の無いそれは、どれも私が地霊殿で見かけた事の無い物の集合体である。

 それは彼の発言から、ナハトが元居た場所の物である事が分かった。

 

 冷たい汗が滲む。

 あの帽子だけこいしが偶然持って帰ってしまったのかと思っていたけれど、こんなに沢山見つかったんじゃあ、偶然と呼ぶにはあまりに苦しい言い訳だ。

 同時に、不安も膨らんでいく。

 一歩一歩、真実へ近づいている感触があったからだ。それも、私の考える中で一番あって欲しくない方向へ。

 

 けれど、私が信じなくて一体誰があの子を信じてあげられるというのだろう。

 

 そう思い直し、私は脳裏の暗雲を振り払った。これはあの子が無意識に持って帰ってしまっただけで、ナハトの事件とは何も関係無いんだと言い聞かせる。

 だから、後で精一杯謝って、物を返して、私がちょっと怒られるか痛い目に遭いさえすれば、それでこの件は終わりになる。きっと、その筈だ。

 

 己の胸へまるで自己暗示のように語りかけながら、私はこいしの机へと手を付けた。

 一つしかない引き出しの取っ手を掴み、中身を引っ張り出す。

 予想通り、目的の物が鎮座していた。

 

「ありました。これです」

 

 大きく『こいし』と名が綴られて、端っこに薔薇の模様がワンポイント彩られているだけの質疎なノート。紛れもなく、あの子の日記だ。

 私はそれを手にとって、すぐさま吸血鬼へと手渡した。

 本当は、私が中身を確認してから彼に渡すべきなのだろう。けれど、中身を見るのが無性に怖くて、思わず一番に渡してしまった。もし決定的な事実が書かれていたら――そう考えると、この吸血鬼の隣に立つよりも妹の日記を覗く方が、今の私にとって何十倍も恐ろしかったのだ。

 

 彼はありがとうと受け取ると、促されるまま紙を捲った。

 淡々と、淡々と。ページを捲られる音が、一定の間隔で静寂を揺らす。

 

 しかしノートの半ばまで辿り着いたところで、彼の指は動きを止めた。

 

 いや、止めたと言うよりも、止まったの方が正しいかもしれない。

 視線も、筋肉も、骨格も、何一つが動作していない。完全な活動停止に陥っていて、傍から眺めていた私はその異様さに眉をひそめた。

 

「どうしました? 何か気になる事でも?」

 

 沈黙に耐え切れなくなって、恐る恐る声を掛ける。

 その一声が、彼を呼び起こすスイッチとなった。

 次の瞬間、ナハトはまるで数千年の眠りから覚めた機械のように、突如凄まじい速さでページを弾き出したのだ。

 傍観してる立場からすれば、とても文章を読み取れるスピードではない。しかし彼の眼球は捲られる紙の速さに対応し、ぎょろぎょろと紙面を読み取っていた。

 

「何てことだ……!」

 

 歯ぎしりが聞こえてきそうなほど顎に力を入れる彼の視界に、もはや私は一片も写っていない。いや、もしかしたら思考の片隅からも消されているのかもしれない。

 そう確信させられるまでに、ナハトの表情は窺い知れない一点の感情に引き絞られ、まさに鬼気迫るものへと変貌を遂げていたのだ。

 震える声で、彼は声帯から言葉を絞り出す。

 

「まさか、こんな事が……いや、馬鹿な、有り得る筈がない……!」

「あの、一体何が書かれて――――」

「全て罠だったのだ」

「は?」

 

 まるで状況が掴めない私が問いかけても、返ってくるのは、更に謎を深める言葉だけで。

 

「私は、思い込んでいたのだ。()()()()()()()()()()()() それすら罠だったのだ。ああなんてことだ、なんという悪運か! 侮っていたのは、真に間抜けなのは、私の方ではないか……!!」

 

 バサッ、と音を立てて、日記が床へ無慈悲に落ちる。日記を掴んでいた彼の両手は震えており、二つの瞳は焦点の在処を探していた。

 どんな事があっても崩れなかった異常なまでの冷静さが、蝋燭の火のように吹き消されている。心を読まずとも一目瞭然だった。まるでかつての死人が目の前で蘇ったかのような、驚天動地の反応に他ならなかった。

 

 ナハトは右手で顔を覆いながら、大きく後ろへよろめいた。指の間から覗く紫眼は、眼前に立つ私を写してはいない。

 

「全てが奴に味方していた……! 小悪魔だけじゃない。魔理沙も、風見幽香も、東風谷早苗も何もかも、あの場に居た者達は、全て掌の上だった訳か!」

「ちょっと待ってください、まるで話が読めません! 吸血鬼ナハト、あなたは一体何を見たのですか!?」

「ああ、まんまと騙された。四年前の()()が始まりだった。無意識に選択肢から除外していた。その時点で、貴様の保険は順風満帆の軌道へ乗っていたのだな!」

「ナハトっ!!」

「さとり、君の妹が()()()()灼熱地獄はどうすれば行けるんだ!?」

 

 ナハトは突然私の肩を掴み、血走った眼で私を問い詰めた。

 何故こいしの行先を知っているのか――私の疑問を彼へぶつける隙などあるはずもなく。

 

「お願いだ、教えてくれ! 急がなければ、取り返しのつかない事になる!」

「それは、どういう」

「説明している暇はない! 時間がないんだ、答えてくれ、頼む!」

 

 ――有無を言わせぬ迫力が私の唇をこじ開け、ゆっくりと言の葉を導き出す。

 私のペットが、いつも頑張って番をしている、地霊殿真下の空間を。

 

「灼熱地獄は、地霊殿エントランスのちょうど真下にある空間です。あそこは一見床のようでいて、実は灼熱地獄へ通じる通り道でも――」

「ッ!!」

 

 最後まで、彼が耳を傾ける事は無かった。

 暗黒の空間が彼の背後に現れたかと思えば、ナハトは躊躇なくその穴へ身を投じ、姿を消したのである。

 空間転移の術だと直ぐに分かったが、しかし、穴が完全に閉じるまで微動だにすることが出来なくて、ただ穴の収束を眺めるのみで。

 空間の穴が姿を消して、漸く私は自我を取り戻した。

 

「吸血鬼ナハト……あなたは、一体何を見たの?」

 

 取り残された私は、ちらりと放られた日記へ目を向けて、恐る恐る手に取った。

 彼が読んだ場所と思わしきページを思い出しつつ、私は書物へと目を通し、

 

 

 

 言葉を、失った。

 

 

 

 ナハトはこれまでになく狼狽していた。未だかつてない焦燥感が全身を焼き焦がし、是が非でもさとりの妹、古明地こいしを見つけ出さねばならないと、奥歯を砕かんばかりに噛み締めていた。

 

 原因は言うまでもない。さとりから渡された、古明地こいしの日記帳である。

 あの簡素な日記には、ナハトの探し求めた事件の黒幕が――真の邪悪の正体が、はっきりと記されていた。

 ただしそれは、考えうる限り最悪の形で現れたと言っていい。かつての記憶を掘り返し、フラッシュバックとしてナハトへ叩きつける程の、強烈な事実として。

 

 全てを理解したナハトは、一刻も早くこいしを見つけ出さなければと駆け出した。急がなければ()()()()()()()()()()と、百%の保障を持って確信したからだ。

 

 空間転移の先は地霊殿のエントランス。正門を潜り、豪奢な扉を開けた先に広がる地霊殿の顔である。絢爛なシャンデリアが照らす床は、よく見ると幽かに透き通って見える不思議な材質で出来ていた。

 と言うのも、この下には地霊殿とはまた別の空間が広がっているからだ。

 そう。この床は地霊殿の出入り口であるとともに、遥か彼方のマントルに存在する灼熱地獄へと通じる唯一の窓口なのである。

 

「ここか」

 

 ナハトは瞬時に床とその先にある空間までの座標を計算。再び魔法で空間へ穴を穿つと、その中へ我が身を放り投げた。

 果ての無い円柱状の空洞がナハトの前に姿を現す。端を視界で捉える事の出来ない地の底には仄かな紅蓮が燻っていて、膨大な灼熱地獄の熱量は、相当な距離に居る筈のナハトにまでしっかりと届いていた。

 周囲を見渡す。影は無い。

 

「となれば、下か!」

 

 大腿へ魔力を集中、強化。吸血鬼は爆芯と化した剛脚を放ち、まるで足場として扱うように空気を蹴り飛ばした。

 凄まじい炸裂音が発生し、瞬く間にナハトは閃光となる。天狗に匹敵すると言われる吸血鬼のスピードは伊達ではなく、物理法則を完全に無視した躍進を見せ、あっという間に地の底へと辿り着いた。

 

 ナハトを出迎えたのは、金属で出来た足場だった。

 態勢を整えながら、そのまま勢いを押しとどめつつ着地する。

 灼熱地獄を管理する上で必要な連絡橋か、その類なのだろう。頑強な足場はミサイルの如きナハトの落下衝撃を見事に支えきり、轟音を地底空間へと伝えていった。

 すぐさま顔を上げて、吸血鬼は周囲の状況を確認していく。

 

「古明地こいし!」

 

 名を叫ぶ。

 しかし、答えを返す声は無く。

 

「どこだ、どこに……」

 

 ぐるぐると、視点を切り替えていく中で。

 ピタリと、ある一点に目を止めた。

 視線の先には二つの影。

 片や大きな両翼を持つ、胸に紅蓮の眼玉を持った、奇妙な風貌をした少女。

 片や黄色いリボンの巻かれたハットを被る、どこかふわふわとした雰囲気の少女。

 

 翼の少女は、何故か尻餅をついていて。

 ハットの少女は、光球を携えた手のひらを翼の少女へ向けていた。

 

 ハットの少女の胸元に、見覚えのある物体が一つ。

 それは色こそ違えど、さとりと同じ第三の目に他ならず。

 認識した瞬間、ナハトはハットの少女目がけて全速で飛びかかった。

 

「こいし……!」

 

 光弾から翼の少女を庇う様に挟まりながら、逃がさぬよう華奢な肩へ掴みかかる。逃がしてはならぬと力を籠める。

 だがこれで決着ではない。まだもう一つ、踏むべき段階が残っている。

 日記から得た、受け入れがたき真実。それを元に行うべき、古明地こいしの救助法。

 即ち、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「私の眼を、見るんだ」

 

 ハットの下。癖のある前髪に潜む深緑の双眼。

 魂を見透かす吸血鬼の魔眼が爛々と輝き、二つの宝石と重なって。

 

 

 

 だが。

 

 

「!?」

 

 ナハトの瞳が写したものは、空虚ながらも僅かに色を湛えた、さながら果てなき青空の様な心象風景だった。

 しかし、そこに在るはずのどす黒い姿はどこにも無く。

 と同時に。ナハトは自分の脳髄が開けていくような、爽快感にも似た錯覚を覚えた。

 思考がうねる。何もかもを巻き込む激流の様なスピードで。

 

 この二週間、一度も見かけなかった紅魔館の失くし物を、今になって発見できたのは何故か?

 黒幕(ヤツ)にとって正体を明かされる切り札となる日記帳が、ああも見つかりやすく保管されていたのは何故か? 

 ナハトが読んだ日記の最後に、灼熱地獄へ私は居ると言わんばかりの文が綴られていたのは何故なのか?

 

 パズルが完成し、深淵の理解を得たヴァンパイア。

 だが、もう遅い。

 

「――――」

 

 それは絶叫だったのか、はたまた、けたたましい笑い声だったのか。最早どうでも良い事だった。

 ただ、ナハトの背後から熾烈な声が炸裂したかと思えば。

 ぞぶり――と、生理的嫌悪感を催す音がして。

 吸血鬼の胸元から、華奢な腕が生々しくそびえ立ったのだ。

 粘質な赤でてらてらと光るその腕は、まるで心臓を穿つ杭のよう。

 

 

「やはり貴様は変わらんな。私と言う悪意の理解がまるで足りていない。だからこうして、先手を愚かにも許すのだ」

 

 

 腕の持ち主の声が聞こえた。

 甘く、冷酷で、どこか威厳を匂わせる、覇気と瘴気に満ちた邪悪の声。

 それは忘れる事の叶わぬ声で。忌まわしいまでに脳髄の奥底へ染みついた、純黒の記憶の再臨で。

 四年前。確かに自らの手で葬った、紅き悪魔の囁きで。

 

 ごぼりと、口から赤が溢れ出た。

 

「貴様、()()()()()()()()()()ッ――!」

「ああ、推測通りだよ。だがそれは私にとっても同じ事さ。こいしに襲われている体を装えば、貴様は必ず()を庇うと思っていた」

 

 胸を貫いた手の持ち主、霊烏路空が、ナハトの背後で語り掛ける。

 ――いや。いいや。それは最早、霊烏路空などではない。

 彼女ではない声で。彼女ではない引き裂かれた笑みを浮かべて。彼女ではない怨念をその眼に燃やして。

 怨讐の化身は、叛逆の狼煙を焚き上げた。

 

()()()()。しかしこの時を待っていたぞ。それは首を長くして待ちわびた! この一瞬を、気が狂うほどにな!」

 

 どす黒い絶叫と共に、それは起こった。

 胸を貫く少女の腕が赤熱していく。血肉は輝き、なお輝き。膨大な熱が蓄えられ、忌まわしき光となって顕現した。

 それは、吸血鬼を滅ぼす聖なる焔。

 霊烏路空に宿る太陽の化身、八咫烏が放つ神の炎。

 

「だが悲しいかな、これでさよならだ。我が宿敵!!」

 

 瞬間。一個の太陽と化した悪魔の腕は、吸血鬼を無慈悲にも内側から焼き滅ぼした。



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29.「無痛の恐怖」

 爆炎が猛る。閃光が破裂する。

 灼熱が蹂躙し、肉を、臓器を、骨を、神経を溶かし尽くしていく。

 (うつほ)の腕から放射された陽の輝きは吸血鬼の肉体を瞬く間に破壊し、炭化するにまで追い詰めていった。

 ナハトの全身にヒビが走り抜け、そこから赤熱した光が漏れていた。さながら爆発寸前の榴弾のように、四肢や貫かれた胸を始め、あらゆる部位から炎が噴き上がっていく。

 

 猛炎をメロディに死の讃美歌を口ずさむは、霊烏路空を乗っ取った怨念で。

 

「ははははっ! 絶体絶命とはまさにこの事だな! さぁ、どうするナハト!? 幾ら不死身の貴様とて、太陽を相手に吸血鬼の身で耐えられるか!?」

 

 スカーレット卿の、愉悦を含んだ泥のように粘質な笑い声が響き渡る。一切の容赦も手加減も無く、陽光の力を吸血鬼へと注ぎ続ける。

 ナハトの左眼球、口頭からも火柱が上がった。あまりの熱量に最早燃えるという過程を通り越し、骨肉が灰と化し始めている程だった。 

 しかし、それでもナハトは形を崩さず、どころか倒れる事もない。純粋な恐怖の化身であり、太陽とは最悪の相性である筈の吸血鬼が、体の中から陽の光を破裂させられてなお耐えていた。

 パチュリー・ノーレッジが作り出した、ネックレス型の対日光用マジックアイテム。本来それは外からの日射を防ぐものであったが、装着者たるナハトの中から発生した光が、対日輪魔力によって思いもよらず食い止められていたのである。

 

 ぐるん。ナハトの首が回転する。

 残った紫の右眼は苦痛に歪む濁りすら見せず、さながら狙撃銃の照準装置の様にスカーレット卿の瞳を捉えた。

 瞬間。ナハトを焼き焦がす卿の頭上に、十五の黒剣が出現した。

 肉を裂かず、魂のみを切り裂く幽世の刃が間髪入れずに放たれる。しかし平常時より遥かに遅い。攻撃を見越していたのだろうスカーレットはあっさり腕を引き抜くと、太陽の力でグラムを焼き尽くしながら後退してしまう。

 

 しゅうしゅうと、黒い煙が龍の如く噴き上がる。

 煙の中心に立つナハトは、振り返ってスカーレット卿と対峙した。

 焼死体が如き有様でありながら、その顔面を覆うのは苦痛ではなく、複雑怪奇な感情のそれで。

 

「スカー、レットッ……!」

「ほほう、流石の生命力だ。いや、ここは精神力と讃えるべきか? 太陽で全身を焼き滅ぼされておきながら、苦悶に喘ぐこともなくまだ立つとは。いいぞ、それでこそッ! 長年積もらせてきた怨念をぶつける甲斐があると言うものだッ!!」

「ッ!!」

 

 刹那。千紫万紅の光が交錯した。

 片や、闇を滅ぼす日輪の煌めき。片や、魔剣の銘を冠する暗黒の魔力剣。

 だが、勝敗は眼に見えたものだった。

 相性は最悪。更にコンディションも最悪と来て、追い打ちをかけるように先手を打たれたナハトの放つ剣の力など、もはや語るまでも無い。

 対してスカーレット卿は未だ健在。しかも火に対する水のような優勢ぶりとくれば、彼が力負けする道理など微塵も無く。

 

 徐々に光弾へ対抗する刃の生産が追い付かなくなり、じわじわと、ナハトの体に風穴が生まれていった。

 右肩。左脇腹。左腕。右足。

 削げて。穿たれて。抉られて。貫かれて。

 少しずつ、しかし確実に、ナハトの肉体は崩壊を迎えていく。

 

 やがて、眩い光は線香花火の最期の様に収まった。

 残ったのは、耐久力の限界を超え黒炭の塊と化し膝をつく吸血鬼と、最後の一撃を放たんと左腕をかざすスカーレット卿のみ。

 しかし彼は、いつまで経っても必殺を放とうとはしなかった。

 

「……なんだ。その塩を振りかけられたナメクジのように無様な姿は」

 

 愉悦から一転。口元を不愉快の形へ歪ませながら、かつて吸血鬼だったものは吐き捨てた。

 失望の表情が浮かぶ。言外に、こんな予定ではなかったとでも語る様に。

 

「どうした。たかが日照で焼き焦がされた程度で何故再起不能になっている? いくら八咫烏の力とて、私もまだ完璧に操れていないのだ。元来吸血鬼の魂は神霊との相性が最悪だからな、霊烏路空を介さねば操作もままならん。威力は元来のものより数段劣るだろうよ。なのにあっさり瀕死になってどうするのだ……? ほら、さっさと肉体を再生させて立ち上がれ。構成を変異させて絶望の権化と化すがいい。あの魔剣を展開して、私を追いつめるべく奮闘してみせろ」

「……」

「貴様の力はその程度では無いはずだろう? 化け物」

 

 体の自由を奪われながら、しかし残った瞳で邪悪を睨むナハトに付き合っていた彼は、暫くして薄く息を吐きだした。

 

 ゆっくりと、左手が降ろされていく。

 

「これが、かつて私を追いやったナハトなのか?」

 

 灼熱地獄の天蓋を仰ぎながら、スカーレット卿は乾いた失笑を零した。

 

「違う。違う違う違うッ!! そうじゃあないだろうナハト? 貴様はもっと絶対的で、絶望的で、太陽の力を使っても敵わないとすら錯覚させられる、吸血鬼の範疇を超えた真正の怪物だった筈だ。神々すらも恐れ慄いた、妖怪なんて枠組みに当て嵌まらない純黒の魔王だった筈だ。なのに何だそれは? 拍子抜けにもほどがある。お前があのナハトなのかと信じられない程度にはな」

 

 唾を吐き散らす程の、熾烈な怒号だった。

 単純な憎しみでは到底語り尽くせない、濁りに濁った感情が、吸血鬼だった男の言葉から垣間見える。

 ナハトもまた、哀れみとも怒りとも、呆れともとれない声で、

 

「……お前も、十二分に怪物だろうさ。スカーレット」

「うん? おお、喋るまでに気力が戻って来たか。いいぞ、その調子だ。まだまだこの程度の蹂躙では、我が恩讐が朽ちる事など――」

「貴様、自分の魂を一体幾つに()()()()()()()

 

 ゆっくりと、ナハトの体が起き上っていく。

 膝を立て、よろめきながらも、もはや焼けただれた肉塊となんら変わらない体を動かしながら。しかし悪魔へ立ち向かう。

 その様子を呆然と眺めながら、鮮紅の悪魔は下卑た笑いを浮かべて言った。

 

「さぁ、どれほど分けたことやら。三か、四か。ひょっとすると十かもしれんな。貴様は適当に切り分けたケバブの合計をいちいち数えるのかね?」

「……やはり、お前は怪物だよスカーレット卿。分霊として分けるのではなく魂を細切れに分割するなど、正気の沙汰ではない。一度や二度であればまだ許容範囲だが、それ以上と来れば、並みの者なら自我を保つことすら困難な筈だ。それを怨念の一つでやってのけたお前は、まさしく最()の名にふさわしかろう」

 

 自らの魂を劣化コピーさせた分霊ならば、元々魂が希薄な吸血鬼でも十分可能な方法である。事実、フランドールはそれを応用した分身を得意とする吸血鬼だ。

 しかし彼のとった手法はまるで別物である。この世に一つしかない唯一無二の魂を何度も何度も引き裂き、細かく仕分けて分別、しかも各々に独立した自我(スカーレット)を発芽させる邪法を取ったのだ。不死を求めた魔法使いの成れの果て――リッチと呼ばれる外道の様に、いや、それ以上に魂を細分化させて、尚且つ己の意思を紡ぎ続けていたのである。

 

 正気なんて保てるはずがない。全く同じ自我が複数存在し、それを同一の魂魄がまるで無線で繋がっているかのように共有してしまう事はおろか、全ての感覚もまた繋がってしまうのである。

 あのナハトが葬ったスカーレット卿だって、紛れもなくスカーレット卿なのだ。彼が浴びた苦痛や絶望を、このスカーレット卿も身をもって味わった筈なのである。

 それがどれ程の恐怖で、どれほどの苦悶だったか、推し量る術はない。しかし彼らは終末の暗黒を体験してなお、長い時の中、ひっそり闇の下で息を潜めていた。

 誘惑の蛇が可愛らしく思える程の執念深さ、もはや狂気に匹敵する怨念。

 これを、狂っていると言わずして何というのか。怨讐を燃料に、狂気の外法を用いて、再びナハトの前へ舞い戻って来たのが何よりの証拠だろう。

 

 分かっているだけでも、五百年前に自害した卿と、フランの中に巣食っていた卿、そして目の前の彼で、三分割している事になる。

 だが、事はそんな生易しい次元の話ではない。

 もっと、もっと悍ましい真実が、スカーレット卿の手の内に内包されているのだ。

 

「正気の沙汰ではない? 何を当然のことを口にしている。元より正気ではないのさ。我が覇道が、貴様への怨念一筋に塗り潰された時点でな」

「……」

「ああ、それと、だ。多分お前の想像通りに事は進んでいるぞ。順風満帆、異常なし。今すぐにでも無法刑務所の酒池肉林より汚らしいカーニバルを始める事が出来る」

「……ッ!」

「そうとも。()()()()()()()()()

 

 ナハトの色を失った顔から、更に血の気が失せていく。計略の悍ましさと、それに気づく事の出来なかった自身の無能さへの自責が、ナハトの奥歯を砕かせた。

 

「くっ。ふふふ、良いな、その表情。薄汚れた絶望と怒りが混じり合って、腐りかけの豚の様に醜い。無力で、滑稽で、そそられる良い顔だな。心が安らぐ」

「……お前の立てた計画など無意味だ。スカーレット」

「……はぁ?」

 

 発言が本気で理解出来ないと言わんばかりに、スカーレット卿は素っ頓狂な声を上げる。ぱちぱちと瞬きを繰り返した。

 ナハトは続ける。肉を作り直し、もはや不要となった炭の皮膚を棄てながら。

 

「太陽を操れるお前なら容易く私を倒せるだろう。何せ、この身はどういう訳か弱体化の一途を辿っている。魔力も、肉体の再生能力も、かつての十分の一も無い。四年前の様にはいくまいよ。恨みを晴らしたければ、思う存分に嬲って殺すが良い」

「――」

「だがその先は無いぞ、スカーレット卿。幻想郷にはその力を持ってしても到底立ち向かえない猛者は山ほどいる。断言しよう。例え私を排除出来たとしても、お前の思うままに進むことは決してない」

「――――ハッ」

 

 ブーツの音を奏でさせ、スカーレットはナハトの元まで歩み寄る。口角を釣り上げ、歯を剥き出しにしながら、狂犬の如き表情で。

 両者の距離が、僅か数メートルも無くなった、その時だった。

 スカーレット卿は突如光弾を打ち放ち、ナハトの四肢を打ち砕いたのだ。

 

「何も分かってないな、宿敵」

 

 体の支えを失ったナハトは、崩れた模型の様に転がった。

 

「そんな事、とうの昔に知っているさ」

 

 無抵抗の吸血鬼を、なんの容赦も無く踏みつける。

 鈍く、重い、ナニカが砕ける音がした。

 

「この四年間、私が情報収集を怠っていたと思うのか?」

「……っ」

「紅魔館の吸血鬼。妖怪の賢者。永遠亭の蓬莱人。一騎当千の四天王。妖怪の総本山。百花の大妖怪。緋想の娘。楽園の巫女に普通だが底知れぬ魔法使い。……ああ、幽世を含めれば亡霊姫に彼岸の裁判長もか? とにかく、仮にこれらを相手にして私が勝つ可能性など、万に一つも有り得んよ。自分の限界程度、とっくに把握している」

「理解した上で……っ、暴虐を止めぬと宣うか」

「無論だ。退路なき今、前進あるのみ。果ての無い行軍と同じさ」

「そうまでして、何が目的だ。あれほど滅びに怯えていたお前が、どう足掻いても終末の未来を逃れられないと知って、なお何を望むのだ……?」

「知れたこと」

 

 足を退け、スカーレット卿はナハトの髪を無造作に掴み取ると、ガラクタを扱う様に引き摺り上げた。

 紫と、漆黒の瞳が交差する。

 

「お前の絶望が見たい」

 

 黒曜石のような眼の中で、それを塗り潰さんばかりに燃え盛るどす黒い怨念の炎があった。

 およそ少女のものとは思えない、顔面の筋肉を引き裂くような狂気の笑顔が、ナハトの視界一面に咲き誇る。

 

「貴様が憎い。私の全てを奪い去り、破壊し尽くしたお前が心の底から恨めしい。我が覇道を捻じ曲げた貴様の存在が、天地が覆っても許せない」

「――――スカー、レット」

「ただ嬲り殺すだけでは足りん。貴様には無間地獄の闇よりも深い艱難辛苦を味わわせねば気が済まんのだ。だからずっと機会を待ち続けていた。暗い宝物庫の中で四年――――いいや。五百年間も、ずうっとな。そしてようやく時は来た。我が積年の憎悪で貴様を焼き滅ぼす、最高のチャンスがやってきたのだ!」

 

 だから、それに見合う最高の舞台を用意してやる。スカーレット卿は下卑た笑みを浮かべた。

 

「一つ……逆転劇のターニングポイントをくれてやろう。かつてお前が私に無用な情けをかけた様に、もう一度だけ私を止めるチャンスをくれてやる。態勢を整え、再び私を滅ぼしに来るがいい。もし止められなければ、お前が心底大事にしているあの館が地図から消えて無くなると思え」

 

 ――それが、ある種の引き金となった。

 闇夜の暗黒が四肢を失ったナハトを覆う。紫の瞳は不気味な輝きを放ち、空間を歪ませるほどの魔力が四方八方に炸裂した。

 ナハトの胸部――スカーレット卿が空けた大穴から、グラムが瞬きをする間もなく放たれたのだ。

 それだけではない。ナハトの全身に針のようなものが生じると、まるで炸裂弾の如く全方位に向けて放射されたのである。

 

「ッ!?」

 

 間一髪。まさに須臾の判断だった。

 紅蓮の炎がバリアを展開。八咫烏の力の前に暗黒はたちどころに消滅し、雲散霧消の結果に終わる。

 ナハトの細やかな抵抗は灼熱地獄と地霊殿を繋ぐ天蓋を割ったのみで、呆気なく終幕を迎えてしまった。

 

「……なんだ。紅魔館の話になった途端、随分いきり立つじゃあないか。どこまでも油断の出来ん奴め」

 

 スカーレット卿は今度こそ力を失くしたナハトを引っ掴むと、鉄橋の端にまで引き摺りながら運んでいく。

 手を離せば灼熱地獄の底へ落ち行くギリギリまで、彼は吸血鬼を追いやって。

 

「太陽以外では有効打にはならないんだったか? ならばこんな溶岩(もの)、貴様にとってただの温泉も同然であろう。聞きしに勝る地獄の名湯だ、ゆっくり浸かって疲れを癒してくるがいい」

 

 手を、離した。

 墜落の末を見届けはしない。スカーレット卿は、ナハトと言う怪物の恐ろしいまでの不死性を知っている。

 踵を返し、スカーレット卿は腕の制御棒の様子を確かめながら、

 

「行くぞこいし。最後の仕上げには、まだ君の力が必要だ」

「…………」

 

 今まで声を上げる事も無く、何か行動をする訳でもなく、ただ俯いているこいしに向けてスカーレット卿は囁いた。

 反応は無い。少女は床にのみ顔を向けている。

 スカーレットは空虚な表情のまま、こいしの傍へ歩み寄った。

 

「どうした? そんな不安そうな顔をして」

 

 肩を叩く。

 邪悪に似つかわしくない優しい光が滲み、こいしの肩へ染み込んでいく。

 

「まさか、今更になって躊躇しているんじゃあ、あるまいね?」

 

 忍び寄るように、這い寄る様に、囁く。

 甘く、甘く、耳にする者の心を解きほぐす様な、快楽すら孕む魔性の声で。

 

「私は無意識に潜むだけの君に、そして君の力に、新しい方向性を与えた。心を閉ざしたまま自我を得る矛盾だって解決してみせた。するとほら、よく考えてごらん? この先私が果てたとしても、君にだけはハッピーエンドが約束されているじゃあないか。だって、もう無意識に振り回される事も無く、お姉さんに心配を掛けなくても良くなったんだから」

「……」

「怖がらないで……大丈夫。安心しなさい。何も恐れる事は無い。君は既に勝利を約束された身なんだ。だから何の不安も抱く必要は無い……この墓場へ向かう私の手助けをほんの少し、あとちょこっとだけしてくれればいい。それだけで、君の日常は再び戻って来るんだよ」

 

 時が流れていく。たった数拍の合間なのに、それが永劫の様にさえ思えてしまう。

 古明地こいしは俯いたまま、注視しなければ分からないレベルでこくりと首を縦に振った。

 打って変わって、『よろしい』と爽やかに悪魔は笑う。

 

「これで役者は揃った。ならば次は晴れ舞台だ。白玉楼へ向かうとしよう」

 

 

 ――――保険? 違うな、本命だよ。

 

 かつて、邪悪の化身は(うそぶ)いた。

 ある吸血鬼を欺く為に、己が血を分けた娘の肉体へ魂魄の断片を移植し、時を経て復活する計画を。

 裏を返せば、()()は他に用意してあるのだという事を。

 

 ――――私が隠した館の財宝の在処も教える!

 

 かつて、追い詰められた真性悪魔は絶叫した。

 たった二人の吸血鬼と友人の魔法使い、そして幾人の従者だけが住む館に、己しか知り得ない隠された場所があるのだと。

 それは即ち、水面下の罠を仕掛ける事も可能な場所が確かに存在しているのだと。

 

「――――」

 

 使い魔が熱波に焼かれたせいか、映像が途絶えた水晶玉は、吸血鬼姉妹と興味本位で覗いていた魔法使いへ、天変地異が如き衝撃をもたらした。

 

 間違える筈もない。間違えるなんて有り得ない。

 レミリアとフランドールの実父であり、かつてナハトを出し抜くために自らの死すら偽装して、万物万象の支配を目論んだ男。

 四年前、ナハトの手によって魂を粉微塵に砕かれた、今は亡き吸血鬼の王。

 

 そう。あの時確実に、彼は絶命したはずだった。輪廻の輪に加わる事すら許されず、死よりも恐ろしい裁きをもって、永劫の終幕を迎えたはずだったのだ。

 レミリアも、パチュリーも、確かにその光景を焼き付けていた。忘れるなんて出来やしない。今でもその最期を、その消滅を。さながら現像したての写真のように鮮明に、脳裏で容易く再生できる。

 

 スカーレット卿。鮮紅を意味する気高き(うじ)を、自らの銘とする暴虐の悪魔。

 四年前の静謐な夜、絶望の嘶きと共に葬られたはずの男が今、あの時の様に少女の肉体を乗っ取り、吸血鬼ナハトを焼き滅ぼした。

 絶句。ただそれ以外に、現状を説明する言葉は無く。しかし傍らの妹君は、血と生気の抜けきった二人を前にうろたえる事しか出来なくて。

 

 レミリア・スカーレットは、椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がった。

 

「そんな……っ!? まさか、何で、どうして……!?」

「お姉様――――――」

「……有り得ない、有り得ないわ。こんなっ、こんな事って……!?」

 

 動揺し、自問自答を繰り返すレミリアの言葉を繋いだのは、文字通り頭を抱えている七曜の魔法使いだ。

 冷静沈着で、紅魔館の頭脳とさえ謳われた少女は、普段の穏やかさが嘘のように語気を荒げながら、震える唇を抑える様に親指を当てて、驚愕から眼球を揺らした。

 彼女らの胸で荒れ狂うは、この直視し難い現実に対してだけではない。

 それは、もっと別の場所から湧き上がっていた。

 

「なんで――――()()()()()()()()()()()()()()()() 紅魔館を知り尽くしていて、西洋の魔法に長けていて、吸血鬼の因子を匂わせて、おじ様に憎しみを持つ人なんて――あの方しか有り得ないのにっ!! それなのに、頭の片隅にすら浮かばなかったなんて!!」

 

 

 これは実に簡単な事件だった。簡単で終わるはずの事件だった。

 

 

 高位西洋魔法の痕跡。吸血鬼と類似した魔力残滓。複雑怪奇な紅魔館への理解。

 そして、ナハトを害する真っ当な動機を持つ人物。

 これだけ的を引き絞れて、見えない獲物など存在するはずが無い。

 

 確かにスカーレット卿は紛れも無く故人だ。魂を木端微塵に砕かれたあの夜の出来事は、どこも疑いようのない真実で、覆す事の叶わない過去である。

 だがそれでも、疑う余地は必ずあった。死者だとしても、何らかの起死回生の一手を残しているのかもしれないと、訝しむ余白はどこかにあった。なにせ五百年近い時を魂の欠片として潜伏し続けた悪魔なのだ。想像を絶する狡猾さを視野に入れれば、どこかで真実の糸口を見つけられたかもしれない。

 

 それを、レミリア達は見つけ出す事が出来なかった。認識する事さえ叶わなかった。

 あからさまな異物を疑う事もなく、彼女たちは過去の事実に()()しきっていた。そんなことはあり得ない――とすら思っていない。完全に選択肢の中から除外していたのである。

 しかし、それは決して彼女たちの推測能力が足りなかったからではない。五百年以上を生き抜いた吸血鬼と賢人たる魔法使いが、そんな些細な失態を犯すなんて有り得ない。

 

 ならば何故彼女たちは、水面下の脅威に勘付く事すら出来なかったのか?

 

 最早言うまでもない。そうなるよう仕掛けられていたのだ。レミリア達の目が、真っ先に疑うべき対象から百八十度背くように。路傍の石ころは端から相手にしないような感覚で、無意識の内に視界の隅から消し去ってしまうように。

 

「……思考の断片にすら掠りもしなかったのは、私も同じよ。日記(アレ)を見る限り、そうさせられていたんだわ。認めたくないけれど、予想だにしないミスディレクションだったのよ、レミィ。けれどお蔭で合点がいった。ずっとずっと頭の中にかかっていた靄の正体は、これだったって訳……ッ!」

 

 パチュリーはナハトが謎の襲撃に遭ったその日から、脳髄の表面に煤の如き異物がへばりついている様な、表現しがたい違和感をずっと抱えていた。

 視界に曇りガラスを被せられているとも、ただ一つの道標を出鱈目に書き換えられているとも言える、そんな感覚。数多の手掛かりが掴めていて、もう目の前まで迫っている筈の答えをどうやっても導き出せない、どうしようもない靄の塊だ。

 今になってみれば、おおよそ真実に辿り着く事を阻止されていたとしか思えない。強引に捻じ曲げられた認識の中、思考の抑制をパチュリーは感じ取っていたのである。

 

 原因なんて、考えられるとすれば一つしかない。

 無我に生き、無意識に沿い、空白のまま揺蕩う少女。

 古明地こいし。無意識を操る程度の能力。

 スカーレット卿の奇襲に協力した帽子の少女が――違う。()()()()()()()()()あの少女が施した、幻惑の術だったのだ。

 

 しかしレミリアはそれを理解して尚、完全な納得を示さなかった。

 まだ、闇の中には悍ましい真実が隠されているのだと、そう感じ取っていたのだろう。

 

「それだけじゃない、それだけじゃないわ、パチェ。例え方向(・・)を逸らされていたとしても、たったそれだけじゃあ私達の目は掻い潜れない。ましてや八雲紫の目を欺くなんて出来っこないわ!」

「あっ、お姉様!?」

 

 レミリアは駆け出した。翼を使う事も、宙を舞う事も忘れて、吸血鬼の脚力を持って館を駆けた。

 我武者羅だった。無我夢中に床を蹴り飛ばした。一分一秒でも早く、あの場所に行かなければと躍起になった。

 箒でチャンバラをしている妖精メイドの間を旋風のように駆け抜ける。一つのドアの前でブレーキを掛けると、それを腕力に任せて破壊した。

 レミリアは目の前に現れた階段を、半ば転げ落ちるかの様に駆け下りて行く。

 

 果てにレミリアを迎える、二つの扉。

 

 片や、吸血鬼ナハトが長い生涯で集めた魔石の類を収納している倉庫の扉。片や、小悪魔が()()見つけたという、まるでナハトの陰に隠れるように立地してある宝物庫の扉。

 レミリアは、宝物庫のドアノブを手に取った。

 現れたのは、豪華絢爛な宝物の山。名立たるトレジャーハンターが目にしたならば、涎を流して飛びつきそうな金銀財宝の黄金郷。

 おもむろに、金貨を一つ手に取って。

 

「――――」

 

 答えを、得た。

 見た目は何の変哲もない金貨である。材質も、重みも、どれをとっても非の打ち所の無い本物の黄金だ。

 だがレミリアにとってそんな事はどうでもいい。この期に及んで金貨を品定めしに来た訳ではない。

 彼女はこの金貨に掛けられていたトリックを体感して、自らの仮説を証明したのである。

 

 黄金の貨幣を手にしたレミリアは、言いようも無い()()()に包まれていた。

 大丈夫、()()は安全だ――麻薬の香のような何かがあった。無条件に精神の奥底まで受け入れてしまう、心地の良い魔性があった。

 理屈の話ではない。科学の法則では説明できない摩訶不思議が、確かにそこにあったのだ。

 

 レミリアの意識は、まるで灯火に吸い寄せられる羽虫のように、宝物庫の中心にある台座へと向けられていた。

 

 宝山の谷間に立つ奇妙な台座。

 台の上は、不自然に一部の埃が無くなっている。

 語るまでも無く、それはそこにあった物が最近取り去られた痕跡以外の何物でもなく。

 

「――――っ」

 

 レミリアは、座り込む様に膝から崩れ落ちた。

 気付いてしまったから。確信してしまったから。

 認めたくない事実が、彼女の目の前にくっきりと浮かび上がってしまったから。

 

「レミィ!」

 

 遅れて、パチュリーがやってきた。

 魔法の浮力で浮かびながら、ぺたりと台の前で座り込んでいる少女の傍らに寄り添って。

 

「っ!?」

 

 声をかけようとして、それはぷつりと阻まれた。

 涙だった。

 眉間に皺を寄せず、唇も噛み締めず、ハラハラと瞳から液体が零れ落ちている。雨粒が窓ガラスを伝う様に、小さな雫がレミリアの頬を流れているのである。

 悲哀の伴う涙ではない。むしろ絶望にこと切れた子供のような残酷な滴で。

 異様な光景を前に、パチュリーは困惑の表情を浮かべつつもレミリアの肩を掴んだ。

 

「レミィ、しっかり! どうしたと言うの!? 一体、あなたは何を理解したの!?」

「……気付いちゃったのよ」

 

 ポツリと、レミリアは吐露する。

 抑揚のない、機械のような口調で。

 

「ねぇ。四年前にお父様が言ってた言葉、覚えてる?」

 

 感情の含まれない、一欠けらの言葉だった。

 

「五百年前、私のお母様はお父様の魂魄移植計画に勘付いていた。だからフランを利用されないように、お父様を止めようとした。……あの人はハッキリと言ったわ。お母様は邪魔な存在だったと、一刀両断してみせたわ」

「……それと貴女の涙に、一体何の関係が」

「あの人は、こうも言っていた。お父様(じぶん)が私たち姉妹を吸血鬼狩りから守ろうとお母様に声をかけたら、あっさりそれを信じたって」

「だから、それが一体何だと――、……っ!!」

 

 血の気が失せた。

 聡明なパチュリーも、答えを得てしまったのだ。あの吸血鬼に隠された悍ましい真実の一端を。今まで意識の範疇から外れていた――逸らされ続けていた、最後の鍵の正体を。

 七曜の魔法使いの唇が、枯れ花のように萎びていく。

 

「パチェ。フランの体に魂を移植する計画に勘付いたお母様が……娘を贄にされると知ったお母様が。お父様を安易に信用するだなんて、有り得る話だと思う?」

 

 震えの混じるその言葉は、当然の帰結に他ならなかった。

 子供を利用されると知って、ましてやそれが邪悪な外法によるものだと知って、黙っていられる母などいない。性根から悪性だったのであればいざ知らず、レミリア達の母はごく真っ当な親だった。子のためならば愛した主人に逆らう事も厭わない、深い愛を持った婦人の鑑だった。

 そんな女性が夫のどす黒い部分を知って、再び心を寄せるだろうか? 

 いいや、有り得ない。それで信じる者が居るとすれば、よほど警戒心が薄いか相手を妄信しているか、相当短絡的な思考の持ち主だろう。しかしレミリア達の母親は当然そんな阿呆ではない。

 

 ならばどうして、にもかかわらずあっさりと、母は邪悪の言葉を鵜呑みにしたのだろうか?

 

 そもそもの問題。確かにスカーレット卿は頭一つ抜け出た実力を持ってはいたが、それでも到底敵わないと思い知らされたナハトが紅魔館に現れても、最強の吸血鬼の座を追われるどころか、死してなおカリスマ性を損なわずにいられたのは何故なのか?

 人望もあったのかもしれない。しかし人望とは、よほど強固なものでなければ移ろいゆくものだ。絶対実力主義の吸血鬼たちが、ナハトに膝を折ったスカーレット卿を更に信奉するとは考え難い。

 

 まだ疑うべき場所はある。フランドールの言動だ。

 覇権争いの窮地の中、混乱に呑まれていたとはいえ、突然己が内に芽生えた自我を『ナハト』だと一瞬でフランが信じたのは何故なのだろうか?

 ナハトに口調を似せていたからか? それともフランとナハトの関わりを知っていたからか?

 弱い。そんな理由ではあまりに弱い。精神的に幼いとはいえ、利口で聡明なフランドールが他人の空真似を、ましてや自身の中から突然発生した魂を最も信頼を寄せる吸血鬼だと二つ返事で認めるなど、控えめに言って有り得る話ではない。

 

 疑問と言う名の種は一度芽吹けば瞬く間に成長し、真実に向かって蔦を伸ばして、答えを果実にしながら実らせてゆく。

 

 ――レミリアは水晶に映った一部始終を見終えた後に、一つの仮説を立てていた。

 

 古明地こいしの意識操作が及んでいた事実は、水晶越しに見た日記の内容から理解を得ている。けれどそれだけが、今までスカーレット卿への意識を逸らされ続けて来た要因では無いとレミリアは推測したのである。

 

 ただ意識の焦点を逸らしただけでは完全な隠蔽になど成り得ない。何故なら個人によって意識の向かう矛先は違うからだ。一口に魔法使いと言っても多くの流派があるように、各々が持つ視点のベクトルもまた、多種多様に尽きるのである。

 故に、捻じ曲げられた意識の中、誰かがふとした拍子に真実を見つけ出したとしても何ら不思議な話ではない。何気なく道端の石ころへ目を向けた者の中に、価値ある石だと気づく者が現れるかもしれない。それと同じだ。あらゆる思考分野を持つパチュリーや八雲紫を相手にするならば、意識操作だけではお世辞にも信用の足りない防護策と言えるだろう。

 

 ならば、その壁を打破したものは何だったのか。

 

 単純な答えだ。疑う事すら視野に入れさせなければ良い。路傍の石ころよりも気にかけない、日常で呼吸に使う空気のように、無意識の内に()()だと思わせておけばいい。

 そう、安全。もっと言えば安心だ。本来ならば矛先を向けるべき対象を、レミリア達は『無意識の安心感』から除外を選んでしまっていた。

 

 生後数日程度の首すら座っていない乳児が殺人事件の犯人だと、どうして疑う事が出来ようか。せっせと餌を懸命に巣へ運ぶ蟻が世界を滅ぼすなど、誰が想像するだろうか。

 これらが原因だと人々が疑わないのは、そこに無意識の安心が根付いているからだ。『これなら大丈夫だ』とすら思っていない。始めから選択の外側にあるモノなのだから。

 

 この絶対的安心が、仮に人為的なもので創り出せたとしよう。

 

 もし、夫を悪鬼と理解した母がそれでも信頼を寄せた理由が、有無を言わせない安心と信頼を与えられていたからだとしたら?

 もし、ナハトの恐怖と絶対的な力を前にしてなお、卿が権威を失わなかった理由が、恐怖の中和――即ち絶対的で強制的な安心によって作られた、仮初の拠り所が原因だったとしたら?

 もし、フランドールが内から目覚めた吸血鬼をナハトだと判断した理由が、義父を思わせる安心感を与えられていたからだとしたら?

 

 ピースが盤を埋めていく。パチパチと、綺麗に嵌る音がする。

 レミリアに全体像をもたらした最後の欠片は、この妙な安心を得る黄金の貨幣。

 ……レミリア達は知る由も無いが、かつてこの場所へ忍び込んだ霧雨魔理沙があれ程警戒していた金貨を手に取り、本を持ち去った理由の正体がこれだったのだ。

 この金貨には、この世で最も信頼の置ける()()が仕込まれていた。

 

「まさかそんなっ。それじゃあ、あの男の真の()()は――――!?」

 

 七曜の魔女は唾を飲む。冷や汗ではない液体を一筋流しながら、パチュリー・ノーレッジは答えの断片を吐き出した。

 

「ええ。お父様は…………スカーレット卿は心に『安心や信頼』を植え付けるのよ。無条件に、無慈悲に、残酷に。人々の心を思考なき傀儡へ変えてしまうの」

 

 

 ソレは心の平穏を強制し、人々の中枢を蕩かす邪悪な神聖。

 ソレは心の隙間へ潜り込み、知性を破壊する悪性浄土の権化。

 

 ソレに理屈などありはしない。

 一度吞まれてしまえば最後。無辜の民がソレを疑い、排斥する術など無いのだから。

 

 

「名付けるなら――安心を与える程度の能力! それが私たちの眼を覆い隠していた、紅い霧の正体だった……!」

 

 

「だぁ~、畜生。やっぱり一割ぽっちじゃあかったるい事この上ない」

 

 木枯らしが落ち葉を運ぶ空の下。二本角の小鬼は、強烈な酒気の漂う瓢箪を煽ぎながら、気怠そうに溜息を吐いた。

 見た目は顔を酒精で赤らめた童女のそれだが、捻子くれた雄々しい角が物語るように、彼女はかつて山の四天王として君臨した豪鬼、伊吹萃香である。

 そんな無双少女は四年前、ある闘いにてちょっとしたミスを犯し、罰として力を九割ほど没収されていた。

 

「でも、九割の開放まであと半年ちょっとってところか。んふふ、滾るねぇ。ああ、楽しみだねぇ」

 

 茶色の原っぱから上体を起こし、んーっ、と伸びをしながら、彼方に覘く博麗神社の鳥居を見る。萃香から力を没収した紫は、現在あの神社にそれを封印しており、管理を霊夢に任せているのである。

 ぼんやりと己の力が眠る神社を眺めながら、萃香は薄く微笑んだ。なにせ約束の日がもう目の前まで近づいているのだ。笑みが浮かばない方がおかしい。

 別に力が返ってくる事が嬉しいのではない。あの尋常ならざる吸血鬼とまた一戦交えられるから嬉しいのだ。

 

 四年前を思い出す。

 夏が終わり、秋が一面を彩り飾った、至高の夜を。

 力と力。技と技。能力と能力。二人の全身全霊が森羅万象を引っ繰り返さんと激突した、あの光景を。

 

 結局明白な勝敗が着かぬまま幕を下ろした戦いだったが、あの時萃香はナハトと約束したのだ。また何時か、共に全力をぶつけ合い、今度こそ雌雄を決しようと。

 それが、どうしようもなく楽しみで。想像するだけで武者震いが込み上げてきて、萃香を疼かせるのである。

 

「ふふ、次はどこで戦おうか。山はあいつらに渡しちゃったから、また別の舞台を用意しなきゃ。やっぱり地底が良いよね、うん。あそこなら連中も理解があるし、さとりと紫にさえ手伝ってもらえたら……きっと、盛り上がるさなぁ。んふふ、ああ、楽しみだー……」

 

 ……でも、と萃香は緩む口元を引き締める。

 同時に萃香の目が細まっていくその訳は、何を隠そう、彼女の好敵手たるナハトの安否に他ならない。

 あの晩、萃香との戦いを終えたナハトは、原因不明の崩壊を起こして倒れ伏した。その後竹林の賢人と紫の活躍で一命をとりとめたらしいが、以降、萃香はナハトと会っていない。どうも休眠状態にあるらしいと紫から耳にしていたのもあるが、それ以上に彼が目覚めた直後、またしても厄介事に巻き込まれ、地底へ追いやられたらしいと知ったからである。

 それも、何者かによる卑劣な謀略によって。

 

 鬼は嘘を嫌い、卑怯を憎み、不義を悪とする妖怪だ。ナハトの境遇を全て知った訳ではないが、一部始終を掻い摘んで紫から聞き及んでいた萃香は、裏側に潜む悪意の存在に強い怒りを覚えていた。

 萃香の人間に貶められた過去が、ナハトの味わった悪意と重なったのかもしれない。

 だからこそ、萃香は黒幕の首をナハトの見舞品にしようと考えていた。丁度、喧嘩仲間の悪友として顔を出さなければと思っていたところだ。土産には申し分ないだろう。

 けれど、一向に黒幕の尻尾を掴む事は出来なかった。あの紫でさえ半ばお手上げだという。敵は相当狡猾な蛇らしい。

 

「……そう言えば、紫の奴はそろそろ冬眠に入る頃だな。あーあ、退屈になっちゃうねぇ。外道の行方も追えなくなっちゃうし――ん? ありゃあ確か……?」

 

 ふと。視界の先に、一つの動く黒点が見えた。それはどんどん影を増していき、萃香へ向かって近づいてくる。

 やがて萃香の両眼は、影の正体をはっきり捉えて、

 

「おお!? 古明地んとこのお空ちゃんじゃないか! 一体全体どうしたのさ、地上なんかに出てきちゃって――――――――――」

 

 

 

 

 

 

 

「まずは一人」

 







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30.「囚われる者、抗う者」

「冥界もすっかり冬景色ねぇ、妖夢」

「そうですねー、幽々子様」

 

 雪花のナイトキャップをこんもりと被り、春の訪れまで寝静まっている桜並木。

 その光景を慈しみながら、白玉楼の主従は仲良くお茶を嗜んでいた。

 こうして真っ白に染まった桜と庭園を見ていると、いつかの異変を思い出す。かつて幽々子がある桜に隠された秘密を知りたいがために幻想郷中の『春』を奪い去り、長い永い冬をもたらした異変――春雪異変の光景を。

 

 妖夢は呑気と陽気の境界を彷徨いながら、異変の切っ掛けとなった大きな桜を見た。

 主人曰く、ずっとずっと昔から生えているという、頭一つ抜けた化け桜。名を西行妖と言い、その根元には生前の幽々子――即ち、主人のご遺体が埋まっている。

 妖夢は詳しい事情を知らないが(と言うか当の幽々子もそこまで深く知らないらしいのだが)この桜は咲かせるべき桜ではないらしい。なんでもあの八雲紫ですら持て余すほどの力を持った非常に厄介な妖怪桜らしく、幽々子の遺体が埋められているのも、その遺体を要石にして桜が目覚めないよう封印を施す為なのだとか。

 だからなのか、最近幽々子の趣味が『自分の死体の保存』になっている。亡霊だからこそ出来る趣味と言えよう。

 

「……あっ、お茶が切れてますね。おかわりお持ちしますか?」

「あらほんと。じゃあ、お願いしちゃおうかしら」

「かしこまりました」

 

 本来は冥界のあちこちに揺蕩う幽霊の仕事だが、自分だけのんびりする訳にもいくまいと妖夢は急須を片手に立ち上がった。この少女、根っからの仕事人気質なのである。

 幽々子の傍を去り、台所へ辿り着いた妖夢は、自身の半霊と共に手慣れた様子で茶葉を蒸らしていく。

 

「よし」

 

 出来上がったお茶をうっかり零さないよう、慎重ながらもスマートな足取りで運ぶ妖夢。 

 角を曲がって、幽々子の居る縁側へと差し掛かり、

 

「幽々子様、お待たせしましたー」

 

 

 急須が、がちゃんと音を立てて砕け散った。

 

 

「……え?」

 

 足を滑らせただとか、ドジを踏んだ訳ではない。

 目の前の光景を妖夢の脳が処理出来なかったから、無情にも手から滑り落ちたのだ。

 飛散した熱湯が掛かってもただの水飛沫にしか感じない。白昼夢のような眩暈すら覚える。むしろソレは陽炎が見せた幻覚としか思えない。思いたくない。

 

 ――さっきまで、のほほんとした笑顔を浮かべながら茶菓子を頬張っていた西行寺幽々子が。

 さながら儚い終わりを迎える線香花火の様に、弱々しい光の粒子を放出しながら、消滅しかかっていたのだから。

 

「幽々子さまっ!!?」

 

 我を忘れ、廊下を蹴り破らんばかりに走る。唐突に白玉楼を襲った異常事態へ思考を回すよりも、まず主人の安否を確かめずにはいられなかった。

 幽々子は眠っていた。魔女の果実を食べて眠りに就いた森の美女の様に、幽々子の体は宙へと浮いて横たわっていた。

 存在が薄まっていると一目で分かった。既に体を通して反対側の景色を眺めれられるほど透き通っている上、なにより表情が酷く虚ろである。意識と無意識の狭間を彷徨っている様な表情なのだ。

 堪らず妖夢は幽々子の体を掴む。しかし妖夢の五指は、煙を割ったかのようにすり抜けてしまった。

 

「幽々子様! 幽々子様、しっかり!! な、何がどうなって」

「鴉」

「え?」

 

 ぽつりと、幽々子が掠れた声を囁いた。

 鴉。カラス。妖夢の聞き間違いでなければ、あの黒い鴉だろう。

 それが、今の幽々子の状態と何か関係があるのだろうか。妖夢は必死に周囲を見渡し、幽々子が伝えたがっているものの正体を探った。

 

 庭園には居ない。屋敷を囲う壁にも居ない。

 視界が移動していく。やがて妖夢の瞳は西行妖を映し出す。

 西行妖の近くに、一匹の鴉が居た。しかしただの鴉ではなく、人の形をしている。恐らく妖怪の類だろう。

 居たのは居たが、それとこれと何の関係が、

 

 

 待て。

 

 

 何故、こんな場所に鴉が飛んでいるのだ。

 ここは冥界、白玉楼。死を迎えた生者が閻魔の裁きを経て、転生を許された善良な魂がその機会を待つ幽世の世界だ。

 なのに何故、こんな所に鴉がいるのだ?

 いやそれよりも。今の今まで存在に気付かなかったどころか、認識してなおソレを()()と捉えられなかったのは何故なのだ?

 

 体が強張る。血液が一気に冷めていく。妖夢の低い体温が更に下がって、自分の体が氷にでもなったかと錯覚した。

 異常を異常と見られなかった、異常。

 かつて小鬼が起こした祭りの異変とは違う。陽気さや温かさなんてものはない、ただ純粋な不気味さがあった。一瞬でも安心を抱いた事に対する恐怖があった。

 

「そ、そこのお前ッ!」

 

 その怖れを掻き消さんと、妖夢は声を張り上げる。

 背負う二つの鞘を素早く腰元へ下ろし、抜刀。鈍く輝く楼観剣が露わとなり、

 

「何をして――、ッ!?」

 

 注視して、全貌を目撃して。

 喉が、釣り針でも掛けられたかのように引き攣った。

 

「な、あ、お前、お前、そ、れ……!?」

 

 妖夢の頭上、西行妖の枝の中。化け鴉は桜の幹に腕を突き刺し、粘質を持った悍ましい液体を注ぎ込んでいた。

 ぐじゅぐじゅと生き物の様に躍動する、禍々しい純黒の流動体。

 いいや、違う。アレは流れているのではない。中で物体が蛇の如くうねっているのだ。

 液体の水面がまるで真っ黒なビニール袋の様になっていて、ナニカがその下で苦悶の声を上げて叫び、嘆き、暴れている。

 その動きが、さも液体が流動しているかのように見せかけているのだ。

 

 幽世に住まう妖夢は、はっきりとその正体を理解出来た。

 理解出来て、しまったのだ。

 

「うっ」

 

 幾重にも、幾重にも。幾千も、幾万も。

 叩いて、潰して、壊して、混ぜて、溶かして、捏ねて――さながら子供が本能のまま無邪気に掻き混ぜて作り上げたかのような、高密度かつ高濃度の怨霊で出来た、最悪最低のスープだった。

 

 強烈な生理的嫌悪感が妖夢の胃を引き絞る。喉元までせり上がって来たそれを、なんとか気合で押し留めた。

 一体どれほどの魂をぐちゃぐちゃにすれば、あんな身の毛のよだつ代物が出来上がるのか。一体どれほどの邪悪を持てば、こんな残酷な仕打ちが出来ると言うのか。

 例え生前に大罪を犯し、万物に害悪しかもたらさなくなった怨霊であっても同情を浮かべざるを得ない。あんなの、地獄で責め苦を与えられる方が百倍マシだと断言できる。

 

 しかしお陰で、妖夢は幽々子の存在が希薄化している答えを得た。

 ()()()()()()()()()()

 即ち、西行妖の封印が弱まっている。

 原因は言わずもがな。あの怨霊スープが西行妖へ力を与え、封印を弱めているのだろう。かつて妖夢が『春』を集め、西行妖を咲かせようとした時のように。

 

「ふーむ、流石はあの賢者すら手に余すという化け桜。この程度の怨霊を注いだだけではまだ目覚めぬか」

 

 ズボッ、と音を立てながら、鴉の少女は腕を引き抜いた。纏わりつく黒い雫を払いながら、何かを思慮する言葉を発する。

 妖夢はあまりの事態に思考が追いつかず、呆然と見ている事しか出来なかった。

 

「ならば次の燃料よな。幸い――まだ、桜は開花していない」

 

 意識を破裂させられていた妖夢は、肌に走る熱気に我を取り戻した。

 それが、少女から放たれているものだと気付く。

 同時に、この熱気へ妖夢は既視感の様なものを覚えた。どこかでこれと似た熱さを、味わった事がある気がするのだ。

 例えるなら、そう。真夏の晴天がもたらす、強烈な日差しのような熱波。

 

「……ん?」

 

 ふと、妖夢は辺りの違和感に気づく。

 こんもり積もっていた大雪が、猛烈な速さで解け始めている。炎天下へ置いたかき氷のように、雪花の結晶が瞬く間に水へ戻っているのだ。

 それだけではない。異変は白玉楼の――否、冥界全土の桜で起こっていた。

 尋常ではないスピードで、一気に開花が始まっているのだ。

 冬の厳しい寒さを迎えた事で春を待つのみとなった蕾たちが、あの擬似太陽とでも言わんばかりの熱気に当てられて春の到来を錯覚している。薄桃色の花びらを覗かせ始めているのである。

 

 幻想郷の冬は強烈だ。山間部に位置する土地柄もさることながら、冥界は生者の息吹が無い分、地上よりさらに冷え込んでしまう。

 つまり、桜の休眠物質は南の土地より格段に消費が早い。加えて科学的根拠よりもオカルティックな要因に左右されやすい幻想郷の桜たちは、あっさりと偽の春に騙された。

 

 結果、何が西行妖に起こったのか。

 

「咲き誇るがいい、桜ども! そして集え、春の結晶よ! 今まさに、数多の命を吸い取った化け桜が目覚めるぞ!!」

 

 想像するのも憚られる怨霊の栄養ドリンクと、冥界全土の春の先取り。

 かつて幽々子が成し遂げられなかった西行妖の開花が、恐ろしいスピードで成就されようとしていた。

 

 それが表す所は、つまり。

 

「――――ッ!! やめろォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」

 

 地を蹴り、空を蹴り、魂魄妖夢は天翔する。

 その手に握る刃を振るい、主に仇なさん敵へ向けて、一切の躊躇なく斬りかかる。

 

 

「なっ」

 

 だが渾身の一閃は、敵の喉元を刎ね飛ばす寸前で食い止められた。止めてしまった、と言う表現が正しいかもしれない。

 ただ一つ、確かに言えることは。

 有り得ない光景が、妖夢の網膜へと焼き付いて。その衝撃は、妖夢の思考を完膚なきまでに破壊し尽くしてしまった。

 あの(・・)能力を使われた訳ではない。()()()()()()が、妖夢の思考を白紙へ戻してしまったのだ。

 

「庭師か……一手遅かったな。いや、最早この結果は避けようのないものだったが、しかし。燕も容易く細切れに出来よう、眼にも止まらぬ太刀筋は見事だった」

 

 鍔競り合いを眺める鴉――スカーレット卿は、冷めきった笑みを妖夢へ向ける。

 強張り、視線を一点から外す事の出来ない妖夢を、パチパチと嘲りを込めた拍手で讃える。

 

「安心しろ、別に命を取るつもりはない。と言うか、そんなものは知らん。貴様らの安否など知った事ではない」

「そんな、なんで……どうして、あなたが……っ!?」

「……フン。話を聞く余裕すらないか。どうでもいいがな」

 

 スカーレットの指先に、小さな太陽が浮かび上がる。

 強烈なエネルギーを宿すそれは高速回転を始めると、眩い光を放ち始め、

 

「貴様はそこで指をくわえて見ているがいい。喜べ、特等席で主演の演武を見せてやる」

 

 灼熱の光球が、ロケットの如く打ち上げられた。

 それは豪速で空を切り裂き、一気に天蓋へと辿り着く。 

 果てに、小さな太陽は砕け爆ぜ、大宴の大花火のように絢爛な輝きへと生まれ変わった。

 冥界に咲く大火を背後に、紅い悪魔は右手を掲げ、高らかに凱歌を叫ぶ。

 

「幻想に住まう者共よッ! 跳梁跋扈の軍靴を引き連れ、紅い悪魔が蘇ったぞ! しかしてここに宣言しよう!! スカーレットの銘において、新たなる異変の到来を!」

 

 

 ――さぁ、第二次吸血鬼異変の幕開けだ。

 

 

 

「レミィ、八雲紫へ使い魔を送っておいたわ」

「ありがとう、パチェ」

 

 満月が外壁を照らす、紅魔館の屋上にて。

 並みならぬ妖気と覚悟を身に纏い、今すぐにでも羽ばたかんとする少女の背中に、パチュリーは声を投げた。

 

「行く気なのね」

「…………」

 

 返事はない。

 必要も、ない。

 

「紫の救援は待たないの?」

「どこにいるかも分からない奴を悠長に待ってられないわ。それにこれは私の仕事よ。赤の他人に任せられるもんですか」

「……勝算はあるの?」

「さぁ」

 

 ぶっきらぼうに、曖昧に。レミリアは生返事を返す。

 吸血鬼にしては柔らかい性分の持ち主とはいえ、レミリアも例に漏れず、自己に対して絶対的な自信を持つヴァンパイアである。かつての異変で山の四天王にも真正面から喧嘩を売った様に、如何なる強敵を前にしても、彼女の中に劣勢の二文字は無い。

 そのレミリアが、確証は無いと言い放った。たったそれだけで、今回の敵が如何に強大かを物語る。

 なにせ吸血鬼にとって最大の天敵とも言える、太陽の化身そのものなのだから。

 ……つい数分前、あの絶対無敵と名高い魔王を軽々屠ったほどの力なのだから。

 

「誰も連れて行かないの? 美鈴か、咲夜か。なんだったら私でも、」

「駄目よパチェ。分かっているでしょう? これは私たちスカーレットの問題なの。貴女たちが巻き込まれて良いモノじゃ無いわ」

 

 ――今の『私たち』に、()は含まれていないのだろう。パチュリーは彼女の重みを伴う言葉から、察せざるを得なかった。

 それはきっと、七曜の魔女に限った話ではない。美鈴も、咲夜も、小悪魔も、そして実妹たるフランも。含まれてはいないのだろう。

 レミリアはこう思っている。五百年前の確執を(そそ)ぐ役割を担うのは、因縁の宿敵たるナハトと自分だけであるべきだと。

 二人だけで、十分なのだろうと。

 

 おまけにナハトが敗れ去った今、残された当事者はレミリアしかいない。

 

「ところで、フランはどう? ちゃんと上手く誤魔化せた?」

「今のところは、ね。でも気付かれるのも時間の問題よ。あの子、凄く聡いから」

 

 フランドールは紅魔館で唯一、自らに憑いていた悪魔の正体を知らない住人で、知らなくても良い住人だ。

 だってあの無垢な吸血鬼は、自分を操っていた者に対して最後まで、幽閉生活の孤独を紛らわせてくれた感謝を伝えたかったと、そう思えるくらい純粋で優しい女の子なのだ。義父を焼き滅ぼした者の正体が実父だと知れば……それも、自分にとり憑いていた者の仕業だと知れば、きっと大きなショックを受けてしまう。

 それは駄目だと、レミリアは真実を告げる選択肢を引き裂いた。もうこれ以上紅の呪いに縛られてはならないと願う、最大限の姉心だったのかもしれない。

 

「……これ、持って行って」

 

 パチュリーは手のひらに召喚陣を発動させると、鈍い銀を湛える装飾品を呼び出した。

 腕輪の形を成すソレを、そっとレミリアの腕へと嵌め込む。

 

「これは、おじ様と同じ?」

「そう、対日光用マジックアイテム」

「悪いわね、わざわざ」

「なに言ってるのよ、こんなんじゃまだ足りないわ。もっと、これくらいしないと」

 

 慣れた手つきでグリモワールを召還したパチュリーは、まるで彼女だけ時が加速したかのような速さで呪文を唱え始めた。

 パチュリーの言霊に応じる様に光が舞い、レミリアの体を包み込んでいく。

 体力、耐久力、瞬発力、攻撃力、耐魔力、魔力増幅――ありとあらゆる増強と加護を、これでもかとレミリアへ与えていく。

 それが、前線に立つ事の叶わないパチュリーの出来る、唯一のサポートだった。

 

 光が止み、手を握ったり離したりしながらレミリアは微笑んで、

 

「ありがとう。これで日焼け対策はバッチリね」

「……レミィ」

「なに? パ――チェ?」

 

 徐に、パチュリーは小さな首筋へと腕を回した。

 しっかりと、親友の体を抱き寄せる。

 不器用な彼女は、こんな方法でしかレミリアへ感情を表現出来なかったのだ。

 

「絶対無事で帰って来なさい。じゃないと、私が紅魔館乗っ取ってやるから」

 

 声が震えないように唇をきゅっと引き締める。この不安がレミリアに悟られない様に、精一杯力を込めて抱き締めた。

 

 今まで見た事の無いパチュリーの対応に、レミリアは思い切り度肝を抜かれた。確かに、一見冷静そうに見えて実は熱血気質なパチュリーだが、ここまで大胆に心を示すのは稀なのだ。

 戸惑っていたレミリアの手が、やがて行き場を見つけたようにパチュリーを抱き返す。

 

「それは怖いわね。私、家無し子になっちゃう」

「だから絶対に、絶対に帰って来なさい。館の運営なんて面倒臭い仕事、まっぴらごめんよ」

「乗っ取り宣言したり放棄したり、どっちなのよ」

「紅魔館当主はレミリア・スカーレット以外有り得ないって言ってるの、この馬鹿」

「お、おう。なんだか、今日のパチェは随分ストレートね。ちょっぴり新鮮だわ」

「馬鹿。この、大馬鹿レミリア」

 

 ――パチュリーだって、大魔法使いである前にレミリアの親友で、一人の女の子だ。友人の身を案じる心も、もしもの未来に抱く不安も、ちゃんと胸の中に宿っている。 

 今回の相手はただの妖怪や人間ではない。復讐と憎悪の炎を纏い、天蓋を食い破らんと輝く日輪の化身なのだ。吸血鬼にとって、これほどまでに最悪だと笑える敵はそういない。

 だから、考えてしまう。どうしても、頭の片隅に過ってしまう。

 もし、彼女が居なくなってしまったらと。絢爛な玉座に座り、自信満々にふんぞり返る小さな親友の姿が二度と拝めなくなってしまったらと。静かでほんの少し賑やかなお茶会の予定が、カレンダーから綺麗さっぱり無くなってしまったらと。

 イフの世界を、想像せざるを得ないのだ。

 

 それが限りなく可能性の高い未来であると、なまじ頭の切れるパチュリーは予測せざるを得なかった。

 分かっている。太陽を相手に、ましてやあの邪知暴虐を相手に圧勝を得る事など出来やしないと、とっくに理解している。理解したくなくても、脳が答えを突きつける。

 それでも彼女を送り出すことしか出来ない自分が、嫌気がさすほど歯痒かった。

 

 嗚呼、このまま時間が止まればいいのに。優しい魔法使いは雪解けの様に願いを込める。

 しかし残酷な瞬間とは、いついかなる時も訪れるものだ。

 

「パチェ。そろそろ行かないと。お父様を止めなくちゃ」

「……館の事は任せて頂戴。貴女は、自分の心配だけを考えて」

「分かってるって。大丈夫、絶対に帰って来るから」

 

 ふわりと、レミリアの体が離れていく。

 小さな体が、大きな満月と重なって。

 それはまるで、儚く舞い散る泡雪の様に美しくて。

 

「それじゃあね、パチェ。行ってきます」

「行ってらっしゃい。レミィ」

 

 

 

 

 

 

「なぁぁあああああああああにが呑気に行ってきますだこンの大馬鹿ボケナス腰抜けお姉様がァァァァァ――――――ッ!!」

「ふぎゃあああああああああああああああああ――――ッ!!?」

 

 

 吹っ飛んだ。

 いざ戦地へ赴かんと薄く涙を交えながら宙へ翻ったレミリアを、突如現れた妹君がまるで主神の槍が如きスピードで一撃をお見舞いしたのである。

 ドガラシャアアンッ!! と派手な爆発音を引き連れながら、レミリアは屋上を無残に転がった。

 しかし流石は不死を謳う吸血鬼か。筆舌に尽くしがたい着弾をしたというのに、案外なんとも無さそうに起き上って、

 

「い、いきなり何するのよフラン!? と言うか、なんで貴女がここにっ」

「うるさいうるさいうるさいうるさい!! 馬鹿お姉様は痛い目みて当然なのよ馬鹿! このスットコドッコイ吸血鬼!!」

「す、すっとこどっこい吸血鬼?」

「それにパチェもパチェよッ!! なーにしんみりしながら今生の別れみたいに独りでお姉様を送り出そうとしてるのこのチャランポラン魔法使い!!」

「ちゃ、ちゃら……?」

「そうよ! 二人揃って馬鹿! 大馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿!! そんでもってももう一回大馬鹿コンビよバカァァ――ッ!!」

 

 腹の底から湧き上がるエネルギーをそのまま燃やしていると言わんばかりの激烈な咆哮。あまりの気迫と突拍子の無さに、レミリアとパチュリーは思考を完全に破壊されてしまっていた。

 ふーっ、ふーっ、と闘牛の如く鼻息を荒げながら、フランは尻餅を着いているレミリアへずんずん近づいていく。

 般若の如き表情のまま、フランはレミリアの胸倉を掴み上げると、

 

「お姉様ッ!!」

「は、はい!」

「なんで一人で背負い込もうとしてるの!? なんでパチュリーの心配をハナから裏切ろうとしているの!? なんで私には一言も相談してくれないのよッ!!」

「いや、でも、フラン、私はあなたの身を案じて」

「ふんぬッッ!!」

「いッたあああい!!?」

 

 ドゴン。

 語るも悍ましい頭突きがレミリアを穿ち、無残にもノックアウトさせてしまった。

 おでこから白煙を立ち上らせながら、ついでに口から竜の如く怒気を吐き散らしながら、フランドールはパチュリーへと牙を剥く。

 パチュリーは、えっ私も? と悶絶するレミリアを見ながら青ざめて。

 

「パチュリーッ!!」

「フラン、ちょ、落ち着いて」

「なんで全部一人で理解して終いにしようとしてるの!? なんでお姉様を無理にでも引き留めようとしないの!? なんで私には一言も教えようとしてくれないのよッ!!」

「それは……あなたが真実を知ったら、絶対に傷つくから」

「ちぇいやっ!!」

「んむきゅあァ――ッ!?」

 

 スパァン。銃弾の如きデコピンがパチュリーへ突き刺さった。病弱体質を考慮した威力の様だが、パチュリーもまたレミリアと同じく床へ突っ伏してしまう。

 吸血鬼と魔法使いを沈めた悪魔の妹は、腕を組み、灼熱の怒号をこれでもかと浴びせかけていく。

 

「そうやって何もかも全部ふたりで抱え込んで、傷ついて、解決して! それで私が――ううん、皆が喜ぶとでも思った!? おじ様が褒めてくれるとでも本気で思ったの!?」

「フ、フラン?」

「確かにねぇ、私はお姉様やパチュリーと比べたら全然なにも知らないわ! 子供よ! 問題を解決する力も無ければ頭も無い。お姉様たちに頼ってばかりのガキンチョよ!  ――でも、そうだとしてもッ!! 」

 

 ダメージが回復し、ようやくレミリアは顔を上げた。

 ぼんやりとしていた視界が鮮明になっていく。フランドールの顔が明細に映し出されていく。

 

「私にだって出来る事がある! こんな私でも、お姉様たちの苦しみを、ほんの一欠けらでも背負ってあげるくらいの事は、やってやれるわ!!」

 

 フランは、泣いていた。

 ぼろぼろと、滝のように涙を頬へ伝わせて。鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして。それでも必死に嗚咽を我慢して。

 フランドールは、心の叫びを訴える。

 

「私の身を案じたかった? 私を傷つけないようにしたかった? じゃあ、お姉様たちはどうなのよ!? お姉様たちだって、いっぱいいっぱい辛い思いをしてるんでしょ!? ――だって、()()()がああなって、お姉様が傷つかない訳がないんだもの!!」

「っ! フラン、あなた、なんでソレを知って……!?」

 

 おじさまではなく、お父様。

 フランの口から飛び出した言葉はレミリアの心臓へ巻き付くと、大蛇の様に締め上げた。

 だって、彼女がソレを知っている筈がないのだ。あの夜のフランは闇の底で眠っていて、紅魔館の中核を担う者たちの中で唯一現場に立ち会っていない。この件については徹底的に情報は揉み消していたし、無論誰も教えてなどいない。フランが真実を知る術などあるはずが無いのである。

 

 だが、しかし。

 

「知ってるわよ。だって、ずっと聞こえていたんだもの」

 

 彼女は真実を知っていた。それは望外の告白に他ならなかった。

 レミリアやパチュリーの話が聞こえていた、という意味ではない。あの現場の声を、フランドールは揺蕩う夢の中で耳にしていたと、そう言っているのである。

 

「最初は朧気な夢だと思ってた。微睡みが、私に怖い夢を見せてたんだって。でもさっきの水晶と二人の会話で確信に変わった。あれは、あの光景は夢じゃなかった――そうでしょう? 二人とも」

「……っ!」

 

 特大の苦虫を嚙み潰したような心境になる。

 知られたくなかった。知って欲しくなかった。

 フランドールは優しい子だ。傲慢かつ不遜、天上天下唯我独尊を下地とする吸血鬼には当てはまらない異例の子だ。小鳥のさえずりに微笑みを零し、季節の草花を愛せるような、慈愛に満ち溢れた女の子だ。

 だからこそ、醜い悪意に触れさせたくなかった。この子には――フランドール・スカーレットにだけは、呪われた先代の憎しみと因縁を決して知られてはならなかった。

 知ってしまえば、彼女は自分を責めずにはいられない。誰よりも優しい子だからこそ、かつて自分を利用していた悪意がナハトを焼き滅ぼしたという現実を、受け止められるはずが無いのだ。

 フランドールはきっと、自分が騙されていたせいで、ナハトを傷つけたと思ってしまうから。

 

 

 なのに。

 

 

「お姉様。私だって、一緒に闘えるわ」

 

 どうしてこの子は、こんなにも強い光を瞳に宿しているのだろう。

 

「私だって、お姉様の苦しみを分かち合ってあげられるわ」

 

 どうしてこの子は、顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにしながらも、(レミリア)へ手を差し伸べているのだろう。

 

「だから、お姉様。どうか、どうか一人で背負おうとしないで。一人で立ち向かって、勝手に傷つこうとしないで」

「フラン……貴女……」

「じゃないと、私っ、そっちの方が、嫌だもん。絶対絶対、納得できないもん……!」

 

 彼女が口にしているのは、自責の罵倒なんかじゃなく。

 姉を縛り付ける血で錆びた鎖が、いつしか本当に姉を殺してしまうのではないかと心配し、恐れ、そして一人耐え忍んでいた事実に怒る、無償の愛に他ならなかった。

 

 

 ――――まだまだ子供だと思っていた。

 

 

 長い幽閉生活があったから、というのもある。フランドール・スカーレットは例えレミリアと同じくらいの見た目でも、誤差程度しか年齢の差が無くとも、まだ清濁併せ呑むには至らない子供だと思い込んでいた。

 それで良いと思っていた。だって彼女から自由を奪ってしまったのは、他でもないレミリアなのだ。悪魔の謀略に惑わされていたなんて、何の言い訳にもなりやしない。

 だから、失っていた分をゆっくり取り返して欲しいと願っていた。友達といっぱい遊んで、時には喧嘩して、美味しいご飯をたくさん食べて、疲れてウトウトしながらもその日の楽しかった思い出を語りながら、途中で力付きてぐっすり寝てしまう様な、そんな健やかな生活の中で成長していって欲しいと、姉は心の底から願っていた。

 でも、フランドールはとっくの昔に強くなっていたのだ。善意も悪意も飲み込めて、そして他人を慮れる子へと立派に成長していたのである。

 

 キッと、フランは鋭い眼光を宿した。

 涙を振り払い、覚悟の炎を燃やしながら、姉の前に奮い立つと、

 

「私はっ! 誉れ高きスカーレット家が次女、フランドール・スカーレットである!」

 

 黒い捻子くれた杖を召還し、彼女は床を強く突いた。

 甲高い金属音が、凛と染み渡ってゆく。

 

「そしてあなたはっ!! 我儘で意地っ張りで強情で、でも強くてかっこよくて美しくて、大昔からずっとずっと私を守ってくれてた私の自慢のお姉様! スカーレット家不動の君主、レミリア・スカーレット!! ――――でも、お姉様の絶対君主はもう終わり!」

 

 虹の翼が月下に輝く。舞い散る涙は星の様に煌めき奔る。

 

「だってお姉様、何も分かって無いんだもん。主が従者の身代わりになって、美鈴や咲夜が納得すると思ってるんだもん。私の分まで頑張って、それで独り闘ってボロボロになるまで傷ついて、良いと思ってるんだもん! 姉心? 冗談じゃないわッ!! 私は子供だから、そんなの全然納得できない!!」

 

 右手を掲げる。万物の目を握り砕き、破壊する力を持つ小さな手を。

 

「独りで戦うつもりなら、私は勝手についていく。そしてお姉様を怖がらせる太陽をぶっ壊してやるわ! 如何なる障害も、魔の手も、この力で握り壊してみせる!」

「フラン、ドール」

「だから……だからお姉様がかける言葉はっ……! さよならだとかお元気でだとか、頭が眩むようなしみったれたセリフなんかじゃないのよっ……! そんなの、お姉様らしくない。萎れたキノコみたいにしょげていないで、いつものようにふんぞり返って、私達にただ一言、こう言えば良い!! お前達の力を私に寄越せって、地獄の底まで着いて来いってさぁ!!」

 

 理屈や事情なんてものはない。そんな陳腐な物に囚われない、精一杯の叫びがそこにあった。

 張り裂ける号哭はまさしく、言霊と呼べるものだったのだろう。複雑怪奇な音の波は、しかし実体を伴ってレミリアの胸を強く打った。夜の静寂が、まるでフランドールの言葉を遮らないよう組み立てられたものだと、錯覚してしまうくらいに。

 

「妹様の仰る通りですよ、お嬢様」

 

 気配も無く、レミリアの背後から声が響いた。

 凛と澄んだ銀矢の声。語るまでも無く、レミリアの忠臣たる十六夜咲夜である。

 

「元より我々はお嬢様の命に従うだけの存在。主である貴女様を差し置いて、どうして我々だけがのうのうと時を過ごせましょうか。お嬢様、この紅魔館は――この咲夜は。お嬢様が健在で居てこそ、真に意味のあるものなのです。主の務めは我らに盾と成れと命じる事。そして従者の痛みを飲み込む事。役割を履き違えてはなりません」

「咲夜……」

 

 最前線で刃を振るう首魁はいない。それは手足の務めである。そして手足の苦痛を噛み締め、受け止めるのが頭首の業に他ならない。

 例えどれほど手足を失う事が怖くても、大将が恐怖を克服すれば四肢は動く。末端はそれを知っているからこそ、主の信頼に答え、勝利を捥ぎ取ろうと躍進する。

 故に、真に忠誠と信頼を向ける者達へ王がかける言葉は、主を棄てて自由に生きろなどではない。私の為に命を捧げろと、絶対の信頼を賜うことに他ならない。

 

「それになにより、お嬢様へ実験作――いえ、真心を込めて作った美味しいお茶を出せなくなるのは嫌ですわ。咲夜から数少ないストレス解消の機会を奪わないでくださいまし」

「おい」

「レパートリーのストックはまだ沢山ありますので、退屈はさせませんからご安心くださいな」

 

 緊張を解きほぐすように、咲夜はふわりと、月明りの様に優しい微笑みを浮かべた。

 

「ああ、それと。妹様に賛成の意を示す者は私だけではございません。そこの影に隠れている門番も、思う所があるらしいですよ」

「……たはー、一発でバレちゃいましたか。本気で忍んでいたつもりだったんですがねぇ」

 

 参ったなぁ、と呟きながら出て来たのは、門に居る筈の美鈴だった。

 ああ、とレミリアは納得の顔を浮かべる。レミリアの所在を知る筈の無いフランが一直線に居場所を突き止められたのは、気を探る力を持つ彼女が入れ知恵を仕込んだからなのだろうと。

 

 美鈴は気まずそうに頬を掻きながらも、堂々とした光を眼に灯して、

 

「お嬢様。ナハトさんの話、さっきパチュリー様から聞きました」

「……」

「正直、まだ信じられないです。スカーレット卿がまだ存命だったなんて。……ましてや、あのナハトさんが、敗北を喫しただなんて」

 

 紅美鈴は、ナハトを除いて最も古くから紅魔館へ携わってきた人物だ。スカーレット卿と多くの因縁がある訳ではないが、五百年前からの確執を事細かに知る者の一人でもある。

 故に美鈴もまた、レミリアと同じ複雑な心情を抱いているのだろう。

 けれど彼女は、ただ困り顔を浮かべるのみだ。内に渦巻く感情を、表に出す事はしなかった。

 

「――私は、咲夜さんや妹様みたいに上手い言葉は喋れません。でも、拙いながらも示せるものはあります」

 

 帽子を取り、胸の中心へと持っていく。

 膝をつき、頭を垂れる。

 戸惑いも、迷いも無い。一片の淀みすら見せない、流れる様な服従の所作。

 

「傍若無人に、唯我独尊に、思うが儘にご命令を、お嬢様。我が魂は貴女の運命と共に」

 

 それは、彼女にとって最大限の忠誠だった。

 余計な言葉は必要ない。ただ一言、命令をくれと静かに傅く。それは無謀や自棄の表れではなく、ただただ主を信じ頼る、臣下の誓いに他ならない。

 

 応じるように、次は咲夜が膝をついた。

 フランは口元をへの字に曲げながら、必死に涙を零すまいと我慢しつつ、堂々とした姿勢を保っていた。

 

 残されたパチュリーは、徐に帽子を手に取って。

 

「……貴女の問題には、私を含めて、皆が口を挟むべきではないと思っていたわ」

 

 ぽつりと、桃色の唇から言葉が落ちる。

 彼女の抱えていた、本当の気持ち。レミリアの意図を蔑ろにしないために封じ込めていた、パチュリー・ノーレッジの真の想い。

 それが、緩やかに吐露されていく。

 

「レミィ。貴女の抱える因縁はあまりにも業が深い。五百年の呪いをその一身で背負う貴女の背中を、私はずっとこの目で見てきた。だからこそ、この戦いに余計な手出しはすべきでないと思ってた。肉親でもない、友人であってもただの一個人でしかない私が、貴女の因果を変わってあげる事なんて、出来る訳がないと思ってた」

 

 けれど、それは間違いだったのね――パチュリーは瞳を閉じて、静謐に語る。

 

「今、私は思い上がってたと確信したわ。本人の心を、責務を、丸ごと肩代わりなんて出来る訳がない。当然よね、私はレミリア・スカーレットでは無いのだもの。――でもフランの言う通り、その荷を背負う手伝いなら、私でもやれる事だった」

「パチェ」

「前言撤回よ、レミィ。私にも無茶をさせなさい。こんなヘッポコでも、貴女の友達でいたいから」

 

 微かに震える、宝石のような紫の瞳。しかしそれは、揺るぎの無い決意の表明だ。

 同じように、集った紅魔館の精鋭たちは、レミリアへ誠の意思を向ける。

 紅い少女は息を吐き、くっくっと乾いた笑みを浮かべた。

 

 ―― 本当は、一人で戦うのが怖かった。

 

 それは全て心の奥に押しとどめていた。そうしないと、アレには到底敵わないから。万が一にも、太陽を制してしまったお父様に勝つ事など出来やしないから。

 恐怖は安心の毒を助長させる。弱みは悪魔に付け入る隙を与える。

 ナハトとは正反対の魔性を持つ父の甘言に、自分や仲間が蝕まれてしまえばどうなってしまうか分からない。もしかしたら、想像もしたくない運命を迎えるかもしれない。

 だから感情を全て殺して、独りで挑もうと考えた。仲間に頼らず、孤高のまま、自分一人で自己完結してぶつかればいい。そうすれば、例え蝕まれてしまったとしても、最悪の結末は自分だけが背負えると考えていた。

 そうなったら、私もろとも全てを片付けてくれる人が現れるだろうと、朧の様に思案していた。

 

 でも違った。この光景を見て、その考えを改めざるを得なくなった。

 

 見違えるほど成長した妹の勇姿の、なんと励まされることだろう。

 この緊迫した時でも冗談を挟みながら瀟洒に背を押す従者の、なんと勇気づけられことだろう。

 鉄壁の城塞が如く揺るがない門番の忠誠の、なんと安心を覚えることだろう。

 長い時を共に過ごして、自分を理解し気遣い続けてくれた友の存在の、なんと心打たれることだろう。

 

 全てを独りで片付けようとした時とは、心の強度がまるで違う。慢心や驕りではない。今ならあの甘美な猛毒に負ける事は無いと、絶対の自信を持って言えるのだ。

 安心に勝てるのは安心だけだ。そして、吸血鬼が太陽に勝つためには、たった一人では駄目なのだ。

 彼女たちとなら勝てる。そう確信を持って、両足に力を込められる。

 

 

「……まったく。私のこと馬鹿だなんだと散々言っておきながら、アンタ達も相当な馬鹿者じゃない。分かってない、ええまるで分かってない。これから戦う相手が何なのか、どんな運命が待ち受けているのか」

 

 皮肉を走るレミリアの口からは、自然と微笑みが零れていた。

 しかし、それを張り手で押しとどめる。

 スイッチを、カチリと切り替えていく。

 

 血の様に紅い瞳。禍々しくも妖艶な瘴気。銀の刃が如き牙。無垢な白肌は、月明かりの下で尚美しく。

 絢爛たる夜の支配者に相応しい、吸血鬼の持つ王の覇気が、小さな少女からビリビリと放たれていく。

 

 その場の誰もが、視界の中心を捉えて離さなかった。

 その場の誰もが、彼の者こそが王であると疑う余地を持たなかった。

 

「――故に、聞け。この場に集う、蓋世不抜(がいせいふばつ)にして万夫不当の同胞たちよ」

 

 戦慄が木霊する。音は神経を伝達し、実体を伴って脳を揺さぶる。

 

「此度に挑むは正真正銘の負け戦である。夜の眷属を容易く屠る忌まわしき天敵、太陽そのものが相手である」

 

 体が宙に浮いていく。

 小さな肢体は、やがて満月へと重なって。

 

「しかし、我々に降伏後退の文字は無い! ここには太陽すらも覆す、自慢の精鋭たちがいる! 私は、お前たちと言う刃を持っている!」

 

 拳を作り、掲げる。

 紅い瘴気が華奢な腕へと纏わりつく。

 

「偉大な闇夜の支配者が敗れ去った今、我々(・・)でこの呪いに終止符を打たねばならない。我らの愛しい幻想を取り戻さなくてはならない。であれば、負け戦の運命をひっくり返そう! 不可能を可能に、不可逆を可逆に変えて見せよう!」

 

 月が紅に染まっていく。

 かつての異変と同じように、血のような鮮紅へ塗り潰されていく。

 

「諸君。これは異変解決だ。決闘でも死闘でもない、いつもの異変解決だ。然らばその後はなんだ? ああそうだ、祝宴だ。故に――誰一人として欠ける事は許されん」

 

 力強く、一切の淀みも迷いもなく。

 

「肝に銘じよ! 真の敗北は死であると! そして我が父へ叩き込んでくれよう! この地の流儀を。我らが幻想の気高き意思を!」

 

 紅の姫君は、高らかに宣言するのだ。

 

 

 

 

 

 

「お、お嬢様ぁっ!!」

 

 しかし、そこで乱入する影が一人。

 緊迫した糸を断ち切った張本人へ向けて、何事かと視線が集まっていく。

 十人十色な眼差しを向けられているのは、肩で息をしている小悪魔だった。

 

「あ、お話ちゅっ、ごめんなさい! でも、し、しきゅうっ、お耳に入れたい事がっ」

「……なんだ。話してみろ」

「こ、紅魔館で、暴動が起こってるんですぅ!!」

 

 ざわざわと、小悪魔の一言が波紋を呼んだ。

 暴動。この幻想郷に来てから一度も耳にした事の無い言葉だ。しかしその意味は知っている。幻想に生きる妖怪たち、特に西洋で魔女狩りなどの暗黒時代を生き抜いてきた彼女たちには、懐かしくも忌まわしい言葉だった。

 それを受け止めたレミリアは、しかしさして動揺する素振りもみせず、

 

「……やはり、()は撒かれていたか」

 

 レミリアの零した台詞を、パチュリーが拾い上げた。

 

「まさか、スカーレット卿が?」

「だろうね。大方、怨霊を餌に増殖させた魂魄を妖精メイド共へ植え付けていたのだろう。気付かれないよう、古明地こいしと共にひっそりと」

 

 無意識と安心の呪縛から解き放たれた今、それは自明の利であった。

 かつてスカーレット卿が覚醒した時、彼は幻想郷を支配する一つの計画を立てていた。自らの魂の欠片を他者へ寄生させ、さらに宿主の魂を餌にする事で、己の端末をネズミ算式に増やし、さながら爆発的な感染力を持ったウィルスの様に支配圏を広げていくという邪法である。

 流石にレミリアやパチュリ―の様に強い耐魔力を持った者には寄生させられなかったのだろうが、小悪魔の様子を見るに、紅魔館全域の妖精メイドがやられたと考えて良さそうだった。

 しかしそうならば、恐らくもう幻想郷中に……。

 

「だが好都合だ、これで感染者の区別がつく様になった。ならばパチェ、後は分かるね?」

「ええ、任せなさい。純粋な吸血鬼の魂ならまだしも、極限に薄まった末端の量産品くらいなら、引き剥がすなんて訳ないわ」

「よし。――美鈴、小悪魔。お前達にはパチェの護衛とサポートを任せる。貧弱もやしの介護を頼んだぞ」

「ちょっと」

 

 ひらひらと、レミリアはパチュリーへ手を振った。

 

「咲夜。お前は私たち姉妹を死んでも守れ。いや、死ぬな。死なずに死ぬ気で守り通せ」

「まぁ、素敵な無茶ぶりですわね。私の老後はさぞや安泰なことでしょう」

「フラン。お前は私の前に立ちはだかる障害を塵芥に粉砕しろ。その破壊の力を存分に使う事を許す。気を付けて戦うように」

「……なんか遠足に向かう子供を嗜めているように言われた気がするけど、まぁ良いわっ。任せてお姉様!」

 

 それぞれの役割は決まった。 

 少女たちは、与えられた戦場へと赴いていく。

 

 筆頭に空を舞うは、永遠に紅い幼き月。

 

「それでは諸君。主演気取りの道化に、終幕を告げに参るとしよう」

 

 

 

「こ、こりゃあ一体全体何が起こったのさ!?」

 

 灼熱地獄の温度管理に使う死体を集め、やっとの思いで地霊殿へ戻って来た火車の少女は、入口を開けるなり絶叫した。

 

 彼女の名は火焔猫燐。霊烏路空の友人にして、同じくさとりのペット同輩の火車である。

 そんな彼女は帰路に着く最中、ようやく地霊殿の姿が見えてきた所で、突如耳を(つんざ)いた強烈な高周波に驚き跳ねた。何事かと慌てながらも持ち前の野性的聴力で音の発生源を突き止め、その光景を目の当たりにしたことで、あっと言う間に混乱の渦へ閉じ込められてしまったのである。

 

 猫らしく瞳孔を縦に窄める少女の前には、まるで爆撃にでも晒されたかの如く荒れ果てたエントランスが広がっていた。

 破壊の中心点――灼熱地獄と地霊殿を隔てていた分厚い床は、無残にも砕き割られている。よく目を凝らすと、上から圧力をかけて壊されたのではなく、内側から破裂したかの様に床の一部が歪んでいた。

 となるとお燐の知る限り、犯人は一人しかいないだろう。最近なにやら不思議な力を得たお空が、ポカをやらかしたに違いない。

 お燐は赤い髪から覗く耳をぴくぴくと動かしながら、死体が山積みになった台車を脇へ止めた。タタタタっと軽い身のこなしでエントランス中央へ近づいて、激しく砕き割れた床を覗き込み、

 

「お空ーーっ! なんか上がめちゃめちゃになってるんだけど、まさかあの力でおイタしたんじゃないでしょうねーーっ!?」

 

 ……返事は無い。

 いつもなら声をかければ直ぐにでも飛んでくるお空が、一向に姿を見せる気配がない。

 

 留守だろうか? それとも既にさとり様の部屋でお説教をされちゃっているのだろうか? 

 訝しみながらも、取り敢えずお燐は下へ向かう事にした。結構な距離がある天窓を破壊するくらい力を使ったのなら、お空が管轄している最深部は目も当てられないくらいズタズタになっていても不思議ではない。もしそうなっていたら灼熱地獄のバランス管理が危なくなるので、お燐が代わりに安全を確保しようと考えた訳だ。

 

 ふよふよと落下を始める。深さが増すごとに熱気が肌を撫でるが、妖怪の――ましてや火車のお燐にとってそんなものは何の障害にもならない。

 無事、着陸。きょろきょろと目を配る。

 辺り一面に見当たるのは、月の表面を思わせる破壊痕の数々だった。屈強さで知れる鬼製の連絡橋がところどころ弾けるように破壊されていて、中には溶け崩れている箇所もある。傷は橋のみならず壁にまで及んでおり、その壮絶な有様は、大妖怪同士が喧嘩したかのような残り香を放っていた。

 当然、お空の姿はどこにもない。

 

「お空……一体何があったってのさ」

 

 ぽつりと零れる、心配の言葉。

 それが灼熱の空気へ溶け込んだ、その時だった。

 背中を撫でる、熱気ではない別の圧力。

 妖獣から進化したお燐の野性は、一瞬にして尋常ならざる気配を感じ取った。

 

 ――下に居る。

 

 鉄橋の下から、ナニカが上がってきている。

 始めはお空かなと思ったそれは、気配が近づいて来るとともに、全く身に覚えのないシルエットを脳裏へ映し出した。

 やがて、その瞬間はやってきた。

 お燐の目が、鼻が、肌が、魂が。ソレを正しく認識した瞬間、野生の勘が警笛を吹き鳴らし、体を一気に強張らせてしまう。

 

「ひうっ」

 

 水中で口から漏れ出す水泡の様に、意図せず息が唇の間を吹き抜けた。

 吐き出さないと、喉元で膨張を続ける感情に、押し潰されそうになってしまうのだ。

 

 お燐の前に、名伏しがたいナニカが、鉄橋の下から現れた。

 黒い触手がまるで蛸のようにうねり、本体(・・)を鉄橋にまで押し上げて来たのである。

 

 触手の根元にある人形からして、恐らく男性。しかし肉体は余すところなくグズグズに融解しており、炎が脂を養分に体を這いずり回っていて、白い骨が露出している箇所が幾つもあった。

 第一印象は地獄の悪魔が相応しい。西洋の伝承なんかに出てくる、煉獄の底で笑う異形が適格だ。

 あまりに悍ましく、惨たらしい容貌に、死体集めが趣味のお燐ですら寒気を覚えた。餓鬼道に堕ちた餓鬼の方が百万倍も可愛げがある。もはや溶けた五臓六腑を骨格標本へ滅茶苦茶に貼り付けた肉模型に等しい姿なのに、しかしその眼は宝石の如き輝きを湛えていて、一層不気味さを際立たせた。

 

 ゆっくりと、ゆっくりと。謎の男は浮かび上がって、鉄橋へ着陸する。衝撃で役目を終えた触手がべしゃりと崩れ落ち、黒い霧となって霧散した。

 支えが足りなくなったせいか、男はがくりと膝をつく。こちらを見る紫の瞳が何を孕んでいるのか、お燐には窺い知る事が出来ない。

 

「な、なななな、何モンだいアンタぁっ……!? こんなところでなに、あっ、お、お空をどこにやったんだい!?」

 

 と。

 そこまで叫んで、お燐は主人から言われていた言葉を思い出した。この地霊殿に今、地上からの移住者が来ているという話だ。

 詳細は聞かせてもらえなかったが、とにかくその人物の印象だけは、耳にタコが出来るくらいお空と一緒に叩き込まれたのだ。

 

 曰く、とんでもなく恐怖を煽る男であると。曰く、それは地上の吸血鬼であると。

 

 ご主人様は、その人と万が一鉢合わせになっても一切関わるなと言っていた。決して敵ではないが、目を離さないように後ずさって、十分距離を離してから逃げなさいとも教わった。対処法が熊に対する人間のソレだが、その住人の影も形も見ていないお燐からすれば、いまいち実感がわかないものだった。

 

 それを、今になって体で感じた。

 吸血鬼の貌には到底見えないが、間違いない。見た目以上に、野性の六感が告げる悪寒――彼こそが件の移住者、吸血鬼ナハトであるのだと。

 

「きテ、くレた、か」

 

 激しいノイズの入り交じる、砂嵐の様な声で男が囁く。

 体が命令されたかのように、お燐は条件反射で答えていた。

 

「あ……あたいは、火焔猫燐。さとり様のペットの火車だよ。あんたは、吸血鬼のナハトだよね……?」

「さトり……へ、さトりへ、連絡、を」

 

 血反吐を吐く様に、男は言葉を繰り返した。コールタールのようなどす黒い液体と、肉体組織とは到底考えられない破片を撒き散らしながら。

 

「たの、む。さトりを、呼ンで、く、頼む」

「さ、さとり様を呼べばいいのかい? ああでも、その傷は放っておくと不味いよ! 今にも崩壊しそうな勢いじゃないか!」

「私は、いい。早く、はや、く」

「お燐!」

 

 選択を迫られるお燐の真上から、耳に馴染む声が聞こえた。

 顔を上げる。見慣れた水色のスカートが目に映って、次いで桃色の髪が見えて。それが今、この場に最も必要な人物だと脳がはっきり認識した。

 古明地さとり。お燐とお空の、唯一無二のご主人様だ。

 

「お燐! よかった、貴女は無事だったのね!」

「あっ、えっ、えっと。すみませんさとり様、無事かと言われてもあたい、全然状況が掴めないんですが……!?」

「話は後! それより……酷い。なんて、惨い傷……!」

 

 膨大な陽の光を外からも内からも注がれた結果、体は爛れ、崩れ、中身も滅茶苦茶な融合を繰り返し、最早ナハトは辛うじて人の形を保っている状態に過ぎない。それを目の当たりにして、さとりは顔を青くしながら口元を抑えた。

 

 しかし、彼女の精神的強度は並みではない。さとりは直ぐに持ち直すと、自らのスカートの端を引き裂いて、更に破壊された鉄橋の切れ端を使い、指を切った。溢れた血の雫を布に滲み込ませると、それをガーゼとするように、生傷へ当ててしっかり押さえていく。

 さとりの血を吸い込んだ肉体組織は、瞬く間に再生していった。やはり彼は正真正銘の吸血鬼なのだろう。

 しかしそれはあくまで一部の話だ。効果は応急処置にも及ばない。僅か数滴たらずの血液では、この甚大なダメージをカバーする事など到底不可能である。

 

 徐に、ナハトは炭化した腕を伸ばしてさとりの肩を掴んだ。

 息をするだけでも苦痛を伴う状態の筈だが、ナハトは必死に言葉を紡いで、

 

「さと、り。すま、ない。奴を、止められ、なかった。こいしを、空を、行かせてしまった」

「話は後です! まずはこの傷を治さないと――そうだ。お燐!」

「は、はい!」

「詳しい事は後で話すから、今は彼を血の池地獄へ連れて行って頂戴! 沢山血が貯まってるあそこなら、ナハトの傷を癒す事だって出来るはずよ!」 

 

 お燐は頷き、満身創痍の男を担いだ。少女の容貌とてお燐は妖怪である。この程度の重さ、荷物にすらなりやしない。

 

 ……この場所で彼の身に何が起こったのか、さとりとこの吸血鬼がどんな関係にあるのか、お燐に理解できる術はない。

 ただ分かった事は、彼が敵ではない事。そしてお空とさとりの妹君、古明地こいしが何らかのトラブルに関わっていて、それを止めようとした彼が、お空の持つ太陽の力の前に手酷い傷を負わされたという事だ。不死身で有名な吸血鬼の彼がここまで重症を負ったとなると、そうとしか考えられない。

 

「わ、分かりました。でも、さとり様はどうなさるんで?」

「私は地上の賢者と連絡を取るわ。恐らく――いや、確実に彼女もアレの存在に気付いていない。気付けるはずが無いんだもの」

 

 裏を孕んだ言葉をさとりは零す。何に気付けないのか、お燐には分からない。しかし、事が相当緊迫した状況にある事だけは理解した。

 だって、自他共に人と関わるのが大嫌いなさとり様が、即決で地上の賢者へ相談しようと決断を下した程なのだから。

 

「でも、どうやって? 地上との連絡手段は、ここには無いですよ?」

 

 当然だ。この地底は忌み嫌われ、地上を追われた者達が集う場所である。おまけに地上と地底は互いに不可侵条約を結んでいるため、主な連絡の手段は無い。あるとしても地上側の一部だけ。つまり一方通行だ。

 しかし、そこまで考えて、お燐はさとりの考えている事を察した。

 血液が、足元にまで落ちたかとさえ錯覚した。

 

「まさかさとり様、地上へ出るつもりなんですか!? 危険すぎます! 連絡を取り付ける前に、何があるか分からないじゃないですか!?」

 

 連絡の術が無ければ、自らの足を使うしかない。

 だって、それ以外に道なんて無いのだ。さとりに連絡用の式神を飛ばす能力はない。お燐も同じく、使えるとしても怨霊や死体を使役する力だ。怨霊が往来跋扈する地底ならばさておき、それらを忌み嫌う地上へ放ったところで、行きつく前に何者かの手で処分されてしまうのは目に見えている。

 だから、自分が行くしかない。そうさとりは判断したのだ。それしか思いつかないのだ。嫌われ者のさとり妖怪にとって、地獄よりも地獄に等しい地上へ出向く方法しか、彼女に残されていないのだ。

 それに何より、さとりはお空とこいしの事が、心配で心配で仕方がなかったのだ。

 

「心配は、ない」

 

 八方塞がりの選択肢へ新しい道を示したのは、吸血鬼だった。

 彼は朽木のような指を彼方へと向けながら、弱々しい声を振り絞って、

 

「私の義娘が、監視用に使い魔を飛ばしていた。私がこの地に、降りた時から、ずっと、私を観察していたのだ。先の襲撃で、破壊されてしまった、が、レミリア達の誰かが、紫へ事の詳細を、伝えて、くれるだろう」

「ナハト……」

「本当なら、直接紫と繋がる、連絡用の札が、あったのだが、ね。奴の奇襲で、使い物にならなくなって、しまった」

「もう喋らないでください……。傷が更に悪化してしまいます」

 

 お燐、と再びさとりは指示を飛ばす。お燐は応じて、妖怪の脚力と浮遊術をふんだんに駆使し、ナハトを血の池地獄へと飛び去った。

 



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EX7「蝕まれた愛の花言葉」

【第百十九季 文月の三】

 今日、お姉ちゃんから日記帳を貰いました。プレゼントだよ、やったね!

 

 でも誕生日じゃないのに何でプレゼント? って聞いたら、あんたはすぐ何処かへフラフラ出かけてしまうから、週一でも生存報告代わりに地霊殿へ帰って日記を書く習慣をつけなさいだってさ。

 

 お姉ちゃんったら過保護だよね。もう私だって子供じゃないんだから、半年くらい放浪しててもいいと思うの。

 

 けど折角のプレゼントだから、ちゃんと書いていこうと思うよ。日記ってなんだか面白そうだもん。最近暇だったし、新鮮で良さそうじゃん!

 

 ……日記って何を書けばいいのかな?

 

 

【第百十九期 葉月の一】

 全然書いてないじゃないってお姉ちゃんから怒られた。だって何書いていいか分かんないんだもん。

 

 そう言ったら、空いた期間で体験した事を書けばいいって教えてもらった。流石お姉ちゃんナイスアドバイス。自分で本を書いてるだけあるよね。私には何故か読ませてくれないけど。私の日記を読む癖に自分の本は読ませないだなんてずるいよ。今度盗み見てやる。

 

 おっと、日記だった。えーっとこの間の面白い出来事って言ったら、なんか変な館にいつの間にか迷い込んでたくらいかな。新鮮な血みたいに真っ赤なお屋敷が地上にあるの。お家と同じくらい大きかった。

 

 でも地霊殿の方がお洒落だったね。あのお屋敷は赤一色で目に悪いし、死体コレクションの一つも飾って無いなんてナンセンスよ。

 

 けどなんか迷宮みたいで面白かったから、また冒険してみたいな。お宝とかあるかもしれないじゃーん!

 

 

【第百十九期 葉月の十】

 あのお屋敷にまた行ってきたよ。

 

 今回は地下で変な女の子を見つけたんだ。キラキラした羽を持ってる、私くらいの女の子。一人ぼっちでブツブツ何か喋ってた。幻覚さんを見てるのかなぁ?

 

 どこか寂しそうだったから話しかけたんだけど、無視されちゃった。悲しいね。

 

 あっ、それと不思議な事があったよ。女の子の中から声が聞こえたの。何の声だろうね? お姉ちゃんは分かる?

 

 

【第百十九期 葉月の十八】

 とってもこわいおじさんがいた。

 おねえちゃんになでてもらった。

 うれしかったです。

 

 

【第百十九期 葉月の二十二】

 

 相変わらず怖いおじさんが住んでたよ。本当は近寄りたくないんだけど、何故か気付いたら傍にいるの。何でだろうね。いい迷惑だからあっちに行ってほしいよね。

 

 そうそうお姉ちゃん、このおじさん怖い癖に本読むの好きだよ。なんだかとっても難しそうな分厚い本を読んでたの。ハードバカーだっけ? ああいう本って叩かれたら痛そうだよね。

 

 その怖いおじさん、本を凄く熱心に読んでたから、読んでた本をお姉ちゃんのお土産に持って帰ろうとしたんだけど、気付いたら何故か栞しか持ってなかったの。お土産なくてごめんね。栞いる?

 

 

【第百十九期 長月の九】

 泥棒は駄目だって怒られちゃったから栞を返しに行ったよ。でも、返せなかったの……。

 

 だってね、皆で楽しそうに鬼ごっこをやってたのよ。仲間外れは寂しいからつい混じっちゃったの。それで返すの忘れてた。ごめんなさい。

 

 で、鬼ごっこなんだけど、おじさんが鬼役だったからすっごく怖かった。おじさんは多分私に気づいてないと思うけど、分身の術がべらぼうに怖かった。アレは明らかな人選ミスだと私は思うね。

 ん? 鬼役だからナイスチョイスなのかな? 教えてお姉ちゃん!

 

 

【第百十九期 長月の二十】

 今回はキラキラ羽の女の子が友達とお食事会をしてたよ。今更だけどあの子、フランドールって名前なんだ。私と同じで妹だったよ。シンパシー感じるね。

 

 そのフランが作った料理がね、すっごく美味しかったの! 思わずおかわり用の一皿を食べちゃった。

 私も美味しいごはんを作ってくれるお友達が欲しいなぁ。

 

 

【第百十九期 長月の二十九】

 今日は凄い日だったよ! なんとなんと、何時まで経っても夜が明けなかったの! 凄いよね。地上には妖怪の日があっただなんて知らなかったなぁ。

 

 でもなんだかお月様が少しおかしかった。ずっと眺めてると気持ち悪くなっちゃうの。だから帰って来ちゃった。やっぱり地獄はのどかでいいとこだね。

 

 あ、でも弾幕ごっこは綺麗だったなぁ。

 おじさん最後首ちょんぱしてたけど。

 

【第百十九期 神無月の二十】

 日記書くの忘れてた。ごめんなさい。でもこれって日記なのかな? まぁいいや。

 

 空いてる期間に色んな事があったよ。白い髪のお姉さんと黒い髪のお姉さんが、人間のいる里へ来るようになったんだ。

 

 私はこの黒い髪のお姉さんがお気に入りなの。なんたってお話がすっごく面白いのよ! 剣聖大和だっけ? お姉さんが語るハラハラドキドキの冒険譚がもうね、無意識に引き込まれちゃうんだ。

 

 お姉ちゃんも来ればいいのに。とっても楽しいよ。

 

【第百十九期 神無月の二十四】

 栞返して来ました! でもおじさんに直接返すの怖いから、メイドのお姉さんに渡したの。ごめんなさいもちゃんと言ったよ。偉いでしょ。

 

 ただメイドさんが余所見歩きしてたから思い切りぶつかっちゃった。余所見しながら焼き芋食べ歩くのは危ないよねー。鼻がぶつかった時、とっても痛かったんだからね!

 

【第百十九期 神無月の二十七】

 今日は地上の山でお祭りがあったよ。紅い髪の門番さんと華扇さん、そして萃香さんと怖いおじさんが闘ってたんだ。武闘会って奴なのかな?

 

 でね、このバトルがもうすっごい迫力だったの! 弾幕遊びも良いけど、たまにはこういうのもテンション上がっちゃうよね。特に萃香さんとおじさんの激突は興奮したなぁ。お姉ちゃんが闘ったらどうなるか見てみたくなっちゃった。今度お祭りがあったらエントリーしとく?

 

 ただそのおじさん、祭りの後急にぐちゃぐちゃになっちゃって、棺桶に詰め込まれてた。病気なのかな。何だか全然怖くなくなってたし、ドロドロのミンチと石膏を混ぜたみたいになってたよ。

 

 フランちゃんとレミリアお姉ちゃんが心配そうに見つめてた。

 おじさん、早く治ると良いね。

 

 

 

~~~~~~

 

 

 

【第百二十三期 水無月の十】

 今日はねー、宝探しをしたんだ! ん? あれ、一昨日だっけ。まあいいや。

 あの紅い館はすっごく広いから、絶対なにか隠してると思ったんだよね。だからお散歩ついでにぐるぐる回って来たの!

 

 そしたらね。くらーい地下から声が聞こえたの。ドアの奥からそこの君ー、開けてーって言ってたよ。何で私の事が分かったんだろうね?

 

 でもドアがどうやっても開かなかったから、置いてきちゃった。

 だって、まほう? が掛かっててどうにも出来なかったんだもん。私魔法使いじゃないしー。

 

 

【第百二十三期 水無月の二十】

 お友達が出来ました。

 

 前言ってた声の人にね、どうやったらあなたを助けられる? って聞いてみたの。そしたら、図書館の人を連れてきたら開けられるって教えてくれたわ。だから図書館に居た紫の人に手伝ってって頼んだの。でも無視されちゃった。

 

 どうしたらいい? って聞いてみたら、私の力は何か教えてくれって訊ねられて、無意識を操れるよって答えたわ。人の無意識にかくれんぼするのが得意だってね。

 そしたらね、声の人が「人の無意識の方向を操れないのか?」って言ったの。目から鱗だよね。そんなやり方、試そうとも思わなかったもの。

 

 で、教えてもらった通りにちちんぷいぷいしたら本当に誘い出せたの。こんな力の使い方があるなんて凄いね! 私、ヴァージョンアップしたらしいです!

 ついでに悪魔っぽい子も誘ったよ。この子も魔法が使えたみたいだから。

 

 けど、声の人は凄く恥かしがり屋さんなの。その二人には見つかりたくないんだって。だから声の人に教えてもらった魔法の扉の空け方を悪魔さんにしてもらって、解除して貰いました。

 そしたら「二人を部屋に入れないでくれ」って言われたから、無意識をズラしてみたよ。紫の人と悪魔さんはどこかへ行っちゃった。

 

 でね! でね! そこはなんと、金銀財宝ザックザクの部屋だった訳でありますよお姉ちゃん! 凄いね。

 お宝部屋の奥には本と水晶玉が何個かあって、それに声の人が入ってたの。魂がいっぱいあって面白かった。

 

 今はその声の人と私はお友達です。やったね!

 

【第百二十三期 文月の八】

 お姉ちゃん! 声の人って凄いんだよ! なんとね、なんとね。声の人のお蔭で無意識の私にも心が少しづつ戻ってきてるの! しかもあの眼は閉じたまんま!

 

 声の人、なにか心に干渉する力があるみたい。安心させる力だっけ? とにかく私の能力と根っこが似ているらしいの。だから出会った時に私の事が波長で分かったんだって。

 でね、心が戻りかけてる理由は、声の人の能力で私の波長を揺さぶったからとかなんとか言ってた。話がムズカシイからよくわかんなかったなぁ。

 けど、おかげで本当に少しずつ意識が戻って来てるの。この日記を書くのが楽しいのよ! それにほら、文章もハッキリしてきてるでしょう?

 

 あ、でもでも、まだお姉ちゃんには内緒にしておくね。完全に意識が戻ってからの方が良いし、サプライズした方が感動を呼ぶって声の人が言ってたから、暫くお姉ちゃんには日記を見せません。ごりょーしょーください!

 

【第百二十三期 文月の十五】

 最近は声の人のお手伝いをしてたよ。

 何でもあのお館、元々声の人の物だったんだって。でも悪い吸血鬼に虐められて、あんな水晶玉に閉じ込められてたみたいなの。

 多分、悪い吸血鬼ってあの棺桶に入れられたおじさんの事だと思う。怖いし。

 

 で、声の人は早くお家に帰って娘さん二人――フランちゃんとレミリアお姉ちゃんだね――を取り戻したいって言ってた。だから私に手伝ってほしいんだって。

 

 勿論オッケーしたよ。声の人のお蔭で私自身も力の使い方上手くなってきたし、随分自我がはっきりしてきたもん! 

 半分有意識なのに無意識の力を使えるのが我ながら不思議で仕方ないんだけど、とにかく! これは古明地家次女として、お礼しなきゃだめだよね。だから声の人が復活するのに必要だって言ってたものを、あのお館から取ってくるお手伝いをしました。

 

 でも、牙が生えた本とか悪いおじさんの服とか、一体何に使うんだろうね? 

 

【第百二十三期 文月の二十】

 この五日間は、声の人と幻想郷中を散歩して回ったよ。

 実は声の人って、今まで幻想郷を見た事が無かったんだって。だから一度地理やらなんやらを把握しておきたかったんだとか。

 

 なんでも声の人が閉じ込められてたあのお館……紅魔館はもともと外の世界にあった建物らしくて、外からこっちへお引越しした時には既に幽閉されちゃっていたから、見ようにも見られなかったらしいの。

 だから、私が案内してあげました。人里、稗田さんのお家、貸本屋さんの鈴奈庵、魔法の森、トンガリ帽子の魔法使いさんが住んでるお家、人形師さんのお家、玄武の沢、妖怪の山、無名の丘、太陽の畑、冥界の白玉楼、幻想郷の二つの神社、そして最後に旧都と地霊殿って感じかな。行ける所は全部行ったよ。

 

 声の人、幻想郷をとても良いところだって言ってた。嬉しいね。

 特に西行妖って言う、白玉楼の枯れた桜には興味津々だった。なんか陰の気が凄いんだって。私にはよく分かんなかったけどね。

 あ、でも白玉楼の本には面白い事書いてたよ。桜の下には誰かが封印されてるんだってさ。

 ちょっとロマンチックかも!

 

【第百二十三期 長月の十七】

 ここ最近はずっと予防接種のお手伝いをしてたよ。物凄い数をやったから、かなり時間が掛かっちゃった。でも私、頑張った!

 予防接種ってのはね、悪いおじさんの悪影響を遮断するために、旧地獄中の怨霊を材料にしたお薬を皆に打って回る事だよ。

 怨霊をワクチンにして大丈夫かなって思ったけど、これで悪いおじさんの瘴気と怨霊の陰気が……えーっと、つまりマイナス同士が相殺し合ってプラスに働くから大丈夫なんだって。声の人は物知りだね。私にはちっとも分かんないや。

 

 でもなんだか慌ててる様子だったから、何を焦ってるのって聞いたんだ。声の人は決戦の日が近いって言ってた。悪いおじさんはとってもとっても強くて怖いから、物凄く入念に準備しなきゃ勝てないんだって。

 だから凄く疲れたけど、私と声の人の力を合わせて、皆の意識と思考のべくとる? を頑張って捻じ曲げてながらやってみた。殆ど声の人に頑張って貰ったけど、頭パチパチするくらい疲れちゃったよ。ふへぇ。

 

 でもこれで、みんな安心だよね、きっと!

 

【第百二十三期 ××××】 

 どうしよう。どうしよう。

 あれって、悪いおじさんから皆を守るお薬じゃなかったの?

 

 なんで、小悪魔さんからいっぱい血が噴き出てたの? なんであんなに苦しそうにしていたの? なんで声の人は、おじさんは、それでも良いって笑ってるの?

 

 他の子もそう。みんな、みんな苦しんで死んじゃった。カラカラに乾いて、骨みたいになって死んじゃった。

 魔法使いの人間だって、あなたの言う通りに誘って、力になれる本が見つかるようにしてあげたのに。あんなのは違う、強くなれる力じゃないわ。絶対絶対おかしいじゃない。

 だってあんな、あんなに顔を真っ青にして、眼を濁らせて戦って、人間の友達同士で喧嘩するなんて、どこかが根本的に間違ってるとしか思えない。

 

 平和を取り戻すための戦いだったのよね? そうよね? なのに、皆がいっぱい怖くて痛い思いをするなんて、どう考えてもおかしいよ。

 

 おじさん、なにか隠し事してるでしょ。大丈夫って言ってたのに。これで安心だって言ったのに、全然大丈夫に見えないもん。

 

 怖いよ。分かんないよ。不安だよ。

 本当に本当に、すごくすごく怖いのに、それでも安心してる自分が居る。罪悪感で胸が一杯なのに、心が春の原っぱみたいに澄んでいる。とっても怖い。不気味だよ。

 自分の心が分からない。心を閉ざしてた時より分からない。

 だから、お願い、もうやめて。私を安心させないで。

 

 ねぇおじさん。間違っているのは、私たちの方じゃないのかな? 

 おじさんも、私も、悪い事をしてるのは、本当はこっちの方なんじゃないのかな?

 

 あのおじさん、確かに怖いけど、悪い人には見えないよ。だって、小悪魔さんを助けようとしてたじゃない。魔法使いの人間にも、花の妖怪さんに攻撃されても、抵抗すらしなかったじゃない。

 本当に悪くて強い人なら、さっさとみんなを殺しちゃうんじゃないのかな。魔法使いの人間さんを説得しようとなんて、小悪魔さんを治したりなんて、しないんじゃないかな。

 

 ねぇ、お願いだから私に本当の事を教えてよ。友達でしょう?

 本当は、おじさんが私に嘘をついてるんじゃないの? 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゆめだったらよかったのに

 

 

【            】

 あの日、奴を窮地へ追い込む計画は失敗に終わった。だが保険は幾らでも掛けてある。Aプランが駄目ならばBを。Bが駄目ならばCを。念入りに、念入りに、磨り潰すように戦わなければ、理想の形で奴を葬る事は出来ん。

 そしてようやく仕上げの時だ。全ての仕込みは終わった。後はプラン通り、再び駒を進めるのみだろう。

 

 私は実に悪運がいい。万が一に備えていた保険たちが台無しにされる事も無かったうえ、こんなに頼もしい協力者に出会えたのだから。この娘が私を地下から見つけ出した時ばかりは、忌々しい神を信仰してやっても良いとすら思えたな。

 運が良いといえば、あの地下の地獄鴉もそうだ。まさか太陽の力を保有していたとは。奴へ対抗するのにここまで適した矛もあるまい。

 

 しかし誤算だった事が一つ。ナハトが地底へ来るとは思わなかった。八雲紫があの男の味方に付いていたのは計算外だったのだ。あの女さえナハトの敵に回っていれば、奴が最も嫌う排斥と孤独の絶望で絞め殺せたというのに。

 

 幸いまだバレていないが、時間の問題だろう。ついさっき奴は古明地こいしを訝しみ始めた。さとり伝手に我が能力の暗幕が解かれ、正体を見破られる可能性は非常に高い。

 行動に移すとしようか。なんとしても霊烏路空だけは確保せねば。

 ただ……用途はどうするかな。信管代わりに怨霊を詰め込んで太陽爆弾にでもするか? ある意味、見物かもしれんな。

 




 
 次章、最終章。


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最終章「追憶する孤独の幻想賛歌」
31.「開闢の狼煙」


 

 紅魔館を囲むように存在する雄大な霧の湖。

 畔の影では数多の妖精たちが、本能に赴くまましっちゃかめっちゃかに暴れ回っていた。

 正気を保つ者を見つけては捉えようと追い回し、狂気に侵されていない者は混乱と動揺に急かされ逃げ惑う。さながら生者の血肉を求める屍が氾濫した世紀末の様だった。

 そんな中、森に向かって走る小さな影が三つ。

 

「い、一体なにが起こってるの!? また新しい異変なのかなっ!?」

「みんな急にどうしちゃったんだよーっ!? 何でいきなり喧嘩吹っ掛けてくんのさ!? ……あ、もしかしてアタイの最強の座を狙ってげこくじょーしてるつもりなのか? おう上等じゃいッ! 格の違いを思い知らせてくれるわ一列に並べーっ!!」

「大ちゃんこの馬鹿引っ張るの手伝って! 何だかよく分からないけど、一先ず逃げるが吉ってねっ」

 

 怯える大妖精。押し寄せてくる正気を失った妖精の群れへ、果敢にも氷剣片手に突撃しようとする氷精を羽交い絞めにし、撤退を選ぶ宵闇の妖怪。

 もはや誰が射撃しているのかも分からない百花繚乱の不規則弾幕が、混戦状態の戦場の様に飛び交っていく。

 

 

 

 

 春先には、鈴蘭が辺り一面咲き誇ると噂の無名の丘。

 人形の少女が、前触れも無く凶暴化した妖怪の魔の手から必死に逃げ回っていた。

 

「はわわ、はわわわーっ!? 皆ちょっと落ち着いて、ね!? 先ずは暴力じゃなくて言葉で話し合いましょーっ!?」

 

 唐突な襲撃でパニックに陥っていたメディスンは、前方の石に気付かず派手に転んでしまう。

 土埃を舞わせながらも、なんとか減速するメディスン。しかし起き上った時には、眼前に妖怪の鋭い爪が迫っていて、

 

「あ」

 

 ひゅっ、と無情な風切り音がして。

 ()()()()()()()()()()()()、サッカーボールの如く吹っ飛んだ。

 

 転んだメディスンよりも何倍も強烈なバウンドを繰り返しながら彼方へ横転していく妖怪を呆然と眺めつつ、メディスンは自分が誰かに助けられたことをハッと理解する。

 同時に安堵が荒野に芽吹いた苗の様に伸びてきて、それを咲かせんばかりに笑顔を浮かべながら、救いの恩人へお礼を言おうと振り返った。

 

「あ、ありがとうございま」

 

 ――まず、赤いチェックのスカートで覆われた足が見えた。

 なぞる様に見上げれば、緑髪紅眼の麗人と眼が合って。

 新緑の癖っ毛を靡かせながら、冬季の真ん中にも拘らず夏を彷彿させる傘を片手に微笑む絶世の美少女を、メディスン・メランコリーはしっかりと認識した。

 名を風見幽香。幻想郷ではその存在を知らぬ者はいない、極悪最強と名高い大妖怪である。

 どれくらい凄いかと言えば、メディスンがやけくそになって戦ってもデコピン一発で泣かされるくらいは凄い。と思っている。

 

 あれ? ひょっとして助かって無いかも。メディスンはメランコリーな気分になった。

 

「あの吸血鬼、またオイタをしたのかしら」

 

 誰に対してでもなく呟かれる、地獄の釜湯よりも煮えたぎった怒りの声。

 その圧倒的な気迫は、既に正気を失っている筈の魑魅魍魎を、無意識のうちに後退させていく程で。

 無論、足元のメディスンは半泣きだった。

 

「恨むなら貴方たちをそんな風にした元凶を恨みなさいな。そこまで面倒見れるほど、私は優しくなんて無いからね」

 

 

 妖怪の山、その麓にて。射命丸文と姫海棠はたては、仕事の休みが重なっていたのだろうか。珍しく二人で和気藹々と遊んでいた。

 いや、仲良く喧嘩中(あそんでいる)と言った方が正しいだろうか。

 

「ふはーはー! やっぱり撮影技術に関してはこの射命丸文に軍配が上がるようですねぇっ! 見なさいこの山の美しい雪景色を切り取った至高の一枚を! 念写に頼ってばかりの情弱隠者(ハーミット)には決して真似できない職人芸と言えませんかっ!? えーっ!?」

「う、うっぜええーっ!! でもそう言うアンタにゃこんな写真は撮れないでしょ!? そら、透き通るような清らかさに心洗われる冬の川の水中写真よ!! どう? 寒がり鴉がここまで光度と角度を調節しつつ水中を綺麗に撮れるかしら!? むぅーりぃーよぉーねぇーッ!! そもそも文のポンコツカメラじゃあ水の中に入った瞬間おじゃんになるのが関の山だしぃぃーーっ!?」

「むっきいいいいいい!! 私だって次のお給料入れば河童に防水加工して貰えますもん!!」

「文が防水加工されなきゃ意味ないっつーの!! あ、じゃあ私が河童特製耐水袋に詰めて差し上げましょうか? 文は重いしおっぱい無いからすぐ沈没して良い写真が撮れそうよねっ! おめでとう!」

「こ、こ、このクソ天狗……っ! 最近人が気にしてる体重と胸事情にまで触れやがったな……!? これはもう怒髪冠を衝いたって奴ですよ弾幕でぶっ飛ばしてやるから表出ろ!!」

「上等よけっちょんけちょんにしてくれるわァーッ!!」

「あ。スペルカードは四枚で良いですか!?」

「良いよ!」

 

 どうやら、どちらの撮影能力が上かで争っている様子である。割といつもの光景なので、何故か付き添わされてしまった白狼天狗の犬走椛も、別段仲裁に入るつもりは無い。血が上った二人の八つ当たりに巻き込まれ、椛まで額の血管が切れてしまうこと請け合いだからだ。

 しかし、今回ばかりは事情が異なった。

 

「お二人とも、ちょっとよろしいですか」

「止めないで椛! このどんぐり頭は乙女の尊厳と記者のプライドを踏みにじったんです! ここで決着を着けなければ腹の虫が収まらない!!」

「そうよ! 遂にこの山の煽り魔と雌雄を決する時が来たの! 邪魔しないで!」

「囲まれてます。どうもただ事ではなさそうですが、保留としておきますか?」

 

 その言葉で、ぎゃあぎゃあと騒いでいた二人はすぐに我へと返った。

 伊達に賢人と名高い鴉天狗ではない。椛の声色が示す迫真さから異常事態をすぐさま察知し、沸騰した脳漿を一気にクールダウンさせたのだ。

 

 三人の周囲を――いいや、それでころかこの渓流一帯を、山の同胞たちがまるで統率がバラバラな山賊の様に乱雑な輪で取り囲んでいた。

 目を餓えた獣の如く爛々と輝かせる彼らに理性の類は見当たらない。共に山で生活を営み、祭りで騒ぐ仲間たちが、まるで何者かに操られているかのような仕草で佇んでいるのである。

 

 瞬間。警告も予兆も予備動作も無く、紛れ込んでいた河童の一人が、超高水圧の水鉄砲で文の烏帽子を狙撃した。

 間一髪で風のガードを纏い、水の弾丸を跳ね除ける文。跳弾した弾は付近の地面を抉り飛ばし、その威力が状況が冗談では無いと三人へ教えてくれた。

 

「事情が全然読めないんだけど、ちょっとヤバそうな雰囲気じゃない……? どうしちゃったのよ皆、流石にジョークにしては質悪いわよ」

「むしろジョークなら大団円ですね。エマージェンシー……何かの異変でしょうか? 山の同朋が我々を攻撃するとは、撮影より前に上へ報告する必要がありそうだ」

「ならば、まずは包囲網を突破しましょう。事の詳細が掴めぬ以上、出来るだけ皆を傷付けないように――――っと、来ますよ! 構えてっ!」

 

 

 

「はっはっは、なんだお前ら、私に黙って随分面白そうなこと企んでるみたいじゃないか」

 

 浄土の蓮すら色褪せる繁華の街。地の底の京、旧都にて。

 とある居酒屋での出来事だった。

  

「てか本当、どういう状況なんだいこりゃ。何かの記念日だっけ? うーん、私も別に誕生日って訳じゃないしなぁ。あ、もしかしてこの前太助のとこの(ちん)逃がした犯人と思われてるのかね? 違うぞー。確かに鴆って食べたら美味いのかなとは思ったことあるけど、私は盗んだりしてないからな」

 

 一本角の四天王、星熊勇儀はカラコロと快活な笑みを零しながら独り言ちた。

 しかしそんな彼女は今、簀巻きの如く全身を強靭な糸でぐるぐる巻きにされ、さながら蜘蛛の巣に絡み取られた獲物の様に、店の大黒柱へ貼り付けられていた。

 周りを囲うは、歪んだ光を瞳へ宿す鬼の一行。どうやら、共に宴会していた最中に突然騒動が起こった様だ。

 

「ありゃ、こいつも違うのか。ならお前さんは心当たりあるかい? キスメ」

「ののの呑気に笑ってる場合じゃないでしょ勇儀!? 私達、三百六十度どこからどう見ても間違いなくヘヴィーでデンジャーな状況に巻き込まれてるって! いくらなんでも記念日のお祝いや尋問にしては過激すぎない!?」

「はは、違いない」

 

 勇儀と反対側へ逆さまに括りつけられているのは、鶴瓶落としのキスメである。彼女はぷるぷる体を震わせて、涙目になりながら勇儀の豪傑さを嗜めていた。

 

「うう、久しぶりに思い切ってみんなとお酒飲もうかなって、頑張って外れの家から出て来たのにっ。それなのに、なんで今日に限ってこうなっちゃうのようぅ……!」

 

 グスッ、と鼻を啜る音がした。どうやら引っ込み思案な性格なのか、勇気を振り絞って参加した宴会だったらしい。それで厄介事に巻き込まれたとなれば、運が悪かったとしか言いようが無いだろう。

 そんな彼女の不幸も憂鬱も、まとめて吹き飛ばさんばかりに豪鬼は笑った。

 

「なぁに、時にこんな荒事も乙なモンさね。近頃は平和過ぎてむしろ退屈だったくらいだ、偶には縛り上げられるのも悪くはない……が、せめて祭りの趣旨くらい聞かせちゃ貰えないかねぇ? ヤマメ、パルスィ」

 

 剣呑な鬼の視線の先に、二人の少女が立っていた。

 片や碧眼の鬼神。嫉妬の怨念を操る橋姫、水橋パルスィ。

 片や病魔の首魁。鬼に匹敵する怪力無双(つちぐも)、黒谷ヤマメ。

 

 両者とも、最近まったく姿を見かけなかった勇儀の友人である。

 散々地底を練り歩いて探したのに見つからず、なのにいきなり酒飲みの席へやって来たかと思えばあっと言う間に糸を繰り出し、勇儀とキスメを拘束してしまったのだ。おまけについ数分前まで盃を交わし語らい合っていた仲間たちが豹変してしまう始末。流石の勇儀もこれには苦笑い。

 

「しばらく顔を見せないと思ったら、まったく。悪戯は大いに結構だが、贅沢言うならせめて真正面から決闘吹っ掛けて欲しかったなぁ。二人いっぺんでも良かったのに。なんならここにいる全員まとめて掛かって来ても」

 

 瞬間、炸裂音。

 勇儀の頭上が、一人の鬼が撃った光弾で焼け焦げた音だった。

 笑顔が消える。

 牽制と敵意。二つの意思を汲み取った一角鬼は、薄く、薄く、白煙の息を吐き出した。

 

「――テメエ、何(モン)だ」

 

 天下の名刀、童子切安綱にすら匹敵する鋭い眼光を、ヤマメたちへ切り掛かる様に差し向ける。

 それは決して友人へと向ける眼差しではない。全く別の知らない誰か、それも勇儀が()()()()()()()()()に対して向けられる、軽蔑と嫌悪、怒髪の眼差しに他ならなかった。

 

 尋常のものならば失禁したのち卒倒にまで追い込まれかねない覇気を一身に受けながらも、当の二人は動じない。

 ただ、にちゃりと。少女らしからぬ粘々とした笑みを浮かべるのみだった。

 

 

「ちょいやーっ!!」

 

 甲高い掛け声。ついで、砲撃の如き爆発音が轟いた。

 地盤が揺れる。衝撃は波となって大地を襲う。木々が悲鳴を上げて泣き叫び、僅かに余っていた枯葉は全て雪の絨毯に吸い込まれた。

 けれど不思議な事に、強烈な地震が発生したにもかかわらず、周囲への被害はせいぜい葉っぱが落ちた程度で。

 よくよく見てみれば、地震もごく一部でしか起こっていない様だった。

 

「ったく。地上の俗物風情がこの私に挑もうなんて、千年早いってのよ」

 

 震源地に、華々しい衣装に身を包んだ少女が居た。

 晴天のような髪を持つ、黒いハットを被った乙女。名を比那名居天子と言う、天界に住まうれっきとした天人だ。読みは『てんし』であって『てんこ』ではない。

 

 フンッ、と強気に鼻を鳴らす。しかしその瞳は、どこか楽しそうに揺れていた。

 と言うのも、襲い掛かって来た魑魅魍魎の群れを能力を使ってバッタバッタと薙ぎ倒し、無双の勝鬨を上げていたところだったからだ。退屈な天界生活に常日頃から辟易している天子にとって、良い刺激にはなったのかもしれない。

 もっとも、操られている妖怪勢からすれば災難な話ではあるのだが。命があるだけ儲けものだろう。

 

「こんな所で何をされているのですか? 総領娘様」

「あら、衣玖。あんたも来てたの」

 

 遠目からでも一目で分かるほどボリューミーな羽衣を纏った少女が、天子の背後へ音も立てずに降り立った。

 彼女の名は永江衣玖。伝承に登場する天女をそのまま切り出した様な風貌をしているが、実は竜宮の使いと呼ばれるれっきとした妖怪だ。

 立場や種族的に考えると、天女は天子の方が該当するのだろう。しかし立ち振る舞いを見る限り、なんだか逆の様に思えてくる。

 

「いつも雲の中をふよふよして地震の時くらいしか姿を現さないアンタが、何でここにいるの?」

「今仰られた通りですよ。()()が来るから皆さんにお伝えしようと思って来たんです。その道中、総領娘様をお見かけしたので立ち寄ったのですわ」

「……もしかして、私?」

 

 やべっ、と天子は顔を引き攣らせた。何を隠そう天子はいわゆる()()()()なのである。博麗神社をぶっ壊して、さらに建て替えられた神社を後々利用しようと悪巧みをした結果、激怒した妖怪の賢者さんに思い出すのも憚られるようなお仕置きをされてしまった過去を持つ。

 故に、また騒動を――それも災害クラスの被害を起こした張本人だと扱われてしまえば、もっともっとキツい折檻をされるかもしれないと想像してしまったのだ。

 

「いえ、違います。もっと悪いものです」

 

 ぶるぶる震え出した天子に反し、衣玖の答えはノーだった。思わず安堵し、天子は胸を撫で下ろす。

 ……ん? じゃあ私は普段ふつーの悪いものとして扱われてるってこと? そんな疑問符を頭上に浮かべた天子だが、まぁいいやと直ぐに頭から掻き消した。

 

「この気質が混じりに混じった変な奴らが関わってる感じ?」

「左様です。……なにやら、彼方から良くない空気を感じるのです。それが、彼らを昂らせている元凶かと」

 

 天子の持つ宝剣、緋想の剣は気質を見極める特性を持つ。また、衣玖は種族の役割と能力もあってか、流れや空気を読む力を持っている。

 故に彼女たちは、事の異常とその震源をなんとなくながら察知していた。

 同時に、地上の案件だからと言って放って良い問題ではないとも。

 

「ま、退屈しのぎには丁度いいわ」

 

 今もぞろぞろと、周囲から活発化した魑魅魍魎たちが集まってきている。

 天子は、それを愉快そうに受け入れた。

 悪事を察知したとは言ったものの、比那名居天子は細かな事情などどうでも良いのである。彼女にとって重要なのは、自分が退屈であるか否か。それだけだ。

 故に、恰好の暇つぶしにありついた天子は、にひっ、と百万ワットの笑顔を浮かべた。

 

「ほんじゃまぁ、一丁派手に暴れさせてもらうわよっ!」

 

 緋想の剣が焔の如く輝きを増し。

 次の瞬間、天人少女は疾風迅雷の天災と化した。

 

 

『早苗、人里の方は大丈夫そうかい?』

「はい、今のところ侵攻の様子はありません」

 

 人間の里、その上空にて。守矢神社の風祝は、念話で二柱と話し合いながら周囲を見守っていた。

 原因は言わずもがな、幻想郷で同時多発的に発生した騒乱だ。守矢神社が位置する妖怪の山でも事件は起きており、事の詳細を察知したらしい二柱が早苗を人里へ向かわせたのである。

 始めは人里でも同じような騒動が起こっていると思っていた。その場合は、諏訪子と加奈子の力を振るうことも厭わない覚悟でいた。

 しかし、予想は大きく裏切られる。

 里の周辺では、確かにそこかしこから騒ぎは聞こえている。しかし里の中では何一つ、蟻の喧嘩すら起こっていないのだ。

 

「不気味に静かです。里の内部は本当に平和が乱れる気配を見せません。私が見張る必要も無いんじゃないかってくらいに」

『……うーん。どうも妖精や下級妖怪が強い力に当てられて興奮してるってわけじゃなさそうだね。乱れる狂気に理性ある悪意を感じるよ』

『確かに、普通なら妖精の一匹や二匹が入ってきてもおかしくないのにね。きな臭い。前のミイラ事件と似た、嫌~な雰囲気だ』

 

 一見無秩序な力の流動に見えて、どこか統率された動きを感じる矛盾した動乱の様子は、人為的に引き起こされたモノで間違いないと、二柱に確信をもたらした。

 

『早苗、龍神様の像の眼は?』

「はい、赤いです。真っ赤っか。これは異変で間違いないかと」

 

 里の一ヵ所に、幻想郷の最高神である龍神を祀る像がある。この像は不思議な機能を持ち、眼の色によって、幻想郷へ起こる出来事を予知する事があるのだ。例えば、眼が青くなるとそれは雨の前触れだと言われている。

 そして赤は予測不能の事態――すなわち、異変の到来を告げているのだ。

 

「早苗さん!」

 

 下方から女性の声が聞こえた。応じるように下へと視線を向ければ、里のワーハクタクの姿が。

 彼女は両手でメガホンを作り、遥か上の早苗に向って必死に声を張り上げる。

 

「周辺の状況はどうですかーっ!」

「問題ありませーん! 少なくとも、里は安全みたいですー!」

 

 急いで降下しながら早苗も返答する。上白沢慧音の返事が来るより早く、早苗は地に足を着けて、

 

「そちらの方はどうでしたか?」

「特に問題は……やはり妙ですね、周辺一帯からはこんなにビリビリとした空気を感じるのに、里で何もないだなんて。かえって気味悪くすら思えてくる」

 

 まるで四年前のあの夜の様だ――慧音は早苗に聞こえない程度の声量で呟いた。

 

『取り敢えず、早苗はそこで待機してて。もし妖怪が暴れ出したらとっちめておやり』

「分かりました」

 

 念話を終え、早苗は幣を下ろしながら、暗くなった空を見上げる。

 気持ちの悪い気配が漂っているのに、今夜は満天の星空だ。澄んだ冬の空気が、一層星々の輝きを引き立てているのだろう。

 守矢の風祝は、冷たくなった手に息を吐きかけながら、星の川をなぞっていくように、ある方角へと視界を移していく。

 薄っすらと見える、赤い鳥居が立つ神社へと。

 

「霊夢さん、この異常事態に動いているのかしら……?」

 

 

「…………」

 

 胸騒ぎがする。

 寝間着へ着替え、さぁいざ床へ就くぞーと言わんばかりの頃だった。博麗霊夢は強烈な悪寒に身を駆られ、自分へ覆い被さっていた布団を蹴り飛ばすと、服が乱れるのも構わず脱兎のごとく母屋を飛び出した。 

 裸足が雪の絨毯を踏みしめる。刺すような冷感が足の裏を襲うが、今はそれどころではなかった。そんな物がどうでもいいと思えるくらい、博麗の直感が警鐘を打ち鳴らしていたのである。

 博麗神社は幻想郷を一望できる位置に存在する。霊夢はその景観を頼りに、胸で暴れるブザー音の正体を探るべく、必死になって眼を動かし続けた。

 

 ところどころで、夜の闇を食い破る光の群れが見えた。弾幕ごっこの光弾に酷似しているが、規則性がまるでなく、そもそも美しさを感じない。弾幕戦のスペルカードを使っているのなら、遠目から見ても綺麗だと刷り込まれる美麗さを感じる筈なのだ。

 しかもそれが、一ヵ所ではなくありとあらゆる場所で吹き上がっているときた。

 最早考えを深めるまでもない。異変である。

 

「……ったく、どこのどいつよ! こんな時間にバカ騒ぎを起こしてるド阿呆どもはッ!!」

 

 間髪入れずに母屋へ戻り、衣装を投げるように脱ぎ捨てた。

 枕元へたたんでいた正装を引っ掴むと手慣れた様子で袖を通し、あっという間にいつもの博麗霊夢が出来上がる。

 締めにキュッとリボンを結び、お祓い棒を鞭のように振るって調子を試す。

 一寸前の呑気な少女の面影はなく、幻想郷きっての異変解決の専門家、博麗の巫女が顕現した。

 

「さて、どこへ行ったもんかしら」

 

 悩んだ霊夢は徐にお祓い棒を床へ立たせると、軽く指で弾いて押し倒した。

 ぽすん、と。棒が倒れて雪を凹ませた方角へ霊夢の首が動く。

 

「あっちは紅魔館か。……またレミリアじゃないでしょうね」

 

 相変わらず行き当たりばったりな道標を頼りに霊夢は飛んだ。別段確証なんてものはない。ただ、彼女の勘と霊夢を取り巻く運命が、そちらへ行けと導くのだ。

 だから霊夢はそれに従った。逆らうことなく、流れる空気に身を任せる雲のように、示された道を突き進むことを選んだのだ。

 

 

 一向に止む気配の無い胸騒ぎが、どうか気のせいでありますようにと祈りながら。

 

 



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32.「空亡」

「では、確かに受け取りました。責任をもってお渡ししておきましょう」

「ありがとう、恩に着るわ」

 

 光も、音も、物体も、果てには境界すら存在しない、人間の感覚では到底把握不可能な空間があった。

 その中で不自然に浮き上がる輪郭が二つ。まるで闇夜の中に漂う火の玉の様に、相対する彼女たちだけが、確かな形としてある事を許されていた。

 

 影の一人、四季映姫・ヤマザナドゥは八雲紫から手渡された便箋を懐へ仕舞い込みながら、

 

「ところでそちらの調子は? 二週間ほど経ちますが、何か発見はありましたか?」

「お恥ずかしながら、さほど進展は……。彼からも特に連絡はありません」

「左様ですか……。妙ですね。これだけ時間をかけて足取りすら掴めないとは」

 

 別に挑発している訳ではない。むしろ紫の事を評価していると言ってもいい。

 映姫は目の前の妖怪がどれほど有能な人物か、嫌気が差すほどに知っている。本来滅びゆくはずだった妖怪たちの未来を幻想郷という形で切り開き、運命を繋ぎ止めた女傑なのだ。その行いが閻魔の眼から見て白か黒かはさておき、八雲紫の手腕は十分すぎるものだろう。そんな彼女が未だ例の犯人を突き止められていないときている。紫の抱える仕事が膨大であり、事件ばかりに構っていられない点を考慮してもあまりに苦戦し過ぎている。だから映姫はこう言ったのだ。

 

 ほうっ、と紫は灰色の溜息を零しながら、

 

「どこかに見落としがあるのは解っています。けれどそれが何処にあるのかが分からないのです。過去の日常風景のほんの一欠片なのか、あるいは主要な出来事なのか。それとも全く関係のない要因なのか。生物なのか。無生物なのか。物質なのか。非物質なのか」

「…………」

「例えるなら、そうね。まるで初心に戻ったような気持ちとでも言うべきかしら。もしくは、浅い叡智特有の視野の狭さ。花の名を知っているのと知らないのとでは花畑の景色が違って見えるように、視野を変えるパーツが欠けているせいで、見えるモノに限界が生まれている気がするの」

「そう感じざるを得ない違和感がどこかに存在すると?」

「半分は勘ね。確信をもって言えるものではありません」

「意外です。あなたが勘の様な不確定要素を信じるなんて」

「あら、勘を信じるのは大事よ? うちの可愛い巫女さんもそう言ってたわ」

「裁判で勘は通用しませんので」

 

 確かに、と紫は含み笑いを零し、扇子を軽く仰いで風を招く。

 

「紫様」

 

 声と共にスキマが現れ、そこからぴょこんと二股の帽子が飛び出した。

 次いで、中華風のドレスに身を包んだ、黄金色の髪に琥珀色の瞳をした少女が姿を現す。尾部から伸びる巨大な稲穂の様にふさふさな九つの尾は、(あやかし)事情に疎い者であっても、彼女が九尾の狐と気付くだろう。

 名を八雲藍。紫の右腕的存在であり、直属の式神である。

 

 彼女は映姫にも一礼すると、肩に止まる小さな真っ赤な鳥を差し出して、

 

「お話し中失礼します。至急、目にして頂きたいものが」

「それは……使い魔?」

「はい。紅魔館からの使いです」

 

 紫は使い魔と藍をそれぞれ見て、差し出された鳥を手に取った。

 赤い鳥は口を開くと、小さな巻紙を一つ吐き出す。すると、役目を終えたが故か風化した粘土の様にボロボロと崩れ去ってしまった。

 

 紫は手紙を開き、目を通す。

 眉が動く。それも、決して吉報とは言えない方向に。

 内容は、紫とナハトが血眼になって探していた犯人の正体とそのトリック。能力の正体。地底で起こった犯人の暴走。

 そして、ナハトの敗北についての情報が、紙の隅々にまで綴らていた。

 ……どうやら、差出人は紅魔の吸血鬼ではなく魔法使いの方らしい。筆末に、救援を要請する旨が綴られていた。これがレミリアであったならば、口が裂けても助けを請う様な真似はしないだろうから。

 

 紙を纏め、紫はこみ上がってきた感情を排するように息を吐く。

 それまで静観していた映姫は、悔悟棒を口元に当て、目を細めながら問いかけた。

 

()()()、という点から察するに、その手紙は私も無関係ではなさそうですが」

「ええ。あなたも目を通して頂戴。」

 

 言いながら、手紙を映姫に渡そうとしたその時だった。

 

 

「――――づぅッ!?」

 

 前兆は無く、それは完全な不意打ちだった。まるで鬼から棍棒で殴られたかの様な衝撃が、突如として紫に襲い掛かったのである。

 予想だにしない激痛に顔が歪む。手から手紙が滑り落ち、床を滑走した。視界が掻き混ぜられた絵具の様にぐちゃぐちゃで、バランス感覚は泡沫となって弾け飛んだ。

 まるで貧血を迎えた様に崩れ落ちる。異様な紫の行動に目を丸くしながら、映姫と藍は慌てて傍へ駆け寄った。

 

「紫様!?」

「どうしたのです、八雲紫!?」 

「こ……れ、は。白玉楼の、結界が、ぐぅっ……!」

 

 脂汗がみるみる湧いてくる。血の気はあっという間に引き下がり、女性特有の健康的な柔肌は死人のそれへと変化した。想像を絶する痛みなのか、満足に言葉を並べる事すら叶っていない。しかし断片的に語られた冥界の地名は、映姫の脳裏に稲妻を走らせるには十分だった。

 紫の式神である藍も全てを理解したのだろう。常に冷静沈着な彼女は、そのイメージを壊さんばかりに驚愕で染まり切った声を張り上げた。

 

「まさかそんな……西()()()()()()が解かれたと言うのですか!?」

「なんですって……? どういう事です、説明しなさい八雲藍!」

「や、られたわ。まんまと、してやられた。ぎっ、まずい、まずい。幽々子が、ゆゆ、こ、が、あぐっ!?」

 

 藍に支えられながら、紫は悶絶する苦痛を必死に耐えて踏ん張った。意識を途切れさせぬよう、明滅する視界を繋ぎ止め、どうにか頭を回転させる。

 

 ――八雲紫の仕事の一つに、()()()()としての役割がある。

 紫は幻想郷の結界を管理する大元だ。常識と非常識の結界を始めとした、幻想郷を維持する上で必要不可欠な境界の元請けである。

 勿論、全てを自分で行っている訳ではない。幾ら紫のスペックを持ってしても圧倒的に手が足りないのは自明の理だ。そこで紫は、効率化を図るため『要』を用いる術を選んだ。博麗大結界の要が神社の鳥居となっているように、西行妖封印の要が西行寺幽々子の遺体となっているように。根本的な維持は自動装置や藍に任せ、自身は結界の綻びや傷をメンテナンス、及び修復する役割を担うことにしたのである。

 

 そしてこのシステムには緊急装置が取り付けられていた。結界が何らかの原因で致命的な損傷を受けた時、または幻想郷で最高レベルに危険視されている封印――西行妖などが完全開放を迎えた時。紫の能力が即座に発動し、その傷を塞ぎこむメカニズムである。これが、八雲紫の防御装置としての役目である。

 

 もう語らずとも分かるだろう。八雲紫がここまで憔悴する程のダメージを負っているのは他でもない。死を振りまく災厄の桜が目覚め、幽世と現世の結界を食い破ろうと力を爆発させているからだ。それを堰き止めるために、紫のほぼ全ての力を注ぎ込んでいる副作用である。

 

「よりによって一番力の無い、冬眠前に決起を起こしてくるとは……狙い目とは言え、してやられたわね。今回は、ぐ、う、あなたの勝ちよ。サー・スカーレット……!」

「紫様、私のリソースもお使いください! このままでは西行妖にあなたが食い破られてしまう!」

「いいえ、いいえ。それは駄目よ、藍。あなたにはあなたの役目がある。満足に動けなくなってしまっては、折角練り上げた計画が無駄になっちゃうでしょう?」

「しかし!」

「二度も言わせないで。いい? 藍。あなたはあなたの務めを果たしなさい。映姫に着いて行って()()するのよ。ここは私だけで大丈夫。こんなの、いつもの異変と変わらないわ。ちょっと疲れるだけだから」

「っ……分かりました」

「では、八雲紫。幻想郷の代表代理を八雲藍に一任するという事でよろしいですか?」

「結構よ」

「承知致しました。……それでは、八雲藍。着いてきなさい」

「……映姫。よろしく、お願いね」

「ええ。なるべく早く済ませられるよう努力します。あなたもどうかご武運を、八雲紫」

 

 パチン、と四季映姫が指を鳴らせば赤髪ツインテールの死神が現れて、藍と映姫と共に再び姿を消し去った。距離を操る力なのだろう。三人は既に彼方へ移送された様だ。

 紫も震える指を動かしながら床にスキマを切り開いた。地獄の跡地、その奥底。吸血鬼ナハトが居る場所をサーチしてこじ開けられた異空間に、八雲紫は倒れ込む様に身を投じた。

 

 

 

 

「ところでお姉様、お父様を見つけるアテはあるの?」

「簡単簡単。居場所は()()で分かるわ」

 

 吸血鬼は強大な力を持つ種族である。それは生まれついて持ち得る天性の才であり、だからこそと言うべきか、彼ら吸血鬼が扱う魔力には他種族には見られない独特の癖がある。かつてアリス達が怨霊の内部へこびり付いていた微細な魔力から吸血鬼を特定出来た訳がそれだ。

 フランも姉を見習い、眼を瞑って感覚を研ぎ澄ませていく。

 瞼の裏に、赤い靄が遠くで燻っている様な光景が見えた。恐らくこれが姉の言っている匂いなのだろう。

 

「……あっ、ほんとだ、私たちと似た力の残り香がある」

「でしょ。これに沿っていけば、お父様の所へ自然と辿り着けるってわけ」

 

 彼女たちの鋭い五感が示す先は、かつて隣の従者が赴いたという、冥界に繋がる方角へと続いていた。

 

「なら早く行こう。お父様を止めなくちゃ」

「分かってるわよ。これでも結構急いでるわ――、ッ!? 危ないッ!!」

 

 咄嗟。その一言に尽きる瞬間だった。

 フランの背後で薄緑の閃光が瞬いた。既に着弾寸前まで迫っていたソレを弾かんとレミリアは防御魔法を発動させる。しかしそれよりも早く、咲夜が時間を止めて二人を救出し、どうにか事なきを得た。

 あと一秒レミリアと咲夜の反応が遅ければ、フランドールは被弾していた事だろう。唐突な奇襲に、三人の精神コンディションは一気に緊張状態へと突入した。

 

「咲夜、どこから撃たれたか分かる?」

「それが……分からないのです。時間を止めて光弾が放たれた方向を探ってみたのですが、手掛かり一つ無く……」

「てことは、あの子よね。確実に」

 

 無意識を操る覚妖怪、古明地こいし。

 スカーレット卿に半ば洗脳される形で傍へ置かれているあの少女ならば、誰にも気配を悟らせずに奇襲を仕掛ける事だって十分可能だ。

 ただ、言うまでもなく有意識の住人であるレミリア達が彼女を意図して見つけることは不可能に近い。

 故に、確実にやってくる次の襲撃は1%だって予測できない。

 

「フラン、咲夜、こっちへ集まりなさい。バラけている方が危険だわ」

「かしこまりました」

「……うーん」

「何してるの? 狙い撃ちにされるわよ!」

 

 レミリアの催促にも耳を貸さず、腕を組み首を傾げたまま微動だにしないフランドール。

 ぽく、ぽく、ぽく――何を考えているのかは不明だが、フランドールの脳内で思考の木魚が叩かれ、発想の音を奏でている事だけは見て取れた。

 やがて、少女は答えを導き出す。

 

「うん、ぶっ飛ばしちゃおう」

「は?」

 

 予想だにしない言葉が飛び出してきたかと思えば、フランドールは誰かが止める暇すら与えず、両手を広く夜空へとかざした。

 ドクン、ドクンと、莫大な紅蓮の光が鳴動する。小さな少女の手のひらを砲身とするかのように、圧倒的な吸血鬼の魔力が装填されていった。

 

「おい待てフラン、アンタなにをッ!?」

「お姉様たちは先に行ってて。ここは私に、任せてちょーだいなっ!」

 

 月輪の美しさすら霞む笑顔を、吸血魔法少女はにぱっと浮かべて。

 瞬間。フランドールは弾幕豪雨の災害と化した。

 鮮紅のスコールが縦横無尽に暴れ回る。物量も密度も速度も、全てが狂的(ルナティック)なまでに暴威を振るう光景はまるで彼岸花の津波のようだ。

 当然、その爆撃が如きフランドールの猛攻に姉と従者への配慮は無く。

 

「ちょっ、危なっ!? フラァァァンッ!? あなた何を考えてっ!?」

「おっとと。ふむ……ああ成程。そう言う事なのですか、妹様」

「ねぇ何!? 何が分かったの咲夜!? あと出来れば時間停止の序に私も安全なところへ連れてって貰えると、お嬢様すっごく嬉しいな!?」

 

 言うが早いか、レミリアは弾幕結界の中から運び出されていた。

 落ち着いたところで、咲夜は瀟洒に解釈を述べる。

 

「アレは炙り出しですよ、お嬢様。妹様の作戦なのです」

「あぶり……あー、成程」

 

 帽子の煤を払いながら、レミリアは納得の表情を浮かべる。

 古明地こいしは近くにいる。これは間違いない。スカーレット卿が差し向けた刺客として、妨害の役目を果たしているのだろう。

 姿は見えない。居場所は分からない。でも近くには必ずいる。

 だからフランドールは単純明快に考えたのだ。敵が透明で見えないのならば、浮き上がってくるまで周りを塗り潰せば良いのだと。

 

「相変わらず滅茶苦茶な子ね、全く。まぁ確かに効果的ではあるけれど」

「同時に私たちを遠ざけようともしていたのでしょう。どうやら、あちらの妹君と一対一で決着を着けるつもりの様子ですよ」

 

 咲夜の言葉へ沿うようにフランを見れば、彼女は笑顔で手を振っていた。ここで一旦お別れだと、語外に語るかのように。

 そういえば、と。レミリアはつい数分前の事を思い出す。

 フランドールは水晶玉を通じてあの日記を読んでいた。こいしがスカーレット卿と出会い、仮初の信頼を植え付けられ、利用されていた全ての過程が記された一冊の日記を。

 アレを読んだ上で、かつて自分が置かれていた状況を知ったフランドールは、果たして何を思ったのか。レミリアはそこを想像したのだ。

 

「そう。今度はあなたの番なのね」

「お嬢様?」

「何でもない。さ、ここは妹に任せて先へ進むわよ。時間も惜しいし」

「良いのですか? お一人にさせてしまっても」

「日輪を操るお父様が相手ならまだしも、そこらの妖怪にあの子が負けるわけがない。それに……覚妖怪の妹を相手にするなら、()()()()()()()あの子以上の適任は他に居ないわ」

 

 翻ったレミリアは躊躇も見せずに羽ばたいていく。

 咲夜はそっと尻目に見てから、主の後を追っていった。

 

 

「さ、これで二人きりだよ」

 

 硝煙が踊る舞踏会で、少女は言った。

 姿も見えない、存在すら知覚できない無貌の存在へ、フランドールは古くからの友人へ語り掛けるように、腕を後ろへ組んで笑う。

 

「古明地こいしちゃん、だっけ? 良ければお顔を見せてほしいな」

 

 ――空白の果てに沈黙が揺れる。

 煙幕の一部が割れていく。いや、霞む視界がだんだんと物の輪郭を捉えていくように、正しい少女の形をフランドールの瞳へ写し始めたのだ。

 やがてハッキリと、奇襲者の正体は暴かれた。

 フランドールと同じくらいの背丈で、シックなダービーハットを被った女の子。胸元にある第三の眼は閉じられているが、それが彼女を覚妖怪足らしめる唯一の証だった。

 

 こいしは、ありとあらゆる感情を排斥した表情を張り付けていた。珠のような眼球も、瑞々しい唇も、可憐な鼻も、一ミリだって微動だにしていない。

 それは虚無の体現だった。無意識や『空』の領域とは全く別の、冷たい無がそこにあった。

 フランドールは彼女と相対して、ほんの一瞬瞳へ悲しみの色を映す。

 

 ――ああ、やっぱりだ。

 この子は()()()()()()()()()()()()

 

 その確信は、きっとフランドールにしか分からないのだろう。

 けれど、だからこそ。彼女の相手を務めるのに、フランドール・スカーレット以上の適任者は幻想郷にいなかった。

 

 フランドールは柔らかく微笑む。そこに欠片も敵意はなく、どころか親愛の香りすら匂わせて。

 

「初めまして! 私はフランドール。フランドール・スカーレット。種族は吸血鬼よ。皆からはフランって呼ばれてるわ」

 

 こいしは答えない。表情筋すら動かさない。

 けれどフランも、全く陽気さに陰りを見せない。

 大雪原を解きほぐす春の日差しの様な笑顔のまま、フランドールは手を差し伸べた。

 

「ねぇこいしちゃん。私と一緒にお話ししましょう? ……できたら、お友達になってくれると嬉しいなっ」

 

 

 

「待っていたぞ、我が娘……とその従者か。独りで来ると思っていたが、まぁいい。しかし存外遅かったじゃあないか」

 

 予期せぬ事態に、紅魔の主従は凍結した。

 レミリアは白玉楼あたりに居ると魔力の香から推測していたのに、元凶は直ぐそこにまで舞い戻ってきていたからだ。

 フランドールと離れてからまだそれほど距離を進んだわけじゃない。やっと視界に捉える事が出来なくなった程度である。他にも刺客を用意しているだろうと警戒していたレミリアたちにとって、拍子抜けするほどあっさりとした()()だった。

 

「あらお父様、四年ぶりの再会ですわね。ご機嫌麗しゅう」

「出会い頭に別れの挨拶とは、随分気が早いなぁレミリア」

「だって、この夜が明ける頃にはもうお互いに顔を合わせることは無いですもの。なら別れ言葉の方が適切でしょう?」

「違いない」

 

 くっくっくっ、ふふふ、と両者は笑う。狂犬と猛禽が互いの牙と鉤爪を剥き出し唸り合うかのように、空気すら歪むほどの敵意をぶつけながら。

 

「お父様」

 

 唇の端を笑顔とは違う形へ歪めながら、レミリアは刃よりも鋭く声を紡ぐ。

 紅い霧が蛇のように細腕へと絡まり、徐々に徐々に、その範囲を広めていく。

 

「おじ様が倒された今、私が貴方へ引導を渡さなければならない。さぁ構えなさい、ここで我らスカーレット家の呪いに終止符を打ちましょう」

 

 ビキッ。

 唐突に、ガラスへ亀裂が入るような音が、幻聴となって鼓膜を削いた。

 

「今、なんと言った?」

 

 声が実体を伴ったかと錯覚した。

 怨念のたった一言が、死神の鎌の様にレミリアの首元へ添えられたのだ。

 低く、重く、どす黒い声質はいとも容易く身震いを引き起こす。純黒の圧力がそこにあった。猛禽に睨まれた野ネズミなどではない。それは理解不能な異形と遭遇した人間の心地に他ならなかった。戦意を挫き、膝を砕き、歯を打ち鳴らせるナハトの恐怖とは違う。まるで異次元に存在する未知の生物と相見えたかのような、耐え難い拒否反応が胸の内で爆発した。

 

 自然と体の動きが止まる。動いてはいけないと本能が少女達へ訴える。

 

 かつてスカーレット卿はフランドールの眼を介して魔眼を発動し、その場にいた紅魔館の住人を金縛りに落とした事がある。しかしこれは術だとか力だとか、そんな軽薄なタネが原因では無い。

 瞼を限界にまで見開いて、憎しみに血走った白目と暗黒の執念を燃やす瞳を剥き出した壮絶極まる表情と、呪詛すら霞む一言が、彼女らの体を縫いとめたのだ。

 

「ナハトが、あれで私に倒されたと言ったのか?」

 

 眼力。純粋な威圧。ただ、それだけ。

 しかしその暴圧的な狂気の、なんと悍ましい事だろうか。

 

「ふざけた事を抜かすなよ小娘……!! あの怪物がッ! たかが日輪の炎で全身を焼き焦がされ灼熱地獄へ葬られた程度でくたばったと本気で思っているのか!! 貴様は一体奴の何を見てきた、この愚か者めがッ!」

「……何を、言って……?」

 

 ナハトが生きている、という趣旨の発言に対する困惑ではない。そんな事はレミリアにも分かっている。レミリアだからこそよく理解している。

 ただ、心底理解できなかったのだ。あれだけ憎悪し、完膚なきまでにナハトを叩きのめしておいて、何故『自分がナハトを撃退した』事実を突きつけられただけでここまで激昂したのかが。

 

「奴はあの程度で死んでなどいない。くたばるものか! いいかレミリア、奴は必ず私を殺しに戻ってくる。あそこは地獄だ、血の池地獄の栄養をたらふく貪り完全復活を果たして必ず帰ってくるだろう。あの理不尽を体現した十五の黒剣が、脳髄を震わせる純黒の魔性が、万物に縛られぬ絶対王者が、ただ私の首だけを狙ってな!」

 

 唾が飛ぶ。血涙を滲ませそうなほどに、白目へ血管が走り抜けていく。

 ただし口元は、依然壊れた笑顔のまま。

 

 あんなにも憎んでいたのに、それでもスカーレット卿は(かたき)のナハトを信じると、狂信すら霞むほどの妄言を吐き捨てた。

 理屈の物差しでは到底測ることはできない矛盾。無限に等しい怨念の果てに、この男はどこかが完璧に欠落してしまったのだと、すぐに理解する事が出来た。

 

 狂っている。それ以上に、今のスカーレット卿を表す言葉は無い。

 

「私は、向かってきた奴をこの手で殺す。全力のナハトを叩き伏せ、あの澄まし顔を不細工な粘土人形の様に歪ませてやるのだよ! はは、はははは、あははははッ!! 想像するだけで愉快だ、こんなに楽しみな事が他にあるか!? なぁ!? 奴は必ず私を屠りにやって来る。だから私こそが奴の宿敵なんだ。ナハトの眼に適い、ナハトに敵う吸血鬼は、このスカーレットただ一人なのだ! そんな事実が目の前にぶら下がっていると感じるだけで、軽く絶頂すら覚えるよ!」

「お父……様……?」

 

 雷鳴のような高笑いが炸裂する。魔力で修正され男の声色となっている少女(おくう)の叫びにノイズが生じ、それは強烈な不快感をもたらした。

 

 かつてスカーレット卿がフランドールを乗っ取っていると知らなかった当時のレミリアは、妹の不可解極まりない言動の数々から狂気に呑まれてしまっていると推測した事がある。

 狂気とは妖怪にとっての悪性腫瘍だ。精神の調和が著しく乱れる事で、視界に映る全てを敵として破壊せんとする禍々しい衝動に支配され、最終的には自分自身すら壊しつくしてしまう恐ろしい病だ。

 

 今なら分かる。例えスカーレット卿が憑いていなかったとしても、地下室で妹が繰り返していたあんな独り言の延長線を、狂気と呼ぶことなんて出来ないと。

 支離滅裂で、矛盾と不合理こそが王道で。自身の命も魂も、全てに価値を見失ったこの思想こそが真の狂気なのだ。

 魔物の復讐心と鉄壁の意志を併せ持ち、ただ一つの理想を成し遂げる為ならば復讐相手を助け、自らを死地へ送る矛盾も厭わない。論理も何もかもを投げ捨てた純粋な怪物性は、地獄の猛獣よりも悍ましい。

 

「……っ」

 

 かつてレミリアの尊敬の中心にあった偉大な父にして、紅魔館を栄えさせた最強の吸血鬼、先代スカーレット家当主。

 彼の性根がどうしようもない邪悪だったのは揺るぎない事実だが、その手腕もカリスマも、疑い様のない確かなものだった。昔の父は、間違いなく誇り高き吸血鬼だった。

 だがしかし、一時代を築き上げた誉れあるヴァンパイアの姿は、影一つだって見当たらない。

 

 だから。

 レミリアは過去の憧れを、己の原点を。ここで切り捨てると選択した。

 

 

「前言撤回よ。()()()()()()()()()

「なに?」

「貴方は、私たちのお父様なんかじゃない」

 

 

 四年前の晩、意趣返しとして父を否定したレミリアだったが、それでもスカーレット卿はレミリアにとって自らの源流であり、高潔なスカーレット家先代の一側面もあって、最低限の敬意までを捨て去る事は出来なかった。それは吸血鬼としての――スカーレット家としての誇りを奮わせる為でもあったし、一族の名に必要以上の汚名を擦り付けない為の、レミリアなりの防衛措置だったのだろう。

 しかし今、それは塵芥となって無空へ消えた。

 気が付いた、とでも言うべきか。あるいは、巣立ちに似た決別だったのかもしれない。

 

「お父様は死んだ。四年前でもなく、五百年前に、お母様と一緒に死んだのよ」

 

 紅い魔力が迸り、砂嵐の様にレミリアを包む。

 かつて幻想郷を覆った紅い霧が、レミリアと咲夜の周囲だけに展開される。濃密な魔力は空気を容易く歪ませ、何もかもを巻き込んだ。

 

「あなたは残滓だ。復讐に囚われた薄汚い悪霊。スカーレット家から生れてしまった哀れな亡者」

 

 背からは雄雄しい翼が開き、漲る力が波となって紋を刻む。

 

「だから私があなたを止める。もう思い通りにさせはしない。させてたまるものですか。――私たちも、幻想郷も、おじ様も、これ以上あなたに穢させるわけにはいかない!」

 

 決意の雷電が、ルビーの瞳に瞬いた。スカーレット卿の怨念に体は縛られていない。澄み切った覚悟の力が、少女の心に鎧を作り出したのだ。

 一方、卿は神妙な顔つきをして押し黙る。そのままゆっくりと顎を撫でた。眼は上を向いており、何かを思い浮かべるように眼球を右往左往させながら、

 

「……啖呵はさておき、ふーむ、その言葉には一理ある。確かに今の私は『スカーレット卿』とは言い難い。一個人だった『スカーレット卿』は魂魄の群れになったからな。紅魔館先代当主の吸血鬼を『スカーレット卿』と定義するならば、はてさて今の私は一体何になるんだろうな?」

 

 喉を引き攣らせるように打ち鳴らしながら、さも可笑しそうに悪魔は笑った。もはや自分の出自や個性など、心底どうでもいいと嘲るかのように。

 

「ああそうだ、折角太陽の力を持っているんだから……ほら、アレなんかどうだ? 百鬼夜行を追う日の輝き……空亡なんて偶像は。存在があやふやな私にはぴったりだと思わないかね?」

「どうでもいいわ。何であろうとあなたはここで終わる。日の出を迎えることは無いし、ましてやあなたが日の出になる事もない」

「大きく出たな小娘。今の私がどの様な化生かよく理解しての発言か?」

「知ってた? 吸血鬼って自信家なのよ」

 

 ハッ、と嘲笑が空気を薙いだ。

 併せて、スカーレット卿から膨大な熱気が迸る。吸血鬼にとって最大の天敵たる日輪の灼熱が牙をむく。

 刹那。卿はまさしく太陽と化した。

 

「まぁいい。今はとても気分が良いんだ。なにせ今宵の主役は他でもない私だからな。種蒔き(第一面)は終わり、伊吹萃香(第二面)も片付いて、白玉楼(第三面)も幕を下ろした。ならば次のステージはお前だレミリア。決戦がやってくるまでの前座として、父自らが遊んでやろう」

 

 火球が鴉の周囲を躍る。漆黒の翼は伸展され、宇宙のような煌めきを孕むマントが靡く。

 口角は引き裂かれ、白銀の牙がぬらりと光った。眼光は鴉の領域を通り過ぎ、もはやこの世のものでは無い邪な覇気を湛える。

 大気が焦げる。パチュリーの防御魔法やマジックアイテムによる加護をこれでもかと施されておきながら、膨大な熱波は少女たちの白磁の肌をジリジリと苛ませた。

 

「さぁ娘よ、来いッ!!」

 

 暴虐の絶叫が奔る。

 悪魔が今、ここに轟臨を果たした。



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33.「無辜の咎へ、優しい破壊を」

「私とお友達になってくれると嬉しいなっ」

「…………」

 

 花畑で燥ぐ子供の様に朗らかな笑顔のフランドールと、魂すら凍結しきった無の表情で立ち尽くすこいし。

 太陽と月。それを彷彿させる温度差だった。二人とも姿は可憐な少女のそれなのに、まるで別世界に生きる存在とすら思えてしまう。

 挫けず、フランドールは続ける。凍てつく氷を優しく溶かすように、陽だまりの声で、ゆっくりと。

 

「そんなに怖い顔しないで。私は敵じゃないわ。ただ、あなたとお話がしたいだけなの」

「嘘でしょ」 

 

 拒絶。

 返ってきた言葉は、氷の様な冷ややかさ。

 石像が無理やり体を動かしているかのように唇を蠢かせ、こいしはフランドールを一蹴した。バキバキと、唇から頬に亀裂が入る音さえ聞こえそうなほどだった。

 視線はフランドールから動かない。表情筋も微動だにしない。

 無我の少女はただ、言葉を吐く必要最低限だけを稼働させながら、

 

「赤の他人のあなたが名前を知ってるってことは、私が何をしたのかも知ってるんじゃない?」

「……うん。知ってる」

「だったらほら、やっぱり違うじゃん。私はあなたのおじさんを殺す為だけに暗躍して、幻想郷を滅茶苦茶にした張本人なのよ? どこからどう見たって、あなたとお姉さんには紛う事なき敵になるでしょう? フランドール・スカーレットさん」

「ううん、それは違う」

 

 首を左右へ振りながらフランドールは切り捨てた。

 それだけは認める訳にいかないと言う、少女の意思表示だった。

 

()()()()()、敵になんてなりえないのよ、こいしちゃん」

「――そんな、世迷い言をッ!!」

 

 絶叫と共に、桃色の光弾がこいしを起点にして一斉放射される。ハートを模した夥しい弾幕豪雨はフランドールを瞬く間に追い詰めるが、彼女は網の目をかいくぐるように小さな躰を駆使して弾の間をすり抜けた。

 しかし追撃は止まらない。溢れんばかりの妖力を惜しみなく放出するこいしの攻撃は、まるでフランドールを遠ざけるかのように波状の陣形を組んで接近を阻む。

 近づけない。波を超えても次の波が遮ってくるのだ。力技で切り抜けられない事も無いが、それではリスクが大きすぎる。

 だから届かない体の代わりに、フランドールは言葉をこいしへ投げた。

 

「世迷い言なんかじゃない! 心から誓って本当よ!」

「そんな訳ないでしょ!? 私はっ、あなたの大切な人たちをいっぱいいっぱい傷付けたんだから!!」

「――確かにそれは許せないと思ってる。小悪魔とおじさまが傷ついた事を思い出すだけで(はらわた)が煮えくり返ってくる。でも、この怒りは決してあなたに向けて良いものじゃないって事くらい分かってる!」

「なんの根拠があって、そんなッ――」

()()()()()()()()()()()

 

 

 砲撃の津波が止んだ。

 歯を剥き出し、眼を見開き、耳を塞ぐように帽子を握り締めながらフランドールを遊撃していたこいしの顔が、まるで冷え固まった溶岩のように硬直する。

 好機だと悟ったフランドールは逃亡を止め、静かに、しかし燃える薪のように、熱を込めた言霊を放った。

 

「四年前まで私はあなたと全く同じ境遇だった。お父様の甘言に惑わされて、大切な人をたくさん傷付けてしまった。――あなたも見ていたのよね? 私が、暗い地下室で()()()を呟いていたところを」

「……っ」

 

 その言の葉だけで、こいしは十分な理解を得たのだろう。かつて虚空に話しかけていると思い込んでいた吸血鬼の相手が、一体何者であったのかを。

 それが、一体何を示しているのかを。

 

「だから私には分かるの。あなたがどんなに心を痛めているか。どんなに辛い思いをしているか。今の自分は間違ってるって頭の中じゃ分かっていても、あの人から離れる事の出来ない心の弱さも、全部理解できる」

 

 ――フランドール・スカーレットと古明地こいしはよく似ている。

 家族的な立ち位置だとか、見た目の話ではない。二人の抱える境遇が共通しているのだ。

 

 かつてフランドールはナハトを偽ったスカーレット卿に惑わされ、実に四百年近い年月を孤独の下で過ごしてきた。その呪いは四年前に解かれたが、フランドールはあの夜の激動を、それまでに犯してしまった数々の所業を忘れたことは一度もない。

 

 今まで間違っていたのが自身だったと気付いた時の溢れんばかりの後悔。

 取り返しのつかない事をしてしまったという海より深い絶望感。

 自分を守ってくれていた()()を否定してしまう事への恐怖。

 騙されていたとはいえ、自ら進んで大切な人を傷付けてしまった事実への果ての無い罪悪感。

 

 優しい心の持ち主であればあるほど、悪魔の爪は深く、広く突き刺さる。刻まれた傷は一生消えない痕となり、心の表面に残ってしまう。

 事の全てを理解し、自分が間違っていたのだと受け入れた当時のフランドールは、その痛みに耐え切れず自害を図るまでに至った。もしあの場に紅魔館の家族が――ナハトが居なければ、きっとここにフランドールは存在していなかっただろう。

  

 今、こいしは四年前のフランドールと同じ崖に立っている。

 被せられた罪の意識に苛まされ、現実を受け止めきれるキャパシティがとっくにオーバーしていて、もう自分でも何をすればいいのか分かっていない。際限のない不安は疑心暗鬼を膿の如く溢れさせ、誰の言葉も信じることが出来なくなってしまう。

 例え、それが最愛の家族の声であったとしてもだ。

 

 バギリ。

 砕き割れたように、噛み締められたこいしの奥歯から悲鳴が上がった。

 ぎゅっと、布に皺が刻まれるほど胸元をきつく握りしめる。胸の痛みは、無涙の震えとなって表れた。

 

「うるさい」

 

 ただポツリと漏れ出た拒絶。氷柱の様なそれを解きほぐすように、フランドールは会話を続けていく。

 

「怖くて、辛くて、寂しくて、でもどうしていいか分かんなくて。誰かに頼ることも出来なくて。まるで自分は世界で独りぼっちなんじゃないかって思えてきちゃって。涙は一粒も出ないのに、胸が握り潰されそうなくらいジクジクして。この苦しみが無くなるなら、いっそ消えてしまった方が良いとすら思えてしまう」

「その口を、閉じろ」

「私にはそれが痛いほど理解できる。だから私は、あなたの敵になんてなれないのよ」

「うるさいって言ってるでしょ!! 聞こえないの!?」

 

 声帯が破裂せんばかりの絶叫だった。音波は空気を殴りつけ、フランドールの鼓膜へ甲高くて鋭い贈り物を叩きつけた。

 こいしの口元が震えて歪む。瞳がわなわなと揺れ動く。心は微弱な振動に引っ張られ、哀しく引き裂かれていく。

 

「分かる? ははっ、分かるですって? いいえ、いいえ、いいえいいえいいえ!! あなたには分かんないよ……っ……分かるわけがないよ!! だって、だってあなたはっ、私と違って逃げてなんかないじゃない!!」 

「……逃げてない……?」

 

 一瞬、フランドールはこいしが何を訴えているのかが分からなかった。

 小さく首を傾げながら眉を顰めていると、こいしは古錆びた刃物の様な眼光でフランドールを睨みつけ、

 

「見て!」

 

 胸元から何かを掴み取って、突きつけるように差し出した。

 それは覚妖怪の証たる、第三の眼であった。

 ただし瞳は固く、冷たく閉ざされてしまっている。瞼を糸で縫い付けているのかとすら錯覚するほど重苦しく、光を拒み、闇の底で眠っているかのような眼球だった。

 目にするだけで、フランドールは言いようのない哀しみに駆られてしまう。

 

「昔、私はこの眼を閉じて、一緒に心も閉ざしたの。…………これが何を意味するか分かる? 分かんないよね?」

 

 声の震えは止まらない。二つの宝石のような瞳も、真冬の水面の様に揺れ動く。

 こいしは理性と恐慌の狭間を泳いでいる――尋常ではない凄味を称えるその(まなこ)は、容易くフランドールへと悟らせた。

 決壊寸前の心を少しでも鎮めようとするかのように、浅く、広く、こいしは息を振り絞りながら、告白した。

 

「私はね、逃げたのよ。『覚』である事から逃げ出した臆病者なの」

 

 

 

 第三の眼とは、覚妖怪の持つ心を覗き込む為の器官である。彼らはこの眼を駆使して他者の心を読み、相手を翻弄する事を生業としている。

 

 故か、嫌われ者の多い妖怪の中でも特に嫌われやすい種族と言える。当然だろう。人間であれ妖怪であれ神仏であれ、知られたくない秘密の一つや二つを抱えているのは自明の理だ。それを丸裸にされ、あまつさえ羞恥に晒されるとあってはたまったものでは無い。特に精神攻撃に弱い妖怪にとって『覚』の特性は、尚のこと危険視されるべきものだろう。

 こうした背景と『覚』の行いが手伝ってか、覚妖怪は人間からも妖怪からも疎まれる存在となっていった。『覚』たち自身もそれを十分に理解していたし、別段苦とも思わなかった。現実を受け入れられる精神強度を持ち合わせていただけでなく、そもそもの話、それが生きるために必要な業なのだから。

 

 だが、例外とはいつ如何なる時であっても必ず現れるモノである。

 

 古明地姉妹がまさにそうだった。『覚』でありながら心を弄ぶ宿業へ積極性を見出さず、疎まれ排斥される事を嫌って他人との関係を断ちながら、しかし寂しさから来る孤独を許容できない性の持ち主として生まれてしまったのである。時には醜悪な心の内を嫌でも覗き見てしまう第三の眼を、憎いとすら感じてしまう事さえあった。

 姉のさとりはまだ良かった。彼女は自らが『覚』である事も、周囲から無条件に忌み嫌われる事もある程度受け入れられたのだ。だから映姫から持ち掛けられた地霊殿の仕事を承諾した。大きな屋敷の小さな部屋へと引き籠り、癒しのペットたちに囲まれながら、穏やかな時間を過ごす生活を選べる強さがあったのだ。

 

 問題は、こいしの方にあった。

 

 彼女は『覚』に不相応な、誰よりも優しく無垢な少女だった。傲慢不遜を地で行く筈の吸血鬼にも関わらず朗らかな心を持ってしまったフランドールと同じ様に、古明地こいしもまた、心を読み人を誑かす所業を良しとする『覚』でありながら、あまりに物柔らかな性分を持って生れ落ちた少女だったのだ。 

 もう一度繰り返そう。古明地こいしは温和である。争いを嫌い、姉や動物と無邪気にじゃれ合う時間が大好きで、心を弄ぶことなんて思いつきもしない女の子である。

 

 だがそれは、『覚』という種族にとって不幸以外の何物でもなかったのだ。

 

 種族が『覚』と言う事実だけで向けられる、灰と泥に塗れた嫌悪の視線。醜悪でどす黒い、血と汚物で出来た沼のような心の囁き。そしてそれを嫌でも目にしてしまう無情な第三の瞳。

 一体彼女がどれほどの醜さを目にしてきたのかは誰にも分からない。どれだけ凄惨な目に遭ったのか知る由もない。

 

 ただ一つ確かに言える事は、古明地こいしはドコカで限界を迎えてしまったという事だ。

 

 一人の少女が追い込まれるのに十分な理由があったのかもしれない。度重なって降りかかる粘ついた視線が、真菌の様にゆっくりと精神を蝕んだのかもしれない。

 今となっては、真実を知る者など本人以外に存在しない。しかし過程はどうあれ、古明地こいしは心の臨界点を超えてしまった。自ら種族の証たる瞳を閉じ、同時に心にも鎖を掛けた。もう二度と醜いモノを見なくても良いように。もう二度と心が痛い思いをしなくていいように。

 

 そうして生まれたのが『古明地こいし』と言う少女だった。心を閉ざし、自我を棄て、『覚』でありながら『覚』でなくなった、何者でもない妖怪の成れ果てだ。

 人々の無意識に潜み、誰にも覚られず微笑む少女。それは古明地こいしが求めた安寧だったのかもしれない。この形こそが、こいしが欲してやまなかった真の平和だったのかもしれない。

 

 けれど、だからこそ。

 

 こいしの封印された心には罪の意識がこびり付き、水場のカビの様にじわじわと、密かに蔓延していったのだ。

 唯一無二の肉親。かけがえのない家族。古明地さとりへ、私は心配や迷惑を掛けてしまっている――本当に、たったそれだけの、優しく健気な無意識の罪悪。

 自我も意識も無いこいしがひっそりと抱き続けた戒めの気持ち。空っぽの心であっても、いつかきちんと清算しようと忘れなかった無垢な覚悟。

 

 

 それを不安の種へと変え、樹木まで育てた悪魔がいた。

 

 

 無意識の自分が姉に掛け続けていた我儘。『覚』であることから逃げてしまった後ろめたさ。永い時をかけて埃山の様に蓄積したそれらの()を邪悪は加工し、彼女を縛る首輪へと変えた。

 結果、事態は最悪な方向へと転がってしまった。悪魔の手助けによって瞳を閉じたまま幾許かの自我を取り戻したこいしは、自分が犯してしまった過ちの茨に絡めとられ、不安の沼へと引きずり込まれてしまったのである。

 ミイラへと成り果てていく名も無き妖怪たちの悲鳴が。血に濡れた小悪魔の凄惨な姿が。無実の罪を被せられ、大勢から迫害された吸血鬼の面影が。

 優しき少女の心に罪悪の有刺鉄線となって絡みつき、血が滲むほどに食い込んだのだ。

 

 もはや古明地こいしは、苦悩の恐怖と悪魔の鎖から、逃れる事の叶わぬ身へとなっていた。気付いた時には帰れる場所も道筋も、こいしの後ろから無くなってしまっていた。

 それを悟ったこいしの選択は、ただ一つ。

 『覚』にすらなれず、愛しい家族に負担を押し付け、沢山の人を傷付けてしまったこの愚かな身を、相応しい人の手でこの世から葬り去る事。

 

 四年前のフランドールと同じ()()を、彼女は払おうとしているのだ。

 

 

 

 

「フランドール。あなたは自分を辞めたことがある?」

 

 片腕を抱き締めながら、こいしは振り絞るように言葉を発した。

 胸元に漂う第三の眼から、赤黒い雫が垂れていた。

 

「私はあるわ。私は『覚』である事をかなぐり棄てた。心を読むのが怖くて、もうこれ以上傷つきたくなくて、全部を放り捨てて逃げ出した。……お姉ちゃんも同じ思いをしてきたはずなのに、弱い私は自分が『覚』である事を受け入れられなかった」

「――――」

「その結果がこれよ。心は読めず、今じゃ無意識にもなれやしない。挙句の果てに姉の気持ちと信頼すら裏切った、救いようのない大馬鹿者が出来上がった」

「こいし、ちゃん」

「騙されてたんだから無罪、なんて甘い言い訳は通用しない。通じても意味が無い。だって、もうお姉ちゃんたちは私の事を嫌いになったに決まってるんだもの。あんなに酷い事をしてしまった私が、嫌われない道理なんて、っ、無いんだもん……!」

「こいしちゃん!!」

「こんな、こんな私がさぁっ!? 今更どの面下げてお(うち)に帰れるって言うのよっ!? 何もかも滅茶苦茶にしたの、この手で全部ひっくり返しちゃったの! 今更後戻りなんて出来っこない、ごめんなさいで済む問題じゃないんだから!!」

 

 耳にするだけで血が冷めていくような、凍てつく激情の吐露があった。

 それは、フランドールが彼女の心を真に共感できたからなのだろう。四年前、絶望と悲哀に暮れたかつての自分と、鏡合わせの様に重なったからなのだろう。

 

 もう自分が戻れる場所なんてどこにもない。どう頑張ったって絶対に取り返しはつかない。戻ったところで、最愛の人も憧れの人も、大切な人全員が自分を拒絶するに決まってる。それこそが、己を守る事に徹し、『偽物』と『本物』の区別すらつけられなかった愚かな弱虫に相応しい末路なのだと。

 古明地こいしは、張り裂けそうな胸の内で震えているのだ。

 

 フランドールは知っている。涙で瞼を削られるような絶望の先に、彼女がどんな選択を手に取るのかを知っている。

 それは破壊だ。自分自身へ刃を向けた徹底的な破壊だ。

 自暴自棄に、我武者羅に、古明地こいしは全てを壊す。号哭を滅びの槍に変えて、己の命も勘定に入れず、もろとも粉砕を果たしていく。

 後に残るのは後悔と苦痛の血溜まりだけだ。抱え切れない罪の重さに押し潰され、「ごめんなさい」と繰り返し続ける哀れな人形の残骸だけだ。

 昔の自分(フランドール)が歩んだかもしれない最悪なイフの結末が、目の前で再現されてしまうのだ。

 

 自然と、拳に決意が籠っていく。想像するだけで、今まで感じた事も無い大きな塊が腹の底からこみ上がってくるのを感じた。

 絶対に見過ごせない。見捨てるなんて出来っこない。

 そんな最後、何が何でも迎えさせてやるわけにはいかないのだ。

 

 かつてフランドールは思い知った。どんな大逆を犯してもやり直す機会は必ず存在するのだと。例え見つけることが叶わなくても、自分が信じた人達が暖かい手を差し伸べてくれるのだと。

 その役目は、本当ならこいしのお姉さんやペット達の務めなのだろう。こいしが嫌われる未来を恐れて涙を流すくらい愛している人たちが、彼女を叱咤激励して、元の世界に引っ張り戻してくれるに違いない。

 

 けれど、今この場に彼女たちは居ない。あるのはフランドール・スカーレットただ一人。

 

 だから、その役割を少しだけ肩代わりする事に決めた。

 今にも崩れて消えちゃいそうな、泡沫の彼女を支える。耳を塞ぐ冷たい手をそっと退かして、希望を受け入れられるようにする。

 

 きっと、おじさまならそうするに違いない。

 

 今度は私の番なのだと、フランドールは覚悟を固めた。

 こいしが四年前のフランドールと同じ場所に立っているのなら。

 今度はフランドールが、四年前に貰った希望の光をお裾分けする番なのだ。

 

 瞳を閉じ、刹那の覚悟を嚙み締めながら、フランドールはかつて授けられた恩義を胸の内に想起する。

 息を吸って、吐いた。

 

「違うよ、こいしちゃん。それは絶対に違う」

 

 あの晩に渡された光の欠片を、フランドールは言葉に換えて彼女へ捧ぐ。

 

「……最初に謝るね。ごめんなさい。日記、使い魔越しに覗いちゃったんだ」

「っ」

「でもお陰で分かった事がある。こいしちゃんはお姉さんの事が大好きなのよね? 日記でも一番にお姉さんと出来事を共有しようとしていたあなたが、お姉さんを嫌いだなんて到底思えないもの。多分ペット達の事もそう。あのお屋敷の皆が本当に好きなんだって、あなたの日記からひしひしと伝わってきた」

「何が、言いたいわけ……?」

「その気持ちはきっと、お屋敷の皆だって同じなんだと思う。皆もこいしちゃんの事が大好きで、大切だって思ってるよ。これは希望論なんかじゃない。だって私、この眼で見たんだもの。うちのおじさまがあなたのお部屋へ入る前に、あなたが恥ずかしい思いをしないよう、お姉さんが先導切って部屋の中を確認してた所とか。おじさまの瘴気があなたへ悪影響を及ばさないよう、接触を阻止する区切りを交渉して設けた所をね」

「ッ!」

「おじさまはね、神様からも妖怪からも怖がられる凄い吸血鬼なの。慣れない人は出会っただけで発狂しちゃう。そんなおじさまと、あなたのお姉さんは対等以上に渡り合って、必死にあなたを守ろうとしたのよ。絶対に、こいしちゃんの事を大切に思ってるに決まってるわ。思っていなきゃ、あんな行動は出来っこない」

「……れ……」

 

 聞きたくない、とでも言うように、こいしは耳を塞いで唸った。目の焦点を揺れ動かし、奥歯をこれでもかと噛み締めて。

 フランドールは、取り合わなかった。

 声を、張った。

 

「そんなお姉さんが、あなたをいとも容易く見限ると思う? 薄情に、冷酷に、あなたを切り捨てると思う? 故意でやったわけでもない、悪い人に騙されてしまっただけのあなたの事を」 

「黙れ」

「拒絶するわけないでしょう。やり直しが効かない? 後戻りなんて出来っこない? 確かに一人なら難しいかもしれない。けれどそれを支えて、助けてくれるのが、家族や友達ってやつなのよ。――あなたはもっと信じなくちゃいけない。あなたの大好きな人たちの、あなたを大切に思う心の強さを!」

「黙れええええええええええええッ!!」

 

 こいしは体を抱きしめ、胎児の様に身を縮ませた。悲痛な叫びがとてつもない波動を生む。尋常ならざる蛍光色の妖力が渦を巻き、空気をぐちゃぐちゃに取り込んで、少女の小さな体へ集約を始めた。

 

「いくら善説を吐いたってもう遅い! 都合のいい言葉を並べても過去は変えられない! それは当たり前の事でしょう!? 私はもうっ、もうコンテニューなんて出来っこないのよ!! なのにそんなっ……! そんな無責任な希望をっ!! 私に押し付けようとするなあああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!」

 

 瞬間、爆発と見紛うナニカが起こった。

 薄緑の閃光が何重にも弧を描き、一斉掃射の如く放たれる。心の濁流を表現するかの如く散りばめられた緑のそれは、一つ一つが確実なホーミング性能を持ってフランドールへ襲い掛かった。

 

「ッ!!」

 

 虹の翼を煌めかせ、悪魔の妹は空を駆ける。満天の星空に負けない絢爛な弾幕豪雨を弾き、潜り抜け、大気を切り裂きながら旋回する。

 刹那、フランドールは音速と化した。

 天狗の素速さ、鬼の怪力に匹敵すると謳われる吸血鬼のフィジカルは満月の下でこそ真価を発揮する。そして今宵の月加減は申し分ない。フランドールは瞬く間に速度を上げ、七色に輝く羽の軌跡を描きながら徐々に徐々にこいしの元へ距離を縮めていった。

 

「近寄るなッ!!」

 

 こいしの体に絡みつく紫の蔦が蠢きだしたかと思えば、鞭の如くフランドールへ襲い掛かった。

 フランドールへ絡みつき打撃を加えようとする不規則な触手の群れを、間一髪の動作で躱し続ける。

 

「嫌だ!」

「しつこい!!」

「当り前よ、嫌われたってしつこく行くわ、こいしちゃん! 何度だって、何度だってぶつかってやる! 絶対にあなたを()()から引っ張り出す!」

「出来る訳がないってさっきから言ってるでしょ!? 私がやってしまった過去を変えて、過ちを無かったことになんて出来ないのよ!! なら、もうどうしようもないじゃない!? 消えてなくなるしかやり直せる方法なんて一つもない! ううん、やり直せっこないんだよ!! 」

 

 だから! と、こいしは叫んだ。

 追撃が止まる。止めてしまった、と言うべきなのかもしれない。

 こいしは塞いでいた顔を上げ、一瞬立ち止まったフランドールと視線を交差させながら、

 

「早く私を壊してよ!! 出来るんでしょう!? あなたの手なら、妖怪だって木端微塵に壊せるんでしょう!? こんな私に情けを掛ける意味なんて、これっぽっちも無いんだよ!? だからっ……早く、早くその手で終わらせなさいよ! お願いだから終わらせてよ!! フランドール・スカーレットォッ!!」

「ッ――」

 

 瞳から氷の雫を零しながら、少女は心の底から懇願した。

 もう終わらせてほしい、これ以上の絶望を味わいたくないのだと。

 自分には欠片も希望なんて無い。だからあなたの手で終止符を打って欲しいのだと。

 古明地こいしは、確かにそう願いを告げた。

 

 ああ、だからかと、フランドールは歯噛みした。こいしが何故、みすみす姉と咲夜を見逃したのか、その訳を理解したからだ。

 始めはこいしの事をスカーレット卿の刺客だと思っていた。その推察も正しいのだろう。しかしそれだけでは無かったのだ。こいしはスカーレット卿へ通じる道を阻むだけの、ただのエネミーでは無かったのだ。

 もし彼女が本当の刺客であったなら、あの場のレミリアと咲夜の行く手を、能力を使ってでも食い止めたはずだ。なのにそれをしなかった。どころか、彼女は今の今まで能力らしい能力を使ってきてすらいないではないか。

 

 思い返せばこいしの言動にはどこか願望のようなモノが入り混じっていた。特に『フランドールが敵にならない事』を極度に恐れる様な、歪んだナニカが存在していた。

 その正体がやっと分かったのだ。何故こいしが本気で彼女たちの前に立ちふさがらず、こうもフランドールの言葉を拒絶するのかを。

 

 こいしの真の狙いとは、即ちフランドールの敵討ちによる壮大な自殺。

 贖罪と絶望からの解放。その二つを、同時に成し遂げようとしているのだ。

 

 フランドールの破壊は絶対だ。余程の怪物でもない限り、妖怪だろうが神仏だろうが壊されれば元に戻ることは決して無い。

 その事実を、こいしはスカーレット卿から耳にしていたのだろう。だからフランドールの敵として相対する事を選んだのだ。紅魔館の住人を傷付けた自分ならば、フランドールの手で裁かれて当然だと考えた。それが自分にできる唯一の贖罪であると同時に、胸を切り裂く絶望から逃れる、最後に残された逃走経路だと悟ったのだ。

 

 

 それを。

 ベールが剥がれれば哀しみしか残っていない、どうしようもなく切なる願いを。

 

 

「――――絶ッッッッ対にやだッッ!!」

 

 

 紅魔の次女は、紅き暴風と共に吹き飛ばした。

 怒号の炸裂。魔力嵐の暴動。吸血少女の甲高い叱咤は、僅かにこいしの隙を抉り出す。

 須臾の綻びを見逃さない。フランドールは一気に詰め寄り、こいしの胸倉へ掴みかかった。締め上げる様な拘束ではなく、胸の底から湧き上がる激情を欠片も残さず伝えようとせんばかりの、必死の思念がフランドールの両手に籠っていた。

 

「そんなこと絶対にしない! してやるもんか! 私が迎えたかもしれない最悪な結末を、あなたに押し付ける訳にはいかないんだから!!」

 

 唾が飛ぶなんてお構いなしだ。些細な事情を気にする必要なんてありはしない。

 フランドールは伝えなくてはならない。 この瞳を閉じた少女へ、未来は決して暗黒に塗り潰されてはいないのだという事を分からせてやらなければならない。

 でも、きっと、フランドールの言葉だけではこいしを救う力が足りない。だってフランドールとこいしは他人なのだ。ほんの数分前に顔を合わせたばかりの他人なのだ。そんな人物から突然激励を飛ばされたところで、晴れる靄などたかが知れている。

 

 だったら。言葉だけではこいしを闇の沼から引きずり出すのに不足ならば。

 別の手段を、重ねて用いるだけであろう。

 

「勝負よ、こいしちゃん」

 

 フランドールは片手を離し、懐から数枚のカードを取り出した。

 スペルカード。幻想の少女たちが遊戯に使う、宣言用の遊び道具。

 それをトランプの様に広げ、フランドールは豪傑の笑みを浮かべて突きつける。

 

「幻想郷にはね、とっても素敵な遊びがあるの。喧嘩したり、蟠りが出来た時は思う存分パーッと暴れて、最後は仲良くなれる魔法の遊びが」

「な、なによ急に?」

「やるわよ、弾幕ごっこ。地上でよく遊んでたなら、ルールくらい知ってるでしょう?」

 

 四枚で良いよね、と少女は言った。

 突然の提案に、こいしは目を白黒させた。させる事しか出来なかった。

 

「やっぱり、おじさまみたいに言葉だけで心を動かすなんて器用なマネ、私には出来そうにないっぽい。だから私は私のやり方であなたを止める。それにはこれが最適解」

 

 魔力が漲る。吸血鬼の素養が遺憾なく発揮され、周囲一帯へ千紫万紅の光が瞬いた。

 しかしそれは決して恐怖を誘うものではない。闇夜を踊る蛍の様な穏やかさ、祭りに浮かぶ花火のような絢爛さを内包した、幻想的な光が生まれては消えた。

 

「いくわよこいしちゃん。思う存分、自分の心を弾幕にして打ち出すが良いわ。私も私の気持ちを形にしてあなたへぶつける。華々しい弾の舞踊で煤だらけになるまで張り合って、心を濁らせる泥を全部吐き出せるまで付き合ってあげる。そしたら、その後は」

 

 右手を差し出す。こいしの心を繋ぎ止める様に。彼女の心に食いついて離れない、忌々しい呪いの蟲を掴み取ろうとするように。

 

「その後は、私とあなたはもう友達よ。だからあなたを助けるわ。――自分が嫌われてしまう未来がどうしようもなく怖いのなら、そんな未来、私がぶっ壊してやるんだから」

 

 ただただ、水晶の様に透き通った紅の瞳。それは第三の眼を介さずとも容易く読み取れるくらい、邪悪の欠片もない一途な心の表れだった。

 そんな瞳を湛えるから、フランドールの声はこいしの奥底にまでよく響く。自分が引き籠った檻を揺らされている様な錯覚すら覚えてしまう。

 だからだろうか。悪魔の姦計に絆され魂の根元まで冷え切っていたこいしが、フランドールと出会ってから激情を吐露し続けていたのは。

 

「――――」

 

 ぎりっ、と奥歯が擦れた音がした。

 しかしそれは、今までの真っ黒な感情とは少し違うものだった。

 後悔ではない。自虐でもない。悲哀にも感じられない。確かな正体はこいし自身にも分からないのかもしれない。

 ただ、これだけは言える。こいしの心に、光が差し込む僅かな綻びが生まれかけているという事が。

 

 もしかしたらと、少女の脳裏に過ったのだ。自分と同じ境遇を体験したなんて到底思えないくらい前向きで、どれだけ拒絶しても決して見捨てようとしない、このフランドール・スカーレットならば。

 本当に、私を地獄から引き摺りあげてくれるのかもしれないと。

 

 ハッキリと意識したわけではない。ただ、無意識のうちに強く感じるナニカがあった。

『自分が行き付くかもしれなかった絶望を味わわせたくない』と言う、ただそれだけの理由で、出会ったばかりの他人にここまで優しく、全力で向き合う事の出来るフランドールに、古明地こいしは希望を視た。

 

 気付けば、スペルカードを手に取っていた。

 正と負。希望と絶望。二つの相反する感情が混ざりあい、乱気流の如く暴れ狂う頭蓋の中身を、こいしはどうにか押しとどめ――否。

 そうじゃない。それじゃあ何も変わらない。

 古明地こいしは、内に溜まった澱みを全て、解放しなければならないのだから。

 

「う、ううう、ううううううううううううううううううあああああああああああああああああああああああああああー――――――――――ッ!!」

 

 堰を切った様に号哭をあげる。千の色が入り混じる激情を、百花繚乱の弾幕に変えて解き放つ。

 力強くて、優しくて、おどろおどろしくて、哀しくて――そして誠実なまでに美しい、古明地こいしの弾幕豪雨。

 フランドール・スカーレットは、それを泥臭くて快活な笑みで受け止めた。

 心に鎖を巻かれた古明地こいしに一番必要なもの。それが()()に他ならないと、フランドールは知っているから。

 

「さぁ! 泣いて笑って、怒って喜んで、へとへとになるまで遊びましょう! そして心の整理が着いたら、みんなに一生懸命謝るの! 私も一緒についてってあげる! ――あなたを蝕む悪夢なんて、それで消えて無くなるわ!」

 



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34.「運命結ぶ七重奏」

「運命『ミゼラブルフェイト』!!」

「援護します、お嬢様!」

 

 稲妻の如き宣言と共に、レミリアの小さな体から紅蓮の鎖が放たれる。天を切り裂く紅き大蛇はスカーレット卿を吞み込まんとのた打ち回り、怒涛の如く殺到した。

 それだけでは終わらない。駄目押しの追い打ちを掛けるが如く、咲夜が銀の刃で取り囲み、余白を纏めて塗り潰す。全方位から放たれる銀翼と紅彩の波状攻撃は、熾烈でありながら見る者の心を奪う妖艶な美を纏っていた。

 

「小癪、小癪ッ!」

 

 一蹴。そう形容する他ない世界を焼かんばかりの灼熱が卿を中心に大回転し、一切合切をまとめて焼き滅ぼしていく。

 形容しがたい焦げ臭さが鼻腔を突く。膨大な熱波はパチュリーの加護を突き抜けて、ジリジリと肌を舐めまわした。

 

 卿が腕を振るうだけで、太陽のそれとなんら変わらない大エネルギーが容易く生み出される。もし何重の防護も無く近づけば、吸血鬼のレミリアはおろか咲夜までも骨すら残さず融解してしまうだろう。 

 ナハトを葬り去った場面を目にした時から分かっていたことではあるが、今のスカーレット卿が持つ力は絶対的以外の何物でもない。狂気的な強さ(ルナティック)を通り越した別次元の力と言える。特に太陽と相性が悪い吸血鬼のレミリアにとって最悪に等しい怨敵だ。

 

 だがそれは戦いを決意した時から想定していた範囲である。焦らず、冷静に、レミリアは分析を繰り返した。

 

 攻防を見る限り、正面突破は不可能に近い。相性もあるが単純に地の力が違う。八咫烏以外にも、数多の怨霊を支配下に置いたことで何らかのドーピングが施されているのかもしれない。少なくとも、ワンパターンなごり押しで勝利をもぎ取れるほど安い相手ではないのは明白だ。

 

 ならば、どう手を打つ。

 戦法を変える。その為には必要な情報を集めなくてはならない。故にレミリアは、先ず敵の弱点を捜索しようと考えた。

 

 一つ、レミリアには不確かな疑問がしこりのように存在していた。太陽の属性と相性が悪い吸血鬼の魂が、何故八咫烏の分霊から力を抽出し、挙句の果てに思うがまま操れているのだろうかと。そこだけが、どうしても理解出来ずにいるのである。

 何か絡繰りがある。それを探り出す事が出来たのならば、勝機に繋がる架け橋となるかもしれない。

 

「なんだ、もう終わりか? いざ陽の炎を前にして怖気づいたか? なに、遠慮することは無い。泣いて嫌がるほどその眼に焼き付けていくがいいさ!」

 

 卿がおもむろに左手を掲げる。それを合図に頭上へ黒い太陽のような小球が出現すると、右腕を覆う多角柱状の棒からけたたましいアラートが鳴り響いた。

 『Caution!! Caution!!』――警告を意味する西の言葉が、紅魔の主従へ確かに届く。否が応にも身構えさせられ、レミリアと咲夜は歯噛みした。

 

「ふははっ! そぉら、苦悶の炎に揉まれるがいい!」

 

 瞬間、白光する大炎熱波が怒涛の勢いで殺到した。

 触れれば最後、骨すら残らないだろう莫大な熱を湛える弩級の球体。それは情け容赦なく大気を焼き焦がし、次々と二人目掛けて降り注ぐ。

 追跡(ホーミング)はない。代わりに物量と質量で潰しに掛かってきている。しかしレミリアたちにとってこの弾幕は好機を産んだ。

 咲夜は周囲一帯を隙間なく埋め尽くされていなければ時を止めて自在に間を縫うことが出来る。レミリアは持ち前の身体能力と小さな体躯を活かし、灼熱の嵐を躱し続けられる。

 だがグレイズは許されない。掠りでもすれば最後、一瞬にして光の中に飲み込まれてしまう。細心の注意を払いながら、レミリアたちは着実に距離を詰めていった。

 

「咲夜ッ!!」

 

 圧倒的な攻撃により見失った従者へ向けて、レミリアは声を張り上げる。

 

()()()()()()()()! あれが力をコントロールしている制御の核よ!!」

 

 スカーレット卿の持つ弱点と思わしき存在を、怒号と共に受け渡した。

 

 確信を得た訳は、先ほど奴の右腕から発せられた機械的な警告音である。あれはスカーレット卿の意図によってわざわざ発せられたものではない。恐らく、元から棒そのものに備わっている機能なのだろう。

 

 棒はスカーレット卿が小規模のフレアを発した時は何も反応しなかった。しかし強大な力を用いた際には、まるで周囲の存在へその危険を知らしめるかの様に『Caution(警告)』を打ち鳴らしてきた。

 つまり、あの棒と八咫烏の力には何か関係性があると考えるのが自然だろう。それは一定以上の力が使用された際、危険性を周りへ伝える機能を持っている点から明白だ。

 ただのアラームにしては仰々しい上に、スカーレット卿の性格から考えて、行動の邪魔になり得る装備はすぐさま排除する筈である。なのにそれをしない、つまり棒を取り外さず警告音も無視しているという事は、逆に()()()()()()()()()()()()だと考えられる。

 

 切り離すことが出来ない理由と、力の強弱で反応が変わる理由。これを少し想像すれば、あとは子供でも分かるだろう。あの棒はいわば制御装置、ブレーカーの類。即ち能力を操る上での支柱なのだ。

 さしずめ、制御棒とでも言った所か。

 

「承知しました、お嬢様!」

 

 炎の向こうから咲夜の声が聞こえる。

 刹那、間髪入れずに耳を劈く金属音が連続して響き渡った。時を止めた咲夜が、制御棒めがけて一斉に攻撃を開始したのだろう。機関銃の如き跳弾音は、白炎に遮られた視界でもはっきりとその光景を映し出してくれる。

 

 しかし。

 

「ぎっ!? ――――づ、あぁッ!?」 

 

 空を切って訪れた苦悶の声は、愛しい従者の方だった。

 声のした方向へ瞳を見開く。だがその視界の下を高速で移動する影に目を奪われ視線を向けたレミリアは、その光景に顔の血液を奪われた。

 

「咲夜ッ!?」

 

 十六夜咲夜が黒い煙の尾を引きながら、重力の自由落下に身を任せていたのだから。

 考えるよりも速く体を動かす。魔力を局所的に爆発させ、そして得た膨大な推進力に従うまま、レミリアは圧倒的なスピードをもって咲夜を確保して見せた。

 宙を舞い、巧みに遊撃を回避しながら腕の中のメイドを見る。ぶすぶすとした煙を纏っていたように見えたが、別段火傷を負ってはいない。どころか、衣服の端すらも燃えていなかった。

 しかしレミリアに抱かれる咲夜からは、未だ気味の悪い煙が汚れた煙突の如く立ち昇っている。

 

 バチン。

 不意に、咲夜に触れていた細指が、電流に似た衝撃と共に弾かれた。

 

「これは……!?」

 

 パチュリーの加護が、何らかの魔術的要因を弾き飛ばした反応だった。

 よく見ると咲夜に掛かっていたはずの厳重な守りが全て打ち破られている。紅魔館が誇る最大の叡智があらん限りの知恵と魔力を振り絞って作成した渾身の守りがだ。

 例え太陽の炎に直撃しようとも、数発程度なら軽い火傷まで落とし込む事の出来るシールドの筈なのに、こうもあっさり破られた。あの目を離した、一瞬の隙にである。

 

「お嬢……っ、様……!」

 

 混乱に頭を描き回されるレミリアへ、眉間に皺を寄せ、振り絞るように従者が言った。

 意識がある――! その事実に安堵を覚えたのも束の間、咲夜は苦痛に顔を歪ませながら、

 

「お嬢様、気を付けて……! あの男に、あの体に触れては、なりません……!」

「体に触れてはいけない? 一体何が――、ッ!!」

 

 会話の最中、豪速で迫る火球が五つ。直感的に察知したレミリアは火球の一つを魔力の圧で軌道を逸らし、生まれた隙から残りの四つを潜り抜けた。

 咲夜は力の入らない体をレミリアへ委ねながら、主人の肩を必死に握り締めて、

 

「炎で、刃を溶かされないよう、時を止めて右腕の棒を直接狙いました。ですが、止まった時の中で突然、パチュリー様の防護障壁が破られて、この有様に……っ」

「なんですって……? 停止した時間に干渉されたというの?」

「違います。あれは……触れれば()()()()()()()タイプのものです。時に縛られない私でも、炎に、触れれば、停止時間の中でも火傷を負ってしまうように……触れた途端、ナニカがパチュリー様の加護を、突き破って、私の体を蝕んだのです」

 

 咲夜の服。襟元から除く玉の肌にそれはあった。

 黒いミミズ腫れのような痣が葉脈の様に蔓延っている。恐らく制御棒に触れた箇所だろう左手から襟下の鎖骨まで、黒ミミズが容赦なく広がっていた。

 レミリアは自分の指が弾かれた訳を知る。咲夜から漏れたこの痣がレミリアの障壁に引っかかり、除外されたが故に起こった現象なのだと。

 同時に、この黒い瘴気を放つ痣が火傷の類ではなく、スカーレット卿が仕掛けた呪いの傷だという事も。

 

「出会って間もないにも関わらず、我が力の綻びを見つけ出し、それを的確に穿とうとした洞察力は見事だったぞ、娘よ。だが少しばかり想像力が足りなかった様だな」

 

 嫌に沁みる、粘ついた声がレミリアのつむじから全身を貫く。

 少女のものでは無い低い振動が、ハッキリと神経へ伝わってきた。

 

「この私が剥き出しの弱点をそのままにしておくとでも思ったか? それとも対策していたとしても()()()()()()()()()と高を括っていたのか?」

「ッ!?」

「愚か者め。私はあの男と相対し撃滅する、ただそれだけを生き甲斐に泥を啜り続けた悪霊であるぞ。百の先手を取り、千の罠を仕掛け、万の保険を敷いて当然と知れ、未熟者めが」

「スカーレット……ッ!!」

「んん? 追い詰められた狼の様に情けなく吠えてる場合かレミリア……? どれ、心優しい私が一つアドバイスをくれてやろう。その呪いはまもなく女の五臓六腑を食い尽くし、確実に死へ至らしめる致死の呪いだ。放っておくと取り返しのつかない事になるが、さて、どうするね?」

 

 瞬発的に咲夜を見る。先ほどまで光があった瞳は澱んで霞み、焦点はレミリアではない虚空を捉えていた。肌は青ざめ、息は荒く熱を帯びて、苦しそうに胸を上下させている。気付けば黒蛇の痣は鎖骨から首筋を越え、頬にまで触手を伸ばしていた。

 侵食が早すぎる。まるで架空の伝染病の様だ。こうして目に留めている間もじわじわと痣は広がり、その度に咲夜は苦悶の声を上げていた。

 咄嗟に治癒魔法を掛ける。更に解呪の魔法も掛ける。更に更に魔力の補助を重ねていく。

 パチュリーまでには及ばずとも、レミリアは膨大な魔力を誇り、かつ永らく研鑽を続けてきた吸血鬼だ。並の呪毒ならば消し飛ばすことなど造作もない。

 

 けれど、目の前に巣食う現実は非情の極地だった。

 

「無駄だ。この呪いは我が端末を経て幻想郷中のありとあらゆる病や死の属性を掻き集めて作り上げた代物である。西行妖の毒気に土蜘蛛の病魔、橋姫の怨念、魑魅魍魎どもの負の感情……それら全てを一緒くたにして出来上った呪毒のキメラを食らったのだ。貴様一人の力でどうこう出来るものか」

 

 必死に咲夜の治療を試みるレミリアの隙を突く事も無く、足掻く姿を敢えて楽しむように佇むスカーレット卿が、残酷なまでの真実を告げた。

 それでも、手を休める訳にはいかなかった。

 

「くそっ……止まれ! 止まれ止まれ止まれッ!!」

「無駄だと言っているだろうが。それを止めるのは……いいや、その娘を救う方法はたった一つしかあるまい。もう分っているのではないのかね?」

 

 邪悪な笑顔の華が咲く。花弁が一枚ずつ開いていくように頬の肉が吊り上げられ、下劣な笑みが形となる。

 親愛を贄に享楽を得る悪魔の愉悦が、レミリアの焦りを加速させた。

 

「ほら、ナハトも小悪魔にやっていただろう……()()()()()()()。お前が呪いを肩代わりするのさ、レミリア。解呪は出来ずとも、そうすれば従者だけは助けられるだろう?」

 

 ドクン。と、胸の内で一際強い衝撃が波打つのを感じた。

 玉の汗が頬を伝い、顎から滴り落ちて何処かへと消えていく。

 ぐるぐると、胸を掻き混ぜられるようだった。

 

「さぁさぁ! まだ私を倒せる可能性を秘めた己の命をとるか、助けてもたかが百年足らずで朽ち果てる人間を取るか! 選ぶがいい、無慈悲に無価値に残酷に! それが貴様の運命を決める王手となろう!」

「いけま、せん。お嬢、様」

 

 意識を失ったはずの咲夜の口から、擦り切れた声が零れ落ちた。

 相変わらず宝石の瞳はレミリアを見ていない。見えていないのかもしれない。しかしその言葉は、思いは。確かにレミリアへと向けられたものだった。

 

「私が、不用意に近づいたから、この様な結果になったの、です。警戒して、遠くから攻撃すれば、よかったのです。……こんな役立たずの人間一人に……手遅れの私にっ……迷う必要なんて、ありません」

「……っ、お前」

「あなたは主。あなたさえ居れば、紅魔館は生き続ける。でも、私の代わりなんて、探せば幾らでも、見つかるはず。だからどうか、私の事は構わず……!」

「良いのかレミリア? こんな健気な人間(ペット)を見捨てても。さぞ大切に、手塩にかけて育ててきたのではないのかね?」

 

 

 レミリア・スカーレットは吸血鬼――自他共に認める我儘の化身である。その傍若無人ぶりから悪魔として妖怪の間からも恐れられ、しかしそれを弊害とすら捉えないれっきとした上級妖怪である。

 非情な決断を下した場面は山ほどあった。血を見て、そして血を見せた回数は数知れない。吸血鬼としては優しくても、レミリア・スカーレットは決して慈悲深い性分では無い。

 

 切り捨てる事を懇願する従者と、丸見えの罠へ引きずり込もうとする悪魔。

 彼女がどちらを選ぶかなんて決まっている。迷う価値すら見当たらない。

 だって彼女は、妖怪すら恐れ戦くスカーレットデビルなのだから。

 

「――――馬鹿ね」

 

 

 無論。レミリア・スカーレットは切り捨てる事を選択した。

 

 

 

「……四年前が懐かしいと心の底から思うよ。なぁレミリア、お前はどうだい?」

 

 ぱち、ぱち、ぱち。

 乾いた拍手が三拍子。口元を三日月状に歪ませる地獄鴉の姿をした悪魔は、眼前の景色を愉快な宴でも眺めるかのように瞳で舐め回しながら、必死に笑いを抑えるくぐもった声で呟いた。

 そこに咲夜の姿は無い。あるのは喘鳴(ぜいめい)を不規則に奏で、受け継いだ呪いによって満身創痍と化したレミリア・スカーレットただ一人。

 

 レミリアは選択した。咲夜をこの戦場から切り捨てる事を選択した。

 かつてナハトが小悪魔から怨霊を吸い上げた時と同じように、咲夜から呪いを吸い上げ治癒魔法を施したうえで戦線を離脱させたのである。咲夜は意識を失ってはいるものの容体は安定し、傍の木陰で寝息を立てていた。彼女の危機は去ったと言えるだろう。

 

 だがそれは、スカーレット卿にとって愉悦以外の何物でもなかった。もはやこみ上げてくる嘲笑を止める術が見つからない。とうとう決壊したダムの様な際限のない高笑いを炸裂させ、腹を抱えて涙を浮かべ始める始末だった。万が一の勝機を切り捨て、絶対的不利な状況に敢えて身を投じた愚かな娘の行動が、どんな道化よりも滑稽な姿に写ったのだろう。

 

「『情なんぞに悪魔としての本分を見失わされた』――かつて私はそうお前を評したが、どうやら狂いは無かった様だな。貴様はもう立派な出来損ないだよレミリア! こんな簡単な選択肢すらまともに決断できないとは、はははっ! 愚鈍なんて言葉すら高尚に思えてくるほどの間抜けぶりよなぁ」

「……っ、……」

「しかしお前は運が良い。いや、あの魔女が有能だったとでも言うべきかな? 本来ならば人間だろうが妖怪だろうが触れた瞬間あの世へ送れる程の呪いが魔女の結界によって大幅に削られ、吸血鬼なら体力と力を摩耗する程度に格を落とされたのだからな。お陰で貴様は未だ存命だ。親友に感謝と遺言を綴った手紙でも今のうちに書くといい」

 

 パチュリーの魔法障壁によって阻まれた呪いは大きく弱体化されていた。それでも人間ならば不治の病の如く体を蝕み、いずれ心の臓を止める程の凶器である。だが鬼に匹敵する生命力を持つ吸血鬼を殺すまでには至らなかった。

 しかしながら、それでも圧倒的な呪詛に変わりはない。なにせスカーレット卿が自らの分霊を通して西行妖や黒谷ヤマメ、橋姫を筆頭とした魑魅魍魎からありったけの負のエネルギーを掻き集めて作った渾身の呪いなのだ。レミリアの体力を枯渇させるには十分過ぎる代物だった。

 

 もはや言葉を放つ事すらままならず、ただ肩で息を繰り返すレミリア。そんな少女の姿を愉快一色の表情で眺めながら、卿はゆっくりと距離を詰めていった。

 鈍い衝撃が、レミリアの喉を突く。

 

「……!!」

「ははぁ、四年前と同じ光景だな我が娘よ。妹の体でやられるよりはまだマシかね? うん?」

 

 卿の腕がレミリアのか細い喉を鷲掴み、そのまま高く釣り上げたのだ。

 指がギリギリと首の肉へ食い込み、骨を軋ませる。だがそれでも意識は途絶えない。強靭な吸血鬼の肉体が、皮肉にもレミリアの苦痛を増大させていた。

 

「このままお前の体をじっくり焼き潰しても良いのだが……別に貴様ら外野の命なんてどうでもいいからな。私の目的はナハトのみ。他はただのモブに過ぎん。わざわざ手間を掛ける必要も理由も無い。所詮、これは前座の()()なのだからな」

 

 スカーレット卿は、レミリアがこうして手に収まる所まで予測していたのだろうか。

 レミリアが来ることも。従者が仕掛けた罠にかかる事も。そしてその従者を助けるために、レミリアが己の身を差し出すことも、全部。

 スカーレット卿の顔には焦りも何も見当たらない。まるで組み立てたプランが思い描く通りに遂行される様を眺める重役のような、余裕に満ち溢れた表情だ。

 見透かしていたのだろう。幻想郷に()を撒き、蛇の様に息を潜め、ナハトと会合し、地底を抜け、白玉楼で事を成し遂げ、そしてこの光景の前に立つ全ての過程と結末を、丸ごと見通していたのだろう。

 

 

 しかし。

 それはレミリア・スカーレットも同じだった。

 

 首を締め上げられながらも、浮かびあがるは不敵な微笑み。

 余裕ではなく、苦肉の策が上手い具合に働いたとでも語るような策士の表情だった。

 スカーレット卿はレミリアの意図が読めず眉を顰めた。手の力を緩めて余力を与えながら、唇を不愉快そうに曲げる。

 

「何がおかしい。とうとう頭を壊したか?」

「いえ。ただ、これであんたに王手を掛けられたかと思うと、体を張って苦しい思いをしたのも悪く無かったなぁって思って」

「……なんだと?」

 

 聞き捨てならない言葉に、地獄鴉の白磁の額へ青い血管が浮き上がる。

 今のスカーレット卿にとって自らを脅かす敵はナハトただ一人だ。それ以外が自分の脅威になる事は決して有り得ないし、万が一にもあってはならない。なのにレミリアは卿へチェックを掛けたと言う。スカーレット卿の怒りは瞬時に沸点を飛び越え、臨界点にまで到達した。

 

「腕を捻れば容易く殺せる赤子よりも矮小な立場にある貴様が、私を追い詰めただと? 身の程をわきまえろよ小娘。貴様如きが私に仇成せるものか、我が障害になど成り得るものか! 私を追い詰めるのはいつだってナハトだけなのだ!!」

「ええ、その通りよ。死ぬほど悔しいけど、今の私じゃあんたには敵わない。当然よね。だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 レミリアは、吸血鬼ならば本能レベルで理解している()()を言い放った。わざわざ口に出されるまでもない。それはどう足掻こうと覆す事の叶わぬ摂理である。

 彼らは闇夜に生きる使徒だ。月の愛を受け、太陽に忌み嫌われた子供たちだ。満月の下で超常の力を振るう事を許された代わりに、彼らは陽の下を歩く事を禁じられた。だから吸血鬼は太陽にだけは勝てない。どんなに策を巡らそうと、どんなに知恵を振り絞ろうと、存在に刻まれた因果から逃れる事は出来ないのだ。

 

 しかし当然ながら、レミリアはそんな当たり前のことを口にしたくて声を振り絞った訳ではない。

 言葉には裏がある。それを今、レミリアはひっくり返して見せつけた。

 

「正直な話、勝算なんて一つも無かった。もちろん勝つつもりではいたけれど、勝てるとしたら咲夜以外には有り得なかった。だってあの子は、月も太陽も怪物も倒せる唯一の人間(かのうせい)なんだもの」

「だがそれも敗れ去った。愚かにも搦手に引っかかってな」

「ええ。あの時点で私の敗北は決定した。でも()()()()()()()。元々私一人が相手じゃあ、差し違えるだけでも精一杯の運命だったのにね」

 

 ――運命。

 

 その一言が、スカーレット卿の胸を小突いた。まるで秘め事の核心を突かれたかの様な冷たい感触が、胸腔へしっとりと広がっていく。

 何故ならば。目の前でスカーレット卿の心を見透かすようにほくそ笑んでいるレミリア・スカーレットという吸血鬼は。

 運命を手玉にとれる、唯一無二のヴァンパイアなのだから

 

「そう、私はここで死ぬ運命だった。あなたの呪いに引っ掛かるか、それとも純粋な力の差に押し潰されて消え去るか。とにかく、()()()()()()()()()()に変わりはなかった」

「勝ちを拾う……? 貴様、一体何を言っている」

「太陽に勝てない私だけじゃあ、死んでようやく運命を逆転させる程度の働きしかできなかったって事よ。赤子の手で津波を呼べる? 蟻一匹で象を殺せる? 無理よね。力が無ければ大きな運命は呼び出せない。けれど大きな力があれば結果は変わる。本来戦いに加わる筈の無かった咲夜が私と共に立つことそのものが運命を変えるエフェクトになったのよ。『咲夜』と『私』、この二つが完全な勝利を生み出すカギになった」

「だから、さっきから何を言っているのだ貴様はッ!!」

「まだ分からないの? なら一言で理解させてやるわ、スカーレット卿」

 

 首を鷲掴む卿の腕を、レミリアは二つの細腕で掴み返す。さながら猛禽に攫われた大蛇が逆に捕食者へ絡みつき、叛逆の牙を向けるかのように。

 眼光を尖らせ、にやりと笑い、レミリアの内の悪魔が覗く。

 

「あなたが最も恐れているもの……それは、何?」

「―――――」

 

 空気が抜けた風船のように、卿の顔から力が抜けた。

 レミリアに投げられた疑問の言葉。それが刃物の如くスカーレット卿の胸底を抉り、掘り起こし、かつての記憶を呼び覚まさせたのだ。

 さながら分厚い岩盤の向こうから湧き上がる湯水のように。引き上げられた記憶の噴水は、瞬く間に卿の魂を侵食する。

 

「語るまでも無いわよね。あなたが心の底から怖がって、母から離された乳飲み子みたいに脆弱になってしまう人は、今も昔も()()()()()()()()()でしょう?」

「!! ――な、あ」

「闇夜の支配者を怒らせるな。彼の者の怒りを買うならば、迷わず竜の逆鱗に触れろ」

 

 ひゅっ、と。歯の隙間から、情けない空気が漏れだした。

 

「漆黒の怒りを剣に変え、絶対的な力で万象を絶滅に追い込む怒り狂った闇夜の支配者。あなたにとって、これ以上のブギーマンは存在しないんじゃないかしら? そう、あなたは彼を復讐相手として憎悪の薪を燃やしながら、それでも最大の恐怖を忘れることが出来なかった。出来る訳ないわ。自らを完膚無きまでに圧倒した唯一無二の存在を、味あわされたその恐怖を! 魂が忘れるなんて許さない!」 

「き、さま……ッ!」

 

 卿の心臓を抉り出すようにレミリアは叫ぶ。影を縫って隙を突き、毒蛇の一撃を大鷲に見舞うが如き舌剣は、瞬く間にスカーレット卿の精神を切り裂いた。

 

「だから私は()()おじ様が来るように仕向けた。運命を手繰り寄せ、あなたの最大の恐怖がここへ来るよう細工した。それが運命のエフェクトだと言っているのよ! 私と咲夜が――いいえ、紅魔館の皆が手繰り寄せた糸が今、あなたの絶望を引き寄せるんだ!」

 

 ――レミリアは絶対的に不利なスカーレット卿と戦うにあたって、幾つかの策を練っていた。 

 

 一つは正攻法。レミリア自身がスカーレット卿を倒し、異変を収束させるルート。まさしく理想の筋書きだが、しかし夢物語に等しい作戦でもあった。レミリアは吸血鬼である為に太陽にだけは決して勝てない。奇跡に縋るしかないこの作戦は、有って無いに等しいだろう。

 二つ目は邪法。即ち、己が身を犠牲にして得たエフェクトで行う運命操作。レミリアが今口にしたように、自らが死ぬ事でナハトの怒りを極限状態にまで持ち込み、スカーレット卿にとっての天敵を確実に生み出す作戦である。

 

 ナハトは一見すると、己の気分を害した者なら赤子であっても虐殺しかねない大悪党染みた印象を受ける人物である。しかし実態は温厚の一言に尽き、例え娘同然の存在が乗っ取られ悪逆非道の行いに利用されようとも、一度は温情を向ける程度に寛大だ。喧嘩っ早い妖怪の常識から考えれば、その懐はもはや精神異常の域に達している。

 

 しかしそれではいけない。今のスカーレット卿へ情けの類を掛ける行為は愚策以外の何物でもないからだ。もはやスカーレット卿は悪魔でさえ手に負えなくなった邪悪の権化である。隙を見せれば最後、その穴からじわじわと食い破られてしまうのは自明の理だろう。一度敗北を喫したならば尚の事だ。

 だからナハトを激昂させる必要があった。温厚な怪物を、一切の情け容赦も無く標的を撃滅する破滅の魔王に変える必要があった。その運命を引き当てる材料が自分の命だったのだ。レミリアが人柱となれば、優しい魔王は必ず覚醒してくれるから。

 けれどそれは、誰一人欠けない大団円を勝利とするレミリアやナハトにとって事実上の敗北に等しい。完全勝利を得るためには、誰一人命を落とさず作戦を遂行する力がいる。

 

 そこに紅魔館の皆が現れた。運命を変える新しい力となる者たちが立ち上がってくれた。

 本来ならば独りで死を迎える筈だったレミリアの運命が、咲夜やフランドール、パチュリーに美鈴、小悪魔の協力によって、一人として紅魔館から居なくならない新しい結末を呼び寄せたのである。

 『レミリアの死』――ではなく、『レミリアと咲夜が傷付けられた』に、運命の引き金が姿形を変えたのだ。

 

 勝手なのは分かっている。大切な従者が傷付いてしまう事を作戦の内に組み込んだのだ。なんて最低最悪な主だろう。我ながら反吐が出るとレミリアは心の底から自虐した。

 だが悪魔に勝つには悪魔の策略を、邪悪の化身を葬るには憤怒の魔王をぶつけねば、完全な勝利を得るなど夢幻の如き御伽噺だったのだ。

 こんな作戦を快諾してくれたお馬鹿な従者を、帰ったらめいっぱい甘やかしてやろう。でも自分を切り捨てるよう懇願してきたのはお仕置きだ――柄にもなく、レミリアは褒美の内容を思慮しながら、宿敵に向けて力強く中指を突き立てた。

 

「だから、敢えてこう言ってやる。――――私たちの勝ちよ、クソ親父!」

「レミリアァァ!!」

 

 顔面に紅蓮の血管を張り巡らせ、今にも爆発しそうなばかりの憤怒を湛えながらスカーレット卿はレミリアに歯噛みする。小枝の様な喉を掴む腕が、太陽の波動を流し込んで焼き殺せと訴える。

 だが出来ない。()()を呼び起こされてしまったスカーレット卿には、最後の一線であるレミリアの抹殺を決行することがどうしても出来ない。怨敵にして宿敵であり、復讐の到達地点であるナハトは、同時にスカーレット卿にとって最大の恐怖だからだ。レミリアを殺そうとすると、あの晩の怪物が魂にかぎ爪を立てて滅茶苦茶に引っ掻き回すのだ。

 憎悪の炎で心を焼き焦がそうとも、トラウマだけは拭えない。拭えないからこそ、スカーレット卿は憎しみと怖れの板挟みに遭い、常軌を逸した狂気を孕むまでに至ったのだから。

 

 ぶるぶると、痙攣と見紛うばかりに卿の体が震え上がる。激情が血管を、神経を、魂までも狂わせて、彼は獣の様な唸り声を吐き出し続けた。

 しかしレミリアを苦しめる腕の力は一向に抜ける気配を見せない。どころか、むしろ圧力は増していく一方で。

 溶岩の如き怒りと、泥沼の様な恐怖の狭間で揺れているのは確実だった。衝動に身を任せて細首を捩じ切ろうにも、かつてその身に受けた闇夜の絶望が歯止めとなって立ち塞がる。もはやスカーレット卿の精神は、ノイズの混じる電磁波の如く乱れきっていた。

 

「この私に精神攻撃など舐めた真似を……! ちっぽけな確率操作をするしか能のない不良品の分際で、よくも貴様ァッ!!」

「その運命を操る力(ふりょうひん)があなたに一矢報いたのよ。精々悔しがるがいいわ」

「ぐ……うううぉぉおおお」

 

 今のスカーレット卿は矛盾の塊だ。復讐を望みながら恐怖を拭えず、万全の敵を渇望しながらその影に怯えて震えている。理性を保っている風でもその均衡は瀬戸際なのだ。杭を一発でも打ち込めば、容易く瓦解の兆候を見せる。

 もとより、妖怪とは精神攻撃に滅法弱い存在である。もはや自己が曖昧となった卿でもそれは変わる事は無い真理なのだ。

 

 だが、しかし。当たり前の事ではあるが。

 たかだかその程度で精神崩壊を起こすようでは、四年間を暗黒の中で潜むことなんて出来はしない。

 いいや、この表現は正しくない。正確には、スカーレット卿の精神はとっくに崩壊を迎えていた。

 

 ぶちん。何かが切れる、音がした。

 

「ふ」

 

 壮絶な無表情から、一文字の息が零れ落ち、

 

「ふ、ふふふ」

 

 息は息と連なり、やがて増殖を始めていく。

 

「ふふっ、ふふふふふふふふふふ、ふははははははははははははっ! ぎゃはっ、ひは―――――っははははははははははは!! ひひひひひはははははははははははッ!! あああああァはははははははははははははッ!!」

 

 核分裂の如く一気に膨張し、言語は破裂を繰り返した。

 首を上げ、声で夜空を遊撃せんばかりに轟き叫ぶ。あまりに強烈な声は一種の衝撃すら呼び起こし、レミリアの鼓膜を嬲るまでに至る。

 やがて、空を仰いでいた首が骨でも折れたかのようにガクンと落ちて、二つの瞳が再びレミリアと重なった。

 卿の中でまた一つ、ナニカがぷっつりと弾け飛んだ。そう感じさせる、虚ろとも自暴自棄とも受け取れる濁り歪んだ瞳がそこにあった。眼を合わせ続けたら狂気に呑まれそうな、この世のものとは思えない魂が見えた。

 瞬間、脱力が起こる。表情はぐちゃぐちゃになったまま、卿は口だけを器用に動かして、

 

「決めた。ああ決めたぞレミリア。お前は今()()()()()()()()

「……っ?」

「デザートとして取っておく、と言っているのだよ。ここまで屈辱的な気分は久しぶりなんだ。それもよりによって、四年前は私に手も足も出ない蛆虫以下の存在だった貴様如きに味わわされる破目になったのだぞ。一周回って成長に感動すら覚えた程だ」

 

 破滅の表情から一転。邪悪を百倍にまで濃縮した悪戯っ子の様な笑みを浮かべながら、卿は愉快そうに喉を鳴らした。

 

「貴様の言う通りだレミリア。私は奴の恐怖を拭い去れてなどいない。未だ魂は四年前……いいや、五百年前の過去に囚われきったままだ。私はずっと奴の影に怯え、情けない童の様に頭を抱えながら震え続けてきた。最強と謳われ、勝利を約束されたはずのこのスカーレット家当主の私が!! ぽっと出の吸血鬼を前に小鹿の様に涙を流して膝を折ったのだぞ!? あの屈辱、あの怒り、あの恐怖! 果ての無い絶望を! 今まで一秒たりとも忘れた事は無い!」

「――」

「だから、これまではナハトに私と同じ屈辱を味わわせながら、考え得る限り最も残酷な方法で葬る事こそ最大の復讐だと考えていた。それは今も変わりない。変わりないが、趣向を変える事にしたよ。アイディアをありがとう、レミリア。初めてお前の存在に感謝したよ」

 

 もはや会話を放棄した一方的な独り言。レミリアが何をスカーレット卿に語り掛けたところで、馬の耳に念仏なのだろう。

 いいや。そもそも、今のスカーレット卿に耳など存在しないのかもしれない。ただ、彼は声帯と口だけを最大限駆使しながら、

 

「貴様を使ってやる。奴が手も足も出ず、私の靴の下で呻き声を上げる中、ここから――」

 

 制御棒の先端を、卿はレミリアの胸の中心へと押し当てて、

 

「――ここまで引き裂き、内臓を引き摺り出した後に奴の目の前で炙り殺す。簡単に死なぬよう、じっくりとな」

 

 メスで切り裂くイメージを植え付けながら、下腹部まで一直線になぞりきった。

 その感触が、骨の髄まで凍り付くほど悍ましい。冗談でもなんでもないと語る卿の表情は、魔王よりも魔王らしく。

 

「貴様だけじゃない。そこの木陰で眠っている従者も、次女も、魔女も、門番も、矮小な悪魔も。全員一人ずつ、殺してくれと懇願しようとも嬲り、甚振り、果てに殺してやろう」

「っ」

「ははぁ、死ぬのが怖いか? 吐き気を催す激痛の未来が恐ろしいか? 無理もない……だが死ぬ。残酷な世界だな」

「…………その言葉、そっくりそのまま返してやるわ。あなたはどう足掻いても世界から消える。これは決定された運命よ」

「ほざけ小娘。月並みな言葉だが、運命とは自分で切り開くものなのだ。私がそれを証明してやろうではないか。それに……じきに時は来る。どちらが永遠の眠りに就くか、すぐに分かるだろうよ」

 

 まあ、どのみち私は死ぬがね――ナハトに葬られたその後の未来ならばどうなろうと知った事ではない。彼は語外にそう語る。

 

「だが私は負けん。最後の勝ちまでは決して譲らん。例え消滅から逃れられずとも、貴様らとナハトだけは絶対に道連れにしてくれよう。……その時が来るまで、微睡みの中に落ちるがいい」

 

 スカーレット卿は徐にレミリアを解放すると、間髪入れずに額へ指を突き立てた。水色の光が瞬き奔る。光はレミリアの額を透過すると、全身へ浸透していった。

 ぐるん。レミリアの眼球が上を向き、瞼が落ちる。体から力が抜け落ちたレミリアは、重力に従って真っ逆さまに墜落を始めた。

 卿はそれを抱き留め、阻止する。

 

「あっさり落ちたか。随分と呪いに体力を奪われたと見える。むしろよくぞここまで持ち堪えたと言えるか」

 

 翼を羽ばたかせ、ゆっくりと降下していく。そのままスカーレット卿は木陰の咲夜の元へレミリアを連れて行くと、静かに地面へ置いた。

 熾烈な交流が数秒前まであったにも関わらず、眠る少女たちの姿は場違いなほどに儚く映える。

 だがその光景に感じるものなど悪魔にはない。慈しみや情愛は、卿とは無縁の感情だ。安置しているのも、ただ利用価値があるから放っているだけ。理由は他にありはしない。

 スカーレット卿は鼻を鳴らして一瞥すると、再び大空へと舞い戻った。

 

 

「見つけたわ。アンタがこの騒ぎの大元ね」

 

 空へと帰って直ぐの事。紅白衣装に身を包んだ巫女が、お祓い棒を突きつけながらスカーレット卿の前に姿を現した。

 何もない空間から突如出現したかのような、人間に相応しくない神出鬼没。事実眼前の少女――博麗霊夢はそれを無意識で成せる人間だった。

 スカーレット卿は突然の事で一瞬目を丸くしたものの、すぐに余裕の笑みを取り戻して、

 

「ご名答。私こそが異変の首謀者だ、博麗の巫女よ。そろそろ来る頃合いだと思っていたよ」

「そ。んじゃあぶっ飛ばすわよ。懺悔は聞かない。だって巫女だし」

「ははは、噂通り末恐ろしい娘だな。まぁまぁ落ち着き給え、少しくらい会話をしてくれてもいいだろう?」

 

 獲物を見定めた猛禽の様な巫女の目つきは変わらない。完全にスカーレット卿は標的として認識されてしまったらしい。もとより博麗霊夢は異変時なら通りすがりの妖怪にだって一切容赦を加えない質なのだ。当然と言えば当然の姿勢である。

 しかし、スカーレット卿もまた臆する様子を微塵も見せなかった。

 彼が余裕を持つ時はただ一つ。対処可能な()()を用意している時に他ならない。

 

「私はね、別に人間へ危害を加えようと思って異変を起こした訳じゃあないんだ。妖怪に対してだって同じことさ。彼らはちょっぴり苦しんでるが、私の望みを叶えるためには致し方の無い事なんだ。時が来ればじきに解放していく予定だよ。もちろん人間には一切危害を加えていない。どうだい? 見逃してはくれないかい?」

「言い訳はそれだけ? それじゃあさっさと構えなさい。寒いから早く終わらせたいのよ」

「なんと血気盛んな……本当に人間か君は? しかしそれも想定内。ところで博麗霊夢、君は何も疑問に思わないのかね?」

「あー?」

 

 投げかけられた問いへ、霊夢は不機嫌そうに首を捻る。

 それを話を聞く同意とみなし、スカーレット卿は続けた。

 

「八雲紫から事の顛末は耳にしているのだろう? 奴の事だ、おおよそ異変の見当をつけているに違いない。そしてその一部を君は耳にした。違うかい?」

 

 霊夢はぼんやりと、脳裏に過去の光景を思い浮かべる。秋の真ん中、焼き芋を齧りながらスキマ妖怪に事件の詳細を聞かされた時の記憶だ。

 霊夢は『そうね』と簡素に返す。スカーレット卿は『そうか』と薄く笑った。

 

「この異変を起こすにあたって、私が最も警戒したのは八雲紫だ。あの女の万能性と知性は脅威の一言に尽きる。だから真っ先に封じ込める必要があった。次点の脅威は伊吹萃香だ。彼女もまた万能の一人だからな、同じく封じさせてもらった。そして次に警戒したのは、紛れもなく君なんだよ。楽園の素敵な巫女殿」

 

 はぁ? と霊夢から思わず声が漏れた。そんな当たり前の事をいちいち口にする妖怪を今まで見たことが無かったからだ。何故なら博麗の巫女とは異変解決の象徴であり、妖怪にとって語らずとも知られる天敵の代名詞である。口頭で確認するまでも無い、暗黙の了解なのだ。

 構わずスカーレット卿は続ける。それは、彼の真意が()()に無い事を表していた。

 

「三番手に君を警戒したのは確かだが、しかし行動を封じる策を練るのに最も苦労させられたのは間違いなく君だった。なにせ博麗の巫女は本当に無敵だからね。例え最高クラスの神々であっても、異変の首謀者ならば君は必ず勝つだろう。無論、それは私であっても例外ではない。数々の戦歴がそれを証明していると言っていい。君と真っ向から戦えば、確実な敗北を招いてしまうと簡単に推測できた」

「話が長い。簡潔に言え」

「そこで私は考えた。一体どうすれば君に退治される事なく、目的を遂行できるのだろうかと」

 

 パチン。徐に、スカーレット卿は指を弾いた。

 それを合図とするように、空間にどす黒い穴が空いていく。八雲紫が移動に使うスキマに酷似した割れ目からは、何かの息遣いが薄く耳を薙いできた。

 霊夢は目を凝らし、闇を貫く様に中を見る。

 

 そして、

 

「紆余曲折を経て閃いたのだ。人間に勝つには、人間をぶつけるのが一番だと言う事に」

 

 霊夢は、正体を目撃した。

 

 大昔の魔法使いが被っている様なとんがり帽子。黒白を基調としたフリルの衣服。小さなお尻を乗せる箒も相まって、まさしく姿は古風な魔女のそれ。

 見間違えるはずも無い。間違えられる理由が一つも無い。

 誰が何と言おうとも、異変の首謀者の横で佇む金髪金眼のその少女は。

 長らく苦楽を共に乗り越えてきた幼馴染にして、切っても切れない腐れ縁、霧雨魔理沙に他ならなかった。

 

「いよう霊夢っ! 久しぶりだなぁ、元気してたかー?」

 

 だが、その魔理沙は霊夢の知っている魔理沙では無かった。

 薄紅色に充血し、血走った両目。分厚く下瞼を縁取るクマ。カサカサに乾燥しきった唇。ほつれて所々染みの着いた衣装。何日も眠らず時を過ごしたかのような、執念すら匂わせる壮絶な立ち姿。

 快活で。朗らかで。健康的で。野心家で。そして誰よりも努力家で。どんな人物にも一切心を靡かせない霊夢ですら『私もあんな風になれたら良いのに』なんて、密かな憧れも抱いた少女のビジョンとは、似ても似つかない風貌だった。

 そして霊夢は知る。魔理沙が化粧道具を持っていた真の理由が、この姿を誤魔化し怪しまれないよう細工をする為だったのだと。

 

 衝撃だった。今まで経験した事のない色々な感情が胸の中で一気に渦を巻き、あの霊夢でさえ呆然と眺める事しか出来なかった。

 魔理沙はそんな霊夢をおかしそうに笑いながら、懐から八卦炉を手に取って、ぽーんぽーんとお手玉を始める。

 

「さーて、そんじゃあ一丁全力でカチ合おうぜ博麗霊夢。あ、合図は別にいらねぇよな? ゴング代わりの口上なんて、今更私たちの間には必要ねえだろ? なぁ!?」

 

 瞬きの暇すら存在しなかった。

 魔理沙の手に収まる八卦炉が唸りを上げた刹那の瞬間。莫大な七色の輝きが、空を真っ二つに引き裂いたのだ。

 



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35.「星に捧ぐカプリッチオ」

 霧雨魔理沙の実態は、極めて普通な少女である。

 

 確かに、彼女は少しばかり特殊な生い立ちの持ち主ではある。大きな古道具屋の娘に生まれ、ひょんな事から魔導に憧れを見出し、家を出奔して魔法の森へと住み着いて、日々理想の魔法使いになるべく研鑽を積み重ねている不思議少女なのは間違いない。傍目から見れば、普通でも何でもないんじゃないかと思えてくる。

 しかし、それでも霧雨魔理沙は普通である。平凡な人間のそれとは大きく逸れた道を歩んでいたとしても、霧雨魔理沙はいたって普通の少女なのである。

 彼女が普通ではない経験を積み重ねても『普通』であり続けるその訳は、彼女の内面にこそ存在する。

 

 彼女は風来の捻くれ者だ。他人をいつもからかってばかりで、吐き出す言葉は掴み所のない雲のよう。

 彼女は謙虚な野心家だ。理想の力を得る為ならば血の滲む努力だって欠片も惜しまず、しかしその姿を晒すことを美徳としない。

 けれどそれは表の話。彼女の秘めたる根幹は、唐竹の様に真っ直ぐで、花にも勝る可憐な乙女のそれなのだ。

 

 彼女は羞恥心を持っている。普段がどれだけ粗野でお洒落に頓着しなくても、肌を無暗に晒すのは普通に嫌いだ。

 彼女は恐怖心を持っている。勇猛果敢に怪物たちへ立ち向かっているように見えても、怖いものは普通に怖い。

 彼女は嫉妬心を持っている。唯我独尊を貫く人物像でも、自分に無い才能の持ち主を普通に羨ましく感じている。

 

 ただ、霧雨魔理沙はそれを表に出さないだけ。だから、霧雨魔理沙は流れ雲の様な態度をとる。普通な内側が表へ裏返れば、自分が『ただの古道具屋の娘』に逆戻りしてしまうと思っているから。

 それだけは嫌なのだ。それだけは断じて我慢ならないのだ。

 

 霧雨魔理沙には叶えなければならない夢がある。古道具屋の娘で終われない理由がある。

 それは、誰にも負けない弾幕を作れる最高の魔法使いになること。それこそが、彼女の望む唯一無二の目標地点。その夢を叶える為に、霧雨魔理沙は己の『普通』を表に出すことは決してない。

 

 だが、一つだけ。

 一つだけ、どうしても魔理沙が表を出してしまう瞬間がある。

 

 隣を歩いているようで、常に一歩先を進む巫女の影。魔理沙はその影に追いすがろうと、全力疾走で駆け抜けてきた。

 いつかその影に追いつきたい。追いつくだけじゃなく、隣を笑って歩いていたい。

 自分には無い大きな才能を持ち、やっと魔理沙が追い着いたと思ったら軽々と距離を離していく……そんな天賦の才を持つ少女と並び立つ事が、霧雨魔理沙の持つ、もう一つの小さな夢だった。

 博麗霊夢といる時だけは、霧雨魔理沙はどうしても『普通』になってしまうのだ

 

 霧雨魔理沙と博麗霊夢は陰と陽の関係だ。けれど霧雨魔理沙にとって博麗霊夢は、そんな単純な一言では語りつくせない間柄だった。

 幼馴染であり、腐れ縁であり、親友であり、他人であり、好敵手であり、共闘者――幾つもの色と側面を持つ、際限のない関係性。魔理沙が抱く感情もまた、友情や親愛、尊敬に羨望と、淡いものから濃いものまで多岐に渡る。

 

 単純だけれど複雑で、若齢の少女が持つ言葉だけでは満足に表現できない、楽園の素敵な巫女との関り。

 

 そこに嫉妬や嫌悪が欠片も無かったかと聞かれれば、魔理沙は迷わずノーと答えるだろう。だってそんなの当然だ。彼女はどう足掻いても『普通』なのだ。自分には無いインチキ染みた才能や能力を何度も何度も見せつけられれば、『どうして私には才能が無いのか』なんて僻みを枕にぶつける日があったって不思議じゃない。

 けれど魔理沙は平気だった。彼女は反骨精神が心の中枢を担い、滝登りを常とする鯉の様な少女だから。僻みや妬みすら自分を伸ばすバネへと変えて、高みに向かい邁進してきたのだから。

 

 

 だがもし、その嫉妬や逆恨みの感情が()()()に増大されてしまったとしたら?

 絶対に花開く事の無かった負の気持ちが、突如醜悪な華を咲かせたとしたら?

 無論、少女はそれを見て戸惑うだろう。こんな物が自分の中にあったのかと、さぞや困惑する事だろう。

 

 ――悪魔の真髄は、その()が如何に美しく、かつ最優先で守られるべきものなのだと信じ込ませる事にある。

 絶佳の華は棘を持つからこそ可憐に開く。だが棘を備えた毒華とは、美しさに取り憑かれた者へ致命的な病魔を与えるのだ。

 

 

「無敵の巫女よ。哀しい事だが、貴様の弱点は人間なのだ」

 

 轟音が休む間もなく炸裂する。光線が夜の闇を幾度も切り裂き、輝く玉の雨は流星群の様に煌めき飛び交う。

 絶景と称する他にない少女たちのイルミネーションを観賞しながら、鴉を模した悪魔はクスクスと笑みを浮かべた。

 

「認めよう、博麗霊夢。貴様は幻想郷で最も強大な人間だ。私の様な化生には万に一つも勝ち目のない現代の英雄だ。神も仏も妖怪も、この楽園では絶対に貴様には敵うまい。仮に苦戦したとしても、貴様は最後に必ず勝ちを捥ぎ取ってみせるだろう。まさしく運命に愛されていると言っても過言ではない女。それが貴様なのだ」

 

 冷静に、客観的に。狂っているとは思えないほど冷え切った頭脳で、悪魔は波風一つ立たない瞳を眼下の少女たちへなぞらせる。

 獣が如き獰猛さで襲い掛かる霧雨魔理沙と、目に見えて困惑しながらも必死に応戦する博麗霊夢の姿が、水晶体へ鮮やかに映りこんだ。

 

「だから随分と頭を悩ませたよ。異変となれば必ず貴様はやってくるだろう? ナハトを葬る前に退治されては笑い話にもならんからな。どうしたものかとあぐねていたが……しかし、私も負けず劣らずの幸運の持ち主でね。ある日突然、解決策が向こうからやってきたんだ」

 

 それが魔理沙さ――卿の口元が歪に捻じり曲がる。

 

「彼女は素晴らしいぞ博麗霊夢。基盤は凡人のそれなのに、精神強度と向上心はまさしく英雄の器ときた。大器晩成型と言った所かな。順調に成長すれば間違いなく貴様を下すほどの魔法使いと成るだろう。――だから、先人のお節介として、少々手伝いをさせて貰ったよ」

 

 スカーレット卿が魔理沙へ施した姦計は、今までの陰謀と比べるとそう大したものではなかった。

 単純に、言葉と魔法と能力を使って負の心を増大させたのだ。霧雨魔理沙が塵屑程度に持っていた、博麗霊夢に対する嫉妬などの感情を膨らませただけである。

 

 かつて魔理沙が早苗と共に紅魔館へ忍び込み手に入れた――否、()()()()()()()()()本には、スカーレット卿の魂が内包されていた。そこから魔理沙の無意識下へ浸食し、徐々に徐々に精神改造を施していったのだ。

 霊夢に対する負の感情が増大したことで持ち前の逆境精神が遺憾なく発揮され、魔理沙は霊夢を打倒する為だけに努力を重ね続けた。その結果、魔理沙は強力な対巫女用の決戦兵器として生まれ変わってしまったのだ。

 

「巫女よ、貴様は魑魅魍魎、悪鬼羅刹、神々と悪魔に対しては無類の強さを発揮するが、人間だけは話が別だ。何故なら貴様にとって人間とは庇護の対象だからだ。博麗の巫女は闇夜の魔から民草を守る象徴だからだ。だから貴様は、人間にだけは絶対強者として成立し得ないのだよ」

 

 卿は魔理沙の潜在能力に驚かされてばかりだった。小さな嫉妬が悪魔の囁きによっていつしか大きな憎しみへとすり替わり、打倒霊夢へ魂を燃やし始めた魔理沙は、スカーレット卿の指導によって圧倒的なスピードで芽を伸ばした。卿の計算よりも遥かに早く、魔理沙は潜在能力を果実として実らせるに至ったのである。

 

 しかし当然ながら、()()の代償は決して軽くない。

 

 当たり前だが今の魔理沙は平常心ではない。感覚、価値観、精神性を強制的に狂わされたに等しいメンタルと、本来なら長い年月をかけて辿り着くはずの境地へ短期間で至った程の猛特訓は、過度なドーピングを施した決壊寸前のアスリートに等しいダメージを魔理沙に与えてしまっていた。

 悪魔の魂もまた、人間にとって猛毒だ。だから卿は、今までと違って完全な乗っ取りを施してはいなかった。してしまえば、人間の魔理沙は一瞬で壊れてしまうから。

 それでは駄目だ。魔理沙は対霊夢用の切り札であると同時に人質なのだ。完全に妖怪から乗っ取られた人間を博麗の巫女がどうするかは想像に難くない。だから卿は、魔理沙の精神を弄るまでに留まった。

 

 言うなれば今の魔理沙は暴走状態にある。しかし妖怪に成ろうとしている訳ではない。精神操作といくらかの魔力増幅を施されただけの魔理沙は、霊夢にとって退治の対象に当て嵌まらない。

 故に、霊夢には鎮静化させる以外に選び取れる道などない。だが時として鎮圧とは殺害よりも難しい。如何に博麗の巫女といえども、苦戦は約束されたも同然だった。

 それこそが、スカーレット卿の真の狙いでもあるのだが。

 

「という訳だ、存分に競うが良い人間ども。共倒れか? あるいは片方が倒れるか? どちらにせよ私の勝ちだ。ゆっくり刃を交えてくれたまえ」

 

 悪魔は宙に印を刻むように指を動かす。なぞられた空間は光を帯び、空間をゼリーの様に掻き混ぜると、ほんの拳程度の小さな穴を生み出した。

 卿の胸元から一体の霊魂が飛び出していく。すると、吸い込まれるように穴の中へと姿を消した。

 

「さてさて、もう直ぐ本命の準備が整う頃だな。期待しているぞ? ナァハト」

 

 

「れぇぇぇえええええええええいむゥゥうううううううううううううううううううううううううううううううううう――――――――――――――――――――ッ!!」

「魔、理沙……ッ!」

 

 流星雨が降り注ぐ。爆音は多重し、さながら一つの音楽となる。

 静謐な夜は打ち砕かれ、砲台と化した魔法少女と一方的な防戦を強いられる巫女の戦いは、時を刻むごとに激しさを飛躍させていた。

 

「ほらほらほらほらどうしたどうしたァッ!! まだ試合開始のゴングは鳴ったばかりだぜ!? なのに息切れなんてよぅ、日頃の運動不足が過ぎるんじゃないかァーッ!?」

「づッ――!!」

 

 霧雨魔理沙は獰猛な笑顔を嵐の渦中で覗かせながら、一切衰える気配の無い魔力弾幕を霊夢へ放射し続けていく。齢十数程度の少女が撃てるとは思えない質量と物量を伴った砲撃の数々は、まさに(しの)突く雨が如く。弾幕ごっこが得意な霊夢も、流石に肝を冷やすほどだった。

 針穴の様にか細い隙を間一髪で搔い潜りながら、巫女は正気を失った親友へ向けて叫ぶ。

 

「魔理沙、馬鹿な事してないでさっさと目を覚ましなさい! あんな奴に操られてんじゃないわよ!」

「操られる? おいおい、妄言は節度を持って扱わないと駄目だぜ霊夢!」

 

 言葉を断ち切った魔理沙は、小馬鹿にする様に鼻を鳴らす。

 帽子の位置を正しながら、少女はニッと純白の歯を覗かせた。

 

「これは私の意志だ。()()が私の底に眠っていた本当の気持ちに気付かせてくれたんだ。だから私はそれに従っているだけなのさ。もう一度言うぞ。これは私の望みだ。これこそが、お前をこの手で倒す事こそがッ! 霧雨魔理沙が持つ唯一無二にして正真正銘の願いなんだぜッ!」

「――――」

 

 嘘だ。霊夢は何の迷いもなく確信した。

 例え()()()()()にとって真実だとしても、それは間違いなく嘘でしかないのだ。

 

 霊夢は他人に興味が無い事で有名だ。雲の様にその場の風に身を任せ、去る者は家族であっても追わず、来る者は魑魅魍魎であっても拒まない。だれでも平等で、対等で、ちょっぴり冷たい人間だと感じられることもある。だからこそ、霊夢は人外たちから信頼を寄せられていると言って良い。

 その公平性は例え長年の苦楽を共にした魔理沙であっても例外ではない。しかし博麗霊夢は知っている。霧雨魔理沙という少女を知っている。

 捻くれ者なのに竹の様に真っ直ぐで、笑顔の裏では辛苦の味を噛み締めながら奮闘を重ね続けている努力の人。霊夢が嫌いな努力を信じ、霊夢へ必死に食い付いている普通の人間。

 性分はさておき、根っこは似ているかもしれないと霊夢も思う。けれど根本的な部分以外はまるで正反対だと断言できる。自分がコインの裏ならば、間違いなく魔理沙は表だろうと。

 

 霊夢は流れ水の様に生きつつも、それでなんでもこなせてきた。

 魔理沙は川を遡る鮭の様に、逆境に立ち向かって今の位置にしがみついている。

 霊夢は努力を信じていない。無駄なものだと排斥している。

 魔理沙は努力を信じている。それこそが最大の武器だと疑わない。

 霊夢にはこれといって夢も目標もない。ただ末永く、日々の平穏が続けばいいと思っている。

 魔理沙には大きな夢がある。平凡な村人Aで終わる人生を歩もうとは欠片も思っていない。

 

 ああ、やっぱり。こうして考えただけでも、魔理沙と霊夢は陰と陽の如く対極な存在だ。

 それ故だろうか。魔理沙が霊夢という少女を知っているように、霊夢もまた魔理沙という少女を知っている。

 だからこそ。

 だからこそ、今の魔理沙は――いいや。魔理沙をこんな風にした元凶の存在が、霊夢には到底看過できなかった。

 思わず、お祓い棒で真っ二つにしてやりたくなるほどに。

 

「――らし」

 

 熱いナニカが湧き上がる感触があった。

 魔理沙に対してではなく、魔理沙の後ろでニタニタと笑う悪魔へと。言い知れぬ感情が膨れ上がってくるのを感じた。

 それこそ、今まで体験したことが無い程の、大きな大きな熱の塊が。

 

「あん? なんだって?」

「アホらし、って言ってんのよ」

 

 空気が凍る。

 冬とは違う冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。

 

「……あ?」

「だって、言ってることが()()()()もの。――ううん、そんなの()()()()に決まってるんだもの」

 

 次の瞬間、霊夢から噴き出したのは木枯らしの様に静かで冷徹な怒号だった。肌を貫く冬の息吹よりも冷たく、けれど溶岩の様に茹立つ激情の化身だった。

 だが霊夢の氷柱の様な言葉の意味を魔理沙は汲めず、ぱちぱちと瞬きをして首を傾げるのみ。

 

「言ってる意味が分からんな。何が違うってんだ? もしかして私の願いがお前を倒す事だってところか? おいおい、それは主観の押し付けだぜ博麗霊夢。これは間違いなく私の目標だ。ずっと目を背け続けていただけの、長年の夢に違い無いんだよ」

「いいえ、いいえ。今のアンタがそう思っていたとしても、それだけは違うわ霧雨魔理沙」

 

 風切り音と共にお祓い棒の切っ先が向けられる。伴う眼光は刀を越えた鋭さを帯び、纏う覇気は一騎当千の凄味を孕む。

 

「アンタの夢は私を倒す事なんかじゃない。そんなの、()()()()()()に過ぎなかった筈よ」

「――――――――――――は?」

 

 理解不能。ただ一色に塗り潰されたと言わんばかりに魔理沙は目を白黒させた。

 それだけではない。今の魔理沙にとってその言葉は、明確な『否定』に他ならなかった。

 今の魔理沙にとって打倒霊夢こそが全てである。それを完全否定されたとなれば、即ち魔理沙の根幹に泥を塗られたとなれば。脳漿に熱い血潮が駆け巡るのは自明の理と言えるだろう。

 少女らしからぬどす黒い感情を表情筋で彩る魔理沙は、まるで魔女の様だった。

 

 けれど。

 そこには怒りの赤黒さだけじゃなく。混乱の色も混じっていた。

 

「なに言ってんだ? お前」

「なに言ってんだはこっちの台詞よ。そんなくだらないモンがアンタの夢の筈が無いでしょっての、ばーか」

 

 ビキッ――魔理沙の額へ、蛇の様な青筋がくっきりと走り抜けていく。瞼が痙攣し、頬の筋肉が瞬く間に強張った。意識せずとも歯が外気に晒され、皺が目尻を覆っていく。

 魔理沙の特大地雷を踏み抜いたと直ぐに分かる有体だった。それでも霊夢は構う素振りを見せなかった。

 だってその地雷は偽者だから。第三者から勝手に埋められた、異物に他ならなかったから。

 

「私を倒す事が目標ですって? ハッ、ちっさ。小さいわよ魔理沙。いつの間にそんなくっっっだらない女に成り下がってしまったのよアンタは。あまりに矮小過ぎて呆れる気力も無くなるってモンだわ。いっそ唾まで吐き捨てたくなってくる。下品だからやらないけどさ」

「オマエ」

「ねぇ魔理沙。アンタの夢って、そんな陳腐で粗末な代物だったかしら?」

 

 毛が逆立つばかりの怒りに身を焦がされる魔理沙へ、霊夢は一転して、優しさを絡ませた声を投げた。それは癇癪を起こした妹を宥める姉の様な、間違いを犯した親友を止めんとする友の様な、慈愛と怒り――そして悲哀の入り混じった声色だった。

 返事は無い。その無言を答えと受け止めるように、黒曜石の瞳は哀しみに揺れ動く。

 霊夢はぐっと唇に力を入れて、真っ直ぐ彼女へ届くよう、言葉を一つ一つ放っていく。

 

「アンタはずっと星を見ていたわ。まるで星に恋をしてるみたいだった」

「黙れ」

 

 発言を両断。八卦炉から放たれた金色の一閃が豪速を伴って夜を切り裂き、息を吸う暇すら与えず霊夢の右肩へと着弾した。

 打ち上げ花火の如き炸裂音が響く。小さな体が反動に揺れる。肩から白煙がぼうっと漂い、焦げ臭い匂いが鼻腔を突いた。

 だが霊夢は苦悶の表情を浮かべない。今の一撃は敢えて受け止めたと言わんばかりの堂々たる振舞いだ。

 

「アンタの目指している場所はそこだった。空に輝く星の海だった。――決して、決して私みたいなちっぽけな場所(にんげん)なんかが目標じゃなかったわ」

「黙れと言ってるだろうが」

 

 二閃、三閃。果てには数えきれないほどの流星群が降り注ぐ。

 掠るものもあった。削るものもあった。焼くものもあった。打つものもあった。

 それでも、博麗霊夢は倒れなかった。

 だって、目の前には霊夢よりも倒れそうになっている、友達の姿があったから。

 

「アンタの夢は私を倒す事なんかじゃない。アンタの……霧雨魔理沙の持つ夢は。誰よりも凄い大魔法使いになって、誰よりも綺麗な弾幕を作ることだった」

「ッ」

「思い出した? それとも胸の中のどこかに引っ掛かった? どちらにせよ、あんな阿呆にあっさり惑わされて本分見失ってんじゃないわよ馬鹿魔理沙。私を倒すなんて、夢の過程のそのまたツイデで出来ちゃう事でしょ? ……だから小さいって言ってんのよ。だから、それは違うって言ってんのよ」

 

 核心を抉り取り、それを眼前へと突きつける。

 気付けば砲撃は止んでいた。

 魔理沙は目を剝きながら、ほんの数センチ後退していく。

 霊夢は最後に一言、添えるように言い放った。

 

「アンタさ。自分の夢をあんな奴に汚されて悔しくないわけ?」

 

 

『キリサメマリサ。君は悔しくないのかい?』

 

 

 心の声、というものがあったとすれば。それはこんな声を指してるんじゃないか思う。

 あの日……早苗と共に紅魔館へ足を運んだ日。私はまるで提灯の火に吸い寄せられた羽虫の様に、宝物庫で一冊の本を手に取った。

 自分でも何故そんな行動をしてしまったのかは分からない。少なくともほんの数秒前までは罠を警戒して、何も触ろうとは思っていなかった。けれど金貨を見ていたら奇妙な安心感が芽生えてきて、私は誰かへ誘われる様に本を手にしてしまった。

 

 その時までは何もなかった。ただ凄い本を手に入れたかもしれないって言う変な達成感しか感じなかった。

 

 きっかけは、あの吸血鬼に出会ってからだと思う。

 

 身を縛る恐怖。心を掻き混ぜる恐怖。私という存在を吹き消してしまいそうな、絶対的な恐怖の暴圧。

 灰被りの吸血鬼を見た瞬間、今まで感じた事も無い絶望感が私を包み込んだ。情けないくらい膝が笑って、血が冷えて、眼を逸らしたくて堪らなくなった。おまけに頭の中の錠前を壊されたかのような痛みがいきなり突き刺さってきたかと思えば、封印されていた記憶なんてモンが呼び覚まされる始末だ。早苗が傍にいたからとはいえ、我ながらよく粗相をしなかったなぁと褒めてやりたい。

 

 きっと、この恐怖が始まりだった。あの男の瘴気で精神を乱されてから、まるで愛娘に囁く様に優しい声が私の中から語り掛けてきたのだ。

 始めは幻聴だと思った。男を殺せ、殺せ、殺せと、優しい声色の癖に怨霊よりも負の色に塗れた呪詛が脳ミソの中心から呟き続けて来たんだから。

 そこから記憶は曖昧だ。どっかで心の線がぷっつり切れたと思ったら、いつの間にか守矢神社で手当てを受けていた。

 

 目覚めてからも……いいや、眠っている間も声は続いていた。けれどそれは、呪いの言葉じゃあなくなっていた。ただそいつは――()()は、私に疑問の声を投げ続けてきたんだ。

 

 悔しくないのかと。惨めには思わないのかと。見返してやりたいとは考えないのかと。

 私は更に強くなれると。その高みに上らせてあげようと。君のサポートを担おうと。

 

 始めは勿論戸惑った。悪霊にでも憑かれたかと勘繰ったさ。けれど彼の言葉はまさに甘言の体現だった。どうしてか分からないが異様に安心するんだ。言の葉の一枚一枚が赤子の時に身に着けていた毛布の様な、慈しみを孕む親の笑顔の様な、抗いがたい安心感を持っていて、私はついその言葉に従ってしまった。

 

 すると、だ。嘘みたいに私の力は上達していったんだ。魔力のコントロールも、困難だった術式の証明も、読めない魔導書の解読も、瞬く間に進んでいった。それこそ、自分自身ではっきりと成長を実感出来るくらいに。独学の非効率性を噛み締めたくらいに。

 でも事はそう簡単なモノじゃなかった。先生の指導は苦行と荒行を乗算したような無茶にも程があるプログラムだったんだ。体中は痛いし、眠れないし、死ぬほど疲れた。睡眠なんて気を失う事と同じで、食事はただの栄養摂取に変わった。けれど、それを差し引いても素晴らしいと自慢出来る成果が出たから、私は死ぬ気で頑張れた。

 これで私は飛躍出来るんだって。立派な魔法使いになって、幻想郷一綺麗な弾幕を作れる一歩を刻めるんだって。霊夢と一緒の景色を、早く見る事が出来る様に――

 

 

『もう一度問おう。君は悔しくないのかい?』

 

 出来る様に、

 

『博麗霊夢は才能に溢れている。君には無い才能を沢山持っている。君が一日かけて登る山を、彼女はほんの数時間で登りきる事が出来る。同じ人間なのに理不尽とは思わないかい? 羨ましいとは思わないかい? 妬ましいとは思わないかい?』

 

 出来る、様に。

 

『隠さなくていい。それはごく普通の事なんだから。誰だって才ある者を僻む。当然さ。隣の芝生は青く映るものだろう? けれど、霧雨魔理沙。君はただ指を咥えているだけで納得出来る人間なんかじゃあないよね』

 

 違う。

 

『その悔しさ、晴らしてみたいと思うだろう。見返してやりたいと思うだろう。いいや、そんな生易しい感情だけでは終わらぬよ。君は、そう、憎んでいる。才能溢れるあの巫女を憎んでいる。怠けていても成すべきことを成せる天性の才を、それが自らに備わっていない不条理を、どう足掻いても打ち破る事の叶わない不条理な壁を。君は歯軋りをしながら憎んでいる』

 

 違う!

 霊夢は霊夢、私は私だ。そんな気持ちなんてこれっぽっちも無い。

 確かにあいつのインチキ具合を羨ましく思う事だってあった。けれどそんな、そんな酷くて理不尽な嫉妬、抱いた事なんて一度も無い!

 

『では見せよう。君の頭からは消えてしまった、ナハトとの会合の後の記憶を』

 

 ――――――あ。

 

『さぁ焼き付けるがいい。霊夢と戦ったあの瞬間を、激情を、存分に噛み締めるといい』

 

 嘘だ。

 嘘だッ!

 こんな、こんなの、私じゃない。嘘だ。嘘だ!

 なんだこれは。私が、霊夢にこんな。支離滅裂に、まるで私怨を押し付けて、子供みたいに癇癪起こして……!

 

『恐れる事はない。君は真っ当な向上心を見つけただけなのだよ。その気持ちは重大なエネルギーだ。黒の感情は燃やせば力となる。私はそれを君に証明した。数週間前の君とは見違える程の成長を実感しただろう?』

 

 それは、

 

『受け入れよ。恥ずべき事ではない。自らの黒を認め、受容し、誇るのだ。それは即ち、王道たる覇道である』

 

 私は。

 

『それとも何だ? このまま君はエキストラとしての生涯を選ぶつもりなのか。恵まれた境遇で輝き続ける巫女に立場を奪われたまま、ただ惨めな影としての人生を歩むのか?』

 

 ――――。

 

『憎め、少女よ。黒き炎を焚き上げよ。灰をも燃やし尽くして進軍せよ。それはきっと、君の大きな力となろう』

 

 ――――ああ、そうか。

 

『成すべき事はただ一つ。そう、たった一つだ霧雨魔理沙。君を影に変えた太陽を、その手で地に落とすのだ』

 

 私は、霊夢を。

 そうだ、霊夢を。博麗霊夢を。

 理不尽の権化を。私に無い物を全部持っている選ばれた人間を。 

 私は、この手で倒さなくてはならない。

 でないと、私は。キリサメマリサはエキストラで終わってしまう。

 ただの道化で終わってしまう。夢見の少女で終わってしまう。

 嫌だ。それだけは嫌だ。私はエキストラなんかじゃない。古道具屋で働きながら、星を眺めるだけで終わりたくない。

 

『ああそうさ。それこそが君の掲げるべき真の目標なのだ。今こそ太陽へ叛逆せよ、普通の子よ。主人公になる時がようやくやって来たのだ』

 

 私は、霊夢を。

 私は、霊夢と。

 私は。わたしは。ワタシは……――――――

 

 

 

 

 

「アンタさ。自分の夢をあんな奴に汚されて悔しくないわけ?」

 

 

 

 

 それはまるで。

 雲の割れ目から、暖かい光が差し込むような。

 

 

 

 

「――そうだ、私は霊夢を、違う、私は、魔法使いに、違う、ゆめ? 私の望みは、違う、違う、先生の、先生の言葉が正しい、いや違う、あいつは悪魔で、ああああ、私は、私はぁっ……!!」

「……魔理沙」

 

 記憶の揺らぎ。認識の齟齬。

 見つけてしまった頭の中の違和感は、少女の心を大渦の様に搔き回した。 

 滝の様な汗が頬を伝う。玉の肌が青ざめる。脈打つように体が震え、瞳の焦点は居場所を求めて彷徨った。

 増大された魔力が不規則に少女の体から溢れ出す。まるで心臓の鼓動を思わせる波動だった。魔理沙の混乱を、如実に物語っているのだろう。

 

 数拍の末、体の震えがピタリと止んだ。

 頭を抱え、遥か下の大地へ顔を向けたまま、魔理沙は吐き下すように言葉を漏らす。

 

「お前の事が羨ましかった」

 

 その一言には、少女の全てが詰め込まれていたと、霊夢は体で感じ取った。

 

「お前は私に無い物を全部持っていた。力も、運も、才能も、立場も、全部だ。隣の芝生は青い、なんて言葉があるけれど、まさにそうだった。私はお前の全てが羨ましかった。妬ましかった」

「…………」

「だからだろうな、まんまと乗せられちまったよ。それでこのザマだ。醜い心に侵されて、狂ったように大暴れ。ガキの癇癪と何が違うってんだ。ははは、我ながら笑いが止まらんぜ」

「魔理沙、アンタ」

 

 戻ったの? と霊夢が口にする前に、いいや違うと魔理沙は言った。

 

「聞いてくれ、霊夢。これは()()()()()()。感情の増幅なんだ。元々抱え込んでた小っちゃいやつをデカくして、芋づる式に記憶と認識を弄られただけなんだよ。だからあっさり()()()んだな。……いいや、むしろ解けるようにしてあったんだろう。ホント、悪趣味も良いところだ」

 

 魔理沙の記憶改修の基盤は、増幅された真っ黒な感情にあった。スカーレット卿は大々的に魔理沙の脳を弄り倒した訳ではないのだ。過度な疲労と、激情と、安心と、眼に見えた実績を叩きつけ、洗脳に似た意識改革を行った。だから魔理沙にとって最も効果のある言葉を霊夢から吐かれた時点で、植え付けられた認識に揺らぎが生じ、幾許かの正気を取り戻したのだ。

 

 だがしかし、それとこれとは別問題な部分が残っている。

 

 それは魔理沙の内に膨らんでしまった黒い感情だ。これは植え付けられたものでは無い。元々魔理沙が――いいや、人間ならば誰しも持っている感情が増幅されただけの代物なのだ。

 つまり、一度それを認めてしまえば、心の中から消し去る方法は記憶処理以外に存在しない。何故ならその黒い部分は、紛れもなく自分自身なのだから。

 故にスカーレット卿は簡単な改修で済ませたのだろう。認識の齟齬が紐解けても暴走したエンジンは止まらない。溢れる怨嗟は魔理沙と言う本体を突き動かし、変わらない成果をもたらしてくれるだろうから。

 

「霊夢、頼みがある」

 

 残酷な事実を知って、魔理沙は大きく両手を広げた。

 降伏とは違う。全てを受け入れると言わんばかりの態勢だった。

 それは、まるで自分の終末すらも、範疇に入っているかのようで。

 

「私を殺してくれ」

 

 一筋の冷たい雫が、流れ落ちて虚空に消えた。

 心臓を握り締められるような懇願は、巫女へ重く圧し掛かった。

 

「もう自分を止められそうにない。お前の事が、大好きだったはずの霊夢の事が、憎くて憎くて仕方がないんだよ。このままじゃさっきと変わらない。今はどうにか抑えられても、いずれ限界がやってくる。そしたら必ずお前を…………そんなの嫌だ。嫌なんだ。自分の醜さで、お前をこの手に掛けるなんて、絶対に絶対に嫌なんだ」

 

 震えていた。

 内側から魔理沙を突き動かす衝動か、それを抑える魔理沙の奮闘か。

 どちらにせよ、彼女の言う通り、じきに決壊が訪れるのは明白だった。そしてそれは、霧雨魔理沙にとって最悪の結末を招いてしまう。

 だから選んだ。どす黒い泥に塗れ、大切な存在へ手をかけてしまう悲劇よりも、黒に塗り潰される前に消え去る事を選んだのだ。

 

 霊夢に終わらせてもらうなら、それも悪くない――飄々と、いつもの様に少女は言った。

 

「…………」

 

 霊夢は答えなかった。

 ただ静かに、ふよふよと魔理沙の元へ辿り着き。

 

 

 

 無言のまま、躊躇なく魔理沙を一閃した。

 

 

 

 しかしそれは、陰陽玉でもお祓い棒でも、ましてや巫女の秘術でもなんでもなく。

 博麗霊夢の放つ、渾身の平手打ちだった。

 

 パァンッ、と乾いた破裂音が頭蓋を揺らす。しかしやってくるはずの鋭い痛みは脳に届かず、何が起こったのか分からない魔理沙は、呆気に取られてクエスチョンマークを浮かべるのみ。

 

「おい、霊ぶっ!?」

 

 さらに一閃。先の一撃より重みの増した平手の音は、果てしない空にまで響き渡った。

 畳み掛ける様に霊夢は胸倉を掴み、引き寄せる。額がくっつき、鼻が触れ合いそうな距離にまで。

 

「ふざッッけんじゃないわよ!!」

 

 鼓膜を叩き割られそうな怒号が、零距離から魔理沙へ襲い掛かった。

 長らく連れ添った間でありながら、今まで一度も聞いた事の無かった霊夢の怒髪天に、魔理沙の黒い感情が一瞬だけ吹き飛び消える。茫然自失に眼を白黒させていると、魔理沙は霊夢の異常に気付き、ハッとしたように意識を取り戻した。

 博麗霊夢は泣いていた。

 感情豊かでありながらどこか冷たく、流れ雲の様に世を歩き、誰にも自分の奥底を見せる事の無かったあの霊夢が。

 年相応の少女の様に大粒の涙をぽろぽろと零し、嗚咽を奏でながら泣いていた。

 

「こんなに、こんなに心配させておいてっ! 久しく顔を見れたと思ったら、ワケ分かんない奴に頭弄られててさぁっ! いきなり殺しにかかってくるわ、意味不明な事を口にするわ、挙句の果てにはっ、悟った顔をしてこの私に自分を殺せと言ってくる! ふざけるのも大概にしなさいよ馬鹿! この、このぉッ!」

「れい、む?」

「出来る訳ないじゃない……!? そんなのっ、いくら私が博麗の巫女でもっ! アンタを、人間のアンタをっ、こんなに苦しんでる魔理沙を、黙って殺すだなんて出来っこない! 私は機械じゃないんだ!! そんな事、口が裂けても言うな! 二度と言うな! アホンダラぁッ!!」

 

 何度も。何度も。霊夢は胸に拳を叩きつける。力なく、しかし重みを伴った小さな手で、何度も何度も、訴えかけるように叩き続けた。

 

 ―― 一つ、大きな勘違いをしていたんだと魔理沙は悟った。

 

 博麗霊夢は人間だった。楽園を守る巫女である前に、魔理沙と変わらない人間だった。

 確かに霊夢は超人だ。間違いなく人間の枠組みを超えた逸脱者だ。空なんて当たり前に飛べるし、数々の秘技や奥義をなんとなくで使えるし、『ありとあらゆるものから浮く』だなんて反則染みた性質まで隠しているし、妖怪に成ろうとする人間を躊躇なく木っ端微塵に出来るくらい冷徹な側面も持っている。

 けれどそれと同じくらい――いいや、それすら霞んで見える程に、博麗霊夢は誰よりも人間味に溢れていた。したたかと思いきやよくドジをするし、ぐうたらだし、でも頑張る時は頑張るし、子供が好きだし、甘いものだって好きだし、お賽銭を貰えたら飛び上がるくらい喜ぶし、妖精から悪戯をされたら雷を落とすように怒り狂う。

 幻想郷のどこをみたって、彼女ほど喜怒哀楽に溢れた人間はそういない。

 

 あの霊夢なら、それなりに親交を育んだ私でも案外あっさりと決着を着けてくれるかもしれない――そんな魔理沙の考えは、どうしようもない驕りだったのだ。

 そう。博麗霊夢は機械じゃない。幻想郷のバランサーなんて大層な役割を担い、魔理沙とは似ても似つかない境遇に身を置いていたとしても。前提として、博麗霊夢は年相応の少女でもあるのだから。

 

「私の事、羨ましいって言ったわよね」

 

 鼻を啜りながら絞り出された言葉が、いやに澄み渡って耳へと沁みこむ。

 ぽつり、と肌に雫が落ちてきた。二つ、三つと、水の粒たちが魔理沙の肌へ冷感を走らせていく。

 絢爛な満月が主役を担っていた冬の晴夜は、まるで霊夢の気持ちに呼応するかのように陰りを見せ始めていた。

 

「私もね、想像したことあるのよ。博麗の巫女じゃなくて、アンタみたいに自由に、強く生きられたとしたら、どんな人生を送れたのかなって」

 

 雨の激しさが増していく。木々や大地に水滴が叩きつけられる音は、刻一刻と大きさを増していく。

 肩口は湿り気を帯び、帽子の鍔が曲がり始めた。

 

「多分、これが羨ましいって気持ちだったんだと思う。ええ、そう、そうよ。こんなんでも私はアンタと同じ。人の物がとっても良い物に思えて、それでついつい欲しくなっちゃって、でも手に入らない歯がゆさに気分が悪くなって……」

「……」

「この気持ちはきっと、人間なら誰だって持っている物なのよ。だって、この私ですら(ここ)にあるんだもの」

 

 いつの間にか、滝に負けない雨模様へと変わっていた。ざあざあと水飛沫の舞踊が絶え間なく辺りを包む。二人とも既に川に落ちたかの様な有様だ。おまけに冬なものだから、異様な寒さが体の隅々まで遠慮なく突き刺してくる。

 それでも霊夢の声だけは、はっきりと魔理沙の耳へ届いていた。

 

「だから負けるな。そんなアホらしい理由で諦めるな。誰だって持っていて、だからこそ誰でも打ち勝てる(モノ)なんかに白旗を上げようとするな。アンタは霧雨魔理沙でしょうが。いつも通り、自慢の反骨精神と毛の生えた心臓をフル稼働して踏ん張りなさい」

「……霊夢……」

「それでも――どうしても自分を止められそうになかったら、私が何度だって止めてやるわ。なんなら毎日寝首を掻きに来たっていい。ええ、上等よ。蓬莱人の二人も似たような事してるし。あの二人に出来て私たちに出来ないなんてこと無いでしょ?」

「……いや、あいつ等は死ねないからこそ出来るんだぜ?」

「死ななきゃ私たちも同じよ、死ななきゃ」

 

 毅然と言い放つ霊夢に、思わず魔理沙は苦笑した。

 釣られて霊夢もくしゃっと笑う。もはや涙なのか雨のなのか分からない有様だけれど、それでも、心の灯火が戻りつつあった。

 

「ははは、全く。流石だよお前は。あーあ、やっぱ霊夢にゃ敵わねえな」

 

 よれた帽子を戻しながら、少女は笑う。

 そこには先ほどまでの獰猛な獣性は見当たらない。博麗霊夢の知る、いつもの霧雨魔理沙に戻っていた。

 ……いいや、これは正しくない。今この瞬間も、魔理沙は悪魔から植え付けられた黒と必死に戦っているのだ。

 普通を表に出さず、態度はあくまで飄々と。

 どんなに怖くても、苦しくても、辛くても。霧雨魔理沙と言う少女は、笑いながら荒波を乗り切っていく。

 

「もういい、離してくれ……。ああ、そうだな。ここまでお膳立てして貰ったんだ。私も腹括らなきゃ、恰好がつかないってもんだ」

「……アンタ、一体何するつもり?」

「賭けだよ。いつもみたいに、魔理沙様の悪運を試すんだぜ」

 

 言いながら、魔理沙は懐から一冊の本を取り出した。

 年季を感じさせる、古めかしい本だった。染みと汚れがこびり付き、紙は湿気と手垢でよれよれだ。表紙に刻まれた赤茶色の文字は、辛うじてGrimoire(グリモワール)と読めるかどうか。

 霊夢には、その本が一体何を示しているのか知る由も無い。

 だがこれこそが、魔理沙にとって全ての元凶であり、悪魔の撒いた種の一つだった。

 

「こいつはな、あそこで笑ってる師しょ――違う。あの悪魔の分霊というかなんというか、とにかく魂の片割れが入ったマジックアイテムだ」

「分霊箱、みたいな?」

「そうだ。馬鹿な私はコイツを手にしちまったせいでこうなった。本の魂がな、操り人形の糸みたいなのを伸ばして私の中へ絡みついてくるんだよ。それを通して私は悪魔の知恵を手に入れてる。代償は傀儡になる事だがな。河童風に言うなれば、バックアップシステムみたいなもんなのさ」

「じゃあそいつを叩き壊すわ。寄越しなさい」

「いいや、渡さない」

「ッ、アンタ」

「こいつは、私がこの手で破壊する」

 

 その言葉には。その瞳には。これまでになかった力強い勇気が籠められていた。

 

「元はと言えば私の不注意が招いた事態だ。だから霊夢、今回だけは手を出すな。自分のケツくらい自分で拭かせろ」

 

 なんとも思っていない様に白い歯を見せながら、魔理沙は不安そうな表情を浮かべる霊夢に向けて言い切った。

 けれど内心は雷雲吹き荒れる嵐そのものだ。霊夢に対する漆黒の情動だけではない。()()を手放す事への多大な恐怖が、魔理沙を苛ませているのである。

 人間とは心を持つ生物だ。故に安心を求める生き物でもある。食事も、金銭も、人との関りを求めるのも、安心を得る事に帰結する。

 言い換えれば、一度手に入れた安心を手放す事を過剰に忌避する性質がある。当然だろう。苦労を重ねてやっとの思いで買った我が家を自ら手放し、路上を住まいにしようとする物好きがいるだろうか? 貧困に喘ぐ者が、大金と引き換えられる宝くじを躊躇なく燃やせるだろうか?

 

 魔理沙がやろうとしているのはそういう事だ。実情はもっと酷かもしれない。なにせ()の能力によって過剰な安心を注がれた魔理沙は、その安心を手放したくない心理を極限にまで働かせられている。おまけに度重なる疲労とダメージは精神に余裕の隙を作らせず、例えるなら、今の彼女の心は腐った果実よりボロボロだ。

 

 だから安心はこの世のどんな物よりも恐ろしい麻薬なのだ。一度手に入れた安心を自ら破壊し、再び不安定へ舞い戻る恐怖は凄まじい。ましてやスカーレット卿の力によって最大限増幅されたとなれば、魔理沙の心に降りかかる重圧は、年若い少女の抱えられるキャパシティを軽々と飛び越えていることだろう。

 それこそ、一歩違えば廃人と化すほどの重圧だ。

 

 手足が震える。脈が蛇の様にのたうち回る。心臓に絡みつく不安は胃を引き絞り、朝食を喉元まで押し上げそうだ。脳裏に渦巻くのは不安の砂嵐で、数多の暗黒が浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返す。

 正気を保っている事すら奇跡と言える状況だった。泣き叫びながら霊夢に事の始末を頼んでも、誰も責めない有様だった。

 

 それでも、彼女は。

 

「私の弾幕は火力(パワー)が柱だ」

 

 八卦炉を力強く握りしめると。

 魔力の弾倉を込めるのではなく、高く、思い切り振りかぶって。

 

「なら、この霧雨魔理沙も根性一番(パワー)だってとこ、見せてやるぜ」

 

 古本に向けて、八卦炉を思い切り叩きつけた。

 無論ヤケになった訳ではない。魔理沙は八卦炉に施された白銀の性質を知っていて、この行動へと打って出たのだ。

 ひょんな事から手に入り、八卦炉の強化素材としてコーティングされたミスリル銀。それは闇夜の支配者と比喩されるナハトであっても容易く焼き焦がされるほど、強力無比な破魔の性質を備えている。

 

 つまり、本に込められた吸血鬼の魂に、破魔の力から身を守る術などなく。

 であれば必然、本の呪縛は打ち砕かれる。

 光があった。オーロラの様に神々しい、白銀に煌めく光輝があった。

 打ち付けられた金属が、古びた紙束の黒い染みを輝きと共に打ち滅ぼす。燃え上がる煤煙の様に吹き上がる黒は、やがて光と共に世界へ消えた。

 

「――っはは。どうだ、ちゃんと見届けたか? やってやった……ぞ」

 

 ぐらり、と魔理沙の体が前へと傾く。

 反射的に、霊夢は魔理沙の体を受け止めた。ずしりと圧し掛かる重みを支え、そのまま地面へと連れて行く。

 

「魔理沙……!」

 

 雪を払い、友を降ろし顔を見る。

 どうやら悪魔の干渉が途絶えた事で緊張の糸がぷつりと切れ、気を失っただけらしい。秋にも同じような事があったけれど、今回はどこか血色がよく、以前より不安を感じない。

 魔理沙は打ち勝ったのだと、霊夢は確信した。胸を喰いつくす漆黒の蟲に抗い、この世で最も悍ましい闇の魅惑を払いのけ、少女は悪魔との決別を果たす事に成功したのだ。

 無論、まだ残っている問題はある。霊夢に対する贋作の憎悪が消えたわけではないのだ。

 けれど、それでも。魔理沙は不条理に打ち勝った。博麗霊夢は、しかとその場を目撃した。

 

「……私に勝つなんて言っておきながらなによ。アンタ、もう十二分に強いっての」

 

 冬に体温を奪われぬよう、アリスから貰った衣をかける。金糸の頭を一撫でして、霊夢は鋭く彼方を見た。

 下卑た笑顔で一部始終を眺めていた外道が映る。

 お祓い棒を握り潰してしまいそうなくらい、手に力が籠っていく。

 立ち上がり、少女は怒りの霊気と共に臨む。かの悪魔との決戦へ向かわんと地から足をふわりと浮かせ。

 

 

 ――首筋を薙いだ強烈な悪寒に、思わず霊夢は振り返った。

 

「!?」

 

 何の前触れもなく、それは姿を現した。

 魔理沙が横たわるすぐ傍に、漆黒の衣に身を包んだ影が一つ。 

 びりびりと、目を向けるだけで骨から肉を剥がされそうな圧を放つ男が、魔理沙の顔を覗き込むようにして立っていた。

 

 直接面識があったわけではない。けれど間違えるはずも無い。他人に頓着しない霊夢ですら、この男の事だけはよく覚えている。

 紫がなにかと気にかけていた、曰く『手こずらせられる』程の大妖怪。

 一時期の里を大いに賑わせ恐怖を撒いた、至純の恐怖を纏うもの。

 

「アンタ――吸血鬼の!」

 

 闇夜の支配者が、純白の雪原に君臨していた。

 



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36.「捲土重来」

 時は少しばかり遡る。

 端的に言えば、血の池地獄は干からびた。

 

 地獄は咎人に罪障を清算させるための拷問施設である。血の池地獄はその一つに相応しく、煮だった血液が地の底から無限に供給されており、広大過ぎる池の面積も相まって、例え放棄された跡地であっても枯渇する事など未来永劫起こり得ない筈だった。

 それが今では見る影もなく枯れ果てている。池が文字通り底を尽きる一部始終を目にしたお燐は、開いた口が塞がらなかった。あーこれは顎が外れているかもしれないなぁと、死んだ目で現実逃避をするお燐である。

 

 血を全て吸いつくした怪物は、静謐な面持ちで池の中心に佇んでいた。

 太陽に全身を爛れさせられ、五体不満足となった惨たらしい姿はもはやどこにも見当たらない。

 黒装束と灰の髪。闇を孕む紫水晶の瞳。そして真珠の如く白い肌。疑い様も無い、完全な回復を終えたナハトがそこにいた。

 

「ナハト! ……よかった、傷は治ったのですね」

「さとり」

 

 遅れてやってきたさとりは一瞬だけ地獄の惨状に目をやって、私は何も知らない見ていないと言わんばかりの素振りでナハトの前に降り立った。

 そそくさとお燐もさとりの傍に立つ。ナハトは少女たちへ礼を述べた。

 

「さとり、お燐。君たちのお陰で助かった、心から感謝を。……そしてすまない、いきなり言い訳になってしまうのだが、私の再生効率が極端に落ち込んでいるせいかどうも血を吸い過ぎてしまったらしい。池が枯れてしまった」

「そこは取り敢えず突っ込みません。ええ、私は何も見ておりませんとも。あなたを血の池地獄へ先導した私が始末書を書かされそうだなんて全然ちっとも知りませんとも」

 

 さとりの持つ三つの目が全て死んだ。ナハトは選ぶ言葉が見つからなかった。

 しかし少女はすぐに光を取り戻し、

 

「まぁ血の池地獄は無限ですからその内元に戻ります。とにかく、ご無事でなによりでした。具合の方は?」

「……ああ、全快だよ。本当になんと感謝をすればいいか」

 

 違う。ナハトは一つ嘘をついた。

 ()()()()()()()全快になった。それは本当だ。今なら萃香との闘い以上に魔法や魔剣を多重展開出来るし、一部ならば物理法則を完全に捻じ曲げる手段だって行使できる。

 しかし、ナハトは自分の中のどこかが()()している様な違和感を感じていた。外装は整っても肝心の中身が無い――そんな決定的過ぎる違和感だ。

 ナハトはその事実をベールに包んで懐に隠した。この胸の中で不足感を訴える空白が血で埋める事の出来ないナニカだと、本能で理解していたからだろう。不要な心配までさとりにかける訳にはいかないと、そう判断したのだ。

 

 そんな時だった。

 カッターで紙に切れ込みを入れていくように、なんの前触れもなく空間の裂け目がナハトとさとりの間へ割り込むように発生したのである。

 切り口が広がり、数多くの不気味な目玉がぎょろぎょろと蠢く異空間が露わになる。その亀裂――否、スキマの持ち主を脳裏に思い浮かべた瞬間。亜空の中から、倒れこむようにして八雲紫が現れた。

 

「紫!」

 

 ふらつく彼女を咄嗟に支える。ナハトは触れた手から伝わる異常な熱に表情を強張らせた。風邪なんて次元ではない。そもそも妖怪は風邪をひかない。だというのに、紫自身が熱された鉄と化したかと錯覚するような、尋常ではない体温となっていた。

 顔を伺う。まるで吸血鬼に血という血を全て抜き取られてしまったかのように血色を蒼白させていた。瑞々しかった筈の唇は青紫色になり、髪の艶も失われている。それこそ、軽く引っ張れば抜け落ちてしまいそうなほどに。

 魔性を振りまき、万物に恐怖を叩きこむナハトと出会った時ですら顔色一つ変えなかったあの八雲紫が、完全に憔悴しきっている。

 ただ事ではない。その場の誰もが体の芯から凍り付く様に実感した。

 

 薄く、薄く。紫が目を開く。枯れた声を絞り出しながら、彼女は儚く微笑んだ。

 

「ナハト……っ。無事だったのね、良かった」

「こんなにやつれてどうしたのだ? 君ともあろう者が、一体何があったんだ?」

「…………」

「紫?」

 

 答えが無い。ぼやけた瞳はナハトに向いているものの、もはや声を上げる余力すら禄に残されていない様だった。

 ただの憔悴ではなく、何らかの力が働いているのは明白だ。故にナハトは、ひとまず紫を安静にさせられる場所へ移る事を選択した。

 即座に術式を編み、空間魔法を発動。地霊殿ナハトの自室へと空間の座標を接続する。

 

「さとり、燐、手を貸してくれないか。地霊殿の構造は君たちの方が詳しい。濡れたタオルや薬を調達して欲しいんだ」

「……承知しました。ほら、行くわよお燐。看護に必要な物を取りに行かないと」

「えっ、えっ? ちょっと待って下さい、もしかして地上の賢者が弱っているのとお空の失踪に何か関係があるんですか!?」

「話は後! 行きながら説明してあげるから今は動く!」

「は、はいっ!」

 

 少女二人が穴へと消える。ナハトは紫を抱え上げ、後を追うように姿を消した。

 

 

「……西行妖が、解放された?」

 

 三人の働きが功を奏し、上体を起こせるまでに回復した紫から語られたのは、おおよそ信じ難い言葉の数々だった。ナハトは神妙な面持ちでオウム返しをする事しか出来ず、本当に返すべき言葉が見つからない。

 ナハトは椅子に深く寄りかかりながら、思わず天井を仰ぎ見た。ぐるぐると、頭の中で紫から耳にした事実が(めぐ)り混ざる。

 

 ナハトを撃退したスカーレットが向かった先は、西行寺幽々子の住まう白玉楼だった。一体どんな方法を使ったのかは分からないが、太陽を手中に収めたあの悪魔は、封印されていた冥土の化け桜を復活させてしまったのである。

 これが疲弊の原因だった。西行妖は万象の賢人たる八雲紫であっても手に余すほど強大であり、おまけにその力は生者を問答無用で死へと誘う劇毒である。現世に住まう者達にとって西行妖は最悪の天敵に等しく、幾ら紫であろうとも、満開となった桜の力が現世に及ばぬよう食い止めるのは、相当のパワーを必要とするのだ。

 

 加えて、今の時期は冬の真っただ中。本来ならば紫は冬眠に入り、春から完全な状態で活動するのに必要なエネルギーを養う充電期間の筈だった。つまり、この時こそが一年を通して紫が最も弱体化している時期だと言っていい。

 例えるなら、今の紫は連日徹夜で完全に体力を消耗しきった状態にある。冬眠と言う名の休息をやっととれると思った矢先に、スカーレット卿から致命傷になりかねない不意打ちを突かれたのだ。

 万全の紫ならばいざしらず、今の弱り切った紫が西行妖の力を制するのはあまりに骨だ。それこそ、他へ禄に手が回せなくなるほどに。

 

 敗北を学んだあの邪悪は、そこまで計算して行動に移したのだろう。理想の形でナハトを嬲り殺すという、ただそれだけの目的の為に。数多の情報を掻き集め、相性が最悪である紫を封じ込める為の姦計を企てたのだ。そうでなければ、わざわざ西行妖という弩級の危険物を解き放つわけがない。

 

 頭を後悔の念が過り去る。もし、潜んでいたスカーレット卿の存在に早く気が付けていたら。もし、スカーレット卿をあの時止める事が出来ていたら。こんな大事にまではならなかっただろうから。

 最善の行動をとれなかったことへの罪悪感と胸を刺す。それを掬い取るように、紫は濡れタオルを額に当てながらナハトへ言った。

 

「気に病まないで頂戴。正体に気付けなかったのは私も同じよ。……ううん、きっと、誰もあの男を見つける事は出来なかった。安心の隠れ蓑なんて反則のステルスを使われちゃあね。こうなる事は、ある意味運命だったのかもしれないわ」

「……」

「大事なのはこれからでしょう? これ以上あの男の被害が広まらないよう、我々の打てるべき手を打つ方が先決です」

 

 だが肝心の紫は行動不能だ。これ以上無茶をして紫が倒れようものなら、西行妖の力は現世にまで及び、少なくない犠牲を生んでしまうだろうと容易に想像がつく。

 加えて、スカーレット卿は幻想郷中に()を蒔き、それを発芽させたらしい。今この瞬間も、あちこちで暴動が起こり始めているのだ。

 卿に乗っ取られている魑魅魍魎を放置するのは危険だ。幻想郷のルールなど無に等しい卿ならば、この暴動に乗じて何をしでかすか分かったものではない。下手をすれば人里へ雪崩れ込む可能性だってある。事情を知らない勢力が見れば、人里の支配権を一方的に強奪しようと試みるナニカが現れたと解釈されかねないからだ。こうなったら終わりだ。混戦が乱戦を呼び、果てには大戦へと姿を変える。

 異変なんて範疇には収まらない。それはかつての吸血鬼異変を遥かにしのぐ、妖怪大戦争の幕開けである。

 

「だがどう手を打つ? 君の式神に任せられるか? もしくは、萃香はどうだ?」

「いいえ。藍には別件を任せてあるの。しばらくは幻想郷に戻ってこれないでしょう。橙は……あの子に任せるには荷が重すぎる。萃香は四年前に力の九割を封印していて、それを解くのに相当な時間がかかるから間に合わない。鬼の四天王を封じ込めるには、私が苦戦するくらいのレベルにしないと駄目だから」

「ならば現状、助けになってくれるのは永遠亭と紅魔館だけだ。しかし紅魔館の皆はスカーレット卿への対策で既に手が回らない状況だろう。永遠亭の裁量にも限界がある。私単身で赴いたとしても、犠牲は確実に避けられない」

「……そうね。今の状態じゃあ、ね」

 

 雪だるま式に膨らんでいく事態を前にナハト達が打てる手立ては、まさしく稚戯に等しい有様だ。首魁たる紫はまともに動けず、代わりにナハトが行こうにも、地上は秋の一件で完全にナハトを敵とみなしていて大々的に動けない。この混乱の原因がナハトにあると勘違いしている大妖怪も少なからず存在するからだ。地上に戻った瞬間、数多の勢力から首を狙われ、それが更なる混乱を呼び起こしてしまうのは目に見えている。

 そうなっては、スカーレット卿の思う壺だ。

 

「……紫」

 

 けれど、簡単な打開策が一つある。

 

()()()()()()()()()()()()()()

 

 それは、ナハト=敵の方程式を崩すこと。

 単純な話だ。ナハトが地上に忌々しい存在と認識されているから行動が出来ず、有効な手が打ち辛いのであれば、それを無くしてしまえばいい。スキマを使って連絡を繋ぎ、真の敵はスカーレット卿だと知らしめて、彼らの矛先を一つにだけ絞ればいい。

 そうすれば無用な混乱を避けられる。効率も上がる。上手くいけば、他の勢力も味方について応援を頼めるようになるかもしれない。

 

 でも。

 

「それは……」

 

 ナハトの命を削る代わりに得られる代償である。

 この作戦の大前提として、ナハトへの敵意を削がなければ始まらない。即ちナハト自身を蝕み侵す、彼にとって諸刃の剣に等しい選択となる。今のナハトの()()を鑑みるに、それが致命打となってもおかしくない。

 

 幻想郷をとるか。それとも一人の友人をとるか。

 

 紫が今まで積み上げてきたものを考えるなら、迷うことなく前者である。それが最良の選択であることは容易く理解できる。ナハトだって、それが正しいと喝采を送るはずである。

 

 でも、と。紫は水面を漂うように思うのだ。

 来るものを拒まず、去る者を追わない、全てをあるがままに受け入れる幻想郷が。

 来るものを拒み、剰え大きな理不尽を押し付けた上で保たれて良いのだろうかと。

 

 青臭い綺麗ごとなのは分かっている。けれど紫はそんな綺麗ごとを叶えたくて幻想郷を作ったのだ。誰もが自らの意思で生活を営み、人と妖怪が共存する理想郷を作るために、血の滲むような努力を重ね続けてきたのだ。

 大局的に見てナハトを見捨てることは完膚無きまでに正しい。誰も紫を責めはしないだろう。しかしそれで本当に良いのかと、紫の心が僅かながらに訴えるのだ。

 

 それを察したらしいナハトは、宥める様に言葉を告げた。

 

「迷っているのは、私の冤罪を釈明するデメリットが存在するからだね。幻想郷縁起で操作した情報の裏を言い淀んだ時と同じように。……違うかい?」

「っ」

「良い機会だ。むしろ今しかないだろう。聞かせてくれ、紫。君が何故、私の素性を明かすことをそこまで拒むのかを」

「……」

 

 逡巡が生まれる。

 ナハトの真実が暴かれた時、最も傷を負うのはナハト自身である。他者から恐れを取り除かれれば命が奪われ、本人へ明かすとなれば致命的なダメージを負ってしまう。

 精神に存在の比重を傾ける魑魅魍魎は、人間と違ってトラウマや鬱に滅法弱い。ましてや自分の生きる理由、夢、希望を全て破壊されたとなれば、屈強な大妖怪とて消滅は免れられない。

 

「頼む」

 

 その懸念を差し止めんとばかりの真摯な眼差しが紫を射貫く。刃を突き立てられるように、紫の心が苦悶を上げた。

 話せば最悪、ナハト自身が消滅しかねない。だが話さなければ、彼に納得してもらわなければ。この状況を覆すことなど叶わない。

 先延ばしには出来ない。そんな逃避は許されない。今も刻一刻と、危機は大きく成長している真っ只中なのだから。

 

 決断の時だ。

 一秒が引き延ばされていく。幻想郷の賢者が誇る叡智の力は時の狭間を拡大させ、無数の選択肢を生み出しては塗り潰していく。

 けれど、答えなんて最初から分かっていた。そこ以外に、残された道は存在しないのだから。

 なら、迷う必要なんて無いのだろう。迷うことなんて、あってはいけないのだろう。

 

「……この話を聞いた時」

 

 せめて声が震えぬよう、喉に力を込めて言った。

 

「あなたは、正気を保てなくなるかもしれない。もしかすると……絶望して、今この場で死んでしまうかもしれない」

「……」

「あなたにその覚悟はある? 全てを失うかもしれない、その恐怖に立ち向かう覚悟が」

「ああ」

 

 即答だった。

 紫がここまで言い淀むのは確実に自分の根底を揺るがす何かがあるからなのだと分かっているはずなのに。決して、生半可な心持ちでは無いはずなのに。

 何の迷いも躊躇もなく。瞳の光すら揺るがぬまま、吸血鬼は言い切った。

 

「聞かせてくれ。どんな真相であったとしても、覚悟は出来ている」

 

 ……もはや押し黙るなど、紫に叶う訳も無く。

 重く、重く。闇の真実が、遂に少女の口から紡がれた。

 

 

 

 

 自分の存在意義について考えた事は、誰だって一度くらいあるだろう。

 無論、それは私にも当てはまる。

 ()だからこそ、当て嵌まるとでも言うべきか。

 

 親はいない。兄弟もいない。親族の類すら一人もいない。

 ある日朝露の様に生れ落ちて、それから記憶が不確かになるほどの道を歩み続けた。なんの面白味も無い寂れた道程が、人生の大半を占めてしまうほどに。

 それは排斥と言う名の悪路に塗れた荒野を歩む旅だった。幾年、幾百年、幾千年の時を歩いても、世界は私を一員とみなさなかったのだ。

 

 何時の日か投げられる石に苦痛を感じなくなった。突き立てられる刃に傷付かなくなった。吐き掛けられる罵声は是非も無しと受け流せるようになった。

 ただその度に、心の隅のさらに端で、私は自問自答を繰り返した。私は何のために生まれてきたのか、拒絶される事が私の存在意義なのだろうかと。

 

 自分がイレギュラーだと気付くのにそう時間はかからなかった。この世界に住まう者たちと()は決定的にナニカが違う。違うからこそ人々は私を恐れ、遠ざけていくのだろうと理解した。 

 それでも存在意義を探し続けた。この世に産み落とされた理由を求め続けた。

 しかし、答えは終ぞ見つからず。永劫の時を彷徨うにつれて心は摩耗し、私と言う自己の形はあやふやなものと成り、良くも悪くも、平坦な心へと変わっていった。

 

 いつしか、ふとした拍子に私は悟った。こんな答えを独りで見出すことは不可能なのだと。

 

 だからなのだろう。必然と私は友を求めるようになった。私を理解してくれる、まだ見ぬ友を世界中で探し続けた。

 きっと、その友人に尋ねたかったのだと思う。

 私は一体、何のために生まれてきたのか。――見つける事の出来なかった、闇の中の答えを教えてもらうために。

 

 私の願いは時が過ぎ去ろうとも変わらない。

 永劫の孤独を打ち消してくれる友達がほしい。友に、()と言う存在を与えてほしい。

 願わくば普通の営みを。この世界で普通に生きる事を、誰かに許してほしかったのだ。

 ただ、それだけ。

 本当に、たったそれだけの願い事なのだ。

 

 

 

 

「――――これがあなたの真実。存在の正体。そして……私が、幻想郷縁起であなたを貶めた理由です」

「………………………………そう、か」

 

 全ては語られた。

 ナハトというイレギュラーの実体。能力の根源たる消滅の概念。恐怖による生存。求める親愛は猛毒となり、どんなに友を求めても、それが叶うことは決して無いという残酷すぎる真実たち。

 即ち、ナハトという生命体の根幹からの否定である。

 

「――――」

 

 亀裂の入る音がした。

 バキバキと、まるで崩れゆく石像の様に。首筋から頬にかけて巨大な裂け目が開いていく。放射状のひび割れは瞬く間に全身を侵食し、肌は朽ち果てる寸前のミイラが如き有様へと姿を変えた。

 青白い息が口から洩れる。降りかかった絶望を咀嚼し、どうにか呑み込もうと必死に足掻く静謐な吐息は、見る者の心を青に塗り潰さんばかりの悲哀がこれでもかと言わんばかりに籠められていた。 

 

「ナハト、気を確かに!」

「……大丈夫。うん、大丈夫だ」

 

 魔力の霧が渦を巻いて吹き上がる。それらはヒビへ石膏の様に貼り付くと、体を埋めて瞬く間に修復を始めていく。

 再び息が零れた時には、元のナハトへ戻っていた。

 

「改めて、すまなかった。知らぬうちに多大な迷惑をかけてしまった様だ。……君も辛かっただろうに、ありがとう。話してくれて」

「……こんな時くらい取り乱したって許されるのに。私を糾弾したって誰も責めないのに。むしろ、私も初めはあなたの事を勘違いして追いやり続けていたのよ? 罵倒の一つや二つ、吐かれたって当然の身じゃない。なのに、それどころか笑って感謝だなんて、あなたは、本当に……っ」

「いいや、感謝しかないさ。確かにショックではあるが、考えてもみてくれ。かつての私には無かったモノが、望み続けたモノが今この手にある。私の永い生の中で、共に憂い、苦悩し、理解しようとしてくれる者は一人たりとも居なかった。それが今はどうだ。紅魔館に、輝夜に、永琳。萃香に、そして君がいる。私には贅沢すぎる吉報だとも」

 

 だから何ともないよとでも言うように、薄く微笑む吸血鬼。

 反して、力の入る握り拳。取り繕っているのは明白だった。焦がれに焦がれ、幾星霜の年月を経ても夢見てきた理想が全て叶わぬものだったと突き付けられたのだ。彼にとっての生きる理由が自殺への道筋に違わないと、惨たらしくも気付かされてしまったのだから。

 

 もし、幻想郷へ来たばかりの彼だったら、この場で朽ち果てていたかもしれない。しかし今のナハトには支えがある。紅魔館の少女たちや、初めての友人である輝夜。喧嘩仲間たる萃香からの叱咤激励。なにより理解者となった紫や永琳の存在がある。

 理想の光景は塵へと消えた。けれどこれまで積み重ね、育んできた結晶までは消えなかった。

 得られるはずの無かった(えにし)の刃が、覆い被さる絶望の暗幕を切り裂いたのだ。

 

「だから私の事は気にするな。誤解が消え、存在を削られようとも構わない。今は真の敵を見定め、応援を求める事が先決だ。幻想郷を混乱させたままではあの悪魔の思う壺だからね。奴の人の心を搔き乱す才覚は私の比ではない。今こそ団結しなければ、無用な犠牲が増えてしまう」

「……ええ、それは私も分かっている」

 

 弾きだされた答えに、紫は瞼を瞑りながら同意を口にした。

 ナハトは運命を受け入れた。世界から全てを否定されても、自ら勝ち取ったものを力に変え、新たに己が道を切り開こうと決意した。

 ここまで覚悟を見せられて、一人揺らいでなどいられるものか。情けなく苦悩に溺れていられるものか。

 

「でも、ナハト。これだけは覚えていて。あなたの行く末は決して暗雲だけではないの。ようやく、()()()()()()()()()

「まて」

 

 紫の言葉を断ち切るように、ナハトの手が広げられる。

 鷹の如き眼光を携え、吸血鬼は虚空を睨んだ。何もない空間に誰かが存在する様な眼差しは、固唾を飲む紫へヒントを与えた。

 

「隠れていないで出てきたらどうだ、スカーレット卿。そこにいるのは分かっている」

 

 魔性の声が、小さな部屋に染み渡る。それが異変の根源を呼び寄せた。

 キリが板に穴を穿つように、何もない空間から小さな綻びが生まれ落ちる。空洞はバチバチと火花を散らしながら範囲を広げ、人間の拳ほどに成長すると、一匹の霊魂が飛び出した。

 火の玉の如き風体。中心に座るは歪んだ髑髏の顔貌。

 スカーレット卿の分霊が怨霊に寄生した使い魔だと、二人は逡巡も無く理解した。

 

 ナハトの右手に、漆黒の剣が黒霧と共に顕現する。

 

「わざわざ分身を飛ばして覗きに来るとは。早くも痺れを切らしたか、スカーレット」

『なぁに、少し様子を見に来ただけだとも。貴様があまりにも遅いから退屈で退屈で仕方が無いんだ。それに、ひょっとしてうっかり殺してしまったんじゃないかと心配になってね』

「無用である。望まれずともいずれ参上しよう。……お前には、お前にだけは、直接会って話したいことが山ほどある」

『ほほう? 珍しい。ああなんと珍しい事もあるじゃあないか、ナハト。貴様が怒りに顔を歪ませて殺気をぶつけてくるなど、四年前のあの日以来ではないかね?』

「――私を無視して、剣幕を飛ばし合わないでくれないかしら」

 

 紫の眼光が怨霊を射貫く。しかし卿のメッセンジャーはケタケタと髑髏を打ち鳴らすのみで、まるで臆する様子が無い。

 紫の弱体化が計画通りにいっていると、自らの目で確かめられたからなのだろう。

 

『これはこれは、愚かな賢者様。ご機嫌麗しゅう』

「ええ、あなたのお陰で随分機嫌がいいのよサー・スカーレット。八雲の名に恥じぬよう、必ずお礼を差し上げると約束しましょう」

『恐悦至極。しかし随分と疲弊されているように見受けられるが? 西行妖のマジックは流石の大妖怪も堪えましたかな。ははは』

 

 西行妖――その言葉は紫の引き金を振り絞り、妖力の津波を爆発させた。

 魂魄を磨り潰さんばかりの暴圧的な怒気が小さな部屋を嵐の如く蹂躙する。ベッドが悲鳴を上げ、絵画や本が膝を抱えて震えあがった。あまりに熾烈な怒りの業火は、満身創痍の紫を鬼神の類と錯覚させるほどだった。

 

「幽々子に何かあってみなさい。あなたには死の安息すら与えないわ」

『フハハ、怖い怖い。流石は大妖怪の中の大妖怪。ナハトの横に居ながら魂の底まで震えを呼ぶ気迫には、敬意を表さずにはいられんよ』

 

 安心など欠片も与えない含み笑いを浮かべながら、だが安心したまえと邪悪は言った。

 

『西行妖は満開になった訳ではない。貴様の頑張りのお陰でな。言うなれば九分咲き……いや、九分九厘咲きと言った所かね。まったく、感服せざるを得んよ。満開同然の西行妖相手にここまで持ち堪えるなど。いくら能力越しであっても、幽世の最終兵器を相手取るのは辛かろうになぁ……』

 

 ふよふよと、怨霊は喜色に溢れた舞踊を踏む。心の底から楽しそうに、カラコロと髑髏を破顔させながら部屋を漂う。

 男の余裕は、絶対的に安全な位置にあるが故の慢心なのだろう。例え激昂した紫やナハトにこの魂を切り裂かれても端末の一つが破壊されたに過ぎないからだ。母体が別にある以上、スカーレット卿が二人を恐れる事など決してない。

 

『正直に言うと、私の計画は賭けの連続だった。仕方あるまい、ナハト以上に貴様が厄介過ぎるのだよ八雲紫。私が西行妖を覚醒させる前に貴様から感付かれればそこでゲームオーバーだった。境界操作や伊吹萃香の疎密操作は私にとって天敵だからな。他にも瀬戸際の駆け引きは沢山あったとも』

「……」

『だがそれら全てに勝利を収めた。プライドを捨て、貴様ら化け物どもの目を掻い潜り、無能な小娘どもを傀儡にして、私自らも道化を演じてここまで来た。まったく、愉快痛快とはこのことよなぁ。安心を与え、無意識に隠れ潜めば誰しもが私から眼を逸らしたのだから。透明人間なんて目では無い潜みぶりだったよ。ああ、特に見物だった演目を教えてやろうか? それはな、私が人里で被害者面を演じたら、幻想郷の妖怪どもがこぞってナハトに殺意を向けたところだ! あははははっ! 思い出すだけで失くした腹が捩じ切れそうになる! どうやら私には俳優の才能があるらしいぞ、ナァハトォ!』

「…………」

『まったく、どいつもこいつも単純なものだ。それでも妖怪かと思うほどに牙が無い。ほんのちょっぴり安心を与えてやればすぐに心の隙間を晒してくれる。分かりやすい不安を与えればこぞってそれを潰そうとする。虫を誘導するより遥かに楽な仕事であったわ。お陰で計画は順風満帆のまま最終段階を迎えてくれた。本当に、心の底から礼を言いたいくらいだね。私に利用されてくれてありがとう、底なしに間抜けな小娘ども! と言う感じにな。ははははははっ!』

 

 

 

 

 

 

「――――だそうですよ。()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

「我らが郷の同胞(はらから)たちよ。我らが幻想を愛しむ隣人たちよ。暫しの時間を、私の声に預けなさい」

 

 混乱の渦に呑まれる中、幻想郷の妖怪たちは、一つの声に耳を澄ませていた。

 

「ある男がいました。禍々しい瘴気を身に纏い、心を奪う魔性を振り撒き、見るもの全てに恐怖を植え付ける男がいました」

 

 鬼も。天狗も。河童も。妖精も。天人も。蓬莱人も。花の大妖怪すらも。

 突如現れたスキマから覘く、一つの光景に目を奪われていた。

 

「しかし、男は悍ましき外観とは裏腹にとても穏やかな気性の持ち主でした。彼の魔性は邪悪に非ず。それは彼の特別な出自による、いわば先天の病のようなものだったのです。故に彼は孤独でした。誰も己を見る者はおらず、誰もが上辺の彼に恐怖し、排斥しようと試みた。例えば、かつての私の様に」

 

 魑魅魍魎の頂きに立つ女は、凛と澄み渡る声で語り継ぐ。

 見る者の心に訴えるように。聞く者の心へ寄り添うように。

 

「彼は心から友を欲しました。不条理な瘴気に惑わされず、己の芯を見極め、平等に接してくれる友人を探し求めました。何度石を投げられ、何度罵声を浴びせられようとも、決して折れる事無く、歩みを止めませんでした。それが実を結び、少しずつ、ほんの少しずつ、彼には理解者が増えていった」

 

 一拍ばかりの、あまりに重苦しい間が生まれる。

 

「けれど彼には病があった。恐怖を振りまくだけで終わらない呪いがあった。友愛や親愛のような、誰しもに与えられることの許された筈の宝石が彼にとっての毒となり、人々からの嫌悪、憎悪が血肉となって、それが無ければ決して生きる事の出来ない、哀しい呪いが掛けられていた」

 

 誰もが動きを止めていた。誰もが意識を吸い取られていた。

 偉大なる王の演説を聞き入る民草の様に、超常の者たちは眼を離すことが出来なかった。

 

「だから私はあなたたちに偽の情報を流しました。紆余曲折を経て死の淵まで追い詰められた男が幻想の中で生きられるよう、空想の悪事をでっちあげ、皆が男を嫌うように仕向けました。――――しかし、それを利用した者が現れた」

 

 スキマに浮かぶ、全く別の映像があった。

 狂ったように暴れ回る名も無き妖怪や、それから逃げ惑う正気の者たち。そして、地獄鴉の肉体で空に鎮座している、全ての元凶の姿があった。

 部屋に訪れた怨霊を伝い、位相を逆探知したのだろう。口を噤んでいた怨霊の舌打ちが耳を打った。

 

「偽の悪事を本物へと仕立て上げ、男が抹殺されるよう仕向けた黒幕がいたのです。それだけではない。彼の者はヒトの意識の裏に潜み、安心と言う名の劇薬をばら撒いて、仁義も、愛情も、友情も、全てを利用し己が野望を成し遂げようと暗躍した。その結果、多くの血と涙が流れる結果を招いてしまった。……もうお分かりでしょう。十分な心当たりがありましょう。ええ、そうです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 ――妖怪とは、精神的要素を重んじる存在である。

 

 恥辱を代償に得る勝利より、誇りある敗北を良しとする。粗雑で愚劣な振舞いより、己の美学を重んじて行動する。有限の命を持つが故に目先の利益と功績を優先する人間とは根本的に精神の在り方が違うのだ。彼女たちの根底にある最大の価値は、自分にとって如何に美しく生きられるかにかかっている。

 

 だから弾幕ごっこは受け入れられたのだろう。圧倒的な暴虐で相手を捻じ伏せ、問答無用に屈服させる蹂躙もまた乙なモノなのかもしれない。だが、己の持つ最大の『美』同士をぶつけ合い、競い合い、認め合いながら勝敗を決する……そんな美しさで溢れた決闘に、惹かれるナニカがあった筈だ。

 

 そんな物の怪たちが、最も嫌悪する行いは何だろうか?

 

 暴力を振るわれる事ではない。退治される事でもない。罵られる事でも、排斥される事でもない。

 長い生の中で掴み取った、絶対に譲る事の出来ない美しい『宝』。それを傷つけられ、穢された時。その時こそ、妖怪たちはいとも容易く怒髪冠を衝くのである。

 

 例えるなら、風見幽香にとっての花畑。

 例えるなら、妖怪の山にとっての同胞。

 例えるなら、吸血鬼にとっての紅魔館。

 例えるなら、八雲紫にとっての幻想郷。

 

 紫の言葉は実直なまでに的を射た。皆にとっての大切な『宝』が、たった一人の真性悪魔に利用され、穢されていたのだと知らしめた。

 

「今、幻想郷は危機に晒されております。悪霊の撒いた病原体が妖を狂わせ、各地で争いを引き起こさせているのです」

 

 彼女の言の葉に、沸騰しかけた者がいた。絶対零度と化した者もいた。

 しかしそれらを、紫は清流のような声を持って制御する。

 幻想郷の創設者、その一人に相応しい大妖怪の気迫が、暴走する釜の蓋を押し留めていた。

 

「異変の首謀者はサー・スカーレット。心を操る術に誰よりも長けた無情の悪魔。故に、各々が感情のまま行動すればあっという間に彼の術中へと嵌ってしまう。それが最悪の事態を招くだろうと、容易に想像できましょう。ならば我らの取るべき手段は一つ。今こその団結です」

 

 紫水晶の瞳が、金色の輝きを朧に灯す。

 その眼に映るは、スキマの先の隣人たち。

 

「御覧の通り、私は身動き一つ叶わぬほど弱体化しています。悪魔が咲かせた死の化け桜を抑えるために、力の大半を持っていかれているのです。見ようによっては下剋上の好機でありましょう。秘めたる野望を成し遂げる時でもありましょう。それを否定は致しません。――けれど一つ、私はあなたたちに問いかけたい。悪霊に顎で使われ夜闇の住人から獣畜生へ身を落とすか。常日頃いがみ合う仲でも此の一時だけ背中を預け、穢された宝を取り返す為に戦うか」

 

 意志の固まる音が、聞こえてくる。

 幻想の結束が、一つの声の下に成し遂げられる。

 

「あなたたちの持つ誇りに。魂に。私は問いかけたいのです」

 



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37.「溶け落ちる疑惑の氷塊」

「――この騒ぎ、真の首謀者はあの鴉か」

 

 荘厳さを纏う声が反響する。

 

 山の頂。赤い柱と純白の壁で構成され、神々が住まう家城と称されても何ら遜色のない殿があった。

 建物の最奥、妖怪の山を統べる天魔の間にて、白磁の仮面で顔貌を覆い、巨大な御座に腰を据える天狗の王は大仰な錫杖を手に取り、柄で足場をコツンと叩いた。鈴の音が間に染み渡り、集められた大天狗が応じて起立していく。

 

「山の状況はどうだ」

「は。被害規模を現在調査中でありますが、少なくとも山の三分の二近くが怨霊に乗っ取られ、暴動を繰り広げられているみられます。発生地は麓で五ヶ所、中腹で四ヶ所確認されており、健在だった者たちで部隊を緊急編成し、それぞれ非戦闘員の避難誘導や抗戦を担っております」

「幼子らの無事は?」

「今のところ死傷者等は確認されておりません。ですが、時間の問題かと」

「左様か。……ご苦労だった。さがるがいい」

 

 礼をして、報告者の大天狗が沈黙する。すると、タイミングを見計らっていたのか、一人の大天狗が口を開き、

 

「天魔様。先の賢者の発言と光景が真ならば、どの様に選択をされるおつもりですか?」

「無論。八雲紫と連携を取り、鎮火に努めるのみであろう」

 

 天魔の言葉に大天狗衆からどよめきが生まれる。無理もない。妖怪の山は半ば幻想郷から独立した封鎖社会なのだ。一つの国と言っていい。その長である天魔が、幻想郷創立から今に至るまで互いに首を狙い合っている様な間柄だった八雲紫と手を取り、あまつさえ助力を求めると言ったのだ。

 伊吹萃香が仲介を担った祭りの時とはわけが違う。妖怪の中では人間に限りなく近い利益主義の天狗たちは、紫に無償で救援しつつこちらも助けを求めると言う判断が信じられなかった。

 

「お言葉ですが天魔様、八雲に塩を送るのみならず、あまつさえ助けを求めると言うのですか!? どうかお考え直しを、その判断は後に八雲紫からつけ入れられる隙を生みましょう!」

「大局を見極めぬか(たわ)け。この有様を見るがいい、最早我々のみでは被害の拡大は防がれぬ。我らは悪霊に敗北を喫したのだ。それは彼奴(やくも)も、他の妖怪共も同じこと。今ここで沈黙を貫き、内輪で始末を試みてみよ。犠牲者は増えるばかりか、火急の際に馳せ参じなかった薄情な愚か者と、八雲紫のみならず方々の妖怪連中からも的にされよう。ここは双方の利を得つつ恩を売り、越えてはならぬ線を越えぬべく最善を尽くすべきである」

 

 それに、と天魔は付け加え、

 

「あの吸血鬼……ナハトと言う大妖も今、危機にあるとのことだ。彼奴には間接的ながら、この山を鬼から解放してもらった恩義がある。あの男が萃香様の興味を引き、戦を引き受け、そして萃香様を満足させなければ、未だ山は鬼の所有物であっただろう。受けた借りは返すが山の道理。しかしてこの機は吸血鬼への借りを返す好機でもある。被害を抑え、面目も立て、借りが帳消しとなるならば、八雲へ応じる以外に道はあるまいて」

 

 異論はあるか? ――唱える者は、誰一人として居なかった。

 錫杖の鈴が鳴る。二度、三度と響き渡り、天魔は号令を口にした。

 

「八雲へ受諾と連携用の使い魔を飛ばせ。既に報を掴んでいるだろう、清めの祓いも行える守矢の神々にもだ。この場に居座る大天狗衆も早々に救援へ赴くがよい。これより汝らの肩書全てをこの天魔が担い、全指揮を執るものとする。貴様らは山で起きた全ての情報を私へと寄越すよう務めるのだ」

 

 ――――此度の異変は異変に非ず。戦になると心得よ。

 

 

 

 

 

「――――っ!」

 

 一部始終を目にしたアリス・マーガトロイドは、血相を変えて椅子を蹴り飛ばすように立ち上がった。

 頭を締め上げられた様な気分だった。秋に起きた一部始終の怪事件。そこで起こった数々の謎が紐解かれ、溢れ出た真実の波がアリスへ襲い掛かってきたからだ。

 

 思えば、風見幽香の縄張りである花畑で都合よく妖怪が暴れまわり、ミイラ化を迎えた時点で怪しかったのだ。幾ら狂い果てようとも、下級妖怪は本能から大妖怪の領域を侵すことはまず有り得ない。あるとすれば自殺志願者だけだ。なのに例の名も無き妖怪は花畑を荒らし、幽香の怒りと興味を買った。これは、スカーレット卿と名乗る怨霊に操られていたが故の愚行だったのだろう。

 

 怒髪天を衝いた幽香が魔術の痕跡を解き明かす為に人を頼るとすれば、既知の魔法使いたるアリス以外には考えられない。そしてアリスは残された残滓から『吸血鬼』という答えを導き出し、風見幽香に偽の標的をもたらすのだ。

 

 つまり、アリス・マーガトロイドは橋渡しに利用された。

 吸血鬼ナハトへの恨みを晴らす為に、私刑の片棒を担がされたのだ。

 

「…………」

 

 アリスは生真面目で、面倒見のいい性格だ。独りを好んでいても何だかんだ知人は放っておけないし、交友に対する人情もある。魔法使いという広義の妖怪に属する少女ではあるが、事実アリスはどんな妖怪よりも人間染みていると言っていい。

 だからだろうか。裏側の悪意に気付く事の出来なかった憤りが。知らなかったとはいえ、無辜の吸血鬼を貶める幇助をしてしまった事への後悔が。何より友人であるパチュリーや小悪魔、レミリアたちを間接的に悪魔の罠へ嵌めてしまった事への罪悪感が、アリスの胸に爪を立てて搔き毟った。

 

 くしゃり、と前髪を掴んで、忌々しげに舌打ちする。荒ぶる感情は不可視の糸を通じて棚に座る人形たちへ伝播し、カタカタと騒音を打ち鳴らす。

 ハッとしたように顔を上げて、アリスは二度深呼吸を繰り返した。

 頬を叩き、沸騰しかけた血の熱を下げる。ガラス窓に映る自分の顔と目を合わせながら、アリスは語り掛けるように独り言ちた。

 

「落ち着いて……落ち着くのよアリス。取り乱しては駄目。冷静に、自分に出来る事を考えるの」

 

 思考の舵を切り、船頭の向きを変える。私がこの状況で打てる手は無いかと、ニューロンの海から慎重にサルベージを進めていく。

 

 そう言えば嫌に外が騒がしい。人波から外れた魔法の森に住まうアリスは喧騒と離れた生活を送っているのだが、今夜は祭囃子よりも激しい歓声がそこら中から聞こえてくるのだ。

 まさか、と冷や汗を一筋伝わせた。掌がじわりと湿り気を帯びて、思わず力を込めてしまう。

 これが八雲紫の言っていた『幻想郷の危機』なのかと。怨霊がはびこらせた病原体――推測するに術か洗脳の類で魑魅魍魎が決起を起こし、そこら中で暴動が起こっているという言葉の正体ではないだろうかと。

 

 冗談じゃない。アリスはスカーフを手に取ると、無我夢中で駆け出した。糸のシグナルに導かれ、棚から離れた人形たちがアリスの後を追っていく。

 空を飛んだ。鬱蒼とした木々の合間を潜り抜け、見晴らしのいい高度にまで舞い上がった。

 

「これは……!」

 

 自分の眼を疑った。眼前に広がる光景は、謎の魔法使いによって貼りつけられたミラージュではないかとすら妄想せざるを得ない程だった。

 四方八方から光が飛び交い、この世の物とは思えない唸り声や絶叫が紛争地帯の如く炸裂している。木々が圧し折れ倒壊する轟音や、打ち上げ花火の様な弾幕が冬の夜空を彩る叙景が多発し、その度に雄叫びや悲鳴の霰が降り注いでいたのだ。

 

 幻想郷の一部どころじゃない。三百六十度どこからどう見ても、幻想郷全土で異変が巻き起こっている。その魔手は、きっと紅魔館にも及んでいるに違いない。

 いいや。発端が紅魔館にあるならば、そこがある種の中枢となってなければおかしいのではないだろうか。

 少なくともこの異変に関する情報はふんだんにある筈だ。ならば、今から向かうとしたらそこしかない。

 

「……そう言えば、魔理沙は大丈夫なのかしら」

 

 けれど、気がかりな点が一つ。

 それは霧雨魔理沙の息災だ。秋の事件以降一度も表に現れず、様子を見に行ってみれば変にくたびれていた彼女の事が、どうにも心の片隅に引っ掛かったのである。

 アリスは詳しい事情を知らないが、魔理沙は例の事件で相当な精神錯乱に陥ったと聞く。原因はあの恐ろしい吸血鬼の瘴気を浴びたせいだと守矢が突き止めたらしいが、もしその診断が誤りだったとしたらどうだろうか? 何らかの見落としがあって、全く別の原因で精神汚染されていたとしたら?

 

 魔理沙が出不精になった時期と、秋に起こった騒動には何らかの因果関係が見て取れる。少なくとも、八雲紫が見せた事実関係の公表からして、一欠片も関連が無いとは言い切れない。

 

「……」

 

 アリスは紅魔館を訪れる前に、ちょっとだけ魔理沙宅の様子を見る事を選択した。

 移動距離も短いし、無事だと確認できたなら、それに越したことはないのだから。

 

 

 

 

 

「成程、そういう事。道理で紫があの吸血鬼さんの肩を持つと思ったわ」

 

 華奢な細腕からは想像もつかない怪力で首を締めあげられ、名も無き妖怪がまた一匹、泡を吹きながらダランと力を失った。

 首を絞められただけで妖怪は死なない。気を失っただけである。もとより、この大輪の花のような雰囲気を纏う緑髪の少女に殺意は無かったのだろう。

 そうでなければ、山の様に積み上げられた妖怪たちは皆、弾けた血肉の塊へと加工されていただろうから。

 

「弱ったわ。私、誤解してあの吸血鬼さんに酷いことしちゃったみたい。今度謝りに行かなくちゃね……」

「あわ、あわわ、あわわわわわわ」

「うーん、吸血鬼はお花を貰って嬉しいものなのかしら」

 

 ぽいっ、と気絶した妖怪を放り投げ、風見幽香はほとほと困り果てたように頬へ手を当てる。

 間近で無双を繰り広げられ、それを片時も目を離さず目撃したメディスン・メランコリーはと言うと、尻餅をついて震えるだけの機械人形と化していた。

 不意に、幽香は振り返ってしゃがみこんだ。メディスンと視線を合わせ、彼女は困った様な笑顔を浮かべながら、

 

「ねぇねぇ、メディスン。お詫びの品に綺麗な花束って良いと思う?」

「へけっ!? あ、う、うん! いいとおもうよ!」

「本当? じゃあそうしようかしら。えーっと、ハシバミの花がメインになるよう組んで、それからそれから……」

「ッ!? 幽香後ろッ!!」

 

 少女の悲鳴と獣の唸り声が鼓膜を撫でる。雪を踏み抜き、草を掻き分け、ナニカが猛スピードで迫る気配があった。

 獣の如き眼光が火の玉の様に闇夜を走る。鋭い鉤爪は銀月の光を細かに反射し、刀を思わせる影を産んだ。

 

 幽香のすぐ傍の草叢が弾ける。唾液と共に、正気を失くした絶叫が飛び。

 幽香の傘が、喉笛を嚙み千切らんと跳躍する妖怪の顎を情け容赦なくフルスイングした。

 

 球技染みた豪快な快打と共に狼型の妖怪が彼方へ消えていく。遅れて、妖怪がぶつかったのだろう木々が圧し折れ、怒涛の如く倒れる地鳴りが訪れた。

 メディスンは開いた口が塞がらず、瞬きすらも忘れて呆けてしまった。

 

「すっごぉ……」

「取り敢えず、お詫びはコレが一段落してから考えましょうか。じゃあメディスン。私から離れず、巻き込まれない様に着いてきてね」

「は、あ、うん。分かったわ!」

「それと、変なのに憑かれないよう気を付けて。もし乗っ取られちゃったら、貴女も締め落とさなきゃいけなくなるから」

「ひえっ」

 

 どうやら、メディスンの憂鬱はまだまだ続く様だった。

 

 

 

 

 

 

「ははーん、あたい全部理解したぞ。つまり皆が暴れ回ってるのは黒幕が操ってたからなのね! よーし分かった、レティ探してぶっ飛ばそう! そして内藤のおっちゃんを助けるぞーっ!」

「違うよチルノちゃん、内藤さんじゃなくてナハトさんだしレティさん全然関係ないから!? 悪いのは、えーっと、私もよく分かんないけど! 兎に角レティさんじゃないのは確かだよ!」

「おーい妖精コンビ、こんな時に漫才してる場合じゃないぞい。私たち絶賛お尋ね者なんだから」

 

 光が瞬く。炸裂音、破裂音が連続して発生し、追ってぱたぱたと、幼い駆け足が森に響き渡っていく。

 妖精コンビと宵闇の妖怪は、逃走と闘争を繰り返しながら名も無き森林を駆けまわっていた。積もった雪と、一様にそっくりな枯れ木の群れに囲まれた閉塞空間は、あっという間に三人の方向感覚を狂わせてしまい、さながら遭難に似た状況へ陥らせてしまう。

 澱んだ目を向け、歯を剥き出しにして襲い来る妖精たち。氷の剣(の形をした鈍器)を手に、チルノは野獣の如く掴みかかってきた妖精の頭を一閃した。ピチュンと刺激的な音を立て、狂乱妖精に強制休みが与えられる。

 

「ええいっ、次から次へとキリが無いなぁもう! というか弾幕ごっこで勝負しなさいよ弾幕ごっこでー! ゾンビゲームとかあたいそんなの好きじゃないぞ!」

「操られて正気を失ってるから聞こえてないよ! 妖精は死なないから一回休みにしてあげた方が、きゃあっ!?」

「大ちゃん危ない!」

 

 殺意の籠った光弾が三つ、大妖精へと襲い掛かる。ルーミアはどこか気の抜けた声と共に大妖精を引っ張り込み、光弾の射線から救い出した。

 

「あ、ありがとう!」

「ゆあうぇるかむ」

「と言うかルーミアも一緒に戦いなさいよ!? 何一人のらりくらりやり過ごしてんの!? あたいと大ちゃんで頑張っても結構大変なんだからね!?」

「残念ながら私には戦えない理由があるのね。だから最強のチルノが守ってくれると嬉しいな」

 

 そう言って、お腹を一撫でするルーミア。自分の腹部を見つめる目は、何らかの思惑を孕んでいる様で。

 しかしチルノはその仕草に意味を見いだせず、しばらく意図を考えて、

 

「……もしかして、妊婦さんになったのかお前?」

「違うわ馬鹿。それより前、敵二匹接近中!」

 

 振り返り、飛びかかってきた二匹妖精を氷剣をもって薙ぎ払う。しかし先鋒の影に隠れ潜んでいた一匹が、雪の銀幕を突き破るように飛び出してきた。普段の妖精からは考えられない挙動で地を駆け、宙を舞う妖精に、チルノは呆気に取られてしまう。

 光弾が飛ぶ。狂乱妖精のものでは無い、大妖精の援護射撃が。 

 それは正確に的を撃ち抜き、悪魔の魔の手からまた一匹の妖精を救済した。

 大ちゃんサンキュ! ――とサムズアップするのも束の間、第二、第三陣が三人を追い詰めるべく迫ってくる。その数、ざっと見積もっただけで三十余り。

 今までとは規模の違う大群に、流石のチルノも引き攣った。

 

「チルノ、新手が来たぞい」

「いや、いくら冬でスーパー絶好調なあたいでも全部はちょっとキツくない? あれでしょ、たぜーにぶぜーってやつ」

「流石に無理だよ! 二人とも私の手を握って! ちょっとの距離ならテレポート出来るから、それで脱出しよう!」

「んにゃ、イケるイケる。きっと大丈夫」

「ルーミアちゃん、何を根拠にそんなっ」

「チルノ」

 

 ルーミアは暗闇をチルノと同じ剣の形へ象ると、それを手に取り、ぶんぶんスイングするジェスチャーをしながら、

 

「こう、腹の底から力を込めて、どばばばばーって感じに振ってみ。多分イケるから」

「アドバイスがフワフワ過ぎて謎だよルーミアちゃん!?」

「腹の底……腹の底から力を入れる……」

 

 剣の柄を握り締め、チルノは刃を垂直に置いた。俗に八双の構えと呼ばれる型に近いソレを維持したまま、氷精はまるで自分の中からナニカを探り出すように瞼を閉じる。

 その時、微弱な波濤があった。チルノの足元の雪が波を打ち、ふわっ、と粉雪が舞い上がる。

 波濤が段々強くなる。チルノを震源とするように、謎の力が増幅の一途を辿っていた。

 チルノの身に何が起きているのかが理解できず、おろおろとしながら見守る大妖精。相変わらず平然と見据える宵闇少女。

 

「ふぅううううう…………腹の底から力を込める。腹の底から――」

「ち、チルノちゃんもう追いつかれるよ! 早く逃げないと!」

「力を、込める!」

 

 迫る群衆。縮まる距離。近づく一回休みの気配。

 しかし次の瞬間。それら全てを打ち砕かんばかりの眼力が灯る、チルノの瞳が見開かれ、

 

「そいやっさぁぁーっ!!」

 

 剣を、我武者羅にぶん回した。

 爆発的な何かが起こった。空気が巨大な氷柱と化し、それが幾重にも融合を繰り返すと、氷の大剣山と見紛うばかりの圧倒的な凶器に変貌した。剣山は剣の軌跡を砲台とするかのように射出され、一面の木々を、地面を、森単位で何もかもを削り取りながら全ての妖精を巻き込み、果ての果てまで吹っ飛んでいく。

 およそ妖精の力では成し得られない大魔法染みた氷塊の出現は、当のチルノさえポカンとしちゃう有様で、

 

「す――――すっげぇーっ!! なんか出た! なんか出た! ねぇねぇ今の見た!? よく分かんないけどすっごいの出たわよ!? ねぇねぇねぇ!」

「やっぱりね。思った通り」

 

 興奮するチルノの背後で、冷静に分析しながらルーミアは言った。表情筋は動いていないが、チルノの異変の正体に心当たりがあるのか、顎に手を当てて納得を示している。

 

「る、ルーミアちゃん、これどういう事……? チルノちゃんどうしちゃったの?」

「んー……美味しいもの食べてパワーアップした感じ?」

「え?」

「多分大ちゃんも私も似たようなこと出来ると思うよ。まぁ今の私は何も出来ないというか、しちゃいけないんだけど……っと、それより、また来たみたいだね」

 

 ルビーの瞳が上を見上げる。傍の朽ち木、その細枝から幾つかの影が見下ろしていた。

 片や、碧い髪に二つの触覚。白シャツに、幻想郷では珍しいズボンを履いた妖蟲少女。

 片や、薄紫の頭髪に羽の生えた帽子。禍々しい怪鳥を思わせる翼を携えた夜雀少女。

 どちらも見知った顔だった。時たまに遊ぶ友達だった。

 

「チルノ、上」

「ん? なにルーミ……ミスティア。それにリグルも」

 

 けれど、今は二人とも友達ではない。暗闇でも息遣いではっきりと分かる程に、狂気と怨念に呑み込まれてしまっていた。

 一度だけ、ぐっと唇を噛み締めて。

 チルノは再び、剣を握る。

 

「よーし! ちゃっちゃと掛かって来なさい二人とも! このあたいが、あんたたちを魔の手から救い出してあげるわっ!」

 

 銀鱗躍動。氷の妖精は不安を消し飛ばすように笑みを浮かべ、囚われた友を解放すべく夜の闇を突っ走った。

 

 

 

 

 

 

 蓬莱山輝夜は平静ではいられなかった。

 

 月の差し込む迷いの竹林。その中にひっそりと佇む大屋敷。

 黒幕の映像とスキマ妖怪の告白を目撃した永遠の姫君、蓬莱山輝夜は脱兎の如く駆け出した。剪定していた盆栽を放置し、服が皺くちゃになるのもお構いなしに永琳の私室へ駆けつけると、食ってかかるように全ての経緯を問い詰めたのだ。

 永琳も同じく、紫の演説を目にしていた。事がどこまで進んでしまったのかを瞬時に把握した永琳は、最早はぐらかす意味を見出せず、包み隠さず輝夜へ真相を打ち明けた。

 

 ナハトの真実も、今起こっている事件の全貌も、何もかも把握した輝夜は居ても立っても居られずに、裸足軒先まで飛び出した。

 しかしそこを永琳に阻まれた。当たり前の事だが、輝夜は幻想郷の地理を碌に知らない。そんな彼女が猪突猛進したとして、幻想郷の中でも秘境とされる地底へ、ましてや旧地獄の中心に建つ地霊殿に辿り着ける筈が無い。なにより永琳は輝夜の安全を第一に置いている。無用な危険へ首を突っ込ませるなど言語道断だ。

 

「輝夜」

「分かってる。……分かってるわよ」

 

 頭ではとっくに理解している。焦ったところで、今の自分に出来る事は何もないと、悔しさがこみ上げてくるくらい弁えている。

 でも、立ち止まっていられる筈が無い。例え地底の道筋を知らずとも、何もしない訳には行かなかった。

 だって、あのナハト(バカ)は降りかかっている不幸を満足に相談もせず地底へ姿を消したかと思えば、幻想郷中を巻き込む大事件の中核に立っていて、()()()()輝夜へ一つの話もせず、傷だらけになりながら事を処理しようと邁進していたと知ったのだから。

 あのお人好しの事だ。余計な心配をかけさせまいと気を使ったのだろう。ナハトの人格を永琳以上に把握している輝夜は、容易に心情を想像出来た。

 

 しかし、それが納得に繋がるかどうかは別の話だ。

 

 一言で良かった。ほんの少しで十分だった。ちょっとだけでも良いから、自分の置かれた状況を相談してほしかった。力に成れたかは分からないけれど、でも、直ぐじゃなくても力を貸せる準備は整えられた筈だった。

 これは輝夜のエゴなのかもしれない。それでも納得する事が出来なかったのだ。だって輝夜は、ナハトの友達なのだから。ナハトは自らの犠牲も鑑みず、砂漠だった心に再び緑を戻してくれた友人なのだから。

 

 必ず会おう。会って一発引っ叩かなければ気が済まない。

 そしたら和解して、尽力を注いであげよう。こんな大事件の中で自分に出来る事はちっぽけかもしれないけれど、それでも可能な限りやってあげよう。

 

 振り返り、輝夜は声を振り絞るように言った。

 

「永琳。紫から地底の場所、聞いてるんでしょ? 魔法も使える貴女なら、今からでもそこに行けるわよね?」

「……」

「お願い。私を、あいつの友達でいさせて」

 

 己が姫である事を捨て、輝夜は一人の吸血鬼とある事を選んだ。

 頭を下げて懇願した。唯一無二の師であり、母であり、姉である八意永琳に。

 月の頭脳は一拍の間、沈黙を置いて、

 

「分かりました。地底へ向かう準備をしましょう」

「永琳……!」

「大方の想像は着くと言えど、私も紫に尋ねたいことがある。どのみちそこに行かなければならなかったからね」

 

 永琳は懐から古びた切手の様な束を取り出すと、その一枚を千切って放った。淡い光が札に灯る。札の中心が円状に裂かれると、それは人一人がくぐれるほどの穴へと変貌を遂げた。

 穴から熱気の様な、湿気の様な、地上とは異なる空気が流れ込んでくる。間違いなく、地獄の空間へと続いていた。

 いざ、と飛び込もうとした矢先だった。『おーい!』と見知った声が聞こえてきたかと思うと、

 

「輝夜!」

「妹紅?」

 

 月明かりに白銀の髪を煌めかせ、竹林を縫って走ってくる藤原妹紅の姿が見えた。 

 妹紅は息を切らしながら輝夜の元まで走り抜けると、膝に手を着いてぜぇぜぇと喘ぎながら、

 

「あ、あんたたち、はふ、あの吸血鬼ンとこ行くつもりなんでしょ? ハァ、はひ」

「……麓から全力疾走してきたわね。一旦息整えたらどう? それくらい待ってあげるわよ」

「私も、連れて行きなさい」

 

 間髪入れず、妹紅は指を突きつけながら言い放った。力強く、何か決意めいたものを宿した瞳を向けて。

 予想だにしなかった提案に、輝夜はパチパチと瞬きを繰り返した。だって妹紅はナハトについて余り良い印象を持っていなかった筈だからだ。大昔の地上人という出自故か、はたまたハグレ陰陽師として活動していた時期があったからか。妹紅は妖怪をそこまで好いていないのだ。事実、永夜の夜にナハトが輝夜を助けるためと東奔西走していたと知っても、『危険極まりない妖怪』という評価を覆す事は無かった。

 

 ――いや、()()()()と、輝夜は妹紅の真意の一部を見た。

 

 妹紅は人間としての価値観から妖怪は危険なものだと認識している。それは千年近くたった今でも変わらない。妹紅も譲れないのだろう。妖怪が危険ではないと判断した瞬間、それは完璧に人間を捨てたという意味に繋がってしまうのだから。

 故に妹紅はナハトを警戒し続けた。例え大妖怪に相応しくない柔和で博愛染みた精神性を垣間見ても、人間の敵であると烙印を押さずにはいられなかった。

 密かに揺れていたのかもしれない。万物に恐怖をばら撒き、有象無象の妖怪を束ねる力を持った最悪の怪物として見続けるか。彼の真心を評価し、蓬莱人の枯渇した心を救った輝夜の恩人としての側面を見るか。相反する二つの間で決めあぐねていたのだろう。

 

 その迷いが、きっと先の告白で断ち切れられたのだ。真の悪党の出現と、紫が語った事の顛末に、ナハトの隠された真実が、彼女の意思を決める羅針盤となったのである。

 

「勘違いしないで。別にあの男に謝りたいとか、そう言うんじゃないわ。でも、あいつが四年前に私のライ――っいや、その……えっと、と、とにかく借りを作ったのは事実だから! それを返しに行きたいだけよ。筋を通さない人間じゃないからね、私は」

「ライ、なんだって?」

「うっさい!! いいから連れてけ!!」

 

 ライバルを助けてくれた――揉み消された一文を掬い取り、輝夜は意地の悪い顔を浮かべながらほくそ笑む。妹紅は顔を真っ赤にしながら憤慨し、大股で勝手に穴へと進んでしまった。

 姿が見えなくなったところで、誰にも聞こえない声で、ありがとうと輝夜は呟く。こんな言葉、聞かれた暁には数百年近く煽りのネタにされるだろうから絶対に面と向かって言わないけれど。

 

「姫様、私たちも行きましょう。時間が無いわ」

「ええ。今行く」

「ところでお師匠。お留守の私は何をしとけば良いのかい?」

 

 竹の影から、聞き慣れた声が木霊した。

 掴み所が無くて、悪戯好きな子供を思わせる小悪魔ボイス。そんな声の持ち主はこの竹林に一人しかいない。

 永遠亭に住まう幸運の素兎、因幡てゐである。

 

「てゐ」

「あ、言っとくけど私は行きませんよ。戦いなんて嫌ですもん。それにあの吸血鬼へ恩義がある訳でもなし。というかむしろ酷い目に遭わされましたしね」

「分かってる。あなたは来なくても大丈夫。これは私と永琳でやらなきゃいけない事だから」

「でも姫様とお師匠のお手伝いならしますよ。ええ、私も永遠亭の端くれですから? 働くときは働きますとも」

「……!」

 

 頭の後ろで手を組みながニヤリと笑う。素直な性分では無い兎だが、主人と師匠への信頼は本物だ。彼女たちが困っているならてゐは協力を惜しまない。

 不器用な優しさがじわりと胸に染み渡る。輝夜は胸元に手を当てて、かつて傾国とすら謳われた微笑みを浮かべながら、

 

「本当にありがとう、てゐ」

「はいはい、こんなチビ兎落としてもなんの得も無いですよっと。で、お師匠。私に出来る事があるなら言って下さい。今のてゐちゃんはサービス残業も受け付けますぜ」

「……じゃあ、これを用意していてもらえるかしら」

 

 メモ紙だろうか。永琳は小さな紙片を懐からを取り出し、サラサラと何かを書き記すと、それをてゐに手渡した。

 メモの内容を把握しながら、てゐは眉を顰める。

 

「んー? これ、(ムシ)下しの材料ですかい? 何に使うんですこんなの?」

「多分それが必要になると思うの。だから、用意出来る分ありったけ準備していて頂戴」

「……あいあい、了解しました。んじゃあグースカいびきかいてる鈴仙のケツ引っ叩いて起こしてきますんで、私はこれで」

 

 自分の役割を把握したてゐは踵を返し、飄々と永遠亭へ歩を進めた。

 

「あ、そうだ。姫様、お師匠」

 

 途中、足を止めて。くるりと振り返ったてゐは、いつになく真剣な光を瞳へ灯した。

 

「幸運を。どうか、ご無事で」

「――幸せの兎(あなた)に言われたら、無事以外の未来なんて考えられないわね」

 

 再び交えた笑顔を区切りに、双方はその場を後にした。

 

 

 突然現れた輝夜、永琳、妹紅の蓬莱人組との再開直後。ナハトに待っていたのは強烈な平手打ちだった。

 脈絡も無く放たれた一閃は熾烈な炸裂音を発生させ、吸血鬼の頭蓋を震盪させる。

 部屋が、無音の空気に包まれた。

 

「何か言う事は?」

「……すまなかった。随分と心配をかけてしまった」

 

 もう一閃。今度は反対側の頬を打ち抜かれる。

 甘んじて、ナハトはその苦痛を受け入れた。

 

「永琳からあなたの事も、あなたの周りに起こっている事も全部聞いた。あなたの素性はあなた自身も知らなかったみたいだから、良い。私が怒ってるのはそこじゃない」

「――」

「勝手にいなくなったと思ったら死にかけてて、凄く心配した。余計な気遣いをさせたくなかったあなたの気持ちは分かるけど、もう二度としないで」

「ああ。誓って」

「許す。じゃあこの話は終わり」

 

 その場の誰もが、『あのナハトが往復ビンタされている』という異様な光景に目を釘付けにされ、完全に言葉を失っていた。

 お構いなく、輝夜は気を取り直して上を見上げる。同じく絶句していたスカーレット卿の分身と目を合わせ、力強く指を突き出した。

 

「あんたがこの事件の黒幕ね」

『――そうだ。初めまして竹林の姫君。お会いできて光栄だよ』

「そう。んじゃあ早速で悪いんだけど降参しなさい。それがあなたのタメってモンよ」

『ほう』

 

 数多の妖怪が団結し、一個の首謀者を討ち取らんという意思が結集している今、輝夜の提案は妥当だった。確かに、現状を見ればスカーレット卿が種を植え付け、下僕化させた魑魅魍魎が戦況を圧している様に思える。だがそれは時間の問題だ。ナハトが旧灼熱地獄で指摘した様に、幻想郷の妖怪たちは一様に強力極まりない力を持っている。例え八雲紫や伊吹萃香を筆頭とした一部の強者を抑えられても、一蓮托生した別の大妖怪がスカーレット卿を追い詰めていくだろう。

 

 しかし。

 それを分かっていて。なお悪魔はクスクスと嘲った。

 何故なら、この悪霊はもとより己の消滅すら計画の範疇に押し込んでいる完全な狂人だからだ。スカーレット卿が唯一にして最も恐れているものは、計画の破綻でも、ましてや完全な消滅でもない。『ナハトに敗北する』という、ただそれだけの狂い果てた終局のみ。

 

『無論断る。私は止まらんよ。ああ何があろうと止まらんとも。例え我が分身を悉く滅ぼされようがな。この魂、この怨讐は臥薪嘗胆の化身であるが故に、諦める道はとうに消えている』

 

 その言葉を皮切りに、怨霊がブスブスと黒い煙を上げ始めた。

 筆舌に尽くしがたい、魂の焼ける匂いと共に体積がみるみる減っていく。肉体と言う器を持たない魂魄が吸血鬼の激しい憎悪と意思を植え付けられている状態だからか、かつてのミイラの様に活動の限界が迫ってきているのだ。

 

『阻止したくば励むがいい。私は逃げも隠れもしない。もっとも、ナハト以外が私を滅ぼそうとした暁には、どうなるかは保証できんがな? はははっ』

「……心底気に食わないけど、私から一つお礼を言っておくわ」

『――なに?』

「あんたがマヌケ晒してくれたおかげで、私たちは真実を知ることが出来た。もし()()が無かったら今夜も盆栽弄ってるだけで終わってたでしょうし、そこは感謝してあげる。けど、これでハッキリした事がある。あんたがどうしてナハトに執着するのかはよく分かんないけれど、そんなんだから勝てないのよ」

『……!』

 

 声を発する時間は既に消費されていた。輝夜の舌剣で斬り捨てられたと同時に怨霊は消し炭と化し、黒い煤すらも虚空の中へ溶けていく。

 暫くの沈黙が辺りを包み、どこか重苦しい雰囲気が到来した。

 

「……で、これからどうするの?」

 

 沈黙を破ったのは、きまりが悪そうに頭を掻く妹紅だった。

 

「決まってるわ。皆であいつぶっ飛ばしに行くのよ」

「いや、それは悪手だ。奴の()()とは私ひとりで決着を着ける」

 

 輝夜の意見を差し止めたのはナハトだった。

 どうして? と輝夜は問う。それに対し、彼はただ自己の分析結果を淡々と述べる。

 

「奴は非常に狡猾な男だ。それこそ、想像の裏をかくという点においては天才と言っていい。そんな男が、私以外の者を仕向けて自分を始末させたら何をするか分からないと、直々に言い放ったのだ。これまでの用意周到ぶりから考えて、万が一私が赴かなかった場合の保険をかけているとみて間違いない」

「例えば、怨霊を体内で暴走させて感染者を大量虐殺したり……と言った感じかしらね」

 

 少なくとも、限りなく最悪に近い未来になるわ――補足するように永琳は言う。生きながらミイラと化した惨たらしい屍を見たことがある者たちは、それが現在暴れまわっている魑魅魍魎全てに起こった場合を想像し、背筋を凍りつかせた。

 

「卿は八咫烏の力を手中に収めているわ。あなたとの相性はそれこそ最低最悪よ。それでも行くの?」

「ああ。……奴は私と戦い、滅ぼすことだけを望んでいる。テロリストが何をしでかすか読めない以上、私が戦う他に被害を抑える道はあるまい。それに、何の対策もせず向かう訳ではないさ。数刻前に奴と一戦交えたが、これが太陽の力を大きく削ぎ落してくれた」

 

 そう言ってナハトが首元から外して見せたのは、鈍く輝く質素なネックレスだった。パチュリー・ノーレッジが丹精込めて開発した対日光用のマジックアイテムである。その効果は先の戦いで実証済みだ。もしこれが無かったら、血の池地獄を干からびさせても足りないほどのダメージを負っていたかもしれないほどに。

 

「障壁を貼って守り抜いたからまだ壊れていない。だが本気の奴と戦うには心もとない。そこで君たちの力を少し貸して欲しいのだが、」

「もちろん。任せて」

「貸しなさい、私も協力するわ」

 

 永遠の姫君が。月の頭脳が。境界の賢者が。パチュリーの防護魔法を基盤に対日光魔法を加工、改良し、この世に二つとない遮光装置が作り出された。

 礼を述べ、ナハトはネックレスを首に戻す。フックを繋げた一瞬、薄い光が卵膜の様に体を包み、やがて点滅しながら馴染むように消えた。

 正常に動作していると見届けて、次は紫が口を開く。

 

「私は今、生けるもの全てを死に誘う西行妖という化け桜を抑え込むのに力の大半を割いていて、この場を動くことが出来ないの。永琳、悪いけど力を貸して貰えないかしら?」

「察するに、不死である私がその西行妖を封じ込めに行けばいいの?」

「そういう事。厄介事押し付けちゃってごめんなさい。でも、あなた以外に頼れなくて」

 

 西行妖の力は絶対的だ。吸血鬼にとって太陽が天敵ならば、生者の天敵はまさしく西行妖だろう。強靭な精神力や、力量など関係ない。現世に(かなめ)を置く存在である限り、死への誘いに逆らえる者は存在しないのだ。

 故に蓬莱人は適役だった。不滅化した魂を核として持ち、死の境界へ引きずり込まれようとも確実に復活できる永遠の住人は、西行妖に対抗できる唯一の刃と言える。

 永琳は納得を示し、二つ返事に承諾した。しかしそれに異論を唱える者がいた。

 

「ちょっと待った! その仕事、私に任せてくれない?」

 

 勢いよく挙手をして名乗りを上げたのは妹紅である。彼女は指先に火を灯し、それを変幻自在に操りながら、

 

「私も蓬莱人だから、えーっと、西行妖? にだって相手取れるわ。腕っぷしにも自信あるし、ついでに借りも返せる」

 

 ちらりと吸血鬼に目をやった。ナハトは何の事だか分かっていないようで、きょとんとした表情を浮かべている。

 妹紅は自分の心情をナハトに言うか言うまいか、歯切れ悪く迷った様子を見せる。しかし、ガシガシと頭を掻き毟って決意を固め、ずんずんとナハトへ詰め寄ったかと思えば、

 

「……もう機会は無いだろうし、今のうちに言いたいこと言っておくわよ」

「?」

「一つ目。長いこと勘違いしてて悪かった。あんた見かけによらず本当に良い妖怪だったのね。八雲の言葉のお陰で、昔のあんたの行動に合点がいったわ」

「あ、ああ。誤解が解けてよかったよ」

「二つ目。今回だけ力を貸すから、その、輝夜を戻してくれた借りはこれでチャラよ。いい?」

「! ……ありがとう妹紅。恩に着る」

 

 輝夜を気にかけていた事を口にするのが余程気恥ずかしかったのだろう。『お礼は良いわ』とだけ口にして、輝夜の方向を見ようともせず、ぷいっとそっぽを向いてしまった。

 やれやれと言ったように、輝夜は肩をすくめながら永琳へ向き直って、

 

「妹紅だけじゃ頼りないし、私も一緒に着いていくわ。代わりに永琳はお留守番。良いわよね?」

「はぁ!? なんでアンタも来んの輝夜!? てか私じゃ頼りないってどう言う意味だコラァーッ!」

「……気持ちは分かるけど、あなたを行かせるわけには……」

「別に、気分に流されただけでこんな事言ってるんじゃないわ。適材適所ってやつよ。ほら、さっき永琳が言ってたでしょ? 今妖怪が暴れまわってるの、ウィルスみたいな怨霊に感染しちゃってるのが原因だって。私には医学や薬学の知識なんて無いけど、永琳ならその妖怪たちも治せるはずでしょ」

「成程。君たち蓬莱人二人が西行妖の満開を阻止しつつ、永琳が感染者の治療にあたるわけか。可能であれば実に理に叶っている」

 

 便宜上、八意永琳は薬師の肩書で通っているが、彼女の知識量は八雲紫のそれより上を行く。医療技術にも精通しており、永夜異変以降の永遠亭では、難病を患った患者を人間妖怪問わず治療している程だ。絡みついた怨霊を切除するのも、吐き出させる薬を作るのも、彼女なら朝飯前だろう。現に、てゐには既に手を回させていた。

 輝夜の能力もまた、満開寸前の西行妖には効果覿面だ。永遠と須臾をつかさどる彼女の力は、言い換えればあらゆる道のりの長さを操作する権能である。満開になるまでの残り時間を永遠にしてしまえば、西行妖が完全覚醒を辿る事は決してない。

 

 それを踏まえてなお、永琳は額を抑えながら困惑した。心情的には危険地帯に輝夜を放り込みたくないのだろう。初めは自分が西行妖へ赴いて、永遠亭の指揮を輝夜と鈴仙、てゐに任せる予定だったのかもしれない。

 しかし永琳は知っている。蓬莱山輝夜の頑固さを嫌と言うほど知っている。何せ月の退屈さから逃れるために蓬莱の薬を服用した程なのだ。とことんやってやると決めた姫君を止める術だけは、万象に通じる叡智を持つ永琳ですら知りえない。

 最後には、渋々納得する他に道は無く。

 

「決まりね」

 

 紫の言葉に、皆一様に首肯する。

 ナハトはスカーレット卿との対決を。蓬莱山輝夜と藤原妹紅は西行妖の鎮静化を。八意永琳を筆頭とする永遠亭は暴走妖怪の治療を。

 そして、八雲紫自身は、

 

「代表として、これより私が幻想郷全方面の総指揮と仲介役を担います。永琳、あなただけじゃ物量的に厳しいだろうから、アシスタントになれそうな者たちにも繋いでおくわ。必要な物資があったら迷わず言って頂戴。橙を通じて直ぐ手配するから。輝夜も妹紅も、緊急時に備えて全力でサポートします。ナハト、あなたは――」

「不要だ。君も相当無茶をしているのだろう、私に回す分の力は他に当ててくれ。奴の居る場所に送ってくれるだけで良い」

 

 そう言ったナハトに、紫は単なる気遣いだけでなく、紅蓮に燃ゆる烈火を見た。

 明確な怒りの炎だった。初めてナハトを観測した時と同じ、いやそれ以上に激しく、静寂さを秘めた憤怒が腹の底に燻っているのである。

 無理もない。むしろこの状況で怒らずにいられる理由が無い。彼にとっても理想郷である幻想郷が蹂躙された挙句、紫や幽々子までもが災厄に見舞われた。紅魔館も巻き込まれていない筈が無く、ナハトの中の臨界点は容易く飛び越えてしまっただろう。

 十分な加護を貰った今、一人で雌雄を決するのに十分アドバンテージは整った。この中でスカーレット卿と時を超えた因縁を持つ人物はナハト以外に居ないが故に、個人的にも決着をつけたいのかもしれない。

 

 けれど。何故だかそれだけではない様な気が、紫の中で違和感となって芽生えていた。

 

 当然な怒りはある。決着を着けるべき因果への心構えもある。だがそれとは異なる、全く別のナニカが垣間見えたのである。

 それを考察した時、不意に脳裏を貫く電撃があった。解けなかった難問に答えへの道筋を見出した様な感覚が、紫の体を走り抜けたのだ。

 それを、その違和感の正体を、突き止めてしまったが故だろうか。

 これは言葉にするべきではないと、紫は得られた答えを咀嚼し、飲み込むように瞼を閉じながら、

 

「――分かりました。ご武運を」

 

 ただ簡素に、卿の元へと通じる道を開いた。

 

「ナハト」

 

 ナハトがスキマに足をかけたところで、輝夜が言った。

 

「絶対無事で帰って来なさいよ。あなたの最後の手紙、まだ返事書いて無いんだから。私から手紙を書く楽しみを奪わないでよね」

 

 輝夜の激励に、吸血鬼は困ったような笑顔を浮かべた。友人たる輝夜の応援ならば喜ぶ筈だが、今の表情は憂いの色を帯びている。

 隠された胸の内を晒すか否か、迷いがあったのだろう。ナハトは目を伏せて熟思を示すのみで。

 しかし、つい数分前に相談を避けた事について怒られたばかりである。事態が事態である以上、秘密を隠す選択は悪手だとナハトは判断した。

 意を決して、吸血鬼は口を開き、

 

「輝夜、」

「分かってる」

 

 言葉を、細々しい人差し指に抑えられた。

 皆まで言うなと、意思を強く感じる瞳があった。それはナハトの心中を理解しているが故の牽制だったのだろう。

 輝夜は察知能力に長けている。少なくともナハトの瘴気を度外視して本性を見抜く程度には鋭い少女だ。だから、輝夜はもう理解している。ナハトが帰還の約束に返事を濁らせたワケを、十二分に察している。もしかしたら輝夜は、永琳からナハトについて聞き及んだ時には既に解っていたのかもしれない。

 

「けど、それでも約束して欲しいの」

 

 蓬莱山輝夜は、ただまっすぐと。ナハトから一切眼を逸らさずに。

 

「と言うか、こんな時くらい虚勢でも胸張って頷きなさいよ。男でしょ?」

 

 ぽすん、と。ナハトの胸へ拳を当てた。

 ……ズルい友人を持ったものだと、ナハトは笑う。

 こんなの、頷く以外に答えなんてありはしないだろうに。

 

「ああ、必ず戻ってくる。約束だ」

「ん、よし。待ってるから」

「……輝夜」

「なに?」

「ありがとう」

 

 心からの感謝を皮切りに、戦場へ身を投じる吸血鬼。

 親友はそれを、悲哀に暮れた面持ちではなく、精一杯の笑顔で見送った。

 

 

 吸血鬼の消えた部屋に、狙いすましたかの様なノックが聞こえた。

 

「お取込み中、失礼します」

 

 ドアが開き、一人の少女が入室する。地霊殿の主、古明地さとりである。

 彼女はいつの間にか人数の増えていた部屋の有様に驚いた様子を見せたが、すぐに持ち直して、第三の眼で全員を一望すると、

 

「えっと、初めまして。ここの主をしています、古明地さとりです」

「――」

「ええ、はい。全て外から聞いておりました。いや、盗み聞きするつもりは無くて単純に入るタイミングを見失ってただけなのです……まぁそれはさておき、皆さんに折り入って相談がありまして」

 

 種族としての習性ゆえか、言葉と先を読み、相手に発言する隙を与えること無くさとりは言う。無論悪気は無い。

 

「私にも、何か手伝わせてほしいのです。今回の事件には、不肖の妹が根深く関わっています。罪滅ぼしになるとは思っていません。ですが、ですが。それでもあの子の為に、何かしなければ姉として気持ちが休まらないのです」

 

 だからどうか、お願いします――深々と、頭を下げてさとりは言った。

 厄介事を嫌う性分で、他者との関りすら持ちたがらないさとりだが、妹の為に己が身を投げうつことに何の躊躇もありはしない。その真心を、この場の誰しもがしっかりと受け止めた。元よりさとりは()()ナハトが信を置いた妖怪でもあるのだ。悪名高い『覚』であっても信じるに値するのは明白だろう。 

 

「……ねぇ紫。さっきの演説は人間の里の方にも流したのかしら?」

「いいえ。ナハトの存在と秋の事件を知る一部の者にだけですわ。そうしないと、彼への恐怖が薄まり過ぎて致命傷を負いかねなかったから」

「それなら……ふむ、優曇華の力を応用したらいけるかも……」

 

 何か考えがあるのか、月の頭脳は顎に手を当て、ほんの数秒だけ思考を巡らし。

 ぽんっ、とアイデアが纏まったと言うように手を叩いた。

 

「さとりさん」

「は、はい! ……え? あ、はい。私も『覚』の端くれなので一応出来ますけど……って、ええ!? それを私がやるんですか!?」

「ええ、あなた以外に適役が居ないの。是非とも協力して頂きたいのだけれど……」

 

 そう言って薄く微笑む永琳。さとりは『お姉ちゃんも頑張るから、絶対無事でいてね、こいし』と死んだ目を浮かべるのだった。

 



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38.「対極の再会」

「アンタ――吸血鬼の!」

 

 果ての無い白銀の世界に、たった一つの純黒が降り立った。

 黒ずくめの装束を纏う、見上げる程の背丈に、流れ落ちる灰の髪。死人の様な白塗りの肌は雪すら霞んで映えるだろう。深い闇色を湛える紫水の眼は、死骸を見つけた猛禽の様に魔理沙を見つめていた。

 放たれる波動は生物の命を押し潰し、脳髄の奥底まで漆黒に塗り潰す根源の恐怖。古来より人々が受け継ぐこの世全ての恐れを凝縮した、二つとなき概念生命体。

 

 見間違えるはずがない。かつて永夜の晩に暴れ回った闇夜の支配者がそこにいた。

 

 彼は静かに膝をつくと、魔理沙の額に手を当てて。

 水色の魔法陣を、暗闇の中で灯す蠟燭の様に発動した。

 

「あっ、おいお前! 魔理沙に手を出すんじゃ――――!」

「案ずるな」

 

 お祓い棒を振るい、札を展開し、陰陽玉に力を込め、封魔針を指間に携え、今まさに飛びかからんとしたところを、吸血鬼の大きな手で制された。

 数秒もしない内に光が止み、満足したようにナハトは立ち上がる。見ると、心なしか魔理沙の顔色が良くなっている様に思えた。更には衣服に染み込んでいた冷や水の跡が無くなっていて、周りの雪も少し溶けている。暖房と乾燥を備えた魔法でも施したのだろうか。

 

 ナハトは顔を一切霊夢に向かわせず、ただ淡々と事実を語り結ぶ。

 

「少女の中の憎悪を消した。正確には、スカーレットに関する不要な記憶を削り落としたと言った所かな。これで目が覚めても君を狙う事は無い。いつもの霧雨魔理沙に戻っているよ」

「っ……何で、アンタがそんな事を?」

「少し前に私はここへ着いていたんだ。全部この眼で見ていたよ。偽物の憎悪に焦がされながら真の友を見誤らなかった鋼の友情の行く末を。見事だった」

「――何を、偉そうに。こうなったのも、元を辿ればアンタたち吸血鬼組のせいでしょうが!」

「その通りだ。四年前、私が奴の狡猾さを見誤らなければこんな事にはならなかった。これが償いになるとは思っていない。許してくれとも言わない。しかし私に最悪の未来を防ぐことが出来るならば手を下すのに何の躊躇もありはしない。だからこそ、彼女の記憶を消させてもらったんだ」

 

 言い終えて、ナハトはゆっくりと周囲を見渡した。

 不意に、ある一点で目を止めた。そのまま男は、ざくざくと雪を踏みしめながら一直線に進んでいく。先には一本の木があった。雪の積もる大木の下には、よく見るとレミリアと咲夜が寄り添うように横になっているではないか。

 彼は雪を払いのけ、今度は赤い魔方陣を展開した。周囲の雪が諸とも蒸気となって溶け消えていく。先ほど魔理沙に使った類の魔法なのだろう。

 水気まで飛ばしきったナハトは黒い穴を傍に出現させると、二人を抱えてそのまま中に放り込んでしまった。

 

「何をしてるの」

「我が家に二人を送っただけだ。ここは冷え過ぎる」

「……アンタ、確か紫の仲間なのよね? それもアホンダラ妖怪の中じゃ比較的まともな奴。ねぇ、ついでに魔理沙も同じように紅魔館へ送ってあげてよ。このままじゃ凍えちゃう」

「駄目だ」

「えっ……?」

「その子は君が連れて行くんだ」

 

 初めて、霊夢はナハトと目が合った。

 底の見えない、真夜中の海のような暗黒があった。かつて訪れた月の大海とはまるで違う、見つめていると魂が吸い込まれそうになる果ての無い深海があった。

 闇の奥に業火が見えた。今の霊夢と同じ、いや、それ以上の怒りの炎。このまま闇を食らいつくし、眼球から飛び出さんばかりの憤怒が、男の中で轟々と燃え盛っていたのである。

 永夜の異変とも、秋の事件ともまるで違う。今まで目にした事の無い吸血鬼の真の怒りを、博麗霊夢は垣間見たと思う。

 

「もし私が魔理沙を転送すれば、君は心置きなくあの男と戦うだろう。それはいけない。これ以上あの男の邪悪に第三者を巻き込むわけにはいかんのだ。だから魔理沙は運ばない」

「……じゃあ、さっきの暖かそうな魔法で守ってあげるのは」

「断る。一応言っておくが、保温の魔法で彼女の体温を保護してはいるものの、じきに効果は切れ、再び氷点下へ晒される事となる。その前に君が連れて行かなければ大事となるだろう。選択は一つだ。君はここから離れなさい」

「ふざけんな。あのクソ野郎をみすみす見逃すなんて出来るわけないでしょうが。この手で百発ぶん殴らないと腹の虫が収まらないわ。それに、私には博麗の巫女としての責務がある」

「では友を見捨てるのか?」

「っ」

「……正直に言うと、こんな下卑た駆け引きはしたくないんだ。頼む、博麗の巫女よ。今回だけ立場を譲ってくれないか」

 

 少女の視線が、ナハトとスカーレット卿、そして魔理沙の間を泳ぎ回る。

 粉雪が降り注ぐ中、霊夢は口の中で苦虫を潰したように下唇を噛んだ。

 

 魔理沙を操り、嘲笑い、貶めた挙句、幻想郷を荒らしまわっている大馬鹿者をとっちめなければ気が済まない。けれど魔理沙の方が大事なのは言うまでもない事実だ。この気温の中、魔法無しの状態で野晒しにしてしまった暁には呆気なく永遠の眠りへ就かせてしまうのは自明の理である。

 本当なら迷いたくない。迷いたくないけれど、それでもあの悪霊が許せない。

 どうしようもない葛藤が、若き少女を苛ませた。

 

「では、妥協案といこう」

 

 その心に逃げ場を作り出すように、吸血鬼が提案を示してきた。

 

「君が魔理沙を安全な所まで運び、戻ってくるまでの間、私たちの決着が着かなかったら君に戦いの場を譲ろう。飛べばここから神社まで十分程度だから、介抱の時間も鑑みれば三十分ほどで戻ってこれる筈だ。どうだね」

「……」

 

 空白が生まれる。ジトッとした眼差しでナハトを睨み続けた霊夢は、ちらりと魔理沙に目をやって、お祓い棒と一緒に視線を落とした。

 舌打ちを一瞥。

 

「二十分よ。それまでに絶対戻ってくるから」

「心得た」

 

 交渉を結んだ霊夢はすぐさま魔理沙を抱えると大地を蹴り飛ばし、博麗神社へ一直線に舞い戻っていく。

 見届けて、ナハトは彼方を見た。太陽熱よりもジリジリと身を焼く怨念の根源が、およそ文字で表現する事の出来ない、壮絶な笑顔を浮かべて待っている。

 地から足を離し、高度を上げる。徐々に徐々に、霊烏路空の体を乗っ取った悪魔に近づいていく。

 

 やがて二人は、雪花の降る夜に相見えた。

 

「待っていたぞ、ナハト。それはもう存分に待ちわびたとも。恋人を待ち続ける生娘の心情はこんなものかと下らん妄想をする程度にはな」

「そうか。不快だ」

 

 瞬間、黒い稲妻が音を切り捨てて一閃した。

 ナハトの肩上から顕現した魔剣が、何の躊躇も無くスカーレット卿を切り捨てたのである。

 だがしかし、スカーレット卿はナハトの切り札ともいえる魔剣対策を怠るほど愚鈍な悪魔ではない。漆黒の魔力物体はスカーレット卿の体に触れる直前、まるでガラスが砕け散るような高周波と共に四散し、果てた。

 

 くぐもった愉悦の音頭が、ナハトの耳を抉るように刺し込まれる。

 

「そう焦らずとも良いだろう。私と貴様の仲じゃあないか。まずは共に語らって、それからじっくり殺し合えばいい」

「お前の嗜好に付き合うつもりはない」

「いいや、無理やりでも付き合わせるさ。それに今の一撃で理解しているのではないかね。貴様の攻撃が、私の元には届かないことに」

 

 両手を広げ、悪魔は喜色を纏って笑う。人生の大舞台に歓喜する若人のように。古き友との再会を喜ぶ老人の様に。

 反して、ナハトの表情は氷河期の大地が如く凍結していた。

 

「……呪いか。それもただの呪いではないな。あらゆる呪詛、あらゆる負、あらゆる怨念を編み上げて作られている。触れれば生物はおろか、無生物ですら蝕み侵す絶対の病だ。……お前が多くの魑魅魍魎に()を撒いた真の狙いがこれか」

「ご名答、流石の慧眼だ吸血鬼。これを編み出すのは相当な苦労を強いられたぞ。外からの攻撃は弾き、内側からの攻撃を通すなんて都合のいいものを造り出す努力は並では足りなかった」

 

 スカーレット卿はただ闇雲に魍魎たちへ己の寄生体を植え付けていた訳ではない。小さな力を掻き集め、大きな盾を造り出すために。混乱を招き、意識を卿へ一極集中させぬよう陽動するために。彼はここまで大仰な異変をやってのけたのだ。

 当然、寄生する人材は選抜してあった。土蜘蛛の病、橋姫の嫉妬、西行妖と亡霊姫の死を誘う幽世の凶器。精神面、肉体面、万物に対するあらゆる負を掻き集め、男は唯一無二にして最強最悪の鎧を獲得するに至ったのである。

 その力は、対非物理ならば絶対的優位性を持つグラムですら、容易く弾いてしまうほどに。

 

「さて、虐殺を始めようか。ああ言っておくが、この鎧は壊そうが無効化しようが即座に作り出せる無限の守りだ。当然だろう? 一回きりで終わりにするような使い捨てのシステムを、貴様の様な化け物相手に採用する訳がない」

「だが力の供給源を断てば話は別だな。そこまで強力な鎧を維持するには、大きな核を複数必要としているのだろう。それらを全て無力化すれば、邪悪な鎧などただの魔力塊に成り果てる」

「だから、どうやってそれを成し遂げると言うんだ。私がみすみす貴様にコアを見つけて破壊させる時間を与えるとでも思っているのか? いいややらん。このまま巫女が戻ってくるまでの狭間で、貴様を徹底的に嬲り殺してくれる」

「……なるほど。先ほどの輝夜の言葉は、実に的を射ていたようだな」

 

 無色の息が吐き出され、夜闇へ空虚に溶けていく。脈絡もなく回想に耽る吸血鬼を、理解不能と言った様にスカーレット卿は眉を顰めて嘲笑った。

 ナハトは言う。狂気に蝕まれ、脳髄から全身の神経に至るまでを復讐心に染め上げられた、哀れな元吸血鬼に向かって。

 

「お前は私に囚われ過ぎた。私への憎悪に塗り潰されたが故に視野を狭まれ、肝心な所を見落としてしまった。かつて偽物の安心に惑わされた私たちの様にな」

「なに……?」

「言いたくはないが敢えて言おう。お前の作戦は見事だった。己の弱点と脅威を緻密に分析し、無意識と安心の虚を突き、対策に対策を重ね、人々の心を誘い導き、影の中の影に身を潜めながら計画を遂行し続けて結果を成したその手腕、狡猾さ、ただならぬ執念は感服の一言に尽きる。まんまとしてやられたとも。敵ながら天晴と言う他に無い。――だが」

 

 ビシリ。

 大きな亀裂の走る音が、二人の間に生れ落ちた。

 ナハトは何もしていない。スカーレット卿も同様だ。

 魔力圧をぶつけ合い、空間に圧をかけた訳でもない。ナハトの魔性が大気を蝕み侵した訳でもない。

 本当に、()()()()()()()()()()()()()()

 

 では、明確にナニカが割れていくこの音は、一体――――?

 

「一つだけ、お前は見誤った」

 

 音の発生源は、スカーレット卿の鎧から起こっていた。

 不可視だった膜が、放射状に刻まれゆく亀裂によって姿を現す。巨大な裂け目から枝葉が生えるように細かい傷が走り回って、遂にはスカーレット卿を覆う全領域にまで広がった。

 何が起こっているのか理解できず、首を右往左往する太陽の悪魔。

 しかし直ぐに、理解の電撃が訪れたのだろう。ハッとしたように、卿の瞼が限界まで見開かれた。

 一筋の汗が伝い、顎から落ちて彼方へ消える。

 

「まさか――まさかッ!?」

「ああ、そのまさかだとも」

 

 ぱちん、と徐にナハトの爪が鎧を弾く。触れれば最後、どんな大妖怪であっても致命傷を免れられない死の鎧を。

 次の瞬間。絶対無敵を誇るはずのスカーレット卿最後の砦は。盛大な破砕音と共に、砕けた宝石の如く四分五散し壊滅した。

 

 謎の答えは示された。

 

 互いに殺気を飛ばし合い、膠着状態にあった両者が鎧を剥いだ原因ではないのなら。

 事象の根幹は、全く別の場所に存在するという事になる。

 それは即ち、八雲紫の元に結集せし、万夫不当の百鬼夜行が悪魔の罠を掻い潜り、力の基点を破壊した意味に他ならない。

 

「あ――――」

 

 そして訪れる、魂を食い潰さんばかりの闇の暴圧。

 両腕でしっかりと身を抱きしめねば気を違えそうになる圧倒的な波動があった。悪夢が形となって触手を伸ばし、全身の穴から魂を冒してくるような、絶望的な忌避と憂虞の再臨があった。

 

 悟る。永きに渡り求め続け、己を苛ませてきた全ての元凶。スカーレット卿の絶望が運命の糸に導かれ、時を越えて再び眼前に現れたのだと。

 心づく。永久(とこしえ)の死を賜るカタストロフが、遂に、遂に完全復活の成就を果たしたのだと。

 

 この時を以て、至大にして偉大なる恐怖が目を覚ます。

 

 絢爛に散りゆく欠片の狭間で、魔王の瞳が光を帯びた。

 闇夜の支配者は黒き瘴気と共に口を開く。

 存在の根幹にまで響き渡る、魔性の声を伴って。

 

「この地に住まう少女たちの力を、お前は見誤ったのだ」

 



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39.「踊る少女戦線」

「師匠、指定のポイントに到着しました。次の指示を」

「うわぁ……人がいっぱいだぁ……」

 

 人里の遥か上空にて。普段ならば想像もつかない妖怪コンビが、地上の人々を見下ろしていた。

 物珍しそうに人間たちを観察しているのは、地霊殿の主古明地さとりである。旧地獄にはまず生きた人間などやってこないため、古い記憶にしか存在しなかったヒトの姿に若干の感動を覚えている様だった。

 幻想郷に似つかわしくない、耳に掛けるタイプの機械仕掛けを通じてここに居ない誰かに話しかけているのは、元月兎こと鈴仙・優曇華院・イナバである。どうやらマイクの向こうには永琳が待機しているらしく、何らかの指令を待っている様子である。

 

 事の発端は数分ほど前に遡る。

 

 地底での会合時、八意永琳と八雲紫はナハトの()退()を一目で見抜いていた。出自の解明や一部の者達との勘違いの解消など、ナハト自身の精神ダメージと恐怖の供給量の減少によって、元々残量を減らしていたナハトの容積は、看過できない限界ラインを迎えようとしていたのである。それを補填するために、賢者たちはある作戦を企てたのだ。

 

 それは紫の演説が届いていていない人里の人間を恐怖させる事で、ナハトへ一時的ながらも恐怖の供給を行う、いわば輸血の様な治療計画だった。

 妖怪は人間から恐れられるものだ。これは大昔から変わる事の無い摂理である。故に、恐怖の質は妖怪よりも人間の方が遥かに高い。人口は決して多くないものの、生み出される恐怖はナハトの内容量をセーフラインに戻す程度には十分だった。

 加えて、本作戦は秋の事件とは準備が違う。既に紫が各方面へ情報を送っており、ナハトへの誤解が生まれて余計な混乱を招かぬよう舞台が整えられていた。これで余計な波紋を出すことなく、計画を遂行出来るという訳だ。

 

「はい……はい……了解しました。では、失礼します。……ふぅ。久しぶりのこういう任務はやっぱ緊張するなぁ」

「それで、永琳さんはなんと――うう、そうですか。滞りなく決行ですかそうですか」

 

 心で受け答えする無言の鈴仙。どんよりするさとり。

 この二人が抜擢された理由は一つ。彼女たちの能力が無ければ、この作戦は絶対に完遂し得ないからである。

 

 片や心を読む能力。片やあらゆる波長を操る能力。八意永琳はこれらを応用し、『疑似ナハト』の制作を試みた。

 

 かつての永夜異変で、鈴仙はナハトの魔性を間接的に観測している。故に、再現の難しい『消滅の概念』の瘴気を波長という形でトレースする事が可能だった。つまりこの作戦の概要とは、波長操作でナハトの魔性を再現しつつ、さとりの想起を用いた()()を併用する事で、人里の人間に今回の騒動がナハトによるものだと信じ込ませ、恐怖を呼び起こすと言うものなのだ。

 いたってシンプルで捻りの無い作戦だが、急ごしらえで恐怖を回収するという点においては、これほど効果を発揮するものは無い。まさにシンプルイズベストであろう。

 

「あの、ところで鈴仙さん。あなたの波長操作って、彼の瘴気を再現しても平気なんですか? あれは確か『消滅の概念』? から生じた余波エネルギーらしいですから、鈴仙さんにも悪影響が……あ、永琳さんの安全テストをパスしたんですね」

 

 私、こういう試薬テストには慣れてるんですよ! ――何故かドヤ顔で鈴仙は言った(おもった)

 試薬テストってそういう行為じゃないと思うし、むしろ普段はどんな事されてるの? と内心頬を引き攣らせるが、口には出せないさとりである。

 

「それじゃ準備は良い? 背負うわよー」

「は、はい。よろしくお願いしま、ひゃっ!?」

 

 真っ黒なダボダボローブを着込んださとりの股下に潜り込み、鈴仙は肩車の要領で持ち上げた。ローブは二人を包み込むと、ナハトより少し大きい程度の身長となる。

 そそくさと、さとりは仮面を装着した。ボイスチェンジャー着きの変装アイテムらしい。瘴気を遮断するコンタクトレンズといい、目薬といい、地上の薬師とは何でも屋と同業だったのかとちょっぴり感動するさとりである。

 

「準備が出来たら言ってね。里に波長を飛ばしていくわ」

「分かりましたっ」

 

 と言っても、ここからが至難の工程だ。少なくとも、引っ込み思案なさとりにとっては結構な試練と言えるだろう。

 想起を用いて演技をすると言ったが、もちろんこれは相手のトラウマを読んで弾幕として再現するという意味合いではない。想起するのは『相手の』ではなく、『自分に』なのである。

 つまり、さとりはさとりの中のナハト像(トラウマ)を自らに想起させ、ナハトという怪物へ成りきらなくてはならないのだ。

 しかしこういった役にハマらなければならない行為は、考えれば考えるほど分からなくなるもので。想起の基準点を決めかねたさとりは、うんうんと唸り声をあげた。

 

「うーん……違う……こうじゃない……もっとこう、ぬわーっ、どふぁーって感じの威圧感で……うぅーん」

「まぁ、あれですよサトリさん。そんな忠実にやらなくても良いらしいですから。要は印象だけ真似られれば万々歳なわけで」

 

 印象。

 その言葉が、さとりに発想を与える鍵となった。

 そうだ。鈴仙の言う通り、人間にナハトの特徴を植え付ける事さえ出来ればいいのだ。そうして人間たちの認識をナハトで埋め尽くせればいい。

 

 人が人を追憶の中から識別する際に、最も重要な要素とは何か? ――それは第一印象だ。初めて出会った時の第一印象は、後に相手を思い出す上で大事な羅針盤となる。例えば匂い。独特な香水をつけている人がいて、その匂いを別の場所で嗅いだ時、人は関連する人物を思い出す時がある。この性質を利用するのだ。

 

 万人がナハトに対し、抱くであろう第一印象。

 なんだ、簡単じゃないか。あの男を一目見れば、誰だって()()と思うに決まっている――さとりは第三の眼を包むように手を当てて、己が意識に集中した。

 精神を研ぎ澄ませ、心のイメージを皮膜の様に被せていく。自己暗示を繰り返し、さとりを『ナハト』へ変えていく。

 ローブの中の第三の目から、眩い光が漏れだした。

 

 

 ――――想起『闇夜の支配者』

 

 

 

「お、おい! 何だよあれ!?」

 

 人里の男が、彼方を指さしながら悲鳴を上げた。

 里の周囲で妖怪が暴れまわり、不安に駆られている人々は、その一声に意識を掻き集められてしまう。

 示された方角に、黒い幻影が君臨していた。暗き火の玉の様に巨大な黒布を靡かせながら、真夜中の空だと言うのにハッキリと姿形を映えさせていたのである。

 それが人の形をしたナニカであると、人々が認識した、その時だった。

 

「――――聞くがよい。檻の中で飼いならされた、哀れで矮小な人間どもよ」

 

 獣の様に低く、悪魔の様に悍ましい男の声が、里の全土へ響き渡ったかと思えば。

 尋常ならざる恐怖の波動が、人間の絶対安全圏を蹂躙した。

 膝から崩れ落ちる者がいた。暖かい液を股から流す者がいた。石像の様に硬直する者がいた。心臓を握り潰さんばかりの根源的恐怖の瘴気は瞬く間に人間たちを侵食し、心拍数を跳ね上げながらも血の気を悉く奪い去っていく

 だがしかし、誰一人として、その影から目を離すことは出来なかった。

 

「我が名はナハト。古より蘇りし闇夜の支配者、そして汝ら凡愚どもの王である。心して聞くがいい、人の子よ。幻想郷はこの余が乗っ取った」

 

 広く、広く、影の両腕が伸ばされていく。遠く離れているはずなのに、巨大な怪物が里を覆いつくしていくような錯覚を刻み込まれ、人々はたちどころに転倒した。

 

「頭を垂れ、余の誉れ高き名を恐れ敬うがいい。そして平伏し、涙と共に絶望せよ。これより先に一切の安寧は無く、汝らは余の所有物、奴隷として未来永劫生き続けるのだ。蹂躙を甘受し、肉の駒となって地を這い回るがいいぞ!」

 

 

 

 「――――させませんっ!」

 

 唐突に、魔性の言葉を裂く光が瞬いた。

 五芒星を象る新緑の閃光が闇を貫く。魔王は翻ってそれを躱すと、退魔の輝きを放たれた方向へ向き直った。

 

「何奴!?」

「誰と聞かれてはしょうがない。名乗りを上げさせてもらいましょう」

 

 一陣の風があった。粉雪を舞いあげ、吹雪へと昇華する疾風があった。

 旋風の中心には少女がいた。青白を基調とし、脇の露出は怠らない巫女装束。カエルのカチューシャに、若葉色の髪を一房束ねる白蛇の髪飾りは信仰の証。水玉模様の青いスカートは星空の如く、灯篭の火を反射する。

 

「人を照らすは善なる光。信仰は儚き人間の為に。――さぁ、ご照覧あれ! 守矢の二柱より加護を受けし、絶対退魔の風祝! 東風谷早苗、ここに推参ッ! ですっ!」

 

 ばちこーん、とカラフルな煙幕が背後に立ち込めそうなポーズと共に、幻想郷二人目の巫女が姿を現した。

 どよめきが訪れ、暗雲立ち込めた人里へ希望が灯る。

 何だか大げさに気圧されるように、魔王はたじろぎながら絶叫した。

 

「おのれモリヤめ、ハクレイと共にまたしても余を邪魔するか!」

「ええ、あなたの悪事は何度だって阻止してみせます! 霊夢さんがあなたの部下たる四天王を相手している今! この私が、あなたを成敗してくれましょう!」

「生意気な小娘がァァーッ!!」

 

 百花繚乱、千変万化の華麗な弾幕が星空に負けじと咲き誇る。火花が散り、閃光が砕けて爆ぜた。豪華絢爛な弾幕と圧倒的な近接攻防は、冬の寒さを丸ごと吹き飛ばしていく。

 気が付けば、人里からは守矢コールが上がっていた。

 

「とりゃあああ――ッ!!」

「ぬゥあああああああああああああッ!!」

 

 ズバヂィッ!! と稲妻が炸裂する様な音と共に、巫女の幣と魔王の腕が何度も何度も激突する。その度に火の粉が舞い、歓声が沸き上がった。

 終いには、額がくっつく程に鍔迫り合いが始まる。ぎりぎりと、ギチギチと。幣とローブが拮抗し、金属同士を擦り合わせるかのような高周波が耳を劈いた。

 

「(えっと、次の手筈は何でしたっけ早苗さん?)」

「(あ、この後私を蹴り飛ばしてください。派手に吹っ飛んでやられたフリをして、劇の谷場を作りますので)」

「(りょーかいです。怪我しないでくださいね?)」

 

 力と力が肉薄する闘いの中、二人はどういう訳か、()()のシナリオについて話し合っていた。

 

 そう。守矢神社側もまた、八雲紫から(まこと)を得て、八意永琳のシナリオに組み込まれた役者だったのである。

 ナハトの恐怖を植え付けるだけでは、過度なストレスによって人間側に精神的障害が生まれかねない。波長を真似ただけの贋作とはいえ、本来ならば相対しただけで発狂するような恐怖と嫌悪の塊なのだ。力ある者ならばいざ知らず、ただの人々にはあまりに荷が重すぎる。

 そのケアとして考案されたのが恐怖の緩衝材、つまるところヒーローの存在だった。博麗の巫女が動けない今、守矢神社の早苗を起用する事で勧善懲悪劇を披露し、余剰な恐怖を中和しようと言う魂胆である。

 

「(……けどその波長、ちょっとキツいです。トラウマが刺激されて、うぇっ、なんだか気持ち悪くなってきました……っ)」

「(ちょちょちょちょなに青褪めてるんですか絶対ここで吐かないでくださいよ!? それ射線上に丁度私の顔があるんですから波長緩めるんで我慢してください後生だから!?)」

「(あ、これ蹴られたら戻しちゃうかも。いや戻しますごめんなさい)」

「(フリ! 蹴るフリですから! そんな直ぐに諦めないでお願い!?)」

「おのれェ……ッ!! 神に祈る程度しか能の無いシャーマン風情が余と同じ宙に立つなど、万死に値する不敬であるぞ! 地を這う虫ケラは虫らしく、潰れ砕けて土の肥やしになるがよいわァ――ッ!!」

「(サトリさんもちょっと役にハマり過ぎじゃないですか!? あっちょ上で暴れないで振動が早苗さん刺激しちゃいますからやめてええええええっ!!)」

 



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40.「誠の刀」

「うう~~~寒っ!」

「……くないわね。あれ、死後の世界はこの世より寒いって聞いてたんだけど、なにこれ? 下界より全然暖かいじゃない」

 

 スキマを抜け、冥界へと辿り着いた蓬莱人たちが最初に感じた空気は、幽世特有の生気の無い香りではなく、魂魄が安寧を満喫する死後の憧憬でもなく。青々とした若葉が一面に生え揃い、満開の桜並木が全面を彩る、およそあの世とは信じがたい暖かさに溢れた光景だった。

 

「これ本物? 偽物じゃ……あ、引っこ抜いたらちゃんと根っこ着いてる」

「あらほんと。生き物が居ないはずなのにちゃんと命があるなんて、あの世って不思議な世界ね」

「……って、こんな事してる場合じゃないわ。西行妖を止めに行かないと」

 

 確か白玉楼ってお屋敷にあるのよね――輝夜は周囲を見渡しつつ、目的地の目印を探していく。

 ふと、遠方に頭一つ抜けた桜が見えた。妖しい薄桃色の光を散らす樹冠が、遠くから覘くと富士山の様に映って見えた。

 あれが西行妖に違いないと、疑いも無く確信した。大きさもさることながら、眺めていると魂を吸い取られそうになるのだ。妖怪と化し、生者を死へ誘う化け桜となったならそれも道理だろう。

 

 二人は地から足を浮かせ、桜目がけて飛んでいく。距離は無く、数分もしない内に大きな屋敷へ到達した。冥界の管理人たる西行寺幽々子の住処、白玉楼である。

 途中、屋敷全体を覆う薄紫色の膜の様なナニカがあった。軟体動物の様に蠢きながらも、決して内部を漏らさない柔和な境界だ。これが西行妖を封じる八雲紫の結界なのだろう。恐る恐る触れてみると、すんなり手がすり抜けた。どうやら内部の力だけを逃がさないよう調節しているらしい。

 

「行くわよ」

「ええ」

 

 先陣を切った輝夜は、一息に内側へ入り込んだ。

 

「……ッ!? か、はっ!?」

 

 前触れも無くそれは起こった。体が境界線を跨いだ瞬間、まるで布切れを思い切り引き絞るかの様な過負荷が心臓へ襲い掛かってきたのだ。無理やり脈を阻まれ、血流が停滞や逆流を引き起こし、筆舌に尽くしがたい激痛が体を蝕む。堪らず胸を抑え、肺から抜け出す酸素を取り返そうと必死に呼吸を繰り返した。だが筋肉が神経を遮断された様に動かない。呼吸しようにも、呼吸器そのものが動かせない。

 酸欠のせいか、視界が闇に塗り潰されていく。明滅する頭では飛翔能力を統率できず、引力に従うまま体が傾いていくのが分かった。

 直後、輝夜の意識はブラックアウトした。

 

 

 ――蘇生(リザレクション)

 

 

「ぶはっ! はぁっ、は、ゲホっ、うぇぇ……」

 

 まるで死線期呼吸の様な息吹と共に、輝夜は飛び上がって目を覚ました。じわじわと嫌な汗が噴き出して、自分が今死んだのだと実感する。

 

 次の瞬間、輝夜の体に再び異常が訪れた。今度は頭蓋の内側が、まるで火かき棒に掻き混ぜられたかのように痛むのだ。鼓膜や三半規管を引き抜きたくなるような耳鳴りと眩暈の大合唱が鳴り響き、頭を押さえて蹲ってしまう。

 隣から同じような呻き声が聞こえてきた。言うまでもなく妹紅だ。彼女もこの力に囚われてしまっているらしい。歯を食いしばりながら地面を搔き毟っている。

 

 だがしかし、輝夜と妹紅は永劫を生き抜くことを約束された蓬莱人であり、しかも互いに殺し合う事を生活の一部として組み込んでいる様な異端児だ。痛みと死には妖怪以上の耐性を持ち合わせている。故に、常人ならば発狂するような苦痛を注ぎ込まれる状況でも、頭を十分に回転させることが出来た。

 

 この症状は十中八九西行妖の仕業だろう。事前に聞いていた『死へ誘う性質』がこれなのだ。西行妖の伝説からして自殺に導かれるのかと勘違いしていたが――いいや、実際はそうだったのかもしれないが、想像以上に苛烈な力だったらしい。もしかしたら永い時間によって力が変質したのかもしれない。

 

 つまるところ、死へ誘うのは精神面ではなく()()()の方だったのだ。

 

 言い換えるならば全身規模の自殺機能(アポトーシス)。それがこの結界内で強制的に誘発され、否が応にも生き続ける限り無限の死を与えられてしまうのである。

 紫を手こずらせる理由が分かると言うものだ。妖怪は死に疎いが、それでもこれは熾烈極まりない苦痛を呼ぶ。拷問を超越した死の連鎖は、精神的に脆い妖怪の心をいずれ瓦解させ、魂を西行妖へ捧げてしまうには余りある力だろう。

 

 だが。

 

「づ……ゥッ……は、ははっ。んにゃろ、痛いだけで降参すると思ったら大間違いよ。蓬莱人、舐めんじゃないわ」

 

 この程度で音を上げるなら、輝夜はとっくの昔に死に絶えている。むしろ痛みは生の証拠。永遠の住人にとって苦痛など、ただの気付薬程度にしか働かない。

 

 時の歯車を緩めるように、輝夜は能力を発動した。

 

 永遠と須臾を操る程度の能力。時の間隔を操るその力は、()()()()()()()()()()を永遠に変えた。

 例えるなら、ウイルスが体を蝕むまでの時間を未来永劫のものとしたのである。能力が降りかかっても、発動するまでに途方も無く時間を食うならば意味が無い。それを応用し、輝夜は疑似的に自殺機能(アポトーシス)を無効化させたのだ。

 自壊が止んだところで即座に蘇生(リザレクション)を行い、体をリセットする。妹紅も同様に復活を果たすと、服に着いた土埃を払いながら立ち上がった。

 

「妹紅、平気?」

「ええ。ちょっとびっくりしたけど、この位どうってことないわ。そっちは?」

「大丈夫。…………しかし、これが例のお化け桜か。想像以上に曲者だったわね」

 

 前を見る。悍ましい赤紫の灯を心臓に似た鼓動と共に放ち続け、血肉が寄り集まって花弁となったような生々しい樹冠を携える桜があった。春の到来と命の息吹を一番に伝え、人々の心を暖める桜ではない。生けとし生けるものを死の暗闇へと引きずり込む正真正銘の化け桜、西行妖だ。

 

「……ん?」

 

 ふと、桜の根元に人影があった。どこか見た事のあるシルエットで、輝夜は近づきながら様子を伺う。その距離が縮んでいくごとに正体は克明となっていった。

 水色を基調とした着物に身を包み、頭にはちょこんと丸い帽子が乗っている。頭部を覆う山部分(クラウン)の前面には魂らしき渦巻き模様が彩られていて、帽子の下から見える桃色の髪は、輝夜に負けるとも劣らない濡れ髪の様な艶を湛えていた。

 輝夜はいつの日か参加した宴会で、彼女を目にした覚えがあった。八雲紫の傍でほわほわとした笑顔を浮かべながら日本酒を嗜みつつ、戦慄するほどの料理を口にしていた亡霊姫、西行寺幽々子である。

 

 ふと。こちらを見つけたらしい幽々子は手をひらひらと振りながら、朗らかな笑顔を浮かべてきた。

 

「まぁまぁ。あなたたちは確か、蓬莱人の方々よね? 紫が遣わせてくれたのかしら。良かったぁ、この桜が突然咲き始めちゃって、どうしていいか分からなかった所なのよ」

「幽々子、あなた無事だったのね! 待ってて、直ぐそっちへ行くから」

「だめ!」

 

 妹紅から肩を掴まれ、駆け寄ろうとした行く手を阻まれる。何だと後ろを振り向けば、険しい表情を浮かべる妹紅が視界に映った。

 

「あんた忘れたの? 西行妖の封印が解かれたなら、封印の要でもある幽々子さんに異変が起こっていても不思議じゃないと妖怪の賢者が言ってたでしょう。それにここは怨霊の支配下になっている。うかつに近づいては駄目」

「いやでも、あの姿も雰囲気も、前に見た幽々子そのものよ? 彼女は紫並みの使い手らしいし、何らかの方法で難を逃れた可能性だって」

「確かにそれも一理ある。でも、()()は根本から違う」

「違う……?」

「本人だけど本人じゃないのよ、あの亡霊姫……いや、()()()と言った方が正しいかしら? なんというか、()()の匂いがする。大昔から嫌ってほど感じてきた、命を失くした血と臓腑の香り(けはい)。それがムンムン伝わってくるわ」

 

 ――二人の蓬莱人は、この地へ赴く前に西行妖に纏わる伝説を耳にしていた。

 

 人々を死の暗闇に誘う己の力を憂い、呪われた桜の下で自決を果たした一人の少女の哀しい物語。呪詛に等しい能力は転生後も付き纏うと知り、それを憐れんだ紫と閻魔が彼女の魂を冥界の管理者へ定め、安寧を与えたという儚い経緯。

 そして、西行寺幽々子の死体を要とした、西行妖の封印術についてを。

 

 八雲紫はスカーレット卿が西行妖を開花させた事について、疑問を幾つか抱いていた。太陽の力を利用し、疑似的な春を到来させたことで『春度』を掻き集めた理屈は分かる。恐らく怨霊を凝縮させた()()も注いで活性化させただろうとも想像がついている。

 だがそれだけでは満開など有り得ない。何故ならかつての春雪異変において、幻想郷中の春を掻き集めて開花を試み失敗したという前例があるからだ。その程度で満開になる事は無いと証明されたも同然なのである。

 

 ならばどうして、桜が開花寸前にまで至ってしまったのか? ――この不可解に対し、紫はとある仮説を立てた。

 即ち、封印の核たる西行寺幽々子の遺体になんらかの干渉があったのではないかと。

 例えば、そう。自らの分霊を含んだ怨霊を桜を通して遺体の中へ流し込み、依り代として拝借したとか。

 

「あれは西行寺幽々子であって幽々子じゃない。()()()()()そのものなのよ」

 

 妹紅は札の髪留めを一つ解くと、力を込めて投げ打つように解き放った。呪印が光り、猛々しい大火を帯びて形を作る。姿を得たそれはさながら不死鳥だった。火の鳥を模した陰陽の札は、迷うことなく幽々子へ襲い掛かる。

 幽々子の手前、およそ五メートル程度まで鳥が近づいたその時だった。足元の砂紋が砕け、どす黒い触手が夥しく生えてきたかと思うと、火の鳥へ絡みついてあっという間に地の底へ引きずり込んでしまったのである。

 瞬間、爆発が起こった。札の爆裂機能が今になって発動したのだろう。庭師の手で整地されていた庭園が大地の内側から抉れ飛び、猛烈な硝煙を巻き散らした。

 

 煙の中で、引き裂かれる笑みが一つ。

 

「惜しい。あとちょっとで姫君を捕らえる事が出来たのに。しかも爆発のせいで折角の罠も滅茶苦茶になってしまったじゃないか。騙し討ちは失敗かな?」

「ほざきな、三文役者。嵌めたいなら被害者のフリでもしてたら良かったのに。秋の人里でやった様なヤツなら、引っ掛かってあげてたかもしれないけどね」

「なに。ちょっとした遊び心だよ、藤原妹紅。元より()()()の目的は時間稼ぎであって邪魔者の始末ではないのでね。別段、これらも意味なんて無いのさ」

 

 乾いた土が剥がれる様な音がした。

 バリバリと、西行寺幽々子の表面からナニカが崩れていく。肌のみならず、髪からも、服からも、まるで蛇の脱皮の様に、余分だった化粧が腐り落ちていく。

 現れたのは、着物に身を包んだ黒髪の麗人だった。死後のフワフワとしたのんびりな印象とはまるで違う、吹雪が人の形を持ったが如き冷たさを孕んだ少女だった。

 恐らく、この姿が生前の西行寺幽々子だったのだろう。全てを悟った妹紅は怒りに震え、わなわなと腕を振るわせた。

 

「……やっぱりか。アンタ、よりにもよって亡骸を乗っ取ったな。尊ぶべき人の死を、最低な形で冒涜しやがったんだな」

「? 何を言っている。魂が抜けて留守になった肉の塊を拝借しただけだ。無様な死を尊ぶなど、人間の価値観はよく分からんな」

「ッ!!」

 

 薄く、薄く。骸を辱めた外道は微笑む。陽によって暖められた冥界の空気が凍り付いていくような、そんな錯覚を覚える微笑(びしょう)だった。

 妹紅の舌剣を援護するように、輝夜が言う。

 

「遺体が封印から外れてしまったら、魂が肉体に戻って諸共滅びてしまうと聞いたわ。なのになんで満足に活動していられるのよ?」

「アレを見れば分かるだろう?」

 

 すぅっ、と。死人の指が方角を指し示す。直線状には屋敷があった。幽趣佳境な日本庭園と浅紅色の桜並木を一望できる白玉楼の縁側だ。ここに座ってお茶を一服すれば、さぞ心の清涼剤となる事だろう。

 だが、涼し気な雰囲気と相反する物体がそこに鎮座していた。

 幽々子だった。蛍の様な淡い光を帯び、奥が透けて見えるほど存在を希薄化させている幽々子が、宙に浮いて横たわっていたのである。

 傍目から見ても意識はない。完全に消滅していないところから見て無事ではあるようだが、しかし、大丈夫とも言えなさそうだった。

 

「……成程ね。こいつは最悪に厄介だわ」

 

 忌々しそうに舌打ちを一瞥する妹紅。眉間に皺を寄せながら、遺体に潜む悪魔を刺し殺さんばかりの視線を飛ばす。

 

「その体、()()()() どんくらい敷き詰められてるのか知らないけど、中はうじゃうじゃ怨霊が巣食っている。だから幽々子さんの魂がそこへ戻れない。ギチギチの密室に人が入れるわけがないもの。けれど封印から外れた遺体に魂が引っ張られて、どっちつかずの状態になっちゃってるってところか、今の幽々子さんは」

「ご名答。中々の洞察力だ藤原の娘よ。流石長生きしているだけはある」

「……ちょっとまって、それじゃあいつを()()()()じゃない!? だって、あいつを倒しちゃったら幽々子が!」

 

 現状、スカーレット卿が数多の怨霊と自らの分霊で()()を圧迫しているが故に、幽々子は遺体に取り込まれず、互いに消滅することなく拮抗している状況だ。

 だが裏を返せば、輝夜と妹紅が何らかの形で遺体を取り返した次点で即座に幽々子の魂が遺体へ取り込まれ、亡霊として過ごした千年余りの時間が一気に圧し掛かり、肉体も魂も纏めて消え去ってしまう可能性を意味している。魂と肉体、その両方を人質にとられていると言っていいだろう。

 

「でも手が無いわけじゃないわ」

 

 そう。展開できる策が皆無な訳ではないのだ。魂を吐き出させた瞬間、肉体へ妹紅か輝夜のどちらかが紫から渡された封印札を張り付け、再び西行妖の下へ還してしまえばいい。肉体から異物を取り除いた瞬間に幽々子の魂が戻ってしまうなら、肉体を『永遠』で固めて魂の帰還を断ってしまえばいい。他にも、解決へ至れる手段は考えれば出てくるだろう。

 

 しかし、これらの手段には大きな壁が立ちはだかっている。それは輝夜の持つ能力の弱点と、遺体の中身に巣食っているだろう怨霊たちの数が原因だ。

 永遠の力を使えば幽々子の肉体は完全に固定できる。それこそ完璧な永久死体の出来上がりだ。しかし逆を言えば、こちらからも一切の干渉を行うことが出来なくなるという事態にもなる。時の流れを久遠に変えて変化を拒絶する力が『永遠』ならば、そこに第三者が干渉する余地は無い。固定すれば事の悪化を防げるものの、状況も膠着状態となってしまう。

 

 ならば幽々子の魂を永久化させれば良いのか? 現状これが最適解だろう。そちらを永遠にしてしまえば、魂と肉体の衝突によるパラドックスという最悪の結果を防ぐことが出来る。

 しかしここで問題となるのが、あの肉体にいったいどれほどの魂が巣食っているのかと言う点だ。全ての怨霊を吐き出させなければ、例え西行妖に戻した所で再び細工をされかねない。けれど相手は千年近く眠り続けていた死体だ。怨霊の摘出は術符を用いるか、直接ダメージを与えて吐かせる必要があるが、加減を間違えれば体が崩れかねないのである。

 一度崩壊が始まってしまえば輝夜であっても止められない。『永遠と須臾を操る程度の能力』は時間逆行を行えないからだ。出来るのは『対象の過程』にかかる時間を極限まで引き伸ばすか、圧縮された刹那の時間で行動するだけ。固定は出来ても修復は不可能である。

 

「輝夜、一先ず幽々子さんの魂を」

「もうやった。……けど、問題はこれからよね」

「作戦会議は終わったかい? なんならもっと時間をかけてくれて構わんよ。私は別に、君たちを早急に撃退しなければならない訳じゃあないのでね。ゆっくりのんびりやっていきたいと思っている程なのさ」

 

 ふざけた口調で悪魔は言った。輝夜は眉間に皺をよせながら、それを弾く様に言葉を繋ぐ。

 

「……時間稼ぎと、八雲紫封じが目的なのよね。ナハトを理想の中で倒す為に」

「そうとも。私の――いいや、()()の目的はあの吸血鬼を計画に従うまま葬る事だ。だがその為には時間と舞台が必要でね。だからこうして、一番厄介な妖怪の妨害工作をしているわけなんだ、働き蟻のようにせっせとね。……ところで、私からも一つ質問良いかな?」

「なによ」

「どうして西行妖を初めから封印しなかったんだい?」

 

 当然の疑問だった。

 紫の能力を削ぎ落し、行動不能にまで陥れているのは他でもない西行妖である。ならば病巣を先んじて『永遠』に固定すれば、根本の原因を取り除くことが出来るのではないか? というものだ。

 だがその問いに対して、輝夜は口を噤まざるを得なかった。

 反し、悪魔は微笑む。喉を打ち鳴らすような引き笑いで、無言の答えへ満足を示した。

 

「成程、成程。やっぱりそうか。『永遠』とはそう単純なものではないという私の仮説がこれで証明された。それもそうよな。時間の操作は対象へ大きな代償をもたらす。君たちの様に永遠を生きる者や、西行寺の様な時間の束縛から解放された死者であれば無問題だろうが、西行妖であればそうはいかない。差し詰め『永遠』として固定しても意味がないか、もしくは後々の反動が怖いか、どちらかではないかね?」

 

 ――この世界ではない()()の永夜異変にて、輝夜は紫の仕掛けた『永夜の術』を破るべく『永夜返し』という大技を行った。

 これは、輝夜曰く半端な永遠である紫の術を自らの魔法、即ち永遠を操る力を用いて上書きし、支配下に置いて夜から引き剥がす事で、終わりなき夜を明けさせたという経緯である。

 この時、夜は時の流れを激流化させ、一気に暁を迎えるまでに至った。術によって堰き止められていた時間が解放された事で、怒涛のフィードバックが巻き起こったが故の現象である。

 

 つまり、永遠を操る能力の弱点の一つが、現在進行形で進んでいる事象を一時的に食い止めることは出来ても、解除した折に止めていた全てが爆発してしまいかねない点にある。即ち、正しい時間と局所的に切り離された時間との間に起こる、膨大なパラドックスだ。

 

 紫は冬眠前だったせいで疲弊を抱え、更に西行妖の制御に多くの力を削がれている。ハッキリ言うとぎりぎりの瀬戸際だ。そんな状態で、永遠に固定し貯めに貯まった西行妖の力を解き放ったらどうなるかは想像に難くない。ダムから吐き出された鉄砲水に呑まれる子供の様に、あっと言う間に死の濁流に攫われてしまうだろう。

 

 それで済めばまだ万々歳な方かもしれない。何故なら紫と言う最後の砦を打ち破った西行妖の力は、輝夜たちが遺体を戻す前に必ず現世へ影響を及ぼすからだ。蓬莱人ですら一度殺されてしまった尋常ならざる死の呪いから逃れられる者は多くない。普通の人間ならば抵抗すら出来ないだろう。最悪の場合、人里が須臾の間に全滅する可能性だって大いにある。

 そうなったら幻想郷は終わりだ。人間と言う存在の要を失った妖怪たちもまた、食物連鎖の影響で死に絶える上位者の様に、次々と消滅を迎えてしまう。楽園の喪失が、現実のものとなってしまうのである。

 

 だから西行妖には手が出せない。完全な不死者である輝夜と妹紅に降りかかる影響はフィードバックを無視して堰き止められるが、有限なるものたちの為にも、桜そのものを固定する選択はあまりに危険過ぎるのだ。

 

「――お見通しみたいね。そうよ、私たちにはあの桜を止められない。でも止めなきゃこっちの賢者さんの負担が消えない。そして、止めるにはあなたを倒すしかない」

「的確に、繊細に、しかして早急に私を排除しなければならないなぁ、それでは。果たして君たちに遂行できるかね? 常々の異変の様な力技ではこの問題は解決しないぞ? 一度間違えれば即、ゲームオーバーだ」

 

 嗤う。余裕と愉悦、傍観の享楽を胸に、墓荒らしの悪魔はクスクスと微笑む。

 チッ、と。妹紅の舌打ちが鳴った。最悪に厄介だと判断した妹紅の予測が外れていなかったと、改めて実感させられたからだ。

 

「あいつの言う通りだよ、輝夜。まったく本当に厄介極まりないわ。ここまで計算済みだったのならあの怨霊、時代によっては天下を収める器くらいあったかもね」

「くっそー! ここにきて難題を突き付けられた人たちの気持ちが分かる様になるなんて! あーもー思ったよりムカツクわコレ!」

「とにかくあの体から魂を追い出さなきゃ話は進まないわね。じゃないと封印の札を貼っても意味がない。地道にコツコツ頑張っていくしか道がなさそうだ」

「ええ、とことんやってやるわよ。難題吹っ掛けるだけがかぐや姫じゃないってことを教えてやるわ!」

 

 

「おっと、やる気になってしまったか。是非も無し。ではこちらも精一杯抵抗させて貰おうか」

 

 ボロボロの扇を開き、卿はふわりと風を煽る。

 それは号令だったのだろう。即座に桜から力の漲りが迸り、まるで霊魂が織り成す大祭りの様に絢爛な弾幕が、空を覆いつくすが如く二人目掛けて襲い掛かった。

 ひらり、ひらりと。蓬莱少女は縫うように躱しつつ、膠着状態にある現状をどう打開すべきか、思考を巡らせ取捨選択を繰り返す。

 

「言っとくけど須臾の間に殴ったりしちゃ駄目よ! 幽々子さんの遺体が一発で粉々になっちゃうから!」

「分かってるってーの! ……でも、本当にどうやって魂吐き出させれば良いのコレ!?」

 

 強力な攻撃は使えない。封印の札もまだ早い。かと言って時間操作は意味を成さない。

 打てる手立てがあるとすれば、陰陽術を体得している妹紅の祓いだ。微弱な退魔の力を持った護符を打ち込み、少しずつ怨霊を引き剥がしていく他に打てる手立てはない。

 理想を言えば、肉体へ一切ダメージを与えず、全ての怨霊を一気に切り離す事なのだが。

 

「先ずは行動が吉ね。輝夜! 西行妖の弾幕が濃すぎてアイツを狙えない! だからあんたは私のバックアップをして活路を開いて! そこに私が護符をぶち込んで怨霊を引っぺがす!」

「了解! その代わり絶対命中させなさいよ!」

 

 七つの魔方陣が輝夜の懐から出現する。それは数珠の様に眼前で連なると、夥しい虹の弾幕豪雨を展開した。

 

「難題『蓬莱の弾の枝-虹色弾幕-』」

 

 水に弾かれ結ばれる日の煌めきが如き七彩が輝夜を中心に放たれ、黒とも桃ともつかない蝶型の弾幕を相殺していく。

 妹紅は白絹の様な髪を束ねる護符を引き抜くと、か細い隙間を潜り抜ける様に札を飛ばした。紙札はさながら銃弾の如く真っ直ぐに空間を射貫き、寸分狂わず卿の体へビタリと貼り付く。

 人の悲鳴のようなものが響き渡ると、悍ましい黒煙が幽々子の肉体から噴き出した。同時に札が剥がれ落ちて力なく地面へと横たわる。どうやら幾つか怨霊を除霊出来た様子だが、しかし表情から余裕が消えていないところを見ると、全く痛手では無いらしい。

 

「畜生、全然効いてないわねッ! 札の数にも限りがあるし……もうちょい強くしても大丈夫かしら?」

「妹紅、後ろ!」

 

 キン、と。正体不明が高速を伴って空気を切り裂く音がした。弾幕に紛れて姿を晦ませたホーミング弾が、背後から妹紅目掛けて襲い掛かってきたのである。

 間髪入れず輝夜は能力を発動した。妹紅を狙った凶弾が空間へ縫い止められたように動きを止めると、身を翻して妹紅は躱す。能力を解除すれば弾丸は一気に加速され、他の弾幕へと衝突し派手に弾けて砕け散った。

 

「あれ自由自在なの……!? 面倒だわ、前も後ろも気にしないといけないなんて、これじゃ精密に狙撃出来ない!」

「だったら、そうね。よし! 妹紅、札持って私の手を握りなさい!」

「? 何を――――ああそういう事、了解!」

 

 妹紅は再び髪から三束の札を引き抜くと、二つ返事で輝夜の手を握り締めた。

 瞬間、須臾の世界に輝夜と妹紅は入門する。一秒を細切れにしても満たない時間の中を走り、止まっている弾幕の乱気流を潜り抜けて、文字通り刹那の間に卿の元へと到達した。

 しかしこのまま触れればフィードバックで幽々子の遺体が爆散しかねない。故に時を戻し、正常な世界へ至ってから行動に移った。

 背後を完全にとった妹紅は三つの札へ霊力を注入、退魔の力を存分に働かせ、幽々子の肉体へ貼り着ける。

 バヂィッ!! と落雷の様な衝撃が走り抜けた。しかしそれは肉を殴るモノではなく、体の内に巣食う病魔が焼け焦げた衝撃だった。

 

「う、おお……!」

 

 耳を劈く悲鳴が聞こえた。払われた怨霊たちが、断末魔と共に黒煙と化した証であった。相当な数を削られたのだろう、ここで初めて卿の苦悶が声となって顕在化する。

 よろめき、こちらに目をやりながら、しかしニィッとぎこちない笑みを浮かべて、

 

「は、はは。まったく大した奴らだ。と言うかちょっと予想外だな、まさかこんなにも早く半分近く中身を吹っ飛ばされるとは思わなかったぞ。やはり不死者と死は相性が悪すぎるか。仕方がない、第二プランと行こうかな!」

「何か知らないけど、させるもんですか!」

「いいや無理だね。この場における君たちの戦略の欠点は、攻撃直前に一度必ず能力を解かなければならない事だ。札を張る一呼吸さえあれば次の段階へ進んでいくぞ――――ほうら、もう完成した」

 

 突き出される妹紅の札を隔て、邪悪な微笑みを覆ったのは、突如として大地を刳り貫き現れた西行妖の根だった。少女たちの何倍もの太さを誇る化け桜の根子が瞬く間にスカーレット卿を包み込み、奥底へと隠してしまったのである。

 一重、二重、三重と被さっていくそれは、やがて要塞の如き強靭さを誇るシェルターと化した。

 

「嘘でしょ……!? 西行妖の力だけじゃなく樹そのものまで操れるなんて!」

『数え切れぬほどの怨霊(バイパス)を注ぎ、回路を繋げた今、西行妖は我が手に堕ちたのだ。さて、どうする? 時を永遠にしようが須臾に縮めようが、この盾はそう簡単には突破出来ぬぞ』

 

 瞬間、大砲を打ち込んだが如き轟音が炸裂した。

 輝夜が須臾の間にシェルターを殴りつけたらしい。しかし相当硬いのか、一部が拳の形に凹んでも貫通にまでは至らなかった。月人故に地上人より高い筋力を誇る輝夜のフィードバック込みでの一撃を受け止めたとなると、木の硬さ以上に魔術的な防御や衝撃吸収能力を備え付けられているらしい。

 

「づぅッ……! 木の硬さじゃないわこれ、ぶち抜くのは無理そう……っ」

 

 輝夜は目に涙を貯めながら、真っ赤になった拳に息を吹きかけつつ地団駄を踏んだ。

 

「……輝夜、なんだか永夜異変過ぎた辺りから大分アグレッシブになってきてるよね?」

「そりゃあ私の友達が体張ってるんだもの、負けてらんないわ。女だからって見てるだけじゃ駄目なのよ。……でも、これどうしよう?」

「じゃあ木の天敵と名高い炎で試してみましょうか。そうらッ!」

 

 刻印が結ばれ、妹紅の足元から火が生まれた。メラメラと燃え盛る劫火は翼を授かり、尾羽を賜り、瞬く間に火の鳥となって顕現する。

 それも一羽だけではない。何羽も、何羽も、まるで足元が地獄の釜に通じているかの如く湧いてくる。

 腕を振るった。号令は紅蓮の猛禽たちに染み渡り、彼らは金切り声を上げながら無数の流星となって突撃する。

 爆発音が連続し、怒涛の土煙が舞い上がった。激しい砂と石の嵐に、輝夜と妹紅は思わず前を覆ってしまう。

 

「……嘘でしょ、なんて耐久力よ!?」

 

 視界が晴れると、焼け焦げたシェルターが目に映った。ただし壊れてはいない。一層目の隔壁は粉砕できた様だが、しかし、二層目は表面を炭に変える程度で止まっている。

 しかもみるみるうちに新しい根が隔壁へ伸び、損傷箇所を塞いでしまったではないか。

 

「うわっ!?」

「きゃっ!?」

 

 突如地鳴りが起こった。立っていられないほどの揺れに猛然と襲いかかられた二人は、思わず蹲ってしまう。

 破裂があった。地の底から表層を突き破るように、幾つもの柱が姿を現したのである。

 蛇の様にうねり、切っ先を二人へ向ける正体不明の触手。それは根だった。シェルターを形成するだけでは飽き足らず、まるで動物の様に樹体をしならせながら、自分の一部を焼き焦がした者たちへ迎撃の意思を剥き出してきたのだ。

 あまりに異様な光景は永い時を生き続けてきた蓬莱人でさえ正気を奪われ、白痴化した脳内の辞書は言葉を失ってしまう。

 

「こ、こんなのってアリ? て言うかもはや桜じゃないでしょこれ!? 妖怪桜だからって言っても限度があるっつーの!」

「どうやら本気で怒らせてしまったみたいね……今度は桜そのものが相手ってことひゃああああああああああああああああッ!?」

 

 不意を突いて足元から蔦が伸び、足を這いあがって腹へ絡みつくと、縄のトラップに掛かった兎の様に妹紅を空中へ攫いあげた。炎を操り、怨霊を排除出来る札を持つ者を優先的に潰しに掛かったのだろう。西行妖は不死鳥少女を玩具のように弄り回し、体中に仕込まれていた札を全て奪い去るとビリビリに破り捨て、一瞬の内にそのまま放り投げてしまう。

 

「妹紅!」

「ああああああああああ私の事は良いからそいつどうやって倒すか考えてえええええええええええええええ」

 

 ドップラー効果を引き連れながら高度を上げていく妹紅は、減速が始まると共に恒星と化した。眩い炎を纏い、逆噴射する事で勢いを殺している。戻ってくるのにそう時間はかからないだろう。

 

 ビリッ、と妹紅に気を取られた輝夜に電流が走る。殺気を感じ、間髪入れず須臾の世界へと飛び込んだ。胸を狙って飛び込んできていた根の槍を躱し、翻り際に弾幕を撃ち放つ。

 須臾の世界から離脱する。瞬間、激烈な弾幕と須臾のフィードバックが怒涛の如く根の槍に畳み掛け、豪快な破壊音を伴いながら木っ端微塵に砕き割った。

 

 どうやら西行妖全体に防御魔法が仕掛けられている訳ではないらしい。むしろシェルターへ一局集中しているからこそ、あの尋常ならざる堅牢さを発揮出来ているのだろう。容易く破壊された根を見て、輝夜はそう分析した。

 だがそれは、現状を打開する術が目立って見当たらない事を意味している。

 

(立て篭もられてるこの状況で永遠を被せても意味は無い。なら須臾の間に攻撃し続けた方が――駄目ね、あんな硬いシェルターを破っちゃうくらい攻撃したら反動で中身もぐちゃぐちゃになってしまう。ああもう、加減が難しい!)

 

 次々と襲い掛かる根の猛攻を躱しながら思案を重ねていく。正攻法で撃破出来れば話は早いが、事はそう単純ではないのだ。遺体を壊さず、幽々子の魂を戻させず、かつ全ての腫瘍を取り除かなければならない。紫の負担も考えると、時は一刻でも切り詰められるに越したことはないだろう。負荷が強まれば強まるほど紫の力は削がれ、いつか決壊を迎えてしまうかもしれないのだから。

 最もベストなのはあのシェルターを適切に破壊し、その瞬間体から怨霊を纏めて排除して、すぐさま西行妖の封印核へ戻す工程を、流れるようにこなす方法なのだが……。

 

『苦戦しているようね』

「紫?」

 

 庭園を走り続けていると突如真横にスキマが開き、紫の声が耳を撫でた。

 彼女は「死の境界線が濃くなってるわ」と呟きながら、

 

『少し余裕が出来たからサポートするわ。何がお困りかしら?』

「取り敢えず全部! あのかったいシェルターを良い感じにブッ壊すのと、幽々子さんの体を傷つけずに怨霊を取り出す方法って何か無い!?」

『ふむ、少々お待ちを……成程、あの外殻には多重結界と似た防御魔法が組み込まれているのね。今の私じゃ直ぐとはいかないけれど、剥がせそうだわ』

「本当!?」

『ええ。ただし、剥がせてもほんの数秒よ。その間に決着をつけて頂戴』

「でも除霊の札が破られて無くなっちゃったの! どうやって剥がせばいい!?」

『――そこに、魂魄妖夢という名の庭師は居ない?』

 

 見知らぬ名前が飛び出して、思わず「魂魄妖夢?」と鸚鵡返ししてしまう。

 

『幽々子に仕えている真面目な半人半霊さんよ。彼女は同時に剣士でもある。その子が持っている白楼剣を使えばいい。魂魄家の家宝たるその刀は迷いを断ち切る幽世の刃。振るえば中に巣食っている塊――怨霊だけを斬り伏せることが出来るかもしれない』

 

 白楼剣。霊魂に対して斬り付ければ無条件で迷いを断ち、成仏へと導くこの世ならざる冥府の短刀。魂魄妖夢の持つ二対の刀の片割れである。その刀は殺傷能力を高められた楼観剣とは異なり、戦闘よりも儀式的に使用される事を目的として製造された神具に等しい宝物だと言う。

 幽世の性質を色濃く宿すその刃は、肉を裂き骨を断つ鋼の剣とはやや異なる。能力は魔剣グラムのそれに等しく、正しく扱えば邪魂を払う破魔の武具として力を発揮するのだ。

 

 だが、肝心の刀を持つ少女は今、この場のどこにも存在しない。

 それを耳にした紫は、シェルターを解析したように再びサーチを行った。白玉楼全体にまで境界の網を広げ、少女が今どこにいるのかを虱潰しに探り当てていく。

 やがて、

 

『見つけたわ。幽々子の魂がある縁側の、すぐ傍にある障子裏に隠れている』

「分かった、ありがとう!」

『私は術の解除に取り掛かるわ。なるべく急いで』

「任せて、急ぐのは誰よりも得意よっ」

 

 須臾の中へ身を投じ、停止したも同然の空間を全力で駆け抜ける。幽々子の横をすり抜け、輝夜は縁側から飛び込むように白玉楼へ侵入した。

 畳が敷き詰められた和室が現れる。達筆な掛け軸と生け花が植えられた鉢のみが置かれ、中央に質素なテーブルだけがレイアウトされた空間は、まさにワビサビと呼ぶに相応しい。

 横を向くと、紫の情報通り妖夢と思わしき少女がいた。透き通るような白糸の髪。傍に携わる人の頭程度の魂魄。壁へ立てかけられた大小二つの刀。半人半霊の剣士とくれば、彼女以外に有り得ないだろう。

 

 しかし様子がおかしい。外では乱戦の轟音が絶えず聞こえていたはずなのに膝を抱えて蹲っているのだ。顔は完全に伏せられていてその表情は伺えず、認識の外にある世界から見ても、鬱屈した雰囲気がありありと感じられる。青菜に塩とは、まさにこのような風貌を指すのだろう。

 一先ず須臾から抜け出して、輝夜は少女に声をかけた。

 

「魂魄妖夢さん」

「ひゃあっ!?」

 

 気配も無く現れた輝夜に心底驚愕した妖夢は、跳ね上がるように態勢を整え刀を抜いた。刀身が襖の間から漏れ出す月光を反射し、白銀の輝きを瞳へ贈る。

 面を上げた少女の顔を一目し、輝夜は言葉を失った。

 蒼白だった。肌の無垢さから元々色素が薄いのだろうと容易に推察できるが、それでは弁護のしようがない程に、妖夢は血の気を失っていた。

 まるでどうしようもない災害を前に震えるしかない子供の様な、悲観の先に辿り着いた者の表情だ。目にするだけで、言いようのない同情を抱いてしまう程に。

 

「面と向かって挨拶するのは初めてかしらね。私は蓬莱山輝夜。あなたたちの助っ人として参上したわ」

「すけっ、と……?」

「そうよ、あの八雲紫から頼まれて来たの。外の状況は……あなたも知っているよね?」

 

 ハッとしたように視線を向ける。しかし、ナニカが彼女の胸に歯止めをかけているのか、妖夢は唇を強く噛み締めながら、力なく俯いてしまった。

 輝夜は膝を折り、一向に頭を上げない少女と同じ高さへ目線を調節する。

 

「……あなたに何があったのか私には分からない。ただ、そのままで良いから少しだけ話を聞いて頂戴」

「っ」

「今、幽々子さんが絶体絶命の危機にある。西行妖から遺体が解き放たれて、魂の在り方が不安定になってしまってるの。私の力で食い止めているけれど、事は一刻を争うのに変わりはない。だからあなたの力を貸して欲しいの。あなたの使う、その白楼剣が必要なのよ」

「どうぞ。持って行ってください」

 

 迷う素振りを欠片も見せず、妖夢は短刀を輝夜へ向けて突き出した。早く受け取れと言わんばかりの予期せぬ勢いに、輝夜は思わず面を食らって瞬きをする。

 輝夜は漢の侍魂だとか、勇ましき武士道に精通している訳ではない。けれど剣士にとって刀がどれだけ大切な代物かは理解しているつもりだ。ましてや白楼剣が魂魄家の家宝ならば、会ったばかりの他人においそれと貸し出すなんて到底考えられない蛮行である。

 

 紫が「真面目」と評する人物が、家の誇りや主人への忠誠などを全てかなぐり捨てる様に刀を渡した。それは、輝夜へ妖夢に何が起こっているのかを紐解かせるヒントとなった。

 

 折れているのだ。

 心の支柱がポッキリと、真っ二つに折れてしまっているのだ。

 

 西行妖が目覚めてから妖夢にどんな災難が降りかかったのかは分からない。如何なる過程を踏んで喪心の谷底へ落ちてしまったのかは想像もつかない。けれど、彼女の心が限界を迎える出来事が確かにあったのだろう。それも代々受け継がれてきた秘宝をあっさり手放して、主人の危機にも馳せ参じる事が叶わなくなるほどの深い傷となり、妖夢の心へ南京錠を掛けるほどのものが。

 

 絶望している――というよりは、考えることを拒絶していると輝夜は感じた。

 その姿はまるで、どこか昔の自分を眺めているかのような。

 

「……ねぇ、妖夢さん」

 

 刀をそっと押し返しながら、輝夜は能力を発動した。

 時間の最小単位たるフェムトが輝夜の手によって掻き集められ、須臾と言う名の箱舟が二人を包み込んでいく。

 外からは決して認識する事の出来ない僅かばかりの時の中で、輝夜はそっと座り込んだ。

 柔らかに開く花の様に、輝夜は静謐な面持ちになって。

 

「いきなりで困惑するかもしれないけれど。もし良かったら、あなたに何があったのか、私に話して貰えないかしら?」

「…………何言ってるんですか。早く行ってください。紫さんの助っ人なんでしょう? 時間だって無いんでしょう? だったら、早く幽々子様を、助けてあげてください」

「……主を想えるって事は、忠誠心を失くしたって訳じゃないのよね」

「っ、それは当然です! 私は今でも幽々子様へ忠誠を誓っている! それだけは絶対に揺るぐ事なんてない! ……でも、もう私には、幽々子様の為に刀を振るう資格なんてっ……」

「妖夢さん」

 

 ビクンと、妖夢の肩が勢いよく跳ねた。

 怯える子供の様に顔を曇らせ、カチカチと歯を鳴らす少女の姿は、抱きしめれば崩れてしまいそうに儚くて。

 そんな少女にへばりつく膿を掬い取るように、輝夜は玉を転がすような声で、そっと語り掛けてゆく。

 

「私の能力は、簡単に言ってしまうと時間に干渉する力なの。一秒を何度も何度も細切れにしてようやく見つかるくらい小さな時間――須臾を集めて出来た箱の中に、私は入ることが出来る。それを被せる事だって造作もないわ」

「……?」

「あんまり実感が湧かないかもしれないけれど、あなたも今その世界に居るの。つまり、どれだけここで過ごそうとも、外じゃ一秒にも満たないってわけ」

「!」

「ね? 凄いでしょ。だから、ここでは焦らなくていいのよ。ゆっくりで良いから、何があったか教えて欲しいの。……これ、大事な家宝なんでしょう? それを簡単に渡しちゃうくらい酷い事が、あなたにはあったのよね」

「……なんで、あなたに言わなくちゃならないの」

「放っておけないから」

 

 一言に、輝夜の全てが込められていた。

 放っておけない。それだけだ。今の輝夜が妖夢を捨てて悪魔へ立ち向かいに行かないのは、ただそれだけの理由なのだ。

 

 例えこのまま剣を受け取り、全てを解決したとしても、きっと妖夢は救われない。そのまま陰鬱の森を彷徨い歩き、果てには大切なものを失くしてしまうだろう。根拠なんてどこにもないけれど、そうなってしまう確信が輝夜にはあった。

 だって、どうしようもなく似ているのだ。四年前、擦り減りきった心の果てに大切な感情(モノ)を失っていた輝夜と似ているのだ。

 程度の差はあるかもしれない。けれど今、魂魄妖夢という少女の柱はどうしようもなく摩耗してしまっている。例え異変が終わった後に幽々子や紫が励ましてくれるだろうとしても、ここで輝夜がアクションを起こさなかったら、彼女はきっと、永い悪夢に苛まされてしまう。

 

 それだけは、見過ごす訳にはいかないのだ。

 

「お節介だってのは分かってる。鬱陶しいわよね。赤の他人から急にこんな事を言われたって、なんだコイツって感じよね。……でも、それでも、私はあなたの力になりたいと思ったの」

「どうして、蓬莱山さんが私の為にそこまでっ」

「……私も、似た様な事があったんだ。助けてもらったの、殆ど見ず知らずだった人にね。何の見返りもないのに、自分も沢山傷付くと知ってただろうに、それでもその人は私を助けてくれた。お陰で今の私がある。だから今度は私の番。そう思っただけ」

「……!」

 

 真摯だった。誠実な真心だった。

 一点の曇りも無い、ただただ純粋な善の心。苦しみに喘ぐ人を見捨てることなく、例え偽善や自己満足と罵られようとも、自分と人にとって最良の選択を選ぼうとする確固たる強さ。

 それを、輝夜の歪み無き真っ直ぐな瞳から、妖夢は感じ取ったのだろう。

 主人であり、家族であり、母であり、姉でもある幽々子から向けられていた無償の親愛を、半人半霊の少女は、なよ竹の姫君から微かながら見出した。

 

「っ、わたし、はっ……」

 

 気が付いたら、震える声で、妖夢は言葉を絞り出していた。

 外の時間からしてみれば、欠片も認識する事の出来ない時の中で。

 

「怖くなったんです……あの幽々子様と戦うことがっ、どうしようもなく怖くなってしまったんです……。私は、私は、救いようのない愚か者だ……!」

 

 目頭から溢れる雫と共に吐き出された魂を、輝夜はしっかりと受け止めた。

 

 

 西行妖に、一羽の禍々しい鴉が降り立った。

 鴉は最悪最低の栄養剤を大木へ注ぎ入れるどころか、春を先取りして『春度』を無理やり掻き集め、封印されていた忌まわしき怪物を解き放ってしまう。

 妖夢は突如白玉楼を襲ったその脅威に立ち向かった。未曾有の敵に刃を振るい、西行妖の復活によって存在を希薄化させつつある幽々子を助けるため、たった一人で奮闘した。

 

 だがしかし、妖夢の前に立ちはだかったのは、全ての元凶たる鴉ではなかった。相手が鴉であれば、どんなに良かった事だろうか。

 現実は無情にも、魂魄妖夢の天敵を生み出してしまう。眼前に立ちはだかった怨敵は、敬愛する唯一無二の主人、西行寺幽々子そのものだったのである。

 

 春雪異変の後、西行妖の伝説は紫から耳にしていた。桜の下には生前の幽々子が埋まっていて、それが化け桜を封じ込める鍵になっているのだと。

 故に妖夢は、目の前で刃を食い止めている幽々子の正体が、悪魔に乗っ取られた主人の遺体だとすぐに悟った。

 

 形容し難き怒りが腹の底から込み上がってきたのを覚えている。人々を死に誘う西行妖を封じるために、同じく死を呼ぶ怪物となってしまった己の業を道連れに命を捧げ、その悲劇に幕を下ろした哀しくて優しい主人の覚悟を、鴉の悪魔はこれでもかと言わんばかりに辱めたのだ。墓石に唾を吐きかけるよりも悍ましい、吐き気を催す邪法で、幽々子の高潔な最期をいとも容易く踏みにじったのだ。

 

 怒りが刃を強くした。敵を討たねばならぬと意地を見せ、主の体を取り返さんと粉骨砕身を胸に戦った。

 だけど、悪魔はどうしようもなく悪魔だった。

 

 幽々子と同じ姿、幽々子と同じ仕草、幽々子と同じ声、幽々子と同じ表情で。

 かの邪悪は、妖夢を真っ向から否定し続けたのだ。

 

 思い出すだけで胃を引き絞られ、五臓六腑を裏返してしまいそうになる罵倒と蔑みの数々を、事もあろうに()()の口から放たれる現実は、妖夢の心を真菌のように蝕んだ。

 それが悪魔による幻覚幻聴だと言い聞かせても、妖夢の一番聞きたくない言葉の数々は、残酷に胸を穿ち抜けた。舌剣は楼観剣よりも鋭利に、無情に、魂魄妖夢をじわじわと削ぎ落していった。

 

 妖夢は未だ半人前だ。剣術指南役なんて肩書ではあるけれど、自覚を持つくらい腕前は未熟な部類である。剣聖と謳われた祖父の様な、不動の精神には至らない。

 だから、どんなに割り切ろうとしても。白楼剣の力を借りて、迷いを断ち続けても。

 幽々子の肉を被った悪魔が一度でも幽々子に見えてしまったら、もう、妖夢にはどうする事も出来なくなってしまったのだ。

 

 気がついたら刃を振るえなくなっていた。気がついたら弾幕を撃てなくなっていた。

 

 ごっこ遊びじゃなく、殺す気で主人に刃を向けなければならない錯覚が生まれた。腹の底に力を込めて薙いだ一閃も悪魔の言葉に絡み取られ、心にヒビを刻み込まれる幻覚を鮮明に植え付けられた。

 

 残酷な悪魔の仕打ちが、魂魄妖夢という少女の柱を、完膚なきまでに圧し折ってしまった瞬間だった。

 

 

「分かってるんです。あの幽々子様は幽々子様じゃない、別のナニカに乗っ取られてしまった幽々子様なんだって。無礼者に凌辱されて、一刻も早く私がどうにかしなくちゃいけない幽々子様なんだって、頭じゃ分かっているんです」

 

 嗚咽の無い号哭がそこにあった。不甲斐なさと悔しさがごちゃごちゃになって胸を縛り、どうする事も出来ない己の弱さに涙する少女の姿があった。

 

「でも戦えなくなってしまった。刃を振るうたびに、幽々子様が私を蔑むんです。侮蔑と失望の眼で私を見ながら、私を斬るためにその剣を学んだのかって。お前は私の妖夢じゃない、どうしようもない不敬者だって。何度も、何度も、何度も何度も囁くんです」

 

 ぎゅうっ、と。膝の上で握られた拳が、スカートをくしゃくしゃに巻き込んでいく。震える手の甲に、パタパタと雫が落ちていく。

 

「ち、違うと、何回も自分に言い聞かせました。あれは本当の幽々子様じゃないって、心に刻み続けました。でも、それでも苦しいんです。幽々子様が冷たい失望を向けてきてるって、私を見放してるって思えてしまって、とても胸が痛くなるんです。その度に、剣を振るえなくなっていくんです。迷いも、断ち切れなくなって……」

 

 ごめんなさい――少女は悲痛な叫びを封じる様に、両手で顔を覆い隠した

 

「悔しい……! わ、私はっ、幽々子様をお助けする為に、今まで一生懸命頑張ってきたのにっ……こ、こんな簡単に折れてしまってっ! 怖くて何も出来なくなっちゃってっ! じ、自分が情けなくて、恥ずかしくてたまらない……っ! 立てない、立てないんです。どうしても立てなくなっちゃったんですよぅ……! 凄く、凄く、弱くて、惨めで、悔しくて、ふ、ぐ、ううううう……!」

 

 肩を震わせ、指の間から嗚咽を漏らしながら、魂魄妖夢は哀哭を上げる。爆発した哀しみと悔しさが堰を切って溢れだし、月光差し込む一室を、濃い青色で塗り潰していく。

 

「消えたい……消えて無くなってしまいたいよぉっ……! ごめんなさい幽々子さま、ごめんなさい、ごめんなさい、弱い妖夢で、本当に本当にごめんなさい……あなたの為に、私は戦えなくなってしまいました……!」

「…………」

 

 魂魄妖夢は誠実で、直情的なのが玉に瑕と言われるほど、竹の様に真っ直ぐな少女だった。祖父から誉れ高き庭師と剣術指南役の座を譲られ、未熟で至らぬ身だと弁えながらも、それでも懸命に頑張り続ける事の出来る少女だった。

 きっと、主を想う忠誠心は幻想郷の誰よりも強かった。魂魄妖夢は剣の様なひたむきさで、西行寺幽々子を慕っていた。白玉楼の従者で在り続けた。

 だからこそ、妖夢にとって幽々子こそが最大の弱点だったのだろう。信じているからこそ、敬っているからこそ、悪魔のまやかしであったとしても言葉の刃は深く刺さる。そしてそれに屈してしまった自分自身の不甲斐なさが、妖夢を一層強く責め立てたのだろう。

 

 輝夜は黙って耳を傾けていた。少女の懺悔を、少女の無念を、沈黙の器で受け止めていた。

 

「私にはっ、もう、幽々子様にお仕えする資格なんて無い……私にこの剣を振るう資格なんて……っ」

「妖夢さん」

 

 ふわりと、体を包む暖かい感触が訪れる。

 優しく、柔らかく、頭を撫でる手のひらの感触。唐突に訪れたそれに動揺し、妖夢の思考は白紙と化してしまった。

 

「そんな事、口が裂けても言っちゃダメ」

「っ」

 

 立て板を流れる水のようにサラサラと。さも当然のことを口にするように輝夜は言った。

 妖夢の心が壊れて散ってしまわないようしっかりと抱き留めながら。赤子を宥める様な慈愛を孕みつつ、教え子を律するように厳しさを交えた声で。

 

「幽々子さんの事、本当に大切だと想っているのよね。貴女の告白から胸が痛くなるほど伝わってきた。だったら怖くて当然よ。だったら辛くて当然よ。例え操られている偽者だとしても、大切な人の現身を躊躇なく切り捨てられるのは狂人だけだわ。ましてや、酷い言葉を吐かれて何も思わない訳がない。どこも傷つかない訳がない」

「……っ、う」

「自分をあまり責め過ぎないで。悪いのは全部、あなたの日常を壊してしまった怪物なんだから。幽々子さんもきっと、今のあなたを糾弾したりなんかしない」

 

 輝夜も従者を持つ一介の主だからこそ、この言葉を伝える事が出来たのだろう。

 妖夢の心は未熟なのかもしれない。割り切って行動できないのだから、半人前もいいところなのかもしれない。けれど、不完全だからこそ映える誠実さが、輝夜にはとても美しい物のように映った。

 元を辿れば我欲に走って平穏を引っ搔き回し、崩壊させたあの悪魔が原因だ。魂魄妖夢はあくまで一人の被害者に過ぎない。心を弄ぶ下劣な手段に翻弄され、尊ぶべき忠誠心を凌辱された少女に過ぎない。

 それなのに、どうして彼女を責め立てる事が出来ようか。

 

「かぐや、さん」

「……白楼剣、ちょっと借りていくね。安心して、傷一つ着けずにお返しすると約束するわ」

 

 これ以上、この子を悪魔の食い物にさせる訳にはいかない。そう判断した輝夜は、不安を煽らぬよう微笑みながら白楼剣を受け取った。

 鞘の上に指を這わせる。永遠の魔法が刀を包み、不変の守りを張り巡らす。

 

「大丈夫、あなたは何も悪くない」

 

 嘘偽りも、虚飾だって一つも無い励ましの言霊を添える様に傍へと置いて、蓬莱山輝夜は姿を消した。

 残された妖夢は、入り混じる感情の行き場を探すようにスカートを握り締めながら、吐き戻すように独り言ちる。

 

「……私は」

 

 涙は既に、枯れていた。

 

 

 ずっと背中を追い続けていた人がいる。

 魂魄妖忌。先代白玉楼庭師にして剣術指南役。

 私のお師匠様で、祖父でもある剣聖だ。

 彼は厳格な人だった。朧げな幼少期の記憶の中でも、未だ色褪せないくらいには厳しくて優しい人だった。

 

 ……けれど、お師匠様はある日突然、白玉楼を出て行った。まだまだ幼かった私に座を譲り、雲隠れのように姿を消した。

 戸惑った、とは思う。なにせ小さい頃の記憶だから、些細な感情がどうだったかなんて曖昧だ。勿論、お師匠様が出て行ってしまった時は幼い身の私からすれば肉親を亡くした様に悲しかったし、幽々子様も理由をあまり説明してくれないものだから、終ぞ混乱に呑み込まれたままだった。

 でも、そんな私を支えてくれる祖父の言葉が胸にあったから、私は庭師兼剣術指南役として頑張れた。『今日からお前が幽々子様と白玉楼をお守りするのだ』と、頭を不器用に撫でられながら力強く掛けられた言葉が、私の柱となったのだ。

 

 幽々子様は私にとって御主人様であり、姉であり、母でもある不思議な方だ。そんな方の傍に仕え、守る事を許された自覚が強まるにつれ、誇り高い名誉に振り回されぬよう、私は鍛錬を積み重ねた。

 とても苦しかったけど、辛くは無かった。幽々子様が私を褒めてくださる度に、私はお師匠様からも認められた様な気がして、二重の喜びを噛み締められた。

 何があっても幽々子様を守るという想いが強くなった。何があってもお師匠様から譲り受けた名を穢さないという誓いが強くなった。

 

 そんな覚悟が、たったの半刻足らずで呆気なく打ち砕かれてしまった。

 

 悔しい。とても、とても、とっても悔しい。

 悔しくて、五臓六腑が融けてしまいそうなほどに。

 

 私の決意も、覚悟も、たかがこの程度だったのかと思い知らされた気持ちだった。怨敵に刃を振るえなくなった事実が、幽々子様を守ると誓っておきながらグズグズ鬱屈していく自分の不甲斐なさが、どうしようもなく私の心へ突き刺さり、罪悪の情を昂らせた。

 

 ――それでも輝夜さんは、こんな私を悪くないと言ってくれた。

 

 私の忠義は本物だと。自分を責め過ぎるなと。全ては悪魔の仕業だと。私の心を解きほぐすように言ってくれた。

 救われたと思う。彼女にとっては小さな励ましだったのかもしれないけれど、どこにぶつけていいかも分からない感情を、輝夜さんが汲み上げてくれたように感じた。

 

 でも。それでも。私は立ち上がることが出来なかった。白楼剣を持っていく彼女の手を引き留めて、私が斬ると言えなかった。 

 だって。彼女の言葉が正しくても、悪魔に負けてしまったのは本当なのだ。邪悪な言霊に魂を絡めとられ、屈してしまったのは歪めようのない現実なのだ。

 

 そんな私が再び剣を取った所で、果たしてあの幽々子様を斬れるだろうか?

 きっと、無理だ。また剣を止めてしまって、足を引っ張るに決まってる。

 

「幽々子さま……お師匠さま……」

 

 ああ、本当に。

 綺麗なはずの月明かりが、今はこんなにも憎らしい。

 

 

 

『これ妖夢。竹林の姫君から励ましを頂戴しておきながら、何時まで萎れた花の様に呆けておるつもりか』

 

 

 

 ………………ふふっ。遂に幻聴まで聞こえる様になっちゃったか。

 こんな時に限って、懐かしいお師匠様の声が聞こえてくるなんて。

 

『妖夢ッ!!』

「はい!!」

 

 脊髄へ峰内を叩きこむような喝に、私は文字通り飛び上がって正座した。さっきまで鳴りを静めていた心臓が早鐘の様に打ち鳴らされ、暖かな血を届けられる感触が全身を駆け巡る。

 障子には、記憶の底にこびりついている紋付き袴の影がくっきりと映り込んでいた。長身痩躯で、佇まいから達人と知れるシルエットが、月明かりに照らされ焼き付けられていたのである。

 

「え、あ、あのっ……お、お師匠様……です、よね? いつお戻りに」

『聞け、妖夢』

 

 有無を言わさぬ皺がれ声に、自然と背筋が引き伸ばされる。

 何で、どうしてお師匠様が――――と言った疑問や戦いの悔恨は、この時ばかりは吹っ飛んだ。

 

『迷いを捨てろ、とはまだ言わぬ。お主は若い。故に惑い、悩む事も多かろう。――しかし、斬るべきものを見誤る事は許さぬ』

 

 静謐になった空間に、祖父の言葉が玉鈴のようにさぁっと広がる。

 どこまでも鋭い剣の如く、老成ながら凛とした真っ直ぐな声が。

 

『剣を視よ。万事清廉なる剣を視よ。真実を眼で捉えることは出来ぬ。耳で拾う事は叶わぬ。だが己の剣が真実を見誤る事は決して無い。ただひたすら、玉鋼の鳴動を聴くがよい』

「――――」

『忘れるな。お主は白玉楼の懐刀だということを。魂魄の名を継ぐその意味を、決して忘れるな』

 

 ……ずっと、彼の影から目を離していないつもりだった。

 けれどその言葉を皮切りに、障子に色濃く映っていた影法師は、霧散するように姿を消してしまった。

 一連のお説教は、私の心が生み出した幻であったかのように。

 

「……幻覚、だったのかな」

 

 けれど、夢か現かなんて今となってはどうでもいい。

 ただ、進むべき道は示された。そのように思う。

 

 昔から耳にタコが出来るくらい聞かされた、真実を知りたいならば斬って知れと言う言葉。宴の異変で何度試みても、いまいち答えが分からなかったあの言葉。

 これは、斬るべきものに刃を通せば真実が知れる、なんて意味じゃなかったんだ。思っていた順番がまるで違っていたんだ。

 

 玉鋼の鳴動を聴き、心の中で相手を斬る。剣は無想の境地でその是非を応えるのだろう。私の斬る真実が善なのか悪なのか、そのどちらかを見極めるだろう。

 

 楼観剣の鞘を握り、ゆっくりと引き抜く。

 白銀に瞬く刀身が露わとなり、曇りなき刃が私の顔を映しとった。

 念ずるように、瞳を閉じる。

 私が斬るべきものは一体何か。私が斬った先に広がるものは何か。

 共に修羅場を駆け抜けてきた、魂魄家の家宝へそっと訊ねる。

 

「私が、剣を振るうべき相手とは」

 

 ――ああ。そんなもの、決まっているだろう。

 

 悪魔に乗っ取られた幽々子様――じゃない。それよりも先に、斬るべき相手がここにいる。

 それは輝夜さんに口が裂けても言っては駄目だと叱られた部分。幽々子様にお仕えする資格など無いと自分勝手に決めつけて、役目を放棄した弱い自分だ。

 お仕えするかどうかなんて、幽々子様が決める事だったのに。そんな事にすら気付かずに、私は自暴自棄へと陥った。 この脆弱さを、私は今、ここで両断しなくてはならない。

 

 瞼の裏にススキ野原の心象風景が形を成す。風の音、草の唄、それらも全て鮮明に思い浮かべて、私はかつての自分と対峙した。

 悪魔に惑わされ、無様に怯え切った魂魄妖夢。烏滸がましくも資格の有無を己自身で裁量した愚かな自分。

 それを、閃光の下に斬り捨てた。

 剣を鞘へと戻すまでの、一連の想起が幕を閉じ、私は深く呼気を吐いた。

 過去との決別はこれで終わり。乱れに乱れていた心をイメージの砥石で研ぎ澄ませ、私は己の使命を刻む。

 

 私は妖夢。魂魄妖夢。幽々子様の庭師にして剣術指南役。白玉楼に置かれた懐刀。

 次にこの刃を振るうのは、敬愛なる主人に仇成す輩のみ。

 

 なればこそ。一度は敗北した者へ切っ先を向けるからこそ。

 敢えて。敢えてこの刹那の時ばかりは、身の丈に合わない虚飾を騙ってやろう。

 臆病な私へ別れを告げる為に、偽物の最強を心に植えよう。

 あの悪魔が、偽物の絶望を私に与えてくれたように。

 

「――私に斬れぬものなど」

 

 白玉の誓いをここに。冥土の誉れをここに。

 

「――此度は、無い」

 

 今こそ、この一刀にて誠の忠義を証明せん。

 

 

「白楼剣借りてきたわよ! 引き剥がす準備は整った!?」

『終わりましたわ。……が、少々問題があります』

 

 庭園を駆け巡り、迫る根の嵐を再び掻い潜りながら叫ぶ輝夜に、紫が返した言葉はどこか不安を煽るものだった。

 

『あの防御魔法は、言ってしまえば乱数の様なものを使われている。一度剥がすと全く異なる式に変化する仕組みよ。恐らく私を警戒して編んだんでしょうね。おまけに今の私には、二度も大魔法を解呪出来る余力はない』

「つまり、チャンスは一度きりってことね!? 上等よ、やってやろうじゃない!」

『結構。では――藤原妹紅!』

「はいよ!」

 

 雄叫びがあった。天高く突き抜ける雉の囀りがあった。

 空を仰ぐ。冥土の夜を切り裂く様に旋回するは、炎を纏い不死鳥と化した藤原妹紅の姿だった。

 紫は妹紅ともなにか算段を立てていたらしい。合図と共に炎が増し、明確な変化が一部から巻き起こっていた。

 妹紅の右手が燃えている。自身の肉体が溶解する事も厭わず、まるで腕を芯とするブレードのように業火が迸っているのだ。

 赤を超え、蒼白と化した猛炎の刃を携えて、妹紅は隕石の如く墜落する。

 

『シェルターを真っ直ぐ、縦に割るように振るいなさい!』

「合点承知! ずえりゃあああああああ――――――ッ!!」

 

 瞬間、不死鳥の風切り羽が化け桜の隔壁を叩き切った。

 脳天から刀を振り下ろしたように、ブレードは一直線に裂け目を入れる。黒ずみ、炭化した樹木が呆気なく弾け飛んで、貝柱を失った帆立の如くバカンと真っ二つに引き裂かれた。

 壁を組み直そうと、根の大群が地面から這い出し始める。このままでは、ものの数秒足らずでシェルターは完成し、二度と開くことの叶わない天岩戸と化してしまうだろう。

 だが、数秒もあれば十分だ。

 数秒足らずを永遠に変えられる少女が、ここにいる。

 

「とった!」

 

 須臾の間に根の内部へと潜り込み、輝夜は抜刀と共に白楼剣を一閃する。

 刃は寸分の狂いもなく、幽々子の肉体へ巣食う魂を薙ぎ払って。

 

「――!?」

 

 しかし。輝夜の刃は、すり抜ける様に空を切った。

 驚天動地の激情が胸を貫く。何が起こったのか甚だ理解出来ず、硝煙渦巻く隔壁の中枢で輝夜は驚愕の声を上げた。

 幽々子の肉体を奪い取ったスカーレット卿だと思い、輝夜が斬り裂いたモノの正体は、根で編みこまれた木偶人形だったのだ。

 下を見れば大地に穴が穿たれていた。深く、深く、底すら見えぬほどの大穴が。

 

 全てを、察した。

 

 既に逃げられていたのだと。最初の一撃がシェルターを襲った時、万が一を危惧したスカーレット卿はこの安全空間から逃げおおせていたのだと。

 そして、もぬけの殻と化したこの堅牢な防護壁は。

 招かれた客人を捕らえる、生きた檻へと化けるのだ。

 

「ッ!」

 

 反射的に能力を発動し、飛びのく様にその場から脱出を試みた。外に出て能力を解除すれば、蛇の様にのたうつ根たちが鼠一匹すら通さない頑強な牢獄を編み上げて。

 

 ――息つく暇もなく、次手の襲撃が訪れた。

 

 狙撃だった。まるで梟が鼠を攫い取るように、音の無い光弾が輝夜の手元を撃ち抜いて、白楼剣を弾き飛ばしたのである。

 空転する迷い断つ刃は、地面から現れた根に奪い取られ遥か高みへと持ち上げられていく。

 満を持して轟くのは、悪魔に乗っ取られた少女の声で。

 

「惜しかったな輝夜姫。あと一手早ければ、その剣で私を仕留める事が出来ただろうに」

「スカーレット!」

 

 西行妖の大元、樹冠の一部にその姿はあった。生殺の波動を絶えることなく放ち続ける大桜の枝へ腰かけるように、スカーレット卿が姿を現したのである。

 手繰り寄せた剣を眺めながら、クックッと屍を奪った悪魔は嗤う。

 

「白楼剣が無ければこの体から安全に魂を引き剥がすのにそれなりの時間を要するだろう? 時間稼ぎという意味ではこれ以上に無い戦果と言えよう。つまりこの勝負は私の勝ちという訳だな。楽園の女ども」

「――――いいえ」

 

 断言が、スカーレット卿の勝利宣言をいとも容易く切り伏せた。

 唯一の手段を奪い取られ、西行妖を治める方法を潰されたにも関わらず、不敵に笑う蓬莱山輝夜。その異様さに、スカーレット卿も思わず眉をひそめた。

 輝夜は人差し指で射貫くように、スカーレット卿へ切っ先を突きつけ、言い放つ。

 

「私たちの勝ちよ、呪われた怨霊さん」

 

 一陣の風があった。

 疾風、あるいは鎌鼬。そう表現せざるをえない敏捷な物体が、瞬きをする暇もなく石畳の庭を駆け抜けてくる。

 小さな足跡を刻みながら躍進するそれは、瞬発的に展開された紫のスキマに呑み込まれると、瞳で像を捉える事すらさせずに姿を消して。

 

「何だ――いや、このままでは不味い!?」

 

 直感がスカーレット卿の背を押したのだろう。慢心と共に眺めていた白楼剣を根を操作して取り込みながら、尻に帆をかける様に枝を蹴って背後へ跳んだ。

 だが、逃走経路は賢者の計らいにより封じられる。

 

「これは……! 八雲紫、貴様の結界か!!」

 

 ギチギチと四肢を固める障害があった。紫の光を帯びた真四角の結界が関節の役割を封じるように腕や足を覆い尽くし、さながら拘束具の如く動きを縫い留めたのである。

 

「笑わせるなよスキマ妖怪! 万全の貴様ならいざ知らず、死に掛けの蚊トンボ程度にまで落ちたその力で私を御せるとでも――な、に……!?」

 

 そう。西行妖の魔の手が幻想郷に及ばぬよう余力を割いている今の紫に、大魔法をも駆使するスカーレット卿を止める術は無い。せいぜい足を躓かせられるかどうかである。

 けれど、この場に集った猛者は八雲紫だけではないとスカーレット卿は忘れていた。

 永遠の魔法を授け、万物万象へ不変を与える姫君が、ここに居る。

 

 蓬莱山輝夜がスカーレット卿に掛かった結界へ永劫の不壊をもたらした。何人(なんびと)たりとも破壊する事の叶わない永遠の枷は完全に悪魔を縛り上げ、()()()へと作り変える。

 

 ――スキマが開き、それは姿を現した。

 

 銀に煌めく髪が靡き、月夜を撫でる長刀が無音の下に招来する。

 妖怪が鍛え上げた大業物、楼観剣を握り締め、魂魄妖夢は白楼剣を取り込んでいた根の先端を斬り飛ばすように一閃した。

 樹液と共に剥がされた短刀が空を舞う。妖夢は鷹の如く柄を掴み取ると、そのまま体を捩じり独楽の様に回転し。

 

 渾身の力で、主の骸を辱めた外道へ刃を放つ。

 

「魂魄、妖夢ッ――!!」

「はあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」

 

 電光石火の一振りは、鮮やかな軌道を描きながら奥底に巣食う魂へ、その凶刃を馳走する。

 だが白楼剣は肉を断ち切る刃に非ず。その真髄は、迷える魂へ安らぎを与える極楽への渡し船にある。

 

 光の津波があった。あまりの眩さに思わず目を庇う程の熾烈な光が、冥土中へと広がったのだ。

 それは浄土への架け橋が穢れた魂たちに繋がれた、救いの輝きだったのかもしれない。

 

 

 光が止み、重力がその場を支配する。

 もぬけの殻となった幽々子の肉体と、何故か妖夢も一緒になって落っこちていた。

 

『藤原妹紅!』

「はいよっと!」

 

 スキマからすらりと手が伸びる。白磁質な手袋で覆われた細指の間には、一枚の札が挟まれていた。どうやら西行妖へ肉体を返還する呪符らしく、炎の翼を纏って飛翔する紅は札を受け取ると、落ち行く妖夢を受け止めながら幽々子の体へ貼りつけた。

 何かを念じる声が聞こえる。紫が本格的に術を組み上げたらしく、札を張られた幽々子の遺体が淡い光を纏いながら西行妖へ吸い込まれるように姿を消した。

 

 派手な爆発の様な現象が起こった。樹冠を飾り付けていた莫大な量の花弁たちが一斉に弾け飛んで、さながらブリザードと見紛うばかりの花吹雪と化したのである。

 淡い桃色、濃い紅色。千態万丈の桜花が舞い踊り、この世のものとは思えない――いいや、正しくこの世のものではない絶景が、白玉楼を彩った。

 あれほど熱烈だった死の薫りも、名残り雪のように溶け消えていく。

 

「妖夢ちゃん大丈夫か、――ッ!?」

 

 落ち行く妖夢を受け止めて、妹紅が容体を伺おうとしたその時だった。

 妖夢の物ではない邪悪な瞳が、妹紅の目をぎょろりと睨みつけたのだ。

 悟る。あの瞬間、解脱の津波が一面へ降りかかった時。悪魔は辛うじて難を逃れ、幽々子の肉体から魂魄妖夢の体の中へ乗り移っていたのだと。

 

 抱えていた手を咄嗟に離す。落ち行くのみだった妖夢の体は手際よく体勢を整え、華麗に着地を成し遂げた。

 

「あいつ……まだ!」

 

 妹紅と妖夢の異変に気付き、輝夜も戦闘態勢へ突入する。心を引き絞る恐怖を超え、勇気を振り絞って主の仇を屠った少女と敵対しまう現実に、輝夜は思わず歯噛みした。

 しかし。

 どこか、悪魔の様子がおかしいような。

 

「うぐ……ぐ、うう……! うあああああ……っ!」

 

 頭を押さえ、髪を振り乱し、ナニカを追い出そうとしているかのように暴れている。地に膝をつき、服が土で汚れようが気にも留めず、魂魄妖夢はのたうち回った。

 

「妖夢、さん……?」

「は、早く……! 早く、白楼剣で私を斬って、ください! おねが、おねがいっ、う、あ、あああっ……!?」

 

 妖夢の自我は残っていた。恐らくスカーレット卿は無事に乗り移れたわけでは無いのだろう。白楼剣からは逃れても浄滅の焔に焼かれたのか、万全ではないがために妖夢を完全に乗っ取ることが出来なかったのだ。

 今、妖夢は必死に戦っている。頭の中に潜り込んだ悪霊に囚われ、主人へ刃を向けてしまわぬように。

 

「早く、早く! 私が乗っ取られる、前に、お願い、斬ってっ!!」

 

 乗っ取られる直前に妖夢が遠くへ手放したのか、離れた箇所に二つの剣が転がっていた。白楼剣と楼観剣、魂魄妖夢が常に携える愛刀である。

 須臾の間に剣を回収する。すかさず抜刀、白楼剣の切っ先を向けた。

 だが斬れない。斬れる訳が無い。だって魂魄妖夢は生きている。死者の体を乗っ取った悪霊じゃない。その身の半分が霊体でも、妖夢はれっきとした生者なのだ。

 白楼剣に生者と死者を分別する機能は無い。振るえば最後、スカーレット卿と共に諸共成仏してしまうことだろう。

 それは、明確過ぎる死を意味している。

 

(どうする……どうする……考えろ、考えろ輝夜! 時間を弄るだけの小娘で終わるつもりなの!?)

 

 葛藤が手汗を滲ませる。妖夢の悲鳴が焦りを仰ぐ。須臾の間に入り込もうが、永遠の時を被せようが、根本的解決にはなりはしない。先の難題と同じように、今度は妖夢を傷付ける事無く、悪霊だけを退治しなくてはならないのだから。

 

 だがそんな手が一体どこにある? 紫の力は結界の排除で弾切れだ。他の地区にも力を割かなければならない現状でこれ以上酷使することは出来ない。輝夜にも、妹紅にも、魂を分離させる技能は無い。かといって白楼剣を振るえば最後、魂魄妖夢は消滅する。

 それに時間だって無い。スカーレット卿の魂は宿主の自我が潜んでいればその狂気の影響から逃れられるが、妖夢の様に共存し、どころか寄生の触手を伸ばされている状態では、精神汚染がダイレクトに彼女を苛ませてしまうのだ。時間をかければかけるほど濃厚過ぎる怨念によって心の底まで食い潰され、発狂する結末も十二分に考えられる。

 

 ならば永遠を被せ、凍結する他に道は無い。事件がすべて解決した後に、永琳か紫の手を借りるしか、彼女を助ける方法は無いのだ。

 剣を下ろし、手をかざす。時の歯車を外したベールを、妖夢へ被せようと照準を定めていく。

 

 

「お待ちになって、蓬莱のお姫様」

 

 

 しかし、それを遮る声があった。

 幽雅で、優美で、凛と張りつつも小川のせせらぎのように穏やかな、耳を撫でれば自然と安らぎを賜る女性の声。ふわふわした綿毛のイメージを想起させながらも、氷柱の様な鋭さも帯びた一言が、輝夜の横をすり抜ける様に駆けていった。

 

「剣、ちょっと借りるわね」

 

 気付けば、回収した楼観剣が姿を消していた。

 妖怪の鍛え上げた幽世の名刀を手に輝夜の代わりとして立ったのは、先ほどまで鎬を削り合っていた少女の後ろ姿で。

 

 亡霊を統べる冥土の管理者にして、白玉楼の女主人。西行寺幽々子がそこにいた。

 

「復讐に囚われてしまった哀れな悪霊さん。善き者たちへ安息を与えるこの冥界に、あなたの居場所はありません」

 

 舞い散る桜の花びらと共に、しんしんと、幽々子は庭を歩いていく。鈴の音が聞こえてきそうな程に華やかな闊歩は、その場の全員の目を奪い去った。

 剣を構えず、亡霊の姫はくるりと虚空に指を這わせる。何かをこちらへ誘う様なその仕草は、直ぐに答えを齎した。

 

 スカーレット卿のどす黒い怨念が、妖夢の体からべリベリと引き剥がされ始めたのである。

 

 西行寺幽々子の持つ、『死を操る程度の能力』。この力は文字通り死を操り、生者を幽世へ引きずり込む――だけの能力ではない。死した者たち、特に幽々子の手によって死を与えられた者を操る技能も含んでいる。

 本来、スカーレット卿は幽々子の管轄下には置かれない。数多の妖怪や西行妖とリンクしても自我を潰されない凶悪な『個』を持つのもさることながら、幽々子の力によって葬られてもいないからだ。二つの要素が混ぜ合わさり、例え幽々子の力であっても、スカーレット卿を自在に操作することは難しい。

 

 だが、スカーレット卿は西行寺幽々子に()()()()()()近づく者を死へ誘い、それを憂いて命を絶ったかつての少女と馴染み過ぎてしまったのだ。

 結果、スカーレット卿は幽々子の手中へと収まり、容易く妖夢から剥離されるに至ったのである。

 

「私の従者が世話になったわね」 

 

 音も立てず、残像すら悟らせず。幽々子は剣を構えていた。

 あまりに軽やかで、あまりに玲瓏な少女の動きは、一流の武芸に勝るとも劣らない。

 もしかすると、スカーレット卿も見惚れていたのかもしれない。そう疑わざるを得ないほど、幽々子の仕草は極限にまで研ぎ澄まされていた。

 だって。間近にまで幽々子の接近を許しながら、スカーレット卿は声の一つも上げることすら出来なかったのだから。

 

「去りなさい。生でも死でもない、境界線の向こう側へ」

 

 儚く、そしてどこか妖艶に。

 西行寺幽々子は、落花の一太刀を振舞った。

 

 

 今度こそ、白玉楼に染みついた悪魔の妄執は終わりを告げた。楼観剣は魂魄を両断し、どこともつかない無の空間へ穢れた魂を誘ったのだ。

 亡霊姫は桜と共に地へ着いて、いそいそと妖夢の鞘へ刀を返すと、綿毛のような微笑みを浮かべて輝夜と妹紅に一礼する。

 

「二人とも、駆けつけてくれてありがとう。お陰で誰も犠牲になることなく、白玉楼に平和が戻りました。西行寺幽々子と冥界の名の下に、改めてお礼を申し上げます」

「御礼なんていらないわ。私たちがやりたくてやった事だから」

 

 面と向かって感謝される事になれてないのか、どこかむず痒そうに頬を掻きながら謙遜する妹紅。

 輝夜も安堵と共に頬を緩めながら、幽々子の両手を手に取って。

 

「無事で良かったわ幽々子さん。最初に見たときは本当どうしようかと」

「心配してくれてありがとう。この通りもう大丈夫よ。ちょっとお腹が空いてきたくらい」

『幽々子らしいわね。しかしあなた、その口振りからすると意識はあったんじゃない?』

「うん。全部見えてたし、聞こえてたわ。朧気だったけれどね」

 

 どうやら存在の希薄化を迎えていたことで力を奪われ、身動きのとれない状態だったのは確かな様だが、五感は健在だったらしい。心停止した者でも暫くは耳が聞こえている、という類に近いのかもしれない。

 けれど、それでは説明のつかないところが一つだけ。

 

「ところで幽々子さん。どうしてあなたは動けたの? 私、まだあなたに掛けた永遠を解いていなかったのだけれど」

 

 輝夜が疑問を持ったのは、幽々子の魂が肉体へ還って消滅しないよう輝夜が施した永遠の魔法である。

 輝夜の永遠には幾つかのレベルがあるが、幽々子に掛けた魔法は時間停止に等しい所業だった。物事は始まらず、終点も迎えない、まさしく永久の不動化である。正しい時間の流れから切り離された幽々子が、自分の意志だけで戻ってくるとは到底考えられなかった。

 訊ねられた幽々子は一瞬きょとんとしながら、『あぁ』とクスクス笑いを零し、

 

「懐かしい庭師さんが来ていたみたいなの。どうやら、私を包んでいた時間の揺り籠を斬って行ったみたいで」

「……? 永遠を、斬った?」

「シャイな人よねぇ、まったく。心配なら顔くらい見せていけばいいのに」

 

 いまいち要領を得ない回答のせいで、輝夜はクエスチョンマークを増やす結果となってしまった。内容から察するに他にも誰か来ていたようだが、はて、懐かしい庭師とは一体誰を指す言葉なのだろうか。

 

「……本当に、心配かけちゃったわね」

 

 妹紅に抱かれる妖夢の顔を覗きながら、憂いを帯びた表情を湛える幽々子。どこか申し訳なさそうで、でも微かに嬉しそうで、なにやら色々な感情が混ざり合った面持ちだった。

 愛しむように、幽々子は銀月の髪を優しく撫でながら、

 

「ちょっぴり臆病で、まだまだ頼りない所もあるけれど……あなたは私の誇りよ。お疲れ様、妖夢」

『あらあら。寝てる時じゃなくて起きてる時に言ってあげれば良いのに。妖夢ちゃん喜ぶわよー』

「駄目よぅ。この子、私に仕える資格なんて無いーだなんて勝手にベソ掻いちゃったんだもの。終わり良ければ総て良しとは言うけれど、ちょっとカチンと来たから少しだけ意地悪しちゃうわ。褒めてあげるのはその後ね」

『ほどほどにしておきなさい。泣いちゃうからね』

「何もしなくても、起きたら泣きそうだけどねぇ」

 

 目を覚ました妖夢はまず、幽々子の安否を知って鼻水と涙で顔を滅茶苦茶にしながら主人に向かって飛びかかるだろう。わんわん泣きながら幽々子に宥められて、そして泣き疲れてまた眠るのだ。

 そこまで容易に想像出来て、紫と幽々子は穏やかに笑いあった。老婆心とまでは言わないが、子供はいつまで経っても可愛らしいものである。

 

「……そう言えば、あなたって剣使えたのね。妖夢ちゃんが剣術指南役らしいし、全然剣を振るイメージじゃないからヘタッピと思ってたわ」

「ふふ。代々続く指南役から長~いこと習い続けてたら、嫌でも上達するものよ」

「? じゃあ何で妖夢ちゃんに教えてあげないの? 悪気があって言う訳じゃないけど、あの体捌きは間違いなく妖夢ちゃんより技法を修めてるでしょうに」

「そんなの決まってるわ」

 

 幽々子は人差し指を唇に当てながら、『でも秘密ね?』と付け足して、

 

「子の成長を、より身近に感じることが出来るからよ」

 

 舞い踊る桜にも劣らない微笑みと共に、爛漫な亡霊姫は悪戯っ子のように囁いた。

 



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41.「燃えよオグレス」

「……ははぁ、なーるほどねぇ。つまりこういう事か。ヤマメとパルスィは怨霊に憑かれて利用されている。他の連中も同じ。でも私は乗っ取れなかったモンだから、こうして徒党を組んで動きを封じようって魂胆なわけだ」

「え? え? え? え?? ちょっ、待ってよ勇儀、私全然理解が追いついてくれないんですけど!?」

「簡単に言やぁ、地上で言う異変ってやつさね。ホラ、この前萃香が居酒屋で話してたじゃないか、明けない夜だったり四季の花が一気に咲いたり天気が滅茶苦茶になったりってやつ……あれ、あの時キスメ居たっけ? まぁいいや。とにかく、皆は悪い奴に操られちまってるってことだよ。んで、私たちは運悪く巻き込まれたってことさ」

「なるほどガッテン! でも私関係無いんで帰らせてもらって良いですか!? 邪魔しないからおーろーしーてーよー!!」

「カカカ。そりゃ無理な話よ。だって私でも動けないんだもん」

 

 柱に縛り付けられていながら、まるで問題にしていないように勇儀は笑った。かつて四天王と名を馳せていた鬼の首魁の一人だが、土蜘蛛の糸を簀巻きになるまで絡み付けられては、流石に一筋縄ではいかないらしい。

 

 勇儀と反対側に逆さの状態で縛られているキスメは、血が上ったのか顔を真っ赤にしながら爪先をパタパタさせている。幾ら妖怪でも時間の問題だろう。

 しかし暴れようが喚こうが糸は解ける様子を見せない。

 

 それを、愉悦の笑顔で眺める女が一人。

 

 ゆったりとした茶色の下地に、黄色い網目模様が特徴的なジャンパースカート。頭頂で纏められたお団子の金髪は、どこか快男児のような活気ある印象を与える。

 名を黒谷ヤマメ。大和の国では鬼と並んで名高い大妖怪、土蜘蛛に連なる少女である。

 けれどその中身は、全く別のもので占拠されている様子だが。

 

「ところでよう。ヤマメの体使ってるお前、名前はスカーフ野郎であってるか?」

「……スカーレットだ、星熊勇儀。もっともこの体だけではなく、この場に居る全員が()なのだがね」

 

 卿は意識を植えた怨霊を分霊に改造し、回路を繋いで寄生した妖怪たちを操っている。

 群体でありながら全て独立した自我である彼は、もはや個人の定義が破綻していると言っていい。

 

 悍ましい背景を察しながらも、鬼の顔色に変化は無かった。むしろ外道であるが故に清々しているといった風体だ。

 

「そ。んじゃあ早速おっぱじめるか……と言いたいところだけど、その前に二つか三つ、質問いいかい?」

「フン。そんなザマでは戦うどころか動けるわけも無かろうが……良いだろう、聞くだけ聞いてやる。別段隠しごとも無いのでな」

「中々気前のイイ奴じゃあないか。なら一つ目。どうやってヤマメを乗っ取った?」

 

 至極真っ当な疑問だった。

 土蜘蛛と呼ばれる魔性は、かつて日の下を混乱の渦へ落とした名だたる大妖怪の銘である。黒谷ヤマメは土蜘蛛にしては陽気で、友達想いで、一見すると血生臭い荒事とは無縁な少女に見えるかもしれないが、その格は紛れもなく本物だ。

 

 鬼の四天王たる勇儀には勝らずとも、不意打ちを突かれた程度で乗っ取られるタマではない。

 なのに現実としてイイように操られている。そこに至った経緯が、勇儀にはどうしても腑に落ちなかったのだ。

 

「……」

「だんまりかい。じゃあ二つ目。()()()()()()()()()()()()()

 

 勇儀がこの問いを吹っ掛けたのは、無論ちゃんとした訳がある。

 周りを囲む鬼を筆頭とした魑魅魍魎や黒谷ヤマメからは、勇儀が最も嫌う者の()()が鼻が曲がりそうになるほど漂っていた。

 しかしパルスィからは忌まわしい臭気が感じられないのだ。それによく見ると、熱を持っているかのように顔が紅潮している。瞳は虚ろだ。体は平衡感覚が鈍くなっているのか小刻みに揺れており、とても平常運転とは思えない。

 

 どう考えても他の連中とは状態が違う。故に勇儀は訝しんだ。

 しかし、その問いにもスカーレット卿は答えなかった。

 

「……三つ目。鬼共をどうやって乗っ取った。曲がりなりにもこいつらは鬼の一味、私の舎弟で家族どもだ。地上の生半可な妖怪とは鍛え方が違う。お前みたいな糞野郎の洗脳を簡単に許しちまうほど軟弱な野郎どもじゃあない」

「…………」

「答えやがれ、スカーレット」

 

 暫しの間が、ぽっかりと空いて。

 笑いを堪え切れなくなったように、卿は突如噴き出した。

 目を覆い、クックッと喉を打ち鳴らす。異様な態度は勇儀の神経を逆撫でた。

 

「何が可笑しいってンだ」

「いやいや、思い出し笑いさ。そう、思い出し笑い。いやぁ、我ながらここまで上手く行くとは思っていなくてね。うん、実に愉快な心地なんだ」

 

 まぁそれはさておいて、と卿は咳払いと共に愉悦を斬り落とす。

 

「星熊勇儀。君は、妖怪を誑かすにあたって最も簡単な方法は何だと思うかね?」

「あ?」

「それはね、存在意義に矛盾を起こさせることなんだよ。自己の破綻、と言った方が正しいかな。例えば垢を舐める妖怪がいたとして、そいつの舌を引き抜いたらどうなる? 無論垢は舐められなくなる。じゃあそいつは果たして垢舐め妖怪と名乗れるだろうか? ()()()()妖怪として確立できるのだろうか? できんよなぁ。垢を舐めなければそいつは垢舐め妖怪と言えんだろうさ。……ここまでくれば、察しがつくんじゃあないのかい?」

「……!」

「そう。こんな風に矛盾を突き付けてやるとな、いとも容易く妖怪はバランスを崩すんだよ。存在の均衡を揺すった妖怪につけ入るなんて詐欺より簡単さ。だから――先ず、この橋姫から落とすことにしたんだよ」

 

 フラつくパルスィを抱き寄せて、愛しむように頭を撫でる。指の間から金糸の髪がすり抜けて、尖った耳が顔を覗かせた。

 だらり、とヤマメの口から舌が零れる。蛇のように蠢き唾液を光らせりさまを見て、勇儀は顔を猛烈に顰めた。

 

 絵面の美醜の問題ではない。赤の他人が人の体を乗っ取って、ましてや女の体を良いように弄んでいる姑息さが、勇儀へ強烈な不快感を与えたのだ。

 

「水橋パルスィ。嫉妬の女神にして橋姫であり、鬼神の側面も持つ女。……彼女は嫉妬の塊だ。嫉妬こそが生き甲斐と言っても差し支えない。他人の幸福も不幸も妬ましいと嘯き、それを糧とする彼女と私の能力は実に相性が良くてね。彼女の抱く嫉妬心を全部()()に変えてやったら、あっさり自我を見失ったのさ」

「お前……なんて真似しやがる……!」

「だがしかし、残念ながら予想以上にダメージが大きすぎた。体力を消耗させ過ぎて、接続は出来ても()()()が入り込める余裕が無くなってしまったんだよ。彼女にはまだ嫉妬を操ってもらう仕事が残っていたからくたばられても困る。なので少しばかり術を盛って、軽い酩酊状態にしておいた。フラフラしているのはそのためさ。お陰でよく言う事を聞いてくれる親友となったがね」

 

 安心を与える程度の能力。レミリアが便宜上そう名付けた力は、妖怪に対して非常に強力な作用をもたらす。

 

 まさにパルスィがそれだった。嫉妬の全てを濃厚な安心へ挿げ替えられ、精神の調和を著しく乱されてしまったのだ。

 結果、感情と存在意義の間に強烈な齟齬が生まれ、噛み合わない歯車が互いを押し潰し合うように、『水橋パルスィ』という個を崩してしまったのである。

 

 その歪に漬け込み、卿はパルスィを陥落した。

 思考も判断力も奪い、能力を発動させる傀儡としてしまったのだ。

 

 察して、勇儀は芋づる式に答えを得た。

 何故ヤマメがあっさりと悪霊の手に落ちてしまったのか。何故鬼たちまでもが容易く翻弄されてしまったのか。

 

「……外れていて欲しいんだが、まさかよう、パルスィを人質にヤマメを脅したんじゃあるまいな?」

「ん? いや、大当たりだよ星熊勇儀。そうでもしなければ土蜘蛛を乗っ取れるはずが無いだろう。全く困ったものだ、地底には豪傑が多すぎる」

「てめえッ!!」

「ぎにゃああーーッ!! あ、暴れないで勇儀締まる締まる締まってるゥ!!」

 

 勇儀は弱い奴が嫌いだ。腕っぷしもあるが、それよりも精神的に()()奴が大大大嫌いだ。

 ましてや、姑息で卑怯で仁義も道理もへったくれもない心の持ち主が、我欲のままに他人(ヒト)の体を乗っ取って、他人(ヒト)の弱みにつけこんで、正々堂々とは対極の戦いを挑んできている。

 

 額の血管が数本弾け飛んでもおかしくない憤怒がマグマの如く込み上がり、縛られたまま飛びかからんばかりに怒り狂った。後ろで繋がっているキスメの存在を、思わず忘れてしまうほどに。

 

「つゥーことは、アレだ。ここにいる奴らも全員、パルスィを操って嫉妬を爆発させるなりなんなりしてココロに隙を作り出し、その穴を突いて入り込んだクチかい」

「ああそうだ。卑怯と言ってくれるなよ、効率と戦力を考えた上での作戦なんだから」

「反吐が出るね。腕っぷしで従わせたならまだしも、弱みを握ってお山の大将気取るその態度は心底気に食わねぇ」

「結構。鬼の美学なぞ私にとってはどうでもいいことだ。存分に喚いてくれて構わんぞ、どうせ指先一つすら碌に動かせないのだからな」

 

 現状を検討する限り、スカーレット卿の言っている事は事実だ。どれだけ怒りを滲ませて叫ぼうが、どれだけ理不尽な行いを糾弾しようが、今の勇儀に取れる手段は無い。

 

 無理に動けば糸の強さで体が引き千切れかねないし、下手をすると後ろのキスメが先に真っ二つになってしまう。

 いくら肉体のダメージに強い妖怪でも両断されれば無事では済まない。弱った瞬間を狙って更に縛り上げられるか、最悪操られている者たちと同じような運命を辿るかもしれない。

 

「――……ひい、ふう、みい、よ……」

 

 しかし勇儀は、文字通り手も足も出ない身になってしまっても、瞳から闘志の輝きを一片たりとも掻き消す事はしなかった。

 どころか、ただ冷静に、視線を右往左往させて謎の数を数え始めている。

 異様な行動に、流石のスカーレットも疑問符を浮かべざるを得なかった。

 

「何の数字だ、それは」

「ここにいる、お前が辱めた野郎どもの数だよ」

 

 一切鋭さを鈍らせない刀剣の如き眼差しは、眼を合わせれば視線で頭蓋を抉り取られそうな気迫を秘めていて。

 

「そいつら全員のツケを私が代わりに払ってやる。いいか糞野郎、全員だ。ここだけじゃない、外にも待たせてるだろう奴らの分の支払いも、アンタの面に叩き込んでやるから覚悟しときな」

「これはこれは、また大きく出たものだ。目と鼻の先の私にも噛みつけないお前が私を殴り倒すときたか」

「知らねぇってンなら教えてやる」

 

 ――空気が、変わった。

 

「鬼はな、絶対に嘘を吐かないんだよ」

 

 ドクン、と心臓の鼓動の様な波が空気を伝って走り抜ける。

 星熊勇儀から放たれた不可視の波動だった。彼女を爆心地に強さを増していく波動は、徐々に建物全体を揺るがすまでに到達する。

 

 スカーレット卿は余裕を崩さない。そもそもこの男は狡猾を極めた妖怪だ。紫の手によって正体が暴かれたとはいえ、それでも勇儀の前から行方を晦まさなかったのは勇儀の束縛に絶対の自信を賭けているからである。

 

 綿密に彼女たち大妖怪のデータを分析し、確実に動きを止められる作戦だと結論付けられたからこそ、ここまで慢心していられるのだ。

 

「妖力の圧で糸を吹っ飛ばすつもりか? 無駄だ。鬼の四天王を拘束するのに何の仕掛けもしていないと本気で思っているのか。その糸はな、妖力の伝導率を何十倍にも引き上げた特別性なのだよ。どれだけ力を練ろうが糸を伝って力は霧散するし、何より無茶な力を籠めれば後ろの鶴瓶落としが引き絞られて爆砕するぞ?」

「え? うそ、マジで!? ちょっとそれは洒落にならないって、ねぇねぇ勇儀お願い抵抗しないでまだこの足とサヨナラバイバイしたくないのよ――っ!!」

「悪ぃキスメ、そいつは無理な相談だ。宣言しちまった以上、実行しなきゃ嘘になっちまうんでね」

「うわあああああああああああ勇儀の鬼いい――っ!! あほんだらけ――――っ!!」

「なに言ってんだい、私は鬼の四天王だぞ。でも安心しな、キスメには掠り傷一つ着けやしないよ。だから大船に乗ったつもりで踏ん張りな!」

 

 地盤を叩き伏せるが如き大地震が怒号と共に巻き起こった。妖力や妖術によるものではない。もしそうならば幾重にも撒かれた糸に力を吸い取られ、完全に無効化されている筈である。

 ならば、導き出される答えは一つ。

 小細工なしの、己が身体能力のみ。

 

 胡坐をかいた状態で拘束されているのに、少しずつ、勇儀の尻が床から離れつつあった。大腿が丸太の如く膨れ上がり、傍目から見ても凄まじい力が足腰を介して床へ伝わっているのが分かる。事実、勇儀の座る床はメシメシと悲鳴を上げ、木目に亀裂が走り始める程だった。

 力の起点は()だった。胡坐の体勢を無理矢理崩し、立ち上がるのではなく踵の力だけで床を破壊しようとしているのである。

 横に向かう力ならば鋼鉄の糸に身を引き裂かれるが、完全に上下へ向けられた力ならば、摩擦で多少体が擦れようとも、致命的なまでに圧迫される事は無い。勇儀はその可能性に賭けたのだ。床そのものをぶち抜くという、常識外れな選択肢を捥ぎ取るために。

 

「ぐッッッぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬぬううううおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」

「ひぇっ!? な、なんかミシメシバキボキ有り得ない音してるんですけどー!? ちょっと勇儀本当に大丈夫なのよねっ!? 心なしか胸が締め付けられて苦しいんですが真っ二つになったりしないよね私!?」

「まさか、冗談だろう……?」

 

 鬼の大工に鍛えられた頑強な床でさえ、圧倒的な馬鹿力の前にすぐさま白旗を上げ、大砲が着弾したかのような大穴を穿たれた。勇儀の下半身が床下の空間へ吸い込まれる。このままでは足が土へ届かず宙ぶらりんの状態になっている筈だが、しかし未だ家屋の揺れは収まらない。

 天井から埃の雨が降り、建物の絶叫が耳を劈く。スカーレット卿は舌を打ち、行動にも打って出た。

 

「ちぃっ、何をするつもりかは知らんがさせるワケにはいかん! こいつを止めろ!!」 

 

 土蜘蛛の糸を放ち、拘束の厚みを増していく。晒された腰元も覆いつくすが、しかしそれでも震撼は鎮まる気配を一向に見せない。

 周囲の鬼が一斉に吼え、勇儀に向かって飛びかかった。爪を伸ばし、牙を光らせ、勇儀の体を怪力を駆使して抑え込む。

 

 ――勇儀の真正面に立っていた鬼が、突如として姿を消した。

 

 床を突き破って現れた勇儀の足が、鬼を天井の一部ごと空の彼方へ吹っ飛ばしたのだと理解するのに、相当な時間を強いられて。

 

「悪ィ夜叉丸! 今度気が済むまで酒奢ってやるから許してくれよ、なぁッ!!」

 

 九十度まで降り上がった勇儀の足が、大斧の如く一直線に下ろされた。

 大地を砕き割ったのかと錯覚せざるを得ない轟音が怒涛の勢いで炸裂する。あまりの威力に床は爆撃にあったかの如く吹き飛ばされ、勇儀を囲っていた鬼たちは纏めて空に放り出された。

 間一髪被害を免れたスカーレット卿はパルスィを背負って家屋を抜け出し、目先の長屋へ跳び上がって屋根の上へと避難する。

 

「……伊吹萃香もそうだったが、本当に底が知れん妖怪だな、鬼の四天王という奴は。万全だと高を括っていてもそれを遥かに超えてくれる。だから保険は欠かせんのだ」

 

 濛々と硝煙立ち込める居酒屋の屋台が爆破解体のように崩れていく。一際大きな地響きが鳴れば、建物は見るも無残な残骸の積み木へと成り果てた。

 ガラガラと、礫の丘から木片や瓦が転がってくる。その頂きには、異様な高さを誇る一つの突起の影があった。

 なんだあれは。スカーレット卿は目を凝らし、煙が晴れるのを静かに待った。

 やがてその正体が明かされる。スカーレット卿でも想像を絶する、いいや、誰しもが予想し得ない形となって姿を現す。

 

「――――!?」

 

 大黒柱だった。

 勇儀の拘束具となっていた大黒柱が、勇儀とキスメを縛り付けたまま、瓦礫の山を掻き分けて堂々と君臨したのである。

 

「は」

 

 居酒屋の轟沈が起こった瞬間、勇儀が一体何をしたのかをスカーレット卿は全て理解した。

 単純明快で、けれど普通なら考えたところで実行できる訳も無ければ、したところで何の意味も無い所業を、鬼の女は平然とやってのけたのだ。

 星熊勇儀は踵落としで腰から下の大黒柱を叩き折り、脱出不可能な袋小路に無理やり活路を開いたのである。 

 こんなの、笑わざるを得なかった。

 

「ははははははははっ! ふははははははははっ!! なんだそれは!? なんだそれは!? 妖力でも魔法でもなく筋力だけでカタをつけただと!? 滅茶苦茶にも程あろうが! ブワハハハハハハハハハハ!!」

 

 糸は解けないが柱は砕ける。常識をかなぐり捨てた発想の下に、勇儀はそれを実行した。不自由な体を自由にするために、一つの建物を足二本で完膚なきまでに破壊し尽くしたのである。

 豪快にして大胆不敵。常識外れの怪力乱神。

 これが、妖怪の山を総ていた四天王が一人、星熊勇儀という怪物か――スカーレット卿は敵でありながら、その豪放磊落(ごうほうらいらく)ぶりに思わず太鼓判を押したい気持ちに駆られてしまうほどだった。

 

「げほっ、えほっえほっ! ぶふええ、埃臭い! ……な、なにがどうなっだのォ……!?」

「まだ私たちは囚われの身のオヒメサマだぜキスメちゃん。さぁて次はどうやってこの簀巻きを外そうかねぇ、このままじゃアイツを殴るどころかデコピンだって出来やしない」

「大将! 戦略的撤退はどうでしょうか!?」

「残念。例え一時であってもあんなクソッタレにケツ向けて逃げ帰る気は毛頭無いし、なにより奴さんも私たちを逃がしてくれなさそうだぜ」

「そんなぁー!?」

 

 やだやだせめて私を降ろしてから戦ってぇぇぇっ! とキスメの元気な悲鳴が響き渡るが、誰も応えてはくれなかった。どころか悲鳴の匂いを嗅ぎつけて、至る箇所から鬼を始めとした地獄の妖怪たちが顔を覗かせてくるではないか。

 語るまでも無く、全員がスカーレット卿の術中へと落ちていた。正気を失くした瞳は餓えた野獣の如く爛々と輝き、歯を剥き唸るその姿からはまともな理性など伺えない。

 

 どうやら怨霊を素材に作り出した寄生体は、全てがスカーレット卿の自我を完全に発芽させている訳ではないらしい。総体的な意志は間違いなくスカーレット卿のものとして統率されているが、不安定な理性の歪みが垣間見える。勇儀が推測するに、ヤマメを乗っ取った主人格(ブレイン)に従う下請けの様な状態なのだろう。

 

 しかし。それでも数は圧倒的に不利。両腕は使えないし、キスメと言うハンデも抱えている。おまけに柱が頑丈過ぎてすこぶる邪魔ときた。こんな形で鬼の匠技を体感する事になるとは、流石の勇儀も想定の範囲外だっただろう。

 けれど、それを踏まえてなお星熊勇儀は絶望しない。むしろ鬼の性ゆえか笑みすら込み上がってくるほどだ。

 鬼は歩く天災にして大和の国の狂戦士。語られる怪力乱神は、無謀に等しい戦場を前に、久しく血潮を騒がせた。 

 

「ふふーん、面白くなって来たじゃあないか。最近は地獄だってのに平和過ぎて退屈してたくらいなんだ。ナハトとも結局戦えなかったし、代わりの運動には丁度いいじゃんね」

一刻前(二時間前)(キスメ)さ――――んッ!! 聞こえてますか――――ッ!! あなたは気紛れに顔出した飲み会で蓑虫にされた挙句命の危機に晒されま――――す!! だから今日は一日中家に引きこもってて下さ――――い!! そして私をタイムパラドックスでここから救い出して下さいよろしくお願いしま――――――すっ!!」

「五月蠅いよキスメ! アンタも地底の女なら命の一つや二つ、パーッと景気よく賭けてみせな! 女は度胸、そして根性! ここが胆の据えどころっさね!」

「脳筋戦闘民族のオーガと一緒にしてんじゃねぇよ畜生おおおおおおおおお!!」

 

 キスメの抗議は虚を切り、ドップラー効果を連れて勇儀と共に跳躍した。

 追手も同じく空へ向かって跳ね上がる。牙を研ぎ、爪を伸ばし、スズメバチを仕留めんと集合するミツバチの如く全方位から襲い掛かった。

 

「だああああありゃあああああああ――――ッ!!」

 

 蜘蛛糸で縛られたが故に今の勇儀は妖力の類は使えない。手持ちの武器は己が肉体ただ一つ。

 だが力の勇儀と謳われた規格外は、オカルトによる補正も無しに純粋な脚力で空気を蹴り飛ばした。背中にキスメと柱を背負いながらも圧倒的な身体能力を最大限に発揮しながら、迫る妖怪たちへ大砲の如き蹴りと柱による殴打を叩きこんでいく。

 薙ぎ払われた妖怪たちが流星の如く地底中へ着弾し、紛争の様な爆発が幾つも巻き起こった。

 

「これ殺しちゃってないよね!? なんかドッカンドッカン飛んでいってるけど皆死んでないよねぇっ!?」

「馬鹿野郎、地底の妖怪がこの程度でくたばるもんか! 精々二、三日動けなくなる程度さ、安心しなぁっ!!」

「それはそれで大問題だとキスメちゃんは思いますーっ!!」

 

 滞空時間が切れ、放射状の亀裂を叩きこみながら勇儀は着地する。同時に大斧を携えた獣頭の妖怪が現れ、背後から躊躇なく切りかかった。

 

「……え? ちょちょちょ待って待ってそれはヤバいってデカすぎるって洒落になりませんってお願い一旦ストッププリーふぎゃああああああああああっ!?」

 

 大木すら両断しかねない大仰な刃が寸分の狂いもなくキスメの腹へ叩き込まれる。衝撃がキスメの体を揺らし、これ以上に無い程の絶叫を轟かせた

 

「はい死んだ――――っ!! これは流石の私もお陀仏まっしぐらだ――ッ! うわあああん来世は絶対飲み会なんか行かないぞこんちくしょ――っ!! …………って、あれ? 全然痛くない……?」

「当り前よ、なんたってこの厚すぎる腹巻きはヤマメのオーダーメイドだぜ? 童子切安綱ですらこいつをブッた斬るには相当苦労を強いられるだろうさ!」

「な、なーるほどー! ヤマメありがとう! お陰で助かったよー!」

「まぁでも、逆を言えば私たちじゃ絶対解けないってことなんだけど、ねぇッ!!」

 

 台風に匹敵する旋風を連れて、勇儀の回し蹴りが獣妖怪の側頭部へ炸裂した。車輪と化した妖怪は輪入道の如く豪速で転がっていき、家屋へ着弾すると建物を巻き込んで倒壊さに巻き込まれていく。肉体的に強靭な妖怪でなければ一瞬であの世へ送られかねない一撃は、正気を失った者たちへ戦慄を植え付けた。

 

「キスメ! さっきので手は空いた!?」

「え? ……あっ、うん! ちょっとだけど手は動かせるようになったよ!」

 

 突き刺さった斧は貫通こそ出来なかったが、一部の糸を切り裂き、ほんの少しだけ裂け目を走らせるに至った。それはちょうどキスメの小さな手を外へ晒せるかどうかの瀬戸際であり、事実、外気へ触れられたのは右手の一部だけだった。

 勇儀はこれを狙っていたのだ。幾年も積み重ねられた戦闘経験と野獣よりも鋭い直感で絶妙な力加減を計算し、わざと敵に斧を振り下ろさせたのである。

 

「キスメ、あんた能力で火を起こせないかい!? 火の玉より小さくていいから!」

「ええ!? 無茶だよ勇儀、私もこの糸のせいで妖力散らされてるんだから!」

「ほんの少しで良いんだ! どうにか気合で絞り出せないか!?」

 

 キスメの能力は『鬼火を落とす程度の能力』である。鶴瓶落としたる彼女は闇の猛火たる鬼火を自在に操り、特に遥か高みから墜落させる事を得意とする。応用すれば火球を放射する事だって朝飯前だ。

 だがしかし、前提として妖怪の能力はあくまで妖力を使って行使する術の一つであり、代償無しに発動できる特殊な力の事ではない。固有の能力を持ち合わせているのは、レミリアやフランドール、八雲紫のような最高位に君臨する大妖怪たちの特権だ。

 キスメの鬼火はもちろん妖力を必要とする。故に、今置かれている状況で能力を発動するのは些か、いやかなり無茶のある注文だろう。萃香より妖術的な面で劣っているとはいえ、あの星熊勇儀ですら完封された糸の檻なのだ。果たして成し遂げる事が出来るのかと、一抹の不安を抱いたって誰も責めることは出来ない。

 

 けれど、多分やるしかないのだろう。少なくとも勇儀には何か考えがあるに違いない。星熊勇儀は一見すると全てが規格外の滅茶苦茶で、破天荒極まりないルール無用を地で行くような姐御であるが、同時にあらゆる本質を狙撃銃の如く射貫く慧眼の持ち主である。特にこと戦闘において、彼女ほど頭の切れる者はそう居ない。

 キスメは無茶振りに歯噛みしながらも、同じく無茶な状況で戦い続ける勇儀を見て、やるだけやってみるかと腹を括った。

 

 右腕を糸の下から這わせ、なんとか外へ人差し指を露出する。だがここからが問題だ。妖力は特殊な糸を伝ってきめ細かく分散してしまう。普通のやり方では、きっとマッチの種火程度すら生み出せない。

 そこでキスメは考えた。妖力を放出して炎の形に固めるのではなく、自分の指をライターとして扱うように、体の中に妖力を通して指先から放出する作戦を。

 

「どう!? 出来そう!?」

「いや……ちょっと待って……糸が全部持ってっちゃうから凄く難しいの……!」

 

 針の穴に糸を通すよりも更に細く、複雑な血管を通していくような繊細過ぎる作業は多大な集中力を必要とした。自分が縛られていて、勇儀の激しすぎる武闘により現在進行形で振り回されている事すら忘れる程の、脂汗すら滲む集中力が。

 体の中に妖力を通しても大部分が糸に向かって流れてしまう。散り散りになる力を何度も何度も掻き集めながら、キスメは慎重に目的地へと運び込む。

 

 そして。

 

 ぽうっ、と。蠟燭の火程度の小さな明かりが、キスメの人差し指に生まれ落ちた。

 安堵と達成感が、ほっと胸に湧き上がる。

 

「や、やった! 出たよ勇儀! 火が出せた!」

「でかした! そいつを後ろに向かって飛ばせ!」

 

 勇儀が背の方向、距離を調節し、キスメの前に乾いた木版を誘い出す。倒壊した家屋から零れた材なのだろう。障子や何やらが積み重なって土砂崩れのようになっていて、一部が突き出る形になっていた。

 しかし当然ながら、こんな程度の火では木に燃え移る事すら困難だ。キスメは直接木に放たず、傍の障子紙へと火種を撒いた。

 バチバチと和紙が燃えていく。だが小さい。手で仰げばいとも容易く掻き消されてしまうくらいに。

 

「着いたよ! ……でもこんなのでどうするの!? 直ぐに消えちゃうよ!」

「大丈夫だ、火を強くするにゃ燃料掛ければいいって相場が決まってる!」

「そんなのどこにあるってのさ!? 火力が低すぎて木にすら燃え移ってくれないのに!」

「おいおいキスメ、私たちはさっきまでどこに居たのか忘れたのかい?」

 

 言って、勇儀は笑った。

 ゴキバキと足の関節をプラモデルの様に外した勇儀は、本来ならば有り得ない柔軟性を伴って足を振るい股下へ爪先を突っ込むと、どこに仕舞いこんでいたのか一本の徳利を取り出した。居酒屋の中で暴れた際、席にあった手を付けていない品を、勇儀は拝借していたのである。

 

「心底勿体ないが、背に腹は代えられんよなぁっ!」

 

 関節を再び嵌め直し、勇儀は器用に徳利を上へ放り投げた。豪速回転しながら落下する徳利を大口を開けて掴み取ると、顎の力に任せて思い切り嚙み砕く。

 妖怪すら容易く酔いの世界へ誘う酒が溢れ、勇儀はそれを吸いあげると、呑み込みたくなる衝動を抑えながら振り返って火種に吹き掛けた。

 

 例え酒であっても、アルコール度数が五十を過ぎれば燃料と何も変わらない。ましてや勇儀がチョイスした一品は深飲みすれば鬼でも酩酊する特上品だ。それは最早酒と呼んでいいかどうかの瀬戸際に立つ劇物であり、噴霧された酒は瞬く間に火の手を広げるに至った。

 

「ッかぁーっ!! キッツイけど良い酒だねぇコレ! 畜生、ゆっくり堪能したかったぜ!」

 

 心底名残惜しそうに叫んで、勇儀は燃え盛る火の中へ躊躇なく飛び込んだ。前屈みになって前面で火を浴びる様に覆い被さり、一心不乱に体を焼き焦がしていく。

 予想だにしない奇行を前に、背後のキスメは叫び声を張り上げた。

 

「ちょっとちょっとちょっと何やってんのさ勇儀!? 焼身自殺させるために私は鬼火を絞り出したんじゃないぞって言うかせめて死ぬなら私を巻き込まないとこでやってくれな臭ッ!? なにこれくっさぁっ!? 死体焼いてるみたいにめっちゃ臭うんですけどー!?」 

「焼身自殺? ははっ、こんなチンケな焚火如きで私を燃やせるわけないじゃんか! ああところで、知ってるかいキスメ? 蜘蛛の糸ってのはね、()()()()()()()()()()()()()

 

 蜘蛛の糸は同じ太さの鉄鋼の五倍近い強度を誇り、鉛筆程度の直径もあれば飛行機すら止められる、という話は有名だろう。土蜘蛛の糸もその説に違えず、どころかより強力無比な至高を冠する糸である。鬼すらも完全に束縛する尋常ならざる強度を誇り、今の勇儀やキスメの様に何十何百も巻きつければ、八雲紫のようなイレギュラーでもない限りまず脱出は不可能だ。打撃どころか日本刀による斬撃さえ、この鎧を突破するのは至難を極める。

 だが蜘蛛の糸は蛋白質で出来た繊維である。その特性ゆえ鋼と違って熱に弱く、嘘のように容易く溶けて千切れてしまうのだ。勇儀はこれを狙っていた。

 

 火に晒された糸の束はまるで熱された綿菓子のように崩れ始め、独特な異臭を放ちながら一気に拘束を弱体化させる。束ねれば無敵の枷となるが、それは数あってこその暴威である。天下無双の化身たる星熊勇儀を、溶けきった糸でどうして食い止める事が出来ようか。

 

「ふんッ!!」

 

 破裂が起こった。縛られていた腕を鬼の怪力で押し広げ、溶け切れていない糸も纏めて引き千切るように飛ばしたのである。

 

「や、やった! ほどけたよ勇儀っ!」

「よっし、これでやって全力出せる。――っと、その前に耳貸しな!」

「えっ?」

 

 キスメを引き寄せ、勇儀は耳元で何かを囁く。目をパチクリさせていたキスメはやがて決意を固めた表情で首肯すると、一瞬前まで括られていた柱を拾い上げ、腕を回ししがみついた。

 鶴瓶落としは小刻みに膝を震えさせながら、

 

「や、優しく頼むよ!?」

「無理ッ!!」

「そこは嘘でも任せろって励ましてよもおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」

 

 勇儀はキスメ着きの柱をまるで棒切れを拾うかのように持ち上げると、彼方へ向かって全力全開のパワーをもって放り投げた。投げ槍と化した柱はキスメの悲鳴を尾に引きながら、あっという間に地底世界の果てまで流星の様に飛び去ってしまう。

 

 満足気に手を払って、勇儀は踵を返し向き直った。

 視線の先には、一連の行動を眺めていたヤマメがいる。

 銃口を突き付けるように、勇儀は自由になった人差し指を卿へ向け、

 

「降伏するなら今のうちだよ。もっとも、どちらにしたってアンタはぶん殴るがね」

「降伏? 一体どこに降伏する要素があると言うんだ星熊勇儀。勘違いしているようだが、私は別に君らを倒したい訳じゃあないんだよ。ただ時間を稼ぎ、より長く混乱を招くことが出来さえすればそれで良いんだ」

 

 屋根から腰を上げ、卿は朦朧としているパルスィのこめかみに指を立てた。

 紅い光が瞬き、爪の先からズルリと何かが注ぎ込まれる。途端、少女に異変が花を咲かせた。

 虚ろな瞳を太虚へ向け、荒い呼吸を繰り返すのみだったパルスィがカッと目を見開いた。翡翠の瞳がライトグリーンの光を放ち、力の脈動を発揮する。糸で釣り上げられたマリオネットの如く体勢を整えた橋姫は徐に両手を広げると、五指を別の生き物の如く蠢かし、ナニカを手繰り寄せるような仕草をとった。

 

 呼応する、躍動があった。

 

「――――ア、ア、アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 

 一帯の妖怪たちが見る間に力を増していく。パルスィと同じ蛍光色の光を迸らせながら体をガクガクと痙攣させ、口から泡を噴き出した。眼球は破裂したように血脈が走り、理性を飛ばさんと頭を振り乱しながら、この世のものとは思えない悍ましい咆哮を轟かせる。

 

「ね、ネ、ネ、ねねね妬ましい妬まシい妬マしイその力そノ豪傑その不屈その肉体全て全てすべてすううべて妬ましいいいいいいいいあああああああガガガガガァァァァアアアアアアアアアアア――――――ッッ!!」

「……はは。嫉妬のパワーでドーピングってかい?」

 

 妖怪のポテンシャルは精神力に大きく左右される。どんな大妖怪であってもメンタルが虚弱に鬱屈すれば、肉体も能力も圧倒的に格落ちしてしまう。しかし逆を言うならば、不朽にして不屈の絶対的な意志を手にした場合、例え弱小妖怪であろうとも信じられない底力を発揮する事も有り得るのである。

 そして意志の力を生み出す燃料は感情だ。特に憎悪や怒り、復讐心や嫉妬のような負の感情は強烈なパワーを生産し、肉体と意志を突き動かす引き金となる。五百年もの長きに渡り、たった一人の吸血鬼を理想の形で殺さんと邁進し続けてきたスカーレット卿が良い例だろう。

 今、卿がパルスィに行わせたのはその再現だ。人工的に嫉妬の激情を限界まで昂らせ、対象を勇儀へと絞り込ませる事で、この場の全員が星熊勇儀を妬み殺さんと進撃する狂戦士へと生まれ変わったのである。

 

「――いいぜ。やるってンならとことんやってやるまでさ。よし、来いッ!!」

 

 先陣を切ったのは牛頭の妖怪だった。全身の筋肉を隆起させ、街道の石畳を踏み壊しながら雄叫びと共に突進する。膂力は殺さず、人間なら金槌で殴られた飴細工のように容易く砕き割るだろう必殺の拳を、勇儀に向けて全力で振り降ろした。

 勇儀は迫る拳を最小の動作で払いのけると、間髪入れずに鳩尾へアッパーカットを叩き込む。ゴムの塊を思い切り叩き付けたような轟音が炸裂し、勇儀の三倍はあろう巨体が容易く浮かんだ。すかさず手首を掴み取ると、砲丸投げの如く群れている妖怪に向かって投げ飛ばし、ボーリングのピンのように纏めて吹っ飛ばしてしまった。

 

 舞い上がる粉塵。飛び散る砂礫。それを食い破り、三つの影が俊敏に飛び出す。

 それぞれ一本、二本、そして捩じれ角をもった女鬼だった。各々の顔を見た瞬間、勇儀の表情が引き締まる。例え四天王の銘を冠さずとも相手は鬼。それもドーピングを施された怪物が三人掛かりとくれば、流石の勇儀も楽観視する事は出来ない。

 腰を落とし、不動の構えを整える。疾風怒濤の勢いで迫る鬼を、星熊勇儀は迎え討つ。

 

 一本角が飛び蹴りを放つ。豪槍と化した踵を勇儀は寸前で躱し、擦れ違いざまに肋間へ肘を打ち込んだ。錐もみ回転しながら地面と激突する一本角。だが攻撃の隙を突いて二本角が突貫し、渾身のタックルを勇儀へ見舞った。二本角はすかさず腕を回す。丸太の如き剛腕をもって勇儀を束縛せんと締め上げる。

 瞬発的に勇儀の肘が二本角の頸椎へ突き刺さる。あまりの衝撃に意識はブラックアウトを引き起こし、ぐるんと目玉がひっくり返った。腕力の緩んだ瞬間を狙い、四天王の膝蹴りが容赦なく鼻っ柱を叩き折る。仰け反る二本角へ追撃の正拳が鉄杭の如く襲い掛かり、砲弾の如く後方へと吹っ飛ばされていった。

 

「シャァッ!!」

「うおっ!?」

 

 女鬼の爪が眼前を掠め、勇儀の前髪を切り落とした。柔軟な肉体を豹の様に駆使しながら剪刀の如き五指を乱舞させ、一本角や二本角には無かったスピードで女鬼は畳み掛ける。

 超人的な動体視力で斬撃を避け続けているものの、嫉妬による強化のせいか動きが早すぎる。回避は徐々に瀬戸際となり、頬や服に裂傷を刻まれ始めた。

 このままでは埒が明かない。そう判断した勇儀は距離を取ろうと地を蹴った。しかしバックステップは衝撃と共に阻まれ、弾力と共に前方へと弾き返されてしまう。

 背後に、復活した一本角が立ちはだかっていたからだ。

 

「ちぃッ!」

 

 前後からの鬼のラッシュによる、前代未聞の一斉掃射が始まった。

 片やまともに食らえば大岩すら豆腐と化す一本角の豪拳。片や回避が遅れれば臓腑の奥底まで抉り取られる女鬼の刺突。

 並みの妖怪であれば即座にミンチへ加工される連撃を、勇儀は反射神経と身体能力を駆使して捌き続けた。突き出される拳を叩き落とし、迫る爪を身を捩ってすり抜けさせ、類稀なる戦闘センスに従うまま隙を伺っては拳を打つ。

 だが相手もまた、正気を失くしているとはいえ生粋の鬼である。双方の魔手により集中力を著しく搔き乱された状態では、例え拳が着弾してもまともなダメージを与える事は出来ない。

 

「ぐ、づ……ッ!」

 

 立て続けの連戦。何倍も強化された鬼との熾烈な攻防は、着実に勇儀の体力を削ぎ落していった。圧倒的だった力量差も徐々に疲労が埋め始め、躱せるはずの攻撃が無視できない傷を生んでいく。

 

「しゃら、くせぇッ!!」

 

 痛打を食らう事も厭わず女鬼の足を蹴り飛ばし、体勢を一気に崩壊させる。瞬間、後頭部を激烈な衝撃が襲い掛かった。視界に星が瞬く。揺らぐ足腰を気合で押し留め、即座に肘打ちを背後の一本角へめり込ませた。

 振り返りざまに駄目押しの鉄槌を見舞う。拳は寸分の狂いもなく鬼の鼻を叩き壊し、背骨を弓の如くしならせた。

 

 だが一本角は倒れなかった。歯を食いしばって執念を見せ、踏み外しかけた足を気迫と共に地へ根付かせる。バネのように体を跳ね返すと、口に溜まった血糊を勇儀の顔へ吹き掛けた。

 原始的な目潰しは容易く視野を塗り潰す。赤く染まった視界の中、腹部へ重機の衝突のようなインパクトが襲い掛かった。

 地面から足が離れ、息つく暇もなく激痛が背中を襲う。女鬼の生爪だ。ドリルの様に捻じ込まれた爪の刃が筋肉を穿ち、先端がどこかの臓腑へ刺さる生々しい感触が脇腹から背骨を突き抜けた。

 

「――はっ」

 

 しかし、込み上がるは苦悶の叫び声に非ず。

 ただただ、獣性を示す原初の笑みのみ。

 

「すまん。先に謝っとく。終わったら好きなだけ酒奢ってやるし、看病してやっから許してくれな。なーに、萃香に頼んで華扇から百薬桝借りてくればすぐ治るだろうよ」

 

 先に異変を察知したのは、女鬼の方だった。

 自らの手に起こった異常が、事の変化を知らしめたのである。

 

 抜けないのだ。

 

 深々と突き刺さった爪の槍が圧縮した筋肉に挟みこまれ、まるでコンクリートで固められたかの如く微動だにしないのである。

 

「だから加減するのは止めにする」

 

 刹那だった。

 目を潰されていながら、勇儀の足は的確に一本角の顎を射貫いた。パァンッ!! と乾いた炸裂音が無音の間に響き渡り、一本角は不出来な竹トンボの如く回転しながら地へ転がる。そのままピクリとも動かなくなった。

 女鬼の腕を鷲掴む。ズルリと音を立てて、勇儀の腹から爪が引き抜かれた。万力の様な力で締め上げられ、抵抗する暇すら与えられず、額へ大口径拳銃を彷彿させるデコピンが発射される。あまりにも呆気なく、女鬼はその場へ崩れ落ちてしまった。

 

 これまで敵を派手に吹っ飛ばしていたのは、力を逃がす算段があったからだ。一見致命傷に見えても、実のところ妖怪的にさほどダメージは入っていない。

 だが勇儀はその制限を解いた。力を逃さず、その殆どを肉体へ封じ込める必殺を解放する事を選んだのである。

 

「あんな奴に顎で使われちまって、お前らも悔しい筈だよなぁ」

 

 ごしごしと張り付いた血糊を拭い、血染めの赤鬼と化した星熊勇儀は君臨する。

 四天王の本気が今、幕を開けた。

 

「そら、なにボーっと突っ立ってやがる。全員纏めてかかってきな。この悪夢みたいな屈辱を終わらせてやる」

 

 

「……怪力乱神とは確か、理屈では語れない不思議を表す言葉だったか?」

 

 腕を組み、屋根の上から星熊勇儀の激闘を眺めつつ、土蜘蛛の肉を被った悪霊はポツリと呟いた。

 

「ある意味、説明不可能の怪現象だな君は。こんな大乱闘を繰り広げておきながら、どうして未だ立っていられるのか甚だ理解に苦しむよ。文字の意味通りに怪力乱神なのではないかと疑う程に」

 

 旧都の街道はかつての形を失った。家屋は倒れ、タイルは砕け、灯篭たちは姿を消し、至るところに破壊の痕が刻まれた。

 中心に仁王立つのは四天王、星熊勇儀。パワーという点で見れば伊吹萃香すら凌駕しかねないその圧倒的なまでの暴威は、襲い来る全ての脅威を悉く叩き伏せた。

 

「四十八の鬼と八十六の妖怪が全然役に立たんとは。君は本当に妖怪なのかい? 羅刹か軍神の方がまだ納得出来るんだがね」

「ごちゃごちゃうるさいんだよ。次はお前さんの番だ、腹ァ括りな」

 

 血の入り混じる唾を吐き捨て、鬼の女将は宣言する。服はズタズタに引き裂かれ、決して少なくない傷を負っているのに、弱体化した気配なんて欠片もない。どころか、文字通り鬼気迫る圧力は増加の一途を辿っていた。

 

「私が素直に戦うとでも?」

「思わねないねぇ。お前さんからは私の大っ嫌いな、姑息で卑怯な臆病者の匂いがプンプン臭ってきやがる。そういう奴は決まって、最後まで自分の手を汚さないもんだ」

「……臆病者とは、言ってくれるじゃあないか」

 

 ポン、と。スカーレット卿はパルスィの肩を叩き、

 

「最後の仕事だ、橋姫」

 

 抱えると、躊躇なくパルスィを放り投げた。

 放物線を描きながら少女の体が宙を舞う。だが一切抵抗する素振りを見せない。スカーレット卿による精神ダメージと酷使が重なり、体力を根こそぎ奪われてしまっているのだろう。

 そして彼女が落ち行くその先には、キスメの鬼火が植え付けた炎の叢が広がっていて。

 

「妖怪は精神力に左右される。存在の強度もまた然り。――であれば、自己を見失いかけて()()にヒビが入ってしまったその女は、普段なんともない炎でもあっさり消えてしまうかもしれないな?」

「ッ!」

 

 地を蹴った。全力でパルスィの元まで馳せ、炎との間を滑り込むようにして受け止める。腕の中の橋姫が無事と確認すると、勇儀は思い切り空気を肺へ取り込んだ。

 瞬間、竜の如きブレスが火炎の群れをあっという間に吹き消した。余波で瓦礫も散らかってしまったが、火の始末をしたからイーブンだと眼を瞑る。

 

「おいパルスィ、大丈夫か!? ……あの野郎、次から次へと!」

「ゆ、うぎ……?」

 

 掠れた声が零れ落ちた。瞳は澱み、青白く冷めた肌色はまるで死人の様だ。今にもこと切れてしまいそうな儚さは、勇儀の胸にぎゅうっと締め付ける激情を与える。

 何か。何か手は無いか。思考を広げ、知恵を絞る。存在の強度を上げる手段が一つでもあればそれでいい。たったそれだけで良いのだ。

 

「パルスィ」

 

 そう。感情の振れ幅が正常になれば問題は解決される。だったら簡単な事だ。橋姫が嫉妬の妖怪ならば、スカーレット卿の安心を塗り替えるような、幸ある話でも聞かせれば改善できる。

 

「この前な、夜叉丸が二丁目の団子屋の娘から婚約捥ぎ取ったんだよ。それで今日は祝宴あげてたんだ。あいつらは良い番いになると思うぜ。お前さんはどう思う?」

「…………すてき、ね」

「――――」

 

 橋姫のルーツは愛憎の物語だ。愛する男を他の女に奪われ嫉妬に狂い、生きながら鬼へと生まれ変わった宇治の橋姫伝説が最も有名だろう。

 故に、パルスィはこと色恋沙汰に対して強く妬む傾向にある。旧都で浮ついた話が上がった時は祝言と共に嫉妬の文句を贈るのが、ある種飲みの席での祝儀となるほどに。

 

 そんなパルスィが、妬み節の一つもなく、心からの祝福だけを唱えた。

 証明されたのは、避けようのない残酷な真実のみで。

 奥歯が砕けんばかりに、勇儀はギチギチと噛み締めた。

 

「スカー……ッ! ――――あ?」

 

 スカーレット卿の居場所へ目を向ける。だが姿は無い。パルスィに気を取られている内に逃げたらしい。

 パルスィの精神が異常をきたしているのは間違いなくスカーレット卿が原因だ。あの男を倒さなければパルスィを『安心』の鳥籠から解放することは決して出来ない。

 無論、悠長にしている暇は無い。他の妖怪たちと違ってパルスィは命の危機に晒されている。ならば全身全霊をもって、邪悪な悪霊を討たねばならない。

 

 勇儀は周囲を見渡して、比較的安全そうな場所へと少女を置いた。

 

「ここに居てくれパルスィ。大丈夫だ、すぐに治してやっからな」

 

 

「来たか、星熊の。存外早かったじゃないか」

 

 スカーレット卿は旧都と外を隔てる門前に立っていた。関所の付近であるが故に建造物は一切見当たらず、だだっぴろい石の広場だけが存在している。

 広大な平地で対極に立つ両者の姿は、さながらコロッセオの決闘者の様だった。

 

「もう逃がさんよ。お縄につきな、下衆野郎」

「縄では無いが、巣にかかったのは君の方だぞ星熊勇儀」

「ああ知ってる。承知で飛び込んでやったのさ」

 

 月明かりに反射して、きめ細やかな線が空間を縦横無尽に走っているのが分かった。細く、細く、注視しなければ到底気付けない程の儚い糸だ。四方八方に張られたそれは、まさしく大蜘蛛の巣と呼ぶに相応しかった。

 指で傍の糸をなぞる。触れた皮膚がまるでメスを入れられたかのようにパクッと裂けた。

 溢れる血を舐めとりながら、勇儀は睨む。

 

「まるで糸の形をした刀だな。凄まじい切れ味だ」

「巻きつかれればただでは済まんぞ。突破できるかな? 君に」

「舐めんな。この程度の修羅場なら山ほど潜ってきた」

 

 言って、勇儀は暴挙に打って出た。

 何の防御も無く、何の策も無く。糸で出来た刃物の森の中へ、躊躇なく歩を進め始めたのである。

 すぐさま体中へ糸が食い込み、裂け目が網目状に広がった。透明だった糸は粘質な赤で着色され、巣の全貌を現し始めた。

 だが止まらない。むしろ止まったのは糸の方だ。皮膚を切っても肉を断つことが出来ず、逆に鋼の肉体に押し返され、ブチブチと引き千切れ始めているではないか。

 全身を赤で染め上げながら前進する様は、かつての赤鬼の再来だ。獅子の金髪と憤怒の形相も相まって、この世のものとは思えない凄烈さを醸し出している。

 

「……化け物め」

「私は鬼さ。どこまでもな」

 

 一歩、また一歩と。距離が殺され縮まっていく。足から顔に至るまでズタズタになりながらも、一向に歩幅を狭めない鬼の姿は羅刹と称するに相応しい。

 

 だが。

 

 何の前触れもなく、これまで一度たりとも折れなかった勇儀の片膝が地に落ちた。

 痛みや傷に負けたのではない。崩れ落ち方が根負けのそれではなく、まるで体が言う事を聞かず勝手に座り込んだ様だった。

 

 視界が歪み、朱色に染まる。酷い耳鳴りが鼓膜を裂いて、生傷の物ではない暖かな血が鼻からダラリと流れ出た。

 指先が痙攣し、不快な神経のパルスが脳を突く。内臓が絶叫を上げ、吐瀉物を凌駕する赤黒い液体が喉を競りあがって噴出した。

 ただ事ではない。考えずとも理解できた。あらゆる厄災をものともしない鬼の体がここまで破壊されるなんて、尋常の現象では有り得ない。

 

「神便鬼毒酒」

 

 悪霊が、卑しい笑みを浮かべながら嘯いた。

 

「この逸話は大変なヒントになったよ、星熊勇儀。お前の様な規格外を封じ込める作戦のな。我ら物の怪はウィルスや細菌なんぞが引き起こす病には滅法強いが、毒には弱い。毒に負けた伝説があるなら尚更だ。特にこいつは(ちん)から搾り取って濃縮した猛毒故な、効果は抜群だろうよ」

「太助の家から鴆を盗んだのも、アンタだったってワケかい……!」

「左様。しかし、猪突猛進を地で行く貴様の事だから必ず真正面から罠に掛かってくれるとは思っていたが、まさかここまで見事に嵌るとは。正直者も考え様よな」

 

 黒谷ヤマメは主に病原体を操る力を持っている。黒死病やコレラ、エボラ出血熱など、一度流行すれば多大な死者を生む疫病でさえ彼女の手に掛かれば自由自在だ。

 しかし、それはあくまで人間の話。妖怪は精神的な病に弱いが病原体には非常に強く、まず通用することはない。スカーレット卿が強力無比でありながらヤマメの能力を一切使わなかったのは、対妖怪において『病気を操る程度の能力』が殆ど役に立たないからである。

 そこで別の手を考えた。炒った豆の様な、一目で勘づかれる上に必殺と成りえない武器よりも、目立たず、食らえば形勢を逆転出来る毒の搦手を選んだのである。

 

 ピィー……ッ、と。スカーレット卿の両手の間に細糸の橋が差し掛かった。鬼の進撃に破られたものと同じ糸の刃を携え、それをふわりと勇儀の首へ巻きつける。

 

「貴様に倣って馬鹿正直に言うと、だ。ここまで抵抗されるとは思わなかった。適当に縛り上げて、十分な時間を稼げるまで見張っておくだけの予定だったのに、こんなにも手古摺らされるとはな。流石と言う他あるまい。認めよう、君は生前の私より強い」

 

 だが、と。糸の両端を握り締め、

 

「故に殺さねばならぬ。貴様は脅威だ。我が計画の障害となり過ぎたのだ。――だから、私の理想のためにここで死ね。星熊勇儀」

 

 括られた糸に、万力が込められて。

 

 

「無粋な人。乙女の体を弄び、泣き処を突き続ける外法で勝ち誇るだなんて。あなたにはプライドの欠片も有りはしないのね」

 

 

 ――玉を転がすような声が響いた。

 

 勇儀のものでもなければヤマメのものでもない、全く別の、第三者の声。

 大地を刳り貫き、土竜の様に大穴を開けて卿の背後を取ったのは。サファイアの髪を後ろで輪っかに纏める、羽衣とワンピースを掛け合わせたような水色の衣服に身を包んだ、どこか色気を放つ女で。

 数多の仙術を身に着けながら、邪仙と謳われた導師だった。

 

 その者の名は、たった一つしか有り得ない。

 

「霍青娥――だと?」

「はぁーい正解。あなたの為の青娥娘々、満を持して登場でございまーっす」

「馬鹿な、貴様がどうしてここに!? あのキョンシーに足止めを食らっていたのではないのか!?」

「ええ、本当。あなたの術には大変手をこまねきましたわ。私の可愛い芳香ちゃんに何十何百も怨霊を詰め込んで暴れ牛の様に暴走させるだなんて。どれだけ頑張って魂を取り除いたか分かります? まぁ苦労の甲斐あってか――」

「私はこのとーり元気になったぞー!」

 

 ぴょこんと顔を出したのは、札を額に貼りつけた赤い中華服の少女だった。肌は灰色に染まっていて、腕は硬直しているためか前へ突き出されている。キョンシー故の特徴だろう。

 芳香と呼ばれた少女に向けて、青娥はまるで娘へ向ける様な笑顔を向けて言う。

 

「芳香ちゃん、さっそくお仕事よ。そこら辺に散らばってる邪魔な糸を全部食べてしまいなさい」

「私は都合のいい掃除機じゃないんだけど」

「もちろん。だからこれはお仕事なの。仕事が終わったら、そうね。あなたの欲しいものを一つ上げるわ。どう?」

「よっしゃー! ろーどー意欲が湧いてきたぜーっ!」

 

 ぴょんぴょんと跳ねながら器用に糸を食らい始める芳香。『何でも喰う程度の能力』を自称するのは伊達ではなく、もしくは何かしらの強化が青娥によって施されているのか、鬼の皮膚すら裂いた糸をいとも容易く呑み込んでいった。

 

 呑気に罠を回収する芳香を尻目に、こめかみへ青筋を走らせるスカーレット卿は唾を吐き飛ばしながら絶叫した。

 

「鶴瓶落としか……! あの小娘が邪仙(きさま)を呼んだな!?」

「そうさ。この前ナハトって吸血鬼から怨霊使いについて訊ねられた事を思い出してね。それでちょいと閃いたんだよ」

 

 勇儀は何の考えも無くキスメを柱ごと星に変えたのではない。全ては彼女をここへ呼び込むための布石だった。 

 青娥を招いた理由はただ一つ。彼女の持つ妙妙たる交霊の技能にある。 

 スカーレット卿を倒す目的は変わらない。だがそれに黒谷ヤマメを巻きこめないのは当たり前だ。ヤマメの体に粘質な悪霊を追い出すほどのダメージを与えれば、先にヤマメの方が息絶えてしまう。そこで勇儀はとある賭けに打って出た。交霊に詳しい仙人である青娥ならば、ヤマメから悪霊を引き剥がすことが出来るのではないだろうかと。

 

 さて。と青娥は(のみ)を構えながら向き直った。

 さてと、と。勇儀は満身創痍でありながら体を立ち直らせ、直立した。

 対して悪霊は、信じられないものを見る目で勇儀を睨みながら、驚愕の声を張り上げた。

 

「なん、だそれは。鬼ですら五臓六腑を爛れさせる猛毒だぞ!? それをあれだけ浴びておきながら、どうして立っていられる!?」

「あー……?」

 

 暖かな血が滴り落ちては水玉模様を大地に彩る。ふらふらと揺れ動く体は、決して悪酔いの兆しではない。

 けれど、星熊勇儀は平然と。首に手を当て、軽快に骨を鳴らすのみで。

 

「言っただろうが。承知の上で飛び込んだんだよ、テメエの罠に。こうなっちまう事なんて最初から頭に入れていたさ。卑怯者の考えるチンケな思考は嫌ってほど知っているからな。あとは気合いだよ、気合」

「気合だと……? ふざけるなッ! いくら妖怪とてそんな根性論で説明できるものか! 答えろ星熊勇儀、何か対策があったんだろう!? そうでなければ、わざわざ罠の中へ飛び込む意味なんてッ――」

「決まってンだろ。小細工も何もかもを纏めてぶっ飛ばす災害こそが、本物の鬼だからだ」

 

 くるりと青娥が鑿を回転させる。軌道を沿って光の紋が描かれる。それはヤマメの背中へ吸い込まれると、落雷と見紛うエネルギーを迸らせた。

 脱皮で抜け落ちる蝉の様に、ズルリとどす黒い魂が姿を現す。辛うじて人の形を保っているものの、それは紛れもなく怨念の集合体で、元凶たるスカーレット卿の分霊だ。

 

「ちぃっ!!」

 

 卿もただではやられない。莫大な魔力を放出して術を破り、脱兎の如く後方へ飛び去った。

 だがそれを狙うは語られる怪力乱神。黒谷ヤマメという最後の人質も消えた今、一切の加減は必要無し。

 だったら、次にやる事は決まっている。

 腹の底に貯めた怒りを。この男に屈辱を味あわされた者たちの嘆きを。

 拳に乗せて、ただ撃ち放つのみ。

 

「逃がさねぇ、とも言っただろう」

 

 怨霊が漆黒の光線を一斉に展開した。五百年の憎悪を凝縮したと言わんばかりの悍ましい閃光は大地を溶かし、迫る勇儀を迎撃する。

 

 一歩。爆撃に匹敵する衝撃と共に、勇儀の姿が世界から消えた。

 

 次の瞬間、スカーレット卿へ猛烈な衝撃が襲い掛かった。鬼の拳が電光石火の如く怨霊の顔面を撃ち抜き、ボールの様に吹っ飛ばす。

 勇儀は音の壁を超える速度で追撃する。投げ放たれた卿を追い抜くと、渾身の踵落としで迎え討った。熾烈な勢いで叩きつけられた卿はゴム毬の様にバウンドし、再び空へ舞い上がる。

 

「さぁ、勘定だ。末路を受け取れ」

 

 勇儀の両足が鉄杭の如く地へ刺さり、体をがっしりと縫い留める。

 焔が如き妖気を纏い、己の肉体を神すら殺す凶器へ変える。

 星熊鬼が牙を剥く。悪霊の落下が始まると共に、必殺の音頭が唸りを上げた。

 

「――み、ごとだ、星熊勇儀!」

「だァァァらッッッしゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああァァ――――――――ッッ!!」

 

 刹那。星熊勇儀は破壊と化した。

 ロケット砲と匹敵する拳が機関銃の如く放たれる。吹き飛ぶ暇すら与えない神速のラッシュは凄烈極まる打撃音を炸裂させ、衝撃波を地底中へ撒き散らした。

 十を超え、五十を超え、百を超える残像が生まれる。拳は止まる事を知らず、ただただ、打つ、打つ、打つ。

 

 腕を(おおゆみ)の如く引き絞り、一際強く振りかぶる。正真正銘最後の一撃を、星熊勇儀は全身全霊をもって叩き込んだ。

 巨大な水風船が弾けたような爆砕が起こる。粉微塵と化した悪霊の粒子は火花のように散り散りになって、跡形もなく消滅した。

 

 地底に咲いた悪意の華は、鬼の怒りによって枯れ果てたのだ。

 

 

「青娥、来てくれて助かった。ありがとよぅ」

「ええ、まぁ。私もあの悪霊には借りが出来ていましたから。手助けしない訳にはいかないわ」

「ところで、キスメはどうしたんだい?」

「彼女は途中で見つけた橋姫ちゃんや倒れてた妖怪たちを介抱してますわ。まもなくこちらへ来るでしょう」

「おーい! ゆーぎー!!」

「噂をすれば、だな」

 

 大きな桶を持った白装束の少女が空を飛んでやってくる。桶から足がはみ出しているが、多分水橋パルスィだろう。ちょっと予想外な運び方に、不謹慎ながらも笑ってしまう。

 

「勇儀大変だよ! なんかパルスィがとってもヤバいんだって血だらけェッ!? パルスィより満身創痍じゃんか!」

「掠り傷だよ。それよりパルスィだ」

 

 桶から降ろし、床へと寝かせる。変わらず意識は朦朧としていて、肌もいまだ血色を取り戻すに至っていない。

 だが今なら救えるはずだ。スカーレット卿の主人格は確実に消滅した。強制的な安心の供給は断たれたならば、心を元に戻す事だって可能だろう。

 

「パルスィ。夜叉丸が団子屋の娘と結婚するってよ」

「っ」

 

 ぴくん。無表情だったパルスィの瞼が引き攣った。

 

「いやぁめでたいよなぁ。あいつらはお似合いの番いだし、きっといい家庭を築くだろうね。こう、乙女なら誰しもが憧れる、夢のような家族になるんだろうよ」

「じぇ、じぇ、じぇ」

「今日の祝宴が駄目になっちまったからさ、また今度宴を開こうと思うんだ。ああそうだ! 祝辞はパルスィに任せるよ。得意だろう? そういうの」

「じぇええええええらしいいいいいいいいいいいいいいいい――――――っ!!」

 

 黄緑色の光を爆発させながらパルスィは勢いよく跳び上がった。わなわなと肩を震わせわきわきと両手指を蠢かしながら、嫉妬の炎をこれでもかと言わんばかりに爆発させていく。

 

「あの夜叉丸と団子屋のお菊が結婚するですって……!? ハン! おめでと妬ましい! ご祝儀は嫉妬の呪いも込めて奮発してやるぜざまーみろ! スピーチは二人の経歴洗いざらい調べ上げて砂糖吐くくらい甘ッッ甘のやつにしてやるわ! 私の織り成す桃色ジェラシーに悶え苦しみながら幸せになりなさい! ああ想像しただけで妬ましい妬ましい幸せ者どもめ末永く爆発しなさい妬ましいいいいいいいっっ!!」

「ははは。溜まってた分、一気に元気になったなぁ」

「ふーんだどーせ私は一生喪女のままですよーだ。妬ましい妬ましい妬ましい結婚良いなぁ私も良い人見つからないかし――あら? 勇儀じゃないの、久しぶりね……ってアンタどうしたのよその怪我!? 全身傷まみれの血まみれじゃないの!」

 

 一転し、慌てて勇儀へ駆け寄るパルスィ。躊躇なくスカートの端を破いて傷へ当てるが、止まらない血飛沫に折角良くなった顔色を青冷めさせていく。

 パルスィも事なきを得たお陰で、勇儀の中の糸が切れたのだろう。先の天下無双ぶりが嘘のように、彼女はガックリと意識を失ってしまった。

 

「勇儀がこんなになるなんて、これただの傷じゃない……! アンタは本っ当に無茶ばっかりして! その蛮勇さ、一周回って妬ましいわ!」

「傷を塞いでも無駄よ橋姫さん。彼女は鴆の毒に蝕まれている。むしろこんな状態でよくあんなに暴れられたものですわ。どんな体しているのか興味湧いてきちゃうくらい」

「はぁ!? 鴆の毒!? ちょっと、そんなのどうすれば……ッ!」

「私の家に犀の角がありますわ。それを使えば、鬼の生命力ですぐ完治するでしょう。本当なら何かお代を頂きたいところだけれど、今回は黒幕を倒してくれたからタダであげるわ」

「ならさっさと行くわよ! キスメ、こいつ運ぶの手伝いなさい!」

「な、なんだよぅ、一番死にかけてた奴が一番元気になってるじゃんかー」

「……んあ? あれ、私なんでこんな所で寝て……いや待てよ、確か胸糞悪い奴にパルスィ人質に取られて、それからそれから……」

「ヤマメも起きたなら手伝いなさいっ! 今こそその妬ましい怪力を発揮する時よ! 勇儀のやつ、結構重たいんだから!」

「あ、あれー? パルスィすこぶる元気だにゃ。うーん飲み過ぎちまって幻覚でも見たのかねぇ。しっかし寝起きに一体何事なのよって、うわぁ勇儀どうしたのさ!? こんな派手にやられちゃって!?」

 

 どたばたと、地底らしい騒がしさを取り戻しながら、一行は霍青娥の住処を目指す。

 道中、意識を取り戻した妖怪たちが擦れ違う度に、瀕死の勇儀に仰天してどんどんどんどん列に加わっていって、いつの間にか百鬼夜行になったそうな。

 



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42.「原罪祟るネクロノミコン」

「この地に住まう少女たちの力を、お前は見誤ったのだ」

「……!!」

 

 弾ける鎧。砕け散る呪いの欠片。月明かりと粉雪の入り混じる残酷なまでに煌びやかな光景は、スカーレット卿の喉を干からびさせた。

 

 スカーレット卿の魂に、鎧の基点を任せていた分身たちの最期がリアルタイムで体験したかのように伝わってくる。

 いいや、魂魄同士がリンクしている卿は、タイムラグこそあれ確実に()()しているのだ。

 

 一刀のもとに魂魄を切り捨てられた感触や、一切合切を叩き潰される鬼の奥義の衝撃も、紛れも無く卿自身の死に他ならない。玉の汗を無尽蔵に浮かび上がらせるには十分すぎる結末だ。

 

 それも主要な魂だけではない。有象無象に取り付かせた魂たちも次々に消滅を迎えていた。

 永遠亭の薬師が怨霊を摘出し、花畑の大妖怪が鎮圧させ、妖怪の山と守矢の神々による浄化が進み、更には騒ぎに乗じて暴れまわっている天人や妖精一派までもが悉く配下を無力化させている。

 時間稼ぎの為に配置した駒の全てが、尋常ならざる速さで解体されつつあった。

 

 統率を見た。ただ闇雲に対処しているのではない、明らかな頭脳の活躍を見た。

 語るまでも無く、ブレインの正体は分かっている。たった数分足らずで魑魅魍魎を百鬼夜行に纏め上げ、それら全てを把握しながら適切な処置を下し続ける叡智の化身は、八雲紫以外にあり得ない。

 

(あの女郎どもめ……! まさか、これ程とは!)

 

 体が震える。真の恐怖の顕現と、連続する消滅のヴィジョンに、どうしようもなく震えあがってしまう。

 

 見誤っていたと認めざるを得なかった。目的である『時間稼ぎ』と『一部大妖怪の無力化』は成功したものの、ここまで早く活路を開かれるとは思っていなかったのだ。

 妖怪は群より個を重んじる。独立した社会を築き上げた山の妖怪は例外中の例外と言っていい。縁も所縁も無い妖怪同士が手を取り合うこと自体が非常に稀なのだ。

 

 それを織り込んでいたからこそ、スカーレット卿はナハトと紫の前に姿を現す暴挙に出られた。仮にその決定的場面を露呈されたとしても、まさか大妖怪同士が結託するなんて夢にも思っていなかったのだから。

 

「さて」

 

 魔性の声が染み渡る。

 太古より遺伝子の奥深くに隠れ潜み、忌避され続けてきた概念の具現体が、木枯らしすら凍り付かせる眼差しを卿へと向ける。

 臓腑を直接掴まれる錯覚が、無慈悲に体内を侵害した。

 

「敢えて、敢えて最後に一つ聞いておこう。スカーレットよ、()()()()()()()()()()

「――――ハッ」

 

 四年前からちっとも変わらんな、と卿は胸の中で吐き捨てた。

 

 この男はいつもそうだ。どれだけ悲惨な目に遭わされようが、裏切られようが、大切な存在を傷つけられようが、必ず和解の道を提示してくる。例えそれが、ナハトにとっても怨敵であるスカーレット卿であろうとも変わらない。

 

 吐き気がするほどの博愛と慈善の心。それが無ければ、こんな甘ったれた言葉が出て来る筈が無いだろう。どこまでも歪な吸血鬼だと、改めて評さざるを得なかった。

 しかし、しかしだ。

 例え己の劣勢を覆す事の叶わぬ地にまで堕ちようとも。万に一つも生き延びる道筋が無くなろうとも。

 怨讐に溺れ、狂気と恐怖に呑まれた鮮紅の悪魔は、宿敵に屈する事など決してない。

 

「まだ粗末な希望に縋るか? まだ私に情状酌量の余地があると宣うか? 無論ノーだ。私の半身たちは敗北したが、しかし当初の目標は既に達成されている。やっと、やっと貴様をこの最高の舞台で嬲り殺せる時がやって来たのだ。ここまで来るのに一体どれほどの代償を払ってきたと思う? 引き返すなぞ、万に一つもあり得んよ」

「そうか。それは良かった」

 

 瞼を閉じた吸血鬼は、どこか安堵したようにそう告げた。

 まるで、スカーレット卿が降参しなくて良かったとでも語るかのように。

 

「実を言うとな。お前に白旗を上げて欲しくなかったのだ。許してくれ、私が悪かったなどと、贖罪の言葉を口にして欲しく無かったのだ。それこそ、柄にもなく神頼みをしてしまいそうになる程に。だから……その言葉が聞けて、とても安心した」

 

 ()の色の無い真っ黒に塗り潰された微笑みが、彼岸花のようにギチギチと咲き、スカーレット卿の皮膚が、鳥肌によって埋め尽くされた。

 

 ――この男、四年前と何かが違う。

 

 薄目を開けたナハトの顔貌に、スカーレット卿は戦慄した。

 紫の瞳に怒りがあった。四年前の夜と同じ、いいやそれ以上の、燃え尽きる事の無い絶対的な憤怒があった。

 

 灼熱地獄がぬるま湯にすら思える、物質化さえ果たしそうな絶対の怒り。それは禍々しい瘴気となって大気を掻き混ぜ歪みを生み出すと、局所的な豪風を産み落とした。

 風の中央に君臨する吸血鬼は、激情と反して静かに語り結んでいく。

 

「この齢にもなって子供の癇癪のような真似など、恥ずべきとは自覚している。だが今の私はな、スカーレット卿。この怒りを晴らすためにお前を葬れるんだと、一抹の安堵を覚えたんだ。これでお前を許さなくて済むのだと、恥と知りながらも安心したんだよ」

 

 言の葉は魔の結晶だった。耳から脳髄へ捩じり込み、体中の神経をズタズタに引き千切らんばかりの恐怖を植える邪悪な脅威だった。

 闇夜の恐怖は衰えず、スカーレット卿の体躯を侵食し、乗っ取らんばかりに纏わりつく。血肉と屍で出来た龍が牙を剥き、大口を開けて息を吹きかけてくるような幻覚を覚える。

 本能が叫ぶ。魂が泣き喚き、この災いから早く逃げろと全力で訴えかけてくる。

 だが動かない。体の支配権を悉く破壊され、ただ震えるだけの壊れた人形になってしまう。

 

 それでもなお、悪魔は嗤った。

 聖誕祭の贈り物を前にして喜ぶ稚児の様に、満面の笑顔を張り付けた。

 

「はっ。ははは、ハハハハハハハハハッ!! そうか、お前もやっと()()()()に至ったか! 他ならぬ私の蛮行に鉄槌を下す、ただその為だけにッ! 獣畜生へ堕ちる覚悟を果たしたのかッ! あはははははははは! こんな傑作が他にあるか!? 復讐鬼を止めんと自らを修羅の道化へ落としめただなんて、かつての義憤溢れる風体の方が、まだ高潔さに満ちていたというものだ!」

 

 四年前のような誅罰執行の代理人と化した時とはまるで違う。今のナハトは純粋な怒りに焼き焦がされ、烈火の感情に従うまま殺意を振るう吸血鬼だ。親愛なる者達を傷つけた悪逆の徒を全霊をもって撃滅する、ただそれだけの執念に囚われた真正の怪物だ。

 

 ぐちゃりと、スカーレット卿のナニカが拗れていく音がした。

 

 歓喜。悪夢を目前に卿が抱いたそれは、絶望による歓喜だった。

 最果てに至るまで歪んだ憎悪は、一途に紡がれる永劫の愛と変わらない。かつて己を虫けらの様に屠った最強の吸血鬼が自分を殺す為に憤怒の感情へ囚われたと知って、卿は悦楽を感じずにはいられなかったのだ。

 

 それを心底侮蔑するように、闇夜の支配者は雪雲と共に外道を見下ろす。

 

「映姫からは身の程を弁えろと窘められたものだが、やはり貴様の悪行を見過ごすことは出来ん。もはや審判は必要なし。ここが野望の果てと知るがいい、スカーレット」

「……フン。まるで自分が正義の味方とでも言わんばかりの口振りよな」

 

 忌々しさをふんだんに含んだ顔色で、スカーレット卿は唾を吐き捨てるように言い放った。

 角柱状の制御棒を突きつけながら獰猛に牙を剥き、男を糾弾する。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?」

 

 言葉には今までとは違う色があった。憎しみとも、狂気とも違う。どうしようもないやるせなさを孕む様な、そんな褪せた言霊だ。 

 

 最も近いのは憤り。鈍い怒りが悔しさと混ぜ合わさり、段々と波立ってゆく気持ちに歯止めがきかなくて、それを吐き出す事で鎮めようとしているかの様な声だった。

 

「殺めた者の数を言っているのではない。そも、貴様は殺生など殆どしなかったからな。私が言っているのは、その身から滲み出る魔性のカリスマ、恐怖の覇気で、一体どれほどの者たちを狂わせてきたか考えた事があるのかという、細やかな疑問だよ」

「……」

「公平な閻魔の事だ、きっとこう言ったのではないか? 『自分の行動に自覚を持て』などと。……その顔、当たっているな。ああそうだろうさ。閻魔がお前に投げる言葉はそれ以外にあり得んだろうさ。無自覚に人を()()続けた貴様に聞かせる、お高い説教なんて!!」

 

 声圧で大気が揺れ動いた。

 ビリビリと音の波が皮膚を打つ。けれどナハトは微動だにしなかった。

 

「ある者は貴様を見てあまりの絶大さに心を折られた。ある者は貴様を見て一生消えぬトラウマを刻み込まれた。ある者は貴様を見て絶望し、己の存在意義の全てを失った」

「…………」

「分かるか? ナハト。貴様が素知らぬ顔で歩み続けた旅路のすみではな、お前のせいで生を狂わされた者が大勢蹲っているのだよ。貴様が気紛れに語りかけた者も、貴様が何気なく過ぎ去った道で偶然いあわせた者も、貴様が狂わせた者が養う家族でさえも! 全て犠牲になったんだ! この私のように!!」

 

 腕を思い切り振り払いながら、スカーレット卿は絶叫した。泣き喚く子供の様に、ただ感情を叩きつける事に没頭した。

 

「このスカーレット、善悪でいえば迷わず悪道の果てに堕ちていると宣える自信がある。私はどうしようもない屑だ。真正の悪だ。だがそれで苦悩した事は一度も無い。何故なら私は生まれついての邪悪だからだ。……だが、そんな私であっても、貴様は悪にしか見えないよ」

 

 腕を下ろし、手のひらに爪が食い込むほど固く握りしめながら、スカーレット卿は振り絞るように言い放つ。

 涙の無い、悪魔の慟哭がそこにあった。

 

「私が邪悪であるならば、貴様は紛れも無く原罪だ。全てを狂わせた諸悪の根源だ。自覚無き害を振りまき、ただそこにあるだけで負の要因となる悪性新生物。それが貴様なのだ。……なにが消滅の概念だ、なにが友人探しだ! 貴様の様な怪物(バグ)が生まれ落ちたせいでッ! 私はこんな、こんな吸血鬼の誇りも何もない、惨めな悪霊にまで成り下がったのだぞ!? 貴様さえいなければッ、私は狂う事など無かったのに……!!」

 

 ――スカーレット卿の言い分は、ナハトには決して無下にする事の叶わない告白だった。

 

 卿の解釈は正しい。ナハトは正しく諸悪の根源だ。本来生まれる事の無かったイレギュラーであり、だからこそ、この世界に不要な波紋を生み続けた。

 まるで無尽蔵に増殖し、正常な組織を侵す癌細胞のように、ただ在るだけで悪と呼べる存在なのだ。

 

 見方によっては、スカーレット卿も一人の犠牲者なのだろう。彼だけではない。ナハトという元凶が居なければ、フランドールが実父に利用され紅魔館との間に溝を生む事も、小悪魔やこいし、他にもたくさんの人々が利用される事も無かった。多くの者達に不幸が訪れる事は無かったのだ。

 

 どうしようもなく、この吸血鬼は毒蝶だった。羽ばたきは波濤を生み、鱗粉は万物を害し、果ての未来にまで悪影響を及ぼしてしまう負のバタフライエフェクト。その根源的存在こそが、吸血鬼ナハトという男の本質なのだ。

 

「……それを否定はせんよ、スカーレット卿。私は決して善たる存在ではない。私もまた、お前とは違った性根からの悪なのだろう」

 

 八雲紫から素性を耳にした時、ナハトは一番にそれを理解した。これまで先天性の病だと思っていた瘴気は病魔ではなく、むしろ真なる病魔とは、己自身を指す言葉であったのだと。

 

「だが」

 

 それでも。例えこの身がどうしようもない巨悪であったとしても。歩んできた道筋の中で、多くの不幸を生んでしまっていたとしても。

 

 ナハトにそれを悔いる事など許されない。それは狂わせてしまった者達への最大の冒涜に他ならないからだ。それは今まで己を支えてくれた者たちに対する最悪の裏切りに他ならないからだ。

 

「その嘆きが、お前の非道を帳消しにする理由とはならん」

 

 生者は大なり小なり必ず犠牲を生み出している。しかし犠牲全てに懺悔しながら生を歩むものがいるとすれば、それは聖人の皮を被った狂人だけだ。全生命を救済すると宣う世迷い言の極地と変わらない。

 

 かつてナハトは教わった。際限なき博愛を持てば平凡な人間であっても友達になれると妄信していたナハトに、切り捨てる事や嫌われる事も必要で、受け止めなければならない試練だと、萃香(ともだち)が教えてくれたのだ。生きる者なら誰しもが背負わなければならない罪業なのだと、ナハトはそこで知ったのだ。

 

「ここに住まう者達を見てきたお前ならば分かるだろう。卿よ、私を前にして心を壊した者がこの地にいたか? 生の道筋を狂わされた者がいたか? 狂気に駆られ、自暴自棄に陥って、やたらめたらに暴れ回った者が本当にいたのか?」

「――――」

「いいや、居ない。ただの一人たりともだ。一度は挫けたとしても、皆一様に立ち上がった。それは彼女たちが勇敢だったからだ。誰しもが持ちうる武器を使って(勇気をふりしぼって)、紛い物の恐怖を克服したからだ。……当たり前で、最も気高い強さが心の何処かにあったならば、私の様な贋作の恐怖など、欠片も恐れるに足らんのだよ。我々の十分の一も生きていない人の子ですら、私の恐怖どころかお前の安心にも打ち勝ったのだぞ。それをこの眼で見てきた。他でもない、元凶たるこの私がだ」

 

 だから、吸血鬼ナハトはサー・スカーレットを肯定しない。 

 ナハト(それ)を言い訳に悪の限りを尽くす行為は、決して許されるものではないのだと。

 ナハト(それ)を理由に卿の行いを許す事は、親愛なる友人たちへの真の裏切りに他ならないのだと。

 

「悲劇を騙る屍よ。ただ一度の挫折で王道からも覇道からも逃げ出したお前の言い分は、そんな我が友らへの侮辱と変わらぬ」

 

 理解は出来る。『消滅の概念』などという途方もない理不尽が世に生まれたせいで被害を被ってしまったならば、本当に淘汰されるべきはナハトの方なのだろう。

 けれど、それを理由に第三者を災厄の渦へ巻き込むことは許される事ではない。

 

 逃げても良い。挫けても良い。立ち止まっても良い。泣いても喚いても、どうしようもないからとその場に座り込んだって、糾弾される謂れは決してない。

 

 ただし、己が不幸になったんだから人へ不幸を強いて良いなどと癇癪を起こし、ましてや自分そのものが第二の災禍に変貌してそれを正当化するなど、童の我儘より稚拙で下等な傲りである。

 

 なによりそれは、災いを逞しく跳ね除け王道を歩み続ける者たちに対しての、最高にして最低の凌辱に他ならない。

 

 スカーレットが心を折ってしまった時、その敗北と屈辱をバネに正しく奮闘したならば、ナハトなんて足元にも及ばない至高の吸血鬼としてこの世に君臨したはずなのだ。あらゆる化生から本当の羨望を向けられ、レミリアやフランドールから一生の誇りだと胸に刻み込まれるような、偉大な父として在れたのだ。

 

 そんな素敵な未来を蹴ったのは。全てを捨てて邪道を歩む事を選んだのは。

 紛れも無く、スカーレット卿自身なのだ。

 

 故に。

 吸血鬼は強く、強く、穿つように言葉を放つ。

 お前はどうしてそんな道を選んでしまったのだと、どうして私を克服(たお)してくれなかったのだと。

 行き場の無い悲哀と怒り、自責の念を滲ませながら。

 

「その魂が泥の中を這い蹲っているのはお前の弱さが原因だ。斯くの如き方便、ただの八つ当たりに過ぎんと知れ」

「――――知っているさ、そんな事ッ!!」

 

 ナハトの言葉を払いのける様に、スカーレット卿は怒号を放った。顔中に血管を浮き上がらせ、口元を激しく歪めながら、唾で口元が濡れるなど構わず叫喚した。

 

「そうだとも、ああそうだとも! これは私の盛大な八つ当たりだ! 最強の吸血鬼と謳われ、偉大な道を歩むはずだった私がポッと出の分際に屈して心を折られた、かつての恥辱を雪ぎ落とすためだけの雪辱戦だ! そうしなければ――このスカーレットの魂はッ! 五百年前の狂気から解放されないからだ! 脆弱で、惨めで、不甲斐ない私から、決別を果たすことが出来ないからだ!」

 

 喚き、叫び、怨念の権化は胸へ爪を立てて引き裂く様に豪語した。

 これは止まってしまった己の時計を進めるための戦いだと。自己満足を得るため以外の何物でもない、唯我独尊の死闘だと。傲慢の下に宣言したのだ。

 

「だから!! 貴様だけはこの手で殺さなくてはならないッ!! 我が魂を永劫縛り付ける貴様(ナハト)という鎖を断ち切り、真の安心を取り戻す為に!!」

「……それがお前の本心か」

 

 安心を与える力を持ちながら、安心を得ることが出来なかった男。

 彼はその渇きを満たすために、ただそれだけの為に、人々へ不幸を植え付ける事を選択した。

 エゴの極地。そう称する他に、この妖怪を裁定する言葉は無い。

 

「たったそれだけの理由(わがまま)で、こんなにも多くの悲劇を生み出したというのか」

 

 拳を握り、ナハトは怒りの火力を跳ね上げていく。

 瘴気が、ジェットの如く噴出した。

 

「ああ、ああ、ああ!! 私の中身はそれだけだ! 闇夜の支配者を虐殺し、呪われてしまった我が魂へ平穏を取り戻す、ただそれだけの執念だ! そいつを成し遂げるためなら何だって利用し尽くしてやるさ! 何だって食い物にしてやるさ! それ以外の雑事など、知ったことではないわァッ!!」

「……ならば、もういい。十分だ」

 

 どう足掻いても相容れないモノがそこにある。どう踠いても埋められない溝がある。

 然らば、進むべき道は一つだけ。

 絡み合ってしまった宿命、全ての因果をここで断つ。

 それ以外に、五百年も続いた忌まわしい夜を終わらせる方法は存在しない。

 

「終わりにしよう。スカーレット」

「終わりをやろう。吸血鬼ナハト」

 

 魔王と悪魔が対立する。一触即発の気を纏う双方へ近づく者は、炉心溶融の如く溶かし尽くされる事だろう。

 スカーレット卿は白い歯を剥き大いに笑った。

 ナハトはただ、冷厳に外道を見据えるのみで。

 

 ――互いの手元に、眩い輝きが発現した。

 

 超常の力は形を持って刃と成す。

 片や光を飲み込む闇夜の魔剣。片や闇を討ち滅ぼす日輪の聖剣。

 相反する二つの剣は、振るわれずして磁石の様に拮抗した。力の板挟みに遭った大気が捻り潰され、鎌鼬に匹敵する疾風が巻き起こる。

 

 天蓋の月へ叛逆するが如く、悪魔は左腕を掲げ、紅蓮に燃ゆる剣を高く、高く突き上げた。

 吼える。執念の憎悪、弛まぬ狂気を迸らせながら。

 

「焼き付けるがいい、無窮たる日輪の輝きを! ――そして去ね! 我が運命の宿敵よ!!」

 

 

 

 

「最後の慈悲だ」

 

 黒の気体が蛇の様に絡みつく、魔を凝縮した刃が唸る。軌跡を描きながら空を撫で、切っ先は悪魔の眉間を指し示した。

 

「首を差し出せ。無用な苦痛を与えることなく、全てを終わらせてやる」

「ハッ。自分の首なぞ、五百年前にどこぞの道端へ捨て去ったわ」

 

 決別は炎の剣が代弁した。万象を焼き焦がす焔が猛り、迅速の一刀と共に吸血鬼へ振るわれる。

 ギィンッ!! と金属同士の打ち合いを彷彿させる大音響が耳を貫き、暗黒の粒子と灼熱の火の粉が舞い踊った。剣戟は一度で止まず、二手、三手、四手と、速度と威力を増しながら鎬を削る。

 片側が隙を潰すように切りかかればそれを弾かれ、反撃するように突けば身を捩って躱す。重力やフィールドの縛りは無く、三百六十度全ての空間が死闘の為に利用され、縦横無尽の攻防が繰り返される。

 

「ッはははははははッ!! ああああこれだこれだよこれなんだよナァァハトォォォッ!! 私がずっと求め続けたもの、渇望に渇望を重ねた真の馳走がここに()った!! 実感が湧いてくる! 私という貴様に崩壊させられた存在がッ! 型を抜かれた粘土の様に形を取り戻していくのがよく分かるぞッ!!」

「下らぬ享楽に興味は無い。付き合うつもりも毛頭ない」

 

 瞬間、十四の剣がナハトの背から花開く様に顕現した。一つ一つが意志を持つ使い魔の如く自由自在に宙を舞い、一切の法則性を持たずスカーレット卿へ突撃する。

 一射目を避け、二射目をいなし、卿は歯を剥き嘲った。

 そこに諦念の余地は無く、あるのは溢れ出て止まない歓喜と憎悪のみ。

 

「何度も同じ手が通用すると思ったか愚か者がッ!!」

 

 腕をクロスさせ、咆哮と共に解き放つ。爆発を凌駕する現象が起こった。スカーレット卿を中心に強大な日輪のエネルギーが全方向に放たれたかと思えば、フレアに触れた魔剣が欠片も残さず破砕し、消し炭へと変わり果ててしまったのである。

 

 ナハトは握る刃を振るい、迫る太陽フレアを斬り払った。闇が光を削り取るように呑み込み、太陽の及ばぬ隙間が生まれる。

 間髪入れずナハトは空気を蹴って突進する。魔剣グラムを限界まで振りかぶり、全力を込めて叩き斬った。

 しかし、陽炎の様なバリアを貼りつけた制御棒に刃を阻まれ、豪快な低周波と共に弾かれてしまう。

 

「成程。やはり貴様の黒剣は自在であるが、体から離せば離すほど魔力の供給は追いつかずに脆くなるな? 反面、直接振るえば無敵の武具となる訳だ。八咫烏のアドバンテージが無ければ、今の一振りで勝負は決しておったかもしれぬな」

「ぬかせ。防げる確信があったからこそ接近を許したのだろう」

「駈け引きは戦の華だ。特に、貴様との闘いではなッ!!」

 

 すかさず、卿は攻撃に打って出た。光を圧縮し、必殺の一撃を放たんと手を添える。

 しかしナハトの思考は、既に次の段階へ移り替わっていた。弾かれた体を更に捻じ曲げ独楽のように回転すると、剣の持ち手を組み替えて、斬り上げるように刃を煽る。

 

 卿は迅雷の如く迫る凶器を間一髪でのけ反って躱し、バク転をする様に距離を開けた。虚空を蹴り飛ばし何度も体を跳ね上げながら、鮮紅の悪魔は太陽弾を吸血鬼へ一斉掃射していく。

 

 右も左も、上や下さえもが無限の弾丸に埋め尽くされた。一貫性の無い滅茶苦茶な射撃は外れているのではない。外しているのだ。逃げ場を掃射で潰すことで、()()を確実に命中させるための下拵えなのだ。

 

 迫る凶弾。その数、計測不能。

 

 良い。問題ない。吸血鬼の動体視力ならば軌道は容易く捕捉できる。

 剣を振るった。舞い踊るように、鞭打つように剣を振るった。

 大気を割り、音を砕き、衝撃波さえ放たんばかりの圧倒的な連打は、一つたりとも打ち損じる事無く光を砕き、力技で活路を導き出した。

 

 けれど開けた視界の先に、スカーレット卿の姿は無く。

 

「!」

「気付くか! だが遅い、死ねいッ!!」

 

 反射的に上を見れば、彼方から極大のエネルギー体を充填する偽者の八咫烏が目に映った。

 空気の焦げる匂いと共に、視界が純白で塗り潰される。世界を焼き尽くさんばかりの光の柱は呼吸の暇すら与える事無く墜落し、ありったけの熱量を伴って吸血鬼めがけて降りかかった。

 

 

 

 ――その時、男に明瞭な変化が起こった。

 

 

 

 絶大な炎熱が体を呑むまで、あと数秒も残されていない須臾の狭間。ナハトは、対抗手段である筈の黒剣をなにゆえか()()()。昇華するドライアイスの様に揮発していく魔剣を尻目に、男は粛然と右手を掲げ、神の炎と無謀にも生身一つで相対する。

 

 彼の眼球は、一切の混じり無き純黒によって塗り潰されていた。

 

 真珠の様な莢膜も無く、紫水晶の如き瞳も無い。まるで無間の闇が眼を象っているかの様な深淵がそこにあった。

 光のみならず魂さえも吸い込んでしまいそうな、果ての無い黒。

 それはかつて、萃香との決闘でも顕現した――――

 

「――――」

 

 業火の柱がナハトと接触する刹那、それは起こった。

 一瞬、ほんの一瞬だけ黒い煙が手のひらから噴出したかと思えば、息を吹かれた蝋燭の灯火の様に、八咫烏の炎が姿を消し去ったのである。

 

 無音が世界を支配する。風の音さえ耳には届かず、無窮の静謐が両者の間を塗り潰した。

 

「な……ッ!?」

 

 唖然。それ以外に、スカーレット卿が表現できるものは何も存在しなかった。

 渾身の一撃だった。一切の手加減も慢心も無い必殺の一撃だったのだ。なのにそれが、火の粉の様に突然消えた。莫大なエネルギーに相殺されたわけでもなく、スキマの様な空間転移でどこかに放られた訳でもない。

 

 ただ()()()。幻覚ではなく、存在が丸ごと消えたのだ。割れたシャボン玉のように。水面に上がった泡沫の様に。

 

 そして。

 見晴らしの良くなったその先には。

 深淵孕む眼窩の中心に、青とも紫ともつかぬ光を宿らせた、悍ましい吸血鬼が立っていて。

 

 瞬き。

 

「!?」

 

 瞼を開けば、男はスカーレット卿の一寸先に君臨していた。

 上下二対の牙の間から白煙の如き息を吐きだしながら、スカーレット卿の魂魄の欠片までも食らわんと大口を開ける怪物は。

 四年前の最期に視た、かつての光景の再来で。

 

「――――うオああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!?」

 

 瞬間、脊髄反射に従うまま、スカーレット卿はその場から全速力で離脱した。

 決してナハトから目を離さず、上空へ、上空へ、幻想の檻を飛び越えんばかりに舞い上がる。

 

 だが瞬きと共に『死』は迫る。

 確実に、着実に。正体不明の黒を纏う怪物は、どこへ逃げようとも追ってくる。

 

 灼熱を放った。万物万象を溶融する火炎放射を、焼け爛れる弾の嵐を、超圧縮された光の一閃を。絶えることなく放ち続けた。

 

 冬の晴夜を莫大な黄と赤が覆いつくす。天高くより降り注ぐ熱の余波は季節を破壊し、湖一体の雪や氷が溶解を始める程だった。

 

 赤熱を割り、紅蓮を剥がし、なお歩みを止めぬは闇夜の支配者。

 業火が覆う星の海を悠々と闊歩する男の姿は、破滅の魔神の如く禍々しくも、救世の使徒の様に神々しくて。

 讃美歌の幻聴さえもが、鼓膜を貫いてきそうな。

 

「貴様――! ()()()()()()()使()()()()()()() それは有限の資源だ、擦り切れかけの命綱の筈だ! なのに、何故そんなにも自由に……ッ!?」

 

 どれだけ弾幕を張ろうとも、太陽の力は消しゴムで揉み消された筆記の様に掻き消えていく。 

 光も、熱も、その余波でさえも、跡形も無く消し飛ばされていく。あまりに圧倒的で一方的な侵攻は、絶叫を放たねば冷静さを保てない程だった。

 

 トリックは、ナハトの根源に隠されていた。

 

 かつてこの吸血鬼は伊吹萃香との闘いで奇怪な現象を引き起こした。山どころか幻想郷の地盤さえも粉砕しかねない鬼の奥義を、その()()()()削り落とし、完全に無力化したのである。

 

 これはナハトの中身――それ即ち、『消滅の概念』を吹き付けたが故の帰結である。例えるならば、万物を白紙に変える修正液と言った所か。

 

 だがしかし、これには大きな欠点が存在する。四年前にナハトが崩壊を迎えかけたように、命を削る諸刃の剣なのだ。自らの中身、人間でいう所の臓腑や血肉を吐き出して、それをぶつける武器なのだ。

 

 ましてや今のナハトは中身が枯渇寸前である。さとりと鈴仙、早苗の劇が多少の補正を働かせたが、辛うじて危険区域を脱している状況に過ぎない。再び同じ技を使おうものならば、今度こそ灰と化してしまう程に。

 

 それが、目の前で繰り広げられている。

 限界を見せず、ただ淡々と。プラズマの大森林を打ち消しているのだ。

 これを、驚天動地と言わずになんという。

 

「……お前は私を相応しい舞台と台本で始末する為に数多の策を繰り広げたと言ったな。骨髄まで徹した恨みを燃料に、狡猾さと執念の刃を研いで、私では到底想像もつかない数々の罠を仕掛けてみせた。四年前よりも残酷さを(かさ)増して」

 

 それはある意味成長と言えるのだろう――皮肉を吐くように、吸血鬼は吐き捨てた。

 

「一つ教えてやる。進化を遂げているのは、なにもお前だけではないという事だ」

「――ッ!?」

 

 パチパチと、静電気の様に走るナニカがあった。炎が丸ごと消え去る刹那、瞬いた残留物が確かにあったのだ。

 それが、ナハトの魔力残滓なのだと知った時。

 歯を砕き割らんばかりに噛み締めて、真性悪魔は大喝する。

 

「まさか、まさか! 貴様、よりにもよって()()したな!? 己の魔力を消滅のエネルギーに変える方法を、この短期間で編み出したんだな!?」

「久しく血を沢山飲んだ。腹は膨れている」

 

 空間を削り、距離を殺して瞬間移動を果たす冥暗の権化は、真横を掠める光線へそっと手を添えた。『その通りだ』と仮説を認めるかのように、プラズマの杭を跡形も無く滅ぼしていく。

 

 紫の告白を経て己の素性を掴み、同時に萃香との決戦で起こった不可思議な現象の答えを得たナハトは、それを再び利用できないかと考えた。相性で言えば最悪にあたる太陽との戦いにおいて、消滅の力が大きな矛になるだろうと思い至るのは自明の理だろう。

 

 だが言うは易く行うは難し。そもそもアレは命を削る大技なのだ。もう一度使えば確実に死は免れない。

 そこで閃いたのが魔力による()()だった。消滅の力と同じ原理、同じ構造を、莫大な魔力で完全再現を果たそうと試みたのである。

 

 但し、ナハトが禁断の選択へ辿り着くに至った過程を理解する事と、肝心要な原理への納得は全く別の問題だ。 

 事実、スカーレット卿は晦渋(かいじゅう)をありったけに凝縮した表情で絶叫した。

 

「馬鹿な……そんな真似が出来る筈が無い! 消滅だぞ!? 森羅万象を無に帰す力だ、それを魔力で生み出すなんて矛盾しているにも程がある!」

「魔力を消滅の力へ変えているのではない。これは消滅の力に限りなく似せた贋作だよ。魔法を極めた者同士だ、少し考えればお前にも分かるだろう?」

 

 根本は異なれど、全く同じ影響を及ぼすエネルギーを造り出す。ナハトがやり遂げたのはそれである。完璧な生成ではなく完全な模倣。動物油脂を植物油脂で代用するように、希少な自然物質を化学で真似て生み出すように。

 

 名付けるならば消滅魔導。自らの源泉を解析し、体得に至った破滅の嚮導(きょうどう)、その偽典が発現した。

 

「機は熟した。終極を迎える仕度をするがいい、スカーレット」

 

 怒涛の猛攻を総て吹き消し、空間を削って光よりも速く挙動するナハトを、卿は止める術を知らなかった。

 

 魔術も、能力も、天敵たる八咫烏の力でさえも意味が無い。反則に等しい絶技の前には一切の小細工が通用しない。

 敗北の未来が、濃厚かつ鮮明に脳裏を過ぎ去った。

 

「――…………ははははははははははっ、あはははははははははははははははははははははッ!! あ―――ッはっはっはっはっはっははははははッ!!」 

 

 だが喉から飛び出す怪鳥の咆哮は悲鳴に非ず。それは疑う余地のない悦楽の喚声だった。

 厭世(えんせい)の恐怖が武者震いを起こさせる。希望無き未来が歓喜の春風を運んでくる。

 

 これだ。これこそがスカーレット卿の切望してやまなかった吸血鬼だ。五百年前の出会いで刻まれ、四年前の対決で死ぬほど思い知らされた真の絶望、その具現体だ。

 

 理不尽で、理解不能で、圧倒的で、残酷で、憎悪の矛先に立つ者で、肉を持ったトラウマ。神経を狂わせ、魂を穢し、喉から直腸までまとめて干上がらせるような原初の恐怖。

 

 それを――斬って叩いて潰して殴って蹴って砕いて穿いて剥いで削って焼いて奪って嬲って辱めて貶めて殺して殺して殺して殺して殺し尽くす――――ただ復讐を成し遂げるためだけに、スカーレット卿は今日この日まで、生き汚さの最前線を走り続けてきたのだから。

 

 これを、この胸を八つ裂く絶望を。甘受せずにいられるか。

 

「最ッッッッ高よなぁッッッ!!」

 

 撃つ。無意味と分かっていても、せめて制御棒だけは守らんと無限の弾幕を撃ち続ける。

 八咫烏の炎だけではなく、かつて研鑽を積み魂にまで染み込ませた魔法技巧の数々を、演目のフィナーレを飾るようにありったけ叩きこんでいく。

 

 雷撃と劫火の槍撃が繚乱し、豪雨を凌駕する膨大な水の蛇が鎌鼬を纏って突進した。太陽が雄叫びを上げ、夜を塗り潰さんと躍動すれば、暗黒の世界も白に染まる。

 

 その全てが。最強の吸血鬼と謳われた男の全身全霊が。

 無慈悲に、不条理に。災害を前に成す術なく呑まれる雛鳥の如く、容易く屠られ消えていく。

 

 まだだ。まだ足りない。

 この怪物を殺すには、決定的に火力が欠けている。

 

 悪魔は嗤う。忌まわしき怪物、乗り越えるべき宿敵を撃滅せんと、最大限の殺傷をその手に顕現させる。

 ズバヂィッ!! と空を殴り付けるような音と共に、無双の力を全て圧縮して練り上げた、闇殺しの弓矢が出現した。

 

 卿は弦を振り絞り、更に矢へと力を籠める。着弾すれば霧の湖すらまとめて蒸発する一射だが、そんな事は関係ない。一帯への被害だとか、その後の未来だとか、邪魔な配慮は欠片も脳裏を過らない。

 

 目の前の男を殺すという、無二の執念を心魂の底で焚き上げて、悪魔は躊躇なく滅びの一条を撃ち放った。

 

「消えろ、悪魔め!!」

 

 矢は走る。光に乗り、事象を捨てて、たった一つの影を討ち滅ぼさんと天を割る。

 対する吸血鬼は、ただ静穏に。神の一矢へそっと手を添えた。 

 雲散霧消。天蓋から放たれた死の閃光は、闇に呑まれ灰燼に帰す。

 渾身の一撃だった必殺は、呆気ないほどの幕切れで。

 気が付いた時には、スカーレット卿の肩に死の手がふわりと乗せられていた。

 

「辞世である。その穢れた宿業、ここで断つ」

 

 視界一杯に、己が胸を目掛けて迫る漆黒の切っ先が映り込んだ。 

 ぞぶり、と。血肉をすり抜け、内側へ侵入してくる異物の感触が、吐き気を催すほどに広がって。

 

「う、あ、あ、ああ……!」

 

 剣が届く。怨み憎しみで煮詰まった、この世ならざる悪意の中枢へと。

 無情に。作業的に、ずぶずぶと入り込んでいく。

 ぐじゅっ。魔を凝縮した純黒の剣から染み出す黒い粘菌が、卿の魂魄へ触手を伸ばし、突き刺さった。

 

「あ、お、おおおおおおおおあああああああああああああああッッ!? き、貴様! 貴様貴様貴様ァああああああああッ!! あああああああああああ馬鹿、よせ、止めろ! 魂を塗り潰して砕くなんて、そんな、よせ、やめろ、やァめろおおおおおおおおおおおおッッ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「とでも言うと思ったか?」

 

 

 ――砕けていく。

 

 バラバラと、風化した土器が崩れ落ちていくように。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 パチュリーのみならず紫や永琳、輝夜の加護すら付与された至高の護符(くびかざり)も、粉々に爆砕し塵芥へと消えていく。

 

 唐突だった。唐突にも程があった。剣を突き刺し、スカーレット卿の魂を抉り出そうとしたその瞬間、まるで自分の体に消滅魔導が降りかかったの如く諸共が消し飛び、全てを転覆させられたのである。

 だが、ナハトは内臓を掻き混ぜられるような混乱の濁流には目もくれなかった。そんな考えても分からない事態より、目の前の()()に集中線を全て奪い取られていたのだ。

 

 卿の懐。魂魄切り裂く魔剣グラムを刺し込んだ胸元にそれはあった。

 分厚い、分厚い、一冊の本だ。小口に鋭利な牙が生え揃い、粘液滴る舌がだらりと垂れ下がっている、およそ読み物とは思えない生々しい書物。それが、焚書されていく異端書の様に端から溶け消えているのだ。

 

 白痴と化したナハトの脳髄に、稲妻の如き衝撃が走った。

 知っている。吸血鬼はこの本の正体を知っている。

 記憶の外に放り投げていた。完全に忘却の彼方へ捨て去ってしまっていた。

 いいや、そもそも。()()は永い時を経て動力を失い、元の姿へ戻っていたのではなかったのか?

 

 予想だにしない物体の出現が、懐疑の乱気流をナハトの中に呼び起こす。

 過程も、道理も、方法も。ナハトには何もかもが理解出来ない。ただただ、『何故』という疑問符だけが脳神経を埋め尽くすのみだ。

 

 

 ―――――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

「そうだ。それだよ」

 

 ギギギィッ、と。悪魔の唇が三日月状に引き裂かれた。

 爛々と獣の眼が輝きを放つ。待ちに待った映画の名場面をようやく目に出来た熱烈なファンの様に。込み上がる笑いで口元を痙攣させながら、狂気の瞳が照準を引き絞った。

 困惑と、驚愕に染まり切った、闇夜の支配者の顔貌へと。

 

「貴様のその顔が! ずっとずっと見たかったんだ!」

 

 瞬間。必殺の光がナハトを容赦なく包み込み、幻想郷の夜空を一直線に引き裂いた。

 

 

 閃光が収束し、焼け焦げた影が彼方を舞った。

 黒煙が燕尾を引いてゆく。骨肉の燃える刺激臭が散布される。男の一部だった炭が、ボロボロと雪の上へ降り注いだ。

 吹っ飛んでいくナハトを追い、スカーレット卿は小鳥を狙う猛禽の様に首根っこを鷲掴んだ。

 

「ぐッ!」

「ははははッ! いい気味だ、いい様だ! 最高最強最上に爽快な気持ちだ! 追い詰めたと思ったら丸ごと形勢逆転された気分はどうだァッ!?」

 

 六角の制御棒を振り上げ、脳天に、腹に、鼻っ柱に、何度も何度も叩きつけていく。ぐしゃり、べしゃりと。肉体が砕けて混ざる音が連続した。

 息を切らすまで殴り続けたスカーレットは、胸倉を掴んで鼻先が触れ合う程にナハトを引き寄せ、渾身の頭突きを見舞う。仰け反ったナハトの腹に向けて、駄目押しに小さな太陽熱波を撃ち放った。

 風穴が空き、赤黒い体液がボトボトと零れ落ちていく。

 

「ハァーッ、ハァーッ、ハァァァ――ッ、フシュー…………おおナハトよ……そんな惨たらしい有様になりおってからに。服はボロボロ、体は滅茶苦茶。髪も古びた箒の方がまだ洒落ているというもの。これでは誉れ高き闇夜の支配者も形無しだな」

「づっ、う」

「痛いか? 苦しいか? 辛いか? 悔しいか? それとも疑問でいっぱいか? 理解できずに思考が真っ白に塗り潰されたか? 素直な気持ちを聞かせてくれよ。貴様のッ! その口からァッ!!」

 

 二度、三度。再び制御棒を叩きつける。その度に、べっとりとした粘質な液体が柱から糸を引いていく。舐めとりながら、ケタケタとスカーレット卿は嘲笑った。

 血の泡を吐き捨てて、ナハトはだらりと下がった首を錆びたブリキの様に引き上ながら、声帯から言葉を搾り取る。

 

「私に、何をした……?」

「む。ふふん。そうだろう、気になるだろう? 私の切り札、秘策中の秘策が気になって気になって仕方ないのだろう? うん、良いぞ。未曽有の権化である貴様から疑問符を放られるのは、存外悪い気がしない」

「…………」

「三下の所業だが、今は気分が良いのでな。特別サービスだ、冥土の土産に教えてやる。――ナハトよ、対消滅という言葉を聞いたことはあるか?」

 

 対消滅。簡単に説明するならば、ある物質とその対となる反物質が衝突し合った時、互いに消滅を迎える化学現象である。

 何故そのような単語がここで飛び出してくるのかと、ナハトは内心首を捻った。

 だが、どこか盤にパズルのピースが嵌め込まれていくような感覚も確かにあった。魔力を流そうとも再生不可能になった半身と、異常に削り取られた()()の容積、そして豊潤に蓄えられていた魔力を殆ど喪失した現状が、ある種の天啓を与えたのかもしれない。

 

「貴様を倒そうと画策した時、真っ先に考えなければならなかったのは対抗し得る武器だ。理不尽の権化を捻じ伏せる刃を鋳造する必要があった。結局、古明地こいしのお陰で八咫烏の核融合操作というこれ以上に無い吸血鬼殺しを手に入れられたが、しかし、それでもまだ足りないと思ったんだ。常識破りの貴様を完膚なきまで殺すには、もっともっと強力な武器が欲しかった」

 

 だから、貴様専用の()を作る事にした。悪魔はあっけらかんと嘯いた。

 

「悩んだ末に着想を得たのが対消滅だった。厳密には化学の理屈と異なるが……とにかく、私は貴様の()()と対になる反物質――否、反魔力を造り出したのだよ。貴様の衣服や、四年前に使い魔化させた床の石、魔本に含まれていた特有の魔力を古明地こいしと共に掻き集めてな。まったく、自分の物くらいちゃんと管理しておけよなぁ。失くし物に気づかないズボラだから、そんな結果になるのだッ!!」

 

 殴打。筋肉と毛細血管が断裂し、割れた皮膚から鮮血が溢れ出る。

 スカーレット卿が古明地こいしにナハトの所有物を掻き集めさせていた理由がこれだったのだと、ナハトは鈍い痛みで朧になる意識の中で答えを得た。

 

 ナハトの魔力は少々特殊だ。レミリアやパチュリーが行使する魔力と同一の物も使用しているが、一つではない。根源は似て非なると言っていい。

 何故ならそもそもの話。ただ莫大な魔力を押し流した所で、モノが生命体に変わるなんて事は有り得ないからだ。もしそれが可能ならば、アリス・マーガトロイドの夢――完全な自立人形の作成は容易く完遂されていた事だろう。

 

 ではどういった原理なのか。答えはナハト自身の()()にある。

 ナハトという吸血鬼は、存在を有するなら全知全能の神でさえ必ず迎える万物の終焉、即ち『消滅の概念』を核に生まれたバグである。だが一考すればこれが如何に矛盾しているかがよく分かるだろう。だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()なんて、控え目に見てもまともな理屈とは言えないからだ。

 

 その矛盾を克服した末、ナハトはこの世に立っている。『消滅の概念』、即ち根源の恐怖というエネルギーを転換、利用し、自身の存在を確立させて受肉を果たしているのである。例えるならば栄養の置換。人が人間ではない動物の血肉を食らい、消化し、再び組み直して自らの体へ変える事と同じようなものだ。

 つまりナハト特有の魔力とは。消滅のエネルギーを変換する事で獲得した、ナハトの純粋な生命エネルギーという途方もない燃料だったのである。この原理を理解できたからこそ、ナハトは偽物でありながら消滅の力を自在に操れるようになったと言っていいだろう。

 特有の魔力と存在の根源。その種類は違えど、素体は同じ物なのだから。

 

「正直なところ、これは命懸けのギャンブルに等しい暴挙だったよ。貴様が消滅の力を使いこなした時は本気で焦りを覚えたさ。成長を遂げたフランドールの様に、極小さな点のみを消滅させられるようになっていたら、私の魂魄はピンポイントで消し飛ばされ、勝負は一瞬で決していただろう。貴様があと二日……いや、半日早く能力に目覚めていたならば、結末は違うものとなっていたと確信を持って言える。絶望的な相性の差を吹っ飛ばしかねないその脅威度は、相変わらず大したものだった」

「……なる、ほど。魔剣が発動の鍵となっていたのか。グラムを伝い、私の核まで纏めて粉にする算段だったのだな」

「その通り。しかし半身も残った挙句、光線にまで耐えたのは素直に驚いた。トラップの反魔力が極めて微々たる量だったとはいえ、生じたエネルギーを全て跳ね返す特製魔術まで苦心して編んだのに、たったその程度のダメージで済むとはな。本当なら生首一つ残れば幸いなレベルだったんだが……賢人たちの首飾りは大層な役割を果たしたようだな?」

 

 お陰で虐げる楽しみが残ってくれたから結果オーライだがね、と少女の様な微笑みを浮かべる復讐の悪魔。

 スカーレットは眼球を上に向け、頬を釣り上げながら何かを思案するように首を揺らした。

 

「さてさて、次は何をしようか。困ったなぁ、沢山拷問のレシピを考えていたはずなのに、いざ実践するとなるとどれを選べば良いのか分からなくなる。選択出来るが故の贅沢よな。フフ、あぁ楽しい」

「…………っ」

「そうだナハト、リクエストはあるかい? 可能な限り無下にしよう。殺してくれと言ったら殺す気で生かしてやるし、解放してくれと言ったら永劫の束縛をくれてやろう。なに、安心したまえ。これでも黒魔術や呪いの腕には自信が」

 

 ぐいん、と。卿の首が唐突に曲げられ、言葉の枝も圧し折られた。

 ナハトの腕が伸びていた。残された片腕が後頭部を掴み、強引に俯かせられたのだ。

 二つの瞳が、重なるように交差した。

 漆黒に染まり切った深淵ではなく、夜露が月明かりと踊る紫陽花の様に鮮やかな、紫の瞳があった。

 

「――――ッ!!」

 

 反射的にスカーレットはナハトを突き飛ばした。魔性に脅かされたからではない。瀕死の男が企てた意図に気付き、それを阻止しようと距離を取ったのだ。

 だが、もう遅い。

 ()()は、とっくの前に終了している。

 

「貴様、まだ足掻くか。そんな襤褸(ボロ)よりも惨めな風体に成り果てて、なお抵抗するというのか!」

 

 眼とは魂と外界の境を担う関所である。魂は瞳を通して肉の外を眺め、四季折々の憧憬を映し取る器官なのだ。

 逆を言えば、瞳を覗かれる行為は魂の曝露に他ならない。特にこの吸血鬼に対してそれは、心臓を抜き出して捧げる過程となんら変わらない。

 

 ナハトが消滅の力を用いてスカーレット卿の魂だけを削り取らなかったのは、繊細なコントロールが必要だった点もある。だがそれ以上に、卿の『内部』が複雑怪奇に入り組んでいるため、下手に手を出せば霊烏路空ごと亜空の外へ放り投げてしまいかねなかったからなのだ。

 指向性と特異性を備える為に卿の魂だけを切り捨てられる魔剣グラムと一切合切を消し飛ばす消滅魔導ではまるで勝手が違う。霊烏路空の魂と肉体、八咫烏の分霊の中へスカーレット卿の魂が隠れ潜んでいる以上、やたらめったらな狙撃は愚の骨頂と言える手段だった。

 

 しかし、それは最早過去の話だ。

 たった今、ナハトは卿の瞳を覗き見た。絡まる魂魄の網目をくぐり、本丸を探り出したのだ。かつてフランドールの中からスカーレット卿の魂を見出した時の様に。こいしの中からスカーレット卿を見つけ出そうとした時のように。

 

「フン。認めよう。私を止めんとする貴様の執念は本物だ。体も、魔力も、果てには存在の核さえも諸共削り飛ばされておきながらまだ動けるとは、天晴としか言いようがない。……それで? これからどうする? 弾切れ銃の引き金をいくら引き絞ったところで発砲は起こらん。今の貴様はまさに『無駄な抵抗』の良い教材だぞ、ナハト」

 

 スカーレット卿は余裕を崩さず、どころか呆れた様に頭を掻きながら、やれやれと溜息を零して宿敵を批判した。

 それほどまでに、今のナハトはジリ貧だった。潤沢な魔力も、特異な力も、存在を確立させる核も、九割近く反魔力で吹っ飛ばされたのだ。兵士から武具を剝ぎ取った挙句四肢まで捥いだ様に悲惨な有様は、こうして立っていることそのものが不自然に映るほどだろう。

 

 もはやナハトに贋作の消滅魔導は使えない。使うとするならば、正真正銘本物の『中身』をぶつける以外に手段は残されていなかった。

 けれどそれは、ショック死寸前の患者から更に血液を抜き取る様なものだ。

 即ち、逃れようのない死のレールが、目の前に毅然と敷かれたに等しい状況だった。

 

「……勘違いしてもらっては困る」

 

 だが。

 この上なく絶望的な境遇も、己の立場も。歪みなく把握しておきながら、なお吸血鬼は退かなかった。退くはずが無かった。

 半身を失くし、力も奪われ、虫の息に等しい容態なのに。

 

「私はな、()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 まるで、戦いの果てにこの結末を迎えてしまう覚悟を、既に固めていたかのような。

 

「吸血鬼は太陽に敵わない。それは覆しようのない摂理だろう。しかし私が最も懸念したのは八咫烏ではなく、スカーレット、お前のその邪悪さだよ。途方もない怨讐を燃料に次々と生み落とされるお前の戦略は、私の想像をいつも越えていた」

 

 一抹の波濤があった。吸血鬼を中心に広がる微弱な波紋があった。

 透き通ったヴァイオレットの瞳が、再び漆黒に染まりつつあった。

 

「策に策を。保険に保険を。罠に罠を仕掛け、それでも満足する事のない無窮の狡猾さに打ち勝つ術を、悔しいが私は持ち合わせていなかった。だからどこかで必ずこうなるだろうと予測していたさ。私の軟弱な頭では、お前の邪悪を破ることなど出来ないだろうと」

 

 

 ――――だから、覚悟を決めていた。

 

 震える片腕を必死に押し上げ、掌を開く。それを砲台に見立てるように、ナハトは的を引き絞る。

 全身に蔓延るヒビが、強烈になっていく。

 

「此度の異変、全ては私の不始末から始まった。私が居たから幻想郷はこうなった。ならば責務を果たさねばなるまい。――この命をもって、お前の粛清を成し遂げる」

「ナハト、貴様ッ!!」

「だから」

 

 死の明滅と共に。

 最期の魔導が、産声を上げる。

 

「――私と共に消えるぞ、復讐鬼!」

「――消えるのは、貴様一人だ吸血鬼!」

 

 バキバキと、仰々しいクラッキングと共に大仰な裂け目が肉体へ生じた。ナハトの命、残された僅かな雫が掌に圧縮され、万物を吹き飛ばす消滅魔導が姿を成す。

 しかしそこにタイムラグがあった。瀕死であるが故に生じたほんの一瞬があった。太陽弾を撃ち込まれかねない隙があった。

 だが関係ない。例えこの間に太陽を叩きこまれようとも、スカーレット卿だけは必ず消し飛ばし、冥府の道に連れてゆく。

 不屈の覚悟を胸に、ナハトは力を凝縮した。

 

 卿の腕が光り輝く。爛々と、魔滅の炎が雄叫びを上げた。

 腕を振りかぶり、スカーレット卿は太陽弾を放出した。躊躇不要の一撃を、肩に全力を込めて投げ放つ。

 

 だが、しかし。

 

 プラズマの杭が穿つ方角は、怨敵ナハトの心臓ではなく。

 遥か眼下の、何の変哲もない森だった。

 

「!?」

 

 視線を誘導され、果てに見慣れたシルエットを杭の着弾地点に発見して。

 ナハトは、亀裂を加速させるように全身から血の気を失った。

 ()()()()()()()()五芒星を描く様に配置された宝石や装飾品の中央で、眠るように横たわる見慣れた少女の姿があった。

 目の前の光景を疑わざるを得なかった。馬鹿な、と吐き捨てざるを得なかった。だってレミリアは咲夜と纏めて紅魔館へ転送した筈なのだ。睡眠の魔法で意識を奪われていた彼女たちは、今頃暖かなベットに安置されているのである。絶対に、こんな土臭い絨毯の上に転がっているハズが無い。

 

「知っているぞ。貴様がかつて藤原妹紅の血を元に、精巧な肉人形を錬成したことを」

 

 ギィィッ、と。

 邪悪の笑顔が、悍ましくも花開く。

 

「流石に縁も所縁もない赤の他人を即興で作るなんて荒業は私には不可能だったが、しかし! レミリアは我が血肉、我が魂から産まれ落ちた血族である! 故に奴ならば簡単に肉体を錬成する事が出来た! ああそうさ、すり替えておいたんだよッ!! 本物の咲夜と()()を一緒に置いていたから全く気づかなかっただろう!? ぎゃははははははッ! この私が人質をみすみす返すと思ったかマヌケがァあああああああ――――――ッ!!」

「スカー、レットッ……!!」

「おっと良いのか!? そのまま私を殺して貴重な時間を食い潰し、愛しい令嬢を蒸発させてしまっても本当に良いのかァ!? タメになる事を教えてやろう、あの魔方陣は防御用の緩衝材だが着弾しては五秒と持たん! 貴様が私を殺しても、枯渇しきったその体でッ! レミリアを救い出すことが果たして出来るかな!? ナァァァハトォォオッッ!!」

 

 ――その通りだ。忌々しいが全くもってその通りだ。歯が砕けんばかりの力が顎に注がれ、ナハトは苦虫を噛み潰したように顔の筋肉を歪ませた。

 例え満身創痍の命を絞り、スカーレット卿を消去できたとしても、残された搾りカス同然のナハトでは助けが間に合わない。

 

 ならば取るべき道は一つだけ。天秤でどちらを量るかなんて必要ない。迷う事そのものがおこがましい。小悪魔の時に、ナハトはそれを嫌と言うほど学ばされた。

 蹴った。空気を蹴った。僅か一握ばかりに残された魔力を片足に注ぎ、墜落するロケットの様に突進した。

 須臾の間にレミリアのもとへ転がりながら辿り着き、魔法障壁をあと一歩で食い破るだろう太陽弾を消滅させる。

 そして、己の命を削ってしまえば、フィードバックは瞬く間にナハト自身へと跳ね返る。

 

「うっ、ぐはッ……!」

 

 バギン。顔を二つに割るように、大きな裂け目がバックリと斜めに開かれた。右目が腐り落ちる様に溶けだして、眼窩から黒い瘴気が漏れ出ていく。どす黒い粘液が顎を伝って零れ落ちると、雪を真っ黒に染め上げた。

 地に手を着き、肩で息をしながら上空を見上げる。遥か彼方のスカーレット卿は月輪すら霞む火球を招来し、最後のトドメを宿敵に下さんと大きく振りかぶっていた。

 

「やはり助けに行ったな吸血鬼! その唾棄すべき情けこそが貴様の真の弱点だ! 食らうがいい、我が積年の恨み、我が五百年の妄執、我が狂気の最果てをッ! 骨髄まで味わいながら地の底まで果てるがいいッ!!」

 

 執念を爆発させた咆哮が轟き、瞬間、大炎熱球の墜落が始まった。

 それはまさに隕石だった。地上の一切を無に帰す絶対的な破壊の権化だった。

 

 全盛期ならばいざ知らず、今のナハトは遺骸に等しい容態だ。この痛打は致命となってナハトをこの世から葬り去るだろう。

 しかし、ボロボロの吸血鬼の背にはレミリアがいる。ナハトとは違う、母の祝福から生を受け、未来に生きる少女がいる。ナハトのせいで多くの非業を背負うことになった、死んでも詫びきれない義娘がいる。

 

「ぐ……く……く……!」

 

 バタバタと。血液とも腐り落ちた肉ともつかない夥しい液を巻き散らしながら、ナハトは渾身の力を込めて立ち上がった。

 

 既にこの身は生者に足らず。とうにこの足は善道を歩まず。ましてこの命は、世に望まれた生に非ず。故に、ここで朽ちるも道理である。

 だが今はその時ではない。まだ果たさなければならない使命が残っている。まだ守るべき少女が残っている。

 

 ならば、立ち向かえ。

 

 例え髪の毛一つ残さず灰の山に還ろうとも。その命が燃え尽きるまで、少女を邪悪から守り抜け。

 それこそが、異端の吸血鬼に許された最期にして最大の責務(贖罪)である。

 

 細胞一つ一つを魔力に変える。魔方陣を展開し、黒い息吹を一斉放射した。削り節程度に残された魔力と生命、壊れかけの魂全てをエネルギーに組み変えて、迫りくる隕石を亜空に放り込むが如く抉り飛ばす。

 極大プラズマの消滅と共に視界が開く。だが先の空間で視界全体を覆ったものは、北欧の最終戦争を彷彿させる莫大な火柱の雨だった。

 炎の中央で鮮紅の大悪魔が絶叫する。瞼を限界にまで見開いて、血走った(まなこ)を剥き出しながら。

 

「おおおおおおおゥああああああああああああああァァ――――ッッ!! 余力は残さん! ここで貴様に黎明の鉄槌をくれてやるッ! 最後の最後に勝つのはこのスカーレットだッ!! 消えろ暗澹よ、明けよ(ナハト)よ!! 存在の欠片までブッ潰されろォォォォ――――――――ッッ!!」

「ぐ、うう、お、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッ!!」

 

 魂の咆哮が爆発した。最後の最後に残された消滅魔導の残滓を纏い、ボロボロの魔剣を顕現させて片腕を振るう。せめてこの少女だけは守り通さんと、迫りくる火柱を悉く斬り払う。

 剣を薙ぐたびに肉は剝がれ、コールタールのような血が噴き出し、裂け目が体を這いずり回る。欠けた体からは土砂崩れの様に中身が漏れ、足元の雪を墨化粧の様に塗り潰していく。

 

 戦いは刹那の間に起こり、しかし過ぎ去る微かな時が、まるで永劫のようにすら感じられた。

 けれど終わりはいつかやってくるもの。それはこの激闘も例外に非ず。

 度重なる核融合操作の使用でオーバーヒートを起こしたのか。はたまた追撃は必要なしと判断したのか。スカーレット卿から無尽蔵に注ぐ、絶滅の掃射が降り止んだ。

 

 雪は溶け、土は抉れ、木々は吹き飛び、凄惨たる有様と化した湖の畔。辺り一面を一緒くたに溶融されておきながら、しかしナハトの背後には、ただの一つの傷も無い、真っ新な大地に寝転ぶレミリアの姿があった。

 安堵が、喘鳴と共に零れ落ちる。

 

 

 パキン、と。ナニカが砕ける音がした。

 パキ、パキ、パキ。音の波は広がり、大きさを増し、同時にメシメシと繊維質なものが折れ曲がっていくような鳴動が、鼓膜へ針を突き刺すように響き渡る。

 

 ――ナハトの足が、真っ二つに折れた音だった。

 

 灰に染まり、何千年も野晒しにされた石像の様に枯れ果てた吸血鬼は。

 ゆっくりと、焼けた大地へ崩れ落ちた。



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43.「Agape」

「は、はは、ははは」

 

 ――高笑いが聞こえる。

 

「ふふふふふふふふ、ははははははははははっ、あっはっはっはっはっは!! やったやったやった、遂にやったぞ! あのナハトを、あの怪物を! この手で倒した! 倒したんだ!! あッッはははははははッ!! ざまぁみろ、ざまぁみろ! 乗り越えてやったぞ化け物め!! ははっ、これで私は自由なんだ、これでッ! ようやくッ!! 私は魂の安寧を手に入れられたんだ! ひひひひひひひははははははァーッははははははははははははははははは!」

 

 

 耳を劈く絶叫にも等しい嬌声に頭を揺さぶられながら、私はぼうっとした意識の中から目を覚ました。

 どうやら気を失っていたらしい。奴がまだ凱歌を叫んでいるから、ものの数秒程度なのだろうが。

 けれど、あの一瞬、奴の切り札で体を吹き飛ばされてから、記憶がノイズに邪魔されて曖昧だ。

 

「レミ、リ」

 

 そうだ。レミリアはどこに?

 駄目押しの太陽光線を庇った後、レミリアはどこへ行ったのだ?

 人形にでもなったように動かない体を無理矢理働かせ、なんとか首を動かして周囲を見渡す。

 レミリアは右隣にいた。まだあの男の睡眠魔法が解けていないのか、固い地面なのにまるで幼子のように眠っている。

 服装は煤だらけだが傷はどこにも見当たらない。ちゃんと守れていた様で、一先ず安心と言ったところ――――

 

「……、ああ」

 

 起き上がろうと思ったら、どうしようもなく体が動かなくて。少しだけ持ち上がった上体は情けなく突っ伏してしまった。せいぜい腕を伸ばす程度しか、もはや私に自由は無いらしい。

 と言うより、()()()()()()()と表現した方が正しいか。

 胸から下はもう存在しない。左肩から先も消えた。辛うじて残っている部分は腐乱死体の様に滅茶苦茶だ。

 奴の作った『反魔力』は天晴と賞賛する他ない。アレは見事なまでに私の体と存在の()を根こそぎ削り落とし、一気に立場を逆転してみせたのだ。かつて萃香との戦いで迎えた崩壊よりも著しいダメージを刻み込まれたと言えば、その凄まじさがよく分かるだろう。

 

 もう保たないとはっきり意識した瞬間、今まで経験した事のない、冷たくも清々しさすら突き抜けてくる不思議な感覚が、ふわりと私を包み込んだ。

 体は無いのに頭が冴える。神経はズタズタな癖に感覚が鋭敏になる。集中力が異様に高まって、私はかつて無いほどの冷静さを手に入れた。

 

 ここまでか。自然と私はそう悟った。

 ここが終点なのだ。そう認めざるを得なかった。

 

 己の死と向き合い覚悟を決めた時の老人は、きっとこんな心境を抱くのだろう。

 不思議なものだ。私の歩める未来は無いと確固たる自信をもって言えるのに、恐怖の欠片も見当たらない。どころか妙な満足感や安心感まで芽生えてくる。まったくもって不思議な感覚だ。

 これが、終わりを迎えるということか。今まで人々から終わりの具現と恐れられた私が終末へ辿り着くとは、予期していたとはいえ、なんだか皮肉にすら思えてくる。

 

「――」

 

 レミリアを見る。私の招いた不幸で、抱える必要のない重荷を背負わせてしまった少女の顔を。

 絶体絶命な状況なのに、眠りの魔法によって穏やかな寝息を立てる姿は、どこか和やかな気分にさせられる。

 そして改めて確信を得る。私はもはやレミリアの――いいや、ここから先の未来に不要な存在であることを。

 

 元々、私はイレギュラーだったのだ。紫や永琳が解き明かしてくれた私の正体は、『世界に不必要な存在』という、どうしようもない結論だった。当然だ。だって私は本来ならば自我を持つ事すら許されない、排斥されるべきバグだったのだから。こうして生きられたことが奇跡のような異物だったのだから。

 故に私は害悪を振り撒き続けた。沢山の不幸を生み出した。余分で不要な害悪だから、マイナスの波紋を起こし続けた。

 ああそうだとも。スカーレット卿の言う通り、私は諸悪の根源だ。多くの涙と悪を産み落とした、樽から取り除かれるべき腐ったリンゴの一つなのだ。

 

 これ以上、私に生きる意味などあるだろうか。例え奇跡が起こって私がスカーレット卿を倒しても、また第二、第三の卿が姿を現す事だろう。私はただ立っているだけで世界に歪を生み、負の災禍を引き起こす天災なのだ。生きている限り、周りの不幸は決して拭い去れることなど無い。

 

 ならばせめて潔く。生き汚さをかなぐり捨てて、ここで幕引きとさせてもらおうか。

 もう十分だ。私は十二分にも長く生きた。生き過ぎてしまったのだ。

 

「レミ、リア」

 

 手を握る。力を籠めれば壊れてしまいそうなほどに儚い、白くて小さな手を、包むように握り締める。

 思えば義娘だなんだと言っておきながら、一度も手をとった事すらなかった。もっとも、向こうからは願い下げかもしれないけれど。

 

 とにかく、これで()()は繋がった。あとは最後の仕上げのみだ。

 スカーレット卿を放っておくわけにはいかない。止めてやれなかったのは悔やまれるが、もう私自身に出来ることは何もない。だから、今の私に僅かながら許された、出来うることを成し遂げよう。

 私に残された最後の力。ほんの一握ばかりの魔力と知恵を、生きるべき彼女へ託すのだ。

 

「――――――――」

 

 魔力の接続を再確認。搾り粕程度に残された力の残滓を、回路を通じてレミリアの中核へ運び込む。

 血が流れ出ていくような感覚。繋がれた手から淡く光る流動体が受け渡され、その後を追うように、私の肉体は加速的な崩壊を迎え始めていく。

 同時に記憶が鮮明な輝きを帯びていく。時の流れが段々と緩み、スローモーションの世界が訪れてくる。

 今まで歩んできた我が生の道筋が、瞼の裏で、泡の様に浮かんでは消えていく。

 

 独りで地を踏みしめ続けた日々。人々から罵声と石を、殺意と槍を、恐怖と銀を投げられた日常。

 自問自答と自己研磨、友を求めて彷徨う事を繰り返すだけの空虚な毎日。

 冷たい記憶は、氷の泡となって私を冷やす。

 

 その果てに出会い、私を招いてくれた紅魔館の一族たち。私を神格化する者、恐れる者と色々居たが、これが集団に加わる事なのかと束の間の安息があった。

 スカーレット姉妹の生誕。スカーレット夫妻の死。姉妹の成長。そして私の新たな旅立ち――こんな事もあったなと、柄にもなく懐かしむ。

 

 やがて辿り着く幻想郷。

 意識があった時に限れば、実に一年にも満たない僅かな記憶が流れてくる。

 

 紅魔館での再開。そして起こった一悶着。私の運命が決まったとも言える、会合の一夜が濃密に映る。皮肉な事だが、レミリアとフランドールの深い溝を埋め、誰にも断ち切れない絆へと育んだのは、マッチポンプとは言えスカーレット卿だったのかもしれない。

 

 次にやってきた思い出は、後に私にとってかけがえのない理解者となる紫との出会い。そして迎えた、初めての異変だった。

 終わらぬ夜に暁を求めて幻想郷を奔走し、果てに輝夜と言う唯一無二の友を得たヴィジョンが、目まぐるしく脳裏を駆け巡る。

 

 妖怪の山へ招かれて、初めて参加した祭囃子の渦の中。静かな晴夜に似合わない狂瀾怒濤の大演武は、今でも色鮮やかに思い出せる。あの夜、私は喧嘩友達と言うものを得たのだろう。彼女が私をどう思っているかは知らないけれど、うむ、私はそうだと信じたい。

 

 四年を経て目を覚まし、必死に書物を漁った日々。スカーレット卿の浸蝕が兆しとなって表れた怪事件に巻き込まれ、力ある人間たちから追い回されたハプニングも、今となっては私らしい笑い話と言えるだろう。

 

 地底へ潜入し、犯人捜しを続けた数週間。激動でありながら、地底に根付いた悪意の華(ロベリア)の正体を知った時ほど、驚愕に身を包まれた瞬間は無かったな。

 

 

 ……これはきっと、走馬灯という奴なのだろう。もっと恐ろしいものかと思っていたら、なんだ、存外悪くないじゃないか。

 本当に……本当に。色んな事があった。たった数年程度の、いいや、私が目覚めている限りならほんの半年程度の短い間だったけれど、間違いなく、私の永過ぎる生の中で最も光り輝いていた瞬間だった。

 永遠の生なんていらなかった。私はただ、この輝かしい須臾が欲しかっただけなのだ。

 

 外の世界の非常識が幻想郷(こちら)にとっての常識になるのだったか。なるほど、私と言う非常識が常識としての補正を掛けられたが故に、外と比べて皆の対応が柔和だったのかもしれない。

 幻想郷はやはり、私にとっても楽園だった。情けない事だが、私は最後の最後になって、その事実を沁み入るように噛み締められたと思う。

 

 けれど、このまま消えるのが惜しくないかと聞かれれば、迷わず惜しいと答えよう。そうだとも。ああ惜しいとも。最後の最後にたくさんの友を得たのに、やっと勘違いが解けたのに、それなのに、茶会の一つも叶わなかった。挙句の果てにはまたしても輝夜を裏切ってしまったのだ。悔い無く逝ける訳が無いだろう。

 

 まだ見ぬ幻想郷の春を共に見たかった。壮観な桜並木の下で酒を盛り、花吹雪と共に和やかな時を友人と過ごしてみたかった。未だ足を踏み入れていない未開の地に赴いてみたかった。そこで新たな一会を発見してみたかった。紅魔館の行く末も見ていたかった。

 思い残した事なんて、山の様に溢れている。

 

 けれど、良い。これで良いのだ。私は孤独じゃ無くなった。独りの闇は今や追憶の欠片となって消えたのだ。

 それだけで十分だ。十分すぎるのだ。

 たとえ誰も看取る者がいなくとも。独りぼっちの最期でも。こんなのは決して幸せなんかじゃないと糾弾されたとしても。

 私は、とても恵まれた死を迎える事が出来るのだから。

 

「――ああ」

 

 でも、私は友達が出来なくて当然だったのかもしれない。 

 だって、この期に及んで考えるのは自分の事だけ。約束を反故にしてしまった輝夜の事も、最大限に尽くしてくれた紫や永琳の事も、こんな私の為に協力してくれた友たちの事も、家族と謳った紅魔館の事もそっちのけで、私は、ケジメなんて自己満足と共に死ぬのだから。

 

 魔性なんて言い訳でしかない。結局は自分の性格、性分こそが最大の障壁だった。こんな身勝手な吸血鬼なぞ、孤独でいて当然だ。

 それなのに皆は私を受け入れようとしてくれた。遠い遠い、果ての見えない廻り道ではあったけれど、彼女たちは私を理解してくれた。怪物を理解するのは並の苦労ではなかったろうに、真摯に異物と向き合ってくれた。

 本当に、なんて素晴らしい者たちと出会えたのだろうかと、心から誇りに思えるよ。

 

「時間、だな」

 

 掠れた声が耳に入る。なんてしわくちゃでガラガラな、錆びきったブリキの様に醜い声だろうか。

 暗黒が視界の端から侵食を始めた。肉体が灰となって崩れていく感覚が妙に鮮明で、強い睡魔が襲ってくる。

 

 まもなく終わる。私と言う存在がゼロになっていく。世界からイレギュラーが消滅し、あるべき姿へと修復されていく。

 

 瞼を閉じたら、きっと瞳を開く事は叶わない。これで終わりなのだと確信がある。『ナハト』という存在は、何処でもない所へ行って無となり消えるのだろう。だって私はバグなのだから。エラーには天国も地獄も存在しないのだから。余分な腫瘍が取り除かれ、世界があるべき形へと戻るだけなのだから。

 それでも私は重い瞼へ必死に抗い続けた。最後の最後まで、この世界を焼き付けたまま死にたかった。

 

 ――嗚呼。本当に、本当に。

 ――残された一分一秒が、こんなにも愛おしいなんて。

 

 そうだ、折角だから最後に何か言っておこう。誰かの耳に残るわけでも無いけれど、気持ちだけでも置き土産として残していこう。誰の記憶にも留まらない、哀れな男の残滓をここに刻もう。

 そして恥も外聞もなく、我が生を自己満足の中で誇って散ろう。墓標の無い我が死へ敬礼を送ろう。誰が何と言おうとも、私は素晴らしい生を生き抜いたのだと、陶酔に浸って笑いながら無間に還ろう。

 

 だからどうか、私を支えてくれた親愛なる者たちよ。

 こんな、人に不幸を撒いておきながら最期まで手前の事しか考えない自分勝手な吸血鬼など、綺麗さっぱり忘れておくれ。

  

「……ありがとう。お別れだ」

 

 辞世の句は簡潔に。長い口上など必要ない。

 私の気持ちは、これで十二分に残された。

 

 

 

 けれどもし、最期の望みが叶うなら。

 誰でもいい。聞いて欲しい。このちっぽけな吸血鬼の戯言に、少しでいいから耳を傾けて欲しい。

 

 ここから蘇る奇跡は要らない。ましてや幸福な来世なんて贅沢も言わない。

 ただ、これだけでいい。これだけで良いから、見知らぬ人よ。この願いを叶えておくれ。

 どうか。どうか。

 

 

 

 

 

 

 ――――どうか私のいない正しい世界に、精一杯の幸あれ。



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44.「放て神槍、紅の呪いを打ち砕け」

 絶大な力を持つが故に疎まれた、ある一人の吸血鬼がいた。

 見るもの全てに恐怖を植え付ける性質を抱えながら、誰より深い博愛に溢れた主がいた。

 心の渇きを満たすために友を求めながら、拒絶されずには生きられなかった男がいた。

 無償の善を施しながら、報われる事すら許されない悲しい性の人がいた。

 この世の誰よりも畏怖を受けながら、たった一つの情を求めた、偉大な夜の父がいた。

 

「……」

 

 夢を見ていたような気がする。

 大切な人が、堕ちた線香花火の様に灰へと還ってしまう夢。『もう二度と会えない』なんて気持ちが胸を貫き、溢れる悲哀で心臓を締め付けられた青い夢。

 夢であってほしかった。切に、切に。幻の泡であってほしかった。

 けれど現実は無情かな。きっと、これは夢なんかじゃなかったのだろう。

 瞼を開いて最初に目にした灰を見つめながら、レミリアは自分でも驚くほど冷静に、その事実をしっかりと受け止めた。

 

「…………」

 

 言葉は無い。

 言葉が出ない。

 言葉にするべきではないと、レミリアは込み上がるものを呑み込んだ。

 

 手を着き、体を押し上げる。雪の上で寝転がっていたせいか、服はドロドロで仄かに土臭い。これは洗濯が大変そうだと、場違いな感想を浮かべてしまうほどだった。

 灰を見る。小さな我が身よりも大きくて、広く積もった粉塵の山を。

 この灰は、レミリアにとって正しく力の象徴だった。あらゆる不条理、あらゆる理不尽をものともせず、幻想郷の頂点とも渡り合った絶対強者の証。力を是とする妖怪にとって、彼ほど羨望と恐怖を掻き集めたヒトは居なかっただろう。

 そのヒトは今、息を吹けば雪に混ざって消えてしまいそうな、儚い存在へと成り果てた。

 

 金属を引き千切るような高笑いが絶えず聞こえる。強烈な耳鳴りよりも鬱陶しいのに、凱歌のような猛々しさを感じる笑い声が。

 見上げれば、狂った絶叫を轟かせる元吸血鬼の姿があった。

 悟る。彼はあの男に敗れたのだと。四年前の夜とは真逆に、彼は絶対悪の前に倒れ伏したのだと。

 

「おじ様」

 

 気付けば、レミリアは灰を掴んでいた。

 さらさらと、余った粉が指の間から零れ落ちる。

 それでもレミリアは、か細い五指をキュッと握り締めて、精一杯の灰塵を手に収める。

 

「私に、力を」

 

 祈る。己に(まじな)いを掛けるように、一握ばかりの灰を吸い込んだ。

 吸血鬼の灰を吸い込んだ人間は絶大な力を手に入れるという伝説がある。かつて妹がスカーレット卿に取り憑かれていた頃、館へ帰ってきたナハトが『ナハトの遺灰を吸い込み力を得た人間』だと吹き込まれていたように。

 

 もし、その戯言が誠ならば。彼の力を得られるならば。 

 いいや、まやかしでも良い。ただ切に、彼の強さを分けて貰えるのなら。

 酷く脆く、しかして強く。信仰深き崇拝者のように、レミリアは祈りを捧げよう。

 

 ――おじ様。どうか私にお与えください。

 邪悪へ立ち向かう勇気を。妹たちを守り抜く力を。

 どうか、この手に。

 

「…………」

 

 漲りは無い。包まれるような加護の授かりも無い。けれどそれで十分だった。

 今のレミリアは最強の吸血鬼に支えられているんだと、心で感じられたから。

 

 毅然と立ち上がり、彼方を見る。鈍った体を呼び覚ますため、レミリアは魔力を血管中へと奔らせた。

 ふと。いつもは紅い魔力の流れに、黒い奔流がある事に気付く。

 深淵の如く深い闇。痺れるような暗黒の拍動。けれど欠片も不快では無かった。まるで静かな夜の優しさが魔力となって、レミリアの中を流れているようにも感じられた。

 同時に、頭の中にレミリアの知らない知識があった。成すべきことを成すために必要な知恵の果実が、レミリアの中にそっと供えられていたのである。

 

 ――ああ。これが彼の残した、最期の贈り物なのか。

 

 清水の様な現実が、つむじから爪先まで流れ落ちて。雪解け水のように大地へ吸い込まれていく。

 今になって、ぎゅっと胸が締め付けられた。内側から張り裂けそうなほどじくじくとした痛みが、水面(みなも)の波紋の様に広がっていく。

 湧き上がってくる焼けたモノを留めようと、胸に手を当て強く押し込む。それでも煮えるように目頭が熱い。気を抜けばたちまち溢れて吹き零れそうだ。

 

 けれどそれにはまだ早い。レミリア・スカーレットが肩書を捨て、センチメンタルな少女と化すには早すぎる。

 まだ、終わらさせなければならない宿題が残っているのだから。

 

 レミリアは精一杯の空気を吸い込み、大きく胸を膨らませた。

 

「スカァァァァァァァレットォォォォォォォ―――――――ッ!!」

 

 咆哮炸裂。森は揺れ、湖面は震え、土くれは弾け飛んで砕けて消える。

 音の衝撃は遥か上のスカーレット卿へ易々到達すると、意識の焦点を瞬く間に引き寄せた。

 さもつまらなさそうに、蟻を見る様な眼をスカーレット卿は眼下へ向ける。

 

「なんだ小娘。今良い所なんだ。余韻の邪魔をするな、無粋であるぞ」

 

 聞く耳はもたない。

 持つつもりも、無い。

 

「スカーレット。最後に私と勝負をしろ」

「……ほう?」

 

 二つの紅が交錯する。巨大な魔力の塊同士は、容易く周囲を異界へ変えた。

 レミリアは指を突きつける。正真正銘、最後の決着を着けるために。

 小細工なんて何も要らない。ただ力をぶつける機会があればそれでいい。レミリアの想い、紅魔館の想い、そして散った義父への弔いを全て乗せた必殺を、あの邪悪に放たなければ気が済まない。

 真剣勝負。レミリア・スカーレットが望んだ最後の戦いは、たった一撃同士の決闘だった。

 

「四年前、お前は私にこう言ったな。お得意の魔力弾で心臓を破壊してみせろって」

「あー……ああ、うん。確かに言った。それがなんだ?」

「今、それを実現してみせましょう」

 

 溢れる魔力の収束が起こった。凍てつく陽炎が渦を巻き、展開されていた紅の霧がレミリアの躰へ猛スピードで逆流していく。

 凝縮された魔力は半物質化し、右掌へ顕現した。鉱石の様な滑らかさと雷の如き荒々しさを併せ持った、黒と紅の結晶体。抜きたての心臓の様に力を拍動させるそれは、ナハトとレミリアの魔力が融合した魔力物質に他ならなかった。

 

 幾度も幾度もその身に味わった、純黒の魔力を目にして卿の表情が一気に歪む。

 口元が引き裂かれ、三日月状の笑みが貼り付けられていく。

 歓喜とも、憎悪ともつかない感情が、決壊したダムの様に噴出する。

 

「そうか――そうかそうかそうか! なるほど、あの怪物め! 残された最後の力を貴様に託したんだな!? なんという……ははははっ、そうかそうかぁ! いやぁ、ナハトを滅ぼした今となっては最早貴様らなどどうでもいいと思っていたが、よし! その挑戦受けてたとう! 奴が残した最後の遺産を、残り火の一片までも、我が日輪の焔で焼却してくれようではないか!」

 

 絶叫に呼応し、邪悪な太陽が膨れ上がる。炎熱が迸り、真冬の寒冷は彼方へと消えた。

 全ての空気がスカーレット卿へと流れていく。天上へ向けられた人差し指に小さな火球が生じると、それは瞬く間に空を潰しえるほどのエネルギー塊へと変貌した。もし大地へこれが直撃したならば、霧の湖はあっという間に蒸発し、湖底すら軽々と消し飛ばしてしまうだろう。

 

 だがレミリアは臆さない。天敵の力を前にしても屈さない。

 瞳には揺るぎない覚悟があった。折れる事の無い決意があった。

 

 それを察して、スカーレット卿は鼻で嗤う。

 

「ああ、だがレミリアよ悲しいかな。実に、実に、実に悲劇的かな! 貴様と私では端から勝負になっておらん! ナハトをも滅ぼした我が力が、たかだか矮小な吸血鬼の小娘如きに敗れ去るわけ無かろうが! それは貴様も承知のはず! だがそうであっても、なお私に勝負を挑むというのか!?」

「望むところよ……一切合切ぶち抜いてやる!」

「パーフェクト、その意気込みを賞賛しよう! ならばせめてもの手向けだ、渾身の一撃をもって貴様を冥土へ葬ってやろうぞ!」

 

 太陽が一気に収縮していく。おおよそソフトボール程度へと収まったそれは、しかし光を際限なく増加させ、眼にするだけでも吸血鬼を灰にさせそうな莫大な輝きを放ち始めた。パチュリー・ノーレッジの加護が無ければ、この波濤でレミリアは灰塵と化していたかもしれない。

 

 紅魔館現当主もまた応じる。パチュリーから予備にと受け取った対日光マジックアイテムへ魔力を回しながら、左腕を照準装置の如く前へと突き出し、定める。 

 対の右腕を弦の様に思い切り引いて、鮮紅と純黒の魔力塊を高速循環させる。魔力の回転は圧倒的な瘴気とエネルギーを生み出すと、黒煙纏う赤雷を放ち始めた。

 

 次の一手で全てが終わる。

 両者ともに、その認識は覆らない。

 

「■■■■■■■―――――ッッ!!」

 

 神話に名を刻む怪物すらも超越した雄叫びが、天地を砕き割らんばかりに轟き奔る。

 悪魔の放ったバウンドボイスは、二人の撃鉄を引き絞った。

 

 足元がレミリアから放たれるあまりの魔力圧にひび割れ凹んだ。だがレミリアの体は砲台の如く固定され、一ミリたりとも狙いを逸らす事は無い。

 

 スカーレット卿もまた同様だ。空気を、空間を、時空をも歪ませる圧倒的な熱量を纏いながら、たった一人の小さな吸血鬼を滅ぼす為だけに、全神経を集中させている。

 

 僅か一呼吸ばかりの、砂粒のような時間が生まれた。

 

 小さな小さな一幕が、まるで永久(とこしえ)の夜のよう。

 だがしかし。時とは残酷に、無慈悲に、無情にも刻まれゆくもの。

 時の歯車は音を立てて針を動かし、訪れるべき一瞬へと世界を進める。

 運命は着実に、足音と共に忍び寄る。

 

 

 一片の淡雪が、陽炎のように溶け消えた。

 

 

 ――――訣別の(とき)、来たれり。

 

 

「辞世の句を詠め! 今生の終わりに咽び泣け! 己が宿命を受け入れるがいい、これより先は蹂躙である!!」

「スピア・ザ・――――――――!!」

「我が業の前に、塵芥へと滅び果てよッ!! レミリア・スカーレットォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――――――――ッッ!!」

「――――グンッッグニルッッッ!!」

 

 

 打ち上げられた魔力塊は容易く音の世界を越え、細く、鋭く、しかして熾烈な力を帯び、極限の破壊を体得する。

 解き放たれた日輪の大炎熱は荒れ狂い、のたうち、世界を焼き尽くす大蛇となって真っ逆さまに地上を目指す。

 

 刹那。悪逆を穿ち貫く紅蓮の神槍が喚呼を上げた。

 転瞬。楽園を吹き飛ばす劫火の柱が唸りを上げた。

 

 天蓋貫く究極の一撃が、地上を地獄へ変える暴虐の破壊と激突する。

 重なる衝撃。力の喰らい合い。世界を断たんばかりの猛光が怒涛の如く弾けて混ざる。

 千紫万紅の圧倒的な全景が、冬の星空を(ことごと)く覆いつくしていく。

 

 今ここに、神話大戦は蘇った。

 

「馬鹿め! 貴様がこのスカーレットに敵うとでも本気で思ったか!? 私は闇夜の支配者を超越したのだッ!! ならば貴様ら凡百のヴァンパイアに敗北する道理など、一片たりともあるハズがなかろうがァああああああああああああッッ!!」

「――――――ッゥあ、あ、あああああああああああああああああああああああああッッ!!」

 

 太陽の輝きが増していく。紅黒き魔性の槍が崩れ始めていく。

 

 無情だった。非情だった。

 スカーレット卿の言う通り、どれほどみっともなく足掻こうが、救いの兆しなんてどこにもない。

 死ぬ気で頑張っても、抵抗しても、やっぱり運命の行き付く先は同じなのか。

 心の柱に、不安と焦燥の杭が勢いよく撃ち込まれる。

 亀裂が、蜘蛛の巣の様に走りぬけていく。

 

「……いいえ、いいえ!!」

 

 否定の言葉を放ち、歯を食いしばって立ち上がる。息を吸って心臓に活を入れ、踏ん張るように柱の崩壊を食い止めた。

 言い聞かせる。そんな程度で諦めてたまるものかと。いままで私は一体何を見てきたのかと。

 もっともっと不条理な目に遭い続けた人がいた。心に有刺鉄線を巻かれるような苦痛と理不尽を永劫と共に縛り付けられ、それでも諦めなかった人がいた。

 その背中を、ずっとずっと眺め続けてきたじゃないか。

 

 諦めない。例えどれほど絶望的でも、みっともなくとも。最後の最後まで、生き汚く抗って見せつけよう。

 そうでなきゃ、ナハトへどんな顔を向けられる。

 どんな顔をして、紅魔館を背負っていける!

 

 魔力増幅、重ねて発動。魔力注入量、さらに増加。魔力生成速度、臨界を超越。

 

 限界を捨てろ。命を燃やせ。怒りを、哀しみを、槍先に込めて叩きこめ。

 今のレミリアに敗退の二文字は無い。諦念なんて言葉は頭の辞書から破り捨てた。

 気圧されそうになる足腰に気合と魔力を叩きこむ。迫りくる灼熱の柱から一切眼を逸らさずに、誇り高きスカーレットデビルは猛々しく牙を剥く。

 

「負ける、もんか……!」

「いいや違うね、貴様は虚しくもここで負けるのだ! 路上で踏み潰されるチンケな蟻どもの様にッ! 朽ちて消え去る運命なのだ!」

「負けない! あんただけは、あんたにだけはッ!! 絶対に負けるもんかぁッ!!」

 

 槍へ魔力を注ぐ腕から赤い煙が吹き上がった。魔力の霧ではない。無茶な魔力供給が肉体に多大な負荷をかけ、血管を突き破ったのだ。破裂を続ける水道管の様に、浮き上がった黒い血管から際限なく赤が噴出する。鉄臭い噴霧が顔に掛かり、白い肌は瞬く間に染め上げられていく。

 その姿は、まさしく二つ名が示すような。

 

「うぎ、ぎ……!!」

 

 激痛と共に爪が砕け、指先の肉がザクロの様に弾けて裂けた。

 右肘から先がガクガクと痙攣を起こし、浮き出る血管は締め上げられたポンプのよう。気を抜けば最後、腕が吹き飛ばんばかりの圧が全方位から襲い掛かる。

 支えるように左手で腕を掴み取った。しかし魔力の流れは決して緩めず、迫り来る陽の柱を打ち破らんと全身全霊をかけて迎え撃つ。

 

「貫け――――貫けえええええええええええええええええッッ!!」

 

 

 ――咆哮が、一つの奇跡を呼び起こしたのかもしれない。

 

 槍の内側から黒が瞬く。新たな心臓が芽生える様に力を脈打ち、鮮紅の牙がぞぶぞぶと、純黒の魔へ染まってゆく。

 吸血鬼ナハトのものと同じ、この世にあってこの世ならざる、消滅の魔力の波紋だった。

 

「!? その、槍は……!?」

 

 驚愕が天空から木霊する。響き渡る驚天動地は一つの答えをもたらした。

 それはナハトが残した最後の残滓。それは闇夜の支配者が託した最期の贈り物。

 万物を消滅せしうる偽典の消滅魔導が今、スピア・ザ・グングニルとして蘇ったのだ。

 

()()()()()()()()()() ナハトめ、魔力のみならず叡智までも授け、最後の最後まで牙を剥き抗うというのかッ! ――良いだろう、良いだろう! その力を纏うならばレミリア、貴様はナハトだ! ならば殺さねばならぬ! この手で焼き滅ぼさねばならぬ!!」

 

 形成は一気に逆転を迎える。消滅魔導のエネルギーが光線を削り飛ばし、火柱を真っ二つに引き裂く様に突貫した。最早スカーレット卿の核融合操作による熱波だけでは止められない。いまやレミリアの神槍は、五行を呑み込むブラックホールと化したのだから。

 

 だがしかし。絶対不可避であるはずの必殺を、卿は間一髪で食い止めた。

 

 制御棒を指でなぞって前へ突き出す。豪速で迫る槍へ触れた瞬間、濁流の様な白の波が襲い掛かり、まるで肉から皮を引き剥がすように槍から絶対の黒を奪い取ったのである。

 反魔力。対ナハト用に造り出した切り札を、スカーレットは胸の本だけでなく制御棒にも仕込んでいたのだ。それも任意で発動できるよう細工まで施して。

 悪魔が、吼える。

 

「無駄だァああああ――――ッ!! いくらナハトの力を取り込んだとて、相性の絶対性が覆ることは決してない! 足掻こうが喚こうが、貴様(ナハト)の迎える運命に狂いは無いのだ! よって死ぬがよい、闇夜の遺児にして我が娘!! 敗北の骸へと成り果てろォおおおおおお――――――ッ!!」

 

 槍が弾き飛ばされる。グルグルと旋回し、竹トンボの様に宙を舞う。

 光球がスカーレットの手元に顕現した。槍が再び襲い来る前に焼き滅ぼさんと渾身の輝きが明滅し、圧倒的な大炎熱が姿を現す。

 

 ――その時だった。とどめの光が撃ち放たれる直前、前触れもなく転機が訪れたのである。

 

 絶望を前にしても砕けなかった不屈の執念が、幻想を守る龍神の元へと届いたのか。

 それとも、レミリアの運命操作(のうりょく)が働いたのか。

 真相は、彼女自身にも分からない。

 ただ一つだけ、確かに言える事があるとすれば。

 

 運命は、レミリア・スカーレットへ微笑んだ。

 

 

「きゅっ!!」

 

 

 

 幼気ながらも気高い声が、甲高く、割り込むように響き渡ったその瞬間。

 右腕の制御棒が、音を立てて弾け飛んだ。

 散りゆく火の粉が卿の瞳に反射する。焼け焦げた香りと共にきらきらと、戦場に似つかわしくない絶景を演出する。

 霊烏路空の細腕が露わになる。同時に、力の中核がぐらりと揺らぐのを実感した。

 

「あ……?」

 

 茫然自失。理解不能。

 下瞼が痙攣し、瞳孔が限界まで見開かれた。突然開け、中心を槍が据えるのみとなった視界を前に、思考回路が弾け飛ぶ。

 

「なにが――」

 

 だがすぐに、コンマ一秒も経たぬ間に。卿は未曽有の答えを知る事となる。

 遠くない虚空に映る、子供程度の影が二つ。

 そのどちらも、スカーレット卿の見知った顔で。

 

 片や、無意識を操る覚だった少女。

 片や、万物を破壊せしうる己の次女。

 

 焼き切れていた回路が繋がる。パズルを嵌めていくように、何が起こったのかを理解する。

 あの時、レミリアの槍と食い合い、確実に押していたあの瞬間。スカーレット卿には決して認識する事の出来ない無意識の狭間から、防御不能の一手を加えられたのだと。

 かつて卿がナハト用の切り札としても採用した、存在するなら神であっても破壊せしめる必殺の一撃で。

 

 ――――全身の血液が、マグマの如く沸騰した。

 

「フラァァンドォォォォォォォォォォルゥゥゥゥゥゥゥゥッッ!!」

「……おじさん。本当に、本当にごめんなさい」

 

 破壊を宿す次女ではなく、瞳を閉ざした少女が言った。

 それは己を騙したことに対する責めの言葉ではなく、まるでスカーレット卿を止められなかったことを、そして彼の姦計に容易く絆されてしまった自分自身を責めるかのような、蒼い心情の吐露だった。

 

「でもやっぱりこんなの間違ってた。私も、あなたも、最初から全部間違ってた。ねぇおじさん、もう終わりにしましょう? お願いだからこれ以上皆を傷つけないで! 私と一緒に、ごめんなさいって謝ろうよ! 犯した罪を償っていこう!? 今ならきっと、きっと()()()()()()()()()()()!」

「――――」

 

 どこまでも、どこまでも。呆れかえるほどに優しい少女の言葉。

 騙され、利用され、傷付けられ、死の狭間にまで追いやられたというのに、それでも差し出されるのは和解の握手。

 

 ……偽者の友情であっても、こいしにとってスカーレット卿は親友だった。無我の暗闇に光を与えてくれた恩人だった。

 だから見捨てようとしないのだ。真正の邪悪だと理解していても、もしかしたら悔い改めてくれるかもしれないと、一縷の望みに賭けるのだ。

 

 フランドールもまた同じ。今だって、やろうと思えばスカーレット卿の魂のみを破壊できた筈だろう。

 けれどそれをしなかった。慢心したわけでも、臆病だったわけでもない。例え埃より小さな可能性だとしても、実の父が改心するかもしれない最後の希望を、()として捨てなかったからなのだ。

 

 虫酸が走る。邪悪は粘ついた唾と共に一蹴した。

 

 須臾の間に魔力を注がれ、復活した槍が豪速で迫り来る。触れれば最後、スカーレット卿の魂のみを抉り取る終末の化身が。

 間髪入れずに卿は能力を発動した。太陽の炎でフランドールとこいしを薙ぎ払い牽制しながら、安定性を失い、日輪の力を帯びただけのバリアを眼前に向けて多重展開する。

 それは槍を寸前で食い止め、バチバチと壮絶な火花を撒き散らした。

 

「何を言うかと思えばァ……とことん綺麗事かこの甘ったれがァーッ!! 陳腐な道徳や善悪なぞ笑止千万! このスカーレットが、そんなミミズの糞よりも粗末な美辞麗句如きで覇道を退くとでも、ほんのちょっぴりでも期待したか!? いい加減現実を見ろよなぁッ!!」

「……おじ、さん……っ!」

 

 ガラスが弾ける音がした。何重にもスカーレット卿を守る太陽の盾が、槍の力に打ち破られつつあったのだ。

 卿の魂は吸血鬼である。そんな彼が太陽の力、即ち八咫烏の権能を操るのは並大抵の所業ではない。安心を与える力をフル稼働させ、霊烏路空の精神を常に安定させたうえで、空を介して八咫烏の分霊を誤魔化し、初めて力を抽出できるのだ。

 その複雑極まりない操作の負担を少しでも減らすために必要なのが制御棒だった。これを失った今、スカーレット卿はいわば大黒柱を折られた掘立小屋に等しい状況にある。

 

 覆る事の無い絶対的な相性が今、食い破られようとしていた。

 

「ぐぎっ、ぎぎぎぎぎィいいいァァガアアアアアアアアアアアアア――――ッ!! 舐めるな、舐めるなよ童ども!! この私が……このスカーレットがッ! ナハト以外の吸血鬼に敗れるものか! 敗れてたまるものか!! ましてや貴様らのような木っ端風情にぃ、負ああァけるかァあああ―――――!!」

 

 一つ。二つ。三つ四つ五つ。日輪の防護壁が音を立てて弾け飛ぶ。だがそれ以上の盾を展開し、スカーレット卿は生き汚く応戦を繰り返す。

 十の盾を越えたあたりから、スカーレット卿の体に青い火柱が吹き上がった。全身を覆い尽くし、メラメラと揺れるそれは、しかし霊烏路空の肉を焼く猛炎ではない。制御を失い、無謀な力を使った結果、スカーレット卿の魂が反動で燃え尽きようとしているのだ。

 

 限界だ。傍目から見ても明確な事実に他ならなかった。

 

 しかし。それは、レミリアの神槍についても同じこと。

 度重なる太陽との拮抗が致命的なダメージをグングニルに与えていた。元々ナハトの叡智や魔力、パチュリーの加護を織り交ぜなければ一瞬で爆砕されていた力量差なのだ。槍にはとっくに亀裂が走り、盾を貫通する度に、削られていく鉛筆の様にサイズが縮小を始めていた。

 

 このままいけば槍が先に終わりを迎える。レミリアも、炎を払いのけているフランドールやこいしも、誰もがそれを危惧し、届かないのかと歯噛みした。

 反比例するように、卿の笑顔は大きく引き裂かれていく。

 

「くはっ、はははっ! ああ、ああ、やはりそうなのだ! 私はいつだって最後の最後で悪運が勝る! 運命が味方をしてくれる! 五百年前も、四年前も、そして今も変わらずに!! この槍さえ凌げば私の勝利だ、貴様ら有象無象の小娘なぞ須臾の間に燃やし尽くしてやるからな! ひぎゃはっ、見ているかナハトよ!? 貴様は完膚なきまでに敗北したのだ! 私の、我が怨念の、勝ち」

「幻世『ザ・ワールド』!」

 

 ――無拍子で訪れたナニカがあった。

 

 愉悦と勝利に酔っていた悪魔の言葉が、断線された通話の様にブツリと途切れて。

 空の体が、巨大な鈍器で殴られたかの如く大きく揺れ動き。

 刹那。まるで肉を切り分ける様な――違う。魂を穿ち貫かれる独特の()()が、スカーレット卿へ襲い掛かった。

 

 下を見る。

 胸元から、見覚えの無い突起物が突き出していた。

 血と闇を混ぜたような、紅黒い槍だ。

 目の前で消えかけていたはずの神槍が、()()()()スカーレット卿を刺し貫いていた。

 

「……あ、え?」

 

 眼振が起こる。魂と脳が現実を処理できず、真っ新な白紙と化していく。

 壊れた機械人形の様に、ギチギチと、スカーレット卿は首を後ろへと振り向かせ。

 紅魔館で寝転がっているはずの、人間の従者と目が合った。

 時を操る瀟洒なメイド。レミリアの誇る自慢の右腕。

 その彼女が、肩で息をしながらこちらを見据えて構えていた。

 

「ば、馬鹿な、きき、き、貴様、とき、と、時を……ッ!?」

 

 しなやかな白い手には金属で出来た筒が握られ、口がこちらを向いている。

 それはかつて、紅美鈴がナハトから貰った、二つの筒同士で物体を移動させる河童の発明品だ。

 

 太陽の盾の直前から、墜落していく一条の影があった。

 語るまでもなく、それは時を止めた咲夜が、壊れかけの槍を吸い込ませた筒の片割れで。

 理解が、稲妻の如く魂魄を駆け巡った。

 

 

「ぎゅがっ」

 

 激痛が、屈辱と共にやってくる。

 悟る。どんなに嫌でも悟ってしまう。

 パチュリー・ノーレッジが皆を日輪から守り抜き。

 フランドール・スカーレットが突破口を切り開いて。

 霧散寸前の槍を、十六夜咲夜が紅美鈴から託された筒で救い出し。

 レミリア・スカーレットの槍が、遂に真性悪魔の霊核を射貫くに至ったのだ。

 

 そして、霊烏路空を一切傷付ける事無くスカーレット卿を破壊するのは。

 魂魄の底から憎悪を向けた、忌々しい男の力で。

 

 全てを認めてしまった瞬間。スカーレット卿の()()は決定した。

 かつて蹂躙の限りを尽くした()()()に、己は敗れ去ったのだと。

 

「あがッ、ごが、ごっ、おァ、おお、おおおおお……!!」

 

 槍から光が溢れ出す。千紫万紅の輝きは留まる事を知らず、肉の体に掠り傷一つ刻むことなく貫通した。

 黒とも灰とも紅ともつかない、極彩色をした人型のナニカが霊烏路空から吐き出される。それは槍に貫かれたまま大空へと縫い止められ、汚濁のような咆哮を轟かせた。

 

「あ、ゥお、のれェ、おのれェええええええええ!! げぶ、やってくれたな、小娘どもがァッッ!! ごっ、うぐご、おおおおああああ、さ、裂ける、私が、(わたし)がぐちゃぐちゃに裂けていく……!? 最強と謳われたこのスカーレットがッ、貴様らのような、ちっぽけな吸血鬼如きにィィいいいいいいいいいいい…………!!」

 

 苦悶の雄叫びを上げる、かつて父だったもの。息を切らしながらそれを見据えるレミリアは、不意に、脳裏を掠める記憶を発見した。 

 かつてレミリアが永夜の前触れに垣間見た、とある予知のフラグメント。水泡の様に浮き上がった小さな小さな記憶の残滓が、眼前の光景へパズルの様にぴったりと重なったのだ。

 

『満月の中に訪れる、津波の如き凄まじい光と二つの大きな力。一面を覆い尽くす業火に、それを呑みこむ暗黒の闇』

 

 初めは、あの時藤原妹紅の炎を掻き消したナハトの暗示かと思っていた。でもそれは勘違いだと気づかされた。この予知はきっと、ナハトとスカーレット卿が再び出会い、矛を交える前兆だったのだ。陽を食らう闇と夜を殺す日輪の輝きがもたらした、二度と目にする事の無い絶景だったのだ。

 

 けれど最後に視えたのは、ナハトの誇る禍々しい十五の魔剣でも、卿の操る絢爛たる八咫烏の怒りでもない。

 天翔ける一条の矢。それが予言の結び目だった。

 しかし、どうやら真相は些か異なっているらしい。レミリアが視たものは矢ではなかったのだ。あの流れ星のような閃光は、亡き王より受け継いだ黒を纏う、レミリアの神槍そのものだったのだ。

 

 悟る。悪魔の命運尽きる時が、ようやく巡ってきたのだと。

 

 少女の視たかつての啓示は過去からの因果、全ての呪いへの終局を指し示した。

 ならばレミリア・スカーレットは己が天命をここに果たそう。今こそ極点へ至る一投をここに成し遂げよう。

 

「……いい加減、お前の絶叫は聞き飽きた」

 

 ズタズタの腕をスカーレット卿に掲げたまま、幼き月は魔弾の槍を装填する。

 たった一つに絞られた照準は、今度こそ絶対に外しはしない。

 

「奈落へ行け。行って()と母に許しを請え、外道!」

 

 最後の一撃は全力で。渾身の力を腕に込め、華奢な細腕を大砲に変える。

 母を殺し、義父を殺し、五百年もの長きに渡り醜悪な音を奏で続けた悪逆の七重奏(セプテット)に終止符を――レミリア・スカーレットは、荒れ狂う槍を渾身の一射と共に解き放った。

 

 夜が直線に切り裂かれる。破魔の矛は空間の枠組みを越え、次元を食い破り、稲妻よりも速く天空を駆ける、駆ける。

 刻まれた神槍の銘に狂いはなく、絶大な衝突音と共に真っ直ぐ卿の霊核を貫いて、臓物を引き摺り出すように穿ち抜けた。

 くの字に折れ曲がった邪悪の背から、五百年間孕み続けたどす黒いエネルギーの濁流が、噴水の如く飛び散っていく。

 

「――ナ、ハ」

 

 邪悪の権化に、断末魔を上げる事は許されない。

 刹那。一切合切を蹂躙する大爆発が巻き起こった。

 

 超新星爆発の如きフレアが一帯へ放たれ、幻想郷の夜は白夜の如く光の津波に塗り潰される。

 何度も、何度も。小規模に、大規模に。魂魄を焼き滅ぼす数多の波動が怒涛の如く爆裂し、闇と光が拮抗した。

 光の嵐は、やがてか細く消えていく。頭蓋を揺らす音も止み、やっとの思いで瞼を開けば、紅魔館へ染みついていた邪悪の姿はどこにも無く。

 今までの戦いは全て夢幻であったかのような、静謐な世界が訪れていた。

 

 

「……終わったのね」

 

 

 掲げていた腕を下げる。瞳を閉じて、雪を受け止めるように空を仰ぐ。

 満天の星空の下、絢爛な月の光を浴びながら。

 闇夜の遺児は、冷たい空気を吸って瞼を開けた。

 

 静かで、暗くて、幻想郷の眠りを守る、輝かしき偉大な夜があった。

 節々を突き刺す痛みを持って行ってくれそうな、優しさに溢れたいつもの夜。紅に染まる事も、誰かの号哭を耳にする事も無い平和な夜だ。

 そっと胸に手をやって、少女は祈りを捧げるように言葉を零す。

 

「おじ様。やっと終わったわ。――全部、終わったのよ」

 

 だから、安心しておやすみなさい。

 言葉は一筋の雫と共に、夜風に攫われ溶けていった。

 



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45.「楽園拒絶」

「お空!」

 

 光の波が瞬く中、猛スピードで落ちゆく影が一つ。邪悪の束縛から解き放たれ自由の身となった霊烏路空が、重力に従うまま墜落の一途を辿っているものだった。

 こいしが叫び、必死で後を追いかける。だが距離が遠すぎた。全力で飛翔しても冷たい湖への落下は免れられないと、こいしの表情が青ざめていく。

 あと一秒もなく着水する刹那の際、(うつほ)の姿が忽然と消えた。

 仰天のあまり急ブレーキをかけるこいし。瞬き一つしていないのに見失ったと気付いた途端、猛烈な不安が襲い掛かり、ドクンと一際強く心臓が胸を押し上げた。

 が、それは直ぐに解消される事となる。お空を抱き上げた咲夜が、真横に佇んでいたからだ。

 

「ご安心を。バイタルを確認しましたがいずれも正常です。気を失っているだけですよ」

「あ……ありがとう!」

 

 安全な地面に着地して、お空がゆっくりと降ろされる。こいしは彼女を揺り動かしながら、何度も何度も名前を呼んだ。

 玉を転がすような声がお空の耳に沁みたのか、『う~ん』と寝ぼけ頭で絞り出される呻きと共に、霊烏路空が覚醒して。

 

「んにゃ? あうー、こいしさま。おあよーございまふ……あれ、どこですかここ? なんか右腕が軽い様な――あーっ!? 制御棒が無い! ど、どうしましょうこいし様、制御棒どこかに落っことしてしまいまし」

「……!! お空ーっ!!」

「ぎゅぴっ!?」

 

 タックル同然の衝撃がお空を襲う。事件の記憶が無く、気付けば地上で目覚めたに等しいお空には、こいしが何故泣きじゃくりながら抱き着いてきているのかがいまいちよく分かっていたなかった。

 

「ごめん、ごめんね、酷いことしちゃってごめんねお空っ……」

「え? え? ど、どうして泣いてるんですかこいし様ぁ。そんなに泣かれたら私まで悲しくなっちゃうから泣かないでくださいよ~」

「ごめんなさい……! 本当にごめんなさい……!」

 

 ぽろぽろと涙を零すこいしに釣られて、お空までわんわんと泣き始めてしまった。

 悪魔の束縛から解放された者達の再会を見守りながら、フランドールは姉の下へと歩いていく。ズタズタになった腕を背中で隠すレミリアを見て、フランドールは「ん」と手を差し出した。

 

「診せて。その手、滅茶苦茶なんでしょ」

「え? い、いいわよ。満月だし、すぐ治るわ」

「だーめ。今日はすっごい無茶したんだから傷痕が残るかもでしょ? そうなったら大変じゃない。さっさと診せる、ほらほら!」

「いっ!? ちょっ、フラ、お願い優しくしていたたたたっ!?」

 

 手首を掴まれ、引っ張り出される。流石は吸血鬼と言うべきか、過負荷で肉や骨が弾けていたにも関わらず、既に原型へ戻っているほど再生が進んでいた。しかし深い裂傷や剥げた爪は未だ治らず、少女の華奢な腕に相応しくない壮絶な痛々しさを帯びていた。

 そっとフランドールは手を添えて、瞳を閉じつつ呪文を唱える。淡い新緑色の光が瞬けば、まるで逆再生の様に傷が塞がり爪が生え変わってきた。

 

「パチュリーから習ったの。いつか使える日が来るかなって」

「フラン……」

「またお姉様には無茶させちゃったわね。……結局、おじさまにも助けられちゃった」

 

 申し訳なさそうにフランドールは俯く。姉を守ると言ったのに大して役に立てなかったと、自責の念に駆られているのだろう。どこまでも優しいから、ズタボロになった姉の手を見てそう感じてしまったに違いない。

 そんなこと無いよ、と。レミリアは空いている手をフランドールの頭へ置いた。

 

「貴女はよく頑張ったわ、フランドール。こんなに立派な妹を持てて、姉として誇らしいくらいよ。……おじ様も、きっと同じ気持ちだと思う」

「……っ」

 

 潤む。抑えていた蓋が持たなくなったように、少女の涙腺が決壊を迎えていく。静謐な雫が溢れ出て、フランドールは顔を手で覆った。姉に見られないように、という訳ではなく。ゴシゴシと袖で涙を拭うと、目元を真っ赤に腫らせながら顔を上げた。

 

「……今ぐらい、泣いたって良いのよ」

「泣かないわ。お姉様も泣いてないから、私も泣かない」

「…………そう。まったく、気丈な妹を持つと大変ね。これじゃ私も泣けやしない」

「お嬢様、妹様。こちらを」

 

 音もなく傍に現れた従者がそれぞれ一枚のハンカチを手渡す。次いで上着が被さって、冬の寒空から二人を守った。

 

「咲夜、館に戻って暖かいスープと毛布を用意なさい。あそこの二人も連れて行くわ」

「畏まりました。お嬢様たちもお運びしましょうか?」

「いや、良い。皆で歩いて帰る」

「承知しました。……それと、お嬢様」

「なに?」

「命を救って頂いて、申し訳――いいえ、ありがとうございました。またお仕えする事が出来て、咲夜は嬉しく思います」

「……フン。あの時勝手に諦めようとしたこと、まだ根に持ってるんだからね。帰ったらお仕置きよ」

「うっ」

 

 自分の失態を心底恥じるように、珍しくしょんぼりとする咲夜。

 しゅんと反省する従者を見て満足したのか、レミリアは意地の悪い笑みを浮かべて、

 

「と、思ったけど。あなたが来てくれなきゃ勝てなかったわけだし、美味しいスープを作ってくれたら、自分を捨ててだなんて妄言吐いた件はチャラにしてあげる。だからさっさと戻って仕事をしなさい」

「! はい、必ずや皆様の舌を唸らせる一品を作って見せると約束しますわ!」

 

 言って、花が咲いたような笑顔と共に従者の姿が虚空へ消えた。時を止めて先に戻って行ったらしい。

 白い息を一条吐いて、振り返る。そろそろ泣き止む頃だろう。このまま放置していたら、地底の妖怪が現れたと騒ぎになりかねない。無粋と知りながら、レミリアは声を掛けようとして、

 

「二人とも。感動の再会を邪魔する様で悪いけれど、ちょっと移動してもらうわよ。特別に私の館へ招待してあげ」

『認めぬぅぅぅぅ………………認めぬぞぉぉぉ……………』

 

 背骨に直接指を這わせるような悍ましい声が、上空から覆い被さってくるように響き渡った。

 脊髄反射で空を見上げる。レミリアは仰天のあまり目を見開き、口を開けたまま絶句した。フランドールも同様に、二人は夜空の一点へ目を釘付けにされてしまう。

 それは消えた筈の怨霊だった。幻想郷全土から悪霊の分霊たちが次々と集まり、一ヵ所で融合し合って、心臓の如く脈動しながら体積を際限なく膨張させていたのである。

 

『み、み、みどめぬぅぅぅ……ごの、わだじがっ、ごぼっ、ごのすがぁれっどが、ナハト以外の吸血鬼に敗れるなど、だんじでみどめるごどはできぬぅぅ…………!!』

 

 ぶじゅぶじゅと、ぐじゅぐじゅと。生理的嫌悪感を引きずり出す壮絶な怪音波を放ちながら、吐き気を催す執念をもってスカーレット卿は蘇った。否、元から死に絶えてなどいなかったのだ。

 レミリアたちが倒したスカーレット卿は群れの中枢だったのだろう。頭脳が敗北し、その事実が伝播した事で、幻想郷中に潜んでいた全ての寄生体がこの場に集い始めたのである。ナハト以外の吸血鬼に敗北の泥を味わったという、ただそれだけの執着を雪ぐ為に、その泥を拭い落す為だけに。スカーレット卿は妖怪と言う枠組みからすら逸脱したのだ。

 なんという妄執、なんという憎悪か。かつてない程の純黒の塊は、負の汚泥を絞られた柑橘のように巻き散らし、あっという間に湖を侵食していった。

 

「あいつ、まだッ!!」

 

 間髪入れずにレミリアは神槍を顕現した。持ちうる最大最強の魔力を込め、一切の手加減無く怨念の集合体へと投擲する。

 着弾し、爆発が起こった。肉塊の如き魂が砕け、ヘドロで作られたおたまじゃくしの様な破片がボロボロと剥がれ落ちていく。だが敵はあまりに巨大過ぎた。例え一部を粉砕しても止まらない。次々と魂同士を融合させ、延々と空気を吹き込まれる風船のように膨らんでいく。

 フランドールも攻撃に打って出た。あらゆるモノに存在する歪みの()をその手に移して破壊する、絶対不可避の悪魔の一手を。

 爆発が複数回怒号を上げた。その度に鼓膜を引き裂く悲鳴が上がり、怨霊の残骸が崩れていく。

 けれど、致命傷にまで届かない。届かせようがない。

 

「どうしよう、『目』が多すぎる! これじゃ破壊できないよ!」

「一体何をするつもりなの――――まさか、自爆する気!?」

 

 明らかな力の凝縮があった。黒の奥底に紅蓮の熱が潜んでいる。今にも暴発せんと息を潜める超新星のような兆しがあった。収縮しては膨張を繰り返し、際限なく体積を増やしながら脅威を高める光景は、さながら核分裂の具現のよう。

 

 このまま放っておけば大変な事になる。スカーレット姉妹は確信と共に冷や汗を流した。

 もし、もしこの巨大怨霊が爆発してしまったら。既に湖が死海と化している程の猛毒なのに、これが幻想郷全土へばら撒かれてしまったら。果たして何が起こるだろうか。

 運命を視ずとも理解できる。その先には、地獄よりも悍ましい地獄が広がっている。

 

「させるもんか!!」

 

 ありったけの弾幕豪雨を撃ち放つ。七彩の光が絶えず巨大怨霊へ注ぎこまれ、炸裂音と共に黒を焼き潰していく。事態を察した古明地こいしも加わり、三方からの一斉射撃が展開された。

 絢爛で勇敢な弾の嵐は確かに怨霊を打ち壊している。数多の魔法も展開し、考えられる全ての手を投げ打った。だが絶望的に火力が足りない。太陽の盾すら爆砕したレミリアのスピアでも、かつて隕石を粉砕したフランドールの破壊でも、何十何百何千と合体を繰り返す命の苗床染みた存在が相手では、容易く減殺されてしまう。

 まさに焼け石に水だった。足掻いても足掻いても膨張は続き、力が増幅されていく。絶望の色が濃厚となり、焦りが濁流のようにその場の全員を呑み込んだ。

 

「そんな……っ! 結局負けてしまうの……!? どうやっても止められないのっ!?」

「諦めちゃ駄目! 絶対に止めてみせる! ここで止めないと、おじ様の死が無駄になる!!」

「でも火力が足りないよ! もっと大きな力がなきゃ、あの自爆は止められない!」

 

 認めたくは無くても突き付けられる現実。惨たらしい未来を前に吐露された弱音が幻想郷に落ちた、その時だった。

 

「――そうだねぇ。あんだけ集まりに集まって出来た魂の惑星みたいなやつは、幻想郷を吹っ飛ばすような火力がなくちゃあ止められそうにない。でも浮世ってのは上手く出来ているもんで、何事にも相性は存在しちまうものなのさ。鬼に炒り豆、吸血鬼に太陽って感じにな」

 

 はつらつで、豪気に溢れるとある少女の一声が、月夜に凛と咲き誇った。

 けれど常々漂う酒気の抑揚は匂わせず。

 在るのは一人、朧の酔いに微睡むことなき芯を持つ、天下無双の傾奇者。

 

 小さな百鬼夜行、伊吹萃香が虚空の上に君臨した。

 

「萃香……!? あんた、封印されてたんじゃ!?」

「ちょいと色々あってね。まぁそれは追々分かるだろうから割愛するよ、レミリア」

 

 にひっ、と爽やかな笑顔をレミリアへ贈ると、萃香は眼下の悪霊へ、朱天の怒りを込めながら向き直った。

 

「……我欲に従い、飲めや歌えの大騒ぎ。我儘三昧、気儘尽くし。結構結構、それこそ闇の化生、妖怪ってモンの本質さ。――だが、てめえはちょいとばかしやり過ぎた」

 

 小鬼を中心に渦潮が起こる。ブラックホールが惑星を呑み込んでいくように、スカーレット卿から怨念たちが瞬く間に剥ぎ取られ始めたのだ。

 密と疎を操る程度の能力。あらゆる密度を自在に操る伊吹萃香は、巨大怨霊にとっての炒った豆だ。数あっての災害も数が無くなれば意味をなさない。だからこそ、最後の切り札である自爆を防がれないように、卿は伊吹萃香を真っ先に狙ったのだろう。

 スカーレット卿の主人格を成していた中枢以外、その全てが、伊吹萃香に奪い取られていく。みるみるうちに縮小し、人間大にまで縮み切ったスカーレットは絶叫した。

 

『伊吹萃香ァ……!! 貴様、一体どうやって封印から脱出した!? 博麗の巫女も、八雲紫も、あの封印を解く余裕なんて無かったはずだ!』

「ああ、そうさ。一割の私はお前さんから消し炭にされちゃったし、紫も霊夢も七面倒臭い封印解除にゃ手を出す余裕が無いときた。どうしたもんかと壺の中で頭を抱えたよ。そうしてたらよぅ、誰かが突然、封印を解いちゃったんだよな」

『誰が――――』

「そりゃあ、こいつに決まってるさね」

 

 萃香が懐から取り出したのは、小鬼の手にもすっぽりと収まるほどの小さな巾着袋だった。

 彼女は徐に紐をほどいて、袋の口を開いて見せる。すると中から灰色の煙が立ち昇り、萃香の力で凝縮していくと、一本の腕の形へと化けた。

 卿は、その腕の正体を反射的に特定した。

 卿だからこそ、見間違えようが無いと言うべきか

 

「博麗神社に祀られていた、お前さんの大っ嫌いな吸血鬼の片腕よ」

 

 ――秋の事件にて、ナハトはスカーレット卿の姦計に追い詰められ、地上からの撤退を余儀なくされる事となった。

 だが事態はただナハトを地底へ追いやれば鎮まるものでは無かった。人間の里へ氾濫してしまった恐怖を鎮静させつつ、諸方の妖怪たちへ八雲紫の裁断を納得させ、ナハトへ追撃の手が向かないよう抑止する『証』が必要だったのだ。

 その生贄が腕だった。紫はナハトから腕を切り落とし、退治の証拠として博麗神社へ祀らせたのである。かつて人間たちが妖怪退治の象徴として、角やミイラを神社へ封印していたように。

 

 この経緯が、今になって卿も予想だにしない実を結ぶに至った。ナハトは卿との戦いの最中か、臨終の間際に博麗神社の腕を動かし、萃香の封印を破壊していたのである。

 紫が()()()()()まで想定して、ナハトの腕を神社へ控えたのかは分からない。だが確かに言える事は、スカーレット卿は再び、ナハトと八雲紫の手によって最後の切り札を阻まれた。

 認めがたい事実への拒絶が、卿の魂魄の奥底よりボコボコと音を立てて湧き上がる。

 

『――だが、だがッ!! 貴様はどうあっても鬼だろう伊吹萃香! 例え封印が解けたとしても、晩秋まで封じられる契約を違えることはその本質が許さない筈だ!』

「その通り。如何なる理由があっても(わたし)が約束を破る事は無い。だからこそ頭を悩ませたんだ。封印が解けても暫くの間、壺の中で引き籠ってたくらいにゃね」

 

 けど、と。伊吹萃香は犬歯を覗かせながら継ぎ足して、

 

「霊夢が壺をぶっ壊しちゃった挙句、約束主がスキマを通じて期限を破棄したもんだから、私には約束を守れなくなっちまったのさ」

 

 ――その時、七色の光が彼方より瞬いた。

 

 幻想郷の妖怪ならば誰しもが目にした破魔の輝き。夢想の底へ邪を封ずる博麗の奥義。

 華々しい夢想封印の輝きが、萃香の頭上に掻き集められた怨霊たちを纏めて滅ぼし、退治を果たした。

 煌びやかに舞い散る光の粉。浄化されゆく怨念の黒。だが肝心の霊夢の姿がどこにも無く、突如現れた一閃は、レミリアや卿へ一抹の混乱をもたらした。

 構わず、伊吹鬼は言い放つ。

 

「正直、お前さんには色々と借りがあるし、本当なら直々にぶっ飛ばしてやりたいくらいなんだけど……生憎弱い者いじめは趣味じゃなくてね。あとは紫に任せるよ」

 

 言葉を皮切りに、一つのスキマがレミリアたちの背後へ切り開かれた。

 無数の目玉がギョロギョロと蠢く不気味な領域が露わになる。馴染み深い異空間から先ず姿を現したのは、妖怪の筆頭、八雲紫本人だった。

 

「ご機嫌麗しゅう、サー・スカーレット。幻想郷の代表として参上仕りましたわ」

『スキマ妖怪……!』

 

 最早その身に歯は無くとも、歯軋りが聞こえてきそうなほどに卿は吼えた。計画へ悉く狂いを生じさせた主犯格であり、忌々しくもその手腕を認めざるを得なかった妖怪の賢者。ある意味ナハト以上に卿を苛ませた第二の宿敵。それが、西行妖を筆頭としたあらゆる楔から解き放たれ、満を持して姿を現したのだ。

 

『……ハッ。今更何しに現れた八雲紫。私を四季映姫に代わって断罪しようとでも言うつもりか?』

「いいえ。それを決めるのは、これからの貴方自身です」

『なに?』

「そも、ここに来たのは私だけではないのですよ」

 

 扇を優雅に振りかざす。それが一つの信号となった。

 蓬莱人の二人に始まり、白玉楼の姫君が。紅魔館の住人たちが。永遠亭の薬師と地底の覚妖怪が。氷精と大妖精、宵闇妖怪のトリオが。守矢神社の風祝が。魔法の森の人形使いが。四季のフラワーマスターが。――そして、博麗の巫女が。

 続々と紫の隣や上空へ、スキマを通じて姿を現したのである。

 

「彼女らは皆、貴方の宿敵たる吸血鬼ナハトと縁のあった者たちです。友人、悪友、知人、借りのある者と様々ですが、大なり小なり彼の死へ尾を引く者である事に違いは無い」

『――――』

「まどろっこしい事は抜きに、結論から申しましょう。スカーレット卿、()()()()()()()()()()()()()()

 

 八雲紫の信じ難い申し出に、スカーレット卿は言葉を失った。

 だって、卿は大罪の限りを尽くしたのだ。罪なき者たちを何度も欺き、利用し、辱めた。妖怪たちの大切なものだって踏みにじった。幻想郷の歴史に刻まれるほどの悪行を、僅かな時間でこれでもかと言わんばかりに遂行したのだ。

 なのに、どうして。

 どうしてそんな、ナハトのような唾棄すべき甘い和解の手を差し出してくると言うのだ?

 

「無条件で許す、と言っているのではありません。償いなさい、スカーレット卿。貴方が犯した罪を住人たちへ清算し、一生をここで過ごすのです。貴方がそれを望むなら、我々は此度の異変に目を瞑りましょう」

 

 幻想郷は全てを受け入れる。善も、悪も、受諾も、拒絶も。その者が幻想郷に在りたいと望む限り、この優しくも残酷な世界はあるがままに受け止める。それはスカーレット卿とて例外ではない。

 

 紫はこう言っている。ナハトへの贖罪も含めて、関わった者たちへ償うことで果たすのだと。積み重なった十字架を自責し生き続けろと。望むならばそれを受け入れると、紫は敢えてナハトと同じように和解の意志を示したのだ。

 この提案は、ナハトへの復讐に心血を注いだ卿にとって最大の侮辱行為だった。ある意味極刑の宣告と言えるかもしれない。だからとでも言うべきか、紫たちはこの話を彼に持ち掛けたのだろう。

 しかし、両者は共に知っている。

 示される答えの、その結末を。

 

『ふざけるな』

 

 吐き出されたのは、至極当然拒絶の言葉で。

 紫はただ、悪霊の静観を続けていた。

 

『この期に及んで和解だと……? この期に及んで大団円だと……? 笑わせるのも大概にしろ八雲紫ィッ!! 私が、このスカーレットがそんな言葉に首を縦に振るとでも思うか!? 幻想郷へ混乱をもたらし、無辜の者どもであっても利用する事を厭わず、ナハトを葬ったこの私が――』

「葬った? はて、何の事を言っているのやら」

『――あ、は?』

 

 そんな事実は存在しないとでも言うように。その言葉は偽りだとでも突き付ける様に。紫は扇子を唇へ当てながら、さも当然の如く言い放った。

 お前は何を言っているんだと、卿の表情無き暗黒の顔貌が訴える。けれど紫の態度は変わらない。ただ冷静に、『ナハトの死』を真っ向から否定した。

 感情の波乱が、暴徒となって暴れ回る。 

 

『力の使い過ぎで頭がイカれたのか……? それとも現実を受け入れる力を失くしたか? 何をどう見たらそう宣えるのだ。貴様があれこれ策を弄して手を差し伸べた老害は、雪とも灰ともつかぬほど跡形も無く始末されたというのに』

「……貴方、ナハトの宿敵を名乗る割には彼の事を何も分かっていないのね」

『なに、を』

「忘れたの? 彼の底知れない生命力を。幾度の死闘を繰り広げても滅びなかった不死性を」

 

 魂が凍ったかと、スカーレット卿は錯覚した。

 ドクンと激情の波動が身を震わせる。有り得る筈の無い言葉が精神を容易く搔き乱す。

 だって、ナハトはどう考えても滅び去ったのだ。何度も何度も太陽の輝きをその身に受けて。存在の核を消し飛ばされて。自らの命も絞り尽くして。吸血鬼ナハトという不死の怪物を葬り去ったのだ。

 なのに、どうしてそんな妄言を吐く事が出来る?

 

 紫に虚飾の色が欠片も見えない。それは彼女が本心から言っているのだと、スカーレット卿へ信じがたい事実を叩きつけた。

 

「だから償えと言っているのです。それはナハトに対しても含まれるのよ。もちろん灰ではなく、生きている彼に向かってね」

 

 卿は、一つ勘違いをしていたらしい。

 紫はナハトへの償いを他の者たちへ払う事で成せ、と言っていたのではない。ナハト自身へ直接行え、と言ってのけていたのだ。

 スカーレット卿ですら狂気の沙汰とした思えぬ言葉を、八雲紫は平然と告げていたのである。

 

『――有り得ん。有り得ん有り得ん有り得ん有り得ん!! 奴の不死性をもってしても有り得る話ではないッ!! 寝言を抜かすなよスキマ妖怪、そんな事は不可能だ!』

「そうね。埃よりも小さな粒へと消えた彼が、自力で復活する事はまず無いでしょう。――けれど、不可能を可能にする程度の事が出来なくては、真の賢者は務まらなくてよ」

『ふざ、けるな。ふざけるなッ!! そんな事があって堪るかァッ!!』

「……もし、彼が幻想郷へ辿り着いたばかりだったなら。貴方の言う通り、ナハトには死以外の道筋は残されていなかった」

 

 それは、きっと訪れるべき結末だったのだろう。

 ナハトと言う歪みは、迫害なくして生きる事の出来ない矛盾の実体だ。彼が友を求めても、彼が安寧を求めても、それは世界が許さない。ナハトの根源が許さない。吸血鬼ナハトは恐れられ、忌み嫌われてこその存在なのだから。

 

 もしナハトが誰にも頼れなくて、誰からも信を置かれない災厄だったならば、きっと伊吹萃香との戦いで滅びていた。

 仮に生き延びたとしても、スカーレット卿によって敵意を集められた時、幻想郷中の大妖怪から命を狙われ呆気なく奪われていた事だろう。

 けれどそうはならなかった。恐怖を植え付ける根源の瘴気を持ち、拒絶されて当然で、決してこの世界に生きるべき存在ではなくとも、彼は幻想郷に受け入れられた。

 それはひとえに彼の善性があったからだ。彼の善性に動かされた者たちがいたからだ。不条理な真実を知って助けになりたいと願える、知性あるものなら誰しもが持つ親愛を、幻想郷の善き人々が持ち合わせていたからだ。

 

「彼は果ての無い時間の中を運命に嫌われながら生きてきた。世界からバグとして排斥され生きてきた。報われない永遠の生を余儀なくされ、矛盾と理不尽が足元へ絡み付く茨の道を歩まされて生きてきた。きっと、これからもそうだった。その筈だったのよ。――でも、それを変えたのは貴方だ。彼を陥れようとした貴方の悪意が我々へナハトの真の姿を曝け出し、彼の運命を打ち砕いた」

 

 苦難の道ではあったかもしれない。終点の見えない荒野ではあったかもしれない。

 でも、吸血鬼ナハトは勝ち取った。多彩でありながら盲目で、悪性でありながら善道で、偉大でありながら矮小な吸血鬼は、友を得ると言う、ほんの小さな奇跡を成し遂げることが出来たのだ。

 

 だから、彼は死なない。

 友人は、彼が報われぬまま死ぬことを許さない。

 だって。あの吸血鬼はただの一度だって友と宴会をした(夢を叶えた)ことすら無いのだから。

 

「私たちは彼の存在に、瘴気に、根源に怯え、内包されていた真実から目を背けていた。だから彼を疑ったし、攻撃したし、迫害もした。それは紛れもない、覆す事の出来ない事実でしょう」

 

 始まりはスカーレット卿と同じだった。実体不明の異物を嫌悪し、それを排斥しようと躍起になった。けれど恐怖を克服したその先に見えた真実は、とても綺麗なものだった。

 ただ、それを知っただけじゃ何も変わらなかった。一人や二人が彼の真実に気付いたとしても、事態は好転しなかった。

 

「しかし全ての障壁は打ち砕かれた。最後の一枚は、他ならない貴方自身の手によって」

 

 それを覆したのは。最後の砦を破ったのは。

 皮肉な事に、怨敵たるスカーレット卿だったのだ。

 

『だま、れ』

「今まで私たちは勝手に彼を勘違いしていた。でも貴方はそんな状況に置かれていた彼を自らの憎悪に従うまま、擦れ違いが起きる為のマジックを作ってしまった。貴方と言う()()を作り出してしまったのよ」

『黙れと』

「タネが解けた魔法はただの手品へと成り下がる。不可解な現象へ納得のいく答えを作ってしまう。それはもはや幻想ではない。だから私達はここへ集った。貴方という答え(タネ)が彼を覆う暗雲を解き明かし、我々へ真実を齎した。瘴気なんて見掛け倒しでしかない、平々凡々な吸血鬼だと教えてくれた」

『黙れと言っているだろうがッ!!』

「いいえ認めさせてやるわ、憎悪に溺れた哀れな悪魔。貴方がナハトを助け、ナハトに敗北したという事実を。他の誰でもない怨敵の貴方が! 彼が運命に打ち勝つ為の、最後の刃になったという現実を!」

『その口を閉じろスキマァッッ!!』

 

 ボコボコと、スカーレット卿の魂魄の体に不気味な泡が浮き上がる。人型だった真っ黒な魂は、その感情の醜悪さを成すように異形へ変異を遂げていく。

 

『私が、奴に負けた、だと……? 灰塵と化し息絶えたあの老いぼれに、私が敗北しただと? 私が運命に勝たせただと? 笑わせるな境界の小娘めがッ!! 貴様がどれだけ屁理屈の理論武装を重ねようが、奴が葬られた事実は永劫に変わらん! あの男の反吐が出る善良性に気付いてここへ集まったと言ったがな、人の形すら留めず、力も全て失った死骸を見ても、まだ貴様はッ! ナハトが完全勝利したと宣えるのか!?』

「言えるわよ、悪魔の(デーモン)伯爵(ロード)。疑いようもなく我々は――いえ、彼は貴方に勝利した。貴方が奪い去る事の出来たものなんて、この場にこれっぽっちもありはしない」

『……!!』

 

 怒りがわなわなと震えを呼ぶ。憎悪が魂を焦がして猛り吼える。

 手足も、頭も、何もかもが輪郭を失い、ドロドロに入り混じった獣の姿へと成り果てた。

 ぐちゃり、と亀裂が顔を横に割るようにして走り抜ける。歪んだ牙が顔を覗かせれば、月明かりを粘質な輝きと共に反射した。掻き混ぜられ、引き裂かれたその顔貌は、もはや悪霊の範疇を超えていた。

 

『いいや……いいや! それは断じて認められない! それだけは、断じて認めることは出来ない! 例えこの魂が無窮の悪でも、例え一切の血と涙を捨てた身でも! 最後の勝ちはッ! ナハトへの勝利だけは!! 譲るワケにいかんのだ!!』

 

 暗黒の蝙蝠は天高く咆哮を上げる。どす黒い怨念を巻き散らし、憎悪と憤怒を灼熱地獄の如く焚き上げる。

 だが今のスカーレット卿に力なんて残っていない。例え万全の状態であったとしても、この場の全員を凌げる策なんて有りはしない。

 今度こそ、本当の本当に最後の一撃で、最期の一条。この先に歩める未来は無く、スカーレット卿という存在は塵すら残さずに消え果てるだろう。

 

 けれど、彼は欠片も恐怖を抱かなかった。

 レミリアには――幻想郷には敗れ去った。だがナハトにだけは敗れていない。それだけはどう足掻こうとも覆させない。

 そんな虚無の中で叶えた幻想を抱きながら、砕け散る事を選択したから。

 

『刮目するがいい、東方の幻想ども! これが、これこそがッ! 歪み無き我が邪道の最果てである!!』

 

 終幕の墜落が始まる。

 持ちうる全てを解放した、最後の悪あがきが火蓋を切る。

 

「結構」

 

 パチン、と。扇子が音を立てて葉を閉じた。

 切っ先が迫りくる邪悪な隕石へ向けられる。紫の合図に呼応して、静観していた少女たちが、皆一様にカードを取った。

 スペルカード。弾幕の華々しさを競い合う遊戯で使う、宣言用の小道具だ。

 

 しかしそれは処刑の宣告に非ず。それは断罪の判決に非ず。

 それは、幻想郷という楽園の信念である。

 

「ならばせめて……美しく残酷に、この世から去りなさい」

 

 彩り鮮やかな弾幕の舞踊が、スカーレット卿を迎え入れるように華を咲かせた。

 極彩色の豪華絢爛が夜を飾る。しかしそれは決して命を奪う凶器ではなく、少女たちが各々秘める美しさを体現した幻想賛歌の音色だった。

 それでも弾幕に変わりはない。巻き込まれればスカーレット卿の絶命は免れられないだろう。

 反して、悪魔は怯む様を見せなかった。

 過程や方法が決して認められる事の無い悪性権化であったとしても。ただただ邪悪で、ただただ一途な紅魔の悪魔は。身を捧げるように飛び込んだ。

 

『ああ。この手は確かに、真の勝利を掴みとった!』

 

 百花繚乱の瞬きは、一つの魂をあっと言う間に呑み込んでいく。

 空に向かって咲いた無数の華は、やがて夜の闇へ溶けていった。

 

 全ての光が止んだ時、嘘の様な静寂と、冬の侘しい寒々しさと、いつもの幽玄な月が佇んでいて。

 扇子を懐へと仕舞い、花鳥風月のさざめきを、紫は一心に受け止めた。

 

「……認めましょう、サー・スカーレット。我らの怨敵として在りながらも、貴方は誰よりも妖怪だった」

 



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46.「働かざる者、生きるべからず」

「紫。さっき言ってたことは本当なの?」

 

 今度こそ邪悪は滅び去った。元凶の分霊も寄生体も消え、幻想郷は少しずつ、元の日常へと戻って行くだろう。

 晴夜の下で、微かな希望へ縋るようにレミリアは紫へ問いかけた。

 彼女が訊ねる問答など、今は一つしか残っていない。

 

「ナハトを生き返らせられるかどうか……についてね?」

「本当に? 本当におじ様を生き返らせる事が出来るの?」

「……ええ。理論上は可能です。成功するかどうかは、良くて半々程度だけれど」

「それでもいい。お願い、おじ様を蘇らせて。私に手伝えることがあるなら、なんだってするわ」

 

 レミリアに躊躇は無かった。

 この場には紫以外の大妖怪も揃っている。威厳も、尊厳も、何もかもをかなぐり捨てて懇願した。

 

「おじ様から力を渡された時、彼の思想も一緒になって流れ込んできたの。残留思念、ってやつなのでしょうね」

「……」

「あの人は強がってたわ。とても、とても強がっていた。何千年も探し求めたものが幻想郷にきてやっと――輝夜や萃香に始まって、あなたや永琳、地霊殿の姉君という友達をやっとの思いで得たのに、ただの一度の宴会すら開けなかった。自分の去り時に納得してはいても、心の底には無念の泥が澱みになって残っていた」

 

 でも、と。レミリアは繋ぐ。

 度し難い現実なんて、あってはならないと言うように。

 

「それでもおじ様は最期まで私たちの幸せを望んで死んでいった。自分が招いてしまったスカーレットの呪いで私たちがこれ以上苦しまないようにと、たったそれだけを望んでいた。……今際の際くらい、自分への理不尽に向かって悪態の一つくらい吐いても、誰だって責めやしないのに」

 

 レミリアはナハトの残滓を見て、感じて、理解していた。彼がこの幻想郷に来て何を思ったのか。彼が永過ぎる生で何を感じていたのか。そして、最期にどの様な気持ちを抱きながら散ったのかを。

 どうしてもこの結末に納得する事が出来なかった。ナハトは間違いなく満足して生を終えたけれど、それで良いのだろうかと。どれだけ親愛を求めても存在を否定されなければ生きられず、血を吐き、肉を剥がされ、骨を折られ続けて、最後の最後まで親しい者たちの幸福を祈りながら亡くなった吸血鬼が、こんな終わり方を迎えて本当に良いのだろうかと。

 だからレミリアは一縷の望みへと縋ったのだ。例え蘇られる時間が刹那のひと時であったとしても、最後に彼の望みを叶えられるのならばそれに越したことはない。

 美しい悲劇なんて、レミリア・スカーレットにとってはくそくらえだった。

 

「このままあの人が報われないなんて嫌だ。お願い、少しでもいい。少しでもいいから彼を生き返らせて欲しい。せめて最高の時間をプレゼントしてあげたいの」

「……元より私の考えは決まっています」

 

 萃香、と紫は合図を送る。待ってましたと言わんばかりに密と疎を操る小鬼は能力を発動した。

 爆風に煽られ、散り散りになってしまったナハトの遺灰が萃香の手のひらへ掻き集められていく。それは大きな灰の山になると、すかさず紫がスキマを開いて包み込み、どこかの位相へ転送してしまった。

 紫はただ、力強く頷いて。

 

「やりましょう、レミリア・スカーレット。そもそもこの時を想定して、私と永琳はずっと仕込みを続けてきたのです。あの努力が無駄になるなんて展開はまっぴら御免ですわ」

「紫……!」

「紅魔館を貸しなさい。あそこが一番都合がいい。何より彼の()()がある。」

「分かったわ、好きに使って頂戴!」

 

 希望の言葉に表情を輝かせるレミリア。しかし、どこか不審な点でもあるのか、ほんの少しだけ陰りを見せて。

 

「……ねえ。最後に一つ、聞いても良いかしら?」

「なんでしょう」

「どうして貴女は、そんなにおじ様に対して親身になってくれるの? 最初の頃は、明らかに敵対していたのに」

 

 ……ある意味、当然の疑問だったのかもしれない。

 ナハトからの心境はさておき、八雲紫はずっとナハトと敵対関係にあった。先の吸血鬼異変もあってか、幻想郷を侵略しに来た第二のヴァンパイアなのではないかと疑った。その疑念は四年前まで晴れる事は無く、勘違いによる衝突は続いていた。

 そんな彼女が、確かに一方的な誤解をしていたとはいえ、たかが一妖怪に対しこんなにも肩入れをする必要があったのだろうか?

 紫の心中を、レミリアは終ぞ読めずにいたのである。

 

「…………彼は、私と初めて会った時、幻想郷を良い所だと言った。それは裏のある言葉なんかじゃなくて、本心から言ってくれたモノなんだと、彼を識った時に気付いたわ」

 

 遠くを眺めるように、八雲紫はぽつりと零す。

 まるで、かつて見た憧憬を夜空と重ねているかの様に。

 

「受諾も、拒絶も、何もかもを残酷なまでに受け入れる妖怪の楽園こそが幻想郷。私の愛する理想郷(ファンタジア)。だというのに私は、幻想郷の一部になろうとした者を排斥しようと試みた。地上の気風と相容れず地底へ移る事を選んだ者たちとは違う。それは一つの選択だもの。けれど彼は、ただここで生きる事を望んでいた。なのに私は未知の恐怖に怯えて拒絶した。外の人間が不可解を排し、我々の存在を否定しようとしたように。――自分の理想を、この手で壊そうとするところだったのよ」

 

 最後の一言に、紫の全てが濃縮されていたのだろう。

 幻想郷は外の世界から爪弾きにされてしまった者たちの最後の楽園である。望めば神であろうが仏であろうが安息を約束され、拒絶するならば力なきものであっても後を追われる。決めるのは己の意志ただ一つのみ。ある意味究極の弱肉強食。それが八雲紫の描いた夢だった。

 

 もし、ナハトがスカーレット卿のように我欲のままこの世界を壊そうとしていたならば、問答無用で紫は彼を見捨てていた。むしろ率先して撲滅を試みた事だろう。けれどそうはならなかった。彼は常に幻想と共に在ろうとし続けたからだ。魔の瘴気に振り回されながらも、決して諦めようとしなかったからだ。

 そんな妖怪を、紫は己の手で駆逐しようとしていたと四年前に気が付いた。かつて描いた理想の姿を、他でもない紫自身が、真っ向から否定していたのである。

 

「だから力を貸すのよ、レミリア・スカーレット。私の幻想郷が幻想郷で在る為に、あの男を見捨てる訳にはいかないの」

 

 八雲紫は力を尽くす。

 己の理想を守るために。己がしてしまった事の償いを払う為に。

 境界の乙女は、世界のイレギュラーと戦うことを選んだのだ。

 

 

 紅魔館地下室、フランドールの部屋に魑魅魍魎が集まっていた。ナハトの遺灰が台座に盛られ、それを囲うようにして皆が乱立している。私物は部屋の隅へと纏められ、生活感あふれていた空間は簡素な広間へとなっていた。

 

「では、ナハトの蘇生方法について解説しましょう。……けれどその前に、まずは彼の素性についての説明を」

 

 魔力で光る灯火だけが頼りの中、紫の口からナハトの魔力の特異性と根源、彼の生存に必要な要素が語られていく。特にナハトの『中身』の仕組みについては事細かな説明が施された。

 次いで、紫と永琳が考案した蘇生法について述べられていく。

 

「ナハトの内容物は純然たる恐怖から成り立っている。故に、彼を生き返らせるには彼に対する恐怖が必要不可欠です。しかしここまで徹底的に破壊されてしまっては戻ろうにも戻れない。死んでいるのに変わりはないのですからね。なので、先ず始めるべきは恐怖を受け止める『器』を作り直す作業になります」

「つまり、ナハト特有の魔力を還元して彼の中身に近いモノを作り上げるの。それを利用して彼の素――この場合、灰そのものへ新しい殻を与えるわけ」

 

 理屈はナハトが行った仮初の消滅魔導に近い。ナハトの魔力が消滅の力と限りなく近いナニカへ変えられるならば、それを用いれば彼の中身を補填出来るのではないか、というものだ。

 しかし、代替血液が血圧の維持には使えても血液そのものの代わりにはならないように、これはあくまで一時的な応急処置に過ぎない。根本的に治療するにはまた別のアプローチが必要になるのだが、一先ず目先の延命に永琳たちは注目する事にした。

 

 そんな中、フランドールがおずおずと手を上げる。どこか府に落ちない点があったようだ。

 

「でも、おじさまの魔力をどうやって集めれば良いの? おじさまは灰になっちゃったわけだし……私たち姉妹が代わりの魔力を作るとか?」

「それは無理ね。ナハトの魔力はナハトに関係するものからしか代用する事は出来ない。だからあなたたちにやって貰いたいことは一つだけ。ナハトの魔力が残存している私物を、この館中から掻き集めてきて欲しいの」

 

 ナハトは触れた物に多かれ少なかれ特有魔力を浸透させる性質がある。かつて瘴気を抑えるために聖遺物などを用いようとして悉く失敗した経歴があったように、または彼が作った品々は日光を前にすると溶けてしまうため、パチュリーに日除けの注文を頼まざるを得なかったように。

 それを今度は逆に利用しようという算段だった。スカーレット卿が反魔力を造り出そうと彼から生まれた魔本を奪取したのと同じ原理である。

 

 紅魔館の住人を筆頭にすぐさま私物の探索が行われた。ナハトがかつて蒐集していたコレクションたちが功を奏し、図書館の蔵書や魔鉱石の数々に始まって、装飾品に骨董品など、館中に隠されていた品々の中で特に魔力を多く含んでいる物が厳選され、どんどん集積されていく。

 遂には山の如く集められ、これならどうにかなりそうだと紫は内心胸を撫で下ろした。

 

「さて、ここからが問題ね……」

 

 懐から取り出した膨大な書類を台に広げ、紫は眉間に皺を寄せた。

 四年前に萃香の独断で行われた山の武闘会の後、紫が裏で永琳から譲り受けていた、ナハトの自我と()()を分離する術式の証明過程を綴った文書である。

 紫はそれを独自に解析し、証明を成し遂げるまでに至っていた。もっとも、渡された当初から証明の目星はついていたのだが。

 

 足りなかったパーツは万能の変換装置だ。即ち、論理的な創造と破壊を可能とし、あらゆる事象を根底からひっくり返す事の出来る『境界を操る程度の能力』が必要だったのである。

 何故なら、ナハトの内容物とはそもそも消滅の力と言う矛盾の塊だからだ。本来存在できるはずも無いバグだからだ。

 イレギュラーをイレギュラーとして扱うならば相応の反則技が肝心要となってくる。魔力を消滅の力へ組み替えられるほどのルール違反が不可欠だ。

 

「紫、本当に良いのね?」

 

 永琳が曇った表情で紫へ尋ねる。それは、この作戦が如何に危険極まりないものなのかよく知っているからこその言葉だった。

 消滅の力は神々であっても触れる事を憚るダークマターである。それを製造するとなれば、干渉する紫が只では済まないのは自明の理と言っても過言ではない。

 しかしそれを理解していてなお、紫は微笑みながら頷いた。

 言外に、何か策があるとでも語るかのように。

 

「輝夜姫様。私に不壊の魔法をかけてくださいな」

「! 分かったわ」

 

 消滅の力は無敵だ。かつて八意永琳が危惧したように、下手をすれば蓬莱人すら抹消出来うる可能性を秘めている。紫は屈指の大妖怪だが蓬莱人と違って不滅ではない。そのまま手を着けるのは、素手でブラックホールに触れようと試みるのと同義である。

 ではどうすれば良いのか? 簡単だ。壊れてしまうなら不壊の存在になればいい。蓬莱山輝夜の持つ永遠の魔法で極限まで存在を固定し、外部からの影響をシャットアウト出来さえすれば、この暗黒物質を取り扱うことが出来るのだ。

 

 二つ返事で輝夜は能力を発動した。永遠の檻をベールの様に被せ、外部から紫へ降りかかる一切の影響を遮断する。あっと言う間に、疑似的な蓬莱人が完成した。

 皮切りに、紫は術の軌道へ取り掛かった。

 

 集められたガラクタの山から真っ黒に染まった泡が抽出されていく。一つ一つはガラス玉と同等か、それ以下のごく小さな泡だった。気泡同士は混ざり合い、テニスボールほどの大きさまで膨張すると、紫の右手のひらへ吸い寄せられる。

 左手を添え、触れずして撫でる様に手を回す。

 額に粘質な汗が滲み出す。例え永遠の守りを得ても一歩間違えれば存在そのものを削られかねない綱渡りは、その場の全員に緊張の糸を張り巡らせた。

 

 球体の境界が二転三転と返されていく。その度に摩訶不思議な光が瞬き、純黒の球体が鼓動を放つ。黒を超越した黒へ、ずぶずぶと深みを増していく。

 

 一体どれだけの時が経っただろう。境界を操作し魔力へ加工を重ねていく作業は時の流れに歪みを起こし、時間の間隔を破壊した。一分一秒がまるで永劫にすら感じられる光景は、蓬莱人たちでさえ、固唾を飲んで見守るほどだった。

 

「……出来た」

 

 どこまでも黒く、もはや色と言う概念すら超越した物体を掲げ、紫は静かにそれを灰の山へと降ろしていく。空間を削りながら拍動を繰り返すそれは、ブラックホールで出来た心臓の様だった。

 

「萃香。灰をその球体の中に集めて頂戴。でも絶対球体へ干渉しちゃだめよ」

「分かった」

 

 灰が暗黒と混ざり合う。水と土が入り混じるように、完璧だった球体はドロドロとした粘質さを帯び始めた。

 諸共消滅を迎えるのではなく、形として成立しているという事は、成功の兆しにほかならず。

 けれど、紫と永琳の表情は晴れなかった。

 

「足りない」

 

 紫を代弁し、永琳が呟く。決定的で、覆しようのない事実を。ただ克明に。

 

「これだけじゃ無理だわ。ナハトを蘇らせられる最低値を突破できていない。このまま無理やり復活させれば、自我を持たない化け物が生まれてしまう」

「そんな……! 永琳、何か手は無いの!?」

「魔力の素がもっとあれば解決できるわ。あとほんの少しでもあれば」

 

 永琳の言葉を聞いたフランドールが、藁にも縋るように姉へと問いかける。

 

「お姉様、他におじさまの私物は……!」

「……館中を探して、隠し部屋も全部暴いたのよ。残念だけどこれ以上は……」

 

 しかし返ってくるのは、横に振られる首のみで。

 あと一歩と言う所で届かない現状が、嫌な現実感をさらに加速させていく。

 やはり駄目なのか――誰もが諦めかけた、その時だった。

 

 

「しょーがないなぁ」

 

 

 発したのは、今まで静観を決めていたルーミアだった。

 脈絡なく呟かれた言葉に注目が集まる。宵闇少女は構わず飄々としたまま、台座のもとまでマイペースに歩を進めると、

 

「やっぱりこんな気がしてたのよねー。共鳴、って言うのかしら? どうもおじさんと私って()()()っぽいから、必要な時が来るんじゃないかと思ってたのよ」

「ルーミア……?」

「ところでフラン。一宿一飯の恩って言葉があるくらい、食事を恵んでもらえるのはありがたい事なんだ。フランにはいつも美味しいご飯をご馳走になってるし、今度は私がお礼をする番になるのは当然よね」

 

 ――フランドールは四年前からチルノや大妖精、ルーミアへ定期的に手料理を振舞っていた。

 調理の際に使われる食材には、ほぼ全てナハトの魔力という調味料が振りかけられていた。せめて良いものを食べられるようにと、品質向上の工夫がお人好しな吸血鬼によって施されていたのである。

 一つ一つは微々たるもの。しかし重ねて食べ続ければ魔力はどんどん蓄積され、まるで生物濃縮のように少女たちの体内へ備蓄されていった。

 

 結果、ルーミアたちの身に何が起こったのか。

 いち早く感付いたのは、大妖精だった。

 

「ルーミアちゃんまさか……チルノちゃんの力が物凄く強くなって、私も連続でテレポート出来るようになってたのって!?」

「そういうこと。だから私は戦わなかったのよ。無暗に消費しちゃ勿体ないし、色々と後で役に立つと思ってたからさ」

「ええーっ!? じゃあ、あたいもとっておけば良かったのか!?」

「んーん、チルノは駄目。妖精だから色々混ざり過ぎちゃうもの。闇の妖怪である私だから、これをそのまま使えるのね」

 

 ルーミアの手のひらに、先ほどの球体と同じ大きさの魔力塊が出現した。それは見間違えるはずもなく、ナハトをルーツとした特別な魔力の反応に他ならなかった。

 悪戯っ子のように、宵闇妖怪は微笑みながら。

 

「ほんとはこの面倒くさい封印(リボン)破るために使おうかなって思ってたんだけど……ま、こっちの方が正しいよね。だから頼むよ紫。これでおじさんをキッチリ治してね」

「――ええ、必ず」

 

 すぐさま紫は抽出された魔力の加工に取り掛かった。垂らされた蜘蛛の糸を決して無為にする事のないよう、慎重に慎重に手を加えていく。

 やがて素材が完成し、元あった素体と組み合わせれば、劇的な変化が訪れた。

 不定形だった暗澹の泥が指向性をもって動き出す。面積が広がり、四肢が生え、頭部が生え、衣服までもが立体的に再生されていく。まるで組織再生の早送りを眺めている様な光景だった。

 

 最後は驚くほどあっという間に、ナハトは生前の形を取り戻した。

 

「ナハト!」

「姫様駄目です。まだ触れてはなりません」

 

 駆け寄ろうとした輝夜やスカーレット姉妹を賢者たちが手で制する。代役として前へ出たのは八意永琳だった。

 彼女は静かに喉元へ手を触れ、一先ず脈拍を確かめる。的確に触診や視診を繰り返すと、安堵の表情を浮かべながら。

 

「やったわ、一先ず成功よ。――――でも」

 

 吉報にどよめきを走らせかけた一同だったが、雲行きの怪しい語尾に遮られてしまう。どうして? とこいしが聞けば、永琳は目を細めてナハトを見ながら、

 

「これはまだ麓の段階と言っても過言じゃない。例えるなら死人を重症患者にまで戻しただけ。大きな進歩ではあるけれど、根本的な解決には至ってない」

 

 そう。この状態はあくまで最低限のライフラインを確保しただけに過ぎないのだ。完全復活を果たすには消し飛ばされてしまった中身を補えるほどの恐怖と、それを安定して供給出来るパイプが必要になってくる。

 もしその問題をクリア出来なかった場合、寿命はもって一日足らずだろう。フラスコから投げ出されたホムンクルスのように、弱々しく息絶えるのみである。

 

「……私達みたいに蓬莱の薬を飲ませる、なんてのは」

「それだけは絶対に駄目。蓬莱の薬は不死の薬じゃなくて変化を拒絶する薬なのよ。ナハトを永遠の危篤状態にさせるつもり?」

 

 妹紅の提案を輝夜は一刀の下に両断した。しかし妹紅は何も考えず口にしたのではないらしく、どこか口元に綿を含ませるように、

 

「いや、それなんだけどさ。あの薬を飲んでから私は結構姿が変わったんだよ。髪は白くなったし、異様に伸びた。瞳は真っ赤に染まる始末。変化を完全に拒絶するなら背だって伸びるわけが無いでしょう? 私が飲んだ薬と同じ奴を、永琳が手を加えて変化を持つように改良したら大丈夫なんじゃない? 本当の不死じゃなくて、疑似的な不死を与える感じで」

「その変化は私と輝夜が飲んだ薬と、あなたの飲んだ薬は少し違うから起こっただけなのよ、妹紅」

 

 蓬莱の薬は一種類だけではない。()()の姿形を完全に保ったまま不死と化した輝夜たちが飲んだものと、月の都に幽閉されている嫦娥のようにヒキガエルとなって完全な不死を得るもの。そして妹紅が飲んだ、副作用によって肉体が少しばかり変異をきたす薬の三種類である。

 

「私たちが飲んだ蓬莱の薬は全部、ある意味失敗作なの。特に妹紅、あなたのものは副作用によって容姿に変化が生じてしまう不良品だった。けれど言い換えればそれだけ。見た目は変わっても根本的な主作用に変わりはないのよ。だから簡単に投与するわけにはいかないの」

「やっぱり駄目か……ごめん、早まった」

 

 しゅんと肩を落とす妹紅。それを跳ね除けるように、永琳が言葉を繋ぎ合わせた。

 

「けど、こういった事態に直面するのは織り込み済みよ」

「え?」

「私達を誰だと思っているの? これくらい予測していない筈がないでしょう。この治療において最も危惧すべきだったのは魔力の総量だった。でもそれは宵闇妖怪さんのお陰で解決したから問題じゃなくなった」

「なら、ナハトは治るのね……? 治るのよね?」

「余程のアクシデントが無ければ大丈夫でしょう。この時に備えてずっと紫と動き続けてきたのだから。そろそろ実を結んでもらわなくちゃ困るわ」

 

 ね? と永琳は紫に向けてウィンクを贈る。

 紫は応じるように微笑みながら、人型の紙きれを取り出して。

 

「私達の出る幕は終わりました。後は結果がどうなるか、ただそれだけを見守りましょう」

 

 

「…………っ?」

 

 薄暗い世界の中、ぼんやりとした視界を抱えながら私の意識は覚醒した。

 地霊殿のものではない、見慣れた私室の天井が映る。しかし、ここが紅魔館だと認識するのに相当の時間を必要とした。

 

 だって、私は。

 

「私は……」

 

 死んだはずだ。

 確かに、死んだはずなのだ。

 

 反魔力によって存在の支柱を奪い取られ、太陽の熱波に身を焼き尽くされ、自らの命までも絞りつくした私はあの場で力尽きて息絶えた。朽ちていく体の感触も、冷めゆく意識の終末も、走馬灯さえも、今だって克明に思い出せる。

 混乱が胸の中でうずく。ここは本当に現世なのだろうかと、自分の生身の手を見ても触れても、信じる事が出来なかった。

 

「ここは、あの世か?」

「残念ながら、ここは現実であなたは生者よ。異端の吸血鬼さん」

「っ?」

 

 突然聞き慣れない声が部屋全体に響き渡って、一瞬幻聴かと疑った。

 しかし声のした方へ振り向いた私は、その考えをすぐ改める事となった。

 何故なら視線のその先に、なんとも形容しがたい出で立ちの少女が、テーブルに腰かけ足をプラプラとさせながら居座っていたからだ。

 

 真っ先に目に着いたのは、ロシア帽の上に鎮座する赤紫の球体だった。ストロベリームーンさえ霞んで見える禍々しい物体が少女の頭上に乗っていて、その異様さに私は言葉が出なかったほどだ。

 彼女の奇抜さはそれだけにとどまらない。首のチョーカーを起点に伸びる三つの鎖の先端には、頭の球体以外に地球や月と酷似した物体が接続されており、両肩辺りをふよふよと浮かんでいるのである。

 加えて、胸元に大きく『Welcome ♥ Hell』とプリントされた現代的なTシャツが、一層彼女の正体を暗雲の中に突き落とした。

 

 なので、私にはもはや、この言葉以外に送り出せるものはなく。

 

「君は……誰だい?」

「自己紹介は先ず自分から――だけど、寝起きだし勘弁してあげるわ」

 

 感謝しなさい? と得意げに返されるものの、情報量の多さに私の思考回路は完全なショートを迎え、まともな返事を返す事すらできなかった。

 構わず、謎の赤髪少女は続ける。自分の胸元へ手を当てながら、活気に満ちた声色で。

 

「私はヘカーティア。ヘカーティア・ラピスラズリ。月、地球、異界の地獄を束ねる女神様よ」

「ヘカー……ティア?」

「そうそう、ヘカーティアちゃん。ちなみにちなみに、あなたにとってこれからの上司でもありまーっす」

 

 

 ………………………………………………。

 何がなんだか、分からない。

 

 

「どう? 事情はだいたい呑み込めた?」 

「…………………………ああ、概ね理解出来たよ。ありがとう」

「どういたしましてー。親切な女神に感謝なさい」

「……念のため伺っておきたいのだが、敬語を用いた方が良いのだろうか? あまり慣れていないのだが、立場上必要なのであれば善処する」

「いらないわよそんなの、堅苦しいの嫌いだし」

 

 ヘカーティアと名乗った少女は、混乱する私を無下にすることなく、懇切丁寧に何が起こっているのかを説明してくれた。

 

 まず、彼女は自己紹介の通り地獄の女神で間違いない。それも普通の神格ではなく、未だ外の世界でも現役でいられるほど高い格を持った女神であり、幻想郷などといった枠組みを遥かに超越した存在である。分かりやすく噛み砕くなら、彼女は冗談でもなんでもなく指先一つ捻るだけで幻想郷どころか月すらも崩壊させることの出来る力を持つ。それほどの力量を秘めた神格なのである。

 

 そんなヘカーティアが、縁も所縁も無い私に一体何の用があるというのか。答えは先の発言にあった。

 結論から言おう。彼女は私を()()つもりでいるらしい。

 

 事の発端は四年前に遡る。安定した恐怖の供給ラインを手に入れる為に知恵を絞っていた紫と永琳は、永琳が私を幻想郷へ適合させたように、人々の怨念や恐怖が渦巻く地獄そのものへ適合させればよいのではないかと考えた。そこでまず槍玉に挙がったのが映姫だ。地獄と正規のパイプを持ち、私を色眼鏡で見ることなく適正に評価できる人物は彼女しかいない。

 

 紫はすぐさま四季映姫へ相談を持ち掛けた。地獄へ一つの存在を、それも私と言う特異中の特異を馴染ませるには、一体どうすればいいのだろうかと。

 暫くして、答えは出た。ヘカーティア・ラピスラズリという地獄の支配者の力を借りる事が出来たならば、この難題を解決する事が可能だろうと映姫は紫に伝えたのである。

 幻想郷への適合ならばいざ知らず、地獄となると途方もない力を要求される。それこそ、ヘカーティアのように地獄を丸ごと統括出来るほどの規格外な存在の手助けが必要不可欠だったのだ。

 

 しかし課題はもちろん山積みだった。当然ながら、見ず知らずの神格へ脈絡もなく妖怪を受け入れてくれ、などと頼み込んだところで受理されるわけがない。当然だ。だから二人は、実力主義である地獄の性質を逆手にとって正攻法で攻略しようと打って出たのである。

 即ち、人間風で言うなれば履歴書を送り、地獄の一員として私を採用させる事だった。

 

 映姫が私へ百体の怨霊浄化と回収を命じたのも、推薦に値する適性や能力を測る為のものだったらしい。無事に成し遂げた私は一定の能力を評価され、浄玻璃の鏡による審査もパスし、八意永琳、八雲紫、四季映姫・ヤマザナドゥの認印を携えた推薦状が完成した。完全実力主義の地獄でこの書類は抜群の効果を誇り、ヘカーティア・ラピスラズリの目に留まった事で、彼女の下へ配属される事が決まったという訳である。

 

「肝心なあなたへの報酬は、お駄賃と地獄にある恐怖の無限使用よ。経路(パス)は既に繋いでおいたから、どう? だいぶ楽になったでしょ」

 

 言われてみれば体が軽い。五体も満足に揃っているし、魔力は溢れんばかりである。

 

「本当に、なんとお礼を言えば良いものか」

「給料の前払いだから気にしない、気にしない。働いて貰えれば一向に構わないわ」

「……ところで、働くとは言ったが具体的に私は何をすれば良いのかな?」

「別に何もしなくていいわよん」

 

 予想外の言葉があっけらかんと飛び出してくる。何もしなくていいとは、一体どういう意味合いだろうか。

 呆けていると、ヘカーティアが補足を始めた。

 

「あなたの中身は知ってるわ。消滅の概念の結晶、原初の恐怖の集合体。本当、これ以上にない適役よねー。地獄の闇を深めるにはぴったりの逸材だわ」

「……?」

「昔ね、嫦娥って奴の夫が太陽を撃ち落としちゃってさ。お陰で光源が弱まったものだから地獄の闇がすごーく薄まっちゃったのよ。ほんといい迷惑よね。で、肝心のあなたはいわば闇そのもの。ただそこにいるだけで畏怖を集め、ただ歩くだけで恐怖をばら撒く。薄まった闇を濃くするにはうってつけの材料ってわけよ」

「……つまり、私は地獄で恐怖を喚呼させればそれで良いという事か」

「ぴんぽんぴんぽーん。暇で退屈で刺激の無い、おまけに交流だって殆どないお仕事だけど、その分お休みや報酬は奮発するから頑張って頂戴ね」

 

 ふむ。ただ恐怖を呼び起こすだけで良いのであれば、私にとってある意味天職なのかもしれないな。

 しかも話によれば、一年の内半分の時間を好きに使って良いとのことだ。半年分きっちり働きさえすれば、一部条件付きではあるものの、残りの半年は幻想郷に行こうが外に行こうがどうしようとも勝手らしい。願ったり叶ったりとは、正にこのことを指すのだろう。

 

「了解した。何から何までありがとう、ヘカーティア女史」

「感謝を言われる筋合いはないわ、ただの福利厚生の一環だし。地獄の職場は実力に応じた対価がウリなのよ。――それに」

 

 彼女はテーブルから音もなく降りると、私に背を向けながら。

 

「お礼なら、それこそ妖怪と月の賢者さんに言った方が良いんじゃない? あの子たちが頑張ってくれたからこそ、あなたはここまで辿り着けたのだから。もちろんあなたも頑張ったとは思うけど、彼女たちの努力は並じゃない。この私を納得させる推薦材料と資料を集めたり、そもそも私へ掛け合おうとすること自体がとんでもない事なのよ」

「――――」

「良い友達を持ったわね、吸血鬼さん」

 

 何気なく放たれたその言葉が。

 なんだかとても、胸に響いたような気がした。

 

「明日迎えに来るから、身支度を済ませておきなさいな。それじゃバイバーイ」

 

 笑顔で手を振りながら、星のようなエフェクトと共にヘカーティアは忽然と姿を消した。

 残された私は虚空を眺めながら、彼女から渡された小さな言葉を、何度も何度も反芻していた。

 

「……良い友を持った、か」

 

 心の底から、そう思える。

 私一人だったなら、きっとここまでは辿り着けなかった。私一人だったなら、とっくの昔に死を迎えていた。

 彼女たちの力があったから、私は第二の生を許された。彼女たちが味方でいてくれたから、普通に生きる事を許された。

 その事実が、こんなにも暖かいなんて。

 

「私は、どれだけ恵まれているんだろうな」

 

 感謝の暖かみだけが、ただただ湧き水のように溢れてくる。生きる事を許された喜びが、胸を中心に染み渡る。

 拳に額を当てながら、私は込み上がってくる全ての感情を織り交ぜて、一言にして吐き出した。

 

「ありがとう。生きていて、本当に良かった」



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エピローグ
∞.「吸血鬼さんは友達が欲しかった」


 ヘカーティア・ラピスラズリは月、地球、異界の地獄を司る三相の女神である。それぞれ独立した肉体を持つが、統率を担う本体は地獄の底で鎮座しており、彼女は一個人でありながら三つの世界を同時に支配している摩訶不思議な状態にある。

 

 ナハトへ恐怖を安定して供給させつつ活動できるようにする為には、この『肉体を本体と分離させながらも同一として存在させる』方法こそ最も効率の良い打開策ではないかと、映姫からヘカーティアの情報を得た紫と永琳は考えた。かつて永琳がナハトの『型』を幻想郷に適合させ恐怖の供給経路を成立させたように、地獄の一界と適合させたナハトの本体を深淵に置き、別の肉体を遠隔操作させる事で、中身の削減によるリスクを失くそうという計画である。

 

 八雲紫、八意永琳、四季映姫・ヤマザナドゥの認証と推薦状を受けたヘカーティアはこの計画を環境形成の一環として承諾し、ナハトへ同一人物でありながら全く別個体となる肉体を製造した。これを介する事で、事実上ナハトは無限の生命力を手に入れる事が可能となったのである。

 加えて、これが予想以上の結果を生む事となった。肉体はナハトが自ら別け隔てて生んだ分身でも分霊でもなく、ヘカーティアの人智を超えた力が創造したオーダーメイドである。例えるなら電脳世界のアバターのようなものだ。ナハトの意識が地獄の底から肉体を操作してはいるのだが、それはナハトであってナハトではない。別人でありながら同一人物という矛盾の中に置かれており、それ故か、瘴気が仮初の肉体にまで伝播せず、なんともあっさりながら、ナハトは魔性との離別を果たす事に成功したのである。

 

 しかしそれだけでは解決できない問題点が残っていた。

 それは、ナハトの不気味さを増長させていた原因の一つ。妖怪の常識から視た、性別と性格の完全乖離である。

 

 魔性で恐怖を自動搾取してしまう性質のためか、まるで天敵のいない島で育った鳥が警戒心を失くしてしまった様に穏やか過ぎる気性を持つナハトだが、外見は妖怪の常識から考えて、鬼神の如く荒々しく傲慢であるハズの男だった。

 加えて、彼はあまりに歳を重ね過ぎてしまっている。それなのに、相応の傲りも豪傑さも欠片も無いと来た。この異常さ、歪さが、魔性の強烈な恐怖誘因と相まって尋常ならざる嫌悪をばら撒いていたのは事実である。星熊勇儀や伊吹萃香が気味悪がったのが良い例だろう。

 

 ナハトはこれまで異端なる魔性によって第一印象を破壊され、結果多くの勘違いを生み続けてきた。そしてヘカーティアの助力により魔性と別離を果たしたとしても、瘴気を失ったナハトは傍から見れば、精神異常の領域に入り込むほど穏やかで人畜無害なおじさんである。

 人が他人のイメージを決めるのは第一印象が大半を占める。それは妖怪であっても例外ではなく、実力主義に加え年齢=強大さの風習が根付く妖怪界隈において、このステータスは無視できない悪性だった。少なくとも信用を得るのは難しい。平穏を望むナハトにとって、余計な波紋を生みかねないこの要素は取り除くべき障害と言えるだろう。

 

 けれど今になって性格を直すなんて不可能だ。彼はあまりに永い時を生き過ぎた。存在の根底にまで染みつき離れなくなった地の性分を叩き直すには、一度死んで輪廻転生を果たした方がよっぽど早い時間を要求される事になる。それに凶暴になった所で誰のメリットにもなりはしない。

 

 ならば、どうやってこの問題を解決すればよいのだろうか?

 答えは実に、単純明快だった。

 

 

 

 暗い、暗い、地の底よりも深い闇の世界があった。

 足を滑らせれば体中に傷を刻まれるだろう、ゴツゴツとした岩の大地が広がっている。所々より溢れる溶岩はただのマグマではなく、死者の怨念を焼き焦がす灼熱だ。

 ここは罪障を抱えた魂が堕ちる場所。苦痛と清算、救済と回帰を望める贖罪の世界。

 地獄と呼ばれるこの空間は、人々が絶える事なき畏怖を捧げる闇の領域だった。

 

 果ての無い暗黒空間の先に、一際目立つ巨大な建造物が見える。

 ヒビ割れ煤けた白い柱が一帯を囲むように陳列し、中央には崩れかけの階段が続いている。先に広がるのは純黒の石で作られたタイルの床で、まるで黒曜石で出来た海のよう。

 

 おどろおどろしい神殿の最奥には、ポツンと玉座が佇んでいた。

 

「吸血鬼さーん! ご主人様から文を預かってきたよーっ!」

 

 暗澹に包まれる建物の中を、一条の灯火が蝶々のように舞い踊る。それは見た者を狂気へ誘う松明の光彩だった。

 明かりの持ち主は妖精だ。紫の生地をベースに水玉模様があしらわれたピエロの様な帽子を被り、半身を青地の星マーク、対する半身を赤白のストライプで埋め尽くされた星条旗のような服装の少女である。名をクラウンピースという。

 ヘカーティア・ラピスラズリに仕えているらしいその妖精は、道中でよれてしまったのだろう便箋をヒラヒラと振りながら玉座の下へと駆け寄った。

 

 玉座では一人の男が死人の様に眠っている。新たにこの地獄を任され、恐怖の源泉としての役目を担った異端の吸血鬼だ。

 クラウンピースは瞳を閉じたままの男の顔を覗き込み、腕を組んで悩ましそうにうーんと唸る。

 

「あれー? もう休暇に入ったんだっけ? おかしいなぁ、まだお休みには早いはず――あっ」

 

 しまったと言わんばかりにクラウンピースは顔を蒼褪め、

 

「い、いっけね。そう言えばあたい、仕事忘れて三日くらい遊んでたんだっけ……つまりつまり、これは遅刻って事よね。ご、ご主人様に怒られる? 怒られちゃう……?」

 

 あわあわと慌てだすクラウンピース。しかしふとした拍子に我へと返り、じいっとナハトを眺めると。

 

「……吸血鬼さん寝てるし、あたいが遅れて来たって分かんないよね。よし、よし。あたいはちゃんと仕事したんだ。ご主人様も大事な手紙とは言わなかったから、うん、完璧な作戦ね!」

 

 肘置きに鎮座するナハトの手をそっと持ち上げ、便箋を恐る恐る差し込んでいく。無事に挟まった事を確認したクラウンピースは、意気揚々と神殿を後にした。

 

「…………急を要するものじゃなし、だな」

 

 片目だけ開き、差し込まれた手紙の中身を確認するナハト。無問題と判断したのだろう。直ぐに瞼を閉じて、意識を再び地獄の底からシャットアウトした。

 

 

「おっねえっさま――――ッ!!」

「ふぎゅっ」

 

 コメディドラマを彷彿させる豪快な音と共にドアが開けられたかと思えば、フランドールがミサイルの如くかっ飛んできて、七曜の魔法使いと優雅なひと時を楽しんでいたレミリアを巻き込み、雪だるまのように床の上を転がり回った。

 漸く勢いが止んだところで、全く怯む様子を見せない悪魔の妹は白い便箋をレミリアの顔へ叩きつける様に差し出すと、

 

「みてみて! 招待状きたよお姉様! おじさまからの招待状! おじさま帰って来たんだよ! ねぇねぇ見て見てねぇねぇねぇ!」

「――あんっ、たはっ、さぁっ! 少しは慎みを覚えなさいってあれほど言ってるでしょうが~~~~っ!?」

「ふみぇみぇみぇみぇ!? ごめんなさああああああいっ!?」

 

 馬乗りの妹をひっくり返し、頬を両手でつまむと餅のようにこねくり回すレミリア。

 無事にお仕置きを終えたところで、くすくすと微笑ましそうに静観していたパチュリーが言った。

 

「ナハトが帰って来たって本当なの? フラン」

「そう! そうなのよパチュリー!」

 

 瞬時に持ち直したフランドールは、勢いよく立ち上がるとテーブルまで歩み寄ってパチュリーへ手紙を手渡した。

『おいっ、先に私に見せなさいよ!』と背後から文句が聞こえてくるが、パチュリーはもくもくと中身を読んで。

 

「ふーん……今晩博麗神社で宴会ね。直接顔を出しに来ないって事は、彼、色んな所を回ってるのかしら。大所帯になりそうね」

「パチュリーも行くでしょ!?」

「パス」 

「なんでぇっ!?」

「だって外出たら髪痛むし。それにナハトは暫く紅魔館に滞在するはずでしょう? わざわざ宴会に行かなくても、そのうち会えるから問題ないわ」

「むぅ~~。ドライなんだから、もー!」

「じゃあ、こうしましょうか」

 

 揉める二人の間へ入り込み、レミリアは得意げな笑みと共にパチュリーに向かって人差し指を立てると、折衷案を繰り出した。

 

「宴会の間、紅魔館を閉鎖するわ。何人たりともこの館には立ち入り禁止。勿論、地下図書館もね」

「ちょっ、レミィっ」

「当主権限よ、文句ある? ……というのは、まぁ冗談として。たまには羽を伸ばしなさいな。あの異変からまだ一日も休んでいないのでしょう?」

 

 それはレミリアなりの、不器用な優しさだったのだろう。

 事実、パチュリーはスカーレット卿の手によって引き起こされた妖精の決起を鎮圧するために、美鈴と共にずっと戦い続けていたのである。喘息持ちの為に長時間の詠唱は体に障るにも関わらず、ほぼ倒れる寸前まで、彼女は紅魔館の守護とレミリアたちへの魔力バックアップを続けていた。

 だというのに、貧弱なのか丈夫なのか、パチュリーは今日までろくに休みも取らず、いつもの研究へ没頭する毎日を送っていた。曰く、遅れた分を取り戻したいとのことだが、努力も過ぎれば毒である。どうにかして癒してやれないものかとレミリアは密かに悩んでいたのだった。

 

 じとっとした目をレミリアへ向けながら、パチュリーは言った。

 

「外の世界じゃ、無理やり宴会に引きずり出すのはご法度らしいわよ」

「それは宴会が嫌いな者にだけ当て嵌まるのよ。パチェ、クールぶってるけど好きでしょ? こういうの」

「……悔しいけど、否定できないわ」

「決まりね。さ、閉鎖の支度をしましょうか。咲夜と美鈴に言ってくるから、あなたも小悪魔に伝えてきなさい」

「やったぁパチュリーありがとう! 一緒に楽しもうねっ!!」

「ええ―――って、ちょ、待ちなさいフランドール私は吸血鬼より脆弱な肉体なんだからレミィと違って思い切りハグされると骨格系に重大な損傷をんむきゅああ――――っ!!?」

 

 

「地上で宴会……ですか」

「結論から言いますと、そういう事です」

 

 幻想郷の地の底にある繁華の街、旧都の中央に建つ地霊殿。

 その建物の主、古明地さとりの自室にて。楽園の閻魔四季映姫とさとりは、互いに向かい合いながら紅茶を嗜んでいた。

 

「いや、あの、お誘いは大変うれしく思ってますよ? でもほら、地底と地上の間には不可侵条約があるじゃあないですか。今回の件で多少親交が芽生えちゃったとはいえ、ねぇ? 覚妖怪が地上に出るのはまずいでしょ」

「いいえ、そんな事はありません。この宴会は此度の異変の功労者を労う祝宴でもあるのです。地上だろうが地底だろうが、労働に見合った対価を払うのが世の条理。なにも怖気ずく事はありません」

「で、でもなぁー。でもなぁー……」

 

 歯切れが悪そうにしどろもどろとするさとり。恐らく面倒臭いか、引き籠っていたいが為の躊躇なのだろう。嘘や生半可な言い訳が通用しない映姫に対してさとりがはっきりモノを言わないのは、きっとそういう事なのだ。

 そんな彼女の焦りを吹き飛ばすように、ばーんとドアが開かれると、

 

「さーとりぃーっ! 聞いたぜ聞いたぜ、地上で宴会があるんだろう? しかも今回は閻魔様のお墨付きで地上も地底も無礼講ときた! 私も行っていいかいっ、て、げぇっ!? ヤマザナドゥ!?」

「顔を合わせるなり開口一番『げぇっ』とは何ですか、星熊勇儀。……しかしご安心を。今の私はオフですので、ヤマザナドゥではなくただの四季映姫に過ぎません」

「あ、なんだい休暇中(オフ)か。先に言ってくれよう、説教タイム突入かと思ったじゃんかー」

「そのオフの時間を貴女の言う説教に費やしても、私は一向に構わないのですよ? 思い返せばいつもそうして過ごしてる気さえしますが」

「はーい、大人しくしてマース。……と、ほらほら隠れてないで出て来な。映姫もいるし丁度いいじゃないか。なーに、心配しなくても大丈夫だって」

 

 背に隠れていた少女の後を押すように、勇儀はそっと押し出した。

 すると、さとりの妹、古明地こいしが弱々しく姿を見せて。

 もじもじ指を捏ねながら、映姫とさとりを行ったり来たりと目を泳がせれば。

 

「あ、あのっ」

 

 ちょっと大きく出過ぎてしまった声に口を噤む。一呼吸を置いてから、再び少女は声を張った。

 

「閻魔様。私も、宴会に行っていいですか……?」

 

 吐き出されたのは、古明地こいしの懺悔にも似た言葉だった。

 こいしは今回の異変を鎮めようと活躍した者たちのサイドに立っていない。騙されていたとはいえ、むしろ異変を起こした張本人だと言っていい。最後に助太刀したものの、それで帳消しになったなどと、こいしは欠片も思えていないのである。

 だから、ナハトが異変の関係者へ招待状を送ったと聞いた時も、自分だけは行けないかもしれない――むしろ行く資格なんて無いに違いないと、マイナスな観測に囚われていた。

 けれど少女は踏み出そうと決意した。うじうじと心の殻に引き籠っていたら何も変わらないと、あの夜の異変で知ったから。怖がっているだけでは駄目なんだと、フランドールというかけがえのない友達が教えてくれたのだから。

 

 だからこいしは映姫に訪ねた。小さな一歩ではあるけれど、自分も輪の中に入っても良いのだろうかと。地上の者たちへも、改めて償う機会をくれないかと願いを込めて。

 

「古明地こいし」

「は、はいっ」

「あの異変を終えてから、貴女は旧都の復興に助力しましたか? 負傷した者たちへの手助けを担いましたか? 迷惑をかけた者たちへ、精一杯の償いを示しましたか?」

「そ……それは」

「ああ、それなら心配いらねぇさ。こいつはよく働いてるよ。もしかすると私より頑張ってるかもしれんくらいだ。あれから毎日毎日、ずーっとな。この星熊勇儀が保証する。こいしは誰がどう見ても、きちんとケジメをつけられてるよ」

「……貴女に聞いたのではないのですがね。まぁ良いでしょう。鬼の言葉が誰よりも信を置ける事に変わりはない」

 

 古明地こいし、と映姫は再び呼び直して。

 

「例え誑かされた身だとしても、犯してしまった罪は罪です。その事実は未来永劫変わる事など決してない。……しかし、罪とは贖罪をもって免ぜられるもの。貴女が真摯に己の罪と向き合い、それを雪ごうと努力を重ねたのならば、十分評価するに値します」

「!」

「それでも不安を煽られると言うのなら、四季映姫・ヤマザナドゥの銘のもと、判決を貴女に下しましょう。――古明地こいし、貴女は白です。自信をもって精進なさい」

「あ、ありがとうございます!」

 

 ぺこりと頭を下げて、こいしは感極まったようにさとりを見た。

 異変の日からずっと身を粉にしていた妹を知っているさとりには、それはどうしようもなく吉報として映った事だろう。

 ああ、畜生――と、さとりは内心微笑んだ。

 こんな顔をされたんじゃあ、自分一人で籠っている訳にはいかないと、心を揺り動かされたのだ。

 

「……分かった分かった。私も行ってあげるから、そんな眼でこっちを見ないの」

「っ、お姉ちゃん!」

「っと。まったく甘えん坊なんだから。ほら、離れなさい。髪や衣装がぐしゃぐしゃになるでしょう」

「んむー!」

「ははは、姉妹仲が良いのはよい事だ。んじゃあ映姫、地上に連れてく奴を厳選するからさ、後で確認頼めるかい?」

「いいでしょう。ああついでに、地底の住民へ一つ約束を伝えてください。宴会への参加は自由とするが、何があっても地上で暴れ出すような真似はしないと」

「うぐっ」

「拒否権はありません。反故にすれば相応の罰が設けられると知りなさい」

「きょ、今日はオフじゃなかったのかよ映姫ぃーっ!!」

「オフですが、サービス残業をしないとは言ってないでしょう。私はいつ如何なる時であれ、己の役目を果たすのみですから」

 

 

「よう霊夢、遊びに来てやったぞー……って、なんだこりゃ? 宴会でも始める気なのか?」

 

 箒に腰かけ空を飛び、揚々と神社へ降り立った魔理沙は、ごちゃごちゃと物が並んだ博麗神社を見て開口一番にこう言った。

 対する霊夢は割烹着に身を包み、三角巾を頭に被って道具の整理を行っている。博麗の巫女は魔理沙を見つけると、口元の布を外して手招きをしながら声を張った。

 

「良い所に来たわね、こっち来て手伝いなさーい!」

「うげー……、魔理沙さんの今日の運勢は最悪らしいなこりゃ。なんともまぁ、バッドタイミングで来ちまったもんだぜ」

 

 げんなりしながら渋々付き合う魔理沙。箒を引き摺りながら駆け寄って、魔理沙は何事かと霊夢へ訪ねると、

 

「紫から神社を貸し切らせろって連絡が来たのよ。なんでもあの黒い吸血鬼が帰ってくるから、遅めの異変解決祝いをするんだってさ」

「吸血鬼……あ、あー、ナハトか!」

 

 魔理沙はナハトの手によって、霊夢に対する捏造された憎悪を失った。しかし事件の記憶まで全て消えたわけではなく、むしろ殆ど覚えていると言っていい。

 初めは調子を取り戻せなかった魔理沙だが、霊夢とアリスの支えもあってか、今では完全復活を果たすに至った。今日だって縦横無尽に飛び回り、魔法の研究に必要な資材を集めていた程だ。

 

「あいつどこ行ってたんだ? この前誤解して虐めまくったこと謝ろうとしたんだけど、全然見つからなくてさ……」

「知らないわよそんなの。それよりほら、ちゃっちゃと動く! 人数多いから準備大変なの!」

「珍しいな、お前が面倒くさらず張り切るなんて。しかも妖怪に占拠されるってのに……いや、それはいつもの事だったか」

「ハッ倒すわよ馬鹿。――単純に貰うもの貰ったのもあるし、お酒も食べ物もぜーんぶ妖怪持ちだからね。今回の私は準備するだけで良いんだから、そりゃもう腕によりをかけて支度するってもんよ」

 

 目に見えてうきうきとする霊夢。この少女、巫女でありながら己の感情に忠実なので、何かよほど良いものを貰ったに違いないと魔理沙は容易に推測した。

 それが何なのかは後々調べるとして、魔理沙は帽子と箒を邪魔にならないところへ置くと霊夢の手伝いに取り掛かろうとして、

 

『よ、妖夢さんちょっと、危ないですって! それ引き抜いたら全部崩れ落ちちゃいますよ!?』

『で、でもでも、もう引くとこまで引いちゃったから後戻りできないっていうかひぎゃああああああああああああああああっ!?』

『妖夢さーん!?』

 

 どがらしゃーん、と派手な倒壊音と悲鳴が母屋の横の倉庫から轟く。どうやら東風谷早苗と魂魄妖夢も手伝いに来ていたらしい。

 あの音、相当派手に崩れたな。魔理沙はその後始末を手伝わされる未来を前に瞳から光を失った。

 

「霊夢ー、師匠に言われて手伝いに来てあげたわよー……て、どうしたの二人とも。顔青くして固まっちゃって」

「あら鈴仙。良い所に来たわね、早速だけど働いてもらうわ。あんたの職場は今からあの倉庫よ。キビキビ働きなさい」

「…………入り口からもくもく埃が噴き出てるあの倉庫? 明らかにヤバそうな匂いがプンプンするですけど。というかこの波長、もしかしなくても誰か生き埋めになってない……?」

『誰か! 誰か―! 妖夢さんがガラクタの海に沈んでしまいましたーっ!』

「ほらやっぱり面倒な事になってる! 初っ端から重労働の気配しか漂ってこないじゃんやだー!」

「諦めろ優曇華。ここに来ちまったが最後、私たちの負けは確定なんだよ」

「肩に手を置きながら悟った眼でこっち見ないで貰えますか!?」

 

 

 若草が茂り、春告精が飛びまわっては活気をもたらす芽吹きの季節。桃の花弁が落花繽紛(らっかひんぷん)に踊り狂い、月夜の下を御伽噺のように彩る光景は、人も妖怪も問わず魅了される原風景だ。

 そんな幻想郷で最も美しい桜並木を一望できると噂の博麗神社に彼女たちは集っていた。異変を解決せんと戦った者。巻き込まれた者。運良く難を逃れた者と様々で。そこには地底も地上も隔てなく、広い境内の中でどんちゃん騒ぎの唄が響き渡っている。

 

 喧騒の一角で、敷物と弁当を広げ、酒がふんだんに拵えられた領域から輝夜と萃香が顔を出した。彼女たちは手を振りながら、長い階段を上ってきた人物を迎え入れる。

 

「あっ、ナハトだ。おーい、こっちこっちー!」

「主役の癖に遅いぞ吸血鬼ー! 待ちくたびれて三升空にしちゃったじゃんかよー!」

「すまない、遅くなってしまった」

「几帳面そうなあなたにしては珍しいわね。仕事が長引いたりしたの?」

「はは。四方八方に声を掛けていたんだが、()()のせいで色々と手間取ってね」

 

 あー、と。紫はナハトの姿を見ながら納得を示し、容易に想像できるシチュエーションを脳内で過らせながらクスクスと微笑んだ。

 主賓も揃ったし、始めましょ! と輝夜が酒瓶をとり、意気揚々にお猪口へ清酒を注いでいく。永琳も手伝いを買って出て、ナハトの器へ酒を注ぎだした。

 手渡す時、永琳がまじまじと観察するようにナハトへ目をやって、

 

「なんだか、その姿のあなたを『ナハト』と呼ぶのは奇妙な気持ちね」

「え? ……あーそっか! 永琳、()()ナハトを見るの初めてなんだっけ」

 

 ――永琳と紫がヘカーティアにかけあった最後の要求がこれだった。

 

 性別と性格の乖離が異端として映り、性格を修正する事が不可能ならば、性別を変えてしまえばいい。たったそれだけながら実現困難な問題を解決する事が、残された課題だったのだ。

 つまるところ。今のナハトは外殻だけで言うならば、ヘカーティアのモデリングによってれっきとした少女へ変貌を遂げているのである。例えるなら幻想郷専用のアバターだ。幻想郷の空気に少しでも馴染みやすく、少しでも異物感が削減されるようにと考え抜かれた末、行きついた答えの一つがこれだった。

 

「そうそう、私にとっては初めましてになるのですよ。しかし、うーん、やっぱり長生きはしてみるものね、こんな不思議な結末を迎える事になるだなんて」

「私たちが計画して通したことだけど、改めて見ると凄い光景よねぇ。ある意味幻想郷らしいと言えるのかしら? ほんと、何が起こるか分からないものだわ」

 

 この四年間ですっかり親睦を深めたらしい紫と永琳は、数々の思い出に浸りながら笑いあった。

 反して、濡れ鴉という表現がそのまま受肉を果たした様な姿の吸血鬼は、困ったようにはにかみながら、

 

「個人的には性別など有って無い様なものだから頓着する事など無いのだが……他人には、元の私と大分かけ離れているから物珍しく映るのだろうね。声も高いし、背も随分と縮んでしまった。となれば、ここはやはり口調も合わせるべきなのかな?」

「いーよそのままで。幻想郷での見た目はそれでも地獄にあるオリジナルは男なんだから、女口調のお前さんを想像すると鳥肌が出ちまう。それに、爺さんとも紳士ともつかない穏やかな口調は今のお前さんにとって数少ないナハト要素なんだから、そいつまで取っ払っちまったら別人になっちまうだろう?」

「うむ、確かにそう思う」

「まぁまぁ、その内慣れていくわよ。時間はたっぷりあるんだからさ」

 

 じゃあ、早速だけど器をもって! と輝夜が元気よく音頭を放つ。

 応じて、月へ届ける様に皆の猪口が掲げられた。

 

「――――」

 

 騒がしい空気と、賑やかな景色。

 いつもはただ遠くから眺めるだけだったこの景色が、今となっては傍にある。こんなにも簡単に手が届く。

 感慨深いナニカが、込み上がってくるのを感じた。

 

 ここまで辿り着くのに長いようで短かったと、夢見た光景を前に吸血鬼は想いを馳せる。大変な事もあったけれど、それまでの全てが黄金の様に美しく、尊ぶべきもののようにさえ感じられた。

 しかし淡い感傷は、一旦脇へ置いておこう。

 追憶なんて後でも出来る。宴の時は愉快痛快に飲んで歌って、過去の全てを洗い流して、刹那の時間を楽しむべきだ。

 

 だから今は、ただただひたすら元気良く。この一声を刻もうか。

 

 

「乾杯っ!」

 

 



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