吸血鬼さんは友達が欲しい (河蛸)
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プロローグ 0.「その男、帰還」

 プロローグなので滅茶苦茶短いです。正直すっ飛ばしても多分問題ないかなと。




 夜の闇が支配する静寂があった。

 獣も虫も草も、生きるもの全てが眠りについているような、あらゆる音が存在しない空間がそこにあった。

 

 満月の光に当てられ、妖しく照り輝く草木の中に、音が一つ。

 植物に覆われ、お世辞にも人が住むようなところではない地に彼は現れた。野生が織り成す幻想的な光景と似つかわしくない、中世の貴族を彷彿させる黒のマントとスーツを纏い、革靴で土を踏みしめながら、彼は歩き続ける。身の丈190センチ以上はあろうその男は真夜中の森を、一寸先の足元も怪しい暗闇の中を。まるで昼間に町を散歩しているかのように軽やかに、静かに、一つの汚れも擦り付ける事無く、瀟洒に歩を進めていく。

 木々の間を風が吹く。つられて癖のある灰色の髪が靡き、紫水晶を思わせる様な、透き通った紫の瞳が、前髪の間から月光を反射した。

 

 ガサリ、と男は森を難なく通過する。

 

 開けた先に現れた情景を前に、男は思わず感嘆の息を漏らした。

 月明かりが周囲に立ち込める濃い霧のせいで靄の様に反射し、鬱屈としていながらもこの世のものとは思えない神秘的な演出が施された、大きな湖があった。その先には、まるでわざとその存在を主張するために血液でも塗布しているかの如く紅い洋風の屋敷が一つ、湖の畔に鎮座している。

 

 その屋敷を前に、男はふわりとした笑みを浮かべた。毒々しい紅を放つあの屋敷を見つけて喜んでいるのか。はたまた妖しくも美しいこの光景を前に感動しているのか。おそらく、その両方だったのではないだろうか。

 

 ただ一つだけ、男は端的に、誰に言うでもなく呟いた。

 

「随分と久しい光景だ」

 

 男の息が、晩夏の蒸し暑さが肌に吸い付く闇夜の空気へ溶け込んでいく。それがまるで引き金となったかのように背後の森から、今の今まで夢の世界へ浸っていた鳥たちが、獣たちが、終いには獲物を求めて彷徨い歩いていた闇夜の住人(ようかい)たちが。一斉にその場を後にした。

 バタバタと、バサバサと。しかし一切の声は聞こえず、ただ生き物たちの立ち去る羽音と足音が反響する。まるで草食動物の群れの中に、突然肉食獣が放り込まれたかのような反応だった。

 

 男はそれをまるで意に介さずに、目を細めて館を見つめた。獣から本能的に恐れられたこの男は、慈愛の色を瞳に宿す。視線の先にあるものは館ではなく、おそらくその中へ住まう住民へと向けられているのだろう。

 

 彼は言葉を再び紡ぐ。

 

「帰ったぞ、紅魔館。そして初めまして、幻想郷」

 

 応えるように、草木がざわざわと揺れ動く。湖に波紋が走り、風が一際強く吹き荒れた。それはまるで、自然そのものがこの男の到来に騒然としているかのようだった。

 

 




一話目はそれなりにありますのでご安心を!


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第一章「来訪と会合、再会と」 1.「瀟洒な従者は凍り付く」

 私は十六夜咲夜。数年前、妖怪たちの楽園と呼ばれる幻想郷へ主と共に引っ越して来たしがないメイドである。特技は時間を操る事。人の身ではあるけれど、おかげで無駄に広い屋敷でも仕事が捗って重宝している。

 

『咲夜! 大至急私の部屋にお茶を二つ用意しなさい。それもとびきり上等な奴よ。最速最短で持ってくること。いいわね!』

 

 そんな私に、見た目十歳程度の幼子の姿をしてはいるが、五百年近くもの時を生きこの紅魔館の現当主として君臨している絶対不変の我が主、レミリア・スカーレットお嬢様が以上の様に命令を告げられたのは、つい十五分ほど前の話だ。と言っても、止まった時の世界を行き来している私以外からしてみれば、数分にも達していない間の出来事かもしれないが。

 

 唐突だが、私の主について少し話をしよう。私が仕えているレミリアお嬢様は普段、五百年近くを生きてきたとは思えない程気まぐれで我の強いお方だ。平たく言えば我儘、もっと言えば見た目相応に子供っぽい。突拍子もなく無茶ぶりに近い要求を突きつけてくる事は日常茶飯事。気に食わなければ拗ねるし、とても見栄っ張りだ。実に困ったお嬢様である。

 しかし別に私は陰口を叩いているつもりは無い。見た目も仕草も子供っぽいと言う事は、とても愛らしい姿を見せてくださると言う事でもある。ぶっちゃけ目の保養になる。先ほども、お嬢様が酷く慌てた様子で、衣服や髪の乱れを一切気にする素振りも見せず、私が洗濯物を畳んでいた衣裳部屋へ飛び込んできたかと思えば、そのまま足をもつれさせて派手に転がりながら入室してきた光景は今も鮮明に思い出せる出来事だ。

 

 この様に一見すると見た目や言動はまんま子供だが、しかし場合によってはちゃんと人間の畏怖の対象である吸血鬼らしく、高貴で優美な、当主の名に恥じないカリスマ性を遺憾なく発揮する一面もある。やる時はやるお嬢様なのだ。TPOは大事である。

 

 話を戻そう。常日頃から淑女としての素行に磨きをかけているお嬢様が、わざとすっ転ぶような真似をするはずがない。その証拠に転んで先ほどの用件を告げた後、顔をトマトの様に真っ赤に染めつつ『邪魔したわね』と気丈に振る舞いながら部屋を後にしていった。多分、慌てるにしても転ぶ予定ではなかったのではないだろうか。本当に面白い方だ。思わず時間を止めて笑ってしまうくらいには。

 

 それ故、私はふと疑問を抱いてしまったのだ。傲慢でプライドが高く、ドジを踏んでも決して挫ける姿勢を見せないお嬢様をあそこまで狼狽させたものとは、一体何なのだろうかと。怖い夢を見た訳では無いだろうし、Gと称される謎の黒光り生命体が大量発生したわけでも無い筈だ。つまり恐怖に関連したものではないのだろう。お茶をご所望だったところから伺えるのは、とどのつまり予想外の来客がいらっしゃったというところか。

 しかしそれならば尚の事妙だ。来客が来れば門番である美鈴から何かしらの連絡があるだろうし、お嬢様の『運命を操る程度の能力』の応用によって、この館に関連して起こる大まかな出来事は予測できるはずだ。今までがそうだったのだから、そこに疑いの余地はない。と言うことはつまり、お嬢様の力をもってしても予想外と言える事態が起こったと言うことか。

 

 ……しかし、一メイドでしかない私が疑問を持ったところでどうにかなる話ではない。私はお嬢様の命令をこなせば良いのだ。

 お嬢様の乱れた服装と髪をさりげなく時間を止めて整えた後、言われた通りに淹れ方も茶葉も拘った最高品質の紅茶を用意した。茶菓子も完璧だ。後はお嬢様の部屋へ向かうだけ。

 

 お嬢様が部屋へと戻った頃合いを計って、私は時間を止めた。理由は紅茶の温度を保つため、そして現実時間において迅速に行動するためだ。

 部屋の前に辿り着いたら時間停止を解除して、木製の一際豪華なドアを軽めに叩く。

 

『誰?』

「咲夜です。お茶をお持ちしました」

『入りなさい』

「失礼します」

 

 許しを得て、私はドアノブを引いた。礼をして、いつもの様にティーセットを運ぶ。

 ふと。

 私はそこで、視界に違和感を覚えた。

 いや、これは少しばかり語弊があったか。

 私の視界に、本来ならばそこに居るはずの無い誰かが居座っていたのだ。

 お嬢様の対面に、灰色の髪と宝石の様な紫眼を持った美麗な男が、足を組み椅子へ腰かけている。この館へやってくる者は元から少ないが、男の客人はさらに少ない。と言うより、もしかすると初めてではないだろうか。この男性が放つ異様とも言える雰囲気も相まって、凄まじい存在感を放っていた。

 

 普通に考えると、ただのお客様だろう。

 しかしそうであれば、必ず美鈴から一報が届くか、お嬢様からその旨が告げられるはずなのだ。それが無かったと言う事は、彼は正規の客人ではない、と考えるべきか。

 お嬢様の眼へと視線を移す。『早く置け』と訴えているように感じた。

 

「紅茶とスコーン、木苺のジャムになります。どうぞごゆっくり」

 

 完璧なメイドは、そうそう冷静さを崩してはならない。あくまで平静に、私はティーセットを並べていく。

 二人のティーセットを用意し終えた、その時だった。

 男が静かに、唇を動かしたのだ。

 

「君は―――――」

 

 背筋が、凍った。

 

 彼は、まだ言葉を言い終えていない。にもかかわらず、たった三文字の言葉を耳にした瞬間、心臓を直接鷲掴みにされたかのような悍ましい感覚が、私に襲い掛かった。

 思わず、動きを止めてしまう。否、体が勝手に動きを停止したのだ。

 まるで天敵を前にしたカエルが、動けば食われてしまうと、本能的に察知してしまったかのように。

 

「――――新しく、ここに雇われた使用人の様だね?」

 

 イメージは、氷。

 次に脳裏へ浮かんだものは、夜桜の花吹雪の様な妖艶さ。

 冷たく、重く。それでいて果てしない透明感があり、聞く者の耳から心の中へ優しく寄り添ってくるような、甘くも冷ややかで、美しい声色だった。

 たった一言の質問なのに、その声は私の体をいとも容易く縛り上げた。指先はおろか唇すらも動かせない。まるで氷の中に閉じ込められたかのような感覚だった。

 返答を返せずにいると、彼は私から視線を外して紅茶を手に取り、一口含む。

 煙草の煙を吐くように、ふう、と彼は静かに息を吐いた。

 

「……驚いた。香り、色、味……どれをとっても一級品だ。私は長い事生きてきたが、これ程までに美味しい紅茶を飲んだのは生まれて初めてだよ。君からは、ほんの僅かだが良い茶葉の香りがする。つまり、君がこの紅茶を淹れたのかな? 見た所随分と若そうだが、完璧な出来栄えだ。素晴らしいの一言に尽きる」

「……恐悦至極にございます」

 

 賛辞の言葉を貰った瞬間、私を縛り付けていた謎の緊張が解け、雪解け水が地面を柔らかくしていくかのように、心が解されじわりとした安心感が滲み出てくるのが分かった。

 心にゆとりが出来て、私は改めてこの男の異常性に気が付く。

 ただ言葉を発するだけで、人の心を容易く掻き乱す魔性とも言える性質。この世のものとは思えない、整い過ぎた美貌。そして平然と草木も眠る丑三つ時に現れた彼は、まるで吸血鬼であるお嬢様の生活リズムを予め把握しているかのような振る舞いだ。

 まさか、この男は、お嬢様と同じく。

 

「……別に、そんなに緊張しなくても良いんだよ?」

「っ」

 

 読まれている。

 私の鉄仮面ぶりには定評があるし、私自身も感情を表に出す人格ではないと自覚はある。それに、不測の事態で慌てる素振りを見せるなどと言う失態は、紅魔館のメイド長としてのプライドが許さない。常に徹底した冷静さを、表面上だけでも心掛けているつもりだ。お蔭で機械染みた人間でいるつもりは無くても、お嬢様には冷たすぎるとまで言われたが。

 だと言うのに、この男はあっさりと私の心情を読み取った。

 焦りの種が、心に芽吹き成長していくのが分かった。

 

「ところで、君の名前をまだ聞いていなかったね。こんなに素晴らしい紅茶を淹れることが出来る君の名前を是非とも知りたい。教えてはくれないか?」

「……十六夜咲夜です。メイド長を務めさせて頂いております」

 

 一礼。

 何とか言えた。何とか形に出来た。

 幾ら変に緊張しているとはいえ、お嬢様の前で客人に対して無礼な真似など出来るワケがない。そんなことがあろうものなら紅魔館の従者失格だ。

 対応に満足してくださったのか、彼は緩やかに微笑む。彼はれっきとした男なのに、女の私ですらも『色気』を感じてしまうほどの妖艶な、魔性の微笑みを覗かせた。

 

「優美な振る舞いに相応しい、美しい名前だ。私の名前はナハト。気軽にナハトと呼んでくれ」

「かしこまりました、ナハト様」

「様、なんてつけなくても良いさ。変に気を遣わなくて結構。……これから私たちは、家族になるのだから」

 

 ――――流石に、今の発言には私も驚愕を抑えきれなかった。

 家族になる? それは一体どういう意味だ。

 単純に私を篭絡するつもりの宣戦布告なのか。それとも紅魔館を乗っ取り、私を含めた全員を支配しようと考えているのか。ただの冗談には聞こえない。この男の眼は、嘘を言っている眼ではない。

 ではこの男は、私たちの敵か?

 焦りに呑み込まれた思考が、突拍子もない理論をはじき出していく。しかし私には、それを止める術が無かった。それほどまでに、今の『十六夜咲夜』は動揺していたのだ。

 私の混乱を見越してか、ナハトと名乗った男は、ああ、と何かに気が付いたように声を発した。

 

「失敬。誤解を招くような発言をしてしまったね。この件に関してはレミリアの方から説明してもらった方がいいだろう。頼めるかね?」

 

 今の今まで黙り込んでいたが、話を振られたお嬢様は一口紅茶を口に含むと、静かにカップをテーブルに置き、言った。

 

「彼は私の義理の父よ。血は繋がっていないから、一応おじ様と呼んでいるわ。長旅から今日帰省してきて、またここに住む事が先ほど決まったの。以後、彼とは私と同等に接する事。良いわね」

 

 お嬢様の言葉に、彼は神妙な顔つきをした。どこか腑に落ちないでいるらしい。

 

「レミリア。私はあくまで屋根を共にするだけの、厳密な立場で言えばしがない客人でしかない。なのに当主のお前と同格と言うのは、いささか変じゃあないかね」

「そんなことは無いわ。おじ様は私よりも偉大な吸血鬼なんですもの。これ位当然よ。本当はこんなものじゃ足りない程なんだから」

 

 ……やはり、彼はお嬢様と同じ吸血鬼か。

 妖怪の外見は、その人物がどれほどの時を過ごしているか推し量る基準にならない。その良い例として、お嬢様は500年もの時を生きているのに対し、その姿は人間でいえば10歳程度の子供だ。幻想郷には、そう言った年齢詐欺とも言える妖怪少女たちがうじゃうじゃと住んでいる。

 だが、それでもはっきりとわかった。彼は、見た目は20代前半の好青年だが間違いなくお嬢様よりも長い時を生きている吸血鬼だ。人間で言えば、成人している個体なのだろう。もしかすると老成しているかもしれない。少なくとも滅多なことでは他者を同格として扱わない傲慢不遜なお嬢様が『おじ様』と敬い、偉大な吸血鬼と称える程度には年を重ねているのは間違いない。

 その年の功を示すかのように、彼はまるで娘の我儘を聞く父親のような困った笑みを浮かべて、言った。

 

「しかしだな……ふむ、ならばこうしようか。咲夜、私から一つ、お願いを聞いてもらえるかい?」

「はい、なんでしょうか」

「私の身辺管理はしなくていい。私の事は私がやろう。だからそこまで、私に対して気を負ってもらわなくて結構だ」

「!?」

 

 彼は私を驚かせるのが、余程好きなようだ。でなければ、こんな言葉を間違っても吹っかけてくることはあるまい。

 吸血鬼が、悪魔が。自分の事は自分でやるからそんなに気を遣うな、と相手を気遣う言葉をストレートに言ってのけるだなんて、一体誰が思い浮かべるだろうか。吸血鬼狩りを盛んに行ったという当時の排他的な十字教徒がこの言葉を聞いたら、どんな顔をするのだろう。まず間違いなく罠だと疑うに違いない。今の私と似たような心境の筈だ。だって、普段のお嬢様が『アレ』なのだ。この発言も、悪魔が得意とする相手を油断させるための甘言の類なのだろうか。

 しかし私には不思議と、そう思うことが出来なかった。

 何故だか彼の言っている言葉の意味は、そのまま本心の現れなのだろうと、心の底から思えたのだ。彼の声には、その言葉を信用させる何かがあった。

 

「さて。名残惜しいが私はここで席を外させていただくよ。久しぶりに来てみれば、随分この館も構造が変わっている。今後迷わないよう、散歩がてらに館を回らせてもらおう」

 

 そう言って、彼は椅子から腰を上げた。

 改めて見ると、大きい。身長は190センチ以上あるだろう。ただでさえ小柄なお嬢様の隣に立たれれては、お嬢様が一際小さく映ってしまう。まるで親子そのものだ。

 

 お嬢様は、そう、とだけ呟いて、次に、

 

「なら咲夜をつけるわ。迷ったら戻ってこれなくなるでしょ?」

「心配いらないさ。この部屋の場所は覚えたからね。あとは見ていないところを一通り回るだけだ。なに、これから住まう場所で迷子になるなんて経験も、初めの頃にしかできないんだ。堪能させてもらうよ」

 

 それじゃあ、と涼しげな笑顔を浮かべて、彼は部屋を後にした。

 

 カツ、カツ、カツとブーツの音が遠ざかっていくと、お嬢様は急に空気が抜けた風船のように萎び、糸が切れた操り人形の如くテーブルに突っ伏してしまった。

 

「うー……疲れた……おじ様がまたここに来るなんて聞いてないわよぉ……」

「……お嬢様。失礼ながら一つご質問をしてもよろしいでしょうか?」

「おじ様の事でしょう?」

 

 お嬢様は若干疲れたせいか、どこか張りを無くした顔をこちらに向けて言った。

 

「あの方はね、この紅魔館にまだいっぱい吸血鬼やら妖怪が居た時に、一緒に住んでた吸血鬼の一人なの。親を早くに亡くした私たちの、まさに親代わりの様な存在だったわ。まぁ、400年くらい前にフラッと出かけてそのまま戻ってこなかったから、もしかしたら……って思ってたけど。どうやらそれも杞憂(きゆう)だったみたいね」

「それは、初耳ですわね」

「こうして話のネタにする機会もなかったからねぇ。私もおじ様が家を空けていた時間が時間なだけに、今まですっかり頭から抜け落ちていた訳だし」

「……あの方は、どういったお方なので?」

「どういった人……ね」

 

 お嬢様は、ナハト様の事をまるで知らない赤の他人だとでも言う様に、言葉を詰まらせた。

 

「分からないわ」

 

 どこか悲しそうで、どこか寂しそうな、複雑な色がお嬢様の表情に浮かぶ。

 

「分からないのよ、おじ様の事は。あの人は私たちに殆ど素の面を見せなかったわ。百年ぽっちだけど、それでも一緒に過ごした私でさえ知っているのは、そんじょそこらの吸血鬼やら妖怪とは別格の存在だと言う事実のみ。咲夜も感じたでしょう? あの圧力を伴う重々しい瘴気を。普通の吸血鬼が常日頃からあんな瘴気を放てる訳がないわ。大妖怪ですら、死闘で本気を覗かせた時でしかあんな圧迫感を出すことはないというのに」

 

 私は静かに頷いた。

 もう二度と忘れることはないだろう。あの、言葉一つで心臓を直接触られたかのような、言い知れない謎の圧力。まだ、幻覚として胸の奥に感覚が残っているほどだ。

 

「館に居た吸血鬼たちは、皆おじ様を恐れていたわ。同じ吸血鬼とは思えない紳士的で柔らかな態度なのに、常に纏っているのは得体の知れない禍々しい空気。――――おじ様には、普通の吸血鬼には無い特別な何かがある。それだけは分かっているのだけど、出自も親族も生い立ちも一切分からない。確かに存在しているけれど、謎の塊のような人物。それがあの人よ」

 

 ――――どういう、ことなのだろう。

 お嬢様とナハト様は過去、この館に住んでいて、寝食を共にしていた。その当時は吸血鬼たちが大勢居たと言う。だと言うのに、彼の事を詳細に知る者が誰一人としていなくて、けれどもその圧倒的な存在感から畏怖の対象とされていた吸血鬼。

 こんな不可解なことがあるだろうか。話によれば、ナハト様はお嬢様の親代わりだったそうではないか。なのに、何も知らないなんてことがありえるのか? 

 彼は別段、無口と言う訳では無かった。それどころか逆に、初対面の私に向かって積極的に話しかけてくださるほどには饒舌だった。圧迫感に威圧され、固まっていた私に対して不快な表情を一切見せることなく、何度も柔らかく話しかけてくださっていた。故に、彼が無口故に素性が分からないと言う線は薄いように思える。

 では、何故? 何故数多の人外たちが彼と共に暮らしながら、彼の素性を掴むことが出来なかったのだ?

 

 ナハト様。お嬢様の親代わりだった人物であり、数多の吸血鬼に畏れられた吸血鬼。

 彼は一体、何者なのだろうか。

 私の胸の中に、大きなしこりのような不安感が、密かに生まれつつあった。

 

 

 夜の静寂が心地いい。近くに大きな湖があるせいか、夏だと言うのにほんの少しばかり涼しく感じる。こんな夜は、散歩がいつもより気持ちいいものだ。

 

 私の名前はナハト。苗字は無い。昔からそう呼ばれていたから、こう名乗っている。何の変哲もないただの一妖怪である。……と言えば、嘘になるだろうか。まぁ、正確にはただの妖怪ではない。ちょっと不幸体質な妖怪である。

 

 一体全体何が不幸体質なのか。それは至極単純、私に宿っている忌々しい能力が原因だ。

 私は周囲に恐怖を呼び起こす魔性を放つ、ただその程度の能力を持っている。言ってしまえばこの能力は私の体からはもちろん、私の所有物、果てには視線や声にまで、相手に影響を及ぼす瘴気に近いナニカを無意識に発してしまうというものだ。能力より最早体質に近い。故に不幸体質である。

 これがまた厄介で、私の魔性を受けた者は例外なく畏怖や恐怖を植え付けられてしまうらしい。魔性は動物や人間はもちろん、妖怪にまで作用してしまう困った代物で、特に精神を本体とする妖怪には、どうも私の魔性は相性の悪いものの様だ。そのせいか、私は他者とのコミュニケーションが上手く取れないでいる。

 何故こんな能力による副次的効果にわざわざ言及したかと聞かれれば、答えは一つしかない。私にとってこの答えが、死活問題に等しい悩みの種だからだ。

 

 実のところ、私には一人として友達と呼べるものがいない。

 

 この加減が制御できない能力のせいで、今までの長い妖怪生において私は一人も友達と呼べるものが出来た事が無い。気のおけない仲は居るかと聞かれれば、レミィを筆頭とした同族の子たちだろうが、やはりどうも私と接するのは辛いらしかった。同じ屋根の下で過ごした同族達であるにも関わらず、何故か私に対してまるで怖いパワハラ上司を相手にしているかのような余所余所しい態度を、吸血鬼狩りの影響で散り散りになってしまったその日まで終始崩さなかった。何もしていないのに泣きたくなった。実際陰で泣いた。

 

 無論、私だってこの魔性の影響に負けないように努力はしているつもりだ。能力のコントロール練習はもちろんのこと、笑顔の練習もした。話題の幅を広げるために世界を巡り見聞も深めたし、様々なジャンルの趣味嗜好にも挑戦してみた。お蔭で色々なスキルが身についた上、どの様な文化や特性、癖のある人物でも受け入れる事の出来る包容力を獲得したと思っている。今の私ならゴキブリですら友達になれる自信がある。例えどんな者であっても、友達になってくれるならば、受け入れる準備は万端だ。

 

 しかし、この魔性の効果は私の想定を上回る曲者だった。加減が効かないのは言わずもがな、旅先で出会った人妖は、まず私を見ると恐怖に硬直するか、咽び泣くか、逆上して襲い掛かってくるか、何かに目覚めて忠誠を誓おうとしてきた。私は普通に、何気ないお喋りをしながらのんびりとした時間を過ごせる極普通の友達が欲しくて声をかけたつもりだったのだが……。毎度ながらどうもまともに応対してくれないのだ。受け入れようにも、相手から拒絶されては意味が無い。大抵が空回りに終わってしまった。

 

 まぁこれがつまり、私のちょっとした不幸履歴という奴だ。簡潔に纏めると、私は体質に孤独運命を左右されてしまったキャリアうん千年のエリートボッチである。世界中どこを探しても私よりボッチキャリアの長い人物は存在しないだろう。

 

 話を戻そう。結果私には、世界中を渡り歩いても友達になってくれる者は見つけられなかった。命乞いをされるか、討伐隊が組まれるか、変な宗教が出来ただけだった。私は討伐隊や狂信者たちから逃げつつ、ずっと友達になってくれる存在を探し続けた。そうした末に行き着いたのが、妖怪たちが楽園として住まう東の国の隠れ里、幻想郷の情報だ。

 

 草の根をかき分けるように様々な妖怪たちへ話を聞けば(質問しただけで命乞いをされながら情報提供をされたのは甚だ遺憾だが)、私にとっては愛娘も同然であるレミリアもそこへ移住したというではないか。吸血鬼狩りに遭い、多くの仲間が散っていったと旅の途中に噂が届きハラハラさせられる中、義娘たちが生存していたという吉報を聞いた時はつい嬉しくて舞い上がったものだ。

 

 さらに聞く限りでは、幻想郷とはこの現代社会で妖怪に残された最後の楽園とまで称される場所だという。多くの魑魅魍魎が、人間と共に絶妙なバランスを保ちながら生きている、まさに隠れ里なのだとか。常に敵対しあっていた人間と妖怪が、どの様な形であれ共存しているだなんて他に聞いた事が無い。そのような場所ならばきっと、私と友達になってくれる者も居るに違いない! そう信じて、このたび幻想郷へとやってきた訳である。理由がフワフワし過ぎだなんて言ってはいけない。私はいたって真剣だ。

 

 そして旅の末、どうにかこうにか幻想郷へ入り込み、周囲の風景以外昔と何一つ変わらない姿の紅魔館に辿り着いたという訳だ。

 私がこの館へ訪れて初めに出迎えてくれたのはレミリアだった。迎えてくれたと言うよりは、久しぶりの再会だから少し驚かせようと思って忍び込んだら偶然レミリアの部屋に入ってしまい、そこでばったり会ったと表現するのが正しいか。

 私が忍び込んだ当初、彼女は仕事を全うしていた。小さな椅子に座って書類をテーブルに広げ、黙々と責務に励んでいたのだ。あんなに小さくて天真爛漫だったレミリアが立派に成長した姿をこの目で見ることが出来た感動で、つい私は忍び込んだまま、過去の思い出に浸りながらハンカチで目元を拭いつつ、しばしの間その光景を眺めていた。

 

 ふとした拍子に、彼女は腕を伸ばして思い切り伸びをしたかと思えば気まぐれに振り返り、そしておもむろに目が合った。

 

 目を合わせた瞬間、少女は椅子から派手に転げ落ちた。

 

 手を差し伸べれば、先ほど仕事をしていた時の落ち着き払っていた様子とはまるで別人のように、レミリアは震える手で私の手を掴んだ。

 ふふ、あの様子では、私のどっきり訪問サプライズはばっちりだったと言う訳だ。しかし何も本気で怖がって顔面蒼白にならなくてもいいじゃないかレミリア。短い間とは言え、人並み以上に愛情を注いで育てた経緯もあるというのに。ちょっとだけ胸が痛む。

 怖がらせまいと笑顔を浮かべてみたが、ビクッとするだけだった。ここ数百年笑顔の練習を欠かしたことは無いのだが、まだ魔性を凌駕出来るほどのグッドスマイルに辿り着けてはいないと言う事か。アルカイックスマイルを手に入れる日はいつになったら来るのだろうか。私は妖怪だけれども。

 

 レミリアは立ち上がると、酷く動揺したまま部屋を飛び出していった。数分後、憑き物が落ちたように落ち着いた様子で戻って来たかと思えば、今度は人間の使用人を呼び出した。

 

 使用人が居る事には別段驚きは無いが、これがまた、よく出来た人間の娘だった。人間は妖怪と違い、見た目がそのまま年齢と直結する。おおよそ10代後半から20代前半であろうその若々しい少女は、礼節と落ち着きを持って私をもてなしてくれた。本当にいつぶりだろう、他人が淹れてくれた紅茶を飲んだのは。これがとびきり美味いときたものだから、私は感動のあまり思わず涙するところだった。たとえ初対面と言えど、人の淹れてくれた紅茶のなんと暖かい事か。

 

 その少女は、まぁ当然ながら、レミリアに仕えている新しい使用人らしかった。名は十六夜咲夜。清楚で瀟洒な印象を受ける彼女にぴったりな、美しい名前だ。名前に反して東洋人らしくない外見から考えて、レミリアが彼女を雇った時にでも付けたのだろう。だとすれば、彼女を拾い上げたその判断は間違っていないと断言できる。彼女は素晴らしい逸材だ。冷静沈着で、私の魔性を前に正気を失う事もなく瀟洒な対応を貫いてみせたあの少女とは、願わくば是非とも親密になりたいものだ。もっとも、レミリアの従者であると言う点から考えて、私にとってあの子は娘同然のポジションに収まりそうではある。他人との立ち位置を決めつけるなど独りよがりで勝手な考えだが、考えるだけならば罰は当たらんだろう。

 

 取り敢えず、親密に歩み寄るための第一歩として、私に対する緊張感を少しでも無くしてあげるよう努めることにした。私は昔レミリアの親代わりをしていたが、予め主人に当たるレミリアとは同列にせず、一歩引いた立場をとると明言する。身辺の管理は全て私がやると宣言もした。これで、私と彼女との間に生まれる話題の種から事務的な話が摘み取られ、必然的に世間話や他愛もない話題に置き換える事が出来る筈だ。見た所、彼女は紅茶を淹れるのがとても上手い。世界各国の紅茶の話をすると面白がるだろう。皮肉なことに、ありとあらゆる趣味に没頭した私は、話題にだけは事欠かない。淹れ方や味、風味などの些細なものからナハトオリジナルブレンドティー制作に至る範囲まで話題を広げられる自信がある。何せネタを考えたり試行錯誤する時間はたっぷりとあったのだから。

 もしかすると、久方ぶりに私の話題の宝石箱が開かれる時が来るかもしれないな。ああ、その時が楽しみで仕方がない。想像するだけで胸が高鳴る。今日は本当に良い日だ。この調子なら、私を灰にする太陽を前におはようを言える日も近いかもしれない。

 

 だが、浮かれすぎて強引に行き過ぎると好まれない事は、今までの経験から知っている。一日で一気に距離を縮めようとするのではなく、少しずつ近づいていくのがベストだろう。今日のところはここで退散して、明日からゆっくり親睦を深めていこうと思う。

 

 そんな経緯を経て私は今、懐かしき紅魔館の廊下を歩いているわけだ。何だか昔より広い気がしなくもないが、きっと古くなって改築したのだろう。まるで新居を見学に来たかのような新鮮な気分になった。

 

「ここは……」

 

 ぶらぶら歩き続けて、大体30分程度が経過した。そうして私の前に現れたのは、他のドアとは一線を画す大きな木製の扉だった。

 私はこの場所を、ドアの先の空間を知っている。紅魔館に一つだけ存在する図書館だ。

 懐かしい。見聞を広める目的で、ジャンルを問わずありとあらゆる本を掻き集めた大昔の光景がまるで昨日の出来事の様だ。周りの同胞たちは私が魔導書を集めて何かを企んでいると勘違いして近づいてもくれなかったが、何てことは無い。この図書館は、いわば私のボッチ体質を克服するための私立学校(創設者兼生徒一名のみ)なのだ。生徒は私一人で教師は本。マンツーマンどころか相手は生物ですらないのが泣けてくる。あまりにも悲しくて少し魔力が漏れ出してしまったのは記憶に新しい。これも悪い癖だ。ブルーになると無意識に魔力が漏れ出してしまう。そのせいで幾つかファンタジーゲームに登場するびっくり箱型モンスターの様な、鋭い歯を生やした魔本が出来上がってしまった。私のミスで命を宿しておいて焚書するのも少し可愛そうだったので、本棚の奥に突っ込んだままにしてある。今も多分、処分されていなければ本棚に収まっているだろう。後でどうなっているか見ておこうか。

 さてさて気持ちを切り替えよう。ブルーで良い事なんて一つもない。精神に存在の比重を置く妖怪はポジティブ第一だ。

 苦い思い出を頭から振り払い、私は大きなドアノブに手をかけた。

 

 

 



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2.「真夜中の図書館」

 最近、思うように研究が進まない。

 我が親友にしてこの館の主、レミリア・スカーレットことレミィの起こした紅い霧の異変から、丁度今頃で一年になるか。黒白の鼠がこの図書館に入り浸るようになって、私の研究スピードは明らかな低迷を見せていた。

 

 その原因とは甚だ気に食わない事ではあるが、あの自称魔法使いが私の研究に使う予定だった魔導書を勝手に『借りていく』からだ。いざ必要になって探してみれば無くなっているのは当たり前で、返せと言っても死んだら返すの一点張り。それがこの一年イタチごっこに続いており、もはや日常の出来事へとなりかけていた。何故あそこまで私が必要とする本をピンポイントに『借りていく』のだろうか。まるで魔法の様な鼻の持ち主だ。もちろん褒めている訳では無い。

 

 説得を試みたが幾度も飄々(ひょうひょう)と躱され、力ずくで止めようにも持ち前の喘息のせいで肝心な時に満足な詠唱が出来ず、いつも返り討ちに遭い続けている。『弾幕ごっこ』を抜きにすれば食い止めることは容易なのだが、そんな事をすれば幻想郷のルールに反したとして博麗の巫女とあの恐ろしいインチキ妖怪が鬼となって襲い掛かってくる。『弾幕ごっこ』のルールに沿いつつ紅魔館の勢力をもってして撃破しようとしても、あのコソ泥のゲームの強さは半端ではない。無論だが、我が使い魔たる小悪魔ではまるで歯が立たないときた。まぁ、あの子の上位種たる吸血鬼でも敗北を喫した相手なのだ。責めるのは酷と言うものか。

 

 そんな訳で正直なところ、完全な手詰まりだった。

 

 一言、どの本をどれくらいの期間借りるのかさえ伝えてくれればちゃんと許可は出すつもりでいるのに。私とてそこまで狭量ではないつもりだ。現に、この図書館を正式に利用する人物だって存在している。魔法の森の人形使いがそれだ。

 彼女は優秀な魔法使いだ。私にはない聡明さを彼女は持っている。同じ本でも私とはまた違った解釈を持ち込んでくれるから、思考の幅が広がると言うもの。こちらは本を貸す代わりに、彼女には対価として『思考』を払ってもらっている。私としては、この様な魅力的で生産的で、良いこと尽くめの素晴らしい協力関係を、あの黒白とも築きたいと思うのだけれど……件の頑固者はまるで聞く耳を持たない。

 たかが齢十数年程度しか生きていない小娘だろうと、他者である限り生まれる思考の差異は、時として思いがけない発想を生み出したりするものである。特に彼女は向上心が強く知識や力に対して貪欲で、しかも非常に若いが故に思考がどの色にも染まっていない。アレとまともな会話さえ出来れば、良い発想の転換を得る事が出来るのではないかと踏んでいる。だからこそ、彼女とは根強く協力関係を築こうとしているのだが……現状はお世辞にも芳しいものとは言えまい。

 

 そもそも、だ。こんな膨大な書籍を私一人で食い潰すと言うのは、少々贅沢な話ではないかと思う。魔法使い同士互いに研鑽しあう良い材料があるのだから、私の魔法技術の向上を図るうえでも出来うる限り友好的でありたいのだ。

 しかしこんなことを面と向かって言ったが最後、さらに彼女はつけあがるだろうから絶対に言わないけれど。

 

「パチュリー様、紅茶をお持ち致しました」

 

 私の名前を呼んだ使い魔――――小悪魔が、眼前のテーブルにティーカップを置いた。捨虫と捨食の法を体得した私に飲食は不要だが、人形使いの意見から趣味嗜好の一つとして紅茶だけは日課にしている。こんな風に、ブルーな気持ちになった時は気分転換の引き金にもなってくれるので割とお気に入りだ。

 

 カップを手に取り、鮮やかな紅色の液体を口の中へと流し込む。いつもとは違う茶葉の様だが、悪くない香りだ。ハーブティーの一種だろうか。

 

「そう言えば、つい先ほど咲夜さんから伝言を預かりました」

「……へぇ? 珍しいわね。レミィ絡みで何かあったのかしら」

「いえ。それが、ただ今お客様がいらっしゃっている様でして」

 

 ……客? 

 それが私と何か関係があるのだろうか。

 基本ここにはほんの少しの例外を除いて訪れる者は稀だ。さらに『客人』となればほぼゼロと言って良い。つまり極少数派だ。ここは観光地でも何でもないのだから、当然と言えば当然だが。

 私の微妙な表情を読み取った小悪魔が、さらに補足を加えた。

 

「そのお客様が暫く紅魔館にて厄介になるそうなので、同じ住居者であるパチュリー様にも伝えておくように、との事でした」

 

 ここに住む?

 客人が?

 

 ……まさか、この私以外にそんな事を言い出す愉快な者が存在するとは思わなかった。私もここに住み着いてもう百に近い年月になるが、今までそんな輩は誰一人として現れた事が無い。ここは吸血鬼の根城だ。好き好んで来る方が珍しいと言うのに、住むなどもっての外だろう。

 少々驚いたが、まぁ私から言うべきことは何もない。私はここの主ではないし、立場で言えば新入居者と同じ客人だ。レミィが許可を出し決定を下したのならば、それに従うまで。

 『分かったわ、ありがとう』とだけ告げて、小悪魔を下がらせる。

 まだやらなければならないことがあるから挨拶は後だ。それに時が経てば相手から挨拶してくるだろうから、その時に済ませればいい。それまでは研究に没頭する事にしよう。

 

 そう思った矢先だった。

 ガチャリ、と図書館の入り口が開かれる音が、静寂の中に木霊したかと思えば。

 全身に纏わりつくような魔力の奔流が、ほんの一瞬だけ、崩壊した河川の鉄砲水の如く流れ込んできたのだ。

 

「ひゃああああああああっ!!?」

 

 同時に入口の方から、小悪魔の悲鳴がけたたましく炸裂した。

 一瞬謎の瘴気に呑み込まれかけていた私は、その叫びで我に返る。

 

「小悪魔!?」

 

 一体、何が起こった。本棚が崩れた訳でも、あの黒白がやってきたわけでも無い。今現在はさして問題は起こっていないはずだ。なぜ彼女が、悲鳴を上げなければならなかったのか。

 いや、理由は分かっている。どう考えてもあの魔力の発生源が原因だろう。正体は不明だが、この悍ましい感覚からして久しぶりに手練れた賊でも入り込んだのか。全く、突然の新入居者といい、今日は騒がしい日だ。落ち着いて本も読めやしない。

 私はすぐさま飛行魔法を編み込み、椅子から浮かび上がる。そのまま滑るように飛んで入口の方へと向かった。

 

 入口付近にある巨大本棚の角に差し掛かり曲がった所で、事件が起こっただろう現場が視界に入りこむ。

 そこで私の目に最初に映ったのは、尻餅を着いてガタガタと振るえながら、開かれた入り口を凝視する小悪魔の姿――――――ではなく。

 入口に悠然と佇む、大きなマントを身に纏った全身黒づくめの大男だった。

 

 背丈は、190cmはあるだろうか。地べたに転がっている小悪魔があまりにも小さく見えてしまう、線は細いが圧倒的な存在感を放つ長身の男。髪は灰色で、瞳は柴水晶の如き透明な紫で染まっており、薄暗い図書館の中で宝石のように爛々と光り輝いている。ランプの炎を照り返す彼の肌は、男だというのに私と同じか、それ以上に白かった。まるで太陽と言うものを知らずに育ったかのように白磁器の如く白い肌の持ち主は、私たちを視界に捉えると口元から鋭い八重歯を覗かせ、桃色の唇を柔らかく吊り上げた。

 それは、夜を闊歩する逸話の美女の様に妖艶で、童話の王子様の様に優しい微笑みだった。

 

 知っている。

 私は、この『雰囲気』をよく知っている。

 

 一年前、異変を起こしたこの館の幼き主が、博麗の巫女と満月の下で一戦交えた時に垣間見せた、圧倒的な魔性だ。まるで全ての生物を平等に見下ろしている捕食者のような、絶対的で恐ろしく、しかしそれでいて目を向けずにはいられない、魅惑と畏怖の覇気。人間は確かそれを、畏れだとか、威厳だとか、カリスマと称していたか。

 彼が放つ、あまりに禍々しくもどこか美しいとさえ思えるこの気配はまさに、吸血鬼の放つそれと間違えようのないものだった。

 

 何者だ、この男は。

 吸血鬼と雰囲気が似ているが、レミィの知り合いか? いや、だとしたら、この暴圧的な瘴気を私たちへ向ける理由はなんだ。これではまるで、私たちを今にも叩き潰そうと威嚇しているかのようだ。間違いなく敵意の類である。ここまで禍々しい空気を前にしては、流石にそうとしか思えない。それ以外に、こんな重苦しい威圧を笑みを浮かべながら嗾けてくる理由が無い。

 ではこの男は、何らかの目的があってここへ入り込んだ賊という事か? よりによって私の元へ訪れた訳は何だ。まさか、レミィに対して私たちを人質に使う算段でも立てているのか。

 

 私の魔女の脳が、緊急事態を前にして瞬時にフル回転した。可能性と言う可能性を拾い上げ、的確な答えを紡ごうと躍起になる。思考により時間が拡張され、男と対面してから僅か数秒足らずの合間が、酷く長く感じられた。

 

「こんばんは」

 

 ぐるぐると回る思考の渦の中に居た私を引き摺り上げるように、彼は言った。

 社交場で相見えたレディに話しかける紳士の様に、優しく、甘く。

 大人が子供に向ける慈愛の感情の様に暖かく、穏やかに一言だけ、言葉を発した。

 ただ、それだけ。

 

 ――――たったそれだけで、この私が呆気なく呑みこまれかけたのだ。

 彼が放った言葉は、紛れもないただの挨拶だ。何の変哲もない日常会話に用いられるその一言だけで、150年以上も生き抜き七曜の魔女とまで謳われたこのパチュリー・ノーレッジが、一瞬だけだが9割方意識を呑み込まれかけた。透明な水へ絵の具を垂らせばそれが急速に広がっていくように、心の中へじわりと這いずり込んできた『言葉』だけで、精神を空白に染められそうになったのだ。

 

 なんて圧迫感と存在感だ。例えるならば、神話に出てくる怪物でも相手にしているかのような、そんな絶望にも等しい生理的恐怖感を彼の言葉から肌で感じた。闇夜の王たる吸血鬼であるレミィと初めて出会った時も、またその妹君に出会った時も、これ程のプレッシャーを感じたことは無かった。ドクドクと心臓の脈打つ音が頭蓋を揺らす感覚なんて、ここまで鮮明に味わった事は無かった。

 

 おかしい。どう考えても体が普通ではない。もしや、気づかないうちに何らかの精神攻撃でも仕掛けられたのか? だとすれば、不味い。攻撃は男の思惑通りか、それ以上の効果を上げている。

 背中が嫌な汗でしっとりとし始めた感触を味わいながら、私は内心歯噛みした。

 落ち着け。思考をクリアに保て。場合によってはこの男をすぐさま消し炭にしなければならないのだ。慌てていては、いざという時に満足な詠唱も出来はしない。魔法使いは冷静な思考能力が命なのだ。

 

「夜分に失礼するよ。君は見たところ――――魔女かな? そこのお嬢さんは使い魔の様だが」

 

 立てるかい? と男は柔和に小悪魔へと手を差し伸べる。しかしその手を、小悪魔はガチガチと歯を鳴らしながら凝視するだけで受け取ろうとはしなかった。いや、もしかしたら彼女は懸命に腕を伸ばそうとしていたのかもしれない。しかし完全に彼の放つ膨大な瘴気に呑み込まれてしまった小悪魔は、体の支配権を無意識に手放してしまっているのだ。故にその手を掴めない。

 虚空を切った彼の手は、どこか物寂しそうに引っ込む。

 代わりに私が、思考の焼き切れた小悪魔を引きずり起こした。小悪魔は何が起こっているのかまるで分かっていない様子で、『あうあうあうあうあうあうあうあうあう』と壊れた蓄音機の様に譫言を漏らし続けている。

 

「どちらさまかしら。この図書館へ一体何の用? 観光目的なら地下をお勧めするわよ」

 

 私の問いに、彼は苦笑を覗かせ、

 

「急な来訪、失礼した。私はナハト。この館に昔、レミリアと共に住んでいた元住人だ。今日からまた、ここに住むことになってね。随分構造が変わったこの館の道を覚えるついでに少し、覗いてみようとしたただけだなんだ。安心してくれ、私は君たちの敵ではない。だから、そんなに怯えないでくれると嬉しいのだが」

 

 言葉の爆弾を、投げ込んだ。

 あまりの威力に、呆然自失となって一瞬視界が白くなる。

 

 ―――――今、何と言った?

 住む? 

 この男が?

 ここに? 

 この、紅魔館に?

 では小悪魔の言っていた件の客人とは、この男なのか。

 しかし仮にそうだとして、何故彼は私と小悪魔に堂々と精神攻撃を振りかけてきたのだ。同居人として礼をしに来たのならば、こんな非平和的な挨拶に出る筈がない。はっきり言ってこんな行動は有り得ない。誰が好き好んで、同居者と関係を悪化させるような真似をするというのか。

 

 ……待て。精神攻撃……?

 

 小悪魔は言っていた。『咲夜が』伝言をここへ伝えに来たと。

 であれば咲夜は必然的に、彼の存在を知った事になる筈だ。レミィに対して絶対の忠誠を誓う彼女が、こんな不安要素の塊みたいな男を平然と通す訳がない。過程はどうであれ、彼女の品定めが必ず入る筈である。

 即ち、咲夜とこの男は一度対面した事になる。

 

 だが、150年を生きた魔女と下級であれど悪魔に属するものが会話しただけでこれなのに、人間である咲夜が平然と伝言を伝えに来られたのは何故だ。

 まるで私と小悪魔の警戒心を予め紐解いておこうとするかのような伝言を、偶然と呼ぶにはあまりに疑わしいタイミングで伝えてきたのは何故だ。

 

 …………、

 

 まさか。

 まさか。

 まさか。

 

 

 

 血液が、冷めていく。

 あれだけ五月蠅かった心臓の鼓動音が、嘘のように静まり返っていた。まるで私の命が終わりに向かおうとしている様に、四肢の末端から冷たくなっていく感覚が伝わって来た。

 

 この男は既に、レミィと咲夜を―――――!

 

 絶望にも近い想像を前に、私の体の時が止まる。

 そして次の瞬間。

 体の内側で、ナニカが爆ぜたかと錯覚した。

 

「……むきゅっ、えほっえほっ、ゲホッゲホッ!! えほ、ハ、あ、かひゅッ!!?」

 

 ――――――ああなんてことだ。マズい。これは、非常にマズい。

 よりによってこんな時に、喘息の発作が顔を覗かせた。それもせき込む程度の軽いものではない。早く薬を飲まなければ手遅れになる重度の発作だ。

 一度火が付いたら止まらない。連鎖的に、爆発的に。発作の症状は一気に激しさを増していった。

 息が。

 呼吸ができない。

 暴れ狂う喘息が呼吸器を狂わせる。不規則に乱れた体の機能が、私から酸素を根こそぎ奪い取る。私は不老ではあるが不死ではない。頭を砕かれれば死ぬし、病にもかかる。息が出来なければ当然命を落とす。魔法を使える点を取り除けば、ただの女でしかないのだ。

 それ故にこの状況は極めて危険だ。朦朧とする意識では満足に魔法が使えない。それどころか体を動かすこともままならない。正真正銘、どうしようも、ない。

 思わず喉を押さえて、膝から崩れ落ちる。もはや力は入らなくなっていた。

 止まらない。発作が止まらない。

 薬を、誰か、誰か。

 

 小悪魔が目に涙をため、こちらへ懸命に縋り付く。何度も何度も私の名前を叫んだ。立ち上がって薬を取ろうとしてくれているのは分かっている。だが、腰が抜け私の支え無くしては満足に自立できなくなった小悪魔にはそれが出来ない。いつもは出来る仕事を、成し遂げることが出来ない。危機的状況だからか、あの男の威圧に押されているからか、動けない歯がゆさを噛み締めているせいか。小悪魔は遂に、大粒の涙をぼろぼろと零し始めた。

 その様子を見て、私は朧となった意識の中、妙な確信を持った。

 

 あぁ、死ぬ。

 私は、ここで死んでしまうのだ。

 残酷なまでに冷ややかな解答だった。明解過ぎる結論が、異様に落ち着き払った私の頭の中で大きく膨らみ、確かな質量を持ったかのような錯覚さえ覚えた。

 

 あっけないなぁ。まだ、あの子から本も返して貰ってないのに。

 死ぬまで借りていくとあの子は言っていたけれど、私が先に死んだらどうなるのだろう。この本は全てあの子の所有物になるのだろうか。

 

 今際の際、頭に思い浮かんだのは、そんなどうしようもなくくだらないことで。

 力尽き床へ伏した私に向かって、何かが規則正しく床を叩いて近づいてくる音が、最後まで耳の中に響き渡っていた。

 

 

 少し覗いていこうと思って図書館に入ったら、中に居た赤い髪の少女がこちらを見た瞬間悲鳴を上げてすっ転び、騒ぎを聞いて駆けつけて来た紫色の魔法使いと思わしき少女が、私が自己紹介と突然の訪問に対する謝罪を終えたと同時に呼吸困難を起こして倒れ伏し、赤髪の少女が紫の少女に縋り付いて号泣し始めるという阿鼻叫喚の地獄絵図が完成した。 

 入室からここまで僅か五分足らず。テロリストも真っ青な制圧力である。

 

 

 敢えて言わせて貰おう。どうしてこうなった。

 

 

 いや、こう言いはしたが大体の見当はついている。むしろ見当しかないのだ。これまた、私の放つ魔性が影響してしまったのだろう。この紫の少女――――赤髪の付き人らしき少女が叫んでいる名前から察するにパチュリーは、どうやら持病持ちだったらしい。それも呼吸器にだ。私の瘴気に当てられ、精神的に一気に負荷が掛かった為に突発的な発作を引き起こしてしまったのだと推測する。私はただ挨拶を交わしたかっただけなのだが、ナハト式挨拶は彼女の体に毒だった様だ。たかが挨拶が人をここまで苦しめるなんて誰が予想出来るだろうか。私以外は鼻で笑うに違いない。私も鼻で笑う側に居たかった。

 ここまで怖がらせてしまうと申し訳ない気持ちでいっぱいだが、それはさておき、放っておくのは非常に不味い状況なのに変わりない。早急に処置を施さねば冗談抜きに命に関わる。

 

 私は少女の下に歩み寄った。

 腰の抜けている赤髪の少女は私の挙動を見て、恐らく何か害あることをされると思ったのだろうか、紫の少女を抱き寄せ、親の仇でも見るかのように鋭く睨み付けて来た。

 ううん、状況が状況だけに致し方ないが、ここまで露骨に敵意と嫌悪を向けられると流石の私でも少々傷つく。不可抗力とは言え、申し訳なさ過ぎて日光浴をして灰になってしまいたい気分だ。

 だが灰になるのは後でいい。パチュリーの治療が先決だ。どうも喘息による発作の様だから、治癒魔法をかけて発作の原因たる炎症を引かせ、気管を広げれば症状は収まるだろう。悠長に薬を探している時間などない。

 

「少し、退いてくれないか」

「……ッ、退きません! パチュリー様には指一本触れさせません!!」

 

 ……健気な子だ。それでいて、悪魔の一員とは思えないほど一途で純粋だ。

 

 認めたくはないが、この少女には私がとても恐ろしい怪物に見えているだろうに、決して投げ出さず逃げださず、我が身を挺してまで魔女の子を守ろうとしている。薬を与えればそれで解決する状況だと分かっていても、目の前の脅威を前に動くことが叶わない。故に彼女は、パチュリーを眼前の脅威から己が命に代えても守るという選択肢をとったのだ。

 

 この子はおそらく、今伏している魔法使いと使い魔の関係にある。彼女の種族は感じ取れる魔力の強さから見て小悪魔だろう。言っては悪いが、悪魔の中でも力の弱い部類に入る存在だ。そんな彼女が、カッターシャツとレディースーツできっちりと引き締めた礼装を身に纏い、パチュリーを敬称で名指しているところから、主従関係にあると容易に伺える。

 しかし主従と呼ぶにはあまりに情の厚いこの様子は、主と従者の関係と言うより庇い合う友人同士か、姉妹の様にも見て取れる。

 絆と呼ぶべきものを、この少女達から確かに感じたのだ。

 主従を超えた友情関係。異種族の絆。呼び方は色々あるだろうが、どの呼称も私には眩しく輝いているものばかりだ。とても、とても羨ましい。

 やはり友情とは、親愛とは、かくも素晴らしく美しい。彼女たちの様な関係に憧れ、恋い焦がれるからこそ、友達探しは止められない。

 そしてなによりも、私を前にして尚美しい輝きを失わなかった、こんな素敵な少女達を放っておく理由はない。

 

「誤解だよ。何も取って食おうとしているわけじゃないんだ。ただ治療をしてあげるだけさ。それに、そんな風に抱きしめたままじゃあその娘は本当に死んでしまうぞ」

 

 私に言われて漸く気が付いたのか、赤髪の少女は青い顔をしてパチュリーの顔を覗き込む。パチュリーの呼吸はほぼ途絶えかけ、意識は切れてしまっていた。

 已むを得まい、少々強引に行かせてもらおう。

 

「失礼」

 

 私は少女の隙をついて、パチュリーの喉に指を当てた。同時に魔力を指先に集中させる。

 

 種族としての特性上、知識人が多い魔法使いと友達になれれば、実に興味深い話がたくさん出来るのではと思った事がある。そこで私は我武者羅に魔導書を掻き集め、食い漁るように本を読み続けた。無論、話に着いていけるようにするためだ。要は魔法関連の話題を共有して交友関係を広めようとする事が目的である。お蔭で、基礎的な魔法はほぼ習得するに至った経緯があり、そこからさらに応用を利かせられたので魔法は割と得意な方だ。しかし誠に残念ながら、この知識を分かち合いトークに花咲かせる相手は今のところ見つかっていない。

 

 治癒魔法の魔法陣を展開。彼女を苦しめる発作の原因を突き止め、解析し、壊れた肉体組織の治癒を促進させる。さらに吸血鬼たる私の魔力をほんの微量流し込むことによって再生能力を爆発的に高め、本来ならば治癒困難な部分もまとめて再生させる。

 ……言ってしまえばそれだけだ。流石に病を根本から治すなんて真似は出来ないが、前より幾分かはマシになっただろう。

 証拠に、あれだけ乱れていた呼吸が嘘のように穏やかなものへと変わっている。迷惑をかけた謝罪と良いものを見せて貰ったサービスを兼ねて、増血と血行改善の効果がある治癒魔力因子を与えたので血色も戻ってきた。意識は直ぐに回復するだろう。数日すれば、再生した呼吸器も馴染む筈だ。

 

「もう大丈夫だ」

「えっ!? あ、パ、パチュリー様!!」

 

 小悪魔の声に、パチュリーが眉を曲げた。耳元で大声を出されたせいで頭に響いたのだろう。夢を見ている最中に目覚まし時計が耳元でけたたましく鳴るようなものだ。顔を顰めるのも無理はない。

 この小悪魔は、もう少し落ち着きを持ち配慮が出来るようになれば、立派な使い魔になるに違いない。しかし逆に考えると、ある程度未熟な方が良いのかもしれない。手のかかる部下ほど可愛いという方便もあるし、実際そう思う。最も、昔館で過ごしていた時の部下―――と呼ぶには少々狂信的だった上にそもそも部下をとった記憶すらないのだが、彼らは全く手が掛からなかった。むしろ別の意味で手が掛かった程だ。

 彼らは私のティーカップを割ろうものなら、一時間懺悔を述べた後に自らの指で、刃物ではなく『指』で腹を裂こうとしたのである。毎度毎度狂気的に謝られる度に宥め、自殺未遂を幾度も止める羽目になったあれらの言動には少々、いやかなり参った。彼らは私を魔王か恐怖政治の帝王であるかの如く恐れていたのに、実際ハラスメントを受けていたのは私だったりするのだから、流石に理不尽だと感じても仕方がないと思う。さらに追い打ちをかけるように、何故か私への周囲の評価は滝下りする始末。全くもって遺憾である。

 

 しみじみと過去の苦々しい思い出を脳裏に浮かべていると、紫の魔女さんはゆっくりと瞼を開いた。

 

「小悪魔? …………っ!!」

「おっと、混乱するとまた呼吸が乱れるぞ。落ち着きなさい、何度でも言うが、私は敵ではないよ」

 

 意識が覚醒し、状況を把握した途端表情を歪めて立ち上がり、小悪魔と共に距離をとった魔女を、私は片手を軽く上げて制する。無理な挙動をしてまた倒れられたらたまったものではない。

 

「あなた、本当に何者なの? 出合い頭に精神攻撃を仕掛けてくるなんて、一体どういうつもりよ」

 

 ふむ。想定の範囲内ではあるけれど、やはり治療しただけでは警戒心を完全に解くのは難しいか。ここは絡み合った釣り糸をゆっくり解いていくように、丁寧に距離を縮めるとしよう。急がば回れ、回るは近道である。しかし精神攻撃とは、なかなか心を抉り出す表現を使ってくれる。

 

「ではもう一度、自己紹介をさせて頂こうか。私はナハト。種族は……吸血鬼みたいなものだ。気軽にナハトと呼んでくれ。ここの主との関わりは、短い間だったが昔親代わりをしていた。勿論、その当時はここに住んでいたよ。暫く留守にしていたが、色々思う所があって今夜から紅魔館に再び住まわせてもらう事になった。因みに君は精神攻撃と言ったが、それは誤解だ。私の体からは、意識に関係なく瘴気のようなものが常に漏れていてね。物理的な害は無いが、浴びた者はこれが精神的に酷く重圧に感じるらしい。君はこの瘴気の影響で精神へ負荷が掛かってしまって呼吸が乱れ、持病の発作が運悪く出てしまっただけなのだ。迷惑をかけたが、本当に敵意は無いよ。証拠に君を治療したし、使い魔にも何もしていない。……今の言葉に、嘘偽りは決してないと誓おう。どうにか納得してもらえると嬉しいよ」

 

 自己紹介としてはこんなもので十分だろう。義娘の名前を挙げ、親しい間柄だとアピールすれば、おそらくレミリアと何かしらの交友を持っているだろう彼女の警戒心を和らげることが出来るはずだ。泣きたくなったが精神攻撃に対する弁解も忘れない。

 少々考える素振りを見せたパチュリーは、何やら詠唱を唱えて全身を青い光で包み込んだ。その数拍の後、彼女はほんの少しだけ眉間の皺を緩め、口を開く。

 

「どうやら本当に術の類はかけていないみたいね」

「心の底から誓って。疑いが晴れないなら、気が済むまで疑問要素を調べてくれて構わない。君が満足するまで、私はここから一歩も動かずにいよう」

 

 両手を上げたまま、私は無抵抗のジェスチャーを保つ。ついでにスマイルも忘れない。

 ここで動いたら最後、折角敵意から疑念にまでダウンした警戒レベルをまた引き上げる事になってしまう。今は彫像の様に振る舞うのが最善の選択だ。私は彫像。題して『無抵抗の青年』。何故か呪いの像扱いされて誰にも近づかれず風化していく光景が脳裏に浮かび無性に悲しくなった。本当にありそうだから困る。

 

 パチュリーは私から一切視線を外さず、小悪魔に何かを告げた。伝えられた小悪魔はバタバタと外へ飛び出していき、沈黙だけが取り残される。

 数分経つと、息を荒くした小悪魔がまたも慌ただしく戻ってきて、パチュリーに何かを手渡した。それは一枚の紙だった。チラリと見えたのはレミリアの署名だ。しかも血で書かれているのが分かった。

 

 成程。パチュリーは、私がレミリアに洗脳か何かを施してないかと疑ったのだろう。

 悪魔は契約を重んずる存在だ。故に名前や血の証明に対して絶対の服従性、即ち血と名前の下に綴られた言葉に嘘を交えられず逆らえないという性質を持つ。悪魔の真名が綴られた本を奪い取り、悪魔を従えさせた少年の話は有名だ。悪魔の類は少なからずこの性質を持ち合わせているので、この性質を逆手に取り、レミリアに私が何もしていないと潔白を証明させる書類を書かせたのだろう。もし私がレミリアに洗脳を施していれば、あの書類にレミリアが『洗脳を施され自分の意志で動けないでいる』とでも記す事になる。

 当然そんな事は書かれている筈がない。私は地獄の審判も太鼓判を押す程度には無実だ。疑われやすいだけで真っ当な吸血鬼なのだ。まさかここまで用心深く疑われるとは思わなかったが。

 

 証明書を読み終えたパチュリーはどこか納得したように目を瞑り、書類を火炎魔法で焼き捨てた。一先ず安堵する。

 

「……パチュリー・ノーレッジよ。レミィ……レミリア・スカーレットの友人。100年ほど前から、ここに住まわせてもらっているわ。種族はお察しの通り魔法使い。ちなみにそっちの娘は小悪魔。私の使い魔で、ここの司書よ」

 

 こここここここ小悪魔ですっ、とパチュリーに続いて緊張をふんだんに含ませながら一礼した、目と鼻の赤い小悪魔に私は微笑みで返答する。そして彼女の尻尾と頭についている二枚の小さな翼が萎びたのを見て、心の中で燃え尽きてしまいそうな私だった。

 しかし挨拶を交わせたと言うことは取り敢えず、受け入れてくれる態勢をとっているのではないだろうか。そう思うと俄然元気が出て来た。どうやらマイナスイメージをある程度拭い去る事に成功したらしい。

 

「納得してもらえて何よりだ。改めてこれからよろしく頼むよ、パチュリー、小悪魔。ところでパチュリー。今君は、小悪魔がここの司書だと言ったね。と言う事は、今この図書館は君たちが主に使っているのかな?」

「ええ、そうなるわね。貴方が館に居た頃からこの図書館は存在していたのかしら」

「そうだな。正確に言えば、この図書館は私のコレクションの、ちょっとした集大成の一つなんだ」

 

 む。今確かにパチュリーの表情が、水面にさざ波が立つ程度には揺れ動いた。やはりここの利用者なだけあって、図書館の生い立ちについて興味がある様子だ。これは話を円滑に進める絶好の機会だろう。逃す手立てはない。言うまでも無いが、私は、彼女たちとも親交を深めたいと思っている。この館に住まう者の一人として、また、愛娘同然の存在であるレミリアの親代わりを務めたものとして、この娘たちとは良い関係を築いていきたいものだ。

 義娘の友達なので私と彼女の関係は友達とはまた違ったものになりそうだが、何時の日か、彼女と魔法について何気ない談話でも出来る日が来れば実に素晴らしい。家族として見た場合は、瀟洒な咲夜は次女、レミリアが三女で、クールかつ大人の余裕に似た雰囲気を持つ彼女がこの館の長女ポジションだ。私は親戚のおじさんポジに居付ければ満足である。最悪、少し鬱陶しい物知りお祖父さんでも問題ない。

 

「こう見えて蒐集家でね。当時様々な物を集めていた。この図書館の蔵書もその一つと言う訳だ」

「この膨大な魔導書や書籍の数々を、貴方一人で?」

「ああ。随分長い事集め続けた。どうだね、幅広く様々な知識が拾える場所になっているだろう? 知識の探求者である魔法使いには、人間の指す大型図書館級の質があるのではと密かに思っているのだが」

「ええ、言うまでもないわね。私は、ここ以上に多種多様の本がある場所なんて、生まれてこの方見た事が無いわ。もう離れることが考えられないくらいに気に入っている」

 

 うむ、嬉しい事を言ってくれるじゃないか。そうだろう、そうだろう。生まれてからプライベートの殆どをボッチで過ごしていた私には、物を集めるか何かを調べるか友達を探すかくらいしかする事が無かったのだ。これでも私は人外連中の中でもかなりの古株に入る。妖怪としての長すぎる生の大半を蒐集に費やせば、これだけの品々が集まるのは自然な成り行きと言って良いだろう。もっとも、要らない本を譲ってくれと同族や妖怪に頼む度に、まるで私に対する専用の挨拶とでも言わんばかりに『命だけは』と必ず返され続けたのは未だに納得いかないが。私が何をしたというのだ。

 背景から覗く少しばかり悲しい経緯はどうあれ、頑張って集めたコレクションを有効活用してくれる上に賛辞の言葉を投げられて、嬉しくないわけがない。

 

 しかし、私の上機嫌ぶりとは裏腹に、パチュリーはどことなく不安の色を浮かべた。

 

「もしかして、私は追い出されたりするのかしら」

「まさか。私が集めたと言ったが、別にこれからも遠慮せずに使ってくれて構わない。私はここにある本は粗方読みつくしたからね。むしろ、活かしてくれる者に使われる方が道具冥利に尽きると言うものだから、こちらから使ってくれと頼みたいくらいだ」

「願っても無い言葉ね。有難く使わせてもらうわ」

「是非ともそうしてくれ」

 

 ふむ。微量に警戒の色は残っている様子だが、まぁ許容範囲内であるのは確かだろう。『マインドコントロールで自分たちを洗脳しに来た化け物』という印象から、『取り敢えず無害だが怪しい男』に格下げして貰えた効果は大きい。少なくとも、これから無暗に拒絶される事はなくなっただろう。信頼を築くにしても、これからじっくりと交友を温めていけばいい。焦る必要などどこにもないのだ。時間は持て余す程度にたっぷりとある。

 

 改めて、この図書館が未だに健在していて、新しい司書や利用者が出来ていたと言う少し想像してもみなかった出来事につい心が躍った。今日は本当に良い日だと思う。義娘に会え、素晴らしい従者に会え、さらに目の前の彼女たちと出会い、少し波乱はあったが無事和解することが出来ただけでも、幻想郷に来た価値は十分過ぎるほどにあった。落ち着いたら、この幻想の地を散策してみるとしよう。吸血鬼という、ある種妖怪からも畏れられる高位妖怪が安心して住める様な土地だ、他にも素敵な出会いがあるに違いない。

 幸せは歩いてこない、だから歩いてゆかねば、とは誰の言葉だっただろうか。まさにその通りだ。私はこの地で、自らの足で、また改めて友達探しに勤しむとしよう。想像するだけでワクワクが止まらない。明日も明日で良い日になりそうである。

 

「ああ、そうだ。パチュリー、少しばかり質問をしてもいいだろうか」

「ええ、構わないわよ。一体何を聞きたいのかしら?」

「大したことじゃないよ。君はレミリアと何時から知り合ったのかが気になってね」

「およそ100年前ね。それがどうかしたのかしら?」

「成程、それなりにあの子とは付き合いがあるようだ。では改めてもう一つだけ聞こう」

 

 この館に着き、暫く散歩をして内部を粗方見回った私だが、一つだけ気になる事があった。

 なんてことは無い。実はまだ、ここに来て会っていない家族がいるのだ。

 最後に会った日から400年近くも経過しているから、もしかしたらとっくに館を離れているかもしれないが、あの子の事だ。きっとレミリアにべったりなままの筈だろう。おそらくこの館にまだ居るに違いない。

 その家族とは何を隠そう、私のもう一人の義娘であり、

 

「フランドール・スカーレットがどこにいるか、君は知らないか?」

 

 レミリア・スカーレットの、たった一人の血を分けた妹の事である。

 

 

 私は門番である。名前はまだない。

 勿論嘘だ。私には紅美鈴と言うちゃんとした名前がある。二度目だが、私は門番である。職務は基本、来客者への応対と侵入者の排除。ついでに庭師も兼ねていたりする。来客なんて殆ど来ないし、侵入者も黒白鼠程度だからむしろそっちが本業かもしれないが、私は紛うこと無き門番である。

 

 私はこれでも妖怪なので、肉体が損傷でもしない限り別に休息をとったりする必要は無い。けれど一日中番人をしていては流石に小腹が空いてしまう。お嬢様からは適当に休憩を取ってもいいと言われているので、休憩を挟むのも兼ねてうちの自慢のメイドさんに間食を作って貰おうと、館へ足を運ぶことにした。一日三食プラスこの間食の時間が、何気に日頃の楽しみだったりする。

 

 館へ踏み入った私はふと、ある違和感に気が付いた。

 それはまるで、一年前にお嬢様が幻想郷を紅い霧で覆った時の様な、空気の中に妖力が溶け込んでいる感覚だ。何か館でイベントでもあるのか、もしくは異変でも起こそうとしているのか。気になった私は能力を使って館の中をサーチしてみることにした。

 両手を合わせて、エントランスで目を瞑る。同時に館全体を包み込むようなイメージを浮かべる。

 

 恥ずかしながら、妖怪のくせに妖力の操作は得意ではない。お蔭で弾幕ごっこは人間である咲夜さんに手も足も出ないくらい弱いが、しかし私には特技がある。生命エネルギー、即ち『気』を使い、察知する事だ。応用すれば今の様に、離れている生き物の『気』を掴んで大まかな現状を把握できたりする。お蔭で休憩中に賊が入り込んでもすぐに対応できるから便利だ。

 

 サーチの範囲を広げていく。お嬢様と咲夜さんが、部屋で何か話している様子が見えた。流石に何を喋っているかまでは分からないが、取り敢えず咲夜さんは見つかったので、話が終わった頃合いを見計らって頼みに行こう。

 しかし、どうやらこの妙な力の発生源はお嬢様ではないらしい。では一体誰だろう。妹様が発生源だろうか? ……どうやら違う。地下室にも反応は無い。もう夜なのだが、まだまだ妹様はおねむの様子だ。

 一番目ぼしそうな吸血鬼姉妹の気配でないとしたらどこだろう。パチュリー様か? いや、あの方は魔法使いだ。お嬢様の紅い霧と似た妖怪独特の気配を発生させる手立ても理由も無い。

 ではまさか、賊の進入を知らずして許してしまったのか?

 

 想像して、頬が引き攣った。

 やばい、お嬢様に怒られる。

 

 私はあわてて探索範囲を広げる。鼠一匹も逃がさない精度で、館の中を調べ上げた。

 妖精メイド、妖精メイド、妖精メイド―――――違う。どれも違う。どこだ。発生源はどこだ。

 館の中を巡りに巡り、遂に気の探知は図書館まで及ぶ。

 そして私は、突如脳内にどす黒い瘴気の塊の様なイメージが飛び込んできて、思わず目を見開いた。

 

 汗が額を伝う。断じて蒸し暑さからくる汗ではない。これは、そんななまっちょろいものなんかじゃ決してない。

 喉が鳴った。微かに指が震えた。これ以上にないくらい動揺した。集中して練った気が、情けなく空気に溶けていく感覚が嫌らしく鮮明に伝わった。

 

 馬鹿な。

 そんな馬鹿な。

 有り得る筈がない。

 何時ここへ来たのだ。どうやって中に侵入したのだ。

 何故あの、一度覚えたら二度と忘れる事の無い圧倒的な『気』を、今の今まで見逃していたのだ。

 

 何より何故、あの方がこの幻想郷へ来ている―――――!?

 

 私は駆けだした。もはや余裕や空腹感など消え失せていた。一刻も早く、お嬢様に確認を取らなければならない使命感に駆られた。『運命を操る程度の能力』を持つお嬢様ならば、事の経緯がきっと分かる筈だ。

 

 吹き抜けを一気に跳躍し、私は最速最短のルートで、お嬢様の部屋へと駆け込んだ。

 



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3.「偽者」

 ぱちりと、目が覚めた。

 瞼が開き、霞んでいた視力のピントが合わさっていく。何百何千何万回と見続けてきた、何一つ変わらない赤一色の毒々しい天井が、視界一面に映り込んだ。

 微睡(まどろ)みから解放され、ぼうっとしている頭が、ゆっくりと現実に馴染んでいく。

 

 一日が始まった。

 

 言葉に出ていたか分からないけれど、そのたった一文がしゃぼん玉のように浮かんできて、直ぐさまぱちんと消える。同時に私の胸の中へ空洞が生まれたかのような、言いようのない虚無感が顔を覗かせて、しかしそれもまた直ぐに萎びて消えてしまった。

 

「…………、」

 

 周囲を見渡す。私が居るこの地下室にこれと言った変化はない。慣れ親しんだ、親しみ過ぎてしまった部屋の劣化具合が、少しだけ増しているように感じる程度だ。古いままの壁と、一部新しくなっている壁との色の差は、ある意味私がつけた思い出の証となって、どれ程ここで過ごしているのかを改めて実感させられる。

 

 私は随分長いこと、この薄暗い地下の部屋へ幽閉されている。他ならぬ実の肉親の手によって、およそ400年以上。でも、かなり前にここに居た時間を数えるのも飽きてしまったから正確には分からない。もしかしたら500年くらい経っているかもしれないし、そうじゃないかもしれない。まぁ、どうでもいい事だけれど。 

 閉じ込められた理由は、私の持つ能力をアイツが疎ましく思っているからだろう。実際に聞いた訳では無いが、多分そうだ。それ以外に何かあるとは思えない。

 

『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。

 

 私の力を知っている人はみんな、この力をそう呼んでいた。

 私はあらゆる物体に存在する力の歪み、『目』を手のひらに吸い寄せ握り潰すことで、ほぼ全ての存在を粉微塵に破壊することが出来る。例えそれが生き物であっても、強靭な生命力を持つ妖怪であったとしても例外じゃない。

 この力があるから、姉は私をここに閉じ込めた。悔しいけれど当然だとは思う。不条理にも感じはしたけれど異論は無い。私も同じ立場だったら多分そうする。いや、きっと殺してしまうかもしれない。凄まじい不死性を持つ吸血鬼でさえ一握りで葬り去る力が近くにあって、しかもそれが肉親とは言え他人の手にあると来た。怖くないわけがない。言うなれば何時でも自分を気まぐれに処刑出来る執行人が、隣で生活しているようなものなのだから。

 そんな訳で、私はここに長い事閉じ込められているのである。確かこう言うのをハコイリムスメと呼ぶのだったか。まぁ、私は別段、特に外に出たいとも思わないし、そこまで寂しく無いから不満は無い。

 もちろん、こんな気の滅入りそうな場所にずっとずっと閉じ込められていて、それでもあまり苦にならないのにはちゃんとした訳がある。

 

『おはよう、私の愛しいフラン。今日はよく眠れたかね?』

 

 私の頭の中から、唐突に声が響く。優しい大人の男の声。まるで寝起きの娘に語り掛ける父のような、そんな慈愛に満ちた囁きだった。

 そう。これこそが、長年閉じ込められようとも私が寂しさを感じない理由。これこそが、皆から疎まれ蔑まれようとも、理性を保っていられる理由。

 

「ええ、今日もぐっすりと眠れたわ。()()()()()()()

 

 思わず、頬が緩んだ。

 義父の声が頭の中で反響するたびに、私の中には、親を早くに亡くした私たち姉妹へ、実の親の様に沢山の愛情を注いでくれた、親愛なるおじさまが住んでいるんだと、再確認できるからだ。

 

 数百年前。おじさまがある日突然姿を消してから暫くの後、何時からか声だけで頭の中から話しかけてくれるようになった。この声はどうやら私にしか聞こえない様だけれど、こうして毎日起きたらおはようのご挨拶をしてくれて、毎日面白いお話をしてくれて、私の話も楽しそうに聞いてくれる。初めは少し驚いたが、慣れればなんてことは無かった。むしろ、こんなにも近くにおじさまの存在を感じることが出来て嬉しくなった程だ。

 だから寂しくなんてないし、悲しくもない。アイツはこの声が幻覚だなんて言うけれど、そんな訳はないのだ。記憶にあるおじさまと同じ声だし、私が知らないお話をいつも沢山してくれるのだもの。幻聴なんかである筈がない。

 

 だからその事実を何度かアイツに伝えたら、アイツは私の気が触れたと言い放った。おじさまは旅に出られているから、おじさまが貴女の頭に居座るワケが無い。それは紛れもなく幻覚だ。……そう言ってアイツは、魔法や呪術や薬を使って何度も何度も私とおじさまを引き離そうとした。

 

 当然私は拒んだ。数えきれないくらい喧嘩もした。聞き分けの無いアイツの四肢を吹っ飛ばした時もあった。反対に私が肉塊にされかけたこともあった。でも私は耐えた。抵抗を止めれば、アイツは私からおじさまを奪うと分かっていたから。

 

 私は知っている。本当は、おじさまは旅になんか出ていないってことを。

 おじさまから聞いたのだ。当時過激化していた吸血鬼狩りから紅魔館を守るために、集団で攻撃を仕掛けて来た卑怯なバンパイアハンターに殺されてしまって、それでも今よりまだ幼かった私を守護霊として守るために、最後の力を振り絞って私の中へ魂だけを移したのだと。

 アイツは、私がおじさまにとても懐いていたから、おじさまの死を知ったら深く傷つくと思ったのだろう。だから、おじさまが旅に出ただなんて嘘を吐いた。だから私の中に居るおじさまを否定した。幻覚だと思っているアイツが、まだおじさまは生きているんだと信じさせる為にだ。

 その優しさについては素直に感謝する。もしおじさまが私の中に居なくて、おじさまの死を知ったら、アイツの読み通り私は心を痛めていただろう。吸血鬼狩りを行った人間への憎しみで、本当におかしくなっていたかもしれない。

 だがしかし、それとこれとは話は別。だからと言ってアイツがおじさまを否定していい理由になんかならないのだ。

 

『ところでフラン。起きたばかりでまだ頭が晴れていないかもしれないが、上の方から何か感じ取ってはいないかい?』

「え? 感じ取るって、何を?」

『大きな力だよ。まるで満月のエネルギーがそのまま地上へ降り立ったかのような、巨大な力の波動。耳を澄ませるようにして意識してごらん。感じないかい?』

「んー……?」

 

 吸血鬼の感覚を研ぎ澄ませ、私は視線で地上を射抜くように天井を見つめる。数秒の後にふと、地上の一ヵ所から何か大きなエネルギーの波を感じた。昔、私に本気で挑みかかって来た時のアイツが出していた魔力の威圧みたいだ。いや、もしかしたらそれよりも大きいかもしれない。

 

『どうやら分かったようだね』

「うん。でも、あの力はなに? アイツと誰かが喧嘩でもしてるのかな」

『こらこら、お姉さんの事をアイツだなんて呼んではいけないよ。――――それはさておき、どうやらあの力は私自身のもののようだ。信じられない事だがね』

「えっ?」

 

 言葉を噛み砕くのに、一瞬だけ思考へ余白が生まれた。

 直訳するとつまり、『おじさまの力』が上にいるということなのだろうか? おじさまは時々回りくどく物を言うから、よく分からない。

 でも言われてみれば確かに、遥か昔の朧気な記憶の奥底で、おじさまが常にあんな感じの大きな力を放っていた覚えがある。力の質も、とてもよく似ている。

 どういうことだろう。おじさまの魂は私の中に居て、肉体は日の光にさらされて灰にされてしまったと聞いた。なのに、『おじさまの力』だけが外で活動しているというのは、誰がどう聞いても矛盾しきった話だ。そんな話が起こり得る訳が無い。外の世界をあまり知らず、世間一般常識に欠いていると自覚のある私ですらも分かる事だ。

 

「それって……一体何が起こっているの?」 

『さぁ。全容は私にも掴むことは出来ないが……仮説を立てるとしたら、昔私の遺灰を誰かが悪用して、私の力を取り込んだ者が居たのかもしれないな。吸血鬼の灰は、灰を取り込んだ者へ不死の命と力を与える。その誰かさんが上手く私の力を手に入れて、今日の今日まで生き延び続けたというのは、可能性としてあり得ない事ではない』

「てことは、上の奴はおじさまを殺して力を奪った偽者だってこと?」

『その線が濃いだろう。そうだとすれば、この館へ訪れた理由も説明できる。強力な私の灰を取り込んで力を手に入れたとすれば、その者は私の体と馴染み易かったと言うことだ。容姿も私と近いものに変異しているだろう。であれば、レミリアに近づき油断させて襲う事は可能だ。仮に殺害が目的でなくとも、レミリアや紅魔館を利用する可能性だってある。狙いはレミリアの命か、はたまたこの館の財産や権力か』

「でも、何で今更? それに幻想郷は結界で覆われているから、普通には入ってこれないって聞いたよ」

『人間を辞めているのならば、幻想郷へ入り込む手立ても確立出来るだろうから来れたとして不自然ではない。今更なのはおそらく、幻想郷と我々が転移したという情報を入手した時期が遅かったのだろう。大方、手始めに紅魔館を乗っ取り、あわよくば妖怪にとって最後の楽園たる幻想郷も手中に収めようなどと、思いあがった強欲な考えを持っているに違いない。私の灰を取り込んでまで力を手に入れようとしたような愚か者だからな。なんにせよ、放っておけない事に変わりはないが』

 

 だね、と私は二つ返事を返して、フラン、とおじさまは続けた。

 

『このままではレミリアが危ない。咲夜も、美鈴も、パチュリーも、小悪魔も、それに妖精メイドもだ。私の力を無暗に使われれば、皆あっと言う間に殺されてしまうだろう。――――私が何を言いたいのか、お利口なフランなら分かるね?』

「うん。偽者を殺してアイツを……お姉様達を守ってあげればいいんだよね? ()()()()()()()()()()()()()()

『ああ、君は本当に賢い子だ、私の愛しいフランドール。さぁ、そうと決まればお姉さんと皆を助けに行こう。例え敵が私の姿だったとしても遠慮はいらない。徹底的に叩き潰してあげなさい』

 

 分かった、と私はベッドから飛び降りる。そしてこの部屋を密室にしている、パチュリーの封印魔法が施された、たった一つのドアへと足を運んだ。

 

 アイツの事は気に食わないけれど、私の事を大事に思ってくれているのは知っている。他の皆が優しいことも勿論知っている。私が普通にしていれば、時折この部屋に皆がやってくる事があるから知っているのだ。パチュリーと小悪魔は知らない魔法を教えてくれて、さらに色んな本を貸してくれる。綺麗な虹色の『気』ってやつで遊んでくれる美鈴は面白いし、咲夜の料理とおやつはとっても美味しい。何時か私とおじさまに対する誤解が解けて、みんなと楽しく毎日が過ごせるようになる時の為にも、偽物に皆を取られるなんて真っ平御免だ。一人でも欠けてしまったら、今より素敵な紅魔館じゃなくなってしまう。そんなのは絶対に嫌だ。許せるものか。輝かしい皆の笑顔を、ただおじさまの力を奪っただけの偽者なんかに塗りつぶされて良い訳があるもんか。

 

 それに紅魔館だけじゃない。偽物が最終的に幻想郷を支配しようとしているなら、その矛先はいつか自然と黒白の魔法使い―――魔理沙にも向くはずだ。私の、たった一人の友達に。まだ面会したことは無いけれど、あの霊夢にも、いずれは。

 やっぱり魔理沙とはまた遊びたい。会った事のない霊夢とは、お姉様が最近のお気に入りだと言っていた、神社でお茶を飲みながらまったり過ごすというのもやってみたい。勿論弾幕ごっこだってしたい。出ようとは思わないと言ったけれど、やりたい事はまだ沢山残っている。最近になってようやく少し出して貰えるようになったのに、その楽しみを奪われるだなんて、ましてや友達と友達候補が傷つけられるだなんて、想像しただけで腸が煮えくり返る勢いだ。

 

 だから、きゅっとしてあげよう。浅はかにも、敬愛するおじさまの姿を真似てお姉様達を騙そうとする愚か者を。他人から奪った力を我が物顔で振るい、楽園を破壊しようとする大罪人を。その肉片の一片たりともこの世に残す事の無いよう、徹底的に破壊し尽してやろう。何せそれが、私の持つ只唯一の特技なのだから。

 

 私はドアに掛けられている魔法とドア自身の『目』に、手のひらの標準を合わせる。昔まだ力の制御が下手くそだった時に、おじさまと沢山練習して編み出した、ロックオンすることで局所部分の『目』のみを狙って奪い破壊するという、能力の制御法だ。それを駆使して二点の『目』のみを、両手のひらに吸い寄せる。そして一切の加減を加えずに、二つの『目』を思い切り握り潰した。

 

 

 立ち話もなんだとの事で、私とパチュリーは図書館の応接間へ移動する事にした。歩きながら周囲を見ていて思ったが、昔よりも蔵書が増えている様である。パチュリーがここへ居座り始めてから150年間、彼女も彼女でせっせと本を集めていたのかもしれない。そう思うと少しだけ親近感が湧いてくるが、彼女はレミリアと言う唯一無二の友人を持っている。この時点で私は彼女にぐうの音も出ない程の敗北をしている訳なのだが、よく考えてみれば彼女は友達の作り方の模範になるのではないだろうか。私と少し雰囲気が似ていると思うのは気のせいではない筈だ。であれば、彼女を観察すればおのずと友達の作り方が分かるのではないか。この際魔性の影響は度外視して、どう努めればもっと受け入れられやすい私に成れるか参考にさせて頂こう。

 

 そんな事を考えながら、互いに対面する形で応接間のフカフカのソファーに腰を下ろす。小悪魔が紅茶を淹れてくれているのを待つ間、彼女を観察してみることにした。

 だが、パチュリーは魔法でどこからか本を取り寄せ、待っている間は黙々と読み耽っているだけである。一瞬だけ彼女はこちらを見たが、その時の眼が疑わしい何かを見る目一色に染まり切っていたので、私は見るのを止めて他意は無いと謝罪した。思えば、無暗に女性を注視するというのは少々失礼だったか。悪い事をしたな。どうも今日は良いことが続いたせいか、少し浮かれてしまっている様だ。気を引き締めねばなるまい。親しき仲にも礼儀ありという言葉を忘れてはならない。

 

 反省していたその時、丁度小悪魔から淹れたての紅茶が届く。カップを手に取り一息入れる。芳醇なハーブティーの香りが鼻腔を抜けていく感覚がなんとも心地良い。やはり、他人が淹れてくれた飲み物は格別だ。今日は二杯も飲めたので、これから200年は不眠不休で働ける気がする。後は小悪魔が私の事を怖がってくれなければ完璧なのだが、初対面が初対面だっただけに今すぐ態度を変えろと言うのは酷なものだろう。私も、そんな人の感情を無視するようなことは望んでいない。別にゆっくりでも良いのだ。私が無害であると彼女が納得してくれて、そしていつか何気ない談話が出来るようになれば万々歳なのである。

 やはりレミリアの親代わりと言うフレーズと、レミリアの血の証明書が功を奏したのか、彼女たちは今まで出会った者たちと比較してとてもよく受け入れてくれている。願わくば、何時しか家族の一員と認めてくれれば良いのだが。

 

 私は改めて、パチュリーにフランの所在を聞いてみる。

 そして、返って来た予想だにしない返答に、思わず眉を顰めることとなった。

 

「地下室に幽閉? ……それは本当かい?」

「ええ。残念なことに本当よ。フランは今、レミィの判断で地下に閉じ込められている」

 

 私の質問に、パチュリーは端的にそう告げた。

 フランの幽閉。そしてそれを実行したレミリアの判断。二つのワードが、私の脳内で何度も反芻を繰り返す。

 私が居ない間に、あの二人に何があったと言うのか。あの子たちの仲は決して悪いものではなかった。むしろ双方べったりだったと言って良い。フランに関しては、何時どこへ行く時でもレミリアの隣にくっ付いていた。これほどまでに仲のいい姉妹が他に居るのかと、世界中に発信したくなるくらいの相性だったのだ。

 ……しかし心とはまさに諸行無常の代表格。不変であることは決して無い。私が離れて経過した400年以上の年月の間に、何らかの(わだかま)りが起こっていたとしても不思議な事ではないだろう。それが肥大化し、取り返しのつかない亀裂を生んでしまったとも容易に想像できる。

 だがもし仮にそうだとして、それを放って見ておけるほど私は家族へ無関心にはなれない。例えお節介と言われようとも見過ごす訳にはいかないのだ。かつて義理の父を務めたものとしては、尚の事。

 

「それはまた何故? よければ理由を聞かせてくれないか」

「……、」

 

 パチュリーは表情を曇らせ、目を逸らす。発言すべきかどうか葛藤しているのだろう。なにせこの館が抱える、いわば『闇』の部分だろうから躊躇して当然だ。無害と認められてもまだ私は少なからず怪しまれている。何より彼女の親友も関わっている話題のため、迂闊に話す事が出来ない立場であるとも容易に伺える。

 

 数拍の間の後、彼女は薄桃色の唇を動かした。

 

「あなたが、あの姉妹の親代わりをしていた事は紛れもない事実。そうでしょう?」

「無論だ。さらに確証が欲しいのならレミリアにもう一度直接聞いてみると良い。改めて確認が取れるまで待っていよう」

「……別に良いわ。話してあげる」

「質問をした私が言うのもなんだが、大丈夫なのか? 私と君は、会ってまだ間もない仲だ。誤解が解けたとはいえ、この手の深い話題を聞けるほど信用されてはいないだろうから、君が私へ話すに値すると確証を得るまで控えようかとも考えていたのだが」

「先ほどのアレが偶然の重なった事故だと分かった今、あなたがここに居て何の騒ぎも起こっていないだけで十分な証拠になるわよ。そんなに目立つ力を放っているのに、レミィが放っておくわけないもの」

 

 言われてみれば、それもそうだ。常に魔性を放ち続け、他者へ恐怖を無条件に植え付けてしまう私を無暗に受け入れるとなると、私がどの様な者かある程度知る人物のみに限られる。私の事など露も知らない者たちは皆、例外なく私を排除しようとして来たから、彼女の弁は酷く納得がいく。

 そう考えると理由はどうであれ、必然的にパチュリーは私をほんの少しでも受け入れてくれようとしているということだろうか。だとしたら、こんなに嬉しいことは無いのだが。

 

「話を戻すわよ。フランが地下に幽閉された理由は……彼女が、心を狂気に蝕まれてしまっているから」

「――――狂気、だって?」

「ええ」

 

 あまりに予想外で、到底信じる事の出来ない答えを前に、私は自分の耳を疑った。

 今この少女は、認めたくはないが確かに、『狂気』と口にしたのだ。

 

 狂気。簡単に言えば、何らかの要因で調律が取れなくなり、崩壊してしまった精神を指す。

 しかし妖怪に対しての狂気とは、ただの精神崩壊を表す言葉ではない。妖怪にとっての狂気とは即ち、生物だろうと無生物であろうと目につく存在を排除する破壊衝動に呑み込まれた、文字通り狂化した精神状態を表している。破壊行為そのものが快楽と直結し、自らの意志ではその行為を拒絶したとしても、何かを壊さずにはいられなくなるのだ。

 それはまさしく、妖怪にとっての麻薬だ。そして麻薬とは、最も甘美な劇薬としてあまりにも名が知られている。ここで言う麻薬……即ち『狂気』が及ぼす影響は、例え妖怪であっても人間と大差がない状態異常を引き起こすのだ。

 

 壊す事への快感に身を委ね、完全に狂気に呑み込まれた妖怪は、やがてその破壊の矛先を自分自身へと向けてしまう。自身の存在理由―――妖怪にとって主にそれは、人間に恐れを抱かせる行為――――を圧倒的に凌駕し、精神的キャパシティの限界を超えた破壊衝動が、知的生物が持ちうる理性との拮抗を生み、そしてその反動が精神に『矛盾』を生み出し、多大な負荷となって心へ押しかけるからだ。そこまで狂気が進行してしまえば、精神に存在の重心を据える妖怪は終わりだ。自らの破壊衝動で己の心と体を完膚なきまでに破壊し尽し、そして残されるのは妖怪だった残骸のみとなる。それはさながら、快楽に溺れ薬に脳を徹底的に破壊された人間の末路の様に。

 

 稀に狂気と適応し、他に類を見ないバーサーカーと化す怪物も存在する様だが、その身に万物を破壊する絶対的な能力を秘めながら、ペットに飼っていた小鳥を心から愛する事の出来る優しさを持つあのフランに限ってそれはない。初めは身の内に沸いた狂気に酔いしれていたとしても、何時かあの子は理性と狂気の板挟みに遭い、自分の持つ破壊の力で『フランドール・スカーレット』という存在そのものを崩壊させてしまうだろう。

 ギリッ、と奥歯が微かに鳴った。あの無邪気で、物を壊してしまうたびに己の力を嘆き涙していた純粋なフランが、能力で自らを血の海に沈める光景を思い浮かべてしまったのだ。

 

「治療は、試みたのか」

「……残念ながら、現状打つ手なしよ。古今東西ありとあらゆる方法を用いても、あの子の心から狂気を取り除くことは叶わなかった。少なくとも、私がここに来た150年前からずっと」

 

 言葉が、出ない。

 絶句とは正に、この様な状態を指すものなのかと身をもって実感した。

 まさか、そこまで深刻な事態になっていたとは露ほども思わなかった。成長したからもう私の助けは要らないだろうと判断し、暢気に旅に出てあの子の事を放った過去の自分を殴りたくなる。何故あの時、あの子の心の闇に気付いてあげられなかったのだ。

 

 パチュリーが口にした年数から推察する限り、どうやらフランは強靭な精神力で狂気を抑え込んでいるようだが、それも何時まで持つか分かったものではない。もしかしたら一年後、一か月後、一週間後……いや、数時間後には精神が決壊するかもしれない。時間が無いのは明白だろう。こうしてはいられない。直ぐにでもあの子の下へ行って現状を確認し、狂気の緩和対策を立案しなければ。

 

 地下室の場所は知っている。あそこはそもそも、フランの私室として与えられた場所だ。あの子が生まれて言葉を喋れるようになるまで成長した頃、能力が発現したばかりのフランは、力の制御が非常に不安定だった。その力をコントロールする特訓を行うため、比較的被害の出にくい地下に私室と訓練室を作ればよいと、当時まだ生きていた彼女たちの本当の父に意見を言ったことを覚えている。

 直後に、両親が吸血鬼狩りに命を奪われ亡くなったため、亡くなる前の父親からの頼みと他者からの推薦もあり、私があの子たちの面倒を見る事となった。フランの能力制御の練習には随分と付き合ったものだ。

 だが今は思い出に浸っている場合ではない。確か、ここと比較的近い位置に入り口があった筈だ。急がなくては。打てる手は早いうちに打っておくに越したことは無い。

 

 私が席を立ち、地下へ向かおうとするその時だった。突然私の眼前に一冊の本が現れて、進行を塞いだのだ。パチュリーが本を操作して、私を止めようとしたのだろう。何かまだ私に言う事でもあるのだろうか。

 ……しかしよく見るとこの本、鋭い牙がズラリと生えている。もしかして、昔私が粗相をして作ってしまった魔本だろうか。元気そうで何よりである。それとパチュリー。この子を今にも噛みつきそうなくらい近づけないでくれると有難いのだが。もしかして先ほどの事を少なからず根に持っているのだろうか?

 

 生暖かい吐息の様な魔力を私へ吐きかけてくる魔本と睨めっこしていると、魔本はクウンと情けない犬の鳴き声の様なものを出してしょんぼり萎れてしまった。私はとうとう本にすら怖がられるようになってしまったのか。

 

「待って。今、地下室に掛けてあったドアの防護魔法の魔力が消失したわ」

「……それは、つまり」

「ええ、理由は分からないけれど、たった今フランが脱走した。しかも――――」

 

 ああ、なんてことなの。そうパチュリーは狼狽の色を声に含ませて付け加えた。眉間に皺を寄せ、苦虫を噛み潰すような表情を浮かべる。

 彼女の柴水晶の瞳は、図書館のある一点へと注がれた。

 

「――――真っ直ぐこっちへ向かって来ている」

 

 瞬間。図書館のただ唯一の入り口が、轟音と共に弾け飛んだ。

 原因は、言うまでも無く。

 硝煙の中から紅い大きな瞳を爛々と輝かせ、七色の宝石が散りばめられた様な奇妙な翼で力強く羽ばたきながら、音すらも置き去りにするかの如き威力を伴い私へ突撃してきたフランによるものだった。

 刹那の際に見えたのは、彼女が手に握る、紅蓮の炎を纏わせた魔剣の輪郭。幼い顔に張り付けられた、歪みきった凄惨な笑みだ。

 400年ぶりの再会を前に、愛しの愛娘は大きく縦に炎の剣を振りかぶる。

 

「偽者め、死んじゃえ」

 

 直後、途方もない爆熱と衝撃が、一切の加減を持たずに私へ襲い掛かった。

 

 

「―――――――っ!」

「ふわあああああああああああっ! パ、パチュリー様あああああああああっ!!」

 

 フランの持つ最大級の破壊力を持ったスペルカード、レーヴァテインが、スペルカードルールを無視した威力を伴い、至近距離で炸裂した瞬間。訪れたのは身を焦がす熱の旋風でも、内臓を破裂させる衝撃波でも、鼓膜を引き裂く音の津波でもなく、悪魔のくせに人一倍怖がりな、情けない司書の悲鳴だった。

 咄嗟に防御障壁を展開しようとしたが、先ほどの発作で喉が馴染んでいなかったためか魔法のスペルを唱える所作が遅れ、ほんの一瞬隙が生じてしまった。その須臾にも等しい小さな遅れが、致命的なミスとなって私たちの足元を掬いとる筈だった。

 ……筈だったのだ。

 

「あ、あれ? 痛くない……?」

 

 ようやく気が付いたのか、頭を抱えていた小悪魔が顔を上げる。一呼吸を置いた後、彼女はフランの熾烈な攻撃から私たちを守り抜いたものの正体を見て、目を剥いた。

 

 そこには私たちを囲むように、紫色をした小さなドーム状の障壁が出来上がっていたのだ。

 

 考えるまでも無い。これを展開したのはあの男―――ナハトだったか―――で間違いないだろう。あの冷静な男は、どうやらこの危機的な状況下においても平静でいられたらしい。私よりも早く、精密に、あの攻撃を防ぎ切る性能を持った障壁を、私たちを守る範囲だけだが瞬時に展開して見せた。いくら私の喉が不調で遅れたからとはいえ、この緻密な魔法式を一瞬の内に構築した技能たるや凄まじいものだ。レミィの親と謳うのも納得である。

 彼の魔法の腕は、どうやら上級魔法使い以上と見立てて間違いはないだろう。考えてみればそれもそうだ。彼は、この図書館を事実上たったひとりで創設した怪物なのだから。

 思いがけない彼の能力を前に、私は緊急事態であるにも関わらず、場違いな感心を抱かずにはいられなかった。流石、()()()()()()()()()()()()()()()()()私を狂わせただけはある。

 

「パチュリー、小悪魔、大丈夫?」

 

 鈴の音の様な声に、ハッと我に返った。

 目を向けると、魔法障壁の外から私たちを心配そうに見ているフランの姿があった。くりくりとした紅い瞳やこちらを心配そうに伺うあどけない表情からは、先ほどの大惨劇を生み出した同一人物とは到底思えない。

 彼女は今開けるね、と呟いて左手を握り締めた。途端に、私たちを守り抜いた魔法障壁が、呆気なくガラスを砕いたかのような高音と共に砕け散った。

 

「ごめんね。ちょっと頭の中が一杯になってて、パチュリー達に気が付かなかった」

「大丈夫よ。それより、急にどうしたというの? 珍しく出てきたかと思えばあの人を―――お客様を攻撃するだなんて」

「お客様……ああ、うん、うん、そう、そうだった。ごめんなさい。直ぐにとどめを刺しに行くわ。皆を傷つける悪い偽者は、とっとと八つ裂きにしなきゃだもんね。それじゃあね、パチュリー。私、まだやらなきゃいけない事があるの。終わったらちゃんと部屋に戻るわ。ドア壊しちゃってごめんね」

 

 唐突な変化だった。

 私たちを心配した時の優しい眼とは打って変わって、冷酷な光が瞳に宿る。まるで見えない誰かと話をしているかのように不自然な相槌を打ちながら、フランはゆらりと体を動かした。

 これだ。これさえなければ、この子は家族思いの、ただの普通の女の子なのに。

 

 ナハトにはフランが割り込んでしまったせいで伝えそびれたが、実のところ彼女は破壊衝動に支配されたが故に、心の中に狂気の占領を許した訳ではない。何時何処で入り込んだのかまったくもって不明だが、フランの頭の中には何か別の精神的存在が入り込んでおり、それが巣食って離れないせいで狂気に蝕まれてしまっているのである。不幸中の幸いなのは、狂気に侵されながらもそのナニカとフランは擬似的な共生関係にあるお蔭で、精神が侵食されるスピードそのものが格段に遅い事だろう。

 

 しかしこれは、限りなく黒に近いグレーと判断できる良性の腫瘍を放置している行為に等しい。いつそれが悪性に変異してフランの精神を食い破らないか、誰にも保証は出来ない状態なのだ。

 一刻も早く正体不明のソレを取り除きたいのは私もレミィも同じ考えだが、そのナニカを退けるには、認めたくはないが力が足りない。心の中枢に、まるで根を張るようにして食い込んでいるのだ。無理やり引き剥がせば言うまでも無く、フランの精神にも多大なダメージが残ってしまう。

 最も効率的かつ安全な除去方法は、フランが精神的存在と別離する事を心から望む事である。そうすれば、あとはこちらからほんの少し背を押す形で力を貸せば、容易く引き剥がすことが出来るのだ。そのためにも私とレミィ、そしてフランと比較的仲のいい門番が幾度も説得を試みたが、めぼしい成果は上げられなかった。それどころか精神的存在が私たちを疎ましく思って彼女に何かを吹き込んだのか、フランは私たちの説得に耳を貸そうとしなくなってしまったのだ。

 技術も駄目。力技も駄目。心からの訴えも駄目。故に手詰まり。これがチェスの試合なのだとすれば、チェックメイトに嵌ったのも同然だった。

 

 だからこそ、あの男には。

 吸血鬼姉妹の親代わりを務めたと言うあの男には。淡く微かな希望を抱いたのだ。

 信用はしていない。信頼の情も無い。現状、彼のあまりに強すぎる力の余波の影響以外は無害であると判断しただけで、あの男を心の底から慕う事など、まだ到底出来そうにはない。だが私は、それでもあの男に賭ける事にしたのだ。無自覚に体の内から外へ漏れ出す程のパワーを秘め、なおかつ瞬発的に、魔法を的確かつ精巧に編み出せる精密性を兼ね備えた、あの男の未知の力に。

 故に、この館の抱える闇について話した。そうすれば、私たちが成す事の出来なかった事が、実現できるかもしれないから。

 もしかしたら彼ならば、フランの心に絡みついた病魔を取り除くことが出来るかもしれないと、一握の望みを掴んだから。

 

 だからこそ、何としてでもこのチャンスを利用してフランを救い出さねばならない。紅魔館の未来のために。そしてなにより我が親友の笑顔の為にも。

 

 私の覚悟を余所に、フランは取り憑かれているかのように、ゆらゆらとナハトが飛ばされた方向へ足を動かす。何故彼女が、先ほどこの館へ訪れたばかりだと言う彼の存在を察知して、あまつさえ攻撃を加えたのか理由は定かではないが、十中八九とどめを刺す気だろう。

 行かせるわけにはいかない。ナハトはレミィと同じ吸血鬼らしいから、あのくらいじゃ死にはしないだろうが回復するまでの時間は稼がなければ。フランの持つ能力は、吸血鬼ですら存在ごと消滅してしまいかねない危険極まりない代物だ。ダメージを負った状態で食らえばおそらく、成体の吸血鬼である彼でも死は免れられない。

 

「待ちなさいフラン。あなたは何故彼を狙うの? 過去に何か、あの人に恨みを抱くような出来事でもあったのかしら」

「……違うのよ、パチュリー。あの人はおじさまなんかじゃないの。偽者なの。おじさまの力と姿を真似て私たちを騙そうとしている、とんでもない愚か者なのよ」

「フラン……? あなた、一体何を言って……?」

「大丈夫、大丈夫だよパチュリー。直ぐに偽者を退治して、私が皆を守ってあげるから」

 

 会話の流れが支離滅裂だ。こちらの伝えたい意思が欠片も伝わっていない。彼女の中では、この一連の事件すべてが自己完結している様に思える。原因としては、彼女の頭の中に巣食う精神的存在から何らかの干渉を受けたと考えるのが妥当か。

 今のフランはまともではない。いつも以上に、完全に自分の世界へ閉じこもってしまっている。

 食い止めねば。

 彼女に、ナハトを壊させるわけにはいかない。

 

「止まりなさいフラン。あの人を壊してはいけない」

「……なんで邪魔するのパチュリー。どいてよ」

「それは出来ないわ。あの人があなたに壊されてしまえば、あなたを救い出すことが出来なくなるかもしれない。だから、今ここを通す訳にはいかないの」

「………………うん、そうだね。どうやらパチュリーは、偽物に騙されてしまったみたい。どうすれば助けてあげられるかな? ……ん、分かった。心が痛むけど、私頑張る。絶対助けてみせるから、応援してくれる? ……ありがとう、やってみせるよ」

「フラン、聞きなさい。あの人は偽者なんかじゃないわ。正真正銘、あなたの義理のお父様よ。そうでなければ、レミィが気づかない訳がないでしょう? あなたの姉は偽者と本人の区別がつかないほど愚鈍ではないわ。それに、レミィの『血の証明』があの人を本物だと断定したの。同じ吸血鬼のあなたならこの意味が分かる筈よ。あなたの頭の中に居るそいつに、これ以上耳を傾けては駄目」

「違うよパチュリー。アレの方が偽者なの。パチュリーは騙されてるだけ……ううん、アレに記憶を弄られて、そう思い込まされているだけなの。大丈夫、パチュリーは悪くない。悪いのはパチュリーを騙す偽者の方だから。だから、ごめんね?」

 

 ゾワリ、と背筋を氷が滑り抜けたかのような悪寒が走った。炎の剣を携えたフランドールが、内に秘める吸血鬼の膨大な魔力を完全に開放したのだ。その目に光は見当たらない。あるのは狂信にも近い、ただ一つの目的の遂行のみ。言うまでも無く、ナハトを完膚なきまでに滅する事だろう。

 手始めに彼女は、障害となる私を無力化しようと考えている。幸運なことに殺す気は無いらしいが、まともにやり合えば暫くの間再起不能にされるのは間違いない。さらに残念なことに、喉も体も調子が悪い今の私では、フランと真正面からぶつかりあって打ち勝てる確率はほぼゼロだ。

 しかしここを退くのは駄目だ。ここで私が退けば、賭けるべき希望が無くなってしまう。

 

 私は彼女の発言から得た情報から、ある種の確信を得ていた。

 どうも、フランに取り憑いた精神的存在にとってナハトは邪魔であるらしい。根本的な理由は分からず仕舞いだが、奴はナハトが自身にとって危険だと悟っているのだろう。だからフランを言葉巧みに騙し、問答無用にナハトを排除させるよう(けしか)けたのだ。そうでなければ、数百年ものブランクを空けてここを訪れたと言うナハトを、存在を認知した瞬間から襲い掛かったりなどしない筈である。何の障害にも成り得ないならば、むしろ無関心に徹してナリを潜めておくのが定石だろう。敵を排除する理由はいつだって、それが脅威足り得るからなのだ。

 

 結論からして、フランに憑いている精神的存在にとってナハトが脅威であると伺える。であれば、取るべき選択肢は一つ。

 やるしかない。全力を持って、ナハトが復帰するまで食い止める。

 

 私はグリモアを手のひらに召還し、魔力と術式を接続する。小悪魔に合図を送り、レミィに伝えるよう促した。彼女が飛び去っていく様子を尻目に、私は深く息を吐き出す。

 体調は全快と言えない。喉の調子も芳しくない。だがそれを理由に逃げ出すことは出来ない。

 100%ではないが、ナハトはこの現状を打破する可能性をもった存在なのだ。今まで様々な手段を用いてフランを治そうとしたがどれも実を結ばず、八方塞がりだった私たちの前に垂れて来た一筋の蜘蛛の糸なのだ。例えそれがどれだけ細い糸だろうと、掴み取らない理由は無い。それを逃せば、待っているのは緩やかな破滅なのだと十分に理解しているからだ。

 

 いい加減、この狂った演目にも幕を下ろす時が来たのだろう。彼女には、頭のナニカに操られる役者ではなく、一人の妹として、家族として。親友の明るい未来の為にも、この先を共に歩いてもらわなければ困るのだ。

 

 覚悟を決め、悪魔の妹と相対する。対する彼女は絶対零度の瞳で私を見据え、凍えるような微笑みを浮かべた。

 

 

「ちょっと痛くしちゃうけど許して、パチュリー。目が覚めたらまた、平和な紅魔館が戻っているからさ!」

「目を覚ますのはあなたよフランドール。寝ぼけ眼で幻想を見るのはもう終わり。夢からはいつか、醒めなくてはならないのよ!」

 

 



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4.「巣食うもの」

 紅魔館の廊下を走る。床を蹴り、腕を忙しく動かし、ここ最近じゃ比べ物にならない程の全速力で、無駄に長い紅魔館の廊下を駆けていく。咲夜さんの空間拡張が恨めしく思えたのは、恐らく後にも先にもこれが最後となるだろう。

 先ほどお嬢様の部屋へ飛び込んでから、開口一番に私はこう言われた。

 

『美鈴、貴女の言いたいことは分かっているわ。でも今は図書館へ向かいなさい。おじ様とフランが激突していると小悪魔から報告を受けたの。このままだと手遅れになるかもしれない。私と咲夜も直ぐ向かうから、貴女は先に行ってて頂戴』

 

 全てを察した私は、そのままお嬢様の部屋を飛び出し今に至る。

 私の『気』のサーチは、正確に当たっていた。

 あの方が、ナハトさんが帰って来ていた。

 

 今になって帰ってきた理由だとかなんだとか、そんなものはどうだっていい。今は妹様がナハトさんと戦闘になっている方が遥かに問題だ。妹様は頭に巣食うナニカのせいで狂気に陥り、正常な判断が効かなくなってしまっている。それが原因でもし、何らかの拍子に妹様がナハトさんの逆鱗へ触れてしまえば、間違いなく妹様は…………。

 想像もしたくない未来が脳裏を掠めた。頭を振るい、ネガティブな妄想を追い出すようにして掻き消す。手のひらが異常に湿っているのは、走って疲れたせいではないだろう。

 

 ……ナハトさんは、私に『紅美鈴』としての道を示してくれた人物である。大変な恩をあの方には感じている。しかし同時に、私はあの方からこの世で最も恐ろしいものを教えられた身でもあるのだ。

 それは、言うまでもなくナハトさん……あの方の怒りだ。冗談でも思い浮かべてしまえば、背筋を駆け抜ける悪寒が止まらなくなる。

 思い出してしまうのだ。あの方と私が、初めてお会いした満月の夜の出来事を。同時に、私がお嬢様たちへ仕える道を選んだ、彼との因果の経歴を。

 

 

 

 ―――私はかつて、流浪の妖怪だった。人間の武術を習得し、力とは、強さとは何たるかという問答に答えを導き出すため、長く世界を放浪していた身の上だったのだ。

 その旅の途中、私はひょんなことから、当時まだ沢山の吸血鬼が住んでいた紅魔館の用心棒として雇われる事になった。ご飯にもありつけるし、用心棒稼業で腕も磨けるしと一石二鳥だなと軽く考えて、私はすぐに承諾した。

 

 だがそれが甘かった。私が用心棒として初めに就いたのが、紅魔館に住むとあるバンパイアロードのとんでもないドラ息子だったのだ。これがまた、目にかけて性根の腐った下郎だった。何かと親の権力を振り回し、理由もなく紅魔館で従属として働いていた妖怪へ暴力を振るうのは日常茶飯事。まさにやりたい放題の毎日を、アレは送っていた。その癖実力が他の吸血鬼よりもあったものだから、余計に手が付けられなかったのだ。

 そんな彼はある日、最悪の暴挙へと身を乗り出した。手下格の吸血鬼を従え、あろうことか私を近くの森へ攫い、手籠めにしようとしたのだ。女っ気の少なかった当時の紅魔館では、私は彼らの誘引剤になってしまっていたらしい。

 

『お前はただの奴隷だ。当然お前の体は俺のものだ。なら奴隷は奴隷らしく、俺に傅き奉仕しろ』

 

 ……今でも思い出すと吐き気がしてくる。あの姑息な男達の、下卑た笑いと言葉の数々には。

 当然私は拒んだ。あんな男に私の純潔を捧げてやる気なんて、起こる筈も無かった。あの少年一人ならば叩きのめすのに何も問題無かったのだが、それはあのドラ息子も承知していた。だから、たとえ素人でも個々が強力な力を持つ吸血鬼を共に引き連れて来たのだ。そして抵抗も空しく、私はボロ雑巾の様に地面へ這わされる結果となった。

 悔しかった。惨めだった。何よりいまからこんな奴らに辱めを受けるだなんて考えると、気持ち悪さと自分の情けなさで涙が止まらなかった。

 

 服を引き裂かれ、手足を拘束され、もう終わりだと絶望の渦中に呑み込まれ、希望も何もかも無くしてしまった、まさにその時だった。満月の輝きの下に彼が姿を現したのは。

 

 氷河の如き冷酷さを柴水晶の瞳に宿らせて、彼はただ沈黙の森の中、私たちを見下ろすように立っていたのだ。何の前触れもなく、まるで最初から居たとでも言わんばかりに、深夜の森へ、ぽつんと。

 灰色の髪のその男性は、凄まじい威圧感を迸らせながらゆっくりとこちらへ歩いてきた。彼の姿を目撃し、その存在に気が付いた吸血鬼の少年達は、ただでさえ白い顔をさらに青白くさせて途端に震えだした。悪い事をしているところを見られた幼子の様に、冷や汗を流しながらブルブルと情けなく縮こまってしまったのだ。

 

 恐ろしかった。

 言葉は無く、ただ悠然とこちらへ歩いてくるその男が、私はどうしようもなく怖かった。犯される危機感などではない。それはまさに死の恐怖だった。動けば首を刈られる。心の臓を抉り出される。そう思わされてしまう、得体の知れない禍々しい瘴気のようなものを彼から感じたのだ。

 今の自分が置かれていた状況など、その時はすっかり忘れ去ってしまっていた。一刻も早くこの男から逃げ出さねばならない衝動に駆られた。でも、私は立ち去ることが出来なかった。満月を背後に私たちの前で立ち止まった彼の姿は、視界に彼の姿以外を映す事は許されないと言わんばかりに、それはそれは美しかったのだ。

 

 闇夜に光る紫の瞳が。月光を反射する灰色の癖毛が。この世のものとは思えない黄金比を備えた顔貌が。白磁の名器が霞んで見えるような透明感のある白い肌が。成熟し、一個の完成形となったしなやかな体躯が。柔らかい夜風に靡く漆黒のマントが。どれもこれもが、一級の芸術品の様な魅惑を醸し出していた。視線を向けるだけで、一歩一歩の足音が耳に入り込むだけで、悪寒と冷や汗が止まらなくなるのに、それでも彼に目を向けずにはいられなかった。

 

『違うんです! これには訳が――――』

『俺たちはこの不出来な使用人に罰を与えようとしただけで―――』

『これはただの躾であって――――』

 

 堰を切ったように、見苦しい言い訳の嵐が起こった。矢雨の如く、次々と潔白を証明するべく並べられた嘘偽りの美辞麗句が、私をあの方の魔性から現実へ引き戻した。

 それと同時に、館での勤務中、何気なく小耳に挟んだある一文句が脳裏にふと蘇った。

 

【闇夜の支配者を怒らせるな。彼の者の怒りを買うならば、迷わず竜の逆鱗に触れろ】

 

 そして、私は確信に至った。吸血鬼の少年たちが突然血相を変え、恐怖したこの男の正体が分かったのだ。

 何時からこの世に存在していたのかは全く不明。素性も出自も何もなく、ただ絶対的な力を持つが故に皆が畏れた、とある一人の吸血鬼。

 数多の悪魔が往来跋扈する紅魔館で最強と謳われた、今は亡きスカーレット卿が唯一絶対の服従を示した、紛うこと無き闇夜の支配者。

 彼こそが、ナハトその人であるのだと。

 

『言い訳は止さないか、少年たち』

 

 彼は言った。独裁者の如く冷血に、教師が教え子を諭す様に柔らかく、しかしその場の雑音全てを制圧するかのように、重々しく言い放った。

 彼の言葉は衝撃を伴った。まるで今にも自分の喉を食い破らんとする眼前の魔物が、凄まじい形相で吠えたかのような幻さえ感じた。事実、少年の内二人は彼の凄まじい気迫を前に、呆気なく気を失った。例のドラ息子は辛うじて意識は保っているが腰は砕け、無残にも履物を濡らしながら地面を転がっていた。

 

 

『吸血鬼たるもの、常に誇りを持て。夜を制する者として、高潔さを忘れるべからず。……これは、君たちが慕っていたスカーレット卿の言葉だ』

 

 そんな少年に彼は近づき、囁くのだ。死の宣告を告げる死神が如く、緩やかに唇を動かしながら。

 

『今君がしようとしていた行動は、高潔で誇りのある行いか? 夜を制する吸血鬼に相応しい高貴な行いか?』

『い、いいえ、いいえ、いいえ、いいえ……!』

『そうだな、その通りだ。勘違いをしてはいけない。己が強者たる吸血鬼だからと言って、驕っていい理由にはならないのだ、少年よ。さて、自分の罪が自覚できた今、君に反省の心意気はあるのかね』

 

 命乞い、弁護の言葉が飛び散らかる。それを彼は、冷酷な眼差しで聞き流すのみで。

 

『謝る相手が、違うんじゃあないか?』

 

 闇夜の支配者の怒りを買った少年の行動は早かった。恥も外聞もなく、私へあらん限りの謝罪を投げかけた。あまり必死に謝るものだから、私も今更どうこうしようとは思えなくなっていた。まずそんな事よりも、少年を言葉だけで屈服させた男の静かな怒りが、茨に絡みつかれたかのように私の心を蝕み、最早少年どころではなくなっていたのだ。

 もし、もしあの男の怒りが私に向けられていたら、一体どうなっていたのだろうか? 睨まれただけで心臓を止められそうなあの視線の対象となってしまっていたら、私はどうなってしまっていたのだろうか?

 起こり得ない事なのに、頭の片隅に負の可能性が膿の如く湧いて出た。男の逆鱗を撫でた立場がもし私だったらと、想像を爆発的に膨らませられたのだ。それほどまでに強い恐怖を私は抱いた。この世にこんな恐ろしい事が有り得たのかと、何度も頭の中で再確認してしまう程に。

 

 彼は後始末をしておくようにとだけ少年に告げて、私にマントを被せ、館の中へ連れ戻した。彼の後ろを着いて歩く私は気が気でなかった。私の一挙一動が、この男の怒りを触発するかもしれない。そう考えると、ロクに歩くことすらままならない状態だった。

 だが例えようのない恐怖と同時に、私の心にはある感情が芽生えつつあった。

 

 それは、憧れだったのかもしれない。または羨望だったのかもしれない。ただ確実に言えることは、私は彼の他の追随を許さない圧倒的な力に対して、強い畏敬の念を抱いていた。武を学び、強さとは何たるかを追い求め、そしてこの悪魔の館へ辿り着いた今までの出来事その全てが、もしかするとこの強大な男と引き合わされる因果だったのではないかとすら思い始めた。まず、正常な判断能力を失っていたことは確かだった。

 

 だから私は、まだ彼の事など露も知らないというのに、とんでもない事を口走ってしまったのだ。

 

『あ、あの。私、美鈴と言います。用心棒として雇われていまして、そ、その』

『…………どうした? 急に畏まって。具合でも悪いの――――』

『私に、あなたの強大さの秘密を教えて頂けませんか?』

 

 今思い返してみると、あれがどれだけ命知らずな行為だったのかがはっきり分かる。機嫌を損ねられ、振り向かれたと同時に首を撥ねられたとしても文句は言えない所業だった。それでもあの時の私は、彼は私を更なる高みに導いてくれるだろうと、素っ頓狂な確信を持っていたのだ。

 

 彼は一瞬だけ眉を上げると、困ったような笑みを浮かべた。

 不味い。不快にさせてしまったのかと、私は冷や汗で衣服が張り付く感触を覚えた。もう終わりだと思って、私はぎゅっと目を瞑った。

 しかし私の心境に反して、彼は柔らかく返答した。

 

『強大……私はそんな、大層な者ではないさ』

『い、いえ! その様な事は決してありません! お噂はかねがね聞いております。漆黒の魔王、古の夜の化身、無上の吸血鬼、闇夜の支配者。二つ名に相応しき貴方様の強大さは、私のような末端にも強く伝わっております。その様なお方が大層でないなど、とんでもないことです』

 

 その時の彼は、私が耳にした二つ名を並べるたびにみるみる険しい表情になっていったのを覚えている。遂には渋柿を口一杯に含んでいるかのような顔になってしまい、私はとうとう地雷を踏んだかと、軽率な発言を心底後悔した。

 重苦しい沈黙の後に、口を開いたのは彼の方だった。

 

『君は何故、私の力に熱心になっているのかな』

 

 彼の言葉を耳にして、私は無我夢中で訳を述べた。この館までの道のり、生きる意味、それら全てを、私は口と体を使って精一杯説明した。彼はその全てを静かに聞き入れ、私が話を終えると、静かに言った。

 

『強さとはなにか……か。成程。君は一人の武術家として武を追い求め、己を昇華する道を探している訳だ』

『は、はい!』

『……言ったように、私は君が思い描く様な強さを持った者ではない。だけど、それなりに長くは生きた身だ。だから年長者として一つだけ、君にアドバイスをあげよう』

 

 まるでオーロラの様に神秘的な笑みを浮かべた彼は、私にある一つの命を下した。

 それは、スカーレット卿の遺した子供たち……後のお嬢様と妹様を守る役目だった。幼い彼女たちを守ってあげてくれ。そうすれば、君は力とはなんたるかをきっと理解するだろう。彼は私にそう告げた。

 

 私は、彼の提案と指示を二つ返事で承諾した。もとよりあの少年の下で用心棒をやる気などとうに失せていた。少年の親に事情を伝えると、あの方の怒りを買う原因となった私を手元に置いておきたくなかったのか、一言二言の皮肉を残して直ぐに承諾してくれた。私はすぐに、彼の命に従ってお嬢様のお世話をする事となった。

 

 それから実に、90年近くの時が過ぎた。その間、私は夢中で己の研鑽と、お嬢様の警護に時間を費やし続けた。

 最初は只の、使命に似た義務行動だった。彼女たちを守り続ければ、私の望む答えが見つかる。そう信じ続け、半分機械的に仕事をこなし続けた。

 だが途中から、私はそれを仕事とは思えなくなっていた。天真爛漫なお嬢様や、能力を克服した愛らしい妹様たちの世話をする度に、なんだか年の離れた妹が二人も出来た気分になっていたのだ。いつしか己を高めるためだけの修練が、何が何でもお嬢様たちを守り抜くという目的にすり替わっていった。

 

 そして、ある事件が起きた。

 

 彼―――ナハトさんが急遽館を空けると告げ、私にお嬢様たちを一任して旅に出られた直後の事だった。紅魔館の覇権を狙いながらも、ナハトさんの存在によって上手く行動できずにいた吸血鬼たちによる、血で血を洗う覇権争いが巻き起こったのだ。

 

 当然、お嬢様たちもその争いに巻き込まれた。下賤な吸血鬼は、お嬢様たちの運命を操る能力と破壊の力を狙ったのだ。

 私は、お嬢様たちを守るために日夜戦い続けた。襲い来る吸血鬼や使い魔を片っ端から叩きのめし、紅魔館には次々と気絶した吸血鬼や使い魔が積み上げられていった。

 

 何十もの悪魔の軍勢を退けた所で、私は漸く自身の異変に気が付いた。

 強くなっている。

 確実に、90年前のあの夜より強くなっていたのだ。

 

 ナハトさんの言いたいことがまさにこれだったのだと、身をもって実感した瞬間だった。己の為だけでなく、何かを背負い守り抜く為に修練を積み、信念をもって力を振るう事。それこそが強さ。これこそが、私の追い求めた力の意味だったのだと。

 

 捻じ伏せた幾多の悪魔たちの前で、固く拳を握りしめ、私は覚悟を胸に刻んだ。

 守ってみせる。言われたからなのではなく、守りたいと思える存在を守り抜くために、さらに強くなってみせる。

 

 何時かまた彼がこの館に戻って来た時に、私は彼へ精一杯のお礼を言おう。そして今度こそ、彼の本当の弟子にして貰えるか頼んでみよう。彼が私を認めてくれるほどに日々研鑽を積み、あの方が私へ託した二人を必ずや守り抜くと、そう心に誓った。

 奇しくもその日は、闇夜の王と初めて相見えた晩のように、夜空へ黄金の月が輝く妖艶な夜だった。

 

 

 力の意味を求め続けた流浪の妖怪は、こうして紅い館の門番としての生を歩み始めたのだ。あの方は、私にとって恐怖の源泉であり、答えを導いてくれた偉大な恩人でもあるのだ。そしてお嬢様と妹様は、今では私の命に代えても守り抜くと誓った大切な家族である。

 どちらかが欠ける運命だなんて認めたくない。私は、そんな未来を見るために今日この日まで己を鍛え続けたのではないのだ。

 

 間に合え、間に合え!

 

 それだけを一心に念じ続け、ようやく視界に捉えた図書館の入口へ、私は全速力で突進した。

 

 

 バサバサバサバサ、と何かが立て続けに落下してくる音がした。

 そのうちの一つ―――具体的には、使い方を間違えれば鈍器にもなりかねないハードカバーが、私の頭頂部へ容赦なく本棚からお見舞いされた。

 

 ………………………………、

 うむ。

 どうしようもなく痛い。

 

 突如図書館へ突っ込んできたフランから、いくら間に400年もの歳月を挟んだとはいえ、あまりに激しすぎる歓迎の挨拶を貰った。反射的にパチュリー達を保護したのは良いものの、私自身は攻撃をモロに食らって吹っ飛ばされ今に至るわけだが、予想以上のダメージを食らってしまっている。フランの魔力と力の扱いがまた成長したと褒めるべきか、いきなり人を襲うのはいけないことだと叱るべきか悩むところだ。

 

 ただ、私にはもうあの子を叱る権利もないかもしれない。

 そんな考えが過ったのは、出合い頭に膨大な殺気を向けられたあの瞬間だ。あの殺気は、決して喧嘩相手に向けるような生温いものではなかった。必ず相手を殺すという必殺の意思に加え、殺しても殺したりないとでも言うかのような、漆黒の憎悪の色を孕ませた、純粋で迷いのない本物の殺気だった。

 

 殺意を向けられる原因は考えられる限り、私が400年前にあの子を置いて出て行った事だろうか―――その様な結論に辿り着き、私は少しばかり、父を務めたものとして罪悪感に駆られている。

 

 その当時レミリアが100を数える年になり、フランも同じく立派に成長した。あの子たちはもう一人でも大丈夫だろうと判断して、暫く停滞していた友人探しの長旅へ立った経緯がある。無論レミリアに出発の旨を伝えてから旅に出たと言えども、フランからしてみれば親に捨てられた心境だったのかもしれない。それが原因で精神を病み、狂気を生み出してしまった可能性は、無いと決して言い切ることは出来ない。

 

 あの子は珍しく、私の魔性の影響を受けて怖がるどころか、まるで本当の父親と見てくれているかの様に、とてもよく懐いてくれた稀有な子だった。だからこそ、深く傷ついてしまったという仮説は成り立ってしまうのだ。

 でなければ、出合い頭に私を殺そうとするわけがない。客観的に見ても、他に類を見ないほど私に懐いてくれていたあの子が、私を殺そうとするなど到底考えることが出来ないのだ。

 

 狂気を生み出すきっかけになったやもしれぬこの私が、今更どの面を下げて親のように振る舞えと言うのか。

 

「しかし、随分派手にやられたものだ。流石は彼の娘といったところかな。……左半身が綺麗に吹っ飛んでしまった」

 

 不意打ちで消し飛ばされた半身の傷を眺めながら、私は独り言ちる。やはり同族からの本気の攻撃は手痛い。しかも、あの炎の剣を模した魔法には再生能力を阻害させる因子かナニカが含まれていたのか、肉体の再生スピードが極端に遅い。まるで純銀製の剣で切り落とされた上に、銀粉を傷口に塗りたくられたかのようだ。

 

 私も一応、吸血鬼の端くれである。この程度の傷で命を落とすことは無いが、それでも現状は極めて危険な事に変わりはない。あの子は私を殺そうとしている。もうすぐ仕留め損ねたと気がついて、とどめを刺しに来る筈だ。

 幾ら簡単に死なない身とは言え、私とて完全な不死身ではない筈である。と言うより死んだことが無いので、どの程度の物理的ダメージで死ぬかが分からないのだ。この状態でフランの攻撃を立て続けに食らえば、存在が消滅する可能性だって十分に考えられる。故に危険と判断する。対策を立てねばならないのは自明の理だ。

 

 フランが、自らに狂気を生み出すきっかけを作った私を恨んで殺そうとするのは、動機としては筋が通っている。私が文句を言えたものではない。だがしかし、ここで殺されてやる訳にもいかないのだ。私にはまだ、友達を作るという長年の夢がある。一人の親友も作れずして、どうしてあの世に旅立てようか。

 

 すまないフラン。私の我儘に、随分と君の人生を振り回してしまった様だ。

 だからせめての償いに、私は責任をもって君を受け止めよう。

 フランと私の間に生まれてしまった隔たりに、真正面からぶつかろう。フランの狂気を含めた思いを全て甘受し、そしてまた、共に生きていけるように溝を埋めるのだ。

 その為には、先にこの傷を治さねばなるまい。

 

 まず傷の再生を妨害する呪いの因子を解除するため、解呪魔法を使用し傷の再生力を向上させた。さらに用心を兼ねて、コートの裏ポケットに仕舞ってある血入りの小瓶を取り出し、蓋を開けて一気に飲む。芳醇な鉄の香りが口の中へ充満し、同時に傷口から、肉が生えてくる痒さと言うべきか、あまり気持ちの良いものではない感覚が伝わってきた。

 

 やはり人間の若い女性の血はよく効く。昔に少々拝借したものを魔法で保存して持ち歩いていて良かった。今度機会があったら、咲夜に少しだけ貰えるか頼んでみよう。失礼な話だが、レミリアが一目置いているだろう彼女の血には少しばかり興味がある。吸血鬼ゆえにこればかりは仕方がない。全ての生き物は空腹の奴隷なのだ。別に飲む必要は他の同族に比べて殆ど無いとはいえ、私とて例外ではない。

 

 そうこうしているうちに、取り敢えず肉体はほぼ再生し終わった。が、流石に吹っ飛ばされた衣服までは戻らないので、立ち上がって修復魔法をかけ、元に戻す。術を編み発動させるのが面倒だが、やはり魔法とは便利なものだ。ここぞと言う時に、勉強しておいて良かったと心から思える。勉強目的が達成できていない件に関してはこの際目を瞑ろう。

 

 さて、動ける態勢は整った。後は、どうやって暴れ狂う愛娘に対抗するかだが……。

 戦闘は避けられないにしても、傷つけるのは論外だ。私が攻撃する事は絶対に許されない。これは喧嘩でもなければ制裁でもなく、あくまで対話、説得である。如何にフランの攻撃を捌きつつ無力化し、こちらの言葉を耳に入れてもらうかが鍵になるだろう。

 

 実に皮肉だが、良くも悪くも――いや、悪いばかりか。ともかくこちらに意識を惹きつけるトークは得意だ。放たれる魔性が嫌でも勝手に注意を引いてくれるので、不本意だが言葉を相手に投げるだけに関しては楽なのだ。

 

 ただ、魔性の効果や影響の強弱は強い個人差がある。どう転ぶかは予測不能だ。しかし赤子同然の頃から私の傍にいたあの子なら、少なくともマイナスの影響は出にくい筈である。私と昔生活を共にした経験のあるレミリアが再会の際に比較的早く平静さを取り戻したように、パチュリーが私の魔力を微量に取り込んだことで僅かにだが耐性が着いたように、魔性は私と近ければ近いほど、浴び続けた時間が長ければ長いほど順応出来るようになる特性がある。

 

 この仮説からすれば、今まで私と出会った中で一番耐性の強い子は紛れもなくフランだ。だから離れていたブランクはあれども、魔性の影響で心を引き離される確率は低いだろう。

 

 蛇足だが、魔性は慣れることが出来るのに今まで誰一人友達が出来なかった原因は、やはり怖がって最初から近づいてくれないか、極端に狂信的になるもしくは恐慌状態に陥る事が殆どだからだ。そもそもこの性質に気づいたのだって、乳飲み子同然だったフランをずっと世話をしているうちに、私に殆ど怯えなくなった所から発見したほどである。なにせこの長すぎる妖怪生の中で初めて私に本物の笑顔を向けてくれたのは、幼気なフランのそれだった程だ。世知辛いとは正にこの事か。

 

 現在の問題へ戻ろう。取り敢えず、魔性による会話の弊害はこの際無視するとして、どうやってフランの熾烈極まりない攻撃を凌ぐかだ。

 あの炎の剣は厄介だ。リーチも長ければ余波の威力も大きい。防ぐのに素手では心もとない。現に、先ほど半身を引き裂かれたばかりだ。二度も同じ轍を踏むわけにはいくまい。

 であれば、対抗できる武器を用意すれば解決と言う訳だ。

 

 ところで、吸血鬼は強大な魔力を持つ種族である。元々のポテンシャルが他の種族と比べて非常に高いため、普通は何も鍛錬などせずとも、ただ乱雑に力を振るうだけで他を圧倒する暴君を演出することが可能だ。特に魔法関連に関してはそれが顕著と言えるだろう。

 ならば、その基礎能力をもってして何十、何百、何千年と研鑽を積み重ねれば、一体どうなるか。

 

 答えはこうだ。純粋な魔力のみを結晶化させ、何もない空間から己に合った最高の武具を顕現させる事が可能となる。

 

 右手を水平にかざす。地面へ手のひらを向け、そこへ魔力を思い切り集中させた。

 武器が形を成すイメージを鮮明に思い浮かべる。なるべく精巧に、緻密に、繊細に。柄の形状、鍔、そして刃の長さ、切っ先の形までを、細部まで頭の中に作り出す。

 

 イメージは魔力を伴って現実へと転写され、漆黒の魔力が渦を巻き、それが一本の刀剣へと瞬く間に姿を変えた。

 十字型の鍔に長めの柄。すらりとした刀身は、典型的な西洋の剣のそれだ。見た目はさして、世間一般がイメージする剣と大差ないだろう。

 刀剣全体が目に見えて瘴気を放ち、光を呑み込む暗黒の穴の様な漆黒に染まっているという点を除けば。

 

 紅魔館に住んでいた時、同族達はこの剣を『魔剣グラム』と呼んでいた。北欧神話の武器を元に名を考案したらしいが、折角着けてくれた名前なので私もそう呼ぶことにしている。

 

 グラムの柄を取り、試し切りをするように軽く振るう。剣が通った軌道上を、魔力の粒子が線を描いた。最近使う機会が無かったので出来るか心配だったが、調子は良好。魔力は霧散せず、結晶化と存在の固着に成功している。

 

 戦闘態勢は整った。後は彼女を迎え撃ち、説得を試みるのみ。

 

 床を蹴り飛ばし、飛ばされた方向へ一気に移動する。吸血鬼の身体能力は、瞬く間にフランの近くまで私を運んだ。

 件の少女は、パチュリーと激戦を繰り広げていた。夥しい魔力弾を互いに乱射し、図書館を戦場に変えてしまわんばかりの弾幕合戦を繰り広げている。

 

 見る限り、パチュリーが劣勢だ。流石に病み上がりではフランに打ち勝つのは難しいか。服は所々焼け焦げており、様々な精霊魔法を打ち放つ彼女の表情は苦悶の色を滲ませている。

 潮時だろうな。後は私が引き継ごう。

 私が回復するまでよく持ってくれたと感謝の念を浮かべつつ、私はフランへ言葉を投げた。

 

「フラン」

 

 私の声が彼女の耳に届いた瞬間。フランの小さな頭が、ぐるりと勢いよくこちらへ振り向いた。鮮紅の眼に獰猛な殺気が宿り、幼気な口元が思い切り吊り上がる。どうやら、無事に標的をこちらへと変えられた様だ。

 その隙にパチュリーへ避難するよう目配せして、私は愛娘へと視線を移す。顔立ちが整っている分、その表情はあまりに狂気へ満ちていた。

 

「君の狙いは私ではないのかね。さあ、こっちへおいで。積もる話もあるのだろう? 私と少し話をしようじゃないか」

「―――ッはははははははは!! わざわざそっちから来てくれたのね。お望み通りお話しましょう? けど、壊れちゃっても文句は言わせないから!」

 

 瞬間、爆発的な速度でフランは肉薄した。小さな両手に握りしめた炎剣を、彼女は力任せに思い切り薙ぎ払う。その一撃は、一振りで私の半身を削り飛ばす程の恐ろしい威力を秘めている。

 だが、ただ己の力のみで振るうだけでは、武器は武器足り得ない。如何にして相手に軌道を読ませず一撃を叩き込み、無力化するかが武器を扱う上での肝となる。破壊力の凄まじい炎剣でも、大振りゆえに対処しやすい。

 

 炎剣の軌道上にグラムを置き、刃を滑らせるかのようにして横へ受け流す。態勢を崩し、自身の回転力に振り回されて吹き飛んで行きそうになったフランを、柔らかく受け止めた。

 

「フラン。君はどうしてそこまで私に殺意を向ける? 私が離れてから400年間、一体何があったのか教えてくれないか」

「――――うるッッさい!!!」

 

 耳を劈く怒号が炸裂し、彼女の体から全方位に向かって魔力の炸裂弾が放たれた。私は瞬時に距離を取り、跳弾してきた流れ弾をグラムで弾く。

 対するフランは、額に青筋を走らせる勢いで、明確な怒りを露わにした。

 

「偽者のくせに、一丁前に魔剣グラムまで使ってくれちゃってさぁ。どこまでも私を怒らせる気なのね。もしかして動揺を誘うつもりでいたのかしら? 大外れよ、この出来損ないのドッペルゲンガー。そんなことしたって火に油を注ぐ真似でしかないわ」

 

 ……ニセモノ? 

 はて。フランは一体どのような意味で今の言葉を使ったのだろうか。まさかグラムが盗作だなどと指摘してきた訳ではあるまい。名前は確かに神話の武具が元ネタだが、剣のデザインに関してはオリジナルだ。剣を作ろうと思ったらこの形にしかならないので、こればっかりはどうしようもない。

 

 普通に考えると私が偽者だという意味に当て嵌まる。そう言えば、私が炎剣で弾き飛ばされた時も彼女は同じことを言っていたが……これは、もう少し探りを入れる必要があるな。決めつけるには情報があまりに足りなさ過ぎる。

 

「偽者とはどういう意味だ? まさか、私が誰だか分かっていないのか?」

「……ふん。良いわ、その挑発に乗ってあげる。もう後悔したって遅いんだから」

 

 フランは天上高くまで飛翔すると、炎剣に纏わりつく炎の魔力を霧散させ、魔力を被せていた芯の部分だろう捻子くれたステッキを掲げた。

 彼女の、七色の宝石が散りばめられた翼が光を放つ。魔力の鼓動が空気を振動させ、それは衝撃波となって肌を打った。遠距離から砲撃を仕掛けるつもりか。

 

「絶対不可避の弾幕攻撃。精々足掻けばいいわ」

 

 紅の眼が煌めき光る。フランがステッキを振り下ろす。それを引き金とするように、私の周囲を檻状の魔力弾が、緑色の輝きを伴って展開された。機動力を封じ込め、私の進路と退路を塞ぐ目的だろう。

 

 立て続けにフランは青白い閃光を両手に発生させる。それは日本の手裏剣に酷似した、ブレード状のレーザーだった。手のひらサイズだった光の手裏剣は、フランの妖力の上昇に応じて一気に膨張し、掠りでもすれば肉も骨も関係なく切断されてしまうだろう極悪な凶器へと変貌する。

 フランはそれを高速で回転させながら私へ放つ。手に生じた二つだけではない。三つ、四つ、五つと、逆時計回りに回転する殺人ディスクが、追い打ちに流星群の如きレーザーが、私へ怒涛の勢いをもって押し掛けた。

 

 魔剣を構え、魔力の檻へ向かって斜めに切り込むようにして一閃する。

 莫大な魔力が刀身から解き放たれた。それは魔力の竜巻を引き起こし、緑の檻を蝋燭の火を仰ぐようにして吹き飛ばす。続いて迫りくる光の手裏剣の一つをグラムで切り伏せ、上へ向かって跳躍する事で残りのレーザーを躱し切る。

 そのまま、一気に空気を蹴り飛ばした。同時に飛行魔法を発動し、フランへ向かって空間を滑るように奔り抜けていく。

 

 彼女は憎々しげに表情を歪め、翼を大きく羽ばたいて図書館を舞った。夜空を制するとまで言われた吸血鬼の機動力は伊達ではなく、フランは赤い閃光を軌道上に描きながら縦横無尽に飛び回り、背後を追尾する私に向かって無数の弾幕を打ち放った。

 漆黒の剣を振るい、次々に殺到する妖力弾を弾きつつ後を追う。彼女は途中、意表を突くように壁に向かって巨大な妖力弾を放ったかと思えば、それはゴムの様な弾力を持って跳弾し、まるでビリヤードの如く私を狙った。

 

 私は身を捩り、弾を跳ね上がるようにして避け切ると、そのまま壁に向かって着地し、魔力で強化した脚力の思うが儘に壁を駆け上がった。重力を無視した凄まじい挙動に、空気を切り裂く風切り音が耳を突く。

 天井付近まで駆け上がり、私はそのまま天井へと足を突き刺した。さながら蝙蝠の如く宙ぶらりんの状態になった私を、フランは怪訝な顔をして睨み付ける。

 

「気に入らないわ。さっきから何のつもり? 剣を持って追っかけて来たかと思えば急に逃げて、今度は蝙蝠ごっこなんて。死の恐怖のあまり頭がオカシクなってしまったのかしら」

「私は最初から君の話を聞くことが目的だよ。フラン、君をそこまで破壊に追い込んだものは何だ? 心優しかった君が、ここまで敵意を持って苛烈に攻撃してくるなんてとても想像がつかないんだ。そこまで君を追いつめてしまったものの正体を教えて欲しい。悩みがあるならば私が力になろう。恨みがあるのなら、それを真摯に受け止めよう。だがそのためには、君の口から心の核を話して貰わなければ、どうしようもないんだ」

 

 フランドールの目が、奇妙なものを見るように開かれた。彼女の細い首がかくんと横に倒れる。金色の柔らかい前髪が流れ、くりくりとしたガラス玉の様な眼が一際露わになった。

 

「悩み? 恨み? 私が追いつめられている? 何を言っているの。私は貴方に恨みなんて無いよ。悩みなんてこれっぽっちも無い。追いつめられているだなんて履き違えもイイところよ。でもね、私は貴方が許せないの。敬愛するおじさまの力を奪って、それを私利私欲のために利用して、あまつさえそれで私の家族を、友達を! 傷つけようだなんて思い上がった考えを持つ愚か者の存在が、私は絶対に許せない!!」

 

 心で煮えたぎる怒りの業火を口から吐き出すかのごとく、フランは絶叫した。怒号に等しい叫びだった。その感情爆発に呼応するかのように、彼女から発せられる魔力量が圧倒的に上昇する。高濃度の魔力は可視化され、陽炎の如く彼女の周囲を歪め始めた。

 

 かつて天使の様な笑顔を浮かべていた愛娘は、同一人物とは到底思えない悪魔の如き形相を浮かべ、私を視線で殺さんとばかりに凝視した。

 

「だからッ! 貴方を殺すッッ!!」

 

 刹那。今までの比ではない光の波が、周囲一帯へ襲い掛かった。

 縦横無尽に、四方八方に、自由自在に。辺り一面に放たれた無差別の白光魔力弾が、視界一面を白で覆い尽くすが如き勢いを伴い、津波となって押しかかったのだ。

 

 私は天井から離れ図書館の宙を素早く舞いながら、二本目のグラムを顕現させ両手にそれぞれ剣を持ち、ありとあらゆる方向から迫る怒涛の弾幕を弾き、叩き落とす。だがこれは、流石に数が多すぎた。大部分を捌いても、打ち漏らした一発一発が私の身を的確に焼き穿いていく。瞬時に再生する為にダメージは無いに等しいが、さて、どうしたものか。

 

 しかし、今しがたのフランの発言は、一体どういうことだ?

 彼女は、私が400年前に置いて旅に出て行ったことを心底恨んでいた訳では無いのか?

 私の推測では、私に捨てられたと勘違いした繊細なあの子が心を痛めたが故に、ここまでの破壊衝動に侵されたのではないかと言うものだったが、どうやら全く違うらしい。そもそも『おじさまの力を奪って』とは、何だ? 

 

 思い返せば、彼女の言動には何か強い違和感があった。そもそも狂気に侵されている様に思えないのだ。過去に何度か、完全に狂気へ侵された者たちを見たことがあるが、アレは会話が成り立つとか、そう言った次元ではなかった。もはや言葉が意味を成さないような状態に成り果てていたのだ。侵食が軽度であっても、発狂すれば重度と同じような状態になる。フランの今の状態が発狂を指し示すものだとすると、会話の受け答えが出来ている時点で不自然極まりないのである。リンゴに足が生えて勝手に市場へ出回ったとでも言われたかのような、大きな不審の念を私は抱いた。

 

 おかしい。やはり何かが決定的におかしいのだ。不揃いな歯車が無理やり時計の針を進めているかのような、傍目から見ても決定的過ぎる気持ちの悪い違和感が確実に存在している。

 

 狂気。

 理性。

 殺意。

 目的。

 

 疑いを持った様々なワードが、頭の中で乱立する。それら一つ一つを絡めさせ、解き、また別の答えへと繋げていく。

 そして私は、ある一つの答えを弾き出した。

 暗闇に光が差すかのように、これまでになく頭が鮮明になる。天啓に等しい閃きが、私の感覚を思考の一点に引き絞り、至極単純明快な解答を生み出した。

 

 もしかすると私は、とんでもない思い違いをしているのではないか?

 

 あまりに拍子抜けた答えだが、不思議と私はこれが正しいように思えた。そもそもの前提条件が間違っているのだと、今までのパーツから理解出来たのだ。

 そこで私は、一つの前提を覆す事にした。

 彼女は狂気に侵されてなどおらず、理性の下に動いているという、至極真っ当な仮説へと。

 

 この仮説を元に考えた場合、フランの行動を説明する為に必要となるのは動機だ。完全に狂った妖怪に理由など無い。あるのは本能、そして衝動の解放それ一つである。しかし理性ある者は違う。理由を持ち、動機を得てから、形はどうあれ理に従った行動を行う。

 であれば、フランが私を殺そうとする動機を得たのには、何かしらの理由が存在するはずである。ここで気になるのが彼女の『偽者』という発言だ。フランが私を見て偽物と断定したと言うことは、彼女が本物と判断している別のナニカが、どこかに必ずある筈である。

 

 濃厚な線を挙げるならば、単純に私へ成りすましている何かが存在する可能性か。

 だが、フランが私よりも本物らしいと思えるような者が、この世に存在し得るのか? 実に皮肉的だが、私の存在感は並ではない。むしろ邪魔だと言えるレベルである。この魔性を私と見分けがつかない程に再現しきる者がいるなど、俄かに信じ難いのだ。それに、もしフランが本物だと言い張れるほどの気配の持ち主が近くに居れば、私が今の今まで勘付かない訳がない。

 そもそもフランは、狂気に侵されていると判断されて幽閉された身だ。外部からの接触はほぼ絶たれているに等しい。そんな状況では、偽の私を本物と判断するどころか出会う事すら………………待て、『出会う機会が無い』だと?

 

 ――――――あるな。

 一つだけ、この状況を作り出せる『本物』の立ち位置がある。信じられない手法だが、これだと納得はいく。あの子が紅魔館の少女達に狂気に侵されたと判断され、さらに幽閉された身であっても、私の偽者と出会いそして『本物』と判断する、いや、『判断させられる』方法が。

 

 確かめるしかない。

 こればかりは、自分の目で確認せねばならない。私の予測が正しければ、これは狂気だとか、そんな枠から大きく外れた事件に一転することとなる。

 

「何!? 闇雲に剣を振り回して弾くだけ!? どうせおじさまの力を奪って、今まで悦に浸ってただけなんでしょ。少しはやるかと思ったけど、もういいわ。やっぱり貴方におじさまの力は相応しくない。一気にケリをつけてやる!!」

 

 痺れを切らしたフランが、一方的に弾幕を解いた。彼女は憤怒の色に表情を染めたまま、小さな手のひらをこちらへ向ける。

 私の『目』を奪い、破壊する気か。どうやら本気で終わりにするつもりらしい。

 だがしかし、彼女の能力の弱点は分かっている。あのように手のひらで標準を合わせ、狙った『目』だけを奪いとる方法を考案したのは私だ。能力が不安定だった時のフランは、自分の意思に関係なく周りの『目』を奪っていた。それに比べれば、狙われていると分かる分だけ対処のしようがある。

 あれを避けるのは簡単だ。要は手を向けられた瞬間に、フランの視界から外れればいい。

 

「きゅっとして――――」

 

 飛行魔法を応用し、空気を足場へと変える。そのまま固形化した空気を蹴り飛ばし、フランの『目』を奪う所作よりも早く真横へと回り込んだ。

 フランはいきなり横へと現れた私に驚愕し、反射的に右手を振りかぶった。手には、鋭利な深紅の爪がズラリと伸びている。槍の様に振るい、私を貫く気だろう。

 それを、避けることなく体で受けとめる。

 

 ズグッ、と生理的嫌悪感を催す嫌な音が腹から伝わる。吸血鬼の怪力と容易く肉を引き裂く鋭利な爪によって、一切の強化を施していない私の肉体は容易く貫かれた。内臓諸々を爪で掻き潰されたようだが、私は吸血鬼だ。この程度は問題ではない。これでいいのだ。これでフランは、私から離れることは出来なくなった。

 

「フラン」

 

 当たったことが予想外だったのか、目を大きく見開いたフランの頬を、私は剣を放った手でそっと包む。そして彼女の顔を私の方へと向けた。

 丁度、目と目が合う角度へと。

 

「私の目をよく見なさい」

 

 吸血鬼は、目を合わせた相手の心へ干渉できる魔眼を持っている。人間を糧とする種族が故に、警戒されるより術を掛けて相手を陥落する方が遥かに効率良いからだ。それを応用すると、心の中を見る事が可能となるのである。

 フランの瞳から、彼女の心を覗き込む。表層は無視し、その奥へと深く、深く潜っていく。私の予測が当たっているのなら、そこにきっと答えがある筈なのだが……。

 

 ―――――――――――――――見つけた。

 

 

「離せ!!」

 

 攻撃をわざと食らって私を拘束し、私の眼を通して何かを行った偽物の脇腹へ全力の魔力弾をぶち当てた。

 おじさまの力を奪って出鱈目な機動力を手にしているとはいえ、流石にこの至近距離で避ける事は不可能だったようだ。私の腕が貫いた腹部の穴と脇腹の熱傷が、黒づくめの衣服の中に酷く痛々しく映える。

 だがそれも、時間が巻き戻っていくかのようにみるみる再生してしまう。やはりおじさまの力は凄まじい。同じ吸血鬼でも別次元の身体能力だ。普通の吸血鬼なら、重要な内臓にあれだけの損傷を受ければ一日かけて眠らないとまず治らない。ところが偽者はものの数秒と来た。化け物とは、まさにアレを指すんだろう。

 

 ああ、忌々しい。忌々しい。忌々しい!!

 

 偽者が平然とおじさまの力を使う姿を見るたびに、胸の内からどす黒い感情が湯水の如く湧き上がってくるのが分かる。私は少しだけ喧嘩っ早い性格だけど、それでもここまで黒い感情を抱いたことは無い。これが憎しみと言うものなのだろうか。こいつがおじさまを殺し、力を奪って生を謳歌していると考えるだけで、魂すらも破壊して輪廻の輪から外してやりたくなる衝動に駆られる。

 

 でも、何よりも一番忌々しいのは……この偽物が、本物のおじさまなんじゃないかと、思い始めてしまっている私自身だ。

 

 あの息が詰まりそうになる、格の違う吸血鬼の覇気。純粋な魔力を結晶化させるというとんでもない荒業をもって形成される魔剣グラム。私の攻撃をいとも簡単に掻い潜り、何度も何度も私へ優しく語りかけてくる、あの表情と仕草。何より一番揺さぶられたのが、私の眼を覗き込んだ眩い紫の瞳だ。

 

 私がまだ本当に本当に小さかった時、一度だけ高熱を出して倒れた事があった。妖怪は滅多に病に罹らない。吸血鬼となれば尚のことで、おじさまは酷く焦ったらしい。その時うなされていた私を心配そうに覗き込んだおじさまの優しい眼に、奴の眼はとてもよく似ていたのだ。

 さらに私の眼を向けさせるために頬へ添えられた手が、熱を吸い取ろうとするかのように額に当てられたおじさまの手の感覚を、鮮明に思い出させた。

 

 いや、待て。私は一体何を考えている。アレは偽者だ。とてもよく似ているだけの偽者だ。おじさまは私の中に、魂だけとなって残っている。アレが本物なわけがない。アレは、私の家族に手を出そうとしている最悪の侵略者なのだ。

 

 ……でも、私はふと思ってしまった。

 いくらおじさまの灰を吸い込み、力を奪ったと言っても、殺した相手とここまで似てくるようなことなんて、本当にあるのだろうか?

 偽者はおじさまの事なんて何も知らない筈なのに、一挙一動まで似ているだなんてことが……。

 

『フラン、落ち着きなさい。奴の行動に惑わされてはいけない。アレは私の姿をしているだけの紛い物なのだ』

 

 突然響いたおじさまの叱責が、私を空想から現実に引き摺り戻した。頭を振るい、偽者を見る。偽者は微動だにしようとせず、ただこちらを静かに見つめているだけだ。手元にあった剣は、いつの間にか消失していた。

 

「分かってるよ、おじさま」

『……大分疲弊しているようだね。私の姿をした者を葬ろうとするのが辛いのだろう? ならば、さっさとトドメを刺してしまうに限る。私が見た限りだが、奴は君の能力が発動する瞬間、明らかに意図して避けていた。裏を返せば、君の能力は偽の私にとって有効打に成り得るのだ』

「でも、偽物が速すぎて『目』を捉えられないよ。まるで私の力を知っているみたいに避けたし、多分当たらない。私の力は隙が大きすぎる」

『ああ、そうだな。今の君の使い方では、偽の私に攻撃を加えるのは難しい。だからフラン、枷を外しなさい』

「えっ?」

 

 枷を外せ。この言葉の意味を、おじさまは分かっているのだろうか?

 私は手のひらで対象の『目』に標準を合わせ、奪い取る手法を普段使っているのだけれど、この能力は最初からこういった使い方だったわけではない。昔の私はとても能力が不安定で、一度発動させれば、私の周囲にある『目』を無差別に奪い取ってしまっていたのだ。それを、おじさまと共に試行錯誤を重ねて今の形へ収めたのである。

 つまり、そういうこと。

 おじさまは、枷を外して無差別攻撃を仕掛けろと言っているのだ。これは照準を合わせる必要が無い。代わりに周囲の狙ったもの以外を破壊してしまう恐れがある。しかも今の私は、昔より魔力や諸々が格段に成長している。『目』を奪える範囲や量が、どれだけ肥大化してしまっているのか想像もつかない。

 

「でも、おじさま。まだ図書館にはパチュリーもいるよ? それに、パチュリーの大切な本だって沢山――――」

『大丈夫、パチュリーなら障壁を用いて君の力に抗える筈さ。それにだ、奴を生かしていた方が、後々の被害は格段に大きくなる。本はまた補える。図書館も直せばいい。だが奴をこのまま泳がせるわけにはいかない。安心しなさい、フラン。君なら出来る。さぁ、枷を解いて、奴の息の根を止めるのだ。紅魔館と幻想郷の未来の為にも』

 

 自分の手のひらに、視線を落とす。

 出来るのか? 本当に?

 

 枷を外そうと試みたところで、かつてのトラウマが、思い出の底から這いずるように出て来た。能力が暴走して、おじさまの体の一部を壊してしまった時の記憶が。飼っていた小鳥さんを壊してしまった時の、取り返しのつかない事をしてしまったと言う絶望的な感情の渦が。紅魔館の覇権争いに巻き込まれたお姉様を守るために、同族達を全員、破裂した血袋に変えたあの地獄のような光景が。それらの悍ましい記憶の数々が、私の心に躊躇を生んだ。目の前に、茨の森が出来上がったかのような幻覚さえ見えた程に。

 

 手が震える。足が竦む。

 どうしよう、怖い。怖いよ。

 もし、もし事故でパチュリーの『目』を壊してしまったら、私は、私は……!

 

『フラン』

 

 おじさまの声が響く。いつもとは違う、どこか苛立ちを含んだ様な声色だった。

 

『さぁ、やるんだ』

 

 どうしても、やらなきゃ駄目なの? もしかしたらパチュリーが死んじゃうかもしれないんだよ?

 

『何をしている。今しか奴を葬るチャンスは無いのだぞ』

 

 おじさまの怒気が強くなる。頭が揺れたかのようにすら思えた。

 あぁ、ごめんなさい。ごめんなさい。臆病でごめんなさい。だから、そんなに怒らないで。おじさまにまで見放されてしまったら、私は、私でいられなくなってしまう。

 

『さぁ、やれ。フラン!!』

 

 ―――ごめんなさい。

 枷を外して、能力を発動する。それだけでいい。後は、何も考えなくていい。そうすれば、おじさまに怒られる事はもうない。また私は皆に嫌われちゃうかもしれないけれど、振出しに戻るだけだ。また、あの地下室に戻るだけだ。

 そう、それだけ。

 それだけ、なんだ。

 だから、頬に伝うこの暖かい感触なんて、すぐに忘れられるに決まってる!

 

「――――――妹様ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」

 

 手に力を集中させようとした、その時だった。

 けたたましい咆哮が聞こえた。図書館中に響いた思いがけない叫び声に、私は能力の発動を反射的に解除した。

 陽だまりの様な張りのある活気に満ちた、風鈴の如く美しいこの声は。

 私たち姉妹をずっとずっと守ってくれた、大切な門番さんの―――美鈴の声だ。

 

「美鈴!」

「すみません、妹様! どうか、どうかお許しください!」

 

 彼女の手が、虹色の『気』を纏っているのが見えた。ああ、そう言えば美鈴は私とお姉様の喧嘩を止めるとき、あれで二人とも気を失わせていたんだっけ。

 いつもは何で分かってくれないんだろうって思っていたけれど、今日は、本当に良いところで私を止めに来てくれた。

 ありがとう、美鈴。私は、貴女のお蔭で大切な家族を壊さずに済んだのかもしれない。

 

 彼女の手が私の首筋へ優しく当てられたと感じた時、私の意識は、暗闇の奥へと呑み込まれていった。

 

 

 何やら突然様子がおかしくなったフランの様子を伺っていると、虹色のエネルギーを纏った紅髪の女性が突如乱入し、フランの意識を刈り取った。

 絶妙なタイミングだった。もしかしたらフランは、故意的に能力を暴走させようとしていたのかもしれない。理由は分からないが、手を見つめて震えだした時から、何かをしようとしているのがハッキリと分かった。

 

 私が止めるのも良かったのだが、下手に動いて刺激してしまえば、咄嗟に能力を発動されかねない状態だった。故にどうする事も出来なかったのだ。私はフランの能力を食らっても再生に時間はかかるが、多少は平気だ。だが物陰で休んでいるパチュリーは違う。無差別破壊に巻き込まれれば、彼女は間違いなく爆砕されていた事だろう。あの紅い髪の女性には感謝しなくてはならない。

 

「ナハトさん!」

 

 フランを抱えた紅い髪の女性が、私の名を呼んだ。はて、どこかで知り合った子だっただろうか――――いや、思い出した。彼女の名は美鈴。私がまだ紅魔館に居た時、私の不在時に姉妹のお守りを一任していた少女だ。確か、会ってまもなく強さとは何たるか教えてくれだとか奇妙な事を言われた記憶がある。私の魔性に少々崇拝寄りな影響を受けていたようだが、根が真っ直ぐで芯のある少女の様だったので、二人を任せるに至ったのだったか。

 それにしても、かつて彼女の口から飛び出た私の二つ名の数々にはほとほと参った。お蔭で、紅魔館の裏ではあんな呼ばれ方をされていたのだと気づいてしまったのだ。知らぬが仏とはまさにこの事である。

 しかし彼女がこの館に居ると言うことは、どうやらずっと我が愛娘たちを守ってくれていた様子だ。実にありがたい。今度何かお礼をしなくてはならないな。

 

「ナハトさん、その、息災の様で」

「そちらこそ、美鈴。長い事館を開けていてすまなかったね。それにしても、まさかまだここに残ってくれているとは思わなかったよ。ありがとう、ずっと姉妹たちを守ってくれて」

 

 彼女は目を見開き、しばしの余韻の後に下へ俯いてしまった。心なしか、肩が震えている。

 

「私には、勿体ないお言葉です」

「そんなことは無いさ。現にこうして、フランを止めてくれたじゃないか。……ああ、そうだ。再会の時間をまだ喜び合いたかったのだが、今は急を要する。一つ、頼みを聞いてもらえるかね」

「はい、私に出来る事ならばなんなりと。この身に代えても遂行して見せます」

 

 ……そこまで畏まらなくても、良いのだがなぁ。恐怖による狂信ではなく恐怖による羨望で接してくれている分にはまだありがたい方なのだが、彼女の私に対する呼び名の矯正は、また随分と苦労したものだったか。様付けならまだ我慢は効いたかもしれないが、流石に『闇の君』と呼ばれた時はどうにもならなかった。私は魔王でもなんでも無いのだから、気軽にナハトで良いと言っても受け入れてもらえず、結局ナハトさんで落ち着いた過去がある。

 

 まぁ、そんな事はどうだっていい。今はフランの方が重要だ。

 

「フランを地下室で見張っていてくれないか。おそらく、まだ彼女は落ち着いていないだろう。目覚めて錯乱すれば、再び暴れだしかねない。私が見張ってもまた争いになるだけだからね。見知った顔の君なら、フランも手を出してくることはないだろうから、頼めるかな?」

「承知しました」

「そのフランの見張り役、私も同行していいかしら?」

 

 いつの間にか近くに来ていたパチュリーが、魔導書を抱えたまま言った。もう体調も回復できたのだろうか。

 

「平気か?」

「無論よ。それに、水の精霊魔法で拘束しておいた方が安全でいいじゃない。……あなたがこんな事を頼むということは、フランの狂気を取り除く策が浮かんだと言うことでしょう?」

 

 流石、知識の先駆者たる魔法使いだ。頭の回転の速さには感服する。

 フランの心を覗き込んだあの時、私は確かにこの目で見た。彼女の心の横へ、絡みつくかのように巣食うものの姿を見たのだ。アレばかりは、流石の私も驚愕を隠せなかった。まさか、アレがフランを惑わせていたモノの正体などと、予想だにもしなかったのだ。

 パチュリーの発言に、美鈴は眉を上げて私を見た。

 

「もしかして、妹様に巣食うナニカの正体が分かったのですか?」

「その通りだ。だがまず、レミリアに色々と確認をとる必要がある。これは紅魔館……いや、あの子達姉妹に関わる重大な出来事だ。だからそれまでの間少し、フランを見ていて欲しい」

 

 そう、これは狂気だとかそんな問題ではなかったのだ。フランは狂気に取り込まれてなどいない。心の奥底に寄生した、ある人物に騙され続けたが故の凶行だったのだ。

 終わらせなくてはなるまい。もしかすると義娘たちは心に深い傷を負う事になるかもしれないが、ここで躊躇してしまえば、フランと紅魔館に生まれてしまっている溝が埋まる事は決してないのだ。

 

 因果で狂ってしまった彼女たちの歯車を元に戻す決意を胸に、私は宣言する。

 

「今夜中に決着を付けてみせよう。フランドールはようやく、姉と共に夜空へ羽ばたく時が来たのだ」

 



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5.「親愛なるあなたへ、愛の手を」

 壁紙や絨毯といった、部屋を構成する殆どが紅を基調とした洋室。大きなベッドの上には艶やかな棺桶が重々しく置かれており、部屋に一つも窓は無い。人間の視点から見れば、ここは牢獄か霊安室だとでも勘違いする者もいるだろう。

 しかしここは、誰が何と言おうと私の私室だ。

 そしてこの絶対的プライベートゾーンとも言える場には今、私以外にもう一人存在していた。

 かつて闇夜の支配者とまで謳われ、最強の吸血鬼の称号を欲しいままにした亡き実父すら一目置いたと言う義理の父。ナハトおじ様その人である。

 

『レミリア、少し時間をくれないか。フランの事で話があるんだ』

 

 咲夜と共に図書館へ向かう道中だった。丁度入れ違いになりかける形でおじ様と遭遇し、この言葉で私は再び自室へ引き返す事となり、今に至る。無論、従者と言えど咲夜はこの部屋に入れていない。あの子には地下室で、美鈴やパチュリーと共にフランの様子を見て貰っているところだ。

 件のおじ様は相変わらずこちらの産毛が逆立つ様な威圧感を放ちながら、咲夜が去り際に気を遣って置いて行った紅茶を飲んでいる。

 

「それで、フランの話って何かしら?」

「……その前に少しだけ確認したい。君は、あの子の狂気に対してどのように認識しているのかな?」

「狂気ね……。美鈴やパチェと調べた限り、あの子の精神には何か別の精神的存在が寄生していて、それがあの子の心へ干渉し精神状態を攪乱させている。今は共存関係にあるのか侵食はされていない様だけれど、いつ精神的存在が活性化するか分からない。文字通り爆弾を抱えているような状態と言ったところね。分かる事と言えば、それくらいかしら」

「では、その何かの正体については?」

「分からなかったわ。私やパチェの分析魔法や美鈴の『気』を使っても、高度なプロテクトが掛かっていて詳細を見る事は叶わな――――まさか、おじ様はアレの正体が分かったの?」

「ああ。先ほどあの子の心を覗き見た時に、正体が分かった」

 

 ガタンッ、と椅子を蹴り飛ばす勢いで私は立ち上がった。じっとして居られる訳が無かった。妹の心へ巣食い続け、あまつさえ400年前にあんな大惨事をフランに引き起こさせたような奴の正体が分かったと言うのだ。今回ばかりは感情が昂るのも、致し方ないとさえ思えてしまう。

 

「おじ様、そいつは一体誰? どこの馬の骨なの? あの子にとり憑いたどうしようもない愚か者の正体は何!?」

「レミリア、少し落ち着きなさい」

「これが落ち着いていられるものですか!!」

「座りなさい」

 

 おじ様の口調がほんの少しだけ、諭す様に強くなったと思ったその瞬間。ビリッ、と電気のような衝撃が肌を走り抜けた。冷水を脊髄に注入されたかのような寒気が全身を襲い、沸騰しかけた頭が急激に冷めていくのを実感する。

 ……熱くなりすぎた。冷静な対話ができない状態では、おじ様も喋りたいことが話せないのだ。まだ、この長年溜まり続けた怒りを爆発させる時ではない。

 ごめんなさい、と謝罪して私は席へ着く。冷えた血の気を少し温めるように、紅茶を口に含んだ。

 

「すまない、少しキツく言い過ぎたね。しかし焦れば思考に膿が生じてしまう。今回の事件……特にその正体に対する対応は、熱を持った判断では到底手に負えるものではないのだ。分かってくれ」

「いえ、私が熱を持ち過ぎたのが悪いのよ。……それで、他に何か聞きたい事はある?」

「最後に一つ。私が館を離れてから、一体何があったのかを教えて欲しい。特に、フランがとり憑かれたと初めて発覚した頃の事を、詳細にだ」

「…………ええ、分かったわ」

 

 フランが取り憑かれたと分かった日。それは紛れもなく、400年前のあの日だ。あの忌まわしい、吸血鬼たちによる覇権争いが起こり、そしてそれが終息を迎えた日だ。

 

 400年前の当時、吸血鬼狩りの影響で同族たちが次々と紅魔館を去り、他の地へ安息を求めて移住していった。結局館にはもう、おじ様に私とフラン、そして最後まで残っていた美鈴だけとなったのである。更におじ様が急遽館を空けると私や美鈴に伝え、そのまま旅立ってから一月ほど経った後の事だ。

 突如、様々な派閥の吸血鬼たちが紅魔館へと攻めてきた。

 奴らは、おじ様を極度に恐れていた。故に、吸血鬼にとって支配者の証とも言える紅魔館の実権を欲しくても手が出せずにいたのだが、おじ様が館を離れたと知って、紅魔館を乗っ取ろうと我先に舞い戻って来たのである。

 それからの日々は、まさに地獄だった。連日の如く攻めてくる吸血鬼や使い魔の対処に、私と美鈴は追われ続けたのだ。どうやら奴らはおじ様にこの事件の情報が伝わらないよう情報封鎖を施していたらしく、おじ様の援軍も望めずに私たちはジリ貧へと追い込まれていった。私は特に、齧る程度しか戦う術を学ばなかったので、傭兵家業を本職としている美鈴より疲弊が強く、眠りにつくときは半ば気を失うような形で夢の世界へ旅立っていた。それでも何とか、おじ様に託され先祖から受け継いだこの家を、そして戦う事を知らず怯えて震えていた妹を守りたい一心で、私たちはずっと戦い続けた。

 

 しかし、限界と言うものは必ず訪れる。数の不利、能力の不利、力の差など、半ば無理やり埋めていた格差は再び開かれ、遂に私たち三人は地下室にまで追い込まれてしまったのだ。籠城するため、最後の力を振り絞って施した封印魔法が破壊されるまでのタイムリミットが近づいていく極限状態に、私と美鈴は絶望に近い感情を抱いていた。もう終わりだと実感した。どう足掻いても死の未来しか有り得ないと理解していた。運命を覗き見ても、そこには真っ赤な肉塊の様なものが転がっている光景だけだ。この肉塊が誰なのかはわからないが、恐らく自分たちなんだろうな、と嫌に冷静な頭で思い浮かべていたのを覚えている。

 

 ……この時までの私は、実はおじ様の事が嫌いだった。憎んですらいたと思う。幼い記憶に僅かだけ残っている、スカーレット卿と称えられた父。そして妻たる母が吸血鬼狩りに殺され、そのまま私はおじ様の義娘となったのだが、当時の幼い私はそれが不満で仕方がなかったのだ。

 何故、私の両親が殺されなくてはならなかったのか。どうして闇夜の支配者とまで称えられ、最強と誰しもが認めた実の父ですら力を認めたこの恐ろしい吸血鬼が紅魔館に居ながら、親は無残に死の屈辱の味を舐めなければならなかったのか。おじ様は私の親を見殺しにして、紅魔館元当主の血筋たる私を駒にしよう等と思っているのではないか。そんな根も葉もない考えばかりを浮かべていては、ずっとずっと憎んでいた。こいつは、私の両親を見殺しにした逆賊なんだと。

 逆恨みに等しい感情だった。だから常に凄まじい威圧感を放ち、それでいてニコニコと薄気味悪い笑顔で接してくるおじ様の事が、堪らなく嫌いだった。館を出て行くと聞いた時は、本当に心の底から喜んだほどだ。やっとあの禍々しい瘴気から解放される。もうあの逆賊の顔を拝まずに済むんだ、と。

 

 それが間違いだった。自身の命があと一歩で消えるという所で、ようやく私は自分の考えが間違っていたのだと気づいたのだ。

 おじ様があんな威圧感を常日頃放っていたのは、私たち姉妹に欲深い吸血鬼の魔の手が迫らないようにする為の防護策だったのだ。自身の娘として扱ったのも、闇夜の支配者とまで言われたおじ様の家族に手を出せば、どうなるか分かったものではないと思わせる為の予防線だ。あの人は常に、私たち姉妹のことを一番に考えて行動してくれていたのだ。例えその結果、娘の一人に嫌われるような事になろうとも。

 そして吸血鬼たちが去って、漸く安全が確保できたと判断し、彼は私たちに安心の出来る生活を静かに送ってほしいと、館から身を引いたのだと悟った。

 私の中にあるおじ様の像が、完膚なきまでに崩れ去った瞬間だった。彼の事は、私たちを懐柔しようとして近づいてきているだけの反逆者だとばかり思っていた。だけど実際は、私たちの事を親身に考えてくれていた、ただの一人の義父だったのだ。

 途端におじ様の事が解らなくなった。私は、あの人の事など何も知らない。知ろうとすらしなかった。格の違う吸血鬼で、私たちを操り権力を手に入れようとする最悪の義父だと、そればかり思っていた私は、子想いの親切な父の姿と、偉大で恐ろしい吸血鬼のどちらがおじ様の本当の姿なのか分からなくなってしまっていた。

 

 でも、その時一つだけ分かった事は。

 私がおじ様を信じて、避けたり反抗的な態度さえ取っていなければ、おじ様も身を引いて私たちだけの安心できる生活を叶えようなどとはせず、ずっと館に居てくれただろうという事だ。そうすれば、こんな結末を迎える事は無かっただろうという事だ。

 壁に寄りかかり、震えるフランを抱きしめて、私は一人涙した。美鈴がずっと、私の頭を撫でてくれていたのを、今でもはっきり覚えている。

 

『お願い、助けて』

 

 悪魔が言うのも変な話だが、神に縋る思いで私は呟いた。もうそんな事を言ったところで、どうにもならないというのは分かっていたのに。

 しかし、予想に反して事態は一変した。まるで私のその言葉が、運命を逆転させるトリガーとなったかのように。

 変化はすぐ傍で起こった。私が抱きしめていたフランが突如、何かを独り呟き始めたのだ。

 

『おじさま……? え、う、うん。そうだよ、フランだよ。それより、一体どうなってるの? 何でおじさまの声が聞こえるの? うん、うん。えっ!? おじさま、な、なんで!? 何でそんな事に!?』

『…………フラン? どうしたの?』

『うん………うん。でも、でもおじさま。私の力は危ないよ。きゅってしたら皆死んじゃうよ。でも、そうだけど……嫌だよ。怖いよ』

『フラン? フラン!? どうしたの、気をしっかり持って!』

『でも……でも…………うん……そう、だね。このままだと、皆死んじゃうもんね。…………分かった。分かったよ、おじさま。私が守る。私が、美鈴とお姉様を守ってみせる。だからお願い、私に皆を守る勇気を頂戴』

『フラ―――――――』

 

 気が弱くて、大人しくて、虫さえも殺せず優しすぎるとさえ思えたフランが、その会話を境に一気に豹変した。

 私の腕からすり抜けて、まるで何者かから指示を受けているかのように、的確な動きで封印魔法を粉微塵に破壊してしまったのだ。

 突然の行動に、私と美鈴は呆気に取られてしまっていた。

 

『妹様!?』

『フラン! 貴女、何をしているの!? その魔法を壊してしまえば奴らが!』

『大丈夫』

 

 冷ややかな声色だった。いつもニコニコと笑っていて、私の後ろを子犬の様に着いて回ったフランのものとは到底思えない、鋭いナイフの様な冷酷さを孕んだ声だった。瞳はどこか別の場所を見ているようで、その眼を見た私は、この子がどこか取り返しのつかないくらい遠くへ行ってしまうのではないかと恐怖を抱いたほどだ。

 そして彼女は笑った。いつもの朗らかで、吸血鬼らしくない陽だまりの様に暖かい笑顔を、ふわりと浮かべた。

 

『私が、皆を守ってあげるからね』

 

 それが口火となった。あの子は部屋を、普段からは考えられない豪速で飛び出し、私たちが静止を掛ける暇もなく、吸血鬼の戦争が行われている紅魔館の本館へ走り去っていった。

 その直後だった。男女を問わない凄まじい悲鳴のコーラスが、上の方から喧しく響き渡って来たのは。

 私たちは反射的に部屋を飛び出した。長い階段を飛んでいる最中も、悲鳴が止むことは決して無かった。地上へ近づけば近づくほど、今度は何か液体の詰まった袋が破裂しているかのような、耳にするのも悍ましい音が鼓膜を突いた。まさか、まさかと頭の片隅に湧き上がってくる想像を叩き伏せて、私は全力で上へ向かった。

 やっとの思いで地上へ辿り着き、そして目にした光景に、私は言葉も、動きすらも失った。

 

 アカだった。

 

 辺り一面……否、視界一面が、真っ赤な液体で染め上げられていた。紅魔館の元々の装飾ではなく、純粋に生き物の体液のみで、この黒混じりのアカを演出していたのだ。

 だがそれだけではなかった。むせ返るほどの鉄の匂いが充満し、ぶよぶよとした大小謎の塊や、まだ脈を打ち液体を吹き出す心臓。痙攣する単品の手足に、誰の物とも分からないガラス細工の様な眼。顎から下を全て失くし、虚空を見つめる頭だったものさえ、そこら中に散らばっていた。

 言うまでもなく、それら全てが、この館を我が物にしようとしていた吸血鬼や、それに従う使い魔たちのもので。

 

 私が運命を覗き垣間見た地獄がまさに、広がっていた。

 

 事態を把握して、突発的に胃の中のもの全てをぶちまけてしまいそうになった私は、口元を抑えて気合で押し込んだ。隣を見ると、それなりの修羅場をくぐって来ただろう美鈴ですら青い顔をしていた。

 私は顔を前に向け、惨劇の爆心地へと視線を移す。

 彼女はぼうっと立っていた。役目を終えた機械の様に、血だまりの中で静かに、両手を見つめながら立っていた。

 

『フラン、貴女……!』

『ん? お姉様……。終わったよ』

 

 終わったよ、とは何なのか。何を指して終わったと、フランは言っているのか。

 その時の私は、彼女の言葉を一つも理解できなかった。理解したくなかっただけなのかもしれない。

 

『貴女、なんで。なんでこんなことを……ッ!』

『だって、こうしないと皆殺されちゃうから。皆を守れないから』

 

 仕方ないでしょ? と彼女は言った。ただただ、平坦と言ってのけた。それが私には、どうしようもなく恐ろしかった。

 一体、何が原因だったのか。とにかく彼女は、もうあの優しくて臆病なフランドール・スカーレットでは無くなってしまったと思った。

 美しい金糸の髪すらも赤に染め上げて、虚ろな表情のまま薄く笑う少女が、おじ様よりも恐ろしい怪物に見えてしまったのだ。

 

 館の残骸を全て片づけた私と美鈴は、直ぐにフランを地下へ閉じ込めた。理由は二つ。狂気に汚染されてしまったのではと判断したこと。そしてもう一つは、彼女の存在を明るみに出させないようにすることだった。

 数多の悪魔を単身で葬った吸血鬼がいるなんて知られれば、当然吸血鬼狩りの矛先全てがフランへと向く。おじ様が居た頃ならばまだしも、今襲撃を受けると確実に殺されてしまうのは明白だ。だから情報封鎖を徹底して行った。周囲一帯の妖怪は吸血鬼の死骸を投げつけて脅し、紅魔館で死した同族は全て、吸血鬼狩りに遭って殺されたものだという事にした。フランの存在は絶対に明るみに出ないようにした。そして自然と、真実を知る周辺の妖怪たちからは、私は紅魔館の当主として認識されるようになり、パチェが訪れるその日まで誰も傍に近づくことは無くなった。

 

 それからフランの狂気の正体を探り続け、何かに取り憑かれていると判断した私はずっと治療を試み続けた。結果は惨敗に終わり、そして現在に至る。

 これが、フランの狂気と私が過ごして来た400年の、大まかな概要だ。血みどろに濡れてしまった、悍ましい記憶の一幕だ。

 私はそれを、おじ様が嫌いだったことは伏せ、その他全てを包み隠さず話した。全てを聞いたおじ様は、その目に明らかな罪悪感を湛えていた。

 

「まさか、あれからそこまでの惨事となっていたとは……すまなかった。私の配慮が至らなかったばかりに、随分と辛い思いをさせてしまった」

「いいのよ。私も、自分を過信し過ぎた非があるわ。それに、別に悪い事ばかりじゃない。パチェにも会えたし、咲夜とも会えた。二人に会えたのも、あの事件があって今の紅魔館の基盤が出来たからこそよ。……フランに関しては、ずっと気づいてあげられなかった私の方こそが悪いのだから」

「……ありがとう、辛い記憶を話してくれて。お蔭で合点がいった。奴が何故、フランの心に取り憑いたのかが。出来れば、こうであって欲しくないと思っていたのだが」

 

 フランに憑いたモノ。その言葉を前に、私は再び頭が熱くなって、しかし同じ轍を踏まないように深呼吸をした。会話を乱すのは時間の無駄だ。淑女たるもの冷静さを崩すべからず。ただの方便だが、今回はその言葉にあやかる事にした。

 

「私の話せることは話し終えたわ。次は、おじ様が話して頂戴。フランの心に、一体何が食らいついているのかを」

「…………いいか、レミリア。私は包み隠さず、正直に正体について話す。ここに嘘偽りは存在しない。だけど、どんな答えであっても冷静さを失ってはいけないよ。誓えるかい?」

「覚悟はできているわ」

「分かった。話そう。あの子の心に憑いたモノの正体、それは―――――――」

 

 おじ様の口から、長年フランを蝕み続けたものの名が語られる。

 そしてそれを耳にした瞬間。あまりに予想外な答えを前に、私は視界が白く光り、爆発したかのような幻覚を垣間見た。

 

 

 目が覚めて初めに目にしたのは、私を心配そうに覗き込む美鈴の顔だった。

 柔らかい花の様な優しい香りが、彼女の美しい紅髪からふわりと薫る。途端に現実へ意識が向いて、私はベッドから上体を起こし、周囲の状況を見渡した。

 地下室だ。私がいつも寝食を行う場所にいる。と言う事は、あの後美鈴にここへ運ばれたのだろう。

 

「美鈴……?」

「あ、気が付かれましたか。すみません、無礼な真似をしました。お許しください」

「ううん、いいの。美鈴は悪くないから。……アイツ以外は皆、ここに居るんだね」

 

 何を企んでいるのかは知らないが、普段の地下室を知る私からしてみれば、信じられない程の大所帯となっていた。

 部屋の隅には咲夜が居て、鉄仮面な彼女にしては珍しく、心配そうにこちらを見ている。その反対側の壁際にはパチュリーと小悪魔が居た。パチュリーはグリモアを展開して、何か魔法を発動させている様だ。

 そう言えば、体に力が入らない。手を見てみると、八の字を描くように水が流れている、さながら流水の手錠が掛けられていた。パチュリーの精霊魔法だ。これが私の力を封じて拘束しているのは一目瞭然だろう。

 と言う事は、だ。私をここに放って帰らず、わざわざ拘束して見張っているところから見て、ヤツがやってくると見て間違いない。

 

 丁度タイミングよく、地下室のドアがゆっくりと開かれた。同時に濃厚な力の気配が肌に纏わりついてくる。懐かしいおじさまの気配だ。でも今は別に嬉しくもなんともない。だってこの気配を出している人物は、おじさまを殺して力を奪った最低な偽者なんだから。

 ドアが開くと、予測通り偽者とアイツ……お姉様が居た。お姉様の顔が何やら焦りというか、まるで信じられないものを見たかのような顔をしている。一体何があったのだろう。まさか偽者に、色々と吹き込まれたんじゃないだろうか。

 お姉様は咲夜の傍に待機して、偽者だけがベッドの近くまで寄る。そして奴は美鈴が差し出した椅子へ腰かけた。丁度、半身を起こした私と対面する形だ。

 

「……一体何をするつもりなの。私をこんな風に拘束して、皆を騙して丸め込んで包囲網まで作って。流石元バンパイアハンターは違うわ、とことん性根が腐ってる」

「何のつもり、と聞かれてもね。言っただろう? 私はフランと話をしたいだけなんだ」

 

 ビキッ、と血管が浮かび上がる様な感触を覚えた。

 こんな風に、本当のおじさまの様に優しく名前を呼ばれると無性に腹が立つ。その声で名前を呼んでいいのは、正真正銘の本物だけだ。紛い物なんかじゃ決してない。ドッペルゲンガーはお呼びじゃないんだ。

 唾でも吐き掛けてやりたい気分だった。でも、そんな下劣な真似は絶対にしない。そんな事をしたら、この偽者と同じ格にまで堕ちてしまう。

 

「話……ねぇ。いったい何を話すというの? 私は貴方なんかと一秒でも話していたくないわ」

「なぁ、フラン。信じて貰えないのは分かっているが、私は正真正銘本物のナハトだ。君の幼い頃の事は、この場の誰よりもよく知っている。折角再会したんだ。少し、思い出話をしようじゃないか」

 

 血が沸騰しそうになる。もし枷が無ければ、今の私は爪が伸び、牙が生え揃った吸血鬼らしい容姿へ変異していた筈だ。多少は憤怒の影響が出ているのか、眼が充血して熱くなっている感覚があった。

 こいつは、まだ言う気か。まだ私を懐柔しようとしているのか。そこまでして私を、私たちを駒にしたいのか。そうまでして紅魔館の権力と財宝が欲しいのか。私とおじさまの思い出を土足で踏みにじりますと、わざわざ宣言まで下して。

 不愉快、極まりない。

 この流水の手枷さえなければ、その減らず口を叩く唇を、頭ごと粉微塵に爆砕してやるのに。

 

「…………れ」

「君は能力の制御が、最初はとても下手だった。私と共に、よく練習したものだ。君は誤って物を壊すたびに、いつも泣いていた」

「黙れ」

「5年もかけて漸く能力を克服して、レミリアと初めて会った日の事を覚えているか? 君は本当に嬉しそうに、何度も何度も私へレミリアと話した内容を報告してきたな」

「黙れ……!」

「レミリアと喧嘩して、どうやって仲直りしたら良いか分からなかった君は、私へ謝り方を聞きに来たのだったか。そしていざ行こうとするとレミリアの方が先に謝りに来たものだから、毒気を抜かれて、姉妹二人でずっと笑い転げていた事もあった」

「黙れ!! 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ黙れええええええ!!」

 

 我慢の限界だ。殺してやる。何が何でも、こいつを八つ裂きにして殺してやる。生きている事を後悔させてやろう。かつて私とお姉様を利用しようとした同族達と同じ、いやそれ以上に凄惨な目にあわせてやる。地獄が生温いと言う事をその身に叩き込んでくれる。

 私とおじさまの思い出を、知った風に語るその口が許せない。笑顔で宥めるように語り掛けて、おじさまの仕草を真似ているのが腹立たしい。だが、そんな事よりも。

 

「その顔で、その声で、その姿で!! これ以上私に話しかけるなッッ!! 消えろ偽者! お前は、お前はおじさまなんかじゃない!! お前は、おじさまなんかじゃ……!!」

 

 偽者なのに、こいつの事が本物に思えてしまう自分が、心の底から許せない。400年間もずっと一緒に居てくれた魂のおじさまを否定する様で、400年間を全て台無しにしてしまう様で、私はそれがどうしようもなく許せなかった。なんて、なんて傲慢な娘なのだろうかと。

 ああ駄目だ。さっきの戦いのときに生まれた疑いの種が、私を駄目な私にしている。いつも私とお話をしてくれていたおじさまを疑う様な、悪い子に成ってしまおうとしている。

 恐らくアレだ。あの眼で覗き込まれたときに何かをされたんだ。精神干渉術でも仕掛けられたんだろう。そうだ。きっとそうに違いない。

 じゃなきゃ、そうじゃなきゃ、何でこんなに辛い。どうしてこの偽者に暴言を吐くことが苦痛に思えてしまう。私がそんな心を抱くわけがないんだ。奴は紛い物、偽者、最悪のドッペルゲンガーでしかない筈だ。そんな相手に、こんな、こんな感情を抱くわけがない。

 この感情は、術を掛けられて偽者に騙されているだけだ。私は、フランドール・スカーレットは卑劣な妖術如きに絶対騙されたりなどするものか。

 

「私は騙されない。おじさまは私の中に居る。おじさまの灰を吸い込み、力を奪って姿を真似ただけのお前を、認めてなんかやるもんか」

 

 殺意を漲らせ、私は偽者を睨み付ける。それしかできない自分が、本当に歯痒かった。

 偽者は、私の言葉を黙って聞いていた。噛み締めているのか、何かを企んでいるかはわからない。偽者のくせに、考えを読み取る事の出来ないおじさま独特の神妙な顔つきのまま、ずっと黙り込んでしまった。

 暫くして、奴は右手を静かに挙げた。何をするつもりだろうか。

 

「パチュリー。フランの拘束を解いてくれ」

「……あなた、本気? 今のフランは酷い興奮状態にある。解いた瞬間、破壊されるわよ」

「対話とは、話し合う二人が対等の立場となって初めて成立するものだと思っている。この様に縛られたままでは、フェアではないと気が付いてね。フランが話を聞いてくれないのももっともだ。だから、外して欲しい。頼む」

 

 パチュリーは数拍の間迷いを浮かべて、渋々グリモアを閉じた。瞬間、私の両手を封じていた流水の手枷が泡の様に消え去り、自由な両手が露わとなる。

 力が戻り、魔力が漲る。今なら、直ぐにでもこの男を爆砕してやれる。

 フェアじゃない? 対話にならない? 私は元より贋作と会話をする気なんてさらさらない。吸血鬼の誇りある行動を気取っているつもりか。ならば後悔させてやる。私に好機を与えた事の愚かさを。己の罪深さを。

 

 私は右手のひらを偽者へ向けた。力を右手に集中させ、頭の『目』を奪い取る準備段階へ入る。後は『目』を奪って握り潰せばいい。その一アクションで、この男はただの腐臭漂う屍に成り下がる。

 でも、殺意に右手は反応しなかった。手を向けても、『目』を奪う気配すらない。指が一寸たりとも動かず、見えない糸で固定されているのかと思ってしまう。

 

「フラン」

「っ……私の名前を、呼ぶな」

「君がこれから私に何をしようとも、私は決して君を責めたりなんかしない。それで証明されるのは、私が君に本物だと信用されない、ただの不出来な義父だったという事実だけだ。躊躇はしなくていい。君の正しいと思った方向を選びなさい。私はその結果を全て受け止めよう」

「五月蠅い。言われなくてもその口、封殺してやる……!」

 

 手が、震える。

 指が動かせず、『目』が奪えない。頭以外の体がアクションを拒否しているかのようだ。本能とでも言うべきなのか、この男を壊したら、絶対に後悔すると私の心が警報を鳴らしているのだ。それはもう、とても、とても五月蠅く。

 これは偽者の放つ威圧感に気圧されたからではない。そんなもの、とうの昔に慣れてしまっている。殺意が足りない? 違う。今でもこの男を血祭りにあげてやりたい衝動に駆られている。おじさまの生を奪い、思い出まで踏みにじった相手だ。殺す決意は、十分すぎるほどに溜まっている。

 でも、出来ない。

 私は、彼を殺すことが出来ないでいる。

 気が付けば、私の手はだらりと情けなく下がってしまっていた。

 

「なんでぇ……っ……なんで殺せないの……!」

「……それは君が、心のどこかで私を本物なんじゃないかと思っているからだ。そうでなければ、君は今の瞬間迷うことなく私を殺したはずだろう。しかし今の君には、私を本物と認めるだけの材料が、とっくに揃っているんじゃないか?」

「違う……私は、貴方を本物と認めていない!」

「では、何故私が君との記憶をここまで鮮明に知っていると思う?」

「ッ!?」

「吸血鬼の灰を吸い込めば力を得られるのは正しい。でもね、姿や記憶までは一緒にならないんだ。そうなってしまうのなら、それは遠回しの乗っ取りと何の変りも無い。吸血鬼は、そこまで万能な生き物ではない」

 

 彼の手が、私の頬に触れた。大きくて、少し硬い手のひらの感触。それが、どうしようもなく過去のおじさまを思い出させた。

 

「言葉ではまだ確証を得るのは難しいだろう。だから少しだけ……ほんの少しだけ、私の記憶を君に見せよう。どうかこれを見て、事の真偽を見極めて欲しい」

 

 もう片方の手が、私の眼前へ広げられた。手のひらに強い魔力が集中しているのが分かる。黒い靄が渦を巻いて、そしてそれが、布を広げるようにして拡散した。

 闇が見えた。一寸先も見通せない、光の無い暗黒の空間がそこにあった。

 でもこれは、決して恐ろしい類の闇ではなかった。病気の時の悪夢の様に、早く逃げださなければと感じる闇ではなく、例えるなら親の毛布の中に潜り込んで目を瞑っている時の様な、絶対的な安心感が体を包み込む、心地の良い闇だった。

 目を凝らしていると、光の泡が見えた。それが、闇の中からあちこちと浮かんでくる。遂には満天の星空の様に、美しい光の泡のイルミネーションが飾るプラネタリウムへと変貌した。

 

 泡が一つ、二つと近づいてくる。そこには、私の知らない光景が広がっていた。

 初めに見えたのは、ベッドの上にごろんと転がっている赤子の映像だった。まだ完全に生え揃ってはいないけれど、金糸の様にキラキラしていて、指を通せばスルリと通り抜けてしまう様な髪の赤ちゃんだ。何故か凄く泣いている。あんまり皺くちゃな表情で泣くものだから、思わず苦笑いを浮かべてしまった。

 光るシャボン玉が変わり、同時に映像も切り替わる。そこには、一歳くらいの子供が映っていた。この子も金髪で、背中にはキラキラと輝く宝石の様な羽が揃う、見慣れた翼が一対生えている。

 この翼。瞳の色。髪の色。どこか面影を感じる、この顔立ち。

 

 まさか、この子は、私か?

 

 食い入るように映像を見てしまう。流石に一歳近い時の記憶など、残り屑程度も残っていない。まるでホームビデオを見ているような気分になった。この映像が偽者に見せられている事実なんて、いつの間にか頭からすっぽり抜け落ちてしまっていた。

 玩具で遊んでいた金髪の子供は、視界の主に気が付くと笑顔で歩いてきた。おぼつかない様子でよちよちと、こちらが頑張れと応援したくなるような足取りだ。案の定、途中でこけた。そしたら堰を切ったように泣き出して、視界の主は映像の子へ近づき、優しく頭を撫で始める。

 

 映像が変わる。今度は今までの和やかな雰囲気とは違い、殺伐とした部屋の映像だった。

 壁には穴が開き、絨毯はボロボロで、ぬいぐるみは弾け飛んでいる。そして部屋の中心には、ぬいぐるみの手らしき部分を握りしめて、大泣きしている金髪の子が映っていた。

 さらに映像が変わっていく。時間が経ったのか、金髪の子はかなり大きくなっていた。どうやら言葉をもうちゃんと喋れているらしく、視界の主と何かを話している。

 

 ドクン、と心臓が一際強く脈打った。全身がざわざわと痒みの様な感覚を訴え、喉が一瞬にして干上がっていく。

 知っている。

 私は、この映像の事を知っている。この映像の未来を知っている。

 確か、私はこの時に。

 

 私の思考よりも早く、映像の事態は一転した。突如視界の主が、床に倒れ伏したのだ。

 よく見ると、徐々に床へ赤い染みが広がっていっている。視点が視界の主の足へ移った。そこには、本来ある筈の右足が見当たらず、膝から下にかけて切断されたかのように無くなっている。

 

 ああ、やっぱり、これは。

 私の能力制御の練習に失敗して、おじさまの右足を壊してしまった時の映像だ。

 

 泣きじゃくりながら視界の主へ縋り付く女の子は、声にならないような声でずっとずっと謝り続けていた。

 おじさま大丈夫? ごめんなさい。ごめんなさい。嫌いにならないで。

 まるで壊れたラジオの様だ。延々と、同じことを言いながら視界の主へ泣きついている。声は聞こえないけれど何を言っているのか分かるのだ。だってこの時の記憶は、トラウマになってしまうくらい鮮明に覚えているのだから。

 この時の私は、おじさまに嫌われれば本当に一人ぼっちになってしまうと思っていた。だから、文字通り心底必死だった。おじさまの事も心配だったけれど、幼い私は嫌われる事が何より怖かった。地下室にずっと閉じ込められてしまうとさえ思っていた。まだ会った事の無いお姉様とも、もう永遠に会えないとも。

 

 でも、そうはならなかった。

 視界の主は直ぐに体を起こして、右足を金髪の子へと見せた。そこにはあの惨状はどこにもなく、綺麗に服や靴まで完璧に元通りになっている。

 きょとんとしている私の頭を、掴み取れそうなくらい大きな手が優しく撫でた。何が起こったのか分かっていない様子の女の子は、足と視界の主へ交互に視線を動かしている。

 

『心配いらない。何事にも失敗はつきものだよ。ここではどれだけ失敗しても良いんだ。それを次の挑戦に活かせればいい。失敗したくらいで、君を嫌いになんかなったりしない』

 

 唐突に、優しい声が頭へ響いた。今の私に向けられたものではないが、その声が含んでいる感情が、まるで私自身が口にしているかのように伝わってくる。

 それは、春風の様に暖かい慈しみだった。幼い子供が傷つく事の無いようにと願う、精一杯の加護の想い。健やかに成長して欲しいと想う、溢れんばかりの親心。これはまさに、親が子へと向ける慈愛の感情以外の何物でもなかった。

 温かい。とても、温かい。

 心臓の鼓動が、血と骨を伝い鼓膜へと届いてくる。トクン、トクンと、赤子を守る揺り籠のリズムの様に、心地のいい拍動だった。

 この気持ちは、映像の私の気持ちだ。忘却の彼方へ飛ばされていったと疑わなかった古い記憶がこの映像で、そして映像から伝わる視界の主の感情で、火を付けられたように呼び起こされたのだ。

 

『安心しなさい。君が何と言おうと、何があろうと、私は君の味方だ』

 

 撫でられていた女の子が、涙と鼻水で汚れたくしゃくしゃな笑顔を浮かべた。それが、とても眩しいものに思えて、眼がチカチカと痛みだす。

 気が付くと私は、幾重もの雫を頬へ伝わらせていた。

 それに気が付いて両手で拭う。でも止まらない。どれだけ拭おうとも、人肌の温かさを持つ雫は留まるところを知らない。あの煩わしい雨の様に、ずっとずっと流れ続けた。

 嗚咽が喉を震わせる。鼻の奥がツンとした痛みを訴える。目頭が熱い。肩が震えて、最早自分の意思ではどうする事も出来なかった。

 ここまで来てようやく、素直になれない私は、自分の本当の心を発掘できたかのように感じた。

 もう、認めるしかなかった。

 

 私は怖かったのだ。

 私は、彼を本物と認めてしまうのが怖かった。そうすれば、私の中に居るおじさまを全て否定する事に繋がる。それだけではない。400年間ずっと私を見捨てることなく、真実を訴え続けてくれた姉を蔑ろにしていたのだと、気づいてしまうのが怖かった。沢山酷い事を言って、沢山酷い事をしたと認めてしまうのが怖かった。美鈴にも迷惑をかけた。パチュリーや小悪魔が行おうとした『治療』を強引に破壊したことだってあった。咲夜にだって来たばかりの頃に、お前は真実すらも見抜けないどうしようもなく愚かな人間だ、なんてとても酷い事を口走ってしまった。 

 自分が間違っていると、認めてしまうのが怖かったんだ。

 

 でも私だって、最初から彼が本物なんじゃないかと思っていた訳ではない。最初は偽者なんだと、信じて疑わなかった。だけど、彼と戦う最中で垣間見えた仕草の一つ一つが。危機的な状況なはずなのに、私へ一切危害を加えず説得を試みて来た事への不信感が。私の中に疑問の種を撒き、徐々に徐々に、芽吹いた種を成長させていった。

 多分、本当に切っ掛けとなったのは、『おじさま』が私へ怒鳴って能力の枷を外せと言って来た時だと思う。能力の枷を外せだなんて、その力の恐ろしさを、そして私と共に約束してまで何があっても枷を外さないと誓った事を知っていれば、そんな言葉が出てくるはずがないんだ。おじさまは、私との約束を95年間一度たりとも破ったことは無かった。ましてやパチュリーを巻き込む危険を孕んでまで、能力を行使させることは絶対にない。

 お姉様の証言が。偽者の一挙一動が。『おじさま』の不審な発言が。そして、最後に見せられた彼の記憶とその心が。私に真実を齎した。でもそれに気づくのが怖くて、蓋をして見ないフリをする為にムキになっていただけだったんだ。

 もう誤魔化せない。気づいてしまった。どちらが本物なのか分かってしまった。

 

 凄まじい罪悪感の刃が、私へ深く突き刺さった。本物だと訴えるおじさまを信じなかった事。お姉様の言葉に耳を貸さなかった事。皆に酷い事をして酷い言葉を沢山ぶつけた事。そして、事実に気付いてしまうのが怖くて、逃げようとした自分自身の臆病な心。それら全ての事実が、一気に私へ押し掛けた。

 

「あ、あああ……、」

 

 ごめんなさい、と思わず口にしてしまいそうになる。

 こんな言葉だけで、今更許してもらえると、本当に思っているのか? そんな甘ったれた事が、今更受け入れられると思っているのか?

 全ては、自分自身の弱さが招いた結末だ。『偽者』と『本物』を見分ける目を捨てて、ただ妄信を抱え込んで己を守る事に徹した、その弱さが原因なんだ。

 

「うァあ…………ああああああ…………!」

 

 壊してしまおう。

 こんなどうしようもない私なんて、もういらない。私の『目』を破壊して、命をもって償おう。それ以外に、もう道なんてない。私は取り返しのつかない過ちを沢山犯してしまった。

 たくさんたくさん酷いことを言って怪我をさせた私を、おじさまと皆が許すはずがない。糾弾されて、それで終わりだ。私は一人、この地下室へ取り残される。

 ならもういっそ、自分の手で終わりにしてしまおう。嫌いだって真正面から言われるよりは、その方が良い。

 最後の最後まで、皆から逃げようとする自分が本当に嫌になって、更に自己嫌悪を加速させた。

 両手で顔を覆い、力を籠める。頭の『目』を奪う準備を整える。

 

「ごめんなさい、私が、私が間違ってた。ごめ、ごめんなさい。皆を、信じれなくて、ごめんなさい…………!」

 

 ああ、どうしてこんな事になったんだろう。皆に疎まれて、嫌われて、それでも皆は優しいから手を差し伸べてくれたのに、私はその手を払いのけた。自分が正しくて、それ以外は全て贋物。ただそれだけが真実だと信じて殻に閉じこもって、結局私は破滅を迎えた。

『ありとあらゆるものを破壊する程度の能力』。確かに、これは何でも破壊できる代物だ。もしこの力が無ければ、私はまた違った生を歩んでいたかもしれないのに。

 ……いや、そんなものは言い訳だ。私は己の弱さに溺れ、そして壊れる運命を迎えた。それだけだ。我儘な悪魔に相応しい最期じゃないか。

 

「沢山迷惑かけて、ごめん。こんな出来の悪い子でごめん。皆を信じられない弱い子でごめん。そして、ありがとう。こんな私に優しくしてくれて、本当にありがとう。でもこれ以上、皆に迷惑は掛けられない。だから、だから……ごめんね。バイバイ」

 

 でも、一つだけ。

 最後に一つだけ、私の願いが叶うのなら。

 どうか、どうかお願いします。

 こんな出来損ないの私を。弱さに打ち勝てない臆病な私を。壊す事しか能のない愚かな私を。

 どうか、最後にもう一度だけ。

 一人の家族として。愛してください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「フラン」

 

 

 

 

 

 

 

 誰かの優しい声が、私を呼んだ。真っ暗な空から光が差し込んで来るかのような、美しい声色だった。

 顔を覆っていた私の手を、誰かの手が優しく触れる。それはゆっくりと私の手を受け取って、顔から剥がしていくように、両手で優しく包み込んだ。

 涙で歪んだ視界を向ければ、柔らかい笑みを浮かべた偽者――――おじさまが、そこにいた。私がおじさまの足を壊してしまった時と変わらない、月明りの様に優しい微笑みがあった。

 

「どこに行こうというのかね」

「あ、は、離して……!」

「離さない」

「離してよぉ…………! なんで、なんで……!」

「離さない。離せば君は、自分を壊そうとするだろう。違うか?」

「だって、だってだって! わ、私はあんなに皆へ酷い事を、取り返しのつかない過ちをずっとずっと犯し続けたのよ!? もう、どれだけ謝ったって遅いに決まってるじゃない! 皆私を嫌いになるに決まってる。また、独りぼっちになるに決まって……!」

「それは違う」

 

 彼の笑みは、真剣な表情のそれに変わった。真っ直ぐと、一切視線を逸らすことなく私を見つめている。

 

「私が昔言った言葉、覚えているかい?」

 

 涙で視界が霞む。嗚咽が止まらない。多分鼻水だって凄い事になっている。今の私の顔は、到底見れたものじゃないだろう。

 

「安心しなさい。君が何と言おうと、何があろうと、私は君の味方だ。ほんの少しだけ失敗した程度で、私は君を嫌いになったりなんかしない。それにね、見てみなさい」

 

 彼は体を動かして、背後の光景を私の眼に映した。

 そこには、涙を浮かべてこちらを力強く見守る美鈴が。顔を伏せているが肩を震わせるパチュリーが。号泣して顔をぐちゃぐちゃにしている小悪魔が。相変わらずの鉄仮面だが、目元を赤くした咲夜が。

 そして、そして。

 

 いつもの傲慢な態度が嘘のように、大粒の涙を流すお姉様の姿があった。

 

 我慢が効かなくなったのか、お姉様は私とおじさまの下へ駆け寄った。そのまま私の首へ腕を回して、もう離さないと言わんばかりに強く、強く抱き締めたのだ。『ごめんねフラン。私も貴女から目を背けていた。真っ直ぐ貴女を見ようとしなかった』と、懺悔の言葉を漏らしながら。

 違うよお姉様。悪いのは私で、お姉様は何も悪くないのに。

 言葉にならなかったその感情は、代わりに涙となって溢れ出し、お姉様の肩口を濡らす。

 彼はその様子を微笑ましく見つめながら、優しく、しかし強く、私へ訴えるように語り掛けた。

 

「フラン。彼女たちが皆、君を糾弾し許さないと関係を絶つように見えるか? 君を独りにしようとしている者達の顔に見えるか? ずっとずっと君を守り、支えようとしてきた者達が、そんな薄情に見えるのか?」

「……っ」

「…………それにね、フラン。謝るなら私の方なんだ。私が君たちを置いて行かなければ、こんな事にはならなかった」

「違う!! おじさまは悪くない。おじさまは、私たちを見捨てず立派に育ててくれた。一人で何も出来なかった、弱い私が悪いんだ!」

「君が言うのなら、そうなのかもしれない。それもきっと本当の事だ。私も悪いし、君も悪いのだろう。でも誰か一人が悪いなんてことは無かったのだ。これは、運悪く色々な要因が重なって生まれてしまった、只の勘違いだった。それだけの事だったんだ。だから私は、全て一からやり直そうと思う。思えば、久しく再会した君にこの言葉を言っていなかったね」

 

 彼は笑った。泣きじゃくる私を慰めるように、大丈夫だよと宥めるように。

 そして彼の唇が、ゆっくりと言の葉を紡いでいく。

 

「ただいま、フラン」

「……おかえりなさい……おじさま」

 

 応じるように、顔を真っ赤にしたお姉様が、私へ力強く囁いた。

 

「おかえりなさい……! フラン!」

「……た、だいま……お姉様ぁ……!」

 

 それから、私とお姉様は強く互いを抱きしめた。従者の前だとか、親友の前だとか、そんなものはどうでも良かった。今の私たちは紅魔館の当主と妹様ではなく、ただ擦れ違っていただけの姉妹になれたんだと思う。

 私は、漸くこの館の一員に成れたんだと、心の底から実感できたような気がした。

 

 

 ひとしきり涙し、400年越しに漸く和解できたスカーレット姉妹とナハトさんを見守り続けて、はや10分が経過したか。なんだか、今日一日が凄く長いようでいて短いような、不思議な感覚を覚える。咲夜さんが時間を操ったわけでも無いというのに。

 不覚にも、長年の蟠りを見続けてきた分、この光景には少し涙してしまった。昔から脆くていけない。私は笑って二人を迎えなければならないというのに。こんなんじゃ前衛たる門番失格だ。

 

 ……でも、最も重要な部分がまだ解消されていない。言うまでも無く、妹様に取り憑いている精神的存在についてだ。

 ナハトさんは正体が掴めていると言っていた。これからその姿を暴く工程が始まる筈である。ずっと気になっていた。妹様が『おじさま』と慕っていた精神的存在が、ナハトさんでないならば一体誰が成りすましているのかと。

 まず、成りすませると言う事はナハトさんの事を少なからず知っている者だと判断できる。……のだが、過去にお嬢様と妹様以外、彼の傍へいた者は居なかったように思える。いや、ナハトさんに対して狂信的な崇拝を掲げていた吸血鬼一派が居たか。でもあれはナハトさんに近づこうとはしていなかった。恐れ多いと思っていたのだろう。時折遠巻きから跪いているところしか見た事が無い。妹様を騙せるほどナハトさんの口調や人格を再現できるとは、とても思えないのだ。

 ならば、一体誰だと言うのか。

 ようやく、400年に渡って私たちを蝕み続けたその謎が解明される。

 

「さて、フラン。済まないが、私にはまだやらなければならない事がある。少し、話をさせて欲しいんだ。……分かるね?」

「……うん」

「君は今日、よく動いてよく泣いて疲れただろう。少し眠りなさい。大丈夫、これは夢ではないのだから、起きたら消えてなくなったりしないよ」

「分かった。信じるね、おじさま」

「ああ、信じてくれ。それじゃあ、お休み、フラン」

「おやすみなさい」

 

 ナハトさんが、何やら水色に光る術を妹様の頭に施した。恐らく睡眠魔法の類だろう。証拠に、妹様の体から力が抜けてナハトさんの体に寄りかかっている。

 しばし、静寂の時が流れた。

 時計は無いけれど、妙に心臓が五月蠅くて、耳元でチクタクと鳴っている錯覚を覚える。

 ナハトさんは、タイミングを計ったように深く息を吐き出した。

 

「そろそろ、出てきたらどうだ」

 

 ドクン、と心拍音が跳ね上がる。遂に来るのだ。長年に渡り妹様へ巣食っていたモノの正体が、露わになる時が。

 ナハトさんの傍にいるお嬢様の顔が、どこか優れない色をしている。もしかすると、先ほどナハトさんと話をしていた際に答えを聞いたのかもしれない。

 私も、漸く知れる。手に汗がにじんだ。何故か呼吸が荒くなり、嫌な緊張を体全体が訴え始める。

 

 王手の言葉が、彼の口から語られた。

 

 

「なぁ、スカーレット卿」

 

 

 ……………………………………………………………………………………………………………………………………………は?

 

 スカーレット卿? 今ナハトさんは、スカーレット卿と言ったのか?

 その名前は、間違えようのないあの人の呼称だ。紅魔館の元当主にして、お嬢様たちの実の父親。最強の吸血鬼と謳われ、吸血鬼狩りに殺されたと情報が入った時は紅魔館に大混乱を(もたら)した、あの男の呼び名だ。

 その呼び名が何故、この場で出て来たのだ?

 いや、取り憑いていたモノの正体がそうだとしても、何故娘である妹様にずっと取り憑いていて、400年もの長きにわたって騙し続けていたと言うのだ――――!?

 予想の欠片もしなかった答えを前に、私は目の前が真っ黒になった。お嬢様が顔色を悪くするのも頷ける。だって、妹様に取り憑き狂気へ走らせた者の正体が、亡くなった筈の実の父親だと言うのだ。私よりも受けた衝撃は遥かに大きいに違いない。

 

 力の抜けたままだった妹様が、突然目を開いた。しかしその眼は、朗らかな少女の眼ではない。それなりの場数を踏んだ様子を伺わせる、威厳のある覇気に満ちていた。

 

「……流石ですな、ナハト殿。やはり貴方の眼は誤魔化しきれないか。感服致した」

 

 何か音声を組み替える魔法を使ったのか、声が低い。それは決して妹様の鈴の音の様な声ではない。そして私は知っている。紅魔館に属したものとして、お会いしたことが少なからずあるから知っているのだ。

 本当に本当に、正真正銘のスカーレット卿がそこに居た。

 

「して、何故私と分かったのですかな? いや、魂を見たからという事を聞いているのではないのですよ。貴方の事だ、もしかすると私だと勘付いていて、敢えて確認したのではないかと思いましてね」

「……最初に怪しいと感じたのは、フランが私を偽者と呼んだ時だ。偽者と言う事はフランが本物と判断する何かが存在していると言う事。その存在の候補として挙げられるのは、フランが本物と勘違いするほどの演技ができる……つまり、私の事を少なからず知っている者に限られる。私の口調や声などをコピーできるほど近しかったものは、姉妹と美鈴を除けば卿、君のみだ。それだけではない。力が不安定故に誰も近づこうとしなかった幼きフランへ接触し、魂の一部を植え付ける行為が出来た者も、直属の親たる君しか存在し得ない」

「成程、そこまで見抜かれていましたか。しかしよく、フランの内部に潜んでいることまで分かりましたな」

「私が最初に館へ訪れて会ったのはレミリアだ。その時彼女は、私を義父として扱った。しかしフランは、幽閉され接触を絶たれている身でありながら瞬時に私を察知し、偽者として扱った。矛盾しているのだよ。もし実体を伴った偽物が存在しているのならば、レミリアも同じく騙され、私を偽者として対応した筈だ。なのにそれが無かった。加えて、フランが狂気に蝕まれていると言う彼女たちの弁も事実と合致していなかった。実際に話してみれば、フランは理性をちゃんと持っているではないか。だが彼女たちには狂気に侵されたと判断されている。それは、両者の間に何らかの要因によって深い齟齬が生まれていたからなのだろう。ならば『狂気』の正体とは、『フランにしか知覚出来ずにナハト本人だと思い込ませている存在』なのではないかと思い至ったのだ。そんな事が可能となる場所は、術にしろ憑依にしろフランの精神中以外に有り得ない」

「流石ですな! いやはや、少ない手掛かりからそこまで辿り着ける洞察力には参りましたぞ。私が勝てるはずがないのも頷ける」

 

 はははは、と妹様――――いや、スカーレット卿は笑った。心の底から称賛しているかのような高笑いだった。

 半面、ナハトさんは一切表情を動かそうとしなかった。何か、思惑があるように思える顔をしている。まるで品定めを行っているかのような、ドライな印象を受けた。

 一方、スカーレット卿は、それで、と会話を繋ぐ。

 

「これから私をどうするおつもりですかな? 貴方の力ならば、私を追い出す事も十分可能でしょうに」

「……スカーレット卿。一つ交渉をしないか」

「何でしょう」

「君は、新しくこの館でやり直す気持ちは無いか? 偽の私としてではなく、レミリアとフランドールの父として、新しい生を歩んでいこうとは思わないか?」

「ふむ」

「フランの肉体に居座るのは不可能だ。今ですら、君らはかなり危うい均衡なのではないかね。元々肉体一つに魂二つは、いくら妖怪とて無理があるのは知っているだろう。三日だけ時間をくれれば、私が君の肉体を作り直してやれる。そこに移って、またやり直そうとは思わないか?」

「……成程。実に魅力的な提案ですな。私は自由を手に入れ、そして新しく平和な人生を歩めると」

「ああ、そうだ」

 

 ナハトさんの提案した策は、和解だった。今までの所業を全て洗い流し、一からまたやり直そうと言うものだった。

 今までのスカーレット卿の蛮行から考えれば、私はあまり受け入れたいものではない。でももし、ここで彼が承諾すれば、お嬢様や妹様は父親を失わずに済む。誰も傷つく事の無い、大団円へと収まるだろう。

 だが。

 私はスカーレット卿が浮かべた邪悪な笑みを目撃して、直ぐにその思考を破棄する事となった。

 お嬢様も、その異変にすぐさま勘付き表情を歪めた。

 

「しかし一つだけ、申し上げる事があります」

「―――――ッ!? おじ様逃げて!! お父様は手を握っている!!」

「私は平和だとかそう言った温いものが、吐き気を催す程に御免なのだよ」

 

 お嬢様がスカーレット卿に飛び掛かった瞬間、バンッ!! と水風船を思い切り地面へ叩きつけたような破裂音が、地下室に炸裂した。

 遅れて、何か重々しいものが落下したような、鈍い音が床を震わせる。

 ―――見るまでも無い。そんな行動をとらずとも、一体何が起こったのか鮮明に理解できた。

 床には、頭と心臓を木端微塵に破壊された、ナハトさんだったものが転がっていた。

 吸血鬼の弱点を、完膚なきまで破壊されてしまっている。しかも妹様の能力で。

 サァッ、と血液が急激に冷えていく感覚が全身の血管を走り抜けた。

 

「おじ様!!」

「離れろ。鬱陶しいぞ小娘が」

 

 乱雑に腕を振るわれ、お嬢様が弾き飛ばされる。そこを、咲夜さんが俊敏に受け止めた。

 私は『気』を両腕に纏わせて、スカーレット卿を睨む。だが私には攻撃出来ない。あの体は、妹様の体でもあるのだ。奴を仕留めるには、必然的に妹様まで仕留める結果となってしまう。それだけは出来ない。そんな真似が、出来る筈もない。

 それを見透かしているのだろう。スカーレット卿は低い笑い声を漏らしながら、実に愉快そうにナハトさんの死体を踏みにじった。

 ガツン、ガツンと、肉を叩くにしては凶暴な音が響き続ける。

 

「さっきは心の底から焦った……ああ、焦ったぞ。拘束され、抵抗する術もなく、本当にチェックメイトを掛けられた気分だった……。フフフフフ、だが貴様が甘かったお蔭で、こうして盤は引っ繰り返ったな。ああ、正直ホッとしているよ。最も厄介だったお前をこうして始末することが出来て。やはりフランドールの能力はよく効くな。うん? 再び貴様が現れたおかげでほんの少しばかり予定がズレたが……軌道修正できる範囲だ。材料はこうして揃えてくれたのだからな。はははははははははは!」

「予定……? 貴方が妹様に取り憑いたのも、今までの事も全て企んでの事だったと!?」

「……誰だお前は? ああ、私の館で傭兵をしていた木端妖怪だったな。礼を言うぞ木端。お前がナハトに絆され、覇権争いの時に娘を守ってくれたおかげで、私が娘の恐怖で覚醒する時間を稼いでくれた。実に楽しかったぞ、私に謀反を企てようとしていた愚か者共が、一斉に惨たらしく娘の手で破壊されていく光景は!!」

 

 こいつはまさか、最初からそのつもりだったと言うのか? そのつもりで、妹様へ魂を移植するなどをやってのけたとでも言うのか?

 覚醒と、魂の移植。私の浅い知識でも二つのワードから連想できるのは、恐らく分霊の術だ。高度な魔法技術を習得したものは、魂を小分けして様々な器に封じ込める事で、肉体の破滅と死の関連を無くすことが出来ると言う。その邪法に縋った魔法使いの成れの果てを、確かリッチと呼ぶのだったか。それを奴は応用したのだ。本来ならば魔力を持った鉱石で出来た箱などに魂の欠片を封じるところを、妹様に仕立てたのである。おそらく最初は自我すら無かったはずだろう。しかし95年もの間妹様の魔力を吸い続け、覇権争いに巻き込まれた際の妹様が抱いた恐怖という強い感情を受けて覚醒したのだ。そうでなければ、ナハトさんが妹様の体内に魂が入り込んでいると気づかない訳がない。魂の欠片として潜んでいたからこそ、あの方の視線を掻い潜ることが出来たのだ。

 そして覚醒のトリガーである妹様が非常に強い恐怖を感じる時は、絶対強者たるナハトさんが不在で、何者かから強襲を受けた時に限られる。

 

 しかしそうなると、一つだけ疑問が浮かんでくる。

 彼は、スカーレット卿は本当に殺されたのか?

 リッチが分霊の術を行うように保険としてではなく、計画的に魂を移植したのならば、彼と夫人の死は偶然ではなく必然性を帯び始める。

 最悪に近い予想が、私の脳裏を過ぎった。

 

「妹様に魂を移植したにしても、貴方自身は亡くなった。吸血鬼狩りに命を奪われたはずだ。保険として妹様に魂を植えたと言うには、その行動にいささか疑問を拭えません」

「保険? 違うな、本命だよ。あの死も私が仕組んだものだ。野心を燻らせる邪魔な反逆者を炙り出すためにな。そもそも最強の吸血鬼と謳われたこの私が、木の杭と十字架でしか抵抗出来ない人間如きに後れを取ると本気で思ったのか? 呆れ果てるほど能天気な頭だ」

「では……では……!」

 

 咲夜さんから立ち直り、紅い瞳に深紅の魔力を灯らせたお嬢様が、ギリッ、と奥歯を噛み締めながら言った。明らかに怒髪天を突いている。だがそれだけではない。実の父が、紅魔館を守るために誇りある死を迎えたはずのスカーレット卿が、娘を利用していたと言う事実を半ば受け止めきれていないようにさえ見えた。

 

「ではお母様は!? お母様の死は一体何だったのですか!? 何故、お母様まで貴方の偽装の死に巻き込まれたというのですか!?」

「……我が娘ながら愚鈍極まりない。ああ実に不愉快だ。分からんか? あの女は悪魔に最も不要な愛情などという、虫の体液よりも下卑た唾棄すべき感情に惑わされた。私の計画に勘付いて止めようとしたのだよ。奴を生かしたまま私が死ねば、必ずあの女は邪魔をする。だから、私が直々に葬ってやったのだ。共に吸血鬼狩りから子を守ろうと説得したら、嘘のように軽々しく引っ付いてきたなぁ。心臓を抉り出し、首を撥ね、吸血鬼狩り共にくれてやった。そして私は自ら銀の剣で心臓を貫き、自害したと言う訳だ。これで満足か?」

 

 カツ、カツ、カツ、と一歩ずつスカーレット卿はお嬢様へと近づき、強引に顎を掴んだ。咄嗟に止めようとした私と咲夜さん、パチュリー様に小悪魔は、彼女―――いや、彼が眼から放った凄まじい紅蓮の瘴気に当てられ、動きを阻害されてしまう。吸血鬼の魔眼だ。麻痺効果を持った幻術を掛けられてしまっている。なんて事だ、完全に油断した。

 

「レミリア……お前は本当に不愉快極まりない存在だった。私をフランドールから引き剥がそうとしている様は、腐肉にたかるハエの様に鬱陶しかったぞ。あの女と同じく本当に邪魔な存在だった。しかも貴様は、フランドールと違って実用性のない能力を持って生まれた欠陥品だったではないか。出来損ないの上に、あの女と同じ水色の髪をしているときた。いつも見ていて吐き気がしたほどだ。どいつもこいつも、潜在能力しか利用価値のないガラクタでしかない」

「っ!!」

「なんだ、その反抗的な目は? 私を殺したいか? 母を殺し、義父を殺し、妹を騙して同族を虐殺させた私が憎いか? ならばお得意の魔力弾で私の心臓を破壊し、首を撥ねて銀の剣で斬り潰せばよかろう。そこの雌の人間が丁度、銀のナイフを持っているではないか。絶好のチャンスだと思わないかね」

 

 悍ましい笑顔だった。全てを手のひらで転がして弄ぶ悪魔の表情。先にある全ての駒の動きを掌握しているイカサマ士の様に、愉悦と支配の快楽に酔い切った表情だ。とても、妹様の顔だとは思えない。

 彼は張り裂けんばかりの高笑いを上げる。それは、勝利の角笛を吹き鳴らしているかのようにさえ聞こえた。奴は勝ったと確信しているのだ。向こうは手を出せて、こちらは妹様を傷つけられないが故に手を出せない。脅威だったナハトさんは無残に息絶え、私たちも動きを封じられている。私たちが切れるカードは、もう何も残っていない有様だった。

 

「出来んよなぁ。情なんぞに悪魔としての本分を見失わされたお前には、妹を殺す事など到底できた真似ではないのだろう?」

 

 ぐりっ、とスカーレット卿の指が、お嬢様の喉元に食い込んだ。鋭い爪の先が柔肌を突き破り、静かに赤い液体を溢れ出させる。

 

「ぐッ……!!」

「あの男にも呆れたものだ。和平交渉など持ち出さずに直ぐ私を引き剥がしてさえいれば、こんな事にはならなかっただろうに。何が闇夜の支配者だ。ただ年老いて甘ったれただけの老害ではないか。これでは、昔あれだけ警戒した意味も無かったな。あの男の影響力のせいで私が吸血鬼の王として君臨できなかったが故に、こんな面倒な方法をとったと言うものを……」

 

 ……黙っていれば、聞き捨てならない事を言ってくれる。ナハトさんがどんな気持ちで、和解の手を差し伸べたのかまるで分っていない。お嬢様がどれだけ妹様の事を親身に想い続けて来たのか、露ほども理解しようとしていない。彼はまさに悪魔だ。他人の心などどうでもよくて、己の野心を叶えるためならば自分の命はおろか、妻や娘まで手駒として扱う最悪の悪魔だ。

 歯痒かった。すぐにこいつを妹様から引き剥がして、叩き伏せてやりたい気分に侵食されている。お嬢様が味わった精神的苦痛の、ほんの一部でも与えてやりたい。こいつは、そんな程度で怒りが収まる悪党なんかじゃないけれど―――いや、悪党ですらない。外道だ。こいつは道を踏み外す事を厭わない真正の外道なのだ。

 私と同じ心境なのだろう。咲夜さんも、パチュリー様も、あの臆病な小悪魔でさえ、激怒に表情を染め上げていた。これ程までに明確に怒り狂った彼女たちを、私は今まで見た事が無い。

 

「……解せないわね」

 

 パチュリー様が、絞り出すように言った。

 

「あなたがナハトの存在が邪魔で、吸血鬼の実権を確実に握るためにフランへ魂の移植を行い、死まで装ってナハトの眼を欺いた事は理解できた。でも何故、今の和平交渉を蹴ったの? 従順に従うフリでもしていれば肉体も戻るし、もっと効率よく事を運べたはずよ」

「お前の様に打算的な思考は嫌いではないぞ、若き魔女よ。簡単な事だ、今が紛れもない好機でしかないからだよ」

「好機、ですって?」

「ああ。ところで魔女よ、怨霊が魂を食らい増幅する理論が分かるかね」

「何ですって? ―――――――まさか、あなた!!」

 

 ギイイイイッ、とスカーレット卿の口が三日月状に裂けていく。白い牙の間から覗く、蛇の様な舌の動きが生々しかった。

 

「魂の移植術も、フランドールの魂を侵食する準備もとうに出来ている。後はお前たちの心臓を破壊し、魂が冥界に渡る寸前で、私の増量した魂の欠片を植え付けてやる。他者の能力が操作可能なのは、フランドールの肉体で実証済みだ。私の意思で思い通りに動く、力を持った肉の兵隊が、完成すると言う訳だ!」

「それを繰り返して、ネズミ算式に自分の魂を移植した傀儡を作り続けていく訳ね……最低……! 生きる者に対して冒涜でしかない行為だわ。体を乗っ取り私物化するどころか、魂まで取り込んで寄生の為の材料にするだなんて!」

「フン、光栄に思うがいい。お前たちの肉体は永遠に、私が愛玩道具として可愛がってやろう。貴様たちの起こした吸血鬼異変や紅霧異変のお蔭で、この幻想郷の妖怪の力も、博麗の巫女の力も大方把握できた。改めて礼を言うぞ、間抜けな小娘ども。私に計画のピースを、わざわざせっせと運んできてくれて」

 

 ――――吸血鬼異変。私たちが幻想郷に移住したばかりの時に、在住の活気を無くした妖怪たちをまとめ上げ、革命を試みた大異変だ。だがあの異変は直ぐに、幻想郷の管理者である八雲紫を筆頭とした妖怪集団に惨敗し、呆気なく幕を閉じた過去がある。

 まさかそれすらも、こいつの計画の材料にされていたとは。

 奴は吸血鬼異変も、紅霧異変も、ずっと見ていたのだ。幻想郷の住人がどれほどの力を秘めているのか推し量り、その対抗策を練り上げるために。

 そして今、妹様の魂を侵食し、その体積を増やして私たちへ植え付け、強制的に使い魔と化させることで、幻想郷に反旗を翻そうとしている。

 乗っ取る気だ。こいつは、紅魔館どころか幻想郷を本気で支配するつもりでいる……!

 

「材料は揃い、好機も得た! おまけに、闇夜の支配者とまで崇められた最古の吸血鬼の遺体と血液までも手に入った。ははははははは!! 本来ならばフランドールの肉体が完全に成熟するまで待つつもりだったが、予定が変わった。ナハトよ、天敵だった貴様の血を啜り、私は吸血鬼を超えた更なる高みへと昇華しよう! そして、お前がせっせと育て上げた義娘どもの肉体で、絢爛たる我が夜の世界を、この楽園を礎に築き上げてやろうではないか!!」  

 

 だが、とスカーレット卿はお嬢様を勢いよく投げ飛ばし、壁に叩きつけた。咲夜さんの怒号が飛ぶ。その声を、スカーレット卿はまるで喫茶店で流れるジャズ音楽でも楽しんでいるかのように、愉悦で満ち満ちた表情を浮かべて嗤った。

 ありとあらゆるものを破壊する理不尽な力を宿した悪魔の右手を、お嬢様に向けて。

 

「その前に、奴隷を作る試運転をしてみるとしようか。栄えある人形兵第一号はレミリアッ! 私を(ことごと)く邪魔し続けた、貴様からだッ!!」

 

 完全な、詰みに嵌った。

 動けない。止めようにも、指先一つ動かせない。私の持ちうる全ての『気』を連動させこの幻術を打ち破ろうとしても、スカーレット卿の呪縛から逃れることが出来なかった。それは他の皆も同じだ。この中では真っ先に動きそうな咲夜さんですらも、悔しさと怒りで涙を滲ませ、その場から微動だに出来ずにいるほどだ。

 

 スカーレット卿の指が、無慈悲に折りたたまれていく。右手に魔力が集約されていて、お嬢様の『目』を奪ったのが分かった。それは明確に、紅魔館の終わりを示していた。

 私は思わず、ほんの数秒後に起こるだろう惨劇から目を背け、瞼を閉じてしまう。

 私たちどころか、幻想郷を巻き込んだ破滅へのカウントダウンが、静かに始まりを告げていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――――――――――――――――――ビシッ

 

 

 



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6.「闇夜の支配者」

 ―――――――――――――ビシッ

 

 私は初め、それが変化だと気が付くことが出来なかった。

 唐突に響く、固いものに強い亀裂が走ったかのような、何かが勢いよく裂ける音。私はそれが、スカーレット卿が手中に収めただろうお嬢様の『目』を握りしめた事で、『目』に亀裂が入り込んだ音だと思い咄嗟に視線を避けてしまっていた。

 しかし、何秒経っても次の音が―――具体的には、肉体が破壊されたことで生じる破裂音が―――鼓膜へ届かなくて、恐る恐る瞼を開いてみる。

 

 状況は、あれから全く変わっていない。妹様の肉体を乗っ取ったスカーレット卿が、投げ飛ばされ壁に寄りかかっているお嬢様に破壊の右手を向けたままでいる。

 ただ、そこから先が無いのだ。スカーレット卿は微動だに動こうとしていない。指令を絶たれたゴーレムの様に手をかざしたまま突っ立っている。

 何だ? 奴は一体何を躊躇しているんだ?

 謎の静止状態に、思わず咲夜さんが時間を局所的に止めたのかと思ったが、どうやら違うらしい。私たちを縛る幻術は、能力を阻害する魔力因子が組み込まれているのだ。目を向けて見れば、咲夜さんも何が起こっているのか分からないと言った表情だった。

 

 ビシッ。

 

 再び亀裂が入る音がする。それも、さらに大きな音となって。

 それがトリガーだったのか。スカーレット卿はだらりと、水平に保っていた右手を床へむけてゆっくり下したのだ。

 

「……本当に、流石としか言いようがないな。天敵ながらそのゴキブリの如き生命力には、称賛を送らざるを得ないぞ」

 

 ぐるり、とスカーレット卿の首が動く。その視線が射抜く先は、私たちの背後だった。厳密には、ナハトさんの死体が転がっている場所だ。

 そして、スカーレット卿が何を口走っているのかを漸く理解した瞬間。私の心臓はまるで警報でも鳴らしているかの如く、とんでもない早さで脈打ち始めた。

 まさか。

 いくらナハトさんでも、そんな事が有り得るのか?

 普通の吸血鬼なら一撃で冥府に直送されてしまう妹様の恐ろしい破壊の力を、吸血鬼の二大弱点とも言える頭部と心臓へまともに食らって、生きている事なんてあり得るのか?

 それは、最早吸血鬼と呼べるのか?

 

 ビシッ、ビシビシビシビシビシビシビシビシッッ!!

 

 ガラスに亀裂が放射状に広がっていくかのような音が連続で轟いた。音だけではない。細い亀裂が本当に、私の背後からゆっくりと床を走っていくのだ。まるで地震でも起こっているかのような光景だった。

 その直後、背後から雪崩の如く訪れた、全身を握り潰されると錯覚するほどの莫大な瘴気に、私は思わず自分の体を抱き締めてしまっていた。

 幻術が解けているだとか、今ならスカーレット卿を抑えられる好機だとか、そんな考えは頭の中から吹っ飛んだ。両腕でしっかり体を抱いておかないと、自分がどこかへ消えてしまう。そんな理不尽とも言える危機感が私を襲い、思考能力を遥か彼方へ吹き飛ばしたのである。

 ゆっくり、背後へ体を向ける。

 

 絶句した。

 

 そこには確かに、疑いようのないナハトさんが居た。致命傷を受け、確実に絶命したはずのナハトさんが、何事も無かったかのように二本の足で立っていたのだ。

 けれどそれは、私の知るナハトさんではなかった。

 彼は普段、凄まじい威圧を伴う瘴気を常に纏っているが、見た目は非常に美麗な青年の姿をしている。私は彼の姿を見るたびに、禁忌の類に近い禍々しい印象を抱きつつも、同時に兼ね備えられた芸術品が霞むほどの『美』によって、この世のものとは思えない神々しさを強く感じていたのだ。

 今、私の眼に映る彼に、神々しさや美しさは欠片も存在していない。

 

 彼の頭部……黄金比率を体現していた顔貌は、中途半端に再生しているせいなのかどす黒い魔力の黒煙のみで形成され、さながら黒い靄が顔の輪郭を保っているだけの状態となっていた。再生途中の灰色の髪は、まるで水中に潜っているかのように揺らめいている。

 黒い靄の中に浮かんでいるのは、二つの眼とズラリと並んだ歯のみだ。眼の周囲に瞼はなく、歯を隠す唇は見当たらない。ゾッとする様な紫の瞳を持つ眼球と、ピアノの鍵盤の様に乱れず並んだ白い歯だけが、暗黒の中にくっきりと存在していた。

 彼の変化は顔だけではなかった。全身からは可視化された尋常ではない密度の瘴気が、まるで蛇の如くうねりながら彼の周囲に渦を巻き、見るだけで発狂しそうになるようなエネルギーを放っている。余波は彼の足元に現れ、革靴が接した床の部分から、細い亀裂が放射状に広がっていた。これが、あの音と亀裂の発生源だったのだ。

 

 さらにもう一つだけ、無視できない存在がそこにあった。

 彼の背後に形成された、15本もの漆黒の剣。それら全てが、スカーレット卿へ照準を合わせる鏃のように、彼の背後へ配置されていたのである。

 古い言葉で、『怒り』を意味する魔剣グラム。純粋な魔力を結晶化させると言う出鱈目な製法で生成される黒き剣が、かつてない数をもって展開された光景を目撃して、私はあの言葉を思い出さざるを得なかった。

 

【闇夜の支配者を怒らせるな。彼の者の怒りを買うならば、迷わず竜の逆鱗に触れろ】

 

 ああ成程、確かにそうだ、その通りだ。これなら喜んで竜の逆鱗を撫でてやる。その方が絶対に、生き残れると確信できる。

 ナハトさんと初めて会った満月の夜。私はナハトさんの怒りを見て、恐怖に震えたと思っていた。彼は絶対に怒らせてはならない存在だと、知った気になっていた。

 でも違ったんだ。あの時の彼は、欠片も怒ってなんていなかった。ただ、道を踏み外しそうになった少年たちを叱っただけだった。たったそれだけの事だったんだ。

 目の前に君臨する、怒りに全身を染め上げ黒い怪物と化したナハトさんを見てしまえば、あんなものは只の戯れだったんだと気づかされてしまう。

 

「……私は、妖怪として生を受けて長くなる」

 

 歯のみの口が僅かに開き、瘴気と共に口から音が発せられる。重低音のノイズが伴うその声は、聴く者の頭蓋を激しく揺さぶった。

 

「今まで様々な物を見て、聞いて、感じて、経験を積んできた。私は、例えどれ程の重罪人だろうが、業の深い者だろうが、礼節を持って受け入れられる様になったと思っていたよ」

 

 だが。と彼は一歩前へと足を踏み出した。ビシビシビシッ! と細い亀裂がさらに床を侵食し、無機質な悲鳴があがる。怒りの矛先が向いていない筈の私ですら思わず二、三歩下がってしまう程の尋常ではない威圧が、暴風の様に襲い掛かった。

 

「まさかこの世にまだ、ここまで不愉快な気分にさせられる者が存在しているとは思わなかった」

 

 彼の怒りに呼応して、紫の瞳が薄暗い輝きを放つ。発せられる声にはいつもの鼓膜から脳に吸い込まれていくような擦り寄る艶やかさは無く、体が直ぐに全ての動作を放棄してしまう程の、激しすぎる憤怒が含まれていた。

 

 恐ろしい。この上なく、彼の存在が恐ろしいと私は感じてしまっていた。彼の眼に射抜かれれば、吸血鬼異変で垣間見た八雲紫の絶対零度の眼差しが可愛く思えてしまう程に身の毛がよだち、彼の声を耳にすれば、地獄の唸り声が子守歌に聞こえてしまう程に体が竦み上がる。

 彼は敵ではない。そんなことは分かっている。彼の敵意は間違いなくスカーレット卿ただ一人のみへと向いている。だが、頭では分かっていても他全てが理解してくれない。視界が揺れる。彼の強すぎる魔力の影響で空間が歪んだのかと思ったが、全くの誤解だった。体が震えすぎて、視界が定まっていないだけだったのだ。彼は危険だと全身のいたる箇所が警鐘を鳴らし、それが震えとなって姿を現しているのだ。

 目を向けられたものは心臓を凍らされ、声は本能から恐怖を呼び、前に立つ存在を許さないと言わんばかりのその絶対的でおどろおどろしい姿は、まさに魔王。闇夜の支配者と称されるに相応しい、他の全てを制圧する恐怖の覇気を帯びた、最古の吸血鬼がそこに居た。

 

「勉強になったよ、スカーレット卿。どうやら私は、まだ他者を不愉快に思えるらしい」

「――――――――――ハッ」

 

 対してスカーレット卿は、その場に居合わせた少女達とは違い、恐怖に精神を歪めることなくナハトさんと向き合った。数多の黒い刃を向けられ、彼の怒りをその身一身に受けていると言うのに。

 理由は分かっている。彼の眼からはまだ、勝利の二文字が揺らいでいない。確信しているのだ。あの黒い怪物に真正面から挑み、そして打ち破れると自らの絶対優位性を信じているのだ。

 

「それで? 今の貴様に何ができる? フランドールの力を食らって尚蘇ったその卑しい生命力は認めよう。だが、だから何だ! 貴様に切れるカードは最早何も残っていないのだぞ、ナハト。お前が手塩にかけて育てた娘の体は、魂は、私の手の中にある。ここに居る無様な小娘共の生殺与奪の権利も我が手にある!! それは貴様に対しても同じことよ。一切躊躇はせん、今度こそ確実に冥府の闇に落としてくれる。死にぞこないの老蝙蝠が」

 

 スカーレット卿の手がナハトさんへと向けられた。だがナハトさんはピクリとも動こうとはしない。闇の中から覗く悍ましい二つの眼球が、その手を静かに見つめているだけだ。

 

「死ね」

 

 ボンッ!! とナハトさんの腹部が、勢いよく弾け飛んだ。

 しかし、内側から爆散されたが如く散った彼の肉体は撒き散らされることなく、黒い瘴気へと変換されて腹部へ吸い込まれ、また元に戻ってしまう。

 全く通用していない。

 妹様の力が、ほんの一ミリも効果を表していない。

 考えてみれば当然か、彼はずっと妹様の破壊の力と向かって来たのだから。

 ゴバァ、とナハトさんの鋭い歯だけが並ぶ口から、黒い瘴気が漏れ出した。それはまるで、湧き出して止まらない怒りを外へ吐き出している動作に見えた。

 

「チッ、化け物が。最早肉体そのものが単一としての意味を成していないのか。ならばその状態を解除しろ。さもなくば、お前のもう一人の娘を殺す」

 

 視線は一切外さないまま、スカーレット卿はお嬢様へと右手を向ける。口の端はぐにゃりと歪み、かつて恐れた相手を屈服させる快感に満ちていた。

 ナハトさんは嵐の前の静けさを表すように、ただ静かに、しかし激流の様な鋭さを添え、言葉を繋ぐ。

 

「……お前は、誰の許可を得てその力を使っている?」

「娘は私の血肉から生まれた。ならば娘の全てを使う権利が私にあるのは必然よ。ましてや、今この体は私のも――――」

「誰の許可を得てその力を使っているのか、と聞いているのだよ。スカーレット卿」

「っ」

 

 初めて、スカーレット卿が怯み後退した。人を殺せるほどの気配を浴び続けては、いくら私たちより頑丈な吸血鬼たる妹様の肉体でも負担が大きいのだろう。私ですら、『気』を全力で巡らせて漸く震える程度で済んでいるのだ。あのまま普通で居られる訳がない。

 

 ――そう言えば、咲夜さんたちはどうしている? 人間の彼女がこの瘴気を浴びて、まともでいられているのか?

 

 嫌な予感が頭を掠めたが、それも直ぐに解消された。ナハトさんが手を掲げたと認識した瞬間、背後から五本のグラムが舞い踊り、それぞれがスカーレット卿を除く私達の足元へ突き刺さったのだ。剣からは私たちを覆うように魔力が放たれ、ナハトさんの息が詰まりそうになるほどの瘴気を相殺し始めている。

 素人目だが、これは毒を以て毒を制する手法と似ている様に思える。瘴気と魔力をぶつけ合い、効果を打ち消しているのだろう。それでも、剣から放たれる魔力は心臓の脈を上げるのに十分だった。人間の咲夜さんはどうにか、『今にも吐きそうなくらい青くなる程度』までには回復している様だ。

 

「なぁ、スカーレット卿……お前はあの子の体の中にずっと居座りながら、欠片もあの子を見てこなかったのか? いくら覚醒していないとはいえ、魂は周囲の情報を取り込み続ける。特に違う魂が隣接しているのならば尚の事だ。誰よりもあの子の心の傍に居ながら、僅かな消し屑程度の感情も汲み取ってやれなかったのか?」

 

 スカーレット卿が忌々しく歯噛みする。彼の額から脂汗が流れ始めた。

 憤怒の重圧が、凄まじい勢いで上がっていく。

 

「お前が今我が物顔で振るっている力をあの子が克服すると決意したのはな、姉妹が欲しかったからだ。力が制御できなくては、まだ見ぬ姉を壊してしまう。それが嫌で、会った事も無い姉へただ普通の妹の様に甘えたい一心で、いつか姉と外の世界を共に過ごしたい一心で、あの子は5年もの歳月を地下に籠り、己の力に打ち勝つ術を磨き続けてきたのだ。あの子が何度力に負けたか知っているか? あの子がどれだけ優しい涙を流したか知っているか? あの子が何度絶望に打ちのめされたか知っているか? あの子がそれら全てを乗り越えて、姉と共に夜を歩ける日を迎えた時の喜びを……家族として生きていけると報われた時の喜びを、貴様は知っているか」

 

 彼の怒号は、爆発としてその場全てを蹂躙した。激しく巻き上がる黒の瘴気が部屋中を包み込み、生きるもの全てを憎悪し奈落へ落とそうとする怨霊の如く、空間をうねりながら漂い始める。絡みつく黒い瘴気を、スカーレット卿は疎ましそうに払い除けた。

 

「娘の努力を、覚悟を、決意を。ただの一欠片も理解せんお前に、その力を振るう資格は無い。ましてやあの子が心の底から望んだ最愛の姉へ力を向けるなど、言語道断。お前はフランドールの魂と誇りを踏みにじり、その手すらも姉の血で染め上げようとした。それだけではない。姉妹の母を陥れ亡き者にした挙句、野心のためだけに同族を、あろうことか娘を騙し虐殺させたと来た。レミリアを欠陥品だと貶め、道具の様に軽んじもしたな。断じて許さん。私が直々に、報いを与えてやろう」

「ほざくな……ほざくなよ、ナハトォ!! 貴様がどれだけ怒り狂おうが、状況は何も変わらん。小娘一人を傷つけられない甘ったれの老いぼれが、この私に報いを与えるだと? 笑わせるな。私の指示に従わなかった罰だ。レミリアが弾け飛ぶ光景をその眼球に焼き付け」

 

 彼は、その言葉を最後まで言い終えることが出来なかった。

 ズバンッ、と何かが空気を切り裂くような音が、彼の言葉を唐突に遮ったのだ。

 スカーレット卿は、突如異変が起こった自分の体へと眼を向ける。

 

 その肩には、黒く禍々しい瘴気を放つ剣が―――ナハトさんの背後から、妖怪の動体視力すらも凌駕するスピードで放たれた魔剣グラムが、深々と突き刺さっていたのだ。

 

「――――あ?」

 

 何が起こったのか分かっていない様子のスカーレット卿は、一拍呼吸を止めて、自分の置かれた状況に眼を剥いた。

 次の瞬間、二発目のグラムがまた別の肩に突き刺さったところで。

 彼は大きく仰け反りながら、凄まじい悲鳴を部屋中に轟かせた。

 

「があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!?」

「おじ様やめて! それは、それはフランの体でもあるのよ!? あの子が死んでしまう!!」

「案ずるなレミリア。私がこの下衆の為に、フランドールの体や魂に傷一つでも付ける訳がないだろう」

 

 ナハトさんはそう言うが、傍目から見ればとてもそうには見えない。どう見ても、黒々とした剣がスカーレット卿の――妹様の肩に突き刺さっている。貫通しているのだ。これで損傷を受けていない訳が…………いや待て、貫通している? 妹様の腕よりも明らかに刃の広い剣が、突き刺さったままでいるのか?

 おかしい。あんな剣が貫通しているのであれば、普通肩から先は切断され、千切り飛ばされてしまうのは明白だ。それなのに、まるで剣越しに腕を体へと繋げているかのようにそのまま存在している。しかも、溢れる筈の血液が一滴も零れ出していない。

 スカーレット卿は顔中から汗を拭きだして、乱れる焦点を必死に合わせながらナハトさんを睨み付けた。

 

「き、貴様一体何を……! 気でも狂ったか!? これは、お前があれ程守り通そうとしていたフランドールの体だぞ!? それを、こんなにいとも容易く……ッ!」

「……グラムは、肉を抉り骨を断つ鋼の剣ではない。これは私の混じり気の無い魔力で生み出した剣なのだ。いわば武器であり、私の一部でもある。見た目は貫通してはいるが、剣を構成する魔力の方向性を調節すれば、フランドールを傷つけることなくお前の精神部分のみを斬り裂く事など造作もないのだよ。あまり私を舐めるな、若造」

「ぐ、ううう!」

「どうした? 顔が青いぞ。私に娘の惨殺現場を見せつけるのではなかったのかね」

 

 一歩、また一歩と近寄るナハトさんに怯み、スカーレット卿は足を縺れさせて後ろへ倒れ込みそうになる。

 しかし倒れることは無かった。彼の前では倒れる事すらも許されなかった。

 

「その体は借り物だろう。粗末に扱わない程度の気配りは見せよ」

 

 スカーレット卿の足元の床から、突然触手のようなものが生え伸びたかと思った瞬間、それが卿の体を雁字搦めに縛り上げてしまったのだ。

 その触手は生物的な動きをしてはいるが、生きるものの気配がしなかった。床そのものが意思を持ち、卿へ腕を伸ばしているかのような光景だった。

 これは、ナハトさんの魔力が物体に影響して起こる現象の一つだ。確か昔にも同じように、ふとした拍子に本を魔本へ変えた事があった気がする。それと同じく、彼の魔力が床に擬似的な命を吹き込んだのだろう。魔力は超自然エネルギーの具現体だ。魂は宿らせずとも、無尽蔵の魔力を供給すればゴーレムの様に『生き物らしい行動』をとらせることが可能となるらしい。

 石の触手は、スカーレット卿の体に絡まり固定すると、元からその形があるべき姿だったと言わんばかりに硬直し、ただのモニュメントと化してしまった。

 身動きを完全に封殺されたスカーレット卿が、唾液を撒き散らしながら叫ぶ。その眼からは先ほどの余裕などとうに失せ、焦燥一色に塗りたくられていた。

 

「お、前は、どこまで化け物だ!! 床を―――無機物を『使い魔』に変えただと!? こんな、こんな出鱈目な真似が」

 

 再度、彼の発言は強制的に封じられた。ナハトさんの背後から射出されたグラムが次々と、石の触手ごとスカーレット卿を縫い付けるかのように突き刺したのだ。

 おそらく意識を保てるギリギリのラインで斬っているのだろうが、精神を直接切り裂かれるのは想像を絶する苦痛なのだろう。スカーレット卿は悲鳴を上げる事すら許されず、般若の様な苦悶の表情を浮かべることしか出来なかった。

 

「今ならフランドールの気持ちがよく分かる……親愛を向ける者が下賤な輩に乗っ取られている光景を見せつけられるのが、これほど不快だとは。あの子が憤るのも無理はないか」

「ナ……ハ……トォ」

 

 スカーレット卿は荒い息を吐き出しながら、それでも不敵な笑みを浮かべる。絶体絶命である筈なのに、まだ隠し玉を持っていると言わんばかりの表情だった。なんて往生際の悪い奴だ。

 

「勝ったと思っているな? 盤をひっくり返したと思い込んでいるのだろう? フフフフフフ、忘れてはいないか。フランドールの魂はまだ私の手元にある!! 何時でも侵食し、食らってやる準備は出来ているんだよォ! 貴様がどれだけ私を封じようが、こいつだけは冥府へ道連れにしてくれよう! それを拒むのならば、然るべき処置をとるがいい。愛しの娘を、輪廻の輪から外したくなければなァ。ハハハハハハハッ!!」

「…………それで?」

「は――――――」

「それで?」

 

 ナハトさんはまるで意に介さない。狙いを定めるかのように、ただ眼球をスカーレット卿へと向け続けている。顔が無いから尚の事だが、全く彼は動揺していない事が解った。

 スカーレット卿は、それが挑発されていると思ったのだろう。激しい歯軋りを立てて、唸るように言葉を発する。

 

「どこまでもコケにする気か……私が娘の魂を食らう事を躊躇する様な者だと、まだ思っているのか? 舐めるなァッ!! その肉の無い顔を後悔に歪めさせてや……あ……!?」

 

 ビクンッ、とスカーレット卿の体が突如痙攣を起こした。がくがくと縫い止められた体を揺らし、瞳を絶えず泳がせ続けている。

 一体何が起こったのか。今ナハトさんは何もしていない。グラムを使ったわけでも、魔法を使ったわけでも無い。何もしていないのだ。それなのに、スカーレット卿は明らかな狼狽を露わにしている。

 スカーレット卿は、必死に絞り出すように声を出した。

 

「何故だ……? 何故魂が侵食出来ん? フランドールの魂は私の手の中に―――まさか、さっきのアレか!」

 

 スカーレット卿は妹様の魂を食い潰すことが出来ていない様だった。青い顔をさらに青くし、妹様の顔とは思えない凄惨な表情を作り出している。

 さっきのアレという言葉で思い浮かぶのは、妹様を眠らせた睡眠魔法だろうか。あの時既に、ナハトさんは妹様の魂へプロテクトを同時に仕掛けていたのだろう。だから、スカーレット卿は妹様を食らい我がものとすることが出来ずにいる。

 合点がいった。何故ナハトさんが笑顔の欠片も見せず、品定めをするかのように交渉を持ち出したのかが。彼はスカーレット卿の心情を把握した上で、正真正銘最後のチャンスを与えていたのだ。その手を跳ね除けられた場合、一番救出の難しい妹様の魂が悪用されないよう保険を掛け、自身が破壊される事も全て計算の内に入れて。

 しかし、なんて魔法の精密さだ。ほぼ隣接した形で精神内に居座っていただろうスカーレット卿に気付かれることなく、プロテクトを妹様の魂に一瞬で施すなんて。

 

「手札は切り終えたか? 作戦は終いか? 駒は手元に残っていないか? ならばもう、お前に終幕を告げてやっても良いのだな?」

 

 ナハトさんは、身動ぎ一つとれないスカーレット卿の眼前にまで歩み寄る。体から放たれる瘴気が、スカーレット卿の頬を撫でるほどの距離までに。

 あまりに、圧倒的だった。

 妹様の魂と力を奪い取られ、攻撃の手段を潰され、生殺与奪の権利を握られ、どう足掻いても逆転は不可能だった状況が。

 妹様の魂は守られ、力は封じられ、一方的な攻撃を受け入れさせ、生殺与奪の権利を奪い返している。

 私たちの絶体絶命が、いつの間にかスカーレット卿の物へと置き換わってしまっていた。

 それを悟っているのか、ギリギリと歯を噛み締めながらスカーレット卿はナハトさんを睨み付ける。頭の中では如何にしてこの状況を切り抜けるか、惨め垂らしく策を講じているのだろう。

 

 ふと。

 ずっと憎悪の視線を向けていたスカーレット卿は、急に憑き物が落ちたかのような清々しい笑みを浮かべ始めた。

 

「完敗だ」

「……、」

「やはり私では、どう足掻いても貴方を超えることは出来なかったか。悪かったな、こんな薄汚い真似をして……だが私は、どうしても全力の貴方と戦ってみたかったのだ。許してくれとは言わない。敗者は敗者らしく、甘んじて死を受け入れよう。さぁ、そのグラムで私の魂を冥府へ送ってくれ。貴方に殺されるのならば悔いはない」

 

 ―――何を、言っているのだ? この男は。

 今までの悪逆非道な態度が嘘のように、スカーレット卿は紳士的な対応を取り始めた。命乞いをしている訳では無い。むしろ逆だ。この男はさっさと殺せと言っている。こんな奇妙なことがあるのか? 妹様に魂を植え付けて、肉体を自ら滅ぼしてまで野望を掴もうとしたこの男が、こうもあっさり身を引くなど、考えられる事ではない。

 何か裏があるのか。しかし裏があったとしても、ここから逆転を狙えるような要素がどこにあると言うのだろう。私の頭では、どうにも答えを探し出すことが出来なかった。

 

「さぁ、グラムを引き抜いて私の魂を肉体から解放してくれ。この状態では、グラムが抜けたところで抵抗は出来ん。大人しくあの世へ旅立つとするよ」

 

 頭を垂れ、無抵抗の意思を示すスカーレット卿へ、ナハトさんは重々しく口を開く。

 

「死は生きる者への平等たる最後の救いとは、よく言ったものだ」

「……突然どうなされましたかな?」

「貴様はこう考えている。この状況ではどう足掻いても勝ち目はない。魂を直接切り捨てることが可能なグラムがある以上、更に抵抗すれば魂そのものを消されかねない。命乞いも無意味。ならばいっそ死を受け入れ、地獄で責め苦を受けてから輪廻の輪に加わり新しい生を受ける方が遥かにマシだ、と」

 

 スカーレット卿の表情が、 死刑宣告を食らった重罪人の様に青ざめた。唇は震え、歯が微かに鳴っている。

 

「ところで」

 

 闇夜の支配者の指が動く。それは徐々に上を向き、やがて彼自身の顔を指差した。

 肉は無く、眼球と白い歯のみが存在している、靄の塊と化した頭部へと。

 

「私が何故、この顔の傷を未だ治さないでいると思うかね?」

 

 沈黙が、刹那の間室内を支配する。

 初め、私はナハトさんが何を言っているのか分からなかった。だけど、彼の言葉を噛み砕いているうちに分かってしまった。

 輪廻の輪。来世への望み。

 それを許さないと断ち切るように、自身の傷は『わざと』治していないのだと言い放った訳は。

 

「―――――あ、ああああああああああああああああああッッ!! 待て待て待て待て待て待て待て!! 考え直せナハトォ!!」

 

 スカーレット卿の薄い化けの皮が、一気に引き剥がされた。自身へ襲い掛かるだろう最悪の未来を想像して、絶望の叫びを喉がはち切れんばかりに炸裂させる。そこに声と言う概念は無く、あるのは獣の咆哮に似た、感情の爆発表現だった。

 彼が悲鳴を上げるのも無理はない。ナハトさんは、奴の魂を食らう気なのだ。魂そのものを治癒する為に必要なエネルギーに変えて、あの顔の傷を癒すつもりでいる。その先にスカーレット卿を待ち受けているのは無だ。地獄も来世も存在しない、『次』が来る事の無い永劫の終わりなのだ。

 スカーレット卿は引き攣る頬を無理やり抑え、目を白黒させながら懸命にナハトさんへと訴える。

 

「なぁ、ナハト、貴方は吸血鬼だろう? ならばその誇りを持って、敗者に鞭を打つような真似はよそうと思わないのか? 名誉ある死を迎えさせようとは思わないのか?」

「何が名誉ある死だ、笑わせるな。そもそもお前が用いた分霊の術は、輪廻の輪に加わる事を拒否した魔法使いが、醜い執念によって生み出した邪法だろう。それに縋ったお前が輪廻の輪に加わりたいなどと、虫の良すぎる話だとは思わないか?」

「だ、がそんな事が許されると思っているのか!? 魂を消滅させるなど、貴様、それでも吸血鬼の頂点に立つ者か!? 弱者をいたぶる事がお前の本性なのか!? 違うだろう!?」

「そうだな。私は弱者を虐める趣味など無い。だからこそだよ、スカーレット卿。子を想い、そしてお前の手によって無残にも殺されたあの子たちの母は今、あちらで安息を迎えているだろう。そこにお前を送り込んで、折角の平穏を乱す訳にはいかんだろうに。例え、天国と地獄で分かれていようともだ」

「―――――――レ、レミリアアアアアアアアッ!!」

 

 死よりも恐ろしい現実から目を背けるかのように、スカーレット卿はお嬢様の名を叫んだ。眼は充血し、口からは泡が噴き出ている。恐怖のあまり、最早彼は悪党としての体裁を保つことすら不可能となっていた。

 

「私を殺せええええ!! 貴様の魔力弾で首を撥ねろ! 心配するな、フランドールはその程度で死ぬことは無い! 私の魂をグラムと肉の器から放つ手伝いをしてくれるだけで良い! 私が憎いのだろう? 積年の恨みを晴らす絶好の機会だぞ! さぁ殺れ、殺れ! 私への恨みを今こそ存分に晴らせ!!」

「……折角の申し出ですが」

 

 お嬢様はスカートを両手で摘み、腰を曲げて深く頭を下げた。令嬢特有のお辞儀をスカーレット卿へ送ったその動作は実に優雅で、吸血鬼としての気品を感じさせるものだった。

 上げられた彼女の顔には、およそ10歳程度の姿をした少女が見せるものとは思えない、妖艶な微笑みが浮かんでいる。

 

「私は妹に親愛の情を抱いたために、妹を傷つけることが出来なくなった出来損ないにございます。それ故、妹へ手を上げることなど到底不可能なのです。どうかお許しください」

「レ、レミリア、私はお前の父親だぞ!? 最期くらい情けを掛けようとは思わんのか!? 誰のおかげでこの世に生を受けられたと思っている!」

「生憎ですが、私の父はナハトおじ様ただ一人。情け、と言われましても、私には何を意味しているのかが分かりません」

 

 スカーレット卿は絶句し、金魚の様に口をパクパクさせるだけとなってしまう。直後、ビシッ、とナハトさんの足が動いた音を聞いて、すぐさま正面へ振り向いた。余裕など消し飛んだスカーレット卿の表情は、恐怖の二文字で完全に塗り固められていた。

 あの表情は、私にも見覚えがある。かつて私を手籠めにしようとした少年たちが、ナハトさんに見つかった時の様な、あまりに情けなくて、惨めな表情のそれだった。

 

「い、嫌だ……!」

「終わりで良いだろう。引き際を弁えよ、下郎」

「待て、待て!! そうだ、取引をしよう。私はお前の永遠の奴隷になる。私はこれでも有能だぞ、最強の吸血鬼の名は伊達ではないと言う事を証明しよう! 私が隠した館の財宝の在処も教える! だから頼む、どうか考え直してくれ!」

「駄目だ」

「なら後生だ、殺せ! 殺してくれ!! それでいいじゃないか、鬱憤を晴らせて終わりで良いだろう!?」

「貴様に後生は、無い」

 

 白い歯が、ゆっくりと上下に開いていく。そこから覗くのは何もない暗黒の空間だった。それこそが、スカーレット卿の未来を表しているとでも言うかのように。

 ナハトさんは両手をスカーレット卿の頭へ添える。そのまま齧りつくような勢いで口が開き、スカーレット卿の目と鼻の先には暗黒の空間が展開された。

 

「滅びを受け入れよ、スカーレット卿」

 

 バチバチッ!! とナハトさんの両手から、紫色の電気の様なエネルギーが駆け抜け、妹様の肉体が淡い紫色の光の膜に包まれる。スカーレット卿の魂を引き剥がそうとしているのが瞭然だ。

 これで、終わりなのだ。最早彼に未来は無く、魂は養分へと変えられる。

 スカーレット卿は悍ましい口の先を凝視したまま、これまでにない断末魔の叫びを館中へ轟かせた。

 

「嫌だ、やめろ、やめ、やァァめろォォおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッ!!」

 

 スカーレット卿の魂が、紫色の光の膜と共に引き剥がされていき、少しずつナハトさんの体へと吸い込まれていく。僅かながら抵抗を見せたスカーレット卿だったが、部屋中に漂っていた瘴気や突き刺さっていたグラムも纏めて取り込み始めたナハトさんから逃れる術はなく、呆気なく体内へと収められてしまった。

 更に、部屋全体を覆っていた黒い魔力が、渦を巻きながらナハトさんへと吸収されていく。刹那の際に黒い竜巻と化し、そしてその暴風が晴れると、あの恐ろしい眼球と歯のみだった顔は元の美麗な青年のものへと戻っていた。

 

 彼は指を軽快に打ち鳴らす。すると、妹様の肉体を縛り、縫い止めていたグラムと石の触手がボロボロに崩れ落ち、無傷な妹様が露わとなった。

 私たちはすぐさま妹様の傍へ駆け寄った。私は彼女に『気』を流し込み、どこか悪いところが無いか懸命にサーチする。

 ……反応は無かった。ナハトさんの言う通り、あれだけ痛ましい姿だったにも関わらず、彼女の体には傷がどこにも見当たらなかった。むしろ健康そのものだ。

 

「ん……んぅ?」

「フラン!」

「妹様!」

 

 ゆっくりと瞼を開いた妹様が、囲むようにして覗き込む私たちを見渡した。その眼にあの邪悪な色は残っていない。昔の様に、朗らかな少女の温かさで満ちていた。

 妹様は飛び跳ねるようにして上体を起こし、私たちを眺めるように立っているナハトさんへと視線を向けた。

 

「おじさま……その」

「……『彼』は旅立ったよ」

「そっか……騙されちゃってたけど、最後に一言、400年間ありがとうって言いたかったな」

 

 ……そうか、妹様は眠らされていたから、今の今まで何が起こっていたのか分かっていないのだ。自分の心に、結局何が巣食っていたのかさえも。

 純粋すぎる彼女の姿勢に、私は思わず歯噛みする。どうして、ここまで優しくなれる彼女をスカーレット卿は利用しようなどと思えたのだろうか。本物の悪魔とは、ああまで汚くなれてしまうものなのか。

 寂しそうな表情を浮かべる妹様の頭に、ナハトさんは手を乗せた。髪を梳かすように頭を撫でる。

 

「その気持ちがあれば十分さ。君はもう一人ではない。姉が居て、家族がいる。もう寂しがる必要は無いのだ。今までを無かったことにしろとは言わない。しかし、何時までも縛られていると駄目なのは、君が一番理解できている筈だろう?」

「うん」

「なら次に君がすることは、誰に縛られるでも、縛るわけでも無く、彼女たちと共に多くの笑顔を作っていく事だと私は思う。過去に囚われる意味が無くなった今、君は未来に目を向けるべきなのだ」

 

 彼はいつもの様に、優しく艶やかな微笑みを浮かべて、フランの頭から手を離した。踵を返し、地下室の出口へと足を運んでいく。

 そんな彼を、妹様は不安気に引き留めた。もしかしたら、また居なくなってしまうと思ってしまったのかもしれない。

 

「どこへ行くの?」

「少し外の空気を吸いたい。君たちも互いに積もる話があるだろうから、私は席を外すよ。安心しなさい、今度は居なくなったりしない。約束だ」

 

 その言葉を口火に、彼は部屋を静かに後にした。

 

 ――――こうして、400年間もの長きに渡り館を縛り続けてきた呪いはこの夜を境に霧散し、私たちはあるべき形へと収まっていくこととなった。

 お嬢様と妹様が今までの溝を埋めるかのように、一緒になって過ごしている様子を眺める日が増えた事は、言うまでもない。

 

 

 紅茶がカップへ注がれる細やかな音色が部屋を満たす。白い陶器製のティーカップに紅色の液体が張られると、香ばしい葉の香りが湯気と共に立ち上り、思わず頬が緩んでいくのが分かった。今日はいつもより上手く出来たらしい。葉の調合は少々面倒だが、やはり手を加えた分、質が上がっている様に感じるのは気のせいではないだろう。

 火炎魔法を消し、私は自室で淹れた紅茶を口に含みながら、分厚い一冊の本を開く。栞が何故か抜け落ちてしまっていたので、まずは以前に読んだページを探す工程から始まった。

 

 ――――――あの夜から、大体一週間ほど経過した。どうやら私はあの子たちに紅魔館の一員として無事迎え入れて貰えたらしく、こうして自室も設けて貰い、実に優雅な日々を送っている。何せ家に人がいるのだ。これだけでも十分嬉しい事なのだが、それに加えて会話も出来るサービスまでついている。私の中で彼女たちは友達と言うより家族なのだが、それでも何気ない話が時折出来るのは、非常に心安らぐのだ。

 まぁ、美鈴は相変わらず畏まっているし、パチュリーはどこか品定めする様な目線を投げてくるし、咲夜はメイド然としていて鉄仮面を崩さない。さらに、小悪魔には尻尾と耳を立てて緊張されるのは日常茶飯事となっている。まだあまり面識のない妖精メイドたちには悲鳴を上げられるのだが、それでも十分と言えるだろう。今までのじめじめした私の過去に比べれば、その爽快感は樹海と草原の差だ。今なら太陽に向かって走る少年たちの気持ちが分かるような気がした。私がやれば即刻灰になるので、取り敢えず満月で我慢しよう。

 

 しかし実は今、私には密かな悩みが出来てしまっている。友達関連ではなく、レミリアとフランの事だ。

 あの夜を境に、私はあの子たちから避けられるようになってしまっていた。理由は分からないが、どうにも余所余所しいのだ。レミリアに話しかければ何時も絶妙なタイミングで咲夜が現れ、レミリアはどこかへ連れていかれてしまう。フランは何故か酷く慌てだし、『また今度ね!』と走り去っていくのだ。

 最初は接し方が分からず慣れていないのかとも思ったのだが、流石に1週間も続けば怪しまざるを得ない。何が原因なのかを考えてふと、私はあの夜の事を思い出した。

 

 結論から言おう。私は多分、やりすぎた。

 

 別に後悔もしていないし、罪悪感などまるで無いのだが、流石に魂を取り込んだのはやりすぎだったかもしれない。しかもあの時の私の顔は恐らく、再生していない肉体を魔力で補っていた為に魔王か何かにでも見えてしまっていた事だろう。致し方なかったとはいえ、平常より恐怖感が倍増された私を見て怖い父親だと思い込まれた可能性がある。具体的には、怒らせると比喩表現抜きに魂を喰われる義父だとでも。なんて事だ。400年越しに私はドメスティックバイオレンスパパにデビューしてしまったとでも言うのか。

 

 美鈴やパチュリーに相談しても大丈夫だの一点張りで、何が大丈夫なのか教えてくれない。咲夜に関しては失礼しますと目の前からいなくなる始末である。あの子は瞬間移動能力か何かを持っているのだろうか。能力を使ってまで逃げられる内容とは、やはり私へ知られるのがマズい類なのだろう。そこがまた、私の不安を(くすぐ)るわけで。

 

 上手く出来た紅茶だが、どこか味がしなくなったように感じて、私はテーブルへとカップを置き、息を吐く。

 すると部屋のドアから4回、ノックの音が軽快に鳴り響いた。と言う事は咲夜か。別に私の世話をする必要は無いと言ったのだが、彼女はどうにも我慢がならないらしく、『私にはこの様な形でしか恩を返せないのです』と半ば強引に何かしらの世話を焼かれることが多くなった。と言っても、私は宣言通り自分のことは殆どやってしまっているので、ベッドをメイクする程度で終わってしまうのだが。

 

「咲夜か。入っても構わないよ」

「失礼します」

 

 君も大変だろうから別に構わないのに、と言おうとしたところで、ふと、咲夜の手に銀に輝く半球状の物体が乗せられている事に気が付いた。具体的には、運ぶ料理に被せるクロシュと言う蓋である。

 食事の時間にしては、いささか早過ぎはしないだろうか。食事をとったのはつい先ほどの事なのに、どうしたと言うのだろう。

 

「それは?」

「お嬢様と妹様からの差し入れにございます」

「差し入れとは……一体何を?」

「申し訳ありません。お嬢様の命によりお答えできないのです」

 

 咲夜の手から、テーブルへ差し入れが置かれた。何とも仰々しい差し入れだ。一体何が入っているのか。妙な好奇心と開けてもいいのかという不安感が靄のように浮かんでくる。

 

「開けても?」

「はい。勿論です」

 

 取っ手を摘み、クロシュをゆっくりと引き上げて、私は中身と対面した。

 ケーキだった。

 ベリーソースが全体にコーティングされた、タルト生地の紅いホールケーキ。上には苺やらブラックベリーやらオレンジやら、果物が盛り沢山に置かれていて、パッと見ただけでも贅沢で豪華な見栄えとなっている。

 全体的に赤色をしたこのケーキは、如何にもあの二人らしいチョイスだ。見ると、フルーツの切断面がどことなく粗く、大きさもバラバラである。ソースの塗も少し、乱れがあるように思えた。

 しかし私には、このケーキがどの名パティシエの作ったものよりも甘美に思えた。思わず見惚れてしまう程に、私はケーキを眺める事に夢中になってしまった。

 そんな私の意識を引き戻すかのように、咲夜はふわりとした調子で告げる。

 

「お嬢様と妹様は、ずっとずっと練習なさっていたのですよ。仲直りをさせてくれたお礼がしたいと、それはもう必死に。思わず口を滑らせないよう、ナハト様を避ける行動をとってしまった事は申し訳なく思いますが、どうかお気持ちを汲んで頂ければ……」

「別に気にしてはいないさ。しかし、成程。いやはや全く意表を突かれたよ。普段家事なんてやらないだろうあの子たちの事だ、相当練習したのではないか?」

「ええ。教えている身が大変になるほどに」

 

 そう言って、咲夜は珍しく鉄仮面を綻ばせて微笑んだ。そうか、彼女が作り方を教えていたのか。紅魔館の家事を一手に引き受けている彼女なら、適任と言えるだろう。付き合ってあげてありがとうと言いたいところだが、今は別の言葉を言うのが先だ。彼女自身も、そちらの方を望んでいる。

 

「伝言を頼まれてくれないか。この上なく素晴らしい、ありがとうと」

「承知いたしました」

 

 こちら、食器になりますと咲夜から食器一式を渡され、直後に彼女は礼を言って姿を消した。相変わらず一切無駄が無い少女だ。一口でも食べて行けばよかったのに。

 ふと、クロシュの裏側に何かが張り付いている事に気が付いて、私は蓋の裏側を覗き込んだ。

 そこには、一枚の黄色い紙が張り付けられていたのだ。『ありがとう』。記されているのはその一言のみで、端に小さくRとFの文字が書かれていた。

 無論、それは小さな送り主二人の頭文字をとったもので。

 

「……、」

 

 思えば私はこの長すぎる生の中で、一度たりとも他人から贈り物を貰った事が無かった。交友関係が殆どないのだから当然と言えば当然なのだが、いざ貰ってみれば、これがどれ程美しく尊いものなのかがよく実感できる。食べるのが勿体ないと言う言葉は、本当に存在していたのだ。ナイフを入刀するのが(はばか)られてしまうのも無理は無かった。

 意を決して、ピースを一つ小皿に取る。フォークで切り分け、その欠片を口へと送った。

 舌がケーキを迎え入れた瞬間、深い感嘆が、吐息となって漏れ出した。

 

「…………良いものだな」

 

 私は紅茶を淹れなおして、次々とケーキを口に運んだ。一人で食べきれる量ではないと思っていたのだが、これが不思議と胃袋に収まっていく。味気なかったはずの紅茶が進む。なんとも胸焼けが心地いい。気が付いたころには、プレートの上には何も残されていなかった。我ながら、あの量をよく食べきれたものだと思う。

 

 その後、図書館を訪れた際にパチュリーから『小悪魔が怯えるからにやにやするのをやめて頂戴』と一喝されたのは、また別の話だ。

 



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EX1「賢者さんの憂鬱」

 ――――管理者モード オン―――――

 

 

 パタン、と本を閉じて、テーブルへと置く。読み終えた後の微かな余韻に浸りながら、私は椅子の背もたれへ大きく腰掛けた。

 自然と、深めの溜息が漏れる。傍にあるティーカップの中は既に空になっていて、どこか寂しい印象を私に与える。紅色の液体を少しばかり恋しく思うが、今はそこまで積極的に淹れようと思えないので、そのまま放置しておく事にする。

 今は丁度、正午を回る頃合いだ。言うまでもなく太陽が空を支配している時間帯であり、私は一切外へ出る事が出来ない。加えて私は眠る必要が殆どないため、こうして窓のない自室で、夜までの時間を潰すために活字の世界へ入り浸っていた訳である。

 しかし、借りて来た本はたった今全て読み切ってしまった。紅茶で気を紛らわせようにも、そう何杯も飲むものではない。他の飲み物を飲む気も今のところ起きない。水腹になってしまうのは遠慮したいところなのだ。

 何が言いたいのかと思っているところだろう。まぁぶっちゃけてしまえば、私は日中基本的に暇なのである。

 

 誰かと時間を過ごそうとも思ったのだが、レミリアは日の射す中だと言うのに日傘を咲夜に持たせて、果敢にも博麗神社と言う巫女さんの住む所へ行ってしまった。吸血鬼が人間のシャーマンと仲がいいのは少し驚いたがそれはさておき、体が小さいのはこういう時に羨ましいものだ。私は傘に体が入りきらないから日光でダメージを受けてしまうため、下手に外を出歩けない。日の元に出られないのはほとほと困ったものだ。

 

 姉妹の片割れのフランはどうかと言うと、何やら最近パチュリーや小悪魔と共に『すぺるかーど』なるものの新開発に忙しいらしい。

 妖力や魔力、人間でいえば霊力と言ったオカルティックエネルギーを弾幕として顕現させて対戦相手と撃ち合い、弾幕の美しさや強さで勝負する遊びを『弾幕ごっこ』と言い、『すぺるかーど』は宣言用の道具なのだそうだ。最近の幻想郷では、その自身で考案した弾幕を撃ち合う遊びが、力のある少女達の間で流行中なのだとか。これは本来、妖怪と人間の圧倒的実力差を埋めるべく考案された決闘法らしいが、言ってしまえば女の子のままごとだと説明された。故にごっこなのだと言う。

 女の子の遊びと言われたものの、パチュリーとフランが練習試合をしている光景を見て興味が湧いたので、物は試しにとパチュリーに細かなルールや弾幕の作り方を聞いてみたら『幻想郷と戦争を起こすつもりなのか』と険悪な表情を向けられ却下された。何故そのように解釈したのだろう。私は少し試したい気持ちで遊んでみたかっただけなのに。

 

 美鈴の場合、日光は元より門番をしているため、邪魔をする訳にはいかない。以前夜の門番勤務中に差し入れを持っていったら跪かれる勢いで礼をされ、ガチガチになってしまった事がある。それ故、勤務中は遠慮する事にしているのだ。いい加減私は恐怖の魔王でもなんでもないと認識して欲しいのだが、あの夜の事がどうにも彼女の心へ根付いてしまった様である。追々、あれはただ熱を持ち過ぎただけであんな激情に身を任せるような事は滅多に無いのだと説明して、早く誤解を解いて貰わねば。

 

 最後に妖精メイドだが、彼女たちは未だ心を開いてくれないでいる。自然の具現体であるが故に純粋な彼女たちは、モロに私の魔性の悪影響を食らってしまう様だ。咲夜からは、『ただでさえ仕事をしない彼女たちが更に使い物にならなくなるので、無暗に脅さないでください』と注意される始末である。交流のきっかけを掴むために手を振るのが脅しと取られるとは、やはり他者と関わりを持つのは難しいのだと実感させられた。

 

 さて、そんなこんなで私は絶賛暇である。誰か私の所へお客さんでも来ないかなぁと妄想に耽っては見たが、よく考えてみれば私が幻想郷に存在していると紅魔館の住人以外は知らない。訪れる者が現れる訳がないのだ。いや、仮に知られていた場合に訪れる者が来るのかと聞かれれば、今までの経験からして沈黙せざるを得ない訳なのだが。

 

 仕方がないので、図書館から本をもう一度取って来ようと立ち上がる。以前借りていた返却分を用意して、部屋を出ようとドアノブに手を掛けた。

 

「こんにちは」

 

 風鈴の様に凛としていて、どこか月の光を思わせる神秘的な声色が、突然耳に入りこんだ。

 誰だろうか。館の者の声ではないが……と振り返れば、そこに15から17歳程度の少女が、扇子を片手に佇んでいるではないか。

 太極図らしきものが描かれた中華風の服装に、レミリアやフランの物と形状が似ているリボンをあしらった帽子。髪は美しい黄金で、本来はそれなりに長いのかもしれないが、今はキャップの中に纏められている。瞳は私と同じ紫色だった。

 浮世離れした美貌をもち、全身から只ならぬ妖気を纏わせているところから見て妖怪であるのは間違い無いだろう。しかもこの妖気の濃さは、私と同等か、少し下回るほどの時を生きた妖怪である事が伺えた。何にせよ、私に一切存在を気付かれることなく部屋へ忍び込んだ時点で只者ではない事は確定である。しかし、別に争う気も無い上に私としてはなるべく荒事は遠慮願いたいので、只者ではないからと言って無暗に敵意を振りまくようなことは絶対にしない。それでも、魔性の受け取られ方によっては敵意と勘違いされてしまうから困りものなのだが。

 

 ……そう言えば、レミリアやパチュリーから幻想郷の管理者の立場に就いている妖怪について、少し説明を受けたことがあった。なんでも、物理非物理はおろか概念染みたもの、果ては存在に関わる境界ですら操れるという非常に強い力を持った妖怪の話だ。名を確か、八雲紫と言っていたか。

 境界を操る、というのが今一つピンとこないのだが、レミリア達の説明が誇張表現でないとしたら、空間の境界を操る事も可能ではないだろうか。そうであれば、気配も無くここへ現れた不可解な現象も説明できる。仮説が正しいなら、彼女は空間と空間の境界を操り、接続してここを訪れたと言ったところか。

 

「少しお時間を頂けるかしら」

「ああ、構わないよ。ところで君は、もしかして八雲紫と言う名前かな?」

 

 彼女は眼を細めながら、手に持っている扇子で口元を隠した。非常に穏やかな雰囲気ではあるのだが、どこか睨んでいる様な印象を受けるのは気のせいだと願いたい。

 

「ご名答。お宅のお嬢様から第一印象でも聞いたのかしら。でも一方的に知られているのは不公平ですわ。せめて、貴方のお名前を聞かせてくれる?」

「ふむ、それは失礼した。私はナハト。最近ここに引っ越してきた新参者だ。初めまして」

「……ええ、初めまして。改めて自己紹介させて頂きますわ。私は八雲紫。一応、この幻想郷の管理者みたいなものを務めています」

 

 柔らかく、妖艶な笑みを浮かべて少女は言う。

それにしても、常に魔性を放つ私に対してここまで平然として居られるのは、少々驚いた。先天的に耐性が強い者なのだろうか? いや、もしかしたら境界を操る力で何とかしているのかもしれない。非物理まで干渉が可能ならばおそらく可能ではあると思う。ただ、無効化された事が今の今までに無いものだから、確証はないのだけれど。

 

 しかしだ。これはひょっとすると非常に恵まれた好機なのではないか?

 

 彼女は今私の手元にある情報で推察するに、とても強力な妖怪である。さらに、私の魔性による悪影響を受けている様子がほとんど見当たらない。余裕を保ち、淡々とした態度をファーストコンタクトの時点で保って見せた。前例がない訳では無いが、非常に稀なケースなのは違いない。もう奇跡の確率と言って良い程だ。

 言うまでもなく、魔性耐性有りだという事実に加えて、私と同等クラスの妖怪であるのならば。

 これ即ち、高い確率で友達になれる可能性を秘めた人物と言う事になる。

 その想像にまで至って思わず頬が緩んでしまうが、いきなり脈絡もなく笑うのは失礼な上に不気味だと直ぐに頬を硬直させた。久しぶりの友達候補を見つけて、どうにも舞い上がってしまう自分に気付く。幾ら年を重ねても、慣れない事には慣れないものなのだなと身をもって実感した。

 

 立ち話もなんだと、私と紫はテーブル越しに対面する形で椅子に腰かける。本を傍に置き、一息。久方ぶりの紅魔館以外の人物とのコミュニケーションに、少しばかり妙な緊張を覚えつつ彼女を見る。いかんな。初対面が恐らく世間一般の『普通』な対応だっただけあって、期待を抱かずにはいられなくなってしまっている。私らしくも無い。

 

「それで、何か私に用かな? 大方、新参者たる私の査察だと伺えるが」

 

 私の言葉に、彼女はどこか冷たいようで清らかな、さながら雪解け水の様に透明感のある微笑みを浮かべた。

 

「その通りですわ。私、貴方が何時ここに訪れたのかだとか、詳しい事をまるで知らないの。だから少し、その辺りも兼ねて貴方とお話をしようと思って」

 

 …………、

 これは、夢か? 

 もしかして私は、友達欲しさのあまりこの年で遂にイマジナリーフレンドを作り出してしまったとでも言うのか?

 待て。慌てるな。精神を平静に保て。幾ら初対面がスムーズに進みそれどころか相手の方から私と話をすることを望んでくるというどれだけシミュレーションを重ねたかも分からないような事態に直面したからと言って混乱して折角の機会を台無しにしてはいけない。

 思考がいたく早口になってしまった気がするが、一周回って逆に冷静になり、幾らかの落ち着きを取り戻す事に成功する。

 

 そうだ、落ち着くのだ。勘違いしてはいけない。彼女が私に対して興味を抱いたのは、あくまで管理者と言う立場であるが故だ。私が幻想郷に仇なす存在か、そうでないかを見極めに来ているだけである。プライベートで来ている訳では無いという事実を頭に叩き込んでおかねばならない。

 そこで浮上してくる問題が、私に対する『印象』である。ここで不躾な態度をとって有害だと判断されれば終わりだ。管理者に疎まれ幻想郷で生き辛くなることは勿論、彼女自身との交友の橋が崩れ落ちてしまう。絶対に避けねばなるまい。この状況は私にとって、ある意味ではあの夜より遥かに危険な綱渡りとなるだろう。

 

「そういう事なら、歓迎だよ。気になる点があるなら何でも聞いてくれ」

「そうさせて頂くわ。じゃあまず最初の質問。貴方は何時頃から幻想郷へ?」

「およそ十日前の夜かな」

「ふうん。じゃあ、幻想郷の情報をどこで知ったの?」

「私は当時旅をしていてね。外に残っていた数少ない人ならざる者達の噂を小耳に挟んだのだ。東方の地に、人と妖が共に暮らす隠れ里の様な場所があるとね」

「成程ね。それで貴方がここを知り、訪れることが出来たって訳」

 

 紫は扇子をパチンとたたみ、瑞々しい桜色の唇に陶器の様な指を這わせる。考えるときに唇に指を当てる癖でもあるのだろうか。

 

「あと少しだけ、お話を聞いても?」

「勿論」

「ありがとう。……貴方自身、幻想郷についてどう思っているのか、聞かせて貰える?」

 

 ふむ。幻想郷について、か。これはまた、答えにくい質問をしてくれたものだ。

 はっきり言ってしまえば、私は幻想郷の事を全くと言っていい程知らない。ここがどういった場所なのかは分かる。だが、どれほどの広さで、どの様な妖怪が生息していて、どの様なコミュニティが存在していて、どの様に各々が生活を営んでいるのかなどは露ほども知らないのだ。答えようにも、私の中の幻想郷は未だ紅魔館の範囲で収まっているために彼女が望む明確な回答が浮かばない。

 しかしここで何とも思っていない、知らない等と口にするのはよろしくない。適当な返事は即ち幻想郷へ興味が無いのだと取られてしまうだろう。管理者の彼女はそれに傷ついてしまうかもしれない。幾ら経験を重ねた大妖怪であったとしても、愛着のあるものを否定されるのに良い気はしないのは自明の理だ。私だってもし、あの時パチュリーから私が基盤を完成させた図書館を貶されていたら、暫く部屋に引き籠っていた自信がある。

 だから私は、思った事を率直に述べてみる事にした。

 

「恥ずかしながら、私はまだ幻想郷の事をよく知らないんだ」

「……そう」

「だが」

 

 少女が瞳へ妙な光を微かに宿したところで、私は言葉を繋ぐ。

 

「ここへ来てまだ十日程度しか経っていないが、その短い間で、私は紅魔館に住む彼女らの笑っている顔をよく拝んだよ。レミィは人間の巫女さんの所へ行く時間を楽しみにしている様だし、フランは『弾幕ごっこ』に夢中になっている。パチュリーは外より落ち着いて本が読めると言っていたな。美鈴は……これは良いのか分からないが、よく気持ちよさそうに昼寝をしていると咲夜から聞いている。咲夜は館の雰囲気が以前より丸くなったと言っていた。……ここに住まう者は皆、外の世界では受け入れられ難い力を持った存在だ。そんなあの子たちが、ここへ訪れてから各々の平穏を手に入れ、穏やかな笑みを浮かべている。それだけこの地が過ごしやすいと言う事なのだろう」

 

 事実、私はこの幻想郷以上に、人ならざる存在が和やかに過ごしている光景を見た事が無い。妖怪と人間は本来相容れない存在であり、少し前までは人間と妖怪の争いなんて日常茶飯事だった。吸血鬼狩りや魔女狩りが良い例だ。我々は常日頃から、争いに備えてビリビリとした空気を纏わりつかせていたと思う。

 それが今、この館では見当たらない。もし争いの火種があるのならば、レミリアがあそこまで無警戒になる筈がないだろう。あの子は私が退いてから、400年近くも立派に当主を務めていたのだ。それも外の世界で過ごしていた時間の方が遥かに長い。敵意や悪意に関しては人一倍敏感である筈である。そんな彼女の反応が無いと言う事はつまり、ここが真に平和な地である証拠と言えよう。

 

「私は、とても良い場所なのだろうと思っているよ。時が来れば、自分の足でこの地を見て回りたいものだ」

 

 今は何故か、レミリアやパチュリーに外出を止められているので館からは動けないが、いずれは全てを見て回ろうと思う。この少女の様に私を受け入れてくれそうな者達と出会える事を願うばかりだ。

 紫は目を閉じて噛み締めるように頷き、畳んだ扇子を袖の中へと仕舞い込んだ。どうやら、及第点は貰えた様子である。

 ふと、ある疑問が頭に浮かんだので、口にしてみる事にした。

 

「今更だとは思うが、私は幻想郷へ来て良かったのかな? もしかしたら正式な手続きが必要だったのかと、ふと思ったのだが」

「いいえ、必要ありませんわ。ここは全てを受け入れる幻想郷。勿論貴方も歓迎します。でもここで暮らす上では、貴方に守って貰わなければならないルールがあるの」

「ほう、ルールか。是非聞かせて貰いたい」

 

 そこから私は、紫に幻想郷で暮らす上での主なルールの説明を一通り受けた。

 

 一つ。幻想郷には人間の集落である『人間の里』があり、その中では如何なる理由があろうとも妖怪が人を襲ってはならない。

 一つ。人間の退治屋と戦闘になった場合のスペルカードルールの適応。

 一つ。地上の妖怪が地底に赴いてはならない。

 一つ。博麗大結界を破壊してはならない。

 

 概要として見れば、大きなルールはこの位だろう。人を襲ってはならないのではなく、人里の中ではご法度であるらしい。つまり外では良いと言う事なのだろうが、私は人間を襲う必要が殆ど無いので必然的に問題は無い。加えて妖怪にとっての食料は、月に一度館へ配分されるらしい。レミリア達が人を襲わずに生活できているのはこれが要因だろう。

 スペルカードルールは、はっきり言って私には意味を成さない。そもそも戦闘など御免なのだ。退治されそうになった時は、適当にその場を去らせていただくとしよう。

 次に地底についてだが、そもそも地底の入り口がどこにあるのかが分からない。大まかな地底の説明を受けたものの、特に行ってみようとは思わないので問題ないだろう。ただ、地上で嫌われた者が集う地だという説明には、少しだけ興味が湧いた。もしかしたら私もそこへ行けば受け入れて貰えるのではと考えたが、そこですら拒絶されると本当に後が無くなるので最終手段とする。

 最後に、幻想郷を覆う結界についての説明だった。常識と非常識を外の世界と分け隔てている結界があり、この結界のお蔭で、外の世界において非常識―――具体的には忘れ去られたもの――となった存在が入り込んで来るらしい。妖怪や神の類も、その様にして入り込んで来るのだとか。

 

 ただこの博麗大結界。実は少し覚えがある。幻想郷へ訪れる直前の事なのだが、最初に森の中を隔てるように存在する力場の様なものを発見して、もしやこれが幻想郷を隠している隠密術の類では、とグラムで斬って入り込んだのだ。結果、私は無事に幻想郷へ入り込むことに成功したのである。無論、放置しておいて無用な騒ぎを起こすのは本意ではないので、斬った部分はちゃんとくっ付けておいた。

 その結界が、よもやそこまで重要なものだとは思わなかった。今度からは無暗に手を出すのは控えよう。触らぬ神に祟りなしである。

 

 ルールの説明と解釈が一通り済んだところでふと、折角私の部屋へ訪れてわざわざ確認やルールの説明までしてくれたと言うのに、お茶の一つも出していない自分の失態に気が付いた。私としたことが、何という初歩的なミスを犯したのだ。やはり、頭は冷えてもいつもの様に平常を保てていない様である。いかんいかん。

 

「説明してくれてありがとう。そういえば、長話で喉が渇いていないかね? 折角だから何か飲んでいってくれ。今は持ち合わせが紅茶と緑茶しかないのだが、どちらがお好みかな?」

「そうね。折角だから紅茶を頂けるかしら」

「うむ、了解した」

 

 席を立ち、自室の食器置き場へと向かう。私の部屋にある家具はベッドと本棚、それとテーブルに椅子という組み合わせで、一種の宿泊室のような雰囲気である。さらに少しだけ無理を言って、レミリアから茶葉とティー用品を仕舞える小さな戸棚を貰った。これで、わざわざ咲夜に出張って貰わなくても自分で淹れられると言う訳である。

 

 戸棚からティーポットとやかん、更に水を取り出し、水をやかんに入れて火炎魔法で熱する。沸騰し始めた所でティーポットへ注ぎ、ポットの中を手早く洗い流す。洗った分の湯を水流操作魔法で取り出して分解、霧散させ、再びやかんで水を加熱しつつポットに茶葉を仕込む。ぼこぼことお湯が沸騰し始めたのでポットへと注ぎ、後は3分ほど待てば完成だ。

 

 ただ黙っているのもどうかと思い、ポットの様子を伺いつつ、私は背を向けたまま紫へ話しかける事にした。

 

「ところで私から一つ、図々しい様だが、貴女に頼みごとをしても良いだろうか?」

「……なにかしら」

「私は吸血鬼である故に、日の元に出る事の叶わない身の上だ。幻想郷の事を知りたくても、日中に出られないとなると知る事の出来る部分が限られてしまう。ここは人間も共存している地だと伺ったから、幻想郷が人間の時間帯にどの様な姿をしているのか是非見てみたい。そこで一つ―――君の力を少しだけ貸してくれると、嬉しいのだけれど」

 

 境界を操る力を使って太陽を克服させてくれ、などと言うつもりはない。しかし境界操作の力を応用すれば、見た目の面積よりも日光を遮断できる境界線を広くした傘などを作ることが出来る筈だ。図々しい願いだとは百も承知だが、お礼は弾むつもりでいる。金品だろうと助力だろうと惜しまないつもりだ。

 

「あぁ、勘違いしないでくれ。別に悪巧みを考えている訳じゃないんだ。ただ、君の力を使えば私の体を隠せるほどの日除け道具が作れるのではないかと思ってね。具体的には、私の用意する日傘に君の力を付与して欲しいのさ。勿論、日中に出られるようになるからと言って、人間や他の妖怪に危害を加えないと誓おう。私としては君と友好的な関係を築いていきたいのだ、わざわざ敵対する様な真似はしないさ。……お待たせした、出来上がったよ」

 

 葉を蒸し終え、出来上がった紅茶をカップへ注ぎ終えたところで、二つのカップを手に後ろへ振り替える。

 そこには、居る筈だった少女の姿はどこにもなく、ポツンと椅子とテーブルだけが残されていた。

 ふむ、どうやら話の間に帰宅してしまったらしい。幻想郷の管理者ともなれば、相当に多忙なのだろうか。私が少し強引に話を持ち掛けてしまったという感覚も否めないが、考えてみれば彼女の用は私の品定めとルールの説明だ。用件の済んだ彼女が、ここを後にしてもなんら不思議ではない。

 一言告げてくれれば、何か土産でも用意したのだけれど。残念だがまあ、また縁があればその内会えるだろう。ここは幻想郷、つまり彼女のテリトリーだ。会わないという方が不自然なレベルである。その時は、改めて友人となってくれるか聞いてみるとしようか。

 

 

 

 ……そう言えば、彼女は面識のない私を何時何処で、ここに住んでいると知ったのだろうか?

 

 

 スキマの中に、椅子に腰かける一人の男が映っている。灰色のウェーブがかかった髪が特徴的な、全身黒ずくめの男だ。気品を漂わせる西洋風の格好をした青年は、先ほどから分厚いハードカバーの世界に浸りながら、手元のティーカップの中身を空にしていた。

 私がこの男をこうしてずっと見ているのは、別に気になる異性だとか、そんなロマンチックな理由などではない。むしろその真逆だと言って良い。私は、幻想郷に悪影響を齎すかもしれない危険分子を監視している真っ最中なのである。

 

 私が何故この男を危険と判断したのかは、およそ十日前の深夜までに遡る。

 

 その夜、博麗大結界に異常な反応が見られて、何が起こったのだろうと異変が起きた結界周辺を私は偵察していた。丁度、悪魔の住む館付近の森である。些細な反応だったので発生源を探すのに手間取ったが、どうにか異常が見られた場所を特定することが出来た。

しかし調べてみても結局、結界そのものに異常は見られなかった。杞憂だったかと胸を撫で下ろし、もう用は無いとスキマを開いて帰ろうとした、その時だ。何の前触れも無く突然館の方から、まるで臓物を握り潰しにかかる様な、馬鹿げた瘴気が発生したのだ。

 

 喉が干上がる様な感覚を覚える程の、濃厚で膨大な殺気と威圧感に私は館へ視線を釘付けにされてしまった。一体どれ程の怪物が全力で力を解き放てばこうなるのか。まさかあの小さな吸血鬼ではあるまい。あの青二才がここまで暴力的で、私をほんの少しでも圧倒する威圧を放てる訳が無い。

 

 ここで私は、結界に起きた些細な異常と、館の中で起きている異常事態に何か関係があるのではと疑った。距離的にも、アクシデントの発生時間的にも、あまりに偶然が過ぎる出来事だ。放置しておける筈が無かった。紅魔館の連中が何かよからぬ事を企んでいるのならば、その計画を先取りして対策を練っておかなければならない。後悔は先に立たない。手は打てる時に打っておかねば、取り返しのつかない事態にまで発展する事は今までの経験から嫌と言う程知っている。吸血鬼異変がその最たる例と言えるだろう。

 力の発生源が館の最深部―――地下にあると特定した私は、森の中でスキマを開いて現場の光景を映し出した。

 

 そこには、眼を疑う光景が広がっていた。

 

 石で出来た蛸の足の様なモニュメントに体を拘束され、全身をどす黒い剣で刺し貫かれた、吸血鬼妹の姿があった。それだけでも意表を突かれたのだが、真の問題は妹の視線の先に居る男にあった。

 スキマ越しでも感じる、肌から体の中を這いずりこんでくるような悍ましい殺気を放つ、全身黒づくめの大男。何があったのかは知る由もないが、頭は黒い魔力の靄で覆われ、目玉と歯だけがくっきりと黒煙の中に浮かんでいる。まさに異形と形容すべき怪物がそこに居た。

 

 ――――何だ、あの男は。あんなものが幻想郷に居たのか? いやそれよりも、一体あの男は何をしているのだ?

 

 見るからに異常な光景を前に、思わず視界を縫い止められてしまっていた。音を拾えるように調整し、繰り広げられている会話を一字一句見逃さず脳へ叩き込んでいく。

 会話から推察するに、どうやら悪魔の妹は何かに取り憑かれてしまっていたらしい。しかもその正体は、亡くなった姉妹の父親だそうだ。これがまた、どうしようもない下衆な父親だった。目的の為ならば手段を択ばない、実に悪魔らしい性分であると言える。

 その父親は取り憑いている妹の魂を人質に取り、姉妹の関係者かつ吸血鬼らしき異形の男を幾度も脅迫していた。しかしそれを含めた対抗策全てを異形の男に悉く潰され、そして遂には、何も出来ない手足を捥がれた虫同然の状態にされてしまった。

 

 余りに、一方的だった。どちらが倫理として正しい方なのか疑ってしまうようなこのゾッとする光景は、どう考えてもここからの逆転劇は有り得ないと判断を下さざるを得なかった。追いつめられている父親の魂も同様に感じていたようで、観念した彼は、自らの命を異形の男へと差し出してしまう。

 これで終わりだと思った。あの禍々しい気配を放つ剣で魂を体から剥がされ、館で起きた惨劇は終幕を迎えるのだろうと、私は信じて疑わなかった。

 

 しかし、それは大きな間違いだった。

 異形の男は父親の思惑を見破り、命を持って償わせるどころか、その魂を何の躊躇いもなく食らったのだ。

 

 妖怪は血を啜り、肉を食らう捕食者である。被捕食者は主に人間が対象となるが、妖怪は時として手っ取り早く力を得るために、妖怪を食い殺す時がある。無論、食らうのは肉とそれに含まれる魔力や妖力と言った力のみだ。断じて、魂を食らい消滅させることは無い。そもそもそんなことが出来る筈もないのだ。もしそれが可能ならば、輪廻転生の魂の量が狂ってしまう。魂を食らう事を許された存在は、神の類か地獄に属する人外に限られた所業なのである。幾ら悪魔の類とは言え魂を……それも大妖怪クラスの魂魄を食らう事はそうそうない。そんな事をするくらいなら奴隷として扱った方が遥かに利用価値があるし、なによりリスクが大きすぎる。強大な妖怪の命を一つ動かせる程の莫大なエネルギーを取り込むのだ。並の存在なら、保有するエネルギーや情報の量に耐え切れず発狂してしまうだろう。他者の魂と触れ合い過ぎて、自我を保てなくなった怨霊の成れの果てが良い例か。

 

 それをあの男は、平然とやってのけた。本来ならば不可能である魂の捕食を、まるで木から林檎を捥ぎ取るかのように容易くやってのけたのだ。

 こんな男が知らないうちに幻想入りしていたという事実にゾッとした。心の底から背筋が凍る感覚を、私は鮮明に感じた。下手をすれば、大昔に月へ戦争を吹っ掛けた時以来かもしれない。

 それはつまり、私がこの男をそれと同等に危険視したという確固たる証拠となる。

 ただの吸血鬼ならそれで良かった。今の幻想郷は、スペルカードルールの導入によってかつての吸血鬼異変の様なクーデターが起こり得ない環境となっている。今更一匹悪魔が増えた所で、そのまま受け入れるのみだったのだ。

 しかし状況が変わった。この男を放置しておくわけにはいかない。魂を食らうことが出来る悪魔を鎖も無しに野へ放てば、吸血鬼異変どころではない大異変に発展する可能性がある。

 

 危機感を覚えた私は、あの男を監視する事にした。途中、館の住人からの呼称で男は『ナハト』と言う名前だと知り、式神の藍へ外の世界でのナハトの記録を徹底的に探してくるよう命じた。私はそれからも、幻想郷の管理とナハトの監視を並行して行い続けることとなった。

 彼の行動はいたってシンプルなものだった。自室で黙々と本を読み続けるか、気まぐれに館を歩き回って妖精を脅かすか、門番を跪かせるか、吸血鬼姉妹や引き籠りの魔法使いと少し話をする程度で、あの地下室での暴走が嘘の様に静かな日々を過ごしていた。

 

 おかしい。あまりにノーアクションが過ぎる。奴が何か考えを持って幻想入りを果たしたのならば、何らかの行動に出てもおかしくない筈だ。何故、奴は館から離れずじっとしているのだろう。幾らなんでも十日間も外に出ないのは不自然である。

 煮え切った私は、強硬手段に身を乗り出すことにした。直接会ってナハトと言う男がどの様な存在か、見極めてやろうと考えたのだ。

 

 そして今現在、彼をスキマから覗いている状態に至る。

 

 出来るだけ奴を動揺させるために隙を伺い、敢えて男が自室を出る為に背中を見せた瞬間を狙って、私はスキマに身を投じる。意表を突けば、心に隙が生まれ、私が探りを入れやすくなるのだ。出来うる限り手玉に取る手法を選択する方がやりやすい。

 

「こんにちは」

 

 私の突然の訪問に対しての彼の反応は、非常に淡白なものだった。

 驚く訳でも、声を上げるわけでも無い。ただドアノブを回す寸前だった手を止めて、ゆっくりと振り返る。予期せぬ出来事である筈なのに、彼はたったそれだけの動作しかしなかった。

 

 勘付かれる事を警戒して背後から監視していた為にこの男を正面から見たことは無かったのだが、改めて観察すると、見る者を凍り付かせるような美貌を持った青年だった。

 陶器の様な肌。氷柱の様な紫の眼差し。桜色の唇。人間を誘惑する悪魔らしい、世離れした容姿の男だった。不覚にも一瞬、魔性とも言える彼の存在感に吸い寄せられるかと錯覚を覚えてしまう程だ。全身から放たれるオーラに近い存在感は並ではなく、そこいらの妖怪ならば対面しただけで錯乱を起こしてもおかしくないだろう。この私でさえ、対面した瞬間に喉が引き攣ってしまった。藍がこの場に居たら、頭の固いあの子は反射的に男の首を撥ねにかかっていたかもしれない。

 一瞬だけ波が生じた心を静めるように、私は言葉を繋げる。

 

「少しだけお時間を頂けるかしら」

「ああ、構わないよ。ところで君は、もしかして八雲紫と言う名前かな?」

 

 虚を突き動揺させるつもりだったはずが、彼の口から出て来た私の名前にこちらが動揺させられてしまった。

 私の存在を知っていること自体は不自然ではない。小さな当主が男に説明でもしたのだろう。それは考えるまでもなく分かる。私が驚いたのは、会った事の無い私を一目見ただけで『八雲紫』と判断を下せたことなのだ。

 目についた微かな情報だけで判断できるほどの凄まじい洞察力の持ち主なのか、それとも……『分かっていた』のか。

 

 私は動揺を悟られぬよう口元を扇子で隠して、出来うる限り涼し気に、彼との会話を続行する。

 

「ご名答。お宅のお嬢様から第一印象でも聞いたのかしら。でも一方的に知られているのは不公平ですわ。せめて、貴方のお名前を聞かせてくれる?」

 

 男の名前は知っているが、敢えて平静を保って聞き出す事で、私にその程度のカマを掛けても意味は無いと考えさせて私の立場を劣位から対等の位置に組み替える。頭の切れる大妖怪クラスを相手取る時は、会話の立ち位置にも気を配らなければならない。舐められてしまえば、そこから一気に付け込まれてしまうからだ。

 

「ふむ、それは失礼した。私はナハト。最近ここに引っ越してきた新参者だ。初めまして」

「……ええ、初めまして。改めて自己紹介させて頂きますわ。私は八雲紫。一応、この幻想郷の管理者みたいなものを務めています」

 

 挨拶を交わして対等であると暗喩しつつも、私は彼に起こった一瞬の異変を見逃さなかった。彼が微かに私を見て笑みを浮かべた瞬間を、はっきりとこの目で捉えたのだ。

 たかが蝙蝠と侮っていた慢心が、音を立てて崩れ落ちる。扇子を持つ手にしっとりとした感触が生まれ、舌打ちをしそうな心境に駆られた。

 

 嵌められたのだ。

 この男は、私がここへ訪れるこの瞬間を待っていた。だから、まるで私の到来に対して備えていたかのように、私を一瞬で八雲紫と断じる事が出来たのだろう。なんて事だ。この男が十日間ずっと大人しくしていたのは、わざと私に怪しませて誘い出すためのフェイクだったのか。

 だが気が付いたところでもう遅い。私は奴のテリトリーに踏み込んでしまっている。この男が私の到来を予期し、備えていた以上、私が妙な動きをすればすぐさま対処できる罠を仕掛けている筈である。例えば、魂にさえ干渉できる非物理的なあの黒い剣を、壁の中に忍ばせているとか。

 濃い魔力の気配は無いが、それなりの実力を持った吸血鬼だ。気配を消すなどワケないだろう。

 

 ―――面白い。

 この男は『八雲紫』と真正面から渡り合う気なのだ。ならばこちらも相応の対処をさせて貰おう。言葉で誘導し、彼の裏に潜む真意を露見させ、私の当初の用件である『脅威度の検査』も済ませる。その上で、奴が私を誘い出した目的を封殺してしまえば私の勝利である。

 私が貴方を見極めるのが先か、それとも貴方が私を利用する状況まで追い込むのが先か勝負と行こう。(ナハト)の名を冠する吸血鬼よ。妖怪の賢者と謳われた私をどこまで出し抜けるか、思う存分試してみるといい。

 

 彼に誘導され、椅子に腰かけてテーブル越しに対面する。掛け合いの勝負が幕を開け、火蓋は切られたのだ。

 

「それで、何か私に用かな? 大方、新参者たる私の査察だと伺えるが」

「その通りですわ。私、貴方が何時ここに訪れたのかだとか、詳しい事をまるで知らないの。だから少し、その辺りも兼ねて貴方とお話をしようと思って」

 

 取り敢えず、ここへ訪れた時期やそれに至った経緯など、辺り触りの無い質問を展開する。彼は素直に応じたが、話半分に聞き流した。別に入り込んだ時期などはどうでもいい。問題は入り込んだ『目的』の一点のみに絞られる。

 

「成程ね。それで貴方がここを知り、訪れることが出来たって訳」

 

 ここからが本題だ。奴の目的について探りを入れる段階に入る。私を油断させて吸い寄せる程度には頭の切れる妖怪だ。馬鹿正直に目的を聞いたところで、嘘を返されるのは目に見えている。だから、質問を歪曲させて投げ込む。その反応から、奴がどの様な思考を抱いているかを推測する。

 

「あと少しだけ、お話を聞いても?」

「勿論」

「ありがとう。……貴方自身、幻想郷についてどう思っているのか、聞かせて貰える?」

 

 この問題は、実は回答者のYesかNoかで判断できる質問なのである。

 例えばこの男が幻想郷に対して興味が無い場合、『新参者だから知らない』、『詳しい事はまだ分からないから、どうとも思っていない』等と辺り触りの無いNoの答えを出す。こう答えたと言う事は、十日間を幻想郷で過ごしても特に興味を抱かなかったと捉える事が出来、幻想郷に対して故意的に危害を加えてくる可能性が一気に減るのである。要するに、私が今まで抱いた危機感が杞憂になると言って良い。私を誘い出したのも、小さな吸血鬼から私の事を知って、管理者と早いうちに対面する事で自身が不確定要素ではないと伝えようとでも考えての事だったとも考えられる。

 

 しかしYes―――即ち『気に入っている』などの興味を持つ類の反応を示した場合、何らかの目的を持ってアクションを起こす危険性が一気に増加するのだ。幻想郷へ魅力を見出したのならば尚の事である。悪魔は、自分にとって魅力的なものを独占しようとする習性を持つ生き物だと有名だ。かつて、レミリア・スカーレットが、幻想郷を征服しようと吸血鬼異変を起こした時の様に。

 さぁ、ナハトとやら。貴方の答えは如何に。

 

「恥ずかしながら、私はまだ幻想郷の事をよく知らないんだ」

「……そう」

 

 答えは、Noか。

 つまり彼は、幻想郷に対して興味が無い。

 今度こそ、私の凍り付いていた精神が氷解していく感触があった。杞憂だったのだ。彼は幻想郷に来ることが目的なだけであって、別にここで何かをしようとは考えていない。大方、レミリア・スカーレットの様に外の世界で疲れ果て、平穏を求めて来たのだろう。私を誘い出したというのも多分勘違いか、対面を早く済ませたかったからだ。

 何てことは無い。私は一人で、勝負だ何だと盛り上がっていただけだったのだろう。あまりに凄まじい威圧を向けられるものだから、つい宣戦布告と受け取ってしまった。よく考えたら吸血鬼はもともと傲慢な種族だ。ただ、力を誇示するために威圧を振りまいている。それだけの事だった。あの薄い笑みも見間違いだったのかもしれない。

 

「だが」

 

 そんな私の思考を遮り、彼は言った。

 かつてあらゆる存在をその美しさで吸い寄せ、死へ誘った妖怪桜を思わせる、妖艶で危険な香りを放つ微笑みを浮かべて、彼は話に橋を掛けたのだ。

 

「―――――私は、とても良い場所なのだろうと思っているよ。時が来れば、自分の足でこの地を見て回りたいものだ」

 

 最後のその一言以外が、耳から頭に入ってこなかった。

 判断出来てしまった。審判はたった今、残酷なまでに下ったのだ。

 間違いない。この男は目的を持っている。幻想郷で何かをするつもりでいる。来ることが目的ではなく、何かを成す事を目的として幻想郷へ入り込んだのである。

 私が垣間見たあの笑みは、やはり見間違いなどではなかった。であれば、私を誘い出したことにも何かしらの思惑があるのは明白だ。

 

 ――――撤退せねば。

 私の目的は完遂した。この男が要注意人物である事が知れた今、隙を伺ってここから脱出せねばならない。さもなくば、私はこの男の口車に乗せられて利用される方向へ持ち運ばれてしまうだろう。いきなり不用意に逃げ出そうとすれば、罠を発動される。それは即ち、行動の決定権を握られたも同然なのだ。奴が何らかの隙を作る、その瞬間を待たねばならない。

 

「今更だとは思うが、私は幻想郷へ来て良かったのかな? もしかしたら正式な手続きが必要だったのかと、ふと思ったのだが」

 

 ……これは暗に、私の口から容認の言葉を吐き出させるのが目的か。

 話を敵対的ではなく平和的に始めたのが仇となったか。ここで拒絶し、手のひらを返せば、話の筋が通らないとして反撃の隙を与えてしまう。

 この場合、いつもの様に受け入れる姿勢を崩さなければ問題ないか。ついでに、この男へ枷をはめてしまおう。

 

「いいえ、必要ありませんわ。ここは全てを受け入れる幻想郷。勿論貴方も歓迎します。でもここで暮らす上では、貴方に守って貰わなければならないルールがあるの」

「ほう、ルールか。是非聞かせて貰いたい」

 

 それから私は、幻想郷で生きていく上でのルールを説明し、男に枷を施しつつどうやってこの場を去るか算段を企てていた。

 用事があるといっても引き留められる可能性が高い。そこから婉曲した脅迫と要求を投げつけられ、面倒な事態に発展する危険性がある。さて、妙案は何かないものか。

 そうこうしている内に話が終わってしまった。この男の戦闘能力が未知数である以上、下手に動けないのが腹立たしい。

 

 しかしそこで、思いもよらぬ転機が訪れる。

 

「説明してくれてありがとう。そういえば、長話で喉が渇いていないかね? 折角だから何か飲んでいってくれ。今は持ち合わせが紅茶と緑茶しかないのだが、どちらがお好みかな?」

 

 チャンスだ。

 口ぶりからして、奴は自分で淹れるつもりだ。催眠効果のある薬の類でも盛る気だろうが、奴が席を立って背を向け、隙を見せた瞬間にスキマを開く。それで終わりだ。この駆け引きは幕を閉じる。

 

「そうね。折角だから紅茶を頂けるかしら」

「うむ、了解した」

 

 彼が席を立ち、戸棚へと赴く。丁度背を向けた所から、私はゆっくりとスキマを展開していった。

 椅子の下に大きく作れば、椅子が傾く音でばれる。みっともないがここは、お尻と椅子の接触面上にスキマを展開し、そのまま椅子へ吸い込まれるように帰還する事にしよう。

 

「ところで私から一つ、図々しい様だが、貴女に頼みごとをしても良いだろうか?」

 

 耳から脳髄へ滑り込んでくるような妖しい彼の声に、思わず肩が跳ねそうになる。バレたかと思ったが、幸運な事に彼の注意は茶葉の蒸れ具合へ向かっている様だ。

 ただ、会話の流れがいけない。奴は私に要求を突きつけるつもりだ。これが私を誘き出した目的なのだろう。脱出までの時間もそうだが、奴に要求を突きつけられるのは非常にマズい。この男の声は麻薬と似た効果がある。話をまともに聞いていると、心を吸い寄せられるのだ。悪魔として最上級にまで上り詰め、声に魅了の属性を付与するまでに至ったのだろう。先ほどは話を殆ど聞き流していた為にそこまで影響は無かったが、奴が何時振り返るか分からず全神経を集中させている今、精神を激しく揺さぶられてしまっている。

 

「……なにかしら」

 

 あと少し。あと少し開けば、スキマへ潜りこめる。

 念じるように、繊細に能力を操っていく。体の幅の半分程度が開き、残り数秒で事が終わる。

 

「私は吸血鬼である故に、日の元に出る事の叶わない身の上だ。幻想郷の事を知りたくても、日中に出られないとなると知る事の出来る部分が限られてしまう。ここは人間も共存している地だと伺ったから、幻想郷が人間の時間帯にどの様な姿をしているのか是非見てみたい。そこで一つ――――」

 

 彼の背から放たれる威圧感と、精神の中心に絡みつく様な声が、私の集中を鈍らせる。早く、早くせねば。彼が振り向いたら終わりだ。これまでの努力が水の泡となってしまう。

 

「―――君の力を少しだけ貸してくれると、嬉しいのだけれど」

 

 静電気にも似た衝撃が鼓膜をくすぐる中、どうにか私はスキマの中へ自分を落とし込むことに成功した。

 降りた瞬間に、一瞬でスキマを閉じる。咄嗟の行動だったため他の判断へ頭が回らず、転移先で思い切り尻餅を着いてしまい鈍い痛みが臀部を包み込んだが、この際それは無視した。何とかあの男のテリトリーから抜け出す事が出来た安堵に、今は心を傾けるべきである。もし男の操る黒い剣で全方位から貫かれていたら、いくら私と言えども只では済まなかったはずだから。

 

 しかし、危なかった。スキマを開くタイミングもそうだったが、奴が私に交渉を持ちかけてくるという二重苦の状況に陥らされたのが本当に危なかった。奴が振り向き、私をあの場に縫い止めていたとしたら、魔性の魅力を孕ませるあの声を用いられ、どう足掻いても面倒な交渉を受けさせられていた筈だ。それも、恐らく一方的な形で。

 やはり力を持っていても油断は禁物か。長らくあのクラスの危険分子と接触していなかったものだから、どうにも慢心が生まれてしまっていたらしい。今後奴と再び渡り合う事も考えて、気を引き締めなければなるまい。

 

「失礼します。お帰りなさいませ、紫様」

 

 私が転移した先は、マヨヒガと言う妖怪の山の近くに存在する屋敷だ。ここには私の式神の式神が普段生活しており、私の別荘の様な場所となっている。つまり、私が普段から寝食を営んでいるのはこの屋敷ではない。

 何故ここを選んだのかと言うと、直接私の屋敷にスキマを繋げた際、奴に私の本拠地がばれてしまう可能性が捨てきれなかったからだ。最悪、バレたとしてもこの屋敷を管理している橙を連れて私の本拠地へ逃亡できるので、敢えてここに私の式神と落ち合うよう策を練ったと言う訳である。

 その作戦通りに待機してくれた私の自慢の式神こそが、今襖を開けて入った来た九尾の狐だ。名を、八雲藍という。

 

「……顔色が優れない様ですが、大丈夫ですか?」

「ええ、大丈夫。久しぶりに骨のある相手だったのよ。敵前逃亡を選択したのなんて何時ぶりかしらね」

「……それはまた、厄介な吸血鬼の様で」

「全くだわ。たかが吸血鬼と少しばかり慢心していたとはいえ、嵌められるとは思わなかった。……それで、頼んでおいた件は済んだのかしら?」

 

 はい、と藍が返答を返す。奴の事について調べさせた結果は上々の成果らしい。さて、どんな蛇が飛び出して来ることやら。

 

「教えて頂戴。あの男は、一体何者なの?」

「古い吸血鬼です。それも私たちと同じか、もしかするともっと長い時を生きているかもしれません」

 

 ……何?

 私たちより長く生きているかもしれない吸血鬼、ですって?

 まさか、そんな事があるのだろうか。吸血鬼は妖怪の歴史から見てかなりの若輩者だ。精々ここ千年以内……表立って現れ始めたのは七百年前から五百年付近の話である。つまりその程度の歴史しかない。

 故に、それ以上の過去を持つなど、あまり信じられる話ではないのだ。特異な個体にしてもはっきり言って異常である。

 

「情報はどこから?」

「ヨーロッパで隠遁生活を送っている吸血鬼の生き残りから聞き出しました。何でもナハトと言う男は、吸血鬼の間で生きる伝説として語られていた存在の様です。絶対的な力を持つが故に悪魔が皆平伏した闇夜の支配者。吸血鬼たちがその存在を認知する前は、『夜の恐怖』として人間から恐れられていたとも。その『夜の恐怖』についての情報を洗ったところ、一番古い記録は神の子生誕の時期とほぼ同じになります」

「馬鹿げた話ね。千年どころか二千年近く前から生きながらえているなんて」

「仰る通りです。あまりに与太話が過ぎます。ですが真実ならば、人間に存在を認知されているのがその時期なので、もしかしたらもっと古いのかもしれません」

「……他には何か、分かった事はある?」

 

 結局のところ、藍の力をもってしてもあの男の根本的な正体までは掴めなかったらしい。話を聞く限り、謎の塊と言うよりは概念の様な人物だ。ただ強大で恐れられ、伝説となっている灰髪紫眼の吸血鬼。プロフィールはそれ位で、さらに分かる事と言えば400年前に忽然と姿を消してからは、動向を掴めなくなったという事くらいか。おそらく、その400年間でここの情報を掴み、何らかの計画を立てて幻想入りを果たしたとみて間違いないだろう。

 長い時を生き強い力を持ち、頭が切れ、魂を食らう事が出来、そして何らかの目的で幻想入りを果たした吸血鬼か。警戒するには十分すぎる逸材だ。場合によってはあのフラワーマスター以上の危険分子になりかねないだろう。……いや、あちらの方がまだ動きが読みやすく、話が平常に出来る分マシな部類だ。奴に関しては会話すらも普通に出来ない。まともに話を聞き入れれば、あの魅了の声に精神を占有されてしまいかねないのだ。

 

「藍。厳重警戒対象のリストにナハトの名を追加して頂戴」

「了解いたしました」

「それと今晩、対策会議も開くわ。準備をお願い」

 

 畏まりました、と藍が礼をして部屋を後にする。畳の和室に、不気味にすら思える静けさだけが取り残された。

 コチコチと秒針を刻む古時計に目を向ける。夜までにまだ十分時間がある様だ。奴と対面して少しばかり疲れた。会議を万全の状態で臨めるように、少し休息をとっておこう。

 力を抜き、目を瞑る。深く息を吐き出して、私は頭のスイッチを切り替えた。

 

 ――――管理者モード オフ―――――

 

 

 紫様に命じられた通りリストに名前を書き込み、会議に必要な備品も部屋も揃えた。後は時間が来るのを待つのみとなって、少しばかりの暇が生まれる。

 じっとしているのも何なので、化け猫の式神である橙の修行様子を見に行くことにした。

 無駄に長ったらしい廊下を歩きながら、私は紫様の言葉を思い出していく。

 

 ナハトと言う吸血鬼……私は対面した事は無いが、紫様をあそこまで焦燥させる相手とは、いったいどれ程の存在なのだろうか。鬼の四天王相手にも余裕を崩さなかったあの方が冷や汗を流している姿など、随分珍しい光景だった様に思える。私を同行させなかったのも納得だ。あの方が焦りを覚える相手なら、私が共にいた所で足手纏いにしかならなかっただろうから。

 精進が足りんな、と少しだけ自己嫌悪に陥る。そんなところで丁度、屋敷の庭園が見えてきた。庭で修行中の筈の橙の様子を伺う。

 

「修行は進んでいるか」

 

 ……返事は無い。どうやらここには居ない様子だ。どうしたのだろうか。あの真面目で純真な子が鍛錬をサボるというのは、あまり記憶にない事である。

 橙に取り憑けてある式神の反応を探知し、場所を探り出す。意外な事に橙は紫様のいる部屋の前に居た。

 スキマを開き、橙の背後へ回り込む。サボっては駄目だと一喝するつもりだったが、何やら真剣そうに襖を覗き込む橙の後姿を見て、どうしたものかと首を捻った。

 

「何故紫様を見ているんだ? 橙」

「あ、藍さま」

 

 私に見つかった橙が、どこか狼狽えているような眼を向けた。サボっているのがバレたと言うよりは、何かマズいものを見てしまったかのような反応である。

 

「紫様に何か用でもあったのか?」

「いえ、その。偶然通りかかったのですけど、何だか紫さまの様子がおかしいんです」

 

 ……紫様の様子がおかしい?

 ピン、と頭の中に電撃が走る。同時にこれ以上ここに橙を置いておくのは不味いと判断し、橙をこの場から下がらせた。

 退去を命じられた橙は心配そうに何度もこちらを振り返りながら、とてとてと廊下を歩いていく。曲がり角を曲がって姿が見えなくなったところで、私は薄く息を吐いた。

 

 さて、件の紫様だが、どうもスイッチが切れてしまったらしい。あの方は冷徹かと思いきや時々ひょうきんになる、掴みどころのない妖怪だともっぱらの噂だが、実は単純明快な二面性を持っているだけなのだ。管理者たる賢者としての八雲紫の顔と、ただの妖怪少女としての顔。心のスイッチを使い分ける事で、精神に負担が圧し掛かりすぎないようにするという長い年月をかけて編み出した処世術なのだとか。要は真剣になる時は真剣で、楽しむときは楽しんじゃおうという感じである。それを極端にしたものと捉えていい。

 橙が覗いていた襖の間から、私は中の様子を伺う。状況によっては用意するものが増えるかもしれない。

 

『……お尻痛い……グスッ、私が何をしたっていうのよぉ……折角吸血鬼異変が終わって、やっと理想的な形に収まったと思ったのに、また厄介事が出て来るなんて……。あの館、次から次へと問題を運んできてくれちゃって、本当に悪魔の館じゃないの。私を心労で暗殺する気なのね。きっとそう。そうに違いないわ。……うう、もうやだぁ、賢者やめたい……藍に継いで貰ってずっとお布団に籠っていたい。大体何なのあの男。意味わかんないわよ。何であんなビリビリ敵意向けてくるの? おかしくない? 私何も悪いことしてないのに……はぁ、お腹も痛い。霊夢の作ってくれた雑炊が食べたいよう』

 

 えぐえぐグスグスとちゃぶ台に塞ぎ込む我が主の声に、思わず眉間を指で押さえた。何だか頭痛すら湧いてくる勢いである。

 仕方ない。あの巫女に頼んだところで妖怪に食わせる飯は無いと一蹴されるだろうから、一先ず私の作る雑炊で我慢してもらおう。あんなにじめじめとキノコを生やされ続けては主としての面目も何もない。だから早く立ち直って貰わなくては。

 

 何の雑炊にしようかな、と献立のメニューを考えながら台所へ歩いていく。そこで卵を切らしている事を思い出して、ついでに油揚げも買ってこようと人里へ続くスキマを開き、私はマヨヒガを後にした。

 



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EX2「フ エ ル カ ゲ」

―――執務室に一枚のメモが落ちている。

 

 

「おねーさまー、ひまー」

 

 執務室での事。だるーん、という表現が似合いそうなくらい力の抜けた声でそう言い放ったのは、七色の翼をぱたぱたと羽ばたかせながら私の座る机の周囲をくるくる飛び回っている妹のフランドールである。

 唐突な妹の発言はさておいて、手も足も何もかもをさも無気力ですと言わんばかりに垂れさせて、飛ぶというよりはホバリングするのは如何なものだろう。傍目から見ると、西洋人形の様な容姿と幼気な丸みを兼ね備えた彼女の飛ぶ姿は妖精と言う表現がぴったりかもしれないが、吸血鬼と言う事実を織り込んでみると、手足を投げ出してホバリングしているところから巨大な蚊トンボが飛んでいる様にも思えて情けない。はしたないので襟首を引っ掴んで無理やり床へと立たせた。

 彼女は床に足を付けても腕の筋肉を弛緩させたままダレており、間の抜けた声で九官鳥のように繰り返す。

 

「ひまー」

「ひまーって、あなたね……」

 

 フランは私と違って、当主だのなんだの、堅苦しい肩書も立場も持ち合わせていないので当然仕事など無く……つまるところ、何もする事が無い。それは分かる。反面、私にはフランと違って仕事があるのだ。八雲紫と契約した月一の『配給』に対して必要な書類作成から始まり、館の備品管理表の記入とチェック、修繕費用の見積もりエトセトラ、エトセトラ。こう見えて私は意外と多忙な身の上なのである。自分で意外と言うのは何だかおかしい気もするが、それは言葉の綾であって、決して普段怠けている自覚があるからではない。決して。

 要するに、そう簡単に彼女と一日中遊んでいられる身分ではないのである。私はこれでも立派な紅魔館現当主なのだから。

 

「フラン、お姉様は仕事で忙しいの。美鈴とかパチェと遊んでて頂戴」

「うーん、それも良いと思うんだけど、ほら、私たちって一緒に何かをやることがあまりないじゃない? だからさ、たまには皆で遊びたいなーって」

「だからはこっちの台詞よ、もう。私はお仕事があるの。遊んでられないの。アンダースタン?」

「……私、知ってるよ。オシゴトが面倒になった時、時々咲夜に丸投げしてるの」

 

 んー、さっきお風呂に入った時、耳の中に水が入ったままになっているのだろうか。誠に残念ながら妹の声が聞き取れやしない。

 聞こえないものは仕方がないので、書類の記入を進めるために羽ペンへ墨を付けていると、痺れを切らした妹は私の背後へと立ち、肩を鷲掴んで激しくゆすり始めた。傍目から見ればじゃれついているように見えるかもしれないが、鬼の怪力に天狗の速さを持つと言われる吸血鬼の腕力は伊達ではなく、がくんがくんと頭が振り子の様に揺れて視界がスパークし始める。

 

「ねーねーねーねーねー、あーそーぼーおーよー」

「うぇっ、ちょっ、ふっ、ふらんっ、まちなさっ、やめ、止めなさいってばぁ! あーもう。あちらにおじ様がいるでしょう。おじ様に遊んで貰えばいいじゃない」

「おじさま……おじさま……そうだ! おじさま!」

 

 何を思い付いたのか、フランはパッと目を輝かせて肩から手を離し、まるで玩具を見つけた猫の様に走り去っていった。言うまでもなく、この部屋の談話スペースで置物の様に本を読みふけっているおじ様の所である。おじ様は時折、こうして執務室にまで出向いて本を読んでいる。というより、図書館だったり自分の部屋だったり色んなところで本を読んでいる気がする。昔はおじ様の事を避けていたから知らなかったけれど、意外に読書家らしい。それもかなりの雑食だ。

 今読んでいる本も確か、『モンキーでも友達が出来るコミュニケーションガイドブック』とかいう名前だったか。あんな本が図書館にあったのかどうかはさておき、やはりおじ様は凄い。どれだけ力を蓄え吸血鬼の頂点に上り詰めるまでに至っても、その力の根幹を形成したのだろう初心を忘れていない。常日頃、ああして基礎を叩き込んでいるからこそ、鶴の一声だけで相手の心を縛り付ける話術を身につけられたのだ。おじ様は能力のせいだとか言って謙遜していたけれど、こうして一緒に暮らし、四百年前と違って避けることなく観察してはっきりと分かった。おじ様が、どれ程長い間研鑽を重ねて、あの魔性にも近いカリスマ性を手に入れたのかが。私も力を手に入れるための貪欲さを見習わなくてはなるまい。

 

「ねぇおじさま。お姉様が遊んでくれない」

「まぁ、レミリアも忙しいのだ。その意図を汲んで身を引いてあげるのも、良き妹となる一歩だと私は思うよ」

「だけどおじさま、私も漸く外に出られるようになって、おじさまもこうして一緒に暮らせるようになったじゃない? だからここで一つ、もっと紅魔館の皆が仲良くなれるように館の皆と親睦を深めるゲーム大会とか開けばいいんじゃないかなと思うの」

「…………ふむ。親睦会、か」

 

 考え込むように背後で相槌を打つおじ様。何だかとっても嫌な予感がするのは気のせいだと願いたい。そう、気のせいである筈なのに、何故かこれから私はおろか館の全員を巻き込んで盛大な催し物が開かれる運命が見える。私の能力を使えば逃れられると思うけど、おじ様相手だと強引に捻じ曲げられそうな気がするのは何故だろう。運命とは全てにおいて万能ではないのだなとこんな状況で悟りを開く私であった。

 が、予想外な言葉がおじ様の口から飛び出した。

 

「……実に魅力的ではあるが、仕事の方が大事だ。やるべきことは先にやらねば、ズルズルと惰性に呑み込まれてしまうからね。今日の所は諦めなさい」

「そんなぁ」

 

 悲痛な妹の声とおじ様の発言に、内心私はガッツポーズをする。流石おじ様。公私混同がどれだけ非生産的な結果しか生み出さないかをよく理解している。全くもってその通りだ。より良い生活を手に入れるために、仕事というものはちゃんとこなさなければならない。だから私はのんびりと、重要な生活の糧となるお仕事にとりかからせてもら――――

 

「しかし今日中に、レミリアが仕事を終わらせてくれれば、結果的には何も問題ないと思うのだ」

 

 ―――おうとしたその瞬間、『のんびり』の部分を無理やり引っこ抜かれてしまった。

 ああ、振り向かなくても分かる。今、我が愛しの妹はぐるんと勢いよく顔をこちらに向けて、ギラギラとした眼を忌まわしき太陽の如く輝かせているに違いない。だって背中が夕日を当てられたようにチクチクするのだ。これは間違いなくあの子の熱すぎる視線のせいである。視線とは本当に熱エネルギーを伴うものだったのかーそうなのかーと思いがけない発見に目が虚ろになっていく感覚が確かにあった。もし鏡に姿が映るのなら、眼からハイライトの消えたビューティーバンパイアが優雅に机と向き合っている姿が映るに違いない。

 

「聞いていたぞ、レミリア。君は咲夜に仕事を丸投げする事があるそうじゃないか。いけないな。咲夜はよく働いてくれている。その負担を無意味に増やすのは、主のする事ではないと思うのだがね」

 

 ざわざわと産毛が逆立っていく。防音室で大音量の音楽を拝聴している時に、耳から首筋にかけて何かが這いずり回るような、痺れとも痒みともつかない感覚が走り抜けた。

 やばい。これは、やばい。おじ様の声が全身の骨を撫で、末梢から中枢までの神経に纏わりつき始めている。数多の悪魔が誰一人として逆らう事の出来なかった魔法の声が、私へと向けられているのだ。それの表す所は、つまり。

 

「自分のやるべきことは自分ですべきだ。明日の晩にでも親睦会を安心して開けるように、頑張りなさい」

「ハイ」

 

 震えるような言葉の魔力が筋肉の力を根こそぎ奪いとり、私に肯定の言葉を吐き出させる。終わった。私ののんびりデスクワークプランが、薄い氷に杭を打ち付けたように呆気なく瓦解した。おじ様は咲夜に私の仕事を手伝わせないよう外堀を埋めるに違いないから、序でに企てていた咲夜へ丸投げ保険も、一緒に音を立てて崩れ去る始末である。

 轟沈する私を余所に、フランは遠足へ行く日を決めた子供の様に燥ぎながら、灰になりそうな私を余所におじ様と親睦会の内容を相談し始めていた。

 

「それで、フラン。君は何かやりたいことはあるのか?」

「皆で鬼ごっこがしたい!」

「ほう、鬼ごっこか。私はやったことは無いが、ルールは知っているぞ」

「でもねおじさま。普通の鬼ごっこだとただ追いかけて捕まえて鬼を交代してーって繰り返しで、大きなゲーム大会としてはつまらないじゃない? だからちょっと特別なルールを設けたいの」

「どんなルールだね?」

「その前にぃー」

 

 声色から明瞭に分かるくらいに上機嫌さを孕ませながら、フランはおじ様へ言った。

 

「おじ様って分身とか出来る?」

 

 

【ルールその1:館から外へ出てはいけない。また、わざと捕まってはいけない。これらに違反した場合、罰ゲームが課せられる】

 

 

 夏も終わりごろに近づいて、ちらほらと季節が秋に成り替わる準備を始めているせいなのか、今頃の夜は蒸し暑くもなく寒くもなく、とても過ごしやすい環境になっている。スズムシやコオロギの鳴き声が静かな演奏となって耳を潤し、空を駆ける際に頬を撫でる夜風の感触がまたなんとも心地良い。

 それ即ち、絶好の借り(狩り)日和だと言う事に他ならない。目的地は言うまでもなく、紅い館の紫魔女さんの住居兼ホームグラウンドたる図書館だ。

 

 普通は、妖怪が活発になる夜にわざわざ悪魔の館を訪れようなど、考えようとすらしないだろう。だが私の場合は話が違ってくる。単身であの館に乗り込んでも無謀とは言わせない程度に力を付けたし、なにより今日はちんまい館の主様を怒らせないようにする為に夜を選んだのだ。以前、昼間に本を借りに行ってパチュリーの奴と交戦した際に、弾幕ごっこの爆音で叩き起こされたレミリアが滅茶苦茶怒った時がある。そんな経緯があって、最近は昼に行くのを自重している訳だ。まぁ、ほとぼりが冷める頃を狙ってまた昼に行くようにするけれど。だって夜更かしは肌に悪いのだから。

 

 そうこうしている内に、月明りのせいで夜でもはっきりと紅く染まり切っているのが分かる洋館が見えてきた。飛行魔法を操作して腰かける箒を降下させ、門の先の入口にまで近づいていく。この館は窓が異常に少ない上に、申し訳程度の窓には大抵罠やら何やらが仕掛けられているから、意外と正門から堂々と入る方が安全だったりするのだ。

 

「……んー? 変だな、仕事熱心な頼れる門番(みどりのおきもの)が居ないぜ」

 

 常に門の傍で寄りかかって寝ているお馴染の門番が居ない事に、少しばかり不審な点を見出したが偶然休憩中の時間に当たったのだろうと割り切った。むしろ好都合だと思考を切り替えて、門の前に箒から降り立つ。

 やたら大きな扉を開いて、周囲を見る。相変わらず中は豪華なインテリアをしているくせに、明かりがランプの蝋燭やシャンデリアの魔力光源程度しかないものだから、昼とは違ってお化け屋敷の様に不気味だ。

 

「こんばんは。邪魔するよーっと」

 

 誰にも聞こえない程度に挨拶の声をかける。礼儀は大事だ。忘れるとロクな奴に成長しない。

 それにしても、やけに館の中が静かだ。いや、元々そんなに賑やかな場所ではないのだけれど、今日は特に閑散としている。妖精メイドの一匹や二匹くらい、見かけてもおかしくない筈なのに。

 まぁ、好都合はあっても不都合は無いので、ありがたく図書館へ足を運ばせてもらおう。時を止めるメイドに気をつけて行けば、図書館までの道のりはイージーモードである。

 善は急げと足を動かそうとした、その時だった。

 

 バタンッ!

 

「ひゃっ」

 

 静寂の空間を砕き割るように、背後から突然響き渡った大きな物音に驚いて、思わず変な声が出た。後ろを振り返れば、重々しい扉がぴたりと閉まっている。風だろうか? 噂をしていたから件のメイド長が私の顔を見に来たのかと思った。

 気を取り直して、足を動かす。カツ、カツ、カツ、と靴の音だけが、長ったらしい廊下の中で嫌に反響した。

 

「だーれも居ないねぇ。大事なお客さんが来てるんだぞー」

 

 対応に来られたら来られたでマズいのだが、余りに人気が無いのでついこんな言葉が口から弾み出てしまう。しかしやはり、誰かが反応した気配は無い。実に奇妙だ。幾ら夜とは言え―――いや、夜だからこそ誰も居ないのはおかしい。そもそも妖精メイドの一匹すら見当たらないのは何故だ。妖精どもが仕事をしている光景は見たこと無いが、子どもの仕事である『遊び』に熱中している光景はよく見るのに、今日はそれすらないと来た。これはいよいよ、館で何かがあったか、もしくは何かが起こっているとみて間違いないだろう。ひょっとすると私は、異変を先取りしてしまったのかもしれない。もしそうならパパッと解決して霊夢に自慢してやろう。アイツの事だから、面倒事が消えて助かったとお茶の一つでもご馳走してくれるかもしれない。おやつが付いて来れば尚グッドだ。

 

 ふと。

 前方の最奥……長ったらしい廊下の曲がり角で、何かが動いたのが一瞬だけだが視界に映った。何か黒い影のようなものが動いていた気がする。はて、紅魔館に紅色をした奴以外いたっけか。よく考えたら沢山いるな。主に紫の魔女さんとか、スカーレットデビルなのに青っぽいお嬢様とか。むしろ紅い方が少ない気がするのは気のせいだろうか。

 

「誰かいるのか?」

 

 しかし何だろう。この、背筋をなぞられる様な感覚に似た悪寒は。あの影を見た瞬間、私はぶるりと震えるような寒気を感じた。いくら夏の終わりに差し掛かって少しばかり涼しくても、肌寒く思える季節ではない。肝試しが最適な時期なのだ。その異常さたるや、語るまでも無いだろう。

 何だか妙に心臓が五月蠅くなって、あの影を追うべきかどうかの葛藤が生まれつつあった。好奇心が私を突き動かそうとする。だがその反面、私の危機管理能力がアレを追ってはならないと警報を鳴らしているのだ。

 私はこれでも魔法使いである。魔法使いとは即ち知識の探究者だ。好奇心は猫をも殺すというものだが、魔法使いは殺せない。私は魔法使いの燃料たる好奇心が燃やされる衝動に抗うことなく、影の正体を突き止めようと動いた。

 

 小走りで廊下の角まで到着し、そっと曲がり角を覗き込む。

 そこには妙なレミリアが居た。

 館の主が廊下を歩いていること自体は不自然ではない。問題はそこではなく、彼女の挙動だ。まるでストーカーにでも狙われている乙女の様に、しきりに周囲を気にしながら奥へ向かって歩いている。故に『妙な』レミリアな訳である。どうやら先ほどの影は、彼女の翼か何かだったらしい。

 彼女が一体何を警戒しているのかは分からないが、どうやら私の緊迫感は夏の夜に当てられただけかと胸を撫で下ろす。見つかるとまた面倒なので、私はレミリアを無視し図書館へ向かおうとした、その時だった。

 

 突如、レミリアの向かう先――――さらに奥の曲がり角から、黒い人形(ひとがた)の影が顔を覗かせたのだ。

 一瞬にして、私の全神経が乱れに乱れた。ぶるりと体が震えあがり、足ががくがくと小鹿の様に情けなく主張し始める。影を視界に捉えた刹那から、フランと弾幕ごっこをしたときと似た、命の危険を感じさせる類の恐怖感が私を包み込んだ。心臓が跳ね、喉が干上がり、視界が酷く鮮明になる。妙に頭が冴え切っているのは、走馬灯と同じ原理なのだろうかと変な思考が湧いて出てくる始末だった。

 恐らく、レミリアも似た心境だったのだろう。影を見た瞬間、全速力でこちらへ向かって走ってくるのが分かった。しかし彼女も激しく動揺していたのか、足を(もつ)れさせて派手に転がってしまう。

 人形の影が、レミリアに追いつく。それは二本の腕を伸ばしてレミリアを掴むと、そのまま奥まで素早く連れ去ってしまった。

 ほんの一瞬……レミリアが腕に捕まった瞬間に私と眼が合ったが、彼女の眼はどこか、絶望にも近い虚の色を浮かべていた様に見えてしまい、思わず唇を引き締めてしまう。

 

 訳が分からないが、とにかくヤバい……!

 私は一歩、二歩と後ろへ下がった。レミリアが何に捕まったのかは分からないが、明らかに危険だと言う事は直観で理解できた。嘘の様な静寂に館が包み込まれ、加えて影が蠢きレミリアを攫うだなんて馬鹿げた光景を目の当たりにしてしまえば、この館がいつもの紅魔館ではないと誰だって理解できるだろう。

 私は元来た通路を走った。私は妖怪と違って脆弱な人間だ。頭を弾かれれば当然死ぬ。引き際を間違えると言う事は自殺をするという事と同義なのである。ここが引き際なのだ。今日の所は霊夢に救援を要請するために撤退するのが得策だ。

 

 もう少しで正門へ続く扉が見えてくるところまで走り抜ける。ものの数秒で、私は館から脱出できる。

 しかし、私は外へと出る事は叶わなかった。突如横から伸びて来た白い腕が私を絡めとり、部屋の中へ引き摺りこんだのだ。

 

「っ!!? 離――――」

「落ち着いて魔理沙。私よ」

 

 反射的に強化魔法を発動した箒の柄を握り締め、掴んできた相手を叩きのめそうとした瞬間。冷たい手で口が塞がれ、さらに箒を持つ手も魔法障壁で拘束され、身動きを封じられてしまう。

 何が起こったのか分からないままその手の持ち主へと顔をやると、意外な事に犯人は、ここに居る筈のないパチュリー・ノーレッジ本人であった。

 何故、動かない大図書館と名高い少女がこんなところまで出てきて、私の口を塞いでいるのだろうか。そんなどうでもいい疑問が、混乱で支配された私の頭に沈静剤として働く。影を見た恐怖とレミリアが攫われた現場を目撃してパニックになっていた頭が、まるで針を突き刺された風船のように萎んでいき、どうにか面と向かって会話できる程度に落ち着きを取り戻す。

 

「冷静になれた様ね」

 

 パチュリーが私の口から手を離し、腕を拘束した魔法を解除すると、慎重な手つきで部屋のドアを閉じた。まるで誰かに気付かれる事を防いでいるかのようだ。憶測だが、正確にはあの影に居場所を知られないようにしているのだろう。

 

「なぁ、パチュリー。さっきレミリアが……っ」

 

 連れ去られた、と口に出しかけて、パチュリーの今までに見た事の無いような深刻な表情を目にし、押し黙ってしまう。

 数拍の沈黙が私たちの間を占有し、部屋に置かれた古時計の秒針の音が、何かのタイムリミットを示さんばかりに五月蠅く聞こえた。

 

「いつの間にか、とは正にこの事を言うのかしら。まさかあなたまで巻き込まれていたとは思わなかった」

「巻き込まれるって、なにに?」

「無意味にとぼける必要は無いわ。見たのでしょう? レミィが攫われたところを」

 

 パチュリーに言われて、脳裏に、あの黒い影が思い浮かぶ。ただでさえ背の低いレミリアがさらに小さく見えてしまう位大きくて、視神経が影の映像を受信し脳へ送り込んだ瞬間から警報が発せられた、生理的な恐怖感を覚えるあの姿が。

 鳥肌が布を擦る感覚を出来るだけ意識しないようにして、私は言葉を引き出した。

 

「一体全体、紅魔館で何が起きているっていうんだ?」

「さぁ。私にもわからない」

「おいおい、そいつは変な話だぜ。何かしら物事が起こるには導入が必要不可欠なはずだろ」

「私はその導入を省かれたクチなのよ。気が付いたら、追われる事になっていたわ」

 

 パチュリーは部屋の中の適当な椅子に腰かける。私も習って、テーブルの上に座り込んだ。

 

「魔理沙、いい? 今紅魔館は完全に閉鎖されている状況にある。日付が変わるまでは絶対に外へ出る事は出来ないわ。だから、あなたは日付が変わるその時間まで捕まらずに逃げなさい。自分の身の為にも」

 

 …………閉鎖、だって?

 それはおかしい。この館が出入り不可能にされているのだったら、私がエントランスに入る事など出来なかったはずだ。閉鎖と呼ぶにはあまりにも優しすぎる。外からつっかえ棒をドアに掛けて鍵を掛けているんですって言う位滑稽な話だ。

 

「私は普通に入ってこれたぜ? 正門からなら出られるんじゃないか」

「この館に張り巡らされた閉鎖魔法は、『とおりゃんせ』と似た性質を持っているの。あなたが入る事が出来たのは多分そのせいね。でも出る事は叶わない。私も魔法で壁を破って脱出しようと思ったけれど、どれだけやっても傷一つ付かなかったわ。試すのは自由だけどお勧めしない。魔力の残り香を探知されて見つかるのがオチよ」

 

 とおりゃんせと言えば、あの有名な童話の事で間違いないだろう。成程、入れるけど出られないって性質は、行きはよいよい帰りは恐い、の歌詞を指しているのか。

 しかし、そうなると非常に厄介だ。パチュリーは皮肉をよく口にするが嘘を吐く奴じゃない。おそらく今言ったこと全てが本当の事なんだろう。理由は分からず仕舞いだが、この館からは日付変更時まで出る事は叶わず、紅魔館のメンバー全員が、あの黒い影に追われているという奇奇怪怪な状況下に置かれている。そして私は、運悪くその事件に巻き込まれてしまったと言う訳だ。

 

「レミリアが連れていかれたが、まさか食われたり、なんて事は無いよな?」

「ある意味それよりも恐ろしい目に遭うわ。それだけじゃない。一人捕まるたびに増えていくのよ。逃げ延びる事がどんどん困難になっていくの」

 

 増える……? 食べられるよりも恐ろしい目に遭う?

 パチュリーが静かに言い放った二つのキーワードが、私の脳内に悍ましい想像を作り上げていく。想像はフラッシュバックの引き金となったかの様に、あの影を見た瞬間に感じとった恐怖を、目の前で体験しているかの如く呼び起こした。

 捕まったら、怖ろしい目に遭う。そして、あの黒い影が増えていく。それが示す所はつまり、取り込まれて眷属にでもされてしまう、という所だろうか。

 そう言えば、パチュリーから借りた本で読んだことがある。何でも『ウィルス』という菌よりも小さな生物に似た存在は、生き物の細胞に入り込むと自分の素を植え付けて、その細胞を材料に仲間を作る事で増殖していく性質を持つと。それに似た能力を持っているのなら、レミリアはもう既に――――!

 

 落ち着いた筈の頭が、再び火にかけられたやかんの様に熱を持ち始めた。そんな私を余所にパチュリーは、至極淡々とした口調で告げる。

 

「事が始まって五分で小悪魔が捕えられて、さっきレミィもやられたみたいだから、今は少なくとも三体存在している訳ね。厄介極まりない状況だわ」

「……何で、そんなに平静でいられるんだ。お前の大切な親友が、パートナーが()られてるんだぞ!? 何とも思わないのかよ!?」

()られてしまったものは仕方がないじゃない。今は自分たちが生き残る事に集中すべきよ」

 

 こいつ……! クールな奴だとは思っていたけれど、まさかここまで冷血な魔女だとは思わなかった。パチュリーにとっては、私には想像もできない長い時を共に過ごした筈の親友や、あれだけ慕ってくれていた小悪魔がどうなろうが知った事ではないんだ。

 

「お前、そんなに冷たい奴だったんだな。見損なったぜ」

「何を見損なったのかは知らないけど、とにかくここを離れるわよ。さっきあなたの攻撃を止めるために発動した魔法の気配に勘付いて、この部屋に向かってきている筈だから」

 

 パチュリーは椅子から立ち上がってスカートの汚れを落とすと、静かにドアを開けて外の様子を伺った。パチュリーは手で大丈夫だと合図して、さっさと部屋を後にしてしまう。

 

 ……私はもう、何が何だか分からない状態だった。

 いつものように本を借りに来て、いつものように誰かに見つかって、いつものように弾幕ごっこで遊んで。勝負に勝ったらそのまま家に帰って、もし負けたらパチュリーとくだらない雑談をして帰る。それだけの日常の筈だった。何も変わらない、普通の日々の一節の筈だったんだ。

 それが何で、この短い間に二人も命を落としてしまう非日常になってしまったんだろう。どうして、どこで歯車が狂ってこんな事に……。

 

 無意識の内に、ポケットの中のミニ八卦炉へ手が伸びる。香霖から作って貰ったこの魔法道具を触っていると、何だか勇気を貰えるような気がしたのだ。

 すぅ、と息を吸って、吐く。生きるために当たり前のように行っている一息が、私に力をくれた。あの仏頂面で不器用な優しさを持つ店主がくれた八卦炉が、私に勇気をくれた。

 やってやる。

 レミリアと小悪魔の仇をとる。脱出が出来ないなら、この館を密室に仕立て上げた元凶を退治してやればいい。なんて事は無い。いつも霊夢とやってる異変解決だ。それにもしかしたら、元凶を退治すれば眷属にされたレミリア達も戻ってくるかもしれない。

 俄然、戦う意思が湧いてきた。私は部屋を出ようと箒を手に、外へ出ようとして、

 

『えっ、ちょ、そんな、う、嘘でしょむきゅあーっ!!?』

 

 ザザッ! と何かが床に降り立つ音と、聞いたことも無いパチュリーの悲鳴が私の体へ急ブレーキを掛けた。

 

「パ――――っ!」

 

 叫びそうになって、思わず手で口を塞ぐ。

 外に、居る。

 待ち伏せしていたのだ。多分、床に降りた音がしたところからして、天井にでも張り付いていたんだろう。パチュリーが外へ出たのを確認して、襲い掛かったに違いない。

 奇襲をかけて助けよう。今ならまだ間に合う筈だ―――そう考えた矢先に、反対方向から足音が規則正しく聞こえて来た。パチュリーが言っていたもう一体の影だ。

 マズい。流石に二体を同時に相手取るのは無謀すぎる。一体を目にしただけでも恐慌状態に陥りかけたのだ。そんな怪物二体と戦って勝てるわけがない。

 

 落ち着け。打開策を脳ミソから絞り出すんだ。

 ああそうだ。思い返せば、奴は獲物を攫ってどこかへ運んでいた。もしかしたら獲物を持ち帰る巣のような場所が、この館のどこかへ作られているのかもしれない。でなければ捕まえた瞬間から眷属にしてしまう筈だ。

 私はあの影が、獲物を材料に仲間を増やすタイプなのかと考えていたがどうやら違うらしい。獲物を持ち帰る理由を考えると、全く別の答えが頭に浮かび上がったのだ。

 おそらく奴は、獲物そのものを材料にして分身を作らない。捕え、巣に拘束した獲物の持つ強大な魔力や妖力といった力を糧に、分身を作り出している可能性が高いように思える。パチュリーが仄めかしていたじゃないか。奴は魔力の残り香に敏感だと。それは、強い力を持った獲物を見分けるための機能なのだろう。

 だとしたら希望はある。巣があるのなら、そこに皆のエネルギーを吸い出しているマザーが居座っている可能性が高い。力を吸われても命が無事ならば、そいつを叩けば皆を解放してやれるかもしれないのだ。

 

 すまない、パチュリー。後で必ず助け出すからな。

 

 兎に角、救出するにしても今見つかっては元も子もない。私は周囲を見渡して、丁度私一人が隠れられそうなクローゼットを発見した。迷わずそこに飛び込んで、音を立てないよう静かに戸を閉める。口を両手で押さえ、暗闇の中全神経を耳に集中させた。

 フー、フー、と指の間から漏れ出す呼気だけが、クローゼットの中で唯一存在する音になる。それさえも五月蠅く聞こえてしまって、私はなるべく呼吸音を発生させないよう、息を深く吸って控えめにゆっくりと吐く呼吸を繰り返した。

 足音が遠ざかっていく。どうやら気づかれていないらしい。念のため、私は暫くこの中に居座る事にした。

 暗闇の中、気力との勝負が始まりを告げる。

 

 

【ルールその2:捕まった者は拠点に送られる。しかし、鬼の手を掻い潜り拠点へ仲間が辿り着けば解放される】

 

 

 どれくらい時間が経っただろうか。秒針が進む音の回数を数える事を止めてから、随分経過した様に思える。もしかしたら30分も過ぎていないかもしれないが、体感的には一時間弱もここに閉じ込められている様に感じた。別に閉所恐怖症と言う訳ではなのだが、胸の内から湧いて出てくるこの緊迫感を保ったままクローゼットで籠城し続けると、気が狂ってしまいそうだ。

 時間的にも精神的にも、そろそろ良い頃合いだろう。パチュリーの情報から考えて、敵はおそらく現時点で四体だ。数的には相当な脅威だが、ここは咲夜の能力でただでさえ広いスペースが更に広くなっている紅魔館である。四体それぞれが巡回しているにしても、移動にはそれなりに時間を食う筈だ。

 意識を押し殺してクローゼットから脱出しようとした、その時。何かがパタパタとこちらへ向かってくる音がして、私は戸を押しかけた手を引っ込めた。

 奴が戻って来たのか? と冷や汗が滲み、じわりとした感触が手の内側に生じる。

 しかし私の心配に反して、次に聞こえて来たのは聞き慣れた鈴の音の様な声だった。

 

「この『気』は、やっぱり間違いない。魔理沙さーん、そこに居るん……ですよね?」

「…………美鈴か?」

 

 おそるおそる戸を開くと、そこには様子を伺うように首を傾げている、紅い髪の見知った門番の姿があった。

 傷も無く、あの影に取り込まれた様子も見られない。正真正銘、よく昼寝をして咲夜に怒られている、妖怪の癖にお人好しで朗らかな美鈴だ。

 目の前でレミリアとパチュリーを失った反動もあってか、思わず私は美鈴へ突撃し、力の限り抱き締めた。柔らかい感触が腕を伝い、同時に彼女の声帯からぐえっと潰された蛙の様な声が漏れ出す。

 

「く、苦じいれす……と言うかあの、いつの間に魔理沙さんも参加したので―――――」

「良かった……! 美鈴は無事だったんだな!」

「―――えぅ? 無事? はい、私はこの通り元気ですよ……?」

「良かった。本当に良かった。レミリアもパチュリーもやられちゃったから、お前も駄目なんじゃないかと思ってたよ」

「それは本当なの?」

 

 ドアの外から、美鈴とは違う凛とした声が部屋へと響いた。ああ、この清水の流れるせせらぎの様に繊細で、どこかふわりとした陽だまりの温かさを含んだ声は間違いない。紅魔館のメイド長、十六夜咲夜その人だ。どうやら部屋の外で、あの影が来ないか見張っていたらしい。

 私は咲夜の方にも抱き付こうと飛び掛かったが、眼前にナイフを突きつけられて拒否された。イケズな奴だ。ここは生き残った者同士、感動の再会を分かち合う所だろうに。

 

「お嬢様がやられてしまったというのは、本当?」

「……ああ。私の目の前で、連れ去られちまった」

 

 レミリアの悲壮感漂うあの眼を思い出してしまい、唇を噛む。心なしか、拳に籠る力も強くなった。

 私の様子を見て、咲夜の氷像の様な鉄仮面が揺らぐ。お嬢様の事になると直ぐに芯がブレるこの少女の仕草が、何だか長い時を隔てて再会した友達の様に思えて、堪らなく愛おしかった。

 

「そう言えば、フランは? フランはどうしたんだ」

「妹様は行方不明よ。追われ始めてから直ぐに飛んで行ったわ。無事かは分からない」

「ご心配なく。『気』で探ってみたところ、敵影の数は現在四つです。小悪魔とお嬢様、パチュリー様が捕まってしまわれているのでしたら、増加数はこれで合います。妹様はまだ捕まっておられないのでしょう」

「じゃあ、一先ずは安心ってところなのか……。なぁ美鈴、咲夜。奴の巣を叩けば、皆を助けてやれる何てことは、有り得ないのか?」

「巣……? ああ、拠点の事ですか。一応可能ではありますが」

 

 美鈴の表情が明らかに曇る。それが示す意味は、私の頭に組み立てられた、巣に居座って高みの見物をしているだろう影の母体を叩きのめし、皆を呪縛から解き放つ奪還作戦が至難の道を極めているとみて間違いないだろう。

 

「拠点付近には、分身が常に徘徊して見張っています。分身とは言え、その眼を掻い潜って突破するのは非常に困難かと」

「……見張ってて邪魔なら、退かしてしまえば良いんだ」

 

 カンッ、と箒で床を突き、私は戦意を表明する。レミリアが攫われた時、そしてパチュリーが奇襲された時。情けなく尻尾を巻いて逃げ出した私だが、今は頼もしい仲間が出来た。人間は、強大な敵と戦う時は力を合わせて打ち勝ってきた。力を合わせた人間が、時として想定以上の戦果を挙げる事は人と妖怪の歴史が証明している。一人より二人、二人より三人だ。

 美鈴は人間じゃないけれど、その分仲間でいてくれたら心強いことこの上ない。咲夜も言うまでもなく、頼もしい味方になってくれる。

 

「別に、敵を攻撃しちゃダメなんてルールは無いんだぜ」

「……言われてみれば確かにそうですが……いや、しかし、相手は―――」

「頼む、力を貸してくれ。私は、あいつらの無念を晴らさなくちゃならない。散っていったパチュリーとレミリアの為にも、これは成し遂げなくちゃならないんだ。それがあいつらを助ける事に繋がるのなら、尚の事。でも私ひとりじゃ到底立ち向かえない」

 

 だからどうか、協力して欲しい――――頭を下げて、私は美鈴へと懇願する。

 暫しの沈黙の後、美鈴は観念したかのような溜息を吐いた。

 

「私としては、はっきり言いますと立ち向かいたくなんてありません。足が竦むほど恐ろしい。ですが、分かりました。引き受けます、貴女との共闘を」

「多分、弾幕ごっこなんかとは違って危険な戦いになる。それでも、一緒に戦ってくれるのか?」

「……魔理沙さん。私はどうやら貴女の事を過小評価していたようなのです。例えどんな些細な事でも全力で立ち向かおうとするその姿勢、強く胸を打たれました。私の十分の一も生きていない子にそんな眩しい姿を見せられて、私自身が縮こまっている訳にはいきませんよ。―――戦いましょう。力を合わせて、皆の勝利を目指すんです」

 

 そう言って私の手を取った美鈴の顔は、今までに見た事も無い闘志に溢れていた。もう、幸せそうに涎を垂らして熟睡している門前の置物としての情けなさはどこにも無い。武勇をその胸に燃やし、仲間の為に身を削って立ち上がる事を覚悟した、一人の戦士がそこに居た。

 頼もしい。美鈴がこんなにも頼もしいと思える日が来るなんて夢にも思っていなかった。私は、この勇敢な妖怪と共に戦えることを誇りに思う。例えその先に、影に囚われ新たな分身を作るための苗床となり果てる未来が待ち受けていたとしても。

 

 私は美鈴と熱く握手を交わしつつ、咲夜を見る。彼女は珍しく、頭痛を抱えている様に額へ手を当てていた。

 

「咲夜も、手伝ってくれるか」

「え? あ、うん。良いわよ」

「サンキュ! 流石は咲夜だぜ。レミリアはさぞかし鼻が高いだろうよ。こんなに立派な従者が付いているんだもんな」

 

 親指を立てて、咲夜に私は精一杯の笑顔を送った。咲夜はふん、と鼻を鳴らして、そっぽを向いて黙ってしまう。素直じゃないな。でも私には分かる。間違いなくコイツは照れている。

 

「じゃあ、早速作戦を伝えたいが……敵の本拠地はどこにあるか知ってるか?」

「二階にあるお嬢様の執務室です。見張りの分身は、執務室と接した廊下を徘徊しています。二階に繋がる階段を昇れば、必ず鉢合わせになるでしょう」

「なら方法は一つだな。二手に分かれて挟み撃ち。どちらか片方が生き残れば、必然的に本拠地を叩ける。そうすりゃ文句なしの王手だ」

「ですね。後はタイミングですが……っ!!」

 

 突然、美鈴の表情が険しくなる。視線は部屋の外へと向き、その行動が自然と危機的状況を告げる警報となった。

 

「流石、と言うべきなのでしょうか。左右から挟み込むようにしてこっちへ向かって来ています。端的に言えば囲まれました」

「何だって!?」

「最早隠れても、意味はないみたいですね」

 

 そう言うと、美鈴は躊躇いもなく室外へ飛び出した。私と咲夜も続いて、外へと出る。

 美鈴の言う通りだった。

 廊下の端と端から、それぞれ一体ずつの影が迫ってきている。走ってはいない。ただゆっくりと、私たちを追いつめるようににじり寄ってきているのだ。

 ただでさえ明かりの少ない上に夜だったために、奴の姿が今の今まで明瞭に見えなかったのだが、廊下の天井を照らすシャンデリアの元を潜った事で、漸く影の確かな輪郭が露わとなった。

 男だ。

 顔は遠く暗くてよく分からない。しかしこの距離でもはっきりと存在が認識できる。影の正体は、後ずさりしてしまいそうな捕食者の圧迫感を背後に携える、およそ190以上はある大男だった。

 

 足が震える。

 貧相なカスタネットの様にカチカチと、歯が情けない音を鳴らす。

 吐きそうになるような威圧感。絶対に立ち向かってはいけないと本能が訴える禍々しい気配。

 どうしよう。怖い。勇気を出して立ち向かうと決めたけど、いざ対面してみると悲鳴を上げて逃げだしそうなくらい怖い。レミリアとパチュリーを抵抗の隙を与える間もなく捕縛した、分身でしかない筈の、男の姿をした影がどうしようもない悪寒を呼び起こす。奴の輪郭を視界に捉えるだけで、恐怖と言う名の粘質な物体が、獲物を取り込むアメーバのように精神を侵食してくる。

 しかもそれが、前だけでなく後ろにもいるのだ。私の命を支える大切な臓器が、過労を訴えて止まるんじゃないかと思うくらい働き始めた。ドッドッドッドッドッと、脈が太鼓の如く胸の内側から勢いを増しつつ叩かれ続ける。状況は絶望的だが、私の心臓は祭りの様に賑やかだった。

 

 ぎりっ、と奥歯を噛み締め、どうやってここを突破するか考えを巡らせていた、その時。

 私を縛り、包み、落とし込んだ恐怖を打ち砕くように。美鈴が一歩、私たちの前へと踏み出した。

 その手には虹色の『気』が立ち込めていて、微かに紅い絹の様な髪が揺らめいている。

 

「ここは私が食い止めます」

「美鈴……!」

「その隙に突破してください。貴女の素早さならここを抜けられる筈です」

 

 彼女の言葉は事実上、進んで犠牲になると表明している事に他ならなかった。

 

「でも、それじゃお前が!」

「行ってください!! 何が何でも皆さんを助けると言ったのは、他でもない貴女自身じゃないですか! 成し遂げるんです。私を踏み越えて、その先の勝利を掴み取るんです! 貴女にはその義務がある!!」

 

 春風がそよぐ原っぱの様に朗らかなイメージとは違う、戦闘の覇気に満ちた怒号が飛ぶ。その激励が、私の心を縫い止めていた恐怖の鎖を打ち砕き、体に活力を取り戻させていく。

 魔女の正装を模した帽子を直し、私と咲夜は箒に跨った。穂の中に八卦炉を挿し込み、魔力を充填していく。

 言うべき言葉は、ただ一つ。

 

「―――必ず助ける」

「これも修行の成果を示す良い機会です。さぁ行け! 霧雨魔理沙!!」

 

 美鈴の腕から、眩い虹色の弾幕が一斉に放たれた。それが影の動きを絶妙に牽制し、弾幕の波に乗った私たちを廊下の最奥へと突破させる。怖ろしい速度のまま突き抜けた私たちは、目的地へ続く方向へ飛行魔法の流動性を調節する。

 止まるような事はしなかった。美鈴の助言通り、私は魔力を操作して莫大な推進力に任せるまま、二階の執務室へ迷うことなく一直線に突き進んでいく。

 階段を抜け、執務室へ続く廊下へ差し掛かった時。分身の姿が視界に映った。奴らの母体が居座る巣を守る、番人的存在だ。

 八卦炉に接続した魔力の噴射を切り、停滞して浮遊状態を保つ。丁度、影と睨みあう様な形となった。相変わらず相手の顔は暗すぎて見えないが、心なしか驚いているようにも見える。そうであれば、してやったりと言ったところだ。

 

 だがしかし、どうする。このまま突っ込んでもおそらくただ捕まるだろう。だってあの分身は、いくら足を縺れさせてこけたとはいえ、吸血鬼であるレミリアを一瞬で追い詰めるほどの敏捷性を持っているのだ。いくらスピードに自信があるとはいえ、妖怪が本気を出せば、普通の魔法使いでしかない私がどうなるかは考えるまでもないだろう。ならば機動力を封じるために、美鈴と同じように弾幕で攪乱するか? いや、箒を推し進める為に八卦炉へ力を回せば、奴を圧倒するほどの密度を持つ弾幕は作れない。

 どうする。どうする。

 

「次は私の出番の様ね」

 

 思考の渦に呑まれた私を引き上げるように、腰にしがみ付いていた咲夜が言う。薄く振り返れば、彼女は何か妙案を思いついた切れ者の眼をしていた。

 何をしようとしているのか大体は予想できる。時間を操るという反則に近い能力を持つ彼女が、時間を止めて避けようのないナイフの弾幕を展開する気なのだろう。

 しかしそれを実行するには、大きな問題が壁となって立ちはだかる。

 

「いくら時間を止めても、唯一能力の対象外であるお前自身は、時間を止めた瞬間のエネルギーの影響をモロに食らうんだろ? あの速さの中で時間を止めれば、ワケの分からない方向に吹っ飛んじまうぞ。時間を止めずにナイフを投げても、ナイフが奴に刺さるより私たちが分身の元へ到着する方が速いぜ」

「いいえ、ナイフは投げないし時間も止めないわ。使うのは私自身。分身と接触する寸前で、空間を歪曲させて私を分身の目の前に放り出すのよ。その隙に執務室へ行って頂戴」

「そんな事が出来るのか?」

「知らない様ならこの機会に教えてあげる。時間を操ると言う事は即ち、空間をも支配下に置く能力だという事をね」

 

 十六夜咲夜は、決して自信家と言う訳では無い。彼女は客観的に物事を見る能力に長けていて、己に対して適切な評価を下している。出来ない事は出来ないと言い張り、出来る事は出来ると言うタイプなのだ。つまり彼女が出来ると言った以上、それは能力に対する過信でも何でもなく、必ず成功できるという確証があっての事なのだろう。

 ならば、そいつを信じる事に何の躊躇も無い。

 

「タイミングはどうする」

「そのためのスペルカード宣言でしょ。合図にはうってつけ」

「決まりだな。任せた」

「任された」

 

 八卦炉に魔力を再度注ぎ込み、充填させる。あとは後ろへ撃ち放てば、ジェットの如く私たちを分身の元へと押し流すだろう。

 咲夜が手元にカードを持つ。カードの名を宣言された瞬間が、勝負の行く末を握るカギとなるのだ。

 気合十分。魔力十分。勝利は目前。後退は、無い。

 

「いくぜ」

 

 ドバンッ!! と八卦炉が轟音と共に炸裂した。穂先から背後へ流れる魔力の奔流が爆発的に推進力を生み出し、私たちを彗星へと変えていく。一気に分身との距離が縮まり、それに合わせて風を切る音が私たちを歓迎した。

 勝利への道が、姿を現し始めていた。

 決め手となったのは、カードを手にスペルを囁く彼女の声だ。弾幕を伴わない、ただ合図としての、スペルカード宣言。

 

「幻世『ザ・ワールド』」

 

 私の腰に回っていたか細い腕の感触が消える。空間を操り、私の背後から一瞬にして分身の前に移動した咲夜は、そのまま分身を巻き込み派手に廊下を転がっていった。

 その隙に私は魔力を箒の先端から逆噴射させ、推進力を相殺して執務室の前へと体を放る。宙を舞う中、反動でお尻の下から弾き飛んだ箒を捕まえ、穂の中の八卦炉を取り出すと、ドアを蹴り破る勢いで執務室の中へ侵入した。何時でも発射できるように八卦炉を魔力で満たし、内部のターゲットへ向けて照準を合わせる。

 私は、自身の最も得意とする魔法を―――スペルを、勝利宣告の如く宣言した。

 

「マスタ――――スパァ―――――――」

 

 

【ルールその3:勝利条件は日付変更まで逃げ延びる事とする】

 

 

 紅魔館の皆を捕え、力を吸い出しているだろう巨悪の根源たる母体に向けて極大の閃光を叩き込もうと執務室へ入った私は、信じられない光景を目の当たりにして固まった。

 執務室に広がっていたのは、紅魔館の住人が卑劣な影の母体に捕えられている凄惨な現場などではなく。

 和気藹々とお茶会を楽しむ、少女たちの姿だった。

 

「日付変更まで1時間切っちゃったわねぇ。あーあ、咲夜か美鈴が助けに来ないかしら。ずっと待ってるだけだと暇で暇でしょうがないわ。このままだと罰ゲーム受けちゃうし」

「罰ゲームはともかく、私としては、走り回るよりこうして静かに紅茶を飲みながら本を読める方が好ましいのだけれど―――小悪魔。この紅茶、砂糖と塩を間違えているわよ」

「ひゃいっ!? あ、も、申し訳ありません! 直ぐに取り替えます!」

「全く……あなたもいい加減、ある程度ナハトの瘴気に慣れなさいな。この先やっていけないわよ」

「うぅ、分かってるんです。分かってるんですけど、でも、どうしても眼を合わせると緊張しちゃって……!」

 

 机の上でぶっすーと不貞腐れているレミリアが。本を読みつつ紅茶を啜り、違和感しかない味に顔を顰めて小悪魔を叱責するパチュリーが。何故かカチコチに緊張して狼狽えている、いつも以上に気弱な小悪魔が。

 要約すると、いつもの紅魔館がそこにあった。

 何一つ変わった様子のない紅魔館が―――――、

 

「おい」

「あら魔理沙。さっきぶりね。もしかして助けに来てくれたの? もっと遅くても良かったのに」

「……そう言えば私も、捕まる瞬間にチラッとだけ見たわね。いつの間に参加してたのかしら」

「え? レミィが呼んだ訳じゃないの?」

「違うわよ。多分フランが呼んだんでしょ。あの子魔理沙が大好きだし」

 

 至極どうでもよさそうに結論付けるレミリアと、その可能性が濃さそうね、と適当な相槌を打ちつつ黙々と活字の世界へ没頭するパチュリー。

 私の中の何かに、猛烈に大きなヒビが入り込んだ気がした。

 気がついた時には、私は内側から込み上げてくる激情を晴らすかのように叫んでいた。

 

「―――なんっっっっだよこれぇ!!?」

 

 ビクッ、と小悪魔の肩が跳ねて、レミリアの眼が細くなり、パチュリーが唇を引き締めて耳を塞ぐ。でも今の私は彼女らの鼓膜を心配していられる余裕なんて無かった。

 

「五月蠅いわねぇ。なんだよこれー、はこっちの台詞よ」

「おまっ、お、レミリアッ!! お前は分身を作るための栄養源にされていたんじゃなかったのかよ!? パチュリーも、小悪魔もだ!! 紅魔館が何者かに強襲されて、そんでお前らがどんどん捕まっていって、壊滅の危機を迎えかけてたんじゃないのか!!?」

「……パチェ。貴女、あの黒白が一体何を言っているのか理解できる?」

「残念だけど翻訳できないわ。何となく、若気の至りから妄想を爆発させて変な方向に拗らせちゃったのかなとはニュアンス的に捉えられたけれど」

 

 いやー若いってのはパワーだねーと、吸血鬼とその親友からセットで生暖かい視線を送られた。なんだ。なんだこれは。これではまるで私が、何か盛大な勘違いをして空回りを繰り返した間抜けな道化の様ではないか。

 なんとなく事件の全貌が見え始めて、私は首から顔がどんどん熱を帯びていく感覚を覚えた。

 やばい。もしかしたら私、凄く恥ずかしい奴になってしまったのかもしれない。

 

 思い返すと、不自然な点はいくらでもあった。危機的状況なのにどうして日付が変われば館に掛けられた魔法が解けて解放されるのか。何故パチュリーが、仲間がやられたというのにあそこまで淡白だったのか。普段外に居る筈の美鈴まで偶然館に閉じ込められていたのは何故か。咲夜が私と美鈴の結託を見て頭が痛そうにしていたのは何故なのか。レミリアがやられたと聞いて咲夜がそれほど取り乱さなかったのは何故なのか。

 あぁ、ざっと思い浮かべるだけでもこれだけ不審な点が浮かび上がってくる。普通ならすぐに気づくことが出来たはずなのに、あの影が私に植え付けた理不尽な恐怖のせいで目が曇り、事の真偽を見極める事が出来なかったのだ。

 

「あ、あのさ」

「なに?」

「お前ら、い、一体何をしていたんだ……?」

「何って」

 

 レミリアとパチュリーが、互いに顔を合わせ、首を傾げる。どうでもいいことだが妙に息の合った仕草だった。

 そして、レミリアは蝙蝠の様な翼をパタパタと動かしつつ、言葉を紡ぐ。

 

「鬼ごっこでしょ」

 

 ………………?

 鬼ごっこ? おにごっこ? ONIGOKKO?

 一つの言葉が、私の頭で竜巻の様に回転し、狭い屋内で思い切りゴムのボールを投げたかのように跳ね返り続ける。遂にはゲシュタルト崩壊の一歩手前まで足を突っ込んでしまった。

 鬼ごっことは、アレだ。一人がハンターの役割を担って、ゲームに参加した他者を次々と捕まえていく、至極単純なルールでありながら、少年少女の心を掴んで離さず、過去から黙々と受け継がれているミームに等しい遊びの一種だ。

 何が起こっていたのか。そして自分が今何をしようとしていたのか。それら二つの要素を半ば自動的に理解する。理解してしまう。

 そして唐突に訪れる、羞恥心の津波。顔はこれ以上に無いくらい沸騰し始め、パクパクと金魚みたいに口を動かすことしか出来なくなってしまっていた。

 私は、こいつらの盛大な鬼ごっこの為に、命を賭けようとしていたのか。そんな事の為に、あんなに思い切った啖呵を吐いてしまったというのか。

 美鈴の言葉が、頭の中にふと蘇る。

 

 ――――例えどんな些細な事でも全力で立ち向かおうとするその姿勢、強く胸を打たれました。

 

 例えどんな些細な事でも、全力で。

 つまるところ私は、傍目から見れば鬼ごっこに命を賭ける熱血な女の子に見えていた訳で。

 それを理解した瞬間。心の底から、死にたいと思った。

 ぷしう、と頭から湯気を出して膝を抱えて蹲ってしまった私に、パチュリーが無駄に暖かみを込めた声で告げる。

 

「人生色々よ。気にすると毒だわ」

 

 グサリ、と頭頂部辺りに言葉の刃が突き刺さる。時として励ましはどんな罵倒よりも強力な武器になる事を、この魔女は知らないのだろうか。

 

「~~~~~っ!!? も、もとはと言えばお前があの時ちゃんと説明してくれなかったから……!」

「これはフランの気紛れで生まれた、所謂一つの親睦会みたいなものでね。フランに好かれているあなたなら、レミィかフランに招待されて途中参加をしていても不自然ではないと思っていたの。あなたの事だから壁をくりぬいて時間切れまで逃げようとするんじゃないかと思って、釘を刺す事しか考えていなかったわ」

 

 ちなみに、とパチュリーは付け足し、

 

「あなたの後ろに居る方が、件の増える鬼さんよ」

 

 パチュリーの言葉通りに、ゆっくりと後ろを向く。

 部屋の入り口に、魔王が居た。

 灰色の髪と紫の瞳をした大男が、尋常ではない威圧感を放ちながらこちらを見ている。

 口元から一対の氷柱の様な牙を覗かせ、彼はやんわりと微笑んだ。

 その笑顔が、春が来なくなる異変の時に冥界でほんの少しだけ封印が解け、力を放出した西行妖の如く禍々しく、妖艶で。

 ヒートアップした体が悪寒と恐怖で一気に冷めた反動なのか、私の意識は呆気なくブラックアウトした。

 

 

【ルールその4:勝者は敗者に好きな罰ゲームを課す事が出来る】

 

 

 知らない女の子が執務室に入って行ったと分身から得た情報で気がつき、何事かと見に行ってみると、昔の魔法使いの様な格好をした少女が私の顔を見て気を失って倒れた。面会してからここまで数秒足らずの出来事である。もしかしたら私と顔を合わせて気絶するまでのベストタイム記録を更新したかもしれない。

 それはさておき、分身から得た情報を見るに、この少女は人間の魔法使いであることは間違いない様だ。……つくづく思うのだが、魔法使いさんと私は相性が悪いのだろうか。パチュリー然り、顔を合わせると必ず気絶されている気がする。お蔭で弁明の余地も何もなかった。せめてもう少し魔性の効力が薄ければ、大分楽にコミュニケーションをとれると思うのだがなぁ。

 

「おじ様、お帰りなさい。皆捕まったの?」

「いや、フランがまだだ。どこかに隠れているのか、逃げ続けているのかは分からないが全く見当たらない」

「申し訳ありませんお嬢様、捕まってしまいました」

「咲夜さんに同じく……あはは。いや流石にあの状況からは無茶にも程があるかなって弁解してみたりははははは」

 

 私の後ろから、どことなく悔しそうな咲夜と目が虚ろになっている美鈴が顔を出す。あの魔法使いの少女をここまで突破させるために、まさか彼女たちが分身に挑みかかってくるなんて思わなかった。特に咲夜は、外の世界のスタントマンの様に分身へ向かって凄まじい勢いで飛び掛かって来たものだから、いつものクールな印象とは違った一面を垣間見る事が出来た気がする。もしかしたら表はクールで内面はホットな少女なのかもしれない。

 床で伸びている魔法少女を見て、美鈴が目を丸くした。

 

「ありゃ、魔理沙さん捕まっちゃったんです?」

「いいえ。そもそも彼女はゲームに参加していなかったらしいわ。ナハトの事を、紅魔館を襲う怪物か何かだと思ったらしくてね。捕まった私たちが餌にされていると、盛大に勘違いしたみたいなの」

「ああ、そう言う事ですか。だからあんなに魔理沙さん熱くなってたんですね……ってそう考えると私は誤解に誤解を重ねてヒートアップしていただけって事になるんでしょうか。う、うぅ。か、顔が熱いです」

 

 美鈴が顔を茹蛸の様に紅潮させつつ、手を頬に当てて項垂れた。そしてパチュリーからさらりと聞き捨てならない事を言われた気がするが、この際放っておこう。一見で誤解されるのはもう慣れてしまっている。

 が、このまま私に悪い印象を抱かれたままだと、心苦しいのも事実だ。あまりこんな事はしたくないのだがやむを得まい。記憶をほんの少しだけ弄らせてもらおう。元より彼女はこのゲームに参加する事の無かった人物だ。今晩の記憶が抜け落ちても、夢か何かで済ます事が出来る筈である。勿論記憶を弄る代償として、お詫びはさせて貰うつもりだ。

 この子の名は、魔理沙と美鈴が言っていたから、普段パチュリーが頭を悩ませている霧雨魔理沙という少女で間違いないだろう。であれば、またこの館へ訪れる事がある筈である。その時は互いに知らない者同士と言う体で接触させて頂くとしようか。挨拶の後に私の能力の事を説明して、信じてくれれば良いのだけれど。

 だがそれ以前に、彼女に働く魔性の影響は『恐怖』寄りの様子だから、パニックを起こされないよう注意を払わなければならないか。ほとほと難儀な能力である。

 

「ところで、誰かこの少女の家を知る者はいるか? この館で目を覚ましたらまたパニックを引き起こすだろうから、送ってあげた方が良いと思うのだが」

「私が彼女の家を存じておりますわ」

「では咲夜、すまないが案内を頼めるかね」

「お任せを」

 

 彼女を無事に送る算段が整ったところで、どんなお詫びを持っていこうか考える。彼女は魔法使いだから、魔法に強く関係する物が良いだろうか。私が作った魔法道具は……いささか強力過ぎて人間には危険だ。ならば、少しばかり希少な素材をプレゼントするとしよう。喜んでくれればいいのだけれど。

 

 

 こうして、私たちの第一回紅魔館親睦会は、乱入者の出現がバタフライエフェクトとして働き、なんとも奇妙な形で終わりを迎えた。親睦を深めるという点ではよく分からない結果となったが、私としては普段目に出来ない彼女たちの一面を知れただけで満足である。主に、咲夜やパチュリーが意外とコミカルな少女だと分かったのは大変な収穫だ。この調子で少しづつ、あの夜の恐怖を拭い去る事が出来れば素晴らしい。

 

 ちなみにこの直後、日付が変わったと同時にフランが勝った勝ったと喜びの声を上げながら執務室へ帰って来て、一堂に会している私たちを見ると『何でみんな楽しそうに和気藹々としてるの仲間はずれなんてずるいずるいずるいーっ!!』と癇癪を起し、それを止めるレミリアと一悶着が巻き起こる羽目となる。

 言うまでもなく、最初に設定したルール通り、私たちは彼女が下した罰ゲーム……第二回親睦会の開催を約束させられた。そして今度は何故か、紅魔館で一番料理が上手い咲夜を審判に置いた、全員を巻き込む料理対決となったのはまた別の話だ。

 

 

 ぱちり、と目が覚める。

 酷くグラグラする視界が見慣れた天井を映し、二日酔いの後の様な気持ちの悪い浮遊感が私へ襲い掛かった。お蔭で、否が応にも意識が現実に向かわされていく。

 上体を起こして周囲を見渡す。相変わらず散らかりきった素敵な我が家が――――と思ったが、何故か酷く清掃され見違えるようにスペースが生まれた霧雨魔法店の姿がそこにあった。

 

「あっれー……? 私、片付けとかしたっけな……?」

 

 眠る前に何があったのか思い出そうとするが、黒い靄が差し掛かったように昨晩の事が思い出せない。何だか凄く恥ずかしくて怖い思いをしたような気がしなくもないが、それが一体何なのかが分からず仕舞いだった。

 大方、酒でも飲み過ぎて酔った勢いで部屋を片付けたとか、そんなものだろう。そう結論付けて、埃一つないフローリングに足を着ける。こんなに綺麗になるのなら、今度から片付けたいときは思い切り酔っぱらってしまおうか。

 

 しかし、どこに何を片付けたのかまったく覚えていなかったので、魔法の研究材料だとかが知らないうちにどこかへ行ってしまっていないか心配になる。だが、それも杞憂だった様子だ。ちゃんと綺麗に研究机へ、分かり易く分野ごとに分類されて揃えられてある。偉いぞ、昨晩の私。

 

「……ん? 何だ、これ」

 

 魔法薬の調合へ使うために蒐集していたキノコの横に、見慣れない棒が横たわっていた。長さは人差し指から手の付け根あたりまでで、形は金の延べ棒の様だ。色調は金と反対の銀色をしており、しかし普通の銀よりも明らかに光沢が強く、美しい輝きを放っている。

 手に取り、謎の金属塊を眺める。見た目に反してこの延べ棒は驚くほど軽かった。洗い立ての食器よりもつるつるしていて、日の光を当てればキラキラと煌めく鏡の様に私の顔を映し出す。

 こんなものが、家にあったのだろうか。

 もしかしたら昔にどこかで拾って来て忘れていたものを、酔った私が昨晩発掘し直したのかもしれない。そう考えると何だかお宝を発見したような気分になって、無性に嬉しくなった。

 今度、香霖の所へ行って名前を聞いてみよう。どんな物の名前でも分かるあの古道具屋なら、きっとこの軽くて綺麗で不思議な魅力がある金属の名前が分かる筈だ。

 

 部屋は綺麗になっているし、お宝っぽいものも発見できた。朝から何だか調子がいい気がするものだから、今日はこれからも良い事が起こりそうな気がして、私は霊夢の所へ遊びに行こうと決意した。もしかしたらタダでお菓子にありつけるかもしれない。それに、たまには神社の経済状況を支えるのも悪くは無い。

 無くさない様に金属塊を机の中へ仕舞い込んで、お気に入りの帽子を手に取り、玄関を出る。私は文字通りの相棒たる箒と共に、空に向かって飛び出した。

 

 メレンゲの雲と絶好調な夏の太陽が、今日も変わらず水色の空を彩っている。

 

 



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EX3「少女達のさいきょーお食事会」

 39度4分。

 これが一体何を表す数値だと思い浮かべるかと聞かれれば、大半の人は体温だと答えるのではないだろうか。その答えは正しい。人間の平常時を考えると明らかに異常なこの数字は、たった今脇の下で計った水銀体温計が無慈悲にも表示した私の体温である。

 つまるところ、私こと十六夜咲夜は完璧に風邪を拗らせていた。

 

 最初は微熱程度だった上に、症状なんて殆ど無かった。むしろ熱にすら気づいていなかったほどである。皆の食事を作り食堂へ運んでいた時に、美鈴から『気』が乱れていると指摘を受けて検査したところ発覚したくらいだ。

 そんな微熱程度だった風邪が意識した途端、急激に悪化したのである。頭が揺れ、体の節々が針を刺されたかのように痛みだし、強い催眠薬を飲まされたかのように思考能力は破壊され、時間操作は当然の如くコントロール不可能な状態となった。控えめにも仕事が出来るなんて言っていられる状態で無くなったところを、お嬢様に休養を申し付けられ、こうして横になった次第である。

 不覚だった。自身の体調管理が出来ていなかったという失態は勿論のこと、よりによって重要な日に重なるようにして体を壊してしまうとは、己だけでなく神をも呪う勢いである。

 件の重要な日とは一体何なのかと言うと、ベッドの傍らで心配そうに私を見守りつつ、おろおろしている妹様に大きく関係しているイベントの事だ。

 

 実は、先日妹様に友達が出来たのだ。

 あの忌まわしい夜が明け、正真正銘自由の身となった妹様は、お嬢様から最低限の常識を教えられると直ぐに外へ飛び出していった。とは言っても、紅魔館の周辺程度に留まってはいるのだが。それでもやはり、籠りっぱなしより外で開放的に遊ぶ方が楽しいらしく、目に映る全てのものが新鮮に思えるらしい。最近の妹様は見違えるように明るくなり、タンポポの花の様に朗らかな少女となった。そんな妹様は、ある日偶然出会った妖怪たちと意気投合して瞬く間に友達になったらしい。

 妹様はずっと地下に幽閉された身であったため、外界の刺激経験が少なく精神年齢がかなり幼い。妹様が友達になったルーミアという名の妖怪と氷精に大妖精は、控えめに見ても成熟した精神の持ち主ではない者達だ。つまり、出会ったばかりの子供同士が魔法の様に仲良くなる原理と同じ現象が起こったと考えていいだろう。

 初めてのお友達が出来て大変嬉しかったのか、先日妹様は館に彼女たちを招待したいと言った。お嬢様もそれを止めるようなことはせず、むしろ吸血鬼の寛容さを知らしめる為に連れてきなさいとの事で二つ返事に承諾し、いよいよ初めての招待日を明日へ控える事となったのだ。

 

 それなのにこの体たらくである。情けないを通り越して自分に憎しみすら湧いてくる。どうしてこの体は、ここぞという時に動かなくなってしまったのだろうか。妹様は私の作る料理で食事会をすることをとても楽しみにしておられたのに、それを裏切るような真似をしてしまった。首を切っても償えない大罪に等しい失態である。『大丈夫だから早く治ってね』と励ましてくださる妹様の純真な心が罪悪感と言う名の凶器となり、私の精神を酷く苛ませた。

 

「ご心配、なさらないでください。明日はこの身に変えても食事会を成功させてみせますから」

「駄目だよ! 人間は直ぐに壊れちゃうから、休む時は休まないとってお姉様が言ってた。だから、動いちゃダメ。もう気にしなくていいから、早く治ってね。皆はまた呼べばいいんだからさ」

 

 妹様の言う通り、人間は妖怪と比べて圧倒的に脆く、そして壊れやすい。たかが風邪が悪化した程度でこのザマなのだ。何が完全で瀟洒な従者か。妹様に今にも泣きだしてしまいそうな顔をさせて、さらに心配までかけさせて、私はメイド長失格もいいところだ。この日ばかりは、人間に生まれた事を心の底から恨んだ。いっそのこと盛大に罵倒してくれた方が、心も休まるという程である。

 そんな時、部屋のドアが柔らかくノックされた。同時にドア越しからでも感じる冷たい気配から、ナハト様が来られたと言う事が一瞬で分かった。

 

 ところで、私は当然のように寝間着姿である。ずっと横になっているために髪もボサボサだ。立つことも辛い状態であるためにお風呂にも入れない上に、熱のせいで沢山汗をかいている。だから、まぁ、うん。少しばかり……匂うはずである。ナハト様を『そういう目』で見たことは一度たりともないが、それでも異性であることに変わりはない。こんな姿のまま面会するのは、お嬢様のお義父様に対して大変失礼であるという考えもあるが、まず先に羞恥心が働いた。私だって、これでも女の子の端くれなのだ。最低限のプライドと言うか、守るべきものがある。

 

『夜分に失礼。レミリアから君が体調を崩したと聞いて来たのだが、入っても大丈夫かな?』

 

 お見舞いに来てくださったのに突き放すのは、お嬢様の義父であるナハト様に向かってするような事では絶対にないが、それでも恥ずかしい事に変わりはない。どう答えようか迷っていたら、妹様がドアへ突撃して呆気なく招き入れてしまった。羞恥の為に止めようと妹様に伸びた手が、虚しく空を切る。

 

「平気ではないだろうが、調子はどうかね」

 

 聞くだけで熱が下がりそうな、甘く魅了に満ちた声に私は頭を下げた。熱で頭がやられているせいか、いつもよりも彼の声が心に入り込んでくる様に感じる。

 

「大丈夫です。ご心配をおかけしてしまって、申し訳ありません」

「こう言っては失礼かもしれないが、君は人間なのだから、そこまで気を負わない方が良いさ。体調を崩すと言う事は、君が必死に生きている証拠だ。レミィもフランもちゃんと分かってくれているだろう」

「しかし……明日は、妹様の」

「ああ、それもレミリアから聞いたよ。その話の事も含めて、私はここに来たのさ」

 

 ナハト様は椅子に腰かけ、妹様を傍の椅子に座らせると、手に下げた籠の中からお見舞い品だろうリンゴと包丁を取り出した。彼は鮮やかな手つきでリンゴを剥き始め、あっという間に剥かれた皮が一匹の蛇の姿となり、皮の下に守られていた瑞々しい果実が露わとなる。それを小分けして皿に盛ると、私の前へと差し出した。

 

「食すほどの元気はあるか? もし固形物を噛むのが辛いようなら、摩り下ろしてジュースを作ってあげよう」

「大丈夫です、ありがとうございます」

 

 一切れ受け取り、口に運ぶ。歯が果実に切り込みを入れた途端、じゅわりと口の中に溢れる甘い果汁が、炎症を起こした咽頭を慰める。

 彼は満足そうに微笑みながら、今度は妹様へと視線を移した。

 

「フラン。君は友達と食事会を開きたいのだろう?」

「うん……そうだけど、咲夜が体調崩しちゃったから、また今度にする」

「家族を思いやるその心は立派だ。しかし、中止にする必要は無いさ」

 

 ナハト様は優しい笑みを浮かべて、妹様の柔らかな髪を撫でる。こうしてみると、本当に血が繋がっていないのかと疑ってしまうくらい親子そのものだ。

 そして彼は、穏やかな口調で静かに告げた。

 

「その料理担当、私に任せてみてはくれないか。これでも料理の腕には自信がある。良い機会だから、咲夜には今後の為にもしっかりと休養をとって貰おうじゃないか。大丈夫、客人を失望させるような真似はしないと約束しよう」

 

 ………………、

 何故だろう。ナハト様だから料理の腕前については、以前行った親睦会の料理対決からみてとても信用できるのだが、全く別の心配が、巣穴から獲物を探し出そうと這いずり出てくる蛇の様に顔を覗かせてくる。

 妹様とは違って、それほど力の強くない妹様の友達がナハト様を見て、果たして無事でいられるのだろうか。そんな心配だ。

 しかしそんな事は口が裂けても言えるはずが無く、また妹様の眼がキラキラと輝き始めたので、止められる筈なんてない訳で。

 

 かくして、妹様のお食事会を成功させよう大作戦が、特大級の爆弾を抱えたまま決行されようとしていた。

 

 

「ふわぁ、改めて見ると、立派な御屋敷だね」

「心臓みたいに赤いなぁ~」

 

 太陽がお月様と入れ替わった時間帯に、私は友人の二人と一緒に、霧の湖の近くに建っている館の門の前へ訪れていた。

 ここは、少し前にチルノちゃんを通じて意気投合した、吸血鬼のフランちゃんが住んでいる館である。紅魔館と言う名前なだけあって、館全体が沢山のトマトを被せたかのように真っ赤っかだ。ルーミアちゃんが心臓みたいだと言うのも頷ける。

 私たちがこの館へ訪れた理由は、フランちゃんに食事へ招待して貰ったからだ。何でも私たちが初めての友達だったらしくて、是非自慢のメイドさんが作る美味しい料理を食べて欲しいとの事。勿論、私たちは二つ返事で承諾した。前からこの建物の中がどうなっているのか気になっていたし、美味しい料理を食べられると聞けて行かない理由が無い。しかし誤解しないでほしい。私は別に食いしん坊と言う訳じゃない。美味しいものが好きなだけで、決して食い意地が張ってる残念な子と言う訳では無い。食いしん坊は、隣で『お料理お料理なんだろなぁ♪』と鼻歌を歌っているルーミアちゃんの担当だ。うん。

 

 巨大な鉄の檻の様な印象を受ける門の前に到着して、私たちは門番の紅さんへと挨拶する。何時の間に仲が良くなったのか、チルノちゃんが手をあげて元気に挨拶を投げかけながら紅さんの元へ駆け寄った。フランちゃんの時と言い、チルノちゃんは謎の人脈構築技術を持っている。驚くほど顔が広いのだ。

 

「みすずー! こんばんは!」

「おや、いらっしゃいチルノさん。それにルーミアさんと大妖精さんも。チルノさんは相変わらず元気ですねぇ。それと私の名前は『みすず』ではなく『メイリン』です」

「でもみすずって読めるじゃん。ならおっけーね!」

「あはは……まぁ良いでしょう。お嬢様からお話は聞いておりますので、どうぞお入りくださいな」

 

 美鈴さんが、巨大な門をいとも容易く押し開ける。妖精は人間より身体能力が低いから、力持ちな妖怪さんって少し憧れてしまう。何気に三人の中で一番力持ちなのもルーミアちゃんだ。いつものほほんとしているけれど、立派な妖怪さんなのである。

 お邪魔しますと挨拶を交わして、私たちは館へと足を踏み入れた。門ほどではないけれど玄関も大きくて、ノッカーへ手を届かせるのも一苦労だった。二、三回チルノちゃんがぴょんぴょん跳ねて届かない事に気付き、ルーミアちゃんが浮遊してノッカーを鳴らす。三十秒程経つと、パタパタと足音が聞こえてきて、内側から玄関が開かれた。出て来たのは、綺麗な七色の翼に左側に纏められたサイドテールが特徴的な女の子。私たちを招待してくれたフランちゃんのお出迎えだ。

 

「よっすフラン! 遊びに来たわ!」

「いらっしゃい。待ってたわ。ルーミアも大ちゃんも久しぶり」

「お久しぶりです。本日はお招きいただき……」

「そんなに畏まらなくてもいいよー。ルーミアとかチルノと同じくらいフランクで良いわ」

 

 カラカラとフランちゃんは笑う。ちょっと前までは吸血鬼って凄くおっかなくて危険な妖怪なんだと思っていた私だけれど、いざ話してみれば、こんなにも笑顔が素敵な女の子だったので、川下りをするように毒気が抜かれていったのを覚えている。

 

「早く美味しいご飯が食べたいな」

「本当ルーミアは食いしん坊ね。じゃあ早速行きましょ!」

「おー!」

 

 チルノちゃんの掛け声とともに、私たちは館の中へ足を踏み入れる。フランちゃんを先頭に目的地まで歩き続けた。

 歩きながら周囲を観察して思ったのだけれど、このお屋敷は本当に広い。飛んで弾幕ごっこが出来るくらい天井が高くて、横幅もそれに準じている。廊下は一番奥が僅かに見える程長く、ここで暮らしていたら移動だけで疲れないかなぁとさえ思えてくる。何だか外で見た館の外見よりも大きい気がするけれど、錯覚か何かだろうか。

 

「ほい、到着! 中にテーブルがあるから、適当に座って」

 

 フランちゃんがニパニパと笑いながら、数多くある部屋のドアを一つ開けた。中は完全に洋風の内装で、紅を基調とした壁紙や金の刺繍が施された赤絨毯が広がり、部屋の中心に丸いテーブルが鎮座している。椅子が四つ周囲を囲っていて、それぞれの席には予めナイフやフォークなどの食器が置かれていた。

 普段を森で過ごし続けてきているからか、何だか整えられた絢爛な部屋と言うのはとても新鮮に感じる。チルノちゃんは大はしゃぎで部屋の中を駆け回った。

 

「すげーとっても絨毯がふかふかする! あー寝っ転がると気持ちいい……まさにさいきょーの絨毯ね……何だか眠くなってきたかも」

「チルノお休みするの? なら私も……おおー気持ちいいー」

「もう二人とも、今日はお食事会ですよ? ほら、ゴロゴロしないで席について」

「あはは。まぁ、自由に寛いでていいよ。私料理取ってくるから、ここで待っててね」

「あ、手伝いますよ。一人じゃ大変でしょう?」

「いーのいーの。今日の皆はお客様だから、スカーレット家次女として精一杯おもてなししなきゃだもん」

 

 それじゃあね、とフランちゃんは背中の翼をはばたかせて、まるで空気を滑るように外へ出て行った。

 改めて、本当に吸血鬼さんなのかなぁと思わされるくらい、とっても親しみやすい女の子だと思う。私が人里に遊びに行って古本屋さんで本を読んだ時、幻想郷縁起という幻想郷の妖怪の特徴などを記した書物には、吸血鬼さんは非常に強い力を持った種族の妖怪だと書かれていた。何でも一声で大量の悪魔を召還したり、片手で樹齢千年の大木を持ち上げられたり、さらに瞬きをする間に人里を駆け抜ける事が出来、自らを蝙蝠または霧状に分解する事でどこにでも侵入可能で、頭を吹き飛ばされなければどんな傷を負ってもたった一日で回復してしまう……らしい。しかも、悪魔の近縁だからとても凶暴だとも。

 

 そんな知識が私の頭にあったものだから、私は最初、フランちゃんが怖くて仕方がなかった。チルノちゃんと意気投合した彼女が笑顔で挨拶をしてきた時は、実は笑顔で騙して頭からパックリ食べちゃうつもりなんじゃないかとさえ思っていた程だ。

 でもそんな事は全然なくて、彼女は心の底から私たちと親しくしたいだけなんだって直ぐに分かった。だってチルノちゃんが信頼を寄せたのだ。チルノちゃんは、臆病で疑り癖のある私と違って、人を純粋な目でみる能力に長けている。チルノちゃんと仲のいい人たちは皆、例外なく優しくて思いやりのある人たちばかりだ。彼女の目が曇った所なんて、私は今まで一度たりとも見た事が無い。彼女が友達だと言った以上、フランちゃんはとても良い子なんだろうし、事実そうだった。フランちゃんと会えて、私は先入観で人を見るのを止めようと思えたのだ。

 

「お料理お料理なんだろなぁ、はーやくご飯が食べたいなぁ」

 

 椅子に座り、テーブルに顎を乗せて揺れ動きながらルーミアちゃんが歌を歌う。とても単調な歌なのに、どこか引き込まれるのは何故だろう。彼女が持つ純粋な食への愛が溢れているからだろうか、なんて。

 

「楽しみですねー。確か、すっごくお料理が上手な美人のメイドさんが居るんでしたよね。何だか憧れちゃうなぁ」

 

 頭の中に、ほわほわとイメージ像が浮かび上がってくる。笑顔が可憐で、凛々しくて、台所に立つ姿はまさに美しき女性の鑑と言えるような、そんなメイドさん。きっと凄く綺麗な人なんだろうなぁと想像が膨らんでくる。出来るなら今夜会ってみたい。

 

「私、一回だけ会った事あるぞ。寝てるみすずに向かってナイフを投げて叩き起こしてた。凄いナイフ捌きが上手かったんだ。だから料理上手なのよ!」

 

 私のイメージ像に、ナイフを手に美鈴さんへ詰め寄る冷酷な一面が追加された。怒ると怖い人なのかな。で、でも普段怒らない人ほど怖いって事は、いつもはとっても優しい筈。そう自分を納得させる。

 それとチルノちゃん。いい加減ちゃんと美鈴さんの名前を覚えてあげよう?

 

 そんな時。ゆっくりドアが開いたかと思えば、銀色の丸いお盆の様な食器を器用に浮かせながら運んできたフランちゃんが再登場したのである。浮かせているのは魔法の応用だろうか。やっぱり吸血鬼って凄い。

 

「お待たせ。オードブルにスープとパンだよ」

 

 本当はコース順にゆっくり出そうかと思っていたんだけど、お腹空いてるだろうしいいよね。そう言って、フランちゃんはゆっくりと銀に輝く食器を私たちの元へと降下させた。何だか、こんな風に食器が降りてきて蓋が開く光景を見ると、自分が不思議の国に迷い込んでしまった様に思えて、思わず笑みがこぼれてしまう。

 

 半球状のプレートの中には、小さな竹林が広がっていた。

 

 これは、アスパラガスだ。鮮やかな緑色の茎が均等な長さに切り分けられ、それが円を作るように並べられている。中心の空洞部分には、食欲を掻き立てるクリーム色のチーズが流し込まれていた。新緑の縁に黄金のチーズが組み合わさり、皿の上で織り成すその光景は、まさに光る竹で出来た竹林だ。加えて、周囲に散りばめられた色とりどりのスパイス粉が、適度に盛り付けられた葉野菜のサラダが、まるで夏の憧憬を切り取ってここに乗せているかのような臨場感を演出する。

 

 続いて目に映るは野菜スープだ。一体どれ程の野菜の旨みを凝縮してこの一杯を作ったのか、厨房の神秘を感じさせる金色のスープは、さながら砂漠の中のオアシスの様な魅力を放っている。喉が、胃が、全身が。早くこのスープを飲んでくれとしきりに訴えてくるのだ。立ち上る湯気が匂いを伝えるよりも早く、眼にした瞬間から生唾が舌を潤わせた。

 

 控えめに存在を主張しているパンもまた素晴らしい。物語に出てくるパンが酷く美味しそうに見えてしまう現象があるけれど、これはまさにそれだ。きっと、本当に物語からパンを引っ張り出してきているに違いない。

 酵母の魔法が生み出した芸術は、触らなくても分かる程にふっくらとしていて、指で押せば先が柔らかく生地に沈んでいく事だろう。これをスープに浸して口に運んだ暁には、頬が緩み落ちること間違いなしである。

 

「ふわぁ、綺麗ですね……まるで作品の様です」

「凄い美味そう! あたいこんな料理見たことないぞ!」

「ねーねーねー、は、はやく頂きますしよう? 待ちきれないよ!」

 

 キラキラと目を輝かせながらチルノちゃんが燥ぎ、ルーミアちゃんはもう今にも皿へ飛び掛からん勢いでフランちゃんへ催促した。その様子を、本当に嬉しそうにフランちゃんは眺めている。

 

「うんそうだね、食べよっか。それじゃあ、お友達記念と言う事で、今夜はパーッといきましょ!」

 

 いただきまーす、と合掌に加えて食材への感謝を込め、私たちはお皿の上の料理を堪能する作業に取り掛かった。

 まず先手をとったのは、意外にもチルノちゃんだった。フォークをアスパラガスの竹に突き刺して、そのまま口に運んでいく。何度か咀嚼を繰り返して、途端にカッと眼を見開いた。

 

「お、おーいしぃーっ! 凄いぞこれ! なんか、こう、何て言うのかなぁ! アスパラがシャキッとしたと思ったら、間髪入れずに中からアツアツのチーズが溢れてくるんだ! あたい、熱い食べ物って苦手なんだけどさ、これはその熱さが全然気にならない。アツアツじゃなきゃ生み出せないトロリとした状態を保ちつつ、控えめな温度を絶妙に保っているのよ。だから噛めば噛むほど、舌にチーズがアスパラガスと一緒に寄り添ってくるんだわ! まるであたいとアスパラガスをチーズが引き合わせてくれているみたい!」 

 

 それに対して、ルーミアちゃんがぶんぶんと激しく首を振り、キラキラとした眼で賛同の意を表す。見ると皿の上がもう空になっていた。それなりの量があった筈なのだけれど、よっぽどお腹が空いていたんだろう。

 私もアスパラ料理を堪能して、次にスープへ取りかかる。

 スプーンで掬った透明感溢れる黄金の雫を、一口。

 途端に、まるでそれが一連のマナーであるかの如く、温かい息が自然と漏れ出した。

 

 見た目は静かな湖を思わせる大人しい姿なのに、口に含んだ途端野菜の旨みが暴れ狂うのだ。しかしそれは決して不快なものではなく、むしろ甘受すべきものだと本能的に思えた。この味のインパクトを例えるならばまさに、野菜が繰り広げる弾幕ごっこだろう。互いが互いを主張しあい、しかし相手を食い潰すことなく、各々の美しさを存分に発揮している絶景の招来。

 スープが通り過ぎた喉が喜び、全身が歓声を上げた。その反動が熱い吐息となって漏れ出していく。体が熱い。けれどそれは、疑うでもなく夏の蒸し暑さではない筈だ。

 

 パンを千切り、吸い寄せられるように黄金色の湖へと浸す。瞬時に生地へ汁が吸い込まれて、しっとりとした香り立つスポンジへと姿を変えた。

 はむ、と唇でそれを歓迎する。これがまた何とも心地よかった。水分を多く含んだ部分は潤沢な感触を舌に伝えつつ味のプレゼントを味蕾に届け、水分の少ないふわふわとした部分が歯を出迎え楽しませる。黄金調和と言っても過言ではない食感と味覚の二重奏は、目尻が下がっても致し方のない事だろう。

 

「すっごく美味しいなぁ……これを作ったメイドさんに是非会ってみたいですね」

「あ……えっと、これを作ったの咲夜――――うちのメイドさんじゃないんだ。私のおじさまなの」

「おじ様、ですか?」

「うん。義理だけど、私の自慢のお父様。運悪く咲夜が体壊しちゃって、代打におじさまが料理を作ってくれたんだ」

 

 そう言って、彼女は笑った。それはまるで、自分の大切な宝物を褒められて喜んでいるように見えて、なんだかとても微笑ましくて。

 そんな幸せそうな表情を見ていたら、フランちゃんが自慢に思うおじさまと言う人に会いたくなってしまった。

 

「あたい、そのおじさまに会ってみたいぞ!」

「私も会いたいな」

 

 二人とも同じ考えに辿り着いたのか、フォークを握りしめた手で万歳しながら賛同を表現する。フランちゃんは困ったように頬を掻いた。

 

「う、うーん。会うのは良いんだけど……その、おじさまって色々と凄い人でね、慣れてないと怖いと思う」

「怖い人なの?」

「ううん、凄く優しいよ。だけど雰囲気がちょっとね」

 

 つまり、フランちゃんが言いたいのは見た目が怖いから私たちが怯えるんじゃないかって事なんだろう。例えば、凄く強面で仏頂面なおじさんだとか。でも、こうしてお食事も作ってくれてフランちゃんが優しいと言う人なのだから、見た目に反して本当に心優しい人なのだろう。

 それだけだったら別に、私たちは気にしない。私はフランちゃんと会ってから、先入観でだけで人を見ないと決めたのだ。それは他の二人も同じだった。

 

「あたいは別に怖いとか気にしないぞっ。なんて言ったって、あたいはさいきょーだからな!」

「私も大丈夫ですよ。見た目で判断なんてしませんから」

「大ちゃんにおなじーく」

「う、うん分かった。じゃあ、メインディッシュを持ってくるついでに呼んで来るね」

 

 そう言って、彼女は嬉しさ半分不安半分と言った表情を浮かべつつ、空になったお皿とお盆を魔法で浮かせて部屋を後にした。

 残された私たちは、まだ見ぬ『おじさま』の姿を想像しつつ、どんな人柄なのかを話し合う。

 

「フランちゃん、見た目が怖いって言ってたけれど、おじさまってどんな人なんでしょうね」

「怖いと言うよりカッコイイかもしれないぞ。こう、歴戦の勇者みたいな」

「ムキムキおじさまー?」

 

 手を水平に広げてニコニコ笑うルーミアちゃんに釣られて、思わず笑ってしまう。うん、ありそうだ。強面と言うより凄く体の大きい人なのかもしれない。だから雰囲気が怖いって言ったのかも。私たちは皆背が低くて小さいから、威圧的に見えるとの事だったのかな。

 おじさまの姿談議に花を咲かせていると、木製のドアを軽く叩く音が聞こえた。続いてフランちゃんが、さっきと同じくお盆を周囲に浮遊させながら入場してくる。

 

「お待たせ、メインディッシュだよ」

 

 わあー、と歓声が上がる。テンションが上がった私たちは、拍手で彼女を出迎えた。フランちゃんは照れくさそうに頬を掻きながら、照れを吹き飛ばすように咳払いをして背後のドアへと手を向ける。

 

「そしてこちらが、お料理を作ってくれた臨時のコックさんで、私の義理の父。ナハトおじ様よ」

 

 どんな人なんだろう、とドキドキしながら部屋の入口へと眼を向ける。妖精に親と言う者は存在せず、さらに妖怪でも親と共に暮らしている者は非常に少ない。だからだろうか。吸血鬼と言う特色も相まって、何だかとても新鮮に感じるのだ。

 そして。

 コツン、と言う革靴が床と接する音と共に、件のおじさまが入場し――――、

 

 …………………………………………、

 

 あれ?

 何だろう。

 私は幻を見ているのだろうか。

 私の頭の中には、強面で髭の生えた筋骨隆々な男性で、けれど柔らかい笑顔を浮かべていそうな、不器用な優しさを湛えているイメージ像が作られていた。優しいけれど見た目が怖いと言われれば、自然とその様な想像図しか頭に出てこなかったのだ。

 

 だがそのイメージ図が、ほんの一部分しか合っていない。

 

 服装は、本に載せられていた外の世界の『コックさん』に該当する格好だと思う。白地のコートに円柱状の長い帽子。知っている人が見れば、直ぐに料理へ携わる人だと言う事が理解できる。

 けれど彼は、料理は料理でも子供を捕まえて鍋で煮込む様な料理をしそうな人だった。

 全身からビリビリと大妖怪の怒気に似た威圧感を放ち、見る者を引き寄せる、どこまでも冷たい魅惑の微笑みを浮かべる彼は、まさに悪魔の長そのものである。

 こんなの知らない。と言うより、私たちを見下ろすくらい大きくて風見幽香さんみたいなコックさんなんて、私の知ってるコックさんじゃない……!?

 

 ふと脳裏に蘇る、幻想郷縁起の一説。

 岩を容易く砕くパワーに、天狗を上回るスピード。圧倒的な力を持ち、一声で大量の使い魔を呼び出して戦争を起こせるほどの絶対強者。

 フランちゃんの朗らかなイメージとは180度異なる、正真正銘本物の悪魔と言える印象を受ける男性だった。

 私は何かの見間違いをしているのかと思ったが、視線を横にやればルーミアちゃんが死んだ魚の様な眼をして虚空を見つめていた。どうやら彼女にも同じく、眼を向けるだけで体の芯から震えが止まらなくなる男の人がはっきりと見えている様だ。

 

 彼は長い帽子をとり、灰色の癖毛を露わにした。見つめていると魂が吸い取られそうになる紫の瞳を私たちへ向けながら、湖の水面を走る波紋の様に穏やかな口調で告げる。

 

「紹介に預かったナハトと言う者だ。今日はフランドールの我儘を聞いてくれてありがとう。君たちを心から歓迎しよう。思う存分堪能していってくれ」

 

 優しく、甘く。擦り寄るような声色に、恐怖が柔らかく溶けていく。

 ど、どうしよう。何か言わなきゃ。返事を言わなきゃとても失礼な対応になってしまう。私たちが無理を言ってわざわざ来てもらったのに、怖くて口が開けませんだなんて、あまりにもあんまりだ。それに何より、おじさまに失礼を働いて友達のフランちゃんを傷つけるような真似はしたくない。

 それでも現実とは無情なもので、私の舌も唇も、何もかもが仕事を放棄してしまっていた。

 しかし、絶体絶命の壁を打ち砕くべく、私たちのヒーローが立ち上がる。

 チルノちゃんが、まるでナハトさんの威圧を全くものともしていないかのように、元気な声を上げた。

 

「お料理作ってくれてありがとう! とっても美味しかったわ、内藤のおっちゃん!」

 

 ヒーローなんて居なかった。チルノちゃんはいつもと変わりなく、しかし変わらないからこそ特大の爆弾を投げ込んでくれた。

 内藤さんじゃないよ!? ナハトさんだよ!? そう突っ込みたいけど口が動かない。でも、突拍子もない発言のお蔭で威圧感の束縛からほんの少し脱出する事に成功する。後は自分の意識を引き摺り上げるように、太ももを抓って体の主導権を取り戻した。

 

「チルノちゃん! 内藤さんじゃなくてナハトさんです! す、すみません。チルノちゃん、人の名前を覚えるのが苦手で、悪気はないんです!」

「ごめんなさぁーい」

「ん? ああいや、大丈夫だ。フフ、名前を間違えられるとは、中々珍しい経験をさせて貰ったよ。別にその位で気に障ることは無い。むしろ微笑ましいと思っているくらいだ。だからそんなに戦々恐々としなくても大丈夫さ」

 

 何とか許してもらえたみたいだ。心の広いお方で良かった。怒りを買って頭から食べられちゃうかと思っていたので、ほっと内心胸を撫で下ろす。

 彼はニコニコと微笑みながら、さて、とお盆の方へ手を向けた。食べなさい、と暗に言っているのだろうか。

 

「君たちの中にお肉が好きな子がいると聞いていたからね、メインは肉料理にさせて貰ったよ。折角だから、感想を聞かせて貰えると嬉しい」

 

 促され、緊張の渦が巻く中、半球状の蓋を取る。

 意外な事に、今度は洋風料理ではなく和風仕上がりの料理となっていた。

 さっと火を通して出来上がったお肉を、惜しみなく贅沢に切り分けられている。赤くてらてらとした光沢をもつ断面が、緊張で食べ物を拒絶したお腹を再び呼び起こす。

 傍に備え付けられた調味料は三種類だ。お肉の友達とも言える粉雪の様なお塩に、滑らかな黒を湛えるあっさりテイストのわさび醤油。最後は、醤油に摩り下ろしたにんにくとタマネギを和えた濃厚和風ソースだ。

 どうしよう。こんなの、絶対に美味しいに決まっている。どの調味料にお肉を浸して食べるのか、想像しただけで胸が高鳴る。いやしかし決して誤解しないでほしいのが、私はルーミアちゃんと違って普段から食いしん坊な子じゃない。妖精なのに最近重くなった事実なんて絶対にない。悪いのはこのお肉なのだ。ピンクに近い赤みの中に、舌の上で蕩けそうな脂身がバランスよく配合されているこのお肉がいけないのだ。

 

 意を決して、お肉料理と一緒に付いて来た箸を手に、一切れ摘まんでまずはお塩を着ける。そのままパクリと行った。

 さっと表面だけ焼いたお肉を切り分けると言うシンプルな調理法だけれど、だからこそ素材の旨みが存分に発揮されるものだ。それを塩という調味料の中で最も簡単な装飾のみを施したこの味わいは、まさにシンプルイズベストと言う他ない。柔らかな肉の食感に、どこかさらりとした断面の舌触り。噛めば噛むほど脂の旨みが出てきて、それをお塩が引き立ててくれる。

 あつあつの白米と一緒に掻き込んでしまいたい衝動が胸の中に燻り始め、それが山火事の如く広がっていった。

 

 ことり、とテーブルの上にお茶碗が置かれた。

 お茶碗の中には、炊き立てツヤツヤのお米が君臨していて。

 見上げれば、太陽の畑の妖怪さんよりも恐ろしい空気を放つナハトさんが、食欲の悪魔の化身とでも言わんばかりに、私に誘惑の言葉を囁いた。

 

「一緒に食べてみなさい」

 

 ――――そんな事を言われて、止められる訳が無かった。

 ほかほかのお米と、今度はわさび醤油に付けたお肉を一緒に口の中に放り込む。

 爆ぜた。

 そう形容せざるを得なかった。

 ああ、ああ、ああ! 食事に対する幸せの念がこれでもかと溢れ出てくる。これは、最早言葉で語れるものではなかった。お米とお肉と醤油とわさび。たったそれだけの要素しかない筈なのに、どうして噛むのを止められないんだろう。加えて、もう一度この組み合わせで食べてみたいと言う強い欲求が泉の如く湧いてくる。

 止まらない。箸が止まらない。それは、私だけでなくルーミアちゃんもチルノちゃんも同じだった。

 

「ふおおおおお―――っ!! 内藤のおっちゃん、これ本当に普通のお米とお肉なの? 凄いわっ! 脂とお米とお肉とソースが一緒に踊ってるみたい! ううん、ご飯が進む! 進めなきゃいけないって思っちゃう! 沢山食べてるはずなのにどんどんお腹が空いてくるわ……これぞまさにさいきょーの黄金調和って奴なのね! 」

 

 感情のまま、喜びのまま、チルノちゃんが思いを口にしていく。物覚えがあまり得意じゃない筈なのに、有頂天になるとこんなに比喩を繰り出してくるのは何故だろう。

 一方ルーミアちゃんは、頬を紅潮させてとろんとした表情を浮かべていた。幸せの絶頂に浸っている……そう思わせる至福の顔に満ち溢れている。

 

「お肉美味しいぃ……しあわしぇ……まるで最後の晩さ――――」

「な、ナハトさんこれすっごく美味しいです!! 何かやっぱり、く、工夫とかしているのでしょうか!?」

 

 ルーミアちゃん、分かるよ。言いたいことはすっっごく分かるよ。本当に本当に美味しいんだからそう言うのも無理ないよ。でもね、今だけはその例えを出しちゃダメ!! それはフラグ発言ってやつなんだよ!? 

 

「工夫か。まぁ、少しだけね。急ごしらえだったので、肉に氷魔法とほんの少しの魔力を与えたんだ。調節すれば、普通に熟成するよりも品質の高い熟成肉を完成させられるのさ。紅魔館オリジナルミート、と言うべきかね」

「へぇ~内藤のおっちゃんって魔法使いだったのね!」

「チルノちゃん、だから、ナハトさんだって…………」

「そんなに焦らなくていいさ。気にしなくて大丈夫だ。しかし、一つだけ訂正する所がある。……本当はこの料理、私が全て作ったわけではないのだよ」

 

 えっ、と思わず口から声が漏れ出した。

 確か料理上手なメイドさんが体調不良になって、その代わりにナハトさんが作る事になったと聞いていたのだけれど。

 では、他に誰か料理上手な人が……。

 そう疑問を膨らませていた時に、今まで黙っていたフランちゃんが、わたわたと慌てている様子が視界の端に映り込んだ。

 

「私がやったのは、材料の品質向上と補佐、後は指示だけだった。前菜もパンもスープも肉料理のソースも、全てフランが作ったものなのだよ」

「ちょっ、おじさまっ、それは恥ずかしいから内緒にしてって……!」

「何を恥ずかしがる必要があるのかね。それに、君が心の底から彼女たちをもてなそうと頑張った努力を、私のものにする訳にはいかないだろうに」

 

 ぽんぽん、とフランちゃんの頭を優しく叩いた彼は、私たちへ再び笑いかけた。その顔は、まさに娘を想う父親のそれに違いなくて。

 

「この子は吸血鬼で、しかもあまり外の事情を知らない。さらについ最近、やっと外に出られるようになったばかりでね。色々と迷惑をかける事があるかもしれない。しかし彼女はこの通り優しい子だ。どれだけ強い力を持とうとも、決して友達を傷つけるような子ではないよ。だからどうか、これからも怖がったりせずに、フランと仲良くして欲しいんだ」

 

 真っ赤になって俯いちゃったフランちゃんを見て、私たちは顔を合わせて微笑んだ。答えなんて、考えるまでも無い。私たちは最初っから、そのつもりでいるのだから。

 

「なんだ、そんな事なら全然オッケーよ!」

「こちらこそ、よろしくお願いしますね」

「今度一緒にご飯探しに行こうなー」

 

 フランちゃんは真っ赤っかなままだけど、花が咲くように笑顔を浮かべた。それが、同性の筈なのにどうしようもなく可愛く思えてしまう。

 そこで私は、彼女が最初何を不安がっていたのか、理由が分かった気がした。

 最初にフランちゃんがナハトさんの紹介を渋ったのは、怖がられて関係が壊れちゃうと思ったからなんだろう。確かにフランちゃんの言う通り、ナハトさんは怖い。多分二人きりにされると気絶しちゃうと思う。でもそれとこれとは話が別だ。フランちゃんが勇気を出して紹介してくれたのだから、今度は私たちが勇気を出して迎えるべきだ。いや、勇気なんて必要ない。そんなもの無くたって、友達である事には変わりない。

 

「……さて、いつまでも私が居ては気まずいだろう。ここにおかわり用のワゴンを置いておくから、好きなだけ食べなさい」

 

 指を弾き、ナハトさんは沢山の料理が乗ったワゴンをどこからか呼び出した。テレポートに近い魔法だろうか。

 そして彼は、静かに部屋を後にする。残されたフランちゃんを、私たちは笑顔で迎えた。

 真っ赤っかになっている彼女を手で招いて、もう一度食事を再開する。

 今度はワゴンにあったお酒を貰って、私たちはそれぞれグラスを持った。

 お酒を注ぎ、準備を整える。次に掛ける言葉といえば、これ以外に不要だろう。

 

 新しい友達が出来た事を祝して。

 

「かんぱい!」

 

 

 

「お料理凄かったですねー。ほっぺたが落ちちゃうかと思いました」

「本当美味しかった! にしてもフランってあんなに料理が上手かったんだなー。ねぇ、今度何か作って貰おうよ!」

「食べても良い人類でミートパイ作る?」

「うーん、あたいは人間食べられないからちょっと……」

「そうなのか……残念だなぁ」

「じ、じゃあ皆でお菓子作りましょう? それだったら皆好きだと思うから」

「おお、さっすが大ちゃん頭良い!」

「頭脳明晰なのだ」

「あはは……そう言えばチルノちゃん、ナハトさんが全然怖そうじゃなかったけれど、大丈夫だったの?」

「ん? いや、怖かったわよ。あたいを震えさせるなんて、やっぱり内藤のおっちゃんはただものじゃないわ! ……でも」

「でも?」

「大ちゃんとルーミアが、内藤のおっちゃん見た時に怯えてたじゃん? その時、おっちゃんが寂しそうな顔してたから、もしかしたら何時も怖がられてるのかなって。だから、あたいだけでも怖がらない様にしようって思ったんだ」

 

 

 

 

 

 

 

 ―――――この言葉が、魔性によって歪められた認識を抱える彼の真髄に、限りなく近い答えだと言う事を、氷精は知る由もない。

 




料理を想像しながら書いたらセルフ飯テロになってとても苦しかったです(血涙)


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第二章「終らぬ夜に明けの日差しを」 7.「そして彼はいなくなった」

 今回、第二章の導入に当たる話なので、視点がめまぐるしく変動します。
 ちょっと分かり辛い話かもしれません(汗)




 ―――――――永夜異変・三日前

 

 

 真夜中の図書館にて。いつものように紅茶を飲みながらゆったりと本を読んでいた私は、同席しているレミリアに向かって徐に呟いた。

 

「少し散歩に行って来ても良いかね」

「そう言えばおじ様、以前お話になっていたオリジナルティーの事なのですが……」

 

 ――――外出許可を得ようとレミリアに尋ね続けること、早二週間弱。この様にはぐらかされるか話題をすり替えられるかで、今の今まで私は紅魔館から出る事が出来ずにいた。

 紫に出会い、彼女の反応を見て幻想郷では友達が出来る可能性が非常に高いと考えた私は、一刻も早く外へ出て様々な人妖達と交流を育みたい気持ちでいっぱいになっている。しかし今私を取り囲んでいる現実は、誰かと遭遇するどころか紅魔館から先の世界を知ることは許されないと言わんばかりの有様である。何だかここまでくるとお預けを食らっている気分になってしまうのだが、致し方のない事ではないだろうか。

 

 まぁ、彼女たちが何故私を頑なに外へ出そうとしないのかは分かる。そこまで鈍感であるつもりはない。言うまでも無く、私の魔性が及ぼす影響を危惧しての事なのだろう。

 レミリアは私が紅魔館に住んでいた時の、私に対する周囲からの評価をよく知っている。全くもって遺憾極まりないが、私は当時の吸血鬼達からは恐怖の大王の如く扱われていた。廊下を歩けば道を譲られるどころか例外なく膝を突かれ、さらには一度も頼んだ覚えが無いのに背後に側近が付いてくる始末。一応弁解しておくが、私は何もしていない。力で同胞達を制圧した訳でも、攻めて来た妖怪を単体で一掃した訳でも、吸血鬼狩りの軍団を虐殺した訳でも無い。ただ毎日通りすがる皆に挨拶をして歩いていただけである。それなのにいつの間にか魔王になっていると来た。当時の私は遠い目をしていた時が多かった気がする。唯一、まともに対応してくれた義娘二人がいなければどうなっていた事だろうか。多分ずっと不貞寝していたに違いない。

 

 話を軌道修正しよう。魔性の影響が幻想郷の住民たちを刺激し、何らかのアクシデントを生み出す事を恐れて私を外に出したくないと言う意見は至極真っ当な考えではあるのだが、それで納得できるかと言われれば、答えはノーである。この希望の地で私は必ず友達を作るのだ。そして何気ない日常を友と共に穏やかに過ごしていくと言う夢がある。

 

「レミリア。君は私から話題を逸らす時、あからさまに敬語になる癖があると気づいているかね」

「うっ……」

「そうはぐらかさなくても、君の言いたいことはよく分かっているつもりだ。私の力が及ぼす影響がどれだけの規模となるのか、想像がつかなくて怖いのだろう? 安心しなさい、大丈夫だ。前にも言ったように、紫は私と対等に接する事が出来たのだ。彼女だけが普通に接する事が出来る、なんてことはあるまい」

「……おじ様は自分の持つカリスマ性がどれだけ凄まじいのか分かっていないのよ。それに、八雲紫がどれだけインチキな存在なのかもまるで理解していないわ。本当に八雲紫と対等に渡り合えたのか、ある意味信じられない位なんだから」

 

 紫とはそんなに恐れられている妖怪なのだろうか。私から見れば、幻想郷のルールをわざわざ教えに来てくれた親切な妖怪さんのイメージしかないのだが。

 しかし、レミリアよ。そのカリスマ性云々は誤解だと何度も言っているのに……。魔性が声や仕草にも反映されるから、他者からはそう感じるのかもしれないが、私は友達が欲しいだけの吸血鬼である。カリスマどころか友達一人もまともに作れないのに、他者の心を惹き付ける代名詞を与えられるとは如何なものか。こうして普通に話が出来る家族を得た事すら、私にとっては奇跡に等しいと言うのに。

 まぁ、長く生きたが故に少しばかり特異なのは流石に自覚しているが、それでも心は寂しがり屋の吸血鬼だ。そこだけは譲らない。

 

「……ねぇ、ナハト」

 

 今までじっと本を読み続けていたパチュリーが、徐に口を開いた。彼女は読書をする時にしばしば掛けている眼鏡の位置を正しながら、私へ視線を向ける。

 

「あなたの言う、魔性? は無くすことが出来なくても、軽減する事は出来ないのかしら」

「……ふむ」

 

 今まで色々な手段を使ってこの疎ましい能力を克服しようと試してきたが、めぼしい効果は得られなかった。出来たとしてもその場凌ぎである。魔法道具の類を使って抑え込んでも、道具がキャパシティの限界を迎えて短時間の内に破壊されてしまうのだ。しかもその反動なのか、抑えられていた分の瘴気が一斉に放たれてしまうと言う最悪のデメリットがある。昔道具を駆使して魔性を抑え、とある人間の町に足を踏み入れたことがあったが、途中道具の効果が瘴気に破壊されて、閉じ込められていた瘴気が一気に蔓延したことがある。災害が起こったわけでも何でもないのに、その町は民が逃げ惑い泡を吹いて倒れる阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。以来、無暗に押さえつける方針は取っていない。ただでさえ大きな爆弾を更に強化する様な真似になるからだ。

 

「軽減する方法は難しくてね。出来ることは出来るが、デメリットが大きいんだ。さらにこの力は制御が効かないものだから、私の意思ではどうしようもないと来ている」

「じゃあ、中和はどう?」

 

 中和? つまり魔性の瘴気を反対の属性をもって打ち消そうと言う手段はどうなのかと聞いているのか。

 それも一応、試す事はしたのだが……これもボツだ。魔性はどうやら禍の性質を兼ねているらしく、ある程度強力な浄化の力を持つ聖遺物などを用いて相殺することは出来る。出来るのだが、魔性を永続的に中和できる代物を今までに見た事が無い。必ず耐え切れなくなって壊れてしまう。聖遺物を塩基に、魔性を酸に例えると、私が身に着けた聖遺物には酸が絶えず流し込まれている状態になる。当然、何時かは性質が逆転してしまうのは自明の理だ。

 

「それも難しい。半永久的に祝福を受けた聖遺物でもないと、完全な中和は恐らく不可能だろう」

「……あまりに規格外で出鱈目な話だけど、納得してしまってる自分が怖くなるわ」

 

 はぁ、とパチュリーはうんざりしたように溜息を吐いた。私も溜息を吐きたいが、幸せが逃げてしまうので口を閉じる。日頃の行いは大切である。

 彼女は本を静かに閉じると、眼鏡を取って真剣な表情を私へと向けた。

 

「ナハト。少しだけ試してみたい事があるのだけれど、協力してくれる?」

「別に構わないが」

「ありがとう。……あの夜、フランに取り憑いたスカーレット卿とあなたが戦った時の事なのだけれど」

 

 一瞬、レミリアが明確に顔を顰めたが、私はそれを手で制した。あの話は紅魔館にとってタブー染みた暗黙の了解に包まれているが、パチュリーが何の意味も無くこの話題を引き出してくるわけがない。何か考えがあるのだろう。

 

「あの時、あなたは自分から漏れ出した瘴気の影響から私たちを守るために、グラムから放たれる高濃度の魔力を使って瘴気を相殺していたわよね?」

「正確には相互に妨害作用を起こさせて、度が過ぎた影響が出ないようにしていたのだ。毒を以て毒を制すると言ったところかね」

「それよ。軽減が出来ないのなら、別の効果で上書きしてしまえば良いのよ」

 

 ……成程。瘴気の影響を打ち消すのではなく、別の力で誤魔化すと言う事か。それは考えた事が無かった。私はずっと魔性の悪影響を取り除く事しか頭に無かったものだから、これは思いがけない盲点だ。あの手段は魔力による圧が生まれるため、魔性とはまた違った影響が出ると考えて無意識に選択肢から除外していた。思えばその方法を試した事が無かったな。

 この方法なら、魔力による圧迫感は新たに生まれるだろうが魔性の力は最小限に抑えられる筈だ。まともに会話が成立する機会がぐっと上がるかもしれない。

やはり他者と思考を交換できるのは素晴らしい。自分では見えない部分を発掘してくれる。これぞ会話の醍醐味というものだろう。

 

「今まで試そうと思わなかったが、改めて考えると良い案だね。少し試してみようかな」

「そう言ってくれて助かったわ。これが無駄にならずに済んで良かった」

 

 そう言って、パチュリーは懐から何かを取り出した。

 それは、灰色の金属質の基盤と中央部分に装飾された大きな卵形の赤い石が特徴的な、実にシンプルなデザインの腕輪だった。

 これはなに? と私より先にレミリアが問う。

 

「一種の魔力増幅装置よ。中心の魔晶石には、魔力を内側で増幅させて放出する性質がある。腕に装着して魔力を流し続ければ、魔力が枯渇しない限り妨害作用を発動できるんじゃないかしら」

 

 着けてみてと言われ、私は腕輪を装着し、手始めに少量の魔力を石に流し込む。すると、パチュリーの言う通り一際強くなった魔力が放出され、私の体表を覆うように展開されたのが分かった。魔力は余程高密度かつ一点に凝固させなければ目に見えないので、傍目から見ても変化は無いかもしれない。

 

「具合はどうかな?」

「うーん……以前と比べて随分慣れてしまっている私たちじゃあ、おじ様の変化をいまいち掴めないわね」

 

 レミリアが難しそうな表情で言った。それはつまり、腕輪が全く意味を成していないと言う事なのだろうか。だとしたら、効果の程を期待していただけにかなりショックなのだが。

 すると、パチュリーが静かに手を叩いた。乾いた音が広大な図書館へ響き渡る。応じて、バタバタと慌ただしく小悪魔が本棚の森から姿を現した。

 

「お呼びでしょうか、パチュリー様」

「ええ。一つ質問があるのだけれど、あなた確かナハトが未だに心底怖いのよね?」

「ぴぃっ!? あああああのパチュリー様そんな誤解を招くような言い方は止めてください私は生来臆病なのでお力の強いナハト様を前にすると妙に緊張しちゃうだけでべべ別に恐ろしいと思っている訳じゃなくてですねあのあの誤解しないでくださいナハト様私は別にナハト様を怪物の様に思っている訳では無くていやあの今のは言葉の綾と言いますか本当にそんな事は思ってないんですああああごめんなさいぃ――――っ!!」

 

 パチュリーの一言が引き金となり、錯乱を起こしてわんわんと泣き出してしまう小悪魔。私は何もしていない潔白の身である筈なのだが、こんなにも罪悪感が胸を突き刺してくるのは何故だろう。何だか無性にベッドの上で膝を抱えたくなる衝動に駆られた。

 

「落ち着きなさい。配慮が足りなかったのは謝るわ。ただ、あなたに少し訊ねたい事があるのよ」

「グスッ……はい、何でしょう」

「あなたは今、ナハトを見て寒気が止まらなかったり、無性に逃げ出したくなったりしない?」

 

 ズバズバと率直に物を言う性格故、パチュリーに悪意は全く無い事は分かっているのだが、改めて私の影響下に置かれた者の心情を他者から聞くと泣きたくなってくる。

 小悪魔がチラチラと、様子を伺うように目線を向けて来た。怖い上司さんを前に意見を言えない子の気持ちなのだろうか。兎に角助け舟を出さねばなるまい。

 

「小悪魔、君の意見はむしろ私の助けになるんだ。気に病む必要は無いのだよ。だから、正直に意見を言ってくれると嬉しい」

「うぅ……分かりました。えっと、正直に申し上げますと、ちょっぴり、ほんのちょっぴりだけ怖いですが……何時もより威圧感が感じられない気がします」

 

 小悪魔の弁明から、私たちは腕輪に効果があったのだと確信した。

 どうも100%阻害する事は出来ない様だが、それでも軽減させる効果はあったらしい。パチュリーの仮説は正しかったと言う訳だ。

 頑張って意見を述べてくれた小悪魔に礼を言い、このままでは心臓に悪いだろうから下がって貰った。いずれは彼女とも何気なく会話ができる日が来ればいいのだが。

 さて、それでは本題に戻るとしようか。とは言っても、最早結果は見えたようなものだけれど。

 

「さて、レミリアよ。改めて効果が証明された事だから、少し外出をしてきても問題ないかね?」

 

 この日初めて、私は紅魔館の外へと足を踏み出せる切符を手に入れた。

 

 ◆

 

「……パチェ。これからどうなると思う?」

 

 ナハトが図書館から退出した後、我が親友が憂鬱そうな表情を浮かべながら話を振って来た。考えるまでも無いが、ナハトが外へ出た結果生じる影響の事だろう。

 

「さぁ。意外となるようになるんじゃないかしら。それこそ、あなたの得意な運命操作を応用してナハトの近い将来を見てみればいいのに」

「見たわ。だから不安なの」

 

 なに? と私は活字の海からレミィへ視線を移した。

 彼女は『運命を操る程度の能力』と言う仰々しい能力を持っているが、言ってしまえば軽い未来予知と、ほんの少し手を加えて運命にバタフライエフェクトを生じさせる能力らしい。

 運命とは、あらゆる因果が絡みついた末に生じる道筋である。計算で言えば途中式と言ったところか。1と1を足せば無論2になるが、そこでさらに1を3回足せば5になる。レミィの能力は、この途中式に少しだけ手を加えて自分の望んだ数値に近いものに書き換える力なのだ。それは、レミィと関係が近くエフェクトを操作しやすければしやすい程強い効果を発揮する。逆を言えば、自分の力が及ばない範囲では効果が無い。

 しかし応用すると、自らを含めた対象者と言う名の計算式からどの様な答えが生じるのかを見る事が出来、また制限付きだがある程度の操作も可能となる。なんだか小難しい講釈をしてしまったが、要は自分の意思で結果を少し弄れる占いの力だと思って良い。それも、軽い未来予知と言う点に限ればどんな占いよりも的確に将来を当ててみせる程の。

 

 そんな彼女が、不安だと言ってのけた。つまり自分の力に自信が持てていないのだ。正確無比である筈の未来予知が。

 

「もともと、他人の運命は断片的にしか見えないと言うのもあるんだけど……今回ばかりは、ちょっと訳が分からないのよ」

「……一体何を見たの?」

 

 レミィは眉間に皺をよせて、紅茶を含んで唇を湿らせる。先ほどナハトと随分話し込んでいたせいで、紅茶はすっかり温くなってしまっている様だ。

 

「満月の中に訪れる、津波の如き凄まじい光と二つの大きな力。一面を覆い尽くす業火に、それを呑みこむ暗黒の闇。最後に見えたのは……矢だったわ」

 

 訳が分かんないわ、と彼女は呟いた。全くもってその通りだ。まるで訳が分からない。

 未来予知と言う事はつまり、今彼女が述べたこと全てが近い将来に起きる出来事であると意味している。何をどう過ごしたら、光の波やら業火やら暗黒やらと遭遇する様な未来に辿り着くと言うのだ。本当にそんな未来があるとしたら最早戦争の域である。

 

 …………いや、そんな筈はない。思い付きで例えたけれど、戦争なんてそんな馬鹿な事がある筈はない。彼は散歩に行っただけだ。散歩に行って争いが起こるなんて阿呆みたいなことがある訳がない。

 

 と、そこで一つ、彼についての疑問が浮上してきた。

 そう言えば、彼は何故今になって幻想郷にやって来たのだろうか。

 彼は紅魔館をふらりと出て行ってから実に400年近くも姿を消し、たった一人で人外には住み辛くなった外の世界を生き延びて、またもふらりと舞い戻って来ている。帰省の為と言ってしまえば簡単だが、あの底が全く見えない深淵そのものの様な男が、何の理由も無く幻想郷へやって来るだろうか? 

 彼は思う所があってこの館へ帰って来たと言っていた。つまり、外で忘却され自然に幻想入りを果たした訳では無い。意図的に入り込んだのだ。博麗大結界を突破したことに対しては別に驚きはしないが、私が疑問を抱かざるを得ないのは彼が幻想入りを決行すると決意した理由である。

 

 何故彼は、この幻想郷へ足を踏み入れたのだ? 

 頑なに幻想郷へ出歩きたいと訴え続けて来た理由は何だ?

 彼の運命の先にある異常な光景を、レミィが目撃したその意味は――――

 

 そこまで考えて、私は頭を振った。いけない。不味い方向に思考が傾こうとしていた。彼は紅魔館をあるべき姿へ戻してくれた恩人だ。例え何かを企んでいたとしても、それが有害な事であるとは限らない。スカーレット姉妹の為にあそこまで怒り狂えるほど親愛を持つ彼が、彼女たちに危害を加えるような真似をする訳が無い。

 

 けれど同時に、一つの確信を覚えた。

 確実に、近い将来何かが起こる。

 これは最早確定事項だ。彼を中心としてか、また彼が関わる出来事で、近いうちに予想だにしない大きな出来事が発生するのは間違いないだろう。それがどれ程の規模なのかは想像する由もないが、兎に角何かが起こる。私はレミィを筆頭とした紅魔館の古株と比べて彼をよく知らないが、彼の影響力を舐めて捉えない方が良いと言う事だけは明確に理解している。

 

 対策を練る必要があるか。彼が何を思って幻想郷へ入り込んだのかは分からないし、問い詰めようとも思わないけれど、万が一に備えて準備を進めておかねばなるまい。

 この館の住人は、どの様な形であれほぼ全員が彼の事を信頼している。ならば私だけが、唯一疑う疑心でいよう。彼の事は信用しているが、信じすぎて万が一の泥沼に落ち込んでしまわないように、その結果レミィが酷く傷ついてしまわないように、私だけが紅魔館の悪心となるのだ。

 

 私にとっての一番は今も昔も、悪魔の癖にお人よしで妹想いな親友なのだから。

 

「ねぇ、パチェ」

「なに? レミィ」

 

 彼女はクスクスと何故か屈託のない笑顔を浮かべながら、私に悪戯っ子のように囁いた。

 

「パチェって確か推理小説好きだったわよね? ここはひとつ、私の見た運命がどんな未来なのか、この断片から推理してみてよ。これを機に図書館探偵ノーレッジって名乗って、幻想郷の探偵になっちゃうのはどう?」

 

 そんな無茶な。

 

 

 日付が変わった頃合いの幻想郷を歩き始めて、早くも数時間が経っただろうか。一歩一歩の歩幅が大きい私は、随分な距離を歩いているような気がする。

 初めに紅魔館が見えなくなり、霧に覆われた湖を離れ、そして獣道に等しい道を歩き続けていると、見慣れない場所に出た。ここから先が、私の知らない幻想郷と言う事になるのだろう。何だか未開拓の大地に足を踏み込んだ探検家の気分だ。一歩一歩の足取りが、慎重且つ軽快なものとなっていく。

 

 初めての幻想郷ウォーキングだが、今日は友達探しと言うよりはただの視察目的で歩いている。取り敢えず、この地がどんな地形をしているのか観察したかったのだ。大体の地形さえ把握すれば、立地からどの様な場所に多くの人々や妖怪が住んでいるか、大まかに割り出す事が出来る。住める場所と言うのは一見するとどこでも良いように感じられるかもしれないが、集団で暮らす所となると意外と限られたものなのだ。特に、外と違って殆ど整備されず、多く自然が残されているこの環境では特定しやすい。

 

 そして思った通り、遠巻きだが道中に人間の里らしき集落を発見した。どんな所なのか非常に興味をそそられるが、我慢である。今日はあくまで様子見だ。ここで浮かれたまま調子づいて人里に入ろうものなら、レミリア達の呼ぶ『異変』として扱われてしまう可能性がある。そうなれば博麗の巫女さんが元凶を懲らしめにやって来るらしいので御免こうむりたい。なるべくなら、彼女とは穏便な接触を望みたいところなのだ。

 

 しかし改めて観察してみると、成程妖怪たちが過ごし易いと言われるのも頷ける。緑の存在が大地の大半を占め、そのお蔭か空気は澄み渡り、微かに草木のスガスガしい香りが混ざっている。普通、活気のない印象を受けるのが夜ではあるが、虫の合唱と梟の何気ない会話が命の気配を感じさせた。川の水は全く淀んでおらず、月光の煌めきを美しく反射させている。最奥の上流まで行かずとも、そこそこ水の循環が速い場所では、人間でも十分飲める水なのだろう。

 妖怪は人間の心から生まれた存在だが、同時に自然と密接な関係を持つ者も少なくない。主な例を挙げれば河童や天狗、狒々や妖獣、最たるもので言えば妖精だろう。これらはコンクリートジャングルで生きていく事は出来ない。そもそもコンクリートジャングルの中では、彼らは脅威として認識されにくいのだ。過去では熊が降りてくれば大騒ぎになったらしいが、今では分厚い家に守られている上に連絡手段が発達したため、昔より格段に安心を得られるからと言えば分かり易いだろうか。まぁ、科学技術が発達してオカルトが否定されているから、と言ってしまえば一括りに出来るのだけれど。

 ともかく、この幻想郷は妖怪にとって過ごしやすい環境なのは間違いない。まさに楽園と称するに相応しい場所だ。

 

 ただ、結構な距離を歩いた筈なのだが全く妖怪を見かけないな。物の怪の類は基本的に夜を主軸に生活している者が多い筈なのだが、幻想郷では昼行性の妖怪が多いのだろうか。人間に紛れて生活する妖怪が外と比べると格段に多いと言うし、まずレミリアが博麗の巫女へ会うために太陽の元を行動するほどなのだ。そうであっても不思議ではないか。

 

 何気ない妄想を夜の空気に溶け込ませながら歩いていると、何やらいたく広大な竹林が見えて来た。視界一杯が竹、竹、竹である。外の世界でも、かなり奥地へ足を踏み入れなければこの様な光景は見られないのではないだろうか。微かな夜風が竹を扇ぎ、しなった幹がぶつかり合う事でカラコロと音楽を演奏している。何だか自然の和楽器演奏を聴いているような気分になって、思わず目を閉じて聞き入ってしまう。

 

 そんな時だった。竹の奏でる音色とは別に、突然響いた凛とした声が、私の鼓膜を振動させた。

 

「そこのあんた。こんな時間に、こんな所で何をしているの」

「…………?」

「上よ、上」

 

 声の主の弁を辿れば、そこには一人の少女が、輝く月の元を浮遊していた。

 見た目の年齢は大体十代半ばと言ったところか。月明りを美しく反射させる白のロングヘアーに、頭頂部に飾り付けられた白地に赤い模様が描かれているリボンが特徴的な、どこか熟練の覇気を感じさせる女の子。カッターシャツの様な服を着ていて、サスペンダー着きのズボンを装着していた。いや、あれは確か、指貫袴とかいう履物だったか? 記憶が正しければ、極東に住んでいた昔の貴族の服装だったように思える。

 服のいたるところにお札が張り付けられ、さらにリボン代わりとして髪の先を束ねる為に結び付けられている点や、人間特有の霊力が感じられるところから見て陰陽師関係の者だろうか。微かに妖力の気も感じられるが、まさか散歩の初日で東の国の退魔師に遭遇するとは思わなかった。

 取り敢えず、敵意は無い事を証明しておこうか。見た所力を持った人間の様だし、魔性や魔力の圧を抜きにしても、妖怪に少なからず敵対心を抱いている事だろう。現に、彼女は凄まじい気迫を漲らせている。まずは矛を収めて貰えるように努めねばならないな。

 

「こんばんは」

「こんばんは。さて、親切にもう一度だけ聞いてあげるわ。あなたは何者? ここに何の用?」

 

 明らかに力の放出が強くなった。何故だ。やはり人間の彼女には、夜を闊歩する私が不審者以外の何物でもないのだろうか。魔性の影響故に致し方のない事とは分かっているのだが、ちょっと凹んでしまう。

 それはともかくとして、これは素晴らしい。何が素晴らしいのかと聞かれれば、このパチュリー発案の腕輪の効果に対してとしか言いようがない。彼女は明らかに敵対心を滾らせてはいるが、こうして初手の会話がちゃんと成立している。これは地味だが非常に大きな成果なのだ。

 私に友達が出来ない最大の要因は、魔性によって会話が全く成立しないと言う点が大きい。この様に攻撃的な感情を覚えている者に挨拶すると、高確率で『こんばんは』から『こんばんは死ね』と攻撃されるのが今までのテンプレだった。だが今、その流れが無い。誰も銀の槍で突いてきたり魔法で火を放ったり矢を射ったりしてきていないのである。腕輪が放つ魔力が魔性を誤魔化しているお蔭で、普段の三割近く影響力が削られていると見ていいだろうか。

 

 よし、早速だが彼女との接触を続行しよう。慎重に行けば上手く交流の橋を掛けられるかもしれない。

 

「夜分に失礼した。私はナハト。最近幻想郷にやって来た新人の妖怪だ。私は、日光を受け付けない体質でね。夜にしかあまり動けないものだから、この時間に散歩しているんだ。偶然ここへ辿り着いただけで、他に他意は無いよ」

「そんなに力を振りまいて、周りを鼓舞させているのに?」

 

 ……ふーむ、魔性の影響が減ってもその穴埋めとして魔力の圧が強く働くのか。しかし、周りを鼓舞させているとはどういう事だろう? 周囲を見渡しても、誰かが勢いづいている様子などは見当たらないのだが。

 と言う事は、もしや煽られていると勘違いしているのだろうか。

 

「誤解だよ。私は少々厄介な能力を持っていて、どうも私を見る者は敵対心や恐怖を覚えてしまうらしいのだ。これがまた難儀な力で、私の意思では到底制御できないでいる。心の底から誓って、君や周囲の者達に危害を加えるつもりは無いよ」

「……、」

「ところで、ここで会ったのも何かの縁だ。良ければ君の名前を聞かせてはくれないか?」

 

 少々の間が空き、やがて彼女は口を開いた。

 

「藤原妹紅よ。妖怪さん」

「妹紅か。良い響きだな」

「それはどうも。……ところで、あんたはこれからどこへ行くつもり?」

「当てはないな。気の向くままに歩いていこうと考えている。何か指標になる目的地でもあれば良いのだが、新人の身の上なので土地勘が無くてね」

「そう。じゃあ、この竹林をお勧めするわ。上手く抜ける事が出来れば面白いものが見れるかもよ」

「そうなのか。それは良い事を教えて貰った。さっそく行ってみるとするよ」

「……せいぜい迷わないように気をつける事ね」

 

 それだけを告げると、彼女は足早に空を駆けて去って行った。

 出来れば、その面白いものが見られると言う場所まで案内をして欲しかったのだが、考えてみれば人間の彼女が安易に妖怪たる私へ近づく訳が無いか。退魔師に縁があるだろう彼女なら尚の事であるし、ましてや今は夜である。余程酔狂な者でも無い限り誘いに乗ることは無いだろう。ファーストコンタクトが良かっただけに、少しばかり残念な気分になった。

 

 ともあれ、腕輪の効果が実証されたのはかなりの収穫だった。これがあれば、本当に近いうちに友達が出来るのも夢ではないのではなかろうか。そう考えると何だか足取りが軽くなった気分だ。また今度彼女に会った時に友達になって貰えるか聞いてみようか。丁寧に誤解を解いて行けば、もしかしたら史上初めてで人間の友達が出来るかもしれない。

 

 脳裏に浮かぶ素晴らしき未来図はさておいて、まずは鬱蒼とした竹林へと目を向ける。一応、僅かながら獣道の様なルートが見えているが他に道らしき道は見当たらない。では、この獣道を歩いていけば件の場所へ辿り着けると言う事なのだろうか。

 折角彼女が親切に教えてくれたのだ。本当はこの辺りで引き返そうかとも思っていたのだが、少し覗いてみるとしようか。幸い、夜明けまで時間に余裕はある。

 足に一層力を籠めて、竹林へと足を踏み入れる。ざわざわと揺らぐ竹たちが、何だか私の来訪に驚いているかのような錯覚を覚えた。

 

 

 男の存在を察知したのは、竹林の古小屋の中で仮眠をとっていた時の事だった。

 

 元より色々思う所があってあまり深く眠らない質なのだけれど、その時は普段より鮮明に意識が覚醒したのを覚えている。目を瞑って微睡みの中に溶け込んでいたら、首筋に電気を当てられたかのような感覚が走ったのだ。

 それは大昔に妖怪退治を生業としていた時に幾度か経験した、大妖怪独特の覇気だった。しかも、人間と本気で争う時に見せる必殺の威圧感だ。

 最近は妖怪関係の荒事が減っていたから、一体何事かと思わず力の放たれる方向へ頭を向けた。時間帯も時間帯だった事から、もしかしたら大妖怪同士が珍しく争っているのかと思って、私は取り敢えず状況の確認をしてみる事にした。力の発生源がかなり近いものだから、こっちにまで飛び火が移らないよう見張らなければならない。ただでさえ輝夜の奴と盛大な喧嘩をして疲れたばかりだと言うのに、大妖怪の戦いに巻き込まれるなんて御免だ。

 

 竹林の上空にまで浮遊して、周囲を観察する。しかし特に争った形跡も、これから争いが起こる兆候も見当たらなかった。いつもと変わらない、閑散とした夜の幻想郷が広がっている。

 気のせいかとも思ったが、今も尚、力の余波が肌をビリビリさせているのにそんな訳がある筈も無く。私は直ぐに、力の発生源が竹林の手前にあると言う事を察知した。

 空中浮遊状態を保ったまま、私は発生源の元へと向かった。そして竹林の影の裏側に、件の男が佇んでいたのである。

 

 突然だが、私には腐れ縁と言うべきか宿敵と言うべきか、蓬莱山輝夜と言う名の殺し合う程度の関係を持った因縁の相手がいる。アイツと初めて会った時、私は思わず父上が寵愛の情を向けるのも無理はないと納得してしまった。それくらい素晴らしい美貌の持ち主なのである。本人にこんな事を言えば必ずドヤ顔で煽ってくるだろうから絶対に言わないが、見てくれだけは女の『美』の極点と言っても過言ではない奴なのだ。

 一体全体この弁と男が何の関係があるのかと聞かれれば、それはこの男がその対―――即ち、男の『美』の集大成の様な容貌をしていたからだ。肌に纏わりつく膨大な力の不快感を忘れてしまう程の、不気味なくらい美麗な姿をした男だったからだ。

 

 目を瞑ったまま夜の闇と一体化しようとしているかの如く微動だにしない彼は、間違いなく大和の出身ではない。女の私よりも白い肌に、月の光を食らう灰色の癖毛。全身を包む黒装束は西洋の貴族を彷彿させた。

 ただ静かに佇んでいるだけなのにその様があまりに画になっていて、思いがけず思考を空白にして、吸いこまれる様に見惚れてしまう。そんな自分に気がついて、頭を振って神経を男に集中させた。

 だが奴がこんな所で目を瞑ったまま何をしているのかと疑問を浮かべるより先に、私の意識へ滑り込んできたものは、彼の背後に広がる、あまりに異様な光景だった。

 

 妖怪の群れだ。

 

 草の影に。木の根元に。樹上の枝に。男から離れた至る箇所に無数の眼が、まるで夜に煌めく猫眼の如く、ギラギラと光を放っていたのである。

 数も多ければ種類も多い。パッと見渡しただけでも人の形をしていない下級妖怪をはじめ、人間を食らって力を得た様々な妖獣や妖蟲、さらに妖精の類までもが、まるで男を遠巻きに見守るように隠れ潜んでいるのだ。

 それはまさに、過去に見た百鬼夜行を記憶の底から蘇らせる光景で。

 私は思わず、この尋常ではない景色を前に生唾を飲み込んだ。

 

 一体全体、ここで何が起きている。

 あの妖怪たちは、それ程知能も高くなければ群れる習性すらない者ばかりだ。それなのに、提灯の灯に吸い寄せられた羽虫の大群の様に、細かな塊りとなって一堂に会している。どこからどう見てもただ事ではないのは明らかだ。まさか本当に、あの男を筆頭とした百鬼夜行が新しく編成されているとでも言うのか。

 私は出不精の自覚はあるがそれでも、あんな男を幻想郷で一度も見たことが無い。もしかしたら最近幻想入りを果たした新人なのかもしれないが、そうなると余計に事態は深刻さを増してくる。ほんの少し前に、湖の辺りに突如引っ越してきた吸血鬼が、妖怪を従えて一揆を起こしたことがあったばかりだ。私には、この光景が再び起こるかもしれない妖怪反乱の狼煙にしか見えなかった。

 

 こんなものを目撃してしまった以上見過ごす訳にはいかない。私は訳あって絶対に死ぬ事の無い身の上だが、ここから近い人里に住む連中は違う。ただの人間は、妖怪が軽く腕を振るうだけで首をぽっきり折られて死んでしまうのだ。あんな数の魑魅魍魎が人里に雪崩れ込んだら、不幸中の幸いにも人間の死傷者は出なかったらしい吸血鬼異変の時とは、比べ物にならない被害が生じてしまう。そう思った私は、気がつけば男に向かって言葉を発してしまっていた。

 

「そこのあんた。こんな時間に、こんな所で何をしているの」

 

 男は静かに瞼を開いて、ゆったりとした動きで周囲を見渡す。全く動揺の色が見えない所から見て、わざとやっているのだろうか。

 

「上よ、上」

 

 奴は声を辿り私の姿を視認すると、月光に照り返された百合の花の様に神秘的な笑みを浮かべた。

 

「こんばんは」

 

 ビリリ、と奴の声が電気の様に鼓膜を刺激したかと思えば、そのまま脳にまで滑り込んで来て、思わず奥歯を噛み締めた。

 一瞬だけだが、何故か妙に心が安らいだ感覚があった。恐ろしい師父から賛辞の言葉を掛けられた時の様な安堵感が、奴の言葉を耳にした瞬間に胸の内側で拡散したのである。それがあまりに不気味な感触で、私はその気味の悪さを上書きするように、苛立ちを露わにした。

 

「こんばんは。さて、親切にもう一度だけ聞いてあげるわ。あなたは何者? ここに何の用?」

 

 奴は笑顔を崩さない。本当に妖怪なのかと疑うくらい物腰柔らかに、彼は言葉を紡ぐ。

 

「夜分に失礼した。私はナハト。最近幻想郷にやって来た新人の妖怪だ。私は、日光を受け付けない体質でね。夜にしかあまり動けないものだから、この時間に散歩しているんだ。偶然ここへ辿り着いただけで、他に他意は無いよ」

 

 他意は無い? じゃああの後ろの魑魅魍魎の群れは何だ。誰がどう見ても今から戦争に行きますと言わんばかりの態勢だろうに。流石にその嘘を他人に信じ込ませるには無理があるだろう。

 

「そんなに力を振りまいて、周りを鼓舞させているのに?」

 

 ナハトと名乗った彼は、私の言葉を噛み締めるとゆっくり振り返った。

 その瞬間。彼が振り返るよりも早く、そして音も立てることなく、魑魅魍魎の気配が一気に闇夜へ溶け込んでいったのである。

 まるで、天敵に睨まれた動物の群れが、蜘蛛の子を散らして逃げ出したかのように。

 彼は私へ紫に輝く瞳を向ける。表情は、私の神経が凍り付くほど穏やかなものだった。

 

「誤解だよ。私は少々厄介な能力を持っていて、どうも私を見る者は敵対心や恐怖を覚えてしまうらしいのだ。これがまた難儀な力で、私の意思では到底制御できないでいる。心の底から誓って、君や周囲の者達に危害を加えるつもりは無いよ」

 

 ……どうやら、素直に白状する気は無いらしい。それもそうか。何か企んでいるんですかと聞かれて、はい私はこんな事を企んでいますと口外するような奴は、余程の間抜けでしかない。しかし話の感触からするに、奴は幻想郷を偵察する目的で歩いているのではないだろうか。見知らぬ土地で反乱を起こすよりは、一度地形を理解してから事を起こした方が成功率は高い。その為に、なるべく私たち幻想郷の住人に企みを悟られぬよう、柔和な態度で接して警戒心を剥がそうとしている。つまり、今の所彼は戦うつもりだとか、そう言った考えは無いと言う事か。あくまで、現段階においてではあるけれど。

 

 次のアクションをどうするか考えるのも束の間、今度は自分の手番だとでも言う様に、彼は私へ言葉を投げた。

 

「ところで、ここで会ったのも何かの縁だ。良ければ君の名前を聞かせてはくれないか?」

 

 聞き入るものを魅了するかのような声が、私の脳を揺さぶる。永遠亭の兎の一匹が使う、狂気の幻術を浴びた時の様な感覚があった。この男の声を聴くと、強い不安感を抱くと同時に無条件に心が安らぐのだ。彼が穏やかに話している内は無事でいられる――そう思わされてしまう、言葉の魔力の様な力が確かにあった。

 

「藤原妹紅よ。妖怪さん」

 

 気がつけば、私は言うつもりのない名前を口に出していた。塞ごうとしてももう遅く、自白剤を飲まされたように言葉が流れ出て、その事実に背筋がゾッとした。

 

「妹紅か。良い響きだな」

 

 彼は笑った。それがまた、酷い安心感を生み出した。

 同時に私は確信する。この男は危険だと。もし、このまま男が人里へ向かうようなことがあれば、想像を絶する事態を招く事になるだろうと。

 私は、自惚れでも何でもなく精神的にはかなり打たれ強い方だ。それなのに、奴の言葉を耳にしてこうも簡単にブレている。奴の声に何らかの術が混じっているのかは定かではないが、兎に角人里の人間が耳にしてはいけないと言う事は分かった。耳にすれば、もしかすると先ほどの妖怪たちの様に懐柔されてしまうかもしれない。何より、慧音をそんな目に遭わせるわけには絶対にいかない。

 奴はどうやら新人の様だから、人里へ意識を向けさせないようにする必要がある。慣れないけれど少しだけ、意識を誘導させてもらおう。幸い奴は計画の下準備をしている様子だから、私の言葉を無暗に拒否して敵対心を(くすぐ)るような真似はしないだろう。言った事は素直に聞き入れて行動するはずだ。状況としては私の方に分がある。

 

「それはどうも。……ところで、あんたはこれからどこへ行くつもり?」

「当てはないな。気の向くままに歩いていこうと考えている。何か指標になる目的地でもあれば良いのだが、新人の身の上なので土地勘が無くてね」

 

 驚くほど簡単に望んだ言葉を吐いてくれた。後は、アイツの居る所へ誘導すればいい。輝夜は私と同じ完全な不老不死だ。輝夜の従者である月の薬師も同じ不死の身で、しかも相当頭が切れる。彼女らなら万が一と言う事は絶対に起こり得ないし、上手く行けばこの男を対処してくれるかもしれない。

 

「そう。じゃあ、この竹林をお勧めするわ。上手く抜ける事が出来れば面白いものが見れるかもよ」

「そうなのか。それは良い事を教えて貰った。さっそく行ってみるとするよ」

 

 尤も、この竹林を突破する事が出来ればの話なのだけれど。

 

「……せいぜい迷わないように気をつける事ね」

 

 誘導は終えた。奴は敵対しないために確実に竹林の中へと足を踏み入れる。私が気配を察知して存在に勘付いたと奴も気付いているだろうから、私が離れても意見を無視して何処かへ行くことは無いだろう。大妖怪はそこまで迂闊な存在じゃない。狡猾な部分は怖ろしく狡猾なのだ。何せ、人間と違って持っている時間の量は文字通り桁が違う。年単位を誤差としているような奴だって居るのだ。ここが妖怪と人間の感覚の差である。これが、今回ばかりは幸いしたと言ったところだろう。

 

 私は急いで人里へ進路を変えた。正確には慧音の家だ。彼女に彼の存在を知らせて、早いうちに防護策を練っておかないといけない。吸血鬼異変よりもさらに大きなクーデターが起きないうちに、守れる身はちゃんと守れる様にしておかなければ。

 そうしないと多分、きっと、私は後悔するだろうから。

 

 だって慧音は、私と違って呆気なく死んでしまうのだから。

 

 

 ―――――永夜異変・当日

 

 

 月の様子がおかしいと気がついたのは、つい数刻前の事だった。

 今夜は綺麗な満月だから、月に一度の楽しみにと月光浴を堪能しつつ夜のティータイムを楽しんでいた訳なのだけれど、ふと、月の光から感じる魔力が異様に強くなっている事に気がついたのだ。異変はそれだけではない。月が少しだけだが欠けている。自然現象として起こる月の変形ではなく、明らかに不自然な欠け方をしているのである。それは、月そのものが贋作の月と入れ替えられてしまっているかのような強い違和感だった。

 しかも、だ。月の異常事態もさることながら、まるで時間が止まっている様に夜が明ける様子を見せない。星や月の位置が、微動だに動いていないのである。

 

 妖怪にとって月とは魔力の源泉ともいえる存在であり、また同時に狂気の象徴であるとも言える。

 月の光は妖怪に力を与える。代表的な例は、満月で覚醒する狼男だろう。私たち吸血鬼も例外ではなく、満月の時期には力が増大し、同時に食欲も上がる。新月であれば真逆の現象が起きるのだ。

 一見してみると、満月の時は良いこと尽くめな気がするが決してそうではない。月は力と共に、狂気のエネルギーも地上に降り注いでいる。満月の影響を最も受ける狼男が、覚醒すると尋常ではない凶暴性を手にするのはそのためだ。薬と毒は表裏一体とはよく言ったもので、力を授ける満月の光も永劫に浴び続けると精神崩壊を起こし、狂気に呑まれた怪物と化してしまう。

 

 それが、つまる所この『異変』だろう現象の最たる危険性と言ったところか。このまま贋作の強い光を夜が明ける事無く浴び続ければ、まず間違いなく狂う。折角、妹の狂気問題が狂気に囚われたモノでは無いと分かり解決した直後だと言うのに、今度は本当に狂気に取り憑かれてしまうなんて堪ったものじゃない。早々にあの煩わしい月を退かしてしまわなければ。

 こう言った異変解決専門家の霊夢は、まだ動いている様子を見せていない。人間である彼女には、この月の異常に気付くのは難しいか。まぁ、もしこのまま動かない様であれば、私が解決しに行けばいい話だ。妖怪が異変解決を行うのは暗黙の了解でご法度だが、今回ばかりは妖怪の存続に関わる話だ。恐らく八雲紫も既に動き始めているに違いない。

 ならば、私も動かずにどうすると言うのか。

 

「咲夜」

「こちらに」

 

 音も無く、時空を司る自慢の従者が傍に現れる。美しい銀色の髪が煌めく冷然とした立ち振る舞いは、月光の下で異様に映えて見えた。

 

「貴女、あの月がおかしいと思わない?」

「月……ですか?」

 

 はて、と目をぱちくりさせて、彼女は満月を凝視する。何かを考えるように顎に手を当てて、そして徐に呟いた。

 

「月が綺麗ですね」

「お前は何を言っているの」

「冗談ですよ。いつもは菜の花色なのに、今日は山吹色になっている事でしょう?」

「違う! と言うか何でそんな細かい所に気がつくのに月の異常には気付かないの!? 私ですら色の変化なんて分かんなかったわよ」

「これも違いますか。……いつもの満月よりお団子度がアップしている、とか」

「…………貴女、わざと言っているんじゃないでしょうね」

 

 滅相も無い、と揺れ動かない表情でメイドは言う。咲夜はとっても優秀な従者なのだけれど、時折トンチンカンな事を言ったり行動に移したりするのが困りものだ。しかもまるで悪意と故意が無いとくる。これが俗に言う天然ボケと言う奴なのだろうか。どうでも良いが、取り敢えず変な紅茶を淹れるのだけは止めて欲しい。フランとおじ様にはちゃんとしたものを淹れる癖に、私だけわざわざ専用のポットを使って変な紅茶を作る徹底ぶりだ。止めろと言っても間を置いてまた再開する所から見て、これに関しては最早わざとか。育て方を間違えたのかしら。

 

「満月の筈なのに、月が不自然に欠けているでしょう。貴女には分からないかもしれないけれど、月の魔力がおかしいの。明らかに魔力量が多いし、禍々しいわ。加えて夜までも完璧に止まっている」

「となると、異変でしょうか。しかし夜が止まっているのはかなりの問題ですね。このままでは洗濯物が効率よく乾きません」

「月の方も大問題よこの馬鹿。このままじゃあ、月の狂気に当てられ続けて、フランが正真正銘の狂気に蝕まれてしまう可能性があるのよ」

 

 一瞬にして、咲夜の雰囲気がガラリと変わった。フランの身に何かが起こるかもしれない……そう認知して、ようやくスイッチが入ったのだろう。私たちの事になると直ぐ血の気が多くなるのが彼女の強みであり、同時に欠点でもある。忠誠心が強い事は喜ばしいけれど、こういった事態で冷静さを失ってはいけない。

 

「だからさっさとこの異変を終わらせたいのよ。夜が止まっているのなら好都合だわ。この夜が明けるまでに、何が何でも解決する。霊夢はまだ動いていないみたいだし、私たちで動くわよ」

「して、どの様に解決するおつもりで?」

「あれは忌まわしい偽物の月。誰かが本物の月を隠してしまっている。元凶を叩いて月を取り戻すわ。それしか方法は無い」

「と言う事は、いつもの異変解決になるのですね」

「そうなるわ。さぁ、準備なさい。夜は好きだけれど、この夜はさっさと終わらせなくちゃならないわ」

「準備完了しました。何時でも出撃できます」

 

 間髪入れずに咲夜が答える。横目で見れば、先ほどの会話から一寸たりとも動いてはいないが、明らかに異なる覇気を携えた咲夜が居た。

 ……どうやら時間を止めて、文字通り一瞬の内に準備を終わらせて来たらしい。折角頑張って尊大っぽそうに仕上げたと言うのに、こうも余韻が無いと何だか調子を狂わされる。どうやら、フランや私に危険が及ぶと頭にインプットされたせいか、完全にやる気満々の様子だ。元凶を勢い余って、標本用に手足を展足された虫の様にしなければ良いのだけれど。この子、もしやフランより一足早く月の狂気に当てられたりしていないだろうか。

 

「その意気込みやよし。では直ぐに出発―――と言いたいところだけれど」

 

 最後に、残った懸念に対して確認を取る。いや、懸念と言うよりは、現在進行形で動き続けている問題なのだけれど。

 

「最後に質問。おじ様はどう?」

「……いえ。まだお戻りになられておりません」

「……そう」

 

 最早語るまでも無いかもしれないけれど、実は今現在、予想外の事態が紅魔館で巻き起こっている。

 事件の発端は三日前に遡る。あの日、いつもの様におじ様は外を散歩したいと私に言ってきた。正直な話、あの莫大なオーラを放ちながら外を無暗に出歩かれると、霊夢に異変だと勘違いされて襲撃されかねないと私は思った。だからその三日前までは何とか言いくるめてきたのだけれど、とうとうそれも限界となり、パチェの案でおじ様の溢れ出る瘴気をどうにか軽減させる魔法道具を作って貰って、それを肌身離さず着けると言う条件のもと、外出を許可したと言う経緯がある。

 敢えて、簡潔にその結果を述べさせて頂こう。

 

 

 おじ様は三日前に外出したっきり、一度も紅魔館へ戻ってきていないのだ。

 とどのつまり、行方不明である。

 

 

 



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8.「難題の姫君」

 ――――永夜異変・前日

 

 

 サク、サク、サク。

 柔らかな土を踏みしめるたびに、降り積もった竹の葉がしなる音が耳に滲み込む。僅かに吹き込む風が背の高い竹を揺らしぶつけ合い、硬質でありながら何とも和やかな、竹独特の音色を奏でていた。

 私が今いる位置は、取り敢えず竹林の中である。異常なまでに竹の植生密度が濃く、またとてつもなく範囲の広い竹林の中である。どこを見ても竹しかない為になんとも形容しがたいこの土地は、背の高い竹の葉が重なり合い一種のカーテンの役割を生み出しており、さらに霧が濃いお蔭で、日中でも日が殆ど差し込まない。その為に、日の光を苦手とする私でも日傘無しで十分歩ける親切設計となっていた。

 

 しかし私は、別にここが昼時でも過ごし易くて好きだから歩いている訳では無い。むしろその逆だ。鬱蒼とする竹の光景には、流石に飽きが来始めている。何せ、この林に足を踏み入れて以降の日の入りと日の出の回数を考えると、およそ二日間は閉じ込められている計算になるのだ。私は妖怪であるが故に物理的な飢えや渇きに滅法強いが、飽きというものには弱い。ずっと竹林の中に囲まれていたら、何だか私を囲う竹たちが自然の作り出した檻に見え始めてきた。

 

 まぁはっきり言うと、私は絶賛迷子である。

 

 二日ほど前に漸く幻想郷へ外出する許可が下りて、これでやっと友達探しが再開できると浮足立ちながら散歩へ出かけた。その道中に藤原妹紅と言う少女と出会い、竹林の先に面白いものがあると教えられて足を踏み入れてから、今の今までずっと竹林を歩き続けている。私は妖怪の身であるために疲労に対して極端に強く、その為散歩に歯止めがかかり辛い。昔からいつもフラフラとしていたものだから、つい癖でずっと止まらず歩いてしまっていた。竹林に入ってから迷ったと気がついたのも、二度目の日の出が竹の壁越しにうっすらと見えてきて漸く、である。

 やはり無計画かつ気紛れに歩き続けたのがいけなかったか。せめて妹紅に道標でも聞いておくべきだった。

 

 しかしどうも、この竹林には侵入者を迷わせる結界に似た術式が施されている様で、それが私の行く手を阻んでいるらしい。調べてみたところ、これは幻術の類ではなく地形や風景そのものに干渉するタイプの術の様だ。その影響なのか、ここは常に濃霧が立ち込めていてとにかく竹の成長スピードが早い。十数歩歩いて振り返れば全く別の林に姿を変えているのは当たり前であり、何だか成長しきった竹が枯れて倒れてくる事が無いのが不思議に思えるほどである。霧が濃すぎるために、ただ見えていないだけなのかもしれないが。

 

 術を破壊して無理やり脱出しようかとも考えたのだが、博麗大結界に手を出してしまった経験から憚られた。

 この様に大仰な術を用いている上に、ちらほらと罠が仕掛けてあるところから考えて、十中八九妹紅の言う通りこの竹林の奥には何かが存在しているのだろう。それも厳重に隠さなければない類のものである。であれば、術を破壊しその隠してあるものに悪影響を及ぼしてしまう様な事態を招く方法をとるのは得策ではない。それが万が一幻想郷に関わる重大な秘匿であった場合は最悪だ。紫にはっきりと嫌われてしまう可能性がある。彼女が私の友達候補ナンバーワンの座に就いている以上、それだけは避けねばなるまい。そうでなくても他人に嫌われる要素は魔性だけでお腹一杯なのである。

 

 今は日光が空を支配しているため、飛行による脱出は出来ないが、まぁ嫌でもその内日は沈む。夜になったら飛んで竹林から抜け出せばいい話だ。それまでは、この散歩を続行させてもらうとしよう。

 

 散歩の続行を決めて一歩踏み出そうとしたとき、落ち葉の下に縄が張られている事に気がついた。試しに棒で突いて引っ張ってみると、術で不可視にされていたのだろう一本の竹が突如姿を現したかと思えば凄まじい勢いで跳ね上がり、地面の縄を遥か上の方へ連れ去ってしまった。足を引っかければ忽ち宙吊りにされてしまう獣用のトラップだろう。竹を隠蔽する術と言い、罠の仕掛け方と言い、相当手が込んでいる。よく見ればあちこちに仕掛けられているものだから恐ろしい。紅魔館に訪れるより昔、私を狙っていた討伐隊の者達から住処の周囲に様々な罠を仕掛けられた事があったが、それを掻い潜り続けた経験がこんな所で活かされるとは思わなかった。もっとも、非殺傷用と殺傷用では罠の厭らしさは比べるまでも無いが。

 

 ただこの竹林に仕掛けられた罠達。随分前に仕掛けられたものから、真新しいものまで状態に差異が見られる。今吹っ飛んで行った縄はあまり解れが見られない新品そのものだった。竹を隠していた隠蔽術も、妖力の残滓の濃さから見て最近掛けられたものである。と言う事は、かなりの頻度で罠を仕掛ける何者かがこの近辺を訪れていると言う事ではないだろうか。

 そうなると術を使用して竹林を迷宮化させている理由は、一種の隠れ家を生成する為だと考えられる。日本では確か、『シノビ』と言う隠密集団の隠れ里は、この様に罠や地形を利用した自然の要塞の奥に築き上げていたのだったか。だとすれば、竹林の奥には誰かが住んでいると見て間違いは無い。そこの住民は竹林の構造に精通しているだろうし、何らかの脱出手段も心得ている事だろう。彼らに出会う事が出来、脱出方法を教えて貰えれば私は竹林を抜け出せるかもしれない。

 まぁそれが分かった所で、肝心の彼らを見つけられないのでは意味が無いのだが……。

 

 と、そこで私はある逆転の発想を思い付いた。

 そうだ。押して駄目なら引いてみろと同じように、私が彼らを見つけられないのであれば、見つけてもらえば良いのである。

 罠を仕掛ける者がここを巡回する可能性が高いと分かった以上、わざと罠にかかって待ち伏せしていれば、罠を点検に来るだろう仕掛け人と確実に出会う事が出来る。そこで竹林の出口を教えて貰えばいいのだ。どうせ夜までには時間が有り余っているのだから、少々待つ程度は何てことない。

 

 ただのんびりと散歩する方針から罠にかかって待機する方向性に切り替え、早速待つのに丁度良さそうな罠を探す。数分間探し続けた後、少し深めな落とし穴を見つけた。人間が落ちれば足を挫きそうな程度には深いが、よく見ると穴の底に緩衝材らしき腐葉土が盛られている。先ほどから思っていたのだが、この罠達には一貫して殺傷性が欠片も無く、所々被害者に対する親切心……と言えばおかしいが、とにかく配慮が垣間見える。罠にかけて脅かして竹林を追い出すのが目的なのか、それとも単純に悪戯が目的だったりするのかもしれない。

 取り敢えず仕掛け人の思惑は後々で暇つぶしに考えるとして、私は余計な葉っぱを全て取り去り、ゆっくりと穴の底に降り立った。丁度すっぽり穴の中に納まった所から、大体二メートル弱の深さだろうか。これは仕掛け人の苦労が伺える。

 

 私は早く仕掛け人に気がついて貰えるように、魔力弾を穴底から打ち上げ、空中で勢いよく炸裂させた。盛大な音が竹林内へ浸透していき、ざわざわと竹たちが驚いて身を揺する。

 さて、準備は整った事だし、こうして待っているのも正直暇だ。今後の予定について考えを巡らせておくとしようか。

 そう言えば、紅魔館の者達にお土産でも拵えた方が良いのだろうか? 

 

 

 私は兎である。名前は因幡てゐ。竹の迷宮奥に存在する永遠亭と言う屋敷で暮らしている、しがない兎の一羽だ。趣味は悪戯。特技は幸運を授ける事。ちびっ子妖怪兎たちのリーダーなんかもやっている。

 品行方正な私は今日も一日、お師匠の手伝いを誤差の範囲でサボりつつこなし、厄介事を鈴仙に押し付け、時折私の仕掛けた罠にかかっている人間を麓まで送り返すエキセントリックな日常を過ごしていくために、程ほどに頑張ろうと決意する。ここ最近の私の日常は、基本そのレールの上を気ままに往来しつつある。

 

「リーダー! てゐのリーダーっ!」

 

 そんな時、霧と竹が侵入者の行く手を阻む林の奥にぽつんと、大昔の日本屋敷が存在している空間で、童女の声が突然甲高く響き渡った。続いて門の外から、垂れた兎の耳を頭に生やす、見た目二桁もいっていない程度の幼い容姿をした妖怪兎が、わたわたと足を動かして永遠亭へと駆け込んできた。

 その子は仕事をしている(フリをしていた)私の元へ大急ぎで走り寄ってくると、膝に手を着いて荒い呼吸を繰り返し、私に対して必死に何かを訴えようとしているのか、よく分からないジェスチャーを展開して見せた。

 

「り、りーだっ! 林の奥! 罠! 空の怪物が怯えてるのっ!」

「どうしたおちび。何言ってるのかよく分かんないから少し落ち着きなさいって。深呼吸してちゃんと話してごらん?」

 

 部下である妖怪兎集団の中でも比較的若く幼いこの子の頭を優しく叩きながら、私は報告を促した。イナバのちびっ子は体操の様に深呼吸を繰り返すと、また呼吸が乱れるのではないかと言うくらい大慌てで説明を再開した。

 

「あのね、あのね! リーダーの落とし穴からぽーんって爆弾が飛んでね! それがどっかーんってなったの。そしたら、竹林の上の怪物が落ちてきてね、怖がって泣いてどっかに行っちゃったの!」

 

 余りに突拍子もない発言に、なんだいそりゃ、と思わず口から声が漏れ出せば、ほんとだよっ! とちびっ子は力強く訴えた。

 この屋敷―――お師匠たちが永遠亭と称する建物を囲う竹林には、私がお師匠と契約した為に、人間たちを永遠亭へ近寄らせないよう防護装置兼悪戯用に沢山の罠を仕掛けてある。時折それに林へ迷い込んだ人間が引っ掛かるので、その様を眺めつつ介抱し、竹林の出口を見つけられる幸運を授けるのが私の趣味の一つなのだけれど、はて、今回は妖怪でも掛かったのだろうか。だとすれば放っておけばいい話なのだが、竹林の怪物が怯えたと言う発言が気になる。と言うかあの怪物、まだ竹林に住んでいたのか。ずっと上空の霧の中に潜んでいるもんだから、全く見かけなくなったところもあってもう居なくなったのかと思っていた。ちびっ子の言からどうやら息災だった様だが、アレが怯えるなんて何があったのだろう。たかが爆弾如きで尻尾を巻いて逃げるような、弱っちい奴じゃなかったはずなのだけれど。

 

「取り敢えず何かあったんだね。んじゃ、ちょっくら私が見てくるよ。その爆弾が飛び出したのってどこの罠だい?」

「北北東の十番落とし穴!」

「了解。それじゃあアンタは他のイナバを集めておきな。私がOKと言うまで竹林に出ない事。良いね?」

「分かった。リーダーも気をつけてねっ」

「あいあい」

 

 軽く手を振りながら、北北東の落とし穴へ向かって歩いていく。この竹林は普通なら一度迷えば永遠亭に辿り着くどころか、引き返す事も出来ない迷宮だけれど、私にとっては庭みたいなものだ。自分の仕掛けた罠を掻い潜って件の落とし穴に辿り着くまで、十分と少ししかかからなかった。

 落とし穴が見えてきたところで、周囲を一度確認する。特に目立った損壊だとかは見当たらない。誰かが暴れた訳では無いらしい。まぁこんな所で暴れる奴なんて、姫様と藤原の娘以外に居る訳が無いのだけれど。

 さてさて、罠にかかったお間抜けな奴は誰かな? と私は落とし穴の中を覗き込んだ。穴から爆弾が飛び出してきたという所から、もしかしたら人間が爆竹を鳴らして救援でも呼ぼうとしたのかと思ったからだ。

 

 ……思えば、周囲をもっとよく観察しておくべきだったかもしれない。

 

 例えば、落とし穴に何かが落ちたはずなのに、穴の周辺が全く乱れていなかったり。

 例えば、爆弾が飛んだという所から穴の中に何かが居る筈なのに、中から物音や呻き声の一つも聞こえなかったり。

 

 本気で注意深く徹していれば、確かに気づくはずの違和感があったのだ。でもそれを、私は慢心にかまけて警戒を怠った。結果、不用意に中を覗き込んでしまった。

 そこで、見てしまったのだ。

 覗いたと思ったら、こちらを覗き込んでいた、あの禍々しい瞳を。

 穴の中からまるで蛇の様な二つの瞳が、薄らぼんやりと紫色の光を放ちながら、じっと私を見据えていたのだ。まるで疑似餌に誘き寄せられた獲物を眺めるような、そんな目付きで。

 よく見てみれば、紫水晶の様な瞳の持ち主は、どうやらかなり体格のいい男みたいで。

 もっとよく見れば、何だかすんごく怒っているような雰囲気を垂れ流しにしていて。しかもそれは紫クラスの大妖怪がブチ切れた時に放つ、息が詰まりそうな瘴気と凄く似ていて。

 反面、私を視認した彼の顔には見惚れるような笑みが浮かび上がった。

 

 強者は常に笑顔であると、誰かがそんな言葉を言っていたなぁ―――そんなどうでも良い事を、私は静かに思い出していた。

 ただ、笑顔だからと言って決して機嫌が良い訳では無いのは、長い兎生の中で身をもって経験している。

 ところで、この落とし穴は私が掘ったものである。紛れもない作品のうちの一つである。

 であれば、この怒気とも瘴気ともつかない禍々しいオーラを放ち、目を合わせていると魂を吸いこまれそうになる瞳を湛えるこの男が、次の瞬間罠を仕掛けた張本人たる私にすることは何か。

 

 唐突に、私の頭の中でフラッシュが瞬いた。それは鮮烈な記憶の残滓だった。もう年月を数えるのも億劫になる遥か昔、ちょっとした悪事の末に味わわされたあの凄惨な記憶が鮮明に――――

 

「――――ひィいいやあああああああああああああああああああああああっっ!!?」

 

 気がつけば、私は文字通り脱兎の如く竹林を駆け出していた。最近の私じゃあ考えられないくらい足と腕を思い切り動かして、一切後ろを振り返ることなく一目散に永遠亭へ向かって突っ走った。

 私は兎の妖怪だ。全力で走れば並大抵の妖怪は置いてけぼりにするくらいの自信はある。ましてやここは迷いの竹林と言う名の迷宮だ。この速さで逃げれば、追いつかれる事も永遠亭の場所が露見される事も絶対にない。

 無我夢中で永遠亭の敷地内へ飛び込み、一室の襖を開けて転がり込む。バクバクと高鳴る心臓を抑え込むように胸に手を当てて、何度も深呼吸を繰り返した。

 

「あ、あっぶなかったぁ……まさか大妖怪クラスが落とし穴に引っ掛かってるなんて。爆弾ってのは妖力弾の事だったのかな。あんなおっそろしい瘴気を放つ妖怪が妖力弾を投げれば、そりゃあ怪物も逃げるわね」

 

 ふぅ、と息を吐き出して、頬を叩く。骨の髄が痺れるような感覚が少し残っているが、取り敢えず安全地帯に帰れたことで精神状態は安定してきた。

 漸く平静さを取り戻し、私は入って来た襖を開ける。今日はイナバ達に外へ出ない様忠告をしておかなければならない。もしあの紫眼の大妖怪にイナバ達が見つかって永遠亭の居場所が露見すれば、大妖怪だけでなくお師匠にも殺される。温厚な人物は一度プッツンするととんでもなく恐ろしいのだ。

 木の板で出来た廊下を歩き、私はイナバ達が集っているだろう部屋を目指していく。

 すると、曲がり角で何か固いものにぶつかった。跳ね返される様に仰け反った私は、そのまま尻餅を着いてしまう。鈍い痛みが臀部を波状に駆け抜けた。

 尻を摩りつつ、私はぶつかった相手に対して少し毒づいてしまう。

 

「痛ったぁ……あーもう今日は踏んだり蹴ったりだよ。ちゃんと前見てよね、鈴仙」

「あ、ごめんてゐ。洗濯籠で前が見えなかった」

 

 私にぶつかったらしき人物は、大量の洗濯物が入った竹籠を下ろして私の手を掴んだ。そのまま腕の力を借りて立ち上がる。

 ぶつかった人物は、永遠亭のメンバーの中では比較的最近やってきた新入りだった。

 私たちとは違い、外の世界の『ぶれざー』とかいう制服を模した服に丈の短いスカートを身に纏い、サラサラと流れる長い薄紫の髪やすらっとした手足が特徴的な兎少女―――鈴仙・優曇華院・イナバは、私の顔を見るとぎょっとした様に目を見開いた。

 

「ちょ、ちょっとてゐ大丈夫? 何だか顔が青いけど……」

 

 言われて、額に手を当ててみると心なしかいつもより体温が低いように感じられた。

 どうやら私は、あの男を見て余程のパニックを起こしたらしい。それこそまさに、血の気が引いてしまう程にだ。

 何でもないよ、とだけ鈴仙に伝えて、私はふとある事を思い付いた。

 鈴仙は、実は地上の兎が妖怪化したものではない。そもそもこの星では無くて、月の世界の兎なのだ。同じ月の出身であるお師匠たちは確か、彼女たちのことを玉兎と呼んでいたかな。兎に角、月の都出身の鈴仙は、ある能力が使える。その名も『狂気を操る程度の能力』。名前の通り、鈴仙の瞳を見た相手の感情の振れ幅を極端に短くすることで、短気を通り越して狂気に走らせる能力だ。

 ……とは言うものの、実際の能力は波長を操る力である。音や光を筆頭とした波長を自在にコントロールし位相をずらす事で幻覚を見せたり、光を収束してレーザーを放つことが可能だ。この能力の副産物として、感情の波長を乱れさせることで狂気を生み出すのである。鈴仙の能力は、とにかく応用性が広いのが特徴なのだ。

 つまり、使いようによっては波長を精密にコントロールする事で、ある程度離れた物体の位置が分かると言う事になる。エコーロケーション然り、生体電磁波の受信然り。

 

「鈴仙っ。あんた、ちょっと能力使って永遠亭の周囲をサーチしてみて」

「へ?」

「理由はあとで説明するから。さ、早く!」

「もう……また何か企んでるんじゃないでしょうね。えーっと、何を探せばいいの?」

「取り敢えず見慣れない……って言い方は変なのかな? まぁ感じた事の無い波長を見つけたらその位置を教えて」

 

 分かった、と鈴仙は瞼を閉じて、能力に意識を集中させた。普段垂れている耳が、ほんの少しピンと背筋を伸ばす。

 

「ん、んー……? 何これ。何だかすっごい滅茶苦茶な波長を放ってる奴がいるんだけど……もしかしてこれがてゐの探してるもの?」

「多分それね。で、どこにいるの?」

「どこにいるも何も、永遠亭の門の前に居るわよ」

 

 ―――――――は?

 

「ごめん、鈴仙聞き間違えたかも。もう一回言って?」

「だから、玄関の前に居るのよ」

 

 ビシリ、と石化した私の体に細い亀裂が幾重にも刻まれた感覚を、確かに感じた。

 まさか。何かの冗談だろう――そう言えたら、どれだけ良かったことだろうか。

 あの男は穴から直ぐに脱出したどころか、濃霧と竹が覆い尽くす迷いの竹林の中で逃亡した私を見失うことなく、追跡してここまで辿り着いたと言うのか?  

 直後、脳裏に電流の様な衝撃が走った感覚があった。それは私の汗腺をこじ開けて、冷や汗を額と手のひらに滲ませる。

 よく考えてみろ。あの男は何故、直ぐに出られる穴の中でわざわざじっとしていたのだ。何故妖力弾を使って私たちにその居場所を知らせるような真似をしたのだ。

 

 答えは簡単。罠を仕掛けた私を誘き寄せて、その後を追う事で竹林を脱出しようと考えたからだ。

 更にもっと疑えば、奴は永遠亭の存在を何らかの手段で掴み取って、ここを探していた可能性がある。その場合、竹林から抜け出そうとしたのではなくこの永遠亭を見つけ出す事が目的になってくる。

 更に更に、つい先日鈴仙が月の都から招集の指令を受け取っていたらしいではないか。内容はこうだ。『満月の夜に迎えに行く。抵抗しても無駄だ』……そしてメッセージが示す満月の夜とは、他でもない今夜なのである。

 つまり、私は。

 月の都から派遣された妖怪兵器を、ここまで招き入れてしまったと言う事に――――!?

 目の前が真っ暗どころか、真っ赤になった気さえした。ぐらぐらと視界が揺れて、頭の血液全てが下降していくような気さえした。

 

 ああ、それもこれも鈴仙が日頃の恨みを仕返しする為に、能力を使って私を狂気に沈めて見せている幻覚なんだろうそうなんだろうお願いそうだと言って私は怒らないからぁ!

 

 ごちゃごちゃになった脳内で私は壮絶な悲鳴を上げるも、現実の私はお先真っ暗な未来を前に呆然とすることしか出来なかった。ただ、以前お師匠から聞いた死の直前には頭が酷く鮮明になると言う言葉通りに、私はとてもクリアな思考の海の中で、簡素な一文を思い浮かべていた。

 やべぇ、殺される。

 月の都から逃亡した姫様を一途に守り続けるお師匠に、私が間接的かつ不可抗力にも裏切り行為を働いたと知れたらどうなるか。そんなの、空の色は何色ですかと言う質問より単純明快だ。

 

 どうしよう、逃げるか? いや無理だ。ならもういっそのこと被害者面全開……と言うより今回ばかりは本当に被害者だからお師匠に早く助けを求めるか。でもお師匠は何やらずっと術を編み続けているし、ああもうどうすればこの危機から逃れる事が出来る―――

 

「んん? しかも、これって」

 

 目からハイライトが確実に消えている私を引き上げるように、鈴仙は言葉を再び紡ぎ始めた。

 同時に、彼女自身の表情へ焦りの色が濃厚に浮かび上がる。

 

「え? なんで姫様が門にいるの?」

 

 その一言が確実なトドメの一撃となり、私のハートは完膚なきまでに破壊された。

 灰になりそうな心情の中、白目を剥いた私はただ静かな確信を得る。

 

 ああ、完璧に終わった。

 さよなら、私の華麗なる兎生。

 

 近いうちに訪れる、見知らぬ大妖怪とお師匠の怒りを受けるだろう未来を前に、今度こそ視界が黒一色に染まった。

 

 

 童話の世界にでも入り込んだような気分になった。

 と言うのも、落とし穴の中で仕掛け人を待とう作戦を行った結果やって来た仕掛け人―――妖怪兎の少女が私を見て悲鳴を上げながら逃走したため、見失えば竹林から夜まで出られなくなると考えた私はその少女を頑張って追跡したのだが、何やら幻想的な地に辿り着いてしまったからである。幻想郷なのに幻想的な地とはこれ如何に。

 

 そこには、私の記憶が正しければ随分前の日本屋敷がそのままの形で存在していた。

 竹林の中とは考えられないほどに霧が晴れていて、屋敷の周辺だけが竹林にぽっかりと穴が空いている様な感覚だ。屋敷の上空には認識阻害結界が張り巡らされている以外にこれと言って違いは無く、今まで忘れかけていた太陽の光が燦々と降り注いでいる。日の光は漆の様に黒い瓦を輝かせ、そして木の柱を、門を、屋敷の全てを光で修飾し、深く自然と調和させていた。これが和の齎す『ワビサビ』なのかと妙な確信を抱いてしまう程に、それはそれは美しい景観だった。

 目的としていた人の住処を見つけられた事は喜ばしい。しかしここで、一つだけ問題が浮上してくる。

 私はこの降り注ぐ日光の下を歩けない……つまり竹林から屋敷にまで辿り着けないと言う事であるのだが。

 

 さて、困った。たった十数メートルの距離なのに、日光のせいであまりに遠い。まるで私と誰とも分からない将来の友達までを隔てる果てしない道のりの様である。しかしここまで来てまた竹林の中に引き返すと言うのはあまり選択したくない決断だ。友人探しをする点から見ればこの様な秘境の隠れ家に辿り着けたのは大きいが、今回の散歩目的はあくまで視察だ。ならばこれ以上住民を刺激しないよう出口までの道のりを伺って……出来る事なら日傘を借りて帰宅するとしようか。ここの住人がとても良い人だった場合は是非とも友達になりたいし、その時はまた、借りた傘を返す為にここを訪れて接触すればいい話だ。

 そうと決まれば……と言いたいところだが、根本的にどうやって門の前まで移動しようか考えて、また思考が手詰まりを起こす。何だかこのままでは無限ループに陥りそうである。

 

 物は試しに、人差し指の先だけを日光に晒してみる事にした。もしかしたら昔よりほんの少しは耐性がついているかもしれな―――

 

「っ」

 

 燃えた。呆気なく黒い煙の様なものを巻き上げて、指先はいとも容易く炭化してしまった。

 猛烈な激痛が指を襲う。じゅうじゅうと音を立てて崩れる指を慌てて引っ込めて、魔力を循環させ再生を促す。

 前々から思っているのだが、何故私だけ他の吸血鬼よりも日光耐性が低いのだろうか。昔、私の言いつけを破って好奇心の赴くままに昼の外へ飛び出したレミリアやフランも、日光を浴びてから私が見つけるまでの5分近くの間、燃える事無く活動出来たと言うのに。ただ、燃えないとは言っても全身が日焼けで猛烈に赤くなっていたが。そしてその様子を見た他の吸血鬼達が何を勘違いしたか、私が言う事を聞かない彼女たちへ罰を与えるためにわざと太陽の下へ放り投げたと思い込んで、スパルタ大魔王だと誤認されたのは言うまでもない。

 

 指が生え治った所で、改めて屋敷を見る。

 ふーむ、やはり夜だけの散歩だと高を括って日傘を持たなかったのがいけなかったか。折角自分用にカスタマイズした広範囲の日光を遮断する日傘を作ったと言うのに。

 しかしこのままじっとしている訳にもいかない。仕方がないので、私は強硬手段をとる事にした。

 コートを脱ぎ、それで頭部を覆い隠す。直射日光さえ当たらなければ問題ではないのだ。確実に露出している両手は間違いなくやられるが、全身が灰にならなければ再生は可能である。全身を灰にした事が無いのでそこはあまり自信が無いのだけれど、兎に角治るのなら多少の怪我は目を瞑ろう。

 

 意を決して、私は日光の中に飛び込んだ。日の元に晒された途端両手が悲鳴を上げ、炭から舞い上がる煤の様に分解されていく。激痛を抑え込みながらも、私は瞬時に門の日陰部分まで辿り着いた。

 どうにか、一息。

 無くなった両手を再生させて、さてこれからどうやって住人と接触しようか考える。建造物自体があまりに古く、当然ながら電気など通っている訳が無いので呼び鈴は無い。ノッカーも見当たらず、そもそもこの屋敷は来客が来ることを想定した造りとなっていない事が伺えた。私は招かれていない家に入れないなんてことは無いが、無用に侵入する事など出来る筈がない。住人から一気に警戒される事は元より、失礼極まりないのは明白である。感性がずれていることは認めるが、常識は弁えているつもりだ。

 取り敢えず、一旦休憩しようと顔を覆うコートを剥いで門の影に腰かける。未だにジクジクと痛む手を見ると、やはり日光のダメージは大きいのか、骨と肉までは完璧に戻ったものの手の皮膚は酷く焼け爛れていた。魔力を回してはいるが、再生がなかなか進まない。難儀な体質である。

 

「あら、貴方は誰?」

 

 唐突だった。怪我の具合を見ていた私の耳に、澄み渡った青空の様な美しい声が聞こえたのだ。

 振り向くと、それはそれは美麗な少女が、不思議そうに私を伺っていた。

 腰元まで伸びる艶やかな黒髪に、白磁の様に白い肌。西洋出身者の多い紅魔館の彼女たちとはまた違った美しさを持つ顔貌。ピンクを基調とした上着に、赤い下地へ竹や梅、月や桜と言った日本の象徴を連想させる金の刺繍が施された長いスカートは、和の着物と言うより和風のドレスの様な印象を私に与えた。

 

「こんな所に人が来るなんて……いえ、妖怪さんかしら? 珍しい事もあるものねー」

 

 宝石の球の様に大きな眼で私を捉えながら、少女はコロコロと笑った。その可憐な笑顔に、私は驚きを隠す事が出来なかった。無論惚れただとかそういう意味合いでは無くて、彼女が何の敵意も示さず笑いかけてきた事実に対してである。

 あまりに驚愕したものだから、ついこんな事を口走ってしまった。

 

「君は、私が怖くないのかい?」

「んー? 多分怖いわよ。何だかあなたを見てると背中の辺りがぞわぞわするもの。でも長らくこんな感情抱いた事が無かったから、何だか新鮮な気持ち。それより、そんな事を自分から聞いてくるあなたの方がもっと新鮮よ」

「……本当かい?」

「ええ。ずっと長い事のんびり生きていると、感覚が麻痺してくるのよね。だから真新しいものが何でも面白く感じるの。ところであなたは何て名前? どんな種族の妖怪なの?」

 

 ―――私は、あまりの衝撃に思考が焼き切れたかと錯覚した。実はあの時コートがずれて日光をモロに浴びた私は死んでいて、あの世の慈悲深い天女が私を憐れんで最期の幻覚を見せているのではないかとすら思えた。

 この少女、私に対して警戒だとか、そんなマイナスの感情を全く抱いている様子がない。それどころか私に興味を向けている様にも見える。紫とはまた違った、とても暖かな交友の橋が掛かったように感じた。

 もしかしたら、今の私はどうしようもなく頬が緩んでいるかもしれない。正直な話、自分がどの様な顔をしているのか、まるで見当がつかないのだ。

 

「失礼した。私はナハト。一応吸血鬼と言う種族だ。誤解しないでほしいのだけれど、私は君に一切危害を加える様な真似をするつもりは無いよ。君が怖いと感じているのは、私の体から人の心に作用する瘴気が制御できずに放たれているからで、私自身が威圧をしている訳では無いのだ。分かってもらえると嬉しい」

「へぇー、不便な能力ね。制御できないなんて。他人を怖がらせちゃうのは結構大変なんじゃない?」

 

 能力の事を説明しても、彼女は疑う素振りすら見せない。そうなんだ、と簡単に納得してくれて、何事も無いように信じてくれている。

 なんて、なんて素晴らしい少女なのだろう。本当にこれは夢ではないのだろうか。夢だとしたら醒めないでほしい。切実に。

 

「お蔭でよく誤解されて困っている。君も私を追い出すのではないかと思って冷や冷やしていた位だ」

「こんな面白そうなこと、わざわざ自分から手放す様な真似なんてしないわ。あ、所できゅーけつきって言ってたわよね? もしかして串刺し公で有名なあの貴族の親戚だったりするのかしら」

「彼は人間からの畏怖を受けて吸血鬼になった者だが、私は生まれた時から吸血鬼だ。だから直接的な関係は無いよ」

「そうなの。でも私、吸血鬼って初めて見たわ。手が酷い火傷だけど、それはやっぱり日光のせいなの?」

「ああすまない。見苦しいものを見せてしまった。君の言う通り、私は日の元に出られない体なんだ」

「それなのに真昼間からこんな所に?」

「本当は二日前の夜に引き返す予定だったのだがね。少し魔が差して竹林に足を踏み入れたら、迷子になってしまったのだ」

 

 ええ? と彼女は驚いた様に口に手を当てた。直後に、クスクスと子供の様な笑みを浮かべる。

 

「それで今までずっと迷い続けてたって訳? あははははっ。あなた、見かけは凄く威厳に溢れているのにドジな妖怪さんなのね。面白いわ」

「恥ずかしい限りだね」

 

 …………この気持ちを、どう形容すればいいのか分からない。嬉しいと言うべきなのか、達成感と言うべきなのか。あぁ、やっとこの時が来たかと待ち焦がれていた気持ちなのか。一つだけ言える事は、彼女はもしかして本物の女神なのではないかと言う事だ。

 初対面だと言うのに他愛のない会話が弾み、会話相手の彼女はコロコロと笑顔を浮かべている。何千何百年と探し続けた出会いがこうもあっさりと訪れて、内心色々な感情がぐちゃぐちゃになっていた。

 紫よ、改めて私は君にお礼を言いたい。私に楽園へ住む許可をくれてありがとう。まだ捕らぬ狸の皮算用でも、私は幻想郷に来た甲斐があったというものだ。

 

 彼女はポン、と手を叩くと、ちょっと待っていてとだけ言い残して屋敷の中に引き返していった。

 続いて、中から声が聞こえてくる。

 

『イナバー居るー? ちょっと大きめの唐傘を持ってきてほしいのだけれど……あら、何でてゐが白目剥いて気絶してるの?』

『姫様! いや、それがよく分からないのですが、何故かいきなり気を失っちゃって』

『あらら、年かしら。後で永琳に診て貰わないとね。それにしてもてゐが気絶するだなんて珍しい事もあるものね。本当、今日は珍しい事尽くしだわ。永琳も術の展開準備を進めてるみたいだし……ああ、そうそう傘よ、傘。イナバ、傘はどこ?』 

『えっと、物置にある筈ですが……どうかされましたか?』

『お客さん用に要るのよ。今そこにいるのだけれど、日光が駄目みたいで苦労してるの。だから貸してあげようと思って。大丈夫、あの穢れ方からして月の手先じゃないわ』

『そ、そうなんですか』

『あなたはてゐを安静にしておいてあげて。私は傘取って来るから』

『あ、はい。分かりました。何かあったらすぐに駆けつけますから』

『平気よ。永琳もいるし』

 

 それから暫くの後、彼女は唐傘をもって現れた。それを私に渡すと、ちょいちょいと小さく手招きをした。入れ、と言っているのだろうか。

 私はそれに応じて、日本屋敷の中へ足を踏み入れる事にした。日傘を差し、彼女の背中を付いていく。

 玄関口に通され、姫様と呼ばれていた少女の後をただ歩き続けた。靴を脱いで屋内に上がるのが何だか新鮮に感じ、ソックス越しに感じる木の板の感触が何だか心地良い。

 改めて内装を見ると、時間が止まっているのではないかと思うくらい綺麗に整っていた。痛んでいる箇所が一つも見当たらないのだ。まるで新築そのもので、まさに童話の世界と言った印象を受けた。

 

 一つの座敷にまで通されて、私と少女は対面する形で腰を下ろした。座布団や畳と言った物も大昔に少し体験した程度で縁が無かったので、とても鮮烈だ。

 

「そう言えば、私の名前を言ってなかったわね。私は蓬莱山輝夜よ。輝夜で良いわ」

「了解した、輝夜。私も気軽にナハトと呼んでくれて構わないよ」

 

 やっぱり西洋の名前って新鮮ね、と彼女は薄く笑った。

 

「日の光から匿ってくれてありがとう。何かお礼をしたいのだが……今は生憎手持ちが無くてね」

「気にしなくていいわ。お礼がしたいなら、私はあなたの話が聞きたい。ここで暮らしていると退屈で仕方がないのよ」

「そんな事でいいのならば、お安い御用だ」

 

 それから私は、彼女に様々な話を語り続けた。大昔の大災害の話。私が不可抗力にも巻き込まれた事件の話。他愛もない趣味の話。様々な文化圏の話。旅の途中で出会った信じられないものの話。外の世界の多彩な武芸の話。植物や動物の話。魔法や術に関する話、エトセトラ。兎に角、私が今まで経験してきた膨大な知識を全て解放した。それらの話題全てに彼女は相槌を丁寧に打ってくれて、時には笑い、時には驚き、時にはとても真剣な表情を浮かべて食い入るように聞いてくれた。

 その時間はまさに、私が今まで渇望してやまなかったものの全てと言っても過言では無くて。気がつくと私は、日が完全に沈んでしまう時間帯までずっと話を続けていた。

 

「おっと、少し話し込み過ぎてしまった。もう暗くなっている様だね」

「あら、もうそんな時間なのね。楽しいと時間っていうものは本当にあっという間だわ。こんなに早い一日は久しぶり」

 

 楽しい―――そんな風に言われたのは、もしかして初めてなのではないだろうか。今まで蔑まれ、拒絶され、排斥され続けた私にとっては、むしろこちらの方こそ本当に楽しいと思える時間だった。このまま紅魔館に帰るのが億劫に感じてしまう程だ。楽しすぎて帰りたくないと言う感情が私にもあるとは、何だか妙に照れ臭く感じる。

 

 ……よく考えてみれば―――いや、考えずともこれはまたとないチャンスではないか。彼女自身との相性もよさそうだし、何より私を拒絶する素振りが全くない。今の今までずっと探し求め続けて来た人物が今、目の前にいるのだ。私の友達となってくれるかもしれない、蓬莱山輝夜と言う素晴らしい少女が。

 これはもう、頼むしかないだろう。言うしか、無いだろう。

 

「輝夜」

「なに?」

 

 友達になってくれないか。それだけを言えばいいのに、酷い緊張を私は覚えた。全身が硬直し、落ち着かない。何だこれは。これではまるで告白しようとする初心な子供の様ではないか。一体どれだけの年月を生き続けてきたと思っている。

 感情を抑え込む。今は少しだけ冷たく、穏やかになろう。そうしなければ、間違いなく失敗してしまう。紫の時の様に機会を逃すような事があってはならない。

 

「私は言ったように、今まで能力のせいで誤解され続けて来てね。そのせいで、友人と呼べるものが居ないんだ。だから、もしよければ、私と友達になってはくれないか」

 

 彼女が返事を口から紡ぐまでの、ほんの僅かな時間が、あまりに重く、あまりに苦しい沈黙であるかのように感じた。

 彼女は、ぱちぱちと瞬きをして、花吹雪のように艶やかな微笑みを浮かべ、

 

「良いわよ」

 

 とても穏やかに、簡素に。拍子抜けする位呆気なく、二つ返事を返したのだ。

 内心、思い切りガッツポーズをしたい強い衝動に駆られる。驚くほど頭が晴れた。途方に暮れるような永い時の中、ずっとずっと求め続けて来た答えが今、遂に現実のものとなったのだと確かに実感したのだ。

 

「でも、条件があるわ」

 

 そこで彼女は、悪戯っ子の様な口調で付け足した。私はその言葉で、完全な平静を取り戻す。成程、本題はここからと言う事か。どうやら浮かれている場合では無い様だ。

 

「ナハト。あなたは竹取物語のかぐや姫を知ってる?」

 

 彼女が口にしたワードから、私は該当する知識を掘り起こす。

 竹取物語。たしか平安時代初期に成立した日本最古の物語だったか。内容はざっくばらんに解説すれば、光る竹から生まれた小さな女の子を翁が拾い育てる所から始まり、美しく成長した女の子はその後都へ住居を移すと、その美麗さから都中の公達の注目の的となり、求婚され続けるようになる。その末に女の子―――かぐや姫を諦めなかった五人の公達へ姫は難題を与え、最終的にこれを退ける。するとかぐや姫の噂は遂に当時の帝の耳にまで及び、かぐや姫は帝に迫られるも、姫は月からの使者が自分を連れ戻しに来ると伝え、十五夜の夜に使者に迎えられて月に帰って行った、と言う話だ。

 ……もしや、かぐや姫と『輝夜』とは。

 

「知っているとも。もしかしてだが、君はかぐや姫の関係者か、血縁者なのかな?」

「いいえ、私がかぐや姫本人よ」

 

 やはり、か。

 別段、これと言って驚きはしなかった。話の通りならばかぐや姫は月の住人であり、地上人とは違う事は明白な上、物語には不死の薬などと言う代物まで登場する程だ。何が要因となってかは知らないが、大昔から永らく生き続けていたとしても不思議ではない。 

 であれば、かぐや姫本人である彼女が私に与えようとしている条件は、言うまでも無く。

 

「まぁ、あの物語を知っているのなら話は早いわ。私は昔から、親密になりたがる男の人には難題を与えるようにしているの。私に対する、気持ちの強さを証明してもらうために」

「……難題、か。私は別に、求婚しようとしている訳でないのだけれどね」

「でも、昔の人たちに対して不公平じゃない? だからあなたにも難題は受けて貰うわ。それをクリアできれば、私はあなたと友達になってあげる」

 

 そういう彼女は、悪戯っ子の様な笑顔を浮かべた。

 こうは言っているが、恐らく只の暇つぶしか何かなのではないか。話していてよく分かったが、彼女はとても好奇心が強く、退屈を嫌う。そんな彼女が難題を出すと言って来たのは、ただ単純に友達になるのはつまらない―――そんな風に考えての事だろう。

 ならば私はそれに応えようではないか。元より一癖も二癖もある者を受け入れる準備はとうの昔に出来ているのだ。むしろ私の方こそ誰にも受け入れて貰えなかった身の上である。この提案を突っぱねると言う愚考が浮かぶはずも無かった。

 

「して、その難題とは?」

「そうねぇ」

 

 彼女は顎に手を当てて、視線を上にやる。

 数拍の間考えを巡らせた彼女は、徐に手を叩いて、私に柔らかく微笑みかけた。そして彼女が出した難題とは――――

 

「蓬莱人の死……なんてどう?」

 

 

 

 

 ―――――――――なに?

 

 

 少女が一人、誰も居ない部屋で静かに座っている空間があった。見慣れた座敷の筈なのに、どこか別世界のように感じるその空間は、ずっと見守っていた私の感覚を狂わせようとする。並々ならぬ雰囲気が、その部屋を漂っていたのだ。

 それはまさに、月の狂気の様な。

 

「永琳、術の準備はもう終わったの?」

 

 静かで淑やかなあの子の声が響く。応じて私は、隠れていた壁の影から身を乗り出し、彼女の背後へ歩み寄った。

 優美に足を下ろしている少女―――輝夜は、私に振り向く事無く、ただただ、静かに前を見つめている。先ほどまで、あの男が座っていた空間へ。

 

「気づいていたのね」

「そりゃあね。あれだけ後ろから殺気を放たれてたら嫌でも気づくわ。もう、折角のお客さんだったのにそんな風に敵意を出してちゃ駄目じゃない。途中で帰っちゃうかと思って冷や冷やしたわよ」

 

 お客さんとは、どうやってここまで辿り着いたのか分からないが、突然この屋敷を訪れた妖怪の事だ。視線を釘付けにされそうになる芸術の域に達した容姿を持ち、それに相反するように、全身から途轍もない穢れと魔力を放ち続けるあの青年の事だ。

 先ほどの彼女たちのやり取りを思い出して、思わず私は歯噛みする。

 

「あの男はただの妖怪ではないわ。いや、むしろ妖怪と言うカテゴリーに分類すべきかどうかも怪しいものよ。疑って当然でしょう」

「そうなの? まぁ、確かに一緒にいると怖いけれどね。本当、足が震えそうになったのも久しぶりで面白かったわ」

 

 彼女は笑う。からからと、まるで恐怖が何事でもないかのように笑う。

 一見すると眩しいその笑顔が、どうしようもなく私の心を蝕んだ。

 輝夜は、今自分がどの様な状態に陥っているのかまるで分かっていない。それだけではなくて、私たち蓬莱人が怖いと言う感情を覚えたあの青年の存在が、どの様な意味を持っているのかも理解出来ていない。

 けれど私が今説明したところで、きっと輝夜は耳を貸さないだろう。いや、今の彼女では理解できないのだ。今の輝夜では、私の真意は伝わらない。汲み取ることが出来ない。

 

「……ところで、輝夜。貴女は何故、あの男にあんな難題を出したの? 丁寧に妹紅の存在まで教えて。あれじゃあ妹紅を殺してくれと言っているようなものよ」

「えー? そんなつもりは無かったんだけどなぁ。だって、別に求婚されてる訳じゃないんだもん。ヒントのあるイージーモードでも良いじゃない? 結果としても友達になるだけなんだから」

「あの男が、本当に妹紅を殺せるような存在だとしても?」

 

 静かに、私は輝夜へ問う。この言葉に偽りはない。彼を見た私の予測が、計測が、すべて正しいのであるならば。あの男は例外的に、絶対の不死者である私たち蓬莱人を確実に葬る力を兼ね備えている。穢れがどうとかいう問題ではない。あの男は、この目で見るまで信じることは出来なかったのだが、まさしく私たちにとって天敵と言える存在なのだ。本来ならば存在する事すらなかっただろう、唯一無二の天敵なのである。

 聡い彼女は、私の言葉に含まれる真意を理解しているだろう。事実、彼女はあっけらかんとした調子で、私に答えた。

 

「万が一なんてものが起こったら、その時はその時じゃない? 居なくなった妹紅の代わりに、ナハトには蓬莱人にでもなって貰って、ずっと一緒に居て貰おうかしら。むしろその方が、彼にとっても良いのかもしれないわね。あまり難題に乗り気じゃなかった様子だけれど」

 

 本来ならばこの世のどんな物より可憐である筈の彼女の笑顔が。この世のどんなものよりも恐ろしいものとして私の眼に映った。背筋が凍る。ぞくりとした感覚が脊髄から脳まで駆け抜けていった。

 確かに、輝夜と妹紅と言う少女は殺し殺される関係である。でもそれは、死なない蓬莱人同士だからこそ……永劫を宿命づけられた蓬莱人だからこそ出来る、ちょっとしたスキンシップのようなものなのだ。彼女たちが互いにいがみ合うでも、憎み合うでも、心の燃料を燃やし続けている限り精神は死ぬことは無い。長すぎる生の中での彼女たちの因縁は、歪な持ちつ持たれつの関係にあるのだ。それを彼女たちは、意識的にも無意識的にもちゃんと理解している。例えどれだけ衝突し喧嘩しても、互いに無くてはならないものなのだと、ちゃんと理解している。

 

 理解している、筈だった。

 

 ああ、自覚は無いけれど、この子はやはり……っ。

 私はもう、いてもたってもいられなくなった。限界だ。これ以上彼女を放置しておくわけにはいかない。今の私ではどうする事も出来ないのは分かっている。だからこそ、猫の手でも借りるくらいの気持ちで頼るしかない。

 あの男に……蓬莱人に恐怖を呼び覚ました異端の吸血鬼の力に、今は頼るしか道は無い。

 

 ごめんなさい、失礼するわと彼女に伝えて、私は足早に外へと駆けだした。あの男はまだ屋敷を出てからそんなに経っていない。案内通りに竹林を抜け出すまで遠くには行っていない筈だ。今ならまだ間に合う。

 足を忙しく動かして、走る。靴を履く余裕なんてなかった。まるで運命が導いてくれたようなこのチャンスを、逃してしまう訳にはいかないからだ。

 予測通り、彼は屋敷から直ぐ近くにいた。闇夜に溶け込むように月を眺めていた彼の背中に、私は深呼吸をして声をかける。

 

「ごめんなさい、ちょっとだけ時間を貰えないかしら」

 

 彼はゆっくりと振り返り、私を見た。相変わらず、視界に映すだけでも、遥かな時を生き続けた蓬莱人の私でさえ理不尽なほどに身震いを起こしそうな、禍々しくも美しい青年だった。

 震えを殺し、私は言葉を絞り出す。時間は無い。猶予も無い。ならば一刻も早く策を講じるのみ。

 

「私は永琳。八意永琳。輝夜の従者をしている者よ。初対面の貴方にこんな事を言うのは、無礼だと分かってる。でも、どうしても貴方にお願いしたいことがあるの」

「……わざわざ私に尋ねてくるなんて、それは一体どんなお願いだね? 私で良ければ力になろう」

 

 魂に溶け込んで来るかのような、甘美な声を響かせて彼は言った。魔性の声に負けないよう意識を強く保ち、私は言う。天敵であり、そしてあの子を救う要と成り得る、この青年に向かって強く、懇願の意を示す。

 

「恥を忍んで単刀直入に言うわ。――――お願い、姫を助けて」

 

 

 







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9.「月下で踊れ、乱れ桜と境界の乙女」

 

 

 ――――永夜異変・始動

 

 

 

「この位の時期って夜は結構過ごし易いわよねー。何だかいいお散歩日和だわっ。あの月が本物だったら尚いいのに。ねね、霊夢もそう思わない?」

「……、」

「あ、霊夢もしかしてこれ欲しい? 藍特製の甘納豆。甘くてヘルシーでとっても美味しいのよ」

「ああーっ! 紫だけ甘いもの食べてるずるい私にも頂戴! さもないと甘納豆一粒につき体重が一キロ増える呪いをかけるわっ」

「何それ地味に怖い……!? まったく、幽々子は昔から甘いものに目が無いんだから。はい、あーん」

「あーぐ」

「ひぎぃっ!? 何で指ごと齧りつくのよこの馬鹿!」

「紫は袋一杯に持ってるのに、私には一粒しかくれないなんてケチケチするからよう」

 

 ……私は。

 私は、異変解決に向けて出撃している真っ最中の筈だ。至極面倒臭くて、それでも巫女としてちゃんと解決しなくてはならないから眠いのを我慢してこんな真夜中に異変解決を完遂するため、幻想郷を奔走している筈なのだ。他ならない、幻想郷の平穏の為に。

 

 それを何がどうなれば、最近品格を疑いつつあるけれど一応幻想郷の賢者らしい紫と冥界の管轄者たる亡霊姫がぎゃあぎゃあ甘納豆を取り合いながら異変解決を行うと言う、奇天烈極まりない状況になってしまうのか。頭が痛いのは気のせいでは無いはずだ。

 

 今回は紫が直接出てくる位の大異変らしいので、珍しく……と言うか多分初めて協力して行動しているのだけれど、これだけ五月蠅いともう彼女たちを異変の元凶認定してしまっていいんじゃないかなと思い始めてしまう。そもそも今が異変の真っ最中だし、どさくさに紛れて退治してしまっても誰も文句を言わないのではないか。いや、言ってくるか。主に目の前のポンコツ賢者が、涙目で拗ねて文句を垂れてくるだろう。面倒臭いので取り敢えず放置しておくことにする。

 

 私は頭痛の様な感覚を額に覚えながら、何故こんな事になったのか、つい先ほどの記憶を掘り起こす作業を始めた。

 

 

 

『霊夢ぅ♪ なんか月が凄い事になってるから異変解決にいっくわよーってあいたぁっ!? な、なんで陰陽玉ぶつけるの!? それ妖怪にはすっごく痛いんだからね!?』

 

 それは、虫の囁きしか聞こえない様な真夜中の出来事だった。その日はいつもの様に神社を掃除して、お茶を飲んで、洗濯をして、のんびり一日を終える事が出来たから、また明日もこんな日だと良いなぁおやすみー、と気持ちよく寝床についてお布団の心地よさを思う存分堪能していた訳なのだが、突如スキマ妖怪が神経を二往復ぐらい逆撫でする猫みたいな声で私を叩き起こして来た。一日の締めとも言える睡眠を邪魔された事と、同性に対してはイラつかせる効果しかない甘え声で起こされたと言う二重苦を味わった末、私はスキマに思い切り陰陽玉を食らわせてやった。そしたら涙目でふぇぇとか抜かして来たので陰陽玉を振りかぶり直すと、『はい冗談でーすごめんなさいこれからゆかりん品行方正な妖怪になるわだからもう陰陽玉でいぢめないでぇ!?』と喚きだす始末。これ以上攻撃するとさらに喧しくなるのは分かっていたので、その時は取り敢えず矛を収めた。

 

 彼女は咳ばらいを一つするとパンパンと手を叩き、乾いた音を勢いよく鳴らした。寝起きの耳にはそれが怒鳴り声の如く五月蠅かった。

 

『改めて、霊夢。夜中だけど早速お仕事の時間よ。異変が起きたわっ』

 

 そう言って紫は、夜空で絢爛と輝く満月を指差した。何が異変なのだろうかと、ぼんやりとした頭で紫の言葉を探ったのを覚えている。私には月見酒が進みそうな真ん丸お月様が浮かんでいる様にしか見えないのだが、と眉間に皺を寄せた。すると彼女は、現在月に起こっている異常について説明を始めたのである。

 

 曰く、何者かに本物の月が隠されてしまっているとの事。

 曰く、その月は普通ではありえない量の魔力と狂気を地上に降り注いでいて、このまま放置しておけば月の力を存分に食らわされた妖怪が錯乱を起こしてしまい、幻想郷が危険に晒される可能性が高くなるとの事。

 曰く、だからこの夜が明ける前に異変解決をしちゃいましょう、その為に夜を止めておいたわとの事。

 

 人間の私にはいまいち月に起こった明確な変化が掴み取れなかったが、何となく月を眺めていたら確かに嫌な予感はした。紫の弁もあるし、早速私は支度をして異変を起こした元凶を探そうと飛び立ったわけである。そうしたら何故か、いつもは監視に徹底している筈の紫がついて来た。ふよふよと周囲を飛び回るものだから追い払ったのだが、それでもしつこくくっ付いて来るのである。諦めて静観を決め込んでいると、時折スキマから何かを取り出し一人で色々やり始める始末。いちいち構っていられないので基本的にスルーしていた。

 

 そんな時、何の縁か以前異変を起こした冥界のほんわか亡霊と半人半霊のペアに遭遇した。彼女たちもあの月を放置しておくのは不味いと考えているようで、その話をして意気投合した紫と幽々子が、じゃあ一緒に異変の元凶を探そうそうしようと頓珍漢な事を口に出し、今に至ると言う訳である。ピクニックじゃないんだぞと言いたかったが、お花畑ワールドに巻き込まれそうで口に出すのを憚られた。

 

 

 ……思い返してみても、何でこうなったのか全くもって見当もつかない。頭痛が更に酷くなったかのように感じる。取り敢えず全部ポンコツなスキマが悪い。そう結論付ける事にした。 

 私と同じような心境なのか分からないが、半人半霊―――確か、コンパクト妖夢だったっけ? は引き攣った苦笑いを浮かべていた。

 

「幽々子様……出発前にあれだけ召し上がられたのに、まだ食べられる余裕があるのですか……」

 

 そっちか。

 

「妖夢……あんた従者なんでしょ? あれ止めてきなさいよ……」

「む、無理です。あの間に邪魔しに入ったら幽々子様に半霊を齧られてしまいますよっ」

 

 青ざめた妖夢が無理無理と高速で手を振った。仮にも主に対してどうしてそんな判断を下したの……とは思ってみたけれど、幽々子と言う名の亡霊姫が持つ胃袋は本当に底が知れないのは事実だ。他人に関心が無さ過ぎると魔理沙に言われる私でも、幽々子が以前の宴会の時にお釜を抱えて幸せそうに中身を平らげていた光景は今でも鮮明に覚えている。しかも空になったお釜が二つ傍に転がっていたという惨劇っぷりだ。妖夢が半霊を齧られると怯えるのも無理は無いのかもしれない。

 その体のどこにお釜三つ分の量が入るのかと聞いてみれば、本人曰く霊体を半実体化させるためにはかなりのエネルギーが必要なのだとの事だ。紫はそれを聞いて、卑怯なダイエットだ反則だと言いながらハンカチを噛み締めて嫉妬の念をこれでもかと放っていたが。

 

 そんな紫は口の端に砂糖を着けたまま、私達の元へ寄って来た。手にはまだ甘納豆の袋が握られている。

 

「ねぇねぇ、霊夢も妖夢も食べないの? 本当に美味しいのよこれ……って、よく考えたら二人の名前、何だか似てるわねっ。髪の色は違うけど、こうして並んでると姉妹みたいじゃない?」

「まぁ。じゃあ霊夢、明日から白玉楼に住んでみない? 妖夢は一人っ子だから喜ぶと思うわぁ」

「アンタ達はさっきから何を言ってるの」

「幽々子様、落ち着いてください。巫女さんが冥界に住んだら色々アウトですから」

「妖夢それフォローになってないわ」

「はい霊夢。私の一番のお気に入り、白花美人甘納豆あげるわ。あーんって痛いっ!? ぶ、ぶったわね!? 藍にも少ししかぶたれた事ないのに!」

「いい加減ぶん殴っても良いかしら」

「お祓い棒で殴ってから言わないでぇっ」

 

 涙目で頭を抑えつつぷんすかと憤慨しながら、妖怪の賢者の形をしたナニカは抗議する。普段なら別に私もイラつかないのだろうが、流石に異変中の神経を使う時にここまでほんわかされると殴りたくなっても仕方がないと思う。いくら私でも、甘納豆を片手に異変解決をしたことなんて一度も無い。改めて大妖怪とは何だったのかと考えさせられても仕方のない事だろう。

 

 と言うよりこのスキマ妖怪、時折この様なふざけた態度から一転し、物凄く真剣な佇まいに豹変する事がある。何を切っ掛けにして切り替わるのかは分からないのだが、その時の彼女は今の様なちゃらんぽらんとはまるで別人であり、賢者と呼ばれるのも納得な、大妖怪の威厳を確かに纏うようになるのだ。そもそも彼女は、元々の性格も振る舞いも大妖怪の筈なのである。少なくとも私が初めて彼女を見た時は、ああこれが真の大妖怪なんだなと人間ながら模範にさえ思った程だった。

 

 氷柱の様な眼差しは見る者の口を塞ぎ、紡がれる言の葉の真意を理解する事は常人には叶わず、振る舞いはまるで『優雅』をそのまま体現しているかのよう。神にすら匹敵すると囁かれる圧倒的な力もさることながら、彼女の在り方を幻想郷の誰しもが認め、誰しもが畏怖の念を向ける事を決して厭わない。神出鬼没で大胆不敵。それこそが、幻想郷の設立者の一人にして『八雲紫』と言う大妖怪なのである。

 

 しかし本当に何が引き金となってポンコツが賢者にシフトチェンジしているのかが分からないので、私からしてみれば会うたびに性格が変わっている情緒不安定な奴にしか見えない。本当は頭がおかしいだけなのではないかとすら思ってしまうのだが、私の気のせいなのだろうか。

 

 兎に角、このままでは何時まで経っても埒があかない。私は三人を置いて飛行速度を速めつつ、高度を上げる事にした。

 幻想郷の夜には基本、星と月明り以外に光は無い。人里まで行けば提灯の明かりがちらほら見えるけれど、それ以外は本当に真っ暗だ。妖怪たちはよくこんなに暗い中をスイスイと移動できるなぁと思ったけれど、考えてみれば日中も自分で闇を展開して視界を遮り、よく木にぶつかって泣いている妖怪が居たか。もしかしたら眼ではないコツがあるのかもしれない。

 

「……ん?」

 

 そんな事を考えていると、満月の中心あたりに何か小さな影の様な物がある事に気がついた。目を凝らすとそれは、人の形をしている物体だった。この距離から考えて、人間目線で見ればかなり大きな人形の何かだ。視認して初めて気がついたが、そいつは明らかに大きな力を体から放ち続けていた。まるで月の光を大量に浴びて、力を蓄えようとしているように見える。

 

 あからさまに怪しい。何だアレは。肌を突いてくる魔力や妖力からみて妖怪である事には間違いない様だが、あんな奴が幻想郷に居るなんて知らなかった。見た所男の様だが、だからこそ珍しく感じる。満月の中心で浮遊するその姿は、紅い霧の異変で相手した小さな吸血鬼を連想させた。最も、どうやら奴に翼は無い様だけれど。

 兎に角、こんな時に紫の言う偽物の月を眺めている妖怪なんて絶対に怪しい。私の勘がアレは異変の元凶と関係があると訴えているのだ。ならば、何時もの様に行動するしか選択肢は無いだろう。それが私の仕事なのだから。

 

 私は、まだ甘納豆を幸せそうに頬張っている暢気妖怪に向かって言った。

 

「紫。怪しい奴見つけたからちょっと退治してくるわ。甘納豆持たれたままだと邪魔だから、そこで待ってなさい」

「えっ? もう元凶を見つけた…………の」

 

 その時、紫に明確な変化が起こった。

 私の発言に驚いた顔をした紫が、私のお祓い棒の指し示している月下の妖怪へと視線を移した途端、まるで食卓に嫌いな食べ物が出て来た時の子供の様な複雑な表情を浮かべたかと思えば、急に氷の様に冷たい空気を纏い始めたのだ。

 その顔貌に、先ほどまでの陽気さは欠片も無く。あるのは大妖怪『八雲紫』が見せる、冷徹な鉄仮面のみだった。

 

 急に一変した紫に驚いて『ひぃっ!?』と仰け反った妖夢を尻目に、紫は私に甘納豆の袋を手渡した。

 

「霊夢。貴女は少しここで待っていなさいな」

「……急にどうしたのよ。もしかしてアレ、知り合い?」

「……その様なものですわ。けれど、彼を貴女に任せるには荷が重過ぎる。なるべく視界に入れないようにして待機なさい。私が少し話を伺ってきますわ」

「ちょっと待ちなさいよ。流石にアイツが異変と関係あるなら私も黙っていられな―――」

「霊夢」

 

 ぴたり、といつの間にか目の前まで移動していた紫が、私の唇に扇子を押し当て発言を封じる。

 彼女は妖美な微笑みを浮かべながら、子供を宥めるように言葉を吐いた。

 

「お願い。今回だけは、言う事を聞いて頂戴?」

「……、」

 

 紫がここまで真剣に介入してくる事なんて、今までにあっただろうか。いや、多分そんな事は一度たりとも無かった。異変中の彼女は常に傍観者で、関わるとしても意味深な言葉だけを残したり、曖昧なヒントを何かしらの形で与えるのみ。この様に表立って意見をしてきた印象は限りなく薄い。

 つまり逆説的に言えば、今回は口を挟まなければならない程の問題だと言う事か。どうやらあの妖怪は紫並の大妖怪みたいだし、私でも手古摺ると判断しての事だろう。もしくはスペルカードルールを完全に無視している奴なのかもしれない。男の妖怪であることから見ても、それは容易に伺える。

 

 しかし私は博麗の巫女だ。それでも退治して見せる自信はあるが、今回は紫に譲る事にした。紫と同じく、あれを視界に捉えた幽々子までもが、何やら只ならぬ雰囲気を放ち始めたからである。

 

「分かったわよ。でもあんまり待たせないでよ。長くなったら置いてくから」

「是非そうしてくださいな」

 

 即答だった。それはつまり、短時間では決着がつかない事を暗喩しているのか。幻想郷最強格の妖怪である、あの紫が。

 そこで私は、扇子を持つ彼女の手が、ほんの微かに震えている事に気がつく。目の前で凝視しないと気がつかないくらいの、些細な変化だった。

 

「……紫、もしかして不安なの?」

「―――いいえ。ただ、手間を取る相手であることは確かです」

 

 否定する彼女の言葉に、どこか力が感じられず。それは明瞭に、彼女が心に孕んだ不安を露わにしていた。

 紫は背を向けて、静かに夜空を仰いだ。彼女の視線の先には、偽の月と男が居る。奴は背中を向けたままで、まだこちらの存在に気がついていない様だった。

 眺める紫の隣へ、静かに幽々子が着く。

 

「ねぇねぇ、彼が件の妖怪さん?」

「そうよ。貴女も油断しない方が良いわ。奴は、その気になれば何の躊躇いも無く魂を消滅させる」

「あらあら……それは怖いわねぇ。道理で見ているだけで、とっても嫌な予感がする殿方な訳だわ」

 

 言葉を交わす二人に、妖夢が近づく。背中に背負った二振りの刀を腰に下げ、彼女は柄に手を当てた。

 

「幽々子様、お供致します」

「駄目よ妖夢。あの月も、あの殿方も目にしては駄目。だからあなたはここに霊夢と残るのよ。それに、万が一何てものが起こったら大変だわ」

「大丈夫です。必ずや奴を斬ってご覧に入れましょう」

「そうじゃなくてね。私と紫の間にあなたがいて、撃ち落としてしまわない自信が無いの」

 

 ふわりと微笑んだ幽々子を前に、妖夢は唾を飲み込んで刀から手を引いた。

 本気なのだ。

 彼女たち二人は、いざという時に本気であの男を迎え撃つつもりでいる。おそらくスペルカードルールが適用されるかも分からない、正真正銘大妖怪同士の決闘になるのだろう。逆を言えば、二人がかりで全力をもってして相手をしなければならない程の妖怪だと言う事か。

 

「さぁ、いきましょうか」

「はぁい」

 

 先ほどの大騒ぎが嘘のように、氷結した空気を纏った二人の少女が夜空を舞う。彼女たちは一直線に、月の下にまで飛翔を開始した。

 

 

 別に、想定していなかった訳では無い。むしろ可能性としては、私の中で大半を占めていたと言って良い。

 

 月が偽物の―――それも大昔の禍々しい月にすり替えられたという、妖怪の存続に関わる前代未聞の大異変が発生したと認識した時、私の脳裏を掠めたのは、あの吸血鬼の姿だった。

 太古から生きながらえている異端の吸血鬼であり、レミリア・スカーレットを上回る力の持ち主たる彼ならば、月をすり替える事など造作もないだろう。加えて、奴は確実に幻想郷で何かをする腹積もりでいる妖怪だ。更に時間的に考えると、現在奴が幻想入りを果たしてからおよそ二週間と少し経過している。行動を起こすにしても、タイミング的には申し分ないだろう。

 

 そしてこの通り、奴は月の異変が起こっているこんな時に姿を現している。偽りの満月と向き合い、静かに佇むその後ろ姿は魔王と称するに相応しいものだった。

背後からも放たれる禍々しい瘴気は月の狂気と入り交じり、筆舌に尽くしがたい悪寒を呼び起こす。境界を操作して無効化しようとも考えたが、驚くことにこの瘴気、何故かは分からないが境界線が存在しないのだ。この世に存在するほぼ全ての物に境界は存在している。一見完全無欠に見えても、反転の境界と言ったものは存在するのだ。それが彼の瘴気には無い。まるで反転したとしても全く同じ性質を持ち合わせている――――否、その一つだけで完成しきってしまっている代物の様だ。

例えるなら、『点』。かれの瘴気は、一つの『点』でしかないのである。線も無ければ面も無い。無論立体でもある訳が無い。ただ『点』として機能を果たしているかのような、そんな存在だった。私が言うのもなんだけれど、無茶苦茶にも程がある。

 

 ふと、私は幽々子の方をちらりと見た。彼女は変わらない様子でふわりとした笑みを浮かべているが、目が全く笑っていない。危惧してはいたけれど、亡霊の身であっても奴の瘴気は届くというのか。全くもって、存在自体が眉唾物の様な男である。神代から存在していたらしいという藍の報告は、もしかしたら本当なのかもしれない。

 

「こんばんは」

 

 あの夜の時と同じように、私は彼へ挨拶の言葉を掛ける。彼もまたあの時と同じように、静かに私たちの方へと振り返った。

 彼は微笑む。光の届かない水の底を体現するかのような魔力の波と瘴気の渦を放ちながら、しかし西行妖の如き妖艶さを湛えた笑みを浮かべる。

 

「こんばんは。久しぶりだね。この前は急に居なくなってしまって心配したのだが、どうやら息災の様で安心したよ」

 

 相変わらず、耳にするだけで内臓全てを絡み取られるかのような、甘くも痺れる声だった。この声で、奴は闇夜の支配者と謳われる程に、数多の魑魅魍魎の心を縫い止めて来たのだろう。

 

「ええ、お蔭様で」

「それは何よりだ。……ところで、そちらのお嬢さんは君の友人かね?」

 

 彼の紫眼が幽々子を射止める。対して彼女は、平常時と変わらないふわふわとした口調で、律儀に自己紹介を行った。

 

「初めまして、西行寺幽々子と申します。冥界の管理者を務めていまして、紫のお友達ですわ」

「自己紹介、恐縮の至りだ。私はナハト。最近幻想郷へやってきた吸血鬼だよ。よろしく」

「これはこれは、ご丁寧に」

 

 あくまで『よろしく』と返さないあたり、幽々子らしいと言ったところだろうか。彼もそれを理解しているのか分からないけれど、何食わぬ様子で、不敵かつ柔らかな笑みを浮かべている。

 兎に角彼のペースに呑みこまれないうちに、私から流れを構築しなければ。以前の二の舞になる訳には絶対にいかない。

 

「ところで、貴方はここで何をしているのかしら?」

 

 私の問いに、彼はうむ、と相槌を打つ。

 そしてただ簡潔に、一言で答えを出す。

 

「少し、人を探していた」

 

 ……探して『いた』。それはつまり、もう見つかったと言う事なのだろう。

 人探しで奴が誰を探していたのかなど、いちいち考えるまでも無い。十中八九私の事で間違いないだろう。奴はずっと偽の月を眺めていた。まるで月の異変に気がつき、駆けつけて来る者達を待ち受けるかのように――――そう、探していたのではなく、奴は『待っていた』のだ。この私を迎えるために、吸血鬼にとって不都合が出辛い月に関わる異変を起こして。

 だが奴の狙いはそれだけではないだろう。ナハトを異変の元凶だと仮定した場合、異変を起こした理由も幾つか説明可能なものとなる。

 

 一つは、幻想郷に自らの影響力を知らしめる為。

 一つは、奴が胸の内に抱える計画を遂行する上でのピース、または本筋としての機能を果たす為。

 一つは、無視できないレベルの異変を起こして私を呼び出し、以前失敗した交渉を持ち出す為。

 

 どれもこれも仮説の域を出ないが、可能性としては十二分にも足りている。もしかしたらこれら全てが奴の目的なのかもしれない。

 しかし今は、幽々子も傍にいる。彼女は一見、飄々とした印象を受ける和やかな亡霊だが、その実非常に頭の切れる女性だ。私の真意を言葉で語らずとも汲み取ってくれる、数少ない友人なのである。

 そんな彼女と私を同時に相手にして、奴が思い通りに事を運べるとは思えない。それは恐らく、奴自身も既に理解しているだろう。そのせいで新たに予防線を張り巡らそうとしているのか、彼はいくらか地上の方向へ視線を逸らし、何かを確認する動作を行っていた。

 何をするつもりなのかは分からないが、逃がす訳にはいかない。今度は私が追いつめる番だ。

 

「その人は無事に見つかったのかしら?」

「ああ、たった今ね」

 

 即答した彼に、私は歯噛みする。

 やはり、仮説は正しかった。奴は私を再度誘き寄せるつもりでいたのだ。だが今回は二度も同じ轍を踏むつもりは無い。今は幽々子も居るし、私にも考えがある。

 

「それで、何故その人を探していたの?」

「とても大事な用があるんだ。それを達成するには、その者の力を借りないと上手く事を運べなくてね」

 

 ―――そう言えば彼は以前、脳漿が麻痺を起こしそうな甘美の声で私に協力を要請してきていた。つまり奴の目的を成すには、私の境界を操る力が必要だと言う事か。

 ただ、ここで注目すべきは私を狙っている事ではなく、『上手く事を運べない』と言う発言である。裏を返せばつまり、面倒にはなるが別の手段でも達成できない事は無いという意味に繋がるのだ。

 

 何だ? 彼は一体何を成し遂げようとしているのだ? 境界を操れば安易に進み、自分の力だけでは面倒な事柄……はっきり言ってそんなものは掃いて捨てるほどに存在する。自分で言ってしまうのもアレだけれど、境界を操る力は万能性が非常に高い。それこそ、空間転移から夜を停止させるに至るまで―――いやそれ以上に幅が効く。

 だからこそ、真実を掴み取り辛い。解釈できるパターンが多すぎるのだ。その中からどれが真の目的なのかを引き当てようとする行為は、砂丘の中に埋まったガラス球を探し出す様なものである。砂丘に埋もれてしまっているせいで、彼が何の目的をもって幻想入りを果たしたのかが、全貌すらも見えてこないのだ。

 

 幻想郷を支配しようとしている様には見えない。そうであれば、この異変はあまりに効率の悪い手段である。いくら月がすり替えられ狂気が強まろうとも、何日も浴び続けなければ妖怪が狂うことはまず無い。精神を不安定にさせて魔性の声を駆使し、支配下に置こうとするのであれば、むしろ彼自身が直接様々な地へ侵略する方が手っ取り早い話である。認めたくはないが奴の声なら、仕草なら、力なら。格の低い妖怪を手中に収める程度など、造作も無い事だろう。しかし、彼はその手段を取らなかった。

 

 では。では。では。

 

 ぐるぐると、思考が回転を繰り返す。それでも彼の本当の目的を探り出す事は叶わなかった。

 ならば、異変の目的は何だろうか。まさか私を誘き出す為だけに異変を起こした訳ではあるま――――

 

「さて。折角再会出来た所で名残惜しいのだが、残念なことに今夜ばかりは都合が悪い。すまないが、私はここでお暇させて貰うよ」

 

 ―――い?

 予想とは全く異なる彼の発言に、私は頭の中が一瞬純白に染め上げられた。

 お暇させて貰おうとは、まさかそのままの意味で使っているのだろうか? 本当に? 本気でこの場から、彼は去るつもりだというのか?

 私の混乱を知る由も無く、彼は『それでは、また』とだけ言い残して、静かに下降を開始した。まるで、もうあの月をどうとでもしてくれと背中で語るかのように。

 

 何だ。何故彼は、こんなにもあっさり身を引いたのだ。異変を起こしたのは別に私を呼び出す為だけではあるまい。ここまで大仰な術を用いたのだ。たったそれだけの理由では目的を完遂する効率が悪いどころの騒ぎではない。この様に幽々子の乱入などの予測不可能なアクシデントが起きて失敗すれば、リターンなんてものは発生し得ないのだ。

 

 それとも、まさか本気で彼は――私を只呼び出す為だけに異変を起こしたとでも言うのか?

 たったその為だけに、下手をすれば幻想郷が狂うかもしれない大異変を起こしたとでも?

 

 血流の感触が、失せた。

 

 こんなの、認めたくない。こんな事が、あってたまる訳が無い。彼が、たった一人の妖怪を誘き寄せる為だけに、ここまで大きな異変を起こしただなんて、考えたくも、無い。

 でも、仮説を証明する為のピースは揃い過ぎている。嫌と言う程に揃ってしまっている。それ故に、断じて認めるわけにはいかないこの答え以外、私は弾き出す事が出来ない。

 冷静さを欠いているのは分かっていた。理性では私は今何処かがおかしくなっていると理解しているつもりだった。ひょっとしたら、精神に纏わりつく彼の瘴気と忌々しい偽の月の光が、私の心を狂わせていたのかもしれない。

 

 ただ、その時確かにはっきりしていた事は。

 この男の些細な戯れの為だけに、私の愛しき幻想が破壊されそうになっていたという現状が、頭の全てを埋め尽くしている事だけだった。

 

「待ちなさい」

 

 気がつけば言葉を放っていた。視界が歪むほどの妖気が、体から放たれている自覚はあった。

 

「そう言えば一つだけ、訊ねそびれていたことがありましたわ」

 

 私は扇子を広げ、夜空に掲げる。それを合図として、空間に無数の亀裂が生じた。

 

「貴方の実力、計らせて頂いてもよろしくて?」

 

 加減など無かった。スペルカードルールとして成り立っているかも分からなかった。そもそも、男である彼はスペルカードルールを適用しないかもしれない。まぁ、そんな事はどうでも良い。ただ今この時だけは。幻想郷を崩壊にまで追い込んでいたかもしれない下手人にだけは、少々きつめのお灸を据えなくてはなるまいとだけ、思い込んでいた。

 

 私は彼の体を圧し潰すかのように、全方位から無数の弾幕を叩き込んだ。

 

 

 さて、色々と突っ込みどころはあるが、取り敢えずは状況を整理しようか。

 

 私は外出をする許可をレミリアから貰って、初めての幻想郷見学を楽しんでいた。道中に藤原妹紅と言う少女に遭遇し、勧められるままに竹林へと足を踏み入れて迷子となった。迷いに迷った末、偶然にも人の住処を発見し、そこで輝夜と言う素晴らしい少女と出会った。私は彼女に友達になってくれと懇願し、そして友達になる為にこの条件を踏破せよと難題を授けられた。

 しかしその内容とは、蓬莱人の死を持って来いというものだった。

 

 輝夜曰く蓬莱人とは、輝夜自身やあの妹紅を主とした、蓬莱の薬を飲み絶対の不老不死と化した人間の事らしい。正直なところ、私は確かに友達が欲しいのだが、誰かの命を対価にしてまで得ようとは毛ほども考えていない。流石にそこまで腐っているつもりは無いのだ。幾ら難題の対象が、老いる事も死ぬことも無い完全無欠の不滅な存在であったとしてもである。そもそもの前提として、私は完全な不死を殺せるような怪物ではないのだ。当然殺したいだなんて欠片も思っていない。

 

 だから私は初め、至極残念ではあったが丁重にお断りした―――のだが、その次に語られた輝夜の弁から察するに、どうもこの難題、直接的な意味ではなかったらしい。私はてっきり妹紅を殺せと暗喩されているのかと思ったのだが実はそうではなく、『蓬莱人の死』を『見つける』事が出来れば良いらしいのである。つまるところは問答だ。私が彼女に献上するのは竹取物語に登場した貝や鉢などの様な物では無く、的確な『解答』。彼女が望む『答え』を導き出せばいいのである。これが何を指しているのかはまだ分からないが、兎に角、難題に直接的な死は関係無いと理解した私は、この難題を受理し、永遠亭と言う名の屋敷を後にした。

 

 次に、私の足を引き留めた輝夜の従者―――八意永琳と言う名の女性から、私はある願いを託された。その願いは私にとって凶報そのものであり、また同時に必ず遂行しなくてはならないものでもあった。私は二つ返事にそれを承諾し、その願いを叶えるために再び幻想郷へ繰り出した訳である。

 第一目的はまず、妹紅を探す事だった。彼女の協力があれば、永琳の望みを叶えられる可能性が高くなる。

 

 しかし問題がここで顔を覗かせる。私は幻想郷の地理を知らない。故に、三日前に別れた妹紅の行く処など見当もつかないのである。永琳曰く竹林の傍に住居を構えているとの事で何とか探し出したものの、彼女は留守だった。いきなり手詰まりとなってしまったのである。

 

 そこで私は、霊視の範囲を拡張させて広範囲に存在する魂の色を見極める手法を取った。簡潔に言えば魂の探知である。本来ならば月の光を借りてエネルギーを補充した方が消費は少なくて済むのだが、今夜ばかりはそうはいかない。永琳曰く、永遠亭の住人の一人と輝夜を迎えに来る月の使者とやらから守るために一晩だけ月を隠さねばならないらしく、その為、今現在天蓋で輝いている月は幻影でしかないからだ。試しに月光を浴びて力を補充できるか試してみれば、何だか凶悪な粗悪品を掴まされた気分になった。月光の性質が昔の懐かしいものに似ているせいもあるかもしれない。

 

 しかし蓬莱人の魂は桁が違う程にエネルギーの量が多いので、見つけられれば判別は容易だった。それでも数多く存在する魂の中から発掘するのに10分近くかかってしまったが。しかも居場所が、私のすぐ足元にある人間の里の中だというのだから笑えて来る。灯台下暗しとはよく言ったものだった。

 

 そんな時、紫と西行寺幽々子と言う名の亡霊さんに出会った。彼女たちはわざわざ挨拶をしに来てくれた様だ。しかし、折角話しかけてくれたというのに心の底から申し訳なく思っているが、今夜ばかりは本当に時間が迫っているのでお暇させて頂いた。今度会った時は前回の件も含めて何かお礼をしよう等と考えて妹紅の元へ向かおうとしたわけなのだが……。

 

 

 何故か私は今、紫と幽々子の二人から弾幕ごっこを吹っ掛けられていた。

 

 

 未だに何が起こったのかが分からない。紫は私の力を試したいと言っているが、どうも怒っている様子である。だが私には全くもって彼女を憤慨させるような事柄に身に覚えが無い。もしやまた魔性が影響して何かすれ違いを引き起こしたのだろうか。兎に角先ほどからとんでもない量の妖力弾に追われている。

 

 これがまた、桁が違う攻撃だった。以前戦闘を行ったフランのそれとは比較にならない圧倒的な弾幕密度である。と言うよりそもそもこれは弾なのだろうか。あまりに密度が濃すぎてレーザーにしか見えない有様だ。実際にレーザーらしきものも撃たれている。それでも尚、弾の放つ輝きが夜空を彩る光景は、場違いながらも美しいという感想を抱かざるを得なかった。

 

 しかもそれが一人ではない。幽々子もまた、同程度の凄まじい一清掃射を、まるで夜空を舞台に踊る演者の様に、くるくると可憐な舞を披露しながら撃ち放ってくるのだ。舞台を飾る桜吹雪をそのまま再現し、さらに昇華させたかのような攻撃は、吹雪と称するより最早台風と言ったところだろう。確かに見惚れるような絶景ではあるのだが、弾幕ごっことはここまで苛烈なものだったのか。成程、以前パチュリーが弾幕ごっこを試したいと言い出した私に対して『幻想郷と戦争を起こすつもりなのか』と言ったのも頷ける。これは私からすれば最早『ごっこ』などではない。戦争の領域だ。こんな遊びを『ごっこ』と称するのだから、幻想郷の少女たちは想像以上に逞しいのだなと妙な感心を胸に抱いた。

 

 縦横無尽に夜空を駆けまわり、兎に角回避に徹する。ふーむ、これでは埒があかない。こんな状況で妹紅の居る元へ逃げ込めば最後、人間の里は一瞬で更地と化すのではないか。紫がそんな事をするとは到底思わないが、間接的に進んで人質を取るような真似は御免だ。かと言って現状維持を続けるのも苦しい。

 

 仕方がない。何に怒りを抱いているのかはまた原因を探るとしても、まずは応戦して活路を開こう。適度に戦闘を繰り広げて私が撃墜されれば、その場凌ぎではあるが彼女たちも納得してくれるはずだ。本来を言えば、心から説得を試みて彼女たちの怒りを解消したい所だが、今夜ばかりは時間が惜しい。方向性は違うものの、強行突破をさせて頂こうか。その為にも、出来うる限り彼女たちを傷つけない様に反抗しなくては。

 

 私は豪速で天空を斬り裂き、夜空の遥か上空までに身を移した。彼女たちもまた、流星の如き速さで私との距離を詰めてくる。

 そこで私は、背後に魔剣グラムを可能な限り展開した。数は一五本。これで降りかかる全ての弾幕を捌ききる。

 紫と幽々子は、私を挟み撃つ様に位置を整える。右手には紫が、左手には幽々子が。それぞれ膨大な妖力と霊力を纏いながら、優雅に夜空へ君臨した。

 

「やはりそれが、貴方の切り札の様ね」

「何だか嫌な雰囲気のする剣ねぇ」

「君たちの様な実力者を相手に慢心なんてものは出来ないさ。すまないが、今回ばかりは本当に急を要する。また改めて謝罪をさせて頂くよ。どれだけ罵詈雑言を掛けてくれても構わない。だから、心苦しいが全力で抵抗させてもらう」

 

 その言葉を皮切りに、二つの方向から同時に世にも美しき光の波が放たれた。

 一本のグラムを右手に据え、残った剣をそれぞれ七本ずつ両者の光の波と対峙させる。剣を扇状に配置して高速回転させることで、迫りくる弾幕を打ち払い続けた。さながらそれは、黒い巨大扇風機と言ったところか。

 

 一斉射撃から抜け出し脇から迫りくる弾丸を。次々と空間に生じる亀裂から吐き出される華やかな光球を。私は手に持つ魔剣で払い、弾き、身を捩って回避する。

 

 この二人の攻撃は凄まじいの一言に尽きる。グラムを修復する為に使う魔力量が段違いに多いのだ。それだけこの二人が、頭一つ抜けた実力の持ち主だと言う事なのだろう。もしかしたら、わざと撃墜されるなんて余裕が生まれないかもしれない。

 

 突如、ほんの少しの距離で空間が縦に裂けた。その中から、ぎょろりとした幾つもの眼が私を睨む異形の空間が顔を覗かせる。次の瞬間、桃色の光を纏った蝶の群れが一斉に、堰を切ったかの如く解き放たれた。

 その蝶を見た瞬間、私ははっきりとした身の危険を肌で感じ取った。

 

 ――これに直撃するのは不味い。

 

 躱しきれないと判断した初撃の数頭をグラムで叩き斬り、残りの群れを一気に上昇する事で回避した。態勢を整え、私に被弾しなかった蝶がキラキラと眩い光の粉を散らして消滅していく様を見届ける。

 

 あの蝶は一体なんだ。生き物ではないのは明白だが、明らかな死の臭いを感じた。どう考えてもこの世の性質のものではない。どちらかと言えば彼岸の性質へ寄った物だ。まさか、幽々子の弾幕か?

 

 そう言えば彼女は冥界の管理者だと名乗っていた。彼女自身も亡霊であり、改めて言うまでも無くこの世ならざる者である。死の気配を漂わせるエネルギーを操るとすれば、彼女しかこの場に存在し得ないだろう。紫とて生者だ。生者が死そのものの様なエネルギーを放つのは、理に適わない。

 

 何にせよ、私の認識が甘かったと言う事か。ごっこだからと少々軽んじていたのが間違いだった。

 

「流石、と言うべきかしら。まさか今の攻撃を避けられるとは思わなかったわ」

「運動神経がとても良いのねぇ。活発で果敢な殿方さんだわ」

 

 背後の空間が裂け、紫が姿を現したかと思えば、桜吹雪の様な光の波が巻き起こり、中からふわふわとした笑顔を浮かべた幽々子が顕現した。彼女の周囲には、先ほどと同じ蝶が羽ばたいている。

 蝶が持つ性質を霊視から観察して、私は一つの答えを得た。

 

「……成程、反魂の性質か」

 

 反魂。本来ならば死者を蘇らせる、呼び戻すと言った意味合いがあるが、その性質を逆手に取った戦法なのだろう。反魂が魂を冥府から呼び戻す……即ち魂の性質を現世(うつしよ)へ反転させるのならば、生者の魂を幽世(かくりよ)の性質へ反転させることも強引だが可能となる。そしてそれは即ち死を意味する。

 

「差し詰めそれは反魂蝶と言ったところかな」

「似たようなものねぇ。どうかしら。とても綺麗でしょう?」

「ああ、とても」

「でも、綺麗な薔薇には棘がつきもの。世の中の蝶には毒を持つ種も居たりするそうです」

「さらに蝶は、よく魂と結び付けられる生き物でもあるね」

「ええ。美しさは時に魂を奪うのですわ」

 

 掴み処のない言葉の数々に、飄々とした態度。ベクトルは違うが、紫と似ている様な気がする。友人と名乗るのも納得だ。私にも『るいとも』と外の世界で言われる様な者に、いつか会えればよいのだけれど。

 

「しかし幽々子。私と君は先ほど顔を合わせたばかりだ。私の力を計りたいと言う紫はともかく、君にまで攻撃される様な覚えは残念ながら私には無い。よければ理由を教えてはくれないか」

「あら、ふふ。そうねぇ、言ってしまえばとても簡単な事。異変において、疑わしきは罰せよが原則なのよ」

「……む? 待て、それではまるで――――」

「それに、紫がここまで気に掛ける妖怪さんがどんなものなのか知りたい気持ちもあるのよねぇ」

 

 再び、神々しいイルミネーションショーが幕を開ける。怒涛の如く迫る蝶の舞と紫の妖力弾をグラムで弾き飛ばしつつ、私は旋回を開始した。まずは全力で空中を移動し続け、思考を展開できる時間を稼ぐ。

 

 幽々子の発言から私が攻撃されている理由を考察してみたが、どうやら私は異変の首謀者と間違われているらしい。恐らく異変とはあの月の事だろう。考えてみれば、月は妖怪にとって非常に重要な役割を担う存在だ。人間にとっての太陽と言って良い。それが偽物の幻影にすり替えられたとあれば、普通の異変ならば必ず解決に赴いてくるという博麗の巫女では無く、紫自身が動くのも説明できる。そして私は吸血鬼だ。日の元では存在できない夜の住人の代表格である。そんな私が異常な月の元に佇んでいれば、先ず疑いにかかるのは当然と言って良いだろう。

 それになにより、同族たるレミリアが以前に引き起こした二つの異変……即ち前科もある。これらの要素から、私への疑いはますます強くなったと言ったところか。

 

 であれば、紫がどこか怒っている原因は、私が月をすり替えて幻想郷の妖怪へ悪影響――即ち幻想郷のバランスを崩そうとしているのかと勘繰ったからではないか。

 

 あの冷静で親切な紫がここまで取り乱しているのも、私の魔性で心が掻き乱され、更に愛着のある幻想郷が私の手によって危険に晒されたと思い込んだからだ。でなければ、賢者たる彼女がここまで直接的な手段を講じる事はあるまい。

 だとすれば厄介だ。異変の元凶は言うなれば月をすり替えた永琳だが、彼女も彼女で、大切な者を守ろうとする故に行動を起こしてある。ここで私が誤解を解いたとして、その矛先が彼女に向いた場合はどうなるだろうか。最悪の場合、本物の月を戻され月の使者の通り道を作り出してしまう。

 

 事情を説明すれば紫も永琳の事を理解して一晩だけ見過ごしてくれるかもしれないが、何せ今の彼女は頭に血が上っている状態だ。強行突破の末に、月の返還が行われると言ったアクシデントも起こり得る。

 

 ならば、どうする。

 

 私は亀裂から照射されたレーザーを数本のグラムで押し留める。残った剣を、牽制の為に二人へ放ち、追尾させる。二人が防御態勢に入ったため、僅かな隙が生じた。

 チラリと、偽の月を見る。

 本来ならばここにある本物の月が、所謂月の民の住まう月と重なった時に道が開ける為、贋作とすり替えてその道を塞ごうというのが永琳の案らしい。正確には偽の月を用いて幻想郷を密室化させる事で進路を絶つというものだ。ではどうにか、偽の月とはまた別の手段で道を塞ぐ方法は無いもの――――

 

 ―――――――……………………、

 

 いや、待て。密室だと?

 そのワードを思い浮かべた瞬間。唐突に、脳裏へ電撃が走り抜けた。

 

「…………結界だ」

 

 そうだ。博麗大結界。外の世界と常識や位相を『隔離』する機能を持ったこの結界の効力があるならば、もしかすると月の民の入り口を初めから防いでいる状態なのではないか? 博麗大結界も言い換えれば、幻想郷と言う名の密室を作り出している事に変わりないのだから。

 

 外の世界の月からこちらへ干渉してくるのならば、当然隔離された幻想郷では無く外の世界の『幻想郷のある場所』へ月の照準は向けられる。そこには当然、何も存在しない。あるのは只の森なのだ。

 活路が見えた。まずはこの疑問を確実なものとしなければ。

 

 グラムを手元に招集させ、私は休戦の合図を取る。彼女たちは私の行動を訝しんだのか、動きを止めて様子見に徹した。

 ここで、言葉を投げる。

 

「紫よ、一つだけ質問をさせて欲しい。博麗大結界は外の月から直接的な干渉を阻む効力があるのか?」

「……唐突過ぎて質問の意図が読めませんわ。そんな事を聞いてどうなさるおつもり?」

「月をすり替えた元凶の動機を解消する為だよ」

「なに?」

「はっきり言おう。君は思い違いをしている。私は月をすり替えた犯人ではない。そもそもそんな事をして得られるメリットが私に無いとは思わないか。私の頭に浮かぶのはどれもこれもデメリットばかりだ。その中の例を一つ挙げるのならば、何故私が、君とわざわざ敵対する火種を作る必要があるというのかね」

「……貴方は何を知っているの?」

「恐らく、君が知る事を望む答えだ」

 

 まだ永琳の名を出す訳にはいかない。暗に黒幕が居ると仄めかすだけで良い。これで私の意図はどんな形であれ伝わる筈だ。

 

 しかし彼女はこう考えている。結界の特性を知った私が、私欲のために結界を破壊しようと強硬手段に出る、もしくは利用する可能性があるかもしれないと。だから素直に答えられない。当然だ。今の私は、非常に悲しいが信頼を失ったも同然な状態なのだから。そんな相手に要求された情報を安易に開示するのは避けたいところだろう。

 

 ならば、更に対価を払うまでだ。時間を考えても躊躇している余裕はない。

 

「信用が足りない事は重々理解しているつもりでいる。だからどうかこれで、私の言葉を信用して頂けるか」

 

 私は、手に持つグラムを背後に放った。

 剣を操作し、構成する魔力を更に物質に近い性質へと練り上げていく。それこそ魂やエネルギーだけでなく、本当に物質が斬れる刀剣へと。

 調整を終えた刃を勢いよく横に薙ぐ。ビュンッ、と空気を斬り裂く音が耳を劈き、そして。

 

 私の首を、刎ねた。

 

 正確には、胴を刎ねたと言った方が良いのか。私の胴体を完全に切り離し、真下へと放棄する。胴体は夜の闇の中へと溶け込んでいった。いわば私は生首だけが浮いている状態に成り下がり、ただの頭と化した。

 流石にこの行動には紫も驚いたようで随分目を丸くし、幽々子はあらぁ、と穏やかに口にしていた。

 しかしこれでは声帯で声を調達できないので、スカーレット卿が使ったものと同じく、魔力操作で大気の振動を意図的に起こし人工音声を作り出す。

 

「『ご覧の通り、胴を捨てた。私は妖怪であるが故に頭だけになっても油断を捨てられない気持ちは分かるが、君ならば今の私をどうとでも対処できるだろう。不穏な動きを見せたら排除してくれて構わない。だからどうか、私の質問に答えてはくれないか』」

「…………、」

 

 しばしの沈黙が闇夜を支配する。紫は目を細めて私を観察すると、瞼を閉じて小さく息を吐いた。

 

「博麗大結界は月の干渉を跳ね除けるわ。ここが月に直接手を出される事は、無いに等しい」

 

 よし。幸運なことに推測は正しかった。正直なところ、これで違うと言われたらどうしようかと思っていたところだ。流石に頭一つで対抗できるとは思えないし、その様な無様な真似を晒すのは御免だ。

 

 兎に角これで、永遠亭の彼女たちの身の安全は確保されたのも同然と言ったところか。ならば、彼女たちに永遠亭の居場所を教えてこの異変を止めてしまっても構わないだろう。少なくともあちらの方へ紫たちの意識が向けば、妹紅に会いに行くことが出来る。それからまず、永琳の依頼を達成する為に動かなくては。

 

「『解答ありがとう。今度は私の番だな。――――竹林の奥だ。そこに君たちが探している者がいる』」

 

 紫は暫しの間、私の答えを頭で巡らせている様子を見せると、パチリ、と扇を畳んで袖の中に仕舞い込んだ。どうやら信じてくれるらしい。胴を撥ねた甲斐があったというものだ。これ以上を求められたらどうすればいいのかと考えていたが、杞憂に終わったのが不幸中の幸いと言ったところか。

 

「……まだ、貴方に謝罪をすることは出来ません」

「『分かっているさ。事の真偽を確かめる必要があるからね』」

「貴方の言葉が真実ならば、また近いうちに」

「『私も君に対して、少々乱暴な手段に出てしまったからね。謝罪と茶菓子を用意して待っているよ』」

 

 それが最後となった。空間の亀裂を生み出した紫は、その中に幽々子と共に姿を消していったのだ。

 ……至極今更だが、あれが彼女の愛用らしいスキマと呼ばれているものなのか。イメージ的にはもっとコンパクトな見た目をしているかと思っていた。

 

 さて、事態が沈下したところで、早速妹紅に会いに行かねばならないな。丁度胴体が落ちた場所の近くに居るようだから、ついでに体を回収して行こう。

 それにしても、紫に嫌われたかもしれないというのは、中々辛い現実だな。まぁ、今度顔を出してくれるようだから、その時に汚名返上が出来ればよいのだが。色々と頑張らねばなるまい。

 

 

「……またしても、してやられたわね。まさか彼が、異変の元凶の影武者を演出するとは思わなかったわ」

「どうやら時間稼ぎをされちゃったみたいねぇ」

「加えて、その立場を巧みに利用し、どう足掻いても交渉を持ちかけられる場を作らされてしまうなんてね。こうも心を揺さぶられ、踊らされ、失態を続けるだなんて、私も耄碌したのかしら」

「全部計算の内に行動していたとしたら、とっても凄い策士さんだわぁ、あの吸血鬼さん。藍ちゃんの調査結果がますます真実味を帯びてきているわねぇ」

「……………………幽々子」

「なぁに?」

「異変だとか、何もかも全部終わって一段落着いたらさ。晩酌、付き合ってくれる?」

「もちろん。幽々子お姉さんに任せなさいな~」

 



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10.「吸血鬼さんと不死鳥の血」

 アリス・マーガトロイドと言う名の魔法使い……いや、人形使いか? どっちで呼ぶべきなのか迷うけれど、まぁいい。とにかくアリスと言う名の私の友人から、夜中に突然イブニングコールを貰い、これまた唐突に、無視できない異変が起こっているから原因を探すのを手伝えとご指名を受けて、私は晩夏の夜を箒に腰かけて飛んでいた。当然隣には、私の美容の邪魔をしてくれたアリスが、数多の人形とグリモワールを携え浮遊している。

 

「もう、夜に起こしたのは悪かったって謝ってるじゃない。だからそんなにジトっとした眼で何時までも睨まないで頂戴。言ったように人間の貴女にはピンと来なくても、これは本当に無視できないレベルの異変なの。……でも良い機会だから、これを機に月の有難さを知っておくべきだわ。貴女も魔法使いの端くれなんだし」

「へいへい、私には月を愛でる乙女心なんか無いですよーだ。ところで、こうして私が肌寿命を削ってまで異変解決を手伝ってるんだからさ、終わった暁には何か私にくれちゃったりするのかい?」

「都合のいい時は本当に厚かましいわね貴女は。だから頼りたくなかったのに……はぁ、しょうがないわね。少し珍しい魔法素材をあげるわ。それで良い?」

「魔理沙さんはアリスの愛の籠ったフルーツタルトもご所望だぜ」

「……了解。それで良いなら安いものよ」

「えっ? お前、まさか本当にソッチの気が……?」

「貴女をここで一度解体して意識を残したまま人形にしてやってもいいのだけれど、どうする?」

「せ、折角だが遠慮しておくぜ。人形は好きだけど眺めるに限る」

 

 アリスの相棒とも言うべき、フリルをふんだんに施された衣装を身に纏う上海人形達が、槍やらナイフやら鋏やらを構えこちらに突き付けて来た。操り主たるアリスは、光の無い目をこちらに向けて底の知れない黒い笑みを湛えている。どうやらちょっとからかい過ぎてしまったらしいので、素直に手を引いた。引き際を見極めるのは肝心だ。私だってまだ剥製モドキにされたくはない。

 

 ふと、人間の里から少しだけ外れた所を通過しそうな時だった。私たちの高度より遥か上空で弾幕ごっこが開催され始めた事に気がつき、私は飛行を止めて、首を上へと向けた。丁度、満月と重なる絶妙な位置で、光の応酬が繰り広げられている。

 ……いや、あれは弾幕ごっこか? 私の知っているスペルカードの弾幕の様な、決まった法則性が全く見受けられない。とにかく派手で、とにかく速く、とにかく濃い――そんな印象を受ける空中戦だった。しかもよく見ると、空を引き裂かんばかりの妖力弾を撃ちまくっている犯人は、幻想郷でも屈指の実力者である紫と幽々子の二人だと気がついて、思わずぽかんと口を開けてしまった。更に驚くべきことに、これは二人が互いに本気の弾幕戦をしているのではなく、何やら二人で一つの飛行物体を撃墜しようとしているのだ。その飛行物体は、あまりに速すぎて私の眼では全く追えない。なんて例えれば良いのか分からないが、とにかく物凄く速いナニカがびゅんびゅんと弾幕を潜り続けているのである。

 

 一体全体どんな化け物が、あの二人の本気弾幕をいなし続けているのかと注目していたら、彼女らは突然動きを止めた。どうやら何かを話しているらしい。そして遂に、謎の飛行物体の姿を遠巻きに確認する事が出来た。

 どうやら、そいつは男の妖怪だった。月光の反射であまりよく見えないけれど、夜空で丈の長い服を靡かせている長身の男―――――

 

「――――っ!!」

「……魔理沙、どうしたの? 顔が青くて赤いわよ」

 

 どんな状態だそれは、と突っ込みたかったが、今の私にそんな余裕は欠片も存在していなかった。

 何故かは分からない。全くもって理解不能なのだが、あの男を眺めていたら突然、無性に怖くて恥ずかしい気持ちが、腹の底からマグマの如く込み上がって来たのだ。まるで、昔書いたけれど渡せないまま机の中に仕舞われた恋文をふとした拍子に読み返して、悶絶してしまった時の様な羞恥心の激流と、ヘビに睨まれた蛙の気持ちの様な、絶対不可避とも言える恐怖の触手が、同時に押し寄せてきたのである。呼吸は全力疾走をした後の様に荒くなって、心臓の打ち鳴らす音が二重の意味で喧しくなった。

 

 何だこれは。何故あの男を見た瞬間に、まるでトラウマの映像を見せつけられたかの如く心が掻き乱されたのだ? まさか、視界に捉えると不味い類の術でも展開しているのだろうか。

 明らかに表面化している異常事態が不安を呼び集め、私は思わずアリスに縋り付くような声で言った。

 

「アリ、ス。お前、何ともないか……?」 

「ちょっと、本当にどうしたのよ。さっきから本当に様子が変よ?」

「お前は、あの男を見て何も感じないのか?」

「男……いや、感じるわ。禍々しい気配がこの距離でも伝わってくる。あの男と相対している二人からも、凄まじい妖気が溢れ出しているわね。……まさか、あの男がこの異変の元凶なのかしら。だとしたら賢者が動いているのも説明がつくけれど、あそこまで賢者を本気にさせるあの男は一体―――」

 

 眉間に皺を寄せたと思ったら、ぶつぶつと何かを独り呟きながら考え始めるアリス。こんな時でも自分の世界に浸れる都会派インテリの思考には着いていけない。

 私は謎の男の姿をなるべく目の中心に入れないようにして、再び開戦された弾幕合戦を目に焼き付ける事にした。まだ動揺がナリを潜めてはいないが、あの二人の本気弾幕を拝めるチャンスを逃す訳にはいかない。

 

 しかし、改めて見てみると何て凄まじい攻防だろう。男が月を背景に生み出した黒い剣が、たった十数本で二人の弾幕を捌き続けている。けれどそれを踏まえて見ても、二人の攻撃の熾烈さは目に余るほどだった。だって、一点に集中して放たれる弾の密度が濃すぎて最早レーザーにしか見えないのだ。それが、男の何倍もの質量を持ってノンストップで放たれている始末である。加えて、全方位に出現した何十何百のスキマが一斉射撃を絶えず行い、桜吹雪の台風が夜の空間を蹂躙すると言う、、ありとあらゆる手を駆使した妖力弾の一斉射撃が男を仕留めにかかっている有様だった。 それはもはや、スペルカードルールなんて置き去りにした被弾必至の―――いや、必死の回避不可能弾幕である。少なくとも、あれはゲームなんかじゃ決して無い。

 普通なら、そんな弾幕を展開されただけで絶望してもおかしくないだろう。でも男は、多分その全部を凌ぎ切っていた。遠目でしかもずっと首を上に向けたまま見ているものだから見辛くてしょうがないが、男は一度も怯んでいる様子を見せていないのだ。否、止まっていないと言った方が正しいか。文字通り、目にも止まらぬ速さで全ての弾幕を剣の撃で切り伏せ、薙ぎ払い、防ぎ切っている。あまりに斬撃のスピードが速過ぎて、何百もの黒い線が弾幕を呑みこんでいるかのように見えるほどだった。

 

 男が剣を放ち反撃を開始してから暫くして、再び三者は遥か上空で動きを止めた。決着がついたのかは知らないが、十数本の剣は月明りに溶け込むようにして姿を消し、戦闘の気配が薄れ始めている。

 なんだか随分呆気ない終わり方だなぁ、と言うのが率直な感想だった。どちらかが撃墜されるかと思っていたのだけれど、まさかドローで終了だとは。後半、男が剣に二人を追尾させたときは紫の珍しい撃墜姿が見られるのかと思ったのだけれど。

 

 期待外れの結末に溜息を漏らしそうになった、その時。

 何やら上空で影が新たに生じたかと思えば、それがどんどん視界一杯に広がってきたのである。

 その影が近づいてくるごとに、私の体は何故か氷の中に閉じ込められたかのように動かなくなった。半面、心臓の動きや血の流れが、目まぐるしく勢いを増していく。

 ボスン、と何かが私の背後―――正確には箒の上に何かが落下してきた音と感触があった。途端に、私の体を侵食し始める、神経毒の様な悪寒の波。どこかデジャヴを覚える感覚を噛み締めながら、私は圧倒的な恐怖に呑みこまれていった。

 

 振り返りたくない。振り返りたくない。振り返りたくない。

 

 何度も心の中で願い続けているのに、気持ちに反して勝手に首が後方へと曲がっていく。危険な不確定要素を視認しなければならないと本能が訴え、私の肉体の自由を奪ってしまっていた。

 そして、それが目に映りこむ。

 首の無い死体だった。

 月光を照り返す程に白い肌を持つ、生きていれば私なんか簡単に抱えてしまえるほどの大男の体。首から上に存在するはずの物は見当たらず、一滴の血も流れださない断面は、中身の有無が確認できない程の、光を呑み込む黒い靄に覆われていた。

 声は出なかった。脊髄反射に近い行動だったのだろう。気がつけば私は、帽子の中のミニ八卦炉を取り出して遺体に向けて零距離射撃を始めていた。横から『何をしてるの!? 早く振りほどきなさい!』と言うアリスの怒声が聞こえたが、耳の穴から綺麗に抜け出していく。冷静さを完全に欠いた私は、ただただ眩い光の連続を遺体に向けて浴びせ続けた。この前偶然我が家で発見した、退魔効果を高める金属で香霖に八卦炉を強化してもらったお蔭なのか、光線を撃つ度に頑丈な妖怪の肉体から肉が溶解していく生々しい音が生み出されていく。

 

 その時だった。ただ撃たれ続けるだけだった男の肉体が突如腕を伸ばし、私の八卦炉を掴み取ったのだ。しかし、男の指が八卦炉を補強した金属に触れた途端赤熱し皮の表面が焼け始め、怯んだように指を離す。

 だが次の瞬間、その体は思いもよらない行動をとった。首の無い体が跳ね上がる様に上体を起こしたかと思えば、長い腕を伸ばしてこれ以上私に八卦炉を撃たせないよう、抱えるようにして私を拘束したのである。私を抱えた体はそのまま自由落下を始め、人里の入り口方面へ向けて夜空を流れるように滑空していく。

 振りほどこうにも、妖怪の力の前に私程度の細腕で敵う訳も無い。抵抗も空しく、私は絶叫を上げながらも首無しの肉体に連れ去られた。

 

「た、助けてぇええええ――――っ!!」

「魔理沙!」

 

 首無しが放つ謎の瘴気に精神を蝕まれ、霞む視界が捉えた最後の映像は、魔法陣を展開するアリスの横を人間の頭程度のナニカが通り過ぎて、豪速でこっちに向かって来ているというものだった。

 そのナニカが、頭であると理解した瞬間。私は闇夜の中に、呆気なく意識を手放した。

 

 

 三日前の晩の事だ。あの夜、突然友人の妹紅が私の家に転がり込んできたかと思えば、直ぐに夜間外出禁止令を出すよう里の長や稗田家に掛け合ってくれと頼みこまれた。

 普段から人に対して関心を持とうとはせず、それどころか避けるような姿勢を取っていた妹紅がこの様な頼みを託してきた事に心底驚いた私は、彼女からその様な発想に至った事情を聞き出した。

 彼女曰く、その晩、あまりに奇妙な男と出会ったという。その男は見るだけで心の奥底から不安を駆り立てるような瘴気を発しており、また同時に、何故か片時も目を離す事が出来なくなる、魅了にも似た魔性を兼ね備えた妖怪らしい。その男は背後に百鬼夜行を従え、里からそう遠くない距離を不自然にうろついていたとの事だ。

 

 永い時を生き、時には妖怪退治で生計を立てていた期間もあったと言う妹紅が不安を覚えるような妖怪で、百鬼夜行を従えていたとあれば動かない訳にはいかない。私は直ぐに里の有力者へと掛け合い、五日間だけ様子見として、夜間の間里の中であっても外出する事を禁止した。幸い里の者達はすんなりと納得してくれて、五日間は夜間営業をする事も控えてくれた。

 

 今では、妹紅の意見に耳を傾けていて良かったと心の底から思える。

 妹紅の話していた件の男では無いが、紅い館の吸血鬼が従者を引き連れ、突然里へ侵入しようとしてきたのだ。

 そして私は今、妹紅と共に彼女たちと交戦している状況下に置かれていた。

 

「不死『火の鳥-鳳翼天翔-』――――ッ!」

 

 妹紅がスペルカード宣言と共に、火炎で生み出された怪鳥型弾幕を豪速と共に撃ち放つ。夜を斬り裂く火の鳥は、そのまま幼い吸血鬼の体を呑みこもうと大口を開けて突進した。

 対する吸血鬼は紅蓮の瞳を輝かせ、火の鳥の一撃を目にも止まらぬ速さで潜り抜ける。しかし、火の鳥の軌跡から拡散して放たれた弾幕の一発に被弾しよろめいた。彼女はすぐさま体勢を立て直したかと思えば、お返しと言わんばかりに稲妻状のエネルギーを放つ光球を妹紅に向けて投擲した。光球はあまりの速度に槍の如く引き伸ばされ、絶大な威力と共に妹紅の体を穿ち抜ける。

 

「妹紅っ!」

 

 私が叫ぶと同時に、原形を失った妹紅の肉体は、すぐさま凄まじい炎を纏って再び元の姿へと復活した。その光景は、自らを灰にして生まれ変わる不死鳥の如き絢爛さを醸し出していた。

 

「大丈夫だって。と言うより慧音、今勝負中だって事忘れてない?」

 

 そう言って彼女は、私の背後に迫っていたナイフの弾幕を業火をもって打ち払った。

 すまない、と私は告げて、相手をしていた吸血鬼の従者と再び相対する。だが内心、私は何時まで経っても慣れない感覚に歯噛みしていた。原因は、妹紅の歪んでしまった姿勢にある。

 昔から妹紅は、例え手足が無くなろうとも平気だと、あっけらかんとした調子で言う。それは冗談でも何でもなくて、老いる事も死ぬことも無い特性を持ってしまった蓬莱人故に彼女は死生観が極限にまで薄まってしまい、自分を犠牲にすることに躊躇が無くなってしまっているのだ。先ほどの一撃だって、妹紅なら避ける事だって出来たはずだ。それを彼女は身を挺して受け止めた。私が心配の情を向けて妹紅へと意識を逸らしてしまった為に、吸血鬼の従者から攻撃される隙を作って妹紅の手を借りるような事にならなければ、復活で意表を突くと共に吸血鬼へ攻撃していただろう。それほどまでに、彼女は自身の安否に対して頓着が無い。

 それが何だか、自分は人間ではない形だけが似ているナニカだと諦めているように見えるのだ。例え、自分の口では人間だと言っていたとしても。

 

 彼女の歩んできた、人としては長すぎる生と過酷な経験がこの価値観を育んだのは分かっている。私が何を言ってもどうしようもない事だとは理解している。それでも、私は彼女の身を案じない訳にはいかないのだ。友人の怪我をする姿を好き好んでみたい者がどこにいると言うのか。

 だが心の中でどう思ったとしても、何も変えられない無力な自分が歯がゆくて、戦闘に集中しなければならないのについ思考が掻き乱されてしまう。

 

「私に被弾させた上に、粉々になっても死なないだなんてやるじゃない。見た所は人間っぽいけれど、お前は本当に人間なのかしら」

 

 唐突に、幼き吸血鬼がパタパタと蝙蝠に似た翼をはばたかせつつ顎に手を当てて言った。声色はどこか楽し気な雰囲気を孕んでいて、それを示すように顔には無邪気な笑顔が浮かんでいる。只の人間の子供であればさぞかし愛らしいと思えるのだろうが、吸血鬼の要素を付け加えると、それが途端に不気味に思えてくる。

 

「私は少し火が使えて、死なないだけの人間よ」

「そう? 私には無理して人間の真似をしている人の形の様に見えるけれど」

 

 途端に、妹紅の表情が曇る。会話の渦中にいない私も、脳裏に浮かべていた不安を見透かされたかのように思えて、無性に息苦しく感じてしまう。

 

「…………で、アンタ等は何故こんな時に、人里へ侵入しようとしているわけ? ついこの間賢者にこっぴどく叱られたって聞いたけど、もう幻想郷のルールを忘れたのかしら」

「まさか。忘れてなんかいないわ。私達はただ、あの月をすり替えた元凶を探し出す道中にこの里を通ろうとしただけ。別に人間を襲うためじゃないわ、お腹空いて無いもの。それなのに、お前たちが通せんぼしたんじゃない」

「当然だ。こんな怪しい夜に、里へ悪魔を通す訳が無いだろう」

 

 前へ踏み出すも、吸血鬼の言葉に私は思い当たる節があった。

 月のすり替え……そんな事が出来る人物は、妹紅と馴染み深いかぐや姫に仕えるあの従者しか私は知らない。月より飛来し、莫大な月の知恵を保有すると言う彼女しか。

 そう言えば妹紅がつい先日言っていたな。満月に訪れるらしい月の使いを跳ね除ける為に、八意永琳女史が一晩だけ、偽の月と本物の月を入れ替える術を行使する計画を練っていると。すり替えるのは一晩だけ……要するに次の満月の晩のみ、私の白沢としての力が不完全になる事を許容してくれと頼まれていたのだった。

 

 吸血鬼の発言と妹紅の伝言。そして月の力の不安定化。

 

 これらの要素から考えるとつまり、彼女たちは別に人里を襲おうとしていた訳では無かったと言う事になるのだろうか。

 甘言を用いて人を惑わす悪魔の特性を考えると判断を下すにはまだ早いが、日の光を嫌い月の満ち欠けに力を左右されるという吸血鬼なら、月の異常を解決する為に動いたとしても不思議ではないか。

 では里の安全を確実に守る事を考えると、元凶の方へ視点を誘導する事が得策だろう。

 

「しかし、月をすり替えた者の居る場所は知っている」

「慧音?」

「大丈夫、何の考えも無しにこんな事を言ったわけではないさ」

 

 因縁の宿敵だと言ってはいるが、誰よりも共に時間を過ごし、腐れ縁とも悪友とも言える奇妙な友情を持ったかぐや姫が月の使者に連れ去られる事態になることを懸念したのか、妹紅は冷えた声で私に耳打ちした。私は、大丈夫だと宥めるようにして告げる。

 永琳女史はかつて月の頭脳と謳われていた偉大な賢人だと、かぐや姫―――蓬莱山輝夜が豪語する程に、頭の良いお方だ。それこそ寺子屋の一教師を務めている私程度じゃあ遠く及ばない位に。現に月をすり替える案も術も、全て永琳女史が自力で発案、開発したものらしい。その知力の高さは、あの妖怪の賢者にすら匹敵……いや、もしかしたらそれを上回るのではないかとすら考えている。

 そんな彼女が、一妖怪に後れを取るとは思えない。例えそれが、かつて幻想郷の妖怪を絶大な力をもって統率した吸血鬼を相手にしたとしてもだ。相当な実力を持つ妹紅ですら、過去に一度だけ永琳と戦った際、手も足も出なかったと言っていた程なのだから。

 だから、私は永琳女史の力を信じて彼女たちを誘導する。こんな他人に縋るだけの様な真似は主義に反するが、里に無用な混乱と危険を招く訳にはいかないのだ。

 

「竹林だ。あちらの方角にある林の先に、元凶は居る」

「ふぅん」

 

 値踏みする様な視線を、吸血鬼は私に向けた。ここが誘導における最大の難所と言って良い。彼女が私の言葉を信じずに無理やり里を突破しようとすれば、戦闘は避けられないのだ。その時は、覚悟を決めるしかない。

 しかし私の覚悟とは裏腹に、彼女はパタパタと翼を動かして竹林へと向かい始めた。

 

「行くわよ、咲夜」

「よろしいのですか?」

「ええ。だって不完全な状態の半獣が月をすり替えられる訳が無いし、別に人里自体に用事は無いからね」

 

 私が半分白沢であるとバレていたのか。しかしここはその洞察力の高さに助けられたと言ったところだろう。お蔭で、余計な混乱を生み出さずに済んだ。

 

 そう思っていた矢先だった。

 

 不意に、背中に氷が放り込まれたのかの様な正体不明の感覚が襲い掛かって来たのだ。

 ぞわりと背筋を這いまわる悪寒は全身にまで及び、何が起こっているのかも分からないまま、私の体は一瞬で機能停止を起こし、まるで石像の様に固まってしまう。

 私だけなのかと思い必死に視線を動かせば、妹紅も眉間に皺を寄せ、その背に業火の翼を生み出していた。完全な戦闘態勢に入っている。

 彼女は唸るような声で、周りを見渡しながら言った。

 

「この底冷えする様な感覚……! 慧音、奴が近くに居る! 前に話したあの男よ!」

 

 対して、その場を立ち去ろうとした吸血鬼と従者は、何かを察したような表情を浮かべていた。

 

「お嬢様、この気配は……」

「ええ、間違いなくおじ様ね」

「上でしょうか」

「上っぽいわね」

 

 吸血鬼の少女が上を見上げた瞬間、反対に、何かが凄まじい勢いで地面に落下した。丁度紅い館の少女達と、私たちを隔てるような位置へと。

 爆発が起こったように土煙が巻き上がり、思わず私は腕で目を庇う。すぐさま妹紅は炎を操作して、硝煙を払いのけた。

 そして私は、妹紅が警戒心を抱いたと言う『彼』の姿を目撃する事になる。

 

 その男には、頭というものが無かった。

 妹紅が言うには息を飲むほど美麗な青年だったと言うが、首から上を完全に消失し、断面から黒い靄の様なものが溢れ出している異形の姿からは、美麗の気配は感じ取れない。元々は紳士然としていたであろう洋風の黒装束は、背中を中心に所々破損が見当たり、どこか焦げた布の様な匂いが砂煙の埃臭さと共に鼻を突いた。

 

 しかし、何よりも驚愕すべきものは。

 彼の腕に、完全に力が抜けぐったりとした少女の姿があった事だ。

 魔法使いを思わせる帽子と衣装。金色の美しい髪に、共に抱えられている彼女の物なのだろう箒。

 それは、他者とは到底間違えようのない少女で。

 紛うこと無く、霧雨家から勘当され魔法使いとしての道を歩んでいた少女―――霧雨魔理沙の姿だった。

 

 ゾクッ、と考えたくも無い推測が、煩わしく思えるほどの速度で脳裏に花を咲かせた。

 目にするだけで膝と手が情けなく笑い始める程の、圧倒的過ぎる瘴気を纏う妖怪が、明らかに意識の無い魔理沙を抱えている。誰がどう見ても、彼女の状態が彼と無関係の様には思えない。そして魔理沙が無事である様にも、到底思う事は出来ない。それこそ、呼吸をしているかどうかすらも怪しく思えるほどだった。

 

「ちぃっ!!」

「止まりなさい」

 

 真っ先に事態の深刻さへ反応した妹紅が炎を纏い、続いて私も駆けだして、男から魔理沙を奪い返す為に攻撃を加えようとした瞬間。吸血鬼の少女が妹紅の前へ槍状に引き伸ばしたエネルギー体を突きつけ、私の首筋には従者のナイフが置かれていた。吸血鬼の少女からは先ほどの可憐な笑顔は失われ、明確な敵意を宿した鋭い表情が浮かんでいる。

 妹紅は炎を消すことなく、吸血鬼の少女を睨んだ。

 

「やっぱり、アンタはこの男の仲間ってわけ?」

「仲間も何も、この方は紛うこと無き私の義父よ。攻撃する様な真似は許さないわ」

 

 互いが互いを牽制し合い、微動だに出来ない張りつめた空気が辺りを支配する。この場の誰かが一歩でも動けば、至近距離で凄まじい攻防が繰り広げられそうな勢いだ。緊迫感が喉を干上がらせ、私は思わず生唾を呑みこんだ。

 

「『そこまでだ』」

 

 このまま永劫の時が続くのかとさえ感じ始めた静寂に杭を打ち込んだのは、頭上から突然鼓膜を射抜いた、蕩けるような声だった。

 首無し妖怪から発せられる息も吐かせない瘴気とは違う、花の蜜の香りの様な脳髄を痺れさせる魔性の声。耳にすれば理不尽なまでに恐怖を増長させられるのに、心と体は声の方向へ吸い寄せられていく。さながらそれは、麻薬に似た魅惑の瘴気であった。

 声の主へと目線を動かそうとしたその時、意識を逸らしたほんの一瞬、首無しの肉体がビクンと跳ね上がる。

 何事かと視線を戻せば、そこにはあるべき頭部を得た、完全無欠の青年の姿があった。

 瞬きをする暇も無く、そして何の兆候も無く元通りになった灰色の髪の青年を前に、私と妹紅は茫然自失としていると、吸血鬼の少女がジトッとした眼を青年へと向けた。

 

「おじ様、今までどこにいっていたの? 流石に三日ぶりの再会が胴体だけとは思わなかったわ」

「心配をかけて済まない。色々とやむを得ない事情があったのだよ」

「魔理沙を抱えている理由も?」

「不慮の事故だ。気を失っているだけで命に別状はない。……済まないが魔理沙の友人よ、この子を介抱してやってはくれないか」

 

 彼が上に向けて放った言葉と共に、また一人、ふわりと少女が姿を現す。

 金糸を思わせる滑らかな髪に琥珀の様な瞳。青を基調としたワンピースに丈の長いスカートを着こなし、肩にはケープが掛けられている。頭には赤いリボンがあしらわれたヘアバンドが装着されていて、どこか無機質な冷たさを湛えるその姿はまさに人形と形容すべき、美しい少女だった。

 彼女の名はアリス・マーガトロイド。魔法使いであり人形使いでもあるらしく、稀に里を訪れて子供たちに人形劇を披露している姿を見かける。

 彼女は無言のまま、周囲に従えている人形を駆使して魔理沙を受け取ると、直ぐに青年から距離を取った。どうやら見知った間柄ではなく、彼女もまた青年を警戒している者の一人の様だ。

 青年は苦笑を浮かべ、アリスへと言葉を紡ぐ。

 

「驚かせてしまって申し訳ない。ところで魔法使いよ、君と魔理沙はもしかして月の異変を解決しようと動いていたのかね」

「…………そうよ。月をすり替えた犯人を捜していたの」

「君たち二人も?」

「ええ。月が盗まれただなんて、妖怪にとっては前代未聞の大異変だもの。私たちも動かざるを得なかったわ」

「ふむ」

 

 彼は顎に手を当てて、暫しの沈黙の後に、再び口を開いた。

 

「君たちはもう家に帰りなさい。無論、異変の事は心配しなくていい。恐らくあと少しで異変は終息を迎え、夜明けの到来より前に月は元通りとなるだろう。これ以上は無暗に疲労を増やすだけの結果となる上、場を掻き乱しかねない」

 

 まるで月に起こった異変、そしてその経緯の全てを知っているかのような口ぶりで彼は言った。もしかして、青年は八意女史と面識を持っているのだろうか。

 類似した疑問を抱いたのは、当然私だけではない。

 

「……おじ様は、この異変と何か関係が?」

「と言うよりは、貴方がその元凶ではないのかしら」

 

 アリスが、鋭い目つきでそう告げた。口から出まかせに言ったのではなく、その表情からは確証をもっているように見受けられる。力強い視線はまるで、証拠を突き止め犯人を追いつめる探偵のソレだ。

 

「見たのよ、貴方が紫と西行寺の亡霊姫を相手に戦っているところを。あの二人に本気を出させるなんて、それ相応の理由があるからではないの?」

 

 その言葉に一番過敏な反応を示したのは、意外な事に吸血鬼の少女だった。彼女は驚きに目を見開くと、すぐに青年へと詰め寄っていく。

 

「まさか、さっき上で騒いでいたのっておじ様と八雲達だったの!?」

「そうだな。異変の元凶と誤解されてしまったのだよ」

「首を切られたのも、あの二人に?」

「いや、自ら切り落とした。彼女たちの誤解を解消するには、そうするしか方法が無くてね。ああ、服がボロボロなのは運悪く切り離した胴体が魔理沙の近くに落ちて、混乱した彼女が胴体を撃ったからだ。現場を見ていないから推測の域は出ないが、とにかくあの二人のせいではないよ。……すまないが、詳しく説明する時間が惜しい。これを見て納得してくれ」

 

 彼は吸血鬼の少女の前に立つと、彼女の眼前に白く、大きな手を広げた。手のひらから黒い靄と共に光の泡の様な物体が放たれたかと思えば、その泡は少女の額へ吸い込まれていく。数拍の余韻が生じた後、少女は青年へ『任せて』とだけ、端的に呟いた。

 全く話の内容が掴めずにいたのだが、それはどうやら私だけではないらしく、その場にいる全員が訝しそうな表情を浮かべている。

 彼はそういった周囲の反応に慣れているのか、顔色一つ変えず直ぐに話の路線を修正した。

 

「先ほど、紫と幽々子が異変の元凶の元へ向かった。そう遠くないうちに月の異変が解決されるのは間違いない。君たちは帰りたまえ。そして魔理沙の友人―――」

「アリスよ」

「―――失礼した。アリスよ、再三に渡り押し付けてしまって申し訳ないが、魔理沙の面倒を見てはくれないか。彼女はどうも私の瘴気と相性が悪いらしくてね。恐らく、数時間は目を覚まさないだろう。かと言って放っておくわけにもいかない。本来ならば私が面倒を見るべきなのだろうが、私用が残っているためにそれが叶わないのだ。どうか頼みを聞き入れてはくれないか」

「なら、私の館に来なさい。おじ様が帰れと言うなら私が従わない理由は無いし、用件が無くなって暇だし」

 

 返事をしたのは、吸血鬼の少女の方だった。彼女はピリピリとした敵意を既に解除しており、従者に対して何らかのハンドサインを送っている。すると、指示を理解したのか一瞬にして従者の姿が消えてしまった。

 

「咲夜に来客の準備をしておくように言っておいた。我が館へ招待するわ、アリス。この状況下で、貴女もおじ様に色々と聞きたい話があるのでしょう? 無理も無いから、おじ様に代わって私が代弁してあげる」

「…………じゃあ、お言葉に甘えさせていただくとしましょうか」

 

 アリスの同意を得た吸血鬼の少女は『邪魔したわね』と告げて翼を力強くはばたかせると、アリスと共に空中へ身を乗り出していく。ふと、彼女は思い出したようにこちらへと振り返った。

 

「おじ様! フランが寂しがってるから、終わったらちゃんと帰って来てよ!」

「埋め合わせは必ずすると伝えてくれ」

 

 吸血鬼の少女は、返事を聞くと直ぐに湖の方角へ飛び去って行った。

 嵐の様に出来事が終息していく中、残された私と妹紅は、いまだ処理が追いついていない頭を必死に整理しつつ青年へと目を向ける。

 青年は相変わらず凄まじい魔力や瘴気を放ちながら、妹紅の元へと歩を寄せた。妹紅は思わず後ずさる。

 

 ……後ずさる?

 死の恐怖など全く持ち合わせておらず、それどころか死を求める素振りすら見せ続けてきたあの妹紅が、明確に不安の色を濃厚に表情へ浮かべて後ずさっている?

 私は本来ならば何も不自然では無いはずの光景に、確かな違和感の様な、不思議な感覚を胸に抱いた。だって妹紅は、避けられる筈の吸血鬼の槍を避ける事もせずに受け止め、肉体の損壊など視界の外に追いやってしまっている少女なのだ。そんな彼女が何故、ここまであからさまに焦っているのだ? 

 普通の人間や妖怪ならば、そこに不自然な要素などある筈がない。私だって、この男の傍に一秒でも居ようとは思わない。後ろに守るべき里が無くて、大切な友人たる妹紅も居なければ確実に撤退の判断を下している所だ。不安や恐怖を覚えるのが正しい反応であり、妹紅が焦りを覚えている光景に違和感を覚えている私の方こそがおかしいのだろう。

 

 違和感が、風船に空気を入れるように膨らんでいく。それは最早妹紅に対してのものではなくなっていた。

 否、正確には妹紅に対する印象への違和感が、確かに生まれ始めているのだ。

 その正体が掴めないままでいる中、青年は妹紅の前へと立つ。そして唇を動かし、緩やかに、扇情的に言葉を紡いでいく。

 もやもやを胸の内に抱える私の鼓膜へ浸潤する彼の声はまるで、冷たく透き通った冬の清流の様な声だった。

 

「さて、妹紅。君が今起きている事態をあまり掴めていないのは分かっているが、一つ私の頼みを聞いてくれないか。君にしか―――いや、君だからこそ頼める事なのだ」

「……嫌だと言ったら?」

「無論、説得させてもらう」

 

 とても穏やかで、子供に語り掛けているような口調なのに、体から放たれている瘴気はまさに暴圧そのものだった。『優しく言っているうちに従わなければ只では済まない』。そう言っているように私は感じた。

 思わず妹紅を擁護しようと口を開きかけるが、それを妹紅に手で制された。文字通り口出し無用と言いたいのだろう。私は再び唇を締めざるを得なかった。

 

「聞くだけ聞くわ。アンタは私を使って、一体全体何をしたいの?」

「蓬莱山輝夜の事で、少しね」

 

 その名を聞いた瞬間。あからさまに妹紅の雰囲気が豹変した。

 目に宿るのは、完全な敵意のそれだった。妹紅はこの男が輝夜に差し向けられた新しい刺客と思っているのだろう。確かに、異変の詳細を知っている風で輝夜の名前が出てくれば、敵対心を向けるに値する理由となるだろう。

 男はただ、冷静に告げていく。

 

「気持ちはわかるが、そう怯えないでくれ……いや、今は恐怖してもらわねば困るのか。承知の上で変な事を尋ねるが、妹紅よ。君は私が恐ろしいか?」

「誰が、アンタを恐れるって?」

「……そうか」

 

 噛みつくように妹紅は返す。それに対して、彼は困ったような表情を浮かべるのみだ。

 妹紅に纏わりつく火炎が勢いを増し、周囲に熱波と光を齎していく。私に飛び火しないよう調整してくれているのは分かっているけれど、傍で見る彼女の炎は、見る者を無差別にその業火で呑みこんでしまいそうな迫力があった。

 彼は一切臆する様子を見せることなく、どこか悲しそうに『すまない、許してくれ』と告げたかと思えば、唐突に袖をまくり、晒された腕に装着してある紅い石が嵌め込まれた腕輪を徐に外した。

 

 それが、変化のトリガーとなった。

 彼が放つ瘴気の圧力が、爆発的に上昇したのだ。今までの彼の瘴気が春風程度に思えるような、圧倒的で、理不尽で、暴力的な瘴気が一斉に解き放たれた。彼を見るだけで視界が歪み、彼の静かな息遣いが夜風に乗って耳骨に直接這いずり寄って来る。神経が汚染されたかとさえ感じた。ありとあらゆる身体機能が正常に機能しない錯覚さえ覚え、膝がこれ程までに無く笑いを起こす。両腕で自らを抱き締めようとせずにいられない。私の中の神獣白沢の因子とも言える要素が、悲鳴を上げているのがはっきりと分かった。

 

「う……あ……ッ!」

 

 怪物。化け物。魔王。悪魔。

 あらゆる恐怖の象徴が頭に浮かんでは消えていく。しかしはっきりと分かる事は、この男が大妖怪八雲紫に匹敵する程の怪物で、何故か私たちに凄まじい威圧を向けているという事実のみ。

 私の身も心も蝕んだ恐怖が解けたのは、妹紅が反射的に爆炎を撃ち放った瞬間だった。弾幕ごっこの比ではない爆炎が植物を、大気を、青年を丸呑みにし、盛大な火の粉を辺りに撒き散らす。

 

「はぁ……はっ、はぁ……う……!」

 

 激しい呼吸を繰り返し、滝の様に汗を流す妹紅は、未だに燃え続ける炎の塊から視線を離そうとはしなかった。あの男が、威圧一つで魂を持って行かれそうになるほどの瘴気を放つ男が、この程度で力尽きるとは到底思えなかった。

 案の定、炎は容易く引き裂かれた。

 炎を呑みこまんばかりの―――いや、月の光すらも食らい尽くしてしまいそうな漆黒の闇が、炎を内側から纏めて飲み干したのだ。

 

「君は、どうやら輝夜ほど深刻ではいない様だな。まぁこれで一先ずは安心と言ったところか。後は引き金を引くのみだが」

 

 悠然と、男は中から歩み出てくる。

 焼け爛れた肌や衣服を瞬く間に修復させながら、堂々と、一切の戸惑いも見せずに。

 その姿はまさに、魔界の底より地上を支配するべく君臨した魔王のそれであった。

 妹紅は追撃を加えるが、それでも男は怯まない。炎が着弾しても直ぐに修復する出鱈目な再生能力を持つ彼は、一身に爆炎を受けつつ話を進めていく。

 

「口で伝えても、恐らく私の行動に君たちが納得してくれる事はあるまい。それも私が不用意に怯えさせてしまったせいだとは分かっているのだが、致し方のない事なのだ。難しいだろうがどうか理解してほしい。そして妹紅。君にはあと少し付き合って貰わねばならない。厚かましいのは重々承知している。だが彼女の為に、これを見て事態を把握してくれ」

 

 彼は再び腕輪の嵌められた腕を妹紅に伸ばし、もう片方の腕を私へと伸ばした。最早逃げる体力すら根こそぎ奪い取られた私と妹紅に、これから行われるナニカから逃れられる術がある筈が無く。

 妹紅は金色に輝く光の泡を突きつけられ、石像の様に動きを止めてしまった。

 

「しかし妹紅の友人よ。君はここで退場しておいた方が良いだろう。ここから先は、彼女たちの問題だ」

 

 妹紅とは違う、青く輝く光の泡が視界の前に蛍火の様に現れて。

 唐突に、視界が靄に包まれていく。爆発的に脳を侵していく睡魔が、無情なまでに私の意識を斬り裂き始めた。

 フラフラと足の感覚が不鮮明になって来たと感じたその時、妹紅が私の背を支えた。彼女の顔を覗けば、先ほどまで彼に向けていた敵対心は何処にも見当たらない。何か決心を着けた様な、燃えるような眼を妹紅は湛えていた。

 

「妹紅。輝夜を救うにはまず君の血が必要なのだ。ほんの少し、私に分けてくれると嬉しいのだが……」

 

 霞んでいく瞳が最後に捉えたものは、青年の口元から鋭い二本の牙が、炎に照らされ輝く光景で。

 暗闇に呑まれていく中に妹紅が何かを青年へ訴える声が、最後まで熱く鼓膜を叩いていた。

 

 

「どうやらまたも嵌められた様ね。何だか今夜は罠三昧だわ。暫くは遠慮したいくらい」

「きっとさっきの弾幕戦で疲れた後に甘いものを食べなかったから、頭が回らなかったのよ~」

「幽々子は呑気ねぇ」

 

 竹林の奥で発見した物凄く怪しい屋敷に侵入し、美しい銀色の髪を三つ編みにした妙な女に誘い込まれたその先で、紫と幽々子がのんびりとした調子で呟いた。

 目の前には、銀髪の女が不敵な笑みを浮かべて浮遊している。どうやら月をすり替えた犯人は彼女で間違いない様だ。紫があの謎の男から聞き出したと言う情報は正しかった。

 しかしどうやら私たちは、彼女にまんまと誘い込まれてしまったらしい。果てしなく長い通路を追いかけ続けたと思ったら、いつの間にか偽の月が浮かぶ異空間の様な場所まで誘き寄せられていた。退路は絶たれ、今この場には紫と幽々子、私と妖夢、そしてあの女しか存在していない。

 あの時、分かれ道で勘を頼りに行った方が良かったのだろうか。しかし何故だかあっちへ行ってはいけないような気もしたのだ。何か見てはならないと言うか、関わるべきではない何かが起こるような気がして已まなかった。

 

 まぁ過ぎ去ったことは仕方ないので、目の前の敵をコテンパンにすることだけを考えるよう思考をリセットしておく。どちらにせよ元凶であることには変わりないのだ。倒せば月も返ってくるだろう。

 

「慌てなくても、朝になったら月は返すわ。でも今返す訳にはいかないのよ」

 

 余裕たっぷりで言ってのける女に、私はお祓い棒を突きつける。同じように妖夢は刀へ手を掛けた。返すと言われても悠長に待っている理由なんて無いのだ。

 

「そう言う訳にはいかないわ。朝になる前に月を取り返すために来たんだから、さっさと返して貰うわよ」

「幽々子様の命ですので、斬らせて頂きます」

「最近の若い子ってせっかちね。まぁ、朝まで遊ぶこと位はできるわよ。どうせ貴女達はここから出られないのだから」

 

 一気に威圧感が増した女と、今すぐにでも弾幕戦が開幕する空気が辺りを支配する。応じるように私は札と針を取り出し、妖夢が刀を構えた。

しかし、いざ突撃という所で唐突に紫が扇子を私の眼前で開いて割り込んだ。

 なんで邪魔するのよ、と文句の一つでも言いたくなったが、紫の氷柱の様な瞳を見て口を閉じる。余程大事な事らしい。

 

「始める前に、貴女に一つ聞いておきたいことがある」

「何かしら。時間稼ぎは歓迎よ」

「ナハト、という男に心当たりは?」

 

 途端に、女の表情が明らかな曇り模様を見せた。

 紫の発言した『ナハト』と言う名前。おそらく先ほどの男の事だろう。元凶も知っているって事はやっぱり、異変の関係者だったのだろうか。さっきとっちめておけば良かった。

 

「知ってるわ。と言っても、つい数時間前に会った程度の顔見知りだけれど。貴女は彼の友人か何か?」

「いいえ、知り合いよ。素性を知らない程度の知り合い」

「……貴女、彼の正体を知らないのね」

 

 意味深な事を女は言う。彼女の発言に対し、紫は扇子で口元を隠した。どうやら興味があるらしい。と言うより、その言葉を待っていましたと言う風だった。

 

()()()()()()()()()()()()。でもその口ぶりだと、貴女はその先を知っているのね?」

「ええ、把握して本当に驚いたわ。知りたいのなら教えてあげても良いけれど」

「是非ご拝聴願いたいですわ。私も幻想郷を管理するものとして、奴の事を可能な限り把握しておかなければならないから」

「では、終わった後にでもゆっくり」

「ありがとう」

「私も貴女と話す事がそれなりにありそうだもの、お礼はいいわ」

 

 何だか知らない間に話がトントン進んでいく。置いて行かれている私には、何をそんなに真剣そうに話しているのかちんぷんかんぷんだった。横目でチラリと見てみると、幽々子は―――分かっているのか分かっていないのか判別がつかない。平常時と変わらずニコニコと微笑みながら宙に浮かんでいる。反面、妖夢は全然理解できていない様子だった。頭上に沢山クエスチョンマークが浮かんでいるのが見えるのだから間違いない。

 

 まぁ、一段落着いた様なので、私は改めて決闘を申し込む事にした。

 

「井戸端会議は終わり? それじゃあ早速ブチのめさせて貰うわよ、兎の頭領さん!」

「あ、え、ええっと、参ります! 覚悟しろ! 悪兎のボス女郎め!!」

「兎のボスはてゐなのだけれど……まぁいいわ。かかって来なさい、幻想郷の明けの明星達よ!」



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11.「ただ、潤いを求めて」

「さて、人形師アリス。約束通りおじ様に代わって私が彼の知り得た情報を代弁するわ。貴女はまず何から聞いてみたいの?」

 

 首と胴体、それぞれ別々に遭遇するという珍妙怪奇な出会いを果たした謎の男に促され、更にレミリアの言葉に誘われるがまま紅魔館へと訪れた私は、魔理沙の介抱を成し遂げた後、レミリアと座談会を館の一室にて行っていた。

 内容は勿論、あの男と今回の異変について、だ。

 

「月がすり替えられた異変の詳細について説明して貰えないかしら」

 

 あの時、魔理沙が行動不能な状況に陥ったからこそ、レミリアと彼女がおじ様と呼ぶ男の言葉に従って撤退する方針を取ったが、それで納得もしろと言うのは無理な話だ。何故月があと少しで元に戻るのか、説明をしてもらわねばならない。

 

「異変の元凶は、竹林の先に居る宇宙人よ」

「宇宙人?」

 

 あまりに耳に馴染まない言葉を前に、私は首を傾げる。話し手のレミリア自身も、どこか信用出来ていない節がある様だ。

 

「正確には、月から亡命してきた民らしいわ。満月の夜―――つまり今晩にここへ迎えを寄越すって信号を、その月の民の一員が傍受したらしくてね。それを阻止する事が異変の発端となったのよ」

「……と言う事は、偽の月とすり替えて使者の通り道を塞ごうとしたと?」

「そう。お迎えさんが来られないよう、幻想郷を一時的な密室にしたってワケ」

 

 ……成程、それなら月があと少しで戻ると言うのも頷ける。その月の使者とやらがこちらへ来れる期間が満月の夜のみならば、朝を迎えてしまえば自ずと使者の妨害に成功したと言う意味に繋がるのだから。

 …………? しかしそうすると、紫や亡霊姫が異変解決―――即ち本物の月の奪還に赴いたと言うのは、かなり不都合なのではないか?

 

「心配いらないわ。おじ様の記憶……と言うより、記憶にある八雲の言葉によれば、博麗大結界が宇宙人の考えた策略と同じ効果を持っているらしいの。だから月の奪還が八雲紫の手によって遂行されたとしても、結果は変わらないとの事よ。つまりこの異変自体が、最初から無意味な事だったの」

「……私の考えてることがよく分かったわね」

「だって貴女、パチェと似てるんだもん。なんとなく次はこう考えそうだなぁって思って口に出したら当たってたワケ」

 

 読みが当たったことが嬉しいのか、幼気な面影が残る顔貌にレミリアは笑みを浮かべ、楽しそうにカラカラと笑った。そんなに私と彼女は似ているのだろうか。私からしてみればインドア派とアウトドア派、更に魔法の系統等がキッパリ分かれている点から見て、似ているとは思えないのだけれど。

 そう言えば、最近図書館へ行っていないと思い至った。件の彼女の顔を見に行く序でに、本の貸し出し予約を帰りにでもしていこうか。

 

「じゃあ、次に私が質問したい事も、言わずとも分かるのね?」

「勿論。おじ様の事でしょう?」

 

 またも正解だ。まぁ、流石にこれ以外に尋ねるものは見当たらないか。

 しかし件の男……思い出すだけで背筋に鳥肌が立つかのようだ。大妖怪と冥界の管理者二人を同時に相手取っても引けを取らない、近くに居るだけで胃の内容物が逆流してしまいそうになる禍々しい瘴気を常に放ちながら、言動はその対極。柔らかで紳士的な態度を決して崩さず、それがあまりに不気味に思えてくる。はっきり言って気色が悪い。

 

 想像してみて欲しい。どこからどう見ても魔王としか言いようの無い風格を持ち、事実一人の少女の意識を容易く刈り取った怪物が、ニコニコと涼し気な笑みを浮かべながら柔和に他者と接している光景を。結論は語るまでも無いだろう。

 

「おじ様はただ、偶然に月の民と会って異変の全貌を知った。本当にそれだけよ。異変自体とは関係が無いわ。八雲たちに誤解されて一戦交えたのも、まさしく運命の巡り合わせと言えばいいのかしらね」

 

 レミリアが運命と言う言葉を使えば、妙な説得力が湧いてくるのは何故だろうか。恐らく真実だけを述べているだろうから、余計に信憑性が湧いてくる。

 しかし私が知りたいのは、その先なのだ。

 

「では、何故異変と無関係の彼があの場に? 異変を起こしていないにせよ、あんな瘴気を放ちながら上空に居座っていたら、誰だって疑いの目を向けるわ。むしろ疑って貰う事を目的にしているのかと勘繰る程よ」

「人を探していたのよ。あの人はただ、探し人を見つけ易くするために、よく見渡せる空を飛んでいただけに過ぎない」

「ではその人探しをしていた理由は?」

「さぁ? そこまでは見せて貰えなかったわ」

 

 そう言って、彼女は咲夜が置いて行った紅茶を一口、口へと含む。

 おそらく、今の発言は嘘だろう。人を探していた事を知っていて、その理由を知れない訳が無い。つまり知られたらマズいのか、知らない方がいい情報なのだろうか。どちらにせよ、良い情報でないことに変わりはないに違いない。

 

「アリス」

「なに?」

 

 紅茶を置いたレミリアが、先ほどまでの余裕のあった笑みを掻き消し、真剣な表情を浮かべて私を射抜くように見た。

 思わず、糸の魔力が通るか動作確認を無意識下で行ってしまう。

 

「念の為に言っておくけれど、おじ様について探るのは止めた方が良い」

 

 紅い瞳が爛々と輝いている。紛うこと無く、彼女は本気で告げていた。

 受け取れる意味としては、下手に探って来れば容赦はしないと言う宣告、そして知らない方が自身の身のためだと言う警告の二つか。どちらに解釈すればいいのかまだ判断するには早いが、それ程までに秘密裏にしておかなければならないものなのだろうか。

 

「素性を探るなと言いたい訳?」

「そうじゃないわ。関わらない方が身のためだと言うことよ」

「……そこまで危険と捉えているなら、何故貴女達が共に暮らしているのかが分からないわね」

「違う違う、危険と言う意味じゃない。何が起こるか分からないから不用意に近づくなと言っているのよ」

 

 レミリアは、静かに息を吐き出した。それは、まるで過去の光景を思い出し、その記憶に愁いを感じているかのようだった。

 

「貴女は見たことがある? 木端妖怪の群れ如きなら腕っぷしだけで叩きのめす事の出来る吸血鬼達が、皆頭を垂れている光景を。その中でも最強と謳われた吸血鬼でさえもが、悲鳴を上げて許しを請う光景を」

「……、」

「おじ様は優しいわ。本当に悪魔とは思えないくらいの人格者よ。でもね、彼が持つ力も、カリスマ性も、そして大勢の悪魔を無条件に屈服させる程のモノを持っている事も事実。史上最凶最古の吸血鬼である事も歪みない現実なの。もし……もし万が一、貴女がおじ様の逆鱗に触れでもしたらもう止められないわ。紅魔館全戦力を持ってしても貴女の命は……いいえ、魂は助けられない。彼の怒りを買うことは即ち死を意味する。だから、あまり不快を買う様な真似をしでかさないよう、無暗に接触する事は避けた方が無難だと言いたかったの。魔法使いは突飛な奴が多いから、念には念をね」

「警告ありがとう。肝に銘じておくわ」

「賢明ね。貴女はパチェの数少ない友人だから死なれたりしたら困るのよ。パチェが泣いちゃうわ」

 

 そう言って、レミリアはまたカラカラと笑った。そこにはもう刺々しい気配はどこにもない。いつもの小悪魔的な笑みを浮かべるレミリア・スカーレットだった。

 私もパチュリーが涙を流すと言う、億が一にも起こり得ない事態を想像して思わず笑みを零しながら、レミリアが発言した言葉を脳裏で回転させていく。

 

 今でこそ丸くなったが、幻想入り直後の彼女は他の追随を許さない程傲慢な性格の少女だった……らしい。魔理沙やパチュリー曰く、少し前まで自分以外は全て下等と決めつけるどこぞの帝王の様な振る舞いをしていたとの事だ。

 そんな彼女がここまで念入りに警告してくる男とは、果たしてどれ程の怪物なのか。だがそうと分かった以上、対策は練っておくべきだろう。レミリアの言う通り、念には念を入れておかなければなるまい。

 

 私は紅茶を飲み干しながら、今後の予定を組み替えるべく思考の海に身を投げ出した。

 

 

 不死の霊薬を飲み、呪いを受けてから私は、人間の一生から見れば途方もない時を……実に千と三百年近い時を過ごし続けてきた。

 

 初めの三百年は閑散とした地獄だった。幾年過ぎようとも変わらぬ容姿に幽鬼の如く白い髪、そして血の如く赤い瞳は、当時の人間を遠ざけるには十分すぎる効果を持っていた。故郷を追われ、一ヵ所に安住する事が出来ずに転々とする日々。無論私の傍には誰一人の影も無く、ただその身一つで、己の過ちと不遇に苛まされる日々を送った。

 私は、いつも孤独だった。

 

 次の三百年は血に濡れた地獄だった。世を恨み、こんな体になってしまった不条理を恨み、何より全ての元凶たる蓬莱山輝夜を恨み、積もり積もる恨みをどこにぶつけていいのか分からない日々を過ごしていた。そんな時だ。妖共は風の噂で私が不死と知るや否や、自身もその不死にあやかろうと私に襲い掛かって来た。

 初めの頃は全身を引き裂かれ、食われた。しかし私は死にながら戦う術を学び、妖術を習得していった。徐々に戦いで負う傷の数が減っていくと、遂に私は並の妖怪からは油断しても負けない程の力を手に入れた。流れるように私は、今までに抱き続けた恨みの全てを妖怪に叩きつける日々を送り続ける事となった。

 私は、意味の無い力に虚無を垣間見た。

 

 次の三百年は乾ききった地獄だった。妖怪退治に意味を見出せなくなり、自身の存在に意味を見出せなくなり、そろそろ終わりたいと何度も願った。けれど、何が起ころうとも何をしようとも死ねなくて、そんな体を心底呪った。何時しかこの世の全てに興味を失くし、絶望と言う概念……理性を保つ最後の砦すらも失いかけていた。

 食事は摂らず、水も飲まず、座り込んだままの日々も過ごした。餓死して蘇り、また空虚な時を過ごす。行く当てなどある筈も無く、まるで呪術に操られた死体の様に大和を彷徨い続けた。

 その先で偶然、輝夜と出会った。

 

 私の父を奪った女郎。私をこんな体にした張本人。月に帰った筈の、会う事などとうの昔に諦めていた怨敵。

 だが彼女もまた、私と同じ蓬莱の不死者であり、そして月の民から身を隠している身の上だと知った。

 怨敵に出会ったせいか、同じ境遇の者を見つけたせいか。乾いた井戸から水が再び湧き上がって来る様な感覚が、私の胸の内に芽吹いた。そして思考が生じたのだ。思う存分、積年の恨みをぶつける事が出来るのだと。私の今までの生が無駄ではなかったのだと。

 

 永遠の渇きを、分かち合う者がまだこの世に居たのだと。

 

 歪んでいるなんてとうの昔から理解していた。狂ってるなんて他の誰よりも分かり切っている事だった。

 それでも、例え誰が何と言おうとも。

 私の世界が、再び色を取り戻した瞬間だった。

 

 

 退屈。

 そんな感覚すらも曖昧になったのは、一体何時の頃からだっただろうか。ふと何気なくそんな疑問が浮かんでも、木から枯葉が一枚落ちた程度にしか気に留めなくなってしまったのは、本当に何時の頃からだっただろうか。

 

 私はこれでも、永い、永すぎる時の中を生き続けて来た。月で生まれ、月の潔癖さに飽きを覚え、地上の穢れに憧れを見出し、禁忌の秘薬を受け入れ不死となり、極罪を犯したとして処刑され、しかし私の力と薬の効力が相まって死なないが故に地上への流刑を受け、堕ちた先で翁達と瞬きの間を共に過ごし、刑期を終え迎えに来た月の使者を永琳と共に葬り、そして月の民から身を隠す逃亡者として竹林に身を潜め続け、ひょんな事から同じ不死者となっていた妹紅と偶然の再会を果たし、今日の今日まで殺し合いを続ける様な日々を過ごして来た。

 不老不死として過ごした期間を省いても、私は本当に永い時を生きたと思う。永琳には及ばないけれど、本当に本当に、私は気の遠くなるような永劫を歩み続けて来た。そしてこれからも、私は永遠を彷徨い歩いていく。終わりのない果てまで――いや他の全て、その何もかもが終わってしまう果ての果てまで、私は今の様にずっと、のんびりと全ての終焉を眺めていくのだろう。

 

 そんな想像を思い浮かべるたびに、私はふと思うのだ。最果てまで辿り着いた私は、その時までに経過した過去をどの様に振り返るのだろうかと。

 私はきっと、第三者から見て想像もつかない時間を、『須臾』と例えて一蹴してしまうに違いない。以前は色々あったけれど、それはほんの瞬きをするような一瞬の出来事だったのだと。

 昔、ふとした拍子に翁達と過ごした僅か十数年余りの時を振り返った時。私はそれが本当に小さな、儚すぎる時間だったのだと気がついた。当時はこの時間が永遠に続くのかもしれないと、淡く甘い錯覚すらも抱いていたのに。とても煌びやかで、この世のどんな美しいものよりも輝いていたのに。それは風雨に晒され腐食した金属の様に、時間の流れと共に残酷なほど劣化していった。

 その瞬間から、もはや私にとって『思い出』とは、フィルムに焼き付けられた『画』の連続にしか思えなくなっていた。

 

 枯れ果てた思い出を自覚した時。途端に今までの出来事全てが、本当にちっぽけなものの様に思えてしまった。同時にこれからも作られていくだろう思い出も、何時の日か時の流れに削られて、砂粒として指の中からすり抜けていくのだろうと悟った。

 時は残酷なまでに流れていく。激流の様に、清流の様に、暴風の様に、そよ風の様に。時間の流動は決して止まらない。流されていく物も止まらない。『物』は時間の流れを受けて『変化』を起こし、形を変えて流されていく。この世でただ一つ時間に流されない例外は、私や永琳、妹紅の様に変化を拒絶した……いや、『時の流れから逃げ出した』蓬莱人のみなのだ。

 私達だけは、他の全てが枯渇しても何もかもが瑞々しいままで存在し続ける。変わらぬ容姿。変わらぬ体。変わらぬ魂。未来永劫不変の個として地に足を着け続けるのだ。

 不老不死とは変化を受け入れまいとした者だ。絶対的な『個』となり、時の流れが作る『輪』の中から抜け出した脱走者だ。

 そう。変わらないのは蓬莱人と言う究極の個人だけ。変化を拒絶した愚か者だけ。その他は全て形を変え、流れていく。土は草へ。草は虫へ、虫は蛙へ、蛙は蛇へ、蛇は鳥へ、鳥は死して土へと還る様に、万物は時間と共に移ろっていくのだ。

 

 ありとあらゆる者達は不老不死を求めている。時間から逸脱し、変わる事を拒んだ逃亡者を。しかしその先に待つのは極限の孤独に他ならない。周りの物が、関わってきた者達が、果ては心に残る思い出さえもが次々と朽ち果てていく中で、私たちは取り残されてしまう未来が決定しているのだから。

 

 その事実を理解してしまった瞬間から、私の心から色が消え、音は完全な消滅を迎えた。

 耳を癒した春風の音は只の現象に置き換わり、確かな輝きを持つ色とりどりの草花や景色は無残な灰を被った。極め付けには、最近一番心が躍っていたと思う妹紅との殺し合いすらも、ただ日々を過ごす上での機能となってしまったのだ。精神の衰弱は、一度発症すれば疫病よりも早く私の心を蝕んだ。

 

 何を見ても、何を聞いても、何を感じても、心が拍動する事の無くなった私は、正真正銘のゾンビなのかもしれない。老いる事も死ぬ事も無く、同時に生きてすらもいない。まさに生ける屍と言う奴だ。それ以外に、この状況をどう例えられようか。

 しかしそれを自覚しても、特に感じるものは何も無かった。悲しいとも、虚しいとさえも思えない。これが薬を飲んだ罰なのだろうかと思っても、後悔の念すら湧いてこない。ただ目の前に『事実』と言う名のシャボン玉が浮かんでいるのを眺めている……そんな感覚が漠然と存在しているだけだった。そして自覚するほどの心の衰退に、私は危機感も何も抱いていない。

 風化し内側が枯れ果てた自分が。そして風化を予定している『物』が、目の前にある。それだけ。他には何も思わない。何も感じない。私はただ、成り行きを眺めているだけでしかなくなったのだ。

 

 生も。死も。変化も。時間も。色も。音も。光も。感情も。私自身も。

 この世の全てを枯れ果てた心で眺める事だけが、私に残された唯一の『出来る事』だった。

 

 だからこそ、今朝は本当に驚いたものだった。

 ナハトと言う青年。陽の光を嫌う本物の吸血鬼さん。日光を避け、永遠亭の門の日陰で休んでいた彼を見た時、本当に久しぶりに心が動かされた。

 率直に言って、私は彼を怖いと思った……のだと思う。多分、これが『恐怖』というやつだったんだろうなと感じた。死を完璧に取り除かれた蓬莱人は、一番初めに恐怖を失くす傾向があるらしい。私もその例に漏れず、大昔から死の恐怖を感じなかったものだから、久方ぶりに本気で怖いと感じた事実に驚いたものだった。

 

 理由は分からないけれど、多分彼から放たれている今までに感じた事の無い程の穢れに似たナニカ……彼は瘴気と言っていたかしら? それが原因だと思う。視界が映像として彼を捉えた瞬間に、全身を支える骨の髄へ氷を叩き込まれたかと勘違いするほどの悪寒が走り抜けたのだ。

 それ故に、私は彼に興味を抱いた。切っ掛けは些細な疑問だったのかもしれない。何故蓬莱人たる私がよりによって『恐怖』を感じたのかが、気になった。私が『気になった』と言う事実も気になった。

 

 だからちょっと彼と話をしてみる事にしたのだ。もしかしたら面白いと思えるかもしれないと。久方ぶりに、この心の渇きが潤うのかもしれないと。何かを感じる事が出来るのかもしれないと。乾ききった獣が水辺を見つけ、引き寄せられるのに似た本能に近い行動だったのかもしれない。

 そして結果は大方成功を収めた。彼の言葉は、声は、比喩表現を抜きに精神へ直接入り込んで来て、それが連鎖的に冷えた精神を解凍させてくるのだ。彼の口から物語が紡がれる度に、砂漠と化した心に雨が降ったような心地を得た。例えそれが小雨でも、私はその変化を『面白い』と感じていた。

 彼を見れば背筋が凍る。彼の瘴気は鳥肌を生み出す。彼の声は心を揺さぶる。それら全てが、とてもとても新鮮で。何時振りかは忘れてしまったけれど、時間を忘れるなんて体験をもう一度感じる事が出来たのだ。

 

 彼が友達になってくれと言って来た時は、好機だと思った。もっと私はこの躍動を楽しみたかった。恐怖に震える足の感覚を、鳥肌が布を擦る感覚を、喉が干上がる緊張感を、もっともっと堪能したいと思ったのだ。

 だから私は彼に難題を吹っ掛けた。別にすんなりと友達になっても良かったのだけれど、やっぱりこの『出会い』を引き伸ばしたいと思った。そうすれば、思い出としての一ページの時間が長くなる。長くなればそれだけ思い出の風化が遅れる。即ち、余韻を長く楽しめると言う事だ。

 難題に彼がどの様に挑戦するのかシミュレートするのもまた新鮮だ。私の下した『蓬莱人の死』と言う難題を攻略するには、文字通り蓬莱人の死体でも持ってくるか、もしくは蓬莱人の死を概念的に突き止める二種類の方法がある。彼は殺生に対して苦い顔をしていたので、恐らく後者を取るだろう。どんな答えを出してくるのか、それもまた楽しみとなった。

 

 だがそんな時、永琳はもし彼が本当の意味で妹紅を殺して来たらどうするのかと尋ねて来た。正直なところ、そこまで考えていなかった。だって蓬莱人が不滅だという弁を私に説いたのは、他ならない永琳自身なのだ。私の教師にして、姉にして、母にして、月の都の創設者の一人でもある彼女がそう答えたのならば、それが絶対である事に変わりはない。蓬莱人が死ぬだなんて考える方が可笑しいというものだろう。

 

 でもそう考えると、永琳が危惧したのにはちゃんとした理由がある訳で。つまり本当に妹紅が死ぬ可能性が出てくるわけで。

 それに気がついた私は内心、自分の過失に対して焦るかなと思っていたけれど、驚くほど心は平坦そのものだった。

 妹紅が死んで、いなくなる。私に野犬の如く食らい付いて来た彼女がいなくなる。同じ不死仲間の彼女が………………―――――――、

 

 

 

 

 

 まぁ、いいや。

 

 

 

 

 

 それが私の抱いた感想だった。

 いなくなったのなら、それで良し。その代り、妹紅の分までナハトに暇潰しをさせて貰おうと思った。妖怪を蓬莱人にする実験でもやってみようかなとも、私は思考に耽っていた。

 気がつけば、笑みまで浮かんでくる始末だった。とにかく心が動くもののほうが良い。渇きを潤せるものが良い。そしてそれを見つけられた。他の事など、考える意味も無いと思った。と言うより、考える事など出来なかった。

 

「…………永琳とイナバ、今頃戦ってるのかなぁ」

 

 座敷にポツンと座り込んでいる中で、私はシャボン玉を眺めるように、今しがた起こった出来事を思い返していた。

 先ほど永遠亭に月を取り返すべく侵入してきたらしい、妖怪と巫女、幽霊と侍の相手をしているだろう永琳の事だ。

 永琳は上手い事、本物の月を隠している私の部屋が露見するのを防いだみたいだけれど、どうせならここへ連れて来ても良かったのに。ああ、いや駄目なのか。月を取り返されたらイナバが月の民に連れ去られちゃうから阻止していたのだった。序でに私の存在もバレてしまう可能性が高まるから、尚の事永琳は張り切っているんだろう。

 

 しかし別に連れ去られてもどうでもいいと思えてしまうあたり、やっぱり私はおかしくなっているのだろうと霞の様な思考を浮かべた。直後にまぁいいかと、脳の隅へ放り投げてしまう。それよりも今は、早くナハトが見つけて来た難題の答えを聞く方が大事なのだ。

 正直、難題の答えなんてどうでも良かったりする。ただ彼の行動が私の心を再び揺するのか、それだけが気になる事項なのだ。

 

「失礼するよ」

 

 ふと。

 何の前触れもなく、突然響いた澄み渡る様な声と共に、視線の先にある襖が開かれた。

 途端に肌を打つ、禍々しい穢れに酷似した瘴気の渦。心臓が悲鳴を上げ、喉が瞬く間に乾き始めた。不愉快で愉快な感覚が体を包み込んでいく。

 そんな実感を経て、私は瞬時に訪問者の正体を突き止めた。別に考えるまでも無い事なのだけれど、顔を覗かせたのはやはり、今しがた思い浮かべていたナハト本人の姿だった。

 

 まさか、もう難題の答えを導き出したのだろうか。あれから数時間と経っていないというのに。

 期待と同時に、早すぎてつまらないとさえ感じる。けれど、そんな風に思えるのだから収穫か。

 

「早いわね。もう答えを見つけて来たの?」

「ああ。少しばかり手間取ったがね」

「難題を手間取ったの一言で済ませられたのは初めてよ。……そう言えば、よくこの部屋に私が居るって分かったわね?」

「親切な兎さんに部屋を教えて貰ったんだ」

 

 この位の、と彼は手で道案内された兎の背丈を示す。多分てゐの事だろう。彼女はイナバの中ではイナバ―――ややこしい―――鈴仙の次に背が高い。丁度彼の手が示す程の高さだ。

 彼は襖を閉め、私の前へと移動した。座ってと勧めると、このままで良いと返される。そのまま彼は、神妙な顔つきをしたまま、私へ問いかけて来た。

 

「一つ聞きたい。本当に良かったのかね?」

 

 質問の意味が分からなかった。

 

「何のこと?」

「難題の事だよ。君は『蓬莱人の死』を望んだ。本当にそれで良かったのかと気になってね」

「……? ごめんなさい、貴方の言っている事の意図がいまいち分からないわ。具体的に何が気がかりになっているの?」

「この結果となったのが、果たして最良なのかと思ったのだよ」

 

 そう言って彼は、パチンと指を軽快に鳴らした。

 黒い靄が、畳の上に滲み出てくるように姿を現す。およそ人一人が寝転がる程度の大きさにまで広がると、靄は畳の中へ吸い込まれる様に消えていった。

 

 現れたのは、人の形をしたモノだった。

 サスペンダー付きの赤いモンペに、内側に覗く白いシャツ。袖口から顔を出しているのは、雪の様に白くすらりと伸びた造形美を感じさせる手指。

 目に映った瞬間に、それが妹紅であると識別は出来た。

 しかし、私はそれが妹紅であるのか、認める事に躊躇を覚えてしまった。

 

 頭が無かったのだ。

 

 彼女自身は呪われているも同然と疎ましがっていたけれど、雪の様に儚く透き通った、手櫛を通せば指の間からするりと抜け出していくだろう美しき白髪はどこにも見当たらず、中性寄りで目鼻立ちの整った顔貌は完全に消滅していた。

 例えるまでも無い。首の無い妹紅が、私の前に横たわっていたのだ。

 

「君の望んだとおり、『蓬莱人の死』を用意した」

 

 脳を包み込むような彼の声に、ドクンと心臓が一際強く脈を打った。血液が体中を駆け回るのと同じくして、脳裏に永琳の言葉が浮かび上がり渦を巻く。

 

『あの男が、本当に妹紅を殺せるような存在だとしても?』

 

 他でもないあの永琳が、そう言った。月の頭脳と称えられ、月夜見様と同等に近い時を生き続けたと言う、最も偉大な賢者がそう言ってのけたのだ。

 それが示す所は、つまり。

 妹紅は本当に……?

 

 力なく畳に置かれた白磁の肌の手を握る。それは凍り付いているのではと勘繰る程に冷たく、そしてビクとも動かない。完全に死後硬直を終えた肉体の硬さだった。

 蓬莱人が死後硬直を起こすなんてことは有り得ない。言うまでも無く、薬効で不滅と化した魂を基盤に、肉体は何度でも復活するからだ。その際に『以前の肉体』は細かな粒子と化して消えてしまう。まるで同じ存在はこの世に存在してはならないと、世界が拒絶するかの様に。

 しかし現に妹紅の肉体は目の前にあって、血の流れも、命の温もりも消えてしまっている。

 余計な事など、考えるまでも無かった。

 

「本当に……死んでしまったの?」

「君の希望だろう。それを実行したまでに過ぎないよ」

 

 余りにも穏やかな声に、どこかむず痒い違和感を覚えて顔を上げれば、彼は笑みを浮かべていた―――のだと思う。

 天井から照らされる光の加減なのか、はたまた背後の月の光の反射か。彼の顔は影に覆われ、口元が歪んでいる様にしか見えなかった。

 気がつけば、私は思わず震えた声で口に出していた。

 

「何故こんな事を……? 私は妹紅を殺せとは一言も―――」

「どうして焦っているのかね?」

 

 私の発言を遮った彼の言葉が、精神の中枢をずぶりと貫いた。

 焦っている? 私が? 

 妹紅の死を目撃して、焦っていると?

 私は平常通りだ。ドクドクと心臓が脈を打って、足が震えそうになって、額の辺りがじんわりと湿ってきているけれど、焦っている何てことはない。そんな心は多分、もう忘れてしまっている筈だ。一人の死で簡単に揺れ動く様な心は。

 

 心は。

 

 …………?

 おかしい。

 何かがおかしい。

 ついさっきまで妹紅の事なんてどうでも良かったのに、何故だか胸の内が締め付けられる様な感覚がする。彼女の冷たい手をとった瞬間から、砂漠の様だった景色が途端に青で染められたかと思った。

 何故私は、こんなにも手が震えているのだろう。ナハトの悍ましい瘴気のせい? 多分、それもある。それもあるけれど、根本的に別のナニカが私の心を激しく揺さぶっているせいだ。

 その揺さぶって来るものの正体が、分からない。これは一体何だ。五臓六腑を締め付けてくるものの正体は――――

 

「君は私に『蓬莱人の死』を望み、そして獲物に妹紅を提示した。だから私はそれに従って処理を行った。それだけではないか。君が私へ頼んだことだろう? 当然の結末だと言うのに、どうしてそんな風に狼狽えているのかね」

「待って、待って。分からない、分からないのよ……! 頭の中が、何故だか滅茶苦茶で……!」

「分からない? 私には君が、妹紅の死を悲しんでいるように見えるのだが」

 

 悲しむ?

 慣れない単語に、私はぱちぱちと瞬きを繰り返した。

 この腸に氷を叩きつけられ、頭を強く打たれた様な感覚が、悲しいというものなのか?

 分からない。分からない。

 怒涛の如き混乱が、私の頭をぐちゃぐちゃに掻き回していく。

 

「輝夜―――」

「ッ! 寄らないで!!」

 

 伸ばされた手を、反射的に思い切り跳ね除けてしまった。月人の持つ本気の身体能力は彼の手を容易く捥ぎ取り、後方の襖まで吹っ飛ばしてしまう。

 ハッと我に返って、私は彼の手を見た。身に付ていた腕輪の部分まで見事に弾け飛んでいて、煙にも似た黒い靄が溢れ出している悲惨な腕の姿が、ざわざわと背筋を撫で返す。

 同時に、彼の放つ瘴気が明らかに勢いを増した。いや、『濃くなった』。まるで一酸化炭素中毒にかかった様に肺が酸素を取り込めなくなり、失くしたはずの防衛本能が全身の産毛を逆立たせる感覚が確かにあった。朝に感じたものの比では無い。直ぐに逃げ出さなければと、脳が私の体に訴える程のものだった。

 しかし、私の体は動かない。得体の知れない感覚はもとより、何故この様な気持ちが生まれているのか、当てのない自問自答が私の脳裏で絶えず繰り返されているせいだ。

 

 いや。だが。しかし。なぜ。

 

 湯水の如く湧き上がってくる得体の知れない激情の数々と、それを不審に感じてしまう枯れ果てた心が相反する反応を引き起こす。矛盾が生じた私の思考は泥の様な粘質さを持ち始め、何が正しいのかさえ判別がつかなくなっていた。

 そんな私を差し置いて、彼は言う。まるで別人の様に態度が豹変した彼は、私に次々と言葉を突きつける。

 

「何故そんなに怯える。難題を授けた君の口ぶりから、君はてっきり妹紅の事などどうでも良いと思っているのかと感じていたのだが、もしかして私の勘違いだったのか?」

「わ、私、私は……っ!」

「動揺しているが、それはつまり確信を得たからではないのかね。自分の心は自分が一番よく分かっている筈だろう。君は機械ではない。死者ではない。ましてや人形などでは決してない。君は生きて、感じて、考える事が出来る生き物だ。どれだけ長い時を生きようとも、終わりの無い不死であろうとも、君は今を生きる人間なのだ。ならば君が今感じている心の正体も解る筈だろうに」

 

 今を生きる、人間。

 この言葉が、私の胸に深々と突き刺さった。たかが一言で何故ここまで、彼の言う動揺が強くなったのかは分からない。本当に分からない。

 でも何だかほんの少しだけ、自分が一体何をしたのか、どんな状況下に置かれているのか、霧が晴れ陽の光が少しずつ竹林に差し込んで来るかのように、胸の内で鮮明になりつつあった。

 途端に私は恐怖した。ナハトの近くに居る事で感じる類のモノでは無い。これの正体を知ってしまえば、私は今の私ではいられなくなる―――そんな恐ろしさ。未曽有の新天地を恐れる恐怖と酷似していた。

 だから私は、それを思い切り封じ込めた。ただでさえ波風一つ絶たなかった心が、突然の嵐に襲われているのだ。キャパシティオーバーと言っていい。私は、この感覚を受け止める事が出来なかった。受け止める勇気が無かったのだ。

 

「分かんない……!」

 

 頭を抱えて、私は振り絞るような声で言った。それを聞いたナハトは、ただ静かに、『そうか』と相槌を打つのみだった

 

「ところで、私は難題を無事にクリアできたと言う事で良いのか?」

 

 ――――沈黙。

 彼が何故、こんなタイミングで訊ねて来たのか、処理落ちを起こした脳ミソでは把握する事さえ叶わなかった。

 混乱しきっている頭は彼の質問に対する答えを弾きだす事すら出来ない。ただただ、震える視界で彼を捉えることが精一杯だった。

 ふと。

 彼の顔に二つ、紫色の輝きが瞬いた様な気がした。

 それを目にしたとき。私は初めて彼を疑った。

 

 彼は、何だ?

 今私の前に立っているこの男は、本当にあのナハトと同一人物なのか?

 

「沈黙は肯定と捉えさせてもらう。では、改めて申告させて頂こうか。輝夜よ、難題も無事達成できたことだ」

 

 ナハトの腕が、こちらに向かって伸びて来る。それは正に、悪魔が魂を奪い取らんと迫る腕の様で。

 全身を震え上がらせる瘴気を纏う彼は、魂を魅惑の底に突き落とすかのような甘い声で、私の耳へと柔らかく囁き、

 

 

「―――――約束を果たしてもらおうか」

 

 

 ぞわりと、首筋に百足が這いまわったかのような悪寒が走り抜けた。

 

「――――うァあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」

 

 私がとった行動は、絶叫と共に彼を跡形も無く吹き飛ばす事だった。それはまさに、身を守るの為の自衛行動に他ならなかった。

 弾幕を形成する莫大な力を、無我夢中に前方へ放出する。心の中心へ纏わりついてくる彼の言葉に心底恐怖を覚えた私は、気がつけば脊髄反射の要領で彼の体を木端微塵に打ち砕いていた。

 我に帰った頃には、視界にもう誰も存在しておらず。

 弾幕の大仰なエネルギーに焼け焦がされた物体が、部屋中に散乱している惨たらしい光景が広がっていた。

 

「は、はっ、はぁっ……ああ……!」

 

 音を立てて黒い煙と化し、彼だったものが消滅していく様を見届けながら、私は荒い呼吸を繰り返し続ける。

 私の頭はぐちゃぐちゃだった。つい数分前まで砂漠の如く乾ききり、何もかもが平坦だった心象風景は天変地異に見舞われたが如く荒らされ、その反動なのか湧水が噴出してくるかのように、次から次へと感情の暴発が巻き起こった。忘れていた心の原風景が、全て舞い戻ってくるかのように感じ、思わず頭を抑える。

 そして私は、胸の内に押さえつけられていた感情の爆発とともに、認めようとしなかった心の正体を掴む。掴んでしまう。

 

 悲哀。

 それは、例えようのない悲しみだった。

 失ってから気付く……その極限と言うべきか。私は眼を向けたくなかった心の色を前にして、目の奥の灼熱感を確かに感じとった。

 ここまで来て漸く、私は自分が犯してしまった事の深刻さを完璧に理解したのだ。

 

 死なない事に慢心を覚え、ただ乾いた心を潤す為に、因縁の宿敵であり数少ない蓬莱人の理解者である妹紅を手に掛けた。例え殺し殺される様な関係であったとしても、私は彼女の命を、一番に信じるべき永琳の警告すら楽観視して『難題』と言う遊び目的の為に利用した。

 その結果がこれだ。ナハトは悪くない。彼はただ、友達が欲しくて難題をこなしただけ。彼もまた、心の渇きを潤す為に実行に移しただけに過ぎない。

 悪いのは、彼女を殺したのは。同じ境遇を持った友達を殺したのは、他でもない私自身だ。

 渇きを潤す為に血を啜ろうとした吸血鬼は、目の前に君臨していた彼ではなく、この私自身だったのだ。

 

 逃れようのない事実が、私の心へ突き刺さる。気がつけば妹紅の遺体に寄り添って、ただただ謝罪と後悔の涙を流すだけとなっていく。

 

「……ごめん……ごめんなさい……」

 

 私は不死ゆえに全てが果てた未来が怖かった。私は不死ゆえに朽ちていく過去が怖かった。

 その結果、私は究極の現実逃避を実行してしまった。それは『現在』を捨てる行為。永琳も、イナバ達も、妹紅も。周囲の全てを拒絶して、ただ風化していく事に慣れようとする逃避行。周りの心など考えるのも馬鹿らしいと、いつか訪れる結末に怯えてただ目を背けてしまったのだ。

 これは、その我儘が(もたら)した罰なのだろう。私よりも遥か長い時を生きた永琳の様に強く在れなかった、臆病な私に対するツケが回って来たのだろう。

 それのなんと、滑稽な事か。

 

「私、馬鹿だった。あんたがこんなに冷たくなって、やっと気がついた。逃げてたの。不死身を言い訳にずっと逃げてたの。あ、あんただって同じ思いをしてた筈なのに、ううん、身寄りを失くしたあんたの方が、私より強く生きていた筈なのに、私は自分だけ取り残されるんだって決めつけて、目を背けた。それがあんたを死なせてしまった。本当に、ごめんなさい……っ!」

 

 懺悔とは正に、今の様な状況を指すのだろうか。しかしどれ程悔いようとも、失われた命は戻らない。

 そんな事、分かり切っていた筈なのに。だからこそ、現在から目を背けていた筈なのに。

 我儘の雫は、絶えず頬を濡らし続けた。

 戻らない唯一無二の友人へ、送ることしか出来ない涙を。

 

「輝夜」

 

 声が聞こえる。もう二度と、罵声も挑発も喧嘩口上も聞くことが叶わなくなった妹紅の声が。

 罪悪感が生み出した幻聴か。やっぱり私は、どこまでも弱い。

 

「おーい、輝夜。聞こえてる?」

 

 頭を叩かれた。ぺちぺちと、まるで寝ぼけている子供を叩き起こすかのような感覚で。

 幻覚まで感じ始めたのかと、私は一層強く、冷たい妹紅の体に縋り付いた。

 

「ああもう! こっちを見なさいっての!」

 

 頭を勢いよく掴まれ、思い切り持ち上げられた。

 何事かと目を見開けば、そこには、もう二度と見る事は叶わなくなったはずの妹紅が。不機嫌そうな顔で私を睨んでいた。

 ぽかん、と思考停止した私は、何が起こっているのか分からないまま、考えた事を直接口に出していた。

 

「……妹紅なの?」

「そうよ」

「本当に?」

「本当に」

「本当の本当の本当に?」

「本当の本当の本当によ」

 

 ほら、と妹紅は私の手を掴み、両手でそれを覆った。血が巡り、暖かみを持つ柔らかな肌。人肌の温もりが、確かにそこへ存在していた。

 幻覚ではない。彼女は、本物の藤原妹紅だ。

 では、では、では。

 この首無し妹紅の死体は、一体全体何なのか?

 

「あんた、何で? 死んじゃったんじゃ、あ、これ、どういう事なの……?」

「私が死ぬわけないでしょ。これは全部、アンタを夢から醒めさせる為の芝居よ」

「芝居?」

「そう、芝居。アンタ、自分の心が死にかけてた事に気づいて無かったんでしょ。いや、気づいてても自分じゃどうしようもなかったんじゃない? 違う?」

 

 心が、死にかけていた。

 妹紅の言葉に、つい先ほどまでの乾ききった心を思い出す。空虚で、乾燥して、何もかもが灰色に塗りたくられたあの心象風景。全てを拒絶した、まっさらな閉鎖空間。

 アレが、心の衰退だったのだろう。危機感が無かったものだから、当時は何も思わなかったけれど、今は不思議と怖く感じた。

 

「無敵の蓬莱人も精神衰弱だけには敵わないらしくてね。もう心が死ぬ一歩手前まで行っていたアンタを心配した永琳が、あの男に一芝居打つよう頼んだらしいわ。彼の瘴気を利用して強いショックを与えて、感情を呼び覚ます即席療法なんですって。でもまさかアンタが、死ぬわけのない私が本当に死んだと思い込むくらい思考能力を破壊されていたとは思わなかったけどね」

「じゃあ、この死体は……?」

「あの男が私の血を元に作ったデコイよ。よく出来てるわよね」

 

 似すぎてて気持ちが悪いわ、と妹紅はその人形を焼き払った。見た目や質感は人間のソレなのに、不思議と肉を焼く様な匂いは全然しなくて、炭と化した人形は黒い霧に姿を変えて霧散してしまう。残ったのは煤けた畳のみとなった。

 

「あんたは、何でここに?」

「アフターケアよ。頼まれたの。強いショックでトラウマを負ってしまったら意味が無いからね。私は生きているんだって事を示して安心させろってさ。全く、アンタが廃人になったら私の鬱憤を晴らす奴が居なくなっちゃうっての。手間かけさせんな」

 

 サバサバとした調子で、彼女は言う。悪態は吐いているがどこか優しい雰囲気がそこにあった。

 

「でも、これで少し……本当に、本当に癪なんだけど、アンタに借りを返せるのかね」

「え……?」

「実は私も、この間まで同じだったのよ」

 

 妹紅は語る。私が身を隠してから、妹紅が体験した日々の事を。

 知り合いがどんどん死んでいったこと。ふと気がついた時には一人ぼっちになってしまったこと。化け物扱いされたこと。死ねない事に絶望したこと。この世の全てを恨んだこと。妖怪を退治して回ったこと。全てが虚しくなったこと。何も感じる事が出来なくなったこと。

 そして私に偶然出会って、再び火が付いたこと。

 

 今まで喧嘩ばかりだったから知る由も無かった彼女に、知る由も無い心中を吐露されて、私は激しい共感を覚えた。

 同じだった。

 過程は違えども、方向は異なれども。同じ永遠を生きる者同士、似た様な悩みを抱えていた事を知った。もしかしたら妹紅もこうなのかな、と言った程度に漠然と想像していた事が、本当に当たっていたのだ。

 

「別に感謝なんてしてないわよ。ただアンタをどうやって殺してやろうかって考えたら、もう一度生きる気力が湧いて来た。それだけ。けれどそうしたら何故か、周りの物が少しづつ綺麗に見えるようになっていった。あれだけ灰を被ってた風景に色が着いたの。それに気がついた時、変な話……生まれ変わったような気分だったわ」

 

 アンタのせいで死ねない体になったってのに、皮肉なものよねと彼女は言う。

 

「そして今はアンタが前の私と同じように、内側の人間が死にかけていた。けどアンタにゃ今まで通り、高飛車で余裕たっぷりで、姫様姫様して貰わなきゃ捌け口が無くなっちゃって困るの。だから今生まれ変わりなさい。ただ生きるだけの蓬莱人じゃなくて、人間の蓬莱山輝夜にさ」

「っ」

 

 もしかして。

 彼が示したかった『蓬莱人の死』とは、本当はこの事だったのではないだろうか。

 生きながら死に、心が摩耗した『人の形をしたもの』を蓬莱人と例えるならば、それを激情のショックによって心も生きた人間へ戻す事―――即ち、『蓬莱人』を殺す事。

 これがもし、彼が永琳の頼みを聞き、承知した上でこれほど苛烈な手段を用いて、依頼も難題もクリアするよう計算した上で実行に移したのだとしたら――――

 

「―――妹紅」

「ん?」

「一発殴ってくれない?」

「あいよ」

 

 バチンッ、と景気の良い音がした。容赦なく叩き込まれた張り手の痛みが、頬からじわりと波紋状に広がっていく。

 その痛みと、躊躇なく頷いてくれた妹紅の優しさが、私の胸の内に残っていた蟠りを弾き飛ばした。

 彼女はこれでチャラにすると言ってくれているのだ。自分の事をどうでも良いと切って捨てて、難題の生贄にしようとした私の暴挙を、張り手一つで許すと。

 少し前まで分からなかった痛みの意味が、言葉無き彼女の心が、今は手に取る様に分かる。同時に、今はここで泣きべそをかいている場合ではないと理解した。私は、ここで立ち止まっているべきではない。

 

「……ありがとう。目、醒めたわ」

「うん」

「やらなきゃいけない事も、分かった」

「それでこそ輝夜よ」

 

 立ち上がり、自分の成すべき事を成し遂げるべく移動しようとした、その時だった。

 蹴破らんばかりに―――いや、実際思い切り蹴破られて、突如襖が足元にまで吹っ飛んできた。

 何者の襲撃かと前を見れば、そこには紅白を基調とした衣装を纏う巫女と、魂を周囲に浮遊させている剣士の姿が。

 瞬時に永琳が敗北したのだと悟った私は、先ずは客人を迎える事に思考を転換した。

 

「リハビリには丁度良いわ。妹紅、あんたも手伝って」

「仕方ないわね。今回だけ、老いぼれの介護の為に付き合ってやるわ」

「私は永遠の女の子よ。あんたも年だけ人間視点から見れば、老いぼれ通り越してミイラでしょうが」

「悪態吐ける位には治ってきてるじゃん。先にアンタからぶちのめしてやろうかと思ったけど、その調子よ輝夜」

「――るっさい。足手纏いになったら頭ぶちぬいてやるからね」

「それはこっちの台詞だっての!」

 



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12.「それぞれの夜明け」

 私が起こした月の使者の通り道を封鎖する異変は、案外呆気ない形で幕を下ろす事となった。

 決まり手は、鬼の様に弾幕戦の強い巫女と半人半霊の剣士による抜群のコンビネーションによって、私が弾幕戦で2回目の撃墜を迎えた後の事だ。唐突に背後で彼女たちの活躍を見守り、時たまに援護を行っていた大妖怪―――八雲紫が、私に異変を起こした意図を尋ねて来たのだ。

 私は素直に自身の目的を教えた。その状況下では隠したところでさほど意味は無いし、なにより私が生成した偽の月の空間に誘い込んだ時点で勝利は確定していたのだ。時間稼ぎの利点も鑑みると、ひた隠しにする理由など無いも同然だろう。

 

 そして私の計画を聞いた紫さんは、偽の月による幻想郷の密室化は意味の無いものだと、私にとある理論を述べ始めた。

 幻想郷を管理しているらしい彼女曰く、博麗大結界は偽の月の密室と同じように幻想郷を隔離する効力を持っているらしく、私が術を行使しても密室を密室で囲うだけとなり、結局のところ異変を起こした意味は無いと言うものだった。彼女は証拠にと小規模の二重結界を不思議な能力で生み出し、偽の月の光を用いて実験したところ、彼女の弁は正しいと証明され、月を奪っておく理由を失った私は素直に投降する事となったのである。

 

 そして少しばかり巫女に怒られて、今に至る。

 

 月が戻り、夜の進行を妨げていたらしい紫さんの術も解除され、元通りとなった夜空を私は誰も居ない永遠亭の庭先で見上げていた。

 優曇華や輝夜が月の民に連れ去られる危険が消滅した今、気がかりなのは私が彼に依頼した件の結果のみだ。

 彼には残酷な事を強いてしまったという自覚はある。私は、輝夜を真に友人として欲していた彼に自ら縁を切らせるよう仕向けたに等しいのだから。

 依頼をする際彼と直に話をして、彼が本当に悪意の無い妖怪だと気づいてしまったからこそ、罪悪感が胸の内で確かに成長した感触があった。恐らく彼もそれを理解した上で承諾してくれたのだから、尚の事罪の意識は強まり、柄にも無く憂鬱な気持ちになる。

 

 私が彼を、輝夜の精神を蘇らせる『起爆剤』として用いたのにはちゃんとした理由がある。それは彼の素性と言うべきか、ルーツがもたらす力……彼にとっての弊害が、蓬莱人に有効だったからだ。

 

 蓬莱人は恐怖を覚えない。恐怖とは全て、根源的に死を前提として育まれる感情だからである。

 外敵に襲われると死亡するから、生き物は敵を恐れる。毒を飲むと命尽きるから、生き物は毒を嫌う。逆らえば生きていけないから、社会性を持つ生物は上位の生き物には逆らわない。

 それらの習性の根本に伴うのは恐怖だ。そして恐怖があるからこそ、感情を持つ生き物はより効率的に生き延びる事が出来る。しかし蓬莱人はこの世で死と最も関わりの無い存在である。故に恐怖を持たない。いくら人格を保とうとも、他の全ての感情を保有していようとも、恐怖だけは確実に失われてしまうのだ。かくいう私も、恐怖だけは完全に失くしたと思っていた。

 しかしそんな蓬莱人に、恐怖を覚えさせた―――否、恐怖を呼び起こさせた彼は、その感情を下火にして、乾ききった心を再発火させるのに最も適していた。それ故に私は、最後の望みを賭けて彼との交渉に出たと言う訳だ。

 

 だが、ここで一つ疑問が浮上してくるだろう。恐怖を失くしたはずの蓬莱人にまで、何故彼の瘴気が有効なのか? と言う点だ。

 答えは、彼を構成するもの―――いや、厳密には彼の出自そのものにある。

 

 この世全ての存在には、ありとあらゆる経過に分岐しているとはいえ、遍く終わりが存在する。そしてそれこそが、この世で最初の恐怖の源だと言って良い。

 森羅万象を創造した八百万の神々も、神に対抗する暴虐の化身たる悪魔も、等しく皆消滅を恐れた。しかしその恐れは死に対するものではない。魂となって安息を迎えられる死ではなく、存在の消滅を恐れたのだ。

 そうして恐怖と言う感情がこの世に生み出され、それが気の遠くなるような永い間、あらゆる知的存在の中で継承されていった。結果、確かな形を獲得し、不安定な輪郭が形成されると、恐怖と言う絶対確実な『概念』が、人の思想から妖怪の種が芽吹く様にして産み落とされてしまったのだ。

 消え去り、無になると言う不可避の恐ろしさが生まれてしまったからこそ、消滅と言うこの世全てが確実に迎える終焉が、確かな存在として概念上に生み出されてしまったのである。

 消滅の概念は、概念であるからこそ現世にも幽世にも直接的な効果は無い。けれどそれは確かに実在していて、そしてそれは八百万の神々だろうが何だろうが、最終的には全てのものへ平等に降りかかる存在となっている。

 

 ここで結論を言おう。彼は、永劫の時を経て生まれた恐怖そのものの概念から、バグとして生まれてしまった異形である。

 

 何の因果か、運命の悪戯か。おそらくここ数千年ほどのごく最近に、ただ存在していただけの概念が本来有り得ないバグを起こす形で、奇跡的に人格を形成した。人間の思想が集まって妖怪が形を成すように、あらゆる生き物の根源から発生した消滅の恐怖と言う根っこから、『ナハト』と言う人格が生まれてしまったのである。

 しかし概念そのものが実体化すれば、近くにあるもの全てに甚大な被害が訪れる。いや、被害なんてものは生温い。それと相対し接触するだけで、問答無用に消滅を迎えてしまうに等しいのだ。

 だからこそ生まれてしまったバグは、現世で活動する為に妖怪と言うレベルまで無意識下に格を落とした。そして妖の特性を手に入れた人格は、生命の象徴たる血を啜り、人間の恐怖の源となった夜の闇を生き、魔としての象徴を掲げる絶対的な『禍々しいもの』としてこの世に降り立ったのである。

 もっとも、概念の破片から生まれた性質上、象る『素材』は凄まじいものであれ、他の妖怪と同じく記憶も何もない、人格だけの真っ新な状態として生まれた様子だ。彼に自分が何処でどの様にして生まれたのか覚えているかと聞けば、気がついた時にはそこに居たと言っていた点から察する事が出来た。

 

 それが彼のルーツ。彼自身も知り得ない、太古の昔からあらゆるものを目にした私だけが気づく事の出来た、ナハトと言う男の生誕秘話だ。

 

 幸いな事に、彼を初めて見た時に私が懸念した、消滅の特性を用いられ蓬莱人すらも問答無用に終わらせられてしまうのではないかと言う心配は、今では完全に霧散している。吸血鬼の特性を持った、言うなれば亜種とも呼べる枠にまで格を落としたせいなのか、彼を構成する素材が放つ瘴気は、見る者全ての恐怖を呼び覚まさせるだけに留まっているからだ。それが他の感情と混ざり合い、印象として表面化する事で、畏怖などの様々な色を持った感情が芽生えてしまう現象が、彼を目にしただけで精神を揺さぶられる原理だろう。この力に名を着けるとすれば、差し詰め『恐怖を呼び起こす程度の能力』と言ったところだろうか。

 

 これが、彼の力が我々蓬莱人にまで及んだ理由なのだけれど……何の因果で、あのような温和な人格に生まれてしまったのだろうかと、思わず世の不条理さを恨みそうになる。彼が極悪非道の、それこそ悪魔の様な性格であれば、どれだけ気が楽だったことか。

 ソレを懸念してしまうせいか、どうしても、この胸の内に生まれたしこりを取り除くことが出来なかった。

 何故なら、何故なら彼は――――

 

「永琳」

 

 不意に背後から投げかけられた声に反応して、私は静かに振り返った。そこには霧状の黒い靄がたちこめていて、徐々に徐々に人の形へ整えられていくと、あの青年の姿と成って現れた。まどろっこしい登場の仕方をしたのは、おそらく限界を超えた恐怖により反射的に放たれた輝夜の一撃に爆砕され、そのままの状態を保っていたからだろう。

 

「探したよ。どこに行っていたんだ?」

「異変解決の専門家達と、少し別室でお喋りを。時間を取ってしまってごめんなさい」

「いや、別に良いんだ。……君に頼まれた件、どうやら成功したようだよ。輝夜の心は活性を取り戻した。後は手筈通り、妹紅と君がケアをすれば完全に『人間』へと戻るだろう」

「……ありがとう、本当に」

 

 ただ形に現さざるを得なくて、私は頭を下げようとしたが、よしてくれと彼に手で制されてしまう。

 それでも彼には、感謝をしてもしきれない。私ではどうする事も出来なかった輝夜の心を、再び蘇らせてくれた彼には、例えどれだけ頭を下げても足りないだろうから。

 ただ気になる所が、今更ながら一つだけ。

 

「一つ聞いて良い?」

「何かな」

「どうしてこの頼みを承諾してくれたの? 私が言うのはお門違いだけれど、貴方にメリットなんて欠片も無いと分かっていた筈なのに。むしろデメリットしかなかったと言うのに」

 

 恐怖を利用して、凍結した心を起爆し解凍する方法。一歩間違えれば深いトラウマを心に刻みかねない諸刃の剣であり、そしてそれを実行に移すナハトへの信頼性が極端に失墜する、まさに荒療治と言う奴だ。

 それを理解した上で、彼は依頼を承諾した。その理由が、私の頭の中にずっと引っかかっていたのである。

 ふむ、と彼は頷いて、夜に溶け込むような穏やかな口調で、言の葉を導き出した。

 

「輝夜には、夢を見させてもらったからね」

「夢?」

 

 想像していなかった返答に、思わず私は鸚鵡返しをしてしまう。てっきり、借りを作らされるだろうと考えていたのだけれど。

 彼はどこか満足している様子を見せながら、話を続ける。

 

「そうだ。知っての通り私は昔から、この不条理な魔性のせいで孤独でね。家族以外と和やかな団欒を過ごした事なんて無かったのだ。例え心が壊れていたとしても、彼女は私と対等に接してくれて、夢を見せてくれた。その恩返しさ。私が嫌われるだけで彼女がもう一度、本当の心で世界を見る事が出来るのならば、天秤にかけるまでもない。元より怯えられるのには慣れている」

 

 ―――一周回って、正気かとさえ疑った。ハッと我に帰る様に言葉の意味を呑みこんで、私は思わず歯噛みする。

 本当に、本当に人の良い妖怪だ。普通ならば、赤の他人からあの様な面倒極まりない頼みを託されたところで、わざわざ聞いてくれる訳が無いのに。ましてや彼の目的が友人を作る事それ一筋ならば、人から嫌われる様な行動は絶対に避けるべきなのだから。

 それなのに彼は実行して見せた。一時の夢を見せて貰ったと言う、あまりに儚いちっぽけな理由だけで。

 ギリッ、と無意識の内に拳へ力が籠った。凄惨な真似を強いてしまった私自身への嫌悪感と、彼の今後に纏わりつく、残酷すぎる運命を前に。

 

「……それじゃあ、私は帰るとするよ。世話になったね」

「こちらの方こそ……よ。本当に、ありがとう」

 

 彼は踵を返して、竹林の出口を目指して歩を進めた。私はその背中を、ただ見つめることしか出来ない。引き留める事は許されない。それだけはしてはいけない。

 しかある程度進んだところで彼は立ち止まると、徐にこちらへ振り返った。

 

「永琳」

「何?」

「もし、もし良ければだが、またここに来ても良いだろうか? 例え嫌われているとしてももう一度輝夜と話をしてみたいし、出来れば君とも――――」

「駄目よ」

 

 私は、彼の細やかな願いを無慈悲なまでに両断した。

 …………両断せざるを、得ないのだ。彼の特性を、彼の今後を考えるならば、人との接触を推進するような真似をするべきではない。

 それが、例え彼を踏みにじるような残酷な判断であるとしても。

 私は、心を鬼にしなければならないのだ。

 

「絶対に駄目。今後貴方がここの敷地へ足を踏み入れる事は許さないわ。姫とも、優曇華とも、てゐとも―――私とも関わる事は許さない」

「…………それは、一体何故? せめて理由を教えてくれ――――」

 

 私は術を用いて手元に弓矢を呼び出すと、彼の眉間へ向けて寸分違わず矢を射った。威嚇のつもりなど毛頭なく、完全な軌道を描いた矢は豪速で空気を切り裂きながらナハトへと襲い掛かる。

 彼もまた、魔力で形成された剣を生み出し矢を弾いた。その表情は困惑の一色に染まり切っていて、彼の口から語られずとも、私の行動に対する疑問で一杯だと容易に把握できた。

 

「……永琳」

「帰りなさい。今なら見逃してあげる。次は無いわ」

 

 辛辣な言葉の刃はブーメランとなって、私の心に突き刺さる。それを、この様な仕打ちを恩人へ執行してしまっている自分への罰だと甘んじて受け入れ、奥歯を砕かんばかりに噛み締めた。

 彼は私の只ならぬ雰囲気を感じ取り、交渉は無駄だと判断したのか、暗い表情を浮かべて背を向けた。ザクザクと、段々足音が遠ざかっていく。

 彼の姿が竹林の奥に消えたのを見届けて、私は弓矢を乱雑に投げ捨てた。

 

「……ごめんなさい」

 

 誰の耳にも聞こえない謝罪の言葉を、吐き出さずにはいられなかった。致し方の無い事とは言え、こんな仕打ちで報いてしまった自分を責めずにはいられなかった。

 

 彼の存在は、恐怖によって成り立っている。ルーツが恐怖の概念そのものであり、その欠片から生まれた彼は、他者の恐れなしには生きていけない。だが自動的に恐れを量産する能力である為に、人間生まれの妖怪の様に暴虐の限りを尽くすなどして畏怖を捥ぎ取る必要が無いせいか、彼は酷く温和な性格をしている。それ故、積極的に恐怖を得ようとはせずむしろ友人を求めている程なのだが、それが結果的に自分の首を絞める事態へと繋がってしまうのだ。

 

 彼は物理的に消滅する事は決してないだろう。死や狂気と言った性質を持つ月光とは逆の性質の太陽光を浴びて灰になったとしても、恐らく夜になると暫くの時を経て復活する。物理的な要素には、他の妖怪以上に強力なはずだ。精神面に大きく存在の比重を傾ける妖怪が、更に比重を傾けているようなものなのだから。

 だがその反面、他者からの親愛の情は彼にとって、この世のどんなものよりも恐ろしい猛毒となる。

 

 要約すると、つまり。

 

 彼は友達を作れば作るほど、他者から親愛の情を集めれば集めるほど、自らの身を蝕んでいき、やがて死―――消滅にまで至ってしまうのだ。

 しかも性質上、精神的な要素……即ち親愛に対して凄まじく相性が悪いせいで、どれだけの者達と友好を育めば存在を保てなくなるのかが分からない。例え存在を維持したとしても、弱体化した肉体を誰かに攻撃されるような事態に陥れば、蝋燭の火を吹き消すように容易く壊れてしまうだろう。

 

 私は、恩人を死に追いやるような真似はしたくない。例えそれが彼の望まない結末であるとしても、彼の死に加担する行動こそが、一つの心を―――命を救おうと身を粉にして動いてみせた彼に対する、最大の裏切りに他ならないからだ。

 私に出来る事はこの真実を伏せて、彼が家族と称した者達と、少しでも長い時間を過ごせるようにする事。ただそれだけだ。それ以外に、彼にしてあげられることは現状何もない。もしこの真実を知ってしまえば、彼は間違いなく絶望するだろう。心の底から欲する友人を作れば作るほど、自らの寿命を破壊し友人と過ごす時間が壊されていく事に繋がるのだから。最悪の場合、夢や希望を絶たれた彼の存在が崩壊する危険性がある。脆弱な精神の持ち主ではない事は百も承知だが、時として希望を絶たれると言う行為は、何重にも祝福や祈祷を捧げた退魔の札を張り付けられるより恐ろしい効果を妖怪に及ぼしてしまう。不確定である以上、無暗に伝えるべきではない。

 

 これから私に出来る事は、この頭脳に内包された全ての知識を全力をもって使役して、彼の性質を、彼の人格から引き剥がす手法を探しだす事だろう。

 そうする他に、彼に対する罪を贖う道は無いのだと、私は強く決心を固める。

 

 だからこそ、どうしようもなく歯がゆくて。

 こんな歪みに歪んだ行動でしか、現状彼に報えない不条理と無力さが恨めしくて。

 私はただ唇を引き絞りながら、呆然と夜空を仰ぐことしか出来なかった。

 

 

 永琳から矢を放たれ、永遠亭を追い出されてからも私は、どうにも歩く気力を削がれて竹林の中を呆然と佇んでいた。ぶっちゃけてしまうと泣きたい。もう夜明けを待って灰になってしまっても良いかもしれないと思い始めている自分が居る。

 

 思い切り怖がらせてくれと、輝夜から私が忌避される事を前提とした永琳の依頼を承諾した時から覚悟してはいた事だが、正直な所、予想の上をさらに突き抜ける勢いで拒絶されてしまったので、流石の私もノーダメージと言う訳にはいかなかった。ほんの少し……ほんの少しだけ、挽回できる機会を恵んでもらえるかもと思っていたのだが、やはりそう簡単な話ではなかったらしい。もっとも、演技とは言え全力で脅しにかかった私に対して輝夜が好意的に接してくれる可能性はゼロに近いのだから、挽回したところで意味は無いと言えば無いのかもしれないが。

 

 しかし永琳の逆鱗に触れてしまった点を考えれば考えるほど、何がいけなかったのかが分からなくて思わず熟慮してしまう……が、ああ平常通りに全部か、と直ぐに結論が出てしまって一層気が沈んだ。魔性による効力もさることながら、演技であっても彼女の大切な姫をトラウマ一歩手前に至るまで脅したのだ。私に嫌悪感を抱いても仕方のない事なのかもしれない。

 明確な答えが欲しくても他人の心の内は当人にしか分からないのだから、こればっかりは推測を浮かべるしか方法が無いのが残念だ。

 ポジティブに考えれば、とても聡明な彼女の事だから何か考えがあった上で私を拒絶したのかもしれないが……残念ながらその理由に皆目見当がつかない。つまりその線は限りなく薄いと言う事では無かろうか。

 そしていつもの事かと割り切れてしまいそうになる辺り、何だか私に友達が出来ない要因が色濃く目の前に映し出されたような気がした。

 

 うーむ、悩ましいがやはり今までの様に行動する方針では駄目なのだろう。積極的に他者と接して受け入れてくれる者を探す様な、例えは悪いが下手な鉄砲数撃ちゃ当たる作戦が効果を成さないのであれば、別の作戦を考えなければなるまい。

 私が直接赴けば悉く失敗していると言う点を考えると、直接会わない方法―――つまり接触以外でイメージアップを図り、第三者からの言伝で好印象を広げていく方法はどうだろうか。例えば幻想郷のボランティアに参加して、私がただの幻想郷好きのおじさんなのだと周知されるよう頑張ってみたり――――

 

「…………、」

 

 幻想郷のボランティアってなんだ?

 自分で言い出しておいて酷く頓珍漢なアイディアだなと、思わず溜息が出てしまう。ここは自然と妖怪と人間が良い均衡を保って生活を営んでいる楽園だ。ゴミ拾いをするために無料で募集を掛けている所なんてある筈がない。と言うよりは、そもそもボランティア等が行われている場所は人間や一部の妖怪などが固まって暮らし、十分な社会が成り立っている地域に限られる。そしてそんな地域は幻想郷内で考えると、人里以外に私は知らない。そこでボランティアをしようものならば、逆に私を排除するボランティアが出てくる事など考えるまでも無いだろう。

 

 では、私が表にほとんど出ないスタイルの飲食店を開くと言うのはどうか。美味しいものは人の心を和ませる。店を好きになって貰えば私に対しても好感触を持ってもらえるかもしれない。

 …………と考えたところで、私が表に出ないにあたって必然的に接客の代わりを担う店員が必要になってくる訳で、そして店員を得る事そのものが非常に厳しいと気がつき、私は思考を放棄した。これ以上考えるとドツボに嵌り続けてしまいそうだ。

 こんな所で考え続けても仕方がないか。今は取り敢えず紅魔館へ帰還して、休養しつつじっくり考えていく事としよう。幸い、時間だけならたっぷりと持て余しているのだから。

 

 と。

 そこで私は、周囲に起こっている異変に気がついて、動かし始めた足を再びその場に縫い留めた。

 

 止まっているのだ。無論私ではなく、周囲の全てが。

 今までそよ風に揺られていた竹がピクリとも動いておらず、それどころか隣に落下しかけていた笹の葉が空中で動きを停止していた。よく目を凝らせば、竹林全体を覆っている霧が全く流動していない。まるで時間が止まっているかのように。

 

 何者かの能力によって空間を切り取られたのかと勘繰って、私は周囲を見渡した。そして背後を確認したその時、私は驚愕に目を見張った。

 目の前に居る筈の無い少女が、私を拒絶している筈の輝夜が。悪戯っ子の様な笑みを浮かべて立っているではないか。

 

「あら、驚かないのね」

「………………、どうしてここに君が?」

「あ、それで一応驚いてたのね」

「何故私の追ってきている? 君は私に嫌悪を抱いているのではないのか?」

「なんで?」

「なんで、と言われてもだな。私が君にしたことを忘れた訳では―――」

「忘れてなんかないわ。でも、あの後全部を把握したのよ。何故温厚だった貴方が、突然人が変わったように私を怖がらせたのかをね」

 

 ……成程、妹紅か。錯乱状態に陥っていた彼女が、そう易々と平常心を取り戻して真実を見極められるわけが無い。ケアを任せた妹紅から、今回の顛末を耳にしたのだろう。私が永琳の依頼を受けて動いていた身の上なのだと。

 恐怖を植え付けられた輝夜は、それを知ったとしても傷つきもう二度と私と会おうとはしないだろうと考えていたが、その予想は外れたらしいと目の前の少女が物語っている。

 彼女は、私を半ば捲し立てるように話を再開した。

 

「もしかして、アレがトラウマになって私があなたを怖がると思った? それ半分正解。確かに今あなたが、会った時よりも断然怖い。けれどそれは、私の心が平常値にまで戻ったからこそ感じられているものよ。幾ら怖くても、その事実を度外視するほど目は腐ってないわ。と言うより、あなたのお蔭で目が戻ったと言った方が正しいのかしらね」

 

 お蔭で何だか清々しいくらいよ、と輝夜は言った。出合った時に比べると淑やかさが薄れているが、明らかに活気に溢れるその様子こそが、本来の輝夜のものなのだろう。

 荒療治が成功していることは喜ばしい事だが、余りに予想外過ぎる展開を前に、私は困惑の渦へと巻き込まれてしまった。周囲の全てが静止した異様な空間も相まって、私はパラレルワールドに移動してしまったか、幻覚を見せられているのではないかと勘繰ってしまう。

 しかしどれほど混乱しようとも、はっきりとした玉虫色の声で訴えられては、これが現実なのだと再認識せざるを得なかった。

 

「だからこそ、私はあなたにちゃんとお礼を言いたい。私に嫌われる事を覚悟してまで、永琳の頼みを聞いてくれたことに。あのままだと多分、私は私の形をした『蓬莱人』のままだったと思う。どんな形であれ、どんな過程であれ、あなたは私を戻すきっかけを作ってくれた。それの何に引け目を感じているの。別にあなたは何も間違えてなんか無かったじゃない。あなたは永琳の頼みをお人好しに受諾して、それに応えただけ。そしてそれが私を戻すための行動だったのだもの、一言くらい言っておかなきゃ気が済まないわ」

 

 直後に、彼女は満天の星空の様に微笑んで。

 

「―――――ありがとう、ナハト」

 

 ただ簡素に、しかしこれ程までに無い想いを込めたと言わんばかりの感謝を、彼女は柔らかく私へと手渡した。

 その表情は、この世のものとは思えない、花よりも美しき可憐な微笑みで。本来その笑顔を向けられる立場に無いはずの私が、その笑顔を目にしても良かったのかと、疑ってしまう程のものだった。

 事態について行けず、硬直した私を尻目に彼女は続ける。

 

「それともう一つ。ナハト、あなたは難題を乗り越えて見せたわね。生きながら死んでいる存在……私の形をした『蓬莱人』を殺し、心も生きる人間へと戻す事で」

 

 だから、約束は守らなきゃねと彼女は言った。私は耳を疑い、目の前で濁流の如く急変していく現実を受け入れる心構えすら弾け飛んだ。

 なよ竹のかぐや姫と称されるに相応しい優美な足取りで、少女は私に手を伸ばす。

 

「改めて、私と友達になってくれる?」

 

 

 

 ―――無意識の内に、その手を受け取ってしまいそうになった。

 

 

 だが寸での所で、私はその手を引き留める。

 拒否している訳では無い。むしろ願っても無い申し出だ。この言葉を、一体どれほどの時間の中待ち焦がれたことか。二つ返事で承知したいのは当然の事、すぐさま両手を空に突き出して、この言い知れぬ高揚と喜びを高らかに表現してしまいたいほどだ。

 しかしそれは残酷な事に叶わない。永琳に、私は輝夜とも交流してはならないと宣告された。私が処断されるのは良い。けれど永琳が友好関係を知り、私との友好を絶つために輝夜の行動が制限される様な事になれば堪ったものではない。人の自由を奪ってまで、私は―――

 

「永琳の言葉が引っ掛かってるんでしょ?」

 

 輝夜が放った、私の考えを見透かしたその言葉に、思わず息を詰まらせた。

 

「聞いていたのか」

「ええ。私、物凄く平たく言ってしまえば瞬間移動と時間停止が意のままに出来るからね。これが意外と永琳に気付かれないよう移動したり、盗み聞きするのに使えるのよ」

 

 ちなみに今、あなたと私以外の空間を永遠に固定しています、と輝夜は自慢げに胸を張る。

 

「まぁ確かに、あなたの危惧している事は分かるわ。永琳結構過保護だからねー、そうなっても不思議じゃないと思う」

「では、尚の事避けるべきではないか。君は折角、様々な事を楽しめるようになったと言うのに――――」

「そこで私に良い考えがあります」

 

 彼女は袖の中から、徐に紙を取り出した。それは便箋だった。彼女が封を開いて中を見せれば、そこには一枚の綺麗な和紙が折りたたまれていて。

 分かる? と彼女は笑ってみせた。

 

「友達ってあなたが考えてるほど重たいものじゃないし、色々なタイプがあるのよ。だから永琳の目を効率的に掻い潜りかつ友達になるには、これが一番適していると思うわ」

「それは、一体なんだ?」

「あなた、変な所で鈍いわね。これはつまり」

 

 これまたどこに仕舞ってあったのか、彼女は毛筆と墨の入った入れ物を袖の奥から取り出せば、便箋の中の紙にすらすらと、何やら文字を書き記していく。

 そして出来上がった便箋を、彼女は私に見せつけた。そこには見惚れるような達筆で『拝啓、ナハト殿』と書き記されていて。

 彼女は高らかな声と共に、私へ再び手を伸ばした。

 

 

「私と文通友達になりましょうって事よ!」

 

 

 

 

 ―――――この夜を境に、定期的に鈴仙と言う名の兎妖怪が、薬売りの名目で紅魔館を訪れるようになり。

 私は竹林に住まう友人と、文通と言うものを始める事となった。

 幾らかやり取りをして知った事なのだが、あの日を境に彼女は積極的に外へ出て、人間の里と交流を持つようになったらしい。時折現れては子供たちに昔話を語らうお姫様として、大層有名になったそうな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なーんかちょっと見ないうちに面白そうなヤツが入って来てるねぇ。こりゃあもう、眺めるだけなんて無理ってもんさな。ようっし! 私が腰を上げるっきゃないね! 久しぶりに楽しめそうだ。にゃっはっはっは!」

 



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EX4「賢者さんの憂鬱 その2」

第2回アンケートで採用されたお話です。

※見返してみると内容があまりに酷かったので、一部シーンを大きく改訂しました。ストーリーの内容に変更点はありません。


「――――今、なんと?」

 

 竹林の奥地にぽつんと佇む、不気味なほどに整理された古い日本屋敷の中。つい先日、月をすり替える異変を引き起こした人物との、和平会談での出来事だった。

 腰まで伸びる輝かしい銀の三つ編みが特徴的な不老不死の女性、八意永琳の口から飛び出した衝撃的な言葉を前に、私は思わず自分の耳を疑ってしまい、何とも間抜けな返事を返してしまった。

 しかし彼女は、絶世の美貌と例えられても何ら遜色のない麗しき顔貌に波風一つ立たせること無く、私を驚愕の渦に突き落とした言葉を、美しい声色で再び並べていく。まるで、私の反応が想定内であったとでも言うかのように。

 

「ナハトと言う男は、言うまでも無くただの吸血鬼ではないわ。彼のルーツは人間の幻想によるものではなく、もっと根本的なもの―――即ち、八百万の神々も含め全ての存在に例外なく平等に降りかかる、万物の終点たる『消滅』……その概念から奇跡とも呼べる確率でバグが生じ、自我を得て、妖怪としての身にまで格を落とした存在。それが彼の正体なの」

 

 もっとも、概念から発生したとはいえ生まれた時期は長くても二千年かその付近の様だけど、と彼女は情報をつけ足していく。

 

 そんな馬鹿げた話があるものか、と声を大にして反論を返したかった。しかし、彼女の述べた発言には抗い難い説得力が滲み出ていて、私の反論を喉の奥に押し戻してしまう。

 理由は、そもそも私が何故あそこまで理不尽極まりない恐怖を、彼を目にしただけで無条件に感じてしまったのかと言う点だ。

 私もそれなりには長い時間を生きて来た。そんな妖怪生の中で、月の民や閻魔、神仏の類に鬼、更に天魔などを筆頭とした猛者達と巡り合う機会は、勿論数多く存在した。しかしだ。それらの経験の中でも、ただ目にしただけで危機感を体感した事など一度たりとも無い。あの圧倒的な力を持つ月の使者に対してだって、この目でその惨劇を、どうしようもない格の差を見せつけられたその時までは、危機感を抱いたことは無かったのだ。ましてや一個人に対して、思考を鈍らされる程の怖れを対面するだけで抱かされるなど、客観的に見ても経験したことは無い。

 なのにあの男は違った。姿形を目にするだけで、声を耳に受け入れるだけで。どうしようもなく体と心が縛り上げられてしまい、明らかに普段の私ではいられなくなってしまった。これが異常と言えずして、何と言うのか。

 

 その原因が『消滅の概念』の欠片から生まれたが故となれば、かなり突飛かつ奇天烈な理論ではあるが、理不尽な怖れを抱かされた理由は説明出来る。証拠に、魂を不滅化させ完全な不死身と化した彼女たち蓬莱人ですら明瞭な恐怖を感じたと言う。八意永琳の弁によると、完全な不死による副作用とでも言うべきか、蓬莱人は真っ先に恐怖の感情を失くしてしまう傾向にあるらしい。そんな存在に例外なく恐怖を呼び覚まさせる彼が、ただ強い魔たる性質を持ち合わせただけの妖怪程度である筈が無く、事実述べた通りの馬鹿げた存在であったからこそ、恐怖を感じ取ったとの事である。

 

 呑み込むにはあまりに難解な真実を前にして、私は辟易とした感情を抱かざるを得なかった。

 と同時に、ある疑問が水泡の如く胸の奥底から浮上してくる。

 あの男の存在を認めた瞬間からずっと抱き続けてきたもの。それは、彼が幻想郷へ入り込んだ目的とは一体全体どういったものなのかという、至極単純な疑問だ。

 

 私は初め、彼は幻想郷を手中に収めようとしているのかと疑った。かつてレミリア・スカーレットが吸血鬼異変を起こした時の様に、彼もまた、幻想郷の環境を笑顔の裏で狙っているのではないかと。しかしその疑いは、あの永夜の晩に霧散した。否、正確には『幻想郷に対して』直接何かをしようとしている様には見えなくなったのだ。もし幻想郷を乗っ取ろうと考えているのであれば、あの様に自分を異変の主と疑ってくれと言わんばかりのパフォーマンスを繰り広げ、冤罪をわざと被らせる様に仕向けて私に謝罪の場を設けさせようと画策してまで私と接触する機会を生むなど、回りくどい事をする必要は無いからだ。その圧倒的な魔性で水面下に仲間を増やし、隙を見て決起する方針を取る方がよっぽど成功率は高い。

 しかし奴はそれを選択しなかった。奴は着々と誰にも気づかれぬよう計画を進行すると言った動きに出ず、ただ私と接触する為だけに、あまりにも面倒臭いが嵌れば確実に実を結べる行動へと打って出て来たのだ。この事から、奴は『幻想郷そのもの』ではなく『八雲紫』……もっと言えば、八意永琳と接触した点から考察するに『力ある者』を何らかの理由で狙っている可能性が非常に高い。

 

 そしてこの要素が顔を覗かせてきてしまったからこそ、奴の目的が濃霧の奥に存在するかのように見えて来ないでいるのだ。

 

 何故彼が積極的に他者と接点を持ち、恐怖の威圧を振りまきながらも、血を流す事の無い『平和的な交渉』を持ち出してくるのかが分からない。あの夜、奴はやろうと思えば私と幽々子に傷を負わせることも出来ただろう。だが奴は牽制するだけに攻撃を留め、実質本気で敵意の籠った刃を向けてくることは無かった。まるで、それが最後の一線だとでも意識しているかのように。

 

「……貴女は彼の事を知りたがっている様だけれど、ナハトに対して友好的な感情は持ち合わせているの?」

 

 八意永琳が、底の知れない瞳を私に向けながら、何の前触れも無く唐突に伺ってきた。

 

「いいえ。現状、腹の底に抱えている真意を掴めない彼は、私にとって一つの警戒対象……それも、最も警戒に値する人物に過ぎません。友好的など、もっての外ですわ」

 

 そう、と八意永琳は相槌を打つ。その表情はどこか安堵しているような、どこか愁いを帯びているような、複雑な色を湛えていた。だがそれもすぐに、元の凛とした表情へと戻る。

 

「友好的に思っていないのならその方が良い。彼とはなるべく関わるべきではないわ。これは貴女に限った話ではなく、幻想郷の全員に言える事よ。……可能なら、第三者が彼と関わろうとする火種を消していく事をお勧めするわね。特に、人間の集落に対しては」

「その心は?」

「…………危険だから、よ」

 

 その危険とは、一体何を指す言葉なのか。まぁそのままの意味で受け取れば、出会う事でナハトの影響下に置かれてしまう者達が危険に晒されると言う事だろう。幾ら妖怪の範疇に収まっているとはいえ、中身が未知の素材で構成されている事に変わりはない。不確定要素である以上、下手に接触を許容して想像も出来ない結果を生み出さないよう厳重に注意せねばならない事に変わりはないのだ。

 

 今後の課題の一つとして、情報操作を決行しなければならないか。幻想郷縁起に彼を記載するよう仕向け、少なくとも人間の里の間には、あの男へ不用意に近づこうと言う気を起こさせないよう、印象を植え付けねばなるまい。最近はスペルカードルールが適用され、弾幕の輝きに彩られた、目の癒しになる決闘劇を人間も目にする機会が増え、遠目から見る分には十分楽しめる要素として認識されてしまっているせいか、人間が妖怪に対してフランクになり過ぎつつある傾向にある。何時愚かな考えに囚われた人間が、物珍しさにあの男へ接触を試みようとするか分からない。かつて風見幽香に対して人間たちが楽観視し過ぎたが故に起きた、あの様な事故を繰り返さない為にも、先手は打っておくに限るだろう。

 

「成程。月の頭脳のご忠告、しかと胸に刻みましたわ」

「やっぱり、バレていたのね。月に対して理解があるからもしかしたら、と思っていたけれど」

「八意の名前はかつて耳にした覚えがあったの。そこで月が関連してくるとくれば、流石にね」

「でも一つだけ誤解しないでほしいのだけれど、今の私はもう月の民ではないの。ただの一人の薬師よ」

 

 彼女が言わんとしていることは容易に把握できる。私たちに対して敵意は無いと告げたいのだ。それに関しては、彼女が現在月から遠ざかろうとしている行動から簡単に察せるだろう。敵の敵は味方である。即ち、同じく月をあまり良く思っていない者同士、いがみ合う意味も無く利害も一致している所から、彼女を―――正確には彼女が仕えている主人を筆頭とした永遠亭は、幻想郷へ正式に帰属する事が決定したも同然なのだ。

 

 そしてそんな彼女たちには、医療の発達が少々遅れている幻想郷で、八意永琳の知識と力を活かした人妖共同の診療所をオープンして貰う事にした。その代り、幻想郷から追い出す事もこちらから何かを仕掛ける事もしない。働いてくれさえすれば、双方無暗に干渉し合わない取り決めである。要は平和的な不可侵条約と言ったところだろう。実は、今回の会談はこちらの方がメインの話し合いだったりする。

 

 私は更に条約を確かなものとするべく、細かな決め事を永琳と共に提案し、語り合った。 

 思考の片隅で、未だ紐解ける兆しの見えて来ない謎――――ナハトの抱く真の目的、その内容について考察しながら。

 

 ひたひたひた。

 足袋が埃一つないフローリングを滑る音が、大きな屋敷の廊下を駆けていた。

 有って無いような足音の正体は、八雲藍の式神、橙である。化け猫少女は今、敬愛する主人からある重大な任務を仰せつかっていた。

 重大な任務とは、八雲藍の主人である八雲紫――つまり橙にとってはご主人様のご主人様にあたる人物を、長い微睡みの中から連れ出してくる事だった。

 

 橙は普段、八雲の姓を持つ者達が住まう『本拠地』で寝食を共にしてはいない。普段の少女は山の中にひっそりと建つマヨヒガと呼ばれる屋敷にて、日々修練の時間を過ごしている。

 しかし今日は珍しく事情の違う日だったらしい。橙は時折八雲藍へ呼び出され、こうして任務を与えられることが度々あるのだ。それについて橙は別段苦に思ってなどいない。むしろ尊敬する藍の役に立てることが、彼女にとって小さな誇りでもあった。

 

 そんな訳で、橙は任務を果たそうと張り切っている。目的地の襖にまで辿り着いた橙は、猫らしく音を立てない仕草で襖をそっと開き、偉大なる大妖怪の寝室へと入り込んだ。

 飾り気のない、一つの布団だけが存在する和室。八雲紫の仮眠所である。紫が疲労を貯めた時、床に就く時にのみ使用される部屋だ。けれど橙には、自分の想像の遥か高みに立つ妖怪の部屋であるからか、どこか神聖な場所にすら感じていた。

 

「失礼しまーす……」

 

 小声で挨拶。そして忍び足で部屋を進む。以前に同じ任務を任された際、橙は大胆不敵に部屋へと突撃して、藍から無礼だと怒られた事があった。だから今度は怒られないよう、物音立てずに侵入した。橙は同じ失敗を繰り返さない子なのである。

 そそくさと布団にまで進み、橙は紫の隣へ鎮座した。

 覗き込むと、境界の妖怪は寝息一つすら立てずに眠っている。どこか儚く、そして美しい寝顔だった。微動だにもせず聖女のような寝顔を披露している彼女は、傍目から見れば死んでいると勘違いされてもおかしくないかもしれない。

 

「紫さま。お夕餉の時間でございますよ」

 

 枕元にしゃがんで、肩を叩きながら起こしてみた。返事はない。

 橙は、紫が寝坊助さんだという事を知っている。なので今度は揺すろうと思い立った。

 肩を掴み、優しく揺れ動かす。けれど目覚める気配は無い。どうしたものかと橙は困惑した。いっそ飛び込んでやろうかと思ったけれど、また藍さまに怒られてしまうと頭を振って考えを捨てる。

 となれば、頑張って起こすしかない。頑張ればいつか起きてくれる。なので橙はもっと頑張る事にした。

 

「紫さま、起きて下さ――わひゃっ!?」

 

 ミッションを再度遂行しようとした瞬間、布の中から細い腕がにゅっと伸びてきて、まるで蝦蛄のように橙を毛布へと引き摺りこんでしまった。

 視界が回り、心地のいい温もりに包まれる。恐る恐る目を開けば、紫の顔がそこにあった。金糸のようにサラリと輝く前髪が表情を隠しているが、僅かに下から覗く桃色の唇は、優しい微笑みを浮かべている。

 

「おはよう橙。起こしに来てくれたの?」

「おっ、おはようございます紫さま。起きてられたんですね」

「ええ。眠りが浅かったの」

 

 いつもは熟睡しているのに珍しいなぁと、橙は布団の中で首を傾げる。すると背中に手を回され、ぎゅっと抱き締められてしまった。

 突然のアクションに驚いて、ひゃっ、と変な声が出る。けれど勿論、橙が逆らう事など出来ないので、成すがままにされてしまう。

 いつもとは違う紫の様子に、橙は再度クエスチョンマークを浮かべた。

 

「紫さま、何か嫌な事でもあったんですか?」

「……色々と、ね」

 

 何か含みのあるニュアンスで、紫はそうポツリと零す。妖怪としての経験が浅く、紫はおろか藍の足元にすら及ばない橙には、紫の抱える事情へ深く踏み込めるほどの洞察力は無かったが、何か嫌な事があったんだと直感的に察知した。

 けれどどうすれば良いのか分からなかったので、取り敢えず紫の背へと手を伸ばし、子供のように抱き付いてみる事にした。こうすると胸の辺りがぽかぽか温かくなるので、紫さまもきっと温かくなる筈――そう考えての行動である。

 

「紫さまに何があったのかは分かりませんが、元気出してください。藍さまも心配しちゃいます」

 

 橙の言動に驚いたのか、一瞬目を丸くする紫。しかし直ぐにクスクスと笑いながら、更に橙を抱き返した。

 

「そうね。元気出して、頑張らなくちゃあ駄目よね。ふふ、ありがとう橙」

「お役に立てて光栄です」

 

 子供は時として、最も察知能力の高い生き物へと変化する。妖怪として見れば幼子に等しい橙は、無意識の内に紫が最も欲しているものを察したのかもしれない。

 ともあれ。橙の行動によって、紫の内に溜まっていたナハトに対する心労は幾許か取り除かれた様子だった。目覚めよりもすっきりとした微笑みを浮かべる紫を見て、自然と橙も笑顔になる。

 あー、と紫の間延びした声が橙の耳をくすぐった。

 

「でも今は、もうちょっとこのままで居たいわ。そうだ、橙。このまま一緒にお昼寝しない?」

「ええっ。今はもう夕方ですよ? お夕餉の支度ももうすぐ終わるって藍さまが」

「いいからいいから。もし本当に時間が来たら、藍が直々に起こしに来るわよ」

「ええ。慧眼通り、起こしに来ましたよ、紫さま」

「あらぁー……」

 

 パッと光が差し込んできたかと思えば、突然肌寒い空気が橙の肌をするりと撫でた。急に寒くなったせいで反射的に紫へと引っ付くが、寒気を招き入れた元凶を目にして、橙はすぐさま布団の上へと正座する。

 言うまでもなく、団欒毛布を剝ぎ取ったのは橙の直属的上司にあたる藍である。クールビューティーな印象を受けるその顔貌は苦味を加えられた表情をしていて、橙はしまったと俯いた。

 

「橙、駄目じゃないか。言われた事はちゃんと成し遂げなければ」

「はい、ごめんなさい藍さま……」

「まぁまぁ。私が引き留めちゃったのが悪いんだし、大目に見てあげて」

「紫様も紫様です。いつまで眠っておられるつもりですか。もうとっくに夕陽が射し込む時間帯ですよ」

「ふふ、ごめんね。どうも疲れが取れなくて」

「……夕餉と湯浴み、どちらになさいますか。両方すぐに準備できるようにしてあります」

「お風呂湧かしてくれたの? 良いわねー、目覚めのひとっ風呂と行きたいわ」

「畏まりました」

「あっそうだ。どうせなら、橙も来る?」

 

 ふぇっ、と、急に話を振られた橙は素っ頓狂な声を上げた。紫が橙には到底推し量る事の出来ない存在であるせいか、何故自分を湯浴みへ誘ったのか、まるで理解出来なかったからだ。

 クスクスと紫は笑う。まるでその反応を待ってましたと言わんばかりに。

 反して、藍は冷静だった。

 

「紫様、橙は化け猫故に水に弱く、更に橙に着く式もまた水に弱いのです。入浴は中々難しいのではないかと」

「あら、まだ式に完全防水を着けるまで届いてなかったの? まだまだね」

「うぐっ……め、面目ないです」

 

 目に見えてしょんぼりとする藍。『八雲』の姓を与えられた――つまり一人前と認められた九尾の狐であっても、やはり主人から呆れられるのは堪える様だ。

 微笑みで受け流し、紫は言う。

 

「境界操作でその辺りはどうとでも出来るわよ。さぁどうする橙? あっちでお話の続きでもしない?」

 

 暫く、橙は迷った。と言うのも、何度も述べたように橙にとって八雲紫とは遥か雲の上に位置する大妖怪である。自分の主人すら軽々と上回る実力に、人知を凌駕する思考能力。更には幻想郷と言う楽園を作り上げ、それを維持する圧倒的手腕。藍は時折紫の事を『たまにポンコツになる変な主人』と言うけれど、橙には逆立ちしても妖怪の神様にしか見えない訳で。

 

 つまるところ、恐れ多くてとても即答できるものではなかったのだ。本心で言えば、このような誘いは光栄極まりないので是非受けたい。ただ自分如きがそれでいいものかと、橙の小さな葛藤が答えを喉元で食い止めていたのである。 

 すると、黙りこくっていた藍が紫と橙へ視線を交差させ、

 

「橙。今日は紫様に付き合いなさい。それでさっきの失敗は帳消しとする」

 

 助け舟をひっそりと差し出した。

 あら、と微笑む紫。パッと表情を輝かせる橙。

 

「はい! 紫さま、よろしくお願いしますっ!」

「ええ、こちらこそ」

「では準備をしてきますので、暫しお待ちくださいませ」

 

 藍は一礼して、スキマの中へと消えていく。橙は憧れの妖怪と湯を共に出来る事に、まるで遠足を控えた小学生のような気持ちになるのだった。

 

 

 

 可愛げのある化け猫の式に癒された後の事。全ての用件を済ませた私は一人、博麗神社の屋根上に腰かけていた。

 涼しげな天蓋には、初秋を思わせる仄かに輝きを増した本物の月が夜空で自らを主張していて、御身を流れる雲に隠されても、彼の光は懸命に幻想郷を照らしている。

 

 ここは私にとって、所謂特別な場所だ。何百年も前から幻想郷の景色を眺めて来た、思い出と歴史の詰まった場所。ここから一望できる風景だけは変わらなくて、一人考え事に浸りたい時は結構足を運んでいたりする。霊夢に見つかれば、屋根に上るなと怒られてしまうけれど。

 

 私がコオロギの合唱を耳に挟みながら物思いに耽っているのは、言うまでもなく、未だ顔すら覗かせてこないあの男の目的についてだ。

 

 先ほどの事だった。先日の異変時にて、冤罪を吹っ掛けてしまった件を形式的にも謝罪せねばならない状況に追い込まれていた私は紅魔館を訪ねたのだが、その訪問は全く予想もしていなかった結果に終わったのである。

 

 奴は、私に何も要求してこなかったのだ。

 

 私は当初、奴はわざと私に異変の元凶と勘繰らせて攻撃させる事で、その冤罪を口実にこちらへ自分の望みを押し付けてくるものだとばかり考えていた。何か要求してくるようならばその要求から逆算して目的を暴き、逆手にとって釘を刺してやろうと思っていたのだけれど、奴が私に言った事と言えば『気にするな』や『何か飲むか』だとか、まるで仲違いをしてしまった友人と仲直りをしようとしているかのような言葉だけだった。他には、一切何もない。

 

 結局、あの男と紅魔館の小さな当主、そしてその妹君を交えた、ビリビリとした雰囲気のお茶会を済ませるのみで終わってしまったのである。何時本性を出すかと気を張り詰めていたのに、気がついた時には解散となっていたのだから、私は暫くスキマの中で動くことが出来なかった。それ程までに、あのお茶会の意味がまるで理解できなかったのだ。

 

 奴の行動には不可解な点が多すぎる。初対面時には私を試す様な真似をして罠に掛けたかと思えば、別段それ以上の行動を起こす事は無く。二度目の会合の際にも、またも私を策に嵌めたかと思えばその行動の先にあった筈の利益を掴み取ろうとしなかった。かと言って奴は何の目的も持たずに行動している訳でもなくて、確かに内に秘めた望みを現実のものにしようと動いているのだ。しかしその実態を欠片も掴ませようとはせず、口八丁手八丁で誤魔化して、まるで煙の様にうろうろとしている。

 

 分からない。ここまで来ても、奴の考えが分からない。あの男は一体全体、この幻想郷で何を成そうとしていると言うのか。何のために、今まであのような行動をわざわざとっていたと言うのか。

 

 今までの動きから分かっているのは、奴は私を含め、何かしらの能力を持った存在と関わる、もしくは探し出そうとしている事だ。理由は言わずもがな、奴の望みを叶えるために必要だからに違いない。

 更に記憶を振り返ると、あの男が私を初めて見た時口元を一瞬だけ歪めたのは、万能に近い境界操作能力を持った私との顔合わせが想定以上に早かったからか、むしろ想定内だったからだろう。奴はその時から明らかに私を―――正確には私の力を狙っている様な動きをするようになった。そうでなければ、あの晩にあのような行動へわざわざ打って出るわけが無い。大妖怪特有の気紛れにしてはメリットが無さ過ぎる。まさか、ただ散歩に出ていて偶然私と鉢合わせただけだなんてことはあるまいに。

 

 これらの要素から考えるに奴の目的は、万能性の高い私の能力を用いなければ―――要するに自分一人では達成できない類のモノであると言う事だ。だがそれはもう既に予測がついている。問題はその先にある。

 考えろ。奴の胸に秘められた目的を。何故奴は私の力を必要としている? 何故奴一人では目的を達成できない? 何故奴は―――――――――――――――――

 

 その時、電流が頭を駆け回るように、私の脳裏へ姿を現して来たものは、昨晩の会談にて八意永琳が語った言葉だった。

 彼女は言っていた。あの男はその真実を把握していないが、彼は大昔から存在する途方もない概念から生じたバグが、妖怪としての格にまで堕ちた存在であると。

 そして彼女はこうも言っていた。『関わるな』と。理由は『危険だから』だと。あの言葉は簡素ではあったが、鉄塊の様な重みが添えられていた。

 

 これまでに見つけて来た奴の要素を、頭の中でパズルを嵌めるように組み合わせていく。

 輪郭が、炙り出し文字の様に浮かび上がってくる。

 奴は自分の力ではどうにも出来ず、万能性に富んだ力を求めている。ここで一つの前提を覆すと、世にも悍ましい答えが色を持ち始めてくるのだ。

 

 永琳は言っていた。彼は自身の正体を把握していないと。

 だがもし、それが彼女の間違いであったとしたら? 正確に把握しておらずとも、何らかの形で自身の正体を察知していたとしたら?

 ふと、つい最近親友の亡霊姫が、興味本位で妖怪桜の封印を解こうとしたと言う話を思い出す。

 

 パチンと、何かが嵌りこむ音がした。

 

 導き出された答えは、とてもとても単純なもので。しかしその影響は、私ですらも計り知れないもので。

 まさかではあるのだが。まさかであって欲しいのだが。

 奴は自身の秘密に勘付いていて、元来持ち合わせていた筈の本当の力を、その身に取り戻そうとしているのではないか?

 森羅万象に対して平等に降りかかる、『消滅』の特性そのものを。

 

 ――――ゾワッッッ、と、例えようも無い悪寒が私の体でのたうち回った。まだほんのり暑さの残る残暑の夜風が、急に真冬の様な冷たさを持ち始める。

 もし、もしこれが奴の考えている内容だとすれば、これ程までに無い大惨事が幻想郷で巻き起こりかねない。否、大惨事どころでは済まない。終わりそのものが現れようとしているのだ。そこから波紋状に行き渡っていくだろう影響の強さは想像もつかない。そもそもソレがどの様な結果を齎すのかさえ、正確に掴み取る事は不可能だ。

 ただ一つ確実に言えるのは、奴が目的を完遂すればその先には『最悪』が口を開けて待ち構えていると言う事だけだ。

 

 ならば最悪の事態を想定し、可能な限りの手を打たねばなるまい。

 永琳は奴と関わるなと言っていたが、それはほぼ不可能だろう。奴の監視を徹底化し、事の真偽を確かめなければ。無論今すぐ手を下す事は容易だが、それは得策ではない。私の予測が正しいと100%の確証が持てない現状、迂闊に手を出せばまた以前の様に逆手に取られてしまいかねないからだ。慎重かつ念入りに、これまで以上に奴の警戒を強めなければならないか。

 同時に最悪の場合が起こってしまった時の対処法も考案せねばならないだろう。わざわざ丸腰で立ち向かってやれるほど、甘い事態では無くなりつつあるのだ。

 さて、どうしたものかと扇子で風を煽ぐ。未曽有の危機が迫りつつあるかもしれない恐ろしさなど、実に何時振りの事だろうか。

 

『紫ぃ~』

 

 不意に、どこか抑揚の外れた甲高い声が、緩やかに私の意識を其方へ注目させた。

 白い煙の様な物体が収束をはじめ、左隣に形を作り出していく。声から脳裏に浮かんだ想像通り、見知った仲が姿を現した。

 小柄な体躯に、その背丈ほどの長さもある薄茶色の髪。側頭部には身長と不釣り合いな捻じれた角が二本生えており、それが彼女の種族を物語っていた。

 かつて妖怪の山の頂に君臨し、その名を世に轟かせた大妖怪、鬼の四天王こと伊吹萃香である。

 

 そんなおどろおどろしい二つ名とは裏腹に童女の様な笑顔を浮かべつつ、常備している瓢箪から一気に酒を煽り、酒気の籠った呼気を軽快に吐き出した。見た目は子供でも、彼女は立派な鬼の頭領だ。彼女にとって酒は水であり、命である。

 

「こんばんは~っと。久しぶり、元気にしてたかい?」

「ええ。貴女も息災の様で何よりよ」

「鬼から元気取ったらそりゃ鬼じゃないからね。私は何時でも元気さ。……それはそうと、今日はソッチ(・・・)なのかぁ。アッチ(・・・)の紫の方が、からかい甲斐があって面白いんだけどねぇ」

「人を二重人格者みたいに呼ばないで。私はただメリハリをつけてるだけよ」

「いや、紫の場合それが自分の境界を弄っちゃうレベルだから極端すぎるんだって。霊夢も情緒不安定に見えるって言ってたぞ?」

 

 ぐさり、と言葉の刃が私の胸に深々と突き刺さった。承知してはいたが、直に言われると結構来るものがある。それでもはっちゃける時ははっちゃける主義なのだ。今後もこのスタンスを変えていくつもりは無い。

 

「……それはそうと、貴女がわざわざ尋ねて来るなんて、何か私に用事があるのではなくて?」

「おっ、そうだったそうだった。ちょっと頼みごとがあってさ~。まぁ、話すと長くなって面倒だし、これ見て察してよ」

 

 ちんからほいっ、と萃香は奇妙な掛け声とともに、私の目の前へ一つの封筒を生み出した。彼女の『密と疎を操る程度の能力』も、中々応用性が高いと思い知らされる。この様に物体を『疎』にして色々なモノを持ち運べたりするのだから便利だ。恐らくだが、今すぐ宴会を開こうと言ったらよし来たと膨大な酒瓶を『密』にして取り出してくるに違いない。

 

 私は封を切り、中の手紙を取り出した。綴られた文字に目を通していく。

 比喩表現を抜きに、血の気が引いた。

 ぎぎっ、と錆び付いたブリキの様な仕草で首を動かせば、萃香は実に鬼らしい、愉悦に満ちた笑顔を浮かべているではないか。

 

「萃香、貴女、何時の間にこんな勝手な事を……!?」

「あー止めようったって無駄だよ。もうアッチの許可は取ってあるんだ。頷く頷かないじゃなくて、協力してくれないと困るんだよね」

 

 私もだけど、紫も……と彼女は言った。それはそれは楽しそうに、伊吹鬼は微笑んだ。

 

「……それでもこれはあまりに危険すぎる。止めなさい、取り下げればまだ間に合うわ」

「それで納得してくれるタマかねアイツは? ううん、アイツだけじゃなく私も納得しないよ。紫が手伝ってくれないなら、しょうがないから勝手にやるけど本当に良いの? 私は鬼だから、紫みたいな配慮なんて利かないよ?」

 

 萃香は剣呑な光を鮮紅の瞳に宿し、妖しく口角を釣り上げた。

 こうなってしまってはもう止められない事は、昔からの付き合いで骨身に染みるほど把握している。否、この場合、むしろ止めた方が被害は大きくなってしまうのだ。ここは素直に彼女の要望を聞き入れる方が吉と言ったところか。

 思わず、溜息。

 

「………………昔から勝手ねぇ、貴女は。ここ最近で随分丸くなったと思っていたのに」

「にゃははっ、(かど)が取れたらそれは鬼じゃないさねっ。勝手なのも鬼だからこそ、だ。褒めてくれてありがとよん」

「欠片も褒めてなんかないわよ」

 

 まぁまぁ、辛気臭い顔してないで一杯どうだい? と辛気臭い顔をさせた張本人が、凄まじい酒気を飲み口から漂わせる瓢箪を突き出して来た。

 避けられない未来を前に、スキマから猪口を取り出して半ばやけくそ気味に一口。途端に強烈な灼熱感が食道一帯へ襲い掛かった。

 

「相変わらず強いわね、コレ。外の世界でアルコールが危険視されつつある理由が分かる気がするわ」

「にひっ、天下のスキマ妖怪にも流石にキツかったかな? まぁでも嫌な事は飲んで忘れるに限るっさ!」

 

 がぶがぶと、萃香は再び瓢箪を煽る。いつもの事ながら酔ってはいるみたいだが、泥酔しないのが不思議だ。鬼の中でも一際強い彼女の酒好き具合には目を見張るものがある。

 私は再び手紙の文字に目を通し、再度内容を確認していく。

 そこでふと、もしかしてこれは利用できるのではないかと妙案が思い浮かんだ。

 奴に対しての対策を考案できる良い機会だし、何より一見すると危険極まりないが、用意さえしておけば鎮火は可能ではある。問題は萃香が余計に付け足してしまった彼女(・・)だが、まぁ、彼女は彼女で扱いやすいと言えば扱いやすいので、あの男ほど事態を掻き乱す様な事にはならないだろう。

 取り敢えず、こちらから話は着けておくべきか、と明日の予定を脳内で組み上げていく。

 

 最後にもう一度だけ萃香から酒を貰い、それを喉に流し込んだ。

 今度の灼熱感は、何だかさっきより一層強く感じた。

 



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第三章「狂瀾怒濤の鬼神伝」 13.「始まりはお便りから」

「おっ、咲夜ちゃんじゃないか。今日もえらい別嬪さんだねぇ! どうだい、今年も豊作で野菜も果物も安いよ、買ってかないかい? 今ならサービスであまーいお芋も付けちゃうぞ!」

「おーい咲夜さんよう、今日はお肉も安いぜ! 仕入れたての新鮮な牛、豚、鶏がどの部位も大特価販売中だ! 序でに買っていきな!!」

「お米が豊作でお酒も安いよー。晩酌や宴会にいかがかねー」

「さっきゅううう――――――んッ!! おいらの血を寄付するからこっちにきてェェ―――――ッ!!」

 

 今日、人間の里の商店街では毎週恒例の朝市が開かれている。人里に数多く存在する商人たちが、それぞれ仕入れたての品々を活気と共に顧客へ売り込む小さな市場だ。雄鶏の鳴き声を吹き飛ばさんばかりに賑わうこの朝市は、早朝だと言うのにまるで宴会の様に騒がしい。加えて、夏の過ぎ去った今は実りの秋真っ只中だ。豊作の喜びと言うスパイスがより濃厚に働くせいか、他の季節よりもどこか活気が強まっている様に思える。もしかしたら秋の神様も、この喧騒に釣られてふらりと紛れ込んでいるかもしれない。

 

 前々から私は、人里へ買い物に来ることがあった。特に毎週行われている朝市の日を狙って来ていて、おまけに私は服装も髪の色も人里の人間にはあまり馴染みのないものであるせいか、今ではすっかり顔が知れ渡ってしまっている。二、三回訪れた頃にはいつの間にか名前まで広まっていた。恐らく霊夢かその辺りが教えたんだろう。別に構わないのだけれど、時々呼び込み以外の用で私を呼ぶ声が聞こえて来るようになって少しばかり怖い。直接手を出してこない分、良識的なのかもしれないが。

 まぁ、人里の人間たちは妖怪を身近に感じる生活を送っているせいで外の世界と比べて非常に逞しく、適応能力も高いので良くも悪くも大らかなのだ。細かい事を気にしないと言って良い。排他されてきた外と比べれば、この賑わいも悪くないと思える。

 

「鶏を一羽まるまる、あと卵を二箱くださいな」

「毎度有り! いつもの牛じゃないって事は、お嬢様のリクエストか?」

 

 そう言って豪快な笑みを見せる男性は、急ごしらえを要する際に朝市平時を問わず世話になる肉屋の主人だ。この人は見かけの豪傑さに寄らず読書家で、幻想郷の妖怪やその対抗策、危険区域などを記した、いわば一種のガイドブックである幻想郷縁起と言う名の書物を愛読しているせいか幻想郷の妖怪事情にやたら詳しい。その為私が紅魔館に属する者と噂で知るや否やお嬢様について興味を持ち、買い物ついでの談話で主人の日常などを話した結果、よく気にかけてくれる様になった稀有な人だ。

 

 外の世界なら、吸血鬼を気遣う人間なんて考えられたものではなかった。改めて幻想郷とは凄い所なんだなと実感させられる。

 ……ただ時折、お嬢様に血を飲んでもらいたいと自らやってくる物好きを超越した人間がいるのが困りものだが。

 

「ええ。昨晩、北京ダックが食べたいと仰せられたの」

「へぇ『ぺきんだっく』……ん? それって確かアヒルの料理じゃなかったかね? 鈴奈庵の外来本で読んだことがあるぞ。鶏で良いのかい?」

「フフ、お嬢様は純真な側面が強いお方ですから」

「――はっはっは! 成程、じゃあサービスでアヒルの卵二箱もツケておくよ!」

「ありがとう」

 

 料金を支払い、品物を受け取って持ち合わせていた袋に入れる。また来てくれよーと背後から主人の別れの挨拶を受け止めながら、食後のデザートはスイートポテトにしようと思い至って、八百屋にも足を運ぶことにした。確か秋は香りで顧客を呼び込むために作りたての焼き芋も売ってるはずだから、試しに買って食べてみよう。だが誤解しないで欲しい。これは味見をして真に美味な芋なのか見極めるために買うのであって、決して自分が食べたいからなんかではない。あくまで味見なのである。良い品を主人に提供する為に見極めるのも従者の務めなのだ。間違っても私が焼き芋大好きメイドさんと言う訳では無い。

 

「すみません、焼き芋一つとサツマイモを一箱――――」

「店主、サツマイモを一箱分貰えるか――――」

 

 偶然声が重なったと横を見れば、いつぞやの半人半獣の女性がそこに居た。

 彼女と私は目を合わせると、『あ、こんにちは』といった具合に軽い挨拶を交わす。間にはもう敵対の空気は無く、あるのはこの奇遇に驚く雰囲気のみだ。

 戦いが終われば(わだかま)りを残さないのが、幻想郷特有の暗黙の了解と言って良い。元よりあの戦闘は不可抗力な勘違いによるものだったのだ。今も険悪である必要などどこにも無い。

 それは、彼女の方も心得ている様で。

 

「先日はどうも。えっと、咲夜さん、で合ってるかな?」

「はい。十六夜咲夜と申します。紅魔館で従者を務めております」

「上白沢慧音だ。一応、寺子屋で教鞭を執らせて貰っている。改めてよろしく」

「こちらこそ」

 

 あの晩の戦いが嘘のように、和やかな空気が私たちを包む。

 しかし店の前で買い物を続けず会話をするのも何だとの事で、それぞれ必要な品を手に、一旦場を離れてから会話を再開した。

 

「かなりの量を購入されたようですが、上白沢様も今晩芋料理を?」

「いや、流石にこの量を一人では完食できないさ。今日は妹紅に竹細工の課外授業を頼んでいてね、その序でに子供たちと焼き芋でもしようかと」

 

 そう言って彼女は、何だか遠足を楽しみにしている子供の様に朗らかな笑顔を浮かべる。余程寺子屋の子供たちが可愛いのだろう。確か以前美鈴が『手のかかる子ほど可愛く思える』と言っていた事があった。それと似た様な気持ちなのかもしれない。

 因みに美鈴の言う手のかかる子は私の事ではないと言っておく。そう、決して私の事ではない。私は過去を振り返る女では無いのである。断じて。

 

 閑話休題。

 

 件の妹紅と言えば、確かお嬢様の槍をまともに食らい散り散りになりながらも瞬時に復活して見せた、あの炎を操る人間――と呼ぶには少しばかり規格外だが――の事だろうか。竹細工の授業を任されているという点から考えるに彼女は器用だろうから、何だか火加減も上手そうに思えてくる。子供たちが笑顔で跳ねる様な、美味しい焼き芋を簡単に作ってしまいそうだ。もしそうならば私も食べてみた―――いや、火加減の調節方法を参考にさせて頂きたい。

 

「……ところで、一つだけ質問したいことがあるのだが、大丈夫かな?」

「なんでしょう」

「あの晩に現れた男についてなのだが……ああ、勘違いしないで欲しい。別に他意は無いんだ。ただ、妹紅は彼の事をあまり話してくれなかったので、気になって」

 

 恥ずかしながら、あの後気を失ってしまって記憶が無くてね―――彼女はそう言って、苦々しい笑みを浮かべた。そこに悪意は見当たらない。純粋に、ナハト様について知りたいと思っているのだろう。

 ……別に黙秘する必要は見当たらないし、お嬢様からナハト様の事を口外するなと命令が下されている訳でもない。ならば、根の深い部分以外は話しても問題ないか。

 

「少しなら大丈夫ですよ。して、あの方の何を?」

「ありがとう。……ただ純粋に、彼がどう言った妖怪なのか知っておきたいんだ。危険なのか、危険でないのか、簡単な所だけで構わない」

「……危険か危険でないかで言えば、勿論危険なのでしょう」

 

 嘘は言っていない。事実、あの方は人知を超えた力を持つ吸血鬼だ。しかも強大極まりないお嬢様よりも頭一つ、いや二つは抜けていると言っても過言ではない。

 吸血鬼のソレを更に超越した再生能力。漏れ出した瘴気を浴びるだけで人体に重篤な影響が出るほどの濃密かつ莫大な魔力。それを具現化しコントロールを可能とするほどの精密さ。そして豊富な知識と非常に高い洞察力。能力面のみで見れば、これ程厄介で強力な妖怪はそうそうお目にかかれるものではないだろう。事実、彼と総合的に考えて匹敵すると思われる怪物は、八雲紫以外に私は知らない。

 

 しかし、妖怪の中でも文句なしのバケモノと称せるポテンシャルを持つ反面、普段のあの方は非常に穏やかで紳士的な妖怪だ。人間から罵詈雑言を投げられたり、理不尽な攻撃を受ける程度では、怒りを滲ませている様子が浮かび上がって来ない。丁寧な対応に気を配り、あの瘴気にさえある程度馴れてしまえば、ナハト様は恐らく危険ではないのだろう。

 

 だが、それでもだ。

 

 私は決して忘れない。あの忌まわしい夜の出来事を。そして抱かされた、あの方の真の恐ろしさを。

 彼の怒りは、怒りの矛先を向けられていない私ですら死を予感したほどのものだった。彼の指先が動けば死ぬ。彼が声を発すれば死ぬ。彼の視線に射抜かれれば死ぬ―――そう覚悟させられてしまう、理不尽なまでの圧力と力があった。 

 勝てる勝てないの問題ではない。許す許されるの問題でもない。彼の怒りを買えば死ぬのだ。いや、実際は死なんて生温いと両断できるような処断を下されてしまう。夜の怒りを前には人間の力など、蟻が象に挑むよりも無謀な事である。

 だからこそ、安全などとは程遠い。いや、そもそも妖怪の時点で人間にとって安全な存在など無いに等しいのだが、それでもはっきりとこう言える。彼は決して安全な吸血鬼などではないと。

 

 あの方は恩人だ。それは本当に、心の底から理解している。私の様なちっぽけな従者風情では、到底返す事の叶わない恩義を感じている。

 けれど、だからこそ。彼との間に存在する尺を計り間違えてはいけない。彼の強大さを計り間違えるような事があってはいけないのだ。

 

「ですがあの方は寛大です。並大抵のことではピクリとも動じる事はありません。事実、上白沢様はナハト様に敵意を向けても処刑される事が無かった。お嬢様のお話では、その様な些細な事でも他の吸血鬼達は不敬だと一蹴して、殺害にまで及ぶことが多々あったそうですから、あの方が吸血鬼としてどれだけ大らかなのか察する事が出来るかと思います。しかし、あの方の持つ力は―――いえ、あの方の怒りは危険以外の何物でもありません。これは仮定の話ですが、もしあなたがナハト様の怒りを買ってしまったとしましょう。そうすれば、最悪人里は無くなります。賢者の守護があったとしても只では済みません。これは絶対です」

 

 つい語気が強くなり、荒々しい空気を帯びてしまう。

 その効果が如実に表れたのか、ごくりと音がはっきり聞こえてきそうなほど、彼女は喉を蠕動させた。教鞭を執る者である以上、彼女は聡明なはずだ。今の言葉だけで十二分に彼の実態を理解出来たのだろう。

 けれど別に、脅すつもりなんてない訳で。

 

「―――と、脅し文句みたいな事を言いましたが、彼は不用意に手を出される様な事でもなければ他者に襲い掛かる事はまずありませんから。まさに触らぬ神に祟りなしですわ」

「その様だな、肝に銘じておくよ。……っと、いけない時間だ。仕事だから、私はこの辺りで」

「ええ、お達者で」

「時間を割いて付き合ってくれてありがとう。それでは」

 

 彼女は頭を下げた後、箱を抱えて足早に去って行った。言われてみれば、それなりに時間が経過している。授業の準備などで忙しいだろう彼女はこれから大変そうだ。それでも彼女は、自分の仕事が好きなんだろうなぁと別れ際の笑顔を見て私は感じた。

 そして仕事と言えば、私にもやるべき事があるのだった。このままぼうっと佇んでいる訳にはいかない。済ませる用は済んだ事だし、芋を食べながら帰るとしよう。

 

 八百屋から買った焼き芋を袋から取り出しつつ、私は振り返る。皮を剥いてさぁ実食だと思い至ったその時、何か弾力のあるものに強く弾かれ、私は大きく後退し、よろめいた。

 拍子に、焼き芋が無慈悲にも手から転げ落ちる。

 

「!」

 

 即座に時間停止。間一髪で焼き芋を救出する事に成功し、止まった時の中で安堵の息が零れ落ちる。危ない危ない。

 態勢を整えて、時間の流れを正常に戻す。何にぶつかったのかと振り返って前を見れば、そこには何も存在していなかった。

 はて、と首を傾げつつ周囲を見るが、不審なものは見当たらない。だが確かに今、何か柔らかいものにぶつかった感触があったのだ。時間停止中はずっと焼き芋に意識を持っていかれたとはいえ、解除して直ぐに振り返れば、衝突した物を当然視界に捉える事が出来るはずである。

 それが無かったと言う事は、本当に私の気のせいだったのだろうか。

 

「……不思議な事もあるものね」

 

 だからこその幻想郷か、と一先ず自己完結をさせておく。うだうだと考え込んで時間を食ってしまったら本末転倒だ。ここは手早く焼き芋を処理しつつ迅速に帰宅する事が先決である。

 改めて、九死に一生を得た焼き芋を見る。時間操作の応用で温度を維持できるのがこういう時に便利なもので、時間が経過してもアツアツの状態で吟味する事が出来るのだ。

 

 そして頂きます、と漸く口にしようとしたその時だ。手提げ袋から何かがはみ出している事に気がついて、私はそれを何気なく手に取った。

 端正に作られた、ラベンダーの栞だった。

 こんなものが何故袋に? と疑問を抱くも、パチュリー様の栞をメイド妖精が悪戯で袋に隠した線が浮かび上がってきて、直ぐに考えるのを止めた。こんなのはよくある事だ。特に最近は妹様がやんちゃになりつつあって、メイド妖精と悪戯をする事が増えたせいか物がよく隠されたり移動したりすることが多くなった。以前と比べれば大変微笑ましい事ではあるが、だからと言ってやりたい放題で放置していい理由にはならない。良い機会だから、戻ったらお嬢様の許可を頂いて少しお話をしよう。そろそろ誰かが注意しなければならない頃合いだと、お嬢様も思っておられる事だろうから。

 

 私は栞を折れないよう袋に仕舞って、紅魔館へ続く帰路を歩み出す。

 久しぶりの焼き芋は、思わず頬が緩くなるほど甘かった。

 

 

 相も変わらず、秋空の下でも私は門番である。と言うより一年中門番である。元来体が頑丈なせいか、それほど暑さも寒さも気にならないので環境に関しては別段苦しい所は無かったりする。しかし一日中門前で立っているだけではかなり暇なので、その部分が辛かったりする。

 昔はそれなりに修羅場と言うか、紅魔館に侵入しようとしてくる賊が定期的に訪れてきて良くも悪くも暇では無かったのだが、最近は滅多な事ではやってこない。来る者と言えば、私を倒して強さを証明したいと謳う物好きな人里の格闘家か、黒白のシーフマジシャンか、

 

「おはようございます、美鈴さん」

「あっ、おはようです。鈴仙さん」

 

 迷いの竹林の奥にある永遠亭と言う場所からやってくる、鈴仙さんくらいだ。

 

 彼女は時折、永遠亭に住まうナハトさんの友人からナハトさんへ手紙を届ける為に、遠方よりわざわざここまで訪問してくれる頑張り屋さんな妖怪兎だ。最も用件はそれだけではなく、序でに薬箱の管理もしてくれている。彼女が師匠と敬う人物がそれはそれは凄い薬師さんらしく、事実そのお師匠さんが作った薬の効力は抜群で、咲夜さん曰く調子が悪い時に服用すると直ぐに体調が改善されるとのこと。

 言うまでも無いが薬箱の管理が必要なのは、私たち妖怪と比較するとどうしても肉体的に脆い咲夜さんの為だ。ついこの間熱を出して倒れた事があったからか、お嬢様は鈴仙さんの来訪をそう言った面でも歓迎したと言う裏話がある。昔から吸血鬼にしてはお優しい方だったが、ここ数年で本当に丸くなられたものだ。

 

「これ、お手紙です」

「ありがとうございます。いつも遠くから大変ですね、この後人里にも向かうのでしょう?」

「師匠に扱かれるのは今に始まった事じゃないから大丈夫ですよ。それに私、こう見えて力持ちなんで、重い荷物もへっちゃらです」

 

 むん、と力こぶを作る仕草をする鈴仙さん。パッと見ただけでは華奢に映るかもしれないが、相当肉体を引き絞っている名残が私には伺えた。気の流れも非常に安定かつ活発だし、もしかしたら昔は鍛えていたのかもしれない。

 

「前の点検から薬は使われました?」

「いえ、以前薬箱の補充をしてもらってからは使ってないですね。皆健康体そのものですよ」

「では、薬の点検は必要ありませんね。それじゃあ私はこの辺りで」

「おや? 珍しいですね、今日はお茶を飲んで行かないんですか?」

「ふふ……実は以前お邪魔した時、時間を忘れてしまったせいでその日のお仕事が終わらなくて師匠に怒られちゃいまして。今は絶賛反省中なんですあはははー」

 

 そう述べる鈴仙さんの目は、濁り切った池の水の様に不気味な色を湛えていた。何だか若干気が乱れ始めている。トラウマになる程とは、一体どんな風に怒られたのだろうか。

 お師匠さんの怒りがよほど怖いのか、鈴仙さんは『それではー』とだけ言い残して忙しなく人里の方へ飛び去って行った。

 手を振りながら見送って、私は手紙を届けに行くために門を開こうと手を掛ける。

 

 そう言えば、ナハトさんが身内以外と交流を持つなんて凄く珍しいなぁと、今更になって気がついた。昔の彼は紅魔館の中でも特に近しかったお嬢様達とそのご両親くらいしか、積極的に関わっている所を見たことが無かったものだから、一層物珍しく感じてしまう。

 そうなると必然的に、この手紙の内容が気になってくるものである。が、無論頼まれたって開かない。例えこればかりはお嬢様や妹様の命令であっても聞くことは無いだろう。彼のプライベートを無許可に覗こうなど、盛大な自殺行為以外のなにものでもない。過去の紅魔館に居た吸血鬼達であれば、この手紙を手に取る事さえ忌避しそうだ。

 そう考えていると、いち早くこの手紙を届けねばと言う強迫観念に駆られてしまい、私は直ぐに門を開いた。ここで衝動に負けて全力疾走のまま紅魔館へ帰れば確実に咲夜さんからナイフと共にお説教を頂く事になるので、気のサーチを駆使しナハトさんまでの最短最速のルートを割り出しつつ足早に目的地へと向かう。

 

 ふと、背後に小さな反応が二つ。

 

「みすずー!」

「チルノちゃん、美鈴さんですよ!」

 

 よく見知った妖精たちの元気な声が、私の背中を優しく押した。

 妹様の所へ遊びにやって来たのだろうか。しかし今は真昼間で太陽が制空権を握っている状況な上、妹様から彼女たちに関しての伝言を受け取った覚えはない。つまり予定に組み込まれていないと言う事実に繋がる。となると私に用事がある様に思えてくるのだが、今はこれを届ける方が優先だ。取り敢えず私が不在の間、勝手に館へ入らないよう釘を刺しておこう。この二人は妖精にしては非常に聞き分けが良いので、ちゃんと理解してくれるはずである。チルノさんが好奇心に負けなければの話だが。

 

「こんにちは二人とも。すみませんが、ちょっと待っていて頂けますか? ナハトさんにお届け物があってここを離れなくてはならないので―――」

「おお、それは丁度いいわねっ。これ、内藤のおっちゃんへのお手紙だから渡しといて!」

「チルノちゃん、内藤さんじゃなくてナハトさんですよ」

 

 大妖精さんの訂正もなんのその、『ん!』と元気よくチルノさんの手から一通の封筒が手渡された。はて、彼女もナハトさんと交流があったのだろうか。あまりにも意外過ぎて、受け取った後に手紙とチルノさんを二度見してしまった。

 私の心中を悟ったのか、大妖精さんが説明を加えてくる。

 

「さっき二人で遊んでいたら、これを紅魔館に住んでいる男に渡してくれって言われたんです。多分、ナハトさんの事じゃないかなと思って」

 

 大妖精さんの言葉に訝しみを覚えた私は、手元の封筒へと視線を移した。

 裏にも表にも文字は書かれておらず、差出人は一切不明だ。魔力などの力が感じられない所から見て術による罠の可能性は無いだろうが、どう考えても怪しい事に変わりは無かった。手紙に関しては鈴仙さんから受け取るものについてしか、ナハトさんから聞いていなかったからだ。連絡が無かったのであれば、当然ナハトさんが予期していないお便りと言う事になる。

 

「一体、どなたからこれを?」

「分かんない。なんか霧みたいなヤツだったわ」

「霧?」

「形が無かったんです。突然目の前に現れて、伝言と一緒に手紙を落としていきました」

 

 霧の様な姿をしたもの……普通に考えれば身元が明かされる事を恐れて変化の術かそれに類似したものを行使していたのだろうが、だとすれば余計に怪しさが増してくる。誰が、何の目的でナハトさんにこれを渡そうと企んだのだろうか。

 ……いや、私があれこれと考えても仕方がない。もしこれが何らかの術が施された手紙型の罠であれば即座に処分する所だが、そうでない以上この手紙の意図を見出すのは、宛先の人物であるナハトさんであって私ではないのだ。ならば、共に届けておくのが最良の選択と言えるだろう。

 

「分かりました。それでは、責任をもってしっかりと届けておきますね」

 

 あと勝手に門の中に入っては駄目ですよ、と再度釘を刺しておく。元気よく返事をするチルノさんと頭を下げる大妖精さんの見送りを背に、私は門を後にした。

 

 

「遂に追いつめたわ、お姉様。次の一手で確実にチェックにしてあげる。もう逃れられないわよ。お姉様の運命は今ここで完全に潰え、私に勝利がもたらされるのよ!」

「――――」

「腕を組んで余裕を装ったって無駄だよ。分かってるんだから。悔しいのよね? ねぇねぇ悔しいのよね? 妹に窮地に立たされるなんて、プライドの高いお姉様に我慢できる筈がないんだもの。さぁ、是非今のその気持ちを私に聞かせてよ、お・ね・え・さ・まぁ!」

「……クックックッ。甘いわねぇ、フラン。そうやって勝ちを確信して、水面下の脅威に気付かずに踊り狂う様が本当に滑稽だわ」

「なんですって?」

「貴女の負けって事よ、フランドール」

「…………ハン、この状況で盤をどう引っ繰り返すと言うの? お得意の運命操作で勝ちの糸を手繰り寄せるつもり? 出来るものなら寄せて見なさいよ、出来るもんならねぇ!! 負け惜しみなんてみっともないよ、レミリアお姉様ァ――――――」

「はいチェックメイトー」

「――――――――――――――――――う?」

「……忘れていたの? ポーンは相手陣地の最終列にまで潜りこめば、クイーンへと昇格出来るって事を! お前は私が意味も無く外れにあるコイツを動かしていると本気で思っていたの?ルールブックはちゃんとよく読みなさいとアドバイスまであげたって言うのに、完璧に失念していたなフランドール・スカーレットッ!」

「な、な、なななぁ………っ!」

「さらによぉーく見てみなさい、私が配置した駒の数々を」

「!? わ、私のキングが! クイーンが完成した事で完全に包囲されている!?」

「お前は目先の勝利ばかりに囚われて、周りに一切気を配らなかった。それが敗因に繋がった! 改めて周囲に目を凝らしてみなさいな。どう? 貴女の視界に、果たしてここからの逃走経路は映し出されているかしら?」

「そ、そんな! こんな、こんな事って……!」

「たかが雑兵と思って見過ごしたのが仇になったわね。まさに油断大敵って奴よ」

「ふ、ふにゃああああああ~~~~ッ!?」

 

 ガツン、とフランがテーブルに頭を打ち付ける音が図書館中に響き渡り、それが試合終了のゴングとなった。

 一部始終を観戦していた私は、手作業を止めて彼女たちへ声をかける。

 

「惜しかったね。まぁまぁ良い線を行っていたとは思うのだが、そこはやはり経験の差と言ったところかな」

「うー……」

「フン、ボードゲームで私に勝とうなんて500年早いわっ」

 

 負けた事がよほど悔しいのか、自慢げに胸を張ってドヤ顔を向けるレミリアに腹が立つのか。フランは呻き声を上げたまま机から一向に顔を上げようとしない。腕をクッションにしていないので鼻が潰れて痛いと思うのだが、大丈夫なのだろうか。

 

「しかし初心者相手に少し大人気なかったのではないか?」

「そうよ。フランはチェスをやったことが殆ど無かったんでしょう? それを上げてから叩き落とすなんて可哀想に。お姉さんらしくない」

 

 私と共に観戦していたパチュリーが、賛同して非難の声を上げる。だがレミリアは『強さこそが正義なのよ』と悪魔的な笑みを浮かべるだけだ。活動的な妹と違って、策略や陰謀を好むレミリアらしいと言ったところか。

 

 そして実は意外な事に、フランはボードゲームを殆どした事が無かったりする。彼女はもっぱら活動的な少女で、自由の身だった400年前も盤上で思考を働かせるより体を動かして活動することが多かった。幽閉されていた間も、ただひたすらに眠っては起きるか、時たまボールを壁に投げて一人キャッチボールをするか、本を読むか、あの卿と話をして時間を過ごす事しかしなかったそうである。哀愁漂う彼女の経歴を思い返すと、どことなく自分にも共通した点が浮き彫りになって変な笑いが出た。こんな事でシンパシーを感じてどうすると言うのか。主に年長者として自分が情けなくなってくる。

 

 しかし今の私は以前の様なボッチではない。最近になって漸く……苦節数千年の末に漸く、初めての友人を獲得した。尤も、諸事情あって手紙でのやりとりしか出来ない状況ではあるが、私はそれでも大変満足である。そしてこんな関係を輝夜は『ぶんとも』と呼んでいたが、友人にも色々な種類があるのだと、輝夜と知り合って初めて知ることが出来たと言えよう。私は本や映像、体験と言った情報媒体からしか知識を習得していないが故に交流によって生まれる文化的情報に疎い。その為、他者との交流と言うものの重要さが身に染みて理解できる。

 兎に角、やはり友人とは素晴らしいものだ。得るまでの経過で様々な事があったが、今では花に話しかけている様を見られて引かれても全く気にしない位に気分が良い。

 

「さて、こんなもので良いか」

 

 彼女たちの試合を見守る傍ら行っていた作業が終わり、私は完成した品をテーブルへと置いた。

 すると対面座席へ座っているパチュリーが、活字の海から興味深そうにチラリと視線を寄越す。

 

「それは……前に私が作った腕輪かしら?」

「その模造品だな。残念なことに以前の異変で壊してしまったから、自分で作ってみた。折角作って貰ったのに申し訳ない」

 

 そう。あの時錯乱した輝夜へ手を伸ばした際、私は腕ごと輝夜に装飾品を砕かれてしまっていた。種族的に彼女は人間の筈なのだが、実は相当な力持ちだったらしい。流石に木端微塵になった腕輪を組み立て直すのは骨なので、今度は自分の手で作ってみる事にした。幸いどの様な素材と構造をしているかを把握していたので、後は手順を踏めば容易だったが。

 

「別に構わないのだけれど、要の石はどこから?」

「大昔に集めていた収集品の中へ紛れていた物を使った。魔石の類だ、問題ないだろう」

 

 400年前に館を発つ際、この館に存在する様々な絡繰り部屋へ隠した物の一つだ。長い間放っておいたのでもしかしたら劣化しているかもしれないと危惧していたが、どうやら無用な心配だったらしい。証拠に腕輪へ魔力を通した瞬間、小悪魔の尻尾が少しだけ柔軟さを取り戻している。彼女は魔性が及ぼす私への緊張具合を計る指標になってくれているのだが、それでもフランクになってくれた方が百倍好ましい。小悪魔から信頼を得るには、まだまだ先が長そうである。

 

 パチュリーが、徐に本を閉じて私に言った。

 

「ねぇ、その石ってまだ残っていたりする?」

「恐らく探せば出てくるだろうが……」

 

 もしかして欲しいのか? と聞いてみれば、案の定そうだったらしい。彼女の抱えている魔法実験のアイテムとして欲しいのだとか。

 まぁ問題は無いだろう。と言うより使って貰った方がありがたい。大切なコレクションではあるが、使いたいと願う者が居るならば使われた方が良い筈だ。今現在あの品々は本当の意味でお蔵入りしてしまっており、まさしく宝の持ち腐れとなってしまう危険性が高い。大事に扱ってくれるのならば、彼女へ絡繰り部屋への行き方を教えるのも吝かではないか。

 と、そんな事を思慮していた時。

 

「失礼します」

 

 ノックと共に、美鈴が図書館へと姿を現した。

 普段は門番に勤しんでおり、休憩中を除けばずっと外に居座っている彼女がここまで来たと言う事は、理由は一つしかないだろう。

 

「こちら、お便りです」

 

 レミリア達へ一礼した彼女が、予想通り私へ便箋を手渡した。輝夜からのものだろう。前回からの日数的に考えてそろそろかとは思っていたが、どうやら読みは当たっていたらしい。

 二通の手紙を受け取った私は、まじまじと封筒を見ながら―――

 

「……ん? 二通あるようだが、これは両方とも永遠亭からの便りなのかね?」

「いえ、それが……」

 

 美鈴は、異例として加えられていたもう一つの手紙について私に説明を施した。何でもフランの友人であるあの妖精達が身元不明の人物から私宛への手紙を受け取り、それを美鈴へと渡したらしい。訝しんだ美鈴は手紙に罠が無い事を確認して、この手紙の処断を決めて貰うべくここへ持ってきたそうだ。

 はて、私に便りを寄越す様な人物が輝夜の他にも居ただろうか。いや、もしそんな仲の人物が存在するならば私が忘れるわけが無い。であれば、これは必然的に私の知らぬ人物からの物となってきそうだが。

 

「……、」

 

 先に差出人不明の封を開けて中身を見れば、案の定私の知らない者からの便りだった。と言うよりは名前が書かれていないので、誰の者からなのか分からないと言った方が正しいか。

 

「なんて書かれているの?」

 

 レミリアが興味深そうに伺う。彼女から半ば警戒の色が見て取れた。

 私は文を読み上げ、内容を彼女たちに提示する。

 

「『ナハト殿。次の満月の晩、貴方を妖怪の山の祭りへ招待します』……これだけだな」

「妖怪の山ですって?」

 

 概要を耳にしたレミリアの表情が、結露を帯びたガラスの様に一気に曇る。妖怪の山とは、レミリアがそこまで不安を煽られる様な場所なのだろうか。

 確かふらりとレミリアやパチュリーに聞いた話によれば、その山は天狗を中心とした様々な妖怪による縦社会が築かれている地であったか。噂だと外界に匹敵する高度な文明を所有しているとか何とか、関係者ではない者には噂の尾ひれを掴み辛い未開の土地だ。

 

 兎に角、見方を変えれば一国から招待を受けたと考えればいいのだろう。ただ、招待を受ける由縁が全く見当たらないのが引っ掛かるのだが。

 

「何か不味い事でも?」

「……いいえ。ただあまりにも不自然だと思って。その手紙は、指定地からしてどう考えても天狗の関係が寄越したものじゃない。おじ様の名が天狗に知れ渡っているとは考え難いから……いや、有り得るわね。パパラッチカラスが異変中のおじ様を偶然発見した可能性は捨て切れないか」

 

 でも、とレミリアは区切りを入れた。

 

「だとすれば尚更怪し過ぎるわ。表面上は招待する理由も差出人も一切不明。おまけに事情説明の為にこちらへ天狗を寄越す気配も無し。浅く読んだとしてもこれは罠よ。罠に掛ける理由が分からないのだけど」

「確かに。だが逆に不自然ではないかね。何故この様な、断られる事が当然とも言える態度で私を招待したのかが。まるで断られない確信を持っているかのように思えるな」

 

 もしくは、断られても痛手にならないと捉えるべきか。だが前者の場合は引っ掛かるものがある。断れなくなる理由として考えられるものは第一に弱みだろう。だが弱みなど思い当たる節が無い。あるとすればレミリアたちの事だろうが、そもそも彼女たちは並の者では手も足も出せない猛者達ばかりだ。アクションを起こそうにも、相手側も相当な痛手を負う事必至である。

 となると、また別の要素が考えられるが……。

 

 ふと。

 手紙を読み返している最中、私の目に『祭り』の文字が、酷く強調されて焼き付いた。

 瞬間、稲妻が駆ける様に私の脳裏へ閃きが誕生する。

 これは、まさかではあるが。

 

「親睦会への招待か?」

「へっ」

 

 素っ頓狂な声を上げ、ぱちぱちと目を丸くするレミリアを余所に、私は思考を展開していく。

 天狗は絶対的に上下関係を重きに置く種族だと聞く。それは同族間に限った話では無く、他種族においても適応されるらしい。例えるならば人間。天狗は彼らに対して、絶対に対等な形で接しようとはしない。あくまで自分たちが上で、人間は下。幾ら対応が丁寧だとしても、その根底が覆る事は決して有り得ないのだ。

 そして当然の様に、その逆もまた成立する。

 例えるなら賢者たる紫。彼女と天狗達は、有事の際を除けば互いに干渉する事を控えている関係にあるとレミリアは言っていた。敢えてその関係性を示すならば対等と言ったところだろう。これらの例から考えるに、つまり天狗と言う種族は、幾ら力量的に相手が勝ろうとも上の立場に妖怪を置くことは決して有り得ないのである。身内ならば上下が徹底していようが、他者に対しては絶対に対等以上を譲らない。この性質は国同士の干渉に似ているような気がする。

 

 ここで、私の存在が彼ら天狗たちに知られていると仮定しよう。そして私の存在が露見する様な切っ掛けになったのは、間違いなく紫と幽々子のタッグと戦闘を繰り広げた際だ。あの戦いは余りにも目立ち過ぎた。空中戦とは言えあそこまで暴れ回れば、一人や二人に目撃されていてもおかしくは無い。

 それに加えて、私の魔性の性質をプラスする。するとどうだろう。客観的に見れば、凄まじい威圧を放つ謎の吸血鬼が、妖怪の賢者と冥界の管理人を相手に平然と戦っていたと言うとんでもない構図が出来上がってしまうではないか。どうしてそうなるだなんて言葉は今更である。不本意だが今までの経験からして、そう思われていても何ら不思議ではない。

 

 つまり、これらから導き出される天狗の思惑は単純明快。

 敵対してしまう前に、強大だと判断した私と友好を取り持って対等の位置にまで持っていこうと言う魂胆なのである。

 

 そしてもしそうならば、これは好都合と呼ぶに他ならない。

 

 この様な事は以前にもあった。最たる例があのスカーレット卿だ。彼もまた同じ理由で私に近づき、そこから紅魔館との縁が出来た。実際の所は甚だ不本意ながら上司と部下の様な関係で、最後には裏切られてしまうと言うオチだったが、形はどうあれこの形式は表面上プラス方向の縁が出来る局面である。これを利用せずしてどう友達を作ろうと言うのか。

 これはまたとないチャンスなのだ。私にも友人が出来る事が証明され、さらにこの間のお茶会で紫と関係性を『知り合い』レベルにまで修復できた今、現在までの経験をフル活用して私の悪印象を取り除く事の出来る絶好の機会である。上手くいけば友達が増え、最悪失敗してたとしても、関係を悪化させられない相手側の都合上、表だけでも仲良くしてくれるはずである。何だか相手の都合を手玉に取るようで胸の内から嫌悪感が顔を覗かせるが、ここは少し目を瞑ろう。双方の関係性を安定化させるために必要な事でもあるのだ。

 

 では、この招待に頷かない道理無し。

 

「彼らの意図が読めた。満月の晩は三日後だったかな。時間もある事だ、この招待に乗るとしようか」

「い、意図が読めたって、具体的には何が分かったの?」

「恐らくただの社交パーティーへの誘いだろう。大方異変時の私を見て、敵対する前に友好的に接して取り込もうとしているのではないかね」

「誘い込まれて叩かれる危険性は?」

「わざわざ彼らが争いの火種を起こすメリットが見当たらない。万が一そうだったとしても、直ぐに後退するさ。速さには少し自信がある」

「……はぁ、分かったわ。もうこうなったら私なんかじゃ止められないのは承知してるしね。でも一つだけ条件がある」

「何かね」

「美鈴を同行させること。それだけよ」

「!?」

 

 突然話題の矛先を自分に向けられた美鈴が、限界にまで目を見開いてレミリアを凝視した。全く予想だにしていなかったのだろう。私も彼女を同行させろと言われるなど想像もしていなかった。ただ美鈴よ、何故そんなに不安そうな表情を浮かべているのだね。

 

「お、お嬢様? 何故私が……?」

「前の異変の時、アクシデントに巻き込まれていたとはいえおじ様が迷子になってたでしょう。おじ様に放浪癖があるのは知っているわよね? それの予防策よ。貴女がブレーキ役になるの」

 

 ……確かにフラフラと歩きまわってしまう癖があるのは認めよう。事実、昔から私は旅好きだ。だがそのボケてしまった老人を扱う様な物言いは如何なものか。いや、年齢からしてみれば私も十分お爺さんなのかもしれないが、それでも物忘れなどは起きていない。

 

「ですが、門番はどうなさるので? 咲夜さんは言わずもがな多忙ですし、小悪魔さんも……」

「今、門の前に妖精が二匹いるじゃない。そいつらを臨時で雇うわ」

 

 あの子達ならフランの相手にもなるし一石二鳥でしょ、とレミリアは朗らかに笑う。その提案に反応したのは、言うまでも無くフランだった。

 がばっと起き上った彼女は、目をキラキラさせながら姉に問いかける。

 

「じゃあその日の夜は皆と一緒に門番やってもいいの!?」

「ええ、そうね」

「面白そう! と言う訳で美鈴いってらっしゃい!」

「妹様ァ!?」

 

 美鈴の悲鳴もなんのその。紅魔館を取り仕切る姉妹から勅命が下された今、彼女が反対の意を押し切る事など出来る筈も無く。

 晴れて、私と美鈴による妖怪の山社交パーティーへの参戦が決定する事となった。

 しかし美鈴は何時になったら私を前に緊張してくれる事が無くなるのだろうか。この機会に、その壁を取っ払う事が出来れば良いのだが。

 

 どうやらこの旅は、山と良好な関係を築く他にも目標が出来そうである。

 



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14.「天狗前線を突破せよ」

 今夜は山で祭りが行われる……らしい。

 らしいと言うのは、その祭りが山の行事項目に乗っていない、つまり最近突然に開催が決定したイレギュラーな催し物であり、私たち下っ端が祭りの開催を知ったのは、ここ3日ほどのごく最近の事であったからだ。

 

 そして私は山の麓の警備を担うしがない白狼天狗だ。元々予定に組み込まれていなかった突飛な祭りである為、当然休みである筈も無く。加えて不幸は重なるものなのか、今日に限って見回り当番だったりする訳で。

 まぁとどのつまり、私は山の祭りに参加する事が出来ずにいた。

 今朝、『今日は何だか厄い香りがプンプンするわっ』と若干テンションがおかしな方向になりつつあった厄神様に言われた言葉は、どうやら間違っていなかったようである。今日の運勢はまさしく最悪の一言だ。

 

 非番の同僚たちが、今頃里の方でわいわい楽しんでいるのかなぁと少しばかりの嫉妬に駆られつつ、優しい友人たちがこの寂しい白狼天狗に屋台の食べ物でも恵んできてはくれないだろうかと思いを馳せながら、私は背の高い木の枝の上でひっそりと、『千里先まで見通す程度の能力』を行使して山の周囲を監視していた。

 

 本日も晴夜、お祭り日和なり。何故今日に限って非番じゃないんだと自嘲染みた笑いが浮き上がってくる。

 

 見回りと言っても別に異常事態なんて滅多に起こるものじゃない。だからこの仕事は少々……いや、かなり暇だ。それは山が平和である証拠なのだから喜ぶべきなのだろうけれど、暇なものは暇なのである。こんな時は友人の河童や同胞と将棋の一つでも指したい所だが、いやいや自分の役目はきっちり果たさねばと無理やり自分を奮い立たせた。

 

 ……ちょっとだけ、祭りの風景を覗いてみても良いだろうか。いやしかし、ここで楽しそうな光景を目にしてしまえば仕事に響く可能性大だ。でもどんな賑わいを見せているのかどうしても気になってしまう。山の祭りは大きいからさぞ盛大な―――――

 

「もーみーじーちゃんっ」

 

 ―――――………………。

 何だか、口にすれば河童が川に転げ落ちるレベルの渋柿を頬張ったような気分になった。

 

「もーみーじー、聞こえてますかぁ~?」

 

 私のよく知る人物が、相当酒気に当てられているのか妙に酒臭く艶めかしい声で私の鼓膜を撫でた。同時にあぁ今日は本当に厄日だなと思わず溜息を吐き出してしまう。

 

「……こんな所までわざわざ何の用ですか、文さん」

「あやややや、ツレないれすねぇ~。いつから犬走椛ちゃんはそんな不愛想な子に育ってしまったんでちゅかぁ~」

 

 振り返れば、案の定顔を夕焼けの様に真っ赤に染めた鴉天狗の腐れ縁、射命丸文が、蕩けた目をこちらへ向けて、えへえへとだらしのない笑顔を浮かべながら、虚空を不安定に上下しつつ浮遊していた。

 彼女は山の連中の中でも相当酒に強い筈なのだが、ここまで酔いが回るとは、一体どれほど強い酒をどのくらい煽ったのだろうか。舌が回らない程ベロベロになった文さんなんて、記憶の中に残っていない。

 それでも、取り敢えず凄く面倒臭そうだと言う事は分かった。

 

「で、私に何の用なんですか」

「お祭りなのに勤務に駆り出されてかぁいそうな椛ちゃんにぃ、おしゃけと食べ物をもっれ来まひた」

 

 感謝(かんひゃ)したまえ椛くん、と私の横に腰かけた文さんが、袋をおぼつかない手つきで渡してくる。それを半ば訝しみながらも受け取った。いつも嫌味と皮肉で私をからかいまくる文さんが、こんな親切を施してくれるなんてどんな風の吹き回しだろうと。

 しかしこの人、本当に大丈夫なのだろうか。何だか居眠りを起こして枝から落ちてしまいそうなほど回っている。しかしまぁ、落ちた時は落ちた時か。この程度の高さから落下してどうにかなってしまうほど、天狗は軟な妖怪では無いのだから。

 

 改めて、手渡された袋に手を掛ける。

 袋を開いた瞬間、パァンッ! と火薬が炸裂した鋭い音響と共に、ドヤ顔の文さんの写真が張り付けられたバネがびよんびよんと飛び出して来た。

 唖然とする私を余所に、隣で文さんが腹を抱えて大笑いする。まさに抱腹絶倒と言う奴だ。

 

「いっひひひひっ! 引っ掛かった引っ掛かった。河童しゃん特製のびっくり袋れすよぅ」

 

 おお、間抜け間抜け。と文さんが盛大に私を煽って来る。蟀谷に青筋が奔っていく感触を感じた。

 一瞬でも私に差し入れを持ってきてくれる優しさがこの人にあったんだなと感動した私が馬鹿だった。幸いな事に彼女は泥酔している。ここで殺ってしまっても、飛行中に事故を起こしたとして不慮の事故扱いになるのではないだろうか。刀で斬れば特定されかねないので、撲殺と行こう。計画を企てつつ、手ごろな石が落ちていないかと能力を行使して付近を見渡していく。

 

 そんな時だった。

 私は何かチラリと、視界の端に確かな違和感を感じ取った。

 まるで見慣れた森の中に突然彫像が出現したかのような、そんなあからさま過ぎる違和感を。

 

「………………ん?」

「あ~椛しゃん。あとね、うんと。そう、伝言がありまふ。とってもとっても大事な伝言が―――――――」

「文さん、少し黙って」

 

 椛が冷たいれすぅ、と泣き真似をする文さんを無視して、私は違和感の正体を探ろうと能力の精度を上げていく。

 より詳細に、より精密に。

 倍率と解像度が上がっていく光景の中、必死になってその違和感を探している内に、私は。

 

 私は。

 

「――――――ッ!!?」

 

 ソレに気がついてしまった瞬間。全身の毛が、まるで磁石に吸い寄せられた砂鉄の様に逆立った。同時に怒涛の如く押し寄せる不安の波。肌の表面から細胞の隙間を浸透し、肉と骨をグズグズに侵していくような、生まれてから一度も感じた事の無い悍ましい感覚が私を隅から隅まで一瞬にして蹂躙した。

 毒を盛られたように段々と息が荒くなる。心臓は全力で走り回ったかの如く自己主張が激しい。早く目を逸らしたいのに、ソレから視線を外す事は許さないと瞼が抗議しているのか、限界まで見開かれた瞼は閉じる気配を一切現さなかった。

 

「何だ……これは……っ!?」

 

 視界に星の様な白点がチカチカと瞬き始める。不条理とも言えるような緊張感が全身の感受性を爆発的に上昇させ、眼球を走る毛細血管が血を巡らせている感覚さえはっきりと感じ取れる程までとなった。

 

 身体機能を司る司令塔に手を突っ込まれ、一気に掻き回された様な混沌とした感触。全身を舐め回し、這い回る様な不安と恐怖。これはどう考えても異常だ。異常過ぎる。明らかに私の体と精神が異変をきたしている。このまま呼吸さえもが狂ってしまうのではないかと錯覚を覚えてしまう程に。

 しかし私には、この滅茶苦茶な状態異常にほんの少しだけ覚えがあった。いや、正確には呼び覚まされたと言って良い。私の中に眠り続けていたソレが、この目が捉えて離さないモノを目にした瞬間に叩き起こされたのだ。

 それは獣の本能だった。遠い昔に失った筈の、野獣が持つ鋭敏過ぎる危機察知能力。私の中に未だ残っていた消し屑程度の『野生』が、アレは危険だと全力で警鐘を鳴らしているのだ。

 

 そしてこの本能に刃を突き立て目覚めさせた原因など、最早考えるまでも無い。

 

 私の千里眼が意思を無視して補足を続ける、一人の男。

 見慣れない黒装束に身を包み、死人を連想させる灰色の髪をした大柄な男だ。

 そう。ただの男。変わった風貌をしただけの、異国風の男。

 だがこの男をはっきりと視界に映したその瞬間、全身を襲う悪寒を止める事が出来なくなった。喉から絞り出される唸り声を止める術を失った。

 それだけではない。奴の背後には、山の麓で徘徊している筈の下級妖怪たちが、ギラギラと目を光らせながら男の後を音も立てず、木々の間や草葉の陰から追従しているではないか。

 百鬼夜行。かつて日の本で猛威を振るった妖怪行列を彷彿させるその光景に、私は幾重もの冷や汗を流さざるを得なかった。

 

 奴が何者かは分からない。そんなもの、一白狼天狗でしかない私なんかに理解できる筈がない。

 でも、これだけは言えた。絶対な自信を持って確信出来た。

 

 あの闇夜の中心を歩む男は、間違いなく山の脅威になると。

 そして気付く。奴の足が向かう先は山の奥、我々の里がある方角だと言う事に。

 

 思考が追いついた瞬間、無意識に懐刀の柄へ手を当てていた。刀身は既に鞘の中から食み出すまでに引き抜かれ、覗いた白銀の刃が鈍く月明りを反射させている。

 その輝きに魅せられたのか、あの男から感じるどうしようもない不安と恐怖がそうさせるのか。私はまるで月の狂気に当てられたかのように、思考が泥の中へと埋もれ始めていった。

 

 どうする。私一人で奴と戦うか? いや、無理だ。アレには勝てない。一人では絶対に勝てない。隣でヘベレケになってはいるが、こう見えて屈指の実力者である文さんでも難しいとさえ思えてくる。単身でさえもそう思わされるのに、奴の後ろには百鬼の大群が率いられているのだ。

 どう考えても戦力差は絶望的の一言。ならば応援を呼ぶか? 白狼の全部隊をもってすれば、奴らの進軍を食い止められるかもしれない。

 

 けれど。

 

 私は、白狼天狗の全部隊をぶつけても、視界に映るだけで喉の奥から内容物をぶちまけてしまいそうになるあの男に勝利している光景を、欠片も思い浮かべる事が出来なかった。

 変わりに私の脳裏を塗りつぶしたのは、全身を真っ赤に染められた同胞たちの上で独り優雅に君臨する、闇夜の様な男の歪んだ笑みで――――――

 

「もみじぃ、お顔が怖いれすよぅ」

 

 唐突に文さんから肩を掴まれ、大きく揺さぶられたせいで能力が解除された。視界から男が消え、私を襲っていたどうしようもない不安感が徐々に徐々に失われていく。

 安堵が顔を覗かせると、唐突に濁流のような勢いで肺へ空気が流れ込んだ。私は呼吸のリズムを掻き乱され、その場で強く咽込んだ。

 

「ぶはっ!! は、はぁっ! はふっ、はぁ、ぁう……っ!」

 

 深呼吸を繰り返しながら胸を抑え、呼吸のリズムを戻していく。未だに鳴りやまない心臓が嫌に五月蠅く、とても苦しかった。

 けれど大分楽になった感触はある。あの男を視界から外せたお蔭か、動悸は時間が進むごとに収まりつつあった。今回は酔っ払い鴉天狗に感謝した方が良さそうだ。

 

「ありがとう、ございます」

「んぅ~? よきにはからえ」

 

 変わらぬ様子で蕩けた笑顔を浮かべる文さん。しかしこの様子から察するに、あの男は他者の精神に影響を与える何かを放っている事は間違いなさそうだ。それも、視覚に映せば発動するタイプのものと考えられる。現に奴を視認していない文さんは正気を失っていなかった。つまり、目を逸らしていれば問題ないと言う事になるか。

 ……だがしかし、奴から目を離す訳にはいかないのもまた事実。奴らは間違いなく山へ侵入を試みていた。今も祭りのある里の方角へ向かっている筈だ。ここで見失えば、対処が遅れてしまうかもしれない。

 ならば、ここで腹を括るべきか。取り敢えず一瞬、ほんの一瞬だけ奴の所在地を確認して、それから増援を呼ぶことにしよう。

 その為にも、予防線を張っておく必要がある。

 

「文さん」

「あい」

「私の顔がもう一度怖くなったら、また私を引っ張り戻してください」

「あーい」

 

 柔らかく敬礼する文さんに、お茶らけつつも無駄に凛々しい何時もの面影は見当たらない。今一つ心もとないが、今は彼女が頼りだ。信じる事にしよう。

 私は再び、千里を覗く能力を発動する。

 

 だが、私はそこである事に気がついてしまった。『あっ』と不意に口から声が漏れてしまうように、どこか呆気なくも勘付いてしまったのだ。

 奴の動きが止まっていると言う事に。

 奴の姿が私の肉眼の内に収まっていると言う事に。

 奴の二つの目が、遠方からこちらを覗いていると言う事に。

 

 能力が。

 奴の顔を大きく映し出し。

 魂を引き摺り出されてしまいそうな禍々しい双眼が、私の目と合わさって。

 頭の中でゾブッと、沼の底に引き摺りこまれる様な音がした。

 

 恐怖が。

 私を蝕んでいく。

 

「――――――――――――――――――――――」

 

 気付かれ。危険。どうする。警告。増援。強敵。侵入者。百鬼夜行。

 緊急事態発生。緊急事態発生。緊急事態発生。

 増援を、増援を、増援を。

 

 山が。

 山が。

 

 山が、危ない。

 

「ゥゥォォオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――――――――ッッッッ!!」

「わひゃあっ!? み、耳がぁっ!!?」

 

 私は叫んだ。山の同胞達へこの危機を伝えるために。

 私は叫んだ。我らが役目を全うするために。

 私は叫んだ。

 我らの山を、守り通す為に。

 

 

 食欲の秋。芸術の秋。読書の秋。スポーツの秋。外界では様々な言葉が冠されている所から見て取れるように、秋とは四季の中で春と肩を並べるほど賑わいが目立つ季節である。理由としては夏が過ぎ去り残暑を解消した秋の気温が様々な活動に対して非常に適しており、更に多くの穀物や果実が実りを迎え豊穣の潤いを人々へと施し、多年生の動物たちが冬ごもりの為に活発となるからではないだろうか。

 

 幻想郷の秋も、例に漏れず騒がしかった。開発の進んだ外の世界と比べて自然の密度が高いこの大地は、原生生物は元より逞しく日々を過ごしている人間、そして彼らを襲い退治される妖怪までもが、秋の過ごし易い空気に心身共々解されて活動的になっている。

 

 そんな秋の恩恵を色濃く授かっている地の一つに、無論妖怪の山も含まれていた。

 イガに包まれた山栗や秋の山の代表格とも言える団栗がそこかしこに転がり、銀杏独特の匂いが鼻を撫でる。実った果実を胃袋に収めようと躍起になる野生動物たちの姿があちこちに映り、自然の賑やかさは衰える事を知らない。加えて山全体は秋の雅な色に覆われ、空から見下ろしても遠くから一望しても歪む事の無い絶景を生み出している。

 

 尤も、それは昼間限定の事ではあるのだが。

 

 日はとっくの前に沈み、満月が制空権を獲得した山の麓は多くの者達が眠りについているせいか、驚くほど静かな空間となっている。耳に流れ込んでくるのは落ち葉が地面に落ちる音と梟の鳴き声、そして私たちの足音と言ったところだろうか。

 

 それにしても、太陽の光で装飾された時のこの山は、著名な芸術家が思わず唸る程の壮観な風景だった事だろう。しかし私は吸血鬼。それも他のヴァンパイアより日光耐性の低いポンコツだ。昼間に動けない事はないが、リスクが大きすぎるが故に専ら行動は夜中となってしまう。すると当然、月下の山を目にする機会にしか巡り合えない訳だ。月光に照らされ、不気味ながらも神秘的な雰囲気を孕むこの光景も勿論美しくはあるのだが、やはり日の元に憧憬を抱いてしまうのは致し方の無い事だろう。例えるならば、人間が空を飛びたいと願う様なものである。

 しかし、幻想郷の人間の中には例外的に飛べる者も存在する。身近な人物では咲夜がそれの一人に該当するが……そう言えば咲夜はどう言ったメカニズムで飛行しているのだろうか。確か魔法の類は使えないと言っていた覚えがあるのだが。

 

 まぁ、そんな事はさておき。

 

「……静かな山だな」

 

 紛れも無い本物の満月が夜を支配していると言うのに、一向に妖怪を見かけない。今こそ、暗闇に生きる妖怪が本領を発揮する時刻だと言うのにだ。ここは本当に妖怪の山なのかと思わず疑ってしまう。

 

「…………、」

 

 別に相槌や会話を求めた訳では無かったのだが、やむを得ず意識してしまう程に、山に足を踏み入れてから美鈴が一言も口に出さない。ただ黙々と、私の背後を専属の従者の様に着いて来るのみだ。

 

 ぶっちゃけると気まずい。物凄く気まずい。

 

 彼女が前々から―――正確には初めて顔を合わせた時から、何というか、私の事を館の住人の中でも特に畏怖している節がある事は知っている。小悪魔の様に純粋な恐怖を抱いているのではなく、どこか過大評価し過ぎている面が強いのだ。それは私の不条理な魔性のせいで錯覚しているだけだと何度も説得しているのだが、毎回ガチガチになってしまうのみで芳しい成果は今のところ上げられていない。現に、私と二人きりの彼女は魂の抜けた人形の様に見える。

 

「美鈴」

「! は、はい」

「この状況で緊張するのは分かる。だが我々は祭りに招かれた身だ。暗い空気は押し込んで、今夜は思う存分楽しもうじゃないか。これからは無礼講で構わない」

「……承知、しました」

 

 ……ふーむ、やはり私の言葉では精神を余計に揺すってしまうだけで、かえって逆効果なのだろうか。何だか美鈴の放つ雰囲気が更に刺々しくなってしまった様な気がする。

 であれば黙って山奥を目指すのみとなるのだが、やはり気まずいな。招待状の裏側に隠された目的はさておき、祭りに招待されている筈なのに気分はまるで通夜である。山との良好な関係を築くためにも、なるべく明るい雰囲気を心がけたいところだが。

 

「……ん?」

 

 ふと、一瞬だけ森の奥で何かが光ったように見えた。滑らかな金属が反射した光の様な、チカッとしたものがチラリとだけ瞬いたのだ。

 こんな鬱蒼とした夜の森の中で光を強く反射させるものなどあるのだろうか。ああ、もしかしたらあの方角に天狗たちの里があるのかもしれないな。何にせよ、気になったのならば確認すれば早い事だ。

 

 そう思い至った私は、身体改造の魔法を眼球に対して行使する。

 夜の闇の中でも問題なく地形や色を把握できるのが吸血鬼の目だが、生憎遠距離を捉える望遠性能は着いていない。そこでこの魔法である。目の構造そのものを改造し、長距離を眺める事の出来る仕組みへ組み替えた。無理やり体を作り変えるから少し痛いのが欠点だな。

 

 改造が終わり、視界が鮮明になった所で先ほどの場所へと目を向ける。どうやら光の発生源は、大きな樹木の枝の上だった様だ。

 そしてよく目を凝らせば、あちらからも誰かが私を注視している事が伺えた。

 月明りを反射する白い髪に、頭襟と似た形の小さな帽子。頭部へ存在する犬の様な二つの耳。修行僧を思わせる、ゆったりとした服装。これらの要素から察するに天狗の一種……更に言えば、イヌ科と類似した耳が見られる事からおそらく、年を取った狼が変化したと言われる白狼天狗ではないだろうか。

 白狼天狗は天狗の中でも地位が低いと聞く。妖怪の山が縦社会となっている以上、俗に言う下っ端が山の麓を警備していてもおかしくは無いか。

 

 取り敢えずいつもの様に警戒される訳にもいかないので、まずは敵で無い事を証明しておかねばなるまい。この距離で私の姿が見えているのだ、恐らくこれも見えるだろう。補足としてリップモーションもハッキリと送ればこちらの意図が理解出来るはずだ。

 懐に手を伸ばし、招待状を取り出そうとする。

 

 ―――その時だった。

 

『ォォオオオオオオオオオオオオオオオオオ―――――――――ッッ!!』

 

 山全体へ響き渡る程の、力強い遠吠えが山に爆撃でも行われたかのように轟く。それは眠っていた野鳥も起きていた獣も全て一帯から遠ざけ、更に何か情報を仲間へ伝達したのか、周囲の森の影より次から次へと高速で飛び交うナニカが出現した。

 

 そして、一拍の静寂が訪れた後には。

 既に円を描く様に、白狼天狗の集団に完全包囲されてしまっていた。

 

「…………、」

 

 何だか無性に、手で顔を覆って夜空を仰ぎたくなる衝動に駆られる。

 油断していたと言うよりは、失念していたと言うべきだろう。私の魔性は本来ならばこれ程までに他者へと作用するモノであると知っていた筈なのに、輝夜や紅魔館の者達と出会う内に平常の感覚が麻痺していたらしい。考えてみれば、招待されている程度で私の魔性の効果を上回る好印象を、山の住人全てが抱いている筈が無いのだ。山への来客について伝令が渡っているのは恐らく間違いないだろうが、そうであっても平常の思考を錯乱させてしまうのが私の瘴気である。加えて彼らはどう考えても山の哨戒部隊だ。侵入者に対しての警戒心は人一倍強い。そこに私の瘴気が拍車を掛けたと見て良いか。

 

 そして更に厄介な事に、恐怖と言うものは伝染する。一人が恐慌に陥れば近くの仲間が、更に仲間が……と言った具合に、集団は圧倒的な恐怖を前にするとその恐怖にズブズブはまり込んでしまい易いのだ。

 ここでの恐慌とは、重度の混乱によるパニックを引き起こしている事を指しているのではない。正常な判断能力を、警戒心と恐怖で完璧に塗りつぶされてしまっている状態を指す。

 

 つまり、だ。

 今の彼らは、私の事を山へ侵攻してきた敵だと信じて疑っていない。

 不味いな。状況はかなり悪い方向へと傾きつつある。魔力を発して瘴気の効果を攪乱させる腕輪を嵌めてこれとは、私の体質も本当に厄介極まりない。出来る事ならこの体質を大特価で市場に売り出してやりたい気分である。

 

「そこの妖怪ども」

 

 唸るように、白狼天狗の一人が言葉を投げた。どうやら、先ほど私を観察していた者の様だ。

 

「誰の許可を得て山へ足を踏み入れた。ここが我らの山と知っての事か」

 

 私たちは、山の誰かに招かれてここへ来た――――そう口にしようとしたが、ふとある事に気がついて、私は咄嗟に口を噤んだ。

 今の彼女たちは、言うなれば起爆寸前の爆弾の様な状態だ。あとほんの少しでも背中を押されれば、問答無用で私たちへと襲い掛かってくる事だろう。私の声にも魔性の影響が上乗せされてしまう以上、下手に私自らが意見を述べるべきではない。いつもの二の舞を演じるわけにはいかないのだから。

 ここは、瘴気も何もない綺麗な美鈴に任せるのが適切な判断か。

 

 静かに彼女の肩へ手を伸ばし、掴む。同時に催眠魔法を発動。非常に効力を弱めた催眠を応用し、美鈴に私の伝えたい言葉を暗示として直接心へと送り届ける。言うなれば一方通行のテレパシーの様なものだ。直接私と思考を繋ぐと瘴気に精神を汚染され、錯乱を起こしかねないが故に可逆性を持ったテレパシーは不可能だが、これで十分望んだ効果は得られる筈だ。

 

『美鈴。私の代わりにこの場を収めてくれ。君の力を借りたい』

 

 彼女は、注視しなければ気付かない程微細な動きで頷き、肯定の意を示す。

 突然の精神干渉に多少混乱するかと思っていたが、意外な事に美鈴は冷静だった。この方法は私から美鈴へ言葉を送り付けるだけなので、彼女の心中は読めないがきっと私の考えを察してくれた事だろう。

 

 美鈴は私から招待状を受け取ると、それを手に前進していく。

 進軍先には一人の白狼天狗。最早刀と呼ぶにはあまりに乱暴な、巨大な鉈とも言える獲物を手に、彼女は狼の眼力で美鈴