腐った世界で腐り目の男は生き延びられるか。 (ぴよぴよひよこ)
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地獄が始まった日。

―――――――――――――――

 

 

 暦上では春先の、それでも吹きすさぶ風はまだ冷たい土曜日の午後。進学校である総武高は一般的には休日とされる土曜日にさえ登校を強制してくる。

 俺としては休むことも大事だと声を大にして主張したいのだが、一生徒がそんなことを喚いても何も変わりはしない。つまり無駄に体力を浪費するだけであって、休むことも大事だと思う俺はデモだのなんだのはしないのである。決して生徒指導パンチが怖いわけではない。

 

 だが今日は授業があったのではなく、数日後に控えた卒業式のために労働を課せられていたのだ。生徒会による招集は人数の多い部活、運動部で言えばサッカー部や、文化系で言えば吹奏楽部などが挙げられたが、ボランティアを掲げる我らが奉仕部にもお声がかかり、俺は貴重な休みを潰してまで体育館で紅白幕を張ったり椅子を並べていたりしたのだった。

 本来ならば正午を過ぎた今でも仕事として体育館に居たはずの俺たち奉仕部のメンバーは、現在部室で昼食をとっている。なんでも予想以上に早く設営が終わってしまったらしく、予定を繰り上げて解散となった。それも偏に生徒会の仕事の割り振りがしっかりしていたからだろう。

 一色はよくやっている、と俺は思う。あいつもあいつなりに前生徒会長のめぐり先輩を憂いなく送り出したいと思っているのだろうか。珍しく雪ノ下も褒めていたしな。無駄のない指示だわ、なんてどこか嬉しそうにしていた。こいつにとっても唯一と言っていい後輩だしな、成長を喜んでいるんだろう。

 

 で、だ。

 なんで解散になったのに部室で昼食をとっているのかというと、由比ヶ浜が一緒に食べようとごねたからだ。まあ家に帰っても小町も俺たちと似たような理由で学校へ行ったし、今日は学食も開いていないので登校途中にコンビニで飯も買ったから文句はないのだが。

 由比ヶ浜は卒業式というイベントを前にして、自分たちに残された時間を自覚したようにも見える。なにかと俺や雪ノ下を誘ってきて、遊びに行こうとしたりしている。

 俺も寂寥を覚えないわけでもない。この総武高校にはあと一年の間通う事にはなるが、部活動は引退――奉仕部に引退の概念があるのかはさておき――することになるし、受験もあって登校日数もだいぶ減ることになる。部長たる雪ノ下はどう思っているのだろう。彼女も残された時間の少なさに、一抹の寂しさを感じているのだろうか。

 

「ねえねえ、午後はまるまる空いちゃったし、どっか遊びに行かない?」

 

 前述の通りに俺たちとの時間を増やそうとする由比ヶ浜。お前は寂しいと死ぬのか。ウサギか。別にウサギは寂しくても死ぬわけじゃないらしいが。

 頭のお団子をもにもにとしているその姿はどこか恥ずかしそうにも見える。それを察したのか、はたまた自身もそうなのか、雪ノ下がはにかみながら首肯した。

 

「そうね、受験もあるのだし、勉強会を開くのもいいかもしれないわね」

 

「ええっ!? 遊びに誘ったのに勉強会になってる!?」

 

 大仰にのけ反って不満も露わに由比ヶ浜が叫んだ。雪ノ下にとっては遊ぶのも勉強するのもさして変わらないのかもしれない。むしろ由比ヶ浜と一緒にいればなんでもいいんじゃないのか。なにその百合空間。あ、いつもの事だった。

 

「お前は遊んでる余裕はあるのかよ。高校はあと一年あるけど受験はもうすぐそこだぞ」

 

「うう、ヒッキーまでぇ……」

 

 がくりと肩を落としているが、本当にこいつは受験大丈夫なのだろうか。進学校である総武高に受かったのだから、馬鹿ではないはずだ。バカだけど。どこの大学を受けるかなんて話はこれまでしたことがなかったが、それなり程度でも厳しそうに思えるのは俺だけか?

 

「あなたが正論を言うなんて、明日は槍でも振るのかしらね」

 

「正論述べただけで何で罵られてんの俺。天邪鬼じゃねぇんだぞ」

 

「あら、あなたは割と天邪鬼なところがあると思うのだけれど」

 

 雪ノ下がなんとも失礼なことを言ってくれる。俺が言ってるのは妖怪の方の天邪鬼ですけどね。そう伝えても「あなた妖怪じゃなかったの?」とか言われそうなので黙っておく。

 由比ヶ浜はうんうんと頷いてるし。俺は捻くれはしていても天邪鬼ではないと思うんだけど? 自分に素直だしな。あー仕事したくねぇ。

 遠い目をして黙りこんだ俺は会話の中から外されたらしく、特に追及もなしに話が進んでいった。

 

「そうね……、一度勉強道具を取りに行くのも手間でしょうし、今日は勉強会はやめておきましょうか」

 

「ほんとっ? じゃあさじゃあさゆきのーん、カラオケとかどうかな!」

 

「カラオケは……やめておきましょう」

 

「えー、ゆきのん歌上手いのにー」

 

 歌の上手い下手じゃなくて数曲歌ったら尽きる体力が問題なんだろ。そう思いつつも口には出せない俺である。君子危うきに近寄らず。八幡雪ノ下にツッコまず。また名言が生まれてしまった……。

 キャッキャウフフしている二人を眺めながらぼーっとしていると、ノックもなしに部室の扉が開かれた。その結構な勢いで、ガシャンと大きな音を立ててレールの反対側にぶち当たる。

 

「平塚先生、ノック以前に静かに開けてもらえませんか」

 

 ドアの音に肩を跳ねあげて反応した雪ノ下が恥ずかしさを誤魔化して怒りに変換している。俺は見ちゃったけどね。「ひゃっ」って声も聞いちゃったもんね。ごめんなさい睨まないでください何でナチュラルに心読んでるの怖い。

 果たしてそこに立っていたのは平塚先生だった。いつもより若干険しい顔をしているが怒りなどの感情ではなく、何か焦っているような、そんな表情で。

 

「ああ、すまない、緊急なのでな。なんでか携帯も繋がらんし直接来たんだ」

 

「緊急? 何かあったんですか?」

 

「残業だけは勘弁してください」

 

 はて、と首を傾げる由比ヶ浜と頭を下げる勢いでお願いする俺。さて、社畜に向いているのはどっちでしょうか?

 しかし平塚先生はそんな余裕はないらしく、いつもみたいな激しいツッコミも飛んではこなかった。いやあんなのツッコミじゃねぇだろ。

 

「校内に不審者が侵入したらしくてな、電話が繋がらなくて警察も呼べなくて、まだ学校にいる生徒に注意して周っているんだ。もうすぐ放送もあるだろうから、お前たちはそれまでここに待機していてくれ」

 

 不審者とはまた、穏やかじゃねぇな。由比ヶ浜も不安そうにしているし、雪ノ下は……、おい、お前捕まえようとか思ってないよなその顔。

 

「警察に繋がらないって、どういう」

 

 そこまで言って、俺の発言は途切れた。そう遠くない所から、絹を裂くような悲鳴が響いてきたからだ。

 

 この、声は……っ!?

 

「今の……」

 

「戸塚ぁあああああ!!」

 

「ちょ、ヒッキー!?」

 

「おい比企谷、待て!」

 

 由比ヶ浜たちの制止も振り切り走り出す。戸塚に何かあったら不審者の野郎ボコるだけじゃすまさねぇぞ!

 俺の後に続いて複数の走る音。先生たちも追いかけてきているようだ。由比ヶ浜はともかくとして、平塚先生と雪ノ下が後ろにいるなら心強い。平塚先生は言わずもがな、雪ノ下も合気道だか何だか習っていたはずだ。

 この時俺には、戸塚を助け出すビジョンしか見えていなかった。その後で、あのまるきり美少女の声にしか聞こえなかった悲鳴をからかってやろうとか、そんな平和な事を考えていたのだった。

 

 

 

――――――

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地獄が始まった日。②

ところどころ改稿しています。




 

 到着したのは下駄箱のあるエントランスホール。気温が低いというのに入口は開かれっぱなしで今も冷たい風が吹き込んでいる。ともあれ外に繋がるここに不審者がいることは何ら不思議ではない。

 

 だが、その光景は、不思議なんてものじゃなく。

 その行為は、不審などというレベルではなかった。

 

「あ、ひ、ひいっ……」

 

 驚いて尻もちをついていたのは先ほどの悲鳴を上げた戸塚だった。それを引きずるようにして目の前の惨劇から引き離す。

 俺が肩に触れた瞬間、驚いてこちらを見上げた顔はなんとも可愛らしいものだったが、それを楽しんでいる余裕などなかった。

 

 戸塚と同じジャージに身を包んだ生徒と、それに覆いかぶさるようにのしかかっているスーツの男。それだけなら良かった。いや良くはないだろうが、まだまともな思考を保っていられただろう。

 辺りに広がっていたのは真っ赤な液体だった。見ただけで人が流していい量を超えていると分かる。のしかかった男の口、いや顔も胸元も真っ赤に染まっていた。

 その瞬間を見ていない誰もが理解した。

 

 首を、噛み切った……!?

 

「私の生徒に、何をしているッ!!」

 

 駆け付けた俺たちの他にも周りに何人かの生徒たちがいたが、誰もがこの光景を前に声を出すこともできずに呆然と立ち尽くしていた。当然だ。人が死……いや、死んだと決めつけるわけにはいかないが、ともかく大量の血を見る機会なんて人生にそうそうない。というかあってたまるか。

 凄惨という言葉しか浮かばないそんな場面に、誰もが立ち尽くすことしかできなかったのだ。

 

 その空気の中でいち早く動きだせたのは平塚先生だった。生徒思いの彼女に、このショッキングなシーンがどの様に映っていたのか、知るべくもない。しかし、惨劇を前にして叫んだ怒声こそが答えだった。

 弾丸のように飛び出して、その勢いのまま、体重を乗せた鋭い蹴りが不審者の脇腹に突き刺さる。

 間違いなく骨の一本や二本は折れ、いや砕けているだろう一撃。あんなモノを俺が喰らったら死ぬね。だって、大の大人が数メートルノーバウンドで吹っ飛んでんだぞ。アニメでしか見たことないっつーの。

 頼もしい先生のおかげで少しだけ思考が戻ってきた。周りに居たやつらも吹っ飛んできた不審者から離れて各々が逃げ出している。俺は未だへたり込んでいる戸塚を立たせてから、雪ノ下たちを振り返った。

 

「雪ノ下、警察と救急、頼む」

「かけてるわ。かけてるけど、……通じないの」

「な、なんでっ、こんな時に!」

 

 俺が言うまでもなく、携帯を耳に当てている雪ノ下と由比ヶ浜。しかし先ほど先生が言っていた電話が通じないというのは事実だったようで、その顔には焦りがありありと浮かんでいた。

 

「先生、そいつは……」

「…………」

 

 平塚先生は吹き飛んだ不審者から目を離さずに下がり、ぴくりとも動かない生徒の首に手を当てて首を振る。軍隊染みた行動に何者だよとツッコミたい気もしたがそんな状況ではなかった。

 

 人が、死んだ。

 

 その事実が、三半規管から平衡感覚を奪って足元がふらつく。辺りに漂う血の匂いが鼻を衝いて吐き気を催した。

 

「う、っぐ……」

 

 口を押さえてうずくまると、視界の端で何かが動いている。

 先生が吹き飛ばした不審者だった。あの蹴りを喰らってなお、起き上がろうとしていたのだ。見た目はただのサラリーマンみたいに背格好のくせに、どんな身体の作りをしてやがるんだ。

 

「ひ、平塚先生……!」

「大丈夫だ」

 

 怯えきった情けない声しか出せない自分を恥じたくなったが、先生は俺を安心させるように力強く頷いて、隙の無い構えを取る。もしここが漫画かアニメの世界であったならば、その身体からはオーラか何かが迸っていただろう。俺とさほど身長も変わらないはずの女性の背中は、それほどまでに頼もしかった。

 

「う……」

 

 その時、死んだはずの生徒がうめき声を上げた。

 俺も、平塚先生も目を見開いてジャージ姿の男子を確認する。手も足も、間違いなく動いている。うめき声と一緒に、その口からごぼ、と嫌な音を立てて血があふれ出した。

 

「動くな! 大丈夫か、私が分かるか?」

 

 先生が慌ててしゃがみこみ、白衣を脱いで真っ赤な首に押し当てた。まだ生きているなら、これ以上血を流させるわけにはいかない。

 まだ希望はある、のか。後ろを振り返ると雪ノ下たちは今も携帯を耳に当てて焦燥しきった顔をしている。

 くそっ、警察も救急もなにをしているんだ? いら立ちを感じながら俺も携帯を取り出して119にコールしてみると、回線が混みあっている旨を機械音声が喋り続けていた。

 

「先生、ダメです、救急に繋がりません」

「くっ、とりあえずこいつを頼む。私はあの男を取り押さえるから、それから保健室へ向かうぞ!」

 

 そう言って今も朱に染まりつつある白衣を見やる。男子生徒は白衣を押し付ける平塚先生の手を掴んでいた。

 先生はその男子を宥めるように、優しい口調で続けた。

 

「大丈夫だ、絶対に君を助ける。だから少しだけ待って――」

 

「――――え?」

 

 漏れた声は、誰のものだったのか。

 平塚先生の右腕から血飛沫が上がっていた。

 男子生徒が掴んでいた腕に首を伸ばして歯を立てていたのだ。

 

「っぐ、あああ!」

 

 噛みつく、というより噛み千切る、が正解だろう。腕を覆っていたタイトスーツの生地ごと、平塚先生の腕の肉を食いちぎっていた。

 悲鳴とともに血があふれ出す。男子生徒から逃れるように二歩、三歩と後ずさると、そこには。

 

「先生! そっちはダメです!」

「うぐ、あっあぁあああ!?」

 

 慌てて注意するも時既に遅し、先ほど吹き飛んだ不審者は立ち上がっていて、ゆっくりとではあるがこちらに向かっていたらしい。自分の方へよろめいた平塚先生に掴みかかると、肩口に歯を食いこませたのだ。

 

「きゃあああ!?」

「せ、先生!」

 

 由比ヶ浜が悲鳴を上げ、雪ノ下は助太刀しようと駆け寄ってくる。

 俺はあまりの恐怖に、しりもちをついてずりずりと後退することしかできなかった。

 

「来るな!」

 

 先生のその声に雪ノ下の足がぴたりと止まった。不審者に後ろから組み付かれながらも、生徒を思いやるこの教師は本当に良くできた人だろうと思う。だが、今はそんな余裕がある様には思えない。

 しかし先生はその不安を不審者ごと振り払った。肘で腹を強く打たれた不審者はまた何メートルか吹き飛ぶ。しかしやはり、先ほどと同じようにゆっくりと起き上がろうとしていた。

 そして、倒れ伏していたはずの男子生徒も。

 

「どうしたと言うんだ、しっかりしろ!」

 

 腕を押さえながらジャージ姿の男子に叫ぶも、意に介さないようにずるずると先生に向かって歩いて行く。

 どうしようもない、と決めた俺は震える脚に活を入れてなんとか立ち上がって、勢いをつけて男子生徒を突き飛ばした。

 平塚先生の横を滑っていき、起き上がろうとしている不審者にぶち当たる。それを確認して、先生をこちらへ引き寄せた。

 

「おい、比企谷! あいつは……」

「ダメです、先生。もしかしたら、……もしかしたら、アレは」

 

 何を言おうとしているんだ、俺は。そんなことが現実にあるわけないのに。この世界はゲームやアニメじゃないんだから。でも、でも、こんなことが、目の前で起きてしまったら、どうしたらいい?

 平塚先生も、まさか、と顔を青くしている。

 吹き飛んだ生徒を見ると、不審者と一緒に立ち上がっているところだった。もう不審者は男子生徒に興味がなくなったかのようにこちらに真っ直ぐに歩き出している。

 

「そん、な、ことが……」

 

 呆然と呟いた平塚先生を引っ張る様にして、雪ノ下たちの元へ向かう。どうすればいい。どうすれば……。

 

「と、とにかく、保健室へ!」

 

 だくだくと血が流れ続ける先生の腕と肩を見て、雪ノ下が叫ぶように声を上げた。だが、由比ヶ浜が動揺を隠せずにそれを否定する。

 

「で、でも、保健室は、あっちだよ……」

 

 あっち、とは。今まさに不審者と男子生徒がいる向こう側である。避けて行けばいいのだろうが、奴らがどんな動きをするか分からない以上、危険を冒すのは避けたかった。

 

「そ、れなら、……部室へ。包帯は足りないけれど、救急箱くらいならあるから」

「分かった」

 

 雪ノ下は一瞬だけ考えてそう提案し、俺も頷きそれに従った。

 痛みからか、血を流しすぎたことからかふらつく平塚先生を、俺と戸塚で両側から支える。戸塚はジャージが血に染まるのも構わずに手伝ってくれた。頼りになるな。やっぱり戸塚は男の子だよ。

 のろのろとこっちに向かってくる不審者と男子生徒を一瞥して、俺たちは部室へ向かった。

 

 

 

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地獄が始まった日。③

「やはりこれでは応急手当にもならないわね……」

 

 部室に戻ってきた俺たちは平塚先生を横にしてやり、負傷した箇所に消毒液やガーゼを押し当てていた。

 だが傷が深く、出血が治まりきらずに今もじわじわと俺の手を(あけ)に染めている。

 くそっ、どうすればいい? 雪ノ下の言う通り、これじゃあ応急手当にもならねえ。応急処置とは救急隊員が行うことで、素人の俺たちがするのが応急手当だ。こんな時も言葉選びはしっかりしてやがる。だがやはり、言葉を間違えないようにそれは現状を正しく表していた。

 刀傷に絆創膏を張るような無意味さしかないのだ。本来なら迷わず119番に頼み込むレベルのケガだ、素人の俺たちの手に負えるものじゃない。

 それでも携帯電話は非情にも意味の無い音声だけを返してくる。一体どうなってるってんだ……!

 焦りから、両こぶしを痛みが走るほどに強く握りしめていると、校内各所に設置されたスピーカーから聞きなれた声が聞こえてきた。

 

『職員室からの連絡です。三年四組(・・・・)の生徒は視聴覚室へ移動してください。繰り返します――』

 

 聞き間違えるはずもなく、一色の声だ。いつもの甘ったるいあざとさを全く含まないせいで真面目な生徒みたいじゃねえか。こんな声も出せるんだな。

 そして、職員室からの連絡と銘打っているが、これは総武高の緊急連絡措置である。そもそも三年四組なんて存在しないしな。

 

 意味は、『緊急事態につき全校生徒は体育館へ避難』。

 

 その緊急事態を目の当たりにした俺たちにすれば遅すぎるとも思ってしまうが、一色に文句を言うのはお門違いだ。

 今はとにかく、体育館へ向かうことを考えよう。

 

「今の、いろはちゃんだよね? うちの学校に三年四組なんてあったっけ?」

「由比ヶ浜さん、今のは緊急連絡よ。校内に侵入した不審者に分からないように避難指示を出したの。入学して最初の授業で教えられたでしょう?」

「え、そうだっけ……」

 

 コイツ……。ってか入学して最初の授業に出てなかった俺でも知ってたんだが。まあ他人の話を盗み聞きしてただけだけど。

 

「とにかく、体育館へ行くぞ。戸塚、また二人で平塚先生を支える。いけるか?」

「……うん、大丈夫だよ」

 

 頼もしいぜ。友人があんな目にあったばかりだというのに、戸塚は俺たちを必要以上に焦らせないためにも落ち着いてみせてくれている。俺が女だったら惚れてるな。男でも惚れてるわ。やはり戸塚の性別は戸塚。間違いない。

 

「先生、体育館へ避難します。起き上がれますか?」

 

 戸塚が平塚先生に優しく話しかける。俺も毎朝そんな風に起こしてもらいたいぜ。

 

「ぐ、……ウウ」

 

 しかし平塚先生は呻くだけで起き上がる様子がない。むしろあの大怪我で起きろという方が酷なのだ。だが、もし。もし俺の嫌な予感が当たっていたら。この世界がホラーゲームみたいにおかしくなってしまっていたら……。

 

「戸塚、ちょっと離れてろ」

「え? どうしたの、八幡……?」

 

 戸塚を引き戻して後ろに下がらせ、平塚先生の容体をじっと観察してみる。

 呻いてはいるが気を失っているのか? それだけなら背負って連れていけばいいのだが。しかし、現実はどこまでも残酷だった。

 

「ウウウ、ガアッ!」

「うおっ!」

 

 呻くだけだった先生が突如吠えた。カッと目を見開き、身体を跳ねさせる。そこからゆっくりと上半身を起こし、感情の見えない血走った両の目を俺へと向けた。

 

「せ、先生……?」

 

 脳が警鐘を鳴らしている。危険だ。近づくな。早く逃げろ、と。

 けれども彼女は、俺たちの顧問であり、恩人のようなものなのだ。俺の予感なんて当たる訳がないんだ。ちょっと、気が動転しているだけなんだ。

 そう思い込もうとしても、平塚先生は理性が感じられない赤い目でこちらを睨みつけている。俺を見たまま、ゆっくりと身体を起こしている。

 

「……くそっ!」

「はちま……、ひっ!?」

 

 俺の後ろにいて先生の顔を見ていなかった戸塚が、彼女の血走った双眸に晒されて悲鳴を上げた。

 続いて由比ヶ浜たちも異変に気付く。

 

「ど、どうしたの……?」

「早く先生を……」

 

 俺たちの代わりに全員分の荷物を持ってくれていた二人が、訝しむようにこちらを見ていた。急げという目線だったが、平塚先生の様子を見てその表情が恐怖に染まっていく。

 

「え……? せ、先生?」

 

 由比ヶ浜の声にも応える事無く、平塚先生は今も身体を起こし、俺たちの方へと動き出していた。

 

「お前ら、早く部室から出ろ」

「で、でも先生は……?」

「いいから、早く!」

 

 不安そうな女子二人を部室の外へ追いやり、俺と戸塚も廊下へと飛び出す。

 すぐにドアを閉め、丸窓から中を覗くと――。

 

「ガアアアッ!」

 

 バン! とドアが外れかねない強さで先生が両腕を叩きつけてきた。

 後ろで由比ヶ浜と雪ノ下が小さく悲鳴を上げるのを聞きながら、反射的にドアを押さえる。平塚先生はドアがスライド式なのを忘れてしまったのか、力任せに押したり叩いたりするだけで、押さえずともしばらくは持ちそうだ。

 そう判断してゆっくり部室のドアから離れると、先生は恨めしそうに丸窓を叩き、その度に赤い手形がガラスの面に残っていった。

 

「……行こう」

 

 ガタガタと揺れ続ける部室のドアを警戒しながら告げると、由比ヶ浜が怯えた声で意義を唱える。

 

「で、でも……、先生、が……」

「……もう、ダメだ」

「だ、ダメってどういうこと!」

「俺だって分かんねえよ!」

 

 思わず叫んでしまい、三人がびくりと身体を震わせた。

 怖がらせるつもりはなかったが、俺も訳の分からない状況に憔悴しているらしい。くそ、落ち着け……。

 

「本当に、なんなの……? 先生はどうなってしまったの……?」

 

 雪ノ下が理解ができないと言いたげに、しかし今日ばかりは可愛らしく首を傾げるのではなく唇を戦慄かせながらつぶやいた。

 これまでの出来事から、根本的な原因は分からないが、どうして平塚先生がああなったのかは想像がつく。だがそれを雪ノ下に説明しても、こんな奇怪な現象をそのまま飲み込んでくれるとは思えない。俺がおかしくなってしまったと思われるのがオチだ。今はまだ、話すことができない。

 

「……とにかく、早く体育館へ行こう」

「そう、ね……」

 

 雪ノ下は必死に事態を把握しようと頭に指を添えながらも頷く。由比ヶ浜と戸塚は納得はできないが、今もドアを叩き続けている平塚先生の様相をちらと見て肩を震わせてから、歩き出した俺たちに続いた。

 

 ばん、ばん、と断続的に響くドアの音が平塚先生の助けを呼ぶ声にも聞こえ、後ろ髪を引かれながらも俺たちは体育館へと急いだ。

 

 

 

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地獄が始まった日。④

 

 体育館には俺たち奉仕部と同じように、休日返上で卒業式の準備を手伝っていた生徒たちと先生たちが溢れていた。

 ほとんどの生徒は何が起こったのか分かっていないようで、中には笑いながら友人とお喋りに興じている奴らもいるが、一部の、エントランスホールでの出来事を見ていた生徒は顔を真っ青にしてすがる様に携帯に耳を当てている。

 それを見て俺も携帯を取り出し、小町に連絡を試みてみるも、やはり電話は不通のままだった。

 この事件……と言っていいのかは分からないが、それがこの学校内だけの出来事ならば小町を心配する必要はないが……。もし、千葉中、いや日本、もしかしたら世界中でこんなことが起きているのなら。

 俺は、どうすればいいのだろう。何をすればいいのだろうか。

 

「あ、先輩!」

 

 雑多とした人ごみの中から、先ほどスピーカーから流れたのと同じ声が聞こえた。

 ててて、とあざと可愛らしく走り寄ってくるのは卒業式の準備に駆りだす部活に奉仕部の名を挙げた生徒会長、一色いろはだった。

 

「いきなり先生に緊急連絡放送しろーって言われたんですけど、何があったんですか?」

「それは……」

 

 こいつはまだアレを見ていないのか。

 まあ、準備が終わって職員室にでも居たのだろう。錯乱させないためにも生徒には最低限の情報しか渡さないだろうし、一色は連絡だけ任されて先生たちは事態の収拾に走ったのか。その人たちも無事だといいが。

 

「俺も、まだよく分かってないが……。一色、様子がおかしい奴には近づくなよ。知ってる奴でもだ」

「え、なんですか? 他の男と喋るなって意味ですかすみませんドキっとしましたけど私は縛られるのが嫌いなのでごめんなさい」

「一色。……真面目に聞け」

「は、はい……。本当にどうしたんですか、先輩?」

 

 いつもの調子でフラれたが、忠告はきちっとしておいた。まだ全容は話せないが……。校内で人が死んだなどと言われたら恐怖が伝播してしまうかもしれない。集団が恐慌状態になるのは不味い。

 一色はまだ不安そうに俺を見上げているが、どこまで話したものかと考えあぐねていると、体育館の壇上に一人の先生が上がった。俺には見覚えが無いが、スーツを着ているし先生だろう。

 

「全員注目!」

 

 大きな声が体育館に響き渡った。

 喧騒が消え、シンとした空気が行きわたる。

 まだぽそぽそと喋る者がいるも、朝礼のように完全に静まるのを待たずに先生が話し出す。

 

「この学校に、不審者が侵入しました。それにより、負傷者も出てしまいました……、何故か電話が通じずに警察に通報することもままなりません」

 

 ざわり、と生徒たちに緊張が走った。

 騒ぎかける彼らをたしなめることなく、先生が続ける。

 

「事態が落ち着くまで君たちにはここで待機してもらいます」

 

 緊張の次は不安と不満が生徒たちの間で膨らんでいく。

 だがこの状態で生徒だけで帰らせるのも、先生たちの立場からしてみれば無理な話なんだろう。

 負傷者と言ったが、正確には死傷者、だ。最初に襲われていたあの生徒は、完全に死んでいたにも関わらず動き出した。あれを生きているとするなら負傷者でいいかもしれないが。

 

 だから、平塚先生、も……。

 このことは、まだ雪ノ下たちには伝えられない。彼女たちはまだ、平塚先生が生きていると思っているだろうから。

 伝えれば、こいつらだけでなく、ここの全員がパニックになりかねん。正直に言うと、俺も平静を装うのが精いっぱいだ。今すぐにでも泣き叫びたい気分なのだ。

 

 あの先生が。

 曲がりなりにも、初めて俺を気にかけてくれた先生が、――死んだ、なんて。

 そんなことが、すんなり受け入れられるわけがない。

 

「比企谷」

「……葉山か」

 

 人ごみから一歩引いていた俺たちのグループに葉山が話しかけながら近づいてきた。

 そういえばサッカー部も呼ばれていたんだから、部長であるこいつがいるのも当然か。後ろの三浦は何でいるのか分からんが。

 戸部はおらず、こいつの周りにもサッカー部らしき人影はない。まあ作業が終わり次第帰ってもよいとお達しが出ていたし帰宅したのだろう。そのまま部活が始まった吹奏楽部や、戸塚のテニス部などはまだ残っていたみたいだな。

 

「いろはと一緒に職員室にいたんだが……、この騒ぎの原因が何か知ってないか?」

「なんで俺に聞くんだよ……」

「いや何となくだけど。君なら知ってるかなって」

 

 葉山なら、事実を伝えても冷静に聞いてくれるか?

 少なくともこいつがパニックになるところは想像できないしな。

 俺もこんな大事(おおごと)を自分だけで抱えているのが限界っぽく、柄にもなく誰かと情報を共有したいと思ってしまっている。

 一色や雪ノ下たちから離れ、葉山についてこいと合図を送る。

 訝しがりながらも素直についてきた葉山に、小さな声で話しはじめた。

 

「いいか、落ち着いて聞けよ」

「……分かった」

 

 俺の真面目なトーンを受けて、葉山も神妙な顔で頷く。

 さらに声をひそめながら話し続ける。これから話す内容は誰にも聞かれたくない。

 

「……人が死んだ。少なくとも二人」

「なん、だって?」

「で、だ。それは、良くはないがまず置いといてくれ」

「な、人が死んだんだろ……!?」

 

 不謹慎だ、と言いたげな葉山に、分かっている、と頷き返すが本題はここからだ。異常なんて表現では表しきれない現状を、どうにか伝えるべく言葉を選んだ。

 

「葉山、お前ホラーゲームってやったことあるか?」

「……それがなんだっていうんだ」

「いいから」

 

 不承不承だが、「ああ」と頷いた葉山。ならば話は早い。

 

「俺もまだ信じられないんだが……、死んだやつが、動き出したんだ。まるで……ホラーゲームのゾンビみたいに」

「嘘だろう……?」

 

 嘘ならどれだけ良かったことか。これが夢なら今すぐ覚めてほしい。もしそうなったら、これからは真面目に生きていきますから。ダメですか、神様。

 俺の沈痛な面持ちを見て、ふざけているのではないと分かったのだろう、葉山も黙り込んで何か考え込んでいる。そして、顔を上げて言葉を紡ぎ始めた。

 

「その動き出したって人は、本当に死んでいたのか?」

「ああ。……喉を食いちぎられて、脈が無くなったんだ。あれを死んでないって言うんなら医者が要らなくなるレベルだ」

 

 あの時点で生きていたとしても、ちゃんとした処置も受けずに動き回っているのだから、あれで正常な生者と言い張れるのならば、本当に医者はこの世に必要なくなってしまう。

 

「そう、か……。そんなことが……」

「まだ他の奴らには言うなよ。どうなるか分からんからな」

「……分かってるよ」

 

 やはりこいつは理解が早いな。流石空気読むのが上手いリア充なだけはある。

 全く解決はしていないが幾分か肩の力が抜けたな。まさかこの俺が、誰かに話して楽になるなんてことがあるとは思ってなかったぜ。

 

 気を落ち着かせるためにも深く深く息を吐いた時、体育館のドアが勢いよく開かれた。その場にいた全員がぎょっとして振り返る。すわ、不審者が侵入してきたのか、と。

 だが姿を現したのは息を切らせた川崎沙希だった。ポニーテールにした青みがかった髪を顔にはりつかせ、肩で息を切らしながらキョロキョロと辺りを見回している。

 

 辺りを伺っているが川崎も俺と同じく知り合いが少ないのだろう、どこのグループにも近づくことはない。少しでも安心させるために話しかけるべく俺から彼女の傍へと歩み寄っていった。やはり柄でもないが、今は緊急事態なのだ。

 

「川崎、お前も来ていたのか」

「……比企谷。屋上にいて、放送を聞いてここに来たんだけど」

「そうか。大丈夫か? どこか、ケガとかしてねえか」

 

 今日は部活単位で呼ばれた人間しか学校に来ていないはずだが、そんなことはどうでもいい。川崎は見たところ、息は切らせているがケガをしている様子はない。

 

「大丈夫……はあ、なんか様子のおかしい奴らに追い回されたけど……」

「……無事で良かった。学校に不審者が侵入して、そいつらに襲われた奴も何かおかしくなってるんだ。まだよく分かっていないが」

 

 川崎は普段の勝気な表情を曇らせて縮こまっている。

 まあこいつも高校生の女の子なのだ。緊急事態にいつも通りでいろなどとは言えない。

 

「今日は進学のことで先生と話をしてて……、夕方までは暇だし屋上でお昼をとってたんだ。そしたら、街の様子が……。色んな所から煙とか上がってて、サイレンも聞こえてきて。それで放送があって、ここに来たんだ」

「そうなのか。……学校の外も、おかしくなってるってのかよ」

 

 嫌な予感ばかり、どんどんと当たっていきやがる。

 この奇怪な事態は総武高だけでなく、少なくともこの地域一帯で起きているのか。

 小町……。

 

「けーちゃ……、京華を保育園に預けてるし、早く迎えに行きたいんだけど。先生たちは? 警察とか呼んでないの?」

「電話が通じねえんだ。俺も、早く小町のところに行きたいんだが……。先生たちは、事態が収まるまでここに待機してろってよ」

「そんな……」

 

 絶望したように顔を伏せる川崎だったが、次の瞬間には覚悟を決めたようにいつもの勝気な表情に戻っていた。流石は俺が認めたブラコン&シスコン。やるべきことは決まったか。俺も、兄として妹を助けに行かないとな。

 

「比企谷」

「分かってる。俺も、ここを抜け出して小町のところへ行く」

「……そう。あんたの妹って中学校にいるの? もしそうなら大志もいるはずだから、あんたにお願いしたいんだけど」

「ああ、了解した。とりあえず、雪ノ下たちに抜けてくることを伝えてくるわ」

 

 無言で頷く川崎を後にして、雪ノ下たちのところへ戻る。

 彼女たちは不安そうにしてはいるが、人が多い体育館へ来たことである程度は落ち着いていた。とくに由比ヶ浜は三浦と会ってようやくその顔に笑みを取り戻し始めていた。しかし、それはすぐに曇ることになる。

 

「雪ノ下。川崎に聞いたんだが、学校の外もどうにもおかしいことになっているらしい。俺はここを抜けて小町を迎えに行く」

「待ちなさい。まだ何が起こっているのかも把握できていないのに、闇雲に向かうのは良い策とは言えないわ」

 

 雪ノ下は正論を述べてはいるものの、憂色が混じった表情はすがる様にも見えた。どれだけ勉強や運動ができようと、どれだけ困難を乗り越えて来ようとも、彼女の人生においてこれほどの異常事態はなかっただろう。というか有ったら怖すぎる。

 

「それはそうだが、頼るべき権力も今は使えないみたいだしな。自分でやるしかないだろ」

「で、でもヒッキー、危ないよ……」

 

 雪ノ下のそばに寄り添っていた由比ヶ浜も不安げに述べるが、俺の意志は固い。

 千葉の兄なら、今行かなくていつ行くのか。

 

「危ないのは小町も同じかもしれないんだ。俺は行かなきゃならん」

 

 きっぱりと言い切ると、雪ノ下は目を瞑りながら深く息を吐いて、

 

「私も行くわ」

 

 と、真っ直ぐに俺を見て言ったのだった。

 正直に言えばこの状況での同行は心強いが、雪ノ下は雪ノ下でやることがあるんじゃないのか?

 複雑な心境が顔に出ていたのか、雪ノ下はぽそりと付け足した。

 

「小町さんには私も世話になったこともあるし、ここに居ても、家に帰っても待つことしかできないなら、ね」

 

 確かに雪ノ下は一人暮らしだが、実家の方はてんやわんやじゃなかろうか。この異常事態に県議である彼女の父はどんな行動を取っているのか、想像もつかん。

 しかしまあ、そう言ってくれるのならば強く跳ねのける理由もないか。

 

「分かった。じゃあ、着いてきてくれ」

「あ、あたしも行くっ!」

 

 雪ノ下に釣られるように、由比ヶ浜も同行を申し出てきた。

 由比ヶ浜こそ、着いてくる意味はないはずだ。ここに居た方がまだ安全かもしれないのだ。今は、流されて選択をする場面ではない。

 そういったことを伝えても、由比ヶ浜は雪ノ下の制服の袖を掴んだまま離さない。

 

「だって……、こんな状況で一人で帰るなんて無理だよ……。あたし、家がちょっと遠いし……」

 

 ああ、確かにな。この中ではこいつだけがバス通だったな。今バスが動いているとは思えないし、いつになるかは分からないが歩いて帰るには怖い距離かもしれん。

 この状況ならば距離的には同じく遠くにあろうと雪ノ下のマンションにでも泊めてもらった方がいいのかもな。

 分かった、と了承を伝えてから戸塚にも向き直る。

 

「戸塚、そういう訳で俺たちはここを抜け出す。お前はどうする?」

 

 戸塚は可愛らしく逡巡してから、決意を感じさせる顔で俺を見た。

 

「僕も行くよ。学校の外までだけど……。家でお母さんが一人でいるはずだから」

 

 そうか、強いな、戸塚は。目の前で部活の仲間があんなことになったというのに。

 先ほどまでは顔を青くして震えていたのに、今はこんなにも強い目をしている。

 

「よし、行こう。おい、川崎!」

 

 少し離れた位置で、連絡できないものかと携帯と格闘していたっぽい川崎を呼び寄せる。ため息と共に携帯をポケットに戻しつつ、青い髪を揺らしてこちらへ近づいてきた。

 

「話は決まった?」

「ああ、5人で学校を出て、そこからはそれぞれ別行動になるが」

「ん、了解。で、どうやって抜け出す?」

 

 川崎が体育館の出入り口や、グラウンドに面した扉を確認しながら聞く。

 確かに扉には先生が付いていて、目を光らせている。だが俺たちを監視しているのではなく、外からの侵入を警戒している感じだ。

 

「適当に誤魔化すさ。親と連絡が付いて迎えに来てもらえたとかな」

「……それで大丈夫なの?」

「堂々としてれば大丈夫だろ」

 

 いまいち納得のいかない様子だが、理由なんてどうでもいい。ごり押しで外に出てしまえばこっちのもんだ。

 さあ行くか、と鞄を背負いなおしたところで、くいくい、と袖が引かれた。

 引かれた方へ顔を向けると、一色がうるうるとした目で俺を見上げていた。その顔はあざといっちゃあざといが、どちらかといえば不安が勝っているだろうか。

 

「せんぱい、行っちゃうんですか?」

「ああ。妹が心配だからな」

「こんな時にもシスコンなんですね……」

 

 ほっとけ。そういうお前は割とキャラぶれるよな。もう少し良い猫被っとけよ。

 

「まあ一色はここに残っておけよ。いざとなれば葉山に助けてもらえ」

「それは魅力的な提案なんですけどぉ……、わたしは――」

 

 一色が何かを言いかけた時、体育館に悲鳴が響き渡った。

 

「きゃあああっ!!」

「か、かなちゃんっ! どうし――ひっ!?」

 

 はっとして騒ぎの中心を見やると、エントランスホールで見たように様子のおかしくなった女子生徒が友人であろう女子に噛みついているという惨劇が視界に映った。

 噛みついている方は大怪我をしているわけでもなければ、死んでいたはずもない。腕に包帯が巻かれているが、それだけだ。

 それだけ、で……。

 あの有名な、映画化されたゲームのように、感染したとでも言うのか。

 そんな、そんなバカなことが。

 

「な、なに……あれ……」

 

 一色が自分の見ているモノが信じられないように瞼をこすっている。

 誰も動けずにいる中、襲われている方の女子生徒の抵抗が弱まり、やがて動かなくなってしまった。

 それと同時に、他の生徒も悲鳴を上げながら彼女たちから距離を取り、体育館の中は一気にパニックへとなった。

 

 一部の生徒が逃げ惑い、止める先生を跳ねのけて出入り口の扉を開くと、外にいたであろう、死者もどき――もはや、ゾンビとしか言いようがない者たち――に襲い掛かられた。

 

「いやああああっ!」

「うわあああ!!」

 

 パニックがパニックを呼び、侵入してきたゾンビは数体だがその数だけの生者が犠牲となり、もう収拾などつけようもない事態に陥ってしまう。少しでも安全な出口を探して、人気のないグラウンド側に面している扉へと駆け出した。

 

「くそっ! おい、グラウンドの方から行くぞ!」

「あっ、せ、せんぱい、わたしも!」

「優美子、俺たちも行こう!」

「う、うんっ……」

 

 走り出した俺に、話をつけていた奉仕部女子、川崎、戸塚が続く。そして一色と、ついでに葉山と三浦も付随してきた。

 

「いったい、なんなの……!」

 

 雪ノ下がいら立ったように呟く。彼女の常識の中には、こんな状況を説明する言葉などないのだろう。雪ノ下たちには人がいきなり豹変して誰かに襲い掛かるという事実だけが見えている。だが、実際はもっと恐ろしいことが始まっているのだ。

 

「信じられないかもしれんが、ホラー映画とかゲームが現実になっちまったと思え。奴らに噛みつかれるとああなっちまうみたいだ。できるだけ距離を取れ。恐らくだが引っ掻かれるだけでもアウトかもしれん!」

 

 走りながら後ろに続く皆に情報を共有しておく。もう隠しておく意味もない。最悪の状況になっちまった。信じられなくても、そうなってしまったのだ。

 

「嘘でしょ……!」

「そんなことって!」

 

 振り返らずに、女子の誰かが零すのを耳だけが捉える。俺だって信じたくねえよ。

 昨日まではいつも通りの日常が続いていたのに、どうしてこうなっちまったんだ。俺たちはいつの間に地獄に落ちちまったんだ……。

 

「比企谷、どうするの……?」

 

 素晴らしい脚力を見せて俺と並走する川崎が問う。

 今、何が必要だ? 身を守るために。小町や、雪ノ下たちを守るためには……。

 

「外に出る前に、部室棟に寄ろう。野球部の部室からバットでもなんでも、武器になりそうなものを借りていく!」

「ぶ、武器って!」

 

 由比ヶ浜が批難するように叫ぶが、もう体裁もなにも取り繕っている場合じゃない。あのゾンビが、本当に死んでいるのか、元に戻せるかなんて俺には分からない。しかし、必要ならば……たとえ生きていたとしても、襲って来るなら。その時は……。

 

 グラウンドを横切り、幾人かのふらつく影を警戒しながら部室棟に到着した。

 低いプレハブ小屋のようなひとつながりの建物から、野球部の立て札を確認してドアのガラスをたたき割る。内鍵を開け、中に侵入して金属バットを拝借した。川崎と戸塚、葉山が同じくそれを手に持ち、ごくりと生唾を飲み込んだ。

 

「よし、西側の柵を越えて外に出る」

「ああ」

 

 できるだけ開けた場所を選び、脱出経路を算出する。部室棟の前を走り抜けてそのまま真っ直ぐ柵を越えていくコースだ。

 まだ不安そうな女子たちを後ろに、物陰に気をつけながら進んでいく。先頭に俺と葉山、一歩後ろに戸塚と川崎が控えてくれている。川崎を除く女子たちには背後や左右を警戒してもらった。

 グラウンド側には何体かの"奴ら"が蠢いているが、距離があるため危険度は少ないと判断して無視。

 そして、部室棟の端、ラグビー部の部室の角を通る時、大きな影が飛びかかってきた。

 

「うっ、お……、葉山!」

「大丈夫だっ……! くそっ、大和……!」

 

 死角から飛びかかってきたのは葉山グループの一人、ガタイの良い男子生徒の大和だった。一番近くにいた葉山がターゲットとなり、しかしなんとかバットで掴もうとしてくる手を防ぐことができたみたいだ。さすが、運動神経が良いだけある。

 

「よし、そのまま押さえてろ! ……大和、恨んでくれてかまわん!」

 

 先ほど入手した金属バットをこんなにも早く使うハメになるとは思わなかったが、いたしかたない。潰す、いや、ここまで来たら誤魔化してなんていられない。『殺す』覚悟はもう、してしまったのだから。

 思い切り振り被り、恐らく弱点、というかそうであってくれと願うしかない頭部へ狙いを定める。

 

「待て、待ってくれ比企谷! 大和、俺だ! 目を覚ませ!」

 

 葉山が慌てて俺を制止する。既に正気など欠片も残していない大和へ向かって呼びかけているが、そんなことをしたって無駄でしかない。友人を思う心からの行動、それを責めたくはないがもはや事態は緊迫などというレベルでなく差し迫っているのだ。

 身体へ伸ばしてくる手を巧みに防ぎながら何度も名前を呼ぶも、やはり反応はなく。唸り声だけを上げて、気が触れていることしかその姿からは読み取ることができなかった。

 

「葉山、無駄だ。分かってんだろ!」

「だが……くそっ、大和っ、ぐ、ああああ!?」

 

 ついに恐れていたことが起こってしまった。いくら葉山が運動神経に優れていようと、単純な力比べなら大和は互角かそれ以上だ。しかも理性を失って、明らかにリミッターがかかっていないその膂力は、いかに上手く抑えようとも容易くそれを弾き飛ばす。

 掲げられていたバットに腕を叩きつけた大和は、ガードの下がった葉山の右手を今度こそ掴みとり、そして一気に引き寄せて噛みついたのだった。

 

「隼人!!」

「ひっ、葉山先輩……っ!?」

 

 背後で女性陣が悲鳴を上げる。それを聞きながら俺は自分を責めていた。

 俺が葉山の言うことなど無視して大和を潰していれば、その後いくら責められようとも葉山は無事でいられたのかもしれない。この男をここで失うのは痛すぎる損失だ。この後すぐに別れて行動するということになっても、雪ノ下家かそれに並ぶ名家だと分かっているのはこいつだけだ。

 打算的で嫌になる思考だが、この状況、俺一人で小町を守り切れる自信なんてない。強力なバックボーンを持つ誰かに保護してもらうことも念頭に置いていた俺には、葉山には無事でいて欲しかった。そうでなくともリーダーシップを取れる人物が、今は必要だというのに。

 

「くっそぉおおお!」

 

 遅すぎる後悔を雄叫びに乗せて、思い切りバットを叩きつけた。力の入りすぎたスイングはしかし、大和の頭部を狙い違わず打ち抜き、一撃で沈めるには至らなかったが吹き飛ばすことには成功した。大和は飛び出してきた部室の角の方へと転がり、痛みを感じているのか定かではないがすぐには起き上がってくる様子はない。

 解放された葉山が腕を押さえて後ずさり、三浦がそれを支えるように後ろから抱き留めた。

 

「隼人、隼人っ! 大丈夫!?」

「ぐ、うう、優美子……離れてろ……!」

 

 痛みに呻きながらも三浦を気遣う葉山。そう、すでに手遅れなのだ。噛みつかれてしまったら、この先いつになるかは分からないが、今度は襲う側として俺たちの前に立つことになるかもしれないのだ。ゆえに、心配そうに寄り添う三浦を遠ざけようとするも、彼女は頑なに葉山のそばを離れようとはしなかった。

 

「み、三浦先輩……!」

 

 一色が何かを言いかけて口をつぐむ。由比ヶ浜も同じグループである葉山、そして吹き飛んでもがいている大和にさえ心配そうな顔を向けていた。

 葉山が、やられた。どうすればいい、何をすればベストなんだ。

 焦る思考の中、俺も知らなかったほどに非情な部分が囁く。

 

 ――――見捨てるしかない。

 

 だが言えるはずもない。ここにいるのは少なからず葉山と関わりがある面子だ。たとえこいつを好いてなくとも、見捨てるなどできようはずもなかった。だが、俺よりももっと、冷静に現状を見ていたやつがいた。

 

「みんな、先に行って。あーしたちは、ここに残るから」

「優美子!?」

 

 三浦の言葉に、由比ヶ浜が叫んだ。ここに残る。それは、ここで死ぬという意味そのままだった。彼女はそれほどまでに葉山を思っていたのか。死ぬまで、いや死んでもそばに寄り添っていたいと思えるほどに。

 

「優美子……ダメだ、そんな……」

 

 腕を噛まれただけ……「だけ」と言うには大きすぎる負傷だが、それでも歩けないほどではない。そのはずなのに、葉山はすでに身体に力が入らないのか、うずくまるだけで立ち上がることすら困難な様子だ。それでも、顔だけを上げて三浦に懇願するような視線を向けていた。

 

「隼人……。あーし、隼人のことが好き。ここで離れるくらいなら、死んだ方がマシってくらい」

「優美、子」

 

 はっきりと言ってのけた彼女の顔は、もはや誰もが説得を諦めるくらいに覚悟が滲んでいた。それは葉山も同じだったようで、諦めた表情を俺に向けてくる。

 

「すまん、比企谷……俺はここまでみたいだ。……皆を、頼む」

 

 ふざけるな。ふざけるなよ。確かに傷を負った以上、お前はここまでだろう。無理を押して連れていったとしても、それは時限爆弾を抱えているのと同義だ。だが、しかし。

 

「くそっ!」

 

 ちくしょうが。最期まで俺に責任を負わせるのか、リア充王のくせして。

 『皆を頼む』という言葉が、呪いのように俺に染み込んでいく。こいつらを、二人を見捨てろという判断を、命令を、俺は皆に下さなければならない。

 クラスメイトの前で。幼馴染の前で。こいつに憧れている後輩の前で。

 

「分かったよ……」

「……すまない」

 

 たったそれだけのやり取りだけで、俺と葉山の間で一生分の会話は終わった。

 もうこの男とは、会うこともなく、話すことすらないのだ。

 ぼっちだった俺には、これまでと大して変わらないはずのその事実が、なぜか今はとても空虚で、悔しさを感じさせた。

 

「……皆、行くぞ」

「せ、先輩……、でも……」

「隼人くんをこのままになんて……!」

 

 一色と由比ヶ浜が俺の腕を取って反対する。あの雪ノ下でさえ、縋るような目で俺を見ていた。

 しかし、俺にできることは何もない。何もないんだ。

 今は葉山たちの犠牲を無駄にしないために、先に進むことしかできない。

 それに、こんな惨劇がそこかしこで広がっているのならば。なおのこと急いで小町を迎えに行かなければならないのだから。

 

「……恨んでくれてもかまわん。だが、今は行かなきゃならねえんだ」

 

 掴まれた腕を振り払い、今にも泣きだしそうな彼女たちに背を向けた。目の前では大和がもがき続け、葉山も痛みに呻いている。こいつももしかしたら、今すぐにでも俺たちを襲うモノとして立ちあがるかもしれないのだ。嘆いている時間はない。

 

「……さあ、早く」

 

 歩き出した俺に、振り返り振り返り、とぼとぼと続く三人の女子たち。俺の横に並んで歩いてくれる川崎と戸塚が、この上なく頼もしかった。

 少し離れたところで、後ろでドアが開き、そして閉じる音がした。きっと三浦が葉山を引きずって部室に立てこもったのだろう。そしてそこが、彼らの墓標にもなるのだ。

 

 俺が嘲笑っていた薄い関係。青春という言葉に踊らされているリア充ども。

 そんな風に思っていた彼らの繋がりは、想像以上に強いものだった。

 カーストの最上位にいた葉山は、文字通り命がけでそれを証明した。

 いつもとなりにいた三浦は、死してなお寄り添おうとした。

 

 俺の腐った目は、実のところ何も見えていなかったのかもしれない。いつも皮肉でしか言ったことがなかったが、俺はお前を尊敬するよ、葉山。そして少し羨ましい。お前はあの関係に、命をかけられると本気で思っていたんだな。俺は……俺も、そうありたい。だから、お前の最後の願いも聞いといてやる。俺の手の届く範囲で、どんな手段を取ってでも、こいつらを守ってみせる。

 

 這いずるようにして追いすがる大和を振り切り、周囲にも気を配りながらようやくたどり着いた総武高校を囲う柵が、これから何度も立ちはだかる壁の、最初の関門のように俺たちの前にそびえ立った。

 

 柵に跨り、一人でよじ登るのが難しそうな雪ノ下と由比ヶ浜、一色を支えて、全員が高校の外へと降り立つ。地獄のような校舎での出来事だったが、これからもっと凄惨な場面が目の前で起こるのかもしれない。誰もが沈痛な面持ちでいたが、いつまでもこうして突っ立っているわけにもいかない。俺には、俺たちにはやるべきことがあるのだから。

 

「じゃあ、俺たちは中学校に向かう。川崎、戸塚、……気を付けてくれ」

「うん、八幡も」

「大志のこと、頼んだよ」

 

 一応連絡先を交換し、それぞれが深く頷いて少しでも未来を明るく見せようと強がってみせる。どうか、どうか生きて欲しい。これ以上知ってるやつが減ったら、ぼっちの俺でさえ立ち直れなくなりそうなんだ。

 全員に付き添ってやりたい気持ちを堪えて、俺は二人が去っていくのを見送った。皆を頼むという遺言だが、俺の身体は一つしか無い。自分の無力さを痛感しながら、俺たちも慎重に、しかし急いで目的地へと向かった。

 

 

 

* * *

 



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地獄が始まった日。⑤

 

 学校の外は川崎が言っていたようにそこかしこでサイレンが響いているということはなかった。もちろん事態が収拾されてそうなったのならば喜びたいが、そういうわけではない。なぜ分かるのかというと、時おり悲鳴が聞こえるし、火事と思われる黒煙は今ももうもうと立ち上っているからだ。

 

「はあ、はあ……」

「大丈夫か、雪ノ下」

「大丈、夫よ……気にしないで」

「ゆきのん、もっと体重かけてもいいからね」

「あり、がとう、由比ヶ浜、さん……」

 

 角に差し掛かるたびに慎重にその先を伺い、ゾンビと思しき影も、生者かもしれない喧騒も全て避けて進む。自転車ならば数十分で辿り着く距離だが、行ったり戻ったり、時にはダッシュでの移動、しかも常に緊張状態での行軍は、もともと体力の少ない雪ノ下から強がり以外の全てを奪っていった。

 今にも泣きだしそうな顔に髪をはりつかせて息を切らす様子は、プライドの高い彼女が絶対に他人に見せない姿だ。しかし、この状況では言葉で強がってみせるのが限界なのか、由比ヶ浜の肩を借りてでもなんとか着いて来ようと必死に足を動かしている。

 

「結衣先輩も、いつでも交代しますからね」

「ありがと、いろはちゃん。あたしなら大丈夫だから」

 

 一色も見たことのない雪ノ下の乱れた姿を慮っている。由比ヶ浜は体力がないわけでもないし、雪ノ下を支えられることに嬉しさも感じているのか、気丈に笑って見せた。

 

「もうすぐ到着する。休憩もなしにすまんが、頑張ってくれ」

「気にしないで、と、言った、でしょう」

 

 フルラウンドを終えたボクサーのような雪ノ下が、それでも泣き言ひとつ言わずにしっかりと着いてくる。本当に自分に厳しいやつだよ。

 あと五分もすれば目的地である中学校が見えてくるかという時に、俺のポケットの中で携帯が振動を始めた。急いで取り出して確認する。

 ――――着信……小町からか!

 

「小町! 無事か!」

「おに――、やっと……った!」

 

 言葉の合間合間に空白が紛れ込むが、なんとか聞き取れる。良かった。まだ、生きてる――!

 数秒もするとノイズも消え去り、ようやく会話らしい会話をすることができた。

 

「大丈夫か小町! 今どこにいる?」

「おにぃちゃあぁぁん……うっぐ、ひぐ……」

「落ち着け、すぐに助けに行く。今、どこにいる?」

 

 電話が繋がった安心感からか、泣きだす小町をどうにか落ち着かせる。怪我による痛みで泣いているという可能性は、あえて無視して。

 しかし、どうやら無事のようではあった。小町の後ろからは聞き覚えのある男子の声がする。大志の声だ。いつもならば脅してやる場面だったが、今はその声にホッとする俺がいた。

 

「いま、いまっ、中学の、生徒会室……」

「良し分かった、もうすぐ近くまで来てる。安心しろ。大志がそこに居るな? 電話を代わってくれ」

「うん……」

 

 小町の声が離れ、ぼそぼそと音が聞こえた後に大志が電話を代わった。

 

「お兄さん、大志っす!」

「おに、いや今はいい。小町もお前も無事か? 怪我はしてないか」

「大丈夫っす! 学校に不審者が侵入したって聞いて、それからすぐ、パニックになったんすけど……」

 

 どうやら小町たちの学校でも、俺たちと同じような流れで悪夢が始まったらしい。スタートがいつなのかは分からない。朝までは確かに、いつも通りの日常だったのに。

 だが今それを知るすべはないし知っても意味がない。やるべきことは何も変わらない。

 

「ああ、俺たちも似たようなもんだ。今から向かうからそこで待ってろ。お前の姉にも頼まれてるからな」

「姉ちゃんが……分かったっす!」

「小町に傷一つ付けんじゃねぇぞ」

「任せてください、絶対に守ってみせるっす!」

 

 普段ならぶん殴りたくなりそうな歯の浮くセリフも、今は頼もしく思える。電話を切るのは惜しいが、話ながら進めるほど気を緩められる状態でもない。最後に小町に一言かけてから通話を切ろうとした、その時。

 

「きゃあああ!!」

「小町!! どうした!」

 

 電話の向こうで小町の悲鳴が上がった。

 くそっ! 何が起こったんだ。確認しようにも電話が放り出されたのか悲鳴と何かが壊れるような騒音しか聞こえてこない。そしてぐしゃりという音とともに通話が切れてしまった。何かが携帯電話の上にでも落ちたのか。

 

「くそっ!」

 

 口汚く吐き捨てても何も状況は変わらない。早く、早く小町の元に向かわなければ。

 だが、どれだけ急ごうにもあと五分。危険を無視してダッシュしたとしても二、三分はかかる。

 

「比企谷くん、行ってちょうだい」

「雪ノ下、けど……」

「私のせいで間に合わなかったら、合わせる顔が無いわ……。私なら後から絶対に追いつくから……、お願い」

 

 民家の塀に寄り掛かりながら、雪ノ下がそう提案した。

 確かに最も時間がかかる理由は雪ノ下の進行ペースだ。でも彼女を置いて行って何かがあっても、俺はきっと死ぬほど後悔するだろう。小町と比べることなどできない。どちらも、秤などで比べられないほど俺の中で大きな存在なのだ。

 

「ゆきのんのことならあたしに任せて。ヒッキーは、小町ちゃんのとこに行ってあげて」

「由比ヶ浜……」

「わ、わたしも残ります。できることがあるとは思えませんけど、お二人は任せてください」

「一色……、すまん、頼んだ」

 

 二人が雪ノ下を庇うように支える。ダッシュで小町の元へ行き、また戻ってくる。その間に彼女たちも学校へ向かってくるのならば、十分もあればまた合流できるはずだ。……十分。ぼーっとしてれば気付けば過ぎているような短い時間が、この状況では恐ろしく長く感じる。何が起きるか分からない。一体の死者にでも出会えば終わりかもしれない。だが、俺には彼女たちを信じて任せるしか選択肢も、時間もなかった。

 短く答えて走り出す。バットが重くて邪魔だが、今これを捨てるわけにもいかない。代わりに特に何も入っていない鞄を投げ捨てて、曲がり角の危険も確認せずに真っ直ぐ走ると、すぐに中学校の校舎が見えてきた。

 

「っはあ、っがふ……!」

 

 運動はできる方だと自負していたが、鍛えているわけでもなく緊張状態に晒されていた俺の身体は、中学の校門をくぐったあたりで息を切らし始めていた。それでも歩みを止めるわけにはいかない。

 やたらと死体の多い校内を、吐き気をどうにか堪えながら走り抜ける。

 ここはかつて俺も通った学校だ。生徒会室は確か二階に上がってすぐだったはず。古い記憶を呼び覚まして頭の中で地図を構築しながら脚に鞭を打つ。階段の踊り場にいたゾンビ二体の頭をバットで打ち抜き、ようやく目的の場所にたどり着いた。

 

 ――――ガシャァァァアン!

 

「――小町!!」

 

 ひと際大きな音が、小町たちがいると思われる教室から聞こえた。妹の名を叫びながらその教室のドアを開くと。

 

「お、お兄ちゃん……!」

 

 果たして、小町は無事だった。怯えてはいるが、怪我の一つもない。震えた身体を抱きしめると、小町も縋りつくように俺の背に手を回した。大志は俺との約束をきっちりと守ってくれたようだ。そして、その大志はと教室内を見渡す。

 机に埋もれているようにして身動きの取れない学生服の男女が一人ずつ。先ほどの大きな音はこいつらを吹き飛ばした音か。そしてその反対側、教室の後ろ側に誂えられたロッカーに背を預けた男子が一人。

 

「大志!!」

 

 大志は、血まみれだった。

 それが返り血ならばどれだけ良かったことか。それだけならば、きっと同級生を攻撃した自責を慰めるだけで済んだだろう。けれども、それはこの悪夢のような現実においても理想を越えた願望でしかなかったらしい。

 

「おに、さん……」

「くそっ、気をしっかり持て!」

 

 いつかの葉山を責められない、無意味な呼びかけ。

 大志は身体のあちこちから血を流して、今にも気を失いそうだった。俺の方を向くその双眸は、恐らく俺の姿を捉えてはいないだろう。

 

「へ、へへ、約束は……守ったっすよ」

「ああ、ああ! 良く、やったな。ありがとう……ありがとう大志」

 

 力なく笑う年下の男子は、シスコンの俺をして妹を任せても良いと頷けるような、誇り高い男の顔をしていた。今も激痛が全身を襲っているだろうに、言うことがそれだとは。俺は、ただ、ただ感謝を述べることしかできなかった。

 

「小町、さんを……連れて、行ってください……。ここは、俺、が」

 

 大志も状況は分かっているようだ。自分がこれから、どうなるか、も。

 だから、その言葉には従う他なかった。謝罪の言葉を繰り返しながら、俺は小町を連れて教室を出る。

 

「お兄ちゃんっ、お兄ちゃん!? 大志くんが!」

「小町、あいつの意思を無駄にするな」

「……でもっ」

 

 小町だって、本当は分かっているはずだ。恐らく小町たちを襲った奴らも、さっきまでは正気を保っていたに違いない。目の前で豹変されては、この悪夢も現実と認めるほかないのだから。

 閉じたドアにカチリと施錠音が響く。あの身体で、どこまでも小町を慮ってくれる大志には、頭が上がらない。川崎にも合わせる顔がない。もし過去に戻れるのならば、もっと優しくしてやりたかった。そんなことを考えても、やはり今は今で、ここは現実だった。悠長にしていられる時間はない。急いで雪ノ下たちの元へ戻らなければならないのだ。

 

「……行くぞ、俺の後ろを離れるなよ」

「……うん」

 

 小町を連れて、来た道を戻る。どうやら小町は足を挫いているらしく、走ることができないみたいだ。肩を貸してやりたいが、不測の事態に備えるためには自分で歩いてもらうしかない。ゆっくり、ゆっくりと歩き、階段へと向かう。

 来るときは無視していた物陰に気を配りながら階段を降り、さっきブチ倒した踊り場の二体がまだ起き上がっていないのを幸運に思いながら、小町が手すりに捕まって歩く周囲を警戒する。

 

 カタン、と階段を降りたすぐそばの下駄箱から音がした。

 小町を確認してから先に降りきり、壁に張りついてその先を伺う。

 

「っは、っはあ、っく……」

「ゆきのん、もう少し、もう少しだよ」

「気を付けてください、わたしがまた先を確認してきます」

 

 音を立てていたのは雪ノ下たちだった。どうやらあれからも歩き続けていたらしく、息も絶え絶えだったが怪我もなくここへたどり着いたようだ。由比ヶ浜が支え、一色が偵察するという役割分担で、無事に到着したらしい。

 

「一色、無事だったか」

「先輩!」

 

 角から飛び出た俺に悲鳴を上げかけた一色だったが、先に声をかけたのもあってすぐにその表情は喜びへと変わっていった。喜んでくれるのは嬉しいけど、抱き付くのはやりすぎじゃないか?

 

「良かった、先輩が無事で……」

「ああ、お前らもな」

 

 泣いている後輩を無理に引きはがすのも気が引けて、頭を撫でつけていると前後から視線が突き刺さるのを感じた。

 

「ヒッキー……無事で良かったけど」

「お兄ちゃん……」

 

 睨んではいても、やはり喜びと安心が勝るのだろう。誰もがため息を零して小さく笑っていた。

 

「げっほっ、ごほ!」

 

 約一名が無傷にも関わらず死にかけていたが。

 

「すまん一色、小町を支えてやってくれるか」

「あ、はい、分かりました」

 

 進行がゆっくりだったおかげもあって、体力が残っていそうな一色に小町を任せる。数回程度だが会ったこともある彼女らは気まずい空気もなく肩を組み始めた。

 

「雪ノ下、小町が足を挫いてるみたいでな。この廊下の先に保健室があるからそこで少し休んでいこう」

「わか、ったわ。ごめんなさい」

「謝ることじゃない」

 

 雪ノ下は気遣われたことに謝罪したが、小町が負傷しているのは事実だし、足の怪我はこの先の危険度を何倍にも引き上げることになる。しっかりと治療して、体力も回復させたほうが今後のためにもなるのだ。

 廊下には死体がいくつか転がっていて、いつ起き上がってくるかも分からないが、それは外に出たところで同じことだろう。治療器具があるならば今ここで寄っていくのが賢明だ。

 

 もともと高校の上履きのまま来たこともあって靴を履きかえる手間は要らなかったが、由比ヶ浜に付き添われて歩く雪ノ下を待っているとそれなりに時間がかかった。

 きっと彼女たちと合流できて気が緩んでいたんだろう。気を抜くことなんて許されるはずもなかったのに。たぶん俺は、俺たちは麻痺してしまったのだ。身近な存在が死んだという事実が、しかも立て続けに起きたそれが、慣れろというにはあまりにも残酷すぎる現実をどこかで拒絶してしまっていたんだ。

 

 だから忘れてしまっていた。踊り場で打ち倒したゾンビは、活動を停止していなかったことを。

 

「先輩、危ないっ!」

「うおっ、いっし……」

 

 空気の抜けたゴムボールが弾むような、しかし不快な水音が混じるそれに気付き、振り返る前に一色に突き飛ばされた。咄嗟のことで加減ができなかったのだろう、肩から壁にぶつかって激痛が走る。だがそれよりも――――。

 

「っあああああああ!!」

「いろはさん!!」

「いろはちゃん!!!」

 

 悲痛な叫びが廊下に響き渡った。

 階段の上から転がってきたゾンビはその勢いのまま一色にぶつかり、けれど弾くことなく肉食獣のように捕らえて離さなかった。そして、倒れた一色の横っ腹に、思いっきり噛みついたのだ。

 

「一色!!!」

 

 小町と由比ヶ浜に続いて叫ぶ。でも、もう。

 だからとて見逃しておけるか。これからどうなろうと、目の前で後輩を食われてそのままで置けるはずがない。そいつは、そいつは俺たちの大事な、たった一人の後輩なんだ。

 

「くそったれがぁあああ!!」

 

 肩の痛みを無理やり無視して、持っていたバットを振り上げる。こんな、痛み。一色が今受けているものに比べたらゴミみたいなものだ。

 ゴギン、と嫌な音がして頭を弾かれたゾンビが一色からわずかに離れる。でも、まだ動いている。

 ごしゃ、ごしゃり、ぐしゃ。その身体が動かなくなるまで、俺はバットを振り降ろし続けた。自分の罪を、そいつになすりつけるみたいに、何度も、何度も。だが、怒りは力を生み出しはしても、やはり代償というものがあるらしく。周囲への注意を失った俺は、何も学べちゃいなかったんだ。

 

「ダメ、比企谷くん……! もう一人、来てる……!」

 

 唖然と俺を見ていた由比ヶ浜と小町。そしてバットをふるい続けた俺には気付けなかった。知っていたはずなのに。さっき、二体、打ち倒したんだ――――。

 

「ぐあ、っがぁああ!」

「ヒッキー!!」

 

 さっきと同じ音。同じように転がり落ちてきたゾンビが、今度こそ俺にぶつかって来た。その衝撃は先ほど壁に打たれたのとは比較にならず、一瞬どころでなく息が止まってしまう威力だった。そして、動けない俺に抵抗できるはずもなく、肩口に食い込む歯の痛みを甘んじて受けるしかなかったのだ。

 

「せん、ぱい……!」

 

 せっかく一色が助けてくれたのに。後輩の頑張りを無駄にするなど、先輩の風上にもおけないクズだ。ブチブチと音を立てる、さっきとは違う肩の痛みを味わいながら、俺はそんなことを考えていた。クソッタレは俺だ。これは、その罰か。

 

「お兄ちゃんを……離せぇ!」

 

 唐突に、俺に圧し掛かっていた重圧が消えた。転がって上を確認すると、俺が取りこぼしたバットを持った小町が怒りの表情でそこに立っていた。吹き飛んだゾンビは、まだ完全に死んではいないが、それでもしばらく立ち上がることはなさそうに見えた。

 まさか妹に助けられるとはな。ますますをもって情けない。俺ができることは大分少なくなっちまったが、せめてここから安全に送り出してやらなければ。

 

「わ、悪い、な。……一色、立てるか?」

「げほっ。すい、ません、ちょっと……無理かもしんない、です」

 

 ただの怪我ではないことは、身をもって知ることができた。受けた傷が異常に熱をもって、そこから全身に"何か"が確実に巡っているのを実感する。それが巡っていくごとに、力がどんどんと入らなくなっていくのだ。

 

「小町、雪ノ下たちを、案内してくれ……」

「お、お兄ちゃん……!」

 

 言うことを聞かない身体を無理やり服従させて、一色を支えてやる。歩く速度はさっきの雪ノ下以下になってしまったが、保健室へ連れて行くことくらいはできるはずだ。足を痛めた妹には申し訳ないが、小町には自分で歩いて行ってもらう他ない。

 

「すみ、ません……」

「いいんだ……俺こそ、すまなかった」

 

 俺たちを振り返りつつ歩く小町たちに続いて、なんとか、足を動かすことができた。

 

 

 

* * *

 



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地獄が始まった日。⑥

 

 

 保健室はひどい有様だった。

 そりゃ怪我人も死人も大量に出たのだから、ここもしっちゃかめっちゃかになるというものだ。幸運にも今は誰もいないし、何もいない(・・・・・)。血まみれの何かを引きずったような跡があるものの、クソみたいな現実においては実に平和な部屋であった。

 

 椅子に座る小町と雪ノ下の代わりに由比ヶ浜が指示に従ってあれやこれやと介抱してくれている。小町の足には湿布を。床に座り込む俺たちには不要かもしれないが、それでも包帯を巻いてくれた。

 

「これから、どうしましょうか……」

 

 少しだけ体力を回復させることができた雪ノ下が、なおも暗い表情で問う。誰に向かって聞いたのではなく、思わずこぼしてしまったような質問に、誰も答えることができずにいた。

 俺と一色は、ここまでだ。

 だが、彼女たちだけで、これから上手く生き延びてくれるだろうか。情けないなんてものじゃない終わりを迎えた俺が言うことじゃないのかもしれないが、それでも憂えずにはいられなかった。

 

「すまん、な。……小町を、頼む」

「…………」

 

 謝りながら、雪ノ下に託す。彼女は何も答えなかったが、それでも何かが通じたような気がした。

 あの時、葉山もこんな気持ちだったのだろうか。

 この謝罪はあいつや川崎にも向けられていた。

 何一つ約束を守ることができなかった。託された願いに報いることも。謝って済むことじゃないだろうが、もう俺には何もできないのだ。

 

「やだ……やだよ、お兄ちゃん……」

「ひ、ヒッキー……」

 

 小町と由比ヶ浜はずっと泣いている。助けに行くなんてカッコつけて、こんなざまだ。申し訳なくなって顔をあげられやしない。小町を助けてくれた大志にも……。

 思えば、随分と助けられてきたものだ。平塚先生は生徒思いですげぇカッコよかったし、戸塚と川崎には無言で、だがしっかりと背中を押してもらったし、一色には身体を張ってまで守られてしまった。

 雪ノ下と由比ヶ浜にも、いつも助けられてきたんだ。危うい時期もあったが、それでもあの奉仕部での出来事は、全て俺の宝物だった。

 はは、何がぼっちだよ。俺は、こんなにも良い奴らに囲まれていた。こいつらに囲まれて死ぬのならば、それはきっと幸せなことだ。

 

「小町……雪ノ下、の、言うことを……ちゃんと、聞くんだぞ……」

 

 きっと彼女ならば、この先も小町のことを守ってくれるだろう。責任を全て押し付けるようで悪いが、そうするより他にない。だが大丈夫なはずだ。雪ノ下は静かに涙をこぼしながらも、力強く頷いてくれている。

 

「由比ヶ浜……ハニト……連れてけなくて、悪かった……、雪ノ下のこと……支えてやって、くれ」

 

「ずるいよ、ヒッキー……一緒に死んでくれって言う方が、ずっと優しいよ、こんなの……!」

 

 バカ言え、俺は、死んでもお前たちには死んでほしくない。その中には、一色も含まれていたはずなのに、本当にダメな先輩だ、俺は。

 

「もう、行け……」

 

 今は、何時だ。地獄が始まったのが一時頃だったか。だいぶ時間をかけてここへ来たから、もうそろそろ三時くらいだろうか。春になったとはいえ、まだまだ陽が落ちやすい季節だ。明るいうちに動き出した方がいいだろう。

 

「やだ、やだぁっ! お兄ちゃん! お兄ちゃんっ!」

「小町さん……」

 

 なおも喚く小町を引きずるようにして雪ノ下が保健室から直接外へ出られる扉を開く。最後に俺の方を見て、また小さく頷いた。俺も、わざとらしく口角を上げて見せる。ここへきて、言葉さえ必要なしに通じ合えることができた。それが、少しだけ嬉しい。

 

「ヒッキー……大好きだよ」

 

 由比ヶ浜も最後に一言残して、大粒の涙をこぼしながら外へと消えていった。最後に告白なんかしやがって。俺もお前が、お前たちが大好きだよ。順位なんかつけられないが、家族の小町と同じくらいに大好きだ。愛していると言ってもいい。

 

 全員がいなくなってしばらく。何も音がしなくなった。もう耳が聞こえなくなったのかと思ったが、風が木の葉を散らす音が僅かに聞こえて自分の五感がまだ生きていることを知った。

 そういえば、この中学校はやたら静かだ。死体ばかりだから当然かと思っていたが、そもそもなんで死体が多いんだ?

 死んだらゾンビにならずにそのまま朽ちていくやつもいるのだろうか。だったら俺もそうであって欲しい。いくらゾンビみたいな目をしているからって、本当にそんな存在になりたくはない。あんな、大事な物まで食い散らかしてしまうような、虚しい存在には。

 

「せん、ぱい……」

 

 一色がかすれた声で俺を呼んだ。

 包帯は巻いたが、その下から滲んでくる赤色は収まることを知らずに今もその勢力を強めている。俺に寄り掛かるようにしている一色は、力の入らない身体でしがみつくみたいに俺の袖を握り込んでいた。

 最後まであざといやつだ。そこが、可愛いんだけどな。

 

「せんぱい……、最後に、聞いてもらいたいことが、あるんです」

「……なんだ」

 

 俺にできることはもう、それくらいしかない。だから静かに、その先を促した。

 どれだけの時間が残されているか分からないが、どうせならお互い悔いなく逝こうと思ったんだ。

 

「わたし、……わたし、嫌なやつ、なんです」

 

 一色の言葉は、懺悔だった。

 

「わたし……葉山先輩が噛まれた時、思っちゃったんです……。『自分じゃなくて、良かった』って」

「…………」

 

 そんなこと、当たり前だ。誰だって死にたくなければ、傷つきたくもないのだ。それは、生物として当たり前のことであって、恥ずべきことでは、全くない。しかし、それでも一色はぽろぽろと真珠のような涙を流して言葉を紡いでいった。

 

「憧れてた、だったはずなのに……あんなに、好き、だった、はずなのに……! 寄り添う三浦先輩に、危ない、って……言いそうに、なっちゃったんです」

「そう、か」

 

 三浦の言動は、俺にも衝撃だった。薄い関係と馬鹿にしていたはずの彼らは、命の瀬戸際というその時までそれを失わずにいたのだから。きっと一色の中で、三浦と自分を比較してしまったんだろう。濃い色のそばに立てば、嫌でも自分の薄さが知れてしまうから。

 

「せんぱいは……『本物』、みつけられましたか……?」

「……ああ、そうだな。少しだけ、見えた気が、するよ……」

 

 まだそれを引きずりやがりますか。でももう照れなんてものはどこかへ消え失せてしまった。

 素直に頷くと、一色は俺の胸に頭を乗せて小さく震えた。

 

「わたしは、まだ、です……。こんなわたしでも、最後まで、そばに、いてください……」

「……ああ」

 

 こいつも、ずっと探していたんだろうか。本物と呼べる何かを。それが俺のせいだったならば、少しだけ申し訳なくなる。あんな曖昧なものを見つけられるやつの方が希少なんだ。俺だって、ようやくその片鱗が見えただけなのだから。

 一色は震えながら呟き、それが段々と小さくなっていった。

 

「どこにも、いかないで……やだ、やだよ……」

「大丈夫だ……大丈夫、だから」

 

 無意味でしかない言葉しかかけられない自分が嫌になる。だがそれしか俺には、なんにもできなかった。せいぜいが、頭を撫でてやるくらいしか。

 

「…………しにたくないよ」

 

 最後にそう零して、やがて一色の震えが止まった。

 

 

 

* * *

 



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逃げる、生きる、前を向く。

 

 

 中学校を出て、一路自宅へと向かう。私の後ろでは小町さんと由比ヶ浜さんが嗚咽を漏らしながら、しかし真っ直ぐ歩いてついてきていた。

 比企谷くん、一色さんと別れてから話し合い、私の住むマンションへと向かうことを決めたのだ。彼に任された小町さんはもちろん、自宅が遠い由比ヶ浜さんも危険だということでついてきてもらっている。何よりこの状態の彼女たちを放ってなどおけるはずもなかった。

体力のない私だが、比企谷くんに託された願いが私に力をくれている気がする。確かに疲労は無視できないレベルで私の身体を蝕んでいるものの、泣き言など言っていられる場合でもなかった。

 

 もっと早く現状なり何なりを理解できていればと悔やみたい気持ちもある。普段から体力をつけるように心がけていればあの二人も喪わずに済んだと嘆きたくなる。でも状況がそれを許してはくれなかった。私は、二人を守らなければならない。この命に代えてでも。

 

 そんな犠牲は誰も望んではいないのだろう。でも私は見てしまったから。

 最初は、平塚先生。あの異常に過ぎる場面で生徒を思いやれる行動力は、まさに教師の鑑だった。次は葉山くんと三浦さん。軽薄だと疎んじていた彼らは深く深く繋がり合っていた。そして、一色さん。彼女も命がけで比企谷くんを助けた。それは無駄に終わってしまったけれど、それでも死という絶対の恐怖を、あの瞬間だけでも押しのけて彼を救おうと動いたのだ。

 

 私は、そんな彼らが、彼女たちが、不謹慎だけれど少し、羨ましいと思ってしまったのだ。誰かのためにそこまで身体を張れることが。

 自分を犠牲にしろという意味ではない。けれども私にもそれができると胸を張って言えるのだろうか。私は、比企谷くんや由比ヶ浜さんや、小町さん、一色さんを大事に思っている。でももし、彼らがまたあのような場面に出くわした時、私はあの人たちのように行動できるのだろうか。そう、考えてしまった。

 

 繰り返すようだが自らを犠牲にしろというのではなく、またなりたいわけでもない。ただ、私は自分が思っていたほど、彼らを大事に思っていないのではないかという疑念が脳裏によぎってしまったのだ。

 理性は「そんなはずはない」と訴えているけれど、思考はネガティブな方向へと今にも走り出しそうになっている。だから証明しなければならない。彼にも託されたのだ。後ろを歩く彼女たちは、私が絶対に守ってみせる。

 

「……ゆきのん」

 

 由比ヶ浜さんが私を呼ぶ。まだその目は真っ赤だけれど、しっかりと生きようとする力強さが伺えた。彼女もまた、彼に託されたのだ。私を支えて欲しい、と。恥ずかしいけれど、きっと彼女にはこれからもたくさん助けられるでしょうね。私は、今まで自覚していたほど、強くないことが証明されてしまったから。

 

「何かしら。休憩ならもう少し先にしましょう? ここの道は、狭くて危険だわ」

 

 今は走っている車も見かけない。できるならば大通りの車道のど真ん中を歩いていきたいところだが、広すぎるというのもまた危険だ。街の広いつくりになっている所はそれだけ人が多く、また変貌してしまった者も多いということになる。

 しかし由比ヶ浜さんの提案はまた少し違うものだった。

 

「ううん、そうじゃなくて……。あそこ、コンビニがあるからさ、何か買っていった方がいいかなって」

 

 彼女が指をさす方には確かにコンビニがあった。有名な大手チェーンではなく、細い道にある地域密着型のコンビニだ。

 なるほど、と頷いて了承する。この状況で何か物資を期待するのも無駄かもしれないけれど、覗いていくくらいなら問題ない。コンビニは前面がガラス張りになっていて中の様子も伺えるし、食料品は今は多ければ多いほど助かるものね。

 曲がり角は厳重に注意を重ねて、時間をかけてコンビニへ歩を進める。この速度で私の住むマンションまで行くにはあと数時間を要するかもしれないけれど、危険と引きかえにするわけにはいかない。それを考えても、食べ物や飲み物は体力回復をするのに不可欠なものだ。私としたことがそんなことにも気づかないとは。さっそく由比ヶ浜さんには助けられてしまったわね。

 

「……大丈夫そうね」

 

 コンビニへとたどり着き、ガラス張りの中を覗いてみても店内に動くものはない。もちろん誰もが物資を必要としていたのが伺える惨状ではあるものの、床に散らばったものがまだいくつか見えた。

 

「小町さんは入口で見張っててもらえるかしら」

「……分かりました」

 

 彼女もまだ吹っ切れてはいなさそうだ。当然か。あんなに慕っていた兄が死んだとあれば。私だって仲が良いとは言えないあの姉がいなくなったらと思うと、それだけで背筋が凍るような気持ちになる。

 けれど小町さんは頷いてくれる。彼女も生きようとしているのだ。誰かに守られて生きている今を、必死に。

 

 私と由比ヶ浜さんで店内を歩き回り、散らばった缶詰や菓子類をビニール袋へ詰め込んでいく。物漁りみたいで恰好がつかないけれど、非常事態なのだから仕方がない。今はたとえ泥水を啜ってでも生きなければならない。

 最後の矜持としてレジにお金を置いていく。今後この紙きれや硬貨にどんな価値が付けられるのか、見当もつかない。それでも拾い集めた僅かな食品や飲料分以上は誰もいないレジスターの横に添えるようにして置いていった。

 

 金銭という世界の根幹部分に必要なものを見たことで、これからどうなっていくのか、想像もつかない未来に一瞬思考が奪われたその瞬間。

 

「きゃああああ!」

 

 店の外から小町さんの悲鳴が聞こえてきた。

 由比ヶ浜さんと一緒に急いで外へ出ると、一人の男が小町さんへ向けて刃物を突き出していた。顔も背格好も普通としかいいようがない、どこにでもいる一般市民という表現が似合うその男はしかし、血走った目をしてどうみても正気ではなかった。

 

「お、お前ら、店から何か持ち出したんだろ……! そ、それを、寄越せ! そうすれば何もしない!」

 

 震える手の先で包丁と思しき切っ先がぶれる。正気ではないと思ったが食料を必要だと認識している時点で思考自体はまともなんだろうか。この先を思えば一番に必要になってくるのがそれだ。次いで水も心配であるが、恐らくだけれど水道はまだ生きている。電気や水道などの設備は無人でもある程度の稼働はするはず。いずれは止まってしまうから対策は必要だけれど。

 だから必死に奪おうとしているこの僅かな食糧は、この男にとって金銀や宝石以上の宝に見えているのでしょう。

 

 けれどもそれは私たちにとっても同じこと。

 分けて欲しいと懇願されれば可能な分だけでも分けたかもしれない。でも、力づくで奪おうとするならば。……私は容赦など、できない。

 

「小町さん、下がって」

 

 怯える小町さんを後ろへ引き寄せ、代わるように私が前に出る。

 男は刃物を持っているのに怯えた様子でそれを振りまわし、私を警戒していた。

 

「ゆ、ゆきのん……!」

「大丈夫よ」

「こ、このガキ……調子に乗りやがって!」

 

 余裕を見せたことからか男が激高して向かってくる。しかし、私は落ち着いていた。少なくとも、目の前で誰かが死んだ、どの瞬間よりも。

 だって、怖くないんだもの。敵意を向けられるというのが、こんなにも気を落ち着かせるとは自分自身思ってもいなかった。あの死者のなりそこないたちの、空虚な双眸に晒される方が、よっぽど怖い。

 アレはどんな理屈も条理も通じない。ただ動いて、掴んで、齧る。そのために動いて、また掴んでと繰り返すだけのモノ。そんなものがこの世に存在していると考えただけで怖気が走る。

 だから目の前に突き出された刃物に対しても、私は動じずに習った通りの動きをすることができた。

 

「なっ!? ――ごっ、は!」

 

 小さく横へ避けて手を取り足を払う。突進の勢いを利用して宙へ浮かせた男を、今度は習ったようには支えずにそのまま落下させた。背中を強かに打ち付けた男は、肺にあった空気を全て吐きだしてもがいていた。その隙に、小町さんを支えて急いでその場を去る。

 

「行きましょう。曲がり角には気を付けて」

「は、はい」

「ゆきのん、すっごいね……」

 

 由比ヶ浜さんが私を褒めてくれる。でもね、私にできるのはこういうことだけなのよ。自分に降りかかる危険を払うことだけ。それしかしてこなかった私は、いつしかそれしかできなくなってしまっていた。だから今は少しだけ嬉しく思っている。この技術を、誰かを守るために使えたことが、少しだけ。

 それも守るものがある内にしかできないことに気付くと心が痛む。過去にはやはり後悔しかない。

 私は小町さんの肩を支えながら懸命に未来に向かって歩き出そうとした。その先に、光が見いだせずとも。

 

 

 

* * *

 



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逃げる、生きる、前を向く。②

 

 

 あれから、何時間経ったのかしら。

 ようやくマンションに到着したところで、もはや電話として機能することはないと思われる携帯を取り出して確認してみると、六時を大幅に過ぎている頃だった。

 三時前には比企谷くんたちと別れを告げて出発したから、四時間近く歩きっぱなしだったのね。私にしてはかなり頑張った方だと思うわ。

 それにしても徒歩だとしても二時間はかからないはずの私のマンションが、ここまで遠くなるとは。警戒や回り道の仕方は比企谷くんに倣ってやってみたけれど、なるほど時間を消費して安全を取るとは言ったものね。

 陽が落ちて暗くなっても街灯は生きていたため周囲を警戒することは可能だったものの、さらに時間を要してしまった。それでも私たち全員が無事だったのだからこの方法は正解だったと言わざるを得ない。

 

「やっと……ついた、わね……」

「そ……です、ね……」

「ふう、はあ、もう限界、だよぉ……」

 

 全員が肩で息をしてそびえ立つ建物を見上げる。

 中に入って背負った鞄からカードキーを取り出し、パネルの横で読み込ませてマンションのエントランスドアを開こうとしてみた。電気はまだ生きていてくれたらしく、カードキーをいつものように受け付けてガラス製のドアがスライドして開いていく。

 エレベーターは危険かもしれないけれど、今の私たちに十五階へ歩いて登れというのは死ねと言っているも同義だった。一応外から見た限りではマンション内は静寂を守っているように思えても、実際はどうか分からない。扉が開いた瞬間地獄が広がっているのかもしれないが、もしそうだったならば私が飛び込んで時間を稼ごう。

 

 二人に知られないように覚悟を決めて、エレベーターのボタンを押す。

 果たして到着した私の住む階層は静かでいつも通りの通路が広がっていた。

 

 内心でホッとため息をついて二人を案内する。でもまだ油断はしない。扉を開いて鍵を閉めるまでは、何が起こるか分からないのだから。

 

「ふう……。ようこそ、私の部屋へ。歓迎するわ」

「お邪魔しまーす」

「お邪魔します。はー、すごい部屋ですね……」

 

 やっと安堵の息を本当の吐息でつけて、玄関だというのに座り込んでしまった。情けないけれど、明日どころか今日中にも筋肉痛になりそうだわ。しっかりとストレッチしないといけないわね。明日からも何が起こるか分からないのは変わらない。常に何かを警戒していなければいけないのだ。

 

「ごめんなさい、案内してあげたいのだけれど、もう歩けないわ。部屋にあるものは好きに使っていいから、先に入ってちょうだい」

「もー、ゆきのんったら。ほら、また肩貸すから、一緒にいこ?」

「……ありがとう」

 

 こんな私にも由比ヶ浜さんは変わらず手を差し伸べてくれる。繋いだ手の温かさに力を貰って、なんとか立ち上がることができた。本当に、助けられっぱなしね。

 無駄に長い廊下を歩き突き当りの扉を開く。そこに広がるリビングは暖房もついていないのに温かく感じた。脅威に晒されないという安心感だけでここまで安らげるとは。

 

「雪乃さん、台所借りますね。とにかく今は何かお腹に入れておいたほうがいいでしょうし」

「ええ、お願いするわ」

 

 小町さんにも気を使われてしまっている。やっぱり私は、一人では何にもできないのだと痛感するけれど、それを支えてくれる存在がいるというのが、私の心の何かを満たしてくれる。一人で強がっていた昔では考えられないことだ。

 

 しばらくして台所から出てきた小町さんは、お盆に食器を乗せて戻って来た。足を捻っていた彼女だが、幸運なことにそこまで酷いものではなかったらしく多少は無理をしていたものの、マンションにたどり着く頃にはだいぶ回復してくれていた。まあ、行軍がゆっくりだったのと、私の体力のなさで休憩が多かったことも関係しているのでしょうけど。

 

 温かな湯気を湛えた食事は、私たちの身体も心も存分に癒してくれた。これほどまでに五臓六腑に染み渡るという言葉を実感したことはない。実家での食卓も、一人で食べる食事も、どれだけ高級なレストランへ行ってもこんなに美味しい料理は食べたことが無いと思うほどに。

 

「ふう、落ち着いたわ……。ありがとう、小町さん」

「いえいえ、小町にできるのはこれくらいですから……」

「うう、あたしは料理できないし……」

 

 ひとしきり舌鼓を打って、空になった食器をみんなで洗う。今は誰がやるというよりもみんなで一緒にという方が気がまぎれるのだ。彼女たちもやっと安心したような雰囲気を見せ始めてくれていた。

 でも、その空気を壊さなければならない話題がある。

 これからのことについては、どう考えても希望なんてものが見えてこないけれど、話さないというわけにもいかないからだ。色んな人に助けられたこの命、無駄にすることはできない。比企谷くんに託された願いもある。この悪夢の中で、私たちは必死に生き延びなければならない。

 

 食器を洗い終えて、今までは無駄に大きいとしか思っていなかったソファに三人揃って沈みながらその話題を口にした。

 

「……さて。これからのことを話しましょうか」

「……うん」

「……はい」

 

 一様に表情が曇る。当たり前だ。私たちは大事な人を失った。失いすぎた。けれどその人たちのためにも、この話は必須なのだ。

 

「一つの提案として、私の実家に助けを求めることがあるわ」

「実家、ですか」

 

 小町さんが首を傾げる。そういえば彼女は私の家が県議をしていることを知っていたかしら? 知っていたとしてもそれを気にして態度を変えるような子ではないけれど、この様子だと知らないみたいね。

 お家自慢なんて下品で嫌いだけど、今はその力が必要だ。雪ノ下家ならばこの事態にも多少なりとも対応はしているはず。そうでなくとも、あの大きな家はそのままシェルターにもなるし、被災用の貯蓄もこの家よりはずっと多い。だから一先ずの目標として雪ノ下家を目指すのがまず思い浮かんだ。

 

「ええ、私の家ならここよりも安全だし、食料その他も充実しているはずよ」

「ほんとのゆきのんちかぁ。行ってみたいかも」

 

 説明しても彼女たちのイメージではぽやんとしたものしか浮かばなかったみたいだけれど、それ以上の案があるわけでもなさそうなので、とりあえずはということで決定した。

 問題は、どうやって辿り着くか、ね。

 

「歩いて行くにはちょっと遠いのよね……。いつもは車で送り迎えしてもらっていたけれど、今は電話も……」

「そういえば家電(いえでん)もダメなのかなぁ?」

 

 家電(いえでん)と聞いてハッとする。そうよ、アレがあるじゃない。

 ソファから飛び起きた私に驚いていた二人だったけど、今は気にもしていられない。

 壁に埋め込まれている今時の電話にしては大きすぎるそれのボタンの一つを押し、受話器を取る。

 

 これは雪ノ下家に直通で掛けられる特殊な電話だ。一人暮らしをするに当たって過保護な父が付けてくれたもの。当時は無駄すぎると嫌っていたし、緊急の用でもなければ携帯で済ませられるので無意味だとも思っていたけれど、まさか本当に使う時が来るとは。

 ただし、通じたとしても誰かが出るとは限らない。この状況、実家に誰もいない、もしくは考えたくもないことだけれど、全滅……なんてことも有りえるのだから。

 嫌な予感はしかし、受話器の先の声によって覆される。

 

『雪乃様でございますか!?』

「ええ……、ええ! 雪乃です!」

 

 思わず声が昂ぶる。由比ヶ浜さんたちも何事かと私のそばへと近づいてきてくれていた。

 

『よくぞ御無事で……!』

「友人に助けられてさっき帰宅したところなの。明日になっても構わないから、迎えをよこしてくれないかしら」

『かしこまりまし……陽乃様!』

『雪乃ちゃん!!』

 

 突然電話口の声が変わり、甲高い叫びが私の耳を貫いた。

 

「……姉さん」

『よか、良かったっ……! 無事で……。怪我とかしてない? 大丈夫?』

「大丈夫だから落ち着いてちょうだい」

 

 ちょっと意外に思う。あのいつも飄々として、時たま意地悪な顔を見せるあの姉が、涙声になって私を心配してくれていた。知らず知らずの内に私の目頭も熱くなる。なんなのよ、もう。小町さんに言ったら叱られそうだけれど、今更になって思う。家族とは、良いものね、と。

 けれど姉さんの次の言葉は、その家族愛に感動していた私をして驚愕に値するものだった。

 

『今から迎えに行くから、待ってて!』

「ちょっ、姉さん、やめて! 危険だわ!」

 

 時刻は既に七時を過ぎている。陽は完全に落ちて、電気が生きているとはいえ道路には何が転がっていて、何がいるのかも分からない。夜に行動するのは危険すぎる。私の部屋にはまだ食料が少し残っているし、そこまで緊迫した状況でもないのだから、迎えは明日でも構わないのに。

 

『ダメ。明日どうなるか分からないんだから。もしかしたらこの電話も使えなくなってるかもしれない。その前に絶対に迎えにいくよ』

 

 姉さんの声は覚悟が滲んでいて、とてもじゃないけれど説得のしようがなかった。その気持ちは嬉しいけど、それで姉さんに何かがあったら私はどうすればいいの?

 

『大丈夫、お姉ちゃんに全部任せなさい♪』

 

 黙り込んだ私に向かって、事もなげに言ってのける姉さん。確かに姉がやると言ってできなかったことなど何もない。でも、それは条理の通った世界でのこと。この世界中の悪夢をごちゃ混ぜにしたかのような現在において、その自信が裏目に出る可能性だってある。不安はどうしても拭えなかった。

 

『都築、後はお願い。私が出たらすぐシャッターも閉めてね』

『陽乃様おやめください、陽乃様!』

「姉さん!」

『……行ってしまわれました。(ことづ)け通り、私もやることがありますので、どうか今しばらくお待ちください。きっとどうあっても、陽乃様は雪乃様のところへ行き至るでしょうから』

「……分かったわ。ありがとう」

 

 それきり通話が途切れる。

 受話器を戻すと途端に嫌な想像が私を襲った。真っ暗な道で、生き物かどうかすら分からないモノに囲まれて車ごと埋もれていく姉さんのイメージが、頭にこびりついて離れない。

 そんな私の両手がふと温かいものに包まれた。私を挟んで座った由比ヶ浜さんと小町さんが、いたわるように手を取って私に微笑みかけてくれていた。

 

「きっと大丈夫だよ、信じてあげよう?」

「そうですよ。妹のために普段の何倍も頑張れちゃうのが、千葉の姉妹(きょうだい)なんですから」

 

 指先から溶けていくように、私の中の暗いイメージが消え去っていった。ああもう、本当に助けられてばかりだわ。このままだと借りばかりが膨らんでいきそう。でも、でもそうよね。そんな貸し借りで物事を考えないのが、私の、私たちの、そして『彼』が求めたものでもあるのよね。

 私は、そっと寄り添ってくれる二人に身体を預けて、信じて待つことに決めた。

 

 

 

* * *

 



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逃げる、生きる、前を向く。③

 

 待つと決めてからは逆にやることが増えてしまった。衣類は実家にあるものを使えばいいけれど、食料はどんなにあっても足りることはない。でも全てを持っていくことは物理的に不可能なので、日持ちする物を選別してゴミ袋を利用して放り込んでいく。今はゴミ袋だろうと使えるものは使わなければならないのだ。

 逆に日持ちしない食品は多少無理してでもお腹へ詰め込んだ。私とてプロポーションには気を使ってきたけれど、ゴミ袋も胃袋も必要ならば詰め込む。

 小町さんの料理の心地良い満足感を台無しにしてしまうのは心苦しかったけど、この無理に膨れた満腹感も次いつ味わえるか分かったものじゃないのだしね。

 

 そして次に懐中電灯や乾電池などの防災用にも使える日用品。この部屋にも防災リュックが供えられていたので整えるのは簡単だったが、ラジオも入ったこのリュックがまた重い。

 どうにか食料と合わせて三等分、小町さんの担当は若干軽めではあるけれど、なんとか私たちでも運べそうな範囲に収まってくれた。

 

 防災リュックのラジオを見て思い出す。そういえば電気はまだ生きている。携帯電話の電波は混みあってるからか、はたまた別の理由なのか繋がりにくいが、テレビはどうなのだろう?

 そう思って普段一人で見ることがほとんどないテレビを久しぶりにつけてみる。リモコンの操作を受け付けて、テレビは砂嵐を映すことなくその画面を点灯させた。

 

「わっ、普通にニュースやってるんだ」

「内容は普通じゃないみたいですけどね」

「……緊急放送、ね」

 

 テレビが映し出したのは右上に緊急放送というテロップを出したニュース番組だった。普段ニュースを見るのは朝食の時くらいな私でも、その様相が異常だということがわかる。

 恐らく有志のみがテレビ局に残って放送しているのだろう、青い顔をした男性が、それでもなお気丈に画面を通して私たちを見つめていた。

 

『最初から繰り返します。この放送は――』

 

 この勇気あるテレビクルーたちは有益な情報をもたらしてくれた。ありがたいことに何回も何回も繰り返し伝え続けてくれていたおかげで、先ほどテレビをつけたばかりの私たちにも現在分かっている全てが理解できたのだ。

 

『安全のために、語弊を恐れずに伝えます。死者が甦り、生きている人を襲っています。様子のおかしい人には絶対に近づかないでください。また、発狂、もしくは発症と呼ぶべき状態に陥った人に噛みつかれる、引っ掻かれるなどすると、個人差はありますが数十分から、遅くとも二時間で彼らと同じ状態になってしまいます。

 ……彼らは、頭部、恐らく脳を大きく損壊することで完全に活動を停止します。まだ原因や解決方法が分かっていないためあまり推奨はできませんが、どうしてもという場面にはどうか、思い出してください』

 

 画面の中の男性が、強い眼をして訴えかけている。私は思わず頷きを返してしまっていた。

 原因不明。解決や治療方法も不明。長い研究の末にもしかしたら画期的な方法が生まれるのかもしれないけれど、そもそも電気すらいつ止まるか分からないこの現状で、それを期待するには余りにも酷というものだ。

 彼の言葉はいわゆる人権屋と呼ばれる人々の耳に入ればこれでもかとやり玉に挙げられるだろう。でもそれも安全な場所にいてこそ。

 目の前で大事な人を食い殺されることを、ゴミみたいに打ち捨てられることを、そしてその人自身さえも大事な何かを自ら壊してしまうようなモノになってしまうことを許せるはずもない。

 もし私がああなってしまったとしたら、その時は速やかに、どんな手段を使ってでも殺してほしいと思う。大事な人に手をかけてしまう前に。

 

『バス、電車、飛行機など交通体系は全て停止しています。また、道路も車が放置されていて通れない場合があるため注意してください。

 この異常事態は世界中で起こっていると思われます。原因は今のところ不明ですが、電話は通じにくく、綿密な連絡が取れないため外出を控えてください。特に夜は危険と思われます。彼らは視覚や聴覚だけでなく、何か別の方法で生きている人間を探していると考えられます。暗闇や曲がり角の死角には充分に気を付けてください』

 

 比企谷くんが言っていたとおり、この世界はホラー映画やゲームのようになってしまったらしい。私はその某有名なシリーズは観たことはないけれど、小さい頃にみたCMにすら怖がっていた記憶がある。

 何がどうなったらそんなことが起きるのだろうか。死人を甦らせる。それだけ聞けば、もしかしたら素晴らしい技術、現象かもしれないと受け取れるのに、現実は残酷で凄惨で目も当てられない。死んだ人にとってもあまりにもむごい、冒涜なんて言葉では言い表せないモノへと変貌してしまっている。

 

『っ! 新しい情報が入ってきました!』

 

 マイクを持った男性に新しく紙が渡される。これ以上絶望的な情報を聞いていたら気が触れてしまいそうだったが、それでもテレビを消すことなどできない。

 どれだけ悪辣なことでも、それが事実だったら知っておかなければならないのだから。僅かにでも生き延びる確率を上げるためには。

 けれどその紙に目を通したアナウンサーの表情はこれまでの沈痛なものとは比較にならないくらい明るかった。

 私たちも三人揃ってテレビに釘付けになる。

 

『ネット回線を使い、自衛隊から救助活動を始めていることが伝えられました。彼らは駐屯地の安全を確保しつつ、周辺地域から無事な人々を救助してまわるそうです!』

 

 それは今までで一番希望が持てて、なおかつ現実味のある情報だった。

 自衛隊。そして駐屯地ならばここ千葉にもある。しかも割とすぐ近くに。確か習志野駐屯地と言ったかしら。ここからならば実家の方が距離もないため、雪ノ下家に行く意味がさらに強まった。実家に逃げ込み、助けを待つ。それだけが、私たちにできる唯一の避難行動だ。

 

「ゆきのん!」

「ええ、初めて希望が持てる情報が聞けたわね」

「そうですね、自衛隊、ですか」

 

 彼女たちも今まで彼らの存在を強く実感したことはないのでしょう。私も災害時なんかでしか活動しているということを知ろうとはしていない。けれどこんな事態においては何より心強い存在だった。

 

「ここから一番近い駐屯地は私の実家の方が距離もないからちょうどいいわ。あとは姉さんを信じて待ちましょう」

「うん!」

 

 かき集めた物資を改めて確認して、姉さんの到着を待つ。恐らく車で来るのでしょうけど、マンションの正面につけるのか、それとも裏の駐車場に来るのか、まだそれは分からない。

 車を飛ばしたとして、通常ならば一時間程度。しかしすでにそれ以上経っている。いつものような道路状況ではないのだから当然だけれど。

 不安が募る気持ちを抑えて、必要なことだけを考えた。ベランダから周囲を確認していた方が良いかと思案していると、緊急用の直通電話が着信を知らせる音声を鳴らし始めた。

 実家からかしら。それとも、到着の合図?

 もしかしたら嫌な報告かもしれないという可能性を頭の中から削除して、受話器を取った。

 

 そして、そこから聞こえてきた声は、先ほどのニュースとは比べ物にならないくらい、私たちにとってはこれ以上ないほどの希望をもたらしたのだった。

 

 

「もしもし?」

『雪ノ下か? ……俺だ』

「比企谷くん!?」

 

 

 聞き間違えるはずもない。二度と聞けないと思っていた大事な人の声。

 初めて出したかもしれないくらいの私の大声に、由比ヶ浜さんも小町さんも肩を跳ねさせたが次の瞬間には私の持つ受話器に耳を押し当てていた。

 

 

 

* * *

 



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腐った目の少年は。

 

 ふと、くぐもった唸り声で目を覚ました。悪夢を見ていたのかと思ったが肩の痛みで記憶の中のアレが現実だと思い知る。だが、俺はいったいどうなっている? 確かに噛まれて、雪ノ下たちを見送ったあとに気を失った。

 この声は……。もしかしてゾンビになっても自我があるというのだろうか。そうだったならば、どこまでこの世界は悪辣な趣味をしているのだろう。思考だけがいつも通りで、身体が勝手に何かを、誰かを壊していくところを見せつけられるなんて。

 

 しかし視界はやや暗いものの、自由に動かすことができた。陽が落ちかけ、赤色もすでに消えかけて暗闇が広がり始めているが、真上に見上げる天井のタイルを数えるように視線の先を動かしていく。ああ、動く。この身体はしっかりと俺のものらしい。

 何気なく横を見て、一色の顔がすぐ近くにあって飛び上がりそうになった。

 ただそこに居ただけならばまだしも、その目は真っ赤に染まり、俺に向かって噛みつこうともがいている。だがタオルで手足を縛られ口にもそれを噛まされているためにベッドの上にすら上がることができないらしい。

 

 なんでこんなことに、と考えてすぐ自分でやったことだと思い出した。

 一色の声も鼓動も聞こえなくなったあと、最後の力を振り絞って彼女と自分の身体を縛ったのだ。俺もこいつも、自覚もないまま誰かを殺すなんてことをしたくないしさせたくなかったから。

 そういうわけで俺も手足が封じられているわけだが、隣のベッドに寝かせていた一色が先に……これを起きたと表現していいのか甚だ疑問であるが、起き上がり俺の方へ近づき、そして登れずにもがいていたのか。まさか気恥ずかしさから添い寝できずにベッドを分けたことが今につながるとは。

 手足の結び目は固いものの、理性さえあれば解くのにさほど時間もかからない。なんとか気を落ち着かせてタオルを解きながら、変わり果てた一色の姿を見る。

 

「一色……」

 

 思わず呼びかけてしまったが、それでもなお一色は狂ったように呻きもがき続けるのみだった。

 俺が守りたかったはずの少女。俺を守ってくれようとした彼女のその有様に、とめどなく涙がこぼれて止まない。

 

「一色、すまなかった……。それと、ありがとう」

 

 どういう因果か死なずに済んだこの命。きっと何か理由があるのかもしれないが、それでも今ここにいる俺の命は、一色が助けようとしてくれたものだ。それがまだ失われずにいるというのなら、俺は生きなければ。そして、今度こそ。

 まだ間に合うだろうか。俺は今度こそ守れるのか。

 身をもって味わってしまった己の手の短さ。俺が守れるものはあまりに少なく、範囲はあまりに狭い。だからこそ、選択を迷ってはいけない。力の無さを、容赦の無さでカバーしなくてはならない。守るべきものを、それ以外の全てを失ってでも守り切らなければならないのだ。 

 

 眼前でもがく後輩に誓う。

 

「お前に救われた命、絶対に無駄にはしない」

 

 生き残る。自らの身体を犠牲にはもうできない。代わりに、きっとたくさんのものを捧げることになるだろう。それは、他人の命であったり、俺の人間性であったりするだろう。でも、もう迷わない。俺の狭い腕の中にいる数人のためになら、世界すら生贄にしてやる。

 

 俺の腕の中で死んだ一色には、きっとあの世で叱られるかもしれないな。

 

 それでも俺は、この地獄を生き抜いてみせる。

 だから……、ずっと先になるかもしれないが、待っててほしい。

 魂なんてものを信じたことはないが、狂ったように暴れる彼女の中には、もうすでにそれが無いことを願わずにはいられない。どうか、一色の魂よ。あの世で安らかに休んでていてくれ。

 身体の調子を確認し、動き出す。肩は大きく動かすと傷が引きつって痛むが多少の無理はききそうだ。あの血管中を巡っていた熱さも今はない。

 後ろはもう振り返らずに保健室を出た。冷たい風が肌をさす。しかし闘志は炎の如く燃え上がっていた。

 

 まずはあいつらを探そう。

 雪ノ下ならどこへ行くだろう?

 

 考え始めて、雪ノ下のマンションを思い浮かべた。

 まず距離的にはかのマンションか比企谷家になるが、セキュリティや何やらを考えた時、雪ノ下のマンションの方が安全に思える。それに小町はたしか鞄を持っていなかった。あの騒動でどこに置いたかも分からないが、家の鍵は鞄に入れていたはずだ。

 両親が共働きで鍵がなければ入ることができない俺たちの実家。カマクラには悪いが、俺も帰るわけにはいかなそうだ。すまん。

 

 母ちゃんと、クソみたいな親父だが二人も心配だ。会社という組織が、守ってくれていればいいのだが。まあ二人と無事に会えても、小町を連れていなかったら俺がその場でブチ殺されるのが目に見えるので、やはり小町を優先させてもらおう。両親がこの場にいてもそう言うだろうからな。

 

 とりあえずは、雪ノ下のマンションへ。

 そこにいなかったら、一応俺の家へ一度戻ってみよう。

 

 そう決めて、俺は黒に染まったばかりの夜の帳に潜り込むように歩き出した。

 

 

 

* * *



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腐った目の少年は。②

 

 中学校を飛び出してしばらく。もう一、二時間は歩いただろうか、すっかり身体が冷え切ってしまっていた。携帯で時間を確認してみると、もう七時を半分以上すぎている頃だった。くそっ、一人だからそこまで時間はかからないとはいえ、雪ノ下のマンションまではもうしばらく歩く必要があるか。

 闘志は燃え上がっているとほざいてみたものの、その炎は物理的に身体を温めてはくれないのだ。強がってみせたくても、実際に寒さというのは人間の身体にとって致命的な問題でもある。マフラーもしないで三月の夜を長距離歩く。それは人によっては次の日に高熱を出して倒れても不思議ではない。

 だが俺に倒れている時間などありはしないのだ。火急的速やかになんとかしなければならん。

 そんな俺の目に機械的な光が飛び込んでくる。街灯はずっと明かりを灯して立ってくれているがそれではなく。道路の脇でひっそりと稼働している自販機だった。しかもその外観は真っ赤なアレだ。決して血が飛び散っているとかではない。

 光に吸い寄せられるように自販機の前まで駆け寄り、お目当ての缶を探して「あったか~い」の欄を順に見ていく。

 

 っていうか冷たい温かい関係なく売りきれが多すぎる。そりゃそうか、この非常時にいくら割高だろうが飲食料品は貴重極まりない。だが端っこにあるボタンが唯一、売りきれの赤いランプを点灯させずにそこにあった。何でもいいから買うかと商品を見てみると。

 

 マッカンじゃねぇか!!

 

 思わず叫びそうになっちまった。いやいや、え? ありがたいけどよ。おい誰だよこの自販機で飲み物確保していったバカ野郎は。こんな時こそマッカンが必要だろうが! 温かく染み渡る糖分こそがこの地獄に咲く一輪の花だろうが!

 落ち着け俺……。事実マッカンが手に入るのなら何も問題はないんだ。

 尻のポケットにあった財布を取り出し、震える手で硬貨を投入する。ガタンと音がしてついにカイロ兼、精神安定剤兼、糖分補給物資が手に入った。決して水分補給物資ではない。かえって喉が渇くからな。あ、だから残ってたんだろうか。

 

 この先いつ買えるか分からんし、もう一本買っておこうと思い、また硬貨を投入していく。先に手に入れた練乳飲料を飲み、体内と体外両側から温めることもできるはずだ。

 二本目を購入すると、ついにマッカンのボタンにも売りきれの文字が浮かび上がった。そこはかとなく達成感を得て一本目のそれを口にした。

 

「ああ~……うめぇ……」

 

 思わずそう零してしまうくらいにマッカンの温かさと甘さは俺の中の何かを満たしていった。寒風吹きすさぶ夜中、地獄のような現実。その中においてもマッカンはマッカンであり続けてくれたことが何故か頼もしい。

 

 うっし、と気合を入れなおして、俺は自分が危機に陥っていることにようやく気が付いた。

 

「グ、ウゥ……」

「アァァ……」

 

 どうやら光に吸い寄せられたのは俺だけじゃなかったらしい。というか購入時の音で気付かれたのか。

 それにしても大したステルス機能だなクソ。それは俺の専売特許だってのに、こいつら一体どこに潜んでいやがった?

 

「ちっ、まいったな……」

 

 中学校を離れて歩き続け、電車には期待していなかったが一応確認がてら京葉線沿いにずっと歩いてきたが、花見川を渡ってようやく目的地につきそうだというところでこれか。

 狭くはないが広くもない道路にあった自販機に、囲い込むようにして死人どもが近づいてくる。数は五。すり抜けられるか? いや、危険だ。奴らは示し合わせてもいないくせに絶妙な位置取りをしてやがる。

 危機が目の前に迫り、俺の脳が未だかつてないほど高速回転してはたと気付いた。もっと簡単な方法があったじゃねぇか。

 

 自販機に振り向いて、その真っ赤な筐体によじ登る。肩が痛むが仕方ない。ここで食われるより万倍マシだ。

 思いついたのは簡単至極、自販機に登り、奴らが寄り切ったところで飛び越えて逃げる。たったこれだけだ。俺一人でいる時にしか使えそうにない方法だが、俺らしく地味で効果的な手段でもあった。

 

 登り切って眼下を見てみると、奴らが手を伸ばして俺の足を掴もうとしてきていた。しかし登ることはできないようで、あと一体が近づききったら、飛び越えよう。そう思ったところに、車の激しい走行音が聞こえてきた。

 

 ギャリギャリと音を立てて巨体が角を曲がってくる。その車はどうやら花見川を下るように勢いよく走ってきたらしく、その速度では厳しい直角のカーブにドリフトのような走法を見せてなんとか曲がり切った。が、さすがに一旦停止している。

 つーかでっけぇ車だな。ハマーってやつだろうか。あれなら軽自動車くらいなら押しのけて進めそうですらある。

 そんな車を運転してるやつを羨ましく思いつつ、俺は俺でできることをしようと思っていると、道幅の半分以上を占めるその車が再び勢いよく発進して、俺の足元のゾンビたちを吹き飛ばすようにして目の前に停車した。

 なんだ、助けてくれたのか?

 ありがたいとは思いつつ不審にも思ってその車の動向を探っていると、ふいに助手席側のパワーウィンドウが開いていった。覗き込むようにして運転手を確認すると、そこには陽の落ちた夜の中で、太陽のように輝く女性がいた。

 

「比企谷くん、何してんの?」

「雪ノ下、さん……」

 

 果たしてそこにいたのは雪ノ下雪乃の姉、陽乃さんその人であった。

 

「ま、いいや。雪乃ちゃんを迎えに行くんだけど、乗ってく?」

「是非」

 

 散歩行く? みたいに軽く聞いてきたその提案に、俺は一拍の間もなく答えた。渡りに船とはこのことか。ノアの箱舟のような安心感を覚える巨大な車に乗り込み、暖房の効いた車内で冷えた身体を休ませた。

 助手席も広々としていて疲れた足を伸ばすこともできる。元は軍用という車種だが、陽乃さん個人の所有車か雪ノ下家で管理しているものなのかは分からないが乗り心地はなかなかのものだ。

 

「さっき雪乃ちゃんと連絡が取れて迎えに出たけど、まさか比企谷くんがいるとはね。雪乃ちゃんと一緒じゃなかったの?」

「わけあって別れることになりましてね……。雪ノ下には小町も任せているので、俺もあいつのマンションに向かってるとこだったんです」

 

 まさかあいつも俺が生きているとは思ってもないだろうが。

 それにしても陽乃さん、免許くらいは持っていても不思議ではないが、まさかこんなゴツイ車を運転してくるとはな。今は頼もしくて仕方ないが、平時にこの車で出かけようとか誘われたら逃げる自信がある。街中を走ってるのを見ただけでビビりそうだ。

 

「……その怪我のことかな?」

「……そうです」

 

 陽乃さんの目がすっと細くなる。ああ、もしかしたら放り出されるかもしれんな。彼女も負傷したやつがどうなるかなんて、知っていてもおかしくはない。どうにか、話が通じてくれればいいんだが。

 

「"奴ら"に噛まれて、もうダメだと別れたんですが、どういうわけか俺は俺のままでまだ生きているみたいなんです」

「…………」

 

 邪魔なものを全て踏み潰していくような荒い運転をしながら、陽乃さんは黙って何かを考えているようだった。恐らく、彼女の中で俺の危険度を計っているのだろう。そしてそのメーターが少しでもオーバーすれば、晴れて俺は再び寒空の下というわけだ。

 放り出されるどころかこの場で殺されることすら覚悟させられるような空気の中、陽乃さんはその重い口をゆっくりと開いた。

 

「そっか。まあ、無事なら良かったよ。きっと雪乃ちゃんも喜ぶだろうし」

 

 飛び出てきたのは許容のセリフだった。俺は意外に思う。雪ノ下の安全を第一に考えそうな陽乃さんが、負傷した俺を捨てずに連れていくことを。

 

「いいんですか、このまま乗せていって」

「なーに、降りたいの?」

「いいえ全く」

 

 思わず聞きなおしてしまったが、降りたいかどうかで言われたら絶対降りたくはない。俺だって早く小町や雪ノ下と由比ヶ浜の無事を確認したいのだ。乗せていってくれるのならば不満はない。が、陽乃さんはそうではないはずだ。

 

「雪乃ちゃんから連絡があったのが一時間くらい前。それよりもずっと前にその傷を負ったのなら、たしかに自我があるのはおかしい。けど逆に考えてみて。もし、君の身体がこの不可解な現象に打ち勝ったのだとしたら、もしかしたら君こそが希望の光になるかもしれないのよ」

 

 陽乃さんがハンドルを切り、一体のゾンビが跳ね飛ばされる。俺が自我を保っていなければ、跳ね飛ばされていたのは俺かもしれない。だがそんなことを気にしてられない言葉が、陽乃さんの口から語られていた。

 

「もともと比企谷くんじゃなければさっき助けもしなかったけど、もう君を守らないって選択肢はないね。ただ進行が遅いだけでこれからああいう風になるのかもしれない。それでも、私は君に賭けてみたい」

 

 それは陽乃さんらしくない言葉だった。彼女にとって賭けなんてものは、積極的に取る手段ではないはずだ。やるにしても周到に用意を重ねて確実に勝てる時のみだ。そんな陽乃さんが、ただ信じたいというだけで賭けに乗るというのは、それだけ今の状況が切羽詰まっているということをしめしているのかもしれない。

 

「そう、ですか」

 

 そんなことがあるのだろうか。あのホラーゲームのような地獄が広がるこの世界で、そのゲームの主人公のように抗体か何かを持つ存在。それが、俺だと? 何を馬鹿なと言いたくなるが、事実俺はまだ生きている。ほぼ同時に噛まれた一色を、変わり果てた彼女を置いてここまで来ているのだ。

 

「ま、仮にそうだとしても私たちの手には負えないんだけどさ」

「ですよね」

 

 その通りだ。仮に俺がそんな存在だったとして、それを活かすにはそれなりに規模の大きい研究が必要となるだろう。明日も分からぬこの状況の中、そんな環境が作れるとは思えない。

 結局のところ、俺たちは今を必死に生きることしかできないのだから。

 

「とりあえず、これからのことを考えよっか。後ろの席に行ってみて。長い箱があるからそれを開けて」

「うす」

 

 指示されたとおりに後ろへ向かう。時おり激しく揺れる車内で危なっかしいことこの上ないが、転がるようにしてなんとか辿り着く。そこには黒光りする細長いアタッシュケースのようなものがあり、言われたとおりに開いてみると。

 

「うおっ!? え、な、なんすかこれ」

「猟銃だけど」

 

 事もなげに言ってのける陽乃さん。いやいやあんた、猟銃って。

 

「私いろんな資格取っててさー、狩猟免許もあるんだよね。二十歳になって取ったばっかだけど」

 

 開いた中にはケースと同じように黒光りするでけぇ銃が泰然とそこにあった。猟銃とは言うものの、分類をするならばショットガンだ。ポンプアクション式の、中二心をくすぐるそれは、手に持ってみるとずしりとその重みを感じさせた。

 

「もうすぐ到着するけど、駐車場にアレがいたらそれで追っ払おうと思って」

 

 追っ払うとか、あの世まで吹き飛ばす気しかねぇじゃねーかよ。

 だが日本において武器としては最高峰すぎるこの銃の存在は、これから起きるどんな悲劇の中であっても、きっと役に立つことが確信できる。

 さすが陽乃さん、チートすぎる。例えるならばゲーム序盤から最強の乗り物に乗り、最強の武器を掲げてやってくるって感じか。そこにシビれるッ! あこがれるゥ!

 

「弾も入ってるから、込めておいてくれる?」

「うぇっ? こんなん触ったこともないんですけど」

「説明書も入ってると思うから」

 

 某ゲームに置いても最強とされるショットガンをただ渡されても困る。こんなものは夜中に想像する最強の俺がテロリスト相手にぶっ放すくらいで、現実の俺は実物を肉眼で見たことすらなかったのだ。

 しかし車内のライトをつけながら任されれば、もはややるしかないのだろう。たしかにケースの中には弾丸と説明書らしき紙が入っている。なんか分厚いものをイメージしたが、まるでエアガンの説明書のように薄っぺらな紙切れだった。

 多分保管方や詳しい原理なんかが書いてるのは別にあるのだろうか、簡単に使用方法だけが記されたそれは、素人の俺をしても分かりやすいものだった。

 

「下から入れて、スライドを引くだけ……か」

 

 そもそも単純な構造をしているらしく、たったそれだけでいつでもその銃口が火を噴ける状態になってしまった。一発先に込めた状態でマガジンにまた弾を込めていくと、最大で三発撃てるようになるみたいだ。危なすぎるのでセイフティは絶対に触らなかったが。

 

「比企谷くん、撃てる?」

「……マジっすか?」

 

 変わらず運転しながら、陽乃さんが声をかけてくる。

 痛めた肩でショットガンなど撃ったらどうなるか分からんぞ。でも俺だって男子の端くれだ。こういう銃火器に憧れがないわけなどなかった。

 中学生のころにやめたはずの軍隊ごっこや戦争系のゲームで培ったフォームで銃を構えてみると、バックミラーをちらりと覗いた陽乃さんに褒められてしまった。

 

「あはは、結構サマになってるよ。本当は私が使う予定だったけど、運転席で待機できるならそっちの方がいいからさ」

 

 たしかにその通りではある。車から降りて雪ノ下たちの安全を確保しつつ戻るより、誰かがすぐにでも発進できる状態で待機できるならそちらの方が確実だ。

 分かりました、と頷いて、次は車内電話を指さして出す指示を受けた。

 

「四番を押して、受話器を取って。雪乃ちゃんの部屋に繋がるはずだから。もうすぐ着くから、どこから車に乗り込むのが安全か話し合って」

 

 繋がる、とはっきり言うからには繋がるんだろう。携帯とはまた違う方式の電話なのか。もう雪ノ下家が怖ぇよ。

 まあ使えるものは何でも使おう。情けないことだが陽乃さんが、そして雪ノ下家が持つ力を借りてでもやりたいことが、俺にはある。

 言われたとおりのボタンを押しこんで受話器を取る。しばらく無音が続いたあと、コール音がそこから聞こえ、やがて二度と聞くことはないと思っていた声がした。

 

『もしもし?』

「雪ノ下か? ……俺だ」

『比企谷くん!?』

 

 俺だ、ってなんだよオレオレ詐欺か。直通電話で詐欺とか意味分かんねぇな。しかし雪ノ下は俺の声を違うことなく聞きとめてくれたらしい。まるで死人が甦った……この例えはやめておくか。死んだはずのライバルがラスボス前に手助けしてくれた時の主人公みたいに驚いていた。比喩が長げぇ。しかもなんか俺また死にそうじゃねぇか。

 

「ああ。……なんでか、生き残っちまったみてぇだわ」

 

 気恥ずかしさから憎まれ口のようになってしまう。だが俺は生きたくて生きている。生かされてここにいる。もう簡単には死んでなどやれないのだ。

 

『よ、よか、……った……』

 

 電話口の雪ノ下は泣いているらしかった。後ろでは由比ヶ浜と小町の騒ぐ声が聞こえてきている。良かった、あいつらも無事みたいだ。さすが雪ノ下だな。お前に小町たちを任せて正解だった。

 

「さっき陽乃さんに拾ってもらえてな。もうすぐそっちに着く。俺たちはどこに車を停めたらいい?」

『ぐす……。まって、……ちょっと、まってちょうだい』

 

 泣いてくれるのは嬉しいが車は刻一刻と到着まで迫ってきている。この車は大きさに似合う轟音を立てているから、あまり長い間同じ場所に留まるのは良くない。到着と同時に雪ノ下たちが飛び出してくるのがベストなんだ。

 後ろで号泣しているらしい小町たちに釣られて、雪ノ下もなかなか涙が引かないようだ。この辺の地理に詳しいのが彼女だけだから代わることもできないし、落ち着くのを待つしかない。

 

『……ごめんなさい、車だけれど、姉さんなら分かるかしら。病院のある通りから入ってきて欲しいの』

「病院のある通りだな? 雪ノ下さん、分かりますか?」

「大丈夫だよ」

 

 陽乃さんがこちらを見ずに親指をグッと立ててみせる。そういうカッコいい所作をされると、あの生徒思いの先生を思い出してしまう。

 どうにか悲しさを追いやって雪ノ下と話を続けた。

 

「大丈夫だと」

『分かったわ。そこからマンションの敷地に入ると屋根付きの簡易駐車場があるの。私たちは二階から屋根伝いに出るから、足場として車をその屋根の近くに停めて』

「屋根伝いか? 大丈夫か、小町の足は……」

『小町なら大丈夫だよお兄ちゃん!』

「……そうか。よかった」

 

 耳をこれでもかとくっつけていたのだろう小町が、名を呼ばれた途端に元気な声を聞かせてくれた。先ほどから後ろで聞こえてはいたが、その声はやはり俺に力をくれた。

 

「この車はけっこうエンジン音がデカい。できれば到着と同時に出てきてほしいが、時間を指定できるか?」

『そうね……では八時半ジャストでどうかしら』

 

 車に備え付けられている時計を見る。八時半まであと七分を指していた。

 

「こっちの時計じゃあと七分だが、大丈夫か?」

 

 少しのズレがどんな危険を呼び寄せるか分からない。油断せず、確認できるものは確認しなければ。

 

『……大丈夫、私の携帯でも七分だわ。あ、今六分に』

「よし、ぴったりみたいだな」

 

 雪ノ下の言葉とほぼ同時、こちらの時計も残り六分を刻む。

 あとは陽乃さんの運転に任せ、到着したら周囲の警戒をすれば良い。できれば銃を使うようなことにならなければいいが、危険だと判断したら容赦はしない。人の物を振りかざして恰好がつかないが、蜂の巣になってもらう。

 そして準備のために電話を切る。この俺が通話を惜しむようになるとはな。

 

 陽乃さんが走行速度を落とした。到着時間に合わせてタイミングを計っているのだ。この騒音はなかなかに遠くまで響くようで、そこらじゅうからゾンビをかき集めかねない。できるならば一気に突っ込み、一気に離脱したい。

 目標のマンションがある通りの一つ前の角で一旦停止し、様子を伺う。時間は、あと三分だ。

 

「ここを曲がって、マンションに入って駐車場の屋根につける。一分と数十秒ってとこかな?」

「屋根伝いなら地上の脅威は車とコレでなんとかできますからね」

「あんまりソレ、過信しないでね。数がいるとどうしようもないから」

 

 この銃はどうやっても三発までしか連射できない。一応予備の弾丸はサイドにはめ込んでいるものの、素人の俺が素早くリロードなど到底無理な話だ。陽乃さんの警告をきちんと受け取って頷く。油断はしない。忠告は素直に聞く。必要ならば、どんな自分にもなろう。

 

「……いくよ」

「うっす」

 

 小さく呟いた陽乃さんに答えて、ショットガンを構えて後部座席のドアに張り付く。開けて、構える。まずはそれだけだ。落ち着け。

 マンションの駐車場入り口の花壇を踏み潰して、陽乃さんの操るハマーが敷地に侵入した。駐車場に"奴ら"の影は――――ない。

 チャンスだ。今のうちに乗り込めば!

 

「雪ノ下!」

「今行くわ!」

 

 すでに車の音があるため声量を気にする必要はない。ドアを開けて雪ノ下を呼ぶと、彼女と二人の少女が二階層目の通路から駐車場の薄い屋根に降りたところだった。薄いとはいえ踏み抜けるような強度ではなさそうな足音が響いて三人が来る。

 

「お兄ちゃん!」

「ヒッキー!」

 

 小町と由比ヶ浜が嬉しそうに俺を呼ぶ。俺もまた会えて本当に嬉しいが、気を緩めてはいけない。

 女子たちは、見ただけで安心して身体を任せられると信じるに値する車の天井に飛び乗り、フロントガラスを滑り台のようにして地面に降り立った。小町、由比ヶ浜ときて最後に雪ノ下が降りる。全員がリュックやらデカい袋やらを持っていた。食料か何かか。

 

「よし、早く乗れ!」

「ええ! ……ってあなた何を持ってるの!?」

「雪ノ下さんのだよ、いいからほら」

 

 まあ驚くのも無理はないが、とにかく三人を後部座席に押し込んだ。四人が横に並んでも狭くないほどの空間をもつ車だ。俺もそのまま乗り込もうとした瞬間、知らない声が俺を止めた。

 

「ま、待ってくれ! 私たちも乗せてくれないか!」

 

 見ると駐車場の奥から走ってくる二人……いや、一人は赤ん坊を抱えているから三人か。その姿が確認できた。その後ろには、ゆっくりではあるものの蠢く影がちらほらとある。

 安心しきった顔で走り寄る二人と一人、恐らく夫婦だろうその片割れの男に猟銃を突き付けて接近を止めた。

 

「近づくな」

「なっ! なんでだ! どこへ行くのかは知らないが、わ、私たちも連れていってくれ!」

 

 黒光りする銃口を見て、男が反射的にか両手をあげて、しかし必死に説得しようと口角泡を飛ばす。

 別に乗せてもいい。ただ、条件があるだけだ。

 

「怪我人は?」

「さ、さっき妻が引っかかれて……、ま、まさかそれだけでダメだと言うつもりか?」

「……そうだ」

「は――――」

 

 信じられない、と口を開けて呆ける男に、油断せず銃を突き付けながら車に乗り込む。後ろからは由比ヶ浜の非難するような声が聞こえてきた。

 

「ヒッキー、どうして!」

「分かるだろ。引っ掻かれただけでもダメかもしれないんだ」

「で、でもヒッキーは……」

 

 そう、ダメかもしれない。でも特例こそが俺自身だった。しかしそれでも、危険を孕んでいるのならば秤にすらかけてやることはできない。俺はそこまで、責任をもてない。

 

「どうか、お願いします、この子だけでも……!」

 

 奥さんと思しき女性もすがる様に懇願する。引っ掻かれたのがこの人で、明らかに乳幼児なその子供。やはり、それは乗せられない。車にも、俺の中の天秤にも。

 

「――――ダメだ」

 

 ここで見捨てることはつまり、死ねと言っているも同然だ。俺の中の何かが軋みを上げるが、決定は覆せない。

 

「ふざ、ふざけるな! この――――」

 

 激昂した男から銃口を逸らしてトリガーを引く。

 狙っていた場所からはズレたが、散弾の一部が女性を狙っていた歩く死人の右胸を弾き飛ばした。

 

「ッ!」

 

 耳鳴りのしそうな轟音と、肩の痛みが頭を突き抜けていく。しかしそれを感じさせないように、見せつけるようにポンプを動かして次弾を装填した。

 夫婦は銃声に驚き、怒りから恐れへと表情を変えていった。赤子は泣きだし、俺たちが去った後も何かを呼び寄せることが予想できる。

 

「車には、乗せられない。……恨むなら、俺だけを恨んでくれ」

 

 そう言い残して、絶望する彼らの前でドアを閉めた。

 待っていたかのように陽乃さんがアクセルを踏み込んで、二人の男女の後ろに迫っていたゾンビどもを弾き飛ばしながら車を発進させた。

 後ろと、座席に座る女子たちの顔を見ないように、俺は助手席へと足を伸ばして座り込んだ。セイフティをかけ直した銃を支えにするように、深く、深くため息をつく。

 

「ヒッキー、なんであの人たちを乗せてあげなかったの……?」

 

 再会の嬉しさより、不信が勝ってしまったのだろうか、由比ヶ浜が責めるように聞いてきた。

 俺は答えられない。俺のためと言い張ればいいかもしれないが、どうしたってすぐに真実に行き着いてしまう。自分のために誰かを犠牲にしたと分かれば、この優しい少女はまた傷ついてしまうだろう。

 

「ねえ、ヒッキー!」

 

 沈黙を返しても、なお問い詰めてくる由比ヶ浜に、思ってはいけないことだが少しだけ苛立ちを感じてしまった。ダメだ、やめろ。俺はなんでもやると決めたが、それを理解して欲しいなどと思ってはいけないんだ。そんなのは、残酷すぎる押し付けだ。

 

「やめなよガハマちゃん」

 

 そこに、陽乃さんの冷たい声が割り込んできた。熱くなりかけた俺の頭に冷却水のように染み込んで落ち着かせてくれる、そんな声が。

 

「あの人たちを乗せても発症しない可能性はたしかにあるよ。けどもしオカシクなった時、その責任は誰が取るのかな? 自分じゃない誰かがどうにかしてくれるって思ってる?」

「あ、あたし、は……」

「比企谷くんにヤってもらうのかな? それとも私なら心が痛まない?」

「姉さん、そこまでにして」

 

 はいはい、と陽乃さんがそれきり黙って運転に集中してくれる。後ろでは由比ヶ浜が泣いているが、雪ノ下と小町に慰められているし大丈夫だろう。

 こっそりと、後ろには聞こえないように「ありがとうございます」と呟くと、陽乃さんは一瞬だけこちらを見て、星が飛び出そうなウィンクを返してくれた。

 

 由比ヶ浜の考え方は当然だ。

 誰も見捨てたくないし、誰も傷つけたくない。それは当たり前のことであって、責めるべきことではない。けれど世界は残酷で、それを許してはくれないのだ。助ける対象は慎重に、しかし迅速に選び、取捨選択しなければならない。

 そんなことは、彼女にはできない。どんな状況下においても、由比ヶ浜結衣という少女には荷が重すぎていつか壊れてしまうだろう。

 だから俺がやるんだ。こいつらにどう思われようとも、俺が、この手で。

 俺はきっと自己中心的な最低野郎だ。

 由比ヶ浜という優しい少女の手に群がる亡者も生者も、一緒くたにして弾き飛ばすことしかできない。たとえ、本人がそれを批難しようとも。

 

 どんな罵声を浴びようと俺は甘んじてそれを受け止めなければならない。でも腐り始めたこの世界で俺の精神も荒み始めていたようだ。カッとなって言ってはならないことを喚いてしまいそうになった俺を、陽乃さんはすぐに察して由比ヶ浜を止めてくれた。言葉は辛辣だったが、だからこそ俺も落ち着けたし由比ヶ浜たちも大人しくなってくれた。

 

 本当に頼りになる人だ。

 あまり寄りかかりすぎてはいけないが、せめて、この車が止まるまでは、優しく揺られていたい。そう思った。

 

 

 

* * *

 



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腐った目の少年は。③

 陽乃さんの操る巨大な車が、道を塞ぐ打ち捨てられた自転車や、時には動く動かないを問わず()人間を容赦なく轢き飛ばし、乗り越え、やがて大きな邸宅の前へと到着した。

 広大な敷地を、総武高校のものよりも豪奢な柵が覆っている。普通ではないこのサイズの車でも悠々とくぐれる大きさの門が自動で開いて、その屋敷の車庫らしき場所へ入った。

 

「ふうっ」

「お疲れ様です、陽乃さん」

 

 さしもの陽乃さんでも緊張続きだったのか、車を停めた瞬間に大きな吐息が零れた。俺が労いの声をかけると、少しだけ意外そうな目をして「ありがと」と返してくる。

 労ったのが意外だったのか、名前呼びが意外だったのか。だが彼女には多大な恩ができてしまったし、これから世話になるのは雪ノ下家だ。姉妹で呼び方が似てしまうのも面倒だったため名前で呼んだが、別に深い意味はない。……まあ妹の方を名前で呼ぶつもりはないけども。

 

「おかえりなさいませ、陽乃様。雪乃様も、よくぞ御無事で」

 

 車庫のシャッターが閉まり、陽乃さんが一度だけ短くクラクションを鳴らすと、屋敷へとつながっているらしきドアから使用人が二人飛び出してきた。しっかり危機管理ができているな。陽乃さんたちは現状がきちんと理解できていて、対策も取っているようだ。

 

「ええ、ありがとう」

「とりあえず紅茶か何かを……あ、比企谷くんはご飯食べてないのかな?」

「あ、はい」

 

 俺が頷くとそれだけで指示も待たずに使用人の一人が戻っていった。仕事できる人ってすげぇな。残った一人が雪ノ下たちが持つ袋を片手で持ち上げ、小町と由比ヶ浜が驚愕の表情でそれを見ている。俺が持っていた猟銃も顔色一つ変えずに受け取り、屋敷へと先導してくれた。

 

 案内された部屋は、雪ノ下のマンションのリビングを二倍に広げて三倍豪華にしたような広々とした空間だった。靴のまま絨毯を踏みつけるのは気が引けたがそれがこの家の普通らしい。巨大なスクリーンのようなテレビの前に、これまた巨大なソファが誂えられており、そこへ腰を下ろすと包まれるように身体が沈んだ。

 

「はあぁ……」

「雪乃さんの部屋もすごかったけど、ここはもっと凄いね、お兄ちゃん」

「そうだなー……」

 

 兄妹でソファに沈みながら益体のない話をする。なんてことのないことが、これ以上ないくらい心を落ち着かせてくれる。由比ヶ浜は気まずそうに立っていたが、何かを決したように俺の隣に座った。

 

「ヒッキー……さっきはごめんね」

「……気にすんな」

 

 由比ヶ浜はやはり優しい女の子だ。自分が悪いと思ったらちゃんと謝れる。きっと深いところまでは理解できていないのかもしれないが、それは俺が勝手に決めたことなのだ。彼女の気持ちを無駄にすることもない。

 使用人さんから紅茶を載せたおぼんを受け取った雪ノ下が、それを俺たちに配りながら複雑な顔をしていた。こいつも薄らと気付いているのだろう。俺がまた勝手なことをし始めていることを。きっといつものように正論を述べたいのかもしれない。けれどそれが通用しないことも理解してしまって、言葉が紡げないのだ。

 

「……とにかく、あなたが……生きていてくれて嬉しいわ」

 

 言いたいことを飲み込み、しかし次に出てきたのもきっと本音だったのだと俺にも分かった。口の端が優しく上がりかけ、しかし素直に笑みを浮かべることができていない。

 聞きたいことがたくさんある、と言外に語っていた。

 

「ああ。一色は、……っ」

 

 残酷な事実を言いかけ、俺も言葉にできずに詰まってしまう。だが彼女たちも分かっていたようで皆顔を伏せて一色を悼んだ。

 思い出すと今も涙が溢れて止まない。あのあざとくも可愛らしい後輩の姿を二度と見ることができないだなんて。そして、死んでいった他の人たちも。

 平塚先生、葉山、三浦、大志……。全員に対して仲が良かったなんて言えはしないけれど、それでも。死んでほしいなどと思ったことは一度とてない。三浦や大志は俺の日常には少ししか関わりがなかったかもしれないのに、喪われたとなると胸に穴が開いたような虚しさを感じてしまう。

 

 それから、俺が目覚めた後のことを聞かせた。といっても陽乃さんに拾われたことぐらいだが。

 あの出会いは本当に僥倖だった。あとマッカンを買おうとしてピンチになったことは黙っておいた。あれがなければ拾われなかったかもしれないし、風評被害には気を付けないとな。

 

「はーい、比企谷くんご飯だよ~」

「あ、ありがとうございます」

 

 俺と、雪ノ下たちのこともあらかた話しあったところで、陽乃さんが料理を運んできてくれた。分厚いステーキを目の前に置かれて、金持ちって本当に毎日こんなもん食ってんのかと思いかけたが、日持ちしない食材を優先的に使ったのだと気付いた。まあ俺としてはありがたい。

 正直に言うと良く焼いてくれてはいるものの肉は精神的にキツイものもあったが、食料は無駄にはできない。それに温かい食事はそれだけで疲れて冷えた身体に活力を与えてくれるのだ。

 

「うまっ」

「お兄ちゃんよくお肉食べられるね……」

「いやお前それ言うなよ……俺も考えないようにしてたんだから」

「あ、ご、ごめん」

 

 今日の出来事を一旦頭の隅においやって肉にかぶりつく。口に含めば芳醇な旨味が広がって細かいことを忘れられそうだった、が、小町の一言によってまた現実に引き戻されてしまった。食事中のお喋りはマナー違反よ。そんな子に育てた覚えはないわ! どちらかと言うと育てられたの俺じゃん。

 素直に謝った小町に追及することはせず、無心で料理を食べきった。肉の後に紅茶というのもどうかと思ったが、ハーブティーだったようで存外さっぱりとひと心地つけることができた。

 

「ごちそうさまでした、ありがとうございます」

「はーいおそまつさま。綺麗に食べてくれたねー」

「残すわけにはいきませんし……特に俺は」

「そうだね」

 

 空になった食器を陽乃さんが持ち上げ、すぐに飛んできた使用人さんが持って行った。仕事が早い。

 

「どういうこと?」

 

 俺と陽乃さんの会話を不思議に思った由比ヶ浜がきょとんと首を傾げて聞いてくる。

 何から言うべきか。俺も自分のことがよく分かっていないから、何からというよりどこから話すべきかも分からない。

 

「あー……。俺は噛まれたけど、"奴ら"みたいにはなってないだろ?」

「……うん」

「でも、なってないだけで感染はしてるかもしれないってことだ」

「感染……ね、意味は分かるけれど」

 

 雪ノ下がこれまでの出来事を振り返りながら唸った。まあそれも仮の表現なんだがな。

 

「奴らに噛まれるなりなんなりして、いずれ同じような状態になることを『感染する』と仮称する。そうした時、問題は、俺はその原因の何かに打ち勝ったのか、取り込んでいるのか、ってことだ」

「どう違うの?」

 

 由比ヶ浜も分かっていなさそうだが、小町もまだ理解できていないようだ。

 

「打ち勝って完全に無効化ならいいんだ。だが発症していないだけで原因となる『何か』がまだ俺の中にあるとしたら。例えば俺がさっきのステーキを残して、誰かがそれを食べたら感染してしまうという可能性がある、ってことだ」

 

 自我があるというだけで、俺はゾンビと変わらない存在なのかもしれない。だとしたら俺はいろいろ注意する必要がある。まずは不用意に誰かに触れないようにしなければならない。うっかり爪を引っかけてしまって、なんて冗談にもならないのだから。

 

「経口摂取による二次的な……だとしたら空気感染の可能性は?」

「分からん。だが空気感染ならもう誰も生きちゃいねぇはずだ。もしかしたら俺たち全員もう感染自体はしてるかもしれんが、それだと引っ掻かれただけでアウトになる理由が分からんしな……」

 

 雪ノ下の問いも一理ある。仮に俺が触れたものが危険ならば、くしゃみなどで飛散する可能性もあるかもしれない。考えれば考えるほど俺の危険性が上がってくな……。ここにいていいのかなマジで。

 

「そ、っか……。じゃ、じゃあさ、あの中学校はその、ゾンビ? 少なかったけど」

 

 由比ヶ浜がおずおずと質問した。小町にも配慮しているのだろうが、たしかにあそこでは襲われたものの、ゾンビの数自体は少なかった。というより、死体が多かった記憶がある。明らかに噛まれた痕があった死体。あれはどうして動き出さない?

 

「そのまま死んで動き出さない場合もあるのよね?」

「そこの違いはなんなんだろうな……。小町、あんまり思い出したくないだろうが、事の始まりの辺り、覚えてるか?」

「……うん、大丈夫。えっと、まず放送で不審者が侵入してきたから、今いる教室に待機してなさいって言われて……」

 

 嫌な顔をしつつ小町が記憶を探るように唸る。口に拳を当てて、濃すぎる一日のワンシーンを思い出そうとしていた。

 

「警察に電話が通じなくて、先生が取り押さえに行ったみたいだったんだけど、悲鳴が聞こえて……ちょっとやんちゃな男子たちが様子を見に行ったけど、やっぱり戻って来なくて、今度は学級委員の子が見に行って、青い顔して戻ってきて」

 

 そしてパニックが始まったらしい。しかし小町たちがいたのは二階より上の階層。降りられる階段は二か所にあるが、そこで犠牲となった教師や生徒がゾンビと化して起き上がっていたのだ。

 

「逃げようとして噛まれた子がいて、どうにか戻って来れたんだけど、外と連絡がつくまで教室に鍵をかけて立てこもろうってなって……」

「そいつも、ってことか」

「うん……」

 

 その後はきっとパニックなんて言葉では表わしきれなかったことだろう。しっちゃかめっちゃかになり、小町は大志と一緒に生徒会室へ逃げ込んで息をひそめていたが、けが人を受け入れてしまって事が起こり、やっと俺がそこへたどり着いたようだ。

 

「あと少し早ければ……」

「……私のせいだわ。ごめんなさい……」

「お前は悪くねぇよ。誰も悪くないんだ、謝る必要なんかない」

 

 雪ノ下が俯くが、こいつに責任なんてありはしないだろう。仮に雪ノ下に体力があったとして、行動が早くなったからこそ危険な目にあっていた可能性だってある。あの時、何が起こるかなんて誰にも想像すらできなかったはずだ。

 

「そうです、雪乃さんのせいなんかじゃないですよ」

「でも結局感染? する人としない人の違い分かんないね」

 

 やはり根本的な原因が分からないと取るべき対策にも具体性を持たせられないな。世界的に有名になったあのゲームは兵器として開発されたウイルスの流出が原因とされているが、今起きている現象は似てはいるものの差異もちらほらとうかがえる。

 まず一つに感染から発症までが早い。あのシリーズではすでに荒廃した街からスタートするが、作中で日記を読めば分かるとおり発症までに数日かかるケースもあったはずだ。昨日までは特にニュースにも挙がらなかったし、登校途中の町並みはいつも通りの日常と変わらなかったのに。

 そして次に、規模が大きすぎる。雪ノ下たちに聞いたところこの現象はすでに日本全国に広がっており、世界中でも起きている可能性があるということだった。余りにも早く広まりすぎだ。

 

「今のところ噛まれて無事っていうのは比企谷くんだけみたいだね」

 

 陽乃さんがいつの間にか持ってきていたノートPCを操作していた。まだネット回線は生きているのか。だとしたら重要な情報が拾えるかもしれない。

 

「何を見ているんですか?」

「ん、Facebookだよ。会ったことはないけど『お友達』なら世界中にいるからね」

「さすがっすね……」

 

 俺なんて英語すら怪しいんだが。陽乃さんはその友人たちとやらがSNSにアップしている情報をまとめていきながら、だんだんと顔色が悪くなっていっている。

 

「中国、ロシア、アメリカ、オーストラリア。他もだけどこれだけ距離も環境も違う国で同様の事態が起こってる。人為的なものを感じなくもないけど、そんなことができる組織も方法も思いつかないな」

「時間はどうですか? 全くの同時になのかどこからか始まったのか」

「ちょっとまってね……。うん、ほぼ同時だね。日本時間の正午すぎ辺りから猟奇事件があったっていう記事の投稿が始まってる。向こうは夜中とか夕方でも」

 

 どこからともなく始まったというのか、世界各国で同時に。陽乃さんの言う通り、これが人の手によるものだとしたらそんなことができる組織も方法も思いつかない。なおかつ世界中の治安維持組織や軍隊にも見つからずに何かしらを散布するなど不可能だ。

 だとしたら自然発生? それもおかしいと感じる。オーストラリアなんかは分かりやすいが、日本とは季節が真逆で環境が違いすぎる。自然に生まれたウイルスなのだとしたら流行る条件なんかがあっても不思議ではない。

 

「はあ、ダメだ、さっぱり分からん」

「とりあえず今日は休みましょう。いろいろありすぎて整理もできないわ」

「そう、だね」

 

 雪ノ下が空になったティーカップをトレーに戻していき、それを控えていた使用人さんに渡す。代わりに救急箱を受け取って俺の前に置いた。ありがたい、肩の傷から出た血が固まっているらしく気持ち悪いと思ってたところだ。

 

「比企谷くんは怪我もしてるし、今日はお風呂は我慢してちょうだい」

「まあ水も貴重だし構わねぇよ」

 

 その言葉に承諾を返しながら、制服の上を脱いで包帯が巻かれた上半身を晒す。そういえば目が覚めてから怪我の状態を確認してねぇんだよな。見たら痛みがぶり返してきそうで怖いが仕方ないか。

 

「っ、痛々しいけれど、ちゃんとふさがり始めているわね」

「うわぁ痛そう……。大丈夫、ヒッキー?」

「ああやっぱり傷見たらまた痛くなってきた気がするわ……」

 

 噛まれた部分は青黒く変色していた。平塚先生の腕の傷みたいに噛み千切られてはおらず、どっちかというと噛みつぶされたという方が近い。歯型ではあったが貫通していたのは前歯あたりのみで出血はそこまでひどくはなかった。

 

「小町が助けてくれてなかったらちっとヤバかったかもな」

「あの時は頭がカッとなって……」

「ありがとな」

 

 相手がゾンビとはいえ妹に手を上げさせた俺に落ち度はあれど、小町が落ち込む必要はない。自責の念に小さくなっていた小町に礼を言って消毒液をかけて包帯を巻きなおす。多少沁みたがこれもまた生きている証だ。甘んじて噛みしめよう。

 

「……っはあ。陽乃さん、外から鍵がかけられる部屋ってありますか?」

「あるけど……まさか自分から言い出すなんてね」

「そりゃ、自分以外がこう(・・)なってたらそうすると思いますから」

 

 陽乃さんはやはり理解が早かった。

 つまり俺がこれから発症する可能性も考えて、もしゾンビ化したらそのまま閉じ込められる部屋で寝泊まりさせてもらおうという話だ。

 

「とりあえずは朝まで。もし発症、そうでなくても悪化し始めていたら……」

「そん時は、頼みます」

「お兄ちゃん!?」

 

 ようやく話の流れを理解した小町が叫んだ。

 

「まあ保険みたいなもんだよ。お前らは不測の事態に備えて一か所に集まっていてもらったほうがいいが、俺は放置しておくだけでも危険になりかねないしな」

「やだ! だったら小町もお兄ちゃんと一緒の部屋で寝るから!」

「ダメだ。小町、分かってくれ」

 

 一度死に別れのような経験をしたからか、小町は俺のそばを離れようとはしなかった。そりゃそうか。もし立場が逆だとしたら俺はきっと小町を抱きしめて離さない自信があるぞ。

 愛しい妹のわがままをどう落ち着かせようかと考えあぐねていると、ふとポケットに入った携帯が震えはじめた。……電話、か!

 

「ちょっとすまん……川崎か! ――――もしもし!」

『……比企谷。やっとつながった、か』

「川崎、無事か!」

 

 画面に表示されていたのは総武高校の前で別れた川崎沙希の名前だった。彼女に託された依頼は達成できずに、どう話せばいいかも分からないがとにかく無事であってほしかった。

 

『京華は……ダメだった。大志、は?』

「……すまん。すまん、川崎……」

『……そ、か』

「お前は無事なのか? 今どこにいるんだ。今から迎えに――」

 

 無理もないが明らかに気落ちしている川崎の声に、慌てて言葉をかける。ちらりと陽乃さんを見てみるも、彼女は首を横へと振っていた。車は出せない、と。そうだよな、陽乃さんにとってはつながりもない他人でしかない。そのために危険は冒せないか。

 だが川崎もそのつもりはなかったらしい。

 

『いや、いいよ。あたしは大丈夫』

「大丈夫ってお前……!」

『最後に声を聞けてよかったよ』

「何言ってんだ、おい、何するつもりだ!」

『じゃあね、比企谷。……あんたは生きて』

「川崎!! 切るな! 川崎!」

 

 それきり、電話は途切れて不通を示す音声しか流れてこなかった。

 

「……っ!」

「お、お兄ちゃん……」

 

 くそ、くそ、くそっ! 何度俺は自分の無力さを味わえばいいんだ。俺に、俺に何ができるっていうんだ……!

 『みんなを頼む』という葉山の言葉が頭の中にリフレインする。葉山、お前ならどうしていた……。俺には、やっぱり荷が重いよ。

 

「比企谷くん、部屋に案内するよ」

「……お願いします」

 

 肩を落とした俺に陽乃さんが変わらない調子で声をかけてくれた。下手に慰められるよりもありがたい。今はどんな言葉も素直に受け取れる気がしない。

 

「あ、こ、小町も……」

「すまん、今は……一人にしてくれないか」

 

 追いすがるように俺の袖を取った小町をやんわりと引きはがして陽乃さんの後に続く。広々とした廊下を歩いて行き、とある扉の前で立ち止まった。見た目は普通の部屋の扉だし、実際に開けてみてもそれなりの広さの部屋だった。この屋敷にしてみれば狭いと表現してもいいのかもしれないが、俺の部屋より少し狭い程度で内装もなかなかのものだ。

 

「あんまり人様に言うことじゃないけど、ここはいわゆるお仕置き部屋ってやつでさ。子供のころ何回か入れられたんだー」

「はは……陽乃さんにもそんな時代があったんですね」

「そうだよ、私のことなんだと思ってるのかな? まあここはさ、防音もしっかりしててどんなに泣きわめいても開けてもらえなかったんだよね」

「そう、ですか。ありがとうございます」

「んじゃ、明日の朝にノックするから、同じ回数を返してくれる? そしたら開けてあげる」

「分かりました。……おやすみなさい」

「ん、おやすみ」

 

 バタンと重い音を立てて扉が閉まる。本当にありがたい。まさしく今の俺に必要な部屋だな。

 もう使われていなさそうな部屋なのにしっかりと掃除が行き届いていて、ベッドにもホコリなどは微塵も見られない。靴を脱いでうつ伏せに倒れ込み、思いっきり枕を殴りつけた。

 

「――――くっそぉおおおおおおおお!!!」

 

 誰にも届かない慟哭をあげながら、長すぎる一日の終わりを迎えた。

 

 

 

――――――

――――

――

 



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腐った目の少年は。④

 窓がないために外の様子は分からない。携帯はきちんと時刻を表示してくれていて、それだけが朝だということを教えていた。

 あれからいろいろなことが頭をよぎって、睡眠をとったはずの頭は今もぐらぐらと不安定に揺れている。

 死んでしまった知り合いたちのこと。川崎のこと。生きているのかも分からない誰かのこと。

 両親や、川崎とともに別れた戸塚。俺だけじゃない、雪ノ下や由比ヶ浜だって家族や友人のことを心配しているだろう。考えれば考えるほどドツボにはまって、ネガティブな思考がまとわりついて離れない。何か、いい情報でも入ればいいのだろうが、せいぜいが一夜を明かしても俺が生きていたくらいしか思いつかない。それさえも地獄が続くと考えると気が重くなってしまう。

 

 ――――コンコン。

 

 暗い考えを吹き飛ばすようにノックの音が部屋に響いた。急いで扉の前へと行きノックを返す。無気力に伏したままではせっかく繋いだ命も閉じ込められて終わるという意味の分からない最後を迎えてしまう。

 

 ――――コンコンコン。

 

 偶然を考えてか二度目のノックが打たれ、これにも返す。すると扉が勢いよく開いて小町が突進するように抱き付いてきた。

 

「お兄ちゃんっ!」

「っとと、小町……心配かけたな」

「うん……、おはよう、お兄ちゃん……」

「ああ、おはよう、小町」

 

 きっと小町も不安な気持ちで一晩中いたのだろう。俺の背に回した手は震えていて、二度と離すまいとする思いが伝わってきた。

 ああ、そうだ。ネガティブになっている場合なんかじゃない。俺には守りたいものがあるんだ。この温もりを、二度と失いたくないと決めたじゃないか。

 扉の向こうには雪ノ下と由比ヶ浜、陽乃さんが立っていて、まるでまばゆく輝く世界へ誘うように迎えてくれた。

 

「良かった、ヒッキー……おはようっ」

「おはよう、比企谷くん」

「ああ、おはようさん」

 

 それぞれが安心したように笑ってくれている。陽乃さんでさえ俺の姿を確認した瞬間にほっと胸を撫で下ろしていた。

 

「無事でなによりだね。それじゃ、朝ごはんにしよっか」

「はい、ありがとうございました」

 

 腐り始めた世界にも朝が来る。眩しい笑顔に囲まれて、俺は朝食の席へと案内された。

 昨日も使ったソファとテーブルに用意してあった、温かな湯気を立てるスープとパン、サラダに舌鼓を打ってひと心地つけると、陽乃さんがまたノートPCをテーブルに乗せて電源を入れる。

 

「さって、今日は情報収集に徹するとしましょうか」

「それはいいんですけど、なんの情報を集めるんですか?」

 

 昨日話したように、俺たちに世界が腐り始めた原因が分かるとは思えない。もし分かったとしても素人が解決できるような事態でもないはずだ。

 それは陽乃さんも分かっているらしく、パソコンを操作しながら説明をしてくれた。

 

「表面的、というか短期目標を決めたいなって思ってね」

「短期目標ですか」

 

 そう、と頷き雪ノ下の方へ目をやると、彼女はリモコンでテーブルの前にある大きなテレビのスイッチを入れた。テレビ局はまだ生きているのか。

 

「そういえば比企谷くんはテレビの情報を知らなかったわね。自衛隊が動いてくれて、まずは各地にある駐屯地の周辺から住民を救助してくれているらしいの」

「……なるほど」

 

 たしかここら辺で一番近いのは習志野駐屯地だったか。しかし自衛隊が動いてくれているのはありがたい話だ。平和な国とされる日本において、ゾンビと戦える、さらに言えば鎮圧できる組織というのは警察や自衛隊を除いて存在しないだろう。どこかのゲームのように、道端に銃や弾丸が落ちていたりしたら即事案だしな。

 合法・非合法を問わず考えるならば、もしかしたらヤクザ的な何かも武力という点では戦えるかもしれないが、頼りにできるかと聞かれれば頷くことはできない。

 

 自衛隊とはいえど物資に限度はあるかもしれないが、きっと彼らは食料やらの調達もしてくれているのではなかろうか。

 サバイバルホラー系の定番といえばホームセンターやそこに付随する大型スーパーなんかに立てこもったりするが、大勢の人がいた店内で、ゾンビと化した人間を排除するだけでも相当な武力がいる。銃はおろか、確実に仕留められる武器が限られている日本では、その定番のスポットも地獄の様相を呈している可能性が高い。

 だが自衛隊ならば、あの不死もどきを一撃で潰せる武器を持っている彼らならば、そういったところに突入して、充分な物資を確保できるかもしれない。

 

「自衛隊が救助に来てくれるまでを、どう過ごすかってことですね」

「そういうこと。情報はいくつあっても足りないし、彼らの作戦に役立てられるようなものがあればなお良し、ってところかな」

 

 そういうことなら今日は特に動くこともないか。正直に言うと一晩休んだだけでは身体はガタガタのまま、走るのは辛かったし助かった。雪ノ下もたぶんだが筋肉痛やら何やらでひどい状態なんじゃないか。

 

 ちらりと目をやってみると、そんな彼女は自分でつけたテレビを確認して、情報を紙に書いてまとめている。

 俺の視線に気づくと、ちょいちょいと手招きをして紙を指さした。

 

「比企谷くん、私なりにまとめてみたのだけれど、この現象に似たような題材の映画やゲームがあるのでしょう? 気づいたことがあったら教えてほしいのだけれど」

「ああ、分かった」

 

 雪ノ下の隣に腰を下ろし、その紙に書かれていることに目を通す。綺麗に整った字で物騒なことが書いてあるが、まあ仕方のないことだ。

 

―――――――――――――――――――

 

・ゾンビ化した人に噛まれる、引っ掻かれるなどすると「感染」し、数十分から遅くて二時間ほどで同じくゾンビのような状態になる。

・ゾンビは人を襲う。人以外の生き物に対しては不明。

・また、人以外の生物が感染するかも不明。

・現在治療する方法はない。ゾンビ化せずに死ぬ人もいるが原因は不明。

・彼らは目が見え、耳も聞こえている模様。ただしそれ以外のなんらかの方法で人の気配を探知しているらしい。

 

―――――――――――――――――――

 

「まだ途中だし、比企谷くんからは何かあるかしら」

「そうだな……」

 

 この感染から発症までの時間や人間の探知についてはテレビからの情報か。テレビ局もやるな。正しい情報を与えるってのはマスコミの正しい姿だ。この状況の中よくやってくれている。

 

「ゲームだと犬とか蛇とか、動物も感染して凶暴化して襲ってくるんだが、まだそういうのは確認できてねぇのか」

「そうみたい。……そういえば昨日から動物の姿を見ていない気がするわね」

「あっ、それあるかも。犬とか猫とか、あと鳥? たまーに遠くで犬の吠える声は聞こえた気がするかもしれないけど」

「たしかに吠えてるのが聞こえましたね」

 

 犬、か。吠えているというのが感染している証なのか、または逆なのか分からんがな。それとも動物には感染しないんだろうか。野生の勘やらで危機を察して逃げていったってんなら辻褄も合うが……。

 

「動物かぁ。SNSにはまだそういう情報はないけど……確認してみよっか」

「確認?」

 

 陽乃さんがパソコンから目を上げて、何か思いついたように部屋を後にした。

 まさか外に出て見に行くのではと危惧したが、彼女が両手に抱えるような大きな箱を抱えて戻ってきて何か方法があるのかと知った。重そうなそれを受け取ってテーブルに乗せ、箱を開けてみるとプロペラが四つ付いたヘリのラジコンみたいなものが出てくる。

 ……ドローンってやつか。

 

「本当になんでも持ってますね、陽乃さん」

「面白そうなのはなんとなくね。こういう使い方をするとは思ってなかったけど」

 

 やたらと高性能そうなドローンは、カメラも標準装備でモニターでリアルタイムの映像を確認しながら飛ばせるらしい。しかも改造されて増設されたカメラにより左右、真下の景色まで捉えてくれる優れものだ。

 説明書を読むと、およそ二キロメートルの範囲で操縦できるとか。普段なら条例で高さも距離も活かしきれない性能だが、今なら誰も文句など言わないだろう。

 

 使用人さんの一人がカメラの分だけモニターを持ってきて並べてくれる。人数もいるし、広範囲を探りながら飛ばせるってわけだ。

 

「不謹慎ですけど、こういうの興奮しますね」

「あはは、たしかにそうだけど不謹慎だからってずっと暗いままじゃ周りも落ち込んじゃうし、こういうのは素直に楽しもうよ」

「ですね」

 

 てきぱきと準備を整えていく陽乃さんを手伝いながら、そんな話をした。

 人が死ぬことに慣れたくはない。だがこんな世界でも生きていかなければならないのなら、こういう探索や情報収集なんかを楽しむというのは大事なのかもしれない。もちろん、油断やら何やらは禁物だが。

 

「よっし、大丈夫そう」

「じゃあ窓を開けますね」

 

 広い室内で試運転を済まし、動きやカメラにも問題がないことを確認した。携帯は繋がりにくいが、こういう電波はそういうこともないみたいだ。機敏に動くドローンを促すように窓を開く。その先にはベランダが広がっていて、離着陸にも不都合がなさそうだ。

 

「八幡号はっしーん♪」

「なんですかそのネーミング……」

「ふふ……八幡号……」

 

 陽乃さんが意味の分からない名前をつけたドローンは勢いよく空へと上がっていった。雪ノ下は雪ノ下でそのネーミングがツボにでも入ったのかくすくすと笑っている。八幡号ってなんだよ。開発に七万九千九百九十九機でも要したのか。やべぇすげぇ高性能っぽい。

 

「わぁーすごい!」

「こんなに高く飛べるんだー」

 

 由比ヶ浜と小町は、俺のように男子特有の興奮ではなく、景色自体を楽しんでいる。分かんねーかなぁ、このリアルタイムで映像を見ながら操作できるロマン。俺が操縦しているわけではないが、まるで戦闘機やモビルアーマーに乗っているかのような興奮はなかなか味わえない。

 

「う……」

 

 が、すぐに由比ヶ浜たちの顔色が悪くなった。

 それも当然、そこら中に蠢くゾンビと、飛び散る赤色。そんな景色ばかりが、カメラを通して流れてくるのだ。見ていて楽しいものではない。

 

「動かなくなった死体と、動いている死体。何か違いはあるのかしら」

 

 嫌な顔はしつつも、冷静に物事を見ている雪ノ下がぼそっとこぼす。道端には見たくもないがちらほらと死体が転がり、それを貪るゾンビもいた。

 だが、明らかに無視されている死体と、かなりの数に囲まれて食われ続けている死体があり、その違いを調べようとみんなでそのモニターをじっと観察してみた。

 

「うーん……あっ……」

「どうした小町、何か気付いたか?」

 

 あまり妹に見せたくない映像だったが、この先いくらでも目にすることになるものを隠したところで意味はない。人の目は多いほど気付くものも増えるのだ。現に今、俺が気付かなかった何かに小町が反応した。

 

「えっと、死んで動かない方は、子ども? が多いのかなって」

「子ども……」

 

 言われて映像を確認すると、たしかに小柄な死体が多い。ゾンビに貪られていて確定することができないが子どものように見える。逆に、大人らしい体躯をした死体、恐らく頭部を損壊したそれにはゾンビが群がっておらず、奴らが共食いをしないのと同様に獲物として捉えられていないことが伺えた。

 

「なるほどね……中学で死体が多かったのはそういう……」

「この現象に、子どもの身体では耐えられないってことか?」

「その可能性があるわね」

 

 小町を迎えに行ったあの中学校では、いつ動き出すのかと恐れていた死体がたくさんあった。結局突然起き上がって襲い掛かってくるなんてことはなかったが、そういう可能性もあるのか。

 

「この黒いのは……カラスの死骸?」

 

 由比ヶ浜も顔を青くしつつちゃんと確認してくれている。指をさした先には死体の周りに落ちた黒い鳥の死骸が転がっていた。

 

「死体を食って、感染して死んだって感じか」

「そうね……仮定するなら、中学、いえ小学生以下の体躯、もしくは年齢による身体の機能の違いでゾンビ化するかどうかが決まっているのかしら」

 

 雪ノ下が情報をまとめてくれる。それが正解だとすれば、その事実でいい未来と悪い未来が両方浮かび上がってくる。

 

「だとすると……。防ぐのが難しいネズミなんかの小動物は死滅して危険にはならないってことだ……が」

「が?」

 

 ある意味で人間のゾンビよりも怖いのがそいつらだ。人を獲物と認識し、かつ凶暴化したネズミが大挙してやってきたら、たとえマシンガンを持っていても打ち払うのは難しい。そういった点で、小動物が感染しても発症しないというのはまだ良い情報として受け止められる。

 だが、逆もまたありえるのだ。由比ヶ浜が俺の言葉の先を促す。

 

「デカい動物……。例えば、熊とかライオンが動物園を抜け出して感染、発症したら……」

「それは、たしかにやばいね」

 

 俺の予想に、陽乃さんが同意してくれる。この近辺で一番近い動物園は千葉市動物公園で、それなりに距離も離れてはいるが大型の動物が感染して脱走なんてしたら、それこそ自衛隊の戦車でもなければ倒せないだろう。陽乃さんの猟銃でも、鹿を一撃で仕留めるのにはかなりの技術が要るのだ。それよりも強靭で、なおかつ不死身に近い動物が向かってくるとなると、その危険性は計り知れない。

 そして、そんな不安を裏付ける事態がドローンに襲い掛かった。

 

「陽乃さん、右から何か来てます!」

「おっとぉ!」

 

 由比ヶ浜の警告に陽乃さんがドローンを急上昇させる。カメラには赤黒い物体が高速で向かってきて、そのレンズの目の前でガチンと歯を打ち鳴らすのが映った。

 真下のカメラを映すモニターに目を移して確認すると、それはゴールデンレトリバーと思われる大型犬だった。もともとは白か金色に近かったであろう体毛は、返り血かそれに類するもので赤黒く染まっている。

 

「ひ……!」

 

 モニター越しだというのに雪ノ下はその犬に怯えていたが、正直俺もめちゃめちゃビビっていた。

 その眼光は見ただけで狂気に侵されているのが見て取れ、口からは鮮血のような唾液がだらだらと垂れている。毛皮も所どころ剥げており、もはや犬ではなくモンスターと言った方が分かりやすい。

 それにしても生物でもないドローンに襲い掛かってくるとは、こいつは人間のゾンビとは何かが違うのだろうか。

 

「なんでドローンに……?」

「うーん、追いかけてくるわけでもないから、縄張りみたいなのでもあるのかな」

 

 陽乃さんの言う通り、おぞましい狂犬はその場を離れたドローンをしばらく睨みつけた後、来た方向へと帰っていった。生物だけでなく、動くものすべてに襲い掛かっているのだとしたら、それもまた恐ろしいことではある。ゾンビと共食いでもしてくれていればいいが、腐った者たちは自分と同じ臭いでもするのか、特に襲う様子はなかった。

 

「わんちゃんが……あんな、うう……サブレ」

「由比ヶ浜さん……」

 

 愛犬も家族である由比ヶ浜には辛い現実だ。しかしサブレは小型犬、例え無事でなかったとしても人を襲うようなことはないはず。それは慰めの言葉にすらならないし伝えることもなかったが、あのようなおどろおどろしい姿になっていないだけでもいくらかマシにすら思えてしまった。……もちろん、同じことがカマクラにも言えたが。

 

 その後もドローンによる散策で辺りを探った。電柱や電線に気をつけながら飛び回り、イオンモールや小学校などを見たが、いるのはゾンビばかりで生きている人間はほとんど見かけない。いても建物の中にいてこちらに手を振っているのに気づいた時だけだったりする。こちらから何かを発信することはできないので何も返せなかったが、少しでもまともな人の姿を見れてホッとした部分もあった。

 だが生存が絶望的というわけでもなかった。多くてもすし詰め状態みたいに見渡す限り一面ゾンビという地獄の顕現のような場所はなかったし、ゾンビが少ない=生きている人間が多いという証明にもなる。恐らく自宅や職場などの建物に籠っているのだろう。テレビさえあれば、自衛隊が動いているという情報は知ることができるのだから。

 

「小学校は昨日の時点で休日だったみたいね」

「ああ、そこは良かったな」

 

 一番近くにあった小学校はもしかすると死体だらけという最悪の映像を見せられるかと覚悟していたが、この異常事態発生時である土曜日で休みだったこともあってほぼ無人の状態だった。

 逆にサバイバル鉄板のショッピングモールは混雑もあってひどいことになっていた。入口が封鎖されたりしている様子はないので、もしかしたら誰かが中に逃げ延びているかもしれないが、あの周辺のゾンビの数だと脱出も救出も難しいだろう。

 

「っと、そろそろ充電がまずいかな?」

「もうちょいで一時間になりますね。飛行系のラジコンって充電短いイメージありましたけど、最近の技術ってすごいんすね」

「そだね、まあお金に任せて一番いいの買ったからだけど」

 

 なんだろう、陽乃さんのお金持ち自慢ってあんまり嫌味に聞こえないな。この人は大学生のはずなのになぜか自分で稼いだお金しか使ってないようなイメージがあるからか。それともしっかりと使いこなしているからか?

 ともかく最寄りの駅前まで飛ばしていたドローンをこの屋敷へ戻そうと、陽乃さんがコントローラーを操作して高度を上げると、モニターに映る景色の中に迷彩柄の何かが動いているのが見えた。

 

「あ、あれってもしかして」

「自衛隊の人たち?」

 

 俺が指さした先にあったものを見て由比ヶ浜も同様のことを思ったらしい。ドローンが上昇をやめてカメラのブレが収まると、陽乃さんが乗っていたハマーよりも強そうな迷彩柄の車と、その車の天井部分から銃を持って顔を覗かせている隊員の姿が確認できた。

 

「おお……本当に救出に回ってくれてるんだな」

「ありがたいわね。この近辺もいずれは彼らの行動範囲になってくれるかもしれないし、しばらくは動かず待っている方が良さそうね」

「だな」

 

 さすが、軍隊ではないが同様のレベルにまで練度を高めた組織だけあって、その進軍に隙がない。なによりあの戦車みたいに重厚な車は軽どころかミニバンだって踏み潰して進むことができそうだ。もうあれで街中走ってくれるだけでゾンビが全滅するまである。

 彼らの活躍を追ってみたかったが、そろそろ本格的にドローンの限界が近づいてきていることもあって撤収することになった。

 

「この高度で設定して……よし、あとは自動でここまで戻ってくるはず」

「そんな機能まで?」

「うん、まだGPSも使えるしね」

 

 GPSか。たしかアメリカのお偉いさんがたが管理しているんだっけか。管理とは言っても衛星自体に何かしらの手を加えるわけじゃないだろうし、アメリカという国自体が無事ってわけでもなさそうだけどな。それでも向こうは銃社会だし、こっちよりは早く事態が収拾してくれることを祈ろう。そして助けてほしい。やはり他力本願な俺だった。

 

「まだ電気も水道もネットも生きてるし、あのゲームよりは絶望的ってわけでもないのかな」

「……だといいんですけどね」

 

 それでもその生活の要はいずれ途絶えるだろう。仮に発電所や浄水場が勇気ある人間の手によって管理されるとしても、例えば電線が切れたり、水道管が破裂しても直す者がいないのだ。

 日々の生活は人々の営みの上になりたっていることを痛感させられる。そう考えると社畜になりたくないっていう俺の願いも浅はかだと思わされるな。今ならあの日常に戻れたとして、社会の歯車の一員になるのもいいって思わなくもない。

 

「あっ、戻って来た!」

「ほんとだ」

 

 小町が窓の外に浮かぶ黒い点を指さし、由比ヶ浜もそれを見上げる。

 一時間近く前に送り出したドローンが無事に任務を終えて戻ってきたのだ。陽乃さんが操作をマニュアルに戻してベランダに着陸させると、みんながそれを出迎えた。

 

「おかえりー八幡号」

「無事でなによりだよ」

「マジでそのネーミングにするんかよ。俺に似てる部分なんてなくない?」

 

 俺が意義を唱えると、雪ノ下がくすりと笑った。

 

「あら、考えようによってはあるかもしれないわよ?」

「どこだよ。あ、仕事をきっちりしてくるところとかか?」

「ゾンビ化しないところとか?」

「おま……あんまシャレならんぞそれ」

「……ごめんなさい」

 

 彼女なりのジョークだったのかもしれんが、素直に笑えそうにはない。しかしそんな冗談のひとつも飛ばせるくらいにはみんな落ち着けていると考えればまあいいだろう。小町も由比ヶ浜も苦笑ではあるものの笑みを浮かべているしな。

 とにかくこのドローンは情報収集には便利だということが実証されたし、無事に帰ってきてくれて嬉しいのはたしかだ。ベランダから室内に戻して、丁寧に箱に入れなおしてやった。

 

「ふー。車の運転も楽しかったけど、これもこれでいいね」

「お疲れ様です。まあ普段は規制とかかかってこんな風には飛ばせないでしょうけどね」

「だよねー。危ないのは分かるけど、なんでもかんでも抑えればいいってもんじゃないと思うけどなー」

 

 一仕事終えた陽乃さんに労いの言葉をかけると、使用人さんがまた紅茶を持ってきてくれた。俺たちがこの屋敷に到着したときに迎えてくれた人だ。そういえばあの時いた二人しか見ないが、他の人たちはどうしているんだろうか。

 

「陽乃さん、使用人の人たちってあの二人しかいないんですか?」

「うん。この状況になってから、希望した人しか残ってないんだ。みんな家族のところに帰ったよ。可能なら戻ってきてもいいって言ってはあるんだけど……」

「……なるほど」

 

 ただ戻って来れないだけならいいが……。まあ雪ノ下家に仕えた人たちだ。きっと上手くやっていることだと信じよう。

 

「雪ノ下家の車には直通電話もあるからね。うちの両親は一応無事みたいだけど、戻ってはこれなさそう」

「そうなの?」

「あ、言ってなかったね。ごめんごめん」

 

 陽乃さんがなんてことなさそうに謝った。雪ノ下はそんな彼女を睨んではいるものの、両親の無事を喜んでいるみたいだ。うちの親もどうにか生き延びていてほしいな。

 

「じゃ、そろそろお昼の準備をしましょうか! 今日は小町も手伝いますよ」

「そう? 実は、ってさっき言ったけど使用人も二人しかいないしありがたいな」

 

 その場の誰もが安否の知れない家族を思ったのか、一瞬無言の空間が広まりかけたが、小町の一声のおかげでなんとか元の空気に戻ることができた。

 人が少ない以上できることは分担した方がいいだろう。それに人数が少なければ物資の消費も少ないと思えば悪いことばかりではない。

 使用人さんの一人に案内され、小町が厨房へと向かっていくのを見送り、俺たちは俺たちで何かできることはと仕事を探し始める。

 

「では私たちはまた情報収集に戻りましょうか」

「おう」

「はいはーい」

 

 麗らかな日が差す中、俺たちは暗闇のような未来の中に光を求め始めた。

 

 

 

* * *

 



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起きる、動く、牙を剥く。

 

 

『ここまで放送を続けてきましたが、我々の物資もそろそろ貯蓄が切れそうになりました。外へ出る必要が迫っています。私たちは必ず戻り、また放送を再開したいと思います。仮に何も手に入らなかったとしても、一週間後には必ず。どうか、皆様もご無事で』

 

 テレビの画面の中で、一週間放送を続けてやつれ始めたアナウンサーが祈るように目を瞑り、そして映像が砂嵐へと変わった。

 もう、世界が腐り始めてから一週間が経った。俺たちは変わらず雪ノ下家にて暮らし、未だ自衛隊の救助を待ち続けている。

 

「テレビ局の人、大丈夫かな……」

「心配ですね……」

 

 由比ヶ浜と小町が砂嵐に変わった画面を見つめて言葉をもらす。その心配も当然のことだろう。彼らは本当によくやってくれていた。有志のみが集まったマスメディアはその在り方を正しくやり遂げていたのだ。俺たちが集めた情報と同じ、時にはそれ以上の吉報凶報をいるかも分からない視聴者に細かに伝え続けてくれた。

 

「それにしても、一週間か。自衛隊の救助はどこまで進んでいるんだろうな」

「そろそろもう一回ドローン飛ばしてみよっか?」

 

 俺の疑問に陽乃さんが一つの提案を出した。

 ドローンによる情報収集は三日目までは行っていたが、集められる情報が一定以上を越えないために今はやっていない。たしかに上空からの観察は周辺を探るのに便利ではあったものの、建物の中には入ることができず、外から見ただけの見識しか得ることができないのだ。

 よってこれ以上はあまり効果がないだろうと中止していたのだが、自衛隊の救助の進行具合を具体的に知る術としてはやはり使えるだろう。俺はその提案に首肯で返して例のドローンが入った箱を部屋の隅から持ってきた。

 

「八幡号も久々ね」

「今回もよろしくね、八幡号!」

「もう何も言うまい……」

 

 謎ネーミングにはツッコまずに、飛行偵察機を慎重にベランダに置く。プロペラや機体を少しでも傷つけるわけにはいかないからな。ずっと部屋のコンセントに接続していたし、充電もばっちりのはずだ。

 

「よーし、発進!」

「はっしーん!」

「いえー!」

 

 楽しそうに操縦桿を押しこむ陽乃さんに合わせて、ノリのいい女子二人が歓声をあげる。そりゃ楽しそうではあるけどよ、そこまでか? 楽しんだ方がいいと言ったのは俺でもあるから口に出しては言わないでおいたけどな。

 

「最後に自衛隊を見たのは駅近くのショッピングモール前だったわよね」

「だな。他にも別部隊がいるんだろうけど、見かけたのはそこ周辺だけだった」

「駐屯地の様子も見てみたいけど、さすがに距離があるからねー」

 

 習志野駐屯地はここから二キロ以上離れている。演習場もまた然りだ。この高性能ドローンをしてもさすがにそこまでの距離を飛ぶことはできない。

 前回のようにモニターを四つ並べて、少しの異変も見逃さないように細心の注意を払って全員で街の様子を観察した。

 

「んー……前の時とあんまり変わらないね」

 

 火事により倒壊した家屋、打ち捨てられて腐り始めた死体。そして腐りながらも動く死体を目にしても、由比ヶ浜でさえ取り乱す様子はない。誰も彼もが慣れてしまっていた。喜ばしいことではないが、いちいち騒がれても困るのも事実だ。人の慣れとは恐ろしい物である。知人ならばともかく、見知らぬ人の死も、この地獄も、俺たちは見慣れてしまっていた。

 

「あ、これじゃないですか? この緑っぽい車」

 

 小町の指の先、高度があるため確定ではないが恐らく正解であろう迷彩柄の車両が駅前のショッピングモールに佇んでいた。

 陽乃さんがドローンを操作して、電線などに気をつけながらその車に近づけていく。

 

「……人が、乗ってない……?」

「な、なんで」

 

 戸惑いの声をあげた雪ノ下。俺も同様に疑問を口にした。あの無敵に見える、分厚いタイヤをいくつもつけた車両が、無人のまま放置されていたのだ。

 車の背後から様子を伺っていたドローンを車両の前方に差し向けると、どうしてそれが破棄されたのかが分かった。

 

「運転席が、なにこれ、どうして」

「血の跡もありますね。一体何が?」

 

 陽乃さんでさえも動揺を隠せずにいた。戦車のような重厚さを持ったその車のフロントガラスは、砲弾でも受けたように大きく砕け散っていた。なおかつ運転席は血にまみれて目も当てられない惨状になっている。

 

「ただのゾンビにこんなことができるとは思えないわ」

「でも、生きてる人だってこんな……」

 

 たしかにその通りだ。脅威はともかくとして、動きが鈍いゾンビにこの巨大な車をどうこうできるようには思えない。しかも前に見かけた時は銃をもった隊員だっていたのだ。並大抵のことが起きてもこうはならないはず。

 そして生きている人間にはもっと無理だし、そもそも自衛隊を襲う意味はない。彼らをよく思わない人間がいることも事実ではあるが、こんな異常事態にそれを持ち出す者がいるとは考えにくかった。

 車の周辺を探ると隊員たちの死体は見受けられなかったが、代わりに彼らが持っていたはずの小銃と、発砲の証拠である薬莢があちこちに散らばっていた。

 

「何かと戦っていた?」

「な、何かって、なんだろ……」

 

 考えたくないことが頭をよぎる。あのホラゲーでは内容が進むごとにウイルスの進行も進んで、化け物の種類が増えていったのだ。映画でも短時間で進化して、殺人マシーンのような姿になったモンスターが現れていた。

 まだこの現象の原因は不明のままだが、もしかしてと思わなくもない。まさかという思いと、そんなわけないという常識が脳内でせめぎ合う。だが、いくら考えても答えなどでるはずもない。が。

 その答えはすぐに、自ら物陰から現れた。

 

「あ、あれ……!」

「こいつは……」

 

 恐らく、誰かが飼っていた土佐犬、と見受けられた。「恐らく」というのは、それがもはや犬とは思えない姿をしていたからだ。

 もともと筋肉質だっただろうその身体は、さらに膨張して己の表皮すら引き裂いて顕現している。もう犬というより熊に近い体躯で歩を進めるその姿は、如何に銃をもってしても容易には倒れそうに見えなかった。

 事実そいつの体中には弾痕とみられる跡があったが、膨らんだ筋肉に閉ざされて傷にすら見えない。だが、最も恐るべきはそいつ自身のことではなかった。

 

「こ、こんなに……!?」

 

 奴の背後から付き従うように現れた大型犬の群れ。理性を失くしているようには見えない集団行動で周囲を探る、狼よりも恐ろしい一団が路地から続々と飛び出してきたのだ。

 リーダーたる土佐犬がドローンを通じてこちらを見上げている。その声こそ聞こえなかったが、小さく吠えたのを確認するや群れから二匹の犬が飛び出してモニターに向かって飛びかかってきた。

 

「うわっ、と、ちょっ!」

 

 一匹は正面からジャンプで、もう一匹は自衛隊の装甲車を足場にして見事な連携を見せてドローンに襲い掛かる。複数のカメラはしっかりとその様子を捉えていたが、コンビネーションに驚いた陽乃さんが慌てて操縦するも回避が難しい。何よりこのドローンの映像にはタイムラグがあるのだ。

 車を足場にした方の犬の牙が機体の一部にカスる。なんとか大破は免れたがバランスを崩して高度が落ちてしまった。そしてそこへ、トドメとばかりに土佐犬が弾丸、いや砲弾のように突っ込んでくる。

 

「あっ、ああ!」

 

 由比ヶ浜が悲鳴を上げてモニターを見つめている。

 ついに捕らえられたドローンは、カメラに土佐犬の巨大な顎を映して、やがてモニターの一つが完全に暗闇になった。

 カメラはあと三台付いているが、動かなくなったドローンに興味を失ったのかしばらく匂いを嗅いでいた狂犬の群れだったが、その後は普通の犬のように歩き去っていった。奴らを刺激しないようにプロペラを動かさないようにしていた陽乃さんがため息をつく。

 

「自衛隊もこいつらにやられたみたいね」

「なんなんすかこれ……。ゾンビ化してるにしてはおかしすぎますよ」

「そう、ね。明らかにあの土佐犬をリーダーとして周りが付き従っていたもの」

 

 全員が青い顔をして先ほどの衝撃映像を思い返す。

 初めて見た発症している犬も普通のゾンビとは違うと思っていたが、これは一体なんなんだ?

 ただ動きが早いだけではない。きちんと統率されて一個の集団として成り立っていた。空を飛ぶドローンに対して連携と戦略まで見せつけられたのだ。あれに襲われたというのであれば自衛隊の装甲車がここに放置されるのも頷ける。

 一匹目、恐らくあの巨大な土佐犬が正面からフロントガラスに突っ込み、運転手をかみ殺して動きを止め、あとは集団で彼らに襲い掛かったのだろう。死体はどこかへと持ち去られ、食い散らかされてしまったに違いない。

 

「こいつらがここだけにいるってんならまだマシだが……各地でこんなことがまかり通ってるってなると、ちっとヤバイかもしれねぇな」

 

 恐ろしいのは、彼らが元はただの犬だということである。

 各家庭の全ての犬がああなっているわけではないはずだが、それでもあの群れが千葉の犬の全てということでもない。最悪ペットショップ、保健所にいたものたちも逃げ出したと考えると各地でも群れを作って人を襲っている可能性だってあるのだ。

 

「このままだと自衛隊の救助も遅れてしまうことも考えられるわよね」

「ああ、むしろ外に出る危険性を考えると、このままここにいた方がマシにさえ思える」

「で、でもご飯とかどうするの……?」

 

 この屋敷はそこらの家とは違ってあの犬たちに対しても堅強な砦として機能するはずだ。一階の窓は全てシャッターが下りているし、かの土佐犬の突進でもそうそうに破られはしないだろう。問題は小町が心配しているように食料のことだ。

 

「水と電気はなんとかなるかな。うちは雨水を濾過して貯水槽に貯めておけるし、ソーラーパネルで発電もできるから」

「マジで雪ノ下家なんなんですか……」

「もともとはタダの建築フリークだったみたいでさ。代を重ねるごとに、その時代の技術をこの家に継ぎ足していったんだって」

 

 それが雪ノ下建設の始まりってか。いや逆か? 会社が大きくなるごとにこの家で実験を繰り返して技術力を伸ばしていったとか。まあ今はそれは重要じゃないか。

 

「でもやっぱり食料はどうしようもないよね」

 

 さすがの雪ノ下家も何もないところから食物を生み出すことはできない。庭に畑でも作ればいいのかもしれないが、ゼロからそれを始めても手遅れすぎる。

 物資の調達があるからこそ、武力のある自衛隊の救助に一縷の望みを託していたのだ。そんな彼らをもってしても取り除けない脅威が街中にあるとしたら、かの駐屯地に迎え入れられたとしてもいずれ飢餓が俺たちを襲うだろう。

 

「もう、救助は期待しない方が良さそうですね」

「かもね。でも、ということは」

「食料は自分たちで何とかするしかない、ってことよね」

 

 雪ノ下の言葉に、無言で頷く。

 幸いにしてこの屋敷にはまだ一週間分ほどの食料が残されている。それが無くなるまでに、俺たちはやるべきことを決めなければならない。

 

「あんなのがうろついてる街に出るなんて、考えたくもないけれど」

「仕方ない。仮に救助されても、いずれ同じことになるかもしれねぇんだ」

「でも偵察ができないのは痛手よね。八幡号はあんなことになってしまったし」

「んー、カメラは潰されたけど、どうかな」

 

 陽乃さんが操縦桿に再び手をかけ、上昇をさせようとゆっくりと操作をしていく。完璧に壊されたと思っていたドローンはしかし、なんとか体勢を立て直して飛行を開始した。

 

「おおっ、さすが八幡号!」

「噛まれても平気なんてお兄ちゃんみたい」

「前に言った似ている所、あながち間違いでもなかったみたいね」

「……複雑だが、まあ良しとするわ」

 

 正面を映すカメラが潰されてしまったので左右と真下しか見えないが、GPSによる自動帰還機能があれば屋敷の近くまでは戻せる。そこからは目視で操作すれば大丈夫だろう。たかがメインカメラがやられただけだ!

 果たして戻ってきた八幡号は痛々しい噛み痕をその機体に残していたものの、奇跡的に大事な機能を果たす部分やプロペラには傷が付いておらず、この先も重要な役割を頼まれてくれそうだった。

 

「んー、真下に着けてたカメラを正面にして、左右のやつを若干下に向かせてなんとかするしかないかな……」

「新しい部品の入手も絶望的ですからね」

 

 食料とは別に、そういった電化製品や日用品も新たに手に入れることは難しい。嗜好品は俺たちには必要ないからいいものの、電化製品になるとどうしてもヨドバシのような大型店舗に行かなけらばならない。そういったところは人が多く、イコールでゾンビも多い。もしかしたら先ほどの駅前のように魔境と化している可能性もある。この辺に個人経営の小さな店でもあればまた別かもしれないのだが。

 また携帯電話も繋がりにくいとはいえ念のためには持っておきたい。しかしこの家にあった充電器では雪ノ下姉妹の携帯しか規格に合うものがなく、俺と由比ヶ浜の携帯はすでに充電がなくなって無用の長物と化していた。それを再び起動するのにも、電化製品を置いている店舗には必要な物があるといえる。

 

「紅茶が入りましたので、どうぞご休憩なさってください」

「あ、どもっす」

 

 一週間も暮らすうちにすっかり馴染んだ使用人の一人――入学式の日に俺を轢いた人、都築と言うらしい――が持ってきてくれた紅茶を受け取り、テーブルに並べる。

 休憩と言っても操縦をしていた陽乃さん以外はモニターを観察していただけだが、もうすぐ昼前になるということで都築さんの言う通り休憩することにした。

 

「姉さん、効果があるかは分からないけど、一応ちゃんと消毒してね」

「分かってるって」

 

 あの土佐犬に噛まれた部分を確認していた陽乃さんに、雪ノ下が消毒用アルコールのスプレーを手渡す。まだゾンビ化がウイルスによるものかも確定しておらず、しかもアルコール程度で消毒ができるのかは定かではないが、それでも他に雑菌が付いている可能性も高いので、そういったことには全員が敏感になっていた。

 ドローンに触れていない俺たちも手を綺麗にしてから、紅茶の入ったカップを口に運ぶ。部室で雪ノ下が淹れてくれたやつも美味いが、都築さんが淹れてくれたものも絶品だ。一般市民たる俺には紅茶の見分など分からないのに、それでも美味いと感じるのだからさすがだ。

 

「しかし、食糧調達か……。どこから取ってくるのが一番いいんだろうな」

「あの土曜日のお昼から二、三時間もしないうちにコンビニは荒れ放題だったし、近所のスーパーも似たようなことになっていると思うのよね」

「そうだねえ。落ち着いたらコンビニとかスーパーの偵察にまた飛ばしてみよっか」

 

 紅茶を啜りながらこれからのことを話し合う。

 食品を取り扱っている店舗はだいたいが似たようなことになっていると見て間違いないだろう。いざとなれば空き家に侵入なんて空き巣じみたことも視野に入れなければならないかもしれない。

 一番確実なのはやはり、個人じゃ持ちきれないほどの物資があるとみて間違いない大型スーパーなんかがいいのかもしれないが、駅前はあの犬どもの縄張りとなっているし、そうでなくてもゾンビが多い。なかなか難しい題材だ。

 

「日持ちする物の定番と言えば缶詰だけれど……」

「缶詰……そうだ!」

 

 陽乃さんが何か思いついてパソコンに手を伸ばした。

 カタカタと音を立ててタイピングしていき、表示されたページを俺たちに見せてくれる。

 

「缶詰の製造工場。ここからだと国道一本で通じてるから分かりやすいし見つけやすいと思うんだけど」

「なるほど……盲点だったかもしれないですね。販売ではなく作っているところならまだ手を付けられていない可能性も高いですし」

 

 パソコンのモニターには地図が表示されていて、少々距離があるもののその提案は現実味を帯びていると思われた。行うことは強盗に近いこともあって誰もが気乗りはしないが、俺たちだって霞を食って生きているわけではない。必要だったら奪うことも考えの内に入れておかなければ。

 正しさを擬人化したような雪ノ下も、これからのことを考えると必要なものとして食糧問題が大きいことを受けて、諾々とはいかないもののそれに同意した。

 

「そうね……。そこで働いてる人たちもいるでしょうし、何か取引材料として提供できるものがあればなお良いかもしれないわ」

「そうだね」

 

 さすがだな。まず奪うことを考えてしまった自分がちょっと恥ずかしい。しかし物々交換か。交渉に使えそうなものというと、何があるだろうか。

 俺たちも今のところ安全に暮らせてはいるものの、それは雪ノ下家の大きさによるものが大きい。一般的な家くらいの設備を仮定した時、いったい何が必要になるのか。

 

「うーん……、水……は製造にも使うだろうし水道も生きている今は特に不足することはないよなぁ」

「私たちは食料以外で何か不足していることってあるかしら?」

「この屋敷が凄すぎてあんまり思いつかんな」

「今んところ使ってないけど、懐中電灯とかどうかなー?」

 

 小町も提案の一つとして防災グッズを挙げる。たしかにあって困るものではないが、食料と引き換えにするほどというと少し弱いか。かといって猟銃のようなある種のライフラインを渡すわけにもいかない。防災グッズというのは正解なのかもしれないが、電池なんかは納得できるくらいの量を用意できないしな。

 ラジオも同じく考えられるが、テレビくらいは休憩室なりどこかに設置されているだろうし。

 

「あとは……燃料とかかな」

「燃料ですか?」

 

 陽乃さんの言葉に問い返す。彼女はうんと頷いて雪ノ下家の驚き情報をまた一つ教えてくれた。

 

「実はうちはガソリンも自宅で補給できるのです」

「……もう何も言わないでおきます」

 

 だがガソリンとは良い案かもしれない。従業員が生きてそこにいるのならば、彼らもいざという時に逃げ出すために車を持っている可能性が高い。できるならば燃料は満タンにしておきたいのが人情だろう。それにガソリンは使いようによっては火炎瓶などとして武器にもなる。その効果のほどは定かではないが、交渉材料としては申し分ないはずだ。

 

「とりあえず目途は立ったわね」

「だな」

 

 一先ずとしてこれからの目標の一つが決まった。決行にはもう少し準備が必要だがやるべきことがあるというのは今の状況においてありがたい。

 彼らの存命と交渉の成功を祈りつつ、みんなで紅茶の味を楽しんだ。

 

 

 

* * *

 



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起きる、動く、牙を剥く。②

 

 

 缶詰の製造工場への探索を決めてから二日が経った。

 あれからやはり自衛隊の救助は来ず、俺たちの食料もまだいくらか貯蓄はあったが余裕を持たせておきたいのも事実で、今日その工場へと向かうことが決まっていた。

 

「全ての道を確認はできなかったけど、国道は道幅もあるし封鎖とかはなさそうだね」

「交渉用のガソリンは専用タンク二つで五十リットルですが、足りますかね?」

「あとはラジオと懐中電灯、乾電池などで納得してくれればいいのだけれど」

 

 あの日俺を拾ってくれたドデカいハマーに物資を載せ、最終確認をする。多少足元を見られたとしてもそれは仕方のないことだと受け入れようとみんなで話し合って決めた。

 だがこちらの物資を奪うだけ奪おうなどと向こうが血迷ってきたら。その時はまたこの猟銃の威光に縋ることになるだろう。

 車の中に佇む長方形の箱に目をやりながら、俺は一人覚悟を決めていた。

 

「陽乃様、やはり運転は私が……」

「大丈夫だから任せてって。都築たちは家のことをお願い」

「……かしこまりました。どうかご武運を」

 

 最後まで自分が向かうことを推していた都築さんも、陽乃さんの決意の前に引き下がる。この家のことは家主である雪ノ下家の人間よりも詳しい都築さんたちには屋敷の守護を任せた。そして、小町と由比ヶ浜のことも。

 工場に向かうのは、運転する陽乃さん。交渉に雪ノ下。そして護衛というには少し頼りないかもしれないが俺がつくことになっている。

 

「ヒッキー、ゆきのん、陽乃さん、気を付けてね……」

「ちゃんとみんなで帰ってきてよ」

「ああ、任せろ」

 

 心配そうな由比ヶ浜と小町にあえて軽く笑って見せる。道順も確認したし、途中までだがドローンで先行偵察も済ませた。あとは交渉だけでことが済むと考えれば危険も少ないだろう。何より工場近くは住宅街ですらない。つまりゾンビの数もそこまでではないはずだ。駅前のショッピングモールに近づくよりずっと簡単なミッションだ。

 

「都築さん、二人をお願いします」

「はい、たしかに。どうぞ安心してお任せください」

 

 都築さんはこれから出立する俺たちに不安の一かけらも感じさせないような顔つきで綺麗な礼をとってくれた。この人ならば何があっても問題ないと信じられる。

 

「よし、じゃあ行ってくるね」

「大丈夫よ、すぐ戻ってくるわ」

「帰ったら缶詰パーティーだぜ」

 

 見送ってくれた小町たちに手を振って、巨大なハマーが車庫から動き出した。自動開閉の門をくぐり、魔境となった街へ、いざ出発だ。

 

 

 

* * *

 

 

 

 道中は特にいうこともないくらい、あっさりとしたものだった。道路には放棄された車や蠢くゾンビもそれなりに邪魔をしてくれたが、この車にとっては些事もいいところ。時に押し出し、時に弾き飛ばし、順調に道を進んでいく。

 国道に入ってからは道幅があってそれらも避けることができるので時間的なロスも少ない。

 

「もう半分ほど進んだかしら」

「うん、このペースなら一時間もかからないかな」

 

 雪ノ下姉妹が言うように、GPSの恩恵を未だ受けているナビは目的地までの時間を残り三十九分と表示していた。何が転がっているか分からない道路で最高速度は出せないためにその時間通りとはいかないものの、今のところ何も問題ない。午前九時に出たが正午を過ぎるころには帰ることもできそうだ。

 

「それにしても、あの日もだけど雪乃ちゃんとドライブすることがあるなんて思ってもなかったよ」

「私もよ。そもそも姉さんが車の免許を持っていることも知らなかったのだし」

「車どころか狩猟免許なんて、どうやって取ったんですか」

「大学は単位さえ取っちゃえば後は暇だからさ~、やってみたいことを片っ端から、ね」

 

 この地獄と表現しても過言ではない世界になって唯一と言っていい良かった点は、彼女たちの不和の改善だろうか。もう本音を隠す意味がなくなり、陽乃さんが雪ノ下に対して悪辣とも言えるちょっかいをかけていた理由を知り、そしてそれを許した彼女たち姉妹はそれなりに良好な関係を築いている。

 笑い合う美人姉妹はそれはもう絵になるなんて言葉じゃ表し切れない。未来はたしかに暗澹たるものかもしれないが、強制的にだろうと、それでも自分たちで選び取ることができる今、雪ノ下も陽乃さんも強い目をして前を向いていた。

 

「あの時はさ――」

「そうね、私も……」

 

 昔話に興が乗り、俺も彼女たちの長いとは言えないが人生の一端を知る。何を隠すこともなくなった俺もかつてのトラウマを笑い話にするくらいにはドライブを楽しめていた。

 

「あはは! 比企谷くんの性格はそうやって作られていったんだね」

「まあだいたい親父のせいっすよ」

「そうやって人のせいにして……」

 

 本心に触れ、俺たちの精神的な距離もぐっと近づいたころ、ナビもこの車が目的地へ近づいていることを示し始めた。

 通る車道は工場地帯を入っていき、少しは人が住むような家も並んではいたが静寂が辺りを包んでいる。動く死体も見当たらず、気を緩めはしないが内心でホッとしたのも事実だ。

 

「よっし、もうそろそろ見えてくるはずだよ」

「あれかしら」

「そうみたいだな」

 

 目立つ看板はないが、道路沿いに植えられた木々の向こうに社名が描かれている建物が見えた。間違いなくあれが目的地だ。

 それなりに大きい建物が、雪ノ下家のそれとは違う安っぽい金網を柵として覆われている。入口は一応ゲートがあって関係者以外は容易に立ち入れない、会社としての空気も湛えていた。

 

「悪いけど押し通らせてもらうよっと」

 

 ゲートは細いバーで入口を閉じていたが、車の力で無理やりこじ開ける。無論警備員などはおらず、警報も鳴ることはなく俺たちは工場へと入っていった。

 社員用と思われる駐車場には車が二台あり、それだけでは従業員の存在は分からなかったが、血だまりと何かを引きずったような跡を見ないようにして車を停止させる。辺りにゾンビはいないが、警戒は怠らずに俺は猟銃を抱えて車の扉に手をかけた。

 

「あ、人がいるみたい」

 

 ふと陽乃さんの言葉に扉にかけた手を離して、座席前部に身体を乗り出しフロントガラス越しに確認する。

 建物の三階部分から、社員らしき人が手を振っていた。救出に来たわけではないが、一応歓迎はされているのだろうか。しかし、その表情はどこか鬼気迫るものを感じさせている。

 

「……何か様子がおかしいですよ」

「どうしたの?」

 

 雪ノ下が俺に続いて前方へ身体を乗り出した、その瞬間。

 

 ――――ガシャァアン!

 

 車が大きく揺れて、車体の左側、雪ノ下の座っていた方のドアがへこんだ。ガラスは割れてはいないが、僅かにヒビが入っている。

 なんだ、何が起きた?

 

「雪ノ下、下がれ!」

「きゃあっ!?」

 

 雪ノ下を俺が座っていた方へ引き倒すようにして押し込み、この巨大な車を揺らした原因を知るべくそちらへ目を向ける。ヒビの入った窓の外。車体の左側には。

 そこには、あの土佐犬が可愛く見えるほどの化け物がいた。

 

「とっ、虎ぁ!?」

「なんでこんなところに!!」

 

 陽乃さんも慌ててハンドルを切って車を反転させようと試みた。

 ハマーの巨体にぶつかり、かつ傷をつけた獣は、あの狂犬たちのように身体を赤黒く変色させた虎だった。あの時の土佐犬と同じ、いやそれ以上に全身の筋肉が膨張して、もはや手のつけようのない怪物と化した大型肉食獣は、動き出した巨大な車にも怯むことなく追撃を加えようとしている。

 全長は尻尾まで含めると三メートル以上はあるだろうか。しかし本来の虎ならばたるむはずの皮膚が裂けるほどの筋肉の肥大化で、体高が通常の三割増しくらいに見える。そしてその危険度は、何倍かなんて測りようもない。

 

 どこから出てきたんだこの化けモンは!

 ここからだと割と近い千葉市動物公園には猫科の動物はいなかったはずだぞ。まさか新しく展示する予定でもあったってのか? だとしたら最悪のタイミングだ!

 

 いくら不運を呪ったところで、化け物は目の前にいて恐ろしい牙を剥きだしにしている。猟銃という武器はあるがアレを目の前にしてみると急に頼りない物にさえ感じてしまう。それほどに狂った虎というのは強大さと危険性をこれでもかと見せつけていた。

 

「くっそ! 陽乃さん、一旦出ましょう!」

「分かってる! けど、ここじゃ狭くて二回は切り返さないと……っ!」

 

 それほど広くもない駐車場、ハマーという大きな体をもつこの車には狭すぎた。花壇程度なら踏み越えて無理やり進めることも可能だが、壁に挟まれてしまっては切り返しを余儀なくされる。しかしこの状況においてそれは絶望的でさえあった。

 

「ま、また来るわ!」

「伏せろ!」

 

 車内に破砕音が響き渡る。だが最初の一撃よりは衝撃が少ない。それもそのはず、虎の巨大な前脚が今度こそ窓のガラスを叩き割って車の中に突っ込まれたからだ。

 

「きゃあああ!」

「雪ノ下、俺の後ろに!」

 

 頭を抱えて伏せていた雪ノ下を庇うようにして、爪を剥きだしにした野太い腕に向けて猟銃を構える。ドア程度じゃ兆弾はしないと信じたいが、狙いが外れた時どうなるかは分からない。だが、やるしかない!

 

 ドパァンと破裂したような銃声と共に、虎の咆哮が俺たちの身体を震えさせた。こいつ、痛覚があるのか? それともタイミングが被っただけか。狂っているようにしか見えない虎はしかし、前脚に散弾を浴びて警戒するように飛び退った。

 怖い物なしにただ真っ直ぐ向かって来るよりマシなのかもしれないが、思考能力があるというのが救いなのかどうなのか判断がつかない。それでも一旦距離が取れて、バックによる一度目の切り返しが終わる。次は正面にあの凶悪な肉食獣を捉えることになった。

 

「こん、のお!」

 

 狭い駐車場で陽乃さんが思い切りアクセルを踏み込み、急激な加速度を得てハマーが虎に向かっていく。思考能力はあれどやはり恐怖を感じにくいのか、密林の王者はまさしく王のようにそれを迎え撃つ。

 

「ッゴォァァアア!」

 

 間近で聞く大型肉食獣の咆哮は人間の本能に直接響かせるような恐怖をもって俺たちの身体を震わせた。頑強なハマーのフロント部と正面衝突した虎はさすがに力負けはしているものの、壁に押し付けられてなお狂気を湛えた双眸をこちらに向けて離さない。

 このまま押し潰す算段だったらしい陽乃さんも怯んでアクセルを離しかけたが、こいつの動きを止めるチャンスはもしかしたらこれが最初で最後かもしれない。

 手の震えを必死で抑えて猟銃のリロードをし、追加で弾を込めながら叫んだ。

 

「陽乃さん! そのまま全力で押さえてください!」

「ひ、比企谷くん、何をするつもりなの!」

 

 止める雪ノ下を振り払い、車の扉を開く。安心感を得られる巨大な車の外は濃厚な死の匂いが漂っていることを強烈に感じさせたが、ここで怯んでいる暇はない。

 外へ出て、車と壁に挟まれている虎の顔面に向けて猟銃をぶっ放した。

 

「くたばれ、くそったれ!!」

 

 一発、二発、三発。一度に撃てる全ての弾丸をその凶悪なツラに浴びせかけても、やはり化け物中の化け物たる虎は死ぬことなく吠え続けていた。

 元が軍用の、燃費を引き換えにした強烈なエンジンパワーを発揮する車を正面から受け止め挟まれているはずのそいつは、潰れることなく強靭な前脚をフロントに叩きつけて恐ろしい深さの爪痕をいくつも残している。

 この距離なら上手くすれば殺しきれると踏んでいた俺は慌てて弾を込め直すも、奴もいつ抜け出してくるか分からない。一発新たにリロードできたが、何個かの薬莢を地面に落としてしまった。くそ、落ち着け!

 その時雪ノ下が赤いタンクを抱えて飛び出してきた。

 

「これでもくらいなさい!」

 

 キャップを開けたガソリンタンクを投げかけ、中身を浴びせかける。そうか、これに着火させれば……!

 着弾の瞬間に火花が散ってくれればいいが、それでは確実性に欠ける。発砲の火を使うしかない。タンクは虎が挟まっている隙間に上手く埋まり、零れ出た中身が流れ出している。この先端に向ければまだこちらの被害は少ないか? だが考えている暇はない。雪ノ下を再び車に押し込めて、その短い川の先端に銃口を向ける。

 

「比企谷くん!」

 

 陽乃さんが咄嗟に運転席のドアを開けて俺に手を伸ばしてくれた。その手を掴みながら猟銃のトリガーに指をかけ、そして。

 

「ガァアアアア!」

 

 強烈な爆発音と共に、陽乃さんによって車の中に引きずり込まれた。ほぼ同時にバックした車はフロントガラスにもヒビが入っているもののまだその機能を維持している。

 狂った虎はまさしく暴れ狂いもがき苦しんでいた。向かって右側の顔面の半分ほどを失い、前脚、後ろ脚の一本ずつも千切れかけて脅威は半減している。それでも近づくことを躊躇するレベルの力強さでもって暴れていた。

 

「貸して!」

 

 陽乃さんが俺の手から猟銃を奪い取って、サイドにはめ込まれていたショットシェルを手際よく詰め込んでいく。そして暴風のような暴れ方をする虎のそばへ慎重に近づき。

 

 ドン! ドパン!

 

「ぐルッ、ルォ……」

 

 二回の銃声が響き、収まることがないと思われた凶獣の動きが止まる。それでも油断なく様子を伺い、最後の一発を目から頭部に通すように引き金を引いた。

 それきり呻き声さえ上げなくなった虎は完全に死んだのだろう。痙攣すらせずにその巨体を横たえて、辺りには静寂が取り戻された。

 

「や、やったの……?」

 

 雪ノ下がフラグのような言葉を漏らしたが、奴の死亡フラグはきっちりとぶっ刺さり立っていたらしく、再び動き出すような悪夢が起きることはなかった。

 俺も雪ノ下も陽乃さんも、その場にへたり込んで巨獣の死体を見つめ続けていた。これを仕留められたのは偏に運が良かっただけだ。犬でさえ自衛隊を殲滅しかねない脅威を持っているというのに、この百獣の王に並ぶ大型肉食獣を素人の俺たちが打破できたのは奇跡に奇跡が重なったような幸運のおかげだろう。これが群れを成す動物じゃないこともそのうちの一つに入るか。

 今さらながらに震えが走る身体に活を入れて立ち上がると、目の前の壁にはめ込まれた窓が開いて社員らしき人が顔を覗かせた。

 

「あ、あんたら無事か! それ、そいつは死んだのか!?」

「なんとか……そいつってのは、この虎ですか?」

「ああ、どこから来たか分からんが、そいつはずっとここに居座ってて、俺たちは身動きが取れなかったんだ……」

 

 そういうことか、と駐車場にあった血だまりを見やる。どこからともなくやってきたこの獣は、ここの人たちをターゲットにしてずっと狙い続けていたらしい。この周辺はもう生きている人間も少ないのか、決めた獲物を狙い続ける性なのかは分からないが、この人たちも生きた心地がしなかったろう。

 

「っはあ……私たちは、食料を求めて来たのだけれど、良ければ缶詰を分けてくれないでしょうか」

 

 ようやく復活した雪ノ下が社員の人に交渉を試みる。が、交渉どころか彼は満面の笑みでそれに頷き返したのだった。

 

「ああ、ああ! 好きなだけ持ってけ! もともとこいつのせいで倉庫に行けなくって俺たちも手がつけられなかったんだ。あんたたちは命の恩人だよ!」

 

 彼の後ろには何人かの社員たちの姿もあった。どの人も不満に思うことなく俺たちに感謝と労いの言葉をかけて喜んでいた。

 雪ノ下姉妹と顔を見合わせると、二人とも一瞬呆けてから小さく笑った。俺も気が抜けてまたその場にへたり込んでしまう。情けねえ。

 

 

 

* * *

 



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起きる、動く、牙を剥く。③

 

 

 缶詰の生産工場の人たちは異常事態が始まってから何人かは帰宅したが、一人暮らしをしている人たちは帰るよりも食料に困らない会社に残ることにしたらしい。しかしそこへ現れたのがあの凶悪に過ぎる化け物だ。一人が犠牲になり、入口という入口を塞いだものの、奴はずっとこの近辺をうろついて離れず、確保していた食料は少し離れた倉庫に保管していたこともあって絵に描いた餅になってしまっていたということだった。

 

「いやあ助かった。もうすぐ確保していた食べ物もなくなって、誰かが倉庫に行かなければと思っていたところでね」

「ほんと、あの時は怖くて怖くて、疑心暗鬼になりかけてたよ」

 

 交渉用のガソリンは半分になってしまっていたが、彼らはそれでもありがたいと笑みをこぼし、追加でラジオと乾電池、懐中電灯などと交換で、車に入るだけの缶詰を渡してくれた。これだけあれば二、三か月、節制を心がければそれ以上もつんじゃないかという量だ。

 車もあることだし生き残った社員の人たちにも雪ノ下邸への避難を提案したが、彼らはここに残り続けることを希望した。

 まああの化け物さえいなければここはゾンビも少ないし、食料はまだまだ山のようにある。ここを放棄すれば俺たちと同じように考え、なおかつもっとえげつない連中が蟻のように集るかもしれない。

 何往復もして缶詰を全て運ぶ労力も考えると、ここに残っていた方がメリットもあるだろう。

 

「渡した分がなくなったらまた来てくれ。あんたらにならいつでもあげるよ。倉庫にはまだ充分にあるからな」

「はい、ありがとうございます。その時は私たちも何か提供できるものがあれば持ってきますね」

「助かる。まあうちらの缶詰に飽きなければだがね」

「いえいえ、めっちゃ助かりますよ」

 

 工場の人たちが冗談めかして笑うが、彼らが授けてくれた缶詰は種類も様ざまですぐに飽きるということはないだろう。特にフルーツ系の物はありがたかった。新鮮というわけではないがそれでも果物はこの先貴重になる。陸にいながら壊血病だなんてことになりかねない現状で、この食料の充実さはまさに太い命綱足り得るのだ。

 そして、互いに互いの無事を祈って俺たちは別れた。未だ電話は通じにくい状況が続いているが、一応は連絡先も交換してある。綿密な情報交換はできないかもしれないが、時間をかければ互いの安否の確認もできるだろう。

 

「はあ……一時はどうなることかと思ったけれど、なんとかなって良かったわね」

「ああ、正直今回ばかりは死んだと思ったぜ……」

 

 帰りの車内で未だ震えがくる身体を椅子に沈めて、俺たちは口々に言葉を述べていた。何かを話していないと恐怖と高揚がごちゃ混ぜになったこの感情をどうすればいいのか分からないのだ。

 

「あそこで飛び出した時はどうしようって思ったけど、結果的にあのタイミング以外でアレを仕留められるチャンスは無かったよね。比企谷くんグッジョブだよ」

「いや、もう必死で……。結局雪ノ下の機転に助けられましたし」 

「私もよ……もしあの爆発で車がダメになっていたらと思うと、よくあんなことをしたと自分でも思うわ」

「この車が頑丈にできてて本当に良かった……」

 

 この車のポテンシャル、雪ノ下の機転、自画自賛はしたくないが俺の決断のタイミング。全てが重なってあの凶獣を撃破することができた。何か一つでも欠けていたら、逃げることはできても食料は確保できなかったし、誰かが死んでいたかもしれない。陽乃さんの運転技術もあって俺も車も爆発をもろに受けずに済んだしな。あの工場の人たちだってギリギリで生存していたのだ。こんな俺でも運命というものを信じ始めるレベルだよ。

 

「それでも、随分と風通しが良くなっちゃったわよね」

「まああんな化けモンを相手にしてこれだけで済んだと思えば儲けもんだろ……」

 

 雪ノ下が割れた窓ガラスを見やった。車の左後部はガラスが散っていて危ないので今は右側に座り、俺は助手席に位置を変えている。

 土佐犬でさえガラスを突き破ってくるのだ。あの虎はその巨体故に車内に進入とまではいかなかったようで助かった。

 風がごうごうと吹きこんでいて少し声を張らないと会話もままならないが、これだけで済んで良かったと本気で思ってる。考えれば考えるほどこれだけのダメージで済んだのが奇跡に思えるのだ。もう一度アレと対峙しろと言われたら、俺は土下座どころか小便を漏らしながら気絶するまである。

 

「んー、これくらいなら家に帰ればどうにでもなるよ」

「陽乃さんって建築系の学科って言ってましたっけ?」

「そうそ、理工学部だけど、まあ工具と機材さえあればなんとか。分かんないところは調べればいいだけだしね」

 

 そして工具も機材もあの邸宅に揃っているんですね、分かります。もうなんでもありだな雪ノ下家とその家族。

 とはいえ完璧に元通りってわけではなく、応急処置程度にはなるだろうけども。ガラスを取り除いて窓を塞ぐとかそういう感じだろうか。

 

「親に無理やり入れられた大学だけど、こんな形で役立つとはね」

「人生何があるか分からないもんですね」

「まあ今は何が起こっているかも分からないのだけれど」

「違いない」

 

 俺たちは往路と同じか、それ以上に会話を楽しみながら帰りの道中を過ごした。窓から吹き込む風のせいで若干肌寒くはあるが、危機を乗り越えて結束した俺たちの心には隙間風など入る隙も無く。

 心地良い達成感に揺られて大事な者が待つ家へと向かっていったのだった。

 

 

 

* * *

 

 

 

 無事帰宅できた俺たちを、由比ヶ浜と小町が出迎えてくれた。都築さんたちもあまり態度には出さないが、その表情は安堵以外の何物でもなかった。

 

「うわぁーすっごい! こんなに!?」

「こんなに貰ってきて良かったの、お兄ちゃん?」

 

 そしてバックで車庫に入った車のリアゲートを開いて手に入れた缶詰の山を見せると、誰もが驚きの声をあげた。

 

「よくぞ御無事で……」

「いやぁ、正直ちょっとヤバかったっすけどね」

「うわっどうしたのコレ!?」

 

 車を降りた俺の傍に駆け寄ってきた小町が車体のサイドを見て驚愕に目と口を丸くした。ガラスだけではなく、ドア自体にも深々と爪痕が残されている。これを見て何事もなかったなどとは誰も思えないだろう。由比ヶ浜もその惨状を見て小町と同じような表情を作った。

 

「だ、大丈夫だったの!?」

「なんとかな。この話は飯食いながらにしようぜ。もう昼過ぎてるしよ」

「そうだねー、車の修理はその後にするかな」

「はーい、お昼ご飯はもうできてるからすぐ用意するね!」

 

 時間にしてみれば四時間程度の外出だったはずなのに、内容はお使いってレベルじゃないほどにハードだった。あの会社の人たちは快く食料を分けてくれたんだけどな。あんなところでボス戦が始まるなんて誰も思ってなかったし。

 身体以上に精神的に疲労した俺たちを、小町たちが労いながらリビングへと先導してくれる。テーブルに着くとすぐに料理が運ばれてきて、みんなで消毒した手を合わせてありがたく頂いた。

 

「それにしてもあんなに缶詰くれるなんて、良い人たちもいるもんだね」

「まあ本当に比喩じゃなく山のようにあったからな」

 

 温かい食事に舌鼓を打ち、デザートにフルーツの缶詰を開けてつまみつつ。

 俺たちに譲られた缶詰も車にぎゅうぎゅうに詰まるほどの量だったが、あの会社の倉庫にはそれさえも小指の先ほどと言っていいくらいの缶詰が積まれていた。ちょうど出荷前だったのかなんかは分からないが、あそこはこの先も重要な物資の調達先になってくれそうだ。

 

「そうでなくても、あの虎を撃破したことで感謝もされていたしね。交渉の必要もなかったわ」

「と、トラ!? ゆきのん、大丈夫だったの!?」

「今ここに全員揃っているんだから大丈夫だったに決まっているでしょう」

 

 由比ヶ浜がつまようじの先の桃を取り落としてあんぐりと口を開けた。雪ノ下はなんでもないように言っているものの、あの化け物を思い出したのか眉間にしわが寄っていた。

 

「アレは本当にびっくりしたね」

「ですね。ていうか二人に留守番を任せてて良かったですよ」

 

 俺も陽乃さんもフルーツの甘さを噛みしめながら今日の出来事を反芻する。二人に留守番を任せて出発したのは本当に僥倖だった。あんな危険な目に遭わせないため、というより広い車内とはいえ全員で座っていたら誰かしらあの爪の餌食になっていた可能性が高いからだ。

 

「お兄ちゃん……」

「大丈夫だって、ほら、ちゃんとぴんぴんしてんだろ?」

 

 隣に座った小町が怯えた目を向けてきたのを優しく撫でつける。ギリギリだったとはいえ俺たちは全員無事で帰ってこれたのだ。しかもあの中ボスなんかに収まらない凶獣を撃退ではなく撃破したのだ。次に向かう時はもっと安全に往復できるだろう。

 うんと頷きながら抱き付いて離れない妹に微笑ましいものを感じつつ、俺は今日という日を生き抜けたことに感謝した。まだ昼過ぎだがな。

 

「ふー、ごちそうさま。さてと、私は車の修理を始めようかな」

「あ、陽乃さん、あたしも手伝っていいですか?」

「うん? いいけど」

「あたし、何にもできないから……せめてお手伝いだけでも」

 

 休憩もそこそこに陽乃さんが立ち上がると、由比ヶ浜も追随するように立ち上がった。どこか暗いものを湛えた表情に陽乃さんが訝しんでいると、ぽそぽそと呟くようにその心中を吐きだす。

 

「料理もできないし、調べ物も苦手だし……」

 

 彼女は俺たちの任務達成を喜んでくれたが、その道中の困難を知ってどこか卑屈になってしまっていた。

 手をくねらせながら紡ぐ言葉は後ろめたさを内包していてどうにも普段の由比ヶ浜らしくない。雪ノ下もその姿を眉尻を下げて見つめていた。

 

「由比ヶ浜さん、別に矢面に立つことばかりが役立つということではないのよ?」

「そうだぞ。適材適所、お前にしかできないことだってあるんだからな」

 

 雪ノ下はお前が言うなみたいな目を向けてきたがそこは見ないふり。だが由比ヶ浜は納得ができていなさそうな表情を浮かべている。

 

「あたしにしかできないことって……なに?」

 

 こいつも少しムキになっているのか、ふて腐れたような雰囲気を醸し出している。これまで任された仕事といえばどれもが誰かの手伝いで、その中でも食事の準備には参加すらさせてもらえなかったことでいじけているのだろうか。

 俺もあまり上手くは言えないが……。

 

「その、なんだ。……俺としては、お前がここで帰りを待っていてくれてるだけでも頑張れるんだけどな」

 

 あああ言葉が上手く見つからずにすげぇ恥ずかしいこと言っちゃってるよ俺ェえ!

 だが由比ヶ浜はそれでも多少は分かってくれたらしい。僅かに頬を上気させて俺を見ていた。

 

「ヒッキー……」

「このタラシ」

「小町ちゃん? お兄ちゃんベッドでもがきたくなるからやめてね?」

「まったく……。由比ヶ浜さん、私もよ。あなたがいてくれる、それだけでも頑張れるの。今日を、明日を、その先も。こんな世界になってしまったけれど、生きていこうって思えるのよ」

「ゆきのん……」

 

 雪ノ下も少々くさいセリフだと自覚しているのか耳が赤くなっているが、やはりそれは本音だったのだろう。俺たちの言葉で、由比ヶ浜はまたいつもの明るさを取り戻してくれた。

 

「あとはあれだな、俺たちだけだとどうにも会話が事務的っつーか、暗くなりがちだからな、お前がアホみたいなこと言ってくれると場が和むっていうか」

「アホってなんだし!」

 

 雪ノ下姉妹とは今日ようやく、そして初めて『会話』ができた気がする。それでもこの先暗いニュースや気落ちすることもたくさんあるだろう。その中で由比ヶ浜という存在は俺たちにとって安らぎのひとつとなりえるのだ。俺には妹の小町もいるが、雪ノ下に対等で、かつそばに寄り添えるのはやはり由比ヶ浜しかいない。

 仮に本当に仕事がなくったって、いてくれるだけで心の支えになれる。それは素晴らしいことだと思う。かつての俺の真逆だな。いるだけで疎ましがられるもんな。言ってて虚しくなるが。

 

「分かったよ。でも、ちゃんと頼れるときは頼ってよね!」

「ああ。料理以外はな」

「ええ、そのつもりよ。料理以外は」

「小町も頼りにしてますよ! 料理以外は」

「最後の一言がひどすぎる!? うわーん、行きましょう陽乃さん!」

「はいはい、仲がいいんだからまったく」

 

 すっかり調子を取り戻した由比ヶ浜に押され、陽乃さんが苦笑しつつ駐車場へと向かっていった。

 残された俺たちもまた、やるべきことを探して立ち上がる。今日も、明日も、生き延びるために。 

 

 

 

* * *

 



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箱の底に残っていたモノ。

 

 

 また数日が経った。

 今日は朝からみんなでリビングに集まり、何も映さないテレビの前に座っていた。あのテレビ局の最後の放送から一週間。有志のみで行われていたその放送で、彼らが残した言葉は「一週間後、また戻ってくる」だったのだ。俺たちはその無事を確認すべく、いつ始まるともしれない放送を待ち続けているのだった。

 

「あの人たちも無事だといいのだけれど……」

「そうですね……」

 

 すでに肉や野菜が食卓に上らなくなり始め、それぞれが缶詰をつまみながら何も映らないテレビを眺める。焼き鳥、ツナ缶、魚の煮物などなど。白米が欲しくなるがパン食がメインだった雪ノ下家では米の保有量が少なく、もうそれがテーブルに並ぶことはない。

 俺はタレ焼き鳥で甘辛くなった口内をコーンで誤魔化して飲み込んだ。飽きはまだ来ていないし、あまり贅沢も言える状況ではないのだが、缶詰から直につまむというのも楽な代わりに単調さを助長しているな。

 まあ、今日は朝早くからということもあって調理していないだけというのもある。しっかりと時間をとれる時には小町や雪ノ下がまだ余裕のある調味料からさまざまなバリエーションを考え出してくれるし、由比ヶ浜はオリジナルの組み合わせを試しては失敗作を涙目で食べていたりする。何やってんだお前は。サンマにミカンが合うわけねぇだろ……。

 

「ま、今日は休日だと思ってゆっくり待とうぜ」

「そうだね~。ずっと緊張状態だと気が緩んでることにも気付けなくなるから、たまにはゆっくり休まないと」

「そうね……あっこら、姉さん!」

 

 陽乃さんが雪ノ下の持つカニ缶に箸を伸ばして摘み取った。朝からカニとか豪勢だな。奪われた側の雪ノ下は恨みがましく睨みつけるが、当の姉の方は気にすることなくけらけらと笑っていた。

 

「いいじゃーん、色んな味を楽しもうぜ~」

「陽乃さん、それを由比ヶ浜に向かってもう一度言えますか?」

「ごめんなさい私が悪かったよ」

「謝らないでください、余計ひどい!」

 

 冗談も交えながら会話をしていると時間はあっという間に過ぎ、昼時になっても特に動くことのなかった俺たちは空腹を感じることなく適当にフルーツ缶だけ開けてテレビ画面の変化を待ち続けた。

 そしてようやく、真っ黒な画面が砂嵐に変わり、やがて待ち望んでいた映像を映し始めた。

 

「おっ、始まったな」

「うん! 無事だったんだね」

 

 皆の顔に喜色が浮かび、もともと緩やかだった食事の手を止めて画面を見つめる。映像には誰も映っていなかったがすぐに以前と同じアナウンサー代わりのスタッフが画面端から現れて真っ直ぐにこっちを見た。

 

『みなさま、お久しぶりでございます。先週の約束通り、今日からまた放送を再開したいと思います』

 

 やや疲れ気味ではあるものの、誰かのために真実を伝えようとするその強い眼差しは前よりも力を秘めているように伺えた。上手いこと食料やら何やらを確保できたのだろうか。

 

『私たちのいるこの放送局は駅前に近いこともあり、周辺の食料品を扱う店舗などから物資を分けて頂くことができました。生きている方には快く、生存者のいないところからは無断という形になりましたが、多くの方に支えられてこの放送を続けることができます。本当にありがとうございます。調達の最中、スタッフの一人が犠牲になってしまいましたが、彼のためにも、私たちは明日へ向かい続けなければなりません』

 

 無傷とはいかなかったか。この局に何人のスタッフがいるのか定かではないが、多ければ多いほど外に出た時の危険性は高まるだろう。誰かが襲われた時、助けるか見捨てるかの選択を誤れば全滅もありえる。その際に人がいるほど、優しい人が多いほどこの世界の現実は残酷に牙を立てるのだ。この人たちの犠牲が一人で済んだということは、彼もまた誰かのために自らの命を捧げられる人間だったのだろう。強くて、美しくて、悲しい。そんな、人間だ。

 

『局の外の探索中、某大学に今も立てこもっている学生たちが私たちと同じ目的で近辺を探っているところに出会い、話をすることができました。連絡先を交換し、未だ電話は繋がりにくい状況ではありますが、なんとかそのグループと回線をつなげることができました』

 

 この放送に合わせて繋げようとした結果、時間が遅れたのか。そもそも時間指定をしていなかったから不明だが、そうまでして話を聞くということは何か有益な情報を、その大学のグループはもっているのだろうか。

 

『今日はよろしくお願いします』

『はい、我々も外部にこの情報を伝えられることを喜ばしく思います』

 

 アナウンサーのものではない、少しだけ聞きとりにくい声がテレビから聞こえてきた。

 

『我々は某大学の研究棟にこもり、この事態の原因を追究すべく行動してきました。学生たちの協力を得て、危険な橋を何度も渡ってもらい大人として顔向けできるような者ではありませんが……。それでもこの状況の最中、外部と、それも公共の電波に乗せて発信できるテレビ局の方と知り合えたのは奇跡に近い僥倖です』

 

 研究者。なるほど、話から察するに医学部の研究室か何かか。某大学としか言わないのはさまざまなリスクヘッジの結果だろう。医学に関するところに医者かは定かではないが第一人者がいると分かれば怪我人が殺到するような事態にもなりかねない。

 

『それで……その原因は分かったのでしょうか?』

 

 誰もが聞きたかったことをアナウンサーが代弁する。その質問は是が非でも答えを知りたい、しかし絶望しか詰まっていないパンドラの箱かもしれない。すでにその箱を開いたような災厄が世界に蔓延っているが、果たして希望は残っているのだろうか。

 

『答えは、『イエス』です』

 

 大学グループの返答に、アナウンサーも俺たちも歓声をあげた。しかしまだ早い。日本の一研究室がその原因を突き止めたことは本当にすごいことだが、まだ「原因」だけだ。治療や予防、または沈静化に向けて何かできることがあるのか分からない。

 

『で、では、詳しくお願いします!』

『分かりました。我々はこの……分かりやすく言うならば"ゾンビ化"する症状を『死毒症』と名付けました。この名前が示す通り、原因は毒に近い物質であることを突き止めたのです。

 この毒に侵されるとまず高熱にうなされます。ヒトの限界を超えた発熱によりたんぱく質が破壊され、意識の混濁や身体の不調が見られます。が、恐ろしいのはこの毒が破壊された部分を作り変え、新たに毒を振りまく存在として動かす点です。寄生虫に乗っ取られた昆虫のように……。全身の体液は毒に変わり、汗腺から漏れた体液が表皮にすら猛毒を覆わせます。引っ掻かれただけで感染するように毒に侵されるのはそのためです。

 ヒトより小柄な生物は発熱の時点で復元不可能なほどに身体中が破壊されつくすために動くことはありません。逆に大柄な動物などは毒への適正が高いのか、理性は失えども多くの場合、生前と同じかそれ以上の身体能力を得て毒をまき散らそうとします』

 

 発熱、意識の混濁。実際に味わった俺からしてみれば頷ける内容だった。しかし、毒か。この人も言っているが寄生虫のように意識を乗っ取ったり、某ウイルスのように感染していくアレは、いったいなんなんだろう。

 

『では……人を襲うアレらは……?』

 

 アナウンサーも同じことを思ったのか、俺の聞きたいことをそのまま代弁してくれた。

 

『この毒自体が細菌のように自らの繁栄を目指しているのかは定かではありませんが、限界ギリギリまで破壊され作り変えられた脳は理性を失い、身体のリミッターも全て外して動き出します。そして残された本能、即ち"食べる"ことのみを求めるのです。共食いをしないのは恐らくですが、彼らは『熱』を求めていると考えられます。毒に侵され、発症した後の身体は血管も破壊され急速に熱を失っていきます。視覚も聴覚もある程度残っていますが、彼らは彼ら同士で、恐らく認識し合っていません。

 ただし、もともと平均体温が高いなどで適性のあった動物の一部は体組織の半壊を免れて、食べること以外に一つか二つ、元の本能を残しているように見えます。縄張りや群れを作り、維持するなどがそれにあたりますね』

 

 次々明らかとなっていく真実。いや、確定ではないしまだ分からないこともあるだろう。それでもこの情報は俺たちには知りえないもので、ずっと謎続きだった現状に一筋の光を見せてくれた気がした。

 だが、本当の希望はその先に。

 

『なるほど……。ではもう一つ。その原因を知り、この先の未来にどう繋げていけるのでしょうか』

『我々が原因となったこの症状に『死毒症』と名付けたのはそこです。これは"毒"なのです。予防、もしくは発症までに使える抗血清が作れるはずなのです』

『そ、それは……! 本当なのですか!?』

『ええ。残念ながらゾンビ化した生物を元に戻すことはできません。あれはもう、人類の医療技術では修復不可能なほどに破壊されつくしていますから。ですが、そうなる前に接種することでゾンビ化を防ぐことができるはずです。

 そうすれば……世界が元通りとはいきませんが、いずれ秩序が戻ることでしょう』

 

 それは、本当に光だった。

 この地獄に、終止符が打たれる。そんなことが、本当にあるのか。まだ始まって一か月も経っていないのにそこまでの情報が入ってくるなんて。だが逆に早ければ早いほど良いのも確かだ。まだ生きている人が多いうちでないと意味がない。この人たちは他の何をかなぐり捨ててでも研究を続けたのだろう。

 人類の進歩とは戦争と共にある、なんて言葉がある。

 そう、これは戦争なのだ。人類が生き残るための、生存競争。相手が目に見えない一つの物質だとしても。

 そして一歩踏み出した。ボロボロになりながら、それでも人は命のともし火を吹き消させやしなかった。世界というリングの中で、コーナーに追いつめられてなお前に踏み出したのだ。

 

「すごい、すごいね!」

「ああ、まさかこんな良いニュースが聞けるなんて」

「今すぐということはないでしょうけど、それでも……!」

 

 俺たちも希望に目を輝かせて笑いあった。完全に人任せにすることしかできないが、いずれこの地獄が終わってくれるのならば。それまでに生き残りさえすれば、俺たちの勝ちなんだ。

 

『本当に……! そ、それで、その抗血清はいつ頃までに作られるのですか?』

『…………』

 

 アナウンサーも喜びを隠しきれず、語気も荒く問いかけたがそれに対する返答がない。これまで流暢に話していた大学グループの人間、恐らく研究者の人は重苦しく、その先の言葉を紡いだ。

 

『理論的には可能……、ですが、そもそも抗血清とは弱めた毒素を馬などの動物に打ち込み抗体を作らせてそれを採取します。普通に作れたとしても半年以上。さらにこの死毒症は毒素が強い、いえ、強いなんてものじゃなく、ほとんどの生物は耐えきれずに発症してしまうでしょう。適性が高いと言った動物たちも、アレは身体が破壊されつくされないだけで、抗体など持たずほとんど死んでいるも同然なのです』

『え……で、では、血清は……』

『恐らく原因となる毒の存在は世界中の研究機関で見つけられているはずです。しかし抗血清を作らないのではなく、作れないのです。噛まれてなお発症せず、抗体を持った生物を発見できない限り、我々にはどうすることもできません』

『そんな……』

 

 画面の中で男性が涙を隠すこともせずにうなだれた。当然だろう、希望を見せられた挙句、それが紙に書いただけの想像にすぎないと分かれば誰もがそうなるはずだ。

 だが、俺は知っている。

 噛まれても発症せずに、それまでと同じように確実に「生きている」ものを。

 

「こ、これ……って……」

 

 隣に寄り添っていた小町が信じられないものを見るように俺を見上げた。由比ヶ浜も、雪ノ下姉妹も同様に俺に視線を注いでいる。

 

「……つまり、俺は」

「抗体を、持っている。そう、考えられると?」

 

 かつて受けた肩の傷に手をやる。完治とまではいかないものの確実に治癒されつつあるそこは、もう痛みを発することもない。

 あの時俺は、たしかに先ほど聞いたように高熱に侵された。まさしくそれは『死毒症』と名付けられたその症状に他ならない。だからこそ雪ノ下たちと別れて、一色と共に死を迎え入れるべくそこに留まろうとしたのだ。

 もし、俺が本当に抗体を持っているとして。

 俺はどうするべきなのだろうか。

 しかるべき研究機関に身を任せる? 化け物が闊歩する中を。

 それとも俺と同じような存在が現れるのを待つか? 幸いにして食糧も水もある。だがそれは俺たちだけかもしれない。いずれ他の人間が死に絶えてしまうかもしれない。その抗血清とやらを作れる人たちもだ。

 

「…………行こう」

「お、お兄ちゃん……」

「この地獄が終わるのなら、それは一日も早い方がいい。そうだろ?」

「そう、だけど……でも、でもあなただけが特別じゃないかもしれないじゃない。他の……そうよ、他の人だってもしかしたら噛まれても発症しなかった人が……」

 

 まだ場所も知れないその大学に向かうと決めた俺に、意外と周りは否定的だった。特に雪ノ下はらしくない言い訳じみた言葉でそれを否定した。

 たしかに危険はたくさんある。俺が一人で歩いていって無事たどり着けるはずもない。だからといって俺には車の運転なんてできないし、やはり誰かの協力が必要不可欠になる。

 そして仮に辿り着けても、確実に抗血清が作れるとは限らない。もともと馬のような動物で作るそれを、人間でも同じように作れるのか、その場合俺がどうなるのかも定かではない。

 

「比企谷くん、落ち着いて」

「でも……いえ、分かりました」

 

 自分でも気付かないうちに俺は立ち上がっていた。陽乃さんに促されて再びソファに座り直すと、彼女はじっと俺の目を見つめて口を開く。

 

「……半年。まずは半年待ちましょう。さっき、抗体ができるのにそれだけかかるって言ってたよね? 向こうに着いてもまだ完全に抗体ができてないなんてことになったら意味がない」

「……そうですね」

「だからその半年のうちに、できる限り安全に、しかるべき研究機関に向かえるように準備しよう。自衛隊の救助は諦めたけど、彼らに知らせて頼ることも念頭に入れて」

 

 陽乃さんは冷静に物事を計っていた。その通りだ。何もこのメンバーの中から同行者を選ぶ必要なんてない。自衛隊に協力を仰げばヘリだの何だのでもっと安全に素早く目的地へと向かうことだってできるはずだ。考えなしに飛び出そうとした俺はやはり暴走しかけていたらしい。深く息を吐いて気を落ち着かせた。

 

「陽乃さんの言う通りですね、すみません。まずは半年……準備もそうですが、生き残らなきゃ話にすらなりませんからね」

「ん、そうだね」

 

 ニッと笑う陽乃さんは、それはもう可愛らしく。俺でなければ即座にプロポーズしてストーカーとして訴えられるまである。フラれるだけじゃすまねぇのかよ。

 他の三人もホッとして表情を和らげていた。そんなにさっきの俺は危なっかしかったのだろうか。まあなんだかちょっとおかしかったもんな。無駄な心配をかけてしまった。

 

「悪い」

「んーん、でもお兄ちゃん、本当に行くの……? 研究って、実験台みたいに変なこととかされない?」

「分からんが、まあ自分で言うのもアレだが、人類の希望をそんな手荒には扱わねぇだろ」

「ヒッキー……でもっ」

「その時は、私が首に縄をかけてでも取り返すわ。……その時は、由比ヶ浜さんにも手伝ってもらうわね」

「ゆきのん……。うん、そうだね」

「ああ、頼むわ」

 

 何を心配することがあるだろうか。俺はこんなにも思われている。例え見ず知らずの人間にこの身を差し出そうとも、そばにこいつらがいてくれるのなら安心できる。誰か、ではなく、こいつらに身を任せるのだ。それが安心でなくなんだというのだ。

 

「決まりだね」

「はい」

 

 そして俺たちは立ち上がった。

 まずは生きること。生き延びること。全てはそれからだ。これまでずっとしてきて、でも簡単ではないこと。だが不安はない。

 

 テレビ局が生きているうちにその大学の研究室や自衛隊の連絡先を聞き、話をしなければならない。それに自衛手段の強化、移動手段の確保。やることは山ほどある。

 それでも未来はもう真っ暗なんかではない。

 俺たちの明日は、これから始まるのだから。

 

 

To be continued...

 






pixivの方でも言い訳しましたが、けっこう設定がガバガバです。
雪ノ下家の所在地が分からなかったのでグーグルマップとにらめっこをした結果、習志野駐屯地のやや南西に配置しました。

猟銃ってぶっちゃけゾンビに効くんですかね?
至近距離で頭に打てばどうにかなるのかな・・・。


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