ヨコシマ・ぱにっく! (御伽草子)
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第一話 ごーすとぱにっく
【プロローグ】


 

 

 

 

第一話 ごーすとぱにっく

 

 

 

 

【プロローグ】

 

 

 

 

『はーははははァァァァァァ――――っ! 食い物だ食い物だ! 全部、全部オレのものだァァァァァァァ――――っ!』

 

 昼下がりのスーパーで、狂的とも言える笑い声が響いていた。

 彼は人間の形をしていたが、人間ではない。体を形作っている輪郭は陽炎のように揺らめき、背後の景色が見えるように淡く透けている。

 時折、彼のような者はいるのだ。死んだ者が成仏できずこの世を彷徨う……所謂、幽霊というやつだ。

 

『食い物、食い物、食い物くいものクイモノくいものォォォ! 誰にもわたさねえぇぇぇぞォォォォ!』

 

 その悪霊は食べ物に対して執着を見せていた。スーパーの一角を我が物顔で占拠して、菓子や惣菜、鮮魚や青果といったスーパーの商品を山のように積み上げ、その上で歓喜の声を上げている。その姿はまるで迷宮の奥で宝物を見つけた強欲な商人だ。山ほどの食べ物を宝石や金貨よろしく引っ掴み天に掲げて顕示している。

 それに困っているのは当然のことながらその店の従業員たちだ。

 彼らは悪幽を遠巻きに眺めながら皆一様にどうしたらいいのか分からず困り果てていた。

 

「て、店長、どうしましょうか?」

「くっそ……あのバカ幽霊のせいで客が皆逃げちまったじゃないか」

「そりゃそうですよ。客が商品持っていこうとすると、それは俺様のものだとか言って襲いかかるんですから」

 

 その悪霊は迷惑極まりないことに、スーパーの商品に触れる者に対して襲いかかってきた。客も、従業員も容赦なく。今のところ怪我人こそ出ていないが、悪霊が居座るスーパーなんて噂が広まったらこのスーパーの評判はガタ落ちだ。現に今店に客は一人もいない。皆逃げてしまった。

 店長は忌々しそうに呟く。

 

「なんなんだあの幽霊は? 真昼間から、一体どこから現れやがったんだ?」

「それがどうやら集配センターからのトラックに紛れ込んでいたらしいです。今日品出しする商品のカートの辺りで、パートの木下さんがあの幽霊を見つけたのが最初らしいですから」

「集配センターのバカどもめ! 誰があんなモノ注文したってんだっ」

 

 歯軋りする店長。若い従業員がモップを強く握り締め、店長にこう尋ねた。

 

「店長、俺こう見えても学生時代は剣道で全国大会に行ったことがあるんです。あんな霊なんか追い払ってみせます」

「やめとけやめとけ、霊なんて実体が無いものに普通の人間がかなうわけ無いだろ。それは警察を呼んだって同じことだ。鉄砲の弾だって素通りしちまうさ」

 

 おまけにあの悪霊は念力、というかポルターガイストのような力を持っているらしく、触れてもいないのに食料品や飲料のペットボトルがびゅんびゅん空を舞っている。その気になれば辺りにある物をぶつけてくるだろうし、もしかしたら人間を壁に叩きつけるなんて真似も出来るかもしれない。

 従業員が店長にこう提案した。

 

「店長、ゴーストスイーパーにあの霊の退治を依頼してはどうでしょうか?」

 

 ゴーストスイーパー。それは霊を退治する専門家のことだ。

 

「……ゴーストスイーパか。しかしあの連中は高額な依頼料をふんだくると聞くぞ。正直な話、ウチはそれほど余裕があるわけではないぞ」

 

 かといって。

 店長は決断を迫られる。

 このまま悪霊に居座られたのでは商売どころではない。ゴーストスイーパーに依頼すれば悪霊自体はどうにかなるだろうが、何百、何千万といった料金がかかる。下手すればスーパーの経営自体も傾きかねない。

 頭を抱える店長。

 と、そのときだ。

 店の自動ドアが開いた。

 一人の少年が店に入ってきた。おそらく中学生くらいだろうか。ジーンズに薄手のTシャツ、頭にはバンダナを巻いている。

 その少年は悪霊の姿が視えていないのか、何事も無いかのように買い物かごを手に商品棚に向かっていく。

 

「お、お客様! いけません今は……っ!」

 

 慌てて少年を止めようと大声を上げる店長。しかしそれがいけなかった。

 店長の制止の声に気づいた悪霊の目が、少年に向けられた。少年が商品棚に並べられた缶ジュースを買い物かごに放り込んでいる姿を目にする。悪霊は愕然とした。何をやっているのだあいつは。ここにある食い物は全部自分のものなのだ。それを奪うというのか。

 

 ――許せん!

 

『オオオオオオオオオオォォォォォォォォ!』

 

 激昂した悪霊は少年に向かっていく。空を飛ぶ姿はその半透明の青白い輪郭と相俟って、薄手のカーテンが風に弄ばれているようにも見えた。

 

『マテェェェエエエッ!』

 

 少年の前に降り立つ悪霊。宙に浮いたまま少年を見下ろすその瞳は怒り狂っていた。

 

『オレの食い物を勝手に持っていくな、ブチ殺されたいのか!』

「へー、これ全部オマエのものなの?」

 

 少年は悪霊にそう問いかけた。

 従業員の間に緊張が走る。

 何をしているんだ、早く逃げろ! 

 そう叫びたいが、叫べない。今のあの悪霊は爆発寸前の爆弾のように見えて、少しの刺激でも与えるのは危険に思えた。

 しかし奇妙だ。悪霊と向き合っている少年に焦りや恐怖といったものが感じられない。自然体のままに見える。

 

『そうだ! 生前のオレは貧乏が原因でまともに食うことが出来なかった。だが霊となった今のオレを縛るものは何も無い。だから決めたんだ。世界中の食い物すべてをオレのものにするってなぁっ! 手始めにこのスーパーだ。ここの食い物は全てオレのものにすると決めたんだ!』

 

 自分語りをはじめる悪霊。しかし言っていることは支離滅裂だ。そもそもの話、霊である彼に食すという行為は出来ない。当然だ。実体が無いのだから。

 

「縛るものは何も無いって……縛られてんだろうが、執念や執着ってやつに。いいからとっとと成仏しやがれ。店にも客にも俺にも迷惑だ」

 

 小煩い猫を追い払うようにしっしっと手を振る。

 

『このクソガキが。迷惑だというな』」

 

 負の情念が形になるかのように悪霊の体が黒々とした色を帯びる。

 

『力ずくで追い払ってみろ!』

 

 覆いかぶさる津波のように、背丈を増した悪霊の巨躯が少年に襲い掛かかる。

 ――パン!

 それは風船が破裂したような音だった。

 瞬間。悪霊の胸にぽっかりと孔が開いていた。

 狐のように細くつりあがっていた悪霊の瞳が丸々と見開かれる。目に映るのは扉をノックするように振りかざした拳で自身の胸を穿った少年の姿だった。

 

『お、オレの体が……っ』

 

 実体の無い霊となった彼の体に干渉するには〝霊力〟と呼ばれる力が必要だ。人間なら誰しも持っている力だが、それを自在に扱えるのはほんの一握りしかいない。霊力を使い、人に仇なす悪霊を退治するスペシャリスト。それが。

 

『お、オマエ……ゴーストスイーパーかっ!』

 

 少年はひらひらと手を振る。

 

「うんにゃ。ただの小喧しいお姫様の送迎係だ」

『ち、チクショオオオオオオオオオッ!』

 

 胸に穿たれた孔が広がり、悪霊の体を二つに寸断した。断面から砂が崩れるようにさらさらと光の粒になって消滅する悪霊。断末魔の声を残し大気に雲散する。

 店の従業員たちはその光景を呆然と見つめていた。

 彼らの脳裏には激昂した悪霊が少年の体を引き裂く最悪の未来がよぎっていた。しかし結果はどうだ。中学生くらいにしか見えない幼い少年が、自分たち大人ですら手が出せなかった悪霊を瞬く間に消滅させてしまったのだ。

 少年はそんな従業員たちの驚愕に気づいているのかいないのか、素知らぬ顔で買い物かごの中に商品を入れていく。そしてレジにやって来て、台の上にかごを置く。

 

「あ、会計お願いしまーす」

「い、いえ……どうぞそのまま、お持ちください」

 

 店長が答える。顔が引き攣っている。まだうまく今までの状況が頭の中で整理出来ていないでいた。

 

「え、でも」

「いいんです。その、なんというか……お礼です。霊を退治してもらった」

「あ、そなの? なんかわるいね」

 

 口ではそう言いつつもラッキーとばかりに足取り軽く買い物かごをサッカー台に持っていく。

 

「あ、袋もらってくよ」

 

 レジ台の下から袋を一枚引き抜いて、商品をつめる。そして悠々とスーパーから出て行く少年。自動ドアが閉まる音が静かな店内に響く。

「ありがとうがざいましたー……」と条件反射でつい声を上げてしまうが、誰もが相も変わらずぽかんとした表情を浮かべている。

 そのまま従業員全員が数秒ほど押し黙っていた。ゆっくり店内を見渡す。悪霊によって散らかされた大量の商品が床に散らばっている。あまりに劇的というか急転直下で終結してしまったため、さっきまでのさわぎがどこか夢心地に思えた。

 店長が若い従業員に振り返り、困惑を隠せない表情で訊ねる。

 

「なんだったんだあの子?」

「さ、さあ?」

 

 その従業員もわけが分からないというように答えた。

 

 

 

 

 

 

 季節は夏。

 むせるような濃い新緑の匂いと、身を焦がすような暑い日差しの下。

 小学生くらいの少女が歩道の手すりに腰掛けていた。退屈そうに足をぶらぶらと揺らしている。

 美しい面立ちの少女だ。パナマ帽の下からは狐色の髪の毛がのぞいている。真っ白なシャツに青色のジーンズといった涼しげな服装。陽炎に揺らぐ夏の大気の中でその美しい少女の姿はどこか幻じみていて、触れれば消えてしまいそうな儚ささえ感じられた。

 

「おーい、タマモ――っ」

 

 少女――タマモが振り返る。道の向こうから少年が歩いてくる。ビニール袋を片手に、ゆらゆらと手を振っている。

 少女は拗ねたようにため息をついた。

 

「おそいわよ、忠夫」

 

 じと、と三白眼で睨みつける。

 

「へーへー、どうもすいませんねお姫様。どうぞご所望のつめたく冷えたジュースでごぜえます」

 

 缶ジュース放り投げる。危なげなくキャッチするタマモ。ジュースの缶をじっと見つめてから。

 

「えー、アップルより、はちみつレモンがいいー」

「ねえよ。細かい文句言ってないでさっさと飲め」

 

 プルタブを開けると、カシュッ、と涼しげな音が響く。缶を傾け、一気に飲み干し、渇いた喉を潤す。

 

「ぷはー、うっめえなぁ、おい」

「んぐんぐ、んー……、やっぱりどうせなら果汁百パーセントのほうがよかったわね」

「端からイチャモンつけるなオマエは……」

 

 まあそれは置いておいて、と忠夫。

 

「やっと、目的地まで残り二十キロをきったな」

 

 リュックから地図を取り出して広げる。目的地である人骨温泉郷には赤く丸がついており、そこにたどり着くまでのルートも赤く印がしてある。

 

「東京からここまでおよそ四百キロって所かしら。よくもまあ真夏に自転車でここまで来れたもんだと我が事ながら感心するわ」

 

 タマモはちらりと傍らに止めてある自転車に目を向ける。それはホームセンターで売っているようなどこにでもありふれたママチャリだ。驚くことに、二人は三日かけてロードレーサーでもないただのママチャリで四百キロ近い道のりを走り通して来たのだ。

 

「我が事って、自転車漕いだのは全部俺だろうが」

 

 胡乱な瞳をタマモに向ける忠夫。やれ速度が落ちているだの、やれ坂道もしっかり漕げだの、こいつは人をまるで馬車馬のようにあつかったのだ。

 

「マッピングしたのは私でしょ」

 

 つんと澄ました顔でそんなことを言ってのける。

 

「どっちのほうが大変かなんて明白だろうが。体力使ってんのは俺だっつの」

「あんたに地図渡したら一年経ったって目的地にたどり着かないわよ」

「人を方向音痴みたいに言うな」

「紛うことなく方向音痴でしょうが」

 

 顔をひっつけてにらみ合う二人。ぐいぐいと額でお互いの顔を押し合っている様は、カブトムシが角を突きつけあって相撲をとっているように見える。

 それからしばらくして。

 

「……やめるか、暑いし」

「……そうね、暑いし」

 

 東北地方とはいえ、夏が暑いのは当然だ。東京のようなじめっとした暑さでこそ無いが、照りつける強烈な日差しは容赦なく体力と気力を奪っていく。

 降りそそぐ蝉の鳴き声を聞いていると余計に暑いと感じるのは不思議なものだと思う。

 

「さぁて、じゃあそろそろ行くか。あと二時間も走らせれば目的地に着くだろ」

 

 自転車に跨る忠夫。

 

「あー、やっとちゃんとお風呂に入れてふかふかのお布団で眠れるのね」

 

 感無量といったふうに呟くタマモ。

 この三日間、ずっと野宿だったのだ。一日目は川の土手で、二日目は橋の下、三日目は寺の軒先。風呂は銭湯に一回入っただけだった。特に鼻が利くタマモにとっては風呂に入れないという事が我慢ならなかったらしく、道中文句垂れ続けていた。

 

 

 

 ――そもそもいくつか疑問がある。

 幽霊やゴーストスイーパーとは。

 兄妹に見えるような見えないようなこの二人の関係は一体なんなのか。

 なぜたった二人で、それも自転車で、遠く離れた温泉郷に向かうのか。

 

 それらを説明するためには、話を一週間ほど巻き戻すのが妥当だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 あらすじにも書いてありますが誤字・脱字・文法のおかしなところがあったらご指摘いただけるとうれしいです。


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【01】

 

 

 

 

 

 

 

 東京都某所。

 都心から少し離れた閑静な住宅街に、立派な風格の日本家屋が建っていた。

 周囲を白漆喰で塗られた塀で囲まれ、観音開きの冠木門が悠然と構えている。門をくぐり、ぐるりと周囲を見渡すと、とても都内とは思えないほどの大きな庭が広がっている。青々と苔むした地面からよく手入れされた椛や松の木が屹立しており、玉砂利と飛び石でできた道がまるで緑の大地を流れる川のように曲がりくねりながら土蔵がある庭の奥へと続いている。

 門からまっすぐと伸びる石畳の道の先には、大きな切妻屋根の屋敷がある。それがこの家の母屋である。

 八畳ほどの畳敷きの和室に、横島忠夫が布団に包まって眠っていた。

 ちなみに寝坊だ。

 枕元に置かれた目覚まし時計は鳴るようにセットされた時間から、すでに一時間ほどが経過している。ベルが鳴らなかったわけではない。繭のように丸まった掛け布団の中からにょっきりと伸びた腕が、目覚ましのスイッチの上に振り下ろされている。目覚まし時計は自らの役目を果たすことができないまま沈黙していた。

 襖が開かれる。

 薄暗い室内に日の光が差し込む。そこに少女が立っていた。年の頃は十歳くらいだろう。白いワンピース姿。狐色の髪を後ろで九つの結び目で結わえた珍しい髪型だ。少女――横島タマモは襖縁に背を預けている。オタマで肩をならすように叩いており、片手にはなぜかラーメンのどんぶりを乗せている。冷ややかな瞳は布団に包まったままの少年を見下ろしていた。

 大きなため息を一つつき、眠ったままの少年に歩み寄る。

 膝を立ててしゃがみこむ。

 

「おーい、おきろー」

 

 一応、申し訳程度に声をかける。

 無論この程度では……というか、たとえ大声で怒鳴りつけてもこの大寝坊助が起きないことは経験で十二分に知っていた。

 果然、忠夫に起きる気配はない。身じろぎ一つせず眠りこけたままだ。

 少女は手に乗せたラーメンのどんぶりを揺らす。中に入っているものがぶつかり合ってガラガラと音がする。

 ニィ、と少女の口元が半月の形に裂けた。未だ世の中の艱難辛苦も知らないような少女の年齢には不釣合いなほどに室に入ったサディスティックな笑いだが、なぜだかこの少女が浮かべると全く違和感が見当たらないのが不思議だ。

 タマモは布団をめくる。ぐーすか眠りこけたままの忠夫の服の襟元を広げ、その隙間からどんぶりに入った大量の氷を一気に流し込んだ。

 めくった布団を閉じる。少し離れて、じっと眺める。畳の上に腹ばいに寝そべり、見世物を見るようなわくわくとした表情だ。

 もぞ。

 もぞ、もぞ。

 布団がうごめく。徐々に違和感がはっきりと感じられるようになったようだ。

 もぞもぞもぞもぞ……っ、バタバタバタバタ! バッタンバッタン!

 布団が跳ね馬のように弾けている!

 あきらかにパニックに陥っている。

 ちなみに犯人であるタマモは、この時点で腹を抱えてケラケラと笑っていた。

 

「ほわちょわぁぁぁ――っ!?」

 

 謎の叫び声を上げて忠夫が文字通り跳ね起きた。

 立ち上がり、短パンの中に入れた服の裾を捲ろうと必死だ。しかし寝起きということと焦りのあまりうまく指が動かない。爪先立ちでひよこ歩きのように畳の上をちょこちょこと足踏みしている姿は珍妙なダンスを踊っているように見える。

 タップダンス。マラカスでも鳴らしてやりたくなる。

 

「まんぼー」

「まんぼー、じゃない!」

 

 やっとのことで服の裾を捲ると、大量の氷が製氷機のように落ちてくる。すでに眠気など完全にすっ飛んでいた。

 少女は畳の上に頬杖をつきニッコリと微笑んだ。

 

「おはよ、眼は覚めた?」

「そりゃあもうバッチリとな!」

 

 あれで起きなきゃどうかしている。心臓がバクバクと激しく脈打っていた。

 

「毎度毎度心臓に悪いわ! オマエ日に日起こし方が過激になってないか!?」

「だってアンタってば普通に起こしても起きないでしょ」 

「つってもお前、朝俺の起き抜けの反応楽しんでるだろ。昨日なんて耳にイヤホン突っ込んで大音量で浪花節聞かせやがって……鼓膜破れると思ったわ!」

「さあー、そんなこともあったかしらねー」

 

 忘れちゃったわー、とのん気にのたまう。

 

「とっくに朝ごはんできてるわよ。布団片付けて早く居間に来なさいよ」

「へーへー」

 

 タマモはもう用はないとばかりに部屋を出て行く。鼻歌でも歌いそうなご機嫌な雰囲気。そんな後姿にイヤミの一つでも言ってやりたくなる。

 

「なんか日を追うごとに生意気になっていくなあいつは……」

 

 だんだん頭が上がらなくなってきた、とも言う。忠夫は十五歳でタマモは十歳。一つ屋根の下に暮らし、血のつながりこそないが兄と妹に近い関係だ。五年ほど前、諸般の事情で身寄りの無いタマモの面倒を看ることになってから、流れ流れて今現在。最近兄と妹という立ち位置が逆転してきたように思える。

 生来の女王様気質を発揮しはじめたタマモに戦々恐々する毎日。近い将来奴隷にでもされそうで恐ろしい。冗談とかでなくヤツならそれくらいやりそうだと、直感が囁いている。男心を掌で転がす魔性の女とでも言おうか、そんな気質をタマモから感じる。

 気をつけようと、と心に誓いながら、ふと周りを見回す。

 

「つか、この氷ってやっぱ俺が片付けんの?」

 

 畳の上に散らばった大量の氷は、夏の外気にさらされてすでに溶け始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 横島忠夫という少年が親元を離れてこの家にやってきたのは、まだ五歳くらいの幼い時分のことだ。

 とある霊的障害が絡んだ事件に巻き込まれて、発現した霊力を制御するためにある霊能力者の元に預けられた。霊力という力は精神的な力のみならず、使うものが手順を踏まえて使えば物理的な破壊力すら付加することが出来る力だ。幼い子供が持つにはあまりに危険であり、自身の命のみならず他者の命すら害する可能性があった。しかし彼の両親は霊能力に関しては門外漢であり、結果として信用のおける霊能力者に息子を預けるという選択肢をとるしかなかった。

 それから十年ほどの月日が流れた。

 師である霊能力者の元で、霊力を扱うための修行をしている忠夫。

 霊能力者であることの一つの証明であるゴーストスイーパーの資格こそ未だ持ってはいないが、すでにその力は一流の霊能力者でありゴーストスイーパーである師の認めるところである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 縁側のガラス戸の向こうにはこの家自慢の日本庭園が広がっている。ここは都内に持つには贅沢に感じるほどに広い敷地で、概観は武家屋敷と呼べるほどに立派な門構えの家だ。格式ある佇まいと言えば聞こえは良いかもしれないが、忠夫に言わせればただ古いだけの家だ。廊下を歩くたびにギシギシと悲鳴を上げる廊下に、半分以上の部屋は襖や障子やらの立て付けが悪く開け閉めに無駄な労力を使う。建物の耐久限界などとうに過ぎていそうで、地震での倒壊の危険性がおおいにありそうで恐ろしい。

 

「おいーす」

 

 居間の鴨居をくぐると「おそい」とタマモの文句が飛んでくる。

 

「ほら早く座んなさい。せっかく作ったご飯がさめちゃうわ」

 

 ちゃぶ台の上にはすでに朝食が用意されている。全てタマモの手製のものだ。皮までぱりぱりに焼かれたアジの切り身に、卵を絡めた五目ひじき、味噌汁は昆布と削り節でだしをとったものだ。そして米粒の一粒一粒がピンとたったピカピカのご飯。

 

「お、うまそうだな」

「トーゼンでしょ」

 

 食べ物の匂いを嗅いだら急に腹が減ってきた。

 いそいそとちゃぶ台の前に座る忠夫。

 

「それじゃ、いただきます」

「いただきまーす」

 

 まずはアジの切り身から食べ始める。夏が旬のアジは今がちょうど食べごろだ。脂ののった身を口の中に放り込んでかみ締めるとじゅわっとうまみが口いっぱいに広がる。そこで一気に熱々のご飯をかきこんで一緒に咀嚼すると、アジの塩味とご飯のほんのりとした甘みが絶妙にマッチして思わず目尻が下がるほどウマイ。五目ひじきもご飯のおともにぴったりだ。こいつはお上品に食べるものじゃない。ぐわっと広げた箸で大きくつかんでそのまま口に運ぶ。磯の香りが鼻腔をくすぐり、ひじきに絡まったこんにゃくや大豆、鶏肉やにんじんといったいくつもの食材が見事に調和している、ご飯がすすむことすすむこと。

 

「うっめなあ、おい。腕上げたなタマモ」

「ふふん、もっとホメてもいいのよ?」

 

 得意げに鼻をならすタマモ。

 そのとき、チリンと涼やかな音色が鳴った。

 軒先につるした風鈴だ。朝顔が描かれた江戸風鈴で、つい一昨日押入れの奥から引っ張り出してきたものだ。

 

「……夏だなー」

「……ええ」と頷くタマモ。

 

 七月某日。忠夫の通っている中学校も一昨日から夏休みに入っていた。

 夏休み初日は掃除と夏支度から始まった。庭に面した部屋の襖を全て葦戸に替えたため、今彼らが座っている居間も葦戸に濾されたやわらかな日差しと共に葦の間から爽涼な風が吹き抜け、夏の暑さをずいぶん紛らわせてくれていた。

 ほうっと息をつく。

 遠くで聞こえる蝉の声に、時折混じる風鈴の音色。

 もう幾ばくかすれば、陽光がぎらぎらと輝きだすだろう。

 時節は夏真っ盛りを迎えていた。

 そこで忠夫はあることに気づく。食卓を囲っているのは自分とタマモの二人だけ。一人足りない。

 

「そういや、じいさんは? ここ三日ほど姿を見てない気がすんだけど」

「三日目にして不在に気づくって弟子としてどうなのよ。なんか海外のほうで除霊の仕事があるとかで出かけてるわよ。来月の頭くらいには戻るって」

 

 忠夫は自らの霊能の師匠であり、この家の家主の不在をタマモに問いかけるが、呆れ顔と共に返ってきた答えは少し意外なものだった。

 

「へー、あのじいさんが数日かかる仕事って結構ドデカイ事件なんじゃねえの」

 

 忠夫の師匠は業界では相当な有名人らしく、当代最強との呼び声もある腕利きのゴーストスイーパーだ。その師がてこずるほどの事件とは……。

 

「ん?」

 

 ふと思い当たったことがある。

 

「なあ、その除霊の仕事ってどこでやるって言ってた?」

「ええっと、確かミコノスって」

「あんのクソジジイ……、そういうことか」

 

 ギリシャのミコノス島。エーゲ海に浮かぶ美しい島で、夏の避暑地として有名な場所だ。きっと今頃、除霊などさっさと終わらせて、コバルトブルーの海を眺めながらカクテルをあおっているに違いない。

 猛然と腹が立ってきた。

 

「俺たちもどっか行かないか。海とか山とか」

「そんなお金ないわよ」

 

 すげなく却下される。

 生活費やら小遣いやらは忠夫の師匠により手渡されており、それをタマモが管理して、遣り繰りするという形で日々の生活が成り立っている。なぜ忠夫ではなくタマモなのかというと、単純に家の家事全般をタマモが取り仕切っているからだ。

 手渡される金額はあまり多いとはいえないが、家が貧乏というわけではない。むしろ金なら唸るほどある。ゴーストスイーパーという職業は命がけで魑魅魍魎を駆除するという仕事柄、依頼料が高額でとかく儲かる仕事なのだ。

 ……まあ、確かに子供にあまり大きな金額を預けるというの教育上良くはないだろう。

 そんなこんなで、タマモがお金を管理しているため旅行に行きたいと言っても彼女がダメといったらそこまでなのだ。しかし年齢は忠夫のほうが上なのに、その姿はまるで母親にプレゼントをねだる子供のようでいて、ちょっとばかり情けない。

 

「それより忠夫、あんたヒマなら買い物行って来てよ。今日は駅前のスーパーでティッシュが安いのよ」

「おー、任せとけ」

 

 ご飯を口にかきこみながら答える忠夫。料理なんかはタマモにまかせきりにしている分、日々の雑用は彼の仕事なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 河川敷にかかる橋を渡ると商店街のある地区に出る。

 忠夫は昼食をとった後、ぶらぶらと腹ごなしの散歩がてらタマモに頼まれた買い物のために外を歩いていた。今はまだ午前中という事もあり、比較的過ごしやすい日和だ。これが正午ともなれば、夏の強烈な日差しと、アスファルトを照り返す熱によって汗だくになっていることだろう。

 スーパーで買い物を済ませると、レシートと一緒にチケットのようなものを渡された。どうやら商工会主催の福引のチケットらしい。

 

「福引ねぇ……せっかくだからやってみるか」

 

 福引を開催している場所も少し遠回りになるが、帰り道と同じ方向だ。

 行ってみると商工会議所の入り口の前で福引は行われていた。日よけのタープ付きのテントの下で、黄色いハッピを着た何人かの商工会の役員が立っている。テントの中央にはめでたそうな紅白の布がかけられた長机があり、上には六角形の箱型をした抽選器が鎮座してる。

 

「ようこそ、いらっしゃいました。福引券はお持ちですか。はい、結構です。三回回せますよ」

「三回、か」

 

 看板に書かれた福引の景品を見てみると、結構良い物が並んでいる。テレビに自転車、海外旅行に温泉旅行なんて定番のものから、有名人の直筆サインなんていう真偽が分からないものや、手品セットや観賞用の熱帯魚の飼育セットなんていうちょっとした変り種の景品までありる。いくつかの商品にはすでに

 ここはいっとう気合を入れて抽選器を回す。

 一回目、出てきた玉は――白。

 

「残念、はずれです。はい、残念賞のティッシュです」

「はずれかぁ」

 

 渡されたポケットティッシュをポケットにねじ込む。二回目、抽選器を回す。

 出てきた玉は白……はずれだ。

 そして三回目。

 抽選器を回すとがらがらと音が鳴り、中に入った玉を吐き出す。

 忠夫は緊張した面持ちで玉の色を確認しようとする。白ではないようだ。

 ちょうど自転車がこの前壊れたばかりなのだ。せめて自転車よ当たってくれ、と祈る。

 玉がトレーの上に転がる。その色は。

 

「お」目を見開く忠夫

 

 赤。

 赤色の玉だ。

 懸賞品が描かれた張り紙を見上げる。残念賞から七等賞、六等賞と下から順々に確認していき。

 赤色は――二等賞。

 ハンドベルの音色が商店街に響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドタドタとけたたましい足音が近づいてきている。どうやら忠夫が帰ってきたらしい。タマモは掃除をしていた手を止める。するとそこへ。

 

「いよっしゃあァァァァァァァァァ――――っ!」

 

 スパァンと、葦戸を勢いよく開いて現れた忠夫。耳をつんざかんばかりの歓声に、タマモはびくりと肩を震わせた。

 

「な、なにごとよっ」

「タマモ!」

「な、なに……?」

 

 ぎゅっとタマモの手を握る忠夫。意味が分からんといぶかしむタマモ。

 

「俺さ、前々からお前に家の家事全部押し付けて悪いと思ってんだ。いつもありがとな」

「え、ええ、べつにいいのよ。好きでやっていることだし、そもそもあんた不器用だし」

 

 突然のねぎらいの言葉に、状況がうまく飲み込めずしどろもどろになるタマモ。

 

「今日の俺は季節はずれのサンタクロースだ」

「ハァ?」

 

 突然何を言い出すんだコイツは。頭でも打ったのだろうか。

 

「普段がんばっているお前に、今日は俺からプレゼントがあるのさ」

 

 ミュージカルの出演者のように大仰な身振りで手をひらめかせる

 なにか変だ。テンションが妙な方向にぶっちぎっている。

 

「ね、忠夫」

「なんだい、タマモくん」

「正直に言えば怒らないわよ?」

「なんか俺が悪さを誤魔化そうとしているみたいに言うんじゃない! そうじゃなくて、ほら、コレ!」

 

 ずいとタマモの眼前にそれを突きつける。

 

「……人骨温泉郷ペアチケット?」

「福引で当てた。二等賞だぜ」

「え、ええ――! すごいじゃない、やったじゃない!」

 

 普段お澄まし顔のタマモにしては珍しいくらい喜びをあらわにしている。チケットを握り締めて輝かんばかりの瞳で凝視している。結構な温泉好きなのだ。

 

「あ、でもこれ交通費は自腹みたいね」

 

 途端に沈んだ声になる。

 つい先ほども言ったが、食費や光熱費以外にまわせるお金はあまり無いのだ。しかもこの人骨温泉とやらは東北のほうにあるらしい。新幹線なんか使ったら二人で一体いくらかかるか分からない。宿泊費がタダとはいえ、交通費を考えるととても行けそうにない。

 肩を落としたタマモに、忠夫はニィと歯を見せて快活に笑った。

 

「移動手段は俺に任せときな。考えがある」

 

 

 

 

 ――その言葉を信じた自分がバカだった。

 

 

 

 

 タマモは家の門の前で頬をひきつらせていた。

 まさか、そんな、いや、でも。

 もしかして、と思う気持ちがある。確信じみた諦念も、あった。

 温泉旅行出発の日。

 快晴に恵まれ、雲ひとつ無い青空の下。タマモは久しぶりの旅行という事もあって、いつもよりおめかしをしていた。お気に入りの白いワンピースに七分丈のスパッツ。この旅行のために新しく買ったパナマ帽をかぶった姿は端正な容姿と相俟って、ファッション誌の読者モデルもかくやという可愛らしさがある。

 対して忠夫の方はというとどうだ。

 ……ジャージ姿である。

 学校指定のものらしく白いシャツの胸元には『横島忠夫』と刺繍もしてある。ついでに頭にはハチマキ。旅行に行く格好としては明らかにナメくさっているが、むしろこの場合においてその姿は正しいといえる。

 

「さあ」

 

 忠夫がくいっと親指を向けた先にある物、それは自転車だった。

 

「乗りな」

 

 まるで洗練されたデザインのスポーツカーに誘っているような得意満面の顔だ。ハチマキに書かれた『初志貫徹』の文字に殺意を覚える。

 

「…………どしたの、その自転車」

 

 自転車などこの家には無かったはずである。いや、正確に言うと一週間ほど前に、忠夫が電柱に突っ込んでぶっ壊したのだが。

 家の前には見慣れない自転車が止まっていた。

 白いママチャリだ。少し改造してあるようで、荷台に幼児用の座席を取り付けるような形で座椅子が括りつけてある。自転車そのものはずいぶんと年季の入っている代物らしく、フレームのそこかしこに細かな傷がついている。タイヤはかろうじて溝がわずかに残っているだけだ。ブレーキをかけたら横滑りをしそうで怖い。

 

「おうコレな、ゴミ捨て場に捨ててあったのを拾って直した」

 

 得意げに答える忠夫。何台かの自転車の使えそうな部品を組み合わせて一台作ったらしい。相変わらず変なところで器用な男だと思いながら、タマモは恐る恐るたずねた。

 

「へ、へー、それでその自転車でどうしようっての」

「だからコイツで温泉まで――」

「私行くのヤメルわ」踵を返す。

「え、なんで?」

「言葉にしなきゃ分からないの、このバカ!」

 

 ほとばしる絶叫。

 バカだバカだと思っていたが、バカの桁が一つ二つ違っていたらしい。

 

「何考えてんのアンタ、こっから一体何百キロあると思ってんの!?」

「無理ってあきらめんなよ、走り続ければいつかはたどり着くって」

「なにかっこいいこと言って押し通そうとしてんのよ。とにかく、私はごめんよ」

「えー、そんなこと言うなよ。一人じゃ寂しいだろー」

「は・な・し・な・さ・い!」

 

 腕をつかんで懇願する忠夫を振り切ろうとするタマモ。。

 そして行く行かないで散々もめた挙句、結局はタマモが折れる形になった。彼女がその決断を後悔するのは自転車が走り出して、わりとすぐのことだった。

 まず季節は夏だという事だ。日光がひたすら暑い。そして目的地がとにかく遠い。一日で到着することなど到底不可能で野宿をした。虫除けのスプレーはしっかりしていたはずなのにそんなものは関係ないとばかりに、肌には虫さされの痕。三日目の夜に橋の下で眠っていたときなど、危うく警察に補導されそうになって逃げ回ったりと色々なことがあった。

 

 

 

 

 そんなすったもんだの騒動の末に、今現在。

 

 

 

 

「よっと、くおっのっ、着いたぁっ! ……うお、こりゃすげえなぁ」

 

 急傾斜の峠道を汗だくになって上りきった忠夫。峠道の頂上から俯瞰した風景はまるで自分が鳥になったかのような錯覚を覚えた。波打つように緑の海が足元に広がり、木々の間から覗くつづら折りの下り道は夏の日差しにきらきらと輝いている。天を突くように切り立った巨峰が、まぶしいほどの真っ白な入道雲とともに悠然とあたり一体を見下ろしていた。遠く彼方を飛ぶトンビの鳴き声が山々に木霊し、梢を揺らす風の音色が耳の奥にしみこむように通り抜けていく。雄大な自然のひとかけらを間近に感じる瞬間だった。

 

「わあ……」

 

 タマモが感嘆のため息をもらす。自転車に乗ったまま、忠夫の背中の横から顔を覗かせて見た景色。心の中に広がった感情をうまく言葉にすることが出来ない。感動という言葉で一括りにするにはそれはいささか繊細な想いだ。しかし忠夫にはその時のタマモの想いがなんとなく分かった。自分も同じ想いだったから。

 

「あ、おいあれ見てみろよ!」

 

 忠夫が指差した先。つづら折りの下り坂のずっと先に、街が見えた。

 

「あれじゃね、目的の街って」

「ええ、地図を見る限りあの街に人骨温泉ってのがあるみたいね

「よし、こっからは坂道だ。一気に行こうぜ!」

 

 目前に迫った目的地に向かって意気揚々と自転車を漕ぎ始める忠夫。

 自転車は軽快に坂を滑り降りる。吹き抜ける風を置き去りして、うねる坂道をコーナーにすいつくように滑らかに右に左に曲がって下っていく。

 

「イヤッホ――――イッ!」

「ちょっと、スピード出しすぎじゃないの」

 

 声を張って注意を促すタマモ。大きな声を出さないと音は風にまぎれて届かない。しかし言葉とは裏腹に、その声色には抑えきれない喜色が浮かんでいた。美しい山景色の中を風を切って走り抜けていると心の底から沸き立つような爽快感は言葉には出来ないほどすばらしいものだった。

 いくつものカーブを曲がっていくと、やがて街が見えてきた。

 その時だ。

 

「わ、バカバカ!? 前見なさい、まえェェェェェェェッ!」

 

 慌てて忠夫の肩を揺するタマモ。すぐ目の前に急カーブが迫っている。だというのに、自転車は減速する気配を見せない。このままじゃガードレールに激突する。

 

「悪り、なんかブレーキ壊れたみたいだわ」

「へ?」

 

 なにを言っているのか一瞬分からなかった。むしろ理解したくない内容だった。

 忠夫の両手はブレーキレバーをすでに力いっぱい握っている。何度も離しては握りを繰り返している。しかし自転車が減速することはない。つまり、だ。

 

「いやああああああああああああああああああああああ――――――ッ!」

「ぬわああああああああああああああああああああああ――――――ッ!」

 

 山々に二人分の絶叫が響き渡った。

 

「ぶ、ぶつかるぅぅぅぅぅぅぅっ」」

 

 猛スピードでガードレールに突っ込む自転車。

「俺にしがみつけ!」

 指示を飛ばす忠夫。腹に回されるタマモの両腕。忠夫は腕に力を込めて自転車のハンドルを自分のほうに引き寄せる。前輪が持ち上がりウィリーの形。そして自転車はガードレールにぶつかる――かと思いきや。

 スピードがついていたのが成功の要因だろう。まるでスキー板がジャンプ台から飛び立つように。

 ウィリーしたまま、うまい具合にタイヤがガードレールに乗っ掛かり忠夫とタマモの体は車体もろとも中空に飛び上がる。ふわりとした浮遊感。そして滑空。道路から飛び出し薄暗い山の中に自転車は躍り出る。頬を掠める木々の梢、地面に降り立つと同時に、ガシャン、と車体がきしむような大きな音がした。

 そのまま舗装どころか切り開かれてすらいない原生林の中を突っ走る自転車。

 

「と、が、ご、くっ!」

「ちょ、やだっ、きゃあっ!」

 

 地面から飛び出した岩や木の根に大きく波打つ車体。立木を避けるためにハンドルを切れば、ぬかるんだ地面にタイヤがとられそうになる。

 根性と体力で、暴れる自転車を押さえつける忠夫。普通なら自転車から投げ出されそうになるほどの衝撃も、全身のバネを使ってうまく逃がしている。

 

「げ」

 

 呻く忠夫。自転車は、今。

 ……再び、宙を飛んでいた。

 背後を振り返ると、自分の背中にしがみついたタマモの頭の向こうに、今自転車で飛び出してきた崖が見えた。

 下を見ると、五メートルほどの高さ。眼下にはみやげ物屋が立ち並ぶ石畳の道路が広がっていた。どうやら森を抜けて目的の街にたどり着いたらしい。

 この上なく最悪の到着の仕方だった。

 そのまま放物線を描きながらミサイルのように道路に墜落する。それに気づいた観光客たちが慌てて逃げ惑う。

 忠夫は自転車を横滑りするように倒して、地面に叩きつけられるような衝撃を最大限和らげた。全力で足ブレーキ。タイヤが石畳に摩り下ろされるのではないかというほどの摩擦音。ゴムの焦げ臭い匂い。十数メートルほど走って。

 やっと、自転車は止まった。

 観光客らしき周囲の人々のざわめきの中。みやげ物屋の店員たちも何事かと店の暖簾の奥から顔を覗かせていた。

 忠夫の腰にしがみついていたタマモがゆっくりと顔を上げた。

 

「なにか…………弁明はある?」

 

 怒気に満ち満ちた声だった。死ぬかと思った。普段気丈な彼女とはいえ、流石に今のは堪えたらしく目にはうっすらと涙が浮かんでいた。

 大きく息を吐く忠夫。まいったぜ、と諸手を上げる。

 

「今の道、まだまだインフラが整備されてなかったみたいだな」

「道じゃなかったわよ!」

 

 怒声を張り上げ、伸ばした手で忠夫の首を締め上げる。

 

「ちょ、や、やめろ……っ」

「なんであんたは毎度毎度人の寿命縮めるようなことばっかすんのよ! 自転車の整備くらいちゃんとしときなさいよ、ばかぁっ」

「わ、悪かった。ホントに悪かった。だ、だから首を絞めるなっ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後。

 奇異の視線を向ける周囲の人たちに対しては「ど、どうもすいません。お騒がせしました――!」などと笑ってごまかし、そそくさとその場を退散してきた。

 トンカントンカンと、みやげ物屋街の外れで自転車を叩く音が辺りに響いていた。

 

「どうなの?」

 

 タマモは縁石の上にへたり込んでいた。さっきの運転で腰が抜けたらしい。今は近くの店で買ってきた缶ジュースを飲みながら、自転車を直そうと躍起になっている忠夫を眺めている。

 

「だめだこりゃ、フレームからリムから全部ゆがんでやがる」

 

 忠夫は手ごろな石をハンマーのように用いて自転車のゆがみを直そうとするが、どうしようもならない。墜落の衝撃で分解しなかっただけマシだろう。

 

「それよか、体はもう大丈夫なのかタマモ」

「ええ、もう大丈夫よ」

 

 ほら、と立ち上がる。

 

「そっか……悪かったな、怖い思いさせて。おまえに怪我が無くてよかったよ」

 

 殊勝にそんなことを言う忠夫。

 だから、コイツは油断なら無いとタマモは思う。不断はひねくれたような言動が多い中、時折こっちがドキリとするほどまっすぐな気性を見せる。

 

「べ、べつにいいわよ。なんだかんだでちゃんと私のこと守ってくれたしね」

 

 こいつといるとトラブルばかりだが、なんだかんだで最後はうまく事を収めてしまうのだ。悪運と無駄にあふれるバイタリティーがそうさせているのだろうか。

 

「そっか」

 

 石を放り投げ、体のこりを解すように大きく背伸びをする。そして朗らかな笑顔を浮かべて。

 

「さ、温泉行こうぜ」

「――って、自転車は!?」

「完全にオシャカだ。どうしようもなんねえよ」

「か、帰り道はどうすんのよ」

「そのときになったら考えよう。今は温泉に入って旅の疲れを癒そうぜ」

「あんたその行き当たりばったりな性格なんとかなんないの?」

「まあまあ、いざとなればヒッチハイクでもなんでもして帰りゃあいいじゃないか」

「ああ、それもそうね、ヒッチハイ――…………ねえ、最初からそうすれば野宿してまで自転車漕いでくる必要なかったんじゃないの?」

「さあ、さっさと温泉行くぞ」

「聞きなさいよ、ねえ」

 

 

 

 

 騒がしくも目的地である人骨温泉郷にやっとの思いでたどり着いた二人。

 

 

 

 

 ――これから更なる珍騒動に巻き込まれることになるとは二人は未だ知る由も無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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【02】

 

 

 

 

 

 

 

 人骨温泉。

 温泉に人骨なんぞというおどろおどろしい名前を冠してはいるが、その由来は諸説さまざまある。例えば、湯に落ちた木の枝が温泉に含まれる石灰質によって真っ白に染められ人骨に見えたのが由来という話などがあるが、今のところ真意は定かではない。高血圧や高血糖に効き、湯に含まれる硫黄成分が美肌効果を促すため、遠方から若い女性などが訪れることもある人気の温泉である。

 温泉を楽しみ、宿泊するための施設がいくつもあるが、その中で一頭目立つのが人骨温泉スパーガーデンである。まさにホテルといった概観で、安価で止まれる部屋もあれば、少しお高いが豪奢な部屋で潤沢なサービスと贅沢な時間を過ごせるワンランク上の部屋もある。最上階のスカイラウンジにはレストランがあり、前面ガラス張りの開放的な店内からは聳え立つ御呂地岳の景色が見える。そんな中で食事に舌鼓をうつのは非常に贅沢な時間の使い方だろう。もちろん温泉も中々のものだ。天然温泉の男女別大浴場と露天風呂を完備しており、観光客に人気の宿泊施設である。

 フロントに少年と少女がやって来ていた。

 少年は十四,五歳くらいで、少女は十歳くらい。兄妹のように見えるが、二人の容姿は兄妹と括るにはいささか無理があるように思える。少年のほうはこう言ってはなんだが、ごくごくありふれた容姿をしている。醜男ではないが端麗な容姿かというと首を傾げてしまう。十人に聞けば悩んだ末に三人が頷き七人が「そうでもないかな」という結論に落ち着くだろう。無闇矢鱈なバイタリティーというか、活力が内からあふれ出ているようなギラギラとした雰囲気があり、それを好ましく思う者はいるだろうが、万人受けするような要素ではないだろう。

 しかし少女のほうはというと、まるで御伽噺の中から飛び出してきたようなかわいらしい顔立ちをしている。その証拠にラウンジにいる客もちらちらと視線を向けては感嘆のため息をついている。長い髪を後ろで九つにまとめたボリュームのある髪型だ。慎ましい気品はまるで日本人形のように見えるが、西洋人形のような華やかさも併せ持つ、不思議な魅力のある少女だ。兄妹のように見えるが兄弟には見えない。そんな不思議な関係の二人だった。

 

「申し訳ありませんが、横島様は午後六時にご到着のご予定とお聞きしておりましたので、まだお部屋のご用意が出来ていません」

 

 申し訳なさそうに話すフロント嬢。

 ちなみに今は午後一時。五時間も早く来てしまったようだ。

 

「……だとさ」

「自分で予約したチェックインの時間くらい覚えてなさいよ」

 

 横島タマモは兄代わりである横島忠夫にじとりと呆れた視線を向けていた。

 普段住んでいる東京から遠く離れたこの街に自転車で来るという強行軍を果たし、意気揚々と宿泊場所であるホテルに来てみればこれである。出鼻をくじかれた気分だった。

 

「よろしければ、急いで部屋を用意させますが」

「いやぁ、そこまでしてもらうのはワルイっすよ」

「そうね。ちょうどお昼時だし、どっかでご飯食べて時間までぶらぶらしてましょうか」

 

 フロント嬢からの申し出をやんわりと断り、荷物(とはいってもバックパックが一つだけ)をフロントに預けて、いったんホテルを出ていく忠夫とタマモ。

 そういうことなら、とフロント嬢に勧められたおいしい料理屋をめざしてぶらぶらと歩いている。

 

「すぅー、はぁー。空気がウマイな」

 

 歩きながら深呼吸を繰り返す忠夫。

 森や山に囲まれたこの土地は、都会の排気ガスにまみれた大気とは違い空気が澄んでいるように思える。

 先導して歩く忠夫に対して、タマモは少し後ろを歩いている。そっぽをむいて景色を眺めているように見えるが、ツンとすまし顔だ。

 

「あんたじゃ新緑の匂いも排気ガスの匂いも対して違いなんか分からないでしょ」

「んだよ、タマモ。ずいぶんご機嫌ナナメだな」

「べーつーにー」

 

 すまし顔で忠夫の横を通り抜けるタマモ。どうもなにかに拗ねているように見える。

 時折タマモは急に不機嫌になる。

 忠夫は考える。

 どこにタマモの怒りのツボがあるのかまだいまいち分からないでいるのだが。今回は俺がチェックインの時間を間違えたことだろうか。しかしホテルを出る時点ではお互いに軽口を交し合っていたし、そんなに機嫌が悪かったようには見えない。だが歩いているうちに少しずつ口数が少なくなり、今ではこの有様だ。道端の石を蹴っ飛ばしながら歩いている。なんだそれは、なにかのアピールか。後姿から不平がましい雰囲気をばしばし感じる。

 どうやらタマモの機嫌が悪くなったのは料理屋に向かって歩いている最中にだんだんと、というのが正しいだろう。

 多分だが。

 タマモは今なんとなくイライラしている、というのが正しい気がする。やっと温泉に入ってゆっくり休めると思ったらお預けされた。最初はまあいいかと思っていたが、まるでそれが呼び水みたいにイヤな思いをしたことを次々に思い出していったのではないだろうか。一度暗い気持ちになるとどんどん深みに嵌っていくみたいに悪いことばかり考えてしまうものだ。

 鬱々とした気持ちがどんどん溜まっていき発散できずに外にこぼれだしている、というのが今のタマモの状態だと忠夫は推測する。

 ……やっぱり俺が原因か。

 引き金を引いたのはチェックインの時間を間違えたことのようだ。

 どこか突き放すような雰囲気のタマモの背中を見ながら、忠夫はガシガシと頭をかく。

 しょうがねえなあ、と思う。

 こういうところが気難しいというか、面倒くさいというか、普段大人びているのに時々子供っぽいというか。いや、間違いなく子供なのだが。

 家族なんだから言いたいことがあればどんどんぶつけてくれればいいのにと思う。しかしこれが不器用だがこれがタマモ自流の甘え方なのだとも知っている。

 

「タマモ」

 

 忠夫はタマモに歩み寄った。

 タマモが振り向く。

 

「なによ」と全部言い切る前に。

「え、ちょ……」

 

 タマモの手を握った。そのまま上に引っ張り上げると身長差から、タマモの体が地面からわずかに浮いた。

 

「よっと…………やっぱ軽いなお前」

「ちょ、ちょっと急になにすんのよっ」

 

 困惑気味に怒鳴るタマモ。

 忠夫は口の端をニッと持ち上げた。

 

「久しぶりに手でもつないでみるか」

「はぁ……?」

 

 急に何を言うんだろうコイツは、とでも言いたげな視線だ。

 タマモを地面に下ろす。つないだ手をタマモの視線の高さに下ろす。

 

「手だよ、手。昔、まだお前がウチに来た頃はよくつないでただろ」

「だからってなんで今なのよ!」

「気にすんな。ほら、行こうぜ」

「ちょっと、やだ、恥ずかしいからヤメなさいってばっ!」

 

 聞く耳持たずというか、タマモの言葉を無視して手をつないだまま歩き始める忠夫。

 まるで仲の良い子供同士がやるみたいに、つないだ手を歩みにあわせて前後に大きく振っている。そんな自分たちを見る周囲の人たちのほほえましそうな視線。

 

「~~~~~~~っ!!」

 

 タマモは赤面したまま無言で爆発した。

 

「あ、ちょっとまてコラ、俺の足を蹴るな、あいてっ、いてぇって!」

 

 忠夫の足を靴の上からがしがしとスタンピングするタマモ。それから逃げるため、足をひょこひょこと動かす忠夫。それを見ていた道行く人たちはモグラたたきみたいだな、と思いながらクスクス笑っていた。

 しばらくして。

 ついにタマモもあきらめたのか、黙って手をつないで歩いている二人。

 とぼとぼ。

 とぼとぼと、歩いていて。

 ふいにタマモが。

 

「…………ありがと」

 

 ぽつりとつぶやいた。

 それに忠夫は「おう」とだけ答えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 食事を終えた二人は街を散策していた。

 教えられた料理屋で出された料理は確かに美味だった。店内の座席はほぼ埋まっていた。その中には観光客もいたかもしれないがそのほとんどが地元民だったらしく、しゃべる言葉に訛りが混じっていた。レストランというよりは大衆食堂といった料理屋で、メニューには値段の安い家庭料理がずらりと並んでいた。忠夫はソースカツ丼を、タマモはきつねうどんを頼んだ。ソースカツ丼に使われていたカツは箸で切れそうなほどやわらかく、甘辛いソースと口に入れたとたんあふれる肉汁が、脳の奥までガツンと来るほどウマかった。タマモの頼んだきつねうどんも煮干でとったダシがよく効いており、ひとすすりでつるんとのどの奥に運ばれるようなのどごしが良かった。タマモにとっては何より大好物のおあげが大きかったのがうれしかったらしい。

 満足した二人は、腹ごしらえがてら商店街やみやげ物屋を見て回っていた。

 中でも物珍しかったのは、風鈴の屋台である。

 縁日などではおなじみだが、手押し車の屋台を実際に見たのは初めてだった。庇のついた手押し車に、ぶどう棚のように組まれた竹にいくつもの風鈴が吊るされていた。金魚や西瓜、花火など、さまざまに絵付けされた風鈴は見ているだけで心が和み、緩やかな風が吹くたびに鳴り響く音色は心の奥に染み入るように清涼な響きが辺りに響き渡った。もう一つ面白いことがあるとすればその屋台のオヤジさんだ。ひょろりとした痩躯で、屋台の横で裏返したビールケースにどっかりと座っている。口にはキセルをくわえていて、目深にかぶった麦藁帽子により表情をうかがうことは出来なかった。風鈴の屋台とセットでずいぶん懐古的な格好をしている。ほんの少し昔の映画の中から飛び出してきたような姿だ。

 ひょっとすると。

 親父さんのそれは衣装のようなものではなかろうか。例えばトレーニング器具を売る場合、やせ細った男より筋骨隆々の男がテレビで宣伝していたほうが売り上げが伸びるだろう。そうやって売り手自らがどこかノスタルジックな雰囲気をかもし出し、風鈴に対する購買意欲を高める効果があるのではなかろうか。

 いわばこれは高度な営業戦略と言えるのだろう。

 

「――……だから、つい買ってしまったんだ」

 

 手の平に乗るくらいの大きさの木箱に入っているのは金魚の絵柄の風鈴。定番だ。

 

「ずいぶん長い言い訳だったわね。そもそもウチにはもう風鈴あるわよ。あれほど無駄遣いするなって言ったでしょ」

 

 値段は1550円也。

 無駄遣いを母親にしかられているような構図だが、中学生の男が小学生くらいの女の子に滔々と説教されている姿は存外に情けないものがあった。

 時間は午後三時。

 のども渇いてきたし、どこか適当なカフェか甘味処にでも寄ろうかと思った時。

 不意に。

 ――背筋がぞわりと震えた。

 そこは街の中でも駅や商店街などがある活気がある場所だ。ボーリング場やカラオケなどの娯楽施設なども集中しており、道行く人も多く、車通りも比較的多い。

 忠夫たちの目の前には五階建てのテナントビルが建っている。建物の壁面から突き出した袖看板にそれぞれの階に入っている会社の名前と連絡先がでかでかと書かれていた。

 忠夫は目を凝らす。

 ビルの五階、証券会社の名前が書かれた袖看板の上で、蠢く影がある。それはまるでサルのように見えた。肉が骨に張り付いているのではと思うほどに細い手足に、頭だけが異様に大きく見える。

 それは看板の上で長い手足を闇雲に振り回して踊っている。

 いや、違う。踊っているのではなく、あれは……っ。

 忠夫はとっさにビルに向かって走りだす。

 次の瞬間、袖看板の取付金具がひしゃげて壊れた。およそ二十メートル強の高さから落下する看板。その真下に女の子が一人いた。高校生だろうか。紺色の制服を着ており、教科書を読みながら歩いている。彼女は落ちてくる看板に気づいていない。看板の重さは三十キロ近くあり、下敷きになれば命の保障は無い。

 

「くぉのおおおおおおおおおお――――っ!」

 

 忠夫は女の子を抱きかかえ、すばやくその場から飛び退る。

「ぎゃっ」女の子から短い悲鳴が上がる。なにが起こったのかと目を白黒させ、次の瞬間。

 がしゃぁぁぁぁぁぁんっ!

 けたたましい破裂音のようなものが周囲に響き渡った。

 地面に叩きつけられた看板は粉々に砕け、アスファルトの地面には陥没したようなひび割れが走る。びりびりと大気が振るえ、割れた看板のプラスチックの破片がぱらぱらと周囲に舞い落ちる。

 道行く人たちが、一瞬シンと静まりかえる。

 

「た、忠夫っ!」

 

 タマモの叫び声が響く。途端に音を取り戻す景色。

 

「お、おい、大丈夫か君たち!?」

 

 白いワイシャツを着たサラリーマン風の男が、忠夫と少女に駆け寄ってきた。

 忠夫は少女を抱きかかえるようにして、地面の上にへたり込んでいた。安堵に汗を拭う忠夫。少女のほうはというと呆然自失といった様子で、自分がさっきまで立っていた場所――落ちてきた看板によってアスファルトが砕かれた歩道――を眺めていた。

 

「おい、あんた!」

「あ、な、なんだ?」

 

 忠夫の誰何の声に、ハッと我を取り戻す少女。

 

「怪我はっ?」

 

 忠夫が尋ねると、少女は惚けたような表情のまま自分の体をぺたぺたと触り始める。その時になってようやっと死ぬかもしれなかったという実感がわいてきたのか、わなわなと震えはじめた。顔面を蒼白にさせ、自分の体を強く抱きしめて体を縮こまらせる。

 

「あ、あの、あの…………あ、ありが、ありが……っ」

 

 助けられたという事が分かったのか、目の前の少年に感謝の言葉を述べようとする。しかし震える歯が噛み合わないため、うまく言葉に出来ない。

 

「礼なんかいいさ。怪我は無いみたいだし良かったな」

 

 肩を軽く叩き、安心させるようにやわらかく笑う忠夫。少女は何度も無言で頷いた。

 忠夫はキッと頭上を見上げる。睨みつけるような視線は看板を落とした異形のモノへと向けられている。サルのようにも見えた黒い影は未だそこにいた。両手足をビルの壁に張り付け、蜘蛛のような体勢でこちらを胡乱げに見下ろしている。雰囲気で伝わってくるのは悪意と害意といったどろどろとした負の情念だ。それは死んだ後の人の魂が、なんらかの未練をもってこの世を彷徨っている霊と呼ばれる存在だ。しかしその中でも生きている人々に害を成す、悪霊と分類されるものだ。

 悪霊は誰も怪我をしなかったことが不満なのか目を細め、もう要は無いとばかりに体をたわめて跳ね飛んだ。黒い影は電柱を足場に、民家の屋根を飛び越えて去っていく。

 

「んのヤロウ……ッ」

「忠夫!」

 

 タマモが駆け寄ってきた。

 

「この子についてやってくれ」

 

 とだけ伝えると、「まかせなさい」と頷くタマモ。その視線は悪霊の消え去って行った方角を冷ややかに見据えている。彼女もおおよその事情は分かっているようだ。ついでに。

 

「徹底的に痛めつけてから地獄に蹴り落としてきなさい」

 

 とか命令口調で付け足してくるあたり、コイツも大概おっかねえ性格をしていると忠夫は思う。

 財布と手荷物と先ほど買った風鈴をタマモに預け、悪霊の気配――霊気を頼りに追跡を開始する。あまり離れた場所にいる霊は察知できないが、先ほどの悪霊はまだ忠夫の索敵の範囲内にいる。しかしそれもギリギリだ。少しのタイムロスがそのまま悪霊を見失うことにつながりかねない。

 まずはあの悪霊をとっ捕まえて、看板の下敷きにされそうだった女の子に土下座させてやろう。

 看板を人目掛けて落とした悪霊の真意は不明だが、どう考えても人間に対して友好的な理由はないだろう。生きている人間に害を成すから悪霊なのだ。今回のことは未遂に終わったが、このまま行けば無差別の傷害事件へと発展しかねない。

 あともう一つ許せないことがある。

 あの悪霊は立ち去る間際、女の子を助けた忠夫をしかと見て、看板を避けた後の安堵感に地面にへたり込んでいる姿を見て。

 ……指差してケタケタと笑いやがった。

 

「この横島忠夫様をおちょくってただですむと思うんじゃねえぞゴラァァァァァッ!」

 

 びっくりするほどの沸点の低さである。

 怒号と共に地響きを起こしそうな勢いで走る忠夫。それはまるで突貫する猪のようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ずっと一人だった。

 遠い。

 遠い、昔。

 私は山の噴火を治めるために人柱となった。

 霊となった私は本当なら地方の神さまになるはずだった。

 しかし神さまになることはできず、成仏もできないまま、ずっとこの土地に縛られ続けてきた。

 人恋しくなって時折山から村に下りてきた。誰かと話すわけでもなく、小高い丘の上から人々の営みをひっそりと眺めるだけの時間。

 時代の流れと共に人々の服装が変わり、住む家も変わってきた。村が街になり、人々の暮らしは確実に変わっていた。

 人々の生活を見るたびに、どうしようもなく一人だということを思い知らされてしまう。

 やめなきゃ、と思うが人恋しさに蓋をすることは出来なかった。せめてそうしなければ孤独におしつぶされてしまいそうだったから。 

 春の暖かな日差しを感じることができない自分の体がもどかしかった。

 生命の活気に満ち溢れた山の夏景色の中で、自分だけが取り残されている気がした。

 落ち葉入り混じる秋の風に巻かれて消えてしまえればどんなによかっただろうか。

 舞い落ちる雪たちは何も答えてくれない。山を覆いつくす一面の白銀の世界に飲み込まれて自分も真っ白になりたかった。

 そうすれば何も考えないですむ。そうすれば、もう苦しまないですむのに。

 

 

 

 くるしいよ。

 さみしいよ。

 だれか。

 だれか……。

 たすけて。

 

 

 

 いつまで続くともしれない魂の牢獄。

 この孤独から助け出してほしかった。

 三百年。

 三百年も待った。助けなど来ないのはとうに分かっている。

 待って、待ち続けて……待ち疲れた。

 それでも私はどうしようもない暗闇の中で手を伸ばす。

 誰かにその手をつかんでほしくて。

 目を瞑っても、その誰かの姿は思い浮かばない。この世界に、私を知る人間はいなく、また私が知る人間は誰もいない。この世界に一人きり。未来永劫一人きり。

 

「よお」

 

 暗闇の中で声が聞こえた。

 だれ?

 と目を開ける。この世界には私しかいないはずなのに。私がいるのを知るのは私だけのはずなのに。

 目の前に男の子がいた。

 まばゆいばかりの夏の輝く景色の中で。

 そっと手を伸ばしてきた。

 

「待たせたな。さあ、俺と一緒に来な」

 

 それはずっと待っていた言葉だった。何度も夢想しては、その度にせつなさと虚しさがこみあげてきた。

 暗闇の中に一筋の光が差し込んだ気がした。

 私は。

 その手を……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――なにがどうしてこうなった?

 横島忠夫は混乱していた。

 悪霊の逃げた方向につっ走っていて霊の気配を感じた。そこは街の中心街から飛び出して、小川にかかる橋を渡って農地の向こうから感じる。田んぼのあぜ道から農道に外れた先にある崖の上だった。崖といっても高さは二十メートルほどだろうか。回り道して山を突っ切れば行ける距離だ。忠夫が霊の気配に向かって藪を掻き分け、木の根っこを飛び越えては、岩から岩へ飛び移るという野生動物のような動きをしている最中も霊の気配は動くことは無かった。

 アッチは忠夫が近づいていることに気づいていないのか、それとも気づいた上で待ち伏せしているのか。

 後者なら面白い。罠なら正面からぶち破っている。

 獣じみた笑みを浮かべながら、崖の上にたどりついた忠夫。そこからは街が一望できた。

 霊は、そこにいた。その後ろ姿に向かって、荒げた声をぶつける。

 

「よおよおよお、待たせたなぁオイ!」

 

 高らかに声を上げながらポケットに手を突っ込んで、肩で風を切るようにゆらゆらとした足取りで近づく忠夫。

 

「さあ、俺と一緒に来な! まずはテメェが怖い思いさせた女の子にワビいれろやワビッ! イヤというなら五臓六腑に痛みという痛みの概念をぶちこんで――」

 

 893の人もかくやというくらい恐ろしくドスのきいた声で悪霊を恫喝していて。

 ふと気づいた。

 ――悪霊?

 には、とても見えない。 

 目の前にいるのは自分と同い年くらいの女の子だ。

 気配から見て幽霊には違いない。しかし先ほどのサルのような姿の人間霊とは似ても似つかない可愛らしい女の子の幽霊だ。緋袴に白衣といった巫女装束。長い黒髪で、周囲には人魂が浮かんでいる。

 ――やべ、間違えた。

 霊の気配を追っかけてきたら、全く別の霊だった。

 おまけに出会い頭に罵倒するという痴態を演じてしまった。

 しかも、なんだ。

 ――この子、すっごい泣きそうになってる!

 忠夫は心底焦った。幽霊とはいえ相手は女の子。脅して泣かせてしまったなどとタマモの耳に入ったりしたら、それはそれは大変不幸な目に合わされることだろう。

 すぐさま謝ろうとして。

 ……手をつかまれた。

 

「へ?」

 

 素っ頓狂な声を上げる忠夫。

 精神体であるはずの幽霊が物に触れるという時点で驚きだが、問題はそこじゃない。

 女の子の幽霊は忠夫の手にすがりつくようにつかんでいた。ぽろぽろと涙をこぼしながら忠夫の手を離すまいとしっかり握り締めている。

 

「ひっく……えぐ……っ」

 

 嗚咽をこぼしている。何かも言おうとするが言葉にならない。

 状況が良く分からない。

 だが幽霊のまま成仏せずにこの世に残っているということは、なんらかの事情があるのだろう。

 

「まあ、なんだ……その」

 

 かける言葉が見つからない。忠夫は彼女のことを何も知らないのだから当然だ。

 

「元気出せ。な」

 

 無難に一言。

 女の子の幽霊は忠夫の顔を見上げた。涙に潤んだ瞳に心臓が跳ねうった。

 涙は女の武器だというが全く持ってその通りだと思う。

 

「……………………さみしかったっ」

 

 女の子の幽霊はそれだけ言うと忠夫の胸に顔をうずめて声を上げて泣き始めた。

 

 

 

 

 ――いや全くもって、どうしてこうなった。

 状況が未だ全く飲み込めない。取り逃がした悪霊もさっさと追いかけないといけない。しかし自分にすがり付いて泣いている女の子を放っておくわけにもいかず、忠夫は彼女の頭を慰めるように撫でていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 とある夏の日のこと。

 山の袂を吹き抜ける涼風の中。

 偶然紡がれた一つの出会いがあった。

 同じ時代にたくさんの人たちが生まれ落ちては死んでいく、幾星霜と続く命の連鎖。連綿とつながる時代の移り変わりの中で、たくさんの国があり、たくさんの人が生きている。そんな中でたった一人の大切な誰かと出会う。それは数え切れないほどの偶然の上に成り立っている一つの奇跡だ。

 そこに時代を超えた出会いがあった。

 現代を生きる霊能力者、横島忠夫。

 三百年前に人柱になった幽霊の少女キヌ。

 

 

 

 

 それはとても大きくてとても小さな出会いの奇跡だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 人骨温泉の名前のいわれについては、長野県の白骨温泉の名前の由来(とされている説の一つ)から持ってきました。


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【03】

 

 

 

 

 

 空には満天の星空が広がっていた。

 湯に体を沈め、手足をいっぱいに伸ばすと全身に痺れるような心地よさが広がり、酷使してきた体の疲れが湯に溶けて消えていくような錯覚さえする。

 

「くぁ~、さいっこうだなぁ」

 

 感嘆のため息を漏らす横島忠夫。

 彼は今、人骨温泉スパーガーデンの露天風呂にいた。

 岩で形作られた浴槽に、湧き出している白濁した湯はしっとりとした肌触りがする。岩に背を預ける。

 

「夏場に温泉ってのもどうかと思ったんだけど、やっぱ来てよかったな、最高だわこれ」

 

 体から力を抜き、湯の中にゆらゆらと揺蕩うような感覚はゆりかごに揺られているような眠気がする。

 ほう、とついた息は涼やかな夜風の中にまぎれていく。

 

「…………これで酒の一杯でもありゃあ最高なんだけどな」

 

 などと中学生にあるまじき発言をしている。

 

「湯に浮かべた桶の中にお銚子をお置いてよぉ、お猪口に注いだ酒を湯煙に陰る月に翳してから、一気にきゅうと煽る。そうするとどうだい、芳醇な酒の香りが喉の奥からふわりと上がってきて、次いで喉がカァと焼けるように熱くなるんだ。体の芯からほっこりと温まってきて、ほろ酔い気分でふわりふわりと夢心地よ。吐き出した吐息の中に入り混じった酒の香りが夜風にさらわれて、あの満天の星空の向こうに紛れて消えていく。それを温泉につかったままの俺は見て感じて思うんだ。ああ……これが極楽ってやつなのかってな」

 

「口上が長い! 横目でこっちをちらちら見ながら催促するでないわ!」

 

 忠夫の横には見知らぬ老人がいた。湯に浸かっており、長い白髪を頭の後ろでまとめている。彼に寄り添うように湯に浮いた桶の中にはお銚子とお猪口が入っている。

 忠夫はそれを物欲しげに見つめながら。

 

「極楽ってやつなのかってな」

「…………ああ、分かった分かった。ほれ、一杯だけじゃぞ」

 

 三分ほど見つめていると、ついに根負けした老人がお猪口を差し出してくる。

 

「そっか、見ず知らずの人に催促したみたいで悪いねホント」

「催促しとったろうが」

 

 とんでもないガキじゃ、と呟く老人。いつのまにか忠夫はお猪口を握り締めており、そこに渋々と酒を注いでやる。

 ちなみに今日この時間に初めて会った老人だった。図々しいにもほどがある。

 忠夫はお猪口に注がれた酒を煽る。

 こいつはうまい。

 この齢で酒の味が分かるとはある意味末恐ろしい少年だった。

 

「ほふぅ……、このすばらしき時間を分け与えてくれた見知らぬじいさんの親切に乾杯」

「まったく、おぬし一体齢はいくつじゃ? えらく堂に入った飲みっぷりじゃったが。子供のうちから酒なぞ飲んでいては頭がバカになるぞ」

「まあまあ、硬い事言うなよ。ほれ、じいさんも一杯どうだい?」

「わしの酒じゃろうが」

 

 今度は忠夫が老人に酌をする。お猪口になみなみと注がれた酒を見て老人は呆れたように苦言をもらす。

 

「まったく分かっとらんのぉ、お猪口に酒を注ぐときはお猪口にお銚子を乗せないように注ぐもんじゃぞ。あと量も多すぎじゃ、せめてお猪口の八分目くらいにしておけ」

「細けえことはいいじゃねえか」

 

 まったく、と呟きながら酒を煽る老人。

 

「ところで、じいさんはどこから来たんだい。奥さんと慰安旅行か何かかい?」

 

 馴れ馴れしい口調で忠夫が尋ねると、老人はふんと面白くなさそうに鼻息を漏らす。

 

「わしゃあ一人身じゃ、妻なんぞおらんわい」

「へー、んじゃあ一人旅とか?」

「仕事じゃ、仕事。この温泉には仕事で来とるんじゃ。プライベートじゃあ、わざわざこんな山奥の温泉くんだりまで来ないわい」

 

 一人でゆっくり飲ませろと、続ける。

 犬猫を追い払うようにシッシと手を振るう仕草をするが、忠夫は気にせず続けた。

 

「はっはっは、そりゃあそうだな。じいさんには人骨温泉なんて名前の温泉はゲンが悪そうだもんな」

 

「おいこらクソガキ、そりゃあどういう意味じゃ。老い先短そうだって言いたいのか。骨になるのも時間の問題だって言いたいのか」

 

 快活に笑う忠夫に、老人は胡乱な視線で睨みつける。ちなみに忠夫に悪気はない。

 ――その時だ。

 

「わぁ、ひっろーい!」

「ホントだぁ、早く入ろうよ!」

 

 などという声が風に乗って聞こえてきた。張りのあるかわいらしい声だ。

 衝動的にバッとそちらに視線を向ける忠夫。視線をさえぎるための五メートルくらいの竹垣がある。

 その向こうは、女湯だ。

 忠夫は水音を立てないように迅速に温泉から出ると、腰を落としたまますばやい動作で竹垣に近づく。まるでジャングルの奥地で孤軍奮闘を演じる歴戦の兵士のような無駄の無い動きだった。

 竹垣の前で耳をそばだてる。

 

「しっかしケイコってば大学入ってから更に胸大きくなってない」

「うん。ワンカップ大きくなったかなぁ」

「な、なんでだと、まだ大きくなるっているのっ」

「きゃ、やだちょっとも揉まないでよぉっ」

「肌の張りも弾力も抜群ですって……つ、うらやましいぞ、このこの!」

「もうっ、やだぁっ」

 

 竹垣の前に張り付いたままの忠夫は鼻息を荒くしていた。なるほど、興味深い話だと、まるで論弁を講ずる哲学者のような神妙な面持ちで何度もうつむく。鼻の下が伸びきっているのが情けない。

 女子大生。温泉。裸。

 以上三つのワードによって、導き出された答えは明瞭簡潔だった。

 

「ここでやらなきゃ男じゃねえ」

 

 すなわち、のぞきだ。

 

 ――こんなおいしそうなエサぶら下げられて大人しくしてられるほど聖人君子じゃねえんだよ俺は。

 

 決意が横溢する瞳。それは覚悟を決めた男の顔だった。

 ストレッチを開始する忠夫。柔軟体操は体を動かす前の基本中の基本だ。おいっちに、さんしー、と屈伸をする。

 と、そこで気づいた。

 

「……おい、じいさん。あんたなにしてんだ?」

 

 忠夫の横で老人も屈伸をしていた。枯れ木のような体だが最低限の筋肉はしっかりついている。ずいぶん高齢に見えるが、それにしては鍛えてある。先ほど言っていた仕事とやらが関係しているのかもしれない。

 老人はさも当然のことのように答えた。

 

「ここでやらねば男がすたる」

 

 こいつも鼻の下が伸びていた。

 

「へ、エロジジイめ」

「ぬかせ小童。わしゃあまだまだ現役なんじゃよ」

 

 そして顔を見合わせ俯き合う二人。

 

「ついてこれるかよ、じいさん」

「ふん、おぬしこそ遅れるなよ」

 

 獲物を見定めた野生の獣のようなぎらぎらとした雰囲気が二人の間に走る。核になっているのが劣情というのが情けないことこの上ないが、二人ともこれから戦いに赴く戦士の顔だった。

 二人はそうっと移動を開始する。

 夜闇の中に浮かび上がる行灯風のライトの煌々とした明かりが、立ち上る湯気をきらきらと輝かせていた。その中でうごめく影が二つ。腰にタオルを巻いただけの裸の男二人がしのび足でこそこそ移動する様子は怪しいことこの上なかった。

 男湯と女湯の境は高い生垣によって隔てられている。とりあえず竹と竹の間に隙間は無いかと探してみるが見当たらない。流石に男湯側からの竹垣はのぞき見防止のため徹底的に隙間を埋めてあるのだろう。

 

『ち、さすがに隙がねえな』

 

 声を潜めて老人と言葉を交わす。

 

『ふん、ならあきらめるのか』

『冗談ぬかせ』

 

 忠夫は顎でそちらを見るように促す。

 

『見てみな、あっちは崖になっている』

 

 忠夫の示した方向は露天風呂の入り口から見て一番奥になる方向だ。そこにはぽっかりと夜の闇が口をあけていた。昼間なら切り立った御呂地岳や遠く彼方に連なる山々の姿を眺望できる場所だ。女湯もおそらくその崖側だけは何の隔たりもないだろう。

 

『しかし危険じゃぞ』

 

 崖をつたって女湯まで移動する。言う易し行うは難し。下手をして足を滑らせれば崖下に真っ逆さまだ。

 忠夫は不敵な笑みを零した。

 

『スリルを楽しまないでなんの人生だってんだ。平坦なだけの刺激の無い日常を過ごしていたら心が腐っちまうぜ』

 

 バイタリティーとチャレンジ精神にあふれた言葉だが、この場においては目的が情けなさ過ぎた。

 

『……ふん、まさかこのような場でおぬしのような気骨のある者に出会うことにあるとはな。世の中事の他面白いように出来とるわい』

 

 忠夫の言葉に感心したように何度も頷く老人。こちらも大概常識のタガが外れている。

 ふわっとした曖昧な理由で命がけの策動をする二人。彼らの不幸を上げるとすると、頭のネジの緩み具合と、この場にバカの凶行を止める良識ある人間がいなかったことだろう。

 忠夫が先行する形でミッションを開始する。

 まず露天風呂から崖へと続く柵を乗り越える。

 ごつごつとした岩の感触や小石が食い込むような痛みが足の裏から伝わるが、その程度で歩みを阻害されるほどやわな鍛え方はしていない。

 崖の端ぎりぎりまで近づいて、崖下を覗き込む。そこは崖というよりは山の急斜面といったほうが正しいだろう。しかしかなりの急勾配だ。危険なことに変わりは無く、足を滑らせようものならそのまま転がり落ちてしまうだろう。

 慎重に足を進める忠夫。老人もその後をついて恐る恐る移動している。

 崖のふちぎりぎりの位置まで、男湯と女湯を隔てる竹垣は続いていた。そこさえ乗り越えれば女湯をのぞける位置に行ける。身をのけぞるようにして竹垣を超える忠夫。

 そして、そろそろと女湯の目の前にある背の低い生垣の後ろに隠れる。

 ちゃぷん、と水音が聞こえた。

 

「わあ、いいお湯~」

「肌がきれいになる効能があるらしいわよ」

「わ、そうなんだ。じゃあたっぷり浸からないとね」

 

 そんな声が聞こえた。湯煙がかぶる向こうに女子大生たちの裸体が待っていると思うと期待が膨らまずにはいられない。

 

 ――さあいよいよ天女達の園を拝ませてもらうぜ!

 

 意気揚々と生垣の隙間から女湯を覗き込もうとして。

 

「それにしてもキミって肌がすごく白いわね、うらやましいわ。この温泉には家族と一緒に来たの?」

「キミ、すっごいかわいいよね! ねえねえ、名前はなんていうの?」

「…………タマモです」

 

 ――緊急警報発令、戦術的撤退を開始する!

 

 バレたら殺されると思った。

 つか、あいつはたしか、しばらく部屋でごろごろしてからホテルのみやげ物屋を見てるとか言ってたはずだ。なんでもう温泉に入ってるんだ。

 

『おい、どうした、さっさとのぞかんかい。後がつかえてるんじゃぞ』

『戻るぞ、じいさん』

『はぁ? ここまで来てなんでじゃ?』

『厄介なやつがいる。下手にのぞこうとしたら速効バレちまう』

『知り合いか?』

『妹だ』

『大丈夫だ、バレやせんて。こっちはちょうど風下になるから湯煙で隠れられる』

『バレるんだよ、アイツは耳と鼻と勘が良いから』

『なんじゃそりゃ、野生動物じゃあるまいし。とにかく、わしは覗くぞ。ぐふふふふ、若い子女たちの裸体、この眼にとっくりときざみつけてくれる』

『ふざけんなよジジイ! 俺の妹の裸は干からびたミイラに見せてやるほど安いもんじゃねえんだよ!』

『誰が干からびたミイラじゃ!? おぬしの妹ってことはまだ子供じゃろうが。興味ないわいそんなツルペタ!』

『んだと!? じいさんがいい歳ぶっこいて色気づいてんじゃねえぞ! 大人しく盆栽でもいじってやがれってんだ!』

『なんじゃと、このうらなり瓢箪が! おぬしこそガキはガキらしく道端に落ちている艶本にでも胸をときめかせておれ!』

『あぁ?』

『おぉ?』

 

 ひっつかみあってグダグダと揉める二人。

 言い合いが罵り合いに変わり、ガンくれあって、語気も荒くなってきた。取っ組み合って、声も上がり調子でだんだん大きくなる。

 ……当然ながら、そんな騒がしい調子では、隠れている意味などない。

 

「ね、ねえ、ちょっと変な声が聞こえない?」

「もしかして……のぞき!?」

 

 ハッ、と肩を震わせる忠夫と老人。

 しまった。

 

 ――逃げるぞ!

 ――当然じゃい!

 

 アイコンタクト。

 脱兎のごとくその場を離脱する。

 我先にと女湯と男湯の垣根を越えようとして……、それが致命的に悪かった。

 思い出してほしい。男湯と女湯を越えるためには崖のぎりぎり際まで竹垣が続いていた。崖との間は人一人がギリギリ通れるかどうかのスペースしかない。

 そんなところにを慌てて二人の人間が通ろうとすれば、どうなるか。

 ……デットヒートを繰り広げるレーシングカーがカーブを曲がる際に接触事故を起こしたようなものだった。

 

「げ!?」

「んがっ!?」

 

 二人の体は出入り口でぶつかり、二人そろって崖に投げ出された。

 崖下は黒い穴のようだった。二人の眼下には夜の闇がぽっかりと口を開けている。忠夫はとっさに突き出た岩をつかんで崖下への転落を免れる。老人も忠夫の足をつかむことで落下することはなかった。

 

『~~~~~っ! おい、じいさん無事か!?』

『な、なんとかの。頼むから手を離さんどくれよ』

『当然だろっ』

 

 その崖は切り立ってこそいないがかなりの急勾配だ。手を離せば、たちどころに崖下まで転がり落ちることだろう。忠夫はぞっと身を震わせながら、さっさと男湯に戻ろうする。

 ぐぐっと腕に力をこめて、体を持ち上げようとして。

 ぼこ、とつかんでいた岩が真っ二つに割れた。

 

「おおぅっ!?」

 

 ぐらりと崩れる体勢。忠夫は慌てて他につかむ所が無いかと探ってみるが、もはや間に合わなかった。

 

「「ひぃぃぃぃぃぃっ!?」」

 

 ……そして二人仲良く崖を転がり落ちていった。

 

 女湯ではしばらくの間、女性二人が耳を済ましていた。

 

「声……聞こえる?」

「いや、聞こえないわね」

「気のせいだったのかな?」

「う~ん、ひょっとしたら夜鳥かなにかだったのかもしれないわね。よくよく考えたらアッチって崖だし」

「そうだよね。いくらなんでも崖を越えてまで覗きをする人なんていないよね」

 

 そんなふうな結論を出した女性二人を尻目に。

 タマモは湯船に浸かっていた。湯に浸からないように結い上げた髪に、たたんだタオルを頭にのせている。

 冷ややかな視線は、崖のほうに向けられていた。

 それから、ぽつりと。

 

「バカねぇ、ホント」

 

 ため息交じりの一言は、女性二人に届くことなく夜の闇の中にまぎれて消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 人骨温泉スパーガーデンでチェックインを済ませ、忠夫たちが案内された部屋は十二畳の和室だった。部屋の中央には木の長机があり座椅子がある。床の間には山河が描かれた掛け軸が飾られ、床框にはテレビが置いてあった。このテレビというのがちょっとくせものだ。ブラウン管のテレビの側面にはコイン投入口があり『30分100円』と書いてある。お金を入れないとテレビが見れず、見ている最中にも入れた金額分の時間を過ぎると電源が落ちてしまうのだ。

 障子で区切られた向こうには板張りの広緑があり、丸テーブルをはさんで向かい合うように二つの藤椅子が置いてあった。

 部屋の隅に置いてある冷蔵庫には注意が必要だ。中には冷えたジュースがぎっしり詰まっているが、これらは全て有料だ。冷蔵の扉には張り紙がしてありそれぞれのジュースの値段が書いてある。しかもこれが若干割高になっており、これならホテルの一階にあるジュースの自動販売機で買ったほうが安く済む。

 ホテルとしては一般的な内装だ。

 今現在、風呂から上がった横島タマモは夕食をとっていた。机の上には刺身の盛り合わせや疣鯛の煮付け、天ぷらや鍋といった海の幸や山の幸をふんだんに使った豪奢な料理が並んでいる。

 温泉から上がり、浴衣を着たて料理に舌鼓を打つタマモ。

 ちなみに忠夫はというと。

 

「あのさ、タマモ。俺もそろそろ腹減ってきたからメシ食いたいんだけど……」

「誰が正座崩していいって言ったのかしら?」

「すみません」

 

 おあずけをくらった飼い犬のように、部屋の隅で正座をさせられてた。

 女湯をのぞくのに失敗して崖から転がり落ちた後のことだ。

 神がかった悪運の良さでかすり傷だけですんだ忠夫と老人の二人は這々の体でホテルに戻ってきた。さすがに二十メートルほどの高さの急斜面を転がり落ちた恐怖と疲労で足ががくがくと震えていた二人であったが、更に問題があった。二人とも腰にタオルを巻いただけのほぼ裸だったことだ。さすがにこの姿でホテルに正面から入るわけにはいかない。そんな姿で何をしていたと問われれば、さすがになんと切り替えしたらいいのか分からない。素直に女風呂をのぞきに行ったら誤って崖から転落しました、などとぶっ飛んだ奇行を正直に告げようものなら間違いなく警察に通報される。

 そこで二人はホテルの裏口からこっそりと入るという手段を選択した。リネン室を通り抜け、人目を避けるように温泉まで移動して、体についた泥を落として、着替えてからなんとか部屋に戻った。

 そして。

 部屋の扉を開けた忠夫を待ち構えていたのは、腕組みをして素敵な笑顔を浮かべるタマモだった。

 この瞬間、事の露見を確信した忠夫は即座に逃亡を開始するが、その動きを予測していたタマモの動きは素早かった。タマモが手にしていた浴衣の帯をカウボーイばりのロープワークで首に巻きつけ、忠夫はもんどりうってその場に転倒。首を帯(縄)で括られたまま部屋に引きずり込まれる様は、精肉場に連れて行かれるのを察知して泣き叫ぶ子牛のようであった。

 

「あの、そういうわけでして私めはそろそろ件の悪霊を探しに行こうと思っております」

 

 ずいぶん腰が低い。

 一時間近くにわたるタマモからの説教と食事のおあずけはだいぶ堪えたようだ。

 

「悪霊ねえ、まあたしかに放っておくわけにはいかないわよね」

 

 頷くタマモ。

 話は夕方近くに現れビルの看板を落とし通行人を巻き込もうとしてた悪霊のことだ。忠夫が追跡をしたが諸般の事情により姿を見失った。しかしあの手の悪霊は殊更にタチが悪い。土地を不法に占拠していたり、自分のテリトリーに近づくものを攻撃する、というならまだ悪霊の目的はハッキリしているし近づかなければ怪我をすることも無い。しかし今回の場合は、悪霊自らが街中に出向き人を害し様としていた節がある。

 

「そういや、あのとき看板の下敷きになりかけた女の子はちゃんと保護されたんだろ?」

「ええ、警察がやってきてね。聞いた話によると原因不明の事故がここ最近多発しているみたいね。死人こそ出ていないけど、事故自体はだんだんエスカレートする傾向にあるみたいよ」

「なるほど」

 

 神妙な顔で俯く忠夫。その事故が全て悪霊の仕業だったとすると危険だ。最初の事故はイタズラとよべるほど稚拙なものだったらしい。例えば学校帰りの小学生がいきなりランドセルを引っ張られて後ろに転倒したり、突然足を引っ張られたりといったことだったらしい。それがだんだん空から植木鉢が落ちてきたり、交差点で突き飛ばされたりと、一つ間違えば冗談ではすまされない事態へと発展してきた。

 そして今回の看板の落下は、あと一歩忠夫が少女を助けるのが遅れていれば人命が失われていたかもしれない事件だった。

 

「さすがに警察や自治体もおかしいと思ったのか、今回の一連の事件を霊の仕業と過程して少し前からゴーストスイーパーに調査を依頼していたらしいわ」

 

 ゴーストスイーパーとは悪霊などの魑魅魍魎を駆除する現代の悪魔祓いのことである。ちなみに忠夫も霊能力者であり、ゴーストスイーパーの見習いといえる。

 

「ゴーストスイーパーに?」

「ええ、結構ご高齢らしいけど、還暦を過ぎてからも第一線に立ち続けている著名な人物らしいわ。さすがにおじいちゃんほどじゃないと思うけど」

 

 タマモの言うおじいちゃんとは彼らが今住んでいる家の家主であり、現在は海外での除霊仕事(という名のバカンス)に出かけている忠夫の霊能の師匠のことである。

 だから、とタマモが続ける。

 

「べつにあんたがわざわざ解決に乗り出さなくとも事件は解決すると思うわよ。プロのゴーストスイーパーがすでに動いているっていうんだから」

 

 ゴーストスイーパーへの依頼は非常に高額な報酬が必要となる。収入が大きなためみだりにその資格を悪用するものが現れないよう、ゴーストスイーパーの資格を手に入れるためには非常に難解な試験をパスしなければならない。

 ゴーストスイーパーとはいわば、その難解な試験をクリアして幾多の霊能力者の中から選ばれた霊能のエキスパートと呼ばれる人物なのだ。

 たしかに忠夫が関わらなくても事件は解決するかもしれない。

 しかし、忠夫はその言葉に対し首を横にふった。

 

「そうかもしれないけどよ、俺の目の前で人一人が死にそうな目にあったんだ。黙って他の誰かが事件を解決するのを待っているなんて性に合わねえし、俺が遊んでいる間に誰かが殺されたりしたら目覚めが悪いったらないしな」

 

 その言葉に。

 タマモは忠夫の瞳を慮るように、じっと見つめたままだった。

 ふう、とため息をつく。

 

「……ま、あんたならそう言うと思ってたわよ」

 

 変なところで意地っ張りというか、頑固というか。

 それによ、と忠夫。若干震えている。

 

「あんの悪霊を俺が取り逃がしちまったまま、他の誰かが仕留めたなんて話があの師匠の耳に入ってみろ。地獄の折檻が待っているだろうが」

「あー、それはそうね。むしろそっちがあんたの本音でしょ」

 

 想像しただけで顔を青ざめているあたり、相当にその折檻がキツイというのがうかがい知れる。

 いやなことを思い出したと、頭をふってその想像を吹き飛ばす。

 

「ま、まあ、というわけで、だ。俺はこれから悪霊を探すために夜の山に入ってくる。昼より夜のほうがヤツらの領分だ。ただ闇雲に探すよりは見つかる可能性も高いだろう」

 

 それは分かってるけど、とタマモ。彼女も忠夫がその辺の木っ端霊に遅れを取るとは思っていない。忠夫はこれでも霊能力者としては十分一流の力を持っているのだ。しかし、彼女の心配はそれとは別のところにある。

 

「……大丈夫なの? 夜の山に素人が行くなんて危険じゃない?」

 

 タマモの言う事はもっともだった。

 熊や猪といった野生の動物の危険もあるが、なにより足場が悪い。突き出した岩や、波打つように地面を這う木の根、場所によっては崩れやすい場所もあるし、草むらを掻き分けていたら突然崖が口を開けていた、なんて話も聞いたことがある。

 

「大丈夫だ。そこについては頼りになるガイドがいる」

「ガイドぉ、こんな夜遅くに?」

「ま、そこは心配しなくても大丈夫だってことだ」

 

 要領を得ないが自身ありげに忠夫がそう答えるのだ、たぶん大丈夫なのだろう。

 それならいいけど、とタマモ。

 しかし、言葉とは裏腹にどこか不満そうだ。

 

「はは、ホントに心配すんなって。それによ」

「……それに?」

「明日はちゃんと約束したとおり、一緒に高原に遊びに行こうぜ。忘れてないから安心しろよ」

 

 タマモはぷいっとそっぽをむいた。

 

「ああ、高原ね。そういえばそんな約束もあったかしら。すっかり忘れていたわ」

 

 平坦な声でそんなことを言った。今さっきまで忘れていた、と言いたげな口調だ。

 

「なんだよ、つれないこと言うなよー。高原行ってウマいソフトクリーム食おうぜ!」

「あー、はいはい分かったから。行くならさっさと行きなさいよ」

 

 シッシッと手を振るタマモ。

 

「いや、出かける前にメシ食いてえんだけど。さすがにこのまま山登りなんてしたら空腹でぶっ倒れちまう」

「それもそうね。ちゃんと反省した?」

「おう、したした、すげーした」

「ちなみに何についての反省かしら?」

「女湯をのぞいたことについて」

「もうしない?」

 

 と、タマモがたずねると、ツイと視線をそらす忠夫。

 こいつ……。

 

「まぁだ反省が足りないのかしらぁっ?」

「あーウソウソ! ほんとしない、絶対しない」

 

 言葉がヘリウムガスより軽い。同じような機会があったら絶対再犯するだろうが、今この場はこれで納めてやるか、と嘆息するタマモ。

 

「たく、しょうがないわね……ヨシ、もう食べていいわよ」

 

 まるで犬に対しての躾だった。

 忠夫は苦笑いを浮かべ、「わん」と言ってから食卓についた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏だというのに夜の山は肌寒い。

 遠くから聞こえる気味の悪い泣き声は、動物にそれほど詳しくない忠夫には判別できなかった。一歩一歩しっかり地面を踏みしめるように歩く。頭には自転車用のヘルメット。ヘッドライトの明かりが心細げに夜の山道を照らしている。木々が群れる山の奥をライトで照らしてみると、時折光る瞳がこちらを伺っているのが見える。ずいぶん背の低い動物のようだ。おそらくハクビシンやタヌキだろう。

 耳元で聞こえる蚊の羽音が耳障りだ。ライトには紫外線をカットする特殊なフィルムを張っているおかげで蛾や虻といった虫は寄ってこないが、体温を感知して寄ってくる蚊などには意味がない。一応虫刺され防止のスプレーを大量に吹きかけているが、それもどこまで効果があるかは分からないだろう。

 しかし虫より怖いのがヘビだ。とくにマムシは夜行性なので草むらなどを歩くときは注意が必要だ。杖のように長い木の棒を持ち、地面をトントンと叩きながら歩く。これはヘビに対して威嚇の効果があるので、突然噛まれる可能性はグッと減るだろう。

 

 ……やっぱり、夜じゃなくて昼に来ればよかったかなぁ。

 

 ついつい後悔しそうになる忠夫。

 夜の山道を歩くというのは、思ったより神経を使う作業だ。ついでに、というかこちらが本命なのだが、悪霊の気配を探るため意識を集中しなければならない。霊からは霊波と呼ばれるものが出ている。これは霊力を感知できる霊能力者なら程度の差はあるが察知できるものだ。水面に波紋が広がるように、ある程度離れていても霊の存在は感知できる。

 すると。

 

「ん?」顔を上げる忠夫。

 

 霊の気配だ。

 悪霊?

 いや、違う。これは。

 

「お待たせしました、横島さん」

 

 ふわりと、空から巫女装束の女の子が降りてきた。

 傍らに人魂が浮いている。夜の闇にまぎれるような長い黒髪で、可愛らしい顔立ちの幽霊だ。

 

「お、待ってたぜ。悪いね、おキヌちゃん。わざわざ来てもらってさ」

 

 おキヌと呼ばれた幽霊の少女は、はにかみながら答えた。

 

「いえ、いいんですよ。私もこうやって誰かと一緒にお出かけするのってすごく久しぶりだからホントにうれしくて……」

 

 えへへ、と小さく笑うキヌ。

 

「はは、そりゃよかった。出かけるっていってもちょっと色気の無い目的だけどね」

「ええ、この山のことなら私に任せてください。なにせ三百年もここで暮らしてきたんですから」

 

 朗らかに微笑みながら、胸を張って言うキヌ。

 正直、このあたりの話については「そうだね」と同調して笑っていいのか判断に迷う。昼間の孤独に震えて泣いている姿を見てしまったから尚の事だ。

 

「よし、じゃあ先導はおキヌちゃん、任せたぜ!」

「はい、任されました。それじゃあ私に着いて来て下さいね」

 

 宙を舞い、移動するキヌ。忠夫はキヌの後をついて歩き出す。

 忠夫はまだこの少女のことをほとんど知らない。昼間聞いた話だと、三百年前に人柱になったこと。神になれず、さりとて成仏もできずにずっと地縛霊として過ごしてきたことと。知っているのはそれくらいだ。

 柔らかな微笑の似合う女の子。

 そんな彼女が一体どんな思いでこの三百年間を過ごしてきたのかを、まだ生まれて十五年足らずの人生しか送っていない忠夫には、想像だにできない時間だったのだろう。

 

「なあ、おキヌちゃん」

「はい、なんですか?」

「せっかくだからさ、もっとおキヌちゃんのこと聞かせてくれよ。この山のこととかさ。きっと冬なんかはあの尖がった山なんかに雪が積もってきれいなんだろうな」

「は、はい! そうなんですよ。春なんかは菜の花がたくさん咲くきれいな場所があってですね――……」

 

 顔を輝かせて話す彼女。ずっと話し相手に飢えていたのかもしれない。本当にうれしそうにしている彼女の顔を見ているとこちらまで楽しい気持ちになって、ついつい目的を忘れそうになってしまう。

 

「あ、横島さん。そこ木の枝が道に飛び出しているから注意――」

「あいたぁっ」

「きゃあ、ごめんなさい! 私がもっと早く言っていればっ」

「い、いや、ちょっと驚いただけだから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 横島忠夫とキヌ。

 霊能力者と幽霊という、ある意味対極に位置する二人の、少しばかり摩訶不思議な悪霊探しの探検が夜の山で始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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【04】

 

 

 

 

 

 

 

 ……ぽつり、ぽつりと、灯篭の明かりが見えた。

 

 

 

 夜陰の辺。どちらが上か下かも分からない漆黒の暗闇の中にいる。空には月も星もない。物音一つしない深海の底のような静謐な世界。混じるもののない澄みきった空気には、がらんどうの寒々しさしか感じない、

 

 ここが何処で、自分が誰だったかも思い出せず。

 どこに進めばいいのかも分からず、どこに戻ればいいのかも分からない。

 

 視界は一面の黒、黒、黒。

 

 まるで墨をぶちまけたような真っ黒な世界。

 

 歩いても、歩いても。

 どこまでも続く、いつまでも終わらない、闇の中。

 

 焦りと恐怖に急き立てられ、歩幅は少しずつ大きくなり、歩調はだんだん速くなる。

 

 暗闇に覆われた世界に、狂いそうになるほどの恐怖に心を蝕まれ、やがて走り出さずにはいられなくなる。

 

 

 走って、走って、走って。

 

 

 それでも暗闇からは抜け出せない。

 

 やがて走りつかれて、逃げ場の無い恐怖にその場に崩れ落ちたとき。

 

 

 ふいに……光が見えた。

 

 

 視線のはるか先に、豆粒ほどの小さな光だ。

 しかし、闇の中で見えたただ一つの光に、叫びだしたいほどの歓喜に身を震わせ、そこに向かって走り出す。

 

 暗闇の中にぽっかりと浮かぶ灯火は、石灯籠の明かりだった。

 

 顔を上げると、視線の向こうに、また小さな明かりが見える。歩いて、そこにたどり着くと、あるのは石灯籠だ。

 

 ぽつり、ぽつりと、小さな明かりが、一つ二つと増えていく。それらは夜道を照らす街灯の明かりのように、道なりに並んで遥か彼方まで続いている。

 

 延々と続く石灯籠の道。

 

 しかし他に寄る辺は無い。そこを歩くしかない。

 もはやただの暗闇を歩くのは恐ろしくてたまらなかった。

 

 平坦だった道は、やがて上り坂になり、そして階段になった。石造りの急な階段はまるで神社へと続くような階段を思わせる。

 

 

 石灯籠小さな光が数珠繋ぎに照らし出す階段を、いつまでも歩き続ける。

 

 

 いつまでも、いつまでも歩き続けて。

 どこまでも、どこまでも歩き続ける。

 

 出口の無い暗闇の中で。

 

 

 ――いつか来る、道の終わりを夢想しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……へんな夢を見た。

 夜の帳に包まれた薄暗さの中。

 

「あ、横島さん、目が覚めましたか?」

 

 いつの間にやら眠ってしまったらしい。

 目を覚ますと自分を覗き込む女の子の顔があった。

 

「えっと……」

 

 誰だっけか、と頭をひねる。

 そんな彼の様子を見た女の子は「もう」と頬を膨らませた。

 

「キヌですよ。幽霊のキヌです」

「あ、あーあー、おはよ、おキヌちゃん。元気?」

「はい? 私は元気ですよ。もう死んでますけど」

「おー、元気かー、そりゃあ良かった。おキヌちゃんが元気だと俺もうれしいぞー」

「え、そうなんですか? えへへ~、ありがとうございます」

 

 などと、みょうちくりんな会話を繰り広げる二人。

 片や寝ぼけていて、片や天然である。

 

「ん?」と忠夫が素っ頓狂な声を上げる。だんだんと今の状況のおかしさに思い至ってきた。確か自分は悪霊を探しに夜の御呂地岳に入ったはずだ。その際に、この山で三百年間幽霊として過ごしてきた幽霊のおキヌちゃんに山の案内を頼んだ。今回探している悪霊は人に危害を加える恐れのある存在であり、油断は即、死につながる可能性もあるほど危険な手合だ。

 忠夫の今の状況はというと。

 地面の上に仰向けに寝転がっていた。視線の先には高い木々と梢が折り重なる森の天井が見える。

 山に入ってどれだけの時間が過ぎたのか分からないが、今の今まで寝こけていたらしい。

 

「て、アホか俺は!?」

「きゃっ!?」

 

 突然起き上がった忠夫に、びっくりしたキヌは小さく悲鳴を上げた。 

 今の今までキヌが膝枕をしていてくれたらしく――

 

「え、て、膝枕?」

「は、はい。寝苦しそうだったので」

「いやっほーい! 女の子の膝枕だぁーっ!」

「え?」

「いや、そうじゃないだろ俺。落ち着け俺」

「あの……横島さん?」

 

 キヌが心配そうに忠夫を伺い見る。顔を青くしたり嘆いたり、突然歓声を上げたりとした忠夫の情緒不安定っぷりを不振に思ったらしい。

 

「おキヌちゃん、悪いんだけど今どういう状況か教えてくれ!」

 

 思い出そうとすると眠気のために頭が霞がかったようにはっきりしない。

 

「状況、ですか? ええと、横島さんがここ最近疲れっぱなしだったから急に眠くなったって言って……」

 

 ――あ、思い出した。

 

 自転車旅行の疲れが今になってきたらしく、急に眠気が襲ってきたのだ。全身筋肉痛な上に眠気。さすがにこんなガタガタの体調のまま山を登って、悪霊に遭遇するのは勘弁願いたかった。

 

「あー、そうそう、それで仮眠を取ろうってことにしたんだったな」

 

 流石に悪霊がいるかもしれない森の中で眠るのは危険だ。だが、簡易的だが霊的な結界を周囲に張ることによって最低限の安全を確保した。この時に張った結界は御札を使ったものだ。周囲の定められた位置関係に御札を貼ることによって、目には見えない薄い膜のようなものを展開。そこに霊などが触れると即座に結界を張った忠夫に警報のような形で知らせるというものだった。

 

「だけど体調はまあまあ良くなったかな」

 

 体の奥に沈殿するような重い疲れは取れた感じがする。気分も爽快。これなら問題はなさそうだ。

 キヌはくすりと笑った。

 

「あんまり無理しちゃダメですよ? 横島さんは私と違ってちゃんと生きているんですから」

「無理しているつもりはないんだけどなぁ」

「もう、そんなこと言っていると体壊しちゃいますよ?」

「体が丈夫なのが自慢なんだ。それよか俺が寝ている間に妙なことは無かった?」

「うーん、無かったと思いますけど」

「けど?」

 

 キヌがじいっと忠夫の顔を覗きこんできた。

 う……、とたじろぐ忠夫。

 

 ――こ、この子、なんか顔が近くないか?

 

 忠夫がキヌと出会ってからまだほんのわずかな時間しか経っていないが、妙にパーソナルスペースが近いのを感じていた。これはコミュニケーションをとる相手との実際の物理的な距離のことだが、これだけ近づかれても忠夫が不快に思ったり、顔を背けようとは思わなかった。初めて会ってからそれほど経っていない相手にそれは珍しいことだ。それこそ家族――妹であるタマモくらいの距離感だった。

 

「大丈夫ですか? ずいぶん魘されていたみたいですけど」

 

 と、心配そうなキヌ。顔を近づけたのは忠夫の顔色を確認するためだったようだ。

 

「魘されていた? いや確かに変な夢は見たけど」

「変な夢?」

 

 ちょっと興味があったのか、更にぐぐっと顔を近づけてくるキヌ。

 もはや鼻がくっつきそうな距離だ。

 

「ちょ、ちょっとおキヌちゃん顔近いって!」

 

 さ、さすがにこれ以上はまずい。どぎまぎした忠夫の言葉に、キヌは改めて状況を理解したのか「あっ」と声を上げた。

 慌てて離れる。

 

「ご、ごめんなさい!」

「い、いや、別にいいぜ」

 

 二人ともそっぽを向く。しばらく言葉が見つからないまま黙りあう。

 

 ――き、気まずい! なんだこれは?

 

 ゴーイングマイウェイの精神で生きてきた忠夫。神経の図太さは筋金入りだが、ここまで他人にペースを乱されるのは久しぶりだった。。

 ままよ! と声を上げる忠夫。

 

「よ、よし! そろそろ行こうぜおキヌちゃん! これじゃあ日が暮れちまう!」

 

 とっくに夜だ。

 忠夫は混乱している。

 

「そ、そうですね!」

 

 つっこみがない。

 キヌも忠夫と同じくらい混乱しているようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 たくさんの虫の鳴き声が騒がしく入り混じる夏の夜。

 霊能力者である横島忠夫と、幽霊の少女キヌは御呂地岳を登っていた。うねうねと曲がるつづらおりの山道。夜の闇の中に、忠夫が照らすヘッドライトの明かりがふわりふわりと揺れている。

 

「しっかし見つからんなー」

 

 ぼやく忠夫。

 彼はジャージ姿だった。靴は運動シューズ。頭にはヘッドライトを取り付けたヘルメットをかぶっており、リュックサックを背負っている。

 えっちらおっちら山道を登る忠夫の隣には、キヌが宙にふわふわと浮いている。。

 彼女は頬に人差し指を当てながら「う~ん」と何かを思い出す素振りをした。

 

「幽霊ですか。この山に私以外の幽霊がいたなら気づいていると思うんですけどなあ」

「おキヌちゃんが今まで気づかなかったってことは、少なくとも最近になって現れた霊ってことかねえ。昼間その悪霊を見た限りでは実際に足で看板を叩き落していたわけだから物に触れられるっぽいし」

 

 実体を持たない精神体である幽霊が物に触れられるということは、キヌのように長い間幽霊であったか、強い恨みや執着を残したまま死んだせいで精神が実体に干渉できるほどの力を得たかのどちらかだ。

 もっとも、ごくまれにもう一つのパターンを持った霊がいるのだが。

 忠夫は意地の悪い笑みをニヤリと浮かべた。

 

「まあ、もっとも。ただ単におキヌちゃんがもう一人霊がいるってことに何百年も気づかなかっただけだったりしてな。おキヌちゃんぽやーとした性格っぽいし」

「も、もう! 私そんなにぽやーっとなんてしてませんよ!」

「わはは、冗談だって冗談」

「知りません」と、そっぽを向くキヌ。

 

 代わり映えのしない山道を歩く二人。ごつごつとした道はアスファルトで舗装されてはおらず少しばかり歩きづらい。

 

「ところで横島さん」

「ん、なんだい?」

「その悪霊がなんでこの山にいるって思ったんですか? ひょっとしたら他の場所を住処にしているかもしれないのに」

 

 キヌの疑問ももっともだった。

 昼間、忠夫が追いかけていた悪霊はこの山の付近に逃げ込んだというだけで、すでに場所を移っているかもしれない。

 その疑問に対して、忠夫は胸を張ってこう答えた。

 

「勘だ」

 

 身も蓋もない答えだった。

 

「か、勘ですか」

「おうともさ。お、なんだ馬鹿にしてんのかい?」

「いや、そーいうわけじゃないんですけど……」

 

 ただ、不安なだけだ。

 それに対して忠夫はふふんと得意げに鼻をならした。

 

「この勘てやつは、霊能力者にとってはなかなか侮れないもんでな。たとえば未来を予知する預言者って連中がいるだろ。まあ大抵はインチキな連中なんだけどよ、たまにいるんだよ、本物ってやつがさ」

 

 ごくりと喉を鳴らすキヌ。

 

「本物の預言者って連中は程度の差はどうあれ、過去から未来へと流れる時間の流れってやつを詠んでいるんだ」

「時間を、詠む、ですか?」

 

 いまいち要領を得ない、といったように首をかしげる。

 

「簡単に説明するとな……」

 

 忠夫は地面に落ちていた小さな石を拾い上げる。それをキヌに見せ付けるように宙に放り投げてはキャッチするというのを繰り返す。

 

「俺は今この石を持っているわけだが、俺はこの石をこれからどうすると思う? また地面に捨てるか、どこかに放り投げるのか、それともポケットに入れて持ち帰るかのか。こんな感じでいくつかの選択肢があるわけだ」

 

 それから忠夫は手にしていた石を力いっぱい山の裾野に向かって放り投げる。小さな石はあっという間に夜の闇にまぎれて消えた。

 

「今はこんなふうに放り投げた。だけど地面に捨てた場合、ひょっとしたらここを通った誰かが今の石に蹴躓いて転んだかもしれない。ポケットに入れて持ち帰った場合……後で調べてみたら今の石に、何万年も昔に生きていた昆虫の化石が、世界で初めて新発見されて俺有名人。テレビ出演なんかもしちゃったりして、女の子にキャーキャー騒がれて、『夢にかけた少年の無垢な願い。奇跡の発見への基軸』なんて煽り文句の化石についての本を出版したら印税でうっはうっは、なんて未来も、奇跡みたいな極めて低い天文学的な確率だけどひょっとしたらあったかも…………ああ、クソッ、なんであの石捨てちまったんだよ! 一応確認しときゃよかった!」

「あの、横島さん。話ずれてません?」

 

 壮大に明後日の方向にずれていた。

 むしろ後半は痛々しいだけのただの誇大妄想だった。

 

「……んんっ、うおっほん。まあ、とにかくだ。小さな行動一つとってもそんなふうに、たくさんの未来がいくつもある。そこからいくつも枝分かれして更にたくさんの未来があるわけだ。預言者って連中はそういった枝分かれした未来の中から一番進む可能性の高い未来を指し示しているわけだ」

 

 ――ここまではいいかい?

 

 と、忠夫。

 こくんとキヌは頷く。

 

「なんとなく、ですけど分かりました。その一番進む可能性の高い未来っていうのは、本人の意思しだいってことですか?」

「一概にそうとはいえないけど、大きな要素をしめているな。たくさんの人のたくさんの思惑や行動なんかが複雑に絡み合うせいで、本人の意思だけで必ずこうなるって未来はないけどさ」

 

 とにかくだ、と忠夫。

 

「こういった実際に目で見ることが出来ない力を察知する能力を、俺たちは霊感て呼んでいる。そういった意味で預言者も霊能力者ってことになる」

 

 ――もっともこいつは楽器だからってピアノと太鼓を一緒のものって考えるくらい乱暴な括りだけどな、とも続ける。

 

「霊能力者じゃない普通の人間にだって霊感はある。人間のみならずに動物にだってな。野生の勘、生存本能やらは本能的にこれから訪れる危険を察知しているわけだ」

「野生の勘て、ことは」

「そう、勘てのはそれまでそいつが経験した出来事なんかから学んだことを無意識のうちに活用することによって、これから訪れる結果を察知しているんじゃねえかと思うんだが、それとは別に過去から未来へと流れる時間や事象の流れなんかを霊感によって察知することで無意識のうちに行動に反映させる……」

「む、難しいです」

「あ~、わり、あんまり説明すんのうまくねえんだ俺。ざっくりまとめると、俺たち霊能力者の勘てのは霊力をあんまり持たない普通の人間の勘よりは、当たる確立が高いってことだ」

「ふへ~、そういうものなんですね」

「そういうものなんです。まあ、他に探すあてもないしな。とりあえずこの山から探してみようってわけだ」

 

 ふむふむと俯くキヌ。

 あれやこれやと話しながら歩いていると、ずいぶん山深いところまでやって来た。山の上から見下ろす街の灯りはもうずいぶん遠い。高い木々と梢が空を覆い、遠くに見えはずの山々の峰は星明りを反射しないためか、黒々と不気味に屹立していた。

 

「……一休みすっか。疲れてきたし」

 

 もうずいぶん歩き通してきた。

 腕時計の針は十時五分を示している。山に入ってからすでに二時間ほどが経過していた。

 忠夫は背負ったリュックサックから、水筒とホテルの売店で買ったパンを取り出す。夕食は食べてきたとはいえ、山奥でハンガーノックになったらシャレにならない。

 キヌは不思議そうな顔で忠夫の手元を覗き込んできた。

 

「なんですか、それ?」

「ん、パンだよ。カレーパン」

「かれーぱん? 食べ物なんですか?」

「そだよ。ん、そっか、おキヌちゃんはパンて見るのも初めてか」

 

 キヌは三百年以上前から幽霊として過ごしてきたという。それから人との交流が無かったというなら知らないのも無理はない。

 

「はい。時々、そのカサカサした包み紙が山に捨てられたりしていますけど、中に入った実物を見たのは初めてです」

 

 カサカサした包み紙……ビニールの包装紙のことか。

 

「ああーいるいる、そういうポイ捨てするバカが。おキヌちゃん、これからそういう連中見つけたら空から頭の上に石とか落として痛い目みせてやれ」

「そ、それはさすがにちょっと」

 

 ――ふむ、ダメか。

 

 忠夫がパンの一口目をかじろうとした、その時だ。

 ぴり、とした緊張感が忠夫に走った。真っ白な画用紙の上に黒い墨が一滴落とされたような明確な違和感だ。

 

「来やがった、霊の気配だ」

「え?」と顔を上げるキヌ。

 

 忠夫はキヌに、リュックサックや今食べようとしていたパンや水筒を投げて渡す。

 

「悪い、おキヌちゃん。ちょっとそれ持っててくれ」

「は、はい、分かりました」

 

 忠夫は森の奥に向かって駆け出す。

 霊の気配は徐々に遠ざかっていく。

 

 ――ハ、今度こそ逃がしゃしねえぞ!

 

 木の根を飛び越え、岩から岩へ跳躍。木が乱立する急斜面。義経の八艘飛びのように木の枝から木の枝へと飛び移る忠夫。全身のバネを使った体幹移動。人外じみた動きだが、それは霊力による身体強化の恩恵によるものだ。

 

「見えた!」

 

 森深い暗がりの中に、よりいっそう黒い影が見えた。

 木から木へと飛び移っている。

 空を覆う木々の梢の間から零れる星明りが時折、走る悪霊の姿を映し出す。かなりすばやい。それも木の配置や地形を熟知した無駄の無い動きだ。

 追従する忠夫。

 しかし、奇妙だ。

 あれだけの軽快な動きが出来るなら忠夫を振り切ることなどたやすいはずだ。しかし意図的につかず離れずの位置を保っているように見える。時折こちらを見ているような仕草がまさにそれだ。

 

 ――一体どういうことだ。なにをたくらんでいやがる。 

 

 と、忠夫がいぶかしんだ時。

 

「きゃあああああああ――――――っ!」

 

 森に悲鳴が木霊する。これは。

 

「おキヌちゃん!?」

 

 ――まさか俺たち二人を引き離すための陽動か!?

 

 しかしどういうことだ。目の前には悪霊の姿がしかと見える。キヌのほうにも何かあったとすると、悪霊は二体いることになる。そして目的はなんだ。キヌを狙う目的は。

 

「ち、とにかくおキヌちゃんのところに戻らねえと……っ」

 

 忌々しげに目の前の悪霊を睨みつけると、即座に来た道を引き返す忠夫。その姿を、彼が追いかけていた悪霊の窪んだ瞳は森の奥から静かに見つめていた。

 

 

 

 

 

 

 



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【05】

 

 

 

 

 

 

「おキヌちゃん!」

 

 忠夫がキヌの元に戻ると、そこにはキヌと小さな毛むくじゃらの獣がいた。

 

「ちょっとダメ、これ横島さんのものなんですー!」

 

 忠夫のリュックサックを胸に抱きしめて守ろうとしているキヌ。毛むくじゃらの獣はキヌからリュックサックをひったくろうとしているようだ。

 

「なにを……」

 

 地面を蹴って獣に飛び掛る忠夫。

 

「しくさってんだテメエはっ!」

 

 獣は忠夫の気配に気づき、すぐさまその場から離脱する。

 

「横島さん!」

「大丈夫だった、おキヌちゃん」

 

 キヌをかばうように獣と相対する忠夫。獣は折れた樹の幹の上に乗っかりこちらを威嚇していた。雲の合間から月明かりが零れ、獣の姿を照らし出す。

 

「……お猿さん?」

 

 キヌが獣の姿を捉えてそう言った。

 猿。その獣は猿の姿をしていた。

 一つ、普通の猿と違うことを上げるとすれば。

 

「動物霊、か」

 

 動物霊。

 その言葉の指し示すとおり、死後の動物の霊魂である。それぞれの土地の宗教観によってその捉え方は様々である。万物に魂が宿るとされる神道の考え方では、自然との結びつきが強いとされる動物の魂は古来より天災を引き起こしたり豊穣をつかさどるなど、人々に敬い畏れられてきた。

 忠夫が動物霊と判断したとおり、その猿は生きているものではない。

 その体はまるで黒い炎のように、輪郭が揺らめきたっている。ちりちりと肌をあぶるような奇妙な感覚が周囲に立ち込めていた。それは目の前の猿の霊から発せられるものだ。執念、妄念、言葉で表現するとそういった類の感情だ。死した魂がこの世にとどまり続ける理由は様々だ。理性と高度な知性を持つ人間にとってその理由は十重二十重である。金銭や法律などの人間社会の複雑な構造の絡んだ末の怨恨や、個人同士の諍いなど、細分しだしたらきりが無い。しかし自然の摂理の中で生きる動物にとって、死して尚、この世にとどまり続ける理由はもっと原始的で本能に直結したものなのではなかろうか。

 忠夫が猿霊との間合いを調節するようにわずかににじり寄ると、猿霊もそれを警戒してか歯をむき出しにして警戒する。

 

「横島さん。あのお猿の霊が、横島さんが探していた悪霊ですか?」

「違う」

 

 ――違う。

 

 キヌの問いかけに、忠夫はそうはっきり断言した。

 

「俺が昼間見た悪霊は人間霊だった。こいつじゃあない」

 

 忠夫が昼間の悪霊に対して感じた怨念じみた敵意は、もっと汚泥のようにどろどろとしたものだった。複雑な感情が入り混じった粘りつくような気配は、人間霊特有のそれだ。

 その時だ。

 がさっと草むらの中から黒い何かが飛び出してきた。

 

「きゃっ」

 

 キヌの短い悲鳴。

 忠夫が振り向くと、そこには夜の森を先ほどまで追いかけていた霊の姿があった。

 

「て、こっちも猿ぅっ?」

 

 忠夫が先ほどまで追いかけていたのも猿霊だったらしい。

 猿の霊が二匹。

 突然草むらから飛び出してきた猿霊はキヌの持っていた忠夫のリュックサックを奪うと、もう一匹の猿霊とともにすばしっこい動きで樹の上にするすると登っていく。

 

「あ、このヤロ待ちやがれ!」

 

 忠夫の静止の声もなんのその。体をのけぞらないと見上げられないほどに高い樹木の上で二匹の猿霊はこちらを見下ろしていた。

 

『キキッ!』

 

 しかもさっきまで脅されていたことの仕返しとばかりに折った小枝や小石を投げつけてきた。

 

「やめろ! この、いてっ」

 

 夜の闇にまぎれた小石や小枝は避けることは難しかった。しかも高い樹木の上から落ちてきているため落下速度も加わり地味に痛い。

 猿霊は溜飲も下がったらしく、一瞬こちらを見てから、小ばかにするように一度鳴き声を上げた。そしてあっという間に樹から樹の枝へと飛び移り夜の森の中へと姿を消してしまった。

 

「ご、ごめんなさーい! 私がボーとしてたせいで横島さんのリュックサック盗られてしまいました!」

 

 キヌが深々と頭を何度も下げる。思わずこっちが恐縮してしまいそうなほどの勢いだ。

 しかし忠夫とは言うと。

 

「ふ、ふふふふふふふふふふ……っ」

 

 笑っていた。不気味に、底冷えするような声で。

 

「よ、横島さん?」

 

 キヌが恐る恐る顔を覗きこむ。

 

「猿にだまされた猿にだまされた猿にだまされた猿にだまされた猿にだまされた猿にだまされた猿にだまされた……――」

 

 ぶつぶつと経文のように何事かを呟いている。

 一匹の猿霊が忠夫を引きつけ、その隙にもう一匹の猿霊がリュックサックを奪い取る。単純だが効果的な手法だった。

 そして簡単に出し抜かれた忠夫は。

 

「それは俺の脳みそが猿以下だってことかっ!?」

 

 こじつけとも言いがかりとも思える角度でブチ切れていた。

 

「逃がさねえぞあのエテ公ども! 俺をおちょくってくれた礼はウン万倍にして返させてもらうぜ、さあ行くぜおキヌちゃん!」

「は、はい!」

 

 意気軒昂というか怒髪天をつくというか。

 激した様子で走り出す忠夫と、それを追いかけるキヌ。猿霊二匹の追跡を開始する。

 軽快な身のこなしで立ち木やぬかるんだ地面の上を苦もなく走る忠夫。山の中を全力で疾走するには平地を走るときとは全く別の技術が必要だ。重要になるのはバランス感覚と危険を察知する勘の良さである。山は平地などの整備された道とは違う。踏み込めば腐葉土の地面は足の形に沈み込み、木の根や地面から突き出した岩など、足をとられる障害物が無数に点在している。層のように積み重なった落ち葉の下は一体どうなっているのか、目視だけで判断するのは困難である。腐葉土の地面も硬い部分とやわらかい部分とがあり、それによって踏み出した足の感覚が微妙にずれる。負担がかかるのが足首だ。踏み込んだ足が思いも寄らぬ角度で上下左右に曲がるため、山歩きに慣れた者でないと足を痛めてしまう。

 忠夫が山の中を危なげなく走ることができるのは……わずかな時間で走れるようになったのは、野生の動物じみた勘の良さ、としか言いようが無かった。

 

「でも横島さん、あのお猿さんたちがどこにいるか分かるんですか?」

 

 忠夫の横を宙を飛びながらキヌが話しかける。

 彼女にとって樹木や障害物などは避ける必要がない。実体の無い幽霊であるため、すり抜けてしまうのだ。

 

「正確な位置は分からない。まだ俺が霊波を察知できる距離外にいるみてえだ……だけど遠くはない」

「え、どうして遠くないって分かるんですか?」

「あの猿の霊はなんでわざわざ人間を襲ったと思う?」

 

 忠夫の問いかけにキヌはうーん、と頭をひねる。

 

「人間に恨みがある、とかですか?」

「いや、もっと具体的な理由さ。リュックサックの中に入っている食い物を奪うためだ」

 

 忠夫が背負ってきたリュックサックにはいざというときの非常食やサバイバル道具が入っていた。霊とはいっても素体は猿なのだ。他の動物霊に比べ、知性は高いとはいえ猿がサバイバル道具を必要として、それを狙ってくるとは思えない。パンやスナック菓子といった非常食を狙ったと考えるほうがよっぽどしっくりくる。

 

「でも、幽霊じゃ食べ物なんてあってもしょうがないですよ」

 

 私だって食べれないですし、と彼女自身も幽霊であるキヌ。

 彼女の疑問はもっともだった。幽霊は基本的に食事をとらない。とれない、といったほうが正しいだろう。実体がないので当然だ。

 

「おかしい点はそこさ。なんで死んだ後まで食べ物を必要とするのか。俺がこの人骨温泉に来る前に立ち寄ったスーパーでもちょうど食い物に対して執着持っていた霊が悪さしていたんだよ」

 

 忠夫が思い出すのは、自転車でこの街に来る道中に立ち寄ったスーパーでの一幕だ。食べ物など食べられないくせに異常なほどの執着を見せていた悪霊と遭遇した。どうやら生前、まともな食事を取れなかったことからの反動から、死して魂だけとなった後も食べ物を求めて彷徨っていたらしい。

 

「じゃあ横島さんは、あのお猿たちもそうだと?」

「かもな。でもどうも違うように感じるんだ。食欲ってのは人間だけじゃなく生き物全てにとって生存本能に直結した欲求の一つだ。食欲が原因で死んだ後も魂を縛り続けられると、本能的、言い換えれば直情的な行動をとりやすくなる。だけどあの猿の霊は違った。二匹そろって連携じみた行動をしやがる。とても本能だけで行動しているようには見えやしねえ」

「えっと、つまり……」

「つまりあの猿の霊たちは食欲以外の未練が原因で死んだ後もこの世にとどまってる可能性が高いってことだ」

 

 あくまで推測だけどな、と続ける忠夫。

 

「そうすると、なぜ幽霊なのに食い物を狙うのか、って話に戻ってくる。さっきから山を走っていて思ったんだけどよ、なんかこのあたりに入ってから急に生き物の気配が少なくなったと思わないかい?」

「そういえば……」

 

 キヌは周囲を見渡してみる。幽霊である彼女にとって夜の闇の中を視認することはそれほど苦になるものではない。

 

「このあたりに生えているのはほとんど杉の樹だ。多分元々生えていた樹じゃなくて人の手で植林された人工林じゃねえの? 杉や檜は木材として高値で取引されているっていうしな」

「あ、そういえば、50年位前にすごくたくさんの樹が切られたことがあったような気がします」

「たぶん大戦後の建て直しのために伐採されたものじゃねえの。それで丸坊主になっちまった山に新しく植林したはいいけど、そのまま放っぽといたんだろ。おかげでロクに手入れもされないまま、日照条件最悪の不健康な森の出来上がりってわけさ」

 

 二人が走る森は確かに二十メートル以上はあろうかという高々とした杉の樹の枝葉によって、まるで天に蓋をされたように空が見えなかった。木漏れ日のようにわずかばかりの星明りが差し込んでいるだけだ。これではまともな陽光が森の中に差し込むことはなく、植物の生育条件としてはかなり悪いだろう。

 風通しの悪いその森の中の空気は湿っぽくて肌にまとわりついてくるような不快なものだ。森に横溢する湿気のため、周囲にはむせ返るような濃い緑の匂いによって包まれている。

 

「あの猿の霊たちは地縛霊の類なんだろ。少し足を伸ばせば食べ物が豊富にある森に行けるのに、このあたりから離れることが出来ないから……」

「だから、近くにやって来た人間から食べ物を奪ったんですね」

「そ。つまりあの猿の霊どもはここからそんなに遠くない場所にいるってことだ。地縛された場所から離れられないってんならな」

 

 そう締めくくると、キヌが感心したように「ほへ~」とため息を漏らした。

 

「すごいです、横島さん! そこまで考えているなんて!」

「おうおう、もっと褒めてくれてもいいんだぜ!」

 

 などと調子に乗っていると大概痛い目をみるのがこの男だ。

 

「よ、横島さん、前!」

「は? ――ふがッ!」

 

 ガアンと体に衝撃が走る。

 ふらふらとのけぞるように地面に倒れ込む忠夫。

 ぶつかったのは……壁? 

 いや、これは崖のようだ。

 

「つっ、つぁっ、つぅ……っ」

「大丈夫ですか横島さん!?」

 

 慌てて駆け寄ってくるキヌ。

 忠夫は突然目の前に峭立した岩の壁を涙目で睨みつける。鼻頭を結構強くぶつけたため、鼻の奥にをつんざくような痛みが残っている。

 

「は、はんでほんなほほろひはへははふんはひょお……っ!?」

「な、なに言っているのかぜんぜん分からないです…………よ、横島さん、あ、アレ! あれ、見てください!」

 

 突然キヌが驚いたように叫んだ。

 

「はへ、ってなひ……ごぺっ!?」

 

 忠夫の首をつかんで無理やり指定の方向に向かせる。かなり危険な角度で極まっていた。彼は断じてふくろうではないので、扇形の角度に曲がるような首の造りはしていない。

 キヌはよほど驚いているらしく、現在進行形で自分が忠夫に行っている苛烈な仕打ちと、口から泡を吹いている忠夫の様子に気づいていない。

 

「ほ、ほら、あれですよ、あれ!」

 

 更に忠夫の首を上下にゆする。

 問答無用の追撃だった。

 

 ――あれ、あれってなに? 視界が真っ白に染まってて何も見えないんだけど。

 

 かなり危険な兆候だ。

 そろそろ止めてやらないと本当に死ぬ。

 

「横島さん、どうし……ひぃっ!」

 

 痙攣しだした忠夫の様子で、やっと気づいたキヌ。白目を剥いている忠夫を見て、慌てて手を離す。

 

「ご、ごごごごごごごめんなさい! よ、横島さん、しっかりしてぇっ!」

「だ、だいひょうぶ……だいひょうぶ……」

 

 頭をふり、散り散りになりそうだった意識をゆっくりとかき集める。幾分か回復してから、キヌを見つめ、真剣な表情で。

 

「俺はキミが怖い」

「ひ、ひぅ!」

「まあ、冗談は置いておいて」

「冗談? ほんとーに冗談だったんですか」

「置いといて」

「本当にごめんなさーい!」

 

 キヌが先ほど忠夫に見せようとしていた光景がそこにあった。

 忠夫の背丈ほどもある大きな岩が崖下に転がっていた。崖の上から落ちてきたものだろうか。元は更に大きかった岩が落下の衝撃で砕けたらしく、大岩の周囲に大小いくつかの岩が転がっている。

 

「これは、骨?」

 

 忠夫が注視したものは、大岩の下敷きになっていた骨らしきものだ。人間に比べるとずいぶん小柄だ。多分だが、猿の骨。それも二体分。

 

「ひょっとしてこれがさっきの猿の霊の亡骸か? なあおキヌちゃんはどう思……」

「ひっぐ……ぐすん、ぐすん」

 

 泣いていた。ひょっとしなくても泣かしたのは自分だった。

 

「ちょ、ごめん、おキヌちゃん! 本当にもう怒ってないから!」

「ち、違います、私、横島さんにひどいこと……っ」

「大丈夫大丈夫、本当に大丈夫だから。このくらいでどうこうなるほどヤワな体してないから!」

 

 ほうらこんなに元気だぞー、と体操のお兄さんばりに高らかに叫びながら、ボディビルディングのポージングをしたりする。

 

「むん、ほ、は……どうだ!」

「ほ、本当にもう大丈夫ですか? 無理とかしちゃだめですよ?」

「ノープロブレム」

「のーぷろぶれむ、ってなんですか?」

「問題無いってことだ」

 

 そういえばこの子横文字とか知らなさそうだ、と忠夫。

 キヌ自身は三百年以上昔の人間だからしょうがないことなのだが。

 

「とにかく、こいつがさっきの猿の霊たちの亡骸ってことでいいのかな?」

「そう、だと思います」

 

 忠夫は崖の上を見上げた。高さは三十メートルにほどだろう。岩はかなりの大きさで表面には緑の苔が生えている。崖っぷちが岩盤ごと崩れて落ちてきた、というのが妥当だろうか。

 

「そういえば、一週間くらい前に結構大きな地震がありました」

 

 と、キヌが言う。

 一週間。

 なるほど、夏場でこれだけ湿度の高い場所なら、死骸が白骨化するのには十分な時間だろう。

 地震によって崖の一部が崩落して、この猿二匹はそれに巻き込まれ命を落としたということか。

 

「それなら合点が行くな。このあたりの森に食べ物がないなら、あの猿の霊たちはなんのためにこの森にいて、なぜ命を落としたのかってのが分からなかったが、それなら納得がいく」

「供養してあげればあのお猿たちは成仏するんでしょうか?」

 

 痛ましそうに猿たちの亡骸を見つめながら、キヌが尋ねてきた。

 同じく死んで幽霊となっている彼女にとって思うところがあるのだろう。

 

「いや、あの猿たちがどんな未練を残してこの世に留まっているのかを見つけない限り、成仏させることは難しいだろうなあ。問答無用で退治するってんならともかく」

 

 霊の退治。すなわちゴーストスイーパーの領分である。

 

「退治……っ、それしかないんですかっ?」

「あー、ほらほらそんな顔するなって。自分の意思で成仏できるってんならそれに越したことはないしな。なによりまずは俺のリュック取り戻さねえと」

 

 おキヌの肩を叩く。

 

「さ、まずはあの猿の霊どもを探してとっ捕まえねえとな。話はそれからだ」

「……はいっ!」

 

 その時だ。

 がさがさと藪がゆれる音が聞こえた。

 

「――っ!」

 

 忠夫はキヌをかばうように前に出る。藪の方向だけでなく油断なく周囲を警戒する。

 藪の中から出てきたのは……。

 

「キッ」

 

 猿だった。

 

「で、出た!」

 

 キヌが叫ぶ。

 忠夫もとっさに掴みかかろうとして……違和感を感じた。

 

「ん、こいつは」

 

 意識を集中、よく目を凝らす。

 猿は踵を返してその場から立ち去ろうとする。

 忠夫は霊力で強化した脚力で素早く猿に近づき、その尻尾を掴んだ。

 

「キキッ、キーキー!」

「……霊、じゃないな。本物の猿だ」

 

 尻尾を持ち上げてまじまじと見つめる。

 猿は逃げようとジタバタともがいているが、忠夫の手から抜け出せないでいる。

 

「あ、かわいい。子供のお猿だ」

 

 キヌの言うとおり、どうやらコイツはまだ子供らしい。

 先ほどの猿霊と比べても体躯は一回りも二回りも小さい。小さな体にくりくりとした大きな瞳が可愛らしい。

 

「……こいつ、ひょっとして」

 

 忠夫は小猿を見つめながら思考をめぐらせる。二匹の猿の亡骸に、小猿が一匹。そして何かの未練を残しているように食べ物を集める猿の霊たち。

 

 ――そうか、そういうことか。

 

「あ、横島さん。この子怪我していますよ」

 

 キヌの言葉通り、この小猿は怪我をしていた。右足の骨折と、擦過傷。目立つ怪我はそれくらいだ。

 

「あー、しまったリュックの中になら治療道具も入っていたんだけどな。包帯は……ハンカチ破ればなんとかなるとしても、薬はなあ」

「あ、それならなんとかなります。ちょっと待っていてください」

 

 そう言って、キヌは宙を飛んで森の暗闇の中、来たのとは別の方向へと飛んでいった。

 しばらくして。

 

「ありましたー」

 

 キヌが戻ってきた。

 手に持っているのは小さな植物だった。緑色の葉っぱで、茎からはいくつもの花のつぼみがなっている。何輪かはすでに咲いており、黄色い小さな花だ。

 

「これを揉んで傷口に塗りつければ薬になりますよ」

「へー、薬草か。実際に使うのは初めてだな……いて、こら暴れるな。今から治療してやっから」

 

 いまだ忠夫の手の中で猿は暴れていた。このままじゃ治療どころではない。

 

「横島さん。そのお猿、私が抱いていますよ」

「ん、でもこいつ結構暴れるぞ」

「ふふ、大丈夫ですよ。私幽霊ですもん、怪我なんかしません」

「……そっか、じゃあ頼むよ」

 

 キヌに小猿を手渡す。キヌは幼子をあやすように小猿を胸の中で抱きかかえる。

 すると、どうだろう。

 先ほどまでとは違って、暴れるのをピタリと止めた。いや、むしろ本当の母親の腕の中にいるような安心した表情だ。ゆりかごに揺られているように背中を丸め、眠っている赤子のようにおとなしくしている。

 

「こ、このヤロウ、俺のときは暴れまくったくせに。しかもなんてうらやましい体勢だ」

「え、うらやましいって?」

 

 小猿を胸に抱きかかえたままのキヌが不思議そうに首をかしげた。

 

「イヤなんでもない、なんでもないんだ。さあちゃっちゃと治療を開始するか」

「あの、ちゃっちゃはいいですけど、丁寧にですよ」

「りょーかい」

 

 骨は、特に異常ないみたいだ。これなら添え木で固定しといてやれば自然とくっつくだろう。薬草を揉み解して傷口に塗る。それからハンカチを破き、包帯代わりに巻きつける。

 

「ほい、完成」

「わ、ずいぶん手際がいいんですね」

「おう、修行って名前の拷問でしょっちゅう怪我しているからな。そのせいで治療ならお手のもんだぜ」

「え、しゅ、修行? 拷問?」

「今のは聞き流してくれていい」

 

 嬉々として語るような内容ではなかった。思い出すだけで全身の血が引いていくような、鬱々とした思い出の数々に若干げんなりする忠夫。

 

『ギギィィィィィィィィィ――――ッ!』

 

 ざわりと背筋が震えた。

 突如夜の森に響いた。不気味な鳴き声。

 一体どこから……!

 

「上っ!」

 

 忠夫はとっさにキヌを押し飛ばした。

「きゃっ」

 地面に尻餅をつくキヌ。

 同時に、忠夫もバックステップ。

 ――次の瞬間。

 ドスン! と地面が揺れた。

 先ほどまで忠夫とキヌが立っていた場所にそれは落ちてきた。

 それはまるで大岩のようだった。

 三メートル近い巨躯はごつごつとした筋肉で覆われている。体から伸びる腕はタイヤのように太い。

 一つの体に顔が二つある。

 毛むくじゃらの頭から顔周りの皮膚だけがひょうたんの形に露出している。面長の顔に突き出た下あご。

 

「こ、こいつもしかして……」

 

 ある意味特徴的な顔をしている。

 信じられないが。

 グリズリーみたいな馬鹿デカイ体から顔の部分だけ切り取って見てみると。

 

「さっきの猿の霊かよ!? なに、顔が二つあんだけど、二匹合体したの!?」

 

 もはや別の生き物、というより怪獣だ。遊星からの侵略者といわれたほうがしっくり来る。宇宙ヒーローはどこだ。

 

『グググググググッ』

 

 しかもどう見ても怒っている。

 二つある顔はどちらも歯をむき出しにして威嚇してきている。そして体をバネのように撓ませ――。

 

「……げ!」

 

 忠夫は弾かれたように横に飛んだ。

 一瞬の差。

 忠夫が立っていた場所を黒い突風が通り過ぎた。

 忠夫は見た。猿霊が真横を通り過ぎていくのを。振るわれたその巨腕により、大地にどっしりと根付いていた杉の樹が粉砕される瞬間を――。

 耳をつんざく破裂音とともに、支えを失った杉の巨木は自重により地響きとともに地面へと倒れこむ。

 人間なんぞが巻き込まれたら一瞬でミンチだ。

 

「冗談じゃねえ……っ」

「横島さん!」

 

 キヌの悲鳴が響く。その胸には小猿を抱えている。猿霊はその小猿を視界に捉えると、大きな咆哮を上げた。びりびりと肌を振るわせる大気の鳴動。ひりつくような怒気が周囲に撒き散らされている。

 

「ひぅっ!」

 

 気圧され、後ずさるキヌ。

 咆哮とともに襲い掛かる猿霊。

 

「行かせねえよ!」

 

 しかし忠夫によって阻まれた。忠夫がバックスウィングの姿勢から放ったのは霊力の塊だ。雪を押し固めて氷の玉にするように、その圧縮された霊力は弾丸のように猿霊目掛けて放たれる。夜の闇を青白い残光が切り裂く。

 猿霊はその巨体からは考えられないほどの速度でそれを避ける。

 再び猿霊とキヌの間に距離が開く。

 しかし猿霊はふたたびキヌに襲いかかろうとして。

 

「キーキー」

 

 小猿の鳴き声によってその動きを止めた。

 怒気に満ち満ちていた顔が徐々に穏やかさを取り戻していった。猿霊の姿が波打つ湖面に映したように揺らめく。次の瞬間には見上げるほどの巨体ではなく、二匹の猿の姿に戻っていた。

 

「キー」

「あ、お猿さんっ」

 

 小猿はキヌの腕から抜け出して、ひょこひょこと怪我を押した拙い足取りで二匹の両親の元に向かう。

 

「とりあえず大丈夫っぽいな」

「横島さん。ひょっとしてあのお猿の霊とあの子って……」

「親子、なんだろうな」

 

 親猿は死した後も怪我をして身動きが取れなかった我が子のために食べ物を集めていた。確たる答えはないがおそらくそういうことなのだろう。

 猿の親子の間にいかなるやり取りがあったのかは分からない。

 しかし二匹の猿霊はしばらく小猿と向き合った後、ゆっくりとその身を光の粒に変え昇天していった。

 その瞳はずっと我が子へと向けられていた。

 その成長を祝うように、これからの成長を祈るように。

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、おキヌちゃんはしばらくその小猿の面倒を見るのかい」

「はい。この子の怪我が治るまでですけど」

「キ?」

 

 それ以上は小猿のためにも良くは無い。いずれ自分の力だけで生きていかなければ小猿にとって、それは過保護というものだ。

 忠夫とキヌの二人は親猿の亡骸を埋葬した後、山を降りるために登って来た道を下っていた。忠夫の背中には奪われたリュックサックがある。あの後小猿がねぐらにしていたらしい小さな洞窟の中で見つけていた。キヌは小猿を抱えていた。

 時間は夜十一時を過ぎている。

 さすがにタマモはもう眠っているだろう。

 自分もさっさと部屋に戻って眠りたい気分だ、と忠夫。今日一日で色々ありすぎた。自転車をこいでやっと人骨温泉郷にたどり着いたと思ったら、悪霊に遭遇するわ、夜の山登りをするわ、キングコングみたいなのと戦ったりと、体力の限界に挑戦しているのではないかと思うようなハードスケジュールだった。

 

「横島さんが探しているって悪霊は結局見つからなかったですね」

「ああ、そだなー。むしろ今出てこられても困る。今日はいい加減疲れた。また明日だ明日。今日はもう帰って寝る」

 

 会社帰りのサラリーマンみたいなことを言いながらぐったりとした表情を浮かべてる。

 

「う~ん、私がちゃんと神様になれてればもっと横島さんの手助けも出来ていたと思うんですけど。こう神通力みたいな力で」

「そいつは無いものねだりってもんだぜ」

「そうですけど、ちょっと悔しいです」

 

 そう言って顔を俯かせるキヌ。

 忠夫は今まで気になっていた質問をすることにした。

 

「おキヌちゃんはさ……これからどうしたいんだ?」

「え、これからって、どういうことですか?」

「神様になりたい? 成仏したい? それとももっと他の生き方……ていうのも幽霊なのに変な話だけど……をしてみたい?」

「私は……」

 

 キヌはそこで言葉を区切った。自分の気持ちを整理するように。

 ゆっくり。

 心の中で、ゆっくりと、考えて。

 

 

 

「成仏、したいです」

 

 

 

 

 はっきりと告げた。

 

「…………じゃあさ」

 

 忠夫は告げる。

 

「俺にまかせときな」

「……え?」

 

 キヌが顔を上げる。

 

「地縛を解くことさえできれば成仏できるんだろ。だったら俺がなんとかしてみせる」

「で、でも――」

「任せろ」

「あ」

 

 

 

 ずっと。

 ずっとこのまま同じ時が続くものだと思っていた。

 ずっと一人で、自分だけが取り残された時間の中で、ただ無為に過ごしていくものだと思っていた。

 心のどこかであきらめていた。

 寂しさで心が壊れそうだった。

 だけど。

 不意に差し伸べられた救いの手がここにあった。

 任せろ、と言ってくれた。

 その力強い瞳を見ていたら。

 涙が零れた。

 

 

 

「ありがとう……ありがとうございますっ、わた、私」

 

 言葉が詰まった。言いたいことがあるのにうまく言葉が出てこなかった。

 星明りの下で、しばらくの間、孤独に打ち震えていた少女の鳴き声が響いていた。

 

「あの……ところで横島さん」

「ん?」

「さっき、私が小猿を抱いていたのを見てうらやましいって言いましたよね」

「う、それは」

「えっと……」

 

 ちょっと戸惑うように視線をさ迷わせ。

 頬を染め、やがて意を決したように。

 

「はい、どうぞ」

 

 キヌは忠夫に向かって腕を広げた。

 

 

 

「なん……だと……?」

 

 

 

 ハチャメチャな一日。

 ――ラストラウンド。

 理性と本能による戦いのゴングが、今高らかに打ち鳴らされた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そんな二人を見つめる視線があった。

 遠く、小高いところにある一本杉の真上。それは黒く塗りつぶしたような人型で、輪郭は陽炎のように揺らめき立っている。

 忠夫が探している悪霊だった。

 

『神?』

 

 くぐもった、重く響くような声で悪霊は言った。

 

『神の、力。あの、幽霊に?』

 

 途切れ途切れだが、はっきりとした言葉だった。

 

『ク、ククク……ククククク……――』

 

 瘧のように体を震わせ、悪霊は笑いだした。

 その鈍く輝く瞳はただ一点を見つめている。

 人柱となってから三百年以上もの間、神になることが出来ず地縛霊として過ごしてきた幽霊の少女キヌ。

 彼女には神の力を得るための切欠が眠っている。

 それを、知った。

 その悪霊が、知ってしまった。

 

 

 

 彼には目的があった。死して尚この世をさ迷う理由が。決して誰にも譲れない怨念じみた執念が。

 

 

 

 目的を達成するために、本当に必要なものが今目の前に現れた。

 その事実に悪霊は嗤っていた。

 

『神の力、俺が、もらう、ぞ』

 

 告げられた予言じみた言葉は、彼以外の誰にも届くことなく夜の闇へと消えていった。

 

 

 

 

 

 

 



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【06】

 

 

 

 

 

 

 障子によって濾過された朝日が淡く室内を満たしていた。

 時計の針が指し示す時間は朝七時。

 人骨温泉スパーガーデンというホテルの一室。畳敷きの和室に布団が二つ並んでいる。そのうちの一つ、小さな丸まりの布団からのっそりと少女が起き上がった。

 寝乱れた髪と衣服。普段後ろで九つにまとめている髪は解かれており、所々に寝癖が跳ねている。浴衣の帯はしっかりと巻かれているが、襟の左右の合わせ目がかなり際どく肌蹴ており、真っ白な胸元と内腿が覗いていた。

 少女――タマモは寝起きで焦点の定まらない瞳を、うつらうつらとさ迷わせていた。

 くあ、と可愛らしく欠伸。乱れた浴衣を直し、寝ぼけ眼のまま、洗面所によたよたと歩いていく。

 洗面所の水道の蛇口をひねると勢いよく水が出てきた。流れ落ちる水をしばらくの間ボーと眺めてから、両手で掬い取って顔を洗う。

 冷たい水に、徐々に意識は覚醒してきた。水の雫で服をぬらさないように顔を俯かせたまま、伸ばした手をさ迷わせ、洗面所に備え付けられたタオルを掴む。顔を拭うと、ずいぶんとすっきりとした気持ちになった。

 乱れた髪を櫛で梳かし、ヘアバンドで髪を結わえる。一房、二房、三房……。口にヘアバンドを咥え、鏡で髪全体のバランスを整えながら一房ずつまとめていく。

 髪を整え終えたタマモは、洗面所を見回した。

 擂鉢のような形の洗面器に、大きな鏡。陶器製の洗面台の上には元々備え付けられている使い捨ての歯ブラシや石鹸、櫛やタオル、ティッシュ箱などがある。

 タマモはそれらをじっと見つめてから。

 

 ――そうだ、これにしよう。

 

 タマモが手に取ったのは、使い捨ての歯ブラシだ。

 洗面所を出て、未だ布団に包まって寝こけている忠夫の元に戻る。

 障子を開け放つと、眠ったままの忠夫はわずかに顔をしかめ、朝日から目を背けるように布団の中にもぐりこんだ。

 タマモは使い捨て歯ブラシの袋を開け、ブラシの上にチューブから歯磨き粉を押し出した。

 にやりと笑う。

 その笑いはそのまんまイタズラをたくらむ子供のそれだ。

 寝ている忠夫の傍らにしゃがみこみ、歯ブラシを忠夫の口の中に突っ込む。まるで母親が幼子の歯を磨くように、前後左右に動かす。

 しゃこ、しゃこ、しゃこ、しゃこ……。

 静かなホテルの一室に、歯を磨く音だけが規則的に響いていた。

 しゃこ、しゃこ、しゃこ、しゃこ……――。

 少女が寝ている少年の口に歯ブラシをつっこんで能動的に歯を磨いている光景。

 ……シュール極まりない光景だった。

 やがて。

 口の中が泡立てられた唾液と歯磨き粉で一杯になった頃。ようやっと忠夫は違和感で目を覚ます。

 

「ふ、ふご……、ぐ、ぶおはぁっ!」

 

 マグマを滾らせる火山の噴火口のように、口から鼻から歯磨き粉を吐き出した。

 

 ――な、何が起こった!?

 

 寝起きのまどろみなど一気にすっとばし、即効覚醒状態。

 目に入ったのは、歯ブラシを持ったまま畳の上に突っ伏してケタケタ笑うタマモの姿。この瞬間全てを理解した。

 

 ――また、おまえか!?

 

 言いたいことはたくさんあったが、今はとりあえず。

 揺り起こした上半身の反動だけで、布団から飛び起きる忠夫。そのまま洗面所にばたばたと慌しく一直線に走っていく。

 ジャー、と叩きつけるような水音が洗面所から聞こえる。

 しばらくして。

 

「オラァ! 毎朝毎朝のことながら、よう飽きもせんと訳のわからん起こし方してくれやがるなぁっ!?」

 

 洗面所から忠夫が怒鳴りながら飛び出してきた。

 タマモはにっこりと笑顔を浮かべた。

 

「おはよ、目は覚めた?」

「ああ、覚めたともさっ!」

 

 こんな寝起きのドッキリハプニング聞いたこと無い。

 

「大体、お前はっ、ゲッホッゴホッ、オエ……!」

 

 口の奥からは飲み込んでしまった歯磨き粉の風味がふわりと上ってきて、鼻の奥からは海でおぼれたようなツーンとした痛み。気持ち悪いことこの上ない。

 咳き込む忠夫を、タマモは眉根をひそめ心配そうに見つめる。

 

「大丈夫? 水、飲む?」

「ゲホゲホッ……っ、やかましいわ!」

 

 あいも変わらない騒がしい様子で温泉旅行二日目の朝は始まった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「それで、今日はどうするの?」

 

 朝食の席でタマモが今日の予定を尋ねてきた。

 人骨温泉スパーガーデンの朝食はバイキング形式だった。宿泊客はホテルの一階にあるレストランでそれぞれ決められた時間内に好きに食べられる。頼めばルームサービスもあるようだが、多くの客はここで朝食をとるらしい。周囲のテーブルには老若男女とわずたくさんの人たちが思い思いの食事を楽しんでいた。

 タマモが持ってきた皿にはサンドイッチや、サラダ、スクランブルエッグなどがこじんまりと盛り付けられている。対して忠夫のほうはというと、サンドイッチや大盛りサラダの他にもウインナーが十本ほどに、卵料理各種が一つの皿にこれでもかと乗せられている。ロールパンがピラミッドのように積み重なっており、おわんいっぱいのご飯に、冷奴、ほうれん草のおひたし、おしんこなど、和洋関係なくバイキングに並んでいる料理がほとんど全種類節操なく並んでいる。大人でもとても食べられないような量だが、この少年はこのぐらいの量ならぺろりと平らげてしまうのだ。

 忠夫は口に入れた料理を咀嚼し終えてから、タマモの質問に答えた。

 

「とりあえずは、前から予定していた通りここの近くにあるっつう高原に行こうぜ」

「悪霊探しは? 昨日見つかんなかったんでしょ」

「とりあえず高原で昼飯食ってからこっちに戻ってきて、それからだな」

「ふ~ん。じゃあ、せっかくだから今日は私も悪霊探しに付き合うわよ」

「おいおい、さすがにそれは……」

 

 タマモの提案を拒否しようとする忠夫。それはそうだ。相手は人に害なす悪霊。相応の危険が付きまとう状況にわざわざ妹を引っ張ってこようとは思わない。

 

「あら、反対する理由がどこにあるのかしら? 霊に対しての索敵だったらあんたより私のほうが得意よ?」

 

 それに、とタマモが続ける。

 

「あんた私がその辺の霊にどうこうされるなんて思うわけ?」

「そりゃそうだけどよ」

 

 タマモの霊的害意に対する対応能力は忠夫もよく知るところだ。見た目で判断すると、とてもそうは見えない幼子の姿だが、その戦闘力は高い。

 

「じゃあ、異論ないでしょ。あんたは昨日の続きで山の中の捜索、私は街周辺を探してみるわ。はい、決定」

 

 強引に取りまとめたタマモは食事を再開する。これ以上論ずる必要は無いといった頑なな様子だ。

 こりゃあもう何を言っても無駄そうだ、と忠夫は食事は再開した。

 食事を終えた二人が高原に向かうバスに乗るために、出かける準備をしてホテルから出た時のことだ。

 

「なんだありゃ?」

「さあ?」

 

 ホテルの前の通りに人だかりが出来ていた。興味を引かれた二人は近づいてみる。どうやらテレビの撮影らしい。カメラマンとリポーターらしき男女。そしてもう一人。

 

「お?」

 

 忠夫はまじまじとカメラを向けられている老人を見つめる。

 間違いない。

 

「昨日のじいさんじゃねえか」

「ん、知り合いなの?」

「……ん、んんっ、うーん、ちょっとな」

 

 目をそらし、だいぶ曖昧な感じで答える忠夫。

 ちょっとばかり後ろ暗い知り合いだ。

 それは昨晩、露天風呂で忠夫と一緒に女風呂を覗こうとした老人である。弁柄色の和服に身を包んでおり、下駄を履いている。ここまでならどこにでもいる普通の温泉客なのだが、普通と括るには奇妙な物を身に着けていた。梵語が書かれた長く白い布を首からマフラーのように棚引かせている。手甲をつけ、その上からは数珠を巻いていた。そして彼の服装からもう一段周囲から浮き立たせているのが、サングラスである。和装に、流線型のシャープなデザインのサングラス。ミスマッチで怪しげな印象がある。

 

「はい、それではこちら凄腕のゴーストスイーパー美木原GSです」

「うむ、私が美木原だ」

 

 レポーターの紹介に鷹揚にうなづく老人。

 

「は? ゴーストスイーパー? あのスケベジジイが?」

 

 こう言ってはなんだが、とてもそうは見えなかった。

 どうやら昨日タマモの話の中に出てきた自治体から悪霊の調査を依頼されたゴーストスイーパとやらがあの老人だったらしい。

 

 ――そういえば、仕事でここに来ているって言ってたなあ。

 

 忠夫は昨日の老人との会話を思い出していた。

 一方、タマモのほうはというと、ジトッと胡乱な視線を忠夫に向けていた。先ほど忠夫が不用意に発した一言が原因だった。

 

「……スケベジジイね、そう、なるほどね」

 

 忠夫と老人の関係について察しがついたようだった。

 女風呂の覗きの件に関しては、そのとき風呂に入っていたタマモには忠夫が覗きに来ていたという事には気づいていたが、もう一人のほうの見知らぬ気配については分からなかった。

 なるほどなるほど、そういうことね。

 

「呆れて声も出ないわ。あんなおじいさんと一緒に覗きなんて」

「うおっほん! まあ、その話はもういいじゃねえかよ」

 

 わざとらしく咳払いする忠夫。

 そんな中でも、テレビの取材はやはり悪霊の件に関してらしい。数日前から起こる不可思議な事件の数々について特集を組んでいたらしく、そこで突然片田舎の街に現れた著名なゴーストスイーパーに事件との何らかの関係を見出し突撃取材をしているようだった。

 地方の自治体としては、霊障で怪我人も出ているなどとは喧伝してほしくないらしく情報規制がひかれているようだった。確かにこのあたりの温泉街にとって観光業は街の財政の生命線と呼べるものだろう。悪霊が出る温泉街などとつまらないケチをつけられてはたまったものではない。

 

「美木原GSがいらっしゃるということは一連の怪事件はやはり霊障ということなのでしょうか?」

 

 レポーターがマイクを向けて尋ねると、美木原はある意味とんでもなくすっとぼけた返答を返した。

 

「何を言っているのか分からんね。私はただ温泉を楽しみに来ただけだが?」

 

 ――そんな怪しげな格好をした温泉客がいるか!?

 

 路地の薄暗がりの中で占いやまじないの商売でもしていそうな格好で、いけしゃあしゃあとそんなことをのたまった。

 これにはさすがにレポーターも忠夫の内心で上げたツッコミと同じことを考えたらしく、頬が盛大に引きつっていた。

 

「い、いえ、その美木原GSのその格好を見ますと、どう考えても」

「これは普段着だ」

 

 あくまで普段着、と。

 そう断言する美木原。あそこまで胸を張って言われると、本当にそうなのではと思ってしまう。

 それからレポーターは少しでも美木原から情報を引き出そうと話を振るが、一向に成果は上がらない。のらりくらりと話を受け流す美木原。

 おそらく情報の拡散を防ぎたい自治体から口止め料でももらっているのだろう。

 やがてレポーターはあきらめたらしく、カメラマンともどもすごすごと撤退していった。

 

「よ、じいさん」

「げ」

 

 忠夫の顔を見るなり、嫌そうに呻く美木原。

 

「んだよ、その〝げ〟ってのは」

「……誰かの? わしはおぬしなぞとんと見覚えが無いのだが」

 

 そっぽ向いて、そらっとぼける美木原。

 

「昨日、温泉で」

「ぬおおおおおお――っ! やめんかぁっ! ちゃんと覚えとるわ!」

 

 衆人観衆の前で女風呂を覗こうとしたなどという話をされて噂が広がろうものなら今まで築き上げてきたゴーストスイーパーとしての名声に傷がつきかねない。慌てて忠夫の言葉を大声で遮る美木原。

 忠夫はやにやと意地の悪い笑いを浮かべている。

 

「そうそう、人間素直が一番だぜ?」

 

 ――こ、こいつ……っ。

 

 額に青筋を浮かべながら唸る。

 

「ところでじいさんゴーストスイーパーなんだって?」

「ふん、聞いとったのか。そうじゃよ、結構テレビにも露出していたのだが知らんのか?」

「全然」

「いちいち癪に障る小僧じゃな」

 それより、と忠夫は美木原に指を突きつけた。宣言する。

「あの悪霊は俺の獲物だ。あんたにやれはしねえぜ」

 美木原はその言葉にぽかんと表情を惚けさせた。忠夫の言葉の意味することを頭の中で咀嚼する。

 

「それは、なにか? おぬしが霊を退治すると」

「そうだ」

「おぬしはゴーストスイーパーというわけではあるまい。年齢的にも」

 

 訝しげに問いける美木原。ゴーストスイーパーの資格を手に入れるための試験には原則的に年齢制限がある。目の前のまだ幼い容貌をした少年が、規定の基準に達しているとは思えない。

 

「おう、資格はまだ持ってないぜ」

「じゃあ、関わるな。命落としても知らんぞ」

 

 それは大人としてもプロとしても当然の勧告だ。

 

「というか、暗に悪霊退治でこの街に来たって今ので認めたようなものだよな」

「う、ぬ……、いいからおぬしはここでおとなしく温泉にでもつかっとれ! プロの現場に素人がしゃしゃりでてくるでない!」

「は、見た目で判断すると痛い目見るぜ?」

 

 顔を突きつけあってにらみ合う二人。

 そんな二人を遠巻きに眺めながら、なにやっているんだか、とため息をつくタマモ。ふと気づくことがあった。

 

「あら、猫だわ」

 

 タマモがそんなことを言った。

 忠夫が足元を見下ろすと、そこには一匹の猫がいた。白と黒のブチ猫だ。くりくりとした愛らしい瞳でこちらを見上げている。

 

「ん? おうオセロ、おまえどこに行ってたんじゃ?」

「にゃーん」

 

 オセロ。

 美木原は猫を抱き上げて、名前を呼んだ。

 

「なんだ、その猫じいさんのか?」

「そうじゃ、わしの家族じゃ」

 

 そういえば、昨日聞いた話では嫁はいないと言っていた。

 

「オセロっつうのか?」

「うむ、白と黒の毛並みだからオセロじゃ」

「また安直な名前だな。おーい、オセロー」

 

 忠夫は美木原が抱きかかえたオセロの背中を撫でようとする。美木原は鼻を鳴らして「止めておけ」と忠告してきた。

 

「オセロはわしにしかなつかん。引っかかれるのが関の山……なにぃっ!?」

「おうおう、なんだ人懐っこいじゃねえか。ほれほれここがいいんか」

 

 驚愕の表情を浮かべる美木原。忠夫はオセロの背中を撫でた後、耳の後や、あごの先っぽ、を人差し指で掻いてやる。

 オセロは気持ちよさそうにごろごろと喉を鳴らしている。

 体質なのかは分からないが、忠夫は昔から妙に動物に好かれやすかった。

 

「ほーれほれ……、ん? どうしたよじいさん?」

 

 美木原はわなわなと震えていた。頬には汗がびっしり。呼吸も荒い。傍目から見ると今にも倒れるのではないかと思えるほど顔が真っ青だ。

 

「おいホントに大丈夫か? 今にも死にそうなツラしてよ」

「け、けけけけけけけけ……――っ」

「おいタマモ大変だ。このじいさん急に笑い出したぞ。統合失調症かもしれん」

「多分笑っているわけじゃないと思うんだけど」

 

 突然の美木原の奇行に戸惑う忠夫。

 

「け」

 

 それから美木原は爆発したように。

 

「決闘じゃあああああああああああああ――――――っ!」

 

 叫んだ。

 

「はぁ? あんたなに言ってんだ?」

「うるさい!決闘じゃ、決闘! よくもオセロをかどわかしてくれたのうっ?」

「かどわかすってなんだ、かどわかすって?」

「オセロは今までわしにしかなつかんかったんじゃ!」

 それなのに! と悪夢を振り払うように頭を振る。

「わしから家族を、オセロを奪おうななどと万死に値する! 許さん、決して許さん! オセロは決しておまえのような青二才にやるわけにはいかん!」

「娘の連れてきた彼氏を追い返す父親か!?」

「やかましいわ!」

 

 これはやばい。

 完全に周りが見えていない。よっぽどオセロのことをかわいがっているらしく、オセロが懐いた(美木原主観)忠夫をまるで親の敵に対するような厭悪な表情を向けてくる。

 

「決闘じゃ! 例の悪霊を先に倒したほうが勝ちということでよいな!?」

「あんたさっきと言っていることが違うぞ?」

 

 さっきまでは悪霊には危ないから近づくなと言っていたはずだった。それなのにこの変わりよう。

 

「うるさい! わしが勝ったら今後一切オセロには近づかんでもらおうか」

「いや、別に近づくなっつうんなら近づかんけども」

「なんじゃとぉぉぉっ!? それは貴様オセロを弄ぶだけ弄んで飽きたらポイということか!? この鬼畜外道めが!」

「人聞き悪いな、オイ!? あんたさっきから言っていること滅茶苦茶だぞ!」

 

 まあこれならこれでいいかと忠夫は思う。どっちみちあの悪霊を退治することを他の霊能者に譲るわけにはいかない。同業者に遅れをとったと師匠に知られようものなら、修行が足りないとか言われて拷問もかくやというくらいの地獄の修行を受けることになりかねない。

 

「まあいいぜ、その勝負は乗った。それで俺が勝ったらじいさんは何してくれんだい……何を賭ける?」

 

 向こうはこちらが負けたときの条件を提示してきた。つまりこちらが勝負に勝った場合は何らかの条件を飲み、もしくは物品を賭ける心積もりということなのだろう。それなら一応確認しておかねば損だ。

 

「く……、そのときは、わしも男じゃ」

 

 つう、とサングラスの奥から涙が頬を伝った。男泣き。魂の慟哭だった。

 

「おまえとオセロの仲を認めよう!」

「いらねえっつってんだよ!」

 

 どうも美木原の頭の中では猫のオセロに交際を申し込む間男(忠夫)という構図になっているらしい。娘のように大事にしていた猫が初めて自分以外に心を開いた相手。心情的にはそんなもんなのだろう。

 

「そうじゃねえ、そうじゃねえんだよ……、他にほら、あるだろ? こういう勝負事のときに賭けるものってもんがよぉ」

 

 にじり寄る忠夫。上に向けた人差し指と親指で輪を作るジェスチャー。何を要求しているかは確定的だった。

 

「やめなさいこのバカ」

 

 タマモが流麗な足刀蹴りによって問答無用で黙らされた。

 

「つおっ、おま……っ、交渉の邪魔すんじゃねえよ」

「あんたはチンピラか。金銭を要求するなんて優雅さのかけらもないわよ」

「優雅じゃ腹は膨れねえ……ん、そうだ」

 

 それなら、と思いつくものがあった。

 

「おい、じいさん。それなら俺が買った場合に要求するものは、ここから東京までの電車の切符だ。もちろん二人ぶんな」

「……ああっ!」

 

 ぽんと手を打つタマモ。

 そうか、そういえばここに来るまでに乗ってきた自転車はスクラップ行きになってしまった。なによりもう一度あの道のりを自転車で帰るのは忠夫はともかくタマモには少々辛いものがあった。

 渡りに船というやつだ。もしくは一石二鳥。直接の金銭のやりとりとあまり変わらない気もするが、各々の捉え方の違いというやつだろう。

 

「ふん、そんなものでいいなら用意しようではないか! もちろんわしに勝ったらの話だがな!」

 

 ――よし、言質はとった。

 

「は、油断して足元すくわれんじゃねえぞ」

「おうおう小童が嘶きおるわ!」

「ほえ面かかせてやるからな。よし、じゃあタマモ!」

 

 タマモの手を引いて歩き出す忠夫。

 ……向かう先は。

 

「さっそく高原に遊びに行くぜ!」

「って、なんじゃそりゃあ!? 最初に喧嘩ふっかけてきたのはおぬしじゃろうが、勝負はどうした勝負は!? いきなりそんなんあるかぁ!?」

「うっせ、こっちのほうが先約なんだよ!」

 

 ますますヒートアップしていく二人の様子を尻目にタマモは静かにため息をついた。 

 

「なんでこういちいちバカ騒ぎになるのやら。一体どうすれば穏やかな温泉旅行になるのかしら?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ゴーストスイーパーの卵、横島忠夫。

 

 

 その妹、横島タマモ。

 

 

 神になれなかった地縛霊の少女、キヌ。

 

 

 老練のゴーストスイーパー、美木原。

 

 

 猿の親子を引き裂く原因となった、一週間前の大地震。

 

 

 そして、未だ目的が分からない謎の悪霊。

 

 

 

 

 

 

 

 物語を紡ぐための糸はこれで全てだ。

 これらの糸が絡み合い、御呂地岳とその周辺の街に、未曾有の大事件を引き起こす切欠になることを知るものは……。

 まだ、いない。

 

 

 

 

 

 

 



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【07】

 

 

 

 

 

 

 川を水が流れる音がひどく耳障りだった。

 体が鉛のように重い。

 水を吸った衣服は全身を覆う重りのようだった。疲労感が全身を包み込み、足は自重を支えているだけで膝ががくがくと震えた。目が霞む。疲労感に今にも意識が飛びそうだった。

 

 ――なにが……あった?

 

 自問する。

 記憶が曖昧だ。今さっきまでのことが思い出せない。

 周囲を見渡す。そこは河原だった。山の奥深いところにあるらしく木々の向こうに折り重なる緑の稜線が見える。河原の両岸から手が覆いかぶさるように樹木の枝葉が日の光を遮っていた。いくつもの樹の影が重なり、森の奥には黒々とした静寂を生み出している。

 流れる水と緑の木々、そして夏の陽光が生み出す深遠な自然の景色。

 ふらふらとした足取りで大きな岩のところまで歩いて行き、岩に背を預け、その場に力なくずるずると座り込む。体を支えるため地面に手を突くと、肘にズキンと痛みが走った。いや、肘だけではない。疲労感で気づかなかったが、全身のいたるところから鈍い痛みがする。この痛みは覚えがある。階段から転げ落ちたときの全身を滅多打ちにされったような痛みだ。

 体中の痛みに、ずぶぬれの衣服、そして河原。

 

 ――ああ、そうか。

 

 俺は……川に突き落とされたんだっけか。

 覚えている。思い出した。

 水の中を鞠のようにぐるぐると回転する感覚。どちらが上か下かも分からず、息継ぎすることすら間々ならず。川底から突き出した石にたたきつけられる痛みに、口や鼻から入ってくる水の苦しさ。

 川幅が広がり水流が穏やかになってきたこの場所で、なんとか川から這い上がることが出来たこと。

 

 ――なんでだ、川に突き落とされたって、誰に?

 

 意識が霞む。うまく思い出せない。

 チチチ、と雀が足元に降りてきた。人間に慣れているのか、それとも人間とも認識されないほど存在感が希薄になっているのか。

 重くなるまぶたに、ぼやけて細くなっていく視界。全身を覆う疲労感が、なんとか繋ぎ止めている意識を奈落の底に引きずり込もうとしているようだ。

 寝るな思い出せ、と自身を叱咤する。

 思い出せ、思い出さなくちゃいけない。

 形の見えない焦燥感が急き立ててくる。少しでも時間を置けば、どんどん事態は悪い方向に進んでいく。取り返しがつかなくなる前に、早く、早く。

 しかし無常にも。

 彼は、横島忠夫はそこで意識を失った。

 

 

 

 自身に降りかかった事件の顛末を走馬灯のように思い出しながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 横島忠夫と横島タマモの二人がやってきた高原は、人骨温泉から三十分ほどバスに揺られてたどり着ける距離にあった。クーラーは壊れているらしく、ほぼ全ての座席の窓が全開にされていた。風は天然のクーラーだった。吹き抜ける風の涼しさが汗にぬれた頬を優しく撫で、車内を満たす深緑の香りに、車の揺れさえもゆりかごに揺られているような心地よさを覚えたものだ。

 やがてバスは緑の山々と谷とを抜け、なだらかな丘陵地帯にある高原の牧場へとたどり着いた。

 バスを降りた乗客を迎えたのは、遠く彼方の山々の裾野へと続く雄大な大地だった。地平線が見える、とまでは行かないが、その雄大さに観光客は感嘆のため息をもらした。風が吹く様子を教えてくれるのは波打つ緑の絨毯。青空を切り抜いたようにぽっかりと浮かぶ入道雲は巨人のようにこちらを見下ろしている。

 やがて、高原の牧場の青年がやってきた。背は男性の平均からするとそれほど高くないが日焼けした浅黒い肌に引き締まった体は、精悍で朗らかな印象を覚える。

 

「では、牧場体験コースの方々は僕についてきてください」

 

 両手をメガホンの形にして声を張り上げる。遠くまでよく通る声だった。

 

「よし行こうぜ」

「ええ」

 

 忠夫とタマモの二人もこの体験コースに申し込んでいた。温泉到着当日にホテルの仲居さんに観光スポットを訊ねたところこの牧場体験コースというのを勧められた。なんでも都会から来たお客には普段味わう機会の少ない自然や動物とのふれあいがあり好評らしい。値段も負担になるほどではないということで、二人もこの牧場へとやってきていた。

 彼らが案内されたのは牧場にあるロッジだった。

 緑の草原の中、陽光に煌くアスファルトの道を進んだ先にある木造作りのペンション風の建物で、中は広々としており天井も高く開放感があった。ガラス張りの壁の向こうには柵で囲まれた放牧地が見えた。遠目だが、羊や牛がのそのそと歩いているのがぽつぽつと見える。

 

「それでは皆さん好きな場所に座ってください」

 

 牧場の青年の声で、思い思いの場所に座る観光客たち。忠夫とタマモの二人が座ったのは隅の壁際だった。近くの壁には暖炉がある。冬には煌々と暖かな炎を灯すのだろうが、今はその役割から開放されインテリアの一部として部屋を彩っていた。暖炉の上には陶器製らしきピエロの人形や欧州の絵本にでも出てきそうなデフォルメされた女の子の人形がある。天井の梁の上にも猫やリスの人形が見えた。壁に描かれた壁画には、ヨーロッパの古地図を思わせるような表情のある太陽と月、星座や飛行船などが描かれており、クラシックでどこかあたたかみのある部屋だった。

 

「それでは僕のほうから体験コースについての説明をさせてもらいます。あ、申し送れました。僕の名前は……」

 

 案内役の青年の自己紹介の後、体験コースの概要を聞いた。

 本日の牧場体験コースのでは次の三つの体験が出来るという。

 一つ目は、牛の乳搾り体験。

 二つ目は、動物へのエサやり体験。

 三つ目は、取れたてのミルクで作ったアイスクリームの試食。

 午前中で終わる予定の短いコースだ。

 体験コースの説明が終わると、早速牛や馬がいる酪農畜舎へと向かった。この牧場は80ヘクタールの広さの土地らしい。これは東京ドームおよそ13個分。個人でこれだけの土地を管理しているというのは驚きである。

 酪農畜舎は遠くから見るとまるで一昔前の学校のような風格のある木造建築だった。その横にはとんがり帽子をかぶったような石の塔――牧草などを詰め込んで発酵・貯蔵するためのサイロが建っていた。

 ガイドの青年が畜舎の前に立って説明を始めた。

 

「では早速、牛の乳搾りについての説明を始めます。これは搾乳と呼ばれる作業です。搾乳にはまず数回ほど手絞りをして牛の乳房やミルクに異常が無いかを確認します。ここの作業にはもう一つ意味があって、これから搾乳が始まりますよという合図を牛に送ります。泌乳ホルモンの分泌を促すことで乳房が張ってきたら、本格的に搾乳を開始します」

 

 説明は滔々と続き、「では皆さん、早速畜舎の中に入ってみましょうか」とのガイドの合図で観光客たちはぞろぞろと畜舎の中に入っていく。

 

「よし行こうぜタマモ!」

「ええ、ってどうしたの? ずいぶんやる気に漲っているじゃない」

「おうとも! いやぁ前から牛の乳搾りってのをやってみたかったんだよ! あれだろ、牛乳は搾りたてが一番ウマイって聞くしな!」

「多分飲ましてくれないと思うわよ。衛生面の関係とかで」

「そんならそんときだ。早速、牛のチチ絞りに行くぜ!」

「て……あの、忠夫。さすがに、その……あまり大きな声で――っていうのは恥ずかしいから勘弁してくれないかしら?」

「え、なに? よく聞こえねえんだけど。それはいいから早くチチ絞りに行くぞ、チチ!」

 

 こいつにデリカシーて言葉はないのか?

 乳、乳と連呼する忠夫に頬を染めるタマモ。見ようによってはセクハラだ。しかし牛の乳搾りというのはパンフレットに書いてあるような言葉だ。タマモはこれは多分自分が自意識過剰で恥ずかしがっているだけなのだろうと思い、深く考えるのをやめた。気を取り直す。

 

「ま、まあとにかく行きましょうか」

「おう! たくさんミルク絞ってやるぜ! チチ張らして待ってろよ雌牛ども!」

 

 ――イヤ、やっぱりすごく恥ずかしい!

 

 というか、周りの人たちがこちらをチラチラ見ながらクスクス笑っているのが、現在進行形で恥をかいていることの証拠だ。乳、乳と、わざとやっているのではないかと思うくらい大声で連呼するバカの真横でタマモは恥ずかしげに顔を伏せた。

 

「た、忠夫、お願いだからちょっと声絞ってくれないかしら」

「は、なに言ってんだ? 絞るのは声じゃなくてチ――」

「もう、いい加減にしなさい!」

「――ぢっ!?」

 

 もうあんたは黙っていろ。

 そんな意思を込めた渾身の右ストレートが忠夫のわき腹を打ち抜いた。

 牛の乳搾り自体はそんなに簡単な作業ではなかった。ガイドの人が最初にやって見せたように勢いよくミルクは出てこなかった。

 それに対し忠夫はというと。

 

「なんっかうまくいかねえな。絞り方が悪いのか? 勢いがねえな勢いが。ちょろちょろちょろちょろと切れが悪い。これじゃあまるでジジイのショ――べぐッ!?」

 

 ――それ以上言わせるか!

 

 タマモのコークスクリューアッパーが忠夫の顎を打ち合げ、強制的に口を黙らせていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「暴力娘め。なんだ少し早い反抗期か?」

「うるさいわよ。いいから黙って草刈りなさい」

 

 二人はカマを片手に牧場にある草を刈っていた。動物のエサやり体験で、牛に食べさせるためのものだ。かれこれ四十分くらいは刈っている。

 ガイドにもらった手ぬぐいで汗を拭いながら忠夫がつぶやく。

 

「しっかし、うまい具合にできてんなこのシステムはさ。客に雑草刈らせて、牛のメシを確保した上で、金も入ってくるってんだから。牧場は元手ゼロどころか労働力を確保できる……一石三鳥じゃねえか」

「そういうこと言わないの。ガイドの人は素人相手に説明したりしなきゃいけないんだから、その手間代考えると一概に牧場が得しているとはいえないでしょ」

 

 返答するタマモの頬にも暑さのために汗が伝っていた。

 

「俺は褒めてんだよ。よく考えられてんなぁって」

「皮肉に聞こえたわよ」

 

 それからしばらくして、ガイドから動物たちのところに案内された。

 忠夫たちの前にいるのは羊だ。

 忠夫は羊と目を合わせる。じいっと目を合わせ、微動だにしない。黙ったまま、ひたすら見つめる。それから。

 

「メェ~」

 

 と羊が鳴き声を上げた。

 忠夫も。

 

「めぇ~」

 

 裏声で羊のモノマネをする。

 すると。

 羊がそっと擦り寄ってきた。

 背中を忠夫の足にこすり付けている。

 ……種族を超えた何かが芽生えた気がした。

 

「こんな感じだ……分かるな?」

「分からないわよ! 今のが動物になつかれる秘訣? そんなんでなつかれれば苦労しないわよ」

「まあまあ、ほらちょっと試してみろよ。心を開け、心を無にしろ」

 

 悟りの境地みたいなことを言いながら、忠夫は羊から見て正面をタマモに譲った。

 静々と羊の前にやってくるタマモ。

 ドキドキとはやる鼓動。手に持った草をおずおずと羊の前に差し出す。

 

「ほら、お食べ」

 

 それを見て羊は。

 ――一目散に逃げ出した。

 

「あ」

「あー……」

 

 これは、なんと言えばいいのだろうか。

 タマモが目の前にやってきたら、まるで獰猛な肉食獣がやってきたのに気づいたように即、逃げ出した。ものすごい勢いで。

 羊じゃなくとも犬、猫などたいていの動物はタマモが近づいた途端に逃げ出してしまう。ひょっとしたら動物だけに野生の本能によってタマモにある何かを察知しているのかもしれない。

 

「あ~、ほら、あれだ。今度は俺がやったみたいに鳴き声のモノマネしてみろよ。うまくいくかもだぜ」

「……本当?」

 

 弱弱しくタマモが訪ねてきた。逃げられたのが結構ショックだったらしく、いつもの強気が少々鳴りを潜めている。

 

「ものはためしだ。ほらあそこにも羊がいるぞ」

 

 頷いて、とことこと羊の元に小走りに近づいていくタマモ。無表情ながら、瞳の奥に期待を隠しているような視線だ。

 なんだかんだで。

 こういうところは本当に子供っぽいなあと忠夫は苦笑交じりに思っていた。

 しかし。

 

 足音に気づいた羊が顔を上げる。

 近づいてくるタマモの姿を見た。

 ――逃げ出した。

 

「て、はええよ!」

 

 もうちょっと付き合ってくれてもいいだろう!?

 羊は普段のおっとりとした様子からは信じられないくらいの俊敏な動きで逃げていく。ライオンが目の前にいてもあそこまでは慌てないんじゃないかというくらいの逃げっぷりだ。

 タマモはその場でピタリと足を止めていた。

 微動だにしない。背中から哀愁が漂っている。それから、タマモは。

 

「…………め、めぇ――っ」

 

 鳴いた。

 普段のタマモからは想像できない光景だった。忠夫の教えたとおりに羊の鳴きまねをした。プライドとか放り出して。

 鳴いた。逃げていく羊の背中に向かって。小さくなっていく羊の背中に向かって……。

 しかし羊は止まることなく――――厩舎の向こうへと消えてしまった。

 タマモはその光景を見つめたまま、その場から動いていない。迷子の子供のように呆然とたたずんでいる。その背中が泣いていた。

 ……見ているこっちも泣きそうになる情景だった。

 忠夫はタマモに近づいていく。ぽんと頭に手を置いた。

 

「優しくしないで」

 

 つっけんどんに返された。

 しかし今はそんな言葉に反応してられない。

 

「ほら、来てみな」

「え、ちょっと……っ」

 

 タマモを脇に抱えて歩く。

 

「な、なによこの持ち方! まるで荷物みたいに!?」

 

 文句を言っているがこの際無視だ。近くにいた他の羊の前まで歩いていく。

 

「ちょ、いやっ! もういいってば!」

 

 二度も羊に逃げられたため、羊にはもう相対したくないらしい。

 忠夫は後ろから抱きすくめるようにして、タマモの手を握る。二人羽織のような形で、タマモが手に持っていた草を羊の前に差し出した。

 

「ほれ、こーいこい」

 

 羊は草をじっと見つめていた。

 逃げ出す気配のない羊に、タマモは息を呑んだ。そしてじっと羊の挙動に注視する。

 羊は少しの間、草を見つめていて。 

 

 ――パク。

 

 タマモが持っていた草にかぶりついた。

 

「あ」

「おお、うまそうに食いやがるなこいつ。な、タマモ」

「……ん」

 

 短く返事するタマモ。その表情は忠夫の位置からうかがうことはできない。それでも多少は機嫌が良くなっているようだったのでこの場はそれで良しとしよう。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――意識が戻ってきた。

 

 河原で横たわったままの忠夫は今日あった出来事を思い出していた。

 そうだ。タマモと一緒に高原の牧場に行って……たしか、そのあとホテルに戻ってきてから、どうしたんだったけか。

 気絶していたのが多少なりとも体力の回復になったのか、だいぶ意識がはっきりしてきた。まだ体が動かせるほどの余裕はないが、それでも十分だ。

 体の状態を確認する。

 体中、擦り傷と打撲だらけだ。しかし不幸中の幸いというか骨折などの重症はない。意識がまだ幾分かボーとしているのは、川を流されている間、頭を打ち付けたのかもしれない。頭をさすってみるが目立った外傷はない。内出血の危険があるが、今のこの状況では調べようがない。

 空を見上げると木漏れ日の向こうに、よりいっそう強く輝く太陽の光が見えた。日の傾き具合と木の影の長さから考えて、おそらく午後三時前後といったところだろうか。

 今は出来るだけ迅速に状況を確認しなければならない。

 まずは思い出すことだ。

 今日一日なにがあって、自分の身に何が降りかかったのかを。

 

「お、おいあんた大丈夫だだか」

 

 不意に声がかけられた。

 誰だ?

 振り向いてみると、巫女装束の女の子がいた。

 

 ――おキヌちゃん?

 

 いや、違う。人間だ。

 それも、その顔には覚えがある。たしか、この子は――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 昨日は散々だった。

 氷室早苗はそんなことを鬱々と考えながら自身の実家のである御呂地村の氷室神社から続く山道を巫女装束で歩いている。氷室神社が代々守る、とある祠の掃除をするためだ。

 

「なんでわたすがあんな目にあわなきゃいけないだ」

 

 ぶつぶつ言いながら思い出すのは昨日のこと。

 来年高校受験を控えた彼女は街にある学校での夏期講習に出かけ、その帰り道であの事件に遭遇した。

 何が起こったのかその瞬間は分からなかった。

 突然横合いから少年が飛び掛ってきた。

 まさか痴漢か!?

 抱きすくめられた早苗が即座に出した結論がそれだった。とりあえず頬を張ろうと思い、手を広げる。迷いなく行動に移す辺り早とちりが過ぎるが、しかし次の恐るべき場面を目にしてしまった。

 空から降ってきた大きな物体が、今まで自分が立っていた場所に落ちてきた。轟音と共に地面に叩きつけられ弾ける物体。それがビルの看板だったと気づいたのは、会社の電話番号が書かれた看板の破片が足元に転がってきた時だった。

 呆然としていた。

 突然降りかかった非現実的な光景が彼女から思考能力を奪っていた。

 

「おい、あんた!」

「あ、な、なんだ?」

 

 突然かけられた声にハッと我を取り戻した。

 

「怪我はっ?」

 

 けが?

 ああ、そうか怪我か。

 現実感のないふわふわとした感覚のまま、自分の体を触ってみる。特にどこにも痛みはない。怪我はないようだ。

 看板が落ちてきた地面のアスファルトは粉々に砕けていた。もしそれが自分の頭の上に振って来たらと想像してしまった。

 粉々に砕ける頭蓋に飛び散る脳髄。それはもはや自分の頭と顔を判別できないほど無残に、ぐちゃぐちゃに砕いていただろう

 それをきっと自分は気づかない。気づかないまま、死んでいた。

 そうだ、怪我はない。

 自分は、生きている。

 生きている、生きている、生きている、生きている……――!

 頭の中で何度も反復するうちに。

 やっと、実感がわいてきた。

 気づいたら体を強く抱きしめていた。

 そうだ、自分は生きている。ここにいる。この腕の中で確かに自分は生きている。

 

「あ、あ、あ、あああ……っ」

 

 ヘビが徐々ににじり寄ってくるように、押しつぶされそうな死の恐怖が胸の奥から吐き気となってせりあがってくる。

 がくがくと足が震えた。知らぬうちに目に涙が溜まっていた。

 

「あ、あの、あの…………あ、ありが、ありが……っ」

 

 助けられた。

 そのことに気づいた。

 なんとかお礼を言おうとするが、うまく歯がかみ合わない。

 そのことに気づいたらしく、自分を助けてくれた少年は無理しなくていいと言うように肩を叩いた。そして笑った。それは心の底から安心させてくれるような柔らかな笑いだった。

 

「礼なんかいいさ。怪我は無いみたいだし良かったな」

 

 ――うん、うん……っ。

 

 それも言葉にはならなかった。ただ頷くことしか出来なかった。その少年の腕の中に抱きすくめられたまま、何度も頷いた。伝わってくる少年のぬくもりに、死の恐怖が徐々に和らいでいくのを感じた。

 やがて少年は傍らにいた小さな女の子に何事かを話すと、いずこかへと走り去っていった。

 

「あなた、大丈夫?」

 

 小さな女の子はこちら顔を心配そうに覗きこんできた。

 驚くほど可愛らしい顔立ちをした女の子だった。それからいくらかのやり取りをした後、気づけば自分は病院にいた。精密検査を受けるためだったらしいが、事件の前後の記憶が今一つ曖昧になっていた。精神的なショックでよるものらしく、そのときは思い出せなかったが、一日経った今そのときあったほぼ全てを思い出していた。

 

「お礼……言いたかっただな」

 

 思い出すのは昨日の少年と少女だ。

 命の恩人。

 早苗の両親も娘の命を救ってくれた恩人に何とかお礼を出来ないものかと考えていたが、この街の住人ではなくどうも観光客のようで所在が分からなかった。両親は地元に深く根付いた神社の者なので御呂地村はもちろん周辺の街にもある程度顔が利く。そのツテを使って何とか探し出そうとしている。

 もちろん早苗自身も会いたかった。

 会って一言お礼が言いたかった。

 

「……ん、なんだ、あれ?」

 

 木々の合間に何かが見えた。山の中を流れる川の河原。その中の一際大きな岩にもたれかかっているのは……人!?

 

「ま、まさか、す、水死体!? ひ、ひゃぁぁぁぁーっ!」

 

 まだ死んだと決まっていない。

 勘違いしたまま勘違いした方向に一心不乱に突撃をかましている。

 

 ――こ、怖い。

 

 死体なんて見たくない。

 なにしろ早苗自身が死体になるかもしれなかった昨日の今日だ。

 

「そ、それでも……っ」

 

 自分は神社の娘だ。そしてここは本殿からはだいぶ離れているとはいえ、それでも神社の境内といえる場所だ。

 

「か、かかかかかか確認せねば」

 

 自分を奮い立たせ、恐る恐ると、むしろ泣きそうな表情で水死体(仮)に近づく。土を踏み固めただけの簡素な道を草履で歩いていく。

 秘密結社の基地にでも潜入したスパイのような慎重な足取りで、そろりそろりと近づく。

 そして気づいた。

 その水死体(仮)がわずかだが動いていることに。

 

「い、生きているだか?」

 

 慌てて走って近づく早苗。生きているとしても、河原で力なく岩にもたれかかっているのだ。どこか怪我をしている可能性がある。

 

「あ、あれ? 昨日のっ」

 

 近づいてみて気づいた。

 それは昨日、身を挺して自分の命を救ってくれた少年だという事に。

 また会えたという喜びと、どうしてこんなところで倒れているのかという不安な気持ちが早苗の中で綯い交ぜになっていた。

 

「お、おいあんた大丈夫だか!?」

 

 近づいてみると体のあちこちに傷がついていた。服もずぶぬれで、まともな状態でないことは一目瞭然だった。

 

「お、おう……確か昨日の……?」

「い、今はそんなこといいだ! どうしただこの怪我、一体何が?」

「崖から突き落とされた」

 

 事も無げに言い放たれた一言は、とんでもない内容だった。

 

「つ、突き落と……っ、さ、殺人事件!?」

「いや、死んでねえし」

「それでも殺人未遂でねえか! ちょ、ちょっと待ってるだ、今すぐ警察呼んで、その不届き者さとっ捕まえてもらうからなっ!」

「いや、落ち着いてくれ。怪我している俺がこういうのもなんだが、落ち着いてくれ。いやホントに」

 

 どうどうとなだめられる早苗。

 

「で、でも……」

「そもそも崖から突き落とされたっつても、相手は人間じゃなくて……」

 

 そう言いかけて、少年はピタリと言葉を止めた。

 徐々に目を見開いていく。

 

「そうだ」

 

 ぽつりと呟かれた一言は焦燥感に満ちていた。

 

「思い出した……そうだ、ちくしょう、最悪じゃねえか」

 

 それから少年は早苗に向き合った。真剣な瞳には冗談とか悪ふざけとかいった感情は一切見られない。

 

「おい、あんた」

「な、なんだ?」

「逃げろ、この街からできるだけ遠く」

「は、はあ? い、一体何を言いだすだ?」

 

 意味が分からなかった。

 まるでこの街に隕石でも振ってくるかのような性急な物言いだ。

 

「最悪、この街は……――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日、その時間。

 御呂地岳にある地震観測所で奇妙な波形をレーダーが捉えた。

 それを見た職員は顔を真っ青にする。

 震源の浅い火山性地震が何度も発生している。短い時間の間に、普通では考えられないような短い感覚で。

 そして今まで計測されなかった電磁波の揺らぎ。

 

「た、大変だ……っ」

 

 再検証しなければならないほど曖昧な計測結果ではない。それはこれから起こることをありありと告げていた。

 職員は慌てて観測室を飛び出す

 やることが多すぎて、混乱していた。

 まずは自治体に連絡すべきか、それとも国か。

 どちらにしても。対応は急がなければならない。

 まず初めにしなければならないのは。

 

「じゅ、住民を少しでも早く避難させないと……っ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 山のずっと奥深く。

 仄暗い洞窟の底でソレは笑った。

 ソレはかつて悪霊と呼ばれていた存在だった。

 しかし今は違う。ソレから発せられるのは禍々しくもまさしく神の力。

 高い岩の上で胡坐をかいていた。

 足元には、一人の少女の霊が倒れこんでいた。意識はない。

 かつて悪霊だったソレが神の力を奪った存在。かつて人柱になった幽霊の少女キヌが横たわっている。

 もうじき、もうじきだ。

 ソレは待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「この辺り一体の街は」

 

 忠夫は静かに告げた。

 

「もうじき火山の噴火による火砕流に飲み込まれる」

 

 

 

 

 

 

 

 

 自身の望みが叶うその瞬間を。

 全てが終わるその瞬間を。

 ソレは、洞窟の奥で、静かに待っていた。

 

 

 

 

 

 

 



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【08】

 

 

 

 

 

 牧場から戻ってきた忠夫とタマモは二手に別れて悪霊の捜索を開始した。

 忠夫は再び御呂地岳へと登った。御呂地岳は地元では霊山と称される通り、地脈の収束地点である霊穴のある場所だった。地脈とは地中を流れるエネルギーであり、これは血液のように惑星の中を循環している。人間はもちろん全ての生き物が生命活動に必要なエネルギーをこの地脈によって得ている。つまり精神体でありエネルギー体そのものである霊にとっても、いやむしろ霊であるからこそ地脈の集まるこの山は、豊富なエネルギーが横溢しており、力を高めるには格好の場であるといえる。

 悪霊が潜んでいる可能性が一番大きいとすれば御呂地岳周辺がもっとも怪しい。しかしそれはあくまで可能性の話だ。そこでタマモが街周辺の捜索をすることになる。人々が多くいる場所もそれだけたくさんの思念が入り混じる。多くの場合、人々の負の感情を糧にその力を増す悪霊にとっては格好の餌場であるといえる。

 忠夫は今現在、山道を登っている。土を踏み固めただけの簡素な道は、木々が鬱蒼と生い茂っている山中を歩く道しるべとしてはいささか心もとない。

 

「たしか、このあたりって聞いたんだけれども」

 

 そんなことをぼやきながら、藪をかき分け、木の枝の下を潜り抜ける。

 やがて視界が開けた。

 薄暗い森を抜けた先に、日の光が包み込む丘が広がっていた。まぶしさに目をしかめる忠夫。 

 ふと、歌声が聞こえた。

 

「……――この子の眠る、よるぞらの、星の數より まだ可愛い――………」

 

 これは、子守唄?

 風に乗って聞こえてくる旋律はやわらかく優しげなものだった。

 忠夫は声に誘われるまま丘の上を歩いていく。

 そこは美しい丘だった。高山植物らしい黄色い花が咲き乱れ、緑の絨毯が波打ちながら山向こうへと続いている。折り重なる山と谷の向こうに、青々とした山脈が屹立している。険しい尾根が連なる山々は起伏に富んでおり、圧倒されるような雄大な姿で聳え立っていた。

 

 ――すっげえな……。

 

 感嘆のため息しか出てこない。

 忠夫が今ここに来るまで歩いてきた山は薄暗く不気味でさえあった。同じ景色が延々と続き、人を迷わす樹海のあるがままの自然の姿に対しての畏怖のようなものを感じたが、今目の前に広がる息を呑むような美しい景色も、等しく侵されていない自然の姿の一つなのだ。

 そこには人の手では決して作り出せない美しさがあった、雄大さがあった。

 吹き抜ける風は透き通るように忠夫の体を通り抜けていく。すると目に映る景色がよりいっそう大きなものに見えた。

 するとなぜだか無性に泣きたくなった。

 なぜかは分からない。今、心の奥底から湧き上がってくる感情を言葉にする術は忠夫には無かった。風に巻かれて、自分の意識も散り散りに千切れてこの自然の中にとけて消えてしまいそうに思えた。

 人間なんてちっぽけなものだ。

 それは言葉の中でなら聞いたことがあったが、今まさにその言葉を心の奥底に叩きつけられ刻み込まれたような想いだった。

 

「……――」

 

 忠夫を現実に戻したのは、先ほどの歌声だった。

 いや、現実に戻した、というのは語弊があるかもしれない。夢見心地というなら今も同じだ。いつくしみ、いとおしむような優しい子守唄は、陽だまりの中で母の背におぶさっていた頃の遠い記憶を呼び起こすような懐かしい気持ちにさせられた。

 自然と声のするほうへと歩いていた。

 そしてたどり着いた。

 

 ――おキヌちゃん。

 

 そこにいたのは幽霊の少女、キヌだった。

 巫女装束で長い黒髪の髪先を束ねるように括っている。情感にゆだねるように目を瞑り、子守唄を紡いでいた。

 彼女は地面に座っている。その膝の上には小猿が眠っていた。昨夜、親猿が成仏したことによって一人になってしまった小猿だ。忠夫には猿の見分けなどつかなかったが、その小猿にははっきりとした目印が在る。事故によって怪我をしたその小猿の足には、骨折を整復するための添え木とハンカチを破いて作った包帯が巻かれているからだ。

 忠夫はそっと耳をすませる。

 

 

 

 

 この子の可愛さ 限りない

 

 山では木の數 萱の數

 

 雄花かるかや 萩ききょう

 

 七草千草の数よりも

 

 大事なこの子がねんねする

 

 星の数より まだ可愛い

 

 

 

 

 歌い終えたキヌは目を開け、小猿に視線を落とす。

 小猿は眠っていた。本来警戒心が強いはずの野生の猿が、幽霊とはいえ人間の膝の上で眠ることなど非常に珍しいことだった。

 

「……ふふ」

 

 キヌは微笑みながら、袴をつかんで眠る小猿をそっと撫でた。起こさないように、そっと、母が子供をいつくしむように、優しく。

 

 ――…………綺麗だ。

 

 忠夫の胸に去来する想いが、キヌに声をかけるのを憚れた。

 声をかけて壊してしまうには、その光景はあまりに優しく清らかなものだった。

 

「え、あ、横島さん?」

 

 キヌのほうが横島に気づいた。

 見られていたことに気づいたらしく、あわあわと慌てた様子で、頬を染め、困ったように眉をハの字に寄せていた。

 忠夫は人差し指を口の前に立てた。静かに、と身振りで伝える。眠ったままの小猿に視線を促した。

 キヌもそれに気づいて、泡を食って口を噤み、忠夫と同じく人差し指を口の前に立てる仕草をする。キヌまでそれをする必要はないのに。それが忠夫には可笑しくて、つい喉の奥で笑ってしまった。そっぽを向いて口の端を吊り上げている忠夫の姿に、キヌも自分の行動の可笑しさに気づいたらしく、人差し指を所在無さげにゆらゆらと揺らし、そっと背中に隠した。

 

「も、もう、笑わなくてもいいじゃないですか」

「ごめんごめん、なんか可笑しくってさ」

 

 忠夫はキヌの横に座った。キヌは口を尖らせ忠夫に抗議した。二人とも眠っている小猿に配慮して声量はずいぶん控えめだった。

 忠夫は小猿に視線を落とす。すやすやと寝息をたてて眠っている。そこには警戒心など微塵も感じられない。

 

「ずいぶん懐いているんだな」

「はい。今までずっと一緒に遊んでいたんですよ。この子ったらずいぶんやんちゃで木から木にぴょんぴょんと飛び跳ねてどんどん先に行っちゃうものだから、追いかけるのにずいぶん苦労してしまいました」

 

 そう言ったキヌの表情は笑っていた。

 手がかかることすら楽しいくて愛おしいのだろう。

 

「そっか……おキヌちゃんは優しいな」

 

 何の気なしに、自然と出てきた言葉だった。

 しかし。

 

「そんなことないです」

 

 ――え?

 

 忠夫は思わずキヌの顔を見つめた。

 そんなことない。そう言ったキヌの声色は決して照れ隠しとかそういう感情ではなかった。そこに込められていたのは明らかな拒絶だった。

 

「おキヌちゃん?」

「え、あの、その……なんでもないです」

 

 なんでもないことはないと思うのだが。

 キヌは自分の失言をごまかすように矢継ぎ早に小猿と遊んだことを語っていく。今の言葉はこれ以上踏み込んでほしくない。明確な拒絶を感じた忠夫は、問いかけようとした言葉を飲み込んだ。

 

 ――成仏したい。

 

 キヌはそう言った。

 成仏。すなわちこの世からいなくなるという事だ。成仏して輪廻転生の輪に入った魂の行方がどこに向かうかは忠夫には分からない。ただハッキリしているのは、生まれてから死ぬまでの記憶のリセット、すなわちそこにいたるまでの自分自身が消えてしまうということだ。

 キヌの言った成仏したいという言葉にはどれほどの想いが込められていたのだろうか。全てからの開放を望んでいる今のキヌに自分がかけられる言葉とは一体何なのだろうか。

 

「なあ、おキヌちゃん」

「はい?」

「あのさ――」

 

 自分でもどんな言葉を紡ごうとしていたのかは分からない。湧き上がってくる心の形がそのまま口をついて出てこようとした。その瞬間。

 じゃらり。

 鎖の擦れる音が聞こえた。

 

「……なっ!?

「きゃあっ!」

 

 完全に不意をつかれた。

 突如として蛇のように襲い掛かってきた鎖が、あっという間に忠夫とキヌの縛り上げてしまった。

 

「この鎖……」

 

 ――霊力で強化されていやがる。

 

 おそらくこの鎖自体が霊具の類なのだろう。術者が意のままに操ることができ、対象を縛り上げる効果でもあるのだろう。だが、霊具を扱うにはその霊具の格にあうだけの相応の霊力が必要になる。そしてこの鎖に込められている力は相当のものだ。

 つまり、この鎖を使ったのは……。

 

「なんのつもりだ……じいさん!」

 

 忠夫とキヌの目の前に和装の老人が現れた。

 美木原。

 忠夫とどちらが先に悪霊をしとめることが出来るかを争っているプロのゴーズトスイーパーだ。美木原は押し黙ったまま、忠夫の言葉など聞こえていないかのようなそぶりで口を噤んでいる。

 様子が変だ。眉間に皺を寄せ、険しい表情でたたずんでいる。サングラスの奥に隠れてよく分からないが、その視線はキヌを見ているように思える。

 忠夫に、まさか、という思いがよぎる。

 

「おい、この子は俺たちが探している悪霊じゃねえぞ! あんたなら見れば分かんだろうが!」

 

 まさか美木原はキヌを退治しようとしているのではないか。

 その時、周囲の騒がしさに小猿が目を覚ました。そして鎖に縛り上げられ、身動きが出来ないでいるキヌの姿を見つけた。

 

「ききっ」

「だ、ダメ! 来ちゃダメ!」

 

 キヌの静止の声。

 しかし小猿はキヌを縛り上げている鎖に向かって踊りかかった。鎖にかじりつき、ひっかき、なんとか鎖をキヌから引き剥がそうとしている。

 美木原が指をふった。

 すると鎖の端が伸び、小猿を縛り上げて、地面に転がした。

 

「お猿さん!?」

 

 キヌの悲鳴が響く。

 

「大丈夫じゃ。ちょっと黙ってもらっただけじゃ、怪我なぞさせておらんよ」

 

 ここにきて初めて、美木原がしゃべった。

 ひどく硬い声色だ。感情を押し殺しているように思えた。

 

「ジジイ! これは一体どういうつもりだ!?」

 

 忠夫の詰問に、美木原は悔しそうに顔をゆがめた。

 

「……すまん」

 

 その時だ。美木原の影からずるりと何かが這い出してきた。

 まるで墨を塗りたくったような黒い人型。輪郭は陽炎のように揺らめいている。それは間違いなく。

 

「んなっ!?」

 

 忠夫たちが探している悪霊だった。

 

「……おい、あんたそれはどういうことだ?」

 

 自らの影から這い出してきた悪霊を見ても美木原に驚いた様子はない。つまり悪霊が自分の影に潜んでいたことを知っていたということだ。

 霊や妖怪といった超常の脅威から人々を守る役割を担うプロのゴーストスイーパーが悪霊と手を組んでいたということなのか。

 もしそうなら、それは許せざることだった。

 

『くくく』

 

 まるで地の底から聞こえてくるようなくぐもった笑い声。悪霊はその窪んだ瞳を忠夫に向けた。

 

『それは、こういうことだ』

 

 そう言うと悪霊は両手を左右に広げた。悪霊の体の中心、人間ならちょうど腹にあたる部分。その中に、一匹の猫がいた。黒い水の中に浮かぶように、手足を弛緩させていた。

 

 ――オセロ。

 

 美木原が家族と呼んだ猫である。

 オセロを見た美木原の顔が痛ましげに歪んだ。悔しさと悲しさと憤りがない交ぜになった表情だった。

 

『これがこの体の中にいる限り、こいつは、俺の、言う事を聞くしかない』

 

 ――そういうことかよ。

 

「何があったかは知らねえが。下手こいたな、じいさん」

「……返す言葉もない」

 

 愛猫を捕らえられ、その命を盾にとられた、ということか。

 

「ハッ、まあそれならそれで分かりやすくっていいんだけれどもよ」

 

 不敵に笑う忠夫。悪霊に向かって言い放つ。

 

「なんでこんなことをしたのか、なんてことは聞くつもりはねえよ」

 

 瞬間。

 忠夫を捕らえていた鎖が砕けて弾け飛んだ。

 

「なに!?」

 

 これに驚いたのは悪霊よりむしろ美木原だった。

 この鎖は正式な名前を霊縛鎖という。似たような霊具に霊縛ロープというのがあるが、これはその一段上の性能を誇る。その硬度は並大抵の悪霊どころか人間より遥かに強大な力を持つ魔族(下級に限るが)でさえ拘束できるほどのものだ。それを人間の身でありながらいともたやすく砕くなどとは信じられない。

 鎖が砕けた次の瞬間。

 忠夫の姿が掻き消え。

 

 ――悪霊の頭が弾け飛んだ。

 

 全て刹那の出来事だった。

 それはまるで瞬間移動をしたかのような速さだった。ビデオのコマ送りのように一瞬で悪霊との間合いをつめた忠夫が悪霊の顔面目掛けて拳を振りぬいた。

 ただそれだけ。

 単純な動作だが、圧倒的な速さから繰り出された霊力のこもった一撃はいともたやすく悪霊を粉砕した。元々霊能力者は霊力による身体強化によって常人より強力な身体能力を得ることが出来る。しかし今の動きはそれだけでは説明ができない。なんらかの技術、もしくは特殊な霊能を用いているとしか思えない速さだった。

 

「テメエみてえなクソ外道には手加減も口上も必要ねえだろう」

 

 忠夫は粒子になって大気にまぎれて消えていく悪霊の体からオセロを引き抜く。

 

「ほれ」

 

 美木原にオセロを渡す。美木原は呆然とした表情でオセロを受け取った。衰弱はしているが命に別状はなさそうだ。毛並みをなでてやると、小さくだが鳴き声をあげた。

 

「小僧……おぬしはいったい……?」

 

 その言葉に答えることなく、忠夫はキヌのところに歩いていった。

 

「大丈夫だったかい?」

「は、はい。横島さんこそ大丈夫でしたか?」

「見ての通りさ」

 

 そう言って忠夫はキヌを捕らえていた鎖を砕いて引き剥がした。それと小猿の鎖も引っぺがしてやる。

 

 ――そこで油断していた。

 

 鎖をとられた小猿は。

 

『保険を、かけて、よかった』

 

 言葉をしゃべった。

 悪霊のくぐもった声で。

 

 ――しまった!

 

 時すでに遅く。

 小猿の口から黒い光が忠夫に向かって矢のように放たれた。

 とっさに腕でガードする。しかし骨の芯まで響くような衝撃とともに吹き飛ばされる忠夫。

 

「が……っ!」

「横島さん! ――きゃあっ!」

 

 悲鳴をあげ、忠夫に駆け寄ろうとするキヌ。しかしそれを悪霊は許さなかった。小猿の尻尾から黒い縄のようなものが伸びる。それはまるで尻尾の延長のように自在に動き、再びキヌを縛り上げてしまう。

 忠夫は吹き飛ばされながらも、中空で体制を建て直し、転ぶことなく地面に着地する。

 

「ぐっ、おキヌちゃん!」

 

 腕に激しい痛みが走る。骨折こそしていないようだが、いくつかヒビが入っているようだ。痛みに耐え、即座に反撃を仕掛けようと足に力を込める。

 

『動くな!』

 

 悪霊の声に足を止めた。

 小猿に憑依した悪霊はその鋭くとがった爪をキヌの首筋に添えていた。幽霊であるキヌに物理的な力は通用しないが、同じ霊体による攻撃はその限りではない。小猿の爪の周りには気流のように黒い光が渦巻いている。それをもってすればキヌの体を引き裂くことも可能であろう。

 腕の痛みで一瞬足を止めてしまったのが致命的だった。先ほど悪霊との距離を一瞬でつめた速度でもって反撃を繰り出せば小猿に憑依している悪霊を葬ることはできただろうに。

 小猿に憑依した悪霊は足を止めた忠夫を見て、次に美木原に視線を向けた。

 

『アレを、やってもらおうか』

 

 アレというのが何を示しているのかが忠夫には分からなかったが、苦しげに戸惑う美木原の様子を見るに、少なくともゴーストスイーパーの倫理観から考えて許しがたいことなのだと想像に難くない。

 

『早く、しろ。その猫にも、俺の、力の欠片が、埋め込んである。このまま、殺すのもたやすい』

 

 ――そんなバカな。

 

 それは忠夫と美木原、二人の思いだった。

 気配もなく小猿に憑依したこともそうだが、力の遠隔操作などという高等技術を魔族ならともかくただの悪霊がそれほどの力を持つなどとは本来なら考えられないことだ。

 しかしその悪霊の言葉を肯定するように、オセロの胸の辺りで黒い光が明滅する。オセロは苦しげにうめき声を上げた。

 

「お、オセロっ、お、おのれ……っ」

『早くしろ!』

「ん、くぅっ」

 

 苦しげに息を吐き出すキヌ。彼女を捕まえている尻尾が、より深くキヌの体に食い込んでいく。

 

「――てめえっ」

『うごくな、と言っただろう』

 

 激したように拳を握る忠夫を牽制する悪霊。

 膠着は数秒ほど続き。

 

「……わ、分かった」

 

 美木原の言葉によって崩された。

 美木原は両手で印を結んだ。

 

「……この者をとらえる地の力よ。その流れを変え、この者を解き放ちたまえ」

 

 その力は悪霊に対してではなく、キヌに向けて使われた力だった。

 

「あ」

 

 キヌははっきりと感じた。

 自分の足に鎖のように絡み付いていた地縛の力が解かれるのを。

 かなりの力技で行われた地縛の継承による虚脱感と喪失感によってキヌはそのまま気を失ってしまう。

 そして、その力が。

 

 ――悪霊へと移った。

 

 光が、風のように逆巻き悪霊を包み込む。

 

 

 

「ふ、ふふふ」

 

 

 

 渦を巻く光の中心で声が聞こえた。ガラスが割れるように、光が砕け、その中心に白い着物姿の男が立っていた。その傍らには気を失ったキヌと小猿の姿。

 腰に銅剣を携えたその男は眉の太い厳つい顔立ちをしていた。

 その男から暴風のように吹き荒れる力は。

 

「神の、力?」

 

 忠夫の頬に汗が滲む。

 まさか、おキヌちゃんを縛っていた地の力と一緒に彼女が本来手に入れるはずだった神の力も一緒に移ったというのか。

 しかし神の力など一朝一夕で身につくものではない。扱うには相応の修行が必要なはずだ。しかし目の前の悪霊だった男からほとばしる力はどうだ。完全とは言わないまでも、神力を我が物としているではないか。

 

「ふふふ、神の力などすぐに扱えるものかと思っていたが、長き間この地の地脈に封じられていたかいあってか、よく馴染むな」

 

 封じられていた。

 忠夫はその言葉の意味するところを考えていた。

 封印されていた悪霊。ならなぜその封印は解けた?

 

「ふっ」

 

 短い呼気と共に腕が振るわれた。

 吹き荒れる突風が、もうお前に用はないとばかりに美木原の体を吹き飛ばした。

 

「がはっ」

 

 美木原はオセロをかばうように体を丸めた。岩に叩きつけられる美木原。表情が苦悶にゆがんだ。

 

「じいさん!」

 

 忠夫は美木原に駆け寄って、抱き起こす。生きてはいる、しかしすでに気を失っていた。

 

「さて、霊能力者の少年よ。改めて名乗らせてもらおうか。とはいっても先ほどまで名などなかった身だ。そうさな、とりあえず荒脛御呂地神とでも名乗らせてもらおうか」

 

 悠然とした態度でかつて悪霊だった荒脛御呂地神は名乗った。

 

「偉そうにしやがって、だから何だってんだ」

 

 相手が神の力を得たからといって自分のやることは変わらない。

 忠夫の視界には気を失った小猿と美木原。そしてキヌの姿があった。

 

「テメエは俺がぶっつぶす」

 

 拳を握る。

 

 ――箭疾歩。

 

 それが先ほどの忠夫の超スピードの正体だ。

 中国武術の歩法の一つだが、霊力を効率的に運用することによって使用されるそれはまるで瞬間移動したかのような錯覚を覚えさせる。

 しかし。

 突き出した忠夫の拳は荒脛御呂地神が突き出した右手によってなんなく押さえられた。

 

「ちっ」

 

 舌打ち。

 今度はそうそう簡単にはいかないようだ。

 

「一つ、教えてやる」

 

 荒脛御呂地神は言う。

 

「俺はこの神の力を使って御呂地岳を噴火させ、周辺にいる邪魔な人間どもを滅ぼす」

「なっ」

 

 それと、と続ける。

 

「先ほどのカリをかえさせてもらおう」

 

 荒脛御呂地神が腕を振るうと風が吹き荒れた。

 

「んな……っ」

 

 局地的な台風のような風は忠夫の体を木の葉のように空へと舞い上げた。中空高く飛ばされた忠夫の体は、そのまま崖の上へと飛ばされ。

 

「さよならだ、少年」

 

 まるでくずかごにゴミを捨てるように。

 忠夫の体は崖下へと飲み込まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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【09】

 

 

 

 

 ――なんで、こんなことになってるのかしら?

 

 横島タマモは今、窮地に立たされていた。

 見渡す限りの人、人、人。

 周囲は異常な熱気にあふれていた。

 タマモは彼らの視線を一身に浴びていた。彼女が立っているのは青空の下に設けられた特設ステージのど真ん中だった。広さは学校の教室一つ分くらいはあるだろうか。地上から1.5メートルほどの高さの土台は地元の工業高の生徒の手作りらしく、客側から見えるステージの側面の部分に大きくその高校の名前が製作協力者として書かれていた。ステージの頭上には日よけのサンシェードが張られており、背後の書割はベニヤ板にひまわりなどの夏を象徴するようなものを描いた手作り感満際のものだった。

 視線。

 幾十、幾百もの好奇の視線を向けられているタマモは、圧力に押されるように思わず一歩引き下がった。視線が夏の紫外線のように容赦なく全身を貫いてくる。

 

 ――これじゃまるで見世物じゃない。

 

 いや、この催しの趣旨を考えるとまさに見世物そのものなのだ。

 情けないやら恥ずかしいやらで今すぐこの場を逃げ出したくなるが、そういうわけにもいかない事情がある。

 そもそもの話、タマモは自分の性格というものをよく分かっているつもりだ。群れることを嫌い、誰も彼にも心を開くわけではない。周囲を客観的に見つめ、俯瞰的に物事を判断するところは見ようによっては冷たい性格だと思われるところだ。例外はあるといえ基本的なスタンスは、どこに行ってもどんな状況でも対して変わることはない。自分からバカ騒ぎの輪に入ることはないし、むしろそんなバカ騒ぎを傍で見て小バカにするような性分だと思っている。

 それが、なぜ。

 

『さあ、御呂地杯美少女コンテスト。いよいよ最後のトリ、飛び入り参加の、横島タマモちゃんだー!』

 

 マイク越しの司会の声が響く。特設ステージの横断幕にはでかでかと『美少女コンテスト』の文字が躍っていた。

 

 ――なぜ、こんなことになってしまっているのか。

 

『ワァァァァァァァ――――――っ!』

 

 観客たちの歓声が周囲を埋め尽くす。突然現れたとびきりの美少女の登場に周囲のボルテージが上がる中、その当人であるタマモだけが死んだ魚のような目をしていた。花柄のサマードレスに麦藁帽子と言った服装で整った顔立ちと相俟って深窓の令嬢といった言葉がしっくりくる。しかし目だけが死んでいる。蝉の鳴き声や観客たちの歓声が耳鳴りのようにどこか遠くで聞こえていた。

 悪霊探しをしていたタマモがなぜ美少女コンテストなどというものに出ることになったかというと、話は二時間ほど前までさかのぼる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【09】

 

 

 

 

 

 

 

 

 牧場から帰ってきたタマモは街を散策をしていた。

 悪霊がどこにいるかは分からない。可能性から言うと霊山である御呂地岳周辺がもっとも高い。しかし昨日の件もある。街に悪霊がでてきて、また人々に危害を及ぼす可能性が十二分にある以上、街での悪霊捜索もしなければならない。そのため御呂地岳での捜索は忠夫に任せ、タマモは街周辺の捜索をしていた。

 タマモがやってきたのは商店街だった。

 人通りは少ない。もっともそれは普段都会の商店街を歩いているタマモの感覚からするものであって、街の規模からすると十分多いといえる。行きかう人々は地元の住民が多いように思える。その理由として、学校が夏休みらしい小さな子供が集団で歩いていたり、買い物かごを手に提げた主婦が歩いているからだ。

 二車線の道路の両端に様々な店が立ち並び、色とりどりの幟旗が風に棚引いている様は壮観でさえあった。歩いているとふいに声がかけられた。

 

「おんや、あんた一人かい?」

 

 タマモが声のしたほうに振り向くと、そこに立っていたのは恰幅のいいおばさんだった。パーマをかけているらしいボリュームのあるふわふわした髪で、頭には迷彩柄のバンダナを巻いている。

 

 ――誰だったかしら?

 

 首をかしげるタマモ。この街に知り合いなどいるはずがない。ひょっとして小学生くらいの女の子が一人で歩いていることを不審に思ったおせっかいなおばさんかもしれない。

 

「ははは、急に声さかけられたもんだから驚いちまっただか。ほれ覚えてねえか、昨日ウチの食堂でメシさたらふく食っていたでねえか」

「あ」

 

 そういえば。

 どこかで見たことあるような気がしたら、昨日街についたばかりの忠夫とタマモの二人が入った食堂のおばさんだった。

 

「昨日はどうも」

 

 軽く会釈する。人なれしていないタマモの少しばかり無愛想な態度だったが、食堂のおばさんは気にすることなく快活に笑った。

 

「今日はあの若い兄ちゃんは一緒でねえだか? 昨日ごはんを七杯もおかわりした、えっらい気持ちいい食いっぷりの兄ちゃんは」

「は、ははは」

 

 昨日の忠夫の姿を思い出して羞恥で目を背けるタマモ。ご飯のおかわりが無料だからといって調子に乗って食べまくる姿は横で座っていて相当に恥ずかしかった。

 

「ちょっと今、別々に行動してから私一人だけ……です」

 

 使い慣れない敬語を使うタマモ。ここに忠夫がいればしゃちほこばったタマモの初々しい姿に腹を抱えて大爆笑していたかもしれない。いや、むしろ忠夫がいたら会話は忠夫に任せてタマモは忠夫の背中に隠れているかもしれない。人見知り、というとちょっと違うかもしれないが、タマモは基本的に初対面の相手に対しては結構な距離をとる傾向にあった。まるでなかなか人になつかない野良猫のようだ、というのはタマモを評した忠夫の言葉だった。

 食堂のおばさんは「あれま」と目を丸くした。

 

「こんなめんこい子さ、一人にするなんてしょうがない兄ちゃんだな。悪いやつに誘拐されっちまうかもしれねえのに」

「いや、私は大丈夫……です、から」

 

 一般人なら大人が複数で襲い掛かってきても返り討ちにする自身があるからこその言葉だ。しかし小学生くらいの外見のタマモがそう言っても普通の人なら、小さな子供が背伸びをしているだけの言葉に聞こえる。事実、このおばさんもそうだった。

 

「う~ん、とはいってもなぁ。お、そうだ、わたす今日食堂のほうが休みでちょうど暇してたからな、よかったらこの街案内してやるぞ」

「いえ、結構です」

 

 本当にいらない世話だった。目の前のおばさんが善意から言ってくれているのは分かる。タマモは色々あった、かつての経験から人の悪意というものに非常に敏感だ。そのタマモの勘が目の前の人物から微塵も悪意を感じられないのだから、本当に悪意はないのだろう。小さな子供が一人でいることを放っておけない面倒見のいい人なのだろう。

 個人的には人のそういった善意に触れられるのはうれしいことだったが、今回は状況が状況だ。凶悪かもしれない悪霊探しに霊力を扱えない普通の人たちを巻き込むことなど出来ようはずもない。

 しかしおばさんは豪快に笑いながら、タマモの肩をばんばんと叩いた。

 

「子供が遠慮するものでねえぞ、どれおばさんが昼メシでもおごってやるかな」

 

 ――人の話聞きなさいよ。

 

 そう言ってやりたかったが言えなかった。

 どうも自分はこういった純粋な善意で接してくる相手は苦手だと再認識した。

 まあ、それでも街の地理に疎いタマモにとっては渡りに船な申し出だ。このまま当てもなくさ迷うよりは、人が集まるような場所を教えてもって後は適当に理由をつけてこの人から離れればいいかと思った。

 食堂のおばさんは自分の名前をトシエと名乗った。

 トシエに引っ張られるまま街を案内されるタマモ。トシエは商店街にずいぶん顔が利くらしく、店の前を通りかかるたびに店員たちが話しかけてくる。やれ、景気はどうだい、や今日は仕事休みかい、この間生まれた子猫たちはどうしている、とか。私生活から仕事のことまでその内容は様々だが、トシエが商店街の人たちに一目置かれているということはよく分かった。

 

「さ、まずは腹ごしらえだ。ここの茶屋の団子はとってもうまいんだ。たんと食うといいだ」

 

 そう言ってトシエはニカっと笑った。人懐っこい笑いだった。タマモは先ほどまでトシエと親しげに会話をしていた商店街の人たちの顔を思い出す。なるほど、こういう子供のように屈託なく笑う人だからこそ、たくさんの人たちに慕われているのだな、と思った。

 

 ――もう少し、近づいてもいいかもしれない。

 

「ありがとう」

「お?」

 

 トシエは少し目を丸くした。それからうれしそうに、本当にうれしそうに声を上げて笑った。

 

「わっはっは、今までぶすぅとしてたから怒っているのかと思っただども、こんなふうにめんこい笑い見せてもらったら、もっとがんばって街を案内せねばな!」

「え、あ」

 

 思わず自分の頬を撫でるタマモ。

 

 ――笑っていた?

 

 自分でもそれは珍しいことだと思った。

 こんなふうに会って間もない相手に笑いかけるほど愛想のいい性格ではなかったはずだが。

 タマモはなんとなく気恥ずかしくなり頬をわずかに染めていた。

 視線を迷わせ周囲を見回してみる。

 目の前にはトシエにつれてこられた茶屋がある。左右に開かれた格子戸から覗く店内はやや薄暗いが落ち着いた風情の佇まいだ。店の脇にちょこんと置かれた鮮やかな朱色の野点傘に、緋毛氈をひいた縁台。時代劇なんかで旅人が立ち寄る峠の茶屋を様式美のままに再現したような概観の建物だ。

 縁台の上に座るとお茶が運ばれてきた。そのまま三色団子というのを注文する。

 トシエはお茶をすすりながらタマモに話を振ってきた。

 

「それで、タマモちゃんはどっから来たんだ?」

「東京からです」

「ほへー、東京からかい。親御さんと一緒にだか?」

「二人だけです」

「てことはあの食いっぷりのいい兄ちゃんと一緒にかい。バスとか電車で来ただか」

 

 ――いいえ、自転車です。

 

「…………」

 

 自転車。それもジャンクの部品をかき集めて作ったママチャリで数百キロの道を数日かけてやってきた。

 アホそのものである。

 

「タマモちゃん?」

「まあ、そんなものです」

 

 適当にはぐらかしておく。

 そこで注文していた団子がきた。串に刺さった三つの団子は上からそれぞれ、赤色、白色、緑色だった。緑はおそらく抹茶で、白は普通の団子、すると赤色はなんだろうか。

 タマモはトシエに顔を向ける。すると期待に満ちた視線でこちらを見ていた。早く食べて感想を聞かせてほしいと視線が語っていた。

 食べてみる。

 

 ――あ、おいしい……。

 

 噛むたびにほんのりとした甘さが口の中に広がっていく。スーパーなどで買う団子とはどこか違う。こういった情緒あふれる茶屋で食べるという事もおいしさの秘密の一つなのかもしれないが、なんというか、甘さに深みのようなものがある気がする。

 団子を口に入れて目を見開いたタマモの様子に、トシエはタマモがこの団子を気に入ってくれたのだということを確信した。イタズラが成功した子供のようににんまりと笑う。

 

「ははは、気に入ってくれたようでよかっただよ」

 

 トシエの言葉に、タマモは自分が一心不乱に団子を食べていたことに気づいた。

 

「この三食団子ってのはな本来は花見の時なんかに食べるものなんだ」

 

 気恥ずかしくなって黙りこくってしまったタマモニに、トシエは三色団子の由来を語りだした。

 

「赤は春をあらわす蕾、白は冬をあらわす白酒、緑は夏をあらわす草木。そこには秋がないから飽きないっていう言葉遊びだ」

 

 へー、とタマモは手にした団子を見ながら感心していた。今、自分の手の中にある団子は一番上の赤色の団子だけを食べてしまっている。つまり今の自分の団子には秋にくわえて春もない。夏と冬。暑い時期と寒い時期の両極端しかないことになってしまう。

 

「いやねえ、体壊しちゃいそうだわ」

 

 なんて益体も無いことを考えていた。

 そんなタマモの様子を見ていたトシエがまた声を上げて笑っていた。

 団子を食べた後、トシエに連れられて商店街を歩いていた。

 ちなみにここに来るまでに悪霊の気配はない。やっぱり街にはいないのか、とも思ったが、少しだけ気になることがあった。

 それはまるで匂いが風に乗って遠くまで運ばれるように、嫌な気配というか背筋がぞわりとするような感覚がどこかから漂ってきた。ほんの一瞬の違和感だったが、どうも気になる。違和感の発生源の場所までは特定できなかったので、今はこうやって歩き回ることしか出来ない。

 トシエに手を引かれて入ったのはこじんまりとしたみやげ物屋だった。

 地元の地産品を主に取り扱っている店のようで、デパートなどのみやげ物コーナーで見かけるようなおしゃれな包装紙のお菓子なんかはあまり見当たらない。その分の幅を取っているのは酒や漬物、熊の置物やこけしや掛け軸などだ。

 タマモの感性からするとシブイものばかりだった。

 タマモが何くれとなくあたりを見回していると。

 

「あい、ごめんくださいよ」

 

 一人の老女がみやげ物屋へ入ってきた。

 

「あ、ムロエさん」

 

 トシエはその老女とも知り合いらしい。

 ムロエと呼ばれた老女は、もう九十を超えているのではないかという老体だった。えびのように折れ曲がった腰に、手と顔に深い皺が刻まれている。唐草模様のモンペをはいており、背中には大きな風呂敷包みを背負っている。

 

「おんやぁ、どなただい?」

 

 ムロエは糸のように細い眼をトシエに向けた。トシエはそれに対して少し寂しそうな表情を浮かべてから、頭二つ分くらい低いムロエの顔に自分の目線を合わせた。

 

「トシエですよ。ト・シ・エ」

「あー、そうかい、トシエさんかい」

 

 うんうんと頷くムロエ。

 それから親しげに何事かを話していた。しかし話しているのはトシエのほうだけで、ムロエはというと本当に聞こえているのかいまいち要領を得ないような曖昧な感じでうなづいているだけだった。

 やがて、店の奥から店主らしき女性が出てきた。

 

「あら、ムロエさん。今日もありがとうございます」

「おーう、今日もぎょうさん持ってきたぞ」

 

 ムロエは背負っていた風呂敷包みをレジ台の上に広げた。

 

 ――こけし?

 

 中から出てきたのは大小さまざまのこけしだった。大きな丸い顔に円筒形の体。顔には目を細めて笑っている子供の顔が描かれている。体に描かれている絵は様々だ。花をあしらったものがあれば、そのまま和服を着ているようなものもある。

 

「わー、素敵。いつもありがとうなムロエさん」

 

 ムロエは店員の言葉に「うん」と一回頷いただけだった。

 

「ほいだらまた来るでの」

 

 そう言って、店から立ち去ろうとして。

 ふとタマモに目を留めた。

 

「おじょうちゃん、こけしは好きかいな?」

「……え、ええ」

 

 ふいに話を振られて、タマモはとっさに頷いた。

 

「じゃあこれやるだ」

 

 するとムロエはポケットから小さなこけしを取り出してタマモに渡してきた。

 受け取るタマモ。それは先ほどのこけしと同じようなデザインだった。胴体に描かれている絵は松竹梅。

 それからムロエは今度は振り返ることなく、店を立ち去っていった。

 ムロエの姿が見えなくなると、さっきまで笑顔で対応していた店員はため息をついた。

 

「まいっただなぁ、こんなにいっぱいこけしばっか持ってこられても売り切れねえだ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 こけしというのは縁起物らしい。

 時に子供のおもちゃとして、時に神様への信仰の一つとして、東北地方で古くから作られてきたという。

 

「ムロエさん。最近痴呆がひどくなってきててな」

 

 ぽつぽつと歩きながら、トシエは先ほどのムロエについて話し始めた。

 元々小さな村にすぎなかったこの場所を一つの観光地とした立役者がムロエだという。

 戦争で旦那と子供を亡くしてからも彼女はずっとがんばり続けていた。男尊女卑の風潮が強かった次代に、女だてらに先陣を切って街を開拓するための指示を飛ばしていたムロエの姿はトシエの脳裏に深く焼きついているという。

 

「わたしはなずぅとあの人に憧れてここまで来ただ。厳つい男たちがみーんなムロエさんだけには一目置いていた。この人についていけば間違いない、この人ならきっとやってくれる。そんなふうに皆に信頼される不思議な魅力の人だ。今この街が人骨温泉郷なんて呼ばれているのもムロエさんのおかげだ」

 

 そして街が一つの観光地として確立して、遠方からもお客が来るようになってくると自分の役目は終わったとばかりに隠居して、ずっとこけしを作り続けているらしい。

 

「そんとき、私はなんだか悲しくなっちまってなあ。旦那と子供を亡くしているムロエだんにとってこけしを作り続けていることの意味は一体なんだろうって、考えるたびにどうしようもなくもの悲しい気持ちになっちまうだ。こけしを作り続けるムロエさんの姿がまるで何かに祈るように、ひたすら救いを求めるよう見えちまう」

 

 そう言ってトシエは力なく笑った。

 タマモはこけしを眺める。

 

「それは」

 

 こけしは笑っているはずなのに、どこか悲しげな表情に見えてしまう。

 

「それはきっと……」

「あーやめやめ、へんなこと言って悪かっただな」

 

 タマモの言葉を遮るように、トシエは明るい調子で言葉をかぶせてきた。タマモもそのときのトシエの気持ちを察してこれ以上言葉を続けることはしなかった。

 

「そういえば、タマモちゃん。今、そこの広場でイベントやっているらしいけれども出てみんか?」

「イベント?」

「ちょっとした大会だ。タマモちゃんなら優勝できるでねえか?」

「イヤよ、そんなの。見世物になる気はないわ」

「そっかそっか、じゃあしょうがねえだな」

「なによ、なんで笑っているの?」

 

 タマモが訝しんだように、トシエはなぜだか笑っていた。

 

「タマモちゃん。いつの間にか敬語がなくなっているだな」

「あ」

 

 今気づいたというように目を丸くするタマモ。トシエと話していくうちに少しずつ敬語が取れていったようだ。

 どうやらトシエはタマモが自分に心を許してくれたことがうれしくてたまらないらしい。

 

「こ、これは」

「これは?」

 

 言葉に詰まったタマモ。

 

「……知らない」

 

 追い詰められて視線をそらした。

 トシエは笑っている。本当によく笑う人だとタマモは思った。

 

「――――っ!?」

 

 タマモは弾かれたように視線をそちらに向けた。

 気配がする。

 霊の気配。それも飛び切りタチの悪いものだ。

 タマモの視線が向けられたのは、トシエが先ほどイベントをやっていると話した人ごみの向こうだった。

 確認したくてもあの人並みを抜けるのは容易なことではないだろう。

 

「タマモちゃん、どうしただ?」

「ちょっとお願いがあるんだけど……」

 

 タマモはトシエに頼んで肩車をしてもらった。タマモとしてはこれはだいぶ恥ずかしい行為なのだが、今回は状況が状況だから止むを得ない。

 男性を含めても見ても身長の高いトシエの肩に跨ると、人並みの向こうまで見渡せた。

 人々の頭の向こうにはステージのようなものがあった。

 目に異能の力を循環させる。

 

 ――視力を強化。

 

 神経などの感覚的なものの強化はタマモの得意とするところだった。

 見えた。

 ステージの中央。『優勝商品・副賞』と張り紙が書かれた台座の上に、それはあった。

 一見何の変哲もない壷だ。しかしそこから立ち上る気配は禍々しい。本当にタチが悪い。あれはおそらく呪いの類だ。おそらく、あれは。

 

「蠱毒、かしらね」

 

 蠱毒とは器の中に多数の虫を一緒くたに入れて互いに食い合わせ、最後に生き残った一匹を使って呪術を行うという呪いの手段だった。

 

 ――なんであんなものが優勝商品になってんのよ。

 

 忌々しげに舌打つタマモ。蠱毒なんて大概の場合、人を呪殺するためのものだ。

 その時、マイクを握った司会らしき男がちょうどその壷の説明をしているところだった。

 

『~~~というわけでして、これがその優勝商品の副賞である壷であります。なんと! この壷は何でも願いが叶うという伝説がありまして――』

「はあっ!?」

 

 その説明を聞いて仰天とした声を上げるタマモ。

 

「どうしただタマモちゃん。急に変な声だして」

「い、いえなんでもないわ」

 

 なんでも願いが叶う?

 なんだその冗談は。

 おそらく伝聞で伝えられるうちに本来の情報がゆがめられ、なんでも願いが叶う壷、なんてことになったのではないだろうか。なんでも願いが叶うというのは誇大な表現であるが間違っていない。ただ、願いをかなえるための手段が極めてブラックな手法だという話だ。しかしそれもちゃんとした霊能力者が正式な手順を踏んで、という前提条件がある。素人が下手に手を出そうものなら何が起こるかわからない。

 どちらにしろ。

 

「厄介ね」

 

 放っておくわけには行かないだろう。

 

「トシエさん。私ならこの大会に優勝できるかもっていったわね」

 

 そうトシエに訊ねるタマモ。優勝者に事情を話して壷を譲ってもらうという方法もなくはないが、見た目小学生のタマモがその壷は呪いの壷だから自分に渡せ、と言っても信じてくれるとは思えない。一番確実に手に入れるには自分がその壷を受け取る正式な権利を得ること、すなわち優勝するのが手っ取り早い。

 本当は面倒くさい。

 心底、面倒くさいが、これで誰かが死んだりした日には目覚めが悪いことこの上ない。

 トシエに頼んで大会へのエントリーを済ませたタマモ。後に悔やむことなのだが、これが悪かったと思う。自分でどんな大会なのかと確認しておけばよかったと後悔するのだ。 ただ、この時のタマモは。

 

 ――私なら優勝できる……。

 

 トシエの言葉を思い出して。

 はて、と首をかしげる。

 

「油揚げの味比べの大会とかかしら?」

 

 などと素っ頓狂なことを考えていた。

 こういう詰めを誤るところは忠夫に似ていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 本当に。

 本当に、何でこんなことに……。

 周囲の視線にさらされながら、逃げることもできずタマモは内心で頭を抱えていた。

 5人の審査員の評価合計は100点満点中98点。相当の高評価だ。

 審査員と観客の前で何か特技をしろ、などと頭が中が真っ白のときに言われてとっさに反応できる人間が何人いるだろうか。そこでおろおろとしたり、何もできなかったりしたら審査の減点の対象になりかねない。

 だからタマモは考える暇もなく、やった。

 とっさに、考えもなく。

 やって……しまった。

 

「よ、よろしくお願いします、コン」

 

 ……語尾に、コン。

 コン、である。

 手首を内側に折り曲げて。

 しなを作って。

 語尾に、コン。

 結論だけ述べるなら。

 

 ――――死にたくなった。

 

 そもそも自分はこういうこと言うタイプだっただろうか。いやむしろ自分の人格ってどういうのだったかしら、とゲシュタルト崩壊が起きそうな思考を延々とめぐらせ、自分の今までの人生を振り返り始めたあたりで『98』という点数が出てきた。内心で審査員に「このロリコンどもめ」と罵りながらも、今はこの結果を素直に喜ぶことにした。

 これでやっと終われると思ったタマモ。今までの最高得点は確か96点だった。これで優勝――。

 

『では二次審査に進みます。』

「まだあるの!?」

 

 タマモの悲鳴じみた絶叫が上がった。

 もはやすでに心が折れそうだというのに、これ以上何をさせるつもりだ。

 

『第二次審査は水着審査です』

 

 会場の男たちから歓声が上がった。

 

「ここ山なのに水着に着替える必要ある!?」

 

 タマモからの当然の疑問だった。

 

『ミスコンといったら水着審査。異論は認めません』

 

 そうだそうだ、と野次が飛ぶ。

 男どものこの連帯感は一体なんだ。そもそも水着なんぞ持ってきていない。

 

 ――もう一切合財燃やしつくしてしまおうかしら。

 

 怒りが沸点を超えそうになり思考がかなり危ない方向に傾きかけたとき。

 異変が起きた。

 まるでトランポリンのようにタマモの体がステージから跳ねた。

 

「え」

 

 一瞬何が起きたか分からなかった。

 それが地震だと気づいたのは会場の人々が立っていられず地面に伏せっているところを見たときだ。

 会場中から悲鳴が上がった。

 揺れが収まるまでどれくらいかかったのだろうか。数秒かもしれないし数十秒かもしれない。縦揺れが横揺れに変わり、やがて揺れは止まった。

 体感にして震度7か8ほどだった。

 

『み、みなさん落ち着いてください。揺れは収まりました。落ち着いて!』

 

 ざわめく会場。何か一つでも弾みがあれば恐慌でも起きそうな張り詰めた会場を司会の男性が必死で落ち着くように声をかけた。

 

 ――しかし最悪のタイミングでその放送が流れることになる。

 

 街中のスピーカーから最初に聞こえたのはサイレンの音だった。

 

『ただいま、御呂地岳の噴火警報が発表されました。テレビ・ラジオの情報に注意し、避難してください。くりかえします……』

 

 噴火。

 その言葉に会場中の人々の視線が御呂地岳に向かう。

 近い。それこそ目の前に聳え立っているような山だ。それが噴火したとなると、この辺り一体は。

 火砕流に飲まれる。

 

「う」

 

 暴発は当然だった。

 

「うわあああああああ――――っ!」

 

 一人が逃げ出すと皆弾かれるように駆け出した。

 足音が地鳴りのように周囲に鳴り響く。

 

『お、落ち着いてください! 皆さん係員の誘導に従ってください』

 

 司会の男が叫ぶがそんなことお構いなしだ。一刻も早くここから離れようと会場はパニック状態だ。繰り返し流れる噴火警報のサイレンの音がよりいっそう焦燥感を煽っている。

 

 ――何が起こっているのよ。

 

 タマモは冷静に今の状況を分析しようとしていた。

 地震。それは分かった。

 噴火の危険性。それも分かった。

 しかし、なんだこの足元から立ち上ってくる気持ち悪さは。

 

 ――足元、地面の遥か下、地脈? まさか……っ。

 

 タマモは意識を集中して足元の気配をより鋭敏に捉えようとする。

 間違いない。これは。

 

「な、なによこの地脈の流れ、滅茶苦茶じゃない!」

 

 地脈とは地面の下を流れるこの星の血脈のようなものだ。今、この辺り一体の地脈の流れがミキサーにかけられたようにぐちゃぐちゃにかき回されている。

 こんなこと普通じゃありえない。

 なんらかの強大な力が介入しない限り、ありえることではない。更にタマモは意識を地脈の中に溶け込ませるように集中する。より感覚を鋭く、センサーのように。

 見つけた!

 地脈の流れに介入している大きな力。

 これは、神力?

 いや、そうだけど少し違和感がある。

 どこかで感じた気配が神力に入り混じっている。

 タマモはより鋭敏に感覚を研ぎ澄ませる。並みの霊能力者がタマモの行っていることを知ったら腰を抜かすかもしれない。地脈という自然の大いなる力を事細かに分析するなどとてつもない技術と設備が本来は必要だというのに。タマモはそれをたった一人で行っている。ありえない光景だった。

 しかしタマモにはそのありえないことを実行できるだけの力があった。より正確に言うなら〝適正〟とも言うべきものだ。

 それはタマモという存在そのものに関係することなのだが、それはこの場では割愛する。

 

「……そういうことっ」

 

 タマモは気づいた。

 その神力にタマモたちが追っている悪霊の気配が混じっていることを。もうだいぶ神力の中で交じり合い、だいぶ薄くなってきているが、神力の根源にあるのはあの悪霊の忌々しい気配はだった。

 それでもまだ状況としては分からない部分はある。

 なぜ悪霊が神の力を得ているのか、忠夫は一体どうしたのか、なぜ神の力を得た悪霊は火山を噴火させようとしているのか。

 

「タマモちゃん!」

 

 いつの間にかステージの袖までトシエがやって来ていた。

 

「何してるだ、ほら早く逃げるぞ!」

 

 トシエが手を差し出してくる。その表情には深い焦りの色が浮かんでいた。反面タマモは少しうれしくなった。それだけ焦っていても自分のことを気にかけてくれるということに。

 タマモはステージを降りて、トシエの手を握った。

 

「よし、行くぞ!」

「ええ、分かったわ」

 

 駆け出しながらタマモは背後に視線を向けた。

 ステージの上、すでにそこには司会の男もミスコンのほかの出場者の女性たちもいなくなっている。

 唯一つ、異変ともいうべきことが起こっている。

 壷が割れていた。

 蠱毒を閉じ込めた壷が粉々に、割れていた。地震の影響で床に叩きつけられたせいだ。

 割れた壷からおどろおどろしい黒い煙のようなものが立ち上っている。壷に封じられていた蠱毒だ。使いようによっては何十人もの人間を死に至らしめるような強力な呪いだ。それこそプロのゴーストスイーパーが本腰を入れて退治に乗り出さなければいけないような怨念の集約ともいえるおぞましい力。

 それが。

 一閃。

 タマモが中空に指を閃かせた。

 その瞬間。

 ごう、と蠱毒は突然現れた炎に巻かれた。

 一瞬の出来事だった。誰も気づかず、誰にも被害が出ないまま、蠱毒はタマモの手によって焼き尽くされた。

 プロのゴーストスイーパーでも手こずるような相手を、苦もなく葬ったタマモはそっと呟いた。

 

「悪く思わないでね」

「ん、タマモちゃん。何か言っただか?」

「いいえ、何も。それで、これからどうするの?」

 そう言いながらタマモの手を引いて走るトシエ。道行くほかの人たちも半場パニック状態でスピーカーから流れる避難所へと向かっている。

 さっきまであんなに穏やかだった街の景色が今はまるで戦時中でもあるかのようなあわただしさだ。あの緩やかに流れていた時間が壊されてしまったようで、タマモはひどく切ない気持ちになっていた。

 トシエは息を切らしながらタマモの質問に答えた。

 

「ムロエさんのところに行くだ」

「って、さっきのこけしのおばあちゃんよね」

「そうだ。ムロエさんは足を悪くしちまってるから、様子を見に行かねば。悪いけどちいっとばかり付き合ってくれるだか?」

「ええ、いいわよ」

 

 ――今はちょっと考えたいこともあるしね。

 

 タマモは御呂地岳へとその視線を向けた。

 おそらく全ての元凶である悪霊――いや今は悪神か、そいつはあそこにいる。御呂地岳には地脈の収束点である点穴がある場所だ。地脈を操るというならそこがもっとも効率よく操れる場所だろう。

 と、すると……。

 

「ムロエさん!」

 

 いつの間にやらムロエの家に着いていたようだ。タマモの思考はそこでいったん中断される。

 ムロエの家は普通の平屋建ての一軒家だった。

 ガラス戸をやや乱暴に開くトシエ。

 

「ムロエさん! まだ家の中にいるかー!」

 

 声をかけるが返事がない。

 

「いない、みたいね」

「ひょっとしてもう誰かが先に来てムロエさんを非難させてくれたんだろうか」

 

 そんなことを言い合っていると。

 

「おんや、そこにいるのは誰だ?」

 

 背後から声が聞こえた。

 

「む、ムロエさん! 何しているだ!?」

 

 振り返るとムロエが立っていた。相変わらずえびのように折れ曲がった腰。頭にはタオルを巻いており、クワを背負っている。

 

「なにって畑仕事だぁ」

「な、なに言っているだ! 今は早く……」

「わたすはどこにもいがね。たとえ御山の火に飲み込まれようとだ」

「え」

 

 トシエの困惑したような声が上がる。

 分かっている。ムロエは現状を理解したうえで、この街に残ろうと言っているのか。

 

「一体、なに言って――」

「わたすはな、この街を自分の子供のように思っている」

 

 その一言に、全てが込められていた。

 

「…………そうか」

 

 トシエが思い出すのは幼い頃に見たムロエの姿だった。いつだって全員の先陣を切って、街を開拓していった勇ましい姿。子供を一度失っているムロエにとって、二度目は耐え難いものがあるのだろう。

 ムロエはそれだけ言うと家の中へと入っていった。

 取り残されたトシエとタマモ。

 

「タマモちゃん、ちょっと先に行っててくれるか。兄ちゃんも探さないといけねえべさ」

「……あなたはどうするの?」

「ムロエさんのこと、もうちょっと説得してみるだ」

「一人で?」

 

 タマモが訊ねた。ムロエがそれに頷こうとしたとき。

 

「俺たちも一緒だ」

 

 そう言いながら現れたのは白髪の老人だった。その後ろにも何人ものお年寄りたちが立っていた。

 

「商店街のみんな……」

 

 皆、街にゆかりの深い商店街のお年寄りたちだ。

 

「俺たちもムロエさんには深い恩がある。放ってはおけないべ」

「それに俺たちにとってもこの街は子供みたいなもんだべさ。ほっぽって自分たちだけ逃げる気にはなんねえさ」

 

 彼らも全員、ここに残るという。皆、自分たちが開拓したこのまちにかける思いは並々ならぬものだった。

 そこにあるのは決意と覚悟。

 皆、最悪の場合はこの街と運命を共にする気だ。

 

 ――なら、わたしに出来ることは。

 

「トシエさん。私ちょっと行ってくるわ」

「そうだな、タマモちゃんは早く避難して――」

「そうじゃなくて」

 

 ――あいつならきっとあそこにいる。

 

 タマモが見つめるのは御呂地岳。そしてそこに向かっているはずの少年の姿だった。

 

「ちょっとバカの手伝いに、ね」

 

 保証も確証もない思いだったが。

 あいつはずぼらで大雑把な男だ。

 飄々としていてマイペース。

 だけど無駄にバイタリティーがあって。

 一度こうと決めたら最後までやり抜くど根性。

 あのバカなら……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ドオン!

 荒脛御呂地神は突然の爆発音にも動じることなく、前を見据えた。

 暗い洞窟の中。今までそこはただの岩の壁だった。しかし今、そこには大きな穴が開いていた。舞い上がる粉塵とその向こうに一人の少年が悠然とこちらに向かって歩いてくる。

 

「よう」

 

 横島忠夫。

 半日も立たないほど前に自分が殺したと思っていた少年である。

 しかし別段生きていたことに驚くわけではない。そういうこともあるだろう。些細なことだ。

 驚くべきことがあるとするなら、あれほど圧倒的な力を見せ付けられて尚、自分に立ち向かってくる蛮勇だろう。

 

「またお前か。よくよく命を無駄にするのが好きなのだな」

 

 小バカにしたように笑う御呂地神。何度挑んでこようが結果は同じだという思いだった。

 

「おキヌちゃんは無事なんだろうな?」

 

 静かに告げられた一言。

 忠夫の視線は地面に横たわったままのキヌに向けられていた。

 

「ああ、この女か。無事だともさ。俺が神力を扱うのに手こずったときの保険だったがな。曲がりなりにも何百年もの間、神力をその身に宿していた女だ。最悪、こいつの魂を贄にすれば地脈を乱して噴火を促すことはできる。そう思った」

 

 もっとも、と続ける。

 

「俺は神の力を自在に使えるようになった。だから、もうこの女は」

 

 ――必要ない。

 

 荒脛御呂地神が腰から銅剣を引き抜き、振り上げる。目掛けるのはキヌの首。たとえ幽霊であっても同じ霊体から繰り出される一撃は、生身の人間が受けたのと同様の効果がある。それで成仏できるなら救いはあるかもしれないが、最悪体をバラバラにされたまま成仏も出来ず永遠に苦しみ続けることになる。

 荒脛御呂地神の剣がキヌ目掛けて振り下ろされようとした瞬間。

 

 ――忠夫の拳が荒脛御呂地神のこめかみを打ち抜いた。

 

「は、が……っ?」

 

 荒脛御呂地神は何をされたのか分からなかった。

 箭疾歩。そこから繰り出される超スピードの一撃はすでに見切っていた。もちろん忠夫が箭疾歩を使って距離をつめ、キヌの首を落とそうとしていた自分に攻撃を加えてくることも予想していた。むしろそれが狙いだった。突っ込んできた忠夫を、振り上げた剣でそのままたたっ斬る。あの程度のスピード相手ならそれが十分可能だった。

 ……そのはずなのに。

 荒脛御呂地神はこめかみを打ち抜かれ、大きく後方に吹き飛ばされた。

 粉塵を撒き散らしながら、周囲の岩にぶつかりピンボールのようにはねる荒脛御呂地神を冷ややかに見据えながら、忠夫はキヌはそっと抱き起こした。ゆっくりと霊力を送り込むと、それが気付けになり、キヌはゆっくりと目を覚ました。

 

「よこ、しま……さん?」

「ああ、ごめんな。来るのが遅れた」

「……よかった」

「へ?」

「よかった」

 

 キヌはぽろぽろと涙をこぼしていた。

 

「私のせいで死んじゃったかと思いました」

「…………悪くない。おキヌちゃんは悪くないさ」

 

 ぎゅうっとしがみついくるキヌの頭をそっと撫でる忠夫。

 と、そこへ。

 尋常ならざる殺気が向けられた。

 

「立てるかいおキヌちゃん」

「は、はい」

「じゃあちょっと下がっていてくれ」

 

 キヌはまだ覚束ない様子で宙に浮くと、そのまま背後の岩壁へと隠れた。

 

「調子に」

 

 荒脛御呂地神。その声は激しい怒りに震えていた。

 

「調子にのるな!」

 

 洞窟内に吹き荒れる突風。

 岩壁に叩きつけられれば命などないだろう暴風の中を。

 

「があっ」

 

 再び箭疾歩からの一撃で顔面を穿たれのけぞる御呂地神。そこから忠夫の猛烈なラッシュ。掌底打ちから刀足蹴り、膝、肘のコンビネーション。左膝蹴りで御呂地神の顎を打ち上げ、無防備になった腹に今度は右回し蹴りを叩き込んだ。蹴り飛ばされ、岩壁に叩きつけられる。

 荒脛御呂地神がぶつかり、砕けた岩壁がその衝撃のすさまじさを語っていた。

 

 ――な、なんだコイツ……!?

 

 御呂地神は激しく困惑していた。

 忠夫から感じ取れるのは先ほどまでとは比べ物にならない圧倒的な霊格だった。

 このわずかな時間で別人とも思えるほどの霊力が上昇している。忠夫からほとばしる霊力が力強く洞窟内で渦を巻いていた。

 

「俺は確かに言ったぜ」

 

 正体不明の恐怖に頬に汗を滲ませる御呂地神。

 

「忘れたならもう一度言ってやる」

 

 忠夫は親指を下に向けて、歯をむき出して笑った。

 

「テメエは俺がぶっつぶす」

 

 

 

 

 

 

 

 

 横島忠夫なら最後はきっと何とかしてくれる。

 

 そう、思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 



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【10】

 

 

 

 

 

 

 ――八十年前、冬。

 

 深々と、雪が降り積もっていた。

 昨日から降り続いている雪によって、すでにどこが道か分からなくなっていた。それでも木々に覆われた細々とした隘路を歩けるのは目印があるからだ。木の枝にくくりつけられた赤い布は白雪の中によく映えた。布から布へと歩いていく。遠くで木の枝が折れて雪が落ちる音が聞こえた。それに驚いた山鳥が鳴き声を上げて雪空へと羽ばたいていった。

 吐いた息は白く凍えていた。

 藁で編んで作られた蓑を纏っていたが、凍みるような風の冷たさまではなかなか防いではくれない。頭にはほっかむりの上に編み笠、背負子を背負い、足にはかんじき。雪が降り頻る山道を歩くのは慣れているつもりだが、今日はいつも以上に雪が濃い。手を翳す。木綿の手袋の上に落ちてきた雪は一粒一粒が大きくて水分を含んでいた。これは着雪が厄介だ。なにより雪崩を引き起こしやすい。

 

「早く帰らねばな」

 

 今年で一三になる彼女は、病気で倒れ付している両親の変わりに山二つ超えたところにある町の市場に出向き、帰って来たところだった。越冬の準備のための物々交換をしてきたのだ。背負子には乾物などの保存食が積まれていた。

 もうじき村に帰り着く。木々が乱雑に立ち並ぶ代わり映えのしないような景色でも違いというのは分かるものだ。

 一歩一歩しっかりと踏みしめながら、白雪の上にかんじきのまん丸とした足跡をつけながら歩いていく。雪の上にひょっこりと丸い石頭が覗いているが目に入った。村の近くの山道でそっとたたずんでいる一体のお地蔵様だ。ここまで来たらもう半刻も歩けば村にたどり着くだろう。

 

「あ~、お地蔵様も寒そうにしてるだなぁ」

 

 雪に半分埋もれたお地蔵様を掘り出して、頭の上に積もった雪を払ってやる。ついでに自分がかぶっていた編み笠を頭にのせて、しっかりと顎紐もひっかけてやる。雪もこれで少しは防げるだろう。

 

「さ、これでいいべ。御伽噺みたいにお礼を持ってきてくれとはいわねえがら、おらを無事に村さ帰えしてくれよ」

 

 ぱんぱんと拍手を打つ。

 やわらかに微笑んでいるお地蔵様の顔も心なしかいつもより優しく笑っていた気がした。

 地面に下ろしていた背負子を背負いなおして再び歩き出す。良い事をしたという充足感でいくらか足取りも軽い。

しばらくすると、谷の合間にかかる吊橋が見えてきた。縄と板で組まれた吊橋は山奥にひっそりと存在する村へと続く道だ。この吊橋以外の経路となると、一度谷底まで下りて反対側の山に登る大回りの道しかない。そっちは大八車を引いていたり大荷物を持っていたりして吊橋を通るのが困難な時くらいしか通る機会のない道だ。

 吊橋の板と板の合間から、谷底が見える。わずかな風にも不安定に揺れる吊橋は、慣れていない者なら身が竦んで一歩も動けないだろう。しかし彼女にとっては幼い頃から幾度となく通っている吊橋だ。雪が降っていようが風が吹いていようが歩くのに必要以上の恐れなどない。ぎしぎしと左に右に揺れる吊橋。風が吹いているときは足を止めて、風がやむのを待つ。

 吊橋も半場まで差し掛かったとき。

 突風が吹いた。

 いっそう揺れの大きい橋の真ん中、雪の積もった板の上で、足が滑った。勾欄を掴んでいたため転倒することはなかったが、大きく多々良を踏んだ。

 バキ、と足元から渇いた音がした。

 

「わ、わわわっ!」

 

 板が腐っていたらしく、よろけた拍子に板を踏み抜いてしまった。ぐらりと上体が大きく揺れた。吊橋の中央に突然落とし穴が開いてしまったようなものだ。落とされる先は深い谷底。

 

 ――いかん!

 

 谷底に吸い込まれるように落下する体。

 しかし運が良かった。彼女の体一つなら足場になっている板と板の間から谷底へと落下してしまうところだったが、背負子がうまい具合に引っかかってくれたため落ちることはなかった。

 ほ、と息をつく。

 

「……しっかし、これどうしたもんだべか」

 

 それでも危険な状態であることに変わりはない。

 踏み抜いた足場があった橋の隙間から、腰から下が吊橋の下部から宙ぶらりんとぶら下がっている。自力で抜け出すことは出来なくはないが、一つの踏み板が腐っていたということは他の踏み板も腐っていると考えたほうがいいだろう。あまり過度な刺激は与えたくない、さもなくば今度こそ谷底へと落ちてしまうかもしれない。かといってあいも変わらず空からは雪が降り続けており、当分止みそうにない。このままジッとしていたら凍死してしまう。

 

「これはあんまりだべ、お地蔵様」

 

 先ほど親切にしたお地蔵様についつい恨み言の一つでも言いたくなってしまう。もう少しばかりご利益があってもいいんじゃなかろうか。

 

「あの……大丈夫?」

「へ?」

 

 突然声をかけられたことに驚いた。ここは人一人が通るのがやっとな幅の狭い橋の上だ。尚且つこんな大雪の日にそうそう人が通るとは思えない。

 そもそもだ。声は真横から聞こえた。吊橋の真横。すなわち足場も何もない、谷間からだ。恐る恐る声のしたほうを振り向く。

 するとそこに。

 女の子がいた。年の頃は一四、五といったところか。巫女装束を身に纏い、宙に浮いている。おまけに少女の周囲には鬼火が浮いていた。おどろおどろしさこそないが、それはまさしく……。

 

「あ、あああああ……」

 

 少女を指差した指先がぷるぷると震えていた。

 

「あの、どうしたん――」

「まさか幽霊だべか!?」

「え、あ、うん、そうだけど」

 

 にべも無く肯定された。

 

「ひ、ひええええええ――っ! おらの肝なんか食ってもうんまくねえぞっ! あっちいけ、あっち!」

「え、ええっ!? 幽霊はそもそも肝なんか食べないわ! 強いて言うなら人間の精気とか」

「精気!? やっぱり食うつもりか!」

「私は食べない! だ、だめ、そんなに暴れたら……っ」

 

 メキッ。

 じたばたと足を動かしているとその振動で踏み板が砕けた。彼女の体を支えていた、文字通りの生命線といえる踏み板が壊れた。

 

「ぎゃ、ぎゃああああ――っ」

「あぶな――い!」

 

 谷底へと落ちる、その寸でのところで幽霊がその手を掴んだ。

 ぱらぱらと砕けた板が谷底の暗闇の中へ吸い込まれるように消えていく。それをぞっとした想いで眺めてから、その視線を幽霊へと向けた。

 

「お、おい幽霊、どうしてわたすを助けてくれただ?」

 

 幽霊はその問いかけにちょっと困ったように眉を寄せた。

 

「どうしてと言われても……えっと、どうしてかな?」

 

 逆に問い返された始末だ。

 

 ――あ、この子は良い子だ。

 

 そう確信した。

 空をふわふわと蒲公英の綿毛のように浮くという稀有な体験をしつつ、村側の崖先へと運んでもらった。

 そして「驚かしてごめんね」と言って去ろうとする幽霊の背に声を投げかけた。

 

「ちょっと待った、あんた名前は?」

「え?」

「名前だ、名前。幽霊だって名前くらいあるだろ?」

「キヌ、だけど」

「そいじゃあ、おキヌちゃんて呼ぶな」

「あ、あの、私のこと怖かったんじゃないの?」

 

 そう言って首をコテンとかしげるキヌ。その仕草がまるで小動物のように可愛らしくて、つい噴出してしまう。たしかに幽霊には違いないが、これを怖がれというのは些か無理がある。

 

「ぷ、くくく……っ」

「え、なんで笑われているの」

「いや御免、なんでもねえべ。それと命の恩人を邪険にするような不義理なことなんてしねえだ。わたすはムロエっていうだ、よろしくなおキヌちゃん」

 

 差し出した手を、キヌはちょっと驚いたように目を丸くしてから、戸惑いがちにおずおずとその手を握り返してきた。

 

 ――それが後に村を温泉郷として栄えさせたムロエと、幽霊の少女キヌとの始めての出会いだった。

 

 そして、この二人の奇妙な友人関係はここから始まることとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【10】

 

 

 

 

 

 

 

 

「いけ!」

 

 荒脛御呂地神が手を翳すと、岸壁の間から這い出てきた木の蔓のようなものが鞭のように忠夫に襲い掛かる。

 四方八方から襲い掛かる鞭を避ける忠夫。その動きは後ろどころか体中に目がついているのではないかと思えるほど、死角からの攻撃でさえ完全に捉えている動きだった。

 

「おぉぉぉぉぉぉぉ――――――っ!

 

 霊力を纏った拳が荒脛御呂地神を殴り飛ばした。

 

「ぐ、がぁっ」

 

 殴られた頬を押さえながら御呂地神は戦慄していた。

 なぜだ。

 なぜこの人間の力は神たるこの身を脅かすのだ。

 わけが分からなかった。確かに今の自分の力は、霊だった頃とは比べ物にならないほど向上している。自然を操る超常の力はまさに天変地異そのもの。ただの人間の力など炉辺の石のように簡単に蹴散らせるはずだ。

 それ、なのに。

 

「なんで自分がぶっとばされてんのか分からねえってツラだな」

 

 く、と荒脛御呂地神が息を呑んだ。

 さらに追撃を加える忠夫。彼の扱う格闘技全般は師匠直伝のものだ。師曰く、自分は斉天大聖孫悟空の直弟子などとのたまっていたが真偽のほどは定かでない。

 忠夫は攻撃の手を緩めず、語り始める。

 

「人間、霊、神、魔。それぞれその身に蓄えられる力は大きく違うもんさ。人間と神じゃあどうしたって覆せねえほどの力の差がある」

「それなら、なぜだ……!」

「おいおい、自分で考えずに人に答えを聞いてばっかじゃあテストじゃ0点だぜ?」

 

 学校のテストで0点及び赤点の常習者が自分のことを棚にあげて、そんなことをのたまった。

 

「曲がりなりにも山の神になったお前の力の器は霊だった頃に比べて格段にでかくなっている。だけど霊から神に昇格したって器の中身まで一気に満たされるわけじゃねえ」

 

 例えばコップ一杯が水が霊の器と中身だとして、そこにいくら水を注ごうとしてもそれ以上は入らない。だが神族や魔族の器というのは大きさの桁が違う。それこそバスタブやプールくらいの容量がある。そこに力って水が並々と満たされれば、人間なぞ物量だけで押し切れるだろう。

 

「お前気づいているか、今のお前の器の中には、力なんてほとんど残ってねえって事によ」

「……っ」

 

 ハッとそれに気づく荒脛御呂地神。

 確かにそうかもしれない。霊の頃に比べて力をとどめておける器が比べ物にならないくらい広がったのを感じた。それに伴い一度に引き出せる力も大きく上昇した。だが器のほうにばかり気をとられていたが中身のほうはどうだ。神になった瞬間に感じた、自分の中で荒れ狂う轟々たる力のうねり。それが今はずいぶん弱弱しくなっている。

 

「今頃気づいたみてえだな。いくら器がでかくなったってそこに力が満たされなきゃ意味がねえ」

 

 今の荒脛御呂地神は例えるなら霊の頃に満たされていたコップ一杯の水を、プールの中に注ぎ変えただけの状態なのだ。

 おまけに、地脈の操作なんぞという大それた力を使っているのだ。いくら力の補充に適した霊穴の上にいるとて、力の消費は著しく大きい。

 

「いくら一度に引き出せる力が大きくなったって、引き出すための中身がそもそも無いんじゃあ話になんねえんだ、よ!」

「ぬ、ぐぅっ!」

 

 右、左と繰り出した拳を、交差させた腕でガードされたとみるや、脊椎反射でもしているのかと思うような素早さで頭突きを見舞う。鼻の下――人中に頭突きをぶち込まれた荒脛御呂地神は大きくのけぞり、一瞬意識を白濁させた。荒脛御呂地神は追撃が来ることを予想して反撃を仕掛ける。バックステップで距離をとることも出来たがそれは悪手だ。箭疾歩という高速の一撃を繰り出せる忠夫にとって、間合いはそれほど意味を持たない。

 風を切り裂く銅剣の突き。

 鳩尾に向かって矢のように放たれた刺突を忠夫は手の甲で弾いた。一瞬の隙を見極める集中力と、厳しい修行の中で培われた動体視力と反射神経の成せる業だ。

 神とて近接格闘の技術では素人同然。忠夫に分があった。

 忠夫はそこから一歩踏み込むと同時に、全体重を乗せた一撃――背中から相手を押し出すようにぶつかる、八極拳でいうところの鉄山靠をもって荒脛御呂地神を大きく吹き飛ばした。放電したように弾けた霊力がその一撃に込められた霊的破壊力を物語っている。

 

「ぐがぁ、はっ」

 

 吹き飛ばされ、膝をつく御呂地神。猛烈なラッシュにかなりのダメージが蓄積されていた。そして最後に放たれた鉄山靠は並みの悪霊や妖怪なら一撃で消し飛ぶほどの力が込められていた。

 

 ――強い。

 

 荒脛御呂地神はそれを痛感していた。

 侮っていた。

 荒脛御呂地神自身の力が枯渇寸前という事もあるが、敵対する忠夫の霊力も前に相対した時とは比べ物にならないほど上昇している。理由は分からない。ただその二つの要素が重なり自分を打ち滅ぼさんと敵意を持って追い詰めてきている。

 

 ――やむをえない。

 

 撤退。

 荒脛御呂地神が選択するのは〝逃げ〟の一手だ。

 霊穴から離れると地脈の操作に支障をきたすが、致し方ない。もはや火山の噴火は目前まで迫っている。放っておいてもまもなく周辺の町や村は火砕流に飲み込まれるだろう。

 目的は果たされたと言っていい。

 

「……口惜しいが君の言うとおりのようだよ。たしかに今この身には力がほとんど残っていない。だからここは退かせてもらう」

 

 荒脛御呂地神が下から上に腕を振り上げる動作をする。ぐらりと地面が大きく揺れ、地面に大きな亀裂が生まれた。

 

「あん?」

 

 忠夫は足元に亀裂が走るのを訝しげに見つめた。亀裂の奥から音が聞こえる。ヤカンの吹き出し口から水蒸気が迸る音に似ている。

 ふわりと前髪が揺れた。

 ここは洞窟の奥深くで風など吹こうはずもない。熱気を伴った風は足元の亀裂から吹いてくる。

 

「――げっ」

 

 とっさにその場から飛びのく。一瞬遅れて亀裂から間欠泉が噴出した。噴火間際の御呂地岳の地熱によって熱せられた地下水が数百度という高温で勢い激しく立ち上ってくる。

 

「横島さん!」

 

 キヌは岩陰から身を乗り出して忠夫の安否を確認しようとする。

 洞窟内に吹きすさぶ熱風と水蒸気によって視認はできないが声が聞こえた。

 

「あちちちちっ、てめえこの往生際が悪いぞ!」

 

 降りかかる熱湯からちょこまかと逃げ回りながら罵声を飛ばす忠夫。

 荒脛御呂地神はこれが好機と、湯煙にまぎれてその洞窟から退避しようとする。霊体であるその体なら洞窟の壁をすり抜け、外に出ることなど造作も無いことだった。

 しかし。

 

「そうは問屋が下ろさねえってんだ! じいさん!」

「おうともさ!」

 

 忠夫の誰何の声に、まるで祭りの掛け声のように威勢の良い返事が返ってきた。

 バチバチと洞窟の壁に紫電が走る。それはまるで洞窟中に無数に枝分かれする血脈が走るような光景だった。

 

 ――なんだ?

 

 突然の出来事に警戒の色を滲ませながら、荒脛御呂地神はそのまま洞窟の壁をすり抜けようとするが、出来なかった。霊体であれば物理的な干渉は受けないはずなのに、壁を通り抜けることが出来ない。

 

「てめえが逃げ出すことも想定の内なんだよ」

 

 徐々に勢いが収まる間欠泉の水しぶきの向こうで忠夫の影が揺らめいた。

 ごきごきと拳を鳴らせながら、歯をむき出しにして獰猛に笑っていた。そして忠夫の横には、もう一つの人影があった。

 

 ――美木原。

 

 和服にサングラスと言った奇抜な出立ちの老ゴーストスイーパーだ。しかしなんだか様子が可笑しい。ゆらりゆらりと大きく上体を揺らしながら肩で風を切って歩いている。それは出来の悪いマリオネットが不恰好に歩かされているようだ。動きだけを見ていると何がしたいのかいまいち分からない。しかしその憤怒に煮えたぎった表情を見れば、それが怒りのあまり落ち着いたスムーズな動きが出来ていないのだというのがよく分かった。

 

「こんのどぐされが、あ、おぉ? てめ、よくも、やってくれったな、ちょっとツラかせや、ああん? ちょ、ちょっちょま、、ぜ、あ、どつくぞっ、ごらぁぁっ!」

 

 何をさっぱり言っているのか分からない。言語中枢がバーストを起こしている。

 とにかく怒っているというニュアンスだけはなんとなく伝わった。

 忠夫は横で見得を切ってがなりたてている美木原を親指で指差し、こう言った。

 

「見ろこのジジイの姿を。お前に飼い猫を盾にされたのが相当ご立腹らしく、今すぐにお前を八つ裂きにして鳥のえさにしてやりてえんだと」

 

 ……内容はまるでマフィアの報復行為だった。

 忠夫と美木原が合流したのはこの洞窟に忠夫が突入するつい直前のことだった。忠夫とは別ルートで御呂地岳を再び登ってきた美木原は復讐に燃えていた。まだ悪霊と呼ばれていた頃の荒脛御呂地神に飼い猫であるオセロを盾にされたため、言いなりになるがままキヌの中に眠っていた神の力をヤツに譲渡してしまった。それによって周辺の街や人々が噴火という脅威にさらされているのだ。なんとしても荒脛御呂地神を止めねばならない。例え自身の命と引き換えにしても、だ。それにくわえ、ヤツには大きなかりがあった。オセロという自分にとっては家族であり本当の息子のように可愛がっていた飼い猫を傷つけられた恨みだ。取り憑かれていたオセロは衰弱してしまっていた。命に別状こそ無かったが、弱弱しく地面に横たわっていたオセロの姿を思い出すたび心臓が凍り付いてしまったかのような息苦しさを覚える。横たわったままのオセロが自分に言うのだ。

 

 ――パパ、僕の敵をとって。

 

 無論幻聴である。

 

 ――おう、やってやるともさ!

 

 弱ったオセロを自らが形代で作った式神に安全な場所まで運ばせ、家族を傷つけたあんちくしょうを地獄に叩き落すべく霊波をたどって洞窟の前までやってきたところで忠夫と合流した。

 これはお互いの出来ることとなすべきことを確認した上での共闘。

 洞窟の壁に手をついたまま固まっている荒脛御呂地神を見据えたまま、忠夫は種明かしを始めた。

 

「このじいさんは俺とは正反対で、霊に対する直接的な攻撃よりも結界なんかの技術的な力が得意なんだと。だから俺がお前をぶちのめしているうちに、いざってときにお前が逃げられないようにひっそりと洞窟に潜伏して結界を張るための準備をしていたのさ」

 

 ――結界。

 

 そうか、これは結界か!

 荒脛御呂地神はこの洞窟全体を覆う違和感の正体に気づいた。

 

「だぼらぁっ! ちょっちょまぁ!」

「落ち着けじいさん。さっきからちょいちょい言ってる〝ちょっちょま〟ってなんだ?」

 

 今にも敵に飛び掛りそうな美木原をどうどうとなだめる。

 忠夫が荒脛御呂地神に向かって一歩踏み出す。

 

「答えな。なんで噴火なんぞを起こそうとするんだ」

 

 お前の目的は一体なんだ、と詰問する。

 

「……言ってどうなるというんだ?」

「別に。言いたくないってんなら別にいいぜ」

 

 それなら問答無用で退治するだけだ。

 戦意を滾らせ、拳を握り締めて更に一歩踏み出す。

 

 

 許せなかった。

 

 

「あ?」

 

 何事かを呟いた荒脛御呂地神。

 忠夫は歩みを止めて訝しげに問い返した。

 

「許せなかった。街の連中やそこにやってくる観光客どもが」

「許せねえ、だ? 一体お前どんな未練を残してこの世に残ってたんだ?」

 

 荒脛御呂地神は苦々しい思い出だとばかりに顔を歪ませながら答えた。

 

「400年前。それが私の生きていた時代だ」

「400年前? あー、うん、そうだあれだ…………鎌倉時代くらい?」

「全然違うわバカモノ。安土桃山時代、慶弔の頃じゃ」

「いや知ってから。その……ボケてみただけだから。あれだろ、えっと……ノブナガ?」

「考えて思いついたのが織田信長だけか。ゴーストスイーパーを目指すなら最低限の歴史くらい知っておいたほうがいいぞ」

「うっせ。目の前の霊ぶんなぐればそれで解決だろが。つうか何時の間にちょっちょまから人間に復帰したんだよじいさん」

 

 いつのまにやら正気を取り戻したらしい美木原が鷹揚に腕組みをして忠夫の横でふんぞり返っていた。美木原はふん、と面白くなさそうに鼻を鳴らした。

 

「ちょっちょま言うな。なに、ちょいとあやつがここまで大それたことをした動機とやらに興味があってな。さて、聞かせてもらおうではないか」

 

 サングラスの奥の瞳が怜悧な鋭さを帯びて、荒脛御呂地神に問いかける。

 とてもさっきまで、ちょっちょま言ってたのと同一人物だと思えない。

 

「元々は……!」

 

 激したように感情を吐露する荒脛御呂地神。

 

 

 

「元々はここにある温泉は俺が掘り当てたものだったんだ!」

 

 

 

「は?」

「へ?」

 

 突然何を言い出すかと思えば、本当に何を言い出した?

 想定外の角度から飛んできた話のジャブに、素っ頓狂な声を上げる忠夫と美木原。荒脛御呂地神はまるで慟哭するように頭を振り乱しながら叫んだ。ついでに地が出ているのか自称も私から俺に戻っている。

 

「ここにある温泉の全ては俺が掘り当てたものだったんだ。それなのに……それなのに!」

「ヘイ、ちょっと待て」

 

 と、忠夫が話しに待ったをかける。無表情だ。

 美木原が問いかける。こちらも無表情だった。

 

「話を推論するに、だ。お主はひょっとして、まさかと思うが、自分が掘り当てた温泉に他人が入っているのが気に入らない……と?」

「そうだ」

 

 胸を張って俯く荒脛御呂地神。

 美木原の推論を忠夫が続ける。ぷるぷる震える指先を荒脛御呂地神に向ける。

 

「で、だ。おまえひょっとして、いっそのこと火山を噴火させちまえば他の人間はいなくなるし温泉独り占めできてハッピー♪ とかいうのが今回の騒動起こした発端じゃねえだろうな?」

「はっぴー、とやらが何かは分からないが、まあそんな感じだ」

 

 そんな感じらしい。

 

 ――鳴動する地盤に今まさに噴火しようとする御呂地岳。古来より人は自然の猛威と戦ってきた。気まぐれに巻き起こる天災によってたくさんの人たちが命を飲み込まれ、たくさんの人たちの心に消えることの無い傷を刻み付けてきた。幾星霜と繰り返されてきた自然の猛威。地震、豪雨、津波、雪崩、土砂崩れ、そして火山の噴火。現代にも山岳信仰というものがあるように、遥か昔より山は崇拝の対象であった。山が噴火した時は、山の神がお怒りだといって生贄を捧げる風習もあったほどだ。そして今まさに神の怒りによって起ころうとしている火山の噴火。しかし大災害を引き起こそうとしている山の神の怒りの理由が。

 

 ……そんな感じらしい。

 

 まさかと思ったバカバカしい推論を肯定されたことにぽかんと口を開ける忠夫と美木原。

 呆然として、ぶるぶると瘧の様に震え。

 それから。

 

「「しょ……っ」」

 

 喉の奥から迸る想い。

 

 

 

「「しょうもねえええええええええええええええええええええええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ――――――――――――っ!!」」

 

 

 

 それは心の底からの絶叫だった。

 脱力感で膝から崩れ落ちそうになる体を必死に奮い立たせる美木原。

 

「つまりは何か、温泉に他の人間入らせたくないという狭量でひねくれた、みみっちい理由が騒動の原因じゃというのか?」

「狭量? みみっちい? くっくっく……しょせん俗人には神たる私の高尚な想いは理解できまいて。はーっはっはっはっは!」

「やかましいわ! いまさら貫禄つけて笑ったって威厳もへったくれもねえんだよ!」

 

 脱力感で腰砕けに倒れそうになったのを気力でこらえた忠夫が怒声を飛ばす。

 

「ふん、温泉を掘り当てた私を崇め奉りもしない厚顔無恥な輩に分けてやる温泉などない」

「何様じゃ、このうすらとんかち!?」

「神様だ。そもそも俺が温泉を掘り当てた喜びのあまり飛び跳ねていたら足を滑らせすっ転んで死んだのをいいことに、あの悪逆非道な村の連中は横からのうのうと現れて俺の温泉を横取りしおってからに!」

「純然たるバカかお前は!?」

 

 この火山地帯ならどこ掘っても温泉は出ると思う。自分の土地でもないのに、最初に見つけたからって独占権を主張するのはお門違いも甚だしい。

 

「尚且つだ! 未練を残した俺が霊となった後、温泉を盗られた腹いせにちょっとばかり村中の人間が苦しみもがきますように願いを込めて祟ったら、旅の道士に俺を洞窟の奥底に封じるなどという不当な扱い!」

「当然じゃ、ボケぇっ!」

「つい先日の地震によって洞窟の一部が崩落した。そのおかげで封印が破れてくれなければ、俺は今も眠ったままだった」

「未来永劫眠ってりゃよかったのに――ん、地震?」

 

 地震といって思い出すのは昨日の夜に出会った猿の霊達だ。そういえば彼らも地震による被害で命を落としたのだ。

 

「とにかくだ!」

 

 荒脛御呂地神が吼える。

 

「ここの温泉は俺の物だ! それを後から来た連中が好き勝手に弄繰り回した。今のこの土地の惨状はどうだ! わけの分からん建物ばかりどかどかと建てやがって、人が掘った温泉を金儲けの道具にしておいて人々が笑顔になる街づくりだと? たわけたことをぬかしおって!」

 

 ――人々が笑顔になる街づくり。

 

 それは街の入り口のアーチに掲げられていたスローガンだった。

 

 

 

「勝手なこと言わないでください!」

 

 

 

 凛とした声が洞窟に響いた。

 

「……おキヌちゃん?」

 

 普段の彼女からは考えられない声量と鋭い叫び声。驚いた忠夫が振り向くと、今まで岩陰に隠れていたキヌが岩の上に浮きながら肩をこわばらせていた。彼女はキッと鋭い目線で荒脛御呂地神を睨みつけている。

 えも言われぬ迫力に、荒脛御呂地神はキヌの瞳から目を離せなくなった。それは強い意志のこもった瞳だった。

 

「あなたは何も知らないじゃないですか」

 

 キヌの声色には相手を攻め立てるような強い響きが込められていた。

 

「この街をつくった人たちが、どんな想いで、どんな苦労をしながら、どれだけの時間をかけてこの街をつくったのか知らないくせに」

 キヌはぎゅっと拳を握りこんだ。

 

 

 

 キヌは知っていた。

 ずっとそばで見てきたから。

 大切な……。

 大切な、友達の後姿。

 だからこそ許せなかった。友達の想いを踏みにじるような言葉が。

 ――温泉が金儲けの道具。

 そう言われたことが、許せなかった。

 ――人々が笑顔になる街づくり。

 その願いを馬鹿にされたことが許せなかった。

 

 

 

 ありったけの想いをぶつけるように、力を振り絞るように強くまぶたを閉じて。

 

「それなのに、勝手なこと言わないで!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 彼女と一緒にいた時間はキヌが過ごしてきた三百年の時の流れの中からすると、本当に、ほんのわずかな時間だったけれど。

 それはとても小さくて、とても大きな。

 色あせずに輝く大切な思い出だった。

 

 

 

 

 

 

 



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【11】

 

 

 

 

 

 

 

 ――勝手なこと言わないで!

 

 そう叫んだキヌの瞳は涙にぬれていた。

 大切なものを踏みにじられた気がした。宝物につばを吐きかけられたような怒りと悲しさを感じていた。

 

「ひっく……」

 

 嗚咽が零れる。

 悔しい。

 大切なものを馬鹿にされたことも、泣いているところをその相手に見られてしまったことも、悔しくてしょうがなかった。

 それでもキヌは、言わなければならない。

 これだけは。

 彼女の矜持のために、絶対に言っておかねばならない。

 

「私は神様になれなかった」

 

 三百年、地縛霊として過ごしてきた。神様になることはおろか、成仏すらできなかった自分。

 移り変わる自然と時代の中にずっと取り残されていた。見ることは出来た。聞くことも出来たし、触ることだって出来た。

 でも。

 

 ――感じることだけは出来なかった。

 

 春の温かな日差しの中で咲き乱れる花々の匂いを感じることは出来なかった。

 夏のひりつくような暑さに汗を流すことは出来なかった。

 秋の紅葉した山景色を眺めることは山を吹き抜ける風を感じることは出来なかった。

 冬の雪の冷たさに震えることだって出来なかった。

 感じることが出来ないというのは、徐々に心を殺す毒だ。そこに立っている実感すら喪失させ、世界に自分一人だけが取り残されてしまう。

 何のために存在しているのか。

 いくら自問しても答えはでない。

 

「それでも、がんばっている人たちを見るのは心が暖かくなった」

 

 思い出すのはとある女性の姿。凛とした頼もしい背中で皆を引っ張って街を、未来を切り開いていったそのまばゆいばかりの瞬間瞬間をしかと踏みしめて歩んでいた人の姿。

 彼女がどれだけの人たちと夢と未来を背負って生きていたか、キヌは知っていた。

 だからこそ許せなかった。

 

 ――人々が笑顔になる街づくり。

 

 それはどこにでもありふれた陳腐な言葉かもしれない。例えば小さな町役場の入り口で錆付いたような看板に色あせた字で書かれた、誰も気にも留めず通り過ぎるような無意味な言葉かもしれない。

 でもその言葉にはたくさんの人々の願いが込められていた。

 ずっと昔。街が村であり、まだ未開の森だった頃。桑や鎌を持ち少しずつ人の住める場所にと開拓していた先人たちの想い。自分が雨露をしのげる家を作るために開墾した土地。自分の子供が食べるものに困らなくなるための畑を作った。その子供が大人になったとき、自分の子供が飢える事のないように、食べ物にあふれる山へ安全に行くための道を切り開いた。そうやって少しずつ人の住める土地は大きくなり、人と人との結びつきも大きくなって行った。

 親から子へと脈々と受け継がれてきた想い。それをキヌは間近で見てきた。

 そして、すごくあこがれていた。

 

「だから、それをそんな暖かな人たちが作った街を壊そうとするのだけは絶対に許せない!」

 

 これだけは絶対に言っておかねばならなかった。

 例え、相手が神であろうと。

 例え、どこのどんな人たちがそれを許容しても。

 自分だけは決して許さない。

 膝をつかない。

 頭をたれない。

 神様になったって、全てが思い通りに行くとは思わないで。

 

「この想いだけは決して曲げません」

 

 キッと荒脛御呂地神を見据えたキヌ。

 

「だ、だからなんだというのだ!」

 

 荒脛御呂地神はキヌを睨み返した。

 

「知ったことか! 俺が知ったことか……たとえなんと言われようとも今更止めるわけが無かろうが。もうじき街は噴火に飲み込まれる。これは決定事項だ――がはっ」

「オーケー、もうしゃべんな」

 

 忠夫の拳によって荒脛御呂地神は黙らされた。拳骨をするように打ち下ろされた拳によって脳天を打ち抜かれ、地面に頭から突っ込んだ。

「おキヌちゃん」

「……は、はい」

 

 キヌは涙声で忠夫に返した。

 お前にはもはや何も出来ないと言われたようで悔しかった。しかし。

 

「大丈夫だ」

 

 忠夫の言葉に「え?」と口をぽっかりと開けた。

 

「心配すんな。噴火は起こさせない」

「……は、何を言うかと思えば! もはや噴火は目前まで迫っている。もはや地脈の流れを正常に戻したとしても破裂寸前の火山はどうしようも――ふがっ!」

「しゃべんな、つってんだろうが」

 

 地面から頭を引っこ抜いて、言葉を上げた荒脛御呂地神の頭を踏み抜いて再び黙らせる。

 それからもう一度キヌに向き直った。

 

「誰にも馬鹿になんてさせねえし、無駄にもさせねえ。おキヌちゃんの想いは俺が代わりに守る」

 

 だから。

 

「ほら、泣く必要なんてないだろ」

 

 手でキヌの涙を拭う。

 キヌはほろほろと涙をこぼした。悔しくて流していた涙は暖かなものへと変わっていた。

 

「はい……っ」

 

 おキヌは大きく俯いた。

 

「よし……おーいじいさん準備はいいかー!」

「おう、ばっちりだ」

 

 忠夫が美木原に声をかけると、美木原は忠夫に向かって親指を立ててサムズアップ。いい笑顔だ。

 美木原の足元には大きな穴が開いていた。

 ただの穴ではない。その奥からは青白い光が立ち上っている。

 それは地脈の中心へとつながる穴だ。もとよりこの洞窟にあった窪みのような小さな穴を地脈にアクセスできるように霊力によるトンネルを通したものだ。

 

「よし、じゃあ噴火を止めるとしましょうかね」

 

 そう言って、忠夫はその穴に向かって歩いていく。その手に荒脛御呂地神の頭を掴んで、だ。

 

「ちょ、ちょっと待て、何をするつもりだ!」

 

 ずるずると引きずられながら困惑気味に声を荒げる荒脛御呂地神。

 忠夫は「ああん?」と毛虫でも見るような冷ややかな視線を荒脛御呂地神に向けた。

 

「んなの決まってんだろうが。自分のやったことの責任は自分でとってもらうぜ」

「ど、どういうことだ?」

「むかしっから噴火を収めるためにどうするか、ってのは相場が決まってんだろうが」

「ま、まさか」

 

 顔を青くする荒脛御呂地神。

 イヤァな予感、というか確信があった。

 

「そ、生贄だ。この場合おまえ」

「そ……っ」

「はっはっは、末端の末端とはいえ神の魂なら地脈を正常に戻した上で、火山を無理やり黙らせることだって訳ねえだろうさ」

「そんなの御免だぁっ!」

「お前に拒否権なんてないんだよ~? 安心しろよ、別に魂が消滅するとかじゃなくて地脈の底で眠りについてもうだけだからよ。な、安心だろ?」

「安心なわけあるかぁっ! つまりは悪霊として封印されていた頃に逆戻りってことだろうがっ!」

 

 暴れる荒脛御呂地神の様子など意にも介さずずるずると封印穴に引きずっていく忠夫。

 そして、荒脛御呂地神の頭をドッチボールのように掴んで、テイクバックの姿勢をとる。

 

「そーれ、逝ってこぉぉぉぉぉぉぉぉい!」

「ひやぁぁぁぁぁぁっ!」

 

 そして封印穴目掛けて荒脛御呂地神を放り投げる忠夫。当然のことながらそこに神への畏敬の念などミジンコ一つ分の重量も無い。

 

「え、えー……」

 

 これになんと言っていいのか分からないのがキヌだ。

 これで火山の噴火は止まるらしいが、ちょっと、というかだいぶ刺激的な光景だった。まるで囚人を死刑台に無理やり立たせた刑務官のようだった。

 しかし、どうもこれで終わりではないようだ。

 

「ふ、ふんぬぅぅぅ!」

「チィっ! このやろうまだ落ちていやがらねえのか!」

 

 荒脛御呂地神はまだ封印穴の奥には落ちていなかった。穴の縁に手を引っ掛けてしがみついてる。しかし今現在荒脛御呂地神には、地脈による穴の奥へと引きずり込もうとする引力のような力が働いている。これは地縛霊をその地に縛り付ける力と似ている。地脈との相性の良さが裏目に働いているようだ。

 

「しぶといヤロウだ」

 

 忠夫は足を振り上げる。

 

「おらぁっ、落ちろ!」

 

 ガン、ガン、とひたすら足を鎚のごとく、やっとのことで自重を支えている荒脛御呂地神の手を目掛けて振り下ろす。

 

「ちょ、や、止め――っ」

 

 荒脛御呂地神は必死で耐える。ここで手を離してしまえば封印の穴に向かって真っ逆さま。またしても地脈に封印されてしまう。

 

「ひぃーひぃー……」

 

 精神肉体共に極限状態で過呼吸気味の荒脛御呂地神。

 それをキセルを咥えながら静かに眺めていた美木原がふーと紫煙を吐く。キセルを裏返して、とんとんと柄を叩き、ちりちりに熱せられた灰を霊体にも効くようにわざわざ霊力でコーティングして荒脛御呂地神の手の上に落とした。

 

「熱ぅっ!」

「ほ~れ熱かろう。早く手を離したほうがお前のためじゃぞぉ~」

 

 顎をしごきながら、美木原はニタ~と底意地の悪い薄ら笑いを浮かべた。

 

「…………え、え~と、と、止めたほうがいいのかなぁ」

 

 キヌはなんだか壮絶ないじめの現場を目撃した気分だった。

 ここまでいくとさすがに相手が哀れに思えてきた。

 穴に落ちまいと必死に縁にしがみついている荒脛御呂地神を見下ろす二人の顔には邪悪な笑みが張り付いていた。

 

「ヘイヘイヘイ、ずいぶんがんばるじゃねえですか~?」

「ほんとしょうもないことばかりに根性みせるヤツじゃの~」

 

 忠夫は踵で荒脛御呂地神の手をぐりぐりと踏みにじり、美木原はキセルの頭で荒脛御呂地神の頬をぐりぐりと捩っている。

 

「こ、この外道どもめええええええええぇぇぇぇぇぇぇぇ――――っ!」

 

 私怨があるとはいえ、追い詰め方が陰険で野蛮だった。もはやどっちが悪か分からなくなる光景だ。

 その時、地震によってぐらりと地面が大きく揺れた。

 

「へ?」

 

 その調子っぱずれの声を上げたのは忠夫だった。

 地震によって。

 

 ――封印の穴の縁にかかっていた忠夫の足元が崩落した。

 

 もはや呪われているのではないのかと思うほどの運の悪さだ。

 

「んなぁっ!?」

 

 荒脛御呂地神もろとも封印の穴に落ちそうになる忠夫。

 

「小僧!?」

「横島さん!?」

 

 突然のことに驚き慌て、忠夫に向かって手を伸ばす美木原とキヌ。しかし伸ばした手は空を切った。あわや荒脛御呂地神と共に封印の穴に落ちそうになる忠夫。

 

「って、落ちるかぁっ!」

 

 何とか穴の縁を掴んだ。

 奇しくも先ほどまでの荒脛御呂地神と同じような体制になっていた。そしてその荒脛御呂地神はというと……。

 

「――て、テメェェェっ! なんで俺の足にしがみついていやがる!?」

「おとなしく落ちるわけ無いだろうが!」

 

 忠夫の足にしがみついていた。その下には底のほうから青白い光が立ち上る封印穴。落ちるものかと死に物狂いだ。

 グググ、と封印穴に引き寄せられる荒脛御呂地神の体。その引力はかなり強力なため、まるで何百キロの重りを足にくくりつけられているような錯覚を覚える忠夫。いくら霊力で筋力を増強させてるとはいえ……。

 これは相当に堪える!

 

「悪あがきすんじゃねえ、静かに運命を受け入れろ!」

 

 さっさと一人で落ちろ!

 ぶんぶんと荒脛御呂地神がしがみついている足を揺らす。服についた虫を振り払うような動作だが、それしきのことで虫でも埃でもない荒脛御呂地神が手を離すことはない。

 

「一人で逝くものか、お前も道連れだ!」

 

 彼は覚悟を決めていた。

 もはや助かる道がないのなら、せめて一人くらいは道連れにしてやろうと破滅的な結論に達していた。

 当然のことながら忠夫にとっては迷惑千万な話だった。

 

「ほんっとふざけんなよオマエ!? 誰が好き好んでむっさいひげ面のおっさんと一緒に封印されるかってんだ!」

「貴様の事情なぞ知ったことか!」

「このボケェっ! こんな鬼畜な行いしてテメエの良心は痛まねえのか!?」

「それこそ貴様が言えた立場かああああぁぁぁ――――っ!?」

 

 罵り合う忠夫と荒脛御呂地神。

 それを眺めながら美木原は。

 

「あーなんだかどこかで見た光景じゃの……」

 

 思い出すのは先日のこと。女風呂を覗こうとして失敗して崖から転落しそうになった間際のことだ。ちょうどあの時もこんな風に、忠夫が落ちまいと崖に突き出ていた岩にしがみついており、その足に自分がしがみついていたのだ。

 

「おぬしひょっとして、とんでもなく悪い運を引き寄せる霊的な資質でもあるんじゃないかの?」

「腕組みして冷静に感想述べてねえで助けろやあああああぁぁぁ――――っ!」

 

 正直そろそろ腕が限界だった。

 山を登って、荒脛御呂地神と戦い、崖に落とされ川に流されて、また山を登って、また荒脛御呂地神と戦い――と、常人ならもはや寝込んでいそうなとんでもないハードワークの果てにすでに体が悲鳴を上げていた。体の強化にまわしている霊力もそろそろ尽きそうだ。風船から空気が抜けるように、だんだんと腕に力が入らなくなってきていた。

 

「横島さん、今すぐ引き上げますからね!」

 

 忠夫を急いで引き上げようとキヌが穴に近づく。

 しかし。

 

「ふん!」

 

 邪魔をしたのは荒脛御呂地神だった。

 地震に残された最後の力を使い、地面から蔦を発生させる。大蛇のようにいくつもの蔦がうねりながら封印穴の周りを檻のように囲ってしまった。

 

「な、なにこれ……っ ん、ん――! だ、だめ、通り抜けられない!」

 

 キヌは蔦の檻を通り抜けようとするが出来ない。霊体を阻む神力が込められているようだった。

 

「お、おまえ……」

 

 忠夫が「なんてことしてくれたんだ」と言わんばかりに攻め立てる視線を荒脛御呂地神に向ける。もはや力の一片も残されていない荒脛御呂地神は「ふ」と諦念のため息をもらした。

 

「残念だったな、これで助けはこない。あきらめて俺と一緒に地脈のそこで眠りに着くがいいさ……はーはっはっは!」

 

 忠夫が言いたいのはそういうことじゃない。

 

「おまえ、その力があればここから脱出できたんじゃないのか……?」

「はーっはっは…………は?」

 

 蔦をロープのように使えばこんな落とし穴のようなところからの脱出など簡単に出来ただろう。

 

「な」

 

 その結論に思い至った荒脛御呂地神は顔を青くした。

 目の前にぶらさがっていたお釈迦様の蜘蛛の糸に気づかなかったどころか自分でぶち切ってしまっていたのだ。

 

「なぜそれをもっと早く言わない!?」

「いや知らんけども!?」

 

 忠夫はしがみついている荒脛御呂地神を引っぺがそうと蹴りまくる。しかし相手も必死なため一向に引き剥がせる気配は無い。

 

「ええい、離せぇ――っ!」

「嫌だ! 絶対に離すものか――っ!」

 

 金色夜叉の貫一とお宮のようなやり取りたが、恋慕が絡んだあちらと違いこちらの内情は無残なくらいひどい。まさに蜘蛛の糸を争っての罪人道士の醜い争いそのものだった。

 

 

 

「まったく……なにを遊んでんのよ?」

 

 

 

 ぼう、と煌々と輝く朱炎が洞窟を照らし出した。

 炎は封印穴を囲っていた蔦をあっという間に燃やしつくし、踊りかかるように荒脛御呂地神に襲い掛かった。

 

「げ、げぇっ!」

 

 もはや神力など残されておらず、忠夫の足にしがみつくので精一杯だった荒脛御呂地神に自分を包み込むように踊りかかってくる炎を防ぐ術は無かった。

 炎の濁流に飲み込まれ、あっという間に封印穴へと飲み込まれていく。

 

「うわああああああああああああ――――――――っ!」

 

 エコーを聞かせながら、荒脛御呂地神の声は徐々に封印穴の奥へと吸い込まれていき、やがて何も聞こえなくなった。

 洞窟の縁に一つの小さな影が降り立った。

 

「よぉ」

 

 そこに立っていたのは忠夫の妹であるタマモだった。

 長い髪を後ろで9つに結わえたボリュームのある狐色の髪は、彼女が羽衣のように周囲に纏っている炎によく映えており、その超常の光景は彼女の幼いながらもどっか妖艶な美貌と相俟って幻想的な雰囲気を醸していた。

 腕組みをしながらあきれたように忠夫を見下ろしている。

 

「ずいぶんぼろぼろじゃない。大丈夫なの?」

「おう。ま、色々あってさ」

 

 穴からよじ登った忠夫を見て怪訝な顔を浮かべるタマモ。服はそこかしこが解れ破れており、忠夫の体中に細かな傷がついている。相変わらずぶっきらぼうな口調だが、そこに込められた不安と心配が入り混じった声色にうれしくなると同時にむずがゆくもなる。

 そこにキヌが飛んできた。

 

「よ、横島さん! 大丈夫ですか?」

「おう、この通りぴんぴんしてるさ」

「ごめんなさい……私最後まで役に立てなくて……」

「そんなことねえさ。おキヌちゃんは自分の想いをしっかりとあのヤロウにぶつけただろ。神に向かってだ。立派なことだと思うぜ」

「横島さん…………ありがとうございます」

「ふ~ん」

 

 タマモは興味深そうにキヌをじろじろと見つめていた。

 

「……えっと、どちら様でしょうか?」

 

 困惑の表情を浮かべるキヌに忠夫が説明を入れた。

 

「あ、こいつ俺の妹」

「はへ~、そうなんですか……あ、私キヌって言うの、よろしくね」

 

 小さい子に対しては敬語がなくなるらしいキヌがタマモに挨拶をする。

 タマモは半目でキヌを見つめていた。いや、それはキヌ自身を見ていたというより、その奥にある忠夫とキヌの関係を思索しているようだ。

 

「……そういうこと、ね。ずいぶん可愛らしいガイドさんじゃないの」

「な、なに? なんかお前怒ってね?」

 

 ガイド、というのは忠夫が最初の夜に山に入る際に言った言葉だった。

 

 ――頼りになるガイドがいるから心配要らない。

 

 そんなふうに言った覚えがあるのだが、なんでわざわざそのときに使ったガイドという言い回しを持ってきたのか、いまいち分からない。

 

「べっつにー、怒ってなんかないわよー」

「嘘だ。おまえがそうやってそっぽをむいて語尾を伸ばしてしゃべるときは怒っている証拠だ」

「怒ってないって言ってんでしょ」

「やっぱ怒ってんじゃねえか」

 

 ドスを利かせたタマモの声色に、子供の嘘を見透かす父親のように、しょうがないなぁとちょっと困ったような視線を向ける。そんなふうな目で見られるのが嫌なのか、タマモは今度は体ごと忠夫に背を向けた。

 

「ふん……」

 

 面白くなさそうに鼻を鳴らすタマモ。

 

「あの、喧嘩はだめですよ?」

「あー、いいのいいの、こういうやり取りはいつものことだから」

 

 キヌが仲裁に入ろうとが忠夫が腕を振って止める。

 

「おぬしら、その辺にしとけ」

 

 美木原の言葉の終わりと共に、ひっきりなしに小刻みに揺れていた地面のゆれが収まった。

 地脈の乱れも徐々に正常な流れへと戻っていくのを、感じた。

 

「ま、とにかくこれで仕舞いだな」

「ああ、終わりじゃ」

 

 ――しかし……。

 

 美木原は気になることが一つあった。

 地震。

 ついさっきまでひっきりなしに起きていた地震だが、地脈を乱されただけにしては奇妙なことがあった。それは地震の規模と噴火までの時間的な短さだ。本来地脈というものは、いかに強大な力で操作したとしても、それだけで火山を噴火させるほどのエネルギーを即座に生み出すことは出来ない。

 例えば一本の木の棒があるとする。両端を手で持って、徐々に、徐々に折り曲げていく。木の棒は力をかけられ少しずつたわんでいく、そして臨界点を超えたとき真っ二つに折れるだろう。地脈と火山の噴火の関係もこれに似ていた。本来の流れと全く違う流れを作り出そうとすると、地脈は元の流れに戻ろうとする。反発する力が徐々に高まっていき、限界を超え、行き場を失った力が噴火という形で外に漏れ出すのだ。

 しかし今回の事例に限って言えばどうだ。

 短い。

 地脈を乱されてから噴火までの時間が、あまりに短すぎる。

 もとより噴火間際だったところに最後の一押しとばかりに力を加えたため即座に噴火しそうになった、というのなら話はまだ分かる。しかし美木原の記憶が正しければ、御呂地岳とその周辺の山々はここ数百年ほど噴火の兆しは見せていなかったはずだ。

 ……となると。

 美木原の頭に不気味な予感がよぎる。それは霊能力者特有の鋭い霊感が告げた予感。

 まるで。

 まるで地脈の乱れによる噴火を手助けしたものがあるかのような気がした。それは得体の知れない、なにか。

 この地面の下。

 ずっと。

 ずっと、下の方で。

 姿形も定かでないなにかが、こちらを見てけたたましく笑っているような錯覚を覚えた。

 ……背筋が凍った。

 じゃり。

 草履で地面を踏み撫でる。

 その地面の下から無数のムカデのような虫が湧き出てきているような幻覚を見た。根拠も何も無い、ただの錯覚だ。潔癖症の人間が、少しでも汚れていると感じたものには触れることすら厭うような忌避感のようなものだ、と自分に言い聞かせる。

 おぞましいと思うからおぞましいと感じてしまうのだ。

 

「まあ……考えすぎかの」

「おーい、じいさん早くこのしみったれた洞窟から出ようぜー。いつまた崩れるか分かんねえしよー」

「うむ、そうだな」

 そう言って、一向は連れ立って洞窟を後にする。

 

 

 

 そうして。

 御呂地岳周辺の街や村を俄か騒がせた御呂地岳の噴火騒動は一応の収束を迎えた。

 しかし死傷者こそ出なかったもののこの騒動による観光業への経済的な打撃は決して小さいものではない。突飛的に火山が噴火しそうになった温泉街。自然と客足は遠のくだろう。そこからどう立ち直っていくかはそこにすむ人々の努力にかかっている。

 

 

 

 そして一週間ほどの時が流れた。

 

 

 

 落ち着きを取り戻した人骨温泉郷に、横島忠夫と横島タマモの二人はいまだに留まっていた。商店街の福引きで当てたチケットの滞在期間はすでに過ぎていたが、忠夫の怪我が完治するまで面倒を見てくれるというところがあり、彼らはそこに身を寄せていた。

『氷室神社』

 忠夫が街で命を助けた氷室早苗の実家である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 地脈の奥。

 

 

 

 

 

 

 

 

『あはは……――』

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――美木原が感じた不気味な予感が、確かな脅威として顕在するのはこれより一年ほど後のことになる

 

 

 

 

 

 

 



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【12】

 

 

 

 

 

 

 御呂地岳の周辺の街や村を騒がせた噴火騒動が収束して一週間。

 朝八時。

 

「メシもう一杯おかわり!」

「何杯食うつもりだ! あんたに遠慮って言葉はないだか!?」

 

 茶碗を突き出した回数は本日五回目である。

 

「まあまあいいじゃないか早苗。ほら忠夫くんは男の子なんだからいっぱい食べるなきゃだめだぞ」

「お、ありがとよ親父さん。いやおふくろさんのメシがうまいからついつい食いすぎちまうんだよ」

「あらうまいこと言うでねえか。ほら焼き魚もう一匹余ってるから食え食え」

「まったく……居候三拝目にはそっと出し、って言葉を知らねえだか。五杯目になっても欠片も慎ましさがないでねえか」

 

 氷室早苗は文句を言いつつも、忠夫から茶碗を受け取りお櫃からご飯をよそってやる。

 忠夫とタマモ、早苗とその両親の五人は同じ卓を囲って朝食をとっていた。献立は白米に味噌汁、焼き魚と冷奴だ。

 

「はぁ」

 

 タマモは卓につき箸をくわえながら大きくため息をついた。

 早苗の両親と談笑している忠夫の姿を、呆れ半分感心半分といった微妙な心境で見ていた。

 なぜこいつはこうも誰彼かまわず馴れ馴れしく接することができるのか、人見知りの気があるタマモには理解できない。

 忠夫は誰が相手だろうが心が常に開けっぴろげで萎縮や気後れといった気持ちが微塵も無い。礼儀や形式を重んずる人たちには徹底的に受けが悪い反面、相手の本音や地を引き出して、歳の離れた相手でもいつのまにやら仲良くなってしまっている。

 うらやましいという気持ちが無いわけではないが、タマモは自分ではそこまで人を信じきることができないことを理解している。それは生涯変わることはないだろうし、変えてはいけない生き方だ。自分の正体は早々人に知られてはいけない。知られれば無用の争いを引き起こす引き金になりかねない。自分はそれほどまでに危険視される存在なのだ。

 

「お、タマモ。どしたい、そんなぼーとして。寝不足か?」

 

 考えごとにふけっていたら、それに気づいた忠夫が訝しげに尋ねてきた。

 

「ちがうわよ」

「じゃあちゃんとメシ食わねえといけねえよ」

「そうだべ。忠夫くんもタマモちゃんも育ち盛りなんだからいっぱい食わねえといけねえぞ? それとも何か嫌いなもんでもあっただか?」

 

 早苗の母は、タマモのコップが空なのに気づき、麦茶を注いでくれた。

 

「ありがとうございます。いえ、ご飯とってもおいしいです」

 

 恐縮そうにお礼を言うタマモ。

 早苗はしゃもじを片手に持ちながら、横に座るタマモの世話をかいがいしくやいていた。

 

「ご飯のおかわりはいるか? どんどん食わねえとおっきくならないだぞ」

「お、わりいな。おかわり」

「あんたには聞いてねえ! てかもう食っただか、早すぎんべ!」

 

 ずうずうしくも、六杯目を要求してきた忠夫のお茶碗を持つ手を撥ね退けるようにしゃもじでぺしっと叩く早苗。

 

「まったく。それでタマモ、おかわりは?」

「ううん、もういいわ。ありがと」

「そっか、じゃあ冷蔵庫にプリンがあるから後で食べな」

 

 それから早苗はタマモの髪に人房ぴょこんと飛び出た寝癖を発見すると手櫛でそっととかしてやる。

 

「後で髪の毛の手入れの仕方ちゃんと教えてやるからな。どうせこのボンクラのことだから、そっちのほうは無関心だべ」

「おぅーい、そのボンクラって誰のことだ。まさかこの超エリート紳士のことじゃねえだろうな」

「あんた以外に誰がいるだ」

 

 この一週間のうちに忠夫と早苗の二人は遠慮なく軽口を叩き合うようになっていた。忠夫の誰に対しても遠慮のない物言いと、早苗の気が強い性格が噛み合った結果だろう。

 

「ていうか、早苗ちゃんよぉ」

 

 忠夫は早苗のことを早苗ちゃんと呼んでいた。

 当初は早苗と呼び捨てにしていたのだが、早苗本人が恋人でもない異性に呼び捨てにされるのはいかん、という意見によってちゃんづけになった。ちなみに早苗本人はさんづけを所望したのだが、忠夫本人がそんなしゃちほこばった呼称はイヤだと拒否したため、お互いの意見をすり合わせて今のちゃんづけに落ち着くという経緯があった。

 

「なんだべ、ボンクラ?」

「ボンクラはやめい。それよかタマモのことえらく気にかけるじゃねえか」

 

 早苗はふっと笑った。

 

「そりゃそうだべ、タマモはめんこいしな。わたすは昔からこんな妹がほしくってな」

「だってよ親父さん。がんばんな」

「ふむ、参ったなこりゃ」

「きゃ……っ」

 

 腕組みして唸る父と、頬を染める母。

 

「ひ、と、の、親に、何をたきつけているだ!」

 

 テーブルをはさんで対面に座る忠夫の襟首をつかんでがっくんがっくん揺する早苗。

 親の情事の話ほど聞きたくないものはない。妹はほしいとは思うが、親にそのままずばり「妹つくって」とねだれるほど彼女は純真でも子供でもない。

 

「早苗ちゃんが妹ほしいっつったんだろうが。つくってもらえばいいじゃん」

 

 ………こいつは純真とか子供とかいう以前にただのバカだという結論に早苗は達した。

 子供の作り方、早苗がそれを言うのを嫌がる理由、いたたまれなさ、それら諸々を全て理解したその上であえて爆発物を放り込んできたのだ。もはや嫌がらせ以外の何物でもない。

 

「ほら早苗、そろそろ止めなさい。ご飯が冷めちまうだ」

「そうだぜ、メシ食っているときに暴れるのはいただけねえな」

 

 父の言葉を追従するかのように早苗の行為を注意してきた忠夫。まるで学校の先生のような物言いを放つ元凶の姿に、こいつこのまま締め落としてやろうかと早苗は思ったが、ご飯時に暴れるのはたしかにいただけないと理性による静止に従った。

 その代わり忠夫のデリカシーの無い言動を見かねたタマモが忠夫の尻を抓り「ぎゃっ」と忠夫が悲鳴を上げて飛び上がった。ナイス! とタマモに向かって親指を立てる早苗に、ひらひらと手をふるタマモの姿がそこにあった。

 

「ところで忠夫くん。今日帰るってのは本気か?」

 

 早苗の父の問いかけに、忠夫はうなづいた。

 

「もうずいぶん世話になっちまったしさ。俺の怪我も良くなったし、そろそろ帰らねえと」

「そうねー。家あんまり空けておくわけにもいかないしね」

 

 二人は今日東京に帰る予定でいた。

 元々の旅行の予定より一週間も多く滞在しているのだ。庭の草むしりやごみ捨てやら、懸念がいくつかある。

 

「忠夫は帰っていいぞ。タマモはあと一週間くらい滞在したらどうだ? せっかくだから観光地なんかの案内してやるぞ」

「俺はってなんだ? さみしいこと言うなよ、泣くぞ」

「泣け」

 

 忠夫と早苗のやり取りを見ながら早苗の母はほほえましそうに目を細めた。

 

「残念だな。気難しい早苗ともこんなに仲良くなったのに」

 

 早苗はその言葉に反論しようとするが、「んふふー」とにんまり笑っている母親の生温かい顔を見て口をつぐんだ。藪をつついたら余計なものまで出てきそうだ。この世に生を受けて十数年、いまだ母親には口で勝てる気がしない。

 

「まあ帰りの電車は午後だから、午前中はしっかりと御勤めさせてもうらうぜ!」

「そんなの気にしなくていいのに」

「いやいやそうは言うがおふくろさん。タダメシ食わせてもらってんだ、このくらいしないとバチがあたるぜ」

 

 御勤め。

 忠夫は氷室家に逗留するようになってから、雑用の手伝いをしていた。

 忠夫達は金銭に全く余裕が無く、滞在の費用も払うことができない。早苗の両親達は、忠夫たち兄弟に娘の命を助けられたこともありお金など必要ないと言ったのだが、はいそうですかと日がな一日ごろごろしているのは気が咎めた。そのため自分達ができることを考えた結果、忠夫は古くなった神社の修繕やらの雑用、タマモは早苗の巫女の仕事の手伝いをしていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【12】

 

 

 

 

 

 

 

 

 朝食を食べ終えた後。

 忠夫は早苗の父から借りた作務衣に、タマモは早苗が幼い頃に着ていた巫女装束に袖を通した。

 忠夫の今日の作業の予定は雨漏りの修繕だ。本来神社などの建物の修繕は宮大工の仕事だが、今回雨漏りしているのは神社の横に立てられた蔵の屋根だ。木製の梯子を屋根にかけ、ひょいひょいと軽快な調子で上っていく。

 

「おーい忠夫ー! 大丈夫かー!?」

 

 巫女装束に着替えた早苗が蔵を見上げて声を張り上げると「おーう!」と返事が返ってきた。

 雨漏りをしている個所を見つけた忠夫が屋根の上からひょっこりと顔を出す。首からは拡声器を下げている。

 屋根の上からだと下まで声が届きにくいため、言葉を交し合うのにこれがあると便利なのだ。

 忠夫は拡声器のスイッチを入れる。指でマイクの部分をとんとんと指で叩きながらボリュームを調節する。

 

『あーあー、テステス、マイクのテスト中……一度これ言ってみたかったんだよ』

「どうでもいいだ! それよかなんとかなりそうかーっ?」

『おう、瓦にヒビが入ってら。これなら手持ちの道具でなんとかなりそうだ』

 

 拡声器を通した忠夫の声は若干音割れをしていたが聞き取る分には十分問題が無かった。

 

「それなら頼むだ! 足さ滑って落ちちまわねえように気いつけるだぞー!」

『おう、まかせとけー』

「それじゃあわたすはタマモと一緒に境内の掃除と参拝客の相手してるだ! 何かあればその拡声器を使って呼ぶだ!」

『あいよー』 

 

 そうして早苗は社務所までやってくると、ちょうど中からタマモが出てきた。小さな巫女さんだ。なぜだか異常なほどに似合っていた。朱塗りのおぼんの上に御守りが載っている。こう言ってはなんだが、神社の規模の割にずいぶん御守りの数が多いように見える。元々この氷室神社は片田舎にあるということもあり、参拝客は歳を召した老人が時折顔を見せるくらいだ。例えその参拝客全員が御守りをお受けしたとしてもとしてもその十分の一にも満たないだろう。

 

「ねえ、早苗。やっぱりちょっとこの御守りの数多くない?」

「なに言っているだ。昨日やその前のこと考えればこれくらい用意してたって足りないかもしれないだ」

 

 タマモは昨日のことを思い出し、顔をしかめた。

 余談だが、タマモは早苗のことを呼び捨てにしていた。早苗は相手が年下でも同性なら呼び捨てされても抵抗が無いらしく特に敬称をつけなくても「べつにいいだ」とすんなり許可をしていた。

 

「昨日って……あいつらまた来るのかしら?」

 

 本当に嫌そうにそんなことを言うタマモ。来てほしくないと言わんばかりの表情だ。期間限定とはいえ、神職に携わる者としてはまずいのかも知れないが、今回に限って言えばタマモのこの反応はしょうがないのかもしれない。

 

「……そう言っているうちに、ほら来ただ」

「げ」

 

 早苗が参道を見やると鳥居の向こうから幾人もの参拝客が歩いてきた。

 ぞろぞろと、若い男が列をなしている。参拝客の大多数が近所のお年寄りという氷室神社としてはそれは非常に珍しい光景だった。

 

「やあタマモちゃん、今日も来たよ!」

「早苗さんは今日もキレイですね!」

「タマモちゃんはほんとに巫女服が似合うね!」

 

 などと、男達は口々にはやし立てる。

 上っ面だけの世辞に囲まれ、早苗とタマモの二人は『はあ』とため息をついた。

 この参拝客たちは神社へのお参りではなく、巫女をしているこの二人が目当てで訪れるものがほとんどだった。きっかけを上げるならば、タマモの美少女コンテストだろう。コンテスト自体は途中で中止となってしまったが、優勝の本命の一人とも思えた横島タマモが神社で巫女をしていると噂がいつのまにか広まっており、本物の美少女巫女二人がいる神社として一部の男達が足しげく通うようになっていたのだった。

 タマモはうざったそうに、シッシッと手を振る。

 

「ほら邪魔よ。退いた退いた」

「見せ物じゃないだ。神社に来たのならまずはお参りでもせんかい」

 

 愛想なんて振り撒いていられるか、とでも言わんばかりのしかめっ面だ。

 しかし男達は巫女二人からつっけんどんな態度を突きつけられてもめげる様子は無かった。

 

「くぅ~、いいねその態度!」

「クールな巫女さんかー。なんかこうグッとくるなぁ」

 

 なんて事を口にする始末。

 実際の人間を目の前にしてコミュニケーションをしていると言うより、テレビの向こう側のアニメキャラでも批評しているかのような態度だった。

 さすがにこれにムカッと来たのが早苗だ。

 罵倒の一つでもしてやろうと口を開きかけた時。

 

『――誰の妹に色目使ってやがんだっ! なにがグッとくるだ、ふざけんなよ! 頭蓋勝ち割るぞコラァッ!』

「って、いいからあんたは黙って屋根の修理しとれ! ていうか、よくそこから聞きとれただな、どういう耳しとるだ!?」

 

 屋根の上からひょこっと顔を出して拡声器でがなりたてる忠夫を、早苗が怒鳴りつける。早苗からは忠夫の姿は豆粒ほどの大きさにしか見えないのにも関わらず、こちらの会話を聞きとがめている辺り本当に地獄耳だ。

 

「な、なんだアレ……?」

 

 タマモや早苗目当ての参拝客が恐れおののいたように、声の聞こえてきた蔵のほうを見遣る。

 

「妹って言ってたけどタマモちゃんのお兄さんとか」

「え、それなら僕の妹にならないかい?」

 するとまた蝉の鳴き声をかき消すような、拡声器を通した爆音が響く。

 

『――ざっけんなテメエぇぇぇぇぇっ、聞こえてんだよ、呪殺するぞ!』

「口を慎めえええええぇぇぇぇぇっ! 参拝客に向かって呪殺を宣告するとか、いったいどんな神社だウチは!?」

 

 忠夫が参拝客を過激に罵り、早苗がそんな忠夫に向かってがなりたてる。地鳴りのような姦しい蝉の鳴き声がBGMで、池にきらきらと反射する陽光がスポットライトの明かり。本来静謐な雰囲気のはずの神社がまるでライブハウスのような喧しさを見せ始めたと時。

 

「はいはい、ちょっとゴメンよ」

「あれ、食堂のおばちゃんでねえか。珍しいなこんな朝早くにお参りなんて」

 

 人並みを掻き分けて早苗の前に現れたのは御呂地岳の麓の街で食堂を営んでいるトシエだった。

 

「いんや、今日はちょっと他に用事があってな」

 

 トシエはタマモに向き直った。

 

「こんにちは」

「はい、こんにちは。今日帰るんだってな」

「ええ」

「ありゃ、なんだ二人は知り合いか?」

 

 早苗がそこはかとなく親しげに話すタマモとトシエの姿を見て首をかしげた。早苗自身は神社の娘という事もあり、麓の街の人間とは寄り合いなどで何かと接点があるが、観光客であるタマモが街の人間と親しげに話しているのはなんとなく違和感がある。

 

「ああ、まあいろいろあってな」

 

 そうトシエが答えると、タマモがげんなりとした顔をした。

 

「ええ、本、当、に……いろいろあってね」

 

 思い出すのは美少女コンテストへ出場したことだ。思い出すと赤面モノのステージ。語尾に〝コン〟だ。思い出しただけで地面をのた打ち回りたくなる。

 

「まあ、それは置いといて、ちぃっとばかりタマモちゃん借りていっていいかい早苗ちゃん」

「ん、そりゃあかまわねえだが……」

 

 早苗はちらりと参拝客に視線を這わせる。

 

「えぇー、タマモちゃん行っちゃうのー」

「もっとゆっくりお話しようよー」

 

 などと文句を垂れている。

 するとそこへ。

 

「なら俺とお話しようぜ」

 

 指の骨をぽきぽきと鳴らしながら忠夫が現れた。顔にはサディスティックな笑みを浮かべ、すでに臨戦態勢を整えている。どう見ても口頭での〝お話〟をするつもりが無い。

 異様な迫力に参拝客の男たちが顔を引きつらせ後ずさった。

 

「て、おい、屋根どうした、屋根の修理は」

「もうすませた」

 

 早苗の問いに簡潔に答えを返し、男たちに向かって一歩踏み出す。

 

「さ、神社に来たらまずはお参りだ。おら、そこ逃げんじゃねえ! 着いて来い!」

 

 男たちの首根っこを掴んで賽銭箱の前に引っ張っていく忠夫。

 早苗はその様子を横目で見ながらタマモに向かって「今のうちに行くだ」とトシエのほうに顎で視線を促す、

 

「わたすはあのアホタレがやりすぎないように見張っているから、ゆっくり話してくるといいだ。おばちゃん、タマモのこと頼んだぞ」

「ああ、まかしとくだ!」

 

 どんと胸を叩くトシエ。恰幅のよさと彼女自身の明朗な受け答えもあってなかなか様になっている。

 

「じゃ、行ってくるわね。早苗、あの馬鹿の相手よろしくね」

「まかしとけ」

 

 早苗は手に持っていた竹箒を胸の前でぎゅっと握り締めた。

 その竹箒で何をするつもりかと野暮なことを聞くつもりは無い。

 そうして連れ立って、神社を後にするタマモとトシエの背後から、忠夫と早苗の騒がしいやり取りが聞こえてきた。

 

 ――あ? 金がねえだ? 嘘つけ、ジャンプしてみろやジャンプ。

 ――くおらぁぁぁっ! 賽銭をカツアゲすんなぁっ!

 ――おいそこのおまえ! 五円てなんだ五円て? しみったれたことしてねえでどーんと札を出せ札を。なんなら財布ごと置いてってもいいんだぜ。

 ――強盗かおまえは!? ウチの神社をいったいどうしたいだ!

 ――ヘイストップだ早苗ちゃん。それは人を叩くもんじゃないぞ。

 

 それからばたばたと地面を走る音が聞こえ、スパーンと竹が打ち鳴らされる小気味の良い音と蛙がつぶされたような悲鳴が聞こえた。

 背後から聞こえる姦しいやり取りに、トシエはくっくっく、と忍び笑いをもらした。

 

「いやー、面白いなおまえさんの兄ちゃんは。見ててあきないべ」

「傍にいると大変よ。次から次へと騒動を引き起こすんだから」

「退屈しなくていいでねえか」

「限度があるわ」

 

 はあ、と深くため息をつくタマモの姿にトシエは生暖かい視線を向けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 御呂地岳の噴火騒動の折、トシエと商店街に店を構える店主たちは頑なに避難をしようとしないムロエの説得をしていた。しかしムロエの意思は硬く、一向に自分の家から動こうとしない。

 

 ――おらのことはいいから、おまえさんたちははよ逃げろ。

 

 この一点張りだ。

 逃げろ、などと。

 自分たちだけ逃げることことなどできようはずも無い。彼らは皆、若かりし頃のトシエに引っ張られてこの街を開拓していったものたちだ。恩人ともいえるムロエ一人を今まさに火山の噴火に飲み込まれるかもしれない場所に置いて逃げられる事などできようはずもない。

 この場に留まる覚悟を決めようかと決意を固めたときだ。ひっきりなしに起きていた地震が収まっていたことに気づいたのは。

 あれよあれよというまに、事態は収束していた。

 

「ほんとなんだったんだろな。あれだけ騒いでいたのに、今じゃ本当に噴火の兆しがあったことさえ怪しいんだと」

 

 あの噴火騒動について公式機関からの発表はいまいち釈然としないものだった。

 曰く、噴火を予兆する計器の故障、だ。

 専門家が現地に入って調べてみたところ、噴火の兆しがあった証拠が一つも見つからなかった。しかし実際に数度にわたる大きな地震があったことは確かだったため、報道機関各社が政府はひょっとして何か重要な真実を隠しているのではないかと、陰謀論を掲げて勘繰りを入れているらしい。

 

「ははは……」

 

 真実を知るタマモとしては笑うしかない。

 まさかどっかの悪霊が神の力を手に入れて、温泉を独り占めしたいなどという極々個人的な理由から噴火を起こそうとしていました、などと馬鹿馬鹿しくて言う事はできなかった。

 

「地震で壊れた建物の修繕費や怪我人の治療費なんかもどっかからえらい額の寄付があったらしくてな」

 

 その寄付金の出所もタマモは知っている。

 美木原。

 忠夫と共に今回の事件の元凶である荒脛御呂地神を地脈に封印したゴーストスイーパーである。理由はどうあれ悪霊に神の力を与えてしまった美木原は今回の件に責任を感じ、出来うる限りの援助をしていた。事件の内容については事が大きすぎるため、一般に公表することが出来ないなどの諸々の事情があり、名前を伏せての資金的な援助だ。

 美木原当人としては、今回の事件の責任をとって……というわけではないが、ゴーストスイーパーの引退も考えているらしい。本人もずいぶん高齢であるし、「もうそろそろ潮時じゃろうて」と寂しげに語っていた。しかし事件後も忠夫と橋にも棒にも引っかからないような議論(女子の体操服はブルマーに入れるべきか入れないべきか、等々)を熱く交し合っている(肉体言語あり)姿を見るとまだまだ当分は現役でいられるだろう。

 美木原は一度自宅に帰ったが、これからもちょくちょく街の様子を見に来るつもりらしい。

 

「まあ、それは置いといて、だ」

 

 トシエは本題を切り出した。

 

「今日東京に帰るってホントだべか?」

「ああ、うん、そうなのよ。あんまり神社でお世話になっているのも申し訳ないし、家を長い間空けておくわけにもいかないし」

「そっかぁ……そりゃ残念だな。もうちっと騒ぎが落ち着いたら街を案内してやりたかったんだけれども」

 

 本当に残念そうにトシエは言った。今現在、この街は少々騒がしいことになっている。

先に述べたように、地震と噴火の真実を調べようとして多くの報道機関が、街に訪れていた。おまけに噴火騒動による観光業の被害も大きいため、商店街などで店を構えるトシエたちにとっては気の休まらない時間が続いていた。そんな中でわざわざ時間をとって会いに来てくれたことをタマモはうれしく感じていた。

 

「帰る前にトシエさんには一言挨拶してから帰ろうと思ってたんだけど、先を越されちゃったわね」

「はっはっは、そいつは悪いことをしたね。でもせっかくだから街を出る前にウチの食堂に顔出していくといいだ。ご飯おごってやるからな」

 

 必ず、と約束して二人はいったん別れた。

 タマモは去っていくトシエの背中を見ながら、考えていた。

 

 ――私ってああいう裏表の無いタイプに弱いのかしら。

 

 人間嫌いの気がある自分が、こんなにも短期間で屈託無く話せるようになるなんて珍しいと自覚していた。思えば、早苗もそうだ。言いたいことがあれば明け透けなくズバズバとぶつけてくる。

 思えば元々家族とその周辺の人たち以外と接することがほとんど無いのだ。今回の旅行で新たな自分を垣間見たことは大きな収穫だと思った。

 

 ――ほら、まただ。

 

 大きな収穫などと、どこか客観的に自分を見てしまっている。怒っても、笑っても、感動しても、心の動きに無意識のうちにブレーキをかけて心に常に冷静な部分を残している。皆が楽しんだり悲しんでいる輪の中から一歩引いてその出来事を観察している自分がいる。そんなタマモの様子を感じ取った人によっては、心が冷たいという印象を受け倦厭される理由にもなるだろう。タマモ自身、そんな自分をしょうがないと肯定する反面、あまり好きではない。

 でも、だからこそ。

 忠夫や早苗、トシエといった目の前のことに全力でぶつかっていく性質の人たちに無意識のうちに惹かれているのかもしれない。

 

「……なんてね」

 

 照れくさくって笑いをこぼして、タマモは大きく伸びをした。

 太陽のまぶしさに目をしかめる。雲ひとつ浮かんでいない青空が自分を見下ろしていた。

 

 ――さあ、今日もまた暑くなりそうだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「じゃ、世話になりました」

「お世話になりました」

 

 忠夫とタマモの二人はそろって頭を下げた。

 忠夫は白のインナーに半袖ジャケットといったシンプルな服装で、タマモはパナマ帽をかぶり白のシャツに青色のジーンズを合わせた旅行にやってきた当日と同じ服装をしていた。彼らが立っている横には旅行に持ってきた荷物が詰まったリュックサックが置いてある。

 二人は予定よりずいぶん長くなってしまった旅行に区切りをつけ、今帰路につこうとしていた。

 場所は氷室家の玄関前。目の前には氷室家の人たちが並んでいる。

 出発間際まで忠夫とタマモの二人は神社などの雑用などを出来うる限り済ませていた。長いこと宿泊させてくれた氷室家の人々に対する恩返しとしてはささやかな事かもしれないが、感謝の気持ちを出来るだけ形として伝えたかった。

 

「こちらこそ君たちには本当に世話になった」

「早苗のことも含めてな」

 

 早苗の両親も忠夫たちにむかって頭を深々と下げた。

 

「改めて言わしてほしいだ。ありがとう、早苗を助けてくれて」

「おぅ、照れくさいからやめてくれよ」

 

 忠夫は黙りこくっている早苗に視線を向けた。

 早苗はなんと声をかければいいのか分からず視線を右往左往していた。助けられたことに改めて礼を言うのは照れくさいけども、このまま黙って送り出すのも道理に欠ける。何かをしゃべろうと口をもごもごさせている早苗。

 

「う~~~~~っ」

 

 ついに頭を抱えて唸りだした。

 忠夫はリュックサックから小さな木箱を取り出し、掌に収まるくらいのそれを早苗に向かって軽く放り渡す。

 

「と、とと……、なんだこれ?」

 

 早苗は両手に収まった木箱を訝しげに覗き込む。

 

「開けてみな」

 

 そう忠夫が言うので箱を開けてみる。

 中に納まっていたのは風鈴だ。水を表現した青色の流線の上に金魚が踊るように描かれている。それはちょうど街に来た当日に屋台で買った風鈴だった。

 忠夫は照れくさそうに頬をかいた。

 

「今、持っているもんていったらそれくらいしかねえんだけどよ。世話になった感謝の気持ちだ。よかったらもらってくれよ」

「あ……」

 

 それから早苗は忠夫が作ってくれた流れに乗るように。

 

「こっちこそ助けてくれてありがとう」

 

 一気に言い切った。

 言い切った後、やっぱり照れくさくなってそっぽを向いてしまったが。

 

「タマモもまた遊びに来いよ」

「ええ」

「俺は?」

「知らん。好きにしたらええ」

 

 最後までこんな調子だった。

 

「じゃあな――――っ」

 

 振り返って手を大きく振りながら去っていく忠夫。タマモもその横で一度歩みを止めて大きくお辞儀をしてから小走りで忠夫に駆け寄っていく。

 氷室夫妻も二人の姿が見えなくなるまで手を振っていた。早苗もつられるように手を振っていた。

 

「寂しくなるな」

 

 ぽつりと父がこぼした言葉がいやに大きく聞こえた。

 大きな存在感があった二人だ。騒がしかった日常にぽかんと開いた大きな穴はしばらくの間は埋まることはないだろう。

 しかし、早苗には予感があった。

 

 ――なんとなく、またそう遠くないうちにあの二人とは会う機会が訪れるような気がしていた。

 

 根拠も何もないただの勘だが、この勘は不思議と当たるような気がした。

 二人の背中を見ながら、早苗は紐をつまんで風鈴に描かれた金魚を眺めていた。 

 そういえば部屋に風鈴が一つほしいと思っていたところだ。

 

「ま、ありがたくもらっとくだ」

 

 風に吹かれた風鈴が、チリン、と夏の空の下で涼やか音色を響かせた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……まだやることがあるんだ。でっかいのが一つ」

 

 氷室神社から街に向かって歩いていた忠夫が突然そんなことを言い出した。

 

「ん、どうしたのよ?」

「わりいけどちょっと先に行っててくんね? ほらあの食堂に寄るって約束してたんだろ。あそこで待っててくれ」

「それはいいけど……」

「おう、じゃ、また後でな」

「ちょっと忠夫っ……、行っちゃった。一体なんなのよ?」

 

 ――あ、そっか。

 

「ひょっとしてあの子のところに……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 山々を見渡す丘の上。

 夏草の上に座っている巫女装束姿の幽霊であるキヌと小さな小猿がいた。

 そっと眠っている小猿の頭をなでるキヌ。

 両親をなくし、怪我をした小猿の世話をするようになって一週間ほどが経っていた。小猿の怪我の経過は順調でもう野生に戻れる頃だろう。

 キヌは小猿の寝顔を見ながら思い悩んでいた。

 御山の噴火騒動の後、忠夫に言われた言葉がキヌの中でぐるぐると回っていた。

 

 ――おキヌちゃんはさ、これからどうしたい?

 ――どうしたいって……どういうことですか?

 

 言葉の真意を考えあぐねたキヌが訊ね返すと、忠夫はこう答えた。

 

 ――成仏なら俺がさせられると思う。

 

 前置きとして忠夫が話した成仏という単語にキヌのもはやないはずの心臓が飛び跳ねた。成仏。それは三百年以上もの間、幽霊としてこの世に縛られ続けていた自分がずっと求めていたものだった。この呪縛からの開放。永遠に続くかと思えた時の牢獄からやっと開放される。そう思っていた。

 だからこそ。

 

 ――だけどさ、よかったら×××××しないか?

 

 忠夫が続けて出してきた提案に、自分はまだ答えを出せないでいる

 

「どうすればいいのかな……?」

 

 答えは一つしかないと思っていた。だけどそこに新たに提示されたもう一つの答え。

 自分は一体どうしたいのだろうか……?

 

「おキヌちゃん」

「え?」

 

 誰何の声に振り向いて、キヌは目を剥いた。

 

「ムロエ……ちゃん?」

「久しぶりだな……おキヌちゃん」

 

 齢をとった。顔に刻まれた皺は深く、彼女の過ごした年月を静かに語っているような相貌だ。折れ曲がった腰に重い足取りに、以前の矍鑠とした雰囲気は無い。

 しかしそれは確かにキヌの知っているムロエだった。

 

「あ……っ」

 

 キヌの心にたくさんの激情が渦巻く。

 懐かしいという気持ち。

 会えてうれしいという気持ち。

 会いたくなかったという気持ち。

 年老いてしまった彼女に対する置いていかれてしまったという気持ち。

 ムロエが過ごした時間。

 キヌの止まっていた時間。

 

 

 

 彼女と、喧嘩別れしてから。

 もう会うことはできないとあきらめてしまっていた。

 もう会えないと、何度後悔の涙を流しただろうか。

 

 

 

 もう、七十年程になるだろうか。

 彼女に最後に会ったのは……。

 

 

 

 

 

 

 

 



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【13】

 

 

 

 

 

 ――七十余年前。

 

 

 

「おキヌちゃ――――ん!」

 

 青く霞む尾根の合間にムロエの声が木霊する。

 そこは御呂地岳の中腹にあるなだらかな丘の上。春の暦を向かえ、地面には青々とした野芝の絨毯に、そこかしこから蒲公英が咲いている。太陽がさんさんとふりそそぎ、仰ぐ尾根の頂にはうっすらと霧のような雲がかかっていた。

 

「あ、ムロエちゃーん!」

 

 大きく手を振りながら無邪気な笑顔を振りまいて駆け寄ってくるムロエの姿をみとめたキヌは顔をほころばせた。彼女はこの地に縛られた幽霊だ。ふわふわと風船のように宙に浮いている彼女は人身御供として死んだときから変わらぬ巫女装束だった。しかしとても死者とは思えないような、言いえて妙だが生き生きとした幽霊だ。明るく朗らかな性格で、ほんわかとした雰囲気は傍にいるだけで人を安心させてくれる。

 気性の激しいところがあり喧嘩っ早い性格のムロエは、男は男らしく女は女らしくという考え方が古来から当たり前のようになっている村の衆には避けられている節がある。口汚い者などは気狂いなどと扱き下ろしてくる。それでもムロエは周囲の目など気にせず、頑固なまでに生活態度や自分の生き方を変えようとはしない。それはなぜか、などと問われても大仰な答えがあるわけではない。自分は自分らしく。飢餓が貧困が蔓延する厳しい時代の中、ただ自分の心だけは何者にも縛られることなく自由でいたい。誰に迷惑をかけているわけでもないのだ。顔を伏せる必要は無い。堂々と前を向いて、あるがままの自分の姿で生きる。それが理由であり、ちっぽけでもムロエの矜持だった。

 キヌとムロエ。

 一見、正反対の気質を持つ二人だったが、似たもの同士だ。ずっと同じ場所に縛られ続けられる牢獄に閉じ込められたような営みの中でも心優しさを失わず朗らかに笑うキヌ。周囲の目や厳しい生活に縛られながらも、自分の生き方を曲げようとせず胸を張って生きるムロエ。

 お互いがお互いを尊敬し、認め合っているからこそ、彼女たちは幽霊と生者という間柄でありながら、あの雪降る吊橋の上での出会いからわずか半年足らずの短い期間で生来の親友のような関係へとなっていた。

 二人は草の絨毯の上に並んで腰を下ろしていた。そんな二人を包み込むように蒲公英の綿毛が風に乗って空へと舞い上がっている。

 

「ほっほっほ……どうだ!」

 

 ムロエは利き腕である右手をせわしなく動かしながらお手玉をしていた。小豆をつめた小さな布袋が六個、宙で弧を描いていた。今まではお手玉などあまりやらなかったため、ずいぶん練習した。それでも十周ほどが限界だったので、ぼろが出ないうちに止めて置く。

 

「じゃあ次はおキヌちゃんだな」

「うん。じゃあいくわね」

 

 キヌはムロエから渡されたお手玉を放り上げ始めた。最初は二個から初め、一個ずつ増やしていく。お手玉を右手で放りながら、左手で追加する。二個から三個、四個、五個。そしてムロエの限界だった六個目を放る。数こそ同じだが、ぎくしゃくとしていっぱいいっぱいだったムロエと比べてずいぶんと指の動きが流暢だった。手の位置も全く変わらない。寸分違わず同じ位置に布袋が落ちてきている。

 

「……どう?」

「ほへ~、スゴイだ、感動だ……上手だなぁおキヌちゃん」

「えへへ、そうかな」

 

 お手玉歴二百年以上の熟練の腕前だった。更に数を増やしていく。ムロエが持参してきた九個のお手玉全てがきれいな弧を描いて等間隔で宙を舞っている。それをじぃと眺めていたムロエはその光景に吸い込まれそうな不思議な感覚にまどろんでいた。

 

「ムロエちゃん?」

「はへ?」

 

 惚けていたムロエの顔をキヌが心配そうな面持ちで覗き込んできた。お手玉はいつの間にかキヌの膝の上に据わっていた。

 

「お、おお、こりゃあいかん。あんまりおキヌちゃんのお手玉がきれいだったから見惚れちまっただ」

 

 いかんいかんと繰り返しながら両手で抱えた頭を振るムロエを見つめていたキヌが「もう、あんまりからかわないで」と苦笑をこぼした。

 それから時間の許すかぎり、二人は語らった。

 山からあまり広い範囲を動けないキヌにとって、ムロエの話を聞いていると文字通り世界が広がったような気持ちになる。人と人の集団生活というものから離れてずいぶん久しいキヌにとって、特に収穫祭の話や山向こうにある大きな集落での市の話などは心が躍る。ムロエは話し方がとても上手だ。身振り手振りを交えて、話の中でその時に自分が思ったことや感じたことを情感たっぷりに語るので、キヌ自身もそのときの様子を追体験しているような感覚になる。御山に縛られ続けてきたキヌにとってそれは目くるめく新鮮な時間で、今まで閉塞的だった世界が急に色づいたような感動を覚える至福の時間だった。

 

「それでオラはこう言ってやっただ。おめえらそんなに熊が怖いんだったらオラが代わりに退治しやる。鍋の準備さして待ってろ、てな!」

「あはは、もうムロエちゃんたら」

 

 声を出して笑うなどずいぶん忘れていた。

 こうして誰かと腰をすえて話すなど死んでから初めてのことだった。

 楽しかった。

 楽しくて……楽しくて。

 

 ――悲しかった……。

 

 いつのことだったろうか、ムロエに話したことがある。

 

「夢? 寝ているときに見るほうの?」

 

 川の辺に二人は座っていた。ムロエの手には竹で自作した釣竿が握られており、木綿糸を縒り合わせた釣り糸を河流に垂らしていた。今のところの釣果はなし。短気な性格のムロエは一つところでじっとしているのが苦手のようで、ちょこちょこと釣る場所を変えていた。キヌはその後ろをついていって、二人でぼーと川を眺め、たまに思い出したように会話をするという安穏な時間の過ごし方をしている。

 

「うん、同じ夢をよく見るの」

「幽霊って夢さ見るだか?」

 

 ムロエのもっともな疑問に、キヌは首をかしげた。

 

「どうなのかな? そもそも私死んでからずいぶん経つから、生きているうちに見ていた夢っていうのがどういうものなのか忘れちゃってるの」

 

 夢を見る、という感覚がどういったものだったか思い出せない。だからこそ死んだ後の今の自分が時折見るものが本当に〝夢〟と呼べるのかが定かではない。

 

「ムロエちゃんが見ている夢と幽霊の私が見ている夢、同じものなのかは分からない。私が見ている夢はひょっとしたらただの気のせい、幻みたいなものなのかもしれないけど」

 

 気のせい。

 何百年もの間、幽霊として過ごしてきた精神が歪みなく正常なものだと誰が断言できようか。

 ひょっとしたらすでにどこかが壊れていたとしても何ら不思議ではない。

 

「う、う~ん……オラにはちょっと難しい話だなぁ。夢に違いなんてものがあるもんなのか分からねえけんども。え、というかそもそもの話、おキヌちゃんて寝れるだか?」

「うん。夜とかすることないから寝ていることが多いわ」

 

 ――むしろ夜からが幽霊が本領発揮する時間じゃなかろうか。

 

 本当に幽霊らしくない幽霊だなぁ、と思いつつも話の腰を折るのもどうかと思ったので、ムロエはキヌに続きを促した。

 

「ところで夢って、どんな夢だ?」

 

 キヌは物思いにふけるように空を見上げた。

 

「私はね、何もない真っ暗な場所に一人だけでいるの」

 

 希薄な夢の思い出を手繰り寄せるように、目を閉じて記憶を引っ張り出す。

 

「そこは本当に何もないの。空を見上げても月も星もなくて、どこが終わりかも分からない真っ暗闇が続いている、とても寂しくてとても怖い場所。私はその中で自分が誰だったかも思い出せなくて、なんでそんなところにいるのかも分からないでいる――……」

 

 どこにいけばいいのかも分からない。

 なにをすればいいのかも分からない。

 でもその場に留まっていることはできない。この暗闇に飲み込まれてしまいそうで、この暗闇にかき消されてしまいそうな自分自身の希薄な意識が、怖くてたまらなくて。

 だからひたすら前に歩いていく。

 恐怖にせかされた足は徐々に歩幅が大きく、やがて駆け足になっていった。

 走っても変わらない真っ暗闇な景色、どこまでも続く終わりの無い道に、心が悲鳴を上げた。恐怖と焦燥に頭の中をぐちゃぐちゃにかき混ぜられて心がばらばらに壊れそうになる。きっとその時自分は泣いていた。幼子のように顔をくしゃくしゃにゆがめて泣いていた。けれども声は出さない。慟哭してしまったら必死につなぎとめていた糸がぷっつりと切れて自分自身が壊れそうだった。

 走って、走って、不意に小さな灯りが目に飛び込んできた。駆け寄ってみるとそれは石灯篭だった。蝋燭の炎が揺らめき周囲を赫々と照らしていた。するとどうだろうか。また暗闇の向こうに小さな灯りが見えた。駆け寄ってみると、そこには先ほどと同じ形の石灯籠。灯りは蝋燭の炎だった。顔を上げると、暗闇の中にぽつりぽつりと灯りが見えた。それはまるで数珠繋ぎのように、緩やかにうねる道標となっていた。

 その石灯籠をたどるしかなかった。他に寄る辺もなく、暗闇の中で

 しかし他に寄る辺は無く、そこを歩くしかない。

 ただの暗闇を闇雲に歩くのはもう恐ろしくてたまらなかった。

 ずっと歩き続ける。どこまでも歩き続ける。いつまで歩いても終わりは来ない。

 やがて、自分がなぜ歩いているのかも思い出せなくなってしまう。

 

「いつも、そこで目が覚めるわ」

 

 キヌは寒さに震えるように自分の肩を抱きしめた。目の焦点が定まらないかのように揺れる瞳からはその夢に対する怯えのようなものが見て取れた。彼女にとっては見たくない悪夢なのだろう。

 

「おキヌちゃん……」

 

 ムロエが何事かを言おうとしたとき。

 

「あ、ムロエちゃん、竿引いている」

「え、わ!」

 

 慌てて竿の様子を確かめると、糸が引かれている。食いついた魚を引き上げようと、竿を立てる。釣ろうとする人間と釣られまいともがく魚の攻防は続き、やがてムロエが竿越しに感じていた手ごたえが無くなった。嫌な予感がして竿を引いてみる。

 

「うわ、やっぱ餌を持っていかれちまっただ」

 

 釣り針には何も無かった。餌だけ食われてしまったらしい。

 

「あぁ――っ、こんちくしょうめ」

 

 頭をガシガシと掻く。一方的にしてやられたみたいで心底悔しい。というわけですぐさま雪辱戦を開始する。釣り針に餌を引っ掛けて川に放り込む。竿をがっしり握って、その場に胡坐をかくようにどっかりと座り込んだ。

 ふん、と鼻息荒くっとう気合も入っていた。

 さらさらと水が流れる涼やかな音に、時たまどこかで魚が跳ねているのか水がはじける音が聞こえた。

 

「それで」

 

 ムロエが釣り糸の先を見つめたまま、独り言のようにしゃべりだした。

 

「それで、そのおんなじ夢ってのを見る原因は分かるのか」

 

 同じ夢を見る原因。

 キヌにはその原因がなんとなくだが分かっていた。でもそれを答えるのは戸惑われる。言ってしまったらムロエに余計な心労をかけると思った。

 

「わからないわ」

 

 だからキヌはそう答えた。

 

「誰かに聞いてほしかっただけなの。ごめんね」

 

 キヌがそう言うと、ムロエはしばらく押し黙ったまま、一言。

 

「そうか」

 

 とだけ答えた。その日一日はムロエはあまりしゃべることなく、機嫌が悪かったようにキヌには思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――夢は心を写す鏡。

 

 そんな言葉がある。

 その夢がキヌの心をあるがままに映し出していたのだとすれば、それは――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 季節は巡る。

 キヌとムロエ。村に住む人間の少女と、御山に住む幽霊の少女の奇妙な友人関係は、お互いの絆を深め合いながら続いていた。

 それはとある秋の日のこと。

 二人は山菜摘みに懐の深い森の奥にまでやって来ていた。燃えるような紅葉の景色を眺めながらムロエはまだ真新しい落ち葉を踏みしめて歩いている。背には籠を背負い、きのこなどの山菜を見つけては収穫していく。

 ムロエは変な唄を高らかに歌っていた。熊よけのためらしいが、こう言ってはなんだが歌自体はあまりうまくない。ただ力いっぱいで楽しんで歌っているのが伝わってくるため、不思議と元気が湧き出てくるような音調だった。とはいえ流石に山道を歩きつつ歌い続けるのは流石に息切れを起こしてしまうため、そんなときは変わりにキヌが歌っている。二人で交互に唄を歌っている楽しげな姿はまるで姉妹のように見えた。

 その時だ。ぽつりぽつりと木々の梢の間に雨音が聞こえた。

 

「あ、こりゃあかん」

 

 ムロエはそう言うと慌てて雨宿りできるところを探した。

 そうしている間にもだんだんと雨脚は激しさを増していく。

 

「ムロエちゃん、こっち!」

 

 キヌに先導されるまま、ムロエは駆け出す。この山はキヌにとって庭のようなものだ。山のことについてはキヌに任せておけば間違いない。

 

「ひゃー!」

 

 叩きつけるような激しい雨は夏の日の夕立を思わせた。

 キヌに誘われたのは、岩壁にある小さな洞窟だった。小さいといっても元々小柄なムロエが身をかがめば入れるほどの広さはある。

 秋の冷たい雨にさらされたムロエの体は凍えていた。

 

「へっくちっ……う~、冷えるだなぁ」

 

 ムロエは身を竦めた。濡れた服と冷えた外気がムロエの体温を徐々に奪っていく。

 

「ちょっと待ってて!」

 

 そう言って洞窟から飛び出していったキヌは、それほど時間を置かず戻ってきた。手には焚き火をするための抱えるほどの枯れ枝と落ち葉。奥深い森であるため折り重なる木々の梢や潅木が傘となって濡れなかったらしい枯れ枝を三角錐の形に組む。ムロエが携帯していた火打石を叩き、落ち葉に火種を落とす。火が点くか心配だったが、洞窟の暗がりの中に蛍火のような小さな灯火が落ち葉を焦がした。すかさず息を吹きかけると、火種は少しずつ広がり枯れ枝を燃やした。

 

「あったかぁ~、ありがとなおキヌちゃん」

 

 ムロエは焚き火に手をかざす。靴を脱ぎ素足も温める。冷えていた手足からジン、と熱が広がっていく感触がくすぐったい。

 二人の間に沈黙が落ちる。

 お互いの信頼関係があるからこそ沈黙は決して不快なものではなく、静かに寄り添っていられる安心感が二人の間に流れていた。

 何を話そうか。

 キヌは話してみたいことがたくさんあってちょっと迷ってしまう。

 こうしてお互いに肩を寄せ合って過ごす時間も心地良いものだが、せっかく顔を突き合わせているのだからおしゃべりもしたい。キヌ自身会話に飢えているというのもあるが、心許せる友人との会話はどんな瑣末事でも心が弾む不思議な魔法がかかっていることを最近知った。ムロエが話してくれる話題はキヌにとっては懐かしくて新鮮だった。農耕の話などは自分が生きているときのことを思い出すし、都のほうでは海の向こうから渡来してきた文明によって大きな変化が起きているという話を聞いたときは、キヌは文字通り世界が広がったような感動に心がわくわくと弾んだ。

 キヌは自分自身が話題に乏しいことを自覚している。山に縛られ小さな世界しか知らないため、しょうがないといえばしょうがない。しかしムロエはどんな小さな出来事を話しても大げさなまでに反応を返してくれたため、キヌも話題が澱みなく口をついて出てきた。

 以前自分と話していて退屈じゃないか、と訊ねたことがあった。

 するとムロエはこう答えた。

 

 ――おキヌちゃんの話は周りにある宝物に気づかせてくれる。

 

 どういう意味だろうと思い、訊ねてみるとムロエは照れくさそうに笑って話してくれた。

 キヌの話題は四季の移り変わりによる山の様子を克明に語り聞かせるものだ。それは普段自分たちが見ている自然の景色がいかに上っ面だけなのかということを教えられる。新芽の息吹や自然の中で生きる動物や昆虫たちの姿。キヌの目から通して見える世界は暖かさに満ちている。幼い頃に感じていた自然への畏敬の念を呼び起こす内容だ。キヌの話を聞いた後、ちょっと外を散歩してみようかという気持ちになる。

 そんなふうにムロエは話してくれた。

 キヌはそれがうれしくてたまらなかった。自分が過ごしてきた二百余年の月日は決して無駄なものではなかった。笑顔のムロエを見たらそう思えた。

 

 ――そうだ、ひまわり畑の話をしよう。

 

 御呂地岳にはひまわりが群生する一角がある。夏も終わり、つい先日まで咲き誇っていたひまわりの花もすっかり散ってしまっていた。ぎっしりと詰まった種の重さに茎がたわみ頭を下げている姿は、ひまわりたちがいっせいにお辞儀しているように見えた。こちらこそきれいな花を楽しませてもらいました、とついついお辞儀を返してしまったキヌだった。種は零れ落ち、ひまわりの子供たちはきっと来年きれいな花を咲かせてくれることだろう。

 パチパチと炎に枝が弾ける音が雨音に入り混じる中、不意にムロエが口を開いた。

 

「あのな」

 

 ムロエは膝を抱えて座り、焚き火を見つめたまま、ぽつりと言葉をこぼした。

 

「オラのおっとうとおっかあが死んだ」

「………………え?」

 

 その言葉の意味を理解したキヌは言葉を失った。

 

「流行り病でな。最近は結構良くなってたんだけれども、つい先日ぽっくり逝っちまっただ」

 

 淡々と話すムロエ。炎を映すムロエの瞳があまりに真剣で、それが冗談ではないことを物語っていた。

 あまりに突然のことに、キヌはかける言葉が見つからなかった。ムロエの様子はあまりに普段と変わらないように見えた。

 

「あ、あの……っ」

「あははっ、なんでおキヌちゃんがそんなに困ったような顔するだ?」

 

 ムロエはいつも通りの快活な笑いを浮かべた。

 

「おキヌちゃんが気にすることでねえぞ」

「でも……っ」

「ウチ、家族仲があんまりよくなくってなぁ」

 

 キヌの言葉を遮るようにムロエは話を始める。ムロエが自分の家族について話すのは初めてだった。キヌが訊ねてものらりくらりとかわされていた話題だった。

 ムロエにとって家族というのは誰よりも近くて遠い存在だった。

 家族仲が悪いというが、口喧嘩でお互いに罵り合うような仲の悪さではない。まだそちらのほうがマシだったかもしれない。

 幼い頃からムロエは自分の考えや感情を家族に見せるのが苦手だった。切欠はぼんやりと覚えている。四、五歳くらいのとき、夜半に寝入っていたムロエがふと目を覚ますと両親が自分の悪口を影で言っているのを聞いてしまった。他人から見ればそんなことかと思えるような些細な出来事だ。自分でも両親たちが言っていた悪口の内容は覚えていない。それなのにそれで幼心をひどく傷つけられた。それからずっと両親に対してどこかよそよそしさを感じていた。無条件で甘えられる相手だった両親が急にどこか遠い存在に感じてしまった。それからムロエはこの齢に至るまで両親に対して隔たりを持っていた。無防備な心をさらして、また傷つけられるのを恐れていたのかもしれない。

 その反動のように両親以外の周囲の人たちに対しては鬱憤を晴らすように攻撃的に接するようになっていた。男勝りの粗暴な性格は外に対してだけのものだけで、両親に対しては正面からぶつかることをしなかった。最後まで両親とは本当の意味で心を交し合えることはなかったように思えた。

 

「あはは、だからかな、おっとうとおっかあが死んでもあんまり悲しくなかっただ。親不孝モンだべ」

 

 ムロエは自虐的に笑った。自分で自分の気持ちが分からない。悲しまなければいけないのに悲しめない。発散するべき方向を見失った鬱屈とした想いが心の底で沈殿していた。

 

「ムロエちゃん」

 

 キヌはムロエの隣に座り、その手を握った。

 

「……後悔、してる?」

「…………うん」

 

 自分でも驚くほど素直に俯いたムロエ。

 

「何に対して?」

「え?」

 

 予想外のキヌの問いかけにムロエは顔を上げた。キヌは真剣な顔で自分を見ていた。 

 果たして自分は何に後悔しているんだろうか。おぼろげに感じていた後悔。その明確な形はなんなのだろうか。問われて初めて、自分が何に後悔しているのか、ハッキリと理解していないことに気づいた。

 

「ご両親に自分の本当の気持ちを伝えられなかったことに対して?」

 

 そうだけど、違う。それは根幹ではない。

 

「ご両親こそが後悔しながら亡くなったんじゃないかと思うから?」

「あ」

 

 その答えは胸にストンと落ちた。

 両親は気づいていたはずだ。娘であるムロエが親である自分達に心を開いていなかったことを。今までムロエは自分にしか目が向いていなかったが、両親はどういう気持ちだったのだろうか。自分達に対しては心を開かない娘。そしてその原因に思い至っていたのなら……。

 両親達こそがずっと後悔して生きてきたのではなかろうか。そして最後まで分かり合えないまま死別してしまった。

 

 ――両親の気持ち、それらは全部想像でしかない。

 

 だけど、もしその想像が当たっていたとしたら。

 ムロエの顔がくしゃっと歪んだ。自分の泣き顔を見せまいと膝に顔をうずめたムロエを、キヌは腕を回して抱きしめた。

 

「きっと、ご両親にもムロエちゃんの気持ちは伝わってる」

「…………そうだと、いいなぁ」

 

 ムロエはその日、両親が亡くなってからはじめての涙を流した。

 実際に両親がムロエの気持ちを察してくれていたのかは分からない。今となっては確かめる術はない。それでも、キヌの言葉は今まで誰にも知られることなかったムロエの心の傷を優しく包んで癒してくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 良い事も悪い事も等しく飲み込んで時間は流れていく。

 二人はたくさんのことを語らい、共に遊び、たまには喧嘩し、仲直りして、一緒に笑いあった。

 信仰を重ねながら二人は時間が許す限り一緒に過ごしていた。

 しかし、それも終わりがくる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その日のムロエはいつに無く――というと失礼かも知れないが、真剣な表情だった。

 季節は冬に差し掛かっており、禿げた枝木が寒風に晒されていた。山の天気は変わりやすく、午前中までは快晴であったのに日が落ちる頃になるといつの間にやら灰色の雲が空を覆っていた。これは雨が降りそうだ、とキヌは思った。時節を考えるとそろそろ初雪が降るかもしれない。

 曇天ということもあり、水に墨を混ぜ合わせたように周囲は薄暗くなっている。 

 厚い雲に覆われているため太陽は見えないが、そろそろ日が落ちる頃だろう。こんな時間に待ち合わせとは珍しい。

 待ち合わせ場所であるいつもの丘にやって来たムロエは表情に暗い影を落としていた。彼女のこんな表情は始めてみる。

 

「……あのな、おキヌちゃん」

 

 先ほどからずっと押し黙ったままだったムロエが口を開いた。

 

「オラ、結婚することになった」

「――へ、結婚!?」

 

 突然の告白にキヌは言葉を失った。

 

「け、けけけ結婚って、あの!?」

 

 吃りすぎである。

 あまりに予想通りの反応にムロエはプッ、と噴出した。

 

「くっくっく……、アノってそれ以外に結婚ってねえべ」

「そそそそそ、それは! そうだけど!」

 

 キヌが落ち着くのを待ってから、ムロエはぽつぽつと事情を話し始めた。

 

「いわゆる許婚ってやつだ」

 

 許婚。

 親同士が決めた結婚相手。

 ムロエに許婚がいたということははじめて聞いたが、聞けばムロエ自身もついこの間初めて聞いた話らしい。相手方、つまりムロエの夫になる人物の両親から伝えられたという。両親が亡くなり一人になったムロエのことを心配して元々の結婚の予定を早めたらしい。ムロエにとってそれがありがたいことなのかどうかはともかくとして。ムロエと相手の男性は所謂幼馴染らしく、村でも孤立ぎみだったムロエの世話を幼い頃より焼いてくれていたのだという。

 

「あいつも気の毒だんべ、こんな男勝りを嫁にもらおうってんだから」

「ううん、ムロエちゃんならきっといいお嫁さんになると思う」

 

 キヌの本心だ。

 たしかにムロエは勝気な言動でそれを倦厭する人間はいるだろうが、少し傍にいれば彼女の心根にある太陽のような力強さを兼ね備えた優しさに気づくだろう。相手の男の人のことは知らないけれど、話を聞くに良い人らしい。

 

「……うん」

 

 キヌは一つ大きくうなづいた。

 

「あ、でもな、結婚するとはいってもおキヌちゃんとは今までどおり一緒に」

 

 ムロエの言葉を遮って。

 

 ――自分も、決心をつけねばならない。

 

「ねえムロエちゃん、私とは」

 

 

 

 ――もう会わないほうがいいと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 新しい道を踏み出そうとしているムロエにとって、時間が止まってしまっている自分との関係はきっといつか枷になる。

 キヌは気づいていた。ムロエがいつしか自分に依存してきていたことに。

 キヌ自身の責任もあるだろう。ムロエの内面に踏み込みすぎていたことに気づいたときにはすでにどうしようもならない状況になっていた。

 いつか終わりがくることなど分かっていたはずなのに。

 少しでも早く離れるのがムロエと自分のためだった。だけど、欲張ってしまった。ムロエといる時間は楽しかった。孤独で寂しかった暗闇の中に差し込んできた陽だまりの暖かさを手放したくなかった。

 もう少し。

 あと少しだけ。

 そんなふうに先延ばしにしてしまった。 

 キヌはムロエに幸せになってほしかった。

 それがムロエの意思を無視したどんなに一人よがりで最低な考えでも……。

 

 ――いつか来ると思っていた終わりはその日唐突に訪れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「おキヌちゃんはかわらななぁ」

 

 ムロエは懐かしい友人との再会に目を細めて笑った。

 

「オラなんて、ほれ、こんなにしわくちゃのオババになっちまっただ」

「ムロエちゃんも………変わらないわ」

 

 それだけ言うのが精一杯だった。

 姿形がどんなに変わってもムロエはムロエだ。

 気まずくて、申し訳なくて、うれしくて、ない交ぜになった想いがぐるぐると頭の中で回って、それ以外に何を言ったらいいのか分からなかった。

 言いたいことはたくさんあるのに、それが一つも出てこない。

 ムロエは黙ったまま何も言わない。

 にこにこと笑みを湛えながら、キヌの言葉を待ってくれている。

 やっとのことでキヌは口を開いた。

 

「ごめん、なさい……っ」

「なにがだ?」

 

 穏やかな声色でムロエは問い返してきた。まるで子供を諭す母親のような優しい口調だ。

 

「私、あなたにひどいこと言った」

 

 それは違う、とムロエは首をふった。

 

「分かってる。全部分かってるだ」

 

 ムロエはキヌに近づいた。キヌの手を取る。

 

「ありがとうな」

「……うん」

 

 

 

 

 

 

 

 

「よ」

「横島さん……」

 ムロエが去った後、入れ替わるように横島忠夫がやってきた。片手を上げ。さくさくと地面を踏みしめながらキヌの傍らに立つ。

 森の奥に消えていくムロエの後姿を視界に捕らえた忠夫は首をかしげながらキヌに向き直った。

 

「誰か来てたのかい」

「友達が、来ていました」

「友達?」

 

 キヌはこくりと頷いた。

 そのときのキヌの顔は泣き笑いとでもいうのだろうか。潤んだ瞳には涙が溜まっていた。そんなキヌの顔を見ていたら、あまり無粋な詮索はしてはいけないように思えた。

 

「それで、考えてくれた?」

 

 忠夫はキヌに先日の返答を聞きに来ていた。

 

 ――成仏したいか。

 

 今まで山に縛られていたキヌは成仏したくともできないでいた。しかし今は違う。不幸中の幸いというか、荒脛御呂地神に今までキヌを縛っていた地縛の力は移り今はすでに自由の身になっている。今なら成仏できる。しかし忠夫はそんなキヌにもう一つの道を提示していた。

 

「私は……」

 

 まだ少し迷いがあった。

 

「それって横島さんたちに……その、迷惑じゃないですか?」

 

 忠夫は目をぱちくりとさせた。

 迷惑?

 だったら最初からこんな提案などしない。

 ほーほー、そんなこと言っちゃいますか。

 若干の怒りを滲ませながら忠夫はキヌの手を掴んだ。

 

「よ、横島さん」

「おキヌちゃんがそんなこと言うなら俺にも考えがあるぜ」

 

 もし、とか、よかったら、なんて選択の余地は与えない。

 

「俺と一緒に来いよ」

 

 状況と言葉の噛み合いはほとんどプロポーズなのだが、当人に自覚はない。ほぼその場の勢いで深い考えなどないのだ。

 

「へ……、ええ!?」

 

 キヌは顔を朱に染め、口をパクパクと開閉させた。

 

「もったいないだろ。まだまだこの世界にはたくさんの楽しいことがあふれているってのに、ここで終わらしちまうなんて」

 

 ニカ、といつもどおりのイタズラっぽい笑みを浮かべた。

 

「知らないってんなら見せてやる。もう満足ってんならそのときは俺が責任もって成仏させる」

 

 だから、と忠夫は続ける。

 

「たくさんの宝物、一緒に探しに行こうぜ」

 

 キヌはぽけっと忠夫の顔を見つめ、その言葉を何度も頭の中で反復させた。結論はもう出た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どうやら彼女を縛り付けていた悪夢は終わったようだ。

 その役目を果たしてくれたらしい少年には感謝の気持ちしかない。

 大胆にもキヌが目の前の少年に抱きついた光景を見ながらムロエは背中を向けて歩き出した。キヌは笑っていた。きらきらと輝くような笑顔で。

 

「………よかった」

 

 ――人々が笑顔になる街づくり。

 

 ずっと昔に自分がかかげた言葉。

 一番笑っていてほしかった大切な友達は今、暗闇を抜けて日の光の下で笑っている。

 キヌと一緒に野山を駆け回っていた日々が思い出される。一緒に御手玉ををした、蜂蜜を採りに行った、時間を忘れるほどおしゃべりをした。遠く霞むセピア色の思い出は今もムロエの胸の中で燦然と輝く大切な宝物だ。

 あれから何十年もの月日が流れた。

 変革する時代の波に翻弄されたくさんの苦しいことや悲しいことがあった。家族を失い、いつのまにか背負っていた荷物は増えていき、その重さに押しつぶされそうになったときもあった。でも一緒に支えてくれる人たちがいて、見守ってくれていた大切な友人がいた。

 人生に悔いが無いと言えば嘘になる。

 それでも、たどり着いて、振り返ってみれば自分の歩んできた道は獣道のように不恰好だけど、しっかりと自分の足で歩いてきた誇るべきものだ。

 一生懸命、力いっぱいに生きた。

 ムロエは御呂地岳から街を見下ろした。

 山間の中にあるにぎやかな街が広がっている。

 

「うん」

 

 ムロエはこけしの顔をそっと撫でた。

 

「がんばった」

 

 こけしも優しく笑い返してくれた気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ……ぽつり、ぽつりと、灯篭の明かりが見えた。

 

 夜陰の辺。どちらが上か下かも分からない漆黒の暗闇の中にいる。空には月も星もない。物音一つしない深海の底のような静謐な世界。混じるもののない澄みきった空気には、がらんどうの寒々しさしか感じない、

 ここが何処で、自分が誰だったかも思い出せず。

 どこに進めばいいのかも分からず、どこに戻ればいいのかも分からない。

 視界は一面の黒、黒、黒。

 まるで墨をぶちまけたような真っ黒な世界。

 歩いても、歩いても。

 どこまでも続く、いつまでも終わらない、闇の中。

 焦りと恐怖に急き立てられ、歩幅は少しずつ大きくなり、歩調はだんだん速くなる。

 暗闇に覆われた世界に、狂いそうになるほどの恐怖に心を蝕まれ、やがて走り出さずにはいられなくなる。

 走って、走って、走って。

 それでも暗闇からは抜け出せない。

 ふいに……光が見えた。

 視線のはるか先に、豆粒ほどの小さな光だ。

 しかし、闇の中で見えたただ一つの光に、叫びだしたいほどの歓喜に身を震わせ、そこに向かって走り出す。

 暗闇の中にぽっかりと浮かぶ灯火は、石灯籠の明かりだった。

 ぽつり、ぽつりと、小さな明かりが、一つ二つと増えていく。それらは夜道を照らす街灯の明かりのように、道なりに並んで遥か彼方まで続いている。

 延々と続く石灯籠の道。

 わざわざ次の光を目指さなくとも、今いる暖かな光の中に留まっていることもできた。けれどもそうすることはせず、次の光を目指して歩き始める。

 平坦だった道は、やがて上り坂になり、そして階段になった。石造りの急な階段はまるで神社へと続くような階段を思わせる。

 石灯籠小さな光が数珠繋ぎに照らし出す階段を、いつまでも歩き続ける。

 いつまでも、いつまでも歩き続けて。

 どこまでも、どこまでも歩き続ける。

 出口の無い暗闇の中で。

 

 

 

 彼女達はやっと、優しい日の光の下にたどり着いた。

 

 

 

 

 

 

 

 



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容赦無用のサマーバケーション
【思春期奮闘録】


 

 

 

 

 

 

 

 河川敷の橋の袂にぽつんと置き去りにされたダンボール箱があった。中をご覧くださいといわんばかりに口が開かれたダンボールを覗き込んでみると、そこには自分を見返してくる円らな黒い瞳があった。

 心臓がどきりと跳ねた。

 あまりの愛らしさについつい抱きかかえようと手が伸びてしまう。

 しかし待て。

 理性が衝動を押し止める。

 抱きかかえたら、もう離せなくなってしまうかもしれない。拾って、それからどうするつもりだと自問する。

 ……駄目だ。同居人が知ったら、捨ててきなさいと無慈悲な宣告を告げることだろう。

 踵を返してその場から立ち去ろうとする。しかしそんな自分を相も変わらず見つめ続ける熱い視線を感じる。

 

 ――そんな目で見るのは止めてくれ。

 

 視線を振り切り、歩き出した。

 一歩、二歩と歩を進める。髪をひかれる想いで振り返りそうになるが、そこはグッと堪える。普段より重く感じる足を前へと突き動かす。地面を踏みしめる足取りも自然と力強いものになってしまう。

 しばらく歩いていると、ぽつりぽつりとアスファルトに一つ二つと黒い染みが落ちた。

 空にかかっていた灰色の曇天から落ちてきた小さな水滴は、瞬く間に数を増し、やがて地面全てを黒く染め上げてしまう。それでも足りないとばかりに水滴は叩きつけるような豪雨となった。

 突然の夕立である。

 こんな雨に晒されてしまったら、あの子は……っ。

 居ても立ってもいられず川原に置かれたダンボール箱へ向かって走り出した。 

 遊歩道を走り、橋の袂に戻ってくる。土手を滑り降りると、雨の緞帳に陰る河川敷の景色の中で雨晒しになっているダンボール箱が見えた。

 駆け寄って中を覗き込む。

 

 ――ああ、こんなに濡れてしまって……っ。

 

 ダンボールに覆い被さるようにして自分の体を傘代りにする。これで少なくともこれ以上濡れることはない。

 ダンボールの主は、そんな身を呈した献身をじっと見上げていた。心なしか瞳が潤んでいるように見える。

 それからわずかな間も待たずに雨は上がった。夏の日の通り雨は気紛れである。雲の合間から差し込んできた陽光に、濡れた草花がきらきらと輝きだす。

 少年はダンボールの中に手を入れ、それをそっと持ち上げた。。

 

 ――大丈夫だ、もう放っておいたりなんかしない。さあ、一緒に行こう。

 

 それは円らな黒い瞳の。

 

 ……半裸の美女が表紙の本である。

 

 成人向け雑誌。わいせつ本。アダルト本。わい本。猥褻図書。

 それを形容する単語はいくつもあるが、所憚らず、もっとも大衆的ながら少々低俗な呼称を用いるとすると、それは所謂……エロ本だ。

 

 

 

 横島忠夫、一五歳。思春期真っ盛りの中学生である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 【思春期奮闘録】

 

 

 

 

 

 

 

 

 八月に入り、極彩色の暑さもよりいっそう強烈なものとなっていた。

 アスファルトから照り返される夏の熱気が、電柱やガードレールを陽炎の中でゆらめかせており、どこへ行っても何をしてても聞こえてくる蝉の大合唱が今季最高潮をむかえていた。暑さ寒さも彼岸まで、ということわざがあるが、ただ耐え忍ぶには少々この暑さは堪える。

 横島忠夫は駄菓子屋のベンチに座って手足をだらしなく弛緩させていた。ベンチの影には二匹の野良猫が忠夫と同じように茹だるような暑さにやられて力なく寝そべっていた。

 

「あっつ……」

 

 その日の忠夫はデニムブッシュのハーフパンツにTシャツ一枚とラフな服装だった。被っている帽子は某メジャー球団のものだが、忠夫は別段その球団のファンというわけではない。家にあった帽子を日射病対策で適当にかぶってきたのだった。普段はやんちゃっぽい印象を受けるややつりあがった瞳も今は暑さに顔をしかめているため藪睨みである。

 するとそこへ。

 

「えい」

 

 そんなかわいらしい掛け声と共に忠夫の首筋にキンキンに冷えたラムネのビンが当てられた。

 

「おぉうっ」

 

 驚いて飛び上がり、ベンチから腰が少しだけ浮き上がった。

 

「はい、お待たせしました」

 

 振り向くとそこにいたのは忠夫と同じくらいの年齢の少女だ。ただありえなことに体が宙に浮かんでおり、これまた奇妙なことに街中だというのに普段着のように巫女装束に身を包んでいる。

 彼女は幽霊だ。名前はキヌ。つい数週間ほど前まで御呂地岳という土地に括られていた地縛霊だったが、今は解放され忠夫と共に東京までやって来ていた。幽霊というと多くの場合、未練や怨みを糧としてこの世に留まるものだが、そうなるとそれ以外の感情が希薄になる。しかしキヌは生きている人間と変わらないほど喜怒哀楽の感情をはっきりと発露している。霊体であるにもかかわらず物に触れることもできるとおおよそ幽霊らしくない。

 ラムネを持ったままいたずらっぽく微笑んでいる姿を見ると殊更にそう思う。

 

「びっくりしたなぁ」

「えへへ、ごめんなさい」

「それで按配はどうだったい?」

 

 忠夫はキヌが持った紙袋に目を向けた。

 そこには今、駄菓子屋で買ってきた商品が入っている。

 キヌは自分の戦果を自慢するように手にした紙袋を誇らしげに忠夫にかかげて見せた。

 

「はい、ばっちりです!」

「ほんとに?」

「ばっちり……だといいな」

 

 急に自信なさげだった。

 キヌは今、一人で買い物が出来るかに挑戦していた。

 彼女が忠夫たちと共にこの街にやってきて二週間。今、彼女は字の読み書きをがんばって練習している。キヌが生きていた三百年前と違い、現在の識字率は高く、ほとんどの人が地の読み書きが出来る。一度街に出てみれば道路標識の注意書きや店の看板など、日常生活を送る上で字が読めなければ不都合がある場面がいくつもある。

 忠夫などは勉強と聞いただけで吐き気や眩暈などの何らかなの体調不良を訴えるのだが、キヌはむしろ楽しんでいた。見るもの聞くものが全て新鮮で、知ることそのものがうれしくてしょうがないといったように、次々に新しいものに興味を持って接していた。忠夫が昔見た映画で現代にタイムスリップしてきた武士が、車に轢かれそうになって奇怪な鉄馬だと刀で斬りかかり、つまみをひねっただけで火が出るガスコンロを見て腰を抜かしたり、と生活水準のあまりの進化ぶりに飛び上がるほど驚くといった場面があったが、キヌの反応も往々にして似たり寄ったりだった。特にテレビを初めて見たときの興奮ぶりはすさまじかった。

小さな箱の中に小人が住んでいると驚くキヌに、テレビの概念や構造を正確に伝えるには忠夫には知識が足りなかった。普段何気なく使っている機械でも知らないことだらけである。

 忠夫が一緒にテレビを見ていると、あれはなんだこれはなんだ、と矢継ぎ早に繰り出される質問に答えていくのだが、テレビの内容うんぬんよりもそれを見てころころ変わるキヌの表情を見ることを楽しんでいた。

 彼女にとって最高の教科書は本である。最近までは子供が読むような絵本を好んで読んでいた。ひらがなが多くて読みやすいということもあるのだが、シンデレラや白雪姫、グリム童話など海を越えて伝えられた物語は、キヌにとってはじめて聞くものばかりで、感動も一入だった。同じ本をきらきらとした目で何度も読み返し、本を閉じて物語りの世界に想いを馳せるように悩ましげにため息をついているキヌを見ると、忠夫としてはついつい世話を焼きたくなってしまう。友人の家を巡り、いらなくなった絵本や児童文学書を貰ってきてキヌにプレゼントしたりもした。大好きなお菓子を目の前にした童女のようにぴょんぴょん飛び跳ねて喜んでくれた姿を見たときは、こちらの気持ちまでほっこりとしたものだ。

 キヌは元々頭も良く飲み込みも早かった。ひらがなやカタカナといった基本的な文字の読み書きを二週間足らずでマスターして、今は小学校低学年くらいで学ぶ漢字もだんだんと読めるようになっていた。

 そして、今日。

 貨幣価値などを勉強する意味もあって、彼女一人でメモに書いた指定の物を買ってきてもらった。

 駄菓子屋を選んだのは店自体は小さいながらも商品の種類は豊富であり、元々が子供向けの商品なのでパッケージに書かれた商品名もひらがなが多様されているという読みやすさからだった。

 二人は公園のベンチに移動して紙袋の中身を広げた。

 忠夫はキヌに渡していたメモ帳を片手に、そこに書いてあるものと買ってあるものが合っているか一つ一つ確かめていく。答え合わせだ。

 時刻は正午を過ぎており、太陽の位置は中天から少し傾いている。大気が地面から照り返る熱によって温められ、今が一番暑い時刻だ。

 公園には大きな噴水が水しぶきを上げており、この辺りだけ少し涼しい気がした。

 噴水の前で小学生くらいの子供達が遊んでいた。男子と女子が三人ずつ、バスケットボールくらいの大きさのゴムボールをキャッチボールよろしく投げ合っていた。

 

「……どうですか?」

 

 恐る恐るキヌがたずねた。

 別に試験ではないのでそこまで肩肘張る必要はないのだが、結果はやはり気になるらしい。紙袋の中から細々とした駄菓子がたくさん出てくる。全部で三十点くらいはあるが、これで五百円以内なのだから子供の財布に優しい。忠夫も小学生の頃、遠足で金額内でおやつを持って行く時は小銭を握り締めて駄菓子屋に走っていったものだと、懐かしい思い出がよみがえってくる。うまい棒を三十本くらい買っていったら、リュックの中で押しつぶされて全部こなごなに砕けていたなんていうこともあった。

 あの時は泣いたなぁ、などと取り留めの無いことを思い出しつつ、メモと駄菓子を照らし合わせていく。

 結果は。

 

「全部正解だな」

「ほ、よかったぁ~」

 

 胸を撫で下ろすキヌ。

 

「なんだい、そんなに緊張することないってのに」

「緊張しますよー。でもあんなにたくさんお菓子の種類があるなんて今はすごく良い時代なんですね」

「それってどういう意味?」

 

 お菓子の種類が多いことが良い時代の証拠……。

 娯楽が発達しているという意味だろうか。

 

「だって、お菓子って別に無くても生きていけるじゃないですか。それなのにアレだけの数を用意できるってことは、それだけ食べ物がたくさんあって、必要な食事以外の食べ物を帰るだけの余裕があるってことですよ」

 

 それってすごく良い事ですよね、と言うキヌ。

 なるほど、と忠夫は頷いた。たしかに飢餓や飢饉と言った言葉は、物に溢れた現代日本ではどこか現実感の無いものだ。飽食の時代、忠夫にとってはそれがあたりまえのように過ごしているが、今は戦乱や飢饉に苛まれていた果てに、たどり着いた裕福な時代である。幽霊として長い間人々の生活を見つめてきたキヌの目にはそれが顕著に写るらしい。

 そのとき、ぽーんぽーん、と忠夫の足元にゴムボールが跳ねてきた。

 

「すいませーん、とってくださーい」

 

 噴水の前で遊んでいた子供達だ。

 ボールを投げていたコントロールが狂ってこちらまで飛んできたらしい。

 

「お、ちょうどいいな」

 

 忠夫はボールを拾い上げると、子供たちに向かって声を張り上げた。

 

「おーい、おまえらちょっとこっち来いよー!」

 

 怒られるのかと思ったのか、子供達はびくりと身を震わせえた。

 リーダー格らしき体格の大きな男の子が飛び出してきた。ざんぎり頭がやんちゃな印象の少年だった。

 

「なんだよ、早くボールかえしてくれよ!」

 

 かなり強気の語気だった。相手は年上にも関わらず結構な豪気だ。他の子供達を庇うように敢然と一歩前に出てきている。

 

 ――なかなか見所あるじゃねえか。

 

「早とちりすんな、菓子やるってんだよ」

 

 そう付け足すと、子供達は我先にと忠夫の元に駆け寄ってくる。先頭を切るのは先ほど忠夫に食って掛かってきた男の子だ。

 現金なものだと思いつつ、よくよく考えると自分がこいつらの時分はもっと意地汚かったような気がする。畑に生っていたトマトやりんごを勝手に取って食うのだ。畑に落ちていたというのが当時の忠夫の主張である。竹製のストローを自作して、スイカに突き刺して中の甘い果汁だけを吸うという蚊のような食い方もした。見た目では分かりずらいため、食ったのがバレ難い。

 

 ――どう考えても俺のほうが万倍タチ悪いな。

 

 当時の出来事を思い出して頬に汗を伝わらせつつ、子供達に向かって紙袋の中身を差し出した。

 

「ほら、喧嘩せずに仲良く分け合えよ」

 

 わー、とうれしそうに顔を輝かせながら紙袋の中身を覗き込む子供達。

 

「それから、そのお菓子はこのお姉ちゃんが買ってきたものだ。さて、この場合どうすればいいか……分かるか?」

 忠夫はキヌを指差した。

 キヌは集まった子供達の視線に「え、私?」と戸惑いぎみに声をあげた。

 子供達は顔を見合わせ、それから。

 

『ありがとーございました』

 

 一様にキヌに向かって頭を下げた。

 キヌはそれに対して反射的に「どういたしまして」と答えた。

 

「なーなー、秘密基地で食おうぜ」

「さんせー」

「じゃあね、お姉ちゃんたち、菓子ありがとー」

「よしいくぞー!」

『おー!』

 

 リーダー格らしい少年が掛け声をかけると、それに合わせて他の子供達も拳を空に突き上げた。

 

「って、おまえらボール忘れんなよ」

 

 忠夫が投げ渡したゴムボールをキャッチするリーダ格の男の子。

 

「兄ちゃん!」

「あん?」

 

 親指を立てた拳を突き上げた。

 

「サンキュー!」

「おーう」

 

 忠夫も同じように拳を突き上げて返した。

 子供達は公園の出入り口のアーチをくぐって走り去っていった。

 

「横島さん、良かったんですか? あのお菓子って横島さんのお小遣いで買ったものじゃ」

 

 しかしそもそも幽霊であるキヌは食べられないし、忠夫自身も成長期とはいえあれだけの量の駄菓子を一度に食べきるのは胃もたれする。

 

「あーいうの買って帰るとタマモがうるさいんだ。『まったく、あんたは本当に無駄遣いが好きねぇ』って」

 

 おどけたようにタマモの声真似をしてみせると、ちょっとツボに嵌ったのかクスクスと笑うキヌ。

 

 ――お、ウケた。

 

 うれしくなって、そこで調子に乗る忠夫。

 

「あ」とキヌが忠夫の背後を見て驚いたような顔をしたのに気づかないまま。

 

「あいつはやたら俺の生活態度に口出してきてさ。『忠夫、学校の勉強はちゃんとやっているの? 今度のテストでまた0点とったらお小遣い半分カットするわよ』……おまえは俺の母親かってんだ」

「ほぅ」

 

 ぞくりと忠夫の背中に悪寒が走った。

 振り向くと、そこにいたのは。

 案の定、タマモだ。

 

「た、タマモ……なんでおまえがここに?」

「買い物の帰りよ」

 

 手に下げたスーパーのビニール袋をかかげて見せた。

 

「それより面白いこと言ってたわね。おまえは俺の母親か……ね。忠夫、今度のテスト、赤点が一つでもあったらお小遣い半分カットね」

「ハードルが上がってるだろ!?」

「これくらいクリアしなさいよ」

 

 いつもどおりのやり取りだった。

 妹に財布を握られている兄。情けなさがこみ上げてくる。

 

「あ、タマモちゃん。わたし買い物袋持つわ」

「いいわ、このくらいならそんなに重くないし」

 

 つっけんどんに返した。

 キヌが一緒に暮らし始めてから二週間ほどが経ったが、タマモはまだキヌに大して壁、というか隔たりを持っていた。元々人見知りする性格だったが、一つ屋根の下で暮らしているという身近な関係がややこしい方向に作用しているようだ。

 

「じゃ、先に帰っているわね」

 

 そう言って公園から立ち去るタマモ。

 

「横島さん。すいません、私も先に帰りますね」

 

 どうやらキヌはタマモを追いかけるつもりのようだ。

 キヌは照れくさそうに笑った。

 

「私も、タマモちゃんともっと仲良くなりたいですから」

 

 そう言って、キヌはタマモの横に並んだ。タマモから若干強引に買い物袋を掴みとり、そのまま帰路につく。

 忠夫はここは自分が余計な手を出さず二人に任せようと思った。二人だけの時間も必要だ。少し散歩でもして帰ろうか。そう思い、忠夫も公園を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして家への帰り道、夕立に見舞われ。

 そして。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ………抜き足、差し足。

 足音を立てないように注意しながら石畳を踏みしめる。動きは素早く、無駄なく、気配を殺して。

 不思議なものだと忠夫は思う。

 目の前には十年来住み慣れた我が家がある。西洋文化が入り混じり進化を続ける東京の街並みの中で、そこだけ江戸時代からタイムスリップしてきたような立派な風格の武家屋敷だ。コの字型の邸宅の中庭には、紅白の模様が美しい鯉が力強く泳ぐ瓢箪池がある。春は連翹、夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は椿と、屋敷の四季を彩るたくさんの庭木。プロの手により剪定された格調高い松の木。乱雑なように見えて美しく見えるように計算されて配置された重厚な庭石。それら全てが見事に調和しており、押し付けがましくない美しさという日本庭園の理念を体言しているようだった。

 忠夫にとってその全てが幼い頃より見慣れた光景である。

 思い出が染み付いた屋敷。

 庭の飛び石の感覚は見ずとも足が覚えている。庭木の手入れなどいつの間にか覚えていてしまっていたし、雨漏りを直したりなどの家屋の簡単な補習や、家中のがたついた押入れのふすまを開けるコツは熟知している。

 幼い頃より過ごした、心の底から安らげる我が家だ。

 ……しかし今はどうだ。

 忠夫の頬に汗が流れる。暑さによるものとはまた違ったものだ。

 彼は緊張していた。

 住み慣れたはずの我が家が突然、気の抜けない戦場へと変貌してしまっていたことに驚愕を隠せない。

 

 ――こいつが家族にばれるわけにはいかない。

 

 忠夫が上着の内に抱え込むようにして隠しているのは河川敷で拾った十八歳未満閲覧不可の表示が書かれた所謂エロ本が計五冊。

 心臓がばくばくとビートを刻んでいる。

 エロ本に興味持ったっていいじゃないか、男の子だもの。

 忠夫は頭の中でそんなことを考えているが、その反面、この事が家族――特に妹に露顕した時のことを考えると肝が冷える想いだ。不潔と罵られるのならまだいい。いや、別になじられて喜ぶ趣味は持っていない。しかし妹は精神年齢が同年代より遥かに高い。思春期の男はこういったことに興味があるものだと理解しているだろう。万が一、エロ本を発見された時、罵られるよりも慈愛に満ちた瞳で肩を優しく叩かれる等々の理解を示すような行動をされた場合、最悪、思春期の心の繊細な部分がガラスのように砕け散る気がする。

 忠夫はふぅー、ふぅー、と興奮した獣のような吐息をもらしていた。油断無く周囲を意識を張り巡らしながら玄関に向かって進撃する。

 こんなときはこの無駄に広い庭が憎々しく思えた。

 がさ、と庭の低木が揺れた。

 忠夫は弾かれたようにその場から飛びのき、松の木の陰に隠れる。木の陰から音のした方向をそっとのぞき見ると、そこから一匹のカラスが飛び出してきた。ほっと一息つく。

 どこに目があるか分からないという虚構じみた緊張が、彼の精神をすり減らしていた。

 頬を伝う汗を拭う。

 

 ――さあ、ココからが本番だ。

 

 忠夫は家の玄関の前へとたどり着いた。

 裏口から侵入するという案も思い浮かんだが、それは悪手だ。腕時計の針は午後三時を指してる。今の時間、もしかしたら妹が夕飯の下拵えをしている可能性がある。窓などの出入り口以外からの侵入、それもノーだ。この家のセキリティーは洒落にならないくらい高い。この家の主人は霊能の世界に名を轟かす剛の者だ。警備会社との契約や防犯設備の充実はもちろんのこと、霊的な結界やら不審者に対して全自動で働く呪術などがわんさかとある。そのえげつなさを理解した上で不法侵入など、冗談がキツすぎて冗談の範疇を超えている。

 家人に見つからないように、このエロ本たちを自分の部屋まで運ぶ……それが今回のミッションだ。

 息を整える。

 

 ――さあ、行くか。

 

 まるで死地に赴く兵士のような決意を滾らせ、引き戸の取っ手に手をかける。

 と、その瞬間。

 

「横島さん」

「ふわっふぉっ!?」

 

 突然かけられた声に反応して、悲鳴だか歓声だか分からない叫び声を上げてた。顔を上げると目の前にキヌの顔。玄関の戸は閉じられたままだ。幽霊であるキヌは物体の透過ができるため、上半身だけが戸から通り抜けていた。

 ちなみに幽霊がこの家の外壁に触れるとそれだけで消滅しかねない。柱に霊的な力がこもった梵語を刻み込み、壁材は名のある陰陽師たちが霊力を練りこんで作られたものだ。もちろん幽霊である限りキヌとて触れれば相応の痛手を受けるのだが、今彼女が長い黒髪を結わえている布に括りつけられた鈴がこの家への出入り許可証のような役目を果たしていた。

 

「ひひゃっ!?」

 

 忠夫の奇声に驚いて仰け反ったキヌは首から上が戸の向こうに通り抜けて隠れているという大変シュールな構図になっている。キヌは腹筋で上体を起こすように、元の位置に顔を戻す。

 

「ぷはぁっ、ど、どうしたんですか横島さん?」

「い、いいいいいいいイヤイヤイヤ、なんでもない問題ないんだ!」

 

 動揺しすぎである。

 

「お、おおおおおおキヌちゃん。扉は開けるもんだ、通りぬけちゃあいけねえよ。みんながみんな扉を通り抜けたりしたら一生懸命扉さぁ作ってくだすった大工さんたちに申し訳がたたねえってもんだべさ」

 

 自分でも何に対して注意をしているのか良く分かっていなかった。内容も然ることながら方言が入り混じってしっちゃかめっちゃかな言葉遣いになっている。

 

「は、はい。ごめんなさい」

 

 それでも律儀に謝るおキヌちゃんは良くできた子だと思う。反面自分のやっていることの馬鹿馬鹿しさに無性に泣きたくなってきた。

 

「はぁはぁ………ていうか大丈夫、俺? 心臓とか口から飛び出してない?」

「え?」

「いや、なんでもない」

 

 心臓が爆発するんじゃなかろうかというくらい跳ね回っている。不整脈か。多分、違う。

 

「それより横島さんずぶ濡れじゃないですか! さ、お風呂沸かしてあるから早く入ってください」

 

 キヌのいうとおり忠夫は今頭のてっぺんから靴の中まで濡れていた。湿った髪の房からぽつぽつと水が滴り落ちている。パンツまでぐっしょりだが、腹に抱えたエロ本はしっかりと守っている辺りに執念を感じる。

 

「いや、風呂はまだいいかな」

 

 まずはこのエロ本を部屋に隠さねばいけない。風呂はその後だ。

 

「駄目です。風邪引いちゃいますよ」

 

 指を立てて、「メッ」と子供に説教する母親のようだ。

 あれ、とキヌは目を丸くした。腹を抱えこむように背を丸めた忠夫の姿を見て、ぐいっと顔を近づけて覗き込んできた。「ひぃっ」と短く悲鳴を上げて仰け反る忠夫。

 

「横島さん、お腹どうしたんですか?」

「お腹ってなにっ!?」

 

 1オクターブくらい上ずった声が、さも何か隠していますといわんばかりだ。

 

「いえ、お腹押さえちゃってどうしたんですか」

「ああ、なるほどなるほどそういうことかぁ! じつは今、腹がすっっっっっっっっっっげえ痛くってさ!」 

「ええっ!?」

 

 ――しまった、“すげえ”の部分を強調しすぎた。どれだけ腹痛いんだ。

 

「そんなに痛いんですか!?」

「今のウソなんだ!」

 

 切羽詰って言動が情緒不安定になっていた。

 

「じゃあどうしてお腹おさえているんですか!?」

「ええっ! なんでそんなにぐいぐいツッコんでくるの!?」 

「だってお腹痛いんだったらお医者さんにちゃんと見てもらわないといけないです! 本当に大丈夫なんですか?」

「ホントホント! すっげえ大丈夫! すっげえ元気、超元気!」

 

 ムン、とボディービルダーのように両腕で力瘤をつくるポーズで元気をアピールする。しかし果たしてそんな体勢になればどうなるかなどと分かりきっていることだろうに。

 バサァ!

 忠夫の服の裾から手の押さえ失った五冊のエロ本が滑り落ちてきて地面にぶちまかれた。ページが開かれ晒される。男と女が生まれたままの姿でくんずほぐれつ、アレだ、ニャンニャンしている。

 

「あ」

「え?」

 

 なんだろうと思い、キヌがそれを覗き込もうとした。

 

 ――しまったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!

 

 キヌの純真無垢な瞳に、エロ本などという野卑な代物を晒すことは憚れた。後、自分の尊厳とか威厳のためにも。彼女の視線からどうにかしてエロ本を外さねばならない!

 しかし具体的にどうやって、エロ本を隠せばいいのかとっさに思いつかなかった。

 明後日の方向、具体的には廊下の奥の暗がりを指差して、こう叫んだ。

 

「ああっ、あんなところにマスケラつけて竹槍ひっさげた七色の暴れ馬がっ」

 

 叫んだ瞬間、家の中にそんなわけのわからないものがいてたまるかと思った。

 

「ええっ、なんですかそれ!?」

 

 律儀に振り向いてくれたキヌ。

 ……ささくれ立った心にその純粋さが痛い。

 素早くエロ本を拾い上げて腰のベルトに差し込む。

 

「ゴメン、見間違えた!」

「……あ、そうなんですか」

 

 ちょっと残念そうだった。

 見たかったのか、暴れ馬。

 

「ちょっと一体何を玄関で騒いでるのよ」

 

 ――やっかいなヤツが来た。

 

 廊下の奥から現れたのは、妹であるタマモ。

 彼女はかなり侮れない。勘が良いし、嗅覚も優れている。なにより忠夫の行動パターンを把握している点で今現在忠夫がもっとも会いたくない手合いである。

 

「……た、たたたたたタマモ! よう元気だったか?」

「何を隠しているのか今すぐ吐きなさい」

 

 ――シット! いきなりかよ!

 

 目を細めて探るような視線に射抜かれた忠夫は思わず半歩後退った。それがタマモの疑惑の目をさらに深めることになったようだ。

 

「へぇ」

 

 へぇ、ってなんだ。なにがへぇなんだ。

 怪しむような目線はよりいっそう濃さを増していた。

 

「べ、べつに何も隠してなんかいないさ。なにを言っているんだ、ちょっと意味が分からないんだが」

「…………」

 

 無言の圧力に膝を屈しそうになる。心の内を全て見透かされそうな鋭い視線が、グラインダーのように精神をがりがりと削ってくる。

 たしかに今までタマモに秘密で屋敷中に対師匠用のトラップ仕掛けたり、池にゼラチン入れてゼリー状にしたり、家の隅に廃材で掘っ立て小屋の秘密基地を作って電柱から電気引き込もうとしたら配線間違えてブレーカー焼き切った上にご近所一体停電させたり等々したが、なにもそこまで怪しむことないじゃないかと、過去の悪戯悪行を棚の上に放り投げて嘆く忠夫。

 

「な、なんだよその目は、お、俺はべつになーんにも隠してなんかにゃいぞ」

「……ま、いいわ」

 

 興味を無くしたように背を向けるタマモ。

 助かったと思う反面、何かを悟られたのではないかと思い、気がでない。誤魔化しきれてないことは確実だ。

 

「ほら、さっさとお風呂入ってきなさい。おキヌちゃんがせっかく沸かしてくれたんだから、さっさとその濡れた服洗濯機に放り込んで温まってきなさいよ」

 

 そう言い残しタマモは廊下の奥へと消えていった。おそらく向かう先は台所だ。エプロンをつけていたので夕飯の下拵えをしているのだろう。

 ほう、っと大きく息をつく忠夫。

 

「ぶえっくしょん!」

 

 安心したら鼻がむずがゆくなって大きなくしゃみ。するとキヌが慌てたように忠夫の腕を掴んだ。

 

「ほら、やっぱり体冷えちゃってます。さあこっち来てくださいっ」

 

 忠夫の腕を力強く引っ張っていくキヌ。どうやら無理やりにでも風呂場に連れて行こうとしているようだ。

 

「ちょ、ちょっとおキヌちゃん、ほら着替え持って来ないといけないからさっ」

「それなら私が後で持っていくから大丈夫です」

「いや、パンツとかもあるからさ!」

「それも持っていきますっ」

「えぇ~~~……」

 

 洗濯などの家事はキヌにしてもらっている手前、今更パンツの一枚くらいで恥ずかしがることは無いのだが、それはそれである。

 そして忠夫はエロ本を隠し持ったまま脱衣所へと連行された。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……さて、どうしたもんかなぁ」

 

 忠夫は脱衣所を見回した。

 人二人が寝転がれる程度には広い脱衣所はまるで銭湯のような概観だ。くすんだ板張りの床、壁に備え付けられた箱型の収納棚には脱いだ衣服を入れるための籠が入っている。格子窓からわずかしか日の光が差し込まない室内を淡く照らす赤色灯のほのかな灯りは、まだ電球が無かった時代の夜を照らしていた蝋燭の灯りに似ていた。脱衣所の隅には台はかり型の体重計がひっそりとたたずんでいる。その首の部分には幼い頃の忠夫が貼ったとあるスナック菓子についていたおまけのシールが今も残っている。

 

「こいつを隠せるような場所は…………ねえな」

 

 忠夫はエロ本を手に持ったまま、悩みあぐねていた。

 エロ本自体の体積はそれほど大きなものではないので隠すことはそれほど難しくない。しかし今現在忠夫がいる脱衣所は狭く遮蔽物も無いので何かを隠すには不向きだ。収納棚に入っているバスタオルの間に隠そうかとも考えたが、ちょうど一枚もバスタオルが置いていない。それも着替えと一緒にキヌが持ってきてくれるということだが、むしろだからこそどこにエロ本を隠そうか悩んでいるのだ。自分が風呂に入っている間に、着替えを持ってきてくれたキヌに万が一にもエロ本を発見されないようにしなければならない。天井や、床下……いや、それも駄目だ。霊体であるため壁抜けができるキヌに発見される可能性が無きにしも非ず。

 となると、やはり。

 

「これしかない、か」

 

 やむを得ず忠夫が取った行動は、エロ本を持ったまま風呂場に入ることだった。

 もちろんエロ本が濡れないようにするため細心の注意を払わねばならぬが致し方なし。湿気も多少は大目を見よう。

 服を脱ぎ、風呂場へと入る忠夫

 浴槽は贅沢な檜作りである。足を伸ばせるくらいには広く、今は浴槽に並々と湯が張っている。壁に備え付けのリモコンからボタン一つで湯が湧き出て適切な温度に保ってくれるのだから便利な話だ。

 湯船にざぷんとつかると、足先から広がっていく痺れにも似た心地よさはなんともいえない。

 

「くぁぁぁぁぁっ」

 

 非常にジジくさいが、声に出るものは出るのだから仕方ない。

 顔半分を湯船に静め、息を吐き出すとぶくぶくと気泡が水面に弾ける。天井から滴る水滴を見つめながらこれからどうしたものかと考える。風呂蓋の上には川原で拾ってきたエロ本が置かれている。

 

 ――とりあえず風呂から出たらまっすぐ部屋に戻って、それからこいつを隠す場所を考えないとな。

 

 贅肉の無い引き締まった忠夫の体には無数の傷がある。それは彼が霊能と体術の苛烈な修行と幾多の実戦の中で刻まれた、いわば勲章のようなものだ。中にはまだ水ぶくれのようになっている治って間もない傷があるが、それは数瞬間前の御呂地岳の戦いで刻まれたものだ。逆に最も古い傷は、その背中にある。右肩から左脇腹まで袈裟懸けに走る大きな傷。それは幼い頃の彼が霊能に目覚める切欠となった事件で負った傷であり、横島忠夫が今の横島忠夫になった契機となった始まりの思い出をその身に刻んだものである。

 冷えた体に暖かい湯が染み込んでくるような心地よさが眠気を呼び起こしてくる。重くなって来るまぶた。湯の中に揺蕩いまどろんでいる。すると。

 

『横島さん。服持ってきましたよ』

「ああ、あんがとー」

 

 扉の向こうの脱衣所から聞こえてくるキヌの声に答える忠夫。

 浴室の外に出て、バスタオルで体を拭い、キヌが用意してくれたジャージを着る。

 

「よし……」

 

 力強く頷く忠夫。

 エロ本を掴みズボンの裾に仕舞う。これでシャツによって外からは見えない。

 

 ――行くか!

 

 パン、と頬を力強く手の平で叩く。

 まるで腹にダイナマイトを巻いて敵陣に突っ込む兵士のような覚悟を決めた面持ちで忠夫は脱衣所の扉を開けた。もっとも、腹に巻いているのがダイナマイトならぬ、エロ本だというのが情けないのだが。

 脱衣所を出て廊下へと出る忠夫。

 しんと静まり返った廊下に、遠くで聞こえる蝉の鳴き声がかえって閑寂をかきたてるように聞こえていた。元々あまり日光が差し込まない日本家屋の構造的なこともあり、廊下はまるで影深い森の奥を覗き込んだように薄暗い。壁が少ない日本家屋は戸を開け放てば風が吹き抜ける構造になっているため、涼風が血脈のように家中を駆け巡り、天然のクーラーの働きをしていた。

 ひんやりとした空気に、肌があわ立つ。

 先ほどまでの過度な緊張は忠夫には無い。わずかな緊張こそあれど、事に望むためのコンディションとしては悪くない。全てはエロ本を守るため。

 

 ――その集中力の一握りでも学業にまわせばいいものを……。

 

 廊下を飄々としたふうを装った足取りで歩く。

 忠夫の部屋は母屋の二階にある。緩い傾斜の折り返しの階段を上り、幸いなことに部屋に戻るまで誰とも会うことは無かった。

 後ろ手で簾戸を締め、大きく息をつく。

 吐き出した息と共に強張っていた肩から力が抜けた。

 

「にひ」

 

 いやらしく笑った忠夫はいそいそと窓の前に置かれた文机へ向かう。座椅子に正座で座り、エロ本を文机の上に広げた。

 

「いよーし、よしよしよし」

 

 指を揉み解し、肩をぐるぐると回す。

 

「おいっちにー、さーんしー」

 

 おいっちにー、さーんしー、と。

 ストレッチをして体をほぐす。気合は十分。

 

「うおっほん」 

 

 ぴんと背筋を伸ばし、まるで難解な学術書を読み解こうとする学者のような怜悧な面持ちでエロ本をめくろうとする。

 視線は獲物を狙わんとする鷹のごとく鋭いが、鼻の下が伸びきっていた。

 

「ん……、んんっ?」

 

 おかしい。

 ページがめくれない。

 雨と浴室の湿気に濡れたため、まるで雑誌の袋とじのようにページどうしがくっついているのだ。

 

「く、この……っ」

 

 爪でくっついたページの端をつまみ、ゆっくりページをはがしていく。

 

「あ、くそ」

 

 少し破れた。

 破れないように、ゆっくり。

 ゆっくり、と、はがしていく。

 

「………WOW」

 

 なぜかアメリカナイズされた歓声をあげる忠夫。

 くっついていたページを開くと、そこには妙齢の女性が言葉にするにはちょっとばかり憚られるような大胆なポーズをとっている。服は身につけていない。

 

「むふふ、なんかすげえワクワクしてきた」

 

 高揚感に急かされるまま次のページをめくろうとする。

 

「さてさて、次のページに参りましょうか参りましょうよ」 

 

 ――しかし待て。

 

 このまま本が乾いたら、ページがくっついたまま固まってしまう。

 

「おっと、いけないいけない。俺としたことが目先のことにとらわれて大事なものを見失うところだったぜ」

 

 急いては事を仕損じる、という諺もある。

 やれやれと頭を振り、忠夫が立ち上がって向かった先は脱衣所だ。洗面台に置かれたドライヤーを取る。これで1ページずつ乾かしていけば、後々ページどうしがくっつく心配はない。ちょっとくらい皺が入るかもしれないがしょうがない。

 ドライヤーを手でくるくると弄びながら、陽気な足取りで自分の部屋に戻ろうとする忠夫。

 と、そこへ。

 

「ちょっと、忠夫」

「ひょっ!」

 

 声をかけられたことに驚き、身をすくませる忠夫。

 しまった、油断していた。

 振り向くと、廊下の奥にタマモがいた。彼女がいるのは台所の入り口。鴨居から垂れ下がる珠暖簾の下から小さな背丈を覗かせている。

 

「な、なんだ、タマモ?」

「…………なんでアンタ、ドライヤー持ってるの」

「あ、ああコレな! まだ髪が乾いてなくてさ!」

「脱衣所で乾かせばいいじゃない。なんでわざわざ持ってくの?」

 

 もっともな疑問だ!

 

「そういうお年頃なんだ」

 

 ――苦しい、苦しいぞ俺!

 

 言い訳にすらなっていない。しかしタマモはこれ以上は追求してこなかった。「ま、いいけどね」とあっさりと引いた。

 やっぱりエロ本を拾ってきたことバレてるんじゃなかろうか、という予感が忠夫の脳裏を過ぎる。考えすぎだとも思う。なにかを隠している、というところまでは察知しているだろうが、その“なにか”までは推し量れていないはずだ。断定するほどの情報はない……はず。

 それなのに……なんだ、この追い詰められているような焦燥感は。

 なぜかタマモの手のひらで踊っているような感覚が拭えない。

 

「それで! なんの用だ?」

「ちょっと買い物行ってきてくれない? お醤油きらしちゃったのよ」

「おう、まかしとけ」

「忠夫がそこにいてくれてよかったわ。ちょうど、おキヌちゃんにあんたのこと呼びに行ってもらったところだったのよ」

「へえ、おキヌちゃんに……………なんだってっ!?」

 

 つまりキヌは今、忠夫の部屋に向かっている、もしくはすでに部屋の中にいることになる。忠夫の部屋の、その机の上には。

 

 ――エロ本出しっぱなしじゃねぇかよぉぉぉぉぉぉっ!

 

「そ、そうか、じゃあ俺は部屋に戻るな!」

 

 一秒でも早く部屋に戻ってキヌの目からエロ本を隠さねばならない!

 慌てて身を翻した。

 その瞬間。

 ジリリリリリリリリリリリリ!

 電話のベルの音が廊下に鳴り響いた。

 

「忠夫、ちょっと電話出て」

「えぇぇぇ――――っ!?」

 

 ――この切迫した状況で!?

 

 電話に出てる時間などない。今は一刻でも早く部屋に戻らねばならないというのに。

 

「タマモが出てくんないっ?」

「あたし今、手が離せないの」

 

 そう言って台所に引っ込むタマモ。

 

「それとも」

 

 台所の入り口から一歩、タマモが姿をあらわした。こちらに背中を向けたまま。表情が伺えない。

 

「なにか……電話に、出れない理由でも、あるのかしら、ね?」

 

 心なしか声のトーンが落ちていた。

 

 ……時々、タマモがすごく怖く感じることがある。

 

「そんなわけないだろ! 電話だろ、俺にまっかしとけぇっ!」

 

 無駄にテンション高く、電話の前に立つ忠夫。ダイヤル式の黒電話は『早く出ろ』とがなり立てていた。

 それどころじゃないというのにっ。

 忠夫は息を整える。

 この家――来洞家には、政財界の大物からの電話が時折かかってくる。この家の主人であり、忠夫の師匠は世に名を馳せるゴーストスイーパーだ。彼には海を越えた国家レベルの依頼も数多く訪れる。そのため、相手が大物であれば電話口での礼を逸した対応は、師匠の顔に泥を塗ることになる。情報の伝達力とは怖いものだ。権力を持つ者ほど情報をを重宝する。悪評など広められたらたまったものではない。忠夫は師匠のことについては『いつかぶち殺す』と心に誓っているが、義理を欠いたことはするわけにはいかない。

 電話に必要なのは、誠実な対応である。

 気持ちは精錬された仕草の執事だ。

 こほん、と咳払い。指先まで意識を走らせ、おもむろに受話器を持ち上げる。

 

「……はい来洞です。お持たせして申し訳ありませんでした。本日は当家にどういったご用件でしょうか?」

『お、横島か。雪之条だけど、おまえ今度一緒に昆虫採集に行かね――』

「後にしやがれ!」

 

 ガチャーン! と受話器を本体に叩きつける。

 清廉な仕草など所詮は吹けば飛ぶがごとき軽い虚飾だった。

 このクソ忙しい時に、しかも内容は昆虫採集。

 

 ――小学生の自由研究か!

 

「ちょっと忠夫、今の電話なんだったの?」

「間違い電話!」

 

 慌しく走り去っていく忠夫の背中をじっと見つめるタマモ。

 

 

 

 じっと、ガラス玉のような透明な瞳で……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 キヌは忠夫の部屋の前にやって来ていた。

 

「横島さん、キヌです。いますか?」

 

 部屋の中に向かって語りかけて見るが返事がない。 

 

「失礼しますね」

 

 簾戸を通り抜ける。忠夫は、やはりいないようだ。

 キヌはふわふわと宙に浮かびながら部屋の中央にちょこんと座った。そわそわと落ち着き無いように肩を揺らしながら、忠夫の部屋をぐるりと見回した。

 忠夫の部屋は畳敷きの和室だ。かといって家具まで和風というわけではない。部屋の隅には黄色のカラーボックスが置いてあり、中には漫画がぎっしり入っている。その横には元々部屋に据え置かれていたと思われる色あせた大きな本棚があり、その中には霊能関係の本が整然と並んでいる。部屋の南側と東側には障子窓があり、鴨居のところにハンガーをかけジャケットをつるしている。東側の障子窓に向かい合うように置かれている文机に座椅子。畳の上にペルシャ模様の絨毯がひいてあり、丸いクッションが置いてある。

 キヌはそのクッションを拾い上げた。

 ぽんぽんと、ボールのように投げて掴んでを繰り返す。

 そのクッションは忠夫が絨毯の上に寝そべっているときに枕代わりにしているものだ。

 キヌはクッションをぬいぐるみのように抱きしめてみた。

 

「えへ」

 

 なんだろう、すごく照れくさい。

 

 ――横島さん……。

 

 忠夫の名前を心の中で呼んでみるキヌ。

 彼女は今、満たされた生活を送っていた。御呂地岳からこの街にやってきて、二週間ほどの時が流れた。見るもの触れるもの、なにもかもが新鮮で、今は毎日が楽しくて仕方がない。この街には木や花といった自然が少ないのには寂しい気持ちも湧いてくるが、それ以上に心を許した人と一緒に日々を過ごすことの幸せを噛み締めていた。 

 まだ忠夫の妹であるタマモと打ち解けるには時間が必要かもしれないが、彼女が時折見せるぶっきらぼうな優しさには思わず顔がほころんでしまうほどうれしい。

 キヌがふと顔を上げると、文机の上に何冊かの雑誌があるのを見つけた。

 近づいて見てみると、どの雑誌も表紙には女性がいる。

 

「わ、わわっ!」

 

 どうしてか、どの女性もかなり際どい格好をしていることをキヌは不思議に思った。これではほとんど裸ではないか。見ているだけで頬が熱くなってくる。しかしよく考えてみるとこの時代は水着はもちろんのこと、お臍をだした服装や、胸元が大きく開いた服装なんかもあるという。

 

 ――きっと、こういう格好も変なことじゃないんだ。

 

 キヌはそう自分を納得させた。

 しかし自分がこういう格好をしたいかと問われれば断固として拒否する。

 だって、恥ずかしすぎる。

 

「ちょっとだけ、ちょっとだけ……見てみようかな」

 

 興味を引かれたキヌは、ごくんと生唾を飲み込み、恐る恐るといった指使いでページをめくろうとする。

 その瞬間。

 

「その本は駄目だァァァァァァァァァァァッ!」

「ふへっ?」

 

 叩きつけるように簾戸を開いて、忠夫が現れた。

 忠夫はキヌが文机の上に置いてあった本を手にとっているのを見て目を剥いた。慌てて畳を蹴って宙に浮かんでいるキヌに飛び掛り、本を奪取して……。

 

「あ」

 

 ガシャアアアアアアアァァァァァァァン!

 

 ――そのまま勢いあまって窓をぶち破り、忠夫の体は二階から外へと放り出された。

 

「よ、横島さはぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」

 

 キヌの悲鳴から一拍遅れて、ドボォォォォン! と水柱が立ち上った。ちょうど忠夫の部屋の窓の階下は金魚などを飼っておくための小さな池があった。

 

「な、なに? なにが起こっているの!?」

 

 電光石火の出来事にキヌは驚き戸惑うばかりだった。

 とりあえずはだ。

 

「横島さん、大丈夫ですか――――っ?」

 

 彼の安否を確認するために、身を翻し階下へと飛んでいった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「馬鹿なのか俺は?」

 

 本日二度目の湯船につかりながら忠夫は一人ごちた。

 窓を割って池に落下した忠夫の体に傷は無かった。が、やはり窓を割ったことについてはタマモに「家を壊すんじゃないわよっ!」と散々説教を受けることとなってしまった。

 辛くも、エロ本のことは家族に隠しとおせた。今はエロ本は部屋のカラーボックスの裏でひっそりと息を潜めている。大掃除でもしない限り見つかることはないだろう。 

 なぜこうもやることなすこと裏目に――でもないが、すんなりうまくいかないもんかと忠夫は常々自分の運の悪さについて悩みを持っていた。

 

 ――本当に呪われてんじゃないだろうな。

 

 まだそちらのほうが説得力、もとい希望が持てる。それなら呪いをかけやがった術師をぶちのめすなり、呪いを解かせるなりすればいいのだから。しかしもし本当に呪いなら、自分はともかくとしてもタマモの嗅覚をかいくぐって呪いをかけられるとは思えない。

 運の悪さについてはたぶん先天的なものだ。どうしようもない。

 ため息をつく。

 体を温めた忠夫は湯船から上がり、キヌの用意してくれた新しいジャージを着た。

 濡れた髪をタオルでがしがしと拭きながら脱衣所を出た忠夫。

 

「ごめんくださーい!」

 

 玄関の方から声が聞こえた。訪問者らしい。しかしそれはどうしたことか、ずいぶん幼い印象を受ける子供の声だった。

 この家に幼い子供が訪れるなんて珍しいな、と思いながら、忠夫は玄関へと向かった。

 するとそこにいたのは五人の小学生くらいの子供達だった。見覚えがある。

 

「お、さっきのちびっこども」

 

 公園で先ほど忠夫が菓子を上げた子供達だ。なぜ彼らがこの家にやってきたのだろと思っている忠夫に、子供達の一人が声をあげた。

 

「あ、さっきのお菓子のお兄ちゃん!」

「ほんとだ!」

「なんでこの家にいるの?」

「そりゃ俺のセリフだ。ここは俺んちだからな、おまえらこそどうしたんだよ? そういえば一匹足りないな、あいつはどうした?」

 

 リーダー格らしき少年の姿が見当たらない。

 忠夫が尋ねると、子供達は突然泣きそうな表情になった。

 茶味がかった髪の男の子が答えた。

 

「……う、えぐっ、ビックボスは」

「ビックボスって」

 

 すごい渾名で呼ばれているな、と思う忠夫だったが、どうやら茶々を入れるような場面でも冷やかすような空気でもないようだ。

 今度は坊主頭の男の子が言葉を引き継ぐようにしゃべりだした。

 

「な、なあ、この家って有名なゴーストスイーパーの家なんだろ!」

「まあな、今いねえけど」

 

 まだ忠夫の師匠は帰ってきていない。

 忠夫たちが人骨温泉郷に出発する三日前にミコノスに出かけてから、そのまま南回りで各国を旅しているようだ。自由奔放。うらやましい限りの話だ。

「そんな……」とショートカットの女の子が顔をくしゃくしゃにゆがめた。

 ポニーテールの女の子が堰を切ったように声をあげたように泣き出した。

 

「おいおい、どうしたんだよ?」

「横島さん、どうしたんですか?」

 

 キヌが玄関にやってきた。

 

「あれ、さっきの子供達……」

「おねえちゃーん!」

 

 キヌに抱きついたポニーテールの女の子。キヌは最初こそ驚いた様子だったが、すぐに手馴れた様子で子供達を慰めた。

 

「ほらほら、どうしたの。お姉ちゃんにちょっと話してみてくれない?」

「あのね、ビックボスが?」

「びっくぼす?」

「さっきもう一人いた、こいつらのまとめ役っぽい子供のことらしい」

 

 忠夫が補足を入れる。

 子供達の話をまとめるとこうだった。

 忠夫たちからもらったお菓子を食べるため秘密基地とやらへ向かった子供達。しかしそこにはいるはずのない先客がいた。

 彼らの秘密基地を、幽霊と思わしき化け物のようなものが占拠していたらしい。

 秘密基地を奪還すべく、果敢に立ち向かう子供達だったが手も足も出ず敗北。他の子供達を逃がすためにビックボスは幽霊の囮となったらしい。

 

「だから……」

 

 だから、子供達はこの辺りでも有名なゴーストスイーパーの元へと助けを求めてやってきたらし。

 状況は分かった。

 

「よし、じゃあ急いで行かねえとな」

「え?」子供達は不思議そうに忠夫を見上げた。

「俺が助けに行ってやるよ」

「横島さん」

 

 キヌは忠夫がそう言ってくれたのをうれしそうに顔を綻ばせた。

 

「大丈夫なのかよ?」

「もちろんだ。なんだ俺じゃ心配かよ?」

「だって兄ちゃん、なんか弱そうだし」

「なんだとぉ~」

 

 坊主頭の子供の頭をつかんでぐりぐりと掻い繰る。

 

「わぁっ、止めろぉ~!」

「まあまあ、横島さん。それに皆、横島さんはとても頼りになるのよ」

 

 なんだかそんなド直球で誉められると照れるではないか。

 

「とりあえずおキヌちゃん。タマモにちょっと出かけてくるって伝えてくれ」

「タマモちゃんなら、さっきお醤油買いに行きました」

「ならいいか。よし行くぞおまえら、案内しろ」

 

 子供達に案内され、やって来たのは街外れの小さな廃工場だった。もう長いこと人の手が入っていないらしく、トタン板は錆付いて所々に穴が空いていた。アスファルトはひび割れ草が生えている。ここが子供達の秘密基地らしい。

 廃工場の前に立った忠夫は、その奥から漂ってくる臭気にも似たおどろおどろしい気配を感じ取っていた。

 これは急いだほうがよさそうだ。

 忠夫は廃工場の前に立ち扉を開いた。スライド式の大きな扉はキャスターがだいぶ錆付いているらしく重い。子供たちは普段、工場の隅にあいた穴から中に入っているようだが、忠夫くらいの体の大きさになると入れなくなる程度の大きさの穴だ。

 忠夫が廃工場の中に入ると、そこは思ったより広々としていた。機材など、物がほとんど置かれていないこともあるだろう。鉄骨が剥き出しの高い天井は朽ちて穴が空いており、陽光が差し込んでいる。今日は雨が降ったということもあり、アスファルトの上には所々水溜りができている。このムッとした湿度の高い空気もそのためだろう。

 

「おい、出てきな!」

 

 忠夫がそう大声を上げると、工場の隅の暗がりがずるりと蠢いた。

 

『なんだおまえは……』

 

 しゃれこうべのように形取られた黒い影はくぐもった声で忠夫に向かって問い掛けた。

 

「さっきもう一人子供がいただろ、そいつはどうした?」

 

 忠夫が子供のことについて問い掛けると、しゃれこうべは『くく』と笑った。天井を指差す。

 子供はそこにいた。天井から蜘蛛の糸に娶られたように、工場にあった使われなくなった電気の配線によって縛られた子供の姿が見えた。

 

「無事なんだろうな?」

 

 忠夫が戦意を滾らせ突きつけた言葉を、しゃれこうべは「さあな」と神経を逆撫でするようなねっとりとした声色で答えた。

 

「ああ、そうかよ」

 

 轟!

 と風が轟いた。

 箭疾歩。忠夫の得意技である。

 瞬きよりも早くしゃれこうべとの距離を詰めた忠夫が繰り出した拳がしゃれこうべの顔に突き刺さる。まるで豆腐を地面に叩きつけたようにこなごなに雲散するしゃれこうべのからだ。風に紛れて散り散りになる。

 

「横島さん!」

 

 キヌの警告の声が飛んだ。

 忠夫もその気配を感じ取った。その場から素早く飛びのく。

 次の瞬間。頭上から黒い帯が鞭のようにしなって忠夫が立っていた地面を抉った。

 

『そんなことじゃオレは倒せんぞ』

 

 虚空からずるりと這い出るように倒したはずのしゃれこうべが現れた。

 

 ――こいつはたぶん影みたいなもんか。

 

 忠夫は推測する。どこかに依代たる本体があるはずだ。

 

「おキヌちゃん、子供を頼んでいいかい?」

「はい、任せてください」

 

 キヌは力強く頷くと工場の天井につるされた子供を助けるべく飛んでいった。しゃれこうべはキヌの邪魔をすることなく放っている。それは奇妙な話だ。蜘蛛が糸に捕らえた獲物を保存しておくように子供を生かしているのだと思ったが、キヌの行動を一切阻害することなく黙認しているというのは……。

 

「――! おキヌちゃんダメだ、戻って来い!」

「え?」

 

 天井につるされていた子供が突然顔を上げた。意識が戻った。いや、違う。子供の顔にはおおよそ生気といったものが感じられない。目はぽっくりと窪んだように真っ黒だった。口を開く。毒々しい黒の奔流が子供の口から吐き出され、キヌを貫かんと槍のように襲い掛かってきた。

 

「おキヌちゃん!」

 

 忠夫が壁を蹴り中空高く飛びあがり、黒の槍からキヌを庇うように抱きとめた。黒い槍は忠夫の肩をわずかにかすっただけで、そのまま工場の屋根を突き破って空へと消えていった。

 

「横島さん、肩が!?」

「大丈夫だ、皮膚を軽く斬られただけだ」

 

 忠夫はキヌを抱きとめたまま地上へと降り立った。キッっと鋭い視線で天井につるされた子供を――その体に憑依したしゃれこうべを睨みつける。

 

「テメェ、ガキの体に憑依しやがったな」

 

 忠夫の言葉を肯定するように、子供の体からはしゅるしゅると黒い帯のようなものが触角のようにいくつも出てきた。体に縛り付けていた配線を引きちぎり、それでも地上に落ちることなく宙に浮いていた。

 

『なかなか勘の良いやつだな』

 

 子供の声は先程のしゃれこうべと同じ声だ。

 

「チ、ガキを生かしていたのは撒き餌がわりってことか」

 

 子供を助けにきた者を罠にはめるための布石ということだ。

 

『そのとおりだ、こんなふうにな』

 

 手を上げると、工場中の地面からヘドロのように真っ黒な影が立ち上ってきた。それは先程忠夫が殴り飛ばしたのと同じしゃれこうべと同じ形になった。その数はゆうに百を超えていた。

 

「横島さん……」

「大丈夫だ」

 

 服の裾にしがみついてきたキヌの頭をそっと撫でる。

 

「このくらいの数なんて屁でもねえよ」

『ふん、強がりを言うな!』

 

 しゃれこうべの号令と共に忠夫とキヌにいっせいに襲い掛かってくる。

 忠夫が手を上げた。手の平に収束する霊力。

 襲い掛かってくるしゃれこうべたちに向かって、手を振るう!

 すると忠夫の手から研ぎ澄まされた霊力が幾十幾百もの針のような形になってしゃれこうべたちに向かって解き放たれた。同時に多数の敵を倒すための技。しゃれこうべたちは体中を穿たれ、一匹残らず塵へとかえった。

 

「すごい……」

 

 キヌの感嘆する声。

 しゃれこうべ一体一体の力はそれほど強くはないとはいえ、百もの数を一瞬で駆逐した忠夫の力は圧倒的なものだった。 

 

「舐めんなよタコ」

 

 子供に憑依したしゃれこうべの本体に向かって不敵に親指を下に向ける忠夫。

 

『グッ……』

 

 予想外の抵抗にしゃれこうべは歯軋りをした。

 

「自分の分進体をいくつも作り出すなんて大掛かりなことをやったんだ。もう力なんて残ってねえだろう。それに」

 

 忠夫がいつのまにか手に持っていた、小さな手鏡をかざして見せた。古い手鏡だ。

 

『それは……っ』

「こいつがおまえの本体だろ。物が長い年月を隔てて生まれた付喪神の一種ってとこか。おまえの――おまえが取り付いたそのガキのポケットから掏り取らせてもらったぜ。大事なものなら身につけとくもんだけど、馬鹿正直すぎたな」

『か、返せぇぇぇぇぇっ!』

 

 襲い掛かってくるしゃれこうべ。それより忠夫が手鏡を浄化するほうが早かった。

 

『お、おのれぇ……っ』

 

 ぼろ墨のようにぐずぐずに崩れるしゃれこうべの黒い影。憑依していたしゃれこうべが消滅するのと同時に、宙に浮いていた子供の体はぐらりと揺れ、そのまま重力にしたがって地面に向かって落ちてくる。

 

「おキヌちゃん!」

「はい!」

 

 子供の体を抱きとめたのはキヌだ。そのままゆっくりと地面に下ろしてやる。子供の脈をとる忠夫。外傷も無い。

 

「うん、大丈夫みたいだな」

「よかった……」

 

 安堵のため息を漏らすキヌ。と、そこへ。

 

「兄ちゃん!」

「ビックボス!」

「みんな大丈夫!?」

 

 子供達がわらわらと工場に入ってきた。忠夫はあきれたように子供達を見つめる。

 

「おまえら、外で待っとけっつたろ」

「だって! さっき黒い光みたいなものが工場から空へ飛んでいったから」

「うん、こうバヒューンて」

「だから兄ちゃんたちに何かあったんじゃないかって……」

 

 しょうがねえなぁ、と頭をかく忠夫。

 

「ん、ん……っ」

 

 キヌの腕の中でビックボスと呼ばれている子供が身じろぎをした。

 

「お、起きたか」

「ビックボス!」

 

 子供達がビックボスの回りに寄る。

 

「おい」

 

 忠夫がビックボスに声をかける。

 

「あ、菓子の兄ちゃん……。兄ちゃんが助けてくれたのか?」

「おう。それよりもおまえ仲間を守るためにあいつに立ち向かったんだってな。無茶しすぎだぜ」

「だって、おれはこいつらのボスだから……守るのは当然だ」

 

 そんなことは当然だろ、と照れくさそうに笑った。

 忠夫もビックボスと呼ばれている少年のこの気持ちはよく分かる。

 頭を乱暴に撫でてやると、「や、やめろよ!」と跳ね起きて、工場の隅に走って逃げた。どうやらもう体も大丈夫なようだ。

 

「そういや、おまえらこの鏡に見覚えないか?」

 

 それはあのしゃれこうべの付喪神の本体だった手鏡だった。子供のうちの一人が手を上げた。ショートヘアの女の子だ。

 

「あ、それ、あたしがこの前おばあちゃんの家の押入れで見つけたやつだ」

 

 返して返して、と手を差し出して、ぴょんぴょんと飛び跳ねるショートヘアの女の子。

 

「そっか、大事にしてやれよ」

 

 忠夫は女の子の手に手鏡を置いてやる。女の子は大事そうに手鏡を抱きしめた。

 キヌが忠夫に耳打つ。

 

「横島さん、いいんですか? あれって……」

「大丈夫さ。もうあいつは消滅したし、それにああやって大事に扱ってもらうほうがあの手鏡にとってもいいだろ」

 

 ショートヘアの女の子の笑顔を見て、キヌも「そうですね」と言って笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ただいまー」

 

 玄関の引き戸を開け、靴を脱いだ。

 もう日もだいぶ落ちていて、周囲はだいぶ薄暗くなっていた。

 

「あら、お帰りなさい」

 

 帰宅した忠夫達をタマモが迎えた。夕飯の準備中だったらしい。エプロンで手を拭きながら玄関へとやってきた。

 

「ただいま帰りました」

「ええ、おキヌちゃんもこいつのお守り大変だったでしょ」

「俺は駄々こねる子供か。それと悪いな、醤油買いに行かせちまったみたいで」

「べつにいいわよ。それと、忠夫……」

 

 ちょいちょいとタマモが手招きしている。

 

「んだよ?」

 

 タマモの傍に寄る忠夫。今度は人差し指で地面を指し、しゃがむように促す。状況がよく飲み込めないが、とりあえずタマモの言うとおりにする。

 すると、ぽん、ぽん、と優しく肩を叩かれた。

 訝しく思ってタマモの顔を見ると、まるで全てを包み込む慈母のようなやわらかい笑みを浮かべていた。

 

「は?」

 

 疑問の声を上げる忠夫に、タマモはなにも言わなくていいと言うように、ゆっくり頭を振り、夕食の準備をすべく台所へと去っていった。

 

「あ、私も手伝うわタマモちゃん」

「そう、じゃあお皿の準備お願いね」

「うん。それじゃあ横島さん、夕食出来たら呼びに行きますね」

「あ、ああ」

 

 忠夫はじっとタマモの背中を見つめていた。

 

 ――なんだ……あいつ?

 

 いまいち要領を得ないタマモの態度に首を傾げながら、忠夫は自分の部屋へと戻った。クッションを枕にしてごろりと絨毯の上に寝転がる。電灯を見つめながら、今日も色々あったなぁと疲れた体を休めていた。

 

「お、そうそう、忘れてたぜ」

 

 上体を起こして、カラーボックスの裏に隠しておいたエロ本を引っ張り出そうとする。雨に濡れたエロ本はまだ乾いていないはずだ。これから丹念に1ページ1ページ乾かしてやるという重要な作業が残っていた。

 

「……あれ?」

 

 おかしい。

 カラーボックスの裏に指を突っ込んで調べて見るが、指先にそれらしい感触が感じられない。

 カラーボックスごと持ち上げて、覗きこんでみる。

 

「な、ない!?」

 

 あるべき場所にエロ本がない。いつのまにかキレイさっぱり消えていた。

 おかしい、自分はたしかにカラーボックスの裏にエロ本を隠したはずだ。

 なぜ、と頭をひねる。

 脳裏に、ふと。

 

 

 

 ――先程のタマモの生暖かい笑みが思い出された。

 

 

 

「……まさ、か…………っ」

 

 ド、ド、ド、と心臓が激しく動悸していた。呼吸も荒く、大粒の汗が次々に湧き出て顎を伝って畳に落ちた。

 ごくりと生唾を飲む。まるで拳銃を突きつけられたような緊張した面持ちで、ゆっくり、とそちらを見遣る忠夫。

 ……エロ本は、あった。そこに、あった。

 

 

 

 忠夫の机の上に、きれいに並べてあった。

 

 

 

 

「あ、あ、あ、あああ……っ」

 

 膝ががくがくと震えていた。頭のてっぺんから氷の槍で突き刺されたような、全身が凍りつくような冷たさに侵された。

 濡れていたはずのエロ本はしっかりと乾かされていた。雑誌を撓ませパラパラと捲ると、滑るようにページが送れた。皺もあまり寄っていない。1ページずつ丹念にアイロンでもかけなければこうはなるまい。

 そして、この家にいて、なおかつそんなことができる者は一人しかいない。

 横島タマモ。忠夫の、妹だ。

 

 ――これをタマモに、妹に、全部、見られたってのか……っ?

 

 震える指でページをめくる。

 そこにはでかでかと卑猥な単語が踊っていた。

 

『熟女の熟れた体』

『兄と妹の一夏の思い出』

『女教師のイケない課外授業』

『女子高のプールの授業を盗み撮りました』

『巫女さんの乱れ模様』

『お兄ちゃん、カコをお仕置きして』

『ある日の団地妻の日記』

『兄さん、私達兄妹なんだよ……?』

『妹に欲情した兄の凶行』

 

 ぷつん、と忠夫の中でなにかが切れた。

 全てが終わった。そんな気がした。

 脱力して膝から崩れ落ちる。生気の抜け落ちたような表情で、床を見つめぶつぶつと何事かを呟いていた。そんなつもりじゃないんだ、とか、中身まではどんなものか知らなかったんだ、とか、風に紛れてかき消された。

 そのときだ。ちょうど分厚い雲の切れ間から日の光が部屋に真ん丸く差し込んできて、忠夫を照らした。ばさばさと鳩が羽ばたく音が聞こえ、抜け落ちた白い羽が割れた窓から忠夫を包み込むようにふわりふわりと舞い散った。空を見上げる忠夫。瞬き一つしない。

 図らずも、ヨーロッパの絵画のモチーフで見かけるような聖人が天に召される瞬間を捉えた構図のようになっていた。

 光に導かれるように、立ち上がり、ふらふらと、夢遊病者のような頼りない足取りで窓辺へと立つ。窓枠をがっしりと掴んで顔を伏せる忠夫。

 なにもしゃべらない。

 ぶるぶると震えだした。やがて溜め込んだ感情が爆発する。

 顔を上げる忠夫。

 目をカッと見開き、滂沱の涙を流していた。

 天を睨むように。

 それは、魂からの慟哭だった。

 

 

 

「おまえは俺の母親かあああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――――っ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――……その日、夕食に呼びに来たキヌが見たものは、電気もつけず真っ暗な部屋の隅で布団を被ってさめざめと泣く忠夫の姿だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 横島忠夫、一五歳の夏。

 

 その日、彼は心に生涯消えることの深い傷を負ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 



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【アルティメットサバイバー ◇序文◇】

 

 

 

 

 

 

 

 

 ガタンゴトン。

 電車が線路を走っている。車窓を流れていく景色はビルや人家などが徐々に少なくなっていき、今は緑の山々がその大半を占めていた。トンネルを抜けると、深い谷間と高い尾根が折り重なる景色が同時に見渡せた。高架橋の上を走る線路、そこから見える景色は絶景だ。日本は山国だ、というが都会にいるとそれを実感する機会はなかなかない。しかしいくら経済発展が進んだ現在でも日本という小さな島国の全てを無骨な建造物で埋め尽くすほどの、無遠慮さや金や時間はないらしい。少し足を伸ばしてみれば、こうやってありのまま自然というやつを感じることができる。もっとも線路が走っている時点で“ありのまま”なんて表現は適格でないのかもしれないが。

 

「わああぁぁぁ、はやぁぁぁい!」

 

 車窓に顔をくっつけるほど近づき、車窓に映る景色に興奮したように感嘆の声を上げているのは幽霊の少女キヌだ。巫女装束に長い黒髪が印象的。幽霊と聞くとおどろおどろしかったり霧や霞のように不明瞭で判然としない外観を想像するが、このキヌという少女は本当に幽霊か、と首を傾げるほど生きている人間と変わらないほどはっきりとした実体を持っている。それもそのはず。童女のように喜色満面の表情を浮かべている彼女からは想像できないが、三百年という普通の人間からすれば気の遠くなるような時間を過ごしてきた幽霊なのだ。そんじょそこらの霊とは年季が違う。

 

「……ところでさ、一体なんだろうな、昆虫採集って」

 

 そう切り出したのは横島忠夫だ。

 今年十五歳になった少年で、いたずらっぽくつりあがった双眸が幼い子供のようなやんちゃっぽい雰囲気がある。

 電車に乗っているのは今現在忠夫とキヌだけだ。周囲に他に人はいない。車両を移せば一人や二人いるかもしれないが、いちいち人がいるか調べるために電車の中を歩くつもりなんて忠夫にはなかった。まあ人がいないのも納得はいく。この辺りは元々電車の利用者が少ないというのもあるのだろうが、今はまだ早朝ともいっていい時間帯だ。腕時計の針は朝の五時十五分を指している。始発とともに東京を出発し二本の電車を乗り継いでここまできたが、ようやっと目的地に近づいてきた。 

 

「昆虫採集ですか。横島さんのお友達の雪之丞さんって人からのお誘いなんですよね」

「お友達なんてお上品な関係でもないんだけどな」

 

 伊達雪之丞との付き合いは三年ほどになる。

 忠夫の霊能の師匠に出稽古に連れて行かれた先の白龍会で出会った。白龍会とは人里離れた山奥でひっそりとたたずむ寺を本拠地とする一つの霊能の流派のようなものだ。門下生は僧兵のごとく厳しい鍛錬をかせられたいっぱしの霊能力者達だ。忠夫は三年前に白龍会で雪之丞や他の門下生とまみえ、わずかな間だが共に修行した。そんな白龍会の面々の中でも伊達雪之丞とは同い年であり、実力も拮抗していたということもあり、いつのまにやらライバルというか、悪友のような関係になっていた。

 

「一体なんのつもりだ雪之丞のやつ……昆虫採集ってのがそのまんま言葉の意味とは思えねえしな」

 

 忠夫が知る伊達雪之丞という人間は、脳筋でバトルジャンキーである。強くなることに直向と言えば聞こえはいいが、TPOをわきまえず喧嘩をふっかけてくるのは止めてほしい。

その雪之丞が昆虫採集なんてものを楽しむとは思えない。そんなことをするくらいなら鍛錬に時間を割くやつだ。

 

「ま、行きゃあ分かるか」

 細かいことは現地で説明する、と電話口で説明されていた。たぶん口頭だけで説明するのが面倒だったのだろう。

 

「でもこうして横島さんと一緒に旅行できてうれしです」

 

 はにかみながらキヌは言う。もじもじと身をよじっている姿が小動物っぽくてかわいらしい。

 

「おう、なにするかは未だ分からないけど、せっかくだから楽しもうぜ」

「はい! でもタマモちゃんも来れれば良かったのに」

 

 そこだけは本当に残念そうにキヌが言う。

 

「あー、あいつ実は結構面倒くさがり屋だからなぁ」

 

 ――虫取り? そんなにヒマじゃないわよ。

 

 一緒に行かないかと誘ったところそんなふうに返された。

 ここ最近、雨続きだったため、たまっていた洗濯物を片付けるらしい。そもそも必要以上に家の外に出ることを嫌がっている節もあるため、忠夫も無理には誘わなかった。タマモにも色々あるのだ。柵や、壁のようなものが。それらを取り払うには一朝一夕でできるものではない、まだもう少し時間が必要だろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 そして電車は小さな無人駅へとたどり着いた。

 その数時間後、日帰りの予定はずの昆虫採集。不慮の事態によって予定が大きくズレ込み。

 日が落ち、夜となった――……。

 

 

 

 

 

 

 

 

【アルティメットサバイバー ◇序文◇】

 

 

 

 

 

 

 

 

 無限に広がる大宇宙。

 広大な海原に浮かぶ野球ボールがあるとする。

 海全体の広さからすればそれのなんとちっぽけなことか。小さなボールは海の青と空の蒼の合間で所在などどこにもなく、自由に、ゆらりゆらりと波のまにまに漂っている。ボールを海の底を眺め、空を仰ぎ、己の小ささを知る。

 この広大な宇宙をさまよう地球は、海原をさまよう小さなボールのようなものだ。その中でも、ちっぽけな星の、ちっぽけな島国の、ちっぽけな街の、ちっぽけな人間などには到底この宇宙の広さなど窺い知ることも、想像することだって難しい。

 しかし。

 井の中の蛙大海を知らず、されど空の高さを知る。

 

 ――こうして夜空を見上げれば、遥か宇宙に想いを馳せることは出来る。

 

 大きな天の蓋にちりばめられた星々。そこに描かれた神話の世界。幾億光年もの遥か遠い場所から届けられたダイヤモンドのごとき煌き。新しく生まれては消えていく星々の営み。その悠久の流れの中では、ただ一人の人間の一生など、まさに夢幻のようなものなのだろう。

 

「……おい、横島」

「んだよ」

 

 横島忠夫とその友人である伊達雪之丞、鎌田勘九朗の三人は、夜の密林にいた。

 

「なにやってんだ、おまえ?」

 

 雪之丞は空気の読めない場違い者に対するような飽きれた視線を向けた。彼の年齢は忠夫と同じ一五歳で、野生の獣のようにぎらぎらとした瞳で

 

「あらあら、忠ちゃんたらそんな愁いを帯びた瞳も素敵よ」

 

 鎌田勘九朗は二人よりも幾分か年上だ。上背があり、がたいも大きい男だ。もっとも今は首から下は地面に埋まっていて見えないが。彼は整った顔つきで髪型はリーゼントと、精悍な見目の青年であるが、口調は所謂おネエ口調。オカマである。勘九朗は頬を染め、夜空を見上げる忠夫の顔に見惚れていた。これは、いわゆる……まあ……そういうことだ。

 

「忠ちゃんて呼ぶんじゃねえ、気色わりぃっ! ごほん、……雪之丞、俺さ、思うんだよ」

 

 わざとらしく咳払いをして、忠夫は目を閉じた。目蓋の裏に思い描くのは幼い頃に感じていた自然への憧憬だ。

 

 ――コイツがこういうふうにもったいぶったような、それでいて語りかけるような話の切り出し方をしたときは大概益体も無いことを考えているときだ。

 

 雪之丞は三年来ほどになる悪友の言動を鑑みて、そんなことを思った。

 まあ、聞いてやるか。

 

「俺がまだ世の中のことなんか全然知らない小さいガキの頃はよ、よくこうやって空を眺めていたもんだなって今更思い知らされたよ。抜けるような青空には一つとして同じ雲なんかなくってさ、一日中眺めてたって飽きやしねえ。夜空を見上げて流れ星を探して、学校で貰った星座表を見ながら星を探してさ。今の俺から見ればひどく退屈な時間の使い方かもしれない。でもあの頃の俺には空を見上げている時間はわくわくと心が躍っていたんだ。それが今はどうだい、日々の瑣事に心をすり減らしてさ、こうやって空を眺める余裕なんてずっとなかった。気づいたら自分がずいぶんつまらない人間になっちまったんじゃないか、そんな気がするんだ」

「まあ、忠ちゃんたら詩人。素敵! 惚れ直した!」

「おれにそっちの趣味はねえっっっっっつってんだよオカマ!」

 

 雪之丞はため息をついた。

 

「横島、おまえよくこの状況でそんな暢気なこと行ってられるな」

 

 この状況とは、一体どんな状況なのか。

 

 ――どういうわけか、三人とも首から下が地面に埋まっている。

 

 まるでふぐ中毒を治すための迷信めいた治療行為のように見えるが、ハブなどの毒蛇やダニやヒルなどの吸血虫、猪や熊が出そうな奥深い密林で正気の沙汰とは思えない。しかし現実として三人は肩を並べあって仲良く地面に埋まっていた。

 雪之丞の言葉に忠夫は現実に引き戻される。

 木々が折り重なる周囲の景色は月の光すら届かず黒々とした闇が落ちている。近くに沢があるらしく蛙の鳴き声が間断なく聞こえていた。首から下が地面に埋められているため身動き一つ取れない。今日は茹だるような熱帯夜だが、ぬるま湯のような地面の温度が、体の芯から徐々に体温を奪っていく。

 

「うるせ! 現実逃避くらいさせろっ!」

 

 色々言っていたが結局のところそれが本音だった。

 

「さっきから顔中が痒くてしょうがねえんだよ、蚊どもめ! 俺はおまえらに献血させてやるような博愛的愛護精神にあふれてねえんだよ!」

 

 指の隙間までがっちりと土に固められているため、微動だにできない。さっきから顔を掻き毟りたいほど痒いのだが、どうしようもならなかった。

 

「俺だってそうだよ! だけどいつまでもこうしているわけにもいかないだろ!」

 

 雪之丞が叫ぶ。

 地面に埋められてかれこれ三時間ほどが経過している。

 

「あー、やだやだ! なんでこう毎度毎度メンドくせえこと極まりねぇことばっかになんのかなぁホントに!」

 

 最近不幸にターボがかかってきた気がする忠夫が大げさなほどに頭を振り乱して絶叫する。耳元で蚊の羽音がやかましかったので、血を吸われないようにするためのせめてもの抵抗でもある。

 

「ペッペッペ! なんだよ口の中になんか虫が飛び込んできたぞ、どういうことだ雪之丞!」

「知るか! じゃあ、もうしゃべんな!」

 

 双方共にストレス溜まって気が立っていた。不毛な怒鳴りあいを続けている。

 

「まあまあ落ち着きなさいな二人とも。そうやって我鳴りあってたって状況は好転しないわよ? 幸いにもあの幽霊の女の子はまだ無事みたいだし、ひょっとしたら助けにきてくれるかもしれないわよ? それに一応、陰念もいるわ」

 

 年長者らしい落ち着きを見せる勘九朗。おネエ言葉というのもゴツイ男が使っていると違和感が半端ないが、柔らかな声色で話すと不思議と安心感のようなものを感じる。まあ、それはそうと、なぜ今日初めて会ったキヌの名前が最初にきて、一応で括られるのが同門の後輩である陰念なのか。

 

 ――陰念ておまえの中でどれだけ立場低いんだよ。

 

 思ったが口には出さないでおく忠夫。なんだか忌憚なくボロクソに言いそうだ。 

 それは置いておいて、だ。

 

「クッソ、あのハエ、こんなマネしやがってタダじゃおかねえぞ!」

 

 ハエと呼んだのは、何もその辺りをところかまわず飛び回っているハエのことではなく、ある種の卑称のようなものだったりする。そのハエが今現在忠夫たちが地面に埋められているという全くもって意味不明な状況を作り出した下手人なのだ。

 

「俺もだぜ。こんな舐めたことしやがって……覚えていやがれ!」

 

 雪之丞も同じ気持ちだった。

 ふつふつと怒りが溜まっていて、爆発する時を今か今かと待っている。

 その時だ。近くの茂みが揺れた。風は吹いていない。草と草がこすれあうような音が聞こえた。

 

 ……なにか、いる?

 

 じっとそちらを見遣る忠夫と雪之丞。

 すると、茂みから現れたのは。

 肥えたようにどっしりとした体躯、丸い耳に円らな瞳。鋭くとがった爪に、口の奥で月明かりを鈍く反射する牙。平均的な成人男性より大きな身長。夜の闇の中でその全身黒い毛並みはまるで幽鬼のように空恐ろしかった。

 

「ク……っ」

 

 野生のクマが現れた。この状況でシャレにならない。

 

『じょ、冗談じゃねえええええええぇぇぇぇぇぇぇ――――――――!』

 

 思わず叫びそうになるが、目の前のこのケダモノに対して刺激になるような行為をしようものなら命は無い、といった生存本能が絶叫を喉の奥で押し止めた。

 クマの爛々と輝く瞳は、忠夫と雪之丞の二人を捕らえてた。ロックオンされている。

 

 ――お、おい横島、どうする……って、このヤロウ! もう死んだフリしていがる!

 

 忠夫は糸の切れた操り人形のように力なくうなだれていた。白目を剥いている。馬鹿みたいに口をぽっかりと開けており、唇の端から一筋の血が滴り落ちている。口内を自分で噛み切ったらしい。小技が効いている。

 

「あらー、これはちょっとマズイかもしれないわね」

 

 この状況でも落ち着いている勘九朗。結構神経が図太い。

 

『おい、横島! クマ相手に死んだフリしても効果はないらしいぞ!』

『マジか!? いやでもこの状況で他にできることなんてないだろ、おまえもやっとけ!』

『そ、それもそうだな。よし!』

 

 小声で怒鳴る二人。矛盾しているようだが、ニュアンスの問題だ。

 確かに首から下が地面に埋まって身動きできないこの状況じゃ襲われても抵抗のしようがない。なにもしないよりは幾分か生存できる確率もあがるだろう。そう諭された雪之丞は早速自分も死んだフリを敢行する。

 と、思いきや。

 

「……がはぁ! なんだこの胸を締め付けるような痛みはぁっ!? そうだ俺は昔から心臓が悪かったんだ! これはもう助からない、俺はもう死ぬ!」

 

 ――いきなり何をおっぱじめやがった!?

 

 いきなりクマに向かって宣言するように叫び出した雪之丞の奇行に忠夫は死んだフリを忘れて凝視する。

 

「雪之丞って時々分けわかんないことすんのよねぇ」

 

 あくまで落ち着いている勘九朗。こいつに危機感はないのか。

 

「ちなみに俺が死ぬと心臓からなにやらよくわからない毒が発生して全身を巡り、もし俺の死体を食おうものならそいつも毒におかされて死ぬ!」

 

 ――駄目だコイツ、テンパって意味不明なことやってる!

 

 死んだフリっつったって……いっくらなんでも効くかそんなもん!

 命の危機が迫った極限下で精神がやられたらしい。発想が小学生以下とか、死ぬと心臓から毒が発生するってどんな進化を遂げた生き物だ、とか色々言いたいことはある。しかしそれ以前の問題で、そもそも言葉が通じない動物に対して怒鳴り散らすように叫んでいる雪之丞の姿は、クマに対してある種の攻撃的な威嚇をしているようにしか見えない。身動きできないのに。なんだそれは、迂遠な自殺か。

 クマが口を開いた。

 鈍い光沢を放つ牙が雪之丞に向けられる。

 

「おい、いいのか!? 死ぬぞ、オマエも死ぬんだぞ!? うおおおおお、心臓が再び激しく痛み出したぁぁぁぁぁっ! はい、死んだ、今死んだぞ!」

 

 そうして力なく項垂れる雪之丞。死んだらしい。

 クマはのっしのっしと雪之丞に近づいてくる。

 

『おい、アホォォォォォォォ! 何してんだオマエ! 起きろ、死にたいのか! いや起きてどうにかなるもんでもないけど! とりあえず起きろぉぉぉぉぉぉぉっ!』

 

 忠夫が必死で呼びかけるが応答がない。

 雪之丞は忠夫と同じように口内を噛み切って、唇の端から血を流していた。役に入り込んでいるというか、結構本気で死んだフリをしている。しかし忠夫は見逃さない。白目を剥いている目だが、時折黒目が目蓋の上から下りてきてちらちらとクマの姿を視認しているのを。

 命の刻限が刻一刻と迫ってきている緊張感。クマの豪腕が一振りされれば人間の首なんぞ千切れて飛んでしまう。今地面から首だけを出している三人の姿はギロチン台に首を乗せているようなものだ。

 

 ――ちくしょぉぉぉぉぉぉぉっ! ホントに俺の人生呪われてんじゃねえだろうな!?

 

 徐々に近づいてくるクマを成すすべなく戦々恐々と見つめる忠夫。

 

 

 朝、電車を降りてから忠夫の身に何が降りかかったのか。

 それをこれから説明しよう…………。

 

 

 

 

 

 

 

 





 最近ちょっと忙しく執筆の時間が取れないでいるので更新がだいぶ不定期になってしまっています。
 ……ごめんね!


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