【キツネの時間】 (KUIR)
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【1】 過去の時間
正月。
世間では新年あけましておめでとうなり、おじいちゃんお年玉ちょーだいなり、このお年玉はお母さん銀行に預けておきますからねなり、いくつかのお決まりの台詞が飛び交う一年の始めだ。
十二月は奉仕部にとって慌ただしい月だった。
生徒会選挙から続くすれ違い、全く進まない海浜総合高校との会議、一色が葉山に告白したディスティニーランド。
そしてどうにかこうにかすれ違いを正して達成したクリスマスイベント。
まさしく師走とも呼ぶべき一年の最後の月を超え、年を越えて二日目。
小町、雪ノ下、由比ヶ浜と初詣を終えた翌日のことだった。
由比ヶ浜と共に雪ノ下の誕生日プレゼントを選びにセンシティそごう千葉店に来ると、カフェで陽乃さんと葉山に遭遇した。
陽乃さんは雪ノ下を呼び出し、彼女は俺がそこにいるとわかるとしぶしぶやってくる。
雪ノ下、陽乃さん、葉山の三人は、彼女たち三人だけが知る過去について語らう。
その間、俺と由比ヶ浜は見ているだけだった。
やがて登場した雪ノ下の母親に彼女が連れられていくところで、俺たちは彼女に誕生日プレゼントを手渡し、別れを告げたのだった。
∴
由比ヶ浜と二人、下りのエレベーターに乗りながら雪ノ下の過去について考えていたのはほんの少しの間だった。
扉が開き、センシティそごう千葉店の一階の景色が視界に飛び込んできた。
「あ、悪い由比ヶ浜、ちょっとトイレ」
先ほどのカフェで飲んでいたコーヒーのせいか、考え事が止められた瞬間に思い出したように行きたくなった。思い出したと言えばあのコーヒーの苦さだがやはりコーヒーはMAXコーヒーに限る。口直しにマッカンを飲みたい。トイレ行きたいとか言ってる人間の台詞じゃねえな。
「わかったー。入り口のあたりで待ってるね」
「先に帰ってくれても構わんぞ」
大丈夫だよ、待ってるから! との言葉を背中に受け、トイレへと早歩きで向かった。ぼっちは歩くのが速い、これ豆な。別に待たせるのが悪いから早く歩いているわけじゃないんだからねっ!
∴
時間とは。
用を済ませ、手を洗っているときに先ほどの思考に立ち戻った。雪ノ下雪乃と葉山隼人。彼らは幼馴染であり、俺や由比ヶ浜の知らない過去、彼らの過ごしてきた時間を持つ。
過去には高さがある、と例えた。それは積み上げてきた峰であり、しかし断絶もまた生まれる。溝の深さは峰の高さと同じだ。暑さと寒さのように両極端で、ある種同じもの。
トイレから出て建物の出口に向かって歩き始める。
例えば俺と小町。小町が生まれてから約十五年間、ずっと一緒にいる。十五年間もお兄ちゃんとかわいい小町は過去を積み上げてきたわけだ。なにそれ幸せすぎてもう死んでも良い。
例えば俺と……。あれ、家族以外を例に出そうと思ったけど誰もいねえな。さすがぼっち。思考行程の簡略化なんてそうそうできるものではありませんよ、お兄様!
なんてことを考えながら出口に近付くと、暖房の効かない外の冷気ではっと我に返った。
柱の向こうで茶色のお団子が揺れるのが見えた。見慣れたお団子を見間違うはずもないが、周囲には見慣れない人間が数人いる。これが男であれば由比ヶ浜を見捨てて尻尾を巻いて逃げだすが、むしろ逃げだすしかないまであるが、幸か不幸か彼女を囲んでいるのは年の近い女子たちだった。
夏祭りの相模の一件を思い出し、柱を挟んで由比ヶ浜の逆側に寄りかかる。彼女たちの会話が終わるまで先ほどの思案でも続けていようか。
例えば俺と……。
「結衣、中学の時は黒髪だったのにね!」
「みんなも染めてるじゃん! あ、あたし黒髪だったころの写真持ってるよ!」
……中学の同級生。
由比ヶ浜と話しているのは彼女の中学時代の同級生のようだ。中学の同級生との過去とか黒歴史しかないな。どうでも良いけどリア充とか壁ドンとかネット用語が意味の相違はあるにせよ市民権を得ている今、それらと比べると黒歴史は微妙に得てない感あるよね。もっとおおっぴらに使えるようになると俺も誰かに中学時代を語るときに楽になると思うんだが。そもそも語る相手いないね、知ってた。
「結衣、彼氏できた?」
ぴくりと耳がそばだつのを感じた。聞いてはいけないと感じ柱から背を離す。
しかし、畳み掛けるように由比ヶ浜の同級生が口を開く。
「中学の時もコクられてたもんねー。黒田君覚えてる? 結衣だけじゃなくて他にも数人に言い寄ってたやつ!」
背中が浮いたまま固まるのを感じた。そりゃそうだ、由比ヶ浜みたいな女の子に男子からの人気がないわけがない。まして数人に言い寄るようなチャラ男ならなおさらだ。今イメージ映像で戸部がでてきたけど悪気はないんだごめん君は一途だよ。
「あー、あれねー」
「あれ」。黒田君からの告白イベントのことを指しているのか黒田君自体を指しているのか、後者であれば由比ヶ浜らしくない物言いからよほど彼に良い思い出がないのであろう。いや由比ヶ浜は人をあれ呼ばわりすることは多分ないから前者なんだろうけど。
おっといかん、つい盗み聞きのような真似をしてしまった。元の思案に戻らねば。そうそう俺と誰かの過去の話だったな。多分そんな誰かなんていないけど一応考えよう。例えば俺と……。
「ああいうのって迷惑だよねー! ちゃんと好きなわけでもないのに」
「あはは、そ、そうだねえ」
……「誰か」。同級生に返事をする由比ヶ浜の声に誘導されたように彼女の顔が思い出された。
俺の過ごしてきた時間とは、いったいどんなものだっただろうか。
∴
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【2】 誰かの距離
由比ヶ浜の友人たちが離れていったのは数分後だった。
全員が建物の中に消えていくのを眺めていると、後ろから声がかけられる。
「ヒッキー、いたの?」
その言葉には、言外に「話聞いてた?」という意味が含まれているように感じる。
「今来たところだよ」
ので、嘘をつく。なぜなら「盗み聞きとかキモーイ」となることが必然であるからだ。ぼっちは闇の魔術に対する防衛術を取得している。闇の魔術ってなんだろうな。女の子のことか。確かにぼっちからしたらわけがわからないので闇みたいなもんだ。
「そか、なら良いんだけど」と由比ヶ浜はおだんごをくしゃりと触る。それは照れているときや居心地の悪い時など、彼女の気持ちになにかしらの波が立ったことの証明だ。
「帰るぞ」
「あ、うん」
先ほどの由比ヶ浜たちの会話を意識したくなかったので、柱から背を離して歩き出した。由比ヶ浜は隣についてくる。
「今ね、中学の友達と話してたんだ。やっぱりみんなちょっと変わってたねー」
「俺にその話しても俺からは何も話せないからな?」
なぜならばぼっちだったから。黒歴史で良ければ永遠に話せるが。
由比ヶ浜は「ヒッキーの中学時代とか、なんか想像できるかも」と笑っていた。
「でも、中学の時、誰とも話したりしなかったの? 全く仲の良い友達もいなかった?」
「お前いつの間に俺の心を抉るのがそんなに得意になったんだ……。
いねえよ、いない。……勘違いして対して仲良くもない女子に告って撃沈したって言うエピソードならあるけどな」
「そ、そうなんだ。それってどんな子だったの?」
いつもの軽口のつもりが、今日は自分に傷をつける。
何気なく問う由比ヶ浜に口が重くなるのを感じた。
「別に、普通だよ、普通」
重くなった口のせいにして、俺は拒否をした。
正直、怖かったのだ。由比ヶ浜が先ほど「迷惑だ」と判断した行為を昔俺は行った。その相手に対して彼女が共感するのではないかと恐れたのだ。
由比ヶ浜は少し眉根を下げておだんごを触ると、「そっか、普通かあ」とつぶいやいた。彼女の歩調が遅くなったのか俺が速くなったのか、いつの間にか由比ヶ浜との間の距離が開けていることに気付いた。当時は気付かなかったが、あの「誰か」との距離はきっと、これよりもずっと離れていたに違いない。
暮れ始めた日が一層の寒さを運んできた気がして、俺はマフラーをぐいと上げた。
∴
わかった、俺が悪かった。
自分でその名前に触れたくないがために「誰か」なんてぼかして悪かった。だがしかし神よ、この仕打ちはあんまりではないのか?
「なにその表情、ウケる」
折本かおり。「誰か」である。
例えばこんなことを言われても、相手が由比ヶ浜なら「神に対して文句言ってんだよ、邪魔すんな」くらいの返しをするものだが、相手が折本ともなると「お、おおう……でゅふ」くらいのことしか言えない。もう言葉になってるかどうかすら怪しいし神にも言える文句も折本には言えそうにない。まさか折本は神すら超えるというのか。超サイヤ人かよ。
彼女とは由比ヶ浜と別れたあと、電車内で偶然出会った。
つり革につかまって立っていると隣に立った人物から突然声をかけられ、顔をあげたら折本かおりがそこにいたのだ。
電車内の会話もこちらとしてはやりにくいことこの上なかったのだが、俺の黒歴史を一つ作っただけあって折本との会話は途切れることはなかった。
今は電車を降りて、お互いの家に向かうところだが、その家が離れていないのでやはりある程度までは一緒に歩くことになる。もうやだはちまんおうちかえる。あっいまかえってる。
「比企谷さあ、最近なんかあった?」
唐突に折本が覗き込んでくる。やめろってそうやって覗き込むから誰かさんの黒歴史を作るんだろ。
「なんだよ急に」
「だって、クリスマスの時と違って様子が変なんだもん。よそよそしいというか」
俺はあなたにもっとよそよそしくして欲しいですけどね。
なんにせよ様子が変というのであれば今日の出来事が原因に違いない。過去の黒歴史を自分で掘り返していたたまれなくなっているところに黒歴史本人がやってきたのだ。神龍だってバラバラになるほどの威力はある。そしてミスターポポにのり付けで修理されるんですね。
「クリスマスの時は仕事だったからな。やらなきゃいけなかっただけだ」
「そうじゃなくて」
あ。
と思った時にはもう遅い。
「比企谷は超つまんないと思ってたけど、意外とそうでもないなって話、したじゃん。なのに今の比企谷はそうでもなくない気がする」
話題をずらすことに失敗した。そういえば十二月に折本とは少しだけ話をしたのだった。そのことを加味したずらし方をするべきだった……いや待て今の俺は超つまんないって言われた気がするぞ。
そう、この付近で折本に紅茶を奢ってもらったとき、中学の時とは違って多少の受け答えはできたのだ。ならば仕事があったからこそまともに会話が出来ていた、というような言い訳は通じない。
「別に、どうもしねえよ。俺はもともとこんな感じだ」
顔を逸らす。冷たい風がはたくように横っ面を撫でていった。
「まあ、どちらにせよ比企谷と付き合うとかはないけどね! その時も言ったけど!」
ちょっとおどけた風に折本が言う。いやそれ和ませようとしているんだろうけどこうかはばつぐんだからね。なんならきゅうしょにあたって威力四倍だから。
その「急所」である今日の由比ヶ浜をふと思い出した。ちゃんと好きになっているわけでもない告白を迷惑だとした彼女。ちゃんと好きになることはきっと難しく、そのことは目の前の折本を見ていれば痛いほど理解できる。
由比ヶ浜結衣は優しい女の子だ。その由比ヶ浜ですら迷惑と感じた告白。ならそれを、他の人間はどう感じるのか。
「あ、じゃあ比企谷、あたしこっちだから」
分かれ道に差し掛かり左に曲がろうとした俺に折本が言う。手を振りかえすと彼女は踵を返した。
「……なあ、折本」
「ん、なに?」
折本は顔だけ再びこちらに向ける。
「……。いいや、なんでもない」
自嘲気味に口を閉じた。
「なにそれ、ウケるんだけど」と折本は歩き出す。
訊けるわけないだろ、そんなこと。と、寒風に身を縮ませながら呟いた。
彼女にとって、俺の関わった過去は、いったいどんな時間なのだろうか。
∴
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【3】 彼の生傷
「どうしたの、おにいちゃん」
夕食後、膨れた腹をさすりながらコタツムリになっていると、炬燵に入り込んできた小町から尋ねられた。二人で入ると狭いんだよなあ……。
「なんだよ、藪から棒に」と炬燵の中のカマクラを撫でながら返す。この猫もまた炬燵を狭くしている。
「目がいつもよりだいぶ腐ってる。結衣さんとなにかあった?」
折本といい小町といいやけに人の様子に突っ込んでくるが、原因はそれか。そりゃ十五年間共に生きた小町じゃなくても気付くよなあ。十五年共に生きたって夫婦みたいで良いな。
「普通に雪ノ下の誕生日プレゼントを選んだだけだよ。由比ヶ浜は猫のミトンなんかを選んでたな」
「数年前もそういう腐り方してるときはあったんだよねー。結衣さんと喧嘩でもしちゃったの?」
目の腐り方を見るだけで俺の一日になにがあったかを推し量れてしまうのか……。由比ヶ浜も別れるまで「ゆきのんもヒッキーのプレゼント喜んでくれるよ」とか言って妙に気を回すなと思っていたけど、それはきっと俺の目の腐り方を見てフォローさせてしまっていたんだなあと今更に気付いた。二人の八幡検定準二級の合格を認めよう。ていうかそこまで俺のことわかってるなら話逸らしたいのもわかってくれ小町。
「小町が心配するようなことはなんにもねえよ。そろそろ俺は上に行くぞ」
と言って炬燵から抜け出す。いつまでもここにいては無用な追及をされそうだし、そのせいで小町も勉強を始めない。
「お兄ちゃん」と立ち上がった背中に声を受けた。
「言いたくなったらいつでも言ってね! 小町はお兄ちゃんの味方だからね! あっ今の小町的にポイント高い!」
にこっと笑って小町が言った。ちょっと態度があからさますぎたかもしれない。大事な時期に心配させてしまって申し訳なくなるが、同時に嬉しくもあった。
「はいはい」
照れ隠しにくしゃっと小町の頭を撫でて、自室に戻る。炬燵の暖かさで足の先までほっかほかだった。やはり炬燵がある日本こそ最強でありもっというと炬燵がある家の中こそ最強。つまり働きたくないという結論に至るのだった。誰か養ってくれえ……。
∴
鞄ごとベッドにうつぶせで寝転がる。今日は色々とイベントが多かった。
雪ノ下のプレゼントを選んだことはともかく、陽乃さんは会うだけで疲れるし、雪ノ下と葉山の昔話を聞くのも疲れるし、雪ノ下の母親も見てるだけで疲れるし、折本かおりはより疲れる。なにこれ疲れてしかいない。
初詣で引いたおみくじ、小吉でこれだと凶はいったい何が起こるんですかね……。小町……受かると良いんだけどなあ……。
手足にひどい脱力感を感じ、ベッドに沈み込んだ。枕の位置を調節しようと手を動かすと、枕元の携帯電話に手が触れた。
携帯電話を開くのもおっくうなほど疲れを感じたが、開いてみるとメールが二件きている。
片方は由比ヶ浜だ。今日のことと、遠回しにまた俺を気遣うような内容が書かれている。そんなに心配されるほど目が腐っていたのか……。今度から小町と由比ヶ浜の前ではサングラスでもかけておこう。俺もEXILEみたいになれるかもしれない。なれない。
そしてもう片方は材木座のようだった。一応開いてみるもののやはりとるにたらない内容しか書かれていない。お前には八幡検定合格は授けられない。出直してきな。いや出直さなくて良い、帰れ。
怠さを振り切って由比ヶ浜にはメールを返し、ぽとりと携帯電話を落として天井を見つめた。
雪ノ下雪乃と葉山隼人。今日のカフェでの会話で、彼らには俺たちの知らない過去があるのを理解した。
一方で、俺はどうかと思案した。小町以外にまともに過去を積み上げた記憶はない。あるとすれば折本のような、思い出すだけで悶えてしまうような過去だけだ。俺は彼女に対して目の前にいてもなるべく話したくないほどの断崖を感じるが、折本から俺の方へは断崖などないかのように足取り軽く歩み寄る。こんな一方的な過去など積み上げたと言えるはずもない。
小町や由比ヶ浜はおろか、折本にすら様子がおかしいと思われた今日の俺。由比ヶ浜のたったあれだけの発言でこうまで心が荒むとは思いたくなかったが、自分でも認めざるを得ない。「たかがあんなこと」と切って捨ててしまえば楽なのに、やはりまだ俺の中で中学での出来事は生傷のごとく刻みつけられている。
小町は「数年前にもそういう目はしていた」と言っていた。まぎれもなくあの時だ――折本に告白し、それを言いふらされた時。
早い話が、俺はへこんでいるのだ。
ため息がでた。他人と関わることを自ら止め、プロぼっちを自称し誇りもした。そんな俺がへこんでいるのだ。由比ヶ浜結衣、彼女の発言ひとつで。
由比ヶ浜に告白をしたのは俺ではない。女子数人を口説こうとした黒田君という男。およそ俺とは共通する点の方が少ない人物だろう。その彼に告白されたことが迷惑だと由比ヶ浜は言った。俺とはまるで違うその人物に過去の自分を重ねて、俺はへこんでいる。あれ、これ勝手にへこんで周りを心配させてるだけじゃね。
最低だ、と考え始めたところでいったんやめた。自慢じゃないが俺はネガティブ思考だ。負けに関して百戦錬磨。ダウナー系で、自分および周囲を暗くすることも厭わない。これ同じこと二回言ってんな。どこの意識高い系だよ。
とにかく一度ネガティブ思考が渦を巻いたら考えることをやめて、じっと待つ。そうしないとへこみ続けて元に戻れなくなる。じっと、へこんだ原因が頭から抜け出していくのを待つ。時間は遅行性の毒だ。毒が悩みごと頭を蝕んでくれる。
そうして、起き上がることができたときにはこの脱力感も消え去っているはずなのだ。
ベッドの上で身をよじり、仰向けになった。
使い古されたベッドのスプリングは、もう以前のような反発力を見せてはいない。
∴
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【4】 目線の行方
冬休みが過ぎた。
炬燵で過ごす寝正月は終わりを告げ、新学期が始まる。どうせなら始まると同時に終わってほしい。
クラスでは進路希望調査票が配られ、全員が文理選択、ひいてはそのさきの大学や就職について考える時を迎えた。
葉山隼人たちのグループでは文理選択についての話題が盛んなようで、こと三浦に関しては想い人である葉山が文理どちらを選択するのかが気になるようだ。
その三浦から、奉仕部の「千葉県横断お悩み相談メール」に「皆はどうやって文理選択をしているのか」という質問が来た。
これを一色いろはが女子語から和訳すると「葉山隼人が文理どちらを選択するのか知りたい」になるらしい。女子語って本当に良くわからない。
葉山が三浦や戸部に教えなかったことから考えて、由比ヶ浜や一色などある程度近い人物には明かさない可能性が高いので、俺が聞き出すことになった。
そしてもう一つ。新学期からは「雪ノ下雪乃と葉山隼人が付き合っている」という噂が流れていた。
∴
一月の寒さの中、総武高校特別棟の一室には温かみを感じる紅茶が香っていた。
ティーカップ、犬のマグカップ、パンダのパンさんのプリントされた湯飲み、三つそれぞれから湯気が立っている。
いつも通りの風景の中に、しかし今日は四つ目の湯気が追加されていた。その元を辿れば紙コップにたどり着く。
一色いろはは相変わらず奉仕部に入り浸っていた。
「せんぱぁい、なにか面白い話してくださいよ~」
「その振りがどれだけ人に傷跡を残していくか自覚してから発言しろ」
ほんとこいつは……。もう俺相手なら何を言ってもしても許されるとか思ってない? こいつに折本とのことを知られたら高校中に言いふらされるやも……。あっぼっちだし問題なかった。敗北を知りたい。
一色は紙コップを手に退屈そうに机に覆いかぶさっている。
「そんなに暇ならサッカー部にでも行けよ、前も言ったけど」
「外、寒いんですもん」
由比ヶ浜が苦笑いをし、雪ノ下がこめかみを抑える。見慣れた光景だが違う。今まで彼女たちにそれをさせるポジションは俺だったはずなのに! やだなにこの気持ち、嫉妬?
雪ノ下もいつもの頭痛がするみたいなポーズはするものの、諦めたのか一色をたしなめることはしない。
「ところで依頼解決の目途は立ったのかしら、比企谷くん」
「残念ながら、まだだ。なかなか葉山と二人きりになる機会がなくてな」
聞かれたら海老名さんのテンションが大変なことになりそうな台詞だが、俺以外の人間がいない方が成功率が上がることはおそらく間違いはないだろう。材木座みたいないてもいなくても良いやつなら話は別かもしれない。あれ、これ俺も材木座と同じカテゴリーに入ってしまうんじゃね?
「葉山の普段の過ごし方を見るとだいたい誰かしらそばにいるからな。まったく、ぼっちを見習ってほしいもんだ」
「見習う点がどこにあるのか教えてほしいのだけれど……」
雪ノ下がこめかみを抑えた。見たか一色! これが本家ずつのしたずつのんだ! 普通に言いにくい。やめよう。
当の一色は何をそんな簡単なことで悩んでんだこいつ? みたいな顔でこちらを見ている。
「先輩、クラス同じでしたよね? 呼び出せば良いんじゃないですか?」
「わざわざ呼び出して文理選択教えてくれなんて裏がありますって言うようなもんだろ」
あ、なるほど、と一色が得心したように顔を上げる。まあ教室で葉山を呼び出すという目立つ行為がそもそも俺にはハードル高いんですけどね。
一色といえば、部活方面で考えてはどうだろうか。
「なあ一色、サッカー部、もしくは部活が終わった後で葉山が一人になるタイミングってあるか?」
俺の知る限りでは葉山は常に誰かと一緒にいる。なら俺の知らないところではどうだろう。恐らく一人でいることは少ないだろうが、全くないということはないのではないだろうか。
「部活でですか? えーと、終わった後は一緒に帰ろうとしてたんですけど、だいたいいつも男子と帰ってましたねえ」
下校中は不可、と。まあそれは想定内だ。一人で帰ろうものなら一色やその他女子がくっつき虫がごとくくっついてくるであろうから、それを除けるために誰かと帰るのは当然であろう。それに引き替えぼっちはそんな心配をせずとも一人だから最強である。敗北を知りたい。敗北しか知らない。
一色は「あ、でも」と思いついたように話す。
「そういえば練習が終わった後、下校するまでだったら片付けとかそれぞれの部室を出る時間の関係で一人になる時があったかも」
「なるほど」
しなければならない作業をしているときであればさすがに女子も寄ってこないし、男子と一緒にする必要もないということか。そうだよな、わかるわかる。俺も文化祭の仕事とかぼっちだったもん。もちろん仕事以外でもぼっち。
それまで考えるような仕草をしていた由比ヶ浜が言った。
「うーん、隼人くんが一人になるときかあ……。あんまり思いつかないかも」
「由比ヶ浜には最初から期待してないから大丈夫だぞ」
「優しくされてるけど馬鹿にもされてる!?」
だって由比ヶ浜と葉山の接点ってクラスとプライベートでしょ……。クラスは俺もだいたい知ってるし、プライベートは知ったところで関われないから無意味だし。
ふと由比ヶ浜を見て先日の折本とのやりとりを思い出した。一色や雪ノ下を含め、彼女たちとはこうして何気なく応答ができる。折本のようにぎこちなくなることはない。それはやはり折本との間に感じる一方的な溝のせいなのだろうか。
先日のことを思い出したからか、暗い感情が身の内から染み出すのを感じた。「正直迷惑」という言葉に同意する彼女の声が、身を侵略するように這っていく。
「……そんな犯罪者のような目で由比ヶ浜さんを見つめるなんて、通報でもされたいのかしら、性犯罪者谷くん」
「おいちょっと待て誤解だ。ていうかその名前は無理があるだろ」
うそ、見つめてましたかね、だとしたらどのくらい……あ、昨日のこと思い出してた当たりからずっとか。反論のしようもないほど見つめてましたね……。
由比ヶ浜はというと、顔を赤らませ居心地悪そうにしている。思わずこちらも顔が熱くなるのを感じた。
「その、なんだ、不快な思いさせてすまん」
「いや、べつに、不快ってわけじゃないし……」
お互いに目を逸らす。本当に不快な思いはさせなかっただろうか。例えば男子の告白だって、本気で好きでもなければ迷惑なもの。そこまでではないにせよ、好きでもない人間に見つめられてはやはり不快ではないのだろうか。
思考が渦を巻き始めたところで、今度は頬杖をついている一色と目が合った。
普段ならこういう時には雪ノ下に乗っかりでもしそうな彼女が、意外にもこちらを見ているだけだった。
∴
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【5】 拒絶のサイン
ふう、と雪ノ下が息を一つ吐いた。
顔を逸らしていた由比ヶ浜と、じっとこちらを見ていた一色が雪ノ下に注目を戻す。
「話が逸れたわ。結局、葉山くんとの接触の機会は他には心当たりはないのかしら」
脱線した話を元にもどしてくれるのはありがたい。これ以上変なことを考えずに済む。
俺は一色と由比ヶ浜をちらっと見た。
彼女たちはふるふると首を横に振る。
「いまのところはそれだけみたいだな」
とりあえずは一つあれば十分だろう。それがダメであればまた考える。いくつか策を講じられるくらいには時間はあるはずだ。
雪ノ下はこくりと頷く。
「では、任せてしまって申し訳ないけれど」
「問題ねえよ、これが一番確率が高い方法のはずだ」
と言うと、雪ノ下は伏し目がちにぼそりと呟く。長いまつげがまばたきで動くのが目立った。
「本当は、私が聞けたら良かったのだけれど」
その言葉には、「もしも聞くことができたらもっとも確率が高いはずなのに」という意図を見て取れる。見て取れた意図から、以前の葉山や陽乃さんとのやり取りを思い出した。
彼女たちには俺たちの知らない時間がある。もしもそれが葉山の進路を暴く最良の手段になるのだとしたら。
しかし雪ノ下がそうしないということは、そうできない理由があるのだろう。もしかしたらそれはただ単に葉山と仲違いをしたからなのかもしれない。
「いいんだよ、俺にしかできないことは俺に任せとけ」
「そうだよゆきのん、頼れる時は頼っていいんだよ。……って、今回何もできてないあたしが言えることじゃないかもだけど」
由比ヶ浜が優しく諭すように声をかける。雪ノ下は相変わらず伏し目がちに、ともすれば重々しくも聞こえるように口を開いた。
「……ええ、ありがとう」
あの時葉山が「雪乃ちゃん」と呼んだことが思い出された。
ただ単に仲違いをしただけかもしれない。でも、単なる仲違いではなかったら?
以前に比べると雪ノ下はずっと自分のことを話してくれるようになった。しかしそれでも話さないことはある。
拒絶されないだろうか。話してくれるだろうか。
俺は彼女の過去に踏み込んでいくべきなのだろうか。
∴
「先輩、結衣先輩のこと好きなんですか?」
雪ノ下と由比ヶ浜が鍵を返しに行った直後、廊下で一色が切り出した。
からかっている様子はなく、表情は真面目。気負いもせず茶化しもせず、ただの話題とでも言った風に。
「何言ってんのお前?」
「なんですかその人を馬鹿にしてるような顔は」
お前こそ俺を馬鹿にしてるような態度やめろよな。しかも俺とは違ってデフォルトがそれだぞ。
お互いの昇降口へ向けて歩きながら軽口を叩きあう。
「なんで俺が由比ヶ浜のことを好きになるんだ。そもそも俺が由比ヶ浜と釣り合うはずがないのは理解しているから出すぎた真似をすることはない」
「先輩ゴミですか? それ結衣先輩の前では手足の一本や二本持っていかれても絶対に言わないでくださいね」
「表現が怖いんだよ……。ていうか誰に持っていかれるんだよ」
一色が本物のゴミを見る目でこちらを見ている。やだこの子いつの間にこんな技覚えたの。はちまん悲しい。
由比ヶ浜結衣は優しい女の子だということを俺は知っている。だからこそ、俺が彼女を中途半端に好きになることはないだろう。
「今日、結衣先輩と話してる時だけぼーっと見つめてたじゃないですか」
「たったそれだけで好きがどうとかお前の恋愛経験は小学生どまりかよ」
いやそんなはずないんですけどね。一色と俺の恋愛経験を比べたら十倍じゃ済まないほどの差があってもおかしくない気がしますけどね。一色の場合恋愛経験というよりは男を手玉にとったジャグリング経験と言った方が良いかもしれない。これ本人に言ったらゴミを見る目どころでは済まないだろうな。
「ほら、葉山先輩と雪ノ下先輩の噂のせいで、ちょっと意識しちゃったのかなって」
なるほど、ようやく合点が言った。確かにここ最近は学校内屈指の有名人、葉山隼人と雪ノ下雪乃の浮ついた噂でもちきりだ。雪ノ下の誕生日プレゼントを買って、陽乃さんと葉山に会い、雪ノ下を呼んだ日。
あの日葉山と雪ノ下がいっしょにいたというだけで、二人が付き合っているのではないかと言う噂が流れているのはもう俺も知っている。浮ついた噂もない有名人二人がついに、というと、一種のスキャンダルじみた話題性があるのだろう。瞬く間に学年中に広まった。
その空気のせいで俺が由比ヶ浜を意識してしまったと。
「俺に限ってそんな恋愛体質の女子高生みたいなことあると思ってんのか」
一色はふむ、と俺を見つめる。
「それはありえなさそうですねー、確かに」
「納得するならなんでそう思ったんだよ」
「えーでも先輩だって誰かを好きになったことくらいあるんじゃ……。ある……。……な、ないですか?」
どんどん自信をなくしたようになって、しまいには憐みの表情で尋ねてきた。憐れまれる経験はしているが憐れまれるいわれはない。
「失礼な聞き方すんじゃねえ」
憐れまれると普通に辛いので、ついと顔を上げて強がってみる。が、どうもこれは悪手だったようだ。
「えっ誰かを好きになったことあるんですか教えてください早く早く」
一色が新しいおもちゃを見つけたように目を輝かせている。
面倒なことになった。この手の女子高生が大好きそうな話になると一色は引かないだろう。ていうか何が一番嫌かってこいつ口軽そうだから由比ヶ浜や雪ノ下に伝えそうなんだよ。万一戸部あたりに伝わって俺が絡まれでもしたら不登校になるまである。
ふと、先日由比ヶ浜に中学時代のことを話した記憶が蘇る。
普段の俺ならば「俺くらいにもなると振られた翌日にはそのことがクラス中に広まっていてな」程度のことは言えるものだが、一色が折本のことを知っている以上、それを伝えるのは憚られた。
「あったとしても教えねえよ。お前には雪ノ下の噂を奉仕部でぶちかました前科があるからな」
「先輩ダメダメですね、教えないにしてもそういう断り方だともてませんよ?」
なんでこの状況でダメ出しされなきゃいけないんですかね……。ここは一色の前科について俺がダメ出しするターンだったんじゃないですかね……。ボルバルザークなの? 追加でターンを得てしまう無双竜機いろはすザークなの? ずっといろはすのターン!
「まあでも、葉山先輩と雪ノ下先輩だとお似合いって感じしません?」
続けて言う一色に、俺は拍子抜けした。
絶対に食い下がると思ったのに、別の話題に移行している。しかもその内容は、葉山のことを狙っている一色にしては、まるで諦めたとでもとれてしまうようなものだ。
「……お前それ本人の前で絶対に言うなよ」
「言いませんよー。そんなに信用ないんですか?」
「ここまでの会話でその手の信用ゼロだってこと伝わるよね?」
反省した様子もなくけろりと話す。こういう反省しない子ってきっとバイトとかでも同じ失敗を二度するんだろうなあ。その点俺は働くことがないから失敗する恐れもない。やはり専業主夫こそ至高にして最強。強靭! 無敵! 最強! すごいぞーかっこいいぞー!
一色は俺の過去の話から話題が変わっていることに気付いていないかのように話し続ける。表情から何を考えているのか読み取ろうとしてみるが、いたって普通、いつも通りの一色いろは。気付いていないだけか、それとも食い下がるほど好きな話ではなかったということだろうか。
「あーあ、私も葉山先輩と付き合いたいなあ」
どうも俺の過去の話に戻るつもりはないらしい。肩すかしを食らったような気分だが、話したいわけではなかったので助かりはする。
「雪ノ下は付き合ってないから。ていうかそう思うならサッカー部行けよ」
「葉山先輩、女の子の告白はいつも断ってるから誰か好きな人がいるのかも……。それが雪ノ下先輩だったりしたら……。
葉山先輩から告白かあ……。いいと思いません?」
「思うと思ってるのかちょっと冷静に考えてみてくれると助かる」
海老名さんには思われてるかもしれないけどね!
一色は水を得た魚のように、堰を切ったように話し続けている。あれ、やっぱりこの子他人の恋愛に興味津々なんじゃありませんかね。あ、俺の恋愛の話だから興味なかったってこと?
「でもでもわかりますよね? 例えば雪ノ下先輩に告白されたら先輩はどう思いますか?」
「仮定がありえなさすぎて答えられない」
「じゃあじゃあ、結衣先輩だったら?」
「罰ゲームを疑う」
「正真正銘のゴミですね……」
「おいちょっと待てそういうのは思うだけにしろ」
最強の専業主夫(志望)だって傷つくんだからね! この間もしょうもないことでへこんだばかりだし。
一色は大きくため息をつく。うーんこういう話には食い下がるのか。女子ってよくわからん。
「先輩は中身がアレすぎて例えになりませんけど、普通、良いなあと思っている人に告白されたら嬉しいに決まってます」
しょうがないなあ、とでも言うように、呆れ顔で一色は言う。
それは知っている。告白されたとしても、それが迷惑になり得ることも身を持って知っている。
「良いなあ」と思われていなければ、告白はただのエゴであり、された側からすれば迷惑行為でしかない。「良いなあ」と思われた人間だけ、許可を得られた人間だけが告白をすることを許される。ほらミスチルも言ってるよ、恋なんていわばエゴとエゴのシーソーゲーム。そういう意味だっけ……?
しかし、これをそのまま一色に伝えようと思えるほどには、理論に確信が得られていない。
「そのくらい俺にもわかるさ。中学の頃は良く妄想したもんだ」
「なんでそういうことが言えて昔の恋愛については話せないんですかねえ……っと」
ここで一年生と二年生の昇降口へ向かう分かれ道が来た。
一色は飽きれ半分に笑いながら、「じゃあ、また明日」なんて言いつつ一年生の昇降口へ向かっていく。また明日も奉仕部に来るつもりなのか。
彼女に向かって二、三手を振り返し終えたところで背を向けて歩き出した。
最後の一言から察するに、結局一色は、無意識に話題が逸れたことで俺の恋愛についての興味を損なったわけではなかった。
拒絶してしまったのだろうか。話さないことを選んでしまったのだろうか。
俺は彼女に、俺の過去を話すべきだったのだろうか。
∴
一年生と二年生の昇降口が分かれているかわからなかったので、もしもわかれていなかったら脳内補完お願いします……!
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【6】 先手の相性
数日後、一色の提案通りに部活終わりの葉山を待ち伏せした。
進路について尋ねてみたものの、奉仕部に来た依頼であることが一瞬で見破られ、達成することが出来なかった。
俺が葉山を待っている時、彼は女子生徒に告白されており、断っていた。
一色の情報によれば、最近の噂のせいか葉山は女子に告白されることが増えたらしい。が、それも全て断っているようだ。
好意を受け取らず、拒否する行為。
それは由比ヶ浜が迷惑と判断し、過去行った行為であり、そして過去俺は、拒否される側だった。
人が人に歩み寄る行為は他人にとって迷惑となり得る。
葉山に進路選択を尋ね、それが依頼であることを見破られた時、彼は「じゃあ、俺からも頼んでいいか」とおいたあと、
「そういう煩わしいの、やめてくれないか」
そう言ったのだ。
彼はこの依頼が三浦からのものであるとは知らない。が、三浦や彼らのグループのメンバーが尋ねても答えることはしないのだ。それは告白などと言った明確な好意の意思表示ではないにせよ、人が人に歩み寄る行為の拒否に他ならない。
ではいったい、人は人に対して、どこまで踏み込んで良いのか。
俺はこの問いに答えを出すことができなかった。だからこそ他人に期待をせず、他人と接することを避け、一人であろうとした。
しかし俺は、他人を知ろうとしなかったことで失敗をした。それが文化祭のことの発端であり、修学旅行の時、ひいてはその後奉仕部に大きく影響を及ぼす原因となった。
俺がこの問いについて改めて考えているとき、三浦優美子が奉仕部の扉を叩いた。
彼女は奉仕部へ来て、改めて葉山の進路について知りたいと依頼した。
葉山から嫌がられる可能性もあると忠告する俺に対し、三浦は「知りたい」と答えた。
拒否されても知りたい、歩み寄りたいと彼女は願ったのだ。
俺はそれをなんとしてでも叶えようと思った。
∴
葉山隼人の進路選択。
俺はそれを知るために、葉山の思考をトレースし、「彼だったらどちらを選ぶか」を思索しようと考えた。
スポーツの観点は戸塚から、女子との接触の観点は材木座から、家庭環境の観点は川崎から、など、一見葉山とは縁がなさそうな連中からも収穫があった。
しかし、まだ足りない。葉山隼人を追ううえで最も近道となるのは誰なのか。
年始の雪ノ下や陽乃さんのことが思い浮かぶ。葉山と過去を共有してきた彼女たちであれば、もしかすると葉山のことを最も理解しているのではないだろうか。特に、葉山や雪ノ下を振り回していたであろう陽乃さんは。
そんな折、進路相談会の手伝いをすることになった。
と言っても準備のみだ。文化祭やクリスマスイベントのように行事の進行には関わらず、相談会に使う部屋を模様替えするのみ。三浦の依頼もあったが、この程度ならば楽なものである。
総武高校三年生を対象に、OB、OGをまじえた進路相談会。
雪ノ下の姉である陽乃さんも、たまたまそこに来ていたのである。
葉山の進路に最も近い人物であるかもしれない陽乃さんは、しかし、当の葉山の進路選択にはなんら興味がないようで、知る気もないようだった。
愛情も敵意も感じさせない声音で、「雪乃ちゃんなら私に頼らなくてもわかるでしょ」と言い残すだけ。
だが、その真意を目の前の人物から聞き出すわけにもいかなかった。
「すまないな、時間をとってもらって」
「何の用だよ」
葉山隼人。進路相談会の準備を終え、部室に帰ろうとした際、彼に呼び止められた。
雪ノ下と由比ヶ浜には先に行かせ、人目のつかない廊下に二人立つ。
「進路相談、お前はいいのか」
「俺は、優美子や戸部の付き添いで来ただけだから」
わかってるだろ、というように葉山が肩をすくめる。ぼっちにはわかってても口にしなければならない時がある。具体的に言うと間が持たない時。そんな時は知ってる内容でも話題に挙げて喋らなければならないのだ!
嘘だ。プロぼっちなら間が持たなくとも気にしないしこと葉山にいたっては気まずくさせたい。なにこれただの嫌な奴じゃん。
「さっき、陽乃さんと話していたんだろ。俺のこと」
「……なんで知ってるんだ」
驚き、つい本当のことを口走ってしまう。言った後にとぼけておけばよかったと気付く。
陽乃さんと話していたのは葉山が会議室に来る前のことだ。聞こえた聞こえないの話ではなくそもそも知りようもないはずなのに。
まさか盗聴器!? とか映画みたいなことを考えていると、葉山が説明してくれた。
「陽乃さんからメールが来たんだよ。比企谷たちに俺の進路について聞かれたって」
本人からのタレコミがあったらそりゃ守秘性も何もねえよな! とぼけなくて良かったぜ!
大魔王陽乃さんの動きの制御は不可能だろう。よしんば口止めをしてもあの人が言いたくなったら無駄になることが予想される。この辺は覚悟しておくべきだった……まあ、こんなことをわざわざ葉山に言うと思っていなかったのは事実だが。
はあ、とため息をついて頭をがしがしと掻く。目の前の葉山が微笑んだ。
「あの人はああいう人だから」
葉山の口ぶりは俺に同情するようでも、陽乃さんの人となりを伝えるだけであるようにも、昔を懐かしむようでもあった。ふと正月の雪ノ下家の二人と葉山のやり取りを思い出す。ある種の理解であることだけは感じられた。
「別に比企谷たちの妨害をしたかったわけじゃないと思うよ」
妨害じゃないならなんなんですかね……。何かほかに目的があったからとか? うーんわからん。
陽乃さんがわざわざ行動したとなると、雪ノ下関連だろうか。
「そうか」
だがまあ、この際陽乃さんについてはどうでも良い。今は目の前の葉山から妙な釘を刺されて動きにくくされないようにしておきたい。
「俺たちは確かに陽乃さんにお前の進路について聞いたよ。それで? やめてくれって言いたいのか」
後手に回ると話の結論を思うように持っていかれると思ったため、あえて少しの攻撃性を含めて先手をとる。
「やめてくれって言われてもやめねえけどな!」と言わんばかりの先手である。小学生の頃こういう感じで言われまくったけど、先に言われるときっついんだよなー。どう言ってもやめてくれないのが目に見えてるから何かをする気が全く起きなくなる。
苦い思い出を武器に葉山に立ち向かおうとするものの、とうの彼は武器など構える様子もなかった。
「……いや、違うよ。やめてくれって言ってもやめてくれないんだろ?」
葉山は諦めたような微笑を浮かべ、俺の矛先をおろした。諦観の表情が「あの人はああいう人だから」と言った時のものと被る。それは人を理解した上での表情なのだろうか。それとも諦めてそういう人なのだと考えているのだろうか。
「じゃあ、なんだよ」
「一応伝えておこうと思ってさ。俺は誰にも教える気はないから、調べても無駄だよってね」
宣戦布告ともとれる宣言。「お前がどれだけ嗅ぎまわろうとも俺は情報を漏らすことはない」と言われたようなものである。宣戦布告とか言うけど、実際葉山が誰にも教えないとなるとこっちに勝ち目ない気がするんですよね……。
葉山が微笑を崩さないまま言った。
「それに、正直、比企谷は俺の進路なんて興味ないだろ」
「ねえな」
即答しつつ俺は心の中で全力で頷いた。あるわけないんだよなあ。
葉山の進路などどうでもいい。それよりも来週のプリキュアの内容の方がよっぽど気になる。
「じゃあ、なんでわざわざ調べているんだ」
柔らかな微笑から出たのは凍てつくような一言だった。
不意に顔を出した攻撃性に面食らい、返答がワンテンポ遅れる。
「そりゃ、部活に来た依頼のためだ」
「その依頼はそんなに大切なものなのか?」
食い気味に葉山が質問する。俺は思わず目を逸らした。
「大切も何もねえよ、部活だからやる、それだけだ」
「じゃあ、部活は大切なものなのか?」
俺はその質問への答えが見つけられず、一瞬沈黙が舞い降りた。
違う。見つけられないのではない。答えはすでにある。
奉仕部のあの空間は、俺にとって大切だ。そうでなくては生徒会選挙以降、亀裂が入った関係性を気にすることもなかったし、そもそも亀裂が入ることもない。いつぞやの橋の上で平塚先生にもらったヒントを思い出す。大切であるということは疑いようがなかった。
俺の中ですでにあるその答えを、葉山隼人、目の前のこの人間に伝えることにどうしようもない抵抗を感じた。気付けば葉山の顔から微笑は剥がれている。
「なんでそんなこと、お前に言わなきゃならねえんだよ」
少しの静寂の後、ようやくしぼりだした。何か言わなくてはとだけ考えて放った言葉だが、答えになっていない、ただの拒否にも関わらず俺の中ではしっくりときた。
それを聞くと、予想していたかのように、葉山の顔にまた微笑が戻った。
「人の質問に答える気がないなら、人に質問するべきじゃないんじゃないか?」
やられた、と思った。
正論である。あちらからの質問に答える気もないのにこちらから質問だけするのはフェアではない。先手はとったつもりが、いつの間にか攻守逆転していた。
「それを言うなら、先にお前が俺の質問に答えてから言えよ」
苦し紛れに反論する。もしも俺にさきほどの質問を答えさせたければ、俺の質問に答えてから問いかければ俺は答えざるを得ないだろう。
だが、彼がそれをしなかった理由はとっくにわかっている。葉山は悪いな、とでも言うように肩をすくめた。
「比企谷は、興味ないんだろ?」
一貫してフェア。どうも俺は先手と相性が悪いらしい。
∴
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【7】 鏡写しの瞳
玄関に小町の靴はあるものの、リビングに電気はついていなかった。
小町は部屋で勉強をしているのだろう。がんばっている努力は報われてほしいものだ。
リビングの電気をつけ、ソファに鞄と携帯電話を放り投げて腰を下ろす。あとで小町にコーヒーでも淹れて持って行ってやろうかなと思っていると、奥からその小町がやってきた。
「おかえり、お兄ちゃん。コーヒー飲む?」
「おう、ただいま。飲むわ」
たった今小町に淹れてやろうかと考えていたコーヒーを、小町本人に淹れてもらう。これが働かない精神。見よ我が魂。
小休止ついでにおかえりを言いに来たのかもしくは逆なのか判然としないが、いずれにせよ根を詰め過ぎてもいけない。適度にガス抜きをするのも、親が構えない以上は兄の役目なのだろうなあ、と考える。
と言っても何をすれば良いのだろう。俺が受験生の時はどうだったか。受験前である以上遊びに時間を割き過ぎるのもいけないだろうし。
「はい、コーヒー」
考えている横からカップを手渡された。受け取ると冷えた両手にじんわりとあたたか~い。
小町もソファに座ってコーヒーを啜っている。誰もいなかったリビングは暖房もついておらず寒かったので、カップの暖かさがありがた~い。
小町の方をちらと見た。いつもと違い、少し口を開きにくい。
受験生に対し「勉強はどうだ」などと聞くのもプレッシャーを感じさせかねないし、「学校で何かあったか」も周囲の同じ受験生たちを意識させやはりプレッシャーとなりかねない。自分の学校のことを話すにしても、まさにその高校が小町の志望校なわけだからどう捉えられるかわからない。
もちろん小町のことだからどんな話題であれ俺がプレッシャーを与えようと思っているわけではないと理解してくれるに違いない。しかし俺の口は、なぜかいつもより重いままだった。
ちらりと窓を見やると、夕闇越しに反射した自分の瞳がこちらを見ていた。腐っていると形容されるその瞳を見て、なるほど確かにその通りだと思った。
「どしたの、お兄ちゃん」
などとうだうだ考えていると小町の方から会話が始まった。情けないお兄ちゃんでごめんね。
「え、今日も目が腐ってた?」
「いや、あの時ほどではないけど」
腐ってはいるんですね。なんせ二十四時間三百六十五日無休で腐りつづけていますからね。何その社畜。我が魂どこいった。
「なんか、考えてる風だったから、何考えてるのかなって。お兄ちゃんが小町の前で考え事してるのって珍しいじゃん?」
確かに、よっぽどのことがなければ小町を目の前に放って置いて自分の思考にふけるなんてことはしない。が、その小町をどう構うかを考えていたのだから例外という他はない。
しかしその例外のために小町に気を利かせているのではさすがに問題外である。情けないお兄ちゃんすぎてごめんねと言うしかない。ごめんね以外特に言えない。
「いや、まあ、小町との会話ってどうするんだっけかなあって」
「なにそれ、記憶喪失?」
「小町との会話の仕方だけ忘れる記憶喪失とかねえから。むしろ他の全てを忘れてしまっても小町のことだけは覚えてるまである」
「それ小町的にはポイント高いけど、小町はちょっと悲しいよ……」
あと戸塚な。この世のすべての人間のことを忘れてしまったとしても覚えていたい。そもそもぼっちだから他の人のことを忘れてもあんまり問題がない。
「ほら、勉強のこととか学校のこととか、この時期だとあんまり話したくはないだろ?」
正直に考えていたことについて話す。そもそも小町相手に取り繕う必要はないのだ。悩んでいることも、小町の負担にならないタイプのものであれば何を話しても問題はない。そう考えるとそもそも話題で悩むのもどうなのかという話になるかもしれないが。
小町はくすっと笑って、
「そんなこと気にしてたの。大丈夫だよ、お兄ちゃんなら何話しても、大丈夫」
とコーヒーに口をつけた。
やはり小町は理解してくれる。それについてはわかっていた。
小町に対して、「小町のことで悩んでいる」などと言えてしまうのに、なぜプレッシャーがどうこうと気にして口を開けなかったのだろうか。
「さて、じゃあ小町は勉強に戻ります!」
言って、小町は飲みかけのカップを片手に立ち上がり、そのまま部屋へ戻っていった。がんばれよ、と背中に声をかける。口はさっきよりも数段軽く開くことが出来た。
ふとソファに放ってあった携帯電話に目をやると、通知が一見来ているのが見えた。
メールを見て顔を上げ、目に入った窓の外の夕闇からは、それでも相変わらず鏡写しの瞳が見つめている。酷い顔をしているな、と思った。
∴
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【8】 遠くの夕日
「ごめんね八幡、急に呼び出して」
家のリビングでメールをもらってから数十分後、俺と戸塚は学校の近くの本屋に来ていた。
俺が自転車のスタンドを立てるのを待って、戸塚は店内へ歩き出す。
「学校で言おうと思ってたんだけど、忘れちゃってて」
「いや、大丈夫だ。後輩のプレゼントを買うんだろ?」
メールの内容は、テニス部の後輩の誕生日プレゼント選びを手伝ってほしい、というものだった。
小説好きの後輩のためにプレゼントを選びたいのだが、本を読まない自分では選びにくいということ、そして買うタイミングはすでに今日しかないとのことで、急きょメールで呼び出されたのだった。後輩もそうだが、友達などがいると大変である。すなわちぼっちこれ最強。
「ありがとう、八幡。お礼はするからね!」
ぱっと笑う笑顔が眩しい。網膜に焼き付けて永久保存したいレベル。戸塚と同じ墓に入れるなら死んでも良い……。
店の中に足を踏み入れようとした時、ふと視界の端に見慣れた制服を発見した。
本屋から大通りを挟んで向かい側、着ているのは二人の女子だ。服装から中学生なのだとわかる。なにせその制服は、俺の中学校の服装なのだから。
「八幡?」
声をかけられ振り返る。そうだ、本を買いに来ていたのだった。
「悪い、今行くわ」
このあたりには店がいろいろとあるので放課後に遊びに来ているのだろう。わかるわかる、俺も放課後は良く友達と……友達いなかった。わかるわけない。まあ何かしらの用事があってこのあたりまで来ていたのだろう。ただの偶然だ。
本屋は比較的広かった。本棚が二十ほど並べられ、それぞれでコーナー分けされている。平日午後のこの時間帯は仕事上がりの社会人たちがちらほらと見受けられた。
コミックや雑誌が平積みされた入り口付近を抜け、戸塚はまず文庫本コーナーに向かった。
「あんまり知らないけど、たぶん喜ぶのはこのあたりだと思う」
文庫本コーナーには新刊が積まれているほか、人気作家の作品が目立つ配置をされている。「映画化決定」の帯や、「○○賞受賞」などの文句が目に飛び込んでくる。
「文庫本は読みやすいしプレゼントとしては無難なところだな。どんなジャンルが好きなのかは知ってるのか?」
言ってから、既視感を覚える。つい最近も似たようなことを考えた。
そうだ、年始の雪ノ下の誕生日プレゼントを買った日だ。
「ミステリー系が好きって言ってた。映画化されてるのはだいたい読んでるんじゃないかな」
人の好みを考えて、その人に喜んでもらうためのプレゼントを選ぶこと。
友達がいると大変だ、とさっきの思考がまたよぎった。それならぼっちの俺はなんなんだ?
戸塚は後輩のためにプレゼントを選んでいる。俺はどうだっただろう。由比ヶ浜に連れられ、当たり前のように雪ノ下の眼鏡を買い、当たり前のように彼女に手渡した。
なんのために選んだのだろう。まさか自分のためなんてこともない。しかし、雪ノ下には友達になれないとはっきり言われた。ならばなぜ?
「じゃあ、こっちの方かな。この作家はマイナーだけど面白いぞ。お、こっちはその作者の新刊だな」
「それならそれにしようかな。八幡が選んでくれたなら間違いなさそうだね」
屈託なく笑い、戸塚は本棚に手を伸ばす。俺が選んだならばと戸塚は言った。それはどういう意味なのだろう? 理性の化け物が体を揺する。
戸塚は本を持ってレジに並ぶ。二、三人の客が並んでいるため、会計が終わるまで少し暇だ。
ふらりと本棚の奥を眺めると、一冊の本が目に留まる。
俺はそれを手に取って開いた。小さいころ読んだ本だ。フランス生まれの作家の名作、『星の王子さま』。きっとまだ家の本棚の奥に眠っている。
開いたページは、王子さまとキツネが出会う有名なシーンだった。文庫本の半ばを過ぎたその見開きでは、童話らしさを感じさせる優しく親切な大きい文字が駆けまわっていた。
“「きみとは遊べない」キツネは言った。「なついていないから」
「ああ、失礼!」王子さまは言った。
けれど、しばらく考えてから、こうたずねた。
「『なつく』って、どういうこと?」”
既視感はあるのに記憶とは違うシーンだった。
もしやと思い表紙を見る。おぼろげな記憶だが恐らく、以前俺が読んだそれとは訳者が違っていた。
しかし好きな一幕なのでここは良く覚えている。確か俺が読んだ本では『飼いならす』と訳されていたはずだ。
その言葉は、「仲良くする」という行為を端的に、また現実的に表現している。
人と仲良くするために問題を起こさないよう空気を読み、それをお互いに強要する。まるで飼い慣らされているがごとく、人と人は仲良くなればなるほど、お互いがお互いの拒絶に踏み込まず、波風立てないように接するのだ。
そう思っていた。
本の中ではキツネの語る言葉を王子さまが一つ一つ理解する。
キツネはそんな王子さまを見て、なつかせてくれと頼みこむ。「なつく」って、どういうことだっけ? 「飼い慣らす」という言葉の印象の強さに記憶を持っていかれており、本編で語られている本当の意味を失念してしまっていた。以前の俺が感じた「仲よくなる」ではない、本当の意味を。
“「ずいぶん忘れられてしまってることだ」キツネは言った。”
ページをめくっていく。
「おまたせ」
昔読んだ本をさかのぼる、言わばある種の時間旅行は戸塚の声で中断された。やだ時間旅行に例えるなんて八幡ロマンチック! ステキ! とつかわいい!
ロマンチックな俺は本棚に本を戻した。口に出してなくても普通に恥ずかしいですね。ロマンチックな俺ってなんなんだ。とつかわいい。
「星の王子さま、読んでたんだ」
「知ってるのか」
「うん、だって文化祭でやったから」
ああ……やってましたね。海老名超プロデューサーの台本で演劇してましたね。あれはひどかった、そもそもなんで葉山と戸塚が主役なんだ、よりにもよって葉山などと……。例え葉山でなく戸部であっても許さないがな。つまり誰であっても許しませんね。
戸塚ははにかんだか苦笑したのか判然としない笑みを浮かべ、「原作も読んだけど、けっこう好きだったな」と呟いた。
「あれから自分でも買ったんだよ。八幡から借りたのとは別の訳だったけど」
そういえば文化祭の時に俺が貸していたっけ。ボロボロに擦り切れた文庫本は人に貸すべきではなかったと感じた覚えがある。
そりゃ良かった、と返事をし、俺は体を出口へと向ける。
「帰ろうぜ」
本の中身について話さず、俺は歩き出した。戸塚もその後についてくる。
「なつく」とはどういう意味だったか戸塚に聞けばすぐにわかりそうな気もするが、なんとなく気が引けた。
店の外に出ると、冷たい風が頬を切っていった。思わず身をすくめる。「寒いね」と戸塚が言った。
ふと、さきほどの場所に目をやった。
「さっきの女の子たち、知り合い?」
無意識の視線で気付かれたようで、戸塚が訊いてきた。するどすぎやしませんかね。
「いや、全然。俺の中学校の制服着てたから」
正確にはその理由ではないが、それを隠すためにマフラーで口を覆う。自転車の鍵を挿し込み、スタンドを上げた。まあ、なんなら別に嘘もついてないから問題ない。多分。
「そうなんだ。八幡の中学の頃ってあんまり想像できないなあ」
一瞬安心した。戸塚は俺の中学校の頃のことを尋ねてはこなかった。単に感想をもらしただけ、そのことがとてもありがたかった。
なんせここ最近色々と思うところが多かったのであんまり良い気分ではない。折本とか折本とか折本とかな。
自転車を押し、歩き始める。
「そういえば最近、小町ちゃんはどう? 受験生だよね」
「けっこう、頑張ってるみたいだぞ。最近は家に帰ってもいつも勉強しているな。今日もだった」
というより、今も部屋にこもって勉強しているのだろう。先ほど小休止でリビングにやってきた小町を思い出した。
そういえば、と戸塚に尋ねる。
「戸塚は受験勉強してる時、どういう話題を振られると話しやすかった?」
良い機会だから、小町との会話をつつがなくできるよう話を聞いておこうと思った。あまり参考にできる人間がいない分、機会は貴重である。
戸塚は一瞬きょとんとして
「小町ちゃんと何話せば良いのかってこと? 八幡と小町ちゃんなら何話しても大丈夫だよ」
くすっと笑いながら、俺の悩みを見破ってストレートで返してくる。さすが天使、俺ごときの悩みなどお見通しである。大天使トツカエルに隠し事はできない……。
俺はマフラーを上げて口元を隠す。恥ずかしいやら照れてるやらの微妙な表情をしているのを見られたくはない。
「まあ、それはわかってるんだけどよ、一応さ、気にしておきたくて」
「僕は、勉強の話題は別に問題なかったけど、テニスができなかったから、友達がテニスの話をしてたりするとつい食いついちゃってたよ」
八幡は良いお兄ちゃんだね、と戸塚はにこりと笑う。
「小町ちゃんのためにいろいろ気を遣ってるのはとても良いことだと思う。でも、小町ちゃんからしたら、そんなに気を遣われ過ぎても辛いんじゃないかな」
「そうなのか?」
「そうだと思う。だって、自分の好きな人が自分のために気を遣ってくれるのは嬉しいことだけど、その人がそれで悩んでいると嬉しくはないでしょ? それは自分のせいで悩ませているようなものだからね」
戸塚は先ほど買った小説をきゅっと握る。かさりと紙袋の音がした。
プレゼント選びもそうなのかもしれない。戸塚が誕生日プレゼントを選ぶのに、本人が辛くなるほど悩むのであれば、誕生日プレゼントを受け取る側も素直には喜べないのかもしれない。
いつぞや平塚先生に言われた言葉を思い出す。「君が傷つくのを見て、痛ましく思う人間もいるということにそろそろ気付くべきだ」。
戸塚はにこりと笑って、教えてくれた。他の誰でもない、過去を積み重ねてきた俺と小町なら大丈夫なのだと。
「だから、八幡が小町ちゃんにしてあげられることは、いつも通りに接してあげることだよ。だって、二人は仲の良い兄妹だからね」
遠くの夕日が音も立てずに沈んでいくように、彼の言葉が耳に沁みた。
∴
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【9】 言葉の意味
「あと、これは今日のお礼だよ」
と言って戸塚は、先ほどの本屋の紙袋から、文庫本を一冊取り出した。俺がおすすめした作家の新刊だった。
突然のことにハンドルを握る手が伸びなかった。
「え、お礼って」
「今日、いきなり呼び出して付き合わせちゃったし」
そう言って戸塚は本を差し出した。ハンドルに張り付いたように手が伸びない。
「本を選んだだけで、そんなこと」
俺はそれしかしていない。文庫本だってそんなに高くはないとはいえ、その程度でもらっても良いのだろうか。そもそも俺は、人に手助けをした程度で人からお礼をもらえるような人間だったのだろうか。少し卑屈すぎる気もしたが、これまでの経験上、そう思わずにはいられなかった。
戸塚はそんな俺の反応を予想していたかのようにくすりと笑う。
「いいんだよ、僕がお礼したいだけなんだから。受け取ってよ。僕は受け取ってもらえるとうれしいんだけどな」
ぐい、ともう一歩踏み出して本を差し出してくる。受け取ってもらえるとうれしいんだけどな、の一言は卑怯だと思います。でもその一言、例えば陽乃さんから言われたら背筋凍るな。これが大天使と大魔王の違いか……。
俺は本を受け取って言った。
「……わかった、もらう。ありがとうな、戸塚」
「うん。どういたしまして」
「でも、この本、俺がもう買ってたらどうするつもりだったんだ?」
鞄は家に置いてきてしまったので、ページを折らないように慎重に上着のポケットにしまい込む。
この新刊は、確かに俺はまだ読んでない。いただけるならありがたいことこの上ないが、もしも俺がすでに買っていた場合気まずさしかない。戸塚と気まずくなるくらいなら俺は死を選ぶ。踏絵をさせられるキリスト教徒の気持ちがわかった気がした。ちょうど戸塚も天使だからキリスト教と無関係ではないし。
「さっきの八幡の言い方でわかったよ。たぶん、新刊が出てることもあの本屋で知ったでしょ?」
確かにその通りだった。「お、こっちはその作者の新刊だな」という言葉は戸塚に新刊が出ていることを伝えたかったというよりも、俺がそれを認識したことを口に出しただけの、いわゆる独り言のようなものだった。だから戸塚の言うことは正解に違いないのだが、俺は彼がその一言だけで推測を当てたことに驚いていた。見た目は戸塚。頭脳は戸塚。それもう戸塚だな。名探偵天使。
「そうだけど、よくあんな言い方でわかったな。あれだけじゃ俺が買ってないとは限らないのに」
「そこはほら、八幡のことならいままで見てきたからね!」
えへへと笑いながら戸塚が言った。かわいすぎて抱きしめたい。歌詞パクリも辞さない。二人だけの夢を胸に歩いて行こう。
「八幡は」と戸塚は続けた。
「たぶん、自分で思っているよりも、みんなとは繋がっているから」
「繋がっている?」
言われたことの意味がわからず聞き返すと、戸塚はおどけて、そらんじるように言った。
「“ずいぶん忘れられてしまってることだ”」
聞き覚えのある一節、さきほど本屋で開いた文庫本の中のキツネの台詞だった。
最後に読んだのはいつだったか、もう曖昧になっている。
「“それはね、『絆を結ぶ』ということだよ……”」
記憶とは違うその言葉は、きっと戸塚が自分で買った方の『星の王子さま』の言葉だろう。
同じシーンでも、「なつく」と「飼いならす」のように、訳が違うだけでこんなにも印象が違う。確か「飼いならす」と訳した翻訳者は、日本語では元の言葉に完全に対応するものがないと言及していたんだったか。
表紙どころか本体まで擦り切れるほどに読んだ本でも、訳が違ったり、あるいは読む年齢が違ったりすれば、読み取れる意味合いは変わってくるだろうか。もしくはそれは本人の変化かもしれない。人間はそもそも見たいものしか見ないものだ。であるならば、それは本人が変わって、見たいと思うものが変わっただけなのかもしれない。
変わることは必ずしも良いこととは思わない。他ならぬ過去の自分を否定し、未だ知らぬ未来の自分を肯定する「成長」という言葉は、文化祭の時に相模が口にしていた。
でも、と戸塚を見ながら思った。
確か家の近くに、小さな本屋があったっけな。
∴
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【10】 問の答え合わせ
本を閉じて伸びをした。
サン=テグジュペリの名作は、さして厚くもない上に字が大きい。さくさくと読み進めて、目当てだった王子様とキツネの話までで栞を挟んだ。新品の表紙はさらさらと手触りが心地よい。
コーヒーでも淹れようかとソファから立ち上がる。日はとっくに沈み、窓の外は真っ暗になっていた。
時間は遅行性の毒だ、と窓の奥の暗闇を見ながら思い出した。映り込んだ自分の瞳が見つめ返してくる。
人が心を動かした出来事に忍び寄り、誰の関心も捉えないただの過去にする。良い思い出も、悪い思い出も、この毒には分別がない。
だから以前の俺はこの毒に助けられてきた。中学時代、辛い思い出を過去にしてもらってきた。人に拒絶された時間を忘れることで、へこんで沈み込んでも立ち上がることができた。
しかしつい最近、奉仕部が取り繕った空気にさらされて、始めてこの毒が恐ろしいと思った。
今回俺が気にしているのは、以前の奉仕部に流れた空気のように、関係性が崩壊するほどのことではない。俺個人だけの問題であり、もっと些細なものだ。
今俺が何もしなくとも、きっと雪ノ下とも由比ヶ浜とも気まずくなって話せなくなるようなことはないだろう。現実として、二人のどちらとも普段通り話すことが出来ている。
ではなぜ俺は、由比ヶ浜の発言でへこんだのだろうか。
暗闇の中の自分の瞳の奥に、過去の自分が潜んでいる。
お前はまだ逃れられてはいない、時間に任せて逃がすような真似は絶対にしないぞと睨まれているようだ。
毒はまだ、俺のトラウマまで過去にはしてくれていない。
俺には選択肢が二つある。
一つは、時間が俺の傷を侵し、流してくれるのを待つこと。
もう一つは、それに立ち向かうこと。
あの物語の中で、キツネは何を思っていたのか。
きっとそれが、俺のすべきことのヒントなのだ。
問はすでにある。三浦を拒否する葉山を見て思ったことだ。
“「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったんだ」”
机の上に置いた本を見て、キツネの台詞が頭に思い浮かぶ。
葉山と雪ノ下と陽乃さん。彼ら彼女らは、幼いころともに過ごした過去があった。俺と由比ヶ浜は、俺たちではけして入ってはいけないそれを目の当たりにした。今現在、昔ほど仲良くしているわけではないのだろうが、そこには確かに費やした時間があった。
しかし、いたずらに時間を費やしても、必ずしも良い関係を作れるわけではない。
時間は積み上げてきた峰である。だが溝にもなり得る。
折本と俺の関係がそれだ。折本が溝を感じているかどうかはともかく、少なくとも中学時代、折本と俺の間には、告白を受け入れてもらえない程度には溝があったことは事実だ。
きっとその溝は、時間を正しく費やせば峰となりえたのだろう。よしんば中学校に戻れたとしても、俺にそれができるとは思えないが。
そして溝があるうちは、人は他者を拒絶する。
それでなければ俺はいまごろぼっちなんてやっていない。溝を作っている原因はきっと俺にあるのだろうが、歩いて渡ってくれる人がいるのならば、友達の一人や二人作っている。
だがその拒絶とは、どんな人間でもすることなのだ。そう、どんな人間でも。
葉山隼人は進路選択の質問に答えることをかたくなに拒否している。普段あれだけ同じグループで時間を過ごしている三浦からの質問であってもだ。それはあのグループが偽物の関係だからという理由ではまるでないことは俺が身をもって知っている。何故かはわからないが、拒絶の一種であることだけは確かだろう。
由比ヶ浜結衣は良く知らない人間から告白されることを迷惑だと感じた。これは当たり前と言っても良い。俺のトラウマにかすって俺が勝手にへこんだだけで、普通に考えればそうなのだ。「普通、良いなあと思っている人に告白されたら嬉しいに決まってます」。一色はそう言った。つまりそうでなければ手放しに喜べる類のものではないのだろう。海老名さんも戸部の告白を未然に防いでほしがってたし。
そして……比企谷八幡も。
由比ヶ浜との一件でトラウマが顔を出していたからとはいえ、中学の頃のことに踏み込まれることを恐れていた。由比ヶ浜本人に折本のことを尋ねられた際、「普通だよ、普通」とそれ以上は話さないことを示し、一色に対しては完全に話すことを拒否した。
その挙句、彼女たち二人にはそれを察してもらって、それ以上の追及をされずに済んで安堵している始末だ。
さらに葉山の質問に対しては真っ向から拒否している。これはトラウマからくるものではないが、いずれにせよ俺自身人を拒絶するという証明の一つだ。
だが、戸塚は、俺なら大丈夫、と教えてくれた。
人は拒絶をする。しかし、繋がっていれば、絆を結んでいれば。拒絶は限りなく少なくなる。
この前提のもと、俺と小町ならば何をしても大丈夫だと言った。それは少なからず十五年間ともに過ごしてきた妹とのことだから、納得するのは難しくなかった。
しかし戸塚は、俺は自分で思っているよりも、みんなと繋がっていると言ったのだ。もちろん程度の差はあるだろうが、俺にも、小町以外のみんなと過ごしてきた時間があるのだと。言われてみれば俺は、由比ヶ浜がお団子を触るときは気分が揺れたときであるとか、雪ノ下を困らせたら彼女は眉間をおさえるとか、そういうことを知っている。
なによりその証明は、俺の独り言を見事見破ってくれた、その戸塚自身がしてくれているのだろう。
問と、解くための要素はこれで揃った。
あとは、答え合わせをするだけだ。
小町の分も淹れてやるか、とカップを二つ用意した。
キッチンの角度からは、窓の外の自分は見えなくなっていた。
∴
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【11】 特別棟の道
とはいえ答え合わせなどどうすれば良いのだろうか。
戸塚と本屋に行った翌日、自転車を学校に停めながら考えた。
マラソン大会まで、ひいては進路提出の日まではあと数日、いよいよ三浦からの依頼をなんとかする目途も立てねばならない。そもそも俺のトラウマについて考えている暇もなかったのではなかろうか。
しかし使ってしまった時間を嘆いても仕方がない。答え合わせも俺にとっては重要だが、三浦の依頼は時間制限付きだ。両方ともその方法に目途が立っていない以上優先するべきは依頼の方であることは間違いがない。とりあえずはそちらをなんとかすることにしよう。
あーでもないこーでもない、とうなりながら駐輪場を出たところで、目の前を青いポニーテールが横切った。
あれだ、名前に川がつく人だ。思い出すのもめんどいからこれから川さんでいいな。よし、OK。
先を行く川さんに続くも、声はかけなくても良い気がするのでそのままついていく。傍から見ると目の腐った不審者が女子高生の後をつけているようにしか見えないが、目的地が一緒でありかつ話しかけても話すことがないから仕方なさしかない。
それより三浦の依頼の方だよな、葉山の思考を追う方法も、材料がそろそろ頭打ちな気もするし、かといって他の人間から聞こうにもあの葉山がそれを話してることはないんだろうし……。あと知ってる可能性があるとしたら葉山の親くらいなもんだが、それはちょっとなあ。そういや陽乃さんは雪ノ下ならわかるとか言ってたけど結局本人にはそんなそぶりもない。
「ねえ、ちょっと」
「あん?」
依頼について考えていたら前を行く川さんがこちらを振り返って声をかけてきた。
え、話すこと……あるの? ないよね?
川さんは変なものを見る目でこちらを見ている。
「後ろでぶつぶつうるさいの、やめてくれる?」
先ほどまでの思案が口に出ていたようで、辛辣な物言いを食らってしまった。ここまで直接的に言われたのはけっこう久しぶりかもしれない。なんせ教室ではステルス機能全開だからな! 久しぶりなだけにダメージ量もまあまあでかい。
「すまん、口に出してるつもりはなかったんだが」
と言うと、川さんはふぅんと興味なさげに前を向き、すたすたと歩き始めた。ですよね、やっぱり他に話すことないですよね、話しかけなくて良かった。
俺も歩き出そうと足を動かすと、こちらを向かないまま川さんがぼそっとつぶやいた。
「なんか、悩んでることあるなら、誰かに相談すれば」
気遣ってくれたのか、不意の発言に目を丸くする。青いポニーテールは言葉面と同じく無愛想に揺れていた。
そんな面もあったとは。川さん……。
「川さん……」
「は?」
あ、口に出てた。そういや前にさーちゃんって名前を口にした時怒ってたから、本名以外で呼ばれるのを嫌がるのかもしれない。いやでも海老名さんにはサキサキって呼ばれてるしけーちゃんにはさーちゃんって呼ばれてるし……。そもそも本名でしか呼んではいけないなら俺はこいつのことを絶対に呼べなくなるな。なにせ名前を思い出せないんだから。
そういえば彼女に意外と優しい面があることは、以前からわかっていたことだ。弟の川崎大志と妹のけーちゃんを見れば、彼女のそういうところが川崎家では全面に出ていることが容易に想像できる。ああそうだこいつの名前川崎だ。
「いや待て俺のクラスでの様子知ってるだろ、相談できるやつなんていないんだが」
「や、別にクラスに限るとは言ってないけど……。同じ部活の二人とか、平塚先生とか」
確かに俺の個人的な悩みならそれでも良いかもしれないが、雪ノ下と由比ヶ浜についてはもう依頼のことは知っているし、葉山の個人情報を教師側の平塚先生から聞くわけにもいかない。ていうか教えんぞとまで言われたし。
しかし川崎にまで依頼のことを説明する気はないし、どう答えたものか考えていると、周囲に生徒が少なくなっていることに気付く。それを見てか川崎は言った。
「あ、もう予鈴鳴る時間だよ」
「え、まじ?」
考え事をしながらだったせいか、いつもよりゆっくり登校してしまっていたようだ。ていうか、なんでそんな余裕あるんだこいつは。
小走りになりながら昇降口をくぐり抜ける。
「お前、もっと時間なさそうに歩けよなっ」
「はあ、なんで?」
「ぼっちは目立たないように生活するのが鉄則だろ!」
ぼっちが持つステルス機能は重要な生命維持機能だ。それを失ったぼっちはリア充共の視線攻撃によってほろびる定めである。だが予鈴後に扉を開けて教室に入るような目立つ行為などしようものなら、この機能は容易に剥がれ落ちる。撃って良いのは撃たれる覚悟があるものだけだと言う言葉は有名だが、ぼっちは撃ち返す術がないのでリア充共は撃ち放題である。それただの虐殺じゃねえか……。
「意味わかんないんだけど……」
意味わかれよお前もぼっちだろ、という言葉は出かかってせき止めた。こんな場所で喧嘩を売ってる場合ではない、早く辿りつかなければあの教室は「なんだあの遅刻してきたやつあんなのこのクラスにいたか」という視線で針のむしろとなるのだから。
それにしても、相談か。と、ようやく辿りついた教室の扉を開けると、偶然、三浦の横にいる由比ヶ浜と目が合った。
彼女は小さく手を振って、おはよう、と挨拶してくる。が、教室内でトップカーストの連中と挨拶を、それも扉の前という目立つ場所でぼっちがするわけにもいかず、目線だけで彼女に挨拶を返す。
その意図を汲んでくれてか、彼女は満足そうに微笑んで三浦や海老名さんとの談笑に戻った。
朝のHRの予鈴が鳴った。
∴
放課後を告げる予鈴が鳴った。
HRを終え、クラスの生徒たちは鞄をつかみ、それぞれの部活や家に向かうために立ち上がる。俺も家に向かいてえ……。そして休日を迎えるまで家にいたい。もちろん休日は家から出ない。
が、今日もこのあと部活である。特別棟に向かうために立ち上がりつつ、由比ヶ浜に視線をやると、葉山や三浦と話している彼女もこちらに気が付いた。
あの調子だと、少しすれば来るだろう、と教室を出て、少し離れたところで待機する。
それにしても相変わらず葉山には付け入る隙がない。タイミングをうかがい続けてもそもそも一人になる時間がない。なんなら一人になる時間があっても作戦もないので何も聞き出せない。永遠に0(何もかもが)。
と、そんなことを考えていると由比ヶ浜がやってきた。
「おまたせ」
おう、と小さく返事をして特別棟に向けて歩き始める。
由比ヶ浜の方では何か収穫はあったりしたのかしら。
「どうだ、葉山のこと何かわかったりは」
「ぜんぜんだよー。隼人くん、その話題にならないように誘導するし、なっても絶対話してくれそうにないし」
辟易したような表情で由比ヶ浜が話す。やはり徹底しているなー。葉山なら話題の誘導くらいお手の物だろうし、戸部あたりの反応も利用すればATフィールドばりの防御力を発揮しそう。
しかしここまで徹底しているとなると付け入る隙はない。俺から聞きこまれたこともあってきっとちょっとした情報も出さないように気を配っているだろうし、やはり本人から何か得ることは期待できそうにない。
「やっぱ今までのやり方だとちょっと苦しいかもなあ。少し考え直す必要がありそうだな」
「そうだね、今日ゆきのんとも話してみようよ」
一人で考えるつもりだった俺の脳裏に、相談すれば、と言った今朝の川崎の言葉が蘇る。
確かに、三人で考えるのもきっと悪くない。
∴
廊下を歩いている途中、ところで、と由比ヶ浜が切り出した。
「なんだよ」
いつも通りに聞き返した。言い出したはずの由比ヶ浜は一瞬こちらを見つめて、
「ヒッキーさ」
とだけ言って口ごもる。
なんだろう……そんなに言いにくいことなのだろうか。あ、もしかして背中に値札とかつけられてる? いるんだよなーそういう気付かれないうちにシールとか貼り付けるのが面白いとか思ってるやつ。298円とかの値段が俺につけられたところで買うやつなんてどこにもいねえだろ。
由比ヶ浜は下を向いていたが、ぱっとこちらを見上げた。
「いいや、なんでもない」
にっと笑う。おお……そんなに面白いことでもあったんだろうか。
たたっと由比ヶ浜は小走りに先を行く。俺はその後を追って奉仕部へと向かっていった。
∴
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【12】 さよならの音
特別棟には相変わらず冬の寒風が襲い掛かっている。
奉仕部部室の窓はがたぴしと声を上げ、冷気をわずかに漂わせる。
一方で内側は、いつも通りの湯気に包まれ、暖かく保たれていた。
「葉山くんの様子は相変わらず?」
三人分の紅茶を淹れ、いつもの席に着いた後、雪ノ下が尋ねてくる。
「ああ、教えてくれそうな気配もねえな」
「そうだねー。あたしや優美子たちへの態度も変わってないよ。でね、さっきヒッキーと話したんだけど、別の方法を考え直した方が良さそうって」
由比ヶ浜が紅茶にふーふー息を吹きかけながら説明する。色々説明する手間が省けて助かったと思いながら紅茶を啜る。あ、これ人に働かせてる感あって新感覚だわ。専業主夫っていつもこんな感じなのかしら。
雪ノ下は顎に手を当てて思案顔になる。
「別の方法ね。今比企谷くんが試してる方法も効果はなさそうなのかしら?」
「そうだな。とても解決の目途は立ってない。別で考えた方が効率的だろうな」
「うーん、何か良い方法あるかな……」
それじゃあブレインストーミングからやっていこうか。議題はイベントのコンセプトと内容面のアイデア出しから。……おっとまずい、つい内なる意識高い系の俺が……。いやこれまんま玉縄だな。なんならあの時あいつの言った台詞と殆ど変らないんじゃねえか。今回のイベントのコンセプトっていったいなんだよ。
「あ、先生に直接聞いちゃうってのはどう?」
「さすがに個人情報を教えてくれるとは思えないのだけれど……」
ガハマさんはもっとロジカルシンキングで論理的に考えるべきだよ。お客様目線でカスタマーサイドに立つって言うかさ。…………やべぇ、内なる玉縄が張り切っている……。くっ、早く議論を終わらせてしまえ……我が内なる玉縄を抑えている内に……! ……いや待て今の材木座だな。うわあ……。
「そっかあ」
雪ノ下に正論を返され、由比ヶ浜は少し悲しげな表情をする。すでに俺も平塚先生に聞こうとしたってことは、言わなくても良いな、うん。たぶん俺が同じことを言ったら正論に罵詈雑言が混じって返ってくることは火を見るより明らかだし。ところで雪ノ下知ってたか? ブレインストーミングは人の意見を否定しちゃダメなんだぜ。だから、君の意見は、ダメだよ(ドヤ顔)。
「比企谷くん?」
「な、なんだ、別に何も悪いことは考えてないぞ」
「いえ、葉山くんがなぜ進路を誰にも教えないかについてどう考えるか聞きたかっただけなのだけれど……」
あまりに的確なタイミングで声をかけてくるから心の声が漏れてるのかと思ってしまった。でも実際悪いこと考えてないしね。雪ノ下に対して心の中でドヤ顔してただけだからね!
雪ノ下は俺の反応から怪しいと思ったのかじろりと睨みつけてくる。が、今それを追及する気はないのか、小さくため息を一つついた。
「それで、どう思うのかしら」
「ああ、葉山がなんで人に教えないかの理由か」
以前少し考えはしたことだが、確かに、その理由さえ知ることが出来れば進路そのものの予想もしやすいかもしれない。
問題はどう探るか、だが。
「現状じゃちょっとわかんねえな。何か知られると不都合があると考えるのが普通だが」
しかし、進路なんて文理で別れてしまった後ならば嫌でも周囲に知られてしまう。であれば、この短い期間にだけ知られてはいけない理由があると考えるのが妥当だろう。
期間限定の理由。この時期には何がある? 見当がつかなかった。
「私も、知っている範囲で家庭の事情から考えてはいるのだけれど」
「そうだねー。なんで隼人くん、教えてくれないんだろ……」
雪ノ下と由比ヶ浜のの口ぶりを聞くに、彼女たちははすでに考えている。俺が思いつかない葉山については、彼女たちがおおむねカバーしてくれているはず。とくに家関係から考えることが出来る雪ノ下が思いつかないとなると、正直なところお手上げと言っても良かった。
会話はそのまま並行線を辿り、結局、結論はつかなかった。
∴
うんうん唸っていた由比ヶ浜が突然、あ、と声を上げたのは、葉山に関して三人ともアイデアを出しつくしてしまった時だった。
何か良い案でも出たのかと俺と雪ノ下が彼女に注目を注ぐと、それに気付いた由比ヶ浜はばつが悪そうに頭のお団子に手を伸ばした。
「……あたし、今日、サブレのお散歩とご飯当番だった……」
なんだそっちかよ、思わずあの由比ヶ浜から名案でも出たのかと思っちゃったぜ……。いや出てくれた方が良いんだけども。
サブレといえば、いつぞやうちで預かっていた由比ヶ浜の家の飼い犬だ。しかし、当時由比ヶ浜から聞いていたサブレの餌やりの時刻はそろそろである。帰宅に使う時間を考えると、もう帰っていなければならないのではないだろうか。
「帰らなくて良いのかよ、あんまり時間ないんじゃないのか?」
別に必ずその時間に間に合わせなければならないわけではないが、待たせた分お腹は空く。人間と違って勝手に食べられるわけでもない以上、それは酷だろう。ついでに散歩もできないとストレスを貯める原因にもなりかねない。犬って飼われている限り養ってもらえるしストレスもケアしてもらえるのマジ羨ましいな。人間のストレスは貯まる一方だぜ……。
「うん、今日はママがいないからあたしが帰んないと。ごめんね、ゆきのん、ヒッキー」
「いいよ、そんなこと気にしないで」
「ええ、あまり待たせてはかわいそうだものね、早く帰ってあげたら?」
俺たちの言葉にありがとうと返し、由比ヶ浜はいそいそと帰り支度を始める。
バッグのファスナーを閉じ、コートを着ると、そのまま扉に向かった。
「片付けとか手伝えなくてごめんね、ゆきのん。ヒッキーも、また明日ね!」
バイバイ、と手を振って部室の扉を開けて行く由比ヶ浜に二人で手を振りかえす。扉が閉められたところで、かたり、とティーカップをソーサーに置く音がした。
「由比ヶ浜さんも帰ったことだし、今日はここまでにしておきましょうか」
「そうだな」
雪ノ下に続き、俺も湯呑みに手を伸ばした。今日の会話で口をつけるタイミングを損ない続けたことで、ぬるいとも言えないほどに冷めている紅茶を一気に飲み干す。
湯呑みを持ったまま立ち上がろうとすると、雪ノ下に止められた。
「手のついた雑菌で洗っては湯呑みが汚れてしまうわ」
「雑菌のついた手の間違いだよね? いや間違ってなくても心配されるほど雑菌ついてねえよ」
たぶんね? さすがに正体不明の比企谷菌とかはついてないと思う……たぶん。
ティーカップやマグカップと一緒に洗ってくれるらしいので、雪ノ下に湯呑みを任せる。
雪ノ下が紅茶を淹れてくれて、こうして湯呑みを任せて後片付けをする光景にも慣れてきた。
最初は自分で洗うつもりで立ち上がろうとしていたのだが、今では半分ポーズでやっている。ほとんどの場合雪ノ下が洗ってくれるのだが、任せきりというのも他人に甘えているようで、自分で洗う気があるということだけは一応示している。まあ実際やることないから任せきりではあるんですけどね! ちなみに由比ヶ浜は時々一緒に洗いに行っているが、二人がゆるゆりしているせいでその場合でも俺の出番はない。
戸塚の言葉が思い出された。
俺は由比ヶ浜のサブレの餌やりの時間を知っているし、雪ノ下に湯呑みを渡すことにも慣れた。
たかだか一年ないくらいの付き合いとはいえ、時間を重ねていることは確かだ。
あの問いの答え合わせは、ここでならできるのではないだろうか。と、不意に思いついた。
紅茶が香る暖かなこの空間は、きっと、俺にとってはこれ以上ない確かな場所だからだ。
雪ノ下が戻ってきたら、何を話そうか。
答え合わせと言ってもここ最近俺に起きたことをつまびらかに語ったところで、下手したらただの自分語りになりかねない。そんなことは「本物が欲しい」と言ってしまったことに続く黒歴史になることが確定する。オラもう家で悶えるのは嫌だゾ……。
うーんうーんと考えるもいまいち答えがでない。今日は考えても答えが出てこないことばかりだ。
そうこうしているうちに部室の扉ががらりと開き、雪ノ下が帰ってきた。
「あら、こんなところに汚れが」
「ねえそれ俺のことじゃないよね、ティーカップの洗い残しのことだよね?」
彼女は入ってくるなり不穏なことを言い放つ。ちゃんと風呂も入ってるし歯も磨いてるからはちまん汚れてないよ? 人間社会の醜い部分に汚されてしまった感はあるけど!
雪ノ下は洗い終えた三人分のカップとセットを丁寧に片し、帰り支度を始めた。
本をバッグに戻し、ファスナーを閉めたところで、彼女は椅子に座ったままの俺に怪訝な視線を向けてくる。とりあえず何か言わなければと、俺は先ほどまでの話題を口にした。
「葉山は、なんで誰にも教えないんだと思う?」
その話は先ほどもしたじゃないか、と雪ノ下の怪訝な表情が険しさを増す。
「いや、人に教えられないってことは、もしかしたらこの学校には葉山の進路を聞けるほど親しい人間がいないんじゃないかと思ってな」
補足をすると、ああ、と得心したように雪ノ下が顎に手をやる。
「なるほど、ただ単純に、葉山くんが誰にも進路を教えないのは、誰にもそれを教えたくないからというだけの理由なのかもしれないということね」
俺はこくりと頷いた。有り体に言えばそういうことだ。
俺も含めて、人は人を拒絶する。拒絶するラインは個々人によるだろうが、それ自体はここ最近の俺の身に起きた出来事からきっと間違ったことではない。
三浦や戸部を含む葉山のグループは、きっと俺が忌み嫌ったようなうわべだけの関係というわけではない。三浦は葉山のことを真摯に知りたがっている。他人に歩み寄ろうとするその姿がただの偽物のようには俺には見えなかった。
にも関わらず、葉山はかたくなに口を閉ざしている。
「もしかしたら、葉山が他人を拒絶するラインは、人よりも外側に引かれているのかもしれない」
思いついたことを口にすると、一瞬考えた様子を見せて、雪ノ下が頭を振った。
「いえ、人よりも内側、と見るべきかもしれないわ。なぜなら三浦さんが葉山くんのことを深く知りたがっているからこそ人に進路を知られることを拒否している可能性を否定できないのだから」
言われて気付く。確かにその通りだ。葉山は特定の誰かと恋人の関係になることを拒否しているし、きっと告白などもされないように注意して人付き合いをしているのだろう。
三浦もその例外でないとするのであれば、告白をされないための人付き合いの一環であるという可能性もまた浮上する。
そもそもが葉山隼人は他人の期待に応えようとする人物なのだ。
連覇のかかったマラソン大会では全力を尽くそうとしているし、修学旅行では戸部と海老名さんの相反する期待に挟みこまれていた。
俺だったら総毛立ってしまうような恐ろしい無理解の期待でもだ。無関係の人間からの期待を受け入れる人間の拒絶のラインはきっと外側に引かれてはいない。むしろ内側、自分を理解しようとする人間に対してこそ拒絶するとしてもおかしくはない。
「なるほどな、そうかもしれん。でも、だとしたら」
「ええ、結局本人から聞き出せる可能性は薄いわね」
もしも拒絶に理由があるのであれば、理由を解きほぐして答えを聞くことが出来たかもしれない。
しかし理由がないただの拒絶であれば難しい。あくまで仮説でしかないが、これが万が一本当ならば葉山隼人はこれ以上この学校の誰にも自分を理解されたくないと思っているのだろう。そして、その拒絶を解きほぐすにはきっと大変な時間が要る。
一瞬の沈黙が訪れた。
少し光明が見えた気がして、やっぱり振り出しに戻る、そんながっかりとした空気が流れた。
しかし、やはり雪ノ下は俺よりも葉山隼人のことを知っているのだろう。
拒絶のラインの話はもちろんだが、彼女たちの間に過去があることはすでにこの目で見てきた。
最近では、雪ノ下が葉山のことを口にするときには、常に彼女たちの過去がちらつく。
雪ノ下の過去。いまだ彼女が自ら語らぬそれについて、俺は踏み込んでも良いのだろうか。
「……雪ノ下は?」
逡巡しているうち、自然と声になってしまっていた。
気付いた時にはもう遅かった。彼女の過去に足先が入り込んでいる。
「私?」
虚を突かれたように雪ノ下は聞き返す。この状況で彼女に話を聞くことが依頼達成につながるのかどうかと聞かれたら、きっと答えに詰まっただろう。
「……雪ノ下は、そういう、他人を拒絶するラインはどこにあるのかと思っただけだ」
言葉はどんどん小さくしぼんでいく。
つい口にしてしまったが、質問が直截にすぎた。
以前平塚先生に言われたことでもあるし、何度か自分で思ったことでもあるのだ。俺にいつか、雪ノ下に踏み込むべき時がくるかもしれない。
今がその時だとは思わない。だが、もしも聞けるならとふと思ってしまったことが口に出た。言ってから後悔する。これでは小町の時と同じだ。口にすることを迷う質問を、より直截な形でしてしまう。あの時は相手が小町だったから良かったものの、今の相手は雪ノ下だ。
雪ノ下は答えにくそうに眉間にしわを寄せる。
彼女の目に俺はどう映っているだろうか。彼女からの見え方を気にする、醜い、何かの化け物に見えてはいないだろうか。
「そうね、きっと私にも、そういう拒絶はあると思うのだけれど」
考えたことがないからすぐには出てこないのだろう。雪ノ下は一人しか部員がいないころから奉仕部として他人の悩みを聞こうとしていた。であるならば彼女自身の拒絶のラインは、俺よりは内側にあるのかもしれない。
「でも、少なくとも最近は、拒絶はしていないわね」
ふっと息を吐くように雪ノ下は微笑んだ。
最近は、という言葉がある一つの意味を持っているように感じた。
奉仕部を取り囲んだあの空気。由比ヶ浜が必死でつなぎとめていた、俺たちの取り繕った空気。
紅茶の香りもせず、どこかうすら寒かったあの部室。つい最近、それが暖かく変化した。
人は人を拒絶する。しかしそれはその関係によるものだ。
積み上げた時間が溝となれば拒絶が発生するし、あるいは何も積み上げてなければこれもまたそのラインに触れかねない。
だが、もしも積み上げた時間が峰となるならば、そこに拒絶は発生しないのだろう。
あ、と声が出た。
「大丈夫だよ」という戸塚の一言を思い出す。
雪ノ下は、もしかして。
俺は座ったまま呆けていたが、一方の雪ノ下は、「なにかしら」と言わんばかりに微笑みを絶やさない。
「……いや、なんでもねえよ」
「そう、なんでもないのね」
これは小町の時と同じ、そういうことなのかもしれない。
「帰りましょう」
雪ノ下はマフラーを巻いてコートを羽織った。
同じように、俺もマフラーを巻いて、コートを羽織った。
今がその時だとは思わない。だけど……。
∴
奉仕部の扉をがらりと開けながら、ところで、と雪ノ下は切り出した。
開いた戸の向こうからは冷気が滑り込んでくる。部室の暖気との温度差に身震いした。
「なんだよ」
いつも通りにこう答える。あれ、さっき奉仕部に向かうときにもこんなやり取りがありましたね……。
「由比ヶ浜さんとはもう何もないのかしら?」
寒気に固められたかのように体が硬直する。
一方で雪ノ下は微笑みを絶やさないままだ。
「何も、って、どういう何も、だよ」
「あら、私は何があるかなんて知らないわよ」
雪ノ下はくすりと笑う。余裕を見せる表情は陽乃さんを思い起こさせるようだ。
なんだこいつ、鎌をかけたのか。
いや、それにしても鎌をかけようと思うほどには俺と由比ヶ浜の関係が不自然に見えていたということの方が重要なんだよなあ。別に何もないんだけども。一色にも勘違いされてたけど、あのたった一回がそんなにわかりやすかったのだろうか。
「さっき拒絶の話が出たけれど、そんなに気にする必要はないと思うわ」
雪ノ下は部室から一歩踏み出しながら言う。背を向ける形となったため、もう顔は見えない。
揺れた黒髪の向こうで小さく、だって、という言葉が聞こえてきたが、そこから先は聞こえなかった。あるいは何も言っていないのかもしれない。
彼女にならって足を踏み出す。戸を閉めた音が、紅茶の香りと暖気に包まれた部室に名残を惜しんだ、「また明日」に聞こえた。
∴
次回、最終話です。
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【13】 夕暮れの信号機
夕暮れが校舎も人も真っ赤に染め上げている。
鍵を返却しに行った雪ノ下と別れ、自転車を押して駐輪場を出る。
さきほどの雪ノ下との会話を思い出しながら学校の外に出ると、少し離れたところに見慣れた顔があることに気付いた。
歩いて近づいて行くと、向こうもこちらに気が付く。
「なにしてんだ、こんなところで」
「あ、ヒッキー」
由比ヶ浜結衣が立ち尽くしていた。
十分ほど前に別れたはずの彼女は、夕日のせいで赤く色を付けられている。
「バスがちょうど先に行っちゃってさ」
ついてなかったよー、と残念そうに笑う。さっき奉仕部を出て行ってから急いでバス停まで来たのだろうが、目の前で先に行かれてしまったというわけか。確かについていない。
由比ヶ浜の家は駅から歩いて数分のマンションの内の一つだったはずだ。
「バス、次はいつ来るんだ」
「あと十分ないくらい。だいたい十分間隔で運転してるから」
その程度であれば、次に来るバスを待って帰った方が、歩いたり走ったりするよりは確かに早そうではある。とはいえ待つ時間は退屈だろうが。
暇つぶしくらいは付き合ってやろうか、とふと思う。
「ヒッキーは? もう帰り?」
「ああ、別に依頼も来ないだろうしな」
「そっか。あ、そういえば前、ヒッキーと一緒に帰ったね」
生徒会選挙の時のことだろう。
雪ノ下に引き続き、由比ヶ浜が生徒会長に立候補する、と言い出した時のことだ。
あの時も、こんな夕日が落ちていた時だった記憶がある。
「……ほんのちょっと前のことのはずなのに、ずいぶん時間が立ったような気がするな」
呟くように言うと、目の前の彼女も首肯する。
この少しの間に色々な変化があった。俺の中では俺自身の変化も大きな割合を占めているが、彼女たちにもきっと変わったことはあるだろう。俺から見てもいくらかの変化は見てとることができる。きっと由比ヶ浜はそこも含めて頷いているはずだ。
自転車に触れた手に視線を落とす。
俺の中での色々な変化にまつわる出来事に、少なからず、いや、かなり大きな範囲で彼女たちは関わってきている。
由比ヶ浜を見ていると、正月のあの日が思い起こされた。
雪ノ下、葉山、陽乃さんの過去。
由比ヶ浜の中学時代。
折本との再会。
小町に見抜かれた心境。
思えばここ最近の俺は、あの日から「拒絶のライン」に怯えて暮らしていた気がする。
「なあ、由比ヶ浜」
どうしたの、と彼女がこちらを見上げる。
俺は自転車のハンドルを握りなおした。
∴
「珍しいね」と背中越しに声が聞こえてくる。
真正面から襲ってくる風を肩で切りながら、「なにが」ととぼけた。
「ヒッキーがこういうの、自分から言ってくれることだよ」
はにかんだ笑みで出したような声で、由比ヶ浜が言った。
以前二人で歩いた公園の脇を抜けて、その先へと自転車のペダルを踏み出す。
二人乗りは小町と時々しているので慣れていた。
「それよりさ、今日、部活に行く前になんか言おうとしてただろ」
由比ヶ浜の質問に真面目に返すのも気恥ずかしく、話題を無理矢理変える。
危ないので後ろを向くことができないため、気持ち大きな声で話しかけた。
「あれ、なんだったんだ」
問うと、あーあれねー、と少し答えにくそうな声が返ってきた。
まあ別に答えてもらわなくとも良い。話題を変えたかっただけだし、あの時の由比ヶ浜の様子からして、きっと伝えなくとも問題があることではないのだと思う。
少し待っていると、由比ヶ浜がまあいっか、と口を開いた。
「正月からヒッキーの様子が少し変だった気がして、それを聞こうと思ってたんだよ」
ペダルに乗せた足ががくっと外れそうになった。
なんでそんなにばれてるんだ……。一色に雪ノ下に由比ヶ浜に……。いや、由比ヶ浜は正月のあの日のある意味直接の原因だったから、本人が一番気付きやすいんだろうけど。
「実はゆきのんにもちょっと相談してたんだけどね。でも、最近のヒッキーはいつも通りに見えたから、やっぱり言わなくてもいいかなって思ったの」
……今日の雪ノ下が鎌をかけてきたのはそういうことだったのか。別に様子が変だったことに気付かれてたわけじゃなかったのね。
考えてみれば妙にピンポイントな言い方だとも思ったんだよなー。ちょっと安心しました。
「俺はいつも通りぼっちだから。なんなら未来永劫変わらないまである」
「それは変えた方が良いと思うよ!?」
一つ先の信号が赤いので少しスピードを落とす。
このくらいゆっくり行けば、横断歩道にたどり着くころには青くなっているだろう。
「でも、今日のヒッキーは自分から二人乗りするかなんて言ってくれたから、そこは変かも」
くすくすと少し嬉しそうな笑い声が聞こえてくる。
確かにプロぼっちを自称する人間がこんなことを自分から言い出すようではいけないな……。もっとストイックに! もっと自分に厳しく! ……これはどっかの意識高い系だ。ストイックって元の意味は「禁欲的な」らしいけど。
「今日はサブレがお腹空かせるとかわいそうだからな、一日限定だ」
「一日限定の優しさなんてあるの!?」
「あるある。なんなら俺に向けられる優しさは一日限定どころか一回限定だし」
由比ヶ浜はたははと呆れたように笑う。実際、他に帰宅する生徒がたくさんいる時間帯だと二人乗りなどやっていたかどうかわからない。
建物の影のかからない場所に出ると、夕日に赤く染められ、冬を忘れるような温かさを感じた。彼女も感じているのだろうか。
「じゃあ、一日限定なら、このままディスティニーランドまで行ってもらおうかな、せっかくだし」
「十二月にも行ったのにまた行くのかよ……」
「あ、じゃあシーの方行こうよ! そっちはいつか行くって言ったじゃん」
「いつかだろ……ていうかサブレ放っといて良いのかよ」
言い返すと、えー、と由比ヶ浜がむくれる。
由比ヶ浜との会話は、以前よりこんな感じだった。それが少し懐かしく感じてしまう。
あの日由比ヶ浜と感じた距離感は、どちらがとったものなのだろうか。
きっと俺だろう。顔を出した中学のトラウマが、俺をいつもより臆病にさせた。
由比ヶ浜はきっといつでもいつも通りだった。いつでも俺と話してくれている。
目の前の信号が思ったより長いこと赤色を灯していて、もう少しブレーキに力を込める。
LED光源の赤色は夕日のそれに溶け込んで、いっそう強く、「止まれ」と主張しているようだった。
たくさんの人に、色々なことを教えられた。
俺の中に潜む何かの化け物は、きっとこれからもずっと、少なくともしばらくの間は居座り続けるのだと思う。感情の理解できない、人未満の存在であり続けるのかもしれない。
でもきっと、俺が願うものは変わらない。キツネが願ったあの時間を、俺も変わらず求め続ける。
ゆっくりゆっくり、倒れないように自転車を進ませる。
真っ赤に染め上げられた横断歩道に差し掛かった。歩行者用の小さな信号機は、相変わらず赤色のままだ。
完全に止まろうとブレーキを握りかけたその瞬間、暖かな夕日の赤色の中で、一際目を引く青色が、「進んでも大丈夫」と教えてくれた。ペダルを踏み込むと、心地よい風が俺たちを歓迎した。
<了>
ここまで読んでいただきありがとうございました。
ちなみに原作では由比ヶ浜とヒッキーは「シー」と明言せず、「(ディスティニーランドの)隣」と表現しておりましたが、このシーンで「隣」と表現するのも変かと思いこのような会話にしました。
今回話を書くにあたって参考にしたのは新潮文庫、河野万里子訳の『星の王子さま』です。
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