ヒフウノナナフシギ (ナツゴレソ)
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1.忘れられた神社

「ねえ、メリー」

「何かしら?」

 

 私の真横を夜の景色が流れていく。等間隔に弛む架線を目で追うのも飽きたところで、私はボックス席の向かい側でつまらなそうに小説を読むメリーに笑いかける。

 

「星が綺麗ね」

「口説き文句かしら?」

 

 打てば響く。そんな反応に私は思わず吹き出してしまう。

 メリーを秘封倶楽部に勧誘して本当によかった。自分の慧眼と勘に酔いしれてしまいそうだ。まあ、誘ったのは一人だけなのだけれど。

 

「ふふ……」

 

 私は一人優越感に浸りながら、窓枠に肘を突く。薄ら闇に浮かぶ山々、その間から夏の夜空が見え隠れしていた。列車はスピードを落とすことなく山間部を走り続けている。

 今や重要文化財にまで登録されたレトロな列車だが、乗り心地は案外悪くない。むしろこの揺れが、旅をしているという感覚をひしひしと伝えてくれていた。

 闇の中に薄っすらと浮かび上がる光景と列車の振動を堪能していると、読書に飽きたのか唐突にメリーが本を閉じる。そして私をジト目で睨みつけてきた。

 

「何よニヤニヤしちゃって……この際だからはっきり言っておくけれど、こんな時間になったのは蓮子の遅刻が原因じゃない! 貴女の立てた予定では、今頃ホテルのベッドでウトウトしている筈でしょ? もうチェックインの時間に間に合うかすらわからないじゃない!」

 

 どうやら溜まっていた鬱憤に火がついてしまったみたいだ。それからというもの遅刻の事から普段の習慣、食事の好き嫌い、その他諸々細かい事象を、目くじらを立てて怒り始めた。読んでいた小説が相当つまらなかったのかしら?

 私は適当に相槌を打って聞いているフリをしながら、星と月を見つめる。時刻は22時42分。終点の駅に辿り着くまで、もう幾許もなかった。

 

 

 

 

 

「やっと着いたわ七代市! 魅惑のオカルト都市!」

 

 私はビルの並び立つ街並みに向けて拳を突き出す。

 冷静になれば人目を気にしない恥ずかしい行為だけれど、今の私はそんな些細なことに囚われるようなつまらない気分ではなかった。それに真夜中の駅は人がまばらで、光源に寄ってくる虫の方がまだ賑やかだ。気にする人の目がなければ自重する必要もない。

 列車の長旅で疲れた身体を伸ばしていると、隣でメリーがため息を吐いた。どうやら怒り疲れたみたいね。短気は損気だ。メリーはしばらく気怠そうにスーツケースへ腰掛けていたが……少し待つと緩慢な動きで立ち上がる。

 

「……疲れたわ。早くホテルに行きましょう」

「あ、メリー! そっちじゃないわ!」

 

 私はヨロヨロとゾンビのように歩き出すメリーを呼び止める。すると、メリーが街灯の薄明かりでも分かるほどむくれた顔で振り向いた。

 

「蓮子。いくらなんでも駅前のホテルまでの道のりは間違えないわよ」

「そうじゃなくて……まだチェックインまで時間があるから、ちょっと寄り道しない?」

 

 そう提案すると、メリーは露骨に嫌な顔を浮かべる。そしていそいそとポケットから金メッキの懐中時計を取り出し、私に向かって突きつけてきた。

 時計を見なくても星の位置でわかる。時間は23時03分。私達が予約したホテルのチェックインは日付が変わるまで。つまり……

 

「あと一時間も余裕があるじゃない」

「こういうときはあと一時間切ってるって言うの! どうして星を見るだけで時刻が分かるのに、そんなに時間にルーズなのかしら!?」

「時間がよくわかるからこそ、時間に振り回されないのよ。大丈夫、すぐ近くだから!」

 

 私は強引にメリーの手を取って引っ張る。すると渋々といった様子で付いて来てくれる。何だかんだで付き合いがいいところも、私がメリーを気に入っている要因の一つだ。

 夜はまだまだ長い。せっかく気分が乗っているのだ。目が覚めているうちは余すことなく楽しまないとね。

 

 

 

 この七代市は片田舎の町としては異常な発展している。街の中には無人バスの路線が張り巡らされており、街中はどこも綺麗。町の中心には高層ビル街があり、港には豪華客船が止まることもある、とのこと。ま、噂で聞いただけで本当かどうかはわからないけれど。

 そのせいで街全体で脱税している、とか近海でレアメタルやらメタンハイドレートが取れる、とかマフィアの街だとかいろんな噂を耳にする。けれど一番面白そうだったのは『妖怪が発展に関わっている』というものだ。

 詳しくは割愛するけれど、はっきり言って時代錯誤で突拍子、馬鹿げた噂だ。けれど、だからこそ確かめてみたかった。せっかくの夏季休暇を丸々使ったんだ。何か面白いものが見つかればいいのだけれど……

 

「一体どこに行くの?」

 

 踏切を渡り終えた所で、メリーが私の背中越しに問いかけてくる。私はアスファルトの上でくるりと一回転してから、メリーに微笑んだ。

 

「着いてからのお楽しみ」

「……本当に楽しめるのかしら?」

 

 メリーは茶化されたのが不服だったのか、呆れたように肩を落とす。

 駅の裏手は随分と閑散としていた。表側は背の高いビルがこれでもかと並び建っているのに、こちら側は住宅街が点在する程度で少し歩くと鬱蒼とした山にぶち当たってしまう。これだから噂話は当てにならない。

 が、それにしても奇妙な土地だ。真っ先に開発されていそうなのに、北側は全く手付かずになっている。随分ノスタルジーを感じる景色が残ったままだ。

 気になる、けれどまあ、時間はある。それもおいおい調査していくことにしましょう。

 虫の声を聞きながら木々に沿うよう歩いていくと、お目当てのものはすぐ見つかる。暗がりに浮かび上がる石の鳥居と階段を見て、メリーは訝しげに眉をひそめた。

 

「……肝試しかしら? 時期は合ってるけれど、今やらないといけない?」

「メリーの肝が据わってることくらい知ってるわよ。それより怪しいと思わない? この神社」

 

 私は短いが急な階段を登りながら、メリーに問いかける。けれどスーツケースを持ち上げて登るのに必死の様で、聞いてそうになかった。

 せっかく色々調べたのに……とは言っても、どんなに調べても名前すら分からなかったんだけれど。祀っている神様も管理者もわからない。いつ朽ちるかわからない神社。そこが妖怪の世界への入り口だなんて、ありそうな話だ。是非メリーに見てもらわなくちゃ!

 

「よっ、と!」

 

 私は早る気持ちを抑えきれず、スキップするように階段を駆け上がる。こんなこともあろうかと、荷物はスポーツバックに詰められる程度しか持ってきていない。旅は身軽なのが一番だ。必要なものは必要になったら探せばいいのよ。

 

「とう、ちゃくっ!」

 

 私は仁王立ちで鳥居の前に立って、辺りの様子を伺う。境内には小さくぼろっちい本殿とそれに寄り添うように植えられた立派な桜があった。脇には絵馬掛けが置かれいるが、新しいものは見当たらない。参拝客はほとんどいないらしい。

 ごく普通のさびれた神社だ。つまらない。そんな身も蓋もない感想を抱いていると、メリーがようやく階段を登りきった。

 

「はぁ、はぁ……もしかしたら『入口』かもってこと? 蓮子は外れもいっぱい引くからねぇ。期待はしていないわ」

「可能性を逐一検討していくことで科学は進歩していくものよ。失敗するのは当然。そこから何を得られたかが大事なの」

「科学とは真逆のことをしてるんだけどねぇ、私達」

 

 メリーは苦笑しながら、ジッと神社を見据える。その瞳は闇の中でも僅かな星と月の光を吸い込んで輝いていた。メリー曰く世界の結界、境目が見える特別な瞳だ。

 ……そういえば、一度メリーに片目を交換しない?って冗談で聞いてみたことがあった。その時は、私のように星と月を見るだけで時間と場所がわかるようになるなら考えなくもない、って返されたんだけど……

 

「今思えば馬鹿馬鹿しい話ね」

「ん、何か言った?」

「独り言よ。気にしないで」

 

 私はつい口を突いた言葉を誤魔化しながら、境内から夜空を見上げる。列車の内よりも何倍も多い星が私の目に映る。

 現代の医療技術なら拒絶反応もなく片目を交換することぐらい訳ない。けれど私の目に地図と時間が表示されるわけじゃない。逆もしかり、きっと私がメリーの眼を得てもきっと境目は見えないだろう。

 私は私だ。そして……メリーはメリーだからこそ結界を見ることができるのだろう。ま、もし出来たとしても絶対しないけどね。

 だって……私に『何もないこと』こそ意味があるのだから。

 

「どうメリー? 見えた?」

「……ええ、久しぶりの当たりよ」

 

 そう言うとメリーは鳥居をくぐり、本殿の方じゃなく桜の木の下へ向かっていく。その背を追いかけると、メリーは緑の桜の前でおもむろに振り返る。

 

「蓮子、この桜はどう見える?」

「どう、って……ただの葉桜よ」

「やっぱり? 私には満開に咲き誇っているように見えるわよ。地面も花びらでカーペットみたいになってる。今すぐ花見が出来そうよ」

 

 そう言ってメリーは両手を広げクルリと一回転してから、再び桜と向き合う。そのやけに遠く見える背中から目を離せなくなる。

 何もわからない人間からしたら、ただの妄言だ。一度サナトリウムに連行されて隔絶治療させられたけれど、それも仕方がない。

 人は自分が知覚できないもの、理解できないものを恐れる。自分の世界に、環境に異物が入ることを嫌う。さながらアレルギー反応のように。本来無害なはずの成分も身体が否定すれば毒物になる。

 特に異邦人であり異質でもある彼女のような、目に見えた劇薬は触ることすら躊躇われてしまう。誰もその正体を確かめることをせず、頭ごなしにメリーを信じようとしなかった。

 

 

 

 けれど……いや、だからこそ私はメリーを信じたかった。

 

 

 彼女一人の世界でしかない夢の出来事を現実にするためには、客観的な視点が必要になる。共有し、観測する誰かがいなければならない。

 きっと私が彼女の手を掴んでいないといけないんだ。そうしないといつか彼女は自分の夢の中へ、結界の向こうへ行ったまま戻ってこなくなる気がするから。

 気付いたときには、私は隣に立つメリーの手を取っていた。突然手を取られて驚いたのか、透き通るような目と目が合う。

 

「……蓮子?」

「私にも見せてよ」

 

 私はメリーの右手を自分の両目に当てる。こうすることによって、私はメリーの見る景色を共有することが出来るのだ。

 完全な闇の中、手探りでメリーの左手を捕まえ、無理握る。すると、メリーはクスクスと笑い声を上げた。なんだか馬鹿にされたような、子供扱いされたような笑い方だ。カチンときた私は文句の一つでも言ってやろうとする。が、その前にメリーが耳元で囁いてきた。

 

「そんな急かさなくても、桜は散らないわ」

 

 その瞬間、視界に幽玄に咲き誇った季節外れの桜が広がった。

 地面には桜色の絨毯、はらはらと絶え間なく花びらが降り注いでいる。夜で月と星しかまともな明かりはないというのに、その桜は妖しい光を帯びているようで、暗闇でもくっきりと浮かび上がっていた。

 張り付くような湿気とじんわりと身体を蝕んでいく熱気が、確かに季節を教えてくれている。真夏に咲き狂う夜桜、確かにそれはあった。

 

「……何なのかしらね、この桜?」

「さあ、もしかしたら霊樹ってやつかもね。根元に死体が埋まってるかも」

 

 メリーの問いに適当に答えると、ふーんと興味なさそうな音が返ってくる。そもそも事前に調べた時も御神木があるなんて、どこにも書いていなかった。ま、これから調べるのに的が絞れた、と思っておこうかしら。

 私が妖艶な景色を眺めていると、おもむろにメリーが桜の幹に触れる。そこに視線をやると幹の一部に穿ったような穴が空いており、そこから緑色の光が零れていた。

 

「これは……」

「まさか、それが『入口』? 流石にこの間には入れないんじゃない?」

「そうだけれど、これくらいしか、それらしいものは……」

 

 ブツブツと呟きながら、メリーがその光に触れようとする。その瞬間、境内にカツーン、カツーンと何かを叩く音が響いた。

 

「な、何!?」

 

 メリーが声を上げ、辺りを見回す。その拍子にメリーの手が私の顔から離れ、視界が真っ暗闇に戻る。けれど、その音は止まない。メリーの感覚を介して聞こえていたんじゃない。私の耳にも聞こえているみたいだ。

 私も目を開けて辺りを見回すが、音のなるようなものはない。もしかしたら周囲の山林の中で、誰かが牛の刻参りでもしているんじゃないかと思ったのだけれど……流石に確かめる勇気は持ち合わせていなかった。

 

「れ、蓮子……」

「………………」

 

 メリーの呼びかけに答える余裕すらない。

 しばらくすると不規則なテンポで繰り返される音は、段々とくぐもったものになっていく。そして、突然ピタリと音が止んだ。

 気付けば虫の声もまったく聞こえない。痛いと感じるほどの静寂に包みこまれていた。自分の鼓動が、呼吸音がメリーに聞こえてしまうのではないか、と考えてしまうほど静かだ。

 どれくらい時間が経っただろうか? 結局何も起こらなかった。私は額の冷や汗を拭い、何気なくいつもの癖で時間を確認しようと空の星を見上げる。

 

 

 

 赤い複眼と目が合った。

 

 

 

 びっしりとした細かい体毛に覆われた巨大な腹部が小刻みに動く。闇の中をよく見ると鳥居の柱ほどの太さの長い八本足が私達を取り囲むように広がっていた。まるで鳥カゴのように。数えきれないほどひっ付いている赤い目の下には死神の鎌のような鋏角。その奥には、奇怪に動く、牙だらけの口が……

 

「ヒッ……」

 

 冷静に確認できたのはそこまでだった。今私達の真上に巨大な蜘蛛がいた。しかも、メリーの眼を介してではなく、私の、境目どころか幽霊も見えない目が、それを確認したのだ。紛れもない、本物、現実、リアル……?

 ……以前、衛星『トリフネ』の中でキマイラに出会った時は何ともなかったのに、背中に怖気が走る。絶叫したい、慌てふためき、逃げ出してしまいたい。本能から来る恐怖が生きるための欲求を駆り立てていた。

 けれど動けない。赤く光る複眼から目を離すことができない。蛇に睨まれた蛙だ。

 ただ、発狂せずにいられたのはメリーと繋いだ手のお陰だった。伝わってくる体温が、私になけなしの勇気を与えてくれる。

 逃げ、ないと……! 逃げないと、逃げないと逃げないと!

 

「メリー!」

 

 私はメリーの手を引いて、鳥居に向かって駆けだす。その瞬間、目の前に巨大蜘蛛の鋭い足が降ってきた。

 咄嗟に、メリーに覆いかぶさるようにして避ける。ただの反射、無我夢中で身体が勝手にそうしていた。メリーと抱き合いながら地面を転がる。素肌を晒していた腕に小石が刺さる。口の中に土の味が広がって不快だ。

 

「蓮子……!」

 

 メリーが震える声で話掛けられるが返事することは出来ない。あぁ、これは、駄目だわ。逃げられない。私は起き上がることも諦め、ただ横たわったままメリーを抱きしめ、身体を強張らせた。

 怖い……怖い! メリーの襟元に首を埋めて、目を閉じる。もう何も見たくない。

 頭の上で湿ったような気色の悪い音が鳴っている。耳も塞いでしまいたかった。

 ……私、どうなるのかな? あの足で串刺しにされてあの口で食われるのかな。それとも、糸でグルグル巻きにされるのかな。どっちも嫌だな。

 最後の瞬間に備えながらも私の頭は至極冷静に、いや至極呑気な思考を転がしていた。その中でふと私と運命共同体となってしてしまったメリーのことを想う。

 ……私の事恨んでるかな。私がここに来なかったらこんなことにならなかっただろうし、恨まれても仕方がないよね。

 

「ごめんね、メリー」

 

 私は耳元で囁いた。そして意識を手放そうとする。もう何も見たくない。何も考えたくない。何も……

 

 

 

 

 

「蓮子……蓮子!」

 

 ……気付けばメリーが私の名前を呼びながら背中を叩いていた。結構な強さだ、痛い。仕方なく私は片目を開ける。するとメリーが茫然と私の後ろの方を見ていた。

 その視線に釣られ、私も起き上がってそちらを振り向く。石畳に巨大な蜘蛛の足が横たわっていた。それも根元からすっぱり切り取られたものだ。切断面は……見ないようにしておこう。

 そして、その足の奥に一人の男性が立っていた。夏だというのに派手な黒のコートを着込んでおり、右手に持つ大振りの刀が月明かりを弾いている。パッと見、ただの痛い人だけれど化け蜘蛛と対峙するその背は頼もしく映った。

 

「下がれ!」

 

 私達に言ったのか、化け蜘蛛に言ったのかわからないけれど、男性が叫ぶ。すると、蜘蛛は臆したように口からギチギチと嫌な音を発しながら、後退していく。

 平均的な身長に、細めの体躯。顔は暗闇ではっきり見えなかったが、さほど特徴的な顔をしていないのはなんとなくわかった。やけに大きな刀を持っているけれど、まさか彼があの化け蜘蛛の足を斬った……訳ないわよね?

 

「どういう……こと?」

 

 何が何だかわからない。縋り付いてくるメリーも困惑しきっていた。この人はいつの間にここへ来たんだろうか、そもそも味方なのだろうか?

 まるで天使が通ったかのように神社に僅かな静寂が戻ってくる。瞬きするほどの時間の安堵はいとも簡単に奪われる。すぐさま化け蜘蛛が男性に向けて複数の足を振り上げた。

 

「紫さん、そこの二人を頼みます!」

 

 男性が振り向かずに、肩越しに叫んだ。その刹那、地面に巨大な足が連続で突き刺さり、それで巻き上げられた砂埃で彼の姿が見えなくなってしまう。粉塵は私達のところまで飛び散ってくる。それに耐えられず私は目を閉じてしまう。

 

「ええ、任されたわ」

 

 閉ざされた視界の中、女性の声が聞こえる。何処かで聞いたことのある様な声だ。

 薄目で辺りを見回すと、いつの間にか隣に誰かが立っていることに気付く。どうやら背の高い女性のようだった。

 砂埃が晴れて段々と姿が露わになってくる。金髪の髪、派手な紫のドレス。そして……メリーと瓜二つの、顔。

 

「え……?」

 

 メリーの方から、気の抜けた声が上がる。フラフラと立ち上がり、ドレスを着た女性と向き合う。背の高さや瞳の色。細部は違うけれど、まるで合わせ鏡のようだった。

 私も歯を食縛りながら立ち上がり……

 

「何が、なんなのよ……」

 

 私は次々と起こる理解不能の出来事を処理できずに、ただ茫然と呟くことしかできなかった。

 

 

 

 

 

 その日私達は初めてメリーの力に頼らずに、不思議を共有した。けれど、私は……それを楽しむどころか受け入れる事すらまともに出来なかった。



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2.非日常の境目

 艶やかで長い金髪、高い鼻に白い肌……そして、瞳。背も私より高いし、大人びている様にも見える。違うところを上げたらキリがない。

 なのにどうしてだろうか、まるで鏡の前に立っているような錯覚を感じてしまう。むしろ鏡合わせになってないことに違和感を覚えている私がいた。

 もしかしたらこの人は、どこか違う場所の私なんじゃないだろうか? そんなことを思ってしまうほどに、私と目の前の女性は似ていた。

 

「あな、たは……誰?」

 

 私は思わず問いかけてしまうが、女性は何も答えない。

 ああ、そうか。流石オカルト都市だわ。着いて早々あの巨大な蜘蛛の妖怪……おそらく絡新婦(じょろうぐも)に襲われただけじゃなく、私のドッペルゲンガーにも出会えるなんて思いもしなかったわ。

 そういえばドッペルゲンガーに出会ったら死ぬんだったっけ?さっきも死にそうだったけれど、もう私は駄目そうね。せめて蓮子だけでも生き残ってほしいものだけど……

 なんて現実逃避めいたことを考えていると、目の前に立つ私そっくりの女性が私の方を向いて優しく微笑んだ。

 

「大丈夫よ。あなたはあなた。私とは違うわ」

「えっ……」

 

 それは後ろでへたり込んでいる蓮子には聞こえないくらいの、小さな呟きだった。たった二言三言。それなのに様々意味が込められていた気がした。期待、あるいは哀愁、あるいは羨望、あるいは……嫉妬。

 

「貴女は!?」

 

 何を知っているのか、そんな問いが口を突きかけるがそれは地面を割るような轟音で掻き消される。

 見上げると男性が絡新婦の頭部にとり付き、大刀を頭に突き刺していた。絡新婦は痛みにのたうち回るが、男性はまるでロディオマシーンのように振り回されながら刀を押し込み続けている。

 それどころか片手を離して懐から取り出したお札らしき紙切れを叩きつけていた。お札を張り付くたびに絡新婦の身体に眩い電流のようなものが走る。その度に絡新婦が悶え苦しみ、暴れる。

 

「すごい……」

 

 隣の蓮子が呆然と呟く。私も同じ思いだ。本当に、あの巨大な妖怪と戦っていることに驚きを隠せなかった。

 あの人が私達へ振り下ろされそうになった足を一閃で斬り落としたとき、私は目を疑ったけれど……こんな姿を見せられたら認めざるを得なかった。

 つい男性の人間離れした動きに目を奪われていると、私そっくりの女性が視線を遮る様に私の前に立った。

 

「お友達を連れて下がりなさい。危ないわよ」

 

 女性は私達に忠告しながら、暴れる絡新婦の元へゆっくりと歩き始める。もだえ苦しむ妖怪に一歩ずつ向かって行くその姿は、庭園を散歩するように優雅さで余裕に満ちていた。

 絡新婦の長い脚が届く範囲まで近付いたところで、女性はおもむろに右手を天に掲げる。

 

「北斗」

「はい!」

 

 女性が男性に向かって合図する。

 彼の名前か何かのサインなのかは分からない。けれど男性はその声に反応して絡新婦の頭から刀を抜き取る。そしてバッタのような跳躍で地面へ飛び降りた。マンションの三階程の高さはあったように見えたのだけれど、男性は後転しながら見事に着地する。

 男性が絡新婦から離れたのを見届けると、女性は右手の指を鳴らした。その瞬間女性の周囲から無数の境目が現れる。

 その奥には無数の瞳。まるで奇異の目にさらされているような恐怖が背筋を撫でた。

 

「さようなら、運が良ければ夢で逢いましょう」

 

 女性は別れの言葉を紡ぐ。瞬間、隙間から無数の光弾が放たれ絡新婦に殺到した。

 まるで夏の自動販売機に群がる虫の様に幾重にも張り巡らされた弾幕が蜘蛛を覆い、飲み込む。時間にして三秒ほどか、すぐに光は止んだ。そこには絡新婦の姿はなかった。

 

「終わったの……?」

 

 蓮子が茫然と呟く。あっという間の出来事だった。

 いつの間にか幽玄に咲いていた桜も緑の葉を付けたただの木に戻っていた。境内にはえぐれた地面と、切断された絡新婦の巨大な足一本だけしか残っていない。

 まるでさっきまでのは夢だったんじゃないかと思ってしまうような静けさが私達を飲み込んでいく。

 ううん、夢なんかじゃない。私の記憶には脳内で処理できないほどの光景が確かに焼き付いていた。私と蓮子は顔を見合わせると……どちらとともなく地面にへたり込んだ。

 

 

 

 

 

「……えっと、大丈夫?」

 

 しばらく茫然と地面に身体を投げ出していると、男性が話しかけてくる。

 初対面で失礼だけれど、あまり特徴のないような男性だ。年は分からないけれど、同い年くらい……いや少し上くらいだろうか? 何にせよさっきまで絡新婦と戦っていたなんて信じられないほど、普通の男性に見えた。

 私達は男性の至極簡単な問いにしばらく答えられられない。しばらくして絞り出したかのように蓮子が声を出す。

 

「え、ええ……貴方達の陰で助か……りました。ありがとうございます」

「まあ、大事が無くてよかったよ」

 

 私達が頭を下げると男性は柔和な笑みを浮かべた。こんな時代に刀を振り回して絡新婦と戦うような危険な人なのに、随分と温厚な性格の様だ。けれど男性はすぐ困ったような顔になって頭を掻いた。

 

「それで紫さん、どうしましょうか? 来たばっかでこっちの世界の事は分からないんですけど、この人達の反応を見る限り、さっきのを見られたのは……」

「ええ、貴方の懸念している通り、少し厄介なことになったわ」

 

 紫、と呼ばれた女性はワザとらしい溜息を一つ吐いて、私達に向かって歩いてくる。咄嗟に蓮子が立ち上がり私の手を引っ張って起き上がらせてくれる。蓮子は……かなり警戒してるみたいね。それは私も同じ思いだった。この二人は得体が知れない。

 

「そんな警戒しなくても、取って食ったりしないわ。今のところはね」

 

 神社に女性の靴の音が響く。それは先程聞いた謎の音に似ていて、無意識に心臓を捕まれたように苦しくなった。

 女性は私達二人の前に立つと……先程光弾を出していた境目から土埃が掛かった帽子を取り出し両手に取る。それを見てようやく私達の帽子が吹き飛んでいたことに気付く。

 

「ここで見られたことを話されると困るの。少なくともこの街で私達の事が有名になるのは避けたいの。はい、どうぞ」

「あ、ありがとうございます」

 

 私は礼を述べながら帽子を受け取る。土汚れはあるが傷はない。お気に入りのだったから、少しホッとした。

 埃を叩き落とし被り直そうとしたその時、女性と視線が交差する。うっすらとした笑みを浮かべているけれど、その顔に恐怖を感じた。例えるなら……帰り遅くなった夜道で背後を振り返る瞬間。底の見えない井戸に頭を突っ込んだ時のような……未知への、恐怖。

 そんな私達の怯えを知ってか知らずか、女性は微笑みを絶やさないままおもむろに指を三本立てる。

 

「そこで私達が取れる方法は三つあるわ。その中から好きなものを貴方達が選びなさい」

 

 女性は気に障るほど明るい声で喋りはじめる。正直胡散臭いと思った。私達を寒さに震える子猫ぐらいにしか思っていないような、怯える姿を楽しんでいるように思えて……不快だった。

 彼女の様子を黙って眺めていた男性も、呆れたように首を振る。

 

「紫さん、もうちょっと真面目に話を……」

「まあ、いいじゃない。一つ目は私達の手によって貴方達を亡き者にする方法。これが手っ取り早くて一番確実よ」

「最初の選択肢から物騒だけど……死に方を選べってことかしら?」

 

 蓮子の突っ掛っていくような口調に私は背筋を凍らせた。もし彼女の機嫌を損ねたらそれこそ私達は死に方を選べなくなるかもしれないのに!

 が、幸い女性はさして気にする様子もなく手を振って笑った。

 

「落ち着きなさい、一つ目は冗談よ。助けた相手を自分達で始末するなんて不毛じゃない」

「………………」

「二つ目は貴方達にとっても悪くない話よ。この街から出ていくだけ。見た所貴方達は物見遊山でここに来たのでしょう? 今なら私の力で自宅まで送ってあげるサービス付き。ただし、この街には二度と近付かないこと。もしまたやって来たら……相応の覚悟はしてもらうわ」

 

 女性は最後の一言だけ低い声で呟く。薄笑いの仮面の奥、深い紫色の瞳が本気だと語っていた。この人達が何者で何の目的があるのかは分からないけれど、少なくとも興味本位で関わっていけないのだろう。そう考えていた矢先のことだった。

 

「そして三つ目は、貴方達を巻き込んでしまうことよ」

「えっ……」

 

 私は予想を裏切る選択肢を出され、声を上げて驚いてしまう。蓮子、そして男性も同じ様な反応をしていた。慌てて男性が女性の前に立ち塞がる。

 

「待ってください紫さん! 無関係な人を巻き込む必要は……」

「私達はこの世界に関して疎い。現地の協力者がいることは色々と便利じゃないかしら? それに変に嗅ぎ回られるより、管理下に置いた方が心配もないじゃない」

「だからといって……」

「何も無理にとは言っていないわ。選ぶのは彼女達よ」

 

 女性はどこからともなく取り出した扇子で口元を隠す。

 しばらく男性と女性は睨み合っていたが……どうやら男性が先に折れたようで、肺の空気全て吐き出すような大きな溜息を吐いた。

 

「……そうですね。俺には指図する権利もないですし」

 

 男性は納得してなさそうチラリと心配そうに私達の方を見遣ってくる。が、見つめていたのは数秒にも満たない。すぐに顔を逸らし女性の隣へ戻った。女性は咳払いを一つして、扇子の先を突きつけてくる。

 

「さあ、選びなさい。元の日常に帰るか、それとも非日常の境界を超えるか」

「非日常の……」

「境界……」

 

 私は……私達は今まで様々な境界を越えてきた。何で、と聞かれれば知りたいと思ったから、と答えるだろう。秘封倶楽部は知的欲求を満たすための活動なのだと。

 ……ううん、それよりもっと単純な理由がある。退屈だったからだ。

 平凡な生活が嫌だったから、いつも見えていた非日常に触れたのが始まりだった。だったら答えはもう出ているじゃない。私は蓮子の手を引く。非日常へ踏む込むための一歩を……

 

「待って、メリー」

 

 踏み出そうとしたその時、その手が逆に引っ張られた。たたらを踏んで身体がふらつく。理由が分からず振り向くと、私の左手を両手で握り締めながら顔を伏せる蓮子の姿があった。

 

「蓮、子……?」

「お願い、少し、待って……」

 

 その姿を見た時……心の中で何かがひび割れるような、音がした。

 

 

 

 

 

 暗い部屋の中……私は明かりも付けず、すぐ近くにあったベッドへと跳び込んだ。低反発のベッドに身体が沈み込む。

 目を閉じればいつでも眠れてしまいそうな心地よさだ。けれど眠れるような気分じゃなかった。心は毛羽立ってボロボロだ、頭は真っ白で、考えが纏まらない。

 ……あれ、どうしてここにいるんだっけ? そんなことすら一瞬忘れてしまうほど、思考が働くことを拒もうとしている。ああ、そういえば晩御飯食べていないのを思い出す。

 

「お腹、減ったなぁ……」

 

 私は独りごちながら仰向けになる。結局、私と蓮子は答えを出すことができなかった。

 そんな私達を見かねた男性が、一晩考える時間を与えるべきだと女性に提案したのだ。女性はそれを受け入れ、ワープホールのようなものを作って私達を駅近くのホテルへと運んでくれた。

 チェックインの時間はギリギリ過ぎていたけれど、若い女性を野宿させるわけにはいかないというホテル側の配慮で、何とか部屋には通してもらったけれど……それまでの間、私達は殆ど会話が出来なかった。

 

「蓮子、なんで……」

 

 あの時蓮子はどうして私を止めたのか。蓮子はあの二人をどう思っているのか。蓮子はどういう思いで秘封倶楽部の活動をしているのか。蓮子は……私の事をどう思っているのか。

 移動する間、聞きたいことはボコボコと泡のように浮かんだ。けれど、答えを聞くのが怖くて声にはならなかった。

 私の望む答えが帰ってこない様な気がして……いつか予感していた終わりが、このタイミングで来るかもしれないと怯えていた。

 今は蓮子がシャワーを浴びていて隣にはいない。それにホッとしている私に自己嫌悪してしまう。

 

「どう、すればいいのかな、私……」

 

 私は天井を見つめながら誰にでもなく問いかけるけれど、答えは返ってこなかった。

 

 

 

 ……ボーっとしている内につい微睡んでしまったようだ。薄目で辺りを見回すといつの間にか隣のベットに蓮子が座っていた。ショートパンツにTシャツといったラフな格好で髪を拭いている。

 私もシャワーを浴びよう。そう思い立って起き上がると、蓮子がうっ……、と小さく呻いた。

 

「お、起きてたんだ……」

「え、ええ……流石にあんな光景を見た後にぐっすり眠れないわよ。流石に疲れたけれどね」

 

 私は嘆息を吐きながら、スーツケースから寝間着や洗顔フォームを取り出してると蓮子が私と同じように息を吐いた。そして堪えきれなくなったかのように吹き出した。

 

「うぷ、く……なーんだ、そうだったのね……あはは」

「……何よ?」

「付いて行けなかったのは私だけなんだろうなって思ってたのに……何だメリーも私と同じだったのか」

 

 蓮子は乾いた笑い声を上げながらベットに倒れ、もう一度大きな大きな溜め息を吐いた。それが沈黙に溶けきった後、蓮子はおもむろに話し始める。

 

「あの時さ、私、メリーに置いて行かれると思ったの」

「置いて行く……って、やっぱり蓮子は帰るつもりだったの?」

「ううん、そんなつもりはなかったわ」

「じゃあ、なんで?」

 

 私が尋ねると蓮子はしばらく黙り込んでから、そっと天井に向けて手を伸ばしながら、呟いた。

 

「そうだなぁ……初めて自分の目で、夢じゃない非常識を見てさ、気後れしちゃったんだと思う。付いていけないんじゃないかなって。メリーが一人で行っちゃうんじゃないかって」

「蓮子……」

 

 蓮子はさっきまでの私のように天井を仰いでいた。珍しく蓮子が弱気になっている。いつも振り回されてばっかりなのに……逆の立場だ。

 こんな時いつもの蓮子なら……どうするだろうか? なんて言うだろう? 決まっている。私は蓮子に近付いて、手を差し出す。

 

「……メリー?」

「とりあえずやってみたらいいじゃない。あの人達だって最後まで手伝え、とは言っていないもの。駄目だったら二人で帰りましょ?」

「………………」

「それに元々この街を調べる予定だったんでしょう? こんなチャンス、滅多にないじゃない。ここで逃げたら、秘封倶楽部の名が泣くわ」

 

 私は思いつくまま、蓮子のマネを意識しながら喋ってみる。無鉄砲にも思えるほどの積極性、それが蓮子の悪い所だけど……私にない長所だ。

 蓮子は目を白黒させて驚いていた。が、しばらくしてベッドから跳ね上がる。

 

「……そう、よね。秘封倶楽部が秘密を目の前にして逃げ出すだなんて、格好悪すぎよね!」

 

 そう言いながら蓮子は私の手を叩くようにして取る。

 そうだ、蓮子はこうじゃないと。私の手を引っ張って。隣にいて。不敵に笑って。きっと何が起こっても秘密を共有できる貴女がいれば私は……どんな夢も受け入れられる。

 

 

 

 

 

 翌朝、ホテルのバイキングで朝食を取っていると、昨日の私そっくりの女性と、刀の男性が相席してきた。

 流石に人前だからか、男性はTシャツにチノパンと普通の恰好をしていた。もちろん刀は持っていない。次すれ違ってもわからないくらいには普通の格好をしていた。

 

「それで、答えは出たかしら?」

 

 女性がコーヒーに砂糖をかき混ぜながら尋ねてくる。私と蓮子は二人の一瞥し、互いに顔を見合ってから……答えた。

 

「私達はオカルトサークル秘封倶楽部」

「そこに秘密があるなら……」

「「私達が暴いて見せるわ」」

 

 それを聞いた女性は、ほんの僅かに微笑んでから優雅な仕草でコーヒーを口にした。

 

 

 

 

 

 

 その日から私達の一度きりの非日常が始まった。朝から蝉の鳴く、暑い日のことだった。



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3.妖怪と運転手

 チェックアウトを済ませた私とメリーがエントランスに行くと、メリー似の女性と刀の男性が待っていた。二人とも荷物をまったく持っていない。女性が日傘を片手に、男性が釣竿ケースに刀を隠しているぐらいだ。

 二人と合流した私達は会話もそこそこに外の駐車場へと向かうことになった。強い日差しに顔をしかめながら背を追いかけていると、おもむろにメリーが前を歩く女性の背に声を掛けた。

 

「これからどうするんですか? えーっと……」

「あら、そういえばまだ自己紹介も済ませていなかったかしら?」

「自己紹介どころか貴方達の目的も何も知らないんだけれど」

 

 女性のいい加減な物言いに呆れて、つい口を挟んでしまう。すると、男性が苦笑いを浮かべながら振り返る。その手には鍵が握られていた。部屋の鍵、じゃないみたいだけれど。

 

「ははは……色々話すことはあるだろうけど、詳しいことは移動しながら話すってことで」

「移動?」

 

 私が首を傾げていると、男性が駐車場の一部を指す。そこには大きな鉄の塊……もとい、自動車が停められていた。 マッドブラック塗装の四人乗りの普通車、って言うのかしら?

 昨今の時代は自動車の利用、特に自家用車は廃れつつある。そんな危険なことをしなくても、完全自動化されたバスや電車が普及しているし、料金も格安になっている。街中なら飲み物を買うくらいの値段で移動できる、それが現代の交通事情だ。

 だからわざわざ自動車で移動するのは運転が趣味の金持ちぐらいだ。事故の可能性だってあるし、維持費だって馬鹿にならない。私とメリーが後進的な乗り物を目前に戸惑っていると、男性が運転席を覗き込みながら首を傾げた。

 

「車を手配した、とは聞いてましたけど、これどこから用意したんですか?」

「藍に頼んでね。はい、貴方の免許証」

「流石藍さん何でもアリですね。あ、運転久しぶりなんで事故っても文句言わないでくださいよ」

 

 男性はサラリと不穏な発言をしながら運転席へ乗り込んでいく。どうやら男性が運転出来るようだけど、まさか本当にこれで移動するの? 昨日みたくワームホールを作って移動した方が早いし楽だと思うんだけれど……

 しかし、女性もいつの間に助手席に座って、私達に急かすような視線を向けている。私達は意を決して後部座席に着く。私が運転席の、メリーは助手席の後ろだ。相当な高級車なのか、座席はフカフカで少し安心してしまう。けれど、やはり車内空間端公共交通機関に比べて圧迫感を覚えてならない。

 

「みんなシートベルトつけてねー……って、この車ミッションか。軽トラと教習車しか運転したことないんだけど」

 

 男性が私達に注意しつつ独りごちった。自信がなさげな言葉ばかりで不安になるけれど、男性は特に手間取ることもなく慣れた手付きで操作を始めた。

 エンジンが掛かった瞬間、座席の下から重苦しい振動が伝わってくる。ガソリンエンジンで動く機械に乗ったのは初めてかもしれない。走り出しても音は想像より小さい。これから走っても少し声を張れば話は出来そうだ。

 車は酔いが酷いとよく聞くけれど、そんな気持ち悪さも感じない。思った以上に快適だ。

 ゆっくりと走り出した自動車はホテルを出ると、市街地の方へ走っていく。てっきり神社の方に行くと思っていたのだけれど、どこに行くのだろうか?私は女性聞いてみるが、着いてからのお楽しみだとはぐらかされてしまった。仕方なので景色でも見ながら大人しく座っていることにした。

 

「……私、初めて自動車乗ったかも」

 

 流れていく窓の外を見ながらメリーが感動したように呟く。私もバスはあるけど、この大きさの車に乗ったことはなかった。今の所不安半分、わくわく半分といった気持ちだ。

 ……昨日までの恐怖が消えたわけじゃない。けれど、現状はこの状況を楽しめていた。ただ心の奥に押さえつけているだけか、肝が据わったのか、はたまたタガが外れたかは、自分でもわからないけれど……とにかく今は大丈夫だ。

 女性は男性に何やら行き先を伝えてから、振り返って私達に話し掛けてくる。

 

「さて、まずは私達から自己紹介しましょうか。私は八雲紫。端的に言えば、妖怪よ」

 

 唐突に突拍子もないカミングアウトをされた私は耳を疑ってしまう。昨日襲われた蜘蛛も妖怪だとメリーが言っていたけれど、同じ存在には到底見えないのだけれど。どう見てもただのメリー似の人間だけれど、種族の違いなのかしら?

 そこら辺が気になって、質問しようとするけれど、紫さん……紫は私達を指で制し、隣に座る男性の肩を叩いた。

 

「さ、貴方も自己紹介を」

「聞いてますよ。輝星北斗(きぼしほくと)、一応ただの人間だ。短い間かもしれないけど、よろしく」

 

 北斗と名乗った男性はハンドルを回しながら呟く。すると遠心力でメリーの肩が軽く当たる。

 ただの、って本人が言っているけれど、普通の人間があんなアクションできるわけない。明らかに一般の域から逸脱している。メリーに似た自称妖怪の女性に一見常識人だけれど厨二っぽい男性。どうも胡散臭くて仕方ない2人組だ。呆れて疑う気も失せるほどの露骨さだ。そんな私達の考えを見透かしたのかはわからないけれど、紫がこちらをジッと見つめながら扇の先を向けてくる。

 

「私達の詳しい話をし始めると長くなってしまうから……先に先に二人の名前を教えて頂戴」

 

 紫に促された私とメリーはアイコンタクトを交わし合う。自己紹介、ねぇ。そういえば私達も名乗っていなかったかしら? まあ、簡単でいいでしょう。

 

「宇佐見蓮子よ。京都で大学生やってるわ。それでこっちは……」

「マエリベリー・ハーン、同じく大学生。呼びづらかったらメリーでもいいわ。蓮子はメリーとしか呼ばないし」

「だって長いじゃない。で、私達は秘封倶楽部っていうオカルトサークルなの。ここにも活動の一環で来たのだけれど……」

 

 予定では三日ほど街を回って境目を探すはずだったのに……はあ、せっかく立てたプランが跡形もないわ。そんな浮かない私の顔を見てか、紫が愉快げに笑った。

 

「それは災難だったわねえ。いえ、オカルトサークルなんだから幸先がいいのかしら?」

 

 紫がからかうような言い草に少しムッとなる。死にそうになったのに笑い事じゃ済まないんだけれど!?と怒鳴りたくなる気持ちを抑えて、代わりに質問をぶつけることにした。

 

「そもそもあの蜘蛛は一体何だったの? 貴女と同類かしら?」

「見ての通り私は足が八本もないわよ。そこのところなんだけれど、残念ながら私達にも分からないのよねぇ」

 

 皮肉混じりの言葉に返ってきたのは、紫のわざとらしいため息だった。

 この二人なら何か知っていると踏んで聞いてみたのだけれど、そんなことはないようだ。 回答の代わりに紫は独り言のような口調で話し始める。

 

「科学の発達し切ったこの世界じゃ妖怪なんてほとんど残ってないはずなのに、どうしてあんなはっきりと存在を維持できたか……まったく見当もつかないわ」

「死体も幻のように消えてしまって調べられませんでしたからね。ただあの妖怪って……っと、危ね」

 

 北斗が言葉を途切らせた瞬間、慣性の法則で体が前のめって目の前の座席に頬ずりしてしまう。何事かと思い前を見ると、どうやら急発進したバスを避けるために急停止したようだった。

 

「ぶ、ぶつかるかと思った」

 

 メリーが目を白黒させながら呟く。いつの間にか車は街の中心部まで来ていたようで、バスの交通量も格段に増えていた。自動車ってこんな危ないのね。これを私がやれって言われたら絶対無理だわ。

 私は小さく息を吐き出しながら窓の外を眺める。高層ビルが並び立つ光景は壮観だけれど、無機質な壁に囲まれたような圧迫感を覚えて好きではない。この上を飛べたら最高に好きになれるかもしれない。が、生憎私に翼はない。欲しいわけじゃないけどね、邪魔で目立ちそうだし。

 どうでもいいことを考えているうちに、北斗は何事もなかったかのように車を発進させた。

 市街地はほとんどバスしか走っていない。バスは一応道路交通法は守っているけれど路上の車を気にするような運転はしないようで、好き勝手に路上を駆けていた。

 対して、北斗の運転する車はバスとバスの間を縫うように進んでいく。周囲を常に気にした運転を見ているとハラハラして気が落ち着かなかった。またスピードが乗り始めたところで、北斗が背中越しに声を掛けてくる。

 

「悪い、まだこっちでの運転には慣れてないから運転が荒くなるかも。まあ、もうすぐ着くから我慢してくれ」

「は、はい。それであの、それよりさっき言いかけていたけれど、あれってやっぱり妖怪なの?」

 

 メリーがシートから少し身を乗り出すように聞く。すると北斗はあー、と長い溜めを作った後に前を向いたまま首を振った。

 

「いや、俺が勝手に思ってるだけだから違うかもしれない。本当に分からないんだ。ごめんね」

「い、いえ……大丈夫です」

 

 男性の物腰の低さに、メリーは困ったように言葉を絞り出す。

 そういえばメリーが男と喋っているところをあまり見た事がない。普段の言動で避けられているのかもしれないけれど、北斗との会話が少しぎこちなく見えるのはその所為かしら?

 もしかして意識してるとか、ないわよね? メリーの意外な一面にモヤモヤしたような歯切れの悪い気持ちになっていると、自動車が赤信号で止まる。

 

「……ただ、俺達はこの街で起こっている『異変』を解決するためにここに来た。調べている内にきっと何かわかるかもしれないな」

 

 エンジン音だけが響く車内に、北斗の呟きが落ちる。異変、その言葉がやけに耳に残った。何気ない台詞選びなのかもしれないけれど、私には何か重苦しい意味があるような言い方に聞こえた。気になった私は割り込むように北斗へ問いかける。

 

「異変って、あの蜘蛛妖怪が現れたりとか?」

「ぐらいだったらいいんだけれどね……異変についてはまだ俺達も調べる前の段階なんだ。まずは街でどんな何が起こっているのか知らないと……紫さん、この辺りですか?」

「ええ、突き当たりを左に曲がってすぐの所よ」

 

 北斗は話の途中で何やら紫に尋ねる。外の景色は高層ビル街から閑静な住宅地に変わっていた。市街地で情報収集するならともかく、どうして住宅地に来たんだろうか? 不思議に思ってると、車はとある家の前で止まった。

 車から降りてその家を眺める。少し型が古い気もするけれど、二階建ての大きくて綺麗な家だ。運動が出来そうなほど広い庭と車が二台は余裕で置ける車庫が付いている。

 けれど、どうも人の住んでる様子がない。玄関にも庭、車庫にも物がなく、まるで新築の家そのもののような家だった。メリーは帽子を抑え、呆然とそれらを見つめながら紫に尋ねる。

 

「ねぇ、これって……」

「これからどれくらい調査が続くかは未定だけれど、その間ずっとホテルを借りる訳にはいかないでしょう?だから拠点を用意したわ」

「拠点を用意、って……ここに住むってこと!?」

「そういうこと。さあ、部屋に上がりましょう。これが二人の鍵よ」

 

 紫さんはメリーと私にそれぞれ鍵を手渡す。えっ、本当にここで暮らすの!? 四人で!? 北斗も一緒に!? 私は脳内で動揺の叫びを上げる。思わず北斗に視線を向けると、ちょうど目が合った。

 

「北斗、これマジで言ってるの?」

「あー、えっと……うん、多分マジで言ってる。紫さんに常識は通用しないから諦めるしかないと思う」

 

 北斗が申し訳なさげに頭を掻きながら言う。どうやら本気らしい。私はなんとも形容し難い思いを抱きながら、メリーと一緒に玄関へと荷物を運んだ。

 

 

 

「広い……」

 

 居間を見た瞬間、メリーが目を輝かせながら呟く。二階まで吹き抜けになっており、螺旋階段が付いている。一段高くし、障子で区切った8畳ほどの和室もある。大きなソファに食卓も備えられいる、テレビも無駄なほど大きい。カウンターキッチンもオシャレだ。二階は個室になっているようで、ドアが6つも見える。一人一部屋使っても余ってしまうわね。

 

「おお、大型冷蔵庫にオーブンに4口のIHコンロまで!」

 

 いつの間にか北斗がキッチンに入って子供のような歓声を上げていた。って、あれ? 反応からしたら北斗もこの家に初めて入ったのね。

 そういえば、この二人はどこから来たのだろう? 日本語が通じたり、北斗の容姿からしたら海外とかじゃないと思うんだけれど。それに時折世界って単語を使うけれど、何か意味があるのかしら?

 ……やっぱりまだまだこの二人は謎が多いわ。信用し過ぎないようにしないとね。

 

「こんないい家持ってたり車使ったりしているけれど、もしかして紫はお金持ち?」

 

 メリーが耳打ちする素振りをしながら尋ねるが、紫は薄笑いを浮かべるだけだった。

 私はこれからこの三人と生活することに一抹の不安を抱きながら、目の前にあったソファにしなだれかかった。



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4.外来人の現代入り

 荷物を適当な部屋に置いてから居間に戻ると、そこには北斗の姿しかなかった。メリーはどうせ荷物整理で忙しいのだろうけれど、紫はどうしたのかしら? 不審に思いながら皮のソファに腰を下ろすと、目の前にアイスコーヒーが置かれる。顔を上げると北斗がお菓子やミルクの入ったバケットを持って立っていた。

 

「はい、インスタントのやつがあったから入れてみたんだけど、コーヒーは大丈夫? それとも暖かい方が良かった?」

「コーヒーは好きよ。熱いのも冷たいのも……インスタントもね」

「そりゃよかった。泥水なんて飲めない、なんて言われたらどうしようかと思ってたよ」

 

 苦笑いを浮かべながら北斗はバケットを机に置く。そして机を挟んだ反対側のソファに座り、テーブルに紙の地図を広げた。

 ……七代市は南は山、北は海に挟まれた土地だ。南から中央に掛けては市街地、北は工事港があって、東と西に住宅地が広がっている。この家は街の東側に位置していて、市街地からさほど離れていない。

 立地的な便利は良さそうだ。車がなくても、バスなら五分で中心へ行けるのはありがたい。

 コーヒーをチビチビと戴きながら地図を眺めていると、北斗はおもむろに水性ペンで地図に印を入れ始めた。街の南の端、線路を越えた少し向こうの方だ。そこで察しがつく。

 

「……これって、昨日の神社の位置?」

「正解、とりあえず何か異常があったところをメモしておこうと思ってね。あと、家の周りに何があるのかも知っておきたいし」

「ふーん、小まめねぇ。疲れそうな性格だわ」

 

 私ははっきりと思ったことをそのまま口にするけれど、北斗は気分を害した様子もなくペンの蓋を閉めた。

 しばらく北斗の淹れてくれたアイスコーヒーの安っぽい味を堪能していると、メリーが二階から降りてくる。すると北斗はわざわざメリーの分のコーヒーを入れ直して渡していた。本当に小まめだ。むしろ人に気を使い過ぎだと思うわ。

 

「はいどうぞ」

「あ、ありがとう……」

 

 メリーは戸惑いながらもコーヒーを受け取ると、コーヒーじゃなくなるでしょ!?とツッコミたくなるほどふんだんにミルクとガムシロップを入れ、スプーンでかき混ぜ始めた。そしてやや恐々とした様子で北斗に話かける。

 

「あの、一つ聞きたいのだけれど、北斗は人間、なんだよね?」

「ん? あぁ、人間だよ。少し変わった力は持ってるけどね」

「変わった力……?」

 

 メリーがコーヒーだったものを混ぜる手を止めて、首を傾げる。そりゃあ普通の人間が妖怪と戦える訳ないけれど……もしかしたら、メリーみたいな特別な能力でもあるのかしら?

 詳しく聞いてみようかと思ったんだけど北斗の表情を見て、止めた。どこか暗い、影のある表情。前にも見たことがある。

 確かメリーも同じような表情をすることがあったような……結局、思い出そうとしている内に会話は流れてしまった。仕切り直すように咳払いを一つ、北斗は私達に向かって笑いかけてくる。

 

「本来なら紫さんから色々話すべきなんだけど、代わりに俺が答えられることは何でも答えるよ。車内じゃちゃんと聞けなかったからね」

 

 優しい声音で言われた言葉に、私とメリーは互いに目配せする。

 ホテルのチェックアウトする前、私達は彼女達に対する疑問をある程度共有していた。その中で、私が一番気になっていたものを聞くことにした。

 私はコーヒーカップをコースターの上に乗せてから、北斗の目をしっかり見据えながら問いかける。

 

「じゃあ、まず北斗と紫が何者か教えてよ」

「単刀直入だなぁ……」

「回りくどく聞く意味がないじゃない。それとも、これも聞かれては困る質問だったかしら?」

 

 ワザとらしく勘ぐってみたつもりなのだけれど、北斗は特に面白い反応をしてくれなかった。ただ腕を組みながら首を傾げるだけだ。

 

「いや、そんなことないんだけど、どう答えていいかわからないんだよ」

「……どういうこと?」

「うーん、例えば『俺達は政府に雇われた秘密組織だ!』とか、『代々妖怪を退治する一族の末裔だ!』みたいなそれらしい名乗り方がない、って感じ。強いて言うなら紫さんがすごい妖怪だってことくらいかなぁ……」

「本当かしら? 何か隠してるんじゃないの?」

 

 自分でもしつこいと思うほど尋ねる。すると北斗は一瞬言葉を詰まらせてから、さながら自白した犯人のように弱々しい笑みを浮かべた。そして傍に置いていた北斗の分のアイスコーヒーを口にしてから、再び喋り始める。

 

「……わかった、話すよ」

「やっぱり何か隠しているんじゃない」

「秘密にしていたわけじゃないさ。ただ、突然話しても信じてもらえないかもしれないと思ったんだよ。それで、少し長くなるんだけど、もう一杯コーヒー、いる?」

 

 北斗は勿体つけるように私に尋ねてくる。そしてアイスコーヒーを淹れ直してくれた後、彼は思い出話をするように話し始めた。

 ここではない世界、幻想郷のことを。

 

 

 

 

 

 幻想郷。忘れ去られた者達が辿り着く場所。

 科学の発展により存在を否定された……こちらの世界では『死んでしまった』妖怪、妖精、神々が生き残る最後の楽園。

 妖怪や神が生きるためには彼等を信じる人間が必要で、彼等は外界の情報から隔絶した人間に自分達の存在を信じさせた。ある者は畏れさせることで、ある者は信仰させることで。

 

「……まるで動物園で生きる動物園と飼育員のような関係ね」

 

 珍獣達は人間から餌を貰わなければ生きていない。けれど、飼育員達も動物園がいなくなれば、職を失ってしまう。ま、幻想郷で飼われているのは人間の方みたいだけれど。

 見方によっては歪に見える共存だわ。けれど妖怪や神が生き残るためには無理やりねじ曲げ作り上げたジオラマが必要なのかもしれない。

 

「まあ、原理だけ聞いたらね。実際は妖怪も人間も共存できてるよ」

「ふーん……まぁ、確かに信じられないような話だわ」

 

 一通り話を聞いた私はそんな感想を呟いてから、三杯目のコーヒーを飲み干した。時刻は正午前。話し始めたのが確か11時くらいだったから、おおよそ1時間ほど話していたみたいだ。

 講義一つ受けたような疲労感を覚えてしまう。ただ退屈な教授の長話と違って中々面白い話だったし、私やメリーも横槍を入れながらの会話だったのもあって、時間が過ぎるのはあっという間だったけれど。

 

「あー、疲れた」

 

 私が伸びをしている傍ら、メリーはいつの間にかメモを取り出しペンを走らせていた。本当に講義受けてるみたいじゃない。呆れる私をよそに、勤勉な学生のメリーさんはまるで授業後に質問する生徒のように北斗へ尋ねた。

 

「つまりその幻想郷で起こっている『異変』っていうものを解決するために、わざわざ世界を渡って来た、ってことかしら?」

「そうなるな。今のところ大した異変じゃないけど、これからどうなるか分からない。早く原因を突き止めないといけないんだ」

「……私達にはその原因を突き止める手掛かりを探して欲しい、ってことかしら?」

「察しが良くって助かる。荒事になったら俺に任せてもらっていいから、この街で起こってる異変を調査して欲しい。紫さんはそう言っていたよ」

 

 なるほどね、そういうことなら私達でも出来そうである。むしろ秘封倶楽部の本領を発揮出来るだろう。本来この街で起こってるオカルト現象を調査するのが目的だったのだから、むしろ好都合だ。私は胸をポンと叩いて、ウインクして見せた。

 

「任せなさい、この秘封倶楽部にね」

「あぁ、よろしく頼む」

 

 北斗は律儀に頭を下げてから、真剣な眼差しで地図に視線を落とす。自然に釣られるように私も地図に目を向けた。

 私の立てた予定では七代市を一泊二日で回りきるはずだった。けれど、まさかこんな豪邸でしばらく暮らすことになるなんて、夢にも思っていなかった。

 一体何の根拠があるのかわからないけれど、北斗達はこの街で何か起こると確信している。この街の噂の噂を聞きつけてやってきたのか、はたまた別の確証があるのかは分からないけれど……現に私達は絡新婦を目撃している。

 

「はぁ……」

 

 私は溜息を吐いて思い出してしまった恐怖を押さえつける。あの時は本当に怖かった。当たり前だ、死ぬかと思ったのだから。今でもあの時の感覚を思い出すと、足が震えてくる。心臓の鼓動が跳ね上がってしまう。

 けれど、私達はその危険に会えて立ち向かうことを選んだ。紫に提案された時は迷ってしまったけれど、もう決めたことだ。私とメリーで決めたんだ。だから覚悟を決めないと……決め、ないと……いけない。

 

 

 

 

 

「さて、そろそろお昼にしようか。さっき冷蔵庫の中を見る限り、パスタぐらいしか作れなさそうなんだけど、二人とも大丈夫?」

 

 北斗は立ち上がり、カウンターキッチンに回り込みながら尋ねてくる。まるで自分が昼食後を作るのがさも当然のような口振りに、私は反応に困ってしまう。

 そもそも北斗は料理が出来るのかしら? 自信満々に暗黒物質を作られてもフォロー出来る自信は無いんだけれど……

 

「黙って北斗に任せなさい。家事に関してはプロもスカウトに来る程の超一流よ」

「わっ!?」

「きゃっ!?」

 

 突然、対面のソファに落ちるように紫が現れ、私達は声を上げて驚いてしまう。変な声を上げてしまった恥ずかしさに顔を伏せていると、カウンターキッチンの向こうから呆れ混じりの言葉が飛んだ。

 

「紫さん、二人は慣れてないんですから普通に出てきてください。あと、その誇大広告もやめてください。スカウトなんて一度も来たことありませんよ」

 

 北斗は鍋に水を張りながら言う。どうやら彼女の神出鬼没っぷりは普段からのようだ。流石妖怪、常識が通じないわ。紫は笑って誤魔化しながら、北斗に手を挙げる。

 

「私、ペペロンチーノ食べたいわ。アルデンテじゃなくて、ちょうど良くお願いね」

「そのちょうど良いがどれくらいかを知りたいんですけどね。で、二人のご注文は?」

「えっ……じゃあ、ナポリタンで」

「あの、その……クリームソースを」

 

 まるでファミレスの店員のように違和感なく聞いてくるものだから、ついバラバラのソースを言ってしまう。

 けれど北斗は文句一つ言わず、鍋に火を掛け始めた。陽気な鼻歌を口ずさみながら軽快な手つきで料理する姿を見て、メリーがガラスのような瞳を丸くしながら呟いた。

 

「……彼、何者?」

 

 

 

 何者かは分からないけれど、少なくとも料理の腕は確かのようだった。高級フランス料理店のパスタに匹敵する……とまで言わないけれど、文句のつけようがない程度には美味かった。まあ、お店にして待たされたけれど。

 

「……ところで、北斗は幻想郷の住人なのよね? それなのに結構こっちの世界に馴染んでるように思えるんだけど」

 

 食事の途中、ふと隣のメリーが北斗に向けて尋ねる。そういえば幻想郷は文明が停滞した世界だと北斗は言っていた。

 けれどその当人が自動車を運転したり、現代のキッチンでパスタを作っている。こっちの世界に順応し過ぎている。私達の視線が集まり、北斗はフォークを置いてからバツが悪そうに頬を掻いた。

 

「あー、うん。俺は元々外の世界の人間だからね。幻想郷で生まれた訳じゃないんだよ」

「幻想郷って、外部から隔絶された世界なんでしょ? それなのにどうやって入れるのよ?」

 

 私は怪しさを感じて、語気を強めながら追い詰めようとする。

 メリーはどうか分からないけれど……少なくとも私は、彼女達を信用していなかった。かといって常に疑っているわけじゃない。まだ、私はこの二人のことを判断しかねていた。

 

「蓮子……」

 

 メリーが心配そうに私の名前を呼ぶ。重苦しい空気の中、私の問いに答えたのは斜向かいに座る紫だった。

 

「何も完全に遮断されている訳じゃないわ。偶然境目に迷い込んで来る者もいれば、妖怪や神々のように忘れ去られ幻想郷に流れ着く者もいる」

「……北斗もそうやって流れ着いた、ってこと?」

「そういうことよ。幻想郷ではそんな外の世界から迷い込んだ人間を外来人と呼んでいるわ」

「外来人……」

 

 メリーはためらいがちにに北斗の方を向く。彼は何も言わずに、黙々とバター醤油味のパスタを食べていた。さっき特別な能力を持った人間だと言った時のような、暗い表情だ。

 

「あ……」

 

 その時、私はどこでその表情を見たのか思い出した。初めてメリーが私に自分の能力について打ち明けてくれた時だ。あの時私は、言葉では信用しているような口振りをしていたけれど、内心では疑っていたのが記憶に残っている。

 ううん、今でも時々疑ってしまう。本当は何かのトリックなんじゃないのかって。私は騙されいるんじゃないかって考えてしまう時がある。

 目の前の北斗、そして疑る私。同じような構図に薄気味悪さを感じてしまう。何よりも隣にいる親友すら、未だ信じきれない自分に反吐が出そうだった。

 

 

 

 

 

 

 食事を終えた私達四人は今後の生活、活動に必要なものを買いに市街地中央にある大型デパートに行くことになった。

 真っ先に行ったのは携帯ショップだ。まさかと思ったのだけれど、北斗も紫もスマホを持っていないらしい。まあ、幻想郷では電話なんてないらしいし、無理はないけれど。

 

「北斗、そんなのでいいの? 旧式のスマートフォンなんて選んで」

 

 私は新しく買ったスマホの設定を弄っている北斗に向けて問いかける。

 北斗の買ったのは四、五年前の型落ちギリギリ前の掌大の端末型だ。今や時計型やペン型なんて小型のものだっていっぱいあるのに、どうしてわざわざそんなかさばるものを選んだのかしら? 純粋な興味で聞いた問いに、北斗は小さな画面を見つめながら答える。

 

「だってあんな小さいのって使いづらそうじゃないか。それに耐衝撃耐性に防水機能も付いてるらしいから、俺にはうってつけなんだよ」

「あー、まあ、あんな動きをしていたら対衝撃は必要かもね」

「そういうこと。あぁ、そうだ。連絡先教えるから入れといてくれ。異変に巻き込まれたら、すぐに俺か紫さんを呼ぶようにしてくれ」

 

 そう言うと北斗はスマートフォンの番号を口頭で伝えてくる。慌てて私はそれを自分のスマホに登録した。

 因みに私のはペン型だ。通話はもちろんレーザー投影型のキーボードにエアディスプレイを搭載しているので調べ物だってできるわ。何よりかさばらないっていうのが一番気に入ってるところだけれどね。

 

「ん、できたわ」

「そうか。えっと……メリーさんにも教えとかないとな」

「呼び捨てでいいと思うわよ。もちろん私もね。ちゃん付けなんてされたら鳥肌が立ちそうだわ」

「わ、わかった……けどその、メリー、はどこにいるんだ?」

 

 北斗はスマホを片手に当たりを見回す。

 確か紫が先に契約を終えていたけれど、もしかして二人で服でも見に行ったのかしら? 電話を掛けた方が手っ取り早いと思った私は、メリーの番号に掛けようとする。

 そう思いたった瞬間、ペン型のスマホから着信音が流れ始める。きっとメリーからだろう。そう思った私は番号も見ず、すぐに電話に出る。

 

「もしもしメリー? 一体どこにいるの!?」

「わたし、メリーさん。いまデパートの入り口にいるの』

 

 しかし、スピーカーから聞こえてきたのは聞いたことのない声だった。少したどたどしい、小さな女の子の声。

 変声機を使ったイタズラだろうか?なんて考えている間に電話が切れてしまう。不思議に思った私はしばらく待ってからメリーに掛け直す。けれど電話は通話中で繋がらなかった。

 一体どういうことかしら……? 私はつい眉間にシワが寄る。一連の様子を見ていた北斗も訝しそうに私を眺めていた。

 

「どうした?」

「ううん、ちょっと通話が繋がりにくいみたい。私達は私達でデパートを回りましょ。そうすればすぐに見つかるわ」

 

 私はスマホを仕舞いながら首を振る。さっきは少し変だったけれど、きっと何かの間違い電話かイタズラね。

 そう決め付けた私は、何も考えずに婦人服売り場へ向かっていった。



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5.メリーと呼ばれたその日から

「おかしいわ、蓮子ったら幾ら電話しても出ない」

 

 私は釈然としない気持ちで、ケータイをしまう。

 蓮子は普段から長電話をしたがらない。私が暇潰しに電話するとそれをすぐ察して、集合場所を一方的に決めて電話を切ってしまうのだ。

 彼女曰く、機械を介してだと気持ちが伝わってこないから、とのこと。そんな大層な感受性、蓮子が持ってるわけないと思うんだけれど……

 そんな本人が聞いたらヘソを曲げそうなことを考えていると、後ろから声が飛んでくる。

 

「放っておきましょう。買い物を終えたら駐車場に戻れば合流できるはずよ。子供じゃないんだからわざわざ連絡を取る必要はないわ」

「そうなのだけれど……何か違和感を感じるのよ」

 

 私は声の方に振り向きながら返す。するとほぼ同時に試着室のカーテンが開き、紫が姿を現した。

 肩紐の薄手のワンピースに着替えた紫は、一回転してスカートの花を咲かせて見せる。フリルとリボンがふんだんにあしらわれたフェニミンな一着だ。

 

「そんなことより、これなんてどうかしら?」

「……もう少しシンプルなデザインの方が似合うと思うわ」

「あら、貴方の趣味に合いそうなのを選んだつもりだったのに、残念」

 

 素直な感想を言うと、紫は小さく肩を落としながら再度試着室の中へ消えてしまった。

 なんで私だけ紫の服選びに付き合わされないといけないのかしら……? 私はアパレルショップの一角で嘆息を漏らしてしまう。北斗はともかく、蓮子も連れ出せばよかったのにと思わずにいられない。

 そういえば、今頃蓮子は北斗と二人っきりなのかしら? どうも蓮子は北斗のことを良く思ってないみたいだから、この機会に少しでも打ち解けてくれたらいいのだけれど。

 なんて考えながら私も何気なく服を見ていると、カーテン越しに紫が話しかけてくる。

 

「そういえば、貴方達はサークル活動の一環としてここに来たと言っていたわね。ということは、この街についてある程度調べて来ているのかしら?」

「ええ、特に蓮子はかなり調べ上げていると思うわ。こういう旅行をするとなると張り切っちゃうみたいで……」

 

 その割には当日に遅刻するんだけれどね。そこに関しては、本当によくわからないわ。つい口からため息を漏らしていると、試着室からクスクスと笑い声が返ってきた。

 

「まるで子供とお母さんみたいね。で、早速聞きたいのだけれど、この街で起こってることで何か面白い話はないかしら?」

「面白い話……?」

「ええ、この街で起こっている都市伝説とかね。調べ始める取っ掛かりが欲しいの、何かないかしら?」

 

 紫からの唐突な無茶ぶりに応じるため、私は事前にまとめて置いたメモを取り出して見てみる。

 私はインターネットの掲示板を中心に調べていたのだけど……はっきり言って眉唾物の話しかなかった。ま、その中で面白い話をすれば気が済むでしょう。

 ……そうだ、紫もちょうどケータイを買った訳だし、それに関連した話をしてみよう。この街で起こってる訳じゃないけれど、話の種にはなるでしょうし。私は咳払いを一つしてから少し声音を落としながら話し始める。

 

「紫、メリーさんって知ってるのかしら?」

「……あぁ、ごめんなさい。配慮が足りなかったわね、メリーさん」

「わざと勘違いするフリしないで頂戴。私だって紛らわしくて辟易してるんだから!」

「ふふ、つい言いたくなっちゃって」

 

 つまらない冗談に語気を強めると、紫はカーテンから顔だけを出して笑った。

 見た感じ私より大人な雰囲気を纏っているのに、意外と子供っぽい仕草もする。よくわからない人だわ。私は再度咳払いをしてから話を続ける。

 

「都市伝説の中でも有名な方かしら? ある日突然電話が掛かってきて『私メリーさん、今駅にいるの』とみたいなことを言って切られてしまうの。それから何度も何度も同じような電話が掛かってきて、段々自分の元に近付いてくるの。そして……」

「最後には『私メリーさん、今貴方の後ろにいるの』と電話が掛かってくると」

「……どうせ知ってるとは思っていたけれど、オチを言うなんて、最悪だわ」

 

 私は恨めしい思いで紫を睨みつける。すると紫は愉快気に目を細めながらそそくさとカーテンの中へ逃げてしまった。電話もなさそうな幻想郷から来たから知らないだろうと踏んでいたのに……

 それにしてもなんでメリーって名前なのかしらね? まるで私がストーカーみたいじゃない。止めてもらいたいわ。いや、そもそもこのあだ名自体、蓮子が付けたのだから文句を言うなら蓮子に対してかしら?

 私は店の壁に寄り掛かって天井を見上げる。間接照明を眺めていると、ふと懐かしい思い出が浮かび上がってきた。

 

 

 

 

 

 それは二年前の春先のこと。人とは違うものが見える私が大学内で孤立するまで、大した時間は掛からなかった。

 このことを黙っていれば友達の数人くらい出来たかもしれない。けれど、そうするつもりはさらさらなかった。

 別に人付き合いが苦手な訳じゃない。そう、強いて言うなら……普通が嫌だったから。自分の特別を隠して普通に生きていくことが退屈だと思えてならなかったからだ。

 けれど、私がどんな選択をしようとも結局退屈な未来は変わらなかったのかもしれない。周りの人間が、環境が、そして私自身がつまらないのだからどうしようもない。

 

 

 

 そう、その日までは……

 

 

 

 私は頭の片隅でたわいのないことを考えながら、授業内容をノートに書き写していた。機械的に手を動かし続けていると、不意に隣の席が微かに軋んだ。

 

「貴女が噂の電波を振り撒いている外人?」

 

 その黒髪の女性は断りも何もなく、講義中に突然私の隣の席に座り話し掛けてきた。横目でチラリと見てみるけれど知らない顔だ。

 彼女の机の上にはテキストもノートもない。それどころか鞄すら持っていなかった。中折れ帽子を手に持っているくらいしか荷物は見当たらない。

 馴れ馴れしくて不真面目な日本人。それが初めて彼女に抱いた感想だった。日本人は奥床しいものと思い込んでいたけれど、例外もいるみたいね。後ろの席だから今のところ教授にはバレていないけれど、目を付けられたくはない。この講義、必修なんだから落とす訳にはいかないもの。

 私は黒板から目を離さずに、隣に座る女性に向かって言う。

 

「自分にしか理解できない情報を電波と言うのなら、その通りね」

 

 皮肉を込めた台詞だったのだけれど、少女はククッ、と肩を揺らして笑う。それが妙に癪にさわって、私はペンを置いて隣の女性を睨む。対して女性は私を見つめながら頬杖を突いていた。

 私に真っ直ぐに向けられた視線がバッチリ合う。すると言おうと用意していた文句が頭の中から綺麗さっぱり吹き飛んでしまった。その間隙を突かれ、先に女性が先に口を開く。

 

「自分しか理解できないなんてことはないわ。みんな怖がって理解を拒んでいるだけよ。未知に対するもっとも単純で簡単な対処手段は無視だからね」

「……何が違うのかしら?」

「私は違うってことよ」

 

 女性は訳のわからないことのたまっている。煙に巻くつもりかしら?露骨に不機嫌そうにしてみせるけれど、黒髪の女性は大して気にした様子もなくグッと距離を縮めてくる。

 

「未知への対処法はもう一つあるわ。何だと思う?」

「貴女のように知ったかぶることじゃない?」

「私は貴女のことなんて全く知らないわよ。変なことを言ってる外国人だとは噂で聞いていたけれど」

「わざわざそれを伝えに来たの? 随分暇なのね。お生憎様、とっくに知ってるしその他大勢がどう言おうが気にもならないわ」

 

 まったく自分でも可愛げがないと思わずにいられない。なのに、それでも女性は私に話しかけることを止めなかった。右手にいつの間にか持ったペンをクルクルと手の中で回しながら肩を竦めてみせる。

 

「まさか。私はそんなお人好しじゃないし、暇でもない。正解はもっと単純よ……知ればいいの。理解し受け入れればいい。ね、簡単でしょう?」

 

 ペン先を突きつけながら言った彼女の言葉に、私は内心で鼻を鳴らさずにいられなかった。

 簡単ですって? わかってないわね。それが一番難しいんじゃない。

 知って後悔することだってある。受け入れて痛い目にあうことだってある。みんなそれを分かっているから、誰も私に近付こうとしないのよ。

 私だってわかっていた。だから私からは決して近付かないようしていた。なのに……なのに!

 

「貴女は……私を知りたいって言うの!?」

 

 気付けば私は机を叩いて立ち上がって叫んでいた。

 何でこんなことをしたのか自分でも分からない。もしかしたらこれが精一杯の威嚇だったのかもしれない。

 けれど彼女は平然と、笑顔で、はっきりと言った。

 

「ええ、そうよ」

「……っ!」

 

 即答されて、私は二の句が継げなくなった。ただ呆然と彼女の満面の笑みを瞳に映していると、教室の前方から男性の罵声が飛んでくる。

 

「……そこの二人! 講義を受ける気がないなら今すぐ出て行け!」

 

 その声を聞いて、私はようやく今が講義中だと思い出す。黒板の前を向くと教授の怒りの籠った視線で私を射っていた。

 慌てて座ろうとするけれど、机に突いていた手を隣の女性が掴む。

 

「ごめんなさい! もう少し長くなりそうなんで、出てきますね!」

「えっ、ちょっと!?」

 

 私の制止も聞かずに、女性は私の手を引っ張って教室の外に連れ出されてしまう。振りほどく暇もなかった。ノートも荷物も置きっぱなしだ。

 教室を出たところでなんとか手を振り払うと、女性は振り向いて私に手を差し出した。

 本当に思考回路が読めない。私は困惑極まって、つい目の前の彼女から後退りしてしまう。

 

「……何、なんのつもりよ?」

「自己紹介しましょ。宇佐見蓮子よ、貴女は?」

「えっ……?」

「まずは貴女の名前から知りたいの。だから、教えてよ」

 

 そう言って彼女はただ手を伸ばしてくる。

 ……本当に何なのかしら、この人は。強引に私の手を取ったと思ったら、今度はジッと歩み寄って来るの待っている。あべこべだ。何を考えているかわからない。

 このまま無視して教室に戻ろう。そうすれば教授の溜飲も治るかもしれないし、彼女は私に関わるのを止めてくれるかもしれない。そうすれば全て元通りだ。またいつも通りの大学生活を送れる。

 

 

 

 けれどそれって、私と避けている人達と何が違うのかしら。

 

『私は違うってことよ』

 

 彼女は私に向かってそう言った。見て見ないフリをするだけのその他大勢のとは違うと、宣言した。それに比べ私はどうかしら?

 境目が見えても、その他大勢と同じことをしようとしている。私は特別だって粋がって高を括っていた癖に、そいつらと同じことをしてるなんて……格好悪過ぎだ。

 気付けば私は彼女……宇佐見蓮子の手を取って握手をしていた。さっきはよく分からなかったけれど、随分冷たい手のひらだわ。夏だからちょうどいいけれど。

 

「……マエリベリー・ハーンよ」

「ま、まえべ? 覚えにくいし発音しにくいわね。あだ名とかないの?」

「そんなもの付けられたことないわ」

「そう、じゃあ貴女のことメリーって呼ぶわ。それじゃあメリー」

 

 蓮子は中折れの帽子を被り直してから私に向かって高らかに宣言した。真っ黒な瞳をキラキラと輝かせながら、子供のように無邪気な声音で……

 

「私と一緒に、サークルを作りましょうよ! 未知を暴くサークルを!」

 

 

 

 

 

 

 その言葉に私はなんて返したんだっけ? 思い出せないけれど……まあ、どうでもいいわね。

 蓮子に会ってから二年間はあっという間だった。毎日が忙しかった。大抵が蓮子に付き合わされていただけだけれど、少なくともあの退屈な日々より何倍もマシだった。

 本当に感謝している。あの時私を連れ出してくれた蓮子に……

 

「……あら、随分楽しそうな顔しているわね。それ、そんなに気に入ったのかしら?」

 

 気付けば紫が元の服で私の隣に立っていた。私は無意識で手に取っていた麦わら帽子をたわませながら、小さく首を振る。

 

「違うわ……ちょっと思い出していただけ」

「あらそう。さ、それも買って駐車場に戻りましょう。きっとあの二人が待ちくたびれていますわ」

 

 そう言って紫はレジに向かって歩いていく。傍らには大量の衣服を大慌てで運んでいく店員の姿があった。そのどれもが先程紫が試着していたもののように見えるのだけれど……

 

「もしかして全部買うつもりじゃないわよね……?」

「まさか。貴方が気に入らなかったのは全部省いたわよ」

 

 紫は扇で自分を煽ぎながら平然と言ってのける。やっぱり紫、お金持ちじゃない。

 

 

 

 

 

 見たこともない金額の買い物を済ませた私達は、デパート地下の駐車場に戻ってきた。のだけれど……

 

「……車がない?」

 

 そこには車のわだちの後しか残っていなかった。不安に駆られた私は蓮子のケータイにもう一度電話を掛ける。けれど、やっぱり話し中になっていて繋がらない。

 私はケータイを握りしめて立ち竦む。嫌な予感がした。困った私は紫に視線を向ける。紫は……上機嫌な笑みを浮かべていた。それを見た私は思わず紫に詰め寄る。

 

「何笑ってるの!? 車はないし電話も繋がらない、どう見てもおかしい状況でしょう!? 笑っている場合!?」

「ふふ、ごめんなさい、つい嬉しくてね。流石期待を裏切らないというか、やっぱり彼に頼って正解だっただったわ」

「……彼?」

 

 要点の伝わらない曖昧な口振りに戸惑っていると、紫は目の前に手をかざした。するとその空間が切れるようにして、人が歩いてくぐれるほどの境目が現れる。昨日の夜にも見たものだ。

 

「こっちの話よ。さ、私達も行きましょうか」

 

 そういって紫は何も説明せずに境目の中へ入っていく。私は少し気後れしながらも、迷わずその背を追いかけていった。



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6.命懸けの鬼ごっこ

「何で、こんな……ことに!」

 

 私は注目を集めるのも構わず、人混みを掻き分けて走る。 二階はフードコートや雑貨屋と家族向けの出店多いためか人が多い。

 最悪だわ!と内心で悪態を吐かずにいられなかった。

 私はメリーほど運動神経がないわけじゃない。けれど普段から運動をしていないツケが今に回ってきていた。息が切れる、太腿に乳酸が溜まって来てるのがありありとわかる。そんな私の様子を気遣ってか、前を走る北斗がスピードダウンして隣に並ぶ。

 

「大丈夫か? 駐車場まであと少しだ、少しくらい歩いても……」

「そうは、言って、られないわ……! このオカルトは、立ち止まっ、たら……」

 

 私の途切れ途切れの台詞に割り込むように、スマホが鳴り出す。さっきはすぐに電話に出たから分からなかったけれど、着信相手は非通知になっていた。

 けれどこの電話が誰からのものか既に分かっていた。できるものなら取りたくないけれど、自分の身を守るためには電話に出るしかなかった。

 

「ッ……!」

 

 私が覚悟を決めてペン型のスマホを耳に当てようとしたその時、ちょうどよく駐車場のある地下へ通じるエレベーターが目の前で開くのが見える。

 私と北斗は飛び込むようにそれに乗った。そしてドアが閉まったのを確認してから荒い息のまま、未だ鳴り続ける通話着信に出る。

 

『わたし、メリーさん。いまデパートの二階にいるの』

 

 耳元で聞こえる小さな女の子の声に、私は背筋を凍らせた。

 最初に掛かってきたデパートの入り口。その次は一階にあった携帯ショップにいると言っていた。やっぱり私達を追いかけている。

 最初は悪戯だと決めつけていたのだけれど、電源を切っても、着信拒否をしても掛かってきたりしたら超常現象だと認めずにはいられない。

 そしてメリーという知り合いによく似た名前の女の子からの電話。間違いない、信じたくないけどこれは……

 

「ねえ、北斗。こんな都市伝説を、知ってるかしら……?」

「悪いけど、多分知ってると思う。知り合いにそれの真似していた子がいたからよく覚えてるよ」

「悪趣味な遊びをする知り合いもいた者ね……」

「ははっ、まったくだ」

 

 壁にもたれかかりながら、北斗は乾いた笑い声を上げる。横目で盗み見た顔は一切笑っていなかったけれど。

 休憩はほぼ一瞬、情もなさけもなく金属の扉が開かれる。息がまだ整いきってない、足はガクガクだ。もううずくまって横になりたい。そんな衝動を叩き潰して、私は足を動かす。

 メリーさんとの命懸けの鬼ごっこから逃げ切るために。

 

 

 

 

 

 

 北斗がいてくれて助かった。私より断然冷静だし、車も運転できる。対して何もできない自分を思うと悔しいけれど、頼りになるわ。

 私が乗用車の助手席に乗り込むや汗を拭う暇もなく否や隣からスマホが放り投げられる。先程買った北斗のだ。どうしたのか聞こうとするけれど、その前に北斗が切羽詰まったように口を開く。

 

「それで連絡を取ってみてくれ。あとシートベルト忘れずに、飛ばすから舌噛まないようにね!」

「え、ちょ、待って!」

 

 私が急ぎシートベルトを締めると、それを確認した北斗が軽快な手付きでレバーを操作する。

 タイヤの擦れる音とエンジンの唸り声が上がる。突然、急激なGが私の体にのしかかった。急発進した車はまるで洋画のワンシーンのような派手な動きで、駐車場を駆け抜けていく。

 電話なんて掛けられるはずもない。悲鳴を上げることもできず、ただ歯を食いしばりながら座席にしがみつくことしかできなかった。

 これがずっと続いたら、身体は保つのかしら? ふと不安が頭を過るけれど、駐車場へ飛び出て広い道路に出ると北斗は激しい運転をやめてくれた。それでも速度は怖いくらい出ているけれど。

 

「ふぅ……」

「ごめん、急いでデパートから離れた方がいいと思ってね。大丈夫だった?」

 

 シートに身体を預け一息吐いていると、北斗が前を見据えながら申し訳なさそうに訪ねてくる。私はそれに帽子を被り直しながら応じる。

 

「まあ、なんとか。それにしてもよくあんな運転出来るわね。私には一生かかっても無理だわ」

「スピード出すだけなら誰でも出来るよ。命が惜しくなかったらね。俺は何とか制御できてるだけさ」

 

 なんて北斗が簡単にのたまうけれど、それでもあんな運転できるようになる気がしないわ。私はクーラーから出る暴力的に冷たい冷気にあたりながら、汗を拭った。

 デパートからかなりの距離遠ざかって緊張が緩んだところに例の着信が掛かってくる。メリーさんから逃げ切れたと確信し、幾分か心に余裕が出てきた私はすんなりと着信に応じることができた。

 

『わたし、メリーさん。今駐車場にいるの』

「私、蓮子さん。今ドライブ中なの。付いて来られるものなら付いて来なさいな」

 

 私は幼い女の子の声に大人気なく挑発を仕掛ける。けれど反応は返ってくることはなく、また一方的に電話を切られてしまった。

 もう少し悔しがるような声を上げてくれたっていいのにね。さて、流石にオカルトとはいえ車で逃げる私に追いつくことはないだろう。

 一応無断で車で逃げちゃったわけだし、メリー達にも連絡しとかないと。私は自分のスマホをしまうと、北斗のスマホでメリーの番号に掛ける。別に意識して記憶した訳じゃないけれどメリーの電話番号だけはなぜかはっきり憶えていた。

 

『はい、メリーですけど……』

 

 コール三回半、おっかなびっくりといった声でメリーが電話に出る。そういえば北斗のスマホから掛けてるから、向こうからしたら突然見知らぬ番号の呼び出しが掛かってるように見えるのよね。この反応も当然か。

 ふと私の中で遊び心が芽生える。

 

「もしもし私、蓮子さん。今貴方の後ろにいるの」

『しょうもない冗談を言ってる場合じゃないでしょう! 蓮子、今どこにいるの?』

 

 メリーはいやに真剣な口調で私を咎める。らしくなく心配してくれてるのかしら? 私は座席にもたれ掛かりながら、つい口の端から笑みを漏らしてしまう。

 

「ふふ、ごめん。ちょっと貴方の名前によく似た女の子にストーカーされてたの。今は車で市内を走ってるわ」

「よく似た名前って……」

「貴方も知ってるでしょ都市伝説のメリーさん。電話が掛かってくるやつ」

 

 そこまで言うと、電話の向こうのメリーが黙り込む。きっと苦虫を噛み潰したような顔をしているんでしょうね、目に浮かぶようだわ。予想通りメリーは大きなため息を一つ吐いた。

 

「何か起こってるとは思っていたけれど……北斗も一緒なのよね」

「そうじゃないと車を動かせないじゃない。今も北斗のケータイ借りて電話してるわけだし」

「まあ、一応の確認よ。何はともあれ連絡で来てよかったわ。で、これからどうする予定なの?」

「どうするって……」

 

 答えに窮した私は隣の北斗を見遣る。運転に集中しているのか、私の視線にまったく気づいていない。

 そういえば、北斗はデパートから離れてもずっと車を走らせ続けている。表情もまだ固い。もしかして、北斗はまだ逃げ切れたと思っていないのかしら……?

 車内の空気がじっとりと重くなる。忘れようとしていた緊張感が戻ってきて、私を苛む。今まで調子に乗っていた反動も相待って、一気に血の気が引いていく。

 

『……蓮子?』

「大丈夫よ、大丈夫……」

 

 スマホ越しのメリーの呼びかけに私は強がることしかできない。

 そんな時、崩れかけの心中にトドメの楔を穿たれた。左の胸ポケットに入れていたスマホが鳴動し始めたのだ。

 まるで心臓の鼓動がバイブレーションにつられて早くなっていく。耳元でメリーが心配げに色々言っているけれど、答えるどころか耳に入れる余裕すらなかった。

 さっきは駐車場と言っていた。なら次は……どこに彼女は現れる? どう、する? どうすればいいの……? 緊張で思考も身体の動きも停止してしまう。そんなとき、運転席から声を掛けられる。

 

「……頼みがある。蓮子、運転変わってくれ」

「え……?」

 

 北斗から突拍子な無茶ぶりに、私は呆けてしまう。冗談かと思って振り向くが、北斗の顔は笑っていない。真っ直ぐ前を見つめながら私に向けて右手を突き出していた。

 

「俺が電話に出る。代わりにハンドル操作してくれ。ハンドルを真っ直ぐ保つだけでいい。何か起こっても俺が何とかするから」

「無理よ! そんなの……できるわけない……!」

「なら電話に出てくれ。今、蓮子にしかそれはできない」

「………………」

 

 絶句してしまう。私は北斗の性格を誤解していたようだ。

 一言で言い表すなら生粋のお人好し。困っているなら誰にでも手を差し伸べるような、甘い人だと思っていた。今だって、北斗が運転しながら電話に出てくれると期待していた。けれど……

 北斗は今、私の覚悟を再び問いかけているんだ。敢えて危険が突き付けられているこの状態で。わざわざ自分もリスクを背負うことになるこの場面で。きっとどちらも拒めば、北斗はその通りにしてくれるでしょう。けれど、私はここにいられなくなる。

 北斗と紫の目的は幻想郷で、この町で起こっている異変の解明だ。荒事はともかく、異変から目を背けてしまえば足手まといの烙印を押されることになる。

 そんなことになったらまたメリーとの距離が離れてしまう。逃げちゃいけない。逃げれば次に何が起ころうとまた逃げてしまう。なら、私は……

 

「……逃げたくない」

 

 もうメリーに突き放されたくない。

 私は北斗のスマホを切ると突き出された手の平にそれを乗せる。その意図を察したのか、北斗は何も言わなかった。自分でも吹き出してしまいそうなほど分かりやすく震える指先で、ペン型スマホを手に取る。そして……通話ボタンを押した。

 耳に当てたスピーカーから女の子の声が聞こえる。それは妙にはっきりとした声だった。

 

「わたし、メリーさん。いまあなたの後ろにいるの」

「……えっ?」

「なっ……!」

 

 背後からの声に私は反射的に振り向いてしまう。そして後悔した。

 後部座席の小柄な女の子と目が合ってしまったのだ。翡翠のような妖艶な光を放つ丸く大きな瞳と。

 鴉羽色の帽子を被った淡い緑色のセミロングヘアーの少女。彼女は満面の笑みを浮かべながら、右手に握ったナイフを振り下ろしてくる。反応する間もなかった。鋭い銀の切っ先が首筋に触れようとしたその瞬間……

 

「伏せて!」

 

 その言葉と甲高い摩擦音が聞こえたと同時に世界がグルリと回った。遠心力で身体が窓側に押し付けられる。

 そんな緊急事態に、突然隣の北斗が私に覆いかぶさるように抱き着いてくる。けれど文句を言うこともできない。

 次の瞬間、突き上げるような凄まじい衝撃が身体に叩きつけられた。

 

 

 

 

 

 

「大丈夫か、蓮子」

 

 肩を叩く音と男性の声で目が覚める。身体中……特に腰元辺りが痛い。一体何があったのかしら? ストーカーの方のメリーはどうなった?私は頭を抱えながら固いコンクリートから身体を半身だけ起こす。

 

「よかった、怪我はなさそうだ」

 

 そこには頭から血を流しながら、ほっと安堵の笑みを浮かべる北斗の姿があった。私は思わず飛び起きて、片膝を突く北斗の首根っこを掴んだ。

 

「ちょ、そういうアンタが無事じゃないじゃない! 一体何がどうなったのよ!?」

「いや、これは頭の傷だから酷く見えてるだけだって。で、どうなったかは説明しにくいんだよね……」

 

 北斗は私の背後の方を指差す。さっきの出来事の後に振り向くのはなんとなく恐いのだけれど……

 そこには電柱に横からぶつかって後部座席部分が潰れてしまった黒の自動車があった。ガラスはことごとく割れ、元の形はほとんど残っていない。さっきまで乗っていたはずのものが完全な鉄くずと化していた。

 

「えっと、車体を水平に滑らせて、扇状に半回転させたんだ。本当は塀にでもぶつけるつもりだったんだが電柱の位置が悪かったら死んでたな」

「死んでた、じゃないわよ! こんな無茶苦茶な……」

「こい……メリーさんの攻撃を止めるのにはこの方法しか思いつかなかったんだよ。お陰でせっかくの新車が一日でお釈迦だ。紫さんにネチネチ嫌味を言われそうだよ」

 

 北斗はまるで汗のように額の血を腕で拭ってから立ち上がり、傍らに置いていた刀を手に取る。あれだけの大事故だったのに後部座席に置いていたはずの刀は曲がってすらなかった。

 ……あの少女はどうなったのだろうか?私を刺そうとしていたけれど……潰れて死んだのかしら。

 

「……そもそもアイツ、どうやって車に乗り込んだのかしらね?」

「オカルトはあり得ないことが起こるからオカルトなんだよ。物理法則で考えてたら一生理解できないぞ」

 

 突然口を突いた疑問に、北斗が半笑いで答える。超統一物理学が専攻の私に喧嘩を売ってるわね。

 とにかく、今のところ危機は去ったみたいだ。私は安堵の溜息を吐いて、隣に並び立つ北斗をまじまじと見つめる。

 止血をしてさっきまでの凄惨な姿よりマシになったけれど、それでも見た目痛々しい。それにどこか表情が優れていない。なにかジッと考えているようだ。

 もしも、仮定の話だけれど……私が北斗のように妖怪と戦える力を持っていても、私は彼のようになれないでしょう。咄嗟の判断、行動力、そして何より覚悟が足りていないのだから。

 元は同じ世界の人間なのに、一体彼は幻想郷で何を体験したのだろうか。そんな私の疑問を知る由もなく、北斗は自分のTシャツの袖を破いて自分の頭に巻き始めた。

 

「病院に行かないの?」

「そんな余裕なんてないよ。まずはここから離れないと……立てる?」

「え、えぇ……」

 

 私はふらつきながらも立ち上がる。辺りを探すけれど、残念ながらお気に入りだった帽子が見当たらない。私のために身代わりになってくれたと思いましょうか。

 そして皮肉なことにスマホだけは傷一つ付いていなかった。ま、壊れてないのに越したことはないけれど。今まで疲れがドッとぶり返してくる。ひと眠りしたい気分だ。

 けれど、せめてメリーに連絡くらいしないと……帰ったら説教されるわ。そう思った私は電話を掛けようとする。その時、唐突に背後から耳打ちされる。

 

「わたし、メリーさん。いま、あなたの後ろにいるの」

 

 先程と同じ声、同じ口調の声が響く。それが耳に届くが速いか、私の横を疾風が駆け抜ける。慌てて振り向くと、北斗とメリーさんを名乗る女の子が鞘に入ったままの大刀とナイフで鍔迫り合いをしていた。女の子は短い得物に関わらず平然と片手で刀を受け止めると、可愛らしく首を傾げた。

 

「もー、また邪魔するの、お兄さん?」

「当たり前だ。俺がいる限り手出しはさせない。それに……」

 

 北斗はそう言いながら身体を一瞬だけ引き、少女のナイフを空振りさせる。そして瞬く間に斬撃を放つけれど、それは当たらない。

 当然だ、なんたって……その少女は空に逃げたのだから。少女はふわりとスカートを翻しながら車のぶつかった電柱の先に立って、私達を見つめている。対して北斗は猛禽のような鋭い瞳で少女を見上げながら、微かな声で呟いた。

 

「どういう事情か知らないけど、こいしに人殺しをさせるわけにはいかないから」

 

 意味のよく分からない台詞だったけれど、北斗のその言葉にはどこか決意めいた感情が込められているように思えた。



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7.何もない私でも

 真昼の曇り空の下、少女は電柱の先で身体の後ろに組みながら私達を覗き込んでいた。

 この子が、都市伝説メリーさんの正体……

 元々メリーさんは捨てられた人形が持ち主のところまで復讐しに行くっていうお話だけど、確かに人形みたいに端正な顔立ちの少女だった。淡い緑の髪は染めたような人工的な色ではなく自然な艶を放っている。そして身体に撒きついている生物的な管の先にはレトロな受話器が付いていていた。

 

「ふふふ……」

 

 ふと薄ら笑いを浮かべる少女の、翡翠色の大きな瞳とばっちり目が合ってしまう。その瞬間、先程殺されかけた光景がフラッシュバックして、足が震えてくる。

 そんな私を気遣ったのか、北斗は庇うように私の前に立ち、大刀を構える。背中越しにはその表情は見えないけれど……さっきの言葉が引っかかって仕方がなかった。

 

「おにーさん、どうして私の名前を知ってるの?」

 

 つい北斗を気にしていると、頭の上から幼い声が降ってくる。奇しくも私が考えていたこととまったく同じ疑問だ。見上げると、女の子が左手の受話器と右手のナイフをぶらぶらとさせながら真横に首を傾げていた。

 

「お姉ちゃんの仲間? だとしても私の心は読めないはずだよねぇー……それに、匂いは人間だし。おにーさん、何者?」

「俺はただの人間だよ。覚妖怪でも魔法使いでもない」

「ふーん……面白いねおにーさん。貴方にも興味が出てきたよ」

 

 女の子はあざといほど可愛らしい仕草で前屈みになって笑う。けれど、右手に持つ得物のせいで狂気的なものにしか映らない。

 そんな少女からの好奇の視線を一身に受けても、北斗は構えを解かなかった。確か、さっき北斗はこの子のことをメリーさんではなく……

 

「こいし……やっぱり記憶がないのか?」

 

 そう、こいしと呼んでいた。どうやら北斗は彼女のことを知っているみたいだけれど……

 突然私の背後を取ったり、空を飛んだりしているってことは、幻想郷の知り合いなのかしら? だとしたら今までの無茶苦茶は納得できるけれど……

 真相を問い質したいところだけれど、こんな状況でできる訳もない。代わりに私はこいしと呼ばれた少女に向かって叫ぶ。

 

「どうして私を狙うの!? いいえ、そもそもどうしてこんなことをするの!?」

「んー、理由なんてないよー! やりたかっただけー」

「なっ……」

「だって面白いんだもん! 逃げ回ったり、家の中に閉じこもったり、みんな反応が違うんだよ? 特にずっと壁に背を付けて動いてた人なんてお腹がよじれるほど笑っちゃったよ!」

 

 純真に遊ぶ子供のような笑顔で突き付けられた言葉に、私は絶句してしまう。理由が欲しかったわけじゃない。けれど、こうも平然と……まるで羽虫を潰したかの様に罪悪感を思えていないことに、平常心でいられなかった。

 

「どうして、そんなことを……」

 

 北斗も信じられないように呆然と呟く。刀を持つ右手に力が入っているのが私にもわかった。彼女と北斗がどんな関係なのかは分からないけれど……少なくともこの子を倒してお仕舞、という訳にはいかないようね。

 私達が立ち尽くていると、女の子……こいしは白けたような表情で溜息を吐いた。

 

「あーあ、おにーさん達も全力で逃げてくれるから面白かったのになぁ。ねえ、もしかして、もうおしまい?」

「……もしそうなら逃がしてくれるのかしら?」

「駄目だよー、ちゃんとおねーちゃんを殺さないと。オモチャは、お片付けしないとこの遊びは終われないよ!」

 

 そう言い終わるが早いかこいしは電柱から飛び降りて、私達に向かって降ってくる。重力を無視したようなフワリとした跳躍だ。ほぼ同時、迎え撃つように北斗も飛び上がって大刀を振り上げる、が刀とナイフが交差する瞬間、北斗の刃はあっさり空を切った。

 

「えっ……?」

 

 私が思わず声を漏らした時にはもうこいしが視界にいなかった。消えた? 高速で移動した? それとも……

 

「蓮子、しゃがんで!」

 

 考えている間に上から声がする。北斗が電柱横の検査用の足掛けに掴まり、身をねじりながら叫んでいた。

 言われた通りに……とはいかず半ば転ぶようにして身を屈めると、左の二の腕に鋭い痛みが走る。アスファルトに倒れ込みながらも腕を見ると、カッタシャツが紅い血で染まり始めていた。

 

「むー、また避けられた」

「ッ……!?」

 

 腕を押さえながら振り向くと、ふくれっ面のこいしがいた。また背後、これで三度目だ。いったいどうやって瞬間移動なんてしてるのかしら? ワームホール? 量子テレポーテーション? はたまた光速移動?

 ……って考えてもオカルト相手に理性的な思考は意味がないんだっけ。とにかくこいしは私の背後に瞬間移動できる、そう理解するしかない。

 

「う……」

「蓮子、逃げろ!」

 

 北斗から無茶ぶりが飛んでくるけれど、私にはどうしようもなかった。これまでは何とか北斗が防いでくれたけど、素人の私じゃいつまで避けれるかわからない。

 一体どうすれば……と考えを巡らせていると私の背中を掠めるように何かが飛んでいく。顔と目だけで振り返ると、北斗が投げたお札がこいしの身体に張り付き束縛していた。この日初めてこいしの顔が笑顔から苦悶の表情に変わる。

 

「ッ……邪魔しないでよ、おにーさん!」

「そんなことッ!」

 

 北斗は声を荒げながら軽快な動きで電柱を蹴りこいしに肉薄する。勢いのまま刀を振るうけれど、こいしは寸のところでお札を振り払って避ける。

 が、その動きを読んでいたかのように、北斗はクルリとバスケのフェイントの如く身体を回転させながら距離を詰めていく。

 牽制をしようとしているのかこいしが軽快な動きでナイフを突き出すけれど、北斗は身体を低く沈めるだけでそれを避けていた。まるで蛇のように滑らかで柔軟な動きだ。左腕の痛みを忘れて見入ってしまう。

 

「あた、らない!」

「………………」

 

 完全に大刀の間合いに入っていると素人目にもわかるのに、北斗は刀を振るわない。無言でナイフを躱し続けている。しかも敢えてナイフが当たる位置で、だ。

 知り合いだから攻撃できないか、あるいは攻撃のチャンスを狙っているのか……どちらかわからない。けれど幾らナイフを振ってもかすりもしない状況に、こいしは明らかに苛立っていた。

 

「お兄さん、本当に、邪魔!」

 

 こいしは吐き捨てるように叫びながら身体に巻きつかせていた管を鞭のように鋭く振るう。けれどそれすらも北斗は刀でいなし、捌いた。

 ついに苛立ちが頂点に達したこいしは管を所構わず乱暴に振り回し始める。

 

「ッ、危ない!」

 

 それを見た北斗が私の前に回り込みながら叫ぶ。とほぼ同時に、視界に血飛沫が舞う。それは北斗の右の掌から迸っていた。何が起こったかわからない。けれど、北斗が私を庇ったことだけはわかった。

 そして、それが致命的な隙になったことも。

 

「くっ……!」

「わーい! つっかまーえた!」

 

 一瞬立ち止まった瞬間を狙われたのか、北斗の左腕に管が絡み付いていた。

 体勢を沈め踏ん張ろうとするけれど、力が拮抗したのは瞬きするほどの一瞬。北斗はいとも簡単に振り飛ばされ、ブロック塀に叩きつけられる。

 凄まじい勢いだった。口の端から血がこぼれるのを見て、思わず顔を逸らしてしまう。

 

「うふふ……アハハハ!!」

 

 その視線の先に満面の笑みを浮かべたこいしが立っていた。アスファルトから立ち昇る陽炎を越え、ゆっくり近付いてくる。右手のナイフをこれ見よがしに光らせているのは、私の恐怖心を煽ろうとしているのかしら。

 

「さーて、お邪魔虫はいなくなった! さ、お姉さん! 終わりにしよーか!?」

「ひっ……」

 

 北斗という障害をなくし、もう誰もこいしを止めてくれない。夢だと思いたかったけれど、左腕の痛みがそうでないと証明し続けている。

 ただの人間である私には、こいしがゆっくり歩いてくるのを見つめることしか出来なかった。恐怖に動かない手足、満足に逃げ出すこともできない。私は自分の非力さに絶望してしまう。

 

「……私、は」

 

 ……私には何もない。それなのにメリーについていきたいという自分本位なだけの理由で首を突っ込んだ結果、理不尽に死んでしまうことになった。自業自得だと言われても仕方ない。

 私は左腕を抑えながら目を閉じる。刺される痛みってどんなのかはわからないけれど、きっと腕の時より何倍も痛いんだろうな。せめて叫ばないでやろう。絶対に泣かないでやろう。そんな稚拙な意地を張りながら、私は歯を食いしばってその瞬間を待つ。

 

 

 

 けれど、私を襲ったのは痛みではなく、浮遊感だった。この感覚は衛星トリフネの中で体感した無重力に似ている。

 思い切って目を開いてみるとコンクリートに舗装された道路は影も形もない。無数の瞳が背景になっている不気味な空間に、私は浮かんでいた。これは昨晩通った境界、確か紫がスキマと呼んでいた場所だ。ということは……

 

「どうやら間に合ったようね」

「紫……」

 

 私の目の前に浮き上がるように紫が姿を表す。どうやら彼女に助けられたようだ。緊張の糸が切れてつい私は空中にへたり込んでしまう。

 何とか気持ちを落ち着かせ周囲を見てみると、北斗も回収されたようで仰向けの状態で宙を漂っていた。けれどその身体には力が全く入っておらず、ぐったりとしている。そして、よく見ると右の掌には鋭いアスファルト片が突き刺さっていた。

 こいしが弾いた破片から庇ってくれたのか。血だらけで悲惨な姿、もしかしたら……

 

「大丈夫よ、死んではいないから」

「そう……よかった……」

 

 最悪の事態を想像してしまっていただけに、私は無意識に安堵の溜息を吐いていた。

 それにしても紫は北斗や私を対して気にかける様子もない。ただ貼り付けたような微笑を浮かべ、日傘を回していた。紫外線なんて届きそうもない空間なのに何で日傘……?

 と意識がそちらに向いたところで、私はようやく日傘の影に隠れるように浮かぶメリーに気付いた。メリーは私の姿を見るや否や、宙を蹴って近付いてくる。

 

「蓮子! 貴女だって怪我しているじゃない! メリーさんに追われてるっていうからずっと探してたのよ!? それなのに電話も途中で黙り込んだと思ったら唐突に大っきな音もしたし……心配させないでよ!」

 

 気圧されるほどの剣幕でメリーに言われた私は何も言葉を返すことが出来ない。紫はともかくメリーがここにいるとは思っていなかったので、不意を突かれてしまった。

 私は咄嗟に右手で左腕の傷を庇うようにして隠そうとするけれど、メリーは右手を取ってそれを遮った。眉間にしわを寄せ、睨みつけるように至近距離から私を見つめる。そして、前触れもなくクシャリと表情を歪めた。

 

「ごめん、なさい。蓮子……」

「ちょ、突然謝ったりしてどうしたのよメリー!?」

 

 私はメリーの思いも寄らない反応に戸惑ってしまう。

 わからない。どうしてメリーが謝らないといけないの? どうしてそんな顔をしているの? どうして泣きそうなの? 心配掛けたのは私の方じゃない。北斗の足を引っ張ったのは私じゃない。なのに……何で私が謝られないといけないのよ!?

 なんて口に出してしまいたかったけれど、言葉にならない。喉の奥で言葉が詰まって苦しかった。メリーは顔を伏せ、息を飲んでから喋り続ける。

 

「こんなことになるなんて思わなかったの。軽い気持ちで、紫の誘いを受けて……」

「………………」

「私が巻き込んでしまったから、蓮子も、北斗も傷付いてしまった。だから、もう」

「やめよう、なんて言わないでよ」

 

 私はメリーの言いかけた言葉を遮る。それだけは言わせるわけにはいかない。メリーに誘われたからここにいるだなんて……メリーにだけは思われたくなかった。

 昨日の晩、確かに私はメリーの言葉で背中を押された。けれど、軽い気持ちで頷いた訳じゃない。

 私は私の意思でメリーの傍にいる。メリーの隣で不思議を証明したい。メリーを肯定したい。だから私は秘封倶楽部を作った。ようやくメリーの瞳無しで不思議に触れられたんだ。否定させはしない。諦めさせはしない。

 

「私は続ける。きっとこれからみんなの足を引っ張ることになっても、秘封倶楽部の活動は止めない!」

 

 私は目一杯の握力でメリーの手を握り返す。メリーは目を見開いたまま動かない。

 しばらく見つめ合っていると、視界がボヤけてくる。どうやら貧血のようだ。左腕の傷、そこまで酷くないと思って他のだけれど、以外と深かったみた、い。

 

「蓮子!?」

 

 立ち眩みで自分の身体を支え切れない。白んだ視界の中、私はメリーと手を繋いだまま倒れる……

 

「よっ、っと。大丈夫か、蓮子」

 

 その前に誰かが背中を支えてくれる。傾く視界に、ひょっこりと北斗の顔が入り込む。全く起きる気配がなかったのに……本当に人間離れしてるわ。

 そう思いながら目を閉じる。もう我慢出来そうになかった。しばらく寝かせて、貰おう。心地いい暗闇に身を任せていると、男の優しい声が届く。

 

「さっきの言葉、聞いたよ」

「………………」

「それでいいと思う。足を引っ張ることなんて今は考えなくていい。自分が、蓮子が出来ることを考えるんだ。考え続ければきっと……」

 

 自分に出来ることを……考え続ける。私はその単語を頭の中で反芻させながら、暗闇の中に意識を埋没させた。



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8.黒の慧眼

 紫の作った空間の中、私は祈るように両手で蓮子の手を握っていた。ううん、実際祈っていた。蓮子が目覚めることを。

 

「本当に蓮子は大丈夫なの? 起きるわよね、死なないわよね!?」

「大丈夫だって言っているでしょう? ただの貧血で狼狽え過ぎよ」

 

 紫は呆れた様に言う。頭ではわかっていた。北斗がしっかり手当してくれたのもこの目で見守った。それでも私は蓮子の手を離せなかった。

 まるで操り人形の糸が切れたような倒れ方だった。もう二度目を開けないんじゃないか。そんな想像が私の思考を埋めて、頭が働かない。

 

「蓮子……ねぇ蓮子!」

 

 ただすがるように蓮子の手から伝わる体温を感じていると、背後からため息が聞こえた。同時に私のすぐ目の前にスキマが現れ、蓮子を飲み込む。

 声を上げる暇もない。私の手から蓮子は離れ、いなくなってしまう。残ったのは空を切る手の感触だけだ。振り返ると、紫が冷ややかな目で私を見下ろしていた。

 

「彼女は別の空間で安静にさせるわ。私の式に世話をさせるから、死にはしないでしょう」

「……紫!」

「何を動揺しているか私にはわからないけれど、貴女がずっとああしていてもあの子の傷は治らないわよ。それに今はこんなことをしている場合じゃないことくらい分かっているでしょう?」

 

 私が怒りの視線を向けても紫はあくまで理性的に話を進めていく。まるで人工知能と話しているかのような空虚感に、私は唇を噛んだ。

 スキマの空間に気まずい空気が漂う。それをかき消すように、北斗が落ち着き払った声で呟く。

 

「……二人とも落ち着いて」

「けど蓮子が……」

「メリー、スキマの中は絶対安全だ。少なくともこい……メリーさんに狙われることはない。それに紫さんの式は優秀だ、悪いようにはならないよ。今は紫さんを信じてくれないか?」

 

 私は北斗の根拠のない懇願に迷うけれど……渋々と頷く。

 直接見たわけじゃないけれど、北斗はずっと蓮子を守ってくれていたみたいだ。ボロボロの衣服と頭と掌に巻かれた包帯が物語っている。そんな彼に諭されては私も引き下がらずにはいられなかった。

 彼はそんな私の様子に一瞬表情を緩めるけれど、すぐに顔を引き締めて紫に向き直る。

 

「……紫さんもらしくないですよ。ムキになり過ぎです」

「そんなことは、ないわ。私は至っていつも通りよ」

「………………」

「………………」

 

 紫と北斗はしばらく鋭い視線を交錯させていたけれど、ほどなくして北斗が折れた。小さく息を吐き、間を取る。

 

「……とにかく拠点に戻って状況を整理しましょう。その間に冷静になってください。お互いに、ね」

 

 

 

 

 

 その後、私達は紫のスキマに送られ拠点の居間に戻った。そのまますぐに話し合うのかと思ったのだけれど、北斗はすぐにリビングを出て行ってしまう。

 おかげで私と紫はリビングに二人っきりだ。仲裁をしておいて何処かに消えてしまうなんて……無責任だ。

 

「はぁ……」

 

 私は内心で北斗を非難しつつ低反発のソファに沈み込む。対して紫はリビングの方ではなく障子で仕切られた和室に正座し、扇子を弄んでいる。

 当然だけれど私と彼女との間に会話はない。話しかけられても困るからそれ自体はいいのだけれど、今すぐ部屋に戻ってベットに跳び込んでしまいたかった。

 気まずい空気に耐えながら窓の外を眺めていると、雲行きが怪しくなっているのに気づく。夕暮れも迫り部屋も暗くなってきた。

 

「本当に、遅いわね……」

 

 私は独りごちながら部屋の明かりを付けようと立ち上がると……同じタイミングでリビング入口から北斗が現れる。ボロボロになった服は着替えたようで、ポロシャツにジーンズといった服装に変わっていた。

 北斗は私達の様子を察したのか、明かりをつけてから早足にソファへ腰掛ける。

 

「待たせてごめん。ちょっと試したいことがあってね」

「試したいこと……?」

「あぁ……はい、これ」

 

 北斗はジーンズのポケットから何かを取り出すと、私に差し出した。それは万年筆……の形をしたスマホだ。見間違えるわけがない。蓮子のものだ。私はそれを奪い取って北斗を睨みつける。

 

「なんで貴方が持っているの!?」

「都市伝説のメリーさんにこっちからかけてみようと思ってね。まあ、繋がらなかったけど。メリーから返してやってくれ。もちろんプライベートなところは極力覗かないようにしたけど……まあ、信じられなくても仕方ないな」

「………………」

 

 ……あっけからんと言われた言葉に、反応することができなかった。こんな状況なのに平然としている。それが私には空恐ろしく思えた。

 私の瞳でも北斗は普通の人にしか見えない。なのに彼は私以上に一線を画した存在に思えてならなかった。しかも、よりはっきりと特別な力を持っている紫よりも強烈に感じてしまうのだから不思議だ。

 北斗はさらに弁解を続ける。

 

「ついでにメリーさんから電話が掛かってくるかも待っていたんだが、結局掛かってこなかった。要は特定のスマホを持ってる人を攻撃しているわけでも、彼女と電話をしたから襲われるってわけではなさそうだ」

「……そのために蓮子のスマホを?」

「悪いと思ってる。今度からはパスワードを掛けとくように言っといてくれ」

「盗人猛々しいわね」

 

 我ながら随分刺々しい口調になったけれど、北斗は気にした様子もなく机の上に地図を広げ始める。

 感情的にならない冷静な判断力、迷いのない迅速な行動力、そして出会って一日も経たない人を庇える自己犠牲の精神……彼が味方であることはとても頼りになる。

 けれど、なんだか怖い。死にそうになる恐怖とは違う……未知の存在への恐怖を感じてしまう。それに引き摺られたのか、私は自然と口を開いていた。

 

「……貴方は本当に人間?」

「えっ……」

 

 私のあまりにも突拍子な質問に北斗は目をパチクリさせる。無理もない、私自身驚いていたのだから。慌てて口を押さえるけれどもう手遅れ。心の中でほんの一瞬浮かんだ問いが勝手に口から出ていた。

 お互いに呆けてしまっていると、その一連の様子を見ていた紫が堪えきれなくなったように吹き出す。

 

「ぷ……ふふ……! アハハッ! とっても面白いわメリー! 北斗の顔も傑作よ! まさに豆鉄砲を喰らった鳩の様だわ」

「紫さん……!」

「答えてあげなさいな。私も貴方の答えが気になるわ」

 

 紫は畳の上を笑い転げながら言う。対して北斗は苦々しい表情を浮かべていた。

 慌てて質問を取り消そうとするけど、それを制したのは……意外にも北斗自身だった。自分を落ち着かせるように息を一つ吐き出してから、意を決したように呟いた。

 

「……俺は人間だよ。誰かは違うっていうかもしれないけど、少なくとも俺はそうあろうとしている」

 

 様々な含みが込められた回答だ。力強いのだけれど、言葉の端々に物悲しさが滲み出ている。

 人間であろうとしている、その言葉が示す意味。現代から零れ落ち幻想郷に拾われた彼が、現代に帰ってきて何を思っているのか。その一端が、ほんの僅かに見えたような気がする。

 

「……変な質問をしたわ。ごめんなさい」

「いや……」

 

 私が申し訳なさのあまり謝ると、北斗は静かに首を振った。

 ……きっとこの答えは今の北斗本人を現しているのだろう。強さと影。この姿が彼の本質なのか、上辺の仮面なのかは分からないけれど……この言葉は彼自身への印象を変えるには十分のものだった。

 先程の台詞が恥ずかしくなったのか、北斗はわざとらしい咳払いを繰り返してから喋りはじめた。

 

「俺の話はこれくらいにして、始めましょうか。まずはメリー……都市伝説のメリーさんの行動と、俺と蓮子が取った行動を洗っていこうと思います……いいですか紫さん?」

「ええ、当事者だもの。進行は貴方に任せますわ」

 

 紫が机の上、地図を真上で見下ろすようなところから境界に肘をかけるように現れる。わざわざ人を驚かすような移動をしなくても、立ち上がって歩いてくればいいのに……

 なんて内心で愚痴りながらメモとペンを取り出していると、北斗が地図に一筆書きの線とバツ印を書き終える。

 

「まずは情報を纏めましょう。少しうる覚えですが、俺達が逃げた逃走経路がこれです。2時過ぎ頃からメリーさんの電話が始まって、とにかく距離を取ろうとして大体30キロメートル以上走りましたが、メリーさんは突然蓮子の後ろに現れました」

「走行中の自動車に乗ってきた訳ね。それも物理的な壁も距離も無視して。私のお株が取られちゃったわ。メリーさんのこの能力に名前を付けるなら『電話を掛けた相手を追いかける程度の能力』ってとこかしら?」

「程度の能力って……瞬間移動が?」

 

 紫の暢気な表現に私は納得しかねた。

 確かにどこにでも移動できるらしい紫からしたら下位互換といえなくもないけれど……私の能力も『結界の境目が見える程度の能力』なんて思われているのかしら? それはともかくとして……

 

「けれど、北斗がスマホを持っていても電話は掛かってこなかったし、こっちから電話も掛けられなかったのよね。それはどういうことなのかしら? 私達を警戒しているとか?」

「『彼女の性格を考えたら』それは無いと思う。可能性としてあるのは……あ」

「彼女の性格……?」

 

 私は北斗の発言に眉をひそめる。どうやら今度は失言をしてしまったようだ。しまったと顔をしかめ……そして諦めの溜め息を吐いた。

 紫もイタズラがバレた子供のような苦々しい顔をしながら腕を組み境界にしなだれ掛かる。私はすっかり口を閉じてしまった二人に向かって尋ねる。

 

「もしかして二人は、都市伝説のメリーさんの正体を知ってるの?」

「……いつもの甘さが出たわね、北斗」

「すみません……」

 

 紫に叱られ、北斗はなすがまま頭を下げた。これが答えみたいね。二人は都市伝説のメリーさんを知っている。しかも、性格がわかるほどの関係……少なくとも話したことがある、程度ではないでしょう。

 

「この話し合いはお互いに情報を共有するのが目的でしょう? 教えてよ、貴方の知っているメリーさんについて」

 

 北斗はしばらく俯いたまま氷漬けになったように固まっていたけれど、不意に息を吐きながら立ち上がる。

 一瞬逃げるのかと思ったけれど、彼はリビング出口ではなくカウンターキッチンに立った。

 

「わかった、話すよ。ただ話すなら蓮子にも話しておきたい。一旦この話を中断することになりますけど……いいですよね、紫さん?」

「ええ、いいわよ。一人だけ仲間外れは可哀そうだもの。けれど、くれぐれも彼女を安易にスキマから出さないようにね」

「わかってます。俺からの挑発に乗らないってことは、きっとまだ蓮子を狙っているでしょうからね。しばらく……場合によってはこの件が終わるまでスキマで過ごしでもらうことになるかもしれません」

 

 この件が終わるまで!? 私は思わず絶句してしまう。二人とも蓮子のことを守るために言ってくれているのはわかるけれど、それにしても極端だわ……

 まるで蓮子を独り占めされているように思えるのは……我ながら気持ち悪いわね。

 ……とりあえず蓮子をどうするかは北斗の話を聞いた後で考えましょうか。私はあまり書き込むことのなかったメモを閉じて、ソファに横になる。今日はいろんなことがあり過ぎて疲れてしまった。私は睡魔の誘惑に身を委ね、意識を埋没させた。

 

 

 

 

 

 

 仮眠から目覚め北斗特製の夕食を頂いてから、しばらくして私達は再びリビングに集まっていた。

 相変わらず私と紫との間には微妙な空気が流れている。板挟みの北斗も半ば諦めたようで、ただ静かに冷たいお茶を淹れてくれるだけで私達には一切話しかけようとしなかった。

 それにしてもわざわざ沸かしたお茶を冷やしてから出したけれど……粗茶にそこまでする必要あるのかしら?と、ふと隣の空間から湯飲みに向けて手が伸びる。私は呆れながら湯飲み取りその手に手渡した。

 

「命が狙われているのに呑気ね。……もう大丈夫なの、蓮子?」

「ええ、ちょっと貧血になっただけだもの。傷も大したことないし全然平気よ」

 

 心配する私に蓮子は『境界の中』から作り笑いを浮かべ応じる。大丈夫だと言っているけれど、どうも普段より顔色が悪い気がする。

 主観的な見え方の違いか、はたまた本当に体調が優れていないのか……気になって仕方なかったけれど、その前に北斗が話を始めてしまう。

 

「さて、どこから話そうか」

「じゃあ、単刀直入に。都市伝説のメリーさんを貴方は『こいし』と読んでいたわよね。彼女は何者? どういう関係?」

 

 蓮子がはっきりとした口調で聞く。ド直球な質問だ。北斗も苦笑いを浮かべている。

 けれど、これでいい。小賢しい腹の探り合いをする必要なんてない、私達から踏み込んでいかないと意味がないわ。この話は決して情報のやり取りだけが目的じゃない。私達の今後の距離感を決める重要な会話だ。

 

「北斗……貴方はどこまで『こいし』を知っているの?」

 

 誰だって隠し事がある。私だって蓮子に隠していることがあるし、きっと蓮子も私に言えないことがある。

 大事なのはどれだけ容認できるかだ。これからの活動で紫と北斗をどれだけ信用していいか……境界を決めないといけない。私と蓮子の二人で。

 そういった趣旨を理解しているのかどうかはわからないけれど、蓮子はいい質問をしてくれたわ。北斗は前のめりになるようにソファに座り直して……おもむろに語り始める。

 

「彼女は、古明地こいしは元々幻想郷にいた妖怪……心を閉じた覚妖怪なんだ」

「サトリ……妖怪?」

 

 蓮子は口をへの字にしながら首を傾げる。

 蓮子は日本生まれの癖に意外と妖怪を知らない。その割にウィングキャットは知ってるみたいだけれど。斯く言う私もマイナーな妖怪に一瞬戸惑ってしまう。けれど、確か覚妖怪は……

 

「心を読むことができる妖怪のことよね。猿や河童、天狗の姿で語れるけれど……普通の女の子にしか見えなかったわよ?」

「あー、うん。幻想郷の河童も天狗も女の子だから……そういうものだと思ってくれ」

「それはそれで釈然としないけれど。それより、心を閉じた覚妖怪ってどういう」

「待って、メリー」

 

 私の質問を蓮子が押し留める。何事かと思い振り向くと、蓮子が境界の向こうで考え込んでいた。眉間に皺を寄せながら右手の甲を口に添えている。そして数秒目を瞑ってから……

 

「北斗、お昼に妖怪には妖怪を信じる人間が必要って言ってたわよね」

「あぁ、そうだ」

「その時は気付かなかったけれど、現代に妖怪を信じる人間なんていない。居てもごく少ないわ。なのに……『どうして妖怪が現代に存在していられるの?』」

 

 ……確かにそうだ。どうして気付かなかったのかしら!

 矛盾している。幻想郷は忘れ去られた妖怪が生き残るために、妖怪を信じる人間を現代から隔離して作られていると北斗は言った。現代の科学から遠ざけるために。

 けれど、確かにこの時代で絡新婦と覚妖怪、そして八雲紫が存在している。これはおかしい。

 私は咄嗟に北斗と紫を交互に見遣る。二人に動揺の色は見られない、不気味なほど落ち着き払っている。蓮子はゆっくりと目蓋を開くと、すべての色を飲み込んだような黒色の瞳を北斗に向けた。



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外伝01.既視感の彼女

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この回は蓮子でもメリーでもなく、北斗の視点のお話になります。
本編の補填としての意味合いが強いです。蓮子とメリー視点の大筋から外れてはいますが物語に密接に関わっていく、そんな内容となっております。
今後も、北斗に限らず紫などの他の人物の視点を入れていく予定ですので、よろしくお願いします。
それでは、どうぞ


 17時06分。蓮子がメリーさんを襲われて二時間ほど経とうとしていた。太陽も西の空にも沈み始めている。夕日が目に優しくない。

 住宅街とビル街の境になっている川……姉石川に架かる橋の上で、俺は一人緩やかな流れを眺めていた。今後について話し合う予定だったのだが、メリーと紫には待ってもらっている。二人にもクールダウンの時間も必要だろうし……

 

「……っぅ! はぁ……」

 

 背中と頭の傷、そして手の平がまだ痛みを主張している。出血は酷くないから無視はできるが、もしまたメリーさんが襲ってきたらこの傷を庇いながら戦うことになる。厳しいハンデだ。それでもやるしかないが。

 俺は左腕に巻かれた銀色の腕時計をなんとなく外し、ジーンズのポケットに入れる。幻想郷は動いている腕時計がなかったのもあって、久方振りに身につけたのだが……どうもしっくりこない。まるで時間に追われているような感覚に駆られてしまうのだ。

 幻想郷での生活は自分自分自身で気付けないほど静かにゆるやかに、俺の生き方を変えていた。こちらの世界に違和感を覚えてしまうほどに。

 ……いや、違和感を覚えるのも無理はない、か。

 

「ここは、俺の世界じゃないんだから……」

「世界は貴方のものじゃないわよ」

 

 橋の欄干に身を預け独りごちたつもりだったのだが、ただ一人だけそれを聞いていたようだ。俺の影法師から浮かび上がるようにして、紫さんが現れる。

 あまりに目立つ現れ方だったから慌てて辺りを見回すが、運良く周囲に人はない。俺はつい安堵のため息を吐いた。

 

「はぁ……あまり目立つようなことしないでくださいよ」

「見られるような間抜けしませんわ。それにさほど人通りもありませんし」

「まあ、そうですけど……」

 

 そもそもこの七代市自体都市の規模と人口が釣り合ってないように思えて仕方ない。これほど発展しているのに人口が少ないのは何故だろうか?

 純粋な疑問が浮かぶ。だが、紫さんが隣に並び欄干に頰杖を突くのを見て、どうでもよくなった。

 アンニュイな表情を浮かべた紫さんは夕日に染まる川を見つめながらポツリと呟く。

 

「貴方は世界の部品でもない。世界があって、ただそこに人間や人ならざる者がそこにいるだけ」

「随分詩的な言い草ですね」

「貴方が一人黄昏ているから、引っ張られてしまったのよ……それで、こんなところで何をしているのかしら?」

「……電話を待ってたんですよ。メリーさんから掛かってくるのを」

「囮捜査のつもりかしら? 相変わらず自己犠牲的ね」

 

 自己犠牲なんて大したものじゃないですよ、とは言わずに俺は手の中の万年筆型のスマホを見つめる。先程倒れた蓮子から拝借したものだ。

 拠点の住宅に帰ってから一時間ほど、ここで時間を潰していたのだが、蓮子のスマホに着信は一切ない。

 刀も持たず、手負いのまま単独行動。妖怪からしたら格好の的だと思うんだが、メリーさんから電話が掛かってくることはなかった。

 こちらから掛け直しても出ないことから鑑みて……

 

「あくまで推測ですけど、メリーさんは蓮子を殺すまで蓮子を諦めないでしょう。いや、そもそも蓮子が隙間から出てこない限り、彼女はこの街に現れないかもしれません」

「ええ、その可能性は十分にあるでしょう。だとしたら彼女に手伝ってもらわないと、この状況は解決できないことになるわね」

 

 紫さんの言葉に俺は重々しく頷きながら、万年筆型のスマホをポケットに中に戻す。本当は人の持ち物を勝手に使うようなことはしたくはなかったし、二人を危険に晒すようなことはしたくなかったが……今の俺には手段を選ぶ余裕はなかった。

 メリーさんを名乗る少女。彼女は間違いなく古明地こいしだった。幻想郷にいた頃、こいしのおかげで色んなことに気付くことができた。

 それは今でも、これからも感謝している。それにまるで本物の妹みたいに甘えてくる彼女をずっと愛らしく思っていた。そんな彼女がどうして外の世界にいるのだろうか?

 第一、妖怪は人間に存在を信じられなければ外の世界で生きることができない。

 短時間は大丈夫かもしれないが、存在を忘れ去られた妖怪はいずれ消えてしまうか幻想郷に流されてしまう。後者なら何も問題はない。だがもし、前者なら……こいしが現代の常識に科学に殺されるようなことがあったら、俺は……

 

「蓮子のためにもやるしかありません。こいしに聞きたいことは山ほどありますし、必ず捕まえてみせますよ」

「あら、妙に張り切ってるわね。その割には会うことすら出来てないけれどね」

「ははは……あれが、俺の知ってるこいしだったらきっと接触してくるだろうと思ったんですけどね。ですが、さっきの反応からしてやっぱりこいしは……」

「……っ!? ごめんなさい、野暮用が出来たわ」

 

 突然、紫さんは会話を無理やり中断させるように言い残しながら、隙間の中に姿を消してしまう。まるで誰かから隠れるような慌てた様子だった。紫さんの不自然な行動に眉をひそめていると……突然背後に気配が現れる。

 

「なっ!?」

 

 反射的に左手でお札をつかみ、背後に投げつける。こいしの襲撃に常に用心していた結果なのだが……投げつけた相手を見た瞬間、血の気が引いた。

 夏なのに鼠色のパーカーを身につけるばかりか、顔を隠すようにフードを深く被る華奢な女の子だ。プリツスカートを着ているから、ほぼ間違いなく女性だろうが……今はそんなことを呑気に観察している場合じゃない!

 お札には霊力を込めてある。妖怪だろうと人間だろうと無差別に傷付けてしまうれっきとした攻撃だ。もし一般市民に当ててしまったら病院行きどころではすまないかもしれない。

 

「避けろ!」

 

 動揺のあまりつい無茶なことを叫んでしまうが、お札はもう避けきれないほどの距離まで飛んでしまっていた。

 しかも、パーカーの少女は全く足を動かす様子がない。いや、むしろその逆、あろうことかお札に手を伸ばし……掴んでしまった。

 

「ばっ……!?」

 

 俺は霊力の爆破を覚悟する。が、しかし、何も起こらない。本来なら霊力が迸ってダメージを負わせるはずなんだが、そんな気配は微塵も見受けられない。

 パーカーの女の子は平然とお札を指で摘みながら、舐めるようにそれを観察しているだけだった。確かにお札に霊力を込めたはずなんだが……彼女は何者なのだろうか?

 

「ふーん……随分背後に立たれるのが嫌なのね、貴方」

 

 状況を飲み込めずにいるとフードの奥から皮肉が飛んでくる。俺はつい暑苦しい格好の少女をマジマジと見つめ返してしまう。

 何気ない口調、仕草だったのだがどこか違和感がある。特段特徴があるわけでもない普通の女の子の声なんだが、どうも声が一致しないというか……

 とにかく俺は、自分でも説明しきれないちぐはぐさを彼女から感じ取っていた。

 

「せめて返事ぐらいしなさいよ」

 

 釈然としない思いに戸惑っていると、フードの奥から鋭い眼光に睨まれる。どうやらジロジロ見過ぎたようだ。俺は慌てて取り繕う。

 

「ご、ごめん。ちょっと取り込み中でね。ピリピリしてるんだよ」

「……まあ、どうでもいいわ。それよりアンタに用があるの」

「俺に……?」

 

 フードの女の子はゆっくりと近付いてくると、俺の左胸に人差し指を突き突き立てる。一瞬ドキッとしてしまうような仕草だっだが、その行動に好意がないことはその瞳を見ればすぐにわかった。

 

「アンタ、何者?」

 

 無機質さすら感じるほどの冷たい視線に貫かれ、俺は息を飲む。そこに私情は一切なく、ただ俺を見極めようとしているのが伝わってきた。

 遠くで聞こえていた蝉の声も川のせせらぎも聞こえなくなる。それほどまでの緊張が身体を包み込んでいた。

 

「いや……ただの通行人だけど?」

 

 俺は敢えてとぼけてみせる。さっきのお札の件からして一般人、という線はないはずだ。ならば慎重に接した方がいいだろう。

 彼女が俺達のことをどれだけ知っているかわからないし、俺も彼女のことを何も知らない。ならせめて彼女のことを知ることはできなくても、彼女に俺達の情報を与えないように会話するべきだろう。正直なところ、こういう駆け引きは苦手なんだけどなぁ。やれるだけやるしかない。

 

「それとも新手の逆ナンかな? 顔を見せてくれたらデートの一回くらいは付き合うけど?」

 

 我ながら芝居掛かって胡散臭いと思えるような仕草で首を傾げてみせる。するとフードの女の子は鼻を鳴らしながらお札をこちらに投げ返してくる。

 何気なく受け取ろうとするが、お札が指先に触れた瞬間、感電したかのような衝撃と痛みが走った。思わず指先を引っ込め、女の子を睨むが悪びれた様子はない。やはり只者じゃないなこの子……何者かだなんてこっちが聞きたいところだ。

 

「ただの通行人が妖怪と互角に戦える訳ないじゃない。ま、油断してやられてたけれど」

「……覗き見とは趣味が悪いね。助けてくれてもいいじゃないか」

「そんなことする義理はないわよ。それに……私がアレを退治してよかったのかしら?」

 

 フードの女の子は先程の冷たい表情から一変、俺の顔を覗き込みながら挑発的に問いかけてくる。

 その動きの中で少女は黒色の髪と瞳を晒すが、俺は彼女の顔に妙な既視感を覚えた。人形のような幼く端正な顔つき、間違いなく初対面のはずだ。だがそう思えないのは一体何が作用してのことなのだろうか? いや、そんなことより……

 

「退治、か。君の目的は妖怪退治か」

「それは手段の一つ。私はただ異変を解決したいだけよ」

「異変……」

 

 俺は女の子の言葉をついオウム返してしまう。妖怪退治に異変……元の世界でよく聞いた単語だ。この街で起こっている現象を異変と呼んだとしたら……おそらくこの子は幻想郷の関係者だ。

 俺と紫さん以外で異変を解決しようとしている者がいたのか? だとしても、どうやって結界を抜け出したんだ? 俺の知っている限り紫さんの能力で結界を通り抜けるしかないが……

 いや、そういえばこの子と会う直前、紫さんは隠れるように消えてしまったな。やはり紫さんが協力を依頼したのだろうか?だとしたら……俺達は。

「異変解決が目的なら俺も目的は同じです。よかったら一緒に……」

「はあ? 馬鹿じゃないの? 共闘なんてごめんだわ」

 

 突っ撥ねるような一言に、俺は二の句が継げなくなる。フードの奥から先程の……いや、それ以上に冷たい視線が注がれていた。攻撃的なまでの拒絶だ。友好な感情は一切読み取れない。

 ……しくじった。よく考えればこちらの正体もわからないのに、協力なんてできるはずもないじゃないか。冷静になればわかることだろうに。

 女の子はパーカーのポケットに手を突っ込みながら、ゆっくりと数歩下がっていく。

 

「……私が一人でやるわ。誰も手出しさせない。邪魔になるようならアンタも倒すわ」

 

 まるでうわ言のように呟くと、女の子は踵を返し歩いていく。その小さな背中は毅然たる雰囲気を纏っていたが……同時に、孤独も感じた。そして、その姿が一瞬だけとある少女と重なる。

 俺の足は自然と彼女を追いかけていた。彼女の手を掴まないといけない、じゃないといつかいなくなってしまう。

 そんな気がして、俺は橋のすぐ手前の路地裏に入ろうとするフードの女の子に手を伸ばす。だが、手は届かなかった。俺は転びそうになりながら路地裏へ入るが……

 

「いない……!?」

 

 そこには人っ子ひとりいない。ほんの一瞬で、音もなく、女の子は消えてしまった。残されていたのは路地裏の淀んだ暑苦しい空気だけだ。

 狐に化かされたような気分だ。さっきまで目の前にいたのは陽炎の見せる夢幻だったんじゃないのか。そんな錯覚すら感じてしまうような状況だ。

 夢……そうか、フードの女の子から感じ取っていた引っかかりの正体が分かった。

 ……似ているんだ。どこか、仕草が、口調が、不器用そうな生き方が。その蝶のように儚い、姿が。

 

「霊夢……」

 

 俺は夕日の中で、幻想郷を守りながら帰りを待ってくれているはずの少女の名を呟いた。



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9.信じたいものを信じて

『蓮子が出来ることを考えるんだ』

 

 北斗は私にそう言った。ぶっちゃけ私よりいろんなことができる彼がそれを言っても皮肉にしか聞こえないのだけれど……

 ううん、他人と比べても意味はないし、上を見上げるとキリがない。だからこそ北斗は私がやれること、という表現をしたのかもしれない。私は北斗のよう戦えないし、紫のような特殊な力もない。メリーにすら追いついてないかもしれない。そんな凡人の私に出来ることは……

 

「妖怪は幻想郷でしか生きられない。なのにこっちの世界に、北斗の知り合いの妖怪がいるのは変じゃない。これは一体どういうことなのかしらね?」

 

 私はスキマの中から顔を覗き込むようしながら、北斗に尋ねる。すると北斗は口の端をほんの僅かに釣り上げた。微かな笑み、鈍い人間なら見逃しそうな笑顔を浮かべていた。

 ……喜んでくれているのかしら? 大したことに気付いたわけじゃないけれど、そう思われているとなると、なんだか形容しがたい気持ちを抱いてしまう。純粋に嬉しいとは少し外れた……なんだかむず痒い感覚だわ。思わず顔を逸らしてしまう。すると、アメジストのように瞳を輝かせたメリーとバッチリ視線が合う。

 

「やるじゃない、蓮子にしては」

 

 掠れそうなほど小さなささやきが耳に届く。私はそれにウィンクを返してみせる。

 ……私の出した答え、それは秘密を暴くことだった。メリーと出会い、秘封倶楽部を作ってから私達は様々な不思議に、謎に、幻想に出会ってきた。そのたびに私達はそれの正体を確かめようとしてきた。

 時に触れ、時に言葉で理論付けて、時に瞳の奥に焼き付けて。非常識が常識になってる世界の住人にはできない行為。疑問に持つこと、それを追求する術を私は持っている。しばらく黙秘を続けていた北斗だったが、ふと柔和な笑みを浮かべながら口を開いた。

 

「確かにその通りだ。現代で忘れ去られた妖怪は現代では生きられない……というか、幻想郷に流れ着くようになってるんだけどね」

「私にとってはどちらも同じことよ」

「……それもそうだ。だが俺達からしたら由々しき事態なんだ」

 

 北斗は笑みを引っ込ませ、険しい表情で机の端をジッと見つめている。太腿の上に乗せられた左手は震えるほど強く握りめられていた。一つ息を吐く音が聞こえてから、北斗は再び顔を上げる。

 

「あまつさえ妖怪が現代に戻っているだけでもあり得ないのに、ああやって異能を使いこなしている。それはこいしに起こっていることが原因なのか、それともこの街がおかしいのかはわからないけど……」

 

 そしてややしてから静かに顔を上げ、真剣な眼差しで紫を見据える。

 

「紫さん、これは幻想郷で起こっていること以上の異変ですよ」

「幻想郷の外で起こっているものを異変と呼んでいいのか定義が怪しいけれどね。このままでは幻想郷と外の世界の境界が危うくなるでしょう。早急に原因を突き止めなければなりませんわ。けれど……」

 

 そこまで言うと紫は間を作るように扇をパチンと鳴らしてから、北斗に向けて突き出す。暖かいけれど悪戯っぽい、大妖怪としての威厳を全く感じられない笑みを浮かべながら。

 

「そんならしい理由をつけなくても貴方がこいしを助けたい、と言うだけでいいと思いますわ」

「紫、さん……」

 

 その気遣いの言葉に北斗は虚を突かれたように黙り込むが……しばらくしてから大きく息を吐き出し、私達に向き直る。まっすぐな瞳、こんな真剣な表情を男から向けられるのは初めてかもしれない。私とメリー、二人で反応に困っていると、北斗は椅子に座ったまま深々と頭を下げる。

 

「紫さんの言う通りだ。俺は、こいしを助けたい。一人の友人として……助けたい」

「………………」

「こいしは蓮子にとって命を狙う危険な妖怪なのも理解してるし、きっと普通に退治してしまう方が二人に危険がないのもわかってもいる。だが……それでも助けたいんだ」

 

 北斗はジッと頭を下げたまま私達に頼み続ける。顔は見えないけれど……その真剣さ、必死さはヒシヒシと伝わってくる。

 私はこの北斗という異界から来た男を、あまり人間らしく思えていなかった。まるで誰かを助けるために造られたアンドロイドだと言われても納得してしまいそうな、都合の良すぎる性格過ぎると思っていた。

 

「こいしはきっと蓮子を狙ってくる。だからそのチャンスを、俺にくれないか?」

 

 けれど今、目の前で何の力のないはずの私達に懇願している北斗の必死な姿は……祈り、願う、人間にのみ与えられた知性の一つを体現している、なんて大それた感想を抱いてしまうほどに迫真に迫っていた。メリーも私と同じように感じたのか、少しだけ不安げな顔をしながら私を見つめてくる。

 

「蓮子。どうするの?」

「どうするって……」

 

 まあ、北斗だって私を命懸けで守ってくれた訳だし、私も一度くらい北斗のために命を張らないとフェアじゃないものね。私は自分をそう納得させ、北斗に向き直る。メリーも私の表情から意図を察したようで、ため息を吐きながら前を向く。

 

「いいわよ。囮でもなんでもやってやるわ。北斗、アンタにもう一度私の命を預けるわ」

 

 覚悟を決めて宣言すると、北斗は目を白黒させる。そしてしばらくしてから感慨深そうにポツリと言葉を漏らした。

 

「……男らしいなぁ」

「失礼しちゃうわ。こんな可憐な少女を捕まえて……」

「ごめんごめん。頼もしい限りだと思ってさ。幻想郷じゃなくても女の子は強いんだなぁ、ってね」

 

 随分感慨深く呟くけれど、北斗に言われると皮肉にしか聞こえないわね。非難の代わりに睨んでいると、それに気付いた北斗がコホンと小さな咳払いをして姿勢を正す。

 

「とにかく蓮子の命、確かに俺が預かった。絶対に守ってみせるから。もちろん、メリーも、紫さんも」

 

 北斗は不敵な笑みを浮かべながら右の拳を突き出してくる。ゴツゴツとした大きな手だ。よく見ると所々傷跡が残っていた。私は幻想郷での北斗を知らない。けれど、きっと彼は今みたいに安請け合いをして……本当に守ってきたのかもしれない。『こいし』って子もその一人だったりしそうだわ。まったくすけこましねぇ。

 

「わ、私も!? 何だか蓮子のついでみたいな感じがするけれど……いいわ、貴方に任せるわ」

「あら、私より弱いのにかっこいいこと言うじゃない。期待してるわ、北斗」

 

 それを見たメリーと紫は各々皮肉交じりの感想を口走りながら、北斗が突き出した拳に拳を合わせる。えー、私こういう体育会系のノリって、強要されてるようで苦手なんだけど……

 あまり乗る気がしないけれど、渋々私も拳を合わせる。すると三人の視線が私に集まる。え、私が言うの!? だからこういうのは苦手だって……あぁもう!

 

「秘封倶楽部、やるわよ!」

「「「おー」」」

 

 掛け声と供に手を上に上げる。とりあえず思いついたことを叫んでみたけれど、随分やる気のない声が返ってきて、思わず脱力してしまう。人にやらせといてそれはないと思うわ……

 まあ、多少ギクシャクしていた私達だけれど明確な目標ができて、ようやく全員が同じ方向を向けたような気がして、思わず頬も緩んでしまった。

 

 

 

 

 

「ねえ、ちょっと聞きたいのだけれどいいかしら?」

 

 話の間が空いたところで、おもむろにメリーが手を上げる。メリーさん……こいしを助ける方向を話し合っていたのだけれど、良い案が見つからず一時解散になろうとしていた矢先のことだった。何かいいアイデアでも思いついたのかしら?と北斗も思ったのか、やや食い気味に北斗が促す。

 

「ん、どうかしたの?」

「ちょっと気になったのだけれど、紫も妖怪よね。なのになぜ存在を維持できているのかしら?それがわかったら、メリーさん……こいしがこの世界で存在を維持できている理由がわかるんじゃないかしら?」

 

 メリーは紫のことをチラチラと横目で気にしながら尋ねる。いいアイデアだけれど、なんだかメリーが紫のことを知りたいだけじゃないと疑ってしまう。今のところなあなあに流されている謎……メリーと紫の関係性。きっとメリーも気になっているんでしょうね。

 

「それがわかったら、メリーさん……こいしがこの世界で存在を維持できている理由がわかるんじゃないかしら?」

「………………」

 

 けれど私は、その謎を解いてしまうことに一抹の不安があった。それをメリーが知った時……メリーは本当にどこかへ、私の手が届かない場所まで行ってしまうんじゃないかと、大袈裟な心配をしていた。妄想と言っても過言ではないかもしれない。

 ……まったく、私が謎から逃げようとするなんてできるはずもないのにね。本当にメリーと並びたいなら、その謎すら暴いてみせようとする気概が欲しいところだわ、なんて内心で強がってみる。

 まあ、本当に有益な質問だし私も聞きたい気持ちもあるんだけれどね。本人を除いた全員の視線が紫に集まる。すると紫は扇子を広げ、何とも嘘っぽい仕草でもじもじと身体を揺すった。

 

「あら、そんなに見つめられたら困りますわ……」

「そういうのいいんで、答えてください」

 

 北斗のにべない台詞に、紫が子供っぽく頬を膨らませる。年柄にもないのに似合うって思うのはなんでかしらね。

 

「……つれないわね。まあ、いいけれど。きっと期待しているような答えじゃないと思うわよ?」

「……というと?」

 

 メリーがメモに書き込みをしながら尋ねる。すると紫は境界を開き、そこから何故か一升瓶とおちょこ四つを取り出す。寝酒……太るわよ?妖怪が太るかは知らないけれど。

 

「私は天狗や河童のように名の通った妖怪ではない。スキマ妖怪なんて聞いたことないでしょう? あ、北斗、つまみ作ってー」

「はいはい……ちょっとだけですよ」

 

 北斗はソファから立ち上がると、冷蔵庫を漁りに行ってしまった。その背をメリーがジト目で眺めていたが、ややして諦めたようにため息を吐いた。

 

「真面目な話をしてるのに……まあ、確かに聞いたことないわね。だったら北斗が言うように幻想郷に流されてしまうんじゃないの?」

「ええ、そうね。けれど逆を言えばこちらの世界でも私という妖怪の存在が認められていれば、この世界にいられるってことになりますわ」

 

 紫はおちょこ全てにお酒を注ぎながら尋ねてくる。爽やかな匂いが鼻腔をくすぐる。スキマから手を伸ばしおちょこを手にとってみると、おちょこ含めてキンキンに冷えていた。流石にこの誘惑に逆らえない。

 クイと口の中に流し込むとアルコールの熱と酒の冷たさが一気に喉を通った。度数は高そうだけれど、飲みやすい。焼酎日本酒が苦手と言っていたメリーも美味しそうにおちょこを傾けている。

 ……ああ、いけない。話を忘れるとこだったわ。私は紫に日本酒を注いでもらってから咳払いを一つする。

 

「そうだけどさ、メリーですら知らない妖怪なんて信じるどころか誰も知らないんじゃないかしら?」

「いいえ。ただひとり、絶対に私の存在を信じている人間が一人いるわ」

「それって……」

「北斗のこと?」

 

 私とメリーは同時にキッチンの方を振り返る。ちょうど調理を終えた北斗がつまみの乗った皿を持ってこようとしていた。私達の視線に気付くと、立ち止まって困ったような声を上げる。

 

「え、何? 俺が何かした?」

「……いくら何でも北斗ひとりが信じていてもなんの意味もないんじゃないかしら?」

 

 私は紫がこっそりと作ったスキマに手を突っ込み、北斗の持つ皿に並んだ出し巻き卵を一つ摘んだ。その手を北斗が叩こうとするが、ギリギリで手を引っ込め口の中に放り込む。そんな私達のやり取りを紫は愉快そうに眺めながら、一献傾けてから喋る。

 

「そんなことはありませんわ。彼に限っては、ですけれど」

「あぁ、そういう話ね」

 

 北斗は私達のやり取りで察したようで、テーブルに皿を置き自分の席に座る。そして目の前に置かれたおちょこを一瞬で飲み干した。意外と男らしい飲みっぷりをするじゃない。

 

「ふぅ……さっきは普通の人間だって言ったけど、正確には違う。俺には人とは違った力があるんだ」

「いや、それは見てればわかるけれど……」

 

 普通の人間はあんなアクロバットな動きしないし、お札から衝撃を出したりできない。私からしたら車の運転すらありえないものの範疇だ。何を今更言ってるのかしら?

 そんな私達の反応を察したのか、北斗が困ったように頭を掻いた。

 

「……まあ、紫さんのみたいに目に見えるわけじゃないから説明しづらいんだけどね。とにかく『俺が信じるものならば、現代であろうと幻想のものは存在できる』って理解してくれたらいいよ」

「何そのご都合主義。それなら幻想郷なんていらないんじゃないの?」

 

 酔っているのかメリーが元も子もないことを口走るが、北斗はただ紫のおちょこに酒を酌みながら小さな声で呟いた。

 

「必要さ。少なくとも俺にとっては、ね……」

 

 俯きがちにしみじみと呟いた言葉。それには外来人である彼が、どうして幻想郷を守るためにここいるのか、その理由が込められているように思えた。そう感じながらチーチクを味わっていると、紫が北斗のおちょこにお酒を注ぎ返しながらメリーに扇子の先を突きつける。

 

「それに人間は恐ろしいと思うものを管理、場合によっては排除しようとしますわ。貴女は人間と妖怪の戦争を見たいのかしら?」

「そんなB級映画興味はないわ。それに言い返させてもらうけれど、人間は恐怖を楽しめる唯一の生物よ。でなきゃ遊園地も、オカルト話も存在しないわ」

 

 メリーは両手を広げ、劇がかった口調で討論を始めた。紫もムキになりはじめたメリーに扇を突きつけながら応じる。

 

「妖怪もアトラクションにするつもりかしら? 人間は信じたいものを信じるわ。果たして人間は貴女達のように妖怪を認めることはできるのかしらね?」

「世論は知らないわ。けれど、ネットや巷の噂話では確かにオカルトを肯定する人達がいる。水面下、いえ、意識下ではいてほしいと思っているのよ!」

「だから、受け入れられると……流石にお人好し過ぎないかしら?」

「人間は信じたいものを信じるんでしょう? 私は人間の寛容性を信じてるわ」

 

 ……なーんか面白くない。メリーとこういう口論はよくするだけに、紫とメリーの議論が白熱するのはなんだか癪に触る。そんなむしゃくしゃした感情を酒と一緒に飲み込む。するとすかさず北斗が酌をしてくれる。こうなったら徹底的に酔ってやろうかと考えていると……ふと、さっきの議論の内容に引っかかりを覚える。違和感、というよりふとした閃きだ。

 

「信じたいものを……信じる、ねぇ」

「……蓮子、どうかしたか?」

「うん、ちょっとやってみたいことがあってね……北斗、スマホ貸してくれる?」

 

 私は首を傾げる北斗に向かって手を出しながら、ニヤリと笑ってみせる。すると北斗もつられたように笑い返してきた。

 

「本当に、頼りになるなぁ……」



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10.孤独のメリーさん

 作戦会議兼宴会の翌日。いいえ、もうすぐ日を跨ぐから……明後日の方が近いのかしら? 私と蓮子はとある高層ビルの屋上に立っていた。

 連日熱帯夜が続いているけれど金網から吹き抜ける夜風で、随分と涼しい。微かに磯の香りも混ざっているけれど、残念ながら海は見えなかった。

 

「中々いい景色ね」

「出来れば高級フレンチでも食べながら見たいものだけれど……」

 

 私は蓮子と冗談を言い合いながら眼下に広がる夜景を眺めていた。

 ここなら目につかないし、戦いやすいという理由で紫に連れてきたのだけれど……むしろ狭いし、万が一の場合逃げ場がないんじゃないかしら?

 そんな私の懸念を知ってか知らずか。給水塔の上に座っていた北斗が私達の隣に降りてくる。そしてわざとらしく息を一つ吐いてから、スキマの中の蓮子に話しかける。

 

「いいんだな、蓮子……」

「あれだけの啖呵切っておいて今更聞くの? 私の命預けたって言ったじゃない。私がどうなるかは北斗次第よ」

「……そうやってあっさり覚悟決められるのは羨ましいなぁ」

「何言ってんのよ……強がりに決まってるじゃない」

 

 最後の言葉。隣にいる私にしか聞こえないほどの小さな声だった。この街に来てから、珍しい蓮子の弱気が何回も見ていた。弱い部分を晒してくれて嬉しいような、そんな気弱な蓮子見たくないような、何とも形容しがたい感情を抱いてしまう。

 けれどそんなことを考えてる余裕、きっと今しかない。これから私達はメリーさん……もとい古明地こいしと戦わなければならないのだから。

 

「すぅ……はぁ……」

 

 私は北斗の真似をするように深呼吸をする。

 覚悟はしてきた……つもりだ。本来私は囮の役ではないので安全な場所で待っていた方がいいのはわかっているけれど……

 蓮子だけに頑張らせたくない。だから北斗と紫に頼み込んでここにいさせてもらっていた。まあ、もう一つ理由もあるのだけれど。

 

「メリーも、安全な場所で待っていても……」

「私だけ仲間外れなんて嫌よ」

「さいで……」

 

 私は北斗の勧告をぴしゃりと跳ね除けて腕を組む。

 蓮子が命を張ってるのに、私が安全エリアから眺めているだけだなんて……そんなの対等じゃない。

 そうだ、蓮子はきっと私と対等になりたいんだと思う。だったら私は私のやり方で彼女と対等でいるようにする。そうすればきっと……

 山から海側へ吹き抜けていく風に帽子を取られないよう抑えながら考え込んでいると、北斗が軽く体を動かしながら言葉を続ける。

 

「一応言っとくが蓮子の『仕込み』がどこまで通用するかはわからないからな。過信はしないように」

「わかってるわ。けれど、過信しようとしまいと私達じゃなす術ないもの。蓮子も言っていたでしょう? 私たちがどうなるかは貴方次第だってね」

「いや、最悪の場合は逃げるなり何なりして欲しいから言ってるんだが……そんな気は無さそうだなぁ」

「「もちろん」」

 

 私と蓮子が同時に言うと、北斗は諦めたように肩を竦めてから腰の刀を抜いた。準備万端といった感じかしら。

 いよいよ始まる予感を覚え、身体が縮こまっていくのを感じる。

 

「だーれだ?」

「はっ!?」

 

 そんな緊張のピークを見計らったように突然背後から話しかけられ、私は脊髄反射で振り向いてしまう。すると、プニッと右頬が潰された。

 声の主は蓮子と同じ境目の中に立つ紫だった。満面の笑みで私と蓮子の頬に指を突き立てている。

 

「ふふ、まるで子羊みたく震えちゃって。安心しなさい、これでも北斗は頼りになるわよ」

「そんなことより貴女の悪趣味な悪戯に対して色々言いたいんだけれど!」

 

 私は目くじらを立てて怒るけれど、紫はただ面白そうに眉を細めるだけだ。鈍感な蓮子も流石にイラッと来たようで、青筋を立てて紫を睨みつけていた。

 北斗も呆れた様子で頭を抱えている。

 

「紫さん……時と場所を考えてください」

「あら、私は二人の緊張を解こうとしたのだけれど……」

「やり方が悪趣味すぎです。開始のタイミング、本当は蓮子に任せるつもりでしたけど紫さんのせいで完全にタイミングを逃してしまったじゃないですか。せめて空気くらいは読んでください」

「酷いわ、そんなに言わなくてもいいじゃない!」

 

 よよよ、と紫が古臭い鳴きまねで茶化すと、北斗は諦めのため息を吐いた。

 

「あー、はいはい。気を使ってくれたことには感謝してますから……もう時間も遅いです。さっさとやってしまいましょう。蓮子、メリー、準備は?」

「さっきのデモンストレーションのおかげでいつでも大丈夫よ。ね、メリー」

 

 蓮子が皮肉を言いながら私に左手を手を差し出してくる。意外と小さく細い手に指を絡ませると、しっかり握り返してくれた。

 私は指先越しから伝わる体温を感じながら、横目で頷き合う。恐怖は熱に溶けてもうなくなった。大丈夫だ、蓮子が私の手を取ってくれている限り……

 

「大丈夫、かしら?」

「当たり前よ……離さないでね」

「もちろん」

 

 私はそっと蓮子の手を引っ張る。すると蓮子は逆らうことなく……一歩踏み出した。スキマからこちらの世界に降り立つ。右手にはペン型のスマホを持っていていつでも着信に応じられる状態だ。

 北斗と紫はただ口を噤んだまま、眼下に広がる夜景を金網越しに見つめている。二人とも緊張の様子もなく、構えすらない。場数の違いに感じられて頼もしいような悔しいような複雑な気分になる。

 

 

 

 着信はすぐさま来る……わけもなく、私達は張り詰めた空気にずっと晒される羽目になった。

 まるで心をジワジワと炙られているような焦燥感に駆られてしまう。きっと蓮子の手を取っていなかったら耐えられなかったかもしれない。私はそんな空気を紛らわそうと、空を見上げるが……

 

「星、見えないわね」

「……そうね。流石の私も月だけだじゃあ場所しかわからないわ」

 

 この町の明かりは、高層ビルの上であろうと星の輝きをかき消せるほど眩しい。薄暗い夜空には月が孤独に光るばかりだ。駅の裏の神社では鮮明に見えたというのに……まるで同じ世界じゃないみたいね。

 不思議な気分だ。秘密を探しに七代市まで来て、本当に巻き込まれることになって……今この瞬間だって実感が湧いてなかった。

 実は蓮子の仕掛けたどっきりで、全部嘘でしたなんて言われた方が納得できるかもしれない。その時は蓮子が泣いて謝るまでぶってやるけど。

 

「はぁ……」

 

 思わず口から吐息が漏れる。

 これが私が……蓮子が望んだこと、なのかしら? わからない。もしかしたらこの一連の謎に終止符を打つことができたら、その答えが見つかるかもしれない。

 今の私は何もできないけれど、せめてこの手だけは離さないでいよう。

 そう心に決めたその時、静寂を切り裂くように蓮子のペン型のスマホが鳴動する。個性も何もないデフォルトの着信音。

 来た……! 蓮子は右手で帽子を直してから、意を決して電話に出る。

 

「待たせたわね……貴女は何者、かしら?」

 

 蓮子が余裕を装ったような言葉を紡ぐ。電話の声は聞こえない。分かるのは蓮子の手の震えだけだ。

 

「そ、けど私の後ろは危ないわよ?」

 

 蓮子がそう言うが早いか、私達の後ろで甲高い金属音が鳴る。

 後ろを振り向くと、ナイフを振り下ろそうとする緑髪のメリーさん……こいしと、その腕を掴んで止める北斗の姿があった。

 北斗の左手には腰の大刀ではなく小太刀が握られているが、それを振るおうとはしなかった。きっとこの小太刀でナイフを弾いて防いだのだろう。

 

「また邪魔するの、おにーさん。しつこい人は嫌いだよ!」

「あいにくと……諦めの悪さは筋金入りでね!」

 

 そう言いながら北斗は力任せに振り下ろそうとしていたこいしの腕を引く。そしてわざと空振りさせ、よろめいたところに体当たりをかました。

 そのまま二人は団子になるように金網にぶつかりにいく……と思ったその時。

 

「紫さん!」

 

 北斗が紫の名を呼んだ瞬間、フェンスに穴……違う、境目が開く。そして二人は勢いそのままにらその中へ落ちてしまった。

 

「北斗!」

 

 蓮子が声を上げるけれど、返事が聞こえる前に境目が閉じられる。もしかして北斗と紫は最初からこれを狙っていたのかしら? 確かに紫の作ったスキマの中なら私達に危害は加えられないはずだ。

 いや、むしろこのまま幻想郷に返すことができるんじゃ……

 

「二人とも、気を抜かないように。境界に入ることはできなくても、外に出ることはできる可能性があるわ。私は北斗のサポートに向かうけれど……油断大敵よ」

 

 まるで心を見透かしたかのような紫の注意が飛んできて、私は緊張が緩みかけていたことに気付く。声の方を向くと、紫がスキマに飛び込みながら私達にウィンクを飛ばした。

 胡散臭いけれど、意外と気が回るというか……本当に雲を掴むような性格の人だ。

 

「行っちゃったわね……」

「ええ……」

 

 茫然と呟いた蓮子の言葉に、相槌を打つ。先ほどの瞬く間の戦闘が嘘のように、静かだった。まるで、あれは夢だったんじゃないかと思わされるほどだ。

 北斗と紫、そしてこいしがスキマの中に消え、屋上には私達しかいない。まるで何事もなかったような空虚感に襲われる。残っているのは北斗の体当たりでひしゃげた金網ぐらいだ。

 そんな中、蓮子は豪胆にも欠伸をして私の手を握ったまま伸びをしていた。

 

「ふぅ……油断するなって言われても、以外とあっさり囮役が終わっちゃったわ。多少脱力するのは仕方ないわよね……」

「そんなこと言って、また電話掛かってきてテンパらないでよ」

「はいはい、大丈夫だって。けれどあのこいしって子……やっぱり普通に見えていたわね」

「そうね……」

 

 私達は昨日のうちに二人……特に北斗から、こいしに関する情報をいくつか得ていた。彼女の『無意識を操る程度の能力』は人に見られなくなる……といういうより見ても気にしない、知覚できなくなる力を持っているらしいけれど……

 

「少なくとも背後に立ったその時から、私達はこいしを認識できていた。もしそうじゃなかったら、今頃蓮子の腹にナイフが生えてたでしょうね」

「私は鉢植えじゃないわ。けれど、これで可能性が出てきたわね……」

「ええ、『こいしは覚妖怪として信じられている』んじゃなくて、『都市伝説メリーさんとして信じられている』可能性がね」

 

 私達は謎を解き明かす一歩手前まできたことが嬉しくて、ついお互いの顔を見遣って不敵に笑う。予想が当たれば優越感があるものね。

 現代は妖怪を信じるものはほとんどいない。特に覚妖怪なんて、マイナーな妖怪は特に、だ。

 そもそも心を読むという行為自体はコールドリーディングやらマインドコントロール等のある種のテクニックであると立証され始めている。

 そして無意識の行動に対しても研究は進んでいて、脳科学、心理学の観点から様々なアプローチをされているわ。

 かく言う私の専攻の相対性精神学も意識、無意識についての研究を行っているのだけれど。つまり何が言いたいのかというと……

 

「現代では心を読むことも、無意識の行動も、科学で暴かれつつある。だとしたらこいしは瞳を閉じた覚妖怪として現代で生きることはできないはずだわ」

「ええ……ならこいしは、どうやってこの現代で存在できているかが疑問になるわけだけど……それは簡単に想像できる」

「彼女は都市伝説のメリーさんになることで……都市伝説の正体になることで、自分の存在を維持したってことね」

「その通り」

 

 私達は手を握り続けたまま、眼に良さそうにない夜景を見つめながら、『答え合わせ』をしていく。

 オカルト話なんてただの妄想、与太話だと言えるけれど……それでもネットの片隅で密かに噂され、信じられてきた。さながら、密教の神のように。

 特にこの土地……七代市はここ最近不思議な噂の絶えない、今一番熱いオカルトスポットだ。この街に……都市伝説への信仰が集まっている。きっとこいしがメリーさんとして存在できるには十分な材料でしょう。

 

「……ま、ここまでの推理は殆ど蓮子の推測であって今答えあわせの真っ最中な訳だけれど」

 

 妖怪の正体にすら根拠を求めるのは本当に蓮子らしいわ。そんな名探偵蓮子は手の甲を口元に添えながらまた思考に耽り始めた。

 

「それにしてもこの街から……都市伝説メリーさんの噂から切り離されたスキマ空間の中で、こいしはメリーさんとして存在し続けられるのかしら?」

「大丈夫よ。多分、ね……」

 

 私は適当に流しながら持て余した時間を埋めるように懐中時計を手に取る。

 思ったより時間が経っていない。確か心拍数が速くなるほど感じる時間は早くなるんだったかしら? まあ、ゾウの時間の感じ方とネズミの時間の感じ方は違うかどうかなんて、ゾウにもネズミにもなれる人間がいないとわかり得ないことだけれど。

 そんな現状に関係のない雑多なことを考えていると、ふと以前から思っていた疑問を思い出す。この際だ、また忘れないうちに聞いておこう。

 

「そういえば……蓮子、今更だけど聞いていいかしら?」

「あら、てっきり私の事は何でも知ってると思っていたのに」

「そんな訳ないし、そこまで蓮子に興味ないわよ。メリーさんで思い出したのだけれど、蓮子、どうして私の名前をメリーって略したの?」

「あれ、言わなかったかしら? それはね……」

 

 蓮子が答えかけたところで、無機質な着信が割り込んでくる。蓮子の驚きと震えが手から伝わってきて、思わずその手を強く握りしめた。

 その場には北斗も紫もいない。この状況で蓮子は電話を取るべきなのか。このまま待っていた方がいいのか……判断に迷う。

 

「蓮子……」

 

 私は蓮子の前に回り込んで名前を呼ぶ。蓮子はただスマホを見つめていたけれど……微かな溜息を吐いてから、私の目を見つめてくる。

 

「……さっきの話、これが終わったら話すわ」

 

 その一言で、いろんなことが伝わった。怖い気持ち、逃げたくない意地、格好つけたい見栄、そして……私を頼ってくれていることも。

 ずっと私の手を引いてくれた蓮子が、私に手を引いてほしいと思ってくれている。

 気付けば私と蓮子は額を合わせていた。気恥ずかしい距離。だけど、お互いを支え合えているようで……今なら何が起きても大丈夫な気がした。

 

「ん、わかった。それじゃあ……」

「行くわね」

 

 蓮子は顔を上げるとペン型のスマホを耳に当てる。さっきは聞こえなかったけれど、今ははっきりと聞こえた。電話越しの幼い女の子のたどたどしい声。

 

『もしもし、わたしメリーさん。いまあなたのうしろにいるの』

 

 それは一瞬、なんて感覚じゃない。今までそこにいたのに何故か気付かなかった、みたいな認識のずれ。

 彼女は……メリーさんは蓮子の背後にいた。ケタケタと壊れたブリキ人形のような笑顔を浮かべながら、ナイフとレトロな受話器を持って立っていた。

 

「わたし、メリーさん」

「……そう、私もメリーよ」

「わたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたしメリーさんわたし……」

 

 ……昔壊れたCDプレイヤーを触ったとき、こんな音を出していたなぁ。なんて暢気な感想を思い浮かべる。

 彼女がどうなっているのか、北斗達がどうなったのかは私にはわからない。ただメリーさんはナイフを振りかざし、大振りに薙ごうとしているのが視界に映る。蓮子は振り向きもしない。私も……情けなくも足が動かなかった。

 このままじゃ蓮子はあのナイフの餌食になる。けれど、私は信じていた。私達が出来ることを、私達が突き止めた真実が……

 

「わたしは、だあれ?」

 

 

 

 ……正しいことを。

 

 

 

 振るわれたナイフは蓮子に……私達に届かなかった。メリーさんも呆けたように私達を見つめている。何が起こったのか、それは私にもわからない。けれど……どうして『私達にナイフが当たらなかったのか』、それだけはわかっていた。

 訳も分からず茫然と立ち尽くすメリーさん。その後ろ、ちょうど月を隠すような位置にスキマが現れる。それが開くが早いか、中から漆黒の影が飛び出す。

 

「戻ってこい……こいし!」

 

 その影……北斗の周りに光り輝く七つの球体が現れる。

 人工に作り出された無数の光よりも太古からある夜の光より眩しく闇を照らすそれは、北斗の周りを天体の様に回転してからメリーさんに向けて殺到した。

 メリーさんは振り返ることもできない。その時、光に飲み込まれていく彼女と目が合う。

 

「やだ……私を、一人に……しないで……」

「わかるわ。一人は怖い、よね」

 

 誰か、私と一緒にいてほしいと哀願するような震える深い翡翠色の瞳。

 ……都市伝説のメリーさんは捨てられた人形だ。元の家に、大事にしてくれた女の子の元に戻ろうと、何度も何度も電話して確かめながら、帰ろうとする。

 それは本当に呪い……捨てられた復讐のためなのかしら? ただ寂しいから。一人は嫌だから。必要とされたいから。だから帰ろうとしただけじゃないのかしら?

 怖いオチを勝手にでっち上げられて、彼女を面白おかしくオカルト話にしたのは私達人間なのかもしれない。

 けど、もう大丈夫。貴女はもう、メリーさんじゃない。貴女は……

 

「こいしちゃん、でしょ?」

 

 私は蓮子と二人で、北斗の腕の中で横たわる彼女に向かって……微笑みかけた。



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11.朝飯前に

 顔に当たる日差しが目蓋をこじ開けようとしている。纏わりつく様な湿気と熱気、汗のベタベタが不快で仕方ない。

 ベッドの上で何度も寝返りを打って抵抗を図るが、ついに耐え切れなくなって渋々薄目を開けると、染み一つない真新しい天井が映る。薬っぽい無機質な匂い……生活感のない匂いだ。二日しか泊まっていないんだから当然だけど……いつまでこの部屋を使うことになるのかしら?

 

「ん……」

 

 寝惚け眼で枕元で充電していたペン型のスマホを掴み、時間を確認する。6時21分。あと三時間は二度寝できる時間だ。

 けれど……昨日の今日の出来事を思い出してしまって、眠れそうになかった。それに昨晩は着替える気力もなくてそのままベッドに倒れ込んでしまった。流石に着替えてシャワーでも浴びたい……そう思った私は気怠い感覚を押し殺しながら、ベッドから起き上がった。

 

 

 

 

 流石に今日は出かけないだろうとショートパンツにTシャツの部屋着に着替えたのだけれど、ちょっとラフすぎたかもしれない。メリーや紫はいざ知らず、北斗もいるんだから少しぐらい気をつけた方が……なんてメリーに言われそうだ。私からしたら逆に意識しすぎも変かもしれないって思うのだけれど……あぁ、もう調子狂うわ。

 私は慣れない他人との同居生活に、混乱する頭を掻いた。あまり深く考えないことにしよう。きっといい答えは出ないし、そのうち気にならなくなるだろうし。

 そう自分に言い聞かせながら扉を開け吹き抜けの居間に出ると、包丁とまな板が奏でる小刻みな音が聞こえてくる。私が一番に起きたと思ったのに……誰だろうか? 正体を確かめに階段を下りていくと……

 

「おはよう、蓮子。随分早いご起床だね」

「……それはこっちの台詞よ」

 

 台所に軽快な手つきで野菜を切る北斗がいた。北斗はこいしを倒した後、気絶して動かない彼女をここまで連れて帰り、夜通し看病していたはずなのだけれど……その顔に疲れた様子は全く見られなかった。

 

「先に寝ちゃった私が言うのもなんだけど、あれからちゃんと寝たの?」

「勿論、いつも通りくらいには」

 

 いつも通りって……確か帰ってきたのが1時前くらいだったわよね。それからどれくらい起きてたのか知らないけれど、いつもそんな睡眠時間が短いのかしら? 平凡な顔してるけどやっぱ変な人間だわ。

 私は洗面所で顔を洗い寝癖を直してから、カウンターに肘を突いてぼんやりと北斗の料理姿を眺める。どうやら朝食は和食のようだ。私は朝はパン派なんだけれど……ま、美味しかったら何でもいいわ。

 ふとコンロの方を見ると、味噌汁を煮ている小鍋の他に小さな土鍋で何かを作っているみたいだった。まさかご飯を土鍋で焚く、みたいな意識高い主夫みたいなことしているのかしら? そんな私の疑問を見透かしたのか、北斗がボウルの中で卵を溶きながら口を開く。

 

「あれはこいしの分の御粥だよ。後で持っていってくれないかな?着替えとかもしないといけないだろうし」

「いいけれど、アンタも来なさいよ。また襲われたくないし」

「わかってるって。卵焼き、ネギ入れようと思ってるんだけどどうかな?」

「私もメリーも平気よ」

「ん、わかった」

 

 北斗は短く返事を返すとフライパンに溶き卵を流し込んでいく。そしてあらかじめ刻んでおいたねぎを素早く放り込む。卵がふんわりと焼ける匂いに、お腹が鳴ってしまいそうになった。

 気を紛らわせるためにもご飯以外の話をしよう。すぐ眠っちゃってどういう状況なのか分かってないし。

 

「あれからあの子……こいしちゃん、どうなったの?」

「ずっと起きないままだよ。寝息は穏やかだったから、大丈夫だと思うけど……」

「ふーん、北斗の最後の一撃凄かったから心配していたんだけれど……あれって何なの?」

「何なのっていう質問は答えづらいけど……まあ、奥の手みたいなものだよ。必殺技的な?」

 

 北斗は誤魔化すように笑いながらクルクルと卵焼きを巻いていく。私好みのフワトロだ。

 それにしても北斗は……どうにも自分の能力のことについて話したがらないけど……何か負い目があるのかしら? 人間離れした身体能力、妖怪を現世に留める能力、そしてこいしを倒した球体の攻撃……彼の力は計り知れない。

 けれど、そんな彼が人間だと名乗っていることに……密かな安堵感を抱いている私がいた。例えメリーがどんな力を持とうとも人であれば……ううん、人でなくなったとしても、隣にいられるはず。きっと……

 

「蓮子、箸と飲み物用意しといて。あと醤油も」

「こういうのは遅起きの人が罰としてやるべきじゃないの?」

「働かざる者食うべからず。二人は後片付けしてもらうから」

「私、昨日一昨日と結構働いたつもりなんだけどなぁ……」

 

 私は凝り固まった自分の肩を揉みほぐしながら、渋々と言われるがまま体を動かすことにした。

 

 

 

 箸とコップを並べ終えたところで階段からメリーが降りてくる。紫のワンピースにベルトを身につけているけれど、どこかへ行く予定なのかしら? なんて呑気に観察していると、メリーと目が合う。すると、顔を真っ赤にして駆け足でこちらに寄ってくる。

 

「ちょ、ちょっと蓮子! なんて格好してるのよ! もう少し人の目を気にしなさい!」

「別に外に出るわけじゃないんだし、これくらいいいじゃない。北斗も気にしてないわよ?」

「私が、気になるの! ほら着替えてきなさい!」

 

 案の定メリーがいちゃもんを付けてきた。仕方なく私は渋々部屋に戻って外行きの服に着替える。夏なんだからあれくらい許してくれてもいいのにね。ま、大方北斗の私への視線が気になる、みたいな理由だろうけど。

 ……そういえば北斗、まったく反応がなかったわね。せめて顔をそらすくらいしてくれないと自信なくしちゃうわ。あれで女性慣れしてるのかしら? もしくはストライクゾーン外とか……変な詮索をしてしまった。忘れよう。

 私はカッターシャツにネクタイ、黒のスカートに着替えて部屋を出ると、ちょうど北斗とメリーが二階に上がってきたところだった。北斗はお盆を持っており、その上にはお粥とレンゲ、そして梅やたくあんなどの付け合わせの乗った小皿が乗っていた。

 

「ん、タイミングいいわね」

 

 私は早足でこいしの休む部屋の前まで行き、二人と一緒に入る。内装は私の部屋と変わらない。カーペットの敷かれた部屋にベッドと衣装タンス、姿見に机がある程度の簡素な部屋だ。まあ、まったく弄ってないから当然だけど……

 その部屋の奥、窓際のベッドの上で元メリーさん……古明地こいしが身体を起こし、窓の外を見つめていた。服はそのままだけれど帽子を被っていないせいか、随分印象が違う。昨日までナイフを振り回していたとは思えないほど、か弱い少女がそこにいた。

 拍子抜けするほど大人しくしているけれど……私とメリーは彼女に歩み寄ることはできなかった。どうしても警戒してしまう。そんな私達を見かねたのかは知らないけれど、北斗が先んじてゆっくりとベッドに近付いていく。こいしも私達に気付いたようで、不思議そうな顔で私達と北斗を交互に見遣る。

 

「おにーさん……」

「おはよう、こいし。調子はどう?」

 

 北斗はベッドの側にしゃがみ込むと優しく微笑みかける。すると、こいしは丸っこい翡翠の瞳でまじまじと北斗を見つめ……不思議そうに首を傾げた。

 

「……おにーさん、だあれ? どうして私の名前を知ってるの?」

 

 純粋な疑問。その言葉に北斗は一瞬言葉に詰まったように動きを止めた。私達もこいしの反応に困惑してしまう。北斗はこいしと知り合いと言っていたけれど……これは記憶喪失、ってやつなのかしら。反応からして私達のことを襲っていたことも覚えているか怪しい。私達は固唾を呑んで北斗の動向を伺う。私達に背を向けていた北斗はしばらく黙っていたけれど……

 

「俺は輝星北斗。君のことは紫さん……スキマ妖怪から聞いてたんだよ。幻想郷の外に出てしまった君を助けてほしいってね」

 

 努めて明るい口調で北斗が言う。その姿に私は眉間にシワが寄ってしまう。無理をしているのは一目瞭然だったけれど、こいしは納得したように頬を緩めた。

 

「ふーん、そーゆことかー! おにーさんが助けてくれたんだね、ありがとう!」

「……俺だけじゃないよ。紫さんも後ろの二人も手伝ってくれたんだ。ね、蓮子、メリー」

「え、ええ……」

 

 話を振られた私はぎこちなくだけど頷く。内心恐る恐る近付くと、こいしは太陽のような笑みを浮かべる。身体の周りに変な管みたいなのがある以外はごく普通の可愛い女の子だ。誰も妖怪だとは信じないだろう。こんな可愛い女の子が私の命を狙っていたなんてね……

 そんな彼女を目の前にして話しかければいいか迷ってると、隣に並んだメリーが横目で北斗を気にしているのがわかる。だが北斗はいつも通りの愛想のいい笑みを貼り付けていた。どういう事情かわからないけれど……ここは北斗に合わせるべきね。

 

「初めまして、でいいのかしら? 私は宇佐見蓮子。そして、隣にいるのが……」

「マエリベリー・ハーンよ。呼びにくかったらメリーでいいわ」

「メリー……?」

 

 こいしはメリーの名前……いや、メリーという単語に明らかな反応を示す。そして唐突に、まるで彼女にしか見えない蝶々を追いかけているみたいに視線を彷徨わせ、うわ言のように呟き始める。背中に、怖気が走る。

 

「わたし……わたし、メリー……さん……」

「こいし!」

 

 そんなこいしを見た北斗が強い口調で名前を呼ぶ。すると、こいしはまるで夢から覚めたかのように首をブンブン振ってから、不安げではあるがはっきりとした視線を北斗に向けた。

 

「おにーさん……わたしは……」

 

 こいしも自分がおかしくなっている自覚があるようで、縋るような声を出す。戸惑っている、そんな様子がありありと感じ取れた。北斗はしばらく真剣な表情でこいしの瞳を見つめ返し続けていたが……ふと、緊張を解くような柔和な笑みを見せつける。そして何事もなかったようにお盆の上の御粥を差し出した。

 

「……ご飯にしようか。食欲はある?」

「う、うん……大丈夫」

「そっか、よかった。熱いから気を付けてね」

 

 そう言って北斗は土鍋の蓋を開けてみせる。粥と梅の優しい匂いが部屋に広がった。

 さっきのこいしは、明らかに都市伝説のメリーさんのことを思い出し、おかしくなりかけていた。なんとか北斗の呼びかけで正気に戻ったみたいでよかったけれど、正直言って怖い。私はまたこいしがメリーさんとして襲ってくるかもしれないと、内心で考え続けてしまっている。北斗は何事もなかったように接してるけれど、私は……

 

「蓮子……」

 

 メリーが不安そうに私の顔を覗き込んでくる。命が狙われなくなってもメリーに心配掛け続けるのは嫌だ。私は北斗にこいしの相手を任せ、逃げるように部屋を後にした。

 

 

 

 リビングの食卓には朝食が並んでいた。白米に具だくさんの味噌汁とパックの納豆、そして机の上には切り分けられたネギ入りの卵焼きを乗せた大皿……随分所帯じみている。実家なんだか思い出してしまうわね。

 そんな感想を抱きながら私は机の端に座ると、斜向かいに座っていた紫が話しかけてくる。

 

「おはよう、私より遅起きは感心しないわ。なーんてね」

「紫……待つってことはしないのね」

「せっかく作ってもらったのだから冷めないうちに頂くのが礼儀ではなくて?」

「……ま、北斗はしばらく付きっ切りでしょうし、先に食べてても文句は言われないでしょうね」

 

 私は自分を納得させるように呟いて、箸を取る。手を合わせ、味噌汁に口を付けると野菜の甘みと味噌の溶け合った味が身体に染み込んでいく。思わず吐息を洩らしていると、洗面所から戻ってきたメリーが隣に座った。

 

「ねえ、メリー。こいしが北斗のこと知らなかったのは……」

 

 納豆にタレと辛子を入れ混ぜはじめたメリーに、私はおもむろに尋ねる。すると、メリーはしばらく考え込んでから……慣れた手付きで混ぜた納豆をご飯の上に乗せながら口を開く。

 

「こいしと北斗の反応からして、記憶喪失じゃないと思うわ。あれは……」

「元から北斗のことを知らなかったような、反応かしら?」

 

 メリーの台詞の掠め取る様に食卓の向こうから答えが飛んでくる。紫……二階でのことを覗き見てたのかしら? 彼女ならそれくらい朝飯前だろうし、そういうことを平然とやってしまいそうな感じはある。紫は卵焼きを小皿に幾つか取ると、そこに大根おろしを添え醤油を垂らす。

 

「きっと他人の空似だったのよ。北斗の思い違いね」

「他人の空似って……名前まで知ってたのにそんなことある訳ないじゃない」

 

 少なくとも北斗はこいしのことを知っていた。彼がストーカーだったみたいな説明ならまだ納得できなくもないけれど……いくらなんでも他人の空似じゃ片付けられない。

 私は口を尖らせながら反論するが、紫は意に介す様子もなく口を食事のために動かしていた。じれったいながら彼女の口の中が空くまで待っていると、それより先にメリーが先に喋り出す。

 

「……もしかして、私と紫が似ているのと何か関係があるの?」

 

 私はメリーの踏み込んだ質問に身を強張らせる。きっとメリーはずっと気になっていたのだろう。もちろん私も気になっていた。境界を見るメリーと境界を操る紫、その姿が似ていることに何の意味もないわけがない。

 紫はほんの僅かだけ、動きを止める。そして咀嚼を終え飲み込んでから……溜息を洩らすように呟いた。

 

「……例え姿が同じでも辿ってきた人生が違えば、それは別人と言えるんじゃないかしら」

「………………」

「きっと、あのこいしは『北斗に出会わなかった人生』を歩んだこいしなのよ。たとえ姿は同じだとしても過去が違う。選んだ未来が違う。だから今のこいしは北斗の知っているこいしではない。世界は、貴女達の瞳で見えるだけの、簡単なものじゃないの」

 

 紫はそれだけ言うと、それ以降黙々と食事を続けた。私もメリーもそれ以上紫に尋ねることはできなかった。

 パラレルワールド。SFでよく見る設定だ。今私達がいる世界とは違う、あり得たかもしれない世界。究極の夢と呼ばれるその世界があると、紫は言っているのか。だとしたら、少なくとも紫と北斗は私達の世界ではないパラレルワールドの住人であって……

 

 

 

 この世界は北斗が幻想郷に行かなかった世界、もしくは北斗のいない世界なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 もやもやとした疑問を抱いたままで朝食を済ませた私はメリーを誘って、気分転換と腹ごなしを兼ねて散歩に出掛けることにした。中折れ帽子を被り、財布とスマホだけ持ち、玄関でメリーを待つ。しばらくすると、ショルダーバックを持ったメリーが毛先のまとまりを気にしながらやってくる。相変わらず荷物が多い。何がそんなに必要なのかしら?

 

「蓮子、散歩に出掛けるのはいいけれど、目的地はあるのかしら?」

「散歩に目的地があるわけないじゃない。ぶらぶらと歩いてぶらぶらと帰るだけよ」

「……一応言っておくけれど、街中じゃ星は見えないから迷っても知らないわよ」

「大丈夫、昼には帰るわよ」

 

 そういうとメリーはやれやれと肩を竦めながらローファーを履いてさっさと出て行ってしまう。私もその後ろを追いかけて玄関を出ると、朝方とは思えない熱気に一気に出掛ける気力を奪われてしまう。それでも私が誘った手前、止めようなんて言えない。

 ……まずは最寄りのコンビニでも探そう。私は冷たいアイスを思い浮かべながら、当てもなく歩き始めた。



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12.片道散歩道

 朝方だけれど、思った以上に日差しが強い。

 私はアスファルトに舗装された道の端を歩きながら、鞄の中に入れておいた折り畳みの日傘を取り出して開く。その横で蓮子はネクタイを緩めながら溜息を吐いている。自分が誘った癖に気怠そうに道端を歩いていた。

 

「あっつ……」

 

 基本的に朝が弱い蓮子が早朝の散歩に誘ってくるなんて珍しい……というか、らしくない。普段ならもう一度寝てそうなのにね。まあ、私も本当のことをいえば今日くらいはもう少し寝たかったのだけれど。

 しばらく歩いていると、公園にたどり着いた。ブランコと滑り台、そして幾つかのベンチに砂場ぐらいしかない小さな公園だ。

 それでも夏休みの子供達が目一杯の広さを使って元気よく鬼ごっこをしている。蝉の声に混じって子供達のはしゃぐ声が住宅地に響いていた。私は公園の入り口で子供達の様子を微笑ましく眺める。

 だが蓮子はそちらには興味ないようで、公園を囲むように植えられた木々を見つめていた。そしてしみじみと呟く。

 

「こんな住宅街でも蝉が鳴くのねえ……もう蝉の声も幻想入りしてしまったのかと思ったわ」

「そう簡単に絶滅しないわ。夏の風物詩じゃない」

「私は風鈴の五月蠅くない音の方が好きだわ」

「そっちこそ幻想入り間近だと思うけれど……どうなのかしら?」

 

 北斗曰く幻想入りは忘れ去られたものが行きつくものだと言っていたけれど……妖怪のような存在以外の物も幻想入りするのかしら?人間は幻想入りするみたいだけれど。

 神隠し。私はその原因を、境界に呑まれた、あるいは自ら境界に跳び込んでしまったからだと考えていたけれど……

 もしかしたら幻想入りしたという考え方もあるのかもしれない。あるいは境界の向こうの一つが幻想卿なのかも……

 

「幻想入りねぇ……まるで世界が忘れ去られたものを、不要なものを隔離してるみたいね」

 

 ふと蓮子が帽子を直しながら呟く。捻くれた考えね、と呟いた言おうとするが私達の後ろをバスが通り過ぎていきタイミングを失ってしまう。

 蓮子は公園の中に入るのではなく生垣を沿う様に進んでいく。その後ろを追いかけると……背中越しに言葉が飛んでくる。

 

「科学は有無を、白黒をはっきりつけてしまう。だから文化が発展していくにつれて不必要なものは簡単に淘汰されていく。幻想の存在は容赦なく否定されてしまう。そんな世界は……」

「優しくない、かしら?」

「つまらない、よ。世界は元から優しくないわ」

 

 台詞を予測してみたのだけれど……案外擦れた考えで外れてしまった。

 けれど、前を歩く蓮子の表情は見えないから断言は出来ないけれど……

 蓮子の擦れた答えはきっと後出しだ。世界は各々の主観の中にしかない。だから世界が優しくないと思う蓮子は、きっと……誰より優しいんだと思う。

 

 

 

 

 

 公園から程なくして、私達は川の土手に出る。

 土手言ってもコンクリートで固められたものでそぞろ歩くには情緒がない。河川敷も草が殆ど生えていなかった。ランニングをするために作られたような道があるだけ。とは言っても散歩をするには都合のいい道には違いない。

 

「降りてみる?」

「別にいいでしょ。それよりコンビニに寄っていかない? アイスでも食べないとこの暑さは耐えきれないわ」

 

 蓮子は川に幾つか架かった橋の中の北側……下流方向の一番近い橋の入り口を指差す。

 大きな橋の手前には確かにコンビニが見えている。この暑さに氷菓子が欲しくなるのはわかるけれど……

 

「もう、さっき朝ごはん食べたじゃない。太るわよ」

「じゃあ太らないために頭を使いましょうか」

「謎々でもするのかしら?」

「言葉遊びよりもっと楽しい謎よ」

 

 そう言いながら蓮子は指をピンと立てながら土手を進んでいく。どうせ大した謎じゃないでしょうけれど、付き合ってあげますか。

 私達は山側から流れてくる風に蓮子は背中を、私は日傘を押されるように土手を歩いていく。

 ふと隣に歩く蓮子が胸ポケットからペン型のスマホを取り出した。

 

「お題はそうねぇ……『何でこいしは幻想入りしなかったか』にしましょうか」

「それは『こいしがメリーさんになることで存在を維持していたから』でしょう? 何度も話したじゃない」

 

 呆れ気味にそう言い返すが……蓮子は首を振って否定してくる。そして手の中でスマホを回しながら不服そうにブツブツ呟き始めた。

 

「そうじゃなくて……『何でこいしがメリーさんにならざるおえなかったか』を考えたいのよ。普通なら放っておいても幻想郷に帰れるはずなのに、そうできなかった理由を知りたいの」

「出来なかった、ねえ……こっちに残りたかったからそうした、じゃ駄目なの?」

「うーん、ありえなくはないけれど……だったらさっき起きた時にメリーさんとして私達を攻撃すると思うわ。だって私達はこいしを幻想郷に強制的に送り返してしまうかもしれないのに」

「……そこなんだけれど、今のこいしってメリーさんなのかしら? それとも元の状態、覚妖怪?」

 

 私は今朝から疑問に思っていた事を蓮子にぶつけ返すと、蓮子は足を止め、右手の甲を口に当て目を瞑った。前にも見た思考のポーズだ。

 明らかにこいしは私の名前……メリーさんという単語に反応していた。

 もし突発的に都市伝説のメリーさんに戻ってしまったら、また蓮子が襲われてしまうかもしれない。本来なら北斗か紫に確認を取った方がいいのかもしれないけれど……先に蓮子の考えも聞いてみたかった。

 暇つぶしに日傘をクルクル回しながら答えを待つ。足を止めていたのは数秒、すぐさま蓮子は目を開いて肩を竦めた。

 

「そこらへんはこいし当人か北斗に聞かないとわからないわね。けれど、北斗の能力が本当ならこいしは本来のこいし……覚妖怪に戻ってるはずよ」

「そうねぇ……結局、こいしがメリーさんになった理由も本人から聞かないとわからないわよね。で、これって謎になるの?」

「……あー、頭を使ったから甘いもの食べたいわー! コンビニに急ぎましょ!」

「あ、こら! 誤魔化すな!」

 

 私は誤魔化すように駆け出した蓮子を慌てて追いかけた。

 

 

 

 

 

 追いかけっこの末、すっかり汗をかいてしまった。

 私は橋の欄干に背を預けコンビニで買ったペットボトルのお茶を首元にくっつける。冷たさが血の巡りと共に身体に広がっていく。けれどその程度ではこの暑さを紛らわすことはできなかった。

 まったく、偶に見せる子供っぽい行動はどうにかならないのかしらね。

 私は恨めしく思いながら隣で欄干に肘を突き、アイスキャンディを齧る蓮子を睨むが……まったく気に留めた様子はない。アイスに夢中のようだ。

 私はため息を吐いてから、道路に上がる陽炎を見つめながら呟く。

 

「はぁ……それにしても暑いわねぇ。コンクリートとアスファルトで固められた土地だから仕方ないけれど」

「住宅街はまだ緑が残ってる方よ。商業区に比べたらね。けれど本当に不自然なほど発達した街よねぇ……大した産業もなさそうなのに」

 

 確かに蓮子の言う通りだ。七代市は元々観光地でもベッドタウンでもない。ましてや農畜産業、工業が盛んなわけでもない。

 だが七代市はある時期を境に急激に物流が盛んになり、瞬く間に貿易の一大拠点へと変貌した。

 海岸線には巨大な船がひっきりなしに出入りする大きな港がある。私達が乗ってきた列車とは別の、貨物専用のリニアレールの車線も引かれた。

 今や『ネット通販で物探すくらいなら七代市に行く方が早い』なんて言われるほどの店舗が商業区には並んでいた。

 

「そういえばここに来たのってそれを暴く為だったわね。色々ありすぎて忘れかけていたわ。3泊4日の予定だったから、今頃は帰りの電車に乗り込んでるはずだったのに……」

「あら、メリー……まさか目の前にこんな秘密の山があるのに、まさかこのまま帰るなんて言わないわよね?」

 

 蓮子が挑発的に問いかけてくる。まさに愚問ね。私がこのままおめおめと帰るわけないじゃない。大学サボってでも……というのは流石に無理だけれど、時間が許す限りあの二人について行ってやるわ。

 それに……紫はきっと私について何か知っている。私が何者なのか、私の力はなんなのかを……知りたい。私は貪るようにペットボトルのお茶を飲み干してから、一息吐く。

 

「全て知るまで私は……諦めないわ」

「全て、ねぇ……随分大きく出たじゃない。確かに夏季休暇の予定全部潰す価値のある秘密よね。この町も、あの二人も」

 

 蓮子は崩れかけたアイスキャンディをギリギリのとこで口に放り込む。そして口の中を空けると残った木の棒を眺めがらポツリポツリと、川に石を投げ込むように喋り始める。

 

「ホントあの二人は一番近くにいるのに謎だらけだわ。北斗は何か隠しているようで怪しいし、紫は……存在自体が怪しいわ。私達をまだ信用していないのか、それとも話せない理由があるのか……まあ、出会って一週間も経ってないし、がっつき過ぎなのかもしれないけれど……」

「信用っていうより、私達をどれくらい巻き込んでいいものかわからない、って感じだけれどね……」

 

 特に北斗は私達への接し方が慎重に思えてならない。

 私達との距離感を維持することで自分の秘密を守っているんじゃないか?そんな勘繰りをしてしまう。

 事実私達は彼の能力も、こいしとの関係も完全に聞き出せていない。私達も踏み込めていない。

 味方だけれど、なんとも微妙な関係だわ。こういうまどろっこしい距離感の駆け引きは苦手だ。

 

「ま、私達にはあの二人を調べる術はないし、今のところは向こうから教えてくれるのを待つしかないわよ。ところで、当たり? 外れ?」

 

 私は無理やり話を切るためにアイスキャンディの当たり外れを尋ねてみる。すると蓮子はムスッとした顔で棒だけ突き出してくる。板状の木の棒の中程にはハズレの文字が刻まれていた。

 蓮子はこういうどうでもいい時の運は悪いのよねぇ……悪い、というより平凡って言った方がしっくりくるけれど。

 

「私、これで当たりを引いたも見たことないのよねぇ……当たりなんて都市伝説じゃないの?」

「私は当たったことあるわよ。自分のくじ運の悪さを都市伝説なんかにしないの」

 

 くだらないことを言い出した蓮子をたしなめながら、懐中時計で時間を確かめる。足を止めながらの散策だったせいか、思ったより時間が経っていた。そろそろ戻らないと北斗の作る昼食に間に合わないかもしれない。

 そろそろ帰りましょうか。そう声を掛けようとしたつもりだったのだけれど……ふと私は蓮子に聞いておきたいことを思い出す。帰り道で話してもいいけれど……なんとなく今聞いておきたかった。

 

「そういえば蓮子、昨日こいしの攻撃が当たらなかったのって何でなの?」

「あれ、言ってなかったっけ?」

「言われてない。蓮子が思いつきってことしか知らないわよ。一体どうやったの?」

「んー、ちょっとした情報操作、かしら?」

 

 勿体振ったように言った言葉に、私は首を捻った。そういえば一昨日……蓮子は作戦実行の前日、スキマの中で紫が用意したノートPCで何やら作業していたわね。いつの間に蓮子は天才ハッカー様になったのかしら? それに情報操作してこいしの攻撃を防ぐなんてこと……弱味を握るぐらいしか思いつかないのだけれど……

 

「一体どういうことなのかしら?」

「そうねぇ……メリー、都市伝説のメリーさんを作ったのは誰かわかるかしら?」

「誰って、そんなのわからないわよ。誰かの作り話が独り歩きしていつの間にか広まってるものじゃないの? あえて答えを上げるなら……『大衆』かしら?」

「流石メリー。作り話から始まったのか、はたまた本当の話なのかはともかくとして……メリーさんは噂が生んだってことは確かね」

 

 そう語りながら蓮子はアイスの棒をコンビニの袋に突っ込んでからペン型スマホを取り出し、空間投影された画面をタッチして何やら調べ始める。

 さっきの話……蓮子は都市伝説のメリーさんと言っていたけれど、そもそも妖怪も噂から生まれた存在だ。人間の恐怖心が生み出した虚像とも言えるかもしれない。

 まあ、紫達のせいで、『噂が妖怪を作ったのか』『妖怪の存在が噂を生み出したのか』わからなくなったわけだけれど。いずれそれについても調べなくっちゃ。

 

「けれど、それがどうしてメリーさんの攻撃を防げる理由になるのかしら?」

「そこでもう一つ質問するわ。都市伝説と言えば口裂け女も有名よね。口裂け女の弱点と言えば?」

「弱点って……ポマードだったわよね」

「正解」

 

 蓮子はスマホを弄りながら首を縦に振った。

 確か口が裂ける原因になった手術の執刀医がポマードを付けていたから苦手になったらしいわね。まあ、ポマードと三回唱えたり投げつけたりと対処法がハッキリしていないあたり有効かどうかはあやしいけれど。

 あとはべっこう飴が好物だったり苦手だったりと割と弱点が多い。こいしもメリーさんじゃなくてこっちになってくれたら楽だったのにね。

 なんて身も蓋もないことを思っていると、蓮子がスマホを弄る手を止めて私に視線を送ってくる。

 

「けれど私はその弱点って信憑性を高めるための後付設定みたいなものだと思うわ。対処法がないと口裂け女に出会っても生き残る人がいなくなる。噂も広がりようがなくなるもの」

「私は化け物と対峙してポマード三回唱えて撃退しようとした被害者の行動こそ信じられないけれどね」

「念仏と間違えたんでしょ。まあ、何はともあれ……都市伝説には大抵対処法があるのよ。それもあくまで噂だけれどね」

「はあ……けれど、私はメリーさんの弱点なんて知らないわよ?」

 

 精々壁に背を向けたままにするとか電話に出ないとか電話を破壊するとかしか知らないわね。

 まさか蓮子は一日掛けてメリーさんの弱点を探していた……わけないわよね?と、蓮子はスマホを弄っていた手を止め、私を手招きしてくる。私は誘われるがままスマホの横から覗き見る、すると、そこにはオカルト掲示板のWebページが表示されていた。

 

「弱点が無ければ作ればいい。メリーさんの正体がただの噂なら……その噂を操作すれば、彼女の性質も操作できそうじゃない?」

「まさか……」

「そのまさか。私は一日掛けて『私が作ったメリーさんの弱点』をネットに広げ回ったのよ」

 

 その掲示板には……『誰かと手を繋いでいれば殺されない』といった書き込みがしてあった。

 蓮子はこれを広げ回って、メリーさんの噂に新たな内容を継ぎ足したのか。

 それが都市伝説のメリーと化していたこいしにも影響を与え、攻撃を防ぐ形になったというわけね。

 そういえば……あの夜蓮子に手を繋ぐ様に頼まれたけれど、あれは恐怖を紛らわすためだと思っていた。まさかこんな意味があるなんて……

 

「ちなみに信憑性を高めるために、『二人の時は電話が鳴らない』『手を繋いでたら手を切り来る』とかダミーの噂も混ぜたりもして、それっぽく偽装したのよ。さながら伝言ゲームで内容が狂ってくるようにね。もちろんID諸々の偽装もばっちり……紫がしてくれたわ」

「本当に博打みたいな作戦ねえ……しかも人任せだし。よくもまあ、こんな思い付きに身を任せられたわね」

「まあ、保険のつもりだったのだけれど……やっておくものねえ」

 

 もしかしたら死んでいたかもしれないのに随分呑気な言い草だ。呆れも通り越して感心してしまうわ。まったくやっぱり蓮子はこういう時だけ運がいい。こういうのは悪運が強いっていうのかしらね。

 

「それにしてもよくもまあ一日で噂を広げられたわね。私だったら信じないのだけれど……」

「それなんだけど……私もびっくりするくらいあっさり広まったのよ。私、こういうのに才能があるのかも」

「……ふーん」

 

 そういうところも運が強いのかしら?なんだかそれとは違う気もするけれど……まあ、終わったことだし今になってはわからないことよね。

 とにかく気になっていたこと一つが分かってすっきりしていると、唐突に蓮子のスマホが鳴動する。私達は情けないことにその音に一瞬身を固めてしまう。この事件のせいでしばらくは電話の音にビクビクしてしまいそうだわ……

 蓮子は胸に手を当て深呼吸する。それからようやく電話を取った。

 

「もしもし、どうしたの急に? ……あぁ、そんな時間? わかったわ……えっ、いいわよそんな……いや、橋の前のコンビニだけど……はぁ、そういうことなら。うん、うん、じゃあ……」

「誰から?」

「北斗から。車で迎えに来るからコンビニ前で待ってろって。そこまでしなくてもいいのにねぇ……」

 

 まったくだわ。お節介が過ぎるというか……まるで母親かのような世話焼きよねぇ……ま、歩かずに帰れるならそれはそれでいいか。それにしても昨日今日で車を買い直すなんて、どうやったら出来るのかしらね?

 何はともあれ私達は北斗の車を待つためにコンビニに戻ろうとする。けれど、私はもうひとつ気になることを思い出して、足を止める。

 

「蓮子、そういえば聞きそびれてたのだけれど……私の呼び名の由来、結局何だったの?」

 

 私は昨日の夜から有耶無耶になっていた約束を問いかける。はっきり言ってそこまで興味のある事柄でもないのだけれど……蓮子に秘密にされっぱなしなのも癪だもの。

 私の言葉を聞いた蓮子は数歩前に歩いてから……帽子を押さえながらくるりと身体をターンさせて振り返る。そして、悪戯っぽく笑った。

 

「メリーさんの羊、よ。あの時の貴女、迷える子羊の様だったもの」

 

 蓮子はニカッと歯を見せると、スキップをしながらコンビニに戻っていく。私は唖然としてしまう。

 迷える子羊って……そんなふうに見えてたの、私? しかもそれを初対面の相手の呼び名にする神経が信じられない。これは文句の一つは言ってやらないと!

 腹が立った私は日傘を畳み、蓮子の背中を走って追いかける。

 確かにあの時……滞ったような時間の中から救い出してくれて、ずっと手を引いて導いてくれたかもしれない。けれど、それはあの時だけだ。今はもう違う。

 

 

 

 私は蓮子の後ろじゃなくて、隣にいたいから。



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外伝02.私の居場所

 誰も私を見ない。誰も私に気付かない。誰も私を知らない。

 別に見つけて欲しかったわけじゃない。気付いて欲しかったわけじゃない。知って欲しかったわけじゃない。

 

 

 

 ただ……私にも居場所が欲しかった。

 

 

 

『ならば私が与えましょう。貴方の意味を。貴方の存在を。貴方を、私が生みましょう』

 

 そう私に囁くのは男の声にも、女の声にも聞こえないような……無機質な声だった。そして同時に何か固いものを打ちつけるような……削るような音が響き渡っている。それはさざ波のように近付いてくる。かーん、かーん、かーん……

 何の音か、私にはわからない。けれどそれは、まるで心臓の音のように安らかで……お腹の中の赤ちゃんはこんな音を聞きながら眠っているのかもしれないなって、思った。

 

 

 

 もしかしたら……私が居るべきなのはここなのかもしれない。

 

 

 

 

 

 ……ちょっと寝過ぎたみたいだ。私は袖で目蓋を擦ってから真新しいふかふかのベッドの上から窓の外を眺める。巨大な入道雲が夕日に染まろうとしていた。地底では絶対に見られない景色だけれど、あの四角い建物は地上でも見たことがなかった。

 

「幻想郷の外の世界……」

 

 私は身体を起こして思わずひとりごちる。メリーさんとして散々この異様な街を歩き回ったはずなのに、何故だかその時は全然興味を持てなかった光景。私、いったい何をしてたんだっけ? とにかく電話して、追いかけっこして、追いかけて、追い詰めて、殺して、そして……そして?

 

「わたし、なんでそんなことしてたんだろう?」

 

 零れ出た疑問は窓硝子に当たって部屋に転がり落ちる。どうしてか、しないといけなかったんだけど、どうしてそうなったんだっけか……うーん、思い出せない。ま、どうでもいっか、そんなこと。思い出せないってことは忘れてもいい程度のことだよ。

 私はベッドから飛び起きて姿見の前で一回転してみる。服は皺くちゃになっちゃってるけど破れてはいない。帽子は……衣装掛けに掛かっていた。それをしっかり被ってから、私は木製の扉を音をたてないように開ける。

 部屋の外は吹き抜けになっていて、手すりの間から下の居間が見える。そこには今朝見た金髪と黒髪のおねーさん二人がソファに座って話をしていた。目の前の机の上にたくさんの服を並べて、それを選んでいるようだった。あの二人、なんて名前だったっけな? えっと……

 

「蓮子、それとかいいんじゃない? その藍色のフレアスカート」

「うーん、そうかな? ちょっと可愛すぎじゃない? 私の趣味じゃないわ」

「蓮子は保守的過ぎなのよ。あの子……こいしを見習ったらどうかしら?」

 

 突然私の名前が出て、ちょっとびっくりする。私の服、なんとなくで選んだんだけど外の世界でも受けがいいのかな? だったら嬉しいな。

 今度はわざと音を立てるように階段を降りていく。けれど二人は全くそれを気にした様子がない。服選びに熱中して気が付かないんじゃない。二人には私が見えないだけ。私のことをまったく意識できていない状態なだけだ。本当なら私の事を話題に出すことすら出来なくなるはずなんだけど……まだ本調子じゃないのかも。ま、バレなければ何でもいいけど。

 私はそのまま居間から出て玄関へ向かう。行く当てもないし、目的もない。けれど私はこの家から出ようと決めていた。お粥を作ってくれたおにーさんはしばらく体を休めてから、今後のことを話すって言っていたけれど……何となくあの人とは話したくなかった。

 おにーさんの顔を見てると変な気持ちになるから。何だか胸が締め付けられるような感覚。明るく振る舞っていたけど、あの表情は……私が瞳を閉じたと知った時のお姉ちゃんの顔に似ていた。どうしてもその時の事を想い出しちゃうから……今はおにーさんに会いたくなかった。

 

「待った、こいし」

 

 けれど、そんな時に限ってその本人と出会ってしまうのはなんでだろう?誰も見えないはずの私を、台所で料理していたおにーさんが呼び止める。どうして私が見えるの? 人間の子供に見つかることは今までに何度かあったけど、大人の人が私に気付くなんて……しかも、よりによっておにーさんに、だ。

 無視してこの家から出ればいいのに、逃げてしまえばいいのに、向き合わなければいいのに……私は、おにーさんの次の言葉を待っていた。床の木目を数えながら待つこと数秒、やや遠慮がちな声が耳に届く。

 

「……せめて晩御飯くらい食べて行きなよ。一人分余っちゃっても仕方ないからさ」

 

 その言葉に私は何も返せない。おにーさんもそれ以上何も言わず、黙々と包丁を振るっている。お腹は減っているけれど……今を逃したら多分私はここを出ることができなくなるような予感がしていた。どうしたらいいか分からない。ただ身体は随分欲求に忠実の様で、いつの間にか私は食卓に着いていた。

 私は帽子を取りながら盗み見る様におにーさんの様子を伺う。今朝の作り笑いとは違った自然な、ほのかな笑みを浮かべていて……私はむず痒いような、恥ずかしいような気持ちになった。

 

 

 

 

 おにーさんの料理ができる頃には日がすっかり落ちてしまっていた。テーブルに並べられたのは、つまみ類がてんこ盛りに乗せられた大皿……いわゆるオードブル料理と大量のお酒だ。どうやら夕飯というより酒盛りって感じみたいだ。

 食卓に着いているのは金髪と黒髪のおねーさんの二人と妖怪の賢者だった。みんな私には気付いていない。一瞬、妖怪の賢者とは目が合ったような気がするけれど……おにーさんのように話しかけてくることはなかった。

 

「ちょ、開かない……」

「絶対にこぼさないでよ……絶対よ!」

 

 私はワインの栓を開けようと四苦八苦しているおねーさんたちを差し置いて適当なお酒を勝手に開けて自分のコップに注ぐ。どうせ誰も気にしないし先に食べてしまおうかと考えていると、ワインを開けグラスに注いでいた黒髪のおねーさんが立ち上がってカウンターに肘を置く。未だにキッチンでフライパンを振るっているおにーさんを見かねたようだ。

 

「北斗ー、ちょっと作り過ぎじゃないかしら? 私達を太らせる気? そういう趣味?」

「別に餌付けしてるわけじゃないって。多分足りなくなるだろうからさ……先食べてていいよ。俺もちょくちょくこっちでつまみ食いしてるからさ」

「ふーん……ま、せめて乾杯くらいは付き合いなさいよ。あと、ワイン開けて」

「はいはいわかってるって……よし出来た」

 

 おにーさんは野菜炒めを手早くお皿に盛り付けると、私達の目の前のテーブルに置いて代わりに血のように赤黒いワインの注がれたグラスを手に取った。席には座ろうとしないのはきっと私がいるからだろう。そんな気遣いが逆に居心地を悪くする。放っておいてくれた方が、いいのに……

 さて乾杯しようかとしたところで、金髪のおねーさんが思い出したかのように声を上げた。

 

「あっ……そういえば、こいしは呼ばなくていいのかしら? 酒のつまみばかりであまり消化が良さそうではないけれど」

「胃弱な妖怪って微妙ね」

「上げ足取らないの。今から様子を見に行きましょうか?」

 

 本当に変な感覚だ。気味の悪さすら感じてしまう。目の前に私がいるのに、心配されて、気を遣われて……どうすればいいのか、分からなくなってくる。そんな私をまた気遣ってか……おにーさんが助け舟を出してくれる。

 

「……こいしなら、後で何か作って持っていくから大丈夫だよ。さ、それより冷めないうちにどうぞ」

「そうね、それじゃあかんぱーい!」

 

 黒髪のおねーさんの掛け声と共にみんながグラスをぶつけ合う。そしておにーさんに促されるまま、みんなが箸をとって料理を取り始めた。私は感情の整理がつかないまま、おにーさんの料理を取る。じっくりと煮込まれた肉の角煮を口に入れてみると、とろけるような舌触りとともに甘辛のソースの味が口一杯に広がた。朝ごはんのお粥を食べた時にも思ったけど、おにーさんの料理は美味しくて……優しい。誰かの幸せの為の料理だって伝わってくる。美味しい、美味しい……おい、しい……

 

「うぅ……」

 

 お姉ちゃんの手作り料理を思い出してしまう。瞳を閉じてから地霊殿にあまり戻らなくなったせいで、お姉ちゃんの料理を久しく食べてないけれど……今でもその味は記憶に刻み込まれている。

 人の心なんて見ても落ち込むだけ何一ついい事がない。みんな自分の心の内を見られたくなくて、私に近付いて来ない。もし近付いても酷い事ばかり見えて吐きそうになってしまう。

 そうだ……私は、誰にも嫌われたくないから瞳を閉じたんだ。なのにみんな私を見ない。私に気付いてくれなくなった。私は……独りになった。

 

「こいし」

「えっ……?」

 

 目の前の取り皿をじっと見つめ俯いていた私に声が掛かる。顔を上げると、おにーさんがグラスをこっちに差し出していた。それが乾杯をしようって意味だと気付くに結構な時間が掛かってしまう。恐る恐るながらグラスを持っておにーさんのそれに軽く当てると、おにーさんはニッと笑みを浮かべた。

 

「食べたいものがあったら言ってね。できるだけ要望には応えるからさ」

 

 それだけ言うとおにーさんはグラスの中身を一息で飲み干し、頭を擦りながらまた台所に戻ってしまう。私は呆気に取られたまま何も言葉を返す事ができなかった。

 

 

 

 

 

 

 宴会は真夜中近くまで行われた。私がお腹いっぱいになった頃には金髪のおねーさんも黒髪のおねーさんもすっかり出来上がっていて……終いにはソファの方に座ってお互いに寄りかかるようにして眠ってしまった。

 私が舐めるようにワインを飲んでいると、私の目の前の席におにーさんが座る。その手には小さな酒瓶と、石のような氷が入ったグラスを一つ持っていた。

 

「どうだった? 俺の料理?」

「……美味しかった」

「ん、それは良かった。さて二人も眠ったことだし、そろそろ大事な話をしたいんだけど……いいかな?」

 

 ……大事な、話。私は隣に座っていた妖怪の賢者の顔を伺う。宴会中、何度か目が合ったから確信している。彼女には確実に私が見えていると。以前博麗の巫女も言っていたっけな……これは厄介な相手だって。いや、むしろこのスキマ妖怪が私が見えている方が納得は出来る。それより……どうしておにーさんは私を見ることが出来るんだろうか?普通の人間じゃないみたいだけど……博麗の巫女みたいなものかな?

 私がおにーさんにそのことを聞こうかどうか迷っていると、スキマ妖怪は赤ワインの入ったグラスを軽く回しながら呟く。

 

「貴女にはこういう事情になった経緯を聞かせてもらいたいの。出来ればここに住んで手伝ってもらいたいのだけれど……貴女が望むなら幻想郷へ戻ることもできるわ」

「………………」

「どうするかは貴女が決めなさい。今回に関しては貴女は……おそらく被害者にあたる。だから強要はしないわ」

 

 私は両手でグラスを持って……その赤い水面に視線を落とす。別に経緯を話したくない訳じゃない。覚えていないから話せることはあまりないのよねぇ。気付いたら外の世界にいて、気付いたら私はメリーさんになっていた。きっとこの二人が欲しがってる情報はきっとない。問題は……

 

「私は……」

 

 幻想郷に戻りたい? もっと外の世界を見てみたい? 自問自答しても答えが出ない。そもそも私の中に答えがなかった。どちらを選んだとしても大して変わらないから。答えに窮して黙っていると……おにーさんがグラスに飴色のお酒を注ぎながら言う。

 

「まあ、今すぐこっちって決められるものでもないだろうし……考えておいてくれればいいから。話も、したくなったらで構わないから。それまではここでゆっくりしてるといいよ」

「……おにーさんはそうしてほしいの?」

 

 私は無意識のままそう問いかける。何となくだけれど、おにーさんは私にここにいてほしいような気がしたのだけれど……おにーさんはグラスの中の氷を回して僅かに首を振った。

 

「……紫さんには悪いですけど、幻想郷に戻った方がいいと思う。またメリーさんになって欲しくないし、きっと……家族も心配してるだろうからね。それに……」

「それに……?」

「いや、何でもない。まあ、あくまで俺はそう考えてるだけだから。手伝ってくれるなら助かるし、またメリーさんになっても……俺が何とかしてみせるから」

 

 そう言うとおにーさんはグラスの中身を呑み干し……カランと氷の音を鳴らせた。私はおにーさんをマジマジと見つめながらつられる様に手の中のワインに口を付ける。

 ……どうしておにーさんはこんなに私に優しくしてくれるんだろうか?それだけじゃない。曖昧にしか覚えていないけど……私が何回も何回も殺そうとナイフを振るったのに、おにーさんは私を本気で切ろうとしなかった。何人も人間を殺した私だ、人間に殺されてもおかしくないのに……

 どうして私が見えるの? どうして私のことを知っていたの?どうしておにーさんは、私に優しいの? 何か私に秘密にしている……心は読めないけれど、直感的にそう感じていた。

 はっきり言っておにーさんは苦手だ。近いようで遠い。距離感がつかめない。お姉ちゃんを思い出させるようなところもある。けれど……気になって仕方がない。きっと今幻想郷に戻ったら一生この秘密を知ることができない。どうせ幻想郷に帰らないといけない理由もないし……

 

「それじゃあ……これからよろしくね、北斗おにーさん」

 

 しばらくおにーさんの傍に居てみよう。いつか、おにーさんの謎が解けるその日まで。



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13.ハニーモーニング

 私には毎朝任される仕事がある。蓮子と紫を叩き起こすことだ。

 別に私は早起きが得意という訳ではない。むしろ貧血気味で寝起きが悪いくらいなのだけれど、そんな私以上に蓮子と紫は朝が弱かった。

 着替えを済ませ、顔を洗ってからリビングに戻ると甘い匂いが漂ってくる。釣られて台所に辿り着くと、そこには慣れた手付きパンケーキを焼く北斗がいた。器用な手付きでフライパンを振るい、パンケーキをクルリと半回転させると、焼き目のついた表面が露わになる。そのまま焼きたてにたっぷりの蜂蜜をかけて戴きたいほど美味しそうだ。

 

「おはようメリー、いつも通りで何よりだ」

「ええ、おはよう。あの二人もいつも通り遅起きみたいね」

「毎度のことすまないが、蓮子と紫さん起こしてきてよ。あとゴミも持って降りるように言っておいて」

「今日は燃えるゴミだったかしら? 私達後で外に出るからついでに出しておきましょうか?」

「いや、全部まとめて出すからいいよ。どうせ俺も買い物に出るし」

 

 最初はぎこちなかった北斗との会話も、流石に数日経てば何の違和感もなくなっていた。そもそも私も彼も人見知りではない。蓮子や紫がフレンドリー過ぎて相対的にそう見えるだけなのよ。

 そんな誰にも届かない言い訳を脳内でしながら二階へ続く螺旋階段を上っていく。階段すぐ正面の部屋は私の部屋だ。そこから右に蓮子、紫、こいしの部屋が並んでいる。ちなみに北斗は階段から一番離れた部屋を使っているらしいけれど、着替え以外で入っていくところを見たことがない。睡眠すら一階のソファで取っているようだ。本当に変な人よねぇ……

 

「蓮子ー! 朝ご飯できるわよー!」

 

 ノックしながらドア越しに呼び掛けるけれど、案の定返事はない。この程度では起きないのはいつものことだ。私はもう一度だけノックをしてそのまま部屋に入る。

 以前まではどの部屋も代わり映えしない質素な部屋だったけれど……今では各々の趣味が反映されたものに変わりつつあった。蓮子の部屋もクリーム色のカーテンやアンティーク風のカラクリ時計、帽子掛に茶飲み机……その他様々な小物が持ち込まれていた。私も多少は模様替えしたけれど……蓮子ほど本格的ではない。

 

「まったく……自分の財布から出てないとはいえ遠慮なさ過ぎ。ほんと図太い性格よねぇ」

 

 北斗と一緒に模様替えに付き合わされた時間を思い出してだんだん腹が立ってきた私は、寝起きにイタズラでもしてやろうと思い立った。こっそり蓮子のベッドまで忍び足で近寄る。

 蓮子はタオルケットを蹴り飛ばして猫のようにベッドの上で丸まっていた。薄手のTシャツにホットパンツのラフな姿は寝巻きなのはわかっているけれど……居間にいる時くらいちゃんとした部屋着を着てもらいたいわ。だらしないもの。

 

「さて……一体何をしてやろうかしら? 手元に水性ペンがあれば落書きしてやるんだけどそれもないし、大きな音を出せそうなものもないし……そうだ」

 

 独り言で考えを纏めた私は、そっと蓮子と迎え合うようにベッドへ横たわる。そして耳元で思いっきり叫ぼうと息を吸い込む。そして……

 

「メリー、早く蓮子を起こしてっておにーさんが……あっ」

 

 口から音が出る直前、ノックもなしにこいしが入ってくる。瞬間、緑の瞳と目が合う。蓮子の顔に超接近する私を目撃したこいしは……ニコニコとした笑顔を貼り付けたままそっとドアを閉じた。

 

「いや、あのね、違うの……こいし、これは……」

「……おにーさーん!! メリーがスーパーエゴを爆発させて無意識な蓮子を襲おうとしてるよー!!」

「違うのー!! 誤解だから!! 聞いてお願い!!」

 

 私は慌てて部屋を飛び出し一階に降りていくこいしを追いかけた。悲鳴に近い弁解の叫びは、寝坊組二人を起こすには十分の騒々しさだった。

 

 

 

 

 

「今日は三人で買い物兼町の探索に出てもらうから。いいね?」

「はい……」

 

 食卓を挟んだ対面で底冷えするような笑みを浮かべる北斗に、私と蓮子はただ頷くことしか出来ない。

 こいしとの追いかけっこをした結果、パンケーキを床に落としかけた北斗に雷を落とされたのだ。北斗はこのメンバーの財布と胃袋を掌握している。当然、そんな彼に私達はまったく頭が上がらなかった。当初金銭面の管理は紫がしていたのだけれど、あまりにも散財する為に北斗が半ば無理やりに役割を買って出たのだ。これでますます北斗がお母さんにしか見えなくなっててしまったわね……

 

「あらあら、厳しいわね。北斗おとーさん」

 

 二人揃って縮こまっていると、食卓とは別のテレビ前に置かれたソファと机の方から声がする。そっちに目を向けると、紫が朝のニュース番組を見ながらソファで寛いでいた。威厳漂う実に優雅な姿だけれど、北斗はそれを意に介した様子もなく優雅にコーヒーを飲むその背に、言葉を飛ばした。

 

「……紫さん、三人には紫さんも入ってるんですよ? 貴女が車を運転してくださいね」

「えっ……私色々忙しいからちょっと無理かもって……」

「昨日蓮子とこいしと一日中ゲームしてたじゃないですか。暇なわけないですよね?」

「………………」

 

 自称大妖怪威厳は何処へやら、家事を一切しない紫は、ことこの家の中においては北斗に頭が上がらなかった。だが、そんな北斗に唯一対抗できているのが……

 

「ねぇ、おにーさん! 私はー?」

「えっと……こいしはまだ外出は禁止かな。もうちょっと様子を見てから……」

「むーっ! いつになったら私とデートしてくれるの!?」

 

 食卓の対面に座るこいしだった。北斗はこいしに対しては甘い……というか過保護な節があった。こいし本人がそれをわかっているのかどうか知らないけれど、こいしは今のような発言を連発して毎日のように北斗を困らせていた。

 

「で、デートって……そんな約束した覚えはないんだけど……」

「酷い! 私とは遊びだったのね!?」

「誤解を招くような発言は止めてくれないかな!?」

 

 こいし本人はテレビで知った台詞を使いたいだけなんだろうけれど……完全におもちゃにされてるわね、北斗。私はそんな二人のやりとりを横目に、パンケーキにバターを乗せまんべんなく広げてから、ハチミツをたっぷり掛ける。隣の蓮子が何故か奇異な目で私の皿を見ているけれど……日本では食べ方が違うのかしら? まあ、気にしないけれど。

 

「ほら、こいし! せっかくの焼きたてが冷めちゃうから食べよう」

「むー、しょうがないなぁ……いただきまーす!」

 

 私がパンケーキを切り分けていると北斗に諫められたこいしが私達の手付きを見ながら朝食を取り始める。メリーさんとして行動していた時間の記憶はほとんどないせいもあってか、こちらの世界の文化にもまだ慣れていないみたいね。

 かく言う私は妖怪との生活に少しずつ慣れ始めていた。そもそも紫もこいしも、私からしたらちょっと特別な能力持ちの人間ぐらいにしか見えない。あり得ない身体能力を発揮している北斗の方が妖怪らしく思える。たまにこいしは目の前に居られても気付かないことがあるけれど……逆に言うとそれくらいしか妖怪だと実感できる機会がなかった。

 

「こいし、はいこれ。バターも乗せた方がおいしいわよ。あと隣のメリーみたいに蜂蜜かけ過ぎないようにね」

「そうなの? んー、じゃあちょうだい」

 

 蓮子もさながら妹が出来たかのような接し方をしている。少し前まではその妹が命を狙おうとしていたことなんて忘れていそうだ。ま、いつまでも引き摺って気まずい雰囲気でいられるよりかいいけれど。あと蜂蜜の量はこれくらいでいいのよ。わかってないわねぇ……

 

 

 

 朝食を食べた後、私と蓮子の二人で皿洗いをすることになった。蓮子がどうかは知らないけれど、私はさほど家事が嫌いではない。一人暮らしに慣れているのもあるけれど、やらないといけないことをキッチリやるだけでもそれなりに満足感があるもの。まあ、北斗ほど料理が出来るわけじゃないからキッチンは任せっきりだけれど……せめて皿洗いくらいしないとね。

 

「なーんか、変な感じだわ」

 

 洗剤をすすぎ終え、布巾で食器の水気を取っていると唐突に蓮子がそう口走る。私は首を傾げながら蓮子に食器を手渡す。

 

「何よ藪から棒に」

「私達普通にここに住んでるじゃない。妖怪と一緒に暮らしてるはずなのに、普通すぎというか……」

 

 蓮子は首を傾げながら食器を乾燥棚に並べていく。私も似たような思いを抱いていただけに、超能力的なシンパシーを感じざるを得ない。まあ、ただ単に付き合い長いから思考パターンが似通っただけだろうけど。

 私は洗面台を拭き掃除する片手間で、蓮子に頷きを返す。

 

「違和感ないわよねぇ……他の妖怪もこうやって人に紛れてるのかしら? もう街の中で何度もすれ違ってたりして」

「だとしたら逆にロマンがないわ。もう少し妖怪らしい場所で、妖怪らしいことしててほしいわ」

 

 蓮子が随分身勝手なことを言っているけれど……私はそれを無視して拭き掃除に使っていた雑巾を洗う。別に私は妖怪が特段好きなわけでもないし、妖怪がどんな生活をしていようと気にしない。事実は事実でしかないから、それを受け止めるしかないのよ。

 ……たとえ私にしか見えなくても、私にとってそれは現実なのと同じように、ね。

 

「二人ともお疲れ。ごみの処理とかは俺がやっておくからいいよ。あとこれ買い物リストと財布ね。多少なら使ってもいいけどあまり無駄遣いはしないように。頼むぞ、メリー」

 

 一息吐く間もなく、北斗がカウンターキッチンから顔を出してメモと皮の長財布を渡してくる。ちなみに北斗は私達が洗い物をしている間にリビングの掃除を済ませてしまったようだ。流石というか……もう執事か何かになればいいのに。そんな事を考えていると蓮子が不満そうに北斗を睨んだ。

 

「なーんでメリーに渡すのかしら? 私、そんなに信用されてない?」

「……よろしく頼むぞ。メリー」

「ええ、わかったわ」

「フォローも何もないのは一番堪えるからやめてくれない!?」

 

 漫才染みたやり取りをしながらリビングに戻ると、妖怪二人はテレビの前に陣取っていた。どうやら朝のニュース番組終わりの占いに興味を持ったようだ。こいしが不思議そうに北斗に尋ねる。

 

「ねー、おにーさん。この星座占いってなにー? 占いって水晶転がしたり割り箸ばさーってしたりするんじゃないの?」

「色々と突っ込みどころはあるけど……簡単に言えば生まれた誕生日でその日の運勢を占う感じかな」

「ふーん……そんなので当たるの?」

「……まぁ、当たる当たらないより見て楽しむものなんじゃないかな」

 

 こいしは純粋な問いに、北斗は適当にはぐらかすしか出来ていなかった。まあ、そもそも占いはバーナム効果を利用した言葉遊びがほとんどだけれどね。どんな内容でも当てはまってると思える様に出来ているのだ。

 私は冷めた目で星座占いを眺めていたが……蓮子と紫は私とは真逆の思考でそれを見ていた。

 

「やった、私一位だ! 今日は何でも願いが叶うだって! 宝くじでも買おうかしら?」

「あら奇遇ね、私も一位だわ。きっと今日はストレスのない愉快な一日になるわね」

 

 二人とも随分手放しに喜んでいる……呑気で羨ましいわ。それはともかく、妖怪にも誕生日ってあったのね。そっちの方がびっくりだわ。まあ、紫の性格からしたら適当に行っている可能性もあるけれど。

 この数日間、紫とずっと一緒に暮らしているが、相変わらず紫は何を考えているかわからなかった。そもそも私達と接すること自体を避けているような節もあるのだけれど。

 やっぱり私と紫には何かしら関係があるのかしら?だから避けている?境界を操る力と境界を見る私の目という共通点、そして私達の容姿の相違点の少なさから考えて……

 

「あ、メリーは最下位ね……今日は災難に巻き込まれてドタバタするって。あーあ、可哀想に……」

「……はあ」

 

 なんて真面目に考えているのが馬鹿らしくなってくる。

 私は占いが嫌いだ。いい内容が書いてる時ほど何もない一日だったりするし、悪い内容の時に限って本当によくないことが起きたりする。何よりほとんど当たらないのにいちいち内容を気にしてしまって、いざ何か起こったら『今日は不幸な日だから仕方ない』と納得させられてしまうのが……癪だった。

 親の仇とばかりにテレビコマーシャルを睨みつけていると、唐突にテレビの電気が消されてしまう。それに合わせて紫が立ち上がって手を叩いた。

 

「さあ、そろそろ私達も出ましょうか。北斗、こいし、留守番よろしくね」

「えーっ!? 三人だけずるーい! 私も買い物行きたい!」

 

 私達がリビングを出ようとすると、こいしが蓮子の腕にしがみついて駄々をこね始める。私からしたら別に連れて行っても構わないと思うのだけれどね……やっぱり北斗は過保護ね、アレの嫁は苦労しそうだわ。

 と、おもむろに紫がこいしに近付いていく。そして……北斗に聞かれないようにそっと耳打ちした。

 

「私達が出掛けたら北斗と二人っきりになれるわね。羨ましいわぁ……」

「……私、用事を思い出した! ここは私に任せて行って!」

 

 こいし、そんなチョロくていいのかしら……? まあ、微笑ましいけれど。

 身支度を手早く済ませ玄関に出ると、こいしと北斗が見送りに出ていてくれていた。私は二人に手を挙げて応える。

 

「それじゃあ行ってくるわね」

「あぁ、気をつけていってらっしゃい」

「いってらっしゃーい!」

 

 二人の何気ない一言に、私はちょっとドキリとしてしまう。そういえば、一人暮らしが長いから誰かにいってらっしゃいなんて言われたのは久しぶりに思えてしまう。

 何とも言えない感覚だ。私はむず痒さを覚えながら、紫が回してきた車に乗り込んだ。



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14.灯台もと暗し

 紫の運転で辿り着いたのは住宅街にあるスーパー……じゃなくて湾岸部沿いの港に来ていた。騒々しいエンジンの唸りと走行音からやっと解放され、1/fゆらぎが強張った身体を少しだけほぐしてくれる。けれど今度は車内クーラーがなくなったせいで熱気が一気に襲い掛かってくる。

 

「はぁ……日差しキツイわねぇ……」

「まったくだわ。暑くて干からびちゃいそうだわ……」

 

 私は顔をしかめながら、並んで歩くメリーの言葉に同意する。海とアスファルトからの照り返しも相まって焼けそうなほどの日差しだ。心地よい潮風も吹いてはいるけれど、残念ながらそれも気休めにしかなっていなかった。

 

「ねえ紫、なんで港に来てる訳?」

 

 私は隣で日傘を回しながら海を眺めている紫に問いかける。まさか泳ぎに来たなんて言わないわよね? 私、水着持ってきてないわよ?紫は少し間を空けてから、傘を肩にかけて私に視線を向けてくる。

 

「ちょっとした散歩よ。北斗も言ってたでしょ?調査もするようにってね。ナマモノを買うことも考えたら順序はこちらが先でしょう?」

「……まあ、そうかもしれないけど」

「あと個人的な野暮用もあるの。悪いけれど二人で観光でもしていて頂戴」

「えっ、ちょっと!」

 

 文句を言う暇もなく、紫はスキマの中に消えてしまった。まったく自分勝手で適当すぎるわ。

 こうなったら車の運転ができない私達はどうすることもできない。私は折り畳みの傘を広げるメリーへ車体越しに声を掛ける。

 

「紫が観光してろってさ」

「えっ? 紫はどうしたの?」

「野暮用だって。完全に置いてけぼりよ、置いてけぼり!」

「……仕方ないわね。それじゃあ、アソコに行ってみる?」

 

 メリーはそう言って私の後ろの方を指差す。岸側から見て左側、コンクリートで完全舗装された港の終りはむき出しの岸壁だった。そこから先は小さな山になっていて、その頂点に真っ白な灯台が立っている。背は結構高い。今まであることすら知らなかったけれど、あの高さなら拠点の二階からでも見れるかもしれないわね。

 

「あんな絶壁絶対登れないわよ?」

「登らないわよ。流石に道があるんじゃないかしら? 探してみましょ」

 

 ……ま、街を見るよりいいかもしれないわね。私は素直にメリーの提案に乗って二人で灯台へ登る道を探し始めた。

 

 

 

 登り口は割と簡単に見つかった。港から少し出た所に看板とそれらしき入口があった。朽ち初めのコンクリートの階段は一人分の幅しかなく、その左右はうっそうとした森になっていて街の喧騒も遠くに聞こえていた。

 木陰のお陰で日差しの熱さはない。ただ身体を動かすだけでも汗だくになるほど、気温は高かった。

 こんな苦労をしてまで登った場所は、さぞ観光地として有名なのだろうと期待しながら登ったのだけれど……結局道中誰にも出くわすことなく登り切ってしまった。私は最後の階段を蹴り飛ばすと灯台に真っ直ぐ続く道に出る。

 

「あっつ……せめて頂上には自動販売機くらいあるわよね?」

「こんなところに、ある訳、ないじゃない……それより、ちょっと、休憩させて」

 

 私は最後の段差が登れず今にも倒れそうなメリーの手を取って引っ張る。すると危なっかしい足取りでメリーは階段を上り切った。

 大袈裟に息を切らしているメリーから視線を外し、遠巻きに灯台とその周りの眺める。

 見上げた時には分からなかったけれど、思った以上に横幅もある。塩の腐食を防ぐための塗装はまだ真新しい。定期的に塗り直しているのかもしれない。

 私はカッターシャツの胸元をパタパタして風邪を送りながら、一人呟いた。

 

「意外と綺麗ね。下から見てた時は随分古い灯台に見えたけれど……」

「まだ使われてるんでしょう。じゃないとここまで登って来れないわ」

「それもそうね……休むなら海の見える場所にしましょ?」

 

 私はメリーの手を引っ張って灯台の、その裏手に誘う。吹き抜けていく潮風に逆らいながら歩いていくと、目の前に海が広がっていた。

 地球の自転と公転、そして太陽と月と星の引力で生まれた波がゆらゆらと不規則に動き、ぶつかり、また波を生み出している。生物の始まりはこの揺らぎから始まったと思うと海も結構ロマンがある。月旅行もいいけれど、深海旅行も魅力的ね。

 しばらく海鳴りと海猫の声を聞きながらリラックスしていると、メリーがそっと私の隣に並んでくる。そして軽く肩をぶつけてながら……躊躇いがちに口を開いた。

 

「ねえ、蓮子」

「何?」

「紫の事、どう思う?」

「どうって……まあ、胡散臭いとは思う。あと意外と適当」

「そんなわかりきったことはどうでもいいのよ。私と紫って、その……」

 

 自分から聞いて来たくせにメリーは難しい顔して言い淀んでいた。他人がいる時はしっかり者ぶって気丈に振る舞っているけれど、二人っきりなった途端にこれだ。ま、メリーの言わんとしていることは分かるけれど。

 こいし……都市伝説メリーの一件のせいで有耶無耶になったけれど、メリーと紫の関係はまだまだ謎だらけだ。相似している二人の容姿、そしてスキマを操る能力と境目が見える能力……流石に何らかのつながりがあるとしか思えない。けれど……

 

「私に聞いてもどうしようもないわよ。それに関しては紫しか知り得ないもの。それとも、そこら辺のスキマの中に答えがあると思っているのかしら?」

「そんな都合のいいことあるとは思ってないわ。けれど……」

「……けれど?」

 

 言い淀んだ台詞の先を辛抱強く待っていると……メリーは落下防止の手摺に寄りかかり、まるで身を守る様にそっと頭を突っ伏せさせた。

 

「不安になるの。知ってしまったらもう戻れなくなるんじゃないかなって」

「それは……この世界にってこと? それとも……」

 

 私の隣に、ってこと?とは流石に投げ掛けられなかった。そこまで私は自意識過剰になれない。再び耳に波と風の音しか届かなくなる。

 しばらくしても、メリーからの答えは一向に返ってこなかった。けれどそれに苛立ちは感じなかった。いや、むしろ……今は聞きたくない。私の心の中にメリーと同じ恐怖が湧き出ていた。

 知って満ち足りたい。けれど知らない安心を手放したくない。きっと紫が見たら失笑するでしょうね。秘封倶楽部と言う秘密を暴く活動をしているくせに、最も近しい謎から目を逸らしているのだから。

 情けないのは分かっている。それでも今の私達に灯台もとにある闇を照らす勇気はなかった。

 

 

 

 

 

「そろそろ戻ろう、メリー。潮風に当たり過ぎて疲れちゃったわ」

「ええ……あれ?」

 

 手すりから顔を上げ振り向くとメリーが小さな声を上げる。視線の先を追うと、灯台の中に繋がる扉が開いていた。ずっとは背後にあったというのに全然気付かなかった。そもそもこんな錆かけた鋼鉄製の扉なんてなかった気がするのだけれど……

 

「ねぇメリー、この扉……」

「折角だから登ってみましょう。私灯台の中見たことないの」

「ちょ、ちょっと!?」

 

 扉に気付いていたか聞こうとしたのだけれど、メリーは何かに魅入られたように扉の奥まで駆けて行ってしまう。このまま放っておくわけにはいかない。私は急ぎ足でメリーの背中を追いかける。

 灯台の中は螺旋階段があるぐらいでがらんどうとしていた。日中に関わらず薄暗く、灯りは背後にある入口からしと螺旋階段の登り切った先にしかない。

 だが、そのわずかな光が灯台内部の壁をパウダースノーの様に輝かせている。どういう原理か分からないけれどまるでプラネタリウムのような光景だった。

 

「蓮子、置いて行くわよ」

 

 私が灯台内とは思えない景色に見入ってしまっている間に、メリーは階段の半分まで登り切ってしまっていた。ここまで来たときは随分息を切らしていたのに、どこからあんな体力が湧き出たのかしら?

 

「ちょっと待ちなさいよ……メリー!」

 

 私は声を上げながら錆止めの塗られた金属の階段を慎重に、かつ急ぎ登っていく。壁のわずかな明かりのせいで足を踏み外しそうになってしまう。

 それにしてもさっきからメリーの様子が変だ。唐突に活発になったというか……それによくよく考えればこれは不法侵入にあたるはずなのだけれど、そういうのに目ざとい筈のメリーからの指摘がない。

 嫌な予感がする。決して勘なんてものじゃない。都市伝説のメリーさんに追いかけられた時のような、数学的に計り知れない事象に体験したときの不可思議な感覚。

 

「……メリー!」

 

 徐々にのしかかってきた恐怖が、強迫観念が背中を蹴ってくる。私のただの思い過ごしなのかもしれない、なんて頭の隅ではわかっている。それでも走れ走れと急かす感情は抑えきれない。気付けば私は転けそうになりがらも必死に最上階目指して走っていた。

 

「ちょっとメリー! メリー……メリー!」

 

 喉が潰れるくらいの声で叫ぶけれどメリーから声は返ってこない。もう既に最上階のステップに立っていて、差し込む光の中に消えようとしていた。

 私は荒れる息を必死に抑え込みながら、内心で後悔していた。どうしてメリーがああなったかはわからない。けれど、もし……もし私がメリーの事を知っていたら、紫から話を聞き出していれば、こうはならなかったかもしれない。そう思うと悔しくて仕方がなくなった。

 

「待って、お願い……私を、置いてかないで……」

 

 叫びたくても息が乱れてまともに聞こえる声にならない。足に乳酸が溜まりきってもう動かせる気がしない。それでも私は手すりで身体を支えながら無理やりにでも登っていく。

 きっとまだ間に合う。あの光の中に入っても……私があの中から引きずり出してやる。そしたら一発引っ叩いて正気に戻してやるんだから……!私は後悔を飲み込み縋る様に信じながら……乱れた足取りで階段を踏みしめた。

 

 

 

 数分後、ガクガクの足でなんとか階段を登り切った。実は一段一段普通に登った方が速かったんじゃないかしら? 後悔先に立たず、体力も削られ足も太くなって最悪だ。

 私は息を整えてからメリーが入っていった階段の出口を見遣る。その奥にメリーの姿はなかった。灯台の外に出る場所だと勝手に想像していたのだけれど……そこは雑然とした部屋があるだけだった。

 

「なに……ここ……?」

 

 丸い部屋の中にはぐちゃぐちゃの本棚と羊皮紙の山、それに薄気味悪いオブジェクトや飾りが乱雑に置かれていた。見上げると天井には古めかしい天体図とそれを枠取りするかのように巨大な海蛇のミイラが飾られている。その厳つい顔と目が合うと、一瞬絡新婦に襲われたことを思い出してしまった。

 

「どうしてこんな部屋が灯台の中に……」

 

 私はつい独り言を洩らしてしまう。どうやら零れていた光は太陽のそれではなくランタンの明かりだったようで、随分アンティークなそれが部屋の奥に吊るされている。橙色に染まった部屋の中央にはボロボロのテーブルが置かれており、その上には羊皮紙の束に天体儀……そして高級そうな長方形の木箱が乗っていた。

 そしてテーブルを挟んで向こうに……『ブカブカのローブを被った何か』がいた。もちろんそれはメリーではない。人ですらないかもしれない。

 

「いらっしゃいませ、どうぞごゆるりと」

「………………」

 

 私は目の前に座っているローブの……意外と可愛らしい声とうやうやしい態度に戸惑ってしまうが……部屋を一通り見渡してから、そいつに向き直った。部屋の中にメリーの姿は見当たらなかった。どこかに通路があるわけじゃない。だとしたら……

 私は疲れきった足で『何か』の前に立って……テーブルを思いっきり叩いた。机に重ねておかれていた置かれた羊皮紙の束が崩れて足元に広がっていく。私は震えを抑えるために拳を握りしめながら、目の前の何かに向かって言う。

 

「メリーを返しなさい」

「……随分乱暴ですねお客さん。ここにはそういう方も少なからず来られますが……それが貴女の願いでしょうか?」

「願い? 何の事?」

 

 突拍子なセリフにさっきまでの勢いを削がれてしまう。と、フードの女はそっと椅子を勧めてくる。当然だけれど座る気はない……筈だったのだけれど、いつの間にか私は女性が言うがまま、席に着いてしまっていた。

 

「あれ、一体どうして……」

「ふふふ……」

 

 困惑する私を嘲笑っているのか、ローブの中身がクックッと上下する。直接ぶん殴ってやろうかと思ったけれど私はそれどころか文句の一つも言えなかった。

 こんなことしている場合じゃないのに……この目の前の『何か』がメリーを攫ったに違いないのに……身体はまったく抵抗できなかった。

 金縛りや催眠の類だろうか?受けたことないしわからないけれど……それも違う気がする。

 

「ここは叶わない願いを望むものが訪れる場所。暗黒の海を往く船人を導く希望の灯台……」

 

 まるで真綿に水が染み込むように、何かの声が脳髄に響き渡っていく。そうだ、どうしても気になってしまうのだ。視線が、思考が机の上に置かれた長方形の箱に引き寄せられて仕方がない。あの中に一体何があるのだろう?知りたい、知りたい知りたい知りたい……

 知らないのは怖い。いつかそのせいで取り返しがつかないことになりそうで震えてくる。知っていたい。紫の事も、北斗の事も……メリーの事も。

 

「ッ……!」

 

 次の瞬間、私は奪い取る様にして木箱を奪い取っていた。しかし『何か』はそれを止めようとも咎めようともしない。ただ先程の様に私を嗤っている。けれどその態度のせいで、もう自分の身体すら動かせないほどのなけなしの理性すら消えてしまった。

 

「貴女も光を失ったようですね。行先を亡くしそれでもなお彷徨う哀れな旅人に、私が導を与えましょう」

 

 長い口上を無視して木箱を開けると、さらに中身は不織布に包まれていた。じれったく思いながら掻きむしるようにそれを剥がすと……

 

「お代は……貴女の運命です」

 

 やけに指が長細く毛深い腕のミイラが、私の手の中に転がっていた。



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15.暗愚のカフェテラス

 朝一番の講義の終わりを告げるチャイムが、講堂内に鳴り響く。壇上に立つ教授の宣言も待たずに、生徒達は騒がしく移動の準備を始めた。

 耳障りな私語の内容は、大方これからどこに遊びに行くか、次ふけてしまおうか、単位ヤバイみたいな身のない話しかない。

 

「私には関係ない話だわ」

 

 少なくともこの大学には……私の隣には、こんな些細な独り言すら聞いてくれる相手がいないのだから。

 私は荷物を纏めると足早に講堂から出て行く。あぁ、まったく陰鬱な気分だ。次の刻限に講義は入っていないが、次の次には入っている。いわゆる空きコマだ。

 まったく生産的じゃない時間ね。本当は授業日程を組む際に、何かしら講義を取ろうかと思案していたのだけれど……そこの授業の大半は受けるだけ無駄な講義しかなかった。

 いや、講義自体は出てれば単位が取れる人気の講義が重なってはいるのだけれど……時間潰しのために足りている単位を取るほど、私は暇潰しに必死じゃなかった。

 手持無沙汰になった私は懐中時計を見る。飾り気のない金の針は11時手前を指してる。

 

「……ちょっと、待てばテラスカフェが開くわね」

 

 この空きコマ、もっぱら私は大学敷地内にあるカフェに行くか、図書館で課題を済ませる。今週は課題が出ていないのでカフェで時間潰しだ。

 幸い、鞄の中に昨日買った文庫本が入っているので、ただ黙々とコーヒーを飲むだけの時間にはならないだろう。無為な時間には違いないけれど。

 私の学生生活はこのままこんな感じで過ぎていき、気付けば終わっているのでしょうね。

 大学へ遊びに来たわけではない。けれど、それでも他の学生を見ていると、充実した時間の浪費をしているように見えてしまうのは……群集心理の一つなのかしら?

 サークル活動、アルバイト、恋愛……今のところ興味はないけれど、もしかしたらやってみたら案外楽しいのかもしれない。

 言い訳をすれば、やろうとすれば私もそうできた。他人には見えないものが見えるこの目を秘密にしていれば。

 

 

 

 テラスカフェは大学史記内の端っこ。池のほとりにある。その屋外テラス席の一番隅の席に陣取った私は、丸く白いテーブルの上にフォンダンショコラとコーヒーを置いた。

 私は一息ついてから……そっとコーヒーに口を付ける。コーヒーは安っぽいのに、御茶請けだけは随分力を入れている。お陰で学生の間でも人気の溜まり場になっていた。流石に今は開店直後なこともあって客は少ないけれど。

 大学は山の上にあるためテラスカフェの周囲は緑豊かだ。たまに野良の狸に遭遇することもあったりする。最近は餌をもらい過ぎて野性を忘れかけているようだけれど。

 そして池を挟んだ向こう側、そこには小さな木の祠と……そこから奥に境界が見えていた。

 

「まーた、出来てる……」

 

 あそこの祠の奥の境界は常にある訳じゃないようで、まるで蜃気楼のように現れたり現れなかったりする。一度同級生にそのことを話したら不思議ちゃん認定されて話しかけられなくなったのは苦い思い出だ。まあ、おかげで一人静かに過ごせるわけだけれど。

 昔は退屈を紛らわせるために境界の中に入ってみたこともあった。他愛のない興味、知識欲を満たすために。けれど、今は……

 私は薄いコーヒーを口にしてから、フォンダンショコラにフォークを突き刺す。傷口からチョコソースの血が流れていき、白い皿に少しずつ広がっていく。それをジッと眺めていると……なんだか色々と馬鹿らしくなってきた。

 

「馬鹿らしく、というか……虚しくなる、かな」

 

 独り言も絶好調で、胸の中の寂寥に拍車を掛けてくる。一人だから寂しいだとか、人と違う力があるから疎外感があるわけでもない。

 ただ……このまま無為な時間を過ごすだけが人生なのだろうか? そう思うとこの大学生活も……今の私の人生すら無意味に思えてならなかった。

 

「なんて、さすがに過ぎた虚無主義かしら?」

 

 こんな悩み、大したことはないのにね。大げさに考えてしまう自分の思考を笑ってやる。

 私は変化を望んでいない。例えば、この池の向かいにある境界の中を調べてみれば、それなりの時間潰しはできるだろう。もしかしたらこんな退屈な人生におさらば出来るかもしれない。

 けれど私は、それを望まない。このままでいい。変わることなんて……疲れるし、不確定なリスクが増えるだけだ。

 活字を読む気分にもなれず、手持無沙汰を埋めるためにフォンダンショコラの生地を崩していると……近くの席に誰かが座る音がする。態々私の近くに座らなくても空いてる席なんていくらでもあるのに、だ。

 どうせ宗教勧誘かナンパだろう。どうやって追い返そうか思案しながら顔を上げると……向かいの席に座る女性に、目と意識を完全に奪われた。

 

「こんにちわ。不躾で申し訳ないのだけれど相席、よろしいかしら?」

 

 笑みと共に投げ掛けられるが私は答えることができない。私の顔を覗き込むその瞳は紫水晶の様に深い色を湛えている。黄金の長い髪を赤いリボンで結んでおり、それだけ見れば少女っぽいのに、大人の余裕と色っぽさを身に纏っていた。

 仕草、背丈、声の高さ……私とは違うところは幾つでも見つかる。

 それでも私は……目の前に鏡があるかのような気味の悪い感覚を拭い去れずにいた。それはまるで……

 

「ドッペルゲンガーみたい、かしら?」

「えっ……」

 

 女性は私の返事も待たず向かいの席に座ると、頬杖を突きながら尋ねてくる。心を読まれた……なんてわけないわよね。

 きっと偶然の一致だ。彼女も私と同じ感想を抱いたから話しかけたに違いない。私はしばらくしてから……何とか喉元につかえていた声を形にする。

 

「……え、ええ、確かに私達、どこか似てると思うわ……思います」

「敬語は必要ないわよ。そうね、偶然の一致とは思えないほど似ているわ。特に……眼なんて、ね」

 

 女性は自分の目を指しながら微笑を浮かべるが、それには同意しかねた。他人の空似はあるかもしれない。

 けれど、私の眼はだけは変えが効かない。その独特な色の瞳は境界を映すことは出来ないでしょう? 私は貴方とは違うわ、と面とは言えない。だから私は適当なごまかし笑いでやり過ごした。

 正直言ってどこかいって欲しいのだけれど、女性は目の前の席に陣取って離れようとはしなかった。いつの間にか置かれていたカフェオレを僅かに啜ると、よく喋る口を動かし続ける。

 

「きっと先祖は一緒なのでしょう。もしかしたら生き別れた姉妹かもしれませんわ」

「クローン技術で作られた複製体って線もあるわね」

「違う世界線の私って可能性もあるんじゃないかしら? そうなったら貴女は私って可能性も捨てきれないわ」

「……やっぱりドッペルゲンガーじゃない」

 

 くだらない与太話に氏方がなくて付き合ってあげていると……ふと、目の前の女性が先とは打って変わって黙ってしまう。そしてやや躊躇いがちに……言葉を漏らす。

 

「貴女は……知りたいと思わないのですね、私の正体」

 

 丁寧だけれど、何処か棘のある口振りだった。まるで私を責めているような、あるいは蔑んでいるかのような視線が、私の瞳に突き刺さる。

 被害妄想なのかもしれない。けれど、なぜか私は、彼女の言葉に負い目を感じてしまっていた。

 負い目? 可笑しな話だ。彼女が何者であろうと、私には関係ないじゃないか。もし、何かしらの関係があったとしても……それを知ってどうなるというのかしら?

 

「知る必要ないじゃない。私が貴女のことを知らないままならば、私の中で貴女はただの馴れ馴れしいそっくりさんなだけじゃない。事実なんて意味を持たない。真実は、私の中にあるわ」

 

 真実なんて大層なものじゃない。人の捉え方で簡単に変わってしまう脆弱なものだ。

 私達の目で見たものは、思考、感情、無意識のフィルターで勝手に変化していく。だから見間違え、見落とし、すれ違う。そして、そのフィルターにすら通されることのない『未知』は……存在していないに等しい。

 

「私の真実は『私という主観で観測したもの』でしかないわ。世界の中に私がいるんじゃない。私の中に、世界があるのよ」

 

 そこまで言い切って、私はコーヒーを口に流し込んだ。初対面の相手に舌の根が乾くほど熱弁を振るってしまって少し恥ずかしい。

 けれど……どうしても言わないといけない気がした。そうしないと……私が、私じゃなくなってしまうような、形容し難い危機感が言葉を走らせていた。

 けれど……ずっと口を閉じて話を聞いていた女性が湖面に石を投げるように沈黙を破った。

 

「そうやって都合の良い悪いで選り分けた世界で、貴女は一生独りで生きていくつもり?」

「……どういう意味、かしら?」

「そのままの意味よ。貴方は真実を、受け入れようとしていないわ」

 

 わざわざ話しかけてきたのだから何かあるだろうとは思っていたけれど……先程からどうも私に食ってかかってくるのは癇に障る。貴女には関係ないことだ。そう言い返してやろうとした瞬間……

 

 

 

 女性の背後に巨大な境界が現れた。

 

 

 

 全身が総毛立つ。池の向こうにあったそれとは比較にならない、これほどの大きさの境界は見たことがなかった。もう少し開けば、このテラスごと呑み込めそうな大きさだった。そしてその中には無数の目が空間に張り付いており、無機質な視線をこちらに向けてきていた。

 弾ける音と共に、机の上に黒い液体が広がっていく……あまりの恐怖に手に握っていたコーヒーカップを取り落としてしまう。得体のしれない『未知』を目の前にして私は身動ぎ一つできなかった。

 

「なに……これ……」

「貴女は未知の世界を見ることが出来るというのに、そこから逃げるのね。望んでも、届かない子もいるというのに……」

 

 女性は、紫の瞳を爛々と輝かせながら立ち上がり、ゆっくりと私に近付いてくる。しかも彼女に追随するように、境界も移動してきていた。

 椅子から身体が崩れ落ちる。足腰が立たなかった。それでも私は身体を引きずるようにしてそれから逃げようとした。

 怖かった。彼女が何者で、これから何をしようとしているのか……

 耳を塞ぎ、目を閉じる。嫌だ、知りたくない、知りたくない!境界の向こうなんてもう見たくない、これから先の未来なんていらない、私の正体は私が決める。私は……

 

「知りたくない! ずっと、このまま、ここで……!」

「そう……やはりそれが貴女の叶えた願いなのね……」

 

 耳を塞いでも、なぜかその私そっくりの何かの声だけははっきりと鮮明に聞こえてくる。嫌なのに、望んだのに、全部投げ捨てて、何も知らないように……『腕』に願ったのに!

 

 

 

 ……『腕』?

 

 

 

 唐突に頭の中に浮かんだワード。そこから薄暗い灯台を登っていく光景が、脳裏にフラッシュバックする。

 その先には奇怪な骨董品だらけの部屋。目の前には黒いローブを着た右腕のない女性。そして彼女の目の前には、干からびた動物の腕……そして、私の名前を呼ぶ、蓮子の声。

 

「わ、たしは……」

 

 ずっと恐怖を抑え込んでいた。いつか私が、私の秘密を知ったとき、蓮子が隣にいてくれるのか、急に怖くなったのだ。

 だから、私は祈った。何も見ないように、何も変わらないように腕に、願った。そうだ、今いるこの場所は……夢だ。私が望んだ、世界。

 

「憐れね。そうやって何もかもを拒絶するつもり? 胎児でも外に這い出そうとするのに……貴女はそれで本当に生きているつもりなのかしら?」

 

 うずくまる頭の上から女性……八雲紫が嘲りの言葉が落とされる。妖怪の彼女からしたら、私は人間にも満たない存在に見えるかもしれない。それでも……私は、この場所を、夢を、否定したくなかった。

 なんで逃げちゃいけないの?途中で諦めても仕方がないじゃない。自分に嘘吐くなって勝手に決めつけないでよ。自分のことぐらい……自分で守らせてよ。

 

「出てって……」

「メリー! 貴女は蓮子の付属品じゃない! 貴女は私とは」

「出てってよ!」

 

 私が叫んだ瞬間、言い掛けていた声がピタリと止む。物音すらない。まるで雪の日のような無音が、そこにあるだけだ。

 紫は居なくなっただろうか?何も言わず目の前にいるだろうか?目を開けてそれを確かめる気はさらさらない。どうでもよかった。

 私はただ、顔を自分の膝に埋めて時間が流れていくのをひたすら待った。

 

 

 

 蓮子に手を取られたあの日から、私は世界が隠す秘密と向き合ってきた。けれど、それは蓮子がいてくれたおかげだ。ずっと心の中で抱いていた恐怖を押えこめることができていた。私の秘封倶楽部は蓮子ありきのものだった。

 

 

 

 そう……だから、ここには蓮子がいないんだ。

 

「蓮子……私はもう、いいよ……」

 

 蓮子の隣にいない私にとっては、目を開ける事すら怖くて仕方がなかった。



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16.愚者のサナトリウム

 好奇心は猫を殺す、ということわざの本当の意味を教えてくれたのはメリーだった。

 イギリスの言い伝えによると猫は九回生き返ることができるそうで、その猫をも殺してしまう好奇心に用心しないといけない、らしい。

 正直に言えば、私はこのことわざが嫌いだった。まるで知ることから逃げているようで腹立たしかった。

 逃げたくない。知って大したものじゃないと鼻で笑いながら安心していたい。『未知』の不意打ちで訳もわからず死ぬくらいなら、全てを受け入れて絶望したかった。

 だから私は誰よりも……きっとメリーよりも、メリーの瞳の真実を知りたかった。彼女の正体が何であろうと、それを知って後悔はしない。

 知らないうちにメリーがいなくなるくらいなら……メリーに殺された方が数千倍マシだと、思えたから。

 

 

 

 

 

 弾かれたようにベットから起き上がると、そこはだだっ広い病室だった。

 寝起きの頭で辺りをぼんやりと辺りを見回すとら真っ先に目を引いたのは緑で覆われた山岳部の景色だった。しかし、その部屋を彩る色は窓の外にしかない。

 ホコリひとつない床、シミひとつない天井、汚れのないシーツにベッド……室内は白一色。完全に清潔な空間に、私は一人だった。

 

「何よ……ここ」

 

 自分が置かれた状況が理解できなかった。ふと身体を見下ろすといつもの服じゃなくて、病人がよく着ている白い服……病衣っていうのかしら?を着ていた。お気に入りの中折れ帽も近くにはない。

 ただ身体には点滴の管や、何かしらの測定装置が取り付けられていた。まるで私が機械に生かされているようで不快だ。

 

「こんなもの……!」

 

 八つ当たり気味に片っ端から管や電極を剥ぎ取ると、ベッドの後ろからアラームが鳴り始める。が、知ったこっちゃない。

 これは私の身体だ、私が一番よくわかる。怪我も病気もしてはいない。すこぶる快調だ。なんで海辺の灯台にいた私がこんなところにいるかは全然見当がつかないけれど……そんなことは後から勝手にわかることだ。

 早くこんな部屋から出たい。そんな焦り混じりの衝動に駆られるがまま、ベッドから立ち上がる。床に降りると、ひんやりとした感触が素足から這い上がってくるが構わない。

 脇目も振らずに扉へと向かい、ドアノブを回す。しかし、押しても引いても扉は開かなかった。

 

「鍵……!? そんな!?」

 

 建て付けが悪いわけでも錆びついて動かないわけでもなさそうだ。扉の内側に鍵穴も錠前も見当たらない。

 まさか閉じ込められている……!? 不気味な想像に駆られた何度も扉を叩くが、大した音にもならないし反応もない。

 破るつもりで体当たりをしてみるが、鉄製の扉にぶつかっても痛いだけだった。私は扉に肩を預けたままズルズルと座り込んでしまう。

 

「なんで……私……こんなところに……」

 

 私は思わず独りごちる。薄々気付いていた。私はこの場所を知っている。いや、実際に見たわけじゃない。メリーから又聞きした話で想像していた病室に、私はいた。

 おそらく……ううん、間違いない。この山奥の療養所は……

 

 

 

 サナトリウム……以前メリーが原因不明の病に掛かったとされ、療養していた場所だった。

 

 

 

 

 

 無機質な部屋に機械音がうるさく響いている。そのせいで、誰か来る気配はまったく感じ取れなかった。

 けれど、これだけの騒音が鳴っているのに誰かが様子を見に来ることもないあたり、まともな医療機関ではないのは確かね。

 ……そういえばここを退院したメリーが、療養中誰にも合わせてくれなかったとぼやいていたっけ。

 私もメリーと同じように何かしらの病気と認定されたのだろうか? ありえない話じゃない。私が体験したことを医者に話せば、精神異常だと決めつけてくるに違いないもの。

 

「異常なのは……どっちよ」

 

 私はベッドに戻る気にもなれず、扉に背中を預ける。

 窓の外をぼんやりと眺めていると、山林に夕日が落ち始めてきてきた。もうすぐ夜が来る。けれど部屋に明かりが灯る様子はなかった。あたりにスイッチらしきものもない、せいぜいベッド前の機械のライトぐらいしか明かりになるものはなさそうね。

 けれど、月さえ見えれば場所を知ることができる。ここが本当に、メリーが療養していた信州のサナトリウムなのか、はっきりするだろう。

 

「はっきりして……どうにかなるのかしら?」

 

 抜け出す? どうやって? 窓を破って飛び降りてみる? ここから見える景色から鑑みてかなりの高さだろう。私は妖怪でも北斗でもない。ただの人間は重力に引かれて潰れたトマトになるだけだ。

 私は体操座りになって自分の引いたのは膝小僧に頭を埋める。

 

「また私は……自分の不甲斐なさを自覚させられるのね……」

 

 こいしの時と変わってない。また私は北斗達に助けられる側だ。こうやってまた二人の足を引っ張るだけしかできない。この状況ではいくら思考し続けても、結論は変わらなくて……悔しかった。

 

「嫌になるわね」

 

 ……いや、情報が少な過ぎるから、その選択肢しか見えてこないだけかもしれない。暗くなる前にもっと部屋を調べておこう。何か見つかるかもしれないし、なくても夜までの時間潰しにはなるわ。

 無理やり前向きに矯正した感情を引っさげ立ち上がると、計ったようにずっと鳴っていたアラームが止まる。耳障りだった異音が消え、病室らしい静けさが戻ってくるが……かえってそれが不気味だった。

 

「な、何なのよ……!?」

 

 自分の放った言葉が、部屋の中を乱反射していく。気持ち悪い。よく考えたら大したことじゃないはずなのに、私は探索も忘れて身構えてしまう。そのせいで物音に対して過敏になり過ぎていた。

 

「ッ!?」

 

 突然背後で微かな振動と共に鍵が開くような音がする。私は驚きのあまり扉から逃げるように尻餅をついてしまう。誰か来たの?ここの職員だろうか?アラームも止まったっているし可能性はありそうだけど……

 しばらく無様な格好で扉を開くのを待つが……扉は一向に開くことはない。西日の作る影法師が徐々に長くなっていく。が、いくら待っても誰かが入ってくることはなかった。

 

「まさか私の勘違いでしたみたいなことはないわよね……?」

 

 痺れを切らした私は戦々恐々としつつも、立ち上がって扉に近付いていく。そして、ゆっくりと扉を引いてみると……意外とすんなり開いてしまった。内心拍子抜けしつつ、私は出来るだけ音がしないよう静かに開け、首だけ外に出す。

 むせ返るような草の匂いが鼻を突く。眼前には鬱蒼とした木々と、蔦と根に侵食されつある吹き抜けの廊下が広がっていた。

 どうやら施設の中央に中庭があるようね。背の高い木々が青々とした葉を夕焼けに染まる空に向かって伸ばしていた。さっきまでの部屋とは大違いの、有機物だらけの空間だわ。

 

「療養施設なのにこんなしめった菌だらけの場所でいいのかしら?」

 

 まるで異次元に飛ばされたかのような感覚に戸惑いながらも、部屋から出る。そして鍵を開けただろう相手を探して辺りを見回す。

 すると……廊下の向こう、昇降口の前で一人の少女がこちらを見つめているのを見つける。ナイトキャップのような帽子に、紫のワンピース、羨ましいほどに長く美しい金髪。見間違えるわけもなかった。

 

「メリー!」

 

 私は裸足のまま駆け出してしまう。床を這う根に足を取られそうになるが速度は落とさない。

 身体が勝手に動いていた。彼女の温もりが恋しくて仕方なかった。けれどメリーは……何故か私から背を向けて昇降口へと消えてしまう。

 

「待って! なんで……どうして置いて行くの!?」

 

 冗談ならまったく笑えない。ずっと一人でいた反動でのせいか、私は随分打たれ弱くなっていた。孤独に耐えきれない。話をしたくて、その手に、肌に触れたくて……もう足は止まらなかった。

 昇降口前まで辿り着くと、下の踊り場でメリーが待っていた。が、私の姿を見るや否や下の階へと降りていってしまう。

 

「メリー、なんで私から逃げるの……」

 

 追いかける足が止まってしまう。その後ろ姿の残滓が、一つの景色をフラッシュバックさせた。あの時、灯台を登るメリーも私を待ってはくれなかった。ずっと私から目を逸すように先を歩き続けて、結局私は……追いつけなかった。

 また知らない内にメリーは何処かに行ってしまうの? 嫌だ。私だけ置いてけぼりにされたくない。向こう側に……触れることすらできない境目の行ってしまったら、二度と私はメリーに会えなくなってしまう。そんなの、絶対に嫌だ!

 

「私は……」

『知りたいの?』

 

 メリーに手を伸ばそうとしたその時、耳元から男とも女とも取れない無機質な声がした。瞬間、背筋に虫唾が走る。遠くでカツーン、カツーンといつか聞いた硬い打撃音が響いた。

 突然腕を、足を、首を……全身を小さな腕に掴まれ、動けなくなってしまう。石のように硬く生気のない土気色の腕なのに、まるで身体の皮を剥ごうとしているのかというくらいに力が入っている。

 そのため幸か不幸か、この腕の持ち主を確認することは出来なかった。私は目を瞑って必死にもがこうとするが、その度に身体中の骨と肉が軋むだけ。些細な抵抗にすらなっていなかった。

 

「……ッ!ッ!」

 

 さらには口元を押さえられて、まともな悲鳴も上げられなかった。まるで万力に頭を挟まれたかのように首が固定され、力づくで目を開かされる。いつの間にか病室に戻されていた。

 私は強制的に窓の外に目を向かされる。日はすっかり落ちてしまい、外に闇が広がっていた。明かり一つない冷たい部屋。なのに……何故か私の目にははっきりと見えていた。

 

 

 

 窓の向こう……闇の中に浮かぶメリーと紫の姿が。

 

 

 

 外に足場らしきものはない。二人とも宙に浮かんでいる。服装は合わせたように一緒で、ナイトキャップのような帽子に紫色のワンピースドレスを着ている。見た目と相まって、どちらがどっちかは身長と顔付きでしか判別できなかった。

 

「ずっと探していたわ……マエリベリー・ハーン。私と同じ力を持つ貴女を」

 

 紫は私には目もくれず、メリーの手を取って蠱惑的な笑みで呟く。男性なら一目で惚れてしまいそうなほど美しい笑顔だけれど……私がそれを見た瞬間、つま先からえもいわれぬ恐怖が這い上がって来る。

 形容するなら……甘い猛毒かしら。メリーと似た容姿のせいか、彼女の立ち振る舞いのせいか、私は紫を妖怪だと思い知らされることが少なかった。北斗と同じ、少し変な力が使える人間っぽい妖怪、程度にしか思っていなかったのかもしれない。

 けど、今は……神社で遭遇した大蜘蛛よりも、無邪気に私を殺そうとこいしよりも、今私の身体を縛り付けている正体不明の腕よりも八雲紫のことが恐ろしくて、震えていた。

 

「貴女がいる場所はここじゃない。私が誘いましょう。貴女がいるべき場所に……」

「はい……」

 

 駄目よ!と叫ぼうとするけれど、口が塞がった上に身体を襲う震えでまともな声が挙げられない。

 命を奪われるかもしれない危機感は数週間で過剰な程に味わってきた。けれど今感じていたのは……裏切られたことへの憎しみと悲しみ、目の前で大切な人がいなくなろうとすることへの、恐怖だった。

 まるで腹の底に穴が空いたかのような喪失感が体内に広がっていくのと並行して、紫に……メリーに裏切られた憎悪もブクブクと泡のように膨らんでいく。

 それら全てが胃酸になって吐き出してしまいそうになる。とてつもない、嫌悪を覚えていた。紫に、北斗に、この状況を作り出した誰かに、何もできない私に、そして……何も言わず私から離れていく、メリーに。

 

 

 

 気付けば二人は窓越しに私を見ていた。二人で手を繋いで嘲笑しながら、私を見下ろしていた。助けることもしない。そう気付くと、もう拒絶反応が止まらない。鳥肌が立って仕方がなかった。

 ただ私は涙を流しながら憎悪を込めた視線を返す。許さない、許さない許さない許さない許さない許さない許さない……

 

 

 けれどやがて……どうでもよくなった私は強張らせていた身体を弛緩させる。途端に私を拘束していた手がジワジワと力を込め始めた。まるで弱った獲物を捕食しようとしているみたいね。このまま四肢を捻り切られるのかしら?

 抵抗する気は既に失せていた。どうせ私じゃこの腕を振りほどく事は出来ない。もしできたとして……何もしたくない。私は……もう真実を受け入れたから……

 

 

 

『……それでいいのか、蓮子?』

 

 滲む視界の中、どこからか男の声が聞こえてくる。ノイズ混じりの小さな問いはどこか私を心配してくれているような優しさが籠っていたけれど……答えるつもりはなかった。

 何を言わせたいのか知らないけれど良いも悪いも何もない。真実はただの観測された事象だ。それを否定するなんて道理が通らない。結果はもう出ている。もういいよ私は……

 

『真実かどうかを決められるのは自分だけよ。世界でも、ましてや他人でもない。例え誰かが理路整然と裏付けしようとも、自分が受け入れられないならそれは虚偽でしかない』

 

 次は女性の声が耳に届く。誰だかわからないけれど……今の詭弁は、流石に業腹ものだわ。今まで人間が築き続けていた物理学……いえ、科学、世界の真理を『信じない』という一言で否定できるわけがない。

 すべての人間が観測出来るからこそ、それは真実のはずよ。たった一人が違うって言っても……真実は、変わらないわ。

 

 

 

『……じゃあ、メリーはどうなるんだ?』

 

 

 

 再度耳朶を揺らした男の声の問いに、しばらく思考が止まってしまう。けれど、それも一瞬。すぐに頭に血が上っていく。

 ……よりにもよって、今メリーの名前を出すの? 私より紫を選んだメリーを、私にずっと嘘をつき続けていたメリーを、私を裏切ったメリーを!!

 

『裏切った? 彼女は貴女に約束したの? 一緒にいるって。貴女に嘘をつかないって』

 

 それは……してない、けど……それでも私は、メリーに理解して欲しかった。独りよがりだった。望んでいなかった。そんなこと。わかってる。この感情は私の身勝手だ。

 それでも私は……ただ信じたかっただけなの。私がメリーだけしか見えない世界を体験して、何も間違っていないって証明したかっただけなの。それだけなのに、なんで私が、こんな、思いをしないと……

 

『じゃあ、どうして信じられたい相手を信じられないの? 一方的に信頼を強要する関係なんて……ただの洗脳じゃない』

 

 違う! 私だってメリーのことを信じたい! 恨みたくなんてないもの! ずっと祈ってるわ! 嘘だって、夢だって、偽物だって! 私達はずっと隣に居られるって……

 けど、今目の前のメリーがそれを拒んだじゃない。これを否定できると偉そうに講釈たれるなら……

 

「私に思わせてよ! メリーを……信じさせてよ!」

 

 私は首を振り僅かに出来た手の隙間から叫ぶ。半ば八つ当たりの心からの願いを。叶えられるものなら叶えてみせろ、と。すると、頭の中ではっきりとした声が響く。

 

「あぁ、わかった。蓮子が望むなら」

「私達が払いましょう。この悪夢を」

 

 突然氷が割れるような音が鳴る。ガラスの向こう側で薄ら笑いを浮かべていたメリーと紫の背後の空間に亀裂が走っていた。

 それに気付いた二人が同時に振り向いたその時……紫の身体から日傘の先が飛び出ていた。まるで水道管の破裂のように鮮血が吹き出て、窓ガラスを赤に染める。

 悲鳴をあげる暇もない。それと同時、私の身体を掴んでいた腕の拘束が緩む。しかしまともに立っていられない。よろめく視界、床に倒れこもうとした私を、誰か……二人が支えてくれる。

 

「遅くなってごめん」

「起こしに来ましたわよ……この悪趣味な悪夢から、ね」

 

 私の肩を支えていたのは黒の変な服を着た北斗と、薄紫色のサマードレスを着た、二人目の紫だった。



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17.悪夢の終わり

 あらん限りの清潔を保っていた病室に、むせ返るような生臭い鉄の匂いが充満していく。窓枠から染み込んできた血のせいだ。

 何が何だかわからない。窓の外に浮かんでいた紫の腹部に傘が突き立てられたと思ったら、身体の自由が戻っていて……そして今、私の身体は北斗と二人目の紫に支えられていた。

 二人は私を立ち上がらせると、窓の外に向き直る。窓の外は血飛沫のせいでほとんど見えないが、僅かに影が揺らめいているのは辛うじて確認出来た。あれはメリーか紫かそれとも……

 

「来るぞ! 下がれ蓮子!」

「えっ?」

 

 北斗が叫んだが早いか、突然窓ガラスが割れ、闇夜から小さな何かが飛び込んでくる。比喩するなら……小鬼、いや猿、だろうか? 子供のような小柄な生物がそこにいた。

 その体格に不釣り合いなほど腕が長い。肘が床に付くほどだ。その長細い両腕には錆びだらけのノコギリが握られており、自身の肩をガリガリと削りながら不愉快な音を鳴らしていた。

 そして、暗闇の中で淡く光っている石のように無機質な眼球と目が合ったその時、小鬼は私に向かって飛びかかってくる。

 

「邪魔、だッ!」

 

 けれどノコギリが私の首元に届く前に、北斗のハイキックが小鬼を撃ち落とす。蹴り飛ばされた小鬼は体をくの字に曲げながら吹き飛び、窓の下の壁へと叩きつけられる。

 凄まじい衝撃だったけれど、痛がる素振りもなく小鬼はすぐさま起き上がろうとする……だが、北斗はその間に間合いを詰めていた。

 靴底で小鬼の頭を壁に押さえつけ、そのまま体重を掛け頭蓋を踏み抜く。咄嗟に目を逸らしてその瞬間は見ずに済んだけれど、生々しい嫌な音だけは耳に残ってしまった。

 

「ッ……!」

「北斗、女の子が二人いるんだからもう少しやり方を考えなさい」

「手段を選んでる余裕なんてないですって。あと自分と同じ姿のやつの腹に傘ぶち込んでおいて何言ってるんですか。あれだって下手なスプラッタ映画よりグロいですよ」

 

 ……私に言わせてもらったらどっちも十分グロかったけれどね。私スプラッタ系の映画、本当に駄目なのよ。

 けれど、今の呑気なやり取りで二人が本当の北斗と紫ってことはわかった。そして、あの腹を刺された紫がおそらく偽物だってことも。じゃあ、あのメリーも偽物ってこと……?

 

「……そうだメリー! 紫! メリーはどうなったの!? 私、メリーを追った先で灯台で変な奴に出会って、そこから記憶がなくて……メリーは無事なの!?」

「今のところは大丈夫よ。ちゃんと身体は確保してあるわ」

「そ、う……」

 

 紫の言葉に私はつい身体の力が抜けてしまう。自然と目尻から涙が流れていく。よかった、本当によかった。メリーが無事でよかったのも私の考えていたことが、全部間違っていて……

 また崩れそうになった身体を、紫が支えてくれる。けれど私は紫の顔も北斗の顔もまともに見れなかった。

 さっき私に話しかけてくれていたあの声……きっとこの二人のものだろう。随分捻くれたことを言って蔑ろにしてしまった。私の思考まで筒抜けになっていたのかどうかはわからないけれど……今すぐ謝りたかった。

 そう考えていると、紫が私の肩を叩きながら顔を覗き込んでくる。

 

「安心している場合じゃないわよ。さ、またアレが出て来る前に行きましょう」

「アレって、あの小さなバケモノのこと? 偽物のメリーと紫といい……一体何の妖怪?」

「さあ、狸か狐か……はたまた鬼か、どれかしら?」

 

 真面目に聞いたつもりなのだけれど、紫は適当にはぐらかしながらさっさと部屋から出て行ってしまった。

 鬼って……確かにさっきのは小鬼っぽかったけれど、私まさか鬼に取り憑かれたの? そんな罰当たりなことした覚えもないし、嫉妬に狂ったこともないわよ?

 不安になった私は北斗に目線を送ってみると、困ったような笑みを返された。

 

「悪いけど、俺達も正体がわからない。だからここを調べてみたいんだ。何かヒントがあるかもしれないし……」

「そういえば、聞き忘れてたわ。ここってどこなの? 一見サナトリウムみたいだけど……」

 

 まあ、月を見ればすぐわかるのだけれど……さっきまでそんな余裕なかったし、今見ようとすると否応なく潰れたトマトが目に入ってしまう。

 残されたのは二人に尋ねる以外無かった。首を傾げながら問いかけると、北斗はキョトンと首を傾げた。

 

「……気付いていなかったのか? ここは蓮子の夢の中だぞ?」

「はっ!? 夢!? 私の!? 嘘でしょ!?」

 

 私は耳を疑ってしまう。そういえば何時ぞやメリーが境界の向こうから洋菓子と食べれない筍を持って帰ったことがあった。

 あの時メリーは頑なに夢だと言っていたけれど……その時みたく北斗と紫が勘違いしてるんじゃないの?なんて疑ってしまうが、今目の前で助けてくれたこの二人に限ってそれはないだろう。

 まあ、夢に関するオカルト話は結構あるし、私の夢ってのは本当でしょうね。むしろあんなの、悪い夢であってほしいし。

 ……あれ? もしそうなら今目の前の紫と北斗も夢の産物ってことになるんじゃないかしら?と、嫌な想像が頭を過る。が、そんな私の焦りをよそに北斗は呑気に親指を立てながら解説をし始めた。

 

「いや、本当だよ。今現実世界の蓮子は部屋のベッドに寝かされてる。俺と紫さんは蓮子の夢の中の世界にお邪魔させてもらってるわけだ」

「そんなこと、どうやって……」

「紫さんの能力でね。境界を操る力は空間どころか、概念の境界も越えることができる。つまり夢と現の境目を超えて蓮子の夢の世界に介入しているってわけだ」

「は、はぁ……」

 

 相変わらず科学的根拠のない説明ねぇ……まあ、納得できなくもないけど。要は『夢の中も世界の一つ』という考えでいいのかしら?

 確かに夢を見るメカニズムは解明出来ていないし、幻想郷の仕組みを知っていたらあり得ない話ではないと思うけど……

 人の脳内にも世界があるなんて、パラレルワールドどころの話じゃない。もしそうなら現実世界なんて存在しなくて、誰も彼も誰かの夢になっちゃうじゃない。本当北斗達といると物理学的な思考が致命的に瓦解していくわ。休み明けのゼミ、付いていけるかなぁ……?

 まあ、こんな非科学的な説明を真面目してくれたあたり本物の北斗でしょうね。私の脳内の存在ならもう少し私らしく科学的な言い訳するだろうし。とにかく今はそれだけははっきりしたから良しとしよう。代わり7に、私はまた新しく浮かんできた不安に肩を落とした。

 

「それしても私、こんな変な夢を見るなんて……私、精神的にキテるのかしら? サナトリウムに入院に閉じ込められメリーと紫に裏切られた挙句、あんな変な化け物まで出てくる夢を見て……」

 

 夢はその人の記憶から作られるというけれど……私、あんな猿っぽい化け物見たことないわよ。こんな私の夢をメリーが見たらなんて言うかしら? きっとカウンセリングが必要ね、なんて言われそうだ。内心で愚痴っていると、北斗が病室の出口を開けながら呟く。

 

「それなんだが……俺もずっと疑問に思っていたんだ。この夢が本当に、蓮子自身の夢かどうかってね」

「私の……夢? 私が見てるんでしょ? だったら私の夢に決まってるじゃない」

「……そうとは限らないんだよ」

 

 そう言って北斗は扉の外を指差す。そこは木々の生い茂る中庭はなく、太いパイプと歯車だらけの硫黄と油の臭いが漂う空間が広がっていた。

 ゴウン、と遠雷の様な重厚な機械音が聞こえてくる。そして目の前を横切るように単線の線路が砕石の上に敷かれており……

 いつの間にか私と北斗は病室ではなく、ベンチと看板くらいしかない簡素な無人駅に立っていた。

 

「こんな光景、見たことがある?」

「ある訳ないじゃない。どこよ、ここ……」

 

 私は呆然と呟く。いくら私が都会派だと言ってもこんな前衛的な工場の景色、見たことないわ。まあ、秘封倶楽部の活動で無人駅に降りる機会は少なくないけれどね。

 何気なく自分の身体を見下ろすと、ご丁寧に服装まで変わっている。いつもよく着るカッターシャツにプリーツスカート……ご丁寧な帽子とネクタイまで付けてるじゃない。何でもありね、夢。

 思わずため息を吐いてしまうが、その音も機械の稼働音でかき消されてしまう。と、私達の横から配管を潜りながら紫が歩いて寄ってくる。

 ずっと外にいたみたいだけど……さっきの空間の移り変わりは、彼女の目にどう映ったのかしら? あとで聞いてみよう。

 紫は私と北斗を交互に見遣ってから、両腕を組んだ。

 

「揃ったわね。それじゃあ、そろそろ終わらせましょうか、この悪夢を」

「終わらせるって……私を起こせばいいんじゃないの?」

「それで終わるんなら簡単なのだけれどねぇ……そういうわけにはいかないのよ。私達からしても、相手からしても」

 

 相手から……? なんだが意味深な言い回しだ。私が眉をひそめていると……突然一際眩しい光が近付いてくる。気付くと私達の前を電車が横切っていく。あまりに唐突だったので、私はついたたらを踏んでしまう。

 走ってたのは時間にして数秒だ。電車が通り抜けると、その線路上に黒い塊が置かれていた。いや……違う、私はこれを、こいつを知っている。

 

「あんたは……!」

 

 灯台の上、カンテラが照らす雑然とした部屋、その奥で、私はこの黒ローブに出会ったのだ。そして『何か』を見せられて……気付いたらこうなっていた。まだ引っ掛かりはあるが……だんだん思い出してきたわ。

 そこで私は、さっきの北斗の言葉が頭を過る。これは私の夢じゃない方もしれないと言っていた。だとしたら誰の夢? 簡単だ、私にこんなものを見せたのは……推理するまでもない。

 

「北斗、きっとこいつが!」

「この夢を見せてるのか!?」

 

 北斗達が身構えるのが早いか、黒ローブの周囲の闇から先程の小鬼達が現れる。二、三体どころの数じゃない。十数体の小鬼達が私達を値踏みするように見上げていた。手には手には武器……と呼ぶには非効率な、ペンチや釘抜きなどを持っていた。

 そう、武器というより拷問器具だ。気付いてしまった瞬間、腹の底から虫酸とともに恐怖が湧き上がってくる。

 

「本当に……悪趣味ね」

 

 紫も頬に手を置きながら、嫌そうに呟く。その言葉を合図にしたように小鬼達が一斉に襲いかかってくる。凄まじい跳躍力で私達の頭の上から各々の器具を振り上げ……そこまでは確認出来た。

 

「邪魔だ! 雑魚は……」

「お呼びじゃないのよ」

 

 が、瞬きした次の瞬間にはその小鬼達の四肢や首が切り取られてなくなっていた。グロテスクな光景だけれど、先程よりも嫌悪感はない。

 そんな奴らよりも、血の線を描きながら片手で刀を振るう北斗と、自らの髪を払いながら無数の境界を操る紫の方がよっぽど鮮烈な印象を与えていた。美しくも恐ろしい、二人の姿。

 前後の光景で察することしかできないけれど……きっと北斗達がこいつらの腕を切り落としたのだろう。私は武術に疎いから明確にはわからないのだけれど……今見せられた光景は明らかに人知を超えたそれだった。

 斬り裂かれた小鬼達は、まるで流水に落とされた墨汁のように霞んで消えてしまう。残ったのは切り落とされた無数の腕だけ。地面に幾つもの腕が落ちてる様は正視に堪えないものなのに、二人はそれを気に留めた様子もない。

 

「何匹生み出しても無駄だぞ……紫さんにはな」

「あら、北斗ならこれくらい一人でいけるでしょう? 今度やってみる?」

「まだ死にたくないんで遠慮しときます」

 

 こんな状況なのに二人は軽口を叩く余裕すらあった。本当、二人が味方でよかったと心底思わせられる。もし敵だったらなんて……あまり考えたくないわね。

 紫は私の前に壁になるように立つと、扇子の先を黒ローブに突きつけた。

 

「さて、貴方には聞きたいことがたくさんあるわ。この夢のこととか、蓮子とメリーに何をしたかとか……貴方の正体とかね」

「………………」

 

 紫が問うけれど、レールの上の黒ローブに動きはない。ただ騒音に紛れてブツブツと何かを言っているだけだ。はっきり言えば気味が悪くて仕方がなかったけれど……私達は辛抱強く向こうの動きを待つ。

 ややあってから不意に砂利が擦れる音が鳴る。黒ローブが裾を引きずりながらゆっくりとこちらに近付いて来ていた。

 と、おもむろにダボダボのローブが膨らんでいき、巨大な右腕が露わになる。北斗の方からから息を呑む音が聞こえくる。

 いや、位置的に右肩から生えていたから右腕と言ってしまったが……

 

 

 

 正確に言えばそれは無数の腕の束だった。

 

 

 

 私は思わず口元を押さえ、嗚咽を堪えた。血色の悪い複数の腕がまるで蛇の交尾のように絡まり合っている。そして虚空を掴もうと開く手はまるで花束のようにも見えた。そこまで観察したところで私は足元で何かが蠢いていることに気付く。

 

「う、腕が、動いて……!」

 

 私達の周りに転がっていた腕が、芋虫のように這って黒ローブに集まろうとしていた。切り口から血を流しながらも、意志を持ってるかのように、ゆっくりと、着実に……黒ローブへと近付いている。

 異質な光景に恐怖が湧き上がってくる。けれど、頭は疑問に溢れていた。何であんな数の腕が付いているの? しかも切り取られた腕も動いてるし……いや、そもそも何で腕だけ残って……腕?

 唐突に頭の中で一つの映像がフラッシュバックする。テーブルの上、桐の箱の中に入れられた……小さな動物の、ミイラの腕。そうだ私、灯台の上であいつに、腕のミイラを見せられたんだ!

 ようやく全てを思い出したその時、世界全てにヒビが入った。線路に、歯車に、闇に、月に、亀裂が走りボロボロと崩れ始める。前触れも何もなかった。強いていうなら私が腕のミイラのことを思い出したくらいだけれど、これってもしかして……

 北斗も気付いたようで辺りを見渡す。

 

「そんな……夢が終わり始めてる!? 誰かが蓮子を起こしたのか!? 紫さん、蓮子を!」

「わかってるわ! 早くスキマの中に!」

 

 流石の紫も焦り気味にそう言うと私達の背後にスキマを作り出す。対して北斗は黒ローブに向かって疾走していく。

 黒ローブは世界の残骸にぶつかりながらも、こちらに近付いてきていた。北斗は、アレの相手をして時間を稼いでくれるつもりなのだろう。

 私は急かされるままそこへ飛び込もうとするが……何かに足を引っ張られ、コケてしまう。足元を見ると切り取られた腕の数本が、私の左足に纏わり付いていた。どこのB級ホラーよ……!?

 

「はな、せっ……てば!」

 

 私は右足で腕を蹴りまくって必死に抵抗するけれど……いくら引き剥がしても執拗に掴みかかってくる。紫も柄になく必死に私の手を両手で引っ張ってくれるけれど……僅かにしか動かない。空間の崩壊は続いている。

 地面も崩れ、底の見えない闇が私を飲み込もうとしていた。あそこに落ちたら……私は目覚めることが出来るのだろうか? 嫌な想像が頭を過る。

 

「蓮子!」

「なっ!?」

 

 そんな時、北斗の声が耳に届く。いつの間にか戻って来ていた北斗が刀を駆使して、腕を一本一本退かそうとしてくれる。その気持ちは嬉しい、けど……もう足場はギリギリだ。このままじゃ二人で落ちる。

 せめて、北斗だけは……そう祈りながら目を瞑って襲ってくる浮遊感に震えていると、不意に私の右手が掴まれ身体が引き起こされる。

 

「諦めるな」

 

 声が聞こえた瞬間、トン、と私の身体が軽く突き飛ばされる。そこで私はようやく目を開けた。流れる視界の中、そこで私は北斗の姿を見つける。

 

 

 

 無数の腕に身体を掴まれながらも左手一本で、私の背を押した姿を。私はスキマの中の紫に抱きとめられるが、すぐに立ち上がって北斗に向き直る。

 

「北斗!? 早くこっちに……」

「行け! 俺じゃあメリーを助けられない……お前が、できることをするんだ!」

「メリー!? メリーがどうしたの!? いや、それより手を!」

 

 私は閉じていくスキマの中から必死に手を伸ばすけれど……その手は届かない。その瞬間、一際大きな世界のカケラが地面を砕き、反動で北斗の身体が宙に浮く。

 

「後は、頼んだ」

 

 私が確認できたのはそこまでだった。スキマが完全に閉じたと同時に、私の意識は遠のいた。



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18.ドリームダイバー

 遠くに蝉の声が聞こえる。夏の音だ。けれど、頬を微かに撫でる風は涼しい。冷房の効き過ぎで頭がガンガンする以外はいつまでも眠れそうな環境だけれど……ふと前の記憶が戻ってる。その瞬間、私の身体は唐突に強張った。

 

「北斗!」

 

 思わず伸ばした掌。それを誰かに握られて、私は目覚めた。見慣れ始めてきた天井が見える。私は自分のベッドに眠っていた。そして傍で私の手を握っていたのは……こいしだった。

 

「あっ、起きた」

 

 目を合わせるとこいしはパッと手を離して柔和な笑みを返してくれる。つい此の間まで命を狙われていた相手だけれど、その陽だまりのような笑顔が凍り付いていた身体を一気に溶けてくれた。

 私……助かったんだ。弛緩した身体をベッドが優しく受け止めてくれる。相当疲れているか、自分の身体が随分重く思えた。

 窓の外は炎天下の町が広がっているけれど、冷房と冷や汗のせいで寒い。自分の身体を撫りながら起き上がると、すぐ側に跪いているこいしとその隣で椅子に座る紫の姿があった。

 ……メリーと北斗の姿がない。そういえば、夢の醒め側北斗は私に何かを言ったわよね。確か、メリーを救えるのは私、だけ……って。

 

「紫、メリーは」

「………………」

「メリーはどうしたの? それに、北斗も……」

「二人とも眠ってるわ。さっきの貴方のように、醒めない夢の中に閉じ込ったままよ」

 

 俯きがちに呟いた紫の言葉に、私は一時的に思考能力を奪われてしまう。紫はメリーが無事だって……

 いや、きっと紫と北斗が私達を見つけて部屋まで運んでくれたのだろう。それはわかるし、助けてくれたことは感謝してる。

 けど、私はベットから立ち上がって紫に詰め寄る。つまずきかけてこいしに身体を支えられるけれど、感謝の言葉を掛ける余裕もなかった。

 

「どうしてメリーを先に助けなかったの!? 無事だって言ってたじゃない! 私が助けられるなら、メリーだって……」

「助けようとしたわ。けど……出来なかったの。私には」

 

 紫は椅子に座ったまま動かない。そこで私は気付く。普段紫は感情をひた隠しにするために、胡散臭い笑みを浮かべ続けていた。けれど今は……その顔が落胆の色に染まっていた。

 思わず紫の目の前で立ち尽くしてしまう。これ以上彼女を責められるほど、私は無神経でいられなかった。エアコンの稼動音と蝉の声が耳につく。こいしはただ困ったように私と紫の顔を交互に見合っていた。

 しばらくして、私は紫に尋ねる。

 

「メリーに、何があったの?」

「……私にもわからないわ。ただメリーは、私を拒絶したわ。真実を知るくらいなら、夢の中に居たいと」

「真実……」

 

 灯台の下でも言っていた。不安を吐露して、迷っていた。知ることが、戻れなくなることが怖いと。そして今メリーは夢の中から出て来ようとしない……まるで部屋に閉じこもった子供のように。

 私は、メリーのことを知りたいと思っていた。いつか霧のようにいなくなってしまうくらいなら最初から知っていて諦めていたかった。けれど、本当は知りたくなかったのか。私が押し付けていただけだったのか。

 ううん、違う。きっと私は……拒絶したかったんだと思う。自分の世界が、メリー自身が変わっていくことを受け入れられなかったんだ。

 だとしたら、私は……私の平穏を得たいがために、メリーを苦しめていたことになる。そう思うと手が震えた。眼球の奥に熱いものがこみ上げてくる。

 

「ッ!」

 

 私は首を振って、自分の頬を思いっきり叩く。それを見て紫とこいしがギョッとしているけれど、気にしない。

 今私が泣いても、メリーを助けることは出来ない。助けて、謝ってから、ちゃんと話し合おう。泣いていいのはそれからだ。私は涙を堪えて紫に向き直る。

 

「……それで、北斗は? 何で寝ているの?」

「あくまで私の推測だけれど……きっと夢の中にいるからでしょうね。当然だけれど、貴女の夢の世界に入るには私も北斗も眠っていなければいけない。そして本来なら貴女の目が覚めれば世界は崩壊するのだけれど……いや、事実崩壊していたわね」

「そんな。それじゃあ北斗は……」

 

 崩壊した夢の世界に閉じ込められた人間は……一体どうなるのだろうか?もしかしたら、二度と目覚めない、なんてことないわよね。

 頭から血の気が引いていくのを感じるが、目の前の紫は特段心配したような表情をしていなかった。

 

「貴女が見ていた夢の世界に閉じ込められたか、はたまた別の……自分の夢の中に逃げ込んだか、どちらにしろ何かしら決着が着くまで目覚めないでしょう」

「そんな……」

「……心配なのはわかるけれど、北斗が自分の意思で残ったのだからきっと大丈夫よ。それにこれから手は打つわ」

 

 素っ気なく聞こえるけれど、北斗を一番よく知っている紫が大丈夫というなら、それを信じるしかない。

 けれどあの別れ方じゃ、北斗が私の身代わりになったみたいで後味が悪い。できるだけ早めに帰って来てもらいたいわ。

 とりあえず聞きたいことが聞けたので、私はベッドに戻って腰掛けた。それを見た紫は……少し考え込んでからこいしを呼び掛ける。

 

「悪いのだけど……外してもらえるかしら? 蓮子に話しておきたいことがあるの」

「……いーよ、おにーさんの様子見てくるね」

 

 こいしは紫に言われるがまま素直に部屋を出ていく。何だか、二人きりになるとどうも緊張する。いつもの紫ならともかくあんな目に見えて凹んだ表情を見せられたら……私もどう接すればいいかわからなっちゃうじゃない。

 数十秒ほどの気不味い沈黙の後、紫が静かに喋り出す。

 

「これはメリーにも、北斗にも話していないことだけれど……貴女だけには話しておくわ」

「……メリーの、こと?」

「ええ……貴方も、きっとメリー自身も気付いているでしょうけど、私とメリーは無関係じゃありません。私達が貴女達を助けたのは偶然ではあるけれど……そう言っても信じてもらえないほどに数奇な運命に導かれて私達はこの街で出会ってしまった」

 

 微かに吐息を漏らしながら、紫は窓の外を眺める。釣られて振り向くと、巨大な入道雲がこちらに近付いてきていた。夕立が降るかもしれない。そんな予感を覚えながら、私は半ば茶化すように肩を竦めてみせる。

 

「まるで出会わなかった方が良かったみたいな口振りね」

「出会わなかった方がよかったわよ。少なくとも彼女……マエリベリー・ハーンにとっては、ね」

「……じゃあ、なんであんな選択肢を提示したの? 無理矢理にでも帰らせればいいのに」

「そうねぇ……まあ、打算的な理由は色々あるわ。貴女達に最初伝えた言葉だって嘘じゃない。貴女達のおかげでこの街の異変に接触出来ている、結構本当に感謝しているのよ?」

 

 紫はそう言いながら悪戯っぽくウィンクを飛ばしてくる。そういう軽薄な態度のせいでイマイチ紫を信用しきれない要因の一つなんだけれど。

 なんて内心で呆れ気味に皮肉っていると、おもむろに紫が立ち上がる。そして数歩歩いてから私の前に立つ。不思議に思った私は、ベッドの上から紫の顔を見上げる。

 

「けれど、何より貴女達に選んで欲しかった。これから貴女とメリーには様々な真実が突きつけられる。そして……そう遠くない未来で選択をしなければいけなくなる」

「………………」

「きっと誰も正しさなんて証明出来ない。数えきれないほどの後悔をするかもしれない。でも貴女達が選んだ選択じゃなければ意味がないの」

 

 呼吸が詰まる。胸がいっぱいになってはち切れそうになる。紫はどんな秘密を知っているのか、どんな想いを込めて私にこんな言葉を送ったのか、私とメリーをどう思っているか……私は紫のことはまったくわからない。

 けれどその悲しげな笑顔を見た瞬間、私には察することのできないほど複雑な感情が流れ込んでくる。

 

「……今、夢の中のメリーを救うことが出来るのは貴女しかいないわ。私は、既に彼女と彼女の世界に拒絶されてしまった。夢の中に誰かを送ることは出来ても一緒に入ることができないの。貴女を守る人は誰もいない……その上で問うわ」

「紫……」

「メリーを連れ戻してくれないかしら?」

 

 紫はそう言うと私に扇の先を向けてくる。あの時と同じだ。真夜中の神社で紫は私達に選択肢を与えた。私はすぐに選ぶことができなかったけれど、メリーのおかげで私達らしい選択を出来たと思う。だから今度は……私が連れ戻す番だ。

 

「もちろん、引き摺ってでも連れて帰ってみせるわ」

 

 

 

 

 

 案の定、窓の外から遠雷の音が聞こえて始めた。雨はまだ降っていないけれど……数十分もしたら降り出すだろう。

 薄暗いメリーの部屋に入った私は灯りを付けようとして……止める。これから眠るんだから明かりは不要だ。私、明るいと眠れないし。

 部屋の中、窓のすぐ手間のベッドの上でメリーが眠っている。そして枕元に寄り添うように紫がしゃがんでいた。紫は私の方を向くといつもの薄ら笑いで尋ねてくる。

 

「さて、月並みの台詞だけれど……準備はいいかしら?」

「いいも何も今更準備するようなことなんて大してないわよ。精々心の準備をするくらいよ」

 

 まあ、あれからシャワーを浴びて着替えたり、紫が買ってきた……であろう菓子パンを齧ったりはしたけれどね。

 これから夢の中に単身で乗り込むというのに、不思議と気分は落ち着いていた。目の前のベッドで静かに眠るメリーの手を取る。

 怖くないわけじゃない。けれど、北斗の言葉と紫の表情、そして……メリーの手の温もりが、私を支えてくれていた。

 少しの間そうしていると、頭の上の方から紫の声がする。

 

「言いそびれていたけれど、夢の中がどうなっているかは未知数よ。私の時はごく普通の大学校内だったけれど……もしかしたら、一生メリーの夢の中で彷徨うことになるかもしれないわ」

「直前にそれを言うのね……今更何言われようとも可能性があるなら私は行くわよ。それに占いが言うには、何でも願いが叶うらしいし」

 

 紫を見ずにそう返すと、くく、と堪えたような笑い声が聞こえる。その声は、一瞬目覚めたのかと思うほどメリーに似ていた。

 

「……その、不思議にも恐怖にも向き合おうとする勇気は貴女の長所だけれど、稀に蛮勇にも思えるわね。どこかの誰かさんに似ているわ」

「褒められている気がしないわね」

「諌めているだけですもの。以前北斗が伝えた言葉を忘れないように、ね」

 

 それはどういう意味か、聞こうとする前に私の目の前が真っ暗にされる。紫が私の視界を目隠ししたのだ。それはメリーが自分の見る景色を見せる時と全く同じやり方だった。

 

「とにかく貴女はメリーを見つけなさい。何を話すかは……貴女に任せるわ。次目覚める時はメリーと貴女、二人で起きることを願っているわよ、蓮子」

 

 目隠しされたまま頷く。瞬間、身体全体が浮き上がるような感触がする。視界に光が溢れたかと思ったら軽い衝撃と共に息苦しさがやってくる。

 淡い光の中に無数の気泡が浮かび上がる。冷たい感触が全身を包む。これは水の中か。浮かび上がらないと……

 そう思ったその時、視界の端に緑の何かが見える。両手両足をバタつかせなんとか体勢を整えると、薄暗い水底に鬱蒼とした巨大な森が広がっていた。

 

「……ッ!」

 

 直感だった。私は身体を反転させて水底に向けて泳ぎ始める。息継ぎもしない。今こうしないと……水面に上がってしまったらもう戻って来れない気がして、無我夢中で潜行していく。

 全く理にかなっていない。根拠の一つもない。けれど、身体は第六感を信じて動き続けた。泳げないわけじゃないけれど、素潜りなんてしたことない。けれどまるで重量に惹かれているかのようにゆっくりと、着実に水底に近付いていた。

 もうすぐ、もうすぐと自分に言い聞かせる。が、限界はすぐに来た。息が続かない。酸素不足で視界が霞んでくる。もうどこへ向かって泳いでいるかすらわからなかった。

 その時、突然新鮮な空気が肺に送り込まれたと思ったら、再度浮遊感が襲ってくる。いつの間にか私は水中から飛び出ていた。

 

「プハッ……! なっ……」

 

 いや、浮遊感じゃない。これは……ただの自由落下だった。足元に目をやると水面と月、そして星が遠ざかっていく。私は真っ暗な森に向かって頭から真っ逆様に落ちようとしていた。

 

「嘘でしょおおぉぉぉぉ!!??」

 

 私は絶叫するが身体はドンドン加速度を増していく。いつか空を飛ぶ夢を見たことがあるけれどそんな楽しいものじゃない。

 死ぬ。夢の中で死んだらどうなる? やり直しできるの? そのまま永眠? 笑えないわよまったく!? 脳内はパニック状態だ。

 そんな中……奇跡か、それとも仕組まれた必然か、迫り来る森の木々の合間、ちょうど私の落下地点に誰かがうずくまっているのが見えた。月明かりに輝く金糸の髪、間違いない、あれは……

 

「メリー!」

 

 私は状況も忘れて叫ぶ。メリーの背中へと手を伸ばす。ここに私がいると、ここまでやってきたんだと。

 その時頭上に夜闇より暗い空間が広がる。これを……私は見たことがある。メリーが何度も見せてくれた境目だった。背中に翼のない私じゃどうすることもできない。私はなす術もなく境目の中に落ちていった。

 

 

 

 

 

 気が付くと私は夜の森の中に立ち尽くしていた。右も左も前も後ろも真っ暗闇で、目を凝らしても薄っすらと木の幹が見えるだけだった。私はびしょ濡れになった服に不快感を覚えながら、空を仰ぐ。

 

「雨……」

 

 落下中は気付かなかったけれど、森にはしとしとと小雨が降っていた。ただ空に雨雲は掛かっていない。

 微かに揺らめく満天の星空から雫が降り注いでいた。私が潜っていたあの水が降っているのかもしれない。流石メリーの夢、なかなかファンタジーかつ非物理的ね。

 私はつい癖で帽子を直そうとするが……そもそも帽子を被っていないことを思い出して、代わりに濡れた髪を撫でつけた。

 さて、無事着地出来ているのは喜ばしい限りだけれど……辺りにメリーの姿はない。あの境目は咄嗟に私を助けてくれたのか、はたまた私をメリーから遠ざけたかったのかはわからない。

 が、月の位置を見る限りメリーとの位置は遥か遠くに離れてしまっていた。

 

「まったく……こんな森の中で独りぼっちで、メリーは何をしているのかしらね?」

 

 半ば呆れながら、独り言を呟く。けれど、なんとなく私はわかっていた。

 この森はメリーの迷いなんだと思う。きっとメリーは何かから逃げるために、ここに迷い込んでしまったのだろう。

 出るにも出られず、ただ森の中で助けを待っている。落ちている最中に見たメリーのあの姿はそう映って仕方がなかった。

 

「なーんて、酷い妄想だわ」

 

 メリーが今のを聞いたらきっと頬を膨らまてそう言いそうだわ。私は小さく吹き出しながら、足元を探るように一歩踏み出す。

 硬い根と腐葉土の柔らかい感触。気を抜いたらすぐ転んでしまいそうだ。気を付けないとね。

 ……先程落ちる時にチラリと見た月の位置から鑑みて、かなりの距離歩かないといけない。けれど、わかる。月が、私とメリーの距離を教えてくれていた。

 

「確かに私じゃないと救えないわね」

 

 きっと北斗にも、こいしにも……きっと紫にも無理だ。今、メリーの手を取れるのは、私しかいない。私は月を頼りに、おぼつかないながらゆっくりと歩き始めた。



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外伝03.夢に浮かぶ海

 絨毯も何も敷いてない床、小さめの衣装ケースの中には最低限の衣服。取って付けたように置かれた机と椅子、そして部屋の端には真っ白なベッド……

 おにーさんの部屋は随分飾り気がなかった。夏なのに薄ら寒く感じるくらいだだっ広い空間で、おにーさんは一人眠っていた。

 耳を澄ましても夕立の音と雷鳴がするばかり、おにーさんの寝息は聞こえてこない。息をしてないかも、とちょっとだけ心配になるほど静かな眠りだった。

 

「起きないねー……」

 

 暗い部屋の中、私はベッドの傍に座っておにーさんに話しかけてみる。けれど当然起きない。蓮子を助けると言って、スキマ妖怪と一緒に眠ってそれっきりだ。

 おにーさんとメリーは夢の中の世界に入ったまま一度も帰ってきていなかった。スキマ妖怪曰くおにーさんの意思で残ったらしいから、大丈夫だと思いたいけれど……

 もしかしたらこのまま目を覚まさないかもしれない。そんな根拠のない不安が頭の片隅にあった。嫌だ。このままずっと話せなくなるのは、とても、嫌だ。

 

「ま、おにーさんの寝顔が見れるのは嬉しいけど」

 

 私はおにーさんのホッペを突きながら独りごちる。以外とモチ肌だ。

 ……そういえばおにーさんが寝てるところ、見たことない。どうやら一番遅くに眠って、一番早くに起きているみたい。もしかしたら眠っていないかもしれないって、メリーも話していたし……この際だ、しばらく眠ってもらった方がいいかも。

 そうだ、いい事思いついた。今朝メリーが蓮子にやったみたいに……

 

 

 

「……お楽しみのところ悪いけれど、いいかしら?」

 

 私が北斗のベッドに入り込んだところで、突然部屋に電気が付く。掛け布団から顔を出すと、まさに紫が部屋に入ってくるところだった。せっかくこれからおにーさんを満喫するところなのに、お邪魔虫は馬に蹴られて潰されればいいよ。

 

「私に何か用?」

「見られてもやめはしないのね。まあ、その格好の方が都合がいいけれど」

「……どーいうこと?」

 

 私が掛け布団に包まりながら小首を傾げる。やめるつもりはこれっぽっちもないけど、変な事を言われたら気になってしまう。

 紫は私達が横になっているベッドの側まで歩いてきて、近くにあった椅子に腰掛けた。

 

「頼みがあるの。彼の夢の中に入ってくれないかしら? そして可能であれば連れ戻して欲しいの」

「いーけど。何で私だけ? 紫は行かないの?」

 

 私は即答しつつ尋ねる。

 おにーさんの夢の中にはいるのはいい、むしろウェルカムだ。とても気になる。けれど紫が来ないのは変な気がした。むしろ私に行かせるくらいなら紫自身が行った方が手っ取り早いと思うんだけど……

 そこら辺どうなのか知りたくて聞いて見たんだけど……返事は遅い。紫は困ったような笑顔を浮かべていた。

 

「私じゃ余計な事を言って事態をややこしくしてしまうから。結局私はどうやっても裏で糸を引く悪役にしかなれないと、自覚していたはずなのにね……」

「凹んでる?」

 

 率直に思った事を聞いてみると、時間が止まったみたいに紫の動きが止まる。けどすぐに、重苦しいため息と共に動き出した。

 

「瞳を閉じた覚妖怪が、どうして心が読めるのかしら?」

「読んでないよ。顔に出てたから何となくわかっただけ。きっとおにーさんも蓮子もメリーも気付くと思うよ」

「……あの子達にだけは知られたくなかったのだけど、私もまだまだね」

 

 そう言って紫は耳に髪を掛け、ため息を漏らして小さく笑った。頬が引き攣っている。それは無理に笑っている様にも見えて……

 私はベッドから身体を起こして紫に向き直る。窓の外で一際大きな雷鳴が鳴り響いて、眠っているおにーさんの身体がほんの僅か身じろいだ。

 お互いどれくらい黙っていたか、おもむろに紫が目を閉じ、俯く。

 

「ごめんなさい……少し、吐き出すわ」

「吐き出す……?」

「今回の件は、私が二人から目を離した隙に起こってしまった。完全に、私の……落ち度よ」

「………………」

「それだけじゃない。夢の中に入って助けられるのは私だけと気負ってメリーを助けに行ったのに……逆に事態を悪くしてしまった。本当に、最悪だわ」

 

 紫の口から弱音が次々と溢れていく。あのスキマ妖怪とは思えない、言葉の数々に私もびっくりしてしまう。幻想郷の妖怪の中でも相当な力を持ってるはずの八雲紫が、まるでどこにでもいる人間の少女のような顔をして落ち込んでいた。

 きっと蓮子にも、北斗にも……メリーにも隠し続けていた姿なんだと思う。三人の前では隙を見せたくなくて、それでも吐き出してしまいたくて、一番どうでもいい私に言ったのだろう。

 

「ねぇ、紫。紫は、メリー達の何になりたいの?」

「………………」

 

 愚痴を聞く……それを嫌だとは思っていない。恨みもないし、悪意もない。けれど、気付けば自分でもなんで聞いたかわからない問いが、口を衝いていた。

 紫の肩が跳ね上がる。まるで傷口に塩を塗りつけたみたいな反応だった。そんな反応を見て、私は慌てて首を振ろうとする。答えなんて聞きたくないって。けれど、その前に紫が椅子から立ち上がる。

 

「……何にもなるつもりはないし、なれないわよ。私はね」

 

 雨音に掻き消されそうなほどか細い声で呟くと、私の目を塞ぐように手をかざしてくる。その瞬間、抗いようもないほどの眠気が体を支配した。身体がベッドに崩れ落ちる。目蓋が勝手に落ちていき、煩かった雷雨の音も遠ざかっていく。

 ……よっぽど話を打ち切りたかったのか、強引に夢の中へ落としにきたみたいだ。

 自分勝手に愚痴り始めたと思ったら、体裁が悪くなったら逃げる様に眠らせて……自分が聞いてしまったのが悪いんだけど、卑怯だと思った。

 やっぱり妖怪の心も、人の心も、覗いても落ち込むだけね……

 

 

 

 結局紫は、メリーの何かになりたいんじゃないか。

 

 

 

 

 

 寄せては返すようなゆったりとした音がする。目を開けると、そこには雲一つない夜空とそれを写す巨大な湖があった。足元を見下ろすと滑らかな砂場で、波がブーツのつま先を洗っている。

 ああ、そうだ、湖じゃなかった。これは、海って言うんだった。

 おにーさんに教えてもらった。果てが見えないほど大きくて、しょっぱい水で出来てるらしい。

 いつか連れて行って欲しいって考えてはいたけれど、夢の中で連れて来られるとは思ってもみなかった。

 私は風に飛ばされないよう帽子を抑えながら辺りの暗がりを見回すが、人の姿はない。

 

「おにーさん、どこにいるのかな?」

 

 背後は切り立った崖になっていてこの砂場を囲むように並び立っているみたいだ。それをなぞるように眺めていると……その一番先端に長いチェスの駒のような形をした塔が、回転するレーザーのような光を放っていた。

 

「なんだろ、あれ」

 

 よくわからないけれど、その光のおかげで崖に沿うように設置された階段も見つけることが出来た。今の所行けそうな場所は……あそこくらいしか見当たらない。

 このまま夜の海を眺めていたい気もするけれど……どうせ眺めるならおにーさんと一緒がいい。まずはおにーさんを探さないとね!

 

「ザクザク、チャプチャプ、ランランラーン」

 

 私は砂を踏みしめる感触と海が奏でる波の音を楽しみながら、半分散歩のつもりで光を放つ塔を目指した。

 

 

 

 スキップしながら石の階段を登り切ると、その塔が結構な大きいことがわかった。見上げると首が痛くなるほどだ。もしかしたら見張り台なのかもしれない。海でも見張ってるのかな?

 よくわからないけど……サビサビの扉はあんぐりと口を開いていて、いつでも入れるみたいだった。

 

「この中におにーさんがいるのかな?」

 

 辺りはゴツゴツとした岩と草原ばっかりで、誰もいない。

 やっぱりこの中しかないよね。立ち止まっていても仕方がないし、入ってみよう。

 塔に足を踏み入れてみると、中はまるで地底の様に薄暗かった。天井にある部屋から溢れる灯りが唯一光源みたい。ずっと聞こえていた波の音もくぐもって聞こえる。自分の息が聞こえそうなほど静かだ。

 

「んー……?」

 

 ……どうやら壁際の階段を登れば灯りのある部屋に行けるみたいだ。飛んで行ってもいいけれど……せっかくだ、最後まで自分の足で登ってみよう。

 流石に外の階段みたいに、スキップでは登れない。転けたらアゴとかぶつけて痛そうだし、一段一段踏みしめる様にゆっくりと登っていく。

 

「……なたの……ねがいは……ですか」

「……うだな。あえて……なら……」

 

 半分くらい登ったところで、部屋の方から微かに声が聞こえてきた。誰かが話をしているのかな?

 気になった私は階段を一気に駆け上がって、部屋の前まで辿り着く。

 部屋を覗き込むと吊カンテラが、ガラクタだらけの部屋を照らしていた。そこにいたのは、黒いローブで身体を覆い隠している誰かと……黒ずくめの男の人の二人だ。それぞれ近くに椅子があるのに二人ともそれに座らず、テーブルを挟んで立っている。

 

「祈りは届いた。しからば叶えましょう、貴方の願いを! 運命を捻じ曲げるほどの力で、貴方の旅路に私がしるべを与えましょう」

 

 部屋の奥に立っていた黒ローブが、案外高い声で叫びながら左腕を振り上げる。その手には真っ黒なミイラの腕が握られていた。

 この説教臭そうな声、何処かで聞いたことがある声な気がする。けれど、思い出せない。私が記憶を掘り返している間も、黒ローブは威勢の良い言葉を続けた。

 

「嵐の暗夜行路を征く者達よ、灯火に向かい、ひた走りなさい! 己が運命を捻じ曲げた末に、辿り着いた先を……刮目するのです」

「……その必要はないです」

 

 独りで楽しそうに盛り上がる黒ローブを無視するように、手前に立つ男性が低い声で呟く。瞬間、黒ローブの動きがピタリと止まった。カランカランと、カンテラが揺れる音が妙に耳につく。

 

「俺の願いは俺自身で叶えます。他人に変えてもらう筋合いはありません。そうでないと最後に俺が納得できない」

「……その傲慢さ故に、貴方の船は暗夜の海を彷徨うことになる。その願い、永久に失われていいのかしら?」

 

 男性の言葉に、黒ローブがよくわからない例えで返す。すると男性は大袈裟に肩を竦めてみせた。その仕草で、ようやく私は気付く。男性の右の二の腕から先がないことに。長袖がヒラヒラとなびいていることに。

 

「脅しても無駄です。俺の願いは誰のものでもない、俺のものです。貴方に一片たりとも渡しやしません」

「………………」

「それに……どうせ叶えられるのは夢の中の話でしょう?」

 

 男性……右腕を失ったおにーさんが不敵に嘲笑うと、ローブの奥の眼光がさらに鋭くなる。カンテラの光の加減で見えないけれど、少なくとも良い顔をしてないことくらい心が読めなくてもわかった。

 おにーさんは右腕を動かしかけて……慌てて左手で指を指す。

 

「そのミイラ、『猿の腕』……でしたっけ? 以前知り合いから聞きました。どんな願いでも三つだけ叶える代わりに、運命を捻じ曲げ人を不幸にする呪いの腕」

「………………」

「蓮子とメリーに対してなんて言ってそそのかしたかはわかりませんが、二人を騙したツケは払ってもらいますよ」

 

 おにーさんは腰の刀を左腕一本で器用に抜くと、その切っ先を黒ローブに突き付けながら言う。

 敬語を使ってはいるけれど、おにーさんが怒っているのは心を読まなくてもわかった。

 私は思わず自分の腕を抱きしめる。もし私が蓮子を殺していたら、おにーさんは私にどんな表情を向けていたのか……考えると、怖くなった。

 そうしていると、不意に黒ローブがミイラを握る左腕をゆっくり下ろしていく。そしてややトーンダウンした口調で喋り始める。

 

「そそのかした、なんて人聞きの悪いことを。願ったのは彼女達なのに。迷い苦しんでいた彼女に光を与えただけなのに。闇雲に彷徨った末の無為な死と、願いに辿り着いた先にある永遠の夢。どちらが幸福か、誰だってわかるでしょう?」

「到達点も、幸せも……自分で決めるものです。やはり貴方は他者の夢を勝手に歪めて弄んでいるだけ。願いを叶えるなんて大層なものじゃありませんよ」

 

 明確な否定。それを聞いた黒ローブは何も言わず……マントを翻した。

 その瞬間、カンテラが作り出す影から小鬼が三匹浮かび上がり、間髪入れず飛びかかってくる。

 

「おにーさん!」

「ッ!」

 

 唐突な襲撃に私は思わず叫んでしまうが、おにーさんはそれより速く動いていた。

 足元の羊皮紙を蹴り上げて正面の一匹の視界を潰すと、刀を振り下ろし羊皮紙ごと切り裂く。そしてすぐさま左側から来た小鬼を回し蹴りで蹴り飛ばす。が、右側の小鬼の迎撃が間に合いそうもない。

 

「やぁ!」

 

 咄嗟に身体が動いていた。私は助走からの飛び蹴りで小鬼を蹴り飛ばす。小鬼は部屋を照らしていたカンテラにぶつかって床にへたり込んだ。

 カンテラが床に落ちて割れ、中の火のついた油が部屋に撒き散らされる。たちまちガラクタに燃え移り、部屋の物を次々と焼き始めた。

 そんな大惨事の中、おにーさんが驚きの表情で私の方を振り向いた。

 

「こいしちゃん!? どうしてここに!?」

「ずっと眠ってるから助けに来た! 正しくは起こしに来た!」

「あー、うん。とにかく助かった、ありがとう!」

 

 おにーさんはお礼を言ってから私をかばうように前に出た。目の前で、火の粉と一緒に右の袖がヒラヒラと舞っている。

 本当は腕のことを聞きたかった。けど、部屋が燃えてる手前そんな呑気に話してる余裕はない。それにおにーさんは私や蓮子達を心配させるようなことを喋らないだろうし。

 部屋の中、舞い上がる炎は小鬼にも燃え移る。まるでダンスのように悶え苦しみながら狭い部屋をのたうっていた。けれど、黒ローブは一切見向きもしない。ただ私達を睨みつけていた。

 

「歪めた? 弄んだ? 願ったのは自分達だろう? 運命を捻じ曲げたのはお前だ。代償を払え。代償を払え。代償を払え。代償を……」

 

 黒ローブは燃え盛る部屋の中で立ち尽くし、同じ言葉を何度も繰り返す。その異様な光景に妙な既視感を覚えて、私はこめかみを抑える。息苦しいの炎が作る煙のせいか、頭が割れるように痛かった。

 

「代償を払え代償を払え代償を払え代償を払え代償を払え代償を払え代償を払え代償を払え」

「……それはこっちの台詞だ。俺の腕も、願いも……蓮子もメリーも! 全部返した上で懺悔しろ!」

 

 噛み潰した苦虫を吐き捨てるように、おにーさんが叫ぶ。それが私の耳に届くや否や、黒ローブの空虚だった腕から無数の右腕が伸びる。

 凄まじい勢いで部屋中に炎が舞い上がり、ついに黒ローブにも火が移る。深く被っていたローブが飴細工のように溶けていき、素顔があらわになった。

 桃色のショートヘア、如何にも他人に厳しそうな瞳、そして頭には……二本の角。

 

「腕を寄越せ」

 

 女性とは思えないしゃがれた低い声が火の音に紛れて聞こえる。それを皮切りに部屋中が無数の右腕と広がる炎に埋め尽くされる。

 

「逃げろこいし!」

 

 そう言うとおにーさんは刀を捨て、私の手を取ろうと必死に手を伸ばしてきた。私も無意識にその手を取ろうとする。けれど私の指先とおにーさんの指先が触れた瞬間、指先に痺れる様な痛みが走った。私は正体不明の痛みに、思わず手を引っ込めてしまう。

 

 

 

 その僅かな隙間が、仇となった。

 

 

 

 無秩序にのたうち伸び回る右腕の束に、私とおにーさんは逃げる暇もなく飲み込まれてしまう。無数の手が私の肩を、腕を、髪を、足を、首を掴む。そのどれもが氷のように冷たく、肉のすえた匂いを帯びていて、鳥肌が立った。

 これは死、そして欲望そのものだ。どうしようもなく嫌いで、ずっと目を逸らしたものが、今、私を捕まえ引き摺り込もうとしていた。

 ……嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ!

 

「いやああああぁぁぁぁっっっっ!!!!」

 

 思わず私は目を瞑って叫んでしまう。頭にモヤが掛かり、記憶がフラッシュバックする。ナイフを振るう腕に絡みつく腕。爪を立てられ、血と血が混じり合う。何度も、何度も、何度も、無限にフラッシュバックが続く。

 

「こいし!」

 

 脳内で繰り返される映像、それを遮ったのはおにーさんの必死な声だった。身体中を掴む腕とは違う、一本の暖かい腕が私の肩を抱き寄せる。

 刹那、私を掴んでいた腕の感触が搔き消え、鼓膜が破れそうなほどの轟音が鳴り響く。勇気を出して目を開くと、目の前に夜空の星が広がっていた。

 気付けば私はおにーさんにお姫様抱っこされながら、海に落ちようとしていた。塔の壁には穴が空いている。誰が空けたかわからないけれど、あそこから落とされたのか。

 

「飛べない……! 掴まってこいし!」

 

 私は言われるがままおにーさんの首元にしがみついた。その間も水面がみるみるうちに近付いていく。つい抱きつく腕に力が篭る。

 落下の衝撃が背中を叩いた。冷たい水の感触が服に染み込んでいく。海の水は思った以上に塩辛かった。

 身体がフワリと浮き上がるが、それもほんの少しだけ。私とおにーさんはお互いを抱きしめ合ったまま、暗い海の底に沈んでいった。



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19.スリーピング・ビューティー

 延々と振り続ける雨の中、蓮子の声が聞こえたような気がした。そんな筈ないのに。幻聴? だとしたら相当参ってるのかも。

 私は永遠に明けることのない夜空を見上げる。雲ひとつない星空からは水の雫がとめどなく落ちてきていた。

 足に茨が巻き付いた椅子の背もたれにしな垂れ掛かる。服も帽子もびしょ濡れになっているけれど……どうでもよかった。

 ……ここには誰も辿り着けない。真実も、今も、未来も……暗い森に迷う。ここにあるのは私と鬱蒼とした森と足元の水溜り、そして私が座る木彫りの椅子一つだけだ。

 

「仕方がない、よね」

 

 これは私が望んだことなんだから。私は袖で顔を拭う。

 ささやかな抵抗のつもりだった。いつか分かたれるその時が怖くて、変わりたくないと思った。今が奪われるくらいなら全てを閉ざして眠ってしまいたいと軽率に願ってしまった。

 

「わかってるわ。私が望んだ事だもの」

 

 ここは私の夢の中だ。私の望みが、この夢の中に反映されている。だから私はこんな森の中にいるんだろう。

 あの時……灯台の上で私が見たのは多分『猿の手』だ。とある短編小説に出てくる、魔力を持った猿の手の、ミイラ。

 三つの願いを叶えるが、その代わり様々な代償を払っていくホラーモノだ。なるほど、だとしたら私の代償は孤独になること、なのかしら。

 

「ふふ、私って意外とメルヘン趣味なのかもしれないわね」

 

 深い森の中で夢を見続ける。さながらいばら姫みたいだ。

 ……馬鹿馬鹿しい。自分が望んだ癖に、悲劇のヒロイン気取り? 自嘲気味に笑う。

 私はきっと現に帰ることはない。紫が差し伸ばした手を、私は自分で振り払って、この森の中に閉じ籠ったのだから。

 けれどもし……もし私の手を引いて連れて帰れるとしたら、きっと……

 

 

 

 

 

「そこの貴女、こんな辛気臭い場所で何やってるの?」

 

 どれくらいの時間が経っただろうか? 不意に誰かの声がした。私は思わず椅子から飛び上がって辺りを見回す。

 淡い期待はあった。けれど目の前にいたのは、灰色のパーカーとプリツスカートを着た見慣れぬ少女だった。闇の中でフードを被っているせいで、顔は見えない。わかるのは、私達と同じくらいの歳の女の子であろうことだけだった。

 

「誰……?」

「別に名乗る必要ないでしょう? 私は貴女とお友達になりに来たわけじゃないんだし。私は異変を解決しに来ただけよ」

「異変って……」

 

 私が戻っていると、パーカーの少女がゆっくり歩いてくる。夏に似つかわしくないロングブーツが水溜りを蹴り飛ばす。

 確か紫と北斗は、幻想郷で起こっている事象を『異変』と呼んでいた。だとしたら、今、目の前にいる彼女は幻想郷の住人? あるいは……

 

「紫の、知り合い?」

「……今、なんて言った?」

 

 少女の歩みが止まり、フードの奥から睨まれる。案の定だ。

 紫はもう私の夢の中に入れない、入れないようにした。だから別の人を寄越したのだろうけれど、わざわざ北斗じゃなくて赤の他人を使うんだから陰湿だ。

 ……嫌いだ。人の気持ちをまったく考えていない。機械的に問題を解決しようとするそのやり方に嫌悪を覚えて仕方がない。まるで私は……ただのスペアパーツじゃないか。

 違う、違うもの! 私は、私だもの! 誰かの代用品として生まれてきた訳じゃない。私は……紫じゃない!

 

「出てって。ここは私の夢なんだから、勝手に入らないでよ!」

 

 自分でも何を言ってるかわからない。けれど、叫ばずにいられなかった。腹の底から湧き上がって来る恐怖に耐えられない。怖くて怖くて仕方がなくて、絶叫する。

 

「何も見たくない、知りたくない。みんなみんな……居なくなってよッ!!」

 

 その瞬間だった。椅子に纏わりついていた茨が伸びて、パーカーの女の子のくるぶしに絡んだ。植物の蔦のありえない動きに、私は唖然としてしまう。

 

「……ッ! これは……!」

 

 が、そこで気付く。この茨が私の意思に反応して動いていることに。

 そうだ、これは……ここは私の夢だ。だから私が望んだように、この女の子を排除しようとしているのか。

 気持ち悪い。力付くでも追い返そうとする自分のおぞましさ、帰りたくない本心が混じり合って、私は指先一つ動けなかった。

 どうしたらいいかわからない。ただ今は、この現実の刺客を遠ざけたい欲望が優っていた。

 

「来ないで……来ないでよッ!!」

 

 私が叫びに呼応するように森の奥から無数の茨が伸びてくる。彼女の四肢に絡みつき、そのまま森の奥に引き摺り込もうと引っ張っていく。

 しかし、女の子は抵抗しない。ただ肌に食い込む茨の棘に顔をしかめているだけだった。

 

「そう……貴女、やっぱり人間じゃないわね。半成りってやつかしら?」

 

 不意に女の子が独り言を呟く。半……成り……? それが耳に届いたと同時、足へ巻き付いていた茨が風船の割れるような音と共に弾けた。

 あまりに大きな音で、私は一瞬目を閉じてしまう。そして恐々と目を開けてみると、目の前から赤い閃光を放つ何かがいくつも飛来していた。

 思わず頭を抱えてしゃがみこむ。けれど、それらは私の腕や身体に張り付き私の動きを奪った。

 水溜りの中で這いつくばるような姿になりながらも、私はなんとか首だけもたげる。

 

「あ、なたは……」

「……これでも私は人間よ。貴女と違ってね。まあ、どうでもいいけれど」

 

 そう言って女の子はゆっくりとこちらに近付いてくる。

 その手には何が書かれた数枚の紙切れが握られている。私の手足に張り付いていたのもそれだ。北斗が使っていたお札に似ているけれど……

 女の子は目の前までやってきて、フードの奥から私を見下ろしてくる。降り頻る雨の中、少女と目が合う。

 日本人形のように端整で白い肌の、可愛らしい女の子の顔だ。なのにその瞳はゾッとするほど感情が抜け落ちていた。

 全身が凍り付いたように動けなくなる。特別な力なんかない。恐怖による作用だ。

 

「や……こな……い、で……」

「貴女が元凶かどうか、わからないけれど……この世界を作っているのが貴女なのは間違いない。なら、やることは一つ」

 

 少女がそう言った瞬間、肩に激痛が走った。自分の声帯から発したとは思えない金切り声が出る。

 歯を食いしばりながら水溜りから顔を上げると、左肩に白い紙の付いた棒が突き刺さっているのが見えた。先が鋭利なわけじゃないのに、それは段々と傷口深く侵入してくる。その度に私はただのたうち回ることしか出来なかった。

 

「……貴女を退治してみれば、何かしらのヒントが得られるんじゃないかしら。それに、何で紫のことを知っているかも気になるし」

 

 感情の起伏の少ない声音で呟かれた言葉に、私は反応出来ない。痛みを和らげようと浅い呼吸を繰り返すので必死だった。

 

「安心しなさい。夢の中だから死にはしないわ。きっと何か失ったりもしない。ただ目覚め悪い夢を見るだけよ……あぁ、その前に紫のことは話してもらうわね」

「ゆ、め……」

 

 そういえば以前衛星トリフネの中の夢を見た時、怪物に襲われて怪我をしたことがあった。もしここでも、あの時のように夢の中の傷が残ったとしたら……

 

 

 

 今ここで死んだら、現実の私も死ぬ。

 

 

 

 私は唯一動く首を振り、必死に抗おうとする。けれど、わずかに身動ぐことしかできない。あまりに恐ろしくて……声は出ないほどに、体が竦んでいた。

 頭をブーツで踏みつけられる。体重は掛けられてないと思えるくらい軽い。けれど、この少女なら頭を踏み抜くくらい平然と出来てしまいそうな気がして、歯がガチガチと鳴った。

 

「ぃ……いや……だ……」

「さあ、話しなさい。なんであのスキマ妖怪のことを知ってるの? 素直に話せば、せめて痛みなく退治してあげ……ッ!」

 

 言葉の途中、誰かが走る靴音が響き渡った。それは水を蹴り飛ばしながら近付いてくると、不意に頭に乗せられたブーツの感触がなくなる。すぐさま顔を上げると、パーカーの女の子とカッターシャツの女の子が取っ組み合いになっていた。

 

「メリーから……離れなさいよ!」

「ちょ……なんなのよ貴女!?」

 

 カッターシャツの少女は細い腕でパーカーの少女を地面に押し付け、馬乗りになる。泥が跳ね、びしょ濡れの白いシャツにシミを作っていく。その後ろ姿に、私は飛び跳ねるように立ち上がる。

 

「蓮子!? どうしてここに……」

「何でって、そんなの考えなくても……キャッ!?」

 

 蓮子がよそ見をした瞬間、身体が大きく吹き飛ばされる。水溜りだらけの地面を転がる姿を見て、私は思わず蓮子に駆け寄った。

 

「ちょっと!? 大丈夫!?」

「あたた……って、それは私の台詞よ、メリー! その肩の傷! 大事なの!?」

 

 ところが蓮子はすぐさま身体を起こして、逆に私の両手を掴んで揺すってくる。それが逆に患部に響いて痛いんだけれどね!

 それはともかく、どうしてここに蓮子が、しかも一人で……?

 

「……ねえ、蓮子。一体これは」

「どういうことなのかしら? 人間が、妖怪を庇うなんて」

 

 私の言葉を遮るように、パーカーの少女が起き上がる。いや……いつの間にか立ち上がっていた。それに今、一瞬姿が掻き消えたような……

 女の子はドロドロになったパーカーのフードを外し、黒く長い髪を露わにする。髪飾りも何もない、ストレートヘアーだ。

 

「……貴女、自分が何やったかわかっているの?」

「は?」

 

 パーカーの少女の咎めるような言葉に、蓮子が露骨に喧嘩腰になる。

 普段は能天気な蓮子だけれど、こういう時は無類の面倒臭さを発揮する。相手が折れるまで問い詰め続けるし、向こうから謝るまで食い下がる。

 

「それはこっちの台詞よ。さっきから偉そうに言って……」

 

 あぁ、マズイ展開だ。頭に血が昇ってしまっている。反骨精神は評価したいところだけれど、今回は相手が悪かった。

 本人はただの人間だと言っていたけれど……この子は北斗のような妖怪とも戦える人間だ。私達なんて赤子の手を捻るように倒せてしまうだろう。

 

「ちょ、ちょっと蓮子……」

「途中からだけど聞いてたわよ、さっきの話。勝手に妖怪呼ばわりで悪役決めつけて……正義のヒーローのつもり? バカじゃないの?」

 

 完全に茹で上がってしまった様で、立て続けに捲し立てる。手が届いていたなら噛み付いていたかもしれないと思うほどの剣幕だ。パーカーの子も目を白黒させている。

 

「メリーは……人間よ! アンタがどう思おうとも、私がそう思っている限り!」

「そんなの貴方だけが言っても、何の意味も……」

「ないとは言わせないわ……!」

 

 蓮子は少女の言葉を掠め取りながら、一歩踏み出す。そして、すっかり水を吸ってしまったカッターシャツの襟元を握りしめ、噛みしめる様に言う。

 

「アンタがメリーを妖怪とも決めつけたように、私もメリーを人間だと……信じ抜くから」

 

 その誓いにも似た言葉を聞いて、私は身体の芯から熱いものと鉄の味のような苦々しいものが込み上げてくる。

 ……もし私を助けられるとしたら、連れて帰れるとしたら蓮子しかいない。そう思っていた。ううん、そう……願っていた。

 だからこそ、この夢の中では常に星空が見えているのだろう。蓮子だけは迷わず辿り着けるように。

 そう、来てくれて凄く嬉しかった。それは偽りようもない本心だ。けれど、私は……

 

「それじゃ……たしは……れいの……にしか……」

 

 ふと雨音の中に誰かの独り言が混じる。

 うまく聞き取れなかったけれど、それが目の前のパーカーの女の子なら発せられたものだってことはすぐわかった。妙にその独り言が気になって、聞き返すべきなのか迷う。

 そんな僅かな間幕に、突然巨大な地響きが割って入ってくる。森の木が軋み、夜空に浮かぶ水面が激しく波打ち始め、雨足が強くなっていく。

 

「蓮子!?」

「ッ! これは……」

「夢が覚めようとしてるわね」

 

 私と蓮子でお互いに抱き合うように支え合っていると、平然とした声が飛んでくる。鳴り止まない地鳴りの中恐々と顔を上げると、パーカーの正直が直立不動のまま私達を指差していた。

 

「きっと貴女が来たせいね。ま、どうでもいいけれど。結局いくら煽っても元凶は現れないし、骨折り損だわ」

 

 女の子は水を吸った髪を撫で付けながら、辟易とした表情を浮かべる。

 私は状況も忘れてそれを見つめてしまう。その姿は、先までの人間味のない様子とは正反対の、少女らしい仕草だった。

 

「老婆心で忠告しといてあげる。貴女の見ている夢は願いを歪ませる『甘い悪夢』よ。貴方達は二度夢を見た。なら三度目はない。夢の果てが貴女達から全てを奪うわ。ま、どうでもいいけどせいぜい夢見には気をつけなさい」

 

 女の子はそれだけ言うと、私達に背を向け歩き出す。それを見て、隣で片膝を突く蓮子が地鳴りに負けないよう声を張り上げる。

 

「待ちなさいよ! メリーに酷いことしといて……何も言わず帰るつもり!? 一言くらい謝りなさいよ! 後、アンタは何者なの!?」

「……初対面の相手に随分求めるわね。私が誰かなんてどうでもいいじゃない。貴女達が異変にこれ以上関わらないなら、私と会うことはないんだから」

「そんなの……」

「……まあ、そこの金髪の異邦人さんには悪いことしたとは思っているわ。だから紫の事は聞かないでおいてあげる。けれど……次はその程度では済まないわ。今日以上に痛い目見たくなかったら、首を突っ込まないことね」

 

 女の子は背中越しにヒラヒラと手を振ると、まるで陽炎の如く消えてしまった。音も何もない。まるで元より誰も居なかったかの様だった。

 私達は雨に打たれながら狐に化かされた様な呆気なさで、少女の居た場所を呆然と眺めていたが……一際強くなった雨の粒が鼻先を叩く。

 見上げると夜空に浮かぶ湖が重さに耐えきれなくなった様に、こちらに落ちようとしていた。あんな水量に押し潰されたら確実に死ぬだろう。逃げる術は……

 

「メリー、あれ!」

「ッ……!」

 

 蓮子が指で示した先を向く。すると、そこにはドアほどの大きさのスキマが開いていた。

 計ったかの様なタイミング。そこで私は確信する。ううん、薄々勘付いてはいた。蓮子が一人でここまで来れるはずがないもの。必ず、紫が手助けしてるだろうと。そして……私の夢の中に入れなくとも、監視はしているだろうと。

 

「……帰ろう、メリー。さっさと帰って、シャワー浴びて、北斗に暖かいもの作ってもらいましょ」

 

 蓮子はニッコリと笑いながら、右手を突き出してくる。その甲は傷だらけで、ここまで森を掻き分けてやってきたのがありありと伝わった。

 どんな時でも平然と、いつも通り、当たり前の様に差し伸べられた蓮子の手。今まで、私を引っ張ってくれた、私について来てくれたその手を……

 

 

 

 私は、取ることが出来なかった。

 

 

 

「メリー……?」

「蓮子、私は……」

 

 帰りたくない。そう言おうとした声は、音にならならない。蓮子に届かない。震えでまともに喋ることもできなかった。ずっと私に降り注いでいた雨が、心を凍えさせていた。

 蓮子と目が合う。真っ黒な瞳が動揺に揺れていた。

 

「なに、してるの……! ここにいたらメリーは……」

 

 ……瞳だけじゃない。差し出された手も小刻みに震えていた。

 今の私は蓮子の目にどう映っているのだろうか。それを考えると息が出来なくなる。

 ずっと信じていた。蓮子ならどこにでも連れて行ってくれるって。どんなことになろうと私の手を握って隣に居てくれるって。

 

 

 

 けれど、だからこそ……今は、蓮子が、怖かった。

 

 

 蓮子は必ず辿り着く。辿り着いてしまう。私が何なのか、紫と私がどういう関係なのか、私達の結末を、まるで無垢な子供の様に無邪気に秘密を暴いてしまう。

 怖い。元の知るために生きる世界が怖い。紫を、真実を、北斗を、これから先を、こいしを、変わっていく世界を、知るのが怖くて堪らない。

 

「メ、リー……やだ、待ってよ。置いてかないでよ、私を一人にしないで、お願い、いや、いや、メリー、お願い、教えてよ、私、こんなサヨナラは……」

 

 うわ言のように、縋り付くように蓮子が言葉を連ねる。けれど、頭の中に一切入らなかった。ただ怖い怖い怖い……

 雨が一気に強くなる。土砂降りを通り越し、鉄砲水のような水流が頭に降ってくる。私は抗いもせず、それに吞み込まれた。ぐるぐると回転する暗い視界にいくつもの気泡が舞い上がり、私は揉みくちゃにされる。

 そんな中、一瞬だけ誰かの手が視界に入った気がする。けれど、誰の手か確かめることはできない。

 私は何も理解できないまま、目を閉じて肺の空気を全て吐き出した。

 

 

 

 ……最後まで私に手を伸ばしてくれるのね、蓮子。

 嬉しいよ。貴女が、私を求めてくれて、本当に……嬉しいの。

 けれどね、私は……やっぱり貴女が怖いの。

 知りたくないと駄々をこねて、こんな森の中に閉じ籠った私を……蓮子はどう思っているのか。それが何より一番怖くて……

 

 

 

 

 

 ねえ、蓮子。知りたくないと思うのは……いけないことなのかしら?



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20.失われた右腕

 いつかそうなるんじゃないか、って予感はしていた。

 メリーは私には見えないものが見える。触れることができる。特別な存在だ。

 対して私には何もない。ただ、特別な彼女を連れ回して不思議に触れようとしただけの、凡庸な人間。

 自己中心的だなってずっと思っていたし、利用しているみたいな罪悪感も……たまに覚えてた。

 けれど、それでも私はメリーの手を取った。何処か知らない場所へ行ってしまわぬようにと、縋るように、祈るように繋ぎ止めていた。いつか来る終わりに、メリーを、奪われないように。

 けれど、結局のところ、ただの独りよがりだったみたい。

 

 

 

 だって、メリー自身が私の手を振りほどいたのだから、私に何もできるわけがなかった。

 

 

 

 

 

 ……規則正しい心拍音な揺れと、くぐもった金属音。目を開けてみると、切れかけた旧式の電灯が薄暗く空席の座席を照らしていた。

 どうやら私は、一番端の席で窓に頭を預けて眠っていたみたいだ。私はまだぼんやりする頭を抱えながら立ち上がり、辺りを見回す。

 一瞬、以前乗った卯酉新幹線ヒロシゲの中かと思ったけれど、内装は一昔古い型の電車——ここに来た時に乗ったローカル線の車両に近かった。まあ、車内の寂れ具合は最終便のローカル線以上だけれど。

 

「一体ここは……」

 

 つい口から溢れた疑問に、答えは帰ってこない。そもそも私以外誰も居なかった。

 寂しさを通り越して、不気味な光景だ。まるで滅びた世界に、私が一人取り残されたような喪失感を覚えてしまう。

 私は現実から逃げるように窓の外へ目を向け、そしてまた驚く。

 そこには車内の明かりでも照らせない、深い闇があるだけだった。雲で隠れているのか月と星も一切見えない。たまに車内の明かりに照らされた小さな泡が写り込む程度で……

 えっ、泡? 空中に、泡? まさか、この列車は……

 

「海の中を、走ってる……!?」

 

 いや、あり得ない。ガラス張りの水中トンネル内を走っているって訳でもないのに、水の中を走るなんて……少なくともこんな旧式の、レトロ列車じゃ出来るわけない。そもそも線路は、レールはどうなってるの? 動力は? 安全性の問題は……

 次々に解決できないはずの疑問が浮かんでいく。けれど、すぐに無意味だと気付く。あぁ、そうだ、そうだった。ここは夢の中だ。私は、メリーを助けようとして夢の中に入ったんだった。サナトリウムに、茨の森、そして海中を走る電車内……

 

「これで三回目……」

 

 そういえば、あのパーカーの子が警告していたわね、次はないって。彼女を信用するわけじゃないけれど、どうもその言葉が気になってしまう。ううん、もしかしたらここに来た時点でもう手遅れなのかもしれない。なんて、暗い考えが過ぎる。

 けれどすぐ首を振って頭から追い出す。まだそう決まったわけじゃないし、私が立ち止まれば、メリーは……

 

「早くメリーを探さないと」

 

 私は揺れに気をつけながら一つ前の車両へ向けて歩き出す。

 どうやらここは最後尾の車両のようだ。なら分かりやすい。後はどんどん前の車両に移っていくだけで、車内をシラミ潰しに探せる。まあ、海の中にいたら、どうしようもないけれど。メリーが人魚になっていないことを祈るばかりだ。

 なんて冗談を考えながら、私は連絡通路の扉に手を掛け横に引っ張ろうとする。

 

 

 

「あっ……」

 

 けれど、私は不意に振り払われた手の感触を思い出して、その場に立ち尽くす。もしこの先にメリーが居たとしても、私はもう彼女の手を取れない。取ってくれない。また拒絶されて、傷付くだけ。

 ……じゃあこのまま私だけおめおめと逃げ帰る? それは余りにも酷いし、情けない。たとえ私の手を取ってくれなくとも、メリーを見捨てる訳にはいかないわ。

 ただ、歩き出すことは出来ない。私ではメリーを救えない。滑稽だ。はなから救う力も資格も持っていなかったくせに、こんなところまで来て……

 

 

 

 ここにいるのが、私である意味はあったのだろうか?

 

 

 

「ウデ……ミギウデ……」

「ッ……!?」

 唐突に低いしゃがれ声が、私を思考の暗い沼から引きずり出す。

 反射的に振り向くと、車両の真ん中に小鬼が立っていた。血管が浮き出るほどに青黒い肌、穿たれた眼窩から覗く石のような眼球、最初の夢の中に出てきた奴だ。手には錆びついた草刈り鎌が握られていて、先から血が滴り落ちていた。一体あれで、何を切ったのだろうか……?

 北斗と紫が救けてくれた時の血生臭さを鮮明に思い出してしまった。喉から吐き気が込み上げてくる。

 またどこかへ引きずられてしまうのだろうか? そう考えると足が震えてくる。マズイ、まともに動けそうに、ない……! 恐怖で張り裂けそうな心臓を抑えて、荒い息を繰り返す。

 ……どれくらい経っただろうか? 前触れもなく小鬼がコキッと首を鳴らす。

 

「ウデ、ミギウデ……ウデ……」

「……腕?」

 

 嗄れた声で、小鬼が呟く。その物騒な見た目に反して、うわ言のような……念仏を問えているような静かな声音だった。

 腕というワードで連想されるのはあの黒ローブだ。無数の腕に引っ張られる感触と、闇の中へ引きずりこまれていく北斗の姿が頭に過ぎる。

 ヤバい、逃げないと……殺される。いや、殺されるだけじゃ済まないかもしれない……!

 けれど、目の前の小鬼から目を逸らしたらすぐさま襲われそうな気がして、走り出すことができない。

 必死で震える足を引きずり、何とか背後の扉まで辿り着くけれど……振り向いて扉を開ける、最後の勇気がない。焦燥感が身体に纏わり付いてきて、また四肢が強張っていく。悪循環だ。

 

「ウデ、ヨコセ」

 

 そんな時、カツンと甲高い音が走行音に混じりながら響く。薄い鉄を落としたような音。草刈り鎌の先で床を叩く音だった。

 

「ウバウ、ウデキリオトス、ウデ」

 

 うわ言のような言葉の羅列を聞くたびに心拍数が急上昇していく。呼吸が上手く出来ない。酸欠で気を失ってしまいそうだ!

 

「ウデ、ウデオトスキルウバウヨコセウデヨコセウデウデウデウデミギウデウデウデヨコセウデッ!」

 

 そして心拍が最高値に達した瞬間、小鬼が猛然とこちらに向かってくる。

 それを目の当たりにして生存本能が反応した。背後の扉をあらん限りの力で開け放ち、連絡通路に逃げ込む。そして腕が千切れても構わないという勢いで扉を閉める。

 間髪入れず扉に衝撃、身体が背後の扉に叩きつけられそうになる。小鬼が扉にぶつかってきたんだと小窓を見なくてもわかった。

 

「ッ! やめて……やめてよッ!」

 

 必死に扉を抑えながら懇願する。けれど化け物が人の話を聞くはずもなく、扉を叩く音は鳴り止まない。

 なんでこんな思いをしないといけないの……! 理不尽な状況に叫びたくなるけれど、そんなことしても状況は変わらない。

 生き残るには、とにかく前の車両に逃げないと。辛うじて残っていた理性に尻を叩かれて、私は扉を抑えながら背後にあるドアを確認する。

 

「ウデ、ヨコセ」

 

 絶句する。ドアの覗き窓に無数の鬼の顔が張り付いていた。私は挟み撃ちされて、小さな連絡通路のスペースに閉じ込められてしまっていた。

 なんて酷いB級ホラーだ。次の展開なんてわかりきっているじゃない。

 

「もう、嫌だ……! 誰か助けてよ!」

 

 誰も来ないってわかっているのに、それでも私は叫ばずにいられなかった。子供の様に叫んで、喚いて、呻いて……そして、疲れる。

 気付けば私は連絡通路の足場に座り込んでいた。扉を抑えていた両腕も、力なく横たわっている。

 

「は……は……」

 

 自分を嘲笑う気力もない。北斗や紫におだてられるがままこんなとこまで来た挙句、最初に逆戻り。結局、私一人じゃ行き着く先すら変えられない。

 

「もう、いっか」

 

 私はそのまま目を瞑る。程なくして、私の右肩を抱く様に小鬼が引っ張る。あの土気色した腕に反して、意外と柔らかく暖かい感触だ。

 連絡通路から引っ張り出され、私は車両の床を無造作に転がる。生温い泥の様に感触に私は薄っすら目を開けると、赤と黒に塗れた車両内の景色が見えた。

 こんなに血が出てる。もう腕を切られたのかな。まだ全然痛くないけれど……

 そう言えばさっきから騒々しい断末魔が続いている。そんなに煽らなくたって私は何も出来ないのに、私は再び目を閉じようとする。

 

「……目を開けろ蓮子ッ!!」

 

 けれど、私を呼ぶ声がはっきりと聞こえて反射的に目を開ける。すると赤黒い血の海の中に真っ黒の衣装が見える。

 左腕にはこれまたべっとりと血に染まった日本刀。外人の間違った日本知識で作られたスプラッタ映画の主人公みたいな奴が、残骸の中に立っていた。

 彼は私に背を向けながら残った小鬼を牽制していて、顔は見えないけれど……その姿だけで誰だかすぐにわかった。

 

「北斗ッ!? 無事だった、の……」

 

 喜びと安堵のあまり声を上げてしまいそうになるけれど、次の瞬間には言葉が出なくなってしまう。気付いてしまったのだ。本来右腕が通っているはずの袖の中に、何も入っていないことに。

 そして嫌な予感が頭を過って、また血の気が引いていく。

 

「ほ、北斗、その腕……」

「大丈夫だから! 下がって、てッ!」

 

 北斗はそう叫びながら飛びかかってくる小鬼の胴体を空中で串刺しにする。すぐさま足を使って胴体から刀を引き抜くと、返す刀で別の小鬼の首を切り落とす。電光石火の間だった。二体の身体から噴水の様に血が吹き出る。

 鬼気迫る表情で北斗が一刀振るう度に腕が、首が、上半身が飛んでいく。足元の赤い水溜りが際限なく広がっていく。

 今まで見た中でもっともグロテスクな光景な筈なのに……私は北斗から目を離すことができなかった。それは映画なんかよりも遥かに刺激的で、どこかの劇場でみたダンスよりも素晴らしく流麗だった。

 

 

 

「下がっててって言ったのに。まあ、怪我がないようでよかったよ」

 

 ……気が付けば、小鬼すべてを斬り捨てた北斗が、私の顔を覗き込んでいた。前と違って随分息が切れている。無理もない、むしろ利き手を失ってなおマトに戦えていることの方が異常だわ。

 

「北斗、わたし……」

 

 どうやら私は、どれくらい時間が経ったかすらもわからない程ボーッとしていたようだ。あまりに刺激的で脳内の処理速度を超えていたのかもしれない。

 私は上がり過ぎた心拍数を抑えようと、胸を押さえながら息を吐く。

 しばらくそうしていると、ある時から急に目からボロボロと涙が溢れて出した。思わず顔を伏せ、両手で顔を覆う。

 あまりにも突然だったので自分でも驚く。泣くことなんて何にも、何にも……ないのに!

 

「……ッ」

 

 帰りたい、と言いかけた唇を寸のところでつぐむ。北斗の前でそれを言ったら私は二度と秘密と、不思議と、メリーと向き合えなくなるような気がした。言霊、みたいな高尚なものじゃなくて、私の根幹が折れてしまうような、予感。

 ……これからどうするかを、今考えちゃダメだ。メリーと話し合って二人で決めないと始めることも、終わることも出来ない。

 どれだけ辛くても、どれだけ惨めでも、メリーを助けないと。

 

「立ち上がれる?」

 

 頭の上から、優しい声が掛けられる。顔を拭って見上げると、北斗は私に背を向けてジッと前の車両を見つめていた。

 次来る鬼を警戒していたのか、はたまた私のこんな無様な姿を見ないでいてくれたのか。わからないけれど、どちらにしろありがたかった。

 

「……大丈夫。ごめんなさい」

 

 私は立ち上がり、いつの間にか脱げて床に転がっていた帽子を拾う。全身は血だらけなのに、帽子だけはまっさらで笑ってしまいそうになる。まあ、血の滴った手で触ったから変わらなくなったけれど。

 私は帽子を被り直しながら、北斗の右隣に立つ。そして、おもむろに北斗の右袖を握り潰すが、やっぱり中に腕はなかった。

 

「北斗、その右腕は……」

「あぁ、二回目の夢の世界でちょっと油断してね。まあ、多分現実世界には影響ないだろうし、今のところ痛みも出血もないから、あまり気にしなくていいよ」

 

 まるで擦り傷かの様に平然とそう言うと、北斗は刀を持った左腕を掲げながら笑う。けれど、それが逆に私の胸を締め付けた。誤魔化そうとしてくれてるけど、北斗がこうなったのは間接的に私のせいだ。私を夢の中から帰すために、こんな姿になって……

 しかも、北斗は私ならメリーを救えると信じて助けてくれたのに、結局助けられなかった。思わず袖にすがりつくような姿で、私は北斗に頭を下げた。

 

「……ごめんなさい」

「蓮子が腕を取ったわけじゃないだろう? 悪いのは、この悪夢を仕組んだやつだ」

「そうじゃなくて。ううん、そのことも悪いと思っているんだけど。せっかく北斗が助けてくれたのに、私じゃメリーを助けられなかったから……」

「諦めるのはまだ早いよ。この奥にきっとメリーがいる。左手一本の俺じゃ刀を持つので精一杯だからさ、蓮子が手を取るんだ」

 

 北斗はそう言うと、やんわりと私の手を解いて先の車両へ移ってしまう。私を気遣ってかその足取りはかなり遅い。けれど私は、すぐにその背中を追うことはできなかった。

 気を利かせて上手いことを言ったつもりなのだろう。けれど、北斗は何もわかってない。たとえ両手が付いていても、私の手じゃメリーの手を取れないのに……いや、取る資格もなくなったというのに。

 

「蓮子、大丈夫か?」

 

 気付けば北斗が扉の向こうから心配そうにこちらを見ていた。その顔にせっつかれて、慌てて車両を渡ろうとする。

 

「ッ……」

 

 が、その一歩目を踏み出した瞬間、電車の揺れに足を取られてしまう。咄嗟に手すりを掴めたので転けはしなかったけれど……体勢が崩れて自然と窓の外に目が向く。

 塗り潰された様な景色に依然変わりはない。けれど、その闇の奥で何かがこちら気がして、私は意図せず早足で北斗の背中に追いついた。

 

 

 

 

 

 北斗と二人で何両か車両を渡り歩いてみたけれど、結局メリーの姿どころか人っ子ひとり、もとい小鬼一匹すら見つけられなかった。

 簡単に見つかるとは思っていなかったけれど、つい焦ってしまう。車両内の、嵐の前の静けさの様な落ち着かない不気味さに耐えかねていると……急に前を歩いていた北斗が扉の前で立ち止まる。

 

「次は一番前の車両だ。何が起こるかわからないから、離れない様にね」

「何かって……」

 

 北斗の背中越しに窓の向こうを見るけれど、まったく変わりばえのない無人の車内しかない。強いて違いを挙げるとしたら、奥に運転席が見えるくらいだけど……

 

「……北斗には、何か見えてるの?」

「いや、何も。ただ、俺達がメリーを探しているように、向こうも蓮子を探してる。だから、きっと何か仕掛けてくるはずだ。いや、そうじゃないと困る」

「向こう、って私の夢の中に居た、あの黒ローブのこと? なんで北斗じゃなく私を探して……」

「そりゃあ……俺はもう用済みだろうから、なっ!」

 

 と、急に北斗が言葉尻に合わせて一枚、二枚と連絡通路のドアを開け放つ。すると、間髪入れずその向こうから小さな影が飛び込んでくる。

 小鬼ッ!? ドアの死角に隠れていたの!? 思わず身体を強張らせてしまう。けれど、その次の瞬間には北斗が蹴りで小鬼を吹き飛ばしてしまっていた。

 

「こいつらは夢の中で、人間の右腕を集めている。俺の腕は奪われた。あとは蓮子のだけだ」

 

 北斗は片足を上げたままそう言うと、何事も無かったかの様に最前の車両の中に入っていってしまう。そして、もののついでかのようなぞんざいさで床に転がり悶える小鬼の肩を踏みつけ、刀の切っ先を喉元に突き刺す。

 ……あまりに平然とトドメを刺すものだから、反応する暇もなかったわ。あと、サラリと物騒なことも言われた。

 まあ、さほど驚きはしない。最初に襲ってきた小鬼も私の四肢を切り取ろうとしたし、何より被害者がそういうなら間違いないだろう。ただ気になることがあった。

 

「ちょっと待ってよ北斗。腕を集めるなんて、そんなことをする必要があるの? ここは夢の中なんでしょう? 現実には影響ないのに、何が目的で……」

「さあね。そこら辺は本人に直接聞いてみないと」

「直接って……あの黒ローブに? 流石に冗談が過ぎるわ。あの妖怪腕よこせとマトモに話が出来るとは思えないけれど」

「……ま、とりあえずやってみないとね」

 

 私が苦い顔をしているのを他所に、北斗はピクリとも動かなくなった小鬼を前方に蹴り出す。小鬼が転がった後の床に、ミミズが這ったような赤い線が引かれていく。

 前触れもなく死人に鞭打つような所業をし始めたものだから、困惑していると……転がり続けていた小鬼の身体が急に止まる。いや、黒ローブから伸びた白く艶かしい足が、小鬼を受け止めていた。

 私は思わず息を飲む。ずっと頑なにローブで隠され続けていた素顔が、今になって露わになっていた。二つのシニョンで纏められた桃色の髪、桜の花弁のような唇、鋭く細められた丸っこい目……そして、北斗と同じく、失われた右腕。

 

「で、そこのところどうなんですか華仙さん?」

 

 ……まさか、ずっと男だと思っていた黒ローブの中身が、綺麗な女性だとは思ってもみなかった。



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