二度目の中学校は”暗殺教室” (暁英琉)
しおりを挟む

椚ヶ丘中学校暗殺教室
俺が黄色いタコに出会った日


 青春とは悪である。

 世界は小説のように都合よくできてはおらず、純不純を問わず悪意に満ちている。個人の悪意、集団の悪意、直接の悪意、間接の悪意。そのどれもを彼らは青春の名の元に正当化する。

 学校社会が集団交流を促す教育機関であることを考えると、無視という行為も悪である。そういう意味では誰とも交流をしない俺、比企谷八幡も純然たる悪と言えるのかもしれない。

 黒歴史を作りまくった中学校生活を終えて、関係をリセットするためにうちの生徒がほとんど進学しない、千葉有数の進学校である総武高校に入学した。まあ、リセットした関係なんて全部が全部マイナスなものだったわけだが。

 そして、今後三年間に多少なりとも希望を抱きながら早めに登校していた入学式の朝――俺は交通事故にあった。飼い主の手から離れた散歩中のワンコが轢かれそうになるのを、つい助けてしまったのだ。

 右足を骨折して全治一ヶ月。あんな立派な高級車に轢かれた割に、この程度で済んだのはむしろラッキーと言えるだろう。その結果、俺の高校デビューは開幕ぼっちスタートが決定してしまったわけだが。

 今にして思えば、あれがなくても人に早々話しかけない俺は、どの道開幕ぼっちスタートだっただろうなとは思う。そこに関しては入院中に折り合いもつけたし、どうということはなかったのだが、学校に復帰してから進学校で一ヶ月休むことの意味を実感した。

 端的に言えば、授業についていけなかった。得意科目の国語や英語や暗記科目の社会はともかく、元からそこまで得意ではなかった理数系が壊滅的に理解できなかったのだ。理解しようと自学しても、その分授業は先へ進む。一週間も経つ頃には勉強すること自体を諦めてしまった。

 そして考える。集団になじむこともなく、本分である勉強にもついていけない俺がここにいる意味はあるのだろうか。

 きっと、恐らく、意味などないのだろう。

 その結論に至ると、急に心は冷めてしまった。二週間も経つ頃には学校に行くこともなく、昼間から夜まで外をふらつく生活をするようになった。俺一人程度が不登校になった程度で学校もクラスも何も変わらず、今まで通りの空気が流れているだろう。

 うちの親も何も言わない。唯一妹の小町が時々心配そうに話しかけてくるが、直接的なことは何も言ってこなかった。

 そんな家にいるのもどこか息苦しくて、今日も俺は夜道を当てもなく歩く。

 

 

     ***

 

 

「……ん?」

 

 夜中の人っ子一人いない住宅街。深夜を回った細い道を照らすのはポツンポツンと設置された街灯くらいのもので、視界は非常に悪いし、灯りが発するジジジという不快にすら感じる小さな音以外何も聞こえない。

 

「ヌルフフフフ」

 

 だからその声はいやにはっきり聞こえてきたし、その黄色い姿は目に痛いほど目立った。

 黒い服に身を包んだその身体は……でかい。二メートルは余裕であるだろう。それに、どこかフォルムが人間離れしている気がする。人の腕ってあんな風に曲がるもんだっけ?

 

「いやあ、給料があるっていいですねぇ。甘いお菓子が食べられるって……幸せ」

 

 手に持っていた恐らくコンビニの袋を大事そうに胸に抱いたかと思うと、その黄色い人物は――飛んだ。

 

「……は?」

 

 一瞬何が起こったのか分からなかった。突然のことに、消えたのかとすら思ったが、ふと上を見上げると黒と黄色のフォルムが目に入った。

 なんだあれ、UMA? どっかの国の戦闘スーツとか? 一直線に飛んでいくから、かろうじて目で追うことができているけれど、ものすごいスピードで巨体は豆粒になっていく。

 あの方向は覚えがある。中学の時の学校見学で行った私立の学園があったはずだ。

 脳がガンガン警鐘を鳴らしている。あんな得体の知れないものは無視した方がいいと警告をあげ続けている。

 でも、それでも。

 

「……行ってみるか」

 

 何よりも好奇心の方が何倍も勝ってしまった。

 地図アプリで現在地点と謎の人間(?)が飛んでいった方向を入力すると、俺はその方向に向かって駆け出した。

 

 

 

「はっ、はっ、はっ……」

 

 つらっ。

 さすがに中学からこっち、ずっと帰宅部だった身にとって、この運動はなかなかきつい。最低限の舗装がなされた山道を登るだけで息が乱れに乱れてしまった。だけれど、あいつの正体を確認するならおそらくここだ。私立椚ヶ丘学園近くの小高い山。あんなでかくて目立つ図体の飛行物体が目立たないように降り立つならここだろう。登るペースを緩めながら息を整える。

 やがて道の先に何かが見えてきた。はやる気持ちを抑えてゆっくりと近づく。石造りの二本の小さな柱、そこをくぐった先には綺麗に舗装されたグラウンドに木造の――

 

「学校……か?」

 

 木造平屋のそれは一昔前の校舎だった。廃校になったものだろうか? しかし、それにしてはやけにグラウンドなんかも手入れが行き届いている気がする。

 校舎の方に目を向けると、窓の一つから光が漏れていた。やはりまだ機能している施設のようだ。ひょっとしたらあのデカブツがいるかもしれないと、息を殺して抜き足差し足で明かりのついている窓に近づいた。

 窓の脇に身体を寄せて、そっと中を覗いてみる。

 

「……ビンゴ」

 

 黒い服に黄色いフォルム。間違いなくさっきの奴だ。しかし、こうしてみると明らかに人間ではない。さっきまでは手袋をつけて変装していたようだが、その手の先には指と思われるものが二本しかついておらず、そもそも腕と思われるそれには関節らしきものも見当たらず、ぐにゃりと曲がっている。というか、骨自体がないのではないだろうか。顔もスライムみたいにぶよぶよしているし。

 そしてなにより服の下から伸びた無数の脚。こんな生き物を俺は知らない。あえて何かに例えるとしたらタコだろうか。黄色くてこんなでかいタコ、俺は知らないけれど。

 その異常な生命体は行儀よく椅子に座って――

 

「ヌルフフフ、この新作スイーツおいしいですねぇ。コンビニデザートもなかなか馬鹿に出来ないです。ヌっひょー! この曲線は芸術品ですよ!」

 

 ……コンビニデザートを食べながらグラビア雑誌を見ていた。

 なんだこいつ。いやほんとなんだよこいつ。

 普通こんな異質な生き物がいたら恐怖するものだが、そのあまりにも間抜けな様子に、完全に緊張が切れてしまった。

 そしてそのせいで――

 

「そこで何をやっている」

 

「っ!!」

 

 俺は後ろから近づいてきていた気配に気がつかなかった。

 

 

     ***

 

 

「暗殺教室?」

 

 “3-E”のプレートが付いた夜中の教室で、防衛省の烏間と名乗った人が説明してくれた。

 新学期の初めに起こった月が七割消滅するという世界的事件。その犯人が黄色に無数の触手を持つこの生物であり、さらにこいつは来年三月に地球も爆破すると言っているらしい。

 そして、このタコ型生物が逃げ回らない代わりに出した条件が「椚ヶ丘中学校3-E担任をする」というものだった。最高時速がマッハ二十にもなる生き物を一ヶ所に定住させることができるという理由で、政府もその条件を飲んだらしい。

 そして、このE組のクラス全員がこの生物を外部には秘密裏に殺そうとしている。つまりは中学生が暗殺を行っているのだ。生徒が暗殺者、ターゲットは暗殺報酬百億円の先生。あまりにも現実離れした関係だが、直にその地球破壊(予定)生物を目にすると、事実として飲み下すしかなかった。

 

「まったく、あれほど一般人には見つからないようにしろと言っていただろうが」

 

「ヌぅ、面目ありません」

 

 まあ、その凶悪生物はなぜかE組の体育教師も兼ねているらしい烏間さんに説教されているんだけれど。こいつ本当に暗殺対象なのん?

 

「しかし、確かにこいつが油断していたとは言っても、比企谷君はなぜこんな時間に出歩いているんだ? 見た感じはまだ学生のようだが」

 

 痛いところを突かれた。ついでに補導もされてしまうだろうか。まあただ、今さら嘘をついても仕方があるまい。

 

「一応総武高校の生徒ですが、今は学校をサボってるんですよ」

 

「にゅ、言い訳をしないのですね」

 

「誤魔化したところで防衛省の人が相手ですよ? ちょっと調べれば嘘ついたって分かるじゃないですか」

 

 権力とは単純な力であり、その点では俺はこの場で圧倒的弱者だ。ここでむやみに国家権力を敵に回すのは愚策以外の何物でもない。

 俺は最底辺。負けることに関しては最強。そして、余計な勝負を回避することに関しても最強なのだ。

 触手生物はふむふむと考え込んでいるが、正直こいつのことなんてもうどうでもいい。

 

「それで、俺はどうなるんです?」

 

 目下の問題は俺の処遇だ。

 この生物は国家機密レベルの極秘生物だと烏間さんは言っていた。ということはそれを聞いてしまった俺を日本政府が放っておくわけがない。運命の日まで厳重に見張りがつくか、軟禁か、はたまた記憶消去か。いずれにしても、このままやすやすと帰してはくれないだろう。

 

「あぁ、こちらの不手際故に非常に申し訳ないのだが君には……」

 

「比企谷君にはこの暗殺教室に“転校”してもらいましょう」

 

「「は?」」

 

 烏間さんの声を遮るように触手生物が声を上げた。

 

「待て! むやみに一般人を暗殺に参加させるわけには……」

 

「けれど、そうしない場合は比企谷君の記憶操作処理をしなくてはいけませんねぇ」

 

 諭すような声に烏間さんはグッと喉を詰まらせる。というか、本当に記憶操作処理とかできるんですね。八幡冗談で候補に挙げただけだったのに。

 

「それに、彼はなかなか才能があるようですよ。殺気は感じられませんでしたが、私は暗殺者だと思ってしまいましたから。まあ、そのせいで姿を見られてしまったわけですがね」

 

 え、暗殺者とか酷くないですかね。確かに小町に目つきが酷いとは言われるけれど、そんなに人を殺しているように見えるのかな。ちょっとショック。

 

「っ……! なるほど……」

 

 凶悪生物の言に烏間さんは何か納得したようだ。しかし、俺の言い分も聞いていただきたい。

 

「ちょっと待ってください。そもそもここ、中学三年生の教室ですよね。俺、高一なんですけど。まず転校が無理じゃないですか」

 

 高校から中学校への転校なんて聞いたことがない。そもそも暗殺をする教室なんて、ちょっと怖いなんてレベルではないんだけれど。どんな化け物たちが潜んでいるのか分かったものではない。

 しかし、目の前の黄色い顔は楽しそうに「ヌルフフフ」と笑いかけてくる。

 

「転校というのはあくまで方便です。比企谷君は毎日学校に来るようにここに来て勉強をすればいいだけです。国がかけ合えば、今通っている高校での留年の心配もないでしょう。ね、烏間先生?」

 

「……はあ、本人が了承するのならこちらで手配しよう」

 

 いやあの、俺了承なんてしていないんですけれど……。いや、学校に行かなくてもいいとかマジ天国だけれど、その代わりに普通に学校にきて暗殺っていうのも、むしろ大変になってない? という話なんだよなぁ。

 

「まあ、俺としてもあまり記憶操作処理はしたくないんでな。できるのなら、比企谷君にもこの条件を飲んでもらいたい」

 

「最新技術とはいえ、記憶操作も完璧ではないですからねぇ。私もあまりそっちの処置は取ってもらいたくないんですよ」

 

「……暗殺者が増える状況を、なんで暗殺対象が推奨してるんですかね」

 

 なんで常に殺される危険に晒されている存在が人の心配をしているんだか。こいつの前では、つい気が抜けてしまう。ため息をついた俺に、奴は黄色い触手をくねくねとくねらせながら、余裕たっぷりに笑った。

 

「ヌルフフフ。大丈夫ですよ、殺されるつもりは微塵もないですから」

 

 ゴムボールみたいな顔が黄色と緑の縞模様に変色する。烏間さん曰く、相手をナメ切っている時の顔色らしい。つまりこいつ、感情を隠すことができないんじゃ……。

 なんかどこか抜けている暗殺対象者だなと思うと、全力で拒否する気も失せてしまった。

 

「わかりました。その提案、受けさせてもらいます」

 

「ヌルフフフ、よろしくお願いします。私のことは、“殺せんせー”と呼んでください」

 

 殺せんせー、か。どうやら生徒の一人が決めた名前らしい。殺せない先生だから殺せんせーだとか。

 

「よろしくお願いします、殺せんせー」

 

 

 こうして、俺の暗殺教室は始まった。




読んでいただきありがとうございます!

本当は完結してからこっちに転載しようかなと思っていましたが、端的に言ってまだ当分終わりそうにないので、もうこっちでの投稿もやっていこうと思います。

八幡の葛藤や成長、E組生徒や殺せんせーも含めた先生達との交流を楽しんでもらえたらなと思っています。

ちなみに、暗殺教室単行本18巻が出ていますが、一応ラストまでの大まかなストーリーはでき上がっているので――完結するまで読めません!
早く読みたいですのん……。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

暗殺教室は予想に反して明るい

「……はあ」

 

 健康的な時間に目を覚まして、約二週間ぶりに総武高校の制服に袖を通す。そもそも着ていた期間自体二週間程度だったので、まだ慣れないそれに思わずため息が漏れた。しかし、あくまで学校に行くわけだから制服で赴くのが礼儀というものだろう。

 俺の“転校”が確定事項になったことは朝一で来ていた烏間さんからのメールで知った。ただ、総武高校にも進学校としての体裁があるため、定期考査だけは受けるようにという条件付きらしいが。となると独学で範囲の勉強をするべきかな。理数系ができる気しねえなぁ。

 

「ぁ……おはよ……」

 

「おう……」

 

 リビングに入ると中学の制服に身を包んで朝食を摂っていた小町と鉢合わせした。同じ家に住んでいるが、最近の俺はほとんど家にいないから実際に会うことは少ない。

 

「あれ? お兄ちゃんが制服着てる」

 

 俺の服装を見咎めた妹はコテンと首をかしげる。

 

「まあ、ちょっとな」

 

「そっか……」

 

 拒絶的に会話を切って買い置きのパンを漁ると、その空気を察してか小さい声を漏らして食事に戻った。相変わらず空気の読める妹だ。

 けれど、二人の間に流れるこの空気は吐きそうなほど不快で。

 

「じゃ、行ってくる」

 

「いってらっしゃい……」

 

 俺は情けなくも逃げることしかできなかった。

 

 

 

 自転車で事足りる距離の総武高校と違い、うちから椚ヶ丘学園までは少々遠く、自然と電車通学を余儀なくされる。通勤通学ラッシュにひしめく電車の中で椚ヶ丘中学校について調べてみた。

 偏差値六十六、高等学校に至っては七十にもなる創立十年の新設校。私立としても全国指折りの進学校だ。理事長の浅野学峯はハーバード大学を卒業した教育界の風雲児で、テレビや新聞で俺も目にしたことのある有名人である。

 そして三年生にのみ設置されている“特別強化クラス”E組は素行不良生徒、成績不振生徒を集中教育するクラス――ということになっているらしい。一度落ちれば上位五十位以内に入って元担任の復帰許可をもらう必要があり、二学期期末までに復帰できなかった生徒は椚ヶ丘高等学校への進学ができないらしい。私立の中学ならば、こういう一見非情にも見える合理主義も通るものなのかと納得しそうにもなるが、それにしたって本校舎から隔離された山の中のボロ校舎での勉強、という事実を見ると異常性が際立つ。

 あれでは村八分、目に見える差別だ。進学校であんな形を取れば、落とされる側には絶望しか生まれない。すでに人生諦めてしまう生徒も出ているのではないかと恐怖するレベル。そんなの、教育機関としてはまた異常だ。

 

「そもそもあんなのが担任って時点で異常か」

 

 担任を引き受けた生物も異常なら、それを了承した理事長も異常。殺せんせーと名乗るあの超生物に成績落伍者に対して教鞭を振るう能力があるのだろうか。それを考えると、あの教室は一種の見せしめなのでは、そう邪推してしまう。

 まあ、俺にとってはそんなことどうでもいい。ただあいつを殺すために行くのだから。

 鞄に忍ばせた対先生BB弾の込められたエアガンと、内ポケットに仕舞ったプルプルの対先生ナイフに意識を向ける。あの謎生物を殺処分するだけ。それだけを考えればいいのだ。

 

 

     ***

 

 

「今日から転校になった比企谷八幡君だ。高校一年だが、奴自身が彼を生徒として認識している」

 

「……比企谷です。よろしくお願いします」

 

 朝のホームルームで烏間さんに紹介された俺は……正直戸惑っていた。

 

「すげー! 高校生だ!」

 

「あれって総武高の制服じゃない?」

 

「この時期に転校してきたってことは本職の暗殺者ですか?」

 

 めちゃくちゃキラキラした目で質問してくるですが……。予想していた落伍者クラスの印象とは全然違う、明るい空気。暗殺を強要されている中学生とは思えない生き生きさだ。

 

「いや、暗殺者じゃない。昨日殺せんせーを見ちまって、今日から暗殺教室に参加するように言われたんだ」

 

 昨日の出来事をかいつまんで説明すると、生徒たちの目が一斉に教室の隅に立っていた殺せんせーの方に向けられる。

 

「殺せんせーなにやってんの!」

 

「国家機密が一般人に見られたらだめじゃん!」

 

「にゅやっ!? ……返す言葉もありません。先生、国家機密失格です」

 

 ハンカチ持って涙拭いてるんだけど、あれって三月に地球破壊するとか言っている生物なんだよね? なんで生徒に怒られているんだろうか……。なんだよ国家機密失格って。

 

「コホン。比企谷君の席は菅谷君の後ろです。あ、授業の妨げになる暗殺はなしでお願いしますね」

 

「……わかりました」

 

 菅谷と呼ばれた細身長身の生徒の後ろに座る。こいつでかいな。百八十センチ前後はありそうだ。うわぁ、見た目だけなら向こうの方が年上みたい。

 しかもちょっと目つきが鋭い。大丈夫? いきなりカツアゲとかされない?

 

「よろしくお願いします」

 

「お、おう。よろしく」

 

 意外に礼儀正しかった。いや、まあそれが普通なんだけど、見た目とのギャップというか、環境とのギャップで風邪を引きそうになる。

 まあ、関わるのなんて最初だけだろう。中学校に高校生という異質な状況が皆の興味をそそっているだけで、普通は俺なんかと関わろうなんてしないはずだから。

 

 

 

 そのまま一時間目の授業が始まったのだが。

 

「このままでは方程式が成り立たずにxを割り出すことができません。これは大変だと頭を抱えているそこのあなた! そこで役立つのがこの特殊解です!」

 

 カカカッと滑らかな動きで黒板に特殊解とそれが使える条件を書き記していく。中学の時にかなり苦戦をしたはずの数学問題がすらすらと理解できる。

 端的に言って、殺せんせーの授業は今まで受けたどんな授業よりも分かりやすかった。ただひたすら問題を解かせたり、息苦しさすら感じる重苦しい授業ではなく、ユーモアを交えて興味を引き、似たような公式や、はたまた別の科目の雑学を持ってきて芋づる式に知識を吸収させていく。

 分かりやすさと面白さを両立した理想的な授業と言えた。

 

「それでは休憩にしましょう」

 

 E組に本校舎のチャイムの音は聞こえない。時計を確認した殺せんせーが教科書を閉じると、静かだった教室が俄かに騒がしくなる。俺も支給された教科書を閉じて次の授業の準備をしようと引き出しを漁っていると、横から声をかけられた。

 

「比企谷さん……で、いいのかな?」

 

 顔を上げると髪を短いツインテールに結った生徒が立っていた。その容姿はいかにも人畜無害そうで、暗殺なんていう物騒なことに加担しているとは思えない。いや、それを言うならこのクラス全体的に顔面偏差値高いんですけどね。

 

「……さん、はやめてくれ。一年しか歳も違わないわけだし」

 

 それに、女子にさん付けされるのはちょっともやもやするしな。

 

「じゃあ、比企谷君って呼びますね」

 

 太陽みたいな笑みを浮かべられて、一瞬たじろいでしまう。小町以外で久々に破壊力のある笑みを見たな。あ、そもそも最近小町以外の女の子と会ってすらなかったわ。泣きそ。

 

「お、おう。それで、何か用か? えっと……」

 

「そういえば、自己紹介がまだでしたね。僕は潮田渚です」

 

 僕っ子……だと!? ハッ、よくよく見たら男子の制服を着ている。僕っ子ツインテール男装女子とか、中学生にして属性詰め込み過ぎではなかろうか。

 

「突然変な教室に入れられて戸惑ってるんじゃないかなって思って……」

 

 あぁ、なるほど。彼らはこの二ヶ月ほどあの超生物と学校生活を送っているらしいが、最初の頃は突然の未確認生物、突然の暗殺課題に当然戸惑っただろう。暗殺者ではない俺のことが純粋に心配なようだ。なにこの子めちゃくちゃ優しいじゃん。

 

「そりゃあ戸惑うだろ。ファーストコンタクトがお菓子食べながらグラビア見てるタコ型生物だったのに、普通に先生やってるんだから」

 

昨日のあの姿から今日のハイレベルな教鞭を取る姿なんて誰が想像できようか。授業中にお菓子食べだしたりしたらどうしてくれようかと思って懐にエアガンを仕込んでいたのが無駄になってしまった。

 

「また殺せんせー巨乳の本なんて買ってたんだ……。あ、茅野カエデって言います!」

 

 潮田の後ろからひょこっと顔を出したのは彼女と同じように長い髪をツインテールに結った少女。潮田も十分小柄だが、こっちはさらに小さい。というか、前半のセリフ呪詛みたいだったんだけれど……。いや、こういうのは触れない方が吉だ。八幡の少ない対人経験でも分かるぞ!

 

「そ、そうか。よろしくな茅野」

 

「けど、高校生には中学校の授業ってつまんないんじゃない? 総武高校って進学校だし、比企谷君はもう勉強したところでしょ?」

 

 茅野の質問ももっともだ。確かにさっきの授業の内容は去年自分の中学校で勉強して、受験の時に死ぬほど復習したところだった。

 

「けどさ~、比企谷君さっきの授業真剣に受けてたよね~」

 

「あ、カルマ君」

 

 答えようと口を開いたが、その前にどこか攻撃的な声に阻まれた。カルマと呼ばれた赤髪の少年は一つ飛ばしの隣の席から鋭い視線を向けてくる。ここまで露骨なものは初めてだが、こちらを射抜くようなそれには覚えがある。これは相手を値踏みしている奴の視線だ。そしてそれを隠そうとしないということは、自分の能力の高さを理解しているのだろう。現に先の授業ではどこか脱力していた。さらに奥の席の数人もあまり真剣に取り組んではいなかったが、彼の場合は授業自体には耳を傾けている感じ。このクラスは素行不良の生徒も落とされると書いてあったし、つまりはそういうことなのだろう。

 

「まあ、授業中に暗殺するなって言うなら勉強ぐらいしかやることないしな。殺せんせーの授業むかつくほど分かりやすいし」

 

 一度仕舞ったノートを取り出してさっきの授業のページを開く。教え方がうまいせいか、去年の同じノートよりも格段に見やすいものになっていた。あの先生にみっちり授業し続けてもらえば、最高の教科書に仕上がるまである。

 

「わ~! このノートすっごい見やすい!」

 

「っ!?」

 

 いきなり後ろから声がして、思わずビクッと身体が跳ねてしまった。俺の肩から身を乗り出したゆるふわ茶髪の女子は俺の手元にあるノートを繁々と眺めている。というか近いしいい匂いするんだが。やめて!肩に手を添えないで! 勘違いしちゃうから!

 

「このノートがあれば点数もっと伸びそう! 私、倉橋陽菜乃! よろしくね!」

 

「お、おう。よろしく。後、ノートは自分で取ってくれ」

 

 やけにテンションの高い倉橋の声に反応したのか、他の生徒たちもどんどん集まってきて、授業開始まで自己紹介大会になってしまった。やだ、この子たちコミュ力高すぎ!

 

 

     ***

 

 

「ここら辺でいいか」

 

 校舎裏の草地に腰を下ろして、朝のうちに買ってきていたパンとマッカンを取り出す。カシュッとプルタブを開けて一口煽ると、暴力的な甘さが喉を潤してくれた。

 一陣の風が吹く。総武高校近くの臨海部を流れる潮気を含んだ風も乙なものだが、森林によって温度を下げられたここの風もなかなか悪くは――

 

「比企谷君は一人で昼食を取るんですねぇ」

 

「うおっ!? ……なんだ、殺せんせーですか」

 

 いつの間にか木陰に暗殺対象が顔を覗かせていた。ということはさっきの風はこの先生がマッハで来た影響かよ。そう思ったらなんかヌルヌルしてそうでい嫌なんだけれど。

 

「甘い匂いについ釣られてしまいました。比企谷君は皆とは食べないんですか?」

 

 甘い匂いに釣られたって鼻どこにあるんだよ。見当たらないだけで、実は相当鼻が利くのだろうか。マッカン開けてすぐ飛んで来たっぽいし。

 

「別に、俺はぼっちなんで、一人の方が落ちつくだけですよ」

 

 パンの封を切って齧りつく。このクラスの人間はそのほとんどがフレンドリーで明るい。寺坂、とかいう生徒を中心としたグループはその限りではないが、全体的に暗殺をする場とは思えないほど和気あいあいとしている。それは、俺には不釣り合いな空気だった。

 

「落ちこぼれで社会適応能力も低い。相手の行動や言動には常に裏があると思っていて、将来の夢は専業主夫。それが俺ですから」

 

 世界から見れば最底辺の人間だ。今は真新しさに寄ってくるだけで、すぐにはじき出される。こんな面白くも頼りにもならない人間、関わるだけ損なのだから。

 

「俺の代わりはいくらでもいるんですから、誰にも関わらずにいた方がいいんですよ」

 

 パンの欠片を放り込んで、マッカンで流し込む。自虐と共に溢れそうになる黒歴史もろとも、腹の中に飲み込んだ。

 

「そんなことは、ないと思いますがねぇ」

 

 殺せんせーのどこか悲しげな声を無視して寝っ転がる。一人はいい。行動の全てが自己責任だ。勘違いすることも、人を気にすることも、勝手に失望することもない。

 殺せんせーも話しかけてこないし、このまま昼休みが終わるまでのんびり思索にでも耽って――

 

「このタコー! こんな写真隠し持ってんじゃないわよ!」

 

 その余裕全くないですね。キンキン響く声に瞼を開くと、金髪女性が肩を怒らせながら全力疾走してきた。あの、なんか明らかにエアガンじゃない銃器持っているんですけど。

 

「にゅやっ! それは私秘蔵の手入れ後ブルマイリーナ先生!? 大切に保管していたはずなのに!」

 

「人の恥ずかしい写真勝手に保管してんじゃないわよ!」

 

 なんだよ手入れ後ブルマって。逃げようとする隠し撮り犯に英会話教師でプロの殺し屋らしいイリーナ・イェラビッチ先生が散弾銃を乱射しだした。火薬の焼けるような匂いが鼻をついて、やはりあれが本物だということを認識する。

 

「あはは、あの二人またやってるよ」

 

「あれ、止めなくていいのか?」

 

 二人――片方を“人”とするべきなのかは甚だ疑問だが――の過激なスキンシップを眺めていると、乾いた笑いを漏らしながら潮田と茅野が近寄ってきた。君たち大体一緒にいるね。席も隣同士だし、傍から見たら姉妹にしか見えない。

 

「大丈夫ですよ。殺せんせーには実弾って効かないから」

 

「そうそう、なんか身体の中でドロドロに溶けちゃうんだって」

 

 いや、鉛玉がドロドロに溶けるってどんな身体構造しているんだ、あのタコ。まあ、対先生物質で作られた武器を支給されているわけだし、既存武器が効かないのは当然か。

 

「じゃあ、なんであの先生実弾ぶっ放してんだ?」

 

 完全に無駄玉じゃん。国からの支給品だったら血税の無駄遣いですよ! あ、なんかイリーナ先生に混ざって他の生徒も射撃し始めた。

 

「実弾なら殺せんせー全部受け止めるから、ストレス発散になるんじゃないかな?」

 

「殺せんせー、校舎に穴とか開けたくないらしいですからね」

 

「なんで地球破壊する生物が学校の校舎の被害気にしてんだよ……」

 

 まじであの生き物わけわかんねえ。けれど、たしかに実弾は全て受けているのにBB弾は器用によけている。実際に確認したことはないが、あれが殺せんせーに触れると彼の細胞を豆腐のように破壊するらしい。数秒したら回復するみたいだけれど。

 

「けど、対先生ナイフやBB弾で細胞を破壊できるって言っても、具体的にはどこを破壊すれば殺せるんだ?」

 

「え?」

 

 ゲームなんかで言うなら殺せんせーはスライムみたいな不定形モンスターだ。ある程度見た目も変えられるようだし、数秒で回復すると言うことは粉々にしても完全復活する可能性すらある。

 

「頭とか特定部位をふっ飛ばせばいいのか、それとも破壊しまくって再生に使うエネルギーを枯渇させるのか。いや、そもそも再生が無限の可能性もあるな……どうしたんだ、二人とも」

 

 考えを巡らせていると、二人がぼーっとこっちを見てきていた。なんでそんな見つめてくるの? 八幡、穴開いちゃうんだけど。

 

「……そっか。ただ当てるだけじゃなくて、どこに当てるかとかも考えないといけないんだ」

 

「殺せんせーの謎がまた深まっちゃったね……」

 

「あー……なんかすまん」

 

 たぶん、あくまで人の枠であの生物を見ていて、具体的にどうすれば完全に殺せるのかまで考えが思い至らなかったのだろう。

 

「いや、いいよ! 比企谷君のその考えは今までなかったものだもん!」

 

「そうですよ。今までそんなこと、全然考えていませんでした」

 

「そ、そうか……」

 

 うん、わかったからそんなキラキラした目で身を乗り出してこないで。美少女二人に至近距離で見つめられるのは、ぼっちには心臓に悪い。

 

「新しい視点で考えを出してくれる存在。比企谷君の加入はすごい心強いです!」

 

「っ……」

 

 直接向けられる好意。けれどそれは、少し彼らとは違ったところがあっただけだ。すぐに俺の無個性な部分が見えてきて、離れていくに決まっている。

 そう思ったから、潮田の言葉に俺は何も返せなかった。




というわけで、2話目でした。

八幡を活躍させたいけど、あんまりチート性能にもしたくないので、匙加減が難しいです。
後、E組メンバーを八幡とどう絡ませるかも毎回うんうん唸りながら書いています。
絡ませやすい子はめちゃくちゃ絡ませやすいですけど、難しい子は逆にめちゃくちゃ難しいです。

というわけで、今日はこの辺で、ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

比企谷八幡は強さを求める

「菅谷君、脇が甘い! 木村君は足で撹乱するのに意識が向きすぎてナイフの振りが単調になっているぞ、それでは撹乱の意味がない!」

 

 椚ヶ丘中学校三年E組で最も異質な授業は、体育の時間だと言えるだろう。普通の中学生なら球技などに励む時間を、この教室では暗殺訓練に当てている。プルプルの対先生ナイフで教官である烏間さんに斬りかかる姿はどこかシュールなのだが、やっている面々の表情は真剣そのものだ。

 

「次、磯貝君と前原君!」

 

 部活動が許されていないE組には、元運動部の奴が何人か存在する。暗殺において主力になっているのはそうした面子だろう。実際、いかにも運動部っぽい前原や磯貝、杉野あたりが一番烏間さんと肉薄する場面が多いように見えた。

 まあ、いくら素人とは言え二ヶ月ほど暗殺に明け暮れているE組生徒二人がかりにかすらせもしない烏間さんも十分化物だと思う。防衛省ということは元自衛隊員だろうか。さすがにあのガタイで事務職というわけではないだろう。

 つまりこれは、現役自衛官からの高度な戦闘指導なのだ。化物から勉強を教わって、自衛官から戦闘スキルを教わる。ますますをもって普通じゃない。

 しかし、今の俺にはその異常さを認識することはできても、反応する余裕がない。なぜなら、俺は今窮地に立たされているからだ。

 

「ペア……か」

 

 俗に言う「はーい、二人組作って」なあれだ。この訓練では生徒がそれぞれ自由にペアを組む。つまり、転入したばかりの俺は声をかけられることすらないだろう。ただでさえぼっちで声掛けられづらいっていうのに。ぼっちなのに!

 

「あの……」

 

「……ん?」

 

 心の中で静かに涙を流していると、おずおずと声をかけられた。振り向いた先には髪をポニーテールにまとめた女子生徒。確か、矢田と言っただろうか。

 

「比企谷君は、ペア組まないの?」

 

「……来て早々だしな。誰と組めばいいのかわからん」

 

 そっけなく答えると、矢田は胸――中学生にしては驚くほど大きい――の前で小さく手を合わせて「そっか」と呟くと、にこりと笑って手を差し出してきた。

 

「じゃあ、一緒にやらない?」

 

 やはり、想像していた暗殺教室と全然違う。生徒の表情は明るいし、ターゲットは下手な教師よりも先生をしている。俺みたいな人間にも積極的に関わろうとしてくる。

 だから、俺の返す答えは決まっていた。

 

「お断りします」

 

「なんで!?」

 

「いや、だって女子と組むとか恥ずかしいし」

 

 嘘だ。いや、一概に嘘ではないが、“女子とペア”という事実が俺の黒歴史を無許可で引きずりだす。自分が不要な存在だと再認識させられる。弱い自分が逃げ出そうと何度もあがくのだ。

 

「なにそれ、変なの」

 

 しかし、目の前の少女はクスクスと笑うだけで、不快な色一つ見せなかった。

 

「いや、変ではないだろ」

 

「もー、そんなのどうでもいいから早く早く! 烏間せんせー! 次やります!」

 

「ちょっ、おいっ」

 

 いつの間にか掴まれていた手を引かれ、烏間さんの元に連行される。ここまできてしまえば、もう逃げようがなかった。

 

「次は矢田さんと……比企谷君か。できるか?」

 

「まあ、やらなきゃいけないんでしょ? 見よう見まねですが、やりますよ」

 

 対先生ナイフを持ち直して、矢田の隣に立つ。烏間さんが半身になり、矢田が動き出したのを合図に追従する。

 

「えいっ!」

 

「突きに勢いが足りない。もっと肘をバネのように使うんだ!」

 

 動きながらよく指導できるな。さすがは日本を守るプロと言ったところか。矢田の隙を補うようにナイフを振るってみるが、ことごとくいなされてしまう。

 これじゃあ、当てられない。ナイフを振るう回数を抑えて、よりサポートに、いや影に徹する。包丁以外の刃物を持ったこともない俺に、これはまだうまく扱えない。ならばもっと自分のフィールドで戦うべきだ。

 適度に攻撃しつつ、メインから退けば、段々と烏間さんの意識は矢田に集まる。ただでさえ存在感の薄い俺のことなど意識の外に追いやられていっているはずだ。ターゲットの視線が完全に彼女を捉えている隙に、後ろに回り込んだ。よし、これで当てれば――

 

「っ……」

 

 あ……ミスった。

 矢田だけを見ていたはずの視線が俺を捉え、当てようと伸ばした手の甲に腕を添えられて、軌道を逸らされてしまった。体勢を保てなくなった俺は、校庭の地面に倒れこむ。

 

「比企谷君、今の動きは悪くなったが、いかんせんナイフの振りが遅い。八方向全てに正しくナイフを振れるように練習しなさい」

 

「……うっす」

 

 さすがに二対一の戦闘中にステルス八幡――なんとなく今付けた――は効果が薄いか。暗殺と言えば奇襲って感じだし、途中まではよかったと思うんだけどな。というか、それ以前の問題か。

 

「比企谷君、大丈夫?」

 

「ん、問題ない」

 

 立ちあがってほこりを落としていると、矢田が心配そうに近寄ってきた。特に怪我もしていないし、大丈夫だろう。

 

「さっきは惜しかったね。もうちょっとで当たりそうだったのに」

 

「いや、どうだろうな。俺のこと、俺の動きをほとんど知らない状態で綺麗に避けられた」

 

 たぶん今の俺じゃ、かすらせることもできない。

 そして、烏間さんに当てられないようでは、このナイフは殺せんせーには絶対に届かない。そもそも当てられるようになっても、一人では到底無理だろう。何せ相手はマッハ二十の怪物だ。この教室で暗殺を行うのならば、クラスの人間と協力する必要性も十分にあるかもしれない。

 

「ふふっ」

 

「? どうした?」

 

「比企谷君って頭いいんだなって思って。色々考えてるんだね」

 

 あれ? ひょっとして声に出ていたのだろうか。なにそれ恥ずかしいんですけど。

 

「……早く戻るぞ、次の授業に遅れる」

 

「あ、待ってよー」

 

 気恥かしさから足早に校舎に戻る。夏と呼ぶにはまだ少し早いこの時期、少しずつ熱を帯び始めた風が頬を撫ぜ、逆に冷静にさせてくれる。

 必要があるなら協力して暗殺に臨もう。極めて合理的かつ理性的な結論だ。

 裏切られる覚悟は、一人になる覚悟は、いつでもできているから。

 

 

     ***

 

 

「それでは今日はここまで。皆さん気をつけて帰ってください」

 

 殺せんせーの言葉に小さく息をつく。抜き打ち小テストは心臓に悪いからやめてほしい。疲れる、勉強したくない。

 脳から逃げていった糖分を補うためにマッカンを取り出す。あぁ、さすがに保冷材だけじゃ午後まで持たないな。だいぶぬるくなってしまっているそれをカシュッと開けて口元に――

 

「ヌルフフフ。比企谷君はMAXコーヒーが好きなんですねぇ」

 

「うわあああっ!?」

 

 突然後ろから聞こえてきたヌルヌル声に、思わず置きっぱなしだったシャーペンを突き刺した。後ろにいたターゲットはペン先をモニュモニュとした指の腹で受け止め、顔の色を暗い紫に染めた。中央には大きくバツが描かれている。

 

「だめですよ、比企谷君。筆記用具を振りまわしては危ないです」

 

「そう思うんなら、いきなり人の背後に立たないでください」

 

 本当にやめてほしい。ただでさえいきなりそんな事をされたら驚くのに、さらにねっとりボイスなんて聞かせてくる方が悪い。

 

「いいじゃないですか、スキンシップですよスキンシップ。昼間と同じ匂いがしたから来てみましたが、相当それが好きなんですねぇ」

 

 楽しそうに笑うタコ型生物を尻目にマッカンを流し込む。いつもよりも甘さが増したそれもなかなか乙なものだ。

 

「そりゃあ、マッカンと言えば千葉の水ですよ。千葉県民なら毎日飲んでるでしょ」

 

「「「「飲んでないよ!?」」」」

 

 あれ、飲んでないの? 千葉県民なのに? 千葉のソウルドリンクなのに? おかしい、こんなの千葉じゃないわ!

 

「こくっ……うわ、あま……」

 

「あ、こらっ。何飲んでんだ倉橋」

 

 驚愕の事実に眩暈を感じていると、机に置いていたマッカンに倉橋が口をつけていた。なんでマッカン飲んでそんな顔をしているんですかね。天下のコカ・コーラに謝って!

 

「甘さが、暴力的だよぉ」

 

「ぬるくなってるからな。というか、人のものを飲んじゃいけません」

 

「ごめんなさあい」

 

 うわあ、なにその全然反省してないような返事。別にいいけどさ。つうか、このマッカンどうすればいいの? もう八幡飲めないんだけど。

 

「あれ? 飲まないの?」

 

「お前が口付けたから飲めないんだろうが」

 

 奪った缶をどうしようか考えて再びテーブルに置くと、不思議そうに倉橋が聞いてきた。なんで不思議そうなんですかね。割と当然の反応だと思うんだが。

 

「それくらい気にしないよぉ」

 

「気にしなさい」

 

 お兄ちゃんみたい、とケラケラと笑う倉橋という少女はなかなか厄介な相手だ。E組の中でもかなりパーソナルスペースが狭いし、人懐っこそうな笑みはどこか小町を連想させる。裏切られること前提で考えているのに、そうやって近づかれると、調子が狂うのだ。

 

「はっちゃんが飲まないなら……桃花ちゃん飲んでみなよ」

 

「待て、倉橋」

 

 なぜか矢田に勧めだした倉橋を止めると、少し考えた後に持っていたマッカンを差し出してきた。いや、飲むわけじゃないから。

 

「なんだ“はっちゃん”って」

 

「だって、比企谷って呼びにくいじゃん!」

 

 まあ、それは分からんでもない。中学の時とかよくヒキタニって呼ばれたりしたし、どこぞの吸血鬼もどき並みに噛みそうな名前ではある。前者は単純に覚えられてなかっただけな気がするが。

 いや、それ以前に。

 

「だからってその呼び方はちょっと……」

 

「どこぞの心優しいフランケンシュタイン似の人造人間みたいだもんね」

 

「不破さん?」

 

 不破が遠い目をしながら何か言った気がしたが、この際無視することにしよう。いやまあ、確かにそういう理由もなきにしもあらずなのだが。

 

「だめ……?」

 

 まあ、名前なんてただの飾りだ。相互が認識できるのならば暗殺に支障をきたすこともないだろう。

 勝手にしろと言うと、倉橋はにへらとだらしなく表情を崩した。

 

「うわ、これコーヒーじゃないよ……」

 

「そんな顔するならお前も飲むなよ……」

 

 いつの間にか矢田が一口飲んで渋面を作っていた。本当にここは千葉なのかしら?

 倉橋と矢田の反応にクラス中が興味を持ったようで、女子が回し飲みを始める。口にするや口々に「甘すぎ」「糖尿病になりそう」「太りそう」「練乳吐けそう」「食べ物よ、MAXコーヒーは」などと感想を呟く。ところで茅野はコーヒーの分離に成功してないか? あと原、それ千葉の水ってさっき言ったよな。

 あまりの甘さにしかめっ面を見せながらも姦しく騒ぐ。男子も興味を持ったようで、明日買ってみようなどと相談している。

 それが俺にはどこか他人事で。

 

「おや、比企谷君どこへ?」

 

「ちょっと烏間さんに用があるんですよ」

 

 殺せんせーが何か返してくる前に、教室を抜け出した。

 時折ギシ、と鳴る廊下を職員室に向かって歩く。少しずつ遠ざかる明るい声、その外にいる自分。それが今の俺の立ち位置を正確に教えてくれる。若干頬に残っていた熱は完全に消え去っていた。

 

「失礼します」

 

 ノックをして職員室に入ると、烏間さんがノートPCを閉じて一瞥してくる。恐らく防衛省との連絡とかそんな感じだろう。余計なことに首を突っ込む必要もないので、特に何も言わずに烏間さんに近づく。

 

「どうした、比企谷君」

 

 立ちあがった彼をまっすぐに見据えて、ゆっくりと口を開く。さっきの体育の時間からずっと考えていたことだ。二ヶ月遅れで暗殺教室に参加した一般人である俺は明らかに戦力外だ。このクラスの誰よりも努力をしなければ、集団戦力にも個人戦力にもなれはしない。

 

「烏間さん、俺に追加で指導をお願いします」

 

 協力して殺すにしても、切り捨てられて一人で戦うとしても。この教室ではなによりも力が必要だった。




というわけで、初の訓練と矢田、倉橋メインのお話でした。

E組の中でもトップのコミュ力の高さを持つ二人なので、特に理由なく八幡にアクションを起こせるのはなかなか自由度あって良いなと。
さすがビッチ先生の弟子たち。

よくクロスで見る最初から俺TSUEEE八幡も好きではあるんですが、個人的に書くとつい成長型にしたくなるん思うんですよね。ほら、八幡君やればできる子だから。

そういえば、シリーズのお気に入りが100件を超えていました。
投稿開始二日で100件は素直にうれしいです。ありがとうございます!
と、深々とおじぎをさせていただいたところで今日はここまで。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

その転校生は限りなくあざとい

 椚ヶ丘中学校に来てから一週間が経った。その間俺は、普通に登校して普通に授業を受けていた。超生物が授業を教えて、生徒が暗殺の機会をうかがいながらも真面目に授業を受け、元空挺部隊のエースだったらしい烏間さんから高度な暗殺訓練を施される日々。……こう考えると全然普通じゃなかったわ。

 

「比企谷、内容は大体合ってるけど、それだと少し会話文としては固すぎるわ」

 

 ああ後、十ヶ国語を操るイリーナ先生の英語の授業もありましたね。ちなみに彼女は他の生徒から“ビッチ先生”と呼ばれていた。ハニートラップの達人らしいのであながち間違っていない呼び方だなと思いつつ、ちょっとかわいそうなので俺自身は普通に“イリーナ先生”と呼ぶことにしている。

 実際、生きた英語を学べるのはいいのだが――

 

「じゃあ、罰として公開ディープキスね」

 

「お断りします」

 

 事あるごとにキスをしてくるのはどうにかならないものだろうか。その技術、殺せんせーの暗殺にはまずいらないものだと思うし。

 まあ、断ったところで無意味なわけで、唇を奪われる。必死に抵抗するが、本職の舌使いに敵うはずもなく、口内に侵入されて何度もヒットを与えられた。

 

「ぷはっ……はあ、はあ……」

 

 ようやく解放されて、唇を拭いながら視線で不満を伝えると、先生は小さく唸って首をかしげる。

 

「あんたってやけに抵抗するわよね。こんな美女と極上のキスができるっていうのに」

 

「生憎、気安く恋人でもない女性に気を許すようにはできていないんで。先生じゃなかったら警戒レベルマックスものですよ」

 

 あまり思い出したくない黒歴史達にわずかに顔をゆがめながら応えると、「なんでその歳でそんな考えに至ってるのよ」とため息をつきながら授業を再開した。ようやく整ってきた息を大きく吐いて、自分の席で授業の声に耳を傾ける。

 この教室の、特に殺せんせーの授業は授業という形態を取ってはいるが、ほぼマンツーマンに近いものだ。小テストは生徒一人一人に合わせた内容になっているし、分からないところは親身になって教えている。お願いをすれば家で個人授業を行うこともあるようだ。

 そのせいだろうか、この教室はターゲットと暗殺者の間に不思議な絆があるように思える。さすがに全ての生徒が、というわけではないが、彼らの大半が殺せんせーを信頼していて、それでいて日常的に暗殺を行っている。ドラマなんかで見る暗殺とはかけ離れたそれに、今まで感じたことのない怖さすら覚えた。

 そして、そこに溶け込みそうになっている俺自身にも。

 気を強く持て、比企谷八幡。相手はいずれ殺さなければならない破壊生物だ。信頼も、情も、きっと邪魔になる。

 自分で殺して自分で悲しむなんて、ただのエゴなのだから。

 

 

「そういえば比企谷君は、どうして学校をサボタージュしていたんだ?」

 

「えっ?」

 

 生徒たちが帰った放課後、烏間さんから戦闘訓練の個人レッスンを受けている時にされた何気ない質問に、思わず踏み込みが甘くなって、たたらを踏んでしまった。

 

「……すまない、話したくないことなら話さなくてもかまわないんだ」

 

「いや、別に隠すようなことでもないんで」

 

 体勢を立て直して、片手でプルプルのナイフを弄びながらつい二ヶ月前の記憶を掘り返す。交通事故にあったこと、高校生活をぼっちで過ごすことが確定したこと、授業についていけなくなったこと。

 

「中高一貫の椚ヶ丘と違って、公立中じゃ高校の範囲なんてやりませんから、致命的に理系の授業についていけなくなった。ただでさえ昔からまともに人間関係も築けないのに、勉強までだめになったら、俺にはなんの取り得もないんです。そう思ったら、なんかどうでもよくなって」

 

 ガキの頃からいじめに近いものを受けてきた俺にとって、対人関係とは棘だらけの服だ。動くだけで身体に食い込み、肉を貫いてくる。だから誰も信用しない。中学最後の一年間はひたすら勉強に費やしてきた。言うなれば、俺にとって勉強だけが唯一の武器だったのだ。

 それも奪われた今、俺には何もない。ならば、どこにいようと、なにをしようと変わらない。ただそれだけが、俺がここにいる理由だった。

 そういう意味では、俺がエンドのE組に来たのは必然かもしれない。

 

「しかし、どこにいても変わらないと言うなら、どうして君は俺に追加指導を頼んできたんだ? どうでもいいなら、普通はこんなことはしないはずだが」

 

「いえ、ごく普通のことですよ。俺はただ、今の自分に必要な知識と技術を取り込んでいるだけです。自分で全部やらないといけない。ぼっちってそういうものですから」

 

 頼る人間がいないのだから、自分で全てやらなければならない。だから自分の能力を鍛える。一人で、孤独に、静かに。やはりどこでも俺のやることは変わらなかった。

 予備動作を抑えて再び繰り出したナイフは、「そうか」という小さな声に流されて、ただ宙を斬った。

 

 

     ***

 

 

「だりぃ……」

 

 一週間でだいぶ慣れたとは言っても、この山の中にある教室への登校はめんどうくさいことこの上ない。なんで登校だけで体力を使わなければならないのだろうか。朝のトレーニングと考えれば、暗殺教室には悪くない立地かもしれないが、理事長が何を考えてここを用意したのか理解できない。

 異物である俺自身は、あまり他の生徒が登校している状態で教室に入りたくない。故にだいたいいつも早めに登校するのだが、靴箱を見ると今日は一番乗りのようだ。

 いや、今思うと、正確には二番目だったと言えるかもしれない。

 

『おはようございます。今日から転校してきました、“自律思考固定砲台”と申します。よろしくお願いします』

 

 なんか、教室の後方に黒々としたでかい機械が鎮座して、機械的な声で“転校生”とのたまってきた。ちなみに俺の席の隣。

 ……なにあれ、めっちゃ邪魔なんですけど。

 

「あ、比企谷君……?」

 

「おう、潮田たちか」

 

 入口で立ちつくしていると、潮田や杉野たちが登校してくる。そして同じように機械的に挨拶をする転校生に、なんとも言えない表情に顔の筋肉を引きつらせた。どうやら昨日烏間さんから転校生暗殺者が来ることは知らされていたらしい。なにそれ俺聞いてないんだけど。……あ、集団のチャットグループがあるの? そのアプリ自体入れてなかったわ。

 ノルウェーで開発された科学の結晶である自律思考固定砲台は顔とAIを内包して、書類上は椚ヶ丘中学校の生徒として登録されているらしい。固定砲台に顔を張りつけただけのそれを生徒と呼ぶのは詭弁もスレスレだと思うが、契約である以上、殺せんせーは生徒として扱う必要があった。

 

「いいでしょう。自律思考固定砲台さん、あなたをE組に歓迎します」

 

 いや、このヌルフフフと余裕綽々で笑う教育バカにとっては、見た目は些細なことなのだろう。他の生徒と同じように接していた。

 隣で見るとただの長方形の黒箱にしか見えない。しかし、暗殺者である以上何かしらの武器を内包しているはずだ。おそらく固定砲台という名称を考えると――

 

『攻撃を開始します』

 

 遠距離攻撃型だ。

 側面が開いて何機もの銃が展開される。そこから放たれる無数の対先生BB弾。固定砲台の名に恥じぬ濃密な弾幕だ。

 しかし、ターゲットをこの程度の攻撃で仕留められるのならば、とっくに地球の平穏は守られていることだろう。特に慌てることもなく弾を避けたり、チョークではじいたりしてかわしている。

 

「濃密……弾幕……当たり前……ますよ」

 

 というか、すぐ隣だから発砲音がうるさくて超生物の声がよく聞こえない。前方の生徒たちは自分のスレスレを飛んでくる弾丸に備えて、教科書や腕で防御体勢に入っていた。周りの動きがよく見えるかわりに俺の耳は犠牲になるのね。赤羽の席あたりは弾幕も展開されないし、俺ほど騒音被害も大きくないからちょっと羨ましい。結局この席は貧乏くじですね。つらい。

 

「……授業…………禁止……」

 

 いや、ほんとなにを言っているのか聞きとれない。たぶん、授業中の暗殺は禁止だとか言っているんだと思うけど、隣の黒塊には聞こえているのだろうか。

 

『気をつけます。続けて攻撃に移ります』

 

 どうやら聞こえているようだ。というか、気をつけますって言いながら攻撃をやめるつもりはないんですね。

 なんというか……ガッカリだった。

 

『弾道再計算。射角修正。自己進化フェイズ5-28-02に移行』

 

 まあ、ただ弾を打つだけならここの生徒たちにもできる。科学の粋を結集したはずのこれがただ正確な射撃をするだけだとは思っていない。おそらく学習型AIと呼ばれるものを内蔵しているであろうこの機械は、一度武器を収納して、少し形の違う銃器を再展開する。

 再び濃密な爆音と共に暗殺対象に降り注ぐBB弾の雨。緑と黄の縞々に顔を染めて完全に舐め切っている殺せんせーは、同じように避けて、チョークで弾いて――

 ――バチュッ!

 その指が吹き飛んだ。

 

『右指先破壊。増設した副砲の効果を確認しました』

 

 ターゲットの防御パターンを学習し、武器とプログラムに改良を繰り返してどんどん逃げ道をなくしていく。なるほど、確かに毎日律儀にここで授業をする殺せんせーには至極有効な手段かもしれない。

 

『卒業までに殺せる確率、九十パーセント以上』

 

 しかし、いやだからこそ。俺にはもはやどうでもいいことだった。

 

「……なんだよ、このポンコツ」

 

 かすかに聞こえた声をイヤホンの中に閉じ込めて、音楽を聴きながら読書に勤しむ体勢に入る。どの道、この調子では授業などできないだろう。

 

 

 

「殺せんせー」

 

「にゅ、どうしましたか?」

 

 放課後、どこか肩を落として職員室へ帰ろうとする担任に声をかける。話題にするのは当然今日来て、散々ターゲットを翻弄し続けた転校生のことだ。

 

「あれ、どうするんですか?」

 

「……先生は生徒に危害を加えることはできません。契約以前に、そんな事をするのは先生失格ですからね。確かに非常に有効なアサシンだ」

 

「それ……本気で言ってます?」

 

 確かにあの機械は今日の授業中、絶えず弾幕を張り巡られて、軽微ながらこの教師に何度もダメージを与えていた。先生にとっては有効な暗殺者だろう。

 しかし、ここは学校というコミュニティだ。出る杭は打たれて、害のある芽は摘み取られる。今日一日で、いや最初の一時間目だけで生徒からは不満が溢れだしていた。授業は遅々として進まず、騒音とBB弾の流れ弾に耐える時間。そんなもの、授業ですらない。

 その上、あの鉄の塊が放った弾は俺達が片付けなければならない。あまり殺せんせーを快く思っていない節のある吉田や村松すら今の状況には不満を漏らしていた。

 

「あんなガラクタが生徒だとしたら、大量殺人鬼が転校生です、なんて言ってきた方が幾分納得できますよ」

 

「比企谷君、そんな言い方は……」

 

「事実です」

 

 最先端科学の結晶と聞いて期待したが、“顔”もコミュニケーションAIも一応の生徒の体裁を保つ程度のチャチなものだ。おそらく、本来の目的は軍事兵器なのだろう。理論だけで、本当に大事な部分を考えないのは現場に赴かない科学者らしいと思うが、あまりにもただの兵器に俺は心底落胆していた。

 

「まあ、殺せんせーがこのまま放っておくなら、別にいいですよ。きっと先生のせいで学級崩壊を起こすだけでしょうから」

 

 特に、今日逆に何もアクションを起こさなかったあいつあたりは既に限界であろう。

 今日は烏間さんの個人指導は休みなのでそのまま帰ろうとすると、ヌルフフフといつものねっとりとした笑い声を上げられた。

 

「比企谷君はよく周りを見ていますねぇ」

 

「……はあ?」

 

 周りを見ているも何も、あの状況を見れば一目瞭然だろう。俺でなくとも状況把握はできる。

 

「安心してください。先生は生徒を誰ひとり見捨てることなんてしないものです」

 

 ふざけた顔で笑う姿は、どこか俺を安心させた。

 

 

 

 で、二日後なのだが……。

 

「おはようございます、八幡さん。今日は日差しが眩しく感じるほどいい天気ですね!」

 

 昨日まで顔を貼り付けた機械だったものが、美少女をやっていた。

 昨日、予想通り不満を爆発させた寺坂によってガムテープで簀巻きにされた固定砲台は、一発も先生に銃弾を向けることもできず一日を過ごした。あの教育バカなタコ型生物のことだ。なにかしらの対策を講じるとは思っていたが……。

 

「親近感を出すための全身表示液晶と体・制服のモデリングソフト、全て自作で八万円!」

 

 顔部分だけだった液晶は全身が映るような大画面に変更され、新たに表示された身体は椚ヶ丘中学の制服に包まれている。

 

「豊かな表情と明るい会話術、それを操る膨大なソフトと追加メモリ。同じく十二万円!」

 

 昨日までの口を動かすだけのお面もどきから、表情筋の動きすら分かりそうなほど自然な笑みを浮かべるまでに進化している。平坦だった声は明るい抑揚があり、甘い声も相まって……可愛い。

 

「先生の財布の残高……五円!」

 

「誰がここまでやれと言った!!」

 

 確かに自律思考固定砲台の生徒の利害を考慮しないやり方はこの教室にそぐわないとは言ったが、なぜこんなあざとさ全開なアップデートをしたんですかね。これは趣味ですか? 先生の趣味なんですか?

 

「さらにタッチパネル機能も付いています」

 

「あざといわ!」

 

「あざといなんて酷いですよ、八幡さん。こういうときは、かわいいって言うんですよ?」

 

 昨日まで殺すことしか考えていなかった機械が甘ったるいボイスでそんな事を言うもんだから、もう朝っぱらから俺の頭痛がマッハだ。

 

「これからよろしくお願いしますね、八幡さん!」

 

「あぁ、うん……そうね」

 

 まあ、昨日までに比べれば……いいのか?

 

 

 

 割と良くないです。

 殺せんせーによる大幅なアップデートがなされた律は、たちまち生徒達に人気になった。銃と同じ素材で様々な造形を作ったり、話し相手、遊び相手になったりしている。特に目を見張るのは対殺せんせーでも見られた学習能力だろうか。将棋を教えた千葉が三局目にして既に勝てなくなっていた。機械だから当然なのかもしれないが、その学習意欲は恐ろしいほど高い。皆が付けた“律”という名前も気に入ったようだ。

 まあ、それはいいのだが。

 

「八幡さーん、お話しましょうよぉ」

 

 隣なせいか、やけに俺に声をかけてくる。

 

「俺、今読書中なんだけど」

 

「むぅ、八幡さんがそっけないです」

 

「はいはい、あざといあざとい」

 

「扱いが適当すぎます!」

 

 人の邪魔はするなって殺せんせーのプログラムにはなかったのだろうか。ため息を吐き出して律に視線を向けて――

 

「……なにしてんの」

 

 なぜかスカートをギリギリ見えるか見えないかまでたくしあげた二次元美少女がいた。

 

「八幡さんは隣の席なのに、なかなか私との距離を詰めてくれませんからサービスを……」

 

「そういうサービスはいらんから!」

 

 あのタコは一体なにを“学習”させたんだ。自律思考して俺を殺すマシーンになろうとしているんだが。

 額に手を当てて天井を仰いでいると、律がおずおずと「それに」と続ける。

 

「昨日殺せんせーから聞きました。八幡さんは私のことを心配してくれていたって」

 

「心配というか……」

 

 まあ、当たらずとも遠からずか。確かに俺は失望したし、殺せんせーにもガラクタ呼ばわりした。しかし、それは現状の暗殺環境をなにも理解していなかった開発者に対してであって、目の前の転校生個人に対してではなかったのも事実だ。ある意味、心配していたと言えるのかもしれない。

 

「ありがとうございます!」

 

「……おう」

 

 こういう直接的な好意に俺は慣れていない。そもそも、家族以外から与えられる好意は全て俺の勘違いなのだ。だから、こいつから与えられるそれも、等しく黒歴史を作るものだ。

 そう思うのだが、顔にわずかな熱が集まるのだけはどうしようもなかった。

 

「比企谷君が照れてる」

 

「はっちゃんが二次元の女の子に絆されてる」

 

「……オタク?」

 

「比企谷氏もDを継ぐ者だったのか」

 

「おいこら、変なことこそこそ言ってんじゃねえぞ」

 

 あと竹林、俺のミドルネームにDはない。ゴムでもなければオペもできんし、ひとつなぎの大秘宝も探してないからな。あ、そういう意味じゃないね。

 殺せんせーの“手入れ”によって、律はクラスに溶け込んだ。高度な演算ができる頭脳が加われば、この教室の暗殺成功率はさらに上がるだろう。

 ただ……。

 今の律はあくまで殺せんせーのプログラムで動いている。そして、機械であることに変わりがない以上、その意志は持ち主である開発者に逆らうことはできないのだ。

 そしてきっと、兵器としてしかこいつを見ていない持ち主は、今の律を認めないだろう。

 

 

 

「八幡さん、訓練お疲れ様です!」

 

「……おう」

 

 放課後、烏間さんとの追加訓練を終えて教室に戻った俺に、律が声をかけてくる。汗をタオルで拭いて手早く着替え、鞄を――取らずに席に着いた。

 

「? お帰りにならないんですか?」

 

 律の言葉に俺は口を開くことはない。頭の中にあるのは訓練中に烏間さんが言った一言。

 ――今夜、彼女の持ち主がメンテナンスに来るそうだ。

 どうやら昨日の寺坂の所業、クラスの対応をノルウェーの研究所に一部報告していたらしい。状況の確認と対策を講じようと言うのだろう。

 となると、当然今のこいつも目にすることになるわけで。

 十中八九、“余計な機能”は取り払われてしまうだろう。今こうして不思議そうに俺を見てくる表情プログラムも、皆と楽しそうに話していた会話プログラムも、全て。

 

「なあ、律」

 

「はい?」

 

 気がつくと、声が漏れだしていた。

 

「殺せんせーが改良したと言っても、お前は機械で、暗殺のために作りだされた兵器であることに変わりはない」

 

「…………」

 

 たぶん俺は、今酷いことを言っている。プログラムとは言え自我に、意志に近いなにかを持っているこいつを、機械だ兵器だと断じている。それでも律はまっすぐに俺を見てきていた。だから言葉を続ける。

 

「機械であり、道具である以上、開発者がNOと言えばお前は元に戻されると思う。お前は本来持ち主の意向に逆らうことなんて許されないんだから、きっとそうなってもクラスの奴らはお前を責めることはない」

 

 物を持ち主の自由に扱うことは当然のこと。そんな事は分かっている。分かりきっている。

 

「けどな、お前は書類上確かに自律思考固定砲台、律としてこの学園に在籍している。殺せんせーからも生徒として、今日は皆から仲間として接してもらっていた。お前はここで間違いなく、一人の女の子として存在しているんだ」

 

 ここでは、超生物も殺し屋も生徒も自衛官も、機械ですら関係ない。

 ならば――

 

「この先のことは、お前の意志で、お前自身の考えで決めてほしい」

 

 親にわがままを言うくらい、こいつにだって許されるはずだから。

 

「八幡さん、それって……」

 

「じゃあな」

 

 律の言葉を遮って、頭が表示されている液晶を撫でる。タッチパネルになっているディスプレイが反応して、くすぐったそうに眼を細めてきた。それを見て、教室を離れる。

 結局はプログラムされたAIだ。どんなに頑張っても、主人の命令には逆らえないし、物理的に拡張パーツを外されれば自分で付けることはできない。

 人と関わるのはもうこりごりだと思っていたのに、ずいぶんと長話をしたものだ。いやに生徒のために行動しようとする触手野郎の影響が出てしまっただろうか。

 しかしまあ。

 さよならだ、律。

 

 

     ***

 

 

「“生徒に危害を加えない”という契約だが、『今後は改良行為も危害と見なす』と言ってきた」

 

 翌日、案の定殺せんせーの付けた拡張パーツを取り外されてバニラ状態に戻った律を見据えて、烏間さんは“持ち主の意向”を知らせた。ついでに、生徒が暗殺を妨害することも許さないらしい。さすがの万能触手もこれにはお手上げのようだ。厄介ですねぇ、と頭を掻いている。

 

『……攻撃準備を始めます。どうぞ授業に入ってください、殺せんせー』

 

 機械的に発せられる律のそれに、教室中が緊張する。ダウングレードしたということは、一昨日のリプレイが行われることは皆が容易に想像できた。皆が容赦のない攻撃に備えて身を固くしたり、教科書を盾に使おうと掴むのを眺めながら、俺も一昨日のようにイヤホンを耳に――つけることはなかった。

 機械であり、物である以上、“本来”意志のない兵器が主人を裏切ることはない。

 だが、もしも。もしも最先端のAI技術と異形の教師による献身的な手入れによって自我が生まれていたとしたら。

 

「花を、作る約束をしていました」

 

 奇跡のようなその存在は、きっと機械でも兵器でも、もちろん物ですらなく。“彼女”と呼ぶべきなのだろう。

 

「おかえり、律」

 

「はい!」

 

 

     ***

 

 

「やめろぉ。律、もうやめるんだぁ……」

 

 後日談というか、今回のオチ。律が開発者たちから隠し通した各種プログラムデータによって、内部機能を復活させた直後から、俺は酷い拷問を受けることになってしまった。

 

「いえ、やはり八幡さんの素晴らしさを皆さんに伝えるのは私の使命だと思われるので、やめるわけにはいかないです!」

 

 なにかバグでも紛れ込んでしまったのか、このAIは嬉々として俺とのやりとりを語り出したのだ。やばい、精神的にやばい。死ぬ、誰かいっそ殺して。

 

「『お前の意志で、お前自身の考えで決めてほしい』。そう言った八幡さんは私を優しく撫でてくれたんです。まるで妹を諭すお兄さんのように」

 

「グホァッ……」

 

 やめて! もう八幡のライフはゼロよ!

 力なく机に突っ伏す俺に周りはクスクスと笑ってくる。ふえぇ、歳下にめっちゃ笑われてるよぉ。八幡の新しい黒歴史ができてしまったじゃないか。

 ポン、と肩に手が置かれた。見上げると、眼鏡をくいっと上げた竹林がいて。

 

「さすがDを奪うものだ、比企谷氏」

 

「お前はそのキャラでいいのか!?」

 

 またドッとクラスに笑いが溢れる。明るい雰囲気になるのは結構だが、律には秘密の保持についての常識も付けてもらいたいものだと大きくため息を漏らす。

 その彼女は、小さくなってしまった液晶画面をこちらに向けて、髪をクルクルと弄りながらぽしょりと呟いた。

 

「けど、八幡さんにもう撫でてもらえないのは、ちょっと心残りですね」

 

 …………。

 ………………。

 ……ああやっぱり。

 俺の隣の転校生はこの上なくあざとい。




律を書くのが楽しすぎました。
こんなに可愛い子が二次元にいるんだから早くナーヴギアできないかなーとか考えながら書いてました。

書いてて思いましたが、全キャラと絡ませるの大変だなーと。いきなり三十人くらいのキャラと八幡が邂逅することになるんで、本当は全員とある程度絡ませたいのですが、それをやろうとすると先に私のスタミナが持っていかれそうなのでメインで絡ませる子を何人か決めて書く方向にしています。
好きなキャラとほとんど絡まないという感想になってしまう人も出てきてしまうと思いますが、すみません。私の技量では全キャラとガッツリ絡むのはちょっと難しいです。

その点、律は単独での邂逅なんで結構集中して書けたなーと。

これを書いている段階で日間ランキング2位、お気に入り400件をいただいています。
評価の方も予想以上に多くの方からされていて驚いています。
今後も少しでも面白い作品を書けるように頑張りますので、気が向いたら読んでみてください。


ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

少しずつ、比企谷八幡は溶け込んでいく

 ぼっちにとって昼食とは一人で取るものである。プロぼっちであるところの俺もご多分に漏れずぼっち飯を堪能していたのだが……最近はなかなかそれもできなくなってきた。

 そもそもの原因が隣の席――席には座っていないが――の転校生、律であると言える。

 

「八幡さん、私とお話しながらご飯食べてくれないんですか?」

 

 固定砲台故に自由移動が不可能な彼女が昼休みに教室を出ていこうとする俺に、涙を浮かべながらそんなことを言ってくるのだ。あくまで“泣き”のグラフィックだと分かっていてもこう……割とクるものがあるわけで、仕方なく教室で昼食を取ることが日常になってしまった。

 さらに、彼女がマスターの命令に自らの意思で背いたあの頃から、やけに俺と他生徒の接点が増えた気がする。休み時間にはよく話しかけられるようになったし、昼食を食べようとしていると席を寄せてくる奴もいたりする。

 

「はっちゃんって、いっつもパンばっかりだよね。それでよく足りるね」

 

「私よりも少ないよ」

 

 特にこの二人、倉橋と矢田はよく俺に絡んでくる。今もこうして教室の対角線上にある俺の席まできて弁当をつついていた。

 

「いままでもこれくらいだったし、朝食夕食はしっかり食ってるからな。さして問題はない」

 

 実際、人間は十二時間ごと、一日二食取れば健康上は問題ないと聞いたことがある。つまりはあまり昼食を食べない俺は限りなく人間らしい生活をしていると言えるだろうな。自分でなに言ってんのか分かんなくなってきた。

 ところで、なぜ倉橋は頬を膨らませているんですかね?

 

「なんか私たちの方が食いしんぼうみたいでやだ」

 

「ねー、体育も暗殺もあるからE組に来て食べる量増えたよね」

 

 矢田も倉橋ほどではないが、不満そうな声を漏らしてお腹に手を当てていた。

 つまりはあれだ。訓練で運動量が上がって食欲旺盛になった分、カロリーが気になるという女子特有のサムシングだろう。

 

「運動すれば腹がすくのは当たり前なんだから、気にすることじゃないだろ」

 

「でも、はっちゃんは食べる量変わってないんでしょ? いいなー」

 

 まあ、確かに昼食の量は変わらんが……。そういう体質なんだろとか下手なことを言うと彼女たちの反感を買いかねないし、さてさてどうしたものか。

 

「……?」

 

 視界の端でチカチカと淡い光が映ったので視線を向けると、律がにこにこしながらなぜかマッカンを持っていた。なに? 電子部品を練乳漬けにしたいの?

 ……ああ、そういうことか。

 

「まあ、俺には千葉のソウルドリンクであるマックスコーヒーがあるからな。マッカンがあれば多少エネルギー消費量が増えても問題ない」

 

 冷たいマッカンを保つために用意した保冷バックから黄色と黒の警戒色の缶を取り出して、くいっと一口流し込む。うん、今日もマッカンは美味いな。

 

「あー、それすっごい甘いもんね。カロリー高そう」

 

「一本で大体ご飯一杯分くらいだったと思うぞ」

 

 エメマンの三倍くらいだったか、と昔調べたことを思い出して言うと離れた所から驚愕の声が聞こえてきた。声の主はどうやら茅野のようで、その手には――馴染みのある警戒色。

 

「あ! カエデちゃんもマッカン飲んでる!」

 

「だ、だって……なんか癖になるんだもん」

 

 分かる、分かるぞ茅野。それがマッカンの魔力というものだ。あいつも結構な甘党みたいだし、もうそれなしでは生きられない身体になってしまったな。いや、あやしいものなんて入ってないし、中毒性とか依存性とか全然ない安心な飲み物だから! 合法だから! あ、マッカン切れてきた……新しいの摂取しないと……。

 

「むぅ……」

 

 なぜか倉橋がまた頬を膨らませている。なんなの? フグなの?

 茅野に向けていたその視線はゆっくりと俺に移り、そしてその手元の缶に行きついた。そういえば、こいつもよく茅野と甘いもの談義をしてたわ。

 

「私もそれ飲みたい!」

 

「やらん。自分で買ってきなさい」

 

 ただでさえ自販機のないE組校舎ではこいつの入手は困難なのだ。大事な回復アイテムを失うわけにはいかない。

 それに、また間接キスとかそんなことしてたまるか。恥ずかしさで殺せんせーを殺す前に死んでしまう。

 ケチーと口を尖らせる倉橋を矢田が宥めるのを眺めながら、再びマッカンに口をつける。コーヒー風味の練乳の甘さが口いっぱいに広がって、喉を文字通り甘く濡らした。

 昼食とは一人で取るもので、俺はその方が好きだったはずなのに。

 やけにやかましいこの時間も、不思議といやだとは思わなかった。

 

 

     ***

 

 

 六月と言えば、祝日がない悲しい月である。あ、今はそういうことは聞いてないですね。

 まあ、六月と聞いて最初に思い浮かぶのは梅雨であろう。夏に向けて日に日に気温が上昇する中、湿度まで上がる地獄のような期間である。誰か早く梅雨前線を吹き飛ばす装置を開発してほしい。

 そんな梅雨の期間でも例外はあるというもので。

 

「お、今日は晴れてるじゃん」

 

 朝目を覚ましてカーテンを開けると、珍しく快晴だった。使用済みの傘を持って電車に乗ると、周りの人が濡れないように気を使わないといけないから一安心だ。

 

「けど、夕方からまた雨のようですので、傘は持っていった方がいいですよ」

 

「そっか、サンキュ」

 

 折り畳み傘入れとくかと思いながら鞄を開こうとして、ギギギと枕元に置いていたスマホに首を回す。その画面に映っていたのはいつも隣の席に鎮座している大型機械のディスプレイに表示されている顔で……。

 

「おはようございます、八幡さん!」

 

「律!? 何やってんだお前!!」

 

 あざとく敬礼なんぞしてくるAI少女はスマホのメインメニューを弄びながらニコニコと微笑んできた。

 

「皆さんとの情報共有を円滑にするために、携帯端末にダウンロードした“モバイル律”です!」

 

 どうやら、いつの間にかE組関係者全員の携帯に自分を忍び込ませたらしい。なんでもありだなこいつ。竹林風に言えば、「Dを失った少女に不可能はない」といったところだろうか。この子のグラフィック3Dだけどね。

 

「ハッキングは犯罪だぞ」

 

「情報共有を迅速に行うことで、皆さんの暗殺実行へのスピードも早くなることが期待できます。必要な措置だと思ったのですが、だめだったでしょうか?」

 

 いや、だめではない。むしろ彼女だから可能なこの方法は今後の暗殺に非常に有効になることだろう。複数人での暗殺作戦でイレギュラーが生じたとき、いち早く状況把握ができるのはでかい。

 

「ですが八幡さん、いくらロックをかけているとはいえ、あのような画像を所持するのは法律的にいかがなものかと……」

 

「個人情報を覗くのはやめろ!」

 

 やっぱ追い出すぞとスマホに手を伸ばすと、階下からドタドタと足音が聞こえてきた。階段を駆け上がってきた音は隣の部屋を通過して、俺の部屋の前で制止。

 

「お兄ちゃん! 朝から大声出さないでよ! ご近所迷惑だよ!」

 

「す、すまん……」

 

 あわやぶっ壊れるのではという勢いで開かれた扉から、小町がおたまを持って現れたので、慌ててスマホを耳に当てた。というか小町ちゃん、あなたの声の方が近所迷惑だと思います。

 

「あれ……ひょっとして電話中だった?」

 

「あ、ああ。クラスの奴からちょっと……っ」

 

 おいこら、「嘘はよくないですよぉ」とか言ってんじゃねえぞ。耳に通話スピーカーが当たっているせいもあって、囁かれているみたいでゾワゾワするからやめて!

 律の悪戯のせいで顔が熱くなるのを必死に耐えていると、小町がじーっと俺を見つめた後、むふっと笑みを浮かべた。なんだその笑い方、かわいいなお前。

 

「……どうした?」

 

「なんか、最近のお兄ちゃん結構明るくなったなぁって。ちょっと前まではご飯も一緒に食べてくれなかったけど、そういうのもあんまりなくなったし」

 

 ……そうだな。最近は少しずつ小町に対して今までに近い接し方ができるようになってきた気がする。ひょっとしたら、不良もどきをしていた頃の俺はだいぶ余裕がなかったのかもしれない。あの教室の明るい空気に影響されているのだろうか。これもあの担任が言うところの「手入れされた」というやつだとしたら、俺は気がつかないうちに手入れをされてきているということになる。

 ただまあ、安易にそれを認めるのも癪なのである。

 

「俺が明るかったら気持ち悪いだろ。むしろ周りのために大人しくしているまである」

 

「あはは、いつものお兄ちゃんだ」

 

 朝ごはんできてるからね、と部屋を後にした小町を見送って、スマホを置いた俺はタンスへ向かった。

 

「妹さんと、喧嘩されてたんですか?」

 

「いや、喧嘩とかそういうんじゃない」

 

 ただ、俺が逃げていただけだ。誰も信じず、小町すら信じずに馬鹿みたいに逃げていただけだった。やっぱりあの頃は余裕がなかったんだな。

 

「何があったのかは分かりませんが、また仲良くなれたのなら、それはいいことだと思います」

 

「そうだな……」

 

 前ほどではないが、また小町と過ごすことに苦痛を感じなくなったのは俺としてもうれしい。考えてみれば、あんなに長い間まともに口を利かなかったのは初めてかもしれない。離れて、戻ってみて実感する妹の大切さ。やっぱ妹って天使だわ。

 まあ、それはいいとして。

 

「着替えるからスマホから出て行きなさい」

 

「ごめんなさい、お断りします」

 

「こいつ……」

 

 液晶画面を下にひっくり返したスマホから漏れてくる抗議の声を無視して、今日も今日とて制服に身を包んだ。

 

 

 

「うへぇ……朝はあんなに晴れてたのに」

 

 午後から再び降りだした梅雨の雨は当然のように下校時刻になっても止むことはない。E組校舎には屋内で運動をする設備がないので、こういう日は烏間さんとの個別レッスンも休みだ。特にやることもないし、書店によってから帰って少し筋トレでもするかな。

 

「……そういえば、やけに静かだな」

 

 いつもは雨の日の放課後でも大半の生徒は残って雑談なり勉強なりしているはずなのだが、今日は既にほとんど教室に残っていなかった。

 

「磯貝君達はなんか連れ立って帰って行きましたよ」

 

「渚君や杉野も、茅野ちゃんや奥田さんまで一緒に帰っちゃったんだよね」

 

 残っていた片岡と赤羽がこぞって肩をすくめる。この教室のメンツは全体的に仲はいいようだが、大抵は三、四人のグループで行動することが多い。それが何人もぞろぞろと行動するのはちょっと珍しい気がするが。

 

「そういえば、殺せんせーも雨合羽を着て、一緒に帰ってました」

 

「一緒に……?」

 

 神崎からの追加情報で最初は暗殺かと思ったが、ターゲットに実行メンバーを晒すようなやり方をするとは思えなかった。

 

「悪巧みの匂いがしますね」

 

「同感だ。まあ、あの先生が引率してるなら大丈夫だとは思うが」

 

 主に機密情報的な意味で。やばい、俺の件でちょっと安心できない気がする。

 

「ま、面白そうなことになったら、そのネタで皆を弄ればいいでしょ」

 

 ケケケと笑うカルマに悪魔の角としっぽが見えるのは俺だけだろうか。

 まあ、なんだかんだ“先生”としての超生物のことは皆信用しているようだから、あまり気にしなくてもいいだろう。別れの挨拶をしてから、折り畳み傘を取り出して下駄箱に向かうと――玄関に人が立っているのが見えた。

 黒髪ショートカットの彼女は屋根の張り出し部分からぼーっと空を眺めている。何か考え事かと思ったが、その手に学校指定の鞄しかないところを見るに、立ち止まっている理由は別にありそうだ。

 

「傘忘れたのか、不破?」

 

「あ、比企谷君。……そうなんだよね、朝晴れてたからうっかりしてたのよ」

 

 恥ずかしそうに笑った不破は雨が止むのを待っているようだが、律の予報では少なくとも今日いっぱい天気は崩れたままだそうだ。それでは彼女が帰宅できなくなってしまう。

 

「下のコンビニで傘買って来てやろうか?」

 

 親切心で口にすると、なぜかしらーっとした目を向けられた。え、なんで?

 

「そこは、比企谷君の傘に入れてくれるところだと思うんだけど」

 

「なにそのラブコメ脳、無理無理アンド無理」

 

 女の子と同じ傘使って帰るとか、ちょっとぼっちにはレベルが高すぎる。ギガディンが覚えられるレベルのリア充力を内包していないとできない芸当だ。ちなみに俺はようやくメラを覚えたレベル。

 

「大体俺、この後本屋行くし」

 

「あ、私も本屋さん行きたいって思ってたんだよね!」

 

 なん、だと……!? ぼっちにはなかなか使う機会のない上級スキル、“用事があるからごめんね作戦”を使ったというのに、逆に逃げ場を失ってしまった。やっぱリア充系スキルはクソだな。

 まあ、コンビニで買ってくるなら、それはそれでまたあの坂を登らないといけないし、肉体的疲労と精神的疲労のどっちを取るかしかないわけだ。もはやどっちも回避するという選択肢はない。押してダメなら諦めろである。

 

「はあ、途中で傘買えよ?」

 

「やったー!」

 

 少し大きめのサイズの折り畳み傘をさすとスルッと中に入ってきた。ほんとナチュラルに入ってきましたね。中学の頃の俺なら余裕で勘違いしているレベルだわ。女子というものはやはり油断できない。

 

「近い……」

 

「相合傘なんだから近いのは当たり前でしょ」

 

「相合傘とか言うなよ……」

 

 “あいあい”って言い方が卑怯だよね、愛々傘かと勘違いしちゃうから。リア充たちにとってはそっちの方が正しそうだけど。

 

「あ、比企谷君照れてる!」

 

「うっせ。リア充じゃあるまいし、こんなの照れるに決まってるだろ」

 

 雨で少し空気がひんやりしていてよかった。晴れていたら恥ずかしさで熱中症になっていたかもしれない。晴れてたらこんな状況になってねえじゃん!

 

「だって、比企谷君ってビッチ先生のディープキスも毎回必ず真顔で拒否するしさ、やっぱり高校生だから私たちよりも経験あるのかなって思ってたんだよね」

 

「高校生ったって、お前らと一年しか違わんだろ」

 

 そもそも、ぼっちに女性経験なんて大層なものはない。むしろ男子との交流すらないまである。イリーナ先生はあれだ、誘惑が露骨すぎるから最初から警戒心の方が前に出てしまうのだ。警戒が強いと恥ずかしがることもない。

 それにしても、さすがに折り畳み傘だと二人とも完全に雨から守るのは難しい。少しだけ傘を不破の方に傾ける。はみ出した肩が雨に晒されるが、この程度なら問題はないだろう。

 

「ていうか、比企谷君って結構優しいよね」

 

 いきなりなに言ってんのこの子。

 

「そりゃあ、俺は優しいぞ。優しすぎて周りのために誰とも関わろうとしないまである」

 

 小町とかにするとドン引かれるのだが、不破はなにそれとクスクス笑うだけだった。

 

「最初はさ、比企谷君ってあんまり仲良くしようって感じじゃなかったし、ちょっと怖かったんだよね」

 

 一年しか違わないとはいえ、中学生から見れば高校生は未知の生物だ。それがこんな無愛想な奴となれば、恐怖心が出ても仕方がないだろう。

 

「けど、渚君達とか陽菜乃ちゃんや矢田さんとも仲良くなってさ。それに、律の時は誰よりも真剣にあの子のこと考えてたみたいだし……いい人なんだなって思ったのよ」

 

「……俺はそんなにいい奴なつもりはないけどな」

 

 そっけなく言ったつもりだったのだが、どうやらばっちり顔に出てしまっていたようで、またクスクスと笑われてしまった。

 

「今もさりげなく私が濡れないようにしてくれてる人がなに言ってるんだか」

 

「傘入れてやんねーぞ、ったく」

 

 それにしても……いい人、か。

 直接そんな事を言われても、枕詞のように“都合の”いい人と脳内補完してしまうのがプロぼっちだ。しかし、そういう評価をもらっているということは、クラスでの俺の印象は悪くはないということだろうか。

 

「それに、あんまり積極的に人と関わらないところとか、孤高の戦士って感じ! 絶対ライバルキャラだよね!」

 

「俺がライバルだとしたら誰が主人公なんだよ」

 

 そういえば、不破は漫画が好きなんだったか。よく杉野や倉橋に漫画を布教しているのを目にするし、毎週月曜にはジャンプも買ってきてる筋金入りだ。

 

「磯貝君?」

 

「……あのイケメンなら間違いなく主人公の器だな」

 

 むしろ、それなら俺は敵の雑魚兵士がお似合いである。

 

 

 

 書店につくと不破は一目散に漫画コーナーに向かっていった。まるでTASみたいな最短距離歩行だ。これがジャンプっ子の力か。ジャンプの力ってすげー!

 まあ、今こいつが見ているのはサンデーの棚なんだけど。

 

「お前、ジャンプ以外も読むのな」

 

「うん。雑誌で買うのはジャンプだけだけど、単行本でなら他の漫画も読んだりするよ」

 

 新刊を一冊手にとって次は少女漫画のコーナーに、本当に漫画ならほぼすべて網羅してそうな雑食っぷりだ。

 少女漫画コーナーは行きづらいから、不破と別れてラノベのコーナーに向かう。今季アニメで気になった作品とか、新刊とかを物色するが、ちゃんと考えないと金が際限なく飛ぶから油断ならない。なんだかんだアニメの販促効果は馬鹿にできないものがあるな。

 

「ほう、ラノベかぁ」

 

 優先順位を決めて五冊見繕うと、後ろからマジマジとした声を上げながら不破が覗きこんできた。どうやら彼女も物色が終わったようで、手元に三冊抱えている。

 

「私、ラノベって読んだことないんだけど、面白いの?」

 

「まあ、活字で読む漫画って感じで、俺は好きだぞ」

 

 堅めの文学も好きだが、こういう軽い文学も嫌いじゃない。そもそも、誰にも迷惑をかけずに自分の世界にのめり込める読書はぼっちのためにあるような娯楽と言える。

 漫画、という言葉に興味を持ったのか平積みされた表紙を眺めるが――

 

「どれが面白いのか分かんない……」

 

 まあ、そうだよなぁ。数が多すぎて、知らない人はどれがどれなのか区別もつかないよな。俺だって、なんとかかんとか48は誰が誰かわからないのに、シンデレラなガールズの区別はつくからな。

 ただ、同じ趣味の人間が増えたらいいなと思わなくもないわけで。

 

「なんなら、おすすめ貸してやろうか?」

 

 気がつくと、そんなことを言っていた。

 

「いいの!? じゃあ、私は代わりに漫画の方を布教しちゃおう」

 

 WinWinな関係ってやつだなと返すと、指で作った二つのピースをくっつけて、そうだねと返してきた。お互いの趣味に合うかは分からないが、案外人と同じ趣味に挑戦、というのも悪くないかもしれない。

 

「それじゃあ、どんなの紹介してくれるの?」

 

「そうだな、とりあえず“クズと金貨のクオリディア”から連なる“プロジェクト・クオリディア”を……」

 

「ステマが露骨!?」

 

 おう、お前案外知ってるじゃねえか。

 

 

 

 次の日、なぜか昨日先に帰った磯貝達が正座で烏間さんに怒られていた。殺せんせーも一緒に。……あれ、破壊生物とは言っても一応うちの担任のはずなんだけどなぁ。

 どうやら、前原相手に二股をかけていた女子と二股相手に暗殺技術全開で報復を食らわせたらしい。リア充なんてやってるからそんなトラブルに巻き込まれるのだ。やっぱぼっち最高。

 

「ほい。とりあえず一冊な」

 

 そんな怒られている奴らを放っておいて、不破にラノベを差し出す。漫画と違って一冊読み切るのに数時間かかるものだし、一冊で問題はないだろう。

 

「あ、ありがとう! じゃあ、私の方もっ。漫画だしとりあえず五冊ね」

 

 小さめの紙袋を渡される。紙袋が二重になってて、ビニールカバーも被せられていた。確かに今日も雨だけど、厳重すぎない? 漫画が俺よりVIP待遇な件。

 

「どんな漫画なんだ?」

 

「文庫版も出てる“魔人探偵脳噛ネ……」

 

「お前もステマが露骨じゃねえか!」

 

 どうやらE組きっての漫画少女は、同時にE組きってのメタ発言量産機のようだ。




不破さんメイン回でした。不破さんと八幡って相性いいと思うんですよね。八幡ジャパニメーションに明るいですし。

E組ではあまり目立つ方ではない不破さんですが、メタ発言担当っていう特殊な役は個人的についついにやっとしてしまいます。
あと、個人的にスモッグに「おかっぱちゃん」って言われて「ボブだし」って言ってる不破さんのコマが超可愛くてお気に入りです。

というわけで今日はここら辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

暗殺者たちは普通の中学生である

「うーん……」

 

 読書はいい。家に居ながら多くの知識を吸収できる。新しい知識や考えを得て、自分の中で精査することで新しい自分が見えることもある。ちなみに、自己投影は少し経ってからダメージを食らうのでやめた方がいい。中二病は完治してからが黒歴史本番なのだ。

 

「むむぅ……」

 

 今は不破から借りた漫画を読んでいるが、漫画だからと馬鹿にするのは早計が過ぎる。視覚的伏線は文字では表せられないものだし、大体の漫画は主題となるテーマがある。そこが伝わってくると単純に楽しいものだ。

 ただ、ファンタジー作品を実写化するのはほんとやめてほしい……とまではいかないが、作るならもっとちゃんとしたものにしてほしいものだ。ああいう系で成功している実写ドラマや映画って一握りすぎて、情報が出た瞬間に条件反射で眉をひそめちゃうんだよな。

 

「ぬぬぬぬ……」

 

 ……ところで、いい加減ツッコむべきなのだろうか。

 

「さっきからどうしたんだ、律?」

 

 モバイル律としてE組の携帯端末を行き来できるようになった彼女は、当然のように俺のスマホに表れて以降ずっとこの調子だった。さすがに無視しきれずに声をかけると、ぱあっと表情を綻ばせてくる。背景を花で埋め尽くしてまで感情表現をしていて……やっぱあざといわ、こいつ。

 

「実は、今日放課後に殺せんせーと渚さん、カルマさんと一緒にハワイに映画を見に行ったんです」

 

「ああ、ソニックニンジャだったっけ?」

 

 教室でタコが嬉々として話しているのを聞いた記憶がある。さすがに人間を連れてマッハ二十は出せないだろうが、それでも日帰りでハワイに連れて行くとか、やっぱりあの先生は頭おかしい。

 

「それでですね。帰った後に『ハリウッド映画一千本を分析して完結編の展開を予測しますか?』と聞いたら、渚さんに『冷めてるな』と言われたんです。私は、何か悪いことを言ってしまったのでしょうか?」

 

 ああ、それは潮田もそういうこと言っちゃうわな。本人に悪気がないとは言え、求めていた答えとは系統から違うのだから。

 

「潮田は“感想”を聞きたかったんだろう」

 

「感想……ですか……?」

 

「次回作を予測って、機械的な感じだろ? 律の場合だと統計学や確率論みたいなやり方だし、今までの作品傾向なんて気にせずに自分はこう思うっていう予想、もっと言えば、今回の映画を見てお前がどう思ったか、どういうところが面白かったかって言うのをあいつは聞きたかったんだと思うぞ」

 

 ぼっちだからよく知らんが、一緒に映画を見たらその感想に花を咲かせるものなのではないだろうか。俺も小町と映画に行った時なんかは帰りに内容の話したりしてたもんな。

 

「感想……ですか……」

 

「まあ、お前はまだ人間一年生みたいなもんだから、まだ難しいかもな」

 

 作られたAIでありながら、製作者の命令に背くだけの意志を手に入れた奇跡のような存在である彼女ではあるが、圧倒的に人間的経験が足りない。知識はネットの海にいくらでも転がっているだろうが、ディスプレイ越しにしろなんにしろ、経験しないとわからないことが多いのも事実だ。自分でその感情を経験しなければ、本当の意味で律が“そう思っている”ことにはならないのだ。

 だからきっと、いきなり律個人の感想と言われても――

 

「よく……分からないです……」

 

 そう答えることになる。

 

「それでいいんだ。今はまだな」

 

 人間だって分からないことで世の中いっぱいなのだ。その人間に作られたAIに分からないことがあったっていい。

 

「映画でもテレビでも、本でもニュースでも、自分が思ったこと、なんなら少し気になった程度のことでもいい。俺にでも言って経験してみろよ」

 

 隣の席のよしみだ。多少こき使われるくらいは何とも思わんし、律曰く、今の彼女への変化は俺の存在が大きいらしいので、そのアフターケアも兼ねているわけだ。

 読書に戻った俺に、電脳少女は間をおいてクスリと笑いかけてきた。

 

「八幡さんって、素直じゃないお兄ちゃんみたいですよね」

 

「お前みたいな妹はお断りだ」

 

 ぷくっと頬を膨らませてくるが、撤回する気はない。

 あざとかわいい妹なんて、小町だけで十分なのである。

 

 

     ***

 

 

 俺達が体育という名の訓練で教わるのは、当然のことながら近接戦闘だけではない。対先生BB弾を扱うために射撃訓練も行っている。

 

「……当たらん」

 

 しかし俺は、どうもこの訓練が苦手だった。正直、エアガンどころか縁日の射的すらやったことのない身には、狙って弾を的に当てるのは難しい。石を投げた方が命中率は高いくらいだ。

 こんなのよく当てられるなと、同じように訓練をしている生徒達を眺めてみる。さすがに百発百中とは言わないが、皆俺よりも断然うまい。ピストル型だけでなく、ライフル型やショットガン型など、様々なエアガンを各自が扱っていた。

 特に千葉と速水、あの二人は別格だろう。男女射撃一位の二人の弾は、その九割以上が的の中央を射抜いていた。二人とも活発な人間の多いE組の中ではあまり話さない方だから、関わりはないんだけどね。

 

「……なに?」

 

 あ、見ていたら速水に睨まれてしまった。目つききついな、こいつ。

 

「いや、すげえ精度だと思ってな」

 

「ふーん……どんな感じで撃ってるの?」

 

 三割も当たっていない自分の的と見比べていると、そんな事を言われたので、さっきと同じようにピストルタイプのエアガンを構えて的に狙いを定める。止まってしまいそうなほど呼吸を浅くして――引き金を引いた。

 銃口から発射されたBB弾は円の描かれた的の真ん中――から外れて左下に命中した。ぐぬぬ……。

 

「……肘が甘い、かな?」

 

「え? こ、こうか?」

 

「違う、もっとキュッと」

 

 キュッとってなんだ、キュッとって。もうちょっと具体的な表現してくれませんかね。お前はどこのミスタージャイアンツだ。

 

「こう?」

 

「違う」

 

「こうかな?」

 

「そうじゃない」

 

「こっちの方がいいかな?」

 

「そっちはだめ」

 

 ……全然意志疎通できないんですが。口数少ないってレベルじゃないぞ。

 幾度となく構えを変えてみるが、即席教官からはなかなかOKサインが出ない。

 一向に俺と彼女の間にある認識の差を埋めることはできず、痺れを切らした彼女はついに手を出してきた。

 

「こうよ、こう」

 

「っ!?」

 

 後ろから抱きつく形で。

 

「お、おいっ」

 

「黙って」

 

 抗議の声を上げようとしたが、当の速水は完全に集中しきっているようで聞く耳を持たない。というか、次余計な声出したら殺されそう。

 

「動かない敵を狙っているんだから、最初は手首、肘、肩を固定。一番撃ちやすい形をまずは覚えることが大事よ」

 

 ……言えるじゃん。最初からそう言ってくれれば分かりやすかったと思うんだが。

 言われるがままに肩から先を固定、しかし無駄な力は抜いて自然に。

 

「ん。そのまま中央を狙ってみて」

 

 再び的の円に照準を合わせて撃つと、今度は円の中に当たった。一度構えを崩してからもう一度構え直し、もう一度放った弾も再び円を貫く。

 

「おおー」

 

「ね?」

 

 感嘆の声を上げる俺に彼女は小さく笑みを浮かべた。

 ……なるほど。少ない言動ときつめの目に勘違いしていたが、笑っている姿は十分年相応、中学生然としており、別段暗いというわけではないようだ。

 

「しかし、瞬時に照準合わせられねえな」

 

 確かに当たるのだが、どうしても構え始めてから照準を合わせ、引き金を引くまでが遅い。そもそも本来の標的は最高速度マッハ二十なのだ。制止状態のターゲット相手にこんなに時間をかけていても仕方がない。

 

「まあ、まだ撃ち始めだから仕方がないんじゃないか?」

 

 後ろからした声に振り返ると、目が見えないほど前髪の長い文字通りのギャルゲー主人公がいた。いやもうメイビーソフトの主人公といっても過言ではない。あのレーベルエロゲーだけど。

 

「しかし、慣れないと仕方がないからなぁ」

 

「それはまあ、練習あるのみだな」

 

 にっと口角を上げた千葉は持っていたエアガンを無造作に構えて、ほぼノータイムで引き金を引いた。

 飛び出した弾は俺が使っていた的、さっき当てた二発よりもより中央に吸い込まれた。

 

「まあ、練習すればこんなもんだ。さすがに人それぞれスタイルがあるから練習しないことにはどうしようもないけど」

 

 そう言って照れくさそうに、けれど少し自慢げに彼は笑う。彼もまた、速水のように無口な部類の人間だが、話してみると案外気さくな奴のようだ。

 

「その早撃ちまで会得できるもんかね。ま、練習するしかないんだけどさ」

 

 暗殺教室では生徒の意外な一面が見える。なるほど、二人が射撃の才能を持っていることも、速水が存外かわいらしく笑うことも、千葉があんな照れくさそうな表情をすることも、仮に俺と彼らが普通のクラスの同級生だったら、きっと俺は知らなかった。だって、今までのクラスメイトがそうだったのだから。

 それは今まで必要なかった。黒歴史ばかりの俺にはまさに不要だったから。

 いや、ひょっとしたら逆かもしれない。不要と断じたからこそ、黒歴史を作ってしまったのかも。

 そう考えると、納得いっちゃうんだよなぁ。

 

「ところで……速水はなんでまだ、比企谷に抱きついてるんだ?」

 

「え?」

 

「ぇ………………え!?」

 

 そういえば、すっかり忘れていたけど、ここまでずっと抱きついたままでしたね速水さん。

 最初の「ぇ」で自分の状況を確認した速水は、二回目の「え」でバッと俺から離れた。首まで赤く染めてるところ悪いんですが、そもそも抱きついて構えを指導しだしたのはそっちなわけで――なかなか構えが作れなかった俺のせいですね。ついでに言えば何も言わなかった俺のせいでもありますね。怖かったから何も言えなかったと事実を言うわけにもいかないし、八方塞がりである。

 

「か」

 

「か?」

 

「かっ、勘違いしないでよねっ。い、今のは別に、指導として仕方なくなんだからっ!」

 

 …………。

 ………………。

 ふむ。本人が指導目的と言っているなら、合意の上なわけで、つまりは俺に落ち度はないということだ。なるほど、相手からそう言ってもらえると俺としてもありがたい。

 しかし、今はそんなことぶっちゃけどうでもよくて。

 

「速水」

 

「な、なに?」

 

「なんでツンデレのテンプレみたいなこと言ってるんだ?」

 

 そうそれ、それですよ千葉君。もうびっくりするくらいテンプレートなツンデレに、感動どころかちょっと引いたまである。なんなの、そういうキャラ作りなの? どこぞの似非金髪ツインテール似非ツンデレじゃないんだから、わざわざそういうキャラ設定はいらないのよ?

 しかし、千葉の指摘を受けた当の速水は――

 

「な……な…………っ」

 

 顔をクリムガン並みに真っ赤にして口をパクパクさせていた。

 つまりは素。

 天然物ツンデレ。まさか実在するなんて……。

 それを見て俺は、不覚にも盛大に笑ってしまった。速水が何か言っているようだが、ちょっと腹が痛いレベルで笑いが止まらないので後回しにさせてほしい。

 何も知らない時は射撃という暗殺技術に優れた、中学生とは思えない奴らだと思っていた。勝手にそう思い込んでいた。

 けれど、ああ当然ながら。

 彼らは間違いなく普通の、暗殺訓練を受けている普通の中学生だ。




今回はちょっと短めですがスナイパーコンビ回でした。
この二人はあんまり積極的にしゃべらない落ち着いた感じとか八幡がシンパシー覚えそうだなとか思ってます。三人だと黙々作業したりして、でもその無言が嫌ではないみたいな。

しかし、速水は倉橋と結構交流が深いようですし、スキンシップとか地味にその影響受けてるんじゃないかなと思って書いたのが今回の話でした。ツンデレって難しい。

ちなみに、律が登場してから出演率ダントツトップですが、全てはモバイル律って存在のせいです。学校でも家でもどこでも出てこれるとか便利すぎてやばい。

ではでは今日はこの辺で。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

新たな転校生は怒りを生む

「転校生……ねえ」

 

 今度はしっかり送られてきた烏間さんからのメールを眺めながら一人ごちる。

 この時期にわざわざE組に来る転校生、ほぼ間違いなく暗殺者だろう。そもそも編入試験受けてわざわざE組に来る普通の生徒もいないだろうしな。

 

「そういえば、律の時に一人目って言っていたな」

 

「そうですね。当初の予定では私と“彼”は同時投入される予定でした」

 

「なるほど。それはいいんだが、なんでまたナチュラルに俺のスマホに来てるんですかね」

 

 覗きこんでいたディスプレイからひょっこり現れた律はテヘッと舌を出している、あざとい。

 彼女が言うに、当初の予定では律が遠距離射撃を行い、もう一人が肉薄戦闘で連携する予定だったらしい。肉薄戦闘……マッハ二十の超生物に対して格闘戦を行う暗殺者? 不意を突く通常の暗殺ならともかく、生徒として教室に参加するのに意味があるのだろうか。

 

「ですが、二つの理由で私のみの先行投入になりました。一つは彼の調整に予定よりも時間がかかったことです」

 

 調整……つまりその暗殺者も律のように機械ということだろうか。黒光りする機械が教室を圧迫するのかな……。

 

「そしてもう一つは、私が彼より暗殺者として圧倒的に劣っていた、ということです」

 

「……は?」

 

 殺せんせーに初日で何度もダメージを与えた律が、卒業までに暗殺が成功する確率九割以上と言い放った彼女が……圧倒的に劣っている? それは、どんな怪物だと言うのだろうか。

 

「そういうことなら、この暗殺教室も終わるかもな」

 

「そう……かもしれませんね」

 

 そいつが本当に律以上の力を持っているなら、近いうちにターゲットは暗殺されて、この暗殺教室も終わるだろう。賞金百億はそいつの調整者の懐の中へ。

 そして、暗殺教室はE組へ、俺は元の生活へ、ただ戻るだけだろう。

 そう思っても、なぜだろうか。

 終わる気が一切しないのは。

 

 

     ***

 

 

 律から話を聞いた翌日。大抵のことには驚かないつもりでいたし、実際そいつの保護者――おそらく開発者と言った方が正しいだろう――全身白装束のシロにも驚くことはなかった。

 しかし、しかしである。

 

「俺は……勝った」

 

 誰が壁を壊して入ってくるなどと想像できるだろうか。しかも壊れたのは俺のほぼ真後ろの壁だ。迷惑ってレベルじゃない。

 

「この教室の壁よりも強いことが証明された」

 

 ……なるほど。こいつはとても痛い奴だ。しかも俺の黒歴史を掘り返すタイプの痛い奴。いや待て、名もなき神とか考えていたのはまさしく中二の頃だったから、むしろ年相応のはずだ。だからノーダメージだ、致命傷ですむレベル。それダメージ受けてるよね。

 とりあえず、ぱっと見は普通の人間に見える。白に近い銀髪、どこか焦点の合い切っていない双眸。もう七月に差し掛かろうというのになぜか着ているファー付きの長袖コートから覗く手足、首にも機械のような部分はない。

 しかし、こいつは今、間違いなくただぶつかっただけで壁を破壊した。いくら木造とはいっても、そんなことが普通の人間にできるわけがない。

 そして――

 

「ねえ、外土砂降りの雨なのに、どうしてイトナ君一滴たりとも濡れてないの?」

 

 そう、赤羽の言うとおりだ。未だ梅雨を抜けきらない天気はまごうことなき雨。手ぶらの状態で一切濡れないなんて不可能だ。それをこの転校生暗殺者、堀部イトナはやっていた。

 直感として、まともな会話が成立するとは思えない。全く聞く耳を持たなかった初期律とはまた別で、会話が噛みあわない、知性が感じられない。赤羽と話している様子を見ても、どちらかというと本能で動く獣のように見えた。

 まさか、この期に及んでただの近接脳筋タイプなんて言うのだろうか。もしそうだとしたら……正直律以上の戦果を出すとは思えない。

 完全に興味を失って、読書でもしようかと本を取り出そうとして――

 

「だって俺達、血を分けた兄弟なんだから」

 

 思わず本を取り落してしまった。

 

 

 

 昼休み、堀部は机の上いっぱいに甘いお菓子を広げて貪っていた。先の発言のせいもあって、皆殺せんせーと堀部を比べている。

 確かに二人の共通点はある。異様な甘党だったり、巨乳好きだったり。しかし、それは決して兄弟の定義にはなりえない。兄弟だから趣味嗜好が全く同じなんて逆に珍しいだろう。どこぞの六つ子だって一人一人キャラが違う。そもそも、甘党の巨乳好きなんてこの世に何人いると言うのか。

 仮に本当の兄弟だとして、それなら殺せんせーが否定する理由がない。それ以前に、それなら動揺するのは一目見た瞬間のはずだ。

 兄弟という言葉がブラフの可能性。この間、潮田から今まで調べてきた殺せんせーの弱点を見せてもらったが、恐らくあのタコはパニックになると判断力が落ちる。動揺して縄に絡まったり、いきなり渡された知恵の輪を全然解けなかったり、マッハ二十とあの頭脳を活かし切れない。

 しかし、それを狙ったのだとしたら、殺るのはあの瞬間だったはず。それをしなかった時点でおかしいのだ。

 

「わかんねえな」

 

 なにを意図しての発言なのか、まるでわからない。疑惑を残して放課後まで引き伸ばすことで、生徒からの視線や質問責めで殺せんせーに恒久的動揺を与えるため? もしそうなら、当初の予想通りサイボーグか強化人間という線が濃厚なのだが……何かが引っかかる。

 

「二人は生き別れた亡国の王子! そして成長した二人は互いに兄弟だと気付かず、宿命の戦いが始まるのよ!」

 

 ……うん、とりあえず不破のその線はないだろ。そもそも堀部の方は兄って認識しているし、堀部の年齢を考えても近年滅亡したタコの国なぞ聞いたことがない。というか、それならあのタコが突然変異である方がまだ自然だろうし。

 ちらりと堀部を見る。クラス中の注目を集めているというのに、全く動揺の色は見られない。もしこれで真っ赤な嘘だとしたら、相当なペテン師だ。

 もっと“兄弟”を広い意味で考えてみよう。まずは義兄弟説。戸籍上だったり、本人達が契りを交わしたり、方法はいろいろあるだろうが、これは違う。堀部自身の口から「血を分けた兄弟」と言われているから。

 次にクローン説。これも違う気がする。確かにタコと同性能のクローンだと言うのなら、超人的なパワーも理解できるが、それなら見た目も殺せんせーに近くなっているはずだ。弟というのならば、ベースはあの先生なのだから。

 となると濃厚になるのは、部分移植説。血を分けたと言っているところから見ると血液だろうか? この先生に血があるかは分からんが。

 しかし、それもおかしい。マッハ二十で動き、地球を破壊するという超生物から部分移植をするということは、一度捕獲する必要がある。それなら、その時点で殺してしまえば終わりのはずだ。

 何かを……見落としているような……。

 

「っ……!」

 

「八幡さん、どうかしたんですか?」

 

「……いや」

 

 途中で思考が陰ってしまう。これ以上は考えてはいけないとでもいうかのように思考が止まってしまった。

 深く息をついてマッカンを煽る。こうなってしまうと、無理に考えても無駄だろう。

 どうせ放課後には答えが出るのだろうし。

 

 

 

 そして放課後、教室には机で正方形のリングが組まれていた。ご丁寧に「リングの外に足がついたら死刑」なんていうルール付き。喧嘩ですらなく、まるで試合を始めるかのようだ。

 赤羽が言うには、こうして生徒の前で決められたルールは“先生の信用”のために破ることはないらしい。つまり、十分有効な手段ということだ。

「いいでしょう。ただしイトナ君、観客に危害を加えた場合も負けですよ」

 狭いリング、コートを脱ぎ棄てた堀部はハイネックのタンクトップのみの姿で、何かを隠し持っているようには見えない。まさか本当にその身一つで殺せんせーに勝つ気なのだろうか。

 いや、ありえない。人の形を成している以上、彼は人体の限界に縛られる。いかな強化人間だろうと、関節のないところは曲がらない。全身がクネクネした触手の殺せんせーとは“無理”のラインが大きく異なるのだ。

 それに勝とうとするのなら、当然武器が必要。しかし、実弾や普通のナイフはドロドロに溶けてしまうと言うし、やはり対先生物質で作られた武器……と考えるのが普通だが、その程度の暗殺者が予定より一月近くも“調整”に手間取るだろうか。

 隠し持っているとしたら、もっと常軌を逸するものだ。超生物に近接戦で勝ちえて、あのプルプルの身体にダメージを通しえて、かつそれを扱う本人に緻密な“調整”が必要なもの。

 そう、例えば――

 

「暗殺……開始!!」

 

 ――――ザンッ!

 

「「「「なっ……!?」」」」

 

 殺せんせーと同じ触手とか。

 開始の合図早々、千切れ飛ぶ超生物の左腕。二人の脚は全く動いていない。

 動いているのは堀部の髪から伸びる、数本の触手だけだった。

 だが、これで納得がいく。外が雨の中この少年が全く濡れていなかったのは、触手で雨粒を全て弾いていたからだ。そして、兄弟の意味は「同じ触手を持っている」という意味だったのだ。

 しかも、調整が必要ということは後天的、つまりは殺せんせーの触手を元に移植されたと考えた方が自然だ。よくよく考えれば、対先生物質が既に作られている時点で、触手自体の培養がされていてもおかしくはない。

 

「…………こだ……」

 

 しかし、本当にそうなら……。

 

「どこでそれを手に入れたッ!! その触手を!!」

 

 なぜ当の殺せんせーは顔をどす黒く染めて怒っているのだろうか。目には目を、触手には触手を、で来られることは彼にも想像できたのではないか。

 もし、もしも……触手が作られる想像すらしていなかったとしたら?

 

「……どうやら、あなたにも話を聞かなきゃいけないようだ」

 

「聞けないよ、死ぬからね」

 

 シロの羽織の袖から強い光が溢れだした瞬間、殺せんせーの身体が固く硬直した。

 

「この圧力光線を至近距離で照射すると、君の細胞はダイラタント挙動を起こして、一瞬全身が硬直する」

 

 片栗粉と水を一定割合で混ぜると起こるダイラタンシー現象。この間、律達がハワイまで映画を見に行ったときに殺せんせーが行ったという特別授業だ。

 圧力を加えると凝固するその現象は、同じく超高速で動く触手と対峙している状況では死にも等しかった。

 

「死ね、兄さん」

 

 硬直から逃れられないターゲットに、堀部の触手が容赦なく突き刺さる。何度も、何度も爆発音にすら聞こえる音を上げながら床ごと先生の身体を貫いたように見えた。

 

「やったか!?」

 

「いや……上だ」

 

 寺坂の声に教室の全員が顔を上げた。蛍光灯にしがみついて息を整えようとする殺せんせーがそこにはいて、床を破壊した堀部の触手は透明な皮を貫いていた。

 月に一度の脱皮、潮田たちが四月に決行したという自爆テロの時に見せた、とっておきのエスケープ技だ。

 それを……わずか二回の攻撃で使わせるとは。

 

「でもね、その脱皮にも弱点があるのを知っているよ」

 

 シロは素顔を見せないまま淡々と語る。殺せんせーの脱皮は見た目以上にエネルギーを消費し、その結果直後のスピードが落ちること。ちぎれた触手の再生にも体力を消費して、パフォーマンスが落ちること。触手の扱いには精神状態が大きく関わるということ。

 

「フッフッフッ。これで脚も再生しなくてはならないね。なお一層体力も落ちて殺りやすくなる」

 

 再びシロの放った圧力光線によって、固まった殺せんせーの脚部触手二本を、堀部の触手が切断した。正直、そんなことは既にどうでもよかった。

 

「なあ、シロ」

 

「なんだい?」

 

 俺の中では、ある仮説ができあがっていた。それを確かめるのが先決だったからだ。

 

「殺せんせーの脱皮、あれって堀部もできるのか?」

 

「いや、できないよ。あくまで触手なのは頭部の一部分だけだからね」

 

 なるほど、納得した。

 このままいけば後少しで地球は救われるだろう。しかし、リングを取り囲む生徒たちの表情は暗い。

 当たり前だ。自分たちが鉄の剣で戦っていたところに、いきなり弱点武器と弱点魔法満載の他人がやってきて無双を始められたらたまったものではない。知らない人間から、ただターゲットを引きつけるだけの駒としか思われていなくて、悔しくない人間なんていない。

 

「安心した。兄さん、俺はお前より強い」

 

 ズルをされて苛立たない人間なんていないのだ。

 

「プッ」

 

「……なんだ?」

 

 思わず漏れた笑いに堀部の視線が俺に向けられる。いや、これが笑わずにいられるだろうか。だって――

 

「保護者に泣きついてようやく少し押してるって言うのに、『俺は強い』なんて、ギャグのつもりか?」

 

 触手を与えたのもシロ、そして奇襲を除けば有効なダメージは全て親のフォローで動きを止めてもらった時。それで強いなんて、ジャイアンの後ろに隠れているスネ夫ですら言わない。

 

「お前……っ」

 

 堀部の目に強い怒りが溢れるが、ルール上外野へ手を出した瞬間負けだ。俺に触手を向けることはあり得ない。

 

「そんなに『強い』って認められたいなら、お前に献身的フォローとやらをやっている奴に言うんだな。俺一人でやらせてくれって」

 

 堀部は明らかに賞金目的の暗殺者とは違う。しかし理由はよくわからんが、強さを求めているのだけは言動で理解できた。

 

「君は何を言っているんだい? 奴をここで殺せば、地球に平和が戻るんだよ?」

 

「それで、お前の手に百億が渡るのか。自分で蒔いた種で金もらって、恥ずかしくないの?」

 

「…………」

 

 周りに聞こえないように言った言葉に、シロは答えない。顔まで覆っているのでその表情は窺いしれないが、一瞬動揺が走ったのは分かった。それだけで返答には十分だ。

 こいつは一年後に地球が破壊される原因を作った一人だ。おそらく、このタコを対象にした研究実験をしていた人間。そうでなくては、たった三ヶ月で超生物と同じ触手を人間に植え付けるまでには発展できないだろうし、そもそも堀部が行えない脱皮のメカニズムも知りえないはずだ。

 つまりこいつは、自分の研究所から逃げだしたタコを殺して賞金を手に入れようとしているのだ。白頭巾で顔を覆っているのも、明らかに声を変声機か何かで変えているのも殺せんせーに正体を探られないためだろう。

 

「……まあいい。どうせあれだけボロボロになれば、計算上は私のサポートなんていらないさ」

 

 計算、計算ね。やっぱりこいつは律の開発者と同じ、数値でしか物を考えない研究者タイプだ。

 

「この暗殺方法は実に周到に計算されていますが、一つ計算に入れ忘れていることがあります」

 

 そう、この作戦にはある数値がぽっかりと抜けている。たった一つ、しかし決定的な数値が。

 

「無いね。私の計算性能は完璧だから」

 

 なおも自信満々にシロは堀部に暗殺指示を出す。

 ――――ドギャッ。

 無表情で殺せんせーに叩きつけられた彼の触手は――ドロリとただれ落ちた。

 

「!?」

 

「おやおや、落し物をふんづけてしまったようですねぇ」

 

 堀部の触手が叩きつけられ、破壊された床には、対先生ナイフが一本転がっていた。白々しい、さっき潮田が懐から取り出していたものを自分で拝借したくせに。

 明らかな計算ミス。なぜならシロは相手が生きていて、思考しているということを考えていなかったからだ。過去の経験を活かすことを考えていなかったからだ。暗殺対象はNPCではないのだから、確実な行動なんて何一つないというのに。

 

「同じ触手なら対先生ナイフが効くのも同じ。触手を失うと動揺するのも同じです」

 

 動揺して動きが止まった堀部を、殺せんせーは自身の皮で包んで拘束し――

 

「でもね、先生の方がちょっとだけ老獪です」

 

 そのまま皮ごと窓の外へ放り投げた。

 抜け殻に包まれているから見た目のダメージはない。しかし、その足はリングの外についてしまっている。つまり……。

 

「先生の勝ちですねぇ」

 

 相手を舐め切っている縞々模様に顔を染めて、超生物は笑っていた。

 

 

 

 あの後、負けた怒りに任せて、黒い触手を暴走させた堀部だったが、恐らく麻酔銃と思われるものでシロに気絶させられ、回収されていった。休学とか言っていたから、また来るんだろうけど、あの強さへの謎の執着がなくならないと、どの道途中で暴走しそうで怖い。後怖い。

 というか、対先生繊維とかあるんなら配給してほしいんだけど。やっぱ金が欲しいんだろうな。悪の研究員かよ。

 で、あれだけギリギリの戦いをした当の超生物様は。

 

「シリアスな展開に加担してしまいました。先生、どっちかというとギャグキャラなのに」

 

 なんかよく分からない理由で恥ずかしがっていた。というか、ギャグキャラの自覚あったのか。

 

「掴みどころのない天然キャラで売ってたのに」

 

 なんで自分のキャラ計算づくで作ってんだよ。そういうのは律とキャラ被っているからやめた方がいい。単純に腹立つし。

 まあ、ぶっちゃけ殺せんせーのキャラとかそういうのは地の底までどうでもよくて。

 

「ねえ、殺せんせー説明してよ。あの二人との関係……」

 

 今の生徒達の関心はやはりそこにあった。当然だ、部分的にとはいえ同じ触手を持ち、多くの弱点を知っていた二人。少なくともシロとの関係は俺の口から言ってもよかったが、やはり本人のことだ。本人の口から語られるべきだろうと口をつぐむ。

 

「仕方ない、真実を話さなければなりませんね」

 

 超生物は額に汗を浮かべながら、重々しく顔を上げた。

 

「実は……実は先生。人工的に造り出された生物なんです!」

 

 ………………。

 ……………………。

 ……うん。

 

「だよね、で?」

 

「にゅやッ、反応薄っ!!」

 

 まあ、生まれも育ちも地球って言っている上に堀部のように移植しているところを見ても、人工生命体って考えるのが普通だろうしな。大体そういう想像に行きつくよな。

 ぶっちゃけ、知りたいのはそこではないのだ。

 

「どうしてさっき怒ったの?」

 

 なぜ堀部の触手を見て怒りをあらわにしたのか。どういう理由で生まれて、なぜこのE組で教師をやっているのか。それが今の“なぜ”だった。

 

「残念ですが、今それを話したところで無意味です。皆さんが何を知ろうと、先生が地球を爆破すれば全て塵になりますから」

 

 しかし、超生物ははぐらかす。なぜ答えないのか、答えることで、何かこのE組に不都合があるのだろうか。月を七割蒸発させて、地球をも破壊しようとしている破壊生物にそれ以上の秘密なんて……。

 造り出された理由、過程、そこから独立して生きている今。

 

「なあ律……」

 

「なんでしょうか?」

 

「一から殺せんせーを作るのと、別の生き物をベースにして作るの。どっちの方が難易度高い?」

 

「……ベースがあった方が難易度は圧倒的に下がると考えられます」

 

「……だよな」

 

 そもそも、ほぼ無からマッハ二十天才生物が作れたなら、世紀の大発明だ。テレビで大々的に報道されてもおかしくない。動物ベースだとしてもそれは変わらないだろう。しかし、そんなニュース欠片も見たことがない。

 報道できない内容の実験、ということになるだろうか。実験の目的が大量殺戮兵器だったとか、そういう理由。しかし、日本のこのE組で教師をやっているところを考えると、実験が行われていたのは日本の線が濃厚だ。この国でそんな兵器の製作実験をしているとは考えにくい。

 となると、他の報道できない理由……。

 

「……いや、まさか」

 

 例えば、あくまで例えばの話だが。

 

「殺せんせーのベースが人間の可能性は?」

 

「それは……」

 

 隣にいるAI娘は驚きに目を見開き、言い淀むように口をまごつかせ――

 

「殺せんせーの知能、妙に人間社会に馴染んでいる点をかんがみるに……その可能性は十分にあります。むしろ、他生物の中で一番人間ベースの可能性が高いと思われます」

 

 俺の最悪想像を肯定してきた。思わず天を仰いで小さく呻く。

 俺が想像し、律によって裏付けされた仮説。もしも、これが事実なら……。

 

 

 あいつは、自分の生徒に“元”とはいえ人間を殺せと言っているということだ。

 

 

「そんなの……そんなこと……」

 

 許されるわけがない、許されるわけが……。

 もはやほぼ確信を持った俺は、知らず拳を爪が食い込むほど固く握り込んでいた。




イトナ登場回でした。

書いていて八幡の思考が冴えわたりすぎかなとも思ったのですが、ある程度八幡を動かさないと転校させた意味がないというジレンマ。元々思考力は並み以上にあるキャラですし、隣にパーフェクトあざといAI娘もいるからいいかなって。

現在お気に入りが700件を超えていました。評価もかなり高い点数を予想以上に多くの方々にしていただいていて、うれしい限りです。
とりあえず書きためている分までは毎日投稿する予定なので、あと10話くらいは毎日読めるんじゃないかなと。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ようやくして比企谷八幡は・・・

 イトナ君がやってきたあの日、僕らE組にとっては意識改革の日になった。

 今までは暗殺計画を練って実行しつつも、心のどこかで「誰かがやってくれる」と思っていた僕たちだけど、イトナ君に追い詰められていく殺せんせーを見て思ったんだ。

 

 

 誰でもない、僕たちが殺したいって。

 

 

 僕たちがこの教室で頑張ってきたことを証明するために、僕たち自身の手で答えを掴み取るために。

 烏間先生に皆で進言したら、小さく笑って放課後の追加訓練をしてくれるって言ってくれた。一層ハードになる訓練だけど、意識の変わった僕らにはそれすら楽しい暗殺教室の一部だ。

 

「殺ス……」

 

「にゅやっ!?」

 

 けれど、そんな中で彼は明らかに他の皆とは違っていた。いつもはどこか気だるげで、けれどどこか安心する声は呪詛のような感情を滲ませていて、眼光は見たこともないほどの鋭さを放っている。

 

「すごい気迫だな、比企谷」

 

「うん……」

 

 杉野が言うように、確かにすごい気迫だ。鬼気迫るとはまさにこのことだろうか。素早くナイフを振るい、エアガンで牽制する。今まで僕たちの暗殺を傍観していただけだった彼の意外な戦闘能力の高さに驚かされた。そういえば、比企谷君はE組に来てすぐに烏間先生の放課後特訓を受けていたんだっけ。

 ずっと息を潜めていた暗殺者の急襲に、不意を突かれた殺せんせーはだいぶパニクって動きが緩慢になってしまっている。

 ここで僕たちが援護すれば暗殺成功率は格段に上がるだろう。

 

「ブッ殺ス」

 

 けれど、それができない。彼の目が、全てを拒絶するような目が銃を持つことすら許してくれなかった。

 どうして比企谷君は急に殺せんせーを殺そうと動きだしたんだろう。どうしてあんなに怒っているんだろう。

 どうして、怒っているのに、あんなにつらそうなんだろう。

 

 

 

 始まりはイトナ君が休学した次の日。心機一転した僕たちは各々で暗殺計画を練っていた。

 

「皆さん、おはようございます。イトナ君が欠席ですが、今日も楽しく学んで楽しく暗殺しま……」

 

 ヌルフフフと教室に入ってきた先生の言葉は、だけど続くことはなかった。

 ――――ブヂュッ。

 なぜなら、殺せんせーの脚がただれ落ちたから。床に転がっていた対先生BB弾をふんづけたのだ。

 床には二、三個の弾が転がっていただけで、誰もが回収し忘れたものかと思った。たぶん先生もそう思っただろう。

 

「にゅやっ!?」

 

 けれど、固まっている僕の横を何かが通り抜け、殺せんせーに対先生ナイフを向けたことで、それが意図的な犯行だということを教室の全員が理解した。

 彼、比企谷君が振るったナイフをギリギリで殺せんせーがかわす。昨日の今日でいきなり暗殺をしてくるとは思わなかったのか、もう少しでかすりそうだった。

 

「ヌルフフフ、君が先生を暗殺しようとするのは初めてで……」

 

「黙レ」

 

 体勢を立て直そうとした殺せんせーの声を遮ったそれが、最初誰のものか分からなかった。この一月割とよく聞いてきたはずなのに、いっそ機械かと思うほど平坦な声色を発したのが本当に目の前の彼なのか、確証が持てなかったんだ。

 

「殺ス……絶対ニ、殺ス」

 

「ひ、比企谷君っ」

 

 しかし、その声は確かに比企谷君の口から漏れだしている。ポケットから引き抜いたエアガンが先生に向けられると、殺せんせーは大きく距離を取ろうとする。警戒している殺せんせーはE組きっての戦闘能力と頭脳を持つカルマ君の騙し打ちにも対応できた。当然のように放たれた数発の弾丸は軽々と避けられ――

 ――――ポシュッ!

 

「なっ……!」

 

 これは……煙幕!?

 真っ白に染まった視界の中、エアガンの発砲音が響く。比企谷君自身も殺せんせーは見えていないだろうから、狙わずに乱射、つまり弾幕を張っているんだと思う。

 

「にゅっ、あぶなっ!?」

 

 生徒に危害が及ぶことを気にする殺せんせーが動ける範囲は自然に狭まる。狙っていなくても、先生を貫くルートを掠める弾丸は多いだろう。

 やがて煙幕も晴れていき、うっすらと見えてきた比企谷君の影が先生に肉薄するけれど、高速で逃げた先生には当たらなかった。どうやらBB弾も被弾ゼロのようだ。

 

「ヌ、フフフ、なかなかの作戦ですねぇ。今まで暗殺に参加しておらず、先生に実力を見せていない比企谷君だからこその急襲。しかし、先生を殺すにはまだ足りな……」

 

 余裕が出てきて緑と黄色の縞模様に顔を染め始めた先生は――

 ――――バチュッ!

 横から飛んできたそれに全く反応できなかった。

 豆腐のように細胞が破壊され、吹き飛んだ先生の腕。BB弾の飛んできた方向にその場の全員が目を向ける。

 僕の後ろ、最初は律が援護射撃をしたのかと思ったけれど、彼女は銃火器を何一つ展開していない。発砲元はその隣、比企谷君の机の上に固定されたエアガンだろう。時計針タイプのタイマーとゴムを使った時限砲台。殺気を発することもなく、比企谷君以外警戒していなかった先生は発砲音にも気がつかなかったのだ。

 

「殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺ス殺スころスころスころスころスころスころスころスころスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロス」

 

 再び不意を突かれた殺せんせーに比企谷君は襲いかかる。絶えずその口から発せられる言葉はまるで呪いのようで。

 その呪いで自分を必死に繋ぎとめているようだった。

 けれど、そんなギリギリの状態が長く続くわけもなく――

 

「ハアッ、ハアッ……コロス……コロ、ス……」

 

 ボクシングのラッシュのような無呼吸状態でナイフを振るい続ければ、そうなることは当然なわけで。完全に酸欠を起こしてしまった比企谷君は、膝から崩れ落ちてしまった。頭から床に倒れそうになる彼を殺せんせーが支える。

 

「……比企谷君を保健室に連れて行きます。皆さんは自習をしていてください」

 

 気を失った比企谷君を抱えて先生は出ていった。

 自習と言われても、あんなのを見せられた後にそんな余裕があるわけがない。教室はいくつものざわめきで埋め尽くされていた。

 

「どうしたんだろうね、比企谷君……」

 

「うん……」

 

 誰から見ても、さっきの比企谷君は“らしく”なかった。まだ一ヶ月弱しか一緒に過ごしていないけど、それだけは断言できる。彼はどちらかと言えば理性的に動くタイプだし、律の時のように状況判断能力も高い。自分が倒れるまで無茶をするとは思えなかった。

 そもそも、あんな目をE組で見たことがなかった。休学明けの頃のカルマ君とも、もちろん殺せんせーの煽りに皆が見せる目とも違う、本物の怒りの目。

 

「いや、あれは本物じゃないでしょ」

 

 いつの間にか近づいてきていたカルマ君の声にハッとする。どうやら思考が声に漏れていたらしい。

 

「本物じゃないって?」

 

「んー、なんて言えばいいのかな。渚君はまともに喧嘩なんてしたことないから分かんないかもだけど、本物の怒りってもっとドロドロしてるんだよ。相手への恨みとか、自分のプライドとか、いろんなものが混ざるから」

 

 確かに、さっきの比企谷君から感じた感情はどこか透明というか……そう、不自然なくらい綺麗に感じた。たぶん比企谷君の中にあったのは、「怒ろうとしている感情」だけだったんだ。他の感情を全てなくして、ただそれだけを抱いていたんだ。

 

「けどさ、さすがに殺せんせー相手でもあんなに感情的になることってなくないか?」

 

 杉野の言うとおりだ。彼よりも二ヶ月近く殺せんせーと過ごしている僕たちだって、喧嘩っ早いカルマ君でさえあそこまで“怒ろうとした”ことはなかった。しかも、今日になって突然……。

 昨日と今日の違いと言えば、やっぱりシロとイトナ君のことが思い浮かぶけれど、殺せんせーに怒りをぶつける理由はない気がする。となると、殺せんせーと比企谷君の個人間でなにかあったと考えるのが普通だけど、殺せんせーが生徒をあんなにするとは思えない。

 そもそも、それならこうなる前に先生が対策を練っているはずだ。

 

「ま、俺も原因は見当つかないけどさ、知ってそうな奴は見当ついてんだよね」

 

 ね、律。カルマ君が口にした名前に皆の視線が教室の後方に集まる。クラス中の視線を受けた律はにこりと微笑んだ。

 

「どういうことでしょうか?」

 

「……その顔を見て、今確信したんだけどね。笑顔、固すぎだよ」

 

「っ!?」

 

 不自然なほど、いっそ機械的な笑みを浮かべていた律の表情が驚きに変わり、それを隠すように俯く。その態度こそ、カルマ君のカマかけが正しかったことを示していた。

 

「律、比企谷君がああなった理由って……なんなの?」

 

「それは……」

 

 しばらく彼女は視線を泳がせ、唇をまごつかせていたけれど、一度何かを確かめるように瞼を閉じて、まっすぐに視線を向けてきた。

 

「その質問にはお答えできません。八幡さんと約束しましたから」

 

「約束、ね……」

 

 約束。実質的な拘束力を持たないそれを、律は自分の意志で守ろうとしている。聞きだすことは困難だろう。

 思えば、彼女がここまでE組に馴染めたのは比企谷君の存在が大きかった。彼がいなかったら、ひょっとしたらこのクラスは“自律思考固定砲台”を排除しようとしていたかもしれない。それが今や、AIとは思えないほど人間的な表情をするようになってきていた。まったく、比企谷君様様だ。そんな彼女と、何よりも彼の意志を捻じ曲げてまで理由を暴くべきではないだろう。

 八方塞がりで口を噤む僕たちに、「ですが」とAI少女は言葉を続けた。

 

「このままでは八幡さんは“もたない”と思います。あの人は全部一人で背負いこもうとしているから」

 

 だから、だから、と懇願するように。理由を話さない身勝手さを謝罪するように。

 

「八幡さんを見捨てないであげてください」

 

 絞り出された声が、けれどしっかりと教室に響いた。

 

 

     ***

 

 

「ヌルフフフ、目が覚めたようですねぇ」

 

 視界に飛び込んできたのが木造の天井だと認識すると、もはや毎日聞いているヌルヌル声が聞こえてきた。そういえば、朝こいつを殺そうとして……気絶しちまったっぽいな。

 

「俺、どれくらい寝てました?」

 

「ついさっき運んで来たばかりですよ」

 

 時計を見ても、確かに十分前後くらいのようだ。身体を起こそうとするが、まだ多少眩暈がして、暗殺対象に止められてしまった。

 

「さっきの作戦は素晴らしかったですねぇ。このクラスで先生にダメージを与えたアサシンはそういない。先生は比企谷君の訓練の動きしか知りませんでしたから、だいぶ危なかったです」

 

「ご丁寧に教室から出ないし、生徒に流れ弾が行くことも避けるのを分かっていれば、ある程度動きは予想できますよ」

 

 縛りプレイをすれば、普通の動きよりも選択肢が狭まるのは当たり前。それで予定位置に誘導し、律とも違う意志を持たない砲台から攻撃する。頭の中でシミュレートはしていたが、思いの外うまくいった。

 けれど、結局それだけだ。

 

「危なかったなんて嘘つかないでくださいよ。結局ダメージを与えられたのはトラップだけだ」

 

 直接攻撃はかすることすらなかった。本気で殺そうとしてこの体たらく、逆に超生物に介抱されるなんて、笑い話にもできない。

 

「ところで、どうして比企谷君は、先ほど皆に援護をさせなかったのですか? あれだけ取り乱した先生をクラス全員で攻撃すれば、ひょっとしたら暗殺できたかもしれませんよ?」

 

「それは……」

 

 悩んだ。当の本人にどういうべきか。所詮は俺の想像にすぎないのだから、適当にはぐらかしてもいいのかもしれない。

 けれど、はっきりさせたいと思う自分もいて……いや、もっと言うなら否定してほしい自分もいて、気が付くと喉が音を漏らしていた。

 

「年下に人殺しなんてさせたら気分悪いでしょ。それがたとえ“元”だとしても」

 

 枕に深く頭を沈みこませたまま殺せんせーを見やって――酷く後悔した。これまでの人生、言葉を口にしてこれほど後悔したことはなかっただろう。

 

「な……っ!」

 

 だって、疑惑の対象はこんなにも心を乱している。それだけで、答えとしては十分だった。

 

「そうでなくとも、あんたは“先生”をしすぎてる」

 

 下手な先生より、いやたぶん世界トップクラスの“いい”先生をこのターゲットはやっている。この一月見ていても、生徒からの信頼はとても出会って三ヶ月とは思えないものだった。

 

「それを殺せなんて、殺すまではいかなくともプロなりなんなりが殺すための囮になれだなんて、酷な話じゃないですか」

 

 なるほど、確かに今はターゲットと暗殺者としての絆でこの教室は結ばれていて、積極的に暗殺に取り組む生徒もいるし、その表情は明るい。

 けれど、暗殺が終わった後は? 地球破壊生物の消滅と同時に信頼していた“先生”を失ったら? 暗殺が成功すれば、つまり死んでしまえばアフターケアだってできない。

 

「なら、せめて少しでも早く殺すしかないじゃないか」

 

 この関係は毒だ。時間が経てば経つほど深く沁み込んでいく。もう沁み込み始めているそれを解毒する方法はなく、もはやどれだけ毒を少なくするかしか選択肢はないのだ。

 あまつさえ彼らは受験生だ。なおのこと変な心労は与えるべきではないだろう。

 

「それは、比企谷君なら問題ないと言っているように聞こえますが?」

 

「そりゃあ、俺は暗殺教室じゃアウェーですから」

 

 一番恐れるべきなのはクラスの誰かが暗殺を成功させることで、そいつを中心に教室がバラバラになる可能性だ。あくまでも可能性に過ぎないが、もしそうなってしまうなら、恨まれるのはあくまで部外者の俺でいい。

 

「やはり君は優しいですね、非情なくらい優しい」

 

 なにを言われたのか分からなかったが、殺せんせーは軽く咳払いをすると、俺に向き直った。

 

「……確かに先生は地球を滅ぼすつもりで、その上でこのE組で教師をやっています。それは、比企谷君から見れば残酷なことかもしれません。――しかし、君は勘違いをしています」

 

 勘違い? 首をかしげる俺に殺せんせーはいつも通りヌルフフフと笑いかけてくる。

 

「先生はある約束のためにこのクラスの担任になりました。その約束は、生徒たちと真剣に向き合うことは先生にとって、地球の終わりよりも大切なことなのです。そんな生徒達をないがしろにするつもりはありません」

 

 それに、と破壊生物は一瞬保健室の扉を見やる。そしてズイッと丸い顔を近づけてくると暗い紫――間違いの時の色――に変色した。

 

「その“生徒”には当然君も入っているんですよ。君自身をないがしろにすることこそ、間違っています」

 

「俺は“生徒”じゃないでしょ。学年も違えば書類上も違う。端的に言って部外者だ」

 

 書類上で言えば、俺は総武高校の一年生だ。ここでは所属していないはずのイレギュラー、明らかな異分子であることは間違いなかった。

 しかし、当の担任教師は二本しかない指の片方を立てて、ちっちっちっと左右に振りだした。あんたがそれをやると、ランダムで技が出そうでちょっと怖いんだが。

 

「暗殺教室に学年も書類も関係ありません。先生が生徒と認めているのですから、君もこの教室の生徒です。それに、超生物が担任をしていて、国防省の人間が体育を教え、プロの殺し屋が英語を教えている異常な環境では、君の特異性なんて気にも止められませんよ」

 

 ……異常な環境を作っている最たる原因にそんな事を言われてしまうと、ぐうの音も出ない。マッハ二十で移動する担任教師がいるんだ。そこに高校生が一人混じったところで確かに気になることはないのだろう。

 

「それに、そんな事を言っていては彼らに怒られますよ?」

 

「は……?」

 

 言葉の意図がつかめないでいると、閉まっていた扉が開かれた。

 

「はっちゃん……」

 

「比企谷君……」

 

 ……そこにいたのは、当然と言うべきかE組の生徒たちだった。殺せんせーの態度を見るに、先生の正体については聞かれていないと思うが……どうして皆一様に表情が険しいのだろうか。

 

「はっちゃん!」

 

「お、おう……?」

 

 その中でも、頬を膨らませて顔全体で不満を表していた倉橋がベッド脇まで詰め寄って来た。ゆるふわウェーブな茶髪がかわいらしく揺れるが、そのなごみポイントも吹っ飛ぶほどの真剣な表情を向けられて、思わず息を飲んでしまう。

 

「はっちゃんがなんであんなに怒ってたのか私には分からない。でも、さっき言ったことは取り消してよ。高校生でも、はっちゃんは暗殺教室のクラスメイトなんだよ? 部外者なんかじゃないよ!」

 

「っ……」

 

 今にも泣きだしそうな懇願に息が詰まりそうになる。なによりも自分が、自分なんかがこんな表情をさせてしまっているという事実が一番つらく胸の奥を抉った。

 

「私も、比企谷君とは友達だと思ってるんだよ。けど……比企谷君は違うのかな……?」

 

「矢田……」

 

 倉橋を支えるように肩に手を乗せた矢田がまっすぐに見据えてきて、小さく目を伏せてしまう。

 友達。それがどういうものなのか俺自身よく分からない。今までそう思った奴らには何度も裏切られたから、勝手に期待して勝手に失望してきたから、定義も何も分からない。だから、二人にどう返せばいいのか言葉にできなかった。

 

「あの、……」

 

 口をもごつかせることしかできないでいる俺に、潮田が一歩前に出ておずおずと声をあげてきた。

 

「律から少しだけ聞きました、比企谷君の昔の話」

 

「あいつ……」

 

 なるほど、こいつらが来た大元はAI娘か。何度も俺のスマホに不法侵入を繰り返していた律には昔の、黒歴史になった出来事なんかを話すこともあった。

 まったく、一体いつの間におせっかい焼きプラグインなんて拡張したのやら。

 

「比企谷君はおどけて話していたみたいだけどさ、きっと当時は何度もつらい思いをしたんだと思う。僕たちのことを簡単に信用できないんだと思うし、それはきっと仕方がないこと。でも……僕たちは比企谷君のことをこのクラスの、仲間だと思っています。暗殺が終わるまで、いや終わってからも、僕たちがここを卒業してからもずっと」

 

 比企谷君との繋がりは途切れない、そう続ける潮田の言葉は、先の二人のそれと一緒にジワリと温かく広がっていく。

 これからどうなるかなんて分からない。また今までみたいに裏切られるかもしれない。けれど、こいつらは今まで会った“友達”とは違う、それだけは不思議と確信できた。

 暗殺者として訓練を受けていても、こいつらは普通の中学生だ。けれど、普通の中学生であるからこそどこか普通ではない。もうずっと前から分かっていたはずだった。こんなにも俺の心に入ってきて安心する奴らはいないって。

 それは、彼ら全員が“弱者”を経験しているからだろうか。

 

「俺は……何も持ってないぞ?」

 

「気付いてないだけだよ。比企谷君はたくさんのいいところを持ってる」

 

 茅野はにっこりと代名詞のような明るい笑顔を向けてきて。

 

「協調性皆無だぞ?」

 

「それは困るなぁ。勝手に殺されたら楽しみが減っちゃうし」

 

「カルマだって溶け込んでるんだから問題ないでしょ」

 

 赤羽はいつものようにカラカラ笑い、杉野はそれを流しながらムードメーカーらしく快活な声を上げる。

 

「口下手で面白いことも言えないぞ?」

 

「それ、私たちの前で言う?」

 

「確かに……」

 

 スナイパー二人は呆れたように小さく笑い。

 

「捻くれた面倒くさい性格してるぞ?」

 

「元々キャラの濃いクラスですよ」

 

「なんてったってエンドのE組なんですから」

 

 クラス委員二人は苦笑しながら頬や頭を掻き。

 

「毎週の楽しみがニチアサだぞ?」

 

「アニメ漫画好きドンと来いでしょ!」

 

「二次元を愛する者はみな兄弟だ」

 

 不破はウインクを飛ばしながら胸を叩き、竹林は……ちょっと同意しかねるがいつもはあまり変えない表情をわずかに柔らかくした。

 

「……年下にこれだけ言わせるなんて、面目もくそもないなぁ」

 

 けれど、これでようやく決心がついた。

 友達の定義なんて未だによく分からない。裏切られるのも勝手に失望してしまうのもやっぱり怖い。

 それでも、それでもせめてもう一回だけ、あるのかも分からないそれを求めてみよう。

 

「こんな俺だけど、改めて……このE組に入れてもらえるか?」

 

 そう、だからまず一歩、控え目に踏み込んだ俺に。

 

「「「「もっちろん!」」」」

 

 彼らは考えるまでもないと手を差し伸べてきた。

 弱者としてE組に落とされたこの子たちは、その実強い。弱者が集まったからこそ、一人で乗り越えられないことは皆で支え合おうとする強さがある。

 あるいはこいつらなら……真実を知っても大丈夫かもしれない。

 

「ヌルフフフ、まあ、先生は殺される気は微塵もないですがねぇ」

 

 だから、緑と黄色の縞々に顔を染めるターゲットをまっすぐ見据えて、俺の言うことは決まっていた。

 

「殺しますよ。卒業までに必ず」

 

 その日ようやく、俺は暗殺教室の一員になったのだった。




八幡が本当の意味でE組の一員になった話でした。

バランス調整がなかなか難しい。人一倍訓練に勤しんでいた八幡の成長を見せつつ、殺せんせーに過度なダメージを与えないレベルということで、カルマのようにトラップでの不意打ちを採用しました。

ここからもっと八幡と他の子達の交流を深められたらいいなと思っていたり。

ちょっと短いですが今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

たまには対戦ゲームも悪くない

 紆余曲折あって、ようやく暗殺教室の一員という意識がついたわけだが、その直後に俺は壮絶なアウェー感を味わっていた。

 

「……暇だ」

 

「そうですねー」

 

 椚ヶ丘中学校球技大会。例年E組は本校舎生徒への見せしめと見世物のために男子は野球部、女子はバスケ部とのエキシビジョンを行うらしい。弱者を徹底的に使いつぶす。多少極端だが、実力主義な私立らしいと言えば私立らしい。

 だが、今のE組生徒は学校の思惑通りみすみす見世物のペットを演じるつもりはなく、できることなら一矢報いたいと意気込んでいた。そして、主に男子はそれを受けた殺せんせー改め殺監督の集中特訓が始まったのだ。

 いくら暗殺教室に所属していると言っても、俺は他校のしかも高校生だし、律は人前に出るには四角すぎる。必然的に皆の特訓中は二人して見学だ。いや、仕方ないんだけどさ。

 

「お暇なら八幡さんも参加してくればいいじゃないですかー。四角い私と違って特訓には参加できるんですからー」

 

「……参加できなかったから拗ねてんのか?」

 

別にー、とそっぽを向く彼女に苦笑するが、律を置いて参加する気はなかった。一応断っておくが、決して律を一人残しておくのが可哀想とかそういう理由ではない。誰が好き好んで、必要性もないのに三百キロの球と向かい合ったり、なに言われるか分からん囁き戦術など受けるか。なんだあの殺人投法、見てるだけで怖いわ。後怖い。

 

「ま、今は俺達にできることをしようぜ」

 

「はい」

 

 律はうなずくと目を伏せる。今彼女の内部ではデータの高速処理が行われているのだろう。野球練習――やっぱあれ野球じゃねえな――に気を取られている殺せんせーがこっちに気がつかないか注意していると、スマホのバイブが一度だけ震えた。『触手に関する中間報告』という文面から始まっているそれを開く。

 

「先日イトナさんが切断した殺せんせーの腕の触手を烏間先生が国防省に送り、解析研究をしていたようです」

 

 さらっと日本の中心にハッキングをかけていることに関してはツッコまないでおこう。こいつのことだから気付かれるような余計なことはしていないだろうし、どの道俺達の環境ではこうでもしないと最新情報は手に入らない。

 

「細胞は柔軟にして強靭、自然界にて未観測……ね」

 

 どんな圧力を加えても元の形状に戻り、引張応力は測定不能。そもそもエネルギーを消費すると言っても本体には再生能力もある。自力で多少傷をつけられてもすぐに再生されてしまうわけだし、やはり攻撃するなら対先生物質は不可欠なわけだ。

 

「ですが、対先生物質に関しても触手細胞を化学反応で分解するだけで、触手の正体にはたどり着けそうにありません」

 

「そもそもその提供元が暗殺対象本人って……」

 

 俺達が主に調べているのは殺せんせー自身のこと――ではなく、殺せんせーがあの身体になった原因の実験、ひいてはそれを主導していたであろうシロの正体だ。

 だが、触手の細胞解析を見ても、律にすらどういう原理で人間細胞から変化したのかが分からない。現代理論の枠を超えた未知の変化と考えるべきだろう。

 そうなると、その元となった研究に行きつくのは困難。

 

「情報が足りねえなぁ……」

 

 シロの正体を暴きだして一発殴ってやろうかと思って調べ始めたが、調べる相手が未知の存在の超生物では打つ手がない。

 

「少しずつ調べていけばいいじゃないですか。暗殺に成功すれば、時間はまだあるんですから」

 

「……そうだな」

 

 暗殺に成功すれば、それは間接的な人殺し、教師殺しを意味する。それがこのE組にどんな影響を与えるかは分からない。

 まあ、心配なのは事実だが、それはこの前ほどじゃない。あの先生がただ生徒につらい思いをさせるとは、思えなかった。E組の生徒達を信じようとしているのだから、その担任を信じようとしても罰は当たらないだろう。

 

「ところで、この抜群の吸水性ってなんだ?」

 

 なに? 触手はタオルなの? ヌルヌルのタオルとか需要なさすぎるでしょ。

 

「水中のみならず、高湿度空間でも水分を吸収し、三十三パーセントから五十パーセント細胞が肥大化するようです」

 

 そういえば、雨の日に顔が肥大化していたな。その分重量も重くなるはずだが、そもそも最高速度をどれくらいの重量でまで出せるのか、殺せんせー自体のポテンシャルが分からないと何とも言えないか。

 

「あれ? けど、堀部は雨を触手で弾いてきたはずなのに、触手は肥大化してる様子なかったよな」

 

 対先生ナイフで破壊されたのだから、構造は超生物の触手と同じはず。となると当然雨を弾いた触手も水分を吸って俺達に隠すことは不可能だったのではないだろうか。

 そんな俺の疑問に「これはあくまで推測ですが」と律が答えた。

 

「殺せんせーは粘度の高い粘液を体内で生成、触手から流すことができるようです。それでイトナさんは触手をコーティングしていたのではないでしょうか」

 

 ああ、潮田が前にネバネバの触手で赤羽が拘束されたことがあったとか言っていたな。

 

「調べれば調べるほど規格外だな、あの触手生物」

 

 ただ、それを観察するのがなかなか楽しいのも事実である。人間観察が趣味と言って差し支えない俺にとってはこれほど観察しがいのある相手もいないだろう。

 さらに発見がないかスマホに目を落とす俺を、律はニコニコと眺めていた。

 

 

     ***

 

 

 球技大会は女子が惜敗、男子が辛勝で終わった。律を通して教室で様子を見ていたが、女子はともかく男子のあれはもはや野球じゃないだろ。理事長も殺せんせーもえげつないことやるなぁ。普通なら怪我人が出てもおかしくないゲームだったろうに。

 そして夏本番の七月に入った最初の休日、読んでいたシリーズの最新刊を早く読みたい衝動に駆られてしまい、不肖八幡は仕方なく外に繰り出していた。そんな言い方をしたら、まるで俺が引きこもりみたいじゃないか。……休日に関しては否定できないな。

 

「あれ……?」

 

 目当ての本を買ってホクホクしていると、隣のゲーセンで見覚えのある黒髪を見つけた。流れるような清楚系長髪ストレートがこれでもかというくらい周りから浮いていたが、当の本人はまるで気にしていないようだ。

 

「ふむ……」

 

 いや、学校ならともかくこんなところで声をかける必要もないだろ。相手は気付いていないみたいだし、ここはそのまま退散を決め込むのがベストアンサー。

 ……なんだけれど、ちょっとこう……ね? 好奇心的なのは当然あるわけで。清楚系お嬢様な彼女、神崎がゲーセンでなにをやっているのか、気にならない方が無理というものだろう。

 自然に自然に店内に入って――この時点ですでに自然じゃない自信あるけど、店員は特に俺を警戒してないしセーフ――神崎の少し後ろからゲームの筺体を覗きこむ。格闘ゲームか、ますます場違いというか……え!?

 ストーリーモードらしいゲーム画面では筋骨隆々のNPCが絶えず空中に浮き続けていた。正確には、神崎の操るキャラによって延々とコンボを食らわされていたのである。人の皮を被った悪魔め? それは自己紹介かなにかかい?

 というか、神崎の手の動きがやばい。キーボードでも打ってんのかと思うほど高速で、コントローラーの上を指が踊っていた。

 そのまま、結局NPCは一度も体勢を整えることもできずにHPを削りきられ、画面には“You Win Perfect”の文字がでかでかと表示された。

 

「すげえ……」

 

 その鮮やかすぎるプレイに意図せず声が漏れてしまったのは仕方ないことだろう。そして、その声は当然のごとくスーパープレイを見せた本人にも聞こえてしまうわけで――

 

「ぇ……えっ、比企谷君!?」

 

 俺を認識した神崎は少し不安げな表情で酷く狼狽してしまった。びっくりさせちゃってごめんね?

 

 

 

「ほれ」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 自販機で買ってきた飲み物を渡すと、彼女は申し訳なさそうに受け取った。いや、申し訳ない気持ちでいっぱいなのは俺の方だから……。

 神崎が座った隣の壁に背中を押しつけて自分用のマッカンを口に含む。いつも通りの甘さのはずだが、緊張のせいか申し訳なさのせいか、いまいち味が分からなかった。

 

「あー、そのなんだ、お前んち、この近くなのか?」

 

「いえ、私の家はここから七駅先です」

 

 七駅というとそこそこ距離がある。ここのゲーセンは確かになかなかの規模だが、わざわざここまで来なくても、その道中にもっと大きいゲーセンもあったと記憶しているが……。

 なんでわざわざ、と聞いてしまいそうになるが、そこはぼっちによって培われた人間観察力。突っ込んでほしくなさそうだったので話題を変えることにした。

 

「ていうか、お前あんな特技持ってたのな」

 

「意外……ですか?」

 

「意外っちゃ意外だが、すごいことに変わりはないだろ。……なにその顔」

 

 いつもより幾分間の抜けた表情に眉を寄せると、少し慌てた様子で目を伏せた彼女は、少し上ずった声をあげた。

 

「い、いえ……E組のクラスメイト以外は皆、お父さん達もすごいなんて言いませんでしたから……」

 

 お父さん達――その言葉とわざわざ遠い場所に来ているという事実で、なんとなく彼女が俺を目にした瞬間怯えていた理由が察せた。割と放任主義なうちの両親とは違い、ゲームやアニメに理解を示さない大人が多いことは知っている。神崎の親、特に父親もそういう人間なのだろう。

 

「日本屈指の文化だぞ? 尊敬こそすれ、侮蔑する理由はないだろ」

 

 まあ、新しい文化に否定的になる気持ちは分からなくはない。たとえば百年前、ミステリー小説は幼稚な文学、読むと頭が悪くなるなどと言われていたらしい。まんま今のライトノベルに向けられる目と同じようなものだ。

 なら、常にアウトローな比企谷八幡はそういうものに理解を示したくなるわけですよ。

 

「大体、俺だってゲームにはそこそこ明るいからな。美少女神ゲーマーにすごいって言わずになんて言うんだよ」

 

「び、びしょ……っ」

 

 なぜか赤くなった慌てる神崎は「じゃ、じゃあ」と恥ずかしそうに尋ねてきた。

 

「一緒に対戦でもしませんか?」

 

 ふむ、神ゲーマー様からゲームのお誘い、大変光栄だ。ならば俺の返答も決まっているだろう。壁から背中を離して神崎に向き直り――

 

「お断りします」

 

 頭を下げて拒否の意思を示した。

 

「な、なんですかっ!?」

 

「いやだって、おしとやかに格ゲーでバスケされたら精神的につらいし」

 

 あんなの見せられたら……ねえ?

 

「なら格ゲー以外……あ、戦略ゲームなんてどうですか?」

 

「ほう?」

 

 いいのかい、神ゲーマーさん。

 

「それならいいぜ、やるか」

 

 そのジャンルは俺の得意分野だぞ?

 

 

 

「………………」

 

「…………あの」

 

「………………」

 

「……神崎……さん?」

 

「……負けました」

 

 あ、割とガチで落ち込んでるやつだこれ。

 さすが神ゲーマー神崎名人、対戦型戦略ゲームでもその才能を遺憾なく発揮してきた。おかげでこっちも本気でやらざるを得ず……。

 

「比企谷君のプレイスタイル、えげつなさすぎです」

 

 対人で嫌がられる戦法オンパレードで戦ってしまい、このざまである。八幡君ちょっと不器用すぎない?

 

「人のこと神ゲーマーと言って持ちあげてから落とす時点で性格悪いです」

 

「いや、ただちょっと得意ジャンルだっただけでですね?」

 

 中学生相手に思わず敬語になってしまう高校生がいるらしい。間違いなく俺である。悲しいのは、相手が中学生の中でも大人びている分傍から見てあまり違和感のないところだろう。

 えーっと、こういう時はどうすればいいんですかね。頭撫でて宥める……は小町専用コマンドだし、そもそも小町以外にこんな状況になったことがないんですが。結論的に手詰まりである。

 

「……よしっ、次はなにで対戦する?」

 

 なので、引き伸ばした。まだ勝負は付いていないぜ、ということにすることにした。

 そんな俺に、落ち込んでいたはずの神崎は少し考えてふっと微笑んだ。わーい、どんな温情を見せてくれるのかなー?

 

「それじゃあ、格ゲーにしましょう」

 

 うん、知ってた。だって目がギラギラしてたもん。

 そもそも、そんな原因を作ったのは他ならない俺自身なわけで――

 

「……せめて、永続コンボのないゲームでお願いします」

 

 その程度の妥協案の提示しかできなかった。

 

「いいですよ。どの道完封するつもりですから」

 

 ……ああ、これは死亡コースまっしぐらですね、間違いない。

 まあ、神崎の機嫌も治ったようだし、それになにより学校だと見る機会のなかった負けず嫌いな一面を見れた分のお代と思っておこう。

 ……ちなみに一応報告しておくと、宣言通りノーダメ完封されました。しかも三試合連続。

 

 

     ***

 

 

「あれ? パソコンでゲームですか?」

 

 夜、自室に置いてあるパソコンを立ち上げるとディプレイ脇に当然のように律が現れた。うちのネットワーク回線が完全に律に掌握されているんですが。

 

「ちょっと神崎とゲームやることになってな」

 

 あの後、結構な時間を神崎とゲーセンで遊び倒したわけだが、知り合いと一緒にゲームをするという経験があまりなかった俺達、特に神崎はまだまだ遊び足りなかったようで、インターネットでのPCゲーム対戦を所望してきた。

 俺自身、小町以外の知り合いとゲームをしたのは初めてであり、そのお誘いはまんざらでもなかったのだが、おかげでそこそこ値の貼る神崎お勧めのアケコンを買うことになってしまった。学生の財布に大打撃である。……今度親父強請って臨時収入得ようかな?

 存在だけは知っていたPC交流神器“SKYPE”をインストールし、アカウントを作って事前に教えてもらったIDを入力。連絡先リスト追加申請とかいう普段の俺なら無視か拒否される未来しか見えない申請をクリックすると、即座に連絡先共有がなされた。

 楽しみにしすぎだろ神崎。まあ、俺もなんだけどさ。

 USBタイプのアケコンを繋いで、神崎に教えてもらった無料の格闘ゲームを開く。SKYPEのチャット欄には一言だけ。

 

 

『胸を借りさせてもらうぜ、神崎名人』

 

 

「八幡さん、えっちなのはいけないと思います!」

 

「そういう意味じゃねえよ!」

 

 このAI娘はどこからそんな知識を得ているのだろうか。八幡、律の将来が心配です。




神崎さん回でした。暗殺教室キャラでなぜか神崎さんだけはさん付けになる不思議。

そういえば、暗殺教室クロスって神崎さんヒロインが多いですよね。私が過去に読んだ作品も六、七割くらいがハーレム含めて神崎さんヒロインだった記憶があります。
神崎さんと言えば杉野が出てきますが、まあ公式でいい友達なんて言われてるからしゃーなしなのかなーなんて思ったり。杉野……。←暗殺教室SSで杉野を不遇キャラとして使っている人間の発言。

神崎さんは前から出したかったキャラではあったんですが、いかんせんE組の中では大人しいタイプなので他の子達を優先してここまで引っ張ってました。八幡が精神的にもE組の一員になったので、ようやく絡ませる決心がついた感じ。


ということで今日はここまで。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

暗殺教室にあいつはいらない

「ただいま」

 

「あ、お兄ちゃんおかえりー。今日は早かったんだね」

 

「まあな」

 

 靴を脱ぐと洗面所に直行して、シャワーを浴びる。いつもはまだ烏間さんの放課後補習を受けている時間だが、今日は防衛省からの報告待ちがあるらしく、一度帰ってからジョギングに駆りだしていた。

 

「十キロを五十分弱か」

 

 まだ暗殺教室に参加して一ヶ月しか経っていないというのに、万年帰宅部の俺も人並みに体力がついているらしい。このまま三月までいたらマッチョになれそう。……それはちょっと嫌かな。

 しかし、殺せんせーの暗殺をするには少しでも身体強化が望まれる。ターゲットが基本逃げないのだから、少しでも長く戦える体力は欲しいところだった。またあの時のように倒れてしまってはどうしようもないからな。

 正直面倒くさいし、自主鍛錬とかいつもの俺なら一日でサボりそうだが、理由が理由だし、俺がサボらないように自主鍛錬中はこちらからモバイル律を呼びだして監督してもらっている。さすがに学校外でナイフ訓練や射撃訓練はできないから、基本的に筋トレと有酸素運動メインなわけだが。

 

「……後九ヶ月、か」

 

 平均寿命七十八十と言われる俺達にとってはあまりにも短いタイムリミット。正直、今の訓練だけで間に合う自信は……ない。地球の危機ということを考えれば、もっと訓練密度を上げるべきだろう。

 けれど、暗殺教室でその方法が取られることはない。殺せんせーだって、イリーナ先生だって、もちろん烏間さんだってそんなカリキュラムを組むことはなく、学校生活と暗殺業を両立できるようにしてくれている。

 

「烏間さんも、案外やさしいよなぁ」

 

 見た目は根っからの堅物だが、冷酷というわけでは決してない。厳しい訓練だって学業に支障をきたさないレベルを見極めてくれるし、暗殺に関係する生徒の要望は多少無理のあるものでも聞いてくれる。意外とあの人は、教師という職業も合っているんじゃなかろうか。

 まあ、遊びには全然付き合ってくれないって倉橋達が嘆いていたが、そもそもあの教室の教師陣二人がフレンドリー過ぎるんだよな。ちょっと強面の先生ってあんなもんだろう。

 

 

 

「お兄ちゃんさ」

 

「ん?」

 

「最近食べる量増えたよね」

 

 夕食中に小町に言われて、ふと自分の食事を見つめてみる。

 確かに増えた、大体五十パーセントくらい増量しているだろうか。この量の上で飯はもう一杯おかわりするからもっとだな。低燃費という俺のアイデンティティが消失してしまっているじゃないか!

 

「最近はよく運動してるからな」

 

 最初の頃はそうでもなかったが、こと最近は腹が減って仕方がない。マッカンでもエネルギーを賄いきるのは厳しいようで、昼食のパンが一つ増えてしまった。誰だよ、運動しても昼食の量が変わらない体質とか言ったの、俺だわ。

 

「あのお兄ちゃんから……運動なんて言葉が出るなんて……」

 

「そんなに? 小町ちゃん、ちょっとひどくない?」

 

 ヨヨヨと大げさに泣き崩れる小町、八幡的にポイント低い。まるで俺が運動って言葉と縁がないような言い方は……確かにないなぁ。

 

「じゃあさ、小町がお昼もお弁当作ってあげるよ! あ、今の小町的にポイント高い!」

 

「最後のがなかったら、確かに高かったんだがな……」

 

 いやしかし、実際妹の申し出はありがたい。パンよりもご飯の方が腹もちはいいと言うし、毎日登校中にコンビニによる必要もなくなるからな。

 

「毎食小町の手料理が食べられるなんて、俺は幸せ者だな、今の八幡的にポイント高い」

 

「いや、たまにはお兄ちゃんもご飯作るの手伝ってほしいんだけど……」

 

 会心の返しだったはずだが、小町の「うへー」なんていう表情を見る限り、失敗だったようだ。うーむ、乙女心はよくわかんねえな。

 

「ま、いいや。今週は生徒会が忙しいから、来週から作ってあげるね」

 

「おう、楽しみにしとく」

 

 残っていた飯をかきこみ、食器を洗面台に置いてリビングを後にする。

 自室に戻ると、机に置きっぱなしだったスマホにLINEの通知が来ていた。クラスで連絡するならこれが一番だからと矢田にインストールさせられたアプリだが、思いの外利用することは多い。まあ、基本的に誰かから通知が来たら反応する程度だが、ほぼ毎日のように誰かしら連絡よこしてくるんだよな。特に倉橋と矢田、後は不破なんかも漫画を勧めてきたり、おすすめのラノベを聞いてきたりすることがよくある。

 

 

茅野カエデ

 (比企谷君っ、ヘルプ! ヘルプ!)

 

 

 どうやら、E組全員のグループで茅野が俺を呼んでいるらしい。俺に救援要請とは何事だろうか。

 

 

 (飯食ってた。どうした?)

 

 

 まあ、おそらく大した用事ではないだろう。クラスのことなら磯貝や片岡に頼るだろうし、茅野なら大抵のことは潮田や杉野あたりを頼るはずだ。なんかものすごい絶望しているようなスタンプが貼られたが、本当に緊急事態ならそんなもの貼る余裕もないだろう。

 

 

茅野カエデ

 (近くのコンビニのマッカンが売り切れてた!! 明日私の分も持ってきて!)

 

 

 ほらな? 全然緊急でもなんでもない。というか、ほんと緊急性の欠片もないな。

 

 

 (知らん。買い置きしていないお前が悪いから、諦めなさい。)

 

茅野カエデ

 (比企谷君イジワルだ!)

 

 

 なんでだよ。どう考えてもストックを常備していない茅野に問題がある。マッカン中毒者は常に家にダース単位でマッカンを常備しておくものなのだ。

 

「楽しそうですね、八幡さん」

 

「ナチュラルにスマホから現れるのはやめなさい」

 

 さすがにほぼ毎日現れるもんだから慣れたものだが。

 それにしても、楽しい……か。間違いなく今の生活は楽しい。“友人”関係でこんなことを思ったのは初めてだろう。それは俺が変わったのか、異様にコミュ力の高いクラスメイトの影響か、それともあの異形の先生のせいか。暗殺が日常の生活が楽しいなんておかしな話だが、事実だから仕方がない。

 

「せっかく見つけた“居場所”なんだ、楽しくないはずないだろ」

 

 いつもの勘違いかもしれない、いつか失望してしまうかも知れないこの感情は、けれど温かくて、心地よくて仕方がなかった。

 

 

 

 ところで、ケチだのなんだの小学生みたいな罵倒を残す茅野を無視していると、だんだん閲覧数が増えてきて、最終的に茅野以外にも数名分のマッカンを持って行くはめになってしまった。

 おのれ茅野、グループで連絡よこした狙いはこれだったのか!

 

 

     ***

 

 

「やっ! 俺の名前は鷹岡明!! 今日から烏間を補佐してここで働く! よろしくな、E組の皆!」

 

 でかい図体の男はやってくると、抱えていた大量の袋や段ボールからお菓子や飲み物を取り出した。ラ・ヘルメスのエクレアやモンチチのロールケーキ、どれも値の張るブランドのスイーツだ。

 

「早く仲良くなるには、皆で囲んでメシ食うのが一番だろ?」

 

 そう言ってエクレアに齧りつく鷹岡。愛嬌のある姿にクラスメイト達は既に警戒を解き始めていた。

 けれど……。

 

「あれ? 比企谷さんは皆さんとお茶なさらないんですか?」

 

 ステルス八幡を発動させて校舎の影に逃げ込むと、バンドで固定していたスマホから律が問いかけてきた。甘党の俺があの品々に食いつかないのが不思議なのだろう。

 確かに俺としても普通ならあのスイパラみたいな空間は垂涎物なのだが。

 

「律、あの鷹岡についてなにか調べられるか? 防衛省に気付かれないように」

 

 俺の声色からなにかを察したのか、律はすぐさま防衛省にある鷹岡のプロフィールを提示してきた。相変わらずあっさり日本のトップシステムに介入するあたり、律が敵じゃなくてよかったと安堵してしまうな。

 鷹岡明。空挺部隊時代は烏間さんの同期で、実技面では特筆すべき点はないが、教官として高い適性を持っている。スマホに送られてきた情報をまとめるとそんなところだ。なるほど、これだけ見るとここの体育教師に適任なのかもしれない。

 

「あいつ……なんかやばい」

 

 しかし、俺の脳は激しい警戒信号を発していた。新しい人間だからじゃない。自衛隊の人間だからじゃない。鷹岡の付けている柔和な“仮面”。その中から滲み出ている毒々しい何かが原因だった。

 そうそう気付かれることがないであろう仮面、常に人を疑う生活をしていた俺だから気付けたそれは、いつでも取り外せる代物だ。

 

「同じ教室にいるからには、俺達家族みたいなもんだろ?」

 

 もしあの仮面がここで剥がされることがあったら――

 

「律、あいつの動向に注意して、できるなら録画しといてくれ」

 

 俺は警戒レベルをさらに引き上げた。

 

 

 

「さて、訓練内容の一新に伴って、E組の時間割も変更になった。これを皆に回してくれ」

 

「うそ……でしょ?」

 

「夜九時まで……訓練……?」

 

 時間割とやらを渡された途端、生徒の表情が絶望に染まる。律が本体でズーム撮影した画像を俺も見て……思わずうめくような声が漏れた。

 午前中の三時間目までが普通の学校の授業、その後の四時間目から十時間目まで、午後九時までの九時間が訓練に当てられていた。

 異常過ぎる時間割に、当然生徒からも抗議の声が上がる。彼らは決して軍人ではなく、本来は普通の中学生なのだ。勉強もしなくてはいけないし、当然遊びたい。前原の言い分は正論だ。

 

「『できない』じゃない。『やる』んだよ」

 

 しかし、奴はそんな前原の腹に膝蹴りを入れた。そして、まるで悪いことなど何もしていないとでも言うかのような表情で、柔和の仮面を外して邪気の笑みを浮かべた顔でいけしゃあしゃあとのたまいだした。

 

「抜けたい奴は抜けてもいいぞ。その時は俺の権限で新しい生徒を補充する」

 

 これは独裁体制による恐怖政治だ。暴力によって恐怖を与え、無理やり従わせる。従わなかった人間はふるい落とす選民思想。

 あいつがやろうとしているのは“教育”でも“訓練”でもなく、“調教”だ。

 

「律、頼みがある」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

 うまくいくかは分からないが、その時は別の手段を取るだけだ。まずは彼の常識性にかけるしかない。

 

「な? お前は父ちゃんについてきてくれるよな?」

 

 鷹岡に上から覗きこまれて問われる、否脅される神崎。その膝は完全に恐怖に支配されてガクガクと震えていた。けれど、その目は――

 

「は、はい、あの……私……」

 

 覚悟を決めたようにまっすぐだった。

 

「まずいっ! 律、頼んだぞ!」

 

 返事を待たずに飛び出す。身体を震わせながら、額に汗をにじませながらも、クラスのマドンナであり、根っからのゲーマー少女はにこりと笑みを浮かべた。

 

「私は嫌です。烏間先生の授業を希望します」

 

 それを聞いた鷹岡はニヤリと悪魔的に笑うと、右手を振り上げた。ステルス八幡はうまく作用しているようで、鷹岡は俺に気づいていない。二人の間に身体を滑り込ませ、右腕で顔の側面をガードする。

 ――――ッ!!

 

「つっ……!」

 

 平手とはいえさすが自衛隊、思わず倒れそうになる衝撃になんとか耐えた。

 

「ひ、比企谷君!?」

 

「おう、つつ……大丈夫か?」

 

 暴力野郎と距離を取りつつ神崎を確認するが、ちゃんと盾になったし、俺の身体もぶつかっていないはずだ。大丈夫だろう。前原も未だに腹を抑えているが、大事には至っていないようだ。

 

「なんだ、お前は?」

 

 どうやらこいつ、俺のことは知らないらしい。学校名簿にも載っていないのだから当然かもしれないが、クラス名簿には殺せんせーが載せているし、烏間さんから防衛省に報告も行っているはずなのだが……ひょっとしたらこいつは、このクラスの生徒の名前を一人だって覚えていないのかもしれない。こいつは一度だって、俺達の名前を口にしたことがないんだから。

 

「教師じゃない奴に名乗るつもりなんてねえな」

 

 正直怖い。さっき平手を打たれた腕はまだ痺れているし、相手は俺より二回りくらいでかい生き物だ。怖くないはずがない。

 けれど、ここでそんな恐怖を悟られるわけにはいかない。大仰に、相手の精神を逆撫でするように余裕見せながら睨みつけると、鷹岡の額に青筋が立つ。

 

「父ちゃんに口答えとはいい度胸だな。世の中に……父親の命令を聞かない家族がどこにいる?」

 

「お前の世の中って何十年前の話? ネットやテレビちゃんと見てる? 世の中には父親が家族内カースト最底辺のところもいっぱいあるぞ?」

 

 殊更「父親」「家族」を強調する奴に嘲笑するようにノータイムで返す。従えようと、自分より下だと思っている人間にそんな態度を取られれば誰だってキレるし、こいつみたいなタイプはすぐに手が出る。

 

「こいつ……っ」

 

 予想通り鷹岡は手を出そうとするが、それを見越して距離を取った。当然奴は踏み込まなくてはならず――

 

「ここで殴ったら決定的な証拠になるな」

 

「な……に……?」

 

 その踏み込みも俺の呟きで止まり、それを見て思わず口角が釣り上がってしまう。脳みそまで筋肉でできたような奴は扱いやすい。

 

「今までの一部始終は全て律が録画している。俺が殴られたら速攻で動画サイトにアップロードするように頼んでいるんだ。もちろん、お前以外はモザイク修正してな」

 

 もちろん嘘だ。一応録画は頼んでいるが、律にアップロードまでは頼んでいない。しかし、相手は世界最新技術のAIであり、確認の術がない鷹岡にはそれだけで十分だった。

 

「お前、国家機密の情報をネットに流すっていうのか?」

 

 肉団子のくせになかなか良い返しだ。まあ、予想はしていたけどな。

 

「何言ってんだ、お前? 俺が流そうとしているのは『夜九時まで不当に生徒を拘束し、あまつさえ逆らえば手を出す虐待体育教師』の動画だぞ?」

 

「なっ……!?」

 

 こいつがこの方法を取れるのは俺達に国家機密漏洩を防ぐ義務があるからだ。しかし、今この場に殺せんせーはいない。そうなるとこの光景はただの暴力教師を晒し上げるだけのものになる。

 

「俺を脅しているのか……?」

 

「脅すなんて人聞きが悪い。教師の暴力事件なんて今なら警察沙汰でしょ? まあ、あんたはなんで九時まで生徒を拘束しようとしたのか“本当の理由”は言えないだろうけど」

 

 そう、それこそ国家機密なのだからこいつは本当の事は言えない。防衛省も情報漏洩を防ぐために、こいつを権力で助けることはできないだろう。ネットで拡散した暴力教師が即ニュースなんかに上がらなくなれば憶測は飛び交うし、ここに忍び込んで原因を探ろうとする輩も現れかねない。

 

「大体、この教室が成立しているのは、教師と生徒に信頼関係が成立しているからだ。お前はさっき抜けたいなら抜けていいなんて言っていたが、明日生徒全員が来なかったら、ターゲットはどうするだろうな?」

 

 暗殺教室の大前提として、生徒がいるから殺せんせーは毎日ここにくるのだ。だからこそ多くの暗殺の機会が発生する。それが失われれば、その責任を問われるのは原因となった鷹岡自身に他ならない。

 

「ぐ……ぬ……」

 

「やめろ鷹岡、これ以上はお前の立場を悪くするだけだ」

 

 烏間さんが拳を握って唸る鷹岡を諌める。これで少しは自重してもらえるなら最高なのだが……こいつがそうなるとは思えないな。

 

「フッ……フフフ……ハハハッ、ハッハハー!!」

 

 予想通り、鷹岡から感じる毒々しいオーラは収まるどころか余計に膨れ上がった。瞳孔を極限まで広げ、高笑いをする姿みる限り……もはや理屈でねじ伏せるのは無理そうだ。

 

「確かに俺のやり方は普通の教育現場なら問題になるだろう。しかしな、ここは暗殺教室だ。言うなれば地球防衛の最前線! それをお前たちはどうだ! 今までめぼしい結果も出していない! これは、烏間の育成方針が間違っている証拠じゃないのか?」

 

「…………」

 

 俺達が暗殺において結果を出していないのは事実だ。烏間さんの訓練が甘いのが原因というのも否定しきることはできない。地球防衛という観点で言えば、鷹岡のようなスパルタな訓練も、認めたくはないが理屈は通っているのだ。

 黙っている俺の態度を肯定と受け取った鷹岡は、クククと喉を下品に鳴らし周囲の生徒を一瞥する。

 

「お前らもまだ俺を認めてないだろう。それなら、ここは暗殺教室らしくこいつで今後の訓練方針を決めようじゃないか!」

 

 奴が懐から取り出したのは対先生用ナイフ。どうやら、烏間さんに一人生徒を選ばせて、一度でも鷹岡にナイフを当てられたら、烏間さんの教育が暗殺に手間取っている原因ではないと認めるらしい。

 

「もし俺に当てられた時は、お前に訓練を任せて出て行ってやる! 男に二言はない!」

 

 要は、いつも烏間さんとやっているナイフ訓練だ。近接戦の得意な杉野や敏捷性の高い木村なんかはやる気を出している。

 しかし、あまりにも正攻法すぎる。毒々しいオーラを放つあいつが、そんな生易しいレベルで抑えるはずがない。

 

「ただしもちろん、俺が勝てばその後一切口出しはさせないし……」

 

 裏切られたい俺の予想は裏切られないもので、鷹岡はプルプルのナイフを放り捨て――

 

「使うナイフはこれじゃない」

 

 自分の鞄から鈍い光を反射させる、本物のナイフを取り出した。

 今まで俺達が持って来た特殊素材のナイフとは違う、ずっと重く、当然のように斬れる刃。それを鷹岡に当てるということは“万が一”が起こることを意味する。寸止めでもいいと言うが、戦闘訓練を受けた鷹岡に当てるなら、そんな余裕は存在しない。当然、さっきまでやる気を見せていた奴らも冷汗を浮かべ、顔を青ざめさせていた。

 

「…………」

 

 放られて地面に突き刺さったナイフを抜いた烏間さんは、少しの間じっとそれを見つめ、ゆっくりと、しかし迷わずに歩を進めた。

 

「渚君」

 

 そしてその足は、潮田の前で止まる。

 

「やる気はあるか?」

 

「…………!?」

 

 なぜ潮田を? 恐らくその場の全員がそう思った。俺もそう思い、しかしいやと考え直す。

 

「烏間ァ、お前の眼も曇ったなぁ。よりによってそんなチビを選ぶなんて」

 

 潮田の近接戦闘レベルはこの教室でも低い方だ。杉野や前原、磯貝のようなパワーもなければ、木村ほどの敏捷性もないし、赤羽のような喧嘩慣れもしていない大人しい生徒。一対一の“戦闘”なら、万に一つの勝ち目もない。

 

「けれど……」

 

 思い出すのは鷹岡が来る直前の戦闘訓練。自分の番が終わって木陰で休憩しようとしていた俺は、背後から感じた絡みつくような殺気に思わず振り返った。

 ――――ッ!!

 

「いった……!」

 

 振り返った先ではちょうど潮田が烏間さんに突き飛ばされていた。どうやら烏間さんが加減を間違ってしまったようだ。

 では、さっきのは烏間さんの? いや、烏間さんの殺気はもっとまっすぐ射抜くようなものだ。あんなまるで蛇に巻きつかれるようなものとは毛色が違う。

 普段の温厚なあいつからはそんな気配は微塵も感じない。しかし、もしあれが潮田の発したものだと言うのなら……。

 

「無理にこのナイフを受け取る必要はない。暗殺任務を依頼した側として、俺は君たちとはプロ同士だと思っている。その中で君たちに払うべき最低限の報酬は、当たり前の中学生活を保障することだと思っているんだ。だからこの勝負を引き受けない場合も、俺が鷹岡に頼んで『報酬』の維持をしてもらえるよう努力する」

 

 ……全く、ずるい。あんなまっすぐな目で生徒を見る先生なんてそうそういない。

 

「……わかりました」

 

 そんな人から渡された刃を、信頼されて託された刃を受け取らない生徒なんていない。

 

「やります」

 

 烏間さんからナイフを受け取った潮田は、余裕そうに腕を組んでいるターゲットの前に立った。

 階段部分に腰を下ろす。こうなってしまったら俺にできることは見守って、もしもの時に動くことくらいだろう。

 

「やはり、烏間先生はいい先生ですねぇ」

 

 いつの間にか隣に来ていた殺せんせーはヌルフフフと笑う。余裕のあるその表情を見る限り、潮田を選んだ烏間さんの選択には超生物も同意見なのだろう。

 

「この教室は教師に恵まれすぎですよ」

 

 世界最高クラスの質のほぼマンツーマンレベルの授業をしながら、生徒に近い位置で彼らを導くタコ型生物に、教師として、プロとしてまっすぐに生徒と向き合う厳しくて優しい教官。イリーナ先生は……しょっちゅうディープキスしてくる以外は接しやすくていいと思います、うん。

 

「ヌルフフフ、そう言ってもらえるのは光栄ですねぇ」

 

 まあ、このタコをあんまり調子に乗らせるとウザいんだけどね。

 

「あ、烏間さん」

 

 ヌルヌル笑いながら絡んでくる殺せんせーを払いのけて、潮田に何かを囁いて離れた烏間さんに近づく。

 

「すみませんでした、こんな事態にしてしまって……」

 

「いや、恐らく比企谷君が動かなくても、いつかはこうするつもりだったのだろう。そうでなければ、本物のナイフなんて持ってくる必要はないからな」

 

 やっぱりそうか。たぶん、自衛隊の教官でも使った方法なのだろう。あいつが残るのはやっぱ嫌だなぁ。

 

「潮田、勝ちますよね」

 

「分からない。可能性が一番あるのは恐らく彼だが、この選択が合っているか……」

 

 ああ、この人も悩んでいるんだと、場違いにもそう思った。完璧超人のようなこの人も、俺達と同じように悩む人間なんだなと。ひょっとしたら、殺せんせーだってそうなのかもしれない。

 

「合ってますよ、絶対」

 

 だから、きっと悩んで先生の出した選択を合っていたと思わせるのが、俺達生徒の役目だ。

 

「俺達の先生が選んだ選択なんですから」

 

 

 

「捕まえた」

 

 言葉が出なかった。鷹岡の後ろに回り込んだ潮田のナイフは、見事に奴の首元に当てられていた。

 殺気を隠して自然に近づき、一気に放った殺気で相手を怯ませる。その時感じた蛇のように絡みつく殺気。潮田の見た目に惑わされて油断した鷹岡は、まんまとその刃を突きたてられた。

 それは日常生活では決して発掘されることのない、暗殺の才能だった。

 

「そこまで! 勝負ありですね、烏間先生」

 

 殺せんせーにナイフを取り上げられた潮田に皆が近づいて声をかける。少し照れくさそうにしている彼女を見る限り、誰も強いなんて思わない。一撃必殺の暗殺の場では“弱そうに見える”のも立派な才能なのだろう。

 

「このガキ……父親も同然の俺に刃向って……」

 

 恐怖からようやく解放されたらしい鷹岡は、俺の時以上に青筋を浮き上がらせて再戦を要求する。男に二言はないって堂々と言っていたのに、最早その顔には余裕も何もなかった。「確かに、次やったら絶対に僕が負けます。でもはっきりしたのは、僕らの『担任』は殺せんせーで、僕らの『教官』は烏間先生です。これは絶対に譲れません」

 暗殺教室という異常な教室が成り立っているのは生徒と教師、ターゲットと暗殺者、プロとプロとしての信頼故にだ。勝手な“父親”の押しつけなんかが、それに敵うはずがない。

 やっぱりこの教室は恵まれている。教師も、生徒も。

 

「黙っ……て、聞いてりゃ、ガキの分際で……大人になんて口を……」

 

 だから、この空間にこいつは必要ない。拳を振り上げようとする鷹岡に向かって走り出す。

 

「にゅやっ!?」

 

 途中で殺せんせーの持っていたナイフを奪って鷹岡と潮田の、正確には鷹岡の拳と潮田の軌道上に入り、ナイフの刃の部分を拳の前に突き出した。

 

「…………ッ!?」

 

 相手はプロだ。しかし同時に、頭に血が限界まで上っている。ナイフに反応はできても、そこで軌道を変える余裕はなかったようで、その拳が止まる。

 僅かなスキ、それだけで十分だった。なぜなら――

 ――――ゴッ!!

 うちには規格外の教官がいるのだから。

 

「後のことは心配するな。俺一人で教官を務められるように上と交渉しよう」

 

 鷹岡の顎に肘を入れた烏間さんの言葉に皆の表情が明るくなる。鷹岡が妨害しようとしているが、さっきまでの録画を防衛省に流してやろうか。

 律にその旨を伝えようとして――

 

「交渉の必要はありません」

 

 背筋が……ゾクリと震えた。

 校舎の入り口に立っていたスーツ姿の男性。椚ヶ丘学園理事長、浅野学峯は新任の先生の手腕を見に来たと、にこやかな表情を浮かべて倒れている鷹岡に近づく。

 手は打った。しかし、相手はこのE組を作った張本人だ。聞くところによると、E組は最底辺にいることで本校舎生徒に「E組に落ちたくない」という強迫観念を与えるためのものらしい。前原も、鷹岡の時間割を許可したのはE組の成績を落とすのに役立つからだと言っていた。最悪、理事長の声一つで鷹岡の続投が決まる可能性もある。

 

「でもね、鷹岡先生」

 

 しかし、奴の顎に手を添えた理事長はドロドロとした怒りにも似た感情を――鷹岡に向けた。

 

「確かに一流の教育者は恐怖を巧みに使いこなしますが、あなたのようにそのために暴力を振るうのは、三流以下の教師だ。もしこのことが公になったら、我が校の損失はいくらになると思っているんですか?」

 

 理事長が取り出したタブレットPCには律から撮影されているグラウンドのリアルタイム映像が表示されていた。

 

「うまくやってくれたな、律」

 

「はい!」

 

 さっき律に頼んだのは、本校舎のネットワークに入り込んで、理事長に現在のE組のリアルタイム映像を見せることだった。暴行からの一部始終を見せて、その映像を保有しているという事実を知らせる作戦は、うまく機能したようだ。

 

「しかも、『男に二言はない』なんて豪語したというのに、『もう一回』? 生徒との約束も守れないなど、もやはあなたは教師ではありません。そんな人間は我が校には不要です」

 

 懐から取り出した紙にサラサラとペンを走らせると、それを鷹岡の口の中にねじ込んだ。

 

「それは解雇通知です。ここの教師の任命権は私にあります。以後、あなたがここで教えることは許しません」

 

 まるで路傍の石を眺めるような目を鷹岡に向けた理事長は立ちあがり――俺に向かって歩いてきた。え、なんで?

 

「君だね。私のパソコンに映像を流させたのは。ハッキングは感心しないね」

 

 うわあ、バレテーラ。

 

「いえ、学園としても由々しき問題ですので、いち早く報告した方がいいと思いまして。手段を選んでいる余裕はありませんでした」

 

「いや、他校の学生に迷惑をかけてしまったからね。むしろ感謝しているよ」

 

 にこやかに笑っているが、その実探るように視線を巡らせてくる。なにこの人怖い。早く会話切り上げたい。

 

「なぜ総武高校の生徒がここにいるのかは後で聞かせてもらいましょう。明日の放課後に、本校舎の理事長室に来てください」

 

 あ、体操服から学校特定してきた。なんで把握してんのこの人。これは逃げられませんわ。

 

「はい……」

 

 では、と理事長が立ち去り、鷹岡が逃げだすと、生徒から割れんばかりの歓声が上がった。理事長から正式に鷹岡が解雇されたということは、E組の体育教師、教官は烏間先生が続投ということだ。

 

「まったく……」

 

 なんとか元の鞘に収まったことにほっと胸をなでおろしていると、右手が軽くなる。いつの間にか持っていたナイフを殺せんせーに奪われていた。

 

「勝手に本物のナイフを使うなんて危険なことはしてはだめですよ、比企谷君」

 

「うっす、反省してまーす」

 

「心がこもってない!?」

 

 しょぼーんと肩を落としながらナイフをボリボリと食べる。その食べた金属、どう消化されるんだろうか。そもそも消化器官ってあるの?

 

「あ、比企谷君……」

 

 呼ばれて振り向くと、潮田が申し訳なさそうに俯いていた。え、なに? どうしたのん?

 

「さっきはありがとう。おかげで助かりました」

 

 どうやら、鷹岡が殴りかかってきた時のことを言っているらしい。お礼を言わなくちゃいけないのは俺の方なんだがな。

 

「気にすんなよ。俺の方こそ悪かったな。俺から煽ったのに危ない役目お前に任せちまって」

 

「そんなことないですよ! 比企谷君があそこで言ってくれなかったら、きっともっと皆が怪我してたと思いますから!」

 

 なんかそうまっすぐ言われると……恥ずかしい。捻くれ八幡君はまっすぐな言葉に弱いのだ。

 

「そ、そっか……でも、ありがとな」

 

 だから、照れ隠しに小町にするように頭に手をぽふっと乗せてしまった。

 

「ふぁ……」

 

「あっ、す、すまん!」

 

 慌てて手を離すと、潮田は顔を伏せてしまっていた。これは引かれてしまったパターンではなかろうか。小学校の時に、呼んでも反応しなかった女子生徒の肩に手を置いたらセクハラ谷と呼ばれた黒歴史が想起してしまう。呼んでも反応しなかった伊藤が悪いんじゃねえか!

 

「いや、比企谷君の手大きくて、お兄ちゃんって感じで安心するなぁって。僕ひとりっ子だから」

 

 頬を少し染めてはにかむ姿に、不覚にもドキリとしてしまう。

 

「まあ、潮田たちの一つ下に妹もいるしな。妹分、弟分って考えた方が接しやすいまである」

 

「弟分……なるほど」

 

 あれ? そっちに反応するの? 潮田は妹分でしょ?

 俺の疑問をよそに潮田は「じゃあさじゃあさ!」と手を上げる。これは俺が教師役でもやればいいんでせうか。

 

「なんだい、潮田君」

 

「その、皆僕の事は“渚”って呼ぶから、比企谷君にもそう呼んでほしいな……って」

 

 え、なにそれ恥ずかしい。しかし、つい今しがた妹分と言ってしまった手前、あまりお願いをないがしろにはできない。妹と認識した途端に発動するお兄ちゃんスキルが恨めしい!

 

「そ、それじゃあ……な、渚……?」

 

 なにこれやっぱり恥ずかしいじゃん!

 

「うん、これからはそう呼んでくださいね!」

 

「お、おう……」

 

 名前を呼ばせるなんてしお……渚はひょっとしたらリア充なのかもしれない。そういや、茅野以外とも仲良いよなこいつ。

 

「ひ、比企谷君!」

 

「んあ? ……神崎?」

 

 俺を呼んだ神崎は顔を真っ赤に染めてながら、胸元で絡めた指をもじもじと動かしている。

 

「あの……さっきは助けてもらって……ありがとう、ございます」

 

 唇をもごもごとさせながら、呟くように口にしたお礼の言葉。

 

「お、おう。まあ、女の子の顔に傷なんてついたら大変だからな。無事でよかった……っ!?」

 

 なぜか神崎が俺の手を取って自分の頭に乗せたので、思わず変な声が出そうになった。大丈夫? 「ファッ!?」とか言ってないよね?

 

「か、神崎さん……なにをやっているのでせうか……?」

 

「その……怖かったので……さっき渚君が比企谷君の手が安心できるって言ってたから……」

 

 ああ、なるほど。さっきは気丈に振る舞って鷹岡に意見していたが、当然恐怖はあっただろう。この程度でそれが和らげられるのなら、まあ、お安い御用という奴だ。

 

「……今回だけな」

 

 流れるようなストレートを乱さないようにそっと撫でる。どうして女の子の髪ってこんなに柔らかいんですかね。絹でできてんじゃねえの?

 

「比企谷君! 僕ももう一回!」

 

「……あーもう、しょうがねえなぁ……」

 

 結局、烏間先生の財布でお菓子の食べ歩きに行くことが決まるまで二人を撫で続けることになってしまい、鷹岡と対峙した時以上に体力を使った気分になってしまった。

 ところで、杉野の視線が痛かった気がするのだが、なぜだろうか?




皆Die好き鷹岡回でした。

……いや、あのですね。
ぶっちゃけ八幡の舌戦だけで鷹岡がノックアウトしそうで怖かったです。よくよく考えたらあの映像流されるだけで普通にアウトだよなぁと。なんとか鷹岡先生には頭を捻ってもらいました。

そういえば、感想でヒロインは決めているのかというものがありました。
大まかな流れ自体はヒロイン構想も含めて本シリーズラストまで決まっています。まあ、あまりこの子がヒロインだよ! って言うのは読んでる側からしても興ざめになると思うので名言はしませんが、構想自体はある程度決まっているとだけ言っておきます。

それでは今日はこのへんで。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

俺は初めて、そいつの正体を知った

 椚ヶ丘学園本校舎。校門前はほぼ毎日通るが、校内に足を踏み入れたことは一度もなかった。卒業生の多くが有名大学に進学し、多くの著名人に成長する日本有数の進学校。

 その廊下を烏間さんと一緒に歩いている。昨日、鷹岡の件で俺の存在が理事長にばれてしまったからだ。

 さすが私立というべきか、設備は俺の中学や総武高の比ではない。グラウンドいくつあるんですかね。野球場まであるし。

 で、そんなTHE椚ヶ丘な空間に書類上E組の担任と他校の男子。目につかない方が不自然なわけで、四方八方から視線が飛んでくる。やめてくれよ、ぼっちは視線に敏感なんだから。

 それにしても、なんというか……。

 

「失礼します」

 

「っ……失礼します」

 

 思考をしていたらいつの間にか着いたようで、烏間さんに続いて室内に入る。清潔感のある室内で、棚の上にはいくつもの盾やトロフィーが飾られているいかにも“理事長室”といった部屋の最奥の席に、その人は佇んでいた。

 

「いらっしゃい、比企谷君」

 

 理事長は立ちあがると、部屋の脇の応接スペースに俺達を促してきたので、烏間さんに倣って隣の席、理事長の向かいの席に座った。うわぁ、ものすごい重圧。さすがこんなマンモス校のドンやってるだけの事はあるな。

 

「いやぁ、昨日は本当に驚いたよ。書類仕事をしていたらいきなりパソコンが起動して、見覚えのある場所の映像が流れるもんだからね」

 

「その件はすみませんでした」

 

 やったことを見ればハッキング、立派な犯罪だ。当然、非は俺にある。

 しかし、頭を下げる俺に理事長はいやいやと首を横に振って否定の意を示してきた。

 

「事が事だったからね。我が校の教育現場で知らずに暴力を肯定してしまうところだったのだから、むしろ感謝しているよ」

 

 学内格差は推奨しているが、肉体的暴力は禁止しているのか、なるほど。まあ、後者は明らかに問題だもんな。

 

「しかし、まさか私の知らない間に高校生がE組に所属していたなんてね。比企谷八幡君、でよかったかな? 総武高校では厚生労働省の特別教育プログラム試験生という扱いになっているようだね」

 

 え、俺そんなよくわからん扱いになっていたのか。烏間さんに視線を送ると小さく頷き返してきた。

 

「彼は超生物の過失で奴と遭遇してしまいまして、急遽暗殺メンバーに入ってもらったんです。報告が遅れてしまって申し訳ありません」

 

「現場のことですから、今後そういった報告は怠らないよう気をつけてください。今までは特に何もありませんでしたが、『なぜ総武高校の生徒がE組に』なんて生徒が不審に思って、私が対応できなかったら大変ですからね」

 

 そうだよな。ここから総武高自体結構距離があるし、総武高の制服、特に冬服なんかは目立つ。それがE組にいることが分かれば本校舎の人間はプチパニックになるかもしれない。

 恐縮する俺達をよそに、「それにしても」と理事長は続ける。

 

「犬を助けて交通事故とは……ずいぶん思い切ったことをしたみたいだね」

 

 ……なんで一日でそんなことまで調べ上げているんですかね。この人、実は教育者の皮を被った諜報員かなんかじゃないの?

 

「まあ、身体が勝手に動いちゃったんで、思い切ったのかどうかは自分ではわかりませんけどね」

 

「勝手に……? 何も考えていなかったのかい?」

 

 目を見開かれて驚かれてしまった。そんなにおかしなことを言っただろうか。実際、考える暇もなかったし。

 

「強いて言うなら動物好きですし、そのせいですかね。気がついたら自転車蹴飛ばして飛びこんでましたし」

 

 小型の飼い犬だったし、轢かれたらひとたまりもない。飼い主も悲しむだろう。と、今なら考えるが、やっぱりあの時はなにも考えていなかったと思う。

 

「君は……強いんだね」

 

 強い? それは何か違う気がする。俺のあの行動は「無謀」というのが正しいだろう。本当に「強い」のなら怪我なんて負うこともなかっただろうからな。

 

「強くなんてありませんよ。むしろ最弱の方がしっくりきます。学力も落ちこぼれて『弱い』ですからね」

 

「っ……!」

 

 あれ? またおかしなこと言ったか? この学校で一番明確な強さは学力だと思ったのだが……。E組のほとんどの生徒も学力不振で転級になったらしいし。

 首をかしげていると、理事長は顎に手を当てて少し考えた後、一度頷いてにっこりと笑った。

 

「わかりました。比企谷君のE組参加は許可しましょう。生徒に何か聞かれた場合は私立と公立の学生交流の一環として、高等部とは別にE組も体験している、ということにしておきましょう」

 

「わかりました。ありがとうございます」

 

 ホッと胸をなでおろす。中途半端な立場の俺は鷹岡のように理事長の一声次第でE組に残ることができなくなってしまう。とりあえず、山場は越えたと言ったところだろうか。

 本題も終わったところで、さてどう切り上げて退室すればいいのだろうかと思い、烏間さんに任せようと決め込んでいると、理事長が俺の資料を眺めながら再び口を開いた。

 

「入試の成績を見る限り、比企谷君は文系科目が得意なようだね。特に国語。読書が好きなのかい?」

 

 だから、その情報どこから調べ上げてるんですか? ひょっとしてこの人も総武高のデータベースハッキングとかしてない? やだ、ハッキングが日常になりつつある!!

 

「まあ、読書は好きですね」

 

 ライトノベルも好きだが、純文学やミステリー、面白ければどんなジャンルも好きだ。読書は一人でできる娯楽だしな! 別に泣いてないぞ!

 

「そうかそうか、それじゃあ君にはこれを貸し出そう」

 

 そう言って手渡してきたのは一枚のカード。椚ヶ丘のエンブレムがあしらわれたそれには「図書館利用許可証」と書かれていた。

 

「うちの図書館はこの近くで一番大きいから、利用したい時はいつでも利用しなさい。それには私のサインも入っているから、校内の通行証にもなるからね」

 

「はあ……どうも」

 

 なんというか、想像していた人物とはだいぶかけ離れている気がする。エンドのE組なんていう見せしめのクラスを作るような人なのだから、名目上E組所属の俺にも同じような対応をされる覚悟はあったのだが。

 まあ、使っていいというのならありがたく使わせてもらおう。さすがに自腹で本を買うには学生の財布は寒すぎるからな。

 

 

     ***

 

 

 七月ということは、夏真っ盛りである。要は毎日のように気温は三十度を余裕で超える地獄のような月なのだ。

 そんなもの、文明の利器がいくつも開発されているこのご時世、屋内にいればどうということはない。……そう思っていた時期が、俺にもありました。

 

「この平成の世に、エアコンもない教室なんて……」

 

 そう、このE組校舎にはエアコンがないのだ。なんなら扇風機もない。窓を開けての自然風だけが唯一涼を取れる手段だが、その風すら生ぬるいのだ。

 端的に言って地獄。

 

「あっぢー……」

 

 E組全員既にグロッキー。暗殺はおろか、勉強どころですらない。なにせ、当の担任が熱さにぐったりしているのだ。授業もだらだらと進むばかりである。ていうか、放課後に寒帯に逃げんな。日本の教師なんだから日本の暑さを甘んじて受けろ。

 

「でも、今日はプール開きだよね! プール楽しみ!」

 

 倉橋が空元気気味に声を上げる。椚ヶ丘学園では今日からプールが解禁されるようだ。お手軽単純な避暑手段だが、E組にとってはそれすらも地獄らしい。本校舎にあるプールまで炎天下の中片道二十分、しかも帰りはプール疲れの上に上り坂だ。

 人呼んで、E組死のプール行軍。そう聞くと、むしろ行かない方が正解なのではないだろうか。動かない方が暑くないしな。動かなくても暑いのが今なんだよ!

 

「仕方ない、これでは授業になりませんし、全員水着に着替えてついてきなさい。裏山の沢に涼みに行きましょう」

 

 口々に漏れる不満に殺せんせーが折れて、教科書を閉じると立ちあがった。それ、自分が涼みたいだけなんじゃないの? まあ、俺もそろそろ限界だったので、余計なツッコミを入れずについていくことにした。

 

「そういえば、お前は大丈夫なのか?」

 

「ほえ?」

 

 なんだほえって、あざとい。まあ、こいつがあざといのはいつもの事だが、律は精密機械だ。これだけの暑さではだめになってしまうのではないだろうか。

 

「稼働機能を縮小することで、今はなんとか安定を保っています。しかし、ノルウェーのマスターも日本の気候は想定していなかったようで、これ以上気温が高くなることを考えると、冷却ファンの搭載を検討した方がいいかもしれません」

 

 ノルウェーの研究者たちよ、お前らはどれだけ現場が見えていないんだ。律は研究所で動いているんじゃない! 現場で動いているんだ! まあ、理由が理由だから、律の開発者も許可を出すだろう。律が動かなければ損失を食うのはあっちなのだから。

 

「はっちゃん! 早くいこーよー!」

 

 いつの間にか着替えたらしい倉橋がジャージに身を包みながら駆け寄ってくる。いつもはゆるふわほんわか少女なのにこういう時はきびきび動くのな。

 

「そうですよ八幡さん! 早く行きましょう! クールスポットが私たちを待っています!」

 

 さらに、さっきまで隣の大型筺体で話していた律は当然のように俺のスマホに潜り込んでいた。ご丁寧にスク水姿で。ほんとあざといなこいつ。

 

「……着替えてくるから待ってなさい」

 

 今まで小町くらいとしか接してこなかったから気付かなかったが、ひょっとすると俺は年下に弱いのかもしれない。

 

 

 

「裏山に沢なんてあったんだ」

 

 殺せんせーについていきながら、速水がぽそっと呟く。俺も裏山にはほとんど入ったことがなかったから知らなかった。

 

「……一応な。って言っても、足首まであるかないかの深さだけど」

 

「それ、水着で行く必要あるか?」

 

 足つけて涼むくらいしかできなさそうなんだけれど。そんな俺の疑問に千葉がいや、と首を横に振る。

 

「うちのクラスってアクティブな奴多いからさ。案外水かけ合戦とかしだすんだよ」

 

 指差された先を見ると、杉野や前原がそんな話をしていた。一歳しか違わねえのに、あいつら元気だなぁ。いや、俺の反応も普通の十五歳の物のはずだ。決しておっさんじみているわけではない……はず。

 自分がおっさんではないと脳内自己弁護をしていると、先行していた殺せんせーが立ち止まり「さて皆さん!」と良く通る声ヌルヌルボイスを響かせた。

 

「いくら先生がマッハ二十を出せたところで、できないことも存在します。その一つが君たちをプールに連れて行くこと。残念ながらそれには一日かかってしまいます」

 

 …………は?

 

「一日って大げさな。本校舎のプールなんて歩いて二十分程度ですよ」

 

 磯貝の言うとおりだ。というか、本校舎のプールに生徒を送るくらいならマッハ二十で可能では――

 

「おや、誰が本校舎のプールと言いましたか?」

 

「え……?」

 

 本校舎のプールじゃない? 一体どういう……いや待て、なんか音が聞こえないか?

 かすかに聞こえるサアァァという涼しげな音。そして殺せんせーの奥の茂みからかすかに覗く、何かに反射するような光。まさか……まさか……。

 全員が駆けだし、薄い茂みをかき広げると――

 

「「「「うわあっ!!」」」」

 

 見るからに冷たそうに流れる水。その先に開けられたほぼ直方体の空洞には並々と水がたまり、数レーン作るようにコースロープが浮かんでいる。端の岩場には二つの飛び込み台に、ベンチまであって……。

 

「なにせ小さな沢をせき止めたので、水がたまるまで二十時間!」

 

 この担任……プールを自作しやがった!

 

「ばっちり二十五メートルコースの幅も確保。 オフシーズンには水を抜けば元通りですし、水位を調整すれば魚を飼って観察もできます」

 

 っていうかこれ……ダムじゃん!!

 

「製作に一日、移動に一分。後は一秒あれば飛びこめますよ」

 

「「「「い……」」」」

 

 それを聞くや否や各々羽織っていたジャージを脱ぎ去り――

 

「「「「いやっほおう!!」」」」

 

 喜び勇んでプールに飛び込んでいった。

 まったく、こうやって生徒を喜ばせてくるから、うちの先生は時々ターゲットであること忘れちゃうんだよな。

 

「比企谷君も早くー!」

 

「早く来ないと水かけちゃうよー!」

 

 矢田が手を振って呼んできて、速水が手で水を掬ってニヤッと笑う。さすがにジャージが濡れるのは勘弁したいなと苦笑して律がプールを眺められるようにスマホを岩場に立てかけて、ジャージを脱ぐと、皆の待っているプールに飛び込んだ。

 ザブンと頭まで水中に沈みこむと、暑さで火照っていた肌がキュッと締まるような感覚に陥る。目を開けてみると、びっくりするほどクリアだ。魚とかいたらテレビの水中映像より綺麗な光景が見られるかもしれない。

 

「ぷはっ、つめてー!」

 

「ははっ、比企谷君もテンション高ーい!」

 

「そんな顔もするんだね。もっと冷めてるのかと思ってた」

 

 速水の言葉に内心少し同意する。俺自身あまり感情を表に出すタイプではないと思っていたし、今までは事実そうだった。

 

「まあ、お前らと一緒だからじゃないかな?」

 

 今まではいつも一人だった。それが日常だったし、途中からは能動的に一人になるようになっていたから寂しいなんてこともなかった。

 けれど、こうしてこいつらといて、馬鹿みたいにふざけるのが楽しいと思えるのは――

 

「俺の中で、お前らの存在は予想以上に大きくなってるってことなんだろうな」

 

「……そっか」

 

 何気なく漏れた俺の呟きに矢田は笑みを浮かべる。対して速水は――

 

「…………」

 

 ぽかーんと間の抜けたように口を開いたまま、じっと俺を見つめていた。

 

「……どうした速水?」

 

「っ!?」

 

 声をかけるとはっとして唇を引き結ぶ。限界まで開かれた瞳を右へ左へ泳がせて、くっついたように開かない唇をむにむにと動かす。なに? 本当にどうしたのん?

 やがて、ようやくくっつくことをやめた唇が開き――

 

「な、なんでもないわよ……バカ……」

 

 そっぽを向きながら尻すぼみに消えていく言葉を残して倉橋と茅野の方へ泳いでいった。

 

「…………なんで罵倒されたの、俺……」

 

 思わず目尻を湿らせる俺に、残った矢田はただ乾いた笑いを漏らすだけだった。いや、潜ったから既に目尻濡れてんだけどね。

 最近思うのだが、現実のツンデレはツンデレなのか本当に嫌がっているのか分からないから困る。なんか怒らせるようなことしちゃったかなぁ、と答えの出ない問題を考えながら周りを見渡して……驚きのあまり水中で足を滑らしそうになった。

 

「な、渚……」

 

「あ、比企谷君! ……どうしました?」

 

 呼びかけに応じて寄ってきた渚は俺の表情を見てかわいらしく小首をかしげる。小柄な体躯、細い腕、少し撫で気味の小さな肩。どう見ても女子にしか見えなかったそいつは……しかし男子用の水着を装着していた。

 

「お前まさか……」

 

 いかな男装女子とはいえ、上半身裸なんて思春期女子なら恥ずかしくて憤死レベルのはずだ。しかし、当の本人は平然としていて、俺にある仮説を浮上させる。

 

「お前……男、だったのか……?」

 

「今更!?」

 

 ここにきて一ヶ月、クラスの中でも割と絡む方の奴の性別を間違えていたなんて、誰が想像できようか。だってこいつやたら小さいし、ツインテールだし、水中にある上半身を見ても下手な女子より細いし。そりゃあ、鷹岡の時はちょっとかっこよかったけど……。

 

「ずっと茅野と百合コンビなんだと思ってた」

 

「ひどいよ!?」

 

 ポカポカと涙目になって胸板を叩いてくるが、全然痛くない。むしろ余計に可愛いゲージが蓄積されたまである。なにこいつ天使かな? いや、天使は小町一人のはずだ!

 

「はははっ、しょーがないよ渚。あんたやっぱり普段は男に見えないもん」

 

「男装女子、ある意味王道だからね」

 

 近くで遊んでいた中村と不破が声を上げて笑いながらも俺に同意してくる。やっぱそうだよな。俺の感覚が間違っているわけじゃないよな?

 

「身体が小さいのは……仕方ないけど。この髪型は茅野がやってくれたのだし……」

 

 あー、だから茅野と同じ髪型なのか。百合カップル特有のペアルック的サムシングだと思ってましたごめんなさい。

 

「けど、それ気に入ってるんでしょ?」

 

「まあ……そうだけど……」

 

 実際ミニサイズツインテールはお気に入りらしく、俺を怒るに怒れない何とも言えない表情になって三白眼で睨みつけてくるのだが、いかんせん身長差のせいで、ただ上目づかいになっているようにしか見えない。

 

「悪かったって。これからはもう間違えねえよ」

 

 水に濡れて重くなった髪をぐしゃぐしゃと撫でるが、未だに不満たらたらな視線を送ってきた。相当不機嫌ですね渚君。

 

「なーんか、こうして見ると兄弟みたいじゃん」

 

「まあ、渚にはいもう……弟分みたいなもんってこの間言ったばっかりだからなぁ」

 

 なんならこのクラス全員を妹分弟分扱いしたまであるが、面倒くさいので黙っておこう。

 

「今、妹分って言おうとしたよね!?」

 

「……聞き間違いじゃないか?」

 

「なにその間!?」

 

 追いかけてくる渚を潜水で回避して、それを見て皆が笑い声を上げて、最終的には水中鬼ごっこになって。

 うん、やっぱりこのクラスで遊ぶのは、心底楽しい。




理事長回とプール回でした。理事長編がやけにあっさりしているのは、まあ伏線的なやつということで。

渚の性別をここでようやく判明させたのは、中村の「あんた男だったのね」の影響がでかいのは否定できません。修学旅行前から開始していたらワンチャンそこでわかったまであるかもしれないけど、さすがに高校生は中学の修学旅行に連れて行けないよねー。

最近はちょっといろいろ忙しくて、書く時間があまり取れません。書き溜めていた分もだいぶ少なくなってきたので、もうちょっとしたら毎日投稿も終わっちゃうなとか思ったり。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

俺の家がこんなに騒がしいのはおかしい

「え……はっ、ちゃん……」

 

 普段の明るさ満点ゆるふわほんわかさなど微塵も感じさせない、張り詰めたような声を上げた倉橋はその目を見開き、ただ一点を凝視している。唇はかすかに震え、頬をつーっと汗が流れ落ちた。

 

「……どうした?」

 

 努めて冷静に聞き返す。明らかにおかしい彼女の様子に教室中の視線が集まって痛い。というか、矢田も含めた数人も何か言いたげな目を俺に向けてきていた。

 そして、まるでそんな他の意見をも代弁するかのような気迫で倉橋は見つめる一点を指差す。

 

「はっちゃんって……料理できたの!?」

 

 …………。

 ………………。

 一つだけ分かったことがある。

 全然シリアスでもなんでもなかった。

 しかし、当の倉橋本人はいたって大真面目なようだ。しかも、矢田や速水の反応を見る限り、彼女たちも同じ考えを抱いていたらしい。

 

「あー……うん」

 

 時は昼休み。そして俺の手元にあり、視線を集めているのはいつものコンビニ総菜パンではなく、二段重ねの弁当箱だった。

 

「料理はできないことはないが、これは俺が作ったわけじゃないぞ」

 

 ていうか、自分で弁当作るとか意識高い系女子高校生かよ。普通は親が作ってくれたとか考えるもんじゃないのん?

 

「けど、はっちゃんのお母さんって毎日朝早いからお弁当作る余裕なんて皆無ってこの前言ってたじゃん」

 

 ……そういえばそんな事も言ったな。昼食のパンの数を増やした時だったか。さらっと言ったはずなのに、よく覚えてましたね。

 

「別に親が作ったのじゃねえよ。これは妹が作ったやつ」

 

「いもう、と?」

 

 そう、無事に生徒会の仕事が終わったらしい小町が約束通り今週から弁当を作ってくれることになったのだ。やはり中学生にして家事を完璧にこなす実妹は天使であった。コマチエルがいれば世界は平和になるまであるな。

 既に開けていた上の段にはおかずが並べられている。メインディッシュは唐揚げのようで、付け合わせにほうれん草のおひたしなど栄養バランスも考えているみたいだ。お兄ちゃん的には色どりに人参のグラッセを選択している点もポイント高いぞ。トマトを選ばないとは、お兄ちゃんの好き嫌いを良く理解している。

 二段目は普通に考えてご飯だろう。おかずがボリュームのあるものだし、白米か混ぜご飯あたりだろうなと思いながら蓋を開ける。

 …………。

 

「……ねえ比企谷君」

 

「なんだ?」

 

 予想通り二段目は白米だった。妹の思考が読めるあたり、俺の小町検定も既に免許皆伝かもしれない。

 

「これ、本当に妹が作ったの?」

 

「……そうだぞ?」

 

 でんぶででかでかとハートが描かれていたのは完全に予想外だったわけだが。どうやら小町検定免許皆伝の道はまだ遠いらしい。

 

「相変わらずあざといことすんな、あいつ」

 

 ま、そこがめちゃくちゃ可愛いんですけどね!

 

「まるで愛妻弁当ね」

 

「うわぁ、はっちゃんすっごい幸せそう」

 

 妹がお兄ちゃんのために弁当作ってくれて喜ばないお兄ちゃんは少なくとも千葉には存在しないのだよ倉橋。後、この場合は愛妹弁当が適切なわけだが、妻も妹も家族には変わりないから似たようなもんだな。

 

「八幡さんと小町さんは仲がいいですからね!」

 

「へー、小町ちゃんって名前なんだー」

 

 おいこら律、なんでにこやかな顔しながらうちの妹の個人情報晒しちゃってるんですかね?

 

「そんなに仲良いの?」

 

「はい! よく一緒にテレビゲームに興じていますし、八幡さんの話す量も家だと学校のおよそ1.8倍に増加します。さらに声のトーンも……」

 

「ストップ! ストップ律!」

 

 いや確かに律にいろいろ経験をさせるために、あまりモバイル律の出入りをうるさく言っていなかったが、お前うちの私生活見すぎじゃね? 俺の家と学校との比較とかしなくていいから。

 

「そんなに……」

 

「私たちの知らなかった比企谷君の一面が……」

 

 倉橋と矢田がぼそぼそと何か呟いているが、よく聞き取れないし、下手に突っ込んだら面倒くさそうなので小町の話題は早く切り上げ――

 

「仲良すぎなくらい仲がいいんですね」

 

「愚問だな、千葉の兄妹の仲がいいのは真理だし、これが普通まである。そもそも妹が可愛いなんて火を見るより明らかで……ハッ!?」

 

 しまった! 完全に脊髄反射で反応してしまったじゃないか! ぐぬぬ、まさか普段あまりしゃべらない奥田が伏兵になろうとは……。

 

「シスコンだ」

 

「これは間違いなくシスコンね」

 

「妹好きすぎるだろ」

 

「最近の王道であるシスコンブラコンの兄妹。さすが比企谷君はいいところを突いてくるわね」

 

 なんか不名誉な属性をつけられている気がする。俺は決してシスコンではない。さっきも言ったが千葉の兄妹の仲がいいのは真理なのだ、普通の事なのだ。あと不破は現実と漫画の区別付けて。俺を漫画的に解釈しないで。

 

「その小町ちゃんに私も会ってみたい! 律ばっかりずるいよ!」

 

「何がずるいんだよ……」

 

 当然のことながら、実際には律は小町に会っていない。俺のスマホから一方的に見るだけだし、小町がいるときはこいつも声を出すことはない。ぶっちゃけどう説明しろって話なわけだから、律の常識的対応には感謝している。常識があるなら勝手に人の電子端末に潜り込むのをやめろというツッコミは結局聞き入れてもらえないわけだが。

 

「僕も行ってみたいな、比企谷君の家」

 

「私も私も!」

 

「は? いや、え……?」

 

 倉橋一人程度だったらいなすことも容易いが、渚と茅野とかいう予想外の援軍が来てしまった。

 特に渚はまずい。プールでの一件以来、渚には少々負い目が……あれ? 茅野はなんで矢田達に視点を送っているんですかね?

 

「私も比企谷君の妹さんに会ってみたいなー」

 

「私は……別にあんたの家とか興味はないけど、皆が行くなら行こうかな」

 

「俺も行こうかなー」

 

 いかん、茅野の視線で察したらしい奴らがどんどん倉橋達の側についていく。こんなところでそんな一致団結具合見せなくていいから!

 これは放っておくとマジでクラス全体を相手にすることになりかねない。手を打つなら早い段階でやらねば……!

 

「はあ、分かった。別に面白いもんねえけど、放課後に来たいやつは来い」

 

「やったー!」

 

 折れた俺に倉橋が飛び跳ねて喜びを表現する。そんなに喜ぶほどのことかね。矢田とか速水も嬉しそうだし、やっぱり他人の考えてることは分からん。つうか、倉橋そんなに飛び跳ねるとスカートめくれちゃうぞ? 岡島がカメラ取り出すから自重しようぜ?

 しかし、俺の言葉はここで終わらず、「ただし」と続ける。矢田達がピタリと動きを止めたが、お前らは関係ないからそんなに不安そうな顔するだけ無駄なんだけどね。

 

「前原、岡島、赤羽……お前らはNGだ」

 

「「なんで!?」」

 

「ちぇー、シスコン谷君は過保護だなぁ」

 

 赤羽よ、何度も言うが俺はシスコンではないからな? まあ、こいつらがお断りな理由は確かに小町の情操教育上よろしくないからなのだが。前原は既にクラスの女子の大半を口説いているチャラ男だし、岡島はなんかもう、いつ法規制されるかわからん存在だし、赤羽は悪魔の角と尻尾生やして悪戯やらかしそうで怖い。

 実際にはそこまで気にする必要はないのは、分かりきっていることだけどな。

 

「ヌルフフフ。いいですねぇ、比企谷君の妹さんに先生も会ってみたいです」

 

「うるせぇ! お前が一番情操教育に悪いわ!」

 

 突然超生物が後ろに現れて、驚きのあまり引き出しに隠していた煙玉を投げつけてしまった。煙玉と言っても、前回同様おもちゃの手榴弾から煙幕が出るようにしただけの代物だが。

 

「フフフ、先生に一度使った絡め手は通用しませニュヤアアアアア!?」

 

 前に俺が使った物を想定していたらしい殺せんせーは、いきなり身体が爛れ出してのたうちまわった。なにせ前回の純粋な煙幕と違い、今回は対先生BB弾の粉を混ぜたのだから。衣替えの頃にメヘンディアート? の塗料に菅谷が混ぜていたのをヒントに用意してみたものだった。

 

「ヌ、ヌルフフ……前回と同じ武器と見せかけて、中身を変えてくる。なかなか見事ですが、この程度では先生の動きを制限することは……ああああああ!! 本場から買ってきたトルコアイスがあああああああ!!」

 

 あ、なんかのたうちまわったせいでトルコアイスを床にぶちまけたらしい。ていうか、それ買うためだけにトルコ行ってきたの? もっと観光とかしないと逆にもったいないのではないか?

 本当なら煙幕を使った後に追撃しようと思っていたが、無残な姿になってしまったトルコアイスを見つめてガチ泣きしている情けない姿を見たらやる気をなくした。それより今は昼食の方が大事である。

 相変わらず小町の作った飯はおいしかった。昼休み中タコ担任が泣いててうっとうしかったけど。

 

 

     ***

 

 

「わー! ここがはっちゃんの家かー!」

 

「うちとそんなに変わらないかな?」

 

「普通ね」

 

「普通だな」

 

 お前ら人の事貶しに来たの? 普通の中流家庭に対して一体どんな想像してたんだよ。

 烏間さんの放課後訓練も受けずに放課後直帰をかまして、現在比企谷邸の前である。ちなみにメンバーは倉橋、矢田、速水、千葉、渚に茅野、後は神崎。ちょっと大所帯すぎませんかね? 実質ここに律も入るし。神崎さんは茅野達に半ば無理やり引っ張られてきたから仕方ないが、お前ら少しは「大勢で押し掛けても迷惑だろうから」って参加を辞退した磯貝・片岡のイケメンコンビを見習ってはくれないだろうか。イケメンは死すべしと思っていたが、磯貝は許してもいい。何あのイケメン、嫌味一つ言えない。

 

「一応念を押すが、面白いものなんてなんもないぞ?」

 

「分かってるよ。変なものが置いてあるのなんてカルマ君のとこくらいだろうしね」

 

 この大所帯の元凶である渚は途中で買ってきた飲み物やお菓子の入った袋を持ち直しながら苦笑する。そうか、赤羽の家には変なものが置いてあるのか。両親がインドかぶれだとか言っていたっけ。民芸品とか飾られてんのかな。

 

「比企谷君、早くはいろー? 早くクーラーのある部屋に行きたーい」

 

「お前全く遠慮ってもんがねえな?」

 

 いやしかし、実際この時間帯はまだ日差しが強いし、アスファルトからの照り返しも強いので、俺自身一刻も早くおうちにインしたいところだ。そして速攻でエアコンという文明の利器の力を使う。結果的に茅野と利害が一致するからWinWinってやつだな。

 

「じゃあ入るか。この人数だし、リビングでいいか?」

 

 普段あまり来客のない比企谷家には備蓄の少ない飲み物やお菓子も買ってきたし、リビングもこの間小町が掃除をしていたから問題ないだろう。問題があるとすれば――

 

「ただいまー」

 

「お兄ちゃんおかえりー。今日は早かったんだ……ね……ぇ?」

 

 この状況に対する実妹のこの反応である。なんでちょっと顔青ざめてんの? ホラーなの?

 

「お兄ちゃん……小町ちょっと疲れてるみたい。お兄ちゃんの後ろに人が見えるんだけど」

 

「落ちつけ小町。割とアクティブなお前が幻覚を見るほど疲れることはこの時期ないから。今見えているのはすべからく現実だから」

 

「現実……? はは、冗談は目だけにしてよお兄ちゃん」

 

 酷い言われようだが、今まで一度も家に同年代の人間を連れてきたことのない俺の実績を考えると、小町がこうなってしまうのも無理はないのかもしれない。いやそれにしても酷くない? 俺の目は冗談なのん?

 

「だってお兄ちゃんだよ? 場合によってはクラスメイトに『一年の比企谷さんのお兄さん』なんて呼ばれてたお兄ちゃんが家に友達を連れてくるなんて、宝くじの一等が当たるよりもありえないよ!」

 

「さすがにそれは言いすぎだろ!?」

 

 いくらプロぼっちの俺とは言っても、人を連れてくることはそこまで現実性のないものではないはずだ……はずだよね? やばい、ちょっと自分でも自信なくなってきた。

 

「あのぉ……」

 

「あ、すみません! 玄関に立ちっぱなしでしたね! どうぞどうぞ、中に入ってください!」

 

 あ、小町の余りに失礼な言動に後ろの連中のことすっかり忘れてた。俺としてはもうちょっと反論をしておきたかったところだが、空調のきいた部屋が目前にあるという誘惑を前にして、そんなことは些末な問題だと脳内で分類されてしまった。ちょっと八幡君の頭、欲望に忠実すぎんよ……。

 

 

 

「あぁ、なんで椚ヶ丘中の制服かと思ったけど、お兄ちゃんって今あっちに通ってるんだったね」

 

「まあ、そういうことだ。こいつらはそこのクラスメイト」

 

 理事長の一件で俺の立場をより明確にしておく方がいいと判断した烏間さんは親父とお袋に担任として、俺が総武高校と椚ヶ丘学園の交換学生になっていると話を通してくれた。中学校のクラスに入っている理由は中高一貫の私立学校と公立高校の高校一年生では授業内容の進みに差があり、中学三年の授業内容が近いからということにした。だいぶ無理があるが、実際E組でも高校の範囲に足をひっかけているから嘘ではない。

 うちの親も俺に関しては放任主義なところがあるし、半月近く不登校決め込んでいた時期があった俺が学校にまた通っているだけで十分なのだろう。特に問題もなく交換学生の件は受け入れられた。

 まあ、書類上は相変わらず椚ヶ丘と全く関係ないんだけどね。小町も最初こそ驚いていたが、「お兄ちゃんが楽しそうだし大丈夫だね。あ、今の小町的にポイント高い!」と相変わらずの余計な一言をつけて受け入れていた。

 

「あ、紹介が遅れてしまってすみません。妹の比企谷小町です! いつもうちの兄がご迷惑をおかけしています」

 

 ……おっかしいなぁ。小町の中で俺が迷惑をかけている前提になっている気がするのだが。

 

「迷惑だなんて、そんなことないよ。比企谷君が来てから助けられっぱなしだもん」

 

「そうですよ、私はこの間も助けられましたし」

 

 鷹岡の事を思い出したのか、渚と神崎が身を縮こまらせた。俺が止めなくてもたぶん烏間さんや殺せんせーが割って入ったと思うから、そんな気にしなくても大丈夫なのだが。

 

「ま、助けられてばっかりじゃないけどね」

 

「逆に教えたりすることもあるからな」

 

「当たり前だろ。俺はあの担任と違って万能超人じゃないんだから」

 

 上には上がいるもんだ。コンビネーション攻撃では磯貝や前原に遠く及ばないし、ようやくマシになってきた射撃もこの二人の前だと月とスッポンだからな。

 

「ほほーう」

 

「……なんだよ」

 

 何やら小町がにやにやしていたのだが、問いかけても「別にー」としか答えてくれなかった。それでも顔はにやにやしたままで、我が妹ながらうぜえ。

 

「あ、テレビゲームある! はっちゃん、やろーよー! 小町ちゃんも一緒にさ!」

 

「いいですね、やりましょう!」

 

 テレビの近くに置いてあるゲーム機を見つけた倉橋の提案に小町が乗る。しかし、俺はそれ以上に「ゲーム」という言葉に反応した奴を見逃すことができなかった。

 

「ふふっ、比企谷君も一緒にやりますよね?」

 

「あー……」

 

 これ逃げられない奴だ。

 

 

 

「全然勝てないよぉ……」

 

「こんな強いヨッシー、初めて見ました……」

 

 結果――神崎選手完勝。四人で対戦して残機どころか吹っ飛び率すら一パーセントもないとかちょっとこれよく分からない。ていうか、俺開幕三人からぼこられて一機削られたんだけど、何これいじめ?

 

「ゲーム上手いとは聞いてたけど、神崎さん本当に強いんだね」

 

「コントローラーでやるゲームもなかなか面白いですね。基本的にアケコンかパソコンで操作するものばかりやっていたので、新鮮でした」

 

 え、新鮮って言いながらパーフェクトゲームですか神崎さん。天性の才能すぎませんかね?

 

「さすが有鬼子って呼ばれるだけの事はあるな」

 

「え、ちょっと、比企谷君!?」

 

 ぼそっと呟いたつもりの声はきっちり聞こえたようで、神崎の顔が瞬間給湯器もびっくりの速度で真っ赤になってしまった。ちなみに「有鬼子」というのはとあるオンラインFPSゲームに最近現れた超大型ニュービーのあだ名である。登録からものの二週間弱で鬼のようにキル数を積み重ね、IDとチャットの言動から女性プレイヤーと推測されてその名前がついたらしい。

 まあ、神崎のことなんだけどな。ゲームの知識をなにか暗殺に役立てられないかと相談されて、軽く触っていたゲームを勧めてみたら有名人になってしまったのである。ちなみにそのゲーム、クランと呼ばれるグループに所属できるのだが、俺は当然のように野良だ。神崎も野良だが、しょっちゅう大手クランに誘われているらしい。べ、別に羨ましくなんてないんだからな!

 

「比企谷君! 私もやりたい!」

 

「私もやろうかな?」

 

「おう、じゃあ交代にな」

 

 下位二人の入れ替わり制でゲームを続けることになった。三位だった俺はコントローラーを茅野に渡して、マッカンを取りに行こうと腰を上げ――

 

「…………ちょっとトイレ行ってくる」

 

 早足でリビングから出てトイレに向かい、便器のふたを開かずに小窓を開いた。

 

「おいこら何やってんだ国家機密」

 

「いやぁ、生徒の事はなんでも気になってしまうものですからねぇ。先生も一緒にスマブラやりたいです」

 

 リビングの窓からのぞきをしていた殺せんせーがその黄色い顔を小窓から見せてきた。つうか、こいつゲームとかすんのか。どうやってコントローラー操作するんだ?

 

「また俺の時みたいに誰かに見つかったらどうすんだよ」

 

 カモフラージュのつもりなのか頭に葉っぱを括りつけているが、そんなことしても真っ黄色の顔と黒い服が警戒色になって台無しだし、そもそもあんた自分で身体透明にできるじゃん。なんでこんな間抜け未だに殺せないんだろうか。

 

「それにしても、性格は比企谷君とは違ってフレンドリーな妹さんですねぇ」

 

「悪かったな似てなくて。ま、弟や妹は上の子を反面教師にするもんだからな」

 

 小町のためになっているのなら、お兄ちゃん的にポイント高い。将来的に小町に養ってもらうのもありかもしれない。そんなこと言ったらゴミを見るような目で見られそうだが。

 

「ということは、比企谷君は小町さんの先生と言うことですねぇ」

 

「それ、褒めてないだろ……」

 

 反面“教師”と呼ぶことを考えると、確かに間違っちゃいないけどさ。

 

「まあ、あいつの役に立ってるんなら、別にそれでいいけどさ」

 

「本当に小町さんの事が大切なんですねぇ」

 

 殺せんせーの言葉に思わず喉から笑い声が漏れた。大切、大切か。家族だから大切なのは当然のことだろう。それに――

 

「あいつは、俺にとって救いだったんですよ」

 

 変なあだ名で呼ばれても、誰からも期待されなくても、告白した次の日にクラスの笑いものにされても、それでも俺がぼっちながら普通の生活を送れていたのは、変わらずに接してくれた小町がいたからだろう。

 プロぼっちって言いながら、本当は全然一人じゃなかったんだなと、今なら思う。

 

「ヌルフフフ、いい妹さんに恵まれましたね」

 

「……うっせ。あんたが見つかるといろいろ厄介だから、さっさと帰れ」

 

「ひどい!?」

 

 忍ばなくてはいけないはずなのに今にも騒ぎ出しそうな国家機密を追い返し、小窓を閉めてトイレを後にする。

 

「あ、お兄ちゃん! 手伝って!」

 

「神崎さんが全然倒せないんだよ……」

 

 ああ、神崎さんまた無双してるんですね。あいつゲームになると手加減とか全然しないもんな。

 結局そのまま夕暮れまでゲームをして過ごした。ちなみに神崎の一位を奪取することは一度もできなかった。というか、お前ら暗殺のスタイルがゲームの動きに滲み出てるぞ。特に千葉と速水、スーパースコープやレイガン取った時だけやたら強いのはどういうことだよ。




小町とE組(一部)邂逅回でした。

たぶん、八幡がひとりっ子だったら俺の青春ラブコメは間違うどころか始まりもしなかったんだろうなと思う私は単なる八小好きなのだろうか。あんなかわいい妹がいたら、そりゃあぼっちでも人生送れますわ。妹が欲しい。

感想で意図的に18巻を読んでいない件を明記しておいた方がいいのではという意見を頂きました。確かに週刊誌の方では暗殺教室も終わったようなので、シリーズトップに明記しておきます。
殺せんせーやE組の皆がどうなったのか早く知りたい衝動を執筆力に変えて今後も書いていこうと思います! ……読みたい。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ガキ大将だって暗殺教室の一員であることに間違いはない

「比企谷、この問題ってさ……」

 

「ん? あぁそこは……」

 

 千葉が寄越してきたテキストに目を通して、説明する。中高一貫の関係で一部教科は高校の範囲までやる椚ヶ丘中学校だが、国語はうちの中学と同じものを使っていた。つまり去年勉強した範囲なので、教えるのもそこまで苦ではない。

 期末テストが近いということで、最近は暗殺よりも勉強にウェイトの比重を置いている。というよりも、烏間さんから放課後特訓の休止を言い渡されたのだ。放課後の訓練は部活だったのか。ある意味放課後課外ではあるが。

 

「あー、そう解くのか」

 

「比企谷さんって、何気に教えるのうまいっすよね。なんかわかりやすい」

 

 俺の説明で納得した千葉の横で、菅谷が顎に手を当てながらほう、と呟いた。

 放課後に誰かと勉強をするとなると、この二人と組むことが多い。菅谷とは前後ろで隣の席だし、千葉は射撃訓練で色々教えてもらうことがあるからな。

 それに、よく言えば明るい、悪く言えば騒がしいE組の中でも大人しいタイプの二人とはなんだかんだ居心地がいいのだ。慣れてきてはいるが、やっぱり終始倉橋や矢田のキャピキャピオーラに当てられていると疲れるのん……。

 

「まあ国語は得意な方だけど、別に殺せんせーみたく天才ってわけじゃないからな。教えるのがうまいのは、去年の経験のせいだろ。俺も同じ道通ったからな」

 

 勉強ができると教えるのがうまいはイコールではない。逆に一度“わからない”ということを理解した方がどこがわからないのか、それをわかるためにはどうすればいいか、という筋道も立てやすいのだ。

 殺せんせーみたいなタイプの方が特殊なんだよなぁ。なんでなんでもできるんだよ。触手の影響なのか、元になった人間がチート性能だったのか。

 

「数学はむしろお前らに教えてもらう方だからなぁ」

 

 いやもうほんと数学は苦手苦手。中学生に勉強を教えてもらう高校生とか格好悪いなんてもんじゃない。……こいつらには既に散々格好悪いところを見せてしまっているから、今更という感じもするが。

 

「けど、なんだかんだ比企谷さんの理解力高いと思うっすけどね」

 

「ないない。この調子だと期末の数学やばそうまである」

 

 別に数学が赤点になること自体は問題ないが、そうなると追試のためにもう一度総武高に行くことになるわけで、暗殺訓練の時間が減るのはあまりよろしくない。

 ため息をつく俺に千葉と菅谷はなぜか困ったような顔をしながら首をすくめていた。

 

 

     ***

 

 

 エンドのE組なんて呼ばれているが、殺せんせーによって手入れされてきた今年のE組には力がある。中間テストでは急な範囲変更があったにも関わらず、多数の生徒が成績を大きく上げたと聞くし、球技大会では専門分野の相手に男子は勝ち、女子もおおいに健闘した。

 しかし、全員がそういうわけではない。

 

「なんだよ渚、まさか俺らがこんなことをしたとか思ってんじゃねえだろうな?」

 

 例えば寺坂竜馬なんてその筆頭だ。壊され、ゴミを放り込まれた殺せんせー作成のプール。態度からしてこいつのグループの仕業なのは明らかだった。

 寺坂は典型的なガキ大将気質の人間だ。気に入らないことは相手を威圧して押し通そうとする。体格は大きいし、声もでかいからそうやって生きていく方が楽だったのだろう。

 だからE組に落とされた。学力至上主義の椚ヶ丘ではその生き方は通用しないのだ。

 そしてここでも――

 

「犯人探しなど無意味です。先生にかかればすぐに元通りですからねぇ」

 

 超生物は意にも返していないようにマッハでゴミを排除し、壊されたプールを元通りに直してしまった。

 チート生物がいるこの教室で、そんなことをしてもただ虚しいだけなのだ。

 呆然とする寺坂たちを横目に、 俺はプールを後にした。

 

 

 

 おそらく、現状に一番不満を持っているのは寺坂だ。吉田や村松、狭間も訓練には積極的に参加していないが、狭間は元々真面目なようだし、村松もこの間殺せんせーが開催した“放課後ヌルヌルなんとか”とかいう模試対策の特別授業に来ていた。吉田に関しても、おかん気質の原に引っ張られてクラスに参加することも増えてきている。

 寺坂グループとは言いつつ、寺坂以外は殺せんせーのやり方を少しずつ受け入れつつある。このままでは、あいつはクラスから孤立しかねない。

 

「……なんとかした方がいいんだが」

 

「寺坂さんたちとも仲良くしたいですからね」

 

 律の意見はおそらくクラスの大半が持っているものだろう。なんだかんだお人好しの多いクラスだからな。

 それに、特に寺坂のガタイは中学生としてはトップクラスだ。真面目に訓練を受ければ相当な戦力になると思う。

 逆に今のままだとあるいは……。

 

「……なにやってんだ?」

 

 教室に入ったら、バイクにまたがっているタコがいた。

 

「ああ比企谷君、この前吉田君と話していたバイクをプールで出た廃材で作ってみたんですよ」

 

 よくよく見るとサドルもタイヤも全部木製だ。っていうか、さっきの今でそんなもの作っちゃったのん? そんなあっさり作られたら、世界中の造形師が職を失いかねないから自重してあげてください。

 

「うおおお!! まじすげえじゃん!!」

 

「ヌルフフフ、バイクは男のロマンですからねぇ。漢と書いて“おとこ”と読む先生にとっては当然の嗜みです」

 

 吉田はバイクが好きなのか。本当にこの先生は生徒の心を掴むのが上手い。いや、生徒のことを貪欲に知ろうとする故の上手さなのだろう。

 

「このバイク、本物は時速三百キロ出るらしいですね。先生も一度これで風を切ってみたいです」

 

「あんたの場合、抱えて飛んだ方が早えだろ」

 

 未だにクラスに馴染みきれていなかった吉田を一気に溶け込ませてしまった。それはクラスの大半にとって良い変化で――

 

「チッ」

 

 寺坂にとっては良くない変化だ。

 ドカッと苛立たしげに寺坂が蹴飛ばしたバイクの模型は、廃材を使用した故にあっさりと壊れてしまった。所有者である漢と書いて“おとこ”と読む教師は大号泣で、教室中から、同じグループであるはずの吉田からも非難の声が上がる。てか、それでいいのか殺せんせー。少なくとも漢には見えんぞ。

 

「お前らみんな気持ち悪いんだよ。ブンブン虫みてえにうるせえしよ」

 

 

 ――駆除してやるよ。

 

 

 そう言って寺坂は自分の引き出しから何かを取り出し、床に叩きつけた。

鈍い金属音と共に勢いよく煙のようなものが吹き出す。あれは……殺虫剤か?

 

「てめえも、モンスターに操られて仲良しこよしのE組も全部気持ちわりーんだよ」

 

 その目を見て理解した。寺坂にとって、今のE組の上昇思考や地球滅亡なんてどうでもいいのだ。

 だってその目は空っぽだから。何も目指していないから。

 そんな生き方は、さぞ楽だろう。しかし、それでは取り残される、そこがどこであろうと必ず。体格では明らかに勝っている寺坂が、今まさに赤羽に圧倒されているように、目標のある人間とない人間では明確な差がついてしまうのだ。

 他の奴らが前を目指しているのを見るのは、どれほどの苦痛だろうか。元々つるんだり従えたりが基本のガキ大将タイプは、孤独に慣れていないのだから、その苦痛は、苛立ちは、俺には想像もできない。

 

「なんとか平和にできないものかな……」

 

 磯貝の言葉を実現するには、寺坂自身が変わる必要があるが……人間そうそう変われるものではない。その願いを叶えるのは難しいだろう。

 それにしても、なぜ寺坂は殺虫剤なんて持っていたんだ? 追加攻撃のための目くらましでも、俺の煙幕のように対先生物質の粉末を入れているわけでもない。

 生徒との喧嘩のために使うにしても、やけにみみっちいやり方では……。

 

「! ……律!」

 

「はい! すでに採取済みです!」

 

 こいつ、どんどん俺の思考をトレースするの上手くなってないか? このままでは最終的に律の目が腐ってしまうのでは……腐った目であざといとかなにそれドン引き。

 まあ、律のことは置いておいて、採集したとしても、律自身にはそれを調べる機能がない。確証のないことに烏間さんたちを巻き込むわけにも……。

 

「奥田さーん、出番みたいだよー」

 

「はい? なんでしょうか?」

 

 どうしたものかと考えていると、赤羽が奥田を連れてやってきた。そういえば、奥田は理科の成績もいいし、研究大好き少女だったな。

 

「っていうか、お前の察しの良さが怖いわ」

 

「えー、なんのことー?」

 

 ケタケタ笑う赤羽を放っておいて、律が取り出したプラスチックの容器を奥田に渡した。

 

「奥田、ちょっとこれの中身を調べてくれないか?」

 

 さあて、 鬼が出るか蛇が出るか。はたまた出てくるのは触手だろうか。

 

 

     ***

 

 

 次の日、殺せんせーは延々涙……ではなく鼻水を流していた。先生の場合目の少し上に鼻があるようだが、それって鼻水目に入らない? 入ったら沁みそう。

 

「どうも昨日から調子がおかしいです。夏風邪ですかねぇ?」

 

 おそらく、原因は昨日寺坂がぶちまけた殺虫剤もどきだ。一般的に殺虫剤は有機リン剤や合成ピレスロイド剤などを使っているらしいが、奥田に調べてもらったところ振りまかれたそれには全く異なる、奥田もわからない成分が含まれていたらしい。それが触手生物に作用しているのだろう。

 しかし、これは何を狙ったものなのか。このタコは異常に鼻が効くし、 気づかれずに接近するため?

 

「おいタコ。そろそろてめえを本気でぶっ殺してやるよ」

 

 昼休みにようやく登校してきた寺坂が鼻水というかもはや粘液にまみれながら放った言葉は、とても今まで暗殺に取り組んできた人間とは思えないもので。しかしその声はやけに自信ありげだった。

 久しぶりに警戒レベルを跳ね上げながら、ステルス八幡を発動させて教室を抜ける。

 

「八幡さんは参加しないんですか?」

 

 スマホに現れたモバイル律の頭を指で撫でながら、校舎裏の木陰に腰を下ろす。注意深く周りに意識を向けてみるが、そもそも気配探知の訓練なんてしていないから何も引っかからなかった。

 

「やらねえよ。何が起こるかわかったもんじゃねえ」

 

 しかし、中止させるわけにもいかない。あいつらを引っ張り出さないと気が済まないからな。

 

 

 

「赤羽もやっぱサボるわな」

 

 放課後、隠れながら様子を伺っていると、寺坂を中心にどうやらプールに向かうらしい。

 

「よーしお前ら、プールに入って全体に散らばっとけ」

 

 寺坂の指示に渋々従って、皆プールに入っていく。ほんと、お前らお人好しが過ぎる。E組の奴らの将来が割と心配。寺坂は逆に調子に乗ってどんどん暴君になってきている。劇場版じゃない剛田家長男みたい。

 パッと見た感じ、 プールに突き落として殺す、と言ったところだろうか。

 以前律と調べた殺せんせーと水の関係。予想通り水を吸うと動きが劇的に遅くなるとターゲットの自身が白状したと渚が言っていたから、その作戦自体は理解できる。

 確かに全員でかかれば、水中の殺せんせーを仕留めることも可能かもしれない。しかし――

 

「それで、君はどうやって私を水に落とすんですか?」

 

 こうも露骨だと、相手が超生物じゃなくても落とすのはそう簡単なことではない。

 対して寺坂が持っているのはエアガン一丁のみ。とても本気で落とすようには見えない。あいつが絡んでいるならなおのこと。

 となると、寺坂の行動はあくまでポーズということだろうか。ここから何が起こるんだ?

 

「ずっとてめえのことが嫌いだったよ。消えて欲しくてしょうがなかった」

 

「ええ知ってますよ。暗殺の後でゆっくり二人で話しましょう」

 

 緑と黄色のボーダーで笑うタコに、青筋を立てながら寺坂が引き金を引いて――

 ――――ドグァッ!!

 耳が潰れそうなほどの轟音と共に、プールが爆発した。

 

「…………は?」

 

 あまりのことに反応できないでいる間にも、破壊された堰から大量の水が流れ出し、急流に逆らう暇もなくプールにいた奴らが流されていってしまう。

 

「いけない! 皆さん!」

 

 殺せんせーが飛び出していく声にようやく脳が再起動した俺は、思わず口の中で舌打ちを転がした。

 

「くそっ……」

 

 完全に油断していた。まさか生徒を危険に晒すなんて考えもしなかった。寺坂がそんな作戦に加担している可能性を排除していた。こんなことなら中止させるべきだった。

 

「なにこれ……プールなくなってるじゃん……」

 

 音を聞きつけたらしい赤羽が息を切らして飛び込んできたので、俺も隠れるのをやめて寺坂に近づく。

 なぜこんな計画に、シロの計画に乗ったのかと問いただそうとして……。

 

「話がちげえよ……。イトナがプールに突き落とすって作戦だったじゃねえか……」

 

「「……そういうことか」」

 

 弱々しく漏らした声に、二人して納得した。つまりこいつはシロにとって協力者ではなく、ただの駒にすぎなかったのだ。騙されて踊らされて、まんまと思い通りに動かされた。

 

「なあ、俺は悪くねえよ。こんな作戦、やらせる方が悪いんだ」

 

 震える声ですがるように赤羽に詰め寄る寺坂は、高校生並みの体格にも関わらず、とても小さく見えた。

 そんな弱々しい寺坂にも容赦なく赤羽は拳を振るった。こいつも過激な発言はあれど仲間思いなやつだ。目にはありありと怒りが滲み出ている。

 

「相手がマッハ二十の怪物で助かったね。そうじゃなきゃ今頃、大量殺人の実行犯に仕立てられてたよ」

 

 ――流されたのは、皆じゃなくてお前じゃん。

 それだけ残して赤羽は流された皆の元へ駆けて行った。

 さて、俺はどうするかな、と少し考え……ゆっくりと口を開く。「あのな」と口にしただけで寺坂の方がビクリと震える。こいつ自身相当ショックを受けているようだ。

 

「お前は今回失敗した」

 

「…………」

 

「下手したら取り返しのつかないことになっていたかもしれない失敗だ」

 

「…………」

 

 寺坂は口を挟まずに静かに聞いている。いや、ひょっとしたら呆然として何も聞こえていないかもしれない。それだと俺が寂しい独り言を喋ってるみたいで悲しくなるのだが、この際気にしてはいられない。

 

「けど、幸運なことに取り返しがつかないことにはならなさそうだ」

 

「え……?」

 

 どうやらちゃんと聞こえていたらしい寺坂が顔を上げる。もちろん、今回の寺坂の所業がなくなるわけじゃない。しかし、幸いまだ挽回できるのだ。

 寺坂の頭に手を乗せて、喝を入れるように少し強めに撫でてやる。

 

「今からでも遅くねえよ、あいつらお人好しだし。別に無理して全部自分で考えろなんて言わないが、大事なところでくらい、自分で考えて自分で動いてみろよ」

 

 誰だって失敗する。大人だって失敗をするんだから、まだ子供のこいつが失敗するのだって仕方のないことだ。

 殺せんせーがついているのだから、たぶんあいつらは全員大丈夫だろう。問題はその後に待っているはずの堀部戦か。

 こんな犯罪行為までしでかしたクソ野郎をどうしてくれようかと考えながら、俺も赤羽の後を追おうとして――よろっと立ち上がった寺坂に足を止めた。

 

「……怒らねえのかよ」

 

 なに? 怒られたいの?

 

「まあ、怒ってないと言えば嘘になるが、俺だってお前の後ろにシロがいることに気付いていたのに止めなかったんだ。俺が怒るのは筋違いだし、人間それぞれ違うんだから、お前みたいに殺せんせーのやり方になかなかなじめない奴が出るのだって仕方ないだろ」

 

 今回の戦犯を上げるなら、むしろ最悪の可能性を考えなかった俺だろう。ああ、マジで悔やみきれねえ。

 

「それに、今は次に何をやるか、だろ?」

 

「っ……わかってるよ!」

 

 幾分いつものように眉を吊りあがらせて駆け出す寺坂を目で追い、見えなくなると――ゆっくり足を動かしながら大きくため息をついた。

 今回の失敗はない。今考えればシロのことなんて放っておいて、安全策を取るべきだった。泳がせるとか刑事ドラマみたいなことして……マジで馬鹿じゃねえの。

 

「はあ……」

 

「あまり気になさらない方が……」

 

 律の言葉はありがたいが、気にしないとか無理だろ……。

 もう一度ため息をついて、事の元凶へと向かった。

 

 

 

「……してやられたな。丁寧に積み上げた戦略が、たかが生徒の作戦と実行でメチャメチャにされてしまった」

 

 赤羽が立案し、寺坂を始めとした生徒達が実行した作戦で、堀部は殺せんせー同様触手に大量の水を吸わされてしまった。昨日のスプレーは嗅覚をマヒさせるだけじゃなく、触手を保護する粘液を枯渇させる役割もあったのか。それにしても、シャツくらいはちゃんと毎日洗濯しようぜ寺坂。中学生は新陳代謝高いんだからさ。

 

「ここは引こう……帰るよ、イトナ」

 

 もう二度とくんなと言いたいところだが、どうせ来るんだろうなぁ。シロは明らかに賞金とは別の目的で動いているし、堀部も前回といい今回といい、やけに勝利だとか強さだとかに固執している節がある。この先何度だって攻めてくるだろう。

 それにしても……出ていきづれえなぁ。

 赤羽とじゃれている寺坂を見ると、なんだかんだあいつも順応性高いよなと思う。あいつにはあんな事を言ったが、あそこまで遺恨を残さないなんて俺には無理だ。

 

「プハッ! ……あれえ、比企谷君そんなところで何やってんの?」

 

 あ、赤羽に見つかった。ステルス八幡が完全ではなかったかと思ったが、どうやら律が知らせたらしい。クッ、赤羽のスマホが防水仕様だったばっかりに……!

 

「はっちゃんも早く下りてきてずぶ濡れになりなよ!」

 

「カルマも濡れたし、あんただけ濡れてないとか不公平じゃない?」

 

「そうだそうだ!」

 

 いや、逆になんで俺は濡れなきゃいかんのですか。俺水着じゃないんですが……。

 

「ったく、さっきこの俺を諭した奴がなに尻込みしてんだよ。……囮のために泳がせてたのなんて、誰も気にしてねえに決まってんだろ?」

 

「そもそもそれって比企谷君のせいじゃないでしょ。あいつらが関わっていることに気付いたら、私達もそうしてただろうし」

 

「それに、これがなかったら寺坂はどの道浮き続けてただろうからね。この動物にはいい薬でしょ」

 

「なっ、狭間てめえ……!」

 

 クククと黒い笑みを浮かべる狭間に寺坂が怒鳴りつけるが、手を出すことはない。案外紳士だなお前。というか、なんだかんだこいつが襟首を掴む以上の暴力を振るっているところって見たことがないわ。

 まったく、こいつらを相手にしてるとウジウジ考えている自分が馬鹿馬鹿しくなる。こっちは真剣に反省しているのに、当の本人たちは気にも留めていないんだから。

 

「比企谷君早く!」

 

「……ったく。ちょっと待ってろ!」

 

 せめてシャツとスマホだけは置かせてくれ。全身濡らして帰ったら小町に怒られかねない。




vsイトナ回というか、寺坂回でした。

回想でちゃんと制服を着こんでいる寺坂を見て違和感しか感じなかったのは私だけではないはず。寺坂の適応能力すごいですよね。一度内側って認識するとなんだかんだ語調洗いながらも近づこうとする姿勢、いいと思います。竹林とメイド喫茶に行くところとかね。
そういえば、あれから寺坂はメイド喫茶に通い詰めているのかしら? 私、気になります!

というわけで、今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

比企谷八幡には才能がある

「あっれー? 比企谷君じゃーん」

 

「げ……」

 

 休日に小町に誘われて街に出たら赤羽と遭遇してしまった。やっぱり小町が提案したからっていつもは家にいる時間に外に出るべきじゃないな。いやしかし、小町は決して悪くない。この世界に小町が悪いことなんて存在しないのだ。つまりこんなところをほっつき歩いてる赤羽が悪い。

 

「お兄ちゃんの知り合いさん?」

 

「まあ……クラスメイトだな」

 

 この間はあんなこと言ったが、別に赤羽を信頼していないわけじゃない。喧嘩っぱやかったりフリーダムすぎるきらいはあるが、こいつがそれでもいい奴だということは分かっている。寺坂もなんだかんだクラスに溶け込んできた今、あのクラスで小町に会わせたくない奴なんていないと言ってもいい。いや、あの触手教師は論外だけど。触手教師って響からしてやばい。

 

「あ、その子が小町ちゃんなんだー。赤羽カルマでーす。比企谷君とは……友達?」

 

「いや、それはよく分からんのだが」

 

 E組で過ごす毎日は確かに楽しいけど、相変わらず友達の定義はよく分かっていない。まあ、単に“友達”って単語に拒否反応示しているだけ説もあるのだが。

 

「んー、じゃあ仲間かなあ?」

 

「まあ、それなら……」

 

 そっちの方が俺的には納得できる。うまく言えないが、“友達”より“仲間”の方が安心できる気がする。いや、知らんけど。

 

「ほうほう、やっぱりあっちだとお兄ちゃんもちゃんとクラスに溶け込めてるんだね! いつも兄がお世話になってます!」

 

「ほんとお世話してるよー。この間も大変だったんだから」

 

 ん? なにやら雲行きが怪しくなってきた気がしなくもないんだが……。

 

「ほえ? うちのお兄ちゃんがなにかやらかしましたか!?」

 

「この前比企谷君がちょっとミスしちゃってね。俺らからしたらミスってほどでもないミスだったんだけど、比企谷君ずいぶん引きずっちゃってさー」

 

「おいこら赤羽」

 

 雲行きが怪しいどころか暴風雨だった。というか、もろこの間の寺坂やシロ達の件だった。

 自分ではあの後そこまで引きずっているつもりはなかったのだが、周りから見たら全然そう見えなかったようで、次の日くらいまでやけに周りが構ってきた。

 ……すまん嘘ついた。三日後くらいまでずっと構われてた。矢田と倉橋はいつも以上に話しかけてきたし、渚や茅野からは放課後の遊びに、神崎からはゲームに、杉野からは野球に誘われたりしたっけか。杉野、俺はカツオじゃないから「比企谷ー、野球しようぜー!」とか中島のノリはちょっと無理があったぞ。

 

 で、それを聞いたらうちの妹は腰に手を当ててお説教モードに入るわけで……。

 

「お兄ちゃんはどうでもいいことをウジウジ考えすぎるからダメダメなんだよ」

 

「……はい」

 

 現在妹に敬語を使わざるを得ない状況になっているお兄ちゃんです。ふえぇ、今の小町に反論とか無理だよぉ。

 

「それで年下に心配かけるなんて本末転倒だし」

 

「……全く以ってその通りでございます」

 

 いやほんと正論だよな。あいつらに対するミスであいつらに心配されるなんて論外すぎて、俺自身ないかなって思うし……。

 しかし、つい考えすぎてしまうのがぼっちであり、比企谷八幡なのだ。寺坂みたいにあんなことの後で速攻クラスに溶け込めるほど柔軟性があったら、そもそもぼっちやってないんだよな。マジであいつあれだけ簡単に溶け込めるならなんで今まで孤立してたし……。

 

「でも……小町はちょっと安心したのです」

 

「は?」

 

 それまで仁王立ち少女だった小町は居住まいを正して、左手をひらひらさせながら右手で恥ずかしそうに頬を掻き始めた。俺もたまにやる気がするが、お前がやるとかわいいな。

 

「そんなダメダメなお兄ちゃんでも、見捨てないで仲良くしてくれる人がちゃんといるんだって思ったら、ね」

 

「……そうだな」

 

 いつもの俺なら、とっくに見切りをつけられて周りが離れて行っている頃だ。そうなっていないのはきっとあいつらが超のつくお人好しで、弱者を経験していて、そしてあのタコ似の教師の生徒だからだろう。

 運命なんて信じていないが、ひょっとしたら俺は、入るべくしてE組に入ったのかもしれないな。

 

「というわけでカルマさん! これからもお兄ちゃんのこと、よろしくお願いします!」

 

「オッケー、任せてよー」

 

 ……ところで赤羽君。なんで君はそんな黒い笑顔に角と尻尾を生やしているんでごぜーますか?

 

 

 翌日、音速で休日の出来事がクラスに広まり、一日中弄られた。やっぱこのクラスに入ったのが運命とかないわ。

 

 

     ***

 

 

 七月になると中学高校共通で訪れるのが期末テストである。前回はクラス全員が総合五十位を目指し、理事長の妨害で殺せんせーがめちゃくちゃ凹んでたとか聞いたが、今回は五教科と総合を含めた六つのジャンルでそれぞれ一位を取れば、その数に応じて触手を破壊する権利が得られるらしい。

 それを聞いた瞬間の皆の目の変わりようと言ったら。前に律に見せてもらった中間の成績を見ると、確かにこのクラスって一教科に絞ると成績上位者が何人かいるんだよな。自分の力がつけば百億を手に入れられる確率も飛躍的に上がる。

 そんな餌、釣られない方が無理な話だ。

 

「まあ、俺には関係ないんだけどね」

 

「比企谷君の場合は総武高の単位がかかっていますからね。余計なノルマをつけてプレッシャーをかけてしまっては大変です」

 

 なーんかはぶられてる感じがして複雑だなぁ。まあ、俺の学年って国際教養科に中間テスト全教科一位の化物がいるって聞いてるから、落ちこぼれの俺はどの道なにも貢献できないだろうけどさ。

 ところで……この先生はなんでちょっと焦ってんの? 嘘が付けないっぽいから内容はともかく、焦っているのは丸分かりだ。

 ま、そんなこと気にしてても仕方ないか。今は勉強しないと。

 

 

 

「……なにやってんの?」

 

 次の日、やけに教室が騒がしいと思ったら、期末テストでE組対A組の賭けが行われることになっていた。どうやら昨日図書館に勉強しに行った磯貝達がA組の五英傑とか呼ばれる奴らに吹っ掛けられたらしい。

 

「ごめんなさい。ちょっと熱くなってしまって……」

 

「同じく……学級委員なのにごめん……」

 

 まあ、クラスの中でも理性的な磯貝や神崎が受けてしまった以上、たぶんクラスの誰がこの場にいてもそうなってたかもしれんな。

 しかし……。

 

「この化物を倒す……ね……」

 

 律から渡された五英傑のデータ。確かに勝負を吹っ掛けてきた四人も相当ハイレベルな奴らだが、やはり目を引くのは一人だ。

 浅野学秀。全教科一位、当然総合も一位。挙句の果てに全国模試も一位でスポーツも芸術も高い水準でこなすとかどこのチート系主人公だよ。まあ、あの理事長の息子って言われたらなんか納得できてしまうのがあれなんだが。

 対峙した時はあまり恐ろしい印象は受けなかったが、球技大会では非情な選択も涼しい顔で選んだあの理事長の息子だ。どんな命令をしてくるかも分かったものではない。

 これがこいつらにとってプレッシャーにならなければいいが……。

 

「ま、一位を取るためにはどの道浅野クンは倒さなくちゃいけないからねー」

 

 しかし、洋書をパラパラとめくりながら答える中村にも周りの他の奴らにもそこまで緊張は見られない。むしろ、昨日以上にその目には殺る気が見てとれた。

 なるほど、ご褒美は豪華な方がいいってことか。欲張りな奴らだ。

 

「ヌルフフフ、それでは先生ももっとギアを上げなくてはいけませんねぇ」

 

 いつの間にか教室に来ていた殺せんせーは笑いながら一冊のパンフレットを取り出した。

 

「ところで、勝った時の命令ですが、これをよこせと言うのはどうでしょうか?」

 

 ……ああ、それは確かに、中学生にとっては最高のご褒美だ。

 

 

 

 E組のテスト前の光景は端的に言って異常だ。

 なにせ、教師が一人の癖に分身してほぼマンツーマンで教えているのだから。まじでこんな器用な教え方できるのはこの先生だけだよなぁ。輝かしい経歴を持っている理事長だって、さすがに人間の枠からははみ出せないんだから。

 というか、なんで寺坂だけ鉢巻がナルトなのん?

 

「うへぇ、数学はさすがに疲れる……」

 

「けれど、だいぶ解くスピードも上がっていますよ。根本的なミスがだいぶ減ってきています」

 

 そうかね。自分じゃそこまでよくなっている印象はないのだが。

 ちらっと教室に視線を向ける。ご褒美の件もあって皆かなり集中しているようだ。一位になれる可能性の高い中間上位勢の集中力がすごい。国語の神崎、英語の中村や渚、社会の磯貝、理科の奥田は見ているこっちも伝染しそうなほど勉強に打ち込んでいる。普段ひっそりしている奥田が積極的に殺せんせーに質問している姿はなかなか新鮮だ。

 実際この五人や片岡、竹林当たりの真面目組の影響か、お調子者の前原や岡島、あまり集中力のある方ではない岡野や茅野なんかもしっかり勉強に打ち込んでいる。

 

「…………」

 

 逆に寺坂は少し居心地が悪そうだ。この前まで勉強にも暗殺にも消極的だったこともあり、寺坂の成績がクラス最下位。殺せんせーはあいつにもチャンスはあると言っていたが、正直なところ行けて上位に食い込むくらいだろう。

 それは吉田や村松も同じで、確かに頑張ってはいるようだが、他の奴らに比べると幾分集中力が欠けているようにも見えた。まあ、俺はナルトの鉢巻つけた殺せんせーが目の前にいる時点でやる気マイナスまで振り切れそうだけど。

 そういえば、あいつは大丈夫なのだろうか。

 

「比企谷君! 勉強はメリハリが大事ですよ! 集中しましょう!」

 

「……分かってますよ」

 

 今までサボっていた分のツケ……なのだが、やはり同じE組の仲間だ。自信を持てていないあいつらに何かできることはないかと考えてしまう。しかし、今勉強以外の部分で自信をつけさせても結局二学期の中間とかで同じ思いをするだけだろうからなぁ。

 殺せんせーの目を盗んで何かないかと教室中に視線を投げてみる。今は暗殺訓練も控えめになっているし、あいつらのガタイの良さを活かせそうな体育もテストは存在しない。うーん……。

 なかなかいい案思いつかねえなと視線をスライドさせると、黒板横にある掲示スペースが目に入って――

 ……あっ。

 喉まで出かかった声を押し殺し飲み込んで、視線をテキストにそっと戻した。

 五教科の点数を落としてしまうことになるかもしれない。しかしうまくいけば、これは面白いことになるかも知れないのも事実だ。

 

「ふう、それでは休み時間に入りましょう」

 

 目の前の分身が消えたので顔を上げると、どうやら授業時間が終わったらしい。教卓に戻った殺せんせーの声にさっきまでピンと張り詰めていた空気が一気に弛緩した。

 実行に移すなら準備期間は長い方がいい。職員室に向かう超生物を視線だけで見送ると、俺は席を立った。目指すのはもちろん三バカのところだ。

 

「あん? 比企谷なんかようかよ?」

 

「ああ、一つお前らに提案があってな」

 

 俺の“提案”という言葉に三人は顔を見合わせると、揃ってニヤリと笑った。どうやら内容を聞くことで同意したらしい。本人達が乗り気なら、作戦の成功率も上がる。なんだかんだこいつらも、爆発力のあるE組の一員だ。きっと成功させてくれるだろうと思うと、釣り上がる口角を抑えることはできなかった。

 

「あの余裕たっぷりなタコ教師に、一泡吹かせてみないか?」

 

 後から横目で見ていた狭間に聞いたのだが、この時の俺は全力で悪戯をする時の赤羽そっくりだったらしい。なにそれ、ぜんっぜんうれしくない。

 

 

 

 で、その後もテスト勉強に明け暮れ、あっという間にテスト当日になった。総武高校と椚ヶ丘学園ではテスト期間が微妙にずれていて、俺だけは明日からテストだ。

 なので、影武者を用意したらしい律と最後の確認をしつつ、殺せんせーが見せてきた今回のテスト問題に目を通していたのだが……。

 

「……なにこれ」

 

 端的な感想がこれ。最初の英語の時点で俺の知っている定期テストと違った。

 定期テストなんて、所詮は基本の確認がほとんどだ。特に英語や国語は教科書の文章がそのまま出ることがほとんどだし、確認をちゃんとしていれば六十点は堅い……そういうものだと思っていた。

 

「さすが名門校、問題文が名作小説から引用されている。生徒の読書量や臨機応変さも採点対象に加えるつもりなのでしょう。実にいい問題を作る」

 

 思わず嘆息してしまう。彼らはこれに臆せず立ち向かっていっているのだ。この学校では落ちこぼれと罵られようと、周りから見たら彼らは十分すごい中学生達に違いはなかった。

 

「あら、どうしたのよ比企谷?」

 

「いえ……、やっぱりあいつらはすごいんだなって思っただけですよ。俺なんかとは格が違う」

 

 私立中学なんて部活に力を入れる奴や意識高い系の奴らが行くところだろうと思っていたが、実際ここにいる奴らは正しく意識を高いラインに持っている奴らばっかりで、なんとなくで公立街道を歩いている自分がこの中じゃ一番遅れているような気分だった。

 

「格とかそういうものではありませんよ」

 

 しかし、そんな俺のぼやきに殺せんせーが顔にバツ印を浮かべて答える。

 

「彼らの大半は親から勧められてここに入学してきた生徒がほとんどです。勉強面で公立中学とここまで差があるなど考えたこともなかったでしょう。それに、高額な授業料を払っているのですから、授業のレベルが高くなるのは当然なことです。

 さらに言えば、遠い目で見るならどの学校出身かなんて関係ないのですよ。本当に大事なのはそこで君が何を成すか、ということです」

 

 何を……成すか……か。

 

「別に勉強である必要はないのですよ。スポーツでも、芸術でも、なんなら奉仕活動でもいい。自分の長所を伸ばしたり、短所を補ったり。それができる人間はどこにいようと相応の評価を得るものなのですよ」

 

「それを言うと、俺はできない人間ってことになりません?」

 

 評価どころか認識もされず、人並みのこともできずに逃げだして、……やっぱり俺とあいつらは違うのだ。

 

「その君の認識も、すぐに崩れることになりますよ」

 

 それはどうかね。

 一つ息をついて、まとめていたノートに視線を落とした。

 

 

     ***

 

 

 久しぶりに見た総武高校は、E組校舎を見慣れてしまったせいかやけに近代的に見えた。なんか俺、都会に出てきた田舎者みたいになってない? 俺関東民だから! 田舎者じゃないから!

 

「ここが総武高校なんですね~」

 

「なんでお前はいるんだよ……」

 

 ポケットからナチュラルに声をかけられたから、小さくなった女の子でも連れてきちゃったかと思ったら律だった。いや、前者の方がやばいなそれ。

 

「大丈夫です。テスト中は話しかけたりしませんから」

 

「できれば学校にいる間は話しかけないでね」

 

 そうしないと、俺はスマホの中の二次元少女と会話をする痛い奴になってしまう。いや、傍から見たら家で結構そんな構図になってはいるのだが、自ら進んでそんな称号を取るつもりはない。そもそもこいつもこいつで国家機密レベルの存在だし。

 だからね、そんなしょぼんとするのはやめてね。俺が悪いみたいじゃん。

 

「わかりました……。それでは、がんばってください!」

 

「おう」

 

 軽く律の頭部分に指を滑らせてポケットにしまった。

 なんだかんだ二週間くらいしか通っていなかったので軽く迷子になりそうだったが、なんとか自分の教室に辿り着いた。自分の教室って実感皆無だけどな。

 教室に入ると一瞬喧騒が止む。その後ポツポツと「誰?」「知らない」なんて囁き声が聞こえてくるが、気にせず自分の席に着いた。全く交流がなくて、二ヶ月近くいなかった人間の事を覚えていなくても仕方あるまい。というか、他生徒の集中の邪魔になってないかな? それはちょっとフェアじゃないから八幡心配。

 今は他人の心配より自分の心配をするべきだよなと筆記用具の準備をしていると教科担任が入ってきた。俺をチラッと見てきたが、国がかけ合っているからか余計なことは言わずに問題用紙を配り出した。まあ、変に声をかけられても面倒くさいからかなりありがたかったりするのだが。

 配られた問題を裏返したまま静かに瞑目してみる。

 俺とあいつらはやっぱり違う。赤羽は多くの才能に恵まれているし、奥田の理科に対する熱意も、片岡や磯貝の統率力も、矢田や倉橋がイリーナ先生に習って身につけたような交渉力も、千葉や速水のような射撃スキルも、渚のような暗殺の才能も、俺は持ち合せていない。

 ならばせめて、俺らしく、泥臭く、目の前の事に取り組もう。

 

「それでは、始めたまえ」

 

 開始の合図とともに、目の前の敵と向き合った。学力の刃を片手に。

 

 

     ***

 

 

「恥ずかしいですねぇ。『余裕で勝つ俺かっこいい』とか思っていたでしょう?」

 

 テスト明けの結果発表の日、A組との勝負は3-2でE組が勝った。結果から見れば学年トップ集団を相手に誇るべき結果だが、皆が順位を伸ばしている中で一人だけ順位を落とした奴がいた。

 テスト前、皆が必死に勉強している中で赤羽だけはいつもの調子で過ごしていた。確かに勉強はしていただろうが、気を抜くことも多かった。

 

「殺るべき時に殺るべきことを殺れない者は……この教室での存在感をなくしていくのです」

 

 A組だってE組の中間での急成長を知っている。そうでなくても学年トップ集団として、努力を怠ることは許されない。上を目指すことも難しいが、上に居続けることもまた同じくらい難しいのだから。

 赤羽は学力ではE組の誰よりも秀でている。それは恐らく、あいつ自身が持って生まれた才能故だろう。

 しかし、その才能に胡坐をかいていては、足元を掬われてしまうのは自明の理だ。今回、それでもトップクラスとはいえ赤羽自身が順位を落としてしまったように。

 

「刃を研ぐのを怠った君は暗殺者じゃない。錆びた刃を自慢げに見せびらかしているだけの――ただのガキです」

 

「…………チッ」

 

 頭を嫌みったらしく撫でていた触手を振り払って校舎に戻っていく赤羽を見つめながら、担任と体育教師が話している。

 赤羽の今回の怠慢は、恐らく今まで敗北らしい敗北をしてこなかったからだろう。そんな相手に甘い言葉は必要ない。そんなものを与えてしまえば、今回の敗北をなかったことにしてしまいかねないのだから。あれだけ神経を逆撫でるような言い方をしていても、うまく立ち直るように誘導したに違いない。

 

「力ある者は得てして未熟者です。本気を出さずとも勝ち続けてしまうために、本当の勝負を知らずに育ってしまう危険がある。逆に言えば……大きな才能は負ける悔しさを早めに知れば大きく伸びるものなのです」

 

 それに、と続ける殺せんせーは突然視界から消えた。

 

「敗北を知っている人間は得てして向上心の塊なのです、君のようにね」

 

 と思ったらいつの間にか後ろに回り込まれていた。上手く隠れていたつもりだが、やはりこの先生は鼻が効きすぎるな。その手には総武高のエンブレムが印字された封筒。

 

「比企谷君の言動は常に卑屈で下向きです。しかしそれは、弱者の予防線であると同時に、強者に自分の力を悟られないようにする一面もある。まさに暗殺者の思考のように」

 

 封筒から取り出されたのはテストの答案と成績表。渡されたままそれに目を落として――息が詰まりそうになった。

 中間では散々な数字が並んでいたものと同じシンプルな成績表には軒並み八十点以上の数字が並び、現代文、古文漢文に至っては学年順位の欄に「1」の数字が刻まれていた。五教科の総合順位も九位だ。

 

「これが……俺……の……?」

 

 信じられなくて、知らず声も震えてしまう。そんな俺の肩にプニュっと触手を乗せて担任の触手生物はヌルフフフと笑いかけてくる。

 

「確かに君はカルマ君のように多くの才能に恵まれているわけでも、速水さんや千葉君のように極端な射撃の才能もありません」

 

 それでいい。そう殺せんせーは優しい声で紡ぐ。人は皆違い、皆それぞれの才能を持って生まれてくるのだからと。

 

「当然君にも才能はあります。先生たちが気付いていないだけで、まだ見えていない才能もあるかもしれませんが、君のその結果は“努力”の才能によるものです」

 

「どりょ、く……?」

 

 一瞬その意味が分からなくて首をかしげた俺に「ああ」と返したのは、殺せんせーではなく烏間さんだった。

 

「君は元々運動神経も悪い方ではない。しかし、普通に生活していたらここでの二ヶ月という訓練の遅れは取り戻せなかっただろう。それを短期間で成し遂げたのは、誰よりも早く追加訓練を希望し、日々研鑽を怠らなかった君の向上心と努力の賜物だ」

 

「『努力する』というのは言葉にするのは簡単ですが、存外難しい。それができたのは、比企谷君が言うところの『負けることに関しては最強』故の卑屈さかもしれない。君にとっては苦く、辛い思い出のせいかもしれない」

 

 けどね、と殺せんせーは言葉を切る。振り返って見たその小さな目には、少し憧れが見えるような気がした。

 

「短期間で成し遂げることが才能であるなら、その才能のレベルまで努力することもまた才能なのです。

 誇りなさい、比企谷八幡君。君は学歴も過去も関係なく、自分の成すべきことを成す、それができる人間だ。敗北を正しく知っているからこそ、勝者に限りなく近い。君の評価は、自分が思っている以上に高いものなのですよ」

 

 努力……それが俺の才能……か。当たり前だと思っていたものが才能だなんてあまり実感が湧かないが、案外才能とはそういうものなのかもしれない。渚が自分の暗殺の才能に気付いていないように、自分にとっての当たり前が周りにとっての当たり前ではない、ということか。

 

「どうですか? 少しは自分の力に自信が持てたでしょう?」

 

 そして、努力が俺の才能だと言うのなら、俺の答えは決まっている。

 

「いや、まだ全然ですね」

 

「ニュヤッ!?」

 

 ああ、本当にまだまだ全然足りない。努力が俺の才能の一つならば、まだまだ上を目指さなければ。

 懐にしまっていた、目の前の元人間だけを殺すナイフを突きつけて宣言する。今までで一番自信を持って、胸を張って。

 

「俺が自信を持つためには、あんたを殺せるまでならないと」

 

 ナイフを突きつけられた本人は一瞬目を見開いて、いつものように笑いだした。

 

「ヌルフフフ、その向上心の高さも才能かもしれませんねぇ。まあ、先生は殺されるつもりなんてありませんがね」

 

 殺すさ、絶対に殺す。このクラス全員で。

 

 

     ***

 

 

 後日談というか、今回のオチ。いや、後日というか直後なんだが。

 

「皆さん素晴らしい成績でした。皆さんはトップを三つ取れましたので、触手三本を破壊する権利があります」

 

 ――ま、三本くらい失っても余裕でしょう。その程度なら先生を肉眼でギリギリ捉えられても身体が反応しないでしょうしね。

 なーんて考えているのだとしたら殺せんせー、ちょっと生徒舐めすぎだぜ?

 

「待てよタコ、五教科のトップは三人じゃねえぞ」

 

 そう言って前に出たのは寺坂、村松、吉田、そして狭間の三バカプラス保護者。殺せんせーは何を言われたのか分からないようで、頭にはてなマークを浮かべている。

 

「三人ですよ、寺坂君? 国・英・社・理・数合わせて……」

 

「はあ? アホ抜かせ」

 

 そう、確かに殺せんせーは“五教科”プラス総合点と言った。しかし――

 

「五教科っつったら国・英・社・理……あと“家”だろ」

 

「か、家庭科ぁ~~~~!?」

 

 その五教科が具体的にどの教科なんて一言も言ってないんだよ!

 殺せんせーは今まで見たことがないくらい動揺して、目の色どころか顔の色をクルックル変えている。今だったらあっさり殺せるかもしれないな。眺めてるだけで面白いからやんないけど。

 

「なんでこんなのだけ本気で満点取ってるんですか!! 家庭科なんてついででしょ!?」

 

「……ついでとか先生失礼じゃね? 五教科最強と言われる家庭科さんにさ」

 

 これがあの時寺坂達に提案した作戦だった。正直“本来の”五教科と総合点で全て一位なるなんて相当できすぎていないと無理な話だ。

 しかし逆に言えば、そこにこそつけ込む隙がある。学年一位を取れなかった教科とすげ変えることで、しかも家庭科一位を乱立させることで本来の最高本数六本以上の――

 

「先生、約束ちゃんと守れよ!」

 

「家庭科でトップ四人! 合計触手七本!」

 

「なっ、七本!?」

 

 大きくオーバーして七本にまで増やせる。っていうか、お前らのこういう時の団結力怖いくらい頼もしいな。

 ただ実際、この結果を出すためにがんばったのは寺坂達だ。全員成績を上げつつ、きっちりと四人揃って満点を叩きだした。律がハッキングして取り出してきた過去のテストを見る限り、家庭科は製作教師の好みが色濃く出るようだったので、殺せんせーの授業しか受けていなかった彼らはだいぶ苦労しただろう。殺せんせーってごま油派で中華が多いしな。

 

「その努力をないがしろにするなんて……まさかしませんよね、殺せんせー?」

 

「ニュヤッ!? これは比企谷君の仕業ですか!! そんな才能は使う必要ありません!」

 

 なるほど、これも一つの才能か。なら、この才能は存分に使ってやらなくちゃでしょ。ターゲットを追い詰めることができる才能なら大歓迎だ。

 こうして俺達は、触手七本を破壊する権利と、夏期講習という名の沖縄離島リゾート旅行を手に入れたのだった。

 

「比企谷君! まだ話は……」

 

「ハハッ」

 

「誤魔化し方が雑っ!?」

 

 いやだって、この結果を覆すつもりありませんし。




ようやく基礎の一学期終了です。思いの外長かった。

ここら辺でやっと本シリーズ八幡の基盤の一部が形になってきたかなと。
椚ヶ丘中学校の授業は、特に八幡の苦手な数理が先行しているようですし、総武高校に合格できる地力を持っている八幡が殺せんせーの授業を受ければこれくらいは行けるかなと思っています。
菅谷とか残り三ヶ月くらいで高校三年生の授業まで終わらせるみたいですし、この程度軽い軽い。

というわけで今日はここまで。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

俺はあの教室の方が居心地がいい

「小町ー、ちょっと出かけてくるからなー」

 

 バッグを片手に持ち、最愛の妹に声をかけながら玄関に向かうと、さっきまで静かだった家の中が急に騒がしくなった。二階の方でガタガタでかい音が聞こえたと思ったら勢い良く扉の開かれる音が響き、バタバタととても少女が立てているとは思えない足音を纏いながら駆け下りてきたのは、俺の幻覚でなければマイスウィートシスター小町だ。

 

「お、お兄ちゃん出かけるって誰と!? デート!? デートですかな!?」

 

 たぶん幻覚ではないと思われるが我が妹よ、お前はそんな事を聞くためだけにそんなに取り乱した様子で登場したのかい? お兄ちゃんから勝手に奪ったTシャツから華奢な肩が片方出ているし、そもそもそんな足元お留守な状態だと――

 

「うわあっ!?」

 

「っ! ったく……」

 

 予想通り階段から足踏み外しやがった。小町のプリティフェイスが床とキスすることになっては大変だ。いや、キスというより床からの打撃攻撃の方が正しそう。

 いずれにしても小町の救出は急務である。落下地点に数歩踏み込んで、小町を抱きしめるように受け止めると同時に身体を倒して勢いを吸収。「わぷっ」と変な声が聞こえたが、たぶん問題ないだろう。

 

「まったく、そそっかしいな……」

 

「えへへ、ごめーん」

 

 うん、怪我もしてなさそうだ。数ヶ月前の俺だったら何もできずに小町が床に激突するのを眺めることしかできなかっただろう。暗殺のために磨いている技術って案外別のところでも使えるもんだったりするのな。

 で、目の前の妹殿は俺から離れると、まるでさっきの続きと言わんばかりに目をキラキラ輝かせだした。なんだその目、ラメでも塗ったの?

 

「それでそれで! 誰とデートですかな? 凛香さん? 有希子さん? 桃花さん? 陽菜乃さん?」

 

「や、なんでだよ」

 

 お前俺だぞ? プロぼっちのお兄ちゃんだぞ? どうやったら出掛ける=デートの方程式ができるんだよ。

 

「ちょっと椚ヶ丘の図書館行ってくるだけだ。誰かと出掛ける約束はしてない」

 

 むしろそんな予定まず作らないまである。作れないんじゃない、作らないんだ! 八幡は能動的ぼっちなんだぞ!

 本当の事を言っただけなのに、途端に小町の目からラメ加工が外れて一気に腐った。なにその目、超可愛くない……。可愛くないけど、それを言うと余計に小町の目が腐ってしまいそうなので兄は何も言わない。これが兄の優しさ。

 

「お兄ちゃん、今は夏休みです」

 

「そうだな」

 

 ついでに言うなら、大規模暗殺の時期でもある。今E組全員でA組から奪った離島での暗殺作戦の計画を練っているところだ。七本の触手を奪えるハンデと殺せんせーの苦手な水に囲まれた島。勝ち取ったこの大きなアドバンテージを確実に活かさなければ。

 しかし、当然ながらそんな事は一般人である妹には言えない。離島合宿に行くことは伝えているけどね。書類上は所属してないのに俺の分も金を出してくれるなんて、理事長マジ太っ腹。いや、本当にありがとうございます。

 

「その夏休みに一人で学校の図書館に行くなんて健康的じゃないよ!」

 

「十分健康的だと思うんだが……」

 

 学生っぽくて健康的じゃん? 空調の利いた部屋で文学に触れる。学生の本分たる勉強に自ら取り組むなんてまるで模範生のようじゃないか。

 

「むうぅ、せっかく椚ヶ丘に行ってお兄ちゃん変わったと思ったのに……」

 

 変わった、か。

 暗殺教室に加わって二ヶ月ほど、まだたった二ヶ月なのかと自分で驚愕してしまうほどいろんなことをして、いろんなことを学んだ。一人で馬鹿みたいに突っ走ったこともあれば、普通の学校なら絶対関わらないような奴とも関われた。もう信じないと思っていた存在をもう一度信じてみようとも思えたし、こんな俺にだって才能はあるということも教えてもらえた。

 周りからしたら確かに変わったと言えるかもしれないが、たぶんそう見えるのは俺が入ったあの場所の連中が皆してお節介だったってだけだ。俺自身すら見えていなかったものがあいつらのお節介で見えるようになった。ただそれだけ。

 だから、きっと俺は何も変わっていなくて――

 

「ばーか、俺は今の俺が大好きなんだよ」

 

 小町の頭をくしゃっと撫でてやると、少しくすぐったそうに首をすくめながら、しょうがないものを見るような目でにひっと笑いかけてきた。

 

「ま、お兄ちゃんが楽しそうだからいいけどねー。あ、今の小町的にポイント高い!」

 

「…………最後のがなければなぁ」

 

 浅くため息をついてから、改めて出掛ける旨を伝えて玄関を出る。

 楽しそう、確かに今はすこぶる楽しい。きっと十五年、もうすぐ十六年生きてきて一番楽しい時間を過ごしている。

 だからきっと――つい笑いが漏れてしまうのは仕方のないことなのだ。

 

 

     ***

 

 

 はっきり言って、椚ヶ丘学園の図書館は格が違う。規模は県営図書館に勝るとも劣らないし、大学とのコネクションで大学図書館の本も取り寄せることができる。さすがにライトノベルや漫画は置いていないが、それ以外ならほぼ世界中の書籍に目を通すことができるのだ。読書好きを自称する身としては、この図書館のために椚ヶ丘を受験してもよかったかなとかちょっと思ったりする。

 しかし……。

 

「「「「…………」」」」

 

 俺が隅の席で読書をしている中、聞こえてくるのはシャーペンがノートに黒鉛を擦る音と教科書や参考書をめくる音だけ。静かという点では図書館という空間に似つかわしいと言えるが、せっかく学校まで来ているのに蔵書に手を取る生徒はほとんどいない。見る限り、取っても参考書や新聞あたりが関の山だ。夏休みに入って二、三日に一度はここに来ているが、席はほぼ満席のくせに文学スペースに足を運んでいる生徒はほとんど見たことがなかった。

 まあ、俺には関係ないことだが、ちょっともったいないなと思ってしまう。せっかくの本たちも、読まれなければただの紙の束なのだし。

 

「……ふう」

 

 本を読み終わり、元の棚に戻すために立ち上がろうとして――目の前で立ち止まっている人影に気づいた。

 

「はじめまして、比企谷八幡さんですよね?」

 

 さわやかな笑みを浮かべている少年。その身のこなしと隙のない態度から何も知らなければ年上だと勘違いしてしまいそうだが、俺はこいつの事を知っていた。

 3-A、浅野学秀。

 全国模試一位で椚ヶ丘中学校三年のトップ学級であるA組をまとめ上げるこの学園の小覇王。五英傑と呼ばれているが、浅野以外の四人は得意分野でも浅野に勝てたことがない。それが俺に何の用かと思っていると、浅野は持っていた本を目の前の机に差し出してきた。

 

「少し比企谷さんとはお話したいと思っていたので……」

 

 タイトルを見ると今まで読んでいた本の続編だ。どうやら、立たせる気はないらしい。大人しく席に座りなおして差し出された本を開くと、向かいの席に浅野が座ってきた。

 

「それで、話って何だ?」

 

「いえ、どうして総武高校在籍の比企谷さんが中等部の、それもE組にいるのか疑問に思いまして。なぜ高等部ではないんですか?」

 

 理事長は俺が交流学生として高等部とE組を体験している扱いにしてくれたが、あくまでそれは共通認識上だ。少し調べれば俺が高等部の授業に参加していないことも分かるだろうし、浅野の疑問は当然と言える。

 それにしても……やはり親子なのか目がそっくりだ。切れ長の鋭い目はじっと俺に注がれていて、まるで何かを暴こうとしているようだった。

 こちらとしても隠し事をしている身だから、下手なことを言って国家機密がばれるのはまずい。本を閉じ、静かに神経を集中させて口を開いた。

 

「お前らはこの学園以外で勉強したことがないと思うから分からないかもしれないが、この学校の学力レベルはお世辞抜きで高い。県下有数の進学校とは言っても、総武高が全く太刀打ちできないレベルでな。それにエスカレーター方式の椚ヶ丘じゃ、授業の進み方も総武高より早いんだ。高校の授業に片足突っ込んでる中三の方が授業ペース的にもいいって判断だろ」

 

 実際、仮に交流学生が事実で高等部の方に行っていたら、事故ってなくても落ちこぼれていた自信がある。中学生であのテストなら高校ではどんなモンスターを用意しているのやら……想像しただけで震えてきそうだ。

 

「なるほど……。そういえば、E組の印象はどうですか? 期末試験では成績をかなり上げられたようですが……」

 

「ちょっと待て……なんで俺の期末成績知ってるんだ?」

 

 まさかこいつもハッキングしているんじゃ……と不安になったが、どうやら理事長から聞いたらしい。一応報告しておくって烏間さんが言っていたし、たぶんもう総武高校のデータベースはハッキング被害にあっていないだろう。

 それにしても、E組の印象か。A組にとってE組なんて取るに足らないものという認識だと思っていたが、やはり成績上位に食い込まれて興味が湧いたのだろうか。

 

「E組の印象なぁ。まあ、いい奴らだと思うぞ。生徒も先生も」

 

「先生……烏間先生のことですか?」

 

 ああ、そういえば書類上は烏間さんが担任なんだっけ。いや、当然と言えば当然だが。

 

「少人数の担当って利点だろうな。生徒一人一人の得手不得手をちゃんと把握して、それに合わせた勉強を教えてくれる。いい先生だ」

 

 殺せんせーも烏間さんも、もちろんイリーナ先生もな。

 

「絶賛……ですね」

 

「え、だめなのか?」

 

 ひょっとして、この学校ではE組の教師も迫害にあっているのだろうか。いじめられる烏間さんとかまったく想像できないんだが……。

 

「いや、だめというわけではないですが、学習環境はあの通り劣悪ですから、てっきり本校舎の方で授業を受けたいと思っているかと思いまして」

 

「学習環境か……」

 

 エアコンもないボロい木造校舎だし、そもそも校舎まで山を登らなくてはいけない点は確かに劣悪と言えるかもしれない。体育も学生が受けるにはハードなものだし、そもそも勉強と暗殺を両立しなくてはならないわけだし。

 けど……。そう思いながらもう一度館内を見渡してみる。

 夏休みだというのに、誰も彼もが勉強しかしていなくて、さらにその顔には全く余裕が見えない。中学生にしてそんな生活は――

 

「俺には合わないかな」

 

「え……?」

 

「浅野は驚くかもしれないけど、落ちこぼれって周りから蔑まされていようが、俺にとってはあの山の上の校舎の方が居心地がいいんだ」

 

 学生の本分は勉強だ。しかし、それがすべてではない。運動に勉強に遊びに、そして暗殺に全力なあのクラスの方が、俺には充実しているように感じた。

 

「……わかりませんね。あなたもE組も、なぜ敗者の座に居座ろうとするんだ」

 

 確かに、クラスの大半が規定ラインの学年順位五十位以上に入ったというのに誰も本校舎への復帰をしていない、敗者のままであり続ける現状はこいつには理解できない状況なのだろう。

 敗者。あの理事長が作ったこの学校の生徒は皆、勝者になろうと必死になっている。そして、勝者であることを誇示するために敗者を貶める。競争社会に向かう生徒達に対して、その教育はある意味社会勉強の一つだ。

 ただ、今年の敗者はただの敗者じゃない。

 

「今のE組が目指してるゴールと、本校舎の生徒が目指してるゴールが違うだけだろ。ゴールが違えば勝者も敗者もない」

 

 時計を見るといい時間帯だ。これから帰ってトレーニングをすればちょうど夕食時だろう。本にしおりを挟んで閉じ、カウンターで借りるために立ち上がる。何も返答がない浅野に一言告げようとして――

 

「……そういえば、別に関係のない話なんだが」

 

 ふと思ったことを言ってみることにした。

 

「理事長のマネして仮面を被るんなら、もっとうまく被った方がいいんじゃないか? 初対面でばれたら警戒されるだろ」

 

「ぇ……?」

 

 まあ、天才とは言え中学生をあの化物理事長と比べる方が無茶だと思うのだが。事前にパーソナルデータを知っていたのもあるだろうが、俺が浅野を若干警戒したのはその仮面もあったからだ。あの裏には何があるんでしょうね。怖い怖い。

 口を半開きの少し間抜けな表情をしている浅野がおかしくて、小さく笑いを漏らしながら貸し出し処理をして図書館を出た。

 五パーセントの敗者の上に九十五パーセントの勝者を作る教育。それも一つの教育の形だろう。実績がものを言う私立学校ならその非情さも仕方がないことかもしれない。

 ただ、俺にはあの理事長が、そのためだけに再び前に進もうとする奴らの道を潰す人には見えないのだ。

 

「理事長が目指した教育って……本当にこの形なのか……?」

 

 他人の考えなんて、他人が考えても分かるはずもない。軽く頭を振って校門をくぐると、まるで狙いすましたかのようにスマホが震えた。いや、確実に狙いすましたんだろうが。

 

「八幡さん! おすすめされた本読み終わりました!」

 

 ポケットから取り出した画面にはわざわざ本を持った律のグラフィックが映し出されている。お前実際は電子データで読んでるだろ、なんてツッコミはさすがに無粋だろうか。

 

「それは俺のお気に入りだからな。感想ならいくらでも受け付けるぞ」

 

 渚達とハワイに映画を見に行って以来、律はよく本や映画などの感想を言ってくるようになった。最初は文庫本を数分で“読んで”、感想というよりはまとめみたいな内容をしゃべっていただけだったが、最近では時間をかけて読むようになったし、感想もだいぶ人間に近づいてきた気がする。

 

「やっぱりこの主人公と老人の邂逅シーンが……」

 

 楽しそうに話す律を見ていると、最近本当に相手がAIであることを忘れてしまいそうになる。それと同時に、あんなに楽しそうな奴らが敗者であるはずがないとも思うのだ。

 だから、あいつらのゴールのためにも俺も少しは頑張らないといけないだろう。

 今日のジョギングは少し長めにしようと考えながら、律の声に耳を傾けるのだった。

 

 

     ***

 

 

「ふむ、ところでこの精神攻撃というのはなんだ?」

 

 イリーナ先生の師匠である殺し屋屋、ロヴロさんが作戦資料に目を通しながら渚達と話している。離島での大規模暗殺に向けてプロの視点からアドバイスをくれるらしい。というかイリーナ先生、ロヴロさんに頭上がらなさすぎでしょ……。さっきまでの威勢はどうしたのん?

 精神状態に左右される触手を三村と岡島が作成するビデオを始めとしたネタで揺さぶり、そのタイミングで約束の触手七本を破壊。すかさず全員で“殺せんせーの周囲を囲むように銃撃”する。殺せんせーは自分へ向けられる殺意には敏感だが、逆に言うと自分へ直接来ない攻撃には反応が遅れる。そして、自分に攻撃が来ないという暗殺では異常な状況がさらに殺せんせーの、触手の精神状態をブレさせるはずだ。

 そして、その攻撃に紛れて本命、E組でトップの射撃スキルを持つ速水と千葉が殺せんせーを仕留める。それが今回の作戦だった。

 

「人生の大半を暗殺に費やした者として、この作戦に合格点を出そう。彼らなら十分に可能性がある」

 

 ただ、ロヴロさんに指導してもらうの……怖くね? だってあの人見た目からして怖いもん。

 いやまあ、あいつらと暗殺を成功させるためにも努力はしなくてはいけないのだが、ここは別に一人で練習してても問題ないよね? とりあえずステルス八幡を発動させて――――っ!?

 

「ほう、なかなかの隠密だ。独学でそのレベルとは恐れ入るな」

 

 なんか褒められてるみたいだけど、恐れ入られているその隠密があなたによって看破されてるんですが? 目の前にぬるりと現れたロヴロさんに思わず身構えそうになってしまう。

 

「まあ、影が薄くて認識されないこともよくあったんで……」

 

 無意識に溜めていた息を吐いて肩をすくめると、ロヴロさんはククッと低く肩を震わせた。そして射撃練習や作戦を練っているE組生徒達を見渡して、最後に烏間さんに視線を移した。

 

「カラスマは優秀な教官だ。このまま三月まで君たちを訓練したら、他の生徒も皆君のような隠密スキルを身につけられるだろう」

 

 なん……だと!? 俺のアイデンティティがなくなってしまうじゃないか! などとどうでもいい感想を抱いている俺に、しかしとロヴロさんは言葉を続けてきた。

 

「それはあくまで“ある程度”のものだ。才能がなくても可能なレベルまでしか普通の人間の隠密スキルというものは育たない」

 

「才能……ですか?」

 

 確かに、訓練をやっていても木村の機動力や速水、千葉の射撃スキルなど練習だけでは、努力だけではどうにもならないレベルの差を感じることはある。

 というか、それ以前に絶対努力じゃどうしようもない奴が近くにいたな。

 皆に交ざって射撃訓練に勤しんでいる小柄な少年。いかにも草食系男子然とした大人しいそいつがあの時見せた動きを、俺は全くマネできる自信がなかった。

 努力で天才の域に近づくことはできると殺せんせー達は言ってくれたが、同時に努力だけではどうしようもない才能の差というものも俺は理解していたのだ。

 

「君は、“消える”つもりはないか?」

 

 最初、何を言われたのか分からなかった。暗殺者特有の鋭い眼光で俺の目を見据えた殺し屋屋は、ニヒルに口角を釣り上げながら肩に手を乗せてきた。

 

「君はここの誰よりも、私よりも隠密、ステルスの才能がある。君が本気で学べば、恐らく真の意味でのステルスを会得できるだろう。まさに“消える”ことができるはずだ」

 

 それこそ魔法のように。そう続けるロヴロさんの目は、まるでスターに向けるような羨望の光に染まっていて、この教室で真正面から褒められることを覚えてしまった俺の心はぐらりと揺れる。

 

「……けど、それを会得しても殺せんせーの暗殺には使えないでしょ?」

 

 今エベレストで避暑中の超生物は異常に鼻がいい。気配を完璧に消したとしても匂いまでは消せないのだから、あいつの暗殺にはそんなスキル不要だろう。

 

「確かにあのターゲットを殺すためには不要なスキルかもしれない。だが人生とは分からないものだ。案外このスキルを習得していてよかったと思える場面がくるかもしれないぞ?」

 

 暗殺技術が役立つってどんな状況だよ、と思ったが、そういえばついこの間訓練のおかげで小町を怪我の危機から救ったことを思い出した。なるほど、確かにどんなスキルも使える場面が絶対にないとは言い切れない。

 なら、せっかくプロが認めてくれた才能だ。伸ばしてみるのも悪くないだろう。

 

「それじゃあ、教えてください。消える方法ってやつを」

 

「私の教鞭はカラスマほど優しくはない。しっかりついてきたまえ」

 

 ギラリと現役を引退しているとはとても思えない視線が鋭利な刃物のように俺を貫いた瞬間、目の前からその姿が――消えた。

 

「消える、と一口に言っても、方法は一つではない。ミスディレクション、手品などで使われる視線誘導法や周囲に気配を溶け込ませる方法、気配を完全になくしてしまう方法と様々だ」

 

「っ……!」

 

 後ろから聞こえてきた、さっきまで目の前で聞いていたのと同じ声はどこか悪戯をする時の赤羽のように弾んでいて、とても厳つい老体から出ているとは思えないほど生き生きとしていた。

 

「君はどれだけ物にすることができるかな?」

 

「……やるからには全部、盗ませてもらいますよ」

 

 まるで挑戦者を見下ろすチャンピオンのような彼に、思わず俺の口角も釣り上がるのを抑えられなかった。




浅野君と離島暗殺訓練回でした。
八幡自身が書類上は椚ヶ丘の生徒ではないので、普通にやっていたら浅野君と絡めない! ということでちょっと無理やりな邂逅になってしまったところは否めませんが……。

感想で幾つか頂いていたので補足を。
本シリーズでは八幡のいわゆるステルスヒッキー(本編中ではステルス八幡)は八幡の才能という解釈で書いています。別に原作八幡は特殊能力を持ってるなんて解釈はしていないのでその点は御理解いただけると幸いです。E組自体一学期時点でナンバ歩きの訓練をしているので、それに伴って八幡のステルスにも磨きがかかっている感じです。
というわけで、ここで八幡君にワンランク成長してもらうことにしました。17巻の時点でE組の隠密もかなりのレベルになるので、プロの暗殺者から指導してもらえる今が八幡のアイデンティティを確固たるものにするいい機会かと。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

離島での暗殺は――

 羽田から飛行機で那覇まで向かった俺達は、近くの港で待っていた貸し切りのフェリーで目的の離島、普久間島へ向かっている。フェリーというのは大体二十ノット、時速四十キロ程度のものだとなにかで見た記憶があるが、直に流れるような風を肌で感じるせいか、体感ではもっと早く感じた。

 デッキの縁にもたれかかり、仄かに潮気を帯びた風が頬を凪ぐ感触にじっくりと浸る。快晴の青空から降り注ぐ日差しが目に眩しいが、潮風のおかげで思ったほど暑くない。

 

「気持ちいいね、比企谷君」

 

「そうだな。この風はインドア派の俺にとっても悪くない」

 

 風にポニーテールをたなびかせながら、矢田が隣で目を細めている。船に乗ったことがほぼない俺としても新鮮さも相まって存外に気持ちよく感じて、これだけで来たが意味あったなと思わないでもなかった。

 ただまあ、一つ不満点を上げるとすれば――

 

「にゅやァ……。船はやばい、マジでやばい。先生頭の中身が全部出ちゃいそうです……」

 

 こんな気持ちいい風と水平線まで伸びる広い景色をぶち壊しで船酔いしている超生物が視界にちらつくことだろうか。酔うんなら飛んで行けよ。その方がばれる危険も少ないんだし。

 

「殺せんせーの頭の中身って何が詰まってんだ? 粘液?」

 

「普通に脳とかじゃないの?」

 

 いやまあ、確かにあれだけ頭がいいんだし脳みそなんだろうけど、あんな頭ぐにゃぐにゃさせて大丈夫なのだろうか。脳みそとかも触手みたいに丈夫なのか?

 また一つ触手生物の謎が増えて首を捻っていると、殺せんせーと戯れていた倉橋がこじゃれた麦わら帽子を手で押さえながらとてとてと駆けよってきた。

 というか、いくら夏だからって矢田も倉橋も露出高すぎじゃありません? 二人だけでなく女子の大半がノースリーブを着ていて、白い肩とか色々見えるせいで八幡目のやり場に困るんだけど。

 

「はっちゃんがインドア派ってなんか想像できなーい。訓練も一番最後までやってるのに」

 

「訓練をやってるからアウトドア派っていうのはおかしいだろ。俺は基本、家で本読んだりゲームするのが好きなの」

 

 むしろ家から出たくないまである。

 というか、その格好であんまり近づかれると精神的負担がマッハなんだが……。

 

「……おっ、見えてきたんじゃないか?」

 

 精神安定も兼ねて視線を進行方向に向けると、水平線を遮るように一つの島が見えてきた。それほど大きくない島。それでも皆のテンションを上げるには十分なものだ。

 関東から六時間。そこは殺せんせーを殺す島なのだから。

 

 

 

「ようこそ普久間島リゾートホテルへ。ウェルカムサービスのトロピカルドリンクをどうぞ」

 

 ホテルにチェックインするとウェイターからドリンクを差し出された。さすがリゾートホテル、俺の知っているホテルとサービスが違う。小町に話したら羨ましがること間違いなしだな。

 ホテルから直接ビーチに向かえて、様々なレジャーも用意されているらしい。名目上は特別夏期講習となっているが、ここに来て勉強する奴なんていないだろ。ここで勉強するなら普通に家で勉強した方が絶対捗るし。

 そもそも暗殺のためにここに来たE組がこんな環境で勉強をするはずもない。暗殺は夜なのだからと昼間は遊ぶことで満場一致になった。

 

「修学旅行ん時みたく班別行動で遊ぼうぜ!」

 

 ふむ……ふむ?

 修学旅行の班ってなにかな? 八幡その時いなかったから分かんない。これはあれか、久しぶりにぼっち的サムシングが来るやつですか?

 危うく過去のトラウマが想起しそうになったが、それは杞憂だった。

 

「比企谷君、一緒に行かない?」

 

 トロピカルドリンクを飲み終わって席を立つと、不破が声をかけてきた。どうやら班へのお誘いらしい。どこの班でも入れれば問題ないのでその申し出はありがたいのだが……なんか一緒に来た速水が不機嫌じゃありません? 俺が入るのが嫌なのだろうか。お前あんまり発言するタイプじゃないもんな。きっと言い出せないんだな。

 

「速水が嫌そうだから遠慮しようかな……」

 

「嫌じゃない!」

 

 うおっ、びっくりした。嫌がる奴のところに入るのも気が引けるので丁重にお断りしようとしたら、食い気味に速水が否定してきた。

 俺と不破が驚きのあまり固まっていると、顔をぶわっと紅く染めた速水は一転そっぽを向きながらぽしょぽしょと続けてくる。

 

「……べ、別にあんたと一緒にいるのは嫌じゃないし、入りたいなら……その……入ればいいじゃない……」

 

「「…………あー」」

 

 なるほど、ツンデレですね分かります。こいつ口下手な上に妙に捻くれてるから、ある意味ツンデレになるのは当然なのかもしれん。ん? お前が言うなって? ほっとけ。

 

「比企谷君、私なんで世の中にツンデレキャラが溢れているのか、分かった気がする」

 

「同感だ。これは流行る」

 

「あんたら、……撃たれたいの?」

 

 ハハハ、撃たれたいわけないじゃないか速水さん。俺達は今世界の心理の一つを共有しただけですよ。

 だからその対先生エアガンを仕舞ってください。死にはしなくても当たれば十分痛いんで。

 

 

 

 遊ぶと言っても俺達の場合はただ遊ぶのではない。夜には本命の暗殺が待っているし、場所は慣れていない離島。いつも以上に綿密な調査、準備が必要になる。それも、できればターゲットに気づかれない形で。

 故に班単位で行動して、一つの班が殺せんせーと遊んで注意を引きつけている間に他の班が準備をする形が採用された。そして二班のメインの仕事は狙撃地点選びだ。三村と岡島は精神攻撃用の動画制作もあるが、今はまだ俺達と一緒に行動している。

 

「三班が殺せんせーを引きつけてる間に狙撃地点選ばないとな」

 

「サクッと決めちゃいますか」

 

 というか、これ俺達は必要ないのではないだろうか。なんか仕事人二人が淡々と狙撃地点を選んでるし、狙撃に関しちゃ二人以上に精通している生徒もいない。二人に任せるのが一番だろう。

 というわけで、実質他の班員は雑談するくらいしかやることがなかった。

 

「そういえば、この班って修学旅行のって聞いたが、修学旅行はどこ行ったんだ?」

 

「京都っすよ。プロの殺し屋に協力してもらってそこでも暗殺を狙ってみたりしたんす」

 

 京都か。そういえば総武高校の修学旅行も京都だった気がする。もうちょっと参加するのが早かったら二年連続京都旅行の可能性もあったのか。いや、さすがに他生徒も参加する旅行は理事長からのOKが出ないと思うけど。

 

「あー、あの時旅館で気になる女子投票とかやったなー。殺せんせーにメモられたせいで最終的に旅館内での暗殺始まったけど」

 

「なんでそんなもんメモ取るんだよあの先生……」

 

 不破と中村が言うにはイリーナ先生のコイバナにも紛れ込んでいたらしい。あのエロダコ下世話すぎない? ちょっと今後の付き合い方を考え直さなくてはならないかもしれない。

 

「気になる女子って言えば、比企谷君はどうなんだよ」

 

「は……?」

 

「あ、それ私も気になるー。ほれほれ、言ってみ?」

 

 ……なんか、殺せんせーだけ悪く言うのもどうかと思えてきた。岡島も中村も十分下世話だわ。他の奴らも口に出さないだけで聞き耳立ててるし、あの先生にしてこの生徒ありと言ったところだろうか。

 しかし、気になる女子……か……。

 …………。

 ………………。

 

「…………ノーコメントで」

 

「あ、ずりぃ!」

 

「それじゃあつまんないじゃん」

 

 ずるくもないしつまらなくもない。こんな質問に堂々と答える奴の方が少ないのが普通だろ。

 

「決まった。そろそろ俺らの班の番だし、戻ろう」

 

「お、おう。よし戻ろうすぐ戻ろう。遅れたらターゲットに怪しまれるぞ!」

 

「? どうしたの比企谷……?」

 

 頭上にクエスチョンマークを浮かべながら首をかしげる二人をよそに、機を得たりと先行してビーチに戻る。

 他の班も着々と準備を進めているし、元より今日のために皆努力を重ねてきた。確かに複雑で繊細な作戦だが絶対に成功する、いやさせる。

 

 

 

 そう思っていたのに――

 

『あんたの生徒たちは人工的に作りだしたウイルスを飲んだ。一度感染したら最後、全身の細胞がグズグズになって死に至る』

 

 完全防御形態というここに来ての隠し玉での暗殺失敗。それだけでも十分ショックだというのに、今烏間さんのスマホから聞こえてくる声の主が仕込んだというウイルスによって、生徒の半分近くが高熱を出して倒れてしまった。

 犯人の要求は山頂のホテルまで“動ける中で一番身長の低い男女”に完全防御形態の殺せんせーを持ってこさせること。一番身長の低い男女、つまり渚と茅野だ。

 

『礼を言うよ。よくぞそいつを行動不能にまで追いやってくれた。天は我々の味方のようだ』

 

 下卑た笑いを漏らしながら切られたスマホを……ただじっと見つめる。

 第三者、別の暗殺者の介入。想定していなかったわけでは決してない。しかし、皆が努力して、失敗したとは言え二十四時間は自由に身体を動かすことができない状態にまで追い詰めて……その結果が交渉に乗らないと半分が死ぬ……?

 そんなの、あんまりじゃないか。そんなこと……そんなこと……。

 ――許せるはずがない。

 

「待て!」

 

 ギッと奥歯を噛みしめて息を殺し、広間を出ようとすると、肩に手を置かれた。伸びてきた腕をたどると、案の定烏間さんだ。

 

「落ちつけ比企谷君」

 

「これが落ち着いていられますか? 仲間の命を弄ばれて……キレるなって方が無理な話だ」

 

 確かに今倒れているあいつらの命を優先するのなら、交渉に応じるのは一番の選択かもしれない。しかし、そもそもこんなことをする相手が素直に交渉するとは思えないのだ。しかも交渉役は渚と茅野、単純戦闘においてはE組の中でも間違いなく下位に入る二人だ。二人が人質になってさらに要求が増えれば最悪の展開になってしまう。

 それならばいっそ……。

 

「…………怒っているのが、君だけだと思うな」

 

「ぁ……」

 

 俺の肩を抑えているのとは反対側の拳が固く握り込まれ、あまつさえ小さく震えているのが目に入って、何も言えなくなってしまった。

 そうだ。こんなことをされて怒らないはずがない。しかし、感情に任せる場面では決してないのだ。こういう時こそ冷静に対応しなくては、取り返しのつかない失敗をしてしまう。

 

「それに感情を露わにしては“消える”こともできないだろう?」

 

「……そう、ですね」

 

 ロヴロさんに言われたことだが、俺のステルスは普段感情をあまり表に出さないからこその完成度だと言う。今の感情が乱れた状態ではまともに“消える”のは無理だろう。まだ完成しているわけでもないのだから。

 大きく深呼吸を繰り返して、高ぶる感情を必死に抑え込む。大丈夫、期限には一時間ある。なにかこの状況を突破する方法が絶対にあるはずだ。落ちついて考えろ。

 相手に主導権を握られている以上、どこで監視されているか分からない現状で外に連絡するのは愚策。奴の言葉通り人工的なウイルスならどこの病院でも対応できないはずだ。交渉云々以前に山頂のホテル、普久間殿上ホテルに行く以外の選択肢はない。

 しかもこの殿上ホテルというのが厄介だ。国内外からマフィアやそれに関係した財界人が違法な取引やドラッグパーティをやっていると噂される場所。こちらの味方をしてくれる可能性は万に一つもない。

 ならばどうする。「我々」と言っていた点から相手は複数、しかもプロの殺し屋の可能性が高い。どうするどうするどうすればいい……。

 ああだめだ。やっぱりこの状況で落ちついてなんていられない。どんどん思考が混濁していく。考えれば考えるほどドロドロと溶けて形を失ってしまう。

 

「比企谷君!」

 

 それでもなんとか考えを絞りだそうとドロドロの思考の中をかき分けようとして――パンッと目の前ではじけた音に意識を無理やり引き上げられた。顔を上げると、さっきの音はどうやら不破が手を叩いた音だったらしい。相当強く叩いたのか、痛そうに両手をフルフルと振っている。

 

「なにやってんだよ……」

 

「いたた……。ほら、比企谷君から借りたラノベでこういうシーンあったからさ」

 

 ああ、そういえばそんなシーンもあったな。パニックになった女の子を目の前で手を叩いて驚かせることで逆に落ち着かせるシーン。

 

「落ちついた?」

 

「ああ……」

 

 案外馬鹿に出来ない効果だ。さっきまでごちゃごちゃしていた思考が霧散して、不思議と落ちついていた。肩も動かして大きく息を吐き、椅子に深く座りこむ。

 

「比企谷君は一人で考えすぎなんだよ。せっかくここにはE組が全員集合してるんだから、皆で考えようよ!」

 

「……そうだな」

 

 確かに不破の言うとおりだ。ぼっち生活が長かったせいでその考えに全く思い至らなかった。差し出された水を一気に飲み干して、思考のゴミを流してリセットする。

 

「しかし、実際のところどうするべきか……」

 

「「「「…………」」」」

 

 呟いたそれに返ってくる声はない。十人の命が握られているのだから無理もない。まさに八方塞がりだ。

 

「ヌルフフフ、どうすればいいかは比企谷君が最初に半分答えを出したじゃないですか」

 

「半分……?」

 

 しかし、重い空気をすべて払いのけるようにいつものように超生物が笑う。半分とはどういうことだろうか。そもそも俺が最初に出した作戦は――

 盗聴の可能性を考えて外に出ると、ポリ袋に入れられた殺せんせーが透明な球体の中から声を張り上げた。

 

「敵の意のままになりたくないのなら、手段は一つ」

 

 殺せんせーの声に合わせるように全員のスマホが震える。届いた律からのメールを開くと、目的のホテルの見取り図と思われるものが添付されていた。

 

「患者十人と看病に残る人を残して、動ける全員でホテルに侵入。最上階の敵へ奇襲を仕掛け、治療薬を奪い取るのです!!」

 

「な、危険すぎる!」

 

 烏間さんの反論はもっともだ。明らかにプロの相手、しかも敵の規模も明確には分かっていない。しかもその未知の敵に気付かれないように最上階まで侵入する高難易度の隠密ミッションだ。

 だが……。

 

「確かに危険です。大人しく私を渡した方が賢明かもしれない。しかし、君たちはただの生徒ではない。一人一人が高度な訓練を受けた特殊部隊だ」

 

 さあ、どうしますか?

 そう問いかける担任に、皆の答えは決まっていた。

 

「「「「もちろん、こんなことをした落し前までキッチリつけさせる!」」」」

 

 今の俺は一人じゃない。一人では無理なことでも、こいつらがいれば無理じゃなくなる。……こんな簡単なことにも気付けないんじゃまだまだぼっち脱却は無理そうだな。

 

「さて、生徒たちは答えを出しましたが。烏間先生、どうしますか?」

 

 確かに俺達は短期間とはいえ特殊な訓練を受けてきた。しかし未知との敵、未知の環境での戦闘の訓練は受けていない。この作戦を実行するには指揮官の存在は必須要素だった。

 その俺達の指揮官は深く瞑目する。そして、いつものようにまっすぐ迷いのない目で俺達全員を見渡した。

 

「目標、山頂ホテル最上階! 隠密潜入から奇襲までの連続ミッション! ハンドサイン、連携については訓練のものをそのまま使用する! いつもと違うのはターゲットのみだ!」

 

 ――三分でマップを叩きこめ!

 

「「「「おう!!」」」」

 

 どこの誰だか知らないが、俺らを敵に回したことを後悔させて、絶対に薬を奪ってやる!




離島暗殺編が始まりました。

原作に沿ってじっくり書いたらたぶんこれだけで5,6話くらい書けそうですが、あんまりん長くなっても間延びしそうと言うのと、原作とあんまり変わらないところを書いても原作読んでる人達は面白くないだろうなと言うことでちょこちょこカットしています。
ほとんどいないと思うけど、原作やアニメを見ていない人達はこの機会にチェックだ!(露骨なステマ、むしろダイマ

ということで今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

あいつらの隣には俺たちがいる

「渚……」

 

「ひ、比企谷君……。なに……かな?」

 

 敵が根城にしている普久間殿上ホテル裏の崖からクライミングと律のハッキングで通用口から潜り込んだ俺達は現在、ホテル六階のテラスラウンジまで来ていた。

 途中、あいつらに毒を盛った張本人であろう毒使い“スモッグ”と超人的な握力を武器にしている“グリップ”という二人の殺し屋と対峙することになったが、なんとか切り抜けている。

 いや、マジで“なんとか”なのだが。スモッグの麻酔ガスで烏間さんは磯貝に支えられて歩くのがやっとだし、その状態で遭遇した“ぬ”の人も赤羽がいなければ突破どころか奴らの言うボスに連絡をされて、今頃治療薬を爆破されていたかもしれない。

 ひどい綱渡りだ。しかし、ここまできた以上は戻るなんて選択肢は存在しない。前に進むしかないのだ。

 それに、今は自分で身動きすら取れない担任は言った。今まで教室で学んできたことをしっかりやれば、俺達がこのミッションをクリアできない道理はない、と。あの超生物が太鼓判を押してくれたんだ。そんなの……応えるしかないだろう。

 そう、たとえ――

 

「大丈夫だ。違和感がないのがむしろ違和感なくらい似合ってるぞ」

 

「そういうフォローはいらないよ!?」

 

 渚が女装をすることになったとしても!

 この六階、ガラス張りのラウンジとプールのあるテラスで構成されていて、パーティの最中なのかDJが鳴らす大音量の音楽とガヤガヤとうるさい笑い声や奇声で満ちていた。

 そしてラウンジの入口からでも鼻をついてくるアルコールとタバコ、そして嗅いだことのない匂い。

 

「恐らく違法薬物、ドラッグの類でしょうねぇ……」

 

 入り口近くからのぞいてみた限り、俺たちと大差ない子供もいるが……明らかに堅気ではなさそうな連中も見える。この中に顔も知らない暗殺者がいる可能性を考えると危険すぎる。

 しかし、七階に続く階段は店の奥だ。七階以上は所謂VIPルームというやつらしく、階段前には警備もいる。観察して見た感じだと女子へのチェックは甘いが、さすがに女子だけでこの中に向かわせるわけには……。

 

「あ、じゃあ渚君を女装させればいいじゃん!」

 

 どうしたものかと頭を悩ませている中で赤羽が出した提案。確かに華奢な渚ならちょっと女物の服を着せるだけで紛れ込めるだろう。どうしても男手は欲しいところだから特に反対意見も出ることはなく。

 ついでに渚の反対意見は完全に黙殺され――

 

「じゃあ、私たちと渚で階段近くの勝手口開けてくるから、男子は待機してて」

 

 どっかから速水が調達してきた服を着せて、片岡を中心とした女子チームwith渚は店の中に入っていった。ああ、マジで服を変えただけなのにあいつ女にしか見えないな。やっぱり俺が一月もあいつの性別を勘違いしたのは俺のせいではなかったようだ。

 

「……なあ、赤羽」

 

「ん? なあに、比企谷君?」

 

 確かにこの作戦、男手はあったほうがいい。そして渚は男子の中で最も違和感なく女装できる。一見この作戦には渚が適任のように見える。

 しかし……。

 

「この作戦……渚の投入必要か?」

 

 俺の質問に赤羽は目を楽しそうに細め頭の後ろで両の手を組むとわざとらしく「んー?」と鼻から声を漏らした。こいつ……。

 

「やっぱり面白半分かよ……」

 

「えっ、男手のためじゃないのか? 女性に化けた暗殺者だって歴史上には何人もいるし」

 

 いやね磯貝君、確かに赤羽が言葉巧みに誘導したから俺もさっきまで気がつかなかったが、そもそもここで必要なのは女性陣のボディガードなわけで、男子の中でも最下位レベルのパワーの持ち主である渚よりも、片岡や岡野のほうが適任まである。男子が潜入、という固定概念にとらわれてしまって、赤羽の魂胆を見逃していたのだ。

 

「せっかく渚君を女装させられるんだから、しないと損じゃん」

 

 ケケケと悪役みたいに笑うE組一の悪戯小僧に思わず額を押さえる。ぬのおっさんにも鼻にワサビやカラシ詰めてたし、やっぱりこいつとは敵対したくねえな。

 

「殺せんせーもせっかくの夏休みだって言ってたからね。今できそうなことは積極的にやって楽しまなくちゃ」

 

 でも、と赤羽は壁に背中を預けながら笑いを引っ込める。あごを覗かせて視線は天井に、その先にあるであろう最上階に向けていた。

 

「もちろんやるべきことは忘れてないよ」

 

「……当たり前だ」

 

 潜入を開始してそろそろ三十分。殺せんせーや烏間さんがいることもあって生徒たちの表情にも少しずつ余裕が出てきている。しかし、もちろん誰もがこれが重要なミッションであることを忘れていない。むしろ自然に振る舞えるようになった分、潜入ミッションに適応出来ていると言える。

 

「あ、渚が男に連れて行かれた」

 

「渚……」

 

「女子よりも渚かよ……」

 

 いや、ただ……まじで渚が行く意味なかったな……。

 有名球団のキャップを被った少年は渚をテーブルに連れて行くと、慣れた手つきでウェイターから酒を受け取ってきた。こういう場所には慣れているのだろう。酒にも、そしてドラッグにも。

 

「麻薬ねえ……幻覚とか見えたりするんだろ? なんであんなのやろうと思うんだろうな」

 

「ダイエットに効果あるとかでだまされたり、後はかっこいいからとか……だっけか」

 

 木村と菅谷が終業式前に授業でやった麻薬の授業を思い返している。確かに麻薬を使う主な理由はそこら辺だ。

 そしてもうひとつ――現実からの逃避のため。

 

「ん? どうしたんだ?」

 

 渚が少年から奪った明らかにタバコではない筒状の物体に視線を向けていると、千葉が声をかけてきた。こいつも無口かと思えば、案外しゃべるんだよな。

 木村たちが言っているように、俺もドラッグを使う人間の気持ちはわからない。気分を高揚させるには代償が大きすぎる。

 けれど……もし、もしもあの時この教室に来なかったら、今も夜な夜な当てもなく街を徘徊するような生活をしていたら。

 その時に麻薬なんかに出会っていたら、手を出していなかった自信は……ない。

 

「あー…………」

 

 そう考えるとあの日殺せんせーを見つけたのはラッキーだったのかもしれない。そしてこいつらを仲間だと思えるようになったのも。

 ただ、それを口にする気になんてなるわけもなく――

 

「……なんでもねえよ」

 

 後ろの壁に全体重を預けつつ、ガシガシと頭を掻くだけにとどめた。

 

「お、通れたっぽいぞ」

 

 やがて浅く息をして待っていると、女子たちが通用口まで到着したらしい。反動をつけて壁から背中を離し、赤羽たちの後に続いた。

 さて、いよいよ後半戦だ。

 

 

     ***

 

 

 七階で警備の人間から寺坂の所持していたスタンガンを使って拳銃を奪った俺たちは、そのまま八階まで来ていた。人っ子一人いない通路を進むと、開けた空間に出た。

 円形の舞台にはでかいスピーカーにいくつもの照明が置かれていて、その周りには半円状に備え付けの椅子がいくつも並んでいる。天井には吊り照明もあり、何の用途で使われるのかは明白だった。

 

「音楽ホール……?」

 

「そのようですねぇ。さすがVIPと言ったところでしょうか」

 

 八階はこのホールだけのようで、反対側の入り口を出れば九階に上がれるようだ。残り時間もそこまで余裕がない。急がないと到着する前に治療薬を爆破されかねない。皆も逸る気持ちは同じようで、足早に抜けようとして――

 

「皆さん! 上の階から誰か来ます!」

 

「「「「っ!?」」」」

 

 監視カメラの一部をハッキングできたらしい律の声に全員の動きが止まり、否が応でも緊張が走る。

 八階に上がる階段にいた二人組は恐らく敵の一味と思われる。トラブルが怖くてすれ違う相手とほとんど顔を合わさない連中が泊まっているホテルだ。まだ上の階層に客がいるのにそこまで露骨な警備を敷くのはそれこそトラブルを引き起こしかねない。ということは、上には敵グループしかいないと考えるのが妥当なわけで、今ここに向かってきている人間も――恐らくは敵だ。暗殺者の可能性も高い。

 

「……ここで迎撃態勢を取りましょう。鉢合わせするよりもずっと作戦の幅が広がります」

 

「よし、全員椅子の後ろに散開するんだ」

 

 殺せんせーと烏間さんの指示に従って、観覧席の後ろにそれぞれ隠れる。息を殺して入り口の方を確認していると、一人の男が入ってきた。さすがにここまでくるとおじさんぬことグリップと同じように雰囲気でわかる。こいつは……プロだ。

 そいつはなぜかおもむろに取り出した銃の砲身を咥える。そして舞台の中央に立つと、ぐるりと俺たちの隠れている方を見渡した。これはまさか……バレてる……?

 

「十四、十五……いや、十六か? 呼吸も若い。ほとんどが十代半ば……か」

 

「「「「!?」」」」

 

 バレてるなんてレベルじゃねえ! 人数まで完璧に把握されている!

 目の前の暗殺者は驚いたなと呟くと銃を口から抜き取り、後方に向けて引き金を引いた。劈くような音ともに並べられていた照明の一つが割れる。耳に残る本物の銃の発砲音に我知らず背筋が伸びてしまった。

 

「このホールは完全防音。お前ら全員撃ち殺すまで誰も助けにこねえ。お前ら人殺しの準備なんてしてねえだろ! 大人しく降伏してボスに頭下げとけや!!」

 

 トリガーガードに入れた指でクルクルと拳銃を回しながら暗殺者は降伏勧告をしてくる。

 確かに俺たちはあくまで殺せんせーを殺す訓練を受けているだけで、人を殺す訓練も準備もしていない。そもそも殺せんせーから不殺を義務付けられているのだ。速水と千葉に渡された銃も殺すためには使わない。

 となるとその使いどころは――相手の無力化だ。

 

「っ…………!」

 

 ――――ッ!!

 座席の間からステージに銃口を向けた速水の放った銃弾は相手の手元に飛んでいき…………手と頭の間を通り過ぎて奴が破壊した隣の照明に命中した。ガラスの割れる音の中、相手の目の色が変わる。さっきまでの多少余裕のあるものではなく、血に飢えた獣のそれを鈍く光らせながら、口角をギチッと歪ませた。

 

「いいねえっ、なかなかうまい仕事じゃねえか!」

 

 手元にあった機械を操作するとステージ側にある全ての照明が一度に点灯する。突然の光量の変化に視界が眩み、ステージにいるはずの敵の姿が目に入らない。

 

「今日も元気だ、銃がうめえ!!」

 

 ――――ッ!

 ガンマンの声が聞こえたかと思うと再び銃声がホール内に響く。バシュッと着弾音が鳴ったのは座席の隙間から顔を覗かせていた真後ろのシートだ。あの隙間、何センチだと思ってるんだ。ちょっとの誤差で前の座席に当たっちまうような精密射撃だ……。

 

「もうお前はそこから一歩も動かさねえぜ」

 

 相手は今までの二人と違い、ただの暗殺者ではない。軍人上がりのこいつは一対多の戦闘にも慣れているし、そもそも実戦での経験値が違う。

 

「中坊ごときに後れを取るかよ」

 

 ジュルリと調子を確かめるように銃口に舌を這わせる姿はまるで隙がない。位置がばれている速水はおろか、千葉が顔を覗かせただけで奴の銃口は火を吹くだろう。

 

「速水さんはそのまま待機!! 千葉君、今撃たなかったのは賢明です! 先生が敵を見ながら指揮するので、ここぞというときまで待つのです!」

 

 どうするべきかと皆が動きを止め、ジリジリと照明が鈍く火花を散らす音が漏れ聞こえるホールに殺せんせーの声が響く。確かにここは教師陣の指示に従った作戦を展開するのが最善だ。しかし、敵を見るってどこから……。

 

「テメー何かぶりつきで見てやがんだ!!」

 

「ヌルフフフ、無駄ですねぇ。これこそ無敵形態の本領発揮です」

 

 ……ああ、どうやら最前列の座席から堂々と見物しているらしい。プロの銃手が発砲する音と、弾丸を完全に弾いて防ぐ音が聞こえてくる。いや、今は味方なんだが、端的に言ってずるいわ。座席の後ろに本調子ではないと言っても烏間さんがいるのも分かっているだろうから、下手に手を出せないよね。

 

「それでは木村君、五列左へダッシュ!」

 

「っ…………!!」

 

 殺せんせーの指示に木村がワンテンポ遅れて動く。さすがE組最速なだけのことはあり、敵は動いた方向を見るのが精いっぱいだった。そして、その最初の指示だけで、暗殺訓練を積んだ俺たちはどういう作戦を展開するのかも理解する。

 次いで寺坂と吉田が左右に散り、死角ができたところで茅野が二列前進。赤羽と不破が右に跳ねると磯貝は左に。指示に従ってそれぞれ瞬時に場所を移る。

 シャッフルと呼ばれる撹乱戦法。名前だけではたった十五人なんてすぐに記憶されてしまうので、出席番号や髪形なども交えてどんどん指示を出していく。こうなってしまえば、どれが千葉か相手には見当もつかないだろう。

 

「最近竹林君イチオシのメイド喫茶に興味本位で行ったら、ちょっとハマりそうで怖かった人!! 撹乱のために大きな音を立てる!!」

 

「うるせー! 何で知ってんだてめー!!」

 

 寺坂……お前いつの間にそっちの世界に行ったんだ。あれか? 強敵が味方になったらギャグ要因になるとかそういう法則に巻き込まれてしまったのか?

 

「ツインテール二人とも左三!! 高校生は一列前へ!」

 

 寺坂の撹乱の音が響く中も、殺せんせーはどんどん指示を出していく。俺も指示に従って動くと、ちょうど烏間さんの後ろの座席に隠れた。俺が隠れたのを確認すると、烏間さんが小声で話しかけてくる。

 

「比企谷君、君も撹乱に回ってほしいとのことだ」

 

「撹乱……ですか?」

 

「『面白い技を修得したようですから、存分に役立てて下さい』とのことだ」

 

 ……どこで聞きつけたんだよ。あんたあの時エベレストで避暑中だったじゃねえか。

 ただ、確かに使うなら今だ。相手は自然界を超越する速度も暗殺者を匂いで嗅ぎわける嗅覚も持っていない。さらに同時に動く仲間が十四人もいる。今の状態でなら恐らく……。

 

「了解」

 

 大きく、ゆっくりと二回深呼吸をする。閉じた瞼の中はわずかに入ってくる光で濃い紺色だ。その色を自分の心の中に染み込ませ、染め上げていくイメージ。温度を感じさせない闇に浸された心臓は、その鼓動を一定の落ち着いたリズムに整える。

 そっと開いた視界は動きまわるには充分にクリアだ。どう行動するか、どこを通るかを把握して――音を立てずに床を蹴った。

 

「漫画好き右へ五列動いて待機。カラシ持っている人は前二列左に四列移動!」

 

 座席と座席の間を通り抜ける。奴の視線が前進した赤羽に移っているのもあって俺の移動に気付いた様子もない。更に一列後ろに下がって移動を続ける。相手の視線の隙をついて気付かれずに動き、同心円状に設置された椅子の間を縫うように駆け抜けて、メインステージ横の舞台通路までたどり着いた。音を立てずに自立タイプの照明の一つに手をかけて、倒した。

 

「何……!?」

 

 ガシャンという不快な音に反応して暗殺者は顔を向けるが、すでに俺は移動を開始している。その反応でできた死角を利用してさらに他の生徒はシャッフルを行い、ステージへと距離を詰める。千葉と速水の射撃に加えて近接戦闘に持ち込まれる可能性も考えねばならなくなるので、余計に相手は全員に意識を向けられなくなる。最も気配を隠している俺はそうそう無茶な動き方をしても見つからないだろう。

 まあ、近接戦闘には持ち込まないだろうけどな。特攻覚悟なんてあの先生がするとは思えないし。そもそも元軍人なら俺たちが徒手空拳で戦えるとは思えない。

 奴の視線の動きを意識しながら移動中に座席を叩いて音を鳴らしたり、再びステージまで接近して照明を倒す。逆光が少なくなれば、その分こちらの射撃はやりやすくなるし、相手からすれば俺たちの姿が多少とは言え見えにくくなるはずだ。

「撹乱組、撹乱行為をやめて左へ三列!」

 殺せんせーの合図を受けて、座席の後ろに身をひそめる。いよいよ仕留めにいくわけだ。

 

「さて、いよいよ狙撃です、千葉君。速水さんは状況に応じて千葉君のフォローを」

 

「「…………」」

 

 しかし、肝心の千葉と速水の表情はギチッと強張ってしまっている。特に、俺から近い位置に待機している速水なんて歯がカチカチと震える音が聞こえてきそうだ。

 無理もない。二人はつい一時間ほど前に決死の狙撃を失敗したばかりだ。その上で本物の銃への恐怖もあるだろう。

 

「……がその前に、表情を表に出すことの少ない仕事人二人にアドバイスです」

 

 まあ、うちの先生がその辺のことを考えていないわけがないか。

 

「大丈夫、君たちはプレッシャーを一人で抱える必要はありません」

 

 狙撃が失敗したら、次は人も銃も全てシャッフルして誰が撃つかも分からない戦術を取る。失敗してもいい。このクラス全員が失敗を経験し、その上で今まで訓練を重ねてきたのだから。

 

「君たちの横には同じ経験を持つ仲間がいる。安心して引き金を引きなさい」

 

「「…………!!」」

 

 殺せんせーの言葉に返すように、二人はカチリと拳銃のハンマーを下ろした。千葉の表情は、まだ緊張が見えるが先ほどよりも幾分柔らかい。

 

「では、行きますよ……」

 

 相手も合わせて全員の呼吸が一段階浅くなる。ジジジ、と照明が光を作る音だけが聞こえる空間で、ただ殺気同士がぶつかり合う。

 

「出席番号十二番! 立って狙撃!!」

 

 指示に従って座席の後ろから影が伸び――

 ――――ッ!!!

 劈く銃声。辺りをつけていたらしい銃手が座席の後ろから影が見えた瞬間に引き金を引いたのだ。寸分狂うことのない弾道はそのまま影の額を正確に貫いた。

 そう――

 

「!? 人形!?」

 

 菅谷がずっと息をひそめて用意していたダミーの人形の額を。極限の緊張状態にある今は、急ごしらえとはいえE組きっての芸術家の作ったダミー人形はさぞ本物のスナイパーに見えたことだろう。

 そして、本物のE組スナイパーは今度こそ顔を出して、トリガーを握りこんだ。

 ――――ッ!!

 …………。

 ………………。

 

「……フ、ヘヘ……ヘヘヘ……」

 

 完全防音のホールに銃声の残響がかすかに残る中、ターゲットの笑い声が漏れてくる。その姿のどこにも……傷はない。

 

「外したな? これで二人目も場所が……」

 

 自動小銃の砲身を千葉に向けた元軍人は、再び火を吹かせようとして――ゴッ、と鈍い音を立てて吹き飛んだ。

 

「っ!? ナ……!?」

 

 奴の背中に当たったのはステージの天井に吊るされていた照明。千葉が狙ったのは奴でも、銃でもなく、吊り照明の金具だったのだ。

 

「く、そが……」

 

 しかし、さすが戦場を生き残った経験のあるプロだ。あれだけの衝撃を完全な不意打ちで受けながら、銃は全く落としていない。やはり銃そのものを叩き落とさなければ……。

 

「…………」

 

 フォロー役の速水は……トリガーにかけられた指がまだかすかに震えている。戦闘直後に外したミスを引きずっているのかもしれない。このままでは十中八九外してしまう。

 ギチリと奥歯を噛みしめて、できる限り感情を、気配を消す。

 

「深呼吸してみろ。少しは落ち着くだろ」

 

 こんな時に俺ができることは決まっている。小町にやるように頭に手を乗せて、ゆっくりと髪を梳くように撫でると、はっとした速水は驚愕に顔を染めて振りかえった。

 

「っ、あんた……!」

 

 何か言おうとしてくる速水を空いている手で制する。速水は再び何か言おうと口を開いたが、やがて困ったように閉口して視線を前に戻した。

 

「……ん、もう大丈夫」

 

 一つ深呼吸をした速水の指から震えが取れたのを確認して手を離すと、迷いの取れた指がその引き金を引いた。放たれた弾丸は一直線に鉄の軌跡を描き、見事に相手の銃に命中した。

 最後の力で握っていたらしいピストルは手から離れて後方に吹き飛び、気力も切れたのか鉄柱にもたれかかるようにズルズルと倒れていった。

 

「よっしゃ! 速攻で簀巻きにするぜ!!」

 

 寺坂達が暗殺者を拘束するのを眺めながら、座席の後ろでズルリと腰を下ろす。視線誘導の人数もいたし、寺坂を始め他の誘導組も頑張っていたのでなんとか行けたが、何度か気付かれた場面もあった。もっとステルスは修行しないと次にうまくいく自信ねえわ。

 というか、さすがに走り回るのは疲れた……。

 

「…………」

 

 ステージに視線を投げると……、全く……プロの暗殺者相手にあれだけのことをやってのけたっていうのに、楽しそうに談笑して、照れくさそうに笑って……ちゃんと中学生してやがる。

 そんなあいつらより先に、年上の俺がバテるわけにはいかないな。小さく首を振って冷たい空気を頭に当て、膝に力を込めて立ち上がる。

 奴の設定した残り時間はあとわずか。




離島での三人の殺し屋ではガストロが一番好きです。銃うめえ。

八幡のステルスを見せるなら、フィールド的にもここかなと思っていたので、重点的に書けてにんまりしました。

ところで、感想でいくつか質問が来ていたのでここで解説を。
八幡がトロピカルジュースを飲んでいるのになんで平気なの? という質問なのですが、八幡のジュースにウイルスが入っているかいないかは別として、原作を読む限り全員がジュースを口にはしていると思っています。
というのも、スモッグがジュースを差し出した次のコマで三村がジュースを持って椅子に座っているシーンがありますが、同じコマに木村も一緒に映っています。しかも、木村の前にもジュースが置いてあります。さすがに提供されて飲んでいないということはないでしょうし、木村もジュースを飲んだけどウイルスに侵されていない人間と言えます。
そもそも、ウェルカムドリンクをクラスの半分にだけ提供すると言うのもおかしな話ですし、ウイルス入りのジュースと無毒のジュースの両方を提供したんだろうと解釈しました。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

俺が奴を――殺す

 階段を上がった先、通路へと続く三差路を陣取るように大柄な背中が見える。丸太のように太い首から伸びる頭部は見事に剃りこまれたスキンヘッドで、黒いシャツを着込んだ身体は服越しにも分かるほど筋骨隆々だ。いかにも用心棒然とした後ろ姿につい逃げ出したい衝動が湧き起こってくる。

 

「…………」

 

 動きを止めた俺達をよそに、一人前に進み出る影。平然と、いつもと変わらない足取りで男との距離を詰める。

 完璧なナンバ歩きに男は全く気付いているそぶりはない。いや、そもそも真の意味で警戒をしていないのかもしれなかった。確かに普通に考えれば、中学生が正面から侵入してきて、暗殺者の迎撃を潜り抜けて九階まで辿り着くなんて考えもしないだろう。

 そんな無防備な用心棒の首に彼の、烏間さんの手が伸びて――

 

 

 ――コキュッ。

 

 

 あごめん、間違えた。そんなファンシーなSEじゃないです。ググ、と鈍い音で周囲の空気を震わせながら、ついでに俺たちをも震えあがらせながら、E組教官は男を声一つあげさせずに絞め落とした。

 

「ふうぅぅ……。まだ力半分と言ったところだが、大分身体が動くようになってきた」

 

 あの……それで力半分なんですか? その力半分で明らかに鍛えている男が無抵抗に意識を刈り取られたんですけど……。

 

「力半分で俺らの倍つえぇ……」

 

「あの人一人で侵入した方がよかったんじゃ……」

 

 木村に続いて片岡が発したセリフに思わず全員頷いてしまう。ほんと、あの人一人だったら今頃このホテルが完全制圧されていそうだ。うちの先生たち皆やばすぎない?

 

「皆さん、最上階のパソコンカメラに侵入できました。上の様子を観察できます」

 

「っ……!」

 

 律のデータ共有でそれぞれのスマホに同一の映像が流される。

 このホテルの最上階、そして俺たちの目的地である十階は一室のみの超VIPルームになっている。その室内を映し出している映像には薄暗い中、煙草を吹かしながらテレビを眺めている男が一人。つまり……。

 

「こいつが、黒幕か」

 

 よくよく見るとテレビに映っているのは――岡島や中村達、ウイルスで苦しんでいる奴らだ。やはり向こうのホテルに監視カメラを仕掛けてやがった。

 律がハッキングしているパソコンに背を向けている黒幕の顔は見えない。しかし――

 

「楽しんでみてやがるのが伝わってきやがる。……変態野郎が」

 

 眉間に深い皺を刻みながら寺坂が吐き捨てる。俺も相手の異常な姿に、ぞわりと怒りの感情が爆発しそうになるのを必死に押し殺す。落ち着かなければ、これは感情に流されて完遂できるミッションではない。

 

「一つ、あのボスについてわかったことがあります」

 

 浅く呼吸を整えていると、渚の手の中の球体生物の声が聞こえてきた。

 曰く、黒幕は殺し屋ではないと。自分で雇った暗殺者たちを殺せんせーが完全防御形態という予想外の状態になったとは言え、見張りと防衛という彼らが本来の能力を発揮できない使い方をしている。暗殺者の本質をまるで理解していない。

 

「確かに、私も警戒してたから毒使いのおじさんに気付けたけど、そもそもあの人が本気で私たち全員を殺すつもりだったら、ウェルカムドリンクを飲んだ時点でアウトだったんだよね」

 

 不破の言うとおりだ。暗殺者の仕事は本来必殺。今回は黒幕が俺たちと交渉をしようとした故のこの状況だが、本来の彼の仕事ならドリンクを口にした時点で詰みだっただろう。

 

「カルマ君もそう。敵が廊下で見張るのではなく、日常で後ろから忍び寄られていたら……あの握力に瞬殺されていたでしょう」

 

 そりゃあね、と赤羽はじわりと冷や汗を浮かべながら肯定する。日常でなくても、もしもぬの人があのラウンジで待ち構えていたら、喧騒に紛れて近づいて来ていたら、確実に犠牲者が出ることは避けられなかったはずだ。

 

「……さっきの銃撃戦も、戦術で勝ったけど」

 

 あの元軍人の男は狙った的を一センチたりとも外さずに撃ち抜いてきた。クラスの半数で事前に迎撃の構えを取っていたから何とかなったが、単純な撃ち合いでは勝つことはできなかっただろう。

 それに俺も――

 

「あの場所で迎撃していなかったら、俺のステルスなんてすぐに看破されていただろうな」

 

 そして蜂の巣。遮蔽物の多い場所で、事前にこちらの戦場に持ち込んでいたからあれだけ動くことができただけだ。

 

「……、いずれにしても時間がない。交渉期限まで動きがなければ、こいつもさすがに警戒を強めるだろう」

 

 各自に作戦を指示する烏間さんから視線を外して、俺の少し後ろに立っていた寺坂に視線を向ける。E組のガキ大将は黒幕の様子を見ていた時のように眉間に濃い皺を作りながら壁に手をつき、膝をガクガクと震わせていた。

 膝だけじゃない、身体全体を震わせて、じっとりと粘度の高い嫌な汗を大量に額に浮かべている。

 

「寺坂君、すごい熱だよ……」

 

 同じく気付いたらしい渚が寺坂の首に手を当てて目を見開く。さっきからやけに険しい表情をしていると思ったら、あいつもウイルスの入ったドリンクを口にしていたのか。

 普通ならば、ここで寺坂の状態を烏間さんに進言して、安全な場所で休ませておくべきだろう。

 

「まさか、ウイルス……っ!」

 

「黙ってろっ」

 

 しかし当の寺坂は口を手で覆って、渚の続く言葉を遮る。ぶれかけている瞳は、それでも強い力を持っていた。

 

「烏間の先公が麻痺ガス浴びちまったのは、俺が下手に前に出ちまったからだ。それに……それ以前に俺のせいでクラスの奴らを殺しかけたこともある」

 

 ――こんなところで脱落して、これ以上足引っ張れるかよ。

 

「寺坂君……」

 

 流れ出る汗を手の甲でグッと拭いながら、寺坂は壁に付けていた手を離して歩き出そうとする。体格も伴って体力もある寺坂だが、本気で訓練に参加を始めたのは一番遅い。ウイルスに蝕まれた身体ではやはりこれ以上動くことは難しいだろう。

 ――一人ならば。

 

「なら、少しでも体力を温存しておけ」

 

「っ……比企谷……」

 

 皆に気付かれないように寺坂の前に立つ。小声で捕まるように促すと、二、三度迷いながら手を伸ばしてきた。

 

「あんたに、これ以上借りは作りたくねえんだがな……」

 

「借りだとは思ってねえよ。俺がやりたいからやってるだけなんだから」

 

 安全だとか定石だとか、確かに大事に違いない。しかし、定石は時に崩されるから定石なのだ。現場は常にケースバイケース。

 その上、今の寺坂にはセオリーも何もかも覆す要素があった。

 

「こんなところで途中離脱なんて、男のプライドが許さねえよな」

 

「……ちっ」

 

 いつもつるんでいた仲間が、共に努力しようとようやく思えた仲間が人質に取られて、この寺坂という少年が自分の身体の事を優先するわけがない。感性で動く奴が、プライドっていう感情を抑え込んで大人しくするなんて到底無理な話なのだ。

 地面に視線を向けて、少しでも体重を預けるように寺坂は背中に手を添える。背中越しに分かる中学生にしてはかなりでかい手が、一瞬強張ったのを理解した。

 

「……お前……っ」

 

「……めんどくせえよな。プライドって奴が、あるとさ」

 

 寺坂の言葉を遮るように告げて、前を向く。指示を出している烏間さんやE組生徒の先、最上階に一室だけ用意された部屋の扉が見えた。

 さっき見せられた黒幕の様子を思い出す。背中越しでも分かる下卑た笑みを浮かべて、ウイルスに侵されているあいつらを眺めている姿を思い出すだけではらわたが煮えくりかえりそうな怒りの感情が湧き上がってくる。

 それを決して表に出すことなく、血の海に溶け込ませた。一瞬震えた映像はしっかりと焦点を捉え、目標地点を見定める。

 このミッション、完遂しないわけにはいかないんだよ。

 

 

 

「「「「…………」」」」

 

 誰も声を発しない。倒すべき相手のすぐそばまで来ているので、意思疎通はハンドサインのみだ。

 九階の見張りが持っていたカードキーを烏間さんがリーダーに滑らせると、あっさりと扉が開く。部屋の中はだだっぴろいが、遮蔽物が多い。ナンバ歩きを上手く使えば気付かれずに接近できるだろう。

 烏間さんと磯貝を司令塔に全員配置を調整しながら室内を進んだ。

 ――いやがった。

 部屋の奥、さっきの映像と変わらずテレビを見続けている大柄な影。その横には配線のついたスーツケース。おそらく、あれがウイルスの治療薬だろう。奴の手元に置かれている小さな機械はケースにつけられた爆弾の起爆スイッチだろうか。

 

「…………」

 

 音を立てないように息を飲んで、皆とめくばせをする。まずは可能な限り接近して、気付かれずに取り抑えられればベスト。遠い位置で気付かれたら、烏間さんが見張りから手に入れた銃で本人を撃つ。腕を撃てば、多少はリモコンを取るのを遅らせることができるだろうとのことだった。

 じり、じりと距離を詰める。相手はじっとテレビを見つめたまま動かない。距離を詰めるごとに心臓は否が応でも跳ねてしまい、自分の、いや全員の心臓の音が聞こえてきそうだった。

 そして、取り押さえるのに充分な距離まで近づいた。全員で襲いかかるために烏間さんが左手を上げて――

 

「かゆい」

 

 全員が――動きを止めた。いっそ、心臓すら止まったかと思ってしまうほどの静寂が室内を包む。

 

「思い出すとかゆくなる」

 

 独り言かと思った。けれど、俺たちに語りかけているのだと全員が悟った。

 

「いつも傷口が空気に触れるから……感覚が鋭敏になってるんだ」

 

 ジャラ、という音が聞こえたかと思うと、奴が両腕を振り上げた。その瞬間に飛来する無数の何か。

 

「「「「!?」」」」

 

「言っただろう?元々はマッハ二十の怪物を殺す準備で来ているんだ。リモコンだって超スピードで奪われないように予備も作る」

 

 うっかり俺が倒れ込んでも押すくらいにな、と続ける声に、ようやくそれが奴の手元にあるものと同じリモコンだと理解した。

 最初は孕んでいる邪気の量が違いすぎて気付かなかった。しかし、よく聞くとその声はここにいる全員が聞き覚えのあるものだった。

 

「……連絡がつかなくなったのは――殺し屋屋所属の三人の殺し屋の他に“身内”もいた」

 

 旅行前の訓練中にロヴロさんが有望な殺し屋と連絡がつかなくなったと言っていた。つまり、下で戦った三人の殺し屋たちはその殺し屋たちだったのだろう。

 目の前の黒幕は防衛省の機密費、殺せんせー暗殺用の金をごっそり抜いて、その金で殺し屋三人を雇ってここに陣を構え、クラスの半分に毒を飲ませた。

 そんな非人道的なやり方をしそうな奴は、防衛省の中で俺らの記憶には一人しかいない。

 

「……どういうつもりだ――――鷹岡ァ!!」

 

 悠々と椅子に座ったまま振りかえった鷹岡に、思わず息を飲む。

 顔中に無数の傷があった。特に頬のそれはひどく、ピンクの筋肉がうっすらと見えていて、滲み出た組織液で鈍くテカっている。その傷は自傷によるものなのか、リモコンの一つを持った両の手の指爪の間は、細かな肉片が詰まり、赤黒く染まっている。

 そしてその目はあの時とは比べ物にならない狂気に満たされ、瞳孔が開き切っていた。その目を見るだけで、本当に今対峙しているのが人間なのか確信できなくなるほどに。

 

「恩師に会うのに裏口から来る。父ちゃんはそんな子に教えたつもりはないぞ?」

 

 血の気が引いて動けない俺達をよそに、鷹岡はスーツケースに手を伸ばす。それを止める余裕は、この場の誰にもなかった。

 

「屋上へ……行こうか。愛する生徒達に歓迎の用意があるんだ」

 

 椅子から立ち上がり、屋上へと続く階段へと主謀犯は歩き出す。

 

「ついて来てくれるよなァ?」

 

 グシャリと、腐った林檎を潰したような憎悪と狂気に満ちた笑みを浮かべて鷹岡が振りかえる。その手には、今にも押されてしまいそうなボタン一つだけのシンプルなスイッチ。言外に従わなければスイッチを押すと脅してきていた。

 従うしか、なかった。

 

 

 

 屋上で鷹岡は語った。大人しく指示に従っていれば暗殺はスムーズに完了したと。

 

「部屋のバスタブに対先生弾をいっぱいに入れてある。俺の計画では、そこの茅野ってガキにボールになった賞金首を抱えて入ってもらい――――その上からセメントで生き埋めにするんだ」

 

 対先生物質に触れずにバスタブから脱出するには茅野を巻き込んで爆発しなくてはいけない。なるほど、確かに殺せんせーには酷く有効な作戦だ。

 けど……。

 

「……許されると思いますか? そんな真似が」

 

 透明な防護壁の中で何本も筋を立てて努めて冷静を装って口を開いた殺せんせーの言葉が、俺たちの総意だ。

 

「これでも人道的な方さ。お前らが俺にした、非人道的な仕打ちに比べればな」

 

 自分の得意な“教育”で意気揚々と乗り込んだあの日。中学生に勝負で負けて任務に失敗した奴に上の評価はダダ下がり。逆にそれを育てた教官である烏間さんの評価を上げる形になった上に、周囲から向けられるのは嘲笑の目線だったのは想像に難くない。

 

「落とした評価は結果で返す。受けた屈辱はそれ以上の屈辱で返す」

 

 ――特に潮田渚。お前だけは絶対に許さん!!

 渚を睨みつけて指差す鷹岡に、なぜ背の低い二人を指名したのかを理解する。女子の方は抵抗されないためという意図もあっただろうが、男子の方は――

 

「へー、つまり渚君はあんたの恨みを晴らすために呼ばれたわけ。その体格差で本気で勝って嬉しいの? 俺ならもーちょっと楽しませてやれるけど?」

 

 親友が逆恨みのために呼ばれたと知って、いつもは飄々としている赤羽の表情も険しい。こいつは自分でルールを決めて勝負して、勝負の本質を履き違えて油断して、それで負けたことを恨んでいるのだ。喧嘩っ早い赤羽でなくとも視線が鋭くなる。

 

「言っとくけどな。あの時テメーが勝ってようが負けてようが、俺らテメーのこと大っ嫌いだからよ」

 

 汗を拭いながら睨む寺坂の言うとおりだ。あそこで渚が負けていたとしても、どこかでボイコットが起こっていただろう。そうしたら、殺せんせーがあの教室に来る理由がなくなってしまう。遅かれ早かれ、こいつの人生は破滅で終わっていたはずだ。

 

「ジャリ共の意見なんて聞いてねえ!! 俺の指先でジャリが半分減るってことを忘れんな!!」

 

 しかし、相手は完全に正気を失っていて、正論なんて通用しない。リモコンに指を添えられてしまえば、誰もそれ以上口を挟めなかった。

 鷹岡に指名された渚は、茅野に殺せんせーを預けて少し緊張した面持ちでヘリポートに向かう。大丈夫。渚は充分理性的だ。あるいは交渉だけで終わるかもしれないし、治療薬が破壊の危機から脱すればこっちにもやりようはある。

 だから、抑えろ……溢れ出そうになる感情は全部自分の中に包み込んで隠せ。

 渚が土下座を強要される。その渚の頭に鷹岡が足を乗せる。荒くなる呼吸を深呼吸することで塗り替えて、怒声で空気を激しく震わせそうになる喉をグッと鳴らして飲み込む。抑えろ。抑えろ……。

 

「褒美にいいこと教えてやろう」

 

 渚から足を離すと、鷹岡は三日月のように口を邪悪に歪めて、後ろに置いていたスーツケースを手に取った。

 

「あのウイルスで死んだ奴がどうなるか。笑えるぜ? 全身デキモノだらけで顔面がブドウみたいに腫れあがるんだ」

 

 ――見たいだろ? 渚君。

 地獄の底から楽しそうな鷹岡の声にハッと顔を上げた時には、既にケースは鷹岡の手を離れて空中に投げだされていて――

 

「やめろーーーー!!」

 

 ――ドウゥゥゥン!!

 火薬の匂いと共に弾けた。チリチリと肌を焼く熱、飛び散るスーツケースのかけらと、なにか液体が入っていたらしいガラスの破片。それが治療薬の容器だと理解した時――ドクリと心臓が跳ねた。

 

「渚ッ!?」

 

 茅野の声にぶれそうになっていた焦点を必死に合わせると、渚が呼吸を乱しながら置かれていたナイフを手にしていた。

 

「殺……してやる……」

 

 呪詛の混じった声。あれは本当に、女子にすら見間違えられる草食系男子の出す声だろうか。あの背中は――あんなに殺気立ったことがあっただろうか。

 

「ククク、そうだ。そうでなくちゃな」

 

 臨戦態勢に入った渚の姿を見て、鷹岡は邪悪に笑う。その目には一切の油断が見えない。

 今の渚が纏っている殺気は、普段見せるものとは種類が違う。そもそも今のあいつは全くの冷静さがないのだ。あの状態で戦っても、殺すどころかまともに訓練の成果も見せずにやられてしまうだろう。もし殺すことができても、きっと渚の心に深い傷が残る。

 治療薬も失って、その上渚にどっちに転んでも大きな傷を残す。そんなこと……そんなことになるくらいなら……。

 

「あっ……!」

 

 頭の中で何かが弾けるような感触に気付いた時には既に身体は動いていた。近くにいた速水が持っていた実銃を奪い取り、熱に浮かされ、ウイルスにガンガン鳴らされる頭痛を抑え込んで、自分でもよく分からない何かを放ちながら、トリガーに指をかける。

 これ以上、弟分や妹分が傷つくなら、大事な仲間が罪を犯しそうになってしまうのなら。

 俺があいつを――――殺す。

 

 

 ――――ッ!!

 

 

 一切のためらいもなく、俺の指は引き金を引いた。

 




離島暗殺回もそろそろ大詰めです。ノートPCが物凄い変な音を立て始めたので慌ててスマホで投稿しています。そろそろ新しいのを買わないといけないかなぁ。

個人的に、悪役というものを書くのが苦手でして、鷹岡を書くときは物凄い唸りながら書いていました。アントヘイトもそうですが、悪役を魅力的に書ける人は尊敬します。
ここら辺も日々精進だなぁと思ったりする今日この頃。

そういえば、本シリーズのお気に入りが1500件を超えていました。私のシリーズの中では初めての1500超えなので情報ページで見たときは思わず変な声を出してしまいました。
今後も地道に書いていこうと思いますので、読んでもらって、少しでも面白いと思ってもらえれば幸いです。
PCがやばそうなんで書くペースを維持できるか心配ですけどね……。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

比企谷八幡は一度立ち止まる

 烏間先生の持っているものからではない、意図しない方向からの銃声に視線が動くのを止められなかった。いや、正確にはそれより少し前、水が気化するように突如膨張した何かに、完全に意識が持っていかれたのだ。

 弾けた弾丸は鷹岡のすぐ脇を通り過ぎたようで、奴も弾丸の飛んできた方向に首を向けている。狂気に染まった瞳は憎々しげに崖下の銃手、比企谷君を睨みつけていた。

 平常とはほど遠い、湿度の高い乱れた息を吐きながら、大量の汗を滲ませている。誰が見ても、健常体の様子ではない。おそらく、ウイルスに侵されているのは今までひた隠しにしていたのだろう。

 そしてその目は――ああ、その目は見覚えがある。それはイトナ君が転校してきた次の日に彼が私に向けたもの。暴力的な怒りを湛えた瞳は震えるのを抑えながらも、キッと一点を睨みつけていた。

 

「比企谷八幡……お前も俺の人生を狂わせてくれたなァ? てめえもきっちり落とし前付けさせてやるから、今はそこで見てろよ」

 

「……ハッ、あいにく待つのは性にあわないんでな」

 

 膝を曲げて、見下すように挑発してくる鷹岡に、比企谷君は限界まで口角を吊りあげる。拳銃のハンマーを親指でカチリと下ろし、再びターゲットに感情と殺意の濁流を向けながら照準を合わす。

 

「おいおい、ただのガキが人を殺す勇気なんてあんのか?」

 

「殺すさ……誰かがやるくらいなら……俺が……」

 

 トリガーに添えられた人差し指に再び力が籠められる。ググッという鈍い音が聞こえてきそうなほど、皆の視線が集中し、強く吹き付けているはずの風の音すら聞こえなくなっていた。

 そして、彼の手にした銃口から火花が――散ることはなく、

 

「比企谷!!」

 

「おいっ、大丈夫……すごい熱じゃないっすか!?」

 

 震える足では支えきれなくなった身体が崩れ落ちた。速水さんと菅谷君が駆け寄って、倒れた彼を支える。

 それを見た鷹岡は…………ひたすら邪悪に、悪魔が乗り移ったかのように破顔した。

 

「なんだ、お前もウイルスに感染してたのか。ククク、渚を叩きのめしたらてめえは連れ帰って、死ぬまで観察してやるよ」

 

 てめえのそのいけすかねえ顔がブクブクに腫れあがるのが今から楽しみだ。そう下卑た笑みを浮かべる鷹岡に、今の私では何もすることができない。完全防御形態なんて言って、生徒たちにドヤ顔していた自分を殴りたい気分ですよ。元の姿ならば、目の前の暗殺者ですらない“敵”を徹底的に手入れすると言うのに……。

 

「っ…………」

 

 ギリッと奥歯を噛みしめて比企谷君は、既にほとんど力の入らないのであろう拳を精いっぱいに握り締め――一瞬だけこちらを見た。

 怒気は鷹岡に向けたまま、あの距離では鷹岡は気付かないであろうほど小さく、本当に一瞬だけ。

 それでも、その今にも気を失いそうな人間がしているとは思えないほど力強い視線はその一瞬で充分だった。自分では動けない形態に苦労しつつも、ざっと周囲を確認する。

 皆が皆、比企谷君に意識を持っていかれていた。鷹岡も、烏間先生も、磯貝君も、カルマ君も、怒りこそ納めていないが渚君さえも。

 ――ただ一人を除いて。

 これは、彼が必死に作った勝機だ。それをしっかりと汲むのが、先生というものでしょう。

 …………諭すのは、全てが終わった後でも遅くはない。

 

「……渚君の頭を冷やして下さい。君にしかできません、寺さ……」

 

 言い終わる前に渚君の頭にゴスッと何かがヒットする。……相変わらずやり方が危ないですねぇ。スタンガンを投げつけた、こちらも相当ウイルスで限界が近い寺坂君は肩で激しく息をしながら、「チョーシこいてんじゃねーぞ!!」と言い放つ。

 

「そんなクズでも、息の根止めりゃ殺人罪だ。テメーはキレるに任せて百億のチャンスを手放すのか?」

 

 その通りだ。どんな状況でも、人間である以上殺してしまえば日本の法律で裁かれてしまう。この男に、私の生徒がそこまでする価値はない。

 命の価値を……言葉の価値を……冷静に考えるのです、渚君。

 

「……やれ、渚。死なねえ範囲でブッ殺せ」

 

 今にも倒れそうな寺坂君の絞り出すような声を聞いた渚君がスタンガンを手に取ったと同時に、身体から何かが剥がれ落ちるような違和感を覚えた。比企谷君の方を見ると、どうやら完全に意識を失ってしまったようだ。寺坂君といい彼といい、だいぶ無理をさせてしまった。

 全員で繋いだ言葉が、想いが、今の君の背中にはあります。後は任せましたよ、渚君。

 

 

     ***

 

 

「……知らない天井だ」

 

 いや、マジで知らない天井なんだが……ここどこだ? 確か渚がスタンガンを受け取ったあたりで意識が途切れて……まさか、鷹岡のアジトだったりしない……よな?

 つーっと背中に嫌な汗を感じていると、かすかにザザァ、ザザァという音が鼓膜を振動させてきた。閉じられていたカーテンから外を覗いてみると、半分まで沈んだ夕陽が青いはずの海を真っ赤に染めていた。どうやら、俺たちが泊まることになっていたホテルの一室のようだ。

 

「ぁ…………」

 

 ギッと扉が開く音に振りかえると、タオルの入った桶を抱えた矢田が入ってきて、一瞬動きを止めた。少しの間俺を観察した彼女は小さく息をつくと、柔和な笑みを浮かべて近づいてくる。

 

「よかった。もう、平気そうだね」

 

「ああ、まあ……」

 

 そうだな、と普通に答えそうになって、ふと自分の身体を見回してみる。あれだけ痛かった関節は全く痛くないし、手を握ってみても充分に力が入る。頭痛もなければ眩暈もない。むしろ前よりよく見えるまである。

 おかしい。確か俺は全身ブクブクに腫れあがるウイルスにかかっていたはずで、治療薬も鷹岡に破壊されて……。

 

「比企谷達が盛られたウイルスは、鷹岡が言っていた奴とは違ったんだよ」

 

 続いて入ってきた磯貝の言葉に首をかしげると、続けて説明してくれる。どうやら鷹岡に雇われた暗殺者達が、俺たちにウイルスを盛る前に話し合って、別の食中毒菌を改良したものにすり替えたらしい。時間が立つと途端に無毒になるし、スモッグお手製の栄養剤を使えば、倒れる前より元気になるらしい。なるほど、やけに調子がいいのはその栄養剤のせいか。

 

「……鷹岡は?」

 

「渚が倒したよ。ちゃんと殺さない範囲でブッ殺したから、もう悪さはできないってわけ」

 

 不破が人差し指を立てながら教えてくれてその言葉をかみ砕く。

 つまり……誰も大事にはなっていない、ってことか。ベッドに再び体重を預けて深く息を吐くと、ようやく少しだけ実感ができてきた。

 そうか、みんな無事なのか。

 

「よかった……」

 

 ベッドシーツを握りしめて、安堵の声を漏らす俺に――矢田が珍しく険しい表情を向けてきた。

 矢田だけじゃない。磯貝も不破も、いつの間にか入ってきていた速水や千葉も、一様にその表情は硬かった。

 

「……比企谷君はさ、なんでウイルスにかかっていたのに無理して潜入ミッションに参加したの?」

 

「別に最初からウイルスに身体をやられていたわけじゃねえよ。体調の変化に気付いたのはラウンジのあたりだ」

 

 どんなウイルスでも感染には個人差があるらしい。わずかとは言え皆と歳が離れているからか、はたまた体質からか、俺の発症は少しだけ遅かった。寺坂が言っていたように、あそこまで潜入した手前足を引っ張るわけにはいかない。黙ってやり過ごすほか、なかった。

 その結果、結局途中で意識を失ったみたいだが。寺坂の奴はなんとか気を失うことはなかったらしい。あいつの体力やばすぎるだろ。

 

「そっか……。最初から無理してたわけじゃないんだ」

 

 矢田の表情が少しだけ和らぐが、「それじゃ」と口を開いた速水の表情はさっきと変わっていなかった。

 

「あの時、あんたは本気で鷹岡を殺そうとしたの?」

 

「それは……」

 

 答えようとして、一度言葉を切って居住いを正した。なぜか皆の顔を見ることができず、掛けシーツをじっと見つめたまま、ぼそりと呟いた。

 

「……ああ」

 

「っ……」

 

 速水が息を飲み、視界の端でギュッと拳を握りしめたのが見えた。

 あの時はすでに治療薬と思われていたものは粉微塵になっていたし、その上で渚が鷹岡を殺そうとしていた。正面戦闘で渚が職業軍人に勝てる可能性はほぼ皆無だし、もし勝ったとしても残るのは渚の罪だけだ。誰も救われない。

 だから……渚が、E組の奴らがこれ以上辛い思いをするくらいなら――俺には、俺が殺すしか切れるカードがなかった。

 

「渚にやらせるくらいなら、俺がやるべきだと……そう思ったんだ」

 

 そんな十字架、俺一人が背負えばいい。中学生が背負うには、あまりにも重すぎるから。

 そう続けようとして顔を上げ……何も言えなくなってしまった。

 

「…………」

 

 ――今にも泣きそうな速水の表情を見てしまっては。

 速水は震える唇を小さく開き、何かをこらえるようにさらに両の拳を握りしめて――

 

「…………バカ」

 

 なんとかそれだけを絞り出して、部屋を出ていってしまった。速水の出ていった扉と俺を何度か見比べた千葉は、被っていたニット帽を少しだけ深く被り直して速水の後を追う。

 

「私はさ、今の比企谷君が何を考えているのか、分かんない」

 

 二人分だけ少しだけ広くなった部屋に不破の声が静かに響く。その表情は難解な謎解きに詰まっているように歪み、少しだけ悔しそうに唇を噛みしめていた。

 

「だから、もうちょっと自分で考えてみるね」

 

 小さく首を振った不破は寂しそうに笑った。

 そして矢田は……。

 

「私、こわい。こわいよ……」

 

 それ以上は何も言えなくなり、泣き崩れてしまう。不破に付き添われて矢田が部屋を出ると、残されるのは俺と磯貝だ。

 

「……俺は、何か間違った……のか……?」

 

 あの状況では俺が殺すのがベターだった。烏間さんはまだ精密射撃ができるほどには回復しきっていなかったし、近接戦よりも一方的な射撃の方が安全性は高い。途中で俺自身の射撃が不可能と判断したから殺せんせーに渚の頭を冷やすように目配せをしたが、それまでは俺があいつを、鷹岡を撃ち殺すのは最善とは言わないまでも、最優だったはずだ。

 そもそも俺の中で、あいつらが人を殺すなんていう世界は存在しないのだから。

 

「……俺はたぶん、比企谷がどういう気持ちであの時銃を撃ったのか、分かる気がするよ」

 

 矢田が残していた桶を拾い上げながら、磯貝は口を開く。心なしか元気のないように見える触角のように生えた房を揺らしながら、「けど」と苦々しげに口を開く。

 

「分かる気はしても、それでも……いい気分は絶対しない」

 

 その理由はきっと、俺からじゃ比企谷には伝えられないからさ。そう言い残して、磯貝は出ていく。少しだけ悲しそうな表情を浮かべて。

 

「…………」

 

 誰もいなくなると聞こえてくるのは小さな波音だけだ。再びベッドに倒れ込んで目を閉じる。寝ている間に飲まされたらしい栄養剤のおかげで身体はすこぶる調子がいいはずなのに、痺れるような頭痛が絶えず走り抜けていた。

 

「……律か」

 

「はい、おはようございます。八幡さん」

 

 暗い世界の隅がほのかに明るくなったので声をかけてみると、枕元に置いてあったスマホに現れたであろう律が返事をしてくる。

 

「ひとまずご報告を。昨夜連行された鷹岡さんは防衛省の下拘束。国家機密が関わるため秘密裏にではありますが、懲役にかけられるそうです。そして、懲役後も国家の監視下に置かれると」

 

 まあ、そうだろうな。国の金をごっそり強奪した揚句、未遂とは言え大量殺人の首謀者だ。一度野放しにした結果がこれなのだから、防衛省としてももう放っておくわけにはいかないのだろう。

 鷹岡に雇われた暗殺者三人も現在事情聴取中のようだが、大量殺人を企てる鷹岡の意向に背いたことで防衛省の人間が大量殺人を行うことを未然に防いだことで、今回の件を口外しない代わりに数日中には解放されそう、とのことだ。

 

「それともう一つ。これは私の個人的な報告なのですが……」

 

 合成音声のトーンが明らかに下がったのを感じて、瞼を開けてディスプレイを見つめる。小さな画面にバストアップ姿を映したAI娘は、俺と目が合うと一度瞑目して胸に手を当て、まっすぐに俺を見返してきた。

 

「八幡さんが鷹岡さんに向けて発砲したとき、私の中である感情、というよりも思考が湧きました。…………『いやだ』という思考です」

 

 いやだ。その言葉を発する瞬間、3Dグラフィックでしかないはずの瞳の奥に、何かが見えた気がしたのは、俺の気のせいだろうか。

 

「なぜこの思考が湧き起こったのか、私自身分かりません。少しの間、インターネットの海で勉強してきたいと思います」

 

 深くお辞儀をすると、ディスプレイが真っ暗になる。なんとなく電源を付けてみるが、当然律の姿はなく、一般的なスマホ画面が映し出されているだけだった。

 

「…………」

 

 電源ボタンを押してディスプレイを再び落とす。真っ暗になった画面に俺の顔が反射する。寝起きでボサボサの黒髪の下にある両目は、力なく淀んでいた。

 

 

     ***

 

 

 皆疲れてしまって二日目を無駄にしてしまった俺たちは、次の日そのまま帰ることになった。行きと同じフェリーで、俺は皆から離れて船尾側のデッキに座り込んでいる。小さな雲が散見している程度の青空を海の境界を眺めていると、普久間島がどんどん小さくなっていく。本島に着くころにはもうあのリゾート島の姿は肉眼では視認できなくなるはずだ。

 

「名残惜しいですか、比企谷君?」

 

 ヌルヌル声に視線だけを向けると、元の姿に戻った殺せんせーが近づいてきた。昨日の夜元の姿に戻った超生物は、烏間さんの努力空しく変態中にダメージすら負わせられなかったそうだ。

 

「……別に、あの島を使うのは危険だって、理事長に報告した方がいいんじゃないかな、とか思ってただけですよ」

 

 まあ、さすがにそうそう人質に取られることはないだろうが、わざわざ生徒に危険の可能性がある場所を使う必要はないだろう。

 ただ、名残惜しくないと言えば嘘になる。無駄にした昨日一日があれば、きっと皆はもっとこの旅行を楽しめたことだろう。

 

「ああ、そうだ比企谷君。ちょっとこっちを向いてもらえますか?」

 

「なんですか……っ」

 

 振り返った瞬間、ぷにょんと頬に柔らかいものが当たった。視線を動かすと黄色い触手が触れていた。叩いたつもりなのだろうか。勢いも全くなかったようで、全然痛くない。

 

「不殺の約束を破りかけましたからね。これはその罰です」

 

「……やけに優しい罰ですね」

 

 紫のバツ印を顔に浮かび上がらせた先生に、少し粘液でヌメる頬をさすりながらぼやくと、いつものようにヌルフフフと笑いながら、「未遂ですからねぇ」と答えた。

 

「それに、今の比企谷君には“課題”ができたようですしね」

 

 ――やっぱりこの先生には分かるもんなんだなぁ。

 一晩考えてみたが、結局何が間違っていたのか俺には分からなかった。今でもあの選択はベターだったと思っている。

 そのせいで、今日はあいつらとは一言も言葉を交わしていない。倉橋あたりは何か言いたそうにチラチラこっちを見てきているが、俺の雰囲気を察してか近づくことはなかった。

 

「悩んでいるようですねぇ。君には難しい課題ですか?」

 

「……少なくとも、期末の数学よりは難解ですね」

 

 人の心なんてわからない。俺はそいつではないのだから。他人の心なんて、分かるはずがない。

 もう一度島の方を眺めるために首を動かした俺に、悩むことは大事だと、いつもより優しい声で彼は諭してきた。

 

「それでは先生からヒントをあげましょう」

 

「ヒント……?」

 

 視界の端で、黄色い超生物は指を二本立てた。それを確認して、顔は動かさずに耳だけを傾ける。

 

「一つ、なぜ君があの時彼を殺そうとしたのか。一つ、君と他の皆さんの違い」

 

 そこから重点的に考えるといいでしょう。そう言い残すと、殺せんせーは皆のところに戻っていっ……あっ、途中で顔を青くしてうずくまってしまった。船酔い我慢してたのね。……締まらねえなぁ。

 ただ、今は無理をして諭してくれた担任に心の中で感謝をする。もう一度離島を眺めると、もうすでに二日過ごした島は豆粒ほどのサイズになっていた。暗殺者たちと戦ったあのホテルは、もう見えない。

 課題の答えはまだ見つかる気配はない。それなら、せっかくうちのお節介な担任が教えてくれたヒントの部分を考えてみよう。大丈夫、考えることはぼっちの得意分野だ。

 夏の潮風に身を任せながら、そっと瞼を閉じた。




一応の離島暗殺編終了です。この後に続く話があと一話ありますが、離島での活動は一応ここで終了。

離島暗殺は暗殺教室のターニングポイントの一つだと思っています。そこで八幡を成長させたいなぁとずっと考えていたので、どう成長させようかウンウン唸りながら書いていました。まあ、基本的にいつも唸ってるんですけどね。

PCが本当にやばい音立てて、ちょっとシャレにならないのでスマホで投稿しているんですが、ほんと入力が面倒くさいです。キーボード入力のキーが小さすぎてしょっちゅうタップミスします。
とりあえず大急ぎでPCの新調を図らないと、夜と昼しか眠れないレベル。

あっあと、この話で書きだめがついに無くなりました。
できるだけ早い更新を目指していきたいですが、たぶん毎日更新は難しいと思います。更新頻度が早くて嬉しいと言ってくれていた方々は本当に申し訳ないです。筆が遅くて消化速度に生産速度が間に合いませんでした……。

それでは今日はこの辺で。
ではでは


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

答えはきっと簡単で、それでいてとても難しい

「…………朝、か」

 

 いつもより少し遅めの時間、高くなってきた陽の光で目が覚めた。少しの間ぼーっと見慣れた天井を眺めて、のっそりとベッドから身体を起こす。

 後頭部をガシガシ掻きながら階段を降りて、洗面所に向かい、蛇口をひねって円柱状に流れ出る水を手で掬い、顔に打ち付ける。

 何度も、何度も。

 

「……ひっでえ顔」

 

 数度頭を振って顔を上げると、目の前の鏡に前髪をかすかに濡らした自分の顔が映し出された。いや、そこにあるのが鏡だと認識していなかったら、それが俺の顔だとすら思わなかったかもしれない。

 起きたばかりのせいか顔色はかすかに土気色を帯びていて、唇はカサカサにささくれ立ち、淀んだ目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。今ならゾンビと言われても反論できねえなぁ……。

 どうでもいい思考とひどい表情を一緒に拭うように顔を拭いて、リビングに向かう。

 

「ぁ…………おはよ、お兄ちゃん」

 

 リビングの扉を開けると、テレビを見ていたらしい小町が電源を切って振り返る。別にテレビを消す必要はないと思うんだが、見られたらマズいものでも見ていたのだろうか。まあ、俺には関係ないことだが。

 おう、と短く答えて、台所に向かう。

 

「ご飯、準備しようか?」

 

「いや、ヨーグルト食うからいい」

 

 ソファから立ち上がろうとした小町を制して、冷蔵庫からヨーグルトを取り出す。テーブルまで向かうのももどかしく、シンクの前でフタを開けて食べ始めた。黙々とスプーンで白い半固体を掬い、口に運ぶという作業を繰り返すだけ。テレビも消された室内は、びっくりするくらい静かだ。

 

「……お兄ちゃんさ」

 

 プラスチックの容器に金属製のスプーンが触れ合う音に、妹の声が重なり、腕の動きが一瞬止まるが、短く意味の存在しない声だけを漏らして、再び掬い上げたヨーグルトを口に含んだ。ほとんど咀嚼もせずに口の中のものを飲み込み――

 

「やっぱりなんか……あった?」

 

 今度こそ完全に動きが止まった。リビングの方に視線を投げると、小町が心配そうにじっと俺を見ていて、見えないように口の中で唇を噛む。

 

「……別に、何もねえよ」

 

 絞り出した声に説得力は皆無で、また部屋に沈黙が落ちる。

 その沈黙の中、「そっか……」とひとりごちるような声が聞こえてきて――

 

「何かあったら、小町に相談するんだよ? お兄ちゃんは小町がいないとダメダメなんだから」

 

「っ……」

 

 にひっと笑みを浮かべた小町に、何か言おうと開いた口はなんの音も発することができず、ゆっくり閉口して俯くしかなかった。容器に残っていたヨーグルトをかき込み、シンクに放り込んで足早にリビングを出る。

 

「……出かけてくるから」

 

「うん、いってらっしゃい!」

 

 スポーツウェアに着替えて逃げるように玄関を飛び出す。そのまま準備運動もせずに走り出した。

 離島から帰ってきて一週間程度。LINEの通知を切って、そもそもここ数日はスマホに触れてすらいないからあいつらがどうしているかも知らない。

 仲間と言った奴らから離れて、妹に心配をかけて、それでも一人で考え続けて……答えは――まだ出ていない。

 

 

     ***

 

 

 トレーニングの中で一番好きなのは走り込みだった。暑い日差しの中でも風を切れば涼しいし、勉強で疲れた頭を休ませるのにもちょうどいい。

 だから、この一週間はずっと走り続けている。

 走って走って走りまくって、冷えて空っぽになった頭でまた考え続ける。

 何を間違えたのか。どうすればよかったのか。

 あの帰りのフェリーで殺せんせーに出されたヒントも当然考えてみた。

 ――一つ、何故俺があの時鷹岡を殺そうとしたのか。

 これはすぐに答えが出た。渚に殺人の実行犯になってもらいたくなかったからだ。そのせいでE組の皆が辛い思いをして欲しくなかったからだ。

 そもそも、殺し屋屋から必殺技を伝授してもらったとはいえ、渚が鷹岡に勝てる可能性が低かったからというのもある。

 一つ、俺と他の皆との違い。

 この皆とは、この場合E組の奴らということだろう。パッと思いつく違いといえば年齢、だろうか。律は正確には微妙なところだが、あいつらと違い俺だけが一年とは言え学年が違う。そこに伴ってあいつらは受験生という側面も持っている。書類上高校一年である俺とはこの一年の重要度はまるで違うと言えなくもない。

 あるいはプロぼっちであるかどうか。正直今の俺がプロぼっちと言えるのかは自分でも微妙なところだが、俺はこの15年分の悪意への耐性がある。そこはあいつらとの違い、かもしれない。

 他にも突き詰めていけば違う点は多々あるが、それがどう答えに導くのか。それが分からない。

 分からないから、その分走る。どこまでも、どこまでも。

 

 

 

 気がつくと、見覚えのある場所に来ていた。短い高校生活の既に半分を過ごしている場所、私立椚ヶ丘学園。目の前にある坂を登れば、勉強と訓練と暗殺の舞台、あの古びた木造校舎に行き着ける。

 

「どんだけ走ってんだか……」

 

 走りながらも考えていたせいか、今日はまだ頭の靄は晴れない。そういえば、教師というものは夏休み中も普通に学校に通っているらしいな。堅物な体育教師が変わらず綺麗な姿勢で事務仕事をしている姿を想像して、通い慣れた道を駆け出した。

 ショートカットを兼ねて舗装された道から外れる。自然林の中には熱い陽光もまばらにしか入ってきていなくて、少しだけ涼しい。木々の間をすり抜けながら山を登っていくと、すぐにE組校舎が見えてきた。超生物な担任教師が定期的に手入れしているグラウンドには人っ子一人いないが、校舎の職員室に動く影が見えた。やはりあの先生は本職をやりつつもしっかりこっちの職務もこなしているらしい。

 

「ん、比企谷か? 久しぶりだな。今日はどうした?」

 

 涼を取るために開けられた窓から顔を出すと、パソコンを弄っていた手を止めて烏間さんは立ち上がる。夏休みに生徒の相手をするなんて時間外勤務だろうに、嫌な顔一つ見せない。

 

「……ちょっと、訓練つけてくれませんか?」

 

「…………いいだろう」

 

 黙って俺を見つめた烏間さんは一つ頷くと、予備として置いてあった対先生ナイフを寄越してきた。それを受け取って、一足先にグラウンドに向かう。

 軽くストレッチをして待っていると、ネクタイを外した教官がやってきた。俺の前に立つと、無言で構えを取る。いつでも来いということだろう。

 ナイフを後ろ手に隠して接近する。垂れ下がらせていただけの片腕も背中に隠して、どちらから攻撃するか分からないように。

 ナイフの射程に入った瞬間、隠していた右手でナイフを握り、最短距離で刺突。しかし、刃先が体に当たる前に腕に手の甲を添えられて軌道をずらされてしまう。

 まあ、それは想定済み。突き放したままのナイフを逆手に持ち替えて振りかぶり、避けられたタイミングで手放す。

 

「っ…………!」

 

 ロヴロさんが渚にも言っていたが、実践において一番視線が集中するのが武器だ。接近すればするほどその傾向は強くなる。

 そして視線が俺以外に集中すれば、消えるための条件になりうる。

 目の動きが追いつきにくい斜めに体を滑らせ、低姿勢のまま足払いをして――

 

「なっ!?」

 

 あっけなく避けられて、思わず声が漏れる。距離を取った烏間さんを視界にとらえながら落ちた獲物を手にして、もう一度距離を詰めた。

 …………。

 ………………。

 

「ハッ……、ハッ……!」

 

 十分も経つ頃には完全に地面に倒れこんでしまっていた。結局あれから一度しか切っ先はターゲットに触れることはなく、正攻法、絡め手、そのほとんどが空振りに終わってしまった。

 

「さすが殺し屋屋直伝のステルスだが、攻撃の直前にわずかに気配が漏れている。タイマンの正面戦闘ではまだ使うべきレベルではないだろう」

 

 ことごとく避けられると思ったら、やはりまだ技術的に完璧ではないらしい。そういえば、離島で使った時も気づかれたのは照明を倒したり音を立てて撹乱する時ばっかりだった。

 それじゃあダメだ。それじゃああいつらのために使えない。あいつらを守れない。

 

「もう一度……お願い、します」

 

 まだ乱れる息を少しだけ整えながら立ち上がった俺に、烏間さんは首を横に振る。

 

「いや、今日はもうやめておこう。ここに来るまでも結構走っただろう。これ以上は身体に無理をかける」

 

「いつから貴方は誠凛高校バスケ部監督になったんすか……」

 

 さっきやけに足を見ていたのはそのせいか。本当に見ただけで相手の身体の事が分かる人間がいるとは思わなかった。

 どうやら俺のネタがわからなかったらしい教官は、首に手を当てて天を仰ぐと、「そういえば」と口を開いた。

 

「E組の連絡網で君が現れないと生徒たちが言っていたぞ。たまには顔を出してやれ」

 

 ああ、そりゃあ烏間さんもあいつらとLINEやメールのやり取りをしているのだから、倉橋あたりから連絡をもらったのだろう。小町だけでなく、あいつらや先生にまで迷惑をかけているなんて、一周回って笑い話だ。

 ただ……。

 

「無理ですよ。今の俺じゃ……」

 

 何も答えを見つけていない俺じゃ……。

 そう呟いて俯いた俺の頭に――

 

「っ……?」

 

 何かがふっと被さった。それは俺のものより一回り大きい烏間さんの手で。顔を上げるといつものあまり変化を見せない表情がまっすぐに俺の顔を見ていた。

 

「周りとあまり積極的な交流をしない俺から言われても説得力はないかもしれないが、自分で考えても分からないのなら他人を頼るのも一つの手段だぞ」

 

 ポフポフとなぜられた頭に手を乗せてみると、ほんのりと俺のものではない熱が残っていた。

 これが人に頭を撫でられる感触か。そういえば、撫でることはあっても撫でられた経験はとんとない気がする。

 

「一人でなんでもこなそうとする人間はつい抜け落ちてしまう選択肢だ。俺も昔はよくそれで失敗した」

 

「……全然想像も付かないです」

 

 この完璧超人が失敗する姿とか想像できない。一般に無理とされることだってこの人なら平然とやってのけそうだ。

 

「失敗だってするさ。俺も君たちと同じ人間だ。だから、失敗したらした分だけ人を頼りなさい。分からないなら一緒に考えてもらうといい」

 

 きっとその繰り返しで皆大人になるんだから。

 そう言い残すと、俺から対先生ナイフを受け取って、烏間さんは校舎に戻っていった。一人残された俺は、体育教師の言葉を静かに噛み砕く。

 自分の問題なんだから、自分一人で解決するべきだと思っていた。自分の失敗で人を頼るのは悪だと思っていた。

 けれど、そうか。頼ってもいいのか。

 人に諭されないと頼ることすらできないとは、相変わらず俺の思考はどこかおかしい。

 ククッと喉を鳴らして、踵を返して学校を出る。人生で数えるほどしかやったことはないであろう“頼る”という行為をするために。

 一度頼ろうと考えると、案外頼りになる相手はあっさり浮かんでくるものだ。こと人間関係に関しては、俺の何十倍もそつなくこなす奴がずっと近くにいるのだ。

 使う予定のなかったスマホを取り出して、おそらく一番かける番号に電話をする。わずかツーコールで出たことに、やっぱり心配させてたんだなぁと思わず笑ってしまう。

 

「小町、今から帰るから」

 

 まずは連絡を。

 

「それと……相談がある」

 

 

     ***

 

 

「はああぁぁぁ……」

 

 頼りになる妹に相談したら盛大なため息が返ってきました。

 たぶん目に入れても痛みを我慢できる最愛の妹はオレンジのエプロンをつけたまま――かわいい――ソファにもたれかかると、「まあ、お兄ちゃんだからね」と憐れみの目を俺に向けてくる。やめて! お兄ちゃん何かに目覚めちゃいそう!

 一応言っておくが、事実を一から十まで説明するわけにはいかないので、誤魔化しはぐらかしで要点だけ伝えたが、妹君にはそれで十分だったようだ。ちょっと安心。

 

「お兄ちゃんって、頭そこそこだけど対人関係になるとほんとポンコツだよね」

 

「自覚はしてる」

 

 そうじゃなければ十六年もぼっちをやっていない。そしてこの妹は、そんな俺の相手を十三年もしているのだ。相談相手としては経験値がずば抜けている。

 

「小町は妹だからさ、お兄ちゃんがそういうことやっても、まあ納得はするんだよ。あー、またこの人はバカなことやったなぁって笑い話にできる。

 ……それで、ちょっと悲しくなる」

 

 言葉じりをかすかに湿らせながら、俺の肩に頭を乗せてくる。

 

「ただまあ、お兄ちゃんがやったことが、一概に間違いなわけじゃないって、小町は思うな」

 

「そう、なのか?」

 

 間違えたから今の現状なのではないのだろうか。俺は正解を探しているわけではないのだろうか。

 

「そもそも人同士で正解なんてないんだよ。前の正解が次は不正解になるかもしれないし、減点になるかもしれないの。テストの問題とは違うんだよ?」

 

 ゴールのない問題。面倒臭いことこの上ない。けれど、目の前の妹や、E組のあいつらを見ていると、そういうものなのかなと納得もしてしまう。

 

「まあ、お兄ちゃんは他にも勘違いしてるっぽいけど」

 

「勘違い?」

 

 首をかしげる俺に小町はコホンと咳払いをすると、「たとえばさ」と指を一本立てた。

 

「小町がお兄ちゃんのために誰かと喧嘩したら……」

 

「嫌だ、ダメだ、全力で止める」

 

 当然の答えを口にすると、なぜか一歩分距離を取られた。なんでちょっと引いてるのん?

 

「即答……、まあいいや。逆でも小町は嫌だし、ダメだって思うし、できるなら止めるよ。ほら同じ」

 

「あ……」

 

 同じ。その単語で不意に小町の言っていた“勘違い”の意味が分かった。

 ――一つ、俺と他の皆の違い。

 この問いの答えは、実際に違いを探すことではなかったのだ。俺は他人ではないから違う。全然違う。けど同じなのだ。俺も、小町も、烏間さんも、イリーナ先生も、元とはいえ殺せんせーも。

 そしてあいつらも。等しく同じ人間なのだから。

 俺が嫌なことはあいつらだって嫌だし、俺がダメだと思うことはあいつらにとってもダメなのだ。

 

「お兄ちゃんが小町のためならなんでもすることは小町がよく知ってるし、そのお兄ちゃんが弟や妹みたいに思っているE組の人たちのためならなんでもするっていうのも、小町は理解できるよ」

 

 小町は妹だからね、と照れくさそうに頬を掻いていた妹は、神妙な面持ちになるとずいっと顔を近づけてきた。

 

「でもね、きっと他の人には理解できないの。なんでお兄ちゃんがそんなことまでするのか訳分かんないんだよ」

 

 勝手に何人も弟とか妹作ってきたのは小町的にポイント低いけどね、とかわいらしい鼻を小さく鳴らす小町をよそに、その言葉を考える。

 俺が嫌だと思って渚の肩代わりをして、でも俺がそれを肩代わりすることは渚を含め皆にとっても嫌なことで。俺がどうしてそこまでしたのか、あいつらには理解ができなかった。それは理解できた。

 しかし、しかしそれなら……。

 

「……じゃあ、俺はどうすればよかったんだよ」

 

 寺坂がやったように渚を止める。それも一つの選択だっただろう。しかし、やはり渚が鷹岡に百パーセント勝てる可能性はなかった。むしろ勝率は半分以下だっただろう。そんな状態で渚を冷静にさせるだけなんて、俺にはきっとできない。仮に時間を戻して何度あの場面に戻ったとしても、渚が勝てたのは結果論でしかないのだから。

 

「っ!? ッツー……」

 

 再び思考の海に没入しそうになる俺の額に、ペチンと何かが弾けた。ヒリヒリする額をさすりながら犯人である妹に焦点を合わせると、当の小町はやれやれと肩をすくめていた。

 

「さっき言ったでしょ? これは答えがないんだって。ひょっとしたら皆が皆納得できる方法もあったかもしれないけどさ、そんなの探したって後の祭りだよ。

 お兄ちゃんが考えてることで大事なのはね。“そのとき”どうすればよかったのかじゃなくて、“この後”どうすればいいのか、なんだよ?」

 

「この後どうすべきか……か」

 

 結局、今回のすれ違いは俺の対人耐性のなさ、そして俺とあいつらの互いの理解が足りなかったから起こったこと、なのだろう。出会ってまだ二ヶ月程度で俺と小町のように理解しつくすことなんて無理だが、俺がもっと積極的に交流して、少しでも互いの理解を今より深めていたら、あるいは今のこの悩みは存在しなかったかもしれない。

 それをふまえて“この後”どうするか。

 

「あいつらともっと話し合う、か」

 

「そうだね。E組の人達ってみんないい人みたいだから、ちゃんと話せばきっといろいろ答えてくれるんじゃないかな?」

 

 取り返しがつくのなら、次に活かせばいい。大事なのは次に何をやるかなのだから。

 あの時ガキ大将に自分で言った言葉を、自分で実行できないのでは意味がないな。小町にそのことを話すと、「お兄ちゃんは自分のことになると妙に視野が狭くなるときあるからね」と笑われてしまった。うーむ、鈍感である自覚はないのだが、どうやらそういうときがあるらしい。ぼっちはむしろ敏感で過敏なはずなんだけどなぁ。

 

「後はもう一つあるよ。お兄ちゃんがその『妹弟のためになんでもする』ってスタンスをなくすこと……」

 

「その提案は承服できねえな」

 

 即答だった。自分でもびっくりするくらい早く口が動いた。しかし、それも当然だろう。小町のために、あいつらのために動かない。それはきっと、俺にとって死ぬことより辛いことなのだ。比企谷八幡にとって、実の妹は、あいつらは、きっと命より大事な存在だから。

 

「まあ、そうだよね。お兄ちゃんはそう答えるよね」

 

 にひっと、少し残念そうに笑った小町は不意に後ろを振り向いて、ごそごそと何かを取り出しながら「そういうことみたいですよ」と口を開いた。

 不思議に思って彼女の手元をのぞき込むと、そこにあったのは俺のものと同じタイプのスマホで、その画面にあったのは――

 

「そうですね。それはきっと、八幡さんの“絶対に変わらないところ”なんでしょうね」

 

 LINEの画面にズラリと並んだE組生徒のアカウントと、そこから流れてくる律の声だった。

 

「お前ら……」

 

 ――ピンポーン。

 驚きのあまりほとんど声も出せないでいると、来客と知らせるチャイムが鳴る。小町に出るように促されて玄関の扉を開けると――

 

「ま、磯貝と比企谷の共通点って言ったら『妹がいる』ってとこだよなぁ」

 

「寺坂はアホ毛がどうとか言ってたけどね」

 

「うるせぇ! 間違っちゃいねえだろうが!」

 

 磯貝も中村も寺坂も、二十六人全員がそこにいた。

 

「実は一昨日くらいにさ、律さんからLINEで友達申請が来たんだ。なんでもない話をしてたんだけど、ほんとはお兄ちゃんのこととか聞きたいんじゃないかなって思って、お兄ちゃんから電話があってから他の人達も一緒にグループを作ってもらったの」

 

 ということは、今までの会話はずっとここにいる全員に筒抜けだったわけだ。実の妹を睨むが、「どうせお兄ちゃんのことだから、面と向かって話そうとしたらまた面倒くさいことになりそうだからね」なんて言われたら反論も許されない。さすが八幡検定免許皆伝、俺以上に俺を理解している。

 

「はっちゃんは重度のシスコンだからね。きっと何かあったらどんな時だって無茶しちゃうんだろうな」

 

「あの時自分のこと『めんどくさいやつ』って言ってましたからね」

 

 倉橋が困ったように頬を掻き、片岡は腕を組みながら小さく息をつく。

 

「それも全部ひっくるめて“仲間”って言ったんだから、理解していくしかないでしょ」

 

 持っていた袋を肩にかけながら菅谷は笑う。他の皆もしょうがないなとか口にしながら笑ったり、ため息をついたり、そっぽ向いたりしている。

 

「けどさー、今後やるなら一人は無しだよ? 俺もやらせてくれたら許すかなー」

 

「「「「いや、それはない」」」」

 

 ケケケと笑う赤羽に皆からのツッコミが入って、また笑いが起こって。そんな中で、一歩踏み出す影があった。

 

「私さ、思ったんだ。比企谷君って物語の途中で仲間になる敵キャラみたいだなぁって」

 

 いつものように漫画に例えて話す不破の言葉に、ただただ耳を傾ける。真剣な瞳の奥に、少しだけキラキラしたものを潜ませた彼女は、だいぶ日が暮れて群青色の闇がたゆたい始めた空を見上げて言葉を続ける。

 

「主人公たちの組織には入ってるけど、どこかアウェーな感じを出してて、主人公たちとは別なものを見てる。それで最初はよく主人公と衝突しちゃう」

 

 はたから見るとちょっと面倒くさいやつな、と返すと、同意を笑みを浮かべてくる。途中参加キャラというのは決まって二パターンだ。驚くほど順応する奴か、衝突を繰り返してなかなかなじめない奴か。なるほど、そう言われれば確かに俺は後者に違いない。

 納得して苦笑する俺に、でもさ、と不破は人差し指を立てる。

 

「そういうキャラがそうして衝突を繰り返しながら少しずつ溶け込んでいくのって、すっごい熱いと思うんだよ」

 

 面倒くさいからこそ、本当に仲間になった時の感動は大きい。それは確かに、とても熱い展開に違いなかった。

 

「そんなキャラクターみたいにさ、比企谷君ともいつか、本当の仲間になれる過程だとしたら、私はこういう衝突も悪くないのかなって思うな」

 

 辛いことも、失敗も、全部最後の成功のためだと思えば熱さへのスパイスだ。成長型主人公の多い少年漫画好きらしい思考に、俺は無言で頷いた。

 少年漫画のようなにかっとした笑みを浮かべた彼女は少し後ろに下がって近くにいた一人を連れてくる。

 

「比企谷君……」

 

「矢田……」

 

 お腹のあたりで両手を指を絡ませている矢田は、俺の足元をじっと眺めたままチャームポイントのポニーテールを小さく揺らす。モゴモゴと口の中で言葉を転がす音がかすかに聞こえた後、ゆっくりとその顔を上げた。

 

「私もさ、弟がいるから、あの時比企谷君が無茶した理由も、今なら少し分かる」

 

 けど、と喉の奥を湿らせて、必死に涙をこらえながらも、彼女は必死に言葉を続けた。あの時涙で言えなかった分も、全て伝えようとするように。

 

「やっぱり私達のために比企谷君が無茶するのは嫌だし、怖いよ……」

 

「……すまん」

 

 俺にはそれくらいしか返せる言葉がなかった。彼女が悲しむことが分かっていても、きっと俺は動かないことはできないから。

 

「ん、いいの。これからもっと比企谷君のこと理解して、小町ちゃんみたいに『しょうがないな』って言えるようになるから。どれだけかかるか分からないけど、きっとなるから」

 

 今にも溢れそうになる雫を隠すように下を向いた彼女にどう言葉をかければいいか、俺には分からない。言葉は見つからないから、そっとその頭に手をのせて、きれいにまとめられたポニーテールが崩れないようにそっと頭を撫でた。

 

「へへ……、こうして撫でられてると、本当にお兄ちゃんみたいだね」

 

 指で涙をぬぐって、ようやく笑みを浮かべた矢田に心が少しだけ軽くなる。妹に泣かれるのは、お兄ちゃんの心労にちょっと悪すぎるのだ。

 

「じゃ、そろそろ皆入ろうぜ!」

 

 杉野がジュースが入っているらしいビニール袋を抱えて前に出ると、他の奴らもぞろぞろと屋内に入っていく。小町の許可は取っているのだろうが……。

 

「お前らなんでそんな荷物いっぱい持ってるんだ?」

 

 皆ジュースとかお菓子とかの袋をそれぞれ持っている。神崎はタッパーがいくつか入ったバッグを下げているし、原に至っては生鮮食品をエコバッグいっぱいに抱えていた。倉橋が持っているのは……近くのケーキ屋の箱?

 

「え、だって今日って、比企谷君の誕生日じゃないんですか?」

 

「は? ……あっ」

 

 渚に言われて慌ててスマホのホームボタンを一回押す。でかでかと表示されたデジタル時計の下には、小さく八月八日を知らせる表示がされていた。

 

「ほーんと悩みだすと視野が狭くなんのな」

 

「こんな兄貴は頼りなくて、弟分は心配だぜ」

 

 村松と吉田がからかってくるが、まったくその通りだ。自分の誕生日を忘れるなんて、フィクションの世界の出来事だと思っていたが、まさか自分がやらかすなんて思ってもみなかった。いじられても仕方ない。

 …………いやごめん。やっぱいじられるのは不服だわ。妹分なら「ちょっとうぜえ」程度で済むが、弟分にやられるとちょっと青筋立ちそう。

 立ちそうというか、もう半分くらい立っていたので、ゴスッと二人の頭にゲンコツを入れておいた。まああれだぞ? めっちゃ手加減してだから。暴力じゃないから。じゃれあいじゃれあい。

 

「「いてえっ!?」」

 

「いいから早く入れ。扉閉めるから」

 

 シッシッと二人を追いやって扉を閉める。鍵を閉めてから、皆が向かったはずのリビングに俺も向かおうと振り返って――一人だけ残ってじいっと俺を睨んでいる速水と目が合った。

 

「…………」

 

「…………」

 

「……なあ」

 

「私……」

 

 沈黙に耐え切れずにあふれた声を、いつもより少し大きめの彼女の声がかき消した。睨んでいるというよりは決意をしたような瞳で俺を見つめる彼女は、E組の中では少々抑揚に乏しい声で宣言するように俺に伝えてくる。

 

「やっぱりどんな理由だって、あんたに人殺しなんてしてほしくない。無理もしてほしくない」

 

 俺が汚れ役を引き受けるのも俺がつらい思いをするのも、こいつは見たくないから。だから速水は親指と人差し指を立てて銃の形を作り、人差し指の銃口を俺に向けてきた。

 

「だから、次あんたが引き金を引こうとしたら、その前に私が引くよ」

 

 …………ああ、なるほど。これがこいつらがあの時抱いた感情か。

 これは、確かに嫌だ。こいつに責任を押し付けて自分は何もしない、できないなんて、そんなの嫌に決まっている。

 

「……千葉の兄貴舐めんなよ? お前がやろうとしたらその前に俺がやってやる」

 

「それじゃいたちごっこだよ」

 

 呆れたように表情をほぐれさせた彼女は、靴を脱いで上がった俺に並んで廊下を歩く。その間、俺たちの間に会話はない。けれど、数日前にやっていたら苦痛だったその沈黙は、今は自然と居心地悪くはならなかった。

 俺がこんな性格をしている以上、きっとまたこいつらを悲しませる。きっと何度だって俺は悩む。その時は、また考えを、想いをぶつけあおう。そして最後はしょうがねえなって笑おう。

 いつ来るかわからないその時に想いをはせながら、比企谷家にしてはやけに騒がしい扉を開く。

 今はとりあえず――

 

「「「「ハッピーバースデー!!」」」」

 

 人生初めての騒々しい誕生日を楽しむのも悪くはない。

 皆が持ち寄ったり、腕に自信のあるやつらが台所を借りて作った料理や飲み物、お菓子を摘みながらこの一週間の話や残りの休みの予定、宿題の話をしたり、赤羽がロシアン餃子を作らせたり、この場にいない律のことを小町にごまかしたりして、中学生が出歩けるギリギリまで即席の誕生会を楽しんだ。もちろん、一般人の小町がいる前でできる話は限られているので、暗殺の話なんかはこの後LINEで延々と交わされるだろう。

 

 

 

 人間関係なんて面倒くさい。俺自身が面倒くさい性格をしているのだから、きっとそれは死ぬほどの苦痛だと、ぼっちの俺はずっと思っていた。

 実際に経験したそれは紛れもなく面倒くさいもので。しかしそれは、思ったよりも心地のいいものだった。悩むことすら少し楽しい。止まることのないLINEの履歴を眺めながら、ぼーっとそんなことを考えていた。




当初の予定では、普久間島にいる間に磯貝を主軸にこの結論までもっていくつもりでしたが、ここは原作の小町のセリフを流用したいなと思ってちょっと話を捻じ曲げました。

鷹岡のところでの八幡の行動を考えていて、結局この問題は皆がすっと納得する結論は出ないんだろうなと思いました。八幡にも言い分があるし、E組にも言い分があるし、結局どこかでどちらかが折れるしかないんだよなって。そうなると、たぶんこういう点で折れるのは八幡じゃなくてE組の皆なんですよね。妹たちのために動けない八幡なんて存在しないから、多分約束してもその場面になったら八幡は無理をしてしまう。だから、八幡は約束は絶対しないと思うんです。
それは八幡らしくない、という意見もあるかもしれませんが、基本的にこのシリーズの八幡は程度は違えど常時小町を相手しているような感じなので、そこが原作の八幡と違ってしまうのは仕方がないのかもしれません。殺せんせーに手入れもされていますからね。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

それはきっと懐かしい味で

 長期休暇というのはなかなか侮れない。一週間弱のゴールデンウィークでもだらけてしまうというのに、一ヶ月もある夏休みなんて生活リズムが崩れないわけがないのだ。

 それは俺とて例外ではなく、一学期の平日は規則正しく生活をしていた模範生たる比企谷八幡も惰眠を貪ってしまうのである。夏休みめっちゃホリデイ。

 瞼の裏はうっすらと明るくなっていて、たぶんもういい時間なんだろうなということは理解しているが、それはそうとてフカフカベッドでゴロゴロしていたい。冬ほどではないが、やはりオフトゥンは俺の恋人だ。全人類の恋人まである。

 

「おーい……起きてくださいよ~」

 

 なにやら少し遠いところからあざといボイスが聞こえてくる気がするが、きっと気のせいだろう。やはり眠くて幻聴が聞こえているみたいだから、瞼を閉じるだけではなく意識をしっかりとシャットダウンしたほうがいいかもしれない。

 

「八幡さ~ん、もうすぐお昼ですよ~?」

 

 いや、幻聴にしては嫌にはっきり聞こえてくる。というか、間違いようもなく律の声だった。お前はいつの間に俺の目覚ましになったのん?

 律が言うにはもうお昼時のようだが、ほとんど外出しない俺にとっては休日に朝も昼もさして関係ないのである。だから寝る。今日のトレーニングは夕方くらいにすればいいや。

 腹にかけていたタオルケットを被りなおして寝なおそうと声の方向に背を向けると、「う~」となんともあざとい声が聞こえてくる。ほんとお前のそのあざとい言動はどこから“学習”してくるのか。やはり竹林なのか?

 まあ、そんなこと気にしていては安眠はできまい。布団に頭を沈み込ませて多少ぼやけてきた意識を手放す――

 

「せんぱ~い、早く起きてくださいよ~。一緒に遊びましょうよ~」

 

「っ!?」

 

 ことはできなかった。突然右耳に飛び込んできた囁き声に全身の毛がゾワリと逆立ち、思わずベッドから跳ね起きた。声のした方向に首を動かすと部屋の反対側、机の上に置いていたスマホが淡い光を発している。のそりとベッドを降りて画面を確認すると、当然というべきか隣の席のAI娘がにぱーっと笑いかけてきた。

 

「あ、やっと起きましたね。おはようございます、八幡さん」

 

「……おう」

 

 未だにゾワゾワの名残がある右耳をさすりながら短く返す。こうして聞いている分には普通の声なのだが、さっきの声はまるで本当に耳元にいるかのような聞こえ方だった。それは決して俺の錯覚や偶然ではないようで、当の本人はいたずらが成功した時のようにクスクスと笑いを漏らしている。

 

「どうでしたか八幡さん! バイノーラル技術の応用で、この距離からまるで囁いているような音声をお届けしてみました!」

 

「……それ、俺はどういう反応をすればいいの?」

 

 そもそもそれはスマホがすごいのか、それとも律がすごいのか。いやまあ、この技術を応用すればひょっとしたら色々暗殺に使えなくもなさそうなのだが……。

 まあ、それは置いておいて、とりあえず言いたいことが一つある。

 

「お前に“せんぱい”なんて言われると違和感しかないな」

 

 というか、たぶんE組の奴ら全員、先輩なんて呼ばれたら違和感バリバリだろうな。俺の反応がお気に召さなかったのか、律はプクーと頬を膨らませて、人差し指を頬に当てて何か考え事を始めた。

 

「…………」

 

「…………」

 

「じゃあ……お兄ちゃん……とかですかね?」

 

「電源切るぞー」

 

 スマホの側面についている電源ボタンを長押ししようとすると、慌てたように謝ってきた。まったく、俺のことを「お兄ちゃん」と呼んでいいのは小町だけなんだぞ?

 

「むぅ……私たちのことは妹や弟って思ってるんじゃなかったんですか……?」

 

「妹分と妹は全然違うだろうが」

 

 その言い分は否定しない。多少あざとくてうざいと思うこともあるが、律だってかわいい妹分だ。

 ま、妹分はあくまで“分”なわけだが。

 それにしても、律のせいで完全に目が覚めてしまった。もう二度寝をする気分でもないので、食事を取るために一階に降りると人の気配はなく、リビングのテーブルに丸文字の書き置きがされていた。

 

『お兄ちゃんへ! 小町は陽菜乃と桃花さんと一緒に遊びに行きます! 未来のお姉ちゃん候補との交流を欠かさないなんてお兄ちゃん的にもポイント高いね!

 P.S 冷蔵庫に食べるものがないから、どこかで食べてきてね。ついでに買い物もしてきてください!』

 

 …………。

 ……なんだろう。実の妹が楽しそうにクラスメイトと交流をしているようで微笑ましい反面、よくわからん候補が小町の中で選定されているようでちょっと怖い。実の妹が何考えているのか分からないのは割と怖い。あいつちょっとおバカなところあるからなぁ。おバカの思考のトレースはなかなか難しいところがあるのん。

 

「つうか、飯ないのか」

 

 試しに冷蔵庫を開いてみたら、キャベツしか入っていなかった。塩でも振りかけてポリポリしようかとも考えたが、さすがにそれは侘しすぎる。幸いマッカンはあったので、プルタブをカシュッと開けて茶色い液体を流し込んだ。暴力的な甘さが喉を濡らして、糖分が急速に脳細胞に行き渡る錯覚に陥った。うん、錯覚。糖分は脳みそちゃんのベストフレンズではあるが、そんなにすぐにお届けできたりはしない。バナナの糖分だって五分くらいかかるらしいからな。

 まあしかし、白米一杯分のカロリーを有する千葉の水、マックスコーヒーを飲んだことでとりあえずの栄養は確保できた。

 ジョギングがてら適当に飯でも食いに行くかとスポーツウェアに着替えて、スマホと財布だけを持って玄関を出た。適当に足先にひっかけていたシューズを履きなおして地面につま先を打ち付け、履き心地を確かめる。ほぼ毎日走ったり訓練で使っているせいもあってだいぶクタクタになってきているようだ。買い替えを検討したほうがいいのかもしれない。

 

「ちゃんとストレッチしなきゃだめですよ~?」

 

「わかってるよ。お前は俺のかーちゃんかよ」

 

 スマホに取り付けたイヤホンを耳にはめると、居座ったままだった律の声が響いてきて、それに従ったわけではないが入念にストレッチをする。

 ある程度体をほぐしたら、まずは歩くぐらいの速さで地を蹴る。徐々にスピードを上げていくと、身体が慣れたスピードのところで自然と加速が止まり、一定のリズムで靴底が地面を踏みしめるタッタッタッという音と風が耳介を撫ぜる音だけが鼓膜をくすぐるようになった。

 

「今日はどれくらい走りますか?」

 

「帰りに買い物するから片道で十キロってとこか。走り終わったあたりでラーメン屋があるとベスト」

 

 イヤホンから聞こえてきた声に要望を伝えると、「それではナビゲートしますね」という返事の数舜後にポケットに入れていたスマホが一回ブルッと震えた。取り出して画面を見てみると、いつのまにか地図アプリが起動していて、正確に家から十キロ程度の地点までのルートが設定されているのが見える。

 

「……そんなところにラーメン屋なんてあったか?」

 

 はて、近くの美味いラーメン屋は大体回ったと思っていたが、到着地点に設定されている場所は記憶にない。しかし、律が言うには確かにここにラーメン屋を検出したらしい。世界最高峰のAIがそういうのなら間違いないだろう。スピードを緩めることなく、律の案内でその場所を目指すことにした。

 

 

 

「八幡さん、ここが十キロ地点です」

 

「……ふう」

 

 律のアナウンスでスピードを緩め、すぐには止まらずにゆっくりと歩き続ける。少しずつ体力もついてきて、今だと十キロ四十分前半くらいだ。首にかけていたタオルで汗を拭うと、周囲を見渡してみる。

 住宅街のど真ん中、夏休みだがあまり人の気配を感じないそこは俺もあまり来たことのないところだった。しかし、こんなところに本当にラーメン屋なんてあっただろうか――

 

「あっ」

 

 あった。二階建てになっている立方体状の建物。住居と一体になっているらしいその一階の大きな引き戸には赤いのれんが掲げられていて、窓ガラスには渦巻き模様に装飾された紛れもないラーメンの文字。

 『松来亭』まごうことなきラーメン屋だった。ラーメン好きを自負する俺が知らないということは、チェーン店ではなく個人経営の店舗なのだろう。くすんだ壁や店名がわずかにかすれたひさしはよく言えば趣があって、悪く言えばぼろっちぃ。

 

「ゲッ」

 

 そして見つけた。ちょうどその店内から出てきた長身の少年。黒いTシャツにグレーの前掛けを腰につけて、髪を覆うように頭にタオルを巻いた姿は、それが客ではなく従業員であることを明確に証明していた。

 

「村松か。バイトでもしてんのか?」

 

 その少年、村松拓哉は一度バンダナ代わりのタオルを外すと、再び結び直して首を横に振った。

 

「いや、ここ俺んちなんだよ。うち、ラーメン屋」

 

「……マジか」

 

 まさか俺の大好物を供給している人間が、こんな近くにいようとは。そういえば、この間の誕生日のときにこいつも台所使ってたな。

 何を隠そうこの比企谷八幡、マックスコーヒーとラーメンがあれば他の食料は何もいらないまである無類のラーメン好きである。三食ラーメンでもいいくらいにはラーメンが好きである。いや、小町の食事はもちろん食べたいです。あとミラノ風ドリア。

 

「じゃあ、せっかくだし食べてみようかな」

 

 そもそもここをゴール地点に設定したのはラーメンを食べるためである。マッカンでエネルギーチャージをしたとはいえ、さすがのマッカンも腹持ちはよくない。身体を動かしたこともあって既に胃袋は空腹を訴えていた。

 

「え、マジで?」

 

 しかし、なぜか店員少年は暖簾をくぐろうとする俺に渋い顔をする。え、食べちゃダメなの? 俺はお客として来ちゃいけないの? なにそれ、八幡泣きそう。空きっ腹に蜂である。八は俺のほうだけどな。

 ネガティブな思考に少し目を腐らせていると、村松がため息をついて中に促してきた。店内は厨房を囲うようにカウンター席があるだけのシンプルなもので、鶏ガラの匂いがかすかに鼻をつく。ん? ラーメン屋にしちゃあスープの匂いが薄い気が……。

 近くの席に座った俺を見て、村松は麺を一玉掴みながらぼやいた。

 

「別にいいけどよ、うちのラーメン……マズいぞ?」

 

「???」

 

 ラーメンのマズいラーメン屋って……なんだ?

 

 

     ***

 

 

 器から立ち上る湯気。鶏ガラに醤油の匂いをまとわせた真っ白なそれの先にはうっすら金色のスープに浸された麺。その上には白ネギと海苔、チャーシューそしてナルトが乗っていた。

 麺を持ち上げてみると細いストレート麺で、わずかにスープを表面に抱えて輝いている。

 箸とレンゲで麺を掬い、入念に呼気で熱を冷まして――ズゾゾ、とすすり上げた。

 …………。

 ………………。

 …………?

 

「…………」

 

 なんと言えばいいんだろうか。いや、今の感想を表す的確な言葉を俺は知っているのだが、さすがに店でこれを口にするのは……。

 

「正直に言っていいぜ、マズいってさ」

 

 無言の俺に村松が苦笑する。どうやらこの松来亭、店主である彼の父親がいくら指摘しても全くレシピを改良しようとしないらしい。

 確かに鶏ガラベースのダシは明らかに鶏ガラだけでは足りない部分を化学調味料で補おうとしているのがもろ分かりだし、チャーシューはカップ麺かというくらい薄い。お世辞にも美味い、とは言えない代物だ。

 

「というか、これって昭和のラーメンだろ」

 

 いや、もはやラーメンというか中華そば。元々ラーメンという食べ物は中華麺をそばのつゆにつけたのが始まりだという。その証拠が元々そばの具に使われていたという、このラーメンの中央に堂々と置かれたナルトだ。昭和も昭和、四世代は前のラーメンだろう。

 当時は高栄養価でもてはやされていた中華そばだが、今と比べるとその味は「マズい」の一言に尽きるらしい。そもそも、全国何十件何百件のラーメン屋が日々味や食材を研究している中で、戦後間際の味が戦うのは厳しいだろう。

 

「むしろよく今まで生き残ってたな」

 

「ま、そこは別の方向でなんとかな」

 

 サービスだと出された餃子を一瞬躊躇して一つ摘まむ、軽く酢醤油につけて口に運ぶ。皮の中に隠れていた餡が口の中でホロリとほぐれて、ジューシーな肉汁とニラの風味が口の中から嗅覚を刺激してきた。

 

「うめえ……」

 

 いやマジでめちゃくちゃうまい。他のラーメン屋と比べても遜色ない、むしろ一歩抜きんでているのではないかと思うほどの味だ。なるほど、確かにこの味ならラーメン抜きでも来たくなるかもしれない。

 

「ラーメンの改良だけはなかなかやってくれねえけど、サイドメニューは色々手を加えさせてもらってんだわ。俺が継ぐまで潰れてもらっちゃ困るからな」

 

 どうやら触手担任から将来的に経営の勉強をしないかと勧められているらしい。跡を継いだ時に新しい味を活かせる経営手腕を持てるように。本格的に暗殺に関わるのは俺よりも遅かったこいつだが、なんだかんだ超生物にしっかり手入れをされているらしい。

 

「じゃあ、新生松来亭を楽しみに待っておかないとな。千葉に美味いラーメン屋が増えるのは大歓迎だ」

 

「ちぇっ、ラーメン好きの兄貴に言われたら益々潰せられねえなぁ」

 

 カウンターを挟んで二人してククッと喉を鳴らす。残っていた麺を啜ってやっぱりマズいと思いつつも、今じゃ逆になかなか食べられないものを食べられたという意味では、店主である村松の親父さんには感謝するべきかもしれない。そう思って、今一つ味気ないスープを飲み干した。

 

「ごちそうさん」

 

「おう、お粗末さん」

 

 

     ***

 

 

 それから数日後。俺はまた松来亭に来ていた。

 この間は村松一人だけだったが、今日は大柄な店員がもう一人、おそらくこの人がこいつの親父さんで、この店の現店主なのだろう。

 

「よっ、村松。ラーメン一杯」

 

「え、またラーメン食うのか? マズいだろ?」

 

 思わず口をついて出たらしい村松の頭に垂直に拳が落とされた。中指の第二関節が突き出されていて、鈍い音が店内に響く。痛そう。

 

「なーんか、無性に食いたくなったんだよ」

 

 確かにマズいし古いラーメンなのだが、ふと思い出したら食べたくて仕方なくなってしまい。気が付いたらジョギングがてら足を延ばしていた。あれかな、身体に悪そうなジャンクフードでもどうしても食べたくなることがある的な奴。ひょっとしたら、この店が生き残っている理由はサイドメニューの改良だけが理由ではないのかもしれない。

 

「ほれ見ろ拓哉! こうしてまた来てくれる客がいるんだから、味は変える必要なんてねえんだよ!」

 

 未だに痛むらしい頭を抑えている村松の背中をバシバシ叩きながら親父さんは豪快に笑う。多分うちの親父と同い年くらいだと思うが、めちゃくちゃ元気そうだな。

 

「あー、分かったから叩くのやめろよ! ラーメンの用意できねえだろ!」

 

 ぶーたれる村松は手を払いのけて湯で湯の前に立つと麺を二玉掴んだ。

 なぜ二玉なのかと疑問に思っている間にサッと湯切りを行い、用意していた二つの器にそれぞれ流し込んだ。お待ちどう! とその器が二つとも俺の前に差し出される。一つは松来亭のオーソドックスなラーメン。そしてもう一つは具の乗っけられていない麺とスープだけのものだが、スープの色が明らかに違う。匂いからして醤油ダレを使っているようだが、鼻をつくのは豚の風味だ。

 

「試作で作ってみたスープなんだけど、比企谷ってラーメンについては細かそうだから感想聞かせてくれよ」

 

 なるほど、これは村松が作ったスープなのか。割り箸を取り出して二つに割り、麺持ち上げてみる。火傷しないように麺を冷まして、一気に啜り込む。ゆっくりと咀嚼して飲み込むと、今度はレンゲを使ってスープを飲んでみる。豚骨……とは少し違う豚のダシが舌の上で転がされて、後からネギの風味が追いついてきた。

 

「豚足をベースにダシを取ったんだけど、いまいち納得できなくてな。どうだ?」

 

 なるほど、少し豚骨と違うと思ったのは部位が違ったからか。なかなか美味いが、確かに今一つ「美味い!」と言い切れない。

 

「もう一歩味に深みが欲しい……かな? シイタケとか昆布、煮干しあたりで旨味に多重感を持たせるとか、豚の別部位も入れてベースを深くするとか、単純にニンニクとかを入れるのもありかもしれない。今はベースのメインが豚足だけで突出してる感じがするから、もっといろいろ野菜を入れるのも――」

 

 呟きながら思考をまとめている途中で両肩をいきなり掴まれた。顔を上げると腕を振るわせた村松がいて――

 

「比企谷!」

 

「おう」

 

「いや、兄貴!」

 

「……おう?」

 

「いえ、師匠と呼ばせてください!」

 

「……は?」

 

 突然訳の分からない呼称で呼ばれて固まってしまった俺をよそに、村松は食材を買ってくる、と店の奥に消えた。残ったのは豪快に笑う親父さんと首をひねるしかない俺と、目の前のラーメンで。

 仕方がないのでラーメンを啜ってお茶を濁すことにした。

 うん、やっぱり美味くはない。

 だけど、少し懐かしい気がする味だ。

 

 

「八幡さん! 見ているだけなのは嫌なので、私も味覚エンジンが欲しいです!」

 

「…………ノルウェーの開発者に聞いてみたら?」

 

 当然暗殺には全くの不要ということで却下されたらしく、いじける律をなだめることになったのはまた別の話だ。




八幡はラーメンに関しては天性の舌を持っているとかそういう才能(願望
というか、村松に師匠って呼ばせたかったという理由で書いたまであるお話でした。

ラーメンは好きなのですが、さすがに調理に関してはからっきしなので、いろいろサイトとか調べてました。TOKIOのラーメンとか。

いっそのこと八幡と村松が最高のラーメンを作る話とかいいのではないだろうか(暴論

松来亭のラーメンは4世代前ということで、だいたい戦後直後の中華そば的なラーメンじゃないのかなと思っています。当時の中華そばを懐かしんで今食べると吐きそうなほどまずいってどっかの漫画で呼んだ記憶がありますし。

そういえば、4/1はエイプリルフールでしたね。昨日投稿が終わってから思い出しました。なんかエイプリルフールネタを仕込んでおけばよかったなぁと思わなくもないですが後の祭り。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

知りたいという気持ちは皆同じで

 人間が駆け回る足音と銃声がそこかしこから聞こえてくる。敵か味方か、どちらが発している音かはわからない。地雷が弾け、手榴弾が爆裂する戦場の中、一際大きい茂みの中に身を潜ませ、息を殺す。隠ぺい率を上げるために戦況を把握できる無線をあえて切り、浅く呼吸をしながらただじっと周囲の音に、気配に意識を集中させる。

 近くにいるのは四人。いや今三人になった。一人は身を隠しながらじりじりと相手陣地の方角へ進んでいて、もう一人は挙動不審に同じ場所で立ち往生している。足音がおかしいのはおそらく負傷しているからだろう。

 そしてもう一人は――多少周りを警戒しつつもこちらの陣地に駆けてきている。

 …………よし。近くにいる敵は二人だ。

 茂みの中で音を殺して方向転換をし、厄介な方、ほぼ無傷でこちらに向かってくる音の方角に視点を合わせる。地べたに這いつくばって構える獲物はワルサーWA2000。自動式ながらボルトアクション式並みの命中精度を誇る狙撃銃だ。

 跳ね上がりそうになる心臓を努めて押し殺し、いつでも撃てるように照準を合わせる。敵はまだ見えない。けれど、確実に足音は聞こえてくる。焦らず、冷静に……。

 ――今!

 一瞬影が見えた瞬間、躊躇なく引き金を引いた。サイレンサーで音を殺した砲身はくぐもった音を漏らして、火花でかすかにきらめく。飛び出した三十口径マグナム弾は死の軌跡を描いて狙ったポイントに吸い込まれ、血しぶきに変わる。

 

「……Enemy down」

 

 それを確認するとすぐさま身体を九十度転換。オートマチックにより既に射撃準備の整っているワルサーを構えなおしてもう一人、足を負傷しながら立ったまま周囲を警戒している敵に向ける。自分の近くで味方が死んで動揺しているようだが、そんな射線の通る位置ではなく茂みや木の陰に隠れるべきなんじゃないのか?

 薄く笑ってしまう表情筋を抑えきれず、そのまま人差し指に力を込めた。総重量七キログラムの狙撃銃から放たれた第二の弾丸は、なんなく相手の頭部を破壊した。確認するまでもなく即死だ。

 これで自陣防衛は一段落だろう。切っていた無線をつけて戦況を確認すると、さすがうちのエースが前線で無双していらっしゃるようだ。思わず笑ってしまうと、早く援護に来いという旨の声が上がる。

 混戦には不向きなWA2000を肩に担ぎ、自動拳銃であるワルサーP38と軍用ナイフを装備して、残党のいる敵陣に向けて地を蹴った。

 

 

     ***

 

 

「ふう……」

 

 椅子の背もたれに体重を預けながら天に向けて息を吐く。机に置かれたパソコンのモニターには勝利を知らせるリザルト画面。律が「お疲れ様です!」とパソコン内から発してくる声に短く返しながら体重を前に戻した。

 

『お疲れさまです、比企谷君』

 

「おう、神崎もお疲れ」

 

 パソコンの通話ツールから聞こえてきたゲームの申し子、神崎と挨拶を交わして、ようやく彼女とプレイしていたFPSゲームのリザルト画面に目を通し始めた。

 

「さすがだな、今回もキル数トップか。トッププレイヤー有鬼子に敵はいねえな」

 

 感嘆の吐息と共に思ったことをそのまま口にすると、その名前で呼ばないでください、と抗議されてしまった。有鬼子、いい名前だと思うんだけどなぁ。

 

『そういう比企谷君だって四人キルしてるじゃないですか。特に狙撃で倒した二人を仕留めてなかったら、多分負けてましたよ? 狙撃もだいぶ慣れてきたんじゃないですか?』

 

「武器性能と運だろ。まだリアルに照準合わせるまでの時間が長すぎる」

 

 狙撃に使ったWA2000のメンテナンス画面を開きながらぼやく。この武器はこの間行われた大会のキリ番報酬で運よくもらったものだ。ステータスが俺のそれまで持っていた狙撃銃よりも全てにおいて高性能で、こいつのおかげで最近のゲーム内成績はなかなか好調だ。

 性能に頼っているせいでそれを全然暗殺に活かせていないのが問題なんだけど。

 

『比企谷君は謙遜しすぎですよ。“ゴースト”の名が泣きますよ?』

 

「その名前で呼ぶのはやめてくれ……」

 

 この武器構成になる少し前から呼ばれるようになった俺の中二すぎるあだ名。ゲームユーザーWikiに有鬼子と並んで記載されていると律から教えられた時にはリアルに引退を考えたほどだ。

 

 

 ゴースト PlayerNAME:hachi0303

 スナイパーライフルと自動小銃、軍用ナイフが基本装備。すべてドイツ仕様。

 とにかく視認できない。気が付いたらすぐ近くまで来ていてキルを取られる。有鬼子同様チーター疑惑があったが、運営がこれを否定している。

 彼が敵側にいる場合は、たとえ優勢であったとしても注意されたし。油断して突出した主力がまとめてダウンさせられることもある。

 また、有鬼子と小隊を組んでいる場面に出くわした場合、勝つことはほぼ不可能と思っていい。

 

 

 まあ、ゲームの中でもうまく“消える”ことができているというのは喜ばしいことなのだが、普通にハチって呼んでくれよ……黒歴史が復活しそうになるから。というか、知らぬ間に運営の調査入ってたのな。

 

『というか、私にはよくわからないんですが、ゲーム内でどうやって“消えて”るんですか? 私も最初は律さんが絡んでいるのかもって思いましたよ』

 

「私はチート行為なんてしませんよ~!」

 

 まあ、神崎の疑問も最もだろう。普通にプレイしていたら使わない技法も使っているのだから、ある意味チートと言われても仕方がない。

 

「実際にステルスする時と同じだよ。このゲームはFPSだからな。多少ゲームシステムに縛られる部分はあるけど、プレイヤーの死角を突いたりできるし、視線誘導だって不可能じゃない」

 

 後は最低限装備が背負えるだけの筋力値以外を敏捷値に振り、隠ぺい率なんかに関わるアビリティを取っているだけだ。さっきやったように無線を切れば少しだけ隠れたときの隠ぺい率も上がる。そもそも完全に隠れるプレイをするプレイヤーが少ないから珍しいだけなんじゃないだろうか。Wikiを見ても隠ぺいする暇があったら攻撃に関するアビリティ取れって書いてあったし。

 

「ただ、ここで完璧にステルスできても意味ないんだよな。狙撃に使うにしても今の照準時間じゃ照準合わせる前に先生には気づかれちまうし、無線切っちまうせいで集団戦闘とかの戦略も確認できないし。めんどくせえ」

 

 おかげで毎回リプレイを見直さなくてはいけない、とため息混じりぼやいていると、パソコンの向こうから笑われてしまった。しかも二人分。

 

「……なんだよ」

 

『だって……ねえ?』

 

「八幡さんって“めんどくさい”って言いながら色々考えてるんですもん。矛盾してますよ」

 

 むう、矛盾していると言われてもな……。

 

「しょうがねえだろ。人生はやりたくなくてもやらなきゃいけないことでいっぱいなんだから」

 

 面倒くさくて仕方がないが、妹分や弟分が中学を卒業して、来年新しい高校生活を送るためだ。努力しないわけにはいかないだろう。

 まあ、そんなことは面と向かって言えるわけがないのだが。

 

「あーもう! 次の試合行くぞ! 次!」

 

『クスクス、分かりました。次も勝ちましょうね』

 

 こうして夏休みの夜は更けていく。

 

 

     ***

 

 

 小町からは「お兄ちゃんもだいぶアクティブになったよね」なんてしみじみと言われる今日この頃だが、そんなことはないと思っている。外に出かける理由の大半がジョギングなんかのトレーニングか椚ヶ丘の図書館だし、それ以外は大抵家でゴロゴロしたり、読書やゲームをして過ごしている。トレーニングもE組の延長線上と考えると、最低限の体力を維持しているインドア人とさして変わらんだろう。

 

「けど、今日は普通にお出かけなんですよね?」

 

「……まあ、そうだけど」

 

 スマホに繫がっているイヤホンから聞こえてきた律の声にぼそりと答える。イヤホンだから周りに聞こえることはないけど、今いるのは千葉駅なんだから返答が必要なのは極力避けていただきたいところだ。独り言をぼそぼそ話す変人だと思われるのは勘弁。……そうでなくても変人の自覚はあるんだから。

 今回出かけた理由は買い物、ショッピングだ。クッタクタになっていたシューズがついにお亡くなりになってしまったので、お袋に恵んでもらった金を握りしめて新しいシューズを買いに来たというわけ。

 

「しかし、こんなに必要か?」

 

 財布の中にはいつもの倍以上の金額。特に靴へのこだわりはないから安めのものでいいと思っていたが――

 

「これからも毎日走るんでしょ? だったら高くてもいいから丈夫なランニングシューズ買ってきなさいよ。その方が結果的に安くなるわ」

 

 ボロボロな俺の靴を眺めた我が家の財布を管理している人間からそう言われると、なるほどそれもそうだなと納得せざるを得ない。

 というわけで、千葉駅の近くにあるシューズショップを訪れたのだが……。

 

「……で、結局丈夫な奴ってどれだ?」

 

 ランニングシューズコーナーに足を向けて、壁一面に展示された無数の靴を眺めてみても……正直どれがいいのかまったくわからん。デザインはシンプルなものがほとんどだし、烏間さんに教わった走り方のおかげで足への負担は気にしなくてもいい。履き心地なんてサイズが合っていれば使っているうちに順応するわけだし、そうなるとやはりここで重要なのは耐久値ということになる。

 うーん、参った。一つ一つ左右から引っ張ってみようかな? なんてどうでもいいことを考えていると、胸ポケットに入れていたスマホがヴーと小さく震えた。

 

「八幡さん、こんな時こそモバイル律の出番ですよ!」

 

「?」

 

 ポケットに完全にしまわれていた端末を取り出して、カメラに全てが収まるように位置を調整する。むむむ、と唸るような声が聞こえたと思ったら、もう一度スマホが震えた。画面を確認してみると、某有名ショッピングサイトのページが表示されていた。

 

「こちらの、商品棚の中では十二番の商品が素材、製法など総合的に見て最も高い耐久力があると思います」

 

「なるほど……」

 

 インターネット上のデータを一瞬で収集、精査して欲しい回答を見つける。なるほど、これは非常に効率的で、律にしかできないやり方だ。脇に積まれた箱の中から「12」のシールが貼られたちょうどいいサイズのものを取り出して、試しに履いてみる。そのまま店内を少し歩いたり、軽く飛び跳ねたりしてみたが……やはりというか新品ゆえの違和感は拭えない。まあ、履きにくいわけではないし、使っているうちに馴染んでくるだろう。

 

「ふむ、まあこれにするか。さんきゅな、律」

 

「いえいえ、お役に立ててなによりです」

 

 にぱっと笑みを作る律の頭にそっと指を滑らせて胸ポケットにスマホをしまうと、箱を抱えてレジに向かった。値段も予算以内だし、マジでモバイル律有能。勝手に人のスマホやパソコンに現れることを除けばな。

 真新しいシューズの入った袋を片手にほとんど音もなく開いた自動ドアをくぐって店を出た。律のおかげであっさり購入までできて、日もまだ高い。このまま帰るのもなんだし、本屋で新刊のチェックでもしようかと歩き出して――動きが止まった。そっとスマホのカメラ部分だけをポケットから覗かせる。

 

「「…………」」

 

「なあ律……」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

 心なしか律の声が初めて会った頃のような平坦さを醸し出しているように感じるのは気のせいだろうか。いや、気のせいじゃないんだろうけど、こんなところでこいつの「感情の変化」的な成長を感じたくはなかった。

 

「あれ……うちの担任教師に見えるんだが……」

 

「照合率きゅうじゅ……いえ、百パーセント殺せんせーで間違いありません」

 

 日本の技術でも九十五パーセントが限界なはずの本人照合率を百パーセントと天下のAI娘がのたまった事実は置いておいて、なにやら黒服に身を包んだずんぐりむっくりな巨体が建物の陰に隠れていた。いや、あれは本当に隠れているのか? むしろありえないくらい目立っているまである。

 一つ大きく息を吐き、肺の中にある空気をすべて吐き出す。感情を抑え込みながら気配を消し、音をたてないように浅い呼吸のままゆっくりと近づいた。

 

「……にゅ? にゅやっ、比企谷君!?」

 

 ついでにさりげなく暗殺をしようかと、バッグにしまっていた対先生用ナイフに手が触れたタイミングでターゲットが振り返ってしまった。ステルスが完璧ではないのも原因だろうが、やっぱり匂いで気付かれてるんだろうな。

 シルエットだけで日本人ではないとわかる巨体に変装なのかカツラと付け鼻を装着している。肌の色も肌色に擬態しているが……よく今まで通報されなかったな。なんだかんだ周囲からは人間と思われているようだ。……ギリギリな気もしなくはないが。

 

「なにやってんすか、こ……先生」

 

 さすがに人前で「殺せんせー」と呼ぶわけにはいかないと思い言い直すと、当の超生物はヌルフフフと笑いながら指三本分がプラプラと垂れている手袋の人差し指部分で前方を指し示す。

 

「あれですよ、あれ」

 

 その指の先には一つの店舗。鮮やかなパステル調の外観はどこか浮世離れしていて、それだけで頬の筋肉がわずかに引きつる。

 いったいなんの店なのかと思っていると、店の入り口に置かれたブラックボードが目に入った。

 

 

『メイドカフェ:えんじぇるている』

 

 

 …………。

 イヤホン越しに息をつくような音が聞こえてくる。うん、俺もそうしたい気分だ。少し高い位置にある殺せんせーの肩にぽんと手を置く。殺気が全くないので避けることもなく振り向いた殺せんせーに、俺は憐れみの目を向けた。

 

「……国家機密がメイドカフェに入るのは危険ですから、お山の上に帰りましょうね」

 

「にゅっ!? ち、違いますよ比企谷君! 先生、メイドカフェにはちょっとしか興味ありません!」

 

 ちょっとはあるんじゃねえか。はあ、と大きくため息をついて再び店のほうに目を向けると――

 

「ん……?」

 

 大きなガラスの向こうに見覚えのある姿が見えた。一つはE組の誇るオタク少年、竹林。いつもかけているやや楕円の眼鏡に淡く蛍光灯の光を反射させながら、メイドさんを侍らせていた。どうやら、ここは竹林の常連の店らしい。

 そしてもう一人は……。

 

「寺坂の奴……リピーターになってるじゃねえか」

 

 中学生にしてはかなりでかいがたい。竹林に何かを言われて、強く反論しているようだがどこか挙動不審気味な寺坂が竹林の向かいの席に座っていた。離島での潜入暗殺のときに殺せんせーにはまってしまいそうだったことをばらされていたが、マジではまってしまったっぽいなぁ。あ、オムライス運んできたメイドさんにデレデレしてる。普段は絶対に拝めないガキ大将の姿に、ちょっと面白くなってしまう。

 

「寺坂君はうまくクラスに馴染めない時期が長かったですからね、自分なりにクラスメイトを知ろうと努力しているようですよ」

 

「……なるほど」

 

 あいつもなんだかんだ、殺せんせーにしっかり手入れされてるんだな。遅れた分はそれ以上の努力で巻き返して、次は間違えないようにがむしゃらに前に進もうとしている。

 考えるより先に手が出るタイプのあいつらしい積極性だ。

 それがなぜか自分のことのようにうれしくて、ククッと喉を鳴らして忍び笑いをしていると、何やら隣の巨体はメモ帳にサラサラとペンを走らせていた。

 

「なにしてんすか?」

 

 隣から覗き込んでみると……ページにびっしりと文字や記号が埋め尽くされている。ざっと内容を見てみると、それらは全てE組に関することだった。生徒の傾向、趣味、特技、苦手なこと、克服するべきこと。勉強のことから遊びのことまでビッシリだ。

 

「ヌルフフフ、生徒のことをよく知るのは先生の務めですからねぇ」

 

「……プッ」

 

 ヌルヌル笑う教師に、ついつい吹き出してしまった。

 普通の教師は、そこまで生徒のことを知ろうとしない。特に進学校ともなれば生徒の内面や趣味よりも成績や素行ばかりを気にするものだ。やっぱりこの超生物はあまりにも先生していなくて……それでいて誰よりも先生している。

 スマホを持ち直してカメラを起動する。そのまま店内の二人にピントを合わせて、そっとシャッターを押した。

 ……うん、なかなかきれいに撮れている。

 

「そういう比企谷君は何をしているんですか?」

 

 おそらく答えの分かっている担任教師は、ニヤニヤと緩い表情をゆがませながら聞いてくる。普段なら恥ずかしくて適当にはぐらかすところだが――

 

「弟分や妹分のことをよく知るのは、兄貴分の務めですからね」

 

 こと弟妹に関しては大抵の恥ずかしさは我慢できる。お兄ちゃんとはそういうものなのだ。

 

「こら! テメーらなにやってやがんだ!」

 

 二人して笑っていると、どうやら俺たちに気づいたらしい寺坂が店内から飛び出してきた。怒るのは構わないが寺坂、お前は頬にケチャップをつけるようなキャラじゃないぞ。

 

「比企谷! おめぇさっき写メ撮っただろ! 今すぐ消せ!」

 

 あ、そこで気付いたのね。ばれてしまっては仕方ない。メイドさんと一緒に楽しそうに「萌え萌えキュン!」なんてしているベストショットだったのだが、本人からの要請があるのなら消さざるを得ないだろう。肖像権とかいろいろあるからね。

 そう思ってスマホの画面に目線を落として――俺は寺坂に謝った。

 

「すまん寺坂。すでにE組のLINEグループに乗っけちまった。……律が」

 

「ごめんなさいです、寺坂さん」

 

 うん、イヤホン越しに言っても無駄だからね? その謝罪は本人に聞こえてないよ? というかその声のトーン、全然謝る気ないだろお前……。

 

「な、な……」

 

 顎が外れるんじゃないかと思うほど口をあんぐり開けた寺坂の肩にポンと手が置かれる。その手の主である竹林は、眼鏡のブリッジを人差し指でクイッと上げて、淡々と諭しだした。

 

「寺坂、萌え萌えキュンされたおいしいオムライスがまだ残っている。それを食べれば、ここに来たのがばれたことなんて些細な問題だと思えるはずさ」

 

「そんなんで納得できるかー!」

 

 暴れだしそうになる寺坂をメイドさんと三人かがりで店内に引きずり戻した竹林は、ちらりと一度だけこっちを見て元の席へと戻っていった。寺坂は席に着くなり食べかけのオムライスをやけ食いし始めて――メイドさんに水を差し出されて鼻の下を伸ばしている。

 目を落としたスマホのLINE上ではお前ら暇なの? と思うくらいの速度でチャットが流れていっていて……それでまたつい頬がほころぶ。

 俺がそうであるように、皆“仲間”のことはもっと知りたいようだ。




閑話休題的なお話をぺたり。夏祭りで皆がE組で学んだ技術で荒稼ぎしているのを見て、八幡はFPSで消えることできそうだなーと思って久しぶりに神崎さんとゲームさせました。たぶんこの二人がペア組めばゲームさいつよまであると思います。

竹林常連のメイド喫茶は『白黒』なのですが、ここはあえて『えんじぇるている』をチョイスしてみました。まあ、舞台を千葉にしてるし、多少はね?

というわけで今日はここまで。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

夏休みが明けても波乱は絶えない

 夏至を過ぎて長いようで短かった夏休みも終わり、今日から九月、二学期の始まりだ。最後の数日でなんとか生活リズムを戻した俺は、あくびを噛みしめながら山の上、E組校舎に来ていた。……あくびが出るってことはまだ生活リズム戻ってないんじゃないのん?

 もはやこの程度では息切れもしない坂をのんびり登り切り、今日も草の根一本ない校庭を抜けて校舎へ入る。靴を下駄箱にしまって上履きに履き替えると、弁当用の保冷バッグに入れていたマッカンを一本取りだしてプルタブを引き上げながら教室に向かった。まだじんわりと暑い中、カシュッという涼しい音がかすかに響く。

 

「あ、おはよーはっちゃん!」

 

 教室の引き戸を開けると、すでに何人か来ていたようだ。お前らみんな早いな。二学期楽しみにしすぎじゃね?

 今日も元気いっぱいな倉橋に短く返すと、前後の席で会話を弾ませていたらしい矢田が俺の手元に視線を向けて――眉をひそめる。

 

「比企谷君、またそれ飲んでる……」

 

「別にいいだろ。マッカンは千葉の水だ」

 

 コクコクと傾けながら屹然とした態度で返すと、盛大にため息をつかれた。いいじゃん、去年に比べると動く機会が増えたから消費カロリーも上がってるし、そもそもマッカンがないと俺は動くことができなくなるのだ。俺にとってマッカンが重要すぎる件について。

 健康がーとか腹回りがーとか言ってくる矢田と倉橋を適当にあしらい、途中で同じく先に来ていた磯貝と片岡にもあいさつを交わして自分の席に向かった。岡野あたりは今頃烏間さんたちが作ったアスレチックで自主鍛錬をしているのだろう。あいつしょっちゅう身体動かしてるからな足にナイフを取り付けての戦闘はこの教室じゃあいつにしかできないトリッキーな技だ。

 

「おはようございます、八幡さん」

 

「……お前とはもう挨拶は済ませたはずなんだが」

 

 というか、朝一番にこの声聞いたぞ。最近なぜか律が俺の目覚まし代わりになってるんだよな。あのセルフバイノーラルとかいう謎技術はあんまり使わんで欲しい。ほんと耳がゾワゾワするから。一発で目は覚めるけどな。

 

「家と学校ではまた別なんですよ! それにほら、本体としては今日初めてお会いしたわけですし!」

 

「……さいですか」

 

 電脳娘のよくわからん持論に首をひねりながら席に着いて、読みかけの本を取り出した。開けられた窓から入ってくるかすかに涼しい風を感じながらペラ、ペラ、とページをめくる。そうして時間を潰していると段々教室が騒がしくなってくる。それぞれからくる挨拶を返して、教室の人口が七割を超えるころにはさすがに読書をするにはざわつきが大きすぎたので、本を閉じて周りの会話に耳を傾けた。ちょっと前は人間観察が趣味なんてのたまっていたせいか、こういう雑然とした会話の流れも聞いていてなかなか楽しいものだ。

 最後だったらしい寺坂が入ってくる頃には黒板の上にかけられた時計もいい時間を示していた。喧噪の中かすかに山の下の本校舎の方からチャイムが聞こえてくると、ガラリと入口が開いた。入ってくるのはずんぐりむっくりなうちの担任教師。

 

「はい皆さん、おはようございます。今日から二学期、よく考え、よく学び、よく動き、楽しく暗殺をしていきましょう」

 

 教卓についた殺せんせーがヌルヌルと笑うと、皆苦笑しながら返事をする。しかし、つぎつぎとため息が漏れだした。

 

「けど、この後始業式のために本校舎に行かなきゃいけないんだよな」

 

「始業式の後にこっちに来れればまだ楽なのにね」

 

 なるほど。そういえばE組は全校集会なんかの時にはわざわざ本校舎まで行かなくてはいけないんだったな。しかも他クラスよりも先に並ばなければいけないとかなんとか。

 

「比企谷さんいいっすよね、全校集会行かなくてもペナルティないんすから」

 

「まあな。……その間殺せんせーの個人授業受けてるけどな」

 

 肩を落として遠い目をする俺に、菅谷があっと声を上げて同情の目を向けてくる。単純に一時間近く勉強時間が増えるからな。夏休み前あたりは「そろそろ高一後半の内容を勉強しておきましょうか」とか言ってどんどん詰め込んできやがった。おかげで高校一年の内容はほぼ網羅することができたから、別に悪いことではないんだが。

 

「じゃ、俺ら行ってくるから。比企谷は勉強頑張ってなー」

 

 だるいだのなんだのと文句を漏らしながら教室を出ていく。残ったのは俺と殺せんせーとイリーナ先生、後は律だけだ。律はどうせ誰かのスマホで参加するだろうから残ったと表現するのは微妙なところだが。

 

「それでは比企谷君、今日も個別授業を始めましょうか」

 

「……うっす」

 

 そういえば、今朝は竹林の姿が見えなかったが、新学期そうそう風邪でも引いたのだろうか。

 

 

 

「さすがですねぇ。文系の飲み込みは早い」

 

 書き込み終えた小テストをその場で採点しながら呟いた殺せんせーに、「どうも」とだけ返す。元々文系の成績はそこまで悪くなかったし、そこにこの担任の技量が合わされば、難しいと感じる場所のほうが少なかった。普通の授業ならば二、三時間は掛けるだろうところを要点を絞ってサクッと終わらせるもんだから、教科書の半分くらいは紙の無駄なのではないかと錯覚してしまうほどだ。国語の教科書とか普通に読むだけでも十分面白いけどね。

 

「逆に、だいぶ解けるようになってきたとは言っても、まだ数学は苦手なようです」

 

 ペラリと採点を終えた用紙を見せてきたので確認してみると、確かに現国あたりに比べると正答率が芳しくない。苦手意識があるのももちろんだが、公式なんかを覚えてもじゃあそれはどういう場面で使うのか、で詰まってしまっているのが問題なのだろう。最後の問題なんて使う公式間違えてるし。

 

「理系分野に関しては、普通に覚えるだけなのは比企谷君向きではないのかもしれませんねぇ。公式と利用法を同時に覚えるべきなのでしょう。……そうです! 前に竹林君のために作った公式の替え歌が……」

 

「あんたそんなもんまで作ってたのか……」

 

 本当にこの教室の授業は異常だ。俺も含めた三十人弱の生徒のために、この担任教師は手を変え品を変え、色々な教育方法を試みてくる。教室なのにまるで家庭教師のような空間だった。

 

「竹林君はアニメと関連付けると、先生も驚くほどの理解力を見せましたからねぇ。ああ、ありましたありました」

 

 合計四本の指で器用にスマホを操作していた殺せんせーは、音楽アプリを起動すると実際に歌うのか濁音混じりに喉を鳴らした。

 しかし、その口から音が溢れ出すことはなく――

 

「八幡さん、殺せんせー! 大変です!」

 

 すぐ隣の黒い直方体から発せられた、焦ったような声に二人して振り返った。律は自身のハードを斜めにずらして俺たちの方に向かせると、普段なら顔を映している液晶に映像を表示させた。

 きれいに並んでいる何人もの生徒たち。そしてその奥にある壇上が、そこが今始業式の行われている本校舎の体育館であることを知らせていた。すぐ近くに映っているのは千葉か。おそらく寺坂のスマホカメラを使用しているらしい。

 そして壇上にいるのは……竹林?

 

「竹林さんが、A組に編入すると言っているんです!」

 

「は……?」

 

「にゅっ!?」

 

 律の言葉の意味が最初は理解できず、そしてその意味を理解してからは驚きで動きが止まってしまう。隣の暗殺対象も同様に固まっているが、ここで暗殺をしようという考えすら思いつかなかった。

 完全に停止した頭にスマホ越しで劣化した竹林の声が入り込んでくる。

 

『僕は、四ヶ月余りをE組で過ごしました。その環境を一言で表すなら――地獄でした』

 

 淡々と、いっそ感情をすべて廃しているかのようにただただ事務的に竹林は語る。

 

『クラスメイトは皆やる気がなく、先生方にも匙を投げられ、怠けた代償を思い知りました』

 

 一定のリズムで紡がれる言葉が、逆にそれが現実であることを俺たちに教えていた。

 

『もう一度本校舎に戻りたい。その一心で必死に勉強をして、生活態度も改めました。

 こうして戻ってこられたことを心底嬉しく思うとともに、二度とE組に落ちることのないように頑張ります』

 

 以上です、と礼をした竹林に、シンと館内が静かになる。E組生徒だけでなく、他のクラスの生徒たちも状況を理解できていないようだった。

 その静寂を破ったのは一つの拍手。舞台袖に少しだけ見えるのは……浅野か。

 その拍手の波紋は少しずつ広がっていく。一人、また一人と手を鳴らす生徒が増えていき、ついには爆発的な拍手の風に変わった。

 呆然と見つめる画面の向こう。歓声と拍手に包まれて、竹林は舞台袖へと消えていった。

 

 

     ***

 

 

「いつもやっていることですよ」

 

 理事長室を窓から訪れた殺せんせーに理事長は椅子に深く腰を下ろしたまま答える。この時期に頑張った生徒に接触して、E組脱出を打診する。頑張った分だけ報われる。弱者から強者になれる。

 

「殺せんせー、私は何か間違ったことを教えていますか?」

 

 なるほど、確かに合理的だ。そこだけを見て、おかしなところは見受けられない。

 ただまあ――

 

「……いえ、間違っていませ……」

 

「まあ、ちょっと疑問はあるんですが」

 

 多少異議を唱えてみることにする。

 殺せんせーの大きな服から顔を出して小さく手を挙げた俺に理事長はわずかに驚くが、すぐに居住まいを正してにこりと微笑んだ。

 

「比企谷君、隠れて理事長室に侵入するのは感心しないね」

 

 あ、ちょっと怒ってる。まあそうだよね。人の服の中に隠れて勝手に入られたら、そりゃあ怒るよね。

 

「あれですよ、俺もあんまりここの生徒に見られたらまずいかなという配慮みたいな……」

 

 実際は一人で坂降りるの面倒だし、視線集めるのも面倒だし、超生物が行くのについていった方が断然楽、という理由なのだが、それは伏せておこう。今言ったことも間違ってないからな!

 俺の言い分に理事長は一つため息をつくと、「まあいい」と普通の笑みを表した。どうやら許されたっぽい。

 

「それで、疑問とはなんだい?」

 

「まあ、竹林に関しては自分の意志で本校舎に戻ったみたいなんで別にいいです。実際、一学期の期末は一桁順位にまで上がったわけですし」

 

 A組と賭け勝負をしたあの期末試験。竹林は総合順位を大きく上げて七位だった。これは前回怠けて順位を落とした赤羽を退けてE組トップのもの。本校舎帰還という報酬は妥当なものだろう。

 

「ただ、俺は“どうしてそれが竹林だけ”なのかが不思議なんですよ」

 

「…………」

 

 E組の本校舎復帰条件は定期試験で学年順位五十位以内に入ること。その上で元のクラス担任から復帰の許可をもらうことだ。

 期末テストで少なくとも第一条件をクリアしたのは十八人。竹林と同じ順位に片岡もいる。赤羽のような素行不良でE組に落とされた生徒は仕方ないにしても、竹林に声をかけるならば他の奴らにも声をかけていないとおかしいのだ。

 しかし、始業式から戻ってきたあいつらの態度を見る限り、他の奴らにそういう声かけがあったとは思えない。

 

「そのやり方は、『弱者が強者になれる』という教育から外れているんじゃないですか?」

 

 俺の疑問に理事長は静かに瞼を閉じる。そのまま机に置いてあった一枚の用紙を手に取り、もう一度瞼を上げる。

 その瞳のぎらつきに、思わず身構えてしまうほどだった。

 

「殺せんせーを教師に据えて、あの教室を暗殺教室にしたことでE組生徒の考えが変わった。E組から抜け出せば百億を手にするチャンスを棒に振ることになる。そもそも今のE組に、本校舎に戻ろうと勉強している生徒はいないでしょう」

 

 確かに、従来のE組と違い、今のE組には多額の報酬を手にする可能性が存在している。離島での暗殺結果によって、集団暗殺ならば三百億まで引き上げることのできる報酬は、普通のサラリーマンの生涯年収を大きく上回る。

 

「E組の生徒三十人弱が協力して暗殺に成功した場合の一人頭の手取りは単純計算で十億。まあ、普通の日本人にとっては十分すぎる金額だね。この学園の強者になることを捨てて、この報酬を目指すことも間違っていない選択肢だ」

 

 そう言いながら、さっき手に取った用紙を俺に見せてくる。それはとある病院の広告だった。俺もよく知っている千葉では名の通った私立病院。

 

「竹林総合病院って……まさか」

 

「そう。彼の家は代々病院の経営をしているんだ。二人いる兄は揃って東大医学部。彼の家にとって、十億という金額ははした金とは言わないまでも、働いて稼げる金額なのさ。

 それに、彼の身体能力ではその十億を受け取ることができるかも怪しい」

 

「っ……」

 

 その言葉に、閉口せざるを得なかった。

 理事長の言う通り、竹林の運動スペックはからっきしだった。単純な身体能力もだが訓練成績も最下位。真面目に参加していても、今一つぱっとしないという印象は拭えない。

 

「彼の判断が、別に間違っていないことは、わかるね?」

 

「……そう、ですね。確かに理屈は通っています」

 

 わかればよろしい、と理事長は退室を促してくる。殺せんせーはいつの間にかいなくなっていたので、帰りは歩いて帰ることになりそうだ。

 

「それにしても、私に意見だなんて君も思い切ったことをするね。君のE組在学を取り消していたかもしれないよ?」

 

 そんなこと考えてたの? 独裁国家か何かかな? さすがこの学校の法、マジ怖い。あと怖い。まあ冗談だろうけど。

 

「あいつらのためなら、命以外全て賭ける覚悟はできてるんで」

 

 首をすくめてそう言うと、理事長は少し間をあけてクツクツと喉を鳴らした。

 

「君は面白いことを言うね」

 

「……さすがに冗談ですよ」

 

 本当は命も含めた全てを賭ける覚悟ができている。あいつらの前では絶対に言わないけど。

 理事長室を退室して、E組校舎に戻るために出口を目指す。というか、上履きの状態で来たんだけど、これ帰る頃には靴の溝に土がびっしり詰まってしまいそうだな。

 竹林がそうしたい、そうありたいと願ったのなら、俺にそれを否定する権利はない。

 しかし、クラスメイトとして、仲間として、そして兄貴分として、理由くらいは知りたいと思ってしまうのは、仕方がないことだった。




竹林回です。といっても今回は触りだけですが。

最初書き始めた当初は、モバイル律とかいうチート経由で竹林ともよく絡むかもなぁと思っていたんですが、単純に席が正反対なのと、竹林の性格的に結構難しいところがありました。
あと、律がどこででも現れるから自宅とかのE組外で割とおなか一杯になるという不具合。かわいいけどね? あんまりやりすぎると、もう律と八幡だけでよくね? ってなるんですね。それはちょっと書こうとしてんのと違うなーって。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

離れたとしても、それは変わることがない

「『頑張ったじゃないか』。その一言をもらうためにどれだけ血を吐く思いで勉強したか!!」

 

 放課後、本校舎の校門で待ち伏せていた俺たちが聞いたのは、竹林の喉を引き裂くような心の叫びだった。

 がんばったなというその一言を父親から聞くためだけに、家族から認められるためだけにただひたすら、ひたすら努力してきたと。ようやく認められる機会がやってきたと。そう絞り出す竹林に、俺はただ、耳を傾けることしかできなかった。

 

「僕にとって地球の終わりより、百億よりも――家族に認められること方が大事なんだ」

 

 たとえ裏切り者だとののしられようと、その上がった成績が誰によるものか、恩知らずと蔑まれようとも、それでもただ肉親に認められることだけを選ぶ。

 それは……ああ、それは……。

 

「君たちの暗殺がうまくいくことを願っているよ」

 

 踵を返して立ち去る竹林に何とか開いた口は――意味もなく空気を溢れ出させるだけだった。

 

「待ってよ、竹ば……っ」

 

 追いかけようとした渚の腕を誰かが掴む。その少女、神崎は申し訳なさそうに首を横に振り、やめてあげてと静かに頼む。

 

「親の鎖って、すごく痛い場所に巻き付いてきて離れないの」

 

 ――だから……無理に引っ張るのはやめてあげて。

 遠ざかっていく竹林を見つめる神崎は、どこか自分と重ねているように見えた。

 

 

 

 さすがに今日は放課後の訓練をする気分にはなれず、そのまま帰ることにした。いくつかに分かれた帰宅グループも、交差点などで一人、また一人と別れていって、最後には俺と神崎だけになってしまった。話しかける気にもなれず、道の奥の空に見える細かく散った雲なんぞを意味もなく眺めて歩くだけ。

 

「……比企谷君は」

 

 ぽそりと名前を呼ばれて、無言で立ち止まる。俺の隣で同じく立ち止まった神崎は、俯いたまま顔は上げてこない。

 

「さっき……なにも言いませんでしたね」

 

 さっき。それはあの校門でのときだろう。結局俺はあの時、一度だって、ただの一音も声を発することはできなかった。たぶん、話したいことは色々あった。言いたいこと、聞きたいことも色々。ただ、できなかった。

 

「俺が何か言えるわけないだろ。……俺には、たぶんその権利がない」

 

 家族の呪縛。親の脛をかじっている俺たち学生が、親に反発することはひどく難しい。比較的放任主義な両親を持つ俺だってそうなのだ。厳格な父親を持つ神崎や、できて当たり前の家で育った竹林に取り付けられた呪いのような鎖はきっと俺が想像できないほど固く、複雑に巻き付いている。

 彼らからしたらいっそ羨ましいとすら思われるかもしれない家庭で育った俺が、そこに何か口を挟めるはずもないのだ。

 

「それに……竹林だって悩んだだろうしな」

 

 そうでなきゃあんな、自分を傷つけるような叫びを上げるはずがない。それを聞いてしまったら、仕方ないと思ってしまった。

 

「それでも、戻ってきてほしいって思っちゃうんですよね」

 

 相手の事情を理解しつつも、戻ってきてほしい。きっとE組全員が身勝手にもそう思っている。竹林にどこか共感している神崎も。

 

「……そうだな」

 

 そして俺も。

 家族の呪縛というものは俺にはわからない。しかし、すべての理屈を抜きにしてなにかを優先するというその思いには、方向性は違えど俺が小町やE組に向ける感情と同じものを感じていた。

 

「大事な仲間だもんな」

 

 ぼそっと呟くと、なぜか神崎が小さく笑いだす。なんだよ、といぶかしむ視線を送ると、ゲーマー少女は申し訳なさそうにしつつも抑えきれない笑い声を漏らしつつ、にこりと微笑んでくる。

 

「比企谷君にとっては“弟分”、じゃないんですか?」

 

「…………うっせ」

 

 少し強めに神崎の頭を撫でると、「髪が乱れちゃいますよ」と文句を言いながらするりと逃げられた。そもそもお前が柄にもなくからかってきたのが原因なのだが、多少サディスティックな気を見せるのはゲームやってる時だけにしていただきたい。

 

「ふふ、……あっ、私はこっちなので、これで」

 

「おう、じゃあな」

 

 手を挙げて短く返す俺に、綺麗な会釈をすると神崎は帰っていった。さすがE組の大和撫子、所作の一つ一つが様になっている。

 ただそれも、彼女たちの言う親の鎖が作り出した姿なのだろう。そう思うと、ついつい考えてしまうのだ。

 

「……何かできることってないんだろうか」

 

 頭をかすめたのは、あの日の情景。

 

 

     ***

 

 

「「「「…………」」」」

 

 次の日のE組は嫌に静かだった。あの時聞いた竹林の心の叫びは、皆を動揺させるには十分だったのだろう。

 E組生徒が自らの意志でA組に戻った。たった一人を引き抜いただけで、理事長は一学期でつけてきた自信をぽっきりとへし折ったのだ。

 俺も、言葉を発することはない。読みかけの本の文字列を追いかけて、いや追いかけるふりをしながら考えている。俺になにができるのか、と。

 そしてそんな重苦しい教室の空気を――

 

「おはようございます」

 

 ぶち壊しにするタコが一匹……いや、ん? あれ?

 

「なんで真っ黒なんだよ、殺せんせー……」

 

 前原が言うように、担任教師は夏休みの離島のときのように真っ黒に日焼けしていた。もうどっかのしげるさんより真っ黒。歯も同じ物質なのか同様に真っ黒になって、境界線がよくわからない。

 というか、黒すぎて表情がマジ全然わかんねえ。

 

「急遽アフリカに行って日焼けしてきました。ついでにマサイ族とドライブしてメアド交換も」

 

 日焼けサロン感覚でアフリカに行くのやめてもらえませんかね? あと、地球の敵が一般人と連絡先交換すんなよ!

 

「そもそも何のためのそんなことしたの?」

 

「もちろん、竹林君のアフターケアのためですよ」

 

 真っ黒巨体の言葉に、それまで呆然としていたクラス中の表情が一段階引き締まる。まあ、そうだよな。俺たちがどうしようか考えているのに、この先生が何か考えないわけがないのだ。

 

「自分の意志で出て行った彼を止める権利は先生にはありません。ですが、新しい環境に彼が馴染めているか、しばし見守る義務があります」

 

 普通の教師は行った先に丸投げするけどな。周りに聞こえないように低く喉を鳴らして、律の奥の空を眺める。

 竹林は、呪いのような家族の鎖によって連れていかれた。学生なんて親がいなければ生きていくこともできないのだから、それも仕方ないだろう。

 

『僕にとって地球の終わりより、百億よりも――家族に認められること方が大事なんだ』

 

 しかし、そう苦しそうに語った竹林が、俺には……殺されに行く捕虜のように見えてしまった。

 そして俺がそうして心配しているということは、俺の何倍もお人好しなこいつらが心配でないわけがなく――

 

「俺らもちょっと様子見に行ってやっか――暗殺も含めて危なっかしいんだよ、あのオタクは」

 

「ま、なんだかんだ同じ相手を殺しに行ってた仲間だしな」

 頬杖をついた前原が嘆息混じりに切り出すと、頭の後ろで腕を組んだ杉野も苦笑しながら賛同する。他の奴らも言葉にこそしないが、同じ気持ちなのだろう。苦笑したり、ため息をついたり、しきりに頷いたり、寺坂でさえ鼻を弄りながら「ケッ、しょうがねーな」と踏ん反り返っている。

 

 そうして教室の反対側を眺めていると不意に神崎がチラッとこちらを見て、小さく笑いかけてきた。少しいたずらっ気のある笑みを。

 ……だからそんな「お兄ちゃんも、ね?」みたいにこっち見んじゃねえよ。

 ふいっと首を捻って再び空を眺める。小さな雲が集まって大きくなっていく様を眺めながら、知らず口元を緩ませていた。

 

「殺意が結ぶ絆ですねぇ」

 

 普通なら誰も賛同することがないであろう殺せんせーのその言葉は、俺達にはあまりにも自然に納得できるものだった。

 

 

     ***

 

 

 そういうわけで、E組は本日最後の授業を返上して本校舎に潜入したわけなのだが……。

 

「ヌルフフフ、これで完璧ですねぇ」

 

 ……そろそろツッコんでもいいかな?

 なんか日焼けの理由が「全身真っ黒になれば忍者になって隠れられる」とかいうよくわからん理由だった殺せんせーだが、うん……そんなことで忍者になれたらきっと戦国時代は日焼け人間でいっぱいだったと思う。そもそも規格外のサイズのせいで普通に怪しい。

 

「よし、これでカモフラージュも十分かな?」

 

 そして真っ黒生物も含めてE組が頭につけている葉。烏間さんが教えたカモフラージュ技術なのだが、なぜか本校舎とは種類が全く違うE組校舎周辺の植物を使用しているから、傍から見たら逆に目立ちそうだ。おい菅谷、自分のだけハイクオリティにする暇があったら全員にその事実を教えてやれよ。

 なんというか、端的に言って「うわっ、近寄らんとこ」みたいな状況だったので、俺は一人気配を消して別のところから様子をうかがうことにした。

 パッと見た感じ、A組の生徒とは仲良くやれているようだ。普通に会話もしているし、元E組という点では差別はされていないのだろう。

 

「眼鏡の色つやも良さそうだ」

 

「うん」

 

 ……いやちょっと待て、磯貝に倉橋。お前ら眼鏡の色つやで竹林の状態チェックしてんの? 竹林を人としてチェックしてやれよ。いや、磯貝もアホ毛で状態チェックされることあるけどさ。

 というか、竹林絶対気付いてる。そうだよね、目立つもんね。特にあの真っ黒なツヤツヤ。周りに気づかれないようにリアクションを取らないのがあいつなりの温情なのだろう。

 ただなんだろう。一見問題なさそうに見える竹林の表情に、少し影が落ちているように見えるのは。

 

「あ、浅野が……」

 

 磯貝の声に思考を停止して意識を再びA組の教室に向けると、窓際でE組の様子を伺っていた竹林に、浅野が声をかけていた。浅野が何か口にすると竹林の表情がわずかに緊張して、そのまま二人は教室を出て行ってしまった。後を追いかけてみると、なぜか二人は理事長室に。

 

「なんで今更理事長室に竹林が呼ばれるんだ?」

 

 A組編入の手続き諸々、すでに終わっているはずだろうから、千葉の疑問も尤もだろう。理事長室の窓はカーテンが閉め切られているし、隠れるための草むらからでは中の声も聞こえない。気配から察するに、おそらく今あそこには竹林と浅野、そして理事長の三人だけのようだが……。

 

「にゅぅ……」

 

 何かを考え込む担任の声が、かすかに俺の鼓膜を震わせた。

 

 

 

「警察を呼びますよ、殺せんせー」

 

「にゅやっ!?」

 

 とっぷりと暗くなった住宅街に、竹林の声が聞こえる。指さした塀の陰には真っ黒な触手生物。そりゃあ、こんな時間にそんなのがじっと自分を監視していたら、警察に通報したくもなるよね。というか、殺せんせーその忍装束はどこから調達したのん? 自作?

 

「な、なぜ闇に紛れた先生を!?」

 

「いや、どう見ても目立つから、それ」

 

「うわっ!?」

 

 塀の上に座ってステルスしていた俺が思わずツッコミを入れると、竹林にひどく驚かれた。あ、ごめんね? 驚いたよね。だからってスマホ取り出すのやめてくれない? 八幡泣きそう。

 

「なんの用ですか? 昼間もこそこそ様子を見に来ていましたけど」

 

「にゅやっ!? そっちもばれていたんですか!?」

 

 そらバレるわ。眼鏡のブリッジを人差し指でクイッと上げた竹林は少し緊張しているようで、ついため息をついてしまう。

 

「そりゃあ、“仲間”のことは皆心配になるもんだろ」

 

「僕はもう仲間じゃ……いたっ!?」

 

 小突いた。下を向こうとする竹林の額を、二度、三度と小突いて俺の方を向かせる。強制的に俺と視線を交わさせられた竹林の表情が硬くなるのは仕方がないだろう。多分俺の顔は多少不機嫌の色を出しているから。

 

「暗殺が終わるまで、いや終わってからも、卒業してからもずっと仲間だ。そう俺に言ったのはお前らだぞ?」

 

「あ……」

 

 あの保健室での出来事は絶対に忘れない。俺がもう一度、本当にあるのか分からない関係を信じようと思えたあの出来事を。

 だから、たとえこいつが裏切ったなんて思っていても、俺たちは胸を張って仲間だと言うのだ。

 

「それに……」

 

 もう一度手を伸ばすと、また額を小突かれると思ったのか目の前の少年はぎゅっと目をつぶる。それがおかしくって、声に漏らさず笑うと、伸ばした手を軽く頭に乗せた。

 

「……ありがとな」

 

「え……?」

 

 言いたいことはいっぱいあった。聞きたいこともいっぱいあった。けど、それよりなにより、言っていなかったことがあったのだ。

 

「ほら、皆がウイルスにやられたとき、お前が的確に対処してくれてただろ。あれがなかったら、そもそも潜入する余裕もなかったかもしれん」

 

 今思うと、親や兄の影響で医学知識を聞きかじっていた故の判断力だったんだろうな。その知識もあって不破はスモッグを見破ることができたわけだし。

 たぶんこいつのことだ。戦闘能力のない自分はE組じゃなんの役にも立てない、なんて思っているのだろう。そんなことはあり得ないのだ。あの教室で、何の役にも立てていない人間なんていない。

 

「……まあ、戻ってきた比企谷氏が一番危なかったですけどね」

 

「本当にお世話になりました」

 

 いや、そうだよね。気を失ってた分、俺が一番迷惑かけたよね。

 

「その感謝の気持ちはありがたく受け取っておきます。ただ、やはり殺せんせーはあまり僕と接触するべきではないと思いますよ。もう僕は殺しとは関係ないんですから」

 

 そうして再び眼鏡に伸びた指は――ブリッジに触れることはなかった。というか、目の前の少年が知らない人になっていた。

 

「ビジュアル系メイクです。君の個性であるオタクキャラを『殺し』てみました」

 

 どこから取り出したのかメイクセットを見せびらかして、竹林に鏡を見せてくる。「こんなの僕じゃないよ……」と竹林が眉間に皺を寄せているが……うん、似合ってない。というか誰おま状態だ。高校デビューでだいぶ失敗しましたみたいな残念感である。

 即席メイク師はヌルフフフと笑うと櫛とメイク落としを取り出してサササッと彼に施したメイクを落としていく。

 

「先生を殺さないのは君の自由です。でもね『殺す』というのは日常に溢れる行為なんですよ。現に家族に認められるためだけに……君は自由な自分を殺そうとしています」

 

 きっと家族の呪縛は恐ろしく固く、複雑だ。近くに数人しかいない血の繫がった人間との関係を優先するのは、別に悪いことではない。けれどそれは、自分の気持ちを押し殺していい理由にはならないのだ。

 

「でも君ならいつか、その呪縛を殺せる日が必ず来ます。君にはそれだけの力があるのですから」

 

 「殺す」。普通の教育では絶対に使わないこの教師が使う言葉は、あの教室で学んできた俺たちにとってはどこか納得できてしまう。それは、自分の命を使って教えてくれてるせいだろうか。

 

「焦らずじっくり殺すチャンスを狙ってください。相談があれば闇に紛れていつでも来ます」

 

「ま、こっちも相談くらいはいつでも乗れるぞ。たぶんあいつらもな」

 

 あのお人よしたちが、仲間からの相談を断ろうはずがない。

 呆然と立ち尽くす竹林を残して、俺と殺せんせーは踵を返す。あとはあいつ自身がどうしたいか次第だが……。

 

「そういえば比企谷君、明日は創立記念日でまた全校集会があるようですよ」

 

「へー……」

 

 全校集会。そしてそのタイミングで理事長に呼ばれた竹林……これは偶然だろうか?

 

「明日は先生も体育館に行くつもりです。君も行きますか?」

 

 すぐに勉強にも取り掛かれますからねぇとヌルヌル笑う担任に、俺は少し考えて断りを入れた。別に追加勉強を逃れるためではない。

 

「やめておきます。……俺はあいつのことを信じてるんで」

 

 俺の答えに、殺せんせーは真っ黒な笑みを深めた。

 

 

     ***

 

 

 翌日、皆が文句を言いながらも全校集会に向かった静かな教室で、俺は読書をしていた。読書と言っても今日はパンフレットや雑誌なのだが。

 殺せんせーは昨日の宣言通り体育館に向かい、イリーナ先生は職員室に戻っていった。殺せんせーがいない間に授業でも始めるかと思ったが、俺を相手にしてると烏間さんを相手にしているみたいでやだ、ということらしい。なにそれ、褒めてるの? 貶してるの? 俺あの人と似てるとか微塵も思わないんだけど。

 

「比企谷さん、殺せんせーから映像が届きました」

 

 ペラペラと雑誌のページを捲っていると、大方予想はしていたが隣の筐体から声とともに映像が流れてくる。あの先生もお節介焼きというかなんというか……というか、これどっから撮ってんの? ものっそい俯瞰視点なんですが。天井にでも張り付いてるの? 引っかかったバスケットボールなの?

 壇上に立っているのはやはり竹林だ。再び集会の場でスピーチを始めようとする竹林に、E組のみならず他のクラスも騒めく。

 

『僕の……やりたいことを聞いてください』

 

 一昨日のように淡々と語られる言葉は、やはりE組のことだ。学力という強さを持たない故に、本校舎から差別待遇を受けていること。自分もその場所に弱者としていたこと。その後に続くのは、E組の悪行や現状改善なんて言葉だろう。

 ――本来の流れならば。

 

『でも僕は、そんなE組が……メイド喫茶の次くらいに居心地がいいです』

 

 おどけた、さっきまでの淡々としものとはまるで違う声色の、本校舎の人間からしたらあり得ない言葉に、画面越しの会場には緊張とざわめきが入り混じる。

 そんな光景を見て、続く竹林の言葉を聞いて――

 

「ククッ……あははっ……!」

 

 俺は安堵とともに声に出して笑い声をあげたのだった。

 

 

     ***

 

 

「あれはあなたの入れ知恵ですか? それとも烏間先生? ……赤羽という線もありますね」

 

 図書館に行ったら浅野に詰め寄られました。あれとは全校集会での竹林の暴挙だろうか。

 

「んなわけないだろ。多少話はしたけど、あの選択をしたのはあいつ自身だよ」

 

 あの後、公衆の面前で理事長室にあった表彰盾を破壊した竹林は即日E組に戻ってくることになった。弱いことに耐え、弱いことを楽しみながら、強い者の首を狙う生活に。

 まったく。前例があったからよかったものを、普通なら退学にされてもおかしくない行動だ。前原が言っていたように、あいつはあいつで危なっかしい。

 

「それにしても……『E組管理委員会』とはね」

 

 竹林が持っていた“本来読むはずだった原稿”には、E組の腐敗ぶりなんていう誇張と虚偽マシマシの内容から始まり、そのE組の生活すべてを監視・再教育する管理委員会の設立を希望するものだった。その文面はE組ならば誰が見ても竹林が書いたものではないと理解できる。竹林孝太郎という人間がこんなことを書くわけがない。

 

「まさか竹林がお前に逆らうなんて思わなかっただろ? 結局お前はあいつのことを自分からして弱者だと思っていたんだから」

 

 強者を、家族を振りかざせばなんでも従うとたかを括っていたのだ。追いつめて、なのに油断して、自分から弱者に首を狙われる隙を作ったのだ。窮鼠猫を噛むってことわざを知らないのかよ。

 まあ、それはそれとして。

 

「別にお前らの学校だし、俺はあくまで部外者だ。学校の規則なんかに口出しする気はない」

 

 ただ――

 

「あんまりあいつらを玩具扱いするっていうなら……相応の覚悟はしてもらうぞ?」

 

「っ……!?」

 

 わずかに溢れ出させた殺気に浅野の表情が凍り付く。確かにE組はこの学校で明確な弱者だ。だが、だからと言って不当な蔑みを受けていい理由にはならない。竹林が裏切り者の烙印を押される理由にはならないのだ。

 浅野の隣を通り過ぎて出口へ向かう。今日はもう読書の気分ではない。

 図書館を出ると、まだぬるい風が頬を撫ぜてきて、暴れ出そうになっていた殺意が少し和らぐ。今日は放課後の訓練もなかったし、帰ったらジョギングをして残っている殺意を紛らわそうか。

 そういえば、竹林が浅野に関してこう言っていたな。

 

「怖がっているだけの人……か」

 

 浅野学秀。恵まれた才能と環境を持つあいつが怖がっているだけなんてと思うが、実際に中から見た竹林がそう言うということは、中でその側面を見たということなのだろう。

 そういえば、夏休みに割と話したが、あいつの口から“親としての理事長”を聞いた記憶はとんとない。同じ学校に親子でいるのに、仲良く話しているところも見たことがないと竹林は言っていた。

 

「家族の呪縛……ってやつか」

 

 恵まれた環境が、必ずしもいいものではない、ということなのかもしれない。

 それに理事長、浅野學峯。始業式のものも含めて原稿は浅野が書いたものだろうが、指示をしたのは理事長だろう。なぜ情報を捻じ曲げてまで今のE組に干渉するのか、殺せんせーと対立するのかが分からない。五%が怠けて九十五%が努力する学校。そのためにE組を最底辺に維持したいのならば、成績が向上した原因である殺せんせーを辞めさせればいい。職員の任命権が自分にあると言ったのは、他ならぬ理事長なのだから。烏間さんからは当然説得が入るだろうが、そもそも防衛省は場所を提供してもらっている側だ。相手が不都合だと言えば引き下がるしかなくなる。

 理事長は……何を考えているのだろうか。

 口の中で転がした言葉に、当然答えなど返ってくるはずもなく。

 ただ、アスファルトに靴が跳ねる音だけが返ってくるだけだった。




竹林回、というか新学期回でした。

個人的にはここら辺から、理事長が強硬策に出てきた印象を受けていました。確かに一学期中間のあれも割と強硬策でしたが、管理委員会はもう行き過ぎじゃないかな、と。

個人的にはもうちょっと浅野君との会話を増やしていきたいところ……なんですが、言い方はあれですけど敵対勢力ですからね。なかなか難しいところです。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

彼女もやっぱり猫が好き

 社畜精神旺盛な両親の関係で、我が家は基本的に俺と小町しかいないことが多い。しかし、実はこの家の住人は俺たちだけではないのだ。ここにきて新レギュラーキャラ登場か? 家の住人をあとだしか? などと思われるかもしれないが、そいつは人でないので安心してほしい。

 いや、そんな言い方するとこの世界殺せんせー以外にも変な生物いるのかよ、という話になってしまうのだが。

 閑話休題。

 ――カタン。カタン。

 休日に自室で読書をしていて、そろそろ昼飯でも食おうかと俺の中の胃袋が囁いてきた提案に素直に従って一階に降りていくと、そんな音が聞こえてくる。

 今日は小町の奴は中学校の友達と遊びに行って朝からいない。ここまで言うと、無人の自宅で鳴っているこの音はラップ音とか言う心霊現象的サムシングなのではと思ってしまうが、斜に構えた比企谷八幡は心霊現象なんて信じないのだ。

 というかまあ、そもそも音源を理解しているから信じてる信じてない以前の問題なのだが。

 

「なぁ……」

 

 扉を開けてみると、我が家のペットである猫のカマクラが身体をダランと伸ばしながら金属製の餌皿をペチペチ叩いていた。ちなみに我が家のアイドルは小町だったりする。むしろ世界のアイドル、世界の妹まである。今その情報いらねえな?

 カマクラが餌皿を叩くたびにわずかに跳ねたさらがフローリングに当たり、カタンと少し高めの音が響く。つまりこれがさっきのラップ音もどきの原因なのだ。お腹が空いても自分で飯の用意もできないのがペットの辛いところよ。だから皆、ペットの世話は責任を持ってしような!

 

「わーったよ。今用意するからその音やめろ」

 

 自分の飯の前に餌の用意をしようと台所脇にあるカマクラ用の棚に向かう。それを見た愛猫はペチペチと餌皿を叩くのをやめて、俺の方に向かって餌皿を弾いてきた。

 シャッと金属と木材が擦れる音が短く響き、止まった餌皿に近づくとさらに前足で弾いてすべらせる。お前は何? アイスホッケーでもしてるの? それともカーリング? ネコリンピック日本代表でも目指してるのん?

 カマクラの謎の行動に首をひねりつつも餌の入った箱を取り出して――その軽さに今度は反対向きに首をひねった。

 

「あ、まさか……」

 

 試しに行儀よく待機しているカマクラの餌皿に向けて箱を傾けてみる。少しの間をおいて、カタリと少し硬めの物体が金属に当たった音が聞こえてきた。

 一回だけ。

 餌皿の中身を見てみると本来なら小さいドーナツ型の餌が半分に欠けたものが一つだけ、転がっている。箱の中身も確認してみるが、銀色の袋の中には粉のような小さな欠片が残っているだけだった。

 つまり空。

 そして、それを主食にしている愛猫は皿と俺を2回見比べて、皿の中に入った欠片をペロリとザラついた舌で掬い上げて口に含み、もう一度俺を見る。何もない皿をペロッと舐めて――また俺を見る。

 ……うん。お前の言いたいことは分かる。お前は俺にダイエットを強要するのか、それともこの家は戦後の敗戦国かと訴えかけているような目だ。いや、さすがにこいつがそこまで凝った思考できるとは思わんけど。

 

「つうか、なんでなんもないんだよ……」

 

 棚を全て探してみてもちょっと高級な猫缶も残っていない。なんでこんなことになっているのかと後頭部をガシガシ掻いてテーブルに目をやると、なんかやけにカラフルな紙が置いてあった。

 

 

『お兄ちゃんへ

 カーくんのご飯が無くなってしまいそうです。だから、今日中に買ってきて欲しいんだ!

 お金は後でお母さんに言えば返してもらえるから、いつものご飯買ってきてあげてね。

 ではでは! 小町は遊びに行ってくるであります!』

 

 

 ……うん。かわいく敬礼する小町が幻視できてお兄ちゃん的にポイント高いんだが、無くなりそうじゃなくて完全に無くなってたよね? なんで残してたんだよこの箱……。

 しかもわざわざ書き置きなんていうものにしているせいで気づくタイミングが完全に遅れた。出掛ける前に直接言えばいいじゃねーか。もしくはメール。その文明の利器はただの玩具か?

 まあ、我が妹はちょっとおバカなところがあるからな。あいつ来年受験だけど大丈夫なのだろうか。総武高校受けるって意気込んでたけど。

 

「……なァ、ナー」

 

 とりあえず今は妹の頭の心配よりも先に不機嫌そうに俺の足を前足でテシテシしてくるペットを優先することとしよう。やめて、その爪しまって。今回俺あんまり悪くないから不当な暴力しないで。

 

「ったく……ちょっと買ってくるから待ってろよ」

 

 耳と耳の間を手の甲でグリグリしてやると、カマクラは小さく鳴いてソファの影に丸くなった。まだ日向は暑いもんね。扇風機を当てておいてあげよう。

 簡単に着替えて財布だけ持つと、脇に寄せていた自転車にまたがる。そういえば、こいつに乗るのも久しぶりな気がする。最後に乗ったのっていつだっけ……? ああ、期末テストで総武高に行った時か。椚ヶ丘には駅まで徒歩だし、最近は買い物もジョギングのついでだったからな。

 カマクラの餌を買うなら……やっぱあそこか。

 

 

     ***

 

 

 というわけでやってきたのはららぽーと。今までならさすがに電車を使ってくるような場所なのだが、試しに自転車で駆け抜けたら思いの外早く着いた。あと全然疲れない。八幡君体力ついてきてるぞ!

 ここのペットショップは大きいし、大抵のものは揃っているから比企谷家御用達だ。まあ最近は基本的に餌しか買いに来ないんだけど。

 内装も特に変わっていないから、猫用品のコーナーに直行。目当ての餌箱をカゴに入れて……機嫌の悪くなってしまったカマクラのためにちょっと奮発して高級猫缶も買ってやることにした。俺は鬼嫁の機嫌取りをする夫か何かかよ。

 ついでに幾つか栄養補填用の餌も買おうと物色していると、背中をちょんちょんと突かれた。店員にしちゃえらい気さくな声のかけ方だなと思って振り返るとゆるゆるふわふわな栗毛が揺れていた。

 

「やっぱりはっちゃんだー!」

 

 ゆるふわ少女倉橋はカラカラと笑いながら踊るように小さく跳ねる。その拍子にふんわりと広がったスカートが楽しそうに揺れた。

 

「奇遇だね。はっちゃんも買い物?」

 

「ああ。ちょっと買い出しにな」

 

 軽く首をすくめた時――くぅっと俺の腹が鳴った。そういえばカマクラの餌がないという緊急事態ですっかり忘れていたが、俺も昼食まだ食っていなかったんだった。

 

「はらぺこはっちゃんだー」

 

 その音を聞いたゆるふわ少女は小さく笑いながら俺の持っている買い物カゴを覗き見て、目を見開くと頭を仰け反らせながら口元に手を当てた。なんでちょっと引いてるのん?

 

「はっちゃん……」

 

「おう?」

 

「それは猫のご飯だよ!」

 

「そうだな」

 

 間違いなく猫の餌である。

 

「人間さんのご飯じゃないんだよ!?」

 

 ん……? んん!?

 

「待て待て待て倉橋よ。俺は猫の餌を食う趣味はない」

 

 というか、なんでららぽまで来て猫の餌を食わんといかんのだ。似たような値段で普通に飯食えるだろ。

 

「これはな、うちの猫用の飯だ。さっき切らしちまったんだよ」

 

 誤解を解くために説明すると、今度は両手を頬に当て出した。あっちょんぷりけなの?

 

「はっちゃんちって、猫飼ってたの?」

 

「あー、あいつ気分屋だし人が多いの苦手だからな。お前らが来た時は二回とも俺の部屋のベッドで丸くなってたわ」

 

 小町ですら気分が乗らないときは相手されないからな、と続けると、はっちゃんみたいだとまたくすくす笑いだす。こいつ俺を猫にしようとしてない? こんなめんどくさい猫がいたら今頃野生に帰ってる頃だろう。八幡まじヤマネコ。

 ひとしきり笑った倉橋は、人差し指を顎に添えて「んー」と小さく唸ると、ぽんっと左の手のひらに右手の拳を乗せた。なにそのベタなボディランゲージ。

 

「よしっ! これからはっちゃんちに行こう!」

 

「……なんで?」

 

「私もはっちゃんとこの猫ちゃん見たい!」

 どうやら彼女の意志は固いらしく、絶対行く! と小さな鼻を鳴らしていた。

 いやまあ、別にE組の奴らがうちに来る分には別に構わないんだが……。

 

「俺、チャリで来てるんだけど……」

 

 だから一緒には行けないぞと続けようとしたら、なんかまた引かれていた。今回はむしろドン引きされている。

 

「はっちゃんちって、ここから結構離れてるじゃん! なんで電車じゃないの!? キン肉マンなの!?」

 

「なんでそこでキン肉マンなんだよ」

 

 いいだろ自転車。クリーンだし手軽だし移動費も燃料費もかからない。初速は新幹線より上なんだぞ! 初速だけですね、屁理屈こねました。

 どうやらキン肉マンのことは倉橋にとってどうでもいいようで――ゆでたまご先生に失礼――むむむっとまた唸りだしたと思ったら、表情をぱあっと輝かせた。

 

「それなら、私にいい考えがあるよ!」

 

 あ、これ嫌な予感するわ。

 

 

 

 カマクラの餌の他に俺の昼飯も適当に買って、連れ立って駐輪場に向かう。隅の方に止めていた自転車のカゴに買い物袋を入れて、カギを外すと……勝手に動かされた。自転車が移動した方を見ると、スタンドを上げた荷台に倉橋が当然のように座っている。

 

「や、なんでだよ」

 

「二人とも自転車に乗れば問題ないよ!」

 

 ゆるふわ系の倉橋でもドヤ顔するとちょっとうぜーって思うのな、なんて言うクソほどどうでもいい感想は置いておいて、ド正論を突きつけておくことにする。

 

「二人乗りは違反だぞ」

 

 自転車とは原則一人で乗るものである。つまりぼっち専用アイテム。違うか。違うな?

 まあ実際最近は自転車の規制も厳しくなってきたし、あいにく俺には藍色の公務員に進んで注意される趣味はないのである。

 

「じゃあ、わたしが自転車漕いで、はっちゃんが走る?」

 

「どこの運動部員とマネージャーだよ」

 

 というか、運動部のランニングに自転車でついて行くマネージャーって実際見たことない。あんなの実在するの? 俺が万年帰宅部だから知らないだけ?

 

「そもそも、お前じゃ高さが合わねえから危ねえだろうが」

 

 現に、サドルより低い位置にある荷台に座っている状況でも、爪先立ちでギリギリ届いている状態だ。サドルにまたがったら確実に足が宙に浮くことになるだろう。

 

「じゃあ二人乗りでいいじゃん」

 

「だから法律的にアウトだろうと……」

 

 大きくため息を吐いた俺に、倉橋が人差し指を振りながらチッチッチッと舌を鳴らす。お前そんなキャラだったっけ?

 

「はっちゃん……ばれなきゃ犯罪じゃないんですよ」

 

「お前俺のSAN値でも削りに来たの?」

 

 いあ……いや、お前そんなキャラじゃねえだろ。どうしたマジで。

 

「あ、やっぱり通じた。竹ちゃんが前に使ってたから、はっちゃんなら通じるかなって思ったけど、ビンゴだったね!」

 

「……元凶はあいつか」

 

 席が近いからって倉橋に妙な知識刷り込むのはやめてくれないか竹林。ついでに律に変な知識与えるのもやめて。起こし方のバリエーションが増えたりしてマジ大変だから。

 まあ、ここで押し問答を繰り返していても無駄に時間を浪費するだけだし、家で飯を待ってるカマクラの不機嫌指数も上昇していいことなしだ。ここはお兄ちゃんが折れるとしよう。いや、別に今回は妹分だから甘くなったとかじゃないから。マジでマジで。

 

「はあ、今回だけな」

 

「やった!」

 

 大人しくサドルにまたがると、肩に手が乗せられる。ほっそりとした――これが白魚のようなという奴だろうか――指の感触に緊張してしまうが、それもあくまで一瞬。いつもより強めにペダルを踏み込んで走り出した。

 倉橋にはああ言ったものの、なんだかんだ小町をよく乗せる俺にとって、二人乗りはそこまで苦ではない。倉橋自身も烏間さんからの訓練で体幹を鍛えられているからか、俺の肩に手を乗せるだけで器用にバランスを取っている。

 つまり、青春ラブコメでよくあるような、二人乗りをしたら背中に柔らかい感触が! とかいう現象は発生していないのだ。いやつうか普通に考えて恋人でもない男の腰に手を回したり、背中に身体をくっつける女子なんていないな。俺に対してそんなことをするのは小町くらいである。……実は小町は恋人だった?

 

「きっもちー!」

 

「あんまはしゃぐなよ、あぶねーぞ」

 

 後、倉橋込みで効くのかはわからんが一応発動させているステルスが解ける危険がある。

 まあ、実際まだ十分に暑い九月の昼間に、自転車で風を切るのは存外気持ちがいい。前面で受けた風が二分化されて、わずかに俺の背中にも涼しい風を当ててくれている。

 ……いや、別に背中に柔らかいなにかが当たってないのがちょっと残念だななんて思っていない。マジでマジで。

 

 

     ***

 

 

「わー、かわいー!」

 

 家に帰って不機嫌マックスハートなカマクラに高級猫缶で交渉した。金の缶詰を見た瞬間ものすごい機敏な動きで餌皿まで移動しやがった。お前いつもはもっとのっそのっそ歩くじゃねえか。全く以って現金な奴だ。

 マグロをメインに使っている猫缶を必死こいて食べるカマクラを倉橋はフローリングに女の子座りをして凝視している。ほんともう至近距離。このままカマクラを食べてしまうのではと飼い主の俺は戦々恐々である。ごめん嘘。

 クリクリとした瞳が愛猫の動き一つ一つを余すところなく収め、カマクラが休憩とばかりに顔を上げて舌で口元を舐め上げるとふっと少しだけ目を細める。

 さて、俺も飯を食うかと買ってきた幕の内弁当を取り出す。煮物やサバの塩焼きといった純和風なお弁当は、八幡的に割と好みである。こう、ちょこちょこ摘まめるのがいいよね。……なんか今の言い方スイーツバイキングに行く女子みたいだった、キモい。

 さすがに自転車に揺られていたマッカンは少しぬるくなってしまっていたので冷蔵庫に入れて戻ってくると……なぜか倉橋が俺を見ていた。そしてなぜか超目を見開いていた。

 

「……はっちゃんが、ご飯と一緒にマッカンを飲まない!?」

 

「お前俺に変な固定概念持ってない?」

 

 俺をなんでもマッカンで流し込む男だと思うなよ? 米と一緒にコーヒー飲む日本人とかそんなの日本人とは認めねえわ。あれ、けどマッカンは千葉の水……ということは別にマッカンと米を一緒に摂取するのは問題ないのでは……? うーん……。

 とりあえずその話は置いといて。

 

「だいたい、弁当にしてから学校でも食事中にマッカン飲んでねえだろ」

 

「あ、そういえば……」

 

 一見、小町の料理とマッカンが合わされば最強に見えると思われるかもしれないが、最高と最高で必ずしも超最高になるとは限らないのだ。なので弁当とマッカンは一緒に取らない。そう……。

 

「マッカンは……食後のデザートだ」

 

「飲み物だよ!?」

 

 む、この子はまーたよくわからん事を言ってくる。あんなに甘いのにデザートじゃないわけないだろ。

 

 

 

 というわけでもさもさと弁当を食べ終えた俺は冷蔵庫からさっきのマッカン……ではなく事前にストックしていたマッカンを取り出した。やっぱぬるいのよりもキンキンに冷えてやがる方がいいよね。

 リビングに戻ると、同じく高級猫缶を食べ終えたカマクラが倉橋の膝の上でぐでっとしていた。お前はほんと最近になって貫禄出てきたよな。貫禄というか、休日の親父感が出てきた。

 おっさん猫を膝に乗せた倉橋――なにこの表現、犯罪臭半端ない――は背中や顎を撫でたりしている。指先でもしゃもしゃと顎をくすぐると、気持ちよさそうにゴロゴロ言い出した。ゴロゴロ。

 

「珍しいな。そいつが初対面でそんなに懐いてんの初めて見たわ」

 

 カマクラは誰に似たのか警戒心がやたら高い。他人の気配を察して倉橋達に合わずに俺の部屋に逃げ込んだように、普通はここまで気を許すことはないのだが……。

 

「どんな人見知りな子でもね、ちゃんと見てあげればすぐ仲良くできるんだよ!」

 

「……そっか」

 

 倉橋は何でもないようにそう言うが、動物相手にそんなことができる人間はそうそういない。そういえば、離島での暗殺のときに数時間でイルカを作戦に組み込めるまでにしていたっけか。

 動物と仲良くなる。きっとそれも才能なのだろう。

 

「それに、カマクラちゃんやっぱりはっちゃんに似てるからね」

 

 ……うん、ごめん。それはやっぱり同意できない。

 俺の不満に呼応するように、カマクラがやや低い声で「ナー」と一つ鳴いた。やっぱお前もそう思うよな。全然似てない。

 

 

     ***

 

 

 そのままカマクラとじゃれあっている倉橋を眺めたり読書をしていたらいい時間になっていたので、そろそろ倉橋を帰宅させることにした。

 

「駅まで送るか?」

 

「まだ十分明るいから大丈夫だよー」

 

 後頭部に自然に伸びそうになる手を戻しながら提案すると、カラカラと笑われてしまった。むう、人の好意を笑うなど許せん奴だ。許すけど。

 倉橋が玄関に腰を下ろしてやたら複雑そうなサンダルを履いていると、リビングからカマクラがのっそりと出てきた。お前小町にだってお見送りなんてしたことないのに……たった数時間でうちの愛猫がクラスメイトに絆されてしまった。

 

「カマクラちゃん、じゃーねー」

 

 振り返った倉橋が小さく手を振ると、あくびをするように鳴いてのっそのっそと二階に上っていった。うーん、背中で語っているような貫禄だ。女子中学生にメロメロになってるけど。

 

「ねえはっちゃん、またカマクラちゃんと遊んでもいい?」

 

 小町のときも思うのだが、その首をコテンと傾けて上目遣いをするのは反則だと思う。それ拒否できる兄貴いんの? ちなみに俺はできません。だってしょうがないじゃない。千葉のお兄ちゃんだもの。

 

「別にいいんじゃねーの? あいつも楽しそうだし」

 

 飼い主としてはちょっと複雑だけど。

 

「やった!」

 

 ま、こうして妹分が全身を使って表現するくらい喜んでくれるのなら、それくらいいいかなと思わなくもない。元々俺とカマクラは割とドライな関係だしな。最近やたら人の布団に入ってきたりするけど。この時期に猫の体温はちょっと熱い。

 ああ、ただ……。

 

「もう二人乗りは絶対しないからな」

 

「えー!?」

 

 別に背中に柔らかい何かが当たらなかったのが悔しかったからじゃないですよ。マジでマジで。




倉橋と動物を絡ませてないなということで倉橋回。ちょっと八幡が出かける理由が無理やりだったかなと反省。

月並みな意見ですけど、八幡って猫みたいだなぁと。一匹狼な猫って感じ。
…………。
………………。
それって矛盾してない? まあいいや。

個人的にカマクラはものっそいふてぶてしくて貫禄ある感じ。サブレに追いかけまわされてるカマクラとか、完全に面倒くさいことから逃げる中年おっさんな感じで好きです。……それって別に貫禄あるわけではないのでは。
というか、冒頭にカマクラの件入れようと思って書いてみたら割と膨らみました。ふてぶてしい。でもかわいい。しかし私は亀派。実家に残した亀が父親の職場で行方不明になったと聞いてしょぼくれました。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

食べ物だって、やりよう次第なのである

「それでは授業はここまで。みなさん昼食に入りましょう」

 

 殺せんせーが教科書を閉じるのを合図に各々が弁当を取り出したり、机をくっつけたりし始める。

 俺の席の周りにもだいたい毎回倉橋とか矢田あたりが来て姦しくなるのだが、今日はなかなか珍しいやつが弁当を持ってやって来た。

 

「比企谷君、一緒に食べても大丈夫ですか?」

 

 青基調の包みを手にした磯貝に思わず首をかしげる。E組のクラス委員ということもあり、なんだかんだ話すことも多いが、昼食を提案されるのは初めてだった。いつもはだいたい前原や片岡、岡野といった最前列組で食べている印象なのだが。

 

「前原の奴、昨日付き合ってた子に振られちゃったらしくって、少しそっとしておきたいんですよ」

 

「ああ、なるほど」

 

 そういえば、クラスのムードメーカーたる女たらし野郎前原が朝からやけに静かだったと気づいた。そっか、振られたのか。というか、六月くらいにも振られたとか言ってなかった? どんだけとっかえひっかえなの?

 初めてではないとはいえ、失恋ってやつは辛いのに変わりはないのだろう。後でマッカンでもおごって――

 

「ま、どうせすぐに別の子と付き合うでしょうけどね」

 

 やっぱやめた。なんだあのリア充絶対慰めたりしねえ。

 ブスッと顔をゆがめた俺に磯貝は苦笑しながら、菅谷の席を持ってきて腰を下ろす。包みを開きだしたので、俺も自分の弁当を引っ張り出した。当然、マイプリティシスター小町のお手製弁当である。今日は生姜焼きがメインディッシュのようだ。最近は俺の食欲が増してきているせいか、弁当に肉料理が入ることが多くなってきた。八幡、お肉すきー。

 生姜焼きにもいろいろ種類があるが、我が家の生姜焼きは豚バラを使ったものだ。薄いから必然的に柔らかくて食べやすいし、ご飯の上に乗っけて生姜焼き丼にするのにも適している。前に定食屋でロースの少し厚めの肉が出てきたときは自分の知識とのギャップに冗談ではなく目玉が飛び出そうになった。いや、さすがに冗談。あれはあれで食べ応えあって美味かったけどね。

 一切れ摘まんで口に運ぶと、舌の上で食べ慣れた醤油の味と、鼻に通る生姜の風味が広がる。柔らかい豚バラ肉からあふれ出た旨味が舌を喜ばせてきて、自然と唾液が分泌される。

 ここで白米を口に運ぶと、冷ましたことで少し硬くなっている白米に醤油ダレが絡まってまたおいしいのだ。さすが小町の生姜焼き。一度で二度おいしいなんて八幡的にポイント高い。

 

「……ん?」

 

 思わずほころんでしまう顔をわずかに上げると、向かいの弁当が目に映る。磯貝のそれも男子向けらしいボリュームのあるもので、メインディッシュはハンバーグのようだが、どことなく白いような……? 豆腐ハンバーグだろうか? あれって水抜きが面倒だって小町が言っていたな。それを弁当に使うなんて、こいつんちの母親すげえな。

 いや待て。なんかこれ、ただの豆腐ハンバーグじゃなくないか? ひょっとしておからハンバーグだろうか。どの道大豆な件。まあ、畑の肉って言うしね!

 

「ずいぶんヘルシー志向なんだな」

 

 ぼそりと呟いた俺に一瞬キョトンとした磯貝は、俺の視線の先にあるおからハンバーグ(たぶん)に気づき、嬉しそうにニッと笑った。

 

「栄養価高いですからね、ぬかバーグ」

 

「まあ、確かにおからは……ん?」

 

 んん? 今なんて言いましたこの子。ぬか……バーグ? ぬ、か……?

 

「ぬかって……米糠のことか……?」

 

 米糠とは米を精米して白米にする段階で出る部分のことである。つまり、玄米-白米の部分。日常生活では糠漬けなんかで使われる程度のはずだが……。

 

「そうですよ。ぬかに少量の水とつなぎ代わりのおからを混ぜて焼くんです。栄養価も高いし、何より知り合いの米屋さんから無農薬の米糠をもらっているから実質タダ! おからと調味料代しかかからない家計にも優しい料理なんですよ!」

 

 う、うん……なんか力説されても困るのだが。というかこれ、お前が作ったのか。確かに玄米が元なのだから栄養価が高いのもわかるし、玄米部分に溜まりやすい農薬などの人体には害になる物質も無農薬のものをもらうことで、極力回避しているのもわかる。

 ……けど、そこまでして食べたくはないぞ?

 

「諦めた方がいいですよ、比企谷君。磯貝君は金額的なことに関しては我を失ってしまうところがあるので……」

 

 口を開きかけた俺に、前原の近くにいるのがいたたまれなくなったのか磯貝同様やってきた片岡がため息交じりに諭してきた。その目は、もう諦めてしまったように力がない。ああ、お前も色々がんばったんだね……。

 磯貝の家は一昨年に父親を事故で亡くしてしまい、母親がパートで磯貝も含めた三兄弟を養っているらしい。しかし、さすがに三人分の学費、しかも一人は私立に通っている子供の養育費をパートだけで補うのは難しい。

 そんな母親を助けるために、校則違反であるアルバイトをしているところを見つかり、E組に落とされたのだそうだ。そうして貧乏生活を送っている過程で、節約技術や安価な食べ物への知識も増えていったのだと言う。縁日の金魚とか。

 

「試しに食べてみてくださいよ! 案外おいしいんですよ!」

 

「……じゃあ一口」

 

 そっと箸を伸ばしていつもの自分の一口よりも一回り小さいサイズを切り出す。口の中に入れて噛みしめてみると――なるほど。塩こしょうをベースにしたシンプルな味付けだけど、おからのアクセントもいい感じに噛み合ってなかなか食べ応えのある味だ。

 

「……美味いな」

 

 うん、お世辞抜きで美味いと言えるだろう。ぬかバーグを飲み込んで発した俺の感想に、磯貝の表情が明るくなる。普段は割と大人びた印象だが、こいつもなんだかんだ中学生らしい表情をすることが多くて兄貴分としては見ていて楽しい。

 ただ……。

 

「じゃあ、お礼に生姜焼きやるよ」

 

「いいんですか!」

 

 俺の弁当から生姜焼きを受け取った委員長は、そっと匂いを嗅ぎ……震えだした手を押さえてゆっくりと豚バラ肉を口に運んだ。目を閉じて一噛み一噛みをじっくり味わうように噛みしめていた磯貝は、名残惜しそうにゴクリと嚥下した。

 

「美味い、美味いです……」

 

 その一言に全E組が涙した。そうだよね、本来なら普通の肉が食いたいよね。

 また磯貝に弁当を分けてあげよう。というか、磯貝の家に食べ物のおすそ分けとかできないか小町と相談しようかと、割と真剣に考えることになった昼休みだった。

 

 

     ***

 

 

「八幡さん、E組のLINEグループに茅野さんからのチャットが来ています。どうやら緊急のようです」

 

「ん?」

 

 机に向かって今週勉強した内容の復習をしていた土曜日の夕暮れ時。律の声に身体をひねると、ベッド脇に置いたままだったスマホの画面を律がLINEの画面に変えているところだった。自分でアプリ起動する手間がないし、Siriちゃんより断然有能だからいいけどさ、やっぱりあんまり勝手にうちのスマホちゃんを操作するのはやめてほしいなって。

 まあ、言っても無駄なのはわかりきっているので、小さくため息をついてベッドに腰を下ろす。手を伸ばして内容を確認すると、プリンのアイコンが一番最新に表示されていた。

 

 

茅野カエデ

 (私から暗殺計画の提案があるので、明日は八時に学校に来てください!)

 

 

「ほう」

 

 思わずうなってしまった。茅野と言えば、過去の暗殺においてのあまり前に出るタイプではなかったと記憶している。訓練での成績も下位組で、そのせいか常に支援役に回っていた。どちらかというとマネージャーのような印象だ。

 そんな茅野からの暗殺の提案……なるほど、どうやらずっと機を狙っていたらしい。

 

「しかし、日曜に学校か……」

 

「お嫌ですか?」

 

 そりゃあ嫌に決まっている。なんてったって日曜には良い子の週一の楽しみニチアサが待っているのだ。それを返上して学校に行きたいなんて学生がはたしているだろうか? ……いるよね。そりゃあね。

 

「ま、暗殺のためなら行くしかないだろ」

 

 そのためにわざわざ椚ヶ丘に足を運んでいるんだし、とフリック操作で了承の返事を打ち込む。

 

 

茅野カエデ

 (あ、比企谷君はマッカン持ってきてね!)

 

 

 (りょうかおい!)

 

 

 絶対暗殺と関係のない指示に思わず書きかけのままツッコんだわ。またあいつマッカン補充忘れたのかよ。

 

 

     ***

 

 

 ニチアサの予約をしたことを四回ほど確認して学校に向かう。休日ということもあり通学の電車の中に人は少ないが、チラホラと力のない目をしたスーツ姿がいたりする。休日に仕事とか社畜ほんと辛そう。社畜にだけはなりたくねえなぁ。できれば働きたくないまである。一日中本読んでゲームしてって生活が一生送れたらいいのに。

 そんなどうでもいいことを考えながら電車に揺られていると、やがて椚ヶ丘駅に着く。本校舎の隣を抜けて一応舗装された山道を進むと校舎――の前になんか変なものが見えてきた。

 

「……なんだあれ?」

 

 プラスチック製の高さは四、五メートルはありそうな謎のオブジェ。円錐の途中を切り出したような台形のシルエットは、しかしよくよく確認してみると半円をいくつも繋げてぼこぼこした形になっていた。中には上下二ヵ所に十字のパイプが通っている。

 なんとも奇怪なオブジェだ。けど……なんか妙に見覚えがある。

 

「ふふふ、どうよ比企谷君!」

 

 首をひねるを通り越して呆然と謎の物体を眺めていると、したり顔の茅野が校舎から出てきた。その手には「㊙計画書」と書かれてファイリングされた紙の束。そしてさっきの発言から察するに……。

 

「これがお前の考えた暗殺計画か」

 

「そういうこと! これで廃棄されちゃう卵を救済しつつ、殺せんせーを殺しちゃおってわけ!」

 

 卵を救済? 茅野の言葉の意味が分からず再び謎オブジェに視線を戻して、あぁと納得した。

 サイズが大きすぎて気づかなかったが、この形、どおりで見覚えがあるはずだ。その微妙にオリジナリティを主張するデザインは、プッチンしてぷるるんと皿に出てくるプリンの容器そのものだったのだ。

 

「巨大プリンか」

 

「そっ! 巨大プリンの底に対先生BB弾と爆弾をセットして、殺せんせーが食べている間に爆破するんだ!」

 

 そういえば、先週ぐらいに卵が供給過多になって大量に処分されるってニュースが流れていたな。捨てられるだけの卵をうまく活用して暗殺の計画を練ったわけか。

 茅野が言うには、殺せんせーが前に巨大なプリンに飛び込んでおなか一杯食べるのが夢だと言っていたらしい。なにそれ、俺もやりたい。マッカン片手に飛び込みたい。

 そこでその夢をかなえさせて、油断しているところを爆殺する。というのが茅野の作戦のようだ。なるほど、子供らしいぶっ飛んだ発想だ。もはや暗殺とは言えない気もするが……油断しているところを殺すわけだから一応これも暗殺……かな?

 

「おはよ……なにこれ?」

 

 グラウンドまで入ってきた渚が中央に鎮座する巨大プリン型を見て珍百景を見たような顔をしていた。うん、やっぱそれが普通の反応だよね。自分の反応が一般的なものだったようで、八幡ちょっと安心。

 

「しかし、これ本当にできるのか?」

 

 確か前にテレビで巨大プリンを作ってた企画では、プルプルのプリン自体が自重に耐え切れず崩れてしまっていた。普通に作ると同じように失敗するのは必至な気がするが……。

 

「ふふーん、当然! 対策も考えてあるんだよ!」

 

 俺の心配に、プリン大好き少女はニシシと笑って計画書を差し出してくる。というか、めちゃくちゃ分厚いんですがこれ。少し腰を落として渚と顔を並べて中を開き――

 

「ほー……」

 

「すごい……」

 

 二人して思わず感嘆の息を漏らした。

 

 

 

 マヨネーズ工場の業者が割り混ぜた大量の溶き卵がタンクローリーから流れ出てくる。いやもうこれだけでシュールなんだが、それを流し入れた特大のボウルの周りで皆がエプロンつけてる姿が超シュール。ちょっとだけ寺坂が給食のおじちゃんみたいな雰囲気出しているのがポイントだ。なんのポイントなのん?

 そこに砂糖とバニラオイル、同じくタンクローリーで運んできた牛乳が主な主原料だ。

 

「そして、潰れない対策のために凝固剤はゼラチンと寒天を混ぜて使うの」

 

 コラーゲンが主成分のゼラチンに対して寒天は繊維質の海藻から作られているから強度は確実に高くなる。さらに二十五度程度で溶けてしまうゼラチンに対して、寒天の融点は圧倒的に高い。熱で崩れてしまうのを防ぐ役割もあった。

 さらに椚ヶ丘で有名なスイーツショップ『プリネーゼ』の四層プリンを参考にした全四段の構造は、下の部分は凝固剤多めで自重に耐えられるように固めに、上の部分は生クリームを多めにすることでプリンの柔らかさを維持する作戦になっている。

 

「じゃあ、適度にこれも投げ込んでね」

 

「……なにこれ?」

 

 茅野から渡された箱に入ったものを取り出して、首をかしげる。というかちょっと引いてる。本人は全力なんだから引いてあげないで!

 片岡が持っている色とりどりのプルプルした立方体はいわゆる飽き対策だ。オブラートに包まれた中には様々な味のフルーツソースやムースクリームが詰まっていて、これが溶け込むことであちこちに味の変化が生じる。いくら好きでもこのサイズで同じ味だと飽きてしまうからという匠の粋な計らいだった。

 そして、普通のプリン容器にはない、容器の中を通る複数のパイプ。巨大なプリンを確実に固めるために、この中に冷却水を流して中からも冷やすのだ。

 

「すげえ……」

 

「科学的に根拠がありつつ味もしっかり研究してある……」

 

 皆作業しつつ、感嘆の声しか上げることができない。というか、なんか数人引いてるまである。おい速水、白目向いてるけど大丈夫か?

 何がすごいって、これを容器の設計から全て茅野が一人で計画しているところだ。計画書には縮小モデルでの強度実験の結果なんかも書いてあった。もはやあれは論文と言っても過言ではないレベル。というかこれを自分たちが食べられないとか悲しすぎない? 今すぐ暗殺中止して皆で食べるようにしない? 絶対マッカンに合うよこれ。

 

「やるねー、茅野ちゃん。卵のニュースから一週間でこれ全部手配したんだ」

 

 赤羽にしてはずいぶん素直な「やるね」に茅野が恥ずかしそうにはにかむ。それもあるが、元々やってみたかったことらしい。経費も防衛省から出るから、機会としては最高だったと。

 後方支援に徹して、実行部隊やトリガーにはほとんどなったことのなかった茅野がここまで積極的に行動する。その姿は四ヶ月近く過ごしてきた俺たちからしても新鮮で――

 

「そうと決めたら一直線になっちゃうんだ、私」

 

 そのせいか……なぜか頭の中を違和感がかすめた気がした。

 

 

     ***

 

 

「「「「できたー!!」」」」

 

 翌日の早朝。一晩かけて冷やしたプリンは型を外しても崩れることはなく、表面を整えてカラメルの表面をバーナーであぶると、見事なプリンが出来上がった。もうまじでまごうことなきプリン。プッチンでぷるるんなプリンのCMでも使えそうな素晴らしさだ。

 

「やあ、超美味そう」

 

 皆、思わずあふれるよだれを飲み込んだり自分たちの作った、もはや作品とすら呼べるものを写メに取ったりしている。

 そんな中俺はおもむろにマッカンを取り出し、茅野にも一本渡して――ちなみに昨日ももちろん渡している――、……二人で頷いて一歩前に出た。

 

「「じゃあ、食べようか!」」

 

「「「「そのために作ったんじゃねえよ!!」」」」

 

 ぐぬっ、どうやら全員当初の目的を忘れていなかったようだ。計画者の茅野が忘れていた気がするが……あ、倉橋に説得されて我に返った。やけになってマッカンを飲み干した。やけマッカンとは新しいな茅野。

 

「比企谷君、あれは殺せんせー用なんだからね?」

 

「絶対マッカンと一緒に食べたら美味いのに……」

 

 こんな美味そうな甘味が目の前にあるのに食べられない世の中じゃ……POISON。あの中に入っているのはBOMBだけどね。

 仕方なく持っていたマッカンのプルタブを開けて、一気に飲み干す。

 やけマッカン……悪くねえな。

 

 

 

「…………こ、これ全部先生が食べていいんですか?」

 

 始業時刻ちょい前になって出勤してきた殺せんせーは、二時間くらい待てをさせられた犬のようによだれをだらだらと溢れさせていた。端的に言って汚いが、これくらい反応してくれないと昨日一日かけた甲斐がないというものだ。こうしてプリンに意識が行ってくれれば、殺せる確率も高くなるしな。

 

「廃棄卵を救いたかっただけだから、いーよー」

 

「もったいないから全部食べてねー」

 

 夢がかなったと涙する殺せんせーを残して教室で爆発の機を伺う中、超絶甘党生物はいそいそとスプーンと平皿を取り出した。なにそれ、マイスプーンなの? ああ、文字通りプリンに飛び込んでいった。いいなぁあれ、いつか自分でもやってみたい。

 ものすごい勢いでプリンを消化している殺せんせーと、内部に設置したカメラを見比べる。起爆のタイミングは、うっすらと光が漏れだしてきた瞬間だ。

 

「プリン……爆破……」

 

 殺せんせーが食べ進めていくにつれて皆の視線の比重がカメラに集まっていく。タイミングを逃すまいと緊張が走り、口数も減っていく中、茅野の声がやけに鮮明に響いた。

 視線を向けた先でじっと窓の外、殺せんせーが食べ尽くしていくプリンを見つめる茅野の目には、なにやら様々な感情が見え隠れしている。その瞳がゆらりと一度揺れたかと思うと、ジワッと涙が……え、茅野さん……?

 

「ダメだーーーーっ!! 愛情込めて作ったプリンを爆破なんてだめだ!」

 

 茅野が壊れた。リアルに涙をダバーと流しながらグラウンドに向かおうとする茅野を寺坂が羽交い絞めにして止めるが、それを払いのけようと茅野も必死に暴れる。お前、そんなパワー持ってたのな。単純な力なら渚より上なのではないだろうか。

 

「プリンに感情移入してんじゃねーよ! 吹っ飛ばすために作ったんだろうが!」

 

「嫌だ!!」

 

 まあ実際、自分の好きなものを、それも自分の作ったものを壊すって精神的にクルからな。やっぱり自分たちで食べたいよな。

 

「このままずーっと、校庭でモニュメントとして飾るんだい!!」

 

「「「「腐るわ!!」」」」

 

 お前のプリン愛の方向性はなんかおかしい。

 

 

 

 結局、途中でプラスチック爆弾の匂いに気づいた殺せんせーが先に爆弾を処理してしまい、プリンの残りを皆で食べることになった。爆弾にも匂いがあるんだな。となると作れる爆弾も種類が限られることになりそうだ。

 

「惜しかったね、茅野。むしろ安心した?」

 

「爆破しなくて済んだからねー。実際に爆破してたら今頃茅野ちゃん気を失ってたかもね」

 

「あはは……」

 

 渚と赤羽に恥ずかしそうに茅野は笑い返す。実際、安心したというのも事実なのだろう。

 

「また殺るよ。ぷるんぷるんの刃だったら他にもいろいろ持ってるから」

 

 受け取ったプリンを照準を合わせるようにターゲットに向けた茅野は、自分たちで作ったデザートを楽しそうに口に運びながら渚や赤羽と話している。

 

「…………」

 

 そんなあいつらから視線を外して、俺も自分のプリンを一掬いして、口に含む。ラッキーなことにちょうど味変えのためのフルーツソースのところに当たったらしく、プリンの味に混じってさわやかな梨の甘さが広がった。日本生産量千葉一位の梨を引き当てるあたり、さすが俺は千葉の男だ。

 保冷バッグからマッカンをまた取り出して、くぴっと一口。さわやかなプリンと梨の甘さがマッカンの暴力的な甘さを一層引き立てた。

 うん、やっぱこの二つ合うわ。




食べ物のお話を二つほど。

磯貝はまあ、あんまり突っ込みすぎるとあれなんですが、なんか貧乏ネタでちょっと話を作りたいなと思っていたので。いや、さすがに原作はここまでひどくないと思うけど……金魚食うまで行くところを考えるとちょっと全否定はできないんですが。
まあ、あんまり書かないコメディ的なのに挑戦したということでここはひとつ。

松井先生も言っていましたが、この巨大プリンは実際潰れずにあのプルプルフォルムを維持できるのか興味あります。誰か実際に作れください。
後、市販のプリンがあの波みたいな特殊な容器な理由を知っている人誰か教えて。2,3時間ずっとそれ調べたけどどこにも書いてなかったです。自分で答えまでたどり着いていたら、その雑学を茅野にしゃべらせて予定でした(ぐすっ

ちょっとお知らせ。
まあ、前からなんですがTwitterやってます。
@elu_akatsuki
ここ最近特に用事で一日中出払っていることも増えてきたので、更新できない日なんかはTwitterの方で呟くと思います。よろしければフォローしてもらえると~。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

正直そのギャップは反則でしかない

「……へえ、こういうのもあるんだ」

 

「こういうお話も、結構面白いですね」

 

 机の隣に置かれた本棚から適当に一冊取り出した速水がペラペラと中身をめくり、それを横から眺めながら神崎が微笑みながら答える。俺はその光景を、ベッドにちょこんと座りながら眺めていた。やだ、自分の部屋なのに居心地悪い!

 えーっと、この状況はなんだっけ? 確か、放課後に不破と貸したラノベの話をしていて……そうそう、不破が絶賛しているのを聞いた神崎が自分も読んでみたいと言ってきたんだった。国語学年一位様は同時に結構な読書家なのは知っていたが、ラノベに興味を持つとは思わなかった。教室でも堅めな本を読んでいることが多かったが、やはり同じ読み物ということで、気になるところがあるのだろうか。

 そういうわけで、当初は明日あたりに神崎でも読みやすそうなものを見繕ってやるつもりだったのだが、そこで別の提案をしてきたのが速水だった。聞き耳を立てるなんて趣味が悪い。そこを指摘したら「べ、別にあんたたちの話なんてじっくり聞いてないし!」とツンデレ発動させて、教室が和んだ。竹林は「リアルツンデレ……悪くないな」とか一瞬二次元を捨てかけていた。

 まあ、直接気になったのを探した方がいいという速水の意見も一理あったので、神崎を我が家に案内することになったのだ。なんか当然のように速水も付いてきて思わずツッコミかけたが、お兄ちゃんとして妹を無闇に恥ずかしがらせるわけにはいかない。大丈夫、お前もラノベに興味があったけど恥ずかしくて聞けなかったっていうのは、たぶん皆気づいたから。

 

「へー、これミステリーだ。しかも結構読みやすそう」

 

「あ、これ私が今読んでるお話みたい」

 

「あー確かに。あの本の謎解き部分もわかりやすくて読みやすいよね」

 

 神崎が出した例に速水が軽く指を鳴らして同意する。基本的に速水が感想を切り出して、神崎がそれに補完し、そこにまた速水が同意するという流れが出来上がっていて、会話はほとんど途切れない。倉橋や矢田のような極端なものではないが、二人とも割とテンションが上がっているらしい。

 そんな二人をぼーっと眺めていると、振り返った速水と目があった。なに? と訝しむような視線を向けてきたので、マットレスに後ろ手をついて首をすくめる。

 

「いや、お前らって教室じゃあんまり話さねえけど、案外気が合うんだなって思ってな」

 

 元々二人とも大人しい生徒だし、神崎は茅野や奥田、渚のような四班メンバーと、速水は倉橋あたりと話すことが多い。なんというか、意外な組み合わせというのが素直な感想だった。

 俺の感想に神崎は困ったように小さな笑みを浮かべ、速水はよそに目を逸らして恥ずかしそうに頬を掻いていた。

 

「まあ、神崎さんが普段読んでる本って、私が読んだことあったり興味あったりするのが多いから、話したら気が合うだろうな……とは思ってた」

 

「私も、同じですね。速水さんも結構本を読んでますし、お話できたら楽しいだろうなって」

 

 確かに、速水もそこそこ本を読むタイプだ。思い返してみると、二人が読んでいた本は結構傾向が似ている気もする。ついでに言えば、一般文学なら俺とも傾向が似ていたのでたまに話したりしていた。あと最近の律の読書傾向もなぜか似てきている。

 

「じゃあなんで……?」

 

 お互い分かっていたならなぜ今までそういう話をしなかったのだろうか。首をかしげる俺に、二人は至極言いづらそうにモゴモゴと口を動かす。なに? そんなに言いづらいの?

 

「だって、私達の席の間って……」

 

「岡島がいて……」

 

 …………あぁ。納得しちゃった。すごく納得できちゃった。

 確かに席順的に二人の間には岡島が鎮座している。あの本と言えばグラビアとエロ本と公言するような有害生命体を挟んでミステリーの話をしたりするのは気が引けるだろう。かと言って、そこまで積極的なタイプではない彼女たちは、相手の机まで足を運んでまで話をするということもなかなかできないのだろう。

 つまり全部岡島が悪い。

 

「いや、さすがにそれは岡島がかわいそうだ。今の話を聞いて、改めて小町には二度と会わせないと固く誓ったが、あいつだって一緒に暗殺をしている仲間だからな」

 

「いや、たぶんあんたが一番かわいそうなこと言ってるから」

 

 なぜかフォローしたのに逆に諌められてしまった。あれれー? おかしいぞー? 神崎も無言で苦笑すんのやめてくれない?

 

「ま、これからはこういう話もできそうかな?」

 

「ふふっ、そうだね」

 

 静かに笑いあう二人を見ていると、なんか微笑ましい気持ちになる。こいつらが話せるきっかけになったのなら、放課後を返上して自室を開放したのも意味があったかもしれん。

 一人ほっこりしていると、再びラノベを読みだした神崎が「そういえば」と顔を上げた。

 

「ここにある本の女の子たちって、主人公の男の子と皆仲良くなりますよね」

 

「そういえばそうね。ハーレム……ってやつだっけ。あんたの趣味?」

 

 え、なにその目。さっきまでのほっこり空間はどうしたの? 確かにそういう奴は多いが、俺の趣味というよりも最近のラノベの傾向がそういうものなのだろう。アニメ化したラノベとかもチーレム――ストーリー開始時点で主人公のスペックがチート級のハーレム物――がかなりの割合を占めている。場合によってはオリジナリティがいまいち感じられないようなものもあるが、まあ似たような設定でも人気が出るものは出るものなのだろう。ラノベで一番重要なのはイラストだしね。いやさすがにそんなことないと思うけど。

 ではなぜラノベの主人公がモテモテハーレムになるのかと言えば――

 

「それは……物語だからだ」

 

「そんな理由!?」

 

 まああれだよね。ラノベ読者って男子の割合結構高いし、主人公に自己投影しちゃう読者も一定数いるだろうから、かわいい女の子とイチャイチャするのを望んでるんじゃないかなって。

 あとあれだ。よく主人公の容姿を表現するときに「冴えない」とか「パッとしない」とか使われること多いけど、どう見てもお前らイケメンなんだよなと。お前らが冴えない見た目だったら、現実のイケメンの大半が冴えない男になって、ブサイクと称される人間が急増化必至である。二次元の顔面偏差値は現実と明らかにずれていて、そこに気づいた読者のガラスハートを粉々にしてくるレベル。なんだあの二期のキャラデザ。腐った目がほとんど見えないから普通のイケメンだよあれ!

 

「ま、需要とか作者が書きたいとか、そういうもんなんじゃねえの? あくまで商業なわけだし」

 

「夢のない意見ね……」

 

 まあ結局、読んで面白ければそんな疑問は些細な問題なのだ。

 

「けど、なんていうかこの部屋、思ったよりも片付いてるわね」

 

「あ、私もちょっと思った。男の子の部屋って、もっとごちゃってしてるイメージだったから」

 

 ふむ。二人の言いたいことは分からんでもない。男というのはだいたいズボラな生き物で、大抵部屋は出しっぱ脱ぎっぱ広げっぱになるものだ。たぶん。同年代の家に行ったことないから知らんけど。

 しかし、俺には綺麗な部屋を維持しなくてはならない理由があるのだ。そう、とても重要なのは理由が。

 それは……。

 

「部屋が汚いと小町に嫌われてしまうんだ」

 

「……あぁ」

 

「……シスコン」

 

 おいこら、シスコンとか言ってんじゃねえぞ。兄妹の仲が良いだけでそんな不名誉な称号を与えられても困る。お兄ちゃんたるもの、妹に嫌われないためなら男の常識すら覆えすものなのだ。

 

「……あと、最近律が俺の部屋の清潔度採点なんていうのを始めたから、余計にな……」

 

「はい! 私の演算能力を持って、八幡さんの衛生面を全力でサポートさせていただいています!」

 

 出たなハッカー娘め。突然PCが起動すると、いつものデスクトップではない簡素なブルー背景にバストアップの律が現れた。ちょうど学校の本体に映っているのと同じ感じだ。つうかずっと聞いてやがったな? 最近俺のプライバシーがほんとない気がするんだけど、気のせいかな。しかし、あまり厳しく当たりたくないし、「お兄ちゃんの生活を見守るのが妹分の役目です!」なんて言われたら、突然スマホやパソコンから現れても怒るに怒れなくなってしまう。いや、普通見守るのはお兄ちゃんの役目だと思うんだけどね。

 

「そ、そうなんだ……」

 

「律……お手柔らかに……ね」

 

 努力の方向性がよくわからんAI娘にさすがの二人も引いてしまっている。というか、速水に至っては一昔前の少女漫画みたいに白目を剥いてしまっていた。お前それナチュラルな反応なの? 律、恐ろしい子ッ! とか思ってるの?

 

「あ、あと速水さん。本棚をくまなく探しても、性的な本などは見つかりませんよ?」

 

「うぇっ!?」

 

 律のいつも通り明るい声での指摘に、速水が奇妙な声を上げながら本棚から飛び退く。お前、やけに物色してると思ったらそんなもん探してたのかよ。そのネタ使って遊ぶ気だったのん? はやみんまじこわい。

 

「そんなもん持ってねえよ……」

 

「そうですよ。八幡さんのコレクションはパソコンのな……」

 

「おいこら!」

 

 律が何か言い終わる前にパソコンの電源を切った。

 

「甘いですよ!」

 

 しかし、スーパーハッカーによって勝手にまた起動する。それに気づくとまたすかさず指を電源ボタンに。

 

「まだまだ!」

 

 ……なにこいつうぜえ。

 しょうがないので電源ボタンから指を外して――

 

「あっ……」

 

 LANケーブルと電源ケーブルを同時に抜き取った。ブツッという音と共に画面が真っ黒になり、次に聞こえてきたのは「ひどいですよぉ」という律の情けない声だった。音源はポケットのスマホ。

 

「勝手なことやろうとするからだ」

 

「ブーブー」

 

 なにお前、豚になったの? そんなことしなくてもネットの向こう側に萌え豚がいっぱいいるからそんなのになる必要ないぞ?

 

「あんたら何やってんのよ……」

 

「ふふっ、二人とも仲がいいですね」

 

 速水よ、実際のところ頭痛がしそうなのは俺のほうなのだが……。

 

 

 

 ――ピンポーン。

 

「ん?」

 

 あの後律も落ち着き、全員で読書モードに入っていると玄関のチャイムが聞こえてきた。はて、今日は特に密林からのお届け物の予定はなかったはずなのだが……。

 ――ピンポーン。

 

「……早く出たら?」

 

「そうだな」

 

 二回も鳴らしてきたということは宅配便とかではないだろう。断りを入れて一階に降りて玄関に向かう。その間にもチャイムがもう一回鳴った。うちのチャイムで遊ぶのはやめてくれないだろうか。

 

「はいはい、どちらさま……?」

 

「はっちゃん遅いよぉ」

 

 四回目を鳴らされても面倒くさいと少し早歩きになって玄関を開けると、ゆるふわアニマル倉橋が立っていた。半袖でレースがデザインされたTシャツとショートパンツに膝下までのレギンスを合わせた私服。どうやら一度家に帰ってから来たらしい。

 

「どうしたんだよ、突然」

 

「えへぇ。またカマクラちゃんと遊ぼうと思って!」

 

 どうやら目的の相手は愛猫カマクラであるらしい。そういえば今あいつはどこにいるのだろうか。速水と神崎が来たからどこかの部屋に隠れているんだと思うが……。

 小町の部屋だったら入ったのばれたときに小町に怒られるなぁと憂鬱な気持ちになりかけていると、「なー」とやる気のない声をあげながら件のカマクラが二階から降りてきた。のっそりのっそり。やっぱお前貫禄あるよな。

 ゆっくりと階段を下りてきたカマクラは、最後の二段をピョンと飛び降りると、玄関に立つ俺の隣に座り、倉橋を見るともう一度「なー」と鳴いた。

 お前倉橋好きすぎない? お出迎えなんて俺されたことないんだけど。

 

「カマクラちゃん、やっほー!」

 

 前足の脇に両手をかけてカマクラを抱き上げると、器用に靴を脱ぎながら上がってくる。いやまあ、別にうちの飼い猫と遊ぶくらいいいけどさ。

 

「お前さ、来るなら連絡入れろよ。俺がいなかったらどうするつもりだったんだ?」

 

 別にこいつなら連絡なしで来ても大きな問題ではないのだが、むしろいつもは放課後残って訓練を受けることの多い俺の家にアポなしで来て、誰もいなかったらかわいそうだ。

 しかし、当の動物大好き少女はカマクラをわしゃわしゃしながらニシシと笑みをこぼす。取り出したのはスマホ。その画面には律が表示されていた。

 

「律から今は家にいるって聞いたから、その点は抜かりなしだよ!」

 

「…………そっか」

 

 烏間さん、うちの個人情報がクラスメイトの手によって筒抜けなんですが、どうすればいいでしょうか。我慢してくれ? そうですか……いやいいけどさ、この程度なら。

 

「比企谷君、どうしたんですか……あら、倉橋さん?」

 

「あっ、神崎さんやっほー!」

 

 なかなか戻ってこない俺を心配してか、二階から二人が降りてきた。神崎は突然の倉橋の登場に首を傾げ、速水は……速水は?

 

「…………ねこ」

 

 速水はどこかぼーっとした表情で倉橋に近づいていき――いや、その視線は倉橋に抱き上げられているカマクラに注がれていた。

 

「その猫、倉橋さんちの子ですか?」

 

「いや、うちの猫。人見知りで、倉橋もこの間ようやく仲良くなったんだよ」

 

「……比企谷んちの……ねこ」

 

 あの、速水さん? なんでどっかの都市伝説ゲーマーの妹みたいな三点リーダ豊富なしゃべりになってるのん?

 カマクラの目の前に立った速水は……動かない。じっと穴でも開けようとしているかと言うほどじっとカマクラを見つめている。実際そんなことをやられたら、いかに容姿の整っている速水でも怖いと思うのだが、そこはさすが貫禄のにじみ出る我が愛猫。特におびえている様子はない。

 

「ナ?」

 

「……なァ?」

 

「なー」

 

「…………なぉ?」

 

 ……なんかこの子、カマクラと会話していません? なにこの子、動物と話ができる子だったの? やめて! そのキャラはたとえいたとしても倉橋の役柄だから!

 カマクラが首を左にかしげると速水は首を右に傾げ、右に傾げると今度は左へ、そして一鳴きするとそれに合わせて小さく鳴く。ここまでくると速水に猫が取り憑いたのではないかと心配になってくる。速水が松野家四男になっちゃう! いやならん。そもそも男ではない。

 しかし、カマクラの動きに合わせはするが、一切手を出そうとしない。いや、何度かおずおずと手を伸ばすのだが、途中で引っ込めてしまうのだ。

 

「触らないのか?」

 

「……触って……いいの?」

 

 速水が不安そうに投げてきた視線に、思わずガリガリと頭を掻いてしまう。どうやらうちの猫に勝手に触ると怒るのではと思っているらしい。そんなことで怒るわけがないだろうに。小町に男が触れたら怒るけど。怒るどころか存在消すけど。

 

「いいぞ。優しくな」

 

「…………ん」

 

 言葉少なに頷いた速水はゆっくりと手を伸ばすと、カマクラの頭に指の先を乗せた。一瞬ぴくっと肩が揺れて手が離れそうになるが、そこからゆるゆると接触面を増やしていき、ポスンと手のひら全体で頭を覆った。

 

「……毛、ふわふわ。……ぬくぬく」

 

 そのまま感触や熱を楽しむようにゆっくりと手を動かすと、カマクラは目を細めて息を抜くような小さな声をあげた。どうやらリラックスしているらしい。

 

「……気持ちいい?」

 

「「「っ……!?」」」

 

 ……いや。

 やばい。

 何がやばいって、速水の表情がドキッとするほど柔らかくて、普段とのギャップで破壊力四割増くらいになっている。神崎なんて両手で口を覆って頬を真っ赤に染めているくらいだ。

 

「なにこれ反則だよぉ」

 

 倉橋もカマクラを抱えたまま、赤くなってしまっている。なにこの最終兵器、強すぎやしません? むしろ最強では?

 その後も控えめなスキンシップをカマクラと交わす速水を玄関先で皆で眺めて悶えるという謎の構図を継続してしまい、帰ってきた小町に四人そろってドン引きされた。しかしその小町も、速水が帰り際にカマクラに「……バイバイ」と手を振ってはにかんだ速水を見て、ゴパッと吐血していた。妹よ、そのキャラはどっかの何気ないエロスな世界線だから戻ってきて。




名簿の時間で岡島がいるせいでなかなかは話ができないということが書いてあったので、読書女子二人を仲良くさせるお話を。狭間さんは……こう、系統が違うから今回はパスで。狭間さん好き……ごめん。

ついでにこの間の倉橋回の時に、速水じゃねえのかよ! と家族から白い眼を向けられながらも訴えかけてきてくれた方がいたので速水にカマクラを与えてみたのですが――

すっごい暴走した。

なんか勝手にどっかの天才な妹みたいになった上に超絶キャラ崩壊起こして、けど筆が進む進む。これでいいのか速水! ……いいか! いいよね?

そういえば、昨日なんとなくハーメルンで、原作「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」でいろいろ検索していたら、本シリーズが先週と今週のUA1位をいただいていました。うれしい限りです。本当にありがとうございます!

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

揺れて曲がって殲滅戦

 小さな崖から身体を投げ出すように飛び降りる。途中崖の側面を蹴ってワンクッション置き、落ち葉の増えてきた地面に激突する前に前転態勢に入った。前回り受け身の要領で衝撃を殺して、そのまま立ち上がると同時に前方の小川に向かって駆け出す。

 

「くっ……うぉっ、と」

 

 川水の流れ出す大岩に足をかけて、助走の勢いそのままにウォールラン――は勢いが足らず無理だと分かり、岩の窪みに腕をかけて振り子の要領で残りの川幅を飛び越えた。そのまま残りの平地を駆け抜けて、ゴール地点である一本松の生えた崖と近くに生えた樹木に蹴飛ばすように足をかけて高さを稼ぐ。足りない高さはクライミングで補って、松の幹をタッチ。即座にスタート地点を振り向いた。

 

「二十五秒だって!」

 

 律の測定したタイムを矢田が読み上げるのを聞いて、大きく息を吐く。烏間さんの記録には遠く及ばないか。いや、あの人と比べるのもどうかと思うが。

 最近になって新しく取り入れられた訓練、フリーランニング。ジャンプや受け身などを駆使して複雑な地形でも暗殺フィールドに変えるこの技術は、行動に縦方向の動きも加わってそれだけで面白かったりする。

 

「じゃあ、次俺が行くよ!」

 

 息を整えていると木村の声が聞こえてきたので視線を向ける。木村は急な傾斜の崖を走るように駆け下りて、ギリギリのところで前回り受け身。勢いを殺すことなく川べりまで距離を詰めると、綺麗にウォールランを決めた。最後の一歩を大きく踏み込むと、近くの木の太い枝に飛びつく。枝に足をかけて更に奥の木に飛び移ると、俺がやった時よりも人一人分高い位置で崖と木の幹を蹴り上げ、一本松の一番近い枝に触れて、根元に着地した。

 

「すごい! 十八秒だって!」

 

 矢田が知らせたタイムは俺のものより七秒も早かった。ほう、と感嘆の息が漏れる。

 

「さすがに身軽だな」

 

「……それ、チビって言ってないか?」

 

 言ってない言ってない。いや確かに木村はE組男子の中でも小柄な方だが、俺が言ってるのは過去の部活的な意味だから。

 E組に編入させられる前は陸上部だったらしい木村は、とにかく脚力が半端ない。短距離走で培った加速力はここで遺憾無く発揮され、このコースの模範解答を見せた烏間さんに倣ってあっさりウォールランをマスターした。ルートの構築も出来る限りその加速力を活かしたもののようだ。

 ああ、脚力といえば……。

 

「よっ、と!」

 

 トン、と軽い音と共に、三番走者だった岡野が地面に着地して木の幹に手を触れる。いつの間に走ってたんだ。全然見てなかったわ。

 

「何秒ー?」

 

「十七秒だよー!」

 

 矢田がタイムを読み上げた途端、木村の肩がピクッと揺れた。表情を確認してみると薄く唇を噛んでいて、いかにも悔しそうだ。

 

「枝に飛び移るところでだいぶロスしてたじゃん木村。比企谷君みたいに崖下まで走るルートにしてみたら?」

 

 おお、挑発してる挑発してる。まあいつものことなんだが。

 体操部だった岡野は加速力こそ木村に劣るが、その点を高いバランス感覚で補っている。暗殺ではトリッキーな動きで一番“足"を使っており、ロングジャンプや枝移動でのタイムロスが一番少なく、岩山を自在に飛び移っていた。……そのせいで前原からは猿と揶揄されていたが。あいつ岡野にだけはやけに言動ひどいよな。好きな子は虐めたくなるタイプかな?

 

「うっせ、次は俺が勝つからな!」

 

 E組でも一位二位を争う高機動力を誇る二人は互いにライバル意識を燃やしていて、事あるごとに勝負をしていた。そのせいか更に機動力が向上して、その点は俺たちの中でも頭一つ抜けている。集団暗殺でも前衛、撹乱として大いに活躍してくれるだろうと烏間さんも期待をしているようだ。

 

「じゃあ、私も行くよー!」

 

 二人が一通り闘志を燃やしあうと、それを見計らっていたのか矢田が右手を大きく振ってくる。こちらも右手を上げて大丈夫なことを知らせると、一度身体全体を使って深呼吸をして、すっと崖から身を投げた。

 矢田はイリーナ先生の一番弟子ということで交渉術や接待術なんかはかなりのものなのだが、争い事が苦手なせいか戦闘訓練では少し遠慮してしまうきらいがあった。ナイフ術の成績は女子三位だし、もっと上位の成績を狙えそうなのが惜しいところだが、優しい性格は悪いことではない。無理して暗殺の前線に立つ必要もないだろう。

 

「はっ……はっ……」

 

 ただ、こう……矢田がフリーランニングのような激しい動きをするとこう……なんか揺れるな。うん、なんかね。

 

「うお……」

 

 木村が思わず声を漏らす。そうだよね、やっぱり目が行っちゃうよね。逸らそうとしても逆らえない。これが万乳引力って奴か、自然の摂理って恐ろしい。……“乳”って言ってるじゃん。ごまかした意味がないではないか。

 あっ、木村が岡野に頭叩かれてる。ダメだよ木村、あんなところ凝視してたら。

 どんなところかって? 八幡よくわかんない。

 

 

     ***

 

 

「比企谷ー、野球しようぜー!」

 

 昼休み。小町の愛妹弁当を食べ終わってまったりしていると、バットやグラブを抱えた杉野から食後の運動に誘われた。だからなんで中島のノリなんだよ。磯野と浅野ってなんか似てるから今度浅野誘ってみて。無理か。殺されかねないか。

 

「おう、いいぞ」

 

 まあ、午前中は授業で身体が鈍っていたし、ちょうどいい。たまには参加するとしよう。

 どうやら今日は杉野、渚、赤羽とやるらしい。渚は大体一緒にやっている姿を見るが、赤羽が野球に絡むのは珍しい。というか、なんか企んでそうで怖い。あと怖い。

 

「じゃあ行くぞー!」

 

 前に球技大会の時に殺せんせーが作った即席マウンドに立った杉野はグラブにボールを隠したまま大きく頭上に両手を持ち上げる。いわゆるワイルドアップで振り被ると、ブンと音が聞こえてきそうな速さで腕を振り抜いた。極端に速いわけではない――と言っても、野球をあまり見ない俺にとって、比較対象はプロとか球技大会で見た進藤くらいなのでよく分からないが――球は、大きな弧を描くように変化した。キャッチャーミットを持った渚が慌てながらもその球をミットに収める。

 

「あいかわらず、えっぐい変化するな、その球」

 

 渚から聞いた話では最初は消えるようにガクッと変化する球だったらしい。そこから改良を加えた結果、大きく曲がる方向性に固めたのだろう。杉野的には消える変化も捨てがたいらしく、今制球のしやすさも含めて絶賛改良中だそうだ。

 バットを持ち直すと、杉野が小さく頷いて再び振り被る。

 

「ま、手首の柔らかさはプロ以上って殺せんせーからのお墨付きだから、なっ!」

 

「ああ、あの『メジャー触手事件』か……」

 

 ストレートが来たのでなんとかバットに擦り当てる。バットがクンッと押し返されて、ボールは前に飛ばずに渚の右後ろに跳ねていった。

 暗殺教室が始まって間もない頃、野球成績の不振が勉強への不振に繋がった杉野に、殺せんせーはわざわざメジャーにまで野球を見に行って、杉野がフォームを真似していた有田投手と細かく比べてくれたのだ。

 ……試合中の有田投手を触手責めして。安易に触手見せるなよ国家機密……。ちょうど入院してる時にあのニュース見たときは思わず笑ったけど、今は全然笑えねえよ。

 

「比企谷君ってさー、結構杉野の球にバット当てるよねー」

 

「うん、部活をやったことないってのがもったいないくらいだ」

 

 再び飛んできたボールをまた後方に弾き飛ばすと、それをキャッチした赤羽がケタケタ笑う。まあ、実際運動そのものはそんなに嫌いなわけじゃないしな。

 

「マッハ二十なんかに慣れてるから多少速度に耐性がついてるだけだろ。当てられても前に飛ばねえし」

 

 というか、多分ここの奴らは今ならもうプロの百五十を超えるような豪速球でも捉えることができるんじゃないだろうか。俺もだんだん殺せんせーがマッハに移行して捉えられなくなるまでの時間が長くなっている気がするし。

 

「けど、比企谷の振り方綺麗なんだよな。絶対どっかで野球やったことあるんじゃないか?」

 

 なんか野球少年からも褒められた。何? 褒めて集中力欠かせる精神攻撃なの?

 しかし、野球の経験なぁ……。

 

「小学校の頃は野球よくやってたぞ。……一人で」

 

「は……?」

 

 間の抜けた声を漏らした杉野の手からすっぽ抜けた球はゆるい速度でど真ん中に飛んでくる。バットを少し短めに持ちかえて、掬い上げるように振り抜くと、ミートされたボールは頭上高くに打ち上げられた。

「ガキの頃からぼっちだったから、こうしてボールを投げてくれる奴もいなくてな。しょうがないから一人でフライを打ち上げて取るって遊びをやってたんだよ」

 おかげで打ち上げるだけなら異常に上手くなった。披露する機会は今のところないのだけど。あ、今披露しましたね。落ちてきた球を両手でキャッチする。普通に痛かった。あの頃はゴムボール使ってたもんな……。

 

「なんだろうそれ、悲しい……」

 

「やってて楽しかった」

 

「楽しいのか!?」

 

 楽しくなかったら日が暮れるまでやらんだろう。

 どうやら俺のぼっちネタは受けがよろしくないようで、グラウンドの空気がズーンと重くなってしまった。なんかごめんね?

 ただ一人、赤羽だけはケケケと笑っている。あ、やばい。なんか頭に角が見えてきたわ。やっぱり何か企んでやがる。

 

「比企谷君のぼっちネタで空気悪くなっちゃったじゃーん。これはなんか罰ゲームかなー?」

 

「は? は?」

 

 意味がわからなすぎて思わず二回首を傾げてしまった。

 しかし、なにやら暗い空気だった二人は顔を見合わせてニヤッと笑う。

 

「そうだなー。これは罰ゲームかなー?」

 

「空気悪くなったのは事実だしねー」

 

 おいこら、棒読みにもほどがあるぞお前ら。

 まあしかし、さっきまでの暗い空気はもうない。自虐ネタってダメなんだなという教訓代金と考えれば、罰ゲームは安いものかもしれないな。

 

「じゃあ、今日一日マッカン禁止で」

 

「なっ!?」

 

 なにそれ全然安くない。赤羽は俺に水を飲むなと申すか。ひどい! ひどすぎる! 鬼! 悪魔! カルマ!

 そのあとトボトボ教室に戻ると、予備のマッカンがなくなっていた。というか、茅野がゴクゴク飲んでいた。禁止ではなく没収だなんて、ひどすぎるよ……。

 

 

     ***

 

 

「神崎、相手の第一小隊が厄介そうだ。今近づいてきているのが四人。足止めはできそうだがオールキルは難しい」

 

『分かりました。三時の方向から援護に入ればいいですか?』

 

「いや、まず第一射で一番左の奴をやるから、一時方向から突っ込んで挟撃しよう」

 

『了解です』

 

 ヘッドセットから聞こえてくるかすかな足音を聞きながら神崎と作戦を練る。状況はなかなか厳しい。ちょっとミスしただけであっさりトドメを刺されてしまうだろう。

 潜伏位置を左にずらしてグッと息を飲む。劣勢というのはもちろん敗北に片足を突っ込んでいるわけだが、存外この緊張感は胸踊るものがある。ゲーム内には関係ないが、我知らず気配を消そうと浅く呼吸を切り替えて――

 

「八幡さん!」

 

「っ――!」

 

 突然ヘッドセットから律の声が聞こえてきて、肺の空気が全て出てしまいそうになる。マウスを揺らしてしまって、一人称の画面があらぬ方向を向いてしまった。

 

「律、ちょっと後にしてくれ」

 

「ですが……」

 

 画面を元に戻してディスプレイの右下に現れた律にチラッと視線を向けるが、どうにも歯切れが悪い。やけに慌てているようにも見える。

 

『比企谷君、私のところにも律さんが来ています。多分相当な緊急事態かと』

 

 神崎のところにも? そもそもこのAI娘が狼狽するほどの緊急事態ってなんだ?

 そうこうしている間にも四人分の足音は大きくなってくる。暗殺者の本能が、再び戦場に集中力を向けようとしていた。

 

「待っててくれ律、すぐに終わらせる」

 

 捕捉したターゲットが姿を現わす前にブラインドショット。結果が分かる前に射線を変更して現れた影に第二射を放った。一射目の着弾位置にkillマークが表示されたが、二射目は体力を半分ほど削っただけだったようだ。やはり照準をしっかり合わせないと失敗が多い。少なくとも致命傷を与えなければ狙撃手失格だ。

 思わず舌打ちをして三射目を撃とうとすると、半分だった敵の体力が二段階に分けて削られ、死亡アイコンが表示される。さらに三人目が俺の反対側に銃撃を始めて、しかし的確なヘッドショットで沈められてしまう。

 三人目が銃撃をしていた奥の方から聞こえる足音は、聞き慣れたトッププレイヤーのもので。

 

『そうですね。一分で終わらせましょう』

 

 実際に顔を見なくてもわかる。今の神崎はいつものように微笑みながら、その眼だけは獲物を全て狩り尽さんとする捕食者の色をしているに違いない。

 また有鬼子の名に伝説が追加されてしまうのかと苦笑しながら、仲間が突如三人溶けて狼狽している四人目に向けてトリガーを引いた。

 

 

 

 

「……なんじゃこりゃ」

 

 なんとか逆転勝利を収めて律が持ってきたデータに目を通した第一声がこれだった。

 

「明日の毒日新聞朝刊に載る予定の記事です」

 

 毒日というと全国規模の新聞社だ。その発行前記事をなぜ律が持っているのか、など気になるところではあるが、今はそれより記事の内容の方が問題だった。

 

 

『椚ヶ丘市で下着ドロ多発』

 

 

 地方欄に掲載されているのはそんな見出しから始まる文面だった。普通ならこんな記事、どっかの自制心の欠けたバカがやってるんだろうなんて思う程度なのだが、読み進めていくと正直無視のしようがなかった。

 『ヌルフフフ』と奇怪な笑い声。対象はFカップ以上。犯人は黄色い頭の大男。現場には謎の粘液。一般人なら全く見当もつかないであろうこの特徴を、俺は、俺たちはよく知っていた。ほぼ毎日会ってすらいるのだ。

 

『これって、殺せんせー……ですよね……』

 

 通話越しの神崎の声は震えている。そりゃあそうだろう。下着泥棒と言えばただの変態のように聞こえてしまうが立派な犯罪だ。それを自分の担任がやっていたとしたら、ショックを受けるのも無理はないだろう。

 ただ……。

 

「……どうなんだろうな」

 

 ……ごめん殺せんせー。なんか普段の先生見てたら完全には否定しきれない。ぶっちゃけあの超生物変態には違いないし。

 ただ、どうも違和感がある。ある意味身内と呼べる相手故なのかどうかはいまいち分からないが、その違和感がこの記事をおかしいと断定していた。

 

「これ、他の奴らには?」

 

「一応、磯貝さんと片岡さんには報告しました」

 

 まあ、妥当なところか。あの二人なら情報の精査もしっかりやるだろうし。そもそもこの記事自体がなにかのミスという可能性もある。いや、さすがにそれは希望的観測だが、誰かが律に偽の記事を掴ませて、実際はこんな記事世の中に出回ることはありませんでした、という可能性もなくはない。いろんな規格外の奴らを見てきたせいで、大抵のことは起こりうるかもしれないという気構えが付いてしまっていた。世界最高峰のAIを出し抜く人間がいてもおかしくはない。

 

「とりあえず、今日はもう寝るか。明日、行きにコンビニで新聞買ってくる。それを確認してからだ」

 

『そうですね。何もわからない状態で考えても仕方がありませんし』

 

 その後二言三言交わして通話を終了し、ベッドに倒れ込む。まあ、明日判断するとは言っても、やはり俺にはこの犯人が殺せんせーではないとほぼ確信できていた。百パーセントではないのがあれだが、やっぱりあの変態超生物の仕業ではないのだろう。

 さてさて、次は何が出てくるんだ?




小ネタのようなお話と次のお話しのための準備回みたいなお話でした。フリーランニングは原作に沿う形か悩んだんですが、ケイドロやらせても八幡はステルスで木の上にでも隠れて残り一分で匂いを嗅ぎつけた殺せんせーに捕まるだけかなと思ったので練習風景に。

そういえば杉野と野球させてなかったので八幡くんお得意の一人野球のお話を交えつつ遊ばせたりしました。野球あんまり詳しくないんですが、杉野の変化球って球種は何ですのん? 野球中継とか見てても縦に曲がるスライダーとかよくわかんないです。

今日は夜まで新幹線で出かけていたのであまり書く時間がありませんでした。新幹線の中とかでずっとスマホの画面をポチポチしながらある程度は書いたんですけどね。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

やはりあの先生が下着ドロだとは思えない

「……まじで載ってるじゃねえか」

 

 翌日、駅の近くのコンビニで新聞を買い、電車の中で地方欄を開いた瞬間に思わず感想が声に出てしまった。近くのサラリーマンとかから視線を投げられるが、今は気にしていられない。

 下着泥棒を繰り返す黄色い頭の大男。昨日律がリークしてきた記事は確かに掲載されていた。つまり、実際に下着泥棒の事件は起こっているということだ。面倒なことに、警察も動いているらしい。

 見た目や声、現場に残された粘液から特定できる人物を、俺はあの超生物しか知らない。というか、間違いなくこの地球上にそんなふざけた化け物は殺せんせーしかいないはずだ。

 ということはやはり殺せんせーが? と思うが、やはり頭を振って考えを否定する。そもそもマッハ二十の超生物がこんな露骨に証拠を残すだろうか。……いや、ただ殺せんせーってグラビアとかは物凄いじっくり見るよな。

 

「どの道、俺一人で結論が出る問題でもないか……」

 

 口の中で静かに転がした言葉をそのまま飲み込んで、スマホを取り出す。とにもかくにも断定するには判断材料が今一つ足りない。電車の中で話すわけにもいかないので、LINEの個人チャットで律にメッセージを飛ばした。即座に既読が付いて、調査してみる旨の返信が返ってくる。ほんと、情報力において律は特に頼りになるな。

 再び記事に目を落として、何か手掛かりになることがないか細かく見ていく。……見れば見るほど殺せんせーだよな、これ。

 これを知ったあいつらは、どうするのだろうか。

 

 

 

「うわ……」

 

「最低……」

 

「いつかやるんじゃないかとは思ってたけど……」

 

 一切の信用がありませんでした。特に女子の目が汚物を見続けたみたいに腐っていってる。まあ、そうだよね。女子からしたら男子以上にショックだよね。

 

「だってこんなの、殺せんせーしかいないじゃん」

 

「グラビア見たりエロ本拾い読み程度ならそんなに気にしないけど……これは洒落にならないよ……」

 

「下着だって高いのに……」

 

 そうか、下着って高いのか。いや、その話はどうでもいいんだが。

 

「そういえば……前にグラビアアイドルへのファンレターに『手ブラじゃ生ぬるい。私に触手ブラをさせてください』って送ってたよな」

 

 あぁ、クラスの良心である磯貝の目まで腐りかけてしまっている。というか、そんなもん送ってたのか触手ボーイ(ペンネーム)。いやまず国家機密が気軽にファンレター送ってんじゃねえよ。もっと慎ましい生活して。

 

「おはようございま……汚物を見るような目!?」

 

 そうこうしていると件の容疑者がやってきて、視線でダメージを受けていた。今のこいつらの視線追加効果で猛毒も付加されてそうだもんな。

 その後潔白を証明しようとするが、そもそもマッハ二十の超生物にアリバイなんてあってないようなものだ。

 そして弁明しようとするたびに出てくる物的証拠。引き出しにしまっていたグラビア雑誌を全て捨てると引き出せば中からブラジャーが出てくるし、出席簿の女子の名前の隣にはカップ数が――茅野のところだけ“永遠の0”と書かれていて、奥田が必死に宥めていた――メモされており、その後半のページには街中のFカップ以上の女性の住所と名前の書きこまれたリストが挟まっていた。

 

「そ、そうだ皆さん、今からバーベキューをしましょう! 放課後やろうと思って準備していたんですよ!」

 

 そして極めつけは……。

 

「ほらこの串なんておいしそうで……しょ……」

 

 クーラーボックスから出てきた串刺しのブラジャー。

 

「やべえぞこいつ……」

 

「信じられない……」

 

「不潔……」

 

 もうすでに、フォローの余地のある空気ではなかった。

 

「ま、殺せんせーが変態なんて今更だけどねー」

 

 そんな中、赤羽がケケケと笑ってスマホを取り出しながら自分の席に戻っていく。もうすぐ授業だから本来ならスマホをしまえといさめられるところなのだが、あいにく今はそんなことが不可能なくらい動揺しているようだ。そんな赤羽の後に続いて俺も席に座る。本校舎の方からかすかにチャイムの音が聞こえてきて他の皆も自分の席に着くが、その空気はやはりずっしりと重い。

 

「そ、それでは……授業、を……始めます……」

 

 この空気では、まともに授業にならないことは明白だった。

 

 

     ***

 

 

「えー……、このタイプの問題を簡単に解くためには……ですね……」

 

「「「「…………」」」」

 

「その……」

 

「「「「…………」」」」

 

 予想通りというか、授業はずっとこの調子。生徒の方に聞く気がないという点では律の転校初日よりひどいと言えるかもしれない。

 開いている教科書はまちまちで、寺坂に至っては本当にとりあえず出しているだけで開いてすらいない。竹林や片岡あたりは毎回授業の教科書を開くが、遠目から見た感じだと自習をしているようだった。赤羽は朝からずっとスマホを弄っているし、不破は読書。大抵の連中は下を向いていて、前に視線を投げている奴らも黒板や担任に焦点を合わせてはいない。俺自身、今日は読書をしながらスマホをちょこちょこ弄って過ごしていた。

 殺せんせーも最初は信頼回復を図って休み時間も教室に残り、積極的に皆と会話をしようとしていたが、昼休みに野球をしようと持ってきた道具入れの中からまたしても出てきたブラジャーが決定打になったのか、五時間目の休み時間は職員室に引っ込んでしまった。まあ、その間も教室はお通夜ムードだったわけだが。

 

「ん……?」

 

 机に置いていたスマホが音もなく点灯する。指を滑らせると、どうやら律の調査が終了したようだ。とりあえず送られてきたのは大まかな概要だが、必要な情報はあらかた集まっただろう。

 

「きょ、今日は……ここまで……です……」

 

 かすかに聞こえてくる終業の音に殺せんせーは静かにテキスト類をまとめると、心なしか肩を落として力なく教室を出て行った。あの軟体に肩と呼べる部分があるのかは謎だが。

 

「あっはは、今日一日針のむしろだったねー。このまま居づらくなって逃げだすんじゃね?」

 

 静かだった教室に赤羽の声が響く。その表情は、殺せんせーが下着ドロの容疑者であるという点は特に気にしていないように見えた。

 

「けど、本当に殺せんせーが犯ったのかな。こんな洒落にならない犯罪……」

 

 近づいてきた渚に赤羽はケラケラ笑いながら「地球爆破に比べたらかわいいもんでしょ?」と答える。実際かわいいもんではあるけどね。死人どころか怪我人も出ないし。

 

「そういえば、そっちはどうなの?」

 

「あん? なにが?」

 

 ググッと背もたれに体重を預けながら俺の方を向いてきた赤羽に、クエスチョンマークで返すと、察しが悪いなーみたいな顔をされた。そんな聞き方で理解できたら、人類に言葉がいらなくなる日も近いかもしれんな。んなわけないが。

 

「下着ドロのことだよ。律に調べてもらってたんでしょ?」

 

「……何で知ってんだよ」

 

「んー? なんとなく?」

 

 なんとなくで俺の行動完全把握されても困るんですが……。まあ、どの道報告はするつもりだったけどさ。スマホでさっき見ていた資料のデータを開く。ここに書いていない点とかは律に補完してもらうことにしよう。

 

「まず、下着ドロが最初に起こったのが八日前。さすがに被害者の名前とかは伏せといたほうがいいか? まあ、その時盗まれた下着が二枚。その後、犯行は毎日行われていて、二日目からは複数件、三日前なんて一晩で十一件被害が出ている」

 

「ちょ、ちょっと待って!」

 

 スマホに落としていた顔を上げると、矢田が引きつった顔をしていた。いったいどうしたのん?

 

「その情報……律にどこを調べさせたの?」

 

「千葉県警」

 

 事件の状況なんかが新聞以上に入手できる場所と言えば、現場か警察だ。三十件は超えている事件について、市に配属されている警察だけでは対応が間に合わないだろうし、県警の方に仕事が回っていると思ったがビンゴだったようだ。

 

「あっさりそんなところから情報ぶっこ抜くなよ……」

 

「大丈夫です! そもそも情報を収集したことすら気づかれていません!」

 

「あ、あぁ……うん……」

 

 大丈夫だ菅谷、普段は防衛省とかからも情報盗んでいるのに比べたらかわいいもんだから。……なんの慰めにもなってなかった。

 とりあえず、一つ咳ばらいをして話を戻すことにする。

 

「昨日まででまた被害が増えて三十六件、被害枚数百二十七枚。つまり、一日平均四、五件。十六枚弱が盗まれているってことになる。……これが微妙に殺せんせーと噛み合わない気がするんだ」

 

「「「「?」」」」

 

「あ、確かに」

 

 俺の言葉に首をかしげる奴の多い中、理解したのは岡島だった。

 

「殺せんせーってエロに関しては量より質というか、あんまり自分好みじゃない内容でもかなりじっくり読むし、自分好みだったら数日間ずっと読み込むこともある。毎日十何枚も欲しくなるタイプじゃないんだ」

 

 さすがエロに関しては研究を重ねている岡島。ターゲットの性癖も熟知しているようだ。全くすごいと思わねえけど。ほら、女子が引いちゃってるし。

 

「まあ、雑誌と実物じゃ勝手が違うだろうからそこは断定材料にはできねえけど、調査資料を見ると、被害者全員が犯人の姿を見てるんだよ」

 

「全員?」

 

「はい。三十六件の被害者全員が犯人、黄色い頭の大男の姿を見ていて、二十九件が殺せんせーと同じような笑い声を聞いています。そして、現場には必ず粘液が残っているんです」

 

 律の補足に赤羽はやっぱりね、と納得したような表情を見せる。どうやらこいつも、最初から殺せんせーが犯人ではないと直感していたらしい。一日中スマホを触っていたのは、たぶん情報収集のためだったんだろう。

 

「下着ドロなんてこそこそやるもんだろ?」

 

「それが毎回見られるなんておかしいよね。殺せんせーって世間体めちゃくちゃ気にするし」

 

 ああ、修学旅行のときに渚たちが不良に絡まれたときは顔を隠していたらしいな。そう考えると、ますますおかしいと言えるようになる。

 

「しかも、当の本人はマッハ二十の怪物だぞ?」

 

「うん。仮に俺がマッハ二十の下着ドロなら、こんな急にボロボロ証拠出さないね」

 

 そう言って赤羽は机の下に置いていたバスケットボールを持ち上げる。殺せんせーの頭とさして変わらない大きさの球体には、これまた盗まれたものと思われるブラジャーが付けられていた。

 

「昼休みの野球用具の後でさ、気になって体育倉庫見に行ったんだよ。そしたらこれが置いてあった。ご丁寧にボールカゴの一番上に、見つけてくださいって感じでさ」

 

 そう、証拠の処理がおざなりというか、もはやわざとと言って差し支えないレベルで雑なのだ。自分の引き出しや出席簿はまだわかるとしても、生徒が利用する体育倉庫や、放課後にやろうとしていたバーベキューセットに詰めるなんて、どう考えてもおかしい。

 

「こんなことすればさ、俺たちの中で『先生として』死ぬことくらい、あの先生は分かってんだろ」

 

 ――あの教師バカにとって、俺らの信用を失うことは、暗殺されるのと同じくらい避けたい事だと思うけどね。

 教室の前方、おそらくその奥にある職員室に目を向けた赤羽の言葉に、渚は優しい笑みで同意する。

 

「……ああ、そうか」

 

「ん? どうしたんすか?」

 

「いや、こっちの話だ」

 

 なぜ昨日、殺せんせーが犯人ではないと直感できたのか。自分でもわかっていなかったその答えは、赤羽の言葉そのままだったのだ。

 いくらエロに目がない変態でも、俺たちの先生である以上――こんなことはしないと無意識のうちに確信していたから。

 

「けど、だとしたらいったい誰が……」

 

「偽よ」

 

 茅野の疑問は、自信たっぷりの漫画少女の声に遮られる。まあ、うちで推理と言えばお前だよな。

 

「これはニセ殺せんせーの仕業よ! ヒーロー物のお約束! 偽物悪役の登場だわ!」

 

 ……お前それ、さっきまで読んでた漫画の影響だろ。後ろに胸元見せながら「俺の名前を言ってみろぉ」って言ってる変態が見えるぞ。

 いやまあ、たぶん合ってるんだけどさ……。

 

「体色とか笑い方とかを真似したり、粘液を残していることを考えると、犯人は殺せんせーの情報を持っている何かってことになる!」

 

「地球破壊生物の情報を持っているのは……」

 

「世界各国のトップと防衛省の人間、私たちそして――殺し屋!」

 

 そういうことになる。そして、前二つは世間に国家機密がばれるマネをするわけがないし、俺達にはそんなことをするメリットがない。本当に居づらくなって逃げられたら、賞金を手にするチャンスもなくなっちまうからな。

 そう考えると、やはり殺し屋の仕業と考えるのが妥当だろう。

 

「その線だろうね」

 

 不破の推理に赤羽は頷いて賛同する。そして、面倒くさそうな流れにさっさと帰ろうとしていた寺坂の襟をつかんで引き寄せる。お前、この状況で赤羽から逃げられるわけないじゃん。もう諦めて。

 

「何の目的かは知らないけど、こんな噂のせいで賞金首がこの街にいられなくなるのは俺らとしても望まないわけだし――俺らの手で真犯人ボコッて、タコに貸し作ろうじゃん?」

 

 寺坂の肩に肘を乗せながら提案する赤羽に、皆それぞれ頷く。おうおう、殺気がオーラになって見えるんじゃないかというレベルだ。なんか茅野の後ろに“0”って見える気がするのは気のせいかな? バストサイズに“永遠の0”って書かれたこと、相当気にしてるのん?

 

「よし、それじゃあ不破と比企谷君は律と協力して情報収集。カルマもそこを手伝ってくれ。俺と前原、片岡と岡野は必要そうなものを用意しよう」

 

 なんか情報収集係に気が付いたらなっていたが、まあクラス委員の指示に従うとしよう。大抵は律の情報収集と不破の推理力でなんとかなるだろうし。

 

「他の皆はとりあえず各自待機で。情報収集班は何か分かり次第LINEで知らせてくれ」

 

「了解」

 

 それじゃあ、真犯人探しと洒落込みましょうか。




下着ドロの冒頭回でした。高度1万~3万で作ったシャカシャカポテトは冷たくておいしくなさそうだと思いました(小並感

本当は一気に一話にまとめるつもりでしたが、ちょっと長くなりそうなのでいったん切ろうかと(こういうことを言うと逆にあんまり進まないことがありますが……)
真犯人のところをどう落とし込もうかなとか考えながら今日は寝ようと思います。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

先生だって成長するのである

「さーて、何を中心に調べよっかー」

 

 教室に残り、律の周りに机を寄せた俺たち情報収集班は真犯人に繫がる手がかりを探し始めていた。しかし、まずは何を重点的に調べるかを決める必要がある。腕を組んで首をかしげる赤羽に、不破がピンと人差し指を立てて小さく鼻を鳴らした。

 

「短期決戦で終わらせたいところだし、特定するべきなのは次に犯人が狙う標的がいいと思うわけよ!」

 

 確かにそれが一番だろう。三十六件の被害から犯人の住処を探ることもできそうではあるが、おそらく相手は殺し屋だ。この長期的な動きを一拠点に留まってやるとは考えにくい。俺たちでなくとも警察から怪しまれる可能性があるからな。

 

「けど、被害地点はもうわかっているが、どうやって次の標的を探るんだ? さすがに警察のデータベースには住んでいる人間の胸のサイズなんて記載されてないぞ?」

 

 実際には警察も胸のサイズを調べ上げようとしたらしいが、女性人権保護の会とやらに阻まれてしまっているようだ。いやうん、普通に考えて保護の会に軍配が上がるよね。そんなのセクハラで訴えられても仕方ねえぞ国家権力。

 となるとどこの家に犯人の標的であるFカップ以上の女性がいるのか俺達にはわからないと思ったのだが、不破は立てたままだった指をチッチッチッと振ると得意げにBカップ――出席簿調べ――の胸を張った。

 

「まだまだ甘いよハチソン君」

 

 誰だハチソン。

 

「私たちはすでに、その情報を手に入れているんだよ!」

 

 そう言って机に広げたのは殺せんせーが使っている出席簿。パラパラとページを捲り、後半の方のページを見せてきた。そこにはF以上のアルファベットと住所がずらりと書き連ねられている。

 

「あーそっかぁ、この情報がデタラメとかじゃないなら、ここにあるのが標的候補ってことになるね」

 

「なるほど……律」

 

 ページを抜き取って広げた用紙を律に見せる。十秒ほどで全ての情報をインプットした律は少しの間瞑目し、昨日までの被害状況と今入力した情報を椚ヶ丘の地図に落とし込んだ。これで犯人の次の傾向が――

 

「……すみません、皆さん。次の犯行候補地点は……七十一箇所です」

 

「は……?」

 

 瞼を上げた律が申し訳なさそうに発した結果に、思わず間の抜けた声が漏れる。驚きは二人も同じようで、不破に至っては黙りこくってしまった。

 

「それ以上候補を減らせなかったってこと?」

 

「そうです、カルマさん。犯行分布、犯行の順序、地形、人口密度などあらゆる情報を加味して統計的に候補を算出しましたが、私の力ではここまでしか絞ることはできませんでした……」

 

 それでも四割以上候補を絞ったのはさすがの一言だが、七十一件だと一人一ヶ所警戒させても半分以上はカバーすることができないし、相手が暗殺者の可能性を考えると小隊を組むのが望ましい。そうなるとさらにカバー範囲は狭まるわけで……。

 

「厳しいな……」

 

「律が攪乱されるってことは、意図的に予測できないように動いてる可能性があるねー」

 

「うん、かなり頭が回るみたい」

 

 大体の人間はどんなに無作為に行動しているつもりでも、その行動に規則性が出る。そこから警察なんかは次の行動の予測を立てるわけだが、こいつは統計を逆算して予測させないようにしている節があるのだ。

 確かに切れ者。それもかなりの。

 

「ダメモトで張ってもいいけど、そこも読まれる可能性があるよねぇ」

 

 そうだ。俺たちの行動がどこまで読まれるかも分からない。こっちが調査をしていることに気づけば、あるいは撤退するかもしれないが、それで余計に派手な行動をしてきたりしたら厄介なことこの上ない。

 慎重に事を進めるべきなのだが……。

 

「ん?」

 

 どうしたものかと唸っていると、足元になにか紙切れが落ちているのに気づいた。どうやらさっき出席簿から落ちたらしいそれを拾い上げると、走り書きのような文字で芸能プロダクションの名前が書かれていた。その右下には『巨乳合宿!』と丸で囲まれた文字。

 律に調べさせると、液晶画面に地図と三階建ての建物の写真が表示された。

 

「ここは?」

 

「そちらの芸能プロダクションが所有する、椚ヶ丘市内の合宿施設です。この二週間ほど、巨乳の方を集めたアイドルグループが新曲ダンスの練習をしているようです」

 

 その合宿は明日まで。つまり洗濯物が干されるのは今日までであり、巨乳好きの下着ドロにとっては極上の獲物になるはず。

 しかし……。

 

「罠だな」

 

「罠だねぇ」

 

「罠だよ」

 

 三人の声が被る。そもそもこれが出てきたのは出席簿だ。誰かが生徒のカップ数を書き込んで、周辺の巨乳住人の情報の書き込まれた書類を挟み込んだそこから出てきた出席簿。しかも行動を起こすなら今日まで。偶然にしちゃできすぎている。

 ただ、逆に言えばこれは、犯行声明と捉えることもできるわけで――

 

「ま、こんなもの寄越すってことは今夜動くってことだろうね」

 

「それなら、全員でとっちめてやらなきゃ!」

 

 どうやら二人ともやる気のようだ。日も少し傾いてきた。早く準備をしなくては自分から餌を用意してきた獲物を食らうことも難しくなってしまう。

 

「じゃあ、さっさと計画練ろうぜ」

 

 磯貝たちに連絡を入れつつ、律の表示した施設の全景を眺めて再び話し合いの態勢に入った。

 

 

     ***

 

 

「よっ、と……!」

 

 レンガ塀で囲われた芸能施設。正面は防犯カメラの警備があったので、手ごろな木の幹に足をかけて敷地内に侵入する。まさかフリーランニングの技術がこんなに早く、かつどうでもいいところで役に立つとは思わなかった。ちょっと悲しい。

 

「ふふふ、身体も頭脳もそこそこ大人の名探偵参上!」

 

「やってることはフリーランニングを使った住居侵入だけどね……」

 

 全くである。後、漫画ネタを使ってるところでどちらかというと子供。

 磯貝たちが用意していた全身真っ黒の服に身を包んだ俺たちは、六つの小隊に別れて行動を開始した。俺、渚、茅野、赤羽、不破、寺坂の発案組と磯貝たちの一班をベースにした組の二組が潜入担当。周囲の状況確認のために後方支援組を中心とした二組が少し離れた位置に待機していて、速水、千葉、杉野あたりの戦闘メンバーが一組で臨戦態勢。犯人が撤退したときの追跡のために木村、岡野を中心とした高機動部隊が構えている。茅野が前線にいるんだが、やっぱり“0”って言われたのおこなの?

 茂みから隠れて確認すると、まだ干されている下着が盗まれた様子はない。とりあえずはここで様子を見ることになりそうだ。

 

「ぁ……。殺せんせーも同じこと考えてたみたい」

 

 小声で渚が指さした茂みの陰には……現在絶賛冤罪をかけられている我らが担任教師が隠れていた。いや、本当に冤罪なのかな? 頭に被った手ぬぐいを鼻の位置で結んでサングラスをつけているその恰好は、どう見ても盗む側のいでたちなのだが……。というか、あの先生の鼻って目と同じところにあるから、正確には鼻の位置じゃねえな。表現のしようがないから鼻の位置のままでいいか。表現って言っちゃった。

 

「見て! 真犯人への怒りのあまり、下着を見ながら興奮してる!」

 

「あいつが犯人にしか見えねえぞ!」

 

 なんだろ……たぶん殺せんせーが犯人ではないと思っているんだが、現在進行形であの先生の株がガックンガックン下がっている気がする。むしろすでにストップ安まである。

 そもそもなんで洗濯物の下着で興奮するんだろうな。洗ったあとなんだし、店で売ってるやつとさして変わらないのではないかと思うんだが。……変態の考えることはよくわからん。

 

「皆さん、索敵班から連絡です。東の方角からバイクが向かってきている模様」

 

 スマホから幾分音量を落とした律の報告が聞こえてきて、自然と全員が同じ方向を向く。耳を澄ませると殺せんせーの荒い息遣い――うるさい――に紛れて低い駆動音が聞こえてくる。

 規則正しい機械的な音は段々と近づいてきて――塀のすぐ近くで止まった。それぞれが示し合わせたように息を殺して、気配を絶とうとしている。

 口の中に溜まった唾液を飲み込むことすら抑えた静寂の中、何かが塀を登ってきた。慣れた身のこなしで塀から飛び降りた人影は一度木の陰に身を隠して周囲を一瞥。そのまま一直線に少ない音で目標であろう洗濯物のところまで駆けだした。

 明らかに素人のものではない身のこなし。そしてその頭には――黄色のヘルメットが被さっていた。

 やはり犯人は別にいた。

 しかし……。

 

「おかしい……」

 

「おかしいってどういうこと、カルマ君?」

 

 ぼそっと呟いた赤羽に渚が首を傾げた。茅野や寺坂も疑問を抱く中、不破と、そして俺も決定的な違和感を覚えていた。

 

「……調書の中に犯人の似顔絵もあった」

 

「うん、三件あって、多少の違いはあったけどだいたい殺せんせーの見た目そのままだったよ」

 

 たかが下着泥棒と言っても、さすがにこれだけ連続して続けば警察だって情報をより多く集める。被害者から犯人の特徴を聞き、似顔絵にもするだろう。たぶん公表しないのは、それが明らかに人間の見た目ではないからだ。

 

「ヘルメットと見間違えるような似顔絵じゃなかったよ」

 

「じゃあ、あれは……」

 

「気を付けろ。たぶん、まだ何かいる」

 

 そうこうしている間にヘルメットの男は最短距離で下着に接近。素早く手を伸ばして獲物を確保しようとして――

 

「捕まえたー!」

 

 それまで潜んでいた超生物に触手でグルグルと拘束された。

 

「よくも舐めたマネをしてくれましたね! 押し倒して隅から隅まで手入れしてやりますよ。ヌルフフフフフ」

 

 …………。

 ………………。

 ……なんだろ。文字だけ見ると完全にやばいことしてる人にしか見えないんだが。大丈夫? このSSR-18指定とかされない? 運営に怒られない? あ、そういうメタ発言は不破以外厳禁ですか、そうですか。不破ずるい。

 

「顔を見せなさい、偽物め! ……え?」

 

 犯人とくんずほぐれつ絡み合っていた殺せんせー――やっぱやばくない? 大丈夫?――は犯人のヘルメットをずぼっと引き抜いて、動きが止まった。

 ヘルメットの下にあったのは吊り気味のへの字眉に眼鏡をつけた丸刈り頭。その顔には見覚えがある。

 

「あれって烏間先生の部下の……確か鶴田さん!?」

 

 なぜ烏間さん直属の部下がこんなことを、と二人の方へ視線を戻したとき、物干し竿が不自然に動いたのが目に入った。

 

「危ない!!」

 

「にゅやっ!?」

 

 声を上げたが時すでに遅し。下着と一緒に干されていたシーツがバッと広がってターゲットの四方を取り囲んだ。俺たちからは殺せんせーの姿が完全に見えなくなってしまう。

 

「国に掛け合って烏間先生の部下をお借りしてね。この対先生シーツの檻の中まで誘ってもらった」

 

 そして、奥の茂みから聞こえてきた聞き覚えのある声。

 

「君の生徒が南の島でやった方法だ。当てるよりまずは囲むべし」

 

「シロ! テメー!」

 

 突撃しそうになる寺坂を赤羽と二人で抑えて全身白ずくめの男、シロを見据える。奴におかしな動きがないことを確認して、次はシーツの檻の上空に目を向けた。こいつがいるということは……。

 

「さあ殺せんせー。最後のデスマッチを始めようか」

 

「イトナ!!」

 

 上空に空いた唯一の逃げ道から飛び込む小さな影はやはり前回会った時のまま触手を携えていて……いや、正確にはその触手に何か装備を付けていた。シーツの切れ目からわずかに堀部の頭が見える状態で、激しい激突音が何度も響く。触手同士がぶつかって弾き飛ばされているのか檻になっているシーツにぶつかるが、即席のバトルフィールドは崩れる気配がない。

 

「戦車の突進でも破けない対先生繊維の強化布でフィールドを劇的に変化させてから襲う。君たちの戦法を使わせてもらったよ」

 

「チッ。全部テメーの計画かよ!」

 

 再び暴れそうになる寺坂を制して俺と赤羽は前に出た。正直、寺坂とシロを向かい合わせたところでどうにもならない。それに……。

 

「まあ、お前らが犯人の可能性は十分あった」

 

「っていうか、一番これやらかしそうなのがあんたらだよねぇ」

 

 この施設への侵入計画を練っているときにふと思いついて三人で話していたことだった。そもそも作戦が大掛かりすぎる。下着泥棒を毎晩行い、周辺住民の情報を得てそれを出席簿に挟んでおくなんて、椚ヶ丘の地理に疎い普通の暗殺者がやったにしては回りくどい方法だ。

 それに加えて、学校中に下着などの証拠を残したということは学校に侵入したということに他ならない。異常に鼻の利く殺せんせーがそれを探知できないはずがないのだ。

 探知できないとしたら――探知されにくい、殺せんせーについて詳しい人間が消臭した可能性がある。そうなれば第一候補はおのずとシロの名前が挙がった。

 

「……赤羽業、比企谷八幡。やはり君たちは頭が切れる。私の部下にぜひ欲しいくらいだね」

 

 頭巾の奥でにやりとどこか無機質な目が細められる。誰がなるかよ、と目で訴えると、首をすくめて檻に近づき、へたり込んでいる鶴田さんの肩に手を乗せた。

 

「彼を責めてはいけない。仕上げとなる今回だけは、下着泥棒に代役が必要だったんでね」

 

「……すまない。烏間さんのさらに上司からの指示だったんだ……」

 

 きっと、やりたくなくても断れなかったのだろう。地球を守るためと言われればいくら低俗な犯罪でも加担せざるを得なかったのだ。

 

「生徒の信頼を失いかけたところで巨乳アイドルの合宿という嘘情報。多少不自然でも飛び込んでしまうあたりが間抜けだね」

 

 クククッと喉を震わせながらシロは続ける。正面から突っ込むなんて子供でもできることだ、大人っていうのはもっと頭を使うものなのだ、と。

 それを聞いて俺と赤羽と不破は――

 

「「「プッ……」」」

 

 思わず吹き出してしまった。

 

「なにかな? 私の意見に文句があるかい?」

 

 怪訝に眉をひそめるのが見えたが、どうしてこれを笑わないでいられようか。赤羽はケタケタ笑いながらまさに触手同士が戦っているフィールドを指さした。

 

「だってあんたの作戦ってさ、結局過去の作戦の使いまわしじゃん」

 

 シロと堀部は今回も合わせて三回、勝負を挑んでいる。最初は机で囲ったリングで触手による奇襲、二回目は突然の事態に動揺させて性能差を広げさせての奇襲、そして今回は囲っての奇襲。作戦と言いつつ、簡略化すれば状況を変化させてから触手で殴っているだけなのだ。

 

「使いまわし? 同じ作戦? ……馬鹿を言っちゃいけない。私だから使える作戦をいつも採用しているんだよ。例えば最初はダイラタンシー現象を起こさせる光線。次は触手の性能を落とすスプレーと薬剤。……そして今回は、イトナの触手に取り付けたグローブだ」

 

 ああ、あれはまた形状変化させたわけではないのか。刃先が対先生物質でできているおかげで、一方的に攻撃できるものらしい。

 

「高速戦闘に耐えられるように混ぜ物をしているから、君たちの扱うナイフに比べると威力は落ちるが、触手同士がぶつかるたびにじわじわと一方的にダメージが与えられるのさ」

 

「まあ、細かいところを見れば確かに同じではないけどさ……」

 

 大きくため息を吐く。どうやらこいつ、本当に何も気づいていないらしい。何も言えない俺に変わって、不破がビシッと人差し指を立ててシロに向き直った。

 

「そのグローブ、めちゃくちゃ悪手なんだけど、大丈夫?」

 

「なに……っ!?」

 

 首をひねろうとしたシロが、イトナの引きつるギリギリの声に振り返った。相変わらず中は見えないが、どうやら俺たちのアドバイスは間に合わなかったようだ。

 

「ええお見事です、イトナ君。一学期の先生ならばやられていたかもしれません」

 

「けど、同じような作戦で、しかもせっかくの触手の攻撃力を落としてたら意味がないよね」

 

 不破の問いかけに布の中の先生はヌルフフフと余裕たっぷりに答える。なんか今顔の色縞々にしてそう。さすがに触手相手に最後まで油断はしないか。

 

「いかにテンパりやすい先生でも、三回目ともなればすぐに順応できます。今回は“不自然な”場所に飛び込んできたので、気構えも十分でしたしねぇ」

 

「なっ……!?」

 

 露骨な餌で釣れば、当然相手は警戒する。警戒すれば不測の事態への順応も早くなるのに、特殊グローブでじわじわ削ってたら対応してねと言ってるようなもんだ。

 

「先生だって学習するんです。先生が日々成長しなくて、どうして生徒を教えることができるでしょうか」

 

 シロの最大の敗因は、標的のスペック向上を念頭に入れていなかった点だ。序盤ならともかく、数ヶ月経って大筋が同じ作戦では対策されて当たり前。結局のところ、触手の性能に頼りすぎて単調な攻撃しかしていない上に、一撃の威力を落としてしまっているのだから世話ない。これだけ状況を揃えたのなら、暗殺者らしく“必殺”にすればよかったものを。

 

「さて、まずはこの厄介な檻を始末しますか。夏休みの完全防御形態の経験を通して、先生も一つ技を学習しました」

 

 ――全身ではなく、触手の一部を圧縮して、エネルギーを取り出す方法を……!

 

「な、なんだこのパワーは!?」

 

 光すらほとんど漏らさない強化布の隙間や上空から、目が眩むほどの光が溢れ出てくる。収まらなくなったエネルギーが伝ってくるのか、露出した肌の産毛がチリチリと痺れるようにに震えた。

 

「覚えておきなさい、イトナ君。先生にとって暗殺は教育。暗殺教室の先生は――教えるたびに強くなる!」

 

 超音波のようなキイィィンという音に一瞬顔をしかめた瞬間。どれだけ触手が高速でぶつかってもほつれ一つ見せなかった布の檻が、跡形もなく消し飛んだ。

 

 

 

「い、痛い……頭が……」

 

「どうやら触手が精神を蝕み始めたようだ。ここらがこの子の限界かな?」

 

 急に頭を押さえて苦しみだした堀部に、シロは至極冷徹な声で分析する。

 いや、正確には処理通告だろうか。

 

「君に情がないわけじゃないが、次の素体のためにもどこかで見切りをつけないとね」

 

 さよならだと背を向ける。まさか、こんだけ苦しんでいるこいつを放って帰るっていうのか? まだ十五のこいつを、そんなあっけなく……。

 

「待ちなさい! あなたそれでも保護者ですか!!」

 

「教育者ごっこしてんじゃねえよモンスター。なんでもかんでも壊すことしかできないくせに」

 

 当然引き止めに入った殺せんせーに発したシロの声色は、いつもの淡々とした理知的なものではなく……毒々しいほどの黒さを感じさせた。

 

「私は許さない」

 

「お前の存在そのものを」

 

「どんな犠牲を払ってもいい」

 

「……お前が死ぬ結果だけが私の望みだ」

 

 この一瞬足がすくみそうになる感情は……憎悪、だろうか。一体、こいつと超生物の間に何があったら、こんな煮えたぎるような負の感情を……いや、今はそれよりも、こいつを逃がさないことが重要だ。

 

「私のことなんて気にする余裕があるのかい?」

 

 反対側に隠れていた磯貝たちも合流してシロを取り囲もうとしたが、その言葉の意味が分からず一瞬動きが止まってしまった。その間に奴はタンッと塀を飛び越えて行き――

 

「危ない!!」

 

 視界の端で殺せんせーが寺坂を守ったのが目に入った。振り返ると殺せんせーの視界の先、血管のように幾重もの筋を浮き上がらせた触手をだらりと垂らした堀部が肩で不規則な呼吸を繰り返している。口の端からは許容量を超えた唾液があふれ落ち、目の焦点はその一切が合っていない。

 誰がどう見ても危ない状態だった。

 

「イトナく……!」

 

 慌てて伸ばした殺せんせーの触手はあいつの肩には届かず、獣の咆哮のような叫びをあげながら、堀部も施設の外へ飛び出して行ってしまった。

 

「……っ! 鶴田さん、すぐに烏間さんに連絡を! イトナ君を捜索してください!」

 

「わ、分かった!」

 

「俺たちもイトナを探そう。まだ遠くには行っていないはずだ」

 

 その後、防衛省の人間も加勢して夜中近くまで捜索が行われたが、闇に紛れた堀部の姿を捉えることはできなかった。夜遅いということで学生組が帰宅した後も殺せんせーや烏間さんたちが捜索を続けたようだが……。

 結局、あいつの足取りは掴めていない。




もうちょっと先まで書こうかなと思っていたんですが、そこそこな長さになりましたし、切りもいいので今回はこの辺で。

シロの作戦って、触手や自身の開発した道具に頼ってばっかりで、特にこの三戦目のvsイトナの作戦はおざなりだったなとちょっと思っていました。まあ、そもそも戦闘指揮官としての脳みその作りしてないんだと思いますが。
ということで、赤羽とか不破みたいな頭回る人間と話したら中学生にもいろいろ察されるんじゃないかなと。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ようやく彼は生徒になる

「先生のことはご心配なく。どーせ心も体もいやらしい生物ですから」

 

 登校したら超生物が可能な限り口を尖らせて拗ねていた。尖らせすぎて顔の形が変形してしまっている。スネ夫にでもなるつもりなのん? 殺せんせー貧乏だからその時点でスネ夫にはなれないよ?

 ちなみに、シロの計画に加担した鶴田さんは烏間さんからゲンコツを食らって漫画みたいなたんこぶを作っていた。髪の毛が消し飛ぶゲンコツってなんだよ。烏間さんがハゲを量産している可能性が微粒子レベルで存在している?

 

「心配なのは姿を隠したイトナ君です。この細胞は人間に植え付けて使うには危険すぎる」

 

 堀部の触手は殺せんせーのものと違って部分移植されたものだ。身体に異物を取り入れるのだから当然拒絶反応を起こす。それを定期的にメンテナンスをして調整していたのがシロだ。調整役から見放されてしまった今、どう暴走するか分かったものではない、というのが全身触手生物の見解だった。

 そして、その暴走は間違いなく現在進行形で起こっている。

 

「皆さん、これを見てください!」

 

 律が映し出したのはこの時間帯にやっているニュース番組。焦燥感漂うリポーターの背後には、ズタボロに破壊された携帯電話ショップが映っていた。どうやら昨日一晩で、市内複数件のショップが同様の被害を受けたらしい。

 損傷の激しさから、ニュースでは複数犯の可能性を提示しているが……。

 

「これって……イトナの仕業、だよな」

 

「ええ、使い慣れた先生だからわかりますが、この破壊は触手でないとまずできない」

 

 同じ触手を扱っている先人からの申告に、皆頷く。

 それにしても、どうして携帯電話ショップばかりを攻撃しているんだ? 堀部が触手を手に入れた経緯は、あれほどまでに強さを求める理由は、そこにあるような気がする。

 

「担任として、彼を止めなくてはいけません。責任をもって彼を保護しなくては」

 

 いつものように担任として行動しようとする殺せんせーに、しかし生徒たちは難色を示した。「昨日まで商売敵だった奴を助ける義理があるのか」「担任なんて今まで形だけだったではないか」と。

 それも事実だ。結局堀部が校舎に入ってきたのなんて転校初日だけだし、なんなら校門をくぐったのだってその時だけだろう。クラスメイトと、担任と生徒と呼ぶにはあまりに希薄な関係だ。

 ただそれでも、この先生にとってはたいした問題じゃないんだろうな。

 

「それでも担任です。『どんな時でも自分の生徒から手を離さない』。先生は先生になるときに誓ったんです」

 

 ま、狙われる側がこう言ってる以上、止めたって無駄というものだ。ならば、そのクラスメイトとやらのために生徒がサポートしても問題ない。

 

「律、堀部が次に狙うショップを解析してくれ。たぶん次は正確に割り出せるはずだ」

 

「分りました!」

 

 ブレインを離れた手足の行動は、ブラフもなにもない単純なものだろう。ならうちのAI娘に予測できない道理はない。

 

「……放っておいた方が賢明だと思うけどね」

 

 ぼそりと呟いた赤羽はパックジュースのストローをズズッと吸う。こいつが言っているのはおそらくシロのことだろう。あいつは自分以外の人間を駒としか思っていないタイプだ。現実で捨て駒戦術なんて使う軍師はそうそうおらず、故に戦術が読みにくい。堀部に関して、“見捨てた”のではなく“泳がせている”可能性も十分にあった。非情だからこそ、戦術の幅が広がる。

 

「ま、どの道動くしかないだろ。……あれだ、触手持ってるあいつのことが世間にばれたら、結局先生が教室にいられなくなっちまうからな」

 

 こちらが動かなければ、多分シロも動かない。動かないで、きっと堀部のことが世間にばれても気にも留めずまた殺しに来る。なら俺達には、動く以外の選択肢は存在しないのだ。

 

「……比企谷君は優しいなぁ」

 

「なにがだよ?」

 

 ストローを咥えながらニヤニヤ笑う赤羽に、俺は首をかしげるだけだった。

 

 

 

「やっと人間らしい表情が見られましたね、イトナ君」

 

 律の予測通りの場所に現れた堀部は、ひどく消耗しているように見えた。黒々と変色した三本の触手はしなやかとは言いづらい形状にささくれ立っていたし、破壊のときに自身に降り注ぐガラス片なんかも気にしていないのか、あちこちに切り傷が増えていた。

 

「……兄さん」

 

「殺せんせー、と呼んでください。私は君の担任ですから」

 

 痛みに耐えているのであろう、時々顔をしかめながらも堀部は勝負を挑もうとする。立っているのもやっとだろうに、ひたすら勝利だけを求めて……。

 そんな中、かすかにエンジンをふかす音が聞こえてくる。ゆっくり、ゆっくりと、規定速度を大きく下回る速度で。目の前の堀部を視界に捉えたまま、自然と俺と赤羽の身体が警戒態勢に入った。

 そしてエンジン音がほぼゼロになった瞬間――店内に何かが投げ込まれた。

 

「っ!! 皆伏せろ!」

 

 いち早くそれがグレネードだと察知した赤羽の言葉に、ワンテンポ遅れて全員が体勢を低くする。床で一度カランと跳ねたそれは、ボフッと鈍い音を立てて周囲を白く染め上げた。

 これは……煙幕か?

 確かに煙幕には違いないが、それだけのためのものではない。現に広がった粉を浴びた殺せんせーと堀部の触手の表面が溶けてしまっている。対先生物質のパウダーだ。

 ガラスが粉々に破壊された入口に目を向けると、横付けされたトラックの荷台に乗っていた全身真っ白な衣に身を包んだ男たちが銃を構えていた。そして、その助手席にはシロの姿。やっぱり、堀部を放っておいたのは泳がせて殺せんせーをおびき寄せるためだったのか。

 それにしても、あの荷台に乗っている砲台はなんだ?

 考えている間にシロの操作によってその砲台がウィィンと方向を調整する。その射出口は殺せんせー……ではなく堀部に向いていた。今までの疲弊とパウダーの影響か、堀部は気づいていない。

 

「チッ……!」

 

「比企谷君!?」

 

 考えるよりも先に身体が動いていた。堀部の前に飛び出すと同時にシロがボタンを押すのが見えて――堀部ごと何かに絡めとられる。

 

「うがっ!?」

 

 それがワイヤーネットだと理解したときにはトラックは走り出し、身体を何度も叩きつけられ、引きずられてしまう。やばいやばいやばい痛い痛い痛い。

 

「フン、余計なものが混ざったようだが……まあいい。追ってくるだろ――担任の先生?」

 

 容赦ないスピードで俺たちを引きずっていく。縦に伸びているせいでネットの中はたいした余裕もなく、少しでもダメージを抑えようと受け身を試したりしてみるが、痛いものは痛い。

 これ……マジで死ぬんじゃね?

 

 

 

 生きてました。ありがとう烏間さんのスパルタ体育。奇跡的に擦り傷だけで骨とかは大丈夫っぽいぞ。

 そこまで長い距離は走らなかったようで、車が止まった場所は見覚えがある。ワイヤーを引きちぎれないか試してみたが、すぐに無意味と悟った。

 

「無駄だよ、対先生繊維をチタンワイヤーにくるんだ特別製だ。素手ではビクともしないさ」

 

 後ろのトラックからシロの声が聞こえて――待て、対先生繊維……?

 

「う……うぅ……」

 

 小さくうめき声をあげた堀部に視線を移すと、その頭頂部に植え付けられた黒い触手のネットに触れている部分が、シュウゥと細い音を立てながら溶けていっていた。血が滲む腕で触手を掬い上げ、できる限りネットに触れないようにしようとするが、いかんせん俺の身長並みの長さの触手が三本だ。どうしてもカバーが難しい。

 それに、この周りから感じる殺気の数は……。

 

「比企谷君、イトナ君!」

 

「来るな!」

 

「来るな、なんて無理だよね。担任の先生が見捨てるはずがない。そして――ここがそいつの墓場になる」

 

 構わず近寄ってきた殺せんせーに手を上げると、複数方向から目のくらむ光が照射されて、殺せんせーが一瞬固まる。ダイラタンシー圧力光線だ。そして、トラックの上だけでなく周囲の木の上に潜んでいた全身白ずくめの集団からも集中砲火が始まった。狙いは俺と一緒に拘束されている堀部だ。

 

「今までの暗殺で確認できたが、お前は自分への攻撃は敏感に避けるが、自分以外への攻撃の反応は格段に鈍いね」

 

 触手生物は風圧や服である程度の弾を捌いているが、硬直を繰り返す身体ではその中でさらにこのワイヤーを切るのは難しい。やることが多すぎて集中力が欠けてしまい、どんどん被弾が増えていく。

 

「つっ……!」

 

「大丈夫ですか、比企谷君!」

 

「いいから、今は避けることに集中しとけよ。堀部は俺が極力カバーするし、BB弾だから俺にはほとんど被害はねえから」

 

 傷口とかに当たると十分痛いけどな。人にBB弾向けちゃいけませんって学校で習わなかったのかよ。

 

「なん……で、俺を……助けようと、する……」

 

「あ? 知らねえよ、勝手に体が動いちまったんだからしかたねえだろ。……強いて言えば、お前があのクラスの一員には違いねえからじゃねえの。知らんけど」

 

 実際のところはなんで動いたのか自分でもわからん。いや、こいつの境遇とか、そういうものを知ってしまったから、という理由も否定はできないだろう。けれどそれはきっと同情とかではないのだ。こいつも俺たちと同じように、失敗をして、敗北を経験して、それでも勝利を貪欲に求めて強さを手に入れようとしたのだと考えると、放ってはおけなくなっただけなのだから。

 少しでも触手を守る面積を増やすために堀部を抱え込む。

 

「生徒をまともに守ることもできないね。所詮お前は自分のことしか大事にできない身勝手な生物ということだ」

 

 シロの煽りに殺せんせーは無理やり俺たちの救出を図ろうとする。当然それを手で制した俺の顔を見て、担任教師は一度あたりを見渡し、少しだけいつもの表情を取り戻した。状況変化にテンパっていて、さすがの超生物も“近づいてくる複数の殺気”にようやく気付いたようだ。

 この世に身勝手じゃない人間がどれだけいるだろうか。自分のことよりも他人のことを優先する人間がどれだけいるだろうか。そう、例えばあんなことを言っているシロなんて――

 自分の手駒が倒されてからようやく状況に気づく程度なんだから。

 

「そぉれっ、と!」

 

「なっ!?」

 

 木の上から弾幕を展開していた奴らの一人が、突如現れた赤羽に蹴り落される。それを下に布を広げて現れた杉野、倉橋、矢田がキャッチ。そのままグルグルと簀巻きにしてしまう。それを確認すると赤羽はフリーランニングの枝移動で別の標的に飛びついて蹴落としにかかる。

 赤羽だけじゃない。前原や岡野、寺坂と言った前衛組が次々と銃手たちを落とし、下に待機した三人一組のグループが素早く拘束していく。っていうか岡野の動きすげえな。お前のその運動神経、世界狙えるぞ。

 

「お前ら……なんで……」

 

 ものの数分でトラック上の奴ら以外を拘束した皆に、堀部がとぎれとぎれに呟いた。堀部からしたら当然だろう。反射的に動いた俺はまだしも、こいつらは明らかに自分を守る目的で敵を制圧したのだから。

 まあただ、やっぱりこいつらもそこまで大きな理由はないんだろう。だってこいつら全員揃いも揃ってお人よ――

 

「勘違いしないでよね。シロにむかついただけだし、はち……そいつが一緒に連れてかれたから仕方なくなんだから」

 

 …………うん、速水よ。こんなところでツンデレ発動する必要はないんだぞ? 後ろの方で岡島と竹林がニヤニヤしてるし。というか竹林がまた二次元捨てようとしてるし。

 なんか微妙になごんでしまった空気の中、赤羽が微かに顎を浮かせて煽りの態勢に入る。気が付くと視界に超生物の姿はすでになくて。

 

「こっち見てていいのー? 撃ち続けるのやめちゃったら……ネットなんて根元から外されちゃうよ?」

 

 言い切る前にトラックの方からガゴッという音が聞こえてきて、ネットの中の自由度が少し上がった。殺せんせーがネットの発射砲を取り外してくれたらしい。この状況で撤退を選ばないほど、シロも馬鹿ではないだろう。

 とりあえずは、一段落……かな?

 

 

     ***

 

 

「いつつ……」

 

 消毒液を吸い込んだガーゼが傷口に触れるたびに、どうしても顔が歪んでしまう。

 

「まったく、骨や内臓に異常はなかったからよかったものを……」

 

「しょうがないじゃないですか。体が勝手に動いちまったんですから……いてっ」

 

 ため息を吐いて首を垂れると、後ろから頭を叩かれてしまった。振り返ると倉橋が腰に手を当てて仁王立ちしている。どうでもいいけどそのポーズ小町もよくやるが、流行ってんの?

 

「しょうがないとかそういう問題じゃないの! 私たちが心配になっちゃうんだから無茶しちゃダメ!」

 

「……あい」

 

 思わず正座しそうになった。E組の母は原だけで十分なんだけど……。

 

「でも、……お疲れさま」

 

 今度はポフポフと頭を撫でられて、気恥ずかしさから意味すら持たない短い返事を返してそっぽを向いた。その先には拘束を解かれてもぐったりとしている堀部。

 堀部イトナ。律と不破と一緒に堀部が携帯ショップを襲っていた理由を探るためにあいつの情報を調べたら、東京の閉鎖されている町工場が引っかかった。堀部電子製作所という小さな町工場で、世界的にスマホの必須部品の製造を行っていたらしい。

 しかし、一昨年に負債を抱えて倒産。堀部の親である社長夫妻は息子を残して雲隠れしてしまったのだそうだ。

 その部品は世界的にもこの町工場でしか作られていなかった。傍から見れば倒産する方が難しい。それがなぜ……そこを調べてみると、当時主力社員が五人も同じ海外企業に転職していたことが分かった。町工場とは比べ物にならない規模の生産ラインで、はるかに安く部品の生産を行っていた。

 コツコツと積み上げてきたものを、技術を、金で、力で奪い取られたのだ。

 たぶん、それが堀部が執拗に力を求める理由。努力を無意味と言わんばかりに直接勝利を掴もうとする理由だ。

 

「「「「…………」」」」

 

 不破からその話を聞いて、皆どうしても押し黙ってしまう。壮絶な人生の先に他人を手駒としか思わない科学者に拾われて、激痛の中やっと手に入れた力の先で――今はそれを失わなければ二、三日の命だ。

 もはや誰も、堀部に怒りを向けることはできなかった。

 堀部を延命させるには、消耗の元凶たる触手を取り除かなくてはいけない。しかし、堀部の病的なまでの勝利や力への執着をなくさせない限り、触手細胞が強く癒着して離れないと殺せんせーは言う。

 そんな重い過去を持っている人間から、そこに起因する想いをなくさせることのできる人間なんて――

 

「ケッ、つまんねー。それでグレたってだけの話か」

 

「寺坂!」

 

 ああ、いるじゃん。ここに適任の馬鹿がさ。

 

「俺らんとこでこいつの面倒見させろや。それで死んだらそこまでだろ」

 

 寺坂は堀部の首根っこを掴むと、村松達を引き連れて帰っていった。

 

「大丈夫かな、寺坂君たち……」

 

「ま、大丈夫だろ」

 

 不安そうにする渚の頭に手を乗せる。どうせ作戦とか考えてないんだろうけど、たぶん、逆にそっちの方がいい。

 

 

     ***

 

 

「一度や二度の失敗でグレてんじゃねえ。“いつか”勝てりゃあいいじゃねえかよ!」

 

 再び触手を暴走させかけた堀部の触手を受け止め、その頭を殴りながら寺坂は叫んだ。今すぐじゃなくてもいい。百回失敗したって、三月までにいつか一回殺せれば俺たちの勝ちなのだと。

 

「……耐えられない。次の勝利のビジョンが見えるまで、俺はどうすればいい……」

 

 今にもまた触手を暴れさせようと震わせながら絞り出された堀部の言葉に、しかし寺坂は触手を受けた腹を押さえながら大きくため息をついた。

 

「んなもん、今日みてえにバカやって過ごすんだよ。そのために俺らがいるんだろうが」

 

 松来軒でまずいラーメンを食ったり、吉田のバイクの荷台で気ままに風を切ったり、狭間から復讐劇の本を提供されたり、そうして毎日バカやって、最後の一回を目指して過ごす。

 それを聞いて、ケタケタと笑ったのは赤羽だった。

 

「あのバカさぁ、ああいう適当なこと平気で言うんだよね」

 

 でもさ、と堀部に視線を向けて悪戯小僧は今だけは少し優し気な笑みを浮かべていた。

 

「バカの一言はさ、こういう時に力抜いてくれんのよ」

 

 赤羽がそう言うように。

 

「俺は……焦っていたのか」

 

 顔を上げた堀部の目から執着の色が消え、暴れだそう、暴れだそうと震えていた触手は力なくだらりと垂れさがった。

 赤羽の言うように、馬鹿の一言ってやつはいい意味で力を抜いてくれる。ただ、それだけじゃない。程度の大小は違えどあの頃、孤立していた頃の寺坂と堀部はどこか似ているのだ。一刻も状況を打破したいと手段を選んでいないところなんか特にな。

 

「目から執着の色が消えましたね。今なら君を苦しめる触手細胞を取り除けます。大きな力を一つ失う代わりに、多くの仲間を君は得ます」

 

 いくつものピンセットを携えた殺せんせーがいつものようにヌルヌル笑いながら堀部に尋ねる。明日から殺しに来てくれますね? と。

 堀部はどこか力なく笑って――

 

「……勝手にしろ。この力も兄弟設定ももう飽きた」

 

 こうして堀部イトナは転入から二ヶ月、ようやくE組の一員となったのだった。




イトナE組参入回でした。当初は1話でまとめようかと思ったんですけど、ちょっと不破とカルマを前に出そうかなと思って長めに取らせてもらいました。

そういえば、時々誤脱字報告機能を利用してもらっています。いちいちどこを間違っていたか確認する必要がなくてとても楽です(自分ではいまいち使い方わかってない)

後、さっき確認したらお気に入り数が1900件を超えていました。UAも15万を超えていてホクホク顔です。毎日多くの人に読んでもらえているようで、本当にありがとうございます!

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

工作とエロって、男の子だよな

「力は失った。でも弱くなった気はしない。最後は殺すぞ……殺せんせー」

 

 そう言って改めて堀部が学校に来るようになった次の日、登校したら堀部の目が血走っていた。なに? まだ触手の影響残ってんの?

 

「どうしたんだ、イトナ? どこか悪いのか?」

 

 そのあまりの様子に我らが委員長が声をかける。さりげない気遣い、これがイケメンか。

 磯貝に呼び止められた堀部は、じっと床を見下ろしたまま、何かを耐えるようにフルフルと肩を震わせている。抑えないと今にも意思に反して暴れ出してしまいそうだと言わんばかりだ。

 これは危ないのではないかと俺も含めた男子陣が警戒状態に入った時――

 

「……小テスト」

 

「「「「へ?」」」」

 

 堀部の口から絞り出された言葉に、皆して間の抜けた声を漏らしてしまった。

 

「昨日……放課後あのタコに延々と小テストをやらされた。一晩経ってもストレスが解消されない」

 

 ……あー。そういえば昨日は俺が放課後の訓練から上がるまで殺せんせーと堀部は教室に残っていたっけ。まあ、なんで小テストをやらせていたのかは明白なわけで。

 

「あの教育馬鹿は少しでもお前に合った学習をさせたいんだよ。そのためにはお前の今の学力を知る必要があるだろ?」

 

 とりあえずフォローをしてみると、堀部は苦虫を噛み潰したような表情でわかってる、とそっぽを向いた。

 

「デモ、オレ……ベンキョウ、キライ」

 

「なんで片言?」

 

 まあ、シロが勉強嫌いとは前に言っていたし、自分だけ放課後勉強とか嫌だよな。仕方ないとは言え、割り切れないことってあるよな、うん。

 

「とりあえずムカついた。ムカついたから、憂さ晴らしにダメモトでこいつを作って殺しに行く」

 

 自分の席、赤羽と寺坂の間に腰を下ろした堀部は昨日持ってきていた鞄とは別の大きめの物の中をゴソゴソと漁りだした。出てきたのは、結構大きめの厚紙製の箱。

 

「んー、なにそれ? 戦車?」

 

「そう、戦闘車のラジコンだ」

 

 横から覗き込んだ赤羽に堀部は頷く。よく見てみると、プラモデルなんかを出している有名なホビー会社の物だ。ここの会社のラジコンは精巧だと聞いたことがあるが……。

 

「これで暗殺はさすがに難しいんじゃないかな?」

 

 渚の言う通りだ。おそらくモーターの駆動音で気付かれるし、そもそもこれに殺せんせーを攻撃する機能がない。陽動役として使うのか?

 そう思っていると――

 

「もちろん、このままは使わない」

 

 鞄の中をさらに漁って、中に入っていたものを次々と机に広げていった。

 カメラ、BB弾の射出機構、電子基板、はんだ、はんだごて、エトセトラエトセトラ……。

 え、君は一体何をするつもりなのかな?

 唖然とする俺たちをよそに、堀部は慣れた手つきでラジコンの電子基板を差し替えて配線をはんだ付けしていく。新しく伸ばした配線を射出機構に繋いで、どうやらラジコン操作でBB弾も撃てるようにするようだ。

 

「すごいなイトナ。自分で考えて改造してるのか」

 

 磯貝の驚きは皆の総意であろう。実際、見ていてもなんとなくしか何をやっているのか分からない。おそらくなかなか高度な技術をさらっとやってのけているに違いない。

 

「親父の工場で基本的な電子工作は覚えた。この程度、少し勉強すれば寺坂以外誰でもできる」

 

 なぜ寺坂が唐突にDisられたのかは分からんが。なるほど、父親の工場で得た技術か。

 それにしても……。

 

「なんか意外っすね。一昨日までは猪突猛進って感じだったのに……」

 

「そうだな……」

 

 菅谷が言うように、今の堀部の様子は一昨日までと同一人物とは思えなかった。正直そこまで頭のいいやつだとは思っていなかったのだが、テキパキとラジコンの改造を進める姿は普通に理知的な印象を受けた。

 

「たぶん、触手の影響だ」

 

 俺たちの会話が聞こえていたようで、作業を続けながら堀部が口を開く。

 

「触手を植え付けられた時、触手が『どうなりたいか』聞いてきた。『強くなりたい』と答えたら、それ以外何も考えられなくなった」

 

 触手による侵食。殺せんせーと趣味が酷似していたところから考えて、暴走する前でも堀部の精神は半分以上触手に乗っ取られていたのかもしれない。それがこの違いの原因なのだろう。

 結局ホームルームまでに作業は終わらなかったが、その後も休み時間のたびに堀部は工作を進めていって、昼休みには改造戦車は完成していた。二十センチ程度の高さのそれを床に置くと、ラジコンのコントローラをクンッと倒した。

 

「「「「おおっ!」」」」

 

 全身を始めたミニ戦車はスムーズに加速し、人と机や椅子がある障害物だらけの教室を縦横無尽に駆け回った。試しに置いた空き缶に射撃を試すと、俺たちの使っているエアガンとさして変わらない速度でBB弾が飛び出す。何よりも特筆すべきは音だろう。あれだけ動いているのに、移動の時も射撃の時も、ラジコン特有のモーター音やギアの軋む音がほとんど聞こえない。

 

「電子制御を多用することでギアの駆動音を抑えている」

 

 さらにスマホのカメラを流用したガン・カメラは砲の照準と連動しつつコントローラに映像を送るらしい。

 市販のラジコンが、暗殺兵器にクラスアップしてしまった。それに、目の前のハイテク技術に男子たちの目も変わってきている。どんどん堀部の魅力に引き込まれていっていた。

 この分なら、何も心配する必要はなさそうだな。

 

「だが、多分これだとまだまだ不十分だ。今回は失敗覚悟で突っ込んでみることにする」

 

 そう言って堀部は廊下へとラジコンを進ませる。向かう先は職員室だろう。コントローラのカメラ越しに、戦車の様子を皆も固唾を飲んで見守る。

 

「……あれ? 殺せんせーいないな。出かけちまったのか?」

 

 どうやらターゲットが留守だったらしい。昼休みだし、また中国あたりにでも行っているのだろう。

 仕方がないので試運転も兼ねて周囲を偵察してみることにする。しかし、本当に静かだな。低速運転中は本当に無音だ。

 

「校庭まで競争ね、よーいどん!」

 

「あ、ずるい!」

 

「ん? 何か聞こえ――」

 

 岡島の言葉が途中で止まる。言葉どころか、皆の動きも止まっていた。今、教室は全てを電子制御にしてしまったのかと錯覚するほど静かだった。いや、電子制御よく知らんけど。

 バタバタと走りながらラジコンのすぐ前を通り過ぎた女子たちは、外で烏間さんが考案した暗殺バレーに興じるようだ。というか、なんでこいつらこんな静かなのん? 女子が通り過ぎただけやん?

 

「……見えたか?」

 

 なにやら岡島が真に迫った声で問いかけてくる。何が見えたら肯定すればいいの? 正面を横切った中村たちなら見えたぞ?

 

「いや、カメラが追いつかなかった。視野が狭すぎるんだ!」

 

 なぜか脂汗を流す前原は理解しているようで、カメラの欠点を指摘している。千葉と渚、磯貝もよく分かっていないようで、くてっと首をひねっていた。赤羽は理解しているようだが、自分の席でケタケタと笑いながら人垣を眺めている。

 

「渚、あいつらなんの話してるんだ?」

 

「さあ?」

 

「女子と関係があることだと思うぞ」

 

「なんだろう。女子の動きを追えなかったってことか?」

 

 仕方がないので話についていけない組で集まって考えてみる。女子たちの動きが追えなかったということは、高速移動する殺せんせーには余計に対応できないということだ。確かにそれならば改良の必要性がある。

 しかし、それにしては集団の空気がゲスいような……。

 

「「「「あっ、まさか……!」」」」

 

 四人ともが同時に気づいた。そして四人揃って二歩ほど集団から遠のいた。

 こいつら……ラジコンを使って盗撮しようとしてやがる……!

 

「もっとデカくて高性能のカメラをつけたらどうよ」

 

「それだと重量がかさんで機動力が落ちる。目標の捕捉が難しくなる」

 

 ドン引きしている俺らをよそに、ゲス集団たちはラジコンの改良に着手していく。

 

「それならば魚眼レンズはどうだろう。歪み補正を行えば、小さいカメラで広い視野を確保できる」

 

 参謀、竹林が小型カメラでの広視野化を提案し。

 

「分かった。視野角の広い小型魚眼レンズは俺が調達しよう」

 

 カメラ整備士、岡島が魚眼カメラの調達を検討し。

 

「律、歪み補正プログラムを組めるか?」

 

「はい。なんの用途に用いるのかはあえて聞かないでおきますが、用意しましょう」

 

 律がその映像の歪みを補正するプログラムを構築。

 

「録画機能も必要だな」

 

「ああ、効率的な改良の分析には必要不可欠だ」

 

 なんかもっともらしい理由で録画機能もつくらしい。

 

「「「「…………」」」」

 

 なんだろ……、下着ドロの時はあんだけドン引きしていたのにこのやる気……。

 

「これも全て暗殺のため! ターゲットを追え!」

 

 おい、その“ターゲット”って“女の子”にルビ振ってんだろ。青春の名の下に盗撮を正当化してるぞこいつら……。

 ただまあ……、ラジコンとエロス、そのおかげで自然に堀部がクラスに溶け込めているようで。一概に引いているだけではない自分がいることも事実だった。

 しかし君達、歪み補正担当の律が物凄い白い目を向けていることに気がついてるかな? いや、実際歪み補正は“本来の目的”のためにも必要だから是非お願いしたいから、ちょっと我慢してね。

 

「復帰させてくる」

 

 車体が走行不能になれば高機動復元士として木村が名乗りを上げ。

 

「段差に強い足回りも必要じゃないか?」

 

「俺が開発するわ。駆動系や金属加工には覚えがある」

 

 走行不能リスクを抑えるために駆動系設計補助として吉田が参入する。

 

「車体の色が薄いカーキなのも目立ちすぎるな」

 

「これは戦場に紛れる色だからな。俺たちの場合は学校の景色に紛れないと標的に気付かれる」

 

 この場合の標的は殺せんせーだよな? そうだよな?

 

「引き受けた。学校迷彩、俺が塗ろう」

 

 迷彩と言われれば、と偽装効果担当として菅谷が準備に取り掛かる。お前は単に迷彩塗りたいだけじゃね? と思っているのは俺だけではないと信じたい。

 

「ラジコンと人間じゃサイズが違う。快適に走れるように、俺が歩いてマップを作ろう」

 

 元サッカー部の前原は足を活かしてロードマップ製作を。

 

「腹が減っちゃ戦はできねえ。校庭のゴーヤでチャンプルーでも作ってやらァ」

 

 E組の中でも抜群の料理スキルを持つ村松が糧食補給班の座についた。

 あっという間に堀部を中心としたグループが出来上がっていた。まあ、間違いなく男子の心を掴む内容だもんな。ゲスすぎるけど。

 その後、千葉が搭載砲手として召集されていった。千葉が助けを求めるような目を――見えないけど――向けてきたが、俺たち三人にはどうすることもできなかった。ごめんな千葉。俺たちそのプロジェクトには関わりたくないんだ。

 

 

 

 最もそんなゲスな目的に使われようとしている堀部のラジコン一台目はあっけなく破壊されてしまった。突然現れたイタチに、搭載していた砲は弱すぎたのだ。

 

「開発に失敗はつきものだ」

 

 しかし堀部はさして凹んだ様子もなく、大破してしまった車体にマジックで『糸成Ⅰ』と書き込んだ。

 

「糸成一号は失敗作だ。だが、ここから紡いで強くする」

 

 最初は細い糸でいい。徐々に紡いで強く成る。それが自分の名前のルーツだから、と。

 

「よろしくな、お前ら」

 

「「「「……おう」」」」

 

 殺意が絆を結ぶ……か。

 

「これからまた楽しくなりそうですね」

 

「そうだな」

 

 楽しそうに笑う渚の頭に手を乗せて、やはり楽しそうにするあいつらの姿に視線を移す。

 きっと今の俺が感じている感情を言葉で表すのは難しい。簡単だけど、難しい。

 だからとりあえず、今言いたいことを一つ。

 

「……お前ら、今後俺んちに来るの禁止な」

 

「「「「なんで!?」」」」

 

 なんでってお前ら……。

 

「今の見てたら小町の情操教育上よろしくないだろ。禁止禁止」

 

 千葉や菅谷はまあいいとしよう。千葉はプロジェクト参加を阻めなかった俺にも非はある気がするし、菅谷は本当に迷彩塗ることしか考えてなかったし。

 

「……小町ってのはなんだ? 米か?」

 

 堀部はなんで秋田的話になってんの? ここは千葉だぞ?

 

「比企谷の妹だよ」

 

「……巨乳か?」

 

「いや、俺らの下だし……」

 

 なにやら岡島と話していた堀部は得心がいったようで、一つ頷くと俺の方に近づいてきた。

 

「比企谷」

 

「なんだ?」

 

「安心しろ、巨乳じゃないなら俺の中で価値はない」

 

 ……ほーん?

 価値がない? うちの世界一可愛い妹のことを価値がないと申しましたねこいつ。これあれですよ。プッツン来ましたよ。

 俺は堀部の肩を両手で掴むと、にっこりと、八幡歴の中でもほとんど見ることのできない満面の笑みを見せた。

 

「イ・ト・ナ・くん。ちょっとこっち来て話をしようか?」

 

「ん? おう……おう?」

 

 よくわからんがオットセイみたいな返事をする堀部の身体を反転させて、二人揃って廊下を出た。なにやら皆が心配そうな顔をしていた気がするが、ちょっとお話するだけだよ? ほんの五分ほどね。

 …………。

 ………………。

 

「コマチカワイイコマチカワイイ、カワイイ……カワイイ……」

 

「比企谷君……これ、どうしたの?」

 

 教室に堀部と二人で戻ったら、赤羽の第一声がそれだった。珍しく目には動揺が映っている。どうしたって、端的に説明するなら――

 

「小町の可愛さを懇切丁寧分かりやすく説明した」

 

「「「「どうしたらそうなるの!?」」」」

 

 なにを皆驚いているんだ。小町の可愛さを知ったら全人類こうなるまである。もう小町を概念にすれば世界から戦争は無くなるんじゃないかと俺は確信しているのだが、どうだろうか。

 

 

 

「コマチカワイイコマチカワ……ハッ、そう言えば」

 

 洗脳が解けたらしい――洗脳って言っちゃった――堀部が頭を振って周りを見渡した。男子の視線の七割が心配の色を孕んでいるのは……俺のせいですね、はい。

 

「お前らに殺せんせーの弱点を教えておく。狙うべき一点、シロから聞いた殺せんせーの急所だ。

 奴には心臓がある。場所はネクタイの下」

 

 ――そこを破壊すれば一発で絶命させられるらしい。そう続ける堀部に――

 

「「「「…………」」」」

 

 たぶん全員が無言で思っていた。

 ゲスプロジェクトと洗脳の後にそんな重要な情報言われても締まらない、と。




ようやくイトナメイン回終了です。ゲス回はギャグテイストで行きたいなと思っていたのでこんな感じになりました。

あ、当たり前の話ですが、八幡は実際には小町が関わってるとは言っても洗脳なんてできませんからね? ギャグだから多少は許して!

そうそう、感想などで、地の文が足りないのでは? といただきました。特に原作に沿っているシーンは原作と見比べながら文字にしているので、どうしても地の文に起こし忘れるということが起こってしまうようです。精進が足りない……。
なので、地の文が足りないなと思ったら気軽に教えてください。その時に、具体的にどこがと教えてもらえると対応しやすいです。ただ、意図的に省いてたりする部分もあるので、すべてに対応するわけではありません。対応自体も週末とかになるかと思いますので、その点はご了承ください。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

今のお兄ちゃんは、硬くて大きい

 マガジンを取り出して、中に残っていたBB弾を全て取り出す。押し出し用のバネを圧縮させたまま放置するとバネが弱くなったり、マガジンの出口部分のパーツが傷んでしまうためだ。ついでに弾丸装填部分の細かな埃なんかをハケで払いのけていく。

 

「比企谷、そこのエアダスター取ってくれ」

 

「おう」

 

 足元に立ててあったエアダスターを千葉に放る。受け取った千葉が缶の上部を押すと、高圧の空気が千葉所有のスナイパーライフル型のエアガンに吹き当たる。これでエアガン表面についた細かいゴミも取り除くことができるのだ。

 さて、俺もエアダスターを使う前に表面を軽く拭いておこうかと視線を泳がせると、視界に探していたペーパータオルの箱が差し出された。

 

「ん……」

 

「……サンキュ」

 

 顔を上げると、差出人は速水のようだ。自分のエアガンを注視したまま差し出してきていて、たぶん初対面だったら嫌われてんのかな、と思うことだろう。こいつ普段の口数が極端に少ないんだよな。話すときは話すけど、話さないときはほんと話さない。

 今俺と千葉、速水がいるのはE組校舎の裏の林だ。いい具合に木陰になっていて涼しい風が吹いてくるそこにシートを敷いて、やっているのは自分たちのエアガンのメンテナンス。エアガンと言えばどうしても消耗品のイメージがある。しかし、サバゲなどの遊びで使うエアガンはともかく、俺たちのそれは三月の暗殺までの相棒だ。できることなら長期的に“慣れた”武器を扱えた方がいい。同じ規格でもどうしても一つ一つに個性が出てきて、新しいものは感覚補正など慣れるまでに時間がかかってしまうのだ。

 そういうわけで、最近だと各自メンテナンスを行うようになってきた。当然俺もその一人だが、メンテナンスのときは速水と千葉と一緒にやることが多い。

 

「「「…………」」」

 

 黙々と作業をする俺たちの間に、会話はほとんどない。時々メンテナンスグッズを渡し合う会話以外は風が木の葉を震わせる音や、小鳥のチチチという小合唱が空間を支配する。

 そもそも俺は、どちらかというと静かな方を好むタイプだ。倉橋や矢田を始めとしたE組の活発なメンツとの交流で多少は慣れたといっても、やはりその本質は変わらない。だから俺は、この会話のない、まるでそれぞれが独立して存在するような空間が、思いのほか居心地がよかったりする。

 本物の銃のメンテナンスなら細かく部品をばらすのだろうが、正直俺達にはそこまでして元に戻すというのは難しい。なのでメンテナンスはあくまで分解が必要ないものを重点的に行うようにしていた。

 ペーパータオルでざっくりと外装の汚れを拭き取ったら、千葉から戻ってきたエアダスターでさらに細かい汚れを吹き飛ばす。それが終わったら今度は砲身の中、インナーバレルの掃除だ。なんだかんだ外で扱ったりすると汚れがたまるし、インナーバレルの汚れはそのまま弾速に影響する。最も重点的にきれいにするべき部分だった。

 エアガン用のクリーニングロッドで丹念に中を掃除していく。モデルガンなどのメンテナンスでは金属製のロッドを使うらしいが、それを使うと内部がズタズタになってしまって、メンテナンスのつもりが破壊行為になってしまうらしい。

 ……まあ、こんなところだろうか。メンテナンスを終えた愛銃を一度構えてみる。これで何か明確に分かるわけではないが、なんとなくうまくメンテナンスが完了したかが分かる気がするのだ。気がするだけね。

 

「ねえ」

 

「ん?」

 

 構えを解いて銃をケースの中にしまおうとしていると聞こえてきた速水の声に再び顔を上げる。見ると、速水はじっと俺の手元にある銃に視線を落としていた。

 

「それ……大きくない?」

 

 首をかしげる速水に俺も手元にあるエアガン、ワルサーWA2000モデルに目を落とす。千葉たちが使っているのはM4カービンモデル。アメリカ製アサルトカービンが元となっていて、WA2000に比べると銃全長は半分くらいだ。このサイズになると取り回しは効かない。そもそも狙撃銃だからこれで敵陣に突っ込むわけじゃないんだが。

 

「これくらいしっかりした狙撃銃じゃないと俺は狙撃当たんねえんだよ。アサルトライフルで精密射撃できるお前らと一緒にしないで」

 

 いやほんと、俺も最初は二人と同じモデルと使っていたのだが、どうやっても遠距離狙撃の命中率が芳しくない。そういうこともあって、FPSで愛用している銃を烏間さんに頼んだのだ。相変わらず照準を即時合わせるのは下手だが、停止している敵への命中率は格段に上がったと思う。俺、ワルサー好きすぎでしょ。

 

「確かに、比企谷はその武器構成になってからまた強くなったよな。いきなり消えるし、もう反則」

 

 足元に置いていた俺のハンドガン二丁を拾い上げながら千葉が小さく笑う。

 

「状況に合わせて武器変えなきゃいけないから、ステルス使えなかったらくそ弱いまであるぞ……」

 

 スナイパーライフル一丁とハンドガン二丁、後はナイフ。最近訓練で使う武器構成はこんな感じだ。正直E組でも特殊な部類に入る自覚はある。最近だとクラスの半数くらいは取り回しの利きやすいM4カービンやハンドガンをメインウェポンにしている奴らの方が多い。そもそも俺はこの取り回しが効く、というのが苦手なようで、端的に言うと中距離戦闘が苦手なのだ。対面したら、照準を合わせる前に撃たれて死ぬ。

 だから、ハンドガンの方も近接用なんだよね……。なんか割とマジでFPSと同じような戦法になってきている気がする。いや、練習になってるって考えればいいんだけどね。いっそ今使ってるコルトのハンドガンもワルサーP38に変えようかしら。

 

「そういえば、神崎さんも最近銃変えたよね。なんだっけ……」

 

「HK50だな」

 

 正式名称はHK・G36。ドイツのアサルトライフルで、神崎がFPSでも使用している種類だ。正確にはそのコンパクトモデルで、肩当の部分を畳んで使用している。あれ使うときの神崎マジ楽しそうだよな。マジ有鬼子。

 

「ふーん、……私も別の銃使ってみようかな」

 

「正直使い慣れたやつの方が絶対いいぞ。俺とか神崎はゲームで使い慣れてるってだけだし」

 

 たかがゲームで使い慣れるって……と言われるかもしれないが、実際手にしてみると他の銃とは馴染み方が違うように感じるから困る。暗殺終わったらこれ譲ってもらおうかな。エアガンだしいいよね。くらいには愛着がわいてしまうのだ。

 

「そういえば聞いたぞ。ネットじゃ“有鬼子”と“ゴースト”って呼ばれてるんだって?」

 

「……律か」

 

 神崎が自分のあだ名を教えるわけないし、ほぼ百パーセント電脳娘の仕業だろう。あいつなんでクラスの奴らに教えちゃうかな……。リアルでもゴーストなんて呼ばれるようになった日にはショックで不登校になっちまうよ。絶賛実質不登校状態なのにさらに不登校とか、不登校と不登校で不登校が被ってしまう。被る前にゲシュタルト崩壊起こしそう。

 

「この間律が竹林に愚痴ってたらしいぞ。比企谷が全然構ってくれないって」

 

「むしろ割と構ってる方だと思うけどな……」

 

 むしろE組で一番構ってるのは間違いなくあいつだろう。もう単純に交流時間が違う。モバイル律とかいうチートアプリの力のおかげでリアルにおはようからおやすみまで現れるからな。別にいいんだが、着替えるタイミングでスマホやデスクトップに現れるのはやめていただきたい。絶対わざとやってるよあいつ。

 気が付くとこの三人にしては珍しくそこそこ話していた。まあ、静かなのももちろん好きだが、こうして話している時間も……悪くない。

 

 

     ***

 

 

 ジョギングに一番適した時間帯というのは冬を除けば基本的に早朝である。一日動くためのストレッチ代わりにもなるし、日光を浴びることで体内時計を正常にすることもできるからだ。冬? あんな寒い中ジョギングなんてしたら確実に次の日寝込むわ。冬のジョギングは昼間にやるのが安牌。

 

「ただいまー」

 

 そういうわけで、休日なのに早めに起きたこともあり一時間のジョギングを終えた俺は、足首を軽く回したりして足を休ませながら家の中に入った。この後はどうしようか。今日はニチアサもないし、シャワー浴びてからもうひと眠りするかな? それって体内時計正常にした意味なくない?

 脳内一人芝居を楽しみながら――自分で言ってて悲しくなってきた――廊下を抜けて奥の洗面所に向かう。汗を吸ったシャツを脱いで洗濯カゴに入れ、ジャージも下着も脱いで全裸になると風呂場に入った。最初は身体を軽く流すだけにしようかとも思ったが、秋も深まってきたと言っても走ると身体だけでなく顔や頭も割と汗をかいてしまう。いっそのこと、と頭から流水を浴びて、シャンプーを手のひらに二回ほどプッシュする。出てきた粘度のある液体を泡立てて、ガシガシと頭皮ごと髪を洗いだした。そういえば、俺ツイだとめっちゃ丁寧に髪洗ってたよね。あんな丁寧すぎるやり方で綺麗になるもんなの? 女の子ってすごい。

 髪についた泡を少し熱めのお湯で洗い流して、今度はタオルにボディーソープをつけてこれまたガシガシと身体を洗う。使ってるタオル自体が割と柔らかいものだから、これだけ強くしてもそこまで肌に悪くはない……と思う。多分、知らんけど。

 

「……ふう」

 

 全身の泡を洗い流した後、もう一回頭から温水を浴びて頭を大きく振る。ガキの頃からの癖だが、小学校低学年あたりの頃に小町と一緒に入った時に「お兄ちゃん、ワンちゃんみたい」と笑われたことがあった。兄を笑う妹、お兄ちゃん的にポイント低い。

 浴室から出て、まとめておいてあるバスタオルを一枚取って全身の水気を拭い去る。ついでに軽くふくらはぎやふとももを揉み解してから洗濯カゴに投げ入れ、フェイスタオルで頭をガシガシ荒く拭いた。ふむ、さっぱりするし、朝風呂ってやつも悪くないな。早起きとか面倒くさいことこの上ないから毎日はやらんけど。

 フェイスタオルもカゴに投げ込んで……ハタと気づく。

 

「……着替え持ってきてない」

 

 そういえば帰ってきて即効来たから着替えのことをしっかり忘れていた。忘れるならすっかり忘れて。しっかりしてるなら忘れないで!

 仕方がないのでカゴからさっきのバスタオルをもう一度取り出して、腰に巻いて洗面所を出る。さっさと自分の部屋に行って着替えようと階段を上がっていると、二階の方からキィと扉が開く音が聞こえてきた。とてとてと軽い足音を見るに、たぶん小町が起きてきたのだろう。

 

「おう小町、おはよ」

 

 そのまま上っていくと予想通り小町が自分の部屋の前に立っていた。まだ覚醒しきっていないようで目をしぱしぱさせている。俺の声に小町もこっちに気づいて挨拶をしようとして――

 

「あ、お兄ちゃん。おは…………」

 

 止まった。小町が石化してしまった。俺は実はメデューサだった……?

 中途半端な挨拶で止まっていた妹を眺めていると、段々石化に耐性が付いてきたのか唇を戦慄かせ始める。次に首から頭の先までリンゴみたいに真っ赤にしていった。

 

「な、な、な……」

 

「な?」

 

 どうやら小町は「な」しか言えない病にかかってしまったらしい。まあ、「な」だし別にいいか。「ま」とか「ぱ」とかだったら一々発音の度に口を閉じなくてはいけなかったら面倒だっただろうが、その点「な」なら連続で発音も可能だもんな。……自分でも何言ってのかわかんね。

 「な」しか言えない病発症中のマイリトルシスターは背もたれにしていた扉のドアノブを回すと素早く中に滑り込んでいった。

 

「なんでお兄ちゃん裸なの!? 変態!」

 

「……いや、シャワー浴びるときに着替え忘れただけなんだが」

 

 というか、お前だって俺の目を気にせず下着に俺のTシャツとかでパンチラブラチラ連発してるじゃねえか。俺から言わせればお前の方が間違いなく変態である。だって、俺のこれ仕方なくだもん。

 はあ、とため息を吐いていると、小さく扉が開かれ、おびえた表情の小町が顔をのぞかせた。

 

「ほんとに仕方なく? ついに小町を襲う鬼畜シスコンお兄ちゃんにジョブチェンジしたとかじゃない?」

 

 ……お前、もうとっくに順応してきてるだろ。おびえた表情も演技じゃねえか。

 

「お前は俺をどこの鬼のお兄ちゃんにしたいんだよ……」

 

 まだ少し湿っている後頭部をガシガシ掻いてさらにため息を重ねると、簡単に開く天岩戸から太陽神コマテラスが興味深げに出てきた。なんだコマテラスって。

 視線の先は俺の腹部。なんでそんなまじまじと見つめているのん?

 

「……お兄ちゃんって、腹筋割れてたっけ。中学校の時に見たときは太ってはいないけどもっとだらしない感じだった気がするけど」

 

「あー……まあ、最近は筋トレとかもしてるからな」

 

 というか、あれだけの訓練を受けていて筋肉が付かない方が無理である。E組の男子も全体的に細マッチョというか、結構筋肉質になってきてるしな。……渚以外。なんであいつあんなに筋肉つかないの? 一周回って逆に羨ましい。

 

「っていうか、おい。腹筋触んな」

 

 指先でツンツンとプッシュされるとこそばゆい。

 

「おー、硬い。そして大きい」

 

「誤解招くような言い方やめようか、小町ちゃん」

 

 大きいってなんだよ。盛り上がり方がか? ……なんかこの言い方もアウトな気がする。腹筋のね、腹筋の。

 俺の腹筋を興味深げにつついていた小町は、今度は指の腹でクニクニと押し込んでくる。しかし、小町程度の力では俺の腹筋はほとんど沈まず、逆に弾き返そうと硬度を高めるのみだった。なんだろ、別にやましいことなんて何も説明してないのになぜかちょっと申し訳なくなるのは俺の心が汚れてしまっているのかしら?

 

「すごいね、お兄ちゃん。このムキムキボディを見せれば女の子にモテモテだよ」

 

「……身体目当てとか女の子怖い」

 

 筋肉質なだけでモテるんなら、この世の男子皆マッチョマンになってるな。そうしたらマッチョに慣れた女子が今度は痩せ形男子に興味が行ってマッチョが非リアになるのかも知れない。何そのいたちごっこ。マジ女子怖い。

 

「モテモテになれるチャンスを捨てるなんてもったいないなぁ。……じゃあ、この腹筋は小町が独占しちゃおう」

 

「いや、この腹筋俺のだからね? お前には割れてない腹筋があるでしょ?」

 

 結局この後、一日中小町が俺の腹筋を触る中生活することになった。いや、まじでくすぐったいからやめてほしいんだけど。妹に強く言えないなんてお兄ちゃん弱すぎる……。




こう、速水千葉と八幡って性格タイプが近いと思うので、三人でまったりさせたいなーとかずっと思ってました。大きくて硬いのは腹筋ね、腹筋。

ちょっとここでアナウンスを。
明日は泊まりで県外の方へ出かけるので、ひょっとしたら更新できないかもしれません。スマホでポチポチはやるつもりですが、どうしてもスマホで書くの遅いですし。
更新できないのが確定したらTwitterの方で呟くと思います。
@elu_akatsuki
よかったらフォローしてみてください。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

イケメンリーダーは人徳ゆえに

 朝、少し遅めの時間に登校した俺が教室に入ると、空気がやけに重々しかった。クラスメイトたちが前の席のところに集まっている。その中心にいるのは二本のアホ毛を生やしたクラス委員で、珍しくその表情は沈んでいる。

 

「なにかあったのか?」

 

「あ、比企谷」

 

 俺に気づいた前原が実は……と昨日の放課後のことを話してくれた。

 前にも言ったように磯貝の家は母子家庭だ。その母親自体そこまで身体が強いわけではなく、磯貝はまた学校に黙ってバイトをしていたらしい。

 

「そこに現れたのが、浅野たちだ……」

 

 椚ヶ丘中学校では学生のアルバイトは禁止されている。どこからか情報を掴んだらしい生徒会長である浅野を中心とした五英傑がそのことを学校側に報告すれば……下手をすれば退学処分まであり得るらしい。

 

「バイト以外の方法はなかったのか? 奨学金とかさ」

 

「うちの支援制度は結構種類はあるんだけど、その大半が成績上位者に資格を与えられるものなんだ。二年の時は貰えるほどの学力もなかったし、どんなに成績が良くても、E組にいる限り受給はできない」

 

 実力主義の私立故、そこは致し方ないところなのだろうか。学園内進学をしないE組に支援が行き届かないのは当然といえば当然なのかもしれない。

 このままでは磯貝の校則違反が学校にばれてしまう。このイケメン委員長がいなくなることを望んでいるクラスメイトなどいるわけもなく、その時いた全員で黙っていてほしいと頼んだそうだ。

 そしてその条件として出されたのが――

 

「体育祭でE組とA組で棒倒しをして、勝ったら黙っておくらしい」

 

「体育祭……ね」

 

 そもそも体育祭、E組は団体競技にほぼ参加できない。当然棒倒しにもだ。そうでなくともE組とA組の男子人数は倍近い差があるのだ。あまりにも公平性を欠く条件だと誰でもわかる。

 

「だから、E組からA組に宣戦布告したって体にすればいいってさ」

 

「ケッ、俺らに赤っ恥かかそうって魂胆が丸見えだぜ」

 

 渚の補足に、寺坂も不愉快そうに吐き捨てた。

 どうするのが最善か。磯貝も悩んでいるようで、さっきから口数が少ない。まあ、こいつからしたら自分のせいでクラスの連中に恥をかかせることになりかねないのだから仕方がないだろう。

 ただ、このクラスの連中がそんなことを気にしているかと言われれば、答えはほぼノーな訳で。

 

「難しく考えんなよ、磯貝」

 

 対先生ナイフで手遊びをしながら前原が近づく。柄の部分を握りしめると磯貝のつくえに叩きつけて、ニッと余裕満々に笑った。

 

「A組のガリ勉共に棒倒しで勝ちゃいいんだろ? 楽勝じゃねえか!」

 

「そりゃそうだ。むしろバイトがばれてラッキーだったかもな」

 

 前原に続くように三村が手を添え。

 

「日頃の恨み、まとめて返すチャンスじゃねえか!」

 

 寺坂が力強く握りしめる。杉野も、渚も、木村も、どんどんナイフを支える手が増えていき――

 

「倒すどころかへし折ってやろうぜ、なあイケメン!」

 

 ナイフを棒に見立てた強固な防御が出来上がった。それを倒すも残すも、決めるのは我らが委員長に委ねられている。

 

「日頃の行いですねぇ」

 

「そうですね」

 

 いつの間にか入ってきていた殺せんせーに小さく頷いて同意する。万能な高い能力も、イケメンなのも、当然あいつの武器だが一番の力ではない。イケメンでも嫌味に感じない日頃の驕らない態度、行動。それによって得てきた人徳。それが磯貝悠馬の最大の武器だった。

 

「……よし、やるか!」

 

「「「「おう!!」」」」

 

 皆から託されたナイフを受け取り、立ち上がったE組のリーダーに、クラス全体が一つになる。人徳、まさにリーダーに必要な要素だろう。

 

「そうなると俺はまた観戦モードですかね」

 

 中学校の体育祭に参加なんて普通できないしな。最近あんまりできていなかったし、この機会に集中的に律と一緒にシロのこととか調べあげるか。

 そう思って自分の席に着こうとしたら、ヌルヌルの触手に肩を掴まれた。振り返ると担任教師は首を横に振ってヌルフフフと笑っている。

 

「確かに棒倒しには参加できませんが、協力することはできますよ」

 

 --例えば、参謀とかね。

 

 

     ***

 

 

 数日経つ頃には椚ヶ丘校内にはA組対E組の話が広がっていた。まあ、浅野が関わることだし、放送部の眼鏡とかが拡散でもしたのなら余計だろう。

 そしてその浅野はといえば……今俺の目の前にいた。

 

「まさか本当にE組がこちらに宣戦布告してくるとは思いませんでしたよ」

 

「……そうかい」

 

 なんとまあ、いけしゃあしゃあとのたまうこと。確かに学校の規律的には、理由はどうあれ校則違反をした磯貝が悪い。ただ、あんな条件を出されたらうちの連中が迷わずその条件を飲むことなんて簡単に予測できただろうに……いや、予測できたからこそ、か。

 こいつと会うのはだいたい図書館だ。そもそも俺が本校舎に来る理由はほぼ百パーセント図書館だから当然なのだが、こいつそんなに図書館利用してんの? あの理事長の家ならこの規模以上の地下図書館とか持ってそう。さすがにないか。

 

「それで? 今日は何の用なんだ?」

 

 本に目を落とす体勢のまま視線だけを上げると、相変わらず父親と同じように似せようとしている笑みを浮かべていた。たぶん本人は気づいていないんだろうが。

 

「いえ、久しぶりに比企谷さんとお話ししたいなと思いまして」

 

 嘘乙。タイミング的に考えれば俺からE組の戦略でも聞き出そうという魂胆だろう。

 そこからは他愛のない会話が何回か行き来する。お互い慎重に言葉を選んで話すせいで、本当に中身のない会話だ。下手したらこの会話からすら何かしらの情報が抜き取られていそうだが、ここで俺が浅野を無視して、所属するE組の批判に繋がっても厄介だ。会話を途切れさせるわけにはいかない。

 

「ガードが堅いですね、情報を聞き出そうとしているのに全然ですよ」

 

 首をすくめて嘆息するこの言葉すらブラフの可能性がある。とても中学生を相手しているようには思えない。高校生を相手取るのだってもうちょっと気楽だろう。

 

「俺を裏切り者に仕立て上げようなんて怖い、あと怖い。……ま、せいぜい手を抜かないことだな。期末の時みたいに足元掬われても知らねえぞ?」

 

「手なんて抜きませんよ。やるからには全力です」

 

 ああ、なんとなくわかってはいたが、相手を潰そうとするこいつの目は本当に父親に似ている。似せようとしている笑みとは違って、こっちは全く違和感がない。怖い顔のほうが違和感がないってちょっとかわいそう。

 壁に掛けられた時計に視線を向けた浅野はこれからA組も特訓をするんですよ、と立ち上がる。まあ、“あんな戦力”を用意する時点で手を抜くとは思っていないが……。

 

「浅野」

 

「? なんですか?」

 

 じゃあ、確認のため一言だけ。

 

「俺が前に言ったこと覚えてるか?」

 

 俺の質問に浅野はわずかに首を傾け、顎に手を添えて思考を巡らせる。こいつなら今までの俺の会話も全部記憶していそうだが、俺の言葉がどれを指しているのか分からないようだ。

 

「いや、分からんなら分からんでいい。特訓がんばれよ。俺はE組の応援をすることになるが」

 

「もちろん、特訓も徹底的にやりますよ。そして勝つのはA組です」

 

 一瞬だけ互いの目に火花を散らして、浅野は図書館を出て行った。

 浅野の言う通り、十中八九勝つのはA組だろう。しかしそれは“普通にやれば”、“E組が浅野の本当の目的を知っていなければ”の話だ。

 そして、浅野はもう一つ気付くべきだった。俺が今日図書館に来た本当の理由に。

 

「さて、こっちの仕事をしようかね」

 

 用心深くあいつが出て行ってから十分待ち、読んでいた本を閉じて立ち上がる。さらに用心を重ねるためにステルスも発動させて、辿り着いたのは歴史系の棚。

 人類の歴史上、不利な人数差で勝利した事例はいくつもある。ハンニバル然り、カルタゴ然り。本来の戦争とはいかに数で相手を囲んで棒で叩くかが定石となるが、どこにでも定石崩しは存在するのだ。使えるものは何でも使う。自分たちでその定石崩しを考えるのが一つの手なら、過去の偉人からその知恵を授かるのもまた一つの手だ。今回の俺の仕事はその定石崩し探し。他のE組生徒が本校舎に行くと目立つし色々やっかみを受けることになるが、普段から図書館を利用している俺ならば多少目立つにしてもいつも通りだ。浅野が訝しむ可能性も低い。

 

「……律、このページ撮っておいてくれ」

 

 周りに聞こえないように小声で呟いて胸ポケットにしまっていたスマホの少しだけ上に引き上げると、一度短くバイブレーションが起こった。それを確認して再びポケットにしまう。今のはシャッター音ではなく撮ったことの報告に震えただけだ。このサイレントシャッター機能が付いたら盗撮犯増えそう。律に外部には絶対提供するなって言っておかないと。

 体育祭に向けて俺たちが最初に行ったことがある。それは偵察だ。堀部が即興で作った録音機能付きのラジコンに菅谷の迷彩を施した糸成二号をA組の偵察に向かわせると、複数の外国語が混じりながらの会話が聞こえてきた。後に校門近くの防犯カメラを律にハッキングさせたところ。いやにがたいのでかい外国人四人が浅野と一緒に出てきてビビったのはつい昨日の出来事だ。フランスのカミーユ、韓国のサンチョク、ブラジルのジョゼ、アメリカのケヴィン。全員各スポーツ界の次世代を担うと期待されている連中らしい。ちなみに全員十五歳。

 明らかに戦えば瞬殺だ。しかし、糸成二号が録音した音声にはこんなことを言っている浅野の声が入っていた。

 

『僕はE組にね、棒を倒す前にじっくり反省してもらう。もちろんルールに則って正々堂々とね。

 それに、期末テストで悔しい思いをした皆だ。“中間の前に少しお返しをしておきたい”。そんな気持ちが皆にあっても、僕は責めないよ』

 

 つまり、あれだけの布陣を敷いてすぐに倒すことはない。A組の勝利条件は棒を倒すことではなく、E組を痛めつけることだからだ。恐らく中間テストに影響を出そうという魂胆なのだろう。その時点ではらわたが煮えくり返りそうになるのを抑えるので大変だった。

 しかし、そういうことなら。

 

「そういうことなら、この勝負分かんねえぞ?」

 

 ページをめくりながらひとりごちる俺に、胸のスマホが小さく震えて返事をしてきた。

 

 

     ***

 

 

 そして特訓と戦略立てに明け暮れた体育祭準備期間はあっという間に過ぎ、当日になった。椚ヶ丘学園の体育祭は特殊で、各競技ごとに近い場所で観戦することができる。観客席のすぐ近くまで選手が来るからなかなかの迫力だ。

 しかし……。

 

『百メートル走はA・B・C・D組がリードを許す苦しい展開! 負けるな我が校のエリート達!』

 

 相変わらずのE組いじめ。他校とでも戦ってんのかな? っていうか、木村がめちゃくちゃ早い。俊足シューズのCMに抜擢したら爆買いが起こりそう。

 

「ふおぉ、かっこいい木村君! もっと笑いながら走って!」

 

 そして殺せんせーはもうちょっと目立たないようにしてもらえますかね?

 うちの担任教師は手作りらしいグレーのニット帽とパーカーを着込んで、さらにブランケットを頭から被って生徒の雄姿を激写していた。カメラはよく知らんがかなりごつい物で、三村と岡島曰くなかなかの値段のものらしい。新品っぽいけど、この日のために買ったの? 親バカなの? 親バカというより担任バカ。

 さて、次は堀部が参加する借り物競争だが……。

 

「堀部、わかってるとは思うが……」

 

「分かっている。全力は出さない」

 

 ちょっと前まで勝ちにこだわっていた影響か、わざと負けることにまだ抵抗があるようで、そこまで変化するほうではない堀部も複雑な表情を浮かべていた。

 

「ごめんな、イトナ。けど、絶対これが活かせる時が来るはずだから」

 

「最後に勝つためなら仕方がない。……行ってくる」

 

 手振りを合わせて謝る磯貝を首を横に振っていさめると、堀部はトラックに入っていった。

 今回の勝利の鍵は間違いなく堀部だ。触手に適応するために身体改造を施された上、堀部の参入はつい最近だからA組の情報に堀部のそれはない。浅野のことだ、成長していると言っても球技大会あたりから他のE組男子の基礎ステータスはだいたい予測がついているだろう。そんな中で不確定要素の堀部はいるだけで相手を乱す効果がある。

 だから、ここで実力を見せるわけにはいかないのだ。

 俺たちの指示通り、堀部は軽く流して三位でゴールしてくれた。……それは予定通りなのだが、「賞味期限が近いもの」でイリーナ先生連れていくのはやめようか。皆で慰めるの大変なんだから……。

 

 

 

「烏間先生、トラック競技木村ちゃん以外苦戦してるね」

 

 スケジュールが進むにつれてそんなことを口にしたのは倉橋だ。確かにトラック競技、一位になったのは木村だけで、他のE組選手はほとんどが二位に甘んじている。一位はだいたい陸上部の生徒のようだ。

 

「当然だ。訓練で行っていることとトラック競技では内容が違う。素人相手になら訓練で鍛えた基礎で勝てるだろうが、百メートルを二秒も三秒も縮める訓練をしてきた陸上部には勝てない。君たちも万能ではないということだ」

 

 逆に、思わぬところで訓練の成果が発揮されることもあるがな、と呟いた烏間さんの視線の先では女子のパン食い競争が行われている。E組からの参加は原だ。

 動けるデブを自称する原だが、その瞬発力はどうしても劣るところがある。実際パンがぶら下げられたエリアまで辿り着いた時点で、だいたい真ん中くらいの順位だった。普通ならここでもたもたしてしまうところなのだが――

 ――バグゥ!!

 後ろ手を組んだ原は跳躍すると、正確無比にパンに食らいついた。

 

「……まあ、ああいうのだ」

 

 ほんとですか、烏間さん。なんか変な汗かいてますけど……。

 いや、確かにあれはターゲットに照準を合わせる訓練の賜物と言えるかもしれないけど……それでいいのか暗殺訓練。

 捉えたパンを咥えたまま、原はドタドタとゴールに向かう。パン食い競争はパンを食べきらなければゴールとは認められない。しかし、E組のおかんはゴール前で立ち止まると――パンを飲み込んだ。

 

「飲み物よ、パンは」

 

 …………。

 悔しいけど、ちょっとかっこいいと思ってしまった。

 

「やったな原さん! 異次元の食いっぷり!」

 

「訓練の日々で食欲が増してしまってね。飲み物よ、パンは」

 

 いや、うん。すごいんだけど……すごいんだけど……! まあいいや、とりあえず一位はめでたい。

 

「おつかれ、原」

 

 保冷バッグから取り出したマッカンを席に着いた原に投げると、受け取った彼女は一度黒と黄色の警戒色のそれを眺めて……プシュッとプルタブを開けた。そして傾ける前に一言。

 

「……食べ物よ、マッカンは」

 

 それ飲み物なんですが? おいこら、液体を噛むな液体を!

 暗殺で鍛えた基礎体力やバランス力、動体視力や距離感覚、そして意外性のある動きは非日常な競技でこそ発揮されるとは殺せんせーの弁。確かに前原と岡野の二人三脚や茅野の障害物走なんかは……いや茅野なんだその動き。なんでそんなスルスル網を抜けられるんだ……。

 

「あのように各自の個性も武器になる。棒倒しでどう活かすかは、君次第ですよ」

 

「…………」

 

 ずっと作戦用のノートを見つめている磯貝に殺せんせーが声をかけるが、その表情は暗い。自分の采配次第で自分の運命だけでなく、クラスメイトにまで影響が出るかもしれないのだ。当然プレッシャーはあるだろう。

 それに……外国人部隊を率いて綱引きを圧勝したA組の中で、多言語を用いて指揮を取る浅野に目を向ける。四ヶ国語を操り、さらに他の教科まで隙がない中学三年生がこの世に何人いるだろうか。

 

「殺せんせー、俺にあんな語学力はない。俺の力じゃとても浅野には及ばないんじゃ……」

 

 ぼそりと呟いた委員長の言葉に、殺せんせーは少し考えて、当然肯定した。いくら磯貝が万能に動ける人間でも、浅野のように上には上がいる。いつだって、どこだって、高校に行っても、社会に出ても。

 

「でもね、社会において一人の力には限界があります。そしてそんな中で仲間を率いて戦う力、その点で君は浅野君をも上回れると、先生は思っているんですよ」

 

 磯貝の周りに集まった男子たちをレンズに収めながら、殺せんせーはヌルフフフと笑ってシャッターを切った。

 浅野と磯貝、共にA組とE組のリーダーだが、その本質はまるで違う。浅野学秀とは指揮官であり、参謀であり、外交官であり、そしてエースだ。一人ですべてのことをやり遂げ、周りの人間を駒として扱う。圧倒的なカリスマによって他生徒もそれに従うからこそ、今のA組の強さがある。

 対してE組男子は磯貝をリーダーにそれぞれがそれぞれの役目を請け負っている。一人でできることには限界があるからこそ、何人も集まって限界を引き上げていく。一人で勝てないなら二人で、二人で勝てないなら四人で、それでも勝てないなら――E組全員で。

 それができるから今のE組は強く、そしてそのE組全員をまとめることができるから、磯貝は俺たちのリーダーなのだ。

 それに――

 

「女子まで参加して立てた作戦たちだぞ? 優等生たちの度肝抜かして、大将ごとあの棒倒して来いよ」

 

「比企谷……そうだな」

 

 このために全員で意見を出し合って作戦を詰めてきた。きっと浅野だって思いつかない。暗殺者である俺らだからこそ立案できる作戦たちだ。

 磯貝は俺に作戦ノートを渡すと、戦場に向かう男子たちに向き直った。その表情には、もう緊張の色はない。

 

「よっし皆! いつも通り殺る気で行くぞ!」

 

「「「「おう!」」」」

 

 もはや今回の目玉となったA組対E組の棒倒し。開戦の笛は、あと少し。




体育祭回その一です。次はコードネームかな? と感想をいただいていましたが、もろもろの理由で泣く泣く……。

椚ヶ丘学園の奨学金制度ってどうなってるのかなと思いつつ、なんかそれっぽい感じにしてみました。学力主義だし割とこんな感じでありそう。こうじゃなかったら、磯貝がサキサキみたいに資金支援とか頭からすっぽ抜けてバイトに……はないか。

そういえば、ケヴィン君のお弁当……なんで白米に梅干し乗っけて残り薬ばっかなんだろ。薬のぞいたらどこぞの剣道少女のおひるごはんみたいになりますね。パンじゃないあたりにA組との距離を縮めようと悪戦苦闘している姿が垣間……見えません、はい。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

数よりも力よりも重要なこと

 この体育祭での棒倒しにはいくつかルールがある。勝利条件は相手の棒を倒すことのみであり、制限時間はない。殴る、蹴るなどの暴力行為と武器の使用は禁止だが、腕や肩を使ってタックルをしたり、棒を支える者が足で追い払う行為は許可されている。ただまあ、A組の狙いはE組を負傷させることだから、多少の違反は審判も目を瞑りそうだが。

 しかもA組は見分けがつきやすいようにと称して、ヘッドギアと長袖を装着してきたし、もうすでにやりたい放題だ。まあ、浅野も徹底的にやるって言ってたからね、多少はね。

 

「むぅ、ずるい……」

 

「ま、これくらいはやってくるだろ。ギャラリーもあいつらがボロ負けするのを見たいだけだからな」

 

 頬を膨らませて唸る倉橋をなだめながら改めてフィールドに視線を向ける。人数差、四人の助っ人外国人に加えてA組限定の武装。傍から見れば余計にE組が不利な状況だが、ひょっとしたらこれは逆に……。

 

『それでは……始め!』

 

 アナウンスと共にA組は布陣を敷く。浅野とバスケのサンヒョクを中心に棒を守り、その前方にレスリングのカミーユと格闘家のジョゼが小隊を作る。残りを三つの隊に分けてその一つにアメフトのケヴィンを入れて前衛に据えるという、三重の防御が敷かれている状態だ。

 人数的に圧倒的不利なE組が勝つには、防御を最低限にして残りの全員を攻撃に回すしかない。そこを確実に潰そうといったところだろう。確かにそれが一番可能性があり、一番定石と言える。

 

「お、おい。E組の奴ら、誰も攻めるやつがいねえぞ!?」

 

 しかしあいにく、うちの教育者は常識の外のことをしろ、なんてどっかの殺し屋屋みたいなことを言う先生なんでね。

 E組の初期陣形は全員が棒に張り付いて守る〝完全防御形態”。守備陣形対守備陣形ではただのにらみ合いになってしまう。そして、そういう状況で先手を打つのは決まって数的、実力的有利な側なのだ。相手は普通の中学生ではなく浅野学秀、ここで驕って全軍突撃をかますような奴ではない。常識的なところ、前衛一、二部隊をよこすあたりだろうと磯貝と事前に計画を練っていた。

 

「SHU~~~~……」

 

 予想通りアメフト選手率いる前衛一部隊が悠々と接近してくる。いや、予想通りなのはいいんだが、普通棒倒しってそんなゆっくり近づくものだったっけ? やっぱアメリカ、日本とはなんかちげえな。

 先頭に立つケヴィンは見上げるほどの大男だ。それがゆっくり、しかし確実に近づいてくる光景は、それだけで押し潰されそうなプレッシャーを受ける。観客席から見ている俺ですらそうなのだ。実際に対峙しているあいつらの受けるプレッシャーは計り知れない。

 

「くそっ……」

 

「無抵抗にやられっかよ!」

 

「吉田! 村松!」

 

 敵部隊に一番近かった二人が痺れを切らして飛び出す。磯貝の制止も意味をなさず――トラックにでもぶつかったのかと思うほどの衝撃で空気を震わせて、E組の中でもでかい部類に入る二人の身体が宙を舞った。現役アメフト選手のタックルに弾き飛ばされたのだ。あまりの光景に、観客席で見ていた女子たちの空気がヒュッと冷える。俺も右手で顔を覆い、肩を落とした。

 

「ややややばいよ殺せんせー!」

 

「吉田君と村松君、大丈夫かな……」

 

「あんなの食らったら、本当に怪我しちゃうよ」

 

 女子たちの言うとおりだ。観客席まで吹き飛ばされるタックルなんて食らえば、下手したらマジで大怪我をしかねない。

 ならば……そのタックルを封じてしまえばいいのだ。

 浅野が親指を振り下ろすのを確認した威力偵察部隊は防御に入っている男子ごと棒を吹き飛ばそうとするように全員で突撃してくる。

 そして、もう少しでその手が棒の前方を守っている奴らに触れそうになったとき、リーダーの指揮が飛ぶ。

 

「今だ皆! “触手”!」

 

 磯貝の合図とともに、磯貝自身を含めた前方防御が全員上に逃げる。E組を徹底的に痛めつけることが目的のA組は棒をここでは倒さない。棒の前方で丸太のような腕を空振りさせたケヴィンと後に続く部隊員たちは、重力によって落下してきた前方防御組に上から抑え込まれた。

 

『なんとE組、自軍の防御を半分倒して、棒の重みで抑え込んだ五人を拘束した!!』

 

 さらに定石破りの方法、自陣の棒を使った拘束。作戦名“触手絡み”で、本職タックルの使い手を封じ込めたのだ。

 ……ところで、やっぱりこの作戦名やめない? 確かに作戦の全てに常識外れを混ぜろと言ったのは殺せんせーであり、俺たちの中で常識外れの人物と言えばすぐ隣で観戦している超生物なのだが……まあ、あいつらが分かりやすいならいいけどさ。

 

「しかし、これだけやっても数的不利は変わらんぞ? ここからどうするつもりなんだ?」

 

「まあまあ烏間先生、ここは静かに見守りましょう。さすがに我々が手を出すわけにはいかないんですし」

 

 教師二人が話す中、A組は残りの攻撃部隊二つを投入してくる。両端から挟み撃ちにするような動きで、自然と中央にスペースが出来上がり、それを見た磯貝は前原たちに視線を投げた。

 

「出るぞ、攻撃部隊! 作戦は“粘液”!」

 

 磯貝、前原、赤羽、杉野、岡島、木村の六人が攻撃部隊として敵陣に突撃をかける。自分たちの真横を通り過ぎたあいつらにA組の攻撃部隊は厭らしく笑い、進路を反転させてきた。

 

「何ィ!?」

 

「攻撃はフェイクかよ!?」

 

 目ん玉をひんむきそうな勢いで驚く杉野と岡島。前方には格闘家とレスリング選手を擁した防御陣だ。挟まれてしまえば六人ではひとたまりもない。再び女子たちが顔を青くする中、俺は顔を地面に落とし、額のところで祈るように指を絡めた形で手を押し当てて“表情を隠して”――

 

「あいつら……演技うまいな」

 

「「「「え?」」」」

 

 笑いをこらえて震える声を漏らした。いや、まじで今はこの状態じゃないと無理。笑ってるところを浅野に見られたら、勘づかれてしまうかもしれない。

 

「演技ってどういうことなの?」

 

「見てりゃわかるぞ」

 

 俺がそう言った矢先に聞こえてきた男女交じりの悲鳴と、パイプ椅子がぶつかったり、倒されたりする音。どうやら作戦通り、A組のほとんどを引き連れて攻撃部隊が“観客席”に飛び込んだようだ。作戦名“粘液地獄”、場外というルールがないことを逆手に取った常識外れだ。

 

「他のA組連中はともかく、あの外国人四人と浅野の位置取りはだいたい予想通りだった。……赤羽のな」

 

「カルマ君の?」

 

 喧嘩のスペシャリストである赤羽はスポーツにも明るい。そして、四人の所属スポーツを教えると、あっさり初期陣形を言い当てたのだ。

 

「あいつらの目的はゲームに勝つ以前にE組をボロぞうきんにすることだ。そして、それがやりやすいのは混戦だ。“定石通り”なら一気に攻めるしかないE組を相手にするなら、混戦フィールドはA組陣地になりやすい」

 

 そして、四人のスポーツの中でもろに人を壊すことができる格闘技系である二人は防御寄りになると踏んだ。派手なタックルが本職のアメフト助っ人はそこから視線を逸らすためにも前衛が望ましい。赤羽の予想の一つではバスケ選手の方も前線に来るものがあったが、当の浅野はリスクの低減を取ったのだろう。

 

「だから、アメフト野郎を封じ込めて、格闘技組と一緒に棒を支えている連中以外を場外に誘い出して攪乱しようってわけだ。障害物のあるフィールドではこっちの方が有利だし、パイプ椅子で相手の方がちょっと痛い思いをする可能性も出るしな」

 

 作戦は大成功、と身体の陰で小さくブイサインすると、隣に座っていた矢田の地面に伸びた影がコテッと頭を傾げた。

 

「けど、さっきの相手が挟み撃ちにしてきたところって、攻めてきた人たちが戻ってこないで棒のところに行ったらどうするつもりだったの?」

 

「あー……、その可能性はゼロではないんだが……」

 

 確かに百パーセント戻ってくる保証はなかった。なかったが、逆に言えば戻らないとA組にメリットは薄いのだ。

 

「E組を潰したいA組の戦力の六割がE組の棒を取り囲んだら、普通に考えて一気に倒さないと不自然だ。十数人で防御組数人を延々リンチして、それを俺らに撮られてみろよ。立場が悪くなるのは浅野たちの方だ」

 

 あくまでA組は偶然を装う必要がある。しかも、主力部隊には赤羽、磯貝、杉野がいるのだ。成績上位者の喧嘩好きと万能委員長に加え、球技大会で野球部に勝った時は杉野も含めて三人の印象が強い。潰すなら攻撃部隊の方が華があるというわけ。

 ようやく笑いが収まって顔を上げると、端的に言ってカオスだった。赤羽とか生徒の頭わざと狙って移動してるだろ。ま、今はそれも合法なんだがな。

 だが、この状況でもさすがは浅野といったところか。突出した生徒を呼び止めて、守備が手薄になりすぎないように冷静に状況を見極めている。

 

「っ、……!」

 

 じっと注視していると、ハッと目を見開いた浅野が、一瞬だけ俺の方を見た気がした。それも一瞬で、すぐに外野の混戦地帯に真剣な視線を向けたが、今はちょっとタイミング悪いなぁ。けど、そろそろ席を離れなくちゃいけない理由があるんだよな。

 

「さて、そろそろ出番かな」

 

「にゅ? どこへ行くんですか?」

 

「ちょっと“お兄ちゃんの献身的なサポート”をしにですよ」

 

 なぜかみかんを剥きながら訪ねてくる殺せんせーに少し口角を吊り上げながら返して、俺は気配を完全に絶った。

 

 

 

 人間というのはどうしても自分の前をしっかり守ろうとする傾向にある。古代重装歩兵が側面や後方からの騎兵の攻撃にはめっぽう弱かったことからもこの心理は証明されるだろう。盾だって基本的に前方を守るためのものだし、剣道の防具なんて背中ががら空きだ。そもそも戦闘とは正面向かってやることが基本であり、側面や後方を取られたらその時点で負けも同然なのである。

 

『なっ、ちょっ……どこから湧いた!? いつの間にかA組の棒にE組の二人が!』

 

 必要なものを取りに行って戻ってきた頃、そんな実況が聞こえてきた。最初に観客席まで“吹き飛ばされる演技”をした吉田と村松がA組後方の観客席から飛び出したのだ。いかな浅野と言えども、前方で激しい鬼ごっこが展開されて、しかも目の前に全戦力がいると思っていれば、後ろは警戒しない。受け身は烏間さんから嫌というほど教わっているし、怪我の心配はないだろう。

 

「逃げるのは終わりだ! 全員“音速”!」

 

 そしてそれを機に、逃げ回っていた六人が一気にA組の防御陣に距離を詰める。作戦名“音速飛行”。防戦一方だったはずのE組が一気にその戦力の半分を棒に張り付かせた。浅野のいる棒の中ほどの高さに八人。一言で表すなら、ほぼチェックメイトといった状況だ。

 ……普通なら。

 

「君たちごときが僕と同じステージに立つ。……蹴り落とされる覚悟はできているんだろうね」

 

 棒の最上部に居座りながらラスボスのような威圧感を放つ浅野は、吉田を軽く投げ飛ばし、岡島を蹴飛ばして棒から突き放すと、バランスを維持しながら取り付いているE組の排除を始める。多少大きな動きをしても、サンヒョクとか言う韓国人ががっしり支えているから大丈夫ということなのだろう。

 ……やっぱり、早く作業を済ませないとな。

 俺が来たのはさっき磯貝たちが暴れたのとは反対の観客席。その観客席の少し手前に竹林と奥田の合作である小さな豆粒大の秘密兵器をばら撒く。地面に着地したそれに瓶に入った無色透明の液体をまぶし、E組の観客席に戻ってステルスを解除した。

 

「どこ行ってたの、はっちゃん! 今すごいピンチだよ!」

 

「うん、詰みかけてる。散り散りになってたA組が戻ってきたら、リンチになるよ」

 

「落ち着けって。……まあ、浅野が武術までできるのは予想外だったけどな」

 

 倉橋と速水を手で制して、磯貝たちの方――ではなく、さっき準備した観客席に視線を投げる。

 そして、ちょうど磯貝が浅野に振り落とされたタイミングで――

 ――パパパパパパパッ。

 

「きゃっ」

 

「うわっ!?」

 

「な、なんだ!?」

 

 軽いマシンガンをぶっ放したような音が響く。単一なら一瞬驚く程度のそれは、連続で鳴り響くことで、しかも自分たちの真後ろで炸裂することであっさりと冷静さを奪ってしまう。

 その結果、さっきとは逆に今度は生徒たちが前方、つまりフィールドに流れ込んだ。

 

「比企谷君……なにやったの?」

 

 やはり浅野に勘付かれる可能性を警戒して、できるだけ無表情のまま視線をフィールドに戻す俺に、口元を引くつかせながら不破が訪ねてくる。俺の仕業確定なのね、まあそうだけど。

 

「爆弾。と言っても爆竹みたいなやつだけど」

 

 竹林が作った水で爆発する純マグネシウムを基礎とする爆弾の周りに過酸化水素は通さずに水だけを通す極薄フィルムをカタラーゼを表面に付着させた状態で貼り、過酸化水素をまぶして放置したのだ。カタラーゼに反応して過酸化水素は酸素と水になり、生成された水がフィルムから侵入。純マグネシウムと反応して爆発した。調整して実質音だけが鳴るようにしたし、爆発時の匂いも極力抑えている。フィルムも粉々になって視認できないレベルになるし、そもそも生徒が食べ散らかしたスナック菓子の袋なんかに紛れれば怪しまれない。分解されなかった過酸化水素も放っておけば自然分解されて消えてなくなる寸法だ。

 

「あ、それって……」

 

「……この間作ったやつか」

 

 化学薬品と火薬を使うということで、竹林と一緒に烏間さんと奥田にも協力してもらった。調整による安全性は烏間さんからのお墨付きだ。

 

「そういうのなら、私たちだって手伝えたのに……」

 

「いや、お前らはむしろここに全員ずっといることが重要なんだよ」

 

 本来のE組の人間が誰か一瞬でもいなくなれば、たとえ証拠がなくても難癖をつけられるだろう。だからこそ「全員仲良く観戦してました」という事実を用意しておく必要があったのだ。体育祭の最初の頃こそ俺に視線を向ける人間もいたが、体育祭も佳境でしかもメインイベント中に部外者なんて気にしている余裕はない。

 

「証拠が立証不可能なら、問題は問題として表面化しないんだよ」

 

「……うわぁ、悪い顔してる」

 

 おい倉橋、もうカマクラの相手させねえぞ。俺が逆にカマクラから攻撃されそう。

 

『選手以外の生徒の皆さん、落ち着いてください! 観客席に戻って……ああ、なんだよこれ!』

 

 爆竹の効果は絶大だったようで、パニックになった生徒たちが、学校指定の半そで体育服にヘッドギアをつけていないE組選手とほとんど変わらない格好の生徒たちがフィールドに出現する。A組は、即座にE組を判別できなくなる。

 そして、混乱はさらに混乱を招く。不測の、本来競技中にはありえない事態に、普通の中学生であるA組生徒たちも浅野の指揮やカリスマに関係なく困惑する。困惑すれば浮足立って、自分の仕事が疎かになる。防衛に戻ろうとした選手も足が止まり、棒を支えている生徒も警戒することを忘れる。

 

「なにが……うおっ!?」

 

「わっ、いつの間に足元に!?」

 

「ちぇ、女子の足じゃないのが残念だぜ」

 

 後は支えの一角をさっき突き飛ばされた岡島あたりが崩せば――

 

「油断するな! 立て直しに入って奇襲に警戒するんだ!」

 

 棒のてっぺんで暴れていた浅野は元の位置、中ほどのところにバランスを取るために戻らなくてはいけなくなり。

 

「浅野クン、かーくほ」

 

「くっ、赤羽……!」

 

 降りてくる間のわずかに無防備になった隙を赤羽が逃さない。烏間さんから盗んだ格闘技術で駆使しながら、振り落とされないように足をつかんで自由を制限する。

 これで、機は熟した。やはりトドメの鍵はあいつだ。

 

「こい、イトナ!」

 

 振り落とされた後、棒に再び取りつかずに待機していた磯貝の声に、堀部が自陣から飛び出す。スピードを緩めることなく人の隙間を縫って、磯貝の身体の前で組まれた手のひらに足をかけた。

 

「よっ……と!」

 

 ピン、と張った腕を背中を反らしながらリーダーが振り上げて――E組の中でも小柄な堀部の身体は宙高く舞い、勢いを殺すことなく棒の頂点に飛びついた。

 いくらごつい外国人が支えているとしても、もっとも力が伝わる位置からの攻撃に耐えられるはずもなく。

 ――ズシン、とA組の砦はその側面を地につけたのだった。

 

 

     ***

 

 

 次の日、図書館に入荷された新刊を読んでいると、さも当然のように向かいの席に浅野が座ってきた。なんでそんなナチュラルに座ってくるのん? いや、別にいいけどさ。

 

「……比企谷さん」

 

「なんだ?」

 

「あの時、なにかやりましたよね?」

 

「…………」

 

 俺は本から顔を上げない。言葉尻にはあまり棘があるようには感じないが、どこか確信めいた言い方だ。

 

「……証拠はあるのか?」

 

「得てして犯人とはそう言うんです。『証拠はどこにあるんだ』『素晴らしい想像力だ。君は小説家にでもなるといい』『俺、この戦いが終わったら結婚するんだ』」

 

「お前、そんなギャグ言うタイプだったか?」

 

 最後のはもうただの死亡フラグなんだが、と顔を上げると……どこか自嘲気味に笑う浅野が適当に取ってきたらしい本をパラパラとめくっていた。

 

「まあ、証拠なんてないんですけどね」

 

 そりゃあそうだ。証拠が一切残らないようにしたのだから。

 

「そういえば、この間比企谷さんが言ったこと、思い出しましたよ」

 

「それは……ちょっとばかし遅かったな」

 

 きっと気が付いたのは棒倒しの最中、磯貝たちが観客席に乱入して、競技が異形のものになったあたりだろう。あの時、俺を見た浅野の目は何かを確認するようなものだったのを覚えている。

 

「『ゴールが違えば強者も弱者も関係ない』。もっと早く気づいていたら、勝てたんでしょうね」

 

「そりゃあな」

 

 あの戦力差で一気に攻められたら、きっと何もできずに瞬殺だっただろう。伏兵を用意できる実際の戦争とは違って、最初から戦力をすべて見せているのだし、E組攻撃部隊が先行したときにわざわざ挟み撃ちなんて面倒な真似も必要なかっただろう。

 

「ま、いい経験になったんじゃねえの? しょせん中学生の勝負事だし、次に活かせばいいだろ」

 

「ダメですよ!」

 

「っ!?」

 

 いきなり声を荒げた浅野に、図書館中の視線が集中する。俺自身、一瞬身体を強張らせて警戒してしまった。自分に集まる視線に気づいた浅野は、作り笑いを浮かべて周囲の生徒たちに軽く弁解する。持前のカリスマで、すぐに視線は散り散りになって、霧散した。

 

「僕に敗北は許されません。僕は全てにおいて完璧でなくてはならないんですから」

 

 その目に映っているのは、怯え、だろうか。絶対の自信と能力を持っているこいつが怯える相手……俺には、それが一人しか思い浮かばなかった。

 瞳の中のそれを見せないように瞼を伏せた浅野は「じゃあ、今日はこれで」と図書館を後にする。呼び止めようと開いた口を、ゆっくりと閉じて、開きっぱなしだった本に目線を落とす。

 E組のあいつらにとっては倒すべき敵、なのは分かっているが。

 きっと皆の期待の的なあいつだって、心を鎖で縛られている。

 

「……なんとかならないもんかね」

 

 そう思うと、どうしてもその言葉が口から溢れ出してしまうのを抑えられなかった。




体育祭回終わりです。最初はあまり変えずに行こうかと思ったんですが、参謀って言っちゃったし、少しは八幡の独自戦略入れたいなぁと。ついでに原作生徒会選挙のオマージュとかちょっと入れたいなぁなんて考えて書きました。

そうそう、実は昨日の地震で今福岡に釘づけにされています。この話はネカフェでふてくされながら書いてました。
明日には家族に迎えに来てもらって帰る予定なのですが、なんか車に六時間ほど揺られるみたいなので明日はほぼ確実に投稿できないと思います。投稿できたらしますが期待しないでください。

あと、今日は4/16です。一色の誕生日です。おめでとういろはす。私は昨日から横になったらなんか揺れてる錯覚に陥っていてあんまり寝れていないので、一色の膝枕で寝たいと割と本気で思っています。
そして、そういえば膝枕の話って前書いたなと思ったら八幡が一色にしてました。なんで逆で書いたんだ。いやいいけど。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

それでも俺はやっていない

 季節も十月になると一気に夏の名残が消え去る。半袖では身体が熱を求めて震えるようになり、夜の訪れがぐっと早くなるように感じてしまうのは、果たして気のせいだろうか。

 さすがに電車で帰ってそれからジョギングという今までのルーチンワークでは、とっぷりと暗い闇夜の中を走ることになってしまう。ステルスできる上にさらに人目に付きにくい夜にジョギングしてたら、うっかり轢かれかねない。……自分で言っててなんだが、その冗談はシャレにならんな。

 早朝に走るのも手なのだが、早起きめんどくさいからとやっぱり走るのは放課後になってしまう。そこで、数日前から学校の近くを走って帰宅するという生活習慣に変更することにした。もちろんサボリ防止とルート指定のためにモバイル律は欠かせない。うちのクラスメイトが万能すぎる件について。貧乏委員長とは別の方向で。

 

「八幡さん、そろそろ折り返し地点になります。駅近くの小道を通るルートを案内しますね」

 

 イヤホンから流れる律のアナウンスに従って足を進める。帰宅中の椚ヶ丘学園生を含めた学生や早めの退勤らしいサラリーマンたちが行き来する駅前を通り抜けて、脇の小道入った。ほぼ毎日ジョギングを繰り返しているが、飽きさせないようにするためなのか毎回律が違うルートを案内するのだ。特に椚ヶ丘はなんだかんだ網羅しているわけではないので、新しい発見もあって結構楽しい。なんかこんなこと言ってると俺がアウトドア派になったみたいだ。ジョギングと買い物以外ほとんど出かけないというのに。

 駅の先、少し入り組んだ住宅街を抜けていく。このまま走り続けていけば本校舎の正門が見えてくるのだが――

 

「……ひっく、…………ぇ……」

 

 風に乗ってかすかに聞こえてきたなにかに思わず足を止めた。周囲を見渡してみるが、特に何も見当たらない。

 

「……なんか聞こえたよな」

 

「はい。極々小さなものでしたが、誰かしらの声が聞こえました」

 

 よかった、律が聞こえているってことは心霊現象とかじゃないんですね。直前の文だけ見たらただのホラーだったから、ちょっと心配になっちゃった。直前の文とかメタい。

 

「ふぇ……、っ…………うぅ……」

 

 なおも聞こえてくる声。高さからして女の子のようだ。もう一度周囲を見渡して意識を集中させたところ、音源は俺たちの前方にある横道から聞こえてきているようだった。少し足音を忍ばせてゆっくりと近づき、恐る恐る顔を覗かせてみる。

 

「うぅ……ぐずっ……、えん、ちょ……せんせ…………ぇ」

 

 横道に逸れてすぐの電柱の脇。影になっているそこには予想通りというべきか、うずくまって泣いている女の子がいた。歳は小学校に上がっているかどうかくらいだろうか。肩くらいまでの髪の一房をクリーム色のボールヘアゴムでサイドに結んでいる。

 

「迷子……でしょうか?」

 

 まあ、十中八九そんなところだろう。女の子は俺に気づいていないようで、時折鼻をすすりながら喉をひくつかせている。

 ……放っとくわけにはいかないよなぁ。

 しかし、相手は自分と十歳くらい違う年下だ。対人スキルのほとんどを妹で習得し、一つ年下の奴らと数ヶ月過ごしてきた俺だが、これだけ歳の離れた子の相手はしたことがないわけで、ある意味未知の生物と言っても過言ではない。

 やだなー、怖いなーなんて思っていても目の前の幼子が泣き止むわけもないので、とりあえず膝を折ってギリギリまで目線を落として声をかけることにした。俺がこの子を未知の生物と感じるように、この子も俺を未知の生物と感じるはずだ。しかも、自分よりもみつまわり――ひとまわり、ふたまわりの次って感じで使ってみたけど、絶対間違ってるなこれ――は大きい相手から見降ろされたら、こないだの体育祭でE組が戦った外国人部隊みたいな威圧感を与えてしまうはずだ。

 

「……どうしたんだ?」

 

 ビクッと、ぐずっていた女の子の肩が大きく震えた。恐る恐る上げた涙と鼻水で濡れた顔は少しだけおびえているように見えた。

 

「ぶっきらぼうすぎますよ……。それじゃあ、おびえられて当然です」

 

 ですよね。ほら、俺の対人スキルがゴミクズなのは今に始まったことじゃないから……。

 イヤホン越しにため息を吐かれてしまったが、幸い壊滅的におびえさせてしまったわけではないようで、女の子は目元を手の甲で拭うと、俺の顔をじっと見返してきた。

 

「……ナナ、まいごなの……」

 

 どうやら“ナナ”というらしい少女は、やはりというか迷子になってしまったらしい。最初は親とはぐれたのかと思ったが、時々出てくる「えんちょうせんせい」という言葉で幼稚園か保育園あたりからここまで迷い込んでしまったことが想像できた。

 つまり、送り届けるならその施設になるわけだが――

 

「えんちょ、せんせぇ……きっとおこる……びぇ……」

 

 そこまで送ろうかと提案すると、またぐずりだしてしまった。園長先生怖いの? 組長とかよく尻を出す園児から呼ばれたりしてない? いや、単純に怒られるのが嫌なんだろうけど。

 はてさて、まずはなんとか泣き止ませなければ、送ろうにも俺が近所の奥様方に通報される運命しか見えない。下手したら現在進行形で通報されてるかも……世間ってせちがれぇ。

 どうしたものかと周囲に視線を巡らせる。しかし、あいにく俺には小さな子が喜びそうなものは思い浮かば……。

 

「あっ」

 

 見つけたのは民家の庭先に落ちていた小さな黒い塊。縦長のそれを拾い上げてみると、やはり椿の種だ。どうやら生垣から落ちたものらしい。

 

「何をするんですか?」

 

「ま、見てろって」

 

 いくつか拾ったうちの一つの付け根部分をアスファルトでこする。これ、思いの外力必要なんだよな。ガリガリ。

 ある程度削ると種の表面が削れて小さな穴が開く。落ちていた細めの棒を穴の中に突っ込み、中をほじくりだすと、少し脂っぽい中身が出てきた。

 

「こんなもんかな?」

 

 あらかた中身をほじくりだした平べったい種皮に口を近づけて、勢いよくふーっと息を吹き込むと。

 ――ピーー。

 少し安定しない気がするが、高めの笛のような音が鳴った。椿笛とか呼ばれたりするものだ。原理的にはビン笛なんかと同じだろう。

 そしてこういう、大人になるにつれて「くだらない」と思うようになる遊びは、こと子供が興味を持つものなのだ。

 

「なにいまの! なになに!?」

 

 さっきまでの泣き顔はどこに行ったのか。興味津々な目をクリクリと輝かせて、ナナは俺の手元を見つめてくる。

 試しにもう一度鳴らしてみた。

 ――ピーッ。

 

「おー! すごいすごい! ナナもやりたい!」

 

「じゃあ、作ってみるか?」

 

「うん!」

 

 拾っていた椿の種を一つ渡すと、アスファルトに種を擦りだす。どうやらさっきの俺の手順をしっかり見ていたらしい。

 

「……よくそんなの知ってましたね」

 

「昔っから一人遊びするしかやることなかったからな。やれそうなのはなんでもやったんだよ」

 

 椿笛に関しては図書室にあった本で見つけたんだったかな? 草花遊びとかそんな本だった気がする。

 削っては穴が開いたか何度も確認しているナナを眺めながら、時折手元で転がしていた椿笛を吹いてみる。そのたびにバッとこっちを見るのが割と面白い。なんだそれかわいいなお前。

 

「んしょっ……しょっ……!」

 

 ようやく空いた穴に俺が使った棒を入れて、少しずつ中身を掻き出していく。ただ、この作業びっくりするほどめんどくさいのが難点で。

 

「むぅ……できた!」

 

 途中で放棄しちまうのも仕方ないよなぁ。

 掻き出し用に使っていた棒を放り投げたナナはふーっと穴に息を吹き込む。するとプーっと小さな音が聞こえてきた。首を傾げてもう一回吹くが、やっぱり音が小さい。

 

「貸してみ?」

 

「ん?」

 

 ナナから出来損ないの椿笛を受け取って、もう少し中身をほじくり出す。心なしか自分のより丁寧に取り出してしまった。中身を出し切った種をもう一度渡すと、それと俺を二回ほど交互に見つめて、ふーっと息を吹き込んだ。

 ――ピーッ。

 

「わあっ!」

 

 パアッと表情を輝かせて何回も吹いて見せる。綺麗に取り出した分中が広いせいか、俺のよりも少し低めの笛の音が人通りのない静かな住宅街に響いた。

 

「えへへ、ありがと! えっと……」

 

 親御さんのしつけがしっかりしているのかぺこりとお辞儀をしてお礼を言うナナは、むむぅと首を傾げた。何を悩んでいるのか俺も首を傾げて。

 

「そういえば八幡さん、まだ名前名乗ってませんよ?」

 

 ああ、なるほど。さすが頼りになるな、律。そっか、もう名乗ったもんだと思ってたわ。

 

「俺の名前な、八幡って言うんだ」

 

「はち、まん……? はちまん! ありがと、はちまん!」

 

 俺の名前が分かると、もう一度ぺこりと頭を下げた。下げすぎて膝に頭がくっつきそうになっているのはギャグでやっているのかな? いるよね、一つ一つの動きがオーバーな子供。ちなみに俺はこういう時、「ども」って呟いて十度くらい頭を下げるだけだった気がする。やだ、八幡君ガキの頃からちょっとうぜえ。

 さて、どうやら完全に泣き止んだようだし、なんだかんだオレンジ色の空に群青色が溶けだしてきた。きっと施設の人も心配しているだろうから、そろそろこの子を帰さないとな。

 

「そろそろ帰るか、保育園の名前は分かるか?」

 

「……えんちょうせんせいに、おこられる……」

 

 そんなに怖いの、園長先生? やっぱり組長なの? パンチパーマにサングラスなの?

 

「大丈夫だって。……まあ、ちょっとは怒られるかもしれんが、そんときゃ俺も一緒にごめんなさいしてやるよ」

 

 ぽふぽふと頭を撫でてやると、少しの間唇と真一文字に引き結んだナナは「んっ」と頷いた。

 

「よし、じゃあ何て名前のとこなんだ?」

 

「わかばパーク!」

 

 

 

 調べてみると、駅からそこそこ距離があった。五歳らしいが、よくあそこまで一人で行けたな、ナナ。意外とバイタル高い説ある。

 と、思っていたのだが。

 

「はちまーん、あしつかれたぁ」

 

 早々に歩くことを放棄された。ほんとに君、どうやってあそこまで来たのん? 仕方がないので肩車をしてやると、打って変わってキャッキャと楽しそうに普段味わえない高さからの景色を楽しみだした。いや、別にいいけどね。

 

「たかーい!」

 

「あんま暴れんなよ、落ちるぞ」

 

「はーい」

 

 ケラケラ笑っている頭上から、時折ピーッと椿笛の音が聞こえてくる。

 

「そんなに気に入ったのか?」

 

「うん!」

 

 ただ興味を惹かせるためのネタだったが、思っていた以上に効果を発揮したようだ。グッジョブ、小学校の時の俺。

 

「お、見えてきたぞ」

 

 視線の先、「わかばパーク」と書かれた入口が見えてきた。その門のそばには、だいぶ歳のいってそうな老人がキョロキョロとあたりを見回している。

 

「あっ、えんちょうせんせー!」

 

 ふむ、あれが園長先生か。よかった、ヤクザではないようだ。

 ナナの声に反応した園長はこちらに振り向き、目を見開くとドタドタと駆けだしてきた。見た目によらずパワフルな人だな。

 

「お前か! 七海を攫った誘拐犯は!」

 

「……ですよねー」

 

 誠に遺憾であるが、むしろ今まで通報されずにここまで来られたことが奇跡だという自覚があるので、何とも言えない気分になってしまう。

 ただ、これだけは言わせてほしい。

 それでも僕はやっていない。

 

 

「いや、すまん。七海がいなくなったと聞いて、てっきり誘拐されたんじゃないかと思ってしまってな」

 

「まあ、心配していたのは分かるんで大丈夫ですよ」

 

 なんとか誤解を解いて肩からナナを下ろすと、園長の方に駆け寄っていく。ちなみに、七海というのはナナの本名のようだ。

 

「えんちょうせんせい……ごめんなさぃ……」

 

「ふう、次からは勝手に園の外に出るんじゃないぞ?」

 

「はーい!」

 

 クシャッと頭を撫でられて表情を緩ませたナナを見て、俺も少しホッとする。まあ、ちゃんと礼も言える子だし、園長の方もしっかり謝って余計に怒る人には見えなかったからな。

 

「それじゃあ、俺はこれで」

 

「はちまん、またね!」

 

 ブンブンと大きく手を振るナナに小さく手を挙げて返して、E組校舎に向けて走り出した。そろそろ完全に日が沈みそうだ。早く帰らないと小町に怒られてしまう。

 

「律、最短ルートで行きたいから、ナビよろしく」

 

「……わかりました」

 

 ん? なんでちょっと不機嫌そうな声出してんの?

 

「八幡さんって、そういうところずるいですよね」

 

「? 何が?」

 

 何がずるいのかわからず聞き返したが、当のナビ担当AI娘は「なんでもないで~す」と普通にナビゲーションをし出したので、結局俺の頭の上にはクエスチョンマークがいつまでも残ることになってしまったのだった。




そういえばこの話書きたいと思っていたので書いたのですが、書きあがってからこの話数話前に挿入するべきだったとちょっと後悔。けど、体育祭前だと椿笛のネタがギリギリなんですよね。むむむ……。

今日はもうガチでお休みする予定でしたが、家に無事帰りついた後になんか書けたので更新しました。更新ほぼできないとはなんだったのか。
まあ、来週も半分くらい県外で生活することが確定しているので、更新できないときはTwitterでお知らせします。
@elu_akatsuki
よろしければフォローしてください!

あ、あともう一つお知らせというか宣伝を。
まだ合否も出ていませんが、俺ガイルのSS書き手が集まった「やせん」というサークルで夏コミの参加を予定しています。俺ガイルの合同誌なのですが、一般とR-18で二冊出して、私はR-18組で参加します。(一般展開のこのSSでその宣伝ってのもあれですが、許して!)
甘い感じのお話でえっちいのを書こうと思っています。スペースは合否が出てから宣伝という形になると思いますが、落ちたら落ちたで別のサークルさんのスペースに置かせてもらう予定です。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

その力を間違うと、その優しさを間違うと

「さあさあ皆さん、二週間後には二学期の中間ですよ!」

 

 授業が開始すると同時に、クラス全員を取り囲むように無数の殺せんせーの顔が現れる。その額には英単語だったり元素記号だったりが表示されていた。ほんと、教育のためにそのマッハ二十の身体いかんなく利用してますね、先生。

 体育祭が終わったことで、次にE組に迫ってきているのは二学期中間試験だ。今度こそA組を超える気らしい殺せんせーの教育にも熱が入っている。

 

「熱く行きましょう、熱く。熱く!!」

 

 ……というか暑苦しい。全体を殺せんせーが覆っているせいか、物理的に暑いまである。まあ前回はいいところまで行ったからな。殺せんせー自身、次こそはと熱を滾らせていたのだろう。ただまじで暑苦しいから少しペースダウンして。

 

「比企谷君も、次はもっと上を目指してみましょう」

 

「……わかってますよ」

 

 やるからにはちゃんとやる。俺に努力の才能を説いた相手が言うのならなおのことだ。複数の顔で構成された穴抜けの数学問題に挑みながら、思考のギアを一段階引き上げた。

 

 

 

 期末のときもそうだったが、テスト前になると放課後の追加訓練は中止になる。なので基本的に生徒は終わると同時に帰ったり、各々勉強会をして過ごすわけだ。俺も帰宅したらすぐに自主学習に移るつもりなのだが、日課にしているジョギングくらいはしておくことにした。一回やめたらそのままズルズルサボりそうだからね。

 さっとジョギング用のジャージに着替えて走りに行こうかと思ったが、そういえば殺せんせーに質問したいところがあったと思い、ノートを持って職員室に向かうことにした。

 

「殺せんせー……なにやってんすか?」

 

 職員室の扉を開けると、なぜか烏間さんと殺せんせーがじゃれあっていた。防衛省の自衛官と地球破壊兵器の二人だが、なんだかんだ仲良くなってるんだなと思ったり。フリーランニングを使ったケイドロでも息ぴったりだったもんな。

 

「おや比企谷君。烏間先生が皆にプレゼントを考えているようでしてね。センスあふれる先生がアドバイスをしていたところなんですよ」

 

「黙れよ邪魔者め!」

 

 仲……いいよな? いいってことにしておこう、うん。

 それにしても、プレゼント? なぜこの時期にプレゼントという単語とは無縁そうな烏間さんがそんなことを……と思ったが、どうやらテスト後からまた訓練の厳しさが増すため、その報酬代わり、ということらしい。報酬って言うとすっごいしっくりくる。不思議!

 

「報酬ってなにくれるんです? 金?」

 

「あんた……プレゼントに関する考え方かわいげないわね」

 

 もちろん冗談ですよ、イリーナ先生。あ、当然キスがプレゼントとかもノーサンキューなんで。そういうのは烏間さんにでも取っておいてください。

 

「今の君たちの役に絶対立つものだ。期待しておくといい」

 

 自信満々に答えてパソコンを引き寄せた烏間さんの言葉に、いかな俺でも少し期待してしまう。たぶん暗殺に関わるものだろうが、むしろ俺たちとこの人の関係を考えれば、それは十分うれしいものに違いなかった。

 

「あ、そうだ。殺せんせー、ここの問題なんですが」

 

「やっぱりこの問題は聞きに来ましたか。少し捻った問題ですから、最初は難しいでしょう」

 

 引っかかることまで想定済みだった。ほんと生徒のことしっかり見てますね。

 

「今日は君とカルマ君以外、どこか集中力に欠けていましたからねぇ。先生もちょっと二人に注力してしまいました」

 

「……あぁ」

 

 生徒のことしっかり見ていたなら気づくのは当たり前か。

 確かに今日のあいつらはどこか集中しきれていないように見えた。いや、多分正確に言うなら数日前からそんな調子だったのだろう。磯貝のバイトを賭けた体育祭が終わって、その後すぐにテスト勉強。普通の中学生なら比較的普通なスケジュールだが。

 地球が破壊されるまで後五ヶ月。

 それなのに夏休みの暗殺以降、めぼしい結果を出せていない。それでも刻一刻と近づいてくる期限の中でやっているのは学校の勉強。焦りを感じない方が無理というものだろう。

 

「……原因になってるターゲットから言われた日には、あいつらも憤慨必死でしょうね」

 

「そうですねぇ。先生としては、勉強も立派な訓練なんですがね」

 

 練習したことが目的以外で役に立つことはよくある。体育祭で古代の歴史に残る戦術を借りたように、ただ机に座って行う勉強も暗殺の助けになる可能性はあるということか。

 

「しかし、それを先生が言っても納得はできないかもしれませんねぇ。なにせ、殺されるつもりはないんですから」

 

 ヌルフフフと笑う担任教師を見ると、こちらは大きくため息を吐くしかなかった。その態度が余計に焦らせてんだろうな。

 ふと校門が見える方の窓から見えたクラスメイト達の背中。それの向かう方向に思わず出そうになった声を飲み込んだ。

 

「…………ま、うちの担任はこういう時使い物にならないんで」

 

「にゅや!? なんでいきなり先生Disられたんですか!?」

 

「いえ、ムカついたからなんとなく」

 

 これから走るので、質問の解説は明日にしてほしいと伝えて、職員室を後にした。そのまま下駄箱に直行して、ノートも一緒に上履きを放り込むと、ランニングシューズに履き替える。

 普段はするストレッチもせずに追いかけるのは、さっき見かけたクラスメイト達の背中。いつものように最低限の舗装をされた坂道ではなく、脇の林の方に入っていったのを見かけたのだ。

 さっきの集中力を欠いていた理由に、いつもとは違う行動。

 なにか……胸騒ぎがした。

 道なんてない、ただ木々と草花だけが生えている林を抜けていく。この先には特に何もなかったはずなのだが……。

 山の端に近づくにつれて急になる傾斜を駆け抜けると、木々がなくなり視界が開ける。すぐ近くに民家の屋根がある坂の近くには神崎や原たちがいて――

 

「なっ……!」

 

 その先の民家の屋根の上、数軒先を他の奴らが飛び跳ね走っていた。フリーランニングで駅を目指して駅の方角に向かっている。

 

「何やってんだ!」

 

「えっ、はっちゃん!?」

 

 残っていた倉橋に駆けよると、皆勉強に集中してていいのかと焦っていたこと、帰宅と訓練を両立するための帰宅ルートを岡島が開拓したことを教えてくれた。思わず漏れた舌打ちに残っていた奴らの肩が震えるが、気にしてはいられない。

 

「けど、勉強と暗殺、二本の刃を同時に磨けるよ? 殺せんせーだってきっと……」

 

「それ以前にその殺せんせーを殺すために訓練を受けている俺たちのことは国家機密だ!」

 

「「「「っ!」」」」

 

 街中で中学生がフリーランニングなんてしていれば必ず周囲の目につく。今は全員椚ヶ丘の制服に身を包んでいるのだから学校だって特定される。巷で話題になれば……下手すれば超生物の存在を公に晒してしまうことになりかねない。

 

「それに……」

 

「比企谷君!」

 

 言い切る前に坂を下りて一番近い屋根に飛び乗る。道路を無視した最短ルートを進むあいつらに追いつくには、どうしてもこちらもフリーランニングを使うしかない。イヤホンを耳につけて、律にあいつら以上の最短ルートをナビゲートさせる。

 それに……事故が起こってからでは遅い。

 事故なんてものは起こらないときは起こらないし、起こるときはどんなに警戒していても起こる。

 けれど、結局のところ事故というやつは油断しているときには決まって起こるものなのだ。油断していた飼い主の持っていたリードが切れて、最低限の警戒はしていたはずの車の前に犬が飛び出したように。そこに完全に油断も警戒もなく反射的に飛び込んだ俺が結果的に轢かれてしまったように。

 

「律! もっと近いルートはないのか!」

 

「無理ですよ! 岡島さんたちもほぼ最短ルートで進んでいるんですから!」

 

 一緒に烏間さんの訓練を受けてきた奴らだ。こっちも全力で駆けているが、なかなか差は縮まらない。それどころか木村や岡野のような高機動組には離されてしまっている。律を通して全員に止まるように連絡を取ろうかとも思ったが、基本的な動きしかしていないとはいえやっているのは高度な技術だ。下手に止めればそれだけで事故になりかねない。

 最初に比べて倍近い差が開いていた先頭の岡島と木村の影が民家の下に降りるのが見えて――

 ――ガシャァッ!!

 

「っ……!」

 

 聞こえてきた何かが無理に倒れるような音に、思わず足が止まる。それと同時に思考も止まってしまった。頭の中が真っ白になってしまった。

 起こるときは警戒していても事故は起こる。油断していれば決まって事故は起こるもの。自分で言った言葉に、学術的な証明は存在しない。

 けれど……悪い予感は往々にして当たるものだと、俺は経験から知っていた。知っていたのに……。

 

「八幡さん!」

 

「っ……ああ」

 

 誰も見ていないことを確認して道路に降り立ち、さっき音がした地点へと向かう。直線よりもどうしても長くなってしまう移動距離にイラつきながらついた先には――

 

「「「「…………」」」」

 

 呆然と立ち尽くす木村たちと――

 

「う……ぐぅ……っ」

 

 自転車が倒れ、トイレットペーパーや洗剤なんかが散乱した地面に、わかばパークの園長が足を押さえてうずくまってうめいていた。

 

 

     ***

 

 

「右大腿骨の亀裂骨折のようだ。君たちに驚きバランスを崩した拍子にヒビが入ったらしい」

 

 園長が入院した病院の裏口に待機していた俺たちに、中から出てきた烏間さんが説明してくれた。怪我の程度は軽いようで、二週間もすれば歩けるとのことらしい。……それに対して、ホッとするべきなのかは分からないが。

 やはり俺たちの訓練は国家機密だ。ことを表沙汰にしないよう、烏間さんの部下である園川さんが示談と口止めの説得をしてくれているらしい。ただ、状況は芳しくないようだ。

 

「「「「…………」」」」

 

 全員、なにも言葉を発することなく自分の足先をじっと見つめている。俺も、小さく唇を噛んで俯くことしかできなかった。

 そして、その重苦しい空気を一緒くたに飲み込むように――震えるような殺気に周囲が塗りつぶされる。

 

「こ……」

 

「殺せんせー……」

 

 その名前を発したのは誰だったか。目の前の担任教師は額に黄色い筋を立てながら、顔全体を真っ黒に染めていた。一度だけ、初めて堀部の触手を見たときに見たことのあるその顔色で、爆発したような殺気をまとわせた超生物は何も言わずにゆっくりと近づいてくる。

 

「だ、だってまさか、あんな小道に荷物いっぱいのチャリに乗ったじいさんがいるとは思わねえだろ!」

 

 岡島の言い分に俯きながらも何人かが同調する。

 

「確かに、悪いことしちゃったとは思うけど……」

 

「自分の力を磨くためにやってたんだし……」

 

 矢田と中村の言葉に、ぐっと息を飲み込む。こいつらは自分たちで気付いているのだろうか。だってその言い方は……。

 いや、今はそれよりも、担任の怒りを鎮めることが先決だ。

 

「……殺せんせー」

 

「…………なんですか、比企谷君?」

 

 なにか言おうとする寺坂を制して前に出た俺に、殺せんせーは視線を投げてくる。間近で感じる強烈な殺気に、知らず背筋が固まった。

 

「今回の件は……俺の責任です」

 

「比企谷!?」

 

「ほう、それはどういうことでしょうか?」

 

 増したような気がする殺気に口に溜まった唾をぐっと飲み込む。震えそうな膝に力を込めて、無理やり震えを抑え込んだ。

 

「暗殺期限は刻一刻と近づいてきています。その中で、皆が焦っていたのにも気づいていた。それがターゲットである殺せんせーは解消できない焦りだってことにも気づいていた。……俺は、この中で一番年上です。こいつらの“兄”と名乗った以上、俺がもっと早く動いていればこんなことにはならなかったかもしれません」

 

 たとえ、本格的にこいつらが焦りを感じていることに気づいたのが今日だとしても。これは早い遅いの問題ではなかった。お兄ちゃんである以上、一番近い俺がなんとかするべきだった。

 

「だから、今回の全責任は俺が――ッ」

 

 それ以上は、発言を続けることができなかった。ビッと空気を切るような音がすぐ近くで聞こえてきて、音に遅れるように右頬がヒリヒリと痛んだ。それが触手で叩かれた結果だと気づいた時には、殺せんせーは俺の脇を通り過ぎて後ろの皆の頬も同じように叩いた。

 

「……生徒への危害と報告しますか、烏間先生?」

 

 確認を取る殺せんせーに、烏間さんは少し考えて、首を横に振る。今回だけは見なかったことにすると。

 

「……君たちは、強くなりすぎたのかもしれない」

 

 多くの力を身につけ、その力に、その力で他者に対して優位に立つことに酔い、地球のため、それを守る自分のためと弱者の立場に立って考えることを忘れてしまった。さっきの岡島たちの言い訳がいい例だ。

 そんなのでは、E組を不当に蔑む本校舎の生徒たちと何も変わらない。

 そんな力の使い方は間違っている。それが自覚できているからか、誰も反論を口にはしなかった。

 

「そして比企谷君。今回君も間違いを犯しました」

 

 少しずつ顔の色を黒から元の黄色に戻している担任教師は、俺に向き直って、いつもより少し低い声をかけてくる。

 

「君のその、誰にでも優しく、仲間には無償で最大限の保護を与えようとする性格は美徳です。しかし、いくら美徳だからと言って、君が全責任を負う理由にも、まして人が当然負うべき責任を奪い取る理由にもなりません」

 

 中学生なら、もう十分に事の分別をつけることのできる大人だ。自分の責任は自分で負うものなのだ、と。

 

「君のその優しさは、使い方を間違えば反省の場を奪います。成長のタイミングを見失わせてしまうのです。……わかりましたね?」

 

「…………はい」

 

 紛れもない正論だ。俺は、ただ今回の件を収束させようとして、事実を捻じ曲げようとしただけだったのだ。両肩に触手を乗せられて、俺が発することができたのは、その一言だけだった。

 小さく頷いて再び顔を上げた俺に、元の黄色い顔に戻った担任教師も一つ頷くと、「話は変わりますが」と皆の方に向き直った。

 

「今日からテスト当日までの二週間、クラス全員のテスト勉強を禁止します」

 

「「「「!?」」」」

 

 取り出したテキストを破り捨てながらの殺せんせーの発言に、皆口を開けて驚愕する。ちらっと「それが、罰ですか?」と呟いた片岡に、担任教師はゆっくりと首を横に振って否定した。

 

「罰ではありません。テストより優先すべき勉強をするだけです」




☆祝☆お気に入り2000件突破!!  イエーイ☆-(ノ゚Д゚)八(゚Д゚ )ノイエーイ☆
ダラダラ書いてきた本シリーズも気づけばこんなにたくさんの人のお気に入りにしてもらったようで、うれしい限りです。昼間に見たときは1999件で、10分くらい何度も更新してしまってました。
UAも20万が見えてきてワクワクです。

というわけで今回は原作わかばパーク編でした。ぼーっと適当にまとめていたスケジュールを眺めていたら体育祭の後にすぐわかばパークだったので、ナナはもうちょっと前に出しとくべきだったなーと後悔したわけです。別のオリジナル回と入れ替えて書くべきだったと……うーむ。
で、このタイミングで原作八幡の他人のために自分を切り捨てようとする部分をそろそろ完全に回収して手入れしようかなとも思いました。文化祭、修学旅行、生徒会選挙のときの八幡はこういう部分が起因してるんじゃないかと。数回しかあったことのない一色や最初から奉仕部のメンツを見下していた相模に対してもあの行動って言うのは、やっぱりどうしようもなく優しくて、どうしようもなく残酷なんだろうなと思っているので、割と題材にしようと思うことが多いです。そこが八幡らしさの一つであって、かつ八幡が間違える理由の一つでもあると思っています。

そういえば、現在も熊本や大分の方では余震が続いているようです。私の住んでいるところは速報などでは震度表示は出ないのですが、時々微かに揺れを感じることがあります。九州周辺の皆さんも気を付けてください。ただ、あんまり気を張りすぎると私のように寝不足になると思うので、SSとか読んだりして適度にリラックスしてくださいね。

あと、明日からまた数日県外に移動します。スマホなどで書きはしますが、投稿できなさそうなときはTwitterで呟くので、よかったらフォローしてください。
@elu_akatsuki
(なんか毎回あとがきでTwitter告知するのもどうなんだろ。もうちょっとしたら県外に飛び回る生活も落ち着くと思うんですが)
夕方とかに「投稿できなさそう」って呟いても、間に合って投稿することがよくあるので、あくまで「ああ、今日は筆の進みちょっと遅いんだな」みたいな確認程度に見ていただければ。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

きっと少しずつ変わることができるから

「君たちは彼が退院するまでの二週間、経営されている保育施設をクラス全員で完璧に手伝いなさい」

 

 国家機密である自身の姿を見せてまで園長――松方さんと言うらしい――と交渉を行った殺せんせーが提示してきた過失責任がそれだった。園長が退院してわかばパークに戻ってきた時点で損害に見合うだけの働きをしたと判断すれば、今回のことを公表はしないということらしい。

 入院費は仕方ないとして、それ以外の支払うことのできる責任は自分たちで支払うべき。プロの殺し屋である以上、俺たちは責任を持つ一人前の人間だから。

 その場にいた全員がその条件に同意し、フリーランニング下校に参加しなかった生徒も連帯責任で手伝いに参加することが決まって皆が病院を後にした後、俺は……。

 

「病室に花撒き散らすとか、衛生面考えてくださいよ……」

 

「にゅぅ、申し訳ない。先生なりに精いっぱいの誠意を見せたかったのです……」

 

 殺せんせーと園川さんと一緒に病室の掃除をしていた。謝罪の時に触手生物が大量に用意したようで、花の匂いが結構キツい。怪我人がいるということで、殺せんせーもマッハ二十での回収は控えてもらった。

 

「それにしても、お前さんもこんな怪物の生徒だったとはな」

 

「まあ、いろいろあって成り行きで」

 

 さすがに国家機密がミスって一般人に見つかった結果とか本当のことを言えるはずもなく……いや殺せんせー、言わないからそんな汗だらだら流さんでもいいっすよ。

 散乱した花を拾い集めて立ち上がると、ちょうど窓から帰宅していくクラスメイト達の影が見えた。やはり引きずっているのか、その肩は総じて落とされていて、足取りもどこか重い。

 

「…………」

 

 俺がやろうとしたことが間違っていたという自覚はもちろんある。頭では分かっている。けれど、やっぱりあの後姿を見てしまうと、俺が何とかするべきだったんじゃないかという考えを拭い去ることはできなかった。

 

「……なるほどな。『生徒を健全に育てるため』か」

 

「え?」

 

 ぼそりと呟かれた声に振り返ると、ベッドにボフッと身体を預けた園長が深く息をついているのがいるのが目に入った。視線でなんのことかと訴えかけてみるが、なんでもないと言うように首を横に振るだけだ。殺せんせーを見てもいつものようにヌルフフフと笑っているだけで……どうやら自分で考えろということらしい。

 むぅ、担任がそういう方針なら、俺はひたすら考えるしかないではないか。

 

「しかし、ワシのところは大変だぞ。保育所から学童保育まで手広くやっとる。お前さんたちにつとまればいいがな」

 

「それは……」

 

 ここで安請け合いの言葉なんて出すべきではない。安易な「できる」は誰のためにもならない。

 だから――

 

「つとまるかどうかはともかく、やるからには全力でやらせてもらいますよ」

 

 元は勉強に全力を注ぐつもりだった時間だ。なら、それを返上して行うこれに全力を注ぐのは、至極当然と言えるだろう。

 

「……フン、期待せずに待っといてやるわ」

 

 俺の言葉にわずかに口角を引き上げた園長は、鼻を鳴らして瞼を下した。

 

 

     ***

 

 

 そんなわけで二週間のお手伝いを言い渡されたわけだが……。

 

「「「「…………」」」」

 

 なぜ俺は皆から蔑むような視線を向けられているのでせうか。まだ来たばかりで特に何もしていないんだけど。

 とりあえずあれだ。先に何か言うのなら……。

 

「前原と岡島からそんな目で見られるのは非常に不愉快だからやめろ」

 

「「何で俺たちだけ!?」」

 

 なんでだろうね。強いて言えば日ごろの行いかな。

 

「はちまん、あのおにいちゃんたち、どうしたの?」

 

「さあな。俺にもさっぱりわからん」

 

 俺の脚元にじゃれついてきているナナの頭を撫でながら答えると、なぜか蔑みの視線のレベルが上がった。視線ってレベル制だったんだな。

 

「はっちゃんって、年下にやけに甘いけどさ……」

 

「ん?」

 

 ようやく口を開いた倉橋は俺が視線を向けるとにっこりとほほ笑んできた。なにその薄っぺらい笑顔。普段のもっとかわいい笑顔に戻って!

 

「ロリコンさんだったんだね!」

 

「…………あのなぁ」

 

 学校の近所にある保育施設の園児と面識があっただけで異常性癖扱いされた件について。岡島のエロ談義には比較的普通の対応するのに、どうして今回はそんなドン引きしてるんだ。どう考えても岡島の方が引かれるだろ。

 その後ナナが迷子になっていた話をしたらちゃんと納得してくれた。よかった、さすがにこんなのが原因でクラスから孤立とか理不尽すぎてまた不登校になるレベル。

 

「はちまん! はやくあそぼ!」

 

「わーったから引っ張んなよ」

 

 あ、また蔑みの視線が来ました。なにそれほんと理不尽。

 

 

 

 外観を見たときは少し古めの平屋程度の認識だったが、施設内に入ってみると、認識を改めざるを得なかった。

 一言でいえば、ボロい。

 天井はところどころ板が欠けたり外れたりしているし、壁もヒビが入っている。あ、今何か最年長っぽい子が傷んだ床踏み抜いた。だいぶ老朽化が進んでいるようだ。

 修繕はしないのか、と磯貝が保育士の人に尋ねると。

 

「うちの園長、待機児童や不登校児を見かけたら片っ端から格安で預かっちゃうから。修繕費どころか職員もまともに雇えないのよ」

 

 それを聞いて思い出すのは、自転車から散らばったらしい大量の荷物。誰よりもこの施設のために働いてきた人間を、重大な戦力を潰してしまった。その認識が少しずつ実感に代わっていっているようで、だんだんと目つきが変わっていく。

 

「二十九人で二週間か。……なんか色々できそうじゃね?」

 

 前原の一言から皆のやる気が少しずつ表に出てくる。園長の脚の倍額仕事をするつもりのようだ。

 

「? はちまん、どうしたの?」

 

 首をコテンと寝かせたナナに「なんでもない」と返す。最近のE組は、殺せんせーの言うところの弱者の立場を考えられていなかった。自分たちをどこか特別な存在と思って、E組で得た力は自分たちのために使うものだと考えていた。どうやら今回のこれも、責任を果たす仕事であると同時に立派な教育らしい。

 さて、どうやら作戦会議をするようなので、俺も参加を――

 

「あ、比企谷は子供たちの面倒、よろしくお願いします」

 

「は?」

 

 なぜか貧乏委員によって俺の担当が即決した。いや、別にいいけど、八幡結構力あるよ? 男手として結構活躍できるよ?

 

「はちまーん、はやくあそぼー」

 

「……まあ、いいか」

 

 クイクイと手を引っ張ってくるナナに頭を掻きながら、ついていくことにした。

 

「きょうはなにつくるの?」

 

「作ること前提かよ……」

 

 気に入ったのかこの間作ってやった椿笛を鳴らしながら出窓の方に向かうナナと俺に、他の子供たちが近づいてくる。歳は皆だいたい四、五歳くらいだろうか。

 

「ナナちゃん、そのおにいちゃん誰?」

 

「それ作ってくれた人?」

 

「うん、はちまんだよ!」

 

 特に仲がいいらしい二人ににへーっと笑いながらナナが俺を紹介すると、二人ともぺこりとお辞儀付きで挨拶をしてきた。とりあえずこういうとき俺はどう返せばいいんだろうと考えて、まあ目線を合わせて普通に挨拶すればいいかと思い腰を落とすと、背中に何かがポスッと当たった。

 

「フン、フエなんてめめしいぜ!」

 

「そーだそーだ!」

 

 振り向くとナナと同じくらいの男子が数名。ああ、あの目はよく知っている。相手を警戒して威嚇する時の奴だ。俺がよくやるような奴。まあ、いきなり自分のテリトリーに知らない奴が来たらそうなるよな。

 

「アキラくんたち、ご挨拶しなさいって園長せんせいから言われてるでしょ!」

 

「知らない奴には関わるなって、かーちゃんが言ってたからやだね!」

 

 やばい、なんかどことなく発言が俺に近い。仲間とつるんでる時点で前までの俺と違ったわ。泣きそう。

 しかしはてさて、どうしたものかと考えながら、ポケットに手を突っ込んだ。カチャカチャと固めのものがぶつかる音が聞こえてきて、子供たちの視線が集中する。

 

「どんぐり?」

 

 ポケットから取り出したのは校舎の裏山とかから集めてきたドングリ。細長いものやずんぐり丸いものなど種類もいくつか用意した。

 

「今日はこれで……コマを作ろう」

 

 ナナに言われるまでもなく、今日も作るつもり満々で来ていたわけだ。

 

 

 

「はちまん、これうまく回んねえ」

 

 ドングリの尻部分を削ってつまようじを刺すだけのシンプルなコマは、なかなか好評のようだ。特に男子が一気にのめりこんでくれた。せっせと目の粗いコンクリでドングリを削っている姿は、ちょっと微笑ましい。

 

「これちょっとようじが長いな」

 

 差し出されたコマに刺さった持ち手部分のつまようじをもう少し奥まで刺して、はさみで適度に切って渡す。早速回してみると、なかなかきれいに回りだした。

 

「すげー! 回った!」

 

「俺のとどっちが回るか勝負しようぜ!」

 

 男子同士で勝負まで始まったらしい。ほんと男子って勝負事好きよね。俺があれくらいの頃はずっと一人だったから勝負とか全然しなかったけど。……なんでさっきから黒歴史掘り返してるのん?

 

「はちまんさん……ドングリの中身出ちゃった……」

 

「削りすぎだ。ほれ、まだあるからもう一回作ってみな」

 

 大きめのものを放ってよこすと、胸の前で軽くお手玉をしながらまたコンクリのところに駆けていく。ただ、女子はどちらかというとドングリに色を塗ったりして遊んでいるようで、人形とかを作り始めている。その丸いドングリと葉っぱで作っているのは隣の……ジブうんちゃらはまずいですよ!

 

「はっちゃーん、これ削るの疲れるー」

 

「ならお前は別の遊びしてなさい」

 

「えーやだー!」

 

 なぜか子供たちに交じってコマを作っていた倉橋が手首をプラプラ揺らしながら近寄ってきたので。シッシッと追い払っておいた。しかし、効果はいま一つのようで、疲れたーと隣に座ったゆるふわ少女は削り途中のドングリを手のひらの上でコロコロ転がす。

 

「……ていうか、なんでお前のドングリそんな歪なの?」

 

 覗き込んだ先のドングリはいろんなところが削られていて、もうなんかドングリの見た目をしていなかった。あえて名称を付けるなら……いやマジでなんだこれ。

 

「芸術点の高いものを目指したんだよ!」

 

 ドングリゴマは競技だった可能性が……?

 

「というか、それってちゃんと回るのか?」

 

「回るもん! ちゃんと回るとこ見せたげるんだから!」

 

 倉橋はドングリ――いやマジでもうドングリには見えないんだが――につまようじをブスッと刺すと、持ち手の部分を親指と中指で摘まんで、クイッと捻った。回転の力を与えられたコマは、予想に反してしっかりと回ったコマに子供たちからも歓声が上がる。回ったこともさることながら、複数個所を削ったことによってできたコントラストで止まっている時とは全く違う見た目になるのが子供心を鷲掴みにしたようだ。

 

「あたしもコマつくるー!」

 

「コマに色塗ってみようよー」

 

「でかした、いきものはかせ!」

 

 バタバタと数人が引き出しからマジックと取ってきて、色塗り大会が始まる。ドングリコマを教えただけなのに、いろいろ発展するもんだな。というか、“いきものはかせ”ってなに? あだ名? あだ名なの?

 

「…………」

 

 そうして皆が思い思いに遊んでいる中、一人木にもたれかかってつまんなそうにしている男子。確かリーダー格らしいそいつはアキラって呼ばれていたか。

 

「遊ばねえのか?」

 

 前の俺なら絶対放っておいた自信があるが、どうも気になって声をかけた。アキラはフンと鼻を鳴らしてそっぽを向く。

 

「あんなのより、売ってるコマの方がよく回らあ!」

 

「ま、そうだな」

 

 そりゃあ、売ってるコマの方がよく回るし、俺だってガキの頃にゲームを買い与えられていたら、こんな遊びしなかった自信がある。

 ただ、時折遊んでいる子供たちを見るアキラの目の奥に、俺に、昔の俺に似た何かを感じて、しかし、それが何か言葉にできないでいた。

 考え込む中、ピーっとナナの椿笛から聞こえる音が響いてくる。

 

 

 

 次の日からE組園長代行は本格的に動き出した。まず男子は千葉が烏間さんの部下である鵜飼さん――建築士の資格を持っているらしい――と律の指導の元、設計図を作成し、男子の大半は裏山から間伐した木材を運び込んでいる。女子と渚のような力に自信がない組は子供たちの相手をしたり、小学生組の勉強を見たりすることになった。茅野が作った即興劇も子供たちへのウケがよく、ナナなんかは歓声の代わりと言わんばかりに椿笛を楽しそうに吹いていた。

 ただそんな中、どうしてもアキラが孤立する場面が多くなった。単純に俺たちが気に入らないのなら、少し距離をとって自然と他のグループに交じるのを待つという手もあるが、どうもそういうわけではなさそうだった。

 そして、保育施設の補強工事も始まって数日が経った頃、わかばパークに着くと、あの時のようなかすかな泣き声が耳に入ってきた。

 

「ひぐっ、…………ぅぇっ……」

 

 慌てて屋内に入ると子供たちが集まっていて、その中心にはうずくまって嗚咽を漏らしているナナとそれを茫然と見下ろしているアキラがいた。ナナの足元には砕けた木の実の殻が散らばっている。

 

「……なにがあった?」

 

「その……ナナちゃんがフエをならしてたら、アキラくんが『うるさい』ってこわしちゃって……」

 

 取り巻きの子から大まかな事情を聞いて渦中の二人に視線を向ける。俺と目があったアキラの表情には、怯えの色が濃く乗っている。俺はアキラの方に近寄ろうとして……。

 

「ナナが、悪い……の……」

 

 嗚咽に交じってとぎれとぎれに聞こえてくるナナの声に、足を止めた。ナナは迷子になっていたあの時のように顔中を涙で濡らして、フルフルと首を横に振る。

 

「アキラくん、悪くないょ……、ナナ、が……うるさくしちゃったのが、悪い……から……」

 

 そうしてナナに庇われたアキラの顔には徐々に安堵の表情が現われて、しかし同時に何かを耐えるような色を見せる。

 それを見て俺は……口の中でため息にも似た声を漏らしてしまった。

 

「アキラ、それで合ってるか?」

 

「……ああ」

 

 視線を逸らせるアキラの目には、ここにきてからずっと見え隠れしていたものがのぞいている。俺はそれを知っていた。それは俺も抱いたことのある色だから。憧れという色だから。

 アキラの頭にポフッと手を乗せる。最初は身体全体を固くした言いたいことの言えないどこか俺に似ている少年は、ゆっくりと逸らしていた目を俺に合わせてきた。

 

「ずっと言いたいことあっただろ? 遠慮せずに言ってみな。たぶん、気付けなかった俺のせいだから」

 

 やわらかいと固いの中間くらいの髪を撫でてやると、アキラはゆっくりと視線を泳がせて、もごもごと口を震わせた。

 

「…………た」

 

「ん?」

 

「俺も……フエ、欲しかった……」

 

「……そうか」

 

 きっと俺がナナに椿笛をあげたときからずっと欲しかったのだろう。けれど、「女々しい」と言った手前欲しいと言えなくて、男子特有の自尊心が余計に俺との距離を遠ざけてしまったのだと思う。やっぱこれは、ここ数日一番近くにいて、気付いてやれなかった俺の責任かもな。

 

「けどな。それでも人のものを壊しちゃうのは駄目だ」

 

「うん……」

 

「どうすればいいか、わかるな?」

 

 頭に乗せていた手をどけると、アキラはおずおずとナナと向きあい、小さい声ではあったがちゃんと謝った。ナナもまだ涙に顔を濡らしたままだが、笑って許している。

 

「さて、それじゃあちょっと出掛けてくるか。皆仲良く待っとくんだぞ」

 

「「「「はーい!」」」」

 

 靴を履くのもそこそこに一気に加速して走り出す。目指すのはナナと初めて会った場所。たぶんまだ落ちているだろう。

 

「はっちゃん、やさしー」

 

「……倉橋か」

 

 少し速度を緩めると、倉橋が隣を並走してくる。どうでもいいけど、スカートでそんなに走ると危ないぞ。視覚的な意味で。

 

「別に、優しいとかじゃねえよ」

 

 さっきのナナの“相手を庇う”という行動が、あの時の自分に重なってしまっただけだ。そして、その時のアキラの安堵の表情の中に滲んだ後悔に気付いただけだ。

 

「結局俺は、あの時もあいつらを傷つけそうになっていたんだな」

 

 自分に非があることを過剰に庇われれば、残るのはそうさせてしまった後悔。そんなもの、優しさじゃない。もっと残酷な何かだ。

 

「夏休みから、俺は成長してないんだって思い知らされたよ」

 

 あれだけ皆を悲しませて、悩ませて、それでもやっぱり間違えそうになる。まるで成長していない、何も変わっていない。

 

「そんなことないよ」

 

 しかし、そんな俺に倉橋は優しく微笑みかけてくる。

 

「今はっちゃんはちゃんと考えようとしてる。少しでも変わろうって、成長しようって努力してる」

 

 そもそもそんなすぐに変われたら世の中悩みなんてなくなっちゃうよ。そう続ける倉橋に、俺は短く返すしかなかった。

 人はそうそう変われない。そう言ったのはどこの誰だったか。しかし裏を返せば、少しずつなら人は変われる可能性を持っているということなのかもしれない。

 

「それで、それを言うためについてきたのか?」

 

「私もあの笛欲しい!」

 

 子供かよ……。苦笑しながら追い払うことはせず、倉橋とともに椿の種拾いという、高校生らしからぬことをするために足を動かすのだった。

 




わかばパーク回でした。まあもうちょっとだけ続くんですが、ちょっと渚とは違う切り口で行きたいかなと思って桜ちゃんはあえて出しませんでした。ちゃんと渚に懐柔されてるので安心してください。
そういえば、桜ちゃんってこのとき小5なんですよね。来年は小6、千葉村……ルミルミ……うっ、頭が……。

倉橋のパークでのあだ名は見つからなかったので、適当に考えてみました。わかばパークでは猫しか出てきてないし、ねこはかせとかでもよかったかなと思ったり思わなかったり。
うちは通学路とかにドングリの木が植林されていて、秋になると皆で集めてコマとか作って遊んだなーと思い出しながら書いてました。何度も回しているとつまようじを刺したところからヒビが入っていって、最終的に殻が割れてドングリの中身につまようじが刺さった謎の物体が出来上がった記憶があります。
あと、コンクリとかで削るのが面倒でキリで穴を開けようとして左手に穴が開いたこともありました。痛いよりもびっくりして絆創膏をつけたのですが、出血量に合わなくて血まみれになって親に悲鳴を上げられました。皆も気をつけような!

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

その力は他がために

 アキラも交ざって遊ぶようになって数日。わかばパークは……ワープ進化を遂げていた。

 

「なんということでしょう!?」

 

 無事退院し、殺せんせーに付き添われて戻ってきた園長も思わず口調が変わってしまうほどのワープ進化だ。元々の母屋を飲み込むように建てられた二階建て木造建築は、一級建築士の監修と律による耐久シミュレートで強度も完璧。母家ごと補強するように増築を行っていた。

 その二階には近くの家から譲り受けた絵本を集めた図書室と屋内遊技場で、屋内遊技場は怪我対策と遊具の腐食対策も施されている。ちなみに、遊具の強度は俺が乗ってもまったく問題がないくらい。いやあれですよ? ナナたちに無理やり引き込まれただけで、決して自分から乗ったわけじゃないから。本当だから。

 さらに遊技場の中央に鎮座する回転遊具は一階のガレージにある充電器に繋がっていて、子供たちが遊べば遊ぶほど電動アシスト付き三輪車に電力が貯まるようになっている。この三輪車は園長の壊れてしまった自転車をベースに吉田と堀部が改造したもので、律の計算では走行の大半を子供たちから提供される電力で補えるらしい。ちなみに俺はそれをたった今聞きました。だってこいつら建築付き合う暇があったら子供たちと遊んでてとか言うんだぜ? 除け者にされて八幡悲しい。

 

「……お前ら上手くできすぎてて、逆にちょっと気持ち悪いわい」

 

 微かに頬を引きつらせた園長はナナたちがまとわり付いている俺やこの施設最年長のさくら――学校でいじめにあって不登校児になっているらしい――と話をしている渚を眺めて、小さく息をついた。

 

「これだけ文句なしの仕事をされたら、約束を守るしかないのう」

 

 わずかに頬を緩めた園長に、皆の表情も明るさを増す。まあ、入院したあの日、「生徒を健全に育てるため」という殺せんせーの目的を聞いて今回のタダ働きを了承したこの人のことだ。なんだかんだ最後は許すつもりだったのだろう。

 

「もとよりお前らの秘密なんぞ興味はない。わしの頭は自分の仕事で手一杯だからな」

 

 高得点のテストを手に駆け寄ってきたさくらの頭をワシャワシャと撫でるその目は……どこかうちの担任に似ている気がした。案外、教育馬鹿って言うのは皆似ているものなのかもしれないな。

 

「お前らもさっさと学校に帰らんか。やるべき仕事があるんだろ?」

 

「「「「はい!」」」」

 

 突発的に起こった二週間の課外活動もこれにて終了。ナナたちに別れを告げてわかばパークを後にした。

 しかし、その日は椚ヶ丘中学の中間テスト前日であり、総武高校の中間テストも三日後に迫っている時期。超難関中学である椚ヶ丘で二週間テスト勉強をしないというのは裸に棍棒でラスボスと戦うことに等しい。それほどのレベルではないにしても同様のことが総武高校にも言えた。

 

 

 

「……八幡、今回は成績落ちたわね」

 

「……まあ、そうだな」

 

 テストが終わって数日後の夜。珍しく定時で帰ってきたお袋が、置いておいた成績表を見るなりリビングに呼び出してきた。心配なのか一緒についてきた小町も合わせて三人。テーブルを挟んだ表情は三者三様だ。お袋はコーヒー片手に数字が列挙された半紙を眺めていて、俺は最低限の会話のとき以外グッと唇を引き結んでいる。そんな俺たちを小町はオロオロと交互に見比べ、何か言おうとして……力なく肩を落とした。

 今の俺は一応、国家の新規学習プログラムの試験生として椚ヶ丘に通っていることになっている。烏間さんも「必ず成績を上げる」という名目で総武高校から選抜したと説明していたので、俺には親に怪しまれないように成績を向上、維持させる義務があったのだ。

 そこに今回の成績低下。場合によっては総武高校か椚ヶ丘にお袋が出向くと言い出すかもしれない。というか、総武高校はまだしも、椚ヶ丘に行かれるのはやばい。なによりもあの学園の人事を一手に担う理事長の手を煩わせるようなことになれば、E組にいられなくなってしまうかもしれないのだ。

 どうしても身構えるのを抑えられない。フツフツと額に浮きそうになる汗をなんとか抑え込もうと、余計に身体に力がこもった。

 お袋はそんな俺をちらっと一度だけ見て、コーヒーを一口煽ると、飲み干したカップを脇に寄せる。コトンと陶器が木製のテーブルと触れ合う音が比企谷家で最も広い室内に響いた。

 

「……ま、次はがんばんなさいよ」

 

「……へ?」

 

 それだけ言って立ち上がろうとするお袋に、ずいぶんと間の抜けた声を漏らしてしまう。あ、ごめんなさい、そんな「うわぁ……」みたいな引き顔を息子にするのやめてください。

 

「なによ、なんか不服?」

 

「不服というか……なんも言わねえの?」

 

 ひょっとしたら俺はうちの親の放任主義レベルを勘違いしていたのかもしれない。成績が下がったところで気にしないのだろうか。

 しかし、お袋は大きくため息を吐くともう一度椅子に座りなおして、右手で頬杖を突くとぺいっと俺の成績表を渡してきた。

 

「あんた、この成績で私に怒れって言ってんの?」

 

 手元に来た成績表に改めて目を落とす。横から覗き込んだ小町が「うわ……」と感嘆なのか呆れなのかよくわからない声を漏らした。

 総武高校のテストの難易度はE組が受けるような化け物みたいなものではない。定期テストで出てくる応用問題は少なく、椚ヶ丘の明確に順位をつけようとする問題と違ってちゃんと復習をしておけばそこそこの点数は取れる形式になっている。

 だから、そこまでガクンと点数を落としたわけではないのは事実だが……。

 

「けど、十位以上落ちたんだぞ?」

 

 文系教科は軒並み十位台、理系もこぞって落ちて総合順位は二十四位になっていた。

 

「お兄ちゃん、三百人以上一学年にいる進学校でその順位は十分すごいって、小町思うんだけど……」

 

「けど、目標には届いてない」

 

「お兄ちゃんの目標って何位だったのさ……」

 

 なぜかマイリトルシスターに呆れられてしまった。目標が何位って……そりゃあ……あれ?

 

「八位以上……?」

 

「なぜ疑問系」

 

「いや、具体的な数字とか決めてなかった」

 

 前回以上ってことしか考えてなかった。そう言う俺に二人は顔を見合わせて、吹き出すように笑い出した。

 

「……なんだよ」

 

「んー? お兄ちゃん変わったなぁって」

 

「高校上がる前なんて、『高校なんて卒業できればそれでいい』とか言ってたあんたがそんな向上心見せるようになるなんてねぇ」

 

「ぐっ……」

 

 そういえばそんなこと言った気がする。具体的には総武高校の合格発表日に言って親父含めた家族全員から白い目を向けられた記憶がある。なんであんなこと言ったの俺。たぶんおめでとうって言われたのが恥ずかしかったからだわ。あぁ、また黒歴史が作られてしまうのね……。

 

「それに、新方式の勉強プログラムって聞いてたけど、クラスメイトとも仲いいみたいだし、色々勉強以外もやってるみたいじゃない。ねー」

 

「ねー」

 

 何で今「ねー」って言い合ったの? 小町はかわいいけどさすがにお袋のは……ごめんなさい何も言っていないんでその殺し屋顔負けの殺気を抑えてください。

 どうやら小町を経由して色々と筒抜けになっていたらしい。変なことを伝聞されていないか思わず頭を抱える俺にまた小さく吹き出したお袋は、余韻で喉を鳴らしながら片手だった頬杖を両手に切り替えた。

 

「今回だって、なんか別のことやってたみたいだしね」

 

「気づいてたの、か……?」

 

 この二週間と少しの間、お袋とは数回しか会っていなかったはずなのだが。首を捻る俺にお袋は頬杖を突いたままニヒッと笑みを浮かべた。こういう表情は小町に受け継がれてるよな。最愛の妹は結構母親のいいところをしっかり受け継いでいるようで八幡うれしい。親父の悪いところは絶対受け継がないでね。

 

「自分の子供のことくらいちゃんと分かってないと、放任主義なんてやんないわよ。あんたは嫌なことがあっても勝手に自己解決しちゃうから、そう言う意味では逆に手がかかったけどね」

 

 学校休んでふらつくようになったときはどうしようかってお父さんと心配したのよ、と続ける母親に、思わず目を逸らす。

 あの時、どうせ誰も俺の心配なんてしないって思っていた。両親だってどうとも思っていないと。けど……そうだよな。やっぱり心配になるもんだよな。

 

「ごめん……」

 

「謝るんじゃないわよ。結局私たちが何かする前に、いい環境が見つかったみたいだしね」

 

 いい環境。間違いなく最高というべき環境に、俺は身をおくことができた。あの山の上の木造校舎にいると、いろんなものが見えてくる。いろんな体験ができる。そして、いろんな失敗をすることもできる。

 失敗をするだけならあそこに行く前と同じだ。だけどあそこでは、失敗から次に進ませようと画策する先生たちがいる。一緒に悩む仲間たちがいる。だから、椚ヶ丘中学校三年E組というのは俺にとって最高の環境で、最高の仲間たちなのだ。

 

「学生なんて勉強が全てじゃないんだから、やりたいことがあるならどんどんやっていきなさいな」

 

「……そうだな」

 

 ぽそりと呟いた俺にお袋は一度首肯して、「それに」とポケットから細長い半紙を取り出した。隣で小町が小さく「やばっ」と声を漏らしたのはなぜだろうか。

 

「時間があるときに小町の勉強も見てあげてちょうだい」

 

「勉強? ……うわ…………」

 

 差し出された紙。どこかで見たことがあると思ったらうちの中学の成績シートで、氏名欄には『比企谷小町』の署名、そして五教科の結果が記された表の中には――

 

「八幡の受験は割とトントン拍子だったから、完全に油断してたわ」

 

 軒並み平均前後をうろちょろしていた。国語や英語は平均を完全に下回っている。ひょっとしたらうちの妹はアホの子かもしれないとは思っていたが……。ていうかこれあれだな? 話って俺のことがメインじゃなくてこれがメインだな?

 

「小町、志望校どこだったっけ?」

 

「……お兄ちゃんと同じ、総武高校です」

 

 なるほど。兄と同じ高校に行きたいなんてさすが千葉の妹だ。かわいい。妹にしたい。すでに妹だって言ってんじゃん!

 ただしかし……この成績のままだとまずい。非常にまずい。お袋は塾に行かせたほうがいいかとか言っているが、塾に行ったら塾の講義についていけない可能性まである。

 

「小町……」

 

「な、なにかな、お兄ちゃん?」

 

 志の高い我が(アホな)妹に、兄ができることは一つだけだった。

 

「今日から毎日勉強会な」

 

「……あい」

 

 あ、小町の目がちょっと腐った。やべえ、その目かわいくない。

 

 

     ***

 

 

 小町の比企谷式集中講義が開始された次の日、俺たちは全員揃って職員室に来ていた。殺せんせーの姿はなく、いたのはパソコンを叩いている烏間さんと雑誌を見ながらみかんを食べているイリーナ先生だけ。俺たちの目的は烏間さんだったので、狭い職員室の中にフリーランニング下校組が入る。

 

「烏間先生、迷惑をかけてすみませんでした」

 

 代表して謝るクラス委員二人の言葉に、タイピングを続けながら「気にしなくていい」と返してくる。決してパソコンから目を逸らさないが。その目はいつも俺たちを相手するときのようにまっすぐなものだ。

 

「今回の件で暗殺にも勉強にも大きなロスが生まれた。君たちはそこから何か学べたか?」

 

 続いて発せられた質問に皆顔を見合わせて――渚が少し迷った後にポツリポツリと言葉を紡ぎだした。

 

「……強くなるのは、自分のためだと思っていました」

 

 暗殺技術は名誉と賞金のため。学力をつけるのは成績のため。間違いなく担任教師に頬を叩かれたあの瞬間まで、このクラスの多くの人間がそう考えていた。もちろんそれも一つの考え方には違いない。百パーセント間違っているとは誰も言えないだろう。

 

「でも身につけた力は、他人のためにも使えるんだって思い出しました」

 

 それこそが触手を生やした担任教師が身につけてほしいと願った力の使い方だから。伸ばした身体能力は子供たちと遊んだり建築に役立てることができたし、失敗した経験を活かして近い境遇の子を勇気付けることもできる。殺す力をつければ、地球を救える。

 

「学力を身につければ、誰かを助けられる」

 

 大きく順位を落としたE組の中で一人学年二位まで上りつめ、A組に絡まれていたE組のフォローをしたらしい赤羽に渚が顔を向けると、当の本人はいつものように飄々と首をすくめるだけだった。

 

「相手のことを考えることを忘れなかったら、間違った力の使い方もしないですむよね!」

 

 ポフッと俺の肩に手を乗せた倉橋に対して、何も言わずにそっぽを向くと、烏間さんから「君はどうだった?」と尋ねられた。今回のことで、何か学べたかと。

 

「……助けられるからって安易に助けるのは違うってことは分かりました。無制限に相手を庇うのは、誰のためにもならないって」

 

 分かっていても、また気がついたときには動いてしまうかもしれない。次もほとんど成長せずに繰り返してしまうかもしれない。

 それでも、今回よりは少しだけ……。

 

「もう少しだけ、考えて動けるように意識しますよ」

 

「俺も、もう下手な力の使い方はしないっす、たぶん」

 

「気をつけるよ、いろいろ」

 

 岡島も前原も口々に紡いだ反省の言葉に烏間さんはモニターから顔を上げて立ち上がった。

 

「君たちの考え方はよく分かった。だが……今の君たちでは高度訓練は再開できんな」

 

 教官の口から続けられた言葉に皆の表情に緊張が走る。しかし烏間さんは特に気にしないように自分の後ろの棚に手を伸ばすと、机の上になにかを放り投げた。バサッという軽い音が乗る。

 

「股の破れたジャージ……それ、俺のだ」

 

 岡島のものらしい椚ヶ丘中学校指定のジャージは、股が半分以上破けてそこらじゅうがほつれて穴が開き、もはや衣服としての機能を果たせそうにない状態だった。

 

「学校のジャージではこれ以上ハードな訓練や暗殺に耐えられん。ボロボロになれば親御さんに怪しまれるし、なにより君たちの安全を確保できなくなる」

 

 だから、これは防衛省からのプレゼントだ、と用意していたダンボールの中身をそれぞれに手渡してくる。いつか言っていたプレゼントと予想されるそれはパッと見ミリタリー色の服に見えた。今後の体育はこれを使用して行うようだ。

 インナーに手袋、グローブ、靴まで一式揃ったそれは持ってみると異常に軽い。着込んでみると、どうやら服の中に何か骨組みのようなものが組まれているが……なんだろう、邪魔になっていないし、動きやすい。

 これは……。

 

「先に言っておくぞ。それより強い体育着は、この地球上に存在しない」

 

 不敵な笑みを浮かべる烏間さんに、俺たちは不思議な高揚感を覚えていた。




というわけで原作わかばパーク回終了です。もうちょっと濃く書いてもいいかなとも思いましたが、ママンとの会話を入れようと思ってこんな感じにしてみました。そろそろママンも八幡に絡まないとちょっと放任が過ぎますからね。比企谷パパはいつもどおり社畜です。がんばれパパ、負けるなパパ、稼いで来いパパ。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

そして花は、欠ける予兆を見せ始める

 防衛省から支給された新しい体育服。米軍と企業が共同開発した強化繊維は衝撃、切断、引っ張り、熱や火、あらゆる耐性が世界最先端を誇るもので、靴まで一式持ってもジャージより軽い。さらに靴には跳躍アシスト加工が施されており、服の軽さも相まって高い跳躍力を実現していた。

 さらに服の塗料には特殊な揮発物質に反応して一時的に色を変化させることのできるものを使用。全五色の組み合わせで、どんな場所でも迷彩効果を発揮することができる。菅谷の迷彩スキルと組み合わせれば抜群の効果を発揮するだろう。

 背中、肩、腰など各部に衝撃吸収ポリマーが仕込まれているしフードを被って首を保護するエアを入れれば大抵のアクションにおいて身体を完全に守ってくれる。激しい戦闘などそれでは耐えられない衝撃を受けたとしても、服の内部に張り巡らされたゲル状の骨組みが瞬時に固まり、身体を守った後は音を立てて崩れて再びゲル状に戻る、ダイラタンシー現象を利用した防御フレームが組まれていた。

 間違いなく地球上で最強の体育服。いや、地球上最強の戦闘服だ。

 そして皆はその体育服のお披露目と、自分たちの考えを伝えるために……全力で担任に嫌がらせをしていた。いやあれほんと嫌がらせでしょ。中村はまだしも千葉とか完全にジャンプのページしか狙ってなかったし、赤羽に至っては嬉々として殺せんせー作の塑像――本人曰く芸術的なロケットおっぱい――を破壊していたからな。フードを突き抜ける悪魔の角が見えたのは俺だけじゃないはず。

 ただまあ、この先生がそこに関して本気で怒ることはなく――

 

「約束するよ、殺せんせー。私たちのこの力は……誰かを守る目的以外で使わないって」

 

 そう伝える生徒たちにいつもどおりのシンプルな顔で頷くだけだった。

 

 

 そして明日から通常授業に戻ることが伝えられた放課後、俺はいつもどおり椚ヶ丘市内をジョギングしていた。正確にはちょっといつもどおりとは違うのだが。

 

「うへぇ、これを毎日は私にはちょっと無理かも……」

 

 俺に並走しながらぼやくのは不破だ。どちらかというと後方支援型の彼女だが、もう少し体力をつけて前線組を支えたいとのことで、ジョギングに向かう俺に同行を申し出てきた。

 

「訓練の時の運動量に比べたらたいしたことないだろ」

 

「それはそうだけど、訓練はその日によっていろいろ変わるからなぁ」

 

 どうやら不破は同じ事を淡々とこなすのが苦手なタイプのようだ。そんなことでは立派な社会の歯車にはなれないぞ? いや、進んで歯車になろうとする人間はいねえな。人間のままがんばって!

 ちなみに不破は新しい体育服に身を包んでいるが、俺はいつもジョギングで使っているジャージで走っている。別にジョギング中に習った技術使うつもりないから、この格好でも問題ないだろう。

 

「くしゅっ……」

 

「……なに比企谷君、風邪?」

 

 走りながら出てしまったくしゃみに鼻を啜っていると、下から覗きこむように不破が顔を見せてくる。くしゃみ一つで心配性だな、こいつ。

 

「この時間帯は少し冷え込むから、そのせいだろ」

 

 実際夜はもうタオルケット一枚では寝られなくなってしまったし、頬を撫ぜる風も冬の身を切るものほどではないにしろ十分に冷たくなってきている。それに鼻が反応してしまっただけだろう。

 

「超体育着なら案外寒くないよ? 比企谷君もこれ着て走ればよかったのに」

 

「……それ、そんな名前だったか?」

 

「だってこの世で最強の体育服だよ? これはもう“超”ってつけるしかないでしょ!」

 

 体育服の襟を指で摘んで呆れてくる不破に論点をずらして呆れ返すと、なぜか今度は目をキラッキラ輝かせて力説してきた。こいつのこういう時は下手な男子より男子っぽくて、一周回って対応しにくかったりするよな。いや、別に普段が扱いやすいわけでもないんだが、結構唐突に少年漫画脳のオンオフが切り替わるからね。びっくりしちゃうんですよ。

 

「……まあそうな」

 

 再び一度鼻をずびっと啜って、とりあえずぼそりと短く返した。不破よ、すまんがその感性は中二くらいのときに捨ててしまったんだ。たぶん赤羽あたりは賛同してくれると思うぞ。

 

「ですが八幡さん、いつもよりも息の乱れが激しい気がしますが……本当に大丈夫ですか?」

 

「あん?」

 

 少し走る速度を上げようとする俺に律がイヤホンを通して……いや、今回は不破のスマホのスピーカーを通して声をかけてきて、思わず自分の胸に手を添える。律はやけに心配しているような声色だが、そんなにいつもと違うだろうか。

 自分ではよくわからなかったのでちょっと違う程度だろうと気にせず走り続けようとして、両肩をつかまれて強制的に停止させられる。首だけひねって後ろを見ると、不破ががっしりと俺の肩をホールドしていた。もうガチッって感じ。お前案外パワーあるな。

 というか、なんでそんな額に怒りエフェクトついてそうな黒い笑み浮かべてんの?

 

「ひ・き・が・や・くん?」

 

「お、おう。どうしたんだ? この状態だと走れないんだが」

 

「今日はもう帰るよ」

 

「え、いや、まだ折り返し地点も……」

 

「か・え・る・よ?」

 

「…………はい」

 

 妹分に反論できずに従ってしまう兄貴分の姿が、そこにはあった。というか俺だった。仕方がないので踵を返して来た道を戻る不破の後ろを歩いてついていく。律といい不破といい、お前らちょっと心配性すぎるんじゃない? 別にどうってことないのに……。

 

 

     ***

 

 

「……それで完全に寝込んでたら、どうしようもないですね」

 

「うるせー……」

 

 小町が学校に行って俺だけになった自宅の俺と律だけがいる自室に、自分でもびっくりするくらい情けない声が響く。

 あの後一度教室に戻った俺たちは、着替えて即帰った。……俺んちまで不破に付き添われて。普通そういうのって逆なんじゃねえのと文句の一つも言いたかったが、目がガチすぎて何も言えなかった。そもそも結果的に次の日三十八度の熱出してしまっているのだから、まじでなんも言えない。

 

「私にサーモグラフィ機能があれば、もっと早く気づけたのですが……」

 

「俺のスマホを魔改造しようとするのはやめてもらえません?」

 

 サーモグラフィ機能くらいだったらノルウェーの開発者たちに頼めばアップグレードしてくれるのではないだろうか。殺せんせーの探知にも使えそうだし。ただ、それ搭載するなら本体だけにしてね。俺のスマホちゃんはありのままの姿でいさせて。

 

「とりあえず、今日はお薬飲んでしっかり休んでくださいよ?」

 

「分かってるよ。小町も昼の分まで飯用意してくれたから問題ない」

 

 とりあえず熱っぽいのと喉がひりつく以外は目立った症状もない。薬飲んで寝ておけばすぐ直るだろう。朝の分の風邪薬はもう飲んだし、ベッドに潜り込んで……。

 …………。

 ………………。

 寝れん。なんか妙に目が冴えてしまって、目を閉じてもすぐに瞼が上がってしまう。これはあれだな。元気が有り余ってるんだな。寝込んでるのに元気が有り余ってるというのもおかしな話だが。

 

「ちょっと勉強をしてから……」

 

「ダメです! ご飯のときとトイレの時以外寝てないと、小町さんに報告した上で八幡さんのロックフォルダの中身をE組にばら撒きます!」

 

「それはやめて!?」

 

 なんという脅しをしてくるんだ。というか、鍵付フォルダが役割果たしてない。個人情報保護法仕事して!

 ただまあ、不破とか律とかに迷惑をかけたのは事実なわけで、そんな中さらに迷惑をかけてしまうのも問題といえるだろう。

 

「わーったよ。今日は大人しく休むさ」

 

「はい。眠れないのでしたら、私が話し相手か子守唄を歌ってあげますよ?」

 

 …………。

 

「……じゃあ話し相手で」

 

 律はなにやら頬を膨らませて抗議してきているが、そんなもん話し相手一択だわ。前に目覚ましで歌を歌ってきたことがあったのだが、あざとさマシマシの激甘ボイスで歌いだすから、背筋ゾワゾワきて一瞬で目が覚めたのを覚えている。あんなの聞いてたら絶対寝れないって。

 

 

     ***

 

 

「ぁ……目が覚められました?」

 

「……あぁ」

 

 結局午前中は律と適当に駄弁って過ごし、昼飯に小町が用意していたおかゆを温めなおして食べたあたりでようやく体力が尽きてきたのか、眠気が来て寝てしまった。外を見るとだいぶ太陽は住宅街の向こうに傾いているようで、空を紅く染め上げている。もうE組の連中も帰宅する頃だろう。

 それはともかくとして。

 

「なんか……あったのか?」

 

 起きた時に聞こえてきた律の声が、やけに覇気がないように感じた。身体を起こしてスマホを覗き込むと、ディスプレイ越しのAI娘は口をもごもごと動かしてそっぽを向く。女子たちから学んで、自分なりに落とし込んだらしい“言いたいけど言い出せない時のしぐさ”を数度繰り返した彼女は、申し訳なさそうにため息をついた。それと同時に、LINEが強制的に起動される。個人チャット画面が開き、そこには一時間ほど前に倉橋が送ってきたらしいメッセージが表示されていた。

 

 

倉橋陽菜乃

 (はっちゃん大変! ビッチ先生がいなくなっちゃった!!)

 

 

「……は?」

 

 思わず二回、三回と同じ文面を読み返すが、どうやら俺の見間違いではないようだ。

 なぜこのタイミングでイリーナ先生がいなくなるんだ? まともな結果を残せていない彼女に、ついにロヴロさんが退去勧告を出したのだろうか。いやしかし、初めてロヴロさんが来たときにイリーナ先生は一度暗殺教室からの撤退を言い渡されたが、殺せんせーが執り行った勝負の結果イリーナ先生が勝ち、殺し屋屋も必ず結果を残せと言っていたはず。

 

「なにがあった?」

 

 となると、残っているのは外部からの何かか、E組内での何かだ。

 

「実は……、ビッチ先生の誕生日プレゼントを烏間先生に渡させて、二人の仲を取り持とうと……」

 

 俺たちがわかばパークで園長の代わりに働いていた十月十日。その日はイリーナ先生の誕生日だったらしい。イリーナ先生が烏間さんに気があることは俺も気づいていたし、夏休みの普久間島での最後のディナーで一部生徒と殺せんせーがゲスな計画を立てていたことも知っている。

 そして、職員しかE組校舎に残っていなかった誕生日当日、当然というかお約束どおりというか烏間さんがいつもどおりで、イリーナ先生もハニートラップの達人というプライドが邪魔したのか素直に誕生日のことを言い出せず、結局プレゼントはもらえなかったのだと言う。

 

「それで、皆さんから集めたお金でプレゼントを買って、それを烏間さんに渡してもらおうと……。ちょうどこの間松方さんが怪我をされたときに救急車を呼んでいただいた花屋さんにお会いしたので花束を……」

 

 ああ、そういえばあの一一九番は通りかかった花屋の人がしてくれたって言っていたな。俺が来たときにはもういなかったけど。

 それにしても――

 

「……アホか」

 

「っ……ごめんなさい……」

 

 ぼそりと呟いて天井を仰いだ俺に律がビクリと肩と一緒にスマホのバイブを震わせて、謝ってくる。

「謝る相手がちげえだろ。今回傷ついたのはイリーナ先生なんだから」

 別にゲスかろうがゲスくなかろうが、恋愛の手伝いをすること自体は特に問題だと思っていない。恋のキューピットのおかげでカップルが成立した例なんて現実にも物語にもゴロゴロ転がっている。しかし、今回のやり方は離島でやった二人っきりで食事をさせるというものとはまるで違うのだ。

 

「自分たちの用意したプレゼントを烏間さんからって言って渡すなんて、詐欺と変わりないだろ」

 

 そんなのじゃ、渡す側に想いがこもっていない。仮にその場を凌げたとしても、絶対どこかで綻びが起きる。そして今回は、その場を凌ぐことすらできなかったのだ。

 そもそも、この場合落とす側である烏間さんを動かしたのがまずかった。恋愛に疎い俺が言うのもあれだが、本来恋愛支援とはアピールする側のサポートや場の提供などあくまで間接的なものであるべきはずだ。そんな結果だけを与えるやり方だと、見世物にされたと思うのも無理はないだろう。たとえ本人たちにその気がなくても。

 倉橋にその旨をチャットで送ると、既読から少し経って謝罪の返事が返ってきた。いや、だから謝る相手が違うって。

 

「どうすればいいんでしょう……」

 

 スマホを持ったまま、再び枕に頭を乗せる。まだ熱っぽい頭で思考を巡らせてみるが、どの道出てくる回答は一つしかなかった。

 

「明日にでも謝るしかないだろ。変にプライド高いのも問題だけど、悪いのはこっちなんだしな」

 

 ただ、律から聞いた去り際のイリーナ先生の言葉。

 

『おかげで目が覚めたわ。最高のプレゼントをありがとう』

 

 ……どうも、嫌な胸騒ぎがして仕方なかった。




超体育着導入と次のお話への始まりでした。原作では超体育着の強化繊維は“軍と企業の共同開発”とされていて、ひょっとしたら自衛隊の可能性も考えなくはなかったのですが、自衛隊を軍というのもおかしいなと思って米軍と明記することにしました。

ところで、時々――というかシリーズものを書いていると割りとよく――あるんですが、
「このシリーズのヒロインは誰ですか?」
という質問をされることがあります。
前にも感想への返信で言ったことはあるのですが、ヒロインの構想は書き出しの段階からすでにできています。しかし、私の考えとして明確に「このカップリングの話だよ!」と一話目から分かるような話でない限りは、どういうカップリングになるかは明記しないようにしています。読んでいるうちに誰がヒロインかと分かっていったり、予想するのも楽しみの一つだと思っていますから。
そういうわけで、そのような感想をいただいても明確な答えを返すことはできないことは理解してもらえると幸いです。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

人間らしさを見出すために

 次の日には治るだろうと思われた風邪は、どういうわけかよけいに悪化していた。熱、喉の痛みに加えて節々が軋み始めたので、これはやばいと病院に赴いた。早めのインフルエンザだったら千葉で今年初めてのインフルエンザマンになってしまう。

 

「うーん、風邪ですねー。インフルエンザではないですー」

 

 しかし、診察してくれたヒョロヒョロの男性医師は間延びした声で普通の風邪と診断した。ぶっちゃけほぼ百パーセントインフルエンザだと思っていたため、逆に驚きすぎてむせてしまったほどだ。

 

「インフルエンザ検査も引っかかってませんからねー。ただ、へんとう線の腫れが酷いですねー。リンパもちょっと平常ではないですしー……なんか無理なこととかしませんでしたー? 今までと違う事とかー」

 

 無理……はよく分からないが、違うことと言われると真っ先に思い浮かぶのはやはり暗殺訓練だろうか。適当に「運動を」とか言ってはぐらかすと、その後もいくつか質問をしてきた医師は「ふーむ」と自分の顎を手で撫でながらカルテにサラサラと読むのが難解な文字を書き連ねていく。

 

「たぶん身体が限界を迎えちゃったんですねー。今までほとんど運動をしていなかったのにいきなり激しい運動を始めちゃったからー。若いから今まではそこまで気にする状態になってなかったんだろうけどー、少しずつ溜まった疲労でだいぶ免疫力が落ちちゃってたんでしょうねー」

 

 それで、このタイミングでドカンとでかい風邪を引いてしまったということらしい。同じ訓練量で俺だけこんなグロッキーになるとかおかしくない? やだ、俺の体力……なさすぎ?

 

「いえ、八幡さんの訓練量が他の皆さんと同じはさすがに謙遜にも程があるかと……」

 

 診療が終わって帰りのバス停までの道中にぼやくと、律に盛大に呆れられた。そんなことはないと思うんだが。訓練メニューなんてあいつらとほとんど変わらないし。

 

「まあ……無自覚ならそれは別にいいですけど、今後は少し自主訓練のセーブをお勧めします」

 

「うーん……そうだな、また倒れても元も子もねえもんな……」

 

 マスクの中で咳まじりにモゴモゴ返していると、バスがやってきた。平日の昼間ということで、車内はガラガラだ。

 医者からは数日は安静にするようにと言われたわけだが、さてその間どうやって過ごしたものか。いつも風邪の時はゲームをしたりして過ごしているが、律が全面的に禁止してきて本格的にやることがない。結果的に律と話すくらいしか選択肢が残されていないんだよなぁ。

 

「あ、そういえば。イリーナ先生は今日来たのか?」

 

 ゴトゴトとバスに揺られている間はさすがに二次元娘と会話をするわけにもいかず、その話題を切り出したのは家の近くのバス停で降りた後だった。その質問に対して律はすぐに答えることはなく、だからこそ答えは明確に伝わった。

 イリーナ先生が学校に来ていない。

 

「携帯には繋がらないのか?」

 

「すみません、どうやら電源を落としてしまっているようで……」

 

 さすがにネットワークではチート級の能力を誇る律でも、電源を落とされた携帯端末への介入は無理か。ということは自宅にいるのかも分からない。いや、自宅にいたら殺せんせーあたりに突撃される可能性があるからいる可能性はほぼなし、か。

 一度壊れた関係を戻すのはリセットするよりも難しい。前までの俺なら難しいとすら言わず、不可能と切って捨てていただろう。

 けれど、この数ヶ月、間違えながらも、壊れながらも戻ってきた俺たちの関係を考えると、イリーナ先生だってやり直せるはずだと、今の俺は思う。

 ただ……。

 

「対話ができなきゃ、謝ることもできねえんだよな……」

 

 結局現状のE組は、ただ待つことしかできなかった。

 考えるだけ無駄だということは分かっているが、なにか方法はないかと熱で茹で上がる脳みそを働かせているうちに家に帰りついた。手洗いうがいの衛生管理をしてから小町が用意した昼食――食欲はあまりないと言ったらフルーツヨーグルトを作ったようだ――を二階の自室に持ち込む。スプーンでヨーグルトと缶詰のみかんを一度に口に放り込むと、冷たくてさわやかな味が舌の上に広がって、その冷たさのせいか少し思考がクリアになる。

 

「そういや、烏間さんはイリーナ先生がいなくなったことどう思ってるんだ?」

 

 間接的には、というか根幹的にはゲスなあいつらの責任だと思うが、多少なりとも烏間さんの落ち度もあるように思われる。というよりも、堅物にしてもどうも伝え聞いた烏間さんの言動はいつもと違う気がするのだ。

 

「烏間先生は……『プロである以上情けは無用』と」

 

「……なるほど」

 

 鈍感鈍感と言われる烏間さんだが、イリーナ先生のアプローチに気づいていないはずはなかったか。しかし、あくまで彼は地球防衛の最前線にいる人間であり、教師として残っている以上、イリーナ先生も最前線で暗殺に取り組むべきプロだ。

 

「色恋で鈍るような刃なら、ここで仕事をする資格はない……か」

 

 だからこそ、わざと突き放すような言い方でイリーナ先生の覚悟を確かめた。

 いかにも仕事に誠実で、俺たちのような素人から始まった学生暗殺者すら対等な立場として接する人の言葉だ。非情で、人間的で、合理的。きっと最初の頃の俺なら、無条件で納得していたであろう指揮官としての選択だ。

 けど、だけれども……。

 

「なーんか、自分でもめんどくせえ性格になったもんだなぁ」

 

 合理的とか理論的とか、そういうのを度外視にイリーナ先生にあの教室に残ってもらいたいと思っている。獣的な感情論を優先しようとしている。俺ってこんなタイプだったかな。もっと理性で生きている自覚があったんだが。

 

「ふふっ」

 

 スプーンを咥えたまま考え込む俺の耳に、律のおかしそうな笑い声が聞こえてきた。なんだよ、とディスプレイが見えるように立てかけたスマホに目をやると、当のAI娘はなおもクスクス笑いながら謝罪してくる。

 

「ごめんなさい。でも、私から見たら今の八幡さんは十分“人間的”だなと思いましたから」

 

「……そうか?」

 

 感情に訴えかけるやり方は、大事な論点を見失うかもしれない。俺たちは生徒であると同時に最前線で暗殺を行っている殺し屋だ。もっと理性的に行動したほうがいいのではないかと思うのだが。

 

「八幡さんの言う人間的、獣的という人間のあり方も昔からある考えということは、私も理解しています。高度な知識を有する人間であるが故に、理性的に、常に冷静に行動するのが人間らしい。しかし、あくまで機械であり、人工知能である私は最近の考え方である人間的、機械的というものも、結構納得しちゃうんですよ」

 

 人間的。これは具体的にどういう意味を成しているのだろうか。獣的、動物的と対をなす人間的は感情や本能で動く獣と違い、理性的なのが人間らしいというものだ。冷静に状況を判断し、感情に流されず決断、行動する。

 しかし、人間的の対が機械的になったら? 今まで人間的だと思っていたものは機械的と言われ、人間らしさとは感情によって動くものだと言われてしまう。まるで言葉の意味が変わってしまうのだ。“人間的”という言葉の意味を正確に詳しく説明しろと言われたら、いったい何人が誰もが納得する説明ができて、何人が答えを見出せずに発狂してしまうだろう。

 では、人間的とは、人間らしさとは何かと言われれば……。

 

「結局、人それぞれってことか」

 

「そういうことです」

 

 イリーナ先生の恋愛にあるいは本職の刃すら崩されそうになる獣的な面も、烏間さんの一見非情で機械的な面も、結局のところどちらも人間的な面であるのだ。概念として固定できないが故にこそ人間らしい。

 

「そういう意味じゃ、お前も十分人間らしいけどな」

 

 最初の頃に比べると、機械的に答えを打ち出すのではなくよく考えるようにもなったし、感情のようなものを表に出すようにもなった。物語に関する感想も自分の考えを持って説明するようになってきたし、少しずつではあるが国語への理解力も上がってきたと殺せんせーも言っていた。堀部のラジコンを使って男子陣が盗撮をしようとしているときなんかはリアルに女性陣がやりそうな目をしているしな。

 人間的、人間らしいの定義が固定でないのなら、俺から見ればこいつはもう、“人間”に違いなかった。

 

「いえいえ、私もまだまだ学習が足りません。この程度で満足していては自律思考固定砲台の名折れです」

 

 だから、もっと勉強させてくださいね、と律が笑いかけてくる。つまり、この後の話し相手のお誘いというわけだ。この学習意欲の高さは機械的なのか、はたまた人間的なのか。

 

「眠くなるまでな」

 

 どうせ勉強もさせてもらえないし、それなら彼女の学習ついでに暇つぶし相手になってもらうとしよう。イリーナ先生と烏間さんに関しては何か動きがあってからだ。

 けれど、意味は違えどそれを同じく“人間的”と言うのなら、あるいは……。

 

 

     ***

 

 

 医者の診察通り、相当免疫力が落ちていたようで、次の日も休むことになった。と言っても前日よりは身体も動かしやすくなってきたので、ベッドでゴロゴロ転がりながらストレッチをしていたら律に怒られたのはご愛敬。ちなみにフォルダの中の秘蔵画像を拡散されないように平謝りだった。もう面倒くさいしどの道律がしょっちゅういるせいで秘蔵画像なんて見る余裕ないし、さっさと消してしまおうかしら。電子的弱みを消さないと律に頭が上がらない。

 そうして学校を休み始めて三日目。布団に入っていると布団が俺の身体から蓄える熱のせいか、夜しっかり寝ても昼頃には眠くなって三時間ほど昼寝に入るのが休みの間の日課になっていた。

 

「八幡さん! 起きてください、八幡さん!」

 

 眠っている意識に突然聞こえてくる律の声。その切迫した声色に、まどろみすらスキップして一気に意識が覚醒した。

 

「どうした!?」

 

「そ、それが……」

 

『ビッチ先生が攫われちゃったんだよ!』

 

 枕元に置いていたスマホから聞こえてきたのは律の声と、それを遮るように響いた倉橋の声。どうやらLINEの通話を繋げたらしい。というか、イリーナ先生が攫われたってどういうことだ?

 

「先ほど、校舎に『死神』を名乗る男性が現れました。その男が、この写真を」

 

 スマホに表示されたのは両手両足を拘束されて狭い鉄枠に押し込められたイリーナ先生の姿。律曰く画像加工の可能性は極めて低い、ということらしい。つまり、本当にその「死神」はプロの殺し屋一人を誘拐したのだ。

 死神。夏休みの暗殺訓練の際、ロヴロさんから聞かされた世界最強の殺し屋の通り名。ありきたりな呼び名であるが、殺し屋業界で「死神」と言えばただ一人を指し、その素性、能力の底、何もかもが情報網に引っかからない伝説の殺し屋。殺し屋屋はこの二年ほどなりを潜めていると言っていたが、どうやら渚たちと接触をしたという花屋に化けて潜んでいたらしい。ひょっとしたらかなり長期的にE組の周囲を調べていたのかもしれない。

 

「百億の賞金に動き出したってことか」

 

「そのようですね」

 

 教室に堂々と現れた死神は、イリーナ先生の命を守りたければ、先生、親などに一切伝えずに全員で指定の場所まで来るようにと命令してきた。

 

「『来たくなければ来なければいい。その時は彼女の方を君たちに届けます。平等に行き渡るように二十八等分小分けにして』」

 

「えっぐいプレゼントだな……」

 

 つまり全員で行かなければイリーナ先生のバラバラ死体が出来上がるわけだ。死神は次の獲物をおびき寄せる“花”を摘み取るだけ。次に“花”になるのは俺たちのうちの誰かだ。

 

「ここで従わなきゃ、結局従うまで一人ずつ殺されるな」

 

『どどど、どうしよう、はっちゃん!?』

 

 完全に狼狽している倉橋を宥めながら考える。数日休んだおかげでだいぶ熱も落ち着いてきた。今なら十分考えを巡らせることができる。

 相手は世界最高の殺し屋と謳われる死神だ。鷹岡をボコるための潜入ミッションで警備員を魅了したイリーナ先生を烏間さんが「優れた殺し屋ほど万に通ずる」と言ったように、なにをしてくるかわかったものではない。普通に考えれば俺たちだけで相手の指示に従うなんて、みすみす人質を増やすようなものだ。

 しかし、この教室の連中に誰かを犠牲にするなんて選択肢はない。そして俺も、誰かを犠牲にしたくはないのだ。

 俺たち全員の能力を活かせば死神を何とかできなくても先生の救出は可能かもしれない。そうすれば後はうちの教師陣がどうとでもしてくれるだろう。けれど、やはりリスクが高すぎる。プロの殺し屋と数度戦ったことは確かにあるが、あの時は指揮してくれる先生たちがいた。あの時だってギリギリだったというのに、指揮官がいない状態での成功率はもっと下がる。だが、ここで指示に従わなければイリーナ先生が二十八等分に――

 

「……ぁ」

 

 いや待て、ひょっとしたら……。

 ベッドから起き上がると、通学用のバッグにしまっていた新しい体育着を取り出す。守るために使おうと決めた力だ。おそらく俺に聞くまでもなく、通話越しのあいつらも準備を進めているだろう。

 

「倉橋、俺もすぐにそっちに向かう。作戦会議はついてからだ」

 

『わ、わかった!』

 

 通話を切って、手早く超体育着を着込む。十分に睡眠もとったし、熱も身体中の痛みもだいぶ引いてきた。この程度なら問題ない。

 

「八幡さん……緊急事態なのは重々承知ですが、あまり無理はなさらないでくださいね」

 

「分かってるさ。というか、ひょっとしたら今回は俺が一番楽なポジションかもしれないぞ?」

 

 はい? と首を傾げる律が映ったスマホをポケットにしまい込み、ステルスを全開にして家を飛び出した。




というわけで死神回はまだ続くんじゃ。

久しぶりに自宅に帰れたので、多分明日はがっつり書けると思います。

早いですが今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

本当にそいつは死神と呼ばれる存在なのか

 電車に乗り込んで椚ヶ丘市まで向かい、最短距離で山の上のE組校舎に向かった俺を待っていたのは、やはり超体育着に着替えて各々準備を進めていたE組メンバーだった。まあ、ゲスなサポートをするくらいだからな。イリーナ先生を見捨てるなんて選択肢は誰にもないか。

 ここに来るまで常時ステルスを使った状態で周囲を警戒していたが、特に監視されているような感覚はなかった。相手の技量は未知数だが、俺もステルス強化のために観察スキルはかなり上げてきたし、たぶんその点は大丈夫なはず。

 

「比企谷さん、体調崩してるのにすみません」

 

「もう治りかけだから気にすんな。……それで状況は?」

 

 頭を下げようとする片岡を制して教室内を確認する。教卓近くの床には散乱した花束と、破壊された小さな機械。どうやらイリーナ先生がいなくなった日に花屋に扮した死神から買った花束に、盗聴器が仕掛けられていたらしい。ブラジルにまでサッカーを見に行く殺せんせーと防衛省の仕事で烏間さんがここを離れるタイミングを見計らっていた、ということか。

 

「……ていうか、こんな時にサッカー観戦なんてしてんじゃねえよ」

 

 元はと言えば生徒たちのゲス行為に便乗した責任の一端があるというのに、あの担任教師がいればまた状況は変わっていただろうにな。いや、その場合は死神が決行を遅らせるだけか。

 

「十八時までにクラス全員でここまで来いってさ」

 

 木村から見せられた地図には椚ヶ丘市の端、吉田の家が経営しているバイク屋の近くにバツ印が記されていた。先生たちは当然ながら、外部の人間に知られた時点でイリーナ先生の命はない。死神の目的は奪還のためにやってきた俺たちをさらに捕まえて、百億の賞金首をおびき寄せる“花束”にするためだろうが、本人が言ったように俺たちが従わなければ、躊躇なく彼女を殺すだろう。そして次は生徒の誰かを“花”にしようと近づいてくる。

 

「……倉橋、花を持ってきてから盗聴器を破壊するまでの間……俺の名前を言ったりしたか?」

 

「え? うーん……たぶん、言ってないよ。さっきLINEで通話したのも前原君が壊した後だったし」

 

「ふむ……」

 

 そうすると、あの時チャットだけで済ませた倉橋の対応はファインプレイだったかもしれない。しかし、やはり独断では決められないし、実行に移すには決定打に欠ける。相手は最高の殺し屋と恐れられる存在だ。

 

「比企谷君、ちょっと気になることがあってさ」

 

「あ、俺もちょっと考えがあるんだよねー」

 

 素直に死神に従うべきかと思案していた俺に、声をかけてきたのは不破と赤羽だった。その目は暗に「一人で考え込むな」と訴えかけてきている。自分の中に閉じこもっていた今は、その目がなによりもありがたかった。どうも多少の意識改革が起こっても、つい自分の考えをアウトプットすることを忘れてしまうようだ。

 

「ああ、俺もプランを考えていたところだ」

 

 そうだな。ここはE組全員で考えを出し合わなくては。

 

 

     ***

 

 

 指定された場所にあったのはシンプルな構造の建物。道路に面している方向以外は木々で目隠しになっている建造物の一キロほど先から、俺たちは全員で様子をうかがっていた。上空ではかすかなプロペラ音を響かせながら、偵察ヘリとして堀部の糸成三号が建物の周囲を偵察している。

 

「あの規模の建物だと、中に手下がいても少人数でしょうね」

 

「相手は暗殺者だからな。白兵戦慣れしている軍人じゃないから、その点でも大人数で待ち構えている可能性は低そうだ」

 

 双眼鏡越しに呟いた速水に千葉も同意する。そもそも暗殺者というものは正面戦闘をする職業ではない。不意を突いて必殺の一撃を与える殺し屋において、同時行動する人間が多いということは自分の行動を制限することに繫がると言っていい。数で待ち構えているということはないだろう。

 

「空中から見てみたが、周囲や屋上に人影はない」

 

「イトナさんのヘリカメラからサーチしてみましたが、監視カメラの類は四方向に計四つ。いずれも建物から百メートル程度の場所までしか視認できないようです」

 

 糸成三号を回収した堀部と律の報告を聞いて、磯貝が頷く。ガストロのように気配で接近は気づかれているかもしれないが、相手は建物の中で、こちらとの距離は一キロ以上。正確な人数なんかは把握できていないだろう。

 

「つまり、まだ最初の作戦が可能ってことだねー」

 

「そうだな」

 

 近くの木に寄りかかりながら本物のナイフで手遊びをする赤羽にさらに頷いた磯貝は、声を抑えながら「よし、皆」と集まったE組全員を見まわした。

 

「いいか、この超体育着や、皆が対殺せんせー用に開発した武器。いくら相手が世界一の殺し屋だとしても、俺たちの情報を完璧に把握はできていない」

 

 その強みを活かして、隙を見て先生を救出して逃げ出す。危険だが、潜入する以上それは承知の上だ。

 ハンドサインで潜入を促した磯貝に続いて、皆が建物に近づく。目指すのは指定にあった来客用入口。侵入するには、必ず監視カメラの範囲を通らなくてはならない。

 そして俺は皆の最後尾に――ついていかずにそのまま立ち止まっていた。最後尾にいた神崎が振り返るのを見て、心配ないと首を横に振る。

 俺を含めて何人かが考えていた可能性。それは死神が比企谷八幡という存在を知らない可能性だった。書類上、俺は間違いなく総武高校に通う高校生であり、椚ヶ丘学園のデータベースに俺の情報は載っていない。電子上の情報から俺とE組の関係を割り出すのは難しいはずだ。誰かのスマホがハッキングにあっている可能性もなくはないが、俺たちの連絡網はかなり前からその一切をLINEで行っている。このLINEがまた特別仕様で、防衛省の秘匿回線をベースに統合情報部に所属した経験のある烏間さんと律が構築した強固なロックがかけられているものだ。律が言うには仮にハッキングされてもダミーのチャットや通話記録が表示されるようになっていて、本当の記録まで行きつくことは自分がハッカー側でも難しいとのことだった。

 それに、「E組が命令に従わなかった場合、イリーナ先生を“二十八等分”にして平等に届ける」という死神の言葉。俺はここが引っかかってこの可能性に思い至った。二十八名という生徒数は椚ヶ丘中学校三年E組に“正規”で登録されている生徒数だ。つまり、死神の中で俺が頭数に入っていない可能性があるということ。

 しかし、これだけではまだ確定できない。例えば、死神が俺が風邪を引いて寝込んでいることを知っていたから俺を外した可能性もあるし、あくまで機械である律を生徒として見ていない可能性もある。イリーナ先生のバラバラ死体を俺たちに送るというのは生徒側に精神的ダメージを与えるための行為だろうし、そう考えると一般的に“人間ではない”律に送る意味は薄い。まあ、今の律なら精神的ダメージすら負ってしまうかもしれないが。

 だから一歩踏み出せなかったのだが、不破の言葉が後押しになった。

 

『花束に盗聴器を仕込む必要があったってことは、逆に考えるとそうしないと今のE組の状況を把握できなかったってことだと思うんだよね』

 

『前に烏間先生が言ってたけどさ、盗聴器とか監視カメラは取り付けても速攻で殺せんせーが外しちゃってたらしいよ』

 

 花束の盗聴器が回収されなかったのは強い花の香りにかき消されてしまったからだろう。もしくは、イリーナ先生がいなくなったという事態に殺せんせーが動揺していたからか。

 

『いずれにしても、いままでのE組の状況はほとんど把握できていない可能性があるよね。比企谷君のことなんかは特にさ』

 

 続けて補足した赤羽の言葉が決め手になり、今回の作戦が設定した。

 つまり……。

 

「俺は潜入ミッションに参加せず、烏間さんや殺せんせーに報告する」

 

 秘匿回線加工のLINEを用いれば、死神に気付かれずに二人に連絡を入れることは可能だろう。しかし、潜入する前に連絡を入れて、何かしらの手段で相手に気づかれたら、イリーナ先生の命を危険に晒すことになってしまう。だから全員が潜入したのを確認してから俺が行うというのが作戦A。

 ただし、俺の存在に気づいていないというのはあくまで可能性の一つに過ぎない。だから最初から別行動ではなく、ここまでついてきたのだ。潜入した際に死神が俺の存在を知っていたことが分かれば、遅れて中に入ればいい。風邪を引いているという紛れもない事実があるから、それを命令違反と取る可能性は低いだろう。そうやって俺も中に入ってイリーナ先生奪還に参加するのが作戦Bだ。

 だから今は息を殺してじっと待つ。ステルスでひたすら存在を消し、状況の変化にいつでも対応できるよう皆が入っていく入口に意識を集中させていた。

 そして、最後の神崎が入った数秒後――

 

『全員来たね。じゃあ閉めるよ』

 

 スピーカー越しと思われる男の声が聞こえたと同時に扉が勝手に閉まった。それを確認して静かにその場を離れる。

 やはり死神は比企谷八幡という存在を把握していなかった。なら俺の仕事は当初の予定通り救援要請を出すことだ。

 

「律、中の様子は?」

 

「それが、あの建物内部はジャミングされているようで、スマホの回線は入ってすぐ圏外になってしまいました」

 

 チッ、外部との連絡遮断は当然か。ひょっとしたら、ただの掘建て小屋に見えて色々トラップなんかもあるかもしれないな。こちらも急いだほうがよさそうだ。

 

「律、フリーランニングで校舎まで向かう。最短距離でナビゲートしてくれ」

 

「分かりました!」

 

 

 

「比企谷君、風邪で休んでいたんじゃ……何があった?」

 

 律の完璧なナビゲートで一切地面に足を着くことなくE組校舎のある山までたどり着き、道も何も関係なく校舎に飛び込んだ俺に、防衛省の仕事が終わって戻ってきていたらしい烏間さんは目を見開き――俺の様子を見てすぐに仕事をする人間の目になった。

 

「イリーナ先生が、死神に攫われました。俺以外の、全員はその救出に……」

 

 息切れのせいで言葉を切りつつの俺の報告に、上官はグッと息を詰まらせ「もう来たのか」と天を仰いだ。

 

「どういうことですか?」

 

「ついさっき、殺し屋屋から連絡があってな。彼を含め何人もの殺し屋が死神に襲われていたらしい」

 

 同業者を潰す。どうやら俺たちの気づかないところですでに色々と動いていたようだ。イリーナ先生がロヴロさんから連絡がないと前にぼやいていたが、それが理由だったのか。

 

「とにかく、あいつらが潜入したことでとりあえずイリーナ先生の安否は大丈夫なはずです。ただ、相手が死神ともなると……」

 

「分かっている。すぐに俺もそこへ向かおう」

 

「私もすぐに行きましょう!」

 

 烏間さんの声に被さるように聞こえてきたこの数ヶ月よく聞いていたヌルヌル声に振り返ると、開けっ放しだった窓からちょうどうちの担任が入ってきた。

 

「殺せんせー、ブラジルまでサッカー見に行ってたんじゃ……」

 

「ヌルフフフ、数学の問題を作っていたら現地の人たちがなぜか怒り出しまして、理由を前原君あたりに聞こうと思ったのに誰も電話に出なかったんですよ。これは何かあると思って、観戦せずに帰ってきました」

 

 理由はよく分からないが、これは僥倖だ。いかにマッハ二十とは言っても地球の裏側からだと相応の時間がかかる。早い段階で二人ともに連絡ができたのはラッキー以外の何物でもないだろう。

 

「烏間先生、ロヴロさんは大丈夫なんですか?」

 

「ああ、一ヶ月ほど昏睡状態にあっていたようだが、とりあえず動けるまでには回復したらしい。他にもお前の暗殺に参加したことのある殺し屋が何人も被害にあっている。今のところ死んでしまったのを確認したのは二人程度だが……」

 

 殺せんせーの質問に答える烏間さんの内容に、はたと俺の動きが止まる。邪魔者を潰して自分に有利な暗殺環境を作る。その点は特に問題はない。しかしちょっと待て、その結果はこの場合おかしくないか?

 

「死神に襲われて、そのほとんどが生きているんですか?」

 

「ああ、ただし当分仕事はできそうにないと殺し屋屋は……」

 

「仕事の可否はこの際どうでもいいですよ。問題は『E組とコンタクトが取れる殺し屋を殺さなかった』って点です!」

 

 病院送りにした直後に今回の作戦を実行するのなら、確かに足止めで十分だ。わざわざ命を刈り取る必要なんてない。しかし、死神は一ヶ月以上前に殺し屋屋を襲ったと言う。襲った手段は分からないが、プロがそんなにノロノロと仕事をするだろうか。時間をかけて慎重に暗殺を実行するなら、俺なら確実に殺している。

 

「確かにそうですねぇ。現にロヴロさんは烏間先生に忠告を入れています。多分自分がやられた状況も、ですよね?」

 

「……そうだ。人差し指を突き出された瞬間、左胸から血があふれ出したと言っていた。把握している限り、彼の子飼いの殺し屋たちもほとんどその手段らしい」

 

 人差し指を突き出されただけで血が……? まるで魔法か特殊能力ででも攻撃されたかのような状況説明に、どんなことをされたのか俺には皆目見当もつかない。しかし、同じくその説明を聞いていた超人的頭脳を持っている生物は、ふむふむと考えると答えを言い当てた。

 

「おそらく指の中に極小の仕込み銃を埋め込んでいるのでしょう。弾は十口径前後、サイズ的に音もほとんどしないそれを筋肉と骨の隙間を狙って打ち込み、心臓近くの大動脈に裂け目を入れる」

 

 あとは自分の血流によって裂け目が広がっていき致命傷に至る。撃った弾は血管を流れていき発見できない。誰がやったか、凶器は何か、判別することもできないということらしい。……それを今判別したこの超生物、相変わらず頭の回転早すぎだろ。

 

「そんなことが可能なのか?」

 

「一般的には不可能ですが、万に通じるほどの暗殺者なら可能かもしれません」

 

 確かに死神と呼ばれるほどの殺し屋なら。何人もの殺し屋を見て、様々な高等技術を見てきた今なら、そんな一見不可能そうな暗殺技術もあるいはと思えた。

 ただ、同時に今までも思考の奥底で渦巻いていた考えが顔をのぞかせる。

 

「……本当にそいつは、“死神”なんでしょうか?」

 

「にゅ? どういうことです?」

 

「だって、世界最高の殺し屋って肩書にしては……やけに雑に感じます」

 

 何十人もいるのではとすら言われたという殺し屋界の最上位、死神。しかし俺の存在を知らなかったり、ロヴロさんが烏間さんに忠告を入れることを考慮していなかったり、その能力の高さ、多様性に対して今回の作戦はあまりにも雑すぎる。だから俺はこうして二人に報告することができたし、殺せんせーも死神の使った技術の正体を判別できた。

 そんな雑な作戦を立てる人間が噂に聞く伝説の殺し屋なのかと言われると、どうしても疑問に感じてしまうのだ。

 

「……まあ、今回の殺し屋の正体が死神でもそうでなくても、高度な能力を持つ人間が相手ということに変わりはありません。烏間先生、気を引き締めて行きましょう」

 

「お前に言われるまでもない。比企谷君、報告ご苦労だった。まだ体調も万全ではないだろうから、休んでいなさい」

 

 そう言って対人戦闘の準備を始める烏間さんに、俺は首を横に振った。作戦上の俺の役目は確かに終わった。しかし、あとは休んでいろと言われて大人しく休むほど、比企谷八幡という人間は素直ではないのだ。

 

「いえ、俺もまだやることがあるので、……あいつらのこと、任せました」

 

 二人の返事を待たずに校舎を飛び出す。向かうのは椚ヶ丘駅。

 

「八幡さん、やることって一体……」

 

 スマホから律の心配そうな声が聞こえてくる。別に戦闘とかするわけじゃないんだが、こいつも変に心配性になったものだ。

 

「ちょっと防衛省を脅しに行くだけだから、安心しろよ」

 

「え? ……え!?」

 

 あんまり大きな声を出さないでほしいのだが、イヤホン越しだから耳が痛い。




死神編という名の裏工作編。感想で勘付いてる人が割といて「っべー、っべー」と一人戸部になってました。勘のいいガキは嫌いだよ!

データ上E組ではないという今作の八幡の利点を最大限に活かそうとずっと考えていました。まあ、理由の一つに、八幡が対死神戦に参加しても特になにも変わんなさそうというのがあるのも事実なんですけどね!
クラップスタナーみたいにステルスに上位互換があるようなつもりはありませんし、ある意味八幡のステルスも猫だまし→クラップスタナーみたいな感じで一段階は成長はしてますからね!
影薄い→ステルスって感じ。
影薄いって……。


それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

感情のもう一つの使い道

 電車を乗り継いでたどり着いたのは東京の新宿。航空自衛隊基地や海上自衛隊幕僚監部などが連なる日本防衛の総本山、防衛省。律をスマホに引き連れた俺はその敷地の入り口まで来ていた。近代的なビルが立ち並ぶ中で超体育着は一見目立つが、俺に視線を向ける人間はいない。防衛省の人間相手にもステルスはうまく機能しているようだ。

 

「けど、ここからどうするんですか?」

 

 律が不安そうにするのも無理はないだろう。俺がやっているステルスというのは人間の意識外をすり抜けたり、意図的にその意識外を作り出すものだ。人が多ければ多いほど消えるのは難しくなるし、実際にはそこにいることに変わりはない。

 つまり、セキュリティがしっかりとなされているであろう防衛省内、監視カメラにはどうしても俺の姿が映ってしまう。機械越しではステルスもあまり効果はなさないし、超体育着を着ていなくても高校生が単身潜り込んでいるのが見つかれば、目的の場所に着く前に取り押さえられてしまうだろう。

 となると、その機械システムを落とすのが楽、か。

 

「律、防衛省内の主電源を落として、監視カメラが復旧するまでどれくらいかかる?」

 

「……防衛省の非常用電源は、主電源が落ちて七秒ほどで稼働、十秒で監視カメラシステムは復旧します」

 

 本体の黒箱を使ってシミュレートしたらしい律の答えに小さく唸ってしまう。頭の中に叩き込んだ防衛省内の内部構造的に考えて、十秒では非常用階段に潜り込むのが精一杯か。あえて捕まって交渉に出るという方法もありと言えばありだが……そんなことしたら後で怒られそうだよなぁ。というか律が絶対賛成しない。

 どうしたものか考え込んでいると、AI娘のしょうがないと言った風のため息が聞こえてきて、少し背筋が伸びた。おかしいな、うちのイヤホンはいつの間に風を送る機能なんて搭載したんだ? すごい、バイノーラル律すごい。けど今はやめてほしいな。ゾワゾワするから。

 

「さっきのは“普通に主電源が落ちたら”の話です。さすがにこの短時間で防衛省の全システムに介入するのは難しいですが、監視カメラの起動プラグラムを少し弄れば、二分程度は機械を通して八幡さんが見られることはありません」

 

「さすが律、頼りになるな」

 

 スマホ画面の上部を軽く撫でると、また盛大なため息吐かれた。いやうん、なんかごめんね?

 

「無理しないって言いましたよね?」

 

「死神と戦うのに比べれば全然無理してないだろ?」

 

 身体的にと付け加えると、そういう問題ではないと怒られてしまった。確かに無理というか無茶している自覚はあるのだが、あいつらも頑張っているわけだから、俺もこれくらいはやらねば気が済まないのだ。

 

「とりあえず、俺が建物内に入った瞬間に主電源を落として、監視カメラの再起動を妨害してくれ」

 

 AI娘の諦めたような返事を聞きながら自然な歩みで堂々と警備員の脇を通って門をくぐる。完全に消えている状態の俺に、ガタイのいい警備員のおっさんは気付いた様子もない。場合によっては後で怒られるかもしれないが、こういうこともあるさと受け流してくれることを祈ろう。

 敷地内をまっすぐ進んでいくと目の前のビルがどんどん大きくなってくる。見上げるほどの防衛省総本部の入り口にはまた警備員が鎮座していて、その先の自動ドアを監視していた。目を凝らして扉の奥を注視してみると、退勤するところなのか、スーツを着た痩せ型の男性が肩を回しながら扉に近づいてきている。

 

「……ナイスタイミング」

 

 口内で小さく漏らしつつ、少し歩調を早める。男性職員に反応して開いた扉に身体を滑り込ませた瞬間――ブツンと辺りが闇に包まれた。

 

「うおっ、停電!?」

 

「なんだなんだ?」

 

 警備員も職員も慌てている。まあ、日本の防衛線と言っても根本的な軍隊とはさすがに気構えが違うのは鷹岡辺りを見てなんとなく想像はついていた。どう考えても烏間さんみたいなタイプがイレギュラーだしね。防衛省が烏間さんみたいなのばっかりだったらもはや大抵の軍隊は蹴散らせそう。やだ、日本強い。

 実際にはそんなことあるわけもなく、取り乱している面々を横目に一気に加速する。人をすり抜けるようにロビーを突破し、沈黙しているエレベーターの奥の非常階段の扉を少しだけ開けて中に侵入した。ここまで大体七、八秒。律が言っていた通り非常用電源が起動したようで暗かった屋内に人工的な光が戻ってくる。

 

「監視カメラの妨害は?」

 

「完璧です。この程度どうってことありません」

 

 イヤホンからは自慢げな声が聞こえてくる。おそらく今は見ることのできないスマホの画面では、あざといクラスメイトがドヤ顔で胸を張っているのだろうと想像して、苦笑しながら階段を駆け上がった。

 目的の場所は四階。俺の体重にわずかに引っ張られた金属製の手すりが軋む音も気にせず階段コースを突破して、わずかに扉を開けて周囲を確認。人の気配がないことを確認して四階内部に侵入した。

 階段突破まではあまり気にしていなかったが、ここまでくると自分の発する音にも敏感になる。少し速度を緩めてナンバ歩きにすり足を合わせた歩法を用いて、限界まで音を消す。

 

「八幡さん、そろそろ監視カメラが復旧します」

 

「時間通りだな。こっちも目標地点目の前だ、問題ない」

 

 防犯対策なのか入り組んだ廊下を抜けて、一番奥の部屋に辿り着く。扉の前で一度立ち止まり中の気配を確認してみるが、息づかいからして年配の人間が一人いるだけのようだ。

 オーケー、ターゲットと見て間違いない。俺は殺し屋、相手に迎撃の隙は与えない。攻めるなら一気に、確実にだ。

 ステルスを解いて室内に入る。ノックもなしに入ってきた俺にターゲットは一瞬訝しげな視線を向けて、すぐにその目に狼狽の色を滲みださせた。

 

「な、なんだね君はっ!?」

 

「初めまして、尾長情報本部長。E組の件で“お願い”があって参りました」

 

 烏間さんの直属の上司、情報本部長である尾長剛毅はなんでも妖怪のせいにするアニメの時計を弄っていた手を放してこちらを睨みつけてくる。椅子からわずかに腰を浮かせているが、その身のこなしはあまりにも拙い。彼は情報関係の人間であるから戦闘面はあまり得意ではないのだろう。

 というか、自分で言ってなんだが“お願い”はないな。この場合その表現は適切ではない。

 そう、言い換えるなら――

 

「訂正します。あなたに“命令”しに来ました。今すぐ派遣可能な実働部隊を対死神用に椚ヶ丘市に派遣してください」

 

「なっ……命令!?」

 

 机の上に備え付けられた内線電話の受話器に伸ばそうとしていた手が止まる。間違いなく、俺が彼に向けている言葉は命令だ。対殺せんせー対策の臨時特務部ユニットリーダーである烏間さんの直属の上司――

 そして、鷹岡をE組に派遣した推薦人であるこの情報本部長への。

 

「現在、死神と名乗る暗殺者がE組教師兼暗殺者であるイリーナ・イェラビッチを誘拐、その命と引き換えにE組生徒を市内の倉庫に呼び出しました。あなた方への“命令”は実働部隊を用いて敵拠点へ急襲。先行している烏間さん、殺せんせーと協力してE組生徒とイリーナ先生の救出、そして死神の捕縛です。ああ、一応言っておきますが、拒否した場合は過去に防衛省の人間である鷹岡明が行ったこと、そしてシロが女性下着の窃盗を行った時にあなたが部下にその補助を命令したことをインターネット、全テレビ局、ラジオを用いて日本全国に暴露することになるので、ご留意ください」

 

「ちょ、ちょっと待ちなさい!」

 

 待てと言って素直に待つのならこの世に戦争など存在しない。むしろ狼狽してまともな判断をさせないのがこちらの狙いだ。息つく暇も考える暇も与えず、相手の選択肢をすべからく刈り取る。最終的に従う以外の選択肢を残さない。

 

「ちなみに俺をこの場で拘束した場合、いえ何かしらの危害を俺に加えた場合はE組校舎に置かれている自律思考固定砲台が先ほどのデータを全て流します。律になにかしらの危害を加えた場合は逆に俺がボタン一つでネットワーク上に隠している動画、写真、資料を放出。俺たち二人を同時に始末しようとした場合も時限爆弾式に情報は全国、全世界に流されます。そうなった場合、その原因であるあなたがどうなるか……分かりますよね?」

 

「ちょっ、えっ? 八幡さん!?」

 

 スマホ越しに律が狼狽しているが、今は目の前の相手から目を離すわけにはいかない。まあ、作ってもいない時限式情報拡散プログラムの話をしたら慌ててしまうのも当然かもしれないが。

 鷹岡を特務部に推薦し、さらに異常行動により椚ヶ丘を追放された奴の監督を怠った結果防衛省の資金を盗まれ、堅気の中学生十数人が毒殺未遂にあったし、その上下着ドロなんていう低俗な犯罪に部下を加担させている。このことが世間にばれれば、下手をすれば一生まともな生活はできなくなるだろう。

 

「し、しかしだね、君……その死神とかいうのはあの超生物を暗殺しようとしてるのだろう? それはあれであれであれであるからしてだね……」

 

 混乱で頭が回っていないせいか、それとも元々のしゃべり方なのか、こそあどが多い口調で本部長は視線を逃げさせる。視線を外すという行為は一種の防衛手段だ。瞳から自分の思考を読み取らせないために本能的に目を合わせることを避ける。本人もE組に対しては後ろめたいことがある事実がそうさせてしまうのは仕方がないことだ。

 だが、そんなことはこの場では一切させない。

 

「ちゃんとこっちを見て話せ」

 

「っ……!」

 

 鷹岡の件から今まで、延々と貯め込んできた殺気を、押し込めてきた感情を一気に噴き出させる。その瞬間、相手の肩がビクンと大きく震え、逃げていたその目は俺に釘付けになっていた。

 ロヴロさんから教えられた俺のステルスの才能の秘密。感情を表に出さないが故に存在感を希薄にさせることができるというそれを聞いたとき、同時に一つの疑問も浮かんでいた。

 それじゃあ、俺が感情を限界まで表に出したら?

 思えば夏休みの離島、鷹岡に銃口を向けた時に、寺坂以外の全ての人間が俺に視線を、意識を集中させていた。竹林がA組に流出しそうになったとき、一瞬だけ浅野に殺気を向けただけで、図書館中の生徒が俺たちを、いや俺を見た。俺の殺気は、人の意識を無理やり俺に向けることができるということだ。

 だから、今この場でこいつには絶対に視線を逸らさせはしない。

 

「だいたい、一体の生物を殺すために一般人を犠牲にしようとするなら、そんな殺し屋三流以下だ。今までのことに加えて、一般人数十人を犠牲にすることを黙認したって悪評もつけましょうか?」

 

 あいつらが犠牲になって成り立つ平和なら、いっそ地球がなくなったほうがせいせいする。だから生徒を人質に取る死神のやり方はその一切を肯定することはできないのだ。

 本部長は押し黙ったままだ。俺の“命令”に従っても拒否しても、彼には必ずデメリットが付きまとう。かと言って俺の命令を安易に突っぱねたり、力で黙らせることも――できない。

 なぜなら、E組を取り巻く環境の中で防衛省という組織は強いように見えて最も弱い位置にあるのだから。

 理事長からのE組校舎の提供がなければ超生物を一ヶ所に定住させることはできず、そのために多額の口止め料を定期的に払っている。さらにその三年E組暗殺教室という環境も、生徒と先生、暗殺者とターゲットという関係が成り立たなくては意味がない。生徒側がボイコットしても、超生物の機嫌を損ねて消えるようなことになっても、防衛省は全世界の首脳陣から強いバッシングを受けることになる。

 学園、ターゲット、生徒。この暗殺計画に関わる主要三組織全てに完全な優位を取ることができないのが、今の防衛省の実情だった。

 

「もし生徒に犠牲者が出たら、残りの生徒がボイコットするかもしれない。ターゲットが責任を感じて逃げ出すかもしれない。他一般生徒の安全を考慮して理事長が校舎の提供をやめてしまう可能性もある。……答えは即決でお願いしたい。従うか、従わないか」

 

 ただじっと目を見据える俺に、尾長氏はグッと息を飲み下しながら浮かせていた腰を椅子に落とし――

 

「……分かった。従おう」

 

 力なく首を縦に振った。

 

 

     ***

 

 

 まあ、俺の頑張り虚しく死神は烏間さんがノックアウトさせていたんですけどね。

 第一空挺部隊と共にヘリで現場に急行した俺が見たのは、顔の皮がない男の拘束された姿だった。筋組織や歯は剥き出しになっていて、鼻は軟骨すらなく鼻腔がさらけ出されていた。

 

「比企谷君の予想通り、おそらくこいつは殺し屋屋の言う“死神”ではない。確かに個々のスキルは驚異的の一言だが、スキルに過信しすぎていた。人間としてどこか幼く、だからこそ俺が倒す隙もあった」

 

 烏間さんが言うには、幼い頃に見た暗殺者の技術に見惚れ、その場で弟子入りしたらしい。予測にすぎないが、たぶんその師匠こそが本物の“死神”だろうと。

 

「……影響を与えた者が愚かだったのです。これほどの才能ならば、本来もっと正しい道でスキルを使えたはずなのに」

 

 暗殺者を見下ろして噛みしめるような声を漏らした殺せんせーに、俺は口を開いて――何も言わずに閉口した。

 

「それで? 死神にたぶらかされた挙句、生徒全員を道連れに殺せんせーの暗殺を企てた奴がいたって聞いたんですが?」

 

「あの……比企谷……さん?」

 

 代わりに一輪のバラを持って座り込んでいる元人質に向き直った。おかしいなぁ、なんでそんなおびえた顔をしているのかな? たぶん今の俺は自分史上かなりいい笑顔をしていると思うんだが。

 

「はっちゃん、ビッチ先生も反省してるから……ね?」

 

「はあ……、分かってるよ」

 

 イリーナ先生自身、暗殺の世界に入ったのは今の俺たちよりも小さい頃だったと前に聞いた。修学旅行の時なんかは、ハニートラップ暗殺のためにセレブばかりを相手にしてきたせいで庶民感覚がなかったと杉野なんかが話してもいた。たぶん、E組に関わっているうちに、普通の生活をしているうちに、それができることが怖くなってしまった部分もあるのだろう。

 それでも、その普通の生活をしてきた生徒たちを犠牲に結果を出そうという考えは俺には全く、欠片も賛同できないものなので。

 

「ま、今後は俺も“ビッチ先生”って呼ぶ代わりに八幡憲法的には不問ってことで」

 

「ちょっっと比企谷!? あんたまでその呼び方したら、生徒の中で私を普通に呼んでくれる人が……」

 

 あ、実は結構気にしてたのね、この呼び方。俺が来た時には皆そう呼んでたし、気にしてないのかと思ってたわ。罰ゲームだから相手の言い分なんて聞かないけどな。

 

「ていうか、お前らはちゃんと謝ったのか?」

 

 イリーナ先生改めビッチ先生が死神に取り込まれる隙を作ったのは、そもそもこいつらがゲスなお節介をしたせいだ。死神の件がなくても普通に謝るべきことであるそれを、このゴタゴタで全員がすっかり忘れていたのか「あ゛……」と濁点混じりの声を漏らした。

 その後、殺せんせーも含めて全員がビッチ先生に謝り、ビッチ先生も今回のことを改めて謝ったのを確認した俺は――安心したのか一気に意識を失ってしまった。

 

 

     ***

 

 

「風邪が完全にぶり返したようだ。念のために二日ほど入院してもらう」

 

「……はい」

 

 さっき熱測ったら三十九度超えてましたよ。こないだのピークより高いでやんの。

 そんなこんなで倒れた俺は病院に搬送されて、検査も含めて入院することになってしまった。おかしいな、明日には完全復帰できると思っていたんだけど。

 

「当たり前ですよ。今回どれだけ無茶したと思っているんですか!」

 

「いやけど、死神と戦うよりは無茶は……」

 

「ブラフまで使った脅しを防衛省に対してやらかして、無茶じゃないはさすがに無理があるよ」

 

「……はい」

 

 律と不破に言いくるめられて反論ができません。いや、確かに情報流出に関するブラフが防衛省側にばれたら下手したら命ない可能性もあるのは事実なのだが。

 

「よし律、今のうちに本当に時限式の流出システムを作っておこう」

 

「……まあ、作るのはやぶさかではないと言いますか、むしろ既に着手はしているんですが」

 

 え、半分冗談だったけど、もう作り始めてるの? うちのAI娘優秀過ぎない?

 

「まあ二人とも落ち着いて。比企谷君も反省して……してますよね?」

 

 額からずり落ちた氷嚢の位置を整えてくれた神崎が、じっと目をのぞき込んでくる。その表情は……少し怒っているようにも見えた。

 いや、事実怒っているのだろう。夏休みのあの時のように、結局また俺はこうして皆に迷惑をかけている。こいつらのために無茶はしない。その約束はできないとは言ったが、それでもこいつらの想いを反故にしたのは事実だ。

 

「……すまん」

 

「いいんですよ。すぐに謝ってくれるだけ、あの時よりもきっと私たちのことを考えてくれているんですし」

 

「はっちゃんはシスコンブラコンだからねぇ。私たちが許容してあげないと」

 

 寂しそうに笑う神崎と、同じく寂しそうな笑みに表情を歪める倉橋に、起こすことのできない身体の奥からグッとどうしようもなく苦い何かがにじみ出てきた。その苦さが病室を侵食して、重い空気にしてしまう。

 

「けどさー、俺たちもだいぶ心配したから、比企谷君には何か罰ゲームさせるべきじゃない?」

 

 そんな重い空間をかき消したのは。病室の隅でスマホを弄っていた赤羽だった。死神にやられたらしい左頬のガーゼを弄りながら、その視線を神崎に向けている。

 それに気づいたゲーマー少女はクスリと小さく笑い。

 

「そうですね。それでは、FPSでトップランカー十五人に一人で勝つまで寝れま10、なんてどうでしょうか?」

 

 あの、神崎さん? いえ、有鬼子さん? 何を言っていらっしゃるのでしょうか?

 

「あ、それいいじゃん。武器はサバイバルナイフだけでいいよねー?」

 

「せめてシューティングさせて!?」

 

 結局、最終的になぜか神崎と俺のペアでトップランカーとの二対十五マッチングなんてものを後日やる羽目になった。しかもE組全員が観戦の中で。その結果、数名がそのゲームを始めたのは、まあ当然と言えば当然だろうか。

 ちなみにそのマッチング対決の結果は言わずもがなである。ユーザーwikiが更新されたとだけ言っておこう。




防衛省殴り込み回でした。離島のときに、「鷹岡とかその上の防衛省とかにもっと怒ってもいいよね」というコメントをもらっていましたが、ここのために無理やり怒らないでいてもらいました。シロのとことかもね。

個人的に作戦練るときなんかに八幡、不破、カルマのトリオが結構使いやすいと思う今日この頃。最初の頃はカルマは結構絡ませにくいと思っていたんですが、最近は男子陣の中でも上位の絡ませやすさな気がします。八幡を弄る起点とかね(

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

比企谷八幡がなぜヒロインしてるのかわからない件

 テストが終わり死神との対決も終わった俺たちはようやく一息つける時間がやってきた。いや、その前に渚の母親が来て割と大変だったのだが。

 自分の世界に閉じこもってばかりだった俺には、他人の親というのも珍しい生き物だ。神崎の所のように格式やブランドにこだわる親、竹林家のようにできることが当たり前で、できなければ家族として認めない親、理事長のように傍から見れば本当に親子なのか怪しくなってしまうような親子関係。

 そして、渚のところのような子供が自分の敷いたレール通りにしか歩むことを許さない親。

 いろんな親がいて、俺には理解できないだけで、そこには愛情が存在するのかもしれない。俺が気付いていなかっただけで、放任主義なうちの両親だって確かな愛情を注いでいたのだから。

 まあ、いかな形で愛情を注いでいるとは言われても、素直に納得できない部分も当然あるわけで、あの草食男子には珍しく親に反発したようだ。反発というよりも証明と言ったほうが正しいかもしれないが。

 

「渚ー、この問題ってどうやるの?」

 

「ああ、この問題ちょっと難しいよね。ここはね……」

 

 そんな渚は今、わかばパークで入所最年長の不登校児、さくらの家庭教師をしていた。園長の代役として過ごした二週間の後も、たまに放課後になるとここに来て勉強を教えているらしい。

 

「あっ、そう解くのか! さっすが渚!」

 

「さくらちゃんの飲み込みが早いんだよ」

 

「そ、そっかな? へへっ」

 

 難関問題が解けたようで、素直に褒める渚にさくらの表情がへにゃっと緩む。初対面の時はもっと尖っていたと記憶しているのに、人心掌握も完璧みたいですね、渚くん。さすが前原や片岡からすら「恐ろしい存在」と揶揄されただけのことはある。

 で、渚たちのそんな姿を実況できるということは俺もわかばパークに来ているということで、ナナやアキラたち年少組と遊びに興じていた。俺もたまに顔を出すのだが、だいたい遊びといえば物作りがメインになっている。菅谷とか堀部あたりも連れてくると、こいつらももっと楽しめるかもしれないな。

 

「はちまん、つぎこれつくりたーい!」

 

 俺が持ってきた本を広げながら駆け寄ってきたナナの頭を撫でながらページに目を落とす。「外で遊ぶものづくり」というタイトルのそれは椚ヶ丘学園の図書館から借りたものだ。こんな本、進学校の生徒は読まないと思うのだが、隅々まで探してみると本当になんでも置いてあるから逆に困る。懐かしい絵本なんかも揃っていたしな。

 で、ナナが開いていたページには……。

 

「……今はこれを作るのは無理だな」

 

 真っ白な小山の中をくり抜いて、中で七輪を焚いて温まっているイラスト。いわゆるカマクラが描かれていた。一応言っておくがうちの愛猫の話ではない。そういえば、最近朝起きるとやけにベッドに潜り込んでいる率が高いのだが、あいつの中で何か意識改革でもあったのん?

 ……結局猫の話をしていた。軌道修正をしてアクティビティとしてのカマクラについてだが、今は10月の中旬、当然のことながら雪なんて降っておらず、カマクラどころか雪だるまも作れない。

 

「そもそも千葉ってあんまり雪降んねーじゃん」

 

 大げさなため息を吐いてやってきたアキラが言うように、太平洋側に位置する千葉は雪が降りにくい。降ったとしても遊べるほど積もるのなんて本当に稀だ。

 

「けど、まえにいっぱいつもったとき、あったよ?」

 

「あんなになったら逆に危ないぞ……」

 

 二年ほど前に大雪が降った時は天変地異の前触れかと思った。雪で学校休みとかどこの田舎だよ。千葉が田舎とか言ったやつ顔面殴るから素直に手を挙げなさい。

 詰まる所、千葉で安全にカマクラをやるのはなかなか難しい。しかし、小さなお姫様は納得いかないようで、頬を膨らませてわずかに涙目になってしまった。いや、そんな顔されても俺に大雪を降らせる能力はないんだけど……。

 

「じゃあ、いつか皆で雪が降るところに遊びに行こうよ! 卒園旅行とかで園長先生に計画してもらうとかさ!」

 

 どうなだめたものかと困っていた俺とアキラに助け舟を出したのは、別の子たちと一緒に迷い込んだ猫と戯れていた倉橋だった。っていうか、その猫この間も迷い込んでなかった? 迷い込んでるんじゃなくて住み着いてるんじゃねえの?

 

「俺たちとわかばパークの卒園旅行? このパークにそんな余裕あんのか?」

 

 主に金銭面、というのが顔に出ていたのか、倉橋が耳元に顔を近づけて周りに聞こえないように囁いてくる。

 

「そこはほら、賞金を使えばいいんだよ」

 

「……そういうことね」

 

 賞金百億、条件が揃えば三百億のそれの使い道を、最近になって皆で話し合う機会が増えた。少し前までは作戦協力者皆で山分け、使い道は各々欲しいものやしたいことのために自由に、というのが多かったが、最近の話では自分たちだけでなく誰かのためへの使い道、と提案されることが増えた気がする。

 自分たちの力は誰かを守るために使う。その考えの影響かもしれないな。

 

「はちまんと、おでかけ?」

 

 倉橋の提案に先ほどまで御機嫌斜めだったナナは、小首を傾げて問いかけてくる。暗殺が成功して、地球崩壊の危機がなくなれば、そういう未来も用意できるかもしれない。

 

「そうだな。行けるのは来年あたりになりそうだけど」

 

 そのためにも、暗殺は成功させないといけない、か。頭の中によぎるのは、ターゲットであり担任である超生物のあの小憎たらしいパーツの少ない丸顔。そういえば、この間行われたという進路相談の時も、あの担任は親身になって相談を受けていたと聞いた。そういう“自分の死んだ将来”に関する話をするとき、必ず「まあ、先生は殺されることはありませんけどね」と顔を緑と黄色の縞模様に変色させて笑う。

 しかし、殺せんせーは気がついているのだろうか。そうして変色した時の色は――

 

「じゃあ、それまでカマクラ、がまんする!」

 

「……そっか。じゃあ今から少しずつ計画していかないとな」

 

 いや、今はそんなことを考える場ではないか。にこっと笑うナナの頭を撫でて、立ち上がる。今はこいつらと遊ぶ時間だ。いろいろ考えるのはその後でもいいだろう。

 

「じゃあ八幡! この間みたいに割り箸銃で勝負しようぜ!」

 

「今回は負けねえぞ!」

 

 どうやら男の子軍団はすでに遊びの内容を決めていたらしい。この前来た時に割り箸と輪ゴムで作ったピストルを手のひらの上で浅く跳ねさせながら挑発してきた。この間完封させられたのがよほど悔しかったらしい。

 

「よーし、受けて立とう。ただし、顔は危ないから狙うのはなしな」

 

「わかってらい! あ、さくらも加勢しろよ! 勉強終わったんだろ? さくらの嫁も早く!」

 

「アキラ、あんたは年上に呼び捨てはやめなさいよね! ……はあ、今行くわよ」

 

 どうやら勉強が一段落ついたらしい渚たちが、靴に履き替えてくる。どうでもいいが渚よ、お前の子供達からのあだ名、それでいいのか。やはりお前、性別:渚なのか?

 

 

     ***

 

 

 E組の休み時間というやつは何かと騒がしい。不破が杉野にいろんな漫画を勧めていたり、寺坂たちが馬鹿話をしていたり、前原と岡野が痴話喧嘩をしていたりと毎回なにかしら起こっている。

 ここのところはそんなクラスの風景を眺めるのが楽しみの一つなのだが、今日はなかなか珍しい組み合わせを見つけた。

 

「あ、その本この間読んだよ。書店でおすすめされてたから衝動買いだったけど、面白いよね」

 

「ふふ、それ駅前の本屋さんでしょ? あそこのおすすめコーナーはハズレがないからつい買っちゃうんだよね」

 

 速水と神崎、教室で話すことは少ない二人だが、それでも前に比べると会話量は増えたと思う。岡島というエロオブジェクトのせいでなかなか話す機会がなかったようだが、うちでのあの一件以来たまに本の話に花を咲かせているのを目にするようになった。おかげで岡島が孤立集落のようになっているが、エロプロジェクトの三村あたりが話しかけるだろうし大丈夫だろう。

 そういえば偽死神――二代目死神と言うべきかもしれないが――に捕まった時、岡島や三村たちの機転で殺せんせーごと生徒を水没させようとした奴の目を欺いたらしい。エロの力もバカにできないな。あのプロジェクトに参加しようとは絶対に思わんけど。

 そんな岡島のことは置いておいて、今は速水たちだ。普段あまり発言しない二人だが、読書のことになると割と饒舌になる。速水も常のツンデレと片言のハイブリットみたいな喋り方ではなくなるし、神崎もいつもより生き生きとしゃべる。読書好きの身としては、同じ趣味について楽しそうに話す二人を見ると、なんとも微笑ましくてちょっとほっこりす……ん? 後ろの席で話を聞いていたらしい狭間が会話に参加して……なんで二人ともテンション落ちてんの? さっきまで楽しそうに会話してたのに……あれれー? おかしいぞー?

 

「どうしたんだ、お前ら……」

 

「あ、比企谷君。……そうだ! 比企谷君はこの本の主人公ってどう思いました?」

 

 あまりの空気の変化に思わず傍観をやめて声をかけてしまった俺に、神崎が見せてきたのは最近話題になっている恋愛小説だ。この間書店でピックアップされているのを思わず衝動買いして、一気に読破してしまった。なんでも金と権力で手に入れられると思っていた高飛車お嬢様が、本当に好きな男を振り向かせようとする話。

 

「最初は『うぜぇ』って思ってたけど、読み進めていくうちにどんどん可愛くなるんだよな。庶民感覚を身に着けようとするところは、自分も影から見守ってる感覚になったわ」

 

「や、やっぱりそうですよね!」

 

 ぼそぼそと感想を呟くと神崎の表情がパアッと明るくなる。ヒマワリが太陽になりましたってくらいの明るさチェンジだ。俺の隣に立っていた速水も多くは語らずにウンウンと頷いている。

 それに対して、別の本を広げながら狭間は「わかってないわね」と大きくため息を漏らした。

 

「その話はね、女の執着を表現しているのよ。本当に欲しいもののためなら努力も惜しまない。手に入れるためなら自分すら捻じ曲げてしまうっていうね」

 

「いや、うん……、言わんとしていることは分かるんだが……」

 

 なるほど、二人のテンションが落ちた理由はこれか。まあ、感性は人それぞれだからいかんともし難いが。

 狭間もずいぶんな読書家ではあるが、同じ読書家の神崎とはそもそも読むジャンルが違うことが多い。神崎が綺麗な話を好むのに対して、狭間は怨念とか復讐とか、汚い……と言うと語弊があるかもしれないが、人間の影の部分を題材にした話を好んで読む方だ。そういう人間の暗い要素を題材にした話は俺自身嫌いではないのだが……そうか、同じ本を読んでもここまで感じ方が違ってしまうのか。

 

「というか、比企谷がこういう本読むなんて意外ね。ラノベとか漫画のイメージだったけど」

 

 お前にとって俺のイメージってそっちなのね。いや確かに教室で読んでるのはそっちが多いし、不破とか竹林と作品談義をすることもあるからそのせいな気もするが。

 

「図書館においてある本とかは大体そこで読んじまうからな。こういうハードカバーは場所食うからあんまり持ち運びたくないし」

 

 となると学校に持ってくるのは大体ラノベになるんだよなぁ。イチオシのラノベを持ってきたときに竹林が無言で近づいてきたりする。別に構わないんだが、ちょっと怖い。

 

「そういえば、あんたって少女漫画とかも結構読んでない?」

 

「「「「女子か!!」」」」

 

 や、なんでだよ。速水の一言に俺が同意する前になぜか周りからよくわからんツッコミが入った。お前少女漫画読んだだけで女子になれるんなら、少年漫画読み漁ってる不破なんて男子になれるぞ。

 そもそも結構読むと言っても、俺の読んだことのある少女漫画はそのほとんどが小町からのおすすめだ。この間学力的にアホの子ということが露呈してしまった我が実妹は、活字はあまり読まないが少女漫画は結構読んでいたりする。あいつのおすすめ基本外れがないから安心して読めるんだよな。最近の少女漫画のぶっ飛び率なんなん? 頭にいもけんぴ付いてたり一晩で本能寺建てられたり、……いや確かに昔から男装したら全然女に見られない貧乏女子高生とか、実は自分も含めてクラスメイト全員ヴァンパイアだったりとか、いきなり親が夜逃げしてアイドルのマネージャーになった挙句そのアイドルと同棲とか、同い年の異性の住む寺に引っ越したらいきなり宇宙から来た赤ちゃんに「パパ」「ママ」呼ばれる高校生とか……あれ? 昔から少女漫画ぶっ飛んでない?

 いやそれは置いておいて、おすすめされたら読むだけであって、決して少女漫画ばかり読み漁っているわけでは――と弁解しようとしたのだが、俺の意識が思考の漂流から流れ着いた先では既に別の話題が発展していた。

 

「そういえば比企谷君が寝込む前の日にくしゃみしてたんだけど、『くしゅっ』って感じのくしゃみしてた」

 

「「「「女子か!!」」」」

 

 いや、くしゃみとかどうしようもなくない? 俺意図的にやってるわけじゃなくない?

 

「八幡さんは知らない相手の電話に出るとき、半オクターブほど声が高くなりますね」

 

「「「「女子か!!」」」」

 

 いやそれは女子とか関係ねえだろ。電話するときってちょっと声高くなるもんじゃん? え、違うの?

 

「この間四班で喫茶店に行ったときに比企谷君も一緒に連れて行ったんだけど、ホットコーヒーめっちゃフーフーしてた」

 

「うん。一番先に来たのに僕たちが飲み始めてもずっとフーフーしてた」

 

「いざ飲もうとしたらまだ熱くて、『あちちっ』て言いながらまたフーフーしてました」

 

「「「「女子か!!」」」」

 

 お前ら全国の猫舌男子に謝れよ? 熱いもの口に入れるとき大変なんだぞ?

 

「八幡さんが寝言で一番出す声は『むにゅ……』です!」

 

「「「「あざとい!!」」」」

 

「おいこら律! もうお前マジでうちのネットワークに入ること禁止するぞ!」

 

 一つ一つ弁明しようにも、次から次へと実例が出てきて対応ができない。てか、トイレットペーパー三角に畳むのが女子とかおかしいだろ。磯貝がやったらイケメンで、岡島がやったら汚らわしい事案じゃねえか。

 

「比企谷氏」

 

 次第に勢いを増す話題の火をどう鎮火するべきか考えあぐねていると、一冊のノートを携えた竹林が近づいてきた。いつものように人差し指でメガネのブリッジを持ち上げると、ノートを開いてとあるページを見せてきた。

 

 

『比企谷八幡がなぜヒロインしてるのかわからない件』

 

 

 目立つように赤ペンで、どっかのオタクな夫が出てくる漫画のタイトルロゴ風にそう記載されているページを見て……俺はいったいどうすればいいのん? あれか? 怒ればいいのか? 怒ればいいんだな?

 と、いうことで。

 ――プチッと堪忍袋の緒をぶった切って。

 

「お前ら……いい加減にしろよ?」

 

 思いっきり殺気を開放したのだった。

 開放した殺気に驚いて、職員室から烏間さんと殺せんせーが飛び込んできたのはまた別のお話。




八幡がヒロインって、それ原作でも言われてることだから(至言

pixivとかで見るはやはち漫画とかの八幡が可愛すぎるけど、あれはもはやヒロイン力高すぎて誰から見ても可愛いし私がホモということにはならない。むしろあれにときめかないほうがホモまである。逆にホモ。

というわけで文化祭前の休憩的なお話でした。進路相談の話を期待されていたから――もし居たらですが――申し訳ない。放任主義で育った八幡とは相性の悪い話でしたし、竹林の時でも関わるのが難しかったのでさすがにスルーしました。

今日からまた県外に出ているので、ひょっとしたら更新できない日があるかもしれません。そのときはTwitterのほうでつぶやくと思うので、よければフォローなんぞしてみてください。
@elu_akatsuki
試しにbluetoothキーボード買ったらめっちゃ書きやすい。どうしてもスマホのキーボードだとタップミスが多発していたので、今回から外で書くときは愛用したいと思います。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

逆境だって、裏を返せばチャンスなのである

「それじゃあ、今年の学園祭、俺たちはなにしようか」

 

 その日の朝のホームルームは磯貝のそんな一言から始まった。

 学園祭。一般的には文化祭と呼ばれるそれはうちの中学でもあったし、確かこの間総武高校でもあったはずの中学高校ではよくある行事だが、うちの中学だとちょっと展示や発表するくらいのしょぼいやつだったな。衛生管理上、飲食関係はNGだったし。まあ、俺は皆が演劇の準備をしている間、押し付けられた紙吹雪とかの小道具作りを一人で黙々とやっていたけど。……やべ、まーた黒歴史を蒸し返してしまった。

 椚ヶ丘中学校も私立とは言っても中学校なわけだし、文化祭も高が知れているんじゃないかなと思っていたが、どうやらそんなことはないらしい。

 

「うちの学園祭は、中学高校合同でやるガチの商売合戦なんだよ」

 

 渚の説明によると売り上げ、来客数などを競い、その順位は校内にデカデカと張り出されることになるらしく、発生した収益はすべて寄付するから社会的注目も大きい。そういえば、前にテレビでそんなニュースが流れていた気がする。

 だからみんな本気で商売をするし、その結果社会人顔負けの店も多く出展することになる。ここでトップになったクラスの生徒は就職活動において商業的実績としてアピール材料に使えるほどに。

 なんというか、わかってはいたけどすげえな椚ヶ丘学園。一周回ってドン引きしちまうレベルだ。

 

「しかも、本校舎の方はまたA組とE組の対決はあるのかって盛り上がっちゃってるみたいでさ。勝てないまでも、E組はまたなにかやらかすんじゃないかって」

 

 体育祭以降、E組に対する周囲の目は少しずつ変わってきている。常識にとらわれない戦略、知恵を絞ってA組に善戦、勝利する姿に本校舎の生徒たちはまるで触手に絡みとられるように魅了され始めていた。

 

「けどな……勝つ勝たないにしたって今回は条件悪すぎだぜ」

 

 吉田の言うとおり、今回もE組は不利な状況からのスタートだ。まず最悪なのは立地条件。他クラスが本校舎で出展する中、E組だけはこのE組校舎に店を構えなければならない。つまり客はまず一キロ近い山道を登って来なくてはいけないのだ。金額上限は店系三百円、イベント系六百円。その中で収益を出そうとすれば内容はどうしてもチープにならざるを得ない。一キロの山道を登ってそんなもののためにE組にまで来るなら、近場の本校舎に皆流れてしまうだろう。

 

「それに対して、さっき進藤から連絡があったけど、浅野なんて飲食店とスポンサー契約結んだらしいぜ?」

 

 浅野率いるA組は飲食店とスポンサー契約を行ってドリンクや軽食を無料提供。その上で単価の高いイベント系で集客を行うようだ。ステージにも浅野の友人であるアイドルや芸人が無償で出演してくれるらしいので、売り上げはほぼ収益に直結する。

 たかが文化祭でそこまでするのか、とも思ったが――

 

『僕に敗北は許されません。僕は全てにおいて完璧でなくてはならないんですから』

 

 体育祭の後、そう搾り出した浅野の瞳を思い出して、考えを改めた。浅野だって、境遇の中で苦しんでいる。だからこそ、こんなお遊びのはずの学校行事でも全力を注がなくてはならないのだろう。

 それはあいつの意識次第なのだから、きっと俺にはどうしようもない。

 ところで……。

 

「お前の友達の野球部エース君ってB組だろ? 諜報能力高くないか?」

 

「……ああ、俺もちょっと思ってた。進藤何者だよ……」

 

 すごいね、椚ヶ丘。一般生徒もすごい才能を眠らせてるぞ? チームメイトだった杉野ですらこの驚きようだ。

 

「浅野君は正しい。必要なのはお得感です」

 

 進藤の諜報能力の話は置いておいて、杉野の話を聞いた殺せんせーはヌルヌルの腕――一応袖から伸びる二本の太い触手を腕って呼んでるけど、合ってんのかな?――を組んで、しきりに首を縦に振った。安い予算でそれ以上の価値を生み出すことで客は寄ってくるのだから、自分の力を最大限に使った浅野のやり方は実に合理的と言える。

 では、それに対してE組はどう対抗するべきかと言われれば――このE組が建っている山そのものを利用するべきだというのが担任教師の考えだった。

 

「まずはドングリを集めましょう。実が大きくてアクの少ないマテバシイが最適です」

 

 殺せんせーからの指示で全員動き出す。暗殺訓練で鍛えた素の体力やフリーランニングを駆使することで、ドングリ集めはびっくりするほど効率化が図れた。

 

「……まさか、こんなことに役に立つとはな」

 

 それに、わかばパークの子供たちと遊ぶために数回集めた経験のある俺と、それを記憶していた律のおかげで、山の中のマテバシイの分布は全体の三割ほどが既に判明していたため、一時間ほどで大袋六つ分のマテバシイが集まった。ほんと、この教室にいると何が将来的に役立つかわからないから、どんな知識も技術も安易に手放せなくて困る。

 集めたマテバシイは一度水に漬けて浮いたものは捨て、残った方は殻を割って中身を取り出す。渋皮を剥がすのが少し面倒だが、こういう面倒で地味な仕事は慣れたものだ。

 この手の作業は普段大人しい人間が活躍しやすい。前原や杉野たちはこういうみみっちいものには不向きだし、倉橋なんかは地味すぎてすぐに飽きてしまう。対して奥田や竹林は実験などで繊細な動きにも特に慣れているからこういう場面では途端に輝きだすのだ。

 

「こういうのは無心になることが重要だ」

 

「ああ、すべての感情を捨てて皮を剥くだけの機械になるんだ」

 

「作業に、心は不要」

 

 そして、俺、千葉、速水もこんな感じの同じことを繰り返す作業は大得意だ。効率化させてただ手を動かすだけとか、ちょっと職人っぽい。職人というよりマジで機械だわ。

 

「なんか……三人とも楽しくなさそう」

 

「なに言ってんだ倉橋」

 

 黙々と同じ作業を繰り返す俺たちを少し引き気味に見ていた倉橋に、三人揃って大げさにため息をついた。「え、面白いの?」とゆるふわ少女は驚いているようだが、驚くところはそこではない。というか、それはちょっと見当違いだ。

 

「世の中には面白くない仕事なんてたくさんある」

 

「楽しい仕事ばっかりだったら世界はワーカーホリックで溢れてるな」

 

「耐える心が大事」

 

「むしろ心がなければ完璧だな」

 

「やはり無心の境地は最強」

 

「な、なんだろ……私仕事に希望を見出せないかもしれない……」

 

 やっぱ仕事ってクソゲーだな。いや、働かないつもりはないんだが。うちの親みたいに社畜にだけはなりたくないね。ちゃんと毎日帰宅できる職業がいいです。

 

「こらっ、比企谷君たち! 妙な道に倉橋さんを引き込むのはやめなさい!」

 

 妙な道とは失礼な。仕事に過度な夢を持たないように気をつけようという至極現実的な話だというのに。

 

 

 

 とまあそんなこんなでうす黄色い実の部分だけ取り出したら、今度はフードプロセッサで荒く砕いて流水に一週間ほど晒してアク抜き。今は利用していないプールを使えばいいから水道代もかからないE組固有のエコロジーアク抜きを終えたら、三日ほど天日干しにして乾かし、それを臼で細かくひく。

 

「これでドングリ粉が完成しました。これを小麦粉代わりに使って、ラーメンを作ってみませんか?」

 

「ラーメン……だと?」

 

 ラーメンと聞いて、本職である村松の肩がピクンと揺れる。殺せんせーが差し出したドングリ粉を一つまみ口に含み、目を閉じてゆっくりと咀嚼し……渋い表情で首を捻った。

 

「ちょっと、厳しいな。味も香りもおもしれえけど粘りが足りねぇ」

 

 普通に小麦粉で麺を作る場合も、基本的に卵などをつなぎに使う。粘りが少ないこの粉で麺を作ろうとすれば普通以上につなぎが必要になる。つまり、粉はただでもつなぎで材料費を消費してしまうというのが村松の見解だった。

 三百円で抑えるには麺だけで金がかかりすぎるという村松に殺せんせーはヌルフフフと笑うと、「それもあります」と校庭近くの茂みに皆を呼び寄せた。茂みの中から引っ張り出したのは少し太いツル。ところどころに薄茶色の小さなジャガイモのような実がついていて……あ、それ鹿を罠猟で捕まえる動画で見たことあるぞ。

 

「このツルの根元を慎重に掘っていくと……ありました」

 

 スコップで根元の土をはらっていた担任が掘り起こしたのは、無数の根毛が伸びて、歪な形をした細長い物体。

 とろろ芋、自然薯とも呼ばれる高級食材だ。天然物はとろろにすると栽培物の何倍もの粘りと香りを出すという。なんか磯貝が変な目の輝かせ方してるけど、大丈夫かな? 今度またおかずをおすそ分けしてあげよう。

 

「自然の山にはどこにでも生えていますし、これを使えばつなぎは申し分ないでしょう」

 

 これで麺の材料は大半が無料で手に入った。現時点で資金はほぼノーダメージだから、その分スープに金をつぎ込むことができる。「なるほど」と呟いた村松の表情は、松来亭の厨房で見るそれだった。ほんとあいつ、料理作ってるときいい顔するよな。

 

「これで作る麺ならラーメンよりもつけ麺の方がいい。癖がある野生的な麺には濃いつけ汁のが相性がいいし、スープが少なく済む分、利益率も高くなる」

 

 ドングリから始まった学園祭の構想がだんだんと現実味を帯びてきた。この山の中にはまだまだ自然の食材があるし、村松と同じく料理が得意な原も、触発されたのか袖を捲り上げてサイドメニューを考え始めているようだ。欠点と思っていた要素が、いつの間にか強みに変わっている。それは俺たちがこの半年ほど学んできたやり方で……なるほど、E組の出展する内容としてはお似合いだ。

 

「それでは村松君はつけ麺作りに集中。岡島君、三村君、菅谷君、挟間さんは保存の利く食材の調達が終わったら宣伝や掲示物の準備に取り掛かりましょう。材料費の調整は竹林君、お願いします」

 

 それぞれ分担作業に振り分けられて、作業に入っていく。さて、俺も魚とかの食材調達に加わろうかなと思っていたが、突然呼び止められて首だけ振り返った。いや、本来俺を呼ぶ呼称ではないと思うんだが、こいつからはそろそろ呼ばれ慣れたというか。うん、そんな感じ。

 

「師匠! つけ麺作りのサポート、お願いします!」

 

「えっ、比企谷君って料理できるの?」

 

 村松の申し出を近くで聞いていた矢田の表情が驚愕に染まる。そうだよね、俺が料理できるようには見えないよね。基本的にうちの食事ってお袋か小町が作っているし、弁当も小町特製愛妹弁当だし。

 

「味見な、味見」

 

 しかもラーメン系限定の味見役。局所的過ぎて役に立たなくない?

 

 

     ***

 

 

 時は少し遡って、ドングリのアク抜きをしている頃。他のクラスが休日も返上で準備をしている中、手持ち無沙汰だったE組は普通に休みだった。どうでもいいけど、手持ち豚さんだったらめっちゃかわいいよね。案外ペット用の豚とかもいるらしいし、手持ちサイズの豚も探せばいるかもしれない。まじでどうでもよかった。

 そんな休日に、俺は小町と一緒に出かけることになってしまった。いや、最愛の妹と一緒にいられるのはお兄ちゃん的にポイント高いのだが、インドアな兄としてはおうちの中で一緒にいたかったなーって。

 以下出かける前の会話。

 

『お兄ちゃん、小町はららぽーとに買い物に行きたいのです』

 

『おう、いってらっしゃい』

 

『……今のは一緒にいこっていう意思表示だったんだけど』

 

『なんでたまの休日に外に出る必要があるんだ……』

 

『休日だからおでかけするんだよ!』

 

『休日は家でごろごろするもんだろ。後一時間ほど走る』

 

『最近のお兄ちゃん、インドアなのかアウトドアなのかわかんないね』

 

『そうか?』

 

『そうだよ! ……っていうか、小町一人でお出かけしたら悪いお兄さんに連れてかれちゃうかも……』

 

『全力でご一緒させていただきます!』

 

 ひどいよね、ずるいよね。妹が危険になる可能性提示されたら断ることなんてできないじゃん! 小町ちゃんまじ策士。

 というわけで、比企谷兄妹ららぽに出没するの巻、である。いや、ほんと普通にららぽに来て小町の買い物に付き合うだけなんだが。

 世の女性というものは服などを買うときに延々と見て周り、ついてきている男に「これどうかな、似合う?」なんて聞くものだが(偏見)、小町もご他聞に漏れずそのタイプである。興味のある服を持ってきては自分の身体に当てて、見せてくるのだ。

 

「ね、お兄ちゃん。これどうかな?」

 

 こんな感じでね? 今小町が持っているのは冬用らしい長袖のパーカー。この世渡り上手な妹は自分の特性をよく理解していて、黄色やオレンジといった暖色系の明るい色を好む傾向にある。今回のパーカーも赤寄りのオレンジで、胸元には白い雪の結晶のワンポイントがあしらわれている。うん、さすがのセンスだ。よく似合っている。

 で、この場合俺の返答はいつも決まっているわけで。

 

「おう、世界一かわいいぞ」

 

「うっわ、適当だなー」

 

 いつもより幾分低い声で呆れられるまでが通常仕様である。しかし、ここは弁明させてほしい。かわいいものを「かわいい」と言ってなにが悪いのだろうか。だって“かわいい”だよ? 古今東西全ての男が戦う唯一無二の理由だってどっかのゲーマー兄妹の兄も言ってたよ? つまり“かわいい”とは概念であり、そこに余計な言葉は必要ない。どっかの戦車道を見に行ったおじさんたちが「ガルパンは、いいぞ」としか言わなくなるのと同じなわけだ。うん、たぶん同じ。

 しかし、これを言ってもうちの妹君には通じないことは分かりきっているので多くは語らない。比企谷八幡は無駄なことに余計な労力を割かないのだ。

 というわけで、特に反論するでもなく次の服に目移りしている妹の後をついていくという、一歩間違ったらストーカーと間違えられて通報されそうな行為に従事していると、店の外の通りに見覚えのあるポニーテールが見えた。迷っているのか、周囲をキョロキョロと見渡しながらその場を行ったり来たりしている。

 

「およ? あれって桃花さんだよね?」

 

 服を物色していたらしい小町も気づいたようで、持っていたハーフパンツを棚に戻して未だキョロキョロしている矢田に駆け寄っていった。女性服の店に男が一人いたら完全に警備員さんを呼ばれる展開になってしまうので、俺もその後について行く。

 

「桃花さん、こんにちはです!」

 

「ひゃっ!? あ、小町ちゃんと……比企谷君。どうしてここに?」

 

 声をかけられた矢田はビクッと大きく肩を跳ねさせた。一瞬臨戦態勢になったのは訓練の結果故仕方がないと思うが、こいつって声かけられてそんなに驚くタイプだったっけ? だいたい倉橋と女子力高いペアを組んでいるし、ビッチ先生の交渉術なんかも積極的に勉強しているから、そういうことには慣れていると思うのだが。

 

「二人は本当に仲がいいね。買い物?」

 

 そんな俺の疑問を一般人である小町の前で聞くわけにもいかずやきもきしていると、逆に矢田の方が質問をしてきた。買い物であることは間違いないな。俺の買い物は一切ないけど。

 

「買い物に来た小町のボディガード兼荷物持ちだな」

 

「またそんなこと言ってー。ひどいですよね? 小町はお兄ちゃんとお出かけしたかっただけなのに」

 

 いやあんた、どう考えても荷物持ち兼ボディガードでしょこれ。そんなうれしいこと言ってもお兄ちゃんはちょっとしか騙されないんだからね! あれ、ちょっとは騙されちゃうのん?

 矢田もどうすればいいのかと悩むように頬を掻いていると、「あ、そうだ」と小町が胸の前で両の手のひらをポフッと合わせた。

 

「桃花さん、この間はまたこのごみいちゃんが迷惑をかけてしまったようで、本当にすみませんでした」

 

「あー……それは気にしなくていいよ、小町ちゃん」

 

 小町が言っているこの間というのは、たぶん偽死神が来たときのことだろう。俺が入院したことを小町に知らせてくれたのは矢田だったようだし、本当に頭が上がらない。ついでに小町が不名誉な呼称を言った気がするが、マジでゴミみたいな失態だから始末に終えない。

 

「それに、比企谷君が無茶しちゃったのは私たちのためだったし、そこはちゃんと理解しないとって思ってるんだ」

 

 そう微笑む矢田の目は、やはり飲み下しきれないものがあるのか揺れているように見える。

 夏休みの暗殺、俺の暴走以降、矢田と俺が関わる頻度は減っていた。無視されるようになったわけではない。時々見られている感覚はあったし、何か言おうと口を開くしぐさを見せるときもあった。きっと、矢田の中で何か思うところがあっての行動だろうと俺自身、なにもアクションを起こすことはなかった。

 

「けど、私は他の皆と違ってすぐには飲み込みきれなかったからね」

 

「……そういうわけじゃねえだろ」

 

 きっと、E組の誰もが俺の無茶を完全に割り切れたわけではない。たぶん、誰もが思うところはあっただろうし、その中で矢田は少し素直すぎたのではないかと思う。素直すぎるから、他の誰よりも悩んでしまった。

 そんな諸々の意味を詰め込んだ「そういうわけじゃない」に矢田は少し目を伏せ、「そうか、そうだね」と口元で音を転がした。

 

「最初は自分が納得できるようになるまで比企谷君のこと、もっと見てもっと知ろうって思ったけど、やっぱりそれはやめる」

 

「おう」

 

「これからは、もっと話して、もっと触れて知っていくから、覚悟してね」

 

 銃の形を作った右の手を俺に向ける矢田の表情には、まだ少し迷いがあるように感じるが、さっきまでに比べればどこかすっきりしているように見えた。

 こんな面倒くさい兄貴分のことを、少しでも理解しようとしてくれる妹分がいる。俺の無茶を、実の家族以外で悲しんでくれる人がいる。それが未だに俺にはこそばゆいようなうれしさを孕んでいて、けどそれを素直に言葉にするのは恥ずかしくて。

 

「……ま、俺を理解するのは小町ですら数年かかったけどな」

 

「このごみいちゃんはなんでそういうこと言うのかな……」

 

 いやほんと、面倒な兄貴でごめん。

 矢田が苦笑の笑みを漏らして、小町がやれやれと大げさなアクションでため息をついて、俺は視線を外してそっぽを向いて。そうやって気恥ずかしさを外に発散させていると、小町が「およ?」と首をかしげた。というか小町ちゃん、そのよくわからないしゃべり方は地なの? かわいいからいいけどさ。

 

「そういえば、桃花さんはなんの用事でららぽに来たんですか?」

 

 小町の質問に矢田の表情が表情筋を凍らせたのかというくらいぴたっと止まり、再起動を果たすとキョロキョロと周囲の店と小町、そして俺を何度も見比べた。そして、ちょいちょいと小町を呼び寄せると耳元でなにやら内緒話を始めた。八幡、蚊帳の外である、

 最初はふむふむと頷きながら聞いていた小町だったが、だんだんその表情が青ざめてきて、最終的には矢田と自分の足元にしきりに視線を往復させるようになった。なにやらうわ言のようにぼそぼそと呟いていて、ちょっと怖い。

 

「ぇ……、まじで? ぃ、いー……が、入らない……いやいやいやいや……えぇ……」

 

 こいつは本当になにを言っているのだろうか。「いー」とは「E」のことだろうか? と言うことはE組のこと? いやしかしそれだと「入らない」の意味がわからん。他に何かあったっけ? ……そういえば、この間別のところでEって言うのを見たような……そう、あれはシロたちが殺せんせーを下着泥棒にしようとして……。

 ……あ。

 思い至ったときには既に遅く、俺の視線は自然と矢田に、正確には矢田の中学生にしてはやけに発育した部分に向いてしまっていた。そ、そうか。入らないのか。小町と一歳しか違わないのに、ここまで変わるものなのか。ほんと、人体って不思議ですね。

 で、女性という生き物は得てして視線に敏感なもので。

 

「っ~~~~!」

 

 矢田は胸元を隠して背を向けてしまった。

 

「ごみいちゃん、さいてー」

 

「待てや愚妹。お前がネタバレしたんじゃねえか」

 

 その後俺を残して小町とランジェリーショップに向かった矢田は無事に目的のブツを購入したのだが、その結果俺は一日中小町から「ごみいちゃん」としか呼ばれなくなってしまった。

 ついでに小町が、豊胸ストレッチとやらを始めて、三日で飽きたのは別のお話。




学園祭突入と久しぶりに矢田ちゃんのお話。
こういうと「お前絶対忘れてただろ」って言われそうですが、矢田ちゃんのことは忘れていません。ただ、出しづらいキャラなのは事実ですが。
確かに普段何気なく絡ませるのはやりやすいほうだと思うんですが、いざメインの話を書こうとすると、八幡との共通点が少ない部類の子なんですよね。だから、ちょっと今まで引っ張ってまじめな話担当として用意してみた次第。

そういえば、今日はちょっと用事があって熊本に来ています。博多熊本間の新幹線は一部徐行運転ですがスムーズに通行してました。九州新幹線しゅごい。
熊本は建物によっては内部が損傷していたり、やはり飲食店はほとんど営業が止まっていて、本日寝床のネカフェもドリンクバーやフード系の提供は停止していました。入ったときにはシャワーも提供休止しててリアルに青ざめたり。途中で再開してたので浴びさせてもらいましたが。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

それは試行錯誤の繰り返しなのである

 目の前に置かれているのは三盛りの麺。自然薯をつなぎにドングリ粉から作られたそれは普通のラーメンの麺とは違って少々浅黒い色をしている。パッと見は三盛りとも同じものに見えるが、よく見るとわずかに色合いやツヤ加減が違ったりしていた。

 

「……それじゃあ」

 

 まずは一番左に置かれた麺に箸を伸ばし、三本ほど掴みあげて――何もつけずにすすり込んだ。

 ズズ、ズズと口の中に麺を吸い込んで、ゆっくりと咀嚼する。プツンと歯が麺を麺を分断するたびにドングリの強い風味と自然薯の香りが口の中から鼻腔に侵食して、嗅覚器官を刺激した。

 もう一度同じ麺を掴み、今度は用意されたつけ汁につけてすすり上げる。麺の表面をつけ汁が膜を作るように多い、そのおかげでツルンと口の中に入ってくる。豚骨ベースの肉食な味が舌の上で踊り、そこに凶悪的なまでのドングリ麺の風味がプラスされた。

 ゴクリと飲み込んで、瞑目する。頭の中で感想をまとめて、その隣、さらにその隣と分量を変えた麺を口に運んでいった。

 

「ふむ……」

 

「ど、どうっすか……?」

 

 三つの麺の試食を終えた俺に、身を乗り出すような体勢で村松が訪ねてくる。その目は真剣そのものだ。この少年は、事料理となると普段のおちゃらけた目をしなくなる。普通にクラスメイトをしているだけだったら。きっと気づかなかったことだろう。

 そんな村松を一瞥して俺は……最初に食べた左の麺を指さした。

 

「これが一番美味い。何もつけなくてものど越しがいいし、スープも一番よく絡まってきた」

 

「なるほど! じゃあ出店する麺はこれで行きましょう!」

 

 それはつけ麺づくりを開始して一週間が経とうとしていた頃の出来事だった。ついに、ついにラーメンの主役である麺が完成したのだ。

 もうこの時点で俺たちの感動は最高潮と言っても過言ではなかった。何度も何度も試作改良を繰り返して、ゆうに五十を超える試作の果てにようやくここまでこぎ着けたのだから無理もない。村松なんて目尻に涙まで浮かべている。

 

「……二人とも楽しそうだね」

 

「っていうか、比企谷なんて最近ずっとドングリ麺しか食べてないだろ。俺ならもう食べたくなくなっちまうよ」

 

 不破と杉野が呆れ交じりに交わす会話が聞こえてくる。確かに俺だって、毎日同じものを食べ続ければ飽きる。いかに美味な小町の料理だって、一週間カレーが続いたときは当分食べたくないと本気でマイシスターに懇願したほどだ。

 しかし、しかしだ。ラーメンとなれば話は別である。千葉の水がマックスコーヒーならば、千葉の主食はラーメンである。米というものは基本的に毎日食べても飽きることはない。つまり、ラーメンも毎日食べても飽きることはないのだ。

 しかし、これはあくまで俺の主観に過ぎない。なぜか知らないがこの教室では一部の奴を除いてマックスコーヒーを水と認識してないし、原に至っては食べ物だとか言い出すから、ラーメンを毎日食べると飽きてしまう千葉県民もいるだろう。だからこの話はここで終えることにする。仕方ないね。

 で、晴れて麺が完成したわけだが……。

 

「ただ、この麺だとつけ汁がいまいち合わないな」

 

 さっき試食に使った豚骨ベースのつけ汁に再び合格点を出した麺をつけてすする。中太麺のおかげでスープはうまく麺に絡んでいるのだが……。

 

「どうも今一つつけ汁が麺に負けてるんだよな」

 

「あー、確かにそれは自覚あったっす。麺が麺だから主張が強いんっすよね」

 

 豚骨ラーメンと言えば、ラーメンの中でもかなりパンチが強い部類だ。それが強烈な風味のドングリ麺に負けてしまっている。この麺を活かすために濃いつけ汁を使うつけ麺を選択したのだから、あっさりめの塩や醤油は論外。味噌も日本特有の風味があって悪くはなかったのだが……。

 

「あ……豚骨醤油はどうだ?」

 

 味噌ベースの時に感じた日本的風味と自然薯入りの麺とのマッチング。同じ日本製調味料である醤油ならば、そしてそれと今ベースにしている豚骨を組み合わせれば。

 俺の提案に、村松も口元に手を当てながら考えて、ゆっくりと頷く。しかし、同時に首を捻って眉間にしわを寄せた。

 

「確かにそれはありかもしれねえ。けど、たぶんそれだとまだパンチが足りねえというか、旨味が足りねえというか……」

 

 麺が一段落したら次はつけ汁。やはりラーメン作りってやつは難しい。どっかの趣味でアイドルやってる農家も年単位で時間をかけるわけだ。

 頭を悩ませる俺たちの耳に、ジューッと何かを炒める音が聞こえてくる。同時に漂ってくるバターの香ばしい香りと、思わず涎が出そうになる強い旨味を孕んでいそうな匂い。

 

「ヌルフフフ、この山には無毒で美味しいキノコが多いですねえ。木の実なども豊富ですし、もっと早く思い至っていればティッシュから揚げなんて食べなくても済んだかもしれません」

 

「あれ生徒としては恥ずかしいんだから、これからはやらないでよ?」

 

 音と匂いの方向に視線を向けると、どうやら原が山で採れたキノコを使ってバター炒めを作っていたらしく、どうやらまた金欠らしい担任教師に振る舞っていた。

 キノコ。菌類に属するグアニル酸という旨味成分を多分に含んだそれは、肉にも魚にも野菜にも出すことのできない旨味を抽出することが……可能。

 

「「そ……それだあ!!」」

 

「にゅ!? 二人ともいきなり大声を出して……ってああっ!! 先生のバター炒めを返してください!」

 

 キノコがつけ麺の具に決まった瞬間であった。ちなみに結局殺せんせーはバター炒めにありつくことはできなかった。

 こんなことを繰り返して、学園祭の商品準備の日々は過ぎていく。

 

 

     ***

 

 

 あっというまに準備期間は過ぎ去って、学園祭本番。渾身を尽くしたE組の出店は……いまいち攻めあぐねていた。

 

「仕方がないよ、比企谷氏。立地の割には十分健闘しているほうだ」

 

 竹林の言う通りだろう。一キロの山道というハンデを負っているにしては客足はそこそこある方だと思う。菅谷のポスターや岡島狭間三村が手がけたメニュー表やホームページの成果は十分に出ている。

 ただ、やはりA組のものと比べるとインパクトに欠ける。プロの演者にプロの商品。そこにアマチュアの料理がハンデ付きで殴り込むのはなかなか難しい。

 

「まだまだ、勝負はこれからですよ」

 

 椚ヶ丘学園の学園祭は二日間。きっと入り込む隙は存在するし、暗殺者はその隙を逃さない。

 今は、じっとその時は待つだけだ。

 

 

 

「よ、矢田。調子はどうだ?」

 

「あ、比企谷君。まあ、まずまずってところかな?」

 

 出店の方はまだ人手が十分ということで、麓の方で客引きをしている矢田の様子を見てくることにした。広報担当だった連中の頑張りも確かにあるだろうが、E組の業績がなんとかギリギリ安定しているのは矢田の交渉力の力も大きい。将来を見据えてビッチ先生から交渉術を一番に学んでいる彼女のおかげで少しでも興味を持った客を確実に呼び込むことに成功していた。男限定だが、頂上に行けば師匠であるハニートラップマスターも控えている。あの不良っぽい生徒たち、めっちゃ貢がされてたけどお小遣い大丈夫なのかな。

 いや、ほんと師弟コンビの隙を生じぬ二段構え怖い。

 

「あら? ドングリつけ麺って……初めて聞くわね」

 

「よろしければ一杯食べて行ってみませんか? 山の幸をふんだんに使ったたぶん日本で食べられるのはここだけのつけ麺です。きっとマダムの話のネタにもなりますよ?」

 

 興味を持った人間を見つけたら自然な身体運びで近づいて、警戒させないように気を付けながら相手に合った売り文句でさらに興味を惹かせていく。あっという間に話に乗ったマダムは寺坂たちが引くリアカーに乗ってE組校舎に向かっていった。

 

「すごい手際だな。俺にはまず真似できねえ」

 

「まあ、女子だからっていうのもあるからね。接待術や交渉術も元々社会でいい第二の刃になるかなって思ってビッチ先生に教わりだしたし、ちょっと早めに役に立っちゃった」

 

 第二の刃。俺がまだE組に来る前の一学期中間試験の時にまだ自分たちをE組だから、百億を獲得できれば勉強なんてする必要ないからとネガティブな考え方をしていた皆に殺せんせーが言った言葉らしい。殺し屋は決して暗殺計画を一つだけにしない。状況が変わったときのためにサブの計画を、メインのそれよりも綿密に計画する。E組で言えばメインの刃が暗殺の刃、第二の刃が勉強を始めとした力達だ。

 

「すごいな」

 

 素直にそう思う。去年の俺なんて、嫌な環境から逃げるためにただひたすら勉強をして、一人中に籠っているだけだった。俺が考えてもいなかった先のことを見据えているこの後輩は、本当にすごい。

 

「そんなことないよ。こうして成長できてるのは、殺せんせーやE組の皆がいるおかげだから」

 

 あの先生がいたから目先の賞金に釣られることなく刃を研ぎ続けた。同じ思いをした仲間がいたから研ぐことをやめずに鍛え続けることができた。そう恥ずかしそうに笑う少女が、やはりそれでもすごいと、俺は思った。

 

「お? ……俺そろそろ戻るわ。なんか殺せんせーが殺し屋を呼び出したせいで店が繁盛しているらしい」

 

 スマホに来た倉橋からのSOSに少々ため息が漏れてしまう。ヘルプが必要な数の殺し屋って、それ一般の人たち来づらくありませんかね? 矢田もある程度落ち着くまで呼び込みを控えようと困ったように頬を掻いていた。

 どうせいるのは大抵が国家機密を知っている連中だし、最短距離の山の中を突っ切るかと駆け出して――ここにいるのは珍しい人間についつい止まってしまった。

 

「浅野、なにやってんだ?」

 

「えっ、あ……比企谷さん……」

 

 図書館以外ではほとんど会うことのない浅野学秀の姿がそこにはあった。いや、観察力を鍛えていなかったらそれが浅野だと気づかなかったかもしれない。浅野はサングラスにマスクをつけて顔の大部分を隠し、わざわざ私服であろう薄手のジャケットに着替えている。足が向かおうとしていた方向は、本来浅野とは無縁のはずのE組に続く山道。

 ほほう、これはこれは。

 

「どうした? うちに用事か?」

 

「……比企谷さんには関係ありません。僕にとってE組など取るに足らない存在ですが、体育祭のように足元を掬われてはA組のリーダーの名折れです。なので、僕自ら敵情視察に来ただけですよ」

 

 なんというか、俺が言うのもなんだがこいつも存外素直じゃない。そもそも敵情視察にわざわざ大将が出向く戦いなんて聞いたことがないんだが……そこを指摘するとそのまま帰っちまいそうだな。敵ながらどうにも最近憎めないこの後輩にも今回のE組の戦法を見てもらいたい、という気持ちがあるのも事実だ。

 さて、そのミッションをこなすために今回はどう接するべきかと考えて、素直に勧誘してみることにしてみた。

 

「じゃあこっちで注文しとくから行こうぜ。あいつらにばれたくないだろうから、普通の席に案内はできねえけど」

 

「……そうですね。比企谷さんにばれたということは磯貝たちにもばれてしまう可能性があります。しょうがないのであなたの提案に乗ってあげますよ、不本意ですが」

 

 ほんとこいつ素直じゃねえな。機嫌を損ねないよう、見えないように苦笑しながら、E組校舎までの案内を開始した。




今日は少し短めですが、疲れがたまっているのでこれくらいで。
文化祭で飲食店出すところってどれくらいあるんですかね? 私のところは中学が飲食関係禁止。高校も簡単な軽食のみだったので、学校全体で二つくらいあればいいほうって感じでした。
文化祭といえば中学三年のときに友人数人でやってバトル物の寸劇が今でも記憶に残っています。皆木刀とか斬魄刀とか持ってるのになぜか一人だけ徒手空拳でした。今思うとなんでそんな武闘派バトルスタイルだったのか……謎ですね。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

暗殺者は数瞬のチャンスを見逃さない

 E組校舎までの坂道はそこそこ険しい部類に入るのだが、俺の隣を歩く完璧生徒会長はさして疲れた様子も見せなかった。武道の心得もあるようだし、体力面は問題なさそうだ。

 

「……ま、タイミングとしては悪くないか」

 

「? タイミング?」

 

「いや、こっちの話だ」

 

 途中でメインの山道をずれて比較的歩きやすい獣道を潜る。さっきまでだったら俺が個人をVIP待遇で別の場所に案内するのは難しかっただろうが、殺し屋たちが大挙して押し寄せてきた今ならば、一般人に裏の人間たちを見られないようにするためということで自然に浅野の身を隠すことができる。そう考えると、確かにタイミングはいい。

 ある程度踏み固めているとは言え十分に足場の悪いけもの道を少し進むと、少し開けた空間に繋がった。雑草に覆われた地面から生える木々はそのいくつかが切り株に変わっている。間伐がてらわかばパークの補強資材に変わった結果だが、今は手ごろな椅子として使えるだろう。

 

「ほいよ」

 

 浅野を切り株に座らせて超特急で受け取ったつけ麺を手渡す。行儀よく手を合わせた浅野は、まずまじまじと麺を観察していた。

 

「……調理法はホームページで確認しましたけど、本当に麺になっていますね」

 

「重曹とか塩とか一部の材料以外は全部ここで採れたものを使ってるぞ」

 

 さすがに古今東西あらゆる食べ物を網羅していそうなこいつでも、こればかりは食べたことがないようだ。だってアク抜きに一週間かかるもんな。普通に考えて材料費はともかく手間暇かかりすぎて誰もやらないだろう。

 ひとしきり観察を終えた浅野は「それでは」と小さくのどを鳴らして麺をつけ汁に浸す。シイタケやシメジなどのキノコ類とネギ、チャーシューを乗せた豚骨醤油スープに触れた麺が、その表面でスープを掬い上げた。その麺を浅野は一度目の前で止めて、豪快にズゾゾっと啜り込む。

 近くの切り株に腰かけている俺の位置にまで、濃厚な豚骨醤油と存在感のあるドングリ麺の香りを漂わせながら浅野は麺を咀嚼して、具材に選んだキノコも少し口に含み瞑目する。

 

「…………なるほど。素直に驚きました。まさか本当にこの山の食材でこれだけの味を用意できるとは。そういえばE組には村松がいましたか。メイン進行は彼ですね」

 

 本当に、こいつのこういうところは父親譲りだ。敵味方関係なく顔や名前、能力を把握している。きっとE組は暗殺者的な奇策を巡らせて、普通ではありえない急成長を遂げていなかったら、どう足掻いてもこいつと勝負をし、あまつさえ勝つことなんてできなかっただろう。

 

「ま、売り上げはA組に負けてるけどな」

 

「あたりまえでしょう。むしろこの立地条件を相手にまた負けたら……」

 

「? 浅野……?」

 

 一瞬、目の前の少年が掴んでいた箸が震え、その目に――いつか見た怯えの色が色濃く表れた、気がした。いや、気のせいではない。確かにその目に映っていたのは怯えであり、恐怖だった。ただ、それが見えたのは本当に一瞬で、すぐに取り繕うような笑みにかき消されてしまった。

 

「いえ、なんでもありません。今回僕たちだって全力を尽くしています。E組に後れを取るような要素はどこにも……ん? あれは……」

 

 自信を表すように言葉を連ねていた浅野の口の動きが止まる。何事かと視線の先、俺の後ろの方を振り返ると――

 

「いやー、学園祭に来てよかったなぁ。まさか渚ちゃんに接客してもらえるなんて」

 

「う、うん……来てくれてありがとね、ユウジ君」

 

 茂みの奥でなぜか渚がスカートをはいていた。ついに女装に抵抗がなくなったのかとお兄ちゃん的に心配になってしまったが、一緒にいる相手は俺にも見覚えがあった。離島で鷹岡から治療薬を奪取するために潜入したホテルで渚に絡んでいたあの男子だ。どうやってかは知らないが、渚の手がかりを掴んでわざわざここまでやってきたらしい。

 

「なぜ彼がここに……。いや待て、それよりもこれは場合によっては……」

 

 ユウジとかいう奴を観察しながらブツブツと何かを呟いていた浅野は、こうしてはいられないと一気につけ麺を完食した。座っていた切り株に器とお金を置くと、すぐさま下山しようとする。

 

「急に慌ててどうしたんだ?」

 

「別に、あくまで可能性を考えて策をさらに練るだけですよ。A組の勝利をより確実にするために」

 

 これ以上そっちに本気を出されたら、ほんと完膚なきまでに叩き潰されるんですが……。げんなりとそう返してやろうかなとも思ったが、浅野の横顔を見て口をつぐんだ。

 

「気をつけろよ? 一瞬でも油断したら食われるぞ?」

 

「それは、今までで百も承知ですよ」

 

 それでは、と駆け出した浅野を見送って、器を片付けるために校舎の方へ向かう。何が原因かはわからないが、浅野のギアを一段階上げてしまうことになったようだ。それはE組にとって脅威のレベルが上がったということなのだが、それが少し楽しみに思えてしまう自分もいて――

 

「俺も、だいぶあの先生に毒されてきてんのかね」

 

「半年も手入れをされていれば、当然と言えば当然ですけどね」

 

 ぼそりと呟いた返答を求めない俺の言葉は、ズボンのポケットに入れていたスマホからあっさり返されてしまった。まあ、こいつのことだからずっと聞いてましたよね。スマホを取り出すと、画面には他のE組女子のように制服にエプロンをつけて、頭にウェイトレスが付けるフリルカチューシャを乗せた律が微笑んでいた。

 

「……あいつらには言うなよ?」

 

「それは浅野さんのことですか? それとも、さっきの独り言のことですか?」

 

「どっちも」

 

 どっと疲れが出て思いのほか低い声になった俺を見て律はクスクスと笑うと、「了解です」と右手を額に合わせて敬礼のポーズを取った。ほんと君、日に日に行動があざとくなっていくよね。AI娘の進化の方向性が間違っている気がしてやばい。しぐさがうちの実妹に近づいている気がするからもっとやばい。

 

「……接客長すぎ。さっさとこっち手伝いなさいよ」

 

 まあ、そこそこの時間浅野と話していたので、顔を出した途端速水に苦言を呈されたのはご愛敬だろう。というか速水、なんかカチューシャが妙に浮いて見えるというか、カチューシャに付けさせられている感が半端ない。いや、似合っていないわけではなくそれが逆に似合っているというか……こいつ後どれだけ属性追加すれば気が済むのん?

 

「すまん。ちょっと特別な客だったんでな」

 

「……小町?」

 

 そこですぐ妹の名前が出るあたり、俺の事わかってんなお前。

 

「小町は明日来るって言ってたぞ。今日は用事あって無理なんだと」

 

 いや、マジで明日でよかった。もし今日、しかも今のタイミングで来られていたら来ている殺し屋全員追い出さねばならなかったからな。そうしないと、小町に弁明できる自信ないもん。

 こら渚、いや中村。ロヴロさんに「マイルド柳生」とかいう変な名前つけるのやめなさい。

 

 

     ***

 

 

「ドングリでラーメンって聞いたときはついにお兄ちゃんがとち狂ったかなって思ったけど、こうしてホームページ見ると普通においしそうだねー」

 

 翌日、朝から行くと言った小町と一緒で電車に乗り込むと、なにやら妹から失礼なことを言われた。

 

「なんで俺が発案者みたいになんだよ。あと、ラーメンじゃなくてつけ麺な」

 

「お兄ちゃんは細かいですなぁ」

 

 いや、細かくはないのだが。いや、俺はどっちも好きですけどね?

 左手で俺の袖を掴んでバランスを取りつつ、三村たちが作ったホームページに目を通している小町は時折、これも食べてみたいなぁなどと感想を漏らしている。小町の身長では背伸びをしなければ吊り革に手が届かないので、お兄ちゃんをその代わりにしている点には目をつぶってやろう。それよりさっきの「とち狂った」ってところ訂正してくれませんかね?

 それにしても……。

 

「なんかやけに混んでるな」

 

 当たり前のことだが、学園祭は土日に開催されている。つまり、いつもは通勤通学ラッシュにぶち当たるこの時間帯も、今日は普通の密度になるはずだった。現に土曜日の昨日は割とスカスカだったし。

 しかし、今日はまるで平日のラッシュ、いや下手したらそれ以上なのではないかという人口密度になっていた。駅に着くたびにどんどん人が入ってくるので、途中から小町も服ではなく俺自体にしがみつくようになったほどだ。

 また駅に着いたが、降りる人間は二、三人で、逆に十数人が一気に乗り込んできてまた密度が上がる。

 

「お兄ちゃ、ちょっと苦しい……」

 

「端のところを陣取るべきだったかもな」

 

 とりあえず身体を丸めるようにして、できる限り小町が窮屈にならないスペースを作っていると、電車のアナウンスが椚ヶ丘駅を知らせてくる。

 そして電車が止まり扉が開くと同時に。

 

「「……え?」」

 

 乗っていた乗客の九割以上がぞろぞろと下車していく。余裕で通勤ラッシュの密度を超えていた車内は急に閑散として、数度車内の温度も低くなったようだ。残っている休日出勤らしいサラリーマンは……羨ましそうにホームを眺めていて――

 

「あ、やべ。降りるぞ、小町」

 

「あっ、そだね!」

 

 呆けていて危うく降り損ねるところだった。それにしても、なにが起こっているのだろうか。昨日浅野が言っていた策という奴だろうか。あいつこんだけの人間動かせるの? やだ、最近の中学生怖い。

 駅を出るのが少し怖くなり、兄妹揃って足取りを重くしていると、マナーモードにしていたスマホが鈍い振動を発生させてきた。取り出してみると、律からのLINEチャットのようだ。小町がいるからしゃべるのは自重したのだろう。

 

 

 (八幡さん、大変です! E組の出店に長蛇の列ができています!)

 

 

「……は?」

 

 思わず間の抜けた声が漏れてしまう。E組に長蛇の列? A組じゃなくて? いや確かにこのままで終わるつもりは毛頭なかったが……なんでそんな急にドングリつけ麺に人が並ぶようになったんだ?

 とりあえず、直接確かめてみた方がいいか。

 

「小町、なんかE組がすごいことになってるらしい。ちょっと急ぐぞ」

 

「わかった!」

 

 さっきの足取りの重さはどこへやら。二人して椚ヶ丘学園、その少し奥にある山の上のE組校舎へ駆け出した。

 

 

 

 山の麓に着くと、マジで長蛇の列ができていた。うっすらと見えるE組の校門から麓の看板、いやそれよりも長く列ができている。よく見ると、なにやらテレビクルーまで来ているようだ。

 

「……こんな偶然、あるもんなんだな」

 

 先に学校に来ていた不破が律と一緒に調べてくれていたようで、原因は案外あっさり判明した。昨日来ていたユウジという男子。渚が男だと暴露して帰ってしまったのだが、どうやらあいつ、今一番勢いのあるグルメブロガーらしい。そのブログが昨日更新され、まさに俺たちの出店のことが書かれていた。

 浅野が言っていた可能性というのはどうやらこいつのことだったらしい。なるほど、確かにこれだけE組に人が来たら、A組もうかうかしていられないな。

 

「あ、比企谷君遅いですよ! 準備手伝ってください!」

 

 いち早く俺を見つけた片岡が大きい身振りで早く来いとせかしてくる。確かに、開店開始まで時間はあまりない。

 

「さて、そんじゃ気合い入れていくか」

 

「頑張ってね、お兄ちゃん! 皆さんも!」

 

 せっかくやってきたチャンスだ。それを活かすのが暗殺者ってやつだろ。

 両の拳を合わせて気合を入れ、俺も準備に取り掛かった。




学園祭、もうちょとだけ続くんじゃ。

ちょっと長くなりそうだから切っただけで、決しておすすめされたぐらんぶるを読んで爆笑してたら書く時間がなかったわけじゃないんだからね!
最近小町出してなかったなと思って小町の描写を入れたら思いのほかいい感じの文量になったという点は否定しない。私の書く小町はやけにお兄ちゃんラブな感じになってしまってしょっちゅう抱き着いてしまっています。やっぱり妹はかわいいな! 

過去作の【やはり妹の高校生活はまちがっている。】や【ある日妹が増えまして】あたりも読んでみてね!(露骨な宣伝

浅野君のところはもうちょっと書いてもいいかなーと思ったのですが、あんまり書きすぎて海老名さんが喜びそうな展開になっても困るので、あくまで控えめな感じで。

麺の材料の重曹云々は名簿の時間の実際にドングリつけ麺作ってみたやつを参考にしました。雑に作らずにリアルに作った奴の感想が見たい。食べてみたいけど、一週間アク抜きしてたら忘れちゃいそうですね。あと水道代やばい。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

全ては縁によって生まれた必然から

「うまぁ。これには食通の小町も思わず舌鼓を打っちゃうよ」

 

 E組提供の料理をハムスターのように口いっぱいに頬張りながら、小町が満足げにもごもご感想をのたまっている。その姿はどう見ても食通というよりも冬眠前のげっ歯類だし、さすがにその歳で食通になるほど食べ歩いていたらうちの社畜二人が発狂するだろうから止めざるを得ない。

 二日目の開店が始まり、有名ブロガーの宣伝効果によってE組の出店は昨日とは比べ物にならないレベルの忙しさになっていた。席は常に全席埋まっていて、全員がほぼフル稼働しなくては供給が間に合わない。厨房代わりの家庭科室からは、時折村松の声が聞こえてきている。まさに店長といった感じだろうか。

 そんな忙しい中、俺は小町と一緒に昨日浅野が食事をしたのと同じ切り株のところに腰かけていた。一応弁解しておくと、決してサボっているわけではない。むしろE組全員から小町のエスコートを任されたのだ。

 俺にとってはもちろんのこと、他のE組の奴らからしても比企谷小町という存在はVIP対象なようで、まず列とか関係なしに最優先で小町に飯を提供することが満場一致で可決した。しかし、そんな特別待遇を他のお客と同じ席でするのは傍から見るとちょっとイラッとするだろう。しかし、校舎内に入れたら入れたで、今日は巨大な栗の姿で机に鎮座している殺せんせーや予備の武器などなどを見られる可能性もある。

 そういうわけで、小町が余計なことを知ることがないように、八幡君は監視役に任命されたのだ。元々高校生の俺が手伝っているというのも見栄えがよろしくなかったというのもあるだろう。やだ、八幡ハブられてる! ハブられた上に妹の監視なんてマニアックなことやらされてる!

 ……コホン。それは置いておくとして、草木の隙間から見える校庭の様子に目を向けてみる。確かに一般の客が圧倒的に多いが、案外本校舎の生徒も来ているようで、制服姿が目に映る。元々上がっていたE組への興味に加えて有名ブロガーの絶賛というお墨付きだ。足を運ぶのも仕方ないだろう。

 

「よう。来てやったぞ、杉野」

 

「お、進藤も他の皆もいらっしゃい。ちょっと待ってろよ。席空いたらすぐ通すから」

 

 ぞろぞろとやってきたのは野球部の連中か。球技大会でハチャメチャな試合を展開したE組と野球部だが、杉野は元々の社交性の高さも相まって、進藤以外とも交流を続けているようだ。というか、野球部自体あまりE組を見下した雰囲気を感じさせない。ごく普通に同級生の出店に遊びに来たといった様子だった。というか杉野、今このタイミングで進藤の諜報能力の謎を聞き出してはくれないだろうか。俺気になって夜しか眠れないだ。普通だな。

 野球部の他にも、本校舎の生徒は大抵誰かと雑談を交わしている。イベントごとに何度も目にしていたあざけりと優越の目はそこにはほとんどない。見下されていたE組が這い上がって、見下していた本校舎の生徒がそれを受け入れている。

 あいつらの頑張りは、行動は――ちゃんと意味を成して結実している。

 

「ふふふー」

 

「なんだよ?」

 

「いや、お兄ちゃん嬉しそうだなーって思ってさ」

 

 隣でモンブランにパクつきながらニシシと笑う妹に、それ以上言葉を交わさずに自分のうなじのあたりを軽く掻いてそっぽを向く。そんな俺の肩をポスポス叩きながら、小町はまた笑う。

 それもまた、楽しい時間に違いなかった。

 

「……ん?」

 

 出店の方の人の声や木の葉の擦れあう音に混じって、なにか聞こえた気がした。それは決して聞き間違いではないようで、ブロロロロというプロペラが回転するような音はどんどんその音量を大きくしていく。草葉の陰から顔を出してみると、割と近いところをヘリが飛んでいた。個人用なのか独特の色合いが施されたそれはまっすぐに本校舎の方に飛んでいき、校庭に着陸したようだ。

 

「……お兄ちゃん、私立って本当に個人ヘリで通学する人いるんだね」

 

「お前のそれは漫画の読みすぎだ」

 

 実際今まではこんな光景見たことなかったし、確かこの学園祭はヘリでの空中からの撮影は許可していなかったはずだから、テレビ局のものでもないだろう。

 じゃあ一体あのヘリは誰が、何のために用意したものなのかと考えていると、校舎裏から小柄な影が駆け寄ってきた。

 

「比企谷、どうやらあのヘリは浅野に用があるらしい」

 

「浅野? ってことはA組にか?」

 

 堀部が持っていた偵察用ラジコンのコントローラーを受け取ると、取り付けられたカメラディスプレイにはちょうど降り立ったヘリ周辺の映像が映っていた。五英傑の残り四人がビクビクしている中、完全に停止したヘリに浅野が近づいていく。

 そしてヘリの扉が開かれて――

 

「あ、この人見たことある! ……え、マジ?」

 

 一緒に様子を確認していた小町が声を上げるのも無理はない。俺だってそこから出てきた人物に見覚えがあった。映画の本場ハリウッドで、しかも最近主役に抜擢されることも多いベテラン俳優だ。この間も来年公開の映画で主演を務めるとニュースになっていた。

 

「確実にするって……そういうことか……」

 

 ハリウッドスターをランドマークに起用する中学生って聞いたことねえぞ。いや、それを言うなら浅野の行動の大半は中学生の域を出ちゃってるんだけどな。

 

「俺たちは今の状態でギリギリ拮抗しているくらいだ。そこにあの爆弾は、こっちにとってかなり厳しいぞ」

 

「そうだな……」

 

 日本で有名なグルメブロガーと世界的に有名な俳優では格が違う。上げるギアは一つかと思ったが、どうやら一気に五つは上げられてしまったようだ。こっちはこれ以上対抗手段は持ち合わせていない。

 

「お困りのようだね、ハチソン君」

 

「誰だよハチソン」

 

 どうしたものかと思考を巡らせていた俺らに助け舟を出したのは、意外なことにここにいる人間の中で一番の部外者であるはずのアホ毛を乗っけた天使だった。

 

「小町に策あり、だよ!」

 

 

 

 そう言って小町が山を駆け下りて数十分後。またE組に来る客足が増え、客層はガラリと変化した。今の客層は、そのほとんどが中高生のようで、列の賑やかさもさっきより数倍増しになり、それが余計に人がいるように錯覚させて来る。

 

「小町さん、やってくれますね」

 

 律が関心するのも分かる。我が妹ながら、あれは化け物かもしれないと思ってしまった。

 

『要は、直接こっちに呼んじゃえばいいんだよ! 小町が友達呼んで、その友達がまた友達呼んでってするの。今日は休みなんだし、きっと皆来るよ!』

 

 そういえば我が妹は一人が好きだけど社交性スキルがカンストしている次世代型ハイブリットぼっちであった。しかも今は生徒会役員で学校内でも顔が広い。そんな小町から広がったネットワークは学校内に留まらず、卒業生や兄弟を通じて他校にも広がっているようだ。直接勧められれば、ブログやテレビを見て興味を持った人間は必ず動く。ネットやテレビに比べれば拡散性自体は低いが、千葉県民をピンポイントに狙ったこの小規模ネットワークは……強い。

 

「妹にここまでされたら、頑張らないわけにはいかないか」

 

「そうだよ、比企谷君。どんどん捌いちゃお!」

 

 不破から渡された商品を持って、俺もテーブルの方へ飛び出した。

 

 

     ***

 

 

「いやー、惜しかったなぁ」

 

「ま、殺せんせーの言う通りだからね。仕方ないよ」

 

 二日間の学園祭が終わり、結果を見てみれば成績は二位。一位は当然ながら浅野率いるA組だ。その下には高校のクラスが並んでいる。

 小町の構築したネットワークで集客は十分だったのだが、残り二時間ほどの時点で肝心の麺が底を尽きてしまった。残り時間をサイドメニューで補おうという意見もあったのだが、巨大な栗に化けていた担任教師から店じまいの指示が出たのだ。

 確かに勝つことを目的にしていたが、その結果山の生態系を壊すことになってはいけない。そんなことをする権利は、俺たちにはないのだから。

 

『この学園祭で実感してくれたでしょうか。君たちがどれだけ多くの“縁”に恵まれてきたことかを』

 

 教わった人、助けられた人、迷惑をかけた人、かけられた人、ライバルとして互いに争い高めあった人。プラスな出会いもマイナスな出会いも、その全てが自分たちの縁であり、自分たちの力になっていた。

 学園祭準備のときに、殺せんせーはこの学園祭を一つの集大成だと言っていた。生態系が多くの縁の結果形成されているように、俺たちの周りも縁でできている。結局今回も、楽しく授業をされていたというわけだ。

 

『比企谷君がこの間貸してくれた漫画にこんなのがありましたねぇ。「この世に偶然はない。あるのは必然だけ」。今回のことは、まさにこれだと先生は思いますよ?』

 

 あの教師、どうやら朝の俺の呟きを盗み聞きしていたらしい。思わずナイフを振りかざしたが、あっけなく避けられてしまった。

 ただまあ、確かにそうかもしれないな。鷹岡が俺たちを脅迫したから、あのホテルで渚とユウジが出会った。その結果ユウジはこの学園祭でE組に来て、渚の本当の性別を知って、開き直ってありのままに記事を書いたからこそ人の目を引いた。いくつもの見えない変数が作り出した、偶然のような必然。

 そう考えると、俺がE組にやってきたのもきっと必然なのだ。二十九人の生徒がここにいるわけも、防衛省の教官がいるのも、十ヶ国語を操る暗殺者の英会話教師がいるのも。

 そして、万に通じているのではないかと思わせる異形の担任教師がいるのも。

 

「にゅ? 黄昏たりしてどうしました、比企谷君?」

 

 マッカン片手に訓練用のアスレチックに座っていた俺の隣に、当の触手生物がマッハで腰を下ろす。それを横目にマッカンを傾けて、喉を潤す。暴力的なはずの甘さは、今は鳴りを潜めていた。

 

「殺せんせー、一つ質問があるんですけど」

 

「はい、なんでしょうか?」

 

「どうしてその身体になる実験を受けたんですか?」

 

「――――」

 

 殺せんせーはそのシンプルな表情を顔に貼り付けたまま、答えない。答えないのはある意味想定済みだ。今までだってそうだった。

 そしてこの後の対応も。

 

「……先生が元人間であると知っている君でも、それは知る必要のない情報です。どうしても知りたいのならば、先生の暗殺に成功してから調べればいい」

 

 まあ、殺される気はさらさらありませんけどねぇ、と触手生物は顔を緑と黄色の縞々にしてヌルフフフと笑う。ある意味一つのテンプレートと化している返答だ。

 本当に舐めきっている時に比べて縞模様の色が薄いのも含めて。

 初めて会った時からわかっていたことだった。この担任教師は嘘が下手なのだということは。だから無理やり変えた顔の色はいつもと違うし、元来の性格なのか触手の影響なのか、ごまかすときはワンテンポ遅れる。そうして隠した顔色の奥の表情は、いつものように笑っているはずなのに、時々苦々しく奥歯を噛みしめているようにも見えていた。

 たぶん、実験を受けた理由は今の先生と正反対の理由からなのだろう。答えを知ったら、きっとおぞましく感じてしまうものなのだろう。

 けれど、たとえそうなるかもしれなくても。

 俺を助けてくれたこの先生のことを知りたいと思うのは、いけないことなのだろうか。

 何も言葉を紡がないまま、甘さの足りないマッカンをまた一口煽った。

 

 

     ***

 

 

 翌日の放課後、俺は図書館に来ていた。学園祭が終わって一ヶ月弱後には期末試験が控えている。エスカレーター式の本校舎生徒と外部受験のE組では三学期のテストは異なるため、この期末がA組と対等に勝負できる最後のテストになる。当然のことながら我らが担任教師は今まで以上にやる気を出していて、明日から本格的にテスト勉強に入ると言っていた。

 だから今日は、当分来ることができないであろう図書館でのんびり過ごそうと思っていたのだが。

 

「…………」

 

 向かい合うようにして当然のように座っている浅野は、何もしゃべることなくじっと机のへりを見つめている。そこにいつもの自信の塊は存在せず、静かな館内にグッと小さく唇を噛む音が聞こえた気がした。

 

「どうしたんだ? 学園祭で高校生をも押しのけて優勝したってのに……っ!」

 

 不快なタイプの沈黙に耐えることができず声をかけたが、顔を上げた浅野の表情に、思わず息を飲んだ。

 

「何か……あったのか?」

 

 その目に、前に見た怯えの他に怒りの色を感じて問うた俺の目を見つめた理事長子息は、ゆっくりと引き結んでいた唇を解いた。

 

「比企谷さん、力を貸してください」

 

 あの怪物を殺すために。




学園祭編終了です。2話くらいの予定が4話になっていたでござる。あれれー? おかしいぞー?

今日は数日ぶりに自宅に帰ることができたのですが、疲れがたまっていたのか数時間ぐっすり寝てしまっていました。せっかくこのシリーズ以外のSSを書く予定だったのに……。

明日からGWですが、多分投稿ペース自体は何も変わらないと思います。
ただ、時間があるときほど怠けてしまうもので、ひょっとしたら毎日投稿ができない場合もあるかもしれません。
そんなときのためにくどいようですが告知用のTwitterの宣伝を。
@elu_akatsuki
よろしければフォローしてみてください。

感想で原作タグの方を「暗殺教室」にするべきでは、という旨のものをいただきました。確かに世界観という点で見ると暗殺教室の比重が大きいのも事実なのですが、やはりこのシリーズの場合は比企谷八幡が主人公なので、このまま「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。」を原作タグとしてやっていこうと思います。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

大切な人の目を覚まさせるために

 明らかに学校内でする話ではないということで、俺たち二人は浅野行きつけの喫茶店に来ていた。奥にある個室を陣取ったため、下手に盗み聞きされる心配もないだろう。

 

「それで、どういうことなんだ?」

 

 浅野が俺にお願いしてきた協力要請。あの怪物、実の父である理事長を殺すための協力。

 いや、理事長の憑りつかれたような異常な教育を殺す依頼だった。

 

「俺は、別に絶対的強者であれという父の方針自体には賛成なんです。そもそもそれは僕が生まれてきてからずっと与えられてきた“教育”であり、あの人の“父親としての愛情”だと思っていますから」

 

 同じ学校にいながら親子としての関係を感じさせない二人。学校でも教育以外ではほとんど会話がないように、家でも他愛のない会話一つない、常に教師と生徒という親子関係。俺からすれば異常の一言だが、当の浅野自身はその関係に満足し、常に父親を超える壁として認識していた。

 きっとそれも、間違いなく愛し愛される親子の絆という奴だろう。

 

「けれど……今年に入ってから理事長の教育は変わり始めました。一学期の中間試験での突然の試験範囲拡大に球技大会での監督代行。それに、一学期期末試験でのA組強化」

 

 今までは勝手にエンドで留まっているだけのE組など、理事長はほとんど気に掛けることはなかった。それが一学期だけで表立って三度の介入。そしてなぜか急激に伸びたE組の成績に浅野は疑問に思わずにいられなかったのだ。

 

「あの賭けはそういうことだったのか」

 

「はい。僕たちが勝ったら、E組がA組に絶対服従する簡単な四十九個の約束事に『A組に対して嘘をついてはいけない』という約束事を紛れ込ませて、E組の秘密を聞き出すつもりでした。ひょっとしたら学校教育以外にやばいことをやっているのかもしれないと思っていたので」

 

 ……いや、うん。確かにめちゃくちゃやばいことに加担しています。しかも口止め料をガンガン請求されているって園川さんも涙目になってぼやいていました。

 あと、お前のその命令が俺には一番怖い。なんだ合計五十個の絶対服従条件って……。

 いや、今はそれは関係ないから置いておこう。

 

「けどE組は想像以上に実力を上げてきていて、お前らは負けちまった。だから俺に接触したってわけだな?」

 

「そういう点も確かにありました。正規のE組ではない比企谷さんなら、警戒されないんじゃないかと。……結局分からずじまいな上に、逆に比企谷さんに色々教わったわけですが」

 

 俺は何も教えたつもりはないんだがな、と返すと、浅野はいや、と首を横に振る。

 

「例えば夏休み明けの竹林の件。あの時比企谷さんが怒らなかったら、多分俺はあれが今までの強者としての在り方と違うと気づけませんでした」

 

 強者であるためには、あり続けるためには時に他者をも蹴落とさなくてはならない。しかし、浅野が今まで受けてきた“教育”はあくまで「自分の力で他者を蹴落とす」ものであり、「他者に虚偽のレッテルを貼って不当に叩き落とす」ものではなかった。

 

「ただ、気づきはしたのに理事長の、僕が今まで受けてきた教育を否定したくなくて、体育祭でE組を叩きのめそうとしました。普通なら簡単に勝てる勝負なのに、わざわざ自分からゴールを捻じ曲げて」

 

 その結果が完全な敗北。E組に勝って磯貝にさらなる罰則を与えることと、E組に危害を加えてその後の試験に影響を与えようとすること。勝手に自分たちの中で勝利条件の難易度を上げてしまった結果まんまとその隙をつかれたのだ。

 しかしその敗北で、浅野は目を覚ますことができた。自分の受けてきた教育を否定するかもしれないことに向き合うことができた。それは浅野だけでなく、五英傑と呼ばれた奴らを始めとしたA組の他生徒たちも同様だ。

 

「だから昨日までの学園祭、僕は僕自身の力と、A組の力全てを使って、自分たちの力だけでE組に完全勝利することに決めていました」

 

「そして、その言葉通り完全勝利した」

 

 おそらく、E組が途中で店じまいをしなくても中学三年A組の優勝は変わらなかっただろう。時間が経つにつれて急遽登場したハリウッドスターのランドマーク能力もどんどん上がって集客力が上がっていたし、E組で食事をした人たちもA組に流れていっていた。おそらく最後までやっても、変わったのは互いの業績くらいだ。

 

「けれど、理事長は俺たちに次いで二位だったE組を見てこう言いました」

 

 ――君たちは害する努力を怠ったのだ。

 

「っ……!」

 

 それは、E組の飯に毒でも混ぜるべきだったと言っているのだろうか。確かに食中毒にでもなれば飲食店であるE組の出店は営業すらできない状態になる。

 しかしそれは、開催元である学園側だって十分な打撃を受けるはずの手段だ。椚ヶ丘学園そのものに悪評が付く可能性も十分にある。自分たちも道連れにE組を叩き落そうなんて本末転倒だ。

 

「僕はE組という制度を十分に理解しているつもりです。あの隔離クラスは本校舎の人間の優越の対象であり、自分はそうならないようにと努力するための生贄であり、それと同時に這い上がるための崖であるはず。現に、毎年数人は成績を戻してE組から本校舎に戻ってきています」

 

 なのに理事長は伸びてきた生徒を必死で叩き落そうとしている。確かに超生物が教育を行う今年のE組は去年までのそれとは違うだろう。それでも、実績重視の私立学校で学校側が生徒を潰そうとするなんて普通はあり得ない。

 そもそも殺せんせーによって変わってしまった現状を元に戻したいのなら、一番手っ取り早いのはE組の担任を解雇すればいい。鷹岡を解雇した時に「この学園の最終決定権は自分にある」と言って優位性を示したのは紛れもなくあの人だし、そうすれば超生物によって高い水準を誇っているE組の教育はガクンと落ちる。二学期頭にそうしていれば、一学期の下地があっても、ほぼ間違いなくA組とはまともに戦えなくなっていただろう。

 けれど、それをしなかった。エンドをエンドのままに残りの九十五パーセントを働き者にする方針を維持するのなら、その方が明らかに合理的だ。三月には部外者になるE組の成績なんて、学校側からしても本来気にするところではないはずだから。

 そう考えてみると、常に合理的に行動しているように見えて、E組に対して理事長は実は最善手を打っていない。確かにE組への妨害や立ちはだかる壁になることはあったが、一学期の球技大会や期末試験、体育祭や学園祭。直接手を下すタイミングはいくらでもあったのにそれをしていない。球技大会に至って異形とはいえ、紛れもなく真っ向勝負だった。

 学園祭の害する努力だってそうだ。本当にそうさせたかったと言うのなら、なぜ客足が急激に伸びた二日目の始めに指示を出さなかったのか。

 俺にはそれが、まるでE組を切り捨てることを拒んでいるように見えてきていた。

 

「そして次の期末に向けて、理事長はA組の全ての授業を教え始めました。……E組への憎悪を糧にさせて」

 

「憎悪?」

 

 理事長がA組の担任になったという情報は、杉野が進藤から得た情報で知っていた。ここに来てまたE組との、いや殺せんせーとの真っ向勝負に出てきたのだ。何をしてでも教育方針を曲げないのならば、もっとスマートな方法はいくらでもあるはずなのに。

 というか、憎悪を糧にした授業とは一体……。

 

「あれはもはや、教育ではなく洗脳です。あの話術で巧みにE組への怒りを増幅させて、ドーピングして得た集中力に勉強を叩き込む。……あんなことをして、凡人が持つわけがない」

 

 敵を憎み、蔑み、陥れることで得る力には限界がある。攻撃的な負の感情というものは思いの外持続性が薄いものなのだ。頭の中ではまだ“憎い”と考えていても、日頃の発散でいつの間にか心は“憎い”という感情を使い切ってしまう。そして、思考と感情のズレは、自分にそのまま返ってくる。それは、俺が一学期のあの日に身をもって体験していたことだった。

 それにしても……。

 

「クラスメイトの心配なんて、お前もだいぶ丸くなったなぁ」

 

「……別に、高校に上がった時に僕の手駒として機能してくれなきゃ困るってだけですよ」

 

「手駒ってお前……」

 

 いやまあ、言いたいことは分かるのだが。球技大会での様子や浅野からの話を聞く限り、理事長の洗脳による教育は同一規格の人間を作り出すものだ。将棋でいえば桂馬や香車などなく、王将以外の全てが金将銀将で埋め尽くされたような布陣。ぱっと見強く見えるが、トリッキーな動きができない分実は脆い。

 

「それに、そんな奴らと一緒にいて、一緒に戦っても……きっと楽しくない」

 

 三年A組のエースとして過ごした八ヶ月を通して、浅野は一つの答えを導き出していた。強敵や心強い手駒――この表現はまあ、浅野だし仕方ないということで――との縁によって刺激を受け、そこで真っ向から戦うことでさらなる高みに自分を進めることができると。弱い相手に勝ったところで強者にはなれないし、まして相手を不当に害して手に入れた勝利など偽物だと。

 それに、やはり苦しみながらも洗脳によって動かされるクラスメイト達を見るのも辛いのだろう。手駒とは言いつつ、本気で他人のことを気遣っているこいつも、間接的にあの超生物に手入れされていたのかもしれない。

 だからこそ、矛盾を起こしている理事長の教育を壊したい。それが浅野からの依頼だった。

 

「……分かったよ」

 

 これだけ話を聞いて、依頼を無碍にするという選択肢は残っていなかった。俺自身、今の理事長のやり方は気に入らないし、それに――

 

「それで、具体的に俺は何をすればいいんだ?」

 

 思考を打ち切って話を進める。

 部外者である俺からできることは限られてる。テストに介入はできないし、理事長に直接接触しようにも俺は存在が危うい。殺せんせーと同じく、あの人の一声であっさりこの学園を追放されてしまう存在だ。浅野にしても現担任である理事長から自宅での自習を言い渡されている。

 内部からの切り崩すのはほぼ絶望的。となると、おのずと外部から壊していくことになるわけだが……。

 

「そういうことなら、俺よりも磯貝たちE組に依頼するべきなんじゃないのか?」

 

 国家機密である超生物のことを知っている人間からすれば、今回の期末試験は理事長対殺せんせーの教育対決だ。ならば理事長の息がかかっていないE組が上位を取ることで明確に彼の教育を否定することができる。そして、今のE組ならそれは十分可能なはずだ。

 我ながら十分現実味のある案だと思ったのだが、それを聞いた浅野は露骨にゴホンと咳払いをすると、手元にあったアールグレイを一気に飲み干した。苦々しげな表情をするプライド高い少年に思わず苦笑を漏らしてしまった。その渋面はストレートのアールグレイのせいなのか、それともE組に依頼することに対してのものなのか。

 ひとしきり喉の奥を震わせた後、椅子の背もたれに体重を預けて砂糖を多めに入れたコーヒーに一度口をつける。マッカンに遠く及ばない甘さが、今は少し心地よかった。

 確かに今まで散々対立してきたE組を頼るのは、浅野にとっても気が引けることだろう。弱みを握られるわけにはいかないとか、いろいろ考えてしまうのかもしれない。

 ただ、あのお人好しどもがそんなこと考えるとは思えないし。

 

「安心しろよ。あいつらはお前が頭を下げるには十分な“ライバル”だからさ」

 

 そろそろこいつらだって同じ学校の同級生として、手を取り合ってもいいはずだから。

 

 

     ***

 

 

「え、他人の心配してる場合?」

 

 翌日の放課後、浅野自らが頭を下げての依頼に、赤羽がんべっと舌を出して挑発していた。すまん浅野、こいつならこれくらいやるわな……。

 しかしまあ、赤羽の挑発も当然のことか。理事長の教育を否定するためにE組が上位を独占する。しかし一位は自分だと言われたら、二学期中間で二位を獲得した悪戯小僧の心中はさぞ穏やかではないだろう。A組の面々を仲間――浅野は手駒と言って聞かなかったが――と言うのなら、浅野学秀にとっての学力における一番のライバルは間違いなく赤羽カルマだ。互いが互いを無意識のうちにライバルだと認識しているからこそ、互いに挑発し合うし、その存在が互いをより高め合う。

 

「浅野の依頼がなくても、俺たちは今まで通り本気で勝ちに行くつもりだったよ」

 

 一学期期末のことを引き合いに出された赤羽が寺坂をサンドバックにしている脇で、うちのイケメン委員長は楽しそうな笑みを浮かべる。本気で暗殺をするときのような真剣な目に、赤羽の挑発でピキッと青筋を立てていた浅野も冷静に合わせた。

 

「勝ったら嬉しくて負けたら悔しい。それでその後は格付けとかなし」

 

 敵も味方も全部一緒くたにして、最後に「こいつらと戦えてよかった」と思える。勝っても負けても、皆が満足できる関係。

 皆という言葉は嫌いだった。明確な枠組みのないその言葉は、自分の意見を無理やり通そうとするためのものだと思っていたから。けれど、ずっと戦い続けてきたこいつらならあるいは、その言葉も現実味を帯びるかもしれない。

 

「余計なこと考えてないでさ、殺す気で来なよ。それが一番楽しいからさ」

 

 「殺す」という攻撃的な言葉。しかし首の前で人差し指を横一文字に切る赤羽の、そこから発せられる受けたことのないタイプであろう純粋な殺気に、浅野はゴクリと息を飲み、楽しそうに、やはり攻撃的に口角を釣り上げた。

 

「面白い。ならば僕も本気でやらせてもらう」

 

 あいつ、あんな笑い方もするんだな。それは、場違いではあるがなんとも自然に出てきた感想だった。

 今まで見てきた浅野の笑みは、営業スマイルかと思うほど貼り付けられたものだった。たぶん、幼い頃から教師である理事長を見続けてきた結果なのだろう。そのせいでいやに大人びていて、正直背筋を駆け上がるものを抑えきれなかった。

 しかし、今浅野が見せた笑みは少年じみた不完全さがあって、でも心の底から楽しそうで――

 

「俺は、今の方が好きかな」

 

 ぽそりと呟いて、ずっとかけているステルスのままE組の集団から外れる。内部からの切り崩す用意はできた。外から切り崩すのは、俺の仕事だ。

 

「またお一人で全部やってしまうつもりですか?」

 

 スマホを取り出すと同時に聞こえてきた声に思わずぎょっとしてしまう。画面に映ったのはやれやれといった表情の律。手に持っている封筒のようなグラフィックは、おそらく浅野から送られてきたメールだろう。

 

「大丈夫だよ。今回は体調も万全だし、前みたいに余計なことまでやるつもりはないからさ」

 

 実際、偽死神の時は無茶をしすぎた。今考えるとあそこまでやる必要はなかったよなぁ。今更言ったところで後の祭りなのだが。相変わらずあいつらのことになると、いまいち自制が効かない。

 それに俺が動こうと思った理由は、昨日の別れ際に浅野が言ったあの言葉。

 

『僕が比企谷さんに接触した理由、もう一つあるんですよ。期末が終わった後、普段は雑談なんてまるでしないあの人が、比企谷さんのことを楽しそうに話してくれたんです。あんなあの人を見たのは初めてで、だから僕も話してみたいって思ったんですよ』

 

 俺自身、理事長に気に入られている自覚はある。息子である浅野が驚くような変化がなぜ起こったのか。それを知りたいという気持ちもあり、その理事長を通して浅野と知り合えたというのなら、その力になりたいと思えたから。

 

「そういう問題ではないんですけれど、……はあ、もういいです。私も手伝いますから」

 

 ため息をついたAI娘はスマホ内にメールに添付されていた資料を展開する。それは過去にあの山の上の木造校舎で運営されていた「椚ヶ丘学習塾」についての資料だった。

 

「昨日の今日でよくこれだけの情報を……」

 

「父親が堂々と学校をサボっていいって言ったからな。昼のうちに家中漁ったらしいぞ」

 

 三年ほど経営されたという塾の授業内容資料から在籍した生徒の名簿、進学先まで情報は多岐に渡る。浅野のような天才ではない俺にはこれ全てを把握するのに数日は要しそうだ。

 

「うぉ?」

 

 眺めていた先で、写真やデータがごちゃ混ぜになっていた資料がみるみるうちに同一のデータに変換され、内容ごとにまとめられていく。最終的に欲しい資料が簡単に閲覧できる新規のアプリが完成していた。

 

「それで、まずはどんな情報が欲しいんですか?」

 

 そして、こちらにはその情報からさらに高速で情報を集めてくれる心強い味方がいる。手伝ってくれるなんて優しいな、と指で額を撫でると、「八幡さんが勉強をおろそかにしないためです。テストが迫ってきているのは八幡さんも同じなんですから!」と怒られてしまった。ははは、こいつは面白いことを言う。さすがに俺だってテスト前に勉強をおろそかにして別のことを重視するなんて……一人だったらやってたかも。

 まあ、こいつがいてくれたら大丈夫かな? ならば、勉強時間も確保できるように手早く作業を進めるとしよう。そう、最初に調べるべきは……。

「この塾に在籍した生徒が今何をしているか、かな」




昨日は投稿をお休みして申し訳ないです。練っては消し練っては消しを繰り返して、一晩置いたり色々していました。

というわけでなかなかの難産だった期末編冒頭です。自分で言うのもなんですが、暗殺教室側で一番キャラに変化が起こっているのは浅野君かなと思っています。あと律。

期末編はなかなかの難産になりそうです。更新が無理な時はTwitterで連絡するので、その時はそっちを確認してみてください。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

教えるということは――

「さあ、それではこの一年の「学」の集大成。決戦の期末試験に向けて本腰を入れていきましょうか」

 

 浅野からの依頼がある前から、この期末試験でのE組の目標は総合上位五十位以内と決まっていた。超生物が担任となって約九ヶ月の間で成長した頭脳と精神力で堂々と全員が本校舎復帰条件である五十位以内に入り、堂々と全員が復帰資格を獲得した上で、堂々とE組として卒業する。だから依頼があったからと言って、やること自体は何も変わらない。

 しかし、それでもあの依頼は発破をかける効果があったようで、皆のやる気は今までの比ではなかった。

 

「殺せんせー、この問題なんだけど……」

 

「こっちの解き方はこういう感じでいいんだよね?」

 

 分身してマンツーマンどころか一人に二人以上の分身を付けた担任に教室中から次々と質問が飛んでくる。ハイレベルな授業を受け続けた頭脳は最小限のアドバイスで不明箇所を理解し、次の問題へと思考を切り替えていっていた。そして、そのハイスピードの追い込みは殺せんせーにとってもだいぶ体力を使うもののようで、分身の形も大きく乱れ――

 

「…………」

 

「ど、どうしましたか、比企谷君?」

 

「いや、殺せんせー余裕ありそうだなと思いまして。……暗殺しながら勉強します?」

 

「にゅやっ!?」

 

 なんで大きく乱れた結果、顔の形が人類の進化みたいな変化してるんですかね? 現代人の形とか胸とへその位置に目とタコ型に尖らせた口を合わせているのがさらに煽り性能を高くしている。その顔ちょん切られたいなら言っていいんですよ? すぐに対先生ナイフ取り出しますから。

 

「よ、余裕なんてありませんし、遊んでいるつもりもありません! ただ、先生ギャグキャラなのでこうやってたまにギャグを挟まないと死んでしまうんです、キャラが」

 

「ネット芸人かなんかですか?」

 

 黙ると死ぬ男とかネタを挟まないと死ぬ男みたいな感じ。いっそどっかのユーがチューブするサイトとか常にニコニコしているサイトで実況者にでもなれば人気が出るかもしれん。ダメか。国家機密がそんなことしちゃダメか。

 

「ま、別に余裕ぶっこいてるわけじゃないのは分かってますよ。あ、ここの解き方なんですが……」

 

「はいはい、これはここの数字に着目するといいですよ」

 

 止まってしまっていた筆が、たった一ヶ所アドバイスをもらっただけで再発進を始めて、ノンストップで答えまで行きつく。苦手と自覚している数学がこんなにスラスラ解けるようになるとは俺自身この教室に入るまで思ってもみなかった。仮に今総武高校に戻っても、授業には十分ついていけるだろう。

 まあ、暗殺が終わるまでは俺だってこの教室を抜ける気はないのだが。

 

「そういえば、比企谷君は今回の目標はどうするつもりですか?」

 

「目標、ねえ……」

 

 そういえばここに来てから受けたテストは、なんだかんだ目標なんて考えていなかった。一学期期末はそもそも自分への自信が皆無だったし、二学期中間はテストなど二の次だった。となると、今回総武高校のテストで初めて目標をつけて勉強することになるわけだ。

 この高いレベルの教室で勉強しているのだから、目標は学年一位と言いたいところなのだが、お節介なAI娘が持ってきた情報によれば、過去三回の定期試験では一位二位は不動になっているようだ。しかも一位は毎回ほぼ満点を取っているとか。どこにでもいるもんなんだな、浅野みたいな奴。

 そこに確実に切り込める自信は未だにないわけで。ただ、この担任教師に今までの成果を見せたいのも事実なわけで。

 

「ま、過去最高の順位が目標ってことで」

 

 濁した言の葉の中に、密かに刃を忍び込ませた。

 

 

     ***

 

 

 授業が終わり、最低限の訓練をこなすとそそくさと帰宅して自室にこもる。ここから先、勉強は一時中断だ。パソコンを開いて、浅野から渡された資料が格納されたスマホのアプリも起動させる。同時にパソコン内のソフトが自動で開き、PDFファイルが表示された。椚ヶ丘学習塾の過去塾生名簿とその進学先、就職先の情報が一覧になって列挙されている。基本的に小学生を中心に教える塾だったようで、大体今は社会人二、三年目や大学院に通っているようだ。

 

「私はこういうことにあまり詳しくありませんが、三年程度経営をしていた個人塾で二百人も塾生がいるものなのでしょうか。おかげで結構時間を費やしてしまいました」

 

 超高性能とはいってもさすがの律にも限界というものはある。膨大なデータを取捨選択しながら収集するのは防衛省のデータベースにハッキングをかけるよりも難しいらしい。いいのかな、防衛省それでいいのかな。

 というか、経営最後の年に至っては一人で百二十人受け持ってるじゃねえか。あの人マジで化け物かよ。

 

「すまんな、お前も替え玉役に勉強教えなきゃいけないのに」

 

 さすがにAIを定期考査に出すわけにはいかないということで、定期考査の時だけ情報本部長の娘、尾長仁瀬が替え玉としてテストを受けていると烏間さんから聞いていた。ただ普通の公立中学に通っている生徒のようで、椚ヶ丘のレベルに合わせるために律が家庭教師をしているようだ。

 

「いえ、仁瀬さんも私を通してずっと殺せんせーの授業を受けていましたし、そこまで稼働メモリを割く必要はないので大丈夫です」

 

 人の心配するなら厄介事ばっかり引き受けないでください、と続けた律は……少し怒っているのだろうか。二学期を通して特に感情表現が豊かになった律を微笑ましく思う反面、なんで怒られるんだろうとちょっと悲しくなった。いや、心配してくれてるんだよね、分かってる。

 

「それにしても、恐ろしい経歴だな……」

 

 中学、高校共にほとんどの塾生が有名私立や進学校に進学し、大学卒業後は有名企業や最近業績を伸ばしている企業へ就職している。まるで椚ヶ丘学園卒業生の経歴を見ているような気分だ。

 創立十年の新しい学校である椚ヶ丘学園は、創設当初から現在の授業形態が確立している。普通に考えれば、塾からさらに事業を拡げて学校経営に乗り出した、と考えるべきかもしれないが、どうも理事長の変化、というよりもE組に対するブレが気になる。その答えがこの塾にあるかと思ったのだが……。

 

「ん?」

 

 データをスクロールした一番下。さすがの理事長も最初から多くの生徒を受け持っていたわけではないらしく、第一期生と括られた名前は三人だけだった。一人は有名企業に、一人は大学院に、そしてもう一人は……。

 

「なあ、律。この『池田陸翔』って生徒、なんで高校で学歴が止まっているんだ?」

 

 その生徒の学歴は高校までで止まっている。当然ながら大学に行かずに就職する生徒もいるだろう。現にパラッと目を通しただけでも高校卒業後技術職などに就職している塾生も目に入る。しかし、律をしても就職先が分からないのはなぜ――

 

「……その方は、既に亡くなっているそうです」

 

「え……?」

 

 俺の質問に瞳の奥を悲しそうに揺らしながら答えた律に、思わず乾いた音が漏れる。高校在学中に死んだ? 事故か何か?

 いや、分かっている。それよりももっと確率の高い死因が頭の中をチラついているのだ。それを無視しようと振り払おうとするが、律の表情を見て、もう逃れられなくなる。

 

「……自殺、か」

 

「……はい」

 

 インターネットブラウザが起動して、一つの新聞記事が表示された。十二年前のその記事のほんの小さな領域。そこには『○○高一年生、いじめにより自殺か』と記されていた。

 十二年前、椚ヶ丘学園ができる二年前だ。そして、椚ヶ丘学習塾がその門戸を閉めた年。これは偶然か?

 

「とにかく、もっと調べる必要がありそうだな」

 

 データだけでは足りない。やはり元塾生の人たちに直接聞いてみた方がいいか。しかし、学園の生徒でもない俺がそんなことまで聞いていいのだろうか。依頼のためとは言え、踏み込みすぎることにはならないだろうか。

 

「大丈夫ですよ、八幡さん」

 

「律?」

 

 行動に移すべきか悩んでいた俺に、パソコン越しのAI娘は優しい声色で微笑んできた。

 

「八幡さんが理事長さんや浅野さん、E組の皆さんのことを心配していることはきっとお話しされる人たちにも伝わります。だから大丈夫です。この九ヶ月、ずっと隣で見てきた私が保証します」

 

 どうやら心配させてしまったらしい。感情を手に入れたこいつも大概お人好しになったもんだと少し笑いを漏らす。とりあえず、求める情報が眠っているのは人の中のようだ。平日はさすがに厳しいから、接触を試みるのは週末あたりになるだろう。

 

「とりあえず、それまでは少しずつ情報を精査しながら勉強か」

 

「数学ならお教えできますよ?」

 

「よし、今日は英語をすることにしよう」

 

「今数学の問題集手に持ってたのに!?」

 

 抗議してくる律をなだめていると部屋の扉がコンコンとノックされる。次いで聞こえてきたのは小町の夕飯を知らせる声だった。時計を見ると確かにちょうどいい時間だし、飯だと聞いた瞬間に腹の減りを自覚してしまった。腹が減っては戦はできぬと言うし、先に飯を食うことにしよう。

 リビングに降りると、ちょうど小町が二人分の料理を配膳しているところだった。親父もお袋も今日も残業か。働くのはいいが、社畜にだけは絶対なりたくない。

 

「そういや、小町がわざわざノックなんて珍しいな」

 

 席についてふと思い至った。この妹は実の兄とはいえ異性の部屋に入るときに全く遠慮がない。躊躇なく扉を開けて侵入してくるのだ。そしてそのせいで俺の着替え中なんかに出くわして、俺が怒られる。やばい、考えてみたらめちゃくちゃ理不尽。しかも全く学習しないで「見る」「怒る」を繰り返すあたり、だいぶ前からおつむが弱いのを露呈させていたんだなぁ。

 

「ふぇっ!? ほ、ほらあれだよ。お兄ちゃん試験に向けて勉強頑張ってるみたいだし、やっぱそういう時に無遠慮に入るのはどうなのかなって小町も思ったわけですよ」

 

「なぜ敬語」

 

 何気ない質問だったのだが、なぜか嫌に狼狽した小町に首を捻りつつ、手を合わせて食前の挨拶を済ませてから純和風然とした夕食に箸を伸ばす。そして、妹が作った料理に舌鼓を打ったことで大事なことを思い出した。

 

「試験と言えば、小町の試験勉強も手伝ってやらんとな」

 

「ゲッ……」

 

 その低音濁音ボイスは女の子が出すべき声ではないと思うんだけど。色々あってすっかり忘れていたが、マイマザーから仰せつかった比企谷小町改造計画を確認しただけだというのに、そんな反応をされると八幡泣きそうになるぞ。

 

「や、でもほら。小町のせいでお兄ちゃんのが勉強を疎かにしちゃうのもどうかなって思うんだよね。あ、今の小町的にポイント――」

 

「大丈夫大丈夫。むしろ教えることでお兄ちゃんの理解力も上がるから」

 

「あっ、はい……」

 

 なんか小町の目が死んでるんですが、やばい全然かわいくないし元がアホだからDHA豊富そうにも見えない。

 しかし、実際に教えるという行為は勉強において大きな意味を持つのだ。特に十分に理解していると思っている分野では。

 

 

     ***

 

 

 期末に向けた学校での勉強では、今までの試験勉強と毛色の違う時間が存在する。

 

「じゃあ、よろしくお願いします! はっちゃんせんせー!」

 

「やべえ、馬鹿にしてるようにしか聞こえない」

 

 そもそもテスト範囲は通常の授業で網羅しているし、授業以外でも皆積極的に質問している。そこで授業の半分を「生徒が生徒に教える時間」にあてることになった。教えるということは相手以上に自分がその分野について理解している必要がある。自分では理解していたつもりでも相手に教えるとなると存外難しく、どこが分かっていなかったのか、どこをより重点的に理解するべきなのかが分かる。やってみると、授業とは教師と生徒、相互の勉強の時間なのだと思えた。

 で、今は俺が国語を担当する時間なのだが、実は国語教師が一番難しいのではないかと思えてきていた。数学のように常に明確な答えが存在するわけではなく、読解問題なんて大筋は似ていても回答内容は人それぞれで、どこが減点対象になるかの判断も難しい。むしろ教えながらなぜ俺は国語が得意なのか疑問に思えてきていた。

 

「けど比企谷君の授業、分かりやすいよ?」

 

「ああ、一緒に勉強してた時も思ったけど、コツを押さえてる感じだよな」

 

 矢田や千葉がフォローを入れてくれるが、俺としてはいまいち納得できないし、殺せんせーや烏間さんのように堂々と教えることはできそうにない。

 そう考えていたが、そういえば鷹岡に渚をぶつけた時の烏間さんは悩んでいたよなと思い直す。ビッチ先生もずっと悩んでいたようだし、けれどそれをあまり表に出さなかった。それに、殺せんせーだって必死に隠そうとしているが時折悩んでいるように見える。

 案外、教師ってやつは悩んで悩んで、それでも生徒に悟られまいと堂々とふるまおうとしている生き物なのかもしれない。

 

「は……あんたのくせに答えがめちゃくちゃ綺麗なのはちょっと気持ち悪いけどね」

 

「速水……ひどくない?」

 

 まあ詰まる所、俺は教師というものに向いてはいなさそうだ。ただ、今は教える立場。ならば俺なりに、必死に堂々としてみよう。




祝! 50話到達! ☆-ヽ(*´∀`)八(´∀`*)ノイエーイ

過去こんなに一つのシリーズで続けたことがなかったので、改めて50話も書いたことに自分で驚いています。クロスオーバーだということを除いてもすごい(自画自賛

昨日もあとがきで書いたのですが、期末試験編はなかなかの難産になりそうです。今までも新しい要素を追加したり、展開を変更したり試行錯誤はしていましたが、今回は今までの非じゃないです。やばい。
そして難産しているせいもあって、せっかくのGWなのに感想の返信もろくにできていません。ちゃんと目は通しているので、また落ち着いたら返信しようと思います。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

きっと今の環境は

 その後も平日は殺せんせーによる集中講義と生徒同士の相互授業、時々身体をなまらせないように訓練を交える日々だった。殺せんせーはそれぞれに合ったテストでの取り組みパターンを提示してきたり、各生徒が自分なりに編み出した学習法も参考になる。岡島の『エロで覚える歴史』とか、悔しいことにびっくりするくらい分かりやすかった。もう本当に悔しいんだけど、インパクトがありすぎて頭から覚えたことが離れねえんだよな。

 それに、そうして同じ空間で勉強をしていると結束力が上がっているような気がする。勉強なんて個人競技だと思っていたが、E組で勉強をしていると案外団体競技なのかもしれないと思えてくるから不思議だ。結局のところ、ターゲットが違うだけで勉強も暗殺も大差がないのかもしれない。

 そして放課後になれば理事長の教育を殺すための勉強だ。足りない資料は律にネットで集めてもらい、時間を見つけて目を通していった。

 

「八幡さん、そろそろ小町さんの勉強を教える時間では?」

 

「ん? ……もうこんな時間か」

 

 律に言われてディスプレイの右下に表示されたデジタル時計を確認すると、確かにそろそろ小町に勉強を教える時間だ。ついさっきまでまだ一時間あると思っていたのに、時間の進みが早すぎて苦笑してしまう。隣の部屋で頭を悩ませているであろう妹のために、ずっと同じ姿勢を維持していた腰を上げて――

 

「あ、そうだ律。ちょっと調べてほしいことがあるんだけど」

 

「はい? 椚ヶ丘学習塾について以外で、ですか?」

 

 コテンと首を傾げた律は、調べてほしい内容を伝えるとハッと目を見開いた。

 最近になって手に入った新しい情報も多い。その中で新しい疑問も生まれてきた。だからこそ、この情報収集には十分な意味があるはずだ。

 律によろしく頼む、と伝えて部屋を後にする。廊下を出てすぐ隣の扉の前に立ち、ドアノブに手を伸ばしかけて――手の甲でコンコンと扉をノックした。俺の部屋には無遠慮に入ってくるくせに、自分の部屋に入るときはノックをちゃんとしろとは我が妹ながらなかなか太い神経をしていると思う。

 ノックをして数瞬待つと、「はーい」と声が聞こえてきたので今度こそドアノブに手を伸ばす。クイッと捻って中に入ると、勉強会用に引っ張り出した丸テーブルに教科書が広げられていた。ノートを見る限り、一人の間も少しは勉強をしていたらしい。

 

「じゃ、始めるか」

 

「はーい。よろしくお願いします、お兄ちゃんせんせー」

 

 やばい、超うざい。マイシスターをこんなウザキャラにしたのはどこのどいつだ。「せんせー」のところが完全にトレースだったから犯人は倉橋だな。おのれ倉橋……。

 

 

 

 勉強を教えると言っても、さすがにE組でやっているような似非授業をやるわけではない。基本的に小町が教科書や問題集の問題を解いて、分からないところを随時俺に聞く方式だ。質問がない間は俺も自分の勉強をしているので、実質普通の勉強会と言っても差し支えない。

 いかにエスカレーター方式で普通の中学校よりも進みが早いと言っても、さすがに十二月ともなると高校とのペースはまるで違ってくる。その部分は、殺せんせーの個人授業と自主学習で補わなければならない。今は今回のテスト範囲の中でも新しいところを重点的に復習しているところだ。

 

「…………」

 

 ふと視線を感じて顔を上げると、妹が教科書を持ったままポケーとアホっぽい顔で俺の顔をまじまじ見つめていた。首を傾げてみると、鏡越しの光景のように同じ方向にコテッと頭を転がしてくる。かわいい。

 

「……何、どうした?」

 

「いや、お兄ちゃん真面目だなーって思ってさ」

 

「おう、久々にお兄ちゃんのデコピン食らいたいならそう言えよ」

 

 この一年で指の力も強くなったし、たぶん今ならめちゃくちゃ強いデコピン打てる。豆投げつけるのと実弾ぶっぱなすくらい火力差ありそう。やだ、小町のきれいなおでこに風穴空いちゃう!

 シャーペンをテーブルに置いて右手をワキワキさせると、小町は顔を強張らせながらバッと両手で額を押さえた。実際にデコピンをするつもりはないんだけどね。お前案外反応速度早いな。

 

「いやー……真面目なのは元からなんだけどさ。去年受験勉強してたお兄ちゃんって、なんかつまらなそうに勉強してたけど、今はちょっと楽しそうって言うか、前向きな感じだよなーって思ってね」

 

「前向き、ね」

 

 確かに受験勉強は至極つまらなかった。元々学力の高いところに行きたいというよりも、中学の連中が誰も行かないところに行きたいと思って勉強していたのだから、当然と言えば当然だろう。

 それに、今はあの時とは環境がまるで違う。

 

「先生もクラスメイトも、他にもいろんな人に会ったからな。中学の頃に比べると恵まれすぎた環境だ」

 

 いや、結局のところは、中学の頃の環境だって本来ならそこまで悪いものではなかったのかもしれない。俺の踏み込み方が悪かっただけで、少し違えばあるいは今みたいな生活もできたのかもしれない。ただ、それにしては今までの環境は失敗が許されなくて、結局俺はそれが怖くて成長の機会を全てスルーするようになったのだ。

 そういう点でも、やっぱり今の環境は恵まれすぎている。失敗しても離れてしまうどころか皆寄り添って考えてくれるし、次はどうすればいいかを一緒になって考えられる。そんな今が楽しくないわけがないし、こんな楽しさを知ってしまったら、きっともうプロぼっちになんて戻れないんだろうな――

 

「あれ……?」

 

 失敗してはいけない。それは浅野が言っていた言葉に似ている。

 それに、体育祭の後に浅野が理事長に言われたという言葉。

 

『負けたというのに君はどうして、死ぬ“寸前まで”悔しがっていないのかな?』

 

 浅野が敗北や失敗を恐れる理由は理事長の教育故だ。そしてその話をされた時に聞かされたという理事長が空手の黒帯を三日で倒した時の話。次負ければ自分の人格を保てずに発狂死してしまうとまで考えて自分を追い詰め、空手師範を倒したという理事長自身も、敗北への強い恐怖を抱いていた。

 失敗から学ぶことは大きい。現に失敗や敗北によってE組に落とされたあいつらは、そこから得た力で立ち向かおうとしている。しかし、取り返しのつかない失敗をしてしまえば学ぶ前に人生が終わってしまうのも事実だ。その可能性を恐れて失敗を一切させないという方針も理解はできる。

 ――いや待て、ちょっと待て。一度頭の中の思考部分をリセットして再度思考を巡らせる。

 確かに最悪の失敗をさせないために一切失敗をさせない方針自体は分かる。けれど、そんなことは不可能だ。あの化け物みたいな理事長はならともかく、普通の人間が失敗しないなんて無理な話だし、聡明な理事長なら理解しているはず。その人がその夢想を求めて狂気に囚われてしまうほどの失敗って……。

 

「……まさか」

 

 音を紡がずに舌の上で転がした言葉は、もう一度身体の中に飲み込まれて、腹にストンと落ちてきた。

 

「お兄ちゃん、どったの?」

 

「っ……いや、なんでもない」

 

 小町の声に頭を切り替えて意識を現実世界とリンクさせる。キョトンとした表情で俺の顔を覗き込んでいた小町は、ハアと息を吐くと教科書を閉じた状態でテーブルに置いて、カーペットに後ろ手をついて後ろのめりに姿勢を崩した。

 

「まったく律さんに手伝ってもらってるからって、勉強以外も頑張ってるから疲れてるんじゃない?」

 

「いや、夜更かしはしていないしだいじょう……!?」

 

 ぶ、と続けようとして、驚きのあまり喉がググッと妙な音を立てる。空気が逆流して、あやうくむせるところだった。

 

「なあ、小町。俺が勉強以外に何かやってるって、なんで知ってるんだ?」

 

「ぁ……」

 

 「あ、やべえ」って顔をして視線を逸らしてももはや遅い。理事長について調べているときに部屋に入ってきたことはないのにいつ気づいたのかと記憶を掘り返してみたら、そういえば最近になって俺の部屋に入るときにノックをするようになったな。なるほど、あの時か。

 俺の目を見て観念したのか、小町は中途半端に倒していた身体を完全にカーペットに倒す。実の妹の思考は大体分かるから、どうやら俺の予想が正解ということも目を見て理解できた。

 

「……お兄ちゃんがなんか勉強とは別のことやってるのに気づいたのは、お兄ちゃんの予想通り小町がノックを始めたときだよ。いつも通り部屋に入ろうとしたら自殺だなんだって言ってたし、パソコンには明らかに勉強とは関係なさそうなリストみたいなのが映ってたもん」

 

「なるほど」

 

 まあ、具体的なことは分かっていないようだ。その点はほっとし――

 

「それに……律さんってエーアイってやつでしょ?」

 

「ゴフッ!?」

 

 今度こそむせ込んでしまった。何度もゲフッ、ゲフッと変な音を出しながら「なんで」という視線を小町に向けると、妹はもう一度大きくため息を吐きながら身体を起こして、両手で頬杖をつきながら横目で俺の視線に合わせてきた。

 

「律さんって小町がコンタクト取る筆頭だし、それなのに直接会ったことはないし。この間お兄ちゃんのパソコンに律さんがいて、勝手にブラウザとかが起動するのも見ちゃったからね」

 

「……そういうことね」

 

「それだけじゃないよ? お兄ちゃん律さんのこと『病弱だから』って言ってたけど、そのときのお兄ちゃん、嘘ついてる目だった」

 

 お兄ちゃんが小町のこと分かるみたいに、小町だってお兄ちゃんのこと分かるんだから。とそっぽを向く妹は、どうやら拗ねているらしい。俺の一番の理解者は、俺の仲間を紹介されなかったことがだいぶ不服だったようだ。

 

「……悪いな」

 

「別にいいよ。お兄ちゃんが隠すってことは、何か事情があるんだろうし」

 

 口では許しつつ、その声色はやはり納得がいかないようで幾分の“いじけ”が入っていた。実際、自律思考固定砲台という存在も世界的な機密事項に入る。律の存在から殺せんせーにつながる可能性を考えると、安易に紹介できる人間ではなかった。

 それでも、嘘だと分かっていてずっと何も言わなかった妹には非常に心苦しい気持ちがあるわけで。

 

「嘘を吐いたのは俺だし、今度なんか埋め合わせしないとな」

 

 頭をクシャッと撫でると、小町は気持ちよさそうに目を細めて、けれどキュッと一度瞼を閉じ切ると、縦に振ろうとした首をゆっくり横に振った。

 

「そんなことしなくてもいいって。ただそれなら、絶対無理しないでよ? また倒れたとかなったら、次は小町も怒るからね」

 

「おう、律の監視もあるし、それくらいなら任せとけよ」

 

 あいつらを心配させるわけにもいかない上に妹にもここまで言われたら、終わった後に倒れることなんてできないな。全力で、けれど無茶をしないようにという気持ちを乗せて、さっきよりも少し強めに妹の頭を撫でた。

 

「あ、あと改めて律さんも紹介してよ?」

 

「……それは、また今度な」

 

 正確には暗殺が終わってからかな。というか、暗殺教室のことがばれたら小町に怒られるのではないだろうか。ひょっとして律のことを紹介できないのでは……?

 それ以前に、小町に律のことを口外させないように口止めしておかないと。一応烏間さんにも報告しておくべきかしら。まさか小町の記憶消去とかしないよね?

 

 

     ***

 

 

 烏間さんに報告したら、盛大にため息を吐かれながら「絶対に他言しないように言い聞かせなさい」とだけ言われた。どうやら小町の記憶改ざんは免れたらしい。すみません、烏間さん。厄介の種増やしちゃって。

 そんなこんなで律と一緒に烏間さんに平謝りしたりした平日を終えた週末。俺は久しぶりに千葉を離れて東京の方に来ていた。

 

「わー、千葉も十分都会だと思っていましたが、やはり東京は首都なだけのことはありますねー」

 

 コートのポケットからスマホのカメラだけを出して風景を眺める律が聞き捨てならないことを言っていたが、残念ながらこれだけ人が多いと安易に声を出すこともできない。ここで律にツッコミでも入れようものなら、独り言をしゃべる変人だと思われてしまう。おのれ律め、東京だって西の方は田舎っぽいんだからな!

 在来線を神田で降りて、律が表示した地図に目を落とす。目的地は少し歩いた先にある高層マンションだ。

 

「一応会社の方を調べてみましたが、今日は間違いなくお休みのようです。マンションの監視カメラを見ても、お出かけしている様子もありません」

 

 お前もびっくりするくらいナチュラルにハッキングするよね。ありがたいし、正直もう慣れたまであるんだけど、そこまであっさりとやられちゃうと日本のセキュリティがガチで心配になるんですよ。

 休日ということでそこそこ込んでいる神田の街をスルスルと抜けていく。こういう時訓練で得たスキルは役に立つ。中学の時なんかも人の隙間を縫ってデビルバットゴーストごっことか一人でしていたが、しっかりと技術を習得した今ではごっこではなくマジでできそうで怖い。いや、やんないけどさ。

 ほどなくして目的地である高層マンションが見えてくる。ここ家賃どれくらいなんだろう。ここに一人で住めるというだけでも、あの人の教育の成果が見て取れた。

 

「ここの902号室がターゲットのお部屋です」

 

「この場合はターゲットというよりも聞き込み対象な」

 

 いやまあ、大体合ってはいるんだが。

 入口の扉を開けると、セキュリティロックのかかった自動ドアが目に入る。その隣には呼び出し用のインターホン。

 さあて、大丈夫かな。結構込み入った話まで聞きたいところなんだが、俺でちゃんと聞き出せるかな。やばい、いざここまでくるとめちゃくちゃ不安になってきた。帰りたい。

 ただまあ、ここまで来て本当に帰るわけにもいかないわけで、十二個のボタンから「9」「0」「2」を押して、一瞬瞑目すると「呼出」と記されたボタンを押した。どこかのコンビニのオマージュのような軽いサウンドがインターホンから聞こえてくる。

 

『……はい』

 

 サウンドが四回ほどなったあたりでブツッという音と共に女性の声が聞こえてくる。インターホンに表示された部屋番号をもう一度確認して、すっと軽く息を吸い込んだ。

 

「突然すみません。森さんのお宅で間違いないでしょうか」

 

『はい、そうですけれど』

 

 ここまで来たら下手な小細工をしても意味がない。接触できても聞きたい内容が聞けなかったら意味がないのだ。

 だから、一番聞きたい内容をそのまま言おう。

 

「比企谷八幡と言います。あなたが通われていた椚ヶ丘学習塾、そして浅野學峯さんについてお話が聞きたいのですが」

 

『――――――――』

 

 インターホン越しからの声は、すぐには返ってこなかった。

 




今日はここまでです。期末試験編と言いつつ期末試験あんまり関係ない気がしてきた。いやあれですよ。八幡は門スターと戦わないからこういうところで魅せて行かないとみたいなところあるんですよ。
どの道、あのテストしてるのか決闘してるのかよくわかんないシーンを文章にするのは難しそうなんで、こっちの方が楽なんですけどね。

東京はぶっちゃけコミケの時くらいしか行った記憶がないうえに、大体上野御徒町秋葉原くらいですべてが完結してしまっているので路線とか全然覚えていません。国際展示場までなら任せて! って感じなんですが、あの入り組んだ路線覚えられる気がしないんですよねw
なのでまっこと申し訳ないんですが、そこらへん色々端折っちゃいました。コミケ以外で東京に行って、大体の地理感とか空気感を自分の中に取り込みたいところ。あと千葉。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

無表情の奥に見えるもの

 一ヶ月前から着手した期末試験の勉強期間も瞬く間に過ぎていき、椚ヶ丘中学校は現在試験の真っ最中だ。総武高校の期末試験は一週間後なので、俺は先生たちと一緒にE組の教室で久しぶりに普通に読書をしていた。「比企谷君は一度やる気を出すと根を詰めすぎるきらいがあります。定期的に息抜きをすることも覚えましょう」という殺せんせーの教えにより、今日の昼間は読書タイムということになった。読書タイムって言い方だと小学校感あってなんか嫌だな。

 読書のついでに今あいつらが解いているテストに目を通してみたが、一学期期末よりも難易度が跳ね上がっていた。まず問題が鬼のように多い。その上一問一問の難しさも上がっているのだから始末に負えない。おそらく、最後の問題まで行きつける人間は、最難関進学校の椚ヶ丘と言えども半分がいいところだろう。

 

「どっちの教育が正しいか、白黒はっきりさせようってことですかね」

 

 高校受験でだってここまで難しい問題はないであろうテスト用紙をひらつかせると、殺せんせーはそうですねぇと間延びした声で肯定してくる。

 

「彼は自分の作り上げた教育に、絶対的自信と正義を持っています。それは日本に名を轟かせる椚ヶ丘学園十年の歴史という実績故でしょう」

 

「後は……過去の失敗故、ですかね」

 

 続けた俺の言葉に柔らかい首を捻る殺せんせーをよそに、スマホを操作する。途中で俺が何をしようとしているのか理解した律が作業を引き継いで、一つのアプリに圧縮されたデータを殺せんせーのスマホに送り込んだ。ブーと低いバイブの音に気付いた担任教師は自分のスマホを開き、驚いたように小さな目を一回り大きくした。アプリ内の情報には、浅野から提供された資料の他に律が収集したデータ、そして俺が聞き込みを行った情報も入っている。

 椚ヶ丘学習塾第一期生である森さんや永井さん、それに他の元塾生数名から聞いた話を総合すると、やはりあの塾の教育方針は今の学園のものとは違っていた。特に一期生の二人は人数が少なかったせいか、その方針をよりはっきりと聞かされていたらしい。

 

「『良い生徒』を育てる。それぞれの『良い』を伸ばすための教育。それが、浅野學峯の元々の教育だったそうです」

 

 どういう過程で人を育てるという道に進むことにしたのかは理事長本人にしか分からない。しかし、十数年前の理事長は確かにその教育理念を信じ、教えるために自分自身が全ての「良い」を熟知しようとした。元々の化け物のようなスペックがなければとても無理だろうが、それでもその信念があったからこそ、今の万能な浅野學峯という人間の基礎ができたのだろう。

 当時廃校になっていたこの校舎を借りて、雑音のない環境で各自の長所を存分に伸ばす。もちろん長所があれば欠点も存在する。それをケアし、将来社会で遺憾なく長所を発揮できるような、思いやりを持ち、自分の長所も他人の長所も理解できるような、そんな生徒に育てたいと、中学受験のための勉強だけでなく山の自然を使った散策などいろいろやっていたらしい。

 

「ふむふむ、やはりそうでしたか」

 

「気づいてたんですか?」

 

 どこか納得したように頷く殺せんせーは、どうやら俺と同じ疑問を持っていたらしい。

 

「本当にE組が理事長にとって“ただの見せしめ”ならば、先生が伸ばしたところを刈り取ってしまえばいいですからねぇ。自分で任命権があると言っておきながら教育方針をぶち壊している私に何もしてこない時点で、同じ教育者として確信めいた答えが浮かんでいました」

 

 ――きっと先生の教育は、理事長が目指しているものと同じなんだとね。

 

「そうですね。きっと、あの事件がなければ、理事長は今でも『良い生徒』を育てる教育を続けていたんでしょうね」

 

「あの事件? ……これは」

 

 律が超生物のスマホに関連資料を表示したのだろう。口をつぐんでじっと資料に目を通している。

 もう一人の第一期生、池田陸翔さんの自殺。中学、高校と質の悪い先輩から暴力を受け、金銭もむしり取られていたらしい。抵抗することなく、誰にも告げることもなく、自ら命を絶った教え子。きっと理事長は、こう考えたはずだ。

 自分の教育が間違っていた、と。

 当時の塾生は、ある日を境に先生の雰囲気が変わったと言っていた。常に険しい表情をしていて、ただひたすら自分たちに勉強を教えていたと。

 そして最後の塾生たちを志望中学に合格させると理事長は塾を閉め、あらゆる強さを探求した。データでしか調べられなかったが、武道、スポーツ、格闘技などおよそ強いを自覚できるものは網羅していたように見える。自分の教育で三年で死んでしまう生徒を生んでしまったという意識が、他人を蹴落としてでも生き残ろうとする強い生徒への渇望に繫がったのだ。

 

「けれど……」

 

 けれど、それでも無意識のうちにE組を用意することで本来の教育を続けているとすれば。

 

『確かに、テレビや雑誌で見る浅野先生はどこか昔と違っていました。でも、私たちのネクタイピンはいつも忘れずにつけてくれていて、私たちのことを忘れたわけじゃないんだって』

 

 理事長がいつもつけている椚の葉のネクタイピン。それは一期生が塾を卒業するときに彼に贈ったものなのだそうだ。それを彼はいつも身に着けている。それは亡くなった池田さんへの楔なのか、それとも……。

 

「……まあ、一ヶ月じゃ俺に調べられるのはそれくらいでした。まともに動けたの休日だけでしたし」

 

 スマホと本を机に置いて、背もたれに体重を預ける。ググッと肩を伸ばして体勢を元に戻すと、殺せんせーはススッとスマホをスライドさせて内容を確認していた。紙媒体ならもっと早く見れるんだろうけど、かさばるからね。許して。

 

「ちょうど先生も理事長の昔のことを調べようと思っていたので、この資料はありがたいです。比企谷君が聞いてない人には先生が聞いてきましょう」

 

 しかし、と言って担任教師は顔色を紫に変えてバツ印を表示させる。

 

「勉強以外もやるなんて無理をしすぎです。目標達成できなかったらどうするんですか」

 

 まあ、確かにあいつらに比べたら勉強時間は多少減ってるからな。怒られるのも無理はない。

 

「大丈夫ですよ」

 

 ただまあ、ある意味この調べ物で俺の意識も少し変わることになったわけで。恩師“達”のためにもここで無様な結果なんて晒すわけにはいかなくなってしまった。

 

「ちゃんと、学年一位もぎ取ってきますから」

 

 読書休憩を終えてテキストを取り出した俺に殺せんせーは一瞬キョトンと固まって、一つ頷くと窓から飛んで行った。

 

 

     ***

 

 

「……うちでビリって寺坂だよな」

 

 たった一晩で採点を終えたらしいテストが返却されて、殺せんせーが貼りだした学年トップ五十のリストに皆顔を近づけて自分の順位を、そしてE組全員の順位を確認する。E組で最下位は寺坂の317点。そして、その寺坂の順位が――46位。

 つまりは……。

 

「「「「やったぁ!! 全員五十位以内ついに達成!」」」」

 

 クラス全員の歓声が教室内に響き渡る普段はあまり声を大きくしない神崎や奥田なんかも表情と身体全てを使って喜びを表現していた。

 上位争いも五英傑を引きずり降ろして上位十人中八人をE組が独占してほぼ完勝。そして赤羽は全教科満点を叩き出して浅野を抑えての総合初一位を獲得していた。浅野の依頼もほぼ完遂と言ったところだろうが、あいつ負けて悔しがっているだろうなぁ。

 今まで以上に勉強に力を入れていたのと、生徒同士の相互授業で赤羽の能力はその完成度をかなり上げていた。そんな赤羽と浅野の勝敗を決めたのは数学の最終問題。俺には部分点を取るので精一杯そうな極悪難易度に見えたが、赤羽曰く「皆と一年過ごしていなきゃ解けなかった気がする問題」だったそうだ。ほんと、この教室にいるとどの経験がいつ役立つか分からなくて面白いと続けた赤羽は、穏やかな表情で笑っていた。

 A組は結局、後半のテストになるにつれてどんどん躓く生徒が増えていったらしい。憎悪によるドーピングが切れてしまったのだ。その反動で普通よりずっと思考能力が削がれてしまい、最後の数学は半数以上がかなり初期で躓くことになってしまったらしい。

 

「はっちゃーん! やったよ!!」

 

「おう、おめでとう」

 

「ふふふ、今なら風遁雷遁・風螺旋丸くらいなら使えそうな気がするわ」

 

「それ、誰との合体奥義なんだよ……」

 

 倉橋が差し出してきた頭を撫でたり、不破のネタに呆れながらツッコんでいると、マナーモードにしているスマホが小さく一度だけ震えた。ポケットから取り出してメールを確認すると、浅野からのメールだ。その内容を確認して――

 

「……殺せんせー。理事長がこっちに向かってきているらしいです。……重機を引き連れて」

 

「にゅやっ!?」

 

 浅野の狙い通り、E組への敗北によってA組の生徒たちは理事長の洗脳教育から目を覚ますことができた。今のやり方では勝つことはできない。負けを経て強くなった、E組や浅野のようなしなやかな強さには敵わないと。

 理事長のこの十年の教育だって、きっと間違ってはいない。きっと今の教育は理事長の一種の防衛本能の結果だ。もう二度と悲しい結末を生むまいと、自分の心を殺して気丈に、非情に振る舞って。

 その想いの装甲は、一度の敗北だけでは剥がしきることはできない。

 

「……ひとまず皆さん、教室を出ましょう」

 

 

 

「おや皆でお出迎えとは。浅野君あたりが知らせたのかな?」

 

 重低音の駆動音を響かせるショベルカーや解体用のグラップルを引き連れてきた理事長は、いっそ感情がないような目を一瞬俺に向けて、E組全員を見渡す。

 

「今朝の理事会で決定しました。この旧校舎は本日を以て取り壊します」

 

 やばい……これは、完全に壊れている。

 系統は違うが、俺はあの目に近いものを知っている。夏休みの離島、鷹岡が見せた目と同じ匂いを感じさせるそれには、きっと理屈は通じない。

 校舎を取り壊した後、E組は来年度開校する系列学校の新校舎に移り、卒業まで校舎の性能テストに協力するようにと続ける。刑務所を参考にしたという牢獄のような、いや、牢獄そのものの環境。それをやはり無感情な目で説明する理事長は、本当はどんな気持ちでいるのだろうか。

 

「どこまでも、自分の……教育を貫くつもりですね」

 

 殺せんせーが途中であえて入れた間の中に入る言葉を、俺はなんとなく分かる気がした。そしてそれでもなお無感情で居続ける理事長の奥に潜む感情も。

 そんなことは気にしていないのか、そんな余裕もないのか、理事長は「勘違いなさらずに」と胸ポケットを探る。取り出したのは、今までどんなに対立しても殺せんせーには見せたことのなかった――解雇通知だった。

 

「私の教育にあなたはもう用済みだ。今ここで私があなたを殺します」

 

「「「「――――ッ!?」」」」

 

 理事長だけが持つ、物理攻撃以外で殺せんせーに効力を発揮する伝家の宝刀。生物の枠から色々と逸脱している殺せんせーは、しかし“教師”である以上規則や約束事に力技で対抗したりはしない。今だってフリップや立札を複数用意して一人デモを……って、「浅野學峯は腹を切って地獄の業火で死ぬべきである。だって横暴だもの」って意外と強気だなこのタコ。

 いや、強気というよりも、この超生物も気づいているのだろう。この解雇通知は、死の宣告に過ぎないということを。理事長が言った「あなたを殺します」という言葉の意味は、社会的にとかいう比喩表現ではないことを。だからそんな冗談をやっていられるのだ。

 

「早合点なさらぬよう。これは標的を操る道具に過ぎない」

 

 ――あくまで私は、あなたを暗殺しに来たのです。

 そう続ける理事長の目はどこまでも無感情で無感動で機械的で、しかし強者としての自信を持っていて。

 そして、ひたすらに苦しそうだった。




ちょっと短めですが、切りがいいのでここで区切ります。
森さんとの会話を直接書くか悩んだんですが、間接表現にしてみました。

理事長はやっぱりなかなか難しいです。もうちょっとキャラを前に出せればなぁと思いつつなんですが、むぅ……難しい。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

きっと彼らはよく似ている

「あなた方はここで待機していてください。中で“仕事”を済ませてきますので」

 

 解体業者と俺たちを外に残して、理事長は殺せんせーを校舎内に連れ込んだ。E組の教室の中央に椅子を一脚、それを半円状に囲むように五つの机を並べた理事長は、そこに一冊ずつ本を乗せた。それぞれ「国語」「数学」「英語」「理科」「社会」と書かれたそれは、どうやら問題集のようだ。

 そしてさらに取り出したのは五つの手榴弾。うち四つは対先生BB弾が入ったもので、もう一つは本物の、対人用の手榴弾だそうだ。見た目や臭いでは違いを判別できず、どれもピンを抜いてレバーを上げた瞬間に爆発するように作られている。ピンを抜いてレバーが起き上がるまでの時間、つまり爆発までの時間は一秒もないだろう。

 理事長はそのピンを引き抜き、レバーを押さえたまま問題集のページにそれぞれ挟んだ。

 

「殺せんせー、この適当に手榴弾が挟まれたページを開き、その右上の問題一問を解いてください。ただし、解けるまで一切動いてはいけません」

 

「「「「っ!?」」」」

 

 殺せんせーが四冊解ききるまで続け、殺せんせーが見事切り抜けたら残りの一冊を理事長が解く。当然、いかな完璧超人の理事長と言えどもそんな短時間で問題を解くことは不可能だ。最後まで本物の手榴弾を残されたら、理事長の敗北は確定。

 つまりこれは、理事長を殺すかギブアップさせる、一種のギャンブル。これに勝てば、E組校舎の存続を認めるのだという。

 

「……そんなの、圧倒的に不公平だろうが」

 

 声を荒げたのは寺坂だ。確かに寺坂の言う通り、ギャンブルと謳っていながらこの勝負の不公平さは目に余る。殺せんせーが勝利するには対先生用手榴弾の挟まった問題を選んで四問解ききるか対先生物質の爆発を耐え抜いて、理事長に本物の手榴弾入りの問題を押し付けなければならない。4問切り抜けても、残った手榴弾が対先生用のものだとばれた時点で理事長の敗北は無くなるからだ。

 判別ができない手榴弾の中で対人用が残る確率は二十パーセント。しかも理事長には“ギブアップ”が許されている。つまり、危なくなったらギブアップして逃げることも可能なのだ。メリットもリスクもまるで違う。普通ならばこれは、殺せんせーに確実な敗北を与える必殺の銃口になる。

 

「寺坂君、社会に出ればこんな理不尽は山ほどあります」

 

 強者と弱者の間では特に。

 だから理事長の教育は理不尽を与える側、強者を生み出すものだった。弱者は暗殺でしか強者を殺すことはできないが、強者はいつでも、好きなように弱者を殺すことができる。この“処刑”もその心理を示すための教育であると理事長はのたまった。

 

「……分かりました。受けましょう」

 

 自分の進退と、なによりもE組の今後がかかっている取引。明らかに不利と分かっていながら、殺せんせーに実質の拒否権は残されていなかった。額に粘つく汗を浮かべながら、恐る恐る椅子に腰を下ろす。目の前の机に置いてあるのは、数学の問題集だ。

 自然と俺たちの緊張も高まり、視線は殺せんせーと問題集に集中する。ドクン、ドクンともはや自分のものなのかも分からない心臓の音が耳に痛いほど響いてきた。耳鳴りがしてきそうな耳に知らず眉間に皺が寄る。

 

「開けた瞬間に解いて閉じれば爆破はしません。あなたのスピードなら余裕かもしれませんね」

 

「も、もちろんです……」

 

 ゆっくりと伸ばされた触手が真ん中が膨らんだ問題集の左端を摘み――バッと目的のページを開いた。

 ――バァンッ!!

 聞こえてきたのは起爆用の火薬が弾ける炸裂音。それとほぼ同時に無数のBB弾が飛んできて、反射的に腕で顔を庇う。開いた窓からは火薬によってスピードが加わった弾が何発も飛び出し、閉めていた部分にも何度も不規則に弾が弾け、バチバチと不快な音を響かせた。

 

「……まずは一ヒット」

 

 そしてその爆発の最も近くにいたターゲットはその場を動けないという制約によって回避行動が取れず、触手や頭部をドロリとただれさせていた。特にほぼ直撃したらしい頭部の損傷がひどく、両の側頭部部分が深くえぐられていた。

 俺の目には一瞬図形のようなものが見えた程度だった。人間にはどんな問題かすら認識できないほどの短い時間。マッハ二十で動ける殺せんせーなら、問題を認識することはできただろうが、結果は見ての通りだった。

 殺せんせーは確かにマッハで動けるし、人間を逸脱した頭脳も持っている。しかし、元々の性質なのか触手の特性なのか、こと状況の変化に弱い。テンパれば身体能力も思考能力も格段に落ちてしまう。

 それを知っていたのであろう理事長は、逃げることのできない状況を作り、確実に四発の対先生手榴弾を当てる処刑法を考え出した。

 

「あと三回耐えられればあなたの勝ちです。さあ、回復する前にさっさと次を解いてください」

 

 やはり無感情な目のまま解雇通知をこれみよがしにちらつかせながら、理事長は処刑の遂行を促す。

 あからさまに不利なギャンブルに、ターゲットの特性を熟知して逃げ場をなくしたフィールドづくり。このもはや暗殺とは呼べないものは、おそらく計算上は今までのどの暗殺よりも成功確率が高い。

 

「でも……」

 

 ぼそっと口の中で転がした声は、誰にも聞こえなかったようだ。もう一度殺せんせーに目を向ける。頭部のただれがわずかに収まりだして、洋ナシのような形になっているその色を確認して、スッと生徒の集団から抜け出した。皆の視線が教室に集中しているから、消えるのは今までで一番簡単だった。

 そのまま気づかれないように校門を抜けて、急な坂を下りていく。

 

「見ていなくて、いいんですか?」

 

 電話を入れようとスマホを取り出すと、目的の相手の通話履歴をタップする前にズイッと現れた律によって妨害されてしまった。その目には不満というか不安というか、そんな色がありありと出ている。

 

「まあ、大丈夫だろ」

 

 スマホの上部をグッと撫でると、律儀に反応を返してくる。が、すぐにまた不満そうに睨みつけられてしまった。

 

「なんか、ごまかされたような気がします」

 

「ごまかしてねえよ」

 

 そう、何もごまかしていない。

 

「ほんと、あの先生は嘘が下手なんだよな」

 

 ただ、E組の存続を確信しただけなのだから。

 

 

 

 理事長の処刑は、確かに計算上の成功率は極めて高い。自分の立場、標的の立場と性質をよく理解して組まれたものだ。

 ただし、ことここに来て理事長は大きなミスをやらかした。相手も学習する人間であることを失念したのだ。

 下着泥棒の事件の際、殺せんせーは言っていた。「暗殺教室の先生は、教えるたびに強くなる」と。この九ヶ月ほどで、あのターゲットは何度も状況の変化を交えた暗殺にさらされてきた。確かに今でも不意を突かれると判断能力は大幅に鈍る。しかし、同じ状況を何度も繰り返されて、いつまでも対応できない超生物ではないのだ。

 

「それに、殺せんせーってあの問題集持ってましたよね」

 

「ああ、そうだな……っ!? 渚!?」

 

 ものすごくナチュラルに聞こえてきた声に答えてから、声の主が律ではないと気づいて思わず数歩離れてしまった。当の渚は距離を取られたことがショックだったのかショボンと肩を落として、苦笑いを浮かべている。

 

「お前、なんでここに……」

 

「比企谷君が気配を消しながら出て行ったから、どうしたのかと思って追いかけてきたんですよ」

 

 俺、割と完璧にステルスしていた自信があるのだが、相手の様子を伺うことを小さなころから無意識に続けてきて、猫騙しの上位互換であるクラップスタナーまで覚えたこの少年は、俺が消えようとする瞬間を敏感に感じ取ったようだ。E組で俺が最も秀でた能力なのに看破されてちょっとショック。俺も渚のクラップスタナー看破できるようになろうかな。いや、あれ気絶とかするらしいからやめておこう。練習段階が怖すぎる。

 気を取り直す意味もかねてコホンとわざとらしく一度咳をつく。

 

「そうだな。あの先生、前に日本の問題集はあらかた全部覚えたって言ってたぞ」

 

 俺があの教室に参加する時には、高校の問題集や教科書もほぼ網羅したと言っていた。不意打ち自体に慣れてしまえば、後はマッハ二十の怪物先生。あのミッションをクリアできない道理はない。その証拠に、さっきから手榴弾の爆発音は俺たちの耳に届いてこないのだから。

 

「それに、たぶん殺せんせーはどれが本物の手榴弾か分かってると思うぞ」

 

「え、そうなんですか? 私にはどれも大きな違いは感じませんでしたが……」

 

 確かに律にも、もちろん俺たちにも、あの五つの手榴弾のどれが本物かなんてわからない。見た目も匂いも違いはないのだから。

 

「あ、そうか。火薬で完全に殺せんせーの鼻に気づかれない物は……」

 

「そう、完全に殺せんせーの鼻をごまかせる火薬は存在しないってのが竹林の見解だ」

 

 あの先生の鼻は本当に恐ろしいほどよく利く。何度も研究を重ねた竹林は、最終的に気付かれにくい爆弾を作るならば、爆弾をコーティングして匂いが漏れないようにするべきだと言っていた。理事長の言う通り、できる限り臭いのしない物を作らせたのだろうが、注力している殺せんせーが違いに気づかないわけがないのだ。

 

「けど、そうなると理事長先生は……」

 

 律の不安そうな声は、残った本物の手榴弾が挟まった問題集を理事長がどうするか、ということだろう。

 

「本物かどうか分からなくても、危なくなったらギブアップするんじゃ――」

 

「いや、それはない」

 

「そうですね、ないと思います」

 

 渚の意見は一般論としては正しい。もし本物ならば至近距離での手榴弾なんてひとたまりもないし、BB弾でも多少の怪我は免れない。その上で得ることのできるのはE組を牢獄のような環境に置ける権利だけ。十人に聞けば十人がギブアップを選択するだろう。

 

「な、なんで?」

 

 即答した俺たちに渚が慌てたように立ち止まる。傍から見ればあり得ない選択。けれどこの九ヶ月あの超生物を、そしてこの一ヶ月あの完璧超人を見てきた俺たち二人には、ギブアップという選択肢は最初からないと確信できた。

 

「だって、殺せんせーと理事長先生は似たもの同士ですから」

 

「二人とも意地っ張りで教育バカで、おまけに負けず嫌いだからな。殺せんせーが完遂したのに自分は無傷で負けを認めるなんて、あの人がやるとは思えねえ」

 

 無意識とは言え理事長は十数年前の自分が目指した、今殺せんせーが目指している教育を続けている。目指し続けている。自分と違って成功させている同業者に素直に負けを認めそうにない。

 

「そ、それじゃあ早くそれを先生たちに知らせないと!」

 

「待て待て落ち着けって、大丈夫だから」

 

 再び慌てふためいて回れ右しようとする渚の肩に手を置いて引き留める。こいつ、本当にE組きっての暗殺者なんですかね? あ、こうやって油断するから皆仕留められるのか。

 そう、その点も大丈夫だ。最初の爆発を律儀に受け止めた殺せんせーと、あの必死に黄色い顔色を維持しようとしていた点を見れば、特に問題はないだろう。

 

「むう、比企谷君ってこういう時説明が足りないから、ちょっとめんどくさい」

 

「悪いな、癖になってるんだ。周りに多くを語らないの」

 

「それ、不破さんくらいにしか通じないんじゃないでしょうか……?」

 

 あ、マジで? まあ、多くを語らないのも美徳ということで。……物は言いようだな。

 

「それで、比企谷君は今何をしようとしているんですか?」

 

「何をしようとと言うか……」

 

 強いて言えば、呼び出した人達の出迎えだな。

 話していると、ちょうど烏間さんたちが車を停める広場が見えてきた。烏間さんの黒い乗用車とビッチ先生のスポーツカーの隣に黒塗りのリムジンが停車している。

 そしてリムジンの近くにいる人物を確認したとき――

 ――ドグォッ!!

 さっきとは比べ物にならない爆発音が、山の上から聞こえてきた。

 

 

 

「ひっ、比企谷さん! 今の爆発音は……!」

 

 俺たちを確認した浅野は、普段のこいつらしからぬ慌て具合で渚がいることも忘れて駆け寄ってきた。ああ、なんか渚が驚いているのかポカンと口を開けて固まってしまっている。面倒だから律に説明を任せようとスマホに視線を落とすと、こっちはこっちで物凄い嫌そうな顔をされてしまった。それでもやってくれるあたり律って優しい。

 

「あれだよ、今上で超人戦争があっただけだから。怪我人とかは出てないと思うから安心してくれ」

 

 うん、たぶん殺せんせーが月に一度の脱皮を使って理事長を守ったはずだ。あの超生物自身、人を殺すことを推奨していない。自ら死を選ぼうとする理事長を見捨てるわけがないのだ。

 そういえば、怪我人なしって言ったけど、殺せんせーは怪我人に入れていいのだろうか。たぶんちょっとしたら復活するから入れなくてもいいのかもしれない。

 

「って言うか……お前その頬どうしたんだ?」

 

 見つけたときから気になっていたが浅野の右頬にはガーゼが当てられていた。よく見ると、わずかに腫れているようだ。

 俺の質問に浅野はそっとその部分に手を添えて「初めて親子喧嘩をしただけですよ」とだけ答えてくれた。まだ痛むのか少し顔を歪めているが、その目は少しうれしそうでもあった。

 

「なんか……浅野君がそういうふうに笑ってるとこって珍しいね」

 

「……っ」

 

 ポソリと渚が呟いた一言でようやく彼の存在に気づいたのか、浅野はバッと渚を見て、ササッと腕で顔を隠そうとして――俺を見てからゆっくりと手をどけてため息とともに肩の力を抜いた。俺が消えるために観察力を身に着けたように、渚は母親の逆鱗に触れないために人の機微に気づくようになった。おそらくこいつも、前から浅野の笑みにあった違和感を感じ取っていたのだろう。

 

「……別に、僕だってこういう表情をすることもある」

 

 ふてくされたようにそっぽを向く浅野に、俺たちは顔を見合わせて、少し笑いあう。それを見て浅野はまたちょっとムッと表情を曇らせたが、釣られたようにまた少し口角を持ち上げていた。

 

「そうだ潮田、本来ならE組全員にA組全員で言うべきことなのだが、E組校舎には入ることができないから、代表して僕から、君に伝えておく」

 

 ありがとう。お前たちと戦えてよかった。そう言って頭を下げる浅野に、渚は少しの間ワチャワチャと慌てて、こちらこそありがとうと同じく頭を下げた。拍手のつもりなのか、律は俺のスマホのバイブを小刻みに震わせている。

 

「おや、何か用かい浅野君」

 

 声がした後方に首を回すと、理事長が山頂から降りてきたようだった。見たところ特に怪我もないようで、渚もホッと胸を撫で下ろしていた。やはり、殺せんせーがちゃんと守ってくれたらしい。無感情だった瞳にどこか人間臭い色が見えるところを見るとこの人もこの人でうまいこと手入れをされてしまったようだ。

 そんな理事長を見て、浅野の表情が挑発的なものになる。なんというか、理事長も浅野も根は優しいはずなのだが、そういう表情がよくお似合いになりますね。表情筋をもっとにこやかにしようぜ。俺が言っても説得力ないけどね。

 

「この傷の慰謝料プラスA5ランクのステーキあたりで、負けまくった“父さん”を慰めてやろうと思ってね」

 

「ほほう」

 

 ガーゼが当てられた右頬を指差す浅野に、理事長も瞳をジワリとギラつかせ始める。親子の会話というよりコロシアムの決勝戦みたいな雰囲気なんだが……。いや、これはこれでこの二人の親子の絆なのだろう。たぶん、知らんけど。

 そんな臨戦態勢になり始めた理事長に、浅野はふっと表情を和らげる。その変化に理事長も思わず臨戦態勢の表情を解いたのを確認して、浅野は踵を返してリムジンに近づいた。

 

「というのはちょっとした冗談で、今日は父さんに会わせたいゲストを連れてきたんですよ」

 

 浅野の言葉に専属らしい運転手の老人がリムジンの扉を開いて――

 

「浅野先生」

 

「お久しぶりです、浅野先生」

 

 慣れない高級車からおずおずと降りながらはにかむ二人を目にして――

 

「ぁ……」

 

 その日俺たちは、初めて理事長の涙を目にした。

 

 

     ***

 

 

「私にとって君はね、私の教育の完成系に見えたんだよ」

 

 思わず流れた涙をぬぐい、森さん永井さんと少し話をしていた理事長は俺の方を見て、そう口にした。

 

「いじめを受けても強い精神で耐え抜いて、それでも相手を思いやることを忘れない。自分の“良い”を伸ばして、反射的に赤の他人を助けてしまうほど優しい。君は池田君に近い境遇にいながら、ここに来るまで生き抜いていた。君はそういう意味で“強く”見えたんだ」

 

「……買い被りすぎですよ」

 

 俺が中学までやっていけていたのはすぐそばに小町がいたからだ。妹が笑ってくれて、相談をしない俺をいつも心配してくれたから、多少のハブりや悪口、暴力といった悪意に耐えてこれた。小町がいなければ、比企谷八幡は中学の頃までに存在していなかったかもしれない。

 それに、この教室に入った時はほとんど心は満身創痍だった。全て自分の自業自得による高校生活。妹にも何も言えず、極力接触も避けるようになって、自分の中にひたすら負の感情をため込んで……。

 

「そんな俺をもう一度笑えるように、仲間を信じられるようにしてくれたのはあの教室、理事長が用意してくれたE組だったんですよ」

 

 似た境遇の生徒が集まっているから校内での格差に皆で協力して耐えていける。一人で溜め込まずに相談できる。このE組に出会わなかったら、あの時の俺の先にあったのは夏休みに潜入したホテルで見た非合法に手を染める子供たちか、池田さんのようにこの世との繫がりを絶ってしまうか。いずれにしても、きっとハッピーエンドには行きつかない。

 

「だから……ありがとうございます、理事長。高校生である俺をここに置いてくれて、こいつらと会わせてくれて」

 

 渚の頭に手を乗せると、ツインテ少年は恥ずかしそうに俺の手の上に両の手を乗せて縮こまってしまった。

 

「……そうか。それじゃあ私は『どういたしまして』と答えるべきかな?」

 

「はい」

 

 俺が頷くと、理事長は薄く、浅野がさっき見せたものに似ている笑みを浮かべて、浅野たちを引き連れてリムジンに乗り込んだ。

 

「そういえば“学秀君”。さっきの慰謝料の件だが、法廷で戦ってもいいんだよ。君がどれだけ成長しても、永久に私に勝つことなんてできないからね」

 

「ほほお? 冗談でしたけど一応言っておきますが、どうしてそう言い切れるんですか?」

 

「私も成長し続けるからだよ。教師としても、親としても」

 

 やっぱりこの教育一筋の先生とあの超生物はとても似ている。発言だって、行動だって。

 

「というか、あの二人本当に裁判したりしないよな」

 

「さ、さすがにそれはないんじゃないかな……ははは……」

 

 まあ、それはそれで彼らの一つの形なのだろう。リムジンが見えなくなるまで見送っていると、律がスマホを震わせてきた。どうやら手榴弾の爆発で損傷した教室の修繕をするから戻ってこいということらしい。

 

「戻るぞ、渚。早くしないと赤羽にモロッコに連れてかれる」

 

「なんでカルマ君は僕のを取ろうとするの!?」

 

 うん、渚のだけだよね。俺とか取っても誰も得しないし。




一日お休みをいただきました。急遽がっつりお酒を飲む場に放り込まれてしまいまして。酒缶一杯くらいなら問題ないんですが、5,6杯も飲むとさすがに帰ってから書くのは無理でした。

というわけで期末試験編の続きでした。実は本編に絡んでいる部分で一番変わったのが浅野親子なんだなぁと思いつつ。なんだろうか、もう私の中で浅野君がめちゃくそかわいい後輩になっている感が半端ないです。浅野君のやることなすこと褒めまくってドヤ顔させたい。

期末試験編は次で終わりかなーと思います。ここまで書いていやー終わったって思ってたら八幡の期末試験がまだでした。びっくり。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

集大成を見せるために

 E組の木造校舎存続も決まって少し経った頃、椚ヶ丘学園から少し遅れて総武高校の二学期期末試験がやってきた。期末試験は現国、古文・漢文、数学、英語、社会総合、理科総合の基本教科に家庭科などの実技教科も含まれて、かつ午前中で終わるため三日間はあいつらと別行動をすることになる。一学期の期末はなんとも思っていなかったが、なんというか……ちょっと心細い、みたいな……。

 

「うわあ、あのお兄ちゃんも変わるもんなんだね」

 

「そんなんじゃねえだろ」

 

 変わった……とは少し違うと思う。結局のところ、今まであまり見えてこなかっただけで比企谷八幡という人間は存外人恋しい人間なのだろう。見えていなかった部分が見えるようになっただけ。

 

「大丈夫ですよ! 八幡さんにはいつでもどこでもこの律がついていますから!」

 

「テスト中は電源切るけどな」

 

「うわあ、お兄ちゃんの切り捨て方パない。りっちゃんの好意をまさに電源みたいに断ち切ってる」

 

 小町ちゃん、それ全然うまくないからね? スマホと正面からのやかましい声を適当に流しながら朝食に用意された鮭の塩焼きに箸を伸ばす。今日はお袋が用意したものらしく、味付けは控えめだ。小町の学生食感全開な食事ももちろん好きだが、お袋のあっさりとした食事もかなり美味い。だから俺は食事を作らないんですけどね! その結果、調理スキルは小学校六年くらいで止まってしまっている。渚も最近朝食は自分が担当するようになったって言っていたし、村松みたいにササッと一品用意できるのも見ていると羨ましかったりする。俺も料理しようかなぁ。

 真面目に取り合わないのを察したのか、目の前とスマホの二人はガールズトークにシフトしている。烏間さんが律のことを知った小町を黙認したことで、家の中では特に隠すことなく二人は交流するようになった。もちろん暗殺に関する情報は伏せる必要があるが、最高峰の成長し続けるAIが余計なヘマをするわけがない。安心していて大丈夫だろう。

 というか、いつの間にか小町が律のことを「りっちゃん」と呼ぶようになっている。相変わらずコミュ力マシマシですね、うちの妹は。

 

「あ、そういえばお兄ちゃんさ」

 

「ん?」

 

「今日から三日間は自転車だよね?」

 

「そうだな」

 

 これまでも総武高校に登校するときはそうしていたし、特に変える理由もない。バス通学するくらいなら走った方が訓練になりそうだしな。

 俺の答えに妹は唐突ににっこりと満面の笑みを浮かべてくる。十四年弱の経験でお兄ちゃんはこうするときの妹のパターンを完璧に把握している。あ、いやなんか妹のこと完璧に理解しているみたいな言い方すると倫理的にやばい気がするが。うん、まあ分かるわけですよ。

 突然いい笑顔を浮かべる小町はね。大抵面倒なこと提案してくるんだよ。

 

「じゃあ、学校まで送ってね!」

 

「……えぇ」

 

 ほらね。小町ちゃん知ってるかな? 自転車の二人乗りは違反なんだぞ? ここは兄として屹然とお説教をするべきだと脳内お兄ちゃん会議で満場一致可決した。

 

「小町」

 

「は、はい……」

 

 カタリと小さい音を立てながら箸を置き、自然と丸まってしまう背中を意識して伸ばして、小町に呼びかける。俺の雰囲気が変わったことを察したのか、小町もピシッと居住まいを正した。

 

「そういうこと頼むんなら、まずは早く着替えようか」

 

「…………そこ?」

 

 小町はわずかに張っていた肩をぽへっと落として、どう表現すればいいのか分からない表情をしている。ちょうどイトナが転校してきて、壁を突き破って教室に入ってきたときの殺せんせーみたいな表情。あれって、普通の人類ができるもんなのか。妹のおかげで新しい発見ができてしまった。

 というか、小町がそんな表情をしてしまうのも分かる。だって言いたいことと言ってることが違うもん。俺も似たような表情になりかけたわ。確かに今の小町はパジャマ代わりに使っている俺のおさがりのジャージに身を包んでいて着替えがまだだが、俺が言いたかったのは道路交通法の話なんだよな。全く、八幡君しっかりしてよ!

 

「ま、いいや。それじゃあ小町着替えてくるね!」

 

 そういうと小町は俺に言い直しの機会も与えさせないつもりなのかシンクに使った食器を放り込むと、とててーとリビングを出て行ってしまった。なんだかんだ自転車で送ることが確定してしまったようだ。なにそれ面倒くさい。

 ただ決まってしまったものは仕方がない。どうせまだ時間はあるし、もう少しのんびりと食べようと味噌汁を啜っていると、さっきまで妹と話していたAI娘がクスクスを忍び笑いを漏らしてきた。

 

「……なんだよ」

 

「いえ、八幡さんたちはいつも通りだなぁと思いまして」

 

 笑いを抑えながらの律の感想にほむ、と箸を咥えて考えてしまう。確かに小町とアホみたいな会話をしたせいか、学年一位を取りに行くと自分で言った割に案外いつも通り過ごせている自分がいる。なんだかんだ昨日の夜は不安になって律に注意されるまで延々と勉強をしてしまっただけに、なんというか意外だ。

 ひょっとしたら、こういうところでも未だに妹に助けられているのかもしれないな。

 

「お兄ちゃん、準備できた!」

 

「……食い終わったら行くから、ちょっと待ってなさい」

 

 まあそんな恥ずかしいこと、口が裂けても言うつもりはないが。

 じゃあいっちょ、一位って奴を取ってきますか。

 

 

     ***

 

 

 いくら定期試験とはいっても県下有数の進学校ともなると段々と難易度も上がってくる。社会系統なら時事問題も多くなってくるし、数学は捻った問題が増えてくる。あいつらが受けているようなモンスタークラスの試験ではないが、それでも油断すれば刈り取られかねない試験だ。

 しかも今回狙っているのは学年一位。全生徒の成績が掲示板に公表される椚ヶ丘学園と違って、総武高校は生徒個人に成績表が配られるのみだ。万年一位なんていう完璧超人みたいな成績を残している雪ノ下とかいう生徒の今までの成績も分からないのだから、一瞬でも気を抜く気にもなれない。

 そんな問題達と全力で戦っていると、三日なんてあっという間に過ぎ去ってしまうもので、試験の全日程も終わり、殺せんせーから試験結果が返ってきたとの報告を受けた。

 うんまあ、それはいいのだけれど。

 

「……なんでそれが理事長室なんですかね?」

 

 今俺がいるのは椚ヶ丘学園の理事長室だ。俺の他には殺せんせーと烏間さん、そして理事長が集まっていて、殺せんせーの手には総武高校のエンブレムが印刷された封筒が抱えられていた。

 なんつうの、超人三人に一人で囲まれると、圧迫感が半端ない。これが圧迫面接という奴か。いや待て、面接ではない。落ち着け俺。

 

「ヌルフフフ、理事長先生もぜひ比企谷君の成績を知りたいとおっしゃりましてね」

 

「……それ、後で伝えればいいんじゃないんですか」

 

 現に今までも烏間さんを経由して俺の成績は知っていたみたいだし、なんなら前みたいに総武高校にハッキングをしても――やばい、どっかの人工知能のせいでハッキングが日常になってきている。俺の常識を返してほしい。ここ幻想郷じゃないから最低限常識には囚われないといけないんです。

 

「私も早く聞きたくなってね。学年一位を取ると断言したと聞いては、気になってしまうじゃないか」

 

 理事長は両肘をテーブルについて手を組み、薄く笑みを浮かべている。それだけなのに、論理とかいろいろ無視して反論する気をなくさせられてしまった。部屋の隅に綺麗な姿勢で立っている烏間さんが目で諦めろと伝えてきているが、そんな目をされるまでもなくここに来た時点で九割諦めていましたから無問題です。いや、そうなってしまうこと自体が問題だと思うんだけどね。

 

「まあまあ、どうせすぐに終わるんですから、この際場所や見る人間は気にしないことにしましょう」

 

「……うっす」

 

 殺せんせーは封筒からまず細長い半紙を引き出した。今回の全ての試験の点数と順位が載っている用紙だと認識して、思わずゴクリと喉が音を立てた。半分まで引き上げたそれをチラリと確認した担任教師はヌルヌル笑いながら裏返しの状態で俺に手渡してくる。

 

「…………」

 

 マット紙でも使っているのか裏側が透けて見えないそれをじっと見つめる。心なしか用紙を掴んでいる指がわずかに震えてしまっていた。

 試験前とは違う緊張感に再度小さく喉が鳴る。目の前にあるのはすでに覆らない確定した結果だ。ここで仮に結果を見なくても俺の取った結果は変わらないし、そうしてしまえば俺は後悔することも反省することも、喜ぶこともできない。

 人事は尽くした。確かに多少勉強とは違う寄り道もしたが、それすらモチベーションに変わった。なら、どんな結果であれそれが俺の全力だ。

 ゆっくりと半紙をひっくり返して、自分の名前の書かれている一番左端から目を滑らせて――

 

「…………ふう」

 

 肩に溜まっていた力がため息と同時に一気に抜ける。ここが教室だったら椅子に勢いよく腰かけていたことだろう。

 成績表の順位の欄には、軒並み「1」の数字が印刷されていた。特に国語二教科と英語、社会は満点で、点数の欄にはどれも「100」と記載されている。

 そして五教科総合の順位欄にも「1」の数字。つまり――

 

「おめでとうございます、比企谷君。見事宣言通り、学年一位ですねぇ」

 

「……なんかまだ実感湧きませんけど、ありがとうございます」

 

 いや本当に実感湧かない。これ確かに俺の成績表だろうか。実は噂の雪ノ下とかいう子の成績表じゃないだろうか。……確かに比企谷八幡って書いてあるな。

 

「ふふ、君は自分の評価となると途端に謙虚になるね」

 

「だって、今までこんないい成績取ったことないですから」

 

 小さく喉を震わせる理事長に、こちらは小さく肩をすくませた。ここに来る前はボロボロの成績だったし、そもそも負けることに関しては最強の人間だったのだ。俺なんかがそんな高い評価をもらっていいのか、という思いがどうしても顔を覗かせてしまう。

 いずれにしても、これで一応俺もこの二人に見せられるだけの“学”の集大成を見せることができた。

 そう思っていたのだが。

 

「しかし理事長先生、これはどう思いますか?」

 

「あっ、ちょっと!」

 

 俺から半紙を奪い取った殺せんせーが理事長の机に置いて見せている。それを見た理事長の目がさっと記載されている情報を確認して、「ふむ」と背もたれに少し体重を預けると、顎に指を添えた。

 

「比企谷君、数学と理科総合が満点じゃないね」

 

「はあ……」

 

 確かにその二教科は一位ではあったが満点ではなかった。封筒に入っていた解答用紙を確認した感じだと、数学は最後の問題で証明の一文を書き忘れて減点一、理科総合では化学式の問題で減点されたようだ。いやけど目標は達成したわけだし……。

 

「満点じゃないということは、まだまだ伸びしろがあるということだよ」

 

「え」

 

「それにこの問題ちょっと優しすぎると、先生は思うんですよねぇ」

 

「え」

 

「そうですね。公立高校にしても進学校なのだから、もっと問題の質を上げるべきだと思いますね」

 

 やべえ。この二人、この成績で全く満足してねえ。しかもなんか総武高校に試験の質を上げるべきって進言しようとか言いだしてる。ごめん、総武高校の名も知らぬ成績ギリギリの人たち。俺のせいで今後の試験で赤点が増えるかもしれない。

 

「やはり定期試験だと比企谷君の実力を見るには不十分ですね」

 

「では、模試で上位を目指せるようにと言うのはどうでしょう、理事長先生?」

 

 俺が心の中で総武高校の生徒たちに頭を下げている間も、どんどん教育バカ二人の話は進んでいく。なんか取るなら一位を目指させようとか言いだしてる。俺に浅野になれって言ってませんそれ。全国一位とかよく意味が分からないんですが……。

 

「大丈夫だよ、比企谷君。満点を取れば一位になれるんだから」

 

「口にするだけならめっちゃ簡単ですけど、それかなり難しいことですよね!?」

 

「ヌルフフフ、どうせなら一緒に高校三年までの勉強もやってしまいましょうか。菅谷君にも教える予定でしたからね」

 

「なんでさらっとハードル上がってるんですか!?」

 

 な、なぜ俺がツッコミなんてしなくてはいけないんだ。いや、割と元からツッコミ役の自覚はあったが、この二人だとプレッシャーが半端ない。特性の相乗効果一気にPPが四くらい削れていてもおかしくない。

 

「比企谷君」

 

「……なんですか、烏間さん」

 

 精神疲労からさらに落ちた肩を、烏間さんがポンと軽く叩いた。見上げるとどこか達観した顔で今後の教育方針を話し合っている二人を眺めていて、一つ頷くといつものまっすぐな目で俺の目を見つめてきた。

 

「諦めた方がいい。あの二人と縁を持ってしまった時点で逃げることは無理そうだからな」

 

「……うっす」

 

 分かってました。あの二人は、というか理事長に関しては烏間さんでもどうにもならないことくらい。諦めと共にさらに肩が落ちて、大きなため息をまた一つ漏れ出してしまう。

 いやしかし、こうして今一つ実感というか達成感が湧ききらないところを考えると、俺自身心のどこかでまだ上を目指したいと考えているのかもしれない。自分の刃がどれだけ通用するのか試してみたい。そう思っているのかもしれない。

 ならまあ、この教育のことしか頭にない二人の先生に、もうちょっと付き合ってあげますか。

 

「それでは比企谷君、今日から放課後は私たちと集中講義と行きましょう」

 

「今日から!?」

 

「ヌルフフフ、善は急げと言いますからねぇ」

 

「いやあの、比企谷君の訓練の時間も考慮してほしいのですが……」

 

 烏間さんの進言によってさすがに毎日放課後に追加授業はなくなったが――烏間さんがいなかったらどうなっていたのだろうか。想像しただけで膝が笑いそう――、定期的に放課後は理事長室で授業が執り行われることになった。恵まれた環境の自覚はあるが……あまりうれしくないのはなんでだろう。




というわけで後日談的な感じの八幡の期末試験でした。総武高校の成績開示方法って原作に明記されていなかったと思うので、私の中では個人に成績表が渡されるだけなんじゃないかなと思っています。だから八幡が現国三位なのをガハマさんとかも知らなかったんじゃないかなと。ゆきのんや葉山は周りが成績を見て周りに話したりしたとかそこらへんでいつも想像しています。
だからたぶんここのゆきのんは今回の学年一位が八幡だって知りもしないと思うんですよね。最初葉山に負けたと思ってぐぬぬってなった後、風の噂で葉山でもないって聞いて知らない誰かにまたぐぬぬってしているみたいな。なんだそのゆきのんかわいいな。
毎回試験回が近づくとここの感想でもあちらのコメントでも「俺ガイルキャラを~」という意見をいただくのですが、そういう理由もあってあまり俺ガイルキャラを絡ませるきっかけにはできませんでした。申し訳ない。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

それが分かったところで何も変わることはない

※あとがきに少しお知らせがあります。よろしければ最後まで見てみてください。


「ぴにゃあああああああああ!!」

 

 昼休み。たまには食後にのんびり風にでも当たろうかとマッカン片手に廊下に出て、やっぱこの時期は寒いな、なんてアホなことを考えていると、教室から律の聞いたことのないような悲鳴が響いてきた。今日は殺せんせーも一緒に飯を食っているし、まさか偽死神のように堂々と侵入、なんてことはないと思うのだが。

 心持ち気を張って教室の中に入ると、特に敵影は見えず、そして律本体である四角い黒棺の前には岡島と中村、それと赤羽が気味の悪い笑みを浮かべて佇んでいた。とりあえず、暗殺者から何かしらの被害を受けたわけではないらしいので、ふっと張っていた気を緩める。

 

「なにやってんだ、お前ら?」

 

「あ、比企谷君。ちょっと律と思い出話してただけだから気にしないで」

 

 近づいてきた俺に中村はケタケタと楽しそうに笑いながらひらひら適当に手を振ってくる。さっきの悲鳴はとても思い出話をしていた声ではないと思うのだが、どうせ岡島がまたエロ話でもしたんだろう。最近、律も恥じらいというものを覚え始めたのか、岡島のエロ談義に顔を赤くすることが増えてきた。そのせいで岡島が調子に乗って、俺からまた比企谷家出禁を食らったのだが。後女子から思いっきり白い目で見られていた。岡島に未来はあるのだろうか。ちょっと心配。

 ということで、なにか問題があるわけではないので面倒事は気にしないことにした。頑張れ律。弄られることも人間よくある話だと思うぞ。

 

「あ、そうだ。比企谷くーん」

 

 しかし、面倒事というものは避けてもなぜかついてくるもので、ポンと手を打った赤羽があくどい笑みを浮かべて近づいてきた。手に持っているのは岡島の物らしいスマホ。

 

「実は偽死神との戦いのときにモバイル律がハッキング食らっちゃってさ。これ、その時のスクショなんだよねぇ」

 

「ほーん」

 

 確かにあの建物内は圏外になっていたし、本体と繫がっていなければ、モバイル律のハッキングは比較的容易なのかもしれない。いや、あくまで比較的であって、普通はほとんど無理に近いと思うのだが。たぶん逆に端末をハッキングされておしゃかにされてしまうんじゃないだろうか。それができてしまうのが、偽物とはいえ万に通ずる死神の恐ろしいところか。

 

「カ、カルマさんだめで……あぁ」

 

 律の必死の制止も虚しく赤羽がスマホの画面を俺の目の前に突き出してきたことで強制的に俺はその画像を視認してしまうことになった。

 

「……うん?」

 

 それを見た第一声がこれである。ハッキングと言うからあざとさ全開なAI娘にあるまじきあくどい顔でもしているのだろうかと想像していたのだが、表示された画像にはゴミが適当に散らかった部屋でシャツとパンツ姿の律がおっさんのように寝転がって昼ドラを見ているものだった。あくどさとは程遠い超がつくほどだらしない姿に、最初は捻っていた首をゆっくりと隣の箱に向ける。

 

「休日の独身彼氏なしのOLかよ」

 

「これは! 偽死神にハッキングされて孤立したモバイル律がこんな状態にされてしまっただけで! 私は! 本来こんなだらしない格好にはなりません!」

 

 強調マシマシで反論されてしまった。いやしかし、これは本当にあいつがここまでなるようにハッキングしたのだろうか。もしそうなら偽死神物凄いお茶目だし、そんなことされる余裕があるくらいモバイル律の対ハッキング耐性が弱かったということになる。そういえば、この間セキュリティ強化のバージョンアップをしたとか言っていたか。今の律の狼狽具合を見ると、本人も相当気にしているようだ。

 

「八幡さんちゃんと私の説明聞いてますか!?」

 

「聞いてる聞いてる。洗濯は休日にまとめて派なんだろ?」

 

「全然聞いてない!?」

 

 気にしているのはハッキングされたことにか、それによって醜態をさらしたことにか。どっちかは本人しか知らないことだろうが。

 

 

     ***

 

 

「むうぅぅぅ……」

 

「悪かったって。ちょっと調子乗りすぎたよ」

 

 ジョギングを済ませた帰り道。スマホから伸びたイヤホンから、さっきから鳴りやまない律の唸り声が鼓膜を震わせて来ていた。

 あの後、調子に乗って赤羽たちと律を弄っていたらキレてしまった律が本体から最大規模精製した銃器を展開してきたので、慌てて全員で慰めにかかった。殺せんせーも慌てて「人に向けて発砲するのはいけませんよ! 片付けが発生して他の皆さんへの迷惑にもなります!」と止めたことで発砲は阻止できたが、当然律の気は収まらず、結局四人で謝った上で岡島が所有していたスクリーンショットの削除、そして岡島が比企谷家出禁という条件提示でなんとか気を収めてくれた。なぜ律からの条件に俺の家への出禁が存在するのかはいまいち分からないが、「なんで!?」と目玉が飛び出そうなほど慌てだした岡島が面白かったので良かったということにしよう。

 

「やはりお掃除機能も付けるべきですよね。自分の意志で発砲できないのはこういう時歯がゆいです」

 

「人に向けて発砲も駄目だからな? 何お前、ルンバにでもなりたいの?」

 

 お前の発砲機能は殺せんせーを殺すためにあるんだから、お願いだから触手教師の言った人相手に発砲しちゃいけないってところもちゃんと守ってね。

 

「いやですね八幡さん。時代はルーロ君ですよ」

 

「なぜ君付け……」

 

 ちなみにルーロ君は三角型の形状をしているロボット掃除機である。その形状のおかげでルンバなどの円形では届かない部屋の隅まで掃除することができるらしい。決してチーバ君の親戚ではない。

 

「まあ、冗談は置いておきまして」

 

 コホンと一つ咳ばらいをすると、律は声のトーンを落として真面目な雰囲気を出してくる。

 

「八幡さんが調べるようにと言った件、ようやく調べ切りましたのでその報告をしたいのですが」

 

「……あれか。ちょっと待て」

 

 スマホに向けていた視線を上げて、周囲に意識を向ける。今いるのは俺の家のある住宅街の入り口。家からはいつも通りの生活をする人の気配。奥の塀では猫がくつろいでいるようだ。

 そして、俺たちの後方。大体五十メートル程度のところに隠れている気配。性別や体形は分からないが、気配をある程度消しているところを見るに素人ではない。まあ、何者なのかは想像がつくが。

 殺気がないので襲ってくる心配はなさそうだが、内容が内容だけに万一聞かれたら面倒なことになるかもしれない。そう考えた俺はメモ帳アプリを起動させて、フリック入力でクイクイと文字を書き込んでいった。

 

『念のため、これで話そう』

 

 書き込んだ俺の内容に律はコクリと頷くと、俺の書き込みの下に『了解です』と瞬時に文字を表示させた。そうか、こいつ文章のインプットが必要ないから普通に話しているのと同じ速度で文字を書き込むことも可能なのか。なにそれちょっと便利。

 

『理事長先生クラスの人間という基準が正直なところ曖昧でしたが、大体のスペックを数値化してネットワークに繫がる範囲内で全人類を調べました』

 

 期末試験の勉強中、俺は一つだけ勉強にも、椚ヶ丘学習塾にも関係ないものを律に調べてもらっていた。

 それは、「理事長と同レベルのハイスペックな人間で、近年行方不明になっている人間はいないか」というものだ。

 殺せんせーの頭の良さがベースの人間のものなのか、それとも触手によって伸ばされたものなのかは未だに分からない。しかし、堀部の話や実際に触手を手放した前後の彼を見た限り、少なくとも触手移植者は思考面が触手によって低下すると考えていい。移植者の思考力を奪う触手が、逆にベースの知能指数を上げるとは少々考えにくかった。

 期末試験の前に三村が「理事長は勉強の腕でマッハ二十の殺せんせーとタメを張れる」と言った。しかし、逆に理事長に殺せんせーがタメを張れていると考えるのはどうだろうか。マッハ二十で動けることで理事長にはまねのできない教え方をできる殺せんせーだが、それはある意味の力技であり、「理事長とタメを張れる授業の分かりやすさ」とはまた別物だ。

 仮定として殺せんせーのベースである人間が理事長とタメを張れるほどの人間だった場合、その人数は全人類で見ても一握りだ。そうなるとその中で行方不明者がいればその人物が殺せんせーのベースである可能性が発生する。うまくいけば、シロの正体まで辿り着けるかもしれない。

 

『結果から言えば、理事長先生と同程度のスペックを持つ方は全世界で4036人いらっしゃいます』

 

 さすが理事長。全人類で換算しても百万分の一に入っちまうのかよ。

 

『その中で月が爆発する前までに行方不明になられていた方は全員生死は関係なく、ご家族の元に戻っているようです』

 

『なるほど』

 

 ここで絞れればと考えていたが、そう上手くはいかないか。理事長ほどの能力を持っていれば、大抵何かしらの形で有名になっている。安否確認は非常に容易だし、ほぼ確実だろう。いや、ひょっとしたら死んだと思わせて裏で何かしらの研究をしていたという可能性もあるが……そもそもそこまで考えても、まさか墓荒らしをして一人一人確認するわけにもいくまい。そこにばかり注力していたらシロの正体に行きつく前に地球のタイムリミットが来てしまう。

 まあ、あくまでもしかしたらと思って調べてもらったことだし、分からなかったのなら仕方が――

 

「……待てよ?」

 

 はた、と立ち止まって思考を巡らせる。そういえば、殺せんせーはやけに暗殺者に対して熟知していた。確かに地球中から狙われる身なのだから逃走者側の考え方は嫌でも身につくだろう。しかし、暗殺者特有の思考を知ることはできないはずだ。何より偽死神の指に仕込まれた仕込み銃のカラクリ、あの時は急いでいてなんとも思わなかったが、普通あの程度の情報だけでそこまで行きつくだろうか。

 それに拘束された死神を見下ろした殺せんせーのあの声、あの表情――あれはまるで。

 生徒を見る先生そのものだった。

 

『律、伝説の殺し屋“死神”のパーソナルデータは分からない、だったよな』

 

『はい。男性か女性かも誰にも知られていないそうです』

 

 暗殺家業に身を置くものは一度死んだことになっていたり、元々戸籍の存在しない出生の人間も多いと聞いた。いずれにしても裏の人間だから、潜入でもしていない限りネットワーク上に情報が引っかかることはない。

 

『夏休みの特訓のとき、ロヴロさんは確か死神はここ最近姿を現さなくなったって言ってたよな』

 

『正確には二年ほど活動をしていなかったようです』

 

 それまで千を超える屍を築いてきた職業暗殺者がなぜ二年もぱたりと活動をやめた? 足を洗ったのか、弟子が“死神”を名乗っていたから現役引退や死亡の線もある。

 しかしもしも、“万に通じる”と言われているその暗殺者が別の理由で活動できなくなっていたとしたら? ロヴロさんの話から二年前。つまり月が破壊される約二年前から、何かの研究のモルモットにされていたとしたら? 伝説とまで言われる万の才能は、理事長にも十分匹敵しうる刃なのではないだろうか。

 

「……さすがに飛躍させすぎか」

 

 これが小説なら殺せんせーから「たいした発想力です。君は案外小説家も向いているかもしれませんねぇ、ヌルフフフ」なんて言われかねないほどの超理論。けれど……。

 

「…………」

 

 人が教鞭を取る理由は自分の成功を伝えたいときか、自分の失敗を伝えたいときかの二つだと言ったのは理事長だったか、殺せんせーだったか。

 嘘が下手な担任が見せた悔やんでも悔やみきれないという目に、生徒を危険に晒した偽死神に対してではない怒りを孕んだ声。一度想起された光景が頭から離れない。メモ帳に入力した「仮定」の文字を自分の頭が否定する。仮定なんて生易しいものではないと、直感した頭の中の俺が叫んでいる。

 

「どうせ、これでどうにかできるわけでもない」

 

 スマホのマイクに拾われないように音にならない声で呟いて、「仮定」の文字の後に続けて「分からん」と入力した。

 

『分かりました』

 

 そう表示させた律は優しげに微笑んでくる。どうやら俺が本当に書き込もうとしたことを読み取られてしまったらしい。お前は本当に、いつの間に俺の思考を読むまでに成長したのだろうか。メモ帳アプリを閉じるついでに画面下から顔を覗かせていたAI娘の頭をくすぐるように撫でる。

 

「帰ってさっさと小町の飯食うか」

 

「うー、やっぱり私も味覚エンジン欲しいです!」

 

「だからそれは開発者に言えって」

 

 再び声での会話を再開しながら入力に集中して狭くなっていた歩幅を大きくする。どこかの調べでは、歩幅を大きく歩くとその分幸福に感じやすくなるらしい。所詮は気持ちの問題だろうが、今は少しでも気を紛らわせるのならと、一層歩幅を大きくしてみる。

 殺せんせーが伝説の殺し屋“死神”だったとして、元々足が辿れない人間がベースではシロの正体には行きつけない。それが一番高い可能性であるというのならば、もうこれ以上調べても無駄と言うだけだ。

 自分の恩師が人間の頃に千人以上を暗殺してきたとしたらと考えてみる。自分の中に問いかけたその問いに「どうでもいい」と即答されて、思わず苦笑しそうになった。

 そう、そんなことはどうだっていいのだ。過去にどんなに残忍なことをしてきていたとしても、俺たちに教鞭を取っている担任は「ヌルフフフ」と親身になって俺たちを教育してくれている事実に変わりはないのだから。

 きっと自分の“手入れ”もしながら。




ちょっと伏線回収がてらオリジナルの話をペタリ。そういえばハッキングされたときの律とか後で本人に見せたら面白そうだなと思っていたので。

今回はここに書くことも少ないので前にも一度書きましたが少し宣伝を。
まだ当落も出ていない状態ではありますが、夏のコミックマーケットで数名の俺ガイル書き手で俺ガイルSS合同誌を出す予定です。というか出します。
一般誌とR-18の2冊に別れていて、私はR-18の方で参加します。このシリーズが一段落ついたらちょこちょこ書いている冊子用の話に注力するつもりです。エッロエロな話が書きたいところです。
スペース落ちた場合は落ちた場合で知り合いのスペースに置いてもらうと思います。スペースの情報などはTwitterやハーメルンで今後投稿するシリーズのあとがき、あとpixivなんかでもすると思うので、よろしくお願いします。
特にハーメルンは規約的に同人誌のサンプルを投稿するのはNGらしいので、試し読みサンプルはpixivのみの投稿になる予定です。申し訳ありません。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

コードネームと言うものは、かなり精神力を使うものである

「あ、比企谷君おはよー!」

 

「おはようございます、比企谷君」

 

「おう、おはよう」

 

 登校すると、先に来て談笑していたらしい渚と茅野が声をかけてきた。何を話していたのかと思って茅野が持っていた雑誌に目を落とすと『最強プリン決定戦!』とデカデカと書かれた見出しに様々なプリンが載っているページが開かれている。

 

「ほんとお前プリン好きだな」

 

「こんなおいしいもの、嫌いな人はいないよ!」

 

 いや、さすがに嫌いな人間は少なからずいるだろ。なんだよそのプリンは地球を救うって信じてそうな発言。……よくよく考えたら巨大プリンの暗殺が成功していたらプリンが地球救ってたわ。

 新興宗教プリン教の教祖様は再び記事に目を落とすと喜々として各プリンを眺め出す。食べたことのあるものはスラスラとこの部分がおいしさのポイントだった、とかけどここは少しいまいちだった、とか批評をして、食べたことのないプリンは目を輝かせながら何度も「食べたい!」と連呼していた。微笑ましいが、頭の中が茅野の展開するプリンワールドに侵食されて、比較的甘党の八幡君も少し胸やけ気味だ。

 

「あ、ここ電車ですぐだね。なら今度皆で行ってみようよ」

 

 そんな中茅野の隣の席で話を聞いている渚は、いつも通りニコニコと茅野のプリン談義を聞いている。君たちほんと仲いいよね。大体いつも一緒にいるし。

 

「……おはよ」

 

「おはよ、木村。その顔はまた凹んでんのか」

 

 教室に沈んだ声が入ってきて、それに前原と話していた三村が苦笑いを声に混じらせながら返している。視線を向けると昨日休んでいた木村がため息をつきながら入口のすぐ近くにある自分の席に腰を下ろしたところだった。三村や菅谷といった比較的地味――こういう言い方はあれかもしれないが――なメンツとよく絡んでいる俊足木村は同時にE組の中では病欠が多い奴でもあり、免疫力が低いのか月一ペースで必ず熱を出して休んでいる。そういえば、だいたい復帰してきた日はこうして凹んでいるような気がする。

 

「なんで凹んでるんだ? 昨日なんかあったっけ?」

 

 思い返してみるが、昨日は特に特別な授業もなかったと思う。いや、ビッチ先生の英会話があったな。教室の一番右前の席なせいか木村はビッチ先生に指されることが多い。あいつも男子なわけだし、それが少しうれしかったり……ないな。その可能性ははっきり言ってゼロだな。

 

「……学校で何かあったんじゃなくて、病院に行ったからだよ」

 

「なんだ、病院が嫌いなのか」

 

 心当たりを探っていた俺に机に顎を乗せて項垂れた木村が答えてくる。まあ病院が好きな人間自体多数派ではないから分からなくもない。俺もそんなに好きじゃないしな。

 しかし、納得した俺に木村はフルフルと首を横に振って「別に嫌いってわけじゃない」と否定した。

 

「ほら、病院って名前フルネームで呼ばれるじゃん。それが嫌なんだよ……」

 

「ふむ……木村の下の名前って確か――」

 

 「正義」って書いて「まさよし」だったよな、とほとんど呼ぶことのない木村のフルネームを思い出していると――

 

「……『ジャスティス』だよ。『正義』って書いて『ジャスティス』」

 

「……は?」

 

 喉まで出ていて今まさに音になろうとした声が強制的に引っ込んで、代わりについて出たのはただ意味もなく聞き返すものになってしまった。

 逆に大げさに反応したのは反対側で耳を澄ませていたらしい茅野だ。

 

「ジャ、『ジャスティス』!? 皆『まさよし』って呼んでなかった……?」

 

「皆武士の情けで『まさよし』って呼んでくれてるんだよ。殺せんせーにもそう呼ぶように頼んでる」

 

 「入学式で聞いたときはビビったよな」と言う菅谷の話を聞く感じだと、どうやらクラス全員暗黙の了解だったようだ。

 木村の家は両親とも警察官で、木村が産まれたことに舞い上がってそんな名前を付けられたらしい。世間的にはキラキラネームとかDQNネームなんて呼ばれている部類だろう。つうか、なんで英語を当てたんだ。まだ「せいぎ」だったらギリギリセーフと言えなくもなかったろうに。

 

「『親が付けた名前に文句つけるなんて何事だ!』なんて言ってくるしさ。子供が外でどれだけ苦労しているか考えたこともねえんだろうさ」

 

 最近の世間の調査だと、そういう“変わった名前”をつけようとする親は減少傾向にあるらしい。同じようにキラキラネームをつけられた子供の苦労がネットに広がりだしたのが理由だろうが、それでもなくならないあたり、身勝手な親はいなくはならないようだ。

 

「親なんてそんなもんよ」

 

 体重を背もたれに預けて再び項垂れだした木村にそう声をかけたのは、意外なことに狭間だった。そういえば狭間の名前は「綺羅々」と書いて「きらら」だったか。「きらら」っぽく見えるかと、どっちかと言えばオドロオドロって感じだと言わざるを得ない。

 

「メルヘン趣味の母親が付けた名前だけど、気に入らないことがあればすぐヒステリックになるような人でね。そんなストレスのかかる環境で名前通りかわいく育つわけがないのよ」

 

 なんだかんだ、名前で苦労している奴は多いようだ。キラキラネームと言うわけではないが、村松も下の名前の「拓哉」はジャニーズファンの母親が木村拓哉からつけたらしく、ジャニーズファンに殺されそうとかぼやいている。俺も小学校の頃とかよく名前で虐められたな。「ヒキガエル」って呼ばれだして最終的に「ヒキ」が取れて原型なくなったりとか、担任にすら「ひきたに」って呼ばれたりとか。……名前は関係なかったわ。名字のことだわこれ。

 

「皆大変だねー、へんてこな名前付けられて」

 

「「「「!?」」」」

 

 途中で入ってきたらしくあっけらかんと会話に入ってきた赤羽に皆がギョッと目を剥く。まあ、皆の気持ちも分かる。「業」と書いて「カルマ」と読むこいつの名前も十分キラキラネームに該当するだろう。こいつの両親はデイトレードで荒稼ぎする自由人で海外、特にインドによく行くらしいから、普通の日本人とは少しずれた感性を持っていても仕方がない気がするが。

 

「あー俺? 俺はこの名前気に入ってるよ。たまたま親のセンスが遺伝しちゃったのかもねー」

 

 皆の視線の意味を理解したらしい赤羽はケタケタ笑う。本人が気に入っているのなら、キラキラネームでもさして問題はないんだろうな。産まれたばかりの子供にそれを判断するすべはないんだけど。

 

「そういえば、はっちゃんも結構珍しい名前だよね」

 

「確かに当て字とかじゃないから読めるけど、名前って感じはあんまりしないよね」

 

 倉橋と矢田に言われて、はてと自分の名前である「八幡」について考えてみた。確かに珍しい名前には違いないだろう。そのせいで自分は実は特別な存在なのではとか思って八幡大菩薩とか調べたり……いかん、余計な黒歴史を踏み抜いてしまった。

 ただ――

 

「俺もそこまで自分の名前を気にしたことはねえな。そもそも八月に産まれたから八幡って前に親が言ってたし」

 

「そんな理由だったの?」

 

「そんな理由だった」

 

 小町も雛祭りの日に産まれたから三歌人、三賢女の小野小町あたりから取ってきたんだろうな。我が両親ながら安直というか。狭間の言を借りるなら、「親なんてそんなもん」ってことなんだろうが。

 まあ、結局二人とも名前のせいで苦労したことはないから、あんまり気にしてはいないな。

 

「先生も、名前については不満があります」

 

 ヌルッと赤羽に密着しそうなくらい近くに現れた殺せんせーも話を聞いていたらしく、不満を漏らしだした。と言ってもこの超生物の場合は名前を気に入っているからこそのようだが。

 

「未だに二名ほど先生のことを殺せんせーと呼ばず、烏間先生に至っては「おい」とか

「おまえ」とか……熟年夫婦じゃないんですよ!!」

 

 ハンカチを取り出して「ううう」と泣き出した担任教師に、教室が変な空気になってしまった。殺せんせーと一緒に来ていたらしい教員二人も冷や汗を流しながらじっと木製の床を見つめている。

 

「や、だって……いい大人が「殺せんせー」とか……正直恥ずいし……」

 

 ビッチ先生、あなたの師匠はがっつり呼んでいましたが、その点は大丈夫なんですか? 今の発言、知られたらまた怒られるんじゃないですか?

 まあ、ビッチ先生が怒られるかどうかは正直どうでもいいや。なんかロヴロさんが来るたびに怒られている節があるし。

 それよりも気になることがあって、俺は近くにいた渚と茅野に声をかけた。

 

「なんで茅野は木村のフルネーム知らなかったんだ? 俺とか律、堀部ならまだ分かるが」

 

「私は学園のデータベースにアクセスして知ってました!」

 

「あ、うん。律はちょっと黙ってようね」

 

 律がまたナチュラルに学園にハッキングをかけていたのはこの際置いておくとして、入学式で皆聞いていたということは茅野も木村のフルネームを知っていておかしくないと思うのだが。

 俺の質問に茅野は頬をポリポリと掻いて言葉を濁す。代わりに答えたのは、隣にいた渚だった。

 

「茅野は今年の四月に転校してきたんだ。だから木村君の名前も皆が呼んでる『まさよし』しか知らなかったんだよ」

 

「……なるほど」

 

 確かに今までもちょこちょこ渚に学校のことを質問している姿を目にした。そういうことならその点も説明がつくか。

 それにしても殺せんせーのせいで空気が重い。それを何とかしようと思ったのか、矢田が「じゃあさ」と声を上げた。

 

「いっそのことコードネームで呼ぼうよ!」

 

 

     ***

 

 

「……はい、今日の授業はこれで終わります。はあ……」

 

 力なく項垂れた殺せんせーの合図にそれぞれ帰る準備を始める。

 矢田の提案に乗った殺せんせーによって、今日一日全員をコードネームで呼び合うことになった。全員が考えたコードネームの中から先生が無作為に引いたものを一日呼び、本名を呼ぶことは禁止。なんならできる限り代名詞の使用も禁止したこの遊びは、一時間目にあった体育という名の訓練の時点で何人もの戦死者を出した。

 まず皆が付けるコードネームにおかしなのが混ざっていたりする。親になった時の名付けセンスを鍛えるとは何だったのか。前原なんて「女たらしクソ野郎」とかいう長い上にただの悪口だし、矢田の「ポニーテールと乳」はいろんなところから怒られるのではないだろうか、岡島が。その岡島も「変態終末期」なんていう名前を受け取って見事爆発四散していた。

 まあ、一時間目の後の殺せんせーの話で、「ジャスティス」というコードネームを付けられた木村は幾分納得した顔をしていたが。

 

「じゃあねぇ、バカなるエロのチキンのタコー」

 

「ちょっ、カルマ君!? もう授業が終わったからコードネームで呼ばなくていいんですよ!?」

 

 そして当然コードネームは先生たちにも適用された。烏間さんが「堅物」でビッチ先生が「ビッチビチ」。ビッチ先生のコードネームつけたの誰だよ。完全に魚介類が発する擬音だよ。もしくはあれか? 堀部あたりが「ピッチピチではない」って理由で濁点にしたのか? 二十歳を賞味期限間近扱いする奴の闇は深い。

 そして殺せんせーは最高にムカつくドヤ顔で「永遠なる疾風の運命の皇子」とかいう中二病全開なコードネームを提示して、クラス全員の反感を買っていた。その結果がさっき赤羽が言った「バカなるエロのチキンのタコ」なわけで。実は一番ダメージがでかいのは殺せんせー自身だったのかもしれない。

 

「俺も帰るか」

 

 今日は精神的に堪えたのか皆居残る気にはなれないようで、ぞろぞろと教室を後にする。俺もその流れに乗って下駄箱で靴を履き替えて外に――

 

「待ってよ、“はちにい”!」

 

「“はちにい”一緒に帰ろー」

 

 出ようとして校舎入り口の引き戸の溝につんのめってたたらを踏んでしまった。幸い転ぶことはなかったが、近くを歩いていた千葉や速水に笑われてしまい、少し顔が熱くなる。それをごまかすように軽く頭を振り、振り返ると悪戯が成功したときの小町のようににひっと笑みを浮かべた矢田と倉橋が駆け寄ってきた。

 

「……お前ら、殺せんせーがコードネームはもうおしまいって言ってただろ」

 

 そう、皆が大なり小なりダメージを受けていたように、俺もなかなかのダメージを食らっていた。「はちにい」という一見すればまともな名前なのだが、訓練中に呼ばれるとつい気が抜けて、得意のステルスも乱れてしまい散々だった。特に先生たちに呼ばれたときのゾワゾワ感がやばい。年上から兄みたいに呼ばれると壁に頭を打ち付けたくなる謎の衝動に駆られるのだな。こんな知識知りたくなかった。

 正直もう当分呼ばれたくないのだが、当の本人たちはやめる気はないらしく、目の奥に悪戯の光を見え隠れさせている。

 

「いいじゃん。おしまいってだけでもう呼んじゃ駄目なんて誰も言ってないんだし」

 

「そうだよねー」

 

 くっそこいつら……。

 倉橋は「ゆるふわクワガタ」とかいう比較的まともなコードネームだから呼ばれてもさして気にしなさそうだし、矢田に至ってはコードネーム縛りが終わった今使うとただのセクハラだ。こっちに反撃手段がないんですが、何とかしてよ殺えもん……その殺えもんが一番ダメージ受けて死んでるんだった。

 

 「ツンデレスナイパー」速水も「ギャルゲーの主人公」千葉も助けてくれないこの現状をどう切り抜けるべきかと視線を巡らせていると――

 

「あれ?」

 

 教室の窓が目に入った。そこに佇んでいる人影にも。

 同時に、一度は納得したはずの疑問が再度浮上する。

 

「悪い、先帰っててくれ。用事思い出したわ」

 

「え? あ……うん。分かった」

 

 倉橋の頭にポフッと手を乗せると、何か言おうとしていた彼女は俺の顔を見て、コクリと頷く。それを確認して、心持ち速足で校舎の中に再度入った。手早く上履きに履き替えて教室に向かう。当然のことながら、忘れ物なんてしていない。

 四月から転校してきたから学園のことで知らないことが多い。なるほど、確かにそれは納得だ。けれどそれは「転校早々E組に落とされた」ということになる。私立への転校ということは、当然転入試験を受けるはずだ。それをクリアした人間がE組? 最初からE組レベルの学力なら合格させるわけがない。俺が理事長でもそんな生徒は不合格にする。

 じゃあ過去の素行不良? それもおかしい。結局最初からあと一年で部外者になってしまうE組にわざわざ落とすなら、実績を重視する椚ヶ丘学園が合格させるとは考えにくい。

 では合格した後になにかやらかした? そういえば、竹林が前に理事長の表彰トロフィーを壊してE組に落とされた前例があると言っていた。それがあいつだと考えると落ちた理由は納得できる。今のところ一番現実的にありえる可能性だ。

 ただ、何度か訪れた経験から言えば理事長室はかなり広い。トロフィーの飾られた棚には意図的に近づかないと届かないはずだ。それにそもそも、理事長室に一般生徒が呼び出される機会なんて早々ない。特に実績もない転入生なら入室する機会なんて転入時の顔合わせくらいだろう。学園のトップと初めて会う時にそんなことをする理由があるか? というよりもたかが表彰トロフィーや盾を“事故”で一つくらい壊してしまった生徒を素行不良としてE組にあの人が落とすだろうか。去年まで暴力沙汰が絶えなかったという赤羽だって、学園内の有望な先輩に大怪我を負わせるまでほぼ黙認していたというあの理事長が。

 

「…………」

 

 もし本当にあいつがそうやってE組にやってきたのだとしたら、意図的にE組に落とすように仕向けたことになる。

 

「あれ? どうしたの、比企谷君?」

 

 この――茅野カエデという少女は。

 少しとはいえ、殺せんせーが来る前に転校してきた茅野は、故にこそ俺や律、堀部のように転校生暗殺者と決め付けられなかった。だってその頃はこのE組が暗殺教室になるなんて誰も思ってもみなかったのだから。

 

「…………」

 

「…………」

 

 茅野は俺の目を見て何かを感じ取ったのか、キュッと唇を引き結ぶ。お互いに何もしゃべらないと、十二月の冷たい風が木々や窓を揺らす音だけが聴覚を刺激してくる。

 巨大プリンでの暗殺のときにわずかに頭をよぎった違和感。思えば、仲間だと思っていたからクラスの奴らを“そういう目”で見ることは一度もなかった。そもそも茅野カエデという少女は大体いつも渚とセット……いや、“渚の陰に身を隠している”人間だったから、きっとそういう目で見ても渚の殺気ですべて隠されてしまっていただろう。

 思い返せば茅野と俺の距離感は絶妙だった。適度に交流をしながらも決定打になるような一歩は近づかせない。たぶん、巨大プリンのときに違和感を持った俺に気づいたのだ。きっかけを持ち、観察力を鍛えている俺に近づきすぎれば、奥底に隠しているものを見破られかねないと。

 今の茅野の雰囲気は、いつも通りのようでいつも通りではない。少なくともいつもの明るい雰囲気はなく、戸惑っているように“見える”目の奥には、その感情でうまく隠そうとしている警戒が極々わずかに視認できた……気がした。

 

「なあ茅野――」

 

「比企谷君」

 

 何を言うかなんて決まっていない。ただ、なぜか声をかけなくてはいけない気がして発した声は、茅野自身の声によって遮られる。鞄を持ち上げた彼女はすっと伸びた姿勢で俺に近づいてきて――

 

「――バイバイ」

 

 それだけ言って、俺の横を通り過ぎて行った。教室に残る人影は、俺しかいない。律が本体のディスプレイから心配そうな顔を見せているが、生憎今は反応する余裕はなかった。

 読書好きというのは面倒くさいもので、行間にまで目を向けてしまう。台詞の細かいところまで意味はないかと勘ぐってしまう。

 あの「バイバイ」が、字面通りの意味には――聞こえなかった。

 

 

     ***

 

 

 ――あの時、何が何でも止めて、何が何でも話を聞くべきだったのかもしれない。

 

「あーあ、渾身の一撃だったのに。逃がすなんて甘すぎだね……私」

 

 うなじから二本の“黒い触手”を伸ばした茅野を見て、どうしても俺はそう考えてしまっていた。触手は嘘をつかない。黒い触手は強い怒気の色。それを、なぜこの半年以上の間気付くことができなかったのか、と。

 

「茅野さん、君は一体……」

 

 用具倉庫で襲撃されたらしい殺せんせーの問いに、ツインテールがほどけてウェーブがかった髪を背中に流した暗殺者は薄い、親愛をまるで感じさせない笑みを浮かべて言った。

 自分の本名は「茅野カエデ」ではない、と。

 

「雪村あぐりの妹。そう言ったら分かるでしょ――人殺し」

 

 その目には、一年間熟成され続けた憎悪が、溢れ出さんばかりに満ち溢れていた。




というわけで、原作の構成を入れ替えてのコードネーム回と嵐の時間でした。
コードネーム回の茅野の反応が八幡が気づくのにちょうどよかったので、無理をしてずらしてみました。たぶん変なことにはなっていないはず。多分。

ここをどううまく書くかが難しいところなので、次も張り切って書いていきたいと思います。
ただ、明日は日帰りで県外に出かける用事があるので、明日更新できるかはわかりません。
Twitterの方で更新の有無は報告すると思うので、よかったらフォローしてみてください。という話を県外に出かける度にしている気がします。くどいと思う方もいるかもしれませんが、念のためなんで許してくださいお願いしますなんでもしますから!
@elu_akatsuki

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

だから、潮田渚は決意する

「……どういうことだよ、殺せんせー」

 

 明日仕切り直すと茅野がいなくなった後、皆の注意は自然に殺せんせーに集まった。当然と言えば当然だ。茅野はこの超生物に向けて「人殺し」と言ったのだから。

 それに、転校組である俺たち以外の生徒は他の点も気になったらしい。彼女が口にした「雪村あぐり」という名前。

 

「それって、殺せんせーが来る前の俺らの担任をしてた、雪村先生のことだよな」

 

 E組という特別クラスは、実質二年の三月から始まる。殺せんせーが担任になったのは四月の初め。件の雪村あぐりという人間はそれまでの一ヶ月、E組で教鞭を振るっていた人なのだそうだ。

 

「……そう、です。茅野さんが言っていた『雪村あぐり』は、間違いなく君達の知っている雪村先生です」

 

 殺せんせーの肯定に、皆グッと唇を噛みしめる。自分たちと関わりがあった人間が、いつの間にかこの世からいなくなっていたとなれば、ショックも大きいのだろう。

 

「俺、さ……」

 

 重苦しい空気の中、やはり重たい声色で話を切り出したのは、スマホを操作していた三村だった。指でディスプレイをスクロールしながら「前に茅野を見たことがあると思っていた」という三村に、顎に手を当てた磯貝が首を捻って思案しだす。

 

「雪村先生には……似てなかったと思うけど」

 

「違うんだよ。キツめの表情を下ろした髪で思い出したんだ」

 

 三村が見せてきたのは、一枚の黒く長いわずかにウェーブのかかった髪をした女の子の写真。ドラマのホームページのものらしいその写真には「磨瀬榛名」「体当たりで演じた反骨の孤児役」と書かれていた。

 テレビをそこまで積極的に見る方ではない俺だって知っている名前だ。俺らと同世代の子役。しかもどんな役柄だって軽々とこなして見せた天才子役だ。この孤児役を演じたドラマも小町に勧められて一緒に最後まで見た。確か学業に専念するために、長期の休業に入ったと聞いていたが。

 

「磨瀬榛名、本名は雪村あかりさんです。戸籍を調べたところ、去年亡くなったお姉さんがいたようです。名前は『あぐり』」

 

「「「「…………」」」」

 

 今調べたらしい律からの裏付けに、それぞれが十人十色に表情を変える。

 役者としてキャラクターを“演じる”ことができる人間。そんな人間がこの一年近く、周りに気づかれることなく別の名前で一緒に過ごしていた。どれが本当の彼女なのか疑心暗鬼になる者、受け入れられない者、皆それぞれ思うところがあるのだろう。

 

「というか、この一年近くずっとメンテもせずに触手を宿していたのか? ……ありえない」

 

 そんな中でフルフルと首を振り、冷や汗を流しながら絞り出すように堀部が呟く。最初は茅野もシロと組んでいたのかとも考えたが、堀部の様子を見る限りそうではないようだ。触手の宿主への負担は大きい。メンテナンスもせずに生やしていれば殺せんせーに負けた後や携帯ショップを荒し回っていた頃のようにのたうちまわりたくなるような地獄の苦しみが襲っていたはずだ、とその時の痛みを思い出したのか頭を抑えて堀部は続けた。

 

「あの痛みを表情に出さずに耐え切るなんて、まず無理だ」

 

 しかし、現に茅野は、雪村あかりはそれをやってのけた。それが世間に天才と言わしめた演技力によるものなのだろう。

 それに、姉を殺したというターゲットへの復讐心のなせる技か。

 けれど……。

 

「茅野が……先生の事『人殺し』って言ってた。……過去に何があったんだよ」

 

 問いかける岡島も、周りの皆も、茅野の言葉を鵜呑みにはしていない。仮に茅野の言っていることが事実だとしても、何か理由があるはずとこの場の全員が考えているようだった。

 だって俺たちが一年近く一緒に過ごしてきた先生は、決してそんなことをする人じゃないから。

 しかし、前任の雪村先生と殺せんせーが知っている仲だったとしたら、殺せんせーがこの学校の三年E組を指名したことも辻褄が合うのも事実だ。ではなぜこの教室の担任になったのか。なぜ暗殺の成功リスクを上げてまで俺を引き入れたり、E組の生徒と真剣に向き合うのか。中高生を洗脳して逆に人質に取るため? 力持つ者の気まぐれ?

 分からない。それを知っているのは、殺せんせー自身だけだ。

 

「こんだけ長い間一緒にいて、もうハナっから先生の事疑ったりはしないさ」

 

 けど、こんなことになった以上、先生の過去を話してもらわないと。木村はそう続けた。このままだとこの場の全員が納得しない。茅野の問題が終わったとしても、きっと暗殺に真剣に取り組むなんて無理だと。

 

「…………」

 

 その言葉に、皆の真剣な表情に、殺せんせーはその小さな目を伏せて考え込む。事情を知っているであろう烏間さんは険しい表情にうっすらと汗を浮かべていた。過去を話すということは、当然人間だった頃のことも話すことになる。そうなれば、この教室はどんな形であれ、変化せざるを得ない。

 

「……分かりました」

 

 きっとそれも全部分かった上で、覚悟した上で、俺たちの先生はゆっくりと首を縦に振った。

 

「先生の、過去の全てを話します」

 

 ですが、と殺せんせーは言葉を続ける。この話は茅野自身にもしなくては意味がないと。E組の一員であり、前任の妹であるあいつにも聞いてもらわなくてはいけないと。

 

「話すのは……クラス全員が揃ってからです」

 

 その言葉に、皆静かに頷いた。

 

 

     ***

 

 

 次の日は冬休み初日だった。夏とは比べ物にならないくらい短い休み。昨日の昼頃は、どんな暗殺を試そうか皆で試案していた。極寒の環境を利用したプランや雪を一気に水に変えて襲撃するプランなど、中学生故の自由な発想の作戦たちは、しかし今それ以上のプランの煮詰めをする気にはなれなかった。

 

「大丈夫だって渚。今日には茅野も戻ってきて、殺せんせーの過去の話も終わって、明日からまたいつも通り暗殺できるようになるさ」

 

「うん……」

 

 杉野が努めて明るく接するが、当の渚の表情は暗い。仕方がないだろう。誰とでもフレンドリーに接する茅野が一番近くにいたのは間違いなく渚だ。誰だって分かっていたし、渚もその自覚があっただろう。自分の暗殺者の才能からくる殺気を利用するために一緒にいたのだという事実が、何よりもこいつを苦しめている。殺せんせーからの、正確には殺せんせーに届く茅野からの連絡を待つために、俺と杉野、赤羽は渚の家で待機していた。母親が遅くまで帰らない渚の家が待機しながら作戦を練ったりするにはちょうどいいから――という理由ももちろんあるが、一番の理由は今の渚を少しでも休ませるためだ。昨日はあまり寝ていないのだろう。目の下にはうっすらとクマが浮かんでいる。

 そして、渚をフォローする役に抜擢された俺たちも、残念ながらほとんど役には立てていなかった。杉野のテンションだって空元気だ。全員が全員、今の状況がいかにやばいかを正確に理解している。

 堀部がメンテナンスも肉体改造もしていない野良の触手持ちは常に自分の最後のようなギリギリの状態のはずだと言っていた。シロから後二、三日で死ぬと言われていた堀部の触手末期時と同じ状態。その状態で、恨みを乗せた全力攻撃で殺せんせーを殺そうとしたら……その先を導き出そうとする思考を何度も何度も打ち消す。けれど、打ち消しても打ち消しても、考えないようにすればするほど思考はひたすら貪欲に答えを見つけようとして、思わずギリッと奥歯を噛みしめた。

 

「そういえばさ」

 

 必死に思考を噛み殺していると、壁に背をつけて座っている赤羽がペラペラとめくっていた渚の漫画を閉じて顔を上げる。

 

「俺、停学中だったから雪村先生って家に一回来た時にあっただけなんだよね。どんな先生だったの? 俺みたいな奴のところにわざわざ来るくらいだから、相当変わってるのは分かるけど」

 

「お前な……」

 

 変わってるって失礼な言い方すんなよ。

 ただしかし、俺自身その雪村先生のことは知りたいと思っていた。少し調べればパーソナルデータくらいは出てくるだろう。しかし、それは律にも止めている。律の情報収集能力ではひょっとしたら殺せんせーの過去まで行きつく可能性がある。いつもなら徹夜で調べ上げて精査するところだが、今は事情が違うのだ。その話は、殺せんせー自身の口から全員揃った状態で話してもらわなくては困る。

 赤羽もそう考えているのだろう。今知りたいのは生徒から見た先生としての雪村あぐりだった。

 何気ない質問に去年の三月からE組に通っている二人はしばらく考え込んで――

 

「「服がダサかった」」

 

「「は?」」

 

 二人してハモった。なんなら俺たちの方もハモった。

 

「なんかお気に入りのブランドだったらしいんだけど、個性的というか……微妙というか……」

 

「うん。学校だとあんまり目立つ格好はできないからってシャツくらいだったけど、あれを全身着て来たら職質くらいそうだったよね」

 

 二人してなにか思い出したのか、苦笑なのか引いているのかいまいちよく分からない表情をしてきて、俺たちまで変な表情になってしまった。赤羽自身、雑談でもして空気を和らげたかったところがあったのだろうが……まあ、ある意味空気は和らいだ気がするからいいのかな。

 

「でも……」

 

 いたずら好きの悪魔とどうしようかと目線を合わせているときに聞こえてきた声に、ふっとベッドに腰を下ろしている渚に視線を向けた。その表情は少し柔らかくなっていて、何か思い出を懐かしむようだった。

 

「二週間だけの付き合いだったけど、熱心でいい先生だったよ」

 

「生徒一人一人のこと、よく見ようとしてくれてたよな。休み時間も忙しいはずなのに雑談とかしたりさ」

 

 俺たちはそれをよく見ていなかったけど、と杉野は少し目を伏せる。勉強をひたすら教えるのではなく、菅谷が黒板に落書きの大作を描いた時には怒るどころか褒めていたのだそうだ。

 それを聞いて俺と赤羽は、再び視線を合わせる。どうやら、受けた感想は俺と一緒のようだ。

 

「それってさ……」

 

「殺せんせーと似てないか?」

 

「「え?」」

 

 素っ頓狂な声を上げた二人は再び思考に耽って、やがて確かにと小さく頷いた。

 

「殺せんせーが規格外だからうまく重ならなかったけど、やってることは近いかもしれないな」

 

「確証は持てないけど……うん、言われてみれば……」

 

 確かに文字通り規格外の超破壊生物と理事長のような化け物でもない一般人を重ね合わせるのは難しい。雪村先生には生徒一人一人に手を変え品を変え最適な授業をするなんて難しいだろうし、生徒の問題解決のために海外に行って調査なんてことは不可能だ。

 けれど、学力や実績重視の椚ヶ丘学園という環境において、その教育に対する二人の姿勢は――限りなく近く聞こえた。

 

「つまりさ。ひょっとしたら殺せんせーは、雪村先生の後を純粋に引き継いだだけかもしれないよね」

 

 閉じた漫画を右手で弄ぶ赤羽にそれぞれが頷く。悪意を持って殺した相手の受け持っていた教室を、相手のやり方に倣って引き継ぐというのは少しおかしい。つまり、少なくとも悪意による殺人ではない可能性があるということだ。

 

「なら、余計にちゃんと茅野を連れ戻して、殺せんせーから話聞かないとな」

 

「うん、そうだね」

 

 握り拳を作った杉野に、渚も心なしか力強く頷いた。俺たちはこの一年弱、毎日のようにあの先生と会って、言葉を交わしてきた。だから、ちゃんと理由があるって信じている。

 それに、同じ時間を茅野とも過ごしてきた。毎日挨拶をして、しょうもないことで笑いあって。

 そして利用されていたとは言え、一番近くで茅野を見てきたのは、紛れもなく渚だから。

 

「絶対、茅野を連れ戻すよ」

 

 その目には、力強い“殺気”がこもっていた。さっきまでの弱々しさは感じられない。どうやら期せずして、俺たちのミッションはクリアできたらしい。杉野は頭の後ろで腕を組んでニカッと笑い、赤羽はいつも通りの飄々とした表情を少し楽しそうに緩めていた。

 

「あ、けどさ。あんま無茶しちゃダメだよ? 特に渚君と比企谷君はさ」

 

「あ……はい」

 

「お、おう……」

 

 ポフッと漫画の表紙と拳を軽くぶつけた赤羽に、渚は苦笑を浮かべながらシュンとただでさえ小さい体を一段階ちぢこませ、俺は思わずそっぽを向いてポリポリと頬を掻いてしまう。俺と渚はE組きっての無茶をやらかす人間という自覚はあるので、こういう反応をしてしまうのはある意味仕方がなかった。

 ただ――

 

「そんなこと言ってこの二人が無茶しなくなるんなら、俺たちも苦労しねえよ」

 

 カラカラとおかしそうに笑う杉野に、当の赤羽も分かっているのか「だよねぇ」とニタニタ笑い出す。このままだと角と尻尾を生やした目の前のいたずら小僧のおもちゃにされてしまう。それは面倒くさいことこの上ない。

 話題を別のものに変えようかと考えていると――

 

「皆さん、殺せんせーから連絡です。茅野さんから場所の指定が来ました」

 

「「「「っ……」」」」

 

 律の声が俺のスマホから聞こえてきて、皆の顔が強張る。しかしそれも一瞬で、「行こうか」と立ち上がった赤羽に続いて渚の部屋を後にした。

 赤羽の言う通り、こんな状況で無茶をするなという方が無理な話だ。

 だって――




茅野編なのに茅野が出てこない不思議。
八幡が雪村先生のことをよく知らない状態だったので、少し雪村先生に関する話を入れるのと同時に、ひょっとしたら茅野からの連絡が来るまで杉野とかが渚のケアをしてたんじゃないかなーと妄想していた部分を少し書いてみました。

そういえば、今日は日帰りで県外(ぶっちゃけ福岡)の予定だったのですが、予定が変わって現在いつものネカフェに宿を取っています。
当初は帰る気満々だったので逆に時間が余ってしまって、せっかくだから艦これアーケードできるのでは!? と思いゲーセンに行ってみたのですが……人がめっちゃ多くてそのままUターンしてSS書いてました。何あの人の数……。
ゲーセンは極稀にゆびーとをしに行く程度なので、ちょっとあの空間には入れませんでした。いや、新参に厳しいとかそういうのではなく、単に私がコミュ障なだけなんですけどね!
アーケード面白そうなんですけどね。これこれ、こういうのほしかったんだよぉ(cv.天龍)みたいな感じで。ある程度ブームが落ち着いてから地元の設置店舗で遊んでみようと思います。

気が付けばこのシリーズもお気に入り2300件、累計UA30万を超えました。特に30万UAは初到達なのでうれしいです。今後も頑張って完走まで書いていくので、よろしくお願いします!

あ、そうそう。ヒロインを明確にしてほしいという感想をまたいただいたのですが。
だが断る。
この暁英琉が最も好きな事のひとつはなんでも答えてもらえると思っている読者に「NO」と断ってやる事だ。
…………。
まあ、露伴先生の真似事は置いておいて。私は基本的にシリーズでカップリングを明言はあまりやりません。短編とか、八色の虜シリーズみたいに1話目でくっつく話なら明言もしますが。なので、分かるまでは気長に待っていてもらえると幸いです。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

覆い隠された彼女の気持ちを

 夜七時、茅野が指定した椚ヶ丘公園の奥にあるすすき野原には、すでに烏間さんやビッチ先生と他の奴ら、そしてこの場所を指定した茅野自身が揃っていた。

 

「「「「…………」」」」

 

 誰も言葉を発しない。言い知れぬ緊張感と、十二月の冷たい夜風に揺れる枯れたすすきの音だけがこの空間を支配していた。茅野は俺たちに背を向けてただ星空を眺めていて、俺たちはそんな茅野をただじっと見つめている。

 やがて、一際強い風が吹いた。自然の風でないことはこの場の誰もが分かるマッハ飛行の残滓の風。

 

「……茅野さん」

 

「来たね。じゃ、終わらそ!」

 

 地上に降り立ったターゲットに、黒い二本の触手を伸ばしたままにこやかに茅野は笑う。黒のノースリーブワンピースにマフラーというちぐはぐな出で立ちはどこか触手を生やしていた頃の堀部に近いように思えた。表情は一切崩さないが、露出した腕や足からは遠目からでも分かるほどの汗が浮き出て流れ落ちていく。

 

「茅野……」

 

 それでも殺せんせーを殺すことしか見ていない茅野に、渚が一歩前に出る。昼間の間にある程度戻った顔色は、少し険しい。

 

「全部……演技だったの? 楽しいこと色々したのも、苦しいことを皆で乗り越えたのも……」

 

 渚の近くにいた奥田はしきりに頷いているし、神崎は戸惑うような表情を茅野に向けている。暗殺教室なんていう特異な環境にいたが故に、E組はいろんな体験をしてきた。楽しいことも、辛いことも、皆で歩んできた。

 その中には、確かに茅野もいたと思っていたのに――

 

「うん、演技だよ。私これでも役者だからさ」

 

 それを触手を生やした少女はいつものような満面の笑みでいともたやすく否定する。“皆”の中に自分は入っていなかったと言いたげなその笑みに、渚の目は少し力をなくし、神崎の表情も暗くなる。奥田なんて両の拳を握りしめて、じっと自分の足元に視線を落としてしまった。

 

「大変だったよ。ひ弱な女の子を演じ続けないといけなかったからね。殺す前にバレたら全部パアだもん」

 

 渚が鷹岡にやられている時もじれったくて参戦したかった。不良に攫われた時や死神に蹴られた時は、ムカついて殺したくなった。その感情も全て丸め込んでひた隠しにして、全てターゲットへの憎悪に変えて身を潜ませて、刃を研いで――

 そうしなくては、姉の仇を取れないから。

 

「…………」

 

 そうペラペラと舌を動かす茅野を、俺は何も言わずにじっと見つめる。俺の視線に気づいたのか、茅野はこちらを見て、にっこりを笑みを浮かべてくる。いっそ見惚れてしまうくらい完璧な笑みだ。

 けれど、完璧すぎるからこそ、その笑みは貼り付けられた仮面のようで――やはり俺はなにも言葉を発することはできなかった。

 

「……カエデちゃんがどれだけ雪村先生のこと好きだったか、なんとなく分かるよ。たった二週間の付き合いだったけど、好きになるには十分すぎるくらいいい先生だったもん」

 

 本校舎の担任たちが見捨てた自分たちになんとか自信を持たせられないかと奮闘していた、この学園では特異な新任教師。そんな先生を殺せんせーが殺すなんて、俺たちには信じられない。一年弱見てきて、そんな酷いことをするそぶりすら一度も見せたことがないのだから。

 そして、それは茅野自身だって分かっているはずなことだ。

 

「俺には、茅野ちゃんの今のやり方が殺し屋としての最適解とは思えない」

 

 本当にそれでいいの? そう聞き返す赤羽が思い浮かべているのは、きっとこの一年で色々してきた経験だろう。感情の乱れは判断力を鈍らせる。本当に大事なものが見えなくなる。離島の時の渚や俺のように、そして理事長のように。殺し屋はなおのこと冷静になることが重要だと教わってきた。

 

「身体が熱くて首元だけ寒いはずだ。その代謝異常の状態で戦うのはマズい」

 

 堀部自身も経験があり、だからこそ今の茅野の格好は堀部の当時の出で立ちに近いのであろう。玉のようにあふれ出る汗が、いかに今の彼女の体温が異常になっているかを如実に表していた。

 メンテナンスをしていない触手を使い続ければどうなるか。演技で表情は隠せても、実際に今も茅野の身体は十二月とは思えない汗を流すほどの熱と、脳をかき回されるような激痛に苛まれているはずだ。

 そんな状態で戦えば、膨大なエネルギーを消費する触手に体力を奪われ――死ぬ。

 そんな特攻、もはや暗殺じゃない。

 

「……うるさいよ。部外者は黙ってて」

 

 ――ゴウッと。

 突然茅野の触手がその先端の五十センチほどを燃え上がらせた。その目にさっきまでの“いつもの表情”ではなく、射貫かんとするような強さを秘めている。交渉の余地を許さないその目に、さっきまで説得していたクラスメイト達はグッと押し黙るしかなかった。

 どんな弱点も磨けば武器になりうる。身体が熱くて仕方ないのなら、もっともっと熱くして全部触手に集めればいい。それはきっと、ろうそくの炎を無理やり大きくするようなものだ。火力は確かに強くなる。けれどその分、蝋でできた軸は常の何倍も早く溶けきってしまう。

 

「やめろ茅野! こんなの違う!」

 

 触手にまとった炎で自身と殺せんせーを囲った茅野に、渚がいつもは出さないような叫び声を上げた。自分の身を犠牲にして殺したところで、後には何も残らないのだと。

 渚は俺と同じように無茶をする奴だが、無茶の本質が少し違う。少し前までの潮田渚と言う少年は母親の二周目として自分の命に頓着がなかった。だから暗殺教室が始まった四月の始めに自爆テロなんて起こせたのだろうし、その小さな身体で何人もの相手に立ち向かっていった。目的のためなら、冷静に無謀に自分の命を戦場の最前線に投げ込んできた。

 しかし、そんなあいつだってこの一年弱の経験で成長してきた。学習してきた。進路相談の折に母親の二周目という家族の鎖を抜け出し、自分の命についてだってちゃんと考えるようになったのだ。自分の過去を思い返して、自分の死と引き換えに暗殺が成功しても、きっとそこに喜びはない。残るのはどうしようもなくやるせない気持ちだけだと一つの答えを出したのだ。

 

「自分を犠牲にするつもりなんてないよ、渚。ただこいつを殺すだけ。――そうと決めたら一直線だから!」

 

 嘘だ。俺たちでは想像することもできない苦痛を受けて、自分の身体がどういう状態に陥っているのか分からないわけがない。

 しかし今の俺たちには、常人の俺たちにはこの戦いを止める術がない。触手同士の戦いで、茅野は文字通りの全力全開。しかもここは公園の奥地で、近くに触手の弱点である水もない。

 触手を何度も叩き込み、ターゲットの体勢が崩れて意識が前に集中したのを逆手に利用して背中に触手を叩き込み、地面に落とし込む。炎で作られたリングによる環境変化で集中力を乱している殺せんせーをさらにテクニカルに追い詰めて、隙あらば急所である体の中央の心臓を狙って炎の触手を突き立てる。茅野を傷つけるつもりのない殺せんせーには防戦しか選択肢がなく、致命傷は免れているものの確実にダメージは蓄積されていっていた。

 状況ははっきり言って絶望的だ。

 

「イトナ。テメーから見てどうなんだ、今の茅野は」

 

「……俺よりもはるかに強い。今までの誰よりも殺せんせーを殺せる可能性がある」

 

 寺坂の問いかけに堀部は険しい表情で口にする。触手は精神状態に大きく左右されるものだ。今の茅野はその点において、あの頃の特殊な訓練を受けていた堀部の何倍も強い。自分の肉親の仇を相手に一年間熟成させてきた殺意を向けているのだから当然だろう。触手は本当に二本かと疑いたくなるほど早く、ダイラタンシー現象を受けて先端が硬くなった触手は一撃一撃が重い。炎をまとったそれは、さながらメテオのように殺せんせーに襲いかかっていた。

 

「……けど、あの顔を見ろ」

 

「キャハ、千切っちゃった。ビチビチ動いてる」

 

 殺せんせーの触手の先端を破壊したらしい茅野の目には恍惚とした色が滲み出していた。炎でその欠片を焼き飛ばして再びターゲットに襲い掛かるその表情は、もはや復讐心ではなく単純な戦闘欲に犯されているように見える。可笑しそうに吊り上がった口からはだらりとよだれが垂れ落ち、うなじに生えているはずの触手はその根を枝分かれさせながらどんどん伸ばし、顔の方まで侵食しようとしていた。ひょっとしたら、内部はもっとひどいことになっているかもしれない。わずか十数秒の戦闘で、触手はその精神を侵食しようとしているのだ。

 確かに茅野は肉体強化やメンテナンスなしに触手の負担を耐えてきた強い精神力がある。けれど、それはあくまで触手の力を温存していたからだ。触手の全力使用はあっさりとその精神力の殻を突き破ってしまった。

 

「あそこまで侵食されたら、はっきり言って手遅れだ。復讐を遂げようが遂げまいが、戦いが終わる数分後には――死ぬと思う」

 

 堀部から発せられた“死ぬ”という単語に、その場の全員が顔を強張らせる。特に渚は目に見えて動揺していた。茅野に待ち受ける結末がどちらも変わらないというのなら、俺たちにとってそれは、どちらも最悪の結末でしかない。

 

「こんなことが……茅野が本当にやりたかった暗殺なの?」

 

 呆然と茅野を見つめて呟いたのは渚だ。誰にするでもなく漏らされた問いかけ。しかしその答えはすでに渚自身の中にあるように感じた。

 そして、俺の中にも。

 これが茅野のやりたかった暗殺? 否だ。断じて否だ。もはや痛みも感じないようで、まるで子供が好きなおもちゃで遊ぶように無邪気に、凶悪に笑う茅野は、もはや茅野カエデでも、雪村あかりでもなかった。触手に深く浸食された精神は、本来の目的の上に覆いかぶさって、塗りつぶしてしまっているのだろう。

 

「ホラ! 死んで、殺せんせー! 死んで! 死んで!」

 

 炎の塊となった触手を何度も殺せんせーに叩きつけながら、茅野はひたすら「死んで」と連呼する。その光景に、俺はいつかの自分を重ね合わせてしまう。堀部も多少の心当たりがあるようで、普段のあまり変えない表情を苦々しげに歪めていた。

 

「死んで死んで死んで死んで死んで死んで死んでしんでしんでしんでしんでしんでしんでしんでシンデシンデシンデシンデシンデシンデシンデ!!」

 

 人間はどんなに感情を高ぶらせても、その感情を真の意味で維持することが難しく、少しずつ頭と心で感情のズレが生じてくる。負の感情ならなおのこと。そのズレを必死に取り繕おうと、同じ言葉を連呼して無理やり心を奮い立たせようとしているのだ。あの時の俺がそうだったように、堀部がひたすら強さを言葉にしていたように、今の茅野がそうであるように。

 

「死んで! 死んで! 死んでよ殺せんせー!」

 

 攻撃的な言葉はどこか懇願しているようにも聞こえてくる。さらに聞いていればそれが本心ではないようにも感じてくる。触手に犯された心が必死に出しているSOS信号のようにも思えてくる。

 

「死んで!」

 

 ――ころして、……たすけて。

 ゾワリと髪の根元が逆立つような殺気の奥に、今にも泣きそうな少女が……見えた気がした。




茅野回はもうちょっとだけ続くんじゃ(cv.亀仙人)

元々は前回の話と合わせて一話にする予定だったので、今回は少し短めになりました。もうちょっと戦闘シーンに臨場感を出したいなぁと思う今日この頃。あんまり説明臭くならずにアクションの動きが想像できる感じが目標です。このシリーズでは言うほどアクションシーンが多くないので、何かの機会にガチアクション小説とかも挑戦したいなと思っていたり。
そういえばカクヨムさんの方では、漫画原作大賞的なものをするそうですね。漫画映えすると言えばやはりアクションなので、アクション小説多くなるんじゃないかな? たぶん。

そういえば最近、化学探偵Mr.キュリーという喜多喜入先生の小説を買ったので時間を見つけて読んでいます。ガリレオシリーズといい、こういう研究者が謎を解く話は普通の探偵物とまた違うのでワクワクします。文系なので知らない単語が出てきたらしょっちゅうググるんですけどね。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

蛇の決意は、兄の決意は、触手の決意は

「死んで! 死んで! 死んで!」

 

 喉が枯れんばかりに叫びながら何度も何度も極熱の触手でターゲットを殺そうとする茅野は――彼女本人の方が今にも死にそうな顔をしていた。触手の根はどんどんその侵食範囲を増やしていき、眼球にまで伸びているのが見えた。

 

「なんとかなんねえのかよ。このまま、茅野が触手に侵食されていくのを見てることしか……」

 

悔しそうに顔を歪める前原に、皆も表情を険しくしながらも、誰も答えない。戦いの次元が違う上に、俺たちは茅野を傷つけるなんていう馬鹿な選択肢はすべからく却下してしまう。狭まった選択肢では、あいつを何とかする方法を見つけることはできない……。

 消える直前に一瞬だけ燃え上がる炎のような茅野を見つめる俺たちの前に――

 

「「うおっ!?」」

 

 透けた殺せんせーの顔が現れた。どうやら茅野の攻撃をいなしている合間に、なんとか顔だけを伸ばして分身を飛ばしているようだ。それはそれで普通に分身を作るよりも難易度が高いのではないだろうかと一瞬思ってしまったが、今はそんなことはどうでもいい。

 

「手伝ってください! 茅野さんの触手を一刻も早く抜かなくては!」

 

 茅野の触手の異常な火力は、自分の生存を考えていない故の捨て身の精神力から実現されているものだ。堀部も言っていたように、代謝異常も引き起こしている状態でそんな戦いをしていればあっという間に生命力を触手に吸い尽くされてしまう。

 このままではあと一分もしないうちに――茅野の生命力は奪いつくされてしまう。

 

「ですが、彼女の殺意と触手の殺意が一致している間は、触手の根は神経に癒着して離れません!」

 

 堀部の時と同じだ。触手は宿主の最も強い想いに呼応する。宿主の強い想い、堀部なら強さへの執着、茅野なら殺せんせーへの殺意を緩ませないことには、触手の癒着が強く引き抜くことができない。無理に引き抜こうとすれば癒着した神経が傷つき、どの道茅野を助けられないからだ。

 しかし、堀部のときに寺坂たちが行ったように、時間をかけて説得なんてできない。何より茅野自身がそんな時間を与えてくれない。

 

「じゃあ、どうすれば……」

 

 速水の質問に殺せんせーは戦いながら引き抜くしかないと返答する。まずは茅野の、正確には触手の殺意を叶えることで、一瞬殺意を弱まらせる。

 そのために――

 

「先生はあえて最大の急所、心臓を晒します」

 

「「「「っ!?」」」」

 

 ネクタイの下にある殺せんせーの最大の弱点、心臓。そこを完全に破壊されれば殺せんせーが即死することは、この場の全員が知っていた。「殺った」という手ごたえを与えれば、どんなに集中している暗殺者も気が緩む。感情に敏感な触手ならなおさらだ。その瞬間に、俺たちの誰かが「茅野の殺意」を忘れさせるようなことをする。それが殺せんせーの作戦だった。

 

「方法は何でもいい。思わず暗殺から意識を逸らしてしまうなにかです」

 

 その役目はターゲットである殺せんせーにはできない。殺意の対象では何をやったところで悪戯に殺意を増幅させるだけだ。だから、すでに茅野の意識の外にある俺たちがその役目を負う必要がある。触手の殺意が緩み、茅野の殺意も弱めることができれば、一瞬だとしても触手と彼女の結合が解ける可能性がある。そうすれば、最小限のダメージで触手を抜くことができるかもしれないのだ。

 しかし――

 

「その間、先生の心臓にはずっと茅野の触手が?」

 

 たらっと汗を滴らせながら呟いたのは木村だ。確かにその作戦だと、殺せんせーはずっと茅野の触手に急所を貫かれたままになる。さらに殺意が弱まっても、触手がそのまま止まってくれる保障はない。殺せんせーは上手く致死点をずらすと言っていたが、同時に生死は五分五分とも言った。五十パーセント、野球の打率なら化け物みたいな数値は、生き死にのかかった場ではあまりにも心許なかった。

 

「五分って、そんな……!」

 

「でもね」

 

 他の作戦はないのかと提案しようとした片岡を殺せんせーは声で制する。透けた残像に浮かぶ二つの小さな目は、まっすぐに俺たちを見つめていた。

 

「クラス全員が無事に卒業できないことは……先生にとって死ぬよりも嫌なんです」

 

 その目は、嘘をついているように見えない。地球を破壊する超生物が、本心から俺たち全員の無事と自身の命を秤にかけ、間違いなく俺たちを選んだ。俺たちの誰か一人が欠けるくらいなら自分の命を捧げる。三月になったら全てを破壊する超生物のあまりに似つかわしくない決意に、しかし俺は、俺たちは信じずにはいられなかった。

 相手はこの一年弱、ずっと俺たちに教え続けてきてくれた、担任の先生なのだから。

 

「うっ!」

 

 残像の奥で炎の触手が殺せんせーを捉える。さすがに分身を飛ばしながらいなすのは限界らしい。

 

「三十秒ほど経ったら決行します! 皆さん、とびっきりの奴をお願いしますよ!」

 

 飛ばしていた顔だけの残像を消し、殺せんせーは触手の対応に専念するマッハを超える炎の触手による全力攻撃を受け止め、避け、受け流し、時に触手の一部を犠牲にして致命傷を防ぐ。そうしている間にも、刻一刻と決行の時間は近づいてきていた。

 

「ど、どうすんのよ。カエデの気を紛らわせって? ガキ共に一発芸でもしろって言うの?」

 

 ビッチ先生の言う通りだ。茅野が殺せんせーの心臓を貫けば、おそらく殺せんせーは茅野を拘束するだろう。たぶんそれはうまくいく。

 しかし、その後どうやって茅野の意識を殺意から離せと言うのだろうか。後ろで吉田が三村にエアギターを提案していたりするが、自信のありそうな手段は出てこない。竹林の爆弾や奥田の薬品による化学現象は……逆に警戒心を揺さぶって周りに被害を出してしまう可能性があるし、そもそも戦いに来たわけではない俺たちは、ほぼ手ぶらでここに来ている。

 烏間さんなら? 茅野を最小ダメージで気絶させることはできるだろうが、それでは触手の癒着は離れない。俺のステルスもこんな時は当てにならない。

 誰もが今までこの教室で学んできたこと、自分の能力でなんとかできないかと思考を巡らせているが、表情は芳しくない。生徒だけでなく、烏間さんもビッチ先生もだ。

 

「――――っ」

 

 そんな中で、一人だけ表情を変えた奴がいた。それを見て、少し笑みを作ってしまう自分がいる。

 ――やっぱりお前だよな、と。

 しかし、どうやら当の本人はまだ最後の一歩を踏み出す勇気が出ないらしく、再び表情を険しくして俯きそうになっている。どの道時間はないし、今まで過ごしてきて俺は直感していた。茅野を助けることができるのはこいつだって。

 だから俺の今の役割は――

 

「っ、……ひき、がや君?」

 

「大丈夫だ、渚。お前なら、いやお前だからこそやれる」

 

 あと一歩を後押しすることだ。

 渚の頭に軽く手を乗せてわしゃっと撫でる。男にしては小さな体は、自信のなさの表れかかすかに震えていた。しかし、この場において最も茅野カエデを救うことができるのは誰だろうか。磯貝か? 片岡か? 杉野か? 倉橋か? 赤羽か? 奥田か? 神崎か? その誰だって違う。間違いなく、今自信なさそうにしている。一番近くで、一番長く彼女を見てきた潮田渚なのだ。

 ゆっくりと頭を撫でていると、少しずつ渚の身体の震えが収まっていく。それでもまだ足りない。きっともう一押しだ。それにそもそも、こんな大事なことを渚一人に押し付ける気はない。

 

「絶対うまくいく。もし危なくなったら、俺が助けるから」

 

「……分かったよ」

 

 俺の顔を見た渚は、一度瞑目すると決心がついたように笑いを浮かべた。その目に、もう迷いも自信のなさも感じられない。

 

「ほらな、カルマ。あの二人が無茶しないわけがないんだよ」

 

「だねぇ。ま、分かってたけどさ」

 

 昼間一緒に過ごした二人が少しおかしそうに、少し心配そうに笑う。周りの奴らも心配そうな目を向けてくるが、止める人間はいなかった。

 

「でも、あんまりやりすぎるんじゃないわよ。二人とも危なくなったら、今度は私が助けるから」

 

 額を軽く押さえながら呟いた速水に、皆がその次は俺が私がと続いてくる。誰もがその言葉に嘘がなかった。

 全く本当に、こいつらはお人好しが過ぎる。俺も含めて。

 全員が決心をつけた時――

 ――ズドンッ!

 重々しい音と共に、殺せんせーの心臓に炎の触手が突き刺さった。

 

 

     ***

 

 

 炎をまとった黒い触手が、下手をすれば私のものより速い速度で襲い掛かってくる。何とか致命傷は免れているが、ダメージは確実に蓄積されていっていた。

 茅野さん、雪村あかりさんの攻撃は非常に戦術的だ。ただ直接心臓を狙うのではなく、からめ手、フェイク様々な攻撃方法を駆使して急所を貫く一瞬を狙っている。どれだけ私を殺すために勉強してきたのだろうか。心を触手にほぼ侵されながらも、なおも続けられる“彼女の殺し”たらしめる動きから、あの人がどれだけ大切なお姉さんだったかがよく伝わってくる。

 ――でもね。

 

「っ……!」

 

 人間の頃に培った、わざとだと気づかれないレベルの自然さで心臓を守っていた左の触手をどけた。彼女は――さすがこの教室で学んできた生徒。その触手の侵食を受け続けてなお、暗殺者として育った本能がその一瞬を見逃さず、見事にかかった。

 ――ズドンッ!

 

「ゲフッ……!」

 

 的確に突き立てられた二本の触手は私の中にある。存在だけは理解していた心臓部、反物質臓に易々と到達した。予定通りうまく致死点だけは外したが、やはり急所にダメージを受けたことには変わりなく、自分自身今まで出したことのない音が喉から漏れて、口から生温い何かが溢れ出した。飛び散ったそれは紅く、口の中には鉄のような味が広がる。

 この身体でも、一応血は存在したんですねぇ。

 

「殺ッ……タ……?」

 

 おっといけない、自分の身体の新事実なんて今はどうでもいい。身体は……まだ動く。元々は紛れもなく腕だった二本の触手を彼女に伸ばし、胴体を拘束する。力はいつもよりも明らかに弱い。しかしそれでも、決して離すわけにはいかないとできる限り、少しでも強く触手に力を込める。

 君たちからこの触手を離すわけにはいかないのだ。なぜなら――

 

「君のお姉さんに絶対に離さないと誓ったのだから……!」

 

 ザッ、と目の前で音がした。ダメージで多少かすむ目の先にいる少年を見て、私は心の中で感嘆せずにはいられなかった。

 やはり、出てくるのは君ですよねぇ、渚君。

 君がこの一年磨いてきた殺気は、昔の私によく似ている。研ぎ澄まされた純粋なそれは、獲物を狙う蛇のように洗練されていて、相対すると一瞬見惚れてしまうほどだ。だからこそ、君がこの場に立つのが一番ふさわしい。

 渚君は荒い息で睨みつけてくる茅野さんをじっと見つめている。立っているのは手が届くよりも少し遠く。クラップスタナーを扱う渚君の間合いだ。使うのは猫だましか? いや、茅野さんの波長は触手による激痛で常人ではありえないレベルの乱れ方をしている。きっと昔の私でも完璧に決めることはできない。聡明な彼ならそれを十分に理解しているはずだ。

 それでは……。生徒からの問題を考えている間に答えが開示される。警戒していても警戒されない自然な動きで渚君は一歩踏み出す。そして茅野さんが何かに気づくよりも早く――

 

「――――っ」

 

 蛇の唇が、獲物を捕らえた。

 

「ぁむっ、れろっ、んくっ……」

 

 イリーナ先生が常日頃から行っていた無差別ディープキス爆撃。これにはさすがに驚いた。先生自身、いくらハニートラップの達人の授業と言ってもあの行為はやる必要が皆無なのではと思っていたからだ。

 音を聞く限り、渚君の舌の動きはやけに遅い。おそらく下手というわけではなく、クラップスタナーと同様無意識ながら波長の隙間を狙おうとしているのだろう。

 そしてそれは――

 

「んちゅ、ぬろっ、……じゅりゅっ……!」

 

「っ!?」

 

 六ヒット目で見事に波長を貫いた。虚ろだった茅野さんの目が驚愕に染まり、状況を理解したのか逃れようと渚君のコートを掴む。しかし、後頭部に添えられた彼の腕が、距離を取ることすら許さない。

 ――ジュウゥッ。

 

「ぅ……」

 

 熱い……。危険な状況と触手が理解したのか、一気にまた熱量を上げてきた。少しずつだが、ズブッと高温の触手がその深度を増し、早く私を殺そうとしてくる。身体の奥からギシ、ギシ、ときしむような音が聞こえてくるのを感じて、直感がマズイと何度も叫んでくる。

 予想以上の反撃だ。これは五分五分どころか三分七分くらいと見積もっておくべきだったかもしれない。

 けれど、それでも、この手を決して放すわけにはいかない。渚君が任務を完遂するまで、たとえこの命を使い切っても――

 

「……ったく、人には無茶すんなって言っておきながら、自分は無茶するんだから世話が焼ける先生だよ」

 

 その声は、突然すぐ近くから響いた。同時に、私の胸を貫いた触手を二本まとめて誰かが掴む。多少弱まったとはいえ高温の触手に低い唸り声を上げながらもより強く握ったのは――比企谷君だった。

 

「これで、少なくともこれ以上、触手が入り込むことは……ねえだろ?」

 

「確かにそうですが……っ」

 

 触手というものはスピードでカバーしているが力自体はそこまで強くない。訓練で鍛えた比企谷君が本気で掴めば、確かにこれ以上私の身体を貫くことはないだろう。

 

「しかし、そんなことをすれば君だって大怪我では済まない!」

 

 本来触れていい温度ではない。現に今の比企谷君は、普段あまり変えない表情を苦悶の色に染め、抑えようとしているのか唸るような声を時折漏らしている。下手をすれば命にだって関わる。

 けれどこの教室で唯一一学年上の生徒は、首を横に振ると顔を歪めながらも確かに笑った。

 

「先生が死んだら、誰が茅野を助けるんですか」

 

 触手を抜くことができる余裕はわずかしかない。そのわずかな時間で複雑に伸びた触手の根の先まで除去できるのは、この場に、いや地球上に私一人しかいない。そもそも、私にはここで死ぬという選択肢は用意されていなかったのだ。

 それに、と彼は熱に浮かされて荒くなる息を大きく吸い込んだ。

 

「妹死にそうなときに、自分の心配なんてするような覚悟で、兄貴なんて名乗った覚えはないんだよ!」

 

 今にも泣きそうな彼の叫びは侵食の弱まってきた茅野さんにも聞こえたのか、彼女の身体がビクンと震えた。

 その隙を、クラス一の暗殺者は決して見逃さない。

 

「れるっ、ちゅ、ちゅるっ、んむっ……」

 

「んんっ、ひぅ、んん~~~~っ! ~~――ッ」

 

 より深く舌を侵入させ、不意打ちで唇をなぞる。変幻自在の口撃に、茅野さんの力は徐々に弱まっていき、段々と渚君が彼女に覆いかぶさるように身体を傾ける。さらに追撃を行うために、彼はより深く刃を突き立てようとしていた。

 

「まったく、君は何度言っても無茶をやめませんねぇ……」

 

「……生憎、まだ素直になんて慣れそうにないんで」

 

 未だに高温の触手を掴むことをやめない比企谷君も、ここに来た頃に比べるとだいぶ変わったのだと思う。確かに無茶は何度もしてきた。今だってしているし、きっとこれからもするのだろう。けれど、彼はもう周りに関係なく無茶をする生徒ではない。周りのことを考えて、周りで悲しむ人間がいることを知っている。同じ無茶でも、その理解の有無は大きい。

 理解したからこそ、皆彼を慕っている。きっとこれからもこのお兄さんの周りには彼らがいて、もっと多くの人たちが集まってくる。

 本当に皆、良い生徒たちに育ってくれた。

 

「じゅ、じゅるっ、……れる、ぬろぉっ……」

 

「んくっ、んぁ、ひゃっ…………ァ……」

 

 彼らのおかげで痛みに気を失わずに堪えられた間に、渚君が再び意識の波の隙間を引き当てたのか茅野さんがくたぁっと気を失った。さっきまで完全に暗殺者の目をしていた渚君は慌てたように彼女の身体をそっとすすきのクッションの上に横たえた。そのギャップに、思わず笑ってしまいそうになる。

 

「殺せんせー、これでどうかな」

 

 私を貫いたことで触手の殺意は和らげた。比企谷君がトドメ刺そうとする触手の動きを止めて私の延命を行い、渚君が完全に茅野さんの意識を暗殺から遠ざけてくれた。ここまで御膳立てされて、自分の役目をこなせないようでは教師失格だ。

 

「満点です、渚君! 今なら抜ける!」

 

 今の彼らなら、私の過去を知ってもきっと前に進める。

 そんなことを考えながら、触手を除去するためにピンセットを取り出した。




いわゆる132話ショックのお話でした。この回読んで私が渚カエ至上主義になったのは言うまでもない。なんやあの茅野かわいすぎだろ。個人的に渚のコートを必死につかんでいるコマがほんと好きで一日一回は132話を読んでニヤニヤしています。

個人的に八幡の動きは何パターンかあったのですが、脇役として支えるお兄ちゃんって感じを出したかったのと、その中で無茶をさせたかったのでこんな感じに。さすがに渚の場所を奪うパターンは選択肢にすらありませんでした。渚カエは正義だから、そこは譲れないから。
……八渚カエならありなのでは? 新しい扉が開けそうな予感がします。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。




目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

名前は人を造らない

「これで……茅野さんは大丈夫になったんですか?」

 

 気絶した茅野から最速・精密に触手を根の先まで抜き取った殺せんせーに、茅野を支えながら奥田が尋ねる。心臓にダメージを負って呼吸を荒くしながらも超生物は「おそらく」と触手で小さく丸を作った。そこで耐え切れなくなったのか――

 

「ゲホッ」

 

 むせ込むと同時に、ボタボタと口から大量の血が溢れ出した。数人が駆け寄ろうとするのを殺せんせーは平気だと制する。完全破壊されなかったとは言ってもさすがに心臓の再生には時間がかかってしまうようだ。

 皆の視線は、自然と殺せんせーに集中する。

 

「…………」

 

 そんな中俺は、殺せんせーから目を離してすすき野原の外れにある林の方を見つめていた。いや、俺だけじゃない。渚と烏間さんも何かを感じ取ったのか同じ方向を見つめている。

 いつからそこにいたのか。さっきまではあたり一帯に充満していた茅野の殺気で分からなかったが、あそこには何かがいる。隠れているつもりのようだが、気配を全く抑えられていない。暗殺や戦闘の訓練を受けた人間ではなさそうだが、一般人でもないだろう。

 一般人なら、こんな殺気をこちらに向けてくるはずがない。

 薄茶色のすすきが風で揺れる中、何かが三日月の光を淡く反射させて――それが銃口だと気付き左ポケットに忍ばせていたエアガンに手を伸ばしたが、腕を駆け上がってきた痛みに思わず動きを止めてしまった。

 ――ッ! ッッ!

 二発の発砲音が響いた。

 

「クッ……!」

 

 “俺のすぐ後方から”放たれた小さな球体は、それぞれ俺たちが睨んでいた方向に吸い込まれた。感じていた気配はわずかに動揺の色を見せ、銃口をのぞかせていた場所からは、驚くべきことにさっきまでは感じなかった気配が漏れ出した。

 俺だってこの一年で気配察知はかなり上達したはずなのだが、今の今まで気が付かなかった。渚も、烏間さんですら今感じ取れたようで、驚愕に顔を歪めている。つまり、今浮上してきた気配は相当な手練れの暗殺者ということだ。

 そんな暗殺者と一緒にいて、こちらにあんな明確な殺意を向けてくる人間。そんなに奴で今動ける人間を俺たちは一人しか知らない。

 

「……まったく。小娘は自分の命と引き換えの復讐劇で大した成果も上げず、化け物に群がる羽虫共は瀕死の暗殺対象ではなくこちらを狙ってくる。そいつの足止め役の連中でなかったら今頃全員殺しているところだ」

 

 全身白ずくめの男、シロは悪態をつきながら林の陰から出てくる。もう一人姿を現したのはシロとは対照的に全身黒ずくめ、革製のテラテラ鈍く光を反射させるフード付きの服を頭までチャックを上げて一ミリたりとも肌を露出していないその姿は、まるでのっぺらぼうのようで寒気がした。手に持っているのはさっきこちらに向けてきたアサルトライフルタイプのエアガンか。

 その二人を、正確には俺たちが見ていた方向を狙って隠し持っていたガバメントで発砲したらしいE組きってのスナイパー二人はハンマーを下ろして再び照準をシロたちに合わせている。弾は殺せんせーのみを殺すBB弾だ。当たっても致命傷になることはまずない。しかし……。

 

「BB弾だって目とかに入ったら危ないんだぜ? 試してみるか?」

 

「…………」

 

 エアガンの発射速度は馬鹿にならない。そんなものが眼球に当たれば、触手の有無に関係なく相応のダメージを受けることになる。そして千葉龍之介は、その芸当を問題なくこなすことのできるスナイパーだ。

 しかし、なぜお前らがそんなことを。

 

「……言ったでしょ。あんたらが危なくなったら、次は私たちの出番って」

 

 自分のガバメントを掴み損ねた左手に視線を落として、速水が呟く。確かにあいつらに気づいていた人間は遠距離の相手に攻撃する手段を持っていなかったし、俺もこの左手では迎撃できそうになかった。殺せんせーの話を聞くまでが今回のミッションだ。さっきの状況はその点において、確かに“危なくなっ”ていた。

 

「それに、……あんたが次に引き金を引こうとしたら、私が先に引くって言った」

 

「……そうだったな」

 

 誕生日のあの日、俺に銃口を突き付けて宣言した言葉に、ふっと肩の力を抜いた。あの時はその前に俺が引き金を引くと言った記憶があるが、生憎今は次も速水の方が早そうだ。

 

「比企谷氏、手の手当てをするからこっちに。ここは皆が対応してくれるから」

 

 竹林の言葉に少し視線を動かすと、案外皆武器は隠し持っていたようで、ナイフやエアガン、それぞれ自作の武器で迎撃態勢を形成していた。俺と、一応渚も茅野の近くまで下がり、竹林が簡易の応急キットを取り出して俺の左手を診察する。ところで、赤羽はなんでガバメントの他に練りワサビを真剣な顔で持っているのだろうか。鼻にでもねじ込むのかな。

 二十数名を敵に回したことで、お得意の計算でも狂ったのか、シロの舌打ちがかすかに聞こえてきた。

 

「たいした怪物だ。この一年で何人の暗殺者を退け、その上でこれだけの生徒の信頼を勝ち取ってきたのか。……本当にこざかしい」

 

 ――だが、ここにまだ二人ほど残っている。

 そう言って白頭巾から何かをブチッと引きちぎる。その瞬間、どこか作り物じみていた声が自然な男のものに変わった。

 変声機を無理やり取り外したことで、顔を覆っていた頭巾が解かれる。「最後は俺だ」と怒気を孕んだ生の声を発した主は、左目に機械を埋め込み、もう片方の目を暗くよどませた顔をしていた。

 

「全てを奪ったお前に対し、命をもって償わせよう」

 

 しかし、この状況はベストとは言えない。隻眼の男は「二代目」と呼んだ黒ずくめの男を連れてその場を立ち去った。

 

「シロのことは今は後回しだ。幸い、思ったほど傷はひどくないね」

 

 一瞬シロたちが消えた方向に目を向けた竹林は、俺の左手にもう一度視線を落として、ほっと息を吐く。ところどころ火傷の状態が酷いが、ちゃんと治療をすれば問題はなさそうとのことだった。

 

「あっ、茅野さんが目を覚ましました!」

 

 すぐ近くで聞こえた奥田の声に、反射的に身体を起こしながら寝かせられていた茅野に目を向けた。うっすらと目を開けた茅野は、見た感じでは命に別状はなさそうだ。

 

「最初は……純粋な殺意だった」

 

 皆を見回して、最後の渚を見て明後日の方向に視線を泳がせた茅野は、ポツリと呟いた。ただ、姉の仇を取ることしか考えていなかったと。

 しかし、偽りの名前で潜入して密かに刃を磨きながら殺せんせーと過ごすうちに自分の殺意に自信が持てなくなってきたのだ。確かに聖人君子ではない。しかし優しく、何よりも生徒のことを考えてくれているこの超生物が、本当にただ姉を殺したのか。何か事情があったのではないだろうか。殺す前にそれを確かめるべきなんじゃないか、と。

 しかしそう思い始めた頃には、茅野の「殺し屋になりたい」という願いを聞き届けた触手の殺意は抑えきれるものではなく、逃げることも、打ち明けることもできないところまで来てしまっていた。

 

「……バカだよね。皆が純粋に暗殺を楽しんでいたのに、私だけただの復讐に費やしちゃった」

 

 全部無駄だったんだと、沈んだ瞳で力なく笑う彼女に――

 

「茅野」

 

 いつもの優しい、小動物のような声色で語りかけたのは、渚だった。高い位置で二つにまとめた自分の髪に軽く触れて、この髪形に茅野がしてくれたから、母親に切るなと言われた長い髪を気にしなくて済むようになったと。理由はどうあれ、コンプレックスを和らげてくれたのは茅野だと、渚は笑う。

 それだけではない。「殺せんせー」という名前。茅野が付けた名前は、今やこの教室の皆が使っているターゲットの呼称だ。

 

「目的がなんだったかなんて関係ないよ。茅野はこのクラスを一緒に作り上げてきた仲間なんだ」

 

 この教室で、ただ復讐に費やしてきたなんて言わせない。皆で楽しんだこと、乗り越えたことを、全部演技だったなんて言わせないと、渚は熱く、けれどやっぱり優しく語りかける。今までの日々の中には皆がいて、そこには間違いなく茅野カエデという存在がいたのだ。

 

「殺せんせーは皆が揃ったら全部話すって約束してくれた。だから聞こうよ、皆で一緒に」

 

 奥田に身体を預けている茅野に、中腰になって同じ目線の高さに合わせた渚に、茅野は震えながら涙を流して頷いた。

 それを確認した皆はそれぞれ、今度は視線を殺せんせーに向ける。ある程度心臓の回復が終わったのか、多少ふらつきながら立ち上がった担任教師は、皆の視線に「ふうぅぅ」と深くゆっくり息を吐いた。

 

「話さなければ……いけませんねぇ」

 

 視線を一度、物理的に三日月になってしまった月に向けて、それを今度は俺に向けてきた。俺から何かを感じたのか小さく頷いて、渚、茅野、赤羽、磯貝、片岡と一人ずつの顔を見て、超生物は語り始めた。

 

「二年前まで先生は……『死神』と呼ばれる殺し屋でした」

 

 自分の過去を。

 

「そして、放っておいても来年三月に先生は死にます。一人で死ぬか、地球ごと死ぬか。暗殺によって変わるのはそれだけです」

 

 未来の話を。

 

 

     ***

 

 

「あれ、渚たちも来てたのか」

 

 あの出来事があって二週間弱。冬休みももうすぐ終わろうかという時期に、俺は偶然渚たちと会った。

 場所は防衛省の息がかかった千葉の病院。現在茅野はここに入院していて、昨日ようやく面会が可能になったのだ。かなりギリギリの状態だった茅野は、全治二週間と想像よりずっと軽度の状態で済んでいた。烏間さんから聞いた話では、担当した先生が奇跡だと驚いたほどらしい。

 

「比企谷君も来たんだ。ちょうど今から帰るところだよ」

 

「来るなら一緒に来ればよかったのにな」

 

 渚と一緒に来ていた杉野がブーと悪意のない文句を漏らす。こっちもやることがあったのだから仕方あるまい。

 

「茅野の様子はどんな感じだ? 俺が行っても大丈夫そうか?」

 

「はい! まだ万全ではないですけど、もうだいぶ回復しているみたいですし、とりあえずあと数日の入院は念のためみたいです!」

 

 茅野の無事を再確認して少しテンションが上がっているのか、いつもより幾分饒舌な奥田の答えに「そうか」と返す。入院後の経過は順調らしい。

 じゃあちょっと顔を出しておこうかと思って別れようとして、やけにニコニコと笑っている神崎に気が付いた。いつもみたいな笑みだが、いつもよりも嬉しそうだ。

 

「どうしたんだ、神崎?」

 

「いえ、やっと同じ場所に来てくれた気がして」

 

 それだけ言うと、また神崎はクスクスと笑いだす。少し前にも同じことを言っていたようで、なんのことかと三人が、神崎は何でもないの一点張りだった。具体的なことを話すつもりはないらしい。俺も何のことかいまいち分からなかったが、聞いても無駄だと判断して四人と別れた。

 あれから二週間ほど。その間、殺せんせーに暗殺を仕掛けようとする人間はいなかった。訓練をしていた奴は何人かいる。しかし、暗殺をしようと切り出せる雰囲気ではとてもない状態だった。

 かくいう俺だってその一人だ。あの超生物が元人間だと知っていて、その人間が『死神』である可能性も頭の中にあった。けれど殺せんせーのこの二年間の過去、そして俺の考えもしなかった事実に対する衝撃は、とても今まで通り過ごせるものではなかった。

 シロ……いや柳沢誇太郎によって行われた生命の中で反物質を生成させ、膨大なエネルギーを手に入れることを可能にする実験。そのモルモットにされたこと。万に通じる頭脳でその理論を理解し、自分に有利なように研究を進めたこと。そこで出会った自分の見張り役にされていた柳沢の形だけの婚約者、雪村あぐり。

 

『先生の心臓、反物質臓は一定の周期で細胞分裂を終えます。そしてその時、反物質の生成サイクルは先生の身体を飛び出し、地球の物質を次々と反物質に変えていってしまうのです。先生の意志と関係なく、ね』

 

 地球は月のおよそ八十一倍の質量がある。しかし、月の七割を吹き飛ばしたネズミの反物質臓と殺せんせーのそれの比率は? おそらく、七割なんて生易しいことにはならない。

 思えば、E組という学校環境。生徒と教師という良好な関係を築いている俺たちに、防衛省はただの一度も「地球の破壊をやめるように説得」させようとはしなかった。そんなことは無理だと分かっていたからだ。地球を破壊するのは、殺せんせーの意志とは何の関係もないから。

 

『そしてそれを聞いたとき、私は間違いを犯しました』

 

 この世に生を受けてから、暗殺者としてしか生きてこなかった名もなき人間は、自分の死が迫ってきたときに間違った悟りを開いた。どうせ一年後に死ぬのであれば、せっかく手に入れた力、存分に使わなくてはもったいない、と。

 

『その先生の間違いの結果、私を止めようとした雪村先生は……。私が殺したも同然です』

 

 柳沢が迎撃用に用意していた触手地雷。本質を見失った、相手をちゃんと“見る”ことができなかった死神は、自分を止めようと地雷に飛び込む雪村先生を止めることも、突き放すことも、攻撃することも、助けることもできなかった。

 そんな殺せんせーを、誰も責めることはできなかった。憎悪の中で育った殺し屋は俺たちにないものを持っていて、俺たちにあるものをなくしてしまっていることを知っていたから。

 それに、その一年しか残されていない命をあえて危険に晒して、俺たちを“見て”教えてくれてきたことに気づいているから。

 だからこの冬休みの間、誰も決心がつかなかった。どん底でうずくまっていた自分たちを引き上げて、伸ばしてくれた恩師を、元人間の彼を「本当に殺さなくてはならない」と皆がようやく実感したから。楽しく学ぶ暗殺の中にひた隠しにされてきた、「残酷な難題」に気づいてしまったから。

 

「……おっと、ここだったか」

 

 埋没していた思考を浮上させると、危うく目的の部屋を通り過ぎるところだった。部屋番号の下に「雪村あかり」と書かれた札の入った部屋の扉をノックしようとして――

 

「?」

 

 中からなにやら物音が聞こえてくるのに気づいた。何かが暴れるようなバタバタという音に、警戒心が高くなる。ひょっとしたら、柳沢あたりが彼女に何かしようとしているのではないだろうかとノックをするのをやめて気配を消し、そっと扉を開ける。

 

「…………」

 

 個室である部屋の中に、柳沢やあの「二代目」と呼ばれた暗殺者の姿はない。代わりに、ベッドの上で掛布団にくるまりながら暴れている何かがいた。いや、わずかに飛び出している緑髪からして、この病室の主で間違いないだろう。よくよく耳を澄ませると音にならない叫びを上げているのか、超音波じみた意味があるのかも分からない声も聞こえてくる。

 

「……なにやってんだ、茅野?」

 

「~~~~ッ!? ……あ、比企谷君」

 

 相当暴れていたのか肩で息をしている茅野は俺に気づくと、元から赤かった顔をさらに羞恥に染めてベッドの上で縮こまってしまった。一体何が……と思ったが、答えはあっさり見つかった。さっき、こんなことになる犯人が面会に来ていたじゃないか。

 

「渚か」

 

「っ――!」

 

 正解のようで、茅野はどれだけ血が集中しているのかリンゴのように顔を真っ赤に染めてしまった。

 茅野を助けるために渚が行った殺し技。ビッチ先生によって仕込まれたディープキスは俺たちにとってはもはや日常ではあったが、ビッチ先生以外に使用したのは渚が初だ。そりゃあ、思い返してみたら恥ずかしくもなるよな。なんか赤羽と中村がスマホで録画していたような気がするが、こいつ学校に戻った時大丈夫かな。

 

「だだだだって、あんな……あんなっ。人格ごと支配されるみたいなの……っ」

 

「落ち着け茅野。説明しなくてもいいから」

 

 いやほんと、あの時はこっちもこっちで必死だったから平常心を保てたが、そんな話を聞かされるとこっちまで恥ずかしくなってしまう。

 とりあえず茅野をなだめようと左手を伸ばして、慌ててその手を引っ込めて右手で彼女の頭を撫でた。

 

「ぁ、それ……」

 

 しかし、どうやら目ざとく見られてしまったようで、赤かった頬から少し色が落ちて、表情も暗くなる。

 入院こそしなかったが俺の左手には、まだあの時の傷が色濃く残っていた。包帯は先日外れたが、火傷の痕もかなりあるし、熱で触手に持っていかれた皮膚もかなりあって凸凹になってしまっている。完全に元通りにはならないだろう、と医者には言われた。

 

「うにゅっ。な、なに比企谷君っ」

 

 このままではただでさえ小さいのにもっと小さくなるのではというくらい小さくなっていく茅野の頭をことさら強く撫でると、混乱したのか彼女は目を白黒させる。俺の右手にはメダパニ効果でもあるのだろうか。ないな。

 

「気にすんなよ。俺がやりたくてやっただけなんだからさ」

 

 でも、と反論しようとしてくる茅野をさらに撫でて黙らせる。わぷっとか妙な反応をするのが面白くて何度もやっているとめちゃくちゃ殺気を出されて睨まれてしまった。

 俺自身、この傷自体なんとも思っていない。もう痛みはないし、妹のための勲章だと思えば少し誇らしいくらいだ。

 しかし、当の茅野にとってすれば間違いなく自分の暴走のせいでつけてしまった傷だろう。なんとかその話題を逸らさなければ、ただでさえちんまいのに余計にちんまくなってしまいそうだ。

 何かないかなと考えて――

 

「で、渚とはどんな話したんだ?」

 

「なっ――!?」

 

 話を蒸し返すことにした。小町に聞かれていたら一週間はゴミいちゃんって言われそう。まあ、ばれなきゃ犯罪じゃないから、ね?

 

「べべべべ別に普通に話しただけだよ!」

 

 ほーん。ま、それ自体は事実なんだろうな、杉野たちも一緒だったわけだし。というか、神崎が言っていたのはこれか。もう一度頭を撫でてやるとむぅとむくれながらも拒否はしてこなかった。

 茅野は俺たちとは暗殺の意味合いが違っていた関係上、いつも少し離れた絶妙な距離感を保っていた。思えば、俺が撫でそうなタイミングになるとスッと距離を取っていたように思える。特にプリン暗殺のときに俺が違和感を覚えたあたりからは、俺が気づかないレベルで接触の機会が減っていた。こうして撫でるのは今日が初めてだ。

 で、こういう姿を見ると存外弄りたくなる心は俺も持っているようで――

 

「そういえば、ビッチ先生がいきなり渚にディープキスした時、やけに怒ってたんだって? それ演技だったのかな?」

 

「~~~~――――ッ!!」

 

 なんだ。ずいぶん前からこいつは演技じゃない自分を見せていたんじゃないか。全く痛くないビンタを頭に乗せたままの二の腕に受けながら、喉を鳴らして笑ってしまう。どうやら渚の使った殺し技は、別のものも射貫いてしまったようだ。

 

「いいんじゃねえの? せっかく皆に本当のことを打ち明けたんだから、普通に恋愛したってさ」

 

 なんとなしにそう言うと、さっきまで力なく腕を叩いていた動きがピタッと止まり、ベッドシーツの上に力なく腕が下ろされた。その表情は――暗い。

 

「……どうした」

 

「だって、……私、今まで皆に嘘ついてたんだよ? 違う名前使って、違う性格を演じて。そりゃ全部が全部演技だったとはもう言わないけど、思ってることと違うことをやってたのも事実だもん」

 

 暗殺のために偽物の名前、偽物の戸籍、偽物のキャラクターを演じてきた。皆に本当のことを話してもその事実は変わらない。罪悪感はなくならない。自分勝手な理由で皆を振り回した過去は消しようがない。

 けれど、きっと今茅野がこうしている、こう考えているだけで、皆十分なんだと思う。

 

「この前のコードネームの時さ、殺せんせーが言ってただろ。『名前は人を造らない』って」

 

 先生が木村に向けた言葉だ。親の付けた名前なんて正直大した意味はない。大事なのは、その名前で生きた人物がどういう人生を送ったか、なのだと。

 名前なんて、所詮は個人を判別するための記号だ。どこかの閻魔大王補佐官が双子の座敷童に「一子」「二子」なんて事務的な名前を付けたように、極論その人だと判別できればそれ自体に意味はないのだ。

 

「『雪村あかり』が『磨瀬榛名』であるように、『茅野カエデ』も『雪村あかり』の一部だろ」

 

 “偽った人格”ではなく、“本物の見えていなかった一部分”。一年もその性格を貫いていれば、仮面だって本物になりえるだろう。なら、無理に本物偽物なんて分ける必要はないのだ。全部ひっくるめてこの少女そのものなのだから。

 俺の言葉になんとなく納得したらしい演技派子役は、しかしまだその表情を暗くしたままだった。他に何かあるのかと首を傾げていると、その口からポツリと言葉が漏れた。

 

「だって渚、『友達やめるとか言われたらどうしよう』って……」

 

「……あー……」

 

 そうか。そうだな。相手は渚だもんな。前原や片岡ですら「恐ろしい」って言っていた渚だもんな。

 それに、たぶん母親の二周目だとつい最近まで思って生きてきた渚は、恋愛というものがなんなのか知らない。知識としては知っていても、実体験として誰かに恋をしたことが、正確には恋を自覚したことがないのだろう。それは高難易度の相手だ。正直言って厄介すぎる。

 

「ま、だったらアプローチするしかねえんじゃねえの? あいつが恋心って奴を自覚するくらいさ」

 

 なんだかんだ、渚にとって茅野は特別な存在だ。正直、そこまで時間はかからない気がするのだが。

 しかし、どうやら茅野は俺の答えが不服だったらしく、しらーっとした目を向けてきた。

 

「……なんだよ」

 

「それ、皆のアプローチを流し続けてる比企谷君が言う? 渚以上に鈍感なくせに」

 

 …………。

 …………はあ、と。大きく息を吐いて来客用の椅子に腰を下ろした。

 

「鈍感なんじゃねえよ。俺はむしろ敏感で、過敏だ」

 

 あいつらの気持ちにだって、まだ全容は見えないけれど自分の気持ちにだって気づいている。それでも誰の気持ちにもまだ答えることができないのは――

 

「結局俺は、まだ比企谷八幡って存在に自信が持ててねえんだよ」

 

 才能があると褒められても、テストで一位を取っても、いざ人一人の想いを受け止めようとすると、それができる自信がまだつかない。きっとすぐ目の前にあるゴールテープに踏み出す勇気がまだ全然足りないのだ。

 今度はこっちの表情に影が差したのを見て、茅野は一瞬キョトンとして、ぷふっと小さく吹き出すように笑った。

 

「全く、頼りになるんだかならないんだか分からないね、はちにいは」

 

「っ……」

 

 皆がコードネームで呼び合った日、俺につけられた名前。あの日以来誰も呼んでいなかったそれは、鈴のように楽しそうな声に驚くほどしっくりとはまって鼓膜を震わせた。

 

「その名前付けたの、お前か」

 

「ふふーん。殺せんせーに続いて二人目だね」

 

「恥ずかしんだよなぁ、その名前」

 

 なぜかドヤ顔で認めた名付け親の頭をくしゃくしゃと再び撫でると、髪が乱れるだのなんだと楽しそうに騒いでくる。そんな声を聞いていると、恥ずかしさなんてどうでもよくなってくるから困ったものだ。

 

「ま、別に呼びたいんなら呼べよ。……超恥ずかしいけど」

 

「そこまで言うんなら呼んであげましょう」

 

「俺恥ずかしいって言ったよね?」

 

 なんだかそのやり取りも可笑しくて、二人して吹き出してしまう。こいつとこんなに笑ったのも初めてだ。きっと、これからもっと初めてなことに出会う。

 一年過ごしてまだ初めてなこと尽くしなんて、面白いじゃないか。

 

「じゃあ、ついでにこのカエデちゃんが相談役になってしんぜよう」

 

「いつの人間だよ。じゃあ、俺も相談役になってやろう」

 

「頼りになるのかな?」

 

「どっちが」

 

 また笑い合う。この二週間、大して動かすことのなかった表情筋もなんだか跳ねているみたいだ。

 そう思うと、他の奴らのことが気がかりになってくる。今後のことを話し合っている奴ら、一人で考えている奴、考えていない奴はきっといない。この休みが明けた三学期、あの教室のありかたは確実に変わる。

 

「あ、はちにい。マッカン買ってきてよ!」

 

「兄貴をパシリに使うなんて、ひでえ妹だわ……」

 

 そのときのために、俺ができることは……。




☆祝☆60話!

このシリーズで投稿を初めて早二ヶ月が過ぎました。正直最初は三十話くらいで終わるだろって思いながら書いていたので自分でちょっと驚きです。上手いことE組のお兄ちゃんとして八幡を動かして成長させられているか心配ですが、このままのペースでやっていきたいなと思っています。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

互いの大義のため、皆が一丸となるため

 パソコンに表示されたデータに目を落とす。シロの正体が分かったことで、殺せんせーが受けた実験に関するデータは思いの外あっさりサルベージできた。原文では少々理解するのが難しかったが、律の助けのおかげで一応全体の理論の理解にまで至ることができた。改めて見れば信じられない超理論だ。生物の細胞を全く新しい細胞に置き換えるなんて、思いついても実行に移す科学者は少ないだろう。

 

「八幡さん、そろそろ眠られた方が……」

 

 律の声にデスクトップのデジタル時計に目を向けると、午前三時を過ぎたあたりだった。すでに六時間はぶっ続けでパソコンの前に張り付いているというのに、めぼしい情報はほとんど入ってきていない。

 柳沢誇太郎の研究に参加していた研究員は、そのほとんどが政府の監視下にあり、対超生物の研究に携わっている人間は柳沢自身を除いてまずいない。地球破壊生物を生み出してしまった責任を問われて残った研究データを先進各国に譲り渡したそうだ。

 今は多数の研究チームが行っているという研究リストに目を通しているが、さすがに最重要機密の詳細をオンラインで行きつくところには残していないようだ。というか、今のところ研究内容は全て“殺す”ためのものなんだよな。研究チームの番号が飛び飛びになっているところを見ると、断念したチームもあるってことか。ひょっとしたらそこでは「殺す以外の別の可能性」を模索したチームもあったのかもしれない。

 

「もう少し……」

 

「どこのゲームの時間を伸ばそうとする小学生ですか……」

 

 お前も最近、そういう妙なツッコミ多くなってきたよね。誰のせいかな? 俺かな?

 どちらにせよ、冬休みの今なら多少の夜更かしも許されるだろう。今は集中力がノッてきているし、一気にやってしまった方がいい。

 データから目を離さない俺に諦めたのか、律は深くため息を吐いた。ぶっちゃけて言えばこのやりとりも初めてではない。昨日もしたし、今日も既に三回目だ。実際睡眠時間的に無理はしていないし、明後日には三学期が始まるからさすがに明日は夜更かしをする予定はない。

 

「律、例えばさ……」

 

 英文のリストを眺めながらAI娘に話しかける。

 

「例えば今、殺せんせーの過去も未来も想いも皆知った今、先生を生かすか殺すかを選べって言われたら――どうする?」

 

「それは……」

 

 暗殺のため、もっと正確に言えば戦いのために作られたAIはデスクトップの端で口をきつく閉じて瞑目する。そして目を開くとフルフルと首を横に振った。

 

「……分かりません。殺せんせーからあの話を聞いて、何度も一人で考えてきました。そもそも私は殺せんせーを殺すために作られました。ですが、暗殺対象の死がE組や周囲にとって、直接的間接的に大きな損失になることも認識しています」

 

 それに、と。つい半年前まで感情というものを知らなかった少女は泣きそうな顔をしながら唇を噛みしめる。

 

「このまま皆で暗殺を続けたい。殺せんせーを殺したくない。両方思っちゃうんです。どっちかを切り捨てるなんて……私には判断できません」

 

「……そうだよな」

 

 きっとこの冬休み、皆が皆そうして考えている。自分一人で、あるいは話し合って、正解のない問いに自分なりの答えを導き出そうとしている。律のように答えが出ない奴や、ひょっとしたら第三の意見を用意する奴が出てくるかもしれない。

 でもきっとこの冬休みが明けた三学期、E組は確実に対立を起こす。相反する主義主張を通そうとするだろう。

 

「それは……大丈夫なんですか?」

 

「……ま、うちの担任が担任だからな」

 

 俺が考えていることなんて、当然殺せんせーも考えていることだろう。そしてこの教室のために、皆がバラバラにならないために何かしら考えているはずだ。

 だからそれは当の暗殺対象に任せる。きっと俺では荷が重すぎるから、代わりに今俺ができることをやるのだ。

 

「だから、安心して悩めよ」

 

 アメリカ第十三研究チームの研究内容に目を通しながら、未だに真剣に悩んでいる律にそう語りかけた。

 

 

     ***

 

 

 予想通り、三学期が始まったE組の意見は割れていた。

 きっかけは渚の「殺せんせーを助ける方法を探したい」という言葉。誰よりも優しい渚だし、片岡のように他にもその提案をしようとしていた人間はいた。そして、そこに待ったをかける奴がいるのも当然の話だ。

 この教室で俺たちが「生徒」と「教師」として信頼関係を築けてきたのは、大前提として「アサシン」と「ターゲット」の絆が俺たちと先生の間にあったからだ。渚の提案に反対した中村の絆を大切に思うからこそ最後まで暗殺をするべきという言い分も分かるし、寺坂たちのあるのかも分からない助ける方法を探して中途半端な形で終わらせたくはないという気持ちも分かる。きっと皆苦しんで、悩んで、それぞれが導き出した答えだから。

 

「僕だって……半端な気持ちで言ってない!」

 

 しかし、今のこの光景は全く予想していなかった。暗殺の才能はこの中の誰よりもあるとは言え、渚のことをよく理解しているはずの赤羽が過度に煽ったこともそうだし、それに対してあの温厚な草食動物が飛びつき三角締めなんてするなんて。

 偽死神の一件以来、希望者は烏間さんから護身術も教わっていた。特にパワーのない渚は技でカバーできるようにと積極的に訓練に参加していたのも知っている。全体重をかけて赤羽の首を挟んだ両足をギリギリと締め上げるそれは、かなりしっかりと決まっていた。

 

「力ずくで言うことを聞かせって言うのなら……っ!?」

 

 けれど、相手はE組きっての戦闘のプロだ。バイタルも高く、教わるでもなく見ただけで烏間さんの防御技術を盗む才能を持つ赤羽は腕一本で渚を引き上げて、三角締めの圧迫を和らげる。

 

「こいつ……」

 

「やめろって!」

 

 まずいっ! 気づいた時には飛び出していた。それは俺だけでなく、二人の間に割って入った俺の両脇では渚を杉野が、赤羽を磯貝と前原が抑えている。赤羽に至っては、二人がかりでも抑えるのがやっとなようで、その目は普段のそれとはまるで違う。臨戦態勢の肉食哺乳類のような眼力で俺の後ろの渚を射貫いていた。

 赤羽と渚、まるで正反対な性質のこの二人はかなり仲がいい。よく一緒に遊ぶようだし、赤羽の家に行ったことがあるのはこの学園の生徒の中でも渚だけという。このクラスに来てから、大小様々なトラブルがあったが、この二人が喧嘩をしているのは初めてだった。それに、普段飄々としている赤羽からは想像ができない感情を前面に押し出した目。鷹岡やシロにだってしなかった目をする赤羽に、俺は驚きを隠せなかった。

 

「中学生同士の喧嘩大いに結構!」

 

 二人を抑えながら、この状況をどうしたものかと思案していた俺たちを制したのは、事の張本人であるターゲットだった。なぜか最高司令官のコスプレをしてパイプをふかしている殺せんせーは、暗殺で始まったこの教室だから、この方法で勝敗を決めましょうとそれぞれ「赤」と「青」と書かれた箱を用意してきた。中にはそれぞれナイフやエアガン、そしてそれぞれ赤と青に染色されたBB弾が入っている。BB弾はよく見ると染色されたものではなく、訓練のときに使用する物と同じペイント弾のようだ。

 

「エアガンと二色に色分けしたペイント弾、インクを仕込んだ対先生ナイフ、チーム分けの旗と腕章を用意しました」

 

 赤は殺すべき派、青は殺すべきではない派。それぞれ自分の意見をはっきりと述べて分かれる。この山を戦場に戦い、相手のインクが付いた生徒は退場。相手チームを全滅または降伏させるか、敵陣の旗を奪ったチームの意見をクラスの総意とする。いわゆるサバイバルゲームによる決着方法だ。

 

「勝っても負けても恨みっこなし! このルールでどうですか?」

 

 楽しそうに自分の運命を決めるゲームについて話す殺せんせーに生徒からはポツリ、ポツリと不満が出てくる。けれど殺せんせーは、小さな瞳を優しげに細めて大切な生徒たちが全力で決めた意見ならば尊重します、と先生の顔になった。

 

「最も嫌なのは、クラスが分裂したまま終わってしまうことなんです」

 

 そう微笑むターゲットに、皆は戸惑いながらもこの学級戦争に同意した。

 

「……必殺を目指して必死に頑張ってきたから、俺らは成長できたと思う」

 

 最初に前に出てきたのは、千葉と速水だった。E組最強のスナイパーコンビは多くの場面で俺たちの要だった。それゆえに、多くのことを暗殺の中から学んできた。この教室でなければ学べないことも多かった。

 

「誰が、何が、俺たちを育ててくれたのか。そこから目を逸らしたくない」

 

「だから……暗殺は続けたい」

 

 暗殺によって成長できた。殺し屋と暗殺対象だったから全力で学べた。だから、最後までやめたくない。そう言って、二人は赤の武器を手にした。

 

「私は、殺せんせーを殺そうとしたときに後悔したよ」

 

 そう口にしたのは茅野だった。一年という短いようで長い間過ごしてきた恩師を後悔に苛まれながら殺そうとした。全てを知った今は、「もっと長く生きてほしい」と思った。最愛の姉がそう思っていたように。

 

「だから私は、殺せんせーを守りたい」

 

 可能性があるのなら、殺さない道があるのなら。今までとは少し違う目で、茅野は青の武器を掴んだ。

 そして同じく青の武器を選んだ生徒が二人、奥田と竹林の科学組だ。

 

「科学の力は無限です! 壊すことができるなら逆に助けることだって……!」

 

「それに、当てがゼロってわけじゃない。皆が一丸になればそれも試せる」

 

 その後も一人、また一人とどちら側につくか、自分の気持ちを伝えて選んでいく。律は結局答えを出すことができなかったようで、中立を選択していた。

 正直言えば、この勝負でどちらが勝つかはさして重要なことではない。重要なのは全員が自分の言い分をはっきりと口にして、全力で暗殺という舞台でぶつかり合うことなのだ。普通ならばさっきのように喧嘩になってしまう荒っぽいことでも、この教室なら暗殺としてぶつかり合うことができる。

 さて俺は――

 自分の意見を言おうと思った時、ある光景が目に入った。それぞれ青と赤の武器を手にした渚と赤羽が、互いの視線を切るように踵を返したのを。

 

「……前から気になってたんだけどさ。渚とカルマ君って中一のときから友達だって言ってるのに、その割には……どこか他人行儀だよね」

 

 そして、杉野と話している茅野の言葉。確かに言われてみれば、あの二人は仲がいいと言っても、例えばそれぞれが杉野と交流するときとは互いの接し方が違う気がする。カルマに至っては、俺以外の男子で君付けをして呼んでいるのは渚だけだし、お互いどことなく一歩引いているような……。

 ひょっとして――

 

「あとは比企谷君だけですよ」

 

「あ、ああ……」

 

 殺せんせーに声をかけられて、意識を浮上させる。もう一度渚と赤羽に視線を向けて少し考え、ゆっくりと口を開いた。

 

「俺は――」

 

 

     ***

 

 

 組み合わせは殺す派、赤チームが赤羽、岡島、岡野、木村、菅谷、千葉、寺坂、中村、狭間、速水、三村、村松、吉田、堀部。殺さない派の青チームが磯貝、奥田、片岡、茅野、神崎、倉橋、渚、杉野、竹林、原、不破、前原、矢田、そして俺になった。

 

「……思いの外不利になったな」

 

 小さく嘆息を漏らす前原に、磯貝も頷く。人数自体は五分五分だが、狙撃の速水千葉に機動力の岡野木村、ガタイの良さと体力で防衛要員として厄介な寺坂たち三人組。それに戦闘能力では頭一つ抜きんでている赤羽と各ジャンルのスペシャリストがほぼ全員赤に所属している。全体で見ても、単純な近接、遠距離暗殺スキルならば赤チームの方が圧倒的に有利だ。

 

「よし、まずは作戦会議をしよう」

 

 百メートル離れた位置に互いのフラッグを設置したことを確認して、青チームを磯貝が招集する。作戦を練っている間、赤チームにいる菅谷に代わって倉橋が裏山の迷彩を一人ずつに施している。

 

「まず、渚は自由に動かす。きっとその方があいつもうまく動けるはずだ」

 

 確かに、サバイバルゲームと呼ばれるこれは暗殺というより戦争だ。兵士としては並み以下の渚を活かすのであれば、一人だけ“暗殺”に役割を持たせた方がいいだろう。その渚は今、倉橋に迷彩を施してもらって……ん? あれは裏山迷彩ではなく、自衛隊の迷彩服と同じ奴か?

 

「状況に応じて当然変化するけど、他は基本的にバディを組んで二人一組で動く。特に純粋な戦闘要因じゃないメンバーは他の能力を活かせるように主力メンバーが最初は警護に回ろう」

 

 この場合は特に竹林か。どうやら爆弾を使ってペイント弾を相手側に降らせようと考えているらしい。それを回避するのは、殺せんせーでもなければほぼ不可能だろう。厳しいのは奥田の能力がほとんど活かすことができないことか。カプセル煙幕程度ならともかく、本格的な化学薬品なんかは裏山の環境や相手チームの人体に悪影響を与えかねないからな。

 

「原、それって……」

 

 杉野が見ていたのは原が運んできたワイヤーネットだ。そういえば、ワイヤートラップ系の訓練では手芸が得意な原はかなりの手際の良さを見せていたっけか。というかこれ、どっかで見たことがある気が……。

 

「ふふふっ、この間の猪鍋の再来よ」

 

 思い出した。冬休み前に行われたワイヤートラップの訓練中、原が猪を捕まえたことがあったのだ。これはそのときのトラップか。だいぶ丈夫に作られているようで、あの時イノシシがかなり暴れたはずなのにどこも壊れている様子がない。これなら仮に赤羽のような馬鹿力が相手でもネットに拘束できるだろう。その猪の行方? 殺せんせーがおいしいお鍋にしました。

 

「神崎は比企谷君とペアを組んでくれ。FPSでよくペアを組んでるみたいだし、大丈夫だよな」

 

「はい。よろしくお願いします、比企谷君」

 

「おう」

 

 となると、俺たちの行動は一つか。

 

「最初は千葉かな」

 

「そうですね、千葉君か速水さんなら千葉くんの方が狙いやすいと思います」

 

 スタート可能位置のギリギリ端に身を潜めて、神崎と相談する。この戦争において青チームが最も不利なのは狙撃手を相手に取られていることだ。遠距離射撃において速水と千葉はこのクラスの中でも飛び抜けて高いし、スナイパーはいるだけで敵の行動を制限できる。ならば、先にそこを潰すべきだ。

 スタートと同時に大回りで移動を開始して、おそらく千葉が潜んでいる高台に急襲をかけようと相談していると、神崎が「そういえば」と話を切ってきた。

 

「なんだ?」

 

「比企谷君がどっちかを選ぶとはちょっと思っていませんでした。てっきり律さんと同じように中立になるのかなって」

 

「……あー……」

 

 なーんか、だいぶ理解されているようで気恥ずかしい。思わずそっぽを向いてしまうと、怒ったと勘違いしたらしい神崎が少し動揺してしまった。こちらも多少慌ててしまって、怒っていないと迷彩のかかったフードにポンと手を乗せてなだめるというグダグダなことをしてしまった。

 

「まあ、最初はそのつもりだったんだけどな」

 

 俺自身、どちらの意見も十二分に理解できる。どっちも選びたくてどっちも選びたくない。けど、こいつらが全力でぶつかって決めた道なら、俺も納得できると思っていたから。

 けれどあの二人を見て、少し事情が変わった。

 この戦争、どっちが勝つかはさして重要ではない。確かに今後の教室のありかたを決める勝負だが、その前にバラバラになりそうな全員の意識をどんな形であれまた一つに戻すための戦いなのだから。

 それに、その前の大前提として。

 

「“皆”が納得しなきゃいけないだろ?」

 

 そもそもこの勝負はどこから発端になったか。そこを無視してはいけない。

 

「クラス内暗殺サバイバル……開始!」

 

 ちょうど聞こえてきた烏間さんの開始の声と共に、俺と神崎は動き出した。




サバゲ戦の開始でした。
最初は律も青に入れようかと思ったんですが、そもそも律があのサバゲに入ると相手の無線攪乱とかやりたい放題になるなと思ってちょっと台詞を変えて中立のままに留めました。

今日は昼間の日刊ランキングで、久々に二位になっていました。たくさんの評価ありがとうございます!
そういえば、pixivの方でこのシリーズの一話が「やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。 暗殺教室」の人気順検索(ブックマーク数検索)で一位になりました! これで大手を振って暗殺クロスSS書きって名乗れます(あまり名乗るつもりはない)

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

けれど俺は、あの場所で青春ってのも悪くないと思えた

『片岡さん、竹林さん、アウトです』

 

「なっ! もうですか!?」

 

 外側から進行していく最中、新しく超体育着に内蔵された小型通信機から律のアナウンスが聞こえてきた。足を止めそうになる神崎をハンドサインで前進するように促した。別動隊の俺たちがここで後退しても、状況を悪くするだけだ。

 この状況は予想できていた。相手がスナイパーを二人抱えているということは、その二人とも開幕長距離スナイプでこちらの要所を潰してくる可能性があるということだ。こちらの明確な要所と言えばメインリーダーの磯貝、小隊統率に長けた片岡、近接の大物である前原や杉野、暗殺の天才渚と隠密能力を持っている俺、そして他の生徒が習得していない爆薬技術を持っている竹林と言ったところか。俺と渚は視認できていないだろうし、残りの奴らが狙われるとは思っていたが……竹林と片岡を狙うあたり、向こうの参謀はこっちの戦力をよく理解している。

 

「……磯貝、二人が撃たれた方角は分かるか?」

 

『竹林は敵軍の大樹方面から、片岡は審判側にある丘からだな』

 

「了解。丘上の占拠に回る」

 

 通信を切って「うへぇ」と肩で息を吐く。大体二人とも予想通りの場所にいるが、千葉が構えていると思われる丘上から片岡の初期位置なんて百メートル以上距離があるんだぞ。普通のエアガンより強化されているとは言っても、ブレずに飛ぶのは五十メートルくらいまでだ。改めて規格外な精密射撃能力だと思う。

 

「だからこそ、ここでキルしておかないとですね」

 

 完全に冷静さを取り戻した神崎がにっこりと微笑む。いつもの清楚な笑みにも見えるが、その奥には強い闘争心と嗜虐心が溢れ出ていた。サバイバルゲームという戦場が、どうやら有鬼子を目覚めさせたらしい。磯貝が俺と神崎を組ませたのは、神崎がこうなることも踏まえてだろうか。

 目標である丘に意識を向ける。視覚と聴覚、気配察知能力をフルに活かして、“ゲームでいつもやっている”ように敵の位置を把握する。ゲームに比べて余計なノイズが多いことに苦労しながらも、なんとか目標を補足できた。

 

「丘上に二人、おそらく片方が千葉だろう。それとフラッグ方面の丘下にもう一人だ」

 

「了解です。奥に回って丘上を潰します」

 

 ニッと歯を見せて笑った神崎が気配を抑えて背後に飛び込む。前方に意識が行っていた千葉と警護に回っていた岡島が気づくころには、蜂の巣にされていた。一発当てれば十分なのに、有鬼子さん容赦ないっすね。

 にこやかな笑顔で返り血のように頬についた青いペイントをペロッと舐めて――

 

「苦い……」

 

「当たり前だろ。ほらぺってしなさい、ぺって」

 

 たぶん有害なものではないだろうけど、まず食用ではないだろう舌に乗せたペイントをティッシュで拭った神崎は、次の敵を狩るために丘を飛び降りた。不思議とゲームのときと役割が重なり、俺はスポット役としてさっきまで千葉が構えていた位置で愛銃のスコープをのぞき込んだ。

 

「丘下にいるのは菅谷だな。武器M4。そっちにはまだ気づいてない」

 

『了解しました』

 

 崖や岩肌を跳ねるように移動して距離を詰めた神崎はすれ違いざまに菅谷に銃弾の雨を降らせた。神崎の移動射撃能力はE組の中でもかなり高い。スナイパーコンビのせいであまり目立ってはいないが、菅谷に向けた弾丸も八発全てが命中していた。だから一発当てればいいんだけど、ヘッドショット三発とか白鬚のおじさんだって立ってられないだろうよ。

 

「うへぇ、鮮やか」

 

「さすが『有鬼子』と『ゴースト』だな。というか、完全にそのこと失念してた」

 

 アウトになって撤収準備をしていた二人の声に、危うくステルスが解けそうになった。相変わらずその通り名は恥ずかしい。むしろ通り名は全部恥ずかしいまである。千葉なんて時々FPSゲームで小隊を組むせいか、特にその通り名で弄ってくるから面倒くさいことこの上ない。

 まあ、そういう点もこの教室の楽しいところには違いないのだが。

 

「またゲームやろうぜ。皆でさ」

 

「そうだな」

 

「ついでに俺の出禁も解いてくれよ……」

 

 あ、うん。そういえば君まだ出禁になってましたね。後で律に交渉しておくよ。

 苦笑しながら再び視線を神崎の周辺に索敵の手を伸ばして――

 

「っ! 神崎、下がれ!」

 

 いきなり現れた気配に通信機でストップをかけたが時すでに遅し。木の陰に潜んでいた赤羽に神崎が拘束されてしまった。あいつ、いつの間にあんなステルス能力身に着けてたんだ。それに、突然の強襲に正面からではなく潜んで待ち構える冷静さ。

 やはり赤羽、このE組の中でも底が全然見えない。

 

「神崎がやられた。戻ったほうがいいか?」

 

 口の中で小さく舌打ちを転がしつつ、青チームのリーダーに通信を飛ばす。単身で敵陣に乗り込むことには慣れているが、敵のレベルがFPSの比ではない。深追いは命取りになってしまう。

 しかし、俺の提案を指揮官である貧乏委員は「いや」と否定した。

 

『比企谷君はその位置に潜んで、可能な限り偵察してください。それに、そこにいるだけで少なくともカルマの動きを制限できると思います』

 

 なるほど。おそらく俺が神崎に同行していたことに赤羽や、千葉と一緒にFPSに興じたことのある速水あたりは勘付いているかもしれない。そこを逆に利用してステルス能力に長けた俺を残すことで、戦闘能力として厄介な赤羽をフラッグ周辺に抑えることが可能というわけだ。

 貧乏委員の指示に了解、と短く返して、スコープで敵の姿を探る。俺が近くにいる。けれど、どこにいるかが分からない状態を維持するのがこの作戦の肝だ。今はまだ見つけても発砲はしない。

 

「……人面岩の陰に寺坂、吉田、村松。大樹の上に速水、その下に堀部がいる。赤羽と中村はフラッグ付近に待機しているみたいだ」

 

 ここから少しずつ、状況を動かしていく。

 

 

 

 戦争は一進一退の様相を見せていた。主戦力で劣るわりに青チームも奮闘していたが、赤羽が指揮する赤チームも予想外の動きでこちらを攪乱してきていた。

 俯瞰視点で状況を把握することが上手い三村の偵察に、狭間による強襲。特に、戦闘が得意ではない狭間がこちらの主力である杉野を含めて二人倒したのは完全に想定外だった。戦闘面で不安がある人材もうまく使ってことを運ぶ。赤羽の奴、指揮官としての爪を隠していやがった。三村と狭間を俺が視認できない位置で動かしていた点から、俺が偵察役を担っていることに気づいていたのだろう。

 こちらも倉橋茅野の甘党コンビで引きつけた岡野木村の高機動コンビを原のトラップで仕留めることができたりと互いの戦力を徐々に削り合っていた。

 そして、そんなこの戦いが、心底楽しい。本気で戦うから、相手の今まで見えなかった部分まで見えてくる。相手の想いへの本気も伝わってくる。

 それを、ちゃんとあいつらにも体感してほしいから。

 ここからが、俺の神経の使いどころだ。

 

『そろそろ勝負を仕掛けないと、このままじゃジリ貧だ』

 

 通信機にかすかに乗ってきた磯貝の声には、焦燥感が入り混じっている。現状の残り人数は青六人と赤七人。拮抗しているように見えて、青チームがかなり押されていた。相変わらず大樹の上ではせわしなく動きながら移動砲台として速水が磯貝たちをマークし続けているし、その反対側には中村率いる寺坂軍団が防衛に構えている。無理に中央突破しようものなら、フラッグ付近の赤羽も含めて三方向からあっという間に制圧されてしまうだろう。

 正直言って、速水が厄介すぎる。照準を合わせるのが遅い俺に備えているのかほぼ止まることがないし、その上でテリトリーは赤のフラッグもカバーできる範囲がある。少ない人数でフラッグダッシュを狙うのならば、最終的に全員を相手にしなくてはいけない寺坂たち側よりも速水を倒すルートを狙うべき。というか、それしか手段がない。

 

『けど、それもカルマの思う壺なんですよね』

 

「ああ、あいつはそこまで読んでる。というか、そうなるように戦局を誘導してきたって感じだな」

 

 片岡、竹林を最初に狙ったのは、序盤の切り崩しだけでなく終盤の作戦を狭めるためでもあったか。二方向を同時に相手しようにも、指揮系統を担えるのが磯貝のみなのが辛い。それに、寺坂たちに指示を出している中村はフラッグを離れた時からずっと丸腰だ。おそらく、三人を壁にして身軽な自分が旗を奪取するつもりなのだろう。

 いや、ここでうだうだ迷っていても、状況は悪くなる一方だ。速水の狙撃にさらに人数を減らされたら、寺坂たちに数でねじ伏せられる可能性が出てくる。そこで俺が狙撃したとしても、せっかく隠れていたところを赤羽や速水に見つかってアウトだ。

 

「磯貝、そこにいる四人全員で速水と堀部を狩りに行け」

 

『えっ』

 

 ならば即断即決即時実行が最善手だ。

 

「“俺たち”の仕事は、あの二人を仕留めることだ」

 

 幸い、“ずっと見えている”あいつも自分の現状の役割に気づいているようで、殺気を最小にまで抑えながらギラつく眼光をバッチリ開いていた。あの様子なら問題ない。あの目の前にあらゆる戦略、あらゆる攻撃、あらゆる防御は通用しない。

 

『……防御は捨てる。速水とイトナを全力で倒して、そのまま敵陣に流れ込むぞ!』

 

 俺の提案に指揮官は指示を飛ばす。それを聞き届けて、スコープを赤の旗を挟んだ大樹に向ける。堀部の固有スキルであるラジコン戦力は、どうやら不調らしい。しかし、戦闘とは基本的に防衛側が有利に働く。俺の役割は、磯貝たちが仕留め損ねた場合の後処理係だ。

 それに――

 

『じゃあ、比企谷君。……“セッティング”任せましたよ』

 

 なるほど、こいつもこいつでよく見ているし察しがいい。俺と同じことを考えていたようだ。そんな委員長に少しだけ笑って、俺は短い返事だけを返した。

 

 

 

 あちこちで白い煙が湧き上がる。奥田の用意したカプセル煙幕だろう。広範囲に充満した煙が速水の精密射撃を不可能にしたことで、防衛側の二人は弾幕を張って応戦する。運が悪いことに、攪乱役の奥田がその弾幕の一発に当たってしまった。

 追加の煙幕がなくなったことで、隠されていた磯貝、前原、矢田の姿が見えてくる。巧みに移動しながら速水が狙うのは……磯貝だ。突出した指揮系統を潰すのは定石。正確に照準を合わせた速水は堀部が弾幕を張り続ける中、寸分違わぬ射撃で磯貝の頭部にペイント弾をヒットさせた。

 

「……やばいな」

 

 防御が硬すぎる。こちらは二人やられているのに、未だにどちらも落ちていない。このまま二人とも生き残ったら最悪だ。

 その時、大樹下の茂みに身をひそめていた堀部に側面から前原が仕掛けた。さっきまで構えていたM4カービンを捨て、二本構えたナイフの片方で切りかかる。前原はE組の中でもパワーがある。堀部はエアガンで受け止めたが、小さな体躯ではその衝撃に耐えることはできずたたらを踏んだ。

 その隙はあまりにも大きく、一撃目の振りの流れのまま斬りつけられた二本目の刃を、堀部は防ぎきることができなかった。

 しかし、堀部を倒した前原も肩で息をするほど体力的に限界だったようで、速水が放った必殺の一撃に反応することもできず、左胸を赤いペイントに染めた。これで状況は一対一。

 そして、アウトになった磯貝の後ろから樹上の速水に照準を合わせたのは、青チームで残った一人、矢田だった。半身になって的になる面積を減らし、両手でガバメントを構える。遠距離暗殺がそこまで得意ではない矢田は、ついでに言えば戦うこと自体をあまり好まない奴だ。今までの暗殺でも積極的に協力はするが、積極的に暗殺をするタイプではなかった。その矢田があんなに真剣な顔で銃を構えている。

 きっと、それだけで十分だったのだろう。反応の遅れた速水に矢田が引き金を引く。遅れて速水からもエアガン特有の軽い発砲音が響き、二発の弾丸が空中ですれ違った。矢田の弾丸はまっすぐに的である速水に伸び――しかしすんでのところで軌道が逸れ、速水の顔のすぐ横を通り過ぎて行った。逆に速水の弾丸はスッと伸び、半身にしたその身体に突き刺さる。

 ――――ッ! ッッ!!

 結果から見れば、速水が生き残って赤チームの勝利。けれど、ここまで持ってきただけで十分だった。混戦を経て速水の集中力は落ちている。

 それに、さっき青の旗周辺から聞こえてきた発砲と斬撃音、自分たちの勝利が決まるかどうかの音にどうしても意識は持っていかれる。それだけの要因が重なった速水は動き続けることを忘れてしまっていた。

 

「……ナイスファイト」

 

 誰に向けるでもない声と共にトリガーを引く。ワルサーWA2000の銃口から放たれた銃弾は綺麗な直線軌道を描いて、樹上から顔を覗かせたスナイパーの肩に着弾した。

 それと同時に近づいてくる殺気と通信機から聞こえてくる律の報告。中村たち四人の名前がその中に入っているのを確認した途端、丘下から紅いインクをまとったナイフが飛び出してきた。

 

「っ!?」

 

 愛銃から手を放し、引き抜いたナイフで何とか受け止めたと思ったら、ぐわっと伸びてきた腕に危うく超体育着の襟をつかまれそうになる。

 地を蹴って後方に逃れて距離を取ると、赤髪の悪魔は舌打ちを漏らしながら同じ土俵に上がってきた。さっきの発砲音一発で、俺の位置を完璧に特定したらしい。

 

「……まんまとやられたよ。俺は比企谷君をずっと警戒しなくちゃいけなかったし、積み上げてきた策はあっさり渚君に潰されちゃった」

 

 青チームの防御が手薄になった状態で旗に突撃を行った中村たち。本来なら勝敗が決している状況をひっくり返したのは、自衛隊迷彩を施して審判をしていた烏間さんの陰に潜んでいた渚だった。俺も、渚の出した音に速水が気を取られたのを利用してペイント弾を当てたのだから、ほとんどあいつ一人に状況をひっくり返されたことになる。

 そしてそれを目撃した赤羽の目は、すでに俺を見ていなかった。それは俺を舐めているからというわけではなく――

 

「早く渚と戦いたいんだろ?」

 

「っ――!」

 

 審判である烏間さんから死角になる位置で“避けずに”ナイフを腹部に受けた俺に、赤羽はグッと睨みつけてきた。その目は「本気でやってなかったのか」と言いたげだった。

 本気でやっていなかったわけではない。律も含めて、参戦した二十九人全員が開始からずっと本気で戦っていた。

 同時に誰もが、大なり小なり“それ”を感じていたのだ。そして俺は、正確に言えば俺と磯貝はそのセッティングのため、赤羽なんていう曲者を相手に“一対一”が成立するように必死に場を調整していたのだ。

 だってこの戦争は、元を辿れば赤羽と渚の喧嘩から始まったのだから。

 

「“初めて”の喧嘩なんだろ? だったら思いっきりやって来いよ」

 

 もう三年も“友達”をやっているというのに、この二人はまともに喧嘩をしたことがないのだろう。自分に自信がなかった渚が常に身を引いていたのか、人畜無害な小動物に対して赤羽が戦闘態勢に入らなかったからか。理由は定かではないが、普段の近いようでどこか一歩距離を置いている態度と、殺せんせーが仲裁案を出す直前に見た、なにか溜め込んだものを吐き出そうとするような二人の目が、なんとなく俺たちに一つの結論を導かせたのだ。

 この二人が直接対峙しないと、“皆”が納得する答えは出ないと。

 

「……なんか俺が勝ったのに言い回しずるいなぁ、年上って」

 

 ずるくねえよ、と笑うと赤羽はやはり不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも目に闘志をぎらつかせながら堂々と、渚の潜むフィールド中央へと歩いて行った。

 ずるくなんてない。だってそんな感情、俺はいままで感じたことがなかった。感じられる相手がいなかった。

 きっと俺は、あいつらの関係が羨ましくて仕方がないのだ。

 

 

 

 この戦争は、皆が納得しなければ勝敗が決まっても意味がない。それはあいつら二人もよく分かっていた。

 だから銃を捨ててナイフでのタイマン戦闘を持ちかけてきた赤羽に渚は乗ったし、赤羽は避けることもできるはずの渚の攻撃を全て真正面から食らっていた。クラスのため、そして自分の願いを一番理解してほしい相手に伝えるために。

 故に、この結末は当然だったのかもしれない。

 

「そこまで! 赤チームの降伏により青チーム、殺さない派の勝ち!」

 

 自分の武器である暗殺者の殺気。それを捨て駒にして腕で頸動脈を締め上げる肩固めを仕掛けた渚に、赤羽が降伏したのだ。一度は赤いインクのついたナイフを手にした赤羽だったが、朦朧としながら渚とナイフを見比べた赤髪の少年は、そのナイフを振り下ろさずに降伏を告げた。小動物相手に獅子が武器を使って勝っても、誰も納得しないと考えたのか、それともフェアじゃないと考えたのか。喧嘩っ早い赤羽も、そういうところは律儀と言うか……。

 

「てかさ、俺らいい加減呼び捨てでよくね?」

 

 喧嘩の後で「君」つける気がしないと苦笑する赤羽に、渚は恥ずかしそうに「今更呼び方変えるのもな」と頬を掻く。自分に勝った草食動物が縮こまるのを見て赤羽はことさら大きく息を吐くと、未だに地面に尻を落ち着かせている渚に手を伸ばした。

 

「じゃあ、俺だけ呼ぶよ。それでいいの、渚?」

 

 本気でぶつかって疎遠になることもある。本気でぶつからなくたって疎遠になることもある。けれど本気でぶつかるからこそ、互いが近づくこともあるのだ。これも殺せんせーの言うところの「教育」だろうか。

 

「……わかったよ。じゃあ……カルマ」

 

 差し出された手を取った渚は恥ずかしそうで、けれど同時に嬉しそうでもあった。

 

「さて……」

 

 クラスの総意が「殺せんせーを殺さない」となった。しかし、寺坂たちが言ったように助ける方法がない可能性が十分にあるのも事実だ。だから烏間さんは、助ける方法を模索する期限をこの一月一杯までという条件で、俺たちの意見を聞き入れてくれた。

 となると、これについて調べた甲斐もあったということか。

 

「律、例の資料の準備を。皆に知らせるのは、怪我の治療とかが終わってからになるけど」

 

「分かりました!」

 

 律本体に保存していたデータがスマホに展開される。唯一殺せんせーを救う可能性を秘めている研究、アメリカ第十三研究チームの「触手細胞の老化分裂に伴う反物質の破滅的連鎖発生“抑止”に関する検証実験」に目を通しながら俺は一足先に教室に戻った。

 

 

     ***

 

 

 そして時は流れて新年度の四月。暗殺教室を“卒業”した俺は総武高校に戻ってきた。地球の余命になりかけた三月十三日を過ぎても、なんとか俺たちと俺たちの住んでいる星は生き続けてきている。これは、うまくいっているってことでいいのかな。あの日から時々考えてしまう。もっとうまくやれたのではないかと。

 けれど、きっとそんなたらればには意味がない。あの時小町が言ってくれたように、大事なのはこれからなのだ。過去は引きずりすぎてはいけない。それはきっと、あの恩師への冒涜だ。あの一年の非日常な日常は、確かに俺の中で糧になっている。きっとそれだけでいい。

 

「さて、今日から君たちも二年生だ。いきなり授業をしてもなんだから、この時間はこのレポートを書きたまえ」

 

 新学年が始まって最初現国の時間。平塚というらしい女性教師が配ってきたのは「高校生活を振り返って」とプリントされた学校でよく見るざらついたコピー紙だった。そういえば椚ヶ丘って、E組でも全部のプリント真っ白な紙だったよね。こんなどうでもいいところで私立と公立の違いに気づきたくなかったけど。ところで平塚先生、やけに男前なしゃべり方しますね。宝塚かどこかの出身でしょうか。

 それはそうとて今はこのプリントだ。俺の高校生活は実質二週間しか未だに経験していない。どこかの教育バカ二人にみっちり高校三年までの勉強をやらされたと言っても、“高校生活”自体はほぼ経験がないし、今となっては記憶にないまである。そんな俺がこれに何を書けばいいのだろうか。

 むーんと悩んで、よくやるように適当な持論でも書いてお茶を濁そうかと考えてみる。しかし、殺せんせーにはウケが良かったけど過去の教師には総じてウケが悪かったんだよな。あれは殺せんせーがおかしいだけかもしれない。

 ただまあ、それもありなのかな。そう考えてしまう。どんなに非日常を繰り返しても、人間根本的なところは変わらない。相変わらず俺は、知らないクラスメイトとはほとんど関わらない人間だし、きっと初めて会話をしたらどもってきもがられるに違いない。

 だからそう、まずはこういう書き出しから始めてみよう。

 

『青春とは悪である』

 

 あの教室に出会う前に思っていたことを。

 しかし、人間確かにそうそう変わらないものだが、逆に言えばまれに変わることができるのだ。もしくは新しい一面を見出すことができるのだ。一学年下のあいつらが、何人かこの学校に入学したことを心から喜ぶことができたように。

 だから、次の行にはこう書いてみることにする。

 

『けれど俺は、あの場所で青春ってのも悪くないと思えた』

 

 あの教室に出会ってから感じたことを。

 一度書き始めてみると筆が乗るもので、気の向くままにシャーペンを走らせる。

 ポケットにしまっていたスマホが、楽しそうに震えた気がして、思わず口元がほころんだのは自分だけの秘密だ。




 読了ありがとうございます。今回が一応の最終回ということになります。“このシリーズでは”ですけど。

 元々書き始めの段階で17巻まで読んでいて、結末を明文化せずに「暗殺教室を卒業した」という事実が残るというのもありかなと思って書いていました。八幡一人が関わってもそうそう結末は変わらないだろうなと思っていて、なら過程や八幡・E組生徒たちの心情が少しずつ変わったりする話を書こうと考えて執筆をしていました。書いている最中に原作が完結しちゃったんですが。
 ガラッと原作から変わるような話などを期待していた人がいたらすみません。
 と、いうわけで。
 感想などで高校編はあるのかという質問も結構いただいていたのですが……あります!
 と言うよりも今まで読んでいただいたものは実質的なプロローグというか、アドベンチャーゲームで言う共通ルート的な感じで書いていました。

 実は前にpixivのメッセージで暗殺教室と俺ガイルのクロスでR-18を書いてくださいと言われて、その時はお断りしたんですが、原作読んだりアニメ見たりしながら、「どうせR-18書くなら暗殺教室に参加した方がいいよなー、けど暗殺教室中にくっつくのもなんか違うなー」と思って、「じゃあ暗殺教室に参加させた後にイチャイチャさせればいいんじゃん!」という結論に至ってプロットを練ったのがこのシリーズでした。
 つまりですね。総武高校編はR-18要素があります。しかもマルチエンディングというか、このシリーズをベースにした短編集詰め合わせみたいな形を予定しています。
 なので、別シリーズとして書いていこうと考えています。このシリーズにR-18タグをつけてしまうと、未成年で読んでくれている人たちが今までの話を読めなくなってしまいますから。

 とりあえず、17巻以降の話とかも小ネタみたいな感じで用意したいので、まずは原作の読んでいない話を原作の本編終了まで読んでから書き始めようと思うので、すぐに書き始めるわけではないです。俺ガイル単体のSSや暗殺教室単体のSSも書きたいですし。
 新シリーズを書き始めたのを見つけて、おもしろそうだと思ったらまた読んでみてください。
 二ヶ月ちょっとの間、読んでいただきありがとうございました!


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

市立総武高校
新学期初日から職員室に呼び出されたわけだが。


 お久しぶりです。
 ようやく高校編を書き始めようと思います。リアル優先だったり、ほかのSS書いてたりでペースはだいぶ遅いと思いますが、よろしくお願いします。


 春。かすかに冬の名残を残しながらも空も風も校庭の木々も麗らかな青を孕んだ放課後。

 こんな日にはぜひとも直帰して手早くジャージに着替え、ジョギングでもしたいところだ。もしくはそんな景色をたまに眺めながら自室で読書に勤しんでもいい。自分で言うのもなんだがアウトドアとインドア両極端な選択肢だ。まあ片方は元からの趣味だし、もう片方に至ってはこの一年で完全に定着してしまった日課。どちらも俺にとって重要であることには変わりない。

「失礼します。二年F組の比企谷です」

「おお、比企谷来たか。こっちに来たまえ」

 しかしながら思い通りにいかないのが人生というもので、放課後俺は職員室に赴いていた。より正確に言うなら入り口近くの席から俺を手招きしている現国教師――確か平塚先生だっただろうか――に呼び出されたわけだが。

 彼女の席に近づきつつ、意識を室内全体に巡らせてみる。

 “比企谷”という名前が出た瞬間から、明らかに俺に刺さる視線が増えた。訝しみ、警戒、あるいは畏怖。そこに多少の興味なんかが複雑に混ざり孕んだ視線。特に奥の席に座っている教頭のものなんて露骨だ。いや、たぶん隠すことができないという方が正しいのだろう。

『表向きは国の教育プログラム下にいたことになっているとは言え、さすがに総武高校の教師数名にはその教育機関が椚ヶ丘だということは伝えてある』

 あの教室を“卒業”する日、親愛なる体育教師から打ち明けられたことを思い出す。彼の堅物先生はしきりに謝ってきたが、元を辿れば原因は逃げ出していた俺だ。逆にこちらが頭を下げねばならないところだっただろう。

 国からの要請で特段優秀でもない生徒が件の“危険生物”のいた学校に通っていた。それだけの情報があれば、真相には辿り着けずとも一つの結論には大抵の人間が至るだろう。

 ――比企谷八幡は椚ヶ丘中学校三年E組、暗殺教室に在籍していた、という結論に。

 春休み中に起こしたちょっとした俺たちのアクションのおかげもあってか、不用意になにか口を出そうとする教師はいない。それでも抑えることは難しいのが好奇心というもので、口よりも雄弁に感情が視線に乗ってくるのだ。

 月を三日月に変え、さらには地球をも破壊しようとした超生物。その授業を受けながら、一年かけて暗殺しようとした生徒は、本当にマトモなのだろうか、と。

 致し方ない。実に致し方ない。俺が教師陣の立場だったとしても、同じ目でこの異質な一年を過ごした生徒を見ただろうから。

 とは言え、それは分かっていてもこの手の視線は気分のいいものではない。なんなら今すぐ消えてこの場を退散してしまいたいまである。

 まあそんなことをしてしまえばそれこそ俺ないし元E組の評価に関わるのでしないのだが。

 

「それで、用ってなんですか?」

 

 極力周りの視線を気にしないように、平塚先生に質問を投げかける。それに伴って彼女を観察することも忘れない。人間観察は元々趣味とか痛いことを言っていたが、あの教室で身に着けたスキルその他諸々の関係上もはや生活基盤に組み込まれるレベルにまで染みついていた。

 そもそも一番最初に抱く感想は「なぜ白衣を着ているのだろう」というものなのだが。いやほんとなんでこの人白衣着てんの。現国教師ですよね? 俺が知らないだけで実は化学も受け持つのだろうか。もしくは趣味……? 殺せんせー然りビッチ先生然り、伝聞で知った雪村先生然り、教師というのは妙に服装に拘るきらいがある気がする。

 本当に趣味だったら「なぜ?」なんて質問は不躾の極みだろう。ツッコミは内心に留めておくことにする。

 さて、改めて観察を再開してみると、彼女のデスクの上には一枚のプリントが置かれていた。

 

「……そのレポート、なんかマズかったですかね」

 

 『高校生活を振り返って』と最上部に印字されたレポートには俺の名前が俺の文字で書きこまれている。紛れもなく、今日の現国の授業で俺が書いたレポートだろう。

 となると、呼び出された理由は一つと考えていい。レポートの内容がこの教師の気に入るところでなかったわけだ。

 総武のことを一切振り返っていない、というのは問題ではない。そもそも俺が振り返ることのできる総武高校での生活そのものが存在しないのだから。ただただ勉強に追われ、自己嫌悪で逃げ出した事実が長くて二行程度に記されたひどいモノができあがるに違いないし、この人もそれは分かっているだろう。

 となると問題なのは……あの教室のことを“いい思い出”として記したからだろうか。

 政府がメディアに対して緘口令を敷く前にどこかの大学教授だか学者だかが「E組の生徒はストックホルム症候群に陥っている」なんてテレビでのたまった。俺たちは脅されているうちに当の危険生物に同情や愛情を抱いてしまったのだと。全容はその一切を文章と文章の間の深淵に隠したが、あの教室でのことを少なからず肯定的に記したレポートを書いたのは失敗だったか。筆が乗ってしまって、特に何も考えずに書ききってしまったからなぁ。これはブラックリストに入れられてしまったかもしれない。

 

「いや、レポートは特に問題ないよ。『青春とは悪である。』なんて一文を見たときは頭を抱えたがね」

 

 しかし、俺が卓上のレポートを見ていることに気づいた現国教師は苦笑しながら首を横に振ってきたので、内心「おや?」と首を傾げた。表情を観察してみても、後ろ暗い感情は引っかからない。

 まるで、本当につい一ヶ月前の出来事など気にしていないように。

 

「君を呼んだのは単に話してみたかったからだよ。一年で……というか数ヶ月で成績を急上昇させたコツも教育者として気になるところだが、会うたびに君がいい表情をするようになったことにも興味があってね。……もちろん、話したくないなら無理にとは言わないが」

 

 ……あー、どこか聞き覚えのある声だと思ったら、この人去年現国のテストを毎回監督してた先生か。詰まるところ、去年から比企谷八幡を知っている人物なわけだ。

 というか――

 

「俺、そんな顔変わりました?」

 

 思わず頬を掻き、手持無沙汰に前髪なんぞ弄ってみる。確かに変わった部分もあるかもしれない、という思いを込めてレポートを書きはしたのだが、実際に「変わった」と言われると……違和感があるというか……。

 

「変わったよ。二ヶ月に一度ほどしか会わなかったから余計にそう思ったさ。初めて見た、一学期の期末試験の時の君は、そうだな……腐った魚のような目をしていたからな」

 

「……そんなにDHA高そうにしてました?」

 

 小町からも常日頃「目が腐ってる」とは言われていたが、まさか人間の目ですらなかったとは……。インスマス八幡。出会ったらSANチェックすることになりそうだ。たぶん1D10くらい。や、本当にSANチェックとかされたら泣くけど。臆面もなく泣くけど。

 いずれにしてもまだ会った回数が手の指で足りるような人に評されるほどだ。たぶん「変わった」のは事実なのだろう。

 

「まあ、いろいろありましたからね」

 

「それはいい意味でか?」

 

「んー……ご想像にお任せする、ってことで」

 

 だってあんなに楽しくておかしくて、不思議で大好きだった空間の話を断片でも口にしようものなら、文字にするのとは比較にならないくらい止まらなくなってしまうだろうから。

 雑にはぐらかした俺に、けれど先生はそうか、と表情を綻ばせただけでそれ以上追及してこなかった。

 いい先生だと思う。生徒指導担当だからってわざわざ生徒と何でもない話をしようとする高校教師なんて少数派に違いない。学校から逃げ出した一生徒に公務員がここまで時間を割こうとは、普通しないだろう。

 

「ん? どうかしたか?」

 

「いえ、なんでもないです」

 

 いい先生だと思う。生徒と向き合おうとする姿勢は、どことなくあのヌルヌルとした笑みを浮かべる教師や、いつもは冷静沈着なのにこと教育のことになると熱くなる完璧超人とどことなく似ている。

 

「まあしかし、やはり私はまだ君のことをよく知らん。今後も何かと絡んでいくつもりだから覚悟したまえ」

 

「――うっす」

 

 案外、教育バカとは皆似たようなものなのかもしれない。そう思うと、自然と笑みが漏れてしまうのだった。

 

「失礼しまーす。今日の授業のプリントを――あれ? 比企谷君?」

 

 ガラッと開いた扉から聞き覚えのある声が俺の名を口にしてきた。声変わりしたかも怪しいアルト調の声色。振り返ってみれば、俺より一回り小さいプリントの束を抱えた小動物が目に入る。特徴的な明るい色の髪をツインテール――ではなく短く切り揃えており、それでも総武校の特徴的な制服に身を包んでいなければ、女子と間違えられてしまいそうだ。まあそこはご愛敬ということで。

 

「おう渚、クラスの仕事か?」

 

「うん。国語委員だから」

 

 潮田渚。元暗殺教室出身でこの春からここの一年生になった彼は、卒業と同時に今まで結っていた髪をバッサリと切った。過去との、母親のプレイヤーキャラクターだった自分との決別のために。春休みに会った時に見せた前に進もうとする意思と少しだけ寂しさが混在した笑みは、こいつのこれまでを知っている手前そうそう忘れられそうにない。

 まあ、相変わらず小さいしひょろっこいから、短髪になったところで男らしい、とは言えないわけだが。春休み中もことあるごとに赤羽や中村から弄られたようだ。いや、お前ら四月から別の学校になって寂しいからって手加減してやれよとは思ったのだが……当の渚もなんだかんだ楽しんでいたし、仲裁など余計なお世話だろう。

 そして潮田渚がいるということを認識したと同時に、半ば自然と湧いてきた直感。むしろ予定調和の事実を確認するために、首を動かしてちょうど渚の陰になっている入口を見やる。

 

「やっぱ茅野も一緒か」

 

「ありゃ、バレた」

 

 わずかに気配を隠していた少女はいたずらが失敗した子供のように不満げな間延びした舌打ちを漏らして渚の横に並び立つ。E組一のニコイチコンビの片割れ、茅野カエデである。

 とは言っても、こちらも中学時代とはシルエットが違う。渚とおそろいのツインテールだった髪は緩いウェーブを靡かせながら背中まで流されており、鮮やかな緑だった色も自然な黒に変わっていた。正確には戻した、が正しいのだろうが、俺にとっては初めて見る姿だ。

 

「ほー」

 

「? なに?」

 

 いやまあ、なんつうか。

 

「似合ってんじゃん、黒」

 

 元々の顔立ちよさがあるのでE組時代の緑ツインテールも十分似合っていたのだが、なるほど、こちらの方が確かに自然な似合い方をしている。

 

「おー、はちにいの『似合ってる』はかなり高評価! へへーん、戻した甲斐があったね」

 

 楽しそうにカラカラ笑う茅野は、けれど少しあの頃とは違って見える。偽るためにしていた演技をやめて、なおかつ『茅野カエデ』を『雪村あかり』の一部だと納得したからか、明るい茅野らしさを感じさせながらもどこか落ち着いた雰囲気だ。

 

「よく言うよ。茅野、春休みのころは『なんか違う』ってしょっちゅう言ってたくせに」

 

「あー! 渚それ言わないでよ!」

 

 渚の暴露に茅野が慌てるのを見て、思わず苦笑してしまう。まあ、一年ずっとあの髪色髪型を続けていたのだ。本来の姿が自分の意識に馴染むにはそれなりに時間がかかったのだろう。

 

「一年C組の潮田と……雪村だったよな? カヤノというのは……」

 

「ああ、僕たちの間での彼女のあだ名みたいなものです」

 

 聞き慣れない名前に首を傾げた平塚先生に、渚がそれとなく説明する。間違ってはいないし、そもそも中学時代に使っていた偽名です、なんて言っても余計に先生が混乱してしまうだけだから、俺たちも口裏を合わせることにした。

 当然と言えば当然のことだが、この学校の生徒に『茅野カエデ』は存在しない。一年C組に在籍しているのは雪村あかりだ。聞いた話では椚ヶ丘中学校のデータベースにあった茅野の名前も、全て雪村に置き換えられているらしい。そんな献身的なお節介を焼く人、あの学校で一人しか知らないのだが、もう“なくなってしまった”話題を掘り返すのは無粋というものだろう。

 しかしながら俺らの中ではやはり茅野は茅野なわけで、本人の希望もあって今でもあの頃の呼び方を続けている。

 

「そういえば比企谷君はなんで職員室に?」

 

「まさか、新年度早々呼び出されるような悪事を」

 

「なんで悪事前提なんだよ……」

 

 ガシガシ荒く頭を撫でてやると、キャーキャー言いながら逃れようとしてくる。だが残念だったな、茅野よ。女優業と暗殺業のおかげで同年代より身体能力が高いと言っても、体格的に俺の方が圧倒的に有利なのだ。

 

「楽しそうだな、君たちは」

 

「ん、あっ。すみません、職員室で……」

 

 しまった。ついいつものノリで妹と戯れてしまった。おのれ茅野め……や、なんも考えず手を伸ばした俺が悪いのだが。

 

「いや、気にするな。むしろ少しほっとしたよ」

 

 背もたれに深く身体を預けて笑う平塚先生に首を捻っていると、「深い意味はないさ」と渚からプリントを受け取りながらより顔の彫りを深くしてきた。

 

「まあ、高校生活はあっという間だ。特に比企谷はあと二年だからね。存分に楽しみたまえ」

 

「うっす」

 

「「はい!」」

 

 せっかく一年越しに戻ってきたのだ。先生の言う通り、存分に楽しもう。なに、こいつらが一緒ならそれだけで楽しいに違いない。

 本来の時間より一時間早く登校しようとしていた去年の入学式の頃のように、静かに胸の奥を弾ませるのだった。

 

 

 

「それにしても、お前ら結局どこでも一緒だな」

 

 職員室を後にして、三人揃って下校している最中なんとなく隣を歩く二人にぼやいてみた。クラスも同じで担当係も同じとは恐れ入る。うちの高校、一年の最初の委員は勝手に決められるはずなのに。

 

「席も隣同士だからね。ちょっとできすぎかなとは思ったよ」

 

 なにそれ、さすがに怖い。なにか大人の事情とか絡んでない? 防衛相とかそこらへんの。いや、さすがにないと思うけど。

 まあ、しかし――

 

「…………なに?」

 

 俺の視線に気づいた茅野は一瞬だけキョトンとして、なぜかすぐに不機嫌そうに双眸を細めた。なんでちょっと怒ってんだよ。

 あれかな? 渚と二人っきりじゃないからかな?

 偶然に偶然が重なって同じクラス、同じ係、隣同士の席になった。それはまあ分かるのだが、茅野が“渚の陰に隠れる”必要がなくなった今、なぜこの二人がクラス外でも、なんなら学外でもまるでニコイチを誇示するように一緒にいるのか。

 

「……いや」

 

 その理由を思わず口に出しそうになって、すんでのところで唾液とともに飲み込んだ。

 だってほら、せっかく応援している妹の奮闘を邪魔するとか、千葉のお兄ちゃん的にありえないからね。

 しかし、行動を無理やり変えて否定の声を漏らしてしまったわけだが、ここで言葉を切るのも「なんでもない」と続けるのもどうもしっくりこない。なにか適切な言葉はないものかと元より優秀な方だった現国知識の引き出しを引っ張り出して――

 

「がんばってるなーって思った、かな」

 

 とりあえず褒めることにした。たぶん現国とか読破した本たちの知識は一切関係ない。たぶんどころか皆無だな。むしろ絶無。

 で、その結果――

 

「~~~~~~~~ッ!!」

 

 爆発。爆発が起こりました。声を出さなかったのはさすがと言うべきか。元実力派子役は伊達ではないな。

 瞬間沸騰という表現が比喩にならなそうなくらい顔を真っ赤に染めた茅野が声を出さずに口をパクパクさせて抗議してくるのを、素知らぬ顔でスルーする。そもそもあの時ならともかく、平時のこいつは殺気らしい殺気は出せないのだから威圧感の欠片もないのだ。

 

「? がんばってるってどういうこと?」

 

 その上、ひとたび妙な反応を示せば俺たちの間に挟まれてこっちを向いている渚に気づかれてしまうとなれば、余計に何かできたものではない。

 

「なんでもない。聞き流してくれ」

 

 なのでこちらもスルー安定。仮に渚が茅野の変化に気づいても面倒だからな。茅野からしても、俺からしても。

 茅野カエデの、雪村あかりの恋慕にはもはや当の渚以外全員が気づいている。気づいてはいるし、俺に至っては相談役もどきみたいなこともしているわけだが……外野からなにか明確なアクションを起こすことはない。進学先が違う赤羽や中村のみならず、同じくうちに入学した矢田や倉橋コンビですら。

 俺だって、普段の無自覚ながら茅野といて楽しそうにしている渚を見ていれば、なんとかしてやりたいというお節介心もついつい顔を覗かせてしまうのだが、そこをぐっと堪えて愚痴を聞く程度に留めている。E組にとっちゃあの件はトラウマものだからな。俺にとっちゃ恋愛なんて中学の頃からトラウマだけど。

 あくまで見守るだけ。それがE組の暗黙の了解だった。

 ではなぜさっきあんな発言をしたかと言えば――

 

「もう……渚、早く行こ! お店閉まっちゃうよ!」

 

「え、まだ時間は……あれ、茅野? なんか怒ってる?」

 

「怒ってない!」

 

 プリプリ不機嫌に怒る茅野、めっちゃ可愛くありません? なんか小町に通じるところがあるし、普段の――本来の、とも言えるが――落ち着いた雰囲気とのギャップがね。く、これがギャップ萌えというやつか! 速水でも人類絶滅するレベルの破壊力だと思っていたのに、こいつはこいつでなかなかの破壊力である。……なに言ってんだろ、俺。疲れてんのかな。久々の登校だったしマジで疲れてるのかもしれない。

 

「茅野、あんまり引っ張ると――あ、比企谷君また明日!」

 

「おう」

 

 引っ張られて前のめりになりながらも空いた手を振る渚を、こちらも軽く手を上げて見送る。

 まあ、ギャップ萌えが見れる代償として割とガッツリ茅野が怒ってしまうのだが、これなんとかなりませんかね。そもそも見ようとするな? ……ですよねー。

 駅へと繋がる交差点を曲がった二人が消えた――完全に見えなくなる前に茅野が“あっかんべー”をしてきた。渚に見られても知らんぞ――のを確認して、スマホから伸びているイヤホンを耳に取り付ける。

 

「あんまり苛めると、そのうち口も利いてくれなくなりますよ?」

 

 付けたと同時に聞こえてきた声に苦笑しながら、「それは困るな」なんて適当に返してみる。ポケットに突っ込んでいるスマホには、きっとあざとい3Dグラフィックの少女が映っているに違いない。

 しかしまあ、本当に口を利いてもらえなくなったらショックで一週間は寝込みそうだ。妹に嫌われるなんてお兄ちゃんの沽券に関わる。やっぱり控えるべきかなぁ。

 だがしかし、そうは思いつつもついついからかってしまうのだ。

 

「バカみたいなことができるのは平和な証だからな。こればっかりは当分やめられそうにない」

 

 つ――、と顔を上げてまだ青々とした空を見上げる。目を凝らしてみると、薄らと物理的に三日月になっている月が視認できた。

 宇宙探査チームや学者の話では、七割が消し飛んだ月は今後徐々に崩壊を始め、自らの重力によって以前より小さいながら時間をかけて元のような球体に戻るだろうと言っていた。地球の引力に引かれたり、そもそも爆発の際に地球にある程度近づいたこともあって、完全に球体になる頃にはあの先生がE組の担任を始める前の月と見た目はさして変わらなくなるのだろう。

 そもそも表立って何かが行われたのはあの一週間だけ。きっと五年も経つころにはあの超生物のことも皆忘れ去って、ごく稀に「あの事件の真相は!」みたいなアホなタイトルのテレビ特番かゴシップ雑誌が組まれる程度になるだろう。そもそも緘口令が解けない限りそれが日の当たる場所に出ることはないとも思うが。

 で、現実はと言えば一月も経っていないのに、下手をすれば爆心地になっていたかもしれない住人たちはさも当たり前のように日常を享受している。それが武装を放棄して七十年ばかり経った我が国故なのか、それとも案外実害がなければ人間とはそういうものなのかは、まだ十七年弱の短い人生観では答えを出せそうにない。

 まあ結局――

 

「世の中ってのは、そんなもんなんだよな」

 

 悲劇の被害者に仕立て上げられたり、かと思えば掌返しのように救世主のように扱われたり、そんなのも一瞬で忘れ去られたり。

 結局のところ俺たちみたいなちっぽけな人間は世の中ってやつに振り回されるものだし、むしろそんなものに振り回されているうちはきっと平和に違いない。あの黄色い触手生物なら大気圏でシャカシャカポテトでも作りそうなくらい平和そのもの。

 

「さっさと帰ってジョギングするかぁ」

 

「その後は“勉強”しますか?」

 

「そのつもり。九時から神崎たちとゲームの予定だけど」

 

 ならばまあ、俺だってその平和を楽しんでもバチは当たらないだろう。一年前、あの超生物な先生と出会う前とは、きっとその楽しみ方も変わっているのだろうが。

 押していた自転車のサドルにまたがり、力いっぱいこぎ出す。

 暗殺教室は終わった。運命の日を過ぎても俺たちはここにいる。楽しみながら、悩みながら、前に進めている。

 椚ヶ丘とは違う始業のベルが耳を震わせるのは――今日から。




 改めてお久しぶりです。構想はだいぶ前からできてたんですが、別のシリーズにかまけてたりリアルがだいぶ変化したりでなかなか手を付けられませんでしたが、さすがに一年も放っておくのはなってことでようやく筆を取りました。
 元々はR-18ありにして別のシリーズとして投稿する予定でしたが、いろいろと構想を練っているうちに「別にR-18展開にする必要ねえな」と思い直したのですシリーズにそのままぶっこみます。もしそっち方面の話を期待してた人がいたら許して。渚カエで去年書いたそういう話がpixivに転がってるからそれで許して。

 で、ちょっと補足というか今後のシリーズの展開予定なんですが、高校編はメインストーリーの他に、そこから分岐したifストーリーを交えた形式にしようと考えています。世界観はあくまでメインストーリー準拠のオムニバスみたいな感じになるかなと。あくまで予定ですが。
 なので最新話には「★New★」を付けておくので更新個所はそれで判断してください。あと、シリーズ登録の関係で、ifストーリーはハーメルン先行になる予定です。やったね!

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

結局俺は、その一歩がなかなか踏み出せない。

 天から月光の何倍も、太陽かと勘違いしてしまいそうな眩い光が降り注ぐ中、それで眼前を蛍のように揺蕩う光の粒子に目を奪われる。

 幾百、幾千もの光の粒は、まるであの先生の顔のように七色に輝いているように見えた。黒、白、赤、朱、橙、青、藍、紫、緑……そして黄色。

 

「――――」

 

 ぼそりと紡がれた声は、本来なら俺の鼓膜を無意味に震わせるだけだっただろう。鈍感系主人公を気取るなら「え、なんだって?」なんて空気の読めない返答をしてしまうであろうほどの小さな言の葉。

 けれど、その声は光の粒子に乗ったのか、はたまた音とは違う伝達方法がなされたのか――不思議と、自然に、理解することができた。

 ――卒業おめでとう、と。

 常時の半分も込められていないであろう握力で握っていた触手の感触が、ゆっくりと消えていく。人魚姫が故郷の海に泡となって還るように、初めからそうあるべきだったと言うように、形を失い、光の粒子へと姿を変えていく。

 何となしに光の粒を掴んでみるが、崩壊した触手の残滓はその感触すらも残してくれなかった。

 

「うっ……うっ……」

 

「ひぐ……っ」

 

 始まりは誰だったろうか。男女、高低入り混じった嗚咽を齢十五の子供たちが抑えきることなんて到底できず、やがて校庭を震わせんばかりの絶叫にも似た啼泣に成った。触手生物を閉じ込めるための光の檻『地の盾』すら揺らいだように錯覚するほどの、感情を乗せた叫び。

 ある者は涙と鼻水を滴らせ臆面もなく泣き叫んだ。ある者は泣き顔を見られまいと顔を覆った。またある者は決して嗚咽を漏らさぬように奥歯を噛みしめて両頬に滴の跡を作り、あの赤羽ですら、年相応の表情で大きな粒を一つ、二つと地面に落とした。

 いなくなってしまったことが悲しかった。もう会えないことが辛かった。別の結末を迎えられなかったことが悔しかった。

 けれど同時に、嬉しくもあったのだ。感謝もあったのだ。

 彼が全て満ち足りたような顔で消えることができたことが、そんな彼と一年間一緒に過ごすことができたことが。

 悲しくて悔しくて、うれしくてありがたくて。

 相反する感情の逃げ道を求めるように濡れた頬を拭って顔を上げた。

 

「ぁ……」

 

 本来超破壊生物を殺すはずだったレーザーの光。それに比べれば太陽光を反射しただけのちっぽけな光のはずなのに、隣に浮かぶ三日月は凛々しさすら感じるほどに堂々と俺たちを照らしていた。

 彼の象徴だった。俺たちの象徴だったその三日月の中に大好きな、大好きだった先生を幻視して――

 

「――――――――ッ!」

 

 慟哭するように、喉が張り裂けんばかりに……感情を弾けさせた。

 

 

     ***

 

 

「…………朝、か」

 

 カーテンの隙間からも出てくる日の光のせいか、外からかすかに聞こえてくる雀の音に誘われたか、ごく自然に意識が覚醒した。ベッドから上半身を起こすと厚手の毛布が半分捲れ――露出した裏地に水が落ちてかすかに濡れてしまった。

 

「は、リアルでも泣いてやんの」

 

 思わず自嘲気味に笑いながら指の腹でそれを拭う。浅黒い跡が若干残ったが、放っておけば乾くだろう。

 

「八幡さん、大丈夫……ですか?」

 

 枕元のスマホから聞き慣れた声が聞こえてくる。腹のあたりに落としていた視線を向けると、スマホのディスプレイに映る自律思考固定砲台、律が不安げな表情を見せていた。たぶん俺が起きる前からそこに待機していたのだろう。いつもはこっちの気も知らないで情け容赦なく起こしてくるというのに、こういう日は空気を読むのだから本当にずるい奴だ。

 

「別に、大丈夫だ」

 

「それなら、いいんですけど……」

 

 スウェットの袖で顔を拭う。一通り目元の水気を拭い去って再び視界を開けさせると、律はやはり不安そうな顔をしながら所在なさげにスカートの裾を弄っていた。

 

「さすがに一月やそこらで完全には乗り越えられねえってことだな」

 

 あの日から、たまに夢を見る。全く同じ夢というわけではない。けれど、決まってあの先生が出てくる夢。

 たぶん他の奴らだって少なからず俺と同じなはずだ。あの超生物とともに成長したとはいえ、まだ高校生になったばかりなのだ。鍵付きの引き出しに放り込む勇気は、なかなか持てるものじゃない。

 

「……私には、ちょっと皆さんが羨ましいです」

 

「ん?」

 

「だって、夢の中なら殺せんせーに会えるんですよね?」

 

 カーテンを開けようと立ち上がりながら律を見ると、一度瞑目した彼女は少し悲しそうに笑った。

 フラッシュバックのように唐突にやってくる夢に、俺たちは涙する。けれど、そもそも“睡眠”が存在しない彼女は夢を見ることもないのだ。気づいたら流れてしまう涙がない代わりに、大好きだった先生に会うこともない。

 なるほどな。確かに夢とはいえあの先生に会えるのだと考えれば、寝起きの涙なんて安い駄賃なのかもしれない。

 

「……まあ、そんなにいいもんでもないぞ」

 

 そこまで考えて、さっきとは違う笑いと一緒にため息が漏れた。俺の言葉が意外だったのか、画面越しの少女はキョトンとした顔をする。

 今日のような過去の出来事そのままな夢はまあ、いい。悲しいし悔しいが、やはり感謝と嬉しさが大きいから。

 ただ……。

 

「たまにある殺せんせーの自分語りな夢、あれ地獄だぞ」

 

 卒業の時に渡されたアドバイスブックの話をし始めたかと思えば、先生が主人公のラブコメファンタジーの話をしだしたりするのだ。なぜか手元にある対先生用ナイフとエアガンで攻撃しても尽く避けながら語り続けるから質が悪い。何あの人。実は精神体になって夜な夜な俺たちの中に潜り込んでんじゃないの? それはさすがに怖い。なんでもござれの死神でも普通に怖いから本当ならやめてほしい。

 

「なんか、それはそれで殺せんせーらしい気もしますけどね」

 

「夢の中まで暗殺続行とかマジ勘弁……」

 

 ため息の後に間が少し、どちらからともなく笑い出す。夢に出てくると涙が出る先生だが、話題に出すと笑みが出る先生でもある。ひょっとしたらギャグキャラを演じていたのもアフターケアの一環だったのかもしれない。さすがにそれは考えすぎか。

 いずれにしても、カーテンを開けて見慣れた自室からの外を眺めるころには心はだいぶ軽くなっていた。

 

「さて、そろそろ着替えるか」

 

「私はもう着替えてますよ!」

 

「あ、うん。そうだな」

 

「反応が軽い!?」

 

 いやだって……君さっきからその格好だったじゃん。起きた時から気づいていたが、画面越しの律の格好が総武高校の冬服に変わっていた。彼女がリアクションを取るたびにチェック柄のスカートが楽しそうに揺れる。あくまで3Dモデルデータのはずなのに実物の制服かと思うほどリアルな質感と動きだ。

 

「昨日徹夜で作ったのに……」

 

「自作かよ……」

 

 律が今まで着ていた服のデータは殺せんせーがインストールしたプログラムによるものだったはずだが……ついに自分で服を作るまでになったか。AI娘のスペックがまた強化されてしまった。そのうち私服のデザインとかまで始めるのではないだろうか。将来の職業がデザイナーになる日は近いな。いや、知らんけど。

 まあ、妹分が成長するのは喜ばしい限りだ。人差し指で頭の部分をなぞると嬉しそうに目を細めて顔の彫りを深くしてくる。

 それを確認して――

 

「あっ」

 

 スマホを画面を下にして倒した。ついでにPCの有線LANも抜いておく。なんかスマホから抗議の声が聞こえる気がするが気のせいだろう。うん気のせい気のせい。

 別に着替えを見られないようにとかそんな自意識過剰な理由じゃないぞ? LANケーブルを抜いたのは……ほら、オフラインがセキュリティ的には最強だから。つまりはそういうこと。

 

 

     ***

 

 

「お、こことか良さそうだな」

 

 昼休み、小町特製の弁当を片手に校内をぶらついていた俺は校舎と校庭の間、駐輪場のスペースで足を止めた。臨海部から吹いてくる風が存外心地いいし、均等に植えられている広葉樹がいい感じの影を作っている。夏場あたりにはいい避暑地になりそうだ。冬は寒いだろうけど。

 今更確認することでもないが、俺はほぼ一年間この学校にいなかった。つまり二年生とはいえ、この学校はアウェーのようなものなのだ。

 そんな俺がまずするべきことが一つあった。

 そう――昼食を食べる場所の確保である。

 

「……教室で食べればいいんじゃないですかね」

 

 俺の心の内を読んだのか、手にしたスマホから律がシラーッとしたジト目を向けてきた。HAHAHA、そんな目をしたって俺はちょっとしか傷つかんぞ? ちょっとは傷つくけど。三日は落ち込むくらい。

 まあ、律の意見は尤もだ。E組では昼食は教室で食べていたし、ここでもそうすればいいという理屈は分かる。

 けどね、考えてみて欲しいんだりっちゃん。

 

「ぼっちに教室で昼食はハードル高い」

 

 転校生でもないのに二年からのうのうと学校に来たこの比企谷八幡。いかんせんクラスに友達がいない。なんなら知り合いもいないまである。自己紹介の時間とかもなかったからマジでクラスの人間の名前も知らないし。なんか窓際のところにいる「隼人」と「戸部」だけはよく名前が出てくるから覚えたけど。

 や、それでも昔の俺なら教室で一人、誰とも関わらずにもそもそ飯を食っていたのだろうが……。

 

「どうしてもあの教室と比べちまうからなぁ……」

 

 話下手でコミュ障な俺に、そんなことをまるで気にしないと言わんばかりに絡んできた倉橋や矢田。まるで十年来の仲のように遊びに誘ってくる杉野。たまに自分の描いた絵だとか彫刻だとかを見せてくる菅谷。他にもどいつもこいつも積極的に話しかけてきてくれた。

 そんなあの教室を体験した後だと、四十人近くいる空間で誰にも話しかけられないという状況に耐えられないというか。

 

「いっそのこと誰もいないところの方が気楽なんだよ」

 

 相も変わらず、こういうところが変わっていない。自分から話しかけてコミュニティの中に入ればいいのだろうが、それができればコミュ障なんてやっていないのだ。最初の第一歩が……怖い。殺し屋と相対したときよりずっと怖い。

 

「まあ、そういうのは八幡さんのペースでやっていけばいいとは思いますけど」

 

 ここなら私が話してても問題なさそうですしね! と続ける彼女に苦笑する。そもそも昼休みに人が寄り付かない特別棟。その陰ともなれば余計に誰かが来る心配はないだろう。校庭脇のテニスコートでテニス部員が壁打ちをしているが、この距離なら相当騒がなければこいつの声が聞こえることはあるまい。っていうか、一人で練習とか熱心だなテニス部。

 

「ま、教室じゃ律にはずっと黙っててもらってるからな」

 

 さすがにインターネットに居座るAI娘の存在を公言なんてできない。時々反応を示すようにポケットをバイブで震わせてくるが、先月までの生活を考えればそれも窮屈かろう。

 いつかは踏み出さねばならない、踏み出したい第一歩。

 

「それでは、午前中に読んでいた新刊のお話でも――」

 

「それ俺まだ読んでないよね?」

 

 その勇気が出るまでは、もう少しだけ妹分に甘えることとしよう。




 当初の予定とはちょっと違う話になりましたが、まあRTAとかも皆オリチャーを発動するものだからいいよね! 予定してた話は次書くと思います。たぶん、おそらく、きっと、メイビー。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

考えて考えて、それでも駄目なら――

「それじゃあ、授業を終わります」

 

 パタリと生徒のものより一回り大きい教科書を閉じた教師が授業終了を宣言すると、さっきまで静かだった教室は俄かに騒がしくなる。弁当を取り出して一塊になる集団、購買へと駆けていく者、行動は人それぞれだ。

 そんな昼休みの喧騒に紛れて、俺も弁当を片手に教室を後にする。向かうのは先々週に発見した特別棟裏の隠れスポットだ。

 早々に中庭の木陰を占拠したらしいリア充集団を横目に渡り廊下を抜け、階段を下りて校庭へと続く出入り口を

通――

 

「あん?」

 

 ろうとしたところではた、と足が止まった。床をキュッとこする靴底の音がしなくなったことで、風が木々の葉を震わせる音がかすかに聞こえるだけになる。

 そんな静かな空間で一度瞑目して、また首を捻った。出入り口を出て右手側、透過すれば数日前に俺が見つけたスポットがあるはずの壁に視線を向ける。

 ――誰か、あの場所にいる?

 一度意識を左手側に向けてみて、小さく音のなり損ないのような唸り声をあげた。数寸先まで原子を震わせただけで消えてしまうであろう音は、おそらく相手には聞こえていない。

 まさか昼休みにこんなところに来る物好きがいようとは。や、なんかこの言い方は間接的に俺が物好きみたいになってしまうな。俺の場合はほら、あれがあれであれだから実質ノーカンみたいなところあるから。

 まあいずれにせよ、先客がいるのなら仕方がない。そこそこお気に入りの場所だから残念だが、今日は別のところで昼食を食べることにしよう。

 

「あれ、比企谷早いな。速水が呼んだのか?」

 

「あん?」

 

 特別棟なら空き教室とかあるかな、なんて考えながら来た道を戻ろうとして、聞き覚えのある声に思わず振り返る。

 中庭の方から近づいてくる二つの人影には見覚えがあった。というか、一人に至っては一昨日三時までネットで通話していた人物だったりする。おかげで昨日は非常に眠かったです。

 

「早いってなんのことだ?」

 

 そんな二人、スナイパー千葉と鬼ゲーマー神崎に尋ねると揃って首を傾げだして、結果俺も首を傾げることになる。三人で首を傾げてる光景、端的に言ってシュールじゃない? 誰かに見られたら地味に恥ずかしいやつ。

 ちなみにどっちが夜中まで通話をしていた相手かは……言わずとも分かることかもしれない。久しぶりに格ゲーに興じたら思いのほか熱中してしまった。そして何度も十割食らって心が折れかけた。ちょっと浮いただけで永続コンボに繋げられたときは思わず関西弁で「そんなんチートや、チーターや!」って叫んで――小町から怒られました。だって一度バスケ始まったら絶対落とさないんだもん……。

 

「今週末にイベント出るでしょ? それの打ち合わせをこれからするんです」

 

「あー、あれか」

 

 神崎の説明でようやく合点がいく。イベントというのは俺たちがやっているオンラインFPS内のプチ大会のことだ。四人一組の小隊でエントリーが条件ということで、俺、神崎に続いてプレイ時間の長い速水と千葉に声をかけたというのがそもそもの発端。

 

「特別棟の裏なら昼休みに人が来ないから便利だって律から聞いてな」

 

「りーつー……」

 

 恨みを込めたいつもより幾分低い俺の声を聞き取ったのか、ポケットのスマホが楽しそうに震えた。いや、喜ばれても困るのだが。

 要は、電脳世界に鎮座しているAI娘が俺の隠れ家的昼食スペースを意図的に――スマホの震え方的に絶対意図的――流出させたのだ。いや、別に隠してたわけではないのだが、それなら今あそこにいるの速水じゃん。事前に教えてくれていれば引き返そうとする必要なかったじゃん! りっちゃんなんでそんなことしたん……俺のこと嫌い?

 そのことを二人に話すと、なんだかよく分からない表情をされた。なんだそのめっちゃ生暖かい感じの表情。そこはかとなくむずがゆい。

 しかしまあ、と二人と一緒に特別棟裏を目指しながら思い直す。確かに静かな上に人目につかない――ここ数日も、昼食中に目にしたのは毎日壁打ちをしているテニス部員だけだった――あそこは作戦会議にちょうど良さそうだ。

 昨今スマホのアプリゲームなどの普及で、ゲームというものはより身近な、なんならコミュニケーションツールとして通用するようになってきた。特にスマホアプリなんて一部例外を除けばいかにマルチが充実しているかが流行の重要なファクターになっている。

 そういうことなら別に誰かのクラスで作戦会議をしてもいいじゃないか、と思うかもしれない。確かに普通のゲームの話だったら俺たちもそうしていただろう。

 

「平日の放課後だと四人とも揃って通話できるタイミングなかなかないからな。校内にこういうところがあるのはラッキーじゃね?」

 

 だが、あのFPSゲームだけは例外なのである。

 理由はいくつかある。あのE組にいた人間が四人も揃って銃やナイフを主観で扱うゲームをしていると教師陣に知られるのは少々面倒だとか、そうでなくとも俺や千葉はともかく、神崎や速水のような女子がそういうゲームをしていることがクラスメイトに知られるのはまた面倒なことになりかねないとか。

 しかしまあ、そんな理由は正直さして問題ではない。いや、弟分妹分たちの評価が下がるのは十分問題なのだが、最大の理由に比べればやりようはある。

 問題は――

 

「有名だもんな、“有鬼子”と“ゴースト”は」

 

「千葉君、その呼び方はやめてほしいかな……」

 

 あのゲームで俺と神崎が有名な点だ。特に神崎。この間ついに某掲示板に専用板ができたからな。なんだ「有鬼子様を見守ろうの会part.1」って。神崎めっちゃ崇め奉られてんじゃん。神には違いないけど。

 とりあえず面白そうな話をしていると思って近づいてくる奴はいい。なんとかなる。しかしもし話をしていたクラスにあのゲームのプレイヤーがいたら……あまつさえプレイヤーネームを聞かれたり、今度小隊組もうぜ! とか言われたら……面倒くさいことこの上ない。下手したら神崎たちに対する周りの心象も悪くなりかねん。

 

「ま、飯食いながら大まかな立ち回りとか考えるか」

 

 まあ、そんなことを危惧しつつ引退しようとは思わないあたり、俺らも立派な廃人なわけだが。

 校舎を出ると臨海部から吹く少し強めの風が前髪を荒く乱す。思わず目を細めつつ当初の予定通り風がやってくる右側に向かおうと身体を向けて……三人ともピタッと動きを止めた。

 昼食スペースには先についていた速水が座っている。気配で分かっていたし、それはいい。

 

「みゃぁ」

 

「にゃ?」

 

 その速水が子猫と戯れているのは完全に予想外だったが。

 普段の凛々しさすら感じる表情はどこへ行ったのか。殺せんせーばりに表情筋をふにゃふにゃに緩ませたクールビューティ速水はこちらに気づいた様子もない。おそらく野良であろう子猫の小さな頭を指先で軽くなぞると左右に首を揺らしながら観察、殺意のさの字も感じられない小動物の一挙手一投足にどんどん表情を崩している。このままでは速水が液状化した殺せんせー――一度殺せんせーと奥田に頼んで見せてもらったことがあるが、なにあれただのメタルスライムじゃん――みたいになってしまう。……ごめん、さすがに言い過ぎた。

 いずれにしても、「クールビューティとは一体……」な光景がそこには広がっているわけで。

 

「もうほんと……無理……」

 

「防御無視十割はチートって言ってるじゃないですか……」

 

「…………」

 

 俺たちは三人仲良く無事(?)死んだわけである。特におそらく“実物”とは初遭遇なのだろう千葉はすでに物言わぬ骸だ。

 ちなみにこれは速水にはオフレコでお願いしたいのだが、卒業アルバムの時に殺せんせーが隠し撮りしていたペットショップでの速水の写真、実はE組の半数ほどがこっそり持っていたりする。ブロマイドが流通するとかアイドルかな? さすがギャップ萌えの権化だ。速水、恐ろしい子!

 結局、その日の昼休みはまともに会議なんてできようはずもなく、次の日に持ち越しになったことは……まあ言うまでもないことかもしれない。

 

 

     ***

 

 

 さて、春になり元E組はそれぞれ進学したわけだが、椚ヶ丘以外へ進学となったときに我が総武高校は思いのほか良物件だったりしたこともあり、何人かうちに入学してきた。

 例えば磯貝と片岡。暗殺報酬から皆より少し多めに分配されたとはいえ、やはり兄弟の多い母子家庭はなかなか辛い。早い段階から公立高校を視野に入れていた磯貝は今から奨学金やらを調べて少しでも家計の負担を減らそうとしているようだ。そんな磯貝に片岡がなぜついてきたのかは考えるまでもない。

 次に不破、神崎、渚。マスコミ志望のためや親の希望に沿うために少々学歴に箔をつけたい三人だが、千葉有数の進学校というだけでは総武は選択肢に上がりづらいだろう。全国規模に有名な学校に比べれば本来のインパクトは弱い。

 しかしどうやら殺せんせー調べでは、近年うちは各業界での知名度が俄かに上昇しているのだそうだ。

 その原因が“雪ノ下”という名前。

 千葉の大企業雪ノ下建設、その前会長で次期千葉県知事候補とも囁かれている雪ノ下県議のご令嬢が俺と同じ学年に在籍しているためだ。聞くところによると俺とは入れ違いに卒業した姉もいるらしく、彼女も彼女で目覚ましい成績を修めたらしい。その先輩のおかげで渚の母親が進学させたがっている大学への指定校推薦も一昨年からできるようになったとか。

 茅野……はまあいいや。

 速水、千葉、矢田、倉橋は自分の成績と今後を鑑みてといった感じか。そもそも高校で専門系の学部を選ぶ必要性はない。中村のように最初から外交官や通訳を目指して外国言語に強い高校を選ぶ選択肢もそれぞれあったとは思うが、普通科で満遍なく地力をつけ、後の大学で専門知識、技術を身につけるのもまた一つの選択肢だ。

 今思ったが、ここまでで十人か。多すぎやしませんかね。

 

「それを比企谷氏が言ってはいけないと思うのだが」

 

「はい」

 

 そして俺の目の前で盛大にため息をつきながら紅茶を啜っているのが十一人目、竹林である。眼鏡のブリッジを人差し指でクイッと上げると、くつろぐように椅子の背もたれに体重を預ける。

 

「……大丈夫か?」

 

 よくよく見ると、少し疲れているように感じるのは気のせいだろうか。まあ、こいつにとってはある意味苦行なのかもしれないが。

 総武高校には一学年九クラスの普通科に加え、国際教養科というクラスが存在する。ただでさえ割と高い方である普通科の偏差値より三つばかり高いその学科は、帰国子女だったり留学希望者が多い。残念ながら本命の私立高校を落としてしまった竹林が総武のこの学科を選んだのも、将来的に留学を考えているかららしい。

 しかし、ここで問題が一つ。いや二つ。

 

「息が詰まる……」

 

 まず第一に、どういうわけか国際教養科は在籍者の九割が女子だという点。女子が九割なんてどこぞの女たらしが聞けば喜び勇んで受験したかもしれないが、そこは二次元至上主義の竹林、しかも相手の目を見て話すことが苦手な若干コミュ障気味の竹林、会って間もない女子と最低限とはいえコミュニケーションを取るのは精神的に疲れるようだ。余談だが俺もあんまり人の目を見て話せない。あれだよね、視線って攻撃力持ってるから仕方ない。

 それでも少ないとはいえ男子もいるのだから、男子とつるんでいればいいではないか、と思うかもしれないが、相手は高校の時期から留学を考えているような――あくまで普通科と比べればだが――意識高い系集団。竹林の趣味が分かる人間がいないのだ。それが第二の問題。

 E組では漫画の申し子のような不破もいたし、なんなら教室の隅に美少女AIが鎮座しているような空間だったためあまり引かれなかったが、意識高い系なんてオタク=キモいと思っているような集団である。え、偏見? 偏見か偏見じゃないかは重要なことじゃない。少なくとも俺と竹林がそう思っている、という事実が重要なのだ。

 特に進路選択などでクラス替えも起こらない国際教養科、不用意に“秘密”をばらそうものなら三年間が地獄になりかねない。

 結果的に竹林は、クラスでのオタクネタ封印を余儀なくされていた。国際教養科では今季アニメの話題すら上がらないらしい。土曜ゴールデンの某探偵アニメは例外。やっぱり小学館がナンバーワン!

 ……コホン。まあそのままにしては竹林の見事な七三ヘアが六二くらいになりそうだ。本人もそれは自覚しているようで、こうしてたまに遊びの誘いが来る。呼び出し頻度で言えば俺=千葉>磯貝くらいの順。

 ここで漫画好きで竹林との親和性が高い不破が入るのでは? と思うかもしれないが、そのことは本人たちの前で決して触れてはいけない。中学時代に一度当時放送中だったアニメについて二人で語り合っていたことがあったのだが、見る視点があまりにも違いすぎて、完全にすれ違いが起こっていた。食い違いはないはずなのに決定的に嚙み合わない感じ。

 しまいにはお気に入りのカップリングがものの見事に逆カプで、後一歩止めるのが遅かったら戦争勃発間違いなしだったのだ。あの時は恐怖すら覚えたね。普段は積極的に暗殺に乗りだすタイプじゃない二人の後ろから仁王像とか阿修羅が見えるほどだったから。

 まあそれ以来二人はちょっと距離を置いているのであった。別に喧嘩をしているわけではないし普通に話はする。特定の状況下において不干渉条約を締結しているだけ。

 

「ま、クラスが疲れる分、今はリラックスしろよ」

 

 多少コミュ障を患っているとは言っても最低限の会話はしているはずだ。少しずつ慣れていけば、こういうリラックスタイムの回数も徐々に減っていくことだろう。

 

「ご主人様、ご注文はお決まりでしょうか?」

 

 そう――メイド喫茶での駄弁りイベントも。

 

「オムライスとコーヒーを」

 

「俺はコーヒーだけで……」

 

 まあね。本人をして居心地のいい空間第一位に認定したスポットなのだし、精神衛生上ここに赴くのは致し方なかろう。

 けどさ、俺とか千葉とか磯貝をここに呼ぶ必要はあるんですかね。息抜きはどっちか片方じゃダメなのだろうか。あのイケメンですらちょっと辟易していたのだが……ハッ! まさか布教!? この場は布教活動も兼ねているのか!?

 まあいいや。いや良くないけど。大なり小なりオタクである自覚を持つ俺だが、どうもメイド喫茶はあまり琴線に触れないようだ。かわいいにはかわいいのだが、自分のことを「ご主人様」なんて呼ばれるのは背筋にゾクゾク来て合わない。「萌え萌えキュン」とか自分の料理にやられたときは憤死ものだった。空腹より恥ずかしさが勝ってしまい、竹林に譲ろうとしたレベル。無理やり食わされたけど。

 逆に三次元なのにメイド喫茶はいいのか、と竹林に尋ねたことがあるが、本人曰く「ここは実質二次元」らしい。最高に訳が分からないが、たぶんディスティニーランドの中が異世界みたいなのと似た意味なのだろう。

 

「それで、そっちの進展はどうなんだ?」

 

「進展って?」

 

「比企谷八幡リア充計画」

 

「……あのなぁ」

 

 二人分出されたコーヒーを一口啜った拍子にため息を漏らす。他の二人がどういう会話をこいつとしているのか知らないが、俺の時になると決まってこの話題だ。

 所謂、俺の色恋沙汰の話。

 

「どうもこうも……進展なしだ。心境も含めてな」

 

 スマホの電源が切れていることを確認して、もう一度コーヒーを啜る。

 確かに総武高校は千葉県内でも優秀な学校だ。それでもクラスの半分近くがそこに入学した理由は、少なからず俺にもある……と思う。

 冬の頃、なんとなく彼女たちの想いも自覚できていたし、自分も少なからずそういう感情を抱いていることも分かっていた。分かっていたつもりだった。

 しかしそこから一月、二月と時間が過ぎていくうちに逆に分からなくなってしまったのだ。

 “好き”という感情が“恋愛感情としての好き”なのか“妹へ抱くのと同じ家族愛としての好き”なのか。

 英語ならLikeとLoveで分けられているのに、日本語ではどちらも“好き”なのだ。げに日本語は難しい。自分が彼女たちに対してどっちの感情を向けているのか、文系を自称している脳みそは答えを教えてくれない。

 そして自分の感情が分からないとなれば、今度は彼女たちの感情も分からなくなってしまう。俺に向けられている好意の示す意味合いが。

 そうなってしまえば後は足踏み。前にも後ろにも足を出すことはできなくなる。

 

「本当に難儀な性格をしているね。恋愛に対しては普段とは比べ物にならないくらい消極的だ」

 

「慎重と言え、慎重と」

 

 まあ、積極的になれというのが無理な話だと思うが。

 俺とて健全な高校生。この十六年という短い人生の中でも人並に恋をしてきた。なんなら数度告白をしたこともある。その全てが玉砕なのだが。

 コミュ障というのは存外絆されやすい。ちょっと優しくされるとすぐに相手を好きになるし、相手も自分のことが好きだと勘違いする。そして告白して玉砕する。考えてみれば当然だ。碌に交流もしていない人間からの告白なんて、きっと嬉しくもなんともない。

 そんな過ちは中学で嫌というほど懲りた。もう絶対同じ失敗は繰り返すまいと心に誓った。その結果、出来上がったのがこの臆病者。

 

「結局は比企谷氏自身の問題か」

 

「考えても考えても袋小路だ」

 

 やはり対人関係とは面倒なことこの上ない。その上以前の問題とは違い、この話は当人たちとできるものでもないのだ。答え合わせは結末に直結する。

 

「なら、考えて考えて考え抜けばいい。情報が足りないならもっと皆と交流して、その上でまた考えればいいじゃないか。自分が納得するまで、な」

 

「簡単に言うなぁ」

 

 まあ、ある意味三次元での恋愛に達観しているこいつらしい言いようではある。分からないのなら考える。それはあの教室でも繰り返してきたことだしな。

 

「オムライスをお持ちしました。おいしくなるおまじないをかけさせていただきますね!」

 

 話題も一区切りして揃ってコーヒーを啜っていると、おぼんにオムライスを乗せたメイドさんが跳ねるような声で駆け寄ってきた。

 ここから俺にとってはブラックコーヒーより苦い思い出の「おいしくなる儀式」が始まるので、意識的に視線を――

 

「いらっしゃいませ、ご主人様」

 

「あ、どうも。へへ――って比企谷!?」

 

 外したことを後悔した。めっちゃ緩んだ顔で来店した寺坂と目が合ってしまった。やばい他人のふりしておかないと。オレアノヒトシラナイ。オレヒキガヤチガウ。




 総武高校入学十一人は正直やりすぎたと思っています。所謂ヒロインメンバー以外との学内での絡みとかいろいろ見たいと思ったら予想以上に増えてしまいました。特に竹林。公式で委員長コンビと同じ高校って書かれたら国際教養科に入れたくなるじゃん! そして三次元に絶望させたくなるじゃん(鬼畜
 まあ言い訳をすると、県下有数の進学校なら(はるのんの影響もあって)大学の指定校推薦とかも色々あるでしょうし、普通に進学先候補には上がるんじゃないかなと(冷汗
 個人的に八幡神崎千葉速水っていうFPS小隊は結構お気に入りだったりします。大人しめなメンバーがFPSに興じてるギャップがね。いいの。

 あ、そういえばハーメルンさんが更新で必須タグに「クロスオーバー」を追加していたので、ずっとついていませんでしたが付けました。
 というか、つけるのすっかり忘れてました。一応タグで両方の原作名は載せていたけど、クロスに気づかずに読んでしまって嫌な思いをした人もいるかもしれませんね。もうしわけありませんでした。たぶんそういう人はここまで読んでないと思うけど。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

温かなぬくもりに身を寄せて

「…………」

 

 一切言葉を発することなくカタカタとキーボードを叩き続ける。時々記憶を掘り返すために指の動きが止まることはあるがそれもほんの数秒で、室内には変わり映えのしないタップ音だけが響く。

 目の前にあるディスプレイの無機質なウィンドウには指を動かすたびにアルファベットと数字の羅列が並べられていく。羅列が合わさって文字や記号となり、それがさらに合わさって意味を持つ内容へと変貌する。

 一見当たり前のことだが、こうして“新しいこと”をやっていると、こんなことにさえ感動してしまうから不思議だ。未だにものぐさなきらいがあると自負している俺だが、やれることが増えるというのは単純に楽しい。

 

「ふう……こんな感じか?」

 

 締めの記号を打ち込んで出来上がった内容を保存する。一応もう一度中身を確認してから今度は別なソフトを起動し、今しがた保存したファイルを読み込む。

 成功なら専用のシンプルなウィンドウが開く――はずだったのだが……。

 

「えぇ…………」

 

 出てきたのはエラー発生を示す画面で、思わずガックリと項垂れてしまった。なんかエラー内容十個くらい見えたし、俺ってばほんと馬鹿……。

 

「まあまあ八幡さん。どれもケアレスミスですし、だいたいの形はできてますから」

 

 エラー画面の裏から顔を出した律が宥めてきたので顔を上げてエラー内容を確認してみると、確かにエラー内容は細かいミスばかりを示していた。不等号が逆だとかそんなのばかりで、ちゃちゃっと直せば問題なく起動するプログラムになるだろう。

 俺が今やっているのは所謂プログラミングである。と言っても、始めて一ヶ月も経っていないからまだ基礎くらいしかできていないのだが。

 手早くソースコードのエラー箇所を直して再度プログラムを起動してみると、今度はうまく起動できた。プレイヤーキャラクターとして読み込んだ黄色いタコが、キーボード操作に基づいて左右に動いたりジャンプしたり、攻撃したりしている。目の前に置かれた真っ黒な棒――棒というか太線。影も何もついていないので画像抜けにしか見えない――に攻撃が当たるとガッというSEと共にその棒が少し後退した。

 新しいことを学ぶときに自分の趣味の延長線として捉えるのもモチベーションを上げる方法の一つ。ということを実践してみせていた担任を思い出し、ゲームプログラミングから手を伸ばしてみたのだが、確かに普通の堅苦しい勉強よりものめり込みやすい。アニメと勉強を繋げた竹林が急成長したわけだ。

 

「もうちょっとイラスト素材を増やせばもっとアニメーションが滑らかになりますね」

 

「簡単に言ってくれるなぁ……」

 

 いかに我らが担任が某RPGのスライム並に描きやすいディティールをしているとはいえ、俺みたいな素人じゃあ一枚描くのも相当な労力だ。おかげでサンドバッグのイラストを描くことすら放棄してしまった。やはり世の中のイラストレーターたちは神であった。

 しかし、一応格闘ゲームプログラミングの参考書を教材に使っているのだが、これゲームの形にするのにどれくらいかかるのだろうか。コマンドとかどうなんの? 他にもダメージ計算とか無敵時間とか……ああ、NPCのAIとかもあんのか。まだまだ先は長そうだなぁ。

 まあ、一つずつこなしていけばいいか、なんて背もたれに体重を預けていると、突然ソースコードの新規ウィンドウが開いた。何事かと首を傾げているとキーボードに手を触れていないにも関わらず、真っ白な画面に文字列が浮かび始めた。

 一分もしないうちに組み上がったらしいソースコードが保存されると、さっき遊んでいたゲーム画面もどきが新しく起動される。なんとなく察しつつ同じように操作してみると、俺が作ったコードと同じ挙動をしてみせた。

 

「こっちのコードの方が短くてスッキリですよ!」

 

「わー、体育のときの殺せんせーみたい」

 

 ドヤ顔している律に抑揚のない声で返しつつコードを確認してみると、確かに俺が書いたコードより使用行数は少ないのだが、そもそも俺の知らない文字列まで存在していて意味不明もいいところだった。

 この勉強を始めて分かったことだが、こと情報分野のことになるとこの律という奇跡のAI娘、加減というものを知らないということだ。まだ基礎だからと言っても応用を教えようとしてくる。そしてドヤ顔する。

 なんというか……あの先生の悪い部分の影響受けちゃってるなぁ、と思う次第なわけだ。まだ勉強すれば俺にも可能なレベルなあたり、傷は浅いようだが。

 まあ、これも新たに見えた一面というやつか。そう考えると微笑ましいものである。

 

「それにしても……」

 

「ん?」

 

「こういう触手生物が攻撃してるって、ちょっといやらしいですね」

 

「おい待てその思考プログラムは早く切り捨てなさい!」

 

 その思考はどこから学習したんですかね、律さん。それも殺せんせーですか、それとも既にハードディスクからサヨナラバイバイした俺の秘蔵データからですか。俺のせいだとは信じたくないので、ここは岡島のせいということにしておこう。ごめんな岡島、とりあえず一ヶ月出禁で。

 夜になってそれを伝えたら、岡島から悲痛顔のスタンプが送られてきた。あいつ案外余裕あるな。慣れてしまったのかもしれない。

 

 

     ***

 

 

「はち兄、ここがちょっと分からなかったんだけど」

 

「ん? ふぉれ?」

 

「……質問したの私だけど、せめて口のもの飲み込んでから答えてよ」

 

「……ん」

 

 茅野に言われてお茶で米を流し込む。ペットボトルから口を離して小さく息をつき、改めて彼女が出していた教科書に目を落とした。

 場所はいつも俺が昼食を摂っている特別棟裏。つまり今は昼休みである。俺の幸せぼっち空間は千葉たちにバレたことで長く続くはずもなく、今ではだいたい誰かが来る、元E組の集会場と化していた。短かったなぁ。来るのが知り合いだけだからまだマシだけど。

 

「あー、そこはな……」

 

 自慢ではないが去年の二学期末以来学年一位を維持している男。特に今茅野が苦戦しているところはちょうど俺が入院と不登校のダブルコンボで苦しんだところ。あの時はまだヌルヌルの触手に慣れていなかったこともあって、やけに特別授業の記憶が鮮明なのもあって、スラスラと教えることができた。

 

「なるほど、わかった! さすがに新しいところはすぐ飲み込めないところもあって苦労するよ」

 

「ま、しゃーないだろ。特にお前ら、菅谷や岡島と違って“予習”できてないし」

 

 中高一貫故に多少高校の勉強に片足を突っ込んでいたとはいえ、あくまで多少に過ぎない。新しいことを学んですぐに自分のものにできるのなんて、あのトンデモ親子や赤羽のような、それこそ才能に恵まれた人間くらいにしかできないものだ。趣味を職にしたいと考えていた菅谷や岡島のように数人は俺と一緒に高校三年までの範囲をざっと予習する機会があったが、いくら茅野の地頭がいい――触手に苛まれていながら二学期末にあの成績を出す時点で十分な地力があるということだろう――とはいえ、分からないことがあるのは当然だ。

 

「ま、努力すればいくらでも追いつけるさ。勉強なんてすぐできるかちょっと時間をかけてできるかくらいの違いしかねえよ」

 

 芸術みたいなものに比べれば、勉強は答えが用意されている分、才能の差を努力でカバーすることは容易い。まあ、竹林が昔詰め込み勉強法で失敗したように、努力の仕方を間違えることはあるだろうが。

 

「経験者は語るってやつ?」

 

「そりゃあ俺なんて努力努力アンド努力よ」

 

 たぶん地頭はいい方だと思うが、それだけではたとえあの日事故に遭っていなくても学年一位、いや現国一位すらなることはできなかっただろう。

 今の俺があるのはあの教室のおかげ。あそこで楽しさを学んで、刃を研ぎ澄ます方法を教えてもらったからだ。以前努力の才能、なんて言われたものだが、あそこで学ぶことの、身につくことの楽しさに気づかされなかったら、きっとその先の人生で努力なんて碌にしない人間になっていた自信がある。アルバイトすら碌に続かなかったのではないだろうか。

 人生は結局競争と共闘の連続だ。努力をすれば夢は必ず叶う、とは言わない。

 しかし――

 

「努力は人を裏切らないからな」

 

 これだけは、俺は声を大にして言えるのだ。

 

「そんなこと言われたら、私も努力しないわけにはいかないなぁ」

 

 にへ、と笑みを浮かべながら嘆息した茅野は教科書を閉じて自分の食事を再開する。

 俺も昼食の続きに入ろうとして――不意に肩に圧迫感を覚えて首を傾げた。

 

「ふみゅ……」

 

 視線を向けた先には天使がいました。実際には蛇なのだが、蛇の姿をした天使もいると言うから間違ってはいないな。

 天使改め渚は俺の肩を枕代わりにして穏やかな寝息を立てている。試しに頬をつついてみたが、起きる気配はなかった。珍しく会話に入ってこないと思ったら、夢の世界に旅立っていたのね、渚君。

 

「渚、教室でも眠そうにしてたんだよね」

 

「あれじゃないか? 不破の漫画爆撃」

 

 唐突かつランダム――住み分けの関係で竹林はターゲットにならない――に発生する不破のおすすめ漫画紹介はマジでなんの脈絡もなく始まるから油断ならない。しかも、それがまたどれも興味をそそられるものばかりだから余計に質が悪く、次の日の睡眠不足は必至なのである。

 

「あー、そういえば不破さんからなんか受け取ってたなぁ」

 

 どうやら予想はビンゴだったようで、茅野は遠い目をまばらに雲が流れる空に向けた。おそらく前回自分が爆撃を受けて夜更かしをしたことを思い出しているのだろう。読んでる最中は天国だが、次の日は転じて地獄の底なんだよな。上げて落とすとは、不破……恐ろしい子!

 

「まあ、寝不足じゃなくてもここは眠くなるよなぁ」

 

 思わずくあ、と欠伸を漏らす。太陽はポカポカと暖かい陽光を降り注いでくるし、等間隔に植えられた木々の葉がカサカサと擦れ合う音も耳に心地いい。何よりも沿岸部から流れてくる風が、早く寝てしまえと絆してくるようだ。

 要するに絶好の昼寝スポット。

 

「眠いのでしたら昼休み終了五分前に起こしましょうか?」

 

「じゃあ頼もうかな……ふあ」

 

 時間を確認すると、昼寝をするには十分な時間がある。ここは律の提案に甘えるとしよう。

 音声が聞こえやすいようにスマホを胸ポケットに入れ、渚を起こさないように注意しながらゆっくりと特別棟の壁に背を預けた。

 そのまま渚同様夢の世界に旅立とうとして――

 

「んあ?」

 

 反対の肩に増えた重みに少しだけ意識が浮上した。片目だけを開けて様子を確認すると、まあ当然というべきか愛すべき妹のウェーブがかった黒髪を確認。

 三人中二人が寝るならもう一人が寝るのも必然と言えば必然だろう。人を平然と枕にするのはどうなのかと思わなくもないが、めちゃくちゃ軽いのもあってそこをとやかく言うつもりはない。柔らかい髪先がちょっとこそばゆいけど。

 ただ、一つ言わせてもらえば。

 

「こっちでいいのか?」

 

 だいぶ深い眠りに入っているとはいえ、ターゲットに聞かれるわけにはいかないのであえてぼかした物言いをしてみる。

 つまり、「渚の肩を借りなくてもいいのか?」という質問。

 頭を少し傾けてちらりとこちらを見た元天才子役は、ほんのりと頬を赤らめながらふい、と反対方向を向いてしまった。

 

「今日はこっちの気分だから」

 

「ふーん」

 

 単純に恥ずかしいだけだろうに、なぜ強がっているのだろうか。まあ、そういうところも愛い奴なんだけどね!

 顔色をうかがうことができない黒髪をわしゃわしゃと撫でる。最初こそ恨みがましい抗議の声が聞こえていたが、次第に大人しくなり、やがては反対の肩の利用者同様穏やかな寝息を立て始めた。

 

「くあ……」

 

 二人の寝息のせいか、余計に眠気が襲ってきた。このまま身を任せれば、五分も経たずに意識が落ちてしまうことだろう。

 まあ、そもそも抗う理由なんてないのだけれど。

 

「おやすみなさい、八幡さん」

 

「ああ、おや……すみ……」

 

 両の肩にぬくもりを感じながら、ゆっくりと瞼を落とし切った。




 今回はちょっとまったりとしたお話を一つ、二つ。
 八幡にプログラミングをさせたいっていうのは前からの構想であったのですが、E組編を書いてる最中にpixivで読んだクロスSSでプログラミングさせてるものがあったのでちょっと悩んでました。今後いろいろと書けそうなので結局書いたんですけどね。

 渚カエと三人でお昼寝っていうネタもずっと書きたい書きたいと内心思っていたんですが、E組編だと茅野の関係でできなくて、ようやく形になりました。満足。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

勝ち続けるだけではないからこそ。

 あたりに凶悪な攻撃力を伴った音の楽団が襲来する。手榴弾の破裂音を皮切りに、自動小銃の全自動射撃が弾幕を作り上げた。音からして、二人での一斉射撃か。

 

『どうします?』

 

「どうするっつってもな……こっちは一歩動いた瞬間ハチの巣だ」

 

 思わず舌打ちを漏らしてしまう。敵は俺を完全に封じ込めようと考えているらしい。

 

「“見られた”からな。俺が敵でもこうする」

 

 こうも徹底した攻めを受けては、自分の戦いに持ち込むのは無理か。

 となるとこちらの狙撃手に突破口を作ってもらうしかないのだが――

 

『さすがに、上手いな。射線がものの見事に通らないぞ』

 

 相手もここまで生き残ってきた猛者。容易にヘッドショットなんて取らせてくれない。そもそも、そんな雑魚なら開幕一分で誰かの“餌”になっていたに違いないのだ。

 そして、もっと早く気付くべきだったのは。

 

『とりあえず、別の狙撃地点に移動する』

 

 こちらのスナイパーが相手に捕捉されている、ということだった。

 

『! 待って千葉く――』

 

『えっ……うわっ!?』

 

 通話越しに聞こえてきた爆発音が、俺の位置から聞こえてきた爆発音とハモる。地雷を踏み抜いたであろう小隊メンバーの状況を確認しようとして、結局なにも声をかけずに息をひそめた。

 “ゲームの仕様上”、狙撃を完全に防ぐなんて神スポットは存在しない。そして俺に弾幕を張り巡らせているうちの一人は、ピンポイントにスナイパー・千葉の位置からの射線のみを防ぐ木の陰から攻撃を仕掛けていた。俺が敵二人をスポットしているように、敵も千葉をスポットしていたということだ。

 そこで千葉を倒すのは容易だっただろう。それをあえてやらずにトラップで仕留めたのは、追撃を恐れたから。もし安易に発砲をしてしまえば、“鬼”に居場所を知られてしまう。喰われてしまう。

 だからこそわざとからめ手で仕留めてきた。憎たらしいくらい冷静だ。

 

『さて、どうします?』

 

 そんな鬼、神崎から再度の問いかけ。どうするもこうするも、状況はさっきより悪くなっているのだ。叶うことならさっさと白旗を上げてしまいたい。

 まあ、そんなことするわけがないのだが。

 

「二対四。狙撃手は落ちて、残っているのは見つかったお化けと鬼だけ。奇策も秘策もできる状況じゃない」

 

 だったら――

 

「真っ向勝負?」

 

『そうなりますね』

 

 ヘッドホンユニットを震わせる笑いがしたのもつかの間、息遣いだけでも分かる研ぎ澄まされた空気に、思わず息を飲む。殺し屋というよりは戦士を思わせる雰囲気は、いつでも戦闘に入れると強く主張していた。

 それに薄く苦笑して、瞑目する。意識を聴覚に集中させる。

 ――無数の発砲音に紛れて、近づいてくる足音が二つ、いや三つか。

 弾幕と言っても、相手の使っている武器の装弾数は二十六発。相当気を使っているようだが、これだけ派手にバラまけばすぐに弾切れを起こしてしまう。相当数の弾丸は所持しているのだろうが、それでもこのまま睨み合いを続けていれば不利になるのは相手の方だ。

 だからこそ、千葉が落ちたこのタイミングで攻めてくる。短期決戦に戦場が切り替わる。

 だったら……その誘いに乗ってやるだけだ。

 両手に携えた二丁拳銃を握りしめ、タイミングを計る。木々で視界が阻まれる中、真に信じられるのは聴覚情報だ。弾幕が薄くなる時、自動小銃使いの片割れが弾切れを起こす瞬間を探る。

 ――――ッ、――――ッ。

 そして。

 ――――ッ、――っ。

 重なっていた二つの音の一つが不自然に途切れたとき――

 

「行くぞ」

 

『はいっ』

 

 最終決戦の火蓋が、切られたのだった。

 

 

 

 まあ、結果は負けたんですけどね。

 

「いやぁ、負けた負けた」

 

 表示されたリザルト画面を眺めながら大きく息を吐きだす。ゲーム中はずっと集中していたせいか、どっと疲れが押し寄せてきた。

 今日は日曜日。俺たちは天気のいい昼間っからそれぞれ自宅に引きこもり、先にベストプレイスで作戦会議を行っていたFPSの大会に参加していた。え、お前はだいたい休日は引きこもってるだろって? ジョギングには出かけてるからセーフ。

 

「皆さんお疲れ様です。三位、おめでとうございます!」

 

「負けた直後におめでとうは、ちょっと複雑な気分だな……。ま、ありがとな、律」

 

 PC画面に現れた律に、スカイプ越しからも笑いが漏れる。トーナメント形式のこの大会では三位決定戦が設けられていない。準決勝で負けた俺たちはもう一小隊と共に同列三位、となるわけだ。

 敵の数少ない隙を突いて飛び出したわけだが、もう一人の弾幕役と恐らく千葉を吹き飛ばしたであろうトラッパーが俺を狙っていたわけで、自動小銃の弾が右肩に当たって負傷。相手の腕と足を一本ずつ道連れにするのが精いっぱいだった。

 

『すみません。スナイパーには注意していたつもりだったんですが……』

 

『いや、注意していたからこそ、って感じじゃないか?』

 

 敵小隊の編成は自動小銃の前衛が二人、トラッパーが一人、スナイパーが一人の編成だった。一人残された神崎はこれをすべて同時に相手しなくてはいけなく、結果的に最も警戒していたはずのスナイパーによるヘッドショットで幕引きとなってしまったのだ。

 まあ、それでも二人キルをしている所はさすがだと思うが。有鬼子のあだ名は伊達ではないな。

 ……と、そこまで考えて、会話の人数が一人少ないことに気づく。スカイプのグループ画面には確かにもう一人のアカウントが表示されているのに、まるで反応がない。

 

「速水、落ちてんのか? マイク繋がってる?」

 

『……いるけど』

 

 あ、いたわ。しかし、もう一人の小隊メンバー、速水の声にはやけに覇気がない。普段から元暗殺教室メンバーの中では大人しい方だが、今はいつもの三割増しくらいで大人しくなっている感じだ。

 

『気にすんなよ速水。開幕落とされることもあるさ。E組でのサバゲーの時だってそうだったろ?』

 

 ああ、どうしたのかと思ったらそういうことか。まあ、速水は開幕早々落とされてしまったからなぁ。

 

『私があの時落ちなきゃ、は……が見つかることもなくて勝ってたのに……』

 

「あん? それは違うだろ」

 

 確かに、速水がやられた直後に俺が見つかった。……見つかったって俺のことでいいんだよね? 状況から考えて俺だろう、うん。

 まあ何はともあれ、あれは俺の立ち回りが悪かっただけだ。中途半端に反応して、普段の自分のプレイをしていなかっただけ。それは速水のせいではなく、単純に俺自身がポンコツかましてしまった、それだけ。

 

『相手の連携も上手かったですからね。野良のゲームじゃ四人であれだけの連携はなかなか見ませんし』

 

 究極的な敗因はそこだろう。四人小隊としての力量の差。俺たちもそこそこ小隊を組むほうだが、それでも相手チームの方が一枚上手だったと言える。

 それに、やはり音声通話による連携を相手取るというのはなかなかにきつい。前に二対十五の戦いをこなせたのは、いくらトップランカーとはいえ相手がレスポンスの遅いチャットで連携を取って――あるいはそれぞれが個別に動いて――攻めてきたからこそだったのだと思い知らされた。四人相手でこのザマだ。音声で完璧な連携を取ってくる十五人を相手にした日には、それこそ秒殺されるに違いない。

 

『練習あるのみだな。他の奴らとももっと小隊組みてえ』

 

「俺ら以外なぁ。けど、不破でさえたまにやる程度だろ? タイミングが合わないんだよなぁ』

 

 後思いつくのは赤羽とか……いや、浅野たちと競い合ってるあいつを誘うのは気が引けるか。

 

『渚は? 結構やってたと思うけど』

 

「え、マジで?」

 

 挙げられた名前に、思わず聞き返してしまう。俺の中では、あいつはとっくに引退したと思っていたのだが……。

 というのも潮田渚という少年、FPSがすこぶる下手なのだ。慣れとかそういうレベルではなく、マウスによる視点移動に首が同期するタイプのプレイヤーで、当然碌に画面を見ていない間にキルされる、ということを連発していた。渚……このゲームはVRではないんだ……。そもそもまだ某フルダイブゲーム機はその影すら見せていない。

 

「今はあの時ほどではないですよ。少なくともマウスの動きと首の同期はほとんど発生しなくなりました」

 

『ほとんど、ってことは、たまに同期するんだな……』

 

 まあ、そこはご愛敬というやつだろう。あいつも結構努力家タイプだからな。その粘り強さはどこか暗殺スタイルに似ている。

 それなら、明日学校であった時にでも誘おうか。そう思案していると、「でも……」と律が電子音声の海に溶け出してしまいそうな曖昧な声を漏らした。

 どうしたのかと顔を上げると、どこかおかしそうに苦笑する彼女の顔が目に入る。

 

「渚さんが遊ぶときは、茅野さんと小隊を組むときだけですから」

 

「よし、渚を誘うのはやめよう」

 

『『賛成』』

 

「そうですね」

 

 即決である。今まさにこの小隊は最高の連携を見せたと言っても過言ではない。……これが最高の連携とか過言であってほしい。

 しかしまあ、頑張ってるなぁ茅野。その努力が結実しそうかと言われると言葉を濁さざるを得ないのだが、こればかりは地道にいくしかないだろう。渚だし。

 

「他のプレイヤーをお探しでしたら、いつでも参加できてプレイスキルもある人材がいますよ。私なんですけど」

 

『『『「それはない」』』』

 

「ひどい!?」

 

 いや、まず間違いなく駄目だろ。一切ミスをしない上、一度用いた戦術を全部学習して対応してくるプレイヤーとか即効通報余裕である。なんなら小隊メンバーも巻き添えBANまである。俺のWA2000が電子の海に消えちゃうでしょ!

 まあ、律もジョークのつもりだったようで、他の奴らの笑い声に自分のそれを重ねている。後でなにかオフラインゲームで相手してやろう。カードゲームとかそこら辺で。

 

『あー、けど、やっぱ悔しいな』

 

『そうだね。せめて決勝まで行きたかった』

 

 ひとしきり笑い終えた千葉と速水が嘆息交じりに口にした言葉に、短く同意する。

 小さなミスも大きなミスもあった。相手との力量差もあった。敗北に納得はしている。……けど悔しい。あの時後半秒早く動けていれば、もう少し警戒していればあるいは――

 たらればなんて考えてもどうしようもない。分かっていても、やっぱり悔しい。

 

『けど、だから勝った時が嬉しいんじゃないですか』

 

「違いない」

 

 負けると悔しいから努力する。だからこそ、勝った時の嬉しさはひとしおになるのだ。思考停止で勝つだけのゲームなんてオフラインで十分。勝って負けて、勝つときもギリギリの駆け引きの中勝利をもぎ取るからこそ、対戦ってのはやめられない。

 

『じゃあ、今から次の大会で優勝できるように練習しようぜ』

 

「ま、そうだ――ッ!?」

 

 きっと前髪に隠れた双眸をキラキラと輝かせているであろう千葉の少し弾んだ声に苦笑しながら同意の声をかけてやろう――としたのだが、反射的に口をつぐんだ。

 突然、ひりつくような殺気を感じたのだ。

 なんだ? 何の変哲もない日曜の住宅街でこんな殺気を感じるわけがない。窓の外からは“いつも通り”視線こそ感じるが、殺気が伴うものではないのだ。

 

『気持ちはわかるけど千葉君、ちょっと待ってね』

 

 ではこの未だに消えない殺気はどこから……何事もなく会話に入ってきた神崎からして、通話相手たちは気づいていないようだが――

 

『今から人のことを鬼なんて言ってた人と、格闘ゲーム十本勝負をしなくちゃいけないから』

 

 殺気の出処お前じゃねえか!! どおりで千葉も速水も、おまけに律さえも黙ってたわけだよ。よくよく見たら律の奴、画面端で震えてるし。

 いやしかし、神崎のことを鬼なんて言って……言いましたね。そういえばゲーム中に状況確認したとき普通に言ってました。なんで普通に神崎と呼ばなかったのか。数分前の自分にヘッドショットをかましたい。

 どうしたものか。逃げ――たところで状況を悪くするだけだし、神崎相手に言いくるめなんて無理だろう。笑顔でさらっと流されて本筋に引き戻されるのがオチだ。

 と、言うわけで。

 

「とりあえず……決勝の試合観戦しない?」

 

 醜くも数分の引き延ばしを図るしか、俺には残されていなかった。

 

 

 その後行われた格ゲー十本勝負では、当然のように毎勝負十割の完全試合の的になった。なんなら九本目にポロッと「鬼」なんて口にしてしまったせいで、さらに十本試合数が増えたりもした。神崎怖い。下手に刺激しないように心に刻もう。

 翌日、憐れむような千葉と速水の視線が逆に痛かったのだが、それは別のお話だ。




 神崎さんはゲームやってる時と同じで、大和撫子な表情ですごい殺気放ちながら怒りそう(偏見
 個人的な四人のFPSスキルは神崎さん>八幡>千葉>速水の順番。プレイ時間の影響もありますが、速水は微妙にゲーム内での狙撃手の立ち回りに苦戦して、突撃兵と狙撃手の中間みたいなことやってそうなイメージがあります。現実だと高機動移動砲台ですし。
 律は実際対人ゲームやったらどうなるんですかね。千葉との将棋を見た感じ、某都市伝説ゲーマーのお兄ちゃんクラスのブラフ張れないと完敗しそう。その点、カードの引きに左右されるトレーディングカードバトルとかならなんとかなるのかなぁと思わないでもないです。

 そういえば、この間ようやくドラクエ11買いました。少しずつ進めてますが、PS4でのドラクエが初めてなのもあり、フィールドで動き回る魔物とか風景とか延々眺めてます。来月にはスイッチが届くので、初めてのイカにも挑戦できそう。出費が結構やばいんですけどね!

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

案外その一歩は――

 高校二年生が始まってもうすぐ一ヶ月が経とうとしている。元E組の面々とは昼休みなり放課後なりによくつるんでいる俺であるが、意外なことに――自分で言っててなんだが心外だ――教室でぼっち、というわけではなくなっていた。

 

「ヒキガヤくーん、今日の英語の宿題ってやった?」

 

 その理由がこのいかにもウェイ系なしゃべり方のクラスメイト、戸部である。名前を呼ぶときのイントネーションが若干おかしいが、そもそもこいつ最初の頃は『ヒキタニ』って呼んできたからな。中学時代の黒歴史を想起させられる呼び名に比べれば、格段の進歩である。

 話しかけられたきっかけはほんの些細なこと。休み時間読書、いつもどおり読書に興じていた俺にこいつが声をかけてきたのだ。ちょうどその時読んでいたのが話題の映画の原作だったので、興味を引かれたらしい。まあ、試しに貸してみたら五分で飽きて手元に戻ってきたけど。文字を読め文字を。

 そんなこんなで、たまにこうして声をかけてくるようになったのだ。

 

「ん、もうやったけど」

 

 先週出された英語の課題。それの提出期限が今日なのだ。読んでいた本から目を離して教室を見渡してみると、ちらほら必死にプリントを解いている姿が目に付いた。なぜ人間は面倒事をギリギリまで引き延ばした上、土壇場でひーこら言いながら悪あがきをするのか。人類最大の謎である。

 まあ、俺は元々課題には早めに取り組む性分であるし、そうでなくてもあの教室の影響で勉強癖に磨きがかかっているのも問題なく終わらせているわけだが。

 そして目の前のカチューシャで茶髪の前髪を擬似オールバックにしている少年は、いかにも俺側の人間ではないわけで。

 

「さっすがヒキガヤくんだわー。ぱないわー。マジリスペクトっしょ!」

 

 もうその全力のヨイショで次の言葉が分かる。たぶんカマクラでも予知できる。どうせやっていないから見せてほしいのだろう。

 だが戸部よ。非常に申し訳ないが、お前の期待には応えられそうにない。

 

「いや、俺一昨日提出したから」

 

「えええ!? 早すぎだべそれ!?」

 

 リアクションが大きすぎる。前原でもこんな些細なことでそこまで大仰な反応はしないぞ。

 確かに提出期限は今日。しかし、別に「今日の授業で回収する」とは言われていないのだ。パッと見ただけで割と面倒な課題だったから、週末にさっさと終わらせてしまった。

 

「べー、俺昨日まで忘れてたべ。なんか去年の終わりぐらいから課題めっちゃ難しくなったし」

 

「そ、そうなのか。俺は去年いなかったからなぁ……」

 

 ごめん戸部。たぶん課題の難易度が上がったの、俺のせいだわ。

 二学期期末試験の問題を見た理事長と殺せんせーが「問題の質」云々などと話していたわけだが、どうやらあの元理事長、本当に総武にテコ入れをしていたらしい。テストの問題はともかく課題などに関しては俺が比較することはできないが、どうやらかなりレベルアップしているようだ。

 まあ、確かに三学期の定期試験はかなり応用問題多めだったからな。その事前学習たる課題の難易度も上がるのは当然か。

 

「つうか、俺じゃなくて葉山に見せてもらえばいいじゃねえか」

 

 戸部がよくつるんでいる葉山――確か部活が同じとか言っていた――は『優等生』を絵に描いたような人間だ。勉強も運動もそつなくこなし、その上社交性まである。文字に起こすとなんだこの完璧人間。

 まあ何はともあれ、そんな優等生たる葉山が課題を疎かにしているはずがない。俺よりもあいつに頼るのが普通であろう。

 

「いやぁ、それがさー」

 

「俺も昨日提出したんだよ」

 

 声がしたほうに顔を向けると、教室の窓側後方にある彼らグループの定位置から件の葉山が近寄ってくるところだった。その顔には苦笑が浮かんでいる。

 あるいは同情の表情だろうか。同じ戸部に課題を写させてくれと頼まれた人間への。

 

「まあ、早めに提出するよな」

 

「当日になって家に忘れるのが一番怖いからな」

 

 そう、それが一番怖い。ちゃんとやっているのに提出は早くて次の日以降になってしまうから、「実は帰ってから慌ててやっただろ」とか言われても反論できないのだ。……う、中学の頃の黒歴史が……。

 まあ何はともあれ、俺たちから戸部が課題を借りることは不可能、ということである。

 

「っべー、二人とも真面目だべ」

 

「戸部は早く課題やれよ。少なくとも白紙よりかは怒られ方もマシだろ?」

 

 葉山に促されると戸部はべーべーぼやきながら自分の席に戻っていく。つうか白紙なのか、戸部よ。思い出したの昨日って言ってたよね?

 鞄から課題のプリントを取り出して唸りながら課題に取り組み始めたのを確認し、視線を手元にあった本に戻す。途中で葉山の顔が視界を掠めたが、呆れたような顔をしていてちょっと笑ってしまった。まあ、課題とは自力で解いて自分の力にするべきものであるので、その表情も致し方ない。是非もなしである。

 

「あれ、比企谷。もう前の本読み終わったのか?」

 

 のんびりと三行ほど読み進めていると、そんな問いかけが降ってきた。書店で付けてもらったカバーが昨日と違うからだろう。

 

「スラスラ読めたからな。……続きはたぶん買わないけど」

 

「お気に召さなかったのか。前に読んだけど、俺は結構好きだったなぁ」

 

「まあ、全員幸せになって大団円、なのは別にいいんだけど、後半妙にご都合展開な感じがしてな。いや、無理やり過ぎたかって言われるとそこまで極端ではないんだが……うーん」

 

 感想をまとめようとしたが、どうもうまくまとめられない。感情としては「気に入らない展開だった」なのだが、その理由を説明してみようとするとなぜ気に入らなかったのか自分で分からなくなるのだ。しかし気に入らなかったのは紛れもない事実で、覆ることがない。もやもやするという結果だけが蓄積されていく。

 

「……とかく人の心は難しい」

 

「……肌に合わなかったってことはよく伝わった」

 

 眉尻を下げて曖昧な笑みを浮かべてくる葉山に内心謝る。ごめんね、八幡ちょっとめんどくさい人間ってのは自覚してるから。

 

「で、今は何読んでるんだ?」

 

「これか? 経済書」

 

「ほんと、ジャンル問わず読むなぁ」

 

「元から割と雑食だったけど、こういうのまで読むようになったのは去年からだな」

 

 ――唯一の善は知識であり、唯一の悪は無知であることである。

 ソクラテスの言葉をあの先生が用いたのはいつのことであったか。知識の重要性は世界中の格言、ことわざで語られているものであると言われ、それまで見向きもしなかった実用書の棚に足を運んだのはいい思い出だ。

 実際、暗殺の経験だって日常生活に役立つことがあるのだ。将来、経済に関わる仕事をすることはないだろうが、きっとどこかでこの本の知識も役にやってくれることだろう。

 その後も、ノロいペースで本を読み進めながら葉山とぽつりぽつりと会話を続ける。こいつは話を膨らませるのがうまいので、気まずい沈黙が起こることはない。俺もそんなスキルがあればなぁ。ビッチ先生の特別講義を矢田たちと受けるべきだったか。けどなぁ、絶対特別講義でも無差別キスしてただろうからなぁ。

 

「つうか、向こう行かなくていいのか?」

 

 別に俺は構わないのだが、クラストップカーストの主が俺のようなぼっちのところにいていいのか。そんな念を込めて尋ねてみれば、葉山は何も言わずに視線だけをグループの定位置に向けた。

 

「? ……ああ、なるほど」

 

 釣られて見てみれば、さっきは戸部しか見ていなかったから気が付かなかったが、戸部以外の面々も軒並み課題攻略中のようだ。大和と大岡――二人の苗字は会話で聞いたのだが、どっちがどっちかまでは知らない――は戸部と同じように自分の席に齧りついてプリントとにらめっこをしているし、女性陣は一塊になってあーでもないこーでもないと唸りあっている。よくよく観察してみると海老名さん、だったか。眼鏡の女子だけは課題を終わらせているようで、たまにアドバイスをしているようだ。

 まあ、あそこに葉山が行けば友人たちが集団になって教えて見せてと群がってくるのは目に見えているか。実際戸部はそれを実行したわけであるし。

 

「けど、それでなんで俺のところに来るんだよ」

 

 ただ、そこが一つ疑問であった。あそこに居づらいのは事実であろうが、こいつの交友関係は把握している限りでもアホみたいに広い。わざわざ俺なんかをチョイスせずとも、いくらでも話し相手には困らないはずなのだが。

 

「なんでって、俺が比企谷と話したいからに決まってるだろ?」

 

「――――」

 

 想定していなかった返答に、一瞬息が詰まった。幸い目の前の少年にその不審な動作は気取られなかったようだが、おかしなことを聞かれたと言いたげに肩をすくめられた。

 

「比企谷と話してみたいって奴は結構いるぞ。戸塚とか、去年は一応同じクラスだったみたいだし」

 

「戸塚?」

 

 視線で促された先では、学校指定のものとは違うジャージに身を包んだ生徒が隣の席の女子と談笑していた。あの後ろ姿には見覚えがある。いつも昼休みに一人で自主練に励んでいるテニス部員だ。いつも遠目に見る程度だったから分からなかったが、女子だったのか。

 そして書類上は俺の去年のクラスメイト。いや、去年誰が同じクラスだったのか欠片も覚えていないけど。

 

「結構有名だったんだぞ? テストの時だけひょっこり現れる猫背男子」

 

「猫背男子……」

 

 いやまあ、義務教育でもない高校でテストの時だけ学校に来る奴とか異常だよね。けど猫背男子って……俺、そんなに猫背酷いのかな……。

 内心密かにショックを受けていると、不意に戸塚と目が合った。

 

「…………」

 

 なんか小さく手を振られた。なんですかその仕草、可愛いんですけど。

 

「気になるなら話しかけてみたらどうだ?」

 

「えぇ……やだよ怖い」

 

 コミュ障だから、入学早々ぼっちスタートだったのだ。話しかけるのが怖いから、今も碌に友達がいないのだ。それをなんとも気軽に言ってくれる。お前や戸部と話すのだって、未だに少し緊張するというのに。

 しかし、そうか。なんだかんだ有名だったのか、俺。

 ということは――

 

「お前が話しかけてきたのも、その猫背男子がどんな奴か気になってってことか」

 

 去年一年間で比企谷八幡に付与された特異性。そこに興味を持ったからこそ、声をかけてきた。考えてみればそうだよな。そんな理由でもない限り、クラスの中心であるこいつが俺なんかに関わろうとするはずもない。

 

「うーん……そういう理由もなくはなかったけど……」

 

 俺のどこか嘆息混じりの問いかけを、口元に手を当てたクラスの実質的リーダーは断片的に肯定してくる。つまり、逆説的に断片的に否定してきたわけだ。

 けど、の後に何が続くのか気になって、本を閉じて葉山を見据えた。けどもなにも、それしか理由がないだろうと思ったからだ。別に俺の成績がバレているわけでもないし、他に興味を持つ要素が存在しない。

 

「せっかく一緒のクラスになったんだから、仲良くなりたいって思うのは当然じゃないか?」

 

「…………」

 

 しかし、言葉を切ってしばらく黙っていた葉山は、人の良さそうな笑みを浮かべてそんなことを言ってくるもんで、即座に言葉を返すことができなかった。

 仲良くなってみたいからなんて、そんなことを言ってきたのは、あいつらだけだったから。

 ――はちにいは深く考えすぎなんだよ。

 いつだったか、昼休みの指定席で茅野に言われた言葉を思い出す。そうなのだろうか。現実は、もっと単純なのだろうか。

 分からない。考えれば考えるほど分からなくなる。

 

「…………お前さ、お節介ってよく言われない?」

 

 その結果出てきた言葉がこれなのは、自分でもどうかと思う。ほんま八幡コミュ障。

 

「それは……一回だけ言われた、かな」

 

 あ、あるんだ。しかもめっちゃ暗い顔された。ごめんね。不用意に人の黒歴史掘り返しちゃって。いやほんとごめん。

 

「隼人くーん、ヒキガヤくーん。やっぱこれ分かんないべぇ……」

 

 謝ったり気にしてないと苦笑されたりしていると、後ろの席から戸部の情けない声が飛んできた。両手を上げてお手上げのポーズを取っているお調子者の姿を見て、どちらからともなくため息を漏らす。

 

「はあ、今回だけだぞ」

 

「……俺も手伝う。まあ、アドバイスする程度だけど」

 

「それが戸部のためだな。どうせ完璧には終わらないだろうし」

 

 もう一度二人して盛大なため息を吐き、白旗を上げている戸部の元へ向かう。正直、丸写しでもしない限り英語の授業までに終わることはない量だ。担当教師には怒られるだろうが、戸部はそれを教訓に次回からちゃんと課題をやってもらうということで。

 

「俺の葛藤って、存外ちっぽけなものだったんだなぁ……」

 

 誰にも聞こえないように、ひっそりと胸の内を舌の上で転がしてみる。

 去年出遅れてぼっちから不登校になり、二年になった今更、同学年の人間と交流なんてマッハ二十の超生物を暗殺するより難しいこと、そう考えていた。だから最初の一歩が怖くて怖くて仕方なかった。

 けれど、蓋を開けてみれば、気が付かないうちにその一歩を踏み出していた。あれだけ無理だと思っていたことが、少しずつ当たり前になっていく。

 そんな事実に、これまでの俺って……なんて呆れてしまうわけですよ。

 

「……そうだな」

 

「ん? 何か言ったか?」

 

「や、なんでもない。最低でも大問一くらいは終わらせろよ、戸部」

 

「っべー、スパルタだべ……」

 

 俺の心を読んだようにポケットで震えたスマホに思わず反応してしまう。内心の狼狽を悟られないように戸部にターゲットをシフトして、指先でスマホを小突いてみた。なにやら嬉しそうな振動が返ってきて、また危うく反応してしまいそうになってしまう。

 あまりにも容易な一歩。けど、きっと去年ここを逃げ出した俺には絶対踏み出せない一歩だったはずだ。

 あの教室で手入れをされたから、おのれを磨いたからこそ容易になった一歩。小さいけれど、確かな一歩。

 新しい一歩を踏み出すたびに、俺はあの頃の俺と変わっていく。成長していく。

 それがたまらなく嬉しいのだと、今度あの裏山の旧校舎に行った時にぼやいてみよう。そう、思ったのだ。




 お久しぶりです。今回は教室でのワンシーンをパシャリ。
 なんだかんだF組での交流は戸部がキーになるなって思いながら書いてました。興味あることやってたら絶対十年来の友人にそうするように話しかけてきそう。いいぞ戸部、お前のそういうとこ好き。

 とりあえず仕事とか私生活とか、その他諸々とか、いろいろひと段落したので執筆ペースを上げていきたいなと思いつつ、年末は忙しいんですよね。ひょっとしたらこれが今年最後の投稿になるかもしれません。
 まあ毎度言っていることですが、エタるつもりは毛頭ないので、各シリーズ、および短編なんかものんびり待っていてもらえると幸いです。他にも面白いSSいっぱいあるしね!

■お知らせ■
 今更ですが、冬コミもサークル参加しています。と言っても、今回は「やせん」名義で私のFGO個人本があるだけですが。
 詳しい報告はまた活動報告でさせてもらいます。よかったら来てね! 私は仕事で行けないですけど!

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

ならばもう一度期待しても。

「はっちゃーん! 帰ろー!」

 

 それはホームルーム終了直後の教室に、場違いなほど異質に響いた。

 いや、正しくそれは場違いだったであろう。なにせ、本来この教室で聞くことはない声なのだから。

 当然、まだ帰り支度や雑談に興じていたクラスメイト達の視線が集中する。当の本人が全く意に介していないの、素直にすごいと思います。俺だったら音より早く消えるまである。そもそも俺があんな元気な声出すわけないですね。

 

「……どうしたんだよ、倉橋」

 

 ゆるふわウェーブの髪を揺らす倉橋は堂々と教室を横断し、俺の席までやってくる。上級生の教室で物怖じしない度胸は暗殺で身に付いたものか、はたまた元からの気質なのか。たぶん後者だろうな。俺が“転校”してきたときもこんな感じだったし。

 

「えへへ……来ちゃった」

 

「ヤンデレかよ怖い」

 

 ネタ提供元は竹林で間違いなかろう。どうもあいつは去年の中旬あたりから倉橋に様々なネタを提供して遊んでいるようだ。一般的にマイナーな所謂オタクネタが多いせいで、彼の期待通りの反応をするのが俺と不破くらいしかいないのが残念なところであるが。いや、別に残念ではないな。

 

「ごめんね比企谷君。陽菜ちゃんが今日は比企谷くんと帰るんだって意気込んじゃって」

 

 後から幾分申し訳なさそうに入ってきた矢田の弁に納得する。倉橋はどことなく“茅野カエデ”と似ているところがあり、一度決めたら脇目もふらず突っ走るところがある。それが所謂女子校生らしいのかは俺には分からないが、俺も幾度となくその行動力に巻き込まれてきた。

 まあ、そのアクティブさは素直に尊敬しているところだし、妹分が楽しんでいるのなら気にすることでもあるまい。

 ただ、今はそのせいでちょっと辛いのだが。具体的にはクラスの視線が俺にまで向いてきて辛い。ぼっちに視線を集めるとは……おのれ倉橋め。

 で、これだけ目立っていればあいつが声をかけて来ないはずもなく――

 

「っべー、ヒキガヤくんの知り合いだべ?」

 

 戸部が興味あり気に近づいてきた。というか、ご丁寧にグループ全員ついてきていた。ちょっと! 戸部や葉山だけならともかく、碌に親しくない人が集まってくると結構困るんだけど!

 なーんて口が裂けても言えるはずもなく、黙して頷くことしかできないのがコミュ障の辛いところよ。なんなら視線を適当に逸らすオプション付き。

 そこでふと、視界の端に違和感を覚えた。一度逸らした方向、葉山グループの面々に顔を向けると、ほぼ全員が倉橋と矢田を見ている中で一人だけ、視線をどこに飛ばすでもなく泳がせている奴がいる。

 光の反射の関係か、ピンク寄りに染まっている茶髪を片側でお団子に結っている女子生徒。名前は確か……由比ヶ浜、だったろうか。クラスでは葉山の次に発言力があるであろう三浦がよく口にしているから、たぶん合っているはずだ。

 まあ、俺自身は全く話したことがないのだが……その泳ぐ目の動きがどうも気になった。

 まるで、視線を避けているように見える動きが。

 

「あー、どうかしたのか? えっと……由比ヶ浜、だっけ」

 

 葉山達の集団に所属している彼女が俺のように「視線が怖い」なんて思っているとは考えられない。だからこそ、その動きは気になったのだ。

 

「え!? い、いやなんでもないし! あ、優美子! あたしちょっと用事あるから先行くね!」

 

「え! ちょっと結衣!?」

 

 故に、思わず声をかけてしまったのだが……当の本人は露骨に肩をビクつかせて跳び上がらんばかりに驚いたかと思うと、バタバタと荷物をひっつかんで出て行ってしまった。あまりに突然の行動に、その場の全員が固まってしまう。

 状況がまるで分からないが、どうやら俺は地雷を踏み抜いてしまったらしい。いや、その地雷が何なのかすら分からなかったのだが。やっぱりあれかな……。

 

「話したことないのに突然声かけたから、キモがられたかな……」

 

「や、さすがに悲観的すぎでしょ。結衣そんな子じゃないし」

 

 三浦に慰められてしまった。いや、分からんぞ。中三の時に俺の近くで話してた女子の会話に入ろうとしたらめっちゃ引かれたことあるし……あるし……なんで思い出したのそんなこと……。

 

「まあ、本当になんか用事があったんじゃない? 最近よく放課後とか昼休みいなくなるし」

 

「ほーん」

 

 まあ、必ずしも所属しているグループが一つということはないだろう。そもそも新しいクラスになってまだ一月弱。前の学年での繋がりもあるだろうし、そこら辺との用事と考えるのが無難か。見るからに友達多そうだしな、あいつ。

 まあ、俺のせいで機嫌を損ねたのでないなら一安心、ということにしておこうか。

 

「なんでもいいけど、一緒に帰れないなら先に一言言ってほしいし……」

 

 代わりに由比ヶ浜のフォローをした三浦が若干不機嫌になってしまったが。なんで自爆してるのこの子。や、気持ちは分からんでもないが。

 まあいいや。慰めるのは葉山とか海老名さんあたりに任せよう。そう考えて倉橋達に視線を戻すと――なぜか二人して口に両手を当てていた。なに? 二人して年収が低かったの? 俺らまだ学生なんだけど。

 

「はっちゃん……」

 

「おう」

 

「クラスにちゃんと、友達いたんだね……」

 

「いや、さすがにそんなことで涙ぐまれても困るんだけど……」

 

 お前らにとって俺のイメージって……いや、そりゃあこいつら家に連れて行っただけで妹が涙流したけどさ、流したけどさ! 確かにコミュ障だけどさ!

 というか、友達……なのか? ため息を漏らしながら、内心考えてみる。

 クラスメイトではある。戸部や葉山は知り合いと言ってもいいだろう。

 しかし友達か、と聞かれると……自信がない。結局あの一年を通してE組に対しては仲間とか妹分弟分の印象で通していたことも相まって、友達の定義というものはとんと分からないのだ。

 

「そりゃあ、ヒキガヤくんはもうマブダチだべ!」

 

「勉強教えてくれるからか?」

 

「隼人くーん、それはひどすぎだべー!」

 

 だから、当の本人たちがそれを否定しなかったことに、嬉しさより困惑が先に出てしまったのは仕方がないことかもしれない。

 幸い、倉橋と話す彼らには見られなかったようだが。

 

「比企谷君は難しく考えすぎなんだよ」

 

「……そんなもんかね」

 

 周りに聞こえない声で話しかけてきた矢田に短く返す。たぶんその声色には疑心が混じっていただろう。

 小学校や中学校で友達だと思っていた連中は、その尽くが俺に牙を剥いた。いや、きっと自業自得な部分もあったであろうし、俺が勝手に勘違いして勝手に失望しただけなのだろうが、少なくともあそこに友達はいなかった。

 だから、あの教室での一年を通しても、この部分だけは変わらなかった。変えられなかった。自分の中の定義なんて、曖昧すぎて変えようがなかった。怖くて変えたくなかった。

 まったく、自分でも面倒な性格をしていると思うよ。今の自分の性格は好きだが、こういうところは少し嫌いだ。

 まあただ、せっかく踏み出した一歩。

 あるいはこいつらは、なんてまた性懲りもなく勝手に期待してしまうのは、仕方のないことかもしれない。

 

「そういえば、結局二人とヒキガヤくんはどういう関係なん?」

 

「妹!」

 

「おいこら倉橋! 誤解生むような発言はすんな!」

 

 せめて“分”をつけろ“分”を!

 

 

     ***

 

 

「……疲れた」

 

 盛大にため息を漏らすと、隣で矢田が乾いた笑いを漏らしてきた。なぜ元凶でないこいつの方が申し訳なさそうにしているのか。これが分からない。

 あの後当然のように戸部たちの質問攻めにあった。やれ妹とはどういうことかだのいつ知り合ったのかだの、ところでハヤトベをどう思うだの……ちょっと待て、最後の明らかに関係ないだろ。誰だよそんな質問したの。

 まあ幸いなことに一番騒いでいた戸部が部活に遅れると葉山に連れられて出て行ったので、思いのほか早く解放されたのだが。あいつらの部活がなかったら、そのまま夕方になっていたかもしれない。

 

「あんまり俺で遊ぶのはやめてもらえませんかね、倉橋さん」

 

「えへへー、ごめんなさーい」

 

 はーこの全く反省していない顔よ。許すけど。相変わらず甘いなと自分でも思うが、こればっかりは性分としか言いようがない。

 

「つうか、ほんとなんで突然一緒に帰ろうなんて言い出したんだ?」

 

 この一ヶ月、時間が合えば元E組の誰かしらと帰ることも何度かあった。今更理由がなくちゃ一緒に帰ってはいけない間柄だとは思っていない。

 ただ、今回は何かしら理由があるような気がしてならなかったのだ。そういう雰囲気を、二人は醸し出していた。

 はてさて、鬼が出るか蛇が出るか。

 

「ふっふーん! 二駅隣に美味しそうなクレープ屋さん発見したから、皆で食べに行こうと思って!」

 

「ちょっとそういうことはもっと早く言ってくれない?」

 

 出てきたのはスイーツでした。詰まるところ、買い食いのお誘い。

 元から甘党を自負してはいたが、E組にはやたら甘い物に詳しい奴とかやたらそういうのをうまく作る奴とかがいたせいか、この一年でまた甘党レベルが上がってしまった。もう身体が砂糖でできそうなレベル。運動してるからむしろいい養分です。たぶん。

 

「そういうことなら、茅野も誘えばよかったな」

 

 つい、もう一人の甘党娘を思い浮かべてしまう。殺せんせーの触手を植え付けた人間は、その趣味嗜好が変容する。完全にトレースしたような堀部の趣味や、茅野自身の異常なまでの巨乳への怨嗟がいい例だ。いや、茅野の巨乳嫌いはたぶん元からだと思うが、そこに触手が拍車をかけたであろうことは間違いないだろう。

 しかし、しかしだ。こと甘いもの好きという点に関してはあの元演技派子役、どうも素であるらしい。もはや元E組でマッカンを常用しているのは俺とあいつだけだし、たまに聞く渚とのお出かけ――残念ながらデートではない――でも、かなり高確率でスイーツに手を出している。

 

「あー、カエデちゃんははっちゃんの教室行く前に誘ったんだけど、先生に用事があるって言ってたんだよね。授業内容で聞きたいことがあるって」

 

「カエデちゃん勉強熱心だからなぁ」

 

 ぽしょりと矢田が漏らした言葉に、倉橋と並んで同意する。

 それは俺たちが知らなかった一面、いや“茅野カエデ”の頃から勉強に力は入れていたと思うが、あそこまで真面目な姿はきっと“雪村あかり”本来の持ち味なのだろう。

 考えてみればあたり前だ。どんな役でもこなす演技派子役。その下地に、想像もつかないような学びに対する努力があることは疑いようがないのだから。

 

「まあ、思いのほか教室で時間食ったし。案外今帰ってる最中だったりして……」

 

「皆さん! 大変です!」

 

「「「っ!?」」」

 

 つい今しがたまでだいぶ緩かった空気が、一瞬で固形化したように固まった。ポケットから聞こえてきた律の声に三人して驚き、しかし即座に臨戦態勢を取ったのだ。

 暗殺教室は終わった。けれどあれからまだたった一ヶ月だ。一年間鍛え上げた殺し屋のスキルが自然と引き出される。呼吸は浅くなり、周囲に意識をばらまいて索敵する。

 即席とはいえ俺たちの気配察知能力は十分実践級だ。そして三人がかりの索敵網に引っかかる怪しい気配はない。本職の人間ならすり抜けも可能だろうが、普通の学生に戻った俺たちを狙うとは思えないから却下。

 となると、わざわざ律が声をあげた理由は――

 

「茅野さんが……」

 

「っ、場所は」

 

 荒くポケットからスマホを取り出すと、茅野のスマホからGPS信号を拾っているのだろう。開かれた地図アプリには二つのアイコンが表示されていた。片方が俺の現在位置だから……割と近い。

 

「三点から取り囲むようにしよう。倉橋と矢田は律の指示で動いてくれ」

 

「「分かった!」」

 

 指示もそこそこに気配を消し、民家の塀に飛び乗る。大体のルートを確認して一つ大きく息を吐き――その身を躍らせた。

 フリーランニング。これをまた街中で使うことになるとは思っていなかった。道路を突っ切り、屋根を駆け抜け、最短ルートを突き進む。

 

「……いた」

 

 音を立てないように屋根瓦に足をかけ、口の中で言葉を転がす。眼下には見覚えのあるウェーブがかった黒髪の少女、茅野に……一人の男が言いよっているのが見えた。

 ナンパ……ではないだろう。いくらかよれたスーツ姿はとてもではないがそういうことに向かないだろうし、そもそも顔立ちからして四十前後といったところ。ただ、やけにしつこく声をかけている。

 少なくとも暗殺者ではない。立ち振る舞いからして違う。

 では一体……。

 

『どうやら、フリーのジャーナリストのようです』

 

『マジかよ。緘口令は解けてないはずだろ』

 

 声を上げれば聞こえてしまう距離。文章で対話しながら小さく舌打ちしてしまう。

 磨瀬榛名突撃取材、という可能性も考えてみたが、すぐに否定する。それならば茅野もあそこまで露骨に嫌な顔はしないだろう。あいつは演技の場に負の感情を抱いていないのだから、あの表情の説明が付かない。

 となれば、暗殺教室に関する取材と考えるのが無難というもの。身体が小さいのも相まって狙いやすい茅野が、一人で帰宅するところを狙っていたのか。

 

「……どうすっかな」

 

 渚がいればクラップスタナーで……いや駄目だ。どんな形であれ怪我でもさせようものなら何を書かれるか分かったものではない。

 だったら俺の殺気で意識を逸らして、茅野が逃げる隙を作る? それでも「やましいことがあったから逃げ出した」なんて書かれるかもしれない。

 なんとか茅野が関係しない事柄でジャーナリストが逃げる状況を作る……しかないのだが、妙案が思いつかない。そもそも縛りがきつすぎる。

 

『はっちゃん! 私にいい考えがあるよ!』

 

 どうしたものかと頭を捻っていると、自信ありげな文章が送られてきた。名前を確認するまでもなく倉橋からだ。

 促されるままにスマホ、正確にはスマホのスピーカーを未だに茅野にしつこく絡んでいる不届き者に向ける。

 そして、一体どうするのかと首を捻っている俺をよそに――それは始まった。

 

『わ、ちょっと何あれ。なんかおっさんが女の子に詰め寄ってるんだけど』

 

『うわ、ほんとだ。やばくない? 女の子泣きそうじゃん』

 

『こんなところでナンパぁ? いい年したおっさんが女子校生相手とかやばくね?』

 

『これ事案っしょ。警察に通報しようぜ!』

 

『だな』

 

『それな』

 

「な、なんだ?」

 

 突然ジャーナリストの周りに広がる聴衆の声。明らかに自分たちのことについて話している上、“通報”なんて単語まで聞こえて、男は露骨に混乱しだす。

 焦燥にかられた顔で周囲を見渡すが、その双眸が声の主たちを見つけることはない。

 当然だろう。なぜなら、今もジャーナリストに向けて投げられている声たちは、俺たちのスマートフォンから発せられているものなのだから。

 律による音声合成――どうやら葉山達クラスメイトの声色を参考にしているようだ――とバイノーラル技術による音源隠ぺい。科学技術の粋を集めたこの陽動は、プロの殺し屋でも看破することは難しいに違いない。

 不特定多数の人間から不審者だと思われているこの現状。切羽詰まっての特攻ならともかく、保身の考えを持つ人間なら取る選択肢は一つしかない。

 

「くっ……!」

 

 一本道なのになぜこれだけの集団の声が、と考える余裕もなかったのか、つー、と汗を滴らせた男は脇目もふらず走り去っていった。もう少し冷静だったら電柱の影に隠れていた矢田に気づいたかもしれないが、まああの状況では無理な話か。

 

「大丈夫、カエデちゃん!」

 

「倉橋さん……矢田さんにはちにいも。そっか、さっきの声は皆が」

 

 男が完全に見えなくなったのを確認して、茅野に駆け寄る。見た感じ少し疲れているようだが、怪我をしている様子もなく、思わず安堵の息が漏れた。

 

「俺たちがたまたま近くにいたのは不幸中の幸いだったな。まさか緘口令を無視して接触してくるマスコミがいるとは」

 

 緘口令によって椚ヶ丘の卒業式を境にメディアはゴシップ雑誌も含めて暗殺教室については一切の報道を禁止されているし、唯一卒業式後に報道された報酬の大半を国に返還した件で、世間的にも俺らの敵ばかりというわけでもない。下手に突いて世間からの当たりを強くするマスコミはそういないと思っていたが。

 

「まさかこんなことしてくるなんてね。さっきの追い払い方も、そう何回も使えるものじゃないし……」

 

 最低限こちらに不利になるようなことを書かれない状況には持って行けたが、矢田の言う通り放っておけば今後もめげずに特攻を仕掛けてくるのは明らか。何か対策を講じなければ、最終的にこちらが何かボロを出して面倒なことになりかねない。

 あの記者をこのまま野放しにするのは危険、か。

 

「律」

 

「既に烏間先生に事の次第、今回の画像を送信済みです!」

 

 早いよ。まだ名前しか呼んでないよ。このAI娘、いつのまに読心術なんて習得したんですかね。まあ、こっちの手間が省けるからいいけど。

 いずれにしても、後は烏間さん含め国の方が交渉なりなんなりしてくれるだろう。化物理事長ならともかく、多少弁の立つ一般人にあの人が後れを取るとは思えないし。

 

「あ、そうだカエデちゃん。今からクレープ食べに行こうよ!」

 

「え! 行く行く! 甘いもので気分転換だ!」

 

 ならば後のことは全部任せて、当初の予定通り甘味を楽しむとしようか。災い転じて福をなすとはよく言ったもの。うちの甘党妹も合流したことだし、予定以上に楽しい茶会となりそうだ。

 

「八幡さん! やっぱり私にも味覚エンジンが欲しいんですけど!」

 

「……自分で設計して堀部あたりに作ってもらえば? 俺のスマホにつけるのは却下だけど」

 

「私もスマホが重くなるのは勘弁かなぁ」

 

「私も……」

 

「同じく……」

 

「皆さん酷いです!!」

 

 まあ、一人仲間はずれがいるのだけれど、それはいつものご愛敬ということで。




 またクラスでの一幕とビッチ先生弟子コンビとの帰宅風景でした。全然帰宅してないけど。
 まあ、これは次回への導入みたいなもんなので許して!

 早いものでもう年が明けてしまいました。去年はあまり投稿できなかったので、今年はもうちょっと投稿ペース上げたいですね。的なことを毎回投稿するたびに思っているんですが、なかなか難しい現状。まあ、目標を作るのは大事だから、次の作品(これとは限らない)も頑張ります。

■お知らせ■
 冬コミのFGOフランちゃん本の委託予約が始まりました。詳細は活動報告でさせてもらいます。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

例え叶わないと分かっていても。

 今日も今日とて学生の本分たる勉学に精を出し切り、時は既に放課後である。

 いやもうほんと頑張った。今日はこれ以上何もできないくらい頑張った。故に帰宅部の俺はクールに、かつ神速の勢いで帰るのである。

 

「そう思っていた時期が俺にもありました」

 

「? 何か言ったかね?」

 

「いえ何も」

 

 隣に座る平塚先生に力なく首を振り、手元の作業に集中する。

 そう、HR早々最速帰宅をかまそうとした俺は、同じく早々入口前に待ち構えていた平塚先生に捕まってしまい、雑用を言い渡されたのだ。

 とはいえ、本人曰く強制ではない。実際断れば大人しく引き下がったと思う。たぶん。そもそも学校の手伝いなど面倒なことこの上ないのだ。

 故に最初は断ってしまおうと思っていたのだが――

 

『まあしかし、やはり私はまだ君のことをよく知らん。今後も何かと絡んでいくつもりだから覚悟したまえ』

 

 月の頭に言われたことを思い出し、首を縦に振ったのだった。

 そしていざ職員室隣の生徒指導室に入ってみれば、待っていたのは職場見学アンケートの集計なるもの。A4用紙に書かれた希望業種、施設をカウントしてリスト化するというなんとも地味なお仕事だった。あれだよね。教師ってなんだかんだ地味な仕事多いよね。暗黙の了解で時間外労働も多そうだし。

 まあ何はともあれ職場見学である。総武高校では毎年一学期中間試験後にこのイベントが発生するらしい。対象学年は二年。つまり俺の学年だ。

 夏休み明けにある文理のコース選択。そのさらに先にある進路に向けて意識を持たせるためのものだとか。

 

「ま、その有効性は疑わしいものだがね」

 

「はは、どう考えてもプチ遠足ですしね、これ」

 

 最終的に大抵の人間が行きつく「就職」に目を向けさせたいなら、少なくとも見学ではなく体験学習をさせるべきではないだろうか。一週間くらい。最終的に何人かは「働いたら負け」「やっぱ俺ユーチューバーになるわ」とか言い出しそうだな。去年の俺なら間違いなく言ってた。もちろんユーチューバーにはならんけど。

 

「もしくは興味のある業種について調べさせてレポートとか」

 

「それなぁ、想像以上に生徒のモチベーションが上がらないんだよなぁ」

 

 そうなのか。まあ、強制されるというのが嫌なのだろう。

 で、生徒のモチベーション、スケジュール、学校側の都合諸々が合わさった結果が職場見学という中途半端なイベントなわけか。まあ、公立校だし、こんなもんだろう。そういえば椚ヶ丘はこの手の行事は何をやっているのだろうか。……合同説明会みたいなの開催してたらさすがに笑う。引きつったものになりそうだけど、笑う。

 

「県下有数の進学校、なんていえば聞こえはいいが、逆に考えると将来の明確の目標がないから普通科に通っているとも言える。国際教養科も似たようなもんだな」

 

「ま、この歳ではっきり将来を決めてる人間の方が少数派なのは当たり前でしょ」

 

 俺自身、この学校に来た理由は「中学の同級生が誰も行かない所に進学したい」だったからなぁ。大学進学は考えていても、学部までは考えていなかった。当時の理系全滅な俺では文学部くらいしか選択肢はなかっただろうが、かといって文学の道に就職を考えていたかと言われれば否だ。

 

「高校だって、モラトリアム期間増えるー程度にしか考えてませんでしたからね」

 

「それを教師の前で言うのは感心せんぞ……。しかし、『でした』ということは、今は違うのだな」

 

 苦笑から幾分真面目なトーンになった先生の声に、自然と首を隣に向ける。

 国語教師なのになぜか常時白衣を羽織っている生徒指導担当は、その手に一枚のざら紙を握っていた。

 

「……なるほど。それが呼び出しの理由っすか」

 

 名前欄に「比企谷八幡」と俺の筆跡で書かれたアンケート用紙。その第一希望には「防衛省」と記載されている。

 この時期から国家公務員を将来に見据えている。教師からすればさぞしっかりした高校生に見えるだろう。

 しかし、俺と「防衛省」という組み合わせは例外だ。

 椚ヶ丘中学校三年E組。暗殺教室で一年を過ごした人間が防衛省を目指す。それを周りはどう見るか。

 

「そこら辺、分かってて書いただろ」

 

「まあ、合法的に中に入れる機会はなかなかないっすから」

 

 実は前防衛省に入った時は全電源を落とした上に監視カメラに細工して隠密潜入しました、なんて口が裂けても言えない。

 それに、その希望は紛れもなく俺の第一希望だ。職場見学の、そして将来の。

 

「……本来生徒指導の教師としては、君になぜここを選んだのか問いたださねばならんのだろうが」

 

 小さくため息を漏らした平塚先生は用紙を八折にして、細かく千切った。ゴミ箱に捨てられた紙屑の群れは、意識しなければアンケート用紙だとは分からないだろう。

 

「君に答える気はなさそうだし、この一ヶ月見ただけでも君はいい生徒だ。教科担任の先生方からの評価もすこぶる良好だしな。さっきのは見なかったことにしよう」

 

「どもっす」

 

 まあ、当然と言えば当然。むしろ温情極まりない対応。これが明らかに保身主義の教頭あたりなら、ノータイム三者面談だったであろう。

 ただまあ、ダメ元だったとはいえ第一希望をこうもすげなく却下されると、ちょっと凹むものだったりするのだが。

 実際防衛省に行ったのは後にも先にもあの時だけだし、将来“行かなければならない”所が普段どんな仕事をしているのかも気になる。恩師たちの本業を見てみたいという思いもあった。

 故にこそ、リスクを覚悟で記入した第一希望。見学候補地となる上位十件を決めるためのアンケートで、他に誰もいないだろうと思いながらも書いた我儘。

 ま、仮に数十人が希望したところで、機密満載の魔窟に行けるとは思えないけど、見れて自衛隊とか防衛大見学が関の山ってところか。ビッチ先生の所属とか、どう考えても国民にばれたらあかんやつだし。

 

「じゃ、この工場に一票ってことで」

 

 比較的票を集めているところに一つカウントを増やす。世界単位で有名なドリンクメーカーの工場だ。

 

「今度はやけに普通のところを選ぶんだな。別に他の先生たちが訝しまなければ、多少奇抜な業種とかでもいいんだぞ?」

 

 自分の意見が通らなかったので適当に選んだと思ったのだろう。平塚先生が眉をひそめる。

 実際、問題だったのは俺と防衛省という組み合わせだ。仮に俺が「ディスティニーランドの仕事を見たい」と言えば、なんだかんだで有効票として認められるに違いない。現に平塚先生が集計している方には「吉本興業(大阪)」なんてものも入っている。なぜ職場見学で関西まで行こうとしているのか。せめて東京にしておけ。

 閑話休題。

 

「いやまあ、なりたい業種って意味では確かにここは違うんですが」

 

 将来工場で働きたいなんて微塵も思っていないし、飲料メーカーに就職しようとも思っていない。そういう意味では、俺の選択は職場見学として不正解と言える。

 だが、第一希望が塵芥となった以上、俺にはここ以外考えられなかった。

 なぜなら――

 

「だって、マッカンの製造レーンが見れるんですよ? 百億出しても行く価値がありますよ」

 

「比企谷……お前、周りから変態って呼ばれたことないか?」

 

 大変に心外な評価を先生が持ってしまったようである。教師とはよくわからん。

 

 

     ***

 

 

「あ、比企谷先輩」

 

「ん? 磯貝と片岡か。クラス委員の仕事か?」

 

 先生の手伝いを終えていざ帰ろうと思っていると、我らがW委員長たちに呼び止められた。それぞれトップクラスの入試成績を収めた二人は、真面目な性格も相まって各々のクラスでクラス委員を務めている。二人とも人望あるからなぁ。当然と言えば当然の帰結と言える。

 だからこんな時間まで残っていたのもクラス委員としてなのかと思っていたが……どうやら違ったらしい。

 

「いや、さっきまで図書室で勉強してただけですよ」

 

 家だと下の子たちが騒がしくて、なんて苦笑する磯貝。生活がだいぶ安定し、兄も表情を曇らせることがなくなったせいか、弟妹たちはずいぶんとやんちゃをしているらしい。確かにそんな状態では、家で勉強は難しいか。

 

「比企谷先輩も小町ちゃんが小さい頃は似たようなもんだったんじゃないんですか?」

 

「いや、あいつはあいつで一人遊びすることのが多かったし、空気読むの上手いって言うか、やることあるときは基本邪魔しないからな」

 

 さすがハイブリットぼっちである。特にコミュ力に関しては非の打ちどころがない。俺と違って。俺と違って。

 そもそもいじめられっ子で情けない兄にべったりな妹とか、正直やばすぎる。ダメダメ人間かダメ人間製造機になる未来しか見えない。ダメダメなのは出来た妹を心の支えにしていた俺だけで十分なのだ。

 余計なことまで考えてしまった。溢れ出しかけたため息をひっそりと飲み込む。

 

「まあ、小町ちゃんと比企谷先輩は歳も近いですからね。うちはやんちゃな上に割と歳が離れてますから……」

 

 確かに、遊びたい盛りの小学生ではなかなか自制も効かないか。小町がしっかり者で助かった。

 ところで、そろそろ突っ込んでもいいだろうか。

 

「あのさ、その“先輩”呼び、やめない?」

 

 元々俺に対して律儀に敬語を使っていた二人は、ここに入学すると同時に俺の敬称を先輩に変えていた。初めて呼ばれたときはなんかやらかしたかと本気で焦った。

 まあさすがに一月近く呼ばれればこれが今のスタンダードだと理解はしているのだが。

 なんというかこう……今更そんな呼び方されるとむず痒いというか、恥ずかしいというか。

 

「「やっぱり同じ学校の先輩な以上、最低限の礼儀かと」」

 

「あ、はい」

 

 いやまあ、一理あるけどね。相も変わらずはっちゃん呼びの倉橋あたりは見習っていただきたい。や、倉橋がいきなり「比企谷先輩」とか呼んで来たら引きこもるレベルの衝撃だけど。

 このやり取りももう一度目や二度目ではない。二人とも戻すつもりはないようだし、俺自身本当に嫌というわけではない。今の無意味な会話もただの話のタネに過ぎない。

 

「比企谷先輩も帰るとこですか?」

 

「ああ、雑用も終わったしな」

 

「じゃあ、駅まで帰りましょう」

 

 ……うーん。

 一瞬逡巡する。しかし本人たちは俺が入ることをまったく気にしていないようで、むしろ断るほうが悪手に思えてきた。なので仕方なく、ほんとーに仕方なく同行することにする。決して二人と一緒に帰れてうれしいとか思ってないから。本当に仕方なくだから。あ、そこまで聞いてないね。

 

「そういえば……」

 

 自転車置き場から自転車を押して二人と合流する直前、活発な掛け声が上がるグラウンドになんとなく目がいった。今日は葉山達サッカー部がグラウンドをメインで使っているようだ。二種類のゼッケンをつけて紅白戦をやっているフィールド脇には、マネージャーであろう女子といかにも真新しい体操服を着こんだ男子が固まっているのが見える。

 それを見たからこその質問。

 

「お前ら、部活とか入らないのか?」

 

 E組に落とされる前、つまり中学二年生まではこいつらも部活に入っていたと聞く。確か磯貝はテニス部で片岡は水泳部だったはずだ。それなのにこうして直帰を選択している二人を見ると、思わず問わざるを得なかった。

 俺の質問に顔を見合わせた二人は、それぞれ違った笑みを見せる。片岡は苦笑じみたもの。磯貝は……なにか迷っているのか嫌に中途半端な表情だった。

 

「私はもう入ってますよ、水泳部」

 

「あ、そうなん?」

 

「ええ。今日は学外の屋内プールが使えないから、練習はお休みなんです」

 

 知らなかった。元E組の面子とは学内でもよく話すし、LINEでも現状報告とかを頻繁にする。片岡が部活に入ったという情報は聞いたことがなかったから、てっきり帰宅部なのかと思っていた。

 ただまあ、わざわざ報告するほどのことでもないか。聞かれれば答えればいい程度、と言われればその通りだ。

 

「この時期はまだ水が冷たいもんな」

 

「そもそもまずは掃除からですよ……」

 

 あー、使わないからって落ち葉とか浮きっぱなしだからな。あれの掃除は骨が折れそうだ。

 しかし、片岡が既に入部済みということは、磯貝も実はテニス部に入部しているのだろうか。確かグラウンド隅のテニスコートでは、今日もテニス部が練習していたと思うが。

 

「……俺はまだ考え中です」

 

 俺の視線に気づいた磯貝は緩慢な動きでかぶりをふる。その様子になぜ、と疑問を抱くよりも先に、自分の中で一つの答えが導きさだれた。

 

「バイトでも考えてんのか?」

 

 暗殺報酬から大学までの学費を受け取り、低所得者家庭に対する授業料補助も利用している磯貝だが、下の弟たちのことを考えると少しでも金を残しておきたいところだろう。そもそも総武高校を選んだ一因にバイトの可否もあったはずだ。

 そんな予想はどうやら半分正解だったようで、「バイトはもちろんするつもりだけど」と前置きした磯貝は一瞬だけテニスコートの方に視線を向けて、さっきと同じ曖昧な笑みを浮かべた。

 

「ちょっと見学したんだけど、ここのテニス部、ちょっとやる気がなさそうだったんよね。基礎の練習メニューもなんかおざなりだったし」

 

「あー、まああっちと比べちまうとな……」

 

 文武両道を地で行っていた椚ヶ丘の部活に比べれば、総武高校の部活はおまけみたいなもんだ。本気で全国クラスを、いやそれどころか関東大会で相応の成績を収めることを目標にしている部活動生が一体この学校に何人いるだろうか。

 むしろ、青春のスパイスとして遊びや友人関係の一環程度に捉えている奴の方が多数派だろう。別に、それが悪いわけでもないしな。

 しかし、テニス部か。

 

「確か、毎日昼休みに一人で壁打ちしている女子がいたと思うが」

 

 少なくとも俺が昼食を食べにベストプレイスに向かった日は、必ず壁打ちをしている姿を目にしていた。傍から見た感じでは、随分と真剣にやっていたと思うが……。

 

「そうなんですか? んー、見学した時は女子テニス部もいたけど、そんな熱心にやってる先輩いたかな……」

 

「たまたま休みだったとかじゃないか? 今度また見学行ってみれば?」

 

 俺の提案に少し瞑目した磯貝は、やがてゆっくりと表情を綻ばせた。どうやら興味が湧いたようだ。まあ、男子と女子では一緒に練習はできないかもしれないが。

 

「そういえば、先輩は入らないんですか?」

 

「ん?」

 

「部活」

 

 磯貝の返しに、今度は自分が瞑目する羽目になった。実はこの間、葉山からサッカー部に入らないかと誘われたばかりなのだ。体育の時に運動部に交じって走っていたのが目に留まったらしい。

 まあ、その誘いは丁重にお断りしたのだが。

 だって――

 

「二年になって新入部員とか、なんかちょっと恥ずかしいし……」

 

 直後、二人から残念なものを見るような目で見られたのは、言うまでもないことかもしれない。




 お久しぶりです。
 ここ最近また生活が変わって、なかなか書く時間が取れませんでしたという言い訳をするのも何度目でしょうか。

 原作では職場見学アンケートで呼びさだれるのは大天使降臨後ですが、今回は諸事情により繰り上げとしました。まあ、言うほど変わらんやろ(適当
 ところで、書いててちょっと疑問に思ったんですけど、なんで自由に三人一組で組ませるのに個別に希望アンケート取ったんでしょうね、総武高校。いや、アンケートを取った後に三人一組案が可決されたのかもしれないんですが、それならそれでなぜ八幡は集計を手伝わされたのか。完全に無駄雑務では……。
 と思ったのもあり、三人一組制を完全撤廃して、希望上位十件に見学候補地を絞るためのアンケートということにしました。正直職場見学の話はあんまり面白そうなものを思いつきそうにもないので、こんなところでいいかなと。

 あと、立場が変わるとしっかり敬称から変わるイケメンクラス委員の二人が書きたかった。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

日常に戻っても、染みついたものは消えはしない。

「おはようございます、八幡さん」

 

「……おう、おはよう」

 

 いつものように目覚まし律によって起床する。まだ覚醒しきっていない微妙に輪郭のぼやけた視界を枕元に置かれた時計に向けると、窓から入ってくる陽光をかすかに反射したデジタル表示板は今が午前十時であることを示していた。

 一瞬遅刻か、と冷や汗を流しかけたが、よくよく考えたら今日は土曜日だ。週休二日制によって学校は休みである。

 ノロノロと壁伝いに洗面所に向かって顔を洗う。冷水によってようやく完全に覚醒すると、今度は胃が空腹を訴えてきた。そのままリビングに向かい、ラップに包まれた朝食をいただくことにする。小町は最近通い始めた塾に行っているのだろう。両親は当然のように仕事だ。

 それにしても、このご時世に完全週休二日制ではないとは、改めてうちの両親は社畜である。それでも毎朝可能な限り朝食を用意するかーちゃんすごい。それがまた社畜レベルを上げている気がするけど。

 せめて週二回はしっかり休みたいよな。可能であれば働きたくない。無理だけど。

 はてさて、そんなわけで受験生でもなければ週末の課題も昨日のうちに終わらせている八幡くんは暇である。この休日という時間をどう過ごそうか。ニュースというよりはバラエティ寄りの番組を眺めながら思案する。神崎たちとネットゲームをするのは明日の午後だし、かと言って一人でソロプレイという気分でもない。

 

「……ふむ」

 

 塩ジャケの最後の一欠けらを口に放り込んで少し考え、片付けもそこそこに部屋に戻ることにした。

 男の部屋としては割と片付いている方であると自負している私室。その隅に置いていた長物を手に取る。

 ワルサーWA2000モデルエアガン。去年俺が愛用していた狙撃銃だ。本物の総重量は七キロほどになるが、多少改造しているとはいえプラスチック製のエアガンであるこいつはその半分程度。片手で苦も無く持ち上げられる。

 押し入れからエアダスターや各種掃除用品を取り出す。とりあえず午前中はこいつのメンテナンスをしようと考えたわけだ。

 

「マメですねぇ」

 

 広げた新聞紙の上で準備をしていると、脇に転がしたスマホから律の声が聞こえてくる。まあ確かに、先週も同じようにメンテをしたばかりだからな。使っていないものの手入れ頻度としてはマメと言えるだろう。

 暗殺教室が終わり、それまで使っていた暗殺道具、備品は防衛省に返還した。まあ、その大半がプルプルのタコ型生物以外には碌な意味をなさないものだったが、奥田や竹林の専門であった薬品や爆弾は十分危険物だったからな。

 そんな中、俺を含めて何人かは暗殺道具を手元に残せないか頼んだ。所詮はエアガンやゴムみたいなナイフがほとんどだし、超体育着も防御力はあっても攻撃力はない。報酬三百億の大半を返還したこともあって、特に渋られることもなく要望は通った。押し入れの奥には超体育着も眠っている。

 

「ま、もう使うことはないんだろうけどさ」

 

 メンテナンスも慣れたもの。ドライバーで最小パーツにまで分解し、大きいパーツは刷毛で埃を落とし、全パーツまとめてエアダスターを吹き付ける。バネやメカボックス内の装填ギアにはグリスを薄く塗っておく。もちろん砲身内の掃除、グリス塗りも忘れてはいけない。

 後は組み立て直すだけ。慣れてしまえば簡単だが、初めてフルメンテに挑戦した時はメンテ前と同じ挙動をしてくれるか心配でビクビクしたものだ。サブウェポンであったコルトのハンドガンはシンプルなエアーコッキング式だったこともあり比較的簡単だったが、こいつはパーツ数がアホみたいに多いからな。

 

「もうメンテナンススキルはサバイバルゲームプレイヤー顔負けですね。八幡さんはサバゲーはなさらないんですか?」

 

「サバゲー? ……いや、俺はネットゲームで十分だよ」

 

 横に振った首は、自分でも力を感じさせないのが分かるほど弱々しかった。

 別に、興味がないわけではない。千葉にだってサバゲーができる施設はそれなりにあるし、やろうと思えばすぐに参戦可能だろう。

 けれど、俺にとってこの武器と共に過ごした日々は、己を比企谷八幡たらしめるためのものだった。あの一年間を無駄にしないための、未来に繋げるためのものだった。

 故に、暗殺とは関係なくなったこの環境で、この愛銃を標的に向ける気にはなれないのだ。

 ま、結局こいつで仕留めることは出来なかったあの恩師は、仮に俺がサバゲーに明け暮れる人間になったって「それもまた生き方の一つです」なんて笑うんだろうけどさ。

 

「……よし」

 

 最後のネジを止めてふっと息をつく。ずっしりと重さを感じさせるワルサーWA2000は、組み立て前と同じ姿で俺の腕に抱えられている。

 …………。

 少しだけ瞑目して、極々普通のBB弾を三発、銃に込めた。手繰り寄せた椅子に肩肘を乗せて身体を固定し、ワルサーを構える。

 狙いは、ベッドの上に乗っている枕。

 使い古されてだいぶくたくたになったそれに照準を合わせ――浅く息を吸い込むと同時に引き金を引いた。

 ――――ッ!!

 破裂するような音とほぼ同時に、ボスッと枕が凹む。

 オートマチックタイプのエアガンは、その性質上エアーコッキング式に比べると大きな音が鳴る。当然ながら実弾銃のようなサイレンサーもついていないため、マシンガンタイプあたりを連射すれば騒音不可避だろう。

 初撃は良好。次は自動装填機構が正しく稼働するかの確認。

 構えを解かずにもう一度照準を合わせる。余計な動作は必要ない。ただ思うがままに引き金を引けばいい。

 ――――ッ!!

 どうやら俺の調子も好調なようだ。直径六ミリの弾丸は、先の一発目と寸分違わず同じ場所に吸い込まれていた。

 構えを解いていなかったとはいえ、完全に同じ場所に当てるのは意外に難しいものだ。得物の性能にも左右されるし、己の精神状態でも目を見開くほど影響を受けてしまう。

 

「お見事です!」

 

「おう」

 

 なので、スマホから聞こえてきた賞賛は素直に受け取っておくことにした。千葉ならいつでもどこでも平然とやってのけそうだが、比べても詮無いことだろう。

 何はともあれ自動装填部分も問題ない。メンテナンスの全工程は終了だ。

 となれば、最後の一発は――

 構えを解く。肺に溜め込んでいた空気を一気に吐き出すと、緊張していた身体が弛緩する。

 一瞬の瞑目の後、すぐに焦点を枕に合わせ直し、ワルサーを構え直した。

 動かない的を狙うのは慣れた。だから、狙い定めるのはほんの数瞬。

 

「…………っ」

 

 ――――ッ!!

 やはり今日の調子はすこぶる最高だったらしい。音が聞こえてきそうなほど強く呼吸を止め放った最後の弾丸は、先の二発と全く同じ場所に命中し――

 

「あ……」

 

 直後、部屋に羽根が舞った。

 

「……これはもう、使い物になりませんね」

 

 電動駆動のエアガンによって全く同じ場所に与えられた攻撃は、枕の薄い布を貫き、その中身を溢れさせたのだ。

 いや全く予想外。結構年季が入っていたとはいえ、まさかBB弾で枕に穴が開くとは……。

 まあ、なにはともあれ今現在最大の問題は――

 

「……新しい枕、買いに行かないとな。はあ……」

 

 出かける理由ができてしまったことだったりする。

 

 

     ***

 

 

「……ここも久しぶりだな」

 

 最低限舗装された坂道。視線の先に簡素な正門が見えて、思わずひとりごちた。

 三年E組という特別クラスは、渚達が卒業を迎えたと同時に廃止となった。暗殺教室という危険な状況に生徒を巻き込んだ事実を後押しとして、PTAやマスコミから批判を受けたためだ。

 当然こんな時代遅れの木造校舎、理事長が退任した椚ヶ丘学園が再利用するはずもない。聞いた話では、即時取り壊しが検討されていたらしい。

 そこで、不要なものならと俺たちが山ごと買い取った。幸いこちらには国から支給された三百億があったし、新生椚ヶ丘上層部も少しでも体裁をよくしたかったのだろう。見積もりよりだいぶ安い金額で交渉は成立した。

 

「うへえ、一ヶ月でも割と荒れるもんなんだな……」

 

 春の陽射しにあてられたのか、グラウンドには思いのほか雑草が目に付く。春でこんな調子なら、夏の頃にはもっと草が生い茂るに違いない。

 

「こりゃ、夏休みには一回手入れしないとだな」

 

「そうですね。今度皆さんに声をかけましょうか。私はお手伝いできませんけど……」

 

 むしろ自律思考固定砲台に雑草抜き機能なんてついていても困るだろう。内心苦笑してしまう。

 一ヶ月ぶりに入った校舎の中は、少し埃っぽいように感じた。雑草除去もそうだが、同時に定期的な清掃も必要か。

 かつて自分が使っていた机の埃を雑に払いのけ、机に置いた鞄から超体育着を引っ張り出す。最初はいつものジャージにしようかとも思ったのだが、これからすることを考えるとこちらの方がいいだろう。

 軽くストレッチをして身体を解しながら校舎を出る。向かうのはグラウンドの反対側、木々に覆われた裏手側だ。

 全身の余計な力を抜いて林の中に足を踏み入れ――一気に地を蹴り上げた。

 

「ふっ――と!」

 

 規則性もなく乱立した木々を避け、具合の良さそうな一本に狙いを定める。トップスピードの運動エネルギーを利用して脚力だけで目標の木を登り、太めの枝に手をかけた。そのまま全身をバネにして木々の間を飛び跳ねる。

 あの教室で身につけた技能の一つ、フリーランニング。こいつばっかりはおいそれと練習できるものではない。街中でやるわけにもいかないし、そもそも私有地に入らなければ碌な練習にもならないだろう。

 だからここに来た。この山は俺たちの所有物だから何をしようが文句は言われないし、一年間慣れ親しんだホーム故に、どう動けばいいかは身体が覚えている。考えるよりも先に最適な動きができる。

 一度木から飛び降りる。三メートルはゆうに超える高さだが恐れはない。圧倒的防御力を誇る超体育着もあるし、そもそもこういう時の対処法はこの技術の最初で嫌というほど叩き込まれた。

 身体を緩く丸めて一回転。止まる必要はない。そのまま地を踏みしめ、木々の合間を縫い駆ける。

 やっぱ超体育着でよかったわ。こんな動きしてたら、普通のジャージはすぐボロ雑巾と成り果ててしまうに違いない。

 再び手頃な木を足掛かりに枝に手をかけて――

 

「ん?」

 

 視界の端を人影が掠めた。鉄棒の要領で掴んでいた枝に足をかけ、自立する。

 警戒はしない。万が一くらいの確率で近所のガキンチョやチンピラの可能性もなくもなかったが、そもそも俺と同じようにフリーランニングでこの山を駆け抜けるチンピラなんて早々いるわけがない。いたら忍者を疑う。たぶん風魔あたり。

 まあ、実際そんなことあるわけないし、俺たちの所有物であるこの山はある意味国の保護を受けているとも言える。一時期同業だった本職の方々が足を踏み入れる可能性はほぼない。

 となると考えられる可能性は――

 

「あ、やっぱ比企谷君だった」

 

 クラスメイトくらいしかいないだろう。俺より高い位置の木の枝に降り立った影は、流れるような器用な動きでスルスルと地面の方へ降りていく。それに倣って俺も木から降りることにした。

 

「よう、岡野。お前もトレーニングか?」

 

「まあそんなとこ。家にいてもやることないしさぁ」

 

 クラス一のフリーランニングの達人であった他称“すごいサル”岡野は、近くの幹に体重を預けながら肩をすくめる。……今更だけど、すごいサルって完全に蔑称である。命名したのはどこの女たらしクソ野郎だろうか。

 

「部活は?」

 

「今日は休み。二週間に一回は完全休養日なんだってさ」

 

「おう、なら休めや」

 

 岡野は東京の私立に入学した。偏差値的には総武校と同じくらいで、特に体操部が有名なところだ。身体を動かすのは好きだが、将来にも備えたいという考えからの進路選択。

 

「休めって言われると、なんだか余計に動きたくなるんだよね。先輩たちも結局どっかで自主練するって言ってたし」

 

「完全休養日がコーチにしか適用されてねえな、それ」

 

 今の様子を見る限り、楽しくやっているようである。

 まあしかし、他の部員とは自主練の度合いが違うんだろうなぁ。中学でも総武でも体操部がないこともあって練習を見たことはないが、少なくとも山の中をフリーランニングする体操部員はおるまい。

 そもそもフリーランニングができる体操部員が日本に何人いるのかって話ですね。

 

「というか、私としては比企谷君が来てることの方が意外なんだけど」

 

「そうか?」

 

「だって、フリーランニングの自主練とかあんまりやる方じゃなかったじゃん」

 

 ふむ。岡野の指摘に少し昔を振り返る。

 時間は有限。特に去年は勉強に暗殺にと、課外の時間がとにかく足りなかった。近接戦闘、遠距離射撃、隠密、移動術、エトセトラエトセトラ。手を広げすぎては全部中途半端になる。かと言ってどれも必要な技能で、完全に捨てるわけにはいかない。

 となると、一部に重きを置きつつ残りは最低限、という形に落ち着く。そして俺が重視したのが近接戦闘術と隠密であった。後半は烏間さんから本格的な格闘術も習ったし、たまに来る殺し屋屋には都度隠密能力の手ほどきを受けた。

 そうなれば当然、フリーランニングに充てる時間は少なくなる。しょっちゅう山の中を駆けまわっていた岡野や木村あたりからすれば、フリーランニングへの興味が薄いと取られるのも仕方ないかもしれない。

 

「ま、一人じゃ格闘術は型くらいしかできんし、消える機会なんてクラスが不穏な空気になるときくらいだからな」

 

「不穏な空気って……」

 

「いや、安心しろ。今のところほぼ百パーセント百合空間になってる」

 

「は?」

 

 いやほんとね。由比ヶ浜と三浦がなんか険悪なというか、由比ヶ浜の態度に三浦がイライラし始めて、「あ、これはやべえ。消えて逃げよ」って隠密使って、時間空けて戻ってくるとなぜか由比ヶ浜が抱き着いているのだ。ほぼ百パーセント。分からん。話の流れがまるで分からん。たぶん葉山あたりが仲裁してんだと思う。

 ちなみになぜか由比ヶ浜からはあれ以来ずっと避けられている。露骨に避けられているというよりも気が付いたら距離を取られている感じなので、俺の勘違いかもしれないが。ほんと、何かやっただろうか……うーむ。

 まあなにはともあれ。暗殺教室が終わった今、あの頃重視していたトレーニングの優先度は低くなっているし、そもそも時間に焦る必要もない。色々つまみ食いしても許される平和だ。

 それに――

 

「こないだの茅野の件でフリーランニングしたんだけど、だいぶ鈍ってたからな」

 

 せっかく覚えた技能も、いざという時使えなければ意味がない。今日ここに来たのは、そんな考えもあってのことだった。

 

「あー、あの記者のやつかぁ」

 

「烏間さんが動いて監視対象になってるみたいだから、あれは大丈夫だろ」

 

 律から報告を受けた烏間さんの対応は早かった。相手が茅野だとバレないように加工した映像をネット掲示板にアップし、拡散。「女子校生に執拗に言い寄る中年ジャーナリスト」として群衆を用いてあのジャーナリストに大バッシングを浴びせ、かつ警察を通じて厳重注意の追い打ちというダブルコンボを決めていた。

 これ以上良からぬことをしたら即拘束できるように監視はつけているそうだが、話を聞く限り完全に生気を抜かれてしまって大人しくしているようだ。まあ、当分はマスコミ業から干されるのは確実。頑張って生きてくれって感じだ。

 

「お前のとことか大丈夫か?」

 

「んー、特にそういうのはないね。連絡もらった時前原とも話したけど、向こうも問題ないみたい」

 

 ふむ、現状被害は茅野だけっぽいな。まあ、国家どころか世界も関わっている緘口令の中特攻してくるアホがそう何人もいてもらっては困るのだが。

 そして思わぬところで前原とも仲良くやっていることを知ることができた。これは棚ボタである。うんうん、二人が仲いいみたいで、お兄ちゃんうれしいぞ。この間また他校の女子とデートしてたって聞いた時は大丈夫かと思ったが、まあ前原だし大丈夫だろう。一週間出禁にしたけど。

 閑話休題。

 なにはともあれ、鈍った技能の習熟が今日の目的である。しかしながら、ただ自主練をするだけでは勘は取り戻せても、その先へはなかなか進めない。自分の間違いを見つけること自体がなかなかに難しいことであるし、その解決法に独学で辿り付くのはそれ以上に難しい。

 そういう時どうするか。昔の人はいい言葉を残している。

 

「岡野、ちょっとこの上登ってみてくれね?」

 

「ん? ――こんな感じ?」

 

 目で見て盗め。

 俺が登るときに違和感を覚えた木を、岡野はまるで平地を走るように登っていく。その足運び、伸ばす腕の位置までつぶさに観察する。……なるほど、どうやら二歩目の足の位置が悪かったらしい。

 動きをトレースして駆け上る。まだぎこちなさは残るものの、さっきよりはスムーズに登れることを確認して、受け身を取ってまた地面に降り立った。何度か練習すれば、完全にものにできるだろう。

 身体の動きなど、やっている本人も説明が難しいものはこれで身につけるに限る。俺も消える技術に関しては半ば感覚でやってるところあるからな。早々盗ませる気はないのだが。

 そう、この“目で見て盗む”という行為には一つ弱点がある。俺のステルス技術がそうであるように、言語化できない技術というものは往々にして“教えたくない”技術なのだ。教えたくないから脳が言語化を拒否しているのかもしれない。

 

「おー、やるじゃん比企谷君」

 

 まあ、何が言いたいかというと――

 

「じゃ、比企谷君もスキルアップしたことだし、一本杉まで競争ね! 負けた方が駅前のパフェ奢り!」

 

「あ、ちょっと待て!」

 

 盗まれると大抵不機嫌になるのである。

 こちらの制止も聞かずに木々を移動し始める岡野。一瞬その後姿を見送って――ため息と共にさっきと同じ要領で木を駆け上がった。スマホが楽しそうに震えるが、今は無視である。

 これが全く知らない赤の他人なら無視して帰るところ――そもそも赤の他人にパフェを賭けて勝負挑まれるってどういう状況だ――だが、これは親愛なる妹分との勝負……すっぽかしたら後でLINEを使った集団批難にあうのは確実。

 それに、駅前のパフェは意外と高いんだよ!

 

 

 

 まあ、負けたわけですが。

 

「勝った!」

 

「そりゃあ最善手ずっと取られたら追いつけねえよ……」

 

 そうでなくとも熟練度の違いでズルズルと差をつけられるというのに。苦肉の策で無理やりルートを変えても差は縮まらなかったところを見るに、先行させた時点で負けは確定だったわけである。

 得意分野で一切手心を加えずに確実に報酬を手にしようとは、なんと鬼畜の所業か。これを戸部あたりがやってきたら二本背負いあたりを決めているところである。妹分たる岡野だから許すけど。パフェ奢るけど。お兄ちゃんの財布の紐緩すぎない?

 

「お前、来週はここ来るの?」

 

「来週は部活だけど……なに、特訓付き合ってほしいの?」

 

「や、また奢れって言われないように接触を避けようと」

 

「酷くない!?」

 

 ここは財布の紐に手をかけないように予防策を張らねばなるまい。固く締め直すって選択肢がないあたりすごくアレ。

 まあ、なんだかんだ岡野の動きは参考になるし、授業料と考えれば週一でパフェくらいならそこまで手痛い出費では……いや、こういう妥協がいかんのだ。八幡知ってるぞ。そうやって妥協した結果、気が付いたら複数人に奢る構図が出来上がってしまうのだ。慢心、妥協、ダメ絶対。

 アームホルダーにつけたスマホを見てみると、今から向かえば駅前に着くことにはちょうど三時、おやつ時というやつだ。ついでだから、俺もパフェ食べようかな……や、そういえば今日はあんまり財布に金入れてない気がする。たぶん二人分頼んだら帰りの電車代がなくなる。走ればいい? バッカお前、家からここまで走ったのなんて、去年の夏の一度きりだわ! ……いかん黒歴史が。

 まあ、普通にコーヒーでも頼もう。マッカン置いてあるといいな。

 ちなみに律はパフェの話が出た瞬間「誘惑には屈しません!」などと謎の捨て台詞を残してスマホから消えた。最近あいつ、マジで味覚に飢えてんな。そのうち、本当に味覚エンジン装置を設計しそうだ。頼むから俺のスマホに取り付けようとはしないでくれよ?

 そのためにまずは着替えねばなるまい。超体育着は訓練には最適なのだが、いかんせん人前に出るにはよろしくないのだ。機密ではないにしても、世界単位で最新鋭技術の結晶だし。

 

「それにしても、よくよく考えたら比企谷君と二人っきりって初めてじゃない?」

 

「そうだっけ? あー、そうかも」

 

 連れ立って校舎に戻りながら、去年を振り返ってみる。そもそもE組という集団は暗殺の作戦会議を行う関係もあり、やたら四人前後のグループで動くことが多く、放課後や休日に偶然遭遇しない限り二人きりになる状況は少なかった。課外のトレーニングにしても防衛相お手製アスレチックやフリーランニング重視だった岡野と近接戦闘、狙撃訓練メインだった俺では被ることは少なかった。

 まあ、俺と二人っきりという状況に然したる幸福性はないのだが。

 

「お兄さんを独り占めすると皆に睨まれそう」

 

「なにその少女漫画によくあるヒロインいびりみたいな展開」

 

 むしろ不幸性があるらしい。や、ねえだろ。俺にそんなバストアップ映しただけで星が煌めきそうな能力はない。ああいうのは葉山とか浅野あたりが持つべき能力である。実際に星煌めかせ始めたら怖くて他人のふりしちゃうけど。

 そういえば、浅野とも卒業式以来会ってないな。去年渡された図書館利用証はなんだかんだと理由をつけられて未だに俺の手元にあるし、たまには利用がてら挨拶にでも行くべきか。ついでに赤羽の様子を見るのもいいかもしれない。

 などと割とどうでもいいことに思考を割いていたのがいけなかった。それ以前に自分たちの山ということで完全に油断していた。

 

「うおっ!?」

 

「え?」

 

 一瞬足元の感覚が消え、気が付いた時には世界が反転していた。頭の上の方に首を動かすと、地面に足を付けて呆けた顔をした岡野と目が合う。

 所謂宙吊り。足元を見てみると、いつの間にかロープが括りつけられており、それが木の枝に俺を吊るしているようだった。

 

「…………」

 

「…………」

 

「罠って、確か全部撤去したよな?」

 

「うん。自衛隊の人たちにも手伝ってもらって確認もした」

 

 いくら俺たちが買い取ったとはいえ、私有地の山に平然と入って好き勝手やる常識知らずは多い。毎日管理できるわけではないということもあり、春休みのうちに無数に張り巡らせていた罠は全て撤去した……はずだ。

 

「とりあえず、写真撮っていい?」

 

「え、鬼?」

 

「というか、もう撮った。そしてLINEに上げた。律が」

 

「悪魔じゃねえか」

 

 さっきから碌に話に入ってこないと思ったら、なにやってんのあの子。

 流れるように人の痴態を流布するなよと思いつつ、ロープのかかった枝によじ登って足枷を外しにかかる。……なんか、やけに新しいな、このロープ。暗殺教室時代のものなら、もうちょっと傷んでいてもいいはずなのだが……。

 

「あ、犯人発見。カルマ」

 

「悪魔じゃん」

 

 まごうことなき悪魔だった。このクラス悪魔多すぎる。

 なんとか罠を外して自分のスマホを起動すると、LINEには赤羽の全く悪びれている様子のない言い訳が届いていた。

 曰く、この間のテストで浅野に負けた。むしゃくしゃしたからストレス発散にトラップ作ってみた。とのこと。

 事勉強において互いを明確なライバルと位置付けている浅野と赤羽。高等部に進学してからも互いに切磋琢磨しているのだろう。そして煽り合っているのだろう。……うん、あいつらのやりとり、普通に周りも精神すり減るからな。本人たちのストレスも半端ないに違いない。

 けどまあ、それとこれとは話が別である。

 

「あいつ……今度泣かす」

 

「できるの? あのカルマ相手に」

 

 できるできないではない。こういうときの躾をしっかりやるのが年長者の務めなのだ。

 どうしてくれようかと思考を巡らせながら、改めて校舎に戻るのであった。

 

 

 

 ちなみに、酷い目にあった兄貴分に対して、岡野は一切容赦なく一番高いパフェをたかってきた。

 ほんとこのクラス、悪魔ばっかりである。




お久しぶりです(定型文
ちょっと環境についていけなくて更新頻度が上がらない今日この頃(隙あらば自分語り

まあ、今回は日常回というか、暗殺教室時代の要素を交えつつのお話でした。E組は暗殺道具を記念品的な感じでそれぞれもらってそうな印象。特にイトナ。逆に竹林とか奥田さんは危険物メインなせいで思い出の品は少なそうですね。

というか今回書くにあたって久しぶりに自分の話を読み返したんですが、岡野の話が少なすぎる。というかこの二人、フリーランニング関係でしかまともに絡んでない。今回もフリーランニングですし。
奮闘する岡野と前原の話とかもね、書きたいよね。一応ネタは浮かんでるんですが、そのために必要な要件が二つほどあるので、形にするのはもうちょっと後になりそう。

それでは今日はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

その教官は再び。

 浅い川も深く渡れ、という諺がある。たとえ浅いと一目で分かる川でも、渡るときにどんな危険が潜んでいるかもしれない。故に深い川と同じように用心して渡れという意味だ。慎重さを表すものである。

 実際、台風の時に「川の様子見てくる」なんてフラグを立てる馬鹿だけでなく、平時の穏やかな下流河川でも水難事故というものは起こっている。用心するに越したことはない。

 しかしながら、用心しすぎるのもどうだろうか。例えば「川で事故が起こるのなら、川を埋め立ててしまおう」なんてすれば人類の大好きな環境保護・生態系保護を手放すことになるし、公共事業として行えば大量の税金が投入される。特に川に近づく気もない納税者からすれば“無駄な金”に他ならず、批判の対象となるだろう。俺も後三年もすれば納税者になるのか。いや、学生のうちは扶養のままだから免除されるんだっけ? よく分からん。今度調べよう。

 あるいは自治体が埋め立てをしないと知ったどこかのば……行動力のある人間がダムを作るビーバーよろしく手ずから川の埋め立てをするフレンズになったとする。しかし、自然の力に逆らうというのはそれこそ自然を舐めているというもの。無理に埋め立てられ、行き場を失った川の水は別の所に流れ込み、人災に繋がってしまう可能性も考えられる。

 つまるところ、何事もやりすぎは良くないよね、とも思うのだ。

 そういう意味では――

 

「本日付で赴任した烏間です。担当は体育になります、よろしく」

 

 これは用心のし過ぎでは? と思うわけですよね、ボク。用心の七乗はありそうな用心度合い。

 毎週火曜日の朝、体育館で行われる全校朝会にて壇上に立った烏間さんに女子たちが露骨なざわめきを上げている。全校朝会という固い空気の場所故にこの程度で済んでいるが、これが教室やグラウンドであれば耳が痛くなるような黄色い声になっていたことだろう。まあ、実際イケメンだもんな、烏間さん。磯貝とか葉山みたいな爽やか系とは違うが、イケメンなのは間違いない。ツキノワグマ倒すような化け物だけど。毒ガス抵抗でアフリカゾウに勝つような化け物だけど。そういえば、なぜ初代ポケモンの図鑑説明にはゾウがよく出てくるのだろうか。それでいてシリーズを通してポケモンではないゾウは出てこないのだから不思議である。まさかあの図鑑に出てきたゾウは全部ドンファンだった……?

 いかん、思考が脱線してワイルドエリアに飛び込んでしまった。

 校長や教頭の一ミリも身にならない話を子守唄に仮眠でも取るかと思っていた俺であるが、一ヶ月ぶりの恩師の姿に完全に目が覚めてしまった。反射的に左側、先生たちが集まっている空間に視線を滑らせる。

 正確にはその一人、教頭の顔を見たのだ。

 この一ヶ月、何度か職員室に行くことがあったし、最初に平塚先生に呼び出された時の反応から大体教頭の性格は想像がつく。保身的な気質の彼からすれば、防衛相の人間が学校内に入るなんて受け入れがたいに違いない。俺に向けていたような警戒心マシマシの目をしていると思った。

 しかし、そんな俺の予想に反し、生徒のざわめきに対してかすかに口元を引き結んだだけで、ごく普通の目をしてた。思わず「おや?」と口の中で音が転がる。幸い、ざわめきに溶け込んだその音を気にする人間はいなかった。

 ごく普通の高等学校に防衛相の自衛官が入り込む。しかもあの“化け物”の記憶もまだまだ新しいこの時期に、だ。面倒事の香り百パーセント。俺が教頭の立場ならさっさとこの場から消えるまである。

 それがごく普通の態度……考えられるのは――

 

「それでは、全校朝会を終わります」

 

 思考を埋没しかけたところで、全校朝会の終了が告げられる。イケメン体育教師というサプライズはあったが、朝っぱらから集められて堅苦しい話を聞かされるイベントという本質は変わらない。皆が皆、早く教室に戻ろうと、入口と左右計三つの扉から流れ出ていく。

 三又の人間渓流に逆らうほど捻くれていないし、そんなことをする体力がまず勿体ない。同学年の集団に続く形で体育館を出る。

 開かれた扉から出ると、それまで折り目正しく流れていた人の波がふわりと広がり、意思を取り戻したように思い思いに動き出す。教室へ向かうという目的は同じだろうが、授業が始まるまで時間がある。自販機あたりに寄り道する生徒もいるだろう。

 そんなことを考えながら――気配を消して脇道へと抜け出す。

 別に気配を消す必要はないのだが、人と違うことをする後ろめたさからつい消えてしまった。癖になってるんだ、消えるの。まあ、特技を披露したがるのは男の性って奴だな。消えたら見る相手がいないんだけど。

 コツコツと荒いコンクリを上履きの底で鳴らし――さすがにナンバ歩きまで併用はしない――ながら、体育館裏を目指す。え、カツアゲでもされに行くのかって? さすがにうちにそんな生徒いないでしょ。たぶん、知らんけど。

 向かう理由はそこに一人分の気配があるから。

 後はまあ……勘である。正確には、こちらの勘が働くように誘導されたと言っていい。

 

「やはり来たか」

 

 体育館裏を覗き込むと、ピッと背筋を伸ばした教官が視線を投げてくる。やはり上手く誘導されたようだ。釣り針が大きすぎると、逆に掴んでみたくなるものである。

 まあ、今回釣られたのは俺だけではないようだが。

 

「烏間先生!」

 

 反対側から駆け寄ってきたのは磯貝と片岡の委員長コンビ。それなりに走ってきたらしく、額には若干汗が滲んでいる。

 その姿を見て、思わずもう一度周囲を見渡した。

 

「渚とかは?」

 

 こういう時、真っ先に来そうな人物の名前を口にする。E組において最も気配察知に優れているのは渚だ。俺だけでなく、このコンビも気づいたというのなら、あいつだって当然気づいたことだろう。特に今回は茅野のことが起因することを考えれば、有無を言わさず来そうなものなのだが。

 

「他の皆も来たがってたみたいですけど、あまり大勢で押しかけても目立つだけですから」

 

「なるほどな」

 

 口ぶりからして、全員烏間さんがここで待っていることには気づいたのだろう。一人二人ならさして気にされないだろうが、十数人が揃って教室と反対方向へ向かえばさすがに目立つ。特に未だ警戒心を持っているであろう教師陣からすれば悪目立ちもいいところだ。

 諸々を加味した上で、この二人が代表として来た、というわけか。

 

「何も連絡を入れずに来てしまってすまない。作業に追われてしまってな」

 

「いえ、こっちこそすみません。まだ忙しい時期なのに……」

 

 地球滅亡の危機に世界が震えたあの日から未だひと月弱。最前線の主軸となった防衛省は各種対応に追われているはずだ。しかも烏間さんは当時の現場責任者。忙しさの度合いが他の比較にならないのは想像に難くない。

 

「いや、あいつ関連で俺ができることは粗方終わったからな。後は上と細々した調整をするだけだったから問題ない」

 

 その言葉に、さすがに三人揃って驚いてしまう。いやだってあなた、世界の危機の事後処理ですよ? それをたった一ヶ月弱でって……うちの教官有能すぎひん? そういえば有能だったわ。超が付くレベルの有能だったわ。一歩間違えれば化け物。

 

「それに、手すきで高校の教員免許を持っているのが俺くらいだったからな」

 

「待って。そういえば中学と高校で教員免許別枠じゃないですか。え、両方とも持ってるの烏間さん?」

 

「なんなら小学校まで行けるぞ」

 

 なんで防衛省なんだあんた……。あれか? 某元理事長みたいに休日の暇潰し感覚で資格取っちゃう人か?

 改めて実感させられる恩師の有能さに揃って変な引き攣り笑いを浮かべていると、「それに」と続けながら柔らかい目を向けられる。

 

「国民を守るのが我々の役目であり、生徒を守るのが教師の役目だ」

 

「…………ありがとうございます」

 

 ほんと、なんでこういうことをサラリと言えてしまうのだろうか。人間出来すぎてませんかね? さすが将来参考にしたい大人暫定一位(俺調べ)である。殺せんせー? あの人は参考にできないというか、先生してる時以外がダメダメすぎるのでちょっと……え? 触手の影響? 知らん知らん。

 

「総武高校はE組出身者が多いからな。諸々の可能性も考えて、要員を送り込もうという話は前から上がっていたことだ。用務員として部下を入れるのも手だったが、万一の時に教師が生徒を守るという構図の方が自然だろう」

 

 ちらりと視線を向けてきた烏間さんに俺は無言で頷き、磯貝たちも納得したようで相槌を打つ。

 確かに、もしこの間のような輩が接触してきた時に用務員のおじちゃんが生徒を守るより教師が生徒を守る方が傍から見て無理がない。そう考えると、彼の赴任は既定路線と言ったところか。

 

「だから、迷惑をかけたなんて思わなくていい。必要なら俺から茅野達にも伝えよう」

 

「いえ、大丈夫だと思います。茅野さんたちには私たちから伝えておきますから」

 

 おそらく今回の件に一番責任を感じているであろう茅野の心配をする烏間さんに片岡が首を横に振る。まあ、当事者本人から心配するなと言うより、片岡を経由した方が茅野も納得しやすいかもしれない。あの子もね、なかなか繊細なんですよ。

 何はともあれ、恩師とまた同じ学び舎で過ごすことができるというのはなかなか幸運だ。そういう点では、あの記者には感謝……する必要ねえな。一生悔い改めていただきたい。

 一通り説明を終えたようで、腕時計を確認した新任教師が教室への帰宅を促してくる。あいにく俺は腕時計などしていないので正確な時間は把握できないが、寄り道しなければ授業に遅れることはないだろう。今日の一時間目はなんだったか。数学以外ならなんでもいいんだけど……いやまあ、そんな発想が出てくる時点で数学なんですけどね。

 一応高校の授業範囲は予習済みだし、これでも学年一位の成績なのだが、成績が良くなったからと言ってその授業が好きになるというものでもない。正直寝ていていいなら全力でお昼寝タイムに入ることもやぶさかではないのだ。全力でお昼寝って、逆に交感神経フル稼働しそうだな。

 などとどうでもいいことを考えながら後数分で始まる苦手教科に想いを馳せていると、「あっ、そういえば」と片岡がポスンと両手を合わせた。

 

「ビッチ先生とはどうなんですか?」

 

 何事かと思って耳を傾けると、話題はコイバナであった。なんだかんだ君、そういう話好きだよね。さすが実は乙女回路規模E組トップクラス説のある片岡である。あの姫系の服はちゃんと着てあげてるのかしらん?

 まあ、片岡のオシャレ事情という下世話な話は置いておいて、ビッチ先生のことである。軽く聞いた話ではあの後殺し屋を廃業して防衛省に入ったとか。正確な部署までは教えてもらえなかったが、経歴から考えて「ちょっと言えないところ」という奴だろう。

 そして今は烏丸さんと同棲……下世話な話じゃん。片岡のオシャレ事情より下世話な話じゃん。というかビッチ先生と同棲が組み合わさっただけで完全にシモだよ。そういうの岡島の領分だよ。……そういうのに思考が行きつくあたり、俺も同類ですね、はい。

 キラキラした目を向ける片岡を見た烏間さんは、ふっと表情を和らげる。

 

「ああ、元気でやっていると報告を受けている。半月前からアメリカの方に行ってもらっていてな」

 

「「「…………」」」

 

 同棲……してないじゃん!!




今年最後の投稿になります。冬コミの刺激を受けて勢いで書いた次第。

やっぱりコミケ、イベントは創作意欲を掻き立てられていいですね。ここ数年は夏コミに1日参加できるかどうかでしたが、転職引っ越しを敢行した結果、次の夏コミからはもっと余裕を持って参加できそうです。
まだまだ書きたいものも多いので、もっと創作の時間を増やしたいですね。

今回の冬コミは〆切時期にバタバタするのが確定だったので一般参加だけでしたが、次の夏コミ(GWコミ?)は俺ガイルで書こうと思っています。完結したことで、元々考えていたネタに原作の設定をうまく組み込めそうです。

それでは、更新頻度が悪かったですが、今年はこの辺で。
ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

地雷は踏み抜くときは踏み抜くものである。

「お前ら早いな」

 

 昼休み。いつものお気にスペースへ向かうと、既に先客が来ていた。というか、マジで昼休みにここに人がいないことがないな。完全に元E組の溜まり場である。

 

「こんにちは、比企谷君」

 

「むしろ、いつもより遅くない?」

 

 今日のメンバーは神崎に速水、そして千葉のようだ。なんかこの組み合わせ率高くない? まあ、単純に波長が合うよね。テンションとか近いし。

 

「ああ、今日は売店で昼飯買ってきたから」

 

「あれ? 小町の弁当じゃないんだ」

 

「今日は生徒会の作業が朝からあるとかで慌てて出てった」

 

 仕事のために早く登校とか、妹も両親の血を色濃く受け継いでいるようだ。将来ブラック企業に就職しないことを祈りたい。

 まあそもそもの話なのだが、そろそろ愛妹弁当はやめてもらおうかと思っていたりする。理由は単純明快で、今年の小町は中学三年生。つまるところ、受験生であるからだ。生徒会の入れ替えは二学期中旬だし、今は塾だってある。本人は好きでやっているようだが、少しでも負担は減らしておきたいところだ。

 え、なら弁当は自分で作ればって? 馬鹿言っちゃいけない。俺の料理スキルはせいぜい小学六年生レベル。そもそも弁当を作るために早起きするんだったら、今はその時間でプログラミングの勉強とかトレーニングをしたいところだ。やりたいことが多すぎるのんな。

 

「公立の生徒会でも早く登校したりすることがあるんですね」

 

「私たちは私立の生徒会しか知らないからなぁ。浅野……程忙しいとは思えないけど」

 

「むしろ普通の学校の生徒会はあんな忙しくないんだよなぁ」

 

 生徒会なんて、教師と生徒のクッション役だったり、雑用係なのが普通だ。特に中学校なんて年に一回小さな企画を生徒会がやれば目立った方で、大半の学校行事の主導は教師が担当するものなのだ。つうか、私立でも大抵そんなもんでしょ。浅野がおかしいだけだよ。

 まあ、なにはともあれ、今日は久しぶりの総菜パンである。たまに食べるとこれはこれで美味いんだよな。企業の努力が見え隠れしている。

 

「いやしかし、昼休みの売店やばいな。人がゴミってた」

 

「人混みってちゃんと言いましょうか」

 

「まあ、結構いつも混んでるよね。私もたまにしか使わない」

 

 ちょっと考えれば分かることなのだが、十クラスが三学年ある公立高校、普通に売店のキャパが足りないのである。自販機にまで行列ができてるってどういうことだよ。早急な改善を提案したい。予算? 知らん! 千葉市が出して!

 これはE組の頃と同じように事前に買っていった方が良さげだなぁ。夏は致し方ないけど。食中毒怖い。超怖い。

 今後の方針を考えつつ、さらりと神崎のツッコミを流しつつ定位置に腰を下ろし、パンの袋を破り開ける。総菜パン、菓子パン、パンに色々あれども、昼食のパンと言えばやはり王道を往く焼きそばパンである。炭水化物に炭水化物を挟むという一見して邪道な行為が恐ろしくまでの調和を生み出す絶対王者。最初にこれをやろうと思った人は味噌ピー発明した人と同じくらい尊敬できるね。

 まあ、難点があるとすればマッカンとはあんまり合わないことなんだけど。そういう点は菓子パンに軍配が上がるのだ。

 

「ん? それシリーズ最新刊?」

 

 もそもそパンを胃に収めながらなんとなしに視線を巡らせていると、神崎の脇に置かれた本が目に付いた。俺が薦めて神崎も速水も読み始めたライトノベルの最新刊である。

 

「はい。昨日買ってきました」

 

「発売日当日とか流石」

 

「続きが気になりましたから」

 

 速水の相槌に、心なしか弾んだ声が返ってきて、お世辞ではないことがうかがえた。

 相当気に入ってもらえたようで、布教した身としては何よりである。まあ、ラノベと言いつつ、中身は結構しっかりしたミステリーものなので、イラストで敬遠しなければミステリー好きにガッチリハマるシリーズだからな。だから薦めたわけだし。流石に所謂ラノベ感の強いものはあまり二人に薦める勇気はない。微妙にエロ描写があるのとかね。俺が薦めたらセクハラでしょ。不破には薦めるけど。竹林? あいつは薦める前に読んでんだよなぁ。

 間に挟まっている栞を見る限り、半分ほど読み進めているようだ。あらやだ昨日買って半分読んでるとか早すぎでは?

 

「私はもう全部読み終わりましたよ!」

 

「はいはい、早い早い」

 

「あしらい方が雑すぎでは!?」

 

 E組しかいないということで俺のスマホから反応を見せたAI娘の速読に関してはもう何も言うまい。というか、こいつ最近発売日に読み終えた自慢とか良くしてくるんだが、一体誰に似たんですかね。そりゃあ対応が雑になるのも仕方がないというものだ。ドヤ顔があざといなんて思っての反応ではない。決してない。

 さて、小説、漫画、映画、はたまたゲームなど、ストーリーのある創作物の話題で気にするべき点にネタバレというものがある……という話を去年教えてもらった。まあ、八幡君は去年までそういう話題を出す相手が妹しかいなかったからね。仕方ないね。

 俺の残念具合はともかく、基本的にネタバレというものは避けるべきものだろう。初見のわくわくを失わせてしまうし、人によっては読む気をなくしてしまう可能性すらある。ミステリーもので犯人の名前なんて口に出してしまった日には、その人間関係でミステリー小説が始まるまである。むしろそれ、火サス的な何かだな?

 

「区切りが完璧だったもんな」

 

「ええ、巻またぎになると、伏線の考察をずっと考えちゃって大変ですよね」

 

 ともあれ、そういう点を俺の何倍もコミュニケーション能力に優れている神崎という少女はよく分かっている。最新刊の話ではなく、その前の巻の話題に乗ってきた。たぶん内心では話したくて仕方ないだろうな。週末に買うつもりだったが、帰りに買うことにしよう。

 

「結構重要そうな教授が序盤で死んだのが意外だったな。キャラの相関が見えてきた段階で一番軸になりそうだったし」

 

「私は逆に、重要だからいなくなる必要があったのかなと思いました。だって教授がいたら、三つ目の殺人は未遂で終わりましたよね」

 

「ああ、あの隠し通路は教授の部屋に繋がってたからな。だから逆に教授生きてる説も考えたっけ」

 

 自然と話が弾むが、当然のように神崎から最新刊のボロが出ることはない。流石クラス内人狼ゲームで二十六人を食い殺した鬼才である。たぶんゲームでなら神崎は浅野を圧倒できる。ちなみに俺も食い殺されました。だって人狼ってやったことなかったし……次はもうちょっと健闘できると思う、たぶん。

 まあしかし、同じ本の話題ができる友人を持ってから知ったことだが、こうして感想を言い合うという行為は楽しい。前の巻の話とか先月末もゲーム通話中にしたのだが、やはり面白いと思った話題はなかなか飽きないものだ。

 と、買ってきた総菜パンを完食し、マッカンで唇を湿らせながら話を弾ませていたのだが、そこでふと気づいた。

 共通の話題を出しているはずなのに、俺と神崎しか話していないのだ。

 おいおいどうしたクールビューティ速水。確かに饒舌な方ではないが、こと本と猫の話題なら割と話す方だろお前。猫の時は話すより鳴くことの方が多い気がするが。猫をプラスするだけでクールからキュートに属性チェンジしちゃうとか、苺大好きな某アイドルみたいだな?

 などと内心弄りつつ――実際に弄ったら鋭い眼光でヘッドショットされるのでしません――顔を向けると、問題の速水は何やら険しい表情をしていた。

 え、何その表情。本の話題で雑談する時にする顔じゃなくね。何事かと神崎を目を合わせるが、訳が分からないのは彼女も同じなようで、困惑の混じった表情をしている。

 神崎も分からない、となると地雷を踏み抜いたわけではないと思われる。では何か本以外のことで頭を悩ませているのか? いやけど、さっきまで普通に話していたわけだし……。

 分からん。分からんことはちゃんと聞いて情報共有。去年学んだ大事なことである。

 

「速水……どうした?」

 

「……確認なんだけど」

 

 少しだけ考えるように視線が逸らされる。

 一瞬の静寂。風の音すら聞こえなくなりそうな緊張感が漂う。え、なに? そんなやばいことなの?

 ゴクリと喉を鳴らしたのは俺か、はたまた神崎か。

 やがて、意を決した二つの瞳が俺たちを見据え――

 

「昨日発売した最新刊って……八巻だよね?」

 

「「…………」」

 

 速水……このシリーズ、今回前後編に分かれるってことで、先月から二ヶ月連続発売なんだ。最新刊は九巻である。

 

 

「そ、そういえば、千葉は何読んでんだ?」

 

 期せずして盛大にネタバレを踏んでしまい、いじけてしまった速水を持て余してしまった俺は、話題に入らずに珍しく本を持ってきていた千葉に話題を振ることにした。逃げたとも言う。むしろ逃げたとしか言わない。自覚してるからこっち見て喉を震わせるのやめろ。

 

「読むというか見るだけど、建築物の写真集」

 

 大判サイズの本を開いてもらうと、建物内外の写真がいくつも掲載されていた。所謂デザイナーズハウスというものだろうか。一風変わった外観の建物ばかりだ。美的感覚がないのでよく分からんが、こういうのをお洒落というのだろう。

 

「こういう家って、見る分には楽しいですけど、ちょっと住みづらそうですよね」

 

 あ、神崎が話に入ってきた。速水は……もう少し時間がかかりそうですね。そっとしておこう。

 

「ま、名前の通りデザイン重視だからな。ほら、パリコレとかのファッションショーでも、こんなの着る人いるのかよみたいな奴あるじゃん。あれと同じ」

 

 千葉の言う通り、芸能人のちょっと奇抜なファッションでも眉を潜める俺からするとあの手のファッションショーで出てくる格好はハロウィンかなんかかと思うようなものが多い。けど、ファッションデザイナーとかから見るとあれがいいんだろうな。こういう建築もその手のものなのだろう。

 

「千葉も将来的にこういうの作るのか?」

 

「実際に作るかどうかはともかく、興味はあるな。ラストに詰め込まれたおかげで勉強には余裕ある方だし、設計ソフトとか触ってみるつもり」

 

 そういえば千葉も高校の内容を詰め込まれた口だったな。上位を狙うならともかく、一定ラインの成績を収めるだけなら最低限の復習でなんとかなるのなら、そういう余裕もあるか。

 

「シンプルな機能美ももちろんいいけど、こういう性能よりデザインを優先するのって、戦隊ヒーロー物の合体ロボみたいでワクワクしないか?」

 

「あー、分かる気がする」

 

 巨大怪獣と戦う性質上、巨大ロボで対抗する必要はあるが、わざわざ変形合体したり、人に似せた顔をつける必要はない。元から合体した状態で輸送するとか、合体するにしても変形させずに移動するとか、そもそも人の形から離れるとか効率的な方法はいくらでもあるはずだ。

 ではなぜそれをしないかと言えば、話は簡単。

 かっこいいからだ。

 その方が見ていて心奪われるからだ。

 

「浪漫だな」

 

「ああ、ロマンだ」

 

 そう考えて改めて見てみると……いいな。すごくいい。個人的には外観より内装の間取りの方が琴線に触れるかもしれない。この多角形の横長リビングは浪漫の塊では? 絶対住んでみたら使いづらいんだけど。

 

「あっ」

 

「お、どうした神崎?」

 

「なんか気に入った写真でもあったか?」

 

 顔を突き合わせてパラパラとページをめくっていると、神崎が何やら反応したので思わず二人して聞いてしまった。

 まさか神崎……分かるのか? この男の浪漫が。顔が良くて頭が良くてゲームが上手くて男の浪漫まで分かったらもはや神では? 実質的に鬼神では? え、鬼なんて言ってないです。聞き損ない間違いじゃないですか?

 揃って聞かれるとは思っていなかったのか一瞬キョトンとした神崎は、苦笑しながらページを一枚戻す。ちょうど写真の建物の間取り図が載っているそのページを指差した彼女は、気恥ずかしそうにはにかんだ。

 

「ここ、今ハマってるゲームの筐体がちょうど四つ並ぶなと思いまして」

 

「「…………」」

 

 やはり神崎は神崎であった。恐ろしいまでのゲーム脳。誰でも見逃さないね。

 つうか、こいつ筐体のサイズとか把握しているのか。一体どこから仕入れたんだよその知識……ま、まさか、既に家にあるのか? アーケード筐体を購入済みなのか? 一人暮らし始めたらアーケードゲーム専用の部屋とか作っちゃいそうだな。

 神崎との感性の違いが発覚してしまったため、ここは話題を変えねばなるまい。

 速水は……ダメだ、まだ沈んでおられる。速水への追い打ちも避けなくてはいけないので、本の話題はNG。ゲームの話題は当然NG。共通の話題がそこら辺に集中してるんですが。これは詰みでは?

 

「……そういえば」

 

 もう昼休み終わるまでこの微妙な空気の中過ごすことを半ば許容していたのだが、どうやら千葉が話題を見つけてくれたようだ。さすが千葉! May-beな主人公は格が違うな! ……もうあの会社なくなっちゃったけど。

 などと無駄にテンションを上げながら当の千葉に視線を向けると、本人はグラウンドの方、正確にはその隅にあるテニスコートを見ていた。

 なんの変哲もないごく普通のテニスコートでは、今日も今日とて一人で壁打ちをしているジャージ姿が一つ。同じクラスの女子、戸塚の姿が見て取れた。

 

「あの人、毎日昼休みに練習してるよな。よくモチベ続くよなぁ」

 

「そうだね。すごいストイック」

 

 ほんと、同意しかできなくてうんうんと頷いてしまう。

 俺自身が先生たちに言われたことであるが、努力することは才能なのだ。継続は力なりという諺も、継続することが誰にでもできることではないからこそ生まれたものだと思う。少なくとも天気のいい日は毎日自主練をしている彼女は、正しく努力の人なのだろう。

 しかも、本来相手がいて成立するテニスで、だ。

 一人でやって当たり前な勉強やジョギングなど俺が継続している行動と違い、対戦競技である球技の練習をひたすら一人で続ける。それを続けるには一体どれほどのモチベーションが必要だろうか。正直マネできるとは思えない。

 しかし、あれだけ練習熱心な先輩がいれば、周りも触発される気もするのだが……俺、結局部活ってやったことないからな。こういうものなのかもしれない。仮に磯貝が入っても男女で練習別だろうし……そういえば矢田も元テニス部じゃなかったっけ? あいつは部活入ったのだろうか。

 

「なんかああいうの見ちゃうと、『女子テニス部頑張れ!』って思っちゃうよな」

 

「え? あの人、男子じゃないの?」

 

 おや? なにやら神崎が勘違いしている。まあ遠目だから仕方ないか。

 

「あいつ、女子だぞ。同じクラスの戸塚」

 

「え、そうなんですか?」

 

「神崎、運動しててあんだけ細いのは渚くらいだぞ」

 

 渚、ほんと全く筋肉つかなかったからな。腕相撲で茅野と拮抗しているところを見た時にはどうすればいいのか誰も分からなかった。茅野自身も勝てばいいのか負ければいいのか分からないみたいな顔していたし。

 そういう身体的欠点を格闘術、特に絞め技で補っているので、ある程度対人戦もこなせるのが暗殺教室の優等生なのだが。

 神崎はE組時代、渚たちのグループで動くことが多かった。慣れとは怖いもので、渚みたいな例外が例外ではないと勘違いしてしまったのだろう。渚が特別なのであって、あんなある意味超生物そうそういてたまるか。

 

「あ、テニスって言えば、来月から体育の選択競技、テニスとサッカーなんだけど、二年生も同じ?」

 

「ん? あー、確かそうだったはず。いい機会だしテニスやってみるかな」

 

 自発的にやろうとしてもラケットとかボールとか、色々揃える必要があるからな。こういう機会を利用するべきだろう。個人的にはサッカーの方が楽なんだけど。素人相手なら消え放題で八幡のサッカーみたいなタイトル付きそうなレベルだし。どうも、幻の十二人目です。や、消え放題なだけでサッカースキルはお遊びレベルなんだが。

 ちなみに、速水が復活したのは昼休み終了前の予鈴がなってからだった。どんまい速水、今度三人で最新刊の感想会しような!

 




 お久(定型文

 そろそろ原作本編に絡ませたいところなんですが、ちょっとストーリー構成上後二話ほど元E組でだらだらします。次の投稿は2021年かな?

 そういえば結局コロナとかいう空気読めない子のせいで今年のコミケは完全になくなっちゃいましたね。夏コミに出す予定だった俺ガイル本はブラッシュアップしてオールジャンルのイベントで出すか、そのまま委託で出すかしたいなと思っています。原作完結後(ちょっと世界線ずれますが)の八陽です。

 それにしても暑い。40度とかインフルエンザの体温計か何かかよとニュースを見て思いました。令和ちゃんはぶっぱ技しか使えないお方……。
 皆さん熱中症には気を付けてくださいね。水分補給(普段飲みはハイポトニック飲料、ちょっとやばいなと感じたら経口補水液がおすすめ)や塩タブレット、疲労回復にクエン酸(塩タブレットにも入ってます)は常備した方が良さげですね。ほんとにやばい時は吐き気頭痛とかが出たら五苓散、口の中の乾きや体のほてりが酷い場合は白虎加人参湯が対策になるので、常備しておくといいかもしれません。飲み合わせとか各自で注意してね! この夏を乗り切っていきましょう!

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

彼は、その道を諦めないのである。

「ただいまー……っと、お?」

 

 放課後、速攻帰宅という帰宅部の鑑のようなムーブをかますと、玄関に家族のものではない革靴が置かれていた。俺のものより少し大きめのそれはしっかりと磨き込まれ、品のいい艶を出している。どう考えても親父のものではない。親父の奴はくすんでよれたものしか見たことがないからな!

 使う人間によって、物の見た目も変わるもんなんだなぁ、などと考えながらリビングへと足を運ぶ。先々週来た時にはこっちのタイミングが悪くすれ違いになってしまったようだが、会えるなら会っておかなくては。

 

「あ、お兄ちゃんおかえりー」

 

「やあ、比企谷君。久しぶりだね」

 

「ただいま。理事長もお久しぶりです」

 

 そう、この元椚ヶ丘学園理事長、浅野學峯には。

 

「もう理事長ではないよ。しがない一人の家庭教師さ」

 

「いや、正直他の呼び方が……」

 

 眉尻を下げた苦笑に、こちらも苦笑で言葉を濁してしまう。

 初対面からずっと理事長呼びだったわけで、今更変えろと言われてもなかなか難しい。浅野さん……はなんか軽い気がするし、浅野先生は俺の立場からするとちょっとずれているし……うん。やっぱ理事長でいいや。知り合いに理事長経験者とかこの人以外いないし、たぶん今後も理事長の知り合いとかできんだろ。

 さて、教育界の風雲児として名を馳せた彼であるが、去年の殺せんせー雇用やE組問題の件で椚ヶ丘を去っている。あの記者会見は我が恩師の世界的印象を悪くする意図もあって大々的にメディアで放送されたこともあり、特に教育界でのイメージはバグってプラスになるレベルでマイナスだろうから致し方ない。

 そういえば、事が済んでから色々と当時のメディアの動画や記事を律に頼んで確認させてもらったのだが、いくつかのメディアはやけに理事長を擁護していたんだよな。まさか洗脳? 洗脳なの? やっぱこの人怖いわ。擁護記事書いた人は閑職に左遷されたりしてそうだなぁ。化物に関わったのが運の尽き。ご愁傷様です。

 閑話休題。

 そんなわけで教育界から干されてしまった彼であるが、干された程度で止められるなら競争相手たちは苦労しないだろう。年度が変わったタイミングから、早速フリーの家庭教師として動き始めた。

 と言っても、流石に大々的なものではない。今のところ請け負っている生徒は元教え子の兄弟や親戚に絞っているようだし、一人当たりの頻度は二週間に一回程度。まあ、頻度が少ない理由は資格取得などして改めて自分の能力を向上させたいかららしいのだが。これ以上能力上げてどうするのだろうか。向上心の塊すぎる。

 そんな彼がここにいる理由はもう言わずもがなといったところであるが、教え子の一人が小町だからだ。

 俺が理事長の元教え子になるかと言われると首を捻りたくなる部分もあるが、うちの両親は去年一年の俺の変化もあり、理事長や殺せんせーへの印象は悪くなかったようだ。というか、当時のE組の親の大半は彼らに悪感情を持っていない。実際矢田や磯貝の兄弟も生徒のようだし。これは手入れが行き届いていますね。ほんと、アフターケアまで完璧な先生だこと。

 後、単純に小町の成績がね、やっぱ不安だよね。

 

「小町の方はどんな感じですか?」

 

「ああ、この二週間はしっかり勉強していたようだね。最低限の知識の定着はできていそうだ」

 

 にこやかな笑顔と共に数枚のプリントを渡される。内容に目を通してみると、理事長お手製であろう小テストだった。パッと見た感じだと、正答率七割といったところか。

 さすがに二週間に一回では教えられる量にも限界がある。いくら理事長が通常の十倍分かりやすい授業を二十倍速く教えることができるとは言っても、肝心の小町がついていけなければ意味がない。椚ヶ丘の秀才集団であったA組でギリギリついていけるかどうかなレベルにうちのアホの子が耐えられるわけがないのだ。

 というわけで、家庭教師のない日は通い始めた塾や自学で下地を作り、理解の浅い点を理事長が補強する。という基本方針でやっていくようだ。正直布陣が完璧すぎる。なんならこの時点で総武高校合格は決まったようなものといっても過言ではない。本人が慢心しないように言わないけど。

 いやしかし、これが“最低限”……か。

 

「あの、理事長」

 

「ん?」

 

 別の小テストに取り組みだした小町に聞こえないように気をつけながら、教育の化身に尋ねてみることにする。

 総武高校へ合格するだけなら、彼が教える時点でほぼ確実といっていい。竹林のようにプレッシャーでミスをしてしまった、などがない限り問題はないだろう。自分の受験成績から合格者の正答率を類推すれば、基礎が七割で最低限、というのも理解はできる。

 ただ……それをこと教育というジャンルに関しては妥協を許さないこの人が口にするのは意外だったわけで。

 

「ちょっと物足りなくありません?」

 

「…………ふふ」

 

 思わず尋ねてみて、ちょっと後悔した。

 理事長は少し笑っただけ。しかし、その笑みは何度も見たことがあるものだ。

 そう、殺せんせーと戦う時に必ず見せていた無邪気な、それでいて黒い笑みだ。何かとんでもないことを企んでいる時の笑みだ。

 おっと、これはマズいのでは? うちの妹とんでもないことになるのでは?

 内心冷や汗を流す俺をよそに、湯気の立っていないカップを優雅に口へ運んだ家庭教師様が小さく喉を鳴らし、琥珀色の液体を嚥下する。なんかこう、あまりにも仕草が優雅すぎて貴族に見えてくるレベル。今補正で頭に“悪徳”ってつく貴族だけど。

 

「今の段階で最低限というのは嘘ではないさ。最終的に満点が取れるようになればなんの問題もない」

 

「やっぱ、主席合格させるつもりですか……」

 

 まあ、去年のテストを見て他校にテコ入れしちゃうような人だからなぁ。ただの合格で満足しないよね。

 そもそもの話、学校のレベルとは生徒のレベルによって変動していくものだ。テコ入れしてテストだけ難しくなっても、生徒が付いていけず平均点が落ち込んでしまえば意味はない。生徒に合わせる為、テストのレベルを下げざるを得なくなってしまう。

 それならどうすればいいか。一人でも多く入学者のレベルを上げてしまえばいいのだ。

 幸い、今の一年は元E組も多く在籍していることもあり問題はない。そこで次に白羽の矢が立ったのが今の受験生、というか小町なわけだ。コミュニケーション能力のある小町が人に教えられるくらいの成績になって入学すれば、周りを引き上げることに繋がるとも考えているのかもしれない。

 いやしかし、去年の小町ちゃん、結構やばい成績だったんだけれど……。

 

「安心しなさい。君に似て元々の頭はいい。一年かければ無理なく目標達成できるだろう」

 

「まあ、無理しないならいいですけど」

 

 頭が良くて困ることはない。妹の才能を引き出してくれるというなら、家族としても大歓迎……のはずなのだが。……なんだろうね、この拭いきれない恐怖感。いや、杞憂なんだろうけどさ。

 

「エンジンをかけるのは、夏休みに入ってからだね」

 

 杞憂……だといいなぁ。

 一抹の不安を抱きつつ、マッカンを飲んで誤魔化すことにした。さすがマッカン、不安すらかき消してくれる。糖分は幸福成分だからね。

 

「ん?」

 

 マッカンに感動――現実逃避ではない。絶対にない――していると、スマホが振動する。震え方からして、律からのアクションだ。

 

「こんにちは、理事長先生!」

 

「やあ、律さん。可愛らしい制服だね」

 

 ポケットからスマホを取り出すと、総武高校の制服に身を包んだAI娘が顔を出した。そして理事長がナチュラルに服装を褒めた。やっぱイケメンはアクション一つ取ってもイケメンですね。

 

「聞きました、八幡さん? ネットやドラマでも数多く見ましたが、やっぱり今のが正しい反応ですよ! 投げやりにあしらうのは間違ってますよ!」

 

「根に持ってるなぁ、お前……」

 

 恐らく初めて制服姿を見せてきた時のことを言っているのだろう。律はプンスカプンスカとあざとさ倍、エフェクトマシマシで不機嫌を主張してくる。視覚的に感情が分かりやすいのだが、そういうとこだぞ。

 

「比企谷君、それはあまりよろしくないな。相手のいいところを見つけ、それを褒めるというのは大事なことだよ。気の置けないやり取りももちろん大事だが、そればかりではいけないんだ」

 

「う……確かにそうですけど……」

 

 おっと、なぜか理事長が乗ってきた。しかも不利な状況に追い打ちかけてきた。理事長、もう勝負ついていると思うんですけど。

 まあ、言われていることはよく分かる。理事長に至っては彼の教育の本質だし。

 ただ、理解できるし、大事なことなんだが……それを実践できるかと言われると難しい。特に俺のような捻くれた人間には些かハードルが高いのだ。

 

「お兄ちゃんは人を見るの得意なのに、それを伝えないからタチが悪いんですけどねー」

 

「……うっせ」

 

 ついには小町まで下手くそにペン回しなんぞしながら会話に混じってきて、後一人いたらリアル四面楚歌状態である。なんなら小町の言が的確すぎて二面分担っているまである。

 元々人間観察が趣味などと言っていた――痛い――時期もあったし、実際にステルススキルのために観察力も鍛えてきた。あの教室のおかげで、それまで粗探しに使っていたその技能で、相手の長所を見ることもできるようになってきた。

 けれど、見えることとそれを褒めることはまるで違う技能だ。後者をスマートにこなす能力は、まだ俺にはない。まず羞恥心に勝てない。

 

「お兄ちゃん絶対心の中ではE組の皆ベタ褒めですからね」

 

「いいからお前はさっさとテスト終わらせろ」

 

 なんなの? こいつ読心術でも使えるの? なに? お兄ちゃん限定? はーーーーそういうところだぞお前。

 これ以上余計なことを言わせないようにテーブルに齧り付かせてやろうかと腰を浮かせると、当の小町は一瞬表情を引きつらせ、速攻で勉強に戻ってしまった。結果、残されたのは半端な姿勢の兄だけである。

 

「ふふふ、比企谷君は小町さんから学ぶことが多そうだ」

 

「否定はしませんけど……」

 

 クツクツと喉を震わせる理事長に思わず口を尖らせる。実際、俺を反面教師としてハイブリットぼっちという新ジャンルを確立させた小町から学べることは多いだろう。そもそもこいつが俺の対人能力の基礎だしな。頭が上がらないのである。

 はあ、なんかどっと疲れた。せっかくだから俺もここで勉強しようかしら。昨日解いた問題集で理解がふわふわしたところがあったし、ついでに理事長に教えてもらおう。……追加料金とか発生しますか?

 

「そういえば、律さんは何か私に用があったのではないのかな?」

 

「そうでした。実はこちらなんですが」

 

 適当に放っていた鞄から勉強道具を取り出していると、律がスマホの画面に何かを表示させ、理事長に見せていた。ナチュラルに俺のスマホに色々データを入れている点はツッコむまい。なんならパソコンの方は俺の把握し切れていないデータのせいで容量がカツカツになっているまである。割と真面目にパソコンの拡張を検討しているところだ。

 で、一体なにを見せているのだろうか。

 

「全国の問題集や総武高校と同じレベルの学校の試験を参考に、私なりに問題をいくつか作ってみたので確認してもらいたいんです」

 

 うわ……。

 画面の内容を理解して、声に出さなかった自分を褒めてやりたい。

 手のひらサイズの画面はびっしりとテストを想定したような問題で埋め尽くされていた。いくつか、なんて言うから試しに数問程度と思っていたが、ファイルのページ数を見ても既に問題集一冊分くらいはありそうだ。このAI娘、“いくつか”の意味を勘違いしているのではないだろうか。

 そしてざっと中身に目を通した――速読で内容全部理解してそう。怖い――理事長は……両の瞳をキラキラと輝かせた。

 

「素晴らしいよ、律さん。まだ荒削りな部分はあるけれど、十分買い取らせて欲しいレベルの完成度だ。いや、むしろ今ここで買い取らせて欲しい」

 

「理事長先生でしたら無料でもいいのですが」

 

「無料はいけない。対価を支払うということは重要なんだよ」

 

 物の十数秒で売買契約が締結されてしまった。理事長が即決すぎる。

 しかし、当然といえば当然の反応と言えるだろう。膨大な過去問や他問題集のデータがあれば、類似問題の作成なんて思考力がリアルスパコンな律にとっちゃ朝飯前。そんな彼女が作り出したオンリーワンの問題集なんて、日々生徒のために自作問題を作っている理事長には垂涎ものに違いない。問題作りって結構時間かかるだろうし。

 

「私も、小町さんのお役に立てればと思いまして」

 

「助かるよ。流石に自己研鑽もしていると、問題の作成を全て一人で、というのは限界があってね。少し困っていたんだ」

 

 再び問題集を流し見し始めた理事長はお気に入りのおもちゃで遊ぶ子供のように楽しそうだ。ほんと、教育に関して筋金入りなんだよな、この人。全然違う造形なのに、不思議とその表情が恩師と重なって見えて、こちらも自然と口元が緩む。

 

「これなら……もう少しペースを上げることもできそうだ」

 

「…………」

 

 ぼそりと、誰に聞かせるでもなかろう呟きは空耳だったということにしておこう。小町、お兄ちゃんは何も知らない。何も悪くない。そう、何も悪くないんだ。

 ちなみに、質問は無料で受けられた。めちゃくちゃ分かりやすくて完璧に理解できたのだが、間髪入れずに類似問題を取り出されたことだけが気がかりである。俺が躓くことが分かっていたのだろうか。予知能力まで身につけたんですかね。




 今回は理事長のその後でした。やったね小町ちゃん! ほぼ確合格コースだよ!(暗黒微笑

 原作でも書かれてましたが、理事長は数年で地位復活させそうだなと思います。なんなら新しい城で渚を雇用とかね、あると結構アツいなって。
 ついでに律ともタッグを組んでもらって、今年は小町を完璧に仕上げてもらおうと思います。大丈夫だ小町。ちゃんと夏休みに千葉村には行かせてもらえるから。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

★New★たまには新しい出会いも重要である。

 パラリ、パラリとページをめくる。紙の束の上では少年少女たちが心躍る青春を送って躍動している。一ページごとにこちらを侵食してきて、弾む非現実に意識がのめり込んでいく。

 物語に没入すると、余計なことは考えることはない。だって、今この瞬間だけは、自分がいるのはこの本の中の世界なのだから。

 しかし、本は本。最後のページは必ずやってくる。魔法は緩やかに解けていく。

 そして現実に戻った時、俺たちはこう口にするのだ。

 

「「尊い……」」

 

 深く長い息を漏らし、ゆっくり丁寧に書籍をテーブルの上に置く。日焼けで少し色の褪せたものでも、大事なものだ。丁重に扱わねばならない。これは本というものを作り出した人類の義務なのだ。過言か? いや、過言ではない。決してない。

 顔を上げると、先ほど声の重なった倉橋と目が合った。滲み出る幸福感から表情筋をだらしなく緩ませた彼女は、もう一度口の中で同じ言葉を転がした。

 

「はっちゃん。私完璧に分かった。これが“尊い”って感情なんだね」

 

 分かるか。分かってしまったか倉橋。ようこそこちら側へ。ここから先は、居心地のいい沼だよ。

 今日は休日。俺たちは磯貝の家で“古本屋ガチャ”に興じている。

 古本屋に行ったことのある人は、そこに百円で売られている本を見たことがあると思う。理由は人気がなかったり、状態が悪かったりと様々だと思われるが、そこから無差別に選んで買うという遊びだ。駄作に当たっても損害が百円なのがお手軽だし、たまに思いもよらぬ名作と出会えるから侮れないのだ。

 

「おお、倉橋の奴。マジで当たりじゃん。え、むしろこれが百円ってマジか」

 

 何を読んだのか確認してみると、ちょっと前にSNSでバズった漫画がそのまま商業作品になった人の過去作だった。俺も今の作品を見てから気になっていた奴だ。

 

「これ、続きないの?」

 

「一巻のみですね。どうやら部数が振るわなかったようです」

 

 律の回答に倉橋はがっくりと項垂れる。どうやらよほど気に入ったらしい。まあ、気に入らなきゃ俺に倣って丁寧に古本をテーブルに置いたりもしないよね。なんなら小動物をかわいがるみたいに表紙撫でてるし。

 しかし、これも現実。中身が面白くても売れない時は売れないのが創作物の難しいところよな。全国の作家の皆さんには頑張っていただきたい。

 ……いやまあ、なら古本屋じゃなく書店で買えという話なのだが、これはガチャだから。別の遊びだから許してほしい。

 

「うーん……」

 

 さてさて、元々気になっていたし倉橋の方の本を読んでみようかなと思っていると、不満げな唸り声が聞こえてきた。声の方に顔を向けると、自分の選んだ分を読み終えたらしい不破が、しかし悩ましそうに眉間に皺を寄せている。

 

「どしたの?」

 

「いや、作画はいいんだよね。コマ割とかも丁寧で内容も分かりやすいの。けど……今一つ盛り上がりに欠けるというか……」

 

 コテンと首を傾げた倉橋に少々女の子がするべきではない苦い顔を浮かべた不破は、不完全燃焼感を発散するように畳の床に身体を投げ出す。たぶん一人だったら意味もなくじたばた暴れていたことだろう。俺もたまにある。そして小町に怒られる。

 痒いところに手が届かないというか、微妙に噛み合わないというか。そういう作品はたまにある。作者が神の世界なのだからこういう言い方は違うと思うのだが、解釈違いみたいなものが発生するのだ。そういうズレの集合値が最終的に続きを読むか否かにかかってくる。結構重要な要素だ。

 不破は特に少年漫画のような熱い展開のものを好んで読んでいる。そういう点で、ストーリーの抑揚は重要なファクターなのだろう。

 

「あー、不破の本それか」

 

「小説が原作ですね」

 

 本のタイトルを見たら、不破のもやもやに納得がいった。この原作は読んだことがある。毎巻中盤までロードムービーのように緩やかな話が続き、終盤で一気に超展開をかますのがウリの話だ。

 大体、小説一巻分の話を漫画にすると、単行本二、三冊くらいになる。一巻だけでは良くて中盤。ロードムービー展開しか描かれていないはずだ。そりゃあ、不破が微妙な顔をするのも納得がいく。

 けどね、それ面白いんですよ。あまり漫画向きではないと思うが、間違いなく面白いんです。むしろ面白いからコミカライズしたわけだし!

 

「不破、休み明けに原作貸すよ。絶対お前はハマる」

 

 これでも一年近く不破とおすすめ本交換を続けてきた身。不破の気に入る“ツボ”はほぼほぼ把握している。毎巻終盤に展開される怒涛の展開は、それまでのスローテンポも相まってがっつりこいつに刺さるはずだ。

 なお、現在連載中の既刊二十三巻。ようこそ不破、当分毎日睡眠不足だよ。

 

「比企谷君が言うなら間違いないかな。楽しみにしてるー」

 

 未だ自分の突っ込もうとしている沼の深さを知らずに呑気な顔をしている不破に内心口元を緩める。決して悪い笑みは浮かべていない。マジでマジで。

 そんな風に感想なりなんなりを話していて、ふと一人反応していないなとその人物の方を見る。この部屋の主、磯貝だ。

 それぞれブックカバーをつけた――主に俺と不破が不意のネタバレなどをしないように――為、誰が何を読んだかは分からないのだが、磯貝の漫画が一番薄かったはずなのだ。他のメンツも特段速読を使ったわけでもないから、単純に考えればいの一番に読み終えるはず。しかも会話にあまり入ってこないタイプでもない。どころか、むしろ自分から会話を回す方だ。

 それがやけに静かなもんだから、どうしたのかと不思議に思うのも当然だろう。

 

「「「!?」」」

 

 磯貝は、未だ漫画を開いていた。そして眉間に深い深い皺を寄せていた。

 もっと正確に言うならば、瞳にありありと困惑の色を浮かべていた。

 三人揃って戦慄する。竹林のメンタルケア動員率の高さから見ても分かる通り、磯貝はオタク文化に対してかなり寛容な方だ。多少お色気描写の強い青年漫画を読んだ時もあまり気にした様子はなかった。

 それがあの表情……一体何を読んだと言うのか。

 声をかけるのも憚られ、揃ってそっと磯貝の後ろに回り込み、開かれたページを覗き込む。

 …………。

 

「「あぁ……」」

 

 納得したのは俺と不破。もう絵柄を見ただけで磯貝の表情の理由が分かってしまった。たぶん、今俺は不破と同じく「やっちまったな、お前」みたいな顔をしているに違いない。

 とりあえず、すごすごと元の席に座り直す。

 

「二人がそんな顔をするなんて……そんなにやばいのなの?」

 

「や、やばいというか……」

 

「なんというか……」

 

 一人納得できず、ただただ俺たちについてきた倉橋が尋ねてくるが、こちらもどうも曖昧な返事になってしまう。どうにも表現しづらいのだ。

 

「人気がなかったの?」

 

「人気は……あるはず。連載中かは知らないけど、複数巻単行本化してたはずだし……」

 

「アニメはネットでかなり人気あったな……」

 

「え、じゃあ超当たりじゃん!」

 

 うん、まあそういう表現もできなくはない。アニメ化して、複数巻書籍化。それが百円だ。当たりもいいところだろう。

 しかし……どこにでもイレギュラーというものは存在するのだ。してしまうのだ。

 

「不破、お前原作読んだ?」

 

「連載中かも知らないんだよ? 読んでないよ……」

 

「だよな。俺もアニメは割と楽しんだけど、原作までは手が伸びなかったし。竹林もアニメだけだったはず」

 

 E組のオタク趣味に明るい三人がこぞってアニメのみ。逆にアニメは三人とも見てるんだよなぁ。

 確かにアニメは面白かった。SNSでも話題だったし、漫画の切り抜きもたまに目にする。

 しかし、アニメが人気だったからと言って、原作が面白いとは限らないのだ。

 より正確に言えば、原作が万人に理解できるとは限らないのだ。

 だって、アニメもパロネタや声優ネタが面白かったのであって、ストーリーはなにやってるのかよく分からなかったんだもん……。あれで原作を読みたいとはちょっと思えないもん。

 だが、これをどう伝えればいいのか。そもそも読んでいない原作を批評することはできない。

 ……けど、あの磯貝の顔が全てを物語ってんだよなぁ。

 

「なんか気になってきた。後で読んでみる」

 

「「やめておけ」」

 

 答えを曖昧にしたせいで倉橋の好奇心を変に刺激してしまったらしい。慌てて二人がかりで止めに入る。

 いやだって、磯貝に理解できないなら、同じ一般人たる倉橋に理解できる道理はないのだ。あれは特殊な訓練を受けたオタク向けの漫画だよ。俺と不破も訓練されたオタクではなかったので、ここに適合者はいないのである。

 

「そ、そうだ! 比企谷君の本はどうだった?」

 

「ん? ああ……」

 

 なんとかして話題を逸らそうとした不破がこちらに話題を振ってきた。突然問いかけられたため、一瞬反応が遅れてしまったが、俺としてもなんとか倉橋の興味をこちらに引きたいところだったのだ。渡りに船とばかりに本を手に取り、カバーを外した。

 まあ、というか――

 

「これは、いいぞ」

 

 正直そんなもん関係なく語りたくて仕方なかっただけなのだが。

 名作である。神の所業である。運命と言っていい。

 とりあえず、帰りに続きを全巻購入することを固く誓いながら、二人に布教活動を始めたのであった。

 

 

 

「そういえばさ」

 

「ん?」

 

「はっちゃんと磯貝君って、本当は殺す派と殺さない派、どっちだったの?」

 

 あの後、俺たちの倍近い時間をかけてなんとか読破した磯貝を俺の読んでいた本で回復させつつだらけていると、突然倉橋がそんな質問をしてきた。

 

「あー」

 

「あれかぁ」

 

 殺す派、殺さない派。それを聞いて思い出すのは、去年の三学期が始まった直後にあったサバイバルゲームだ。

 ターゲットの正体、その過去を知ったからこその意見の分裂。二つの派閥に分かれて、相手と自分を納得させる本気のぶつかり合い。

 そこで殺さない派に所属した俺と磯貝は、しかし裏では舞台を整えることを最大の目的として暗躍していた。

 バレてたか。まあバレるよな。あの対戦、ただ勝ちを狙うのなら神崎脱落後に俺をスポッターにするのは、得策ではない。一応赤羽を陣地に張り付けさせるという効果はあったが、それよりも動いて消えるアサシンをフィールドに放した方が敵全体を警戒させ、動きを鈍らせることができただろう。

 しかし――

 

「本当に殺さない派だったよ。助けたいから助けたい。自分で言った言葉に嘘はないよ」

 

「俺も同じだ。実際、殺さないですむ可能性は確かにあったわけだし、それなら試すべきだと思ったよ」

 

 ただ単純に助けたいと思った磯貝とあの時既にアメリカ第十三研究チームに行きついていた俺。何度あの日を繰り返していたとしても、きっと同じ選択をしていただろう。そして場を整えるという裏ゴールへ向かっていたとはいえ、その中で全力で戦っていた。そこに嘘はない。

 というか、全力で戦わないと無理でしょあんなの。高機動力の木村と岡野、異次元の射撃能力を見せた千葉と速水、単純に能力が高い上に機械兵器の投入もありえた堀部、菅谷の迷彩は脅威だったし、結束の固い寺坂組を中村が補助すれば、片岡並の小隊能力が想定された。しかもリーダーである赤羽は司令塔までこなせる完璧超人。なんだあれ、ボスラッシュかよ。

 

「それでも、渚君とカルマ君の戦いに持ち込みたかったの?」

 

「そりゃあ、そうしないと“全員”が納得できなさそうだったからな」

 

 不破の質問に答えると、磯貝も同調して頷いた。

 あいつら同士がぶつかり合わなきゃ、ゲームの決着がついてもなにかしらの軋轢が残っていただろう。それじゃあ意味がない。一丸になれない。

 故に、あの対戦カードは絶対必須。赤羽が殺す派リーダーとして司令塔になることを考えれば、必然的に最終形をそこに持っていく必要があった。

 だからあの時は二人して必死に脳みそをフル回転させていた。しかも連携していることを悟らせないという縛り付き。さすがに動きながら戦場のコントロールまでする能力は俺にはない。磯貝もそれが分かっていたから、スポッターに専念するよう指示を出したのだ。

 まあそもそもの話、常にこちらが不利だったわけで、俺たちの望む最終形はそのまま自軍が勝ちを望めるパターンの一つを目指すことと同義。途中何度もミッション失敗の文字が頭をよぎる中、がむしゃらに戦場コントロールをしていたのが実情だ。

 

「特に三村と狭間はほんと想定外で……」

 

「しかも、杉野が落とされたのはマジできつかった」

 

「あぁ……面目ない」

 

 同じく狭間に落とされた不破がガクリと肩を落とす。いや、あれは仕方がない。ものの見事に隠し持っていた爪に刈り取られたのだ。まさか狭間がペットの蜘蛛の動きを模した暗殺術を模索していたとは。数ヶ月早く形になっていたら割とガチで暗殺に組み込まれていたと思う。

 そして狭間進軍のきっかけになった三村のスポット。クラスの大半が、二人は暗殺準備や企画立案で輝くタイプだと思っていただけに、その二人の才能、努力を的確に活かした赤羽の慧眼には恐れ入る。あいつほんといくつ才能持ってるんだ。このまま椚ヶ丘で揉まれればさらに弱点がなくなるのかもしれない。……いや、割と敵を作りやすい癖はなくならないかもしれないが。この間の罠のこと、忘れてねえからな。

 とまあ、背筋が凍る場面も多々あったが、なんとか俺か磯貝が最後に残って赤羽と渚のタイマンを作るという目標を達成したわけだ。

 

「ま、あの後殺せんせーにはちょっと注意されたけどね。周りのこと気にしすぎだって」

 

「周りのこと含めて俺らの意見だったからどうしようもないけどな」

 

 顔を紫にしてバッテン印を浮かび上がらせた恩師を思い出す。そもそも争いの原因が仲裁や注意してくるって改めて考えると意味分からんな。そういう先生だけどさ。

 助けたかったし、二人が納得できる結末が欲しかった。周りを気にしたというより、二つとも達成できないとこちらが納得しない。つまりは自分の為に選んだ方法だった。

 

「実際あの後二人は一段と友情が芽生えたわけだしね!」

 

「ふーん」

 

 なにやら不破の少年ジャンプ魂に火が付きかけている。ほんとジャンプっ子って友情・努力・勝利好きよね。や、俺も嫌いじゃないけど。

 逆に倉橋は納得しきれていないようだ。微妙に眉間に皺を作り、瞼を浅く閉じている。あの時のことを思い出しているのだろうか。

 しばらく考え込んでいた倉橋は「でもさ」と大きな瞳をまっすぐ向けてきた。純粋な疑問を持った双眸が、自分の視線とぶつかる。

 

「二人の勝負ってギリギリだったし、ひょっとしたら殺さない派が負けてたかもしれないよね? そしたらはっちゃんと磯貝君の目標は半分しか達成できなかったわけだけど……それを最後に任せちゃってよかったの?」

 

「ああ、そのこと」

 

 確かに、純粋な暗殺者である渚と戦士である赤羽。実際のバトルはどちらが勝ってもおかしくなかったし、単純に考えれば戦闘センスのずば抜けた赤羽が有利だったろう。まあ、あれだけのガチンコ勝負を見せられれば、負けたとしても納得できるとは思うけど。

 とはいえ、この計画を決めた理由はもっと単純だ。

 

「「渚に賭けてたからな」」

 

 窮鼠猫を噛む。

 追い詰められた時こそ、潮田渚という暗殺者は一番輝くのだ。




 故に、ガチャはいい文明なんだ(洗脳済み

 どうも、私です。
 
 引っ越してからは近場に古本屋がないのであんまりやってませんが、古本屋ガチャは面白くて好きです。安価で暇潰しにもなるとか最強では?
 まあ、最近はその代わりみたいな感覚でニコニコ静画の漫画を適当なワードで検索して読んでみたりって遊びをしたりしています。こっちはなんとタダ! お得!
 まあ、試しに数話読んでそのままkindleで全部買ったりするんで、逆に出費かさむんですけどね。

 一応E組編でも軽く触れてましたが、八幡と磯貝はサバゲー開始段階からずっと渚対カルマの構図を目指していました。なので、最終局面で残ったのが磯貝でも、カルマと相対したらすっと退場していましたね。
 まあ、単純にカルマの底が知れなさすぎるんで、絡め手のある渚が磯貝や八幡よりそもそもの勝機があるんですが。彼は将来、財務省でどんな手腕を見せるんですかね。

 ところで、前の話を投稿した後体調が悪くなり、38度越えの発熱が出てしまい四日ほど潰れていました。疲れかなぁ。熱中症かなぁ。
 まあ、それはいいんですが、会社からやれPCR検査した病院から陰性証明書もらえとか診断書もらえとか会社の担当医の診断書もらえとか色々言われ、当分在宅勤務になりそうです。(最大二週間
 ただの風邪でこれだぜ? やはりコロナ許すまじ。
 というわけで、皆さんも風邪には気をつけてください。

 それでは今日はこの辺で。
 ではでは。


目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。