漆黒に寄り添う癒やしの色〈恋愛編〉 (ほしな まつり)
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01.中央市場(1)

城には王がいて、その下には貴族や騎士がいて、更に下には一般庶民が城下で
ごく普通の生活を営んでいる。
王都から馬を走らせれば貴族達の治める領地が広がり、その先には海や山が
あり、他の国へと続いている。
そんな世界でキリトとアスナが出会ったら……。


城下の中心に位置する広場の一角には常設の市場として様々な品物を扱う店が所狭しと

建ち並んでいた。

一角といっても国内では一番規模の大きい『中央市場』の名を持つ市場だ。

アインクラッド王国に属する広大な土地は穏やかな気候に恵まれており、それぞれの

貴族達が治めている領地からは多種多様な野菜や木の実、果実に穀物、肉や豆、そして

香辛料を中心とした調味料をはじめ、それらを使った加工食品がこの中央市場に卸されていた。

毎日、早朝から売り手と買い手が商品のやりとりをし、それが終わる頃には城下で生活をして

いる市井の民や貴族の屋敷で働く使用人達が新鮮な食材を求めて市場を訪れる。

その後も市場にやってくる人々は絶えることなく、太陽が頭上に上がる頃にはあちら

こちらから肉を焼く香ばしい香りや、焼きたてパンの優しい香りが行き交う人達の胃を

誘惑していた。

 

「こんにちは、エギルさん」

「やあ、いらっしゃい、エリカちゃん。今日は何をお探しだい?」

 

市場の中心部近くにある一軒の店先に鈴を転がすような声の主が立っていた。店内には色も形も

様々な果物が瑞々しい光沢を備えそれぞれの箱の中で行儀良く収まっている。

頭からすっぽりと煉瓦色のフード付きロングマントを羽織っている彼女は、その容貌は

もちろん体つきさえ華奢な肩幅からしかうかがい知ることができない。それでも背筋の伸びた

綺麗な立ち姿にしなやかな所作、加えてマントの端からのぞく手の甲と細い指はシワひとつ

なく、それら全てが年頃の娘を示唆していた。

深めのフードから見えるのは彼女の鼻と口元のみだが、色白の肌にスッとした鼻筋、細い

おとがいの少し上にある薄い桜色の唇は屈託もなく禿頭の店主に微笑みかけている。

彼女は腰をかがめて目の前にある商品を左から右に眺めると、改めて顔をあげた。

 

「そろそろ今年のリンゴが入荷したと思って来てみたんですけど……まだ種類が少ない

ですね」

「ああ、出回り始めたばかりだから、まだ出そろったとは言えないな」

 

彼女の視線の先にはリンゴの詰まった箱が種類別にいくつか置いてある。

その周りにもブドウやオレンジ、洋ナシにマーシュやベリーが並んでいたが、彼女は

見向きもせず一心にリンゴを見つめていた。

 

「ガヤムマイツェン領でとれたリンゴは?」

「ああ、それならこれだ」

 

そう答えながら店主のエギルは仕入れたリンゴの中では比較的小ぶりなサイズばかりが詰まって

いる箱からひとつを取り出した。

 

「やっぱり、その見事な赤だと思いました。でも今年のは小さめですね」

「そうなんだ。毎年一番人気だから今年も期待していたんだが、色艶はいい、収穫量も

いつも以上だ。その代わりサイズが小さく、果肉がかなり硬めで何より酸味がキツすぎる。

花が咲く時期までは順調だったらしいんだが、その後やけに涼しい日が続いたせいで

実が成長しきれなかったんだな。どうにも客にも勧めづらくて困ってるところさ」

 

浅黒い肌で体躯の良い店主はいつもの人好きのする笑顔とは違う苦笑いを浮かべて

持っていたリンゴを大きな手の中で器用にナイフを使い皮を剥き、一口大に切ってから

「ほら」とエリカの前に差し出した。

リンゴの角を小さくかじり、口に入れたエリカはシャリシャリと音を立てて何回も咀嚼すると

こくん、と飲み込んでから頷く。

 

「確かにかなり酸味がありますね。でも果肉はしっかりしているから逆に煮ても崩れる

心配はないと思います。このまま食すのはいささか無理でもパイにするにはもってこいの

素材だと思うんですが……そうだっ、エギルさん、リンゴと一緒に蜂蜜も仕入れています

よね?」

 

口元だけでもわかるほど満面の笑みとなったエリカは、はしゃいだように言葉を続けた。

 

「リンゴを煮る時、お砂糖と一緒にガヤムマイツェンのリンゴの蜂蜜を加えるといいと

思います。サッパリとした甘みの中にこくが出ますから」

「なるほどな……助かったよエリカちゃん。ガヤムマイツェンのリンゴを仕入れた他の

店にも伝えておこう」

 

顎に手を添えたエギルが感心したように何度も頷いてみせた。同じ産地のリンゴと蜂蜜なら

相性も間違いないだろう。エリカは微笑んだまま他のリンゴをしげしげと眺めている。

 

「それと……アーガス領のリンゴはまだなんですか?」

 

その問いを聞いたエギルの顔が途端に曇った。店主の変化に気づいたエリカが問うように

首をかしげる。エギルは膝を曲げて彼女の顔に自分のそれを近づけると声を潜めて口を開いた。

 

「今年は仕入れなかったんだ」

 

エリカが再び問いを発せずとも、エギルは言葉を続けた。

 

「最初はいつも通り仕入れる予定だったんだがな、商品を見たらなんだか妙に腑に

落ちないというか……何かひっかかる気がして」

「……変色していた……とか?」

「そうじゃない。色もいい、形もいい、艶もあるし収穫数も例年通りだ……味は

わからんけどな。けど……名産地と言われるガヤムマイツェンでさえ今年の出来は

上々にほど遠かったんだ。気候がそれほど違うとも思えないアーガスのリンゴに

全く影響がでてないのはおかしいだろう。それに並んでいるリンゴが不気味な程

同じ大きさで同じ色だったんだ……なんか、こう『作った』と言うより『作られた』と

いう感じがして……それで今年の仕入れはやめにした」

「あそこは栽培技術の研究が盛んですからね」

「ああ、ただその熱心さが変な方向に向いてなきゃいいんだが……この中央市場の品は

騎士や貴族といった政に関わる人間の口に入る場合も多い。納得のいかない物を扱うわけ

にはいなかいさ」

「……そうですね。では、ガヤムマイツェンのリンゴをみっつと、あと蜂蜜もください」

「おうっ」

 

威勢の良い声を上げたエギルは紙袋にリンゴを詰めると別の袋に蜂蜜を入れながら「パイの

アイディアのお礼だ。蜂蜜はおまけにしとくよ」と言ってウインクをした。




お読みいただき、有り難うございました。
もともとこちらの『ハーメルン』様で投稿してます「ソードアート・オンライン」の
キリアス・エピソード集《かさなる手、つながる想い》にアップするつもりの
作品でしたが、いささか長編になりそうなので別枠を設けさせていただきました。
記念すべき(?)第1話ですが「キリト」も「アスナ」も記載できず……記載どころが、
キリトに至っては気配すら伺えず……これは余りにも淋しいので、第2話も続けて
投稿させていただきます。
よろしければもう少しお付き合いください。


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02.中央市場(2)

続いてエギルの店にやって来た客は……。


エギルの店からリンゴと蜂蜜の入った袋を大事そうに抱えたエリカが立ち去ると、ほどなくして

今度は真っ黒なトレンチコートを纏った若者が店先に現れた。

果物屋の店主は意味深な笑顔を見せると彼との距離を縮めて声をひそめる。

 

「これはこれはガヤムマイツェン侯爵様ではありませんか。本日は一体どのようなご用件で

しょうか?」

「……エギル、その呼び方と話し方、や・め・ろ」

 

大げさな態度にうんざりしたような顔で店主を睨み付ける。何も知らない人間が二人の会話を

聞けば、この一見女性かと見まがうくらいの女顔をした若者が侯爵?、と耳を疑うところだが

はるかに年上であろう店主に対するその態度はまさに多くの領民を統べる者のそれだった。

侯爵と呼ばれた若者は刃物のような視線を一旦遮断するように目を閉じて大きく息を吐き出すと

次にエギルを見つめる眼差しは微苦笑となっている。

 

「今年のうちのリンゴの出来が……あまりよくないと報告があった……」

 

弱々しい言葉にエギルも苦笑いとなる。

 

「それでわざわざ領主様みずから市場に?……お前も苦労性だなぁ」

 

苦労性との評価に気分を害したのか、ことさら強く反論を示す。

 

「べ、別に……市場にはしょっちゅう来てるだろっ。ちょっと気になったから寄った

だけだ」

「はいはい、寄っただけね。その割に少し前からずっとこっちの様子を覗っていたように

見えたが?」

 

確かに侯爵の風貌は真っ黒のロングコートとブーツ、手には黒の指ぬきグローブで少し

長めの髪は闇のような黒だ。肌の色は男性にしては白い部類に入るだろう。その為か顔は

コートの襟を立てて見える面積を極力少なくしている。物陰に隠れればそう簡単には目に

とまらないはずだが……残念ながらこの一癖も二癖もありそうな果物屋店主には丸見えだった

らしい。

侯爵はバレているとも気づかず身を潜めていた自分が恥ずかしかったのか、一瞬頬を染めたが、

先刻に見た光景を思い出してすぐに険しい目つきとなった。

 

「さっきまでここにいた……あれ、誰なんだ?」

 

漠然とした問いかけだったが、エギルはすぐに誰を指しての言葉なのか理解して、意地の悪い

笑みを浮かべる。

 

「気になるか?」

「……話していた内容が、だ」

「侯爵様は素直じゃないな……けど、彼女のお陰でお前さんとこのリンゴも売りさばく方法が

見つかった。感謝しろよ」

 

売りさばかなければ困るのは仕入れたエギルのはずだが、エギルの店で売れない、という事が

商品価値を左右するのは確かで、引いては来年以降のこの市場への卸にも影響が出ることを

理解しているガヤムマイツェン侯爵は押し付けられたような「感謝しろ」の言葉に反論は

出来なかった。

 

「エリカって……言ってたよな」

 

「耳がいいんだな」と揶揄するように呟いたあと、エギルは表情を鋭くする。

 

「だがそれ以上は話せないぞ。エリカちゃんはお前と違って昔からのお得意さんだ。オレにも

この市場を任されてる責任ってのがある……だが」

 

そこで言葉を句切ると穏やかな眼差しで少年を見た。

 

「お前さんなら彼女にたどり着くかもな」

 

 

 

 

 

ガヤムマイツェン侯爵はその後も毎週のようにエリカを探して中央市場を訪れていた。会って

アップルパイのアイディアの礼を一言いいたいだけだ、と自分自身に言いながら。

もう一度あの鈴を転がすような声が聴きたい、楽しそうに微笑む口元が見たいという心には

気づいていない。エギルが「昔からのお得意さん」と表現したのだから、この市場でも古くから

店を出している店主に聞けば何かわかるかも、と色々と声をかけてみたが、この中央市場を

まとめているエギルが「エリカ」という名前以上の情報は明かさないと明言しているせいなのか、

古狸や古狐のような古参の店主達も一様に口を割る事はなかった。

結局エギルの店でエリカを見かけて以来、市場に来ては闇雲にあちらこちらを巡ること一ヶ月。

それを見て見ぬふりをしているのはエギルだけではなかったが、侯爵はそんな視線を気にする

ことなく、ひたすらに煉瓦色のマントを追い求めたのである。

 

 

 

 

 

「はぁーっ……会えないもんだな」

 

市場のすぐ隣にある広場の噴水のふちに腰を下ろし、焼きたての骨付き肉を囓りながらガヤムマイ

ツェン侯爵は溜め息をついた。

あの日からかれこれ一ヶ月以上も経ってしまっている。侯爵としての責務がある為、毎日は

市場に来られないせいもあるが、ここまで出会わないとは予想していなかったのだ。エギルの

口ぶりからすると昔からこの市場を利用していたことは明白で、それなら城下に住んでいる

可能性が高い。ならばそれほど日を開けずに市場にやってくると思っていたのだが……どうやら

その目算は甘かったようだ。

リンゴの礼を、と考えていたのだが、そのリンゴの出回る時期さえ終盤になりつつある。

エギルの言葉通り、今年のガヤムマイツェン領のリンゴはパイにすると歯ごたえも良く、

すっきりとした酸味が効いて甘い物が苦手な者でも食べられると評判になり、仕入れ分は順当に

売りさばけたそうだ。しかも併せて勧めたリンゴの蜂蜜も今は品切れの店さえ出ているという。

リンゴの売り上げ話を聞かせてくれた時のエギルのにやつき顔を思い出したせいもあって、

普段なら息つく暇も無く平らげてしまう好物の鶏のタレ焼きが、今日ばかりは一口囓っては

溜め息をつくの繰り返しだった。

そんな心ここにあらずの状態だった為か、普段ならそっと自分に近づく人影を察知できないはずは

ないのだが……。

 

(あっ!!)

 

気づいた時にはコートのポケットに忍ばせておいた山羊の皮袋を抜き取られていた。

一目散に逃げ去る小男を追って、すぐさま駆け出す。

小男は市場の人混みに紛れようと、雑踏の中、人を押し分けて突っ込んでいく。

その乱暴さにぶつかる人々から悲鳴と怒号の声があがった。

侯爵はその騒ぎを追うように走るが、小男に突き飛ばされ、倒れそうなご婦人の腕を支え、

転ばされた子供の様子を気遣いながらの追走なので標的との距離がなかなか縮まらない。

それでも視線の先、十数メートル先を背を丸めて走る小男の手にはしっかりと皮袋が握られて

いるのを確かめつつ地面を蹴る。

 

「チッ」

 

舌打ちをしながら誰かが倒した木箱を飛び越えた拍子に少し高い目線から泥棒の位置を確認した。

男の小柄な体つきは人々の驚声がなければ簡単に人の波に埋もれてしまっていただろう。

騒ぎに気づいた市場の客達が巻き込まれるのを恐れて突進してくる小男に道を開け始めている。

このままでは徐々に距離が離されてしまいそうだった。

 

(なんとか警備隊が駆けつけてくる前に取り戻さないとマズイことになるな)

 

焦りで足がもつれそうになった時だ、小男の数メートル先にここ一ヶ月以上も探し続けていた

煉瓦色のロングマントが目に入った。

 

!!!!!

 

視線が男から離れてその向こうのマントに釘付けとなる。

しかし男と彼女のマントとの距離がすぐさま縮まり、同じ視界に入ることとなった。

それでもフォーカスはマントに固定されている。

ちょうどその時、彼女のすぐ傍にいた長身の女性がよろけ、覆い被さるようにマントを隠す。

長身の女性はイノシシのように向かってくる小男に恐れおののいたのだろう、しかしその女性を

かわそうとしたのか、女性と入れ替わるように彼女のマントがフワリと広がって逆に小男の

前に転がり出た。

 

(危ないっ)

 

そう侯爵が叫ぶより早く、マントの裾からショートブーツを履いた細い足が地面を踏みしめる。

そして計ったようにタイミングよく、皮袋を持った小男がそのショートブーツに自らの足を

ひっかけた。

 

「うひゃっ」

 

珍妙な声を上げると同時に小男が身体がかしいだ。

背を丸めて前屈みで走っていたこともあって見事にバランスを崩し、手を着く暇もなくつんのめる

ようにして地面へ勢いよく顔をこすりつける。

小男の派手な転倒に周囲の人達は一斉に視線を集中させた。

ただ一人、その小男を追ってきた侯爵だけは違う方向を見ている。

小男がショートブーツに躓いた時にはらり、と一房落ちたのだ……目深にかぶったフードの中

から……見事なロイヤルナッツブラウンの長いキレイな髪の毛が。

だが、彼女自身がそれに気づいた途端、慌ててきびすを返し小男を囲んでいる大衆の中へと

姿を消した。

瞬間、彼女を追うため方向を変えて走りだそうとした侯爵だったが、泥棒の手から皮袋を奪い

返すのが先決と思い直し、小男の元に駆け寄る。

小男を警備隊に突き出す気はなかった。

そうしたところで事態の根本的な解決にはならないからだ。

どうせ金で雇われただけで、雇い主の本当の名など知らないに違いない。

侯爵にとっても盗まれた皮袋の中身を警備隊に問われるのは避けたいところだ。

顔だけではなく頭も地面にひどく打ちつけたのか、いまだ起き上がることすら出来ない

小男から素早く皮袋を取り戻すと侯爵は立ち上がって彼女が消えたと思われる方向を

見つめた。

 

(まさか……あの色……)




お読みいただき、有り難うございました。
やっと第2話で長ったらしい名前のキリト登場です。
これでもまだ一部ですが……正式名はもう少し後で名乗りますので。
まだまだ「キリト」「アスナ」の記載が出来ません。
次は中央市場編からもう少し煌びやかな場所に舞台が移ります。
なのでエギルさんはしばらくお休みです。
商売に励んでいてくださいね。


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03.舞踏会(1)

日中、中央市場でちいさな騒ぎがあったその夜、王城では……。


王が召し抱えている一流の楽士で構成されたロイヤル管弦楽団が厳かに音を紡ぎ出す。

それぞれに奏でる音色が美しく絡み合い王城の大広間全体を包み込んだ。

音に誘われるようにいくつものペアがフロア中央に集い軽やかに踊り始めれば、リズムに

合わせて色とりどりのドレスの裾が翻る。

王城での舞踏会に出席するのは貴族達の一種のステータスのようなものだ。上級貴族はその

権威を誇示するかのように、この日の為に贅を尽くした衣裳を新調する。下級貴族はなんとか

ツテを頼って招待状を持つ者に同伴を請い、この夜会で自分の地位をよりよく出来る関係を

築こうと交流を求める。

その中でも今、ファーストダンスを踊っている一組の男女に多くの注目が集まっていた。

そんな視線に構うことなく、男性が自分の腕の中にある女性の名を口にする。

 

「アスリューシナ……アスリューシナ……アスナ!」

 

目の前のダンスバートナーから幼い頃の愛称で強く呼ばれたアスリューシナは、驚いて両肩を

ビクッと震わせた。それでも流れるようなステップには何の影響も出ていない。

 

「ああ、ごめんなさいお兄様。ちょっと考え事をしていて……」

「ひどいな。久々に国に帰ってきてアスリューシナをエスコートしているのに、心ここに

あらずとは」

 

批難めいた口調で大げさに眉をひそめているが、その口の端は緩やかな笑みをたたえている。

兄が本気で気分を害していない事など先刻承知のアスリューシナは悪びれる様子もなく最上級の

笑顔で微笑み返した。

今までは王城の舞踏会へはアスリューシナの両親であるユークリネ公爵夫妻が出席していたのだが

今回は二つの理由からアスリューシナが兄であるコーヴィラウルに伴われ登城している。

理由の一つは父であるユークリネ公爵の片腕として常に周辺の諸外国を渡り歩いているコー

ヴィラウルが珍しく公爵家に戻ってきていたからだ。

そしてもう一つは今年で18歳を迎えるユークリネ公爵家の一人娘、アスリューシナに縁談の話が

持ち上がった為で、その相手がこの国の『三大侯爵家』と謳われるオベイロン侯爵だったからで

ある。

 

「ぼーっ、としているとオベイロン侯と婚約させられてしまうよ」

「嫌な事を思い出させないで、お兄様。あんなヒキガエルみたいに笑う人なんて……」

 

アスリューシナは形の良い眉を僅かに吊り上げた。

そんな妹の発言にユークリネ公爵家の嫡男は困った笑みを浮かべ、彼女をリードしながらも

周囲を見回す。

 

「そうは言ってもなぁ、父上と母上はかなり乗り気のようだし。俺もずっと屋敷に居るわけには

いかないから協力してやれる時間もそれほどない……ああ、いたいた、ほら」

 

そう言ってアスリューシナに目配せをすれば、その視線の先には口元を歪めるように微笑みながら

ユークリネ公爵兄妹を舐め回すよう見つめているオベイロン侯爵の姿があった。

今宵は肩のあたりまで伸ばしている髪を黄金色に染め、錦糸を織り交ぜた組紐を使って後ろで

ひとつに束ねている。濃緑の礼装に身を包み紳士然としている佇まいに鋭い鼻梁や切れ長の双眸と

いった端麗な面立ちだが、アスリューシナの瞳には何一つ魅力的に映らなかった。

目を合わせないようにその姿を認めたアスリューシナがあからさまに嫌悪の表情となる。

コーヴィラウルは軽く息を吐き出すと、ことさら妹に顔を近づけて囁いた。

 

「なら、この舞踏会で誰か相手を探すんだな。うちの爵位なら文句を言う貴族はいないだろうが、

父上達を納得させる為には、まぁ理想は『三大侯爵家』……だろうなぁ。今宵は王城の夜会

だけあって三大侯爵の皆様方も勢揃いしているそうだから」

「無理よっ」

 

アスリューシナは兄を睨み付けながら言葉を遮った。

 

「ヒースクリフ侯爵様はとうにご結婚されているし。オベイロン侯爵様を除けば残るは

ガヤムマイツェン侯爵様だけでしょう。ガヤムマイツェン候は私より年下ですもの……」

「年下と言っても確か、ひとつだろう?」

 

今度は妹の口を兄がつぐませた。曲に合わせて妹を大胆なターンでくるりと回すと素早く辺りを

見回す。

 

「ほら、あそこの壁際にいる。なんだかこっちをジッと見ている気がするけど……それに

してもあの若さで爵位を継いだせいか妙に大人びているというか、色気のある奴だよな」

 

兄の言葉に倣って視線を巡らせれば、なるほど目的の人物が腕組みをして軽く壁に寄りかかって

いた。

 

「ひとつでも、年下は年下よ……」

 

遠くてよくは見えないが確かに落ち着きのある態度だった。しかしその印象とは逆に礼装越し

にもわかる細めの体つきは少年のようで、そのアンバランスさが魅力となっているのか、

覗うように侯爵へ秋波を送っている令嬢達の数は少なくない。

自分に向けられている眼差しには頓着がないのか、ガヤムマイツェン侯の瞳はあくまでホールで

踊っている兄妹にのみ注視していた。その視線に疑問を抱いた兄が再び妹の耳元に口を寄せる。

 

「もしかして、知り合いなのか?」

「まさか」

 

即座に否定の言を述べた。

アインクラッド王国の『三大侯爵家』と言えば正真正銘貴族のトップだ。

建国から続く歴史の古さに加えて領地の広さ、莫大な財産はへたな公爵家より格が上とされて

いる。その三侯爵が揃うなど王城での夜会ならでは、なのだろう、それぞれの侯爵に向けて

数多の視線が遠巻きに送られているがそれ以上の数の注目を集めているのは、やはり華麗な

ステップを披露している一組の兄妹だ。

 

「俺は国にいる方が珍しいくらいだからね。加えてアスリューシナ、お前は十五歳の時の舞踏会

デビュー以来、まともに夜会に出ていないんだろう?」

 

問われて兄の胸元で妹が小さく頷いた。「なら、物珍しさに視線も集まるわけか」と自分達兄妹が

見世物状態なのを理解する。

 

「そう言えば、知っているか?、ガヤムマイツェン侯の髪の色、染めてないそうだ」

 

コーヴィラウルの言葉にアスリューシナが驚いて目を瞬かせた。

アインクラッド王国の人々は髪の色が薄い。国境近くの辺境地域の人々は他国との交流が多い

せいかその限りではないが、王都で何代にも渡り居を構えている者は庶民から貴族に至るまで

ほとんどと言っていいほどシルバーグレーの髪をしていた。多少シルバーが濃いか薄いか、

またはシルバーに混じって別色の色が僅かに混じるかといったくらいの差なので、自分の髪を

染めて楽しむのが当たり前となっている。しかし、今、こっそりとアスリューシナが盗み見て

いるガヤムマイツェン侯の髪の毛は見事なほどの濡れ羽色だった。

 

「本当に?……染めているのではないの?」

「ああ、妹君も同じく黒髪だと聞いている。前ガヤムマイツェン侯の奥方は他国の方だから

それでなのかもしない」

 

アスリューシナは改めて周囲の貴族達の髪色を眺めてから、ふと自分の肩に流れ落ちている

一房に目を落とした。コーヴィラウルも妹の髪を愛おしそうに見つめる。

 

「アスリューシナはいつもアトランティコブルーなんだな」

「そうね、染めるならこの色と決めているから……気に入ってるの」

「うん、似合ってる」

 

兄からの素直な褒め言葉に照れたのか微かに頬を染め、あえて話題を戻した。

 

「それで、前ガヤムマイツェン侯は、今、どちらに?」

 

妹からの問いにしばし兄が考え込む。

 

「……確か、西のアーメリア国だと思う。あそこの外交担当として派遣されてから

滞在年数も結構経っていると思うが、ご成婚されても外交の職を退かなかったから、よほど

気に入っておられるのだろう」

「結婚後の領主としての責は侯爵夫人が?」

「ああ、もともと侯爵が外交として赴いた国で夫人と出会われたんだ。夫人は母国でも政務に

積極的にご参加されていたそうだから、結婚後の領主代行もそれ程苦ではなかったのかも

しれない。2年前にご嫡男が15歳で成人されたと同時に爵位をお譲りになって、今は夫人も

あちらこちらを飛び回っていると聞くが……王都の屋敷にほとんど不在ってのは、うちと

似てるな」

 

最後の言葉を苦笑気味に告げると、アスリューシナは逆に眉根を寄せた。

 

「うちはお父様、お母様に加えてお兄様もご不在、でしょ」

「……ゴメン、ゴメン。またお土産を買ってくるから」

 

困ったように謝りながら自分の腰に回されている手に力を込められると、アスリューシナも

それ以上は言えず、少し俯いて今日の自分の胸元を飾っているネックレスに目をやった。

プラチナホワイト色の生地にゴールドとサファイアブルーの二色の絹糸でふんだんに刺繍を

あしらった今夜のドレスはデコルテ部分が大きく開いており、そこにシャンデリアの輝きを

反射してキラキラと輝くネックレスがアスリューシナの胸元を豪奢にしている。

その目線に気づいたコーヴィラウルが柔らかく微笑んだ。

 

「そのネックレス、今日のドレスに合っているよ。その色なら普段のお前でも使えるだろう?」

「そうね、お兄様がくれたお土産の中ではかなり気に入ったわ……コハク、と言ったかしら?」

「そうだよ。簡単に言えば樹脂が固まったものだ」

 

トップにはひときわ大きくシャンパーニュ色のコハクが存在感を主張し、それを囲むように小粒な

カシミアグリーンのコハクが配置されている。細かな装飾を施したシルバーの台座にはめ込まれた

コハク達は一目で一級品とわかる光沢を放っていた。

 

「不思議ね……でも、とても綺麗。有り難う、お兄様」

「ああ、笑顔のお前が付けてくれれば宣伝効果は抜群だからな。この舞踏会でそのネックレスを

目にとめたご婦人方から注文が入れば本格的に商売にできる」

 

笑顔で謝意を述べたアスリューシナの顔が兄の言葉を聞いて信じられないようなものを見る目に

変わる。

 

「……お兄様はすっかり計算高い商い人となってしまわれたようね」

「えっ?、いや、アスリューシナ?、違うよ。これはお前に似合うと思ってわざわざ異国の

問屋まで足を運んで選んできたんだから。アスリューシナ、俺が大事な妹を商売の道具に

使うような兄に見えるのか?」

「……見えます」

 

タイミングの悪いことにアスリューシナの機嫌がどんどん下降していくのと同時に、広間に

流れていた音楽も終盤を迎えた。最後に互いが向かい合って腰を屈め礼をとると、ひらりと

ドレスの裾を翻してアスリューシナは兄を置いてホールから降りる。その後ろ姿を追うように

足を速め彼女に近づき、引き留めるように肩に手を掛けた。

 

「アスリューシナッ」

 

途端にアスリューシナが兄の手をパンッとはじく。

振り向きざまに小さくひとこと言い放った。

 

「もう、屋敷に帰ります」

 

それを聞いてギョッとした兄はすぐさま妹の片肘をつかんで大広間の端へと連れて行く。

次にダンスの申込みをしようと狙っていた男性貴族達がどうしたものかと戸惑いをみせながら

その様を見守っていた。

 

「まだ一曲目だぞ。さっきの言葉は俺の失言だった。ちゃんと謝るから……それにお前だって

三大侯爵家とまでは言わないまでも、早めに相手を見つけなければならないのはわかってる

だろう?」

 

そう言われてアスリューシナは口を強く噤んだ。

兄の言うことは自分自身が痛いほど自覚している。このままだとオベイロン侯との縁談を

両親は嬉々として進めるだろう。破談にするには早々に自分で結婚相手を見つけなければ

ならない……それも両親が納得してくれるくらいの相手でなければダメだ。

だが、もし、もしも、親が認めてくれなくても、それでも共にいたいと思う相手と巡り

会えたならアスリューシナはユークリネの家名を捨ててでも嫁ぎたいと思っていた。

少なくともそこまでの想いをオベイロン侯に抱くことは出来ないと2年前から自分の

中ではわかりきっていた事だし、兄にだけはその気持ちを打ち明けている。

 

「まったく、どうしてよりによってオベイロン侯なのかしら」

 

大きな溜め息に続いて小さく呟いた声に兄が肩をすくめた。

 

「そうは言っても、お前が社交界にデビューしてから彼がご執心だったのは周知の事実だったろ。

肩書きだけ見ればこれ以上の良縁はないしな。お前がグズグズしているから侯爵が更に積極的に

動き出したってわけだが……」

「お母様は昔からオベイロン侯爵家の領地の広さを羨んでいたものね」

「ウチは商売による収入しかないからね、広い領地に憧れる気持ちはわからないでもないさ」

「それにしたって、あのオベイロン侯よ」

「侯の外面の良さは筋金入りだからなぁ。ここにいる貴族達でどれだけの人間が彼の本質に

気づいているのか……」

 

声を潜ませてはいるが穏やかな雰囲気ではない兄妹の会話に割り込む隙を見いだせずにいる

紳士達の中で一人だけ、ゆっくりと近づいてくる影があった。

素早くそれに気づいたアスリューシナが慌てて両手でドレスの裾をつまみ、足早に会場の

出口へと向かう。一拍遅れて兄が妹の後を追った。ちらり、と振り返ればもう少しで声を

かけられる距離まで近づいていたオベイロン侯が忌々しそうに片眉を曲げている。

その瞳の奥に宿る光は獲物を欲するように鈍く輝いていた。

 

(あれはヒキガエルっていうよりニシキヘビだよなぁ)

 

自分の見解を抱いたまま会場を逃げ出したアスリューシナに追いつき、その隣に並んで

出口へと歩きつつ、兄は妹の表情を認めて内心で溜め息をついた。

こうやってオベイロン侯との縁談話を回避すべく相手を探しに夜会に出れば、結局、彼と

遭遇してしまうのだ。あちらもこの話を進める為、アスリューシナとの接点を持ちたい

のだろう。かと言って夜会以外で貴族との偶然の出会いなどほぼ皆無に等しい。兄妹の友人

貴族を介して、と思ってはみても既にオベイロン侯がアスリューシナを望んでいることは

貴族の間でも知れ渡っているので、そこを押しのけてでも名乗りを上げてくれる者を

期待するのは夢物語のようなものだった。

ひどく疲れたような顔をして小さく「とにかく帰りたいの」と可愛い妹に言われれば、

あのオベイロン侯の待つホールに戻ろう、とはどうしても言えない。もともと社交界

デビューまでは病弱で屋敷から一歩も出たことのない深窓の令嬢として知られている妹

だから体調を理由に辞するのは不振に思われないだろうと判断し、コーヴィラウルは

一足先に公爵家の馬車を手配すべくアスリューシナから離れた。




お読みいただき、有り難うございました。
やっと「アスナ」の記載ができました(1回だけ)……。
貴族階級について、ですが今回は
 上級貴族 → 公爵・侯爵・伯爵
 下級貴族 → 子爵(準伯爵)・男爵
と(いちを)決めています。もちろん覚えていただかなくて問題ありません。
ガヤムマイツェン家は「侯爵」ですが、ユークリネ家は「公爵」です。
音にすると同じなので入り交じると私のタイピングミスでは?、と思われる方も
いらっしゃるかもしれませんが(笑)
でも、うっかりすると間違えている時もあり、冷や汗をながします(苦笑)


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04.舞踏会(2)

王城の大広間から逃げ出したアスリューシナの視線の先には……。


兄であるコーヴィラウルから「ここで待っていろ」と言われたアスリューシナは正面玄関に通じる

王城のエントランスで壁に飾られている巨大な絵画を見上げていた。そこには歴代の国王の

肖像画が順番に飾られている。彼女がひたすらに見つめていたのは初代アインクラッド国王の

坐像画で、もっと言えば初代国王が腰掛けている王座の斜め後ろに佇む女性……優雅な笑みを

湛えて寄り添っているティターニア王妃の姿だった。国王は体躯も大きく勇ましい顔つきに

笑ったことなどないような険しい表情で描かれている。そしてその王の証を冠している髪は

獅子のごとく輝くような銀髪だった。逆に後ろに控えている王妃は少女のようなほっそりと

した体つきで高貴さを漂わせながらもどこかあどけない微笑みを添えている。綺麗に結い上げた

髪は落ち着いたナッツブラウンでその色合いが彼女の柔らかい印象を更に濃くしていた。

 

「ロイヤルナッツブラウン」

 

小さくアスリューシナが呟く。

アインクラッド王国で唯一染めてはいけない髪の色だ。

王族の血をひく女性にのみ現れると言われている髪の色で、初代の王妃の髪色からその名が付いて

いる。

かなり昔にはこの髪色を持つ王家の女性が何人もいたようだが、今となっては『幻のロイヤル

ナッツブラウン』と呼ばれており現在は直系の王族はもちろん、臣下に下った公爵家にもこの髪を

持つとされる女性の記録はない。だからこそ髪をナッツブラウンに染める事は不敬とされ、庶民は

もちろん貴族でさえ重い罪に問われるとされている。

飽きもせず一心に王妃の豊かなロイヤルナッツブラウンを自分のヘイゼルの瞳に映していると、

階下で小さく「アスリューシナ」と呼ぶ兄の声が聞こえ、アスリューシナは振り返った。馬車の

手配が整ったのだろう、コーヴィラウルが片手で合図を送っている。僅かに頷いてからもう一度

だけ視線をもどし王妃の髪を見つめると、彼女はそっとその場を離れた。

 

 

 

 

(嗚呼……痛かった……)

 

王城から屋敷に戻る為ユークリネ公爵家の紋章が入った二頭立ての箱馬車に乗り、上質なベル

ベットを張った座席にそっと腰をおろしてからアスリューシナは隣に座る兄に気づかれないように

細く息を吐き出した。

王城でのファーストダンス中、日中に痛めた足首がジンジンと熱を持って痛み出したのを思い

返していたからだ。痛みはひどくなる一方で、なんとか一曲は踊りきったものの、とてもでは

ないがそれ以上は無理だった。兄の言動と苦手にしている侯爵が近づいてきたことを理由に

王城を逃げ出したが、あの場にいた人達はもちろん、兄にも気づかれずにすんだようだ。

馬車内で足を休ませることが出来たお陰で、先ほどよりは痛みが治まってきている。

このまま腫れもせず、痛みがひいてくれればいいけれど……と思うが、ずっと隠し通しては

おけないだろう。常にアスリューシナを見守るように世話をしてくれる彼女付き筆頭侍女の

サタラが、今宵の舞踏会への準備の時は運良く兄の支度を手伝っていたので誤魔化せたが、

彼女が見れば少し足を引きずっただけで看破されてしまうに違いない。そして足の状態が

知られてしまえばアスリューシナ付きの侍女達が大騒ぎをする事は目に見えていた。

しかし、それは同時にその原因も告げなくてはならないという事だ。特にサタラは彼女の身内の

ような存在で主従関係の姿勢は頑なに崩さないものの、いつも親身になって気を配ってくれる。

アスリューシナより二十歳ほど年上なので、若い母のような親しみを抱いている彼女が何も

聞かず、小言も言わずに足の手当をしてくれるとは思えなかった。

 

(……どうしよう……)

 

そこまで考えて、ふと、この足の痛みの原因を思い出して、頬が緩む。

今日の昼間、アスリューシナは久々に屋敷から出て町の中央市場へ足を運んだのだ。思え返せば

ほぼ一ヶ月ぶりの市場だった。夜は王城に上がらなくてはならなかったのであまり時間はなかった

が、人々の活気溢れる市場は憂鬱な気分を少しの間忘れさせてくれた。

そこで遭遇したのがちょっとした騒動だったのだ。

 

 

 

 

 

少し遠くからざわめく気配に混じり、小さな悲鳴や驚声、怒号がいくつも重なって聞こえる。

気になってフードを被っている頭を上げ声の方向を見れば、市場を行き交う人達の間を無理矢理に

押しのけて一人の小柄な男がこちらに向かって走って来ていた。

昼間の中央市場は食事をとる人や買い物をする人で道全体に人々があふれている。その中を自分の

進路方向にいる人間は誰彼構わず突き飛ばし走ってくる男を見て、アスリューシナの眉間にしわが

寄った。

小男は誰かに追われているのか、時折後ろを気にしながら、それでも必死に足を動かしている。

ただでさえ小柄な身体なのに更に背中を丸めて走る姿はずんぐりむっくりの卵のようだった。その

球体に近い体型から伸びる手足だけは妙に細長く、アスリューシナは幼い頃に見た絵本の卵の

妖精を思い出す。

 

(確か……壁か、塀の上に座っていると、うっかり下に落ちて割れちゃうのよね)

 

物語の内容までは覚えていなかったが、卵の妖精が落ちて割れるシーンは妙に印象が強く、初めて

その絵本を読んだ後はしばらく朝食のボイルドエッグが食べられなかったくらいだ。

そんな幼い頃の記憶を思い出しつつ迫ってくる小男を見つめていると、ふと、その小男の後方に

黒い出で立ちのこれまた珍妙な若者が走ってくる姿が目に映る。

いや、はっきり若者と断定できたわけではないのだが、その身のこなしと服装から漠然とそう

感じただけで、それをちゃんと確認しようとする意識は既になく、視線はその若者の口元に

釘付けになっていた。

 

(あの人……鶏肉くわえたまま……走ってるわ……)

 

器用なことに先の小男を追っているとおぼしき若者は香ばしい焼き色の上にタレのかかった

骨付きの鶏肉を口にくわえたまま障害物をひらりひらりとかわし、懸命に人混みをかき分けて

いた。時折、小男に突き飛ばされた人に謝意の視線を送っているせいか、目標者との距離は

一向に縮まらない。

せめて前方に向かって「捕まえてくれ」なり、警備隊を呼ぶなりすれば事態は好転するのかも

しれないが、口が塞がれているせいで全く声が出せない状態だった。

 

(真面目に追いつく気があるのかしら?)

 

卵型の小男と鶏肉男を交互に見て、アスリューシナはあきれたように嘆息した。

もう自分のすぐ近くにその小男が走ってくる。状況が飲み込めない人々は女、子供でも構わず

突き飛ばして走ってくる小男を避けるように道を開けていた。このままでは鶏肉男が小男に

追いつくことはないだろう。アスリューシナの隣にいた長身の女性が小男を避けようとして

躓いたのか、よろけてアスリューシナに覆い被さってきた。

その身体を受け止めるかにみせて、うまく身体の位置をすり替え、女性を軸につかまりながら

ロングコートを翻しショートブーツを履いた片足を思いっきり伸ばす。

見事なタイミングでアスリューシナの足に小男が引っかかった。

と同時に足首に激痛が走る。一瞬顔を歪ませたが、引っかけた小男がまさに卵が転がるが

ごとくゴロンゴロンと地面を回転する様に思わず吹き出した。

しかし口元を緩めたのも一瞬で、フードの隙間から髪の毛が一房こぼれ落ちているのに

気づいたアスリューシナはサッと青ざめてすぐさまその場を離れたのである。

 

 

 

 

 

結局、あの後卵型の小男と鶏肉男がどうなったのかはわからずじまいだ。あれだけ派手に

転がればかなりのダメージを受けた事は間違いないので、もしかしたら鶏肉男が追いついて

新たな展開が繰り広げられたのかもしれない。

ちゃんと最後まで見届けたかったわ、と思ったところで馬車は屋敷の門をくぐった。




お読みいただき、有り難うございました。
『卵の妖精』は……アノ海外の童謡がイメージです。
童謡よりも、有名な児童小説の登場(人)物と言った方が一般的でしょぅか?
あと、よい子は口に食べ物をくわえながら走るのは危険なのでマネしないで下さいね。
初代アインクラッド国王さまのモデルはおりません。
ティターニア王妃を出したかっただけですから。
ティターニアの旦那さまなので、適当なキャラクターを充てるわけにもいかず……
オリキャラ(?)となりました。


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05.訪問者(1)

王城の夜会からユークリネ公爵家の屋敷へと戻ったアスリューシナは
ひとり、私室で……。


屋敷に戻ったアスリューシナはすぐさま浴室で侍女達の手を借りて髪の染色を落とした後、身体を

きれいにしてから、ゆったりと湯船につかった。

屋敷の玄関前で馬車から降りた時、出迎えのサタラの姿を見て兄のコーヴィラウルが城での体調

不良を漏らした時は肝を冷やしたが……「馬車の中でだいぶ落ち着いたの」と笑顔で告げれば、

数秒間ジッと令嬢の顔を見つめたサタラは「それは、安心致しました」と微笑んだ。

コーヴィラウルは特に気にも止めていないようだが、互いはこの笑顔の意味を正確に理解して

いる。

侍女頭のサタラは自分が仕えている令嬢が「気分が優れない」と言い張り、兄を強引に納得させ

た事などはお見通しだった。本当に体調を崩したのならこれほどコーヴィラウルが安穏としている

はずがないからだ。それでも幾分顔色の悪さを見て取り、これは王城で今一番顔の見たくない

侯爵様とお会いになったのだろう、と見当をつけて、あえて何も言わなかった。

そして妹の体調不良を告げたコーヴィラウルもその辺りの事は承知している。

承知してはいるが、あえてそれをサタラに言うことで王城から戻ってきてしまった言い訳にして

いるのだ。

サタラはやれやれ、と思いつつもありえない位の短時間で王城の夜会から舞い戻ってきた

公爵家の嫡男とその妹令嬢に対して普段通りの態度を崩さず、それぞれの私室に向かう二人に

「湯浴みはいかがされますか?」「軽くお食事を召し上がりますか?」とテキパキ、口と手を

動かしつつ同時に配下の侍女達に指示を飛ばした。

その頼もしい姿を見た公爵家の兄妹は自分達が産まれた時から屋敷に仕えてくれている彼女には

かなわない、と互いの顔を見て肩をすくませながら笑みを漏らす。

今ではアスリューシナ付きの侍女となっているサタラだが、二年ほど前まではコーヴィラウル

付きとなっていた為、彼が屋敷に戻ってきている時の彼女は短期間ではあるが二人のお付きを

兼任するのだ。

そのせいで普段よりアスリューシナの世話を他の侍女に任せる事が多くなってしまうのは致し

方ない事だった。そして今宵は想定外も甚だしい時間に兄妹が戻ってきた為に慌てふためいた

侍女達を統べる事でサタラの意識も散漫になっていたようでアスリューシナの足の異変には

気づかなかったのである。

それでもサタラを始めユークリネ公爵家で働く侍女ともなれば身元はしっかりしているし、

大体の部分においては優秀と言っていい人材が集まっている……はずなのだが……。

 

「閉め忘れたのね……」

 

浴室から出て続き部屋の私室に入ったアスリューシナはバルコニーに面しているカーテンが

ゆらめいているのを見て僅かに眉をひそめ嘆息した。

室内には何カ所かに燭台が置いてあり、その全てのローソクが灯っている。それでも室内全体を

照らすほどの光量にはかなわず、風でカーテンが揺れなければ見落としていたかもしれない。

公爵家の兄妹が揃って王城の夜会に出席するなど初めての事なので、屋敷内は朝から随分と

慌ただしかった。そのせいでミスをしたのだろうが、それでもあってはならない失態だ。

公爵令嬢の私室の扉を侍女が閉め忘れたなど、サタラが知ったら激怒するに違いない。

先ほどのお風呂で髪と身体を丹念に洗ってもらい、お湯の中で手足をのばして疲れを癒やした後、

ナイトドレスに着替えてガウンを羽織るまでを侍女達に手伝ってもらったアスリューシナは浴室を

出る段階で彼女達を全員下がらせていた。足首の痛みもお湯で温めたせいか随分とやわらいで

いる。

サタラはアスリューシナの入浴の準備と髪の手入れ方法を指示した後、姿を見せていないので

兄の世話を焼いている事は簡単に想像ができた。

馬車を降りる時、兄がぼそりと「腹が減ったな」と呟いていたので、今頃は入浴を済ませた兄に

軽い夜食を給仕しているのだろう。

給仕の侍女は別にいるが、ユークリネ公爵家の若き料理長がサタラの夫であるせいかサタラ自身も

味へのこだわりはかなりのもので、結果、食事の際も給仕に手を出してしまうのだ。

ガラス扉を閉めるだけでわざわざ侍女を呼ぶのも大げさな気がしたし、何より疲れた身体を早く

休めたくてアスリューシナは自らバルコニーへと続く窓辺に近づいた。

夜風がスゥ−ッと室内に入り込み、彼女の髪をふわりと浮かせる。

洗いたての髪が鼻先をかすめ、香油の香りが鼻腔を刺激した。

ふと、歩みを止めて自分の髪を見下ろすと侍女達が優しく手入れをしてくれた髪が艶めいている。

一房を手にとり、まじまじと見つめて吐息を漏らした。

 

(こんなに綺麗にしてもらってるのに、隠しておかなきゃならないなんて)

 

続く思いが口をつく。

 

「……いっそ、髪を短く切ってしまおうかしら……」

「冗談だろ」

「!!!!!」

 

アスリューシナの目の前のカーテンが不自然に揺れた。

カーテンの端を掴む手に気づいて一歩後ずさってから声を上げようとした途端、するりと部屋に

人影が入り込み素早く彼女の口に手をあてる。

 

「悪い、頼むから大声を出さないでくれ」

 

突如アスリューシナの目の前に現れた侵入者は黒いポンチョのようなフード付きショートコートを

羽織っていた。コートの下も黒、細身のパンツも黒、手にも黒の指ぬき手袋をはめている。

まるで闇夜から生まれ出たような出で立ちだ。そんな怪しげな様相とは裏腹に焦りを含ませた

親しげな口調と自分の口を覆っている手の戸惑いがちな感触から、アスリューシナはほんの少し

警戒心を解いた。

それに夜中に公爵令嬢の私室に侵入しておきながら騒いでくれるなと頼んでくる盗賊がいるとも

思えない。扉が閉められてしまうと思い慌てて侵入してきたのなら、すぐさま次の要求を告げて

こないのも不可解だった。

窃盗が目的ならわざわざアスリューシナに声をかけてから入ってくる必要はないのだ。

素早く忍び込んでアスリューシナを縛り上げるか気絶でもさせるのが盗賊の常套手段のはず。

もしも……目的が殺害なら、今更声をあげてもあげなくても結果は変わらないだろう。

瞬時にそんな判断を下して、それでも恐怖の為に湧き出でた涙を瞳にたたえたままフードの奥の

侵入者の顔を見つめ返した。

 

(あ……瞳……とてもキレイだわ)

 

片手はアスリューシナの口をおさえ、もう片方の手は人差し指だけを顔の中央に立てて、

静かにして欲しい意志を表している。

少し戸惑ったような表情で口元は強ばっているが、こちらの様子を覗うように眉根を寄せ、

じっとアスリューシナを見つめてくる瞳は漆黒の闇のようだった。その闇の中に夜空に

輝く星々のような煌めきが瞬いている。

涙目のまま公爵令嬢に見つめられた侵入者の頬が無自覚に染まっているのは、潤んだ視界と

余裕のない精神状態のアスリューシナが気づくはずもなく。

目の前の令嬢がわめき散らすことはないと感じ取ったのか、侵入者は彼女の口元から手を

離した。

安心したように「はーっ」と大きく息を吐き出す姿を見てアスリューシナが問いかける。

 

「あなた……夜盗なの?」

「はっ?」

 

盗賊ではないと思いながら、それでもそれ以外の可能性が見いだせず、探るような視線を

送った。

青年にとってはあまりにも予想外の問いかけだったのか、口をだらしなく開けたまま、大きく

目を瞠って固まっている。

その反応を見たアスリューシナは冷静さを取り戻して、瞳以外にも視線を移した。肌の色は薄く

どちらかと言えば女顔で体つきも細身だ。身は軽そうだが粗野な盗賊というより、纏う雰囲気

から高貴さを感じる。もっと言えば武官より文官タイプといったところだろうか。

アスリューシナは頭のどこかにぼんやりと残っている記憶に呼ばれたような気がして首を傾げた。

星空のような瞳を隠すようにこれまた見事なくらい闇色の前髪が垂れている。

 

『そう言えば、知っているか?、ガヤムマイツェン侯の髪の色、染めてないそうだ』

 

突然、王城で聞いた兄の言葉が蘇った。

 

(ま……まさか……)

 

目の前の青年は「あーっ」と呟くと天を仰いで片手で被っていたフードを肩に落とす。

ガシガシと乱暴に髪を掻いてバツの悪そうな表情で再びアスリューシナを見つめた。

 

「……これなら……わかるか?」




お読みいただき、有り難うございました。
やっと……やっと……です。
が、今までもほぼずっと同じフレーム内には存在していたんですけどね。
そしてサタラは何でもお見通し系の出来る侍女頭さんですっ。


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06.訪問者(2)

ユークリネ公爵家のアスリューシナの私室に突然侵入してきた青年の正体は……。


途端にほんの数刻前に王城のダンスホールでちらりと覗ったひとりの人物とその容姿が合致する。

 

「ガ……ガヤムマイツェン侯爵……さま?」

 

思わず口元を両手で覆って更に数歩後ずさった。そして今更ながらに己の姿を自覚する。

 

(髪の毛!)

 

急いで両肩に流れ落ちている髪を両手でかき集めてみたものの、それ以上はどうしようも

なかった。隣室のベッドに脱兎の勢いで頭から突っ込みたい衝動をどうにか堪える。

せめてこの薄暗い室内という状況の中、彼の目が正確な髪色を認識しないでくれるよう祈る

ばかりだ。

アスリューシナは俯いて瞳をギュッと瞑いだまま、ガクガクと震えて崩れ落ちそうな足に

なけなしの力を込めた。

だが、願いも空しく目の前の侯爵から感嘆の声が漏れ聞こえる。

 

「やっぱり……見事なロイヤルナッツブラウンだ」

 

(ああっ……)

 

ロイヤルナッツブラウン……その単語が耳に届いた瞬間にアスリューシナの全身から血の気が

引いた。

貴族に、しかも三大侯爵家と言われる最高位の侯爵に自分の髪の毛を見られた。それが何を

意味するのか、冷静な判断はできないが、家族が、そしてこの屋敷に仕えてくれている

使用人達が十数年間もひた隠しにしてきた秘事だ、簡単に暴かれて言い訳がない。

事の重大さに気が遠くなりかけてふらり、と上体が傾ぐ。それを見た侯爵が素早く駆け寄り、

アスリューシナの腰に手を当て身体を支えた。その手の感触が一気に違う緊張感を生んで、

失われたと思われた血流があっという間に頬に集中する。ハッキリと取り戻した意識は

すぐにこの事態を何とかしなければという決意に変わり、アスリューシナは震える顔をあげた。

自分を覗き込むようにして気遣うガヤムマイツェン侯の瞳をまっすぐに見つめる。

腰に回された腕をやんわりと押し退けて身体を離し一歩下がると、ナイトドレスの裾をガウンと

一緒に両手でつまんで腰を落とし、深々と頭を下げた。高位の者に対する最上級の礼だ。

右足首が再びじわじわと痛み出すが、それを気に掛けている余裕はなかった。

 

「ガヤムマイツェン侯爵様、今宵の非礼とも言える突然のご訪問、真意をお聞かせください」

 

頭を上げないアスリューシナに向けて、ガヤムマイツェン侯がやわらかく声を発する。

 

「王城でも思ったけど、さすがは公爵令嬢と言うべきか、所作が綺麗だよな。妹に見習わせたい

くらいだ。けど、その姿勢、痛めた足首が辛いんじゃないのか?」

 

アスリューシナが思わずハッと顔をあげた。

 

「どうして……それを……」

「こんな型破りな訪問になったのは、お礼を言いたかったからと、そのケガの謝罪をした

かったからだから」

「……え?」

 

戸惑うアスリューシナの様子を気にも留めず、侯爵は少し焦ったように言葉を続ける。

 

「本当は王城で何とか声を掛けようと思ったんだ。でもすぐに帰ってしまっただろ。随分

無理をして踊っていたみたいだから、やっぱり痛むのかと思って……で、まあ、我ながら

無茶だとは思ったんだけど……こうやって忍び込ませてもらったわけで……」

 

ガヤムマイツェン侯の言っている意味がほとんど理解できず瞳の意志が揺らいだ。

 

「とりあえず礼はとらなくていい。公爵令嬢だろ。礼をとるのはオレの方だ」

「……爵位があるのは父ですから」

 

暗に自身に爵位があるわけではないのだから侯爵に頭を下げるのは当然のことと示す言葉に

ガヤムマイツェン侯は意外そうに目を瞠った。公爵などの上級貴族に限らず下級貴族の

男爵令嬢でさえ自分の家の爵位を鼻に掛ける令嬢は珍しくない。

アスリューシナの言葉に落ち着きを取り戻したのか、クスッ、と小さく笑うとおもむろに

片手を差し出す。その手を不思議そうに見つめているアスリューシナに向けて「そこの

ソファに座って」と促した。

無意識に何の躊躇いもなくその手をとってしまってからアスリューシナは「あっ」と漏らすが

今更手を引っ込める無礼は出来ず、侯爵に連れられて部屋のソファに腰を下ろす。

「隣に座っても?」と問われて、返答を考える間もなく自然にこくん、と頷いてしまう

自分に驚いていると、ドサッ、という音と共に隣のソファが沈んだ。

弁明の言葉を待っているアスリューシナの物言いたげな瞳は見ずに侯爵はゆっくりと室内を

見回している。

 

「随分と燭台が置いてあるんだな。そのお陰でカーテンの隙間から灯りが漏れてるこの部屋に

気づいたんだけど……まさか本人の部屋だとは思わなかった。少し不用心じゃないのか?」

「暗いのが苦手で……今夜はたまたまバルコニーへの扉を侍女が閉め忘れたんです。

それに普通は外からバルコニーまでは侵入できません」

「まあ、そうかもな。なんなら警護のアドバイスとして侵入経路を教えようか?」

「けっ、結構です。私がいきなり警護に関して口を出せば屋敷の者が不思議がります」

「違いない……非常識な侵入者の存在がバレて、しかもそいつが侯爵で、更にこんな風に

令嬢の私室のソファに並んで座ったと知られればかなりの大事になりそうだ」

 

面白がるように笑顔を向け「バルコニーまでたどり着くヤツがそうそういるとは思えないが、鍵の

閉め忘れは注意した方がいい」と告げてくる侯爵を前にアスリューシナは呆れた眼差しで見つめ

返した。

三大侯爵の中でも最年少の青年がこれほどマイペースな性格とは思っていなかったからだ。

だいたい三大侯爵と言えば一番に顔が浮かぶのは例のヒキガエルのような人物で、あとは

自分より十歳以上も年上の妻帯者である人物と二年程前に爵位を継いだばかりの一つ年下の

人物だ。強制的に関心事となっている一人を除いて、ハッキリ言えば今の今まで何の関心も寄せて

いなかった。

オベイロン侯との縁談を断る為の夫候補として兄からは「理想は三大侯爵家」と言われたが、

一人は妻帯者、一人は当の断りたい本人、ときては実質残りの一人を候補者に推しているような

ものだが、それも自分より年下という理由でアスリューシナは始めから「三大侯爵家」を

今回の件を回避する方法としては考慮にも入れていない。

その何の関心もなかった侯爵がいきなり自室に現れ、あろうことか表には出せない本来の

髪色を見てしまったのだ。しかし当の本人は驚愕する事もなく、それどころかソファに

腰掛けてニヤニヤと楽しそうに笑みを浮かべているのだからアスリューシナは呆れるやら困惑する

やらで頭の中はグルグルと混乱が続いている。

こんな状況をひとり楽しんでいる侯爵に向け、アスリューシナは心を落ち着けようと一呼吸置いて

から緊張の混じった声を発した。

 

「それで、先ほどおっしゃったお礼と謝罪、と言うのは私に、ですか?」

「もちろん、あ、それと、頼み事も追加して欲しい」

「どれも私に対して、ということでしたら心当たりがありません」

「だろうな……王城で見かけた時の反応からして、そうかな、とは思っていたけど。まずは

礼だ。ウチの領地産のリンゴをパイにするアイディアをくれて助かった。有り難う」

 

真摯に頭を下げる姿にまたもやアスリューシナは当惑した。こんなに素直に頭をさげる貴族など

聞いたことがない。しかし、その戸惑いの奥から新たな緊張を孕んだ疑問が生まれる。

 

「私がパイを提案した話……どこからお聞きに?」

「それは直接。エギルの店で話してるのを三軒先の向こうから聞いていたんだ」

 

その予想外の返答に思わずアスリューシナの声が裏返った。

 

「は?……市場にいらしたんですか?、侯爵のあなたが?」

「それを言うならお互い様だろ。いくらフードで顔を隠しても公爵令嬢が市場にいるのだって

結構ありえない。お陰でここ一ヶ月ずっと市場を探し続けるはめになった。名前だって

『エリカ』だったし」

「……耳がいいんですね」

 

奇しくも果物屋店主に続いて彼女からも聴力の良さを指摘され、侯爵は苦笑いを浮かべる。

「偽名なのか?」と問えば公爵令嬢は小さくかぶりを振った。

 

「ミドルネームで……私の正式名は『アスリューシナ・エリカ・ユークリネ』です。

エギルさんや他にも数人の店主さん達は私の身元をご存じですが、それでもファーストネームを

使わない方が良いという父の判断で小さい頃から市場では『エリカ』と呼ばれているんです」

「なら『アスナ』は?」

「……」

 

目をまん丸く見開いて驚いているアスリューシナを見てガヤラマイツェン侯はニヤリと口角を

上げた。

 

「踊りながら兄上がそう呼んでいただろ?」

 

短い言葉だけで、それが今夜の王城でのファーストダンスの時の事だと思い至り、無意識に

溜め息をついた。

 

「本当にお耳が良いんですね。それは近しい者が使っている愛称です。『アスリューシナ』を

縮めて『アスナ』と」

「なら、オレも『アスナ』と」

「え?!」

「アスナもオレの事は『キリト』でいい。親しいやつらはそう呼ぶから」

「親しい方は?」

「そう。『キリトゥルムライン・カズ・ガヤムマイツェン』……は仰々しいだろ」

「なら、私は『ガヤムマイツェン侯爵さま』のままで」

「どうして?」

「どう考えても親しくはありません」

「この状況はかなり親しいと思うけど」

「思い違いです」

「これから親しくなると思うが」

「なりませんっ」

「オレが年下だからか?」

「歳は関係ありません……て、どこまで聞こえていたんですかっ」

「耳がいいんだ。ダンス中の会話はほとんど聞こえてたよ」

「ほとんどっ?!」

「頼むから音量を絞ってくれ。侍女が聞きつけて来たらそれこそ大騒ぎになる」

「うっ……ごめんなさい」

 

縮こまるように肩をすぼめたアスリューシナを見てキリトゥルムラインは笑いをかみ殺した。

この状況でアスリューシナが謝罪をする必要がないことなど少し考えればわかることだ。

それを侯爵の言葉に従って躊躇いもなく謝る姿に好意が膨らむ。王城で伝えられ

なかった言葉を告げるだけと思っていたキリトゥルムラインの心に小さな想いが生まれていた。




お読みいただき、有り難うございました。
やっと双方、正式名を名乗ることが出来ました。
そしてやっと顔を合わせて会話をすることも……。
ですがアスリューシナ嬢がキリトゥルムライン候を愛称で呼ぶにはまだまだ
かかりそうです。


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07.訪問者(3)

アスリューシナとキリトゥルムラインの会話は進んで……。


興奮して思わず声を荒げてしまった己の所業を恥じ入っているアスリューシナを前に、キリトゥル

ムラインはそれまでの軽快な口調を改めてゆっくりと話し始める。

 

「アスナ……オレ、謝りたいって言っただろ」

「え?……あ、はい」

 

今までと違った声振りに気づいたアスリューシナは、俯いていた顔を上げて、こくんと頷いた。

 

「それはアスナの足のことだ」

 

そう言ってキリトゥルムラインは視線をアスリューシナの足下へと落としたが、肝心の足首は

ナイトドレスの裾に隠されてしまい、その状態をうかがい知ることは出来ない。

 

「そう言えば、どうして私が足を痛めてるって……」

 

(兄にも侍女達にも気づかれなかったのに)

 

「まあ、順を追って説明すると、オレはパイ発案の礼が言いたくてここ一ヶ月『エリカ』という

人物を探すため頻繁に中央市場に通ってたんだ。それで今日も昼間に市場の横の噴水のある広場で

行き交う人達に目をやりながら鶏のタレ焼きを食べていたら、ちょっと油断したすきに持っていた

皮袋を小男に盗まれてさ……」

 

(え?、それって……)

 

「市場の人混みに逃げ込んだ小男を追いかけたんだけど、なかなか捕まえられなくて……」

 

(まさか鶏のタレ焼きをくわえたまま?)

 

「その時、その小男を転ばせてくれた人がいてさ」

 

「(やっぱり、あの……)鶏肉男!!」

「あ゛?」

 

気づけばアスリューシナはこっそり自分が付けたネーミングを両手をグーにして力いっぱい言い

放っていた。あわあわと口をおさえたが時既に遅し。その様子を驚きの目で観察していた

キリトゥルムラインがすぐさま疑惑の色を混ぜ込んで睨みつける。

 

「なんなんだ?、その『鶏肉男』って……」

 

一瞬にしていぶかしげな視線を浴びたアスリューシナは両手をパタパタと降ってその眼差しを

払いのけ、興奮のせいで色づいた頬にわざとらしい笑みを添えて侯爵を見つめ返した。

 

「なっ、なんでもありません。それよりやっぱりあの小男は悪者だったのね。それにしてもあんな

男に物を盗られるなんて、ちゃんと護衛をつけた方がいいと思います」

「一応いるんだけどな。でもあれは護衛って言うよりオレのお目付役って感じか。目の

いいヤツだから高台から常に注視を光らせてる射手なんだ。オレがあの小男を見失っていたら、

ヤツの足でも射貫いて援護してくれただろうけど……そういうアスナだって、ちゃんと護衛が

庇ってくれようとしたのに、それをかわして足を出してたじゃないか。隣にいた長身の女性、

あれ護衛だろ?」

 

どうやらなにもかもお見通しのようだった。

折角護衛として公爵家の令嬢の身を守ろうとしたというのに、当のご令嬢はその身を逃走者に

向け、あろうことか足まで出したのだ。小男が豪快に転がっている様へ周囲の目が釘付けに

なっている間にすぐさま人混みに紛れ市場の端に停まっている公爵家の馬車まで引きずられる

ように移動する間、ずっと専任護衛のキズメルに小言を言われ続けたことを思い出してアス

リューシナの肩が震えた。

 

「だっ、だって、あの小男、女性や子供を突き飛ばしても平気なんですもの。腹が立って!」

 

同じ台詞を何度もキズメルに訴えたのだが「だからと言ってお嬢様が足をお出しになって

いい理由にはなりません」と取り合えってはもらえなかった。

ところが、隣の青年は「ま、そうだよな」とポツリ、肯定の言葉を口にする。

 

「でも護衛としては立場がないだろ。まあ、そのお陰でこっちは無事、盗まれた物を取り戻せた

から……ホント、助かった。……皮袋の中身、これだったんだ」

 

そう言って内ポケットから無造作に小さな皮袋を取り出し、逆さまにして振ると、キリトゥルム

ラインの手のひらにコロンと何かが転がり落ちてきた。

 

「……指輪?」

 

アスリューシナが顔を近づけてよくよく見れば丁寧な細工の施された二本の剣が交差している

文様のインタリヨが刻まれている。

 

「ああ、ガヤムマイツェン家の紋章さ。この指輪が爵位継承の証なんだ。これがないとオレは

侯爵の身分を剥奪されかねない」

「そんな大事なもの!……なんで市場に持ってくるんですっ」

「夜に王城に行くのに必要だなーと思って用意してて、ついポケットに入れたんだろうなあ」

「だろうなぁ……って、ガヤムマイツェン侯爵さまっ」

「だからキリトでいいって」

 

なんでもない事のように無造作に指輪をしまうのを見ながら、アスリューシナは真剣な面差しで

キリトゥルムラインを見つめた。

 

「……ガヤムマイツェン侯爵さま……市場に行かれる時はもっと近くに身辺警護の者を付けて

ください」

「ウチの家令と同じことを言う……心配してくれてるって事で、いいのか?」

 

わざとらしく微笑むキリトゥルムラインの言葉で一気に冷静さを欠いたアスリューシナは、侯爵の

視線から逃れるように朱の差した顔を背けてもごもごと口を動かす。

 

「べっ、別にそういうつもりでは……そっ、それに、窃盗事件なんて市場の評判が……」

「とにかく、そのケガの原因はオレだから……ごめん」

 

謝罪の言葉が耳に届き、アスリューシナは慌ててキリトゥルムラインに向き直って首を横に

振った。

 

「気になさらないで下さい。これは私の判断でしたことです。多少痛い思いはしましたが、

あの小男の転がりっぷりを見てスッとしました」

「……それは同感」

 

思わず互いに顔を見合わせて微笑む。

自然と緩んでしまった頬を「あっ」とすぐさま引き締めたアスリューシナは、「コホンッ」と

場を仕切り直してキリトゥルムラインに少々きつめの視線を向けた。

 

「とにかく、今後も市場にお出かけになるのでしたら身辺に気を配ってください。物を盗まれる

のも困りますがお怪我でもされたら一大事です」

 

その言葉を受けて侯爵が頭を掻きながら眉尻を下げた。

 

「自分の足をわかって言ってるのか?、アスナ……それに……これでも騎士(ナイト)の称号も

持っているんだが……?」

「えっ?」

「信じられないって顔だな。なら今度、略綬を持ってくるよ」

「いえ、そんな、そこまでしていただかなくても……それに今度って……」

「ガヤルマイツェン家の紋章を見ただろ。二本の剣が示すように、我が家は剣士の家系で、

男は必ず騎士の称号をとる事が義務付けられているし、女だって剣は扱える。そのお陰か妹なんか

未だ庭を駆け回っている方が楽しい様子で……」

 

故意なのかそうでないのかアスリューシナの疑問をはぐらかしたまま「全く困ったヤツさ」と

妹の評価を告げた侯爵の顔が穏やかな笑みを作る。その表情から本気で困っているのではない

事など一目瞭然だった。「兄のとしての顔」をのぞかせたキリトゥルムラインを見て、答えの

得られなかった自分の疑問は一旦置いてアスリューシナもふわりと微笑む。

 

「仲がよろしいんですね」

 

一瞬言葉に詰まった様子の侯爵だったが「そうだな」と認めてから「あっ、そうだ」と思い

出したように再び内ポケットに手を入れた。




お読みいただき、有り難うございました。
ガヤムマイツェン家に仕える射手さんは……ええ、あのお方です。
出番は当分先になります。
と言うか「当分先」の人ばっかりです。
あの人やこの人も……。
まずはメインの二人の想いを深くしていただかないと、ですから(笑)


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08.訪問者(4)

市場での騒動を話し終えたキリトゥルムラインは……。


ゴソゴソと上着のポケットに手を突っ込んだキリトゥルムラインが小さな容器を取り出して

アスリューシナの前に差し出す。

 

「これ……いつもうちの領民から分けてもらってるぬり薬なんだ。剣の稽古をしていると、たまに

腕だの足だのを痛めるから……よく効く」

 

少々ぶっきらぼうの説明を終えると自らキュッキュッとフタを開けた。

意図がわからず戸惑っているアスリューシナの足下にキリトゥルムラインが跪く。

 

「足、だして」

「ふぇっ!?、いいっ……いいですっ、自分で出来ますっ」

 

僅かに頬を染めて慌てるアスリューシナとは対照的に跪いた状態で彼女を見上げる侯爵の

視線はいたって冷静だった。

 

「包帯も持ってきた。薬を塗った後、しばらく足を固定しておいた方がいいんだ。大丈夫、

妹の手当もするから慣れている」

 

私は男の方に足を触れられることに慣れていませんっ、と言いたいのだが、あまりの状況に

口をパクパクするしかないアスリューシナは頑として譲らない姿勢の侯爵を見て、いつまでも

跪かせているわけにもいかず、しぶしぶ足首がのぞく程度の高さまでドレスの裾をほんの少し

持ち上げる。

痛みはもちろんだが、なんの処置もせず王城でダンスまで踊ったせいか、はたまたついさっき

キリトゥルムラインに礼を取ったせいか、今更になってほっそりとした足首の一部が薄明かりの

室内でもわかるくらい赤く腫れ上がっていた。

侯爵が手袋を外し、瘤全体を覆うようにそっと手の平を押し当てる。ひんやりとした感覚に

一瞬アスリューシナの両の腕が震えたが、その冷たさがじわじわと快感へと変わっていった。

軽く息を吐き出す様を見てキリトゥルムラインが手を離す。

 

「やっぱり少し熱をもってる。明日になったら更に腫れるかもしれない」

「そう……ですか」

 

多分そうなってしまっては侍女達の、もっと言えば侍女頭のサタラの目を誤魔化すことは

出来ないだろう。

 

「なぜ手当をしなかったんだ?」

 

容器の中の塗り薬の表面を滑らせるようにすくうキリトゥルムラインの指先に視線を注いで

いたアスリューシナは、俯いたままの姿勢で発せられた侯爵からの問いに恥じ入るように眉尻を

下げて、細い声で理由(わけ)を話した。

 

「……護衛のキズメルはちゃんと私を庇ってくれたのに、こうなったのは私の責任ですから。

それでも私がケガをすればキズメルは自分を責めます。彼女の父はユークリネ家の元護衛長なので

彼女の事も小さい頃から知っていて……その、私にとっては姉のような存在なんです……すみま

せん、使用人を姉のようだなんて……」

 

不意の謝辞の言葉に少し驚いて、キリトゥルムラインは手当をしていた体勢のまま顔だけを

上げた。

 

「別に……謝ることじゃないだろ」

「使用人を身内のように思う事を毛嫌いする貴族の方もいらっしゃると聞きますから」

「オレは気にしないけどな。さっき話したウチの射手もオレと歳が近いから幼馴染みみたいな

もんだし。付き合いが長いせいか……少し……いや、かなり慇懃無礼な態度で接してくる」

 

再び患部に視線を戻してそっと薬を塗りながらもおもしろくなさそうな口ぶりで言うと、頭の上で

小さく笑った声がして思わず見上げれば片手を口に当てたアスリューシナの笑顔が飛び込んで

きた。先ほどから公爵家の令嬢の足首を触っているというのに、何の感情も湧いてこなかった

自分が、その笑顔を見た途端心臓の音がやけに大きく聞こえてくる。無理矢理に意識を足首へと

戻し、手早く包帯を巻き終えた。

 

「これでよしっと」

「本当に手慣れているんですね」

「だから言ったろ。妹がお転婆なお陰さ。このまま二、三日は動き回らない方がいい」

「わかりました。でも……私は身体が丈夫とは言えないので、もともと部屋から出ること

さえ滅多にありません。市場に行ったのは……あの……」

 

そこで言いよどんだアスリューシナの言葉を受け継ぐようにキリトゥルムラインが話し始める。

 

「そうだったな……ユークリネ公爵家の深窓の令嬢アスリューシナ姫、今年で十八歳。

三歳の頃に大病をして以来、身体が弱く屋敷の庭どころか部屋からもほとんど出ずに十年

以上を過ごす。十五歳で公の場に姿を見せた社交界デビューの王城夜会では大いに騒がれたが、

その後は再び夜会に出席することもなく……って事になってるから最初は市場で見た女性が

ユークリネ公爵令嬢だなんて信じられなかったが……実際は三歳から母親の……ユークリネ公爵

夫人の実家である辺境伯の所に移り住み、その後の十年以上をその地で過ごしている。王都に

戻ってきたのは社交界デビューをする一年ほど前……だよな?」

「……どうして……」

 

それだけを言うとアスリューシナは瞳を大きく見開いてカタカタと震え始めた。

それこそ髪の色と同じくらい知られてはいけない過去だ。

その様子を見たキリトゥルムラインは慌てて手を伸ばし、彼女が膝の上で固く握り締めている

拳を包み込む。

 

「すまない……どうしてもユークリネ公爵家の令嬢の事が知りたかったんだ……市場でその

髪の毛を見た時から……」

「どうして……」

 

アスリューシナはか細く震える声で再び同じ言葉を口にした。

 

「昔、屋敷の侍女達が噂してるのを聞いたことがある。どこかの貴族の屋敷にロイヤルナッツ

ブラウンの髪をもつ子供がいるらしいと。三大侯爵家の歴史は古いから言い伝えの類いの書物も

かなりの所蔵があるんだ。その髪は王族の血をひく女性にしか現れないことも本で読んで知って

いたから、その子供が本当に存在するなら王族の外戚となる公爵家の令嬢であるとは思っていた。

けれどそれ以降そんな噂を聞くこともなかったから忘れていたんだ……そう、今日の昼間、

市場で偶然にフードの中からこぼれ落ちた一筋の髪の毛を目にするまでは……」

 

そこで一旦言葉を切ったキリトゥルムラインは自分を怯えた目で見つめてくる令嬢に更に顔を

近づける。

キリトゥルムラインの言葉を聞きながらアスリューシナは唇は噛みしめた。少しでも気を

許せば感情に流されて泣き出してしまいそうだからだ。

拒まれる前に何とか彼女の心に入り込みたくて、侯爵は早口で懇願した。

 

「最後まで聞いてくれ、アスナ」

 

キリトゥルムラインはただひたすらに自分の言葉を伝えるべく、彼女の手を包んでいる自分の手に

軽く力を込める。

 

「パイの発案をしてくれた女性が公爵令嬢だとにわかには信じられなかった。それでもやっと

つかんだ手がかりだ。しかしそれ以上はオレ個人ではどうしようもなくて……仕方なく情報屋を

頼った……」

 

そこまで言うとキリトゥルムラインは薄く笑った。

 

「腕の良い情報屋を知ってるんだ……幻のロイヤルナッツブラウンの髪を持つ十代の公爵令嬢……

夕方にはアスナの名前が記載された報告書が手元に届いた。改めて考えれば中央市場の店主達が

馴染みの客と称する公爵令嬢がユークリネ家の姫であるならこれ以上しっくりくる人物はいない。

なにしろあの中央市場を取り仕切っているのはユークリネ公爵家だからな。市場の視察にも行く

だろう。幼い頃から娘を連れて行っても何の不思議もない」

 

そこまでを聞いてアスリューシナはゆっくりと頷いた。

 

「はい、私は小さい頃、父に連れられて度々市場へ遊びに行ってました。古参の店主さん達は

その頃から可愛がってくださり、お世話になっている方々です……でも私は三歳の時この王都を

離れ辺境伯であるお祖父様の元で十年以上を過ごしました。その……理由は……ご存じですか?」

 

静かにキリトゥルムラインが首を横に振った。そして僅かに微笑む。

 

「それは金で買っていい情報じゃない。オレが知りたかったのはロイヤルナッツブラウンの髪を

持つ女性がどこの公爵令嬢かってことだけだ。そしてアスナにたどり着いた。希望はかなったん

だからこれ以上を探るような事はしないし、知りえた情報を誰かに告げもしない。もちろん

情報屋から漏れることもないよ。その辺は信用できるヤツだから」

 

アスリューシナは安心したように大きく息を吐き出した。気が緩んだのか双眸からそれぞれ

一筋の涙が流れ、頬を伝いそのまま膝の上の侯爵の手甲に落ちる。

つい先刻に初めて言葉を交わしたばかりの相手を信用できるのか、といった懸念はなかった。

それほどに漆黒の瞳は真摯に輝いていたからだ。

 

「あ……有り難うございます、キリトゥルムラインさま」

 

頬に涙の跡を残しながら儚く微笑んだアスリューシナは自然とキリトゥルムラインの名を呼んで

いた。

 




お読みいただき、有り難うございました。
「腕の良い情報屋」さんは……もちろん「ニャハハ」と笑うあのお方です。
そしてやっとアスリューシナの過去など、秘められた部分が少しずつ明らかになって
きました。
それを知っても誠意のあるキリトゥルムラインの対応に、少しずつアスリュー
シナも変化していくでしょう……まずは呼び方から。


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09.訪問者(5)

アスリューシナの足下に跪いているキリトゥルムラインは彼女の両手を握ったまま……。


蒼白になっていたアスリューシナの顔から緊張が薄れたのを感じ取り、キリトゥルムラインも

ほっと息をついた。

 

「それにしても見事なナッツブラウンだよな。まさに王城に飾られているティターニア王妃の

肖像画そのものだ。本当にこんな色が存在するなんて……」

 

ローソクの灯りに照らされているだけの室内でもその豊かな輝きは十分賞賛に値する色彩を放って

いる。肖像画の色を多少の誇張があると思っていたのだろう、いや、それはキリトゥルムライン

だけの認識ではなかった。今は幻といわれた色だ。誰もがあそこまでの色だとは思っていないに

違いない。

 

「キリトゥルムラインさまの御髪の色も……とても綺麗だと思います」

 

自分の髪を凝視する侯爵の視線にいたたまれなくなったのに加え、自らの発言に軽く頬を染めて

俯く彼女にキリトゥルムラインは優しく微笑んだ。

 

「アスナほどじゃないけど結構珍しいだろ。ただ色が強いから染めることが出来ない。妹は短く

切りそろえて夜会ではウイッグで出席しているんだ。オレは、まあ、いつもこのままだけどな。

事情を知らないヤツは染めてると思ってくれるみたいだし……アスナも隠したければ常に染めて

いればいいんじゃないのか?」

 

その提案に俯いたままのアスリューシナはゆっくりと顔をあげて少し困ったように笑う。

 

「キリトゥルムラインさまのお色は染料でそれ程艶のある黒を出すことは出来ないでしょう。

見る者が見れば染色でないのはわかります……私の場合、残念なことにその染料が体質に

合わないのか、長く染めたままでいると気分が悪くなってしまうんです。それもあって

夜会などには出席していないのですが」

「だから市場でもあのフード付きのマント姿なのか」

「はい……ですからこの際、短く切ってしまおうかと……」

 

その発言を聞いたキリトゥルムラインが慌てて身を乗り出した。

いまだ令嬢の手を包み込んでいる両手にグッと力がこもる。

 

「だからっ……それは……やめて欲しい……オレが口を出せる立場じゃないのはわかって

るけど……その……」

 

そこまで言うと勢いを失って床にペタンと座り込み、無意味に視線を泳がせてから小さく

こぼした。

 

「……もったいない」

 

アスリューシナはぱちぱちと数度瞬きをした後、ぷっ、と吹き出す。

 

「もしかして、それがおっしゃっていた追加の『頼み事』ですか?」

「そうだ……あっ、誤解しないでくれ、オレは別に自分の好みを押し付けているわけでは

なくて……いや、そもそも好みとかよくわからないし……なんでかアスナの髪は気に

なるっていうか、その……ゴメン、やっぱりもったいない、としか言いようがない」

 

何やら途方に暮れた様子で色々とダダ漏れ状態になっている。その姿を穏やかな眼差しで

包んでいたアスリューシナがそっと視線を移して自らの髪を見つめた。

 

「そうですね。実は言ってみただけで、あまり本気ではないんです。侍女達はこの先祖返りの

ような髪をいつも綺麗だと言ってくれますから。切るなんて言い出したら彼女達の猛反発を

受けることでしょう。どちらにしても隠していなければならない事に変わりはありませんし」

 

情けなさそうに弱々しく微笑む姿にキリトゥルムラインが思わず顔をしかめる。

 

「なら屋敷からほとんど出ないって言うのは……」

「はい、病弱が理由ではありませんが、庭にさえ出ないのは本当です。月に一度、市場に

行くのが唯一の楽しみで」

 

既に割り切っているのだと平気そうな顔で言う令嬢の言葉に痛みを堪えたような声でキリ

トゥルムラインは問うた。

 

「そうか……よくわからないけど、そうまでして隠しておかなければならないのか?、そんな

窮屈な思いをしてまで……」

「誰もがキリトゥルムラインさまのように優しい方ばかりではないんです」

 

その言葉に公爵家という力のある貴族の令嬢に生まれながら、十七年以上が経った現在も

このような生活を送らなければならない状況に彼女自身とその周囲の者達がどれほどの思いを

重ねてきたのかがうかがい知れる。

諦めたように瞳を閉じるアスリューシナに疑問の表情だった侯爵は失言を自覚して眉尻を下げた。

 

「すまない、浅慮な発言だった。事情を知ったばかりのオレが軽々しく口にすべき言葉じゃ

なかったな。それに……やっぱりその色は人の心を揺り動かす」

 

そう言ってその色を静かに見つめる。

もはやキリトゥルムラインの漆黒の瞳には目の前のロイヤルナッツブラインしか映って

いなかった。アスリューシナの手を包んでいた右手が導かれるようにのびる。

指先でそっと触れると、その手触りに思わず息をのんだ。

 

(……まるで高級な絹糸みたいだな……)

 

一本一本が細く軽いがしっとりとした滑らかさをもっている。

飽くことなくいつまでも触れていたい衝動に駆られ、触れているだけの指先から無意識に指へ

一房をからませた。

そんなふうにくるくると毛先を弄んでいると、ふと、伸ばした手の先にある朱に気づいて視線を

移す。アスリューシナの顔全体が真っ赤に染まっているのを目にして急速に意識が戻ってきた。

 

「うわあああぁぁぁっっっ……ごっ、ごっ、ごめんっ、すまないっ、ついっ、思わずっ……」

 

(オレが揺り動かされてどうするっ)

 

盛大に狼狽えて、膝立ちのままま背後から誰かに武器で脅されているように両手を頭の

高さにまであげ、首をちぎれそうな勢いでブンブンと左右に振っている。

唇を噛みしめて羞恥に耐えているアスリューシナは固まったままキリトゥルムラインを睨み

付けていた。

 

「キ、キリトゥルムラインさまは、いつも、この様に、じょ、女性の髪に触れるの、ですかっ」

「ないないないない、ないから。全然ないからっ、ホントにっ」

「ううっ……」

「だから、ごめんって……気分を、害し……たよな。本当にすまない。自分でも本当になんで

こんな事をと思う……けど」

「……き、気分は……害して……いません……。けどっ……」

「へっ?」

「……ただ、いきなりだったので……びっくりして……」

 

その言葉にキリトゥルムラインはごくりと唾を飲み込んだ。腰を浮かして再び手を伸ばす。

 

「……なら……触れても……いい……のか?」

「えっ?……っと……は、はい……」

 

自分を見つめる侯爵の瞳の輝きが今までと違う色を混ぜて揺らめいたように感じ、今更に己の

返事の意味を自覚してアスリューシナはギュッと目を瞑った。そっと耳の後ろに指が当て

られると思わずピクッと身体が反応してしまう。そのまま指はするすると髪に沿わせて下に

流れていき……何回か同じ事を繰り返されて徐々に慣れてくると、肩の力も抜けて別の感覚が

生まれてきた。

目を開けられないせいで、その感覚だけが身体全体を包み込む。

 

「気持ち……いい……」

 

自分が思っていたままの言葉が耳に入ってきて、驚いて思わず目を開けてみれば、すぐ目の

前にキリトゥルムラインの優しい微笑みがあった。

ボンッと音がしそうなくらい真っ赤な顔で驚いているアスリューシナが自分の発言を

受けての反応だと誤解した侯爵が再び慌てて手をひっこめた。

 

「ご、ごめん、つい、止まらなくなった……そろそろ帰るよ。これ以上は隣の部屋から

睨み殺されそうだから」

 

指の感触が自分の髪から離れてしまった一抹の寂しさは侯爵の言葉で吹き飛ぶ。

 

「えっ?」

「よく、説明しておいてくれ」

 

照れ笑いと苦笑いを混ぜたような表情で控えの部屋に通じる扉を一瞥すると、キリトゥルム

ラインは立ち上がった。慌てて立ち上がろうとするアスリューシナを片手で制してから、痛めて

いる足を指で差す。

つい先程動かさない方がいい、と言われたのを思い出してバツが悪そうに居住まいを正し、

背筋を伸ばして侯爵を見上げれば、片方の黒い指ぬき手袋を口に咥えながらもう片方を素早く

手にはめている。最後に黒のショートコートのフードを被り直してこの居室を訪れた時の

黒ずくめの身なりに戻ったキリトゥルムラインはバルコニーへと視線を向けてから何かに

気づいた様子でアスリューシナに声をかけた。

 

「そうだ、次だけど……三日後に来る。その頃なら足の腫れもひいているはずだ。不用心だから

バルコニーへの鍵は掛けておけよ。オレが来た時だけアスナが開けてくれればいい」

「はい?……それって……ええっ??」

 

それだけを早口に言い立てるとキリトゥルムラインは元来たガラス扉から素早くその身体を

夜の闇に溶かした。

 




お読みいただき、有り難うございました。
次回のアポも忘れない、女の子を口説く鉄則です。
キリトゥルムラインの場合、まだまだ無自覚ですが……。
それにしても無自覚に積極的ですね。


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10.訪問者(6)

アスリューシナの私室からキリトゥルムラインが去った後、入室してきたのは……。


キリトゥルムラインと入れ替わるようにして、今しがた彼が視線を送った先の扉から

ノックの音がする。返事をする間もなく「失礼します」と言って侍女頭のサタラが

キズメルを伴って入ってきた。

 

「サタラ!……いつの間に……」

 

驚きと共に発せられた問いには答えず、サタラは足早にアスリューシナの元へとやって

くると、そっと腰を落として両手で右足首に巻かれている包帯を確認する。

 

「……しっかりと巻いてあるので今夜はこのままお休みくださいお嬢様」

「あの、サタラ……」

「明日の朝、お取り替えいたします」

 

アスリューシナの言葉を取り合わず、淡々と侍女としての役目を果たすサタラは令嬢の足首から

視線をサイドテーブルの上に移した。いつの間に置いていったのか、キリトゥルムラインが

持参した軟膏がある。

 

「今度からはちゃんとおっしゃってください。それにしても……お召し替えや湯浴みの時にも

気づかないなんてうちの侍女達は……これだから私がいないと……そもそもガラス扉を閉め忘れる

とは……」

 

何やらブツブツと言いながらキズメルに持たせていたトレイを受け取り、乗っていた茶器を並べて

お茶の準備を進めている。

 

「サタラ、なぜ侍女が鍵を閉め忘れたって……」

「ちゃんと閉まっていたならお嬢さまが自ら解錠して、大胆にもかの侯爵様を迎え入れたことに

なりますが……どの様な理由があっても、それはないでしょう。なら、朝から忙しくしていた

侍女達が閉め忘れたと考えるのが妥当です」

 

「それと」と言ってから傍に控えているキズメルに顔を向け、その瞳を見つめて困ったように

微笑むと語気を和らげた。

 

「護衛としてお嬢様の周辺に気を配るのはもちろんですが、もう少しお嬢様ご自身の変調にも

気を配ってくださいね、キズメル」

 

侍女達の振る舞いならサタラの監督下だが、キズメルは護衛の身なので本来ならサタラが口を

出せることではない。それでも二人はアスリューシナ付きの侍女と専任護衛という役職を介して

ここ二年ほどは密なる交流を深めていた。キズメルがアスリューシナにとって姉のような存在

なら、サタラにとっては娘のような感覚だ。やんわりと注意喚起をされ、キズメルは無言で頭を

垂れた。

 

「違うのサタラッ」

 

うなだれているキズメルを見て、思わずアスリューシナが声をかける。それを制するように

ティーセットの乗ったトレイを彼女の目の前に置いたサタラは声を固くした。

 

「いいえ、違いません。市場に行くのがいけない、とは申しません。お怪我を負う事もある

でしょう。ですがご自分の身はご自身だけのものではないのです。お嬢様が我慢をなされば

いいという問題ではありません。この屋敷に仕える者が皆、お嬢様の事をどれほどお慕いして

いるか十分にご理解いただけていないようですね」

「そっ、そんなことはないわ。ええ、本当よサタラ」

 

サタラが自らが仕える公爵令嬢への忠誠心を暴走させ始めたのを感じ取ったアスリューシナは

慌てて侍女頭の両手を自らの手で包み込んだ。

 

「いつも、いつも感謝してるわ。サタラだけでなく、他の侍女達もいつも良くしてくれて……」

「なのにですっ」

 

興奮気味のサタラがアスリューシナの言葉を遮った。それこそ侍女としての振る舞いでは

なかったがアスリューシナとしては益々勢いの増す侍女頭をなんとかしなくては、の思いしか

ない。

 

「足の痛みをおっしゃっていただけず、私はつい先ほどコーヴィラウル様からうかがったん

ですよっ。それもお食事を終えてお部屋に戻られる時に、ふと思いついたように『そういえば

アスリューシナの足のケガ、どうしたんだい?』と。その時の私の気持ちがお嬢様におわかりに

なりますかっ。このお嬢様付きの筆頭侍女である私が、お嬢様のお怪我を存じ上げすに……

それをっ、それを、若様は随分と楽しそうなお声振でっ」

「ごめんなさい、本当にごめんなさい、サタラ。もうこんな事しないから。ケガをしたら一番に

サタラに言うわ。それにお兄様の性格はサタラもよく知っているでしょう。いつものサタラなら

私のケガなんて気づいていて当然なのだから、お兄様の悪ふざけがでたのよ」

 

懸命にサタラの手を撫でさすり、気持ちをなだめながら、アスリューシナは「お兄様ったら」と

内で溜め息をついた。

 

(気づいていたなんて……)

 

自分の兄が存外に食えない相手だったと、久しぶりの再会ですっかり失念していたことを思い

知る。父であるユークリネ公爵の片腕となって自国内はもちろんのこと、他国の商人とも売り

買いの駆け引きをしているのだから、観察力や洞察力は人一倍培われているに違いない。

腹に一物あるような兄の笑みを思い浮かべてアスリューシナの眉間に皺が寄る。そんなアス

リューシナにサタラはぐいっと顔を寄せた。

 

「加えて先ほどまでここにいらした侯爵様ですっ」

「ふえっ」

 

咄嗟に握っていた侍女頭の手を放し上体をのけぞらせたアスリューシナに、更に詰め寄った

サタラは大げさに息を吐き出すと、大胆にも公爵令嬢をジトッと睨み付けた。

 

「おみ足の具合をうかがおうとお部屋の前まで参りましたら男性の声が聞こえるんですから。

私の心臓が一瞬止まりましたっ。すぐにキズメルを呼びにやってお部屋に乗り込もうとしまし

たら、お嬢様が『ガヤムマイツェン侯爵様』とお呼びするのが聞こえて、再び心臓が止まり

ましたよっ」

「それは……私だって、驚いたわ」

 

そこまで言ってアスリューシナは、はたと思い至る。自分が侯爵の名を呼んだ声が聞こえた

のなら……

 

「サタラ……その……部屋でのやりとり、聞こえてたの?」

「侯爵さまの名を強くお呼びになったのは聞こえましたが。あとの内容はよく聞き取れません

でした。それにしても……あの……お嬢さま、ガヤムマイツェン候は、その……御髪を……」

「……ええ、ご覧になったわ」

 

最後までサタラに言わさずともその内容を正確に理解したアスリューシナは、そっと事実を

告げる。

自分が仕える令嬢の冷静な口調に対してサタラは一瞬の動揺を見せ、片手を口にあてた。

 

「そんな……」

「でもね、侯爵さまは……大丈夫だと思うの。他言はしないとおっしゃってくださったし。

そのお言葉を違えるような方だとは思えないのよ。それにそれ以上の事はご存じないみたい

だし……」

「……アスリューシナ様……」

 

侯爵へ信頼を寄せるアスリューシナの口ぶりと表情にサタラは小さな驚きを覚える。

 

「変よね、ほんの少ししかお話していないのに、そんな事を思うなんて……」

 

キリトゥルムラインの人柄を語る自分が恥ずかしくなったのか、使用人の二人からの視線を

避けるように俯くアスリューシナにサタラは冷静さを取り戻してある考えを進言した。

 

「こう言ってはなんですが、お嬢様。あの侯爵様ならオベイロン侯爵様とのご婚約、退けて

いただけるのでは……」

 

キリトゥルムラインを思い出していたのか、ぼんやりとしていたアスリューシナが一気に

表情を引き締める。

 

「……それは……ダメ……それだけはダメだわ」

「ですがっ、このままでは……」

「ガヤムマイツェン侯爵さまは理由(わけ)あってこの足のケガの責任を感じて謝罪においで

下さっただけ。それだけなの。私にしてもそうよ。いくら気に入らない殿方と婚約を結びたく

ないからと言って、何の想いも抱いていない方を頼るなんて、出来ないわ」

 

少し悲しげに首を振るアスリューシナに対し、これまで沈黙を守っていた専任護衛のキズメルが

耐えきれずに口を開いた。

 

「ですがっアスリューシナ様、オベイロン侯爵様と同じ三大侯爵家様がお相手なら、きっと

旦那様や奥様にもご納得していただけます」

「キズメルまで……ありがとう、心配してくれるのは嬉しいけど、その話はもうおしまいにして

ちょうだい。今日は疲れたから休みたいの。それとこのケガのことだけど、侯爵さまの見立て

だと多少腫れても三日もあれば落ち着くそうだからお父様達には言わないでね。明日、侍女達に

見つかったら王城でのダンスでお兄様に踏まれたとでも言ってやるわ」

 

悪戯ッ子のように笑うアスリューシナを見てキズメルは顔をしかめる。

 

「……お嬢様」

「キズメルの責任ではないのだから。落ち度はちゃんとサタラに言わなかった私よ」

 

サタラもそれ以上の言葉をキズメルが言うべきではないと判断して、話を遮るように用意した

紅茶のカップを令嬢にそっと差しだした。カップから立ち上がる香りに「ルイボスね」と

アスリューシナが微笑むのを見て頷く。

気分を落ち着かせてくれる茶葉を選んでくれた侍女頭に礼を言ってからそれを飲み干した後、

アスリューシナはサタラの手を借りて寝室に移動してベッドに横たわると、日中の市場での

出来事から王城での夜会と侯爵の訪問といった、たった一日では起こりすぎる数多の出来事を

振り返る間も無く、すぐさま眠りに落ちたのだった。

 

 

 

 

 

いまだ日の出の時間にはほど遠い深夜、コーヴィラウルの部屋から呼び鈴が鳴ったので急いで

サタラが駆けつけると、そこにはきっちりと外出の身支度を整え終えたユークリネ家の嫡男の

姿があった。

 

「ああ、サタラ、こんな時間にすまない」

「いえ、ですが一体どうされました?」

「さっき使者がきた。前から取引を希望している東方の商人と連絡がついたそうだ。気が

変わらないうちに会いに行ってこようと思ってね。勝手に出かけるとサタラに怒られると

思ったから呼んだんだ」

「そうでしたか……前々からお探しになっていたあのお品ですか?」

「そうだよ」

 

珍しくコーヴィラウルが心からの笑みを浮かべる。幼い頃の面影を思い起こさせるその表情は

サタラにとっては懐かしく、また久々に目にする嬉しいものだった。しかし「東方」の二文字に

表情は自然と硬くなる。

 

「しかし、そうしますと今回のお出かけは長期になりそうですね」

「そうなるかな……昨夜の王城でアスリューシナを目にした貴族達から目通り願いが届く

だろうが、それは父上が取り合わないから問題はないとして……」

 

そこまでの言葉を耳にしてサタラが首を僅かに傾げた。

 

「どうせあの侯爵がアスリューシナにご執心なのを知った上で自慢のひとつにでもしようと

『侯爵夫人となる前、彼女は自分の隣にいたんだ』と言いたい連中さ。そこまでの虚栄心が

なくとも、侯爵から本気でアスリューシナを奪い取ろうとするヤツはいないだろうしな」

 

妹の気持ちなど露ほども考えていない身勝手な行動も、貴族社会では表だって批難される

ことがないことを理解しているコーヴィラウルの口元が歪んだ。この社会では人脈構成は大きな

要だ。どのような形であれユークリネ公爵家と繋がりを持つきっかけとして先の夜会でのアス

リューシナの存在は大きかった。

 

「久々に大勢の前へアスリューシナを連れ出したからな、手が届かなくなる前に思わずちょっ

かいを出したくなる容姿を十分に披露してしまったよ……それに未来の侯爵夫人としての

繋がりを期待する人間もいるだろうし」

 

現在のユークリネ公爵令嬢としての地位、その愛らしい姿、優雅な立ち居振る舞い、加えて

三大侯爵家のひとつであるオベイロン侯からの求愛対象者であるアスリューシナは、ただ

存在するだけで無数の鳥や虫を呼び寄せる魅惑花のようだ。

 

「そのお言葉、コーヴィラウル様も同様でございましょう」

 

王都に滞在していることさえ希である公爵家嫡男が正装で登城したのだ、さぞ貴婦人方が瞳を

潤ませたであろうことはサタラにとって疑う余地すらない。

途端、うんざりとした表情を浮かべたコーヴィラウルはサタラを軽く睨み付けて、ボソリと

「俺のことはいいんんだよ」と溜め息と共に吐いてから口元を引き締めた。

 

「それにしても気がかりなのはあの侯爵だ。ここしばらくは父上も忙しいだろうから話が進展

することはないと思うが……俺が取引を成功させて戻ってくるまで大人しくしててくれる事を

祈るしかないな……アスリューシナのこと、頼んだよ」

「はい、心得ております……あっ、そのアスリューシナ様のおみ足ですが……」

「うん、やっぱり痛めてただろ?」

 

笑顔に僅かばかり底意地の悪さが混じる。

 

「……それが、どうもガヤムマイツェン侯爵様が関わっていらっしゃるらしく……」

「三大侯爵家のガヤムマイツェンが?」

 

予想もしていなかった侯爵家の名前にコーヴィラウルの眉がつり上がった。

 

「はい」

「確かなのかい?」

「ご本人がおいでになって、しっかりとそうおっしゃっていました」

「はっ?」

 

立て続けにサタラから告げられる言葉に理解が追いつかないせいで、常に余裕の笑みを絶やさ

ないはずの公爵家の嫡男は珍しくも口をあんぐりと開けている。その品性のない所作には

あえて意見を述べずサタラは説明を続けた。

 

「ですから、お二人が王城からお帰りになった後、アスリューシナ様のお部屋にガヤムマイ

ツェン侯爵様が直接おみえになって……」

「ちょっ、ちょっと待ったサタラ……色々と想定外が多すぎて混乱しているんだが、君が今

こうして落ち着いて報告をしていると言うことはアスリューシナの身は大丈夫なんだよな?

……ガヤムマイツェン侯爵が……うん、これはおもしろいな。サタラの見立てはどうだい?」

 

寸刻前までの焦り顔が嘘のように新しいオモチャを手に入れた子供の目でコーヴィラウルが

サタラに意見を求める。

 

「ガヤムマイツェン侯爵様には直接お目にかかっていませんが……扉から漏れ聞こえていたお言葉

から察しますに、うちのお嬢様に執着しているミミズトカゲのような侯爵様よりは何倍も誠実で

いらっしゃるようです」

 

アスリューシナには話の内容はよく聞き取れなかったと告げたはずのサタラだったが、それには

随分と含みがあったようだ。

 

「ふぅん……それで城でのあの視線だったわけか……何事もなくわが屋敷からお帰りになったの

ならアスリューシナの反応も悪くはないんだろう?……それにしても、ミミズトカゲ侯爵に続いて

同じ三大侯爵家のガヤムマイツェン侯爵か……なんとも我が妹姫は大物ばかりを釣り上げるね」

「さすがは私達がお仕えするお嬢様です」

 

令嬢への愛がダダ漏れしている筆頭侍女の鼻高々な物言いに若干顔を引きつらせたコーヴィ

ラウルは外套に手を伸ばそうとして、素早くそれをサタラに取り上げられた。

筆頭侍女は自慢げな言葉を吐きつつも自らの立場に沿った行動を怠ることはしない。

コーヴィラウルの背に回り彼が袖を通しやすいよう恭しく掲げれば、見惚れるほどの所作で

公爵家の嫡男はそれを着用した。

 

「なら俺もこのタイミングを逃すわけにはいかないな。アレが手に入れば、アスリューシナも今

よりは自由になるだろ」

 

同意を促すようにサタラに微笑んだ後、コーヴィラウルは廊下へとつながる重厚な扉へ足を

向ける。

 

「それにしても……今回もあまり屋敷に長居は出来なかったな……キズメルにももっと親子で

のんびりさせてやりたかったが……謝っておいてくれ、サタラ」

「キズメルは不満になど思いませんでしょう。表情や言葉には出しませんが、あれで父と自分が

公爵家のご子息とご令嬢の専任護衛を任されていることに誇りを感じているようですから」

「ならいいんだが……では行ってくる。見送りはここでいいよ。とにかく今はアスリューシナの

ことだ、くれぐれも用心を怠るなよ」

 

最後の言葉を公爵家の跡取りとしての顔で命じたコーヴィラウルにサタラは深々と頭を下げる。

重々しく開いたコーヴィラウルの私室の扉の両脇には公爵家の家令と公爵家嫡男専任護衛の

ヨフィリスが控えていた。




お読みいただき、有り難うございました。
やっとキズメルが喋りました。
そして最後の最後でヨフィリス登場です(笑)
でも、また当分出番はありません……コーヴィラウルのお供で王都から遠く離れて
しまいますから。
当然、コーヴィラウルもしばらく遠方でお仕事頑張ってきていただく事になります。


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11.密会(1)

あの出会いから三日後の夜、落ち着かない様子で私室にいるアスリューシナの元に……


キリトゥルムラインがユークリネ公爵邸のアスリューシナの私室を訪れた三日後の夜、約束の

言葉通り、当たり前のように再びガラス扉をノックする音がアスリューシナの耳に届いた。

ガラスの向こうには穏やかな笑みを浮かべているキリトゥルムライン侯爵の姿。それとは

反対にガチャリ、と解錠するアスリューシナ公爵令嬢のヘイゼルの瞳には少しの驚きと

戸惑いが混じっていたが、それはすぐに困ったような微笑みに変わる。

 

「本当に……いらしたんですね」

「来るって言ったよな?……アスナ」

 

もう言い改める気はないと示すかのようにアスリューシナを愛称で呼び、流れるように

左の手のひらを目の前の令嬢へと伸ばす。そこに自然とのせられた彼女の右手の甲に軽く唇を

落とすと、そのまま更に彼女に近づきロイヤルナッツブラウンの一房を手元に招いて、そこにも

自らの鼻をうずめた。

その行為にアスリューシナが固まる。

 

「ふぇっ……ううっ……」

 

キリトゥルムラインの接近に一瞬驚きの声をあげてしまったが、そう言えば前回、触れていいと

告げた事を思い出し、頬を染めながらも羞恥に耐える。当のキリトゥルムラインはチラリと目線を

あげ、その髪の持ち主の表情を認めると微かにニヤリと片頬をあげてから「いいん……だよ

な?」と小さく確認をとった。

泣き出しそうな瞳で頷く彼女にこれ以上は多方面からマズイと判断したキリトゥルムラインは、

名残惜しそうに髪を離すと「足はどうだ?」と勝手に室内を歩きながら問いかける。

 

「はい、キリトゥルムラインさまのお薬が効いて今は全く痛みも腫れもありません」

 

侯爵の半歩後ろを付き従っていたアスリューシナはそう言って立ち止まると、変わらずの

美しい所作に笑顔を添えて「有り難うございました」と頭をさげた。

その謝辞を片手で制してからキリトゥルムラインも安心したように目を細める。

 

「いいって、原因はオレだろ……それより、今夜も部屋に入れてもらえたって事は……扉の

向こうの二人は認めてくれたって事……かな?」

 

かくれんぼ遊びを楽しんでいるような視線で控えの間に通じる扉へと顔を向けると、アスリュー

シナが「サタラ、キズメル」と二人の名を呼んだ。

静かに扉が開いて侍女頭に続き、専任護衛の女性が頭を下げて入室してくる。

いくら仕えている令嬢の私室へと無断で侵入してきた不埒者とは言え相手は侯爵だ、使用人の

身では口を開くどころか顔を上げることすら出来ないと扉の前に佇んでいると、アスリュー

シナがキリトゥルムラインに二人を紹介した。

 

「私付きで侍女頭のサタラと……あの時一緒だった専任護衛のキズメルです」

 

二人が更に深く頭を下げると、キリトゥルムラインは彼女たちの前に立って落ち着いた声で

言い放つ。

 

「アスナの髪の事は誰にも言わない」

 

その言葉に二人が跳ねるように顔を上げた。

 

「それが心配だったんだろ」

 

僅かに微笑むキリトゥルムラインを見て、キズメルは再度無言で深々と頭を下げた。

サタラは一歩前に踏み出しキリトゥルムラインに近づくと不敬ともとれる鋭い眼差しを向ける。

 

「ガヤムマイツェン侯爵様、今のお言葉、信じてよろしいんですね」

「サタラッ、侯爵さまに失礼よ」

 

慌てて取りなそうと動いたアスリューシナの腕をキリトゥルムラインがつかんだ。

 

「構わないよ。それだけアスナのことが大切なんだろ……サタラ、だっけ?……ガヤムマイ

ツェンの家名にかけて、それにオレの騎士の称号にかけて誓う。アスナの髪については一切

他言しない」

 

召使いの身である自分の顔を真剣な表情で見つめてくる瞳に確かなものを感じて、サタラは

ほっと息を吐き出す。

 

「身の程もわきまえず無礼な物言いを致しました。申し訳ございません」

 

そう言ってゆっくりと頭を下げた。一歩下がった位置で二人のやりとりを不安げな表情で

見ていたキズメルも、キリトゥルムラインに腕をとられたまま動けずにいたアスリューシナも

ほっと胸をなで下ろす。

しかし顔を上げたサタラは一転、怒りのこもった笑顔となっていた。

 

「ですがガヤムマイツェン侯爵様、こちらはユークリネ公爵令嬢様の私室にございます。

こんな夜分に殿方が訪れてよい場所ではございません」

「うん、それは、そうだろうな」

 

こちらも一転して言われて当然とばかりのとぼけた口調で頷く。

 

「ご理解いただけて何よりでございます。今後はしかるべく手順を踏んで、日中に正面玄関より

お訪ねくださいますよう……」

「あー、それは無理」

 

遮るように軽く返され、サタラの笑顔が引きつった。

 

「……それはどういった理由でしょうか?」

「だって、そうだろ。オレとアスナは公式では一度も対面していない。それがいきなり訪問

許可を願い出ても公爵は顔を縦には振らないさ。多分だけど、王城での夜会以来そんな

申し出は他の貴族達からいくつも届いているはずだ」

 

そうなの?、とアスリューシナが問うようにサタラを見れば小さく頷いている。

 

「確かに……先日の王城でお嬢様をご覧になった貴族の殿方から是非一度お目通りを、との

書状が何通が届いておりますが……旦那様は相手にしなくて良いと……」

「だろ?」

「ですが三大侯爵家であるガヤムマイツェン侯爵様のお申し出なら旦那様も無下には

なさらないはずです」

「うーん、まあ、そうだとしても、だ。召使い達が控えている応接室で行儀良く言葉を交わす

のは性に合わないし、市場での事も話せない。お互い取り繕って会ってもなぁ……」

「……それは、そうかもしれませんが……」

「アスナが嫌でなければ、オレとしてはこっちの方が楽しいんだけどな」

 

キリトゥルムラインは掴んでいたアスリューシナの腕を引き、自らの横にぴたりと寄せた。

突然腕を引かれたアスリューシナは僅かに体勢を崩してキリトゥルムラインの身体にぶつかる

ように密着すると一瞬で顔全体を赤らめたまま慌てて隣の侯爵を見上げる。

 

「ちょっ……ちょっと待ってください。今のお話って……もう、足の具合は良くなりましたし

侯爵さまがここにいらっしゃる理由は……」

「まあ……夜の散歩のついでに寄るくらい、いいだろ?」

 

不敵な笑みを浮かべるキリトゥルムラインにアスリューシナはぽかんと口を開けた。

 

「お散歩……ですか」

「そう、時々一人で夜中に出かけるんだ。気楽でいい」

「はぁ……」

 

驚きを通り越して呆れたように息を吐き出すと、それはサタラも同じだったようで小さな声で

「このようなお方だったとは……」と何やらぶつぶつ呟いている。

 

「わかりました」

 

渋々承知したと言いたげな表情のサタラは再び強い視線をキリトゥルムラインに送った。

 

「ですがこのご訪問は今現在お嬢様以外は屋敷にいる者の中で私とキズメルしか知らない

ことです。キズメルを前に言うことではありませんが、くれぐれも警備の者達に見つからない

ようにして下さい」

「わかってるって」

「それとっ」

 

サタラの剣幕に一瞬キリトゥルムラインの肩がピョンッと跳ねる。

 

「万が一、侯爵様のお姿が私達以外の者に見つかった場合は、一切かばいだては致しません

ので」

 

そう言ってから公爵家の侍女頭は令嬢の専任護衛の顔を見て、許可を与えるようにしっかりと

頷いた。

 

「えっと……それって……」

 

たらり、と汗を流しそうな笑顔のキリトゥルムラインが頬を引きつらせながらおずおずと

尋ねれば、サタラは毅然とした態度で背筋をピンッとのばし、冷ややかな表情で静かに告げた。

 

「もちろん、不法侵入者として旦那様にご報告し、警備の騎士団に通報。捕縛されたので

あれば当然身柄を引き渡します」

「そ、それは……」

「アスリューシナ様の私室を訪れるのですから、それくらいの覚悟を持っていただかないと。

気軽に散歩の途中などというお心持ちでは承知致しかねます」

「……わかった」

 

アスリューシナを掴んでいた手を離し、両手でサタラの言葉を押し返すように広げると、

キリトゥルムラインは再び「わかりました」と言って神妙な顔つきとなる。

 

「決してバレないよう、細心の注意を払って忍び込む」

 

何か違うのでは?、と首を傾げているアスリューシナをおいてキリトゥルムラインとサタラの

間には共通の何かが生まれたようで、二人は同時に深く頷いた。




お読みいただき、有り難うございました。
キリトゥルムライン、公爵家でお味方ゲットです!
侍女と護衛からの信頼を手に入れ、外堀を埋めにかかってますね。
サタラとは「令嬢への(溺)愛」の共通項で意外といいコンビかも……。


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12.密会(2)

アスリューシナの侍女と護衛の信頼を得たキリトゥルムラインは……


「では、ただ今お茶の支度をしてまいります」

 

今後の話し合いが済んだところで本来の役目を思い出したようにサタラが礼を取ってから扉に

向かおうとしたが、ふと足を止める。

 

「お嬢さま、今日お作りになったクッキーもお持ちしますか?」

「えっ!?」

 

突然の申し出にアスリューシナが上ずった声をあげた。

 

「ダッ、ダメよ、あんなの」

「アスナが、作ったのか?」

 

不思議そうな顔のガヤムマイツェン侯爵に向けて、サタラは首肯した。それを見て侯爵は

一瞬目を見開いたがすぐにその目が細められる。

 

「食べてみたいな」

「わかりました」

「サタラッ、ちゃんと料理長が作ったものがあるでしょう」

「お嬢さま、その料理長がきちんと『美味しい』と言ったのですから大丈夫です」

「そんなの身内贔屓に決まってるじゃない」

 

必死にサタラの暴挙を止めようとしているアスリューシナに別方向からも声があがった。

 

「私も大変美味しくいただきました」

 

珍しくキズメルまでもがアスリューシナよりサタラに賛同する。

 

「だから、それが身内贔屓だって……」と言い続けているアスリューシナの言葉は取り合わず

サタラはキズメルに「手伝ってください」と言って扉の向こうに消えていった。

はあーっ、と溜め息をついているアスリューシナを見ながら、キリトゥルムラインがクスクスと

笑い声を漏らす。それに気づいたアスリューシナは気まずそうに侯爵にソファを勧めると、

再びその手をとったキリトゥルムラインが三日前のように並んで腰を降ろそうと導いた。

 

「自分でクッキーを作ったのか?」

 

キリトゥルムラインからの問いにアスリューシナは珍しくしどろもどろに口を動かす。

 

「……貴族の令嬢がする事でないのはわかっていますが……その……ずっと屋敷内にいるので

……それにおじいさまのお屋敷にいた頃も作っていて……サタラの夫が料理長なんです。

ですからサタラから料理長に頼んで厨房に入れてもらって……」

「それを召使い達に?」

「はい、日頃の感謝の気持ちです」

 

恥ずかしそうに俯いたまま説明をするアスリューシナの横顔を包むように柔らかく見つめる

キリトゥルムラインがあった。

しばらくして再びお茶のセットとクッキーを乗せた皿を持った二人が入室してくる。いたたまれ

なくなったのか、アスリューシナは立ち上がって自らお茶の支度を手伝い始めた。

「どうぞ」と言って差し出された小皿の上のクッキーをひとつつまんで口に放り込む。ポリポリと

良い音を立てゆっくりと飲み込むと、続いてすぐさま目の前にティーカップが現れた。

感想を言う間もなく紅茶で喉を潤してから、ふぅっ、と息を吐き出す。

 

「うん、美味い」

「本当に?」

 

いつの間にか再びキリトゥルムラインの隣に座って両手をギュッと膝の上で握り締めたままのアス

リューシナがこわごわと聞いてくる。

 

「ああ、別にオレはアスナに気を遣う必要もないから……本当に美味いよ」

「……よかった……」

 

ホッと息を吐き出して肩の力を抜いたアスリューシナを見つめる漆黒の瞳が優しさを纏う。

 

「そんなに心配だったのか?」

「はい……家族や屋敷の者達以外の方に食べてもらったのは初めてだったので……」

「でもこれで益々納得した。自分で作っていなかったらパイのアイデアなんて出ないよな」

 

その言葉と共に向けられた笑顔を受けてアスリューシナが頬を染めた。

 

「あ、有り難うございます」

「いや、だから礼を言うのはこっちだって。お陰で今年の収穫分は滞りなく出荷できたって

領地からも報告があがってる」

「それは、よかったです。領民の皆さんもひと安心ですね。ユークリネ家としても市場の

売り上げが好調なのは何よりですから」

 

キリトゥルムラインに微笑んでから、アスリューシナはサタラとキズメルに退室を促した。

一礼をして扉の向こうに姿を消す二人を見送ると侯爵がバツの悪そうな表情で声を潜める。

 

「使用人の耳には入れてはいけない話だったか?」

「いいえ、少なくともあの二人はユークリネ家に領地がない事も、代わりに市場を取り仕切って

いる事も知っています。ですが……」

 

そこまで言うとアスリューシナは少し困ったように笑った。

 

「ガヤムマイツェン侯爵家の領地事情を我が屋敷の使用人の前で話題にするのは主として控えた

方が良いと思いましたので……」

 

その言葉は既に貴族の屋敷を取り仕切る女主人としての判断と言えるものだ。所作だけで

なく正妃としての教養が身についていることを知りキリトゥルムラインは言葉を失った。

「それに……」と今度は一転、情けなげに眉尻を落とし唇を尖らせる。

 

「ユークリネ家に領地がないのは……その……残念と言うか……」

 

「そうか?」とキリトゥルムラインが首を傾げれば、隣にある美しい顔がずいっと寄ってきた。

 

「そうですっ」

「うわっ」

「領地があればその土地の事を色々学べますし、領民の皆さんとお話する機会もあるでしょう」

「それは……まあ……そうかもな」

「なのにひいひいお祖父様さまったら、王族から臣下へと下る時に領地はいらないから、その

代わりに王都の中心に市場を開く権利をお願いするなんて……」

「でも、そのお陰で王都は発展したんだろう。その後に東市場や西市場ができたにもかかわらず、

今もって中央市場が一番の規模と活気を維持してこの国の経済の中心にいるのは、それを取り

仕切ってきたユークリネ家の歴代公爵達の手腕だと思うけどな」

「その事については尊敬もしていますし、誇らしくも思っています。でも……」

 

わかってはいるのだ、中央市場に出店する店や扱う品物の質について父や兄がどれほど真摯に

向き合っているかという事は。中央市場に店が出せれば一流、中央市場に売っている物なら

間違いはない、とまで言われる信用を維持するのがどれほど大変なのかという事も。

それでも自分より近くで感じているはずの母が、時折「領地があれば」とこぼしているのを

聞いてしまうと、自分の領地への思いが消えるはずもなく、加えて辺境伯の元で暮らした

アスリューシナは祖父の領主として領民に接する姿に幼い頃から常に羨望の眼差しを送っていた

のだ。

サタラやキズメルを下がらせた時の落ち着いた口調に続き、領地への想いを興奮気味に訴える姿の

後、頭では納得していても気持ちが追いつかず俯いてしまうアスリューシナのころころと変わる

表情にキリトゥルムラインはひたすら魅入っていた。

 

「ガヤムマイツェン侯爵さまの領地はリンゴの生産が主ですけど平地以外にも薬草の採れる山が

あって、そこから流れてくる川の水はとても美味しいと聞いています。リンゴの収穫が終わると

山に入ってシカやウサギを狩り、干し肉にして寒い時期の食糧とするのですよね」

「よく……知ってるな」

「はい、市場で商品を搬入する皆さんにそれぞれの土地のお話を聞いたり、直接買い付けに行く

店主さんから土産話に聞かせていただくので」

「アスナ……もしかして中央市場に物を卸してる商人や、市場の店主全員を知ってるのか?」

「商人の皆さん全員は無理ですけど、店主の方々は全員に近いと思います。皆さん親切に色々と

売り買いの事も教えて下さるんです」

 

当然とばかりに笑顔で話す彼女を見て、侯爵は呻きながら頭を抱える。

生産者や仲買人、商人、それらと取引をする店主に及ぶまで一体何人とのパイプを持って

いるのか……キリトゥルムラインは一瞬意識が遠のく気がした。

これではまるで中央市場の関係者が彼女の言う領民と同じではないのか。

土地土地の話を聞き、そこから流通を学び、市場経済の流れを読み取る……そんな事の出来る

貴族令嬢など聞いたこともない。しかも相手だって商売だ、そうそう手の内を明かさないのが

普通なのに、一体どれほどの人間が彼女に魅了されているのかと思うと、多分その筆頭であろう

エギルのアスナに対する可愛がりぶりに納得がいった。

 

(どおりで、オレがエリカの事を聞く度に跳ね返すはずだ)

 

しかも、口調はからかいまじりなくせに目は全く笑っていなかったのである。あれは完全に愛娘に

寄ってくる悪い虫を見る父親の目つきだったと思い起こし、溜め息と共にげんなりと両肩が力なく

下がった。屋敷の侍女や護衛を味方につけただけでは足りなかったらしい。

これは自分がエリカにたどり着いたという事実をエギルに認めさせなくてはならない、と固く心に

誓ったキリトゥルムラインは、ふんっ、と顔を上げると共に気分も上げて己の決意にひとつ

頷いた。すぐさま隣にいるアスリューシナの手に自分の手を重ねると、驚いて動けずにいる令嬢に

向けて意味深な笑顔を向ける。

 

「なら、今度はオレと一緒に市場に行こう」

 

何やら勝手に話を決めてニヤニヤと黒い瞳を輝かせている侯爵とは裏腹に、未だその両手を侯爵に

捕らえられたままのアスリューシナは桜色の唇をポカンと開けたままいつまでも固まっていた。




お読みいただき、有り難うございました。
市場ではすっぽりと顔を隠しているご令嬢ですが、実はもの凄く
顔の広いご令嬢でもあります。
うっかりご令嬢をいじめたら、中央市場では買い物が出来なく
なるくらいに……(笑)


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13.密会(3)

アスリューナの私室を定期的に訪れるようになったキリトゥルムラインは……


それから何度もキリトゥルムラインはユークリネ家のアスリューシナの私室を訪れた。

それこそ5日と間を置かず、サタラとの約束通り、細心の注意を払って。

既にアスリューシナもキリトゥルムラインを私室に招く事に何の躊躇いも抱かなくなって

おり、それどころか彼が次に来ると約束した日を心待ちにしている自分の気持ちを、他の

侍女達の前で抑え込むのに苦労するほど互いの距離は縮まっていた。

 

 

 

 

コンッ、コンッ、コンッ……いつもの様に三度ガラスを叩く控えめな音が耳に届くと、アスリュー

シナはすぐさまバルコニーへと繋がるガラス扉に駆け寄り、カーテンを引き、鍵を開ける。

人ひとり分の空間が外と室内を繋ぐと、黒いコートの裾とカーテンの端が同時にはためき、冷たい

風が一気に入り込んできた。

「さぶ、さぶ、さぶ」と僅かながら背を丸め、指ぬきグローブをはめた両手を擦りながら素早く

侵入してきたキリトゥルムラインを見て、思わずアスリューシナは寒さに赤くなっている彼の頬を

両手で包み込んだ。

 

「!?」

 

その行為に瞬間固まったキリトゥルムラインだったが、すぐさまニヤリと笑うと「暖めてくれる

のか?」と小声で言いながらアスリューシナの細い腰に両手を回す。

「ひゃっ」と驚声が上がると同時に頬に触れている白い手は熱を持ち、自分の腕の中で俯いて

しまった公爵令嬢の顔も手と同様、可愛らしく染まっているだろう色を想像してキリトゥルム

ラインは思わず目を細めた。

しばらく互いの沈黙は続いたが、耐えきれなくなったのか侯爵の頬を暖めていた手はずりずりと

下がって、今の体勢を解こうとキリトゥルムラインの胸に突いて軽く突っ張ってくる。

そんなアスリューシナの細腕の頑張りがキリトゥルムラインに通じるはずもなく、まだまだ

足りないとばかり逆に密着するように抱き寄せて、遠慮無く彼女のぬくもりから暖を取り続けた。

アスリューシナから何の拒絶の言葉もないので、自分の腕の中でガチガチに強張っている身体を

解すように背中を摩るとほどなくして胸元から羞恥に震える声が耳に届く。

 

「外は……寒かったのですね」

「ああ」

 

この日、日中は天気が良く、ポカポカと暖かい日差しが存分に降り注いでいたが、日が陰るにつれ

風が強くなり、ぐんっ、と気温が低下していた。

 

「おじいさまのお屋敷で暮らしていた時も、寒い時期になるとこうして従兄弟の頬を暖めて

あげたんです。なので……つい……」

「うん」

 

暗に他意はないのだと言いたげな言葉にキリトゥルムラインが静かに頷く。

 

「アスナ……あったかいな」

「それは……よかった……です」

 

単に寒くて抱きしめられているだけなのだと自分を納得させ、アスリューシナは高まる鼓動が

伝わらぬようにと突っ張っていた腕の力を抜いて静かに瞳を閉じ、自分を落ち着かせることに

専念した。

 

 

 

 

 

その日から二人にはひとつの決まりが出来た。

キリトゥルムラインはアスリューシナの私室を訪れると何も言わずに少し両手を広げる。

泣き出しそうな表情のアスリューシナは内なる感情を抑えたまま彼に近づく。

引き寄せられるようにその胸に両手のひらで触れ、頬をすり寄せ、身体を預けるとキリトゥルム

ラインは広げた腕を閉じ、彼女を優しく包み込んで自分の内に収める。それからアスリューシナが

小さく問うのだ。

 

「寒いのですか?」

 

それにキリトゥルムラインは一言だけ「ああ」と答えて彼女の髪に顔をうずめる。

二人にとって本当に外が寒いのかは問題ではなかった。それは互いの行為を肯定化するための

やりとりにすぎない。それがわっていながら二人はそれを繰り返した。

そうしてしばらくした後は何事もなかったかのように、いつもの様に並んでソファに腰を降ろし

笑いながら他愛のないお喋りをする。

 

 

 

 

 

ある時、キリトゥルムラインがいつものように腕の中にアスリューナを包み込んで彼女の

ぬくもりを感じていると、もぞもぞと顔をあげたアスリューシナが頬を染めながら躊躇いがちに

瞳を閉じてスンスンと鼻を鳴らした。

その表情と仕草に途端に自分の体温が上がった気がしたが、どうにか堪えて首をかしげると

再びヘイゼルの瞳が開く。

 

「キリトゥルムラインさま、何かいい香りがします」

 

それで合点がいったようにキリトゥルムラインは抱擁を解いて自らの手や肘の匂いを嗅いだ。

 

「多分……リンゴの香りだと思う。今日の昼間に昨年作られたリンゴの蒸留水をつけて

みたんだ」

「リンゴの蒸留水?……初めて聞きます」

「さすがのアスナでも知らないか。市場に出荷するほど数を生産してないからな。うちの

領地のリンゴの中でも厳選した物を使って蒸留水を作るんだ」

 

キリトゥルムラインの腕の中だという事も忘れてアスリューシナは好奇心に瞳を輝かせて

一心に漆黒を見つめている。その眼差しを嬉しげに受け止めてからキリトゥルムラインはくすり、

と笑った。

 

「まず虫食いがなくて真っ赤なリンゴを選び慎重に皮だけを剥くんだ。煮立たせないように

皮を煮ながらゆっくりと水蒸気を集めて清潔な瓶に溜める、とまあそれだけなんだけど、

おそろしく手間と時間がかかるから売り物にはならない。毎年領主であるオレの所に何個か

送られてくるんだ。それに香水と呼べる程の強い香りでもないから……」

 

そこで言葉を途切れさせたキリトゥルムラインを不思議に思ったアスリューシナは、嗅覚に集中

していた意識を戻して侯爵の顔を見上げる。その問いかけるような視線を受けて、再び

キリトゥルムラインは唇を動かした。

 

「……その……かなり密着しないと……相手に香りが伝わらない」

 

その言葉に自分達の状況を一瞬で自覚したアスリューシナはそれこそリンゴのように顔全体を

色づけてから、それでも一呼吸後には再び瞳を閉じる。

 

「……はい、とても素敵な香りです。その様な贈り物をいただけるなんて、キリトゥルム

ラインさまは領民の方に慕われているのですね」

 

キリトゥルムラインの腕の中から抜け出したアスリューシナは花がほころぶような笑顔を侯爵に

向けた。

 

「んー……子供の頃は一年の殆どを領地で過ごしていたから、しょっちゅうリンゴの木に

よじ登って叱られてたな。挙げ句の果てに木から落ちて例の塗り薬の世話にもなってたから、

未だに蒸留水と一緒に毎年薬も送ってくるんだ。まったくオレがいくつになったと思って

るんだか……年寄り達には孫みたいなもんなんだろ」

 

照れた顔を隠すようにガシガシと前髪をいじるキリトゥルムラインの姿を見て今度はアスリュー

シナがくすり、と笑う。

 

「それよりアスナ、今度はいつ市場に行くんだ?」

 

突然、キリトゥルムラインが思い出したように話を切り出した。

 

「えぇっ……あ、そうですね、もうそろそろ行きたいと思ってますけど……」

 

それを聞いてキリトゥルムラインが悪巧みでも持ちかけるかのように、にやりと口元を歪ませる。

 

「今度はオレも一緒に行くって言ったよな」

「えぇっ……本気……だったのですか?」

「当たり前だろ、ふたりで行く」

「キリトゥルムラインさまと……ふたりで、ですか?」

「ああ、たまには昼間に外でアスナと会いたいし、それに市場のエギルに言いたい事もあるしな」

 

有無を言わさぬ勢いで、うんうんと頷くとすぐさま隣室のサタラを呼び出して打合せを始めた

キリトゥルムラインの横顔を、アスリューシナはただただ呆れたように見つめるしかなかった。

そしてこの夜は期待と嬉しさの中に少しの不安を抱いたアスリューシナの隣で、そっと令嬢の

手に自分の手を重ねたキリトゥルムラインはサタラとの話し合いにほとんどの時間を費やす

こととなった。

 




お読みいただき、有り難うございました。
リンゴの蒸留水……もちろん創作ですが、イメージ的には
リネンウォーターです。
次から再び舞台は中央市場となりますが……なにやら
賑やかな予感がしますね(笑)


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【番外編・1】抱きしめたくて

『漆黒に寄り添う癒やしの色』の「お気に入り」カウントが100件を
突破しました記念に感謝の気持ちを込めまして、番外編をアップさせていただきます。
時間軸に合わせて途中挿入になりましたこと、お許し下さい。
ホントに、本当に、ほんとーっに有り難うございました!!!!!
いつもの様に、密かにアスリューナ嬢の私室を訪れたキリトゥルムライン候の
目線でお届けします。


今夜もいつもの様にユークリネ公爵家を非公式に、非常識な手段で訪れていたオレは既に戸惑う

ことなく腕の中に飛び込んできたロイヤルナッツブラウンをふわり、と抱きしめたままその

ぬくもりと香りを堪能していた。

 

(幼い頃に領地の農家で触らせてもらった子ヤギみたいだな……)

 

まだ母ヤギからの乳しか知らない小さな生命(いのち)は自分の腕の中にすっぽりと収まる大きさ

で、その真っ白い毛並みはいつまでも撫でていたい程気持ちが良かった。少し高めの体温から

発せられる柔らかくて甘い香りと、緊張しているのか僅かに身体を固くしている様はまさに今、

自分の腕の中にいる存在とうり二つだ。

そう思った途端、クスッと笑みがこぼれてしまい、それを耳にしたアスナがそろそろと顔を上げて

くる。

不思議そうな表情で見上げてくる瞳の色は彼女特有で、この広大なアインクラッド王国内でも

唯一無二の色だろう。ここまで至近距離で目にしなければわからないから髪色ほど気遣って

いないようだが、オレ個人としては髪色を知られるより、この瞳の色を他の男に気づかれる事態に

なる方が大問題である。

許されるなら、このままもっと強く抱きしめてずっと腕の中に閉じ込めてしまいたいくらいだ。

けれど、そんな事をしたらあの時の子ヤギのように、すっかり警戒されて二度と触れることは

叶わなくなるだろう。

だから今はこのままで……。

 

「キリトゥルムラインさま?」

 

艶やかな桜色の唇から涼やかな声でオレの名が呼ばれる。

何度も「キリト」でいい、と言っても、儚げな容貌からは想像できないほどに頑固なこの公爵

令嬢はその姿勢を崩そうとはしなかった。

オレが不用意にこぼした笑みの理由(わけ)を知りたいのだろう、請うような視線が更に

嗜虐心を煽る。

 

(子ヤギを思い出していた……なんて言ったら怒られるな……)

 

オレはわざとアスナから視線を外すと、少々楽しげな口ぶりで話を始めた。

 

「今夜、屋敷を出る時に……ほら、前に話したろ、オレのお目付役、そいつに見つかってさ。

もの凄く胡乱げな目で見られたんだけど、まさかオレが公爵家に忍び込んでいるとは思って

ないだろうなぁ、と思ったら可笑しくなって……」

「夜のお散歩……とは信じていただけてないのですか?」

「んー……、毎回、毎回、ただの散歩……とは思ってないだろうな」

 

オレの言葉に急にアスナがオロオロと首を巡らせ始める。

 

「大変……私にはサタラとキズメルがいますけど、キリトゥルムラインさまはお屋敷の

皆さんに内緒でお越し頂いてるんですね。あらぬ誤解を招いているのでは……」

 

(困った仕草や表情がどうしようもなく可愛いと思ってしまうオレを知ったら、やっぱり

あいつからは冷めた視線を浴びせられるだろうな)

 

今度は上手く苦笑を隠して、何気ない風を装い「あらぬ誤解って?」と問い返せば、逆に

アスナが視線を外してオレの胸の上でボソボソと呟く。

 

「それは……ですから……貴族の殿方だけが集まる……夜の……サロンですとか……」

 

その発言に思わず目をしばたたかせた。

 

「……へぇ……少し意外だな。アスナがそんな事を知ってるなんて……」

「あ……兄が……王都に戻ってくると、時々そういったサロンに赴くようで……」

「ああ、兄上か。確かにオレも時々参加するけど、今まで兄上にお目にかかった事はないと

思うが……」

「屋敷に戻っている事があまりないですし、居ても滞在期間が短いので……兄の場合は年に

二、三回程度、貴族社会の情報収集だと言って……」

 

そこでオレは盛大にブッと吹き出す。

 

「キリトゥルムラインさま?」

 

再びアスナが不可解そうに顔をあげてきた。

 

「うっ……うん、情報収集か……確かに、あそこにいると色々と耳に入ってくるもんな」

 

アスナを腕に閉じ込めたままぷるぷると震える自分の肩と唇を落ち着かせる為、少々息が

荒くなり益々彼女の瞳に疑惑の色が混じる。

 

(利益、不利益に関係なく真実だったり、根も葉もない噂だったりと色々な会話が飛び交って

るから、あながち間違いではないけど……)

 

そう、男性貴族のみが集まる夜のサロンとは主催者が自慢の一品を披露する場であったり、

酒や煙草をゆったりと味わいながら政を論ずる場であったりと比較的健全なものから、

賭け事に興じる場合もあれば、果てはその夜限りの花を愛でる場合もありといった風に様々な

催しの総称なのだ。しかし、どれをとっても「貴族社会の情報収集」の場である事に違いは

ない。果たしてアスナの兄上はどのタイプのサロンに顔をだしているのやら……と思って

いると、オレの胸に触れていたはずのアスナの手がギュッとコートの袷を掴んだ。

 

「んっ?」

「キリトゥルムラインさま」

 

ついさっきまでの純朴な瞳が今は少し困ったように、それでいて咎めるような鋭さを秘めて

いる。

 

「ダメ……ですよ……あまりお酒や賭け事に夢中になられては」

「う゛っ」

 

(どうしてオレがサロンで賭け事に興じていることをっ!?)

 

「私などが言う立場でない事は重々承知していますが……サロンではお酒を嗜みながら賭けを

なさるのでしょう?」

 

そんなサロンばかりでないとは露ほども疑っていない様子にホッと胸をなで下ろすと同時に

頬が引きつる。

 

「いや、オレだって侯爵として情報収集は必要だしな」

「でも、お酒は飲み過ぎると身体に良くないと言いますし……」

「それなら大丈夫、オレは専ら酒より賭けだから」

 

オレの言葉に「んぅー……」と唸って、いまひとつ納得しかねる様子のアスナだったが「それ

に……」と言葉を続けると、そっと掴んでいた袷から力を抜いた。

 

「王都には……貴族の方を専門としている……その……高級……娼館が……あると……」

「ほへっ?」

「ですからっ……そういった場所に……キリトゥルムラインさまが通われていらっしゃると……

お屋敷の方々に……誤解されては……と……」

 

袷を掴んでいた手は今はそっとオレの胸に触れているだけだが、その甲は羞恥に震えており、

俯いた顔の両脇に見える耳周りは朱に染まっている。

 

「もももっ、もちろん……キリトゥルムラインさまが……そっ、そっ、そっ、そういった場所に、

いっ、いきゃれても……」

「ぷっ、くくくっ、アスナ……『いきゃれても』って……」

 

思わず吹き出したオレに向かって恥ずかしさで真っ赤になった顔を晒し、咎めるような視線を

送ってくるが瞳にはうっすらと涙が滲んでいる。

 

(ああっ、もう、どうしてくれようか)

 

アスナの背中に回していた手をトントンと軽く叩いて落ち着かせつつ、笑いの止まらない

オレは腰をかがめて彼女の火照った頬に自分の頬をぴたりと付けた。

 

「大丈夫だよ、そんなとこ行かないから」

「いえっ、行く行かないの話ではなく……例え行っていても私は……べっ……別に……何とも……

ただ、行かれていないのに、行っていると思われるのが……って、いつまで頬をすり寄せて

いるんですかっ」

 

パタパタと暴れるアスナを腕の中から逃すまいと、今までで最高にぎゅぅっ、と抱きしめ、

頬への密着度も高めて彼女の耳元に口を寄せる。

 

「そんな所に行っていないってアスナが納得してくれるまで」

 

それからアスナが半泣きの声で何度も「わかりましたから」と告げてくるが、構わずオレは

抱擁を続けた。

 

(そうか……あの時は暴れる子ヤギに驚いて腕を解いてしまったが、オレはもうあの時の

非力な子供じゃないし、こうやって絶対に離さなければ……)

 

そうやって、いつもよりも長く、いつもより強くアスナの身体を抱きしめているオレは、

当時の自分との違いに納得するだけでそれ以上は思い至らなかったのだ、腕の中の存在が

あの時の子ヤギと違って本気で逃げ出そうともがいているわけではない事に……。




お読みいただき、有り難うございました。
「もっと強く、ぎゅっとしたいけど、やっぱダメだよな」と自らを律していた
くせに、結局しちゃってますね(笑)
それにしてもアスリューナ嬢は高級娼館の存在を誰から教わったのでしょう?
いつか解明できる日がくるかも、です。


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14.見守る者(1)

二人で中央市場に行こうという約束が果たされる日がきて……


「エギルの店に居るから、そこで落ち合おう」……先日の夜、別れ際にそう言い残して部屋を出て

行ったキリトゥルムラインの言葉に従い、アスリューシナはいつものように中央市場の端で

屋敷から乗ってきた地味な黒塗りの馬車から降りると、はやる気持ちを抑えながらいつもより

早足にかの店に向かった。エギルの店が見えてくると、店先で黒のトレンチコートが目に入り、

フードが揺れるのも構わず小走りになる。

その足音に気づいたのか店主と話をしていたと思われる侯爵が振り向いた……と、ほぼ同時に

市場のでこぼことした地面に躓いてアスリューシナが小さく「あっ」と言うやいなや、

前のめりに体勢を崩しつつ無意識に伸ばした腕を次の瞬間にはキリトゥルムラインがしっかりと

掴んでいた。

 

「あ、有り難うございます」

「うん、でも、気をつけてくれ……髪の毛、フードから落ちるぞ」

 

後半はことさら音量を抑えてアスリューシナの耳元に口を寄せる。

 

「それなら大丈夫です。今日は後ろで束ねてますから」

 

そう言って少し顔を上げるがやはり目深にかぶったフードからは少し得意気に綻んだ口元しか

見ることは出来ない。

アスリューシナのすぐ後ろを付いてきていたキズメルは一瞬手を差し伸べかけたが、すぐに

見知らぬ関係に戻って、彼女が無事キリトゥルムラインと合流できたことを見届けると、

そのまま歩調を落とさず二人の後ろを通り過ぎる。

ちらり、と目線を侯爵に送れば、それに気づいたキリトゥルムラインも僅かに頷いて了承の意を

表した。キリトゥルムラインはアスリューシナの腕を掴んだまま再び顔を寄せる。

 

「いつもとは逆にアスナが来るのを待つのも新鮮でいいな」

「……お待たせしました、キリトゥルムラインさま」

「あー、さすがにここでその長ったらしい名前はやめてくれ。いかにも貴族ですってバレバレ

だから」

「では……」

「だから、キリトでいいって」

「キ……キリト、さま」

 

恥ずかしそうに下を向いたまま、見なくてもわかる桜色の唇から初めて小さく発せられた

自分の呼称を耳にした瞬間、衝動的にキリトゥルムラインは掴んでいた腕を引き寄せ、

アスリューナの身体を自らの腕の中に閉じ込めようとした、その時だ。

 

「あーっ、ごほん、ごほんっ、俺の店先で何やってるんだ、おふたりさん」

 

たまりかねたように店主がわざとらしい咳払いをしてキリトゥルムラインとアスリューシナに

声をかけた。我に返ったように素早くアスリューシナが顔を店主に向け「ごめんなさいっ、

エギルさん」と慌てた声をだす。

 

「エリカちゃんのせいじゃないさ。悪いのはみーんなこのキリトのヤツだから」

 

それを聞いてキリトゥルムラインは眉間に皺を寄せた。

 

「なんだよ、それ」

「そうだろう?、一体いつまでエリカちゃんの腕を掴んでいるつもりだ?」

 

その言葉にいまだ自分の腕をしっかりと支えてくれているキリトゥルムラインの手の

温かさに戸惑うアスリューシナが「あの……」と困った声を出せば、しぶしぶといった様子で

掴んでいた力を緩め、離すかに思えたその手を下に滑らせてほっそりとした彼女の手に

絡ませる。

そしてアスリューシナの隣に並ぶと、その耳元に囁いた。

 

「キズメルが傍にいないんだ。はぐれたら大変だろ。それにさっきみたいに目の前でコケられても

困るし」

 

いつも自分の部屋で自分の肩や背中をさすり、髪をすくい上げる手が今は自分の手と繋がって

いる、その新鮮な感覚に心臓がどきんっ、と跳ねた。そんな動揺を「はぐれない為、転ばない

為」と呪文の様に自分に言い聞かせ落ち着かせる。

ふたりの様子を眺めていたエギルがスキンヘッドをなでながら、ふふーんと意味ありげな笑みを

浮かべていた。

 

「それにしても、本当にエリカちゃんにたどり着くとはなぁ……最近顔を見せないから諦めたの

かと思っていたんだが……」

「まあ、エギルにはほんの少しだけど世話になったからな。いちを報告に……」

 

そこまで言いかけてキリトゥルムラインは周囲の異変に気づく。

通行の邪魔になるのも構わずあちこちの店主が自分達を中心に集まってきていた。しかも

それらの面々はキリトゥルムラインが余さず「古狸」と認定しているおやじ連中だ。

 

「くっそうー、俺達のエリカちゃんがあんな若造とっ」

「エリカちゃん、そいつに騙されてるんじゃないのか?」

 

明らかにこれ見よがしの態度でキリトゥルムラインへの文句を言い合っている。

 

「おい、こら、古狸のおっさん達、若造は構わないけど、騙されてるって何だよ」

 

チクチクと刺さる敵意の視線に怯むこと無く言い返せば、その倍は罵声が返ってくる。

しかも「うるさい、青二才がっ」とか「お前なんぞにエリカちゃんはもったいない」とか、

挙げ句には「目を覚ますんだ、エリカちゃん」とわけのわからない罵詈雑言が矢のように降って

きた。当のエリカは事態に驚くばかりでポカンと口を開けたまましばらく固まっていたが、どこ

からか「また店に来てくれよ」の声が聞こえて我に返る。そしてすぐさま店主ひとりひとりの

名前を呼んで声をかけ始めた。仕入れた商品の状態や売れ行きに始まり以前話題にしたと

思われる話の続きに果ては店主やその家族の体調まで、それこそ身内のように接するその姿に

今度はキリトゥルムラインが唖然とする番だった。

ひととおり声をかけ終わる頃には涙ぐむ店主の姿があちらこちらに見受けられ、場はさながら

娘を嫁にだす新婦の父親が集まったような湿っぽさに包まれる。

 

「まさかこの若造がなぁ……」

「どこのどいつだ、絶対エリカちゃんは見つからないなんて断言してた奴はっ」

「誰か喋ったんじゃないだろうな」

「そんな奴、おるわけないじゃろ」

「見つからないと信じてたのに……」

「俺だってそうだ」

「わしだって『見つからない』に賭けたさ」

「ここにいる奴らの殆どは『見つからない』にのったはずだろ」

「『見つかる』方に賭けたのは……エギルくらいか?」

 

そこまでを聞いてキリトゥルムラインの肩が震えだした。と、時を同じくしてエギルが勝ち

誇ったように微笑む。

 

「エギル、お前さんこの若造にエリカちゃんの事、喋ったんじゃなかろうな。それなら賭は

無効じゃぞ」

「喋ってねえよ。キリトに聞いてもらってもいい、なあ、キリト」

 

同意を求めた相手を見てエギルが、おや?、と首を傾げた。いつもの真っ黒のトレンチコートが

プルプルとわなないている。ギリリと音がしそうなほど歯をかみ締め自分を取り巻く店主達を

睨むその漆黒の瞳には間違いなく剣呑な光が含まれていた。

 

「どうりで……いくら……聞いても……エリカの情報が……集まらないわけだよ……なぁ…………

こっの、古狸どもがっ」

 

内に溜め込んだものを一気に吐き出す。

だが、百戦錬磨の店主達にはそんな怒声もどこ吹く風だ。

 

「あー、だがエギルも『見つかる……が相手にされない』方だったよなぁ、賭けたの」

「……そうだったか?」

「そうだ、ちゃーんと覚えておる。もうろくはしとらん」

「ちっ……一人勝ちだと思ったのにな。ならどっちにしろこの状態じゃ賭けは無効だろ」

 

エギルの言う「この状態」を示す二人の繋がれた手に全視線が集中する。その意味に気づいた

アスリューシナがボンッとフードから覗くおとがいまでを真っ赤に染めた。

 

「こ、こ、こ、こ……」

「ニワトリか?、アスナ」

 

赤らんだ顔で言葉を詰まらせている様子を見て、一気に怒気を沈めたキリトゥルムラインが

絶妙なツッコミを入れれば、ぶんっ、とフードごと勢いよく首を振ったアスリューナの顔の

角度が間違いなく侯爵に向けられる。

 

(あ、これ、睨まれてるな……うん、見えなくてもわかる。今、オレ、すっごく睨まれてる)

 

「ニワトリじゃありませんっ」

 

そう声高に言い放つと怒りと羞恥に全身を震わせながら店主達に向かって「これは違うん

ですっ」と宣言する。だがその後は納得のいく説明が出来ない自分に戸惑い、空気の抜けた

風船のように勢いをしぼませて「だから、その、とにかく違うんです」とゴニョゴニョ下を

向いて同じ言葉を繰り返した。それでもキリトの手を振り払おうとしない彼女を見て、店主

達がニヤニヤと笑い始める。

 

「なら、一ヶ月後には相手にされなくなる、にオレは賭ける」

「一ヶ月、もつかねぇ」

「わしは二ヶ月だっ」

「あ、それ、のった」

「おいっ、若造、ちゃんと報告しろよ」

 

これはもう諦めるしかあるまい。所詮古狸達の前では三大侯爵家と言えど若造は若造なのだ。

目の前を飛び交う賭けの様子を脱力して見ていたキリトゥルムラインが「報告しろ」と

言われて頬をひくつかせていた時だ、繋いでいた手がツンツンと引っ張られる。

ん?、と首をかしげてアスリューシナに振り返れば、予想外に彼女の顔が至近距離にあって、

その桜色の唇が目に飛び込んできた。

 

「アスナ……不意打ちは勘弁してくれ」

 

何の事を言われたのか理解できないアスリューシナは一瞬きょとんと間を空けたが、問いただす

気はないらしく軽くつま先立ちをしたまま更にキリトゥルムラインの耳元に唇を寄せる。

 

「ここでアスナはやめてください。エリカと……」

「あっ、そっか。悪い……エリカ」

 

事も無げにエリカと呼ばれ、望んだばすのアスリューシナが逆にフードの下で頬を染める。

踵を地面に戻して俯き加減で「それで、あの、どうしましょう?」と困った声を出した。

どうやら彼女が困っているのは古狸のおっさん達が繰り広げている賭けの内容だと察した

キリトゥルムラインは困り笑いをしながら肩をすくめる。

 

「エリカが気にすることない。おっさん達の道楽だろ、ほっときゃいいんだ。それより、

そろそろ場所を移そう、時間がもったいない……」

 

見れば店主達は肩を寄せ合い熱心に賭けの内容を書き留めているらしく、こちらに気づく

気配すらない。この場を離れるなら今だな、と判断したキリトゥルムラインは店主達の輪の

一番外側で腕組みをしているエギルに軽く手をあげ目で合図を送る。それだけで言いたい事は

伝わったようで、禿頭の果物屋店主はニカッと笑って腕組みを解くと追い払う仕草で手を

振った。

 

「行こう、エリカ」

 

囁くような声で促し、繋いだ手を引いて人混みに紛れ込む。

背後では変わらず古狸たちの威勢の良い声が飛び交っていた。昼のかき入れ時に店を離れて

賭けに興じる店主達は大丈夫なのだろうか、と心配より興味本位の疑問が浮かんだが、

いずれも老舗と言われる店の主達だ、店主ひとりが抜けたところで商売に差し支えるような

構えの店なら中央市場の支柱とはなっていないだろう。ユークリネ公爵家が治めている中央

市場の地盤はその歴史と人脈が絡まって強固でありながらもしたたかで明るく柔軟なのだった。

 




お読みいただき、有り難うございました。
ようやくアスリューナ嬢からキリトゥルムライン候への呼び方が
「キリトさま」にまで到達いたしました。
それでも市場で手を繋いで歩く男性を「さま」呼びって……十分
周囲から浮きそうですが、そこまで気は回らないでしょうね。
きっと物陰からキズメルがため息をついていることでしょう(笑)


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15.見守る者(2)

アスリューナと連れだって中央市場を巡るキリトゥルムラインは
いつもの場所へと彼女を誘(いざな)って……


自分と手を繋いだままあちらこちらの店を覗いては弾んだ声でお喋りをするアスリュー

シナを見て、キリトゥルムラインの口元が自然と弧を描く。エリカの姿を探し求めて市場を

訪れていた頃には想像もしていなかった展開だ。

そうやって市場を巡りながらいつも自分が一休みする広場の噴水へと到着する。そっと

エスコートしながらその縁に彼女を座らせるとキリトゥルムラインは辺りを見回して何かを

確認してから腰を屈め、アスリューシナに顔を近づけた。

 

「お腹空いただろ?、何か買ってくる。ここで待っていてくれ」

 

一瞬、何を言われたのかわからない表情をしたアスリューシナだったが、すぐにキリトゥルム

ラインが昼食の事を言っているのだと気づき慌ててコクコクと頷く。その様子をどこか

面白そうに眺めてくる視線にいたたまれなくなったが、すぐに「食べたいもの、あるか?」と

問いかけられ、今度はフルフルと首を横に振った。

「すぐに戻る」と言うなり足早に市場へと引き返すキリトゥルムラインの後ろ姿を見送って

からアスリューシナはホッと息を吐き出す。

 

(やっぱりキズメルと一緒に来るのとは、違うわ)

 

既に通い慣れたいつもの市場のはずなのに、隣にいる存在が違うだけでこうも自分が

落ち着かなくなるとは思ってもみなかった。

商品を見ていても視界の端に映る黒いコートか気になって今日見たはずの品物はほとんど

覚えていない。

店主と喋っていても彼がどんな表情で聴いているのか、そればかりが気にしなってしまう。

だいたいいつもはキズメルが供をしてくれるとは言え、無関係を装っているので常に近くに

居てはくれるが一緒に同じ物を見て感想を言い合ったり、あまつさえ笑い合うなど

したことがなかった。

 

(誰かと一緒に市場を回るなんて、小さい頃、お父様に連れてきてもらって以来ね)

 

あの頃は一緒に回ると言うよりは小さなアスリューシナが一生懸命父の後を追いかけ回して

いたと言った方が正しかった。そのくせ店主と話し込んでいる父に飽きて、他の店を見ようと

離れればすぐに父の護衛長に見つかり、抱き上げられ、元の場所に連れ戻されてしまうのだ。

そんな時、父は決まって「あまりチョロチョロしないでおくれ、エリカ」と困ったように

笑って大きな手で自分の頭を撫でてくれた。

 

(そう言えば、あの子を見つけたのも、ちょうどこの噴水の近くだったような……)

 

思いがけず記憶を紐解いて浮かんできた小さな存在と出会った場所を確かめようと広場を

見回した時だった。向こうから左右の手それぞれに何かを乗せた格好で人混みをかき分ける

ようにキリトゥルムラインが戻ってくるのが見える。

アスリューシナが急いで立ち上がるとそれに気づいたキリトゥルムラインが足を速めて

戻ってきた。

軽く息を切らしながら「お待たせ」と言い片方の手をズイッとアスリューシナに差し出せば、

温かな湯気と香ばしい匂いが嗅覚を刺激して、フードの下から見える口元がふわぁ、と喜びを

表す。

使い捨ての簡素な皿の上にはタレのかかった鶏肉が一口大に切られており、その脇に野菜の

酢漬けが添えられていた。更にはその上にホイルを敷いて白パンとフォークが乗っている。

「ほい」と言いつつ更にアスリューシナの前に皿を突き出してくるので、おずおずと両手で

受け取れば、自由になった手で腰にぶら下がっていた二本の瓶を持ち上げて軽く振った。

瓶の中には透明な液体の中にフレッシュなミントがぎっしと詰まっており、振られた勢いで

シュワッと湧き出た炭酸の泡が鮮やかな緑の若葉にまとわりつく。

中身の冷たさを証明するように瓶の外側は細かい水滴を纏っていた。

先程と同じような仕草でアスリューシナの目の前に瓶を掲げれば、彼女が僅かに口を開けた

まま覗き込むように顔を寄せてきて摩訶不思議な物を見るようにフードの中のヘイゼルが

釘付けになっている。

瓶から回り込むようにその表情を見たキリトゥルムラインも興味津々に飽くことなく見つめ

ているのだろう瞳を想像して目が離せなくなっていた。

 

「スパークリングミントウォーター……知らないか?」

 

僅かに緩んだままの口で、コクコクと彼女が頷きながら視線を瓶から外さずに答える。

 

「売っているのは知っていましたけど……実際に泡が出ているのを見たのは初めてです」

「オレ、ここで食事をとる時はいつもこれなんだけど」

 

もう一度押し付けるように瓶を彼女の顔へと近づければ、自分の両手が塞がっている事に気づいた

のか、アスリューシナは手に乗っている皿を急いで片手に持ち替えて「有り難うございます」と

夢うつつのように言ってから嬉しそうに笑って、瓶を受け取った。

さっきまで座っていた噴水の縁にちょこんと座り直し「市場で食事をするの、初めてなんです」と

打ち明けてから、時々瓶を振っては中身をジッと見つめている。

その様子を可笑しそうに眺めてから、キリトゥルムラインは振り返って噴水広場から市場を

挟んで反対側に立っている時計塔に向け瓶を持った手をあげた。

それに気づいたアスリューシナが問いかけるように首を傾ける。その仕草に気づいた

キリトゥルムラインは彼女の隣に腰を降ろして瓶を横に置いてから説明をした。

 

「市場に来た時はここで食事をするって決めてるからな。その時はアイツもあの時計塔に

いるのが約束事みたいになってるんだ」

「アイツ、さん?」

「例のオレのお目付役。まあ今日はオレがア……、エリカの傍を離れたら、オレじゃなくて

エリカを見守るよう言ってあるからさ。それで、いちを戻った合図」

「えっ!?」

 

驚くアスリューシナにキリトゥルムラインが微笑んだ。

 

「今日はオレが無理を言って二人きりにしてもらってるんだ。キズメルは常に見てくれている

とは思うけど、いつもよりは距離をとってるからエリカを見守る目は多い方が安心だし」

「そんな……でしたらキリトさまの護衛は……」

「だから、もともとアイツはオレの護衛の為に付いて来てるわけじゃないんだって。

今日だけはエリカの護衛だけどな」

 

キリトゥルムラインの言葉を聞いてアスリューシナは皿と瓶を脇に手放して急いで立ち

上がった。

突然の行動に驚くキリトゥルムラインを尻目に両手を前で合わせて時計塔に向かってペコリと

頭を下げる。

 

「エッ、エリカ?」

「すみません、ここで貴族の礼を取るとかえって目立ってしまうので……これでアイツさん、

見えたでしょうか?」

「ああ、そりゃ見えてると思うけど……」

「お屋敷に戻られたら、キリトさまからもちゃんとお礼をお伝えしてくださいね」

「……プッ」

「なっ、なんで笑うんですかっ」

「いや、だって……なんか……可笑しくなって……きっと今頃アイツも豆鉄砲を食らったような

顔になってるんだろうなぁ、と思って……普段はあまり表情や言葉を表に出さないヤツだから、

想像したら……」

「もうっ、守ってもらっているならお礼をするのは当たり前です」

「当たり前、か……そんな事を当たり前だって言って、当たり前にやる貴族の令嬢なんて

今まで見たことないぞ……」

「そう……なんですか?」

 

再びキリトゥルムラインの隣に腰を降ろしたアスリューシナは少し俯いて膝の上にのせた

両手を突っ張らせ「ううー」と唸った。フードで見えないが眉間には深い皺が刻まれている

ことだろう。

 

「まあエリカらしくてオレはいいと思うけどな……それより食べよう。折角の肉が冷めるから」

 

場を仕切り直すような言葉に従って「はい」と返事をすると脇にあった皿を持ち直し、

しげしげと料理を眺める。

 

「キリトさま……この鶏肉って……」

「ああ、いつもは骨付きのまま囓るんだけどさ、今日はちゃんと食べやすいように肉の部分

だけを切ってもらってきた」

 

アスリューシナは心の中で「ああ……あの鶏肉ね」と呟きながら、記憶の中の情景を思い出し

つつ鶏肉の一片を口に運ぶ。

 

「あ……柔らかくて美味しい」

「だろ?。最後にこのタレを白パンに付けて食べるのがオススメなんだ」

 

隣で得意げに笑うキリトゥルムラインを見て、思わずアスリューナもフードの下から見える

唇に笑みを浮かべた。




お読みいただき、有り難うございました。
スパークリングミントウォーター……モチロンこの名称では実在しません(と
思います)がノンアルコールモヒートな感じで。
ミント水ならありますけどミントの香りを楽しむ為には一回熱湯を使う必要が
あるので炭酸水では作れず、ライムやレモンの味を加えてOKなら炭酸水で割れば
いいみたいなので作れそうです……って何の話を書いているのでしょう(苦笑)
そして時計塔に向かって御礼のお辞儀をするエリカ(アスナ)……時計塔にいる
アイツさんも驚いたでしょうが、見守っているキズメルの方がよほど混乱した事で
しょう。


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16.見守る者(3)

中央市場にある広場でキリトゥルムラインと一緒に昼食を頬張っていた
アスリューナの元へ懐かしい存在が現れて……


フードの奥から人々が行き交う姿を眺めつつ噴水の縁にキリトゥルムラインと並んで腰を

降ろし、白パンをちぎって口に入れ、冷たいスパークリングミントウォーターを飲む。口の

中がスッキリとすれば、また甘辛いタレがたっぷりとかかった温かい鶏肉を頬張り、その

合間に隣に座る黒髪の青年とお喋りを楽しむ。

何もかもがアスリューシナにとっては初めてで心躍る体験だった。

キリトゥルムラインが一足先に食べ終わろうかという頃、彼の少し後方に黒いモフモフと

した毛皮がヒョコヒョコと横切る。

途端、アスリューシナが驚いたようにキリトゥルムラインの背後に向かって声をかけた。

 

「トト?」

 

黒いモフモフの足取りがピタリと止まる。

声のした方向に顔を巡らせ、訝しげに「うぉふ?」と呻くような低い声を漏らした。

 

「やっぱり……トト!」

 

黒いモフモフは今度こそ声の主をハッキリと認識したのか先程までの警戒心を解いて、やはり

モフモフとした尻尾をちぎれんばかりに振りながらアスリューシナの元へと僅かに後ろ足の

片方を引きずって、それでも目一杯の速さで駆け寄ってくる。

アスリューシナも昼食を脇にどかし、地に両膝をついて腕を広げ黒いモフモフを迎え入れた。

 

「トト、トト……ああ、元気だった?」

 

アスリューシナの腕に飛び込んだ黒いモフモフのトトは震える後ろ足を目一杯に伸ばして、

ペロペロとフードの中の頬を舐める。

全体がモフモフのトトは当然顔もモフモフしており目も口も黒い毛が覆い被さるように伸びて

いたが、休むことなくパタパタと振られている尻尾が間違いなくアスリューシナとの再会の

喜びを表していた。

 

「ゃんっ、くすぐったい、トト」

 

微笑ましい光景を唖然とした表情で見ていたキリトゥルムラインがぼそり、と呟く。

 

「黒い……モップか?」

 

キリトゥルムラインの自然と口を突いて出た単語にアスリューシナが声を荒げた。

 

「失礼ですっ、キリトさま!……犬ですっ。『トト』と言う名前の立派な犬ですっ」

「えっ、犬?……ああ、なるほど、うん、犬か……犬ね。そうだな、よく見ると……犬……

かも」

「だから、ちゃんと犬ですっ……よくご覧になって下さい。市場の皆さんが世話をして

下さっているので、毛艶だってしっとりサラサラで、とても綺麗な黒で、私の一番好きな

色ですっ」

「えーっと……エリカは……その……黒い毛並みが、好きなのか?」

「はいっ……黒が……」

 

「最近とても気になってしまう色なんです」と続けようとした時だ、見上げているキリトゥ

ルムラインが何かを言いたげに片手で自分の漆黒の前髪をツンツンと弄っているのを見て、

思わず腕の中のトトの力いっぱい抱きしめた。「きゃふんっ」とトトが悲鳴をあげる。

 

「ち、ち、ち、違いますっ、私はトトの毛並みの話をしているんです」

「うん、オレもトトの毛の色の話をしてるつもりだけど……」

「うう〜っ」

「エリカ、そんなに力いっぱいトトを抱きしめてると、トトが果てるぞ」

「えっ?……きゃーっ、トト、ごめんなさいっ」

 

慌てて両腕の力を緩めると、抱き上げてその身体を自分の膝の上におろした。ずり落ちない

ようにしっかりと支えて頭を撫でてやれば再び嬉しそうに「はうっ、はうっ」と息を弾ませて

いる。その様子に一安心したアスリューシナは改めて穏やかな視線を膝元に注いだ。

 

「それにしても、元気そうでよかった……最近全然会えなかったから気になっていたの。後ろ

足は、どう?、痛みはでていない?」

 

問われた内容が理解できたのか、トトもアスリューシナを見上げて大丈夫だと言うように

尻尾をパタパタと振っている。彼女の言葉を聞いたキリトゥルムラインがすぐ隣までやって

きて同じように地面に片膝を降ろした。

 

「トトはこの中央市場の犬なのか?」

「はい、産まれたての子犬だった頃、この広場の近くで私が……見つけて……その時からずっと

ここの店主さん達に可愛がっていただいているんです」

「ってことは、いつも市場内をウロウロしてるんだよな?、それにしてはオレ、今まで一度も

会った記憶がないんだけど……まあオレが市場に足を向けるようになったのが……」

 

とここまで言うと声を潜めて「爵位を継いだ後だから、ここ二年ほどだけどな」と言えば、

アスリューシナは口元に軽く微笑みを浮かべてからキリトゥルムラインの疑問を解消して

くれた。

 

「トトはもう14年以上もここで暮らしているおじいちゃん犬なんです。だからあまり歩き

回る事もないようで、私が市場に頻繁に来られないのもありますが、今日、会えたのも半年

ぶりくらいです」

 

「そうなのか」と呟きながらアスリューシナの腕の中に収まっているトトの頭をガシガシと

撫でてやれば、乱暴な手つきが気に障ったのか、真っ黒い毛並みの奥からジロリと睨んでくる。

その強気な視線にキリトゥルムラインは「おっ」と声を上げたものの、更に顔を寄せてアス

リューシナに聞き取れないくらいの音量で対抗するようにこちらも挑戦的な言葉を吐いた。

 

「普段ウロウロしないお前がタイミング良く現れるとはどういう事だ?、そんなにオレの

邪魔がしたいのか?」

 

アスリューナの腕の中で見えないはずのトトの口が優越感を滲ませた形に変わる。その後に

軽く「ふんっ」と小さく鳴らされた鼻は「まさにその通り」と告げているようだった。

 

「はぁっ、この市場はライバルが多すぎるな」

 

キリトゥルムラインの独り言に首を傾げるアスリューシナだったが、その意味を問おうと

する前に再び疑問を投げかけられる。

 

「で、後ろ足ってのは?」

「あ、はい……トトは片方の後ろ足が不自由なんです……その、私が原因で……」

「ア……エリカが?」

「はい、なんとか治そうと思ったのですが、エギルさんが無理をして治さなくてもこの市場で

大事に世話をするから大丈夫だと言ってくださって……」

「エギルがそう言うんなら大丈夫だ。あいつはいい加減な事は言わないからな。それに足が

不自由なのに14年以上もここで暮らしているなら、トトの方はあまり気にしてないのかも

しれない。エリカの言う原因を深く聞く気はないけど、エリカがトトに好かれているのは

オレでもわかる」

 

元気づけるようにアスリューシナへ笑顔を向ければ、トトも同意を示すように腕の温もりから

顔を上げて「うぉふんっ」と啼いた。

 

「そう……でしょうか?」

 

自信なげな口調でトトの気持ちを確かめようとその黒い毛並みの奥の瞳に顔を近づければ、

トトの方も顔を寄せてアスリューシナを励ましたいのか、フードの中のその頬をペロンと

舐める。

 

「ふふっ、有り難う、トト」

 

そのやりとりを見ていたキリトゥルムラインが面白くなさそうな表情を浮かべていると、

広場にやってきた子供達がトトを見つけて駆け寄ってきた。

 

「トトだっ」

「トト!」

「トト、おいで」

「一緒に散歩しよう」

 

自分とトトをアッという間に取り囲んで口々に飛び出す誘いにアスリューシナが戸惑っている

と、横からヒョイッとキリトゥルムラインがトトを抱き上げる。

 

「ほらよ、ガキ共。トトはじいさんだし後ろ足が悪いみたいだから優しくだぞ」

 

ちらり、とアスリューナに了解を得るため眼差しで問いかけると、慌てて彼女が頷いた。

それを確認してから両手を伸ばしている女の子の一人にトトを抱かせれば、すぐ隣の男の子が

得意げに言い返してくる。

 

「そんなのわかってるよっ」

「なら任せて大丈夫だな」

 

信頼をのせてニヤリと笑えば子供達も同じように笑って大きく頷く。女の子の腕の中に

移動したトトでさえ不敵な笑みを浮かべているようだった。

トトを抱えた女の子を中心として子供達が広場から去っていくのを見送っているとすぐ隣の

フードの奥からクスクスと楽しげな笑い声が漏れ聞こえる。

 

「エリカ?」

「キリトさまは子供達のお相手が上手なんですね」

「小さい頃は妹の相手をさせられてたし、領地にいる時は同じ年代のヤツからそいつらの兄弟

姉妹にいたるまで各年代層いっしょくたで遊んでたせいだろ。夜会で令嬢の相手をするより

子供相手の方がよっぽど気が楽だな」

「まぁっ……私も、一応令嬢ですが?」

 

悪戯を仕掛けるように口元を綻ばせているアスリューシナに手を差し出し共に立ち上がると、

キリトゥルムラインはそのまま顔を彼女の耳元に寄せた。

 

「なら、子供の相手をするよりこうやってアスナといられるのが一番楽しい」

 

この場所で呼ばれるはずのない「アスナ」と呼ばれ、囁かれた言葉の意味を理解した途端

フードの奥は真っ赤に染まった。




お読みいただき、有り難うございました。
トトは購入特典の小説に登場したキャラクターですが、アスナを
メロメロにさせたせいか、私の中で妙に印象の強いワンちゃんです。
「見守る者」は1、2、3と、それぞれ市場の店主さん達だったり、
お目付役のアイツさんだったり、トトだったり、と二人を見守ってくれる
存在として登場していただきました。
(もちろん、終始キズメルも見守っているはずです)
では、次は少し寄り道をさせていただいて番外編をお届けします。


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【番外編・2】顔の見えぬ友:1

「見守る者」まで終わった所でアノ人の視点で話を振り返ってみたいと
思います。完全に彼女の独白形式ですし、メインの二人の話が進展する
ことはありませんので飛ばしていただいても構いません。


最近、うちの主(あるじ)の様子がおかしい。

基本、気を許した相手にはとことんわかりやすい態度で接する主が明らかに挙動不審を無理に

隠そうと頑張っている……隠そうとしているのがわかってしまうという時点でわかりやすい

部分は一貫しているのだけど……。

最初に違和感を感じたのはもう二ヶ月くらい前になるだろうか……随分と中央市場に出かける

回数が多いな、と思ったのは。

もともと中央市場には好んで出向いていた主だったが、自分の領地の産物の売れ行きが気に

なるんだ、と言いながら何度も足を運ぶ様子は品物や取り引きの様子を見る、と言うよりは

明らかに誰かを探している、といった感じだった。

目当ての人物が行商人なのか仲買人なのか問屋の人間なのかはわからなかったが、主がかなり

必死だったのは遠目でも痛いほどに伝わってきて……ある日、思わず聞いてしまったのだ

「誰を探してるの?」と。

私の問いかけの内容に、と言うより私が問いかけてきた事自体に驚いた様子の主は、一瞬、

深黒の目を大きく見開いた後、困ったように笑うだけで明確な言葉を返してはくれなかった。

領地にいた頃は屈託の無い笑顔で煩いほどに私達を追いかけ回し、一緒に遊ぼうと誘って

きたくせに、王都で暮らすようになってからの主がその綺麗な瞳を輝かせるのは剣を振るって

いる時だけになってしまって、それでも、その困り笑いだけは、何かを諦めたような笑顔でも

なく、本当に心の底からの願いが叶わないでいる途方に暮れたような笑顔で……なら、子供の

時のように私に相談してくれれば、と思ったのに……結局、主はそれをしてはくれなかった。

市場に行っては少し疲れたように屋敷に帰ってくる度に、そんな主の表情を見るとモヤモヤと

した何かが湧いてきて、でも、その理由もそれをどうにかする術もわからず、私はそんな主の

姿をただ静かに見つめるだけだった。

しかし、その瞳はあの日を境に一変することになる。

それは主がいつもの市場の噴水広場でアホ面さげて昼食を摂っていたところ、ポケットの

中身を貧弱な小男に盗まれたことに端を発っしていた。

その瞬間を目撃した時はあまりの間抜けさに開いた口が閉まらないどころか顎が外れたかと

思うほど大口を開けて仰天してしまったが、そこは腐っても騎士の称号も兼ね持つ我が主、

すぐさま相手を追いかけ始めたので、とりあえず大事に至らずに済めば、じぃやさんには

報告せずにおこうと静観を決め込んだ。

しかし場所は王都の中でも、最も賑わいをみせている中央市場。

しかも食い意地の張った主は囓っていた肉を口から離すこと無く相手を追いかけている。

出る所に出れば、あれでも三大侯爵なのに……。

貴族社会の内情なんて知らないし、知りたくもないけど、本当に時々、必要最低限の範囲で

出席している夜会に赴く時の盛装の主を見れば、改めて女性の目を惹きつける容姿を持って

いたんだな、と再確認させられる。

私ごときがお供をするわけにはいかないから、夜会の場での主がどんな感じで振る舞って

いるのかは知らないが、必ず日付が変わる前には屋敷に戻ってくるので……まあ、多分、

適当にあしらっているのだろう。

今はまだ爵位を継いで間もないし、婚期と言っても適齢期にさしかかったばかりの年齢だから

ご両親もじぃやさんも何も言わないけど、あと数年も経てば夜会に行ったまま朝まで帰って

来なかったり、どこかの令嬢の元に通ったりするのだろうか。

そんな想像を巡らせると、またあの原因不明のモヤモヤが広がってくる。

それを胸の奥底にぎゅうぎゅうに押し込めて、小男を追いかけている主に視神経を集中させ

れば、その距離がほとんど縮まっていないことに気づき、思わず溜め息が漏れた。

そろそろ騒ぎも大きくなってきたし、少し手助けをした方がいいかもしれない……そう判断

して携帯している小型の弓矢に手をのばした時だ、ほんの僅かな時間だったが弓矢と主の

両方を意識した為、小男への注意が逸れた瞬間、気づけば多分何かに蹴躓いたのだろう、

ゴロンゴロンと小男が派手に地面を転がっている。

あらら……でも、あれでもう大丈夫。

あっという間に主が小男の元へと辿り着き、無事に盗難物を回収している。

これで一件落着、と些細な事件として処理した出来事が、実は主にとっては運命とも言える

出来事だったらしい事を私は知る由もなかった。

 

そして、その日から主はぱたり、と中央市場を訪れなくなった……と言うと少し大げさだが、

要は侯爵となってからの視察を兼ねた息抜き程度の回数、に戻ったのだ。

その代わりに夜の外出が増えたのには首を傾げるばかりだったが、主も社交デビューを

済ませた立派な紳士なのだから色々と赴く場所はあるのだろう。

聞けば上級貴族の男性ばかりが集まるサロンは昼夜を問わず催されるそうだし、その……貴族

専用の……娼館という物も王都には存在するらしい。

そう考えれば屋敷で晩餐を済ませた主が、偶然出くわした私に「絶対、ついてくるなよ」と

釘を刺すのも頷ける。

いくらお目付役とはいえ女である私に付いて来られては困る場所に行くのだろうと推測して、

少々侮蔑の籠もった目つきにはなってしまったが「わかってるわよ」と答え、気を利かせて

それ以上は追求しないでおく。

そんな風に、夜中に出かけた翌日の主は決まって機嫌が良く、ああ、勝負事が上手くいった

のか、はたまた気に入った娘が出来たのか、と思うと何ともやりきれない思いに囚われる。

それまで「キリト」と呼んでいた幼馴染みに近い存在の男の子を「主」と呼ぶ覚悟を決めて

里をおりた時は、もっと王都で新しい何かに出会えると思っていたのに、このところは

ずっと気が晴れる事がない。

 

「別にお目付役が嫌になったわけじゃないけど……」

 

住み込みでお世話になっている侯爵家から少し離れた場所にある高台の樹木の上で私はひとり

物思いにふけっていた。

山育ちの私にとっては王都の樹上など広場に設置されている子供用大型遊具のてっぺん程度の

感覚だ。

今日は朝から夕方まで、びっしりと主の予定が詰まっていて外出どころか庭に出る余暇すら

ないので、そんな日は私にとっての休日となる。

折角だからと屋敷から出てきたものの、賑やかな場所に行く気にもなれず、結局、王都に移り

住んで一番最初に見つけた心安まる場所へと自然に足が向いた。

ここから見えるのは全方位、貴族の屋敷だが、ひとつひとつの敷地が広く、外壁を軽く越える

高さの樹木を第二の外壁として植えている屋敷が多いので、一見緑の中にいるような気分に

なれる。

この場所でどうにも整理しきれない気持ちをぼんやりとこねくり回していると、「アッ」と

声を上げた時にはイタズラな突風に首に巻いていたスカーフを持っていかれた後だった。

ダメっ、と飛んでいくスカーフに呼びかけても、風が戻してくれるはずもなく、スカーフは

かなりのスピードでどんどん空高くに巻き上げられている。

それを目で追いつつも足場を確保しながら、私は木から木へと飛び移りスカーフの後を追った。

あれは里を出る時に育ての父である里長が自分の首に巻いてくれたものだ、なくすわけには

いかない。

そう思いながら飛んでいくスカーフをひたすらに追いかける。

これ以上は飛び移る木がない所まで来て、スカーフはどうにか私の視力で確認できる遠方の

どこかの貴族の屋敷の敷地内にひらひらと舞い降りた。

誰の屋敷かはわからないが、やはり周囲の屋敷と同様に敷地の周囲を背の高い樹木が並んで

いる。その枝葉の間を目をこらして見れば、スカーフは二階のバルコニーに張り出している

庭木の枝に引っかかったようだ。

更にこれ以上屋敷の内部に飛ばされてはかなわない。

とりあえず、その枝に固定しておこうと私は常備している弓矢を取り出した。

簡易型なので飛距離はあまり期待できないが、ここからならなんとか届くはず。

慎重に狙いをさだめて矢を放った。

ピシュンッ、と矢は鋭い音を立てて屋敷の樹木の間をすり抜けスカーフに向かって飛んでいく。

狙い通り、矢はスカーフと共に枝にプスッと突き刺さった。

それから、さあ、どうしよか、と腕組みをする。

主くらいずば抜けて身が軽ければバルコニーまで侵入できるかもしれないが、あいにくと私は

そこまで身体能力が高いわけではない。

そうこう考えているうちに、どうやら屋敷内の人間がスカーフの存在に気づいたようで

バルコニーに人影が出てきた。

女性のようだから、あの屋敷の貴族に仕えている侍女だろう、バルコニーの手すりから身体を

乗り出し、腕を伸ばして私の矢とスカーフを手にした後、不思議そうに首を傾げている。

その様子を遠目に見ていて、はたと気づく。

 

「私ったら、貴族の屋敷に矢を放っちゃったわ……」

 

これは、そこの貴族に敵意在り、と見なされても仕方の無い行為だ。

どうしよう……主に迷惑がかかるかもしれない。

私は急いで懐から紙とペンを取り出すと、急いで要件のみを書き、すぐさまバルコニーに

第二の矢を射込んだ。

放った矢がバルコニーに飛び込んだ瞬間、ビクッと彼女は肩を縮込ませたが、矢に結び

つけた手紙に気づくと周囲をキョロキョロと見回してから、そっと拾い上げシワを伸ばして

いる。

すぐに読み終わるともう一度キョロキョロと視線を彷徨わせているが普通の人間の視力で

私の位置を捉えられるはずもなく、しばらくして諦めたのか誰かに呼ばれたように

バルコニーから姿を消した。




お読みいただき、有り難うございました。
どちら様のお宅のバルコニーなのかは……ご推察のとおりです(笑)


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【番外編・2】顔の見えぬ友:2

とある貴族の屋敷に飛んでいってしまった自分のスカーフを回収する為に
彼女がとった行動とは……。


大事にしていたスカーフをうっかりと風に飛ばされてから二日後、里長の元へ出していた

相棒がそろそろ帰ってくる頃だ。

いつものように早朝の空気を胸一杯に吸い込もうと窓を開けた途端、遠くの黒い点が真っ直ぐ

こちらに向かってくるのが見える。それは段々と鳥の形を成し、あっという間に勢いよく

窓から部屋に侵入して室内を旋回すると静かに私の肩へ着地した。

クック、クック、と帰還の挨拶をしてくれているのか、しきりと頭を上下に振っている。

大きさは王都のどこにでも居るミヤコバトと変わらないが、肩にいる相棒の『ヘカテート』は

コノハバトで、その羽根は名前の通り山林の中で保護色となるよう木の葉色をしていた。

 

「お疲れ様、里のみんなは元気だった?」

 

私が王都に来る時、どんなに追い払おうとしても傍を離れず、その様子を見かねた

主(あるじ)が笑いながら「いいんじゃないか?」と言って同行を許してくれた唯一の

同郷の友だ。

それまで王都という所がどんな環境か知らなかった私は山鳥であるヘカテートがちゃんと

生きていけるのか心配だったが、着いてみれば貴族の庭は森のようだったし、王城は山を

背負っていたのでヘカテートが暮らすのに不自由はなかった。

唯一心配だったエサも困る事態にはなっていないらしい。それどころか屋敷の人達が余った

パンを分けてくれたり、わざわざ水場を作ってくれたりと、私が驚くような事を次々として

くれて王都での生活の不安が嘘のように軽くなった思い出がある。

月に一回の定期便として里と王都を往復してくれているヘカテートに労いの言葉をかけて

から軽く頭を撫でてやり足に着いている小さな筒を外した。中には小さな紙切れがクルクルと

巻かれている。それをトントンと手のひらに落として巻き癖を伸ばせば特徴のある里長の字で

いつもの一言が書かれていた。

 

(相変わらずね……)

 

私が里を下りる時、涙ぐんでくれた里の仲間達の中心で一人だけ、最後まで豪快な笑顔で手を

振り続けてくれた長である養父の顔が浮かんでくる。

その養父からもらったスカーフだ、簡単に諦めるわけにはいかない。

咄嗟に書いた走り書きのようなメモをスカーフを見つけてくれた彼女がどこまで真剣に受け

止めてくれたかはわからないが、今は出来る事をするだけだ。

彼女の手元に残っていてくれますように、彼女が自分からの連絡を待っていてくれますよう

にと願うように両目を閉じ、軽く俯いてから深く息を吐き出して顔を上げる。

 

「ごめん、疲れていると思うけど今日はまた後で力を貸して」

 

肩に乗っている相棒に声をかけ腕に移らせてから窓辺に近寄り、その腕を少し勢いを付けて

高く掲げれば朝日に向けてヘカテートが力強く飛び立った。

 

 

 

 

 

午前中は庭で剣の修練を積む主を屋敷の庭の樹上から眺めつつ周囲に気を配る。

二ヶ月前の挙動不審さとは違う種類の緊張感を主はいつも静かに漂わせていて、なぜかそれが

屋敷内になると僅かに強まっているのだ。

自分の屋敷のはずなのに、気を張っている姿に思わず顔をしかめる。

それに家族なのだから同じ屋根の下に住むのが当たり前だと思っていたら、主の住居は爵位を

継いだ時から主棟に移り、主棟を挟んで左右の別棟にはもともと主が使っていた左棟に

ご両親が、反対側の右棟には妹君である侯爵令嬢が暮らしていた。

しかも前侯爵は現役だった頃から屋敷に滞在していた事がない、と言っていい程外交の任に

熱心だったらしく、息子に爵位を継承させた後は心置きなく赴任地で今度は奥方を伴って

精力的に活動していると言うから驚きを通り越して呆れるばかりだ。

結局、一番近くにいるのはたった一人の妹君だが、既に社交界デビューを済ませている彼女

には自分の生活スタイルがあるらしく主棟にやってくる事はほとんどない。

当然、使用人も主に仕える者と妹君に使える者とは完全に分かれており、普段屋敷内で

働いているわけでもない私は右棟の侍女達などは顔を知っている程度だった。

私がもう少し気の利いたお喋りでも出来れば相談相手になれたかしら……そう思う事がない

わけではないが、主に言わせると無遠慮で素っ気ない物言いが私の持ち味らしいし、口調を

改めてお喋り相手を務める事が出来てもアインクラッド王国の三大侯爵家としての侯爵様の

相談相手は到底務まるとは思えない。

 

(そういうのは教養があって身分も高くて……そうね、王都に住むどこかの貴族でないと

無理かも……でも同じ貴族でも足の引っ張り合いがあるって里長が言ってたし……)

 

そう考えると主が心安らかに笑える場所は遠い記憶の中……まだ領主の跡取り息子である事など

気にもせずに領地の子供達と一緒になってリンゴの木によじ登っていた頃の屈託のない笑顔が

脳裏に蘇る。

それでも剣を握っている時の瞳はあの頃の輝きを思わせるものだったのに、最近では今まで以上に

真剣味を帯びた黒になっていて、楽しさより更なる強さを求めているのは明かだった。

 

(その剣は侯爵家のため?……それとも……)

 

魅入られるように漆黒の瞳を見つめていると、次の予定を主を促すため、家令であるじぃやさんが

タオルを手に主の元にやってくる。

素早くそれに気づいた主は深く息を吐き出すとすぐさま剣を鞘に収めタオルを受け取った。

長めの前髪をはらうように額の汗を拭うとタオルを手にしたまま私の方に手を上げる。

お目付をねぎらう意味でもあり、その任はここまでて終了の意味でもある合図を受け取って、私は

見えるはずがないとわかっている了承の意を頷くことで返してから足下の枝を蹴った。

 

 

 

 

 

三日前に見ず知らずの貴族の屋敷に矢を放った時と同じ場所に到着すると、私は人差し指を

唇に当てて「ヒューッ」と指笛を一吹きする。

すると程なくしてバサバサと羽音が近づいてきて、すぐさま私の肩にヘカテートが着地した。

クルッ、クルー、と私からの指示に期待を込めた瞳で見つめてくる。

私は用意してきた紙片を素早くヘカテートの足の筒に入れると、彼に言い聞かせるように話し

かけた。

 

「いい、これから私が放つ矢を追いかけるの。矢が着地した場所で待っていれば女の人が

出てくると思うから、その人にこの手紙を見せるのよ」

 

どうか、あの侍女さんがちゃんとスカーフを持ってきてくれますように、ヘカテートを見て

乱暴な事をしませんように……祈るような気持ちでヘカテートの目の前に矢の先端を見せ、

この矢が飛んでいった先に降り立つのだと言葉を繰り返す。

それから徐に弓を構える動作に入ると、心得たようにヘカテートは自ら私の肩から離れて

近くの枝に飛び移った。

こちらをジッと見ている視線を確認してから、あの時と同じようにかの屋敷に向けて矢を

放つ。

シュッという音とほぼ同時にパタッパタッパタッとヘカテートが飛び立った。

一旦上空に舞い上がったヘカテートは方向を見定めると矢を追って一気に下降を始める。

道案内としての矢が無事、前回と同様に屋敷のバルコニーへ着地すると、その後を追ってきた

ヘカテートがバルコニーの手すりに静かに降り立った。

今回はヘカテートを案内するだけなのでバルコニーの床を傷つけないよう矢の先端は潰して

おいたから、着地時の音はしてないなはずだ。

果たして彼女は待っていてくれただろうか、気づいてくれるだろうか……考えれば考えるほど、

彼女がバルコニーへやってこない理由がいくつも頭に浮かんでくる。

浮かんだ数がゆうに10を超えた時、バルコニーの扉が開く音がしたのか、ヘカテートがピクリと

動いて首を傾げた。

木々の隙間から様子を覗っていると、そこにはまさに三日前に飛ばしたスカーフを手にした

彼女が、多分ヘカテートを気遣っているのだろう、様子を探り探り近寄ってくる。

彼女はヘカテートを見ながら、そのすぐ近くに転がっている矢を拾い上げ、前回と同様、結わい

つけてある手紙の文字に素早く目を走らせたようだ。

そっとヘカテートに向かって腕を差し出している。

ヘカテートは何回か首を右に左にと傾げていたが、彼女が辛抱強く待ってくれた事と彼女の手に

私のスカーフがある事で信用したのだろう、ぱさり、とバルコニーの手すりから彼女の腕へと飛び

移った。

私が手紙に記したとおり、すぐさまヘカテートの足に着いている筒から紙片を取り出すと大きく

頷いて、空いている手でついさっきまでヘカテートが留まっていた手すりをトントンと指で叩く。

訓練されているヘカテートはその指示に従って彼女の腕から再び手すりへと飛び移った。

彼女は身を屈めてヘカテートの首に私のスカーフを巻き付けてくれている。

スカーフの結び目をきちんと確かめてから彼女が腕を出せば、今度は慣れた様子ですぐに

ヘカテートが場所を移動した。

そうしてやはり私の指示通り、少しぎこちない動きでその腕を高く掲げると、その勢いを

借りてヘカテートが飛び上がり彼女の頭上を一度旋回してから更に高度を上げた。

屋敷を覆う樹木より高く羽ばたく姿に彼女が小さく手を振る。

そこまでを見届けてから私は彼女から視線を外しヘカテートの姿を探した。




お読みいただき、有り難うございました。
「ミヤコバト(都鳩)」だの「コノハバト(木の葉鳩)」だのは架空名称です。
彼女の相棒なので最初はそのまま「ヘカート」という名前にしようかと
思いましたが、そもそもそちらの名前の由来がギリシャ神話の女神「ヘカテー」からと
いう事なので、混ぜて「ヘカテート」にしました。


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【番外編・2】顔の見えぬ友:3

無事にスカーフが手元に戻ってきて……。


あの日、屋敷に戻ってから無事に返してもらったスカーフを改めて広げてみて驚いた。

かの屋敷のバルコニー近くの枝に舞い降りたスカーフを枝と一緒に矢で射貫いた為に開いた穴が

綺麗に同色の糸で塞いであったからだ。

確かに咄嗟に書いた紙片には大切なスカーフだと記したが……まさかそんな事までしてくれる

とは予想もしていなくて、顔さえよくわからない彼女に感謝の気持ちが膨れ胸の奥が温かく

なる。

これはどうしても一言御礼を伝えなければ、と思い再びヘカテートに頼んだのだが、タイ

ミングが悪かったのか、それとも矢を飛ばさなかったせいかバルコニーに彼女が現れることは

なかった。

その後も何回か同じ事を繰り返してみたが彼女はもちろん他の人間がバルコニーに姿を見せる

事もなく……それは、そうだろう、彼女は彼女で侍女としての仕事があるに違いない。

いつも都合良くバルコニー近くで働いているとは限らないのだし……そう思い、これで伝わら

なければ諦めようと決めた日のことだった、ヘカテートがいつもの枝に舞い降りてしばらく

すると人影が近づいてくる。

目をこらして見れば、その歩き方は間違いなくスカーフを拾ってくれた彼女だった。

前回と同じようにヘカテートの前に腕を出すと、ヘカテートも覚えていたようですぐさま

彼女の腕に飛び移る。

それが嬉しかったのか、恐る恐るもう片方の手の指を伸ばし、ゆっくりとその頭を撫でて

いるではないか。

それには私もビックリした。

あの用心深いヘカテートが一度会っただけの人間に触れることを許すなんて……それだけでも

彼女の人柄が知れて、遠くから見ているしかない自分に歯がゆさを覚える。

出来ることなら直接会って御礼が言いたい。

けれどそれは自分がどこの貴族の家に仕えている者なのか、きちんと身元を明かさなければ

取り次いではもらえないだろう。

軽率に主の家名を口にすることは出来ない。

顔も知らない女性と主を比べればその重さは悩むまでもなく明かだった。

それでも……と思ってしまう……王都にやって来てからこんなドキドキは初めてだったから……。

ふと我に返ってヘカテートを見れば、いつの間にか枝に留まり何かを待っているようだ。

どうしたんだろう?、と思う間もなく彼女が駆け戻ってきてヘカテートの足筒に何かを入れて

いる。

もしかして……バクバクと心臓の音がうるさいほど頭の中に響いて、その振動に翻弄されて

いる間に気づいた時には私の肩にヘカテートが舞い戻ってきていた。

我慢できずにその場で足筒の留め具を外す。

一瞬視線を戻したバルコニーにもう人影はなかった。

僅かに震える指を睨み付けて力を込め、丸まっている紙を伸ばした。

いつも私が使っている紙より薄く、それでいてしっかりとした感触に紙の質の良さが指先を

滑っていく。

広げると言うほど面積のない紙面には一文だけ、彼女の緊張が伝わってくるような一言が

記されていた。

 

『お手紙、また、いいですか?』

 

これは……これは……またこのやりとりを望んでくれていると受け取っていいのだろうか?

戸惑いや疑問を押しのけるように嬉しさが溢れて抑えきれない。

主(あるじ)に付いて王都にやって来て、初めて自分の手で何かを切り開いたような気が

した。

 

 

 

 

 

それから彼女との手紙の交換が始まった。

手紙と言ってもヘカテートの足筒に入る程度の大きさの紙だからあまり長い文章にはならない。

だから少しずつ少しずつ互いの事を書き記した。

とは言え、一番初めに私が彼女へ送ったのは互いの屋敷の主については触れないままで構わ

ないだろうか?、という内容だった。

これが受け入れてもらえなければ、このやりとりを続けることは出来ないと思ったから。

彼女の屋敷の主人とうちの主との関係を、私と彼女の間に影響を及ぼしたくなかったのだ。

同意を得られるだろうかの心配も彼女からの返信で杞憂に終わる。

むしろ彼女もそれを望んでいてくれて、私は心から安堵の息を吐き出した。

加えて彼女からは意外な言葉が綴られており、その内容から更に顔も知らない彼女に好感を

抱くこととなる。

それは私の飛ばしたスカーフの穴を勝手に修繕してしまった事で気分を害しているのでは

ないか、という私の気持ちを慮った手紙だった。

 

『大切なスカーフだと知り、余計に穴が空いたままでお返しするのが気になって、勝手に

針を通してしまいました。ごめんなさい』

 

とあり『それに、とても綺麗な色のスカーフだったから』とも書かれていた。

里長が私の為に選んでくれたスカーフをそんな風に言われて、文字を目で追いながら頬が

緩む。

『でも、御礼のお手紙をわざわざ届けていただき、本当に嬉しかったです』と手紙は締め

くくられていた。

こうして、互いの屋敷の名前は知らないまま手紙のやりとりは続いたが、やはり手紙を

送る相手の名前を知らないままでは書きづらかったので、お互いの呼称だけは教え合った。

それとヘカテートの接し方についても。

故意にではなくてもヘカテートの嫌がる事を知らずにしてしまう可能性はある。

自分と彼女を繋いでくれるのはヘカテートだけだったから、そこは丁寧に書き記した。

彼女も同様の事を思っていてくれたらしく少しでも疑問あれば手紙の最後に追記してくれる

ので、次の私からの手紙はその返事から始まる事となる。

その甲斐あってか、一ヶ月も経った頃にはヘカテートのテリトリーと言っていい程に彼女の

屋敷の庭にも慣れたようで、手紙が付いていなくても散歩をしているらしい。

ついこの前の手紙にも『ヘカテートが気持ち良さそうに陽当たりの良い枝の上に留まって

羽根を広げ、虫干しをしていたのを見ました』と報告されている。

 

「ヘカテート、彼女の仕事の邪魔をしてないでしょうね?」

 

少し疑い気味に睨めば、ヘカテートはとぼけたような表情で小首を傾げた。

そうなのだ、彼女はよく屋敷の窓から外を眺めているらしく、そのお陰でスカーフにも

気づいて貰えたのだが、それなのに自分からあの屋敷の外に出る事がほとんどないらしい。

理由は書いてなかったから、それ以上は聞かない方が良いのだと判断してそのままを受け

取っているが、仕えている屋敷の主が上級貴族で羽振りも良ければ使用人達の買い物も

御用聞きに頼んで済ますことが出来るので、屋敷から出ないで過ごすことは可能だし……

現に私が暮らしているこの屋敷がそうなのだから……だから単に内気な性格なのかも、と

自分を納得させていた。

それでも時間がある時は厨房を借りてお菓子を作り、屋敷の者達に分けていると知って、

ならば仕事場の人間関係はうまくいっているのだろうと推測する。

それでも、ふと私が外の様子を書いてみたら、とても嬉しそうな返事が返ってきて、だから主の

お目付役として訪れた場所や私が休みの日に出かけた場所の様子を書くことが段々と増えて

いった。

そんな風に日々の他愛もない出来事を報告し合える関係が王都で築けるとは思っても

みなくて、私はお目付役の任でさえそれまでとはどこか違う気持ちで取り組めるようになって

いたある日の夜、いつものように主から翌日の外出を告げられた時、主がここ最近一番と

言っていいほど挙動不審な様子で私に請うたのだ。

 

「明日の中央市場の視察には……同行者がいるから……」

 

へえ、珍しい事もあるものね……多分、初めてではないかしら?

 

「それで……オレがその人の傍にいない時は……その人を見ていて欲しいんだ」

「……どういう意味?」

「だ、だから……明日はオレの目付役としてじゃなくて…………彼女を護衛してもらいたい」

 

主の口調も私を真っ直ぐに見つめる瞳に宿る意志も、最後の言葉はガヤムマイツェン侯爵の

ものとなっていた。

主が自分の身と同等かそれ以上に大切にする存在が出来た、という意味なのだと咄嗟に頭が

理解して、了解の意を黙して臣下の礼で示す。

 

「ありがとう、シノン」

 

深く下げた頭の上に慈愛に満ちた穏やかな主の声が降りてきて、優しく耳を撫でる。

主従関係である事を望んだのは私なんだから、命じてくれればいいのに……そんな嬉しそうな

声で「ありがとう」なんて言わなくていいのに……主の口から「彼女」という言葉を聞いて

凍り付いたように固まってしまった表情を見せたくなくて頭を下げたはずなのに、今度は

下を向いているせいで涙が頬から床に滴ってしまいそうだった。

この涙を主に知られてはいけない。

涙を流すほど私は自分の気持ちに誠実に向き合ってもいなければ、何の一歩も踏み出そう

とはしなかったのだから。

少しして、家令であるじいやさんが主を呼ぶ声が聞こえると、主は未だ顔を上げない私を

残して「じゃあ、明日」とだけ言い残して私の前から離れて行く。

その足音が聞こえなくなるまで私はその姿勢のまま必死に涙を堪え続けた。




お読みいただき、有り難うございました。
ラストは少し切なくなってしまい、書いていて「ごめんねー」と心の中で
手を合わせてしまったくらいです。


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【番外編・2】顔の見えぬ友:4

主のお目付役として中央市場に赴くと、そこに現れたのは……。


中央市場への視察当日、主(あるじ)はまずいつものように市場を取り仕切っている果物屋

へと足を向けた。普段なら店主と軽口の応酬をしているのだろうな、と予想がつく表情が、

今日に限り常に視線が周囲へと泳いでいる。

ほどなくしてその視線が一転に集中した。

主から少し離れた場所ですっぽりとフード付きマントを着用した人物が足早に果物屋へと

向かっている。

アノ……人物だろうか?

細い肩幅にマントの裾から伸びる細い足、その先に見える靴が女物なのでマントの人物が

女性だろうと判断できるが、主の外出に同伴するにはイメージが違いすぎて戸惑いが

生まれる。

半信半疑で様子を覗っていると、かの人物がバランスを崩した。

小走り気味になっていたので、何かに躓いたのだろう。

あっ、と思う間もなくその細い肩から伸びる両腕を主が支える。

やっぱり……そうなのね。

その瞬間に戸惑いは霧散して確信に変わった。

彼女が転びそうになって、一瞬、驚いた表情を見せた主だったが、待ち焦がれた女性が腕の

中に収まると何とも言えない蕩けそうな笑みを浮かべながら相手の耳元に何やら囁いている。

彼女の方も主の腕を振りほどく様子も見せずに言葉を交わしているようだ。

密着した状態のままで会話を続けている二人に業を煮やしたのか果物屋の主人が割って

入ったらしい。

途端に彼女は主の拘束から逃れて店主に頭を下げている。

いや、逃れたと思ったのは間違いで、よく見れば主の片手はしっかりと彼女の指を包み込んで

いた。剣を握るための手だと思っていた主の手が、今はしっかりと彼女の柔らかそうな手と

繋がっている。

主に手を握られるのは初めてではないのだろう、何の違和感も感じていない様子の彼女の

表情が見られないのは、今は幸いと言うべきか。

自然と釘付けになってしまっていた二人の手から故意に視線を外して周囲に気を配れば、

そこかしこから市場の店主達が店の外に出てくるのが見て取れ、思わず首を傾げる。

疑問を抱く、と言えば彼女の風貌も大いに謎だ……市場で顔を隠さなくていけない、という

事は市場の関係者なのだろうか?

いや、それならわざわざ市場で会わなくても良いのだし……なら、主が通っているらしい

娼館の娘?

それも、しっくりこない。

それほど詳しく娼婦を知っているわけではないけれど、マント越しにもわかるほどに彼女の

立ち居振る舞いは優雅で凛として美しいから。

どのような身分の女性にしろ、主は彼女を侯爵夫人として迎え、自分の隣に立たせる未来

までを描いているのだろうか。

私はいつか二人が並んで立つ姿を、やはりこんな風に遠くから見守るだけなのか……。

すっかり吐き出したと思っていたモヤモヤが再び胸の中に湧いてくる。

そうこうしているうちになぜか数十名の店主達が主の前に立ちはだかり、口々に猛々しく

何かを言い放っていた。

何を言い争っているのかと、しばらく静観していると今度は主の隣の彼女が店主達に

向かって言葉をかけているようである。

先程までの勢いはどこへやら、彼女の話を大人しく聞いている店主達の姿も不思議だったが、

その言葉に元気づけられたようにたちまち笑顔になった老人達の切り替えの良さにも驚いた。

やっぱりここは面白い。

モヤモヤが少し薄れた気がして、私は任務に専念するべく果物屋の店先から移動を始めた

主達を追いかけた。

 

 

 

 

 

結局、主達はあちらこちらの店先を覗きながら最終的にはいつもの噴水広場にやってきて……

そう、ずっと手を繋いだまま。

もう、ここまでくると胸の中のモヤモヤはすっかり落ち着いて、逆に呆れる気持ちが

ムクムクと生まれてくる。

小さい頃から知っている男の子が随分と立派に成長したと思っていたのに、女性を連れ歩く

場所が市場とは……ありえない。

人々がごった返す中、しっかり手を握って、会話だって市場の活気溢れる喧噪の中、いちいち

耳元に口を寄せて。

もしかして、全部計算なのっ?!、と疑いたくもなってくる。

私のように見晴らしの良い屋根の上を一人で移動しているならともかく、あれでは彼女も随分

疲れただろう。

思ったとおり、主に促されて噴水の縁に腰を降ろした彼女は、ホッとした様子だ。

噴水のある広場から距離はあるが、ちょうど正面に位置している時計塔のいつもの場所に

陣取った私は改めて彼女を観察した。

顔はフードを被っているので鼻から下しか見えないが、色白の肌に形の良い鼻尖、薄い唇は

桜色でつやつやと輝いている。細いおとがいと同じく首もほっそりとしていて……とそこに

主が彼女に覆いかぶさるように腰を屈めて私の視線を遮った。

何かを問いかけられたようで、コクコクと首を縦に振ったかと思ったら、次はフルフルと横に

振っている。

そんなに勢いよく振ったら折れてしまうんじゃないかしら……と、我ながら間抜けな感想を

抱いていると、主が彼女の傍を離れるらしく、チラリと私がいる時計塔を見つめてきた。

いつものように見えるはずはないけれど、頷いて了承する。

走り去った主の後ろ姿を見送っていた彼女は、主が見えなくなると細く息を吐き出した。

何かを考え込んでいる様子だが、そこに苦悩の色はなく、懐かしさと嬉しさと少しの戸惑いを

感じる口元だ。しばらくそうして物思いにふけっていたようだが、何かを探すようにキョロ

キョロと自分の周辺を見回し始めた時、タイミング良く主が両手に昼食を持って帰ってくる。

いつもの鶏肉料理を買ってきたのだろう……女性に勧めるのはどうか、と思うチョイスだが

幸いにも彼女は口元を緩め、匂いを堪能していた。

続いてこれまた定番のスパークリングミントウォーターを彼女の目の前に差し出すと、今度は

驚いたように瓶すれすれまで顔を近づけて珍しそうに観察している。

市場で売っているおなじみの鶏肉料理やスパークリングミントウォーターを知らないの

だろうか?

その反応にますます彼女の正体がわからなくなって眉間に皺を寄せていると、彼女は主から

瓶を受け取り、もとの場所に座り直している。主は一旦振り返って自分の分のスパークリング

ミントウォーターを持った手で、わざわざ私に合図を送ってきた。

意中の女性の前で気を遣わなくてもいいのに、と思う反面、やはりほんわりと嬉しさが広がる。

その合図を見ていた彼女が首を傾げると主がその意味を説明しているのだろう、隣に腰を

降ろしてからこちらを指さしながら会話をしている、と思ったらすぐさま彼女が料理を脇に

どけて立ち上がった。

主もポカンと彼女を見ている。

何が起こったのかと怪訝に思っていると、彼女は綺麗な姿勢でペコリと私に向かって頭を

下げた。

えっ!?

一瞬、何が起こったのか、理解が出来ず思考が一時停止する。

自慢の目だけがパチパチと自分の意志とは関係なく真瞬きを繰り返しながらも彼女から視線が

外せない。

彼女は顔を上げると苦笑している主に向かって何かを確認しているようだ。

きっと私に伝わったのかを気にしているのだろう、主が安心させるようにゆっくりと頷いて

いるのが見えて、私の任務に対する信頼を感じると共に彼女の今の仕草がやはり自分に対する

御礼なのだと確信してふわふわとした妙な気持ちになる。

が、それを見透かしたように主が吹き出しているのが見えて、足下にでも矢を放って

やろうかと思った。

たった今日一日だけ、主に言われて見守っているだけにすぎない顔も名前もわからない自分に

対して、あんなに素直に頭を下げてくれるなんて……どうしよう、主の隣に居られる彼女に

抱いていた色々な感情が全て溶けて、彼女自身に新しい思いが芽生えてくる。

どんな立場の人物なのかが気になっていたが、自分を振り返れば、私だって主の領地にある

山里で養父に育てられた身だ、自慢げに口に出来る育ちではない。

そんな私を王都まで連れて来てくれ、屋敷に住まわせてくれている主なのだから、彼女の

生い立ちや身分などたいして重要視はしていないのだろう。

ちゃんと彼女の本質を見て、手を握っている事が臣下として誇らしい。

今日のこの出来事をあの屋敷の侍女をしている彼女にどう手紙に書こうかと思い、言葉を

浮かべる。

同じく顔を知らない彼女に伝えるには少々思いが複雑だ。

 

そうね……『中央市場で素敵な女性と出会いました』……これだけにしておこう。

 

 

 

 

 

 




お読みいただき、有り難うございました。
これで「【番外編・2】顔の見えぬ友」は終わりです。
長々とお付き合いいただき、本当に感謝です。
お互いがちゃんと顔を合わせる時が楽しみですね。
すぐに打ち解け合って「君ら……いつのまにそんな仲良しに
なったの?」と主くんに言われそうです(笑)
次回は本編に戻りましてやっと「彼」が絡んできます。


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【番外編・3】餌付け

『漆黒に寄り添う癒やしの色』の「お気に入り」カウントが200件を突破しました記念に
大感謝の気持ちを込めまして、懲りずに番外編をアップさせていただきます。
またもや時間軸に合わせて途中挿入になりましたこと、平にお許し下さいっ。
マジホントに、超本当に、激ほんとーっに有り難うございました!!!!!
今回はいつもの様に、密かに公爵令嬢の私室を訪れたキリトゥルムライン候とのやりとりを
アスリューシナ目線でお届けします。


今夜もいつもの合図をいただき、すぐさまバルコニーへの扉を開ければ夜風と共に暗闇の使者といった出で立ちの侯爵さまが私の私室に入ってきます。

いつもの事だけれど、バルコニーに面しているガラス窓や扉の前には分厚いカーテンがかかっているせいで、コンッ、コンッ、コンッとノックの音が響くまで足音ひとつ聞こえません。

だから侯爵さまの来訪日の夜は耳をそばだてつついつもの様に……いえ、正直に言うと、いらっしゃるまで何も手につかない、と言うか、何かをしようとしても上の空になってしまうので素直にバルコニーに一番近いソファに座り、ぼんやりとしながらも心臓だけはドキドキとして、けど耳は合図の音を聞き漏らすまいと意識を集中させ……そんな風に随分とちぐはぐは自分を持てあましながら、その時を待ちわびるだけの時間を過ごします。

侯爵さまは後ろ手に静かに扉を閉めると、ぱさり、とフードをはらい小さく私の愛称を口にしました。

 

「アスナ」

 

声だけのはずなのに耳からは他にも柔らかくて甘い何かが一緒に入ってきて一瞬にして私の身体中を駆け巡り、その感覚を目を瞑り、身を震わせて鎮めてからそっと顔を上げると漆黒の瞳を細めて、いつものように両手を軽く広げている侯爵さまが目の前に立っています。

ご挨拶の言葉を口にするより先に、そっとその腕の中に入り胸元に頬を押し付けるなど、きっとサタラが知ったら顔を真っ赤にして怒るのでしょうが、こんな夜更けにお越し頂いた侯爵さまが風邪でも召したら大変なので私で暖が取れるなら、と毎回こうして温めて差し上げるのが約束事のようになってしまいました。

とは言え、最近は随分と寒さも和らぎ、先程バルコニーへの扉を開けた時の夜風も冷たくはなかったけれど「もう寒くないから」というお言葉が出ない限り両手を広げてくださるならば、ずっとこうして……こうして……

 

「ち……ちょっと……い……痛いです、キリトさま」

「うん、痛くしてるから」

 

いつもならふわり、と包み込むように抱きしめてくれるキリトさまの腕が今日に限っては「力自慢なの!?」と問いたくなる位、満身の力を込めてきて、私はつい声を上げてしまいました。

私の苦しげな言葉を聴いても平然と、むしろ少し楽しげなご様子で腕の力を全く緩めようとしないキリトさまはあろう事か更に上から体重まで乗せて私を仰け反らせようとします。

 

「くぅ……うぅっ……るし…………」

 

既に言葉なのか喉から押し上げられた空気音なのか、よくわからないくぐもった声で苦しさを訴えると、ようやくキリトさまの腕の拘束力が緩みました。と同時に身体を弛緩させた私は崩れ落ちそうになって、けれど懸命に膝に力を入れようとする前にしっかりとキリトさまに抱きかかえられてしまいます。

いまだ消えない息苦しさでじわり、と滲んだ涙もそのままに困惑と非難の視線で見上げると、キリトさまは変わらず目を細めたまま私をじっ、と見つめていました。

 

「鍵、してなかったな」

「はい?」

 

何の事かとキリトさまの腕の中で僅かに首を傾げると、私の反応に納得がいかないのか片方の頬をぴくり、と跳ねかせてから再び静かに唇が動きます。

 

「バルコニーへの扉、オレが来るまではちゃんと鍵をかけろって言っただろ」

 

そこでキリトさまの言いたかった事を理解した私は思わず視線を下げて「ごめん……なさい」と子供のように謝りました。

本来、三大侯爵家であるキリトさまに謝罪をするのなら「申し訳ございませんでした」と述べるべきですが、礼にはかなっていても自分の気持ちを十分に表しているとは思えず、最近では二人だけの時の言葉使い全般が随分と砕けた、と言うか親密になっているように感じます。

ですが、いくら親しく言葉を交わし合っていても、相手はガヤムマイツェン侯爵さまなので鍵を開けるまでまっ暗い外のガラス扉の前で待っていただく、というのは失礼にあたると言うか、申し訳ないと言うか……決して鍵を開ける時間さえもどかしい、なんて思ってはいません、いませんから……。

 

「今度やったら、もっと痛くする」

「ひゃぅっ?!」

 

恐る恐るキリトさまの顔を見ると細めたままの目に加えて口元も綺麗な弧を描いていて……

 

(ああ、これって微笑んでいるわけではなかったのね……よくよく覗き込めば全く笑っていないし……)

 

随分と呼吸は整ってきたけれど、きっとまだ頬は赤いままで……加えて瞳の涙も乾ききってはおらず、でもそんな事を気にする余裕もなくてキリトさまを怒らせてしまったと、どうすればいいのか考えている私の表情はとても情けないものになっているはずです。

キリトさまはふいっ、と私から顔を背けてしまい……片側の表情しか見えないけど眉根は困ったように中央に寄り、上がっていた口角も不機嫌そうに下がっていて、極めつけは目元から頬に差した朱でした……。

 

(やっぱり……怒ってる……)

 

そう直感した時、キリトさまは、はあぁぁぁっっっ、と長い息をゆっくりと吐き出し、再び上から私を真っ直ぐに見つめ、呆れ声を漏らしました。

 

「今すぐにでも目一杯力を込めたくなってきた」

「えええっ……だっ、だめです……そんな事をされたら……あ……圧死……します」

 

肺が潰れるのが先か、背骨が折れるのが先か……と恐怖に震えながら懸命に頭を左右に振ると、不承不承でもわかってもらえたのか、キリトさまはニコリ、と笑顔ではない笑顔で微笑みます。

 

「だったら、鍵、かけとけよ」

「……」

 

返事を渋っていると頭上からひと声、不満げな口調で「アスナ」と呼ばれました。

勇気を出して顔を上げ、進言を口にします。

 

「ですが、侯爵さまをあまり外でお待たせするわけには……」

「鍵を解錠する時間なんてほんの僅かだろ。オレの為に開けておくと言うなら、そんな事望んでもいないし嬉しくもない…………他のヤツが入って来たらどうするんだよ」

 

言うのを随分と躊躇われたのか、最後の言葉をぽそり、と呟くように零すと再び顔を背けてしまいました。

以前、このバルコニーまで来られるのは自分くらいだと、ご自分でおっしゃったはずなのに……ああ、でも最近は新しいお友達がバルコニーまで飛んで来てくれる事を思い出して無意識に頬が緩みます。

 

「……アスナ?」

「あっ、はい」

 

いけないっ……ついヘカテートの姿を思い浮かべてキリトさまの腕の中だというのに、上の空になっていました。

気づいてみれば横を向いていたはずのキリトさまの顔が真っ直ぐこちらに向いていて、心なしか睨まれているような気がします。

 

「ごっ、ごめんなさい。ちょっと他の事を……」

「ふーん」

 

ああっ、ますます怒らせてしまっている……でも、今度こそよくそのお顔を見ると怒っていると言うよりは……拗ねている?

どちらにしてもご機嫌を損ねてしまったことに変わりはないのでしょう。

 

(こんな時は……こんな時は……そうだっ)

 

「キリトさま、今日はスコーンを焼いたんです。召し上がりますか?」

 

努めて笑顔でっ……自然な笑顔でっ、を心がけて告げるとキリトさまの片方の眉がうにゅっ、と上がり、すぐに両端の眉尻が下がって口元が嬉しそうにむずむずと動き始めました。

 

(うん、あとひと押しっ)

 

「ガヤムマイツェン侯爵さまにお出しするのは気恥ずかしいのですが、キリトさまのご領地産のリンゴで作ったジャムを添えて……あ、そうそうエギルさんのお店でいただいたリンゴの蜂蜜ものせると美味しいですよね」

 

どうやら最後の踏ん張りなのか、キリトさまが目をきつく瞑って葛藤されているようです。

 

「もちろんコック長お手製のクロッティドクリームもありますから」

 

とすんっ、とキリトさまのおデコが私の肩に落ちてきました。

耳元から小さな声が聞こえます。

 

「……食べる……」

 

(よかった……ご機嫌、なんとかなったみたい)

 

艶やかな漆黒の髪に触れたくなってしまうのを我慢してもう一度「キリトさま」と呼びかけました。

 

「でしたらキリトさまの分をサタラに用意してもらいますね」

 

するとキリトさまは顔を上げて意外そうな表情で私を見つめてきます。

 

「アスナは?……一緒に食べないのか?」

「私……は……その……こんな時間に……は……」

 

戸惑いと羞恥で頬に熱が集中するのを感じながらも、どうしてそこはそっとしておいて下さらないのかしら、と少々恨みがましい目で返してしまいました。

 

(そりゃあキリトさまはこんな夜中に甘い物を食べても全く体型には影響がないみたいだけど……もうっ)

 

やはりきちんと口にしないとわかっていただけないのだと自分を宥め決意を固めてキリトさまを見上げます。

 

「夜中にですね、キリトさま」

「うん、夜中に?」

「おやつをいただくと……」

「いただくと?」

「特に甘い物は……」

「甘い物は?」

 

まるで言葉の勉強をしている幼子のように私の後を繰り返すキリトさまのお顔が段々と楽しそうになっていくのを不思議に思いながらも私は続けました。

 

「女性は…………ダメなんですっ」

「何がダメなんだ?」

「ふ……」

「ふ?」

「ふと……」

「ふと?」

「太くなっちゃうんですっ!」

 

思わず勢いづいて声が大きくなってしまった事も恥ずかしくて、すぐに俯いたままぽそぽそと「あっちこっち」と付け足せば盛大に「ぷぷーっ」と吹き出したキリトさまが再び私の腰をきつく抱きしめました。

 

「こんなに細いのにか?」

 

確かに、年に数回ドレスを作る時に採寸に来てくれるマダムやお針子さん達からは溜め息交じりに褒められますが、それだってどこまで信じていいのかわからず、ましてや自分付きの侍女達に聞いたところで褒めてくれるに違いないので、自分の体型に関しては「太ってはいない……わよね?」くらいしか判断ができません。

だいたい外出といえば月に一回程度、中央市場へ赴くくらいで後はいつも屋敷内にいるのだから、ものすごくお腹が減ったという経験もほとんどありませんし、必然的に食事の量も多くは必要とせず……何より広い食卓で一人だけで食べる食事があまり好きではなかったのでお菓子作りは自分で食べたいというより人に食べてもらいたくてしているのだから……。

 

「私は……キリトさまが美味しそうに召し上がって下さるのが嬉しいんです」

 

嘘でも方便でもなく正直な気持ちを伝えると、僅かに抱きしめた腕を緩めたキリトさまが私の耳元に顔を寄せてきました。

 

「でも……オレはアスナと一緒に食べた方がもっと美味(うま)くなると思うんだけどな」

 

普段の自分の食事の様子を思い出してしまい、思わず「でしたら一緒に」と言ってしまいそうになる所をグッ、と堪えます。

 

「お茶は、ご一緒しますよ?」

「ダメ」

「う゛う……」

 

何やら楽しげな口調で強請ってくるキリトさまは腰に回した両手も頬に触れているお顔も一向に離して下さる気配がなく、これでは扉の向こうで控えているサタラをいつまで経っても呼ぶことができません。

 

(何かあったのでは、とサタラが心配して入ってきたら、この状況は……困るわ)

 

これ以上は、と渋々折れることにしました。

 

「なら……一口だけ」

 

(一口なら……大丈夫よね)

 

この時は、その後、お茶の支度を調えてくれたサタラに昼間作ったスコーンを持ってきてもらい、キリトさまがジャムをたっぷりとのせたスコーンをご自身の手で私の口元に運び「一口かじっていいぞ」とおっしゃるなんて想像もしていませんでした……。




お読みいただき、有り難うございました。
これではどちらが餌付けされているのやら……。
もじもじとなかなか口を開けないアスリューシナに
「あーん」する気満々な侯爵さまはここでも楽しまれた
ことでしょう。


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17.指輪(1)

新章スタートです。


ユークリネ公爵家の屋敷全体が寝静まった頃、アスリューシナの私室でいつものようにソファに

並んで腰を降ろし、サタラの用意してくれた紅茶をひとすすりしてからキリトゥルムラインは

プリムローズイエローの封筒を差しだした。

キョトンとまあるくなった瞳が愛らしくてしばし堪能の時間を味わっていると、説明を求める

口調でアスリューシナが「キリトさま?」と目の前の侯爵の呼称を口にする。

共に市場に出かけて以来、アスリューシナはキリトゥルムラインを「キリトさま」と呼ぶように

なっていた。

 

「今度、ルーリッド伯爵家で夜会があるんだ」

「まさか……」

「ああ、その招待状」

 

アスリューシナの事情を解しているはずのキリトゥルムラインが何かを企てている目で

にっこりと笑う。

「夜会」と聞いて公爵令嬢の形の良い眉がみるみるうちに歪んだ。

その表情を見ても侯爵は笑顔をキープしたまま招待状をアスリューシナの手に乗せる。

 

「これはアスナの分」

「キリトさまは……私に、その夜会に出ろ、と……?」

 

小さく紡ぎ出された声は微かに震えていた。

その声を気にした風もなくキリトゥルムラインはさらりと肯定の言葉を口にする。

 

「そう……前に王城でアスナの兄上が言ってただろ、早く相手を探せって」

「だから……夜会の……招待状……ですか…………」

「ああ、オベイロン侯とは……嫌、なんだよな?」

 

確かめるように覗き込んでくる漆黒の瞳に、アスリューシナも真剣な面持ちで頷いた。

 

「この夜会には伯爵の思惑があって貴族の令嬢や子息達の中でも独身の者しか招待されない

んだ……でも、アスナは既に相手が決まっていると思われているだろうから届いていないと

思って……」

「……それでキリトさまがわざわざ?……あ、有り難うございます。感謝しますわ……この

夜会で私を気に入って下さる方がいらっしゃると……いいのですが……」

「あー、そうじゃなくて……」

「せっかくですもの、ここでお相手が見つけられるよう、頑張ります……」

 

震える声を無理矢理に押し込んで、勤めて明るく前向きさを装いキリトゥルムラインの顔を

見つめていたアスナの瞳からふっと力が抜けて、今まで抑え込んでいた何かがあふれ出す。

 

「キリトさまは……私のお相手を探す協力を……して下さるのですね」

 

泣いているのかと見間違うくらい悲しげにアスナが微笑めば、今度はキリトゥルムラインが

眉根を寄せると同時にアスリューシナの頬へ片手を伸ばした。

 

「ごめん、アスナ……いじめすぎた」

 

侯爵の大きな手はアスリューシナの頬を包み込み、長い指は令嬢の耳朶をそっと挟みこむ。

 

「そんな顔を、しないでくれ……」

「……そんな顔って……ご存じなのでしょう?、オベイロン侯爵さまから求婚されている

ことも、両親はそれを喜んでいるのに私が拒んでいることも……だから、こうやって……」

 

頬に添えられたキリトゥルムラインの手の温かさに思わずすり寄ってしまいそうな気持ちを

堪える為に強い眼差しで返せば、侯爵は親指でそっとアスリューシナの目元を拭った。

 

「泣きそうな顔になってる」

「なっ、泣いていません」

「そうだな、泣かなくていいよ……その夜会でアスナをエスコートするのはオレだから」

「はっ?!」

 

突然の申し出に口を開けたまま固まってしまったアスリューシナを見てキリトゥルムラインが

口元を緩ませた。

 

「だから、ゴメン。最初に言うべきだったな。実はルーリッド伯爵家のユージオとは剣術

学院の同期なんだ」

「ユージオさま?……ルーリッド伯爵家の三番目のご子息さまでいらっしゃいますね」

「そう、今は王城の『剣(つるぎ)の塔』に籍を置いて第四騎士団長をしている」

「既に騎士団長なんて、随分とお強い方なのですか?」

「そうだな同期の奴らでオレとまともにやり合えるのはアイツくらいだから剣の腕は確かだ。

しかもオレと違って人当たりがいいから団員達とも上手くやっている」

「まぁ、キリトさまったら」

 

珍しく自分を卑下するような言い方にアスリューシナが、くすり、と笑う。

それを見て「やっと笑った」と小さく呟いたキリトゥルムラインはそっと彼女の頬を撫でた。

同年代の貴族の子息の話を親しげに口にするキリトゥルムラインを見てその関係性を悟った

アスリューシナがふわりと微笑む。

 

「ご友人、なのですね」

「そう……だな、学院ではずっと一緒だった……。で、今回の夜会なんだけど、浮いた噂ひとつ

ない息子の将来が不安になった父親のルーリッド伯爵がお節介にも出会いの場を設けようと

いう主旨で催されるらしいんだが……」

 

そこまでを聞いてアスリューシナの顔が再び強張った。

 

「私をユージオさまのお相手に、という事……でしょうか……」

 

アスリューシナの頭の中は一瞬にしてキリトゥルムラインに連れられユージオに紹介される

場面が浮かんでくる。

 

「そうじゃないって……ああっ、もう」

 

苛ついた声を発したキリトゥルムラインは頬に触れていた手を更に伸ばしてアスリューシナの

髪に差し入れ、後頭部をとらえてぐいっと自分の胸に彼女の顔を押し付けた。「う゛ふっ」と

くぐもった声が聞こえたが抱えこんだ頭を放そうとはしない。

 

「ちょっと黙って。アスナは意外と先走るんだな……ちゃんと最後まで喋らせてくれ。

ユージオに浮いた話がないのは既に想い合っている方がいるからなんだ。だが、今は事情が

あってその関係を公には出来ない。だから今回の夜会もヤツにとっては茶番劇でしかないのさ。

そこでオレが一興を謀って頼み事をしたんだが……見返りに……その……アスナを招待しろって

言われて……」

 

抱えている腕の力を弱めるとすぐさまアスリューシナが顔を上げてキリトゥルムラインを

見上げてきた。

少々息苦しかったのか、ほんのりと頬を染め、小さく口を開けたまま肩を上下させて浅い

呼吸をしている。

 

「ユージオさまが……私を?……」

「いや、指名されたわけじゃないんだけど……どうも、オレの態度から、何か勘づいたらしい

んだよなぁ」

 

目線を少し上向きにして宙を睨み、ブツブツと小声で「アイツ、妙なところで勘が働くから

厄介なんだよ」と口をへの字に曲げながら無意識に癖となっているのかアスリューシナの髪を

撫で梳いた。

ふぅっ、と一息吐くと、キリトゥルムラインは自分の胸元にある小さな顔に優しく微笑む。

 

「だから、アスナは何も心配しなくていいよ。オレがこの屋敷まで迎えに来るし、帰りも

ちゃんと送り届けるから」

「あのっ……でも……ユージオさまにご紹介いただければ、後はキリトさまのお手を煩わ

せずとも……」

 

その言葉にムッとした表情を浮かべたキリトゥルムラインは再びアスリューシナの頭を抱き

寄せて、そのロイヤルナッツブラウンの髪の上に自分の顎を軽くのせた。

 

「なんだよ、それ……本気で相手探しでもする気か?……」

「えっ?、違いますっ……以前にお話したでしょう……髪を染めたままでいると体調が悪く

なってしまうと……なのであまり長い時間、伯爵邸に滞在はできないと思いますから……」

「だったら尚更だろ。具合の悪くなったアスナを一人で馬車に乗せて帰すなんて……いや、

伯爵邸で大丈夫でも馬車の中で体調を崩す可能性だってあるんだから、この屋敷に戻るまで

オレから離れるなよ」

「それでは……夜会にいらした方々に誤解されます」

「いいだろ、オベイロン侯と正式に婚約したわけでもないんだし……」

 

そこまで言うとキリトゥルムラインは独り言のように「王城の夜会の後にアスナへ手紙を

送ってきた奴らへの牽制もしなくちゃ、だしな」と心の内を明かす。

 

「だから……アスナ、オレと一緒に夜会に出席してくれないか?」

 

その言葉にキリトゥルムラインの腕の中のアスリューシナがゆっくりと頷けば、すぐさま

頭上から小声で「ありがとう」という言葉が降ってきて、続いてチュッと軽いリップ音が

ロイヤルナッツブラウンを掠めた。




お読みいただき、有り難うございました。
やっと登場(まだ名前だけ)の伯爵家の三男坊・ユージオさまです。
彼の前でキリトはどんな態度をとっていたのでしょうか?
きっとシノンの時と同様、まるわかりだったんでしょうね(笑)


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18.指輪(2)

ルーリッド伯爵邸での夜会当日……


キリトゥルムラインからルーリッド伯爵邸での夜会の招待状を受け取った数日後の夕刻、豪奢な

二頭立ての馬車が静かにユークリネ公爵家の正面玄関に横付けされた。御者台から下りた御者が

車内に声をかけて扉の取っ手に手をかけようとした瞬間、それすら待ちきれないのか、内から少々

乱暴に扉が開く。

出迎えの為、玄関前で控えていた公爵家の家令はその行動に片眉をピクリと動かすだけで心情を

収めたが、家令より一歩下がった位置にいた公爵令嬢付きの侍女頭は「はぁっ」と溜め息にも似た

深い息をこっそりと吐き出した。

今宵はキリトゥルムラインがガヤムマイツェン侯爵として初めてユークリネ公爵邸を正面から

来訪する日だ。

いつものように気軽にひょいっとお立ち寄り気分で来ていただいては困ります、と何度伝えたか

わからないと言うのに、侯爵自ら扉を開けて馬車から降りてくるなど、浮かれ気分丸出しでは

ないか。

そんな侍女頭サタラの苦悩など気づきもせずキリトゥルムラインは公爵家の家令の挨拶を

「ああ」の一言で受け流すと、サッサとサタラの前にやってきた。

 

「アス……」

「初めまして、ガヤムマイツェン侯爵様。アスリューシナ様付きの侍女、サタラと申します」

 

侯爵がいつものように令嬢の愛称を言いかけたのを瞬時に悟ったサタラは半ば強引に言葉を遮り、

それでも形式上、先に侯爵からのお声がけを受けた態で筆頭侍女として挨拶の辞を述べた。

家令にだけはコーヴィラウルからガヤムマイツェン侯爵の対応を指示されていたようで、今回の

アスリューシナの外出について驚くほどスムーズに彼女の父であるユークリネ公爵から夜会出席の

許可が下りたのは、彼の手腕によるものだろう。

何が言いたかったのかは伝わったようで、サタラの気迫にやや押され気味だったキリトゥルム

ラインが家令の時と同様に「ああ」と返事をしてから表情を引き締め「……アスリューシナ嬢

は?」と丁寧に慎重に言葉をかけてくる。

 

「既にお支度はととのってございます」

 

そう告げてからチラリと自分の後方に控えている若い侍女達へ目配せをすれば、心得ている様子で

その中の二人がそれぞれ左右の扉に両手をかけた。

女性が動かすにはいささか重そうな公爵家の扉がゆっくりと動いて室内の明かりが徐々に玄関先に

漏れ出る。しかしその明かりを遮るように中央には夜会用のドレスを身に纏ったアスリューシナが

立っていた。

落ち着いたクロームオレンジ色のドレスがアスリューシナの白い肌を引き立たせている。

今宵の首飾りは琥珀ではなく華奢なデザインのチョーカーに小粒の真珠があしらわれ、中央に

ひときわ大粒の真珠がひとつ輝いていた。

ウエスト部分から優雅に広がるドレープの波の上へ手袋をはめた両手を合わせ、少しはにかんだ

表情で嬉しそうな笑みをたたえている姿が目に入った瞬間、キリトゥルムラインは驚いた表情を

見せたがすぐに口元を緩ませて足早にアスリューシナの元へと駆け寄る。

アスリューシナもすぐさま玄関の外へと足を踏み出すと、目の前までやってきたキリトゥルム

ライン侯爵を見上げてにっこりと微笑み、初めて私室で対面した時のように最上級の礼をとった。

その礼を受けてから侯爵が言葉をかける。

 

「今宵は招待を受けてくれて有り難う、アス……リューシナ嬢」

 

慣れた手つきで片手を差し出せば、こちらも何の気負いもなくそこに自らの手を乗せて「こちら

こそ、お誘いいただき有り難うございます。ガヤムマイツェン侯爵さま」と僅かに頬を染めた。

初対面とは思えぬ二人の雰囲気に当てられた侍女達が一様にうっとりとした視線を送るが、

キリトゥルムラインは気に止めることなく自然と自分の手の内にあるアスリューシナの手の甲へ

手袋ごしに唇を落とす。

そのまま自分の腕にアスリューシナの手を絡ませると馬車へと導いた。

徐に御者が扉を開けようとしたところでアスリューシナは僅かに小首を傾げ、いつもは黒く輝く

瞳に被さるくらいの黒髪を今宵は夜会のためかサイドに流しているキリトゥルムラインの耳元に

その唇を寄せる。

 

「ガヤムマイツェン侯爵さま、この紋章は?」

 

アスリューシナの視線の先にある馬車の扉には薔薇の花をモチーフとした紋章が刻み込まれていた。

全体が黒塗りの馬車に数本の青い薔薇が絡み合いその周りを幾何学模様のような複雑なデザインの

枠が金で縁取られている。

 

「ああ、ルーリッド伯爵家の馬車を借りたんだ。詳しい話は中でするから、乗って」

 

言いながら手を添えてアスリューシナを馬車に乗せ、自分自身は公爵家を訪れた時と同じように

御者の手を借りずにひょいと乗り込めば、既に御者は心得たのか戸惑うこともなく静かに扉を

閉めて御者台へ上がり手綱を握った。

ゆっくりと走り出した馬車が公爵家の門を出ると、それまで窓から屋敷の方を眺めていた

アスリューシナが「ほうっ」と息を吐き出して窓のカーテンを閉めて座り直す。

隣に座っているキリトゥルムラインはその様子を見て膝の上に行儀良く置かれた手をそっと握った。

 

「緊張してるのか?」

「はい……ルーリッド伯爵様やご子息様とはお言葉を交わしたことがありませんし……何より、

夜会に兄以外のエスコートで参加したことがないので……」

 

その告白にキリトゥルムラインの口角が上がる。

 

「なら王城での兄上のように、ちゃんとアスナを守らないとな」

「そんな風に見えました?」

「アスナは兄上にも屋敷のみんなにも大事にされてると思うけど」

「それは……そうですね……」

 

自らの今夜の装いを確認するように眺めてアスリューシナの口元が緩む。

同じようにアスリューシナのドレス姿を目を細めて見つめているキリトゥルムラインの手が彼女の

膝元から離れ、いつものように髪へと伸びた。

部分部分に複雑な編み込みが施されているが、毛先の方はそのままになっているので慣れた

手つきで一房を手にとる。

 

「今夜はあまりクルクルと指に巻き付けないで下さいね。折角侍女達が時間をかけてくれたのです

から」

 

そう事前に窘められてしまい、僅かに残念な色を浮かべたキリトゥルムラインだったが、それでも

染色した髪に触れるのは初めてだったのでその色に顔を近づけた。

 

「見事に染まるもんだな……手触りはそれほど変わらないけど……それにいつもと色が違うって

わかっていても、さっき見た時はやっぱり驚いた。王城では近くで目に出来なかったし……」

「へん……ですか?」

「いや、こっちの出で立ちも十分、男達を惹きつけるよ」

「もうっ、そんな冗談は……」

「冗談なわけないだろ。今夜はいつもと違ってのんびりアスナを独り占めは難しそうだな。

寄ってくる虫を追い払わないと……」

「虫……ですか?」

「ああ。前にも説明したけど、今回の夜会はルーリッド伯の息子であるユージオのお相手探しが

主催理由だが、まさか令嬢ばかりを招待するわけにもいかないだろ?。だからあくまでも同じ

年代の令息や令嬢の交流を深める場として独身貴族の男性もかなりの人数が呼ばれてるんだ。

ユージオ本人は想い人がいるから、あくまで招待客をもてなすだけのホスト役に徹するらしいけど、

伯爵としては気に入った令嬢がいたら他の貴族に取られるまえに自力で何とかしろ、くらいの

心持ちらしい。実際、オレ、昨日からルーリッド伯の屋敷に滞在しているんだけど、伯爵からは

『息子と同じ令嬢を見初めないでいただきたいものです』なんて耳打ちされたくらいだから」

 

「まあっ」と小さく声をあげたアスリューシナの手を握ると、キリトゥルムラインは二人しか

いない馬車の中だと言うのに、囁くように彼女の耳元に口を近づける。

 

「だから『茶番』だって言ったろ。ユージオにとっても、オレにとっても」

 

その言葉の意味を自分の心の奥底に閉じ込めた感情と照らし合わせたい衝動に突き動かされそうに

なったアスリューシナはキュッ、と目を瞑ってやり過ごす。

 

「……アスナ」

 

顔を寄せたままキリトゥルムラインは熱を帯びた声でいつもの愛称を口にした。

 

「ガヤムマイツェン侯爵さま……その……呼び方は……ダメ、です……」

「なんで?」

「夜会にいらした貴族の方々が……勝手な憶測を……」

「憶測?」

「……はい……」

「既にアスナをエスコートして夜会に出ようとしているのに?」

「ですから……これ以上は……今宵は、ただ、エスコートをして……いただくだけで……」

「それ以上の意味はない?……それ以上の想いはない、って?」

 

アスリューシナが目を閉じて俯いたまま小さく首を縦に振る。

ふぅっ、とキリトゥルムラインの吐く息が自分の頬に当たり、未だ彼がすぐ傍にいるの

だと分かって、ますます身体を縮込ませた。

 

「言ったよな、今夜はオレの傍にいろって。それがどういう意味を持つのか、周りからどう

見られるのか、オレはわかっているつもりだけど?」

「ガヤムマイツェン侯爵さま……」

「今夜はずっとオレの事をそう呼ぶのか?」

「その……つもりです……が……」

 

窺うように、こっそりと顔を上げたアスリューシナは侯爵からの冷たい視線に一瞬にして顔を

強張らせる。

 

「ううっ……」

 

困り果てたように眉をハの字に曲げ、じわり、と潤んだ瞳で静かにキリトゥルムラインを

見上げれば、しばらくしてそのにらめっこ勝負に決着がついた。

「それ、反則技だろ」とキリトゥルムラインがぼそり、と言い放ってから、すっ、と

アスリューシナの目の前まで顔を近づけてニヤリ、と微笑む。

 

「なら、譲歩案をだそう。オレはアスナをアスリューシナ嬢と呼ぶ代わりに、アスナは

オレをキリトゥルムラインと呼ぶ。これ以上は譲れない」

 

それは互いをファーストネームで呼び合う仲だと公言しているわけで、結局親密な間柄で

あると示している事に変わりは無いのだが、アスリューシナも今更キリトゥルムラインを

他の令嬢方と同じように「ガヤムマイツェン侯爵さま」と呼ぶ自分に僅かな抵抗を感じていた

ので、しぶしぶを装ってその提案を受け入れる。

こうして馬車は一路、ルーリッド伯爵の屋敷へと向かったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
ユークリネ公爵家のアスリューシナ付きの侍女さん達、がんばりました。
サラタを筆頭に自分達がお仕えする令嬢をこれでもか、と磨き上げました。
腕の見せ所ですから……(笑)


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19.指輪(3)

ルーリッド伯爵邸での夜会に赴いた二人は……


キリトゥルムラインにゆっくりと導かれながらルーリッド伯爵家の夜会会場に入った瞬間、アス

リューシナは思わず足を止めた。

眩しい程に輝いているのは天井のシャンデリアだけではなく、会場のあちらこちらに配置された

美術品の他、今宵の為に用意された料理や飲み物に合わせた銀食器やガラス器、年若い貴族の

令息や令嬢がふんだんに身に纏っている貴金属……それら全てからまばゆいばかりの光の渦が

溢れている。

しかし、それ以上にアスリューシナの目を奪ったのは会場のあちらこちらに生けてある薔薇の

多さだった。

 

「すごい……」

 

特にアスリューシナの目が釘付けになっているのは、ホールの中央近くにある見事な彫刻を施した

台座の上。そこに鎮座している丸みを帯びた大きな白磁の花器には何十本もの瑞々しい青薔薇が

さし入れられている。

髪を染色している影響で彼女は瞳の色さえも薄いアトランティコブルーに変化していたが、その

目をめいっぱい見開いて興奮のせいか頬を僅かに赤らめて食い入るような視線を送っていると

隣から、クスッと小さな笑い声がした。

 

「そんなに一心に見つめると伯爵が勘違いをするぞ」

「えっ?」

 

その言葉を問い返そうとするより早く、キリトゥルムラインが再びアスリューシナの手を支え

ながらホールの中を、その薔薇の元へと歩き出す。

会場内の薔薇達に気を取られているアスリューシナには、自分と自分をエスコートしてくれて

いる侯爵がホールに登場した途端、場内の視線の的となっている事に気づいてなかった。

うっとりと蕩ける視線をガヤムマイツェン侯爵に送る令嬢もいれば、その侯爵の隣にいるアス

リューシナに棘のような視線を投げつけてくる令嬢もいる。二人の動きを目で追いながら「どう

して?!」と密かに不満げな声を交わし合う令嬢達も少なくなかった。

反対に令息達はアスリューシナの容姿と仕草に見とれたままその視線を外せずにいる者が

ほとんどのようで、中には彼女の手を引くガヤムマイツェン侯爵に羨ましげな息を吐く者も

いたが、相手が三大侯爵とあっては羨望はあっても嫉妬にはなりえないのだろう、小さな声で

「オベイロン侯は?」と疑問符を浮かべる者もすぐさま彼女を見つめる事に夢中になっている。

青薔薇の元へとアスリューシナをエスコートしてきたキリトゥルムラインは、薔薇を背にして

威風堂々と立っている年長の男性に意味ありげな笑顔を向けた。

 

「伯爵、こちらがユークリネ公爵家のアスリューシナ嬢です」

 

それを聞いて、目の前の男性が今宵の主催者であるルーリッド伯爵だと気づいたアスリューシナは

慌てることなくそっとキリトゥルムラインから手を離すと両手でドレスをつまみ腰を落として

深々と頭を下げる。

 

「初めてお目にかかりますルーリッド伯爵様。今宵はご招待いただき有り難うございます。ユー

クリネ公爵家のアスリューシナと申します」

 

礼を取る令嬢の優雅さに「ほほう」と軽く息を吐いた伯爵は優しい眼差しで言葉を返す。

 

「こちらこそ、我が屋敷にお越し頂き誠に光栄に思いますよ。今までお会いする機会がなかった

のが実に残念だ。さてはガヤムマイツェン侯が隠しておられたのかな?」

 

最後に悪戯めいた微笑をガヤムマイツェン侯爵へと送ると、それに応じるように侯爵も目を

細めた。

 

「ええ、その通りです。今宵はどうしても、とユージオに頼まれまして」

「なるほど、なるほど。ですが秘宝は人の目に触れてこそ、その輝きと存在意義を示すものです

からな」

「ですがその美しさのあまり、邪(よこしま)な考えを持つ者が現れるのも煩わしいだけなので」

「それら全てを受け入れてもなお、手元に置くお覚悟があるのでしょう?」

「でなければここにはいません」

「ならば結構……いや、これは失礼しました、アスリューシナ嬢。なにせガヤムマイツェン侯爵が

令嬢をエスコートしての夜会など初めてのことなので、主催したこちらとしても驚きを隠しきれず

出しゃばった物言いを致しました」

 

ルーリッド伯爵とキリトゥルムラインの含みのあるやりとりを黙って聞いていたアスリューシナは

伯爵の言葉に思わず声を漏らした。

 

「えっ?……初めて、なのですか?」

「ええ、そうです」

 

ゆっくりと頷いた伯爵が一層優しさを込めた瞳でアスリューシナを見つめる。

 

「僭越ながらこちらのガヤムマイツェン侯は私にとってはもう一人の息子も同然でして。うちの

愚息同様、女性っ気が全くないのを気にしていたところですが、なんの、私に内緒で随分と美しい

花を隠し持っていたようで、いやいや、安心致しました」

 

それから侯爵へと一歩踏み出して顔を近づけ、「昨晩は戯言を申しましたな」と言えば、侯爵も

ニヤリと表情を崩して「全くだ」と返す。

しかし伯爵は表情を一変させると声を落として更に侯爵との距離を縮め低い声を落とした。

 

「ガヤムマイツェン侯爵家の『花』として迎えるおつもりなのでしょう?……くれぐれも花泥棒に

ご注意を」

 

進言に頷くだけで返すと二人のやりとりを少し不安げに見つめているアスリューシナからの視線に

気づいたキリトゥルムラインが素早くその腰に手を回す。

 

「ルーリッド家の薔薇も見事ですが、オレにはこちらの花の香りの方が好ましいので」

 

アスリューシナに声を上げる間さえ与えず、引き寄せてアトランティコブルーの髪に顔を寄せると

周囲から小さく悲鳴のような声が同時にいくつも上がり広間の空気がどよめいた。キリトゥルム

ラインに密着されたアスリューシナがわなわなと唇を震わせて顔を朱一色に染め上げていると、

その姿を呆気にとられた顔で見つめていた伯爵の声が小さく跳ねる。

 

「ふふっ……侯爵がそのような事をなさるとは夢にも思いませんでした。何度我が家に足をお運び

いただいても一度たりとも花の香りを慈しんだことなどなかった貴殿が……」

「オレにも好みがあるんですよ」

「おや、我が家の庭園には侯爵のお気に召す薔薇は一本もございませんでしたか?」

 

その言葉にアスリューシナが祈るように両手を握りしめ伯爵へと身を乗り出した。

 

「お庭にも……薔薇が咲いているのですか?」

 

純粋に花への好奇心で満たされている瞳に気づき、伯爵が嬉しげな声で答える。

 

「ええ、今宵の薔薇は全て屋敷の薔薇園からとってきたものですから」

「青薔薇も?」

「はい、わがルーリッド伯爵家の象徴ですので丹精込めて育てているのですよ」

「ああ、それで青以外の薔薇も見事なのですね」

「は?」

 

アスリューシナの発言に滅多に表情を崩さないルーリッド伯爵の眉が一瞬、ひくり、と動いた。

そんな変化など気にもとめずアスリューシナは会場を見回して、うっとりと頬を緩める。

 

「こちらに飾られているどの色の薔薇も香りはもちろんですが色の深みも花弁の厚みも見事です

もの。私は棘のとってある薔薇しか手にした事がないのですが、きっとお庭の薔薇は棘も

しっかりと固くて張りがあるのでしょうね。青薔薇は良質の白薔薇と黄薔薇から紫を作り、更に

赤薔薇と黄薔薇から作った橙と掛け合わせ、そこから出来た赤薔薇が必要と聞いておりますが、

今宵、伯爵さまの後ろにある青薔薇を見れば、他の色とりどりの薔薇の素晴らしさも自ずと

わかります」

 

夢現の表情で会場内の薔薇に視線を送っている公爵令嬢を前に、ぽかんと口を開けたままの

伯爵はクスクスと楽しげな忍び笑いを耳にして、ハッと我に返った。

少し視線をずらせば意地の悪い笑顔のガヤムマイツェン侯爵が令嬢の髪から顔を離し、口元に

手を当てている。

今まで周囲からの薔薇への賛辞と言えばルーリッド伯爵家の紋章でもある珍しい青薔薇を褒め

称えるばかりで、その青薔薇を作り出す為の薔薇に対する賞賛の言葉は初めてだった。

大体は青薔薇以外の薔薇を青薔薇の引き立て役と認識しているようで、まさか青薔薇を育成

するために必要不可欠な存在とは想像もしていないだろう。

しかも青薔薇を作り出す知識を病弱の公爵令嬢が持っているという事実もにわかには信じ

られなかった。

ゴホン、と咳をして平常心を取り戻した伯爵は真剣な表情で「アスリューシナ嬢……」と

声をかける。

 

「貴方は一体……」

「彼女は他の花と、違うでしょう?」

 

まるで自分事のように得意気な笑みを浮かべて伯爵の言葉を遮ったキリトゥルムラインは、

それ以上の問いを許さないとばかりに深い漆黒の瞳でルーリッド伯爵を制した。

その瞳の色の意味を理解した伯爵は言いかけた言葉を、ふぅっ、と長い息と共に吐ききり、

いつもの穏やかな面持ちに戻る。

 

「アスリューシナ嬢、よろしければ体調のよろしい時に是非また我が屋敷にいらして下さい。

次はゆっくりと本邸の薔薇園をご案内させていただきたい。あちらのバルコニーの先にも

小園がございますが本園はこれの比ではありませんからな」

 

伯爵からの誘いにアスリューシナの頬が嬉しさで染まった時だ、そっ、とキリトゥルム

ラインが耳元で囁く。

 

「よかったな。伯爵自らが本園へ招くなんて……」

「随分とガヤムマイツェン侯爵の可愛らしい花がお気に召したようですね、父上」

 

キリトゥルムラインの言葉を引き継ぐように青薔薇の後ろから若々しくも穏やかな声が

響いた。




お読みいただき、有り難うございました。
ルーリッド伯爵とガヤムマイツェン侯爵とは、それこそ父子ほどの
年齢差がありますが、爵位順で言うと侯爵の方が上なので、対等か
それ以上の口の利き方になってます。
そして……最後に……やっと一言、出番が……キター!(笑)


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20.指輪(4)

キリトゥルムラインにエスコートされ、ルーリッド伯爵と言葉を交わしていたアスリューシナの耳に穏やかな声が飛び込んできて……


声のした方向を見るとルーリッド伯爵の隣へ気配すら感じさせずに現れたアッシュブラウン色の髪の青年がアスリューシナを暖かい微笑みを送っている。

一見した風ではキリトゥルムラインとそう変わらない年齢だろうか、しかしその面立ちは柔和で常に笑みを絶やさず、すぐに誰とでも打ち解けてしまいそうな雰囲気を醸し出していた。

アスリューシナの躊躇いを見て、ルーリッド伯爵の片手が青年の胸元に近づく。

 

「アスリューシナ嬢、息子のユージオです」

「初めまして、ユークリネ公爵令嬢様。ユージオ・ロワ・ルーリッドです。今宵は僕の我が儘にお付き合い下さり、本当に有り難うございます」

 

キリトゥルムラインが友人と称している青年だとわかり、すぐに礼を取ろうとしたのだが……。

 

「初めまして、ユージオ様…………キリトゥルムラインさま、少し離していただけませんか?」

 

挨拶をしようとしているのに、自分の腰から一向に手を緩める気配のない侯爵へアスリューシナは小さく声を尖らせた。

そんな声が届いても全く気にする様子のないキリトゥルムラインはそのままの体制で平然と公爵令嬢に向かい「こいつには挨拶の言葉だけで十分だから」と言い放つ。

こうなると自分の願いなど聞いてくれないとわかっているアスリューシナはキリトゥルムラインにだけ聞こえるように「もうっ」とだけ言うと、改めてユージオに向き直り、可能なかぎり腰を落として礼を取った。

 

「このような状態で失礼致します、ユージオ様。こちらこそ、素晴らしい薔薇を目にする機会を与えていただき、とても感謝しております」

 

キリトゥルムラインの呆れた所行には慣れっこなのか別段気にした様子も見せず、ユージオはやれやれ、と苦笑を混ぜてアスリューシナに労りの視線を送る。

 

「困ったヤツですね……このキリトが剣より夢中になる存在がどうしても見たくなってしまいお招きしたのですが……」

 

そう言ってから小声で「ここまでとはなぁ」と呆れ半分、からかい半分に零せば、アスリューシナの眉尻は少し恥ずかしそうに落ち、キリトゥルムラインがジロリ、と友人を睨んだ。

友からの視線など気づかなかったように清々しい笑顔に戻ったユージオは更に声を弾ませ進言する。

 

「ああ、キリト、その様子だと余計な事だってわかってるけど、公爵令嬢様の手はしっかりと掴んでおいた方がいいよ。隙あらば、僕なんかより父上の方が彼女を狙っているようだから」

 

ユージオの言葉を耳にした周囲の貴族達の間に一瞬、緊張が走った。

三大侯爵家であるガヤムマイツェン侯爵がエスコートしている令嬢というだけで裏のある好意や確証のない悪意が寄せられる存在となった彼女を擁護するため、現国王の第四騎士団長であるユージオはもちろん、その父であるルーリッド伯爵までもが彼女のバックに付いたということを知らしめたからだ。

 

「そうですよね、父上。大丈夫、母上には内緒にしておいて差し上げます」

 

涼しげに微笑む息子に伯爵も楽しそうに笑い「そうだな。私も候補者に入れていただけますかな?」とアスリューシナに問う。

父子二人のやりとりに思わずクスクスと笑い声をあげてしまったアスリューシナは「残念ですが」と返事を口にした。

 

「私のような世の中を知らない小娘に伯爵様のお相手が務まるとは思えません。ですが、叶うなら次にお会いできた時には伯爵さまのお話をたくさんお聞かせ下さいませんか?」

「ええ、是非薔薇を眺めながらゆっくりと色々な話がしたいですな」

「さあ、父上、デートの約束は取り付けたのですから、そろそろ次の招待客のお相手をお願いしますよ」

 

すかさず二人の会話に入ったユージオがキリトゥルムラインとアスリューシナの後ろへと視線で促すと、そこには彼らの後に到着した招待客が伯爵に挨拶をしようと列をなしていた。

慌ててアスリューシナが頭を下げる。

 

「申し訳ありません。ご挨拶だけのつもりが……」

「いえ、構いません。私にとっても有意義な時間でした」

「では、オレ達は失礼します。それと……」

 

それまでアスリューシナをほぼ抱き寄せていたと言っていいほどに密着していたキリトゥルムラインが、彼女から離れて伯爵へと一歩足を踏み出した。

 

「……今宵の余興に夜会の場を提供していただきガヤムマイツェン侯爵家として感謝を申し上げます」

「まあ、こちらも貴重な花を目に出来ましたのでね。それに、あちら側にもこのルーリッド伯爵邸なら余興の場としてふさわしいと思われたのなら後悔させてやりませんとな」

 

それまでと同じように余裕のある笑みを口元に湛えている伯爵だったが、その瞳の奥は鋭く輝いている。

しかし、その堅さも一瞬で溶けて隣の息子へ父としての言葉を浴びせた。

 

「だが、それはそれ。ユージオ、お前はちゃんと皆様のお相手をするように」

 

そう言うと返事を待たずに後方で待ち続けている招待客の元へと歩いていってしまう。

残された三人は、内二人がくすり、と笑い、残りの一人が大きな溜め息をついた。

 

 

 

 

 

広間の隅に移動した三人は、それでも変わらずに周囲からの視線を集めながら、それを気にすることなく親密な空気を張って自分達だけの場を作った。

キリトゥルムラインが隣のアスリューシナに気遣いの声をかける。

 

「気分は?、アス……リューシナ嬢」

「はい、大丈夫です」

「少しでも調子が悪くなったらすぐに言えよ」

 

まるで精巧なガラス細工の曇りを探すように顔色を検査し、手を取って体温を確かめる友の様子に改めてユージオが目を丸くした。

 

「こんなキリトを見る日がくるとはね……それにさっきの父の喜びよう。初対面の令嬢との会話であそこまで上機嫌になった父も見た事ないよ」

 

アスリューシナに異変がないことを納得したキリトゥルムラインがユージオに向き直って「そうだな」と同意の言葉を発する。

 

「オレも、中央市場で扱っているのが食べ物だけじゃないことをすっかり忘れてた」

 

それから小さく「そうだよな、花も売ってるんだよな。買ったことないからなぁ」とボソボソ言っているのが聞こえてアスリューシナは心配そうな瞳で二人に問うた。

 

「あの……薔薇の事、夢中で話してしまったのですが……いけなかったでしょうか……」

 

その不安を笑い飛ばすように騎士の称号を持つ二人が顔を見合わせて、ぷっ、と吹き出す。

アスリューシナの私室で彼女を見つめる時のような優しい眼差しでキリトゥルムラインは薄いアトランティコブルーの瞳を覗き込んだ。

 

「違うよ、あのルーリッド伯を一瞬にして魅了させた手腕に感心してるだけだ」

「ええ、常々父は青薔薇を我がルーリッド家、他の色の薔薇を領地や領民と捉えている人なので、普通の薔薇の存在があってこその青薔薇という考えの持ち主なんです。だから青以外をしっかりと評価してくれたあなたの気持ちがとても嬉しかったんですよ」

 

それぞれに違う柔らかな微笑みを返され、アスリューシナは安心して細く息を吐き出した。

 

「私は思った事を場もわきまえず口にしてしまっただけですから、魅了だなんて大げさです、キリトゥルムラインさま」

 

困ったように眉を下げてキリトゥルムラインを見つめているアスリューシナと、それを嬉しげに受け止めている友を見てユージオが腕組みをしたままわざと大きく頷く。

 

「キリトが夢中になっている花がこんな貴重種だとは思わなかったよ。お陰で僕までとばっちりだ」

 

さっきまでの自分の父の様子を思い出し、ユージオはキリトゥルムラインへ半眼の視線を送った。

今回の夜会でルーリッド伯爵が一番気に入った令嬢はまず間違いなく目の前のユークリネ公爵令嬢だろう。

しかしながらすでにその手をガヤムマイツェン侯爵が離さないことは承知済みのはず、となればお前も負けないくらいのお相手を、と思っているに違いないと己の推察に気が重くなる。

そんな友の憂鬱さなど気にする様子もないキリトゥルムラインは、ユージオに顔を近づけ口の端を上げた。

 

「何言ってるんんだ。お前のお相手だって貴重種じゃないか」

 

こっそりと告げられた言葉にアスリューシナも僅かに首を傾げ、微笑みで同意を示す。

公爵令嬢の仕草に目を見開いたユージオはすぐさまキリトゥルムラインにつかみかかる勢いで歯をかちんっ、と合わせた。

 

「おいっ、キリト。ユークリネ公爵令嬢様はどこまで知って……」

 

その突然の勢いに思わずのけぞったキリトゥルムラインが誤解を解こうとした瞬間、アスリューシナが慌てて小さくユージオに声を掛ける。

 

「お待ち下さい、ユージオ様。キリトゥルムラインさまは私にはユージオ様のお相手のお名前などは一切おっしゃっておりません。ですが……」

 

キリトゥルムラインとユージオから食い入るような視線を送られているアスリューシナはいたたまれずに俯いて言葉を続けた。

 

「ですが……ユージオ様が第四騎士団に所属されている事と……その、たった一度だけ、キリトゥルムラインさまがユージオ様のお相手の方の事を『思いっ合っているお方がいる』とおっしゃったので……三大侯爵家であるキリトゥルムラインさまが『お方』とお呼びになるのは……王族の方々しかいらっしゃいませんでしょう?……それにお二人の仲をすぐには公にできないお立場の方となると……多分、そうなのかな、と……」

 

現在、アインクラッド王国の国王には王子が一人、その妹である王女が二人いる。

国王は五つの騎士団を所有し、優秀な騎士をその団員として迎えていた。

第一騎士団は国王の警護をし、第二騎士団は王妃を守る。第三騎士団が王子に付き従い、第四、第五はそれぞれ第一王女、第二王女の護衛を務めていた。

アスリューシナは王城の舞踏会で遠目にもわかるほどに髪を鮮やかな金色に染め、凛とした佇まいの第一王女と、その姉姫の影に身を潜ませ、広間の様子を怖々と眺めていた妹姫の姿を思い起こし、目を細める。

公爵令嬢の正しい憶測を聞いてへたり込みそうになる足をどうにか堪え、ユージオは一言「まいったな」とだけ漏らすと、きちんと顔を上げ、背筋を伸ばしてアスリューシナを正面から見つめた。

 

「はい、ユークリネ公爵令嬢様のお考えの通りです。父にはまだ告げられる段階ではないので……僕としてはギリギリまで彼女の護衛を務めていたいのもありますが……」

 

その言葉で伯爵家令息の想い人が自身の護衛対象である第一王女であると確信したアスリューシナは心得た様子で微笑む。

 

「承知しております。ご安心ください、私はユージオさまのお相手が誰なのかは全く存じ上げておりませんから」

「……助かります……それにしても……キリトのたった一言で……」

 

ちろり、と横目で友を睨めば「オレのせいなのかっ」と心底意外そうな顔で返された。

 

「それだけユークリネ公爵令嬢様がキリトの言葉のひとつひとつを大切に聞いてるってこと……ですよね?」

 

お返しにと冷やかすような笑みで、最後だけをアスリューシナに向かって言えば、ぽんっ、と瞬時に頬を染める令嬢がいて、先刻までの見事な洞察力を披露した人物とは思えないほどに恥ずかしさで縮こまる様は思わず抱き寄せてしまいたい衝動に駆られる。

しかし、そう思った瞬間には既に友の腕が公爵令嬢の腰を引き寄せていた。

確か自分よりもひとつだが年上のはず、と公爵令嬢の年齢を思い出していたユージオはその意外にも素直すぎると言っていい反応に友の想い人というだけではない好感を抱く。

そうしていつの間にかアスリューシナとユージオとの間にも親しげな空気が生まれていると、背後からルーリッド伯爵家の家令が静かに近づいてきた。




お読みいただき、有り難うございました。
ユージオのお相手がどなたなのか?、は……まあ、言わずもがな、です。
今後の登場予定がありませんので、名前も出しませんでした。

さて、大変申し訳ありませんが、一旦、二ヶ月程お休みをいただきたいと
思います。
詳しい理由(言い訳?)などは「活動報告」欄でお伝えしますので。
ではキリトゥルムラインの言う「余興」の始まりまで、しばらくお待ち下さい。


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21.指輪(5)

夜会会場の片隅でキリトゥルムライン、アスリューシナ、ユージオの三人が談笑をしていると、ルーリッド伯爵家の家令が近づいてきて……


ルーリッド伯より幾分年若そうな執事が恭しく頭を下げると、ユージオは何事か?、と訝しげな表情で向き直った。その耳元に家令が顔を近づけて、一言二言耳打ちをした途端、伯爵子息の瞳に真剣味が宿り、同時に眉間に僅かな皺が刻み込まれる。

再び元の姿勢に戻った家令はやってきた時と同じように一礼をするとその場を素早く離れて行った。

 

「キリト」

 

静かに呼ばれたユージオの声に何かを察したキリトゥルムラインもまた瞳の色を整えて次の言葉を待つ。

 

「始まったようだよ……僕としては君の予想が外れる事をほんの少し望んでたんだけどね」

 

友の少し情けない笑顔を茶化すようにキリトゥルムラインの口の端が挑むように動いた。

 

「わざわざこっちから舞台を用意したんだ、のってもらわないと困る。ルーリッド伯からも好きに使ってくれと許可は貰ってるしな」

「それなんだよね。許可したくせに後の事は全て僕に押し付けてくるんだから、加えて夜会の対応までしろって言う。結局僕が一番貧乏くじを引いてるようなもんだろ?」

「ユージオが花を迎え入れる時は手伝うよ」

 

これからいくつも起こるであろう王家と伯爵家との結びつきに対する数々の障害対処への助力を暗に匂わせると、ユージオはわざとらしく「はぁっ」と息を吐き「その時は期待してるから」と零して家令が消えた先を指さした。

 

「少し確認して欲しい事があるらしい。向こうも多少は頭を使ってきてるみたいだね。キリトでないと判断出来ないって」

「オレが不用意に動くわけには……」

「だから、ちょっとゴメンね……」

 

そう言いざま手にあるグラスの中に残っていた少量のブルースピリッツをぴしゃっ、とキリトゥルムラインの胸元にひっかける。突然の出来事に二人の会話を静かに見守っていたアスリューシナも「あっ」と小さく声を漏らしたが、それ以上に「ああっ」とユージオがわざとらしい驚声をあげてすぐさま近くに控えていた従者を呼んだ。

 

「ごめん、ごめん、手が滑った。向こうで着替えてきてよ」

「こちらにどうぞ」

 

あらかじめ家令から指示がでていたのか、慌てもせずに従者はキリトゥルムラインをユージオが示した広間の奥へと招く。

 

「……ユージオ」

 

さすがにいきなり飲み物をかけてくるとは予想していなかったキリトゥルムラインが少しの怒気を孕ませ友の名を口にした。今宵はアスリューシナの傍を離れないと約束しているキリトゥルムラインが半眼でユージオを睨み付ける。

 

「まあまあ、ユークリネ公爵令嬢様のお相手は僕がしておくから」

 

するとすぐ傍からも援護の声が添えられた。

 

「そうです、キリトゥルムラインさま。早くお着替えにならないと」

 

キリトゥルムラインがチラリと視線を隣に向ければ気遣いの視線がまっすぐに自分の目に飛び込んでくる。ほんの少し、自分への執着の色を探すがアスリューシナの瞳はただ純粋にキリトゥルムラインの濡れた衣類への懸念だけだった。その表情を見てしまってはこのままこの場に留まるとは言い出せず、侯爵は自分の胸元に視線を落とす。

少量とはいえシャツにはしっかりと鮮やかな青い染みが広がっていて、この状態で公爵令嬢をエスコートするわけにはいかない事を渋々認めたキリトゥルムラインは素早くアスリューシナの髪に唇で触れて「すぐに戻る」とだけ言い残し、彼女から離れた。

三人の様子を遠巻きに見ていた令嬢の一人がユージオとアスリューシナから離れたキリトゥルムラインを見て素早くその隣に駆け寄り、いかにも心配そうな素振りで「侯爵様、大丈夫ですか?」と声をかけながら両手を彼の腕に絡ませる。無下に振り払うわけにもいかないキリトゥルムラインは特に表情も変えず「ああ」とだけ答えると、すぐさま従者が間に入り「侯爵様は一時退座をなさいますので」と告げ丁重に令嬢の同行を阻んだ。それでも「あら、私、何かお手伝いいたしましょうか?」と令嬢が食い下がる。そうこうしているうちに他にも数人の令嬢達がキリトの行く手をさえぎり、心配そうな瞳をギラギラと執拗に輝かせて侯爵の肩にすり寄ったり、汚れた胸元に手を当てようとしていた。

その光景を複雑な心境で見ていたアスリューシナが無自覚に自分のドレスの端をギュッ、と掴む。同じくキリトゥルムラインと彼を取り囲む令嬢達の不躾な振る舞いにこっそりと同情の視線を送っていたユージオが鼻から小さく息を吐き出した。

 

「あーあ、あれじゃあキリトがますます不機嫌になっちゃうな」

 

その言葉にキリトゥルムラインの姿を見ていられず俯き加減に視線を落としていたアスリューシナが顔を上げる。意外だと言いたげに問いかけてくる瞳に向かい、優しく微笑んでから「だってそうでしょう?」と可笑しそうに目を細めた。

 

「本当にキリトの事を思うなら先程のユークリネ公爵令嬢様のように汚れた衣類の替えを優先させるべきなのに、あれでは……」

 

立ち止まったままのキリトゥルムラインに二人が視線を合わせた時だ、アスリューシナの私室でくつろいでいる時には聞いたこともないような低い声が吐き出される。

 

「いい加減にしろ」

 

どの令嬢の顔も見ず、独り言のように呟いた言葉に取り囲んでいた彼女達の動きがぴたり、と止まった。その一瞬の間をついて素早く包囲網から抜け出したキリトゥルムラインは何事もなかったかのようにルーリッド家の従者に先導を任せ、足早に広間から出て行く。

一部始終を観覧していたユージオはふうっ、と息を吐き出すと肩をすくめてアスリューシナに向き直った。

 

「まあ、彼女達の気持ちもわからなくはないですけどね、自分のため、家のため、より上位の貴族と縁を持ちたいのは当然ですから。今宵、ユークリネ公爵令嬢様を伴ってきた事でキリトの女性に対する態度が緩くなったと思ったのでしょう……とんだ見当違いですが……どちらかと言えば折角今まで空いていた彼の隣が既に埋まってしまったと判断すべきなのに……」

「ですが……男性ならあのようにお美しい女性が近くにいらしたら嬉しいのでは……」

 

だから王都にはわざわざ貴族専用の高級娼館というものまで存在するのだろうし、とアスリューシナは小首を傾げる。公爵令嬢の反応に「あれ?」と冷や汗をかきそうな笑顔でユージオは親友が手に入れたと思っていた花に説明を始めた。

 

「あ、ええっと……まあ、そうですね……一般的に嬉しいか嬉しくないか、と問われれば嬉しいと答える男性が多いと思いますが……」

 

自分は一体何を言おうとしているのだろうか?、と疑問符を抱きながらも目の前で小さな顔を納得の表情で上下させているアスリューシナにルーリッド伯爵家の三男坊は必死に友のため、言葉を尽くす。

 

「ですが、好意を寄せてくれている相手なら誰でも嬉しいかと言えば、そういうわけでもなく……」

「そう……なのですか?」

 

なぜかアスリューシナの眉が寂しそうに下がった。「ええっ!?」と内心、驚きと焦りが交錯しているユージオは更にまくし立てるように早口で続けた。

 

「やはりその相手に自分も好意を抱いているかどうかが一番重要ではないか……と」

 

そこまで言い切って、ふうっ、と肩まで動かして息を深く吐き出したユージオは初めて会った時のような穏やかな笑みを湛えてアスリューシナを正面から見つめる。

 

「それは女性も同じなのではないですか?」

 

そう問われて、キョトンと薄いアトランティコブルーに染まった瞳を丸くしたアスリューシナは次に何を思ったのか、ぽっ、と頬を淡く染めた。その反応をホッとした気持ちで受け止めたユージオが更に言葉を重ねる。

 

「公爵令嬢様もキリトが傍にいる時といない時とでは表情が違いますからね」

 

アスリューシナが恥ずかしそうに視線をはずして「そう……ですか?」と小さく呟けば安心したように優しい声が肯定する。

 

「はい、公爵令嬢様のお相手はしておく、なんてキリトに言った事を後悔しているくらいですよ。僕では全くの役不足のようですから」

「そのようなことは……」

 

慌てて否定の言を述べようと顔をユージオに向けた時だ、彼の肩越しに挑むような視線を感じ、思わず周囲に目をやれば、こそこそとこちらの様子を覗っている令嬢達のグループがあちらこちらに存在している事に気づき、違う意味でアスリューシナが声を上ずらせる。

 

「ユ、ユージオ様、今宵の主役がいつまでも一所(ひとところ)に留まっていてはいけませんわ」

「いえいえ、キリトとの約束ですから……戻ってくるまでそれほど時間はかかりませんよ」

「ですがユージオ様を独り占めしていると、私が他の皆様から恨まれてしまいますもの」

 

必死の願いにユージオは困り顔で小さく笑った。

 

「僕としてはこのまま他の令嬢方のお相手などせず公爵令嬢様と楽しく喋っていたいのですが……」

「ユージオ様、ルーリッド伯爵様とのお約束、お忘れではないですよね?」

 

力のこもった目で見つめられ、ユージオは観念したように大きく息を吐き出す。

 

「はあぁっ……実はこの夜会の件、あの方の耳にも入ってしまい随分と機嫌を損ねているんです。これで僕が愛想を振りまいたなどと適当な噂が耳に入ったら何を言われることか……」

 

いきなり子供のように本当に困り果てた表情に転じたユージオを見て、アスリューシナは思わずクスッ、と喉の奥で息を跳ねかせた。

 

「本当に、大切に思っていらっしゃるのですね」

「……そうですね、臣下である貴族の三男が過ぎた感情を抱くことすら罪に近いのに、伸ばした手を同じ気持ちで掴んでもらえたのですから、こちらはもう離すまいと必死なんです」

 

自嘲するような笑みの後「互いに想い合える相手と出会えるなんて、この世界では難しいですからね」と独り言のように零した言葉を聞き、アスリューシナは深く、ゆっくりと頷いたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
何やら動き始めたようです。
(二ヶ月ぶりの更新は緊張しますね)


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22.指輪(6)

渋々アスリューシナの元から離れたキリトゥルムラインに代わり、相手役を
務めていたユージオだったが……


友であるキリトとの約束を守りたいのか、はたまた自分の想い人の心情を慮って他の令嬢と接したくないのか、頑なにアスリューシナの隣を離れようとしない今宵のホスト役であるユージオに向かい、アスリューシナは心が僅かに痛むものの少々強引に彼を突き放した。

 

「私に対するオベイロン侯爵様の事は皆さんご存じでしょう?、そして今宵はガヤムマイツェン侯爵さまにエスコートしていただいたのですもの、更にここでユージオ様を独占してしまったら……私の立場もお考えください」

 

そう言われてしまってはこの場に留まっている事も出来ず、不承不承ではあるがユージオはアスリューシナの元から足を踏み出す。

くれぐれもこの場から離れぬようにと言い聞かされたアスリューシナは、優しくて、でもどこかキリトゥルムラインと似たような芯の強さを持つアッシュブラウンの後ろ髪を見送ってからそろり、と周囲を見渡した。

ユージオが自分の傍を離れたのに合わせて令嬢方の対応も色々だった。

アスリューシナに関心を薄めた者は目標を夜会の主役である伯爵家の三男に定め、行動に移し、そこまでの行為に及ばずとも戸惑いの顔を寄せ合わせているグループもあり、しかし未だ眉をひそめたままアスリューシナから視線を外さない令嬢も少なくはない。

それらに混ざって男性からの色めき立った視線も数多くあったのだが、その意味がアスリューシナに届くことはなく、彼女は全てを居心地の悪い空気と捉えていた。少しの息苦しさを覚えて、これが周囲から寄せられる自分への感情のせいなのか、もしくは髪の染色によるものなのかが判別出来ず、胸に手をあて大きく深呼吸を一回してからキリトゥルムラインが消えた広間の奥へと視線を巡らせる。

心細さを振り払うように軽く頭を振ってからアスリューシナは先刻のルーリッド伯の言葉を思い出していた。

 

(確か、向こうのバルコニーの先にも小園があるっておっしゃってたわよね)

 

広間の一角が全面ガラス張りとなっており、その向こうには夜会のもてなしのひとつとしてライトアップされた幻想的な庭園が広がっている。近くに行かずともその明かりの多さはガラスに反射してキラキラと輝き、夜会会場の装飾としても役を担っていた。

誰に聞くことなく庭園への入り口を見つけたアスリューシナはもう一度だけ広間の奥を確認してからそっと足を踏み出す。

 

(キリトさまが戻ってくる前に、ほんの少しだけガラスのこちら側から覗けないかしら……)

 

花のように美しい令嬢方から棘のような尖った視線を浴びているよりは本物の花を目にして心を静めたくて、アスリューシナはこっそりと小園の入り口近くの柱の陰に身を隠した。

柱のお陰か、目に付かない場所へと姿を隠した令嬢をいつまでも気にしているほど余裕がないせいか、痛いほどの視線を感じなくなって僅かに気が緩む。ただ小園を彩っているであろう花々を想像する事だけに意識を向けて目を凝らすとガラス戸の向こうに淡い光に照らされた色とりどりの薔薇が宝石を散らしたように煌めいていて知らずに頬が紅潮した。

 

(……綺麗)

 

ガラスに近寄りたい衝動を堪え、柱の陰から食い入るように薔薇を眺める。ユークリネ公爵家にももちろん立派な庭園が存在するが、これほど屋敷の建物近くにはないので、いつもは階上の窓から見下ろしている。自分が住んでいる屋敷と言えど、庭に出て誰かに姿を見られる可能性があるなら、それすらも控えなければならないとわかっているアスリューシナは、自らの手で庭にある葉も蕾も花にも触れたことがなかった。その代わり、心優しい庭師達がその時々に咲いている花を令嬢の私室に届けてくれる。それを見て心を温めていたアスリューシナだったが、時折、幼少の頃に過ごしていた祖父である辺境伯の庭を思い出し、そこを従兄弟達と駆け回っていた記憶に懐かしさがこみあげる事もあったのだが……そんな風に過去の記憶をぼんやりと頭に浮かべながら薔薇を見つめていると、突然、自分が身を寄せている柱の向こう側に何人かの令嬢達が集まったのだろう、随分と憤った会話が耳に入ってきた。

 

「ユージオ様ったら、本当にこの夜会でお相手を選ぶお気持ちがあるのかしらっ」

「ふふっ、ご自分が相手にされなかったからって、その言い様は失礼よ」

「私だけじゃないわ、どなたに対しても同じですもの」

「同じ……でなかったのは、先程までご一緒にいたユークリネ公爵令嬢様ぐらい?」

「……そうね……随分とご親密にお話をされていたようだったわ」

「私、侯爵令嬢様のお姿を拝見したの、初めてなのだけど……」

「私もよ」

「お身体が丈夫ではないそうだから、夜会や舞踏会にもいらっしゃらないものね」

「この前の王城での夜会には珍しく兄上さまと登城なさって随分と話題になったと父が申していたし」

「だって数年前の社交界デビューの夜会であのオベイロン侯爵様が一目惚れなさったんでしょう?、それ以来、全くと言っていいほど社交界にはお出になっていなかったのに、先月の王城の夜会に見えたと思ったら、あっという間に退城されて、それで今度はユージオ様のお相手探しの夜会にこともあろうかガヤムマイツェン侯爵様とご一緒にいらっしゃるなんて……随分と私達を見下していらっしゃる方ですわ」

 

アスリューシナの呼吸が一瞬止まって、すぐさまドキドキと早鐘を撞くように呼吸が乱れ始める。

 

「私達のように夜会や舞踏会に参加して上級貴族の殿方の目に留まるよう努力するなんてご自分には必要ないとおっしゃりたいんでしょう」

「三大侯爵のお二方を手にしていらっしゃるんですものね、私達の姿などさぞ滑稽に見えているに違いありませんわ」

「まあ、あれだけお綺麗な方ですもの、夜会に出なくとも病がちでも殿方の方から寄ってくるのではなくて?」

「はぁっ、羨ましい」

「本当に……」

「私なんて次の誕生日までにお相手が見つからなかったら、昨年、奥様に先立たれた三十も年上の伯爵様の元へ嫁ぐことになっていて……」

「それなら私も、うちの領地より遠い辺境伯と話がまとまりそうなの。そうなったら二度と王都にも来られなくなるわ」

「縁談のお話があるだけ私より贅沢よ……」

 

口々に自らの身の上を嘆く話ばかりが出だした頃には、カチャリと静かにガラス扉を開けたアスリューシナの姿は外のバルコニーへと消えていた。

 

 

 

 

 

開けた時と同じように音を立てぬよう扉を元に戻すと、くるり、とバルコニーを見渡して人影を探す。

幸い、アスリューシナの他に夜会会場を抜け出してバルコニーに出てきている者はいないようだ。それでも広間の近くにはいたくなくて、すぐさまタタタッ、と端の手すりまで歩み寄る。小園を眺める為に設計されたと思われるバルコニーは奥行きよりも横に長く、手すりはアーチ型にカーブを描いて庭園に突き出しており、薔薇を鑑賞する人々の視界に庭全体が収まるようになっていた。

昔、祖父の屋敷の庭を全力で走った時のように心臓がバクバクと跳ねて胸が苦しくなり、全身を這い回る震えのせいで立っていられなくなったアスリューシナはペタリ、と手すりに背を預けて座り込む。そのまま背中を丸めてうずくまった。

両手で胸元を押さえ懸命に息を整えるが染色のせいとはまた違う苦しさはなかなか収まってくれない。

ここなら照明の明かりも届かず広間からはガラスを覗いた程度では気づかれないだろうが、それでも少しでも早く平静を取り戻すためアスリューシナは懸命に身体と心を宥めた。

 

『随分と私達を見下していらっしゃる方ですわ』

『夜会に出なくとも病がちでも殿方の方から寄ってくるのではなくて?』

『上級貴族の殿方の目に留まるよう努力するなんてご自分には必要ないとおっしゃりたいんでしょう』

 

きつく閉じていないと口から飛び出してしまいそうな否定の言葉を無理矢理に抑え込む。

デビューの夜会以来、社交界には参加せず出掛けるのは居心地の良い中央市場だけ。それ以外は屋敷からも出ず、それでも何不自由ない生活を送っていられるのは裕福な公爵家の令嬢だからだ。加えて人も羨む三大侯爵家のオベイロン侯から求婚の申込みを貰っている。そして同じ三大侯爵家のガヤムマイツェン侯爵とも繋がりを示せば、貴族と言えど経済状態が貧窮している家からしたら嫉妬と羨望の的になるのは当たり前だった。

 

(もう、屋敷に戻ろう……)

 

キリトゥルムライン候は送り届けるまで傍にいてくれると言っていたが、アスリューシナは今すぐにでもこの場から立ち去りたくて、ひとつ深呼吸をしてからゆっくりと顔を上げる。

ルーリッド伯爵家の誰かにキリトゥルムラインへの伝達を頼み、屋敷まで馬車を出して貰えれば問題はないはずだ。勝手に帰る事に僅かな罪悪感を感じるが当初の目的であったユージオとの対面は果たせたのだからキリトゥルムラインが困ることはないたろう、とアスリューシナが立ち上がろうとした時、庭園の隅からボソボソと低い話し声が風に乗って聞こえてきた。




お読みいただき、有り難うございました。
お喋りをしていた令嬢の皆さん……別に意地悪なお嬢さん達では
ないんですよ。事情を知らなければアスリューシナがやっている事は
そういう風に見られて当然なんです。


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23.指輪(7)

ルーリッド伯爵邸のバルコニーで一人でうずくまっていたアスリューシナが
聞いた声とは……


最初は夜会会場からガラス越しに聞こえてくる話し声かと思ったアスリューシナも何回か頭を巡らせてその声の出所が自分と同じ、伯爵邸の屋敷の外からと気づいた途端、キュッと身体を強張らせた。外回りを警備している者達の話し方とはどこか雰囲気が違う事に気づいたからだ。極力控えた足音が二人分、もうすぐこのバルコニーの下を通り抜けようとしている。今から慌てて室内に入る時間はないと判断し、心臓の鼓動さえ抑え込むように身体を丸めた。

 

「……なら、……ねえし……ないか?」

「だいたい……」

「うるせえっ……しろっ」

 

途切れ途切れに耳に入って来る言葉使いは粗野で決して耳に心地よいものではない。しかもどうやら二人は互いを罵っているようだった。中央市場で聞くようなぶっきらぼうでも親しみのある物言いとは違う声にアスリューシナは一層身を縮込ませた。二人の声が近づいてくるに従って自分の身体がどんどんと石のように固まっていく。けれど心臓だけは反対にいつもより激しく鼓動していて、その音が漏れ聞こえてしまうのではないかと目を瞑って両手できつく自分を抱きしめた。

ドギトキと全身を内側から叩き壊すような心音を鎮めながら早く二人の男が通り過ぎて欲しいと願うしか出来ずにいたアスリューシナの耳が一つの単語を拾う。

 

「……本当にガヤムマイツェンの……」

 

(えっ!?)

 

すぅっ、と心臓の音が遠ざかり、耳が鋭敏に彼らの声に反応し始める。男達はアスリューシナがうずくまっているバルコニーのすぐ傍を通り過ぎようとしているのだろう、彼らの声が今まで一番大きくハッキリと聞こえた。

 

「ちゃんとガヤムマイツェンの指輪だ、間違いねぇ」

「確かめたんだろうな」

「オレは一度、この袋ごと手に入れたことがあるからよ」

「だからって中身がホンモンかどうか…」

「ああっ、さっきからごちゃごちゃとうるせえなっ。とにかく出口に急げ。今はこの屋敷から出んのが先だ……侯爵に気づかれる前にな」

「ちっ……それもそうか」

 

(指輪?…………ガヤムマイツェン侯爵家の?)

 

思い当たるのは初めてキリトゥルムラインが自分の私室を訪れた際に見せてくれたあの指輪しかない。

「……この指輪が爵位継承の証なんだ。これがないとオレは侯爵の身分を剥奪されかねない……」あの時の侯爵の言葉が頭の中に蘇ると同時にアスリューシナは顔を上げる。揺らいでいた瞳にはしっかりとした意志が宿り、必要以上にきつく閉じていた唇には緊張で早まりそうな息づかいを抑えるために一回だけ大きく息を吐き出して落ち着かせた。体中の震えがいつの間にか治まっている事を確認して素早く立ち上がるとアスリューシナはバルコニーの端から小園へと続く数段の階段を音を立てずに駆け下りようとして、地に着く際にバランスを崩す。最後の段だけ幾分高さがあったようで光の届かない足下では確かめようがなく、つい「きゃっ」と小さな短驚の声と共によろけてしまったが男達の耳には届かなかったのか、それとも広間から漏れ聞こえている音と同化したのか、ともかく彼らの動きに異変がない事を確認してからアスリューシナは無事、地面に着地した足で小走りに移動を始めた。

闇に消え去る寸前の男達の背格好が小園の照明によって僅かに照らし出されているのを見たアスリューシナは二人の内の一人、隣の男と比べても随分と低い身の丈を更に丸め、やけに細い足をせわしなく動かしている姿に既視感を覚える。

 

(あれは……ずんぐりむっくりの卵のような……)

 

僅かに否定の可能性を含んでいた自分の想像が一気に確信へと変わる。

男達が口にしていた指輪が決して持ち主から奪われてはいけない物だと悟ったアスリューシナは躊躇いもせずに男達を追って小園の奥へと突き進んでいった。

 

 

 

 

 

どうやらルーリッド伯爵が言う「小園」とは随分な謙遜なのだと気づいたのは夜会会場である広間からと薔薇達を照らしている庭の照明の明かりがほとんど届かなくなってもアスリューシナの両脇を囲むようにして続く薔薇の園に終わりが見えないからだ。

奥に移動するればするほど薔薇達の背丈が自分と同じ高さに近づき、より多くの薔薇をバルコニーから眺められるよう計算されている事にも感服する。お陰で万が一、男達が突然振り返っても簡単に自分の姿を見とがめられる心配はないようだが、逆にこちらが見失ってしまう危険性を恐れてアスリューシナは目と耳に神経を集中させた。

 

(小園でこの広さなら本園はどれくらいなのかしら……)

 

実際は月光も弱々しく薔薇の色を確かめることは出来ないけれど、辺り一面、見渡す限りに咲き乱れる色とりどりを想像して不審者の追跡という大それた行動を起こした緊張感を散らしていると、少し先を行く男達はもう言葉を交わし合うことなく今は屋敷からの脱出が第一と定めたようだが、複雑な薔薇園の中を迷うこと無く進んでいた足を急にピタリ、と止める。

咄嗟にその場にしゃがみ込んだアスリューシナの頭上を頭を巡らせている二組の視線が通り過ぎた。

 

「……か、後ろから……」

「ああ、俺も……が……」

 

やはりこの格好ではドレスの衣擦れの音が立ってしまったのだろうか、それとも自分の靴が草を踏む音?、と彼らが足を止めた理由を考えつつも、乱れる息と共にもの凄い早さで脈打つ自分の身体を抱え込む。何枚も着重ねた夜会用のドレスはそれだけでかなりの重量を生み出しており、あまつさえその裾を持ち上げて音を立てぬよう気遣いながら早足で移動しているのだから当然アスリューシナの体力は既に底を突いていた。

すぐには収まりそうにない息づかいはもちろんだが、男達の視線を避けるために腰を降ろした自分の身体がもう一度立ち上がってくれるかどうか、アスリューシナは震える両足をドレスの上からそっとさする。

男達が動き始めたらすぐに反応しなければならないのに、今の状態は後を追うことも逆に見つかって逃げる事も到底無理だと全身が訴えていた。

 

(……でも、指輪が……)

 

ここまで来て見失うわけにはいかない。この事態を未だ自分しか気づいていないとすれば尚更だ。

男達が再び動き出すまで、ほんの僅かな休息と思ってアスリューシナが気を抜いた一瞬、突然背後から手が現れた。

 

「ひゃッ……」

 

いきなり背中を覆うようにピタリと身体を押し当てられ、同時に両脇から伸びてきた手の片方が自分の口を塞ぎ、もう片方がそのままぐるり、と腰に絡みつく。咄嗟に口から飛び出した驚声はすぐに蓋をされたせいで「んーっ、んーっ」とくぐもった声が出口を探して口の中でもがいていた。

抜けだそうにも呼吸さえ整っていない状態では力強く抱きしめられていると言っていいほどの拘束に抗う力が回復しているはずもなく、驚きより焦りと恐怖で一気に血の気が引いた時、耳元で小さく、でも温かな一言が囁かれる。

 

「アスナ」

 

今、このルーリッド侯爵家の敷地内で自分をそう呼んでくれる人物はたった一人。

その存在が密着している背中から、両腕から、手の平からじわじわと自分の内に染み入ってきて、途端にアスリューシナの身体から緊張の力が抜ける。同時に、糸が切れた人形のように、くたり、と弛緩したアスリューシナを囲う腕にキリトゥルムラインが更に力を込め、こちらもその存在を存分に実感した。

アスリューシナの口元から手を外す替わりに目を瞑ってアトランティコブルーに染まった髪へと顔を寄せ、鼻先で髪の感触を確かめてからすりすりと額をこすりつけて耳たぶに触れそうな距離まで唇を近づける。

 

「よかった……無事、だよな?」

 

耳から直接流し込まれたような問いは細く、そして僅かに揺れていた。

ちゃんと視線を交えて答えたくて、首をそろそろと回し振り返れば鼻がぶつかりそうな至近距離に不安な表情のキリトゥルムラインの顔がある。

 

「はい、キリトさま」

 

本当は笑顔で告げたかったが、頭の中は正確な状況把握も出来ておらず、それにもう気力も体力も余分な物は何も残っていなかった。だからなのか、今宵は互いを正式名称で呼び合うと決めていたはずなのに「アスナ」と呼ばれて不安が消し飛び、安堵が全身を覆ってつい自分もまた彼のいつもの呼び名を口にしてしまったのは……。

アスリューシナはそのままゆっくりと静かに身体を反転させ問いかけるようにキリトゥルムラインの顔を見上げた。

一体どうしてここにキリトゥルムラインがいるのか、あの男達が何者なのかを知っているのか……しかし、それよりもまずはガヤムマイツェン侯爵家の当主である証の指輪があの者達の手にあることを伝えなければ、とアスリューシナが唇を動かした時だ、それを見越したようにキリトゥルムラインが再び声を潜めて顔を近づけてくる。

 

「あの男達が行ってしまうまで我慢してくれ」

 

キリトゥルムラインからの言葉だけで不思議と何もかもが落ち着きを取り戻す。

すぐに、こくん、と首肯してアスリューシナは温かい腕の中へとその身を預けた。




お読みいただき、有り難うございました。
復活っ、卵形の小男!
今度は転ばないように気をつけて欲しいもんです。
卵の妖精に薔薇と続きましたがハートの女王や
トランプ兵は出てきません(笑)。


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24.指輪(8)

ルーリッド伯爵邸の小園の奥で寄り添い合うキリトゥルムラインとアスリューシナは……


ルーリッド伯爵邸の薔薇の小園に静寂が訪れてから数刻後、ガヤムマイツェン侯爵から大事な指輪を盗んだと思われる男達二人は自分達の背後に感じた気配を探っていたが、五感が何も拾わないとわかると再び彼らの言う出口を目指して動き始める。

それを互いが寄り添ったままの体勢で静かに見送ったガヤムマイツェンとアスリューシナだったが、物音一つ聞こえなくなっても言葉ひとつ発せず、その身を離そうとはしなかった。

侯爵家の令嬢であるというのに、たったひとりで男二人の後を追う姿を見た時は、その予想外の光景に唖然となったキリトゥルムラインだったが、その行為がどれほどの勇気を必要としたものだったかに思い至り、今はただ彼女の心が身体と共に落ち着くのを待つ。しかし腕の中の華奢な両肩が次第に震え始めた事に焦りを覚えて、堪らずに身を屈め「アスナ?」と再びいつもの呼称を口にした。

覗き込むように顔を近づけたが、アスリューシナはすぐに反応をみせず身体を丸めるように下を向き、弱々しい声を吐き出しす。

 

「ご……ごめんなさい……」

 

尋常ではない様子にキリトゥルムラインの焦りが増した。

 

「どうした?、具合が悪いのか?」

 

キリトゥルムラインからの問いかけに、ふるふると首を横に振って否定したアスリューシナだったが、それでもうつむいたまま、たどたどしく声を紡ぐ。

 

「暗いの……」

「えっ?」

「だから……暗闇が……苦手……なの…………さっきまでは……夢中で……」

 

それを聞いて今度はキリトゥルムラインが初めてアスリューシナの私室を訪れた際の会話を思い出す。

随分な数の燭台に驚いたキリトゥルムラインに対して彼女は「暗いのが苦手で……」と返していた事を……。

いつもは優雅とさえ言える仕草に丁寧な言葉使いを崩さないひとつ年上の公爵令嬢がやっとの態で言葉を吐き、自分の腕の中で小さくカタカタと震えてる様にキリトゥルムラインは咄嗟にアスリューシナの身体を抱きしめた。

言葉通り、ここまでは奴らを追うのに必死だったアスリューシナは心許せる侯爵が現れた事で冷静さを取り戻し、それから今の自分の状況を自覚してしまったのだ。

慣れた私室でさえ夜はいくつもの燭台の灯りがなければ過去に引きずり戻されてしまうというのに、この場所には伯爵家の広間の輝きも小園の照明も届かず、ぼんやりと浮かんた月光のみが頼りだった。

なぜそれほど闇を恐れるのか戸惑うキリトゥルムラインだったが、今、その理由を問うている場合ではないと彼女の背中をゆっくりとさすりながら震えを和らげる為に何度も彼女の名を呼ぶ。

さっきまで僅かな怯えも見せずにしっかりと前を向いて男達を追っていたアスリューシナの姿は今はどこにもいなかった。

先程のキリトゥルムラインは男達の後ろから付いていく彼女に追いつく為にわざと彼らに気配を悟らせたのだ。ただアスリューシナに追いつくだけなら走る速度を上げれば済む話だったが、それではその先を行く奴らにも自分とアスリューシナの存在を知られてしまう。それを避けるために自発的に足止めを促したのだが、実際、後ろから感じるだけでもアスリューシナの体力は限界に近かったように思う。

男達に気づかれまいとしゃがみ込んだ彼女の背中は可哀想なくらい荒い息づかいに揺れていた。それでもどこか気を張っているのは伝わってきて、そんな様子に我慢できず、つい声を掛ける前に抱きしめてしまったのだが……キリトゥルムラインの声を認めた途端、氷が溶けるように四肢を緩ませたアスリューシナをその身で感じ、どれほどの優越感を味わっただろうか。

しかし今はいくら名を呼んでも彼女の身体は糸で縛られたように強ばっており、それが解ける気配すらない。

寸刻、キリトゥルムラインは思考を巡らせた後、抱きしめていた腕の力を弱め全身でアスリューシナを包み込むように背中を支え、髪を梳き、頬で軽く頭に触れた。

 

「アスナ……」

 

わずかながらに反応を見せたアスリューシナに静かに言葉を続ける。

 

「ここは暗闇の中じゃないって、想像してみて」

「ぇっ?」

 

震えが収まることはなかったが、下を向いていた彼女の頭がキリトゥルムラインの顔を持ち上げるように少し上向いた。

 

「ここは暗闇の中じゃない……オレの腕の中で……ほら、ユークリネ公爵家のアスナの部屋を訪れた時、いつもこうしてるだろ」

「キ……リトさ……ま……」

「そう、出迎えてくれたアスナはいつもこうやって……」

「……は……い……」

 

それはいつの間にか決まり事のようになった二人だけが知る儀式だ。

既にその感覚は互いの身体に染みついている。

アスリューシナの震えが段々と小さくなっていくのを支えていた手で感じ取ると、最後は身体から追い出すように大きく深呼吸を繰り返す背を、とんとん、と叩いた。侯爵のもう片方の手と頬は変わらず、アスリューシナの頭部に密着しているが、彼女は気にする事なく顔を上げる。

 

「もう……大丈夫……です」

「うん、でも、もう少しこのままでいたい」

 

そう強請られてしまっては震えを収めてくれた手前、強引に離れるわけにもいかず、アスリューシナはそれこそ私室に居る時のように目の前の胸元に頬を押し付けた。すると自分の背に回されている腕が目にとまる。

既に男達は遠くに行ってしまったのだとわかっていてもこの腕の中から辞することの出来ないアスリューシナはもぞもぞと動いて侯爵の腕に両手を伸ばした。夜会の広間で自分の元を離れたキリトゥルムラインに美しい令嬢がすり寄っていた光景をぼんやりと思い出し、無意識にそっ、と絡めるように侯爵の腕を抱きかかえて引き寄せてみる。

抱きしめられるのも心地良いが、こうして自分の中に閉じ込めてしまうのもまた嬉しいのだと気づいたアスリューシナが、もっと、とせがむようにキリトゥルムラインの腕にしがみつこうとした時だ、頭の上からぼそり、と戸惑いの声が落ちてきた。

 

「……なんか……オレ、誘われてる?……」

「えぇ?……」

 

見上げると薄い月明かりでもわかるくらい頬を染めた侯爵の顔が飛び込んできて、一拍おいた後に自分の行為の大胆さを悟ったアスリューシナはその何倍もの濃い赤に顔全体を染めきり、あわてて手を離す。

 

「ごごごごめんなさいっ……そのっ……えっと……」

「うん、まあいいんだけどな。むしろ待ち望んでいたくらいで……」

「ちちちっ、違うんですっ」

「なんだ、違うのか……」

「えっ?、そうじゃなくてっ……ちょっと……見ていたら……なんだか……」

「……オレの腕って見てると捕獲したくなるとか?」

「だから、キリトさまの腕の事ではなくて……」

 

そこまで言ってアスリューシナはふぅっ、と息を吐き出した。

 

「先程の夜会の場で見知らぬご令嬢方がキリトさまの腕に触れていらっしゃったのを見ていたら……という意味で……」

「……見ていてどう思ったのか……オレとしてはもの凄く気になるんだけど……」

「んー……、嬉しくないのかしら?、と……」

「はぁ?」

「それに、何だかもやもやして……それで……」

「ああ、もやもやはしてくれたんだな。よかった……で、それで?」

「同じ事をしてみたくなってしまったと言うか……ほとんど無意識で……本当に、ごめんなさい……」

 

すっかりしょげ返っているアスリューシナの頭の上に少々勢いをつけて、ぽふんっ、とキリトゥルムラインの顎が乗った。

 

「どうしてそこで『ごめんなさい』になるのかわからない」

「ユージオ様がおっしゃってました。こういう事は誰にされても嬉しいわけではない、と……」

「うん……まあ、そうだろうな……」

「ですから……」

「オレが嬉しくないと思ったのか…………アスナは?」

「はい?」

 

何を問われているのか聞き返そうとして顔を上げたアスリューシナと額を合わせる程の距離でキリトゥルムラインが詰め寄ってくる。

 

「だから、アスナはこうやってオレに触れられて……どう思ってるんだ?」

「……どうって……」

 

そこでアスリューシナは言葉を詰まらせた。私室でキリトゥルムラインの腕に包まれるようになってから考えないようにしてきた自分の感情を正面から問われているのだ。

今までこんな風に自分から誰かの元へ身を寄せたことなどなかった。

家族の者以外、こんな風に抱きしめてもらったこともなかった。

アスリューシナの心にユージオの言葉が浮かぶ……「やはりその相手に自分も好意を抱いているかどうかが一番重要ではないか……と」……しかし同時に広間にいた令嬢の声が胸を刺した。

「三大侯爵のお二方を手にしていらっしゃるんですものね」

ユージオとの会話の中ではうっかりと表情に漏れてしまったが、アスリューシナは胸の内に鮮やかに芽生えている感情を小さな箱に丁寧に閉じ込め、ゆっくりと蓋をしてからキリトゥルムラインに笑いかける。

 

「それよりも、どうして私の後を追ってこられたのですか?、それにさっきの男達はガヤムマイツェン侯爵家の指輪を……」

「アスナ」

 

話を逸らされたキリトゥルムラインが僅かに苛立ちを含ませてアスリューシナの名を呼ぶが、ひるむことなく彼女は笑顔を保ち続けた。

 

「教えて下さい、キリトゥルムラインさま。男達の内の一人は市場で騒ぎを起こした者ですよね」

 

先程までの余裕のない言葉使いもどこか親しさを感じて更なる想いを刺激していたのだが、すっかりと元の口調に戻ってしまったアスリューシナに向けキリトゥルムラインは少しの落胆を込めた視線で見つめる。それから頑なな瞳に根負けした侯爵は溜め息をひとつ彼女の頭上に落としてから事の次第を説明し始めた。




お読みいただき、有り難うございました。
落ちそうでぇ……落ちないっ(苦笑)
アスリューシナが暗闇を苦手とする過去の出来事とは……?


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25.指輪(9)

ルーリッド伯爵邸の小園で暗闇からのパニックが治まったアスリューシナへ
キリトゥルムラインは説明を始めた。


アスリューシナに状況の説明を求められたキリトゥルムラインは再び彼女が暗闇の縁に怯えた足で立つことがないよう抱き寄せて、自分の腕の中に囲い込んだ。今度はアスリューシナも素直にその胸元へともたれかけ身体を預ける。

互いに身を落ち着けたところでキリトゥルムラインはそのぬくもりが己の傍に在る事実に自分を納得させてから口を開いた。

 

「まず、どうしてアスナを見つけたかって言うとだな……」

 

ルーリッド伯爵家の家令からの要請で広間を一旦辞したキリトゥルムラインは汚されたシャツの着替えを手早く済ませて夜会で働く従者のような目立たない黒の衣服に身を包み屋敷内を移動した。自分でなければ、と言われた確認事項を処理して夜会に戻ろうとした時、たまたま不審な男達を見つけてしまったのだ。互いに人目につかぬ場所を選んで動いていたのでそれは全くの偶然ではなかったのかもしれないが、ともかくその者達は自分が余興と称して招いた男達に違いないと判断し、そのまま彼らの後ろを付いて行くことにした。

 

「どっちにしても奴らが行く方向から会場に戻ろうと思ってたし」

「もしかして……バルコニーから、ですか?」

「ああ、夜会会場から出た場所にはまだ令嬢達がいるかと思ってさ」

 

確かにその推測は間違っていなかった。夜会の主役である伯爵家の令息はもちろんだが、三大侯爵家の、しかもそれまで浮いた噂ひとつなく、特定の相手がいるという話もないガヤムマイツェン侯爵を射止めたいと思う令嬢は皆、あの場で彼が戻ってくるのを待ち構えていたからだ。

 

「あの男達がこの伯爵邸の忍び込んでいる事は警備の者達も気づいていたんだ。なんせオレが招いたようなもんだし」

「キリトさまが……ですか?」

「そう、伯爵とも話してただろ。余興があるって。奴らがメインの演者ってわけなんだが……当人達は知らないけどな」

 

アスリューシナは見えずともキリトゥルムラインの口の端が意味深に動いたのを感じる。

 

「だからオレは小園近くまでは後ろを付いていったけど、そこからバルコニーに上がるつもりだったんだ……なのに……」

 

不自然に言葉を途切れされたキリトゥルムラインの意図がわからずにアスリューシナは顔を上げ、侯爵を見つめた。目の前には怒ったような、それでいて困ったようにも見える曖昧な視線がまっすぐに落とされている。

 

「……声が聞こえたんだ」

「……え?」

「アスナの声、少し驚いたような…」

 

一瞬、何の事かと首を傾げたアスリューシナだったが、よくよく記憶を探り、キリトゥルムラインの言っている声が最後の段を踏み外しそうになった時のものだと思い当たって目を丸くした。

 

「聞こえ……たんですか?」

 

周囲を警戒していた男達でさえ聞こえなかったはずの声なのに、と口を開けたまま驚きを隠せずにいると、スッとキリトゥルムラインの目が細められる。

 

「耳がいいのは知ってるだろ?」

 

それから付け足すように「ま、アスナの声だったから、てのもあるかな」とおどけて言うが、すぐに表情は険しくなった。

 

「それにしてもユージオの奴、アスナをひとりにするなんて……」

 

その声に慌てたのはアスリューシナだ。

 

「違うんです。私がユージオ様にお願いしたんです…………久々の夜会に興奮してしまって、少し気を静めようと風に当たりに……」

「ふーん……それで奴らに気づいたってわけか」

 

アスリューシナの言葉を完全に信じたわけではなさそうだったが、キリトゥルムラインは溜め息ひとつで不問に付し、話を先に進める。

 

「とにかく、男達を追って行く姿を見た時はもう驚くやら焦るやらで……」

 

それ以上言葉では表せないのか、キリトゥルムラインは再びアスリューシナを包む手に力を込めた。少しの圧迫感は感じるものの痛さはなく、しっかりと触れられている事で逆に安心感を抱くようになってしまった自分の感覚を振り払うようにアスリューシナは強気で答える。

 

「だって、あの男達、キリトさまの……ガヤムマイツェン侯爵家の指輪の話をしていたんです。それで心配になって、つい……」

「そんなの……」

 

浮かんだ言葉はいくつかあった。

それはアスナが気にしなくてもいい事で、そもそもガヤムマイツェン侯爵家の問題であり、一人で苦手な暗闇の中へ飛び込んで行く必要なんてこれっぽっちもない。

出会った時から彼女はいつもこうだ、自分自身だって自由とは言えない身の上なのに、それ以上に自分の周囲の為に行動しようとする。

そんな彼女だから目が離せない、手を繋いでいたい、傍にいたいと思ってしまうのだろうとキリトゥルムラインは言いたかった言葉を飲み込んで、替わりにこれ以上はないくらい愛しげな笑みを浮かべ、彼女の頬を優しく撫でてその美しい瞳を覗き込んだ。

しかし、途端に眉間には皺が寄り、漆黒の眼に緊張の色が走る。

 

「アスナ、話の続きは馬車の中だ」

 

突然、何を言い出すのだろう?、と丸く見開かれた瞳にキリトゥルムラインが覗き込むように顔を近づけた。

 

「ったく、具合が悪くなったらすぐに言えって言ったのに……染色の影響、出てるよな。顔色も悪いし瞳の色も変化してきてる」

 

意地を張った否定の言葉など、はなから受け付ける様子のないキリトゥルムラインの真剣な面差しにアスリューシナは素直に「ごめんなさい」と苦笑気味に零す。彼女の傍を離れた負い目もあってか、それ以上キリトゥルムラインからの叱責はなくただ気遣いだけの顔に転じていた。

 

「立って、歩けるか?」

「大丈夫です……けれど、少し目眩がするので腕をお借りしたいのですが……」

「……抱いていくか」

「嫌です」

「アスナ……強がってる場合じゃ……」

「折角の薔薇園なんですよ。キリトゥルムラインさまと並んで歩きたいんです……もう少しだけ侯爵さまを独り占めさせて下さい」

 

いつものアスリューシナならば決して口にしないような言葉と甘え口調にキリトゥルムラインの胸がドキリと跳ねる。

 

「急いで公爵家に戻って色を洗い流した方がいいんじゃないのか?」

 

キリトゥルムラインの提案にアスリューシナは少し悲しそうな瞳で「いいえ」と答えた。

 

「これでも、社交界のデビュー舞踏会の前、兄に見守られながら、こっそり試したんです」

「試した?」

「はい、髪を染めたまま、どの程度、まともに立っていられるのか、や、症状が出てすぐに色を落とせば、それ以上具合が悪くならないか、など……」

 

何度も何度も体調を整えては思いつく限りの事を試したのだとアスリューシナは頭をふらつかせながらその時の様子を語った。しかし残念ながら結果は夜会や舞踏会に最後まで体調は維持できない事と一度具合を悪くしてしまったら髪を元に戻しても薬を飲んでも症状の緩和が早まる事はないと分かっただけだっだ。

 

「ですから、今更慌てて屋敷に帰ったところで、体調は変わらないんです。だったら、この薔薇園を楽しまないと……」

「……こんなに暗くちゃ薔薇なんて見えないだろ」

「形はおぼろげにしか見えなくても……」

 

そう言いながらキリトゥルムラインの腕にすがるようにして立ち上がったアスリューシナは弱々しくも、すぅっ、と息を吸い込んだ。

 

「とても良い香りがします。土に根を張って生きている花の香りは切り花とは違うんですね」

「……そうか?」

「はい、四年ほど前にユークリネ公爵家の屋敷に戻ってきてからこんなにたくさんの生き生きとした花に囲まれた事なんてありませんでしたから」

 

少し焦点の合わない瞳で、それでもふわり、と笑うアスリューシナの手を取って自分の腕に誘い、彼女の隣に立つ。キリトゥルムラインはアスリューシナをリードするようにゆっくりと小園の中を歩いた。

それでも時折アスリューシナがふらつく度に足を止め、その顔色を窺うが、彼女は何でもないと言った風に笑うばかりで何を考えているのか読み取れず、キリトゥルムラインは心に引っかかる違和感に不安を感じずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

ユークリネ公爵邸まで迎えに来てくれた時と同様に帰りもルーリッド伯爵家の紋章のついた大型の箱馬車へキリトゥルムラインと乗り込もうとする時のアスリューシナの顔は既に隠すことも出来ないくらい土気色となっていた。キリトゥルムラインの腕をつかんでいた手も力が入らなくなったのかすっかり冷たくなっていて、今は逆に侯爵の手に包まれ力強く守られている。

ユークリネ公爵家令嬢が夜会を辞する旨を従者に言付けてからキリトゥルムラインが彼女を支えながら馬車の踏み台にに足をかけると、よろめいたアスリューシナに馬車の扉を開けていた御者が思わず手を伸ばした。しかしその瞬間、誰にも触れさせたくないのか、キリトゥルムラインが素早くアスリューシナを抱き上げて馬車に乗り込み、座席に座った自分の膝の上に彼女を下ろす。

ドレスで身体を優しく包み込むようにして横抱きにされたままのアスリューシナが上目遣いに批難めいた視線をゆるくキリトゥルムラインに向けるが文句を言っても無駄と思っているのか、それ以上は何もなく、ただひとつだけゆっくりと息を吐き出した。

キリトゥルムラインの手の平がそっと彼女の顔の上を覆う。

 

「ほら、目も開じて。馬車の揺れも辛いんだろ」

 

確かに絶え間なく襲ってくる目眩に馬車の揺れが加わればまともに座っていられる自信もないが、当たり前のように抱えられているというのも違う意味で目眩がしそう、と内心、恥ずかしさで一杯のアスリューシナだったが、反対にキリトゥルムラインの腕の中はどうしようもなく安心できて、今だけは、と彼の言葉に従い目を閉じた。




お読みいただき、有り難うございました。
キリトが広間から出て行った場所を動かず、ひたすら戻ってくるのを
待っているご令嬢達……ここで待ち続けるのが正解なのか、
はたまた見切りをつけて他の令息の元へとアピールをしに行くのが
正解なのか……うーん、悩むところですよね。


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26.指輪(10)

夜会からルーリッド公爵邸へ戻る馬車の中でのキリトゥルムラインと
アスリューシナは……。


キリトゥルムラインに抱きかかえられた状態のままユークリネ公爵家へと戻る馬車の中、アスリューシナは目を閉じて小さく、小さく、身を縮込ませた。強張っている身体をドレス越しに感じたキリトゥルムラインが髪の染色による副作用の悪化を懸念して小さく問いかける。

 

「アスナ?、具合、ひどくなってるのか?、もっとよりかかっていいぞ」

 

俯き加減で顔色は見えないが、胸の上で組み合わさっている両手は固く握りしめられていた。すると口元からひどく震えた声が漏れてくる。

 

「……あの……重く……ないですか?」

「えっ?」

「ですから、こうして私を……」

 

自分がキリトゥルムラインの膝の上にいるという体勢が目眩に加えて更なる緊張を生んでおり、アスリューシナはいつもよりギュッと目を瞑っていた。しかしそこに「クスッ」と笑うキリトゥルムラインの声がこぼれおちてくる。

 

「まさか。夜会用のドレスを纏っていても重いうちに入らないさ。騎士の式典用盛装なんてこの何倍もの重装備なんだぞ。ゴチャゴチャと余計な装飾が多いからな」

 

それを聞いてアスリューシナは目元の力を抜き、僅かに顔を上げて何を想像したのか口元を緩めた。

 

「キリトさまも、盛装をされる事が?」

「称号の授与式の時はいやでも盛装なんだ。あとは騎士団に所属していれば建国祭のパレードでも盛装での参加が決まりだけど、オレは所属してないから」

「小さい頃に、一度だけ、見たことがあります」

「城外での国王のパレードを?」

「はい、父には内緒で兄と一緒に。先頭の騎士様が、とても立派な出で立ちを、なさっていて、それに……太い剣と大きな盾をお持ちでした」

「うーん、先頭だと第一騎士団の団長だよな。その頃の団長で大きめの盾なら……ああ、ヒースクリフ侯爵か」

「……あの方も、騎士の称号を?」

 

目を閉じたまま少し意外そうに問いかけるとすぐに「ああ」とキリトゥルムラインから肯定の言葉が返ってくる。

 

「とっくに引退されたけどな。剣だけでなく盾とを併用した剣技で神業と言われたらしい」

「剣と盾……キリトさまも、両方をお使いに?」

「いや、オレは盾を持たない主義だから……」

「主義……ですか…………その言い方、なんだか、あやしいですね……」

 

そう言ってアスリューシナは可笑しそうに口元を緩ませたが、反対に見えているはずもないのに焦り顔となったキリトゥルムラインは早々に話題を変えた。

 

「そ、それよりそんなに喋ってて大丈夫なのか?」

「はい、こうして、身を預けさせていただいていると、大分楽です」

「だったら……」

 

アスリューシナを揺らさぬよう慎重に、抱きかかえている両手のうち背中から肩へと伸びている手を僅かに動かして彼女の頭を自分の胸元によりかからせた。

 

「この方が首の負担が減るだろ?」

 

以前よりもより一層密着した体勢を強いられて恥ずかしさは増すが、確かに息も楽になって……アスリューシナは素直に「はい」と認めてからいつも侯爵が自分の私室を来訪してくれた時のように片頬を寄せる。馬車という狭い空間の中で歳の近い青年に抱きかかえられて安堵感を覚えるなんて、ほんの少し前までの自分と比べれば信じられない状況だった。

あの時はまさか鶏肉を口に咥えたまま市場内を走っている青年が三大侯爵のお一人だなんて思いもしなかったけれど……とアスリューシナは改めてキリトゥルムラインを最初に見た日を思い出す。

あの日、キリトさまは指輪を盗った小男を追いかけて……とそこまでを思い起こして、ピタリ、と思考が停止した。

 

「キ、キリトさまっ、指輪っ」

 

ルーリッド伯爵邸の小園でキリトゥルムラインと合流してから暗闇を自覚したり、その後、体調不良に見舞われたり、加えてその都度寄せられる彼からの熱で色々といっぱいいっぱいになっていたアスリューシナだったが、自分がバルコニーから小園へと降りた理由を思い出して思わず瞼を押し上げて顔を上向ける。

予想していた以上の至近距離にキリトゥルムラインの顔があって、覗き込まれるように注がれていた視線が自分のものと重なるが、今は指輪の事を伝えなければ、と恥ずかしさを追いやり真っ直ぐに見返すと、ふいに侯爵が申し訳なさそうに微笑んだ。

 

「大丈夫だから、アスナ。落ち着けって……ほら、目を閉じて……」

 

ゆっくりとキリトゥルムラインの顔が降りてきて、瞳の艶めいた漆黒の深さに我も忘れて魅入って動けずにいると、いつの間にか鼻先が触れてしまいそうなくらいの距離に気づいたアスリューシナは慌てて目を瞑った。

途端に閉じたばかりの瞼の片方に柔らかくて少し湿った感触が軽く押し付けられる。

 

「ひゃっ」

 

すぐにその感触は離れていったが、その正体を確かめる勇気の出ないアスリューシナは瞼を動かさずに震える唇で「キリトさまっ」と羞恥と怒りを混ぜ込んだ声を発した。

 

「ルーリッド伯爵様のお屋敷でもそうでしたが……戯れに触れないで下さい」

「戯れ?」

「夜会の場で皆様方がいらっしゃるのに……腰を引き寄せたままだったり……髪に……その……」

「ああ……こんな風に?」

 

何が言いたいのかをやっとわかってもらえた、とアスリューシナが思うと同時に先程と同じ感触が今度は前髪ごしに額へ落ちてくる。

 

「うぅっ」

 

瞳を閉じているせいでキリトゥルムラインとの距離感がつかめず、身を縮込ませるしかないアスリューシナはそれでも決して嫌悪感を抱いているわけではない自分の有り様に戸惑い、知らずに、ふぅっ、と緊張で止めていた息を強めに吐き出した。それを身体の不調からくる息づかいだと勘違いしたキリトが少し神妙な声音で「ごめん」と謝罪を口にする。

 

「別にふざけてるつもりはないんだけどな……でも、もう大人しくしてるから」

 

あやすように肩をポンポン、と軽く叩かれてアスリューシナはもう一度、今度はゆっくりと深く呼吸をしてドキドキと高鳴っている心臓を落ち着かせる。彼女が再び己の腕の中で強張っていた力を緩めたのを確認してからキリトゥルムラインは今夜の余興について語り始めた。

 

「アスナも気づいたみたいだけど、小園にいた男達のうち、一人は前に中央市場で……」

「はい、キリトさまの指輪の入った布袋を盗んだ男ですね」

「ああ、あの時の失敗を取り戻そうと、伯爵邸に滞在していたオレの部屋へ仲間と忍び込んで来たんだろうな、けど、もともと今夜の事はこっちが仕組んだことなんだ」

 

打ち明けられた内容にピクリと眉が動いたが、今宵、キリトゥルムラインが口にしていた「余興」という言葉が何とはなしに引っかかっていたアスリューシナは声を出さずに話の続きを待った。

 

「身内の恥をさらすようだけど、未だにオレが侯爵の位に就いている事を快く思っていない親族がいてさ。多分……ガヤムマイツェンの屋敷内にもそっち側の人間がいるんだろうな。でなきゃオレが市場へあの指輪を持って行った情報を仕入れるのなんて不可能だし……で、前回はあの男を取り逃がしたから、今回は伯爵に夜会の場を提供してもらって奴らをおびき寄せたんだ」

「……でしたら、盗まれた指輪は……」

「もちろん偽物。袋の方は普段から本物を入れておいた……ほら、アスナにも指輪と一緒に見せた事あったよな。けど、中身は何でもルーリッド伯爵邸で窃盗をはたらいたとなれば、伯爵家の名にかけて容赦なく調査が出来るだろ。うちの屋敷で罠をはると内通者の妨害にあう可能性があるから……」

 

警備にユージオが隊長を務める第四騎士団の騎士達がまぎれていたのを知るのはごく一部の者達だけだったが、彼らなら屋敷の外でも権力を行使できる。盗人の追跡を任せておけばその先の首謀者にまで辿り着く事は間違いないだろう。

 

「ただ、今回は奴らも多少下準備をしてきててさ。同じように模造品を用意して、こっちが持っていた偽物とすり替えたんだ。だからオレが直接確かめなきゃならなくなって……」

 

冷静に考えればあの小男と仲間の男は偽物同士を交換しただけなのだが、それでも伯爵家に忍び込み賓客であるガヤムマイツェン侯爵の部屋から物を盗出したのだ、今度こそそれ相応の罰を受けることになるだろう。

キリトゥルムラインからの説明で事の次第を理解したアスリューシナは安心したようにほっ、と息を抜いてから侯爵が夜会の広間から中座した理由に納得する。しかしすぐさまそれまでとは一段階低くなったキリトゥルムラインの声が閉じている瞼越しに伝わってくるほどの強い視線と共にアスリューシナへと落ちてきた。

 

「けど、すぐに戻るってオレは言ったよな、アスナ」

 

殺気のような痛い気を感じ取ってアスリューシナは、ひぅっ、と息を飲み込んだ。

 

「なのにわざわざ自分から小園にまで降りて不審者達の後をつけるなんて、偶然オレが見かけなかったらどうなっていたか……そもそも市場で男を転ばせたり、今夜のように追いかけて行ったり……もしかしてアスナもガヤムマイツェン家の指輪を狙ってるのか?」

 

本気でないとわかってはいるものの、あながち冗談とも取れない声遣いにアスリューシナが慌てて否定の言を述べようとした時だ、小さな溜め息が瞼に圧をかけ、すぐそこにキリトゥルムラインの顔がある事を認識させられる。開こうとしていた瞼は逆に眉間に皺が寄るほど固く瞑られ、つられるように上下の唇にも力がこもった。しかし続いて耳孔へともたらされた息は微風の量で……外からの音も空気の流れも遮断されている馬車内には不必要な至近距離が……しかしだからこそアスリューシナを確実に刺激する。

 

「アスナになら、あげるよ。オレの持っている侯爵の指輪と対の指輪を……」

 

息と共にそっと吹き込まれた言葉の意味をアスリューシナが理解するより早く、顔を上げたらしいキリトゥルムラインの緊張感を失った声が覆いかぶさった。

 

「あれ?……でも……どこに…………ああぁっ」

 

何やら一気に脱力した雰囲気となったキリトゥルムラインに向け、おずおずと瞳を向ければ見上げた状態でも彼の顔が憮然としているのがわかる。どうしたのかしら?、と気になったアスリューシナが躊躇いがちに「キリトさま?」と呼びかければ、ちらりと目線を下げた侯爵は思いっきり不本意そうな瞳で「近々、領地に戻らなきゃいけない」と唐突に告げてきた。




お読みいただき、有り難うございました。
やはり団長職といえばヒースクリフ(侯爵様)ですよね。
ただ、しっかりと勤めを果たしていたのかどうかは不明ですが……
ここでも副団長に丸投げだったりして……。


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27.指輪(11)

体調を崩したアスリューシナを自分の膝の上で横抱きにしたまま
馬車の中で二人だけの時を過ごすキリトゥルムラインは……。


いきなり、何かを思い出したようにキリトゥルムライから領地への帰還を知らさせたアスリューシナは、一瞬キョトンとしたもののすぐに理解を示した。

 

「そうですか……貴族の皆様は、王都に滞在するより領地で過ごされる時間の方が長いのが普通ですものね」

「まあ、そうなんだけどな。でも、もうすぐ建国祭だろ。それが終わってから領地に引き上げるのが一般的だけど……ちょっと急ぎの要件があるんだ」

 

キリトゥルムラインの言葉で建国祭のパレードを思い出したアスリューシナは彼の腕の中で僅かに首を傾げ上目遣いで問いかける。

 

「騎士団に所属していらっしゃらないと建国祭でのお役目はないのですか?」

「だったらいいんだけどな。どっちかって言うと所属してない騎士の方が雑用を押し付けられる」

 

称号を持っていながら騎士団に所属していない者と言えば既に現役を退いた老体か、貴族の爵位持ちで領主としての役目に日々を費やしている者あたりだ。

騎士団に所属していない騎士として、これまでの建国祭で自分が割り当てられた役目を思い出したキリトゥルムラインはうんざりとした顔で明後日の方向を見つめた。

 

「まあ、あの盛装で参加しなくて済むのは有り難いけど、やっぱりパレードはメインのひとつだし。城から出た国王の姿を市井の者達が目にする事が出来るのはあの日くらいだから……お陰で、当たり前だけど警備体制が尋常じゃないんだ。オレみたいに若い称号持ちのくせに騎士団に入ってない奴はここぞとばかりに働かされるんだよなぁ」

 

口をへの字に曲げたキリトゥルムラインの顔を見てアスリューシナが楽しそうに口角を上げる。

 

「でしたら、建国祭の日はお忙しいのですね」

「ああ、でも逆に昼間のパレードが終わればお役御免だから、夕方以降は自由に動ける。中央市場も随分と賑やかになるだろ?、一緒に観に行かないか?、暗くなってからなら髪はそのままでフードを被れば楽しめる」

「建国祭の夜の中央市場ですか……」

「アスナ?」

「いえ……」

 

躊躇うように再び俯いたアスリューシナは胸の上で重ねていた両手にグッと力を込めると、そのままの姿勢で静かに「キリトさま」と呼びかけた。

 

「今宵は……有り難うございました」

「アスナ?」

 

突然の謝辞に戸惑いの声でキリトゥルムラインからもう一度名を呼ばれるが、それには応えず彼女は淡々と感情を窺わせない口調で話し続ける。

 

「こんな風に着飾って、兄以外の方にエスコートをしてもらい夜会に出席するの……ちょっと憧れていたんです。ルーリッド伯爵様には優しく接していただきましたし、ユージオ様とは楽しくお話が出来ました。見事な薔薇も見る事が出来て……小園とおっしゃってましたが、広い薔薇園も素晴らしくて……キリトさま、私、あんなに生命力に満ちた植物をすぐ傍で感じるの、王都に戻って来て初めてだったんです。それにあれ程走ったのも本当に久しぶりで……ほんの少しだけビックリするような事もありましたが……でも……とても、とても楽しかったです……今宵だけでたくさんの嬉しい思い出が出来ました」

「アスナ……なんで急にそんな事を言い出すんだ」

「ですから……もう……十分です」

「なにを……」

 

小園から感じていた彼女の違和感を思い出したキリトゥルムラインはアスリューシナの一人で勝手に何かを諦める決意をしたような言い方に不安と焦りでつい声を荒げてしまいそうになった時だ、自分の腕の中で公爵令嬢がゆっくりと顔を上げた。泣きそうなくらい儚い笑顔で「今宵で……」と震える声を絞り出す。

 

「もう……キリトゥルムラインさまと、お会いするのは……」

 

最後まで言わさぬ素早さで、名を呼んでも一向に聞き入れてもらえないキリトゥルムラインは彼女の言葉を押し返すように自分を見上げているその額に自分のそれをそっと押し当てた。

 

「リンゴの花……」

 

ぴたり、と合わさった額に驚いてそのまま目を見開き、いきなりこの場にそぐわない単語を発したまま静かに目を閉じて少し微笑んでいるようなすぐ目の前のキリトゥルムラインの顔にアスリューシナは問い返す。

 

「はい?」

「アスナはリンゴの花、見たことあるか?」

「白い……とだけ、聞いたことがありますが、実物を見たことはありません」

 

なぜ、今、リンゴの知識を問われているのだろうと、自分の言葉の続きをひとまず止めて待つとアスリューシナが初めてキリトゥルムラインと相対した時に魅入ってしまった漆黒の輝きがゆっくりと姿を現した。あの時は澄んだ夜空の黒と感じた色が、今は更なる熱量を持って深く濃く底知れぬ何かを秘めている。

 

「今は収穫を終えて養分を蓄える時期だから枝葉しかないけどな、領地の寒期が終わる頃、たくさんの蕾が膨らんで花が咲く。花びらは真っ白じゃないんだ。淡いピンクが混じっていてとても綺麗だよ。辺り一面がリンゴの花でいっぱいになるあの景色を……アスナに見せたい」

 

欲望と例えていいほどの強い願いを感じ取ってアスリューシナが身を引こうとすれば背中に回っているキリトゥルムラインの腕に力がこもり、逃げる事は出来ないと身体的にも精神的にも追い詰められて堪らずに目をきつく瞑ると、触れ合っている額同士をお仕置きと言わんばかりの強さでグリグリとこすりつけてくる。

 

「ったく、なんで急にそんな事を言い出したんだか……ああ、オレが傍を離れた隙に他の令嬢達に何か言われたのか」

 

がっちりと額を固定されている為に顔を動かすことが出来ないアスリューシナは未だ目を開けられないまま「ち、違いますっ」と即座に否定した。

 

「私が……浅はかだったんです。キリトさまと同じ三大侯爵家のオベイロン様から好意をいただいている事は皆様がご承知なのに……」

「なのにオレと夜会に出席したらアスナの評判に傷がつく?」

 

自分の言葉尻を盗られた挙げ句、思ってもみない言葉を続けられてアスリューシナは思わずクッと目を見開き額をくっつけたまま無理矢理に顔を押し上げた。

 

「わっ、私の評判なんてどうだっていいんですっ」

 

いきなりの剣幕に押されてキリトゥルムラインが思わずアスリューシナの額から顔を浮かせると、唇を戦慄かせたまま既にヘイゼルの色に戻りつつある瞳にじわり、と涙が浮き出ていて、悔しそうに歪んだ眉の間には皺が寄っている。それでも侯爵を真っ直ぐに見つめたままアスリューシナは震える声を吐き出した。

 

「わ……私を伴う事で、キ、キリトさまが……」

 

今宵、ルーリッド伯爵邸で数人の令嬢達が口にしていた言葉……それはアスリューシナが三大侯爵のオベイロン侯だけでは飽き足らず、自らの美貌でガヤムマイツェン侯爵との繋がりまでも見せびらかし、他の令嬢達とは格が違うのだと言いたげの傲慢な女なのだろうとの酷評だったが、それは裏を返せばそんな令嬢をエスコートしているキリトゥルムラインの評価にもつながる発言なのだ。

アスリューシナが自分から離れると言い出した理由を得心したキリトゥルムラインは憮然たる面持ちのまま軽く鼻から息を吐き出す。

 

「オレの侯爵としての尊厳を守ろうとしてくれてるのは嬉しいけど、生憎、オレはこの称号にそれほど固執してないんだ」

「キリトさまっ」

 

珍しくどこか投げやりな言い方をするキリトゥルムラインにアスリューシナの声が尖った。

 

「と言ってもちゃんと領主としての役目は果たしてるぞ。領民達には小さい頃から世話になってるしな。イヤイヤこの爵位を譲り受けたわけじゃない。ただガヤムマイツェン侯爵家は同じ三大侯爵家のオベイロン侯爵家とは違って男系継承を絶対としていないから、オレ個人としては妹のリーファが後を継いでも問題はないと思ってる」

 

そこまで言うとキリトゥルムラインは小さく「でも、まあ」と言葉を濁してから遠い目でどこかを見つめた。

 

「前にも話したけど妹は刺繍針を持つより剣を握ってる方が楽しいと言い切るくらいだから……」

 

実は過去に一度だけ、爵位譲渡の際に両親へ提言した事があるのだ、侯爵の地位はリーファか、或いはリーファの夫となる人物でも良いのではないか?、と……真剣に問いかけたつもりだったが、キリトゥルムラインの言葉を聞いた途端、両親は大笑いをして、母である侯爵夫人などは目に涙まで溜めて「なら試しにリーファに昨年の領地からの収入を伝えて城に収める納税額の何割に当たるのかを計算させてごらんなさい。きっと頭から湯気を噴き出して白目をむいて倒れるから」と言い、それを聞いた父である当時のガヤムマイツェン侯爵は「更に口から泡を吹くかもしれないなぁ」と頷きながら添えたのだ。

剣を振るうにしても馬を操るにしても頭が鈍くでは出来ないのだが、どうもガヤムマイツェン侯爵令嬢は数字に弱いらしい事が侯爵家の身内とリーファ付きの侍従、侍女達の共通認識だった。

そして侯爵は「数字に強いしっかり者の婿殿が来てくれるとは限らないし、お前が侯爵家を継いでくれるのが一番安心なんだよ」とキリトゥルムラインからの問いかけを収めたのである。

 

「だからって今回みたいに卑怯な手を使ってオレを無理矢理侯爵の座から降ろそうとする親族に従う気はさらさらないけど……侯爵か騎士か、どっちでも好きな方を選んでいいなら、迷わず騎士を選ぶだろうな」

 

そう言って再び視線をアスリューシナへと落としたキリトゥルムラインは心を許した者だけに見せるニヤリ、とした笑みを浮かべた。




お読みいただき、有り難うございました。
やっと名前(だけです)が、出てきましたリーファ嬢。
「数字に強いしっかり者の婿殿」は残念ながら出番
ありませんけど……(気弱な瞳と黄緑色に髪を染めた
頼りなさげな彼、かも……全然しっかり者じゃなかった!)


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28.指輪(12)

キリトゥルムラインとアスリューシナ、互いを想う気持ちは
止められず……「指輪」の章、最終話です。


未だ瞳に大粒の涙を溜めているアスリューシナへと顔を近づけたキリトゥルムラインは「それに」と言いながら器用にも肩をすくめる。

 

「アスナに好意を抱いている程度の貴族の令息なら他に何人だっている。それをオベイロン侯が爵位を振りかざして牽制してるだけだろ」

 

その言葉に驚きを隠せないアスナが大きく目を見開くと、その拍子に涙がぽろり、と流れ落ちた。それを予期していたようにキリトゥルムラインの唇が吸い上げる。

 

「ひゃっ……キッ、キリトさまっ」

「だって手が使えないから」

 

どうやら流れ落ちる涙をそのままにしておく、という選択肢は今現在、侯爵の頭の中にはないようだ。今まで、キリトゥルムラインの手ですくい上げられたロイヤルナッツブラウンの髪や手の甲にキスを落とされた事はあったが、今宵は頭に、前髪ごしの額に、果ては瞼に頬にと随分と色々な場所に触れられている感触を一気に思い出し、務めて冷静に今宵限りでガヤムマイツェン侯爵との関係性を終わらせようと決意していたアスリューシナの中で御しきれない様々な種類の感情が心の奥底にある箱の中で膨れあがる。

全てを吐息に変えてやり過ごすには大きすぎて、言葉に変えるには重すぎて、侯爵への気持ちが箱の蓋を押し開けようと懸命にもがいていると、キリトゥルムラインはアスリューシナに顔を近づけたまま不敵な笑みを浮かべた。

 

「けど、ここにきて初めて自分の爵位に感謝してる」

 

どんどんと大きくなる感情を鎮める手段がわからないままキリトゥルムラインの言葉の意味を計りかねていると、当の侯爵はますます笑みを深くする。

 

「だってそうだろ。オレには三大侯爵家の権威は通用しない。オレも同じ三大侯爵家の一人だ。なら後はユージオの言葉を借りるなら……『その相手に自分も好意を抱いているかどうか』……だったよな?」

 

既に何も疑う事はないと言いたげに確信めいた口調で告げてくる言葉は、拠り所もなく不安定に揺れ動いていたアスリューシナの全ての感情を一気に押し出して心の深くにしまい込んだ箱の蓋はゆっくりと開き、その中からキリトゥルムラインの想いに応えるように恋情がキラキラと飛び出した。

 

「キリトさまっ」

 

すっかり見慣れたヘイゼルの瞳からふわり、と大粒な涙が再び溢れ出てくる。次から次へととめどなく転がり落ちる真珠のような涙を見てキリトゥルムラインはそれまでの冷めた笑みを一転させ、心からの安堵と嬉しさを滲ませた笑顔でアスリューシナを見つめ続けた。

 

 

 

 

 

今度はほろほろと零れる涙はそのままで、互いに熱に浮かされたような視線を外せずにいた二人だったが、感情を高ぶらせたアスリューシナがぱちぱちと瞬きを繰り返したかと思うと急に眉間に深いシワを刻み、目を閉じて、同時にキリトゥルムラインの胸元に額を押し付ける。その急変に慌てたキリトゥルムラインが「アスナ?」と名を呼ぶと、少し荒さを感じる息づかいにアスリューシナが言葉をのせた。

 

「髪の……副作用が……強くなってきて……」

「もう喋らなくていい。屋敷まであと少しだから」

 

指示に素直にしたがって僅かに首を縦に動かしたアスリューシナの身体をギュッと抱え込み、支えている腕をさするが、彼女の早めの呼吸がキリトゥルムラインの焦りを増長させる。カーテンを閉め切った箱馬車の中、どれくらいの時間が経っただろうか、馬車が一旦停まるとほぼ同時に門扉を動かす音が耳に届く。すぐに馬車は動き出したが車輪が立てる音と馬の蹄の音の変化が通りの道を外れた事を示唆していた。

ほどなくして馬車が完全に止まる。

ガチャリ、と外から解錠の音を待ちわびていたキリトゥルムラインは扉が開くとアスリューシナを抱き上げて、馬車を降りた。ふわり、と自分の身体が浮いた事で屋敷に到着したのだと気づいたアスリューシナが小さく「降ろして……ください」と請う。

目を開けられる状態ではないが、すぐに複数の足音が近づいてくるのを耳で感じ取り、未だ戸惑っているキリトゥルムラインに向け「大丈夫、ですから」と告げれば、渋々といった気配を全身から発しながらそっとアスリューシナの足を地に降ろした。

だが、彼女の腰を未練がましく抱いていると、やって来た家令がキリトゥルムラインに深く頭を下げるよりも早くサタラの後ろを影のように付いてきていたキズメルと数人の侍女達が自分達の令嬢を取り囲む。

 

「失礼いたしますっ」

 

一斉に声をかけ、キリトゥルムラインがひるんだ一瞬の隙をついてキズメルがアスリューシナの左腕を預かり、もう一人の侍女が右腕を、もう一人が腰を、もう一人が肩を支えて侯爵から令嬢を引っぺがす。見事な連携に思わずキリトゥルムラインが「うっ」と唸ると、アスリューシナが周囲の侍女達に「少し、待って」と声をかけ、震える全身をぎこちなく動かして侯爵に対し礼を取った。

 

「ガヤムマイツェン侯爵様、お見苦しい姿を晒してしまい、申し訳ございません。今宵は、これで失礼させて、いただきます……次にお会いできます日を、心待ちに……しております」

 

言い終わると同時に傾いだ令嬢の身体は冷静で職務に忠実な侍女達がきっちりと支え屋敷の中へと導いていく。その後ろ姿を心許ない視線で見送っていたキリトゥルムラインだったが、アスリューシナを隠すようにキズメルが立ちふさがり侯爵に向けて一礼をすると、くるりと向きを変えて令嬢の後に続き屋敷へと入っていった。

その場に残ったのはキリトゥルムラインとユークリネ公爵家の家令とアスリューシナ付きの侍女頭サタラだけ。

しかし家令ももう一度深々と頭を下げるとすぐさま屋敷へと戻っていく。その後ろ姿を見送っていたサタラは家令の姿が消えると、逆に侯爵へ向け一歩を踏み出した。

 

「ガヤムマイツェン侯爵様、少しよろしいでしょうか?」

 

使用人が他家の当主に声をかけるなど本来ならあってはならない行為だが、サタラとキリトゥルムラインの間では今更なので侯爵令嬢の私室にいる時のように気にする事なく首肯すると、サタラは家令にも負けないほどに腰を折り曲げて頭を下げる。

 

「今宵は本当に有り難うございました。髪を染められたお嬢様がこの時間まで外出されても意識を失わずお戻りになるなんて、よほど侯爵様のお側で安心されていたのでしょう」

 

サタラの口から聞かされた言葉に驚いたキリトゥルムラインは思わず声を上ずらせた。

 

「えっ!?、意識を?」

「はい、社交界デビューの舞踏会では王城で倒れられて、パートナーを務めていらしたコーヴィラウル様がそれはもう大慌てで帰城されました」

 

それから病弱な深窓の令嬢というイメージが真実味を持って広く根付いたのだろうが、馬車の中でのアスリューシナの様子を思い出したキリトゥルムラインは彼女の状態がかろうじてその一歩手前であったろうと推測し、痛ましげに表情を歪める。しかしどこか達観した様子のサタラは淡々とした口調ままキリトゥルムラインに問いかけた。

 

「侯爵様、お引き留めしたのはお帰りの馬車内でのお嬢様のご様子を伺いたいからなのです」

 

言葉の真意を測りかねたキリトゥルムラインが眉根を寄せると、サタラは清々しい程の笑みを浮かべる。

 

「先程のように無理をして私達使用人に心配をかけまいとしていらっしゃるお嬢様ではなく、正確なご容態を知りたいのです」

 

そこで納得したキリトゥルムラインは今までの感じたままを口にした。

 

「ルーリッド伯爵邸で目眩がすると言ったから引き上げてきたんだ。瞳の色も混色し始めていた。最初はオレにつかまって歩いていたが、次第に足下がおぼつかなくなって馬車に乗り込んだ時は震えが止まらなくなっていたから車内では横抱きにして寝かせて……」

 

そこでサタラの片眉がピクリ、と動く。

 

「アスナは随分楽だと言っていたけど……もうすぐ公爵家に着く辺りになって呼吸が荒くなり体温も下がって……」

 

そこで再びサタラの片眉がピクピク、と痙攣した。

 

「わかりました、有り難うございます……侯爵様がどうやってうちのお嬢様の体温をお知りになられたのか、非情に気にかかりますが……」

「ああ、それは普通に、額をくっつけて……」

「私の胸の内におさめておきます。今回はお嬢様があの様な状態でしたので致し方ないと……思うことにします」

 

ふと見ると侍女頭のこめかみの血管が浮き上がり、前身で合わせている両の手が震えている事に気づいたキリトゥルムラインは、これは自分がアスナの私室に訪れる毎に彼女を抱きしめているとは知られないようにしないと、と気を引き締める。

 

「と、とにかく、そんな感じだった……けど……大丈夫か?、アスナ」

「はい、二、三日は寝室からお出になれないでしょうが……私共が付いておりますので」

 

サタラの自信に満ちた言葉と笑顔につられ、キリトゥルムラインの口角が上がった。

 

「頼もしいな、アスナ付きの侍女達は」

「お褒めのお言葉、光栄にございます。お嬢様付きの侍女達はその人選から育成まで旦那様とコーヴィラウル様が辺境伯よりこの王都のお屋敷にお嬢様を迎え入れる為、数年かけて揃えた者達ですから」

 

胸を張って自慢げに言い切るサタラの姿を見て逆にキリトゥルムラインは溜め息を零した。

 

「だよな……オレもそろそろ屋敷内の使用人達を信頼の置ける者で揃えたいと思い始めたんだが……」

 

そこでまずは自分を侯爵の座から排しようとしている者達との内通者を特定すべく動き始めたのだが、先刻のアスリューシナに対する侍女達の冷静かつ迅速な行動力を目の当たりにしてしまうと、主従関係をあの域まで持っていくにはあとどれくらいかかるのだろうか、と気が滅入りそうになる。

 

「いっそここの侍女達ごとうちの屋敷に受け入れたいくらいだ」

 

珍しく弱気な発言だったが「侍女達ごと」という言葉の主体が誰なのかを察したサタラは目を細めた。

 

「アスリューシナ様の先程のお言葉、侯爵さまと次にお会いする日を待ちわびると……やっと、ご自分のお気持ちをお認めになったのですね」

「だと……思いたい…………社交辞令でないなら……だけどな」

「社交辞令で『心待ちに』などと、うちのお嬢様は申しません」

 

きっぱりと言い切ってくれる侍女頭に背中を押してもらったような気分になったキリトゥルムラインは、赤らんだ頬を片手で隠しながら「なら……」と小さく呟く。

 

「こちらの侍女達のようなしっかり者を未来のガヤムマイツェン侯爵夫人の為に探さないとな」

 

その言葉にサタラが口元を緩めた。

 

「もしも……もしも、でございますが、近い将来、アスリューシナ様がどこかの上位貴族の殿方の元へ嫁がれますと、お嬢様付きの侍女達の何人かは再雇用先を探さないといけません。ユークリネ公爵家の紋章が入った紹介状を持った者が侯爵様の元へ参りましたら、どうぞよろしくお願い申し上げます」

「ああ、喜んで受け入れるよ」

 

大歓迎だと言いたいところを飲み込み、安堵の笑みで約束を取り交わすとキリトゥルムラインは一歩サタラに近づいて急に声を落とし真剣な目つきとなる。

 

「……ところで今回の夜会、アスナを伴ったことで向こうに喧嘩を売った自覚はある。さすがに無理矢理な事はしないと思うが、十分気をつけてくれ。オレは一旦領地に戻らなきゃならないんだ」

「心得ております。あちらに喧嘩を売ってくださるような方でなければ、お嬢様はお任せできませんから」

 

あくまでも強気に言い放つ侍女頭に全幅の信頼を寄せながらもルーリッド伯爵家の馬車の御者がチラチラとこちらを覗い、目で催促をしているのに気づいたキリトゥルムラインは一層早口で要件を伝えた。

 

「領地に戻る前に……そうだな五日後の夜、アスナの部屋に行く」

「……侯爵様、もう正面から堂々とご訪問くださっても……」

「アスナに伝えておいてくれ。オレの合図があるまではちゃんとバルコニーの鍵をかけておくようにって」

 

そう言ってサタラから離れたキリトゥルムラインは今夜の余興の主役とも言える盗人の男達の動向報告を受ける為、ルーリッド伯爵家へと戻る馬車に乗り込んだ。

 




お読みいただき、有り難うございました。
アスリューシナがお輿入れしても、サタラは公爵家に残るでしょう。
旦那さん、こっちにいるし……何より次はコーヴィラウル様の婚活に
熱意を注ぐと思います(笑)


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【番外編・4】友の隣に咲く花

『漆黒に寄り添う癒やしの色』の「お気に入り」カウントがいきなり300件を突破して
いただいちゃって(?)……本当に「いきなり」と言っていいカウント数の伸びの良さで
驚き、戸惑い、でもって大喜びさせていただいておりますっ。
さすがにカウントキリ番の【番外編】投稿はもうないでしょう、と思っていたので、
視点は誰にしよう〜?、と考えたのですが、やっぱり二人のイチャもちょっとは入れたいよね、と
いう事で彼の出番となりました。
感謝の気持ちをパンパンに込めまして、楽しんでいただけたら、と思います。
本当に有り難うございましたっ。
(後日、順番を「指輪」の章の次に移動させていただきます)


僕が執務を行う『剣の塔』内に割り当てられた第四騎士団団長室には、今現在、部屋の片隅に置いてある簡素な応接用ソファに腰掛けて複雑な表情を浮かべつつも城下で人気の菓子店の袋を手にしている年若い貴族がいる。普段、誰かがこの部屋を訪ねて来た時は当番の騎士が接待のお茶を用意してくれるけど、僕も部下の騎士達もかの貴族を「客」と認知していない為、誰も動こうとしない。

しかしそれは彼も充分に承知しているんだろう、その対応を別段気にした様子もなく、持参した第四騎士団への差し入れ兼自分のおやつが入っている袋に堂々と手を突っ込んで……出てきたのは少し大きめな一人前サイズの円形タルトだ。丸く縁取っているタルト生地は見事な薄い重層を形勢していて見た目だけでもそのサクサク度を予感させる。そして円の中央には黄金色と表していいリンゴの甘煮が艶やかな照りをまとってふんだんに盛られていた。一時、その表面をジッと見つめていた彼は次に躊躇なくそれを自分の口に入れようとしている。

僕はテーブルを挟んだ向かい側のソファで、袋の中から手づかみでタルトを取り出して口に運ぶ侯爵様ってどうなの?、なんて疑問はとうの昔にどこかへ置いてきちゃったなぁ……と自分の感覚に若干の脱力感を味わいながら間もなく来るだろうお茶の催促に対応すべく立ち上がった。

 

「それで、今度のうちの夜会、参加する気になったの?、キリト」

 

タルトを口に入れ、もぐもぐと頬までも大きく動かしながら「ユゥージィゥ……」と、どうやら僕の名を口にしているらしいこの国の貴族のトップである三大侯爵家のおひとり、ガヤムマイツェン侯爵様がお茶を請うてパタパタと動かしている手にすかさず紅茶を注いだティーカップを渡す。

んぅ……くんっ、と紅茶を口に含んでタルトと一緒に流し込んだと思われる嚥下の音を聞き、僕は抑えきれない呆れ顔を彼に向けた。しかし、そんな僕の表情など剣術学院で剣を交えていた頃から慣れっこになっている彼は気にも止めず、複雑だった表情を更にこじらせてブツブツと何やら呟いている。

 

「んー、別に味が落ちたわけじゃないんだろうけどなぁ……なんか、こう、違う気が……香辛料や甘味料の配合とか……それともリンゴの種類か?」

 

僕からの問いには一向に答える気のないらしい学院生だった頃からの親友と呼べるべき存在の彼はかじったばかりのタルトを見つめ、どうやらその味について考え込んでいるらしい。こうなると周りの言葉など全く耳に入らない事は百も承知している僕はひとまず自分の問いに対する返答を諦め、彼の疑問に付き合うことにする。

 

「どうしたのさ、リンゴタルトの味が気に入らないのかい? 『ファウルップ菓子店』はキリトが贔屓にしてる店だろう?」

 

すると待ってましたとばかりに彼は顔をあげて自分の意見を整理するように話し始めた。

 

「最近食べたリンゴのタルトの方が美味い気がするんだ。でも『ファウルップ』は王都でも人気上位の店だからそんなはずはないかと思って……」

「ふーん……ちなみに最近食べたタルトってどこの店のなの?」

 

するとぴたり、と貝のようにキリトの口が閉じる。そして全身を硬直させ、代わりに、口を滑らせたっ、のオーラを大量に放出した。視線を意味も無くグルグルと四方八方に漂わせてから、ぼんやりと薄く空気を吐き出すように「あー」だの「うーん」だのを何回か繰り返して、小さくぼそりと「店のじゃないんだ」とだけ教えてくれる。

けれど、これ以上は何も話さないぞ、と目で語ると手に持ったままの残りのタルトをパパッと口に放り込み、僕の煎れた紅茶をゴクゴクと飲み干す姿はとてもじゃないけど高位の貴族には見えない。

そんな友に更なる呆れ視線を送りながら僕は彼が少し前まで足繁く中央市場へ出向いていた事を思い出す。

 

(まさか……市場の店の看板娘にでも懸想しているとか?)

 

剣術学院時代でも数少ない女子院生から友情以上の好意を寄せられる事は珍しくなかったが、残念なことに彼が夢中になっていたのは剣に関する事ばかりで、当時の彼女達から送られる視線や言葉の深い意味など気づきもせずにやりすごす彼の笑顔と共に、幾度となくそういった場面に立ち会ってしまった自分の間の悪さを思い出す。

 

(へええっ、あのキリトがね……)

 

僕が自分の恋路の話をしても、さして興味もなさそうに聞いてくれていた友がついにそんな相手を見つけたのか、と思うと嬉しさがこみ上げる反面、彼の身分や周りの反応を考えると懸念も浮かぶ。予想通り相手が市場で働いているような立場だった場合、その女性を侯爵夫人の座に就けるにはキリトだけでなく彼女も並大抵の努力では周囲を認めさせる事は出来ないだろう。

それでも彼が望むなら自分は友として出来る限りの力になってあげたい……そう決意してまずは肝心な部分を確かめなければ、と目の前に座っている真っ黒な瞳を見つめる。

 

「なら、そのタルトを作った人に、僕も会ってみたいなぁ」

 

単純に自分も好物であるタルトに興味を持っただけと言いたい空気を漂わせてみたけど、そこは付き合いの長い仲で、すぐに何かしらの裏の意図に気づいたらしいキリトの眉が不機嫌に歪んだ。でも、そこで引き下がるわけにはいかない。ちゃんと二人の関係性を把握しておかないと今後の対策も立てられないからだ。時に大胆かつ大ざっぱで後先考えない行動に出る友を持つ身としては色々と気になるんだよね、と笑顔をキープしたまま見つめ続けるとようやく僕の発言に憮然とした表情のまま固まっていた彼がほんの僅か、気恥ずかしそうに頬を赤くして「なら……」と切り出してきた。

 

「ユージオんとこの例の夜会に誘うよ」

 

それだけを少々ぶっきらぼうに口にしてから「招待状、用意してくれ」と告げてくる。

キリトの表情にも驚いたけど、それ以上にびっくりしたのは彼がその相手をうちの夜会に連れてくると示した言葉だ。

 

(えっ?、ちょっと待って……その相手って夜会に連れて来られるような身分の女性……貴族令嬢って事?、なのにうちからの招待状が届いていないって一体……)

 

色々と勝手な憶測が頭の中を飛び回っている隙に目の前の友が「だからこっちの頼みも引き受けてくれよな」と、ちゃっかり自分の要望を通していたことに気づいたのは少し後になってからだった。

 

 

 

 

 

どうやら身内に不穏な動きをしている人間がいて、自分の屋敷内にも内通している使用人がいるらしい、と面倒くさそうに話していた友が何がきっかけなのかは不明だが、うちで開く夜会に乗じて問題を解決したい、と父であるルーリッド伯爵に相談していたのは知っていたけど、まさかその話を引き受ける父からの条件が「息子のユージオが全てを取り仕切るなら」だったとは……我が父ながら食えない人物だと再認識しつつ、夜会会場の隅で家令と段取りを確認しながら招待客の到着を待つ。

どうりで先日、わざわざキリトが僕の執務室までタルトを持って来るわけだね、と、普段は『剣の塔』に近寄らない友が、ふらり、と訪れて来た日の表情を思い出す。察するにあれは彼の言う「余興」の件をどうやって僕にうなずかせるか、を考えていたんだろう。

それを僕の要求と引き替えに承諾させるなんて……キリトらしいよな、と吐き出す息ひとつで自分を納得させて会場の入り口を注視していると、ようやく目当ての人物が令嬢を伴って姿を現した。

途端に会場内が低くどよめき、視線が一点に集中される。

 

(あれは……)

 

友の隣にぴたり、と寄り添っている令嬢には見覚えがあった。少し前、王城の夜会でいつもの様に警護対象の彼女から少し離れた位置に控えていた時、ダンスフロアで貴族達の好奇の視線を浴びていた兄妹の一人……ユークリネ公爵家のご令嬢。

兄妹が踊る姿は一対の蝶のように軽やかで、思わず少しの間魅入ってしまった事を思い出す。

けれどダンスが終わった後、近寄っていくオベイロン侯爵から兄妹二人は逃げるようにその場から立ち去っていまい、少し気にはなっていたのだが、そのまま夜会での仕事に忙殺されて深くは考えずに忘れてしまっていた。

かの令嬢がオベイロン侯のお気に入り、という話を知らない貴族はおらず、よって父も招待状を出さなかったのだろう。

まさか同じ三大侯爵家同士がひとりの令嬢を求める事態になるなんて……これは僕の恋路と同じくらい頭の痛い話になるのでは……と、自然と眉間に皺が寄った時だ、二人と言葉を交わしていた父の実に楽しそうな声が耳に届く。

 

(ウソだろう……初対面の令嬢を父が本園に招待してる……)

 

跡継ぎである長兄のお嫁さんでさえ本園を見せたのは婚姻を交わしてしばらくしてからだ。未だ身体の衰えをみせず、現役の伯爵である父はこれまた元気いっぱいの母と一緒に日々つつがなく本邸で暮らしている為、長兄夫婦は隣の別邸で気ままに水入らずを満喫している。次兄も既に結婚しているが外国に住んでおり、唯一独身の僕は本邸に寄りつかず専ら城内に与えられた部屋で寝起きしていた。

夜会会場に入って来るなり興奮気味に薔薇達をその瞳に映していた公爵令嬢様が父からの言葉により一層喜びに満ちた笑顔を輝かせている。

その表情を眩しそうに見ているキリトの真っ黒な双眸はどこまでも優しく、見ているこっちが溶けてしまいそうだ。

父の発言と友の様子でルーリッド伯爵家としての方針を自認した僕はそう遠くない未来に起こるであろうオベイロン侯爵家との摩擦を憂慮したまま彼らのもとへと歩み寄った。

 

 

 

 

 

正直に言うと僕はタルトを作った人に会いたいと言った自分の発言を心から後悔した。

夜会会場の中心で父と別れ、キリトとユークリネ公爵令嬢様と僕の三人で広間の片隅に移動したと言うのに、友の目には僕がまるで映っていないからだ。

支えていなければ倒れそうだから、とでも言うつもりなのか、かのご令嬢の細い腰に手をあてたまま今は更にその耳元へと顔を寄せている。

ユークリネ公爵令嬢様は身体があまり御丈夫でないと聞いていたけれど……確かにクロームオレンジ色のドレスの上からでもわかるほど華奢な体つきに色白の肌は普段あまり外にも出ていないのだろうとは思うが不健康そうな印象はまるでなく、どちらかと言うと男性の目にはひどく魅力的に映っているくらいで、加えて何をキリトから耳打ちされたのか、ぽわん、と頬を淡く染めてから拗ねたように唇を尖らせ、上目遣いに彼を見上げる様は想う相手がいる僕でさえ思わず「可愛らしい方だな」と口元が緩んでしまう。

一方、睨み付けられたキリトは何がそんなに嬉しいのか目を細めて今にもご令嬢を抱きしめるのではないかとこちらがドキドキするくらい腰に回した手で彼女の身体を引き寄せている。けれど、そこでさすがに彼の行き過ぎた行為を公爵令嬢様が窘めた。

 

「キリトゥルムラインさまっ」

 

(あ……名前、呼んでるんだ……)

 

もう、僕のあれこれとした想像も杞憂でしかない。

どうして友のお相手が市場の看板娘かも、などと思ってしまったのだろう……ガヤムマイツェン侯爵家とユークリネ公爵家、羨ましいくらい何の問題もない家柄同士だし、加えて我がルーリッド伯爵家も後ろ盾となる意志を示している。

この二人の仲に対してオベイロン侯がどう出てくるか、が多少気がかりではあるけれど、よく考えれば婚約をしているわけでもないのだから、キリトならばその問題もどうにかするだろう。もちろん僕も協力は惜しまない。

疑問が残ると言えばリンゴのタルトを作った人、というこちらの申し出の答えがユークリネ公爵令嬢様という事だけど……と、二人を観察していると、すぐ傍を通りかかった従者にキリトが飲み物を頼んでいる。程なくして三種類のグラスが乗ったトレイを持った従者が戻ってきた。

小さめのゴブレットを公爵令嬢様に渡してから、僕にはお決まりのブルースピリッツの入ったショットグラスを、そして自分はフルート型のシャンパーニュグラスを手にし、互いに顔を見合わせ微笑んでからそれぞれのグラスの中身を一口、口に含む。

 

「……美味しい」

 

公爵令嬢様の素直すぎる感想に今度はキリトの口元が緩んだ。

それはそうだろう、ご令嬢が飲んだのはこの夜会の為に、とガヤムマイツェン領から取り寄せた特別のリンゴジュースなんだから。今回の夜会に自分もパートナーをエスコートして参加すると決まると、キリトは自ら飲み物の一部を手配をしてくれた。本人は「色々と世話になるから」と気前よく提供してくれたけど、今ならわかる、きっと彼女に自分の領地産のジュースを披露したかったのだ。このリンゴジュースは最初からジュース用として栽培したリンゴを使うとかで、量産も出来なければ日持ちも悪い為、王都にはほとんど出回っていない貴重な代物らしい。

そして公爵令嬢様が興味深げに見つめているキリトのグラスの中身は……これまたキリトが提供してくれたガヤムマイツェン領で作っているシードル(リンゴ酒)だ。他の領地で作っている物より発砲具合のきめが細かくて液体の色も味も濃いので人気が高く、やはり簡単には入手できない。

稀少な物なのだとキリトから説明を受けたらしい公爵令嬢様の瞳がシャンパーニュグラスをジッと見つめ、一口だけでも飲んでみたいと訴えている。その抗いがたい色を苦笑で受け流し、再びキリトは彼女の耳元に唇を近づけた。

 

「だからダメだって。アルコールは体調を崩すかもしれないだろ。今度……」

 

最後の方はよく聞き取れなかったが、元来病弱と言われている公爵令嬢様は体調を理由にされ渋々と小さく頷く。すると我慢したご褒美と言わんばかりにキリトの唇が彼女の耳元からそっと頭部に移動して綺麗なアトランティコブルーに染まった髪に……僕が盾になって夜会の客人方には見えなかったようだけどっ、夜会の様々な音でリップ音は響かなかったようだけどっ……本当に彼は僕の知っているキリトゥルムライン・カズ・ガヤムマイツェン侯爵なのかっ、と我が目を疑いたくなる光景だった。

一瞬、何が起こったのか理解不能に陥ったと思われる公爵令嬢様はパチパチと瞬きを二回繰り返すと、ポンッと跳ねるように小さな顔全体を真っ赤にして、でもその瞳に嫌悪の色など一滴もなく、今度は睨み付ける気力もないのかただただ恥ずかしそうに身を縮込ませている。

 

(これはもう貧乏くじどころのレベルじゃないよね)

 

僕はこれからこの会場で不本意ながら何人もの令嬢方のお相手をし、気分を害さない言い回しで交際の意志がないことを伝え、と同時にキリトの余興を仕切り、明日、登城してすぐに彼女の元へと参じてこの夜会で不安になっているお心を鎮めてさしあげなくては……と言うかご機嫌を直していただく為にあれやこれやと言い訳のような説明をせねばならず……本当に色々と……色々と……もう……と項垂れかけたところに家令が音も無く近寄ってきた。

要件を聞いた僕がキリトをこの場から退場させるため、考えるより先に手にしていたグラスの中身を彼の胸元へと勢いよく浴びせたのは仕方の無いことだったと思う。




お読みいただき、有り難うございました。
すっかりやさぐれてしまったルーリッド伯爵家の三男坊くんです(苦笑)
夜会ではアスナがシードルを口にする事を許さなかったキリトですが
「今度……」ってなんだっ!?……って思いました(苦笑)
今回の【番外編】を読んでから「21.指輪(5)」へ戻ると、ブルースピリッツを
ひっかけた時のユージオの「ごめん」の言い回しが微妙に違って感じます。


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29.触れる心(1)

ルーリッド伯爵家の夜会の後日、アスリューシナのもとを訪れた
キリトゥルムラインは……。


ルーリッド伯爵家での夜会からきっちり五日後の夜、キリトゥルムラインは予告通りいつもの様にユークリネ公爵家のバルコニーへ足音も立てずに樹枝から反動をつけて飛び降りるとアスリューシナの私室のガラス扉の前まで歩み寄る。はやる気持ちを一呼吸置くことで幾分落ち着かせてから約束の合図を送った。

ガラスをノックした手を下げきる前に分厚いカーテンがゆらめき、徐々に左右へと分かれて、その隙間から背後の月明かりに照らされたアスリューシナの小さなかんばせが現れる。これまでは待ちわびていたような、どこか期待めいた笑顔で出迎えてくれていた彼女だったが、今夜は戸惑うような瞳のままキリトゥルムラインの姿を認めた途端、俯いてガラス扉の鍵へと手を伸ばした。

キィッッ、と僅かな音を立ててキリトゥルムラインがガラス扉を開けても、目の前のアスリューシナは下を向き、両手を前で合わせたまま静かに佇んでいる。ゆっくりと公爵令嬢の私室に足を踏み入れた侯爵は後ろ手に扉を閉めてから両腕を広げる代わりに首を傾げ、「アスナ?」と小さく彼女の名を口にした。

周囲からは親友と認知されている同い年の騎士団長ならこんな時も迷うことなく適切な言葉が出てくるのだろうか?……とキリトゥルムラインは特に女性に対する感情の機微に疎い自分に内心頭を抱えながら、それでも数日前、最後に見たアスリューシナの姿を思い出せばすぐにでも体調を確かめたくて、自ら足を動かして一歩近づく。その気配に気づいたアスリューシナが少し怯えるように顔を上げた。

しかし一向に彼女への応対が思いつかないキリトゥルムラインは声を掛けることなく、ただ傍にいきたくて彼女の目の前まで歩み寄る。そこでようやくアスリューシナの表情に戸惑いの中にも抑えきれない揺らめきが潜んでいることを見つけ、両手の指はせわしなくコチャコチャと動き続けている事に気づいた。途端、キリトゥルムラインが笑顔となり、もう一度、問いかけると言うよりは呼ぶように「アスナ」と言うと、意を決したように彼女も一歩を踏み出す。

まだ幾分迷いが混ざっているヘイゼルの瞳が今度こそまっすぐにキリトゥルムラインと視線を交合わせると、ようやく少しだけ嬉しそうに弧を描いた。

堪らずにその華奢な身体を抱き寄せると、「きゃっ」と小さな声をあげるがすぐに身体を預け自らの頬をキリトゥルムラインの胸元にすり寄せる。抱きしめ合う為に今まで何回も繰り返してきた問いかけも返答ももう必要なかった。

言い訳も口実もいらずに互いのぬくもりを分け合える事が嬉しくてアスリューシナを抱きしめる腕にいつもより力を込めてしまった時だ、何かに気づいたように彼女の全身がピクリと震える。

その反応に驚いてすぐさま力を緩め、覗き込むようにアスリューシナに顔を寄せた。

 

「ご、ごめん。痛かったか」

「あ、いえ……」

「体調も万全じゃないんだろ?、顔色もまだ少し良くない」

「室内が薄暗いせいです。それに今日から……ちゃんと食事だって……」

 

そうは言われても今夜もアスリューシナの部屋にはたくさんの燭台が灯っている。加えて彼女の口ぶりにひっかかりを覚えたキリトゥルムラインは真面目ぶった声で「食事って?」と更に問いかけた。

 

「ス……スープを……飲めるようになりました」

「……なら昨日までは何を口にしていたんだ?」

「……ずっと……薬湯を……」

「薬湯だけっ?、ユージオの夜会から帰ってきて四日も薬湯ばかり飲んでたのか?」

「……いえ、最初の二日は何も口に出来ず……」

 

アスリューシナからの言葉が終わらないうちにキリトゥルムラインは彼女を横抱きに持ち上げ、大股にソファへと移動した。

 

「キ、キリトさまっ」

「ったく、更に軽くなってるぞ。そんなんじゃ立ってるのだってやっとだろ」

「気のせいですっ、今は夜会用のドレスではないので軽く感じるだけですっ」

「……意地っ張りなところは相変わらずか」

 

呆れながらも苦笑しつつ、そっとソファにアスリューシナを座らせたキリトゥルムラインは密着するようにすぐ隣に腰を降ろし、その細くて真っ直ぐな指を自分の手に絡める。

 

「震えは……ないな」

「ですから……本当にもう大丈夫なんです」

「どこがだよ。ここまで体調を崩すってわかってたらユージオの頼みなんかきかなかったのに……」

 

いくつもの感情がパタパタと重なってキリトゥルムラインの眉間にくっきりと皺を刻んだ。積み上げられた感情の中から一番強い気持ちを苦しそうにアスリューシナへ告げようとすると少し怖い顔が目の前に現れる。

 

「謝らないでくださいね」

「え?」

「ですから、キリトさまがそんなお顔をする必要はないんです。こうなるとわかっていて夜会のご招待を受けたのは私ですし、サタラを始め、私付きの侍女達もみんな私が夜会に出向く事をとても喜んでくれて……なのでここは……」

 

繋がっている手を自らもそっと握り返したアスリューシナは誰もがうっとりとしそうな笑顔をたった一人に向け、「楽しかったですね、夜会」とキリトゥルムラインを包み込んだ。その笑みと言葉を驚きで受け取ったキリトゥルムラインの心と顔がほんわりと温かくなる。

 

「あ……ああ、そうだな。夜会が楽しいなんて今まで思った事もなかったけど……うん、確かに、あれは色々と楽しかった」

 

いつものニヤリとした笑みが戻ったキリトゥルムラインを安心したように見つめていたアスリューシナだったが、「夜会」で思い出した気がかりを少し覗うような瞳で口にした。

 

「それで……あの者達は?」

 

それだけで彼女が何を気にしているのか悟ったキリトゥルムラインは「大丈夫」と大きく頷く。

 

「ちゃんと解決したから……あの夜はユージオが文字通り東奔西走してくれて、オレはルーリッド伯爵邸に戻ってからはひたすら被害者ぶって大人しくしてたんだけど、あいつの方は言い寄ってくる令嬢達をやんわりとかわしながらあっちこっちに指示を飛ばして……」

 

その時の親友の必死な姿を思い出したのだろう、楽しそうにくっくっ、と喉を鳴らしながら語るキリトゥルムラインにアスリューシナは批難めいた視線を送った。その視線に気づいた侯爵はコホンッ、とわざとらしい咳払いをして笑い声を封じ、穏やかな笑みとなる。

 

「ガヤムマイツェンの屋敷の方もすっきり片付いた。これで目や耳を気にせず落ち着ける環境になってきたよ」

 

くつろいだ様子にアスリューシナもホッ、と息を抜いた。しかしその瞳は再び疑問を抱え込む。

 

「あと、先程感じたのですが……キリトさま……腕を、どうかなさいましたか?」

 

気づかれるとは思っていなかった変調を指摘されて僅かに目を見開いたキリトゥルムラインだったが、真っ直ぐな問いかけに誤魔化しは諦めて苦笑いで返した。

 

「ああ、今日の昼間、今回の騒動の報告をしに王城へ出向いたんだけど、『剣の塔』でユージーン将軍につかまってさ……」

「ユージーン将軍と言えば『剣の塔』に在籍している騎士の皆さんの指南役を務めていらっしゃる……確か兄上様も王城にお仕えですよね?」

「うん、兄のモーティマー博士は知識の泉と称される人物で、こっちは『法の塔』の顧問を務めてる。二人共、表向きは要職ではなく相談役と言った立場なんだけど、ユージーン将軍の場合、全騎士団と関わっているから末端の騎士団員とさえも信頼関係が深い。その為、段取りをすっ飛ばした独自の命令系統を持ってるんだよ。純粋な強さで言えば各騎士団長の方が上なんだろうけど、部下の騎士達の修練とか任せっきりの団長も多くてさ……」

 

そこまで言って小さく「特にあそこの騎士団長とかなぁ……」と付け足すキリトゥルムラインを見つめながらアスリューシナは首を傾げる。

 

「キリトさまは騎士団に所属されていないのにユージーン将軍と懇意なんですか?……」

「うーん……まあ再三騎士団に誘われるから出来るだけ顔を合わさないようにはしてるんだけど、今日はユージオの所へ顔を出した帰りにうっかり捕まって剣の相手をさせられたんだ」

「将軍のお相手ですか……」

「騎士団の連中だとヘタに怪我させてもマズイんだろうが、オレだと団員としての任務がないから容赦なく剣を振るえるだろ……そんな関係だよ」

 

言外に「察してくれ」と言われたような気がしてアスリューシナの笑みが苦笑に変わる。

 

「えっと……要は、多少怪我を負わせても騎士団としては痛くも痒くもないから、ユージーン将軍にとっては遠慮無く剣術の相手を頼める存在、といったところ……でしょうか?」

 

キリトゥルムラインの目がどんよりとした事で肯定と受け取ったアスリューシナは身体を侯爵へと向き合わせて、空いている手をそっとその腕に伸ばした。肘の少し下を触れると筋肉が強張ったのがわかる。すぐに「大したことはないよ」と柔らかい声が落ちてきて、顔を上げればキリトゥルムラインが少し恥ずかしそうに笑っていた。

 

「将軍の剣を受け流す時ちょっとタイミングが甘かったみたいで、筋を軽く痛めただけだ。普通の手合わせでもよくあることなんだけど将軍の剣は重さが違うからな。屋敷には例の塗り薬もあるし……ただ……」

「ただ?」

「明日、領地へ向けて発つんだけど、長時間の馬の扱いが少し……」

 

途端に不安そうな表情となったアスリューシナを見て、キリトゥルムラインがあわてて言葉を繋ぐ。

 

「ああっ、別に馬を制しきれなくなったりはしないからっ。ただ今回は多少強行軍で行く予定だからいつもより長く馬に乗るってだけで……」

 

あたふたと言葉を足してくる侯爵に心配そうな瞳のままのアスリューシナが躊躇いがちに問いかけた。

 

「移動を馬車で……とはお考えにならないのですか?」

 

自分の感覚で言えば距離に限らず屋敷の敷地から出る場合は常に馬車なのだし、それこそ父も兄も外出時は馬車を使用している。馬車ならば座っていればいいのだから痛めた腕の回復にも好都合だろう。

しかしアスリューシナの疑問にキリトゥルムラインは軽く頭を振った。

 

「領主と言っても領地の年寄り達から見れば孫みたいな歳なんだ。幼い頃から知っている領民達の元へ帰るのに馬車でってのは……なんか抵抗があるんだよな……それに急ぎの旅になるからどっちにしても馬で行くしかない。本当にこれくらい、大丈夫だから」

 

そこまで言われてしまってはアスリューシナとしても口にする言葉が見つからない。安心させるように微笑むキリトゥルムラインを見つめながら彼女は静かに彼の腕をさすり続けた。




お読みいただき、有り難うございました。
初登場(?)のユージーン将軍とモーティマー博士ですっ。
お二人とも出番は……ないんですけどね(苦笑)
実はもう一人、初登場(?)の「あそこの騎士団長」さん。
こちらはずうっと先に出番が……あるかな?


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30.触れる心(2)

キリトゥルムラインが腕を痛めたまま領地へ赴くと聞いた
アスリューシナは……。



キリトゥルムラインの腕の状態と明日からの領地行きに関してこれ以上自分が何を言っても詮方ないと判断したアスリューシナはいつも通り隣室に控えているサラタを呼びお茶の支度を頼んだ。

すっかり恒例となってしまったアスリューシナ手作りのお菓子と共にお茶を飲みながら、キリトゥルムラインから領地に行くまでに見える景色や今時期のガヤムマイツェン領で目にする動植物の話を楽しそうに聞いていたアスリューシナがふと口にしていたカップの中身に視線を落とす。それから部屋の隅に控えていたサタラに向かって申し訳なさそうに声をかけた。

 

「サタラ、お茶のお湯を替えてきてくれる?」

 

そう指示されたサタラは一礼と共に「かしこまりました」と言うとお湯の入ったポットを手に令嬢の私室から出て行く。扉の向こうに消えたサタラを見送った後、キリトゥルムラインが少し意外そうにアスリューシナの言動に首を傾げた。

 

「そんなにぬるくなってたか?」

 

この位ならわざわざ替えさせるほどでは、と言いたいのだがアスリューシナにとってそれが当然の事なら、もてなしを受けている自分がとやかく言うことではないのだろう、と曖昧な口調で尋ねると彼女はより一層罪悪感に満ちた瞳で小さく「いいえ」と言いながらふるふると顔を振る。

それからゆっくり立ち上がるとキリトゥルムラインをその場に残し、壁際のチェストの前まで歩み寄った。一番上の引き出しを開け、中からキリトゥルムラインにとっても見覚えのある小さな容器を取り出す。引き出しを元に戻し、それを大事そうに両手で包んだまま再びキリトゥルムラインの隣まで戻ってきたアスリューシナは「腕を見せていただけますか?」と静かに微笑んだ。

一拍遅れて彼女の言う「腕」が昼間の将軍との手合わせで痛めた箇所の事だと気づいたキリトゥルムラインは素直に袖を肘までまくり上げて彼女の前に伸ばす。一見、異常はないように見えるが痛めたと思われる筋に沿って筋肉が不自然に盛り上がっていた。

アスリューシナは以前キリトゥルムラインが置いていった軟膏を少量すくい取り、そうっ、と差し出された腕の患部に乗せていく。細い二本の指でまんべんなく伸ばしてから患部の中央にぴたり、と手の平をあてて祈るように目を瞑った。

 

「……アスナ?」

 

それまでされるがままのキリトゥルムラインが不思議そうに彼女の名を口にするが、ロイヤルナッツブラウンの髪をさらり、と両肩から脇に流してうつむいたままの公爵令嬢は姿勢を崩そうとしない。何かに集中しているような真剣さを感じ取ったキリトゥルムラインも口を閉じてしばらく動かずにいると、室内の蝋燭の灯りに反射してキラキラと輝いている彼女の髪が眩しく、つい魅入ってしまう。

一時をただぼぉっと令嬢に見惚れたままどの位の時間が経っただろうか、ふいにアスリューシナが安心したようにひとつ大きく息を吐き出して顔を上げた。それから弱々しく微笑むと微かな声で「キリトさま」と呼ぶ。

 

「領地への道中、お気を付けて……私は、少し疲れて、しまい……ました。サタラが……戻ってきたら、謝って……おいて下さい……ちゃんと言う事を……聞いて……しばらくは……大人しく……して……る、か……らっ……て…………」

 

そい言うなり、グラリと身体を傾げキリトゥルムラインの胸元に倒れ込んだ。

 

「アスナッ!?」

 

慌ててその身体を支え彼女を抱きかかえた時だ、室内にノックの音が響き、新しいお湯の入ったポットを手にしたサラタが一礼をして入ってくる。

しかし部屋に足を踏み入れた途端ソファで密着している二人を目にしてピクリッと片方の眉が跳ね、次にキリトゥルムラインの表情を見てすぐに認識を改めた。手近にあったサイドテーブルにポットを置くとつかつかと足早に二人に近づき、チラリと横目でテーブルのティーカップ横に置いてある塗り薬の存在に視線を走らせる。

 

「あの、サタラ……アスナが急に……」

 

どう説明していいのかわからず混乱したキリトゥルムラインが助けを求めるように腕の中のアスリューシナとサタラを交互に見ていると、侍女頭の緊張を含んだ声が容赦なく侯爵の耳へと飛び込んできた。

 

「落ち着いて下さい、侯爵様……この軟膏はお嬢様が?……侯爵様、どこかお怪我をされているのですか?」

 

揺るぎない芯の通ったサタラの声を聞き、幾分落ち着きを取り戻したキリトゥルムラインは彼女の質問に「ああ」と頷いてから返答を頭で順にまとめて慎重に説明する。

 

「サラタが部屋から出て行った後、アスナが自らその軟膏を取り出して……オレが日中に剣の手合わせで少々腕の筋を痛めたから、そこに薬を塗ってくれたんだ」

 

サタラが何かを確信したように呆れと怒りの交じった溜め息をついて侯爵の不安に揺れる黒い瞳を直視した。

 

「軟膏を塗った……だけではなく、患部にしばらくお手を当てましたね」

 

まるで見ていたかのように告げてくる言葉にキリトゥルムラインが驚きを隠せず、目を見開いたままこくり、と頷きで肯定すると、いよいよサタラの顔つきが険しくなる。

 

「どうりで……私を部屋から追い出したかった理由がそれですか。今宵、私をお呼びになる前にお嬢様は侯爵様のお怪我をご存じだったのですね。ご自身のお身体も回復しきっておりませんのに、まったくうちのお嬢様ときたらっ」

 

プリプリと怒り出したサタラにキリトゥルムラインは下から覗うような視線を向けた。

 

「実は……倒れる前、アスナがサタラに謝っておいてくれって。しばらくは大人しくしてるから、と」

「当然ですっ」

 

一層眉を吊り上げて侯爵を睨み付けてくる侍女頭に、堪らずキリトゥルムラインはアスリューシナを抱き支えていた腕に力を入れる……が、そこで腕の違和感が消えていることに気づき、軟膏を塗ってもらった箇所をしげしげと眺めた。

 

「痛みが……ない……この軟膏、こんなに速効性があったか?」

 

今宵一番の大きな溜め息をついたサタラがさも当然と言いたげな口調で「お嬢様の手当のお陰ですね」と言い放つ。その言葉に今ひとつ納得しかねる様子の侯爵だったが、その思考を遮るようにサタラが侯爵に対するとは思えない態度に出た。

 

「では、侯爵様、お嬢様は未だ体調が万全ではございませんので、既にお休みになられたご様子。そのままソファに横たえていただき、今宵はこれまで、という事に……」

 

要は自分の敬愛する公爵令嬢はまだ病人で、なのに今夜は侯爵の来訪で無理をして起きていた為に倒れたのだから長居はせずさっさとこの場から立ち去りなさい、と言われているのだ。アスリューシナは楽しかったと言ってくれたが、体調を崩す原因となった夜会に誘ったのは自分で、五日経った今でも体調が戻りきっていない彼女の部屋へ半ば強引に訪れたのも自分……そう考えるとアスリューシナを盲愛しているサタラの怒り具合も納得せざるを得ない。

しかし、いつもならこの部屋から辞する時はアスリューシナがバルコニーのガラス扉まで見送ってくれて、少し寂しそうな笑顔に向け次の来訪日を告げると頬を染めて喜びを表してくれる顔を十分目に焼き付けてから去るというのに、なんとも離れがたく思ってしまう気持ちが悪あがきへとつながる。

 

「だったら、このままオレがアスナを寝室に……」

「結構でこざいますっ」

 

思わず「ですよね」と言ってしまうそうになる口をぴっちりと閉め、腕の中で気を失っているかのように何の感情も見せず目を閉じている彼女の寝顔を見てキリトゥルムラインはサタラに指示された通り、そうっと彼女を背中からソファに降ろした。その行為に対し頭を下げたサタラだったが口調が和らぐことなく「あとはキズメルと侍女達で対処いたしますので」と言われれば令嬢の寝室になど入れてもらえるはずない事は、時として無茶無謀の行為にでるキリトゥルムラインでもわかりきっていて、領地を往復するしばらくの間、彼女の顔も見られず、声も聞けず、髪にも触れられない事実にがっくりと肩を落とす。

しかし全ては自分が望むこれからの為、と思い、身を屈めてアスリューシナの髪をさらり、と撫でて「すぐに戻ってくるから」と小声で誓った。それからサタラに向き直り主のような口ぶりで今後の事を伝える。

 

「往復の移動も含めて一ヶ月ほどの予定だが、出来るだけ早く王都に帰還する。留守中何かあればサタラの名で侯爵家に伝令を寄越してくれ。家令には話を通しておくから」

「承知致しました。お嬢様はしばらく寝室に閉じ込めますのでご心配なさるような事は何も起きないと思いますが……ええ、今度こそきっちりお元気になるまで一歩たりとも寝室からお出になることは私が許しません」

 

なにやら息巻いているサタラに苦笑しつつも「ほどほどにしてやってくれよ」と言葉を添えるともう一度アスリューシナの寝顔を見てからキリトゥルムラインは音を立てずに彼女の私室から出て行った。




お読みいただき、有り難うございました。
段々と「サタラさん最強伝説」が伝説ではなくなってきました(笑)
さあっ、さっさとご自分のお屋敷にお戻りなさいっ、と
令嬢の私室から追い出したのでしょう。
( ※ 恒例のウラ話は次章と合わせてお届けします )


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【番外編・5】お茶会・1

二人の気持ちが通ったところでキリトゥルムライン侯爵様が
王都を離れていますので、その間、アスリューシナがどのように
過ごしていたか、彼女の親友視点でお届けしたいと思います。


絶好のお茶会日和と言っていいだろう緩やかな日差しが中庭の木陰にセッティングしたテーブルやイスの上へと木の葉の隙間から降り注ぎ、そこに新緑の香りを乗せてそよ風が通り過ぎる。

この陽気ならいつもより長く外でお喋りができるかも、と病弱の友の体調を気にしながら私は先に到着した年下の令嬢二人に丸テーブルを囲んでいるイスを勧めた。

今までにも何度かうちに来てお茶を飲んだり、一緒に買い物に出掛けたりしている小動物のように可愛らしい容姿の子爵令嬢であるシリカ・ヒナ・アヤサリスティマーフェ令嬢はマリーゴールド色のどこもかしこもふんわりとしたデザインのドレスの裾を気にしながら侍女が引いたイスにちょこん、と腰掛けるとそわそわと周囲を見回す。その仕草がまた小動物が周囲を警戒しているようで思わず軽く吹き出すと、今度はぷくっ、と頬を膨らませた。

 

(頬袋に木の実を詰め込んだリスみたい)

 

私の反応が気に障ったのか幼さの残る声で「リズベット様っ」と叱られていると、最後の招待客が案内役である初老の執事の後ろからゆっくりとした足取りでこちらに向かってくるのが見える。

その姿は歳の近い令嬢達が集まって気軽にお喋りを楽しむお茶会にふさわしくスッキリとしたデザインだけど侯爵令嬢としての品も漂わせている落ち着いたシンフォニーブルーの生地で幾重にも折り重なっていている色のグラデーションが見事だった。

私がテープルの二人をそのままに、急いで彼女の元へと駆け寄って満面の笑みで「いらっしゃい、アス……リューシナ公爵令嬢様」と迎え入れると、執事が一礼を取って公爵令嬢様のエスコートをホスト役である私に譲り、私達が歩き始めるまで一歩下がった位置で留まる。すると私に軽く微笑んでから当然のように振り返った彼女はいつ聞いても涼やかな声でうちの執事に「ここまで有り難う」と労いの言葉を届けた。

 

(相変わらず使用人に対しても丁寧よね)

 

身分から言えば会釈だけでももったいないくらいなのに、こんな対応を普通にするもんだから今まで数えるくらいしかうちの屋敷を訪れた事がないにもかかわらず、使用人達の好感度がダントツの一番人気である私の数少ない貴族令嬢の友人、アスリューシナ・エリカ・ユークリネ公爵令嬢様は次にこれまた目を瞠るほど優雅な仕草で私に対しても綺麗な礼をとってくれた。

 

「本日はお茶会にお招きいただき、有り難うございます、リズベット・カジュ・キサノシェ子爵令嬢様」

「こちらこそ……ええっと……お越し頂き?……あぁぁ……まあ、どうぞどうぞ、来てくれて嬉しいわ、アス……リューシナ様」

 

貴族令嬢なら当たり前の淑女としての挨拶を途中で諦めた私に、それまで公爵令嬢様からのお言葉に感動で潤んでいた執事の瞳が懇願に変わってすがりつくように私を見つめている。

 

(ああ……お茶会が終わったら、いつものように「お嬢様も公爵令嬢様のようなお振る舞いをっ」とか言ってきそう……)

 

とにかく今は執事から友人を引き離すべく出来るだけ早足で彼女をテーブルまで案内し、後ろの執事には「アンタはもういいから、屋敷の中に戻りなさい」と目で訴えた。お茶会の席から少し離れた場所に何人か従者は控えさせているし、接待を手伝ってくれる侍女もいるので年配者の出る幕ではないのだ。

少し名残惜しそうな視線を残して執事がとぼとぼと中庭から退場するのを確認しつつテーブルまで辿り着くと先客の二人がいきなり立ち上がり、ピンッと伸びた背筋にこれまたピンッと両脇に沿わせた腕をセットにして直立不動になっている。

 

(こっちもかぁ……初めて彼女がこの屋敷を訪れた時のうちの使用人達もこんな感じだったわよねぇ)

 

なにしろ私が自分から貴族の令嬢を招くなんて社交界デビュー後、初めてだった上にそのお客様が公爵家の令嬢だという事で屋敷全体が震えるくらい緊張感に満ちていた。ところがそのスプラッタ現象並みの緊張は彼女のほわんほわん、とした笑顔と「お友達のお屋敷にお邪魔するの初めてなので、失礼があったらごめんなさい」と困ったように告げた謙虚な言葉にクリームのごとくトロけたのだ。

私は年下の令嬢達のカチンコチンの様子に動じることなくホストとして互いを引き合わせようと口を開いた。

 

「えっと……爵位順で言うとややこしいからここは私が勝手に紹介させてもらうわ」

 

そう言って小動物よろしく緊張のあまりプルプルと震えている小柄な令嬢を紹介する。

 

「彼女はシリカ・ヒナ・アヤ……アヤサリス……ティ……えっと、なんだっけ?」

 

(紹介すると言っておいて子爵家の名前がちゃんと出てこない……)

 

後ろに控えている侍女達から呆れと応援と諦めみたいなオーラがグサグサと背中に刺さって冷や汗が流れそうになった時、隣のアトランティコブルーのロングヘアがさらりと揺れた。

 

「もしかしてアヤサリスティマーフェ子爵家のご令嬢様?」

「そうですっ」

「そうっ、その子爵家っ」

多分シリカ嬢と私が大きく頷いたのは同時だったと思う。

 

「さすがね、アス……リューシナ様。ここの子爵家名、現存する貴族の名前で一番長いのに」

「お父上の子爵様が王城で書記官をされてますよね。とても優秀な方だと父から聞いていましたから」

「うわぁ、有り難うございますっ。父も王城の夜会でアスリューシナ侯爵令嬢様をお見かけして、とても素敵な方だったと申していたので、本日お会いできるのを、私、とても楽しみにしていて……」

 

二つに結んでいるキャメル色の髪が嬉しそうに跳ねた。止めなければそのままどこまでも喋り続けそうなシリカ嬢の勢いを私は手の平と目で堰き止めると次にその隣で明るいパラキートグリーン色のドレスを纏っているご令嬢を紹介する。

 

「で、こっちがリーファ・スグ・ガヤムマイツェン侯爵令嬢様」

「ふぇぇっ!?」

「どっ、どうしたのっ、アスナ」

 

友の滅多に見ない慌てっぷりにこっちまで驚いてしまって、ついいつもの呼称が口から零れた。

 

「うっ……うううんっ、な、何でもないよ、リズ」

 

(あちゃっ、こっちも呼び名が砕けちゃってる)

 

私達の互いに疎通のないオロオロ状態をポカーン、と見ているだけだったリーファ嬢が何かに思い当たったのか、身を縮込ませて「えへっ」と笑うとストレートの短い黒髪が頬にかかる。

 

「自分の噂なら知ってます……貴族の令嬢らしくない事ばかりしてますから。しかも、よりによって三大侯爵家のガヤムマイツェン家の令嬢だなんて本当に頭が痛くて……。家族や執事からも事ある毎に立ち居振る舞いを淑やかに、って言われるので意地になって社交界デビュー後もそれまで通りに振る舞ってるんです」

 

務めて明るく振る舞っているリーファ嬢の様子にギュッと胸を掴まれたのは私だけではなかった。隣の友はさっ、と姿勢を正すとゆっくりと、そして深く頭を垂れる。

 

「いきなり失礼な態度をとってしまい申し訳ございません、ガヤムマイツェン侯爵令嬢様……ですがその理由は侯爵令嬢様がおっしゃったようなものではないのです。実は私……前々から侯爵令嬢様にお会いしてみたいと思っていたので……まさか今日それが叶うなんて……」

「そうなのっ、リーファ様。アス、……って、もういいわよね、いつもはアスナって呼んでるくらい仲良しの私の友人のアスリューシナ様には今日のお茶会では私達より若い令嬢達を紹介するって事しか伝えてなかったのよ」

 

私は必死でこの場の雰囲気を和らげようと言葉を重ねた。だって、爵号はリーファ嬢よりずっと下だけど、私も到底貴族令嬢らしからぬ性格や振る舞いだし、それを「リズらしくて私はいいと思うけどな」と優しい笑顔で肯定してくれたアスナも、そんな彼女を紹介したいと言った時、純粋に喜びの色を表してくれた年下の令嬢達も本当にとても素敵な私の友人達なんだから。

先に落ち着きを取り戻してリーファ嬢に謝罪をしたアスナに侯爵令嬢様は自嘲気味の笑顔を消してゆっくりと頭を傾げた。

 

「私のこと……ご存じだったんですか?」

 

その問いに、今度はアスナが表情を一転させて花が咲くように微笑む。

 

「はい、ガヤムマイツェン侯爵家のご兄妹は染めずともとても綺麗な御髪の色で、それに侯爵令嬢様は女性ながらも闊達なご気性で剣の腕も相当なものとか……私はいつも屋敷に籠もってばかりの生活なのでとても羨ましくて。それにお会いしたばかりですけれど、表情豊かな侯爵令嬢様の笑顔はきっととても素敵に違いありません。だって侯爵令嬢様からはお日様と風の良い匂いがしますもの。お側にいるだけで元気を分けてもらえそうです」

 

アスナからの言葉に嬉しそうに頬を染めたリーファ嬢が今度こそ正真正銘の笑顔となって、恥ずかしさを堪えるように小さくアスナへの願いを口にした。

 

「あの……私のことはリーファと……」

 

そこに便乗するようにシリカが声を弾ませる。

 

「あっ、なら、私もシリカでっ」

 

二人を交互に見つめたアスナは優しく笑って一人一人をしっかりと見つめた。

 

「はい、では……リーファ様と……シリカ様…………では、私の事もアスリューシナと……」

 

そこで二人は緊張が解けて安心したように安らいだ笑顔を浮かべ、同時に私の友の名を呼んだ。

 

「「はい、アスリューシナ様」」




お読みいただき、有り難うございました。
リズのお屋敷でお茶会(女子会)です。
ちょっと遠くに配備されている侍従さん達、目の保養になってます(笑)


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【番外編・5】お茶会・2

リズベットの仕切りでお茶会に集まった令嬢達。
初対面の三人が少しうち解けてきて……。


誤解と緊張が解けたリーファ嬢は本来の元気に満ちた笑顔を取り戻し、アスナに向けて軽く頭を下げた。

 

「有り難うございます、アスリューシナ様……実は私、兄がいるんですけど……って、ご存じですよね。住んでいる屋敷も違うので滅多に顔を合わせないんですが、つい最近、私が剣の稽古をしていたら偶然通りかかったみたいで、珍しく声を掛けてきたんです。『お前もユークリネ公爵令嬢様の立ち居振る舞いを機会があったら見習うといいぞ』って……あの兄が他所の貴族令嬢様の話を私にするなんて初めてで、それでどんな方なんだろうって……今日は朝からドキドキしてましたっ」

「そ、そんな……キ……ガヤムマイツェン侯爵様が……」

「へえ、貴族の社交場には滅多に顔を出さないガヤムマイツェン侯爵様がお屋敷からだってほとんど出てこないアスナの事をねぇ……顔見知りなの?」

 

両頬に手を当ててリーファ様の言葉を嬉し恥ずかしそうに受け止めていたアスナがカッチーンと氷結した。それからパチパチと瞼から融解してぎこちなく唇が動き始める。

 

「えっ?、あの……えっと……そうっ、王城の夜会、あの時、初めて遠目にお見かけして……それで、それから……先日、ルーリッド伯爵様の夜会に……」

「あれ?、あの夜会、アスナにも招待状届いたの?、私は出席しなかったんだけど……シリカ様はまだ社交界デビュー前だから届いてないわよね?」

 

私の問いかけに立ったままのシリカ嬢が頷く。けれどリーファ嬢が思い出したように口を開いた。

 

「ああ、でも珍しくうちの兄は出席したんですよ、その夜会。確か前日からルーリッド伯爵様のお屋敷にお邪魔してたみたいで、私の侍女達が話してました。私はそういうの苦手なので行きませんでしたけど」

 

そこで記憶を刺激された私はつい最近、興奮気味にその夜会に出席した別の友人から無理矢理聞かされた話を思い出す。

 

「そうそう、そう言えば私も聞いたわ。あのガヤムマイツェン侯爵様がどこかのご令嬢を同伴されて夜会に現れたとかで、そりゃあもう大変な騒ぎになって、あまりのショックに失神した令嬢まで出たとか……」

「ええっ、そうなの!?」

 

なぜかアスナが再び心底ビックリした表情をしていて、今日の彼女はいつもの穏やかな雰囲気とは少し違ってなんだか前より明るくなったと言うか、しかも一段と綺麗になったような……とにかく少し前まで体調を崩して、しばらくベッドから出られない状態だったと聞いていたから、その姿に嬉しさと安堵が湧き上がる。

 

「へぇっ、あの兄がご令嬢を、ですかぁ……その話は知らなかったです。どこのご令嬢なんですか?」

「いや、私もなんだかすっごく興奮して支離滅裂に喋ってるのを一方的に聞かされただけで、令嬢の名前は……言ってなかったかな……」

「あっ、あのね、リズ……」

 

何かを言いたそうにして俯き加減でモジモジとしていたアスナを見て、私は自分のうっかりに気づき慌ててリーファ嬢とシリカ嬢に向き合った。

 

「あ、ごめん、アスナ、紹介の途中だったわね……シリカ様、リーファ様、今更だけど、こちらがアスリューシナ・エリカ・ユークリネ公爵令嬢様よ」

 

私の紹介に一瞬きょとんとしたアスナだったけど、すぐに表情をふわり、と微笑みに変えて誰もが溜め息を漏らす優雅な所作を披露してくれる。

 

「初めまして、アスリューシナ・エリカ・ユークリネと申します。恥ずかしい事に身体があまり丈夫ではないので社交界にも殆ど参加できず、世間知らずではありますが、仲良くしていただけると嬉しいです」

 

その気品溢れる声と振る舞いに茹で上がったタコのように、ぼうっ、と頬を染めて立ち尽くしているリーファ嬢とシリカ嬢に向かって私は「ちょっとっ、二人ともっ」と小声で活を入れた。私の声にキャメル色のツインテールが揺れる。

 

「あっ、ごめんなさいっ。アスリューシナ様、こちらこそ、宜しくお願い致します」

 

ぴょこり、とシリカ嬢が頭を下げるのを見て、隣のリーファ嬢も急いでお辞儀を返した。

 

(うんうん、そうなのよねぇ、みーんな最初は見惚れるのよね)

 

まるで自分のことのように自慢げな気分になった私は機嫌良く「さあ、座って、座って」と三人にイスを勧めれば、心得た侍女達が素早くそれぞれの令嬢達の後ろに付いて、着座を手伝う。全員が席に落ち着いたところで他の侍女達が次々と茶器などを運んで来てくれた。その中でも古参の侍女が「お嬢様」と私に向け用意した覚えのないお菓子を見せに来る。

 

「あ、もしかして……アス……リューシナ様から?」

 

笑顔で頷く侍女のすぐ傍からアスナの少し恥ずかしそうな声が添えられた。

 

「リンゴのタルトなの。形が不揃いで恥ずかしいんだけど……味はね、美味しいって言って下さったから……大丈夫かなって」

 

(ああ……アスナお手製のお菓子が食べられるなんて本当にユークリネ公爵家の使用人達が羨ましい)

 

本当はもっと頻繁に交流を深めたいんだけど、本人も言っていたように彼女は身体が丈夫じゃないから今回みたいに屋敷に招待するのも本当に久しぶりで……それくらい彼女はずっと屋敷の中にいる。いつだったか、そんなに毎日寝込んでるの?、と聞いてみたら、とにかく大人しくしているのが一番だから、と少し寂しそうに答えてくれて、だったらいつも「大人しく」何してるの?、と聞いたら、静かに読書をしたり、刺繍をしたり……と言ってから、ちょっと間を開けて、お菓子を作ったりもしている、とこっそり教えてくれた。

普段から口癖のように自分の執事に「どこでお育て方を間違えたのでしょう」と呟かれ続けている私でもわかる、普通の貴族のご令嬢は自分で料理なんかしない……下級貴族の私でさえ調理場なんて入り口まで行った事はあるけど、それは執事に内緒で調理長に小腹が空いたと訴える為で……だから公爵家の令嬢が調理場に行って自分でお菓子を作ると打ち明けられて私は思わずこう言ったのだ……「アスナらしくていいわね」って。

それからアスナはうちの屋敷に遊びに来る時は必ずお菓子をお土産に持って来てくれるようになったんだけど……これがまたどれもお店に並んでるのみたいに美味しくて、彼女の自作だと知らないほとんどの使用人達は「公爵家の料理人ってば神!」と言いながら余ったお菓子の争奪戦を繰り広げているらしいから、うちの場合、私の淑女教育もなってないけど、使用人教育だってかなりゆるゆるだ。

私はそのリンゴタルトをテーブルの中央に置くよう指示してから「じゃ、お茶会を始めましょ」と両の手の平を重ね合わせた……背後の侍女達から、そのタルト、残しておいてくださいねー、の視線を一身に浴びながら……。

 

 

 

 

 

予想通り、アスナが持参してくれたタルトは二人の年若い令嬢達にも大好評だった。アスナ自身は「リンゴの名産地であるガヤムマイツェン侯爵家のリーファ様のお口に合うでしょうか?」と、ちょっと不安そうだったけど、リンゴの味に関しては舌が肥えていると思われるリーファ嬢も「本当に美味しいですっ、ユークリネ公爵家の料理人さん、すごいですね」と二つ目に手を伸ばしていたし……と同時にタルトが減る度に後方から嘆きのオーラが漂ってくるのはどうにかして欲しい。

二つ目のリンゴタルトを食べ終わったリーファ嬢が満足そうに紅茶を啜りながら「うちの兄もリンゴのタルト、好物なんですよ」と言うと、なぜかアスナが淡く頬を染めて「……そうなんですね」と嬉しそうに微笑んだ。

私のような子爵令嬢はこの国の三大侯爵家の当主であるガヤムマイツェン侯爵様なんて近くに寄った事もないけど、いつも遠巻きに女性に囲まれてるくせに無愛想で物静かな印象しかなくて、その侯爵様がタルト好きと聞いて思わず口が開きっぱなしになる。

 

「……甘い物がお好きなんて……ちょっと、イメージと違う……ような……」

 

少し失礼だったかな?、と思った私の発言に、リーファ嬢は苦笑で頷いてくれた。

 

「そうなんですよね。爵位を継いだ後は色々と大変みたいで、兄は本邸で生活してて、私は隣の別邸なのでなかなか会う機会もないんですが……」

 

そこまでの説明で、さすが三大侯爵家、と思ってしまう。家族がそれぞれ違う屋敷で暮らしてるとか、どれだけ広いんだろうガヤムマイツェン侯爵家の敷地。うちなんかみんなで一緒にひとつの屋敷だし、アスナの所も家族全員同じお屋敷で生活してるけど、ほとんどいつも侯爵様ご夫婦もお兄様も留守にしてるって言ってたから、うちとはちょっと違うかもしれない。それにお屋敷の大きさ自体がうちとは全然、比べものにならないくらい違う……。

そんな我が家のこじんまり事情に思いを馳せている私の前でリーファ嬢の予想外な言葉は続いた。

 

「子供の頃は一緒に領地で育ったんですけど、その頃は笑顔いっぱいに領地の子供達と一緒になって朝から晩まで領地内を元気に走り回っている兄の後ろを私はいつも追いかけてて……」

 

リーファ様が教えてくれる幼い頃のガヤムマイツェン侯爵様の姿を想像して……想像しようとして……出来なかった。

だって私が知っているガヤムマイツェン侯爵様と言ったら、無口、無表情、無関心を全身に纏っていて、例え正当な理由があったとしてもその正面に立つなんて絶対に遠慮したい存在だ。いつだったか勇者と呼ぶに相応しいどこかの令嬢が勇気を振り絞ったんだろう、震える両手を握りしめて「ガヤムマイツェン侯爵様っ」と呼び止めたら、ちらり、と振り返った侯爵様の視線で彼女は射殺されて、その場に崩れ落ちてたし……うーん、でもあの時のご令嬢は侯爵様の不機嫌顔に恐れを成した、と言うよりはその視線にハートを打ち抜かれたようでお顔が蕩けてたけどね。




お読みいただき、有り難うございました。
アスリューシナ手作りのタルトを「美味しい」と「言って下さった」のは
もちろん、あの侯爵さまです。
兄妹そろって好物のようですね……お茶会が終わった後、タルトはいくつ残って
いるのか……侍女達はハラハラしながらお給仕してます(笑)
侍女として働くならリズベットの屋敷が一番堅苦しくない職場かも……。


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【番外編・5】お茶会・3

お菓子を食べながらお茶会を楽しんでいる令嬢達。
話題はガヤムマイツェン侯爵さまの小さい頃の様子で……。


あの侯爵様が元気いっぱいで笑っている幼少のお姿ねぇ……目を閉じ、思いっきり眉間に皺を寄せて想像力を集結させてみたけど……やっぱり無理だわ、と私が心の中で白旗を揚げていると、隣のアスナの「ふふっ」と楽しそうな忍び声が耳に飛び込んでくる。

驚いた拍子に見開いた目と首を巡らせたのは同時で、私の視界には「花が綻ぶ」とはこんな表情を言うのね、の見本のようなふわりとした笑顔があって、すっかり慣れたと思っていた私でも頬が染まるのを止められない。

でも、ガヤムマイツェン侯爵様の幼い頃のご様子を楽しそうに聞いていたアスナの顔はすぐに曇ってしまう……それはリーファ嬢が「でも、ある時期を境に私や両親とも距離を置くようになったんです」と告げたからだった。

 

「理由は……多分、自分が侯爵家の次期当主だって強く意識する出来事でもあったんだと私は思ってるんですけど……」

 

その言葉に隣のアスナが無言でほんの僅か首を傾げる。

 

「それからはあまり無駄な会話もなくなって……でも剣の稽古は相変わらず熱心にしてましたね。そうこうしているうちに王都に移って暮らすようになって別々の生活が始まったので、ちょっと疎遠になってたんです。でも最近はまた表情が明るくなってきたって家令も言ってましたから、きっと何か良いことがあったんですよ。ご令嬢と一緒に夜会に出るなんてちょっと前の兄では考えられないですし、そうそう、今も領地に戻ってるんですけど、これが意味不明の強行軍で……」

 

それまで、ちょっとずつ、ちょっとずつ、タルトを囓りながら小さな口をもぐもぐと懸命に動かし、リーファ嬢の話に頷いていたシリカ嬢だったけど、やっとタルトひとつを食べ終わったらしく話に参加してきた。

 

「リーファ様……『意味不明』って?」

「だってもうすぐ建国祭なのに、この時期に王都を離れるなんておかしいじゃないですか。なのに、家令を始め兄のとこの使用人達は諸手を挙げて今回の領地帰還を応援してるんです。兄の屋敷の侍女達はみんなそこそこ気合いの入った年齢の既婚者ばかりなので、私の侍女達となかなか話が合わないみたいで、情報が流れて来ないんですよねぇ」

 

さすが三大侯爵家の中でも一番若い独身のガヤムマイツェン侯爵様となると、身近に置く侍女の年齢にも気を遣うわけね、と感心していると、今度はアスナが口を挟んでくる。

 

「リーファ様もご同行を、とはならなかったのですか? 馬の扱いもお上手だと伺ってますが……」

「えっ、よくご存じですねアスリューシナ様……はい、確かに馬は結構得意ですけど、今回は最低限の休憩しか取らずに、とんぼ返りをするって聞いて、それじゃあ一緒に行ってもゆっくり出来ないな、と思って王都に残ることにしたんです」

「そうなのですか」

「それにしても気になるわね、侯爵様の御用事って一体何かしら……そこまで急ぐなんてよっぽどの事でしょ?」

「はい……けど、家令に聞いても『ご主人様のお許しがなければ』で教えてくれないし、兄の侍女達にそれとなく聞いてみても、なんだか嬉しそうな含み笑いをしながら『お嬢様にはまだ申し上げられません』って言うばかりで、挙げ句の果てには『早く社交界の花と呼ばれるような令嬢に』だの『素敵な殿方を射止めてきて下さい』だのと矛先が私に向いてきて……」

 

(ああっ、その居たたまれない空気感、わかるわぁ……)

 

同士を得たような気分に浸っていると、この中で只一人、そんな経験は皆無と言いたげな純朴な瞳のシリカ嬢が他人事のように「大変なんですね……」と呟いた。

 

(はいっ、そこっ、抉ってるからっ……そんな呑気さ振りまいていられるのも今のうちなのよっ)

 

自分よりちょっとばかり若さと可愛らしさを併せ持つ小柄な子爵令嬢にひがみ根性丸出しの視線を向けると、慰めるような物言いでアスナが「リズ……」と私の名を口にする。

心情が視線だけでなく顔全体に無意識ににじみ出ていたみたいで、慌てて表情を元に戻そうと頑張るけど隣からの親友の視線が痛い……。

 

(そうなのよね、意外とこういうプレッシャーのかかっていないご令嬢が社交界デビューの夜会でいきなり貴族男性の恋心をあっちこっちに芽生えさせたりするのよね……そうそう、私の隣にいる公爵令嬢様もあの二年前の夜会で一体何人のご令息たちの胸の内に種をばらまいたことか……)

 

そうして私は懐かしくも記念すべき私達が出会った社交界デビューの夜を思い返した。

 

 

 

 

 

履き慣れないヒールに振り回されてすっかりヨレヨレになった私は、ここが王城の夜会会場でなければすぐにでも脱ぎ捨てたいダンス用シューズを恨めしい気持ちで見つめてから、心の中で、よっこらしょ、と気分を持ち直して膝を伸ばし、腰を伸ばし、ここ数ヶ月で何十回、うううん、何百回と行儀作法の先生から指導された通り、最後に背筋を伸ばして、胸を張り、ちょっとだけ顎をツンッと上向きにして『華麗な淑女の姿勢』を取り戻すと会場の喧噪からこっそり抜け出して一番端のバルコニーへ続く扉を押し開けた。

ここなら会場から一番離れてるし、出入り口も柱の陰で見えにくいから気づく人も少なさそう、とやっと人目を気にせず休憩できる場所を探し当てた安堵感から、バルコニーに足を踏み入れるなり腰をさすり「はーっ、なんだって皆、楽しくもない話であんなに笑えるのかしらねぇ」と本心を溜め息と共に吐き出す。

 

「本当に、同感です」

「うぎゃぁっ」

 

全く油断しきっていた素の私の前方、会場のこんな僻地に、薄暗がりの中でもハッキリ美少女とわかる令嬢が佇んでいて、しかも鈴を転がすような声で私の淑女らしからぬ意見に同意を示してくれるとは、これが叫ばずにいられようかっ。

足の痛さもコルセットのキツさも忘れて固まった私に対し、バルコニーの最奥にいたご令嬢はちょこん、と首を傾げ、次には申し訳なさを目一杯瞳に浮かべて「ごめんなさい、驚かせてしまいましたか?」と尋ねてくる。

でも落ち着いて考えると、この状況、先にこのバルコニーに来ていたのはこちらのご令嬢なわけで、どちらかと言えば後からやって来た私の方が「ごめんなさい」と言って引き返すべきなのだ。そう判断して今更ではあったけどドレスの裾を軽くつまんで「失礼しました」と自分の所行とお耳汚しの本音を謝罪して会場へと方向転換をしようとすると、すかさず「あの……」と躊躇いがちの言葉が届く。

 

「ご気分が優れないのですか?、私はもう十分休憩しましたので、どうぞこちらをお使いください。それとも誰か人を呼びましょうか?、もうすぐ私の兄が来ると思うのですが……」

 

そう言いながらこちらに近づいてくる。

 

(ああ、これこれ、これだわ……『優雅な淑女の歩き方』)

 

他にも『可憐な淑女の微笑み』やら『小悪魔な淑女の上目遣い』なんてのもあったけど……ちなみに『蠱惑的な淑女の流し目』は最上級者用のテクだとかで、私は初級者用の『清らかな淑女の眼差し』……一歩手前、までしか習得できずにいる。

行儀作法の先生よりも淑やかで鮮やかな足取りの彼女が目の前までやってくると私は自分の感想が間違っていた事に気づいた。

 

(……美少女なんてレベルじゃないわね……)

 

人間?、本当に私と同じ女の子?……いっそ王城の園庭に隠れ住んでいる妖精と言われても信じてしまうそうな容姿だ。でもその顔色はただ疲れているだけの私より悪そうで、思わず私も歩み寄る。

 

「私よりあなたの方が具合が悪そうだけど……私は大丈夫よ。慣れない場所と普段身につけないドレスや靴に加えて面白くも無い会話で気疲れしただけだから」

 

そうなのだ、ダンス用のシュースはもちろん、こんな裾の広がったドレスだって普段、屋敷の中では着たことがない。どれもこれもダンスで自分をより美しく見せる為だったり、挨拶のお辞儀でふわり、と揺らしたり、ちらり、と見せたりする為らしいけど、そのレベルに達していない私には枷でしかなく、父の監視がなければバルコニーで休憩なんてせずに今すぐ屋敷に戻りたいくらいなのだ。




お読みいただき、有り難うございました。
アスリューシナとリズベットが初めて出会ったのは十五歳の時の
社交界デビューの夜会でした。
ちなみにアスリューシナは『小悪魔な淑女の上目遣い』まで、特に
訓練することなく素で習得済みです(笑)


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【番外編・5】お茶会・4

社交界デビューの王城の夜会で出会ったアスリューシナとリズベット。
この後、二人の関係は……。


初対面なのにジッ、と顔を見つめている私の不躾な視線を不愉快そうにするでもなく、妖精みたいなご令嬢は「有り難うございます」と言ってから微苦笑を浮かべる。

 

「でも、私はいつもこんな感じなの」

 

私の口調に合わせてくれたのか、少し砕けた言い方で「いつも」と告げた時の彼女の顔がとても寂しそうで、悲しそうで、どういう意味なのかを問おうとして、ふと、そんな質問をする前に名前すら名乗っていなかった事実に気づいた。

 

「ジロジロ見てごめんなさい。私はリズベット・カジュ・キサノシェ。父はキサノシェ子爵よ」

 

すると目の前の令嬢が両手を胸の前で握りしめ、薄いアトランティコブルーの瞳を輝かせ始める。

 

「キサノシェ子爵様っ。子爵様のご領地と言えば立派な鉱山がありますよね?」

「あ……あるわ。ってゆーか、ほぼ鉱山しかないから、あとは採掘場を下りて鉱物を加工する職人街しかないってゆーか……」

 

要は平地の少ない領地だから領民は鉱夫と加工職人、その家族達と彼らの暮らしを支える商人達、という少し特殊な土地を治めている。私は気にしてないし、小さい頃から鉱山へ遊びに行くのは楽しみのひとつだったくらいなのに、どうも他の領地とは違う、というだけで偏見の目で見られる事も少なくない。ところが目の前の人外の美少女は偏見とは正反対の色で瞳からキラキラと星を飛ばしている。

 

「キサノシェ領産の刃物、とっても使いやすいです。刃の薄さはもちろんですが、刃の長さと持ち手の柄の部分の重心バランスが絶妙で、それに刃先の角度もすごく計算されてますよねっ…………と……えっと…………って、聞いた事が、ありま……す』

 

最後の方で我に返ったのか、尻つぼみ状態で付け足された言葉……全然信憑性ないから。

 

「とりあえずそのお褒めの言葉が誰のものかはさておき、領地の特産物を気に入って貰えたのはとっても嬉しいわ。でも、その刃物は包丁の事?、それとも剣?、ノコギリや斧じゃないわよね?」

 

刃物と言っても色々あるんだし、うちは全般を手がけてるけど……まあ、どれも高評価をいただいてるから、使ってくれている人には良さがわかるんだ、って思うと少し……かなり誇らしい。ちょっと興奮が治まったご令嬢は恥ずかしいのだろう、目線を下げて「包丁です」とだけ言って口を噤んでしまう。

 

(うーん、このご令嬢と包丁ねぇ……なんか想像できないけど、剣や斧はもっと想像できないし……)

 

そう思って改めてご令嬢を見るとさっきまでは人外の存在かと思ってたのが嘘のように、自分の発言を恥じ入っていて、そんな姿はとっても普通の令嬢っぽくて……ううーん、これは普通よりもかなり純粋と言うか素直すぎな反応よね。

今時、王都で社交界デビューする年齢の令嬢にこんな子いたんだなぁ、と思った時には口から勝手に言葉が飛び出ていた。

 

「ねぇっ、あなた、私と友達にならない?」

 

私の突然の誘いに件のご令嬢は「ふえっ」と驚きに目を見開いて、それから焦ったように言葉を詰まらせた。

 

「えっ?、えっと……あのっ……その……お……お友達?、私と?」

「そう……あなたの気が進まないなら、どうしても、とは言わない……けど」

 

(ちょっと無理かしら……今さっき会ったばかりだし)

 

私はかなり乗り気なんだど、こればっかりは貴族社会に身を置く者として、色々と簡単にいかない事くらいはわかっている。まず基本は当人同士の気持ちだけど、それがあってもこの社会には確固たる身分差があるのだ。私の家の爵位は子爵……目の前のご令嬢が同じ子爵か男爵あたりなら問題ないけど、薄暗いバルコニーでもわかるほど彼女のドレスは最高級品だ。こんなドレスを仕立てる財力があるのはかなり裕福な伯爵家か更に上位の貴族のはず。

 

(上級貴族が下級貴族と友達なんて、あまり良い顔はされないものね……)

 

つい思ったままの願いを口にして彼女を困らせてしまった、と少し反省して「ごめんなさい、忘れて」と明るく笑って言うつもりだっのに、それよりも早く彼女が私の両手を自らの両手の中にむぎゅっ、と包み込む。

 

「ホントにっ?、お友達?…………嬉しいっ」

 

(えっ?……)

 

誘った方の私が唖然とするのも失礼な話だけど、彼女は心の底から喜びに満ちた表情をこちらに向けていて、普段「爵位なんて関係ないのに」が信条の私でも「子爵の娘だけどいいの?」と思ってしまう。

でも、まぁ、ここで出会えたのも何かの縁よね、とすぐさま内の不安を否定すると、今の今まで嬉しさ一杯の彼女がいきなりシュンッと眉尻を下げた。

 

「あ……でも……あの……リズベット子爵令嬢様……私……実は、屋敷から外には……出られないの」

「ええっ?」

 

打ち明けられたあまりにも突拍子もない内容に淑女らしからぬ、要するにいつも通りの、大口を開けて驚いてから「あれ?」と首を傾げる。

 

「今、ここ、お屋敷じゃないわよ」

「うん、今夜は特別。やっぱり社交界デビューはしなくちゃダメだって言われて……でも普段は身体が弱いから……」

「ずっとお屋敷の中にいるの?」

 

小さな頭がすぐに縦に揺れる。

身体が弱い……なるほど、だから最初に会った時も顔色が悪そうに見えたのね。そっか、外に出られないせいでこんなに肌も白いのかぁ……でも今夜は王城まで来てるんだし、夜会が始まってから結構時間が経ってるけど、見たところそう具合が悪くなっているようにも見えない。ちょっとの可能性に希望をのせておずおずと聞いてみる。

 

「うちの屋敷で、少しの時間、お茶しながらお喋りするのもダメ?……何も一緒に劇場で観覧しましょうとか、買い物に行きましょうとかは言わないわ。無理しない程度で……いいんだけど……」

 

探るような視線を送ると、垂れ下がっていた彼女の眉がぷるぷると復活し始める。

 

「お友達のお屋敷でお喋り……うんっ、したいっ。お父様にお願いしてみます。あまり長い時間は無理だけど……」

 

彼女が口にした「お父様」という単語を聞いて「あっ」と気づく。

 

「そうだ……あなたの名前、まだ聞いてなかった……」

 

名前も知らずに友達要請なんて、自分でも随分うっかりだったと思う……思うけど、あの時はどうしても彼女とこれっきりなんてイヤだったのだ。私の言葉で彼女も「あっ」と短く声をあげてから私の手を離し、ふわり、と微笑んで細い指でドレスをつまみゆっくりと腰を落とす。完璧な『流麗な淑女のお辞儀』を披露され、私はうっとりとそれを見つめた。

 

「大変失礼いたしました、リズベット・カジュ・キサノシェ子爵令嬢様。私は……」

 

突然、背後からカチャッ、と扉の開く音がする。

新たに休憩場所を求めてやって来た仲間か、それとも彼女の言っていた兄上だろうか?、と振り返った私の目には長めのブライト・ゴールドの髪を後ろに束ねた端麗な顔立ちの二十台前半と思われる男性貴族が立っていた。頬にかかった後れ毛を指で耳にかけてから、にこり、と微笑む。

細められた目は広間を背にしている逆光でも見間違えようがないほど陰湿な光を宿していて、数歩後ずさりをしてしまった私はちょうど友達となったばかりの彼女の隣に並ぶ形となって男性貴族と相対した。

続いて少し芝居がかったと言っていいくらい張りのある声が男性から発せられる。

 

「こんな所にいたのかい。ずっと、ずっと君を探していたんだよ。ああ、やっと見つけた。僕がどれだけ君を捜し求めていたか……さあ、僕の所においで」

 

大げさに両手を広げ、私なんか眼中に入っていない様子で一心に隣の友を見つめる男性の目は異常なまでに高揚していて、気持ちが悪いと言うより狂喜じみた恐怖を覚えた。多分、私と同様の感情を持ったのだろう、隣り合っている私の腕をすがるように彼女が触れてくる。私は更に彼女の手を上から握って小声で「知り合い?」と問いかけた。

すぐに何度も首を横に振る彼女。それを確認してから改めで視線を目の前の男性に戻して大きく息を吸い込む。

 

「女の子同士のお喋りの場に割り込んでくるなんて、ちょっと不作法だと思いますけど」

 

そこでようやく私の存在に気づいたような表情の男性は訝しげな視線を遠慮なくぶつけてくる。

一転して氷のように冷ややかな目だ。まるで同じ人間とも思っていないような視線を受け、今度は得体の知れない不気味さで寒気が背中を這い上がってくる。一見すれば整った造りの顔で、多分遠巻きにする分には多くの令嬢達が頬を染める容姿だけど、なんて言うか、腹に一物あるなんて生やさしい感じじゃなくて、言葉さえ通じない別世界の価値観を持っているような温度のない存在感。

そんな男性貴族様から、声を掛ける事さえ厭わしいと言いたげに眉をひそめて吐かれた「君は?」の短い問いかけに胸を張って答えるべく、私はいつの間にか震え始めていた足に力を込めた。

 

「友達です」

 

私の返答に触れている彼女の手がキュッとすぼまるのとほぼ同時に嘲るような声が男性から浴びせられる。

 

「へぇっ、友達ね? ユークリネ公爵家の深窓令嬢にお友達がいらしたとは知らなかった」

 

その時、グイッと私の腕が彼女によって引っ張られ、私を庇うように斜め前に踏み出した彼女の凛とした声が響いた。




お読みいただき、有り難うございました。
はぁっ、やっと、とうとう、ついに台詞付きのご登場です。
回想シーンが初台詞って随分ひどい扱いな気もしますが……。


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【番外編・5】お茶会・5

王城のバルコニーで休憩をしていたアスリューシナと
リズベットの前にひとりの男性貴族がやって来て……。


「本当です。これ以上私の友人に失礼な態度をお取りになるのなら、オベイロン侯爵様といえど父を通して抗議させていただきます」

 

(オ……オベイロン……って……三大侯爵家のっ!?)

 

さすがに爵位軽視の私でも我が国のトップクラスの貴族の名を聞けば自分のしでかした事の重大さは認識できるし、何より、そのオベイロン侯が口にしたユークリネ公爵家の名だって雲の上の家柄で……。

 

(えっと……つまり……ここにいる二人って……最上級貴族じゃないのっ)

 

そんな私の驚きなんて完全無視で、侯爵様は少し意外そうに、それでいて彼女の言葉を面白がっている様な下品な色を瞳に宿して公爵令嬢様を見つめ返した。

 

「ふぅーん、僕のこと、わかるんだ」

「今宵、夜会の場で何度か視線を感じましたので、兄に尋ねたところオベイロン侯だと」

 

敢えてどんな視線なのかは言わなかったけど、なんとなく想像つくなぁ……粘着質っぽいから、この人。

そこで私の想像を裏付けるように侯爵様の唇が歪むように微笑んだ。

 

「なら話は早い。僕は君がとても気に入っていてね……」

 

どこまでも上から目線で物を言う候に私も段々と腹が立ってくる。確かに貴族のトップだけど、三大侯爵家だけど、だからって何をどう言ってもいいって事にはならないはずで、こちらに向けて侯爵様が一歩を踏み出した途端、私の腕を掴んでいた公爵令嬢様の手がビクリと震えた。

自分が令嬢を怯えさせているなんて思いもしていないのか……うううん、この人は例え怯えが伝わっても気にしたりしない、それどころかその姿を楽しむような種類の人で、隣の友に近づけてはいけないと本能が告げる。

相手は私の家の爵位なんて比べものにならないくらい高位の侯爵で、しかも成人男性だ、私がどう行動したところで敵うはずないってわかってるけど、だからって友達を見捨ててはおけない、そう決めて公爵令嬢様を背に庇おうとした時、更にバルコニーの扉が開いて勢いよく一人の男性が飛び込んできた。

 

「すまない、アスリューシナ。遅くなった」

 

すぐ隣から「お兄様」と小さく安心した声が聞こえて、ああ、この人が、とつられて緊張が緩む。やってきた公爵令嬢様の兄上は兄妹と言うだけあって目の前の侯爵様に負けないくらいの美丈夫だ。軽くあがっている息を整えながらこの場にそぐわないふわり、とした笑みを浮かべて邪魔者扱いの視線を突き刺している侯爵様に歩み寄った。

 

「これはこれはオベイロン侯爵様、こんな所にいらしたのですか。夜会会場でご令嬢方があなたをお探しでしたよ。見つかって、ここに押しかけてこられたら大変ですね。今宵は国王様もご列席ですし、何より社交界デビューの若者達が主役ですから我々は引き立て役なのでしょうが……」

 

涼しげな面持ちでこれ以上ここに居座ると騒ぎになりますよ、と示唆するユークリネ公爵家ご令息の横を、表面上は穏やかに微笑んで「ああ、そうだな、そろそろ会場に戻るとしよう」と歩み去る瞬間、射殺すような気を放ってオベイロン侯爵様はバルコニーから出て行った。

何事も動じないタイプかと思っていた公爵令息様が、ふぅっ、と息を吐いて肩の力を抜いたのがわかる。

しかし、すぐに表情を引き締め駆け寄ってきて、妹である公爵令嬢様の両肩をガシッ、と支え瞳を覗き込んだ。

 

「大丈夫か?、アスリューシナ」

「遅いわ、お兄様」

「ごめん、今年のデビュタントは積極的な子が多くてね……」

 

どうやら、このバルコニーに一人残してきた妹の元へと戻ろうとする兄は今宵デビューしたての令嬢方に次から次へと言い寄られていたらしい。

無理もないわね、と間近で誰もが見惚れそうな顔を凝視している私へ、その視線が合わされる。

 

「こちらのご令嬢は?」

 

その問いに私が答えるよりも早く、未だ腕を掴んでいる公爵令嬢様が楽しそうに笑った。

 

「私の出来たばかりのお友達、リズベット・カジュ・キサノシェ子爵令嬢様です。オベイロン侯爵様から守っていただいたの、お兄様からもちゃんと御礼をおっしゃってね」

 

そう言ってから私の腕を離すと「でもまずは、先程の続きを……」と言ってから正面に移動して、再び『流麗な淑女のお辞儀』をとる。

 

「私はアスリューシナ・エリカ・ユークリネと申します。先程は本当に……有り難う……ございました」

 

姿勢を元に戻して、ちょうど後ろにいる兄上様に振り向くと声を柔らかくして「お兄様」と呼びかけた。

 

「今回ばかりは……遅くなった事……許して……差し上げます。だって……リズベット様と……お友達に……なれ……たから」

 

微笑んでいるアスリューシナ公爵令嬢様の身体がグラリと傾いてそのままストン、と兄上様の腕の中に崩れ落ちる。

ええっ、と驚いて動けずにいる私の前で予期していたかのように公爵令嬢様の兄上が慌てることなく彼女を抱き上げた。

耳元で呼びかける「アスリューシナ」の声にうっすらと瞳を開けた彼女はか細く途切れ途切れの声で「ごめんなさい」と謝るが、公爵令息は慈愛の籠もった目で「気にするな。屋敷に戻ろう」と告げただけだった。

それからかける言葉が見つからずに突っ立っているだけの私へ、ここへやって来た時のような柔らかい笑顔をおくってくれる。

 

「申し訳ない、キサノシェ子爵令嬢様。我が妹はご覧の通り屋敷から出るとあまり長時間、笑顔ではいられないんだ。それでも私としては友達でいてもらえると嬉しいのだけれど……ああ、それとオベイロン侯から妹を守っていただいて心から感謝する」

 

妹君を抱きかかえまま、可能な限り頭を下げてくる兄上様に私はわたわたと手と首をいっぺんに振りまくって大恐縮した。公爵家のご令息から「令嬢様」だとか「感謝する」なんて言葉とお辞儀がもったいなくて、恥ずかしくて、さっきまでここに居た侯爵様とは雲泥の差だ。

 

「そ、そんなっ、友達ですからっ、あっ、当たり前です」

 

そう告げると本当に嬉しそうな笑顔で応えてくれて、腕の中のアスリューシナ公爵令嬢様に「よかったな、アスリューシナ」と落とせば、辛そうな中にも嬉しさを込めた「はい」という小さな声が聞こえる。そして妹君をしっかりと抱き直した公爵令息様は「我々はこれで失礼するよ。後日、アスリューシナから連絡をさせるから」とだけ言い残して足早にバルコニーから去って行った。

果たしてその口約束は守られるのか、ちょっと心細い日を数日過ごした後、綺麗な文字で綴られた手紙が届いた時は舞い上がって喜んだ。

そうして私達の友情が始まったのだ。

 

 

 

 

 

「とにかくっ、シリカ様も貴族社会のデビュー間近なんだから夜会では言い寄ってくる男性貴族には十分注意するのよ。ああ、でも新しい出会いは大切にね。アスナと私みたいに素敵な友情が芽生える可能性もあるんだから。ねっ、アスナ」

 

ちょっと自慢げに笑って隣の友を見れば、アスナもまたキラキラと輝くような笑顔で大きく頷いてくれたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
コーヴィラウルお兄様、ナイスタイミングの登場です。
侍女頭のサタラがキリトゥルムラインに話したように、この後、抱きかかえた
妹令嬢を急いでユークリネ公爵家まで連れ帰りました。
これで【番外編・5】は終わりです。
お付き合いいただき、有り難うございました。
そして本編はようやく終盤に入ります。


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【番外編・6】ボクと彼女:前編

遅まきながら『漆黒に寄り添う癒やしの色』「お気に入り」カウント400件越えに
感謝、感謝の気持ちを込めまして恒例の(書くはずのなかった内容の)【番外編】を
お届けしたいと思います。
毎回、お伝えしておりますが、本当に、本当にっ、有り難うございました!!!!!
基本、キリ番感謝の【番外編】は二人のイチャを念頭に置いて考えるのですが、
今回ばかりは本編がシリアスまっただ中なので、つられてしまいました。
加えて前後編とちょっと長めなのですが、シリアスばかりではありませんので
最後までお付き合いいただければ、と思います。


今日も物陰から久しぶりに中央市場へやって来た彼女の姿をこっそりと見守る。

彼女と初めて出会った頃のボクは産まれたばかりの小さくて非力な存在で、自分がいる場所もどういう状況なのかもわかっていなかった。

「きゅぅ、きゅぅ」と今よりずっと細い声しか出せずにいたボクを一番最初に見つけたのは……残念ながら彼女ではなかったけれど……。

 

 

 

 

 

「おいっ、こんな所にいいモンがいるぜ」

「ああ、コイツは使えそうだな」

 

市場の隅で石ころみたいに小さくなって震えていた夜、すぐ傍では大勢の人間達が楽しそうに通りを歩いていて、その人の多さとそれに伴う騒がしさと昼間みたいな明るさにボクはすっかり怯えて行き場を無くしていた。

そんなボクを片手でひょいっと無造作に持ち上げた男達の笑った顔はなんだか理由もわからずすごく気持ち悪くて、ボクは身をよじって逃げようとしたけど、そんなボクの気持ちなんかお構いなしに男達はその場から少し移動すると、いきなりボクを道に落として足で蹴り始めたんだ。

 

「きゃぅっ、きゃぅっっ」

 

お腹もすごく減ってて声なんて出ないって思ってたのに、蹴られる度に口からはまるで蹴られてヘコんだ分の空気がボクの中から押し出されるみたいに悲鳴となって飛び出てきた。

 

どうしてこんな痛い思いをしなくちゃいけないんだろう……僕が真っ黒だからかなぁ……

 

痛みを誤魔化そうとする本能なのか、ボクはぼんやりと産まれて一番最初に見た景色を思い出していた。

ボクの他にもボクの兄弟達がたくさんいて……でも真っ黒なのはボクだけだったんだ。

けれど男達はボクの色なんて全然気にしていなかったんだと思う。だってボクを蹴り続けながらもボクなんて見ていなくて、常に他の誰かを気にしている様子だったから。

 

「ちっともこっちに気づかねぇな……」

「これだけ周りがうるさいとコイツの声も紛れちまうんだろ」

「もっとデカイ声で鳴かせろよ」

「そうだな、なら……」

 

そう言って男の一人が近くにあった棒を拾い上げ、ボクの後ろ足へと力いっぱい振り下ろした。

 

!!!!!

 

……多分、産まれて初めてっていうくらい大きな声が出たと思う……あまりの痛さに目の前が光ったように真っ白になって自分の声さえ聞き取れなかったんだ。それから、その後すぐにボクの身体に何かが覆いかぶさってきて、それにビックリしたボクがより一層身体を縮こませると、包むように、守るようにボクの上で身体を丸めて「ダメ!」と叫んでくれた大きな声の主は実はとっても小さな人間の女の子だった。

なんとか顔を上げてみると女の子が着ているフード付きケープコートが更にボクと彼女の周りを男達から隠してくれている。

フードを被っている彼女の顔は暗くてよく見えなかったけど両頬の脇から見えるサラサラの髪と大きな瞳の色だけはとても綺麗なナッツブラウンなのがわかって、その瞳からぽたぽたと澄んだ涙がたくさんこぼれ落ちていた。

そして痩せっぽちで真っ黒で薄汚れてるボクを彼女は躊躇いもせず両手で抱きかかえてくれて、頭を撫でてくれて、小さく言ったんだ。

 

「すぐに治してあげるね」

 

ボクを抱いたまま不自然に曲がっている後ろ足に手を当てて、すうっと息を吸い込み目を瞑る……徐々にに痛みが消えていって、あれ?!、って思った時、不意に女の子の「きゃぁっ」という声と一緒にボクの身体は宙に放り投げられていた。

後ろ足が思うように動かないからお腹と顎を地面に思いっきりぶつけたけど、そんなの全然気にならなくて慌てて前足を踏ん張って見上げれば、さっきまでボクを蹴ったり棒で殴ったりしていた男達が彼女を抱え上げている姿が目に飛び込んでくる。

 

「やっとコイツの声でおびき出せたな」

「さあ、お嬢ちゃん、オレ達は犬っころよりアンタに用事があるんだ」

 

男達の言葉なんて聞いていない彼女はボクに向かって両手を精一杯伸ばしながら「まだっ、まだなのっ」って叫んでいたけど、すぐに男の手が彼女の口を塞いでその小さな身体を連れ去ってしまった。

ボクは追いかけようとしたけど後ろ足がちゃんと動かせず立ち上がる事すら出来ない。

だから思いっきり鳴いたんだ「彼女を、あの女の子を誰か助けてっ」って……やがて鳴き続けているボクの声に気づいた市場のみんなが大勢やってきてくれたけど、誰もボクの言う事をわかってくれなかった。それでも市場の人達が身体の汚れを落としてくれたり、足の治療をしてくれたり、ご飯を用意してくれている間だってずっと彼女の事を訴え続けたのに、どうにもならなくて…………彼女がどうなったのかを知ったのはそれから数日後のことだった。

 

 

 

 

 

あの日からボクはずっとこの市場で暮らしている。

ここにいれば彼女にきっとまた会えるだろうと思ったからだ。そうして彼女が男達に連れ去られて何日か経ったある日、市場内をひょこひょこと散歩していたら果物屋のエギルに声をかけられた。この男はボクを見かけると呼び止めて、よくお喋りをしてくれる気の良い奴だ。

 

「おい、トト。もう足は痛まないのか?」

 

だから最初から痛くないって散在言ってるんだけどな……けど、こんな歩き方をしていたら痛いはずだと思うのが普通なんだろう。結局足は完全に元のようには治らないらしいけど、別にそれほど困っていない。市場のみんなは優しくてボクが他の大きな犬に吠えられると抱き上げて守ってくれる。

今はまだここの人達に助けてもらっているけど、ちゃんと自分の縄張りだって持って、いつかあの女の子にあの時助けてもらったからこんなボクでも逞しく生きてるって姿を見せたいんだ。

果物屋の店主にも元気だって事が伝わるよう尻尾を勢いよく振るとエギルはすぐにわかってくれたみたいで「そうか、よかったな」と言ってから「リンゴ、食うか」とボクに聞いてきた。

食べるっ、食べるっ、この前もらったヤツがいい……ほらガヤムなんとかって場所から持って来たやつ、あれは歯ごたえも味もすごく良かった。

舌を出して目を輝かせるとエギルは嬉しそうに「お前は味のわかる犬だな」って言って木箱の中から真っ赤なリンゴを取りだしてくれる。

 

「今年は収穫期が少し遅かったが、味は絶品だし……お客さんに味見用で切るからちょっと待ってろ」

 

そう言って器用にナイフで皮を剥き一口大に切ったリンゴの一つをボクにくれた。

店先でシャリシャリとリンゴを囓っていると女の子が一人でやって来て「エギルさん」と店主の名を口にする。

一瞬、あの女の子かと思って急いで仰ぎ見たけど、その女の子は彼女よりも肌の色が濃くて髪の色もパンジーパープルだったし年齢もちょっと上なのか、落ち着いた感じの子だった。

でもエギルはその子を見た途端、表情を険しくして内緒話をするみたいに顔を近づけた。

 

「おおっ、キズメル。どうした?、一人か?」

「はい」

「エリカちゃんは?」

「アス……エリカ様は……既に奥様のご実家に向け、出立されました」

「……そうか、辺境伯の所に……」

「それで、お前さんの親父さんの具合はどうなんだ?」

「父は、まだ意識が戻りません……でも、一命は取り留めました。顔にあそこまで深い傷を負ったのに…………エリカ様のお陰です。今日はエリカ様のお言葉が気になったので……」

「言葉?」

「はい、熱にうなされながらも、しきりに『黒いワンちゃんを治さないと』とおっしゃって」

「黒い…………ワンちゃん」

 

エギルの視線がリンゴをごくんっ、と飲み込んだボクに落ちてくる。それから腑に落ちたように頷いて「だからここまでの大ケガなのに平然と歩いてんのか、こいつは」と呟くと、しゃがみ込んでボクの頭をグリグリと撫で回した。

 

「多分、それはこいつの事だろう。後ろ足にひどいケガをしてるくせに患部に触っても普通にしてやがるからおかしいと思ってたんだ」

 

それから大きな両手でボクを抱き上げて今度はこっちに顔を寄せてくる。

 

「トト、お前、エリカちゃんに助けてもらったんだな」

 

そうだよっ、て元気良く返事をすると、ちゃんと通じた禿頭のエギルは柔らかい笑顔になって「よかったな」って言ってからボクに問いかけてきた。

 

「お前さんを助けたエリカちゃんは当分この市場には来られないが、ここでオレ達と一緒にあの娘(こ)が戻って来るのを待つか?」

 

ボクは元気良く、もちろんっ、と答えた。




お読みいただき、有り難うございました。
ちっちゃくてもキズメルはかしこまってます(笑)
よろしければ続けて後編にお進み下さい。


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【番外編・6】ボクと彼女:後編

エリカと離ればなれになってしまったボクは彼女に会える日を
中央市場で待ち続けて……。


結局、ボクが彼女とこの市場で再会できるまでにはあの日から十年とちょっとの時を有した。

その時の彼女は随分と大きくなっていたけど、やっぱりフード付きコートで顔と身体をすっぽりと覆って、彼女のすぐ隣にはエギルの店先で会ったキズメルって言う女の子が一緒で、ちょっと怯えた様子の彼女の手を握っていた。

でもボクを見つけるなりその手を離し、すぐにしゃがんで両手を広げ、フードの下から見える口元は嬉しそうに綻んでいて、ボクは少しびっこを引きながら一直線に彼女の腕の中へ駆け込んだんだ。

 

「よかった……」

 

ボクと彼女の様子を端で見ていたエギルが顎をさすりながらちょっと意地悪い笑顔になる。

 

「トトって名前を付けて市場の皆で世話してるけどな、今じゃこの中央市場の全部をテリトリーにしてるボス犬になりやがった」

 

あの時のボクの姿からは想像もしていなかったのか、すごく意外そうに口を開けたエリカが「そうなの?」と確かめるようにボクに話しかけてくる。それを自慢げに肯定すれば、彼女は「ふふっ」と笑ってから「すごいのね、トト」と初めてボクの名前を呼んでくれた。

そうさ、今ならどんなヤツが来たってボクがエリカを守ってあげられるんだ。

もうこの市場でエリカが怖い目に遭わないように、これからはいつでも安心して市場に来られるように、ボク、ずっと待ってたんだよ。

会いたくて、会いたくて、とっても会いたかったエリカに会えて大喜びのボクを前に、それまでの笑顔を消してエリカはボクの後ろ足をさすった。

 

「でも……この後ろ足…………ごめんね、ちゃんと治してあげられなかった」

 

今にもナッツブラウン色の瞳からあの時みたいに涙があふれ出しそうで、ボクが驚いて彼女を安心させるためにその涙を一生懸命舐め取っているとエギルも言葉を添えてくれる。

 

「ほらほら、トトがビックリしてるぞ。そいつなら大丈夫だ。その足でここのボスになったヤツなんだからエリカちゃんが気に病むことは何もないさ」

「でも……今からでも……」

「お嬢様っ」

 

エリカの小さな呟きに傍に居たキズメルが慌てた様子で声を上げれば、珍しくエギルも真剣な眼差しでボク達のすぐ隣に腰を落とした。

 

「エリカちゃん……コイツはもう立派にこの身体で十年以上ここで生き抜いてきたんだ。オレ達も出来る限りの世話はしてる。これ以上の行為はお前さんがしんどい思いをしてまでやる必要はオレはないと思うけどな」

 

エギルの言葉にボクは同意を示すように「わふっ、わふっ」と元気良く鳴いた。

この足だってちょっと不便な時はあるけど、でも、治す為にエリカが辛い思いをするならこのままで全然構わない。

心配してくれるのは嬉しいけど、ボクは平気だよ、と彼女のほっぺたを舐めたら、エリカがくすぐったそうにちょっと笑ってボクの顔を覗き込んでくる。

 

「大丈夫なの?……トト?」

「わふんっ」

 

元気良く答えたら彼女はボクの身体をぎゅっ、と抱きしめてくれた。

 

 

 

 

 

それから彼女は月に一度のペースでこの市場にやって来るようになった。

それでもボクを見つけると一瞬だけ悲しそうな表情で自分を責めているみたいに顔を歪めるから、そんな感情を持たせたくなくて、彼女が来た時はそっと遠くから見守るだけにしている。

ただ逆にあまり顔を見せないとエギルから「エリカちゃんが心配してたぞ」って言われるから、たまに姿を見せて、抱っこして貰って、彼女の膝の上で撫でてもらうけど…………これがもうめちゃくちゃ気持ち良い。

そんなある日、事件は起こった。

エリカがいつも乗って来る馬車が市場のはずれに到着したのを知ったボクは先回りしてエギルの店のすぐそばに移動する。

彼女は市場に来るとまず一番にこの店にやって来るからだ。

エギルの店にはここ最近、やたらと市場に来るようになった男の客が今日もいてエギルとお喋りをしている。

……あいつ、暇なんだなぁ……エリカもあいつみたいにもう少し頻繁に市場に来てくれたらいいのに……そんな事を思いながら彼女の到着を待っていると、いつものフード付きコートを羽織ったエリカが珍しく急ぎ足でこっちに向かって来て……あっ、と思った時は何かに躓いたらしくバランスを崩した彼女がエギルと話していた男の客に受け止められていた。

おいっ、こらっ、エリカに触んなっ……当然、パッと離れると思っていた二人はなんだか恥ずかしそうに、でも嬉しそうに身体をぴたりと寄せ合ったままだ。

いつまでくっついてるんだよっ、と男の足首に噛みついてやろうか?、って思った時だ、ボクの気持ちが伝わったのかエギルの声が二人を離し、続いてあっちこっちから市場の店主達が集まってくる。

エリカと男の客を取り囲むようにして陣を張った店主達は次々に男に向かって文句を浴びせ始めたけど、それがどんどんと変な方向に流れていって、終いにはみんなエリカに慰められている。

おいおい、しっかりしてくれよ……ここのおっちゃん達も年食ってきたからなぁ、とボクは自分の事を棚に上げてコソコソと移動を始めた二人の後をこっそりと付いて行ったのだった。

 

 

 

 

 

散々市場内を歩き回ったエリカと男の客……どうも「キリト」という名前らしい……は昼時になってようやく噴水広場で腰を落ち着けた。見つからないよう付いて行ったボクも結構疲れて、二人が見える場所に座り込む。

エリカはキリトから渡された鶏肉を美味しそうに頬張っているが、食べやすいように切ってあるとは言えたっぷりと付いたタレが口の端に残っていて、それを見つけたキリトがニヤリと笑ってから何も言わずに彼女の口元へ人差し指を伸ばした。

艶やかな彼女の唇を口角から撫でるように山なりに触れ、拭き取って指先に付いたタレを自分の舌で舐め取る。

一瞬の出来事に硬直していたエリカは一連の仕草に声も出せず首まで真っ赤にしてから怒っているのか恥ずかしがっているのか判別できない声で「キリトさまっ」と声を跳ねかせていた。

すると反省した様子もないキリトがすぐにエリカのフードに顔を近づけて周囲に聞こえないよう小声で囁いていたけど…………ボクには聞こえた……アイツ、「直接舐めてもいいのか?」って楽しそうに言いやがった。

エリカを舐めていいのはボクだけだっ……疲れなんてどっかに吹き飛んで、ボクはわざとエリカの視界に入るようアイツの後ろをヒョコヒョコと横切ってやる。

案の定、彼女はすぐボクに気づいて、嬉しそうに名を呼んでくれた。

偶然を装って当たり前のように彼女の腕の中に収まり、キリトのヤツに向けお前なんかに触れさせてやるもんかっ、と見せつけるように彼女の頬を舐める。しかしそんなボクに対してキリトはもの凄く失礼な言葉を発した。

モップ?!、黒モップだって!、ボクのどこをどう見たら黒モップに見えるんだっ、お前の髪の毛だってボクとおんなじ真っ黒じゃないかっ……今度こそ本気で囓ってやろうと口を開きかた時、やっぱり憤慨の声を上げていたエリカが黒を一番好きだと言ってくれる。

うんっ、ボクもエリカのナッツブラウン色は一番好きだ、と彼女の顔を覗きこむとその目はボクではなくキリトの目を見つめていて…………ああ、エリカが一番に好きな黒はボクの黒じゃなくて…………。

そんなエリカの視線に引き寄せられるようにキリトもボク達の隣に片膝を突いてボクの頭をガシガシと撫で回してくる。

もう……お前にだけは撫でられたくないっ、と睨んでやると一瞬怯んだ声を出したキリトだったが、すぐにボクの耳に口を寄せてタイミングよく現れたボクに文句を言ってくる。

邪魔?……したいに決まってるだろ……当然だと鼻を鳴らせば脱力したようにキリトが項垂れた。

男同士のやりとりに気づかないエリカはちょっと不思議そうな顔をしていたけど、すぐいつものようにボクの後ろ足の心配を口にする。

本当にもう平気なのにな、ボクは全然気にしていないよ……いくら言っても伝わらないもどかしさ……でも今日はキリトがボクの言いたい事を代弁してくれて、その通りなんだってわかって欲しくてボクは笑顔で「うぉふんっ」と鳴いた。

キリト……お前、ちょっといいヤツだな。




お読みいただき、有り難うございました。
後編の後半になんとか僅かながらイチャを入れられて、ほっ、として
おります(苦笑)
キリトが王都を発つ前あたりの関係性だったらいきなり舐めていたかもしれませんが、
まだこの頃ではね……と久々に自分でも「見守る者」あたりを読み返しました。
あうっ、初々しいなぁ……。
現在連載中の「接触」の章が終わったら、こちらの【番外編】をその前に挿入します。


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31.接触(1)

お待たせ致しました。
新章、スタートです。


ガヤムマイツェン侯爵が火急の用件で領地へ赴く為、王都を離れてもうすぐ三週間が経とうかという頃、すっかり体調が戻ったアスリューシナは久々に中央市場へと向かっていた。いつもの様に紋章も豪壮な装飾も何も付いていないただの黒塗りの小型馬車を使うが、その内装は外見にそぐわず座面や背面には高級な布地が張られ、たくさんの分厚いクッションが更に居心地を良くしている。

馬を扱う御者の確かな技量と、あえて目立たぬように仕立ててあるが車輪の小さな留め具までが一級品の馬車のお陰で大した揺れも感じず快適に目的地へと近づいていたアスリューシナへ、向かいに座っていた専任護衛のキズメルが気遣うような口調で珍しく自ら話しかけてきた。

 

「もうすぐ市場だと言うのに、楽しみではないのですか?」

「えっ?……ごめんなさい、キズメル。何か言った?」

 

ずっとぼんやりとした表情で窓の外を眺めていた令嬢だったが、やはり心ここにあらずだったようだ。

 

「ですから、いつもならば市場への到着を待ちきれないといったお顔なのに今日は随分とふぬけているので……」

「ふ、ふぬけてるって……失礼ね。ちょっと考え事をしていただけよ」

 

自分の護衛のあんまりな言い方に唇を尖らせたアスリューシナだったが、見たままを口にした自分に非は無いと信じている様子のキズメルは慌てることなく次の一手を打ち出してきた。

 

「考え事とは……ああ、侯爵様の事ですか」

 

確信しているような口ぶりがちょっと憎らしくて、でも反抗心から否定をしてみたところで説得力のある偽の言い訳など思いつくはずもなく、恥ずかしさから頬は熱を持つがここは素直に頷くことにする。

 

「前に来た時は、侯爵様がご一緒だったなって思って……」

「そうでしたね。お二人とも随分と……何と言いますか、こう……まるで……」

「まるで?」

「年甲斐も無くはしゃぐ……」

「キズメルっ」

「普通の恋人同士のようでした」

 

普段、あまり表情を崩すことのないキズメルがほんの少し唇を綻ばせて、やはり彼女の目に映ったままを言葉にしたのだと理解したアスリューシナはよけいに熱を持ってしまった自分の頬を両手で隠し、心臓のバクバクを抑え込む意味でも身を縮混ませて視線を落としたが、それでも我慢出来ずにちらり、と目線だけを上げてキズメルに「本当に?」と問いかけた。

 

「はい」

 

既にいつもの冷静な専任護衛の顔に戻ってしまったキズメルはアスリューシナの言葉に即答するが、一瞬の安堵を見せた公爵令嬢はすぐに落ち着きを取り戻し、頬はいつもの白磁となって瞳には自虐の色が覆う。

 

「こんなフード付きコートで髪も顔も隠している私が……」

「お嬢様」

 

自分が肩に羽織っている煉瓦色のロングコートの端をギュッ、と握った途端、対面しているキズメルが遮るような視線と声を飛ばしてきた。

 

「公爵令嬢が市井で御身を晒して歩かれては護衛が何人いても足りません。私の苦労と市場への迷惑を考えて下さい」

「そ、そういう事を言っているのでは……」

「ああ、ですが侯爵様はまるっきりそのままでしたね。違和感が微塵もありませんでした。さすがはガヤムマイツェン侯爵様と感嘆致しました」

「あのねキズメル、そういう言い方も、ちょっと…………でも、そうね」

 

あの日のキリトゥルムラインの姿を思い起こしたアスリューシナはクスッと笑って気分を浮上させる。普通に市場へやってきた王都で暮らす青年のように気さくに店主と会話をし、新しく入荷した商品に目を輝かせていた。民衆と何の壁も作らず買い物客に混じってあれこれと品物を眺め、お昼には食事さえ調達してきてくれたのだ。

あの日の驚きと楽しさと嬉しさで心が一杯になって思わず笑みを漏らしていると「やっとお笑いになりましたね」と安心を含んだ声が正面からそっと耳に届く。

素早く顔を上げるが、キズメルはいつもの任務第一の真面目な表情で、それでも思っていた事を淡々と口にした。

 

「侯爵様が王都を発たれてから段々とお嬢様の口数が減り、笑顔を見ることが少なくなったとサタラが心配しておりました」

「そう?…………いつも通りに過ごしていたと思うけれど……」

「そうですね、私の前でもいつも通りに見えるよう、頑張っておいででしたね」

 

キズメルさえ気づいていたのなら、目聡いサタラが気づかぬはずもなく……今回、珍しくサタラから「そろそろ中央市場にお出かけになってはいかがですか?」と提案してきた理由は少しでも公爵令嬢の気が紛れればとの思いがあったことを知ったアスリューシナは二人の気遣いに心が温まる。

 

「傍にいてくれて有り難う、キズメル」

「護衛が仕事ですから」

 

中央市場へ付き従うことは役目なのだから当然だとも聞こえるキズメルの素っ気ない言い方も、自分がまだ辺境伯の元へと送られる以前の幼い頃から今の公爵家で姉妹のように過ごしていたアスリューシナにとっては言葉の奥に隠れている気持ちをくみ取ることはたやすい。

 

「そうね、キズメルがいてくれないと私はどこにも行かれないから」

「そうですね……けれど侯爵様ならお嬢様をお任せできるかもしれません。何せ未だに私の部下達は誰一人として夜中に忍び込んでいらっしゃる侯爵様の存在に気づきもしないのですから、最近歯がゆいを通り越して、段々と腹が立ってきました」

「……キズメル……それは嬉しいと言うか、部下の皆さんが心配と言うか……」

「なのでここは部下に期待するより、一日も早く侯爵様の方が正々堂々と昼間にお屋敷の玄関からお越し頂けるよう、そちらに期待しようと思います」

「うーん、それもちょっと難しいかも。なぜかあの方、夜に忍び込んでいらっしゃる方が楽しいみたいで……」

「さすがは三大侯爵家様と言うべきでしょうか。凡庸の私にはわかりかねる感覚です」

「…………きっと他の三大侯爵家の皆様は違うと思うわ」

 

アスリューシナの柔らかな弧を描いた唇がほんの少しひくついた時だ、突然の馬の嘶きと共に今までとは比べものにならない強い衝撃が車体を揺らし、全体が前のめりに傾いた。

 

「きゃぁっ……なっ、なに?」

「失礼します」

 

キズメルがアスリューシナの身体を支える為に素早く座席を離れ彼女の腰に手を回して転倒を防ぐ。

車輪の軋む音に加えて無理な急停止に長柄と箱馬車のどこかが強くこすれ、身体に届く振動と同時に耳障りな低音と高音が一気に耳の中へ侵入してきた。そしてすぐに御者の緊迫した声が響く。

 

「なんだっ、お前達はっ」

 

その言葉で複数の人間と相対しているのだと悟ったキズメルはこれ以上馬車が揺れないと判断すると、そっと令嬢から身を離し「フードを被ってください」と告げて御者台に通じる小窓から周囲を観察した。馬を取り囲むようにして何人もの男達が行く手を阻んでおり、みなボロボロの服装に汚れた手や顔のせいで人相さえもはっきりしない。一見すると家も仕事もない不定住者のようだが、こんな王都の中心部でこれだけの人数が結託して小さな箱馬車を襲うとは考えられない状況だった。

立ちふさがっている者達に向け少々乱暴に声を荒げている御者だったが、御者と言えど公爵家の使用人であり公爵令嬢が乗る馬車を任される人物だ、多少腕に覚えはあるはずだがいかんせんこの人数を一人で相手にするのは無理だろうと自分も加勢に出ようかキズメルが思案していると、外の連中が御者の制止の声も聞かずに今度は馬車の周りへと移動してくる。

前方の道が開けた隙に御者が再び馬を走らせて怪しい連中を馬車から引き離そうとするが、興奮した馬がなかなか言う事を聞かず手こずっているうちに彼らが次々に馬車に手を伸ばし車体を揺らし始めた。

前後左右、めちゃくちゃに揺らされる馬車はまるで荒れ狂う嵐の中の大海原にいるようで、さすがの公爵家の馬車と言えどここまで外部から力を加えられるとギイギイとあちこちから苦しげな音が響き、それら全てがアスリューシナを混乱へと導く。

すぐさま再び公爵令嬢を抱きかかえたキズメルは「声は我慢して下さい、舌を噛みます」とだけ囁いた。

両手で口を塞いで小さく震えているアスリューシナを包む腕に力を込めながらキズメルは出来る限り周囲の状況を把握しようと耳に意識を集中させる。

アスリューシナに声を控えるよう言ったのはこの為でもあり、逆にこの馬車に若い女性が乗っていると知られたくないからでもあった。

先程から外の連中は馬車を止めただけで何の要求もしてこない。物取りが目的なら馬車など揺らさず人数に物を言わせて御者を引きずり降ろし、馬車ごと奪うか、さっさと扉を開けて中を確認すればいいのだ。

ただし扉を開ければキズメルは侵入してくる奴らを一人ずつ確実に仕留めるつもりでいる。

しかし問題はこの連中が馬車の中に居るのが女性だと、もっと言えばそれが公爵令嬢だと知っているのか否かだった。

なぜなら今のアスリューシナは髪の色を染めていない為、編み込んで背中に流してはいるが何かのはずみでフードが外れたら公爵令嬢の秘密が丸見えになってしまう。たまたま襲った馬車に自分達が乗っていたのなら無用な殺生はしたくなかったし、反対にお忍びの公爵家の馬車を狙ったのだとしたらその情報源が問題だ。

キズメルは馬車が停止した位置が中央市場からそう遠くない場所だと確信しており、ならば目的不明の彼らと接触する前にこの騒ぎを聞きつけて警備隊がやってくるだろう、と令嬢を抱きしめながらその時を待った。




お読みいただき、有り難うございました。
二人の中央市場デートでは散々見せつけられ、侯爵様の深夜訪問に
部下達は全く気づかず、真面目なキズメルの精神状態が心配です(苦笑)


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32.接触(2)

中央市場へ向かう途中、理由もわからず大勢の人間に馬車を
襲われたアスリューシナだったが……。


キズメルの願いを叶えるようにして少し遠くから大勢の足音が一気に近づいてくる。

間に合った、と安堵するよりも早く馬車の揺れがピタリ、と止み、それまでの暴挙はまるで自分の意志ではなかったと言うように男達はあっさりと馬車から手を離してコソコソと四方八方に散っていった。

夢から覚め、正気に戻った普通の通行人と化して誰一人として振り返りもせず一目散に姿を消した彼らを不審に思いながらキズメルが腕の中の公爵令嬢に事態の好転を伝えようとした時だ、ドンッドンッドンッと少々乱暴な叩扉の音がして反射的にビクリッとアスリューシナの肩が震えた。

 

「ユークリネ公爵令嬢?」

 

問いかけると言うよりはどこか巫山戯た口調に嫌悪感が湧く。

 

「ユークリネ公爵令嬢……いや、アスリューシナ嬢、いるだろう?」

 

まるで無邪気な子供が隠れ鬼をして遊んでいるように響いてくる声にキズメルは底知れない何かを感じ取った。声は確かに成人男性の物だ。しかしこちらに公爵令嬢がいると確信していながら、わざと問いかけてくるような優位者の物言いは不快でしかない。

どらちにしろ返事など返せる状態ではない主人に代わり、戸惑いながらもアスリューシナから身を離したキズメルは扉に近づき慎重に「どなたでしょうか?」と低い声を発した。

すると外から同じ声が「おい、開けろ」と命じた途端、いきなりバンッと乱暴に扉が開き、同時に背後でアスリューシナの小さく「ひうっ」と怯えたように息を飲んだ音がする。

条件反射で素早く身構えて不審者の侵入を防ごうとした時だ、「どきなよ」と高圧的な一言が真正面から当たり、キズメルは強気にも目の前に現れた男性を睨み付けた。

しかしその男性はキズメルをただの汚れた岩か石とでも言いたげな視線で不快そうに一瞥を投げた後、すぐに下卑た笑みを浮かべて奥で縮こまっているフード姿の侯爵令嬢に向け猫なで声を忍び込ませる。

 

「僕が来たからもう大丈夫さ、アスリューシナ嬢」

 

言いながら強引に馬車に乗り込もうとする男性の前にキズメルが立ちふさがった。

 

「失礼ですが、公爵令嬢様が乗っておられるとご存じならなおのこと、勝手は振る舞いはご遠慮ください」

 

あくまで礼を尽くした応対をしたのは、車内に片足を乗せているこの男性の身なりが一目で分かるほど贅を尽くしていたからだ。加えて背後に控えている護衛達も騎士団と見まがうほどの装備をした大人数である。目の前の男性だけが武装らしい武装と言えば腰に下げている長剣だけで、その唯一の武器も模造品まがいの実用性にはほど遠い品なのだが……しかし柄や鞘には一見の価値がある見事な装飾が施されていた。

男性が無理矢理車内に乗り込んできた事で宝飾品と言ってもいい剣がカチャカチャと鳴る。

 

「使用人ふぜいが僕の前に立つなっ。僕に話しかけていい許可を出した覚えはない」

「なっ!」

 

あまりの言様にキズメルは一瞬、返す言葉を失った。確かに自分は公爵家に仕える一介の従者だが、令嬢の専任護衛を務めているのだ、それなりに剣は扱えるし体術の覚えもある。貴族と見て間違いないだろう初対面の男性から何と言われようとも主を守るのは当然と行動と判断してアスリューシナの姿を隠そうと身体を割り込ませた時、下を向いたままのアスリューシナの震える声が耳に届いた。

 

「キ……ズメル……やめて」

 

ハッと振り返り「お嬢様?」と納得のいかない声で主の前に膝を突く。

いつの間にか力が抜けて膝の上に投げ出されている両手を握れば、その冷たさに息を飲んだ。

しかし、アスリューシナの許可を得たと解釈した男性貴族は得意気に笑って、当然のようにフードを被ったままの侯爵令嬢の隣に腰を降ろす。

 

「ああ、やはりその声はアスリューシナ嬢。こんな場所で会うとは……偶然、小汚い貧民層の者達に囲まれていたのを見つけてね、運良く僕が駆けつける事が出来て本当によかった。もっとちゃんとした護衛を付けないと……ああ、あの見苦しい連中はうちの護衛部隊が追い払ってやったよ」

 

男性が少々得意気に語る言葉の途中で我慢出来ずに立ち上がろうとしたキズメルの手を冷たいままのアスリューシナの手がギュッと握り感情を押さえつけた。そのままの姿勢でフードの奥から頭を下げ、震えを隠すように抑揚のない声を紡ぐ。

 

「はい、お助けいただき有り難うございました、オベイロン侯爵様」

 

主の声で男性貴族の名を知ったキズメルはアスリューシナを盲愛している侍女頭のサタラがかの侯爵を「ミミズトカゲ」と評していた事を思いだし心中納得で頷いた。

素直な反応にますます気をよくしたオベイロン侯は口の端を歪めてそっ、と片手をアスリューシナへと伸ばしてくるが、その手が辿り着く前に先程よりも硬い気丈な声が跳ね返す。

 

「ですが、護衛は優秀な彼女がいてくれれば十分です。現に私は全くの無傷ですから侯爵様のご心配には及びません。今回の件は改めて御礼をさせていただきますので、私はこのまま屋敷に戻りたいと思います」

 

退座を促す言葉に気づいているのかいないのかオベイロン侯はひっこめた手で自らの顎をさすりながら「へえぇっ」と小馬鹿にしたような声を漏らした。

 

「この使用人が優秀な護衛ねぇ…………まぁいい。ユークリネ公爵家に戻ると言うならこの僕がご一緒しよう」

 

アスリューシナが肩を振るわせるのと同時にキズメルが「はっ!?」と声を上げ、身分もわきまえずに候を睨み付ける。

 

「恐れながら申し上げます。いくら三大侯爵家がお一人、オベイロン侯爵様と言えど公爵令嬢であるお嬢様と同じ馬車にご乗車など許される行為ではありませんっ」

 

これまでの侯爵の態度からすればアスリューシナがかぶっているフードを取れと言い出すのは時間の問題で、そうなればこの様な狭い密室では誤魔化すこともままならないとキズメルは不敬を承知で食い下がった。しかしキズメルの必死の訴えもオベイロン侯は軽く受け流し「何度言わせるんだ?」と途端に荒々しい声を発する。

 

「僕に話しかけていいといつ許した?、生意気だなぁ、使用人のくせに」

 

候の手が腰の剣の柄を掴んだ。実用性が皆無ななまくらでも硬い棒を大の男が振るえば身体のどこに当たろうと痛くないはずはない。そして平時、キズメルは侯爵に対して反撃はもちろん防御さえ許される身分ではないのだ。

それでも、ここで傷つけられたとしても候が気分を害し馬車を降りてくれさえすれば、とキズメルが目を瞑った時だ、すぐ近くで凛とした声が響く。

 

「お待ち下さい、侯爵様…………屋敷までの同乗を…………お願いいたします」

「お嬢様っ」

「ほらね、彼女は僕の方が頼りになるとわかってるのさ」

 

自分の価値を認められたとあからさまに表情に出ているオベイロン侯はすぐさま剣の柄から手を離し、目を三日月に変えて更にアスリューシナの近くへとすり寄った。

 

「可哀想に、まだそんなに怯えて。大丈夫だよ、アスリューシナ嬢。僕の護衛部隊も馬で後ろに着かせるから」

 

そう告げるなり目の前で膝をつき令嬢と手を取り合っている専任護衛に冷ややかな視線を浴びせる。

 

「さあ、お前はさっさと馬車から降りるんだ」

「えっ」

 

今度こそ戸惑った声がアスリューシナの薄い唇から漏れ、わずかにフードの奥の顔を傾けると、それ以上に驚いた顔のキズメルが満足そうに笑っているオベイロン侯爵の顔を唖然とした面持ちで見つめた。

 

「私に……お嬢様の傍を離れろ、とおっしゃるのですか……」

「当たり前だろう?……侯爵の僕が使用人と同じ馬車に乗ると思ってるのかい?」

「ですがっ、私はアスリューシナ様の護衛ですっ」

「この僕が一緒なんだから必要ないんだよ。さあ、とっとと降りろ」

 

開け放たれたままのドアを顎で示され、目で催促されたキズメルはアスリューシナの手を離し、スッと立ち上がると今度こそ感情にまかせて口を開くが、そこから声が飛び出る前に主である令嬢の声がキズメルの名を強く呼ぶことで引き留める。

 

「キズメルっ……侯爵様のおっしゃる通りに。私なら大丈夫よ。それよりも今は早く屋敷に戻りたいの」

 

主の命で我を取り戻したキズメルは不承不承ながら腰を曲げ「承知致しました」と頭を下げた。その姿を楽しそうに眺めている侯爵の視線を気にしながらも、そっと主人の顔を見ればフードの端から覗いているはしばみ色は専任護衛を安心させたいのか、決死の覚悟を滲ませていて、それでもわずかに不安のゆらめきを感じ取ってしまったキズメルは再度、深く一礼をしつつアスリューシナだけに向けて深意を含ませた言葉を渡す。

 

「一刻も早くお屋敷に戻れるよう手配いたします」




お読みいただき、有り難うございました。
キズメルも完全に敵にまわしましたね、オベイロン侯(苦笑)
内心「ミミズトカゲ?……生物として認識したくありません」なくらい
嫌われたかも……。


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33.接触(3)

オベイロン侯爵より馬車からの降車を強要されたキズメルは……。


キズメルはオベイロン侯爵に促されるように大人しく降車するとすぐに御者台へと移動した。

とにかく馬車の中でアスリューシナとオベイロン侯、二人だけの時間を短くする為には主人が言った通り、可能な限り早く公爵家に戻るしかない。

一方、御者の方は様子はわからずとも多くの護衛部隊を待機させたまま車内へと乗り込んでいった一人の紳士が時折不快な声を荒げていたのは扉が開いていた為、耳にも届いていたようで、やってきた専任護衛に対し緊張を込めた声で「どうされました?」と迎えた。

 

「お嬢様をお守りする為にも、一刻も早く公爵家に戻らなくてはなりません。味方はいないと思って下さい」

 

キズメルの言葉にすぐさま御者は無言で頷く。時間がないのだと理解の早い彼が無駄な質問をしてこない事に安堵したキズメルは前方を確認しながら「馬は?」と短く質問を投げかけた。

 

「既に落ち着かせました。いつでも出発できます」

 

希望通りの返事に信頼の笑みで御者に頷くと次の指示を伝えたキズメルは「私は別の馬ですぐ後ろにいますから、中で異変を感じたらお嬢様の言葉を待つ必要はありません。あなたの判断ですぐに馬車を止めて下さい」と言うとオベイロン侯爵家の護衛部隊から馬を一頭借りる為、ひらり、と御者台から飛び降りた。

 

 

 

 

 

キズメルの指示通り、中央市場からユークリネ公爵家までの道のりをいつもの目立たない裏道ではなく最短距離を選んで進む少々乱暴とも言える速度の馬車に王都の人々は皆、視線を送らずにはいられなかった。しかもその馬車の後ろを大仰な護衛部隊が続いているのだ。

車内のアスリューシナも外の景色を見る余裕はなかったが、馬車の揺れがいつもと大分違うことは感じており、毎月、市場への往復では温厚な手綱裁きの御者が今ばかりは馬を急かしてくれているのだと心強さを得る。

しかし、そんな心の拠り所もすぐ隣から届くどこか安定感のない声に揺さぶられて強引に意識を戻された。

 

「アスリューシナ嬢」

「なんで……しょうか」

「僕は君の社交界デビューのあの夜会の日から幾度となく公爵に手紙を差し上げているんだけどね」

「それは……存じ上げませんでした。多分、父の手元に据え置かれているのだと思います。あの夜会以降、社交界には出られずにおりますので、全てに疎い私などが侯爵様からのお手紙を拝するなど相応しくないと考えてるのでしょう」

「別に僕は疎くても構わないんだよ。さっきの君の使用人みたいに小賢しいよりよっぽどいい。口答えなどせずにただ僕の傍にいれくれればいいんだ」

 

人形のような扱いを聞かされて侯爵から見えることのないアスリューシナの柳眉が僅かに歪むが、そんな変化など気づきもしないオベイロン侯はますます饒舌に口を動かす。

 

「だってそうだろう?、たった一回のあの夜会でどれほどの男共が君の姿を目に焼き付けたと思ってるんだい?……君の本当の姿さえ知らないような輩が、だよ」

 

候の言葉に一瞬、アスリューシナの息が止まった。

 

「けれどそれはまあいい。その辺のことはユークリネ公爵もわかっているようだからね。だから君はずっと社交界にも現れず、他の男性貴族との交流もなかった…………僕はね、この二年間、君が僕の元へ来るその時を楽しみに待っていたんだ」

 

互いの認識の共通性がまるでない内容にアスリューシナは混乱し侯爵の言葉を理解しようと懸命に考えるが、自分がオベイロン侯の元へと輿入れが決まっているかのような言い方にどうしようもない不安が膨れる。まさか求婚話に乗り気だった両親が勝手に返事をしてしまったのだろうか?……しかし候の口ぶりだと自分はオベイロン侯爵という決まった相手がいるから他の男性貴族と接しずにいるととれる発言だが、アスリューシナはあくまで自分の髪色を知られたくないから屋敷に籠もっているのであって候は全く関係がない。

そもそもアスリューシナ自身はオベイロン侯の元へと嫁ぐ気持ちなど欠片もありはしないのだ。

もしも……もしも嫁ぐ事が許されるのなら…………とアスリューシナが漆黒の髪を揺らして自分を見つめる黒曜石の瞳を持つ一人の青年の姿を思い浮かべると、それを察知したように苛立ったオベイロン侯の声がその思考を切り裂いた。

 

「なのに、なんでルーリッド伯爵の夜会になんて参加したんだっ」

 

オベイロン侯の吐く息がフードの端を揺らす。一層身を縮こませて身体を固くしたアスリューシナはそのフードに侯爵の手が伸びてくる事を感じて必死の声で訴えた。

 

「おやめ下さいっ……き……今日は……少し気分が良かったので……それで……馬車から王都を眺めようと出ただけなのです。まともな身なりをしておりませんので、どうかこのままで……」

 

機嫌を損ねるかも、とは覚悟したがフードを取ることだけは避けたいアスリューシナが懸命に言葉を重ねると、意外にもオベイロン侯は「ふーん」と幾分楽しげに笑ってから伸ばした手で肩に触れ、撫でさすりながら次第に唇を笑みの形のまま震わせ始める。

 

「伯爵の夜会には随分と着飾って行ったそうじゃないか。そんな話を他の貴族の男共から聞かされた僕の身にもなって欲しいなぁっ」

「そ……それは……」

「しかもっ?……よりによってあのガヤムマイツェン侯爵と一緒だったって?」

「っ……」

「随分と仲睦まじい様子だったと話題になっていたけど、何かの間違いなんだろう?、アスリューシナ」

 

もはや敬称もなく呼び捨てにされたアスリューシナは段々と均衡が崩れていくような侯爵の言葉とその抑揚に恐怖を覚えた。肩をさすられていた手が次は撫で回すように腕へと降りてくる。

 

「あの若造の手がこの肩に触れ、腕を支え、腰を引き寄せていたなんて…………僕の物に手を出そうとは勇敢なのか、愚鈍なのか、身の程をわきまえないにも程があるっ」

 

強い力で腕を握られ、苦痛に思わずフードの中で顔を歪めたアスリューシナだったが、それでもか細い声を吐き出した。

 

「私は……あなたの物では……ありません」

「はぁ?、何を言ってるんだい、アスリューシナ。君はもうすぐ、やっと僕の物になるんだ。あの馬鹿なガヤムマイツェンなど、君の価値なんかまるでわかってないじゃないか。いいかい?、君が僕の物になればこれまでと同じ、いやそれ以上の暮らしをさせてあげられるよ。社交界なんて無能どもの集まりにも関わらなくていい。僕の傍でずっと僕だけの役に立ってくれればいいんだ」

「な……何を言って……」

 

話しているうちに興奮を抑えきれなくなったのか、自分勝手な理想を押し付け、当然のように叶うと思っている未来を想像しているのだろう、アスリューシナの腕を掴んでいる手が歓喜に震え、声には狂喜がにじみ出ている。

 

「屋敷という檻から出られない君は籠の中の小鳥と一緒さ。そのまま従順に今度は僕が用意した鳥籠の中で生きていくんだ、小鳥ちゃん」

 

フードのお陰で相手の表情を目にしなくて済むのは逆に幸いと言うべきだが、いつ、突然、フードの中を覗き込まれるかという恐怖がアスリューシナを極限にまで緊張させ、耳に入って来る呪いじみた言葉が精神を擦り切らすほどに追い込んだ。

 

「わ……私は……嫌……」

 

もう感情を紡ぐ事しか出来なくなった時、ぽんっ、と栓を抜いたようにオベイロン侯の顔から表情が抜け落ちる。何の感情も宿していない顔から無機質な声だけが転がり出た。

 

「嫌……だって?…………僕の物にならないなら……君は世を狂わせる禍罪(まがつみ)にしかならないよ、アスリューシナ」

 

聞き覚えのある言葉だと認識しながらも限界を超えたアスリューシナの意識はそこで途切れる。しかしほとんど同時に馬車が止まり、「失礼しますっ」とキズメルが叫ぶように声をかけ応答を待たずに扉が勢いよく開いた。

オベイロン侯が声を出す間も与えずに侯爵令嬢の元へと参じフードが乱れていない事を確認して気を緩めるが、当の主人が気を失っているとわかり途端に怒気を纏う。

それでもここは一刻も早くアスリューシナを屋敷の中へ運ぶのが先と思い直して、すぐさま主人を抱きかかえ馬車を降りた後、待機させていたサタラを始めとする侍女達に主人の身を預けて自分は未だ車内に残っているオベイロン侯へ拳を握りしめて無言で頭を下げた。

するとキズメルのすぐ隣に家令が並び、同じく深々と一礼をしつつ低く落ち着きのある声を発する。

 

「オベイロン侯爵様、お嬢様をここまで有り難うございました。あとのことは公爵家にお任せ下さい。後日、我が主より改めてご連絡を差し上げることになりましょう」

 

さすがに公爵家の家令ともなれば、たかが使用人とは扱えないのか、オベイロン侯は冷めた目つきで二人を見るとゆっくりと馬車から降り出てきた。

自分の護衛部隊の一人が引いてきた馬へと歩みを進める途中、振り返り、口の両端をきゅっと吊り上げて笑いながら命ずるように言葉をかける。

 

「アスリューシナ嬢は相変わらず身体が弱いんだね、だったらくれぐれも屋敷から出さないようにしてくれたまえ」

 

それには否とも諾とも応じず二人は侯爵とその護衛部隊が公爵家の敷地から見えなくなるまで頭を上げることはなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
御者さんといい家令さんといい実はユークリネ公爵家の男性使用人さん達は
皆さんかなり優秀でございます。
料理長さんや庭師さん、コーヴィラウルの専任護衛ヨフィリスさんなど
結構ちょこちょこスタッフが登場(?)しているのですが……なぜか
キズメルの部下の皆さんだけは深夜の侵入者に気づかないのほほん気質!(苦笑)


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34.接触(4)

ようやく公爵家に戻ってきたアスリューシナだったが……。


……暗い…………何も見えない…………怖い…………

 

「お嬢様っ」

「お嬢様、もう大丈夫ですからっ」

 

……遠くでかすかにサタラや他の侍女達の声が聞こえたような気がする…………

 

「アスリューシナ様っ、わかりますか?、公爵家のお屋敷に戻ってまいりましたっ」

 

……小さい、小さいキズメルの声…………でも、誰もここには来てくれないの…………真っ暗で…………とても怖い所……

 

「とにかく、すぐに湯浴みをっ」

「お可哀想に、お身体がすっかり冷え切っていらして……」

「やだっ……サタラさんっ……お嬢様の腕に……」

「まぁっ、なんですっ、この痣はっっ」

 

……すごく寒い…………すごく痛い…………すごく苦しい……………………誰か、助けて…………

 

「お嬢様、少しお眠りください」

「そうです、私達がお側に付いているので大丈夫ですっ」

「はい、みんなここにおります……」

 

……暗いのは嫌…………ずっと、ずっと…………暗いまま…………何も見えない………………

 

「あなた達はもうお下がりなさい」

「ですが……」

「今夜は私とキズメルがお側に控えるので大丈夫ですよ」

「では、朝になりましたら交代いたしますので」

「そうですね、お願いします」

 

……暗いのは怖い…………でも、もっと怖いのは…………

 

 

『…………あーあ、これじゃあ、世を狂わせる禍罪(まがつみ)にしかならないよ…………』

 

 

「お嬢様、ご安心下さい。今宵は私共がご一緒させていただきます」

「アスリューシナ様……私達の声が、聞こえていないのですね……」

 

……もっと怖いのは……自分が禍(わざわい)の存在だと……気づいてしまうこと……

 

「それでも私達はお嬢様のお側に……」

「はい、もうあの時のような想いはしたくありませんから」

「キズメルも……強くなりましたね」

 

……知らなかったの、私は禍だって……あの子に……言われるまで…………

 

「本当に……なぜ、こんな事に……」

「申し訳ありません、サタラ」

「あなたを責めているのではありませんよ…………あの侯爵様にお嬢様の髪は見られていないのでしょう?」

「着衣の乱れはありませんでした。かの侯爵様も特に気づいたご様子はなく……」

「だったらなぜお嬢様はこのように怯えていらっしゃるの?……」

 

…………禍罪だから…………私は……ひとりぼっちなの?……………………

 

 

 

 

 

コンッ、コンッ、コンッ

 

突如、アスリューシナの私室に侍女頭と専任護衛の静かな会話を遮る音が響いた。タイミングを合わせたように二人は口を噤む、が、両者ともこんな深夜に聞こえるはずのない音と判断して、困惑を互いの顔に見て言葉を交わすことなく一瞬の静寂が部屋に満ちた。

しかし、その時、最初の音よりも明らかに急いた速度で、そして力強く「コンッ!、コンッ!、コンッ!」という叩音が二人の耳に届き、音の出所を探すべく四方へ首を巡らせた時だ、今の今まで糸の切れた人形のように侍女達に全てを任せ、身を清めた後、私室のソファに腰を降ろして虚ろなガラス玉をはめ込んだような目を閉じることなく、その場にただ存在するだけだったアスリューシナがふらり、と立ち上がる。

侍女頭と専任護衛が「お嬢様っ!?」と驚きの声を上げるが、それすら聞こえぬ様子でおぼつかない足取りのまま、しかし一片の迷いもみせずによろけながらもバルコニーへと続くガラス扉の前まで歩を進めると分厚いカーテンを開く手間さえ省いてすぐに布地の合間に両の手を潜り込ませた。まるで酸素を欲するように一刻さえ惜しんでガチャ、ガチャと乱暴な所作で鍵を解除した途端、バンッと勢いよく外側から扉が開かれ、外気に押されてカーテンが大きく揺らめく。

ぶぁさっ、とカーテンが膨らむと同時にアスリューシナの身体は強い力で抱きしめられた。

外部からの侵入者にキズメルが殺気を伴い令嬢の元へと駆け寄ろうとした寸前、隣にいたサタラの手で動きを制される。

そしてアスリューシナの何も映していなかったガラス玉の瞳が徐々にヘイゼル色の芯を取り戻し、耳元に荒い息づかいと緊張気味の声がじわりと入ってきて、時間(とき)が動き始めた。

 

「……はぁっ、はぁっ……無事か?……アスナ」

 

内に閉じ込めるようにして彼女の細い身体と小さな頭を抱え込んだキリトゥルムラインは腕の力を緩め、消え入りそうに生気のないアスリューシナの顔を覗き込む。ようやくアスリューシナの耳に届いた声と漆黒を捉えた瞳だったが、彼女は蒼白のまま何の感情も表さずに「はい」と小さく答えるだけだった。しかしキリトゥルムラインは令嬢の異変に気づきながらも上がった息のまま軽く微笑む。

 

「っはぁ…………ただいま、アスナ…………やっとアスナの所に戻ってこれた」

 

最後の言葉にアスリューシナの瞳が大きく見開かれた。

 

「……戻って?……」

「ああ……アスナと共に居られるよう今回、領地を往復したんだし……『ただいま』って言う相手はアスナしかいないだろ」

「私の……傍に……居てくれる……の?」

「はっ?……オレ、ユージオの夜会の帰り、馬車の中で言ったよな、ガヤムマイツェン領のリンゴの花を見せたいって。あれ、別に遊びに来いって誘ってるわけじゃないんだけど…………もしかして、伝わってなかったのか?」

「ずっと、一緒に……居てくれる?」

 

普段の丁寧な言葉使いをすっかり忘れてしまったのか、口にしていい問いかどうかに怯え、返される言葉に悪い憶測を浮かべ、臆病な幼い子供のような言葉を震える唇の隙間からオドオドと差し出す様にキリトゥルムラインはその原因と思われる人物への怒りを押し留めゆっくりと頷く。

 

「私が……禍(わざわい)……となる存在でも?」

「アスナが禍?、まさか……アスナは……そうだな、傍に居てくれると安らぐし、心地良いし、すごく気持ちが楽になる…………オレにとっては癒やしだよ」

 

キリトゥルムラインからの言葉を正面から受け止めようと真っ直ぐに見つめていたヘイゼルの瞳から涙が一筋流れ落ちた。崩れ落ちそうな身体全体をしっかりと支えられているアスリューシナは、ようやく口元を緩め目を細める。

 

「ありがとう…………お帰りなさい、キリトさま」

 

そう告げるなりキリトゥルムラインの胸元へ、ぽふっ、とその身を預けた。その姿に仰天したキズメルが「アスリューシナ様っ」と今度こそ慌てて駆け寄ると、令嬢の頭を支えつつもキリトゥルムラインの人差し指が静かに自らの唇に当てられる。

 

「しーっ、キズメル、静かに」

「はい?…………」

 

侯爵の穏やかな笑顔が腑に落ちず、そっと主の顔を覗き込んだキズメルは一瞬、驚きに瞠目したが、すぐに安堵と嫉妬で何とも言えない表情に転化した。

 

「お眠りに……」

 

キズメルにしては珍しく間の抜けた声が可笑しかったのか、サタラが小さく笑ってから肩の力を抜くように息を吐く。

 

「……私達ではダメなのですね…………サタラ、悔しいのは分かりますがお嬢様を寝室へ。侯爵様もその緩んだ口元を引き締めて下さい。かなりお疲れの所を無理しておいで頂いたのでしょう、お茶を用意いたしますのでこちらへ。今宵ばかりはお嬢様とご一緒のティータイムは諦めて下さいませ」

「構わない、たまにはアスナが寝ている隣でお茶を飲むのも悪くないだろ」

 

気を失ったように眠っているアスリューシナをいまだ抱きしめて離さない侯爵にキズメルは両手を広げ、受け渡される体勢を整える。

 

「いえ、侯爵様、お嬢様は私が寝室へお運びいたしますので……」

「でもさ」

 

困ったように笑う侯爵が自分の上着の裾へと視線を落とすと、そこにはアスリューシナの白くて細い指がしっかりと生地を掴んでいて、それを見たキズメルは言葉もなく口をただポカン、と開けて長身の身体を真っ直ぐに伸ばしたまま文字通り棒立ちとなった。

たとえアスリューシナが全幅の信頼を寄せている専任護衛でも、自分を頼っている彼女を預けるなどありえないと微笑みに僅かな優越感を忍ばせたキリトゥルムラインは令嬢を横抱きにするとすぐさま室内を移動して一番大きなソファに彼女の身体を横たえ、すぐ隣に自分も腰を降ろす。

すでに着座してしまった侯爵へ慌ててお茶の準備を整えたサタラが侍女頭ならではの手早さで、スッとキリトゥルムラインの前に湯気の立つティーカップを給仕した。

上がっていた息も落ち着いたキリトゥルムラインが出されたカップに手を伸ばし、一口飲んでから小首を傾げる。

 

「うーん、アスナが煎れてくれたお茶の方が美味いような……」

「さようでございますか」

 

特に気にした素振りも見せず淡々と侯爵の言葉を受け流すサタラにキズメルは改めて尊敬の念を抱いた。キリトゥルムラインも別段サタラの煎れたお茶が不味いというわけではないようで、そのまま二口、三口、大人しく喉に流し込むと、軽く下を向き、はーっ、と溜め息とも深呼吸ともつかないような大きな息を吐き出す。

一拍おいて顔を上げたキリトゥルムラインはカップをテーブルに戻した後、底光りのする漆黒を瞳に宿しサラタを睨み付けた。

 

「それで、どうやってアイツがアスリューシナと接触したんだ?」




お読みいただき、有り難うございました。
お帰りなさい、侯爵サマ。本編復帰は三ヶ月ぶりですね。
ですが、それ以上に注目すべきは……公爵家の家令さん
前回、初めて喋ってましたっ(笑)


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35.接触(5)

自分の腕の中でようやく眠りに落ちたアスリューシナを傍らに
寝かせたまま、昼間の出来事を問いかけたキリトゥルムラインは……。


アスリューシナに注いでいた時とは瞳の色を一変させて冷静さを装いつつも震える手で膝頭を握りしめたキリトゥルムラインは、彼の怒気を感じたのかピクリと揺れたアスナの肩に気づき、慌てて彼女の腕に手を伸ばし、ゆっくりと撫でる。

しかし触れられた途端、眉を不快そうに歪めたアスリューシナの反応にキリトゥルムラインが困惑して思わずこちらも眉を動かすと、心中を察したサタラが「侯爵様」と言いづらそうに声をかけてきた。

 

「その……実は今、お嬢様は腕を痛めておりまして」

 

敢えて詳細を省いたサタラの言葉に勘の良さを発揮したキリトゥルムラインの声が尖る。

 

「原因は?」

 

誤魔化しは効かないと観念したサタラは「それをお話する前に……」と前置きをしてから一礼を捧げた。

 

「本当に有り難うございました。侯爵様がおいでくださらなかったら、あのままお嬢様はどうなってしまっていたか…………それにしても、ご予定より随分と早いお戻りで……」

「ああ、夜半前に屋敷に着いたんだ。そうしたらサタラから伝令があったと家令に聞いて。それに中央市場のエギルからも連絡が入ってたからそれを確認してすぐにこちらに来たんだが……アスナがあんな状態になってるなんて……」

 

今まで自分を出迎えてくれていたアスリューシナとはほど遠く、痛ましい姿を思い出して堪らずにキリトゥルムラインは自分の傍らにある彼女の髪に手を伸ばす。スー、スー、と落ち着いている呼吸音に合わせるようにそのロイヤルナッツブラウン色の絹糸を梳くと気持ち良さそうに彼女が侯爵の足に頬をすり寄せてきた。その様子にクスッと声を漏らし、愛しい眼差しを注いでから身を屈め「…………」と誰にも聞こえない声で彼女に囁くとほんのわずか、彼女の口元が嬉しそうな弧を描く。

束の間、アスリューシナの寝顔を眺めていたキリトゥルムラインはそれから名残惜しそうに顔を上げ、サタラと視線を合わせた。

 

「よく伝令を寄越してくれた。アスナの様子がこれほどとは……オレも驚いたよ。こちらの侍女達も大変だっただろ」

「お気遣いありがとうございます。ですが先日の侯爵さまのお言葉通り、侯爵家の家令の方にお言付けいただいていたお陰ですぐに事情をお伝えする事が出来、引いてはお嬢様を救っていただいたのですから」

 

キリトゥルムラインが領地に赴いている間、何も心配はない、と告げた自分の浅はかさを悔いているのか、いつもより硬い表情のサタラに対して、奇しくも彼女がキズメルにかけた言葉と同じように侯爵は「こちらに責めはないよ、サタラ」と確かな口調で告げる。

平素ならば侯爵からの言葉を否定するなどしてはならないと十分理解している侍女頭が今回だけははっきりと首を横に振った。

 

「いえ、お嬢様に中央市場に行かれては、と献言したのは私でございます」

「だとしても……だいたいアスナは月に一回は市場に行ってるだろ。サタラが言わなくても遅かれ早かれ足を向けただろうし……そもそも今回の一件、色々と偶然すぎるんだよなぁ」

 

既に無意識のレベルでアスリューシナの髪を指に絡ませ、その感触を糧に考えをまとめているキリトゥルムラインが次にキズメルへと視線を移す。

 

「異変を感じたのはいつからだ?」

 

その問いかけにキズメルは一礼をしてから昼間の出来事を侯爵に話し始めた。

 

 

 

 

 

「ふーん……」とキリトゥルムラインはキズメルの話を聞いている間もアスリューシナの髪を弄り続けたまま同じ姿勢でどこか焦点の合わない真っ黒な瞳をしていたが、話の中にオベイロン侯が出てくるとその視線が一筋流れ落ちた涙跡のある公爵令嬢の頬へと着地する。

まるでその時流すはずだった涙だと感じているのか、次第に憤怒で荒くなる呼吸をなんとか抑え込むように両肩が大きく揺れていた。

 

「……で、アスナの腕の痛みはアイツのせいなんだろ」

 

確信を持って投げられた問いにサラタはゴクリ、と唾を飲み込んでから静かに「はい」と答える。

一刻も早く冷えた身体を温めなければ、と彼女が湯浴みで見た公爵令嬢の腕は鬱血して赤紫に変色していた。

 

「……馬車を強引に揺らされた時、どこかにぶつけられたのでは、とも考えましたが……指の跡がくっきりと…………」

 

途端にギリリとキリトゥルムラインの口元から歯噛みの音が漏れ、瞳は黒炎色に揺らめく。キズメルも悔しそうに両の手の拳を握りしめると小さな悪態が耳に飛び込んで来た。

 

「くそっ」

 

侯爵が人前で発していいとは思えない音吐だが、心中は同じなのでサタラは気持ちが少しでも鎮まれば、と話を続ける。

 

「ですが、侯爵様より頂戴しました軟膏を塗布しましたので痛みが長引くことはないかと……」

「そう……だな。本来は出番がない方がいいんだろうけど……役に立ったようでよかった」

 

手の力を抜くと同時に息を吐き出して気持ちを切り替えたキリトゥルムラインはそれでも問わずにはいられなかったのか少々口ごもりながら「それで……」とサラタを仰ぎ見た。

 

「その……他には……あー……」

 

何が言いたいのか、その表情で悟ったサタラは僅かに表情を緩めて「大丈夫でございます」としっかり頷く。

 

「腕以外にはどこも傷や痣などはございませんでしたから」

 

欲しかった言葉を受け取り今度こそ安心したキリトゥルムラインだったが、その侯爵に向け拳を固めたままのキズメルが少々戸惑うような声で「侯爵様」と珍しく自らキリトゥルムラインに口を開いた。

 

「ですが、アスリューシナ様は腕を掴まれたくらいで失神したりは致しません。その辺のご令嬢方よりずっと気丈夫な方です」

 

至ってしごく真面目に自分が仕える主人の気強さを語ってくる専任護衛の言葉に本来のアスリューシナの姿を思い出したキリトゥルムラインが「そうだな」と肯定してから内の疑問を口にする。

 

「ならアイツと馬車で二人きりの間、他に何かあったと考えるべきだろう。どうしてここまで自分を追い詰めたのか……キズメル、君が馬車を降ろされる時のアスナの様子はどうだった?」

「はい、確かに緊張や怯えは感じられましたが…………あの侯爵様と馬車で二人きりになるのですから当然の反応かと」

 

論無きこと、とサタラが二回頷く。

残るは公爵邸に着くまで車内で何があったのか、だが、果たしてそれをアスリューシナに尋ねても良いものか、と思案しつつ一通り話を聞き終わった侯爵は「ふぅっ」と息を吐き出し、気持ちを切り替えて公爵令嬢の頭を撫でた。それは自分がその場に居られなかった悔しさとアスリューシナの勇気への賞賛だったのだろう、労るように何度も何度もロイヤルナッツブラウンの髪の上に手の平を滑らせる。

 

「あの侯爵と二人きりになったせいでアスナの精神状態が崩れたんだろうけど、キズメルがアイツに刃向かっても事が大きくなるだけで、後々、もっとやっかいな事態になっていただろうから、やはりアスナの判断は正しかったよ」

 

侯爵の言葉にサタラが今度は深く大きく頷いた。

 

「あの侯爵様は少しでもこちらに非があればそれを理由に何を言い出すかわかりませんからね。旦那様がお留守の今、私共では何の抵抗できませんし…………頼みのコーヴィラウル様は未だ何のご連絡もなく……」

「まぁ、ユークリネ公が居ないからこそ良くも悪くも話は動いていないわけだが……本当に良くも悪くも、だな。お陰でこちらの要望も伝えられない…………コーヴィラウル様も遠方なのか?」

「はい、長年探し求めていた物がようやく手に入るそうで…………コーヴィラウル様はその為に他国を渡り歩き、長い時間をかけて情報を集めていらっしゃったのですから結果を得られるまでお戻りにはならないでしょう」

「ならそれこそアイツの言う通り、しばらくアスナを屋敷から出さずにいるしかないか。今回のアスナの外出、どうもアイツは知っていたとしか思えないんだ」

 

キリトゥルムラインの言葉に揃って驚きの表情となった二人はすぐに互いの顔を見合わせた。

しかしすぐにキズメルが遠慮がちに口を開く。

 

「失礼ですが、侯爵様。わが公爵家に内通者がいるとは……」

「そこは疑っていないよ。アスナと公爵家の使用人達の関係性はオレの理想と言ってもいいくらいだし。けど、さっきも言ったようにアスナが外出するのは月に一回、反対に月に一度の外出は必ず市場に行ってるってことだろ。その事をアイツが気づいたとすれば昼間の一件、偶然を装うことは可能だ」

 

確かに色々と腑に落ちない点を思い浮かべている様子のキズメルだったが、それでも、と根本的な疑問を侯爵に告げた。

 

「けれどアスリューシナ様は表向き病弱の令嬢という事になっております。市場でも終始フードは被っておられますから、月に一度公爵家から馬車で出向く人物の存在に気づかれたとしても、それがお嬢様だと思う確証は……」

「そこなんだよな、もし市場の古狸達に探りを入れたとしても、その辺は適当に誤魔化すに決まってるし……オレだってどれだけ苦労したか……オレの知ってる情報屋も商売する相手は選ぶヤツだから、そこから、っていうのもないと思うんだよな」

 

色々と内に入って考え込んでいる様子のキリトゥルムラインは「だいたいアスナの情報を求めてくるようなヤツがいたら、そいつの情報をオレが買うって言ってあるし……」とブツブツ零しながらも公爵令嬢の髪に触れていた指がその一房をくるり、と絡め取り、自然と目線がその寝顔に行き着く。

 

「……月に一度の外出くらい、自由にさせてやりたい」

 

共に出掛けた中央市場でのアスリューシナの姿を思い返していたキリトゥルムラインは静かに眠り続けている傍らの存在に向け、自らの決意のようにそっと言葉を落とした。




お読みいただき、有り難うございました。
まずは情報共有ですね。


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36.接触(6)

ソファで眠るアスリューシナの傍らで日中、彼女に起こった出来事を聞き終えた
キリトゥルムラインは……。


しばらく無言のままアスリューシナの寝顔を労りと情愛の目で見守り続けているキリトゥルムラインはサタラの、こほんっ、とわざとらしい小さな咳を耳にして「ん?」と疑問の顔を向けた。

侯爵が自分の主人に注ぐ底なしに優しくて温かなオーラを同じ空間で感じるいたたまれなさにどうにか耐えていた二人だったが、これ以上は、とサタラが降参の旗を揚げる。

 

「侯爵様、淑女の寝姿をそのように強く見つめるものではございません」

「あっ……ああ、そうか、そうだよな。この前の夜会の帰り、目は瞑らせたけど寝てはいなかったし。王都を発つ前の夜はこんなに落ち着いてアスナの寝顔なんて見ていられなかったからさ、つい」

 

それはあの夜、早々にこの部屋からあなた様を追い出した私への怨言ですか?、とサタラの眉が反応を見せるが、キリトゥルムラインは再びただ一心にアスリューシナの寝顔を見つめていた。

 

「……所作も綺麗だと思ったし、何よりこの髪の色も綺麗だと思ったけど……」

「先日のルーリッド伯爵様の夜会のドレス姿はいかがでございましたか?、私共、かなり気合いを入れましたが」

 

確かにアスリューシナ自身も「侍女達が時間をかけてくれました」と言っていたのを思い出し、コクコクと首を振って「ここの侍女達の腕は見事だな」と賞賛を送る。

 

「アスナは外見だけじゃないだろ。内面もすごく綺麗で…………」

 

誇らしげにサタラとキズメルが心からの笑みを浮かべつつ深く頷いた。

 

「それで、今……やっぱり寝顔も綺麗なんだなぁ、って目が離せなくなって…………そうしたら、どうしてこんなにも綺麗な人がこんな生活をしなきゃいけないんだろう?、って…………毎日、毎日、屋敷から出られず、庭で花を愛でることすら許されないなんて……絶対おかしいだろ?」

「ガヤムマイツェン侯爵様……」

「こんなの、まるで罪人のようじゃないか。アスナが何をしたって言うんだ、髪が不敬の色なのは彼女の責任じゃないよな。なぜ自分を禍(わざわい)だなんて言う。こんなに綺麗で真っ直ぐで強いのに広い公爵家の自室で隠れ住むように暮らして、暗いのが苦手だと言って無理に笑う姿なんて全然アスナらしくない」

 

すぐ傍らの安眠を妨げぬよう静かな声のまま氷のように冷たく激高するキリトゥルムラインだったが、それでも耐えきれずに苦悶の表情を浮かべる姿にサタラは泣きそうな微笑みで答えた。

 

「有り難うございます、侯爵様。今のお言葉、この公爵家に使えている者なら誰しもが口にしたくとも出来ない思いでございますから」

「だいたいロイヤルナッツブラウンは染めてはいけない色であって、もともとの色ならば咎を受ける事では……」

 

数ある公爵家の中でも領地がないとは言え代わりに中央市場を取り仕切る手腕は誰もが認めるところで、三大侯爵家には及ばずともその発言力は強く、貴族社会の中では決して蔑ろには出来ない地位を築いているユークリネ公と、既にその片腕と称されるコーヴィラウル子息、加えて辺境伯の令嬢ながらその学識は男性であったなら学問の塔が放ってはおかなかっただろうと噂されている公爵夫人。公爵家にはそんな主人を支える優秀な使用人達も揃っていると言うのに尚この現状を打破する事は出来ないのか?、と歯がゆさを滲ませたキリトゥルムラインが言葉を詰まらせるとサタラはより一層悲しげな表情で「侯爵様……」と呼びかけた。

 

「侯爵様は、お嬢様は身体が丈夫ではないから屋敷から一歩も出られない、と世間に周知されておりますが、その実、三歳の頃に王都を離れて公爵夫人のご実家である辺境伯の元でお育ちになった事をご存じと伺っておりますが」

 

確かめるような視線を送られ、キリトゥルムラインは小さく頷き話の先を促す。

 

「いくらお嬢様の髪の色が他者と違うからと言って、まだ年端も行かぬ可愛い一人娘をわざわざ遠く離れた地にやる事は旦那様にとって苦渋の決断でした。けれどそうせざるをえないひとつの事件が十四年前に起こったのです」

 

サタラは俯き加減で訥々と語り始めた。

 

「あの頃も旦那様はいつもお忙しく、あまりお子様方と一緒の時間を過ごすことがありませんでした。そのせいか中央市場を視察される際は必ず同行を強請るお嬢様を困ったようにお笑いになりながら、それでも少し嬉しそうに馬車に乗り込むお二人の後ろ姿を、私共もいつも笑顔でお見送りしたものです。ですががそんなお姿を見る事が出来たのはその年の建国祭の日まででした」

「建国祭?」

「はい、あの日、日中、王城の式典などの催しの為に登城されていた旦那様は日暮れにこちらのお屋敷に戻られて、少し遅くなったけれど市場の様子を見に行ってくる、とおっしゃって……いつものようにお嬢様が一緒に連れて言って欲しいとせがんだのです。けれどその日は建国祭の為、市場も買い物客の他に物見遊山の人達が大勢訪れていてもの凄い賑わいになっておりましたし、それにこれからだと市場に到着するのは夜になってしまうので最初は旦那様も渋っておられたのですが…………当時からお嬢様は窮屈な生活をなさっていたのに我が儘一つ言わず我慢されていて、そのお嬢様から、どうしても、と言われると強く言えず……」

「連れて行ったのか?」

「はい……」

「ちょっと待ってくれ、でも、アスナは兄上と一緒に昼間、建国祭のパレードを見に言った事があるって……」

 

キリトゥルムラインの言葉に「そうです、後で分かった事なのですが……」と話の続きを語った。

 

「その日の午後、お嬢様とコーヴィラウル様は私達に内緒でこっそりとお二人だけでパレードを見に行かれてたのです。当時、お二人と仲の良い御者がおりまして、その者をコーヴィラウル様が説得されて、パレードだけ見たらすぐお屋敷に帰るという約束でお出かけになったそうで…………お帰りなった後、初めてのパレードや妹であるアスリューシナ様を気遣ってのお二人だけの冒険のような外出でお疲れになったのでしょう、コーヴィラウル様はそのまま寝てしまわれたのですが、アスリューシナ様だけは旦那様のお帰りに気づき、花火が見てみたいとおっしゃって……きっとお二人で外出された時に、夜、市場で花火が見られると耳にしたのではないかと。そうしてアスリューシナ様だけが旦那様とご一緒に夜の中央市場へお出かけになったのです」

 

国王が城から出て国民にその健在ぶりを知らしめ、国の繁栄を願う為の建国祭……それはこのアインクラッドという国が出来た当初から続いているという歴史のある祭りであり、民にとっては年に一番の楽しみだ。はじめは他国からの侵略や領地拡大の為の戦に勝った王の凱旋パレードだったという説が有力だが、今では国の豊かさを示す意味でも年々大掛かりになり王都の観光収入源としての役割も担っている。期間中は地方から出てくる民はもちろん、近隣諸国からも大勢が押しかけ、彼らをお客とする旅回りの一座や各地を行脚している商人達が集う為、普段から人出の多い中央市場は商品の数より人の方が多いのではないか、と揶揄される程の賑わいになり、更に祭り特有の喧噪が一日中絶えることなく市場は一種独特の空間に様変わりする。

 

「それでか、この前、夜会の帰り、アスナに建国祭の夜、市場を観に行かないか?、って誘ったんだ。そうしたら…………」

 

『見た事も聞いた事もないような異国の品々を扱う露店が並びますものね』

『ああ、食べ物も色々とあるし、おもしろい雑貨なんかもあるよな。ユークリネ公爵家のご令嬢でもさすがに建国祭の期間だけ店を出す商人達の顔や品物は覚えてないのか?』

『毎年変わるんですもの。それに他にも曲芸師や軽業師が腕を披露する見世物小屋がいくつか出ますし、遠方から建国祭を見にいらっしゃる方々も大勢いて、それはもうすごい人出で…………それに、やっぱり夜はアレがありますものね』

『アレ?』

『花火ですっ。一度でいいから夜空に咲くという火の花を見てみたいと、ずっと思っているのですが……』

『アスナ……見たことないのか?』

『……はい…………あの、建国祭の間は屋敷で働いてくれている皆さん、順番にお休みを取ってもらうんです。だから……』

『毎晩打ち上げてるんだから、一晩だけでも付いてきてもらえばいいのに』

『そう……ですよね……でも、なんとなく建国祭に市場に行きたい、とは……言いづらくて……』

『アスナ?』

『ヘンですよね。あっ、別に遠慮ではありませんから。私自身、行きたいのに行きたくないような中途半端な感じなんです。仮に行くつもりだったのに急に行くのが怖くなったりしたらキズメルも心配しますし、申し訳ないな、と』

『行くのが怖い?、夜で暗いからか?、市場は昼間みたいにたくさんの灯りがあるけど……だったら今夜みたいにオレが公爵家まで迎えに行くよ』

『えっ?』

『さっきのルーリッド伯爵邸の小園で実証できただろ。オレと一緒なら暗くても大丈夫みたいだし』

 

「こうやって、ずっとオレの腕の中にいればいいさ」と言った時「それじゃあ、花火が見られませんっ」と恥ずかしそうに、でも頬を嬉しさで染めたアスリューシナの口だけの抗議をキリトゥルムラインはただ笑って聞いていたのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
少しずつ過去の出来事が明かされていきます。


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37.接触(7)

十四年前に起きた建国祭での事件とは……。


アスリューシナとの会話を思い返していたらしいキリトゥルムラインの視線が自分に戻ってきた事を認めてからサタラは再び口を動かした。

 

「あの十四年前の建国祭の日の出来事は、当時このお屋敷にいた者達にとって決して忘れる事の出来ない傷となって残っております」

 

今なお続く痛みに耐える強張った口元、寄せられた眉、悲しみの色を宿した瞳のサタラがふと後方のキズメルを見れば、彼女もまた同様に痛みを感じているのだろう、うつむく姿勢で表情は分からなかったが強く握られた拳が微かに震えている。その姿に沈痛な思いを抱いたもののサタラはこの公爵家にご息女が誕生した頃の日々を振り返り、僅かに目元を緩めた。

 

「キズメルもお父上が旦那様の護衛長をしておりました関係で最初はお嬢様の遊び相手にとこのお屋敷にやってきたので……」

 

そこでキズメルの唇が動く。

 

「お生まれになってまだ間もないアスリューシナ様に初めてお目にかかった日の事を今でもよく覚えています」

 

ゆっくりと上げた顔、苦痛の中にも柔らかさを取り戻したキズメルの目が侯爵を捕らえる。

 

「お背中に羽根が生えているのではないかと疑いたくなる程、それはもう愛らしいお姿でございました。そして見た事もないような御髪の色で、私は隣にいらした侯爵様と後ろにいた父に向かって交互に『綺麗だね、可愛いね』と何度も繰り返し言い続けました」

「そうか……アスナがキズメルの事を姉のようだと言うはずだな」

 

本当に産まれた時から彼女を見守っている専任護衛なのだと知り、アスリューシナがキズメルに寄せる信頼の深さを改めて納得すると共にその関係に僅かな憧憬を覚える。しかしそんなキリトゥルムラインの心の機微など気づかぬサラタは再び固い声を侯爵に向けた。

 

「当然の事ながらお嬢様のお姿は信用のおける一部の使用人にしか明かしませんでしたが、今の侍女達と違い当時の奥様付きの侍女達はごく一般的な者が多く……はっきり申し上げますと、噂好きでお喋り好きな者もおりましたので、お嬢様がお歩きになられる頃には確証はございませんが多分、その辺りからご容姿に関する話が漏れたのだと思います」

「ああ、どこかの貴族の屋敷にロイヤル・ナッツブラウンの髪を持つ子がいるっていう……それならオレも昔に聞いたことがある」

「はい、ですがその噂に対処する前にあの事件が起こってしまいました」

 

サタラがこれから話すであろう内容を受け止める気構えを整える為、キリトゥルムラインはすっ、と視線を落としてアスリューシナの寝顔を漆黒の瞳に収めると再びサタラに向き直り慎重に頷いた。

 

「建国祭の期間中は今も昔も変わらず中央市場にいる誰も彼もがまさに文字通りお祭り気分です。特に陽が落ちた後は花火の打ち上げを待つ高揚感と相まって更に興奮に満ちて…………あの夜もその一種異様とも言える人々の多さのせいで旦那様はうっかりとお嬢様を見失ってしまったのです。もちろん最初は単に迷子になっただけと、キズメルのお父上と一緒に市場の店主達にも声をかけながら人混みをかき分け探したそうでが、花火が終わり、人々の波が市場から引いてもそこにお嬢様のお姿はありませんでした。もし王都の人間がお嬢様を見つけたとしても、その姿は他国の者だと思われれば騒ぎにはなりません。お嬢様にも万が一の時はその様に振る舞うよう旦那様と約束をしておられたのでその夜はどこかの民家にお世話になって、朝になれば市場に戻り、馴染みの店主達に心配を掛けた事を謝ってからこの公爵家へお戻りになるはずと思っておりました。そして、そんな都合の良い想像をしながらこのお屋敷で旦那さまとご一緒にお嬢様を待ち続けて三日が経ったのです」

「三日……そんな長い間、何の手がかりもなかったのか?」

「はい、さすがにこれは誰かの悪意が絡んでいるのだと誰もが気づき始め、最悪、お嬢様と引き替えに金品の要求があるかも、と覚悟しておりましたが、その様な接触も一切なく。王都周辺の各関門は建国祭の間、普段より人の出入りは入念にチェックしますので王都からお嬢様が連れ去られるという可能性は低いと思いましたが、お嬢様のご容姿を明かす事が出来ない以上、騎士団や町の警備隊に協力を求めるわけにもいきません。三日間、昼も夜も交代で伯爵家の護衛の任に就く者達は捜索を続けました。特にキズメルのお父上、ヨフィリス様は旦那様の護衛長というお立場から当然あの夜の市場へも同行しておりましたので、お嬢様を見失った事をご自分の責だとお考えだったのでしょう、仮眠もほとんどお取りにならずまさに不眠不休に近い状態で市場を中心に捜索に出られていらっしゃいました」

 

当時の父の必死な姿を思い出していたのか、キズメルが目を伏せて苦しそうに眉を歪める。

 

「そしてお嬢様を見失ってしまったあの夜から三日経った深夜、ついにヨフィリス様がお嬢様を見つけ出し、馬に乗って戻ってこられたのです。真夜中にも関わらずその朗報はすぐに屋敷中を駆け巡りました。誰一人として夜着姿の者はおらず、それこそお屋敷内にいた全員が正面玄関へと駆けつけたのです。そこで私が見たのはすでに大きく開け放たれた扉の向こう、暗闇の中から足を引きずる音だけが聞こえた後、室内の明かりが届く場所までやってきたヨフィリス様のたいそう汚れたブーツが見えたかと思うとすぐに胸元まで灯りが届き、外套にすっぽりと包まれたお嬢様を抱く片手が見え……そこで皆が駆け寄ったのです。両手を広げて出迎えられた旦那様にヨフィリス様は何もおっしゃらずお嬢様をお渡しになり……そして…………その場に崩れ落ちました」

「そこから先は私に話をさせて下さい」

 

思い出に抗うように顔を上げたキズメルがハッキリとした声でサタラを真っ直ぐに見つめると、その姿を信じて侍女頭は一歩下がった。その信頼に軽く頭を下げたキズメルは次にアスリューシナの寝顔を見てからすぐ傍の侯爵へと視線を移す。最後に荒ぶる記憶をなだめる為か呼吸を整えて続きを語り始めた。

 

「確かに、お嬢様の行方を捜し続けていたあの数日間の父は娘の私ですから近寄りがたいものでした。焦りと不安と後悔と……サタラは仮眠もとらず、と言ってくれましたが正確には眠る事が出来なかったのだと思います。自分が付いていながら、もっと注意を払っていれば、今頃どんなに心細くされているか、とそんな思いが父を突き動かしていたのでしょう。

あの夜、そんな父がお嬢様と一緒にこのお屋敷に戻って来た……その知らせを聞いた時、私も皆と一緒に正面玄関へ迎えに走りました。しかしお嬢様が旦那さまの腕の中に収まった途端、どさり、と倒れた父の元に駆け寄った私の目に映ったのは、それはむごい姿だったのです。

頬には肉をえぐるような傷が深々とついており、その切創痕は父の片目まで伸びていました。顔の半分は傷口から流れ出ている血に覆われ首から肩、服までも真っ赤に染めていたのです。片手にお嬢様を抱きかかえ、もう片方の手で手綱をさばきながら半分の視力でここまで……気力だけで辿り着いた父にはもう言葉を発する事すら出来ませんでした。お嬢様のご無事を喜んでいたその場の空気は一転し、父の名を呼ぶ旦那様の大きなお声、医師の手配に走ってくれる侍女、父を屋敷の中へと運び込もうと集まってくれた従者、本当にその場にいた皆が父のために動いてくれました。そんな中、外套で周囲の様子が見えないままお屋敷まで到着したお嬢様は旦那様の腕の中でようやくご自分のいる場所がおわかりになったのだと思います。そしてそれまで何の言葉も発せず、感情もお見せにならなかったお嬢様が地に伏した父に気づいて突然泣き叫ばれました。旦那様の腕をはがし無理矢理父の元へと駆け寄り、手を添えて血に汚れるのも厭わず泣きながら大声で何度も何度も『ヨフィリス』と父の名をお呼びくださった。

この様な言い方は不遜ですが、私の父は本当にアスリューナ様を可愛がっていたのです。恐れ多くも旦那様はお嬢さまと私を並べて姉妹のようだとも言ってくださった。父は時々、時間が空いた時にお嬢様と私に本を読んだりもしてくれました。旦那様はお屋敷にいても執務室から出ることはあまりなかったので、その様に接する父にお嬢様も心を許して下さっていたように感じます。そんな父が血まみれで倒れているのですから、お嬢様が正気を失うのも当然だったでしょう。

最後に「死なないで」とだけ口にされると父に覆い被さるように、お嬢様もお倒れになりました。その後、父は一命は取り留めましたが傷跡は長く顔を這い片目の視力が戻ることはなく、それで護衛長の任を辞したのです。そしてまたアスリューナ様もそれから高熱をお出しになりましたが、旦那様はお嬢様のお身体が回復するのを待たずに、遠い辺境伯様の元へとお預けになる決心をなさいました……」

 

そこまでを一気に話し終えたキズメルは自らの内に落とすように最後の言葉をポツリ、と口にする。

 

「父が命を落とさずに済んだのはお嬢様のお陰です。なのに私は……意識が戻らないまま高熱にうなされているお嬢様が馬車に乗せられるのをただ見送る事しか出来なかった」

 

そっとサタラがキズメルに近づき、まるでその時の少女を慰めるかのように彼女の肩を優しく撫でた。




お読みいただき、有り難うございました。
書いていても、読んでいても、しんどい部分が続きます。
申し訳ございません(登場人物にも読んでいただいている方にも)。


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38.接触(8)

十四年前、人知れず母方の祖父である辺境伯の元へと
送られたアスリューシナ。
それをただ見送るしかなかったサタラとキズメル……。


「侍女達も気持ちは皆同じだったと思います。なにより看病が必要な状態のお嬢様を長時間馬車に乗せ簡単には帰って来られない場所へと運んでしまわれるのですから。その後いつお屋敷にお戻りになるかもわからず、出来ることなら行かないで欲しいという願いはありましたが、同時にこれで王都で狙われる事はなくなるのだとわかっていたのでキズメルだけでなく、見送りに出た使用人は誰も口を開きませんでした。ただ全員がお嬢様を乗せた馬車の音が聞こえなくなるまでその場に佇んでいたのを覚えています」

 

二人からの話を黙って聞いていたキリトゥルムラインは初めてこの部屋を訪れた時のアスリューシナの言葉を思い出す。

 

『誰もがキリトゥルムラインさまのように優しい方ばかりではないんです』

 

「……アスナがそんな目にあったのは……やはり髪の色が原因なのか?……」

 

やりきれないように顔を歪め、悲しみと怒りをない交ぜにしたキリトゥルムラインの声に答えたのは無言のサタラだった。迷いを払うかのごとくゆっくりと首を横に振ると悔しさで震える声を吐き出す。

 

「わかりません……旦那様は秘密裏に調査を進めていたようですが、公爵家の力をもってしても首謀者は特定できませんでした。会話が出来るまでに回復されたヨフィリス様の言葉からお嬢様が閉じ込められていた場所を捜索しましたが普段は空き家のようで所有者もおらず、あの三日間、直接お嬢様に関わっていたと思われる男二人は探し出す事が出来ましたが……ヨフィリス様がお嬢様を連れ出す際、乱暴にもみ合ったようで、その時受けたケガが原因なのかどうかはわかりませんが既に死亡しておりました」

 

サラタからの説明にキリトゥルムラインの首が僅かに傾いた。

 

「もみ合った程度で公爵家の護衛長まで務めるキズメルの父上の顔に傷を負わせたのか?」

 

当然の問いに今度はキズメルが困惑の声で答える。

 

「それが……よくわからないのです」

「わからない?」

「はい、父は顔を切りつけられた前後の記憶がはっきりせず……多分、それまでの疲労とお嬢様を見つけた安堵に加え、一刻でも早くお嬢様を連れ帰りたいと気が急いていたのでしょう……ただ、そこにもう一人、子供がいたと、ぼんやり申しておりました。お嬢様を抱きかかえた後、その子供にも声をかけた気かすると」

「子供?」

「ですが、突然、顔に激痛が走り、痛みと半分になった視界とで混乱した父は、とにかくお嬢様を連れ帰る事を最優先に考えたそうです。なので子供の存在も思い出したのはかなり後になってからでした。もちろん、お嬢様が監禁されていた場所に他の子供がいたような痕跡はなかったのですが……」

 

キズメルが口にした言葉にキリトゥルムラインの眉が神経質に反応した。

 

「やっぱり……監禁状態だったのか?」

 

認めたくはないが確認せずにはいられないのか、固い表情のままキズメルを見返す黒い瞳はそれでも強い光を持ち続けている。

 

「はい、父が両眼で見た最後のお嬢様のお姿は……いつものケープコートは纏っておらず、しかし夜の市場で見失った時着ていらしたドレスのまま椅子に縛り付けられ、目隠しをされて……そ、そして……」

 

次に続くはずの言葉にキズメルは声を詰まらせ、何を告げようとしているのかわかっているサタラは俯いて自分の服の布地を両手できつく握りしめた。

 

「そして……アスリューシナ様の手や腕、足には無数の切り傷がっ……」

 

!!!!!

 

どんな言葉でも正面から受け止める覚悟で話を聞いていたキリトゥルムラインだっだか、最後に聞かされたアスナの状態に怒りで奥歯をギリッと鳴らす。幼い頃も今と変わらず細くて、柔らかであっただろう白い肌に幾つもの赤く浮き上がった傷がそのまま彼女の心の傷を思わせ、想像したキリトゥルムラインの目の奥は痛みを覚えるほど怒りの熱を持っていた。

 

「……どういう事だ?、その男共は幼い子供をいたぶって喜ぶ気狂いだったという事か?」

「わ、わかりません」

 

キズメルが強く頭を振ると、サタラが引き継ぐように顔を上げる。

 

「あの事件に関しては、わからない事ばかりなのです。実行犯と思われる男二人は既に生存しておらず、当事者であるお嬢様は話を出来る状態ではございませんでした。お嬢様のご不在を隠す為、辺境伯の元まで同行した侍女はわずか一人で、使用人達はもちろん奥様もコーヴィラウル様も普段と変わらぬ様子で過ごすよう旦那様に言われ、皆ぎこちなくもお嬢様を思いながら懸命に日々を送ったのです。お嬢様を送り届けた侍女が帰ってきた時は皆で囲みましたが、彼女から出た言葉は辺境伯のお屋敷に着いた翌日、お嬢様はようやく意識を取り戻されたけれど、未だ熱が下がらずうわごとでしきりと黒い犬の心配をしている事と夜になると暗闇を異様に怖がるようになってしまったというおいたわしいご様子ばかりで……目をお覚ましになった時、覚えの薄い辺境伯のお屋敷で慣れていない侍女達の世話をお受けになっているか思うと、もう涙が止まりませんでした」

「……この屋敷の誰もが辛かっただろう」

 

侯爵からの慰めの言葉にサタラは頷きそうになる首を寸前で止めた。

 

「いいえ、一番お辛いのはお嬢様ですから。お嬢様がお受けになった心や体の傷を思えば、寂しいなどと口にするどころか思うことさえ贅沢なのは皆わかっておりましたので、表向きは大病を患ってお部屋で寝込んでいらっしゃるお嬢様のお世話をしていると見えるように、侍女達は毎日食事を運び、衣類を洗濯して、部屋に飾る花を整えました。お嬢様が気にされていた犬の件は……そう、確かキズメルが中央市場に行ってくれたのでしたね」

 

視線を動かすと小さく首肯するキズメルを見て、キリトゥルムラインも思い当たったように「ああ、トトか」と、こちらも首を縦に振る。

 

「そう言えば、今回の馬車の襲撃……と呼ぶにはお粗末な騒動だけどな、市場の人間達も気づいたそうだが、その発端はトトだったらしい」

 

まさにもさもさの黒モップという愛嬌ある見かけに騙されてしまいそうだが、実はあの中央市場全体をテリトリーとするボス犬であるトトを見知っているキズメルは意外さを見せず、それを知らないキリトゥルムラインにとっては驚きの事実で、同様にトトを知らないサタラに向かい困惑を混ぜた声で市場のまとめ役であるエギルから聞いた話を語り始めた。

 

「昼間、トトがエギルの所まで片足を引きずりながら、それでも全速力で駆け寄ってきたらしい。珍しく急いた姿にエギルも何かを感じ取ったんだろう、しきりと吠え続けるトトを信じて、腕っぷしに自信のある男達数名を連れ、トトが向かう方へ付いて行ったらアスナがいつも市場まで来るのに使っている馬車の周りを見知らぬ男共が取り囲んでいるのに気づいたそうだ。すぐにそいつらを何とかしようと駆けだした途端、横から出てきた護衛部隊に進路を塞がれたとかで」

「塞がれたのですか?」

「ああ、そうとしか思えない動きだったと言っていた。馬車の周りにいる連中はこちらで対処するから手出しは無用だと言われ、それでも市場のまとめ役として状況を把握したいとエギルが食い下がっている間に今度は男共を追い払った護衛部隊が馬車を包囲していたと。それで結局エギル達はわけもわからず解散したらしいんだが……いつの間にか姿を消したボロを着た連中についてもエギルはもちろん同行してくれた仲間達も知らない人間ばかりだと言うんで、奇妙と言うか怪しさが増したんだ。基本、市場に店を出している人間は周囲をよく見ているし覚えている。お客の顔や好みを覚えるのは当然だし、よからぬ事をしそうな奴に気を配ったり、要注意人物がいれば情報を共有すると言った横の繋がりにおいて中央市場の連携は見事と言うべきだろう。不定住者が皆無とは言わないが、それだってだいたいは把握しているはずなのに市場の関係者が揃って見た覚えがないという人間が……しかも多人数集まって同じ行動を取るなんてあまりにも不自然だろ」

「……とおっしゃいますと……」

「多分、最初に馬車に近寄ってきた連中は、その後護衛部隊を連れたオベイロン侯爵がやって来る事を知っていた……と言うより、アスリューシナを適度に怯えさせ、そこに侯爵が現れるお膳立ての為に行動していたと見なすべきだろうな」

「……全てはあの侯爵様の筋書き通りというわけですか」

 

サタラの眉が憎々しげな感情の形を成し、昼間の出来事を思い返したキズメルの顔は既に怒りを通り越したのだろう、逆に氷のような冷たくて鋭く尖った視線がこの場にいない人物を射殺すように真っ直ぐ貫かれている。

二人の表情も当然と黙認したキリトゥルムラインは少し考え込んで口をへの字に曲げた。

 

「けど……なぜ今なんだ?…………ああ、ルーリッド伯爵の夜会に参加した話でも聞きつけたか」

 

その予想にすぐさま首肯したのはキズメルだった。

 

「そうかもしれません。ですから『くれぐれも屋敷から出さないように』などとおっしゃったのかと」

 

まるで自らの所有物であるかのような言い様と内容にキリトゥルムラインは眉間に深い縦皺を作り、ちっ、と舌打ちをしてから小さく「余計なお世話だ」と言葉を吐く。

 

「こうなったら絶対、アスナに建国祭の花火を見せてやりたくなった」

 

当然、アスリューシナの意志があっての上での話だが、その独り言とも取れる言葉にしっかりと頷き返してくれた侍女頭と専任護衛をキリトゥルムラインはまるで共犯者を得たような微笑で喜びを表し、二人の主へと視線を移動させた。

柔らかな漆黒の瞳は縋るように身を寄せているアスリューシナの寝顔を映している間に徐々に真剣味を帯びていく。

キリトゥルムラインはその柔らかそうな頬のすぐそばにあり、未だしっかりと自分の上着の端を握っている白い指を両手で包むと、ゆっくりと撫でながら一本ずつその強張りを解いていった。慈しみを込めた所作に意識はなくとも安心を得ているのか、アスリューシナの手が何の抵抗を見せずに開けば、それを軽く持ち上げ、自らも屈んでその手の平に唇を押し当てる。白くて小さくて柔らかな感触はアスリューシナそのもので、キリトゥルムラインは唇を通して彼女の心に触れているような錯覚を覚えた。

深夜の侯爵家の私室でたくさんの蝋燭の灯りにぼんやりと浮かび上がるその姿は何かを誓う儀式と見紛うほどで、平素ならば眠っている令嬢に唇を寄せるなどすぐさま叱責の声を飛ばすはずのサタラさえ、その厳かな様に飲まれたのかただ静かにその光景を見守っている。

 

「……侯爵様……」

 

しばしの時を経て、サタラの何とも言いようのない呼びかけが室内を静かに漂った。

ようやく、その声に反応してアスリューシナとの接触を終わらせたキリトゥルムラインは顔を上げ、改めて自分の行為が何を意味していたのかを理解して少し照れたように口元を動かす。

 

「すまない、やっぱり俺がアスナを寝室まで運びたい」

 

その両手はまだアスリューシナの手を包み込んでいた。

許されるなら目が覚めるまでアスリューシナに寄り添いその手を握っていたいのだろう。

手の平へのキス……それは異性への最愛を示しており、同時に相手からも同等の愛情を求める行為である。既に遠回しにだがアスリューシナに対し求婚の言葉を口にしているキリトゥルムラインではあるが、今夜の事でその想いが強まり先のような行動を取ってしまったらしい。

その人となりは多少強引でマイペースな部分があるにしろ、それを上回る好意を既に抱いているサタラは自分の主である公爵令嬢を支え、守り抜いてくれる相手としてガヤムマイツェン侯爵に頭を下げた。

 

「今夜だけでございますよ」

 

未婚の令嬢の寝室に殿方を入室させるなど、相手が三大侯爵であってもアスリューシナに仕える侍女としては確固たる態度で拒まねばならぬ所だが、今宵の衰弱しきった令嬢の姿を思い浮かべ、そしてそう遠くない未来、きっと自分の主人はこの屋敷を離れ、ここにいる侯爵様と同じ屋敷の同じ寝室を使うことになるのだろう事を予測してサタラは寝室の扉へ向かった。

アスリューシナを運び入れる為サタラがベッドを整えて、キズメルが寝室の灯りを準備する。

そうして二人が自らの役割を果たしている間、そうっとアスリューシナを抱き上げたキリトゥルムラインは、かつての夜会帰りの馬車内の時のように長い睫毛に縁取られた瞼の下の色を想って、静かにゆっくりとキスを落としていた。




お読みいただき、有り難うございました。
これで「接触」の章は終わりです。
実は今回の影のヒーロー(?)はトトでしたっ。
中央市場の犬世界も縦横連携関係はハンパありません。


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39.建国祭(1)

新章スタートです。


ユークリネ公爵家の正面玄関前に一台の箱馬車が到着した。一見、どこにでもある普通の二頭立て馬車だが、その御者台から降りてきた人物が以前、ガヤムマイツェン侯爵を乗せて公爵家を訪れた事のある御者だと気づいた家令は素早く後ろに控えていた従者にサラタを呼びに行かせる。

と同時に見覚えのある御者がゆっくりと馬車の扉の前に立ち、その取っ手に手を掛ける前に家令はその正面に立ち深々と頭を垂れた。

ガチャリ、と重厚な音がして微かな高音が響き扉が開くと騎士団長の略装に身を包んだ青年が降りてくる。

 

「……だから、僕まで一緒に来る必要はなかったんだよね?」

 

馬車を降りながらアッシュブラウンの髪を揺らし、軽く後ろを振り返りつつ不満げな声を発している青年に続きもう一人、こちらは家令も見知っている青年が漆黒の目を細め、その上の眉尻を下げた顔で降りてきた。

 

「まあまあ、どうせお前も市場に行くんだろ」

「それはそうだけど……」

「ユージオと一緒に城を出た方が自然だしさ」

「……要するに僕はカモフラージュに使われたわけだ……」

 

どうやら馬車の中から続いていたらしい二人の言い合いはなかなか終わりを見せず、ユークリネ公爵家の家令が言葉を発するタイミングを探っている間に屋敷の中から小走りでやってきたサタラが到着する。

 

「……っ!、こ、侯爵様、どうして……」

 

まるでここに居るはずのない人物を目にしたかのようにサタラの表情が大きく乱れ、見開かれた瞳と同様に珍しくも言葉を失って開いたままの口からは空気の出入りさえ止まってしまったようだ。その異変に気づいたキリトゥルムラインは一旦会話を打ち切るとユージオの肩を押しやって家令と侍女頭の前に進み出た。

 

「約束通りアス……リューシナ嬢を迎えに来た。こっちはルーリッド伯爵家のユージオ。ちょうど市場に行くと言うから乗せてもらって来たんだ。このままこの馬車で行った方が安全だろ。こう見えても第四騎士団団長だから人柄と腕はオレが保証する」

 

随分と簡単な紹介に頭痛のする思いだったユージオはそれでも気を取り直して小声で「こう見えても、って……」と言いつつ公爵家の使用人達に爽やかな笑顔を向けた。

 

「初めまして、ユージオ・ロワ・ルーリッドです。いつぞやは我が家の夜会へこちらのアスリューシナ公爵令嬢様にお越し頂き、我が父も大変喜んでいました。今日はこちらのガヤムマイツェン侯爵が建国祭の花火を見に中央市場へ赴くと聞いたので同行したのですが……申し訳ありません、まさかアスリューシナ侯爵令嬢様とお約束があったとは存じ上げず……」

 

どうやら自分はとんだお邪魔虫なのだと居心地の悪い思いでいると、すかさずキリトゥルムラインが「だからいいんだって」と言葉を被せてくる。

 

「市場までオレ達を乗せてくれれば。どうせお前は買い物を済ませたらすぐ城に戻るんだろ?」

「そのつもりだけど。何か珍しい物を買ってお土産にすれば少しは気も晴れるだろうし……昼間にパレード用の王室専用馬車から市井を眺めていたら色々と目にされたようで」

「さすがに御自ら出向くわけにはいかないもんな。こっちは大丈夫だ。花火が終わる頃、うちの馬車が迎えに来ることになってる」

 

建国祭の夜、中央市場で花火を見てみたいというアスリューシナの願いを叶える為、キリトゥルムラインは数日前の深夜、いつものように彼女の元を訪れ少し決断を渋っていた公爵令嬢の耳元に「ずっとオレが傍にいるから」と囁いて了承を取り付けた。そして今日、日中に王都内の王族のパレードでキリトゥルムライン曰く、騎士団に所属していない年若い称号持ちという下っ端ならではのこき使われ方を存分に味わった後、日暮れ間近にようやくお役御免となってアスリューシナを迎えにやって来たというわけだ。

キリトゥルムラインとしてはすぐにアスリューシナが少し不安げな笑顔で現れると予想していただけに、サタラの態度が腑に落ちず家令へ挨拶の言葉も掛けずに侍女頭へ「公爵令嬢は?」と問いかけた。

直前になってやはり不安が膨れあがってしまったのだろうか?、とこちらも僅かに表情を曇らせると、サタラは血の気を失ったように蒼白の顔で「もう……お出かけになっております」と細く弱々しい声を絞り出す。

 

「?……どういう意味だ?、今日はオレが迎えに来ると……」

「先程、ガヤムマイツェン侯爵様からの使者と名乗る者が馬車でやって来たのです」

「なんだって!?」

 

キリトゥルムラインの驚きの声が響くと同時にその場に緊張が走る。

すぐにサタラがこれ以上はないという位、腰を折り頭を下げた。

 

「申し訳ございませんっ……今宵の外出の件は私共と侯爵様しか知らぬ事と思い込んでおりましたので、侯爵様の名を聞いてすっかり信用してしまい……」

 

頭を上げずに言葉を続けていると両肩をきつく掴まれ「サタラッ」と焦り声で名を呼ばれた侍女頭は二、三度身体を大きく揺さぶられて、思わず顔を上げる。するとそこには見た事もない程怒りで漆黒の目を染めた侯爵の顔が眼前に迫っていた。その目を見ていられず、ぎゅっ、と両目を固く瞑って、もう一度「も、申し訳ございませんっ」と謝辞を口にすると、キリトゥルムラインの肩を友の手がぽんっ、と叩く。それで我に返ったのかキリトゥルムラインはサタラの肩を握りつぶしそうな程力を込めていた自分の両手に気づき「……すまない」と小さく言って一歩彼女から離れた。

しかしサタラはちぎれる勢いで頭を横に振り続ける。

 

「いいえっ、いいえっ、私の過ちですっ。見ず知らずの者を簡単に信じてお嬢様を送り出してしまいっ……うぅっ……」

 

事態の大きさと自らの失態に責任を感じているのだろう、サタラが声を詰まらせると責任を分け合うように家令がぴたりと横に付き現状を語り始めた。

 

「侯爵様、侯爵様からの使者と名乗った者はきちんとした身なりと言葉遣いで誰が見ても上位貴族の従者と言える振る舞いの男でした。しかも乗ってきた馬車も馬も一流の仕様で、加えて本日の中央市場への外出を知っていた為、私共はすっかり信用してお嬢様をお預けしてしまったのです」

「アスナ一人でか?」

「いいえ、そこが私共の信用を更に深めたのですが、その男はお嬢様はもちろん、専任護衛であるキズメルの名まで知っておりました。そして侯爵様が迎えに行くのが遅くなりそうなので、直接中央市場で待ち合わせをしたいから迎えの馬車にキズメルも同乗して来て欲しいと、こう申したのです」

 

家令の言葉にキリトゥルムラインがわずか安堵の表情を浮かべる。

 

「なら、アスナはキズメルと一緒なんだな」

「左様でございます」

「アスナが馬車に乗って出て行ったのはどれくらい前だ」

「およそ半刻ほど前かと」

 

冷静に状況を語る家令に対し、キリトゥルムラインは途端に眉間に皺を作り「ちっ」と舌打ちをした。

 

「……そこまで時間が経っていてはどこを探せば……」

 

思案に暮れていると背後から羽ばたきの音が聞こえ、それに気づき振り向いたキリトゥルムラインの肩に鳩が見事に着地する。くるっぷ、くるるぅー、と小首を傾げながらジッと侯爵を見つめる豆粒のような丸い目には気のせいか熱誠なる訴えが浮かんでいた。

 

「ヘカテートっ、よくこの夕暮れに飛んでこれたな」

 

友の小さな相棒とも言える肩の上の鳩に驚きの声で賛辞を送ったキリトゥルムラインが労いを込めてその頭をくるくると撫でれば、ヘカテートと呼ばれたコノハバトは元より大きく膨らんでいる胸をより一層誇らしげに張り、木の葉色の羽を自慢げに一回だけ羽ばたかせる。

今のような日暮れ時は昼行性と肉食で気性の荒い夜行性の両方の鳥の活動時間が重なり、猛禽に襲われやすい鳩は早めに巣へ戻るのが通常だと言うことをヘカテートと故郷を同じくするキリトゥルムラインの幼なじみが知らないわけがない。自分がガヤムマイツェン侯爵領から生活拠点の場を王都に移す時、ずっと暮らして来た故郷を離れ同行してくれた幼馴染みとその相棒が珍しくも多少無茶な行動を起こした意味を瞬時に理解したキリトゥルムラインは急いでヘカテートの足に括られている伝達紙を取り出した。

 

「……キリト?」

 

それまでずっと黙って事の成り行きを静観していたユージオがさすがに我慢しきれず、その場を代表するように説明を求めるとキリトゥルムラインは読み終えた紙を片手で握りつぶし「よく知らせてくれた。空筒で返せばシノンには了承の意味だと分かるから。ここから先はオレに任せてくれ」とヘカテートに小声で言うと空へと飛び立つ手助けをして、その力強い飛行を見送る。それからユージオ、家令、サタラ、と一様に不安げな瞳で自分を見つめてくる三人に対してキリトゥルムラインは今知り得た情報を明かすべく深刻な視線を彼らに返した。




お読みいただき、有り難うございました。
コノハバト(木の葉鳩)のヘカテートもアスナの事は大好きです。
この鳩と相棒がアスナと知り合うお話は……「【番外編・2】顔の見えぬ友」を
お読み頂ければと(苦笑)


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40.建国祭(2)

アスリューシナを迎えに来たキリトゥルムラインとユージオは
既に彼女がキズメルと共に屋敷から連れ出されている事を知り……。


「まず間違いなくアスナとキズメルは中央市場に向かっている……いや、この場合、連れて行かれている、と言った方が正しいだろう」

「本当でございますかっ?」

 

平素のサタラからはあり得ないほどの必死さで侯爵の言葉の真偽を問う姿に誰も咎める言葉を持たなかった。当然、その言葉を向けられたキリトゥルムラインも不快な思いなど一切抱かず、侍女頭の沈痛な面持ちを正面から受け止めると小さく頷いて「今、知らせが届いたからな」と手の中のクシャクシャになった紙片に目を落とす。

 

「オレの所に目の良い幼馴染みが居るんだ。だからここ数日、あの侯爵の動向を見張ってもらっていたんだが、今、アイツは中央市場の外れにいる。馬車の中から一歩も出ずに誰かがやって来るのを待っているらしい」

「それは……僕らの様に市場に遊びに、ってわけではなさそうだね。その誰か、がアスリューシナ公爵令嬢様か」

 

名を口にせずとも隣の友が言う「侯爵」が誰なのかを悟ってユージオの顔も不快を露わにした。その推測に肯定の視線を送ったキリトゥルムラインの瞳が段々と怒気を孕んだ黒へと変わっていく。

 

「あの侯爵家は情報収集能力に長けているからな。しかも前回アスナに接触した際にキズメルの顔も名も本人が知ってしまったようだし……」

「……あのミミズトカゲ……」

 

サタラの低く震える声がキリトゥルムラインの耳に届く。前で合わせている両手は血管が浮き出る程に固く握りしめられ、その両肩は怒りで小刻みに揺れていた。

聞いた事もない単語にキリトゥルムラインとユージオの両者は一瞬言葉を失う。しかしそんな反応など視界に入っていないサタラはカッと目を見開き、隣の家令に食ってかかるように身を乗り出した。

 

「今すぐに全護衛を市場に向かわせて下さいっ」

 

しかしその要請に家令が返答する前に「それには及ばない」と鋭い声が割り込んでくる。

 

「ガヤムマイツェン侯爵様……」

 

疑問と不満を同居させたサタラの声を跳ね返すように「オレが行く」と力強く言い放つと、すぐそばから「僕もね」と柔らかくも誠実な声が添えられた。プライベートとは言え王国の第四騎士団団長を務める伯爵令息までをも巻き込んでいいのだろうか、と家令が口を開きかけた時だ、またもやキリトゥルムラインの否定の声がその場を制する。

 

「いや、市場にはオレだけで行く」

「キリトっ」

 

予想外の言葉に今度はユージオが隣のキリトゥルムラインとの距離を詰めた。間近に響いた驚声を片手で制するとキリトゥルムラインは強い意志を宿したまま口の端を上げて「そのかわり……」と友の澄んだブルー・ドナウの瞳を覗き込む。

 

「ユージオは城に戻り、ユージーン将軍に近衛騎士団の出動申請の口利きをしてもらってきてくれ」

 

事も無げに告げるとんでもない要求にユージオは目を見開き、何度か口をパクパクと開閉させてからようやく悲鳴に近い声を上げた。

 

「冗談だろっ、キリト!、国王の近衛騎士団だぞっ。第一騎士団より更に側近で普段はその姿を見せず影のように王を護り……」

「知ってる」

「彼らがその役目の為に剣を振るうのは王の生命(いのち)に関わる時のみ、それ故、彼らの剣が眠りについているという事は国が安泰の証とされ近衛騎士団は別名『スリーピング・ナイツ』とも呼ばれて……」

「だから、知ってるって」

「その『スリーピング・ナイツ』をお前の私情で眠りから起こせるわけないだろうっ」

「時間がないんだ、どうせあそこのメンバーは今日の任務を終えて中央市場に繰り出してるさ。オレはそれを捕まえる」

「捕まえるって……キリト、団員達を知ってるのかい?」

「ああ、ユージーン将軍の立ち会いで一度だけ団長と手合わせをした事がある。あの連撃の速さ、化け物レベルだったよ。受け流すだけで精一杯だった」

「……彼女の剣を流せるヤツもそうはいないんだけどね」

 

各騎士団の団長クラスならば『スリーピング・ナイツ』の存在は形貌もちろん、剣の腕前と共に畏怖に近い感情で記憶している。今の団長は前団長とは双子の姉妹で、二人共しなやかながら高速の剣技を得意としていた。事実上、全騎士団最強の近衛騎士団団長の剣を受け流す程の技量を持っているキリトゥルムラインに対し、ユージーン将軍が諦める事なくつきまとう理由が理解できて、こんな状況ではあるがユージオは溜め息まじりに苦笑を漏らす。

そのユージオの反応にじれったさを募らせたキリトゥルムラインは話を打ち切るように「とにかくっ」と射貫くような視線を友に突きつけた。

 

「事は急を要するんだ。第四騎士団の団長であるお前が申請する書類にユージーン将軍の口添えがあればこの時間でもどうにかなるだろっ」

「……でもキリト……」

 

それでも渋るユージオへ更にキリトの瞳の熱量が増した。普段ならぶつけるはずのない苛立ちの声を抑えきれない。

 

「相手は三大侯爵家なんだぞっ、超法規的特権を持つ近衛騎士団の人間くらい立ち会わせないとアイツはまた何度でもアスナを怯えさせるっ」

 

確かに互いが最高位の三大侯爵家ではその権威が通じないのは相手も同じなのだ。今回、無事にアスリューシナを取り戻したとしてもキリトゥルムラインの追求など、のらりくらりとかわしてしまうだろう。しかし国王直属の近衛騎士団であれば話は別。一部、王と同格特権の行使力を有している彼らの言葉ならばいくら三大侯爵家でも逃れる事は出来ない。

今回でかの侯爵と完全に決着をつけなければならないと強い決意を固めていたキリトゥルムラインが、将軍を動かす躊躇いに最後の一歩踏み出せずにいる様子の第四騎士団団長へかつてない程、声を荒げた。

 

「将軍にはそれくらいの貸しがあるはずだっ!」

 

事ある毎に剣の相手をさせられ、正規の騎士団には回せない依頼を引き受けた事も一度や二度ではない過去を知っているユージオはとうとう諦めたように肩の力を抜き、一言だけ「わかったよ」と折れる。

その言葉で少し冷静さを取り戻したキリトゥルムラインが僅かに語気を緩めて悔しさに肩を落とした。

 

「オレには……正規に剣の塔を動かす力は何もないんだ…………だから……」

 

共に公爵令嬢を救い出す、とは違うが、やはり共闘という意識で頼られているのだと感じたユージオは自分にこそ出来る闘い方と思い、しっかりと頷き、友の肩を掴む。

 

「任せて、キリトが公爵令嬢様を取り戻す頃には、近衛騎士団が公的に動いていた事にしてみせるから」

 

どちらにしても未だ登城したままのユークリネ公爵にも事の次第を説明する者が必要だと考えたユージオは「なら、僕はうちの馬車で城に戻るけど……」と、気持ちを切り替えて今後の手はずに関し、素早く言葉を交わした。

 

「じゃあ、キリトも気をつけて」

 

馬車に乗り込む間際、一瞬だけ振り返って言葉以上の思いを伝えてくる澄んだブルー・ドナウに信頼の深黒で見つめ返したキリトゥルムラインは「ああ」とだけで全てを受け取ってから、馬車が走り出す音を背で感じつつ自分は公爵家の家令が用意してくれた馬車へと急いだ。

 

 

 

 

 

家令からの紹介を兼ねた説明では、今、可能な限りのスピードで侯爵を乗せている馬車を操っているのは、アスリューシナが辺境伯の元から王都に戻り、中央市場を訪れるようになった頃から御者台に座している公爵家の御者だ。口数は少ないが真面目で機転の利く男だと言うことでアスリューシナからも絶対の信頼を得ており、御者ではなくもっと上級の屋敷内の仕事を任せる話も早々に出たのだが、市場への往復を任されている事が自分の役目だと誇りを持っていた男はその昇進話を丁重に断ったらしい。

それ以来、アスリューシナの外出の際は中央市場でなくともこの男が御者を務めている。

ガヤムマイツェン侯爵を市場まで送る箱馬車を早急に手配した家令は、使用人の三分の一が建国祭休暇を楽しんでいる状況下で緊張の中に珍しくも安堵の色を浮かべ、キリトゥルムラインに胸を張ったのだった。

 

「この男が屋敷に残っていたのは幸いでございます。彼ならば、間違いなく安全で最も早く侯爵様を市場までお連れ出来ますから」

 

公爵家から市場までで男が知らぬ道はないのだろう、という予想は初めて男の手綱さばきを見たキリトゥルムラインでも容易に想像が出来た。馬の扱いはもちろんだが、馬車の大きさを熟知している道選びと建国祭ならではの人出の多さを予測した道筋の判断力には感嘆するしかない。この男のお陰であの侯爵が同乗してきた日も、アスリューシナとの二人だけの時間が最小限で済んだのだと思い、瞬く間に市場の外れに到着した馬車から降りたキリトゥルムラインは低頭している御者に向かい顔を上げさせ、しっかりと視線を合わせて謝辞を伝えた。




お読みいただき、有り難うございました。
サタラが……サタラが……激おこでございます(ひぃっ)
そして、やっとこさ存在が明らかに出来ました!
国王の近衛騎士団『スリーピング・ナイツ』!!
「特にあそこの騎士団長とかなぁ……」はここの騎士団長のことです。
(「29.触れる心」参照……苦笑)


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41.建国祭(3)

公爵家の馬車で中央市場に到着したキリトゥルムラインは……。


少し物言いたげな目をした公爵家の御者だったが、身分の差を考えれば視線を交わす事すら不敬なのは十分承知しているのだろう、その代わりにとばかり男はキリトゥルムラインに向かって深々と頭を下げた。それは数刻前に馬車で公爵邸を出る際、屋敷に居る使用人達全員なのか?、と唸らせるほどの人数が自分に向かい一斉に頭を下げた情景を思い起こさせる。

正面玄関に姿を見せることの出来ない下級の使用人達でさえ柱の陰や門まで続く庭園の隅から黙礼を送ってくれた。それほど彼ら彼女らにとってのアスリューシナの存在の大きさを感じ取ってキリトゥルムラインは改めて気を引き締める。

そして一刻も早くアスリューシナを救い出す為、キリトゥルムラインは建国祭によって盛大な賑わいをみせている中央市場の人混みの中へと身を溶け込ませた。

 

 

 

 

 

公爵家の馬車から離れたキリトゥルムラインはさほど時間を掛けることなく協力者達を得ていた。アメジスト・バイオレットの長い髪を揺らす小柄な少女はほぼ全速で走っている侯爵の俊敏な動きに引けを取らない素早さで彼の斜め後ろを人波を縫うように移動している。

そして侯爵の少し前方の地面にはこれまた人々の足の間を器用に蛇行しながら二人を先導している真っ黒な犬がいた……トトだ。

片足を引きずっているとは言えその小柄な体格を生かして最強クラスの騎士ででさえ追いつけない獣ならではの身軽さでトトは人々の間をすらりすらりと避けながら市場の外れへと二人を誘導していく。そんな二人と一匹の真剣な表情など周囲の人々は気に止めることなく、自分達の脇や足下を驚く速さで通り抜けていく突風に意識が持って行かれるのは一瞬で、すぐさまもうすぐ始まろうとしている花火の打ち上げに期待を膨らませていた。

 

「……キリト、あのワンコロ、すごいね」

 

この国の三大侯爵家を相手に何の気負いもなく砕けた呼称を小声で口にするのは、弱冠十四歳で近衛騎士団団長を務めるユウキだ。

キリトゥルムラインの読み通り、彼女は王城での任務を終えて仲間達と中央市場へ繰り出したものの、人の多さにはぐれてしまったらしく、それでも心細さや困惑といった感情とは正反対の表情で建国祭の時だけ屋台店で売られているプレットを大口を開けてかぶりついていた所を侯爵に捕獲された。

プレットとは麦の粉と溶き卵と少量の水を合わせた生地を薄くのばし、そこに茹でて潰したジャガイモと薄く切った塩漬けの豚肉を乗せコケモモのジャムを塗る。煎った木の実を味のアクセントとしてパラパラとまぶし、最後にトロトロに溶けたチーズをかけてくるくるっ、と巻いて食べるのだ。

結構なボリュームがあるのでわざわざ飲食店で席が空くのを待たなくても歩きながら食べられ、お腹もふくれる。建国祭が賑わいをみせるからこそ生まれた伝統料理かもしれない。

この期間しか食べられない上に訪れる人が多ければ多いほどプレットの味の審査も厳しくなり、結果、毎年中央市場でプレットを出す店の競争率はすさまじい事になっていた。どこのプレットを食べてもハズレはなく、それでいて基本は押さえていても店独自の味の工夫や素材の変化がある為、期間中に全店舗を制覇しようと試みる者も少なくない。

かく言うキリトゥルムラインもアスリューシナと建国祭で市場を巡る時は絶対にこれを勧めようと思っていたくらいだ。

本来なら、陽の落ちた中央市場に二人で訪れ、その盛況ぶりや人々の活気にキラキラとナッツブラウン色の瞳を輝かせるはずだったアスリューシナの足取りを追うため、市場にやって来たキリトゥルムラインはまず『スリーピング・ナイツ』のメンバーを探す事を第一とした。

この群衆の中から特定の人物達を見つけ出すには……当然闇雲に探し回っても無駄に時間を使うだけだ。既に夕闇が迫っている時間帯では数え切れない程の灯火がある市場内とは言えお目付役である幼馴染みの目はあてに出来ないし、そもそも彼女は団員達の顔を知らない。ならば、と市場の事は市場の人間に聞くのが一番と考えたキリトゥルムラインは気安い関係にある古参の店主達に片っ端から声をかけた。

もちろん、普段以上に忙しくしている古狸達だったが「エリカの為に人を探している」と言えば、みんなが手を止めて耳を傾けてくれ、情報を提供してくれる。店主達はみな建国祭の期間だからこそ、自分達の店の周囲にはより気を配っていた。その根底にはもう二度と十四年前のような事件は起こさせたくないという決意があるように感じたキリトゥルムラインは一人一人の店主に丁寧に礼を言い、そして短時間で近衛騎士団団長の下まで辿り着いたのである。

時間もない、アスリューシナの秘密を漏らすわけにもいかない、で、事の次第をおおまかにしか説明できないキリトゥルムラインにとっては果たしてこれで近衛騎士団団長が公に動いてくれるのかどうかは五分五分の賭だった。

単に剣の腕が立つから、というだけで協力を求めているなら知り合いとしての同行には何の問題もなかっただろう。しかしキリトゥルムラインは騎士団長としてユウキの行動を求めているのだ。当然、彼女の持つ実力とその特権行使力を含めて。

しかし侯爵の心配は杞憂にすぎず、話を聞き終わった騎士団長は頭部を飾る服装と同色のリボンカチューシャを指で触り「うーん」と唸ったかと思えば、すぐにルビー色の瞳を細めて「いいよ」とあっさりと承諾の意を示してくれたのだ。

 

「その代わり、今度、またボクと手合わせしてよね。それとキリトが助けだそうとしている女の人……アスナって人にちゃんとボクを紹介してくれる事」

 

少女でありながら自分の事を「ボク」と呼ぶユウキからの要求にキリトゥルムラインは一も二もなく首を縦に振る。ユウキをアスリューシナに紹介する、については一抹の不安はあったが、今から他のスリーピング・ナイツのメンバーを探す余裕は時間的にも精神的にもないし、折角騎士団最強と謳われる彼女を見つける事が出来たのだ、これ以上頼りになる存在はいない。

それにバランスの面から言えば褒められる事ではないが、キリトゥルムラインは自分と同じように防御を捨てていると言ってもいいくらい攻撃に特化したユウキの剣技に親しみを抱いていた。とは言っても一振りの破壊力を重視している自分とは違い彼女の剣は攻撃範囲が広く多数を相手にした場合の各個撃破向きなのだろうが、タイプの違う騎士と組む方が何かと戦いやすいのは確かだ。

こうしてユウキとの協力関係を結べ、まずは第一段階をクリアしたと安心した直後、キリトゥルムラインの足下に更なる助っ人が走り寄ってくる。

夜の闇に紛れるにはこれほど最適な存在はいないだろうと思える真っ黒な毛並みを興奮で震わせているトトはまさに狂ったようにキリトゥルムラインに吠えかかった。その剣幕に一瞬怯んだ二人だったが怒号のような声とは裏腹に何かを訴えかけるような黒い瞳に気づくと、キリトゥルムラインはすぐに片膝を落としてトトの目の前まで顔を近づける。

以前、アスリューシナの乗った馬車が無頼な男共に囲まれた時、このトトが普段とは異なる行動を取ったとエギルが言っていたのを思い出した彼は、辺り構わず真っ黒な犬に話しかけた。

 

「もしかして……ア、エリカの居場所を知ってるのか?」

 

その言葉を肯定するように、ピタリ、とトトの咆哮が止まる。

まるで心が通じ合っているかのような一人と一匹のやり取りを見ていたユウキが少し感心したように眼を見開いて唇の両端を上げた。しかし、そんな反応を見る事すら時間の無駄だと言いたげなトトは完全にユウキを無視してすぐさま向きを変え、目指す方角へ向かって全力で走り出す。

キリトゥルムラインは慌てて立ち上がり、隣のユウキに「あの犬がアスナの所まで連れて行ってくれる」と早口で告げるやいなや、自らも姿勢を低くしてトトの後ろ姿を追いかけ始めたのだった。

 

 

 

 

 

トトの走りは近衛騎士団団長が褒めるに値するすばしこさで、キリトゥルムラインも犬相手だからと気を抜いているわけでもないのに、追いつく気がしない。キリトゥルムラインの目は自分が通り抜ける為の僅かな空間を人混みの中で探すと同時に先導者を見失わないよう地面を這う小さな黒いモップもどきを常に視界の端に納めている。

この追いかけっこがいつまで続くのかと再び焦りの色が苛立ちと共に胸の内で膨れそうになった時だ、自らの斜め後ろに影のように付いて来ていたユウキが何かを懐かしむような声で小さく語りかけてきたのだ……あのワンコロ、すごいね、と。

その言葉でキリトゥルムラインは改めてトトの足の動きを後ろから観察した。

確かに片足とはいえ不自由なのは一目瞭然で、なのにその速さは普通の犬以上のスピードを出している。

トトのやつ、アスナの前では随分と後ろ足をかばった歩き方をしてたくせに……それは彼女の気を引くための芝居だったのではないか?、とジト目で疑いを抱いていると、先程と同じように柔らかなユウキの声がキリトゥルムラインの耳にゆっくりと注ぎ込まれた。

 

「片方の後ろ足は完全に骨が曲がってるよね、なのに全身のバランスを補正しながらこの距離を走り続けるなんて普通なら無理だよ。痛みを堪えている様子もないし、痛覚の神経がいっちゃってるならあんなに激しく動かす事も出来ないと思うんだけどなぁ…………まるでこの国の初代王妃、ティターニアの恩寵を受けたワンコロみたいだ」

「ティターニア王妃の……恩寵?」

 

昔の思い出話をするように軽く言い放ったユウキの言葉に何かずしりと重たい真実が隠れているような予感がして、キリトゥルムラインは思わず背筋を震わせながら振り返る。その反応に少しの息切れも見せず、むしろわくわくとした興奮気味の笑顔のユウキは「見失っちゃうよ」と黒犬を人差し指でつんつん、と示し、キリトゥルムラインの意識をトトへと戻した。




お読みいただき、有り難うございました。
ご本家(原作)様では交わることのないキャラクター達が
入り乱れております(苦笑)
「プレッタ」は実在しない食べ物ですが、スウェーデン料理の
あれこれを参考にさせていただきました。
(パンケーキの事を「プレッター」と言うそうです)


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42.建国祭(4)

近衛騎士団団長のユウキと共にトトの後を追いかけていた
キリトゥルムラインは彼女の言葉に特別な何かを感じて……。


近衛騎士団団長とガヤムマイツェン侯爵は互いに視線を前方へ向けたまま、一方は暇つぶしの昔語りをする気軽さで、それを聞くもう一方はこれから耳にするだろう未知の真実に、疾走をしているせいではなく高まってしまった鼓動を抑え込みながら話の続きを待つ。

キリトゥルムラインがユウキを見つけ、トトと合流した場所は中央市場のほぼ中心だったが、現在はすでにはずれに近いせいか人の数はかなり減っている状況だった。

しかしはずれのせいでこれから花火を目当てに市場へやって来る人々は皆一様に中心部へ向かって歩を進めている。結果、二人と一匹の周囲はさっきまで様々な方向へ歩き回っている大衆の中だったのに、今はほぼ全員が自分達に向かって流れて来ているのだ。完全にその人波に逆らう状態で移動をしなければならないキリトゥルムラインが再び無意識に煩わしさを表情に出すと、見えていないはずのユウキが彼の気を逸らせる為なのかすぐ隣へと距離を詰め、問いかけを口にしてきた。

 

「キリトはさ、知ってる?、ティターニアが初代スリーピング・ナイツのメンバーだったってこと」

「はぁっ?!」

 

試すように意地の悪い笑みを浮かべているルビー色へと思わず顔を向けてしまったキリトは急いでトトの後ろ姿に視線を戻した後、意識の半分をユウキへと注ぐ。

 

「そんな話……伝承されてもいないし、史実にも残っていない……よな?」

 

実際、この国の創建期から存在しているとされる三大侯爵家のガヤムマイツェン侯爵の館にさえ初代国王の逸話が綴られた本は何冊もあるが、初代王妃に関する書物はほとんど存在しない。国王の偉業に添えられるように、見事なナッツブラウン色の髪を持つ女性であった事と、二人がとても仲睦まじい夫妻だったという事が書かれてあるくらいだ。

ユウキの言葉の真偽を確かめる術はないが、あの王城の肖像画を思い浮かべたキリトゥルムラインは、かの王妃が騎士である姿など想像がつかなくて小首を傾げると、その反応ももっともだと言いたげに「うん、そうだよね」と楽しそうな声が続く。

 

「王城の肖像画は随分おしとやかな雰囲気だもん。でも意外と気が強くて生真面目な人だったんだよ。剣で相手の弱点を突く正確性は抜群だったし……ああ、彼女、細剣を使ってたんだ」

「なっ、なんでそんな事まで……」

「スリーピング・ナイツはね、あの男が初代国王に就任する前から存在してるから、色々とメンバーしか知らない歴史があるってわけ。もともとは国作りをしてる過程で寝込みを襲われたり、夜襲されたりしないようあの男の眠りを護るって意味で『スリーピング・ナイツ』って名付けられたのにさ、段々意味が変わってきちゃったから……」

「なら、あのティターニア王妃も剣を携えて国王を護っていたって言うのか?」

 

あの儚げな微笑と剣とがどうにも結びつかず、疑うように問いかけるとユウキは何かを思い出したように笑ってから「最初はね」と、まるでその場にいたかのような口ぶりで話し始めた。

 

「あの男の背中を守るのはいつだってティターニアだったんだ。そして正面の敵から彼女を守っていたのがあの男で……でも戦場では閃光のごとき速さで細剣を振るっていた彼女も休息の時はあの男と寄り添って互いに穏やかな寝顔を浮かべてたなぁ。あの男もティターニアと一緒だと良く眠れるって平然と言ってのけてたし。そうやって二人の関係が特別な物になってあの男がアインクラッドっていう国の王様になった時、ティターニアは当然の様にその隣に立ったんだ…………ボクはね、ちょっと反対だったんだよ。あの男の目はティターニアだけを見ていなかったから。案の定、あの男は王様になった後も戦場に出る事をやめなかった。国の為だから、国民の為だから、ってティターニアは笑って送り出していたけど……」

「ティターニアは一緒に行かなかったのか?、もう王妃だから?」

「違うよ、ティターニアは行きたくても行かれなかったんだ。それどころか熱でベッドから身を起こすことさえ無理だったからね」

「……?、どういう事だ?」

「キリトも今世にまで語り継がれている昔話は知ってるでしょ。『この国の初代国王はそれはそれは愛妻家で、建国と時を同じくして娶られたティターニア王妃は気高く、美しく、優しく、慈愛に満ちたお方でした。しかし初代が即位した後もこのアインクラッド王国は平定の世とは言いがたく周辺諸国との争いが絶えず続いていましたが、どれほど激しい戦いでも王は倒れることがありませんでした。まさに不死王の名のごとく戦場で深い傷を負っても、戦いに勝利して帰城すれば、その数日後にはまた精悍な姿で別の戦場を駆け抜けていたのです』……言い伝えだから多少の誇張はあるけど、概ね間違ってはいないよ。けどその話には今はもう忘れ去られてしまった続きがあるんだ」

「続き?」

 

ユウキは疾走しながらも、コクリ、と頷くと再び小さな唇を動かし始める。

 

「『しかしそれとは逆に王妃様は王が戦いから凱旋すると決まって数日間は床に伏せってしまいました。仲むつまじい二人でしたから、王の帰還で王妃の気が緩んだせいだと思われていましたが、ある頃から不思議な噂が流れ始めたのです。王の傷を王妃が代わりに受けているらしい、と。真実を知る者は誰もいませんが、その後、アインクラッド王とそれを支えるティターニア王妃によって平穏な世が訪れたことに変わりはないでしょう』……いつの時代にもお喋り好きな側仕えっていたんだね」

 

仕方ないなぁ、と苦笑いのユウキの顔をキリトは唖然とした気持ちで盗み見た。その視線に目聡く気づいたユウキが意味深な笑みを返す。キリトゥルムラインは急いで前を向き、無理矢理にトトの後ろ姿へ視点を固定させるが頭の中は今のユウキの言葉でいっぱいになっていた。

わずかな休息期間で苛烈な戦場へと赴く王……しかし建国期の混沌とした中ならばいくら王の体調が万全でなくても、それを隠して自らが動かなくてはならないだろうし、それを伏せった王妃に結びつけるなどありにも荒唐無稽な気がして、だからこそその後半部分は自然と忘れられたのではないか、と自分なりの推測をまとめていると全てお見通しといわんばかりのタイミングでユウキが独り言のように軽く囁く。

 

「まあ、ナッツブラウンの髪の女性特有の力みたいだけど、個人差は結構あるし。今になってティターニアと同じくらい強い力の持ち主が現れるなんてね」

「……ちか……ら……って」

 

今度こそキリトゥルムラインは隣のユウキに顔を向け、切れ切れに問いかけた。

 

「二年前に王城の夜会で見かけた時、ぴぴってきたんだ」

 

それはアスリューシナの社交界デビューの事を言っているのだろう、相変わらずユウキの顔はこれから大好きな菓子店にでも行くかのようにウキウキとしている。しかし、それとは逆にキリトゥルムラインの顔から一切の表情が消えると同時に周囲の雑多な音も何一つ聞こえなくなり、静寂の中でまだ幼さを感じさせるユウキの声だけが明瞭にまっすぐ耳へと届いた。

 

「髪を染めてたってボクにはわかっちゃうし。でも彼女はティターニアと違ってお屋敷に閉じこもっているみたいだから大丈夫かな、って思ってたのに……」

「……ユウキ……」

「キリトだって本当はわかってるんでしょ?、彼女の…………『癒やしの力』のこと」

 

『癒やしの力』……その言葉が彼の記憶を次々と引っ張り出してくる。

十四年前、アスリューシナを救い出した際に凄惨な傷を負ったキズメルの父……『父が命を落とさずに済んだのはお嬢様のお陰です』

そして目の前を走る片足が不自由なトトの姿……『なんとか治そうと思ったのですが、エギルさんが無理をして治さなくてもこの市場で大事に世話をするから大丈夫だと……』

なによりキリトゥルムライン自身がどこか疑問を抱き続けていた……ユージーン将軍との手合わせで痛めた腕が彼女が軟膏を塗ってくれてすぐに痛みがひいた時、侍女頭のサタラは何と言った?……『お嬢様の手当のお陰ですね』

それら全てが一つの結論へとキリトゥルムラインを導いていく。

見事なナッツブラウンの髪を持つ初代王妃ティターニアは戦場から帰還したアインクラッド王の傷をその身に受けているのだと、そして同じ髪のアスリューシナ……ユウキの言葉が蘇る……ティターニアと同じくらい強い力……『癒やしの力』をアスナが?……自分の頭の中の片隅ではほんの少しだけ、小さな棘のような引っかかりがあった事は事実だ。しかし、それを真正面からアスリューシナに問いかけるのは彼女を取り巻く環境がもう少し彼女に優しくなって、自分の存在がもっと近くに寄り添えるようになってからと先延ばしにしてきた。

何よりキリトゥルムラインの口から問いただすより、アスリューシナが自ら打ち明けてくれる時を待ちたい、と思っていたのだ。

しかしそれを悠長に待ってはいられない事態が引き起こされた。多分、今回の事件は彼女の力も関係しているのだろう……単純にあの侯爵がアスリューシナと婚姻関係を結びたいだけならば、こんな事をする必要はないのだし、かえって逆効果だ。となるとあの侯爵もアスリューシナの力を知っている可能性がないとは言い切れない。

アスリューシナを救い出す為にもどんな形であれ事前に『癒やしの力』の存在を知りえた事は大きいな、と少しの安堵の後にそれを告げてきた年若い騎士団長の存在に言い知れない感情が知らずにぞわりと肌を粟立たせる。

 

「ユウキ……君は、本当にこの世界の住人なのか?」




お読みいただき、有り難うございました。
こちらの世界でも正体不明な存在のユウキ。
なので「ユウキ」の呼び名しか彼女にはありません。
初代アインクラッド王とその王妃の容姿は、もちろんキリトゥルムラインと
アスリューシナとは全く異なります。
同じなのは王妃ティターニアとアスリューシナの髪色だけです……が、
ご本家(原作)様では「ティターニア」はアスナの別名とも言えるわけで、
そちらでは叶えられなかった「スリーピング・ナイツの一員」に、して
あげたかったんですよ、私が(苦笑)


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43.建国祭(5)

かつての建国時代の話をユウキから聞いたキリトゥルムラインは
その話しぶりにあり得ない問いを口にしたが……。


唐突に投げかけられたキリトゥルムラインの素直すぎると言っていい疑問にユウキはそれまでの含みを全て消して無邪気な笑い声を上げた。

 

「あははっ、なに、それ?、ボクのことオバケか何かだと思ったの?」

「うぇ?……いや、その……そういうわけじゃ…………バカだな、何言ってるんだオレは……」

 

ユウキの笑い声に現実が引き寄せられて周囲の物音や人の声がキリトゥルムラインの耳に戻ってくる。

 

「……そうじゃなくて……なんか……まるで…………」

 

続いて勝手に口から転がり落ちそうな言葉を慌てて飲み込み、表情を改めて視線も前方へと直した後、自らを納得させるべくありきたりな言葉を探し出した。

 

「よく……知ってるな、と。そこまで詳しい書物なんて残ってないと思ってたから……」

 

近衛騎士団のメンバーは団長はもちろんその団員達も全員素性は明かされていないのだと、市場に来る前に公爵家で交わした友との会話が自然と浮かんできて余計に困惑は深くなるが今は追求すべき事柄ではないと割り切る。ユウキの口から聞いた通り、近衛騎士団には独自の資料が残っているのだろうと素直に受け入れることにして埒の明かない思考を頭から追い払った。

するとまるで見透かしたようにトトがちらり、と振り返って、お前の最優先事項は何なんだ?、と挑戦的な眼差しで見上げてくる。全てを承知しているような少し達観した様子が面白くなくて、軽く顔をしかめてから、わかってるよ、の意味を込めて頷くと、トトはすぐに「フンッ」と鼻を鳴らして正面に向き直った。

彼らの言葉のないやりとりを見ていたユウキが「ぷっ」と吹き出す。

 

「アスナの周りは随分面白いことになってるんだね」

 

おもしろ要因のひとりとしてカウントされた事もかなり心外だったが、アスリューシナとは面識はないはずなのに既知の友のごとき呼び方に張り詰めている神経が更に波打って、けれど正式な呼び名へと訂正を求めるのは躊躇われるし、要は自分が告げた名をそのまま口にしているだけなのだから、と一旦は納得させてみるが口がへの字に歪むのは止められなかった。しかも故意にユウキにはアスリューシナの素性は明かさずにいたのに、その自分の行為がすっかり無駄になっている事にも気づいて更に気分は下降する。

そんな多種多様な感情が併存して自分の事ながら整理をつけられずにいると、後方からコーン、コーン、コーン、と三つの高音が届き、その正体が花火の開始を告げる時計塔からの合図だと気づいてキリトゥルムラインの脳裏には自然とアスリューシナの顔が浮かんだ。

本来なら花火の始まりを待ち焦がれている彼女が自分の隣にいるはずで……と、ようやく今は彼女を取り戻すことが第一で諸々の事はその後だと雑多な感情はひとまとめにしまい込む事に成功すると前方のトトの足の動きが緩やかになってくる。疲労のせいか、とも思ったが、かの犬は止まることなく疾走から歩行に速度を落としてキリトゥルムラインとユウキがすぐ後ろまでやって来くるとピタリと歩を止めその場に座り込んだ。

かなりの長距離を駆け抜けてきたせいで、ゼーゼーと息は上がっているが背筋を伸ばし、十数メートル先の一軒家をジッと見つめている。トトが睨み付けている家はさして大きくもない平屋建てのごく一般的な民家のようだった。戸口から門まで小さな庭付きだが植物には何の興味も持たない家主なのか、庭木や鉢植えなどは一切なく、かと言って荒れ放題というわけでもない。

通りに面している窓には全てカーテンが降りていて中の様子を窺うことは出来ないが、隙間から漏れる灯りが人の存在を示していた。

 

「トト、あの家にアスナ……エリカがいるのか?」

 

トトが認識している「エリカ」に言い換えてみると、真っ黒な毛並みで覆われた顔が少しだけ上向いて、その先端の真っ黒に濡れている鼻がピクリと動く。

たったそれだけですぐにキリトゥルムラインを見上げたトトは小さく、低く「うぉふっ」と彼女の居場所を伝えた。

 

「ここから先はオレ達に任せてくれ。トトがケガでもしたら今度こそエリカが無理をするに決まってるからな」

 

そんな事態はトトも本意ではないのだろう、珍しくキリトゥルムラインの言葉に従う意を見せて静かに地面に伏せた真っ黒な犬は建物の影と同化してその場に溶け込む……と、ほぼ同時に目当ての家の扉が開いた。

 

「はーっ、やっと薬が効いたか」

「まったくだ。この家に着いた途端、大暴れしやがって。女だと思って油断した……見てくれよこの傷」

 

扉から出てきた二人の男達は自分達の顔や腕をさすりながらそのまま庭へと降りる階段に腰を降ろす。キリトゥルムラインとユウキは室内の状況を探ろうと息を潜めて彼らの会話に耳を澄ませた。

 

「もう一人の方がどこぞの貴族のご令嬢なんだろ?」

「そうだろうな。フードで顔は見えなかったが……うちの侯爵サマと恋仲なのに親に反対されてるんだってよ……だから別の貴族の名前を使って屋敷から連れ出したらしい」

「なるほどね。このまま領地へ向かう準備も進んでるしな……到着すればすぐに婚礼かぁ、当分休めそうにないな」

「まあまあ、特別手当が付くんだ。邪魔な追っ手が来ずに侯爵サマとご令嬢が領地に入ってしまえば多少はゆっくり出来るさ」

「だといいけどなぁ」

 

すると再び扉が薄く開いてもう一人、男が出てくる。

 

「おいっ、立って周囲を見張ってろよ」

 

その言葉に先の二人がのろのろと立ち上がった。

 

「わかってるよ。けどここまであのご令嬢の追っ手が探し当てられると思うか?」

「念には念を入れろ、と侯爵サマがおっしゃってるんだ」

「あー、侯爵サマがね。はいはい。給金分はしっかり働くとしますか」

「そうだな、騎士団に入るより金が稼げるんだから文句は言いっこなしだ」

「薬で眠らせた女はどうした?」

「侯爵サマが目障りだって言うから一番奥の部屋に転がしてきたさ」

「そいつはご苦労様」

「とにかく長距離移動用の馬車が来るまで中の奴らと交代で見張りだ。気を抜くな」

 

後から出てきた男は二人が気持ちを切り替えると「俺は周囲を見てくる」と言って庭に降り、建物の裏へと消えてく。その姿が完全に見えなくなってからキリトゥルムラインはユウキの耳に顔を寄せた。

 

「とりあえずアスナの護衛は無事みたいだけど、加勢は期待できないな」

「だね。それにしてもボク達の方が邪魔者、悪者みたいになってるよ。ひどいなぁ」

 

先程の会話の中で自分ではない侯爵が彼女と恋仲だと聞かされたキリトゥルムラインは婚礼の準備まで話が進んでいる事を思い出し、奥歯を噛みしめ拳を震わせる。すぐ隣で彼の怒気を感じても全く動じないユウキは顎に手を当て、「うーん」と軽く唸ってからゴソゴソと服の内側から短剣を取り出した。

 

「ボク、今はこれしか持ってないんだけど、キリトは?」

 

既に鞘から抜かれた刃は月明かりの届かない場所でもその切れ味を示すがごとく磨き上げられているのは一目瞭然で、それを見たキリトゥルムラインも安心したように「オレもこれだけだ」と携帯していた護身用の短剣を手にする。

 

「なら、お互い剣は現地調達ってことで。あの人達、騎士団に入れるくらいの腕前ならそこそこの剣を持ってるはずだしね」

 

建物の外には三人、先程の会話から中にも交代要員がいる事は判明していて、加えてアスリューシナとキズメルを攫った張本人も加えれば少なくとも五、六人を二人で相手せねばならないという状況だが、どこか楽しげな様子のユウキは事を可能な限り穏便に済ませるつもりはないらしい。

 

「同時に行くか?」

 

今なら扉の前は二人だけだ、と示唆したキリトゥルムラインの言葉に珍しくユウキが一瞬驚いたように目を見開き、すぐに眉根と唇を窄ませる。

 

「えー、イヤだよ。ボクの遊び相手が減っちゃう。外の人達はボクに任せて。キリトはとにかく中でしょ」

 

屈託のない笑顔を向けられ、内心、近衛騎士団団長の遊び相手に選ばれた彼らに同情したキリトゥルムラインはせめても、と「あまり遊び過ぎるなよ」と釘を刺した。自分が指揮を執るはずの騎士団員達からも同様の言葉を常日頃かけられているユウキとしては、久々に思いっきり遊ぶ気満々といった高揚感を隠しもせずに「わかってるよ」と全く説得力のない返事をしてから、ふふっ、と笑う。

 

「確かにあの人達、あんまり悪い人じゃなさそうだけど、知らなかったから悪い事をしてもいいって事にはならないよね」

 

説得を諦めたキリトゥルムラインは簡潔に「じゃ、外は頼んだ」と少し投げやり気味に言うと、それを合図のように飛び出したユウキの後ろから、屋内にいるはずの愛しい人とその側にいるであろう人物に向け燃えるような視線を送ってから続いて扉めがけて走り出した。




お読みいただき、有り難うございました。
トト、ここまでご苦労様。そのまま外で監視体勢に入りましたね。
いえ、近衛騎士団団長が遊ぶ様子を見物体勢かな(微苦笑)
「あーあ、あいつら……可哀想に……」とはキリトゥルムライン、トトの
共通感想になるでしょう。


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44.建国祭(6)

ユークリネ公爵家にやって来たのがキリトゥルムラインの使者だと信じて
キズメルと共に馬車に乗り込んだアスリューシナは、とある一室に囚われていて……。


どうしてこんな事になってしまったんだろう……そんなぼんやりとした思考に合わせて、簡素な木製の椅子に腰掛けたまま俯いている先の視界にある靴のつま先をうっすらと認識する。中央市場に行く時はいつも決まって履いているショートブーツ。既に皮は柔らかくアスリューシナの足に馴染んでいて「ぬかるみや砂埃でおみ足が汚れるといけませんから」と、市場に通うようになってすぐにサタラが用意してくれた愛用の品だ。

思えばキリトゥルムラインと出会うきっかけも小男の足をこのブーツにひっかけたのが原因だった、と思い出し、そのまま足を痛めた事とそこに侯爵自らが軟膏を塗ってくれた光景を思い出す。

 

(あの軟膏、本当によく効いて……)

 

一時は本気で中央市場に卸してもらえないかと考えたくらいだ。自分は屋敷でのんびりしているばかりだから、とサラタやキズメルを通じて屋敷内の使用人達がケガをした時にも使ってもらおう、と思ったのだが、それを口にした時、サラタはとても微妙な顔をしてから遠慮がちに首を横に振ったのだった。

 

『もったいなくも有り難いお申し出でございますが、私共は常日頃から大きな傷は作らないよう心がけて行動しております』

 

それはアスリューシナの「癒やしの力」を知っている使用人達が、自分達がケガをするとどれほど固辞しようと彼女が力を使うとわかっているからだ。

 

『それでも絶対しない、とは言い切れないでしょう?……そんなに重く考えず、ちょっとケガをした時でも気軽に使ってもられば……』

『それならば普通の塗り薬で十分です。それに、その軟膏は侯爵様がお嬢様の為にとお持ち頂いた品、使用人が使うわけにはまいりません』

『……サタラ……』

 

確かに初めて侯爵さまから頂いたお品ではあるけれど、それが傷薬だなんて……と、こんな状況にありながらアスリューシナは僅かに口角を上げる。幸いにも俯いているせいで長い髪が表情を隠してくれていた。

 

『それに……お嬢様はご自身の傷にはお力をお使いになれないのですから、万が一の時の為にも大切に取っておきましょう』

 

少し悲しそうに微笑むサタラを見ていたらそれ以上は言えなくて、こくり、と頷いてあの軟膏はアスリューシナの私室のチェストに大事にしまわれたのだった。結局、次に薬の世話になったのは贈り主であるキリトゥルムラインだったのだが……。

 

(……キリトさま……)

 

今頃、彼はどうしているだろうか?……必死になって自分を探してくれているだろうか?……けれど屋敷まで迎えに来た者が本当は誰の従者だったのか、それすら手がかりはないはずで、ましてや自分自身もここが王都のどこなのかわかっていない状態だ。

数刻前、ガヤムマイツェン侯爵の使いだと言ってやってきた使者と共にキズメルを伴ってフードを被ったまま馬車に乗った。馬車は予定通り中央市場に向かっていたから安心していたのだが、さすがに建国祭の期間中とあって人出が多いせいであまり中心部までは近づけないのだろう、いつも公爵家の馬車を控えさせておくのとは違う場所で馬車は止まった。

御者が扉を開け先に従者が降り、その後、いつものように周囲の様子を確認するためアスリューシナより先にキズメルが馬車の外に出る。

その途端、使者と御者の態度は一変した。

両側からキズメルの腕を押さえ込んだのだ。「何をするっ」という怒号に近い彼女の声を聞いてアスリューシナが急いで馬車の扉から身を乗り出すと、そこにはさらに三人の男達が待ち構えていた。

彼らは素早くキズメルの口に長布を噛ませてそのまま後頭部で結び声を封じると次に暴れる彼女の両手を縛り上げた。それでも身をよじってこの危機的状況を何とかしようとすれば、男の一人が彼女に近づき低い声でこう言ったのだ……ご令嬢がどうなってもいいのか?、と。

振り返ったキズメルの目にはさっきまで同じ馬車に乗っていた使者がアスリューシナに向け抜き身のナイフを構えている姿が映り、彼女は怒りで震えながらも自分を制した。

そこに耳障りな声が無遠慮に飛び込んできたのだ。

 

『待っていたよ、アスリューシナ』

 

声の主はオベイロン侯爵だった。こんな状況にも関わらず薄い笑みを口元に浮かべ、満足そうな目でこちらを見つめながら近寄ってくる侯爵に一瞬キズメルは我を忘れて体当たりをしそうになったが、その時には既にがっちりと男二人がかりで身体を拘束されていた。侯爵が近づいてくると使者は令嬢に向けていた刃物を仕舞い頭を垂れる。アスリューシナはそこで屋敷に迎えに来たのが本当は誰の指示なのかを悟り顔面を蒼白にさせるが、侯爵はフードの中の見えない反応など気にもかけず周囲を一瞥して市場に集まってきた民衆の姿に眉をひそめた。

 

『さて、こんなゴミ溜めのような場所に長居は無用だ。王都を離れる前に休める場所を用意してあるからそこに行こう』

 

中央市場やそこにいる人々への侮辱に対してすら自分の現状に混乱していて声も出せずにいたアスリューシナだったが再び馬車に押し込められそうになって我を取り戻した。

 

『キズメルっ』

 

ここで大事な専任護衛と離されたら彼女の身がどうなるかわからない、そう咄嗟に考えたアスリューシナは自らを鼓舞するようにスカートを握りしめ鋭く侯爵を上から睨み付ける。

 

『彼女と一緒でなければ舌を噛みます』

 

周囲には侯爵を含め、大の男が六人いて更に刃物も所持している状況では自分に出来る抵抗と言えば自らの身体を取り引き材料とするしかない。フードで表情は見えずとも冷静な声音が逆に彼女の本気を表していた。ところがオベイロン侯は駄々をこねている子供を見るような薄笑いで、さして大事でもないといった風に冷めた目つきで令嬢を見やる。

 

『自分を傷つけたところで君は痛くも痒くもないだろう?』

 

言われた意味に戸惑っていると、それでもここで騒がれては面倒と思い直したのか急に侯爵が向きを変え、噛みつかんばかりのキズメルにちらり、と視線を投げた。

 

『両手を縛り上げて……その獣のような口と目も何とかしろ』

 

侯爵の命令に彼女を押さえつけていた男達が手早く両方の手首を背中でひとまとめに縛り、口には布を噛ませ、目隠しを施す。その仕上がりを待ち、顎でその女を馬車に乗せろと指示を出した。突き飛ばすように男達がキズメルを歩かせ、馬車の入り口まで誘導すると思わずアスリューシナが小さく「キズメルっ」と焦り声を上げながらその不自由な身体を支えるように車内へと誘う。

隣り合わせに座らせようとした途端、侯爵が無言のまま乱暴な手つきでアスリューシナからキズメルを引き離し、公爵令嬢を奥に押し込みその隣に当然のように、フンッと鼻を鳴らして腰を降ろした。一方、いきなりオベイロン候から突き飛ばされる形となったキズメルは周囲の状態が分からないまま尻餅をつきそうな勢いでアスリューシナの向かいの座面によろけながら座り込む。最後にキズメルの隣にガヤムマイツェン侯爵家の名を騙り公爵家にやってきた従者が乗り込むと既に次の行き先は決まっていたようで、誰も言葉を発せずとも馬車は静かに動き出した。

そうしてどの位経った頃だろうか、アスリューシナにとってはとてつもなく長い間、馬車に揺られていたような感覚だったが、それは視界に映る拘束状態のキズメルとすぐ隣の存在によって不安で押しつぶされそうな自分をどうにか保っているので精一杯だったせいかもしれない。

どこをどう移動したのかもわからずオベイロン侯が「休める場所」と言っていた一軒家に馬車が到着すると、アスリューシナは引きずられるようにして家の中に連れ込まれ、続いて覚束ない足取りで躓きながら付いて来ていたキズメルはそのまま同じ部屋には入らず、廊下の奥へと追い立てられていく。

自分の主と離されたと感じたキズメルは再びうなり声を上げ身体をよじって反抗していたが、彼女の後ろを監視するように歩いていた従者が顔をしかめて小声で何かを囁くと、悔しそうに喉を短く鳴らして大人しく歩き始めた。

一方、自分の後ろにいたはずのキズメルが同じ部屋に入ってこなかったと知ったアスリューシナは隣にいたオベイロン侯をフードの中から不安げな視線で見上げたが、それに気づいた侯爵は満足げな笑みで唇を歪ませ自分が上位者である事をひけらかすような鷹揚な態度で両手を広げる。

 

『君の大事な従者だからね、別室で待たせておくよ。僕は優秀な使用人しか同じ部屋には入れないんだ』

 

しごくまっとうな事を言っているかのような口ぶりにアスリューシナの眉が不愉快さを示したが、その口からは懇願ともとれるような力無い言葉しか漏れ出てこなかった。

 

『キズメルには、何もしないと約束して下さい』

『もちろん。その代わり君も僕のお願いを聞いてくれなきゃね』

 

オベイロン侯はその部屋の中央にあった何の装飾もない木椅子にアスリューシナを座らせると目の前に跪き、マントに隠れていた彼女のほっそりとした腕を撫で上げて目を細めた。

 

『さあ、この滑らかな肌にどれだけの傷を付けたら見せてくれるのかな、アスリューシナ……君の…………「癒やしの力」を』

 

肘のあたりをまるくさすられる感覚に恐怖と嫌悪を感じていたアスリューシナは侯爵の口から出てきた言葉に息を詰まらせる。ユークリネ公爵家の家族とその使用人達、それに辺境伯の屋敷で世話になった人達しか知らないはずの単語が耳に入り心臓が大きく鼓動を打ち始めた。

 

『な……んで、力のこと……を……』

『怯えなくても大丈夫だよ。僕は君の全てを知ってるんだから。その秘密の髪の色もね』

 

言うなり伸びてきた両手が自分の両頬に触れるのかとアスリューシナが肩をすくめ身体を固くすると、その手はそのまま耳元まで進み、ずっと頭部を隠していたフードの端を掴むやいなや乱暴な仕草で後ろに払いやる。そこには今夜の「建国祭」の花火見物の為、と侍女達が楽しそうに笑いながら丁寧に編み込んでくれたロイヤルナッツブラウン色の髪が現れた。




お読みいただき、有り難うございました。
ここからしばらくアスリューシナsideです。
キリトゥルムラインsideと違いどこもかしこも重いです(涙)
重力操作されてるのかも、と思うくらい……。


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45.建国祭(7)

オベイロン侯に囚われたアスリューシナは、侯爵が自分の髪の秘密を
知っていたことに驚愕する。そして侯爵の手で頭部を隠していたフードを
取り払われて……。


その色を視認した途端、オベイロン侯がうっとりとしたように三日月のごとく目を細める。

ひくっ、と小さく息を飲みながらアスリューシナが咄嗟に髪を隠そうと頭を抱えるために持ち上げた両手はその動きを予期していた侯爵の手によって捕縛された。きつく手首を掴まれると力を込めてゆっくりと降ろされ、そのまま膝の上でひとまとめにされる。

手首に感じる侯爵の手は人の物とは思えないほどに冷たくべたり、としていて何よりそこから伝わってくる歓喜がアスリューシナの全身を得体の知れない恐怖で包み込んだ。

令嬢が自分の支配下に下ったと判断したオベイロン侯が僅かに振り返るといつの間に入って来たのか、公爵家から一緒だった従者が素早く近づいて来て既に抵抗する気配すら失った彼女の両手首を柔らかな布紐で括る。それを見下ろしながら満足そうに頷いてその手を離した侯爵はゆっくりと立ち上がり今度はすぐ眼下のロイヤルナッツブラウンへと手を伸ばした。半ば茫然自失のアスリューシナは髪に触れられた事に気づくと、ピクリと肩を揺らしたが耐えるように目を瞑り唇を固く引き締める。

ぷちっ、と小さく何かを引きちぎる音の後、結い上げられていたた髪が幾重にも流れ落ちる細雨のようにサラサラと広がると、今まで複雑に編み込まれていたとは思えないほど癖のない艶髪が彼女の背と肩を覆うように真っ直ぐ伸びていて、その輝きは染色では到底出せない本物である事を物語っていた。

今まで感情を表に出すことなく、沈着冷静に事を運んでいた侯爵の従者でさえ主の背後から瞠目したまま息を飲んでその色から視線を外せずにいる。同じように瞬きすら忘れて魅入っていたオベイロン侯の片手が引き寄せられるようにその髪に伸び、その一房をすくい上げて顔を寄せ深々と息を吸い込んだ。

 

「ああ、良い香りだ。色に相応しい芳香じゃないか。そして、これぞ私が求めていた色だよ」

 

一層、身を縮こませ肩を振るわせているアスリューシナの様子など歯牙にもかけず、侯爵はひたすらロイヤル・ナッツブラウンの髪に頬ずりをしたり香を堪能したりを繰り返す。

 

「あの時は小さな君に触れる時間さえなかったからね」

 

その言葉に身に覚えのない彼女は勇気を振り絞って顔を上げ侯爵の目を見つめた。その表情だけで何を問いかけているのか理解した侯爵は「ほらね、何せ君は僕と視線すら合わせてくれなかったし」と非難めいた言葉をさも楽しそうに吐いて瞳を覗き込んでくる。

 

「僕はちゃんと命じておいたんだ。攫ってくるだけでいい。『癒やしの力』は僕が試すから、って。なのに僕が到着した時、君はあいつらに散々傷をつけられて……あれは僕がつけるはずだった傷なのに。しかもどうやって嗅ぎつけてきたのか、公爵家の野蛮な従者が僕が雇った男達をのして君を連れ去ろうとしていたんだよ……その時の僕がどれほど驚いたか、君にわかるかい、アスリューシナ」

 

話の中身である輪郭がぼんやりとアスリューシナの中で形作られていって、足下から這い上がってくるような冷気を錯覚し、ふるり、と全身を震わせると髪と同色の瞳に何を見たのか、侯爵が益々目を細めた。

 

「僕はあの時まだ子供だったけれど、それでも大急ぎで君のいる小屋へと駆けつけたんだ。いくら傷つけても治らないって報告が入ったからね。僕以外の男が君に触れるなんてすぐに止めさせなくてはならなかったし『癒やしの力』が現れないなんて信じられなかったからさ。けど君を閉じ込めているはずの部屋の扉が開いていて、中に入ってみると君をマントに包んで抱きしめている男がいるじゃないかっ」

 

その光景が脳裏に焼き付いているのだろう、高ぶった声と共に嘆きなのか、はたまた怒りなのか判別できない位強い感情に支配された眼が目一杯に見開かれ爛々と輝き始めている。

 

「驚きのあまり声すら出なかったよ。しかもその男、この僕の目の前にやって来て薄汚い手を差し伸べてきて……『君もここから一緒に逃げよう』なんて声までかけてきたんだ。不敬にもほどがあるだろう?」

 

これまでの侯爵の言動を見ていれば幼い頃からその気性が変わる事はなかったのだろう、さも当然のように言い放つ姿は人間味を通り越して既にアスリューシナの理解の範囲を超えていた。同じ言葉を使っているはずなのに、その内容が理解できない……何を言っているのか読み解こうとする努力すら無意味と感じるほど異質な存在にアスリューシナの瞳が恐怖で揺れている。

 

「それにその男が僕に対して屈んだ拍子に見えたんだよ、君の腕や足に刻まれた鮮烈なまでの赤々とした無数の傷跡がね。だから思わずその美しさに見とれて、その男に近づき、それから持っていたナイフで男の顔を切りつけてやったのさ……片目の眼球を二つに割るように深々とねっ」

 

自分の手際の良さを自慢するような言い様に、確かにその場面に自分もいたはずなのに当時の記憶がすっかり抜け落ちているアスリューシナは、想像だけで血の気を失った。オベイロン侯が害したのは間違いなくアスリューシナの父であるユークリネ公爵の専任護衛だったヨフィリスだ。しかし侯爵は身体を起こし、両手を広げて芝居がかった仕草でアスリューシナの顔色もその感情も意に介さずとうとうと話し続けている。

 

「だってそんな君を見ていいのは僕だけだろう?……けど、やっぱり君の傷のような美しさはなかったな。だけどあの男が血まみれになりながら驚いた顔は今でも忘れられないよっ」

 

心底楽しげに歪む眦と唇。しかし次の瞬間にはその表情が今度こそ嫌悪に覆い尽くされた。

 

「なのにあの男の君への執着はひどいものだった。君を僕の元に置いていくどころか君を抱いたまま駆けだして行くなんてね。でも、あの傷は確かに致命傷に至るはずだったんだ。だってあれは僕の計画を台無しにした正当な罰なんだから」

 

そう言い放つといきなり屈み込んできてアスリューシナの頬が触れる距離まで顔を近づけてギョロリ、と眼球だけを回してくる。

 

「なのにどうしてあの男は生きている?」

 

突然、低く気怠げな声で責め立てるような疑問をぶつけられ、視界をオベイロン侯の怒りで満ちた顔で塞がれたアスリューシナは絶えきれず、答えを拒むように強く目を瞑った。

 

「ねえ、アスリューシナ?、君なんだろう?……君の『癒やしの力』があの男の命を救ったんだろう?……あんな下賤の者へ勝手に力を使うなんて、本当に馬鹿げてる……なぜなら、君は僕のものだ……だからあの力も僕のものなんだよっ」

 

立て続けに浴びせられる声は、最初は生ぬるい水とも湯とも言えないような温度だったのに、どんどんと感情の高ぶりと共に勢いと熱さを増していき目を閉じていてもその理不尽な熱は彼女の心を追い詰めてくる。

あの時、ヨフィリスの前に現れた子供はアスリューシナと同じく監禁されていた被害者などではなかったのだ。まさかそんな子供が大の大人を使って公爵令嬢を連れ去る計画を立てた首謀者だとは彼も思わなかったのだろう。常日頃から自分の娘や雇い主の令嬢に穏やかな笑顔を見せているヨフィリスだったから、アスリューシナを救い出す時も見知らぬ子供とは言え声を掛けずにはいられなかったに違いない。目の前に立つ子供が三大侯爵家の子息とは夢にも思わず……そして自分を傷つけるなど露ほども疑わず……。

今、こうして真実がわかってもアスリューシナが当時の光景を思い出すことはなかったが、それでも痛さや怖さ、それに何よりも悲しみの感情はしっかりと植え付けられていて、それら全ての根源がひとりの人間による狂喜からくるものだったのだと知り全身がカタカタと震え始める。

真実を知って声さえ出せぬほど怯えきっている公爵令嬢とは反対に劇場で開幕を待ちかねる観客のように高ぶった感情のまま期待に目を輝かせた侯爵は彼女の腕を愛おしげに一本の指腹でなぞり上げると興奮で赤みを帯びた唇を舌でひと舐めしてから猫なで声で囁きかけた。

 

「さあ、僕に見せてくれたまえ、君の奇跡の力をっ」




お読みいただき、有り難うございました。
かなり不快なシーンばかりですが……大丈夫でしょうか。
もう侯爵サマの独壇場ですねぇ。
今まで出番が抑えられていたせいか、ほぼ一人で喋っちゃってますよ。
もしかしてご本家(原作)さまより人でなしかも……。


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46.建国祭(8)

十四年前、建国祭の中央市場からアスリューシナの拉致監禁を計画し、
救出に来たヨフィリスを傷つけた人物がまだ少年だったオベイロン侯と
知ったアスリューシナは……。


アスリューシナは再び、自分の目に映る靴先へとゆるい意識を呼び戻した。

この部屋に入ってきた時からずっと椅子に座らされてはいるが、足は拘束されていない。けれどひとつに縛られた両の手首は腕を小さく切りつけられる度に跳ねて皮膚が赤く擦り剥けてしまっている。

痛みは既に感じなくなっていた……いや、最初から恐怖の方が上回っていて、腕の皮膚の上をナイフの刃先が滑る毎に浮かび上がる真っ赤な絹糸のような傷口が増える程、逆に希望は減っていき現実から気持ちが遠のいていく。

アスリューシナの意識は朦朧としているとさえ見えるのにオベイロン侯の目にはその姿が映っていないのか、先刻告げた通り彼女に話しかけながらも自らの手でその肌へ楽しげにひとつずつ傷を付けていた。

 

「……けれど、あの後君はすぐ祖父である辺境伯の元へと行ってしまったからね。さすがに僕も困ったよ……」

 

これからオベイロン侯の領地へと移動するのだと行って長距離用の馬車を待つ間、侯爵は暇つぶしでもするような気軽さで用意していたナイフを取り出し、彼女の腕をつかんだのだ。

 

「……辺境伯の屋敷から君を連れ出すのは無理だったけれど、僕は信じてたさ。アスリューシナ、君は必ず僕のいる王都に戻ってくるってね……」

 

領地で結婚式を挙げるのだから、と言って、ドレスで隠れるところにしか傷はつけてこない。

 

「……なのにやっと王都に戻ってきても君は屋敷から一歩も外に出てこないし……」

 

それでも彼女の両腕には既に無数の鮮烈な赤が皮膚を縦横無尽に引き裂いている。

 

「……社交界デビューの時はとんだ邪魔が入り、三月ほど前の王城の夜会では君はすぐ逃げてしまっただろう?、先の市場からの帰り道ではろくに時間も取れなかったからね、今夜はこうやって僕の方から出迎えに行ったというわけさ……」

 

彼女から何の反応も得られない事にようやく気づいたのか、ナイフの刃先から視線を上げたオベイロン侯は焦点の合っていないナッツブラウン色の瞳を覗き込み、少し不機嫌そうに眉を歪めた。

 

「……どうしても僕に『癒やしの力』を見せないつもりかい?……それとももっと深く、大きな傷をつければいいのかな?」

 

やっと手に入れたオモチャが思うように動かず、その原因を調べるように息がかかるほどの距離まで近づいてもアスリューシナは虚ろな瞳のまま瞬きすらせず心を凍らせている。しかし身体が反応を生まない間も彼女の意識は徐々にあの時の自分の記憶へと辿りつつあった。

 

(そう……あの時も同じように……椅子に座って、同じように口は動かせなくて……)

 

いくら大切に思っている専任護衛の身柄を盾にしているとは言え、市場では「舌を噛む」と覚悟を見せたアスリューシナに対する策として今は両の手首と同様に彼女の口には布が噛ませてある。幼い時、建国祭の市場でトトに気を取られている間に誘拐された彼女も、やはり男達によって今と同様、口を塞がれていたのだ。だから「癒やしの力」は自分を治癒する為には使えないと訴える事も出来ず、されるがままでいたのだが、例え今の侯爵にそれを言えたとしても素直に信じてくれるとは思えなかった。

 

(けど、あの時は目も塞がれていたから……)

 

自分達の人相を覚えられる事を恐れた為か、当時の彼女は男達の手に落ちた時から目隠しをされていて、恐怖と痛みで流していた涙も半日を過ぎた頃には心と同様に乾ききっていた。それでも止むことのない男達からの暴力から自分を守るには何もない暗闇に自己を閉じ込めるしかなかったのだ。そうして昼も夜もわからないまま眠る事も許されず、どれほどの時が経ったのかも知らずに男達の声や空腹や喉の渇きすら感じることを忘れた頃、あまりにも大きな破裂音が自分の意志とは関係なく飛び込んできて、久々に意識が耳からの音を取り入れた時、懐かしささえ感じるヨフィリスの声が彼女を迎えに来てくれたのだ。

その声に安堵した幼いアスリューシナはすぐ気を失うように深い眠りに落ちた。

その後、ヨフィリスが男達から自分を救い出し、そして顔に重症を負ったまま自分を抱えて公爵家まで馬を飛ばした一連の記憶はアスリューシナには残っていない。ただ、気づいた時にはヨフィリスのマントに包まれて父であるユークリネ公爵の腕の中にいたのだ。そして周りにいた人間達の悲鳴に驚いて顔を巡らせた時、すぐ後ろには血まみれのヨフィリスが倒れていて、そこからは無我夢中だった。

父の腕の中から這いだし、体力など欠片も残っていない身体を懸命に動かして彼の元へと辿り着いた。

いつも父の側で精悍な顔つきで護衛をしている姿が好きだった。

父が執務室で仕事をしている時は、護衛の任を離れて柔らかな笑顔さえ浮かべてくれる。キズメルと一緒に強請れば、本も読んでくれた。

市場の視察に連れて行って、と父に願い出る時、父は決まってちらり、と彼の顔を見るのだ。護衛対象が増えても構わないか?、と問うように。そして彼はいつだってすぐに目を細めて頷いてくれた。

その大好きなヨフィリスが薄汚れてボロボロになって息も荒く血まみれで目の前に崩れ落ちている……自分が何をすべきかなんて考える暇もなくアスリューシナはその小さな身体でヨフィリスの頭に覆いかぶさった。まさに全身で祈りを癒やしの力に変えたのだ。気力も体力も自分の中に残っている力という力を全て使い切って、最後に息づかいが落ち着いたヨフィリスを見た時、ふと、市場で出会った小さくて真っ黒い犬を思い出した。

あの黒いワンちゃん、ちゃんと助けてあげられなかった……と思うと同時にアスリューシナは再び昏睡状態に陥ったのだった。

…………結局、その後、意識を回復した時、アスリューシナの身体は辺境伯の屋敷の寝室のベッドの上だった。

男達に監禁されていた間、視界を遮られていたせいか、それとも自らを闇の中に孤立させていたせいか、その時から暗い場所が怖くなってしまい、夜になると辺境伯の屋敷に仕えている侍女達を困らせた。

父も、母も、兄も、王都の公爵家にいた時に身近にいた人達はアスリューシナの事など忘れてしまったかのように、誰も会いには来てくれなかったが、それでも祖父母である辺境伯夫妻や彼女にとっての伯父や伯母、従兄弟達は家族同然に接してくれたので、いつしか寂しいと思う感情を口にするのは我慢出来るようになった。そして辺境伯の屋敷で世話になるようになって半年が過ぎた頃、父が仕事で近くまで来たから、と辺境伯の領地に立ち寄ってくれたのだ。さすがにその時ばかりはポロポロと大粒の涙が止まらず、父が屋敷を辞するまでずっと側を離れなかった。

その事があったせいか、それから半年毎くらいに父や母が会いに来てくれるようになり、数年後には父の傍らで次代のユークリネ公爵としての勉強を始めたという兄も訪れてくれるようになった。

そして、辺境伯の屋敷での生活が十年近くになろうという時、母の訪問時に随行していた事もある侍女の一人、サタラが主である公爵の命を受けアスリューシナを王都の公爵家へ戻す準備をしにやって来たのだ。

そろそろアスリューシナを王都で社交界デビューさせてはどうか?、という提言は意外にも辺境伯から持ち出された話らしい。その為に必要な教養や所作は既に辺境伯の元でみっちり教え込まれていたし、そういった点では厳しい目を持つアスリューシナの母も当然生家である辺境伯の屋敷で同様の教育を受けてきたのだから、王都を離れていたとは言えアスリューシナのデビューに対して不安を覚えることはなかった。むしろ広大な領地を治める辺境伯の令嬢という立場から領地を持たないユークリネ公爵夫人となった彼女としては、自分の娘には広い領地を持つ裕福な貴族の元へと嫁いで欲しい願いがあったのだろう、話がまとまるやいなや、すぐさま最も信頼が置けるから、と息子付きにしていた侍女頭を娘の王都帰還の支度を調える為にと遠地に送ってしまったのである。

かくして、アスリューシナは辺境伯の屋敷に預けられた時も、王都の公爵家へと帰還を促された時も、自らの意志はなんら関係なくその身の所在を決められたのだった。

 

(この色と力がある限り、自分の気持ちだけで物事を決めてはいけないと覚悟していたけど……)

 

だからこそ、周囲の誰が何を言おうとも「癒やしの力」だけは自分が使いたい時に使う、とアスリューシナは心に決めていた。自分自身には使えない力だが、特異な自分の為に心を砕き、優しく接してくれる人達の為にならいくら辛い思いをしても構わないし、それだけが唯一自分に許してあげられる自由なのだ、と。

なのにこの力のせいで再び自分は囚われの身となってしまっている。

 

(この力は……、この力は……)

 

アスリューシナが強情にも力を使うことを拒んでいるのだと決めつけて、オベイロン侯は侮蔑を込めた声で彼女の耳元で囁いた。

 

「あの時も言ったけどね、アスリューシナ。君のその力、このままでは世を狂わせる禍罪(まがつみ)にしかならないと、まだわからないのかい?」

 

びくんっ、とアスリューシナの肩が大きく揺れる。

 

(そうだ……この言葉…………馬車の中でオベイロン侯から発せられた「禍罪」という言葉…………違う……もっと……もっと、昔にも…………)

 

遠くで少年の声が僅かに届いた。

優しく自分を包んでくれているヨフィリスのマントの中で、あざ笑うような声だけが勝手に耳から侵入して凶器となり心に深く呪いのような傷を付ける。

 

『…………あーあ、これじゃあ、世を狂わせる禍罪(まがつみ)にしかならないよ…………』

 

その声は十四年前、ヨフィリスの手で救い出されたアスリューシナが監禁されていた部屋から連れ出される時、背後から向けられたまだ少年と呼ぶべき姿のオベイロン侯の声だった。




お読みいただき、有り難うございました。
十四年前の事件の全貌がほぼ明らかになってきました。
アスリューシナが辺境伯の元で生活していた間、キズメルは会いに
行く事が出来ませんでしたが、サタラはコーヴィラウル付きになっても
侍女頭に昇進しても、公爵夫人に「お供させて下さいっ」と懇願して会いに行って
いたと思われます(苦笑)
(料理長の旦那さまを王都に置いてきぼりにして……)


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47.建国祭(9)

アスリューシナの記憶の中にある「禍罪」という言葉は、十四年前の
誘拐事件の際、オベイロン侯の口から出たものだったが……。



「禍罪(まがつみ)って……どうして……」

 

たどたどしい問いがアスリューシナの唇から零れてきた事に気を良くしたのか、オベイロン侯は口に弧を描いて彼女と視線を合わせた。

 

「だってそうさ、その力は初代王妃のティターニアがこの国を創建する時に王を助けた力なんだから、まさに王となるべき者の為の力だと言っていい。それに相応しい者が使わなければ、無能な有象無象共がその力を求めて醜く争う原因となるのは必須だよ。そうなると元凶である君の存在自体が禍(わざわい)と言えるだろう?」

 

それから自信に満ちた、けれど見る者に嫌悪感を抱かせるには十分な笑顔で侯爵は言い放つ。

 

「だから『癒やしの力』は僕のような王格を備えた者が使わなければいけないのさ」

「オベイロン侯……あなたはこの国の王に……なりたいのですか……」

 

いくら三大侯爵家とはいえそれほど妄念的な野心を潜ませていたとは信じられず、到底現実味のないその思考にアスリューシナは気恐ろしい思いで侯爵の顔を見つめた。しかし重ねて問われた内容に珍しくも侯爵の眉が山なりに持ち上がる。

 

「この国の王だって?、はっ、まさかっ、こんな平和ボケした脳天気な貴族達を治めたところで何の意味もないさ。それにね、初代アインクラッド王の時代は王自ら戦いに赴いていたから、かの力は王のみに使われたらしいけど、僕は例え他国と交戦になったとしても自ら戦場に出たりはしないし、その素晴らしい力をたった一人の為だけに使うなんて馬鹿馬鹿しい話だよ」

 

国を作るため、民を守るために自らも剣をふるう王のどこが愚かだと言うのか、そしてその王を支える為に当時の王妃も躊躇うことなく「癒やしの力」を使ったのだろう、その事は今も語り継がれている国王夫妻の睦まじさを考えれば容易に想像が出来る。それを愚行とみなすような発言にアスリューシナは顔を僅かに歪めた。

 

「なら……」

 

一体、どうしてこの力を手に入れたいと言うのか、その理由がわからず彼女が小さく声を出すと、それを押しつぶすかのようにオベイロン侯は自らの計略を語り始めた。

 

「もちろん、その力の仕組みを研究するのさ。君を僕の領地に招き、妻の座を与え、僕のものになった君はその力を僕の為に差し出すんだ。ああ、大丈夫、前にも言った通り、今の生活より贅沢な部屋を与えるし、ドレスに宝石、食事だって君が欲しい物は全て用意する。ただし、その血、肉、吐く息さえ僕の物だと言う事を忘れないでくれたまえ。僕はいつも君といて、その力を隅々まで調べ尽くすんだ。そして『癒やしの力』の謎を解明し、それを使ってありとあらゆる物をこの手に入れる。ひとつの国の王だなんて、そんな小さい話じゃないんだよ」

 

オベイロン侯の口の両端は興奮が抑えきれずにヒクヒクと震え、三白眼が狂喜に輝いている。

 

「既にね、領地で取れる作物にはいくつか研究の効果がでているんだ」

「こ……うか?」

「ああ、そうだよ、特に今年はリンゴがよく出来ていていた。全く同じ形、同じ色、出来損ないは一つもなかったからね。病気もしない、虫もつかないから不作の年もなく、いつでも同じ量を収穫できる。どうだい?、素晴らしいだろう」

「……そんな……」

「けど本体の樹がダメなのさ。数年経つと途端に枯れてしまう。黒い小斑が出たと思ったら、あっと言う間に枝葉や幹まで黒ずんでやせ細り朽ちてしまうんだ。けれど『癒やしの力』が使えれば木も枯れることはなくなるだろう。植物だけじゃない、動物にも、そうさ、ゆくゆくは人間にだってこの力を分け与えてやれば僕は神の御業とも言うべき偉業を成し遂げられるんだ」

 

得意気に喋り続ける侯爵のおぞましい企てを耳に入れながら、アスリューシナは中央市場で聞いたエギルの言葉を脳裏に思い浮かべていた。

 

『商品を見たらなんだか妙に腑に落ちないというか……』

『並んでいるリンゴが不気味な程同じ大きさで同じ色だったんだ……なんか、こう『作った』と言うより『作られた』という感じがして……』

『その熱心さが変な方向に向いてなきゃいいんだが……』

 

まさにエギルが危惧していた通りの事が現実となっていて、アスリューシナは血の気が失せた顔で今後決して迎え入れてはならない未来を想像する。万が一にも自分が持つ力をオベイロン侯が自由に使えるようになってしまえば、それこそ自分は『禍罪の存在』となってしまうだろう。侯爵には知られていないようだが『癒やしの力』が人以外にも、そう、動物や植物にも効果がある事をアスリューシナはこれまでの経験で知っていた。けれどこれは自然に反した力だ、不公平と言われようがアスリューシナ自身はこの力を世の中に知らしめ、利用して何かを得ようと考えた事はないし、あまつさえ神と同等とも思っていない。

この力は、たまたま出会った元気のない動物や植物達、それに自分の周囲を取り巻くほんの一握りの人達の為に使いたいのだ。

 

(きっと、そんな風に使うだけななら「禍」にはならなと思うから…………)

 

望んだ訳でもなくこの色や力を持って生まれてきた自分が「この力があってよかった、と思えるように生きたい」と望むようになったのは、大事な人から贈られた言葉だった。

 

『アスナは…………オレにとっては癒やしだよ』

 

こんな不自由な身の自分を、ずっと傍にいて欲しいと言ってくれた人、何より自分も傍にいたいと思った人……髪色と酷似している彼女特有の色の瞳が芯を取り戻す。

 

(……私はこんなことで屈したりしない)

 

顔を上げ、気丈にも目の前の侯爵を睨み付ければ「そういう顔もいいねぇ」と楽しそうに喉を鳴らし、右手を伸ばしてアスリューシナの頬を撫でた。

 

「断言してもいい。今度こそ、君を僕から奪うような下劣な人間はここにはやって来ないよ。この場所を探し出すのも不可能だろうけど、今回はちゃんと腕の立つ者達を連れて来ているからね」

 

自分の思惑が拒まれることなどありはしないのだと確信している舌端は止まらない。

 

「その髪、その顔、声、振る舞い……『癒やしの力』だけじゃない、どれをとっても最高級品の君がこの僕に絶対の服従を示すんだ。だってそれが唯一『禍罪』とならない方法なんだから。ああ……今まで待った甲斐があったというものさ!!」

 

陶酔した表情のオベイロン侯は背後に控えている従者の存在すら忘れているのか、きっきっ、と下卑た笑い声を上げ、令嬢の柔らかな頬の弾力を楽しんでいた指の腹をつつーっ、と首筋にまで滑り降ろす。途端に嫌悪に歪んだアスリューシナの顔など見えていないのか、そのまま肩へと流れ落ちているロイヤル・ナッツブラウンの髪まで指先と視線を移動させた。

 

「そうだよ、初めてこの色を目にした『建国祭』のあの日、君と君の兄上はえらくはしゃいでいたっけ」

 

歪んだ笑みはそのままに侯爵の目は希有な色に釘付けとなっている。ナイフで切りつけらた傷よりも痛みを錯覚させる欲望を間近に感じながらアスリューシナは固く静かに心を揺らす事なく時を待った。

 

「君達は供の者もつけずに『建国祭』のパレード会場にいて……ああ、子供の頃から君の兄上とは面識があったのさ。上流階級の子息同士ね。その彼がしっかりと手を握っていたし、コートも上質の物だったから君が彼の妹だというのはすぐに気づいた。君達は互いに花火の話に夢中になっていて周囲が見えていない様子で、実に子供らしい様子だったよ」

 

その言葉は幼い子供を慈しむ気持ちなどまるでこもっておらず、むしろ矮小な者の幼稚さをあざけているようで、ざわりとした不快感を与える。

 

「だから君の兄上も僕の存在には気づいていなかったのだろうね、パレードを見終わった人混みの中で君は見知らぬ誰かとぶつかって、一瞬、フードが少しだけはだけた。彼は慌てて君のフードを元に戻し真面目な顔になってグイグイ、と君を引っ張って行ってしまったから。僕に挨拶もせず……まあ、それはいいさ。その代わりと言っては何だが、僕はあの時、僕の物となるべき色に出会えたんだから。すぐに気づいたよ、少し前から社交界ではロイヤル・ナッツブラウン色の髪を持つ子供がいるという噂が流れていたからね。どうしてそんな幻想じみた流言が出回っていたのか不思議だったが……それが真実だと知った時はこの身が震えたさ」

 

その後、すぐさま自分の従者を介して市井で職にあぶれていたならず者二人を雇い、花火を見に来る可能性に賭けて計画を立てたのだと言う侯爵の話で十四年前の事件の真相がつまびらかになった時、遠くからコーン、コーン、コーン、と花火の開始を知らせる鐘の音が室内にいる三人の耳に届いた。




お読みいただき、有り難うございました。
お待たせいたしました、やっと外にいる二人と時間が同期しました。
そして一話で言ったエギルさんの言葉が繋がりました(長かった)
エギルさん鋭いっ(笑)
さあ、合図の音がそれぞれの耳に届きます。


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48.決着(1)

十四年前からアスリューシナの「癒やしの力」を知り、それを手に入れて自分の為に
使おうと画策していたオベイロン侯。
そこに遠くから花火を始める合図の鐘の音が聞こえてきて……。
新章「決着」です。


今まで一度として『建国祭』の花火を目にした事のないアスリューシナにとって、それはとても小さかったが聞いたことのない高音で、不思議さから音の根源を探るようにカーテンの閉め切られている窓へと顔が動く。その行動の意味を読んだオベイロン侯は令嬢から視線を外されたにもかかわらず、機嫌を損ねるどころか薄ら笑いすら浮かべてアスリューシナに触れていた手を引っ込め、屈んでいた腰を伸ばして同じように窓へと身体を向けた。

 

「あの音はね、花火の合図なのさ」

 

声を封じられている彼女からは何の言葉も漏れ聞こえないが「花火」という単語に対する僅かな反応に、ふっ、と哀れみに近い目で侯爵は令嬢を見下ろす。

 

「まさか君があの男と一緒に下賤の輩に混じって花火を見ようとするなんてね……僕はちゃんと屋敷にいるように、と言ったはずだが?、アスリューシナ……勝手に抜け出すなんていけない子だなぁ。まあお陰で君を迎え入れる事が出来るんだから、最後にあの男も役に立ったということか……」

 

勝手に抜け出したなどと、今回の花火見物の約束を利用して自分を拉致した人間に言われる筋合いではない、と視線を戻して侯爵を見上げれば、その反抗的な瞳が勘に障ったのだろう、弧を描いていた眉をぐにゃり、と歪めて、それまで恋狂うように触れていた彼女の髪をいきなりガッ、と掴んで引っ張り上げた。

 

「なんだいっ、その目はっ」

「う゛っ」

 

アスリューシナの塞がれている口奥から思わず声が漏れる。痛みに耐えながらも屈しない光を宿したまま侯爵を射るように見つめていると、髪を持つ手の力を緩めることなくオベイロン侯は激情を狂喜に変えた。

 

「まあ僕を見るそんな目もどれほど保てるのか楽しむとしよう。三十分? 一時間? そろそろ馬車も来る頃合いだ。領地に着くまでかな?」

 

更に髪を引きアスリューシナの苦痛に顰められた顔を自らの方へと向かせた侯爵は唇を三日月型にして赤い舌を出し、それをゆっくりと彼女へと近づけてくる。長く伸びたそれが恥辱と僅かな痛み、それに圧倒的な怒りで震え続けているかんばせに届きそうになった瞬間、思わずぎゅっ、と瞑ってしまった両瞳から大粒の涙がひとつずつ、彼女の頬を滑り落ち「っんう゛」と息を詰める声が彼女自身の耳まで届こうかという時、突然部屋全体が震える程、大きな音が響き渡った。。

 

バンッ!

 

決して薄くはない部屋の扉が一発で蹴破られる大壊音に咄嗟に振り返ったオベイロン侯とその従者はそこに現れた、けれどありえるはずない人物の登場に声も出ず、驚愕のあまり身動きすらとれない。反対に力業で部屋への侵入を果たした青年は目の前の光景を視界に収めた途端、ぶわり、と漆黒の瞳に黄金色の怒炎を宿らせた。

さして広くもなく調度品もない、ほぼ四角い空間と言っていい部屋の中には三つの人影。

一人は見知らぬ人物だが、剣を携えながらも上品な身なりで壁際に控えているので護衛を兼ねた従者だろうと判断し、ユークリネ公爵家を訪れ公爵令嬢を連れ出した人物と推測する。

中央にいる男は自分と同じ最高位の爵位持ちだが、もともとそりが合うとは思っていなかった人物で、その認識はここ数ヶ月で確信に変わり今では嫌悪と怒気を真正面からぶつける対象となっていた。

そして、その不埒な侯爵たる男の手にはこれまで自分がそれは大事に大切に優しく触れてきた愛しい人のナッツブラウン色の髪がこともあろうに鷲づかみにされていて、その所行と共に目に飛び込んできたのは口を布で覆われたアスリューシナの苦しそうな表情と椅子に腰掛けている膝の上には自由を奪われた両手、そして腕には切りつけられた無数の傷……そこから一瞬で状況を把握した侵入者の青年は立ち尽くしている男二人の混乱を「遅い」と冷たい囁きで評すると同時に床を蹴り、僅か数歩の疾走で自分の間合いまで従者との距離を詰める。

瞬きひとつの間に眼前まで現れた侵入者に対し、従者は言葉を発するより先に反射的に腰の剣を抜こうとするが、相対している青年は低い姿勢のまま右手に携えているどこの誰かも知らない人間から奪った剣の刃先を流れる動作で床と水平に滑らせ、従者の衣服の袖はもちろん上腕部の筋肉にまで刃を食い込ませて剣を抜ききった。

すぐに鮮血が溢れ出す。従者が咄嗟に剣の柄を握っていない手で出血部分をおさえつつ、よろめいて壁に背をぶつけると、青年は時を逃さずバランスを崩した相手の顎下に剣を持ったままの右ひじを強く押し当て、壁と挟んで気道を塞ぎ、反撃の隙を与えず鳩尾に左手の拳をめり込ませた。

「げふっ」と短い息を口から吐き出すと同時に、負傷しながらも応戦を試みた従者の剣が手から離れてその役目を果たすことなく足元に落ちる。青年はそれをすぐさま足先で蹴り飛ばし従者から身を離した。

喉と上腹部の支えを失った従者の身体は壁に沿ってずるずると崩れ落ち、最後にはだらしなく床に伏す。

それから自分の従者があっけなく失神した現状にオベイロン侯が舌打ちをする音を耳にした青年はゆっくりとその音源へ振り返った。

怒りの収まらない黒い視線を向けられても、どこか冷めた目で見返しているオベイロン侯はそれまで公爵令嬢の白い皮膚に赤い線を引いていたナイフを今は彼女の細い首筋へと当てている。

それを見た漆黒の瞳が更に大きく見開かれた様を眺めてオベイロン侯は自分の優位性に目を細めた。

 

「これはこれは、若きガヤムマイツェン侯爵殿。どうやってここまで迷い込まれたのです?。しかも私の従者にいきなりの乱暴狼藉。三大侯爵家の当主がなさる事とは到底思えませんが」

 

公爵令嬢に刃物を突き付けておきながらの口上に益々の憤激で剣を握っている右手が小刻みに震える。しかしオベイロン侯の手から髪を解放されたアスリューシナは首元のナイフへの恐怖など微塵も見せずに涙の滲む瞳をまっすぐキリトゥルムラインへと向け「キリトさま」と動かせない口元から声に出せない喜びを表した。

くぐもった声では聞き取ることは困難だったが、それでも自分の名が嬉しげに呼ばれたのだと確信したキリトゥルムラインは一旦、怒気を静め、僅かな笑みさえ浮かべてゆっくりと頷く。言葉にされなくてもアスリューシナにはそれだけで充分だった。

彼女の瞳に灯った安堵の色に応えるべくキリトゥルムラインは改めてオベイロン候へと視線を合わせる。

 

「乱暴狼藉、と言うならオベイロン侯、あなたが今ナイフを突きつけているユークリネ公爵令嬢はどうなんだ」

 

三大侯爵家同士として礼節をわきまえた会話をする気など毛頭ないのだ、と強い口調で訴えればこれまたオベイロン侯の方もガヤムマイツェン侯爵を小馬鹿にしたように、ふっ、と鼻で笑った。

 

「彼女はこれから共にアーガス領へ行き、そこで婚姻の義を執り行い私の妻となる身なのだよ。だからこのご令嬢は既に私のものというわけさ」

 

その言葉に表情を取り繕う事さえ出来ずキリトゥルムラインの顔が歪む。そんな反応さえもオベイロン侯にとっては優越感を膨らませる材料にしかならなかった。

 

「ガヤムマイツェン侯、これはね既に彼女が幼い頃から決まっていた事なのさ。だいたい君は彼女の何を知っているのかな? 彼女がどれ程希有な力の持ち主か、そしてその力が誰の為にあるのか……」

「ならば反対に問おう。オベイロン侯、あなたは彼女のその力以外の何を知っている?」

 

問いを投げかけられるとは予想もしていなかったのか、オベイロン侯の満足げな笑みが止まる。

 

「力以外、だって?…………この僕に相応しい公爵令嬢という高貴な身分。美しい容姿……」

「そんなの、他の貴族達でも知ってることだろう」

「…………僕はね、彼女の力さえあればいいんだっ」

「彼女の優しい心は?、彼女がどれほど周囲の人間に愛されているか。少し意地っ張りなくせに、ふとした瞬間、子供のように無邪気に笑う姿。屋敷から出られなくても、そこで健気に明るく過ごす日常を……お前は何も知らない」

「そんなもの、知ったからと言って何になる。僕は十四年間もこの『癒やしの力』を待ち続けてきたんだ。たまたま彼女の力を知っただけの奴に好き勝手を言われる筋合いはないっ」

「十四年……?」

「ああ、そうさ。まだ彼女が王都で過ごしていた子供の頃にね、今日のような『建国祭』の時さ。力を確かめたくて彼女を誘拐させたんだが、彼女は自身に力を使わず、僕が切りつけてやった公爵家の下男の傷を治したんだ」

 

オベイロン侯の言う下男がキズメルの父親であることを瞬時に理解すると同時にアスリューシナが王都から辺境伯の元へと移された原因の誘拐事件が目の前にいる男の仕業だと知ったキリトゥルムラインは痛みを覚えるほどの憤りで目の奥を熱くした。




お読みいただき、有り難うございました。
最後に二人が顔を合わせたのが34話だったので……14話ぶりの対面です。
大変お待たせいたしました(当事者の二人とか、読み手さまとか)
本当に堪えて、待って、ここまでお付き合いいただき感謝です。
(軽く半年以上「キリアス」してない「キリアス」タグの作品って……)
やっと「決着」がつきます。


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49.決着(2)

アスリューシナをオベイロン侯から救い出すべく単身、乗り込んだ
キリトゥルムラインは十四年前の誘拐事件の犯人が目の前の侯爵だったと知り……。


「おまえ……だったのか……」

 

小さくても重い響きがゆっくりとその場を満たす。

十四年前、ユークリネ公爵家に使える人間達が、アスリューシナの家族が、そして何よりアスリューシナ自身が負った心と身体の傷の深さを思ってキリトゥルムラインは唇を噛んだ。公爵家でも解明出来なかった事件の首謀者が目の前にいる三大侯爵家のオベイロン候なのだという事実に納得と驚愕が同居する。しかも十四年前ならば彼とて子供と称して違和感のない年齢のはずだ。三大侯爵家の跡取りとしてきちんとした教育を受けているはずの少年が公爵家の令嬢を拉致監禁する計画を図り、大人を従えて実行にうつすなど、どこまでも理解の範疇を超えている。

しかしそんなアンバランスな感情も今現在のアスリューシナの姿に意識が戻れば圧倒的な憤激によって簡単に押し流された。

 

「そして今度は妻として娶るだって?、ユークリネ公には認めてもらったのか?……いいや、何より、ユークリネ公爵令嬢自身の意思は?、そもそも婚儀を交わす相手の身体を傷つけ、あまつさえその喉元に刃物をあてて……」

「いいんだよ」

 

狂喜の光を瞳に宿したままのオベイロン侯はキリトゥルムラインの声を遮り、当然とばかりの物言いでにたり、と笑い顎を反らす。

 

「この僕が欲してるんだから。三大侯爵家のオベイロン侯爵であるこの僕が。もうユークリネ公の返事など必要ない。僕の意思は既に何度も伝えてあるんだ。今度こそ僕の邪魔は誰にもさせない」

 

アスリューシナの細い首にナイフの刃先がくっ、と食い込んだ。その圧に耐えきれなかった白い肌がぷつ、と破れ鮮血がにじみ出てくる。オベイロン侯は彼女の血が付いたままのナイフの先端をキリトゥルムラインに向け「君にもね」と勝利宣言のように言い放つと、未だ塞がれない傷元に舌を這わせその血を舐め取った。美酒を含んだように、その味を咥内で堪能する姿と精一杯顔を反らせてオベイロン侯から距離を取ろうとしているアスリューシナの涙目の表情にキリトゥルムラインの怒気が再燃する。

けれどはなからアスリューシナの身を丁重に扱うつもりがないオベイロン侯はわざとらしく肩をすくめた。

 

「ああ、いけない。うっかり傷をつけてしまったよ。婚礼衣装では隠せないけれどベールをかぶるから大丈夫だろう。いいや、それよりも……」

 

傷口から再び血が盛り上がり、留まりきれずに首筋を伝い落ちてくる。オベイロン侯はアスリューシナの腕をつかみ、無理矢理に引っぱり上げて彼女を立たせると鎖骨近くに顔を寄せ、自らの舌でキリトゥルムラインの感情を逆なでするようにその鮮やかな赤を舐め上げた。堪えきれずに口を塞がれている状態のアスリューシナが、くっ、と息を飲み、肌を粟立たせるが自由にならない両手と爪痕がつくほど強く握られた腕と数え切れないほどの切創を抱えた身体では侯爵の拘束を振りほどく術はない。キリトゥルムラインの口元から、ギギッと籠もった歯噛みの音がする。二人の反応を楽しげに受け取ったオベイロン侯は流れ落ちる残りの血をナイフの刃で受け止めながら口づけをしそうな距離まで公爵令嬢の耳へと口を寄せた。

 

「アスリューシナ、君が素直に自分の傷を治せばいいのさ」

 

意地を張り続ける我が儘にこれ以上付き合ってはいられないと未だ少量ながら出血の止まる気配のない傷口へナイフの先端を鋭角に突き立てれば、思わずきつく目を瞑ってしまったアスリューシナの代わりにキリトゥルムラインが叫ぶ。

 

「待てっ、オベイロン侯…………彼女の力は、自分の傷を癒やせない」

「なんだって?」

 

珍しくも純粋に驚きの表情でアスリューシナの首元にナイフの刃先を寄せたまま、オベイロン候は探るような視線を令嬢に向けた。恐怖の感情を抑えながらゆっくりと瞼をあげたアスリューシナは首に感じている冷たい刃の存在に怯えながらもこくり、と小さく頭を動かしてキリトゥルムラインの言葉が真実であると訴える。自分が把握していなかった事実に「まさか……そんな……」とぶつぶつ呟いていたオベイロン侯だったが、やがて「まあ、いい」と切り替えて腕を伸ばしナイフの矛先を変えた。

 

「なら、ガヤムマイツェン侯爵の傷を治してもらおうとしよう」

 

理解は出来ずとも使用人にさえ心を砕く彼女の性格を把握しているオベイロン侯はたった今、知ったばかりの『癒やしの力』の制約を確かめるべく思いついた方法に目を輝かせ上機嫌となる。オベイロン侯の言葉の意味を計りかねたアスリューシナが、それでもガヤムマイツェン侯爵の傷と聞いて不安を抱きながらオベイロン侯を見つめると、その視線をちらり、と振り返って目にした侯爵が益々愉楽な気持ちを高ぶらせた。

 

「そうさ、今から僕がガヤムマイツェン侯爵をこのナイフで傷つけるから、それを君が治すんだ」

 

アスリューシナの瞳がこれ以上はないくらい大きく見開かれる。そしてすぐに顔を横に振りながらブルブルと小刻みに震え始めた。今までどれほど自身の身体を傷つけられても呻き声ひとつ漏らさなかった口から、布越しに「う゛ー、う゛ー」と言葉にならない拒絶の声が必死に紡がれる。けれどそんな訴えなど見えてもいないし、聞こえてもいない様子のオベイロン侯は自らの発案にひどく満足げに頷いた。認めるには少々口惜しい話だが、ユークリネ公爵令嬢のアスリューシナはどういういきさつでか、自分と同じ三大侯爵家がひとつ、ガヤムマイツェン侯爵家の若き当主にひとかた以上の情を抱いているらしい。『癒やしの力』が他者にしかその効力を発揮しないと言うのならば、ここまで自分を探しに来た侯爵を傷つければさすがの彼女も力を使うだろうと考えたのだ。

それに目障りなガヤムマイツェン侯爵を自らの手で害するのもまた一興だろう。どうやってここを探り当てたのかは不明だが、単身で乗り込んで来たという事は騎士団や街の警備隊には知られていないはずだ。せっかく大枚をはたいて雇った騎士くずれの者達はとんだ期待外れだったようだが、そろそろ領地へ向かう為の馬車もやって来る頃合い、どうせならばこのままこの部屋にガヤムマイツェン侯爵だけを一人残して出立したとしても、一体誰がここにこの国の三代侯爵家の一人が閉じ込められているなどと気づくだろうか…………と、オベイロン侯は仄暗い笑みを浮かべて、どちらにしても自分に損はないと目を細めた。

ガヤムマイツェン侯爵の身に深い傷を負わせ、そのままこの部屋に放置するもよし、或いはついにアスリューシナが『癒やしの力』を使い、それをこの目で確かめられるのなら積年の願いを成就させる第一歩となるのだ。

オベイロン侯は今まで以上にアスリューシナの身体を引き寄せて自らの半身に密着させ、動きを完全に封じてその細いおとがいのすぐ下にナイフの刃を水平にあてた。

 

「さて、ガヤムマイツェン侯爵、僕の花嫁にこれ以上無駄な痛みを与えたくなければ剣をその場に置いて、こちらに来るんだ」

 

完全なる勝者の微笑みのオベイロン侯を睨み付けたキリトゥルムラインは一瞬の迷いもなく剣の柄から手を離す。カタンッ、と床を鳴らした剣はすぐさま沈黙の無機物と化した。「来ないで」と願うアスリューシナの瞳だけを見つめて、一歩、一歩、ゆっくりとキリトゥルムラインが近づけば、自然と二人は見つめ合う形となる。キリトゥルムラインが現れるまで感情を覗わせることのなかった瞳が、今は懸命に涙を堪えて愛しい人の身を案じていた。

互いに無言ではあるが自分を無視するような視線の交わりが癪に障ったのだろう、オベイロン侯の眉間に深い皺が刻まれ、何の言葉を発することなく手にしていたナイフを若き侯爵の腕に突き刺す。キリトゥルムラインの顔が歪むのと同時にアスリューシナの咥内から甲高く、驚きと嘆きの「んーーーっ」という叫声があがった。

自分の首元からナイフが離れたアスリューシナは咄嗟にキリトゥルムラインの傍へ向かおうと身体をよじるが、同時に今までオベイロン侯からがっちりと掴まれていた腕が解放され思い切り肩を押し飛ばされる。両手を拘束されているせいでバランスを取りそこねたアスリューシナが横倒しに床に身体を打ちつけたのを見て、キリトゥルムラインが「アスナっ」と声を張り上げた。

キリトゥルムラインの注意がアスリューシナに向いている間に未だ彼の腕に深々と刺さったままのナイフをオベイロン侯は引き抜くどころか、そのまま筋肉と一緒に腱までをも切断すべく両手でナイフを持ち直し、体重をかけて刃で腕を切り裂けば、鮮血が吹き出す。さすがのキリトゥルムラインも痛みに耐えかね、切られた箇所の上腕部を強く掴んだまま「う゛う゛っ」と息を詰めらせてその場に膝を折った。




お読みいただき、有り難うございました。
流血シーン、大丈夫でしたでしょうか?
さすがにご本家(原作)さまのような「背中からグサリ(貫通)」は仮想世界でも
ない限り確実に絶命しちゃいそうなので(苦笑)


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50.決着(3)

アスリューシナの「癒やしの力」を見る為にキリトゥルムラインを
傷つけたオベイロン侯は……。


足元に崩れ落ちたキリトゥルムラインと、少し離れた場所に倒れ込んでいるアスリューシナ、そこに血まみれのナイフを持つオベイロン侯が立ったまま見下すような目で深い傷口から血を流し続けている若き侯爵に向け「ふんっ」と鼻を鳴らす。

 

「僕はね、何の苦労もなく侯爵家の当主の座を譲り受けた君のような人間が一番嫌いなんだ。しかも今度は僕のものであるアスリューシナにまで近づくなんてね」

 

真っ赤な血が止まることのなく流れ出てくる腕を抱え込むようにして、堪えきれない呻き声を漏らしているキリトゥルムラインを眺めつつ、勝ち誇った声で「気が変わったよ」と言いながらオベイロン侯は数歩分移動すると片膝をつき倒れているアスリューシナを抱き起こした。

 

「奥の部屋にアスリューシナの護衛役を自負している女使用人が残っていたんだった。『癒やしの力』はその人間で試してみることにしよう」

 

いい考えだろう?、と言いたげな視線を送られて、アスリューシナは信じられない者を見る目でそれを返した。今すぐにでも処置を施さなければ、元通りに動かすことは叶わないキリトゥルムラインの腕の傷をこのままにしておけと言うのか。もとはと言えば『癒やしの力』を見たいが為の所行であったはずであって……怒りと恐怖で全身が震え始めた時、アスリューシナは唐突に目の前の男の真実に気づいてしまった。

 

(……最初から、キリトさまを傷つけたかっただけなんだわ……)

 

今までこれほど一人の人間に対して憎悪を覚えたことがあっただろうか、というほどにアスリューシナの頭の中は負の感情で一杯になっていた。オベイロン侯の拘束から逃れてすぐにでもキリトゥルムラインの元に駆け寄り傷を癒やさなければ、と焦るが両手は縛られたままだし、言葉を発する事もできない。床に倒れていた状態から起こされた上半身は未だオベイロン侯の腕の中で、自由に動かせる両足で足掻いてみるが、それも空しい抵抗に終わっていた。せめても、と射殺すような強い眼差しで睨み付けるが、それを見たオベイロン侯は嬉しそうに口元を引き上げて逆に顔を近づけてくる。

 

「その瞳の色も伝承どおりだよ」

 

怯むことなく強い視線のままでいると、そこに引き寄せられたオベイロン侯が更に顔を近づけてきて、慌てたアスリューシナが身を逸らせようとすれば、その思考を先回りした侯爵がそれを許すまじと令嬢を拘束している手に力を込めた。希有な色を持つ瞳にぼやけて映るほど憎き侯爵の顔が間近に接近してくる時間は恐怖しか生まない。

その感情を察知したのか、単にアスリューシナへと近づくオベイロン侯を阻止したかったのか、荒い息のままキリトゥルムラインは侯爵の背中に「伝承とは、何だ」と苦しげな声を投げつけた。

同じ三大侯爵家でありながら、相手より自分の知識が勝っていると敏感に反応したオベイロン侯がすぐさま顔を振り向かせる。

 

「ガヤムマイツェン侯爵家にはそんな事も伝わってないのかい?…………いや、当然か。何せ『蛮行のガヤムマイツェン家』だからね」

 

家名の前に付けられた悪意のある単語に「蛮行、の……?」というキリトゥルムラインの呟きと共にその眉が痛みとは違う意味でうねる。

 

「そうさ、この国の初代アインクラッド王が国を統治する時に協力した三家を表す言葉だよ。『陰影のヒースクリフ家』『詭謀のオベイロン家』そして『蛮行のガヤムマイツェン家』。アインクラッド王の為にヒースクリフ家が密かに情報を集め、それを元にオベイロン家が策を練る。それを実行するのがガヤムマイツェン家というわけさ。はるか昔からガヤムマイツェンの人間は頭を使うより力に訴える方が得意だったとみえる。きっと我がオベイロン家が立案した計画がなければなし得なかった成果も、さも自分の手柄のように吹聴していたんだろう。今、まさにアスリューシナを僕からかすめ取ろうとしているようにねっ」

「そんな……」

 

あまりの言いように言葉を詰まらせたアスリューシナの声を聞いたオベイロン侯が再び彼女の瞳を覗き込む。

 

「一般的に国民が認識している初代王妃ティターニアを象徴する色はナッツブラウン色の髪だが、実はもう一つ存在する珍しい色がこの瞳なのさ。覗き込まなければわからない程だからね、気づいている人間が少なかったのか、平民共にまで知れ渡っていないんだ」

 

選ばれた一部の者しか知り得ない情報なのだと言いたげな口調や、表情からは優越意識がひしひしと伝わってきて、けれどそれを受けるアスリューシナには尊敬や羨望とは真逆の感情しか抱けず、むしろ言葉を尽くしてもわかり合える部分など僅かにもないのだと強く認識する。

逆に感情を高ぶらせたままのオベイロン侯は背後で苦痛に顔を歪めている存在など虫けらの扱いで、今度は視線さえ与えずに憐れみの唇を形取った。

 

「だからね、同じ三大侯爵家と呼ばれていても、所詮ガヤムマイツェン侯爵家など今のこの国では平民並みの知識しかないということなんだよ」

 

アスリューシナの持つ『癒やしの力』が自らには使えない事を知らずにいた事実は棚に上げ、自らの存在価値を高める為なら相手をどこまでも蔑む言動に吐き気さえ覚えたアスリューシナが首元の痛みさえ忘れて、つっ、と顔を背けると、その拒絶反応すら彼女の意思をねじ伏せる材料としたいオベイロン侯は場違いなほどに空とぼけた声をわざとらしく吐く。

 

「それにしても馬車は遅いな。待ちくたびれてきた。…………ああ、折角三大侯爵家のひとり、ガヤムマイツェン侯がいるんだ、彼を立ち会いに誓いの口づけだけでも済ませてしまうおうか、アスリューシナ?」

 

こんな状況下で発する内容としは正気さえ疑いそうになる発言に、その意図も心情もおもんばかる余裕すらなく、瞳を大きく見開いてオベイロン侯へと振り向けば、待ってましたとばかりに侯爵の唇がいやらしくうねり、ナイフを持ったままの手がアスリューシナの口に噛ませていた布をはぎ取った。

突然の予測不能な行動にアスリューシナが硬直するとすかさずオベイロン侯の人差し指がふっくらとした彼女の柔らかな唇に押し当てられる。その弾力を味わうように僅かな圧を加えたまま下唇を左から右へなぞられるにつれ、感触を意識したアスリューシナが小刻みに震え始めた。嫌悪しか抱いていない男の指が自分の唇に触れている事実と同時に彼が持つ血塗れた凶器の刃がすぐそこに見えるせいだ。

顔を背ける事すら出来ずに頭の中が真っ白になっているうちに、指の腹だけの接触では終わるはずもなく侯爵自身の顔が迫ってくる。最後の拒絶を表す大粒の涙がアスリューシナの両の瞳から溢れ落ちた時だ、地を這うような低い声が二人の耳に届いた後、ゆらりとひとつの影が立ち上がった。

 

「やめ……ろぉっ」

 

オベイロン侯に切り裂かれた右の上腕部からは未だ紅血が止まる気配もなく流れて出ているせいで貧血気味のひどい顔色を晒しながら、短い息を肩でしているキリトゥルムラインの傷口を押さえていたはず左手は倒れ込みそうな身体のバランスを取るためか、背中に隠れている。腰を上げた為に筋肉と共に腱の切れた右腕は持ち主の意思が伝わらず哀れなほど無力に、ぶらん、と重力に従って揺れ、その揺れに沿うようにポタポタと落ちる血が僅か宙を舞った。

けれどそんな右腕にも、その痛みすらも意識の外に追いやって、最後の力を振り絞るようにキリトゥルムラインの足が床を踏み込み、二人の元へと身体を高速に押し出す。

逆にあとほんの少しでアスリューシナの唇を奪える邪魔をされたオベイロン侯は忌々しげに表情を歪め、それでも彼女の上半身とおとがいを捕らえたまま身体を捻った。

そこに生まれたほんの僅かな空間……アスリューシナとオベイロン侯の間にキリトゥルムラインは左腕を伸ばす。

いや、実際、その空間に割り込んだのはいつの間にかキリトゥルムラインの左手が拾い上げていたオベイロン侯の従者が落とした長剣だった。

煌めく刀身の輝きに瞬時に反応したオベイロン侯が「ひぃっ」と空気を吸い込みながら令嬢を突き放す反動を使って身をかわすが、勢い余ってそのまま無様に尻をつく。咄嗟に身体を支える為、一旦は床に手を着くがすぐさま怒り心頭の形相で「……死ね、小僧ぉぉぉ!」と上体を起き上がらせると同時に右手に持ったナイフの刃先をキリトゥルムラインの心臓めがけ一直線に突き出してきた。

 

「キリトさまっ」

 

オベイロン侯とは反対の方向に突き飛ばされた恰好になったアスリューシナが座り込んだ状態のまま自分に背中を見せて立っているキリトゥルムラインの名を叫ぶ。

ほぼ気力のみで身体を動かしているキリトゥルムラインだったが、その声をしっかりと受けて左手を瞬時に振り上げ、自分に向かってくるナイフを剣で弾き飛ばした。その衝撃でオベイロン侯の身体が大きく仰け反る。その腹部を力いっぱい蹴り込んだキリトゥルムラインは刹那、全身を激高させて容赦なく侯爵のこめかみから両眼に横一線、真っ直ぐに剣先を滑らせた。

 

「ヒィィィッ!!」

 

これ以上ない程オベイロン侯の口が湾曲し、その合間から甲高い悲鳴が吹き上がる。両手で目元を強く押さえ込み、うずくまってカタカタと痛みに震えるその矮小な姿を見下ろしながらキリトゥルムラインは大きく息を吐き出した。

 

「もう二度と、お前の目にアスナの色は映させない」

 

かつて子供だったオベイロン侯がヨフィリスに与えた魂さえも抉るような深傷ではない事実が、キリトゥルムラインの目的が侯爵の視力を奪うことのみであると証明している。痛みの中でもその声が届いたのか、オベイロン侯は両手で覆ったままの顔を持ち上げた。

 

「お前みたいな小僧がこの僕をっ……なぜだっ、利き手は使い物にならなくしたはずなのにっ」

「……オベイロン侯爵家にはそんな事も伝わってないのか?」

 

仕返しとばかりに青ざめた顔色のままキリトゥルムラインの口の片端が不敵に上がった。




お読みいただき、有り難うございました。
やっとアスリューシナからオベイロン侯を引っぺがす事が
出来ました(苦笑)


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51.決着(4)

アスリューシナからオベイロン侯を引き離し、彼の視力を奪った
キリトゥルムラインは左手で剣を扱える理由を問われて……。


揺れる身体を必死に押さえつけてはいるが絶え間なく上下する肩とそれに連動する痛々しいまでの息づかいは隠しようがなかった。もしもアスリューシナが今のキリトゥルムラインを正面から見つめる事が出来たなら、その額に浮かぶいくつもの大粒の汗に驚愕しただろう。

それでもキリトゥルムラインは左手から剣を離さず、目の前の、跪き、呻き声を漏らしながら両手で必死に顔を押さえている侯爵の姿を視界から外せずにいた。

幼少のアスリューシナ誘拐の企てと今回の暴挙を思えば今すぐにでも息の根を止めてやりたい衝動に駆られる。一方ではそんな感情をなんとか抑え侯爵の視力のみを奪う事で収めようとする自分も確かにいて、今はとにかく時間が欲しい、と精一杯の強がりで立ったまま散々浴びせられた蔑みの視線を今度は自らが足元の男に落とした。

 

「ガヤムマイツェン侯爵家の紋章……交差する二本の剣の意味を……ああ、そうか……『詭謀』のオベイロン家は……自身が戦場に出る事は、なかったのかも、しれないな」

 

頭上から降ってくる言葉を、発した者とは違う意味で捉えたオベイロン侯の唇が引きつりながらも笑みに近い角度に上がる。

 

「当たり前だっ……戦場なんて野蛮な場所にっ……このオベイロン家がっ」

「だからだ……人を駒のように扱い、痛みを知らない。結果のみを欲して、そこに辿り着く過程を、顧みない……ヒースクリフ侯爵家にも『陰影』の特質が残っているのか、ちゃんと伝わっている……ガヤムマイツェン侯爵家の当主は代々…………二刀流だ」

「に……刀流…………くそぉっ」

 

右手を封じただけでは完璧ではなかったのだと自らの失態を認めたオベイロン侯が悔しげな言葉を吐いて身体を丸めた。けれど一瞬の後、その縮こまった背中がまるで内側から何かが膨れあがってくるかのように揺れ始める。

 

「ふっ……ふふっ……ふはっ……はははっ……」

 

これまでとは一転してくぐもった笑い声が跳ねる身体と同調して耳に届き、それが間違いなく目の前の男が発している声なのだと認識した時、オベイロン侯は既に血で拭いたような状態の顔面を上げ、血まみれの両手を高々と持ち上げた。

 

「いいさっ、両目の傷など一時の事っ。全てが片付いたら『癒やしの力』で治せばいいのだから。まずは、小僧、お前を侯爵という地位から引きずり下ろしてやるっ」

「なん……だと?」

「お前はこのオベイロン侯爵の顔を切りつけた大罪人だ。そんな奴が貴族でいられるわけがないだろう?。どのみちその右腕ではそう長くも動けまい。僕はもうすぐ到着する馬車でアスリューシナと共に一旦屋敷へ戻って治療を受け、この事実を『法の塔』へ正式に申し立てる事にしよう」

 

自分が犯したアスリューシナやキリトゥルムラインへの殺傷行為は長年培ってきたオベイロン侯爵家得意の『詭謀』でどうとでも出来ると踏んでいるのだろう、再び勝ち誇ったような耳障りな笑い声が部屋を満たそうとした時、真っ直ぐで力強い少女の声がそれをねじ伏せた。

 

「そんなの、このボクが許すはずないだろっ」

 

トンッ、と軽く床を蹴る音とほぼ同時に「ぐゅえ゛っ」とヒキガエルの鳴き声のような濁音が響くと、数メートル先に飛ばされたオベイロン侯の身体は勢い余って床の上を二、三回跳ねてからようやく止まり、ぺらんっ、と伸びたまま完全に動きを止める。

室内に駆け込んでくるなり侯爵ののど元に回し蹴りを入れた時、ふわり、と舞った長いアメジスト・バイオレットの髪が静かに肩に落ち着くと、ユウキはふぅっ、と大げさに息を吐き出した。

 

「あーっ、すっきりした。城で見かける度に喋り方とか態度がムカついてたんだよね、こいつ。でも、いくら超法規的特権があっても気に入らないってだけで叩きのめすわけにもいかないしさ……って、あれ?、キリト?、キリトっ!」

 

ユウキの到着で気が緩んだのか、気力、体力共に限界を超えていたキリトゥルムラインはオベイロン侯が気を失ったのを見届けてから、剣を手放し、自分もガタンッ、と床に両膝を着く。ぶらり、と不自然に揺れる右腕を見てユウキが仰天してるとキリトゥルムラインはそのまま自由に動かない腕をかばうようにして倒れ込んだ。

それまでキリトゥルムラインの背中を見守り続けていたアスリューシナが「いやぁっ」と泣き叫ぶようにして拘束されたままの両手を捩るように動かし、膝頭がすり切れるのも構わずに側へとにじり寄る。

 

「キリトさまっ、キリトさまっ」

「……アスナ……ごめん、遅くなった……」

「いいえっ、いいえっ、キリトさま……私なら、大丈夫です」

 

既にかなりの量を出血している為、朦朧とした意識で見上げたキリトゥルムラインの視界には懸命に涙を堪えて微笑んでいるアスリューシナの顔がボンヤリと映っていた。喉の小さな傷以外は自分が見知っている色白で滑らかな肌の彼女の顔だと思い、安堵で自然と柔らかな口元になる。今夜の花火は見られなかったけれど、次は必ず一緒に、と二人で紡ぐ未来を想像して張り詰めていた神経が緩んだ。

それでも懸命に自分の名を呼ぶその唇は布を噛まされていたせいかいつもより潤いが足りない気がして、手を伸ばそうとするが、そこで右手が動かない事に改めて気づく。けれど彼女を取り戻せたのなら腕の一本くらい……と既に痛みさえ遠くなった感覚と緩慢とした思考がそのまま深く、深く、安息を求めて沈み込み、アスリューシナの顔が黒い霞に覆われようとすると、そこに産まれたばかりのような小さくて温かな声がして聴覚だけがかろうじてそれを拾った。

 

「今度は、私が守りますね」

 

頭の中の一番隅っこの部分では、その声の意味を理解した気がする。そして、それに抗い、すぐに拒否を、拒絶を伝えなければいけない事もわかってはいたのだ。しかし無情にもキリトゥルムラインの瞼はゆるやかに閉じ合わさり、「ダメだ、アスナ」と呟いたはずの声は相手に届くことなく、細い息となって唇の隙間から這い出ただけだった。

 

 

 

 

 

「キリト……キリトっ……いつまで寝てる気?……」

 

不機嫌なユウキの声が頭上から降ってくる。ここがどこで、なぜ自分は寝ているのか……と、目を閉じたまま記憶を辿ろうとしたが、そんな事より胸の上に感じる暖かくて甘い香りのする存在の重みに無意識に唇の両端が上がった。

途端に「パンッ」と小気味よい音がして緩んだ頬に痛みが走る。その衝撃で瞬時に目が覚め、意識を取り戻せば、目の前には明らかにキリトゥルムラインの頬をはたいたと思われる角度の手をそのままにしたユウキが、にかッ、と笑って「もう二、三発、必要?」と問いかけてきた。

秒速で返答しなければ、すぐ近くに待機している少女の手の甲が再び自分の頬を殴打する事は間違いなく……しかも今度は往復の軌道を描く事も火を見るより明らかで、キリトゥルムラインは思わず言葉より先に首を勢いよく左右に振った。すぐに、くらり、と目が回る。

その姿をしゃがみ込んだ体勢で見下ろしていたユウキはキリトゥルムラインの頬をはたく必要がなくなった手の平をそのまま侯爵の目の前にかざして「急に動かない方がいいよ」と動きを制した。

 

「切られた腕は治ってるけど、流れ出た血までは戻ってないから」

 

腕が治ってる……その意味を問う言葉は短い一言で十分だった。

 

「アスナ、か?」

「そ。……そんな目で睨まないでよ。初対面のボクに彼女を止められるわけないだろ?」

 

軽く肩をすくめる仕草さえ苛立ちの原因となるのか、ユウキを睨んだままのキリトゥルムラインは一旦、瞳を閉じて深く息を吐き出す。

 

「悪い、ユウキに腹を立てたわけじゃないんだ」

 

キリトゥルムラインもわかっていた。単純に『癒やしの力』を使わせないだけなら、この国の最強騎士であるユウキがアスリューシナの身体をキリトゥルムラインから引き離せばいいだけの話で、数多の傷を負い両手を縛られている令嬢の抵抗など無いに等しいだろう。

抑も、腱の切れた片腕などさっさと見捨てて斬り落とし、止血して命を繋ぎ止めるのが定石なのだ。二刀流は使えなくなるが、もう片方の腕が残っていれば不便ながらも日常生活は送れるはずである。

それでもアスリューシナが痛みの除去と傷口の閉塞だけに留まらず腕の完全治癒をやり遂げたのは……意識が遠のく寸前、アスリューシナが口にした「守る」の意味にキリトゥルムラインは苦しげな表情の中に泣き出しそうな笑みを浮かべた。

 

「覚えていて……くれたのか?……」

 

ルーリッド伯爵家での夜会から戻る馬車の中で彼女にだけ告げた本心を……『侯爵か騎士か、どっちでも好きな方を選んでいいなら、迷わず騎士を選ぶだろうな』……きっと素直なアスリューシナはこう考えたのだろう、剣を振るう事が騎士としての誇りなのだから右腕を治さなければ、と。




お読みいただき、有り難うございました。
「あーっ、すっきりした」は私も同意です(苦笑)
喋り方さえ気に入らなかったようですから、あわよくば「喉が潰れちゃっても
いいよね?」くらいの勢いで蹴りを決めたのではないかと……。


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52.決着(5)

オベイロン侯爵からアスリューシナを取り戻したキリトゥルムラインだったが、
侯爵に負わされた自身のケガを治癒する為、アスリューシナが「癒やしの力」を使ってしまう。
かつて自分が告げた本心が理由のひとつだと気づいたキリトゥルムラインは……。


騎士としての尊厳を守ってくれたのだと悟り、キリトゥルムラインは小さく祈るように「アスナ……」と呟いた。そしてこれ以上行き着く先のない感情を巡らせていても無駄と潔くそれを飲み込み、横になったままやるべき事に考えを集中させる。

 

「ユウキ、現状は?、これからオレはどうすればいい?」

 

この家に侵入してアスリューシナの呻き声を敏感に聞き取るなり目的の部屋の扉を蹴破ったキリトゥルムラインは、オベイロン候との決着が着いた後、失神していた事もあってどの程度時間が経過しているのか、周辺がどうなっているのかさえ把握できていない。年下の少女ではあるが、彼女の剣技をその身で受けた経験からそれで信頼に値するか否かは判断できるし、更に『癒やしの力』を知っている彼女ならば最善を示唆してくれるだろう、と素直に指示を求めた。

端的な問いにのんびりしている場合ではない事は認識したのだと、キリトゥルムラインの頭の切り替えに満足したユウキはすぐに返答を口にする。

 

「あの侯爵が言っていた馬車は既に騎士団が取り押さえてるはずだよ。ここの見張りの連中と遊び終わった時、ちょうど第四騎士団の団長さんが自分の騎士団員をかき集めて到着してね。市場から逆走するボク達の目撃者を辿ってやってきたんだって。そこに悪趣味丸出しのゴテゴテした護衛隊と馬車が来たから、そっちは団長さん達に任せてボクはこっちに来たんだ。キリトはアスナと一緒にその馬車を使ってここを出なよ。君達二人が仲良くおねんねしている間に奥の部屋に縛られてたアスナんトコの護衛さんは解放したから、御者は彼女にお願いしてさ」

 

ユウキが話し終わるのを待っていたかのタイミングで室外の廊下からキリトゥルムライン達の元へと駆け寄ってくる足音が響いた。

 

「気がつかれましたか、侯爵様」

「キズメルか」

 

考えた上での行動ではなかったが、胸の上に乗っているアスリューシナを引き寄せるように左手が動く。実際には彼女を動かせる程、力は入らなかったが、まるで取られまいとするかのような仕草に視界に入ってこないキズメルが、ふっ、と軽く困り笑いに近い息を吐いたのがわかった。

 

「お気持ちは拝察しますがそのお身体では無理かと。私が羽織っていたマントを見つけてきましたので、これでアスリューシナ様を包み、馬車までお運びします。侯爵様は……」

 

戸惑いを見せたキズメルの気配にすぐさま対応したのはユウキの声だ。

 

「ボクひとりじゃ無理そうだからこの家の前庭で待機してもらってる騎士団長さんを呼んでくるよ。その間に君はアスナの色と腕や足の傷がバレないように包んでおいて。外に出ちゃえばこの暗闇だから気づかれないと思うけど……とにかく急ごう」

 

言うが早いかユウキの軽い靴音がすぐに小さくなっていく。けれどキリトゥルムラインはその音を聞き終わる前に「キズメル」と弱い声を発した。

 

「すまない……アスナに、力を……『癒やしの力』を使わせてしまった」

 

そっと主を持ち上げ己に寄りかからせながら丁寧な手つきでアスリューシナをマントで包んでいたキズメル手が止まる。けれどそれは瞬きをする間で、公爵令嬢の専任護衛はすぐに手の動きを再開させながらその詫言をハッキリとした口調で否定した。

 

「謝罪の必要はありません……サタラが言っていました。侯爵様がアスリューシナ様が持つ希有な力の存在を知る日は近いでしょう、と。ならば、ご存じのはずでは?、侯爵様…………うちのお嬢様は意外と頑固なのです。華奢なお身体で儚げなご容姿ですが芯は強くて真っ直ぐなのでご自分が力をお使いになると決めたら誰にも止められません。それがこの国の三大侯爵様でも、です」

 

生真面目なキズメルらしく言い方はあくまでも丁寧で真剣なのだが、内容はまるでアスリューシナの姉のごとく困った妹を評した言葉だった。それがキリトゥルムラインを気遣っての事であり、同時に彼女の本心である事も間違いなく、アスリューシナらしさを思い出したキリトゥルムラインは僅かに微笑む。そうしてキズメルが自分の主をマントで頭からすっぽりと覆い終わった時、ユウキがユージオを連れて戻って来た。

 

「キリトっ」

 

心配そうに覗き込んでくる第四騎士団団長に向け、キリトゥルムラインは安心させるように小さく頷く。

 

「大丈夫だ……それより、申請は通せたか?」

「ああ、今、近衛騎士団の団長は公務で動いている」

「有り難う、助かったよ」

「それよりユークリネ公爵令嬢様が気を失っていると聞いたけど……」

 

そこでようやくキズメルの腕の中にいるマントに包まれた人物に気づいたらしいユージオが視線を止めた。今のアスリューシナの状態にあまり興味を持って欲しくないキリトゥルムラインは鉛のように重い手を持ち上げてユージオの腕を掴む。

 

「ユージオ、彼女を一刻も早く屋敷に戻したい」

「それはキリトも一緒に、ってことだよね」

 

血の気の失われた顔色に加え腕一本動かすのもやっとの状態のまま、この場で事情を聞き出すわけにもいかないだろう、と判断したユージオはキリトゥルムラインに掴まれている手を逆に握った。

 

「ほら、立てるかい?、キリト……」

 

ユージオがキリトゥルムラインの両手を引き上げ、背後に回ったユウキがその背中を押し上げる。ようやくキリトゥルムラインが立ち上がるとそれを見守っていキズメルがアスリューシナを横抱きにしたまま、自分も腰を上げた。出来ることならその役目を代わりたい、と視線で訴えてみるがキズメルはあえて気づかないふりをし、ユージオに肩を借りてもふらつきながら歩くキリトゥルムラインの後ろにつく。

タタンッと先頭に躍り出たユウキが既にキリトゥルムラインによって破壊された扉をくぐり、くるり、と廊下でステップを踏みながら振り返った。

 

「じゃ、ここの後始末は第四騎士団の団長さんとやっとくから、キリト、ボクとの約束、忘れないでよね」

 

念を押すような少し強い口調にキリトゥルムラインは正真正銘、血の巡りの悪い真っ最中の頭を働かせ必死で記憶の引き出しを引っかき回す。

 

「あー……、あっ、もちろん。オレとの手合わせだろ。ちゃんと覚えてる」

「……もうひとつの方は?」

「へ?…………えぇっと……ああっ、今度アスナをユウキに紹介するって話だよな。オレの一存では無理だけど、わかってる。善処するよ」

「えーっ、善処じゃダメだよ。絶対紹介してくれなきゃ。じゃなきゃ、ボク、勝手に公爵家に乗り込むからねっ」

 

ユウキの発言を聞いて目を白黒させたのはキリトゥルムラインだけではなかった。三大侯爵家当主の一人が深夜、勝手知ったるとばかりに得意気な顔で国内随一の美姫と内心でこっそり確信している主家の令嬢の私室を訪れているという事実だけでも頭が痛いというのに、これ以上好き勝手に突撃訪問してくる客人を増やすわけにはいかない、とキズメルが腕に抱いている人物の重さなど感じさせない動きでキリトゥルムラインの横に並び立ち頭を垂れる。

 

「僭越ですが……公爵家の一介の使用人である私の口約束など信用してはいただけないかもしれませんが、我が主、ユークリネ公爵令嬢様は今回の事件でご尽力いただいた方に礼を欠くようなお心の持ち主ではございません。体調を整えるのにお時間をいただきますが、必ずや公爵家にお招きすると我が剣にかけてお約束いたします」

「やったー、有り難う、護衛さん。うん、こっちの護衛さんの方がよっぽどキリトより頼りになるなぁ」

 

満面の笑みを浮かべているユウキとは対照的に思いっきりしかめっ面になったキリトはぽそり、と隣のキズメルに囁く。

 

「その時は絶対オレも同席する」

 

キリトゥルムラインに肩を貸しているユージオだけが全てのやりとりを聞いて、ひとり眉尻を落とし、困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。

 

 

 

 

 

何の特徴もない一軒家の前に目を疑うほど豪華に全面を飾り立てられた馬車が一台停まっている。その外装を初めて見たキリトゥルムラインとキズメルは一瞬、歩みを止め、自分の感性とは全く相容れない華美な装飾の馬車に乗車する者とその馬車の御者を務める者として諦めに近い溜め息を吐いた。

外で待機していた第四騎士団の団員達はフルメンバーではないものの、人数の少なさを感じさせない働きでユウキの遊び相手を務めた男達とオベイロン候の護衛隊員達を拘束している。キリトゥルムラインと共に家から出てきたユージオが駆け寄ってきた部下の一人に短く指示を出せば、数人がキズメルと入れ替わるように屋内に入っていった。その際、キズメルが抱えている物体にはちらり、とも目線や興味を向けない姿勢はさすが、と言うべきだろう。

騎士団員達の統制の取れた動きに安堵したキリトゥルムラインはそのままユージオの助けを借りて馬車に乗り込みアスリューシナを待つ。正直、身体を起こして座っているのも辛く、気を緩めればズルズルと背面を扇状にこすって横に倒れてしまいそうになるがキズメルが御者を務めるとなれば馬車の中でアスリューシナを支える者が必要だし…………と言うのは表向きの言い訳で、その実、単純に、純粋に、本能でアスリューシナに触れたかっただけだ。

ユークリネ公爵家でアスリューシナが自分の名を騙る者に連れ出されたと知った時、監禁されていた部屋に押し入り彼女の姿を見た時も、オベイロン侯が彼女の唇に触れようとした時だってどうしようもない強い焦燥感が全身を駆け巡った。

彼女のそばにいたい、彼女にそばにいて欲しい、それが許される為なら何だってする。腕の一本くらい本当にあの時はどうでもよかったのだ。それでまた彼女が自分の隣で笑ってくれるのなら……けれど冷静になった今ならわかる、自分を救出するためにキリトゥルムラインが腕を失ったとあれば、アスリューシナは今後心からの笑顔を彼に見せることはないだろうと。

ユークリネ公爵をはじめとするアスリューシナの家族を含め、彼女を慕う屋敷の者達への謝罪はいくらでもするつもりだが、彼女が目覚めた時は「ごめん」ではなく「ありがとう」と告げるのだと心に決め、キリトゥルムラインは大きく息を吸い込んだ。




お読みいただき、有り難うございました。
ご本家(原作)様では交じることのないキャラ達が混在してますね(苦笑)
ユウキは自分で提案しておきながら「うっわ、あんな恥ずかしい馬車に
乗るの?」とか言っていそうです。
装飾がこれでもかっ、てほど盛ってあって、きっと紋章も見分けがつかない
くらいデコってるんでしょうねぇ……神経の図太い人でないと御者は無理かな。


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53.決着(6)

屋敷へ戻る為に先に馬車に乗ってアスリューシナを待つ
キリトゥルムラインでしたが……。


アスリューシナが運び込まれるのを待っているキリトゥルムラインの耳に馬車のすぐ側からユウキとユージオの会話が途切れ途切れに聞こえてくる。どうやらアスリューシナが監禁されていた部屋で気を失っているオベイロン侯爵とその従者の身柄も拘束した旨の報告を受けて、今後の対応を相談しているようだ。

けれどその声のすぐ隣をキズメルが「失礼いたします」と通り抜け、馬車の踏み台に足をかける。アスリューシナの身を車内の座席に横たえる為、一旦馬車内に入ってくるのだろうと思っていたキリトゥルムラインだったが今度はユウキの声だけがやけに大きく「ちょっと待って」と耳に飛び込んできた。

 

「ちょっとだけ」

 

中途半端な恰好で動きを止められたキズメルは、それでも今回の事件の恩人に対しては明かに年下ではあるものの不敬な態度を取ることはなく、持ち上げた足を再び地に下ろす。その行為にユウキは「ごめんね」と小さく謝ると、ちょうどアスリューシナのおでこあたりと思われる部分をマントの上からそっと撫でた。

 

「まったく、君は……こんなボロボロなのに一瞬の躊躇いもなく力を使ったんだろうね。そんなとこ、まるでティターニアみたいだ」

 

きっとユウキが口にしている言葉の意味を本当に理解できる人間はここには一人もいない。けれどユウキは構わずに、独り言のような台詞を紡いだ後、ゆっくりと顔を動かし、キズメルを見上げた。

 

「十四年前、僕達は間に合わなかった……。ロイヤルナッツブラウンの子供がいるって耳にして、すぐに王族の血を引く家系をしらみつぶしに調べて……その途中だったんだ、彼女が攫われたのは…………今度は、ボク、間に合ったかな?」

 

いつものユウキらしい自信に満ちた笑顔はすっかり影を潜めていて、まるでかつての誘拐事件は自分にも責任の一端があるのだと言いたげに純度の高いルビー色の瞳が不安で波打っている。常識で考えればアスリューシナが攫われた十四年前、目の前の少女たる風貌のユウキは一体何歳だったのだ?、と不可解に思ったキズメルだったが、それでもユウキが巫山戯てなどいないのは十分に伝わったのでここは専任護衛としての言葉を選んだ。

 

「……この方は公爵家の方々にとってもそこで働く者達にとっても大事な存在なのです。再び、その御身がこの地から離れてしまうのでは、と生きた心地がしませんでした」

 

自然とアスリューシナを抱く手に力が籠もり、マントに阻まれているとはいえキズメルは意識を手放している主人に苦痛と安堵を混ぜ合わせた視線を落とした。けれどすぐに見つめる対象者を変えて固かった表情の唇の両端をゆっくりと上げる。更にいつもの鋭い眼光は緩く優しげな光となってユウキを照らした。

 

「アスリューシナ様をお助けくださり、本当に有り難うございました」

 

そこに喉に何かを詰まらせたような、げふっ、とも、ごふっ、ともつかない、かなりわざとらしい咳払いが数回、馬車の中から聞こえて、入り口で向かい合っていた二人が不思議そうに顔を向けると車内の暗闇から薄ぼんやりと見分けがつく距離までキリトゥルムラインが顔を出してくる。

 

「もういいか?」

 

血の気のない顔は明らかに身体の不調を訴えているが、存外にもその表情は苦しげ、と言うよりむしろ申し訳なさそうに眉はハの字を描いていたので、二人の会話を遮った負い目か、はたまたいつまで待っても公爵令嬢が運び込まれないじれったさからなのか、とキズメルは判断を迷いながら、それでも待たせていたのは事実なので「申し訳ありません」と謝罪をしてユウキに一礼を捧げ、今度こそアスリューシナを抱いたまま馬車に乗り込んだ。

なるべく振動を与えぬように空いている片側の座面に主人を下ろそうとすれば、いつの間にか車内の際奥まで移動していたキリトゥルムラインが「キズメル」と背後から声をかけ、その動きを止めさせる。嫌な予感はしたものの、未だ主人を抱いたまま振り返ると、そこには当然のように両腕を広げている侯爵がいた。

 

「ですが……」

 

すぐにキズメルの頭の中では侯爵の要請を拒む理由が幾つかは浮かんだものの、多分、それら全てを口にしてもこの方が引く事はないだろう、と続くはずの言葉を全て飲み込み、代わりに一拍おいてから「お願い、致します」と厳かな声と共にキリトゥルムラインに自分の大切な主の身を託すべく彼の膝にアスリューシナの頭が乗るよう横たえる。そして車内の床に片膝をついたままキズメルは深々と頭を下げた。

 

「ガヤムマイツェン侯爵様、アスリューシナ様を救っていただき、本当に……本当に有り難うございました。心から感謝いたします。今回の失態で私は専任護衛の任を解かれるでしょう。これが最後の機会かと思いますので、このような場所で勝手に口を開きました無礼をお許し下さい」

「キズメルは……真面目だな」

 

思いも寄らない返事に思わずキズメルが顔を上げる。するとそこには暗い車内で目が慣れてきたお陰で、ハッキリとわかるほど愛しさに目を細めているキリトゥルムラインがいた。しかしその視線はキズメルに落とされたものではない。自分の膝の上に乗せられてすぐ、思うように動かせない腕のせいで気ばかりが急いていたが、ようやく包んでいるマントを剥ぎ、現れ出たアスリューシナの青白い面立ちに注がれているのだ。

通常よりも力の入らない状態だが、それでも彼女の頭部と肩を離すまいと言わんばかりに出来る限りの力で抱き寄せている。

何の感情も読み取れない寝顔を見守りながらキリトゥルムラインは声だけをキズメルに向けた。

 

「だいたいそんな事、アスナが望むはずも許すはずもないだろ。キズメルの主人はびっくりするくらい優しくて頑固者だし。今回の件を失態とみなされ、ユークリネ公爵から何らかの処分を受けるとなれば、サタラだって、もしかしたら、あの公爵家の家令だって自ら同様の処分を請うくらいの勢いで猛省してたぞ。そうなればアスナの守りは穴だらけになる。それはオレとしても避けたいしな。それどころか、きっとアスナはキズメルが十四年前のお父上のようなケガを負っていない事を喜ぶと思うけど……」

「……侯爵様」

「それに……」

 

少し言いよどんでから、こそり、と盗み見るようにキリトゥルムラインの瞳だけがキズメルの反応を覗う為に動く。

 

「そう遠くない未来にキズメルはアスナの護衛から外れる事になる……と思う」

 

今回の件での処分としては護衛解雇について否定の言を述べてくれたキリトゥルムラインの口から同義の言葉を聞き、驚きで声すら出ないキズメルは目を大きく見開いたままその理由を全身で問いかけた。

 

「キズメル、さっきユウキに言ってたよな、アスナが公爵家から離れてしまう事を恐れてたって」

「……はい」

 

かろうじて肯定の意を伝える二文字は口から出たが、キリトゥルムラインの言わんとする事がわからず、先を急かすように身を乗り出す。

 

「でも、それが……アスナが願う結果だとしたら……受け入れてくれるか?」

「アスリューシナ様の願い?」

「そう……いや、違うな。アスナとオレの願い……かな。もちろんアスナは中央市場にだって行きたいだろうから基本、王都の屋敷で過ごす事になると思うけど、領地にも一緒に行く約束をしてるし……」

「ご領地……どなたのですか?」

 

思考の働きが一気に錆び付いてしまったようでキリトゥルムラインの発言の内容が全く理解できずにいるキズメルは「領地」と聞いて、我がユークリネ公爵家に「領地」はございませんが、と単純な問いを口にした。

 

「こんな所でまさかのアスナと同じ反応なのか?。言っとくけど領地には遊びに来いって約束じゃないからな」

「とおっしゃいますと……ガヤムマイツェン侯爵家のご領地に、侯爵様とアスリューシナ様がいらっしゃるというお話なのですね」

「ついでに確認の為に言うとアスナが過ごす王都の屋敷はユークリネ公爵家じゃなくて、オレんとこの屋敷だから」

「侯爵様のお屋敷にユークリネ公爵令嬢様をご招待下さる……」

「んじゃなくて……それなら普通にキズメルが護衛で付いてくればいいだろ」

「……だとしますと?」

 

……サタラはすぐにわかってくれたんだけどな、と言う小さな呟きは無視して、いやもう、ここまでくると目の前の青年が自分の大切な主人について語っている事を理解したい一心で身分差さえも無視で更にずずいっ、と身を寄せる。その一種心理的圧迫感すら与える切羽詰まったキズメルの顔が迫ってきて、キリトゥルムラインは予想外の場所での緊張を強いられた。

 

「要するに、だ……アスナが、だな……オレの屋敷で……公爵令嬢ではなく…………侯爵夫人として過ごすってゆー」

「令嬢、ではなく…………夫人、として?」

 

ポカン、と言う表現がこれほど的を射ている言葉なのか、と納得できる経験もそうはないだろうな、と思わせるほど、普段のキズメルからは想像も出来ない放心状態の顔に、うっすらと頬を染めたままのキリトゥルムラインは、忍び込むような小声で「キズメル?」と様子を覗う。

己の名を聞いて自分を取り戻したキズメルは、パチパチッと瞬きを数回繰り返すと、サッ、と前進した分、素早く身を引き、深く、深く頭を下げた。

 

「ガヤムマイツェン侯爵様、先程、受け入れてくれるか?、とお尋ねになりましたが……」

「あ……ああ」

「私は……アスリューシナ様がご自身の素直なお気持ちのまま笑顔で屋敷を出られるのでしたら、こんな嬉しい事はないのです。私は専任護衛の任を全う出来たのだと父に胸を張れるでしょう」

「……なら?」

「はい、ユークリネ公爵家から侯爵様の元へとアスリューシナ様を送り出すその日まで、我が公爵様がお許し下さるのでしたら、誠心誠意、最後まで護衛役を務めたいと思います」

「頼むよ、キズメル」

 

頭を低くしたままのキズメルが見る事は叶わなかったが、そこには願う未来にまた一歩近づけたのだと確信する喜色の黒い瞳があった。




お読みいただき、有り難うございました。
はい、今回の誘拐事件、キリトが頼まなくても、どこかの段階で
ユウキは関与してきたでしょう。
それが彼女の意思でもあり、約束でもありますから。
そしてキズメル……鋭く察する事が出来るのは敵の気配とかで、全く
鈍感な分野もあるようです。


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54.決着(7)

キリトゥルムライン、アスリューシナ、キズメルの三人は
先に馬車で事件現場から離れ、残された者達は……。


キリトゥルムラインとアスリューシナを乗せた派手馬車を見送ったユウキに「じゃ、ボク達は後片付けだね」と、まるでお茶会か何か少人数の楽しい集まりがお開きになった様な言葉を掛けられたユージオは彼女の隣でほんの少し表情を柔らかくした。

もちろんユージオが「お茶会」で思い浮かべるのは警護対象者である王女や自分の母が取り仕切る催しで、王女の茶会は当然彼女のすぐ後方に控える為、席に着座する事もなければお茶を啜る事もない。

母の茶会に呼び出された時は少し複雑だ。ユージオに同席を促した時、母が招くのは社交界でも若く独身の淑女達ばかりで、そのただ中に唯一の男性として出席する身をとしては彼女達全員に過不足亡く配慮しながら薔薇茶を飲み、母の相手もするという修練に近い時間を過ごさねばならない。

だから母からの茶会の誘いには出来るだけ断りの返事を入れているのだが、さすがに二度、三度とつれない態度を示していると奥の手とばかりに父が腰を上げてくる。多分、母が泣きつくのだ。可愛い三男坊が母親の願いを蔑ろにしているとか、ユージオにしてみれば首を傾げるしかない言いがかりをつけ、公爵である夫が自分には滅法甘い事を熟知している母の最終手段である。

ユージオの父と母は互いに幼い頃から家同士で交流のあった、所謂幼馴染みだ。

とは言え上の二人の兄達から聞いた話では、母の実家の爵位がさほど高くなかった為、二人を夫婦に、とは双方の家も考えてはいなかったそうだ。そして十代の頃の母は「社交界の薔薇」と呼ばれるほど艶やかで煌びやかな令嬢だったらしい。ただ、その二つ名には母の美しさを表すと同時に裏では薔薇特有の棘を示す名でもあった。

要するに下級貴族だから、と母に対し傲慢な態度で言い寄った男性貴族達はまさに「棘で痛い目にあう」の如く容赦ない返り討ちにあっていたのである。そして、その棘に刺されない唯一の男性が現在のルーリッド伯爵だったわけだ。

青薔薇伯爵家の子息だけあって薔薇の扱いを熟知していたからなのか、母が父にだけは棘を出さなかったのか、真相は誰も語らない。

とにかく、結婚をした後、伯爵夫妻となり三人の子をもうけ、その息子達が自立した今でも時間を合わせては本邸の薔薇園を眺めながら二人で楽しそうにお喋りをしている両親で……そして、その時ばかりは厳めしい父の眉毛がこれでもか、と下がっているのである。

今だに一輪でも鮮やかに咲き誇り、凛とした存在感と優美な芳香で父を魅了し続けている「麗しきルーリッド伯爵家の薔薇」は健在だ。

そうしてユージオも父から要請がかかれば母の願いを断ることなど出来るはずもなく、渋々茶会ギリギリの時間に実家である公爵邸に戻り、茶会なのだから、と開き直って菓子を口に運び、ティーカップのお茶の味を堪能していると第四騎士団団長の背後に音も無く忍び寄ってきた公爵夫人は低い声を震わせる。

「お茶なんて飲んでいる場合ではないでしょう」と…………母上、僕は茶会に呼ばれたのですよね?、と言い返したいのをぐっ、と堪え、ついでに今日の半休許可を貰うため、王城の彼女の私室で「実家に呼び出されたので半日、お側を離れます」と告げた時にジトッとした目で見られたやるせなさを思い出し、それもごくっ、と薔薇茶と一緒に飲み込む。

結局、茶会では埒が明かないと大々的な夜会まで催されたわけだが…………ユージオがいずれかの令嬢を選ぶわけもなく、それどころか主催者の伯爵がとある公爵令嬢をいたく気に入ってしまい、口約束とは言え本邸にまで招待してしまったのは大誤算だったわけだけど、とそこまでを思い出したユージオは「ああ」と内で納得の頷きを繰り返した。

さっき馬車内でユークリネ公爵令嬢様を自らの膝の上に抱き寄せた親友の顔は…………本園の薔薇を眺めているはずなのに、その実、隣に座っている母にずっと優しい眼差しを注ぎ続けている自分の父と同じだったのだ。

あの目をする男は何があってもその目に映す人物を変える事はないし、あの目に映る者はその視線から溢れんばかりの愛情を受け取る覚悟をしっかりと持っている人物であるとユージオは生まれた時から知っている。自分も早くそんな視線を素直に彼女に注げるよう、あちらこちらへ動かなければならないな、と決意を新たにし、アメジスト・バイオレットの髪を揺らして先を歩き始めた彼女に追いつくため早足で駆け寄りながら「近衛騎士団長殿、中央市場で買える建国祭のお土産で何かオススメはありますか?」と声をかけた。

 

 

 

 

 

既に扉は蹴破られ、室内の壁には所々に飛び散った血痕が付着し、床には未だ乾ききっていない血だまりさえ点在している惨状と評して差し支えない状態の空間中央に二人の男がいた。ユージオがユウキに呼ばれ、初めてこの部屋に入った時は椅子や血塗られたナイフ、剣などが無造作に床に転がっていたが、ユージオの部下が回収したのだろう、今は倒れていた椅子も部屋の出入り口のすぐ横に普通の状態で置かれ、その上に証拠品となる刃物の他、数本の紐布等がまとめられている。

ユウキは部屋に入るとすぐその椅子の前に立ち鞘に収まっている一本の剣を手に取って眺めていた。その後ろ姿を黙って見ていたユージオだったが、彼女の向こうに見える紐布にも血の染みが付いている事に気づき、その血が誰のものなのかが容易に想像出来てあからさまに嫌悪の表情を浮かべる。夜会の際にあまりジロジロと観察したつもりはなかったが、リンゴジュースの入ったゴブレットを持つ公爵令嬢の手はとても白くて細かった。いくら布製とは言え血染みを作るほどなのだ、友の腕の中で気を失ったまま馬車に揺られている令嬢の肌には痛々しい傷跡がついてしまっているのだろう。

そんな見るだけで胸の痛みを覚える証拠品があると言うのに、それらを『法の塔』へ持って行き、事の次第を報告しても、この国の三大侯爵家当主に厳罰が下ることはないのだ。下手をしたらこちらの虚偽が疑われる事態にもなりかねない。それほど建国当初から続いている三大侯爵家の権力は強大だった。

今回は同じ三大侯爵家であるガヤムマイツェン侯爵も当事者であるから一方的な判断は下されないはずだが、それでもキリトゥルムラインが言ったとおり、オベイロン侯ならばそう時間を要せずとも再び公爵令嬢の前に姿を現す事が可能な程度の軽い咎しか受けないに違いない。

そんな理不尽さと己の無力さにギッ、と両手の爪が握り込んだ手の平に食い込む。

と同時にユージオは中央の床にいる二人の内、あぐらをかいて座っている男を睨み付けた。

彼の隣にいるのは服装からして従者らしく、未だ気絶した状態で手足を縛られ目と口をそれぞれ布で括られたまま横たわっているが、ユージオが視線をそらせずにいる男はしっかりと意識を保っており、従者と違い一目で最高級とわかる生地に先刻見送った馬車を思わせる装飾品を散らした衣服を身につけていた。身体のどこも拘束されてはおらず、こちらは医療行為として目元をきつく布で幾重にも覆われただけのオベイロン侯はしきりと音のする方向に反応して神経質な動きをしている。こんな状況になっても反省や後悔などは微塵もないのだろう、室内に控えている第四騎士団の騎士達に噛みついても無駄な事は既に知っているようで、新たな二組の足音が目の前で止まるやいなや歪に口の端を捻り上げた。

 

「今度は誰がやってきたんだ?、話の分かる者かい?、この僕が誰なのか知っているんだろうな?」

「……オベイロン侯」

「ああっ、ようやくまともな人間が来たらしい。いつまで僕をこんな床の上に座らせておくつもりなんだ。さあ、早く医者を呼ぶか、屋敷まで送り届けてくれ」

 

侯爵名を漏らしたユージオの声を自分への返答と勘違いしたのか、どこまでも他者を見下した下命口調を投げつけられ、部下からでさえ平時は優しく温厚と評判の第四騎士団団長の表情も苦々しいものに変わる。けれど場の空気を感じ取ることなくオベイロン侯は更に喋り続けた。

 

「そうだ、僕の花嫁はどこだ?、ちゃんと両の手を縛っておいたはずなんだ。くそっ、こんな目では不自由で……」

 

両目の傷の痛覚さえ段々と高ぶっていく精神に凌駕されているのか、興奮と苛立ちを混ぜ合わせた耳障りな声が発した言葉の意味を捉えた瞬間、ユージオのクロムグリーンの瞳がボワッと燃え上がる。

 

「ぁがっ!」

 

ユージオが一歩を踏み出す前に、先刻から開きっぱなしだったオベイロン侯の口内へユウキが剣を鞘のまま突き刺した。

 

「うるさいな。少し静かにしてよ。それともこのまま先端を押し込んで喉を潰してあげようか?」

 

どうやら少女の声に聞き覚えがあったらしい……冷ややかなユウキの言葉と共に腹部への痛みを思い出したのか、一層激高するかと思われたユージオの予想に反して威勢の良かったオベイロン侯の両肩が項垂れる。その反応にひとつ頷いたユウキだったが、独り言のように小さく「ボクはそれでもいいんだけどなぁ」と言ったのが聞こえたらしく侯爵は慌てて身体を逸らせ己の口から唾と一緒に鞘を吐き出した。再び口を開けば問答無用で一直線に喉までを貫かれると警戒しているのだろう、屈辱のせいか顔を赤らめ小刻みに震えてはいるが今度は逆に「話せ」と言われても拒絶するつもりなのか唇を強く引き結んでいる。

室内が静寂になったところでユウキは改めてオベイロン侯の正面に立つと左手で鞘を目線の高さに水平に持ち、ゆっくりと右手で柄を握って剣を引き抜いた。

チラリと鞘の先に目をやって「汚れちゃったけど、ボクの剣じゃないし、いいや」と言って床に放る。

真っ直ぐに剣先を落としオベイロン侯の頭のすぐ上にかざすと、隣にいるユージオにニコリ、と笑った。

 

「見届け人になってよ」

 

初めて近衛騎士団の超法規的特権行使の場に立ち会うユージオは自分よりも小柄な少女の笑顔の奥に潜む威圧感に自然とその場で膝を折る。今から少女が口にする言葉は王の言葉と同義であり、その行為もまた王の代行なのだ。

ユージオが片膝を床に着いた事で室内にいた騎士団員達もそれに倣う。場が整った事を認めてユウキが徐に唇を動かした。

 

「アインクラッド国王の名の下に言い渡す。オベイロン侯、君の爵位は剥奪、次の当主が決まるまで爵位と領地は国王預かりとする。君の処遇は生涯、視力を失ったままでの幽閉だ」

 

いきなりの裁断を聞いてビクリと肩を揺らしたオベイロン侯が咄嗟にユウキに向かい顔を上げる。何が行われたかも理解できなかっただろう。見えずとも目の前にいる少女がこの国の王の名で三大侯爵家当主である自分に罪人の烙印を押したのだ。おふざけでもあり得ない事だった。納得など到底できるはずもない。

布で覆われていない部分のオベイロン侯の顔の皮膚全てが沸騰して真っ赤になっていた。

 

「ばかなっ!!」

 

堪らずに立ち上がろうと腰を浮かせたせいで、すぐ頭上にあった剣の刃が頭頂部に当たる。柄を握る手に伝わってきたその感触にユウキは笑みを深めた。

 

「ああ、それよりも、今、この場で頭から真っ二つに切り割って欲しいのかな?」

 

楽しげな口調とは裏腹にそれが冗談ではない事がいつの間にか部屋を満たしているユウキの怒気で伝わったのか、実際に頭に触れている剣刃で実感したのか、オベイロン侯は一気に顔色をなくしてへなへなと床に座りこんだ。その哀れな姿を見下ろしてユウキはさっきよりも細く薄い声で心を吐露する。

 

「私利私欲で彼女に手を出そうなんて、なんて愚かなんだろうね君は……建国当初のオベイロン侯はとても賢い人だったのに……」

 

固く冷たい声だったが、最後だけはほんの少し柔らかみを帯びていた。けれど一瞬で表情を切り替えたユウキは抜け殻のようになってしまったオベイロン侯を一瞥して怒気を霧散させ、隅に控えていた騎士達を手で呼び寄せる。

 

「こいつ、もう侯爵じゃないから、手足を拘束して構わないよ。あと、面倒だから口も塞いでおいて」

 

直属の上司はユージオであるのだが、その彼が膝を折る人物なのだから、と騎士達はユウキの命に素早く従った。持っていた剣を神速でひとはらいするとユウキは振り返り、未だ膝を折っているユージオに「はい」と渡す。

 

「この剣は城に運んでおいて。大罪を犯したかつてのオベイロン侯爵の両目を潰し、口に突っ込まれて、最後には頭かち割っちゃうかもしれなかった剣って事で戒めに新たな当主が決まったら王様から下賜してもらうから」

「……それは構いませんが……」

 

思わず受け取ってしまった剣だったが、そんな曰くをそのまま王城で申告するわけにもいかないよね、とユージオは内心、頭を抱えた。とりあえずすぐ近くに落ちている鞘を拾い、剣を収める。オベイロン侯失脚理由のひとつ、として持ち込み、詳細はまた後で考えようと問題を先送りにしておいてから、ふと、違和感に気づき顔を上げた。

 

「近衛騎士団長殿、他の証拠品は?、運ばないのですか?」

「んー?、あとはいいよ。今回の一件はこれでおしまい。ユークリネ公爵家だってガヤムマイツェン侯爵家だって事件として公にはしたくないはずだよ。首謀者の処罰はもう決まったし、これ以上話を広める必要もないしね。お金で雇われた人達やオベイロン侯の屋敷の人間への対応はそこの従者君がやればいい。もう従うべき主はいないんだ、一緒に幽閉されたくなければ、そのくらい喜んでしてくれるよ」

「そう……ですね」

 

三大侯爵家当主による公爵令嬢の誘拐監禁など本来ならあってはならない出来事だ。今回の事件が明るみに出れば社交界はその話題で持ちきりになるだろうし、加えて令嬢を救い出したのが同じ三大侯爵の別の当主と知られれば事態は更に収拾がつかなくなるだろう。ただでさえ病弱な公爵令嬢にこれ以上の心労を与えたとなればそれこそユージオの親友が怒りを爆発させる事は想像に難くなかった。その点、第四騎士団の部下達だけなら事の次第について箝口令を敷くのはたやすい。

 

「それが、いいのでしょう。では……」

「うん、この家は残りの証拠品と一緒に全部燃やして」

「承知しました」

 

スッと立ち上がり渡された剣を両手で持ったまま部屋を出ようとしたユージオにユウキが「ああ、それと」と言葉を加えた。

 

「第四騎士団の団長サン、この短時間でボクの行動を『スリーピング・ナイツ』の公式任務として認めさせたのはさすがだよ。これならお姫様の隣に並んで立てる日もそう遠くないかも」

 

まさに、ニカリ、と無邪気な、それでいて腹に一物ありげにも見えるユウキの笑顔に、ユージオは驚きと畏怖をまぜこぜにしたような感覚がゾクゾクと背筋を這い上がって来たような気がして、ぶるり、と身体を震わせる。

 

「え?……っと、それって……あの……近衛…騎士団長殿…………」

「ボクからも王様に進言してあげるねっ」

 

完全にユージオが止まった。思考も、呼吸も、当然手足の筋肉も顔の表情筋すらも動かない。そんな反応を今度こそ心から楽しむように「ふふっ」と満面の笑みを浮かべたユウキはトン、トン、と足取りも軽くユージオを追い越して部屋を出て行ったのだった。




お読みいただき、有り難うございました。
ルーリッド伯爵夫妻の馴れ初め、スピンオフで一本書けそうな
気がします(苦笑)
真実は……本当の棘は青薔薇の棘、という事で言い寄ってくる男共を
ルーリッド伯爵家の嫡男が排除していたのかも…………。
とにかく、これで「決着」の章は終わりです。
そしてやっと本当に最終章……。


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漆黒に寄り添う癒やしの色【外伝】〜近衛騎士団誕生の物語〜

この作品を「お気に入り」にして下さった大勢の皆様、本当に有り難うごさいますっ。
カウントが500を迎えました事に感謝の意を込めまして
『漆黒に寄り添う癒やしの色【外伝】〜近衛騎士団誕生の物語〜』をお届けしたいと
思います。
さて、お読みいただく前にお願いが二つ……。
ひとつ、本編の42話「建国祭(4)」あたりまでお読みいだだいていないと、ちんぷん
かんぷんな内容となっております。
未読の方はそちら(本編)を先にお読み頂きますようお願い致します。
ふたつ、【外伝】なのでメインはキリトゥルムラインとアスリューシナではありません。
しかしっ、登場する二人の男女をキリトとアスナに脳内変換してお読み下さい。
そうすれば、あら不思議、ちゃんと「キリアスSS」の出来上がりです(苦笑)
その為、男女二人の容姿については、ほぼ描写を控えております。
では、キリトゥルムラインとアスリューシナが存在していた時代より遙か昔の物語をお楽しみ下さい。
(後日、順番を「決着」の章の次に移動させていただきます)


カサカサッ、カサッ、と細い獣道を草をかき分けて近づいてくる足音と共に探し人の名を呼ぶ少女と思しき声が聞こえてくる。

 

「ティターニアー、ティーターニーアー」

 

妙に間延びしてはいるものの少女の気性なのか、どこか潔さを感じさせる声は本気で名前の主を探しているのかどうか怪しさを存分に孕んでいた。

 

「こっちだ、ユウキ」

 

お目当ての名の女性とは似ても似つかない青年の声に呼ばれ、ユウキはそのまま急ぐでもなく面倒くさそうな歩調で声の主がいる辺りへと近づいていく。もう少し先には流れが緩やかな浅瀬の川があるはず、と自分の記憶と推察が間違っていなかった事を確信した時、川を背にして地べたに座り込んでいる青年が軽く手を振って合図を送ってきた。同じように手を振り返し、こちらが立ったままならば未だ成長期ではあるが年齢平均より幾分低い自分の身長でも目の前の男を見下ろす形で呆れ声を贈る。

 

「おはよう。朝っぱらからこんな所で何してるの?」

 

そう問いかけてはみるがユウキはこの男がなぜ何の為にここに居るのかなどわかりきっていて、それでも何と答えるかが知りたくて少し冷ややかな視線を外さずにいると、案の定、男は座ったまま立てていた片膝の上に肘を乗せ、自らの髪をくしゃり、と掴んで返す言葉選びに困っているのか眉間に皺を寄せた。

ユウキと目を合わせず「あー」だの「うー」だのを数回繰り返した後、降参するように顔だけを川の方向へ回し声を張り上げる。

 

「ティア!、ティターニア!、ユウキが来たからオレはもういいだろ?」

 

すると一呼吸置いて澄んだ声が川辺から飛んできた。

 

「もうっ、しょうがないなぁ」

「そろそろ時間なんだよ」

「わかったわ。私もすぐに行くから残しておいてね」

「りょーかい」

 

やっとお役御免だと言いたげに少しホッとした表情を浮かべた青年は身軽に立ち上がるとユウキの肩をポンッと叩くだけで引き継ぎを完了させ、たった今ユウキがやって来たばかりの道を足早に逆戻りしていく。その後ろ姿を胡乱げな目で見つめたままのユウキは川辺の方角からカサリ、と音がしたのに気づいて溜め息をつきながら今度こそ目当ての女性へと振り返った。

 

「ティターニア、朝から拠点を抜け出して沐浴?」

「んー、だって昨夜はここに到着したの遅かったから」

「だからって勝手に野営地を離れたら危ないじゃないか」

「この辺りはもう大丈夫よ。野宿続きでお風呂にも入れてないし、髪の毛ベタベタなんだもん。それにちゃんと見張りがいたでしょ?」

「あのねぇ、明日、城に戻ればすぐに国王の即位式が待ってる男を水浴びの見張り番にするなんてティターニアくらいだよ」

 

両サイドの腰に手を当てて少し偉そうに意見してみたが、胸を張ってみたところでスラリとした完璧と評していいスタイルを保持しているティターニアの小さなかんばせはユウキの頭二つ分は上に位置している。しかも小言を言われた方はまだ乾ききっていないせいで水滴を小さな水晶の粒のごとくまぶした目映いナッツブラウンの髪を僅かに揺らしてクスッと笑うだけだ。さっきの男にしても渋々といった感は出していたが、他の者にその役目を譲る気など更々ないことをユウキも知っていた。ユウキに後を託したのは既にティターニアの沐浴が終わる頃だと見当をつけていたのと、剣士として申し分ない腕を持つユウキが彼女をとても大切に思っている事を知っていたからで……とそこまで推測をしてからユウキが小首を傾げて頬に人差し指を当て斜め上を見つめる。

 

「あれ?……いつもならボクがティターニアにべったりするの嫌がって傍を離れたりしないのに、珍しいね」

「うーん、そろそろ丁度良い時間なんじゃないかな」

「何が?」

「どうもタイミングが難しいみたいで、他の人には任せられないんですって」

「だから、何の話?」

「……野営地のたき火でね……」

「うん」

「お芋、焼いてるの」

「……」

 

基本、普段の時もどんな激しい戦闘中でも笑顔で周囲を安心させるユウキだったが、この時ばかりは驚きと呆れが全身を覆い尽くしていて、そんな歳相応の反応が可愛らしいと感じたティターニアは再び桜色の唇からクスクスと笑い声を漏らす。それからまだ少し湿り気の残る髪をパサッと後ろにはらって「私達も行こっ」と自分と同じ『スリーピング・ナイツ』に属する最強剣士ユウキに手を伸ばした。

 

 

 

 

 

痛みと微熱に耐えるように大きめのクッションを抱きしめ、そこに顔を埋めて浅い眠りの中を漂っていたティターニアの髪に誰かが優しく手を差し入れてくる。傷口がベッドの敷布に当たらないよう身体を横向きにしているせいで長い髪が顔を覆い隠しているからだろう、何回かナッツブラウン色の髪を梳いてようやく出てきた火照り顔の頬に躊躇いもなく触れ、小さく「ティア……」と呼びかけてくる声に長い睫毛が震えた。

寝ぼけたような虚ろな瞳が色を見せ、ぼんやりと開いた唇から「おかえりなさい、陛下……ケガは?」とたとたどしい声が問うてくる。その声を聞いて、ふっ、と安堵とも苦笑ともとれる吐息を落とした青年王は頬に触れていた手を額に移動させ「まだ少し熱いなぁ」と呟いてから彼女の耳元に唇を近づけるため身を屈めた。

 

「ただいま、ティア。ケガはしてない。今回は調停会議に出かけただけだから……忘れたのか?」

 

身体の不調も手伝って王の不在はいつもより心細さが増していたのか、意識ははっきりしていないものの泣きそうな顔で見上げてくるティターニアに王は堪らず「ああ、もうっ」と苛立ちを込めた顔で自分の妃を睨んだ。

 

「侍女を庇って自らがケガをするなんて……このお転婆王妃っ」

 

口では彼女の行動を咎めているものの、手はひたすら優しく額や頬を撫でている。

背後から切りつけられた肩の傷はそれほど深いものではなかったが、それでもそれが原因で熱を出し王の帰城にすらベッドから起き上がれない状態はさすがに王妃として褒められた話ではない。それでも自分はちゃんと出迎えをするつもりだったのだと告げようと口を開きかけたティターニアより先に王の言葉が続いた。

 

「王都に戻った途端、城下の民までティアを心配する声と敬愛する話ばかりで誰もオレの帰還なんて気にしてなかったぞ。城内なんてもっとだ」

 

長き戦乱の世に終止符を打つ第一歩として隣国で行われた停戦に関する会議に出席してきた王は、自他共に認めるところである苦手な腹の探り合いによる交渉の場をなんとか乗り切って帰国したと言うのにそれを労う声がひとつもない事に随分と不満気だ。自分にだけ見せる少し拗ねたような顔にティターニアは軽く口角を上げてからよろよろと両手をついて身を起こした。

すぐに寝室の隅に控えていた侍女達が「お妃さまっ」と駆け寄ってきて肩に痛みを生まないよう、ふわりと軽いストールを後ろからかけてくれる。その気遣いに弱い笑顔で感謝の意を伝えてからぺたり、とベッドの上に座ったティターニアは柔らかな笑みで改めて王に正面から向き合った。

 

「お疲れさまでした、陛下」

 

すると王妃が横たわっていたベッドの端に乗り上げるようにして腰を降ろした王が困ったように笑ってから「うん」と小さく頷きつつ大きく両手を広げてくる。その胸の中にぽふんっ、と頭から倒れ込んだティターニアは心底安心したように深々と息を吐いた。

自分の腕の中で「よかった、無事に帰ってきてくれて……」と小さな声を拾った王は益々眉尻を落として「オレよりティアの方がケガしてるじゃないか」と呆れの混じった声を落としつつ、彼女の細い身体を緩く抱きしめる。

 

「戦場から戻ってくる度、オレに『癒やしの力』を使うくせに……オレはティアの傷を治してやれない……」

「こんなの……たいしたケガじゃないのに……みんなが大げさなだけ」

 

後ろに控えている侍女達の殺気じみた否定のオーラを感じて王は傷に響かぬよう注意深く薄い背中を撫でた。たいしたケガではないと言いつつも青年王の胸に力なく落ちてきた妃の顔は未だ熱で火照っており、身体も腕ごとくたり、と力無く内に収まっている。

 

「詳細は聞いた。城の前庭で慈善事業のバザーの最中に切りつけられた、って」

「……うん」

「でも狙われたのは侍女だったんだよな?」

「私付きの侍女だよ……主の私が守らなきゃ…………ああ……ホントに、剣を持っていればよかった……」

 

王妃となるまでは腰にあるのが当たり前だった細剣を所持していなかった事に心底後悔している声で告げられて王の思考が一瞬止まった。

 

「ちょっと待った。バザーで帯剣してる王妃ってどうなんだ……それに護衛の騎士達の立つ瀬が無いだろ」

「だって……せっかく城下のみんなが……来てくれているのに……あまり近くに騎士がいると……物々しいでしょ?」

「だから少し離れた場所に控えさせてたのか」

 

暴漢が彼女達に近づけた理由はわかったがそれでも騎士達の失態である事に違いはなく、帰還途中に王妃が城の敷地内で傷を負わされたと知った時、自分に付いていた騎士の怒髪天を衝く顔が今でもありありと浮かんだ。

 

『城にいる騎士達は何やってるのさっ』

 

ワインレッド色の瞳が更に赤く燃え上がり、眉を吊り上げて怒りに震えているユウキは王を、きっ、と睨み付けて宣言する。

 

『もうお前の護衛騎士なんかやらないっ、これからはボクがティターニアの側に付くからねっ』

 

確かに今回は戦場に出るわけでもないのでユウキ達は城に置いていくつもりだったのだ……けれど何が起こるかわからないから、と半ば無理矢理に王妃から強要された『スリーピング・ナイツ』の同行に、それを受け入れた王も自分の判断を後悔していた。

ティターニアはいざとなると「癒やしの力」を使う事を全く躊躇わない……その後、自分がどれほど辛い思いをしなければならないかわかっていても。そして婚姻をかわして自分達がこのアインクラッド王国の王、王妃となった後、初めて戦いに彼女を同行させず、それでも熾烈な戦場を収めて数多の傷を負いながらも愛しい妻の待つ城へと帰還した時、彼女は腰に手を当てて眉を逆ハの字にし、柔らかな頬をぱんぱんに膨らませたのだ。

 

『まったくっ、わたしのバックアップなしじゃ、背中が隙だらけなんだからっ』

 

そう言ってすぐさま抱きついてきたティターニアは表情を一転させてふわり、と笑い「おかえりなさい、陛下」と言うやいなや意識を失ってその場に倒れ込んだ。それから三日三晩高熱にうなされ続ける彼女を痛みの消えた身体で見守る事しか出来なかった青年王は、そこで初めてユウキから彼女の「癒やしの力」について聞かされたのだ。それからはいくら王が拒んでもティターニアは力を使うことをやめなかった。

だからと言って今回のような事件において、侍女がケガをしても力で治癒すればいいのだから、とは彼女は考えない。目の前で大事な人が傷つけられそうになれば身を挺してかばってしまう。

そんな彼女だとわかっているからユウキも騎士達に怒りを覚えたのだろうし、それ以上に殺気さえ纏ったのは切りつけた犯人にだ。いや犯人に対する感情としては青年王のそれはユウキ以上だったろう。伝令から王妃のケガの程度を確認した後、王はそれまで聞いたこともないような低い声を発した。

 

『それで、王妃を傷つけるという大罪を犯した痴れ者はもちろん生け捕りにしたんだよな?』

 

射殺すような視線と無慈悲の表情、否定を許さない物言いに使者は声もだせず震えながら首を縦に振るしか出来なかった。続けて王の隣に控えていた未だ少女と呼ぶにふさわしい容姿の最強剣士は反対に感情を爆発させて王妃付きの護衛騎士達の失態を罵り、勢いそのままぞんざいな口調でこともあろうか王を「おまえ」呼ばわりしたのである。

その後、それまで以上に帰還の足を速めて王都に戻り、城に入る前に今回の会議には同行させず留守を任せていた高官と合流して実は標的とされていたのが王妃の侍女だったいう事件の経緯を聞いた王とその護衛騎士は二人揃って大きな溜め息をついた。

 

『ったく、ありえないだろ、ユウキ。王妃が侍女を庇ってケガをするって……』

『まあ……ティターニアらしいよね。剣士だった頃も、そんな感じだったもん』

『ティアの持つ知識と経験と頭の回転の速さは国を守る為に使ってもらいたいんだけどな……オレとしたことが肝心の正義感と行動力を忘れてた』

 

痛む頭を抑えるように片手を額に当てている王に向かい、ユウキは幾分身長差がある分、下から挑戦的な視線で見上げて唇の両端をフフッ、と引き上げる。

 

『それで?……もちろん罪人の尋問はボクがやっていいんだよね?』

『うーん、お前に任せると尋問が拷問になる気がする……』

『ならどっちにするか決めてよ。城に帰ったら王様が一番に会いに行くのはティターニア?、それとも罪人?。罪人だって言うなら、ボクがティターニアの所に行くっ』

『…………ユウキ、尋問は頼んだ』

『おっけー! 任しといてよっ』

 

尋問を任ぜられたはずなのに、両手を交互にさすりながら『腕が鳴るなぁ』と不敵な顔つきで笑うユウキに、王は『オレに目通りさせるまでは人間とわかるようにしておけよ』とだけ念押しをした。

かくして帰城した王はすぐさま王妃の元へ、ユウキはその後ろ姿を見送った後、再び瞳を冷たく燃やして王妃を傷つけた罪人の元へと向かったのである。

青年王は、今頃地下牢ではどんな尋問が行われていることか、と、ふと気にはなったが調停会議で隣国に赴いていた間ずっと離れていた王妃を抱きしめている手を離すことは出来そうになく、加えて発熱で彼女の香りがいつもより濃く鼻腔を刺激して、くらり、と軽い酩酊状態に陥る。

多分、生かされている事自体を終わりにして欲しいと懇願するくらいユウキに遊ばれているだろうが、個人的な感情であれ、報酬のある仕事であれ、結果的にはこの国の王妃を害したのだ、それがどういう事なのかをしっかりと心と体に刻みつけさせねばならない、と青年王が今回の罪人の査問をアスリューシナ大好き最強剣士に任せた事で大凡の解明は望めるだろうと踏んだとき、コンコン、と控えめな叩音が寝室の扉の外から響いた。

寝室といった極めて私的な空間で国王夫妻が共に居る場合、侍女達は基本、控えている間は何も目にしていないし、何も聞こえていない。逆を言えば主である二人が求めなければ存在を空気の如く消しているので、ここで王や王妃が何をしても外に漏れる事はないし、漏らすような人材は起用していない。とは言え先程のように王妃が望まなくてもストールを用意するといった気転も必要なのだが、このノックに対しては扉の一番近くにいた侍女が伏せていた顔を上げ無言で王に対応を伺う。

王妃を包み込んでいた王はその問いに僅か視線だけで肯定を伝えると、侍女は恭しく一礼を捧げてから細く扉を開いた。

扉の向こう、王妃の居室には寝室までは付き従うことの許されていない若い侍女が銀盆を手に直立不動の姿勢で全身から緊張を放っている。本来ならばすぐに用件を告げなければならないのだが、上下の唇が縫い付けられてしまったように全く動く気配がない口に扉を開けた侍女は困り笑いで少し眉尻を落とし、カチコチに固まっている彼女の隣にいたもう一人の侍女に代行を促した。

王妃付きの侍女となってまだ日の浅い彼女がこうなってしまう事は予測できていたのか、特に咎める言葉もないまま銀盆にのっている陶器の小瓶についての会話が始まってもなお石化し続けている新米侍女は、そのやりとりすら耳に入らず筆頭侍女から与えられた言葉のみを呪文の様に頭の中で繰り返している。

 

『王妃様についてはどんな事も外で話してはいけません。特に陛下とご一緒の時は何も見ていない、何も聞いていない、を貫くのです』

 

これは侍女になるために王都にやって来て、まだ世間をあまり知らず少し素直すぎる彼女に向けてのちょっと極端な言いつけだった。けれど、こうでも言っておかないと人の良い彼女は大好きな王妃の素晴らしさをプライベートを含めて乞われるまま口にしてしまうのだ。

とにかく視線を自分が持つ盆の上の小瓶に定め、緊張のあまりじわり、と滲んできた手汗でその盆を取り落とす事がないよう神経を集中させていた彼女だったが、幸か不幸か、目と耳の機能は封じておいたものの隣の先輩侍女が自分の役目を代任してくれている間に鼻に届いてしまった王妃の寝室の香しさに導かれ、つい無意識に顔を動かしてしまう。

何の匂いだろうか?、と思わず鼻をひくつかせて扉の隙間に顔を突っ込み、視線を巡らせて見てしまったものは部屋の中央に位置しているベッドの上で身を起こしている王妃とその王妃を繊細な壊れ物のように優しく大事に扱っている王だった。

彼女とて王妃付きの侍女なのだから、城で働くようになってから王を目にする機会は当然何回かあり、無邪気に笑っていたり、真剣に政務に取り組んでいたり、たまに怖いくらいの厳しい声を発していたり、とそんな姿から素直に感情が表に出やすい人なんだな、という印象を持つに至っていた。良く言えば少年のように真っ直ぐだが、言い方を変えれば単純でわかりやすい、と言ったところだろうか。国の為、民の為、その大いなる意志を貫く姿の後ろで周囲の細かなフォローを王妃がしているように感じていたのだが、今の王は自分の腕の中にいる王妃に対し、慈しみの中にも心配や困惑、僅かな憤りも混じっていて何とも表現しづらい面立ちとなっている。

しかし、逆に王の腕の中にいる王妃にいつもの高貴さと清楚さ、それでいて親しみやすさを併せ持つ完璧な存在といった雰囲気はなく、ただひたすら自分の身を安心して任せられる王に甘えきっていて…………なんと言うか、とても愛らしいのだ。

ここで新米侍女は自分の心臓が大きく跳ねる音を確かに聞いた。

けれど無情にもその音が合図のように両手で支えていた銀盆は、それごと寝室内にいる侍女の手に渡り、開いていた扉は目の前でぱたり、と閉ざされたのである。

結局、一言も声を発する事の出来なかった彼女はいつの間にか役目が終わっている事に気づいてから、消えた盆を持っていた腕の形そのままに助けてくれた隣の先輩侍女へ顔だけを動かした。

 

「……か……かわいい……」

「あー、見ちゃったのね」

「なっ、なんですかっ、あの可愛さはっ」

「王妃さまのあのものすごっく可愛らしいお顔はね、プライベートで陛下とご一緒の時にしかなさらないレア中のレアなの」

「えーっ、だったら専従侍女の皆さんは王妃さまのあんなお姿をいつもご覧になってるって事ですか?」

「まぁ、いつもってわけじゃないと思うけど、王妃さま専従ともなれば口の堅さも超一級だから、そのへんの情報は降りてこないのよねぇ」

 

ふぅっ、と悩ましげに息を吐き、困ったように片手で頬を支えた侍女は興奮気味の後輩侍女が純朴と言っていい瞳をやる気に満ちた色で輝かせ「私、専従侍女になりたいですっ」と声高らかに宣言する姿を見て、一瞬だけ王妃付き侍女とは思えない顔つきで「ちっ」と舌打ちをする。しかしすぐさま笑顔に戻り……残念ながら片方の頬だけは僅かに歪みが残っていたが……優しげな声色で後輩侍女を窘めた。

 

「そんなの王妃さま付きの侍女全員が思ってることよ」

「へ?……ぜ……全員ですか?」

 

当然でしょう?、と少々呆れの意味も含めた視線で教えれば、後輩侍女はわかりやすく驚きで目を見開き口をポカーンと開ける。王妃付き侍女と言ってもそれこそ何十人といるのだ。単に所属が王妃付きと言うだけで直接王妃と関わる役目はほとんどなく、王妃の私室の掃除やドレスなど服飾品の手入れなど身の回りを整える事が主な仕事で、当然、王から贈られた貴重な石が使われているアクセサリーなどの品々は触れさせてもらえないし、王妃の近くに控える事も出来ない。それでも王妃からは分け隔てなく「有り難う」と声をかけてもらえるが、それにすら声で応じる事は禁止されていて深々と頭を下げるしかない。

けれど専従侍女は違う。

常に王妃に付き従い、その御身に触れる事を許されている。浴室ではかの身を清め、着替えを手伝い、髪をくしけずる。時には王妃としての政務をサポートし、時には話し相手として言葉を交わせるのだ。

 

「私……王妃さまとお喋りしながらあの長くてお美しい髪を梳かしてみたいです……」

 

その光景を思い描いているのか、夢現のように顔を蕩けさせている後輩侍女にさすがの先輩侍女も同意の頷きを示してくれる。

 

「わかるわー。王妃さまだけだもの、あんなに綺麗なナッツブラウン色の髪って。あの絹糸のような艶髪を専従侍女が結い上げている間、とっても涼やかなお声で会話をされているのを遠くでこっそり盗み見るしか出来ないこの身が不甲斐ない。あーっ、私も早く専従になりたいなぁ」

「どうやったらなれるんですか?」

「基本、人員に空きができたら、ね。今回の事で一時的にせよ補充がされると思うけど……」

「あ、襲わそうになった侍女さん、寝込んじゃったんですよね?……お気の毒に、見ず知らずの男の人から切りつけられるなんて、怖いですよねぇ」

「はい?、何言ってんの?。専従侍女がそんな理由で寝込むわけないでしょ。いざとなったら度胸も根性も天下一品なんだから。だいたいその侍女、騎士達が駆けつけるより先に短剣を持っている犯人の腕に噛みついたのよ。それはもうガッブリ、深々、と」

「……ガッブリ、深々、ですか……」

「肉を食いちぎる勢いでね。その時の血まみれの形相といったらもう、悲鳴を上げている犯人の男から彼女を引きはがした時の騎士達でさえドン引きしてたわ」

「うわぁ……」

 

まだまだ新米の身ということでバザー会場にさえいられなかった侍女も想像しただけで頬をひくつかせ苦笑い状態だ。

 

「当たり前でしょ。なんせ崇敬している王妃さまのお身体を傷つけたんだから。さすがに筆頭さまは冷静で素早く王妃さまを支えて応急処置とその後の指示をなさってたけど、他の専従達は完全にプッツンしちゃって、みんなして『うちの王妃さまにーっ』って男取り囲んで殴る蹴るのフルボッコ。それを宥めるのに騎士達もてんやわんやで……あぁ、私も売り子のお役目じゃなかったら参加したのにっ」

 

どうやらバサーの売り子を務めていた侍女達は事件の起きた場所より少し距離があったらしく、犯人に報復行為をするより集まっていた城下の民達への対応に追われていたらしい。

 

「えっと、じゃあ襲われた侍女さん、なんで寝込んでらっしゃるんですか?」

「そりぁ、自分を庇って王妃さまがケガをされたからよ。その場が収まってからようやく状況が飲み込めたのか、泡を吹いて倒れたの」

「……なるほど……」

「でも、王妃さま付きになって日も浅いあなたじゃ専従には選ばれないでしょうから、私も焦る必要はなかったわね」

 

先程の舌打ちはライバルが増えた事への正直な気持ちから出た音だったようだが、落ち着いて考えてみれば可能性はゼロに等しいのだと納得してすぐに優越感を漂わせる笑みを浮かべた。

 

「えーっ、そんなのわからないじゃないですかぁ」

「わかるわよ。まず筆頭さまのお眼鏡にかなうのが第一条件だけど、最終審査はユウキさまだもの。無理無理」

「ユウキさまって、あの『スリーピング・ナイツ』の?」

「そう。王妃さまがまだこの国の王妃となられる前から仲良くされていたんですって。なんたってあの陛下と張り合う程、王妃さまへの愛をお持ちだからユウキさまに認めていただけないと専従にはなれないの」

 

専従侍女の選抜方法を初めて知った若い侍女は、陛下と張り合うほどの王妃さまへの愛、と聞いてさっき覗いてしまった寝室内で一回だけしか聞いていないのに耳にこびりついて離れない青年王が妃の耳元で囁いた「ティア」という王だけが口に出来る王妃の愛称が、どこまでも甘くやわらかな声で形作られていた事を思い出す。続いて、それに応えるように熱のせいで緩慢な動きながらも背を伸ばし、王の顔に火照る頬をすり寄せていた王妃の愛らしい笑みを想起して、知らずに顔全体を赤くしつつも決意を固めて「でも、私、諦めませんからっ」と力強く両の手のグッと握り込んだ。

そんな風にまたひとり、専従を目指す侍女が誕生しているのも知らず、寝室内ではそのきっかけとなった国王夫妻の手元に銀盆に載せられた素朴な白焼きの小瓶が届けられていた。

未だ自分の腕の中でいつもより浅い呼吸を続けている王妃を抱き支えている青年王は盆を持つ侍女の隣にいる筆頭侍女へ「これは?」と短く問いの言葉を口にする。

 

「ガヤムマイツェン侯爵さまから、との事です」

 

それだけで心当たりがあったのか「ああ」と納得した王とは逆に、すっかり王の胸板に身を寄りかからせていた王妃はゆっくりと顔を上げて振り返るようにして小瓶を見つめた。

 

「ガヤムマイツェンさま?……陛下が侯爵位を……お授けになった……」

 

青年王はアインクラッド王国を建国するにあたり、それまで自らが治めていた土地と共にいち早く恭順の意を示し、国境を確立するまで各地での静定に力を貸してくれた領主達には爵位を与え引き続き自分達の土地を領地と認める命を下している。中でも元々広大な土地を領有し、青年王の擁立に尽力してくれた三人には建国と同時に爵位の中でも他の貴族とは一線を画す「三大侯爵家」と呼ばれる地位を与えていた。

その御三家のひとり、ガヤムマイツェン侯爵とは殊更馬が合うのか、青年王は今回の調停会議にも同行させていたのだが……。

 

「帰城の途中でティアのケガの報告を受けた時、あいつも側にいたからな。なんでもよく効く傷薬があるから城に届けさせると言っていたけど……随分早いな」

「ガヤムマイツェンさまは……気の良いお方ですものね……」

「そうだな。他の三大侯爵家の二人と比べれば要領が良いとは言えない性格だけど多少感情表現が苦手な部分を差し引いても、かなりの剣の使い手だし、剣筋に似て何て言うか一本芯の通ったものがあると思う」

 

『スリーピング・ナイツ』はメンバー同士の仲間意識が強いせいか、所属していない青年王としては最も信頼の置ける協力者達と言った捉え方らしく、同じように共に剣を携えて戦場を駆けたガヤムマイツェン侯爵の方が同士に近い感覚なのだろう。もちろんコンビネーションにおいては元『スリーピング・ナイツ』の細剣使いであるティターニアに勝る存在はいない。

 

「ユウキ達にも爵位と領地を、って言ったんだけどなぁ」

 

国を起ち上げる為の力添えという意味では三大侯爵家の当主達よりもずっと前から側にいてくれた剣士達だ、当然それ相応の処遇を、と思っていたのだが…………小瓶を見ていたティターニアの眼差しが青年王の元へと戻ってきて話の続きを促すようにパチパチとはしばみ色を見え隠れさせる。

 

「『そういうのはいらないっ』てさ」

 

少し頑張ってみた口真似が可笑しかったのか、それともユウキの返答が予想通りだったのか、王妃は熱と痛みに耐えながらも口元を綻ばせてから「そう言うと……思った」と呟く。王としてもユウキ達の意志は尊重するつもりだったのでその提言は早々にひっこめ『だったら他に願う事は?』と聞いてみたところ、ユウキは『スリーピング・ナイツ』全員が望む唯一を王にねだったのだ。

 

『「癒やしの力」で悲劇が起きないよう、この先もずっとこの国を見守っていきたいなぁ』

 

それはつまり城に留まってティアの側にいたいって事だよな?、と解釈した王は二つ返事でその要望を受け入れた。王としても気心が知れていて尚且つ「癒やしの力」を持つ自分の妃を大切に思ってくれている彼女達が近くに居てくれるのなら願ったり叶ったりだ。しかし、そんなユウキの希求の言葉を聞いたティターニアは、ふぅっ、と深く息を吐き出してから王に身を預けつつもどこか遠くを見つめるように視線を彷徨わせた。

 

「なら、もしもこの先……同じ力を持つ者が現れても……大丈夫なのね」

「ティア?」

 

一体なんの話をしているんだ?、と問いかけようとするより先に王妃は安心したように王を見つめ返し、少し寂しげに微笑んだ。

 

「『スリーピング・ナイツ』のみんなは……私が仲間に入る前から、ずっと一緒なの。私には……この『癒やしの力』があるけど……彼女達にはまた別の力が……あるから、きっと……陛下や私がいなくなっても……この国を見守ってくれる。だから……どうか彼女達を、王直属の近衛騎士団に……任命を、陛下」

 

普段は政に関しサポートはしてくれるものの、積極的な申し出を口にするような事はしてこないティターニアの献言に王は理由を問うよりも驚きでつい自然と「ああ、そうだな」と口にしてから我を取り戻すが、爵位の代わりと思えば別段無茶な話でもないだろう、と改めて強く頷く。受け入れてもらった事に心底安心したような王妃にますます訳が分からず眉根を寄せて不思議顔で覗き込んではみるが、王妃は今度こそ屈託のない笑みを浮かべると、この話はおしまいなのだと言うように王の腕の中で細い身体を捻り震える手を小瓶へと伸ばしながら「では……中身は傷薬なのね」と話題を戻した。しかしその手を自らの手で捕まえて引き戻し、かなり無理をして会話をしていたのだとわかるほど肩で息をしている王妃の背を再びゆっくりと摩り始める。

そこにタイミングを見計らった筆頭侍女が徐に口を開いた。

 

「陛下、では早速私どもがこの薬を王妃さまに……」

「それはオレがやるから下がっていいよ」

 

一見、優しげに見える笑顔と言葉だが、筆頭とそれに続く専従侍女達はそれが自らの発言を撤回する気など欠片もない王の決定事項なのだと瞬時にわかってしまい、こちらも貼り付けたような笑顔で受け止める。唯一、王妃だけが咎める声で「陛下」と顔を上げるが、そんな声もどこ吹く風で妃の耳に口を寄せ、小声で「胸元のリボンをほどけばいいんだから、オレでも出来る」と寝衣の扱いも心得ている旨を告げれば益々王妃の眉間に皺が寄るが頬はそれまでの発熱以外の熱が加わって更に朱が差していた。

王妃に関しては言い出したらきかない方なのだと熟知している専従侍女達は王が傷薬の小瓶を受け取ると、次々に一礼をしてから部屋を辞していく。最後に筆頭侍女がジッと王の顔を睨み付けていると言って差し支えない視線を送れば、王は軽く肩をすくめた。

 

「薬を塗るだけだろ」

「そうでございます」

「半月ぶりのティアなんだ。少しゆっくりさせてくれ」

「私どももケガを負われ熱をお出しになっている王妃さまにはゆっくりお身体を休めていただきたいと思っております」

「なら問題ないな」

 

含みのある、ニヤリ、とした口元で返されたものの、いちを釘は刺せただろう、と判断したのか筆頭侍女は深々と頭を下げた後、静かに部屋を出て行った。

寝室に二人きりとなった途端、青年王は「オレって信用ないんだなぁ」とぼやきながら宣言通り手際よくスルスルッと王妃が身に纏っている絹衣を脱がせる為のリボンをほどく。ゆるんだ襟元はすぐに肌を滑り落ち彼女の華奢な両肩を露わにした。白い肌が発熱のせいでいつもよりじんわりと温かく、淡い薄紅色に染まっている。

こくり、と喉が鳴り王妃の香りに引き寄せられて思わずケガをしていない方の肩先に唇を押し付ければ、彼女が「っつ」と羞恥で息を詰めるのと同時に、ぴくっ、と両腕を跳ねかせた。けれどその反射運動が傷に響いたのだろう、甘さの抜けた息を抑え込んだのがわかって、青年王は急いで顔を上げ「ごめん、ティア」と子供のような口調で謝るが、王妃はただ顔を横に振って謝罪の必要がない事を伝える為に自ら身体をすり寄せ密着させる。

纏っていた後ろ身頃は既に腰の位置まで落ちていて、滑らかな背中の上を王妃特有のナッツブラウン色を備えた長い髪が覆っているが、片方の肩には違和感しかない白い帯状の布が巻き付いていた。それを痛々しそうに見つめる王の瞳に強い情欲の色はなく、久方ぶりに触れるしっとりとした王妃の肌に慈しみを込めた手が何度も往復する。

今度は心地よさそうに息を吐く王妃が愛おしくて、同時にこんな事しか出来ない自分が歯がゆくもあり、堪えきれない感情のまま「ティア、ティア」と何度も名を呼べば王妃も艶事の時にしか呼ばない王の名を口にした。

今度は慎重に、ゆっくりと白布で覆われていない肩から首筋にかけて微熱を吸い取るように何度も唇で触れる。ティターニアもそれに応えるように自ら顔を反らし、細い首を差し出して王からの久方ぶりの愛撫を受け入れた。熱があるせいで浅い呼吸を繰り返している唇を塞ぐことは我慢して青年王の愛撫は王妃のおとがいから頬に移動する。けれど無防備に薄く開いている桜唇への誘惑に抗いきれず、一瞬だけ寄り道をして上唇と下唇を交互に食んだ後、鼻先、瞼へとその存在を自らの唇で確かめ続けた。

こめかみを経て耳たぶを再び唇で甘噛みしてから、ここならば、と遠慮無く舌を這わせば、すぐにティターニアの息づかいに色が加わる。甘さを含んだ吐息に混じって時折、誘うように漏れる短い声をもっと聞きたくて彼女の耳を攻め続けていると、王妃が掠れた声で「……陛下」と、いつもの呼称を口にした。自分の名ではない事にティターニアの限界を悟り、さすがにこれ以上はダメだよな……、と彼女の体調を慮って理性を総動員させ、唇を離してベッドの上に置き去りにされていた薬の小瓶を手を伸ばしつつ既に真っ赤に染まった美味しそうな頬を見ないようにして蓋を開けた。

一旦肩を覆っている白布を解くため密着していた身体を離せば最後の抵抗とばかりに王妃が「ううっ」と恥じらいで唸りつつ寝衣の前身頃を両手でかき合わせる。けれど先程までの行為を想起させる甘い「ティア」という呼びかけにすぐに陥落してしまい、後はされるがままに傷口を王の目にさらす事となった。

未だ塞がっていない生々しい赤い刀痕を目にした途端、傷口に注ぐ視線を導火線に一気に負の感情が引火しそうになるが、それをふるり、と顔を振ることで散らし、青年王は改めて瓶から軟膏をすくい取る。「塗るよ、ティア」と声を掛けてから薬のついている指を傷口へと這わせば最初の一回だけ肩を揺らした王妃だったが、それ以降は小さく震えるだけで痛みに耐える様に、王の内で再び抑えきれない犯人への殺気だった感情がわき上がってくる。けれどそれを敏感に感じ取った王妃は握りしめていた手を青年王の背へと伸ばし、ゆるり、と抱きしめた。

 

「ティア……」

 

こんな時だ……痛みに耐える姿を目にする青年王の頭にほんの少しの後悔がよぎる。もしも妃として娶らなければ、自分の傍に引き留める事をせず、剣士として旅を続けていたらこんな辛い思いはさせずに済んだのかもしれない、と……。これまで剣士としての彼女は「癒やしの力」を使う事はなかった。もともと『スリーピング・ナイツ』はメンバー全員が桁外れの実力者達ばかりだったし、青年王も皮肉なことに彼女が一緒に戦ってくれれば大きなケガなど負うことはなかったから。それでもユウキ達がティターニアの力を知っていたのは、青年王と出会う前、旅の途中で世話になった人達や出会った動物達に彼女がほんの少しだけ力を使っていたからだ。自分が戦場で受けるような深い傷を癒やすのではなく、彼女が僅かに体調を崩す程度の力を……。

ケガの痛みに耐え、熱に耐えている今の彼女を見れば、以前のような力の使い方のほうがどんなにか周囲にも彼女自身にも優しい事なのだと想像できて青年王は苦しげに表情を歪めた。

けれどティターニアはそんな王の顔など見なくてもその胸の内全てがわかるのか、依然として弱々しく腕を回したままその胸に顔を埋め、染み込ませるように唇を動かす。

 

「私なら……大丈夫……」

「でも……」

「今回の事は……きっと私が……原因だから……」

「ティア?」

「だけど……頑張って、みんなを、陛下を……守るから……だから、陛下は……私を……守ってね……」

 

結局、もう彼女を自分の腕の中から解き放つ事など出来るわけもなく、ならば既に覚悟を決めている王妃に倣い青年王は唯一その身を委ねきってくれる彼女の想いに応えるべく見事なナッツブラウン色の髪にそっと誓いの唇を落とした。

 

「うん、ティアの事はオレが守るよ、絶対に」

 

その言葉に深く安堵と喜悦の息を吐き出したティターニアは自分を包み込んでくれる腕のぬくもりと髪を梳いてくれる手の動きに誘われるようにゆっくりと意識を沈ませていった。

帰城してすぐにこの寝室で見た表情より随分と心やすくなった王妃の寝顔に王も肩の力が抜ける。もうしばらくはこのまま彼女を占有していたいが外気に晒されたままの傷口や肌は色々とよろしくないなぁ、と思案していると、頃合いを見計らったように遠慮がちな音が聞こえて、それが寝室の扉を叩いているのだと気づいた後、ゆうに深呼吸五回分ほどの時間を空けてから筆頭侍女ひとりだけが室内へと入ってきた。特に二人の現状については顔色を変えることなく、王妃のケガの状態のみを確認すると静かに「薬の塗布は終わっているようですので、そのまま王妃さまをお支えになっていて下さい」と告げた後、手際よく手に持っていた新たな布を患部に巻き付けていく。

寝衣を整え終わった後でもいまだ青年王はしっかりと妃を抱きしめていて、どうやら自分から身を離しベッドへ横たえる気はないらしい、と理解した筆頭侍女はそれでも王妃の体調の為に、と口を開きかけると、ちょうどそのタイミングで王が彼女を横向きに抱え直す。

体勢が変わっても安心しきっている王妃の眠りは少しも妨げられる事なく、ただちょっとだけ離れてしまったぬくもりを追いかけるように、王の胸元へと鼻をすり寄せ顔の半分をピタリ、とくっつければ満足そうに口元を綻ばせた。そんな表情を見せられては発する寸前の苦言でさえ飲み込むしかない。

寝ていても求められているとわかる仕草に青年王の表情も緩みきっていて、更に王妃を自分の身に引き寄せ愛しそうに手の甲をなで、腕をさすって、柔らかな頬をつつき、耳たぶを弄れば「っんくぅ」と、くすぐったそうな声があがり、益々王の目尻がさがる。

さすがの筆頭侍女もこれは見ていられない、と小声で「陛下、ほどほどにお願いします」とだけ懇請して早々に寝室から退去した。

それから深い眠りに落ちている自分の妃を飽きもせず姿を愛で、香りを愛で、ほんのり火照っている肌の感触を愛で、寝息を愛でていると再び、今度は躊躇いのない叩扉の音が王と王妃の空間に侵入してくる。

わかりやすく不機嫌な顔となった王が視線を王妃から上げれば、そろそろやって来るだろうと予想していた少女が扉を開け、それでも立てる音を最小限に、加えてこちらも王に引けを取らない不機嫌顔を晒しながら無遠慮な足取りで二人のいるベッドサイドへとやって来た。

取り上げられまいとするように王妃を抱く腕に力を込めるこの国の最高位の男を冷ややかな目で眺めてから、ふぅっ、と一息で表情を切り替えたユウキはそろり、とティターニアの顔を覗き込む。安らかな寝顔に束の間穏やかな笑みを浮かべるが、すぐにその口元は切ない哀痛を含んだものへと変化した。

 

「なに、この顔。隙だらけだね。旅をしている時はこんな顔、見たことないよ……」

 

そのままちょっと悔しそうに王を見上げると、それがティターニアを『スリーピング・ナイツ』の剣士から自分の妃としたユウキからの是認だと気づいた青年王が少女の訪問による苛立ちを消して、片方の口の端を上げ「可愛いよな」と同意を求める。その得意気な言い方が癪に障ったようでユウキはギロリ、と青年王を睨み付けた。

 

「ティターニアが可愛くて、強くて、優しくて、賢いのなんてお前よりずっと前から知ってる」

 

相変わらず私的な場では少女から「お前」呼ばわりされる王だが、これは『スリーピング・ナイツ』に出会った頃からなので、別段気にもとめず、それよりも自分の妃への賛辞に王がこの上のなく嬉しげに頷くと、逆にユウキは勢いをなくした声で付け加えるように本心を落とす。

 

「でも……こんなに安心しきった寝顔は知らない……」

 

哀しそうな、寂しそうな物言いに王は思わず王妃に触れていた手を伸ばし、少女の頭をポン、ポン、と撫でた。

 

「なら、ティアがずっと安心して寝られるようにオレ達が守らなきゃ、な」

 

「守る」という、その言葉が単にティターニア個人に対しているのではないと理解したユウキは元来の明るさを取り戻して「もちろん」と頷くと、恋い慕うような視線でもう一度王妃の寝顔を見つめる。ティターニアの事となるとたまに歳相応の感情を発露させるユウキが落ち着いたのを感じた青年王は次に己の立場を匂わせる目で最強騎士へ問いかけた。

 

「それで、どうだったんだ?」

 

具体的な言葉を示さず、既に全容を把握している事を前提とした挑戦的な顔つきへ負けじとユウキの瞳も怪しく光る。

 

「うん、地下牢のまぬけ君ね。素直なもんだったよ。既に全身痣だらけで歯は折れてるし、顔は腫れ上がってたし」

 

楽しそうな口調にそぐわない内容だったが、王が疑問を口にする前にユウキは「ボクの出番、あんまりなかったなぁ」と残念そうに呟いてから、王に向け満面の笑みを送った。

 

「骨、二、三本折ったくらいで聞きたい事ペラペラ喋ってくれちゃった……あ、言われたとおり、ちゃーんと人間ってわかる状態にはしてあるから安心してね」

 

その報告に「安心」とはほど遠い感情を抱えつつも、そこは国王として至極平然とした顔で「そうか」と受け取ってから「それにしても」と問わずにはいられない疑問を吐き出す。

 

「既にボロボロだったのか?、護衛騎士達には過度な制裁は加えないよう言っておいたと思うが……」

「騎士達には、で、もともと侍女達には言ってないでしょ?」

「あー……そういうことか」

 

今回の事件現場で王妃から少し距離のある場所にいた騎士達と違い、専従侍女達は常に影のように王妃に付き従っている事を今更のように思い出した王は、彼女達が王妃を敬愛するあまり、その全てに過剰反応を示す性質をも思い出して、うーん、と唸りつつも溜め息を漏らした。その存在は心強くもあるのだが時には矛先が国の王であり、王妃の伴侶である自分にさえ向けられるのは納得できない、と常日頃感じていた不満を思うものの、こと、あの集団に関してはどうも苦手意識も存在していて……と、そこで自分が意見を言うより専従侍女選抜の最終決定権さえ握っている存在が今、目の前にいる事に気づく。

 

「ユウキから侍女達に言っておいて欲しいことが……」

「そうだね、ボクも言おうと思ってたんだ」

 

被せるような返答を意外に思った王が「おっ?」と瞠目しているとユウキは真面目な顔つきで少し唇を尖らせた。

 

「殴る蹴る噛みつく、もいいけどさ。ああいう時は、まず相手の肩を外さなきゃ」

「ほへ?」

「両腕が使い物にならなければ手出しはされないし、逃げようとしてもバランスが取りづらくて上手く走れないしね」

 

先程までの歳相応さなど微塵も感じさせない非道な言葉と、それが冗談でも何でもないのだと確信できる真剣な表情に王は明後日の方向を見ながら「……そうだな」と肯定するしかない。それからユウキは真顔のまま、どうやら今のところ人と認識できるらしい状態の犯人から知り得た情報を王に明かした。

 

「結論から言うと今回の騒動、目的はティターニアに『癒やしの力』を使わせる事。襲う侍女は誰でもよかったみたい。地下牢の男は最近この国にやって来た流れ者で城下をふらふら歩いてたら声をかけられたって。前金で相当な金を掴まされたらしいよ。首尾良くティターニアが力を使えば更に同額を貰える話になってたらしい」

「……狙いは力の確認か、或いは城下の民をその力の目撃者とさせる事か……」

「両方……かもしないけどね。多分バザーに来ていた人間の中に今回の依頼主がいたと思うけど、さすがに今から全員を探し出して調べるのは無理だし」

「依頼主が首謀者とも限らないしな。となると、今回の調査はここまでか……」

 

これ以上打つ手がないと悟った王は悔しげに下唇を噛む。この後、下手人の顔は見るつもりだがユウキが語った以上の事を聞き出すのは無理だろうし、ティターニアを傷つけた腹いせだけで更に痛めつけるわけにもいかないだろう。

 

「ティアが……自分が原因だろう、と言っていたけど、その通りだったな」

「まあね、一所に留まればどうしたって人の目には触れるし、口の端にも上る。なんたって王様がケガをして帰ってくる度に力を使うんだから、どれだけの人間がその力を目撃してきたか、それがどんな風にどんな奴に伝わるかなんて予測できないしね」

 

再び国の城という場所に留まらせた原因である自分との婚儀と、力を使わせてしまう自分の存在に後悔が湧き出そうになると、それを吹き飛ばす少女の声が真っ直ぐ青年王の耳に飛び込んで来た。

 

「でも、そんなのティターニアもわかっててやってるんだから、ほんと、まいっちゃうよ」

 

お陰で信用に足る騎士達と侍女達を自分が選別しなければならないのだと零す少女は王や王妃より年下である事を忘れさせるくらい大人びた笑顔で肩をすくめ、やれやれ、と溜め息をつく。けれど王妃が力を使うのは王の凱旋の時とは限らない。むしろこのまま調停会議が滞りなく進み戦いが収束すれば、これまでのように数日寝込む程強い力の必要性はなくなるだろうが彼女が力を封印する事はないだう。既に力の存在が広まっているのなら、今後、同様の事件が起きないとも限らず、ならばどうすれば王妃を守れるだろうか、と王は潜考する。

それからしばし王妃の長い睫毛を見つめていた王はゆっくりと顔を上げ、ユウキに視線を伸ばして「頼みがある」と切り出した。王位に就く前、出会ってから一緒に各地を旅している間もこの青年王は『スリーピング・ナイツ』に向け何かを命令とした形で口にした事は一度もない。

 

「ティアの『癒やしの力』の存在を今更否定するのは難しいだろう。だったら、その力、王妃は王にしか使わない、と噂を流してほしい」

「……なるほどね」

 

力の使用をティターニアにやめさせる事は無理だとわかっている二人ならではの合意だった。どのみち今後は僅かな力の使用による反動の体調不良は頼もしい侍女達がいれば隠し通せるばずだ。そうしていずれは力が存在した事実は消えるか、またはおとぎ話のような浮言として語られるようになるだろう。それまでは自分が標的となればいい。『癒やしの力』を見たければ王を害する他ないのだと知れ渡れば敵は自分にのみ寄ってくるし、自分に降りかかってくる火の粉ならばどうとでも出来ると王は考えた。当然、本当に害されてティターニアに力を使わせるような展開になるわけにはいかないのだが、ひとつ気が進まないのは、この場合、襲われるとすれば王妃が同席しているか近くにいる場合に限られるという点だ。

彼女が王の負傷にいち早く駆けつけ、力を使わねば敵も目的は達成されない。

となると今後、王妃はもちろんだが自分の護衛も多少強化すべきか……と考えたところで青年王は王妃の願いを思い出す。

 

「ユウキ、領地や爵位の代わりにティアが『スリーピング・ナイツ』をオレ直属の近衛騎士団にして欲しいと言っているんだけど、どうだ?」

「近衛騎士団か……悪くないね。本当はティターニアの専属になりたいけど、王様直属の方が何かと自由に動けて都合が良さそうだし。ならさっ、ボクからもひとつお願いがあるんだけど」

 

まるでおやつのパンケーキをもう一枚ねだるような気軽さでユウキは無邪気な笑みを王に向けた。

 

「近衛騎士団には王様と同じ超法規的特権を使わせてよ」

 

思いもよらない提案に一瞬、驚いた様子の王だったがすぐに「そうだな」とこちらも高官達を納得させる苦労など知らぬふりで受け入れる。王からの容認に気をよくしたユウキは目を細めて静かな寝息を立てているティターニアの頭を撫でた。

 

「きっとボク達は、ずっとこの色を見守っていくんだろうな」

 

ナッツブラウン色の髪をすすっ、と毛先まで指で梳き、最後に指に絡ませてくるくると遊ぶユウキはその色から視線を外さずに遠い過去を懐かしみ未来にまで思いを馳せる。

 

「ボク達『スリーピング・ナイツ』はティターニアに出会う前からたくさんの国を渡り歩いてきたんだ。ボク達が最高に楽しめる国を探してね。それはティターニアが仲間になってからも変わらなかった。そして今はそのティターニアが王妃になった国にボク達はいる。ボク達はようやく見つけたんだよ、ボク達がいるべき国を」

「ティアも同じような事を言ってたな。オレや自分がいなくなっても、ユウキ達ならこの国を守ってくれるから同じ力を持つ者が現れても大丈夫だ、って」

 

今度はユウキが驚きで言葉を無くす番だった。けれどすぐに破顔して小さく笑い声を漏らす。

 

「やっぱりティターニアには敵わないな。気づいてたんだ、ボク達の力のこと」

「オレには何の事なのかさっぱりなんだけど、確か『スリーピング・ナイツ』のメンバーには自分とは違う力があるとか……」

「ふふっ、ティターニアが可愛くて、強くて、優しくて、賢い事は王様より知ってたはずなのにね。だったら大好きなティターニアの期待には応えなきゃ」

 

そう言うとユウキは表情を改め背筋を伸ばし、青年王の正面に直立すると、スッと片膝を床につき片手を胸にあて目を伏せて頭を垂れた。

 

「略式だけど……『スリーピング・ナイツ』の総意として誓うよ。この先、何があろうと『癒やしの力』を持つ者を見守り続けるって」

 

真摯な少女の声が室内に静かに響く。それに対し青年王も真っ直ぐに王として問いかけた。

 

「共に在り続ける、とは言わないのか?」

 

顔だけをあげた最強騎士は真剣な表情を崩して悪戯を仕掛ける前触れのような意味深い笑みを返す。

 

「だって『癒やしの力』が寄り添う唯一の存在はいつだって他にいるからね。ボク達はそれを見守るだけ」

 

既にティターニアをその腕の中に囲い、他者と共に分け合うなんて許すはずもない男が何を言ってるのさ、と冷ややかさを混ぜた目で見れば王はやわらかな笑顔で、この国の王として、『癒やしの力』を持つ女性を伴侶とする者として、心からの感謝を込め「ありがとう、ユウキ」と誓いを受け取った。

その後、王妃のケガが回復する頃には王直属の近衛騎士団新設は決定となっており、速やかに就任式が執り行われた。と言っても城に務めている者達にとってはそれまでと別段変わった事はなく、ユウキ達『スリーピング・ナイツ』のメンバーは城内において自由に過ごし、時には王と一緒に騎士達と模擬戦を行ったり、ユウキに関しては王妃が王の為にと用意した手製のおやつをつまみ食いしたり、と楽しげな様子を振りまく日々が続いた。

ただ、時折、王妃の近くで切迫した剣と剣とがぶつかり合う響きを耳にした者もいたようだが、その原因も結果も公にならないまま時は過ぎていく。

そうしてアインクラッド王国の王が代を重ねるにつれ、ナッツブラウン色の髪を持つ女性の出生率は減っていき、『癒やしの力』の名前すら知る者がいなくなっても王直属の近衛騎士団はメンバーを代えることなく密かに存在し続けた。いつしか現れるかもしれない初代王妃と同じくらい色鮮やかなナッツブラウン色の髪を持つ女性を見守る為に……。




お読みいただき、有り難うございました。
いかがでしたでしょうか?
ついに読み手様の脳内変換に頼る作品を書いてしまいました(苦笑)
当然、初代アインクラッド王とその妃はキリトやアスナと全く異なる容姿なのですが
王妃の名前がティターニアですし、ユウキと一緒に【スリーピング・ナイツ】だったので
こんなパラレル風なのも「あり」かと思いまして。
次の【外伝】は「〜スポ根上等!汗と涙の専従侍女への道〜」です(嘘ですっ)


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55.寄り添い合う(1)

最終章、スタートです。


ユークリネ公爵が建国祭の為に参上していた王城から血相を変えて自分の屋敷へと戻った時、正面玄関では言い争うような勢いのある声が入り乱れていた。

 

「っ、お気持ちはわかりますがっ……」

「とにかく、今はお待ち下さいっ」

 

長年、公爵家の家令を務めている男は「沈着冷静」を絵に描いたなような人物なのだが、珍しくも必死さを窺わせる声と動作で一人の人間を落ち着かせる為にその腕を取り、振り払われまいと力を込めて押しとどめている。同様に家令の隣にいる侍女頭も懸命の説得に、知らず力が籠もっているのだろう、祈るように自分の両手を胸元で固く握り、懇願の言葉を繰り返していた。

この一大事に一体何をやっているのか、と公爵が眉間の皺をより深くさせて近づくと、その騒ぎを数歩手前で眺めていた青年が「そこまでだ」と冷静な一言でその場を平定させる。

 

「父上がお戻りだよ」

「……コーヴィラウル、帰っていたのか」

 

騒ぎの中心人物もそれを宥めようとしていた屋敷の者達も完全に周囲が見えなくなっていたようだが、公爵家嫡男の一言で我を取り戻し、素早く彼の後ろへと一直線に並ぶと自分達の醜態の反省も相まっていつもより深く頭を垂れている。この場に秩序が戻った事で僅かな休心を得た公爵は息子の前に立つと「よく戻って来てくれた」と労いを口にしてら「それにしても……」と自問のように声を潜めた。

 

「このタイミングて帰ってくるとは……お前らしい、と言うか…………いや、今は心強い」

「正確には、まだ屋敷には入れてもらってないんですけどね」

 

この場の空気を和らげる口調で少し戯けて言うと、公爵は今更ながら息子が旅支度の格好のままだという事に気づき、自分も相当平静さを欠いていると自覚する。

 

「どこまで把握している?」

 

共に事に当たれる存在に内で感謝して気持ちを前に向かせ、まずは今、得られる全てを知っておきたい、と公爵が問いかけると、無駄を省いた言葉に父の聡明な頭脳が働き始めたのを感じたコーヴィラウルは自身も声音を改め背筋を伸ばした。

 

「アスリューシナとキズメルが屋敷から連れ去られて既にかなりの時間が経っています。犯意の持ち主はオベイロン侯爵だとガヤムマイツェン侯が断定され、後を追ってお一人で中央市場へ……」

「ガヤムマイツェン侯が?、私は城で第四騎士団団長のルーリッド伯のご子息から聞いたが……」

「はい、ガヤムマイツェン侯とルーリッド伯のご子息は揃って我が屋敷まで来られ、アスリューシナの不在から今回の謀略を知り父上に知らせる為、伯爵子息は城へと。どうやらガヤムマイツェン侯は前々からかのアノ侯爵の動向を気に掛けてくれていたようで……」

「なぜガヤムマイツェン侯爵がそこまで?」

「そりゃあ、父上…………とられたくないからでしょう」

 

困り笑いに緩んだコーヴィラウルの顔は一瞬で、すぐに「今現在は……」と表情を引き締める。

 

「ガヤムマイツェン侯を乗せたうちの馬車は既に戻ってきています。御者はアスリューシナ専属のあの者を付けたそうですから、市場までは問題なかったでしょう。そこに俺達が帰還し、俺と一緒に事の次第を聞いた途端、自分も探しに出ます、と俺の護衛が殺気立ち、それを静める為にちょっとした騒ぎに……」

「申し訳ございません」

 

この場を代表して家令が口を開いた。その謝罪が何に対してなのか、深く追求することなく公爵は久方ぶりに会う息子の専任護衛を見つめる。

 

「……ヨフィリス……気持ちはわかる。お前とて娘、キズメルの行方は心配だろうが……」

「そうではありません」

 

主の声を遮ると同時にヨフィリスが顔を上げた。未だ痛々しさの残る一筋の傷が片方の瞼を縫い付けているが、それ以上に痛みに耐えるかのような苦衷の表情が見る者の心を締め付ける。

 

「我が娘が専任護衛としてお側に仕えていながらこのような事態に…………再びお嬢様があの時のような思いをされているのかと思うと……」

 

十四年前、アスリューシナが囚われの身となっていた姿が開かない瞼の裏に焼き付いているヨフィリスは声を震わせた。その声に誘われ、この場にいる者達全員が十四年前の悲惨な記憶を呼び起こしかけた時だ、若々しくもハッキリとした否定がその場の空気を今に引き戻す。

 

「違いますよ…………十四年前とは。それこそアスリューシナの側にはキズメルがいます。時間は経っていますが、既にガヤムマイツェン侯爵もルーリッド伯爵子息も動いてくれているのです…………何より……」

 

コーヴィラウルの声が一段と低くなった。

 

「今回は首謀者が特定できている」

 

今の今まで使用人達の前でも、父親である公爵の前でも、どこか達観した様子で事件から一歩手前に退いた位置に自らを置き、感情を高ぶらせる事なく穏やかに対処していたコーヴィラウルの瞳が初めて熱を帯びた。いや、表に出ていなかっただけで、既に内で渦巻いていた怒りの炎が抑えきれず、瞳に漏れ出たと言うべきだろうか。

そう、十四年前とは違うと言うのなら、アスリューシナの兄とて、あの時、無邪気にも午睡を満喫している間に大切な妹を奪われてしまった無力な少年ではないのだ。ユークリネ公爵の片腕と称されるほどに知識を得、知恵もつき、物事の対応力も養ってきた。父とはまた違う独自ルートも幾つか持っている。

十四年前のような後悔で押しつぶされそうな結末は一度味わえば十分だった。

聞けば、ガヤムマイツェン侯は王の近衛騎士団さえ動かすつもりのようだ。ガヤムマイツェン侯とアスリューシナの二人の進展具合はサタラから報告を受けている。あの青年ならば妹の救出はまず間違いなく成し遂げてくれるだろう。自分が動くのはその後だ、とコーヴィラウルは猛り狂う憤炎をかろうじて御し、再び人畜無害な笑みを浮かべて「とりあえず、今は……」と口元を緩ませた。

 

「屋敷に入れてもらえるかな?、馬車の中に客人もいるんだ」

 

 

 

 

 

中央市場での花火もとうに散り、市井の民達は祭りの興奮を抱いたまま、ある者は我が家へ、ある者は酒場へ、またある者は自分の持ち場へ、とそれぞれの居場所へ身を収め終わった頃、貴族の屋敷が建ち並ぶ一画を闇夜を切り裂くような猛烈な勢いで走り抜ける一台の馬車があった。それぞれの屋敷の門番達は何事かと首をひねったが、すぐに蹄と車輪の音は小さくなっていったし、主家に害が及ばないのであれば余計な関心事は身を滅ぼす種だと知っていたので誰もその正体を探ろうとは思わなかったのである。

しかし、ユークリネ公爵家の門番達だけは例外だった。

近づいてくる馬車に期待と不安の目を凝らす。

自分達が仕える公爵家の令嬢が不埒者によって連れ去られた事実は既に屋敷にいる使用人全員に通達されていた。

暗闇の中から馬の姿と馬車の輪郭が朧気に近づいて来て、その御者台で鞭を振るう人物が自分達と同じ使用人仲間であり令嬢の専任護衛を務めている女性だと気づき、その彼女の必死な形相までもが見分けられた時、門番達は様々な感情と憶測を封印して馬車の速度を落とさせないよう即座に門扉を動かしたのである。

一切スピードを緩めず公爵家の敷地内へと馬車を駆け込ませたキズメルは正面玄関の手前で手綱を力いっぱい引き締め、馬を失速させた。それまでずっと全力疾走を求められていた馬達は突然の正反対の指令に抗い、夜空にいななきを響かせる。

しかし、その高音の咆哮を合図とするように蝋燭の灯りが消えていない公爵家の内側から重たい扉が開き、次々に使用人達が飛び出してきた。

 

「キズメルっ」

 

興奮が収まらず未だ鼻息荒く跳ねるように足踏みを繰り返し頭を振り動かしている馬達を御者台で懸命に静めようとしているキズメルの耳に緊迫した父の声が突き刺さる。えっ?!、と驚きと共に顔を向けると、駆け寄ってくる使用人達の先頭に怒りと安堵を同居させた父の顔があった。

 

「……父……上?」

 

一瞬、意識が逸れた隙を突くように再び馬達の動きが激しくなった時、宙を踊る手綱をいきなり伸びてきた手がパシッと短く掴む。それはキズメルがアスリューシナと中央市場に出掛ける時、いつも御者を務めてくれている男の手だった。

 

「後は私が」

「頼みますっ」

 

馬の扱いにおいてこの公爵家で彼の右に出る者はいない。キズメルは何の躊躇いもなく手綱を手放し、すぐさま御者台を下りると馬車の扉の前に立った。ちょうど駆け寄ってきたヨフィリスが彼女の隣でもう一度「キズメル」と問いかけるように娘の名を呼ぶ。

 

「ご心配をおかけいたしました、父上。アスリューシナ様は馬車の中です」

 

父親の帰還に対する挨拶や問いよりも、まずその憂いを晴らす言葉の選択に娘の冷静さを感じたヨフィリスだったが、キズメルの表情は安堵を招くものではなかった。馬車の取っ手に触れる寸前で彼女の手が躊躇うように止まる。

 

「ですが…………かなり無茶な状態で力をお使いに……」

「なんだとっ?!、お前の傷を癒やされたのかっ?」

 

ヨフィリスがあげた非難じみた声とそれに答えることなくキズメルが静かに扉を開いたのは同時だった。「到着いたしまた」とその場で礼をとる彼女の小さな声が真っ暗な車内に投げ込まれれば、奥の座面の黒い物体がもどり、と動き、ヨフィリスは、ハッとしてそれを凝視する。

 

「……すまない……『癒やしの力』を使わせてしまったのは……オレだよ」

 

ヨフィリスには聞き覚えのない若者の声だったが、かろうじて絞り出している、といった語気に高まっていた感情が落ち着きを取り戻し、もう一度視線で娘に説明を求めるが、キズメルが口を開く前にキリトゥルムラインの弱々しい声が続いた。

 

「キズメル……早くアスナを部屋に…………オレも、ちょっと……寝る……」

「侯爵様っ?!」

 

脱兎のごとく車内に身を滑り込ませたキズメルの耳に闇の中から聞こえてきたのは、早く部屋に運ぶようにと指示したわりに、しっかりと膝の上で公爵令嬢を抱きしめているガヤムマイツェン侯爵の寝息だった。




お読みいただき、有り難うございました。
おおぅっ、ユークリネ公爵様とヨフィリスさん、初対話でございます(苦笑)
そしておかえりなさい、コーヴィラウルさまっ。
今にも飛び出していきそうなヨフィリスさんをどうにかして止めようとしている
家令さん……きっと腰あたりにギュッとしがみついたかと……頑張れっ、家令さん。
コーヴィラウルさまは肩を震わせて眺めていただけです。


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56.寄り添い合う(2)

ユークリネ公爵やコーヴィラウルが待つ屋敷へと戻ってきた
キズメルとアスリューシナ、そしてキリトゥルムラインだったが……。


屋敷中の誰も口にはしなかったがお世辞にもセンスが良いとは思えない絢爛豪華に飾り立てられた馬車を操り、キズメルが公爵家に暴走と言っていい勢いで戻って来た後、屋敷の正面玄関の前ではちょっとした騒動が沸き起こった。

興奮でいななき続ける馬達はすぐに公爵家の下男が静めたものの、それと入れ替わるようにして声を荒げたのは公爵子息の専任護衛を務めているヨフィリスだ。

大事な主家の令嬢が持つ希有な力の行使は、それと引き換えに令嬢の体調を著しく低下させると知っていたからで、その原因を自分の娘が作ったのかと想像した途端、彼の背は震えた。十四年前と同様の悲劇が繰り返されるのかと推測したからだ。

けれどその思考は車内から零れ出てきた青年の掠れ声で覆される。

そして次はその青年の腕の中で昏睡状態に陥っていた令嬢をキズメルが抱きかかえて馬車から降りた時だ。

それはもうこの世の物とは思えぬ断末魔のごとき多重奏の甲高い叫び声が公爵家の敷地内に響き渡った。もちろんアスリューシナの侍女頭を務めるサタラを始めとした侍女達の悲鳴だ。

こちらは令嬢を包んでいたマントがパサリ、と落ちたのが原因だった。

それまで隠れていた喉元や腕、足の切り傷が晒されたのである。

サタラは震えるほど両手を固く握りしめたまま、ダンッ、と一回だけ片足で力いっぱい大地を踏みとどろかすと顔を上げ、即座に配下の侍女達に指令を飛ばし、自分はキズメルの隣でアスリューシナに寄り添うようにして彼女の私室へと同行した。

ここで女性の使用人達の姿は皆無となる。

残されたヨフィリスは馬車内に足を踏み入れ、一人取り残されていた青年を担ぐようにして外へと連れ出した。

二階の執務室にいた為、随分と遅れてこの場に到着した公爵とその令息、そして家令が痛ましい姿ではあったがアスリューシナが戻って来たことに肩の力を抜き、侍女達に囲まれながら屋敷内へと運び込まれる姿を見送った後、ヨフィリスの元へと近づいてくる。

担いでいる青年の処遇に少々困惑気味の己の専任護衛の顔を見て、コーヴィラウルは軽く握った片手で口元の笑みを隠し、タネ明かしをするように目を細めた。

 

「彼がガヤムマイツェン侯爵家の当主だよ」

 

公爵家の嫡男を国の外で護衛する事が一年の大半を占めるようになってから貴族社会の代替わりについては知識としてしか頭に入っていなかったヨフィリスは僅かに目を見開き、すぐに丁重な手つきで抱え直した後、そっ、と若き侯爵を見たが、生憎と力が抜けて俯いている為、濃く艶やかな黒髪でその尊顔は覆われている。それでも、すーぴー、すーぴーと無邪気に響いてくる寝息は不思議にもこの若者の誠実さを感じさせた。

 

「この方は……お嬢様が力をお使いになった原因は自分だと……使用人の私に『すまない』と謝罪の言葉を口にされ……」

「って事は侯爵殿もかなりのケガを負われたのだろう」

 

コーヴィラウルは無造作にキリトゥルムラインのカラスの濡れ羽色の髪に片手を差し入れ、その下の額に手の平を当てる。

 

「体温が随分と下がってる。重度の貧血といったところか。アスリューシナの力の事もご存じのようだし、このまま侯爵お一人をガヤムマイツェン邸までお送りするわけにもいかないだろうな」

「なんだとっ、コーヴィラウル、侯爵殿を我が屋敷で休養していただくつもりかっ?」

「それがいいと思いますよ、父上。今回の事件でアスリューシナを救い出してくれたのは間違いなく彼なんですから」

「しかしっ、侍女達はアスリューシナの看病で手一杯になるだろう。その上、侯爵殿までとなると……」

「ああ、彼は栄養と睡眠を存分に取っていただければ回復するでしょうから手はかかりませんよ。それに、多分このままご自分の屋敷に戻られてもすぐにやって来るでしょうし」

「どういう意味だ?」

「それは侯爵殿ご自身から聞いてください。じゃあヨフィリス、彼を二階の客室に運んでくれるかな……あそこならアスナの私室とは正反対の場所だが階段を使わなくても行き来ができるし」

「コーヴィラウルっ」

 

今度はユークリネ公爵の叫び声が木霊した。けれどその声を聞き流したコーヴィラウルは僅かに悲痛な面持ちとなっただけだった。

 

「父上、若くはありますが彼は三大侯爵ですよ。一階の客室というわけにはいきません。それに彼は知るべきなんです。俺達と同じようにアスリューシナを守る者の一人として……」

 

コーヴィラウルから強い覚悟を感じ取って、ユークリネ公爵は眉間に力を込めたまま唸るような声で「わかった」と了承を示した。

 

 

 

 

 

誰かに強く呼ばれたような気がして、キリトゥルムラインは、はっ、と目を覚ました。

覚えてはいないが、何か夢を見ていたのだろうか、やけに心臓の鼓動が早く感じる。周囲の薄暗さと未だぼんやりとした視界の中で最初に映ったのは天井の大柄模様で、次に自分を包む暖かな寝具の感触からベッドに寝かされているのだと気づく。

けれど見覚えのない天井画からここが自分の寝室でない事がわかると、すぐに頭と視線を動かして警戒の目で周囲を見回した。室内の暗さの原因は今が夜だからではなく、ベッドのすぐ近くにある大きなカーテンがぴっちりと閉まっているせいらしい。

まずは自分の現状を把握しなければならない、とキリトゥルムラインはゆっくり起き上がる。

清潔で肌触りの良い寝衣に軽くて柔らかな寝具、それだけでここが上流貴族の屋敷の一室だろうと推測しつつ床に足を付け立ち上がろうとすると、くらり、と身体が揺れる。まるで脳内に水が半分ほど溜まって、それが大きく振り動かされているようだった。傾いた身体を戻そうとして反対側に頭を振れば、余計な反動がついて今度はそちら側に倒れそうになる。

よろめく身体を制御できず、酒酔いのような足取りではまともな一歩すら踏めないキリトゥルムラインは結局、ぼふんっ、と元のベッドに座り込んだ。

その微かな音を拾ったのか、ドアの外から控えめなノックの音が室内に忍び込んでる。

一瞬、迷った後「どうぞ」と応えると、静かに扉が開き、そこからの光で部屋の一画が彩られるが、キリトゥルムラインの足元までは伸びてこない。その光を背負った一人の従者が寝室に足を踏み入れることなく頭を下げた。

自分の屋敷の者ならば遠慮無く会話が始まるのだが、一向に言葉を発しない従者を見て逆に使用人教育の水準の高さが窺え、ますますこの屋敷の主の予想が確信に近づく。

 

「こ……こは」

「ユークリネ公爵家の客室でございます。ガヤムマイツェン侯爵様」

「ユークリネ公爵殿は、この屋敷に……いらっしゃるのか?」

「旦那様はコーヴィラウル様を伴い早朝より王城に上がられておりますので不在です」

 

静かではあるが張りのある声の雰囲気からして自分の父よりは若そうだな、と感じるが面を上げないので顔の造作どころか表情すら読み取ることが出来ない。けれど自分が何者であるかを承知の上でこの屋敷に入れて貰えたのだと思えば目指す場所へ一歩近づけた気がした。

侯爵の掠れ声に「水をお持ちいたします」と礼を取ったままの姿勢で告げる従者に向け、キリトゥルムラインは彼が遠ざかる前にと手を伸ばした。

 

「アス……ユークリネ公爵令嬢は?」

「……お嬢様は、お部屋でお休みに、なっておられます」

 

教えては貰えないか?、とも思ったから、予想に反して何の抵抗もなく返答され少し拍子抜けとなるが、答えるまでのほんの少しの間と先程の淀みない声とは違う口調の乱れがキリトゥルムラインの内をザワリ、と撫でる。その正体を知るためにも、と今度は思い切った要求を口にした。

 

「令嬢の……彼女の部屋に案内して欲しい」

 

従者が口を閉ざす。

家令に判断を仰ぎに行く様子もみせず、ただ、下を向いて立っているだけだ。

キリトゥルムラインの覚えている最後のアスリューシナは自分の腕の中でマントに包まれ、意識を失ったまま微動だにしない、まるで人形のような姿だった。キズメルにユークリネ公爵家へ到着したのだと知らされた後は記憶が飛んでいる。最悪、あのまま自分だけガヤムマイツェン侯爵家に送り届けられていたとしても文句は言えない。それを誰がどう判断してくれたのか、自分を公爵家に入れ、休息を取らせてくれたのだからこれ以上を望むのは間違っているのかもしれないが……願いを飲み込むことは出来なかった。

今度こそ、とふらつく身体をベッドから持ち上げる。

 

「侯爵様っ、まずはご自身のお身体をっ。只今、水を用意しますので、それにお食事も……」

 

キリトゥルムラインからの問いかけに淡々と答えるだけだった従者が慌てた声で寝室に駆け入り、侯爵の身体を支えようと両手を伸ばしてきた。その手が触れる前に逆にキリトゥルムラインがその腕を捕縛するように掴む。従者の腕に侯爵の指が食い込んで仕立ての良い生地に幾つもの皺が寄った。

 

「連れて行ってくれ……彼女のいる所へ…………頼む」

 

従者の目が驚きで見開かれ、次に眉毛と共に苦しげに歪む。彼はキリトゥルムラインが予想していたよりもう少し若いようだ。アスリューシナの兄、コーヴィラウルよりは上だろうか。

一方キリトゥルムラインはなけなしの力で彼の腕を握り、必死の形相で彼女の元へ導いてくれと懇願する。

この国で貴族の頂点の一人であるガヤムマイツェン侯爵が一介の従者に向ける顔ではなかった。

ほぼ半日前、深夜の大騒動の後、家令を通してコーヴィラウルからこの若き侯爵の世話係を拝命した彼はすぐに屋敷の二階にある滅多に使われない最上級の客室にあるベッドを整えて、侯爵の身を清め、寝衣を用意した。侯爵の右腕にはヨフィリスの顔よりも長い傷跡が生々しい血の赤で刻まれており、一目でこれが原因なのだとわかった。

この青年が公爵家の宝とも言うべき存在の令嬢を救い出してくれた事は屋敷中の人間が知っている、と同時にこの青年に力を使った事で屋敷の使用人達全員が大切に思っている令嬢がベッドから起き上がれない状態にある事も……。

キリトゥルムラインがアスリューシナに会わせて欲しいと口にした時、躊躇いが生まれたのはこの従者の個人的な感情からだ。使用人風情が三大侯爵家当主に対して感情を出すなど許されない行為。

しかしベッドに座っているのもやっとの状態の青年は、従者の態度に声を荒げるどころか、自力で立ち上がり、あまつさえ使用人に「頼む」という言葉さえ口にしたのだ。きっとこの侯爵は令嬢のいる場所さえわかれば這ってでも辿り着く気なのだろう。

暗がりでもわかるほど血色の悪い顔に上がる息、従者の腕を掴んでいる手は既に哀れなほど震えている。それでも流れ出てしまった血液、戻っていない体力、使い果たした気力……そんなもの、あとでいくらでも取り戻せる、今は彼女の側にいたいのだと、真摯な黒い瞳が痛いほど訴えていた。




お読みいただき、有り難うございました。
ユークリネ公爵家の庭に怪鳥がいるらしい、という噂が立ったとか
立たないとか……(それ、侍女サン達の悲鳴です)
ご令嬢には「お湯、お湯」「タオル、タオル」「着替え、着替え」
「お薬、お薬」と侍女達がワラワラしたでしょうが、侯爵様の方は
「起きるまで寝かせておけばいいよ」(Byコーヴィラウル)かな?


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57.寄り添い合う(3)

ユークリネ公爵家で休息をとっていたキリトゥルムラインは
従者に頼み込み、アスリューシナの私室へと案内され……。



見慣れていると思っていたアスリューシナの私室だったが、昼間の明るい時間帯での訪問は初めてだったと改めて気づき、その印象の違いにキリトゥルムラインは少し驚いた。いくら蝋燭の灯りがふんだんにあったとは言え、バルコニーに面した何枚もの大きな硝子窓から差し込む沢山の陽光には敵うはずもなく、部屋の隅々まで目にすることの出来た今、品の良い調度品でまとめ上げられ、それでいて温もりのある雰囲気はまさにアスリューシナそのものだ。加えて、夜の訪問にはいなかった彼女付きの侍女達がこそかしこに控えている。そんな中、自分がいた客間の寝室からずっと肩を貸してくれている従者が共に令嬢の居間まで入室した時、そっ、とキリトゥルムラインに耳打ちをした。

 

「念の為申し上げておきますが、我々男の使用人がお嬢様の私室に入ることはありません。警護に関してはお嬢様の専任護衛は女性ですし、ここの侍女達は……何と言いますか……頼りになる者ばかりですので、お嬢様がご自身で立っていられない場合でも、お部屋にお連れするのには何の問題もないものですから」

「だろうな……」

 

なので、今回、自分が令嬢の私室に入れたのは侯爵に付き添っているからなのだと説明した後、従者は居心地が悪そうに周囲の侍女達を見遣る。

しかしここの侍女頭をはじめとして、これまでの他の侍女達の姿も何度か目にしたことのあるキリトゥルムラインにとっては、その口の堅さも、忠誠心も、そして何より清々しいほどの逞しささえも賞賛に値するものだ。

世話をしてくれている従者にアスリューシナの私室への案内を頼んだ時、躊躇いの中にほんの少しの苛立ちが混じっていたのをキリトゥルムラインは感じ取っていたが、この部屋にいる侍女達からはその割合が更に上がっている。面を下げているので視線や言葉を寄越してくるわけでもないのに、剣士としての本能だろうか、皆が皆、一様に令嬢が戻って来た事への安堵と、この部屋にやってきた四大侯爵への困惑、そして怒気が交じり合っていた。

自分達が仕える令嬢の帰還には感謝しているが、同時に昏睡状態の原因でもある青年の存在に対し複雑な感情を抱えているのだろう、それだけアスリューシナを大切に思ってくれているのを感じたキリトゥルムラインだったが、申し訳なく思いながらも今は何よりアスナの姿を確認するのが先だと従者と共に寝室へと続く扉の前まで辿り着く。

ここをくぐるのは二回目だ。

一回目は少し前の領地を往復する前夜、キリトゥルムラインの前で瞼を閉じてしまった彼女を抱き上げ、ベッドまで運んだ時だったが、あの時はすぐに追い出されたのでその後の様子を知る術がなかった。

無意識に高まった緊張感をほぐすため深く息を吐き出している間に、扉の一番近くに控えていた侍女が一礼をしてから侯爵に背を向け、寝室のそれを叩く。

すぐに薄く扉が開き、中から見知らぬ侍女の怪訝な顔が見えたが、その表情もキリトゥルムラインの姿を認めると一跳した。単に若き三大侯爵家当主が令嬢の私室を訪れて来たことに対する驚きだったのか、はたまた他家の従者の肩を借りてまでやって来る執着への呆れを含んだ怖気なのか、眉毛と口元の両端がヒクリと震えた後、小さな声で「少々、お待ちを」とだけ言うと再び扉が閉じられる。

あと扉一枚隔てた場所にアスリューシナがいるのだと思えば、再び扉が動くまでの時間を祈る気持ちで待ち続けていると、ほどなくして音も無くその時はやって来た。

静寂の中、扉がキリトゥルムラインを迎え入れる為にゆっくりと、そして今度は大きく開かれる。

まるで水中から水面の空気を求めるように従者から身体を離し手を伸ばして足を動かす。アスリューシナの寝室は先刻までキリトゥルムラインが使っていた寝室と同様にカーテンによってしっかりと日差しが遮断されていたが、それを補うように蝋燭がそこかしこでやわらかな灯りを提供していた。これまでキリトゥルムラインが夜に訪れるアスリューシナの私室もまた同じように蝋燭の火が室内を照らしていたが、そこが明るく安らぎに満ちていたのはアスリューシナが微笑んでいたからで、今の彼女の寝室には張り詰めた空気しか存在しない。

壁際に控えている侍女達も、ただ一人ベッドの脇に佇んでいる侍女頭のサタラも侯爵であるキリトゥルムラインに向け隣の居間にいた侍女達のように感情を滲み出すことはせず、ただ面を伏しそこに立っている。けれどキリトゥルムラインにとってはそんな事を気にする余裕はなかった。目の前のベッドにまるで棺に納められたように力無く静かに横たわっているアスリューシナの姿を見たからだ。

 

「アッ……」

 

渇いた喉からは満足な声すら出ない。視界は大きく歪んでいたが、それでも力を振り絞りふらつきながらも一歩、また一歩とベッドに近づく。枕に沈んでいる蒼白のアスリューシナの顔以外は目に映っていなかった。

倒れ込みそうになる身体をどうにかベッドへ両手をつく事で防ぎ、そのまま上から彼女を覗き見る。

 

「ア……スナ」

 

小さく、小さく、やっとの思いで紡いだ彼女の名だったが反応は何もなかった。それどころか息をしているかさえ不安になってくる。

 

「……侯爵様、どうぞおかけ下さい」

 

いつの間にかサタラがすぐ後ろに椅子を用意してくれていた。もともと支えがなくては立っていられない状態だ、その言葉に崩れるように腰を降ろす。

けれど、すぐにアスリューシナの耳元に顔を近づけ掠れた声で何度も「アスナ、アスナ」と呼び続ける様が痛々しく、寝室の侍女達は俯いたまま閉じられない耳を恨んだ。そんな姿を見かねたのか、サタラが侯爵の背後に歩み寄る。それに気づいたキリトゥルムラインだったが、視線はアスリューシナから外さず「サタラ」と説明を求めた。

 

「ご覧の通りでございます。侯爵様とご一緒にお屋敷に戻られてから今まで、意識は戻っておりません。ですが……」

 

言いよどんだサタラに向け、キリトゥルムラインがゆっくりと振り返る。

 

「……お力をお使いになったのでしたら、致し方ないのです」

 

キリトゥルムラインの漆黒の瞳が大きく見開かれた。その黒瞳をサタラはまっすぐに見つめ返す。

 

「キズメルから、彼女が知る限りの事は聞いております。侯爵様がそうとう酷い傷を負われたらしい、と申しておりました」

「あ……あ…………右腕の腱を……切られて…………それを、アスナが……」

「その右腕ですか?、お嬢様の手を握っておられる。今は、問題なく動かせていらっしゃるようですね」

「……はい」

 

掛け布から出ていたアスリューシナの手を当然の如く両手で包んでいたキリトゥルムラインは、サタラの指摘で初めて失態だと気づいたようで、侍女頭の冷たい視線と声に違う意味で喉の渇きを覚えた。思わず丁寧な返事をしてしまったが、だからといって今更彼女の手を解放はしない。一方、沈痛な面持ちのサタラはアスリューシナの手を包み込んだままの侯爵の手をジッと見つめたまま、諦めたように、ふっ、と息を吐き出した。

 

「これからは、そうやってお嬢様の手を離さないで下さいまし。お優しくて情の深い方なのです。ご自分の痛みなどすぐ後回しにされてしまうので、私達はいつも心配で心配で……」

 

周囲に控えている侍女達が小さく、うんうん、と頷いている。ここの侍女達の許しを得たと感じたキリトゥルムラインが握る手に少しの力を込めた。それでもアスリューシナの指はピクリとも動かない。

 

「このままで……大丈夫なのか?」

 

サタラがよく目にするキリトゥルムラインのやんちゃな笑みは完全に鳴りを潜めていて、さっきのアスリューシナを呼ぶ声やこちらを見る不安げな瞳はまるで迷子のようだ。けれど『癒やしの力』を持つ者の傍にあり続けたいと望むならば、とサタラは主家嫡男のコーヴィラウルから指示された通り、キリトゥルムラインにユークリネ公爵家にいる人間しか知らない話を打ち明け始めた。

 

「お嬢様のお力は使えばその反動がご自身に返ってきます。以前、侯爵様が痛めたとおっしゃっていた腕がお嬢様の手当で良くなった事を覚えておいでですか?」

 

キリトゥルムラインは黙って首を縦に振る。他の侍女達にとっては既に侯爵が『癒やしの力』を受けていた事実に驚愕するばかりだが、面を上げる者も声を出す者もいなかった。

 

「あの時、お嬢様からの伝言がございましたね、『しばらく大人しくしているから』と」

「そうだったな…………もしかして、あれは病み上がりだったからじゃなくて?」

「はい、お察しの通り、あの後お嬢様は丸一日意識が戻りませんでした」

 

キリトゥルムラインの顔が苦痛と怒りに耐えるようにみっともなく歪む。

 

「くっ……そんな事になるならっ……」

 

知らなかったとは言えそこまでして治して欲しい痛みではなかった、と、あの時、自分の腕に手を当ててくれたアスリューシナの一種神々しい姿を思い浮かべ、その後、元に戻った腕を見てそれが持参した傷薬の効果なのか、と疑いを抱きながらも信じてしまった自分の単純さに怒りを覚える。そんな感情に何度も向き合ってきたサタラは少し表情をやわらめて口元に苦笑を浮かべた。

 

「そういうお方ですからね。こちらがお止めしようとしても無駄なのですよ。ですからどなたか、しっかりと繋ぎ止めてくださらないと……」

 

そう言葉をかけられてキリトゥルムラインは再び彫像のようなアスリューシナの顔を見つめ、彼女の手を握っている自身の手を見る。

 

「…………心配で、もう、一生離せそうにないな」

「是非、そうして下さいまし」

 

サタラの顔が嬉しさに緩むと周囲の侍女達の肩の力も喜びと安心で、ほぅっ、と抜けた。

普段から色素の薄いアスリューシナの手はその顔色と同様に病的な白さにまで色を落としていて、自分の両手とて未だ震えが止まらないと言うのにキリトゥルムラインは丁寧にその甲を撫で続けている。それでも一向に血色は良くならず、瞼が持ち上がる気配すらない。さっきのサタラの話を思い出したキリトゥルムラインは「それなら」と振り返ることなくサタラに問いかけた。

 

「今夜には意識を取り戻すのか?」

 

しかし、その問いにサタラは冷酷とも言える返事を突き返した。




お読みいただき、有り難うございました。
ここまで連れて来てくれた従者さん、困ってます。
「私、出て行った方が良いですか?、それとも
ここで侯爵様をお待ちした方が……」
そこで居間にいる侍女サン達にキッ、と睨まれ
「はい、外(廊下)におりますね」と出て行くのでしょう。


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58.寄り添い合う(4)

意識の戻らないアスリューシナの傍らで令嬢の名を呼ぶ
キリトゥルムラインに向かい、侍女頭のサタラが話し始め……。


「それは、無理かと思います」

 

告げられた内容と妙に冷静なサタラの声音に、一気に感情が膨れ上がったキリトゥルムラインは振り向きざま、ギッ、と侍女頭を睨み、ならばいつになったら目覚めるんだっ、と噛みつきそうな視線を飛ばす。

けれど、それに臆することなく落ち着きを保ったままのサタラは淡々と話を続けた。

 

「私の知る限り、お嬢様が一番強く力をお使いになったのは十四年前です」

「それは……キズメルの父上にか?」

「はい、お嬢様自身、お身体の具合やお心の状態はすぐにでもベッドへお運びしたい位のものでしたが、あの時、傷を塞ぐだけで精一杯だった理由は、何よりお嬢様がまだお小さかったからです…………侯爵様、私を射殺しそうな目で見つめるのはおやめ下さい。誤解なさらないでいただきたいのですが、ヨフィリス様に力をお使いになったお嬢様を私は心から敬愛しております。きっと普通の手当では視力どころかお命すら失っていたことでしょう」

「何が……言いたい?」

「今、拝見しますに、腱を切られたとおっしゃった侯爵様の腕は傷跡は残っておりますものの何の不自由もないようにお見受けいたします」

 

その言葉に誘われるようにしてキリトゥルムラインはアスリューシナの手に伸びている自らの右腕に視線を落とす。言われたように、確かに傷口はうっすらと残ってはいるものの、痛みはもちろん違和感の欠片すらない……当然、剣を振るうのに何の支障もないだろう。

三大侯爵家当主の寝衣の袖口から見える二の腕をあまり凝視してはいけないと、サタラはすぐに視線を戻し唇を動かした。

 

「恐らく、お嬢様は侯爵様の重症のお身体を元通りの状態まで、と治癒を望んだはずです。そしてその願いを叶えるほどの強い力をお使いになった場合、その反動やご回復にかかる時間がどれほどのものになるのか、私共も予想が出来ません」

「そ……んな……」

 

ばっ、とキリトゥルムラインはアスリューシナの生気の感じられない顔を見る。

意識を失う寸前、自分が見上げた先にあった彼女は懸命に涙を堪えて美しく微笑んでいた。それが今は人形だと言われても信じてしまいそうな程に身じろぎひとつしないのである。

自分の剣士としての誇りの代償を目の前に突きつけられ、心が怯みそうになったキリトゥルムラインの泣き出しそうな横顔を見て、サタラは声に優しさを含ませた。

 

「けれど……お嬢様はお喜びになるでしょうね」

 

その言葉の意味がわからずに振り返ると、サタラの背後に並んでいる侍女達も一様にして苦笑を堪えながら互いに目線で頷き合っている。

 

「常日頃からお嬢様付きの侍女達はもちろん、この屋敷にいる使用人達は、皆、大きなケガをしないよう注意しております。その理由はおわかりだと思いますが……とにかく隠そうとしても目聡いのですよ、うちのお嬢様は。嘘や誤魔化しは簡単に見破ってしまわれますし、加えて頑固者ですから、周囲の者の痛みは放っておいてくれません」

 

サタラがちらり、と後ろを振り返る。するとそこにいた侍女達の全員が気まずそうな顔をしながらも自分の身体をどこかを愛おしそうに見つめたり、さすったりしていて……キリトゥルムラインは納得した。多分、そこがアスリューシナに半ば強引に治癒された患部だったのだろう。けれど令嬢付きの侍女と言えば使用人の中でも上級クラスのはずで、ケガなど大してしないと思うのだが、といった疑問を瞬時に読み取ったサタラは柔らかくなった声に続いて目元も緩ませる。

 

「当家の使用人は色々と秘密保持のお役目もあるので少数精鋭なのでございます。更にお仕えするお嬢様は私室からお出になる事も稀ですから、何か気慰みになれば、と侍女達それぞれが考えて行動しますので……」

 

つまりはその行動が原因でケガを負うことがあるらしい、と察したキリトゥルムラインだったが、その内容までは想像が届かない。

随分と興味の引かれる話は今度じっくり目の前の令嬢から聞くことにしよう、と口の端を上げた侯爵は再び彼女の手の甲をなで始めた。

 

「オレの持って来た薬が今のアスナにも効けばいいのにな……」

 

他者に使うばかりで自分はその恩恵にあずかれない奇跡の力……それどころか使うことで我が身に辛さが生じるのなら、その存在すら忌避してもおかしくないのにアスリューシナは率先して目の前の傷に手をかざすのだ。

令嬢を包み込むような眼差しで見つめるキリトゥルムラインの様子をどこか嬉しげに思っていたサタラだったが、侯爵が持参した薬、と聞いて眉をピクリと動かした。

 

「そのお薬ですが、侯爵様……以前、お嬢様が手当てをされたのは剣の手合わせで痛めた筋、でございましたよね?」

「ああ、そうだけど」

「……外傷でもないのに、どうしてお嬢様の知るところとなったのですか?」

「それは、オレがアスナを抱き……」

「だき?」

 

キリトゥルムラインの背筋がピンッと伸びる。瞬時に身体全体の動きを停止させた外見は石像のようだが貧血からだけではない嫌な汗が寝衣に隠れている背中をじっとりと湿らせていた。

見なくてもわかるほど壁際の侍女達からも「だき?」の続きを促すオーラがキリトゥルムラインに向け、一斉に降りかかっている。

ほんの少しの間を置いて「オレがアスナを抱きしめた時、いつもと違う感覚を察知したんだろうなぁ」と続けようとした唇は、もう一度怖々と「だき」を繰り返した。

 

「抱き……上げようか?、って言ったんだ……ほら、夜会で無理させだろ?、そしたら断られて、その時、オレの腕にアスナの手が当たったんだよ。んーでほんのちょっと顔をしかめたから、それで気づいたんだろうな……」

 

ぐぎぎっ、と首を回し、こんな感じでどうデスカ?、と窺うように横目でサタラを見るキリトゥルムラインだったが、侍女頭は恐れ多くも三大侯爵家当主の言葉をひとつも信じていないような眼差しで、それでも空々しい話に合わせて険のある言い方を口にした。

 

「ホイホイと無闇矢鱈にうちのお嬢様を抱き上げようとするのはお控えください、侯爵様」

「はい、そうします」

 

まるで実感のこもっていない形だけの同意を返されたサタラはこれ見よがしに大きく鼻から息を吐き出す。けれどキリトゥルムラインにしてみればアスリューシナを抱きしめる事も抱き上げる事も条件反射よろしく既に身についてしまっている無意識の行動だ。そそっ、と恥ずかしさを滲ませながら己の腕の中にその華奢な身体がやってくれば、当然抱きしめるし、少しでも彼女がふらつけばすぐにでも抱き上げる。今更控えろと言われても無理な話だった。

 

「とにかく、そのようなわけですから侯爵様のお身体に不自由が出てないのでしたら、お嬢様はそれをお喜びになるに違いありません」

「そう……だな」

 

今度はキリトゥルムラインが苦笑いを浮かべる番で、ちゃんと自責の念を抱きつつも令嬢の気質を理解し、受け入れている事を感じ取ったサタラは侯爵が自分に視線を向けてない所で不敵に微笑む。

 

「とは言え先程も申しました通り、私共もお嬢様がお喜びになるからと言って、率先してケガを負ったり、あまつさえそれをお嬢様に見せたりはいたしません」

「うん……そうだろうな」

「小さなケガでしたら傷薬を使いますし……」

 

それが一般的な対処方法だろう、とキリトゥルムラインも素直に頷く。

 

「少々、目立つケガをした時は極力お嬢様に悟られないように致しますが……」

 

使用人としては当然の配慮だ、ともうひとつ頷く。

 

「だいたいはお嬢様に見つかってしまい……」

 

常日頃から周囲の者達への気配りを怠っていないところがアスナらしいなぁ、と知らずにキリトゥルムラインの唇が弧を描いた。

 

「なので……滅多にない事ですが、この屋敷の使用人達のケガにお嬢様が手を当てて下さいます時は……」

 

何やら不必要に気迫のこもった声が襲いかかるようにして自分へと迫ってくるのを感じ取ったキリトは弧を描いたままの口で、パッ、とサタラに顔を向けるが……時、既に遅しだ。

 

「痛みのみを取り除いて下さるよう、お願いしております。後は適切な処置を施しておけば人の身体というものは自然と治す方向に働きますので、仕事に支障をきたすことはございません。完全治癒など、お嬢様のご負担を考えれば恐れ多いことなのです」

 

にこやかに言い切ったサタラの目はちっともにこやかではなく、弧を描いていたキリトゥルムラインの唇はそのまま端っこがひくりと痙攣している有様だった。

 

「え……っと……」

「奥様は只今他国に赴いておりますので、お戻りに半月ほどかかりますが、旦那様とコーヴィラウル様からはご承諾いただいております。良い機会でございますからこの屋敷の人間がどのようにお嬢様に接しているのか、その気構えというものを侯爵様のお身体が回復なさる間、このサタラがしっかりとお伝えしたいと存じます」

 

それってアスリューシナ付きになる新人の侍女教育に近い感じなのでは……とキリトゥルムラインの表情筋が再度固まった時、それこそ自分の専売特許だと思っていた悪戯っ子めいた笑みが一瞬、サタラの顔に浮かぶ。

 

「いつまでも私達がお嬢様をお世話できるわけではありませんから」

 

そう言われてしまっては、近い将来、彼女を自分の屋敷に迎え入れたいと願っているキリトゥルムラインも頷くしかなかった。

 

「よろしく……頼む」




お読みいただき、有り難うございました。
サタラさんによるアスリューシナのトリセツ講義ですね(苦笑)

さて、今年はこれで最後の投稿となります。
一年間『漆黒に寄り添う癒やしの色』にお付き合いいただき
本当に有り難うございました。
また来年も宜しくお願いしますっ。


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59.寄り添い合う(5)

本年も宜しくお願いしますっ。

ユークリネ公爵家に滞在し続けているキリトゥルムラインは……。


三大侯爵家のひとつであるガヤムマイツェン侯爵家の当主がユークリネ公爵家で療養生活を送っているという事実は、当然、ひた隠しにされた。とは言え元々ガヤムマイツェン侯爵は貴族社会へ頻繁に顔を出す性分ではなかったし、アスリューシナにおいては私室からさえ滅多に出て来られない公爵家の病弱な令嬢というのが一般的な認識だったから二人が社交界に現れない事を特に怪しむ者もおらず、キリトゥルムラインはゆっくりと自身の体調を回復させていったのである。

時折、公爵家に大きな鞄を抱えた訪問者が迎え入れられるようになった事と、色とりどりの美しい薔薇が届くようになった事以外はいたって平常通りのユークリネ公爵邸だった。

 

 

 

 

 

けれど、それはあくまでも外から公爵家を見た場合である……。

 

「……これ、絶対、いつもの書類仕事の量じゃないよな」

 

公爵家の正面玄関を入ったすぐ横の小部屋で「どうせすぐに済むから」と、立ったまま、今日で何度目かになる侯爵としての仕事の受け渡しをしながらキリトゥルムラインは己の従者を睨む。

定期的にこの屋敷を訪れているガヤムマイツェン侯爵家の従者は、すっかりこちらのお屋敷に馴染んでしまった様子の主に持参した書類を手渡した後、慇懃に微笑んだ。

 

「通常がこの量なのです。これまでは書類仕事に飽きると途中で執務室から逃げ出してしまわれていたので最低限の量をお渡しして、残りは家令殿が捌いていらしたのです」

「だったら、今まで通り最低限の量にしてくれよ」

「当主不在を悟られずに屋敷内を切り盛りする家令殿にこれ以上のご負担を強いろと?。それに良い機会ではありませんか。本来でしたら貴方様が目を通すべき書類なのですから、この量をこなせるようになって下さい」

 

相変わらず言葉遣いは丁寧だが、主君に対して慇懃無礼ともとれる話の内容にキリトゥルムラインの背後に控えていた従者は呆れと苦笑いを混ぜて一回だけ肩を揺らした。

そう、結局、最初に侯爵の為に二階の客室を整え、意識の戻った彼を令嬢の私室まで肩を貸した公爵家の従者はそのままキリトゥルムラインの滞在中、御側付きの従者という役目を言い渡されたのだ。その任を受けた時、近くにいた侍女頭のサタラが一瞬、何とも表現しづらい目で自分を見た意味をようやく理解しつつある彼である。どうやら自分がお世話を任されている侯爵様は普段からさぼり癖があるらしい、とあまり知りたくなかった一面を胸の奥にしまって、キリトゥルムラインが手に持っている書類の入った分厚い封筒を受け取ろうと、サッ、と侯爵の隣に並ぶべく音も立てずに足を動かし、両手を差し出した。

 

「あ、悪いな。頼む」

 

既に当たり前のようにそれを渡す主を見て、侯爵家の従者は肩をすくめる。

 

「ああ、うちの主を甘やかさなくて結構ですよ」

「お前な、オレは療養中なんだぞ。だから公爵家に世話になってるんだし。それにこっちの方が従者としての正しいあり方なんじゃないのか?」

「貴方様に正しい当主としてのあり方を示して頂ければ私共もそのように致しますよ。それにどこがお悪いんです?、既に傷口さえほとんど消えてお肌の色艶も良く、健康そのものではありませんか。ずるずるとこちらにご厄介になりたいだけでしょうに。折角なんですからこちらの公爵様に色々と教われないんですか?」

 

中央市場を取り仕切る見事な経営術であれば領地経営にも通ずるものがあるだろう、とあろう事か従者が主に発破を掛ける言葉にたまらず公爵家の従者が割って入った。

 

「申し訳ございません。我が主は屋敷を不在にしているのが常でして、それにご子息のコーヴィラウル様も同様、屋敷には遠方より異国の賓客もご滞在中ですので、その方のお相手にお忙しく……」

「という事は、うちの主、こちらのお屋敷的にはもの凄く邪魔な存在になっているような気がするのですが……」

「オレにはお前が公爵家までオレの仕事を運ぶのを面倒がっているとしか思えないけどな」

「はぁ、折角念願のユークリネ公爵家に仕えているというのに短期間とは言えこのお方付きになっているこちらの従者殿に同情しますよ……とんだ貧乏くじでしたね、ホーク兄さん」

「仕事中です、兄と呼ぶのは適切ではありません」

「相変わらず固いなぁ。まぁ、その謹厳さが公爵家の従者としては正しいのでしょうが」

 

いつものように黒い大型鞄の中身を空にした侯爵家の従者はそれを小脇に抱え直し、まさしく憐れみの目でキリトゥルムラインの半歩後ろで分厚い書類の束を持っている公爵家従者を見た。けれどこの場にいる男三人で瞠目している色は深黒だけだ。

 

「兄さん?」

 

キリトゥルムラインの疑問の声に侯爵家の従者が、コホッ、と空咳のような息を落とした。

 

「正確には従兄弟でございます」

「何言ってるんです。自分の方がひとつ上なんだから『兄』と呼べと言ったのはそちらでしょう」

「いったい何年前の話をしているんですか」

「かれこれ二十年程前ですかね」

「無効です」

「なら今更何と呼べと?、ホーク・ライカさん?」

 

フルネームを呼ばれたユークリネ公爵家の従者に二人分の視線が注がれる。

真面目が服を着たような従者の顔がみるみる朱に染まっていく様はいっそ可愛げすら感じられた。

 

「タオシス、そのくらいにしておけ。ホークもそこまで照れるなよ」

「ホーク兄さんは子供の頃からこんな感じの人なんですよ、主」

「従兄弟と言うわりにはお前にこの素直さはないよな」

「私達は互いの母親が姉妹なので、どちらも父親似なのかもしれませんね」

「お前の父親って……」

「はい、うちは数世代に亘ってガヤムマイツェン侯爵家の従者を務めていますから……まさか私の父の顔をお忘れになったわけではありませんよね?」

 

驚きと心配で目をしばたたかせたタオシスのわざとらしい仕草にキリトゥルムラインはうんざりとした顔つきでゆっくりと頭を上下させた。

 

「大丈夫だ、ちゃんと覚えてる。それに今もうちの屋敷で働いているよな?」

「そうですね、元気に先代様のお屋敷で執事を務めておりますね」

 

ガヤムマイツェン侯爵という名がキリトゥルムラインの父親を示す言葉だった数年前まで、タオシスの父親もまた侯爵家の家令として忙しい日々を送っていたが爵位がキリトゥルムラインに受け継がれたと同時に彼もその地位を引退して今は先代夫婦が暮らしている別邸の執事となって時には前ガヤムマイツェン侯爵が滞在しているアーメリア国を行ったり来たりしている。

タオシスの父親ついては今更聞く必要もなかったわけで、本来知りたかった人間へとキリトゥルムラインは顔を向けた。

 

「それでホークの父上は何を?」

「ホーク兄さんの実家は中央市場です」

「店をやってるのか?」

 

ホークの印象からは少し意外な気がしてキリトゥルムラインが声を飛ばせばようやく赤みの落ち着いたホークが少し誇らしげに目を細める。

 

「新鮮な魚貝類の他にも遠海の珍しい海産物の塩漬けや乾物なども扱っております」

「そこでまだ幼かった頃のホーク少年は視察に見えていたユークリネ公爵様とお会いになり従者を志すようになったというわけです。幸い手近な親類に代々三大侯爵家の従者をしている者がおりましたからね、従者教育と称して我が家に預けられ、ほぼ兄弟同然で育ったんですよ」

 

顔つきも態度も似通ってはいないのに、共に幼い頃同じ時を過ごしたせいなのか、今はそれぞれ違う貴族の従者となった従兄弟同士は顔を見合わせてその頃を懐かしむような目で互いを見た。

 

「と言う事はホークがオレの世話役になった事も、タオシスが屋敷からの伝達役になった事もお前達の関係性を踏まえた上での配慮なのか?」

 

キリトゥルムラインが二人に向け問いかける。それに対してタオシスは肩をすくめるだけだったが、ホークは丁寧に「いえ、事前に侯爵家からの使者が我が従兄弟だとは私も知らされておりません。そもそも私の身内がガヤムマイツェン侯爵家で従者をしている事はご存じないと思うのですが」と控えめな声で答えた。

その返答に、うーむ、とキリトゥルムラインが考え込む。

確かに普通の貴族ならば自分の屋敷に仕えている従者の血縁関係などそれほど掘り下げて調べる事はないだろう。しかしここは国家レベルの機密を有しているユークリネ公爵家だ。加えて公爵家にとっては領地とほぼ同意の中央市場で店を構える者達に関する事ならば、どこまでを把握しているのか、単に自分の考えすぎだと簡単には流し切れない勘のような物がキリトゥルムラインの思考を引き留める。

そもそもキリトゥルムラインが公爵家の客室で目覚め、アスリューシナを見舞った日の夕刻には涼しげな笑顔の自分の家令が沢山の荷物と共に紋章の入っていない箱馬車でやってきた事を思い出して、眉間の皺はより深くなった。

一体、いつの間に、誰が話を通したのか、家令は自分の主人が公爵家で仕事をする上で必要な物と当面の衣類を持参し、一緒にやってきたタオシスに運ばせ、ついでのように今後はこの者が屋敷との連絡役を致します、と告げたのである。そこからほぼ二日おきに、このタオシスが書類を持って公爵家に通っており、今日になって今まで散々顔を合わせていた公爵家の従者と侯爵家の従者が実は従兄弟同士だったという事実を知らされたのだ。

もしかして、知らなかったのってオレだけ?……と、一種の疎外感を抱きそうになったキリトゥルムラインだったが、ふと、時刻に気づいて声を素っ気なくさせる。

 

「考えても仕方のない事か……ご苦労だった、タオシス。屋敷の者達に宜しく伝えてくれ」

「はい、ではまた参ります」

 

辞するタオシスにキリトゥルムラインが複雑な目で見送ると、小部屋を出ようとしている彼に素早くホークが近づき小声で「タオ」と呼び止めた。

多分、昔からの呼び方なのだろう、いつもの四角張った表情に少しだけ弟分の従兄弟を思いやる兄の顔となっている。

 

「ちゃんと寝ていますか?、少し目が赤いようですが」

「その目敏さ、うちの家令殿並みですよ兄さん。帰りの馬車の中で寝ますから大丈夫です」

「自身の体調管理も従者の勤めです」

「うえっ、それ、うちの父の口癖じゃないですか」

 

苦笑によって崩れた顔を立て直し、タオシスがキリトゥルムラインに一礼をして部屋から消えると、すぐに「失礼しました」と言いながらホークが戻ってきた。

 

「ああ、そろそろ時間だろ?」

 

自分が促すまでもなく、頃合いを見計らってタオシスとの面会を切り上げる侯爵は従兄弟が言うほど公爵家にとって邪魔な存在ではないのですが、と思いながらも、実家の話が出た事でホークは今日の昼前に自分が受け取ったメッセージの存在を思い出す。

 

「侯爵様、少々よろしいでしょうか」

「歩きながらでいいか?」

 

小部屋を出たキリトゥルムラインはタオシスとは反対方向の屋敷の内部へと踏み出していて、目的地へ向かおうとする足取りは既にしっかりとその位置を把握しているのがわかる。ホークが「問題ございません」と言いつつ書類を抱えたまま侯爵の後に続いた。

 

「先程申しました私の実家から伝言があるのです」

「オレ宛てに?」

「正確には中央市場から私の実家を通して私に宛てられた物でございます」

 

漠然とした話に今ひとつ理解しきれない顔で振り返ったキリトゥルムラインを見て、ホークもまた困ったように笑う。

 

「私もどういう意味なのか分かりかねているのですが、とにかく『もし、ガヤムマイツェン侯爵殿と言葉を交わす機会があれば伝えてくれ』と」

 

その言い方だけで伝言を送ってきた相手というのが十中八九、中央市場で果物を扱っている店主あたりだろうと予測できた。しかも宛先を侯爵家ではなく、直接公爵家にしている所がキリトゥルムラインの滞在地を把握している事を示唆している。

こっちは必死で居場所を隠してるっていうのに……もしかしたらホークがオレ付きになっている事すら察知されているか?、と怖気を震わせたキリトゥルムラインが、怖々と「で?」と先を請うと、重い書類の束を抱えたままの従者は意味のわからない外つ国の言葉でも口にするように不可解な表情のまま口を動かした。

 

「『小さい方の黒はちゃんと戻っている。今度、機嫌を取りに来いよ』と……」

 

侯爵相手の無礼な語調も伝言主の正体をますます確実にさせていた。

しかし、そこはいつもの事なのでキリトゥルムラインの気に障ることはなく、むしろ冒頭の「小さい方の黒」という言葉に意識が持っていかれる。

小さい方の黒……小さい方の黒……黒、と言えばアスリューシナと共に中央市場へ出掛けた時、彼女が一番好きな色だって言ってた……あのきっかけは何だっけ……と記憶をたぐり寄せていたキリトゥルムラインは公爵家の二階に続く階段を上りきった所で「あーっ」と大声を発した。侯爵の奇行に階段途中にいたホークが慌てて一足飛びに駆け寄る。

 

「どうかなさいましたかっ、侯爵様っ」

「まずいな……」

「何がでしょうか?」

「すっかり忘れてた」

「私に出来る事でしたら何なりとお申し付けください」

「ホーク……」

「はい」

「実家の店が海産物系のお前には頼みづらいんだけど……」

「はい?」

「中央市場で犬が喜びそうな最高級の肉の用意を頼めるか?」

「は?」

「……近々、トトに謝罪してくる……」

 

あの夜、あの場所まで案内役を務めてくれたトトをすっかり置き忘れてきたことに今更気づいたキリトゥルムラインだった。




お読みいただき、有り難うございました。
「侯爵家の従者」さんと「公爵家の従者」さん、どっかで誤字ってないか
不安でいっぱいです(苦笑)
「公爵家の従者(兄貴分)のホーク・ライカ」は「北海いくら」さんを混ぜました。
「侯爵家の従者(弟分)のタオシス」は……逆読みをしていただければ、あの
キャラネームの真ん中あたりになります。
ちなにみホークには兄がいる(勝手な設定な)ので実家の海産物系のお店は彼が
継ぐでしょう。
実家では弟の立場なので「兄」に憧れがあったと思われます(笑)


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60.寄り添い合う(6)

自身の屋敷からの従者との面会が終わって、二階の令嬢の私室へと
急いだキリトゥルムラインは……。


アスリューシナの私室にやって来たキリトゥルムラインはちょうど寝室から出てきた数名の侍女達の手にしている物を見て声を掛ける。

 

「終わったのか?」

「はい、今し方」

 

ここに来る途中、この屋敷で自分の側付きをしている従者のホークを通して中央市場から届けられた伝言から完全に忘れきっていた小さな英雄とも呼ぶべき存在を思い出した事で多少時間を費やしてしまったが、どうやら間に合ったらしい、とキリトゥルムラインは胸をなで下ろした。寝室に通じる扉は未だ開いたままで、閉じられる前にっ、と駆け寄る一歩手前の速力で顔を突っ込む。

 

「アスナ」

 

寝室の主の名を小さく口にしてから、それが入室の合い言葉とでも言うのか、特に誰の許可も待たずキリトゥルムラインはアスリューシナが伏せっているベッドへと一直線に歩み寄った。ベッドの上を見下ろせば、そこには閉じた瞼を縁取る長い睫毛を揺らしながら苦しげに浅い呼吸を繰り返している公爵令嬢の火照った顔がある。きっとキリトゥルムラインに名を呼ばれた事すら気づいていないだろう。

先刻すれ違った侍女達が持っていた洗面用具や数枚のタオルで全身を清めた後、寝衣も替えた為にいつものアスリューシナの香りが僅かに和らいでいるが、清潔になったはずの肌には既に発熱による新たな汗が滲んできている。

それでもキリトゥルムラインはサイドテーブルに用意してある布で彼女の額やこめかみを軽く拭うと「うん、さっぱりした後は食事にしようか、アスナ」と笑いかけた。

 

 

 

 

 

アスリューシナが意識を取り戻したのは屋敷に戻ってきてから三日後の事だった。

その知らせを受け、慌てて令嬢の寝室へと駆けつけたキリトゥルムラインだっだか、そこに「キリトさま」と優しげに微笑む姿ではなく、ベッドの上で熱と苦痛に歪む痛々しい姿を目にして愕然となった。

声も出せずに立ち竦んでいると、背後からサタラが「侯爵様」と声を掛けてくる。

 

「ここからはお辛いばかりです。お嬢様もこのようなお姿を侯爵様の目に晒す事を快くは思われないでしょう。いかがなさいますか?」

 

それはキリトゥルムラインが自分の屋敷、侯爵家に戻る選択肢を示していた。

元より右腕の傷口の存在など傷跡でしかなく、この三日の間で体力も戻り、体調もすっかり回復している。自分の痛みを取り除いたせいで彼女が苦しむ姿を見続けなければならないのは、治癒された側の人間からすれば悔恨と自責の念に耐える日々が続くのだとサタラにはわかっているのだ。

けれどキリトゥルムラインはアスリューシナから目を逸らすことなくハッキリとした声でサタラに問いかけた。

 

「ユークリネ公爵殿の意向は?」

「はい、旦那様は全てガヤムマイツェン侯爵様のご意思を尊重する、と」

「なら何も問題はないな。アスナが元気になるまで引き続きこの屋敷には厄介をかけるけど…………サタラ、今のアスナに……触れても、大丈夫か?」

 

既に覚悟は出来ている強い口調から途端に気弱な声で尋ねられたサタラは嬉しそうに口元を緩めて「これまでと同様にお声をかけ、手を握って差し上げて下さいませ」と答えた。

アスリューシナ付きの侍女達にとってもすっかり見慣れた光景である位置に腰掛けたキリトゥルムラインは今までなら上掛けの上にただ置いてあるだけだった白い手が布を握り潰さんばかりに固くなっているのに気づいて、その手の指を一本ずつ丁寧に解きほぐし自らの手で包む。

すると今度は自分の手に細い指が食い込むが、キリトゥルムラインは痛みなど感じていないような穏やかな声で「アスナ」と呼びかけた。

 

「……アスナ……みんな、待ってる」

 

アスリューシナの荒い息が上がる中、吐息のようなキリトゥルムラインの声がその隙間を縫うようにして彼女の耳まで届く。

 

「中央市場のトトも、それから、賑やかな店主達も……」

 

ゆっくりと柔らかな声がアスリューシナを包み込むように浸透していった。

 

「ルーリッド伯爵からも薔薇の花がたくさん届いてるし……」

 

その漆黒の瞳を一心にアスリューシナへと向けているキリトゥルムラインの声が小さく震える。

 

「オレだって……約束……しただろ?」

 

痛みから逃れるように渾身の力でキリトゥルムラインの手を掴んでいたアスリューシナの指から、スッ、と緊張が緩み、ぴくり、と瞼が痙攣を起こす。何かを感じたキリトゥルムラインが、じっとアスリューシナを見つめる前でそのロイヤルナッツブラウン色の瞳がゆっくりと現れた。

 

「リ……ンゴの、花…………」

 

強張っている唇から掠れた声が漏れる。口で呼吸をしているので唇も口内も喉までも乾ききっているらしく、それ以上は声が出てこない。瞳もぼんやりとしていて焦点が合っておらず、意識は戻っているはずなのに熱で思考力が奪われているのは一目瞭然だった。それでもキリトゥルムラインの不安な声を聞き取って答えを返した後、間近でないとわからないくらいに薄く微笑んだアスリューシナを見て、キリトゥルムラインは大きく頷く。

その拍子に黒の双眸から一筋の涙がこぼれ落ちるが、それに構うことなくキリトゥルムラインは逆にアスリューシナの手を握り返した。

 

「ああ、一緒に見に行こう、アスナ……」

 

 

 

 

 

それからのキリトゥルムラインは時間があればアスリューシナの側に付き添った。

昏睡状態の時はただ手を握る事しか出来なかったから、と逆に侍女達の前で堂々と世話が焼ける事を喜んでいるかのように令嬢の寝室に足繁く通ったのである。意識が戻ったとはいえそこから丸一日は覚醒している時間が短く、ただ高熱にうなされているだけの状態が続いていたが、その間もキリトゥルムラインはアスリューシナの唇を湿らせたり、汗を拭ったり、少量の薬湯を口に運んだりとサタラに教わりながら看病を続けた。

その様子を嬉しさの中にほんの少し呆れを混ぜて見守っていたサタラが気づいたのだ、アスリューシナが朦朧とした状態でもキリトゥルムラインの声には反応する事が多いと。

その事実が判明してからは薬湯と少量の食事を摂る時刻には必ずキリトゥルムラインがやって来るようになった。気のせいかもしれない、と疑う程度だが、侍女達に見せつけるように優越感を忍ばせた顔で優しく令嬢の名を呼んで意識を浮上させる。

侍女達が熱を帯びた肌の上に吹き出している汗を拭い寝衣や寝具を取り替える時は苦しげな息づかいを繰り返すだけで、高熱と痛みで硬直している身体を摩っている間すら目を閉じたまま指先のひとつも動かないと言うのに、キリトゥルムラインが二度、三度、その愛称を口にするだけでその重い瞼は持ち上がるのだ。

今もキリトゥルムラインが食事を促す言葉をかけただけで、薄く涙で滲んだ瞳が彷徨い出てくる。

僅かな間を開けて自分のすぐ側にいる青年の正体に気づいたのだろう、少し驚いたように眉毛が持ち上がるのは思考と記憶が直結していない証拠だ。けれど一瞬にしてふわり、と膨らんだ喜びが全てを押しのけ、それからようやくその意味を思い出して困り眉に転じると、毎回アスリューシナの百面相を楽しんだキリトゥルムラインは再び大きく口を動かしてゆっくりと「ア・ス・ナ」と呼びかける。

サタラから聞いた話ではアスリューシナは力を使った後、必ず熱を出すのだが耳鳴りも酷いので周囲の音はうまく拾えないのだそうだ。

ならばなぜキリトゥルムラインの声に呼応するような仕草を見せるのか、その答えは彼女の回復を待つしかないが、とにかく聴力どころか目を覚ます度に隣にいる三大侯爵家当主の姿に驚いているのだから記憶もうまく繋がっていないはずで、それなのに、その後必ずキリトゥルムラインの存在に嬉しそうな表情を浮かべるのだから、それだけで周囲に控えている侍女達は悶える心を懸命に押し殺す作業に専念するしかない。

キリトゥルムラインの口の動きで名を呼ばれたと理解したアスリューシナは、眉をへにょり、と落としたまま潤んだ瞳で侯爵を睨み付けているようだがその眼光には全く威力がないので、睨まれた当人は恐れも見せずに更に覗き込む。

 

「んー、まだ色が薄いな」

「侯爵様、近すぎです」

 

病気ではないのだから感染する恐れがないとは言え、アスリューシナの苦しげな息を吸い込む程の位置まで顔を近づけたキリトゥルムラインにサタラが小言を投げた。思うように身体を動かせない令嬢に代わって適切な距離感を諭す令嬢付き侍女頭からの言葉だったが、言われたキリトゥルムラインは全く意に介していない様子でその距離をゼロまで詰める。

 

「熱もまだまだか……でも栄養は摂らないとな、アスナ」

 

再び汗ばんでしまったアスリューシナの額に自分のそれを押し付けたキリトゥルムラインは、触れていた頭が小さく左右に揺れた振動に気づいて顔を離した。

 

「食欲がないのはわかるけど、食べないと回復も遅くなるぞ」

「侯爵様、お嬢様は侯爵様に触れられたくないのですよ」

「そんなはずないだろ?、今まで何度も触れてるんだし」

「いいえ、今のご反応はお食事に関してではございません」

 

ポンポンと会話を交わしている二人の後方から壁際の侍女の一人が「あのぅ」と窺うような目で声を発する。三大侯爵家当主と上司である侍女頭の二人に同時に振り向かれ、会話を遮った侍女は小さく「ひっ」と悲鳴のような緊張の息を飲み込んでから恐る恐る唇を動かした。

 

「思うのですが、お嬢様は単にご自分の寝室に侯爵様がいらっしゃる事に戸惑っておられるのでは?」

 

きっと私の感覚が一番一般的(まとも)だよね?、なんたってうちのお嬢様、お年頃なんだからっ、と両隣の侍女仲間にこっそり視線を走らせれば、よくぞ言った、と勇気に対する労いと賞賛の眼差しが返ってきて、進言した侍女は自分の正当性に安堵してふぅっ、と力を抜く。けれど、その意見を聞いた二人は互いに意外そうな顔を見合わせた。

 

「もしオレの寝室にアスナがいても、オレは戸惑わないけどな……」

「そうでございますね。こういう事は慣れですから」

 

既に何度も深夜の私室を訪問してナイトドレス姿のアスリューシナを抱きしめているキリトゥルムラインにとっては侍女からの助言など的外れな物でしかなく、同様にこれまでの経緯を把握しており、且つ、確実な未来として仕えている令嬢が目の前の侯爵の元へと嫁ぐと信じている侍女頭にとっても、キリトゥルムラインの寝室への入室はそれこそ予行演習くらいにしか思えなかったのである。




お読みいただき、有り難うございました。
令嬢付きの侍女さんと言えど、深夜の訪問者の存在には気づいて
いないので「うちのお嬢様と侯爵サマ、なーんか一気に距離縮まったっ」とか
「いつの間にか愛称で呼んでるー」とか、裏でピーチクパーチクしてます、きっと。


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61.寄り添い合う(7)

キリトゥルムラインに食事の世話をやいてもらう
アスリューシナは……。


結局、侍女が勇気を振り絞って告げたお年頃女性のごく一般的と思われる感情は最上位貴族にも自分の上司にも受け入れられる事なく、それどころかキリトゥルムラインの「アスナの食事は?」の一言で逆に慌てふためいて寝室から飛び出して行くはめになった。

そうやってアスリューシナの意思は不確かなまま一旦棚上げとなり、寝室内では食事の準備を整えている間にキリトゥルムラインに包まれるようにして身を起こされ、横抱きにされた令嬢に肩掛けを用意したり足元を暖めたり、と侍女達のいつも通りのテキパキとした働きが展開される。

既に居室に用意されていたのだろう、すぐに運び込まれた食事の中身を見てその皿が乗っているトレイを持つサタラにキリトゥルムラインが眼差しで問いかけると、侍女頭はしっかりと頷いて僅かに笑みを見せた。

 

「前回までは野菜のポタージュ・クレーユでしたがそろそろトロ身のついた物を召し上がっていただこうとピュレを作らせました。とは申しましても、あぁっ」

「ふーん、にしても相変わらずほとんど味がしないな。これでいいのか?」

「侯爵様っ、勝手にお嬢様の食事に口を付けるのはおやめ下さいと何度申し上げればっ」

「知っておくべきだと言ったのはサタラだろ?」

「ご自身で体験していただく必要はございませんっ。力をお使いになった後のお嬢様の状態とそれに対する適切な処置をご理解いただければ十分でございますっ」

 

確かにアスリューシナが侯爵夫人となり、もしもガヤムマイツェン侯爵邸で力を使った場合、夫であるキリトゥルムラインが対処法を知らないのは困る、とユークリネ公爵家に滞在中、知識として伝えようと考えていたサタラだったが、実際は食事ひとつとってもいそいそと令嬢の身を自らの腕の中に抱き起こして手ずからスープをすくい口元まで運ぶ姿はまるで母鳥の給餌だ。

少しの空気の揺らぎで消えてしまいそうな燈の細い灯心に、極々少量の油を時間を掛け根気よく染み込ませていくような繊細な行為をキリトゥルムラインは一日に何度も令嬢の寝室を訪れては嬉しそうに繰り返している。公爵家に持ち込まれている自分の仕事にまとまった時間を割けないせいで効率が悪いのだろう、夜中まで部屋の灯りがついていると侯爵付きになっている従者のホークから報告を受けた為、仮にも療養として公爵家に滞在なさっていらっしゃるのですからお嬢様の食事の付き添いについては回数を減らし、睡眠を十分におとり下さいとサタラが申し出たのだが「夜中に活動するのは慣れてるんだ、知ってるだろ?」と小声で返され、侍女頭は諦めの溜め息をついた。

そもそもアスリューシナが侯爵家へと輿入れをするなら、少数ではあるが慣れた侍女を付けるつもりでいるし、事前に色々と打合せも必要となるはずだ。実際、既に侯爵家の家令が迅速且つ喜色溢れる笑顔でこのユークリネ公爵家を訪れたのは数日前の話で、水面下では着々と話が進んでいるに違いない、とサタラは睨んでいる。大方、賓客の接待と称して王都を案内する名目を掲げ、珍しくも随分のんびりと屋敷に滞在しているユークリネ公爵家の嫡男が色々と動いているのだろうが、彼の性格を知り尽くしているサタラとしては早々にタネ明かしは期待できないので、自分は侍女頭としての責務に集中するのみだ。

きっと公爵令嬢の体調が戻れば話は一気に進み、ユークリネ公爵家とガヤムマイツェン侯爵家の縁組みという華々しい話題が貴族社会の中を駆け抜けるだろう。

そうなれば侯爵家の料理長とも話をしておきたいし、可能ならば屋敷の料理長である自分の夫も同席の上で……と考えていたサタラは配下の侍女が急いで用意した未使用のスプーンを受け取ると、それを徐に侯爵の前へと差し出した。

 

「お味見の必要はございませんから、お嬢様にはこちらのスプーンで……」

 

今度は大人しく渡されたスプーンで少量のポタージュをすくい上げ、そうっ、とアスリューシナの唇まで寄せて熱の混じった呼吸を忙しなく続けている源へ流し込む前に「アスナ」と令嬢の気を引く。再び、ぱたり、と落ちていた瞼がゆるゆると上がり、紗のかかった瞳に向け「食事だ」と告げてから吐気が終わるタイミングを見計らってスプーンを傾けた。

前回までのサラサラとしたスープの時は口内で吸収されてしまったんじゃないのか?、と疑わずにはいられないほど飲み込んだと思える実感を得られなかったが、今回は初めてアスリューシナの細い喉が、こくん、と上下するのを見てキリトゥルムラインの目が嬉しそうに弧を描く。しかしアスリューシナの方はスープを摂取したにもかかわらず異物を飲み込んだように一瞬、顔をしかめてから、しゅんっ、と眉尻を落とした。

 

「あ、やっぱり味、しないよな?……ほら、サタラ、アスナのこの反応……」

「そうではございません。お嬢様の場合、ある程度ご回復なさるまで動物性の物を口にされると吐き気を催されるので食材は野菜に限定されるのです。ですから前回までのサラサラとしたポタージュもそうですが今回のポタージュ・リエもブイヨンや生クリーム、牛乳の類いは一切使用しておりません」

「だからあんなにうっすーいのか……」

「これまでのスープですと何とか体力を維持する程度の栄養しかございませんから今後はご回復に向け徐々に変えねばならないのですが……この程度のとろ身でもさわるのですね」

「さわる?」

「多分……でございますが、喉も腫れていらっしゃるのでしょう。ですからスープを飲み込まれた時、痛みが走ったのだと」

 

キリトゥルムラインが急いで腕の中のアスリューシナを見下ろすと、彼女はまだ眉をハの字にしたまま頭を小さく横に振った。耳鳴りでサタラの声は届かずとも何となく自分の食事に関して思わしくない話題になっていると感じたのだろう。

 

「お声が出せないのも……」

 

サタラの痛ましさが滲み出ている眼差しに慌ててとにかく何か安心させる言葉を発しようとしたアスリューシナの口にやさしく手が被さる。

見上げれば今度はキリトゥルムラインが言い聞かせるようにゆっくりと頭を左右に動かしていた。

 

「アスナ、無理しなくていいんだ」

 

今の状態でこれなのだ、自分がやっとの思いで彼女の寝室に辿り着いた時、リンゴの花の約束を口にしてくれたアスリューシナがどれ程の痛みに耐えた上での言葉だったのかと思いやり、侍女達がこまめに唇を湿らせているというのに少しカサついた唇がキリトゥルムラインの手の平をかする。けれどその感触で何かを思いついたのかキリトゥルムラインはアスリューシナに「明日、少し珍しい物を持って来るよ」と微笑みかけたのであった。

 

 

 

 

 

翌日、約束通り、キリトゥルムラインは小さなガラス瓶を手にアスリューシナの寝室を訪れていた。それを一旦サタラに預け、いつも通りの仕草でアスリューシナを起こし、自分の膝の上に乗せる。

聞こえるはずのないキリトゥルムラインの声でゆっくりと目を開いたアスリューシナはサタラの持っているトレイの上のいつもとは違う容器に気づき、キリトゥルムラインへと疑問の視線を動かした。キリトゥルムラインはその問いに少し自慢げな笑みで応えるだけですぐに用意されていた小ぶりのスプーンで瓶の中身をすくい小皿へと移す。とろり、と粘りのある黄金色の液体は少量、皿に垂れたがそのほとんどはスプーンに絡みついたままだ。しかし、キリトゥルムラインは少しも慌てることなく持っていたスプーンを持ち上げ、片手でくるり、と一回転させて垂れ落ちるのを防ぐとそのまま荒い呼吸のただ中であるアスリューシナの口にスプーンを差し入れ、その舌の上に先端を触れさせた。

熱い息で黄金色の液体がスプーンの表面から溶け流れ、少しずつ令嬢の舌を覆うと久しぶりに味覚を刺激されたのだろう、アスリューシナが目を見張る。

 

「これなら飲み込む努力もしなくていいし、喉の痛みもやわらぐはずだ。一口でも栄養価はかなり高いしな」

 

それでも万が一吐き気を覚えたら、と自信ありげな表情に僅かな不安をのせてアスリューシナの顔を覗き込むが、そこには嬉しそうに緩む白い頬と穏やかなロイヤルナッツブラウンの瞳があって、今まで見られなかった明るい表情にサタラはもちろん、控えていた侍女達が、わっ、と笑顔になる。令嬢が食する物だから、と当然家令や料理長の許可は取ってあるし瓶の中身が何であるのかも知っていたサタラだったが、それでも手元をしげしげを見つめているとキリトゥルムラインが使い終わったスプーンをこれ見よがしに揺らした。

 

「残り、指ですくってみるか?」

 

いつもならば礼儀作法のお手本となる侍女頭だったがアスリューシナの反応を目にして誘惑に抗えず、スプーンをコーティングしているように付着している黄金色を人差し指で撫で取り、ちろり、と舌先で舐めてみる。

 

「これは…………随分と濃厚な蜂蜜でございますね。けれど甘さはそれほどしつこくなく……」

「ああ、うちの領地で作ってる蜂蜜だからな」

「ではリンゴの蜂蜜ですか」

「昨日、伝令を送って屋敷の者に持って来させたんだ」

 

わざわざそんな手間をかけなくともガヤムマイツェン領の蜂蜜ならば公爵家の調理場にもございますのに、とサタラが首を捻っているとキリトゥルムラインの片頬が不敵に持ち上がる。

 

「一般に出荷してる蜂蜜とはちょっと違う品なんだよ。製造方法は領地の特産品に関わる事だから教えられないけど……」

「そうでございましたか、稀少な物なのですね」

 

キリトゥルムラインの言葉に納得してサタラは興味津々に目を輝かせている侍女達へとそのスプーンを渡してやる。僅かに付着している残りの蜂蜜を凝視し、匂いを嗅いで、雨粒ほどの量を指に付け、パクリ、と口に咥えるのを待ってからキリトゥルムラインの口元は悪戯に成功した時のように、更に持ち上がった。

 

「普通の物より栄養があって、身体に与える効果は既に薬の域だ。一年に瓶二つ分の量しか作れないしな」

「ふ……二瓶……でございますか」

 

まさかそれほどの稀少さだとは予想しておらず、サタラの声が上ずる。

 

「ああ、だから毎年一瓶は領主に……この瓶がそうだ。そしてもう一瓶は…………」

 

キリトゥルムラインの思わせぶりな口調に蜂蜜の付いた指を口に加えたままの侍女達はその濃厚な味を含んだ唾をゴクリ、と飲み込んだ。

 

「国王への献上品になる」

 

一瞬にして侍女達が彫刻のように固まり、唯一サタラだけが「ひぃっ」と目を大きく見開いて口をはくはくと動かしている。会話の聞き取れないアスリューシナだけが口いっぱいに広がっている蜂蜜の豊潤な味をゆっくりと身体に溶かし込んでいた。きっと自分が与えられた蜂蜜の高貴さを知ったらサラタや侍女達と同様に畏れ多いと身を震わせ、二度とは口にしなくなってしまうだろう。

周囲の反応を楽しんだキリトゥルムラインはそれを笑い流し、いまだ蜂蜜が少量乗っている小皿を引き寄せる。

 

「ここまでの物でなくても喉の痛みや咳とか、軽い体調不良の時に蜂蜜をスプーンでひと匙舐めるのはオレの領地では当たり前なんだ。他にも……」

 

そう言って小皿の上の蜂蜜を指先ですくい取り「アスナ」と呼びかければ、令嬢の顔が自然に上向きへと持ち上がる。

未だに強さの戻らない瞳の色や熱で火照った頬を見てから息苦しさに空いた隙間を縁取る唇にキリトゥルムラインの指が伸びた。

上唇と下唇を丁寧になぞり、蜂蜜を塗りつける。

様々な感覚が鈍っているアスリューシナは何の反応も返せずに、ぽやや、とキリトゥルムラインを見つめたまま自分が何をされたのかも理解出来ていないのだろう。けれど艶やかになった唇にキリトゥルムラインは満足げに微笑んだ。

 

「唇の乾燥対策にもこうやって使ったりしてる」

 

王都よりも寒冷地であるガヤムマイツェン侯爵領ならではの生活の知恵を披露したその地の領主はそのまま躊躇いもなく指に付いた残りの蜂蜜を己の舌でぺろり、と舐める。

途端に背後で彫像となっていた侍女達がゴン、ゴン、と次々に壁に頭を打ちつけ、そのまま床に崩れ落ちる音が響くが、サタラは大きく溜め息を付くだけで彼女達の粗相を咎めることはしなかった。




お読みいただき、有り難うございました。
屋敷の外では公爵家の嫡男が精力的に活動中のようです(苦笑)
屋敷内では……まだまだ精神面を強化せねばならないようですね、
侍女さん達。
サタラが貴重な蜂蜜を味わったと知ったら料理長の旦那さんは
「いいなぁ、いいなぁ」を連発した事でしょう。


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62.寄り添い合う(8)

アスリューシナの看病を続けるキリトゥルムラインは……。


「キ……リトさま……」とキリトゥルムラインの腕の中のアスリューシナが掠れの残る声で名を呼びながら顔を上げ、目を合わせ、ゆっくりと頭を横に振る。

 

「ん?、もうご馳走様か……まっ、そこそこ食べられるようになったよな…………と言ってもまだスープのみだけど」

 

サラサラからトロトロを経てようやく具材の野菜がなんとなくわかるようなわからないようなクタクタに煮込まれたスープを食せるようになったアスリューシナはキリトゥルムラインが手にしていたスプーンをトレイに戻している間に、反対側からサタラに差し出されたナプキンに動きの鈍い手を伸ばし自分の口元を拭った。

最近は聴力も正常に戻り、食事による疲労感も随分軽くなってきたと思うがそれでも未だ食べる事は体調回復への作業であり、終わる度に、ふぅっ、と息を吐き出さずにはいられない。それに毎回食事の最後に待っている行為は意識がはっきりしているアスリューシナにとっては更に心の負担を強いていた。

 

「アスナ」

 

そうよ、キリトさまに呼ばれたって顔を向けなければいいんだわ……そう思って頑張ってうつむき続けた事もあったが、その目論見は彼を怒りや諦めに導くどころか、いっそ愉しげに何度も愛称を呼ばれるはめになり、加えて声はどんどんと近づいてきて、このままだといつかの夜会の時ように髪に触れられてしまうっ、と焦る結果になって、結局キリトゥルムラインからの呼びかけには不承不承ながら顔を向けざるをえないのが現状だ。

食後の儀式となりつつある行為に羞恥を押し隠し極めて平静なふりを装ってアスリューシナが面を上げれば、心得ておりますから、と言わんばかりの侍女が表情を殺して小さなガラス瓶の乗ったトレイを持ち、キリトゥルムラインの後ろに控えていて、既に目の前には小さなスプーンが纏っている黄金色の蜂蜜とそのスプーンを持つ侯爵の漆黒の瞳は眩しいくらい煌めいている。

 

(なんでそんなに嬉しそうなのかしら?……でも、それ以上にっ)

 

ご機嫌なキリトゥルムラインとは対照的に侍女頭の指導の下、筆で描いたような微笑み曲線を口に貼り付けて目線を落としている侍女達の無言の訴えが居たたまれない。

壁際に控えている、公爵家の令嬢付き侍女として完璧を通り越して不自然ささえ漂わせている彼女達の存在など全く気にせず、さっきまでのスープを口元に運ぶ行為とさして違いはないように思うのだが、自分の領地産の蜂蜜を味わってもらう事が嬉しいのか、キリトゥルムラインも自分の口を、あーん、と開けてアスリューシナの躊躇いの唇を動かそうと促してくる。

確かに、この蜂蜜を喉に流し込むと痛みが随分と緩和されるし、味は濃いのに蜂蜜だけを飲み込んでも今まで食べた事のある蜜とは違って喉にいつまでも張り付いているようなしつこさがなくて、サタラからキリトゥルムラインがわざわざ公爵家から持ち込んだ品だとしか聞いていなかったアスリューシナは少しの躊躇いを見せてから小さな口を開いた。

すぐにスプーンの先が口内へと入って来て、アスリューシナの舌に蜂蜜を届けてくれる。

唇を閉じて口いっぱいに広がる自然の甘みを味わっているとスプーンが引き抜かれ、少しずつ嚥下を始める前にアスリューシナの唇にキリトゥルムラインの指が触れてくるのだが、あくまでも蜂蜜を塗る、という行為のはずなのに……と言うか、それだけでもかなり恥ずかしいのだが、最近はなんだか他の意思も混じっているように感じてしまうのは自意識過剰かしら?、と令嬢は喉を気にしながら軽く首を傾げた。

すっかり自身の腕の中に収まっている心細い公爵令嬢の身体だ、少しでも強張ったり震えがあればすぐに気づけるよう食事中も気を配っていたつもりだったが、自分が持って来た蜂蜜を口にした後に動いた頭へ今度はキリトゥルムラインが不可解さを表す。

 

「どうかしたのか?、アスナ」

 

問いかけられてアスリューシナは本来の答えではなく、何度目かになるお願いを「今日こそはっ」と気合いを入れてツヤツヤの唇を再び開いた。

 

「キリトさま……」

 

さっきよりも声が出やすいのを実感して更に気持ちを強くする。

 

「もう……ご自分のお屋敷に、お戻り下さい」

「またその話か……大丈夫だって、バレてないから」

「そういう事ではなく……侯爵や領主としてお仕事だって……」

「広い客間を使わせてもらってるし、補佐に就いてくれてるホークの働きも申し分ない。特に不都合はでてないよ」

「そんなはずはありません」

 

ようやく自分の意思で動かせるようになったとは言え、以前、中央市場で繋いでいた時より明らかに薄くなってしまった手の平がキリトゥルムラインの頬にゆっくりと伸びてくる。

そっ、と撫でるように触れた手に続き、アスリューシナの気遣いの声が届いた。

 

「疲れていらっしゃるの、気づいてないんですか?、顔色だって……」

「わかってるよ……でも、ここで頑張らないと……って言うより、オレが頑張りたいんだ」

 

納得は出来ないが持ち上げていた手はすぐに限界がきて掛け布の上へ、ぱたりと落ちしてしまう。

 

「けれど……でしたら、食事の時はこの様な体勢でなくても……」

「ダメだ」

「乾燥対策の蜂蜜は……」

「ダメ」

「……まだ最後まで言ってません」

「言われなくてもわかる。喉の腫れや痛みにオレの持って来させた蜂蜜は抜群に効くだろ?、こうやって蜂蜜を口にした後はお喋りが出来るほどだしな。だったらもう少し良くなるまで続けて口にした方が治りは早いし、うちの蜂蜜なんだからオレからアスナにあげるのが当然だと思わないか?」

 

なんとか丸め込もうとしている侯爵の言葉を近くで聞きながら、サタラは内で、はぁっ、と見えない溜め息をつく。

あくまでもアスリューシナの回復を願っているような言い方だが、あの蜂蜜が国王以外にはガヤムマイツェン侯爵家でしか味わえない逸品ならば、それを当主以外で口にできる女性は侯爵夫人くらいだろう。キリトゥルムラインからアスリューシナには教えないよう言われているのでサタラを始め侍女達は皆、口を噤んでいるが、何も知らずに蜂蜜を食べている令嬢は既に侯爵からの求婚を受け入れているようなものである。

毎回、食事の度に口説いている青年侯爵と、羞恥を堪えて了承を繰り返している令嬢という構図を見せられるのはサタラでさえごっそりと精神力を持って行かれている気がするのだ、他の侍女達の仮面のような笑みは己の防衛本能だろうと侍女頭は多面的な意味でより早くアスリューシナの体調が戻る事を心から願った。

 

 

 

 

 

それからのアスリューシナはキリトゥルムラインによる献身的な看病のお陰か、はたまた貴重な蜂蜜のお陰か、少しずつではあるが着実に元の体調に戻りつつあった。多少違和感はあるものの、喉の腫れがほとんど引いた時点でキリトゥルムラインからの蜂蜜の提供は辞退した。

その時、室内にいた侍女達全員が、ホッ、とした笑顔を見せたのでアスリューシナは随分と心配をかけていたのだと申し訳なく思ったのだが、それについてはサタラが「そうではありませんから」という言葉だけで説明を一切してくれなかったので真相については謎のままだ。

発熱については日中だけならばそれ程上がることもなくなった。

けれど夕刻あたりから深夜にかけてはまだ微熱とは言いがたい体温の上昇が繰り返される。それでも朝になれば治まっているので、あともう少しというところなのだろう。

だからキリトゥルムラインが一日の最後に見るアスリューシナの姿は熱で瞳を潤ませ、頬を染め、少し苦しそうな息をしながら、それでも「おやすみなさい、キリトさま」とベッドの中から綺麗に微笑んでいて、もう後は身体を休ませるしかないとわかっているから精一杯優しく「おやすみ、アスナ」と返して寝室を出て行く。

キリトゥルムラインが寝室の扉から消えるまで視線で見送ってくれているのを知っているので、最後に振り返って「また明日な」と笑い返し、しっかりと扉を閉めてからその場で足を止め、肩を落として笑顔から一転、やるせない表情で深く長く息を吐き出すが居室に控えている侍女達は見て見ぬふりだ。

どうしても考えずにはいられない……ここが自分の屋敷だったら、ずっとアスナの側に付いていてやれるのに、と。

しかし、ここで頬を両手でぱしっ、ぱっ、と叩いて自分を戒める。

こうやって公爵家に身を置かせてもらい、彼女と同じ階の部屋を用意され、時間も関係なく寝室にまで立ち入ることを容認されているのだ、この先、アスリューシナの未来と自分の未来が共に在る為ならば焦りは禁物だし、彼女に関して公爵家側からの意図は正確に読み取らなければならない。

きっとこの先、同じような事があったらアスリューシナは大丈夫だと言って心配を掛けまいとするのだから、キリトゥルムラインはこの屋敷の人間達に彼女の身を安心して預けられる人物だと認めてもらえるよう頑張りを続けるべく、部屋に戻ってから侯爵家より届いた書類に目を通すため漏れそうになった欠伸を噛み殺して令嬢の私室を後にした。




お読みいただき、有り難うございました。
「侯爵サマがお嬢様の唇に触れたかと思えば、お嬢様は侯爵サマの頬を
撫でちゃったりしてるし……」
「吐きそう……」
「吐くっ」
「爆ぜろっ」
以上、令嬢付き侍女、心の叫び、デシタ。


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63.寄り添い合う(9)

ユークリネ公爵家の屋敷内で……。


珍しくも……と言うか、キリトゥルムラインの記憶には残っていないが、アスリューシナを助け出して共にこの公爵家へと馬車で帰還した日以来ぶりに、ユークリネ公爵家当主とその嫡男が揃ってこちらを向いている。

歴史を遡れば王家に辿り着く血を受け継いでいる上級貴族であり、王都で最大の規模を誇りまさにこの国の経済の中心とも言える中央市場の頭、そして多分この世界で唯一、他者の痛みを癒やす奇跡の力を有する令嬢の父親を前にして、自分の父やルーリッド伯爵とはまた違った威圧感を感じ取ったキリトゥルムラインは、ゴクリ、と唾を飲み込んだ。

その若き三大侯爵家の青年の強張った面持ちに思わず、と言った小さな笑い声を漏らしたのは公爵の隣に座っているコーヴィラウルで、緊張が充満している空気を揺らすように肩を震わせている。

 

「……っふふ、失礼。二人共少し力を抜いていただけませんか?、折角の料理の味が俺まで分からなくなりそうだ」

 

場所はユークリネ公爵家の広い食堂、主人の席には当然公爵が、そして対面する位置には公爵に固い視線を突き刺されているキリトゥルムラインがいて、テーブルの上には料理長が腕を振るった本日の夕食が並んでいた。

これまでは公爵家の二階の客間でひとりホークの給仕で食事を摂っていたキリトゥルムラインだったが、今日に限っては昼間、わざわざ家令から「主が夕食を共にと申しております」との招待を貰ってしまい、断る理由もなく、こんな事態を想定していたのか、以前タオシスが運んできた荷物の中にあったジャケットを羽織って初めての食堂にやってきたというわけだ。

本来ならばコースに従って料理が順に運ばれてくるのだが今夜に限っては給仕の出入りなく会話をしたいとの当主の意向で特に食する順序を気にしないようなメニューが既にテーブル上にセッティングされている。

ユークリネ公爵に睨み付けられているキリトゥルムラインが料理に手を付けるべきか、それとも何か食事の前に話があるのか、と相手の出方を窺っていると、両者の思惑になど興味がないのか、それともよほど空腹を抱えていたのかコーヴィラウルがさっさとスープボウルを引き寄せて蓋のように被せてあるパイ生地をサクサクと崩し始めた。中からクリームスープの優しい香りが漂い出てくる。

 

「うん、美味い。侯爵殿もどうぞ、折角の料理が冷めてしまいますから。うちの母は食事作法はもちろん、料理に関しても結構うるさい方でして、幼いアスリューシナがまだこの家で暮らしていた頃は日々のメニューにも事細かに指示を出していたんですよ。ですから今の料理長も一介の料理人時代から我が屋敷で随分苦労したと思いますが……」

「サタラの……アスリューシナ嬢の侍女頭の夫だと……」

「ええ、今では中央市場から届く食材を見事な料理に仕上げます。アスリューシナもこっそり教わっているようですから、そこらの店の売り物よりよほど美味い菓子を作るのは……御存知ですよね?」

 

にこり、と上品な笑みを寄越してくるがそこには疑問の欠片も含まれてはいない。こういった腹の探り合いのような会話を「超」が付くほど苦手とするキリトゥルムラインは痙攣しそうなこめかみに気を回す余裕すらなく、何と返すのが正解なんだっ、と答えを探して自分の頭の中を全力疾走している気分だった。

しかし、求める答えに辿り着く前に目の前の公爵が声を張り上げる。

 

「菓子だとっ!?」

 

どうやら公爵殿は可愛い愛娘がよもや菓子作りなどという令嬢にあるまじき振る舞いをしているとは全くお気づきでなかったらしい。カラトリーにのびるはずだった手が石のように固く握られていて、大きく目を見開いている。父親が知らなかった事実を「はい、そうですね。オレも随分食べました」とはとても言えず、アスリューシナが菓子作りをしている事も、その味を既にキリトゥルムラインがよく知っている事まで把握している公爵家の嫡男に対して未だ正解を掴めずグルグルと思考を回しながら恨めしい視線を送っていると、コーヴィラウルが愉しそうな声で「はい、父上」と言ってから口元をナプキンでぬぐった。

 

「父上がたまに執務の間につまんでいる菓子もアスリューシナの手作りですよ。甘さを抑えて軽食の代わりになるようチーズを練り込んでたりナッツや干しぶどうを混ぜたりしてあるでしょう?」

「どうしてそこまで知ってる……かは、もういいっ。まったくお前は……」

「守る為には知らなければならない、と、あの日、学びましたからね」

 

あの日……と言うのがいつなのかを思い、この場にいる全員の顔が冷静さを取り戻す。

コーヴィラウルがアスリューシナの事を常に気に掛けるようになった原因をキリトゥルムラインは責める気もないし、多分、彼が十四年前に妹を建国祭に連れ出さなくてもロイヤルナッツブラウン色の髪の噂を入手した侯爵ならばいくらでも違う方法でユークリネ公爵家の令嬢に辿り着き行動を起こしていただろう。

しかし、それとは全く別の問題でキリトゥルムラインがアスリューシナお手製の菓子を食べていた事実がバレているという事は、これまで何回も夜中に令嬢の私室に忍び込んでいる事実を把握しているわけで…………どこまで知られているのか、と、公爵から受ける威圧感とはまた違う怖さに背筋が寒くなる。

そもそもコーヴィラウルは王都にすらいないのが当たり前のはずなのに、どれほどの細かい目の網を広範囲に張っているのか、と探るような視線を送れば、何を思ったのか嫡男の瞳がにんまり、と細くなった。

 

「侯爵殿、父はね、悔しいのですよ」

「悔しい?」

「妹が癒やしの力を使って寝込んでいる時、今までは誰の呼びかけにも反応しなかったものですから」

「……う゛っ」

 

だから、どこまで知ってるんだっ、と驚きと焦りで叫び出しそうな口に無理矢理具だくさんのスープを突っ込む。

 

「あつっ」

 

ザクザクとパイ生地の天井を崩し落とした途端、中から熱々の湯気が立ち上がっていたのだが、それが意味するところまで思慮が届かず、大きめのパイの残骸もろとも頬張ったスープは熱々で、加えてゴロゴロとした大きめの具までもが溶岩の如き熱さを放ちながら舌を刺激した。

きっと今回の会食が和やかな物ではないだろうと察した料理長が多少時間を置いてから手を付けてもクリームスープの温度が保てるようポットパイにしてくれたのだろうが、その気遣いが完全に裏目に出ている。

キリトゥルムラインとは反対に、彼の正面に座している公爵は完全に食欲をなくした様子で先程までの視線も固さを失い「そうか……あの菓子が……」と椅子の背にもたれ、はぁっ、と息を吐き出していた。そんな父親の姿を横から見ていたコーヴィラウルは今までにはない真っ直ぐな瞳でアスリューシナに似た柔らかな笑みを浮かべる。

 

「父上、もう観念したらどうです?」

 

息子からの問いかけに公爵は閉じている唇に更に力をこめた。

 

「アスリューシナの髪もなんとかなりそうですし……」

「……ならなかったら、どうするんだ」

「そこは、ユークリネ公爵家とガヤムマイツェン侯爵家の威光を存分に使って……それに我が妹はかの青薔薇伯に気に入られたようですし、加えてガヤムマイツェン侯はこの国の最強騎士団、スリーピング・ナイツとの繋がりまであるのですから……ね?、どうにかなる気がしてきませんか?……私利私欲にまみれた小賢しい男は罪人となって王都から追放され、あそこの侯爵家自体にも随分と大きな貸しを作れました。もう一人の侯爵殿は相変わらず静観を決め込んでいらっしゃるようですから特に問題はないとして……父上、十四年前とは状況も随分と違うんですよ。あの時の、この王都ではアスリューシナを守り切れないという父上のご判断、俺は間違っていなかったと思っています。けれど誰ひとりとして……お決めになった父上でさえ望んだ事ではなかったはずだ。今度こそ皆が望む決断を、父上」

 

必死に舌をなぐさめていたキリトゥルムラインはコーヴィラウルの言葉が進むにつれて居住まいを正し切望の瞳で目の前の公爵を見つめている。

 

「俺が手に入れてきた東方の染料をアスリューシナの髪に試してみて……」

 

続く言葉を視線だけでキリトゥルムラインに受け継がせようと言うのか、ふいにコーヴィラウルが顔を動かした。

ようやく、このユークリネ公爵家の嫡男が何年もかけて国の外で何を探し求めていたのかを知ったキリトゥルムラインは、その労を敬うように、ひとつ頷くと改めて公爵に向き直る。

 

「その染料が今までのようにアスナに苦しみと引き換えに束の間の自由を与える物でないならば、オレは……オレの隣に、彼女が……ユークリネ公爵令嬢がガヤムマイツェン侯爵夫人として立つ姿を皆に見せたい」

 

その言葉にユークリネ公爵は髪を染め、純白のドレスを着てガヤムマイツェン侯爵の隣で微笑んでいる娘を想像した。

アスリューシナに対してはあがないきれない負い目がある。

自分の血筋のせいで禁忌の色を持って生まれてきてしまった娘……そのせいで幼い頃から窮屈な生活を強いたし、怖いめにもあわせた。挙げ句、家族から引き離し王都から遠く離れた地での生活を強制させ、ろくに会いにも行かれなかった。心が痛む事もたくさんあっただろうに、恨み言ひとつ言わず、顔を見せれば必ず笑ってくれる優しい女性に成長してくれた。

更に自分の為に菓子まで作っていたとは……そんな娘だからこそ嫁ぐ先では苦労をしない爵位の男を、と今までのように人目に触れない生活をさせてくれる侯爵を選んだつもりだったのだが……。

この場でひたむきに自分と相対している若き侯爵は、あの男と同じ三大侯爵家だと言うのにそれをひけらかすでもなく、むしろ自分が大事に包み隠してきた愛娘を己の隣で公に見せびらかしたい、と申し出ているのだ…………多分、アスリューシナもそれを望んでいるだろう事は聞くまでもないだろう。

父親である自分の声は届かないのに、好いた侯爵の声ならば聞こえるらしいのだから、けれどそれは男親としてはとてもとても面白くない。

自分よりアスリューシナが子供の頃からあれこれとかまい倒していた息子のコーヴィラウルが認めようとも、娘の婿にと考えていた侯爵の本質を見抜けなかった自分の目が例え節穴だったとしても、そして……きっと最後には認めざるを得なかったとしても……公爵は、スッ、とカラトリーの中からスープスプーンを選び、スープボウルの真上に構え、ザボッ、と息の根を止めるような勢いで垂直にパイ生地の中心に突き立てた。

 

「ガヤムマイツェン侯爵殿……わがユークリネ公爵家は御存知のように領地を持たない代わりに中央市場を仕切っております。ですからアスリューシナも古参の店主達にはいたく可愛がられておりましてね。コーヴィラウルの染料を試せるまであの子の体調が回復するにはもう少し時間がかかるでしょうからその間に私が市場をご案内しましょう」

 

要は娘婿として中央市場の店主達が認めないうちは首を縦には振らんっ、というわけだ。

まるで市中引き回しの刑のような提案にキリトゥルムラインは内心「うへぇ」と腐った声を吐き出した。




お読みいただき、有り難うございました。
すみせん、またもや男性のみのむさ苦しい回になってしまいました。
ホットパイスープって、ほんと、あっついですよね(笑)


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64.寄り添い合う(10)

ユークリネ公爵やその息子、コーヴィラウルと三人だけで食事をしつつ
言葉を交わしたキリトゥルムラインは……。



ユークリネ公爵との夕食が済んだキリトゥルムラインはその足でアスリューシナの私室を訪れていた。

既に誰の手を借りずともベッドから身を起こし、食事が出来るようになったアスリューシナはたくさんのクッションを背もたれに食後のお茶として出されたもの凄い色の液体を飲んでいる。喉の腫れや痛みは治まったものの、まだまだ体力回復を目指すには食事の量が少ないので、料理長が考案した栄養満点の薬膳茶なのだとサタラが言っていた。

ただ、残念なことに栄養補助を第一に配合された為、味や色においては二の次になってしまったらしい。

中央に寄ってしまうそうな眉毛を懸命に押しとどめ、細かに震えそうになっている唇も力を入れる事でなんとか抑え込んでいるらしいが、自然と湧き出てしまう涙は堪えきれないようで、キリトゥルムラインが相変わらず侍女の取り次ぎもなしに「アスナ、入るぞ」という声かけと同時に開いた扉の先に見た光景は大きめのカップを両手に持ったままこちらを向いた涙目のアスリューシナだった。

途端に表情を凍らせたキリトゥルムラインがつかつかと早足で令嬢の元へ歩み寄り、ちらり、とカップの中を覗き込んで中身が綺麗になくなってるのを確認してから、スッと片手でそのカップをアスリューシナから取り上げると顔も向けずにサタラへと手渡す。

見事な連係プレーでカップを受け取ったサタラはそれを背後の侍女が持つトレイへと着地させた。

その間もキリトゥルムラインは無言でアスリューシナを見つめていて、一方のアスリューシナは未だカップを持っていた手の形を崩さないままいきなりの侯爵の行動に痺れている舌と震えている唇をどうにか動かし「キリトさま?」と揺らぐ声を紡ぐ。

綺麗なナッツブラウン色の瞳を覆っている透明の水膜とか細い声、寝衣から覗く細くて白い首筋と腕はもちろん、食事の度に自らの膝の上に乗せていたからこそ想像できる華奢で、それでいて柔らかな寝衣の中身の存在、それら全てが自分に訴えかけているとしか思えないキリトゥルムラインは、ぐっ、と息を詰まらせた数秒後、低い声を押し出した。

 

「いただきま…す?」

 

自分に向けられたと思われる不可解な発言の意味をアスリューシナが問う前に「ダメでございますっ」と鋭いサタラの声がキリトゥルムラインの後頭部に突き刺さる。

その衝撃で我に返ったキリトゥルムラインは痛みを覚えたように頭の後ろ部分を片手でさすりながら、気まずげにアスリューシナから視線を外した。けれどキリトゥルムラインの行動の意味も発した言葉の真意も理解出来ないアスリューシナは薬湯の後味も忘れて逸らされた視線を追うように身を乗り出す。

 

「今宵は父や兄と一緒に食事をとると聞いていましたけど……キリトさま、お腹が空いていらっゃるのですか?、何か召し上がります?」

 

その問いかけに聞き取れない程の小声で「食べていいならアスナを……」と呟いた途端、その声を押しつぶす勢いでサタラがしわぶいた。すぐに「失礼いたしました」と頭を下げるが全身から放出されているのは怒気でしかない。

さっきの真っ直ぐ伸びてきた剣刃のような一声とは違い、今度は背後から蜂の針で刺されているような無数の気配にこれがサタラの気だけではないと悟ったキリトゥルムラインは自らの手で持ち上がったままのアスリューシナの両手を包み込みこんだ。

 

「いや、大丈夫だ。いつもと変わらずユークリネ公爵家の食事は美味(うま)かった」

 

そっと後ろを振りかえ見れば、サタラの顔が若干不本意そうではあるが誇らしげに見える。キリトゥルムラインからの賞賛を聞いて両手の自由を奪われたままアスリューシナも微笑んだ。

 

「はい、市場の皆さんが上質の食材を届けて下さいますし、そこに料理長の腕が加わりますから」

 

なるほど、中央市場で扱う品々は質が高いという定評を得ているが、そこを仕切っている公爵家には当然、最高品質の物が届くのだろう。更にそれを調理する者も一流となれば、その者を師事しているアスリューシナの作る菓子のレベルが高いことも頷ける。

キリトゥルムラインは、うんうん、と同意の頷きを返してから、まだまだふっくら、とは言いがたい令嬢の手の甲を親指で撫でてから「コーヴィラウル殿や公爵殿とも色々話が出来たよ」と告げた後、僅かに気弱な陰りを落とした。

 

「今度、公爵殿が中央市場を案内下さることになったし……」

 

その報告にアスリューシナとサタラが同時に「えっ?」「まぁっ」と短い声を重ねる。

 

「お父様が国内の貴族の方を市場にご案内するなんて……」

「ええ、初めてでございますね」

「そもそも領地から出荷された品々が中央市場に並ぶ事を希望される貴族の方は多いのですが、だからと言って今まで直接現地を視察されるようお誘いをした事はないのに。それに……」

 

区切られた言葉の先をキリトゥルムラインが視線で促すとアスリューシナは少しの躊躇いを持って眉尻を下げた。

 

「すすんで市井に足を踏み入れようと思われる貴族の方は少ないので」

 

フードを被って中央市場ではエリカと呼ばれているアスリューシナと、市場内を鶏のタレ焼きをくわえた姿でコソ泥を追いかけたキリトゥルムラインは互いに初めて出会った時を思い出し、くすり、と笑い合う。

 

「ですがキリトゥルムラインさまもお忙しくされているのに……」

「それはいいんだけど、市場の古狐や古狸に紹介されるのはなぁ……」

「もう、皆さんのことは御存知ですよね?」

「うん……まぁ……改めてって事で……問題はそこじゃなくてさ……」

 

主であるユークリネ公爵の思惑に気付いたサタラが堪えきれずに口元を手で隠して「それは、それは」と清々しく微笑んだ。

 

「中央市場の重鎮達がどう出るか、大変楽しみですね」

 

一癖も二癖もある古老の集まりだ、公爵自らが己の娘との強い繋がりを求めている青年侯爵を市場に同伴する意味などすぐに理解するに決まっている。それを承知した上でどのような態度で接するかを公爵も見たいのだろう。けれど娘を長年大切に思ってくれている店主達に紹介してもいいと思えるくらい、既にガヤムマイツェン侯を受け入れているのだと公爵本人は気付いているのか、いないのか……それを面白がるか後押しをしてくれるのか、さすがのサタラでも老獪な店主達の言動は読み切れない。

きっとこれが最終審査でございましょうから……声には出さずサタラはキリトゥルムラインの背中にエールを送った。

背後から飛んできていた無数の針がいつの間にか生温かな応援の視線に変わっているのに気付かないキリトゥルムラインは「ただ……」とその先の言葉を選ぶ。

 

「それよりも先にアスナと話したいことがあるんだ……」

 

そう言ってしっかりと振り返れば、表情を整えたサタラが静かに一礼を捧げ壁際にいる侍女達に退室を促す。

静々と寝室から出て行く侍女達の列の最後にいたサタラが寝室を出て扉を動かす前に背筋を伸ばした。

 

「私共はこちらに控えておりますので、何かあればお呼び下さい」

 

その気遣いにキリトゥルムラインが頷き一つで礼を伝えると、最後に目を合わせしっかりと漆黒の瞳に信頼を送ってから頭を下げて扉を閉める。今まで特に音を立てていたわけでもなかった空気のような存在の侍女達だったが実際居なくなってしまうと寝室内に妙な静寂が訪れた。夜中という時刻も手伝って分厚いカーテンに閉ざされた外の世界からも音は侵入してこない。

少し緊張しているのか、昼間の中央市場内でだったら聞き取れない程の声量でキリトゥルムラインは「アスナ」と呼びかけた。

両手はずっと握り込まれているのに、自由にならない事を畏怖や不快に思うどころか気持ちは全くその反対で、いつものように愛称を呼ばれたアスリューシナは素直に小首をかしげる。

令嬢の落ち着いた反応を見て、キリトゥルムラインも心を決めた。

 

「今宵の食事の席で公爵殿やコーヴィラウル殿から聞いた話がある」

「はい……私が聞いてしまっていいのですか ?」

「ひとつはアスナの髪についての事だから……まぁ、オレからじゃなくてもいいんだけど、コーヴィラウル殿から『話しておいて下さい』と言われた」

「そうですか。他にも?」

「うん……あと、これは……アスナは聞きたくないかもしれない……けど……」

「聞いておくべき話、なのですね」

 

最初からアスリューシナの耳に入れたくない話ならばキリトゥルムラインは切り出したりしないだろう。そしてキリトゥルムラインがこれほど思い詰めた表情をしてもなお口にしたのならアスリューシナに「聞きたくない」という選択肢はなかった。

真闇の双眸がすぐ目の前にある儚げな容貌を包み込むように見つめ、怯えや痛みをすぐに感じ取ろうと視線を外さずに唇だけを動かす。

 

「国王が……判断を下された。アイツはもう二度と自由に外を歩くことはない」

 

ナッツブラウンの瞳が一瞬、大きく跳ねた。

しかし、目に見える反応はそれだけで再びアスリューシナは静かに問う。

 

「どこへ……」

「それはアスナは知らなくていい。どれほどの偶然が重なっても会うことはないんだから……いや、オレがさせない」

「頂点と言える身分だった人をそこまで遠くに追いやれるのですか?」

 

それは中央政権の代名詞である貴族社会からの距離であり、同時に王都からの現実的な距離を意味しているが、その問いの理由は疑心と言うよりそれをなし得た力の大きさについてアスリューシナが戸惑いを抱いたからで、いくらユークリネ公爵家とはいえ、いち貴族の意見だけで王命はくだらない。しかしその辺の裏事情はキリトゥルムラインもしっかりと把握してはいなかったので、今後、懇意にしている第四騎士団団長や、あまり懇意にはしたくない王の近衛騎士団団長にも話を聞く必要があると考えている。とりあえず同じ三大侯爵家として使える人や物は出し惜しみなく使った。多分、ユークリネ公爵や息子のコーヴィラウルも同様だろう。

食事の席で聞いたコーヴィラウルの確信に満ちた口ぶりからすると、この時の為に公爵家の嫡男としては必要以上の経験や人脈を築いてきたのではないか、と思えてくる。

だからこそキリトゥルムラインは何の愁いもなくアスリューシナの目を真っ直ぐ見つめることが出来た。

 

「当然だろ。オレ個人としてはそれでも甘いと思ってる……でも、これで……」

「……はい、やっと…………やっと、全て……が…………終わった」

 

十四年前と今回の謎が全て解決したのだと悟ったアスリューシナの両目からほろほろ、と大粒の涙がこぼれ落ちた。けれどその瞳に苦渋の色はなく、むしろ安堵の笑みが浮かんでいる。

惹かれるように繋いだままの手を引き寄せ、その涙を唇で吸い取ったキリトゥルムラインに向けアスリューシナは更に微笑んだ。

 

「有り難う、ございました。キリトゥルムラインさま」

 

自然と瞼を閉じたアスリューシナの唇にキリトゥルムラインのそれが重なった。




お読みいただき、有り難うございました。
あれ?、サタラさんの手に透明の「はりせん」が見える気が……。


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65.寄り添い合う(11)

キリトゥルムラインとキスをしたアスリューシナは……。


互いの想いを言葉ではなく行為で認め合った夜、唇を重ねただけで沸騰してしまったらしいアスリューシナは、キリトゥルムラインの目にそれはもう美味しそうに色づいてしまって一旦唇を離した侯爵サマは「ヤバい」だの「マズい」だの「勘弁してくれ」などと呟く合間にも令嬢の瞼や頬やこめかみを啄んだ。

触れられる度にその箇所が熱で甘く溶けて体温は上がり、脈拍も早くなり、力が抜けて閉じ合わせていられなくなってしまった唇の隙間からは吐き出される息に妙な声が混じってしまいアスリューシナの胸の内も脳内も焦りと恥ずかしさで大変な事になっている。

 

「キゅっ、キリ…ト…さ、ま…………」

 

舌っ足らずの口調がキリトゥルムラインを打ち抜いた。

ベッドの上、アスリューシナの目の前に半身を乗り上げ無表情に近い切羽詰まった顔をずずいっ、と鼻先がくっつく距離まで近づける。

 

「アスナ、やっぱり少しだけ……味見を…………」

「えぇっ、お腹は空いていないって……」

「うん、だから、ほんのちょっと……軽く、囓るだけ…………だから」

 

意味も問い返せず、是非も答える前に小声で「だから、ごめん」と先に謝られしまい、けれど小さいはずのキリトゥルムラインの声がやけに大きく聞こえた不思議に疑問符を浮かべる前に、かぷり、と耳たぶを甘噛みされる。

 

「ふゃっ……っんーっ……」

 

予想もしていなかった刺激に思わず飛び出した驚声はすぐさま蓋をされた…………が、今度は先程のように単にキリトゥルムラインの唇で塞がれているだけではなく、驚声を押し返すように舌が侵入してくる。輪を掛けて驚きが頂点に達したアスリューシナがナッツブラウン色の瞳を大きく見開き「んーっ」と混乱を喉元であげ続けていると、怯えた子供をあやす穏やかさでキリトゥルムラインが舌を絡めてきた。

むずがる子の頭を撫でるように緩やかに何度も舌を擦り合わせてくる。その行為があまりにも真摯で優しかったのでアスリューシナが次第に唸り声を小さくし気持ちを落ち着かせると、ぼやけていた焦点が徐々に合ってきて、すぐ目の前にはホッと安心と嬉しさを描いた細い弧を引く黒瑪瑙の瞳があった。

 

「んっっ」

 

一時、冷静さを取り戻したアスリューシナは現状を把握して、今度はただただ顔から火が出そうな程の羞恥に身悶える。

さっきのキスは考えるよりも先に心が求めてしまった結果で、自分の力に関する事件が結末を迎えた今、ようやく真っ直ぐにキリトゥルムラインから寄せられていた想いに応えたいと気持ちが先行してしまったのだが、今まではキリトゥルムラインからの触れ合いに困惑はしたものの嬉しさより気恥ずかしさの方が少しだけ大きくて、そんな自分の感情を少し持てあまし気味だったのに、触れ合わせる場所が唇同士というだけで途端にアスリューシナは恥ずかしさで一杯になってしまったのだ。

困惑の状況に陥った時、いつもなら何をどうしたらいいのか対応策を考えようとすぐに頭を働かせるのだが今はそこまで意識が届かず、深輝の黒を見つめながら舌を愛撫されているだけで逆上せたように思考が溶けていく心地よさにうっとりとしかけた頃、キリトゥルムラインがゆっくりとアスリューシナから身を離した。

けれど既に自身を支えきれない令嬢は拘束されていた手を引かれるとそのまま崩れ落ちるように侯爵の肩に頬を乗せ、男性にしては色白い首筋をぼんやりと眺めながら息を整える。

 

「……っ、もうっ……囓るだけって……」

 

文句のひとつでも口にしないとこの雰囲気に流されて自分でも何を言い出してしまうかわからないアスリューシナはキリトゥルムラインの感触が残っている唇を尖らせた。だいたい「囓る」行為ですら容認した覚えはない。

肩にアスリューシナを乗せたまま首にかかる甘い吐息を意識しないようキリトゥルムラインは全力で明後日の方向を見続けている。

 

「だから最初に味見って……言ったじゃないか……囓るだけ、じゃ……味がわからないし……」

 

向こうを向いたまま言い訳がましい事を口にしているが、そもそも囓るだとか味見だとか、私は食べ物じゃないのにっ、とアスリューシナも無理矢理に自分の感情を憤りの方向へと持って行く。

だって初めてだったのだ……家族とでさえ頬にしかキスはしない……それなのに、あんなにたくさん、顔中に触れられて、最後には…………と、そこまで記憶を反芻したところで自分の唇の間を割って入ってきた時や絡め取られた舌先の生々しさが蘇ってアスリューシナは「んーっ」と口を閉じたまま悲鳴に近い声を上げながら無意識にぐりぐりと額をキリトゥルムラインの首にこすりつけた。

途端にキリトゥルムラインがピンッ、と背筋を伸ばし、恐る恐るといった面持ちでゆっくりと顔を巡らせてくる。

 

「ア、アスナ?、オレ、誘われてる?、それとも試されてるのか?」

 

さっきから意味のわからない事ばかり言われ翻弄され続けたアスリューシナは内で混じり合い、収拾がつかなくなっている感情の全てを一言で表した。

 

「キリトさまの、ばか」

 

完全にキリトゥルムラインが凍り付いた瞬間だった。

 

 

 

 

 

キリトゥルムラインがアスリューシナの寝室で初めてほんのちょっとだけ彼女を味見をして、初めて彼女から「ばか」と言われた夜、いつまで経っても呼ばれない事に痺れを切らしたサタラが令嬢の居室から寝室へと続く扉をノックする。

既に夜はとっぷりと暮れているし、自分が仕えている令嬢の身体はまだ本調子ではないからだ。最近は夜中の発熱もそれ程高く上がる事はなくなったが、それでも微熱は続いている。「お嬢様、侯爵様、よろしいでしょうか?」と扉越しに呼びかけ、待つこと一刻と少し、どこか落ち着きのない侯爵の声が「あ、ああ、サタラ……うん、いいぞ」と中から聞こえてきて、カチャリ、と扉を開ければ目に飛び込んできたのはベッドに半乗り状態のガヤムマイツェン侯爵にもたれかかり、その肩に頭を乗せているサタラご自慢の令嬢の姿だった。

一瞬の判断で、自分の後ろに続こうとしていた侍女達が入室する前にパタンッ、と扉を閉める。

閉じられた扉の向こうで複数の気配が「えっ!?」という驚きと疑問、そしてそれはすぐに「えーっ」という不満の気配に変わって、サタラは侍女達の再教育の必要性を痛感した。

しかし、今はそれよりも先に頭痛を覚えるのは目の前の状況である。 

もしやここ数日は微熱で済んでいた症状が今宵に限って悪化したのだろうか、とも考えたがそれにしてはキリトゥルムラインの態度がいたって冷静……ではなく不審者ばりに視線を泳がせている。一見すればお嬢様を好いている侯爵様にとっては嬉しさを覚える状態なのでは?、と思ったサタラだったが、肝心のアスリューシナが顔を真っ赤に染め上げながらも不満げな面立ちで、それでもキリトゥルムラインに身を任せているのだから、これは侯爵様のおいたが少し過ぎたのだろう、と推察して溜め息を吐き出した。

 

「まったく、お二人とも何をなさっていらっしゃるのですか」

 

アインクラッド王国内で貴族社会の頂点の存在とも言える三大侯爵家の当主と、この国の経済に最も強い影響力を持つとされている公爵家の令嬢が片や視線を彷徨わせ困惑の表情で、もう片方は身を預け火照らせた顔をその人の肩に乗せつつも機嫌を損ねた表情で、それでも自分達の両手をしっかりと繋いでいるのだから、その二人の姿を前にサタラとしては呆れるばかりだ。

しかし元来生真面目な気性の令嬢は自分の侍女頭の疑問を解消させるのは主の務め、とでも考えたのかゆっくりと顔を上げて「誤解よ、サタラ、私は何も……」と口を開いた。

と、キリトゥルムラインが素早く自分の肩位置から持ち上がった令嬢の顔に、こつり、と額同士をくっつける。

途端に口を噤むアスリューシナ。

そしてすぐにキリトゥルムラインは顔を離し「んー、やっぱりちょっと熱、あるかもな」とサタラに告げた後、ベッドに横たわらせるのかと思いきや、両手を令嬢の手から背と頭に回し、そのまま抱き寄せ、密着させた。

 

「えっ」

 

驚いたアスリューシナが身を捩る前に背中を支えている手がゆっくりと上下に動き始める。慈しむ手つきに何も言えなくなってしまったアスリューシナは、もう諦めたように肩の力を抜いた。

きっとサタラの問いに対して何も答えて欲しくないのね、と抱擁された意味を悟った令嬢は大人しく身を預ける。己の顔が火照っている理由はいつもの微熱ではないのだが、その詳細を侍女頭に言ってはいけないらしい。

サタラからは「二人とも何をしているのですか?」と聞かれたが、アスリューシナとしては、自分は何もしていない、むしろ一方的にされたのだと主張したいけれどキリトゥルムラインがその事を自分の母に近い存在にも教えないで欲しいと願っているのなら尊重すべきは彼の意思だ。

そう言えばキリトゥルムラインが夜中にバルコニーから私室に入って来ていた時、彼を暖めている事も「絶っ対っに内緒で」と言われたのを思い出したアスリューシナは、今のこの状態はサタラに見られていいのかしら?、とこっそり眉根を寄せる。

軽い疑問の処理に頭を使っていると、背を撫でられている事で自然と気持ちも凪いできて、アスリューシナの鼓動が落ち着きを取り戻したと気付いたキリトゥルムラインは、ふぅ、と息を吐き出してからサタラに顔を向けた。

 

「サタラ、アスナの髪の件で話があるんだ」

「それは、コーヴィラウル様が持ち帰られた染料に関する事でございますか?」

「お兄様が染料を?」

 

アスリューシナが思わず顔を上げる

兄であるコーヴィラウルが屋敷に戻っていると知ったのさえようやく昼間に熱が出なくなったアスリューシナの寝室に「やぁ、アスナ、お邪魔するよ」と突然、呑気な顔で入って来た時だったのだから、その兄が持ち帰った物については何も知らされていなかったのだ。




お読みいただき、有り難うございました。
「えっ!?、なになに?、なか、どーなってんの?」
「サタラさんだけずるーい」
「ちょっとっ、静かにっ、聞こえないじゃないっ」
以上、寝室の扉に耳を張り付けてる侍女さん達でした。


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66.寄り添い合う(12)

キリトゥルムラインから新しい染料の話を聞いた数日後……。


十四歳の時に王都に戻って来て以来、自分の屋敷の庭でありながら色とりどりの花が咲き誇る様を上から眺めた記憶しかないアスリューシナは、今日、晴れ晴れとした心持ちで一階のガラス張りのテラスで明るい陽の光を浴びて立っていた。

目の前の左右に大きく開け放たれたガラス扉から舞い込んでくる爽風とそこに混じり込んでいる花の香が自分を庭へと誘っていて、それを目を瞑って吸い込んでから、張り詰めた息を、ふぅっ、と吐くとすぐ隣からちょっと揶揄するような笑い声が漏れ聞こえる。

その音源にくるっ、と顔を向けたアスリューシナは目元に淡い朱を乗せてながらいつもより気忙しく唇を動かした。

 

「自分の屋敷の庭なんですからっ……緊張なんて……してない……し…………」

 

段々と尻つぼみになってしまうのは言っている内容と心情が異なっているからで、目の前に広がっている庭園の風景から視線を横へと移動させた結果、今度は自分の手を支えてくれているキリトゥルムラインの口元が、にまにま、とうねっているのを見るはめになってしまい、思わず彼の手の平を指先でちょっとだけつねる。

つねられても痛がるどころかこれ以上お転婆をさせない為か、重ねていただけの手をギュッと握りしめて動きを封じ込めたキリトゥルムラインはアスリューシナをエスコートしてユークリネ公爵家の庭に降り立った。

 

「この庭の真ん中を行けば東屋があるんだろ?」

 

中央市場を手を繋いで歩いた時とは違い、先に段差をクリアしてから一旦止まって振り返り、手を伸ばしたまま急かすことなく動きの硬いアスリューシナの一歩を待つ。手の中の感触だけで判断すれば震える程の緊張はないようだが、それでも指先は冷たい。

今回はアスリューシナと一緒に庭の草花を眺めながら散策して、さっき言った東屋が目的地だ。

いちを東屋の場所は事前に知らさせていたのだが自分の屋敷ではないし、アスリューシナに確認ついでに少しでも気がほぐれないか、と思って口にした質問だったが答えを聞いてキリトゥルムラインは複雑な心境に陥った。

 

「はい、小さい頃、まだこの屋敷で暮らしていた時はお兄様とこの庭でかくれんぼなどもしましたけど……その時は草木の方が背が高くてお互い見つけるのに苦労しました…………今、思えばあれは私の髪の色を他の人達からも隠していたんですね。結局いつも見つけられなくて、それで庭の中心にある東屋から名前を叫んで隠れてる相手に出てきてもらってたんです」

 

当時を思い出したのか、アスリューシナの表情の強張りが溶けて、ふふっ、と笑みがこぼれる、と同時にキリトゥルムラインの手には軽く負荷がかかって、気付くと自分の隣には十数年ぶりに自身の屋敷の庭土を踏んだ令嬢がスッ、と背筋を伸ばして立っていた。

歓迎するように風がアスリューシナの長い髪をすくい上げ、ついでにキリトゥルムラインの漆黒の髪をも乱していく。

いつもより濃いアトランティコブルーに染まった髪が重力に従ってサラサラと元の位置に納まる様子に見惚れていると、少し下からの視線に気づき、僅かにこちらも視線をずらした。

覗き込んでくるような上目遣いで、やはりこちらの瞳色もラピスラズリがはめ込まれているかのように閃いている。

 

「えっ……と、アスナ?、気分は?」

「全く問題なしですっ」

「ならいいんだけど……」

 

コーヴィラウルが手に入れてきた染料がアスリューシナの体質に合った事を心の底から喜ぶ反面、そうなればそうなったで今度は違う心配が生まれている事に気づいたキリトゥルムラインは無自覚に眉根を寄せた。

 

「キリトさま?」

 

難しい表情をしている理由がわからずにアスリューシナが名を呼ぶといたく真剣な面差しの侯爵がスッ、と顔を近づけてくる。

 

「うちの屋敷にも中庭があってさ……」

「はい?」

「四角い庭を間にして向かい合う形でふたつの別邸があるんだ。今はそれぞれに両親と妹が使ってる」

「……はい」

「で、その別邸をつなぐ位置にあるのが本邸で……要するに庭を囲むように建物があるんだけど、それでも陽当たりはいいし外部からは姿を見られる心配がない」

「そう……なのですか……」

 

なぜ話の流れがガヤムマイツェン侯爵家の庭園と屋敷の配置説明になっているのかわからないアスリューシナは曖昧な返事を返すばかりだが更にキリトゥルムラインは言いつのってきた。

 

「まあ、オレは庭の隅で剣を振るうばかりで、実際庭に何の花が咲いてるのかなんて気にした事はないんだけど……」

「それは…………勿体ないですね」

「だよな……」

「……はい」

 

行き詰まりの会話に二人が顔を合わせて眉根を寄せる。停滞した空気を取り払うように二人の後方からサタラが「こほっ」と喉に支えた息を押しだし「お二人ともっ」と少し語尾を強めた。

 

「お話は庭を散策しながらでもよろしいかと」

「そ、そうねっ」

 

慌てた様子でアスリューシナは前を向くが、サタラが続けて「侯爵様」と呼ぶので、キリトゥルムラインは反対に後ろを振り返った。

 

「大丈夫でございますよ」

「……そう…か?」

「はい」

 

どこか自信のない様子のキリトゥルムラインにサタラが力強く頷く。更に侍女頭からの後押しが欲しかったが、それを求める前に「なら……」と小さな声が近くから聞こえて耳は自然とそちらに集中した。

 

「ガヤムマイツェン侯爵家では、こんな風に髪を染めなくてもお庭を楽しめるのね」

 

侯爵家で暮らす自分を想像しているのか、少し照れ笑いを浮かべて呟いた声はしっかりと傍にいるエスコート役の耳にまで届いていて、その嬉しそうな笑顔を見た途端「…アスナ」と思わず名を口にしてしまった事で独白が聞かれてしまったと気付いたアスリューシナの顔全体が、ぽぽんっ、と一瞬で朱に染まる。

 

「さっ、さぁっ、キリトさま、庭をご案内しますっ。我が家の庭師の腕も見事なものですからっ」

 

不用意に漏らした本音に被せるように声を張り上げたアスリューシナはさっきまでの緊張など庭園内で舞い踊る風に乗せてどこかへ吹き飛ばし、自分が握られている手を、きゅっ、と握り返した。

 

 

 

 

 

東屋までの歩みは実にのんびりとしたものだった。アスリューシナにとっては自分の屋敷の庭とは言え、実に十数年ぶりの散策であったし、同時に遠い異国の地より持ち帰られた染料を使って髪を染めているから体調の変化も予測がつかない。それに数日前までは屋敷内の一階と二階をつなぐ階段を往復するだけで息を切らせるほど体力が落ちていたから、ルーリッド伯爵家の夜会の時のように庭園内を走るなど到底できるはずもなかった。

キリトゥルムラインに片手を預けてゆっくりと進む令嬢の後ろからはサタラを始めとするアスリューシナ付きの侍女達が若き侯爵とその侯爵夫人となるだろう自分達の令嬢を微笑ましく見守りながら付き従っている。実際、近くで目にする事が叶わなかったにも関わらずアスリューシナの持つ草花の知識は豊かで、生き生きと葉を広げ、ふっくらと蕾を膨らませ、見事な花を咲かせている植物達をキリトゥルムラインに説明しながら、自らもその感触や匂い、色を十分に楽しんでいた。一方、キリトゥルムラインも嬉しそうなアスリューシナの言葉に耳を傾けながら、令嬢の声そのものを楽しみ、庭園を眺めるその表情を窺い見ては眼を細め、会話を弾ませる。それでも時折、気付かれぬように顔色や足取りを観察して変調の予兆を見逃すまいと視線を鋭くさせていた。

そうやっていつの間にか目的地となっている東屋が見えてきた所で、アスリューシナが一旦足を止め小首をかしげる。

なぜならその東屋から一直線に自分に向かってもの凄い勢いで向かってくる一人の男性がいたからだ。

 

「こっ、こんにちは!!、くくクラインという者です。二十四歳独身っ……」




お読みいただき、有り難うございました。
やっと、なんとか、辿り着きました。
(東屋じゃないですよ)


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67.寄り添い合う(13)

ユークリネ公爵家の庭園をキリトゥルムラインと散策していた
アスリューシナの元へ駆け寄ってきた人物は……。


自分の目の前までやって来た勢いそのままに上半身をパキッと折るようにして頭を下げ、ずいっ、と片手を伸ばしてきた男性のラセット色の髪の毛とそれをぐるり、と巻き留めているカーディナルレッドの布を見つめたアスリューシナは、差し出された彼の手の意味がわからずに戸惑いと驚きで眼を丸くした。

どうしたらいいのかしら?、と助けを求めるように視線を自分の隣に移す途中、「ぐぅぇっ」と、カエルのような鳴き声がして、かの男性が突き出していた手が空気を揉むように小刻みに震え、そして彼の腹部にはいつの間にかアスリューシナの手をはなれたキリトゥルムラインの拳がめり込んでいる。

 

「キ、キリトぉ……」

「キ、キリトさまっ」

 

二人から同時に名を呼ばれたキリトゥルムラインはどちらにとも迷うことなく焦り顔のアスリューシナへと振り返った。

 

「どうしたんだ?、アスナ?」

 

一瞬前まで他者を殴りつけていたのは錯覚かと思えるほど平然とした面持ちでアスリューシナの元へと戻ったキリトゥルムラインは、腹を両手で押さえながらヨロヨロと数歩後ずさった男性を唖然と見ている令嬢に対して「ああ、気にしなくていいよ」と胡散臭い笑みを貼り付ける。しかし、殴られた当の本人は聞き捨てならない台詞にがばっ、と顔を持ち上げた。

 

「ってめっ、キリトっ、いきなり何しやがんだっ」

 

思いのほか元気そうな声にアスリューシナも肩の力を抜いて安堵する。そしてキリトゥルムラインの態度とそれを受けている相手の口調から二人の親密度を察して笑顔になると、軽く膝を折りゆっくりと頭を下げた。

 

「初めまして、クライン様。アスリューシナ・エリカ・ユークリネです」

「うおぉっ」

 

奇妙な声に思わず顔を上げると、まさに「おぉっ」の形で固まっていたクラインの口と薄桃色に染まっていた頬が一気に緩む。

 

「すげーな。やっぱどこの国でもお姫サンはキレイなんだな」

 

貴族社会の礼儀からほど遠い言葉とはいえ、なぜか不快な気持ちにならないのはこの男性の実直さを思わせる表情からなのか、アスリューシナはにこり、と微笑んで「私は姫ではありませんわ、クラインさま」と告げたが、すぐにその視界は遮られた。

 

「あまりジロジロ見るなよ、クライン」

 

アスリューシナを自分の背に隠すように立ちはだかったキリトゥルムラインがしかめっ面でクラインを睨めば、それに続くように「そうだね、この国で『姫』を指すのは国王の息女だけだから」と、のんびり東屋から歩いてきたコーヴィラウルがクラインの肩に手を置く。

 

「へ?、そうなのか。俺の国じゃ身分の高い家の娘はみんな『姫』なんだぜ」

 

何気に公爵家の嫡男と侯爵家当主に動きを封じられたクラインは、うーむっ、と顎に手をあて言葉の違いに困惑した。その横面へ無害そうな笑みのコーヴィラウルが「それにね」と顔を近づける。

 

「挨拶の際に握手を求めるのは男性のみだよ。女性の場合は手の甲にキスを……」

「キス!?……接吻ってことかっ」

「早合点しないでくれ。唇は触れないからね。触れそうな距離を保つのが紳士なのさ。触れていいのは家族か恋人だけなんだ」

 

兄の言葉で自分に差し出された手の意味を理解したアスリューシナがキリトゥルムラインの後ろからひょこり、と顔を出し「クライン様」と目を輝かせる。

 

「遠い東の国からのお客様というのはクライン様なのですね」

「おうっ。俺の国の染料を分けて欲しいって、このコーの旦那に言われてよ。ついでに俺も付いて来たってわけだ」

「クライン、いい加減『コーのダンナ』って呼び方、やめて欲しいんだけどな。君と俺は歳だってそう違わないだろ」

 

珍しくコーヴィラウルが拗ねたように眉根を寄せるが、その訴えはもう何度も聞いているのだう、へへっ、と屈託なく笑ったクラインは「そりゃ無理な相談ってやつだな」と片目を瞑った。

 

「なんたって俺の路銀も全部出してもらってんだ。オマケにこの屋敷に居候までさてせもらってるしよっ」

「それは道中の警護をしてもらった報酬と御礼だからと言ったはずだけど?」

「ろ、ぎん?」

 

聞き慣れない言葉にアスリューシナが首を傾げると、すぐさまクラインが「旅銭(たびせん)って言やぁ、わかるか?」と気遣いをしてくれる。

 

「要するに旅費って事だよな」

 

更にキリトゥルムラインに言い直してもらいようやくアスリューシナが納得して頷いた。

屋敷の一階の客間に兄が遠国から連れて来た客人を滞在させている話はサタラから聞いて知っていたアスリューシナだったが、実際に顔を合わせる機会がなかった自分とは違い、キリトゥルムラインは侯爵家からの使者との面会などもあったから比較的自由に屋敷内を歩き回っていた際にクラインとも面識を持ったのだろう。少しの会話で随分と気さくな人柄なのだと感じ取り、キリトゥルムラインと馬が合うのも頷けると理解したアスリューシナは更に親しみを込めてその男性の正面に立った。

気楽だし動きやすいんだよ、といつも専任護衛のヨフィリスと他数名のみで複数の国を渡り歩いている兄が同行を認めた者なのだ、異国の民とは言え頼りになる人物なのだろう。

 

「長旅の間、兄を守っていただき、有り難うございました。クライン様はお強いのですね。商人の方かと思っていましたが騎士様ですか?」

 

しかし今度はコーヴィラウルが言葉の違いを指摘する。

 

「彼の国では『ブシ』と言うそうだよ、アスリューシナ。戦う時も剣ではなく『カタナ』を使うんだ」

「ああ、オレもクラインから『カタナ』を見せてもらったけど扱い方も随分違うから習得は難しそうだな」

「騎士でもあるキリトさまでも、ですか?」

 

『剣の塔』の指南役であるユージーン将軍の相手をしているのだからキリトゥルムラインの剣技も相当なのだと思っていたアスリューシナが驚きの声を上げれば、逆にクラインは平然と「そりぁ、そうだろ」と言い放った。

 

「俺だってまだまだ剣豪の域には達してねぇ。一朝一夕で会得できるモンじゃねえしな。だから今回も武者修行の旅のつもりでコーの旦那に同行を願い出たんだ」

「む、ムシャ?」

「旅をしながら修練を積むってことさ。クラインの国はここと随分文化が違うから言葉以外も色々と勉強になったよ」

 

初めて聞く言葉の数々に興味を引かれたアスリューシナが兄の話で更に瞳を輝かせる。

 

「その一つが今、お前が試している染料なんだ……アイゾメ、と言ったか?」

「おうっ、俺の国では布染めに使うんだ。そうやって髪を染めるなんて考えもしなかったが、随分と色味が変わるもんだな」

「アスナ、気分は?」

 

庭園に降りてからもう何度目かになるキリトゥルムラインの心配にアスリューシナは笑顔で首を横に振った。

 

「予想外だったが、実際目にしてみると以前使っていたアトランティコブルーと似通った色になっているね。これなら他の貴族達はわからないかもしれないな」

「そうね。デビューの時もお兄様と踊った王城の夜会の時もあまり長居はしなかったから、違いに気付く人はいないかも……あ、あの時のコハクのネックレスも、もしかして?」

「ああ、あの入手ルートを頼りに東方の商人と渡りを付けたんだ。今まで試していない染料といったらもうそれくらいしか残っていなかったから…………寛いだ笑顔で屋敷の庭を歩くお前の姿を十数年ぶりに見れたんだし、苦労した甲斐はあったよ」

「お兄様……」

 

一体、いつからこのアイゾメの存在を知り、僅かな可能性に賭けてそれを追い求めてくれていたのだろう、とアスリューシナの目頭が熱くなる。

アスリューシナの感極まった瞳で見つめられたコーヴィラウルは、ふわり、と照れ笑いで一歩を踏み出し、妹の頭を優しく撫でた。

 

「病弱で通してきたんだ。いきなりあちこちの茶会や夜会に参加しなくてもいいと思うが、侯爵夫人になれば婚家の屋敷に籠もってばかりはいられないだろ?」

 

公爵令嬢という肩書きだったら身体が弱い事を理由に回避出来た社交の場も夫人となれば話は別だ。しかもそれがこの国の最高位の侯爵家だったとしたら当主が出席する夜会にパートナーの不在はあり得ない。代役としてなら、ちょうどキリトゥルムラインには歳の近い妹がいるが、彼女が社交を苦手としている事をアスリューシナは既に知っていたし、本当は病弱でもないのにキリトゥルムラインの足を引っ張るような自分の体質に少なからず思い悩んでいたのも事実だったから兄からの言葉には頬を赤らめながらも、小さく「はい」と頷く。

けれど兄妹の会話を聞いてもぞもぞと居心地を悪くしたのは当のキリトゥルムラインだった。

以前見た王城の夜会ですら数刻の滞在で自分を含めあれほどの注目を集めていたし、親友の夜会でも自分がエスコートしたにもかかわらず視線の温度が下がる事はなかった。あれでは仮に二人で夜会に出席したとしても会場内でアスリューシナから離れて侯爵の務めである社交など出来るはずもなく、彼女の隣で周囲を牽制し続けるはめになるなら本末転倒もいいところだ。それでも着飾ったアスリューシナが自分の隣にある事が当然という姿を見たい欲もあるし、見せたい欲もある。

 

「無理に出る必要はないさ。オレも夜会とか、あまり得意な方じゃないし……」

 

あくまでアスリューシナを思いやってのように聞こえる台詞を口にしたキリトゥルムラインだったが、それには兄妹のどこか似ている瞳ににらみ返された。

 

「国にすら不在がちな俺が言うのもおこがましいのですが。侯爵殿、うちの市場の店主達との交流の半分ほどで構いませんから夜会にも足を向けるべきだと思いますよ」

「そうです、キリトさま。これからは私も同伴……致しますから」

 

キリトゥルムラインに同伴する意味を改めて認識したのか、自分で言い出しながらもどんどんと赤みが広がっていくアスリューシナの表情に歓喜と困窮という両極端の感情に引っ張られたキリトゥルムラインは悪あがきをポソポソと呟いてみる。

 

「う゛……、なら、たまーに、なら……な」

 

まるで苦手な食材を親から食べるよう言われた子供のような返答に堪らずコーヴィラウルが小さく溜め息をついた。

 

「アスリューシナ、当主が夜会に出たがらないと奥方は苦労するぞ、うちの親がいい例だ」

 

兄から言われた内容についてアスリューシナは、むむっ、と考え込む。王都から離れ色々な土地を行き来するユークリネ公爵家の当主は別に夜会が苦手なわけではなく、そもそも夜会に出る時間が取れないだけなのだが、そのしわ寄せが母である公爵夫人へと及んでいるのも否定はできない。辺境伯の考えから、なまじそこいらの貴族令嬢より高等な教育を受けて育ったお陰で公爵の仕事まで代行出来てしまうのも原因のひとつだ。

婚約もまだだと言うのに早くも意中の人の兄から成婚後の苦労まで予言されたキリトゥルムラインは慌ててアスリューシナの両手を祈るような形でひとつにまとめ、自分の手で包み込んだ。

ぱちぱち、とアスリューシナの眼がしばたく。

 

「キリト、さま?」

「わかった。パートナーは確保できてるんだ、これからは夜会にも出席するよ」

 

その後に「今までよりは……」と小声で付け加えてからアスリューシナの手を握ったままコーヴィラウルとクラインに振り向き「だから……」と続けた。

 

「まずはアスナをオレの婚約者として社交界に披露しなきゃ、だな」

 

勝ち誇ったような笑みの後ろで公爵令嬢の顔が一気に耳までも朱に染まった。




お読みいただき、有り難うございました。
やっと登場しましたが、これにて退場でございます(苦笑)
最初からSAOのキャラを当てようかどうしようか
迷っていた人物だったので……。


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最終話.寄り添い合う(14)

体調を崩すことない染料が見つかったアスリューシナは髪を染めて……。


三大侯爵家のひとつが突然代替わりをした。

その理由は、今は既に「前当主」と呼ばれるその者が両目の視力を失うというセンセーショナルなもので、また命に別状はないもののかなりの大ケガも負っているらしい。社交界では当然その原因が強い関心事となり無責任な憶測が幾重にも絡まり飛び交った。

しかし当の前当主の居所が判明しない事から憶測はどこまでも憶測でしかなく、更に相手が最上位貴族という事で真相を掴むには同じ三大侯爵家かさもなくば王家の人間に尋ねるしかない為、幸か不幸か、自分の立場を危うくするかもしれない行為に及ぶほどかの侯爵の身を案じる人間はこの国の貴族社会にはいなかったのである。

男系継承の準則があるオベイロン侯爵家の定めに従い、次代はかの前当主の従兄弟にあたる青年がその地位を継承した。

内戚である子爵家の次男だった彼に白羽の矢が立てられたのは後継人となるユークリネ公爵家の後押しが強かったからだと言うのが大半の見方だ。なぜならオベイロン侯爵家とユークリネ公爵家との縁組みはほぼ間違いない、という噂がまことしやかに流れていたせいで、此度の後見役についても今後、何かしらの関係性が持続していく布石だろう、という思われていたのだが、当の公爵は後見人は暫定的なものであり、役目についても王命なのだから次代の選定に関しては全くの無関係だと公言している。しかし以前から次代のオベイロン侯と公爵家の嫡男との間に親交があった事を知る何人かの貴族達に限っては、その公爵の言葉を鵜呑みにする程めでたい頭の持ち主はいなかった。

そして今回の爵位継承が直系ではなく、しかも事前に継承の準備がなされていなかった事から王家預かりとなっている広大な領地の返還にはしばしの時を有した。三大侯爵家の当主という責務が一朝一夕でこなせるようになる物でないのは明らかだったから疑問を口にする者はいなかったが、その間、秘密裏に王都から派遣された一団がオベイロン領地内に入り、屋敷の一角にあった研究施設を解体し研究内容を持ち帰る命をかなりの強行軍で遂行した為、旅慣れているはずのコーヴィラウルさえ深夜に公爵家に戻るやいなやベッドに倒れ込んだという。しかしそんな裏事情を知る由もないオベイロン領の領民達はリンゴの栽培については品質を第一に考えた従来の生産方法に戻すという指示を受け、皆が皆、安堵の胸をなで下ろし新たな領主を歓迎したのである。

そうやって領地においての領主交代がつつがなく受け入れられた頃、王都の社交界において高貴な方々の好奇心はユークリネ公爵家の令嬢の身の振り方について、に移っており、数多の青年貴族達が前オベイロン侯との婚姻話が流れたのだと確信するやいなや色めき立ち、行動を起こそうとした矢先だ、再び衝撃的な発表が社交界を揺るがした。

それは今まさに貴族達の注目の的となっているユークリネ公爵令嬢が三大侯爵家のガヤムマイツェン侯爵と婚姻の合意に達したという物だった。その発表から約半月後、社交界で未だ興奮覚めやらぬタイミングで開かれた王城での夜会には噂の二人を見るべく大勢の貴族達が集まっていた。

 

 

 

 

 

王城までガヤムマイツェン侯爵家の馬車でやって来たキリトゥルムラインとアスリューシナは馬車を降り、城内に入ると夜会会場である大広間に向かう途中で、ふと足を止めた。

エントランスで二人揃って見上げている先には初代アインクラッド国王とティターニア王妃の肖像画が掲げられている。

 

「見慣れてくると、やっぱりちょっと違うな」

「そう……かしら?」

「ああ。何て言うか……色?、艶?、しなやかさ、かな?」

「キリトさま……これ、二百年以上前に描かれた絵なんですよ」

 

あくまでも笑顔は崩さずに、カンバスに描かれた王妃の髪と自分の髪の違いについてのキリトゥルムラインの見解に呆れ声を出したアスリューシナは絵画から婚約者へと顔を動かした。しかしキリトゥルムラインの方はキョトキョトと忙しなく額縁の中のロイヤルナッツブラウン色と傍らにある公爵令嬢の髪に視線を往復させていて、ちっとも令嬢本人を見ていない事にアスリューシナの声が少し尖る。

 

「それに……」

 

落ち着きのない顔をこちらに引き留めようとアスリューシナは触れているキリトゥルムラインの腕を軽く握った。

 

「今はちゃんと染めているでしょう?」

 

アスリューシナの言う通り、令嬢の髪の毛は一見するといつもの色、アトランティコブルーに染まっていて、土台見比べようとする行為自体に無理があるのだ。ようやく止まった視線の先にはちょっと不機嫌色の瞳が自分を上目遣いで睨んでいて、どうしてそんな顔をしているのか理由のわからないキリトゥルムラインは僅かに首を傾げた。

 

「まあ、そうなんだけどさ」

 

傾げた首はそのまま吸い寄せられるようにアスリューシナの頭に近づき、唇が髪を掠める。

 

「感触なんかは変わらないし、アスナの色は覚えてるから……」

「キリトさま、ここ、王城です」

「ああ、あまり長居はしたくない場所だよな」

「……それは無理だと思いますけど」

 

何と言っても今宵は婚約を発表してから初めて二人揃って大勢の前に出る夜会だ、挨拶だけでも相当な時間を有するだろう。

 

「そこは、ほら……オレの婚約者はまだ病弱なんだし。適当に切り上げて後はユージオか……そう言えばコーヴィラウル殿は?、アスナ」

 

アスリューシナの希望もあって彼女が身体が弱いという建前は徐々に払拭していく方向でユークリネ公爵家とガヤムマイツェン侯爵家双方の見解は一致している。キリトゥルムラインとしては自分が不得手としている夜会から早々に引き上げる口実がなくなるのはほんの少し残念な気持ちもあるのだが、アスリューシナの望みが第一だ。

それでも今までの深窓っぷりを考えれば、いくらアスリューシナの体質に合った染料が見つかったとは言えもうしばらくは病弱である必要があるだろう、と既に下城の段取りを考えていたキリトゥルムラインは夜会に出席しているはずの義兄となる公爵家嫡男の所在を尋ねる。

 

「兄は私達よりも遅く登城するそうです。『先に行って質問攻めにされるのはかなわないからね』と……」

 

さすが、内を悟らせない笑みで一手も二手も先を読むコーヴィラウル殿らしい物言いだな、とキリトゥルムラインは眉を寄せながら微笑んだ。アスリューシナは既にそんな兄の性格には慣れっこなので、反対にキリトゥルムラインへ問いかける。

 

「キリトさまの方こそ、リーファ様は?」

 

ごく少人数の身内のみを集めガヤムマイツェン侯爵家で行われた婚約の儀ではアスリューシナよりもカチコチになっていた侯爵令嬢の姿を思い起こして少し心配になっていたのだが、キリトゥルムラインも同様に妹の姿を思い出したらしくこちらは逆に軽く肩を震わせた。

 

「大分支度に手間取ってたみたいだからな。アイツ、礼儀作法とか苦手意識が強すぎて夜会ではうっかりすると右手右足が同時に出るんだ」

 

確かに侯爵家で全ての式事が終わった途端、緊張の糸が切れたのかヨロヨロとおぼつかない足取りで両手を広げて「アスリューシナさまぁ〜」と抱きついて来た時も随分と必死なお顔付きだったわ、と余計にアスリューシナの不安が広がる。

ちなみにその時の周囲の反応は前ガヤムマイツェン侯爵夫妻は「あらあら、もう仲良しさんね」と温かな目で見守り、ユークリネ公爵夫妻は若干呆れ気味だったが、コーヴィラウルが「義妹になるのが純朴なご令嬢で、アスリューシナとも気が合いそうだね」と言ったことから嫁ぎ先での人間関係も心配ないだろう、と最終的には安心した様子だった。

唯一、機嫌を損ねたのはキリトゥルムラインだ。

婚約が成立した直後、自分の妹がなぜか自分の婚約者を頼って抱きついたのだから無理もないが……。

 

「だいたい社交界が苦手なリーファと滅多に屋敷から出ないアスナが知り合いだって、オレの方が驚いた」

 

婚約の儀で初顔合わせかと思いきや、キリトゥルムラインとリーファがガヤムマイツェン侯爵家に到着したユークリネ公爵の面々を出迎えた時、公爵夫妻とコーヴィラウルに挨拶を終えた後「リーファ様」「アスリューシナ様」と二人で両手を握り合って、きゃっきゃっと楽しそうにお喋りを始めた時は、文字通り、キリトゥルムラインは開いた口がふさがらなかった。

アスリューシナの方も「癒やしの力」の存在はまだ伏せているが、自分の髪色がロイヤルナッツブラウン色であるという事実を侯爵家に受け入れて貰えるかどうかが不安だったのだが、キリトゥルムラインが「両親はオレが結婚すらしないんじゃないか、って危ぶんでいた節があるし、リーファなんてオレが結婚したい令嬢がいる、ってアスリューシナの名を告げた時、『やったー』って大喜びしたんだから、何の問題もないよ」と言った通り、ガヤムマイツェン侯爵家はそのままのアスリューシナを歓迎したのである。

そもそも国外任務の長かった前侯爵と、その任地先の国の貴族であった奥方だから髪の色に対する認識の偏りがないのだろう、逆に『とっても綺麗な色なのに、他の人に見せられないのは残念ね』とまで言われたくらいだ。

 

『まあ、うちの息子は髪どころかアスリューシナ嬢ご自身を誰にも見せたくないって顔してますけど』

 

と、ころころと笑いながら付け加えられた一言にアスリューシナは思わず真っ赤な顔を俯かせてしまったから隣にいたキリトゥルムラインが前侯爵夫人を噛みつきそうな目で睨んでいた事には気付かなかった。そもそも、結婚の意思を家族に示した時、妹の喜ぶ様を自分の結婚話のせいだと思っていたのが、真相は結婚相手がアスリューシナだったからだと婚約の儀の日に理解したキリトゥルムラインは「なんで教えてくれなかったんだ?」と今更に不満げな瞳でアスリューシナを見る。

 

「ごめんなさい。ちょうどキリトさまがご領地にお戻りになっている時、友人のお茶会で紹介してもらったから」

 

何気なく語るアスリューシナの声を聞いてキリトゥルムラインは表情を一変させ唇を強く結んだ。

あの時、自分が領地に戻っていた間にアスリューシナは卑劣な罠にかかり自我を見失いかけるほどのショックを受けたのである。領地から王都の屋敷に到着して事の次第を聞くなりアスリューシナの元へと駆けつけたあの夜の姿を思い返せば、自分の留守中の話など出来る状態でなかったと胸に鈍い痛みを覚え、表情が歪む。しかしその痛みを癒やすようにアスリューシナがそっ、とキリトゥルムラインの胸元に身を寄せた。過去の後悔や怨恨には効くはずがないのにアスリューシナが触れてくれるだけで心の痛みが引いていく。

ホッと小さな息を吐き落とし平静を取り戻したキリトゥルムラインは彼女を腕の中に囲い悪戯っ子のような笑みを浮かべた。

 

「アスナ、ここ、王城のど真ん中だぞ」

 

先刻、アスリューシナに言われたお返しとばかりに、楽しげな口調でからかえば包み込んでいる小さな顔がみるみる朱に染まり、拘束から逃れようと両手でキリトゥルムラインの胸を押し返してくる。そんな非力さではびくともしない筋力値を遠慮なく発揮させたキリトゥルムラインは眼差しを緩ませて自分の胸元にある細い指の一点を見つめた。

 

「その指輪、爵位を継いだ時から領地の屋敷に置きっ放しだったんだ」

 

キリトゥルムラインの言葉にアスリューシナの抵抗が止まる。

 

「……え……じゃあ、この指輪を取りに……あの時、ご領地へ?」

「ああ。前にも話したけど、ガヤムマイツェン侯爵家の場合、それが身分の証明になるからさ」

 

アスリューシナは自分の目の前にある右手の薬指を見つめた。そこには今、キリトゥルムラインの右手の薬指にある侯爵の証となるガヤムマイツェン家の紋章が沈み彫りされている指輪とちょうど対になる浮き彫りで二本の剣が交差しているデザインリングが光り輝いている。ちなみに結婚指輪は王都一の名匠と呼ばれている宝飾職人がその名に恥じぬ物を、と並々ならぬ意気込みで制作中だ。婚約指輪は爵位を譲る際に次の代へと渡さねばならないが、結婚指輪は生涯身につける物となる。

婚約の儀式の際に使用した侯爵夫人の指輪は普段はキリトゥルムラインが管理しているが、こういった公式の場では婚約者であるアスリューシナの指で輝く事を許されていて、今宵、ユークリネ公爵家まで彼女を迎えに行ったキリトゥルムラインが「最後の仕上げだな」と自らの手で填めたのだ。婚姻の儀が執り行われるまで、あと何回かはこうやってキリトゥルムラインに填めてもらう機会があるだろう。

代々ガヤムマイツェン侯爵家に受け継がれてきた指輪を嬉しそうに眺めているアスリューシナを見てキリトゥルムラインも表情も優しい笑顔となる。

 

「じぁあそろそろ、その指輪を見せびらかしに行くとするか、アスナ」

「キリトさまったら…………」

 

互いを見合った二人は幸せそうに微笑んだ。




最後までお読みいただき、有り難うございました。
これにて『漆黒により添う癒やしの色(恋愛編)』は完結です。
今後の活動(続編)予定のお知らせを含め「活動報告」にて「打ち上げ」を
行いたいと思います。
(多分、21時か22時台にアップできるかと……)
投稿を始めてから約3年と3ヶ月、亀投稿にお付き合い下さった皆様
本当に有り難うございましたっ。


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