神霊写真 (adbn)
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神霊写真

 彼には、幼い頃の写真があまりない。孤児院暮らしだったために、滅多にそんな時間を割かれなかったこと、本人がそこまで強く望まなかったこと、大きな要因はその二つ。それでも、五、六歳頃の写真までは幾枚か残っていた。

 

───ほの暗い月明かりの下、齢五つほどの少年が立っている。背後の暗がりに消えてしまいそうな黒い紋付き袴が、足元に積もった朱や紅の葉を冴えさせる。こちらをきりりと見据える瞳だけが、仄かな金に光っていた。

 

「これ、いつのだ?」

 金髪の少年が一枚の写真を手に訊く。一年のほとんどを母方の祖父と二人で暮らすこの男(の名字)は獅子王という。派手すぎるほどに派手な名字のせいで、彼の名前はあまり知られていない。

 カラーコンタクトを入れた灰青の目は、興味ありげに煌めいている。

 

「七五三」とそれだけを返したのは黒髪の少年。獅子王の級友で、名前を榊原正国といった。写真では金にも見えるその瞳は、しかし電灯の下では変哲の無い憲法色。美しさも恐ろしさも感じさせないそのありふれた色を、けれど存外彼は気に入っていて、生まれ持った色をブリーチで痛めつける隣の少年を、そこだけは理解できないと思っていた。

 

 七五三。施設の予算の問題で、記憶に残りうる五歳か七歳でしか行われなかったその時の写真が、彼が榊原でなかった頃の最後の写真だった。

 

 その後一週間ほどで誕生日を迎えた彼が次に写真を撮られたのは進級後のことだったが、その集合写真には何やら奇妙なモノが写りこんでいたのらしい。記念にと言って写真屋は一枚だけ修整前の写真をくれたが、なにか長い棒状のものが写ったというくらいでわざわざ修整しなくてもすぐに笑い話になるだろう、と皆声を揃えて言ったものだ。

 

「へー!すっげーかっけーのな!どこで撮ったんだ?」

「施設の庭。でけえ楓の木があったんだよ」

「施せっ......」悪いことを聞いた、と言わんばかりに獅子王が言葉に詰まる。気にすることはないと榊原が言って、それでその場は一旦の解決。

 

 そうして少年らはごたまぜになった写真を漁る作業に戻る。簡易なアルバムに纏められていたそれらは、どうしても見たいと駄々を捏ねた獅子王が、挙げ句にうっかりフォルダごとひっくり返してばら蒔いてしまったのだった。

 

───修学旅行だろうか、制服姿の男女が数十人も綺麗に並んでいる。一番前は座って、三列目は台の上に。学蘭姿の男の中に、少しぼやけた影が立つ。地面に立って、それでも随分背が高い。190はあるだろうか。茶色に染めた髪と赤に濃緑の上着が、どちらも黒い周囲から浮いていた。

 

 それは、獅子王が見たことのない人物だった。その時は違うクラスだったけれど、彼も榊原と同じ中学校に通っていたのに。

 

 二枚の互いに張り付いた写真が出てきた。去年の学園祭の写真だ。

 

───教室だろうか。派手に飾り立てられた室内で、数十人も男だけが集まっている。最前列が手に持つ、段ボールにピンクの絵の具で書かれた「ドキッ!男だらけのメイド喫茶!?」の飾り文字が目に痛い。仏頂面で端に立つ数人の中に、榊原も含まれていた。

 

───学校特有の白いコンクリートの建物を背景に、先の写真と同じ男子たちが集っている。全員が全員揃いの青いTシャツを着て、左端には旗が翻る。正面中央の少年は堂々と金に輝くトロフィーを掲げ、その回りで鉢巻きを締めた男らは肩を組む。右の端はと言えば、そこには何か棒状の影が写りこむ。旗よりも長く、上端で見切れたそれは優に三メートルを越すことは確実だ。

 

「あー、こんなこともあったっけか」

 古い年賀状の隙間から出てきた写真をまじまじと眺めつつ、短髪の男はそう呟いた。髭を生やしたくとも、堅気に見えなくなると言われ諦め続けて早十二年。もう四十になるこの男は榊原と言った。子供はおろか妻すらいない独り身ではあるが、特段の寂しさも感じずに暮らす彼がこうして実家の整理をしているのは、結局継ぐことがなかった道場から養父がいなくなると聞いたからだ。癌だったという連絡を受けたのはつい先日のことで、一体何をどこまで求められているのかもわからずに榊原正国は養父の財産管理を引き受けることになったのだった。

 今は病院にいる彼は、引き取る時に施設から渡されたものも含め、養子の写真をあるだけ仕舞いこんでいた。それでも数十にも及ばないそれらを見て、壮年の男は少し悪いことをしたような気になった。

 

 天井の低い室内で撮れば何も写りこまないと気づいたのはいつのことだったか。だいたい四メートルよりも低ければ問題は無いと知ったのは、少なくとも大学生以降だった。学生のうちに気がついていれば写真も、もう少しばかり多く残っていただろうに。

 

 ほんの少しだけ溜め息を吐いて榊原正国は、もう一度書類と葉書の山に向き直る。

 

───爽やかな印象を受ける茶色の髪をした青年が、異形の槍を手に立っている。重たそうな穂の先にぼんやりと、赤黒い塊が幾つも連なっている。にっかりと笑った顔に埋められた目だけが、ほんとうに笑っているのかと訊きたくなる。

 

 個人用端末(テックフィルム)の表面を眺めて男は一人、これは一体誰なのだろうかと夢想していた。写真に写る「何か」の種類は限られていたため、少し分析と合成にかければ姿が浮かび上がった。何者かは気になるが、彼は別段オカルティズムには興味がなかったから守護霊だの魔物だのという説明を聞くために自称「専門家」とやらに金を払う気はなかった。

 

 神社にでも行って祓ってもらえといった友人もいたが、はっきりと見えるわけでもない彼にはそれが悪いものだとは不思議に思えなかった。彼が写真を避けていたのは(ひとえ)に、その写真を見た者たちが不気味がるなら、わざわざ撮る必要もないと感じたからだった。

 

 とうに還暦を過ぎた白髪の男は、つい二年前の写真に写る影ですら変わりがないのを見て少し、ほんの少しだけ羨みを覚えた。その青年が何にせよ自分と話すことはないだろうと知って、もう名乗ることもそうはなくなった榊原という老人は、一度くらいは自分の目で見たかったなあ、と口から音を溢したのだ。ステージⅣと言われた。あと三月無い命なら一度くらいはこの目で、と。

 

 それを、背後の霊は聞いていた。望むのは見るだけか、と。それならこの男は、同田貫正国じゃないんだなとそれだけを言って右の手に槍を持った青年は、空いている方のすきとおった腕を背中から前にまわして、男を抱きすくめようとした。するりと通り抜けた左腕をかなしそうに見つめて、青年は何も知らない男の、かつての姿を思い出す。鬼神のごときあの姿をまた見られれば、そして願わくはその横で共に戦っていられれば。

 あるいはその金眼の鬼を、この手で刺して、パキリというあまりに軽いあの音を胸元でききながら、折れた刃でこの喉を掻き切られればそれはどんなに甘い滅びであったろう。

 

 それを望んでこの人間についてまわっていたが、この身はあんたには届かねえんだな、なんてとうに理解していたはずのことを、青年は目の前の人間にではなく、いつかに出会った刀に捧げて老人から離れる。戯れに右手の槍を心臓に刺して、何も起こらないのを見てとって。そうやって失意と絶望とは神を殺すのだった。

 

 そうして、とうに滅びたその槍は、だあれもころしてはくれないと知れたから、一人静かに枯れることにした。

 

 その後榊原正国は特段医師の予想を覆すようなこともなく、終末期治療施設(ホスピス)でその生涯を閉じた。霞のかかった視界の中に、血濡れの槍が一体佇んでいたように思われた。




 けれど、それは。それこそは彼の幻想。そこにはもう、何も無かった。


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