しかし、誰が悪を裁くのか? (SKYbeen )
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1話
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ロールシャッハ記 xxxx年 x月x日
俺がまず目覚めて取った行動がこの日誌に書き記すことだ。そうでもしなければこの訳の分からない状況において冷静でいられる自信が、ない。
あの時、俺は死んだ。地球でたった一人の超人によって葬られた。カルナックの刺さるような寒さの中、跡形もなく。あの男のことだ、俺は肉片にでも変えられたのだろう。奴の力ならば息を吸うことと同じように容易い。
今、俺が立っている場所はあの世なのか? だが、到底そうは思えない。辺りを見渡す限り、ここがそうだとは考えられない。広がるのはどこまでも続く深い森だからだ。ニューヨークでは決して見ることのない景色が俺の目に飛び込んでくる。新聞売りの男も、充電池にもたれる黒人の少年も、ここにはいない。
オジマンディアスの陰謀は?
ダニエルの安否は?
世界は本当に滅亡の危機から解放されたのか?
偽りの平和の為に死んでいった彼らの魂は、奴を裁いたのだろうか?
しかし、俺がそれを知る手段は無い。ここはニューヨークでも、ましてやアメリカでもない。大気に流れる空気そのものがまるで異なっているのが分かる。
確かに、俺は消えて無くなった。俺という存在が元から無かったかのように。それでも俺は今こうして日誌を書いている。
これが意味することは一つ。俺はもう一度生まれ変わったのだ。このマスクの中でほんの僅かに燻り続けていた「コバックス」があの時完全に消え失せ、一切混じりけのない「ロールシャッハ」として。
どうやって新たな生を享受したのか……。気になる点ではある。だが、それも今となっては些細な疑問に過ぎない。どこにいようとも俺のすべきことは決まっている。
とにかく今は情報が必要だ。どこでもいいから人がいる場所へ向かうべきだろう。ささやかだがこの土地の人々が腐っていないことを祈る。最も、そんなことはあり得ないだろうが……。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「HURM……」
日誌を書き終えたマスクの男。白地の布に蠢く黒のインクは彼の顔そのものだ。
ロールシャッハは日誌をトレンチーコートの内にしまいこみ、周囲を見渡した。
視界を埋め尽くすのは一面に広がる深い森。日誌に書き記したようにニューヨークの喧騒の中でクズ共を倒していた時では絶対に見ることのない光景だ。彼は今、丁度その真ん中にある道路らしき場所に立っている。しかしその道もかなり長く続いているらしく、果てしない地平線が飛び込んでくる。後ろを振り返ってみると、高くそびえる山々が覗いていた。
(どうやら余程の田舎に来てしまったらしい。マンハッタンめ、もう少しまともな所に飛ばしてくれればいいものを……)
長い散歩になりそうだ。ロールシャッハは内心毒づいた。
ロールシャッハを殺した男。アメリカで唯一の超人、Dr.マンハッタン。世界で一人だけの、たった一人の"スーパーマン"に彼はバラバラに砕かれ、肉片と化した。だというのに、彼は今こうして果てなき道を歩んでいる。こんな芸当が出来るのは他ならぬマンハッタンだとロールシャッハは確信していた。でなければ自身が生きている辻褄が合わない。
神の悪戯だとでもいうのだろうか? しかし生憎、神なら一人で事足りている。
「…………?」
歩き続けていると、ふいに妙な気配を感じた。ロールシャッハは足を止め、周囲に気を張り巡らせる。
この肌を舐めるような嫌な感覚……ニューヨークで日がな浴びていた悪党の視線そのものだ。それに一人ではない。あらゆる方向から視線を感じる。
こんな何もない田舎道にクズ共がいるとは。大方ここを通る者をわざわざ待ち伏せしているのだろう。あまりにも非効率的だというのは赤子でも理解出来る。悪党らしい、何とも小賢しい手法だ。
「出てこい。いるのは分かっている」
挑発。その場から身じろぎもせず、ロールシャッハは言い放つ。
その直後だ。右の森林から猛スピードで影が飛び出してくる。それを皮切りに左、後方、そして前の茂みからも同じように影がロールシャッハ目掛け飛んでくる。
やはり小賢しい。この程度の奇襲、クライムファイターとして何回も、何十回も経験してきたことだ。
まずは真っ先に飛び出してきた右。自身と同じか、もしくはそれ以下の小柄な男だ。下手をするとビックフィギュアに匹敵するかも知れない。なるほどこれなら奇襲には最適だろう。ロールシャッハはその男の腕を容易く掴み、そのまま左へと放り投げる。小柄だけあって、やたらと軽々しく感じた。
「ぐえっ!」
「ぐおっ!?」
ストライクだ。ぶん投げた男は見事に左の男に命中。勢いのまま茂みの方へと沈んでいく。そのまま死んでしまったのか、単に気絶しているだけなのか。両方ともピクリとも動かない。もし前者であるならばなんと軟弱な連中んのか。
これで終わりではない。前後から攻めてくる男たちを避けるべく、懐から銀に輝く銃なようなものを取り出す。マスクを被った時から愛用しているフックショットだ。迷うことなくそのトリガーを引き、近くの木を突き刺す。射出されたワイヤーを高速で巻き取るこの銃はロールシャッハを刺さった木の方向へと送り届けるのだ。
「へぇ、意外とやるじゃん。俺らの奇襲を対処するなんて」
「奇襲? あんなお粗末なものがか? HUH.お前らは随分と程度が低いんだな」
「ッ……てんめぇ……生きて帰れると思うなよ白黒野郎!!」
「こちらのセリフだ。クズ共め」
ナイフ……だろうか。見たことのない形状をした刃物を取り出し、男たちが一斉に飛び掛かる。安直な連中だ。数で勝っているからと油断しているのが丸分かりだ。こちらの単純な挑発に乗る時点でたかが知れている。
微塵も焦ることなく、ロールシャッハはカウンター気味に前の男の顔面に渾身の右ストレートを繰り出す。その拳は完璧に男を捉え、腐ったトマトの如く顔を吹き飛ばした。
…………"顔を吹き飛ばした"?
「ひ、ひぃぃぃ!?」
「………………」
目の前で仲間の顔が破裂して恐怖におののいている男を差し置き、ロールシャッハは血に染まった右手を見つめる。
(どうなっている? 確かに腕力にはそれなりの自信はある。だが頭をはじき飛ばすなどという芸当は出来なかった………)
この身体の中で何が起こっている? 何度も何度も同じ疑問が脳内を駆け巡る。自分もあの男のように超人となってしまったのだろうか? 無論、この程度では足元にも及ばないが……。だがよく考えてみれば、先の小柄な男も以前ならばああも容易く投げることは不可能だ。それにも関わらず、自分はまるで小石を投げるかのように……。あの二人が動かなくなったのは気絶しているからではなく、死んでしまっているからだと、この瞬間ロールシャッハは確信した。この不自然な怪力はかのコメディアンさえ上回るだろう。
だが、この力ならば。
蠢く黒が、腰を抜かしている男を捉えた。
「!! ま、待ってくれ!! お、おおおお俺たちが悪かった!! 頼むから命だけは!!」
「……」
ゆったりと、しかし確実に。ロールシャッハは男へとにじり寄る。
「人殺ししか頭にないクズ共が……」
「お、おおお願いだ!! 命だけは!!」
「己の罪でがんじがらめになったお前は天に向かってこう叫ぶだろう」
「た、頼む!!」
「「助けてくれ!」……とな」
ジャリ。
ロールシャッハは男の目の前に立った。
「そしたら俺はこう答えてやる」
"いやだね"
生温かい感触が、ロールシャッハの右手を覆った。
◇◇◇◇◇
「………」
道に転がる死体。鼻を突く血の匂い。小さな混沌の中、ロールシャッハは依然として手を見続ける。
やはり、この身体は普通ではなくなってしまったらしい。目も、耳も、筋肉も。身体の全てが化け物じみた何かに変貌を遂げている。普段なら見えない遠方も鮮明に映り、聞こえない筈の微量な音も逃さず捉えている。そして何より、人の頭を砕く異常な力。どういった変化がこの身に訪れたのか。どれだけ考えようとも答えは見つからない。
だが、そんなことはどうでもいい。
(好都合だ。何があったのかは定かではないが、この力ならば今まで以上に戦える。悪党共を裁く力が、今の俺にはある)
ロールシャッハは歩き続ける。拳を強く握り締め、長い道を。
ニューヨークで歩んだ固く冷たいコンクリートが、なぜか無性に懐かしく感じた。
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2話
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ロールシャッハ記 帝歴一〇〇六年 四月八日
クズ共を殺してから、およそ三時間が経過した。あの田舎道はかなり距離があり、人が住む市街に到着するまで大分掛かってしまったのは計算外だった。
俺は今、人目に付きにくい物陰でこの日記を綴っている。ここにくる道中でも多くの人間に奇異の目で見られていたのが主な理由だ。こんな視線など歯牙にもかけないが、生憎ヴィジランテとして街を駆けていた頃とは訳が違う。
見知らぬ土地、見知らぬ人々。今の俺は街路に捨てられた赤子と同じだ。この街……いや、そもそもこの世界については全くの無知。今は何よりも情報がいる。
だが、分かっていることが一つ。この世界の技術レベルは中世並に低い。自動車もなければ空飛ぶ飛行船もない。やはり、辺境の国へ飛ばされたとは行かないらしい。つくづく己の境遇を呪いたくなる。
しかし不思議なものだ。見たことも聞いたこともない土地だというのに、俺は言語を理解し、意思の疎通も出来る。クズ共を相手取った時も自然にそれを行えたのが何よりの証拠、この日記の日付も捨てられた新聞から知り得ている。
俺はヴェイトのような天才ではない。全く知り得ない言語を理解し、そして難なく話せるのは異常としか表しようがない。だが、話せるのならそれに越したことはないのも確かだ。どんな場所であろうとも一定の意思疎通がなければなるまい。
とにかくまずは情報を集めることが先決だ。幸い、アテはある。早速取り掛かるとしよう。
俺に立ち止まる暇などない。ニューヨークのように、この世界にも裁くべき悪は大勢いる。罪なき者に仇なすクズを野放しにはしておけない。
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「…………HURM」
なんという静けさだろうか。暗い路地の影から街の様子を見ていたロールシャッハは訝しげに唸る。
帝都───千年を迎えたこの国の中心。人口は押して知るべし、本来ならば人で溢れ返っている筈のこの街だが、その実目の前の広場を行き交う人々は驚く程少なかった。
人は歩く際おのずと前を向くものだ。しかし前を見て歩く人はごく僅か、市民の殆どは皆俯いている。まるで明日に希望など存在しないかのように………。
ニューヨークの雑多の中で生きてきたロールシャッハにとって、この光景には少なからず驚愕を覚えた。
(………………)
トレンチコートをなびかせ、暗く狭い路地をロールシャッハは行く。今自分がすべきことはこの国、この世界についての知識を得ること。絶望に暮れる市民を観察したところで何も始まらないのは分かりきっていた。
「......これは」
歩き続ける彼の目に手配書のようなものが飛び込んでくる。そこには膨大な額の懸賞金が掛けられている手配犯が複数見受けられた。長い黒髪の少女、ガタイの良い青年、眼帯を着けた女。そのどれもがとある組織に属している。
"ナイトレイド"───帝都の街を脅かす殺し屋集団。手配書にはそんな風な文句が綴られている。そういえば新聞にも彼らの記事が書かれていたような気がした。静まり返った闇夜に紛れ、軍の幹部や貴族逹を夜な夜な葬っている、と。軍はこの殺し屋集団の征伐に躍起になっているのだろうか? 尤も、帝国の思惑などロールシャッハには全く興味の範疇にも入らなかった。
(ナイトレイド......か)
しかし、この殺し屋逹は頭の片隅に入れておかなければなるまい。今後活動していく上で彼らと対峙する可能性も十分考えられるからだ。両者の立ち位置は極めて近しく、なおかつ向こうは集団。単独で動き回るロールシャッハにとっては障害になるかも知れない。
この連中がまともなヴィジランテであればいいが。善と悪は紙一重、その境界に立つロールシャッハはそれをよく理解していた。正義を行っているつもりが、気付けばそれが悪しき行いになることもある。下らないジョークで人々を死に追いやったあの男のように。
オジマンディアスの行いは結果として人類を救った。訪れようとしていた核戦争を防ぎ、世界の英雄となった。それは客観的に見れば善なる行為だったのだろう。
ふざけるな。
あんなことが善なる行いだと、断固として認めるものか。罪なき人々の上に積み上げられた仮初めの平和など絶対に認めない。そんなものはクソ喰らえだ。
このナイトレイドもそうだとするならば......己が正義の為に民を犠牲にするというのなら、ロールシャッハはその矛先を向けるだろう。混ざることのないこのマスクの白と黒のような、確固たる意思をもって。
「いやぁぁぁぁぁぁ!!!」
「……!」
ナイトレイドについてしばらく思案していると、ふいに女性の叫び声が響いてきた。そう遠くはないが、かなり切羽詰まっているのだろう、その叫びは収まる気配を見せない。同時に聞こえるのは野太く低い男の声。どうやら複数いるらしく、下卑た笑い声が飛び込んでくる。
(ビンゴ)
そしてこれこそが、ロールシャッハの狙いでもあった。
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最悪だ。エアは己の不遇さを嘆いた。
帝都に来たばかりの彼女は右も左も分からないようないわばお上り。一緒に村から来た仲間ともはぐれ、今となってはまるで迷路のような狭い路地に迷い込んでしまっていた。天気は清々しい程の快晴だというのに路地は薄暗く、今にも何か出てきそうな雰囲気が漂っている。
「ううう……ルナちゃん……ファルちゃん……二人ともどこ行っちゃったの……?」
ただでさえ気弱なエア。こんな場所に一人でいると心細いにも程がある。もしかすると変な輩にばったり出会ったりするんじゃないだろうか……そんな怖い想像までしてしまう。
そしてそれは、見事に的中してしまうのだった。
「あれれ~? お嬢ちゃん、こんなところで何してるのかなぁ?」
「えっ?」
突然後ろから声を掛けられ、おそるおそる振り向くと………そこには見上げる程に大きい男がなめ回すような視線でエアを見下ろしていた。男の後ろには仲間であろう男が二人。彼らも同じく、いやらしい視線をエアに向けている。
「お嬢ちゃ~ん、こぉ~んな人目に着かないとこで一人だなんて、勇気あるねぇ」
「ほんとほんと。襲ってくださいって言ってるようなもんさ」
「ひっ……」
戦慄───生まれて初めて味わうような恐怖がエアの身体を駆け巡る。もしかしなくともこの男逹は自分を慰め者にしようとしているのだろうか? 嫌だ。せっかく新天地へ来たばかりだと言うのにこんな目に会うなんて。
逃げなければ。今すぐに。だが恐怖で腰が抜けてしまい、立とうにも足が動いてくれない。何とか力を入れてみても言うことを聞いてくれない。そうこうしているうちに、男逹はエアに近づいてくる。
「へへへ……いいカラダしてんじゃねぇか。楽しめそうだぜ」
「い……いや……」
「抵抗したって無駄だぜ。観念しなァお嬢ちゃん」
「いやぁぁぁぁぁぁ!!!」
気付けばエアは叫んでいた。それが無意味だと分かっていても、男逹がそれで諦めてくれないと知っていても、叫ばずにはいられなかった。
男逹の魔の手が伸びる。下卑た笑みを張り付けた男の一人がエアの肢体に触れようとした、その時───
「おい、クソ野郎」
「あぁ!? ンだとてめ───」
ゴキリ。
鈍い音が響く。まるで首の骨が折れるような、そんな音。そしてそれは正しく、その通りであった。三人のうち一番後ろにいた男の首はあらぬ方向へと向けられており、その両目が光を灯すことは二度となかった。
「な、なんだテメェ!! いつからそこに!?」
「クソッ! 殺れぇ!!」
突如としてエアの前に現れた謎の男。薄汚れたトレンチコートを纏い、くたびれた中折れ帽を被った男は、襲い掛かる男逹を前にしても全く身じろぎもしない。このままではやられてしまうのでは───しかしそんなエアの不安はまるで杞憂であった。
一瞬。あまりにも一瞬だった。ナイフを携え、勢い良く突っ込んできた一人の胸を、謎の男はいとも容易く砕いた。深々と突き刺さったその拳は心臓を完全に潰し、周囲を鮮血で染め上げる。
「ひぃぃぃぃぃ!!? な、何者なんだテメェってぎゃああああ!!?」
「小指を折らせてもらった。もう一本折られたくなければ質問に答えろ」
「はぁ!? どういうこと───ぎぃぃぃぃ!!?」
「質問に答えろと言っている。……次は中指だ」
つい先程まで少女の叫びが響いていた路地に痛みに絶叫する男の叫びが木霊する。自身よりも一回り大きい男を謎の男は簡単に押さえ込み、枝を折るかのようにその指をへし折っている。もがき苦しみ、それでも必死に拘束から抜け出そうとするも、その度に男の指はボキリと音を立て折れていく。痛みに堪えかねた男が口を開くのに時間は掛からなかった。
「わ、わわわ分かった!! 答える!! 答えるから!! 質問ってなんなんだよ!!?」
「全てだ。この国の実情を全て話してもらう」
「じ、実情だぁ!?んなもん俺が知るか!!」
「知っているとも」
ボキリ。中指が真っ二つに折れた。
「お前はどうしようもないクズだ。だがそんな奴程、街の内面はよく知っている。さぁ存分に口を動かすがいい。人差し指を折られたくなかったらな」
「ひ、ひぃぃぃ…………」
容赦のない殺意が男を襲う。その行為の一つ一つに一切の慈悲などは存在しない。冷酷に、そして冷徹に。途方もない痛みと恐怖で悪漢を追い詰める。その様はまるで悪魔だ。
いや───それはきっと、正しくはないのだろう。
エアの目に映る彼は───ロールシャッハは、紛れもない"人間"だった。
「ハァ、ハァ、ハァ。な、なぁ。俺の知ってることは全部話したんだ。も、もうこんなマネはしない。誓って本当だ!だから頼む。見逃してくれ!」
「…………」
男は自身が知っている情報全てを洗いざらいロールシャッハに明かした。政府の腐敗、その手足たる軍、悪辣な貴族、腐敗の根源たるオネスト大臣、そしてナイトレイド。どれもが表面的なものでしかなかったが、これだけ知れれば一先ずは充分といえるだろう。
情けない声を上げ、みっともなく命乞いをする男。右の指を折られながらも地面に這いつくばり、慈悲を乞う。
哀れな男だ。慈悲を願うのならば聖人君子にでもすればいいものを。今目の前に立っている男は、そんなものとは全く真逆の存在だというのに。
「HURM.お前は大きな勘違いをしている」
「へ、へぇっ?」
「言った筈だ。お前はどうしようもないクズだと。そんなクズに次があるとでも?笑わせるな」
「まっ、待ってく───」
一閃。
目にも止まらぬ速さで振り下ろされた剛腕が男の頭を砕く。生々しい音と暖かい血液がそこらに飛び散り、真っ赤な模様を付けていった。
そして奇妙なことに、エアはその血塗られた模様が綺麗に見えた。それはまるで、きれいなちょうちょのようで───。
「おい」
「ひっ!?」
しかし突然ロールシャッハに声を掛けられたことでエアは一気に現実へと引き戻される。見上げればそこには血で拳を濡らす彼の姿が。その様相は先の男達よりも余程恐ろしい。
だがその声色は、どことなく優しさを帯びていた。
「お前も聞いただろう。この国の姿を」
「えっ…………あ、は、はい。まぁ」
「この国は腐り切っている……お前のような子供が居ていい場所ではない。今すぐ故郷へ帰るんだな」
「で、でも……」
「よく聞け」
ロールシャッハの語気が強まる。若干の怒りを孕んだその声はエアを怯えさせるには充分過ぎた。
それでも構わず、ロールシャッハは続ける。
「こいつらや俺のような連中とは対極の位置にお前はいる。ここに居てはお前もやがて深淵へと呑まれてしまうだろう。そうなってしまう前に、ここを立ち去れ。こんな場所よりかは田舎の方が遥かにマシだ」
「……分かり……ました」
「ならいい。……この道を真っ直ぐに行け。すぐ人通りの多い表に出る」
そう言ってロールシャッハは道を示すが、完全に納得はしていないのだろう。エアの返答はあまり釈然としない。それでも何とか飲み込んでくれたようだ。
彼にとって子供は未来を担う大切な存在。この世を生きるべき光ある存在だ。その光を闇で覆ってしまえば、文字通り世界は破滅するだろう。そんなことは断じてさせない。させてなるものか。帝都を出ろと言うのも彼女の身を案じてのことだ。
ロールシャッハは踵を返す。情報は手に入れた。それでもまだまだ心許ない。帝都のことも、ナイトレイドのことも、まだ断片的にしか知り得ていない。やはりゴロツキ程度の知識ではたかが知れていたが、次の目的は決まった。
「あ、あの!」
背後から届くエアの声がロールシャッハの足を止める。
「え、えと、その……な、名前を教えて頂けませんか!?」
「その必要はない」
「ど……どうしてですか?」
「もう二度と会うことはないからだ」
最後まで振り向きもしないまま、ロールシャッハはその場を去る。
ただ一人残されたエアは、その姿が見えなくなるまで彼の背を見つめていた。
ちなみにこの世界線の三人娘は生きております。
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3話
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ロールシャッハ記 帝歴一〇〇六年 四月十二日
この世界には救えないクズが多すぎる。俺が下水道を駆け回り、ビルの谷間を飛び越えていた頃とは比較にならない程、帝都には悪が蔓延っている。
気弱な優男、えらく清純そうな女、老いた老人や無垢な子供まで……。一見しただけでは悪とは思えないような人間が、しかし裁くべきクズということもここでは少なくない。クズ共から情報を頂く時に一体何人をこの手に掛けたことか。
殺しても殺してもゴキブリのように沸いて出る新たな悪共。それでいてどれもが醜悪な欲望の塊だ。
やはりこの世界も終わりは近付いている。終末時計の針は刻一刻と迫ってきているのだ。
だが諦めてなるものか。あの地では成し得なかったことを、ここで成し得なければならない。この世界の悪を消し去るまで俺に足を止める暇など、ない。
今、俺の眼前には大きな屋敷が居を構えている。クズを尋問し得た情報によれば、帝都にやってきた新参者を言葉巧みに誘惑し、そして非道な拷問を繰り返す貴族の住処らしい。その拷問も家族全員で行っている始末…………。
許す訳にはいかない。奴らには断固とした裁きを下さねば。クズの道楽に散って行った罪無き者達の無念を晴らさねばならない。俺が、この手で…………。
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「………………」
物音一つもない、静まり返った帝都の夜。ニューヨークのそれとはまるで真逆の状況は、かえってロールシャッハに僅かな不安を抱かせる。
いつも街と人の中に身を置き、途切れることのない喧騒を駆けてきた彼にとって静寂とはあまり縁のないものだと言えるかも知れない。
だがそれも些細なこと。怖じ気付く理由はどこにも見当たらない。冷静に、焦ることなど微塵もなく、性根の腐った悪を裁く。それがロールシャッハの存在意義だ。
「…………HURM」
マスク越しに見える巨大な屋敷。そこが今回の標的たる貴族達の住処だ。私兵だろうか、広々とした中庭には武装した男が何人も辺りを警戒している。
この時点でロールシャッハにとってはクロに等しい。何もやましいことがなければわざわざこんな深夜に兵を置く必要はない筈。この厳重に見える警備はいつか誰かに報復されるという不安の裏返しに他ならない。
そして今日、その報復は成されるのだ。
屋敷から少し離れた民家の屋根、そこからフックショットを飛ばし、近くにある手頃な木に引っ掛ける。後は引き金をもう一度引けばロールシャッハの小柄な身体は一気に引き寄せられるだけだ。
屋敷のごく間近には来れた。が、問題は中の兵士。あんな雑兵など取るに足らないが、戦闘の最中標的に気付かれ逃げられるなどあっては本末転倒。
となると貴族だけ殺せばいいのだが、庭にいるのが全てとは限らない。屋敷の中にも必ず兵士はいるだろう。全員に気取られず行動するには厳しい面もある。
(……………………)
束の間の思考。どうすれば最善の方法を導き出せるか、これまでの勘と経験を総動員させる。
方法はある。それはロールシャッハの得意分野でもあるが、しかし気付かれないとも限らない。リスキーな選択だが、やってみる価値は多分にあった。
一度決めれば行動は迅速だ。兵に気付かれぬよう気配を殺し、敷地へと侵入する。そして最も屋敷から離れた場所の兵をロールシャッハは組み伏せた。
当然、突然の自体に兵は狼狽、大声を上げ仲間を呼ぼうとするが………そんなことをさせる程、アマチュアではない。
右手を掴み、即座に親指をへし折る。訪れた激痛に兵は金切り声を上げるが、ロールシャッハに塞がれた口ではその声は届かない。
「今から幾つか質問をする。五秒以内に答えない場合はもう一本指を折る。返答以外のことを喋っても指を折る。分かったか?」
「!?…………ッ!!」
兵の方がロールシャッハよりも明らかに大柄で、その気になれば抵抗することも出来たかも知れない。しかし、そんな気は全く湧き上がる様子もなかった。痛みと困惑、そして言い知れない巨大な恐怖。唐突に現れた脅威に兵は首を縦に振るしかない。
怯える兵が頷いたのを確認したロールシャッハはその口から手を離した。
「───ッハァッ!ハッ、ハッ、ハッ…………!!…………くっ…………し、質問とは何だ…………?」
「一つ。屋敷に兵は何人いる」
「……………………だ、旦那さまの部屋の前に二人。奥さまとお嬢さまは一人ずつ。あとは見回りの三人…………だ」
「HURM.合わせて七人か」
七人。思ったよりも数が多い。対処は可能だが、やはりそう簡単にはいかないだろう。
続けてロールシャッハは質問を投げ掛ける。
「二つ。ここのクズ共が捕らえた人々はどこに居る」
「………………あそこに納屋が見えるだろう。そこに居る………………だ、だが生きてるかどうかの保証はな───ッッッ!!?!?」
またしても襲う鈍い痛み。今度は人差し指が折られていた。
「余計なことは喋るな。次は殺す。………………"生きている保証はない"とはどういうことだ?」
捕らえられた人々の生きている保証はない───兵の言い掛けた言葉にロールシャッハは疑問を浮かべた。
ここの貴族が惨たらしい拷問を行っていることは周知している。無論、その末に死んでしまう者もいるだろう。だが拷問というのは対象が生きていて初めて成り立つもの、全員が死んでしまっては拷問など出来る筈もない。
…………まさか。
「うぐっ………………こ、言葉通りの意味だ!!ここの"クソッタレ貴族"共は死ぬまで拷問を繰り返す!!何度も何度もだ!!今更生きてる奴なんざいるかよッッ!!」
「…………知っていながら、お前達は黙認していたのか?」
「…………ッ…………仕方ないんだよ。この帝都で生きていくには。力のない俺達が生きていくにはこんなことするしかないんだ…………」
「……」
垣間見えた本音。心の叫びとも言えるその言葉には悪辣な行為を平然と行う貴族に対しての怨嗟、そして悪に身を落とすしかない無力への嘆きが込められていた。
なるほど。主が主なら従者も従者だと思っていたが、その見当は外れたらしい。子飼いにされた犬といえど、善悪の区別はつくようだ。
だとしても悪事は悪事、相応の報いは受けなければならない。
彼らが少しでも早く発起していれば、罪無き者達の命が奪われることはなかったかも知れない。尊い命を救い、下卑た悪を裁けたかも知れない。
その可能性を、光ある未来を、この兵士達は自ら棄てたのだ。
「戯言を。そうさせたのはお前の弱き意思だ。悲観したところで何の意味もない」
「…………殺すなら殺せよ。どうせ生きてたって…………」
「殺しはしない」
「え?」
覚悟はしていた。このマスクの男に相対したその瞬間から、自分は死ぬのだと。とうとう然るべき報いがやって来たのだと。
しかしその結果は予想を裏切るものであり。殺されるとばかり思っていた兵はロールシャッハの言葉に素っ頓狂な声を上げる。
「お前は紛うことなき悪だ。だが心は黒く染まりきってはいない。罪の意識があるのなら一生それを背負って生きていくがいい」
「…………こ、殺さないのか?」
「HEH.勘違いするな」
ロールシャッハは兵の頭に拳を振り下ろす。無論、死ぬような威力ではない。その一撃で兵の意識はすぐ様刈り取られた。
「今のお前に死ぬ資格などない」
人の心を弄ぶ悪でもなければ、手を差しのべる善でもない。途方もなく彷徨い続け、その果てに彼は選択出来なかった。
混ざりきらないどっちつかずの灰色。漠然と濁った彼が出来ることは犯した罪を背負い、その呵責に耐え生きることだ。牢屋に放り込まれるでも、自ら命を絶つでもない。罪に塗れた人生という拷問を受け続けるのが、死んでいった罪無き者達へのせめてもの贖罪と言えるだろう。
(………………HEH)
善と悪、白と黒。常に形を変え蠢くこのマスクからはその二つの光景しか見えない。決して混ざることのない絶対の意思を持つロールシャッハだが、目の前で気を失っている男は果たしてクズと言えるのか?
彼が罪を犯したのは紛れもない事実。本来ならば裁くべき対象だろう。にも関わらずロールシャッハは彼を手に掛けなかった。それはロールシャッハの中にある冷徹な正義感が、この男が根っからの悪ではないと判断したからに他ならない。
無論、何故そう判断したのか本人にも分からない。故か、判然としない感覚が彼の中に渦巻いている。それでもただ一つだけ分かるのは、この兵士が地獄に落とすべきクズではないということだ。
「…………俺も甘くなった」
月明かりが照らす中、ぽつりと呟かれた言葉。嫌悪の色を含んだその声は虚空へと消えていく。
それより今はすべきことがある。真っ黒に染まった貴族のクズ共を裁かねばならない。文句を独りごちるヒマなどないのだ。
ロールシャッハはフックショットを抜き、屋敷の壁に放つ。窓の近くに突き刺さった先端に引き寄せられた彼は懐から細長い針金を取り出し、窓の鍵穴に差し込んだ。十八番ともいえるピッキング術はこういう時にこそ役に立つ。
(狩りの始まりだ)
暗い廊下をロールシャッハは駆け抜ける。怒りに拳を握り締め、クズ共を裁くために。無念の魂の恨みを晴らすべく、その殺意は悪へと向けられていた。
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4話
シャッハさんにパンプキン持たせたら最強じゃね?
苦もなく屋敷内に侵入したロールシャッハ。月明かりに照らされているとはいえ、廊下は薄暗く視界は余り効かない。尤もそれは常人の話であって彼にそれは当てはまらなかった。不自然なまでに強化された眼は暗闇をものともせず、鮮明に映し出す。
見つからないよう注意を払いつつ内部を駆けずり回り、ロールシャッハはやっと発見した。物々しい面持ちでドアの前に立つ一人の兵士。何をそこまで警戒しているのか、右手の剣が忙しなく動いている。先程尋問した兵士の言葉を信じるならばあそこが妻か娘の部屋だろう。
(UUUMM……)
廊下の角に身を隠しながら耳を傾ける。眼と同様に常人離れした聴力は兵士の動向を逐一拾い上げるのだ。やや早い息遣い、鳴動する心臓の鼓動。明らかに不安を感じさせる気配である。
やはり同じか。恐れているのだ、報復を。ナイトレイドに限らず悪を裁く者はいるだろう。いつ何時彼らが襲って来るか、怖くて怖くて堪らない。あくまでロールシャッハの勝手な想像だが、いずれにせよ強い緊張状態であるのは確かだ。今ならば簡単に対処出来る。
「!? な、何だおまっ───」
隼の如く角から躍り出たロールシャッハ。常人では捉えられない速さで拳を突き出し、鳩尾へと送る。深々と刺さる固い拳は兵士の意識を一瞬で奪い取った。
(………………お粗末すぎる)
程度が低い。のした兵士を見下ろしながらロールシャッハはやや呆れを覚えた。この有り様だと屋敷にいる兵士達は誰も彼もたかが知れるというもの。無論、自身が熟達したヴィジランテということもあるが、しかしそれを差し引いても大した実力はないと言える。これではナイトレイドどころか、生半可な犯罪者連中にさえ打ちのめされてしまうのではないだろうか。
だがそんなことはどうでもいい。今すべきことは悪を裁くこと、たかたが私兵程度に関心を寄せている場合ではない。
気絶している兵士を無造作に放り投げ、ロールシャッハは扉を静かに開ける。妻か、それとも娘か。どちらだろうとも普通なら熟睡している筈の深夜帯、その華奢な首をへし折るのは容易い。それにここの住人がクズだというのは分かり切っている。容赦する理由はどこにもない。足音を立てないようベッドに近付くが、そこでロールシャッハは異変に気付く。
「…………いない?」
広々としたキングサイズのベッド。大の大人が優に三人は入るであろうそこに人の姿はなかった。しかしシーツを触るとまだ僅かに暖かみを感じる。この部屋から出て間もないのだろう。
こんな時間に一体どこへ向かったというのだ?その答えは実に明白だった。
(納屋か)
拉致した者を虐げるだけの倉庫。先程兵士を組み伏せた時に示された場所には確かにそれらしき建物は見受けられた。間違いなく、そこへと足を運んだのだろう。罪のない人間をただ弄び、いたぶる為に。
怒りが込み上げるロールシャッハだが、ふと傍にあった机に目が付いた。整然とされた机の棚には幾つもの日記らしき本が並べられている。背表紙には何も書いていない。一見しただけでは単なる本に見えるが、ロールシャッハは何か言い知れぬ暗いものを感じ取っていた。
適当な本を手に取り、ページをめくる。そこに綴られていた文字にロールシャッハは目を見開いた。
「…………クズが…………」
拷問の記録。あらゆる方法で人を虐げた内容が、そこには嬉々として書かれていた。
眼球を抉り、爪を剥ぎ、内蔵を引きずり出す。生々しく、それでいて絵空事のように脚色された文を見るだけで目を覆いたくなるような光景がまざまざと浮かぶようだ。
文面から読み取れたがこの日記は妻のものらしい。夫や娘と共に拷問を楽しんだという巫山戯たことが書かれている。
更なる憤怒、憎悪。冷たい業火の爆発が、幾度も心臓の中で繰り返される。血は燃え滾るように熱く、それでいてかつてなく冷酷に。絶対の断罪を再度誓い、ロールシャッハは部屋を後にした。
何としてでも殺す。この一家の全員を、必ず。虐げられた人々の苦痛を、無念を晴らさねば。彼らの未来を奪った者に報いを与えねば。
そうでもしなければ、彼らの魂は救われない。
巨大な怒りの衝動に任せ、全力で廊下を走る。最早なりふりなど構っていられない。見つかろうが何だろうが関係ない。邪魔する者は問答無用で叩き潰すのみ。
疾駆しながらもロールシャッハは己の感覚を頼りに標的を探り、屋敷内を探索する。いくら広大といえど所詮は家屋、見つけるまでにそう時間は掛からなかった。
(見つけた)
ロールシャッハの耳に届く不快な鼻歌。日記を片手に意気揚々と歩く妻の後ろ姿にどす黒い殺意は加速する。
神速、とはまさにこのことを言うのだろう。姿が霞む程の速度で背後に近付き、ロールシャッハはその小さな頭を鷲掴みにする。そして───
「死ね」
「え?」
───躊躇うことなく固い床へと叩き付けた。
鮮血、脳髄。頭部が粉砕されたことで辺りに赤い血と粘つく体液が飛び散った。当然、ロールシャッハのコートにもべっとりとこびり付くが、こんなものは歯牙にも掛けない。
「HUNH.クズに相応しい死に様だな」
侮蔑を呟くロールシャッハは死体に見向きもせず、再び走り出す。まずは一人始末した。残るは夫と娘の二人、迅速にことを運ばなければならない。もたもたしている分だけ逃走の確率は高まるのだ。
一刻も早く探し出さなければ。そう思っていたその時、ロールシャッハは異様な気配を感じ取り足を止めた。
「───!」
背中に走る悪寒にも似た感覚。強烈な殺気がロールシャッハの身体にのしかかった。並のチンピラなら腰を抜かすであろう鋭い殺気は警戒心を一気に引き上げる。
(やはり来たか)
ここにやって来ることは薄々分かっていた。彼らとロールシャッハの立つ場所は極めて近く、それでいて対極にいる。相入れることは恐らく万に一つもないだろうが、しかし悪を裁く者としての役割は果たさねばならない。この家のクズ共は互いにとって殺すべき標的なのだ。
足を止めたロールシャッハの眼前。大きな窓から見えるのはそれぞれ背丈が異なる男女六人。そのどれもが異様な殺気を放っている。どんなカラクリを用いているのか、何もない虚空に浮かんでいる彼らをじっとロールシャッハは見据えた。
「…………HURM」
ヴィジランテとしてその力を振るっていたロールシャッハ。それはこの地でも変わることはない。悪を裁き、罪に復讐する。それが役割であり使命。
しかし、その役割を果たすのは必ずしも彼だけという訳ではない。どんな世界にも悪を裁く者逹は存在している。ここにおいてのそれが、今目の前にいるナイトレイドだ。
極めて断片的な情報からでしか知り得なかったナイトレイド。そのメンバーが今、ロールシャッハの前に軒を連ねている。手配書で見た面子もいれば、初めて目にする者。実際に手を合わせた訳ではないが、相当の手練ということは何よりこの殺気が物語っている。
しばらくの間───といっても数秒程度だが───対峙する両者。しかしその均衡はナイトレイドによって崩される。
「いよっとぉ!」
「!」
派手な音、それに威勢のよい掛け声と共に窓から突入してくる一人の女。そのグラマラスな容姿は大人の色香が漂う妖艶な雰囲気を感じさせる。生地が少なく肌の露出が多い衣服を纏っているのもあり、そこいらの男ならばころりと魅了されてしまうに違いない。主張の激しいたわわな胸も大きな要因と言えよう。
つまるところ、ロールシャッハが最も忌み嫌うタイプの女性である。
「EHH.淫売め」
溢れ出る多大な不快感と嫌悪感を包み隠すことなく、ロールシャッハは毒を吐く。ただでさえ女嫌いだというのにこのあられもない格好、間違いなく己の身体を売り物にしているのだろう。何とも偏った考えがロールシャッハの脳に思い浮かぶ。
「おいこら。初対面でいきなり失礼じゃないかお前」
「事実だろう。ナイトレイドは売女をメンバーにする程人手が足りてないのか?」
「へぇ。私らがナイトレイドってのは分かるんだ」
「HUNH.あんな気配を出せる連中は限られるからな。それにあの黒髪の少女は手配書で目にしている」
「まぁアカメは仕方ないか」
失礼な物言いに抗議しながらも、ナイトレイドの女、レオーネは目の前のロールシャッハを見据えた。
蠢く白黒のマスク、ボロボロのトレンチコートと帽子、そしてただならぬ雰囲気と対峙しただけで分かるその実力。今回のターゲットとはまるで異なるのは一目瞭然だった。
その上ロールシャッハの登場は予想外のイレギュラーでもある。纏う空気からして恐らくは同業者、それに先の言動から鑑みるに友好的ではない。今回もそうだが、今後の任務の邪魔になる可能性も捨て切れなかった。
だからといって真っ先に始末する、という訳にもいかない。ターゲットではない以上、無闇な殺しはすべきではないのだ。そもそもロールシャッハはかなりの実力者、実際に交戦して勝つのが危ういことを、レオーネは理解していた。
「さーて、見られたからにはただで帰す訳にはいかないんだけど」
「HEH.俺を殺すか?」
「んー……出来るならナイトレイドに入って欲しいんだけど、どう?」
「仲良しこよしをするつもりはない。勧誘しているヒマがあるのか?お前達と俺の標的は恐らくは同じだ。腹立たしいがな」
「その点はシェーレが行ってくれてるから心配ないね。ていうかホントに入ってくれないの?」
「断る」
故に勧誘する。ナイトレイドはいつだって人手不足、相応の人員は欲しい。その点、ロールシャッハの力と信念の強さはまさにうってつけと言えるだろう。ものは試しではないが、とにかくまず勧誘してみる。
が、ロールシャッハはそれを一蹴。レオーネの要求を問答無用で突っぱねた。当然といえば当然の結果である。ロールシャッハのスタイルに仲間は不要なのだ。
「はぁ…………ま、そんなんだろうとは思ってたけど。見られた以上、五体満足では帰さないから。流石に殺すのはアレだから半殺しで勘弁してやるよ」
ゴキリと指を鳴らし、臨戦態勢に入るレオーネ。突如として変わった雰囲気は獅子のそれに匹敵する程の威圧だ。百獣の王の力が宿るその肉体はまさに超人的な力を誇るだろう。
だが、その程度で怖じ気付くロールシャッハではない。
「やってみるがいい、淫売」
拳を前に突き出し、ロールシャッハはファイティングポーズを構える。本来ならこんな女は無視してすぐさま家主を殺すべきだ。だがそれは出来ない。そんな真似が出来る程、目の前の女は甘くはないと分かっていた。
ならば戦うしかあるまい。邪魔する者は叩き潰す、そう決めたのだから。
暗殺集団ナイトレイド対狂気のヴィジランテ。初めて邂逅した両者は、ほぼ同時に己の拳を振りかざした。
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5話
かといってシャッハさんがペラペラ喋る印象もないし…………。ううむ、難しい。
「オリャアッ!」
ロールシャッハの顔面目掛け飛来する拳。何の仕業か、その両手は獅子のそれに変化していた。滑らかな毛並み、鋭い爪。さながら野生の如き力は生半可なものではない。まともに喰らえば大きな痛手を被るだろう。絶え間なく繰り出される拳撃をいなしつつ、ロールシャッハは冷静に相手の能力を分析していた。
(HURM…………)
恐らくはDr.マンハッタンに類似する力をレオーネは有している。でなければ薬品か何かだろうか?如何様にして彼女の肉体が変化したのか、ロールシャッハには分かりかねる。ただ一つ言えるのは、その身体能力には目を見張るものがあるということだ。元々の実力に加えあの力、如何にロールシャッハといえど苦戦は免れない。
無論、勝てない相手ではない筈だ。他の手札を隠しているのも考えられるが、対処法はいくらでもある。
「気ィ抜いてんなよッ!!」
「!」
迂闊。
ほんの数瞬、数秒の思考。それを見逃す程、ナイトレイドは甘くはない。僅かに生まれた隙を突き、レオーネは鋭い蹴りを放つ。驚くべき速さだ。かつてのロールシャッハでは対応するどころか、反応すら敵わないだろう。
だが今ならば。今のこの肉体ならば、十二分に戦える。それこそ対等以上に。
数瞬の攻防にて生まれた隙は確かに致命的だ。だがその致命的な隙へ付け入ることこそが慢心。殺せる、そうでなくとも大打撃を与えられる。そう確信している攻撃程、見え透いたものはない。
無防備になった腹へ飛んでくる足を、ロールシャッハは万力のような怪力で掴み止めた。超人的な瞬発力と判断力があってこその業である。
「んなっ!」
「HUNH.安直だな」
足をそのままへし折りかねない程の怪力。走る痛みに振りほどこうと力を入れるもそうはいかなかった。レオーネの強化された筋力を以てしてもロールシャッハは微動だしない。この衝撃の事態にレオーネは驚愕の色を隠せなかった。
故に疑念を持つのは当然である。この男は自身と同じ"帝具使い"なのでは、と。
「お前…………帝具使いか?」
「…………帝具?何のことだ」
「とぼけんな。今の私に力で勝つなんて帝具使い以外有り得ない」
「HURM.生憎だが帝具なんていうものは聞いたことがない。無論、見たこともな」
「なっ…………ホントに帝具使いじゃないのか!?」
「ここで嘘をつくメリットはないと思うがな」
だが、その予感は外れることとなる。
当然だ。そもそもロールシャッハは本来別の時間軸、別の地球にいた存在。この世界の地に足を下ろしたのもつい最近のことである。どれだけ彼の情報集能力が高くとも、この僅かな期間に帝具という代物を知るのは困難。
相応の実力を持つ自分を軽々とあしらうロールシャッハ。彼が帝具使いではないことにレオーネはまたも驚愕するが、何より驚いたのがその身体能力。足を締め付ける彼の手がタネも仕掛けもない純粋な筋力によるものならば、この男の肉体は一体どうなっている?
レオーネの帝具「ライオネル」は装着した人間の肉体及び自然治癒力を強化し、並外れた身体能力を得るというもの。それに匹敵するか、下手をすれば凌駕しているロールシャッハはどう考えてもおかしいのだ。
「お前…………一体何モンだよ」
「答える必要はない」
険しい顔付きのレオーネに対し、ロールシャッハの関心は低い。いや、関心が低いというよりは構う必要がないと言った方が正しいだろう。あくまで彼の目的はこの屋敷の人間を殺すことであり、ナイトレイドの相手をする理由はない。ロールシャッハにとっては不本意だが、彼らの目的は一致している。今こんなところで争っている暇など元来ありはしないのだ。
「この足は貰うぞ」
「はぁ?何言って───いっでェェ!?」
メキリ。
骨が折れる鈍い音。ロールシャッハは掴み止めたレオーネの足を、そのまま握り込み脛骨を粉砕した。単なる骨折ではなく、骨がバラバラに砕ける粉砕骨折。常人ならばあまりの激痛に天地がひっくり返るような錯覚に見舞われるだろう。屈指の実力者たるレオーネならまだ耐えられるものの激痛は激痛、苦悶に顔を歪めていた。いくら治癒力が高いとはいえ、こんな大怪我となると瞬時には回復しない。この有り様ではしばらく時間を要する。
つまり、ロールシャッハとは満足に戦えない。
「こ…………ッんの野郎ッ!」
「HUNH」
それでもなおレオーネは抵抗を試みる。足が捕縛されようとも両腕は自由、いくらでも攻撃は可能だ。ならばやらない手はない。こうも一方的にやられるのは性分に合わないし、何より腹が立つ。ありったけの怒りを込め、レオーネは獅子の拳を放った。
が、そんなことは想定内。
「血の昇りやすい女だ」
「ぐあっ!?」
安直だ、と先程ロールシャッハは言った。確かに速いがただそれだけ、直線的な軌道は読みやすい。感情を優先しがちなレオーネならなおさら、こちらが主導権を握った状態である程度の隙を晒せば必ず怒りに任せ攻撃してくる。ロールシャッハはそのことを予見していたのだ。
レオーネとて一流の暗殺者、多くの場数を踏んで来ているだろう。しかし年季が違うのだ。踏んできた場数も、乗り越えた死線も、何もかも。裏付けされた経験と知識は相手の思考を読み取り、そして瞬時に判断する。長年ヴィジランテとして活躍したロールシャッハならばこの程度のことは容易い。
一切の容赦なく、そして無慈悲にレオーネの拳は砕かれる。指が、甲が、ロールシャッハの怪力によって。それは折るなどという次元ではない。文字通り、砕く。ぐちゃぐちゃに粉砕され変形した手は見るも無惨な状態へと変貌していく。
これで二本。
「これではまともに戦えまい」
「ぐっ…………う……!……ホントに何なんだよお前は!!」
「………これ以上は時間の無駄だ。ご退場願おう」
「うおわぁッ!!?」
激昂気味の詰問も意に介さず、ロールシャッハは掴んだ足を力の限り振り払いレオーネを窓へ放り投げる。勢い良く飛んでいく様子はさながら弾丸のよう、空を舞う彼女は間もなく重力に従い地に落ちる。
彼女がどれ程の力を秘めているのか、それは定かではない。だが足を砕いたのだ、相応のダメージは負った筈。あれでは歩行も困難と言えるだろう。何はともあれ、厄介な邪魔者は消えた。
しかし、ロールシャッハの足は動かない。彼のマスクが緩やかに、それでいて複雑に模様を変化させている。何かに疑念を抱いているかのように。
「………………」
───何なんだお前は───
レオーネの問いは、常にロールシャッハの中にも介在していた。
突如として宿った超人的な力。Dr.マンハッタンの足元にも及ばぬものの、この力は凡そ人の理を凌駕している。ひと度拳を振り抜けば岩を砕き、見上げるような建物も一息で飛び越える。その様はコミックで活躍するスーパーヒーローのそれだ。無論、彼は一介のヴィジランテであり、ヒーローであったとしても超常的な能力はない。あくまでも人間の範疇において強いだけである。
ロールシャッハにとってこの身体は単なる手段の一つでしかなかった。世に蔓延るクズをこの手で殺す。突然身に受けた化け物染みた力がその助力となるのなら、それは一向に構わない。だからといって簡単に無視して良い問題ではないのも─────確かだ。
何故、どうしてこの力を得たのか。それを解明するのは今でなくとも、近い内に判明させておかなければなるまい。本来こういった変化は鋭敏に反応するべきなのだが、悪を裁くためなら手段は選ばないのがロールシャッハという存在。使えるものが増えるのに越したことはないのだ。真っ先に湧いて出る疑問が、彼の場合片隅へと追いやられるのは仕方のないことだろう。
「…………HUNH」
ともかく自分のことは後回し、今はすべきことがある。目障りな障害も排除し、これで心置きなくクズを仕留められるというもの。気を取り直し、ロールシャッハは二人目の標的を探す。
だがナイトレイドが現れたことで下はてんやわんやの大騒ぎだ。もしかすると逃げられてしまうか、最悪既にいない場合も考えられる。全く、面倒なことをしてくれる連中だ。内心毒づくロールシャッハだが、突然強烈な臭いが鼻腔を刺激する。馴染み深く、それでいて嫌悪するもの。
紛うことなき血の臭い───鉄に酷似した強い不快臭が目の前の扉から漂ってくる。護衛の兵士は居ないようだが………。
確かめねば。半開きの扉を静かに開け、ロールシャッハは中の様子を伺う。
(!………これは…………)
床一面に広がっていく血溜まり。それは眼下にある死体から滲み出ていた。恐らくは標的であった家主であろう、見開かれた瞳は光を失い虚空を見つめている。
恐らく、というのは肉体がバラバラに裁断され判別が上手くつかない為だ。こんな芸当、素人の出来ることではない。
(…………HURM)
死体に近寄り、その状態を観察する。かなり綺麗な切り口だ。相当の技量と、鋭利な得物があって初めて成り立つ業と言える。当然殺ったのはナイトレイドの誰かだろうが、彼らの中にはかなりの使い手がいるらしい。こんなにも人体を上手く斬る人間をロールシャッハは見たことがない。先の戦闘もそうだったが、やはり一筋縄ではいかない相手だ。
ただ一つ気に掛かる点はある。この切り口は一方向から斬り込んだというよりは左右同時に刃が入ったような状態であり、一般的な剣の類いではこんな傷にはならない。何か巨大な鋏のようなもので裁断したとしか言い表せないのだ。だとするならば…………。
(帝具、か?)
レオーネが言っていた「帝具」。どういった代物なのかは定かではないが、何らかの強い力を持つ武具に類似するものだと予想は出来る。この死体の有り様から察するに、巨大な鋏という可能性も考えられるだろう。尤も、そんな馬鹿げた武器があるのなら是非お目に掛かりたいものだが。
「HUNH.余計な真似を」
殺すべきクズが無残な死に様を晒すのは問題外。この手で殺せなかったのは残念だが、また一つ悪が減ったのは良いことだ。
問題はナイトレイド。確認しただけで六人という多さは単独で行動するロールシャッハには出来ないチームでの動きが出来る。現にロールシャッハとレオーネが戦っている隙にこの仕業、決して一人では出来ない行動だ。そうなると残された家主の娘はとうに裁かれていると考えるのが妥当だろう。さっきまで届いていた攻防の音も鳴り止み、不気味なまでに静寂が漂っている。
繰り返すようだが、この世から裁くべきクズが消えるのは全く悪いことではない。それによって悲しむ人々が減るのだから。ナイトレイドはこの世界においては必要不可欠な正義と言ってもいい。だがやはり、彼らはロールシャッハがヴィジランテとして活動を続ける上で障害にしかならないのは明白だ。
排除せねば。少なくとも、活動に支障が出ない程度には。それが出来ずとも奴らの力は把握しておかなければならない。全員がレオーネ並の実力を有しているならば、それは大いなる脅威になる。
レオーネは人手が足りないと言っていた。接近すれば、あるいは加入の交渉も出来るだろう。ナイトレイドの実態、組織としての力量を測るチャンスだ。ただ、その上で彼女の足と拳を砕いてしまったのは少しやり過ぎたかも知れないが。
「HURM…………ものは試しか」
踵を返し、窓を突き破る。一瞬の浮遊感の後中庭に着地したロールシャッハは例の倉庫へと向かった。道中呆気なく始末された兵士の死体に目もくれず、ひたすらに走る。数十秒と掛からず倉庫へ着くのはこの強化された肉体のお陰と言えよう。
気配を殺し、物陰で様子を伺う。捉えたのは手配書で見た刀を持つ少女、田舎風の少年、そして最後の標的であった娘。
(EHH…………予想はしていたがやはり遅かったか)
またも先を越されてしまった。始末しようとしていた娘は既にその肉を叩き斬られ、無様な死体として地に伏している。返り血を浴びているのは少年の方のようだが、その面持ちは穏やかではない。彼が娘を斬った理由は、ロールシャッハも察しは付く。気の毒ではあるが、しかし見事な切っ先だ。ほんの少しでも躊躇いがあれば普通は斬れない。また一人、深淵に足を踏み入れた者が増えた訳だ。
「おい、そこにいる奴」
「!」
「いるのは分かっている。大人しく出て来い」
いつ姿を見せるか。そのタイミングを探る最中、黒髪の少女───もといアカメは物陰に潜むロールシャッハの気配を感じ取った。極力気取られぬよう細心の注意を払ったつもりだが、余程優れた感覚を持っているらしい。このまま隠れている利点もない為、彼女の言葉通りロールシャッハはその姿を表す。
「んなっ……いっ、いつの間に!?」
「………HEH.ツレは気付かなかったようだな」
「私でも集中しなければ分からなかった。あんな気配の殺し方、相当の実力がなければ出来ない」
「HUNH」
茶髪の少年は大層驚いている様子だ。ロールシャッハが潜んでいたことに全く気が付かなかったのだろう。初めての殺しをした直後とはいえ、何とも抜けている。
それとは逆にアカメの警戒心は一気に最高潮に達していた。ここまで自然と一体になった気配の消し方は普通はおろか、力のある者でもそう出来ない芸当。それを容易くやってのけたこの奇妙なマスクの男はアカメにとっては警戒すべき相手だ。腰の刀を再度抜き放ち、目の前の男に問う。
「何が目的だ。もし邪魔をするつもりなら葬るが?」
「そんなつもりはない。頼みがあって近付いただけだ」
「頼み?」
「……俺をナイトレイドに加えて欲しい」
「!」
単刀直入。ロールシャッハにしては珍しいものの頼み方である。基本誰かに何かを頼み込む、ということをしない彼にとってこんな直球はあまり見ない。だがロールシャッハの実力が高いのは事実。レオーネを退けた力はナイトレイドにとって不足はないだろう。動作一つを見てもプロだということはアカメとて分かっている筈、得体の知れない相手とはいえ、一考の価値はある。
「……私がナイトレイドだと?」
「手配書でお前の顔を見た。アカメ、とか言ったな」
「ああ。それより何故ナイトレイドに?」
「利害の一致だ。不本意だが俺とお前達の目的は同じ、ならば単独で動くより複数の方がいい。お前達は一人でも人員が欲しいんだろう?」
「確かに人は欲しい。だがどうして我々が仲間を欲していると分かるんだ?」
「ついさっきお前達のメンバーに会ったんでな。その時の誘い文句だ」
「レオーネが?………………」
流石に唐突過ぎただろうか。いきなりの申し出にアカメは眉間に深い皺を寄せていた。
当然だろう。こんな正体不明の男の入団をそう簡単に一人で了承していい筈もない。本来なら仲間と吟味し可否を決めるのが筋だろうが、ロールシャッハの言う通り人手が欲しいのも事実。出来るならば加わって欲しいというのが正直な所であり、彼の頼みは是非もない話である。
「…………レオーネはどうした」
「適当にあしらった。安心しろ、大した危害は加えていない」
「……そうか」
全く、よくもまぁすらりと嘘を吐けたものだ。ロールシャッハは我ながら感心した。何が"危害を加えていない"だ、手と足を粉砕したというのに。
そんなロールシャッハに対して、アカメは驚嘆の念を抱いていた。ナイトレイドの中でも屈指の実力者たるレオーネを"適当にあしらった"だと?
さも簡単そうにロールシャッハは言うが、そんなことはアカメはおろか他のメンバーとて敵うまい。しぶとさでは頭一つ抜けた彼女を片手間で追いやるなど不可能に近いからだ。まさに獅子の如く相手に喰らいつき、死ぬまで離さない。荒々しい戦闘スタイルと獰猛さを知っているアカメだからこそ、レオーネの強さは身に染みている。それに軽々対処したこの男は一体───?
疑惑。不信。あらゆる疑いの念がアカメの胸中を埋め尽くす。己の本能が、この男は危険だと警鐘を鳴らしている。果たして本当にナイトレイドに入れていいものか、躊躇いが生まれてしまう。
「………………分かった。他の皆には伝えておく」
だからこそ知るべきだ。この男を───ロールシャッハという男を。一体何を以てして彼は悪を裁いているのか、何の為にその力を振るうのか。自分達にとって彼は破滅を呼ぶ者なのか、それとも福音をもたらす者なのか。その答えを見つけなければならない。
「…………感謝する」
帝都を震え上がらせる天下の殺し屋集団、ナイトレイド。そこに加わるというロールシャッハの目論見は一先ず成功したと言っていいだろう。
しかし、本番はこれからである。アカメがロールシャッハの正体を見極めるのと同じように、ロールシャッハもナイトレイドを探らなければならない。彼らの正義は一体どういうものなのか、それを問う必要がある。
(さて…………確かめさせてもらうぞ、ナイトレイド)
既に新たなインクをロールシャッハは垂らし始めた。未だまっさらな、しかしドス黒く汚れたこの紙面に。
彼のインクはまだ刻まれたばかりだ──────。
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6話
──────────────────────────────────────
ロールシャッハ記 帝歴一〇〇六年 四月十三日
この日誌に触れるのが随分と久しく感じる。それ程までに昨日は長い一日だった。
結論から言うと、俺の要望は聞き入れてくれたようだ。ナイトレイド自体には大した問題もなく加入出来たと言える。あのアカメという少女には感謝しなければ。
ただやはり、淫売───もといレオーネには猛反対された。自身の手足を砕かれたのだから当然の反応だろうが、先に手を出してきたのはあの女だ。単に俺は対処したに過ぎない。自業自得の結果に一体何を喚いているのか。これだから女は嫌いだ。
しかしあの回復力には流石に度肝を抜かれた。何せ次に会った時には既に傷が癒えていたのだから。完治はしていなかったようだが、それでも七割近くまで治癒していた。あれも帝具の力というのなら、やはり強大な力に他ならない。
反対に淫売以外の面子には割りと好意的、とまでは行かないがあまり拒絶されることなく受け入れてくれた。理由は知らないが、それに越したことはない。…………奇抜な髪色のチビ娘───マインとか言うらしい。確かにあれは地雷のようで近寄りたくもない───はその限りではなかったが。淫売といい、女は度し難い生き物だ。
彼らのアジトはここから北におよそ十キロ程度の山中にある。目にした時は大層な建物だと思ったが、闇に生きる連中にしては些か目立ち過ぎる気がしてならない。こうも大っぴらにしていては見つかるのも時間の問題だろう。全くもって幸先が不安になる。
これから俺を含めた全メンバーの会合だ。この組織について俺はまだ何も知らない。実力はあるようだが、正義なき力は危険な爆弾と同義だ。彼らの信念はどこに向かっているのか。何を目指しているのか。それを見極める義務が、今の俺にはある。
──────────────────────────────────────
「───という具合だ。タツミ、そしてロールシャッハ。我々の仲間になる気はないか?」
会議室というには閑散とした、広く白い空間。七人ばかりで構成されたナイトレイドに対して余りある場所にロールシャッハは居た。石壁にもたれ、中央に集まる彼らとはやや離れた位置に立っている。会話はここからでも問題なく行える為、わざわざ群がる必要もないというのが主な理由だ。
マスクの奥から見詰める先には共にやって来た少年───タツミとここのボスである隻眼の女───ナジェンダが話し込んでいる光景が映る。無論、その会話はロールシャッハにも届いており、ナイトレイドがどのような組織なのかは大まかに把握していた。その上で彼女は双方に加入の意思を訪ねた。
「…………やるよ。国を変える為なら死んでいったサヨやイエヤスもそうしてる筈だ。覚悟は出来てる!」
「そうか。お前は?」
「無論だ。クズ共を殺すというのなら、その手助けをしよう。数は多いに越したことはない」
「決まりだな」
ここで正式に二人のナイトレイド加入が決まった訳だが、ロールシャッハはこれからの行動を思案していた。まずは実力を測る為にアマチュア程度の仕事をこなされるだろう。今更そんなことをやるつもりなど毛頭ないが、信頼を得る為にはやらねばなるまい。そうすることで連中の力量も分かってくるというもの。面倒だが、ここは耐え忍ぶ他にない。
「しっかしそんな大きなことをするとはなぁ…………しかもそれで市民が助かるんだろ? ってことは正義の殺し屋ってやつじゃねぇか! スゲェ!」
(…………HEH)
一切の恥じらいもなく、堂々と言い放つタツミ。罪なき者に仇なすクズを殺すという所業を正義とは言い難いだろうが、しかしロールシャッハはそうは思わない。どころか彼の言葉には賛同出来る部分すらある。世界そのものを蝕む悪しき害虫を駆除することは正義に他ならないのだ。
彼の青臭さは若かりし頃のコバックスを思い起こさせる。青く、思慮が浅く、まるで経験が足らなかった時代。己の力の無さを痛感させられた、決して忘れることの出来ない暗い記憶が僅かに頭を過ぎる。
真っ直ぐな瞳だ。タツミの目には曇りなど欠片も見当たらない。純真で、優しい心の持ち主だ。それでいて強い意志も備えている。その人間性から鑑みても彼はヒーローになるべき存在だろう。こんな人殺し集団の仲間になる必要などありはしないのに。
だが踏み入れてしまってはもう遅い。今彼は深淵に覗きこまれている。暗く、終わりのない闇に。それに呑み込まれた時、ロールシャッハは彼を殺さねばならない。願わくばそんなことはしたくないものだ。
タツミを見てどことなく懐かしさ覚えたロールシャッハだが、その感慨は耳に届いた笑い声に掻き消された。メンバーのことごとくが、面白おかしく笑っている。中心にいるタツミは困惑顔だ。無論、彼らが笑う理由はロールシャッハも分からない。
「な………何だよ。何がおかしいってんだよ」
「一ついっておくけど、タツミ。私らがやってんのは単なる人殺しなんだ」
「そこに正義なんてないですよ」
「俺達はいつ報いを受けたっておかしくはない。そんな世界に生きてんのさ。今のうちによく理解しとけ」
「そ、そうなのか…………」
口々に語られる信条。垣間見えた理念。それは自分達の行いが決して正義ではなく、むしろ悪。裁きを下している連中とさして変わらぬというもの。確かに、間違ってはいないのかも知れない。人を殺しているというのは紛れもない事実であり、否定などは出来ない。本来そこに正義があっていい訳がないのだ。
だからこそ。
「笑わせるな」
ロールシャッハは認めない。
「何だと?」
「お前達は自らの行いが正義ではないと言ったな」
「事実だろうが。正義なんてある筈がねぇだろ」
「だとしたら、お前達は三流以下のチンピラだ」
空気が凍る。笑い声を上げ、ある種和やかな雰囲気が一変した。皆表情を険しく歪め、殺意ではないにしろそれに近しい感情をロールシャッハに集中させていた。痛い程の威圧と視線が彼に降り掛かる。常人なら腰を抜かし、無様に恐れおののくに違いない。タツミでさえ、ガラリと変わった場の空気にあてられ青ざめている。
「ちょっとアンタ。もう一度言ってみなさいよ…………!」
込み上げる怒気を隠すことなく、マインは敵意を顕にする。いつの間に持っていたのか、身の丈以上の銃らしき武器に手を掛けていた。あれも帝具なのだろう、いつこちらに銃口を向けるのか分かったものではない。他のメンバーもまた、ロールシャッハの言葉次第では大人しくしている保証はなかった。
それでもロールシャッハは全く臆することなく言い放つ。
「聞こえなかったか? なら何度でも言ってやる。正義を否定する貴様らはただの低俗なチンピラだ、とな」
何の臆面もなく、いっそ清々しいまでの暴言。明らかにナイトレイドを見下し、卑下している言葉は彼らの怒りを呼び起こす。敵意だった冷たい視線が、次第にマグマのような煮え滾る殺意に変わってきていることをロールシャッハは感じた。そして呆れ返る。この程度の文言で怒りを覚えるとは、随分と沸点が低い。
しかし、そんなロールシャッハの心情など理解出来る筈もなく。
「ふざけんなよお前」
マインに負けず劣らず、大きな憤怒を孕んだ声色でレオーネは唸る。帝具は発動していないようだが、大した殺意だ。そこは腐っても殺し屋といったところだろう。今にも殴り掛らんような雰囲気を滲ませながら、彼女は口を開いた。
「言った筈だ。私達の家業は殺し屋、相手がどれだけの下衆だろうと人を殺すことに変わりはない。アンタは人殺しが正義だって抜かすのか?」
彼女の言葉はナイトレイドの総意でもあった。そもそも革命軍の一部隊である彼らはあくまで裏で暗躍する組織。明るみに出来ない仕事を一手に引き受け、陰ながらサポートする裏側の役目を担っている。それはコインに表裏があるように、なくてはならない存在だ。決して目立たず、しかし確実に任務を遂行することが鉄則。一度殺しを正義と見なしてしまえば、正義感に駆られ過剰に殺してしまう者が現れる。今のメンバーでそれはしないだろうが、綻びの可能性は捨て切れない。
これは戒めでもある。自分達の行いは高尚なものではなく、正反対の汚い所業なのだと。
だが、ロールシャッハは違う。
「まずその前提からして貴様らは間違っている」
「何?」
「俺達が殺すのは人間ではない。その皮を被ったケダモノだ。それを駆逐するのが正義でなくて一体何だと言うんだ?」
「んなっ…………」
絶句するレオーネ。彼女だけではない。この場にいる者全員がロールシャッハの言葉に息を呑む。
人の皮を被ったケダモノ? 確かに今まで殺してきた連中は誰もがまともとは言えないクズばかりだ。それは認めざるを得ない。だが例えそうだとしても、彼の倫理観はあまりにも破綻している。人を人と見なさず、家畜以下のケダモノと扱うとは。とてもではないが、まともな思考回路だとは思えなかった。無論自分達もまともとは言い難いにしろ、ロールシャッハの言い分は半ば暴論に近い。
「本気で言ってるのか、お前」
「当然だ」
「そりゃ極論過ぎだぜロールシャッハ。何度も言うようだが殺しは殺しなんだよ。アンタの自論に共感出来なくはないが、納得は出来ねぇな」
「納得してもらうつもりはない」
何という頑固さだろうか。協調性もへったくれもない。まぁ、ロールシャッハに協調する意思があったとしたらそれも驚きだが。
「分からんな。何故そこまでこだわる? 正義の味方とでも言いたいのか」
「味方ではない、正義を執行する者だ。貴様らもそうだと思っていたが………俺が馬鹿だった」
正義の味方。例えるならそれはコミックで活躍するヒーローのことだ。人々の希望となり、悪を挫く輝かしい存在。絶望の世界を照らす光。
それとは逆に、ロールシャッハは正義を執行する存在である。ただ粛々と、己の正義に基づき悪を裁く。そこに余計な感情が介入する余地はない。感じるとするならば、己の拳を濡らす生温い血の温度と骨肉を砕く鈍い感触。そして改めて認識する。やはりこの世に神などいない、と。
少しばかり期待していたのかも知れない。この世界にとっての正義たる彼らは何を持ってして正義たり得るのか、それを知りたかった。だが知り得た結果は真逆のもの。正義を否定し自らを単なる人殺しとするナイトレイドを見て、ロールシャッハは大いに失望していた。
「テメェいい加減に───!!」
「待てレオーネ」
「ボス……!! でもコイツ!!」
「お前が怒る理由はよく分かる。が、ここは落ち着け。今争ったところでどうにもならない」
「……チッ!」
最早我慢も限界なのか、帝具の能力で変異したレオーネは漲る殺意のままロールシャッハに飛び掛かろうとする。そこを寸手で制したのがナジェンダだ。この個性的な面子をまとめる長だけあって、冷静に状況を把握している。彼女の言葉通り、今ここで殺し合いを始めたところで無意味なことは一目瞭然であった。
彼女に諭され、渋々ながらも引き下がるレオーネ。依然として殺意は収まらず、肉体も元に戻ってはいない。次に侮蔑的な言葉が飛び出ればすぐさまその拳を振り降ろすつもりなのだろう。全くもって威勢だけは一流だ。思わず口を突いて出そうになったロールシャッハだが、流石に面倒なことになると思い呑み込んだ。
「ロールシャッハ、お前の言い分も最もだ。全部が全部とはいかんが、共感は出来る」
「なら何故、頑なに正義を拒む? 仮にも革命を志す連中だ、正義を掲げることに怖気づくタマでもあるまい」
「価値観の相違だよ、ロールシャッハ。お前は自身の行いを正義だとしている。それは絶対に譲れない信念なんだろう?」
「そうだ」
「それと同じだ。私達も自分達を正義だとは認められない。怖い怖くないの問題じゃあないんだ。殺しを正義と認めてしまえば、必ず歯止めが利かなくなる。私達は正義の味方でも執行者でもない、ただの暗殺者なんだ」
「………」
「私達の理念をお前が認める必要はない。だが理解はして欲しい。この先共に戦っていく上で、な」
マスクの奥で、ロールシャッハは隻眼の瞳を見据える。人は嘘を付く時、まず目に変化が現われる。露骨に目をそらしたり、忙しなく動いたりするなど反応は様々だ。しかしナジェンダの瞳は澄んでいる。一切の嘘偽りのない、本心からの言葉だったのだろう。彼女の真摯な目を見ればそれが分かる。
価値観の相違、か。確かに譲れない信念が双方にあるのなら、この先相容れることはない。彼女はそれをよく理解しているのだ。そしてその上で納得した。自分達ではロールシャッハに根付く想いを動かすことは敵わない、と。
なるほど、リーダーな筈だ。感情に突き動かされず、客観的に物事を見極める慧眼と気概を持っている。そこは素直に称賛すべきだろう。そして、彼女の言葉にも幾らかは納得せざるを得ない。
しばしの沈黙。張り詰めた空気が会議室を漂う。
「…………HUNH」
何か納得したような唸りを上げ、ロールシャッハは踵を返した。
「どこに行く気だ」
「外の空気を吸ってくる。…………侮辱するつもりはなかったが、気に障ったのなら謝罪しよう」
「…………けっ」
彼の意外な発言にナジェンダは目を見開く。まだほんの少ししか接していないが、先の発言からして協調する気など皆無だというのは分かっていた。ああも頑なだと絶対に謝ったりはしないと思っていたが、実際は違ったようだ。
釈然とはしないものの、一応の謝罪を聞き入れたレオーネは矛を収める。他のメンバーも張っていた敵意を潜め、やれやれと首を振っていた。
「待ってくれロールシャッハ」
「…………なんだ」
会議室を後にするロールシャッハをナジェンダは呼び止める。
「一つだけ聞かせて欲しい。お前は何故、この道を選んだ?」
彼女がどうしても知りたい疑問。それはロールシャッハという男がいかにしてこの修羅の道を歩もうと決意したのか、というもの。彼の揺るぎない精神は自分達のそれよりも遥かに固く、ある意味で高潔だ。普通なら絶対に辿り着けない精神の境地にいるロールシャッハのことをナジェンダは少しでも知りたかったのだ。
「…………」
脳裏を過ぎる記憶。ただのクライムファイターだったコバックスがロールシャッハへと至った始まりの事件。燃え盛る業火に包まれた廃墟が、少女だったものが、嫌という程に思い起こされる。
人という生き物に絶望し、残っていた希望の欠片が粉々に砕け散ったあの瞬間。立ち上る灰色の煙をただ見詰めながら、空っぽの心には果てなき憤怒と悪への憎悪だけが満ちていった。
何故彼が悪を裁く道に足を踏み入れたのか───今となってはそれも愚問だろう。だが、ロールシャッハは敢えて語った。
その凄まじき信念の根源を。
「…………人の心に潜む悪の可能性を知り、腐り切った世界のハラワタを見て…………それでも進み続けた。目を背けずに真っ直ぐ立ち向かった。そしてその果てに、俺の意思は否定された」
冷たい雪が吹き荒ぶ、世界の終わりと始まりが交錯した運命の地。地球で最も賢い男の選択は、世界を救う上では正しかった。だが、ロールシャッハはそれを認めることは出来ない。認めてしまえば、罪なき人々の無念を無下にすることになる。死んでいったその魂は救われない。
だからこそ、彼はマスクを脱いだ。その選択が許されざるものだとしても、正しいことだと分かっていたから。世界の破滅を避ける為にはそうするしかない、どれだけ巫山戯たジョークが多くの命を奪ったとしても、結果として人類の絶滅を回避出来ると。
そして彼は、地球でただ一人の超人に消し去られた。その意思は、正義は、世界に必要とされなかった。
「だが新たなインクは広がり始めた。俺はただすべきことをする。妥協するつもりはない」
しかし運命の悪戯か、ロールシャッハはチャンスを得た。黒く染まりきった混沌の世界に、新たな生を受けた。
生き返ったのには理由がある筈。それは間違いなく、この世界の悪を一片残らず葬ることだ。以前は叶わなかった願いを果たす為ならば、どんな手でも使う。彼の中に妥協という概念は微塵も存在しない。
人は時に、堂々と心を狂わせる。余りにも固い、ひたすらに頑強な強き意思を持つ者。ロールシャッハはその最たる例と言えるだろう。ある一面では狂人でありながら、またある一面では超人に。確固たるその信念は、彼を慈悲なき執行者へと昇華させたのだ。
あまねく全ての悪を憎み、裁く存在───それがロールシャッハだ。
「…………そうか」
その真意は、完全には分からない。彼の精神はおそらく理解の及ばない所にある。歴戦の将軍として数多の戦場を駆け抜けて来たナジェンダでさえ、その例外ではなかった。膨大な知識と経験を持ってしてもロールシャッハの信念は途方もなく巨大で、かつ自分達とは掛け離れているが為に、推し量れない。あれはまさに、"正義"が具現化した存在なのだろうと漠然ながら彼女は考える。
故に必要なのだろう。仄暗い闇が覆い尽くすこの世界において、ロールシャッハという男は。未だ正体は謎に包まれたままだが、内に潜む危険なまでの正義感はあるいは帝国へのカウンターに成り得る。単なる憶測に過ぎないが、計り知れぬ予感をナジェンダは感じたのだ。
「満足したか」
「ああ。……あー……最後にもう一ついいか?」
「なんだ」
「少し言いにくいんだが………その……」
「さっさと言え」
「………ずっと言おうと思ってたんだが、お前は少々臭う。今すぐとは言わんが、今日中に風呂は入れ。コートも洗濯しろ。いいな」
「…………HURM」
ナジェンダの苦言はかなり最もなものである。正義を為すのなら全てを投げうつロールシャッハだが、裏を返せば何においても無頓着ということであり、身なりもその一つ。着ている衣服も基本的に洗濯せず、風呂にも入らない。ニューヨークでは下水道にも躊躇わず踏み入れていた為、染み付いている体臭というのは文字通り鼻が捩れる程だ。こんな状態で共に戦えというのは…………若干厳しい。臭いが気になって仕方ないのだ。ロールシャッハ自身は何とも思わないが、ナイトレイドの面々は結構気になっていたりする。特に獣化で五感が強化されるレオーネなどはあからさまに嫌がっていた。
先のピリついた修羅場から一点、何とも間の抜けた微妙な空気が漂う。まぁ、変に気を張っているよりかはマシなのだが。
「……すまん」
「分かってるならいい。風呂は部屋を出て右に行けばある」
「HURM.了解した」
軽く謝罪を口にすると、ロールシャッハはさっさと部屋を出ていった。仮にもこれから共に戦う仲間に一瞥もせずに、だ。それがまた彼らの癪に障るのだが、そんな面々とは反対にナジェンダは神妙な表情をその凛とした顔に浮かべていた。
「ったく、何なんだよアイツ。訳分かんないことばっかり言ってさぁ。しかも臭うし」
「ハハハッ、全くだな。流石の俺でも仲良くなれる気がしねぇ」
「どう思います? ナジェンダさ……ん?」
皆口々に文句を言う中、考え込むナジェンダを不思議そうに覗き込むラバック。悩める姿もまた美しい、と相も変わらず通常運転だが、しかし彼女の様子がいつもとは違うことに違和感を感じた。これまでにも思案を巡らすことは多々あったが、ここまで深く考えているナジェンダを見るのは初めてだった。
「…………もしかすると奴は…………ロールシャッハは、"精神的超人"なのかも知れない」
「精神的……超人? 何ですかそれ」
聞いたこともないキーワードにナイトレイドの全員が疑問を浮かべた。超人、というのならまだ理解は出来る。あの怪力や身体能力は別の視点から見ればまさに超人的な力だ。しかし精神的超人という聞き慣れない言葉はいまいちピンと来ない。
確かに分からないのも無理はない。普段暗殺家業を営む中ではまず耳にしない言葉だ。相応の知識、それも哲学的な見聞がなければ想像も付かないだろう。首を傾げる皆にも分かるよう、ナジェンダはかいつまんで説明し始めた。
「古い哲学の概念のことだ。己の掲げた信念にひたすら殉じ、一切の妥協を許さない。そこに万物が介入する余地はなく、絶対に折れることのない強き意思を持つ…………私が昔見た文献にはそう記してあった」
「精神的超人、ねぇ。そう言われてもただの狂人にしか見えなかったわよ?」
「そこだ、マイン。精神的超人というのはある種人間を超越した存在だ。私達からすれば、あるいは狂人に見えるのだろう」
"ツァラトゥストラはかく語りき"
一八八五年、ドイツの哲学者フリードニヒ・ニーチェが提唱したある概念。
人間は道半ばの不完全な存在だが、それよりも上のより完成した形態がある。確立した意思を持つ人間は、全ての自分の決断を受け入れなければならないだけではなく、その結果も受け入れなければならない。しかし全ての決断を受け入れ、結果を受け入れ、全ては自分の意思であると言っただけでは完全とは言えない。それが何度繰り返されても同じ決断をし、全ての結果を受け入れるならば、全てが自分の意思であると言うことができる。
超人の確立された意思。完全な意思は、"全て"を自分の意思の結果であるとして受け入れるということなのだ。ナジェンダにとっては異世界の知識だとしても、同じような概念はここにも存在していたらしい。
精神的超人───ただの哲学的な概念だとばかり思っていたが、その認識は改めなければならない。今彼女が出会ったのは、まさにそれそのものなのだから。
(ロールシャッハ…………奴は一体…………)
彼は如何にして精神的超人に至ったのか。元々は同じ人間だった筈なのに、何が彼をそうさせたのか。普通のそれよりも───いや、それ以上の精神さえも凌駕する確固たる意思。寸分も揺るがぬその信念は一体何処から来ているのだろう。
ナジェンダは不思議な予感があった。どんな形にしろ、ロールシャッハがこの世界に与える影響は途轍もなく大きいものだと。
彼の行動如何によっては─────この世界の命運が決まってしまうのではないかという予感が、彼女の胸中に渦巻いていた。
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第7話
──────────────────────────────────────
ロールシャッハ記 帝歴一〇〇六年 四月十六日
ナイトレイドに加わり五日が経った。当然と言えば当然だが、まだ大した成果は得られてはいない。せいぜい任務を共にする際、その力を垣間見る程度に留まっている。
彼らの力は凄まじい。帝具使いということを差し引いても有り余る強さだ。恐らくコメディアンはおろか、ヴェイトでさえ苦戦を強いられるだろう。そんな力を持ってして何故正義の為に行使しないのか、俺には理解に苦しむ。
少しだけだが力量は把握した。帝具についても詳細が載っている文献を読ませて貰ったのである程度は理解している。参考になるかは分からないが、ここに書き示しておくことにする。
◇◇◇◇◇
アカメ/一斬必殺村雨
俺がここに来るきっかけになった黒髪の少女。その目は血のように真っ赤だ。掴みどころがないように見えてかなりの野生児らしく、巨大な肉にかぶりつく様子は何とも間抜けなものだった。だが刀の扱いは相当な腕前で、ナイトレイドでも随一の実力者と言ってもいいだろう。
彼女の使う帝具は傷を付ければ即座に毒が周り、確実に死に至るというものらしい。僅かな切り傷さえ与えてしまえば必ず殺せるというのだから恐ろしい代物だ。その高い戦闘能力からしても対峙はしたくない。いわばこの部隊の切り札的要員だと言える。
レオーネ/百獣王化ライオネル
忌々しい淫売。あの素肌を顕にした姿を見るだけで吐き気がする。どうしてああいう女はまともな衣服を着ようとしないのだろう? あの女とは絶対に行動したくはない。
だが肉体を大幅に強化する帝具は目を見張る性能だ。獣の如き俊敏な動き、そして見上げる程の腕力や脚力。何よりどんな大怪我も治癒する回復力は何とも卑怯臭い。それがかえって仇とならなければいいが、しかし俺にとってはどうでもいいことだ。ああいう道具を過信する輩は早死にすると相場が決まっている。本人がそう思っているかは知らんが、どうせロクな死に方はしないだろう。
ブラート/悪鬼纏身インクルシオ
屈強なガタイの大男。器量も大きいようでメンバーからの信頼も厚いようだ。元軍人らしく、基本的な戦闘能力は頭一つ抜けている。特にその槍術はかなりのもので、真正面から挑み勝てる者は少ないだろう。その帝具は鎧を纏うもので、身体を強化するのみならず高い防御力も併せ持つ。さしずめワンマンアーミーといったところか。確かにあれだけの攻撃と防御を誇る戦闘能力なら突破口を開くのには最適だ。
しかし奴はゲイのきらいがある。淫売といい、ここには異常性癖者が集うのだろうか。奴とは関わりを持たない方が今後の為だ。
マイン/浪漫砲台パンプキン
生意気なチビ。誰彼構わず食って掛かるような態度は何とも神経を逆撫でされる。全くもって子供のようなうざったさには頭を抱えたくなる思いだ。あんなガキ女が一流の暗殺者だとは考えたくもない。尤も、癪なことにその認識は間違っていたのだが。仕事に取り掛かった時の気迫は伊達に暗殺者ではないということなのだろう。
奴の帝具は銃、それも大型だ。組み合わせ次第で様々な形態に換装でき、アサルトライフルや狙撃銃のように状況によって使い分けられる。弾は実弾ではなく使用者の精神力を利用しているらしいが、一体どういう原理でエネルギーに変換しているのだろう。マンハッタンなら喜んで解析しそうだ。
シェーレ/万物両断エクスタス
いちいちの動作がおぼつかないグズ。何をするにも失敗し他人に迷惑を掛けるのはある種の才能だろう。あれでは抜けているというレベルを超えている。いや、頭のネジが抜けているという点では間違ってはいないか。
だからこそなのか、奴には殺しに対する意識がどことなくおかしい。本当の意味で躊躇いがなく、息をするように殺人をしている。こんなことでしか己の真価を見い出せないとはつくづく哀れな奴だ。
扱う帝具は巨大なハサミ。あろうことか俺が思ったジョークは本当だったという訳だ。今更驚きもしないが、こんなふざけたものが万物を断ち切るというのはそれこそジョークに他ならない。しかし実用性は大いにあるだろう。邪魔な障害物は何でも裁断出来るのだから。
ラバック/千変万化クローステール
いけ好かない小僧。チビとはまた違った方向でイライラさせられる。口が達者なようで、ことあるごとに俺に質問してきやがった。しかもポルノ雑誌にうつつを抜かす変態野郎でもある。一体何度その鼻っ柱をへし折ってやろうと思ったか。今度またおかしなことを言ってきたら思い切り顔面を殴ってやる。
糸状の帝具を得物としているらしく、硬質のワイヤーを自在に操る。応用範囲が広く、戦闘に用いる他に罠や探知などのサポートも可能だという。俺が初めて奴らを見た時に宙に浮いていたのはこれを足場にしていからだろう。なるほど、確かに応用力は凄いものがあるようだ。
タツミ/なし
いかにも田舎者といった風合いの少年。貧困に苦しむ村を救うべく帝都にやって来たという大層な志を持っている。純朴な心の持ち主で殺しを是としないようにも見受けられるが、しかしやらねばならない時は瞬時に心を切り替えその刃を振るっている。まだ他の連中には及ばないが、戦闘能力は高い。あれは磨けば光る原石だ。この先経験を積めば大きく成長するだろう。オーガとかいう標的を殺した後の彼は見違えるようだった。
しかしこの世界は闇に塗れている。いつ何時、深淵に引きずり込まれてもおかしくはない。この先、彼の前には何としても殺さねばならない相手が立ちはだかるだろう。その瞬間、深淵に足をすくわれなければいいが。
ナジェンダ/不明
ナイトレイドを取り仕切るリーダー。過去に何かあったらしく、隻眼の上その右手はいかつい義手になっている。
帝国の元将軍という出自の彼女は冷静な判断力と洞察力を兼ね備えているようで、俺やタツミの実力は大まかに把握しているだろう。またリーダーシップも強く、我の強い面々を一声で抑えるのは流石である。
司令塔であるが故にその実力は測れないが、こんな曲者集団をまとめ上げる位だ、相応の力はある筈。いつの日か、彼女が重い腰を上げる日がくるのだろうか。どれ程のものか是非お目に掛かりたいものだが、その時俺はここにはいないだろう。
◇◇◇◇◇
彼らを知ったとはいえほんの序の口。少なくとも後三日……いや四日は留まるべきだと思う。あまり長い間居てしまうと余計な信頼が生まれ、離脱する際面倒なことになる。それまでの僅かな間にどれだけの情報を手に入れられるかが重要だ。
本来こうしている暇などありはしない。少しでも多くの悪を根絶やしにせねばならない。だが今は耐え忍ぶのだ。今は何よりナイトレイドという組織の多くを知る必要がある。
この先、彼らと対峙することがあるかも知れない。その時俺は彼らを殺さねばならないだろう。だがその必要があるのなら、俺は躊躇わない。俺の道を阻む存在は誰であろうと容赦はしない、そう決めたからだ。
──────────────────────────────────────
「……HUNH」
薄暗く、埃が舞う小汚い個室。新たにメンバーとして迎えられたにしては些かぞんざいな部屋を与えられたものだ。手記を書き終えたロールシャッハは不満げに低く唸った。
ナイトレイドとの邂逅から既に五日が経つ。ほんの僅かな期間ながらもメンバーの実力をロールシャッハは把握しようとしていた。
程度の低い仕事をこなしつつ、各々に追従し観察する。前もって調べ上げた帝具の特徴もあり、その力量の輪郭を捉えていた。
だからこそ分かる彼らの力。雑兵が千人いようがものともしない力は、やはり懸念しなければならない。タツミはともかく、それ以外の連中は皆相応の実力を持つ。殺し屋として蓄えられてきた経験と帝具のとてつもない性能が合わされば、最早同じ帝具を繰る者でなければ太刀打ちも敵うまい。ロールシャッハですら、勝利出来るか定かではなかった。
彼らは強い。あまりにも。そしてそれを善なる行いとして振りかざしている。結果、救われる人々も確かに存在するだろう。
だがその正義は陳腐なものだ。まるでヒーローごっこをしている子供のそれ、目の前の悪を倒すことばかりで本質を見据えていない。大臣を殺したとして、本当に世界は変わるのだろうか?
否。
人間という生き物は永遠に変わらない。感情という見えざる器官がある限り、人々は同じ過ちを繰り返す。そしてそれが過ちと気付かぬまま、世界は腐り呑まれていく。帝国が滅んでもすぐに第二、第三の帝国が生まれるだろう。
そんなことはさせない。させてなるものか。世に蔓延る悪は消さねばならない。確実に、一片残らず。大臣は勿論のこと、星の数ほど存在するクズ共にはあまねく天罰を下さねば。
その為にはナイトレイドが必要かも知れない。この世界にとってのヒーローは彼らなのだから。だからこそ、ロールシャッハとは相容れない。根付く信念、正義が根本から違うからだ。
もう少し、この連中の元に留まり情報収集を続けよう。現在よりも詳細なデータを得、その後にここを抜ける。そのタイミングのをしくじっては本末転倒、見極めは慎重に行うべきだ。
「ロールシャッハ」
「………何の用だ」
唐突に開いたドアから見えたのは長い黒髪。無表情のままアカメは部屋へと踏み入る。ノックもせずにやや不躾だが、ロールシャッハが気にする理由はそこにはない。何の為にやって来たのか、そこが疑問点だった。
「これから会合が始まる。会議室に来てくれ」
「どんな内容だ」
「それはボスが話すまでは私達も分からない」
「……」
会合。組織には必ずといっていい程これがある。無駄に助長で、何の役にも立たない話し合い。ロールシャッハには至極どうでもいいことであり、参加する意味も見当たらない。そんな暇があるなら街に繰り出し、自ら情報を仕入れた方が遥かに有意義だ。
しかし、現段階ではまだナイトレイドであるロールシャッハ。下手な行動は不信を抱かせ、予期せぬ事態に発展しかねない。わざわざ言う事を聞くのも癪だが、ここは大人しく従うより他ないだろう。郷に入れば郷に従え、だ。
「もう皆集まっている。早く来い」
「HUNH」
そう急かすアカメは一人でさっさと行ってしまった。彼女のことも観察してはいるが、我の強い少女だ。尤も、別のベクトルでの話だが。
「会議は嫌いなんだがな」
何を言うのかは興味もないが、そうだとしても元々こういう類は得意ではない。誰かと群れ、仲良く手を繋ぐなど吐き気がする。全く、こんなことをしている場合ではないというのに。
少しばかりの不満を抱きつつも、ロールシャッハは会議室へと向かった。
◇◇◇◇◇
「来たか。遅いぞロールシャッハ」
「来るつもりもなかったがな」
会議室、というにはやけにお粗末な部屋である。入ってくるなりロールシャッハはやや呆れた。デスクもなければ椅子もない。せいぜいナジェンダが腰掛ける簡素な椅子程度、かつて同じような経験をしたが、ここまで適当なものではなかった筈。尤も、どうでもいいことだが。
「要件があるならさっさと言え」
「……本当に口の悪いヤツだな……まぁいい。今帝都を騒がせている辻斬りがいる。そいつを始末するのが今回の仕事だ」
「ほう」
「既に何十人と犠牲になっている。我々の手で止めねばならん」
辻斬り・・・・・・通り魔か。ロールシャッハ自身、殺人鬼の類は相手取ったことはある。力にものを言わせ殺す者もいれば、姑息な手段を用いる者。手法や過程は異なるものの、多くの命を奪った罪は同様だ。最早人間のそれとは言えない破綻した精神は、また更なる犠牲を生むだろう。彼女の情報が事実なら尚更急がねばならない。
いつものロールシャッハならばここで飛び出しているところだ。だがそれはしない。いや、出来ない。まだ組織について調べていないからだ。独断で動き回り、不信を募らせるわけにはいかない。ゆらりと憤怒の火が揺れ上がるが、今は堪えなければ。
「辻斬りって………いったいどんな?」
「"首斬りザンク"、という名は聞いたことはないかタツミ?」
「い、いや」
「ハァ? アンタマジで言ってるわけ? 本当にド田舎少年なのね」
「な、ド田舎は余計だろ!いいから教えろよ!」
「仕方ないわね………アンタもよく聞いてなさいよマスク男」
「HUNH」
やはりいけ好かない小娘だ。あの高飛車で他人をコケにする不躾な態度、見ているだけで捻り潰したくなる。明らかに苛立ちを募らせるロールシャッハを知ってか知らずか、マインは件の殺人鬼について語り始めた。
"首斬りザンク"
元はと言えば監獄の処刑人だったらしい彼は、毎日毎日人の首を切り落としていた。極悪人ならいざ知らず、処刑台に連れられるのは皆無実の罪を着せられたか弱い人間。死を恐れ、慈悲を乞う姿の人々を殺していくうちに彼の精神は歪んでいった。何百人もの人間を殺し続けることが愉悦へ変わってしまい、しかしそれでも飽き足らず辻斬りに及んだのだという。
「ザンクは監獄を出る際に所長の帝具を奪ったそうよ。相応の手練っていうことは頭に叩き込んどきなさい」
「・・・・・・」
マインの忠告は届いている。だがそれよりもロールシャッハが気に掛かったのは、そのザンクという男がいかにして下等な通り魔に成り下がったのか、ということ。
人間を処刑し続けていたから精神がイカれたのか、それともその精神の奥底に醜い悪魔が潜んでいたのか。いずれにせよ、奴は自身の行った所業に耐えきれずに逃げ込んだのだ。『首切りの通り魔』という虚像を作り上げ、あたかもそれが本来の姿であるかのように。
所詮は奴も低俗な悪党に過ぎない。己の脆弱が故に、何の罪もない人々を手に掛けるのは許されざる行為だ。一刻も早く止める必要がある。
「なんて野郎だ・・・・・・!早く止めないと!」
「気持ちは分かるが落ち着け。奴が動くのは専ら深夜、それに合わせ我々も行動する」
激昂するタツミ。許し難い絶対悪に対する怒りは本物と見受けられるが、まだ青い。強い意思を持つのはいいことだが、怒りに駆られるだけでは単なる猪。その燃えるような怒りの感情を如何にして己の糧とするのかが重要なのだ。
無論、ロールシャッハもその内に怒りを抱えている。タツミのそれとは比にならない、噴火寸前のマグマだ。ドロドロと密度の濃い憤怒の熱はしかし、放出されることの無いまま蓄えられる。そしてその怒りは裁くべき悪を前にして開放されるだろう。
だが彼自身も何時までもつかは定かではない。元々我慢弱いロールシャッハ、悪がいるのであれば迷わずに殺しにかかる。ナジェンダは深夜に動くと言ったが・・・・・・待っていられる筈もなかった。
「おい、何処へ行く」
「答える義理は────」
「"ない"とは言わせんぞロールシャッハ。お前はメンバーの一員だ。いい加減勝手なマネは許さん」
「そーだそーだ!大体お前人の言う事聞かなさすぎなんだよ!」
部屋を出ていこうとするロールシャッハをナジェンダは引き留める。それはここを取り仕切るリーダーとしては正しい行為、個人ではなくチームとして行動する以上規律の乱れは目に余る。一度や二度ならまだしも、これまで彼がまともに命令を聞いた試しがない。
ひとたび依頼の対象を見つければ稲妻のように急行し、あらん限りの制裁を加えた末に殺害する。殺しを生業とする彼らナイトレイドでも、正直ロールシャッハのやり方にはある種の脅威を感じていた。
今回もきっとその例に漏れずだろう。ロールシャッハのことだ、昼間だろうが独りでザンクを探し回り、そこらの人間から情報を聞き出すに違いない。勿論、指をへし折って。
ここ最近妙なウワサが立っているのだ。裏路地や怪しいバーに現れ、指をへし折りながら尋問する謎のマスク男、というウワサが。
先ず間違いなくロールシャッハの仕業だ。非道な尋問も問題だが、これ以上悪目立ちするようであればいずれ帝国に目を付けられてしまう。それは本人にとってもナイトレイドにとっても都合が悪い。
戒めが必要だ。尋問のやり方一つとっても節度というものがある。ナジェンダとしても最早ロールシャッハの独断行動は認められない。
「…………HURM」
全く、これだから嫌なのだ。こういうのは。
悪に対する怒りとは別に、沸々と苛立ちが湧き上がる。チームというのはかくも面倒なものだ。誰かが勝手な真似をすればすぐさま止めに掛かる。ある意味では正しい行為とも取れるだろうが、ことロールシャッハにとっては邪魔でしかない。
まだ情報が必要だ。だがやはり、耐えかねる。生温い信頼、半端な殺しへの姿勢。どれをとっても癪に障るものばかり。いくらこの組織を知る為とはいえ、これ以上共に戦うなど出来ようものか。
もうどうでもいい。こんな連中、知ったことか。
「奴を殺せば済む話に御託を並べるな。
────貴様ら如きに、俺の邪魔はさせん」
「ッ! 待て!」
ナジェンダの静止も意に介さず、ロールシャッハは飛び出した。
やはり、彼は誰にも従わないのだろうか。僅かばかりだが、彼とは戦いを共にしてきた謂わば仲間。どれ程言動が悪かろうと、彼は確かにナイトレイドの一員と言える程の力を持っていた。
しかし、それもここまでなのか───。
「あーっ、クソッ!! もうどうすんだよボス!」
「仕方ねぇな・・・・・・俺が連れ戻してくるか?」
「いや・・・・・・いい、ブラート。そうした所で同じだろう。それにアイツの言うことも分からんでもない。・・・・・・滅茶苦茶にも程があるがな」
憤慨するレオーネ。対するブラートは冷静だ。連れ戻そうと彼は提案するが、しかしその必要はないとナジェンダは制する。
ロールシャッハの言葉通り、単純にザンクを殺害すれば全ては丸く収まる。確かにそれはその通りなのだが・・・・・・。
そう上手くいく筈がない。すんなりことが運ぶならそもそも作戦会議をする必要も無い。だから想定外の事態に備え、こうして皆との連携が不可欠なのだ。
ロールシャッハには根本的にそれが欠けている。独りで何もかもをしようとしている。そして実際、彼はやり遂げている。そこが脅威であるし、タチが悪い。一番敵に回したくない人は、と言われたら、あの女に次いでロールシャッハが来るだろう。
「・・・・・・ハァ・・・・・・皆一先ずは解散だ。今夜に備えておけ」
昔は将軍として、今ではリーダーとしてその統率力を発揮しているナジェンダ。しかし未だかつて、ここまで御しきれない男が居ただろうか。彼女は溜め息をつかずにはいられなかった。
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第8話
闇夜が支配する帝都の街。暗く沈んだ街路を一望出来る摩天楼からそれは見下ろしていた。屈強な肉体を持つ大男、その額に覗く第三の目は真っ暗な闇でさえ鮮明に映し出す。自身を捕らえようと奔走する軍兵、逆に命を狙い刈り取らんとする暗殺者達。
前者は取るに足らない連中だ。歯応えもなく、何の面白みもない。だが奴らはどうだろう。人を殺すことにのみ突出した殺し屋集団のナイトレイド。楽しむとしたらそちらの方が断然いい。
「クククッ・・・・・・いいねぇ、滾るねぇ。誰も彼もが俺を殺そうと躍起になってる。手練れも捨てがたいが・・・・・・ここは新鮮なうちに頂いた方がいいかな?」
時計塔、その内部。ガラスより街を見据える彼は卑しい笑みを刻み身体を震わせる。
首斬りザンク───彼こそが帝都に悪名を響かせる殺人鬼。何の罪もない市民の首を切り落とし、それに悦楽を見出す狂人だ。犠牲になった者は数知れず、しかし恐怖で家にこもる人々に対してザンクは何もしない。そんなことをせずとも、間もなく心待ちにした時間が幕を開けるのだから。
両腕の刃がカチカチと音を立てる。さて、どうやって遊ぼうか。見開かれた目は眼下の影───奔走するタツミを捉えていた。いきなり首をはね飛ばすのもいいが、だがそれでは味気ない。折角の殺し屋同士、命を賭けての殺し合いが最も相応しいだろう。
「それじゃ早速・・・・・・と、行きたいところだが────いい加減出てきたらどうだい?」
その場に留まったまま、後ろを振り向くことなく虚空に告げる。それは誰に対してなのか、彼以外はここにはいないはず。だが程なくして、ザンクの問に答えるかのように足音が響いた。
ボロボロのトレンチコートに奇っ怪なマスク。ロールシャッハは物陰よりザンクの前に姿を現す。
「・・・・・・なぜ分かった」
「ククッ、"目"が良いんでね。アンタが何処にいるかなんて一目瞭然さ。ま、気配の消し方は大したもんだが。帝具がなきゃ見逃しちゃうね」
「・・・・・・・・・」
クツクツと笑うザンクだが、対するロールシャッハはやや焦りを感じていた。
算段では彼の死角に身を潜め、機会がきた瞬間致命の一撃を見舞うつもりだった。無論それが百パーセント成功するとは思っていない。その先の二手三手、出来うる限りの策は練っていたが、しかしこうも簡単に存在がバレるとは。しかもザンクは一度もこちらを視認してはいない。それが帝具の力によるものだとするならば、奴の帝具は恐らく"視る"ことに特化した代物だと推測は出来る。もちろん何の確証もないただの仮説だが、それが事実なら相当厄介だ。
だがそれが事実であっても関係ない。奴を殺すことに変わりはないのだから。
「アンタ、あいつらの仲間だろ? ナイトレイドだっけか。奴らは俺を殺すつもりらしいが、アンタはどうなんだ?」
「HUH.無論だ。貴様を生かしては帰さん」
「ハ、言うねぇ。仮にも帝都を震わす殺人鬼だぞ? アンタが殺せる相手かな? ククッ」
「ほざいてろ、サイコ」
地面が割れるほどの脚力。小柄な体躯のロールシャッハからは考えられない速度での跳躍で無防備なザンクの背後に突貫する。その手には無骨な骨切り包丁が握られていた。アジトから失敬させて貰ったが、結果として正解だった。
殺れる───とは微塵も思わない。潜んでいた自身を見つけ出すというのは奴の視界は凄まじく広いことを意味している。この初撃が命中すればそれに越したことはない。それで殺せるなら・・・・・・。だが、そう上手くは行かない。
「おおっと。危ないな」
「・・・・・・」
空を斬る。肉を裂く感覚はなく、空振った刃は獲物を失う。やはりか。しかしこうも見切られては当たるものも当たらない。何かしらの対策を講じなければ。奴が油断し切っているうちがチャンスだ。
「ンン〜・・・・・・クックック。勢いはいいんだがな。その分はっきりしてる。アンタ、結構な猪突猛進タイプだろ」
「黙れ」
再度渾身の力で包丁を振り下ろす。それは常人では決して避けられない速さ。単調だがそれ故の速度は容易く肉を抉り、骨を断つ。最も、当たればの話だが。
「ムダムダ。そんなんじゃ一生空振りだぜ」
「UUUMM...」
またも避けられる。軽く身体を逸らすだけでロールシャッハの攻撃はことごとく躱されてしまう。余裕綽々の笑みを崩さず、いとも簡単に。なるほど、目が良いとはこのことか。あらゆる所作を見切り、次の動きを確実に予見する。これが奴の帝具の正体。そうと気付くのにさして時間は要しなかった。だが、そうと理解したところで今の状況が変化する訳ではない。
「HURM.面倒だなその帝具は」
「そこは素晴らしいと言ってくれよ。俺もこいつ・・・・・・スペクテッドって言うんだがな。気に入ってるんだ」
「口数の多い奴だ。喋らずにはいられないのか?」
「ククッ、あいにくな。俺はお喋りが好きでねぇ。よく首を落とす前に楽しむもんさ。・・・・・・おっと、落とした後も、かな? クククッ」
「・・・・・・貴様は殺す。確実に」
「ヒュウ、言うねぇ。でもおかしいな? さっきから全然当たってないぜ、アンタの攻撃」
当たらない、というのは事実だ。このままでは劣勢、ジリ貧になるのは目に見えている。
それでも、すべきことは明解だ。
「それがどうした」
刃を振るう。型も何もない、一見すれば我武者羅とも取れる乱暴な振り方だ。勢いに任せデタラメに切りつける様は、剣の心得がある者なら嘲笑せずにいられないだろう。当然、両手の仕込み刃が武器であるザンクもその一人だ。ニヤつきながら平然と避け続ける。
刃を振り下ろす。それを避ける。
刃を振り下ろす。それを避ける。
刃を振り下ろす。それを避け───変化に気付く。
(・・・・・・速度が増している?)
一瞬、ザンクの表情が強ばった。乱暴極まりない振り方だが、先程よりも明らかに速さが上昇している。余裕を持って避け続けていたが、次第にそうとはいかなくなる。徐々に徐々に、包丁の鈍い切っ先が服を掠め始める。常時帝具を展開し、動きを完全に見切っている筈なのに。形容しがたい何かが、身体の動きを鈍らせているような錯覚がザンクに生じていった。
(こ・・・・・・こいつ!?)
そこで初めて、首斬り魔の中に焦りという感情が顔を覗かせた。
最初は甘く見ていた。身なりは奇っ怪、透視で見ても大した武装はなく、さして実力もないだろうと。だかそれは大きな間違いだと、無理矢理にでも認識させられる。この重く粘ついたタールのような殺意は、ただならぬ程の黒い意思の塊は、目の前の男が単なる殺し屋ではないことを如実に表していた。
"死"という気配が足元から昇ってくる。これまでに感じもしなかった感覚がより濃いものになってくるのをザンクは感じ取り始めていた。
「離れろっ!!」
「ッ! AAAKK...!」
両手から大柄な剣を露出させ、薙ぐようにロールシャッハを弾き飛ばす。小柄な体躯のロールシャッハは勢いのまま背後の壁に激突し、崩れ落ちた。そしてすぐに立ち上がる。ダメージは皆無だ。対するザンクといえば、常に浮かべていたあの笑みはなりを潜め、やや引きつった面持ちでロールシャッハを睨み付けていた。
「どうした。さっきまでの態度が嘘のようだな」
「・・・・・・チッ、俺もタカを括ってたらしいな。お前はヤバい。ここで・・・・・・殺す!」
「HUNH.その気になったか」
生々しい殺気がザンクから放たれる。舐めた態度を捨て、こちらを殺そうと本気になったのが見て取れた。つまり、ここからが本番という訳だ。
いいだろう。そちらがその気ならこちらも乗るまで。無論、ロールシャッハは最初からそのつもりだ。
「ぬあああっ!!」
「RRAAAARRLLL!!!」
交錯する殺意。片や帝都を震わす殺人鬼、片や狂気に取り憑かれた男。命を賭した殺し合いは、帝具を持っているザンクが優位に見えた。だがその顔に余裕の二文字はなく、代わりに焦燥と少しの恐れが介在していた。
猛攻。一瞬も手を緩めることなく、怒涛の如く攻撃を加え続けるロールシャッハ。一手一手に巨大な殺意を乗せ、全身全霊で叩き付ける。なりふり構わぬ攻め方に、ザンクはジリジリと後退していった。
しかし、ロールシャッハの得物は普遍的な肉切り包丁。殺しの為に振るうザンクのそれとは数段劣る。ましてや向こうは二つ、いくら嵐のように攻めたとして手数ではどうしても遅れを取ってしまう。現に、防ぎ切れない剣戟により身体にはいくつもの切傷が刻み込まれていた。そして刃がせめぎ合う内、ついにロールシャッハの包丁にはヒビが走り、そして砕けた。
「! チッ・・・・・・!」
「隙ありィッ!!」
「AKKK!!」
振りかざしたザンクの剣がロールシャッハの肩を抉る。深い傷からはとめどなく血が溢れ、薄汚いコートを紅く濡らしていった。
「ハハハッ!! 惜しかったなァ!! だがこれで───」
「終わりだ、と?」
「・・・・・・なに?」
「確かに傷は深いな。だが・・・・・・"捉えたぞ"」
「あァ? 何言って・・・・・・」
勝利を確信したザンク。深々と刻まれた傷を見て、最早十全の力を発揮することは敵わないと思い込んだ。実際それは正しく、如何にロールシャッハとてこの傷では百パーセントのパフォーマンスは出来ない。だから、ザンクの勝ち誇った笑いも、勝利の感情も当然である。
だが、程なくしてザンクは違和感に気付く。ロールシャッハの肩を切りつけた右腕が、何故かびくともしない。どれだけ力を込めたところで、まるで岩に挟まれたかのように動かない。一体どういうことなのか? その理由はすぐに分かった。
ロールシャッハの手が、ザンクの腕を掴んでいた。
「て、てめぇッ・・・・・・!?」
「落ちてもらうぞ」
左の剣が空を斬る。ザンクがそうする直前、ロールシャッハは足に力を込め、跳んだ。アメリカンフットボールの要領だ。相手の懐に飛び込み、態勢を崩す。巨躯を誇る者ならば効果は大きいが、小さな身体でも押し崩す力は強い。それがロールシャッハなら尚のことだ。
二倍近い体格差のザンクを推し進め、そのまま背後のガラスへと突っ込む。美しいステンドの装飾が施されたガラスはきらびやかな破片となり、月夜に照らされながらロールシャッハ達と共に落下していった。
「う・・・・・・おおおおああ!?」
「EHAK...!」
重力に導かれるままに二人は時計塔から落下していく。高さは不明、しかし相応の高度には違いなく、このまま地面に激突すればもれなくミンチペーストの出来上がりだ。
それはザンクも理解している。故に恐怖し、戦慄するのだ。自身が死ぬ。それも一因だが、何より恐ろしいのがこの男。こんな道連れ紛いの作戦、普通の神経では絶対に実行出来ない。それを何の躊躇いもなく、ただ自分を殺すことのみに全てを捧げる。纏わりついていた黒い殺意の底の底、ザンクはその深淵を垣間見た。ロールシャッハという超人の精神を。
だがロールシャッハは何も思わない。ただただひたすらに目の前の敵を殺すということのみに注力する。だからこそのこの突貫。捨て身の作戦と言えばそれまで、だがロールシャッハには勝算があった。でなければこんな馬鹿げた真似、さしものヴィジランテとて出来ようものか。
「てめぇ!! 正気か!? 二人とも死ぬぞ!!」
「いいや。死ぬのは貴様一人だクズ野郎」
「なんだと!? ・・・・・・まさか!?」
「言った筈だ。落ちてもらうと・・・・・・!!」
「やっ、やめ───!」
必死に抵抗し、しがみつくザンク。そんなことは意に介さず、ロールシャッハは何度か殴り、抵抗が弱まったところでついに蹴り落とした。直後に懐からフックショットを取り出し、射出。堅い鉄の銛はレンガの壁にめり込み、凄まじい勢いで巻き上げる。
結果としてロールシャッハは地面に激突することはなく、地上からおよそ五メートルのところに留まった。そして無慈悲にも高所から叩きつけられたザンクは───生存していた。
「あ・・・・・・う・・・・・・」
「HUNH. 悪運の強い奴だ」
射出したワイヤーをそのまま伸ばし、ロールシャッハはゆっくりと降り立つ。そして瀕死のザンクに近寄った。
生きていたとはいえ、その姿は凄惨たるものだった。四肢はあらぬ方向へねじ曲がり、肉はひしゃげ、内臓が腹から飛び出している。目測で大体三十メートルといったところだろうか。そんな高さから落下してまだ生きているとはつくづく哀れな男だ。このまま死ねたらどれだけ楽か。
だが、ただでは死なせない。この男に殺された人々の痛みはこんなものではない。彼らの苦痛を、悲痛を、そして無念を。この下卑た殺人鬼に味わせねば。
ロールシャッハは懐から"もう一本の包丁"を取り出した。
「や・・・・・・め・・・・・・」
「さよならだ」
鈍い刃が心臓へとつきたてられた。
◇◇◇◇◇
「タツミ・・・・・・どこへ行った?」
ザンク討伐。目下、ナイトレイドの任務はそれに尽きる。他のチームと別れ行動していたアカメとタツミは哨戒しながら捜索していたが、タツミが用を足したいということでしばし待機していた。が、帰ってくるのがあまりにも遅い。帝都に来たばかりのタツミなら迷っても仕方のないことだが、今夜はザンクに加え帝国軍も動いている。迅速に見つけ出さなければ後々面倒になる為、アカメは周囲を探し回っていた。
ただそう遠くへは行っていなかったらしい。時計塔の真下という分かりやすい場所に居たのも功を奏したのか、探し始めてすぐに発見した。全く、仮にも暗殺集団に身を置いているというのに。戒めが必要だと詰め寄ろうとするが、タツミの様子がどことなくおかしい。呆然と立ち尽くし、ある方向をじっと見つめている。
一体どうしたというのだろうか。タツミが見ている方向へと目をやると───そこには蠢く影があった。
「ロール・・・・・・シャッハ?」
そこに居たのは紛れもなくロールシャッハそのものだった。大柄な男へと何度も包丁を振り下ろし、暗い闇でもはっきり見て取れる程の帰り血をその身に浴びている。何度も何度も、その行為に憎悪を刻みながら、ただひたすらに。とっくに死んでいるのにも関わらず、ロールシャッハはその手を止めようとはしなかった。
背中に冷たい何かが這うような感覚をアカメは抱いた。加虐的な性癖でもない限り、暗殺者は必要以上に死体を傷付けない。そんなことをしたところで無意味だからだ。だがロールシャッハはまるで異なっていた。罪のない人々を弄ぶ悪辣な輩と同じ、過剰なまでの暴力。
だが決定的に違うのが、その行為に快楽はなく、代わりに凄まじい怒りと憎しみが込められていること。無念の中に死んでいった者達の復讐を肩代わりするような、是が非でも悪を許さないという信念。その姿は正しい意味で、復讐を果たす者のそれだった。
「・・・・・・ロールシャッハ、もう十分だ。その男は既に死んでいる」
振り下ろす。
「もういいロールシャッハ」
振り下ろす。
「・・・・・・やめろ」
振り下ろす。
「やめろロールシャッハッ!!」
闇夜に煌めく鋭い刀。アカメは自身の帝具を抜き放ち、ロールシャッハへと切っ先を向ける。同時に、ロールシャッハはぴたりと動きを止めた。
「・・・・・・邪魔をするな」
「そんなことをして何の意味がある? それはもうただの死体なんだ」
「分かっているとも」
「なら何故」
「お前に質問だ、アカメ」
おもむろにロールシャッハは立ち上がった。そのマスクの紋様はかつてない程に複雑な波紋を描いている。
「人とはどこから生まれ、どこへいくのか。それを考えたことはあるか」
「・・・・・・いいや」
「人という生き物は皆虚無から誕生した。人生という拷問を苦しみ抜き、また虚無へと戻っていく。その時、人々の魂は一体本当に救われているのだろうか?
その真偽を問う術は俺達には無い。だが今回のように肉体を傷付けられ、絶望と恐怖に塗れ、その果てに失った人間の魂は救われると思うか?
───否だ。彼らは永遠に癒されることのない苦痛を抱いたまま、虚無の中に消えていく。俺は、その者達の代わりに裁きを下しているだけだ」
(・・・・・・この・・・・・・男は・・・・・・)
何なんだ。
何を言っているんだ、こいつは。
アカメは理解出来なかった。無論、彼の言わんとすることは、表層だけだが分かる。分からないのはロールシャッハという存在そのものだ。妄想に取り憑かれたパラノイア、それで片付けてしまえば簡単だ。しかし、その一言で吐き捨てるにはあまりにもイカれ過ぎている。帝国の腐った連中も大概頭のおかしい者ばかりだが、ロールシャッハも同じ。到底まともな思考回路の持ち主とは思えない。
直感した。この男は・・・・・・ロールシャッハは危険過ぎる。初めて邂逅した瞬間から分かっていたのかも知れない。この男はもはや自分達に止められる存在ではない、と。
「・・・・・・みんなと合流する。戻るぞタツミ」
「え? ・・・・・・あ、あぁ」
「ロールシャッハ」
「なんだ」
「・・・・・・いや、何でもない」
「・・・HUNH」
肉塊と化したザンクの帝具を回収し、アカメは背を向ける。その面持ちは普段と何ら変わりないように見えた。しかし、それは取り繕っているだけ。極力二人に、特にロールシャッハに悟られないよう務める。
彼は運命を変えるかも知れないとナジェンダは言っていた。それはきっと間違いではないのだろう。罪への憎悪はこれまで出会った誰よりも強く、腐敗した帝国を打ち倒す大きな戦力へとなり得る。彼は実力も伴っているし、それも納得だ。
だとしてもだ。この傾き過ぎた思考は組織としては適さない。これまでのワンマンプレーもそうだが、ロールシャッハを置いておくにはメリット以上に混沌をもたらす。そう思わざるを得なかった。
だがアカメに彼を追放する権限はない。全てはナイトレイドを率いるナジェンダにある。今は、彼女の判断に任せるしかない。
ロールシャッハが自分達の前に立ちはだかる日は、もしかしたらそう遠くはないのかも知れない。その時自分は彼を殺せるのだろうか?
(・・・・・・もしもの時は・・・・・・)
無意識のうちにアカメは刀の鞘を強く握り締めた。
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第9話
──────────────────────────────────────
ロールシャッハ記 帝歴一〇〇六年 四月二十日
そもそも俺は初めからここに居るべきではなかったのかも知れない。ナイトレイドの実態を把握する・・・・・・その目的で近付いたが、しかし俺が思い描いていたものとはかけ離れていた。
彼らの力が強いことは認めざるを得ない。掲げる正義も一応は形になっているとは思う。だがそれもあくまで外側だけだ。今のままでは死人を出すばかりでろくな戦果も上げられないだろう。腐敗した帝国を変えると豪語していても、果たして実現出来るのだろうか。少なくとも俺はそうは思えない。
ナイトレイドという組織は、やはり俺にとっては障害足り得る。帝国のクズ共を裁く過程で否が応でも対峙するだろう。無論、手加減などは小指の先程も考えてはいない。邪魔をするなら殺すだけだ。
ただ、タツミには正直手を出したくはない。あそこまで純粋な人間はそういないから。仮にそうせざるを得ない時が来れば俺は躊躇いなく頭を砕く。だが、晴れない気持ちになるのは確実だ。
思えば、俺は少し腑抜けていたのかも知れない。誰かを案ずることなど未だかつてあっただろうか。ダニエル以外には思い付かない。
俺は一人だ。今も、ニューヨークで街を駆けたあの時も。その方がいい。裁きを下すのは俺一人で充分だ。味方が誰一人居なくとも、例え世界中が敵だとしても、俺は妥協するつもりはない。
・・・・・・味方か誰一人居なくとも、というのは語弊があった。
最初から俺に味方などいない。
──────────────────────────────────────
「・・・・・・」
薄汚れた手帳を机に放り、暫し考え込む。
ロールシャッハは確かにナイトレイドという組織の一員だった。手となり足となり、暗闇の中に潜んで悪を裁いた。過程こそ違えど、それはかつての自身と変わりない。
たった一つの相違点を上げるとすれば、そこに行動を共にする者達がいたということ。帝具を用いる殺し屋達・・・・・・常軌を逸した力で持って断罪せしめる彼らには驚かされた。良い意味でも、悪い意味でも。
だからこそ、ロールシャッハは彼らと相対する必要がある。いずれ戦わねばならない理由がある。
人の本質に絶望し、それでいてなおロールシャッハは人々を護ってきた。下衆の牙に引き裂かれる罪なき者達を。どこに居てもそれは変わることはないが、この世界に至っては邪魔な障害が多すぎる。帝国然り、ナイトレイド然り。
「潮時か」
此処に居た時間は長くはなかったが、それなりの情報は得た。個々の力量、組織としての実態、彼らの行動理念。陳腐と言えばそこまでだが、決して侮ってはいけない部分も多い。帝具もそうだが、実力のある人材がまとまったとなると大きな勢力となる。実際、戦闘力にのみ注力すればナイトレイドは大層強力な集団だ。個人個人ならともかく、多人数で来た場合はロールシャッハでも勝ち目はない。
引き上げるなら今がベストなタイミングだろう。ただ、その前にやることが幾つかある。
ロールシャッハは投げた手帳を手に取り、筆を走らせる。書き終えるとそのページを千切り、手帳の中へと忍ばせた。
仮初めの協定だったが、彼らの元で過ごした時間は無駄ではなかった。無論、仲間意識が芽生えることはない。ロールシャッハにとって有意義な情報を得られたという意味では確かに良かったと言えるだろう。ならばせめてもの、"別れの挨拶"くらいは必要だ。
手帳を机に置いたまま、ロールシャッハは部屋を後にした。
◇◇◇◇◇
「・・・・・・」
自室。ナジェンタは深く思案していた。無論、それはロールシャッハのことだ。
ロールシャッハ。得体の知れないマスクの男。この世の全ての悪を憎み、復讐を為さんとしている。だがそんなことは出来はしない。出来るはずもない。奇跡でも起きない限り、世界から悪の芽を摘むことなど不可能だ。人に善悪の観念がある以上、必ず不貞を働く者はいる。それはナジェンダほどの者でなくとも分かりきっていること。
しかし、ロールシャッハはそうとは思っていない。それが出来ると考えている。いや、そう思い込んでいるとしか表せない。あらゆる悪を滅ぼし、罪に報いる。それを為すのが自身の義務なのだと。強迫観念にも似たその意思はナイトレイドの誰よりも強く、そして異常だ。狂っている。
(ロールシャッハ・・・・・・お前はいったい・・・・・・?)
かつて帝国側に居た時、彼女は多くの人間を目にしてきた。中にはロールシャッハのような者も居た。それでも彼らには"妥協"することが出来た。そうしなければ人は自分を保てない。折れることが出来なければ待っているのは破滅だからだ。
その破滅の道をロールシャッハは進もうとしているのか? 自らの命がどうなってもいいのだろうか? 彼の考えていることが分からない。あのマスクのように、彼の善悪は混ざりきることはなく、世界は完全なる白と黒としか見えていないのだろうか?
彼の果てには滅びしかない。だがそれでもなおロールシャッハは歩みを止めないだろう。
だからこそ、今一度問わねばなるまい。あの男の真意を。
「ボス、ちょっといい?」
「・・・・・・ああタツミか、入れ」
丁度ノックの音がナジェンダの耳に届き、ハッと目を上げる。どうやらタツミが自分に用があるらしい。入るよう促し、タツミは畏まりながら部屋へ踏み入った。
「そう強ばらなくてもいい。何か用があって来たんだろう?」
「あ、えっと。ロールシャッハさんが話がしたいって」
「・・・なに? あいつがか」
「なんか大事な話らしいんだ。部屋で待ってるって言ってたけど」
「・・・・・・」
ナジェンダはロールシャッハの全てを把握したわけではない。だが、性格や性質は少しだが理解できる。用心深く人を信用しようとしない男が一対一で話がしたいなど、何か裏があるのではと勘繰ってしまう。彼に与えられたのは窓もない倉庫、つまりは密室。仕掛けるには充分過ぎだ。
ただこのタイミングはベストかも知れない。ナジェンダ自身、聞きたいことは多くある。タカを括る訳ではないが、ロールシャッハの性質上情報を提供した者の命までは取らないだろう。もしそうなったとしてもナジェンダ程の実力ならなんとでも出来る。いずれにしろ、用心せねばなるまい。
「分かった、今行く。すまんなタツミ」
「ロールシャッハさんには伝えておく?」
「いや、その必要はない。お前はこのあと皆と任務だろう? 万全の状態で行けるようにしっかり準備しておけ」
「ああ、分かったよボス」
そう言うとタツミは部屋をあとにした。このあとは全員が任務に当たる。しかし、ロールシャッハは今回組み込まれてはいない。今このアジトにはナジェンダとロールシャッハの二人しか居ないのだ。これにはますます注意を払う必要がある。
フゥ、と一つ息を吐き、ナジェンダはロールシャッハの部屋へと向かった。
◇◇◇◇◇
「ロールシャッハ、入るぞ」
手早くノックし、部屋へと入る。出来る限り周囲に神経を尖らせながらゆっくりと。だが、部屋には誰も居なかった。あるのは机の上で揺れるロウソクと乱暴に投げられた手帳のみ。肝心のロールシャッハ本人はどこにも居ない。
「あいついったい何処へ・・・・・・これは?」
周りを見渡しても姿は見当たらない。気配も感じず、となれば何処かへ行ってしまったのだろうか。人を呼び出しておいて何とも失礼な男だろう。やれやれと思いながら、ナジェンダはふと机の上の手帳に目を落とす。ロールシャッハがいつも書き殴っている手帳だ。かなり汚れているところを見ると年季の入っている代物だと分かる。手に取って適当に日記を見てみると・・・・・・。
(・・・・・・ま、全く読めない・・・・・・)
そこに記されているのは子供の落書きと見間違う程歪な文字だった。それもその筈、ロールシャッハの書く文字はこの世界の言語とは異なる英語であり、かつ金釘流という他人には読まれにくい自体を敢えて使っている。ナジェンダが読めないのも当然であった。
「おっと・・・・・・メモかなにかか?」
パラパラと捲っていると小さく折り畳んであった紙面が床に落ちる。ロールシャッハのメモだろうか。手帳に記さずわざわざ別の紙に書いているのが気になるが・・・・・・。ナジェンダはそれを拾い上げ、紙を広げて内容を見る。そこにはこう記されていた。
『BeHinD yOU.┓┏.』
「不用心だな」
「ッッ!?」
突如として巨大な衝撃がナジェンダを襲う。床に組み伏せられた彼女が聞いたのは、他でもないロールシャッハの声だった。
「お前・・・・・・ッ・・・・・・いったいどこに・・・ッ」
「HUNH.俺は最初からここにいた。気付かなかったか? 今度周りを見る時は上にも注意することだ」
「・・・! そうか・・・・・・天井に」
なんて失態だ。ナジェンダは歯噛みする。神経を張り巡らせていたつもりだったが、気配を消して天井に張り付いていたなんて考えもしなかった。確かに彼のフックショットを使えばそれも可能だが、そんな盲点を突かれてしまうとは。
振りほどこうにもびくともしない。むしろこちらの肉体が痛む。そうなるようにロールシャッハは組み伏せたのだ。
「・・・・・・話があると言っていたな。ならこんなことをする必要もないんじゃないか?」
「HUNH.お前も分かっていたことだろう。甘かったがな」
「くっ・・・・・・何が目的だお前は」
「俺はここを出る。別れの挨拶というやつだ」
ロールシャッハの声色は変わらず冷たい。もし不振な動きをすれば即座に無力化する為の手段を行使するだろう。それにこの力。ナジェンダでさえ振り払えない腕力。単純な筋力依然に一切の容赦がない。仮にも共に戦ってきた仲間だと思っていたが、やはりそうではなかったのだ。
「ふん・・・・・・ご丁寧にどうも。さっさと行ったらどうだ? それとも私を殺すか?」
「今お前を殺したところで俺に利点はない。せいぜいお前の仲間から恨みを買う程度だ」
「ならなぜ組み伏せたりする。普通に言えば止めはしないさ」
「確かめたいことがあったんでな。お前といえど、あの淫売のようにキレられては溜まったものじゃない」
「ほう。私が我を忘れ怒る程の質問なのかそれは?」
「・・・・・・」
少しの沈黙。ギリギリと軋むナジェンダの義手以外、息遣いさえも聞こえない。緊迫した空気の中、ややもしてロールシャッハは口を開く。
「・・・・・・この数日、お前達を見ていてはっきりした。ナイトレイドという組織では到底帝国など救えはしない」
「救えない・・・・・・か。どうしてそう思う」
「簡単なことだ。お前達には信念がない」
「・・・・・・なんだと?」
信念がない───ロールシャッハの言葉に少しばかりの怒気がナジェンダに顕れる。
「言葉通りの意味だ。前にも言ったな、『自分達はただの人殺し』と。お前達自身に確固たる信念がないからそんな戯れ言をほざくことが出来る」
「ふざけるな。私達に信念がないだと?
撤回しろロールシャッハ。私達は命を賭して戦っている。全てはオネストを倒し、腐った帝国を終わらせる為だ。それを信念がないと切り捨てるのは余りにも勝手過ぎるぞ」
「HEH.笑わせるな。お前達はオネストを殺すことばかりでその先に目を向けようとはしない。確かにオネストが消えれば多少はマシになるだろう。
しかしそれで悪が消えてなくなったとでも?
血肉を貪り私腹を肥やすクズが居なくなると?
ふざけているのはお前達だ」
猛るナジェンダ。しかしロールシャッハの抱く憤怒は彼女の怒りよりも数段上を行っていた。
先を見据えぬ戦い。今ナイトレイドは目先の敵に囚われ、蔓延ってばかりの悪に目を向けようとはしない。例え元凶たるオネストを始末したところで、一旦は治まるだろうがまた新たな悪は誕生する。潰しても潰しても奴らは無尽蔵に沸き、人々を骨まで喰い尽くすのだ。
そんなことはさせない。止めなければならない。その為にはあらゆる感情を捨て、一切の妥協も許さぬ信念が必要だ。ナイトレイドにはそこが抜け落ちている。自らをただの人殺しと思っている限り、その悲願は達成出来ないだろう。そうロールシャッハは確信しているのだ。
「所詮お前達は革命が終わるまでの駒だ。役目が終われば投げ捨てられるポーンでしかない。だからそんな台詞が吐ける。『ただの人殺し』とな」
「・・・・・・ッ」
「お前には少し期待していた。他の奴らとは違うのだと。だがやはり所詮は『ただの人殺し』だったようだ」
「・・・・・・どうしてだ。どうしてお前はそうまでして悪を憎む? 罪を滅ぼそうとする? お前はただの人でしかないんだ。間違っても神様なんかじゃない。そんな事が出来るわけがない! いったい何故だ!?」
「決まっている」
脳が揺さぶられる。ロールシャッハの振り下ろした拳はナジェンダの頭部にめり込み、大きな衝撃を与える。死ぬまでは行かないにせよ、その意識は数秒と保っていられないだろう。薄れゆく意識の中、立ち去るロールシャッハの背中を、そして暗闇に紡がれた言葉を耳にする。
「絶対に妥協しないと決めたからだ」
それを最後に、彼女は意識を手放した。
◇◇◇◇◇
「────ス──!──ボス!!」
朧気に届く声。目を覚ましたナジェンダが最初に見たのは泣きだしそうな面持ちで呼び掛けるラバックだった。まだ頭が働かず、殴られた箇所が鈍く痛む。薄ぼんやりとしながらもナジェンダは意識を保とうとした。見れば、周りには他の面子も揃っている。
「ラバック・・・・・・皆任務を終えたのか」
「ああ。さっき戻ったばっかりさ。ナジェンダさんの姿がないもんだから探してみたらこんなとこで倒れてんだもん。ホンっとに心配したんだぜ!」
「すまない」
「ボス、いったい何があった?」
「・・・・・・ロールシャッハの奴に一杯食わされてな」
その言葉を聞いた時、全員に戦慄が走る。
ナジェンダに、このナイトレイドという組織の長に危害を加えたのがロールシャッハだという事実。それを皆どこかで感じていたのだろう、納得したようでいながらもその面持ちは穏やかではない。これは明らかな裏切り行為、組織に歯向かう反逆者の仕業だ。
「アイツ・・・・・・! とうとうやりやがったな。ぶっ殺してやるッ!!」
「いや、止めておけレオーネ。奴には極力手を出すな」
「そうは言ってもよボス、俺らの頭がこうもやられちゃ黙ってるわけにもいかねぇぜ? 殺さないにせよ、相応の報いってやつは受けさせるべきだ」
「ダメだ。許可はしない」
「・・・・・・どうしてだ?」
頑としてロールシャッハの処罰を許可しないナジェンダ。釈然としない空気の中、アカメは理由を問うた。そしてそれは恐らく、自分が感じていたものと殆ど同じだろう。そうアカメは予感していた。
「奴は・・・・・・ロールシャッハは最早我々では及ばない場所にいる」
「・・・・・・ボス」
「お前達も分かっただろう、あの男の異常さが。下手に手を出せば大きな痛手を被る可能性が高い。なにせ奴はタダでは終わらん男だ。タチの悪いことにな」
「だからって・・・・・・! アイツを野放しにしていいのかよ!?」
「奴はこの世界に大きな影響を与え得る。良い意味でも、悪い意味でも。だからこそ我々が手出ししていい存在じゃない。
奴の行き着く先は破滅だ。自ら滅びの道を進んでいる。そうだと知っていてもロールシャッハは止まらないだろう。例え世界が滅びても奴は絶対に妥協しない。
・・・・・・すまないな、皆。手を出すなというのは私のエゴでしかない。だか私は見極めたいんだよ。ロールシャッハという男の行く末を・・・・・・」
絶対に妥協しない───途方もない意思でもってロールシャッハは走り続けてきた。その身がどれだけ傷付き、死へ追いやられようとも構うことなく。世界を蝕む悪を裁く為に、彼は戦い続けた。
妥協しないということは自身が下したあらゆる決断を曲げないということ。何にも折れることのない精神は気高く雄々しく、同時に歪で異常だ。
ナジェンダは確かめたかった。ロールシャッハがただのイカれたサイコキラーなのか、それともモラルが地に堕ちた世界で一人戦う聖戦士なのか。彼の進む道の果ては本当に破滅なのか。
「・・・・・・〜〜ぁあクソっ! 分かったよ。ボスがそこまで言うなら納得するしかないじゃんか」
「・・・・・・すまない」
「けどよボス、流石に奴からけしかけてきた時はやっちまっていいよな?」
「ああ、それは構わない。だがその場合は細心の注意を払え」
ロールシャッハの処遇は結局静観、向こうから手を出した場合は応戦という形になった。完全にナジェンダの願いでしかないが、なにより信頼のおける団長がそう懇願するなら聞き入れる他あるまい。
ラバックがナジェンダを介抱しながら皆部屋をあとにしようとすると、何やら焦った表情のマインが飛び込んでくる。
「ねぇ! ザンクから回収した帝具知らない!?」
「いや、見てないな。どうしたんだ?」
「それがどこにもないのよ! 保管庫にもないし、どこを探しても全然見つからないのよ!」
「・・・・・・まさか」
帝具スペクテッド。ザンクから回収し、程なくして革命軍本部へ送り届ける予定だったが・・・・・・恐らくはロールシャッハが奪取したのだろう。タツミはともかくとして他の面々が紛失などする筈がない。
あれは視覚を強化する帝具。ロールシャッハにとってはかなり役立つものに違いない。全く、最後までやってくれる男だ。呆れると共に、ナジェンダはどこか感心していた。
「多分だがロールシャッハの仕業だ。まぁ、本部には私が何とか言っておく」
「はぁ!? アイツがなんでそんなこと──」
「それについては説明する。皆会議室に集まってくれ」
ナジェンダはラバックに手を借りながら会議室へと足を運ぶ。
ロールシャッハが帝具を手にしたというのなら途轍もない脅威になる。自分達の前に立ちはだかった時、どう対処するかも考えておかなければならない。今はまだ様子見をすると決めたが、最早彼はナイトレイドにとって"敵"だ。
これから先、ナイトレイドには打ち破らねばならない壁がある。
一つは帝国。
そしてもう一つは───ロールシャッハ。
運命のインクが再び滲み出した。
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第10話
──────────────────────────────────────
ロールシャッハ記 帝歴一〇〇六年 四月二十二日
ナイトレイドを離脱し二日が立った。あいも変わらず街には下衆共が溢れかえっている。が、未だ奴らには遭遇していない。組織のトップに危害を加えたのだ、追い掛けてくるものとばかり思っていたが実際はそうではないらしい。想像以上にナイトレイドという組織は腑抜けのようだ。
しかしこれは好都合だ。奴らが手出ししないのならこちらもやりやすくはなる。この先鉢会うこともままあるだろうが、そんなことは関係ない。可能な限りは干渉せず、クズだけを仕留めることにのみ全てを注げばいい。奴らと殺し合ったところで互いにメリットは微塵もない。それは向こうも理解している筈。尤も、それが簡単に出来るかは怪しいところだが。
なおナイトレイドを出る際だが、色々とくすねておいた。武器の類、食糧。そして最も大きい収穫はザンクの使っていた帝具だ。先程使用してみたが、一キロ先の人間の顔まではっきりと見て取れた。流石にこれには驚かざるを得ない。他にもザンクは様々な力を使っていたが、それは今後判明していくだろう。視る能力を格段に上げる能力はこの先戦っていく中で大いに役立つ筈だ。
今の所ナイトレイドのことは把握している。彼らはまだ放っておいてもあまり問題ではない。今の俺に足りないのは帝国そのものの情報だ。政治や歴史はともかく、軍力や警備、抱えているクズ共を知る必要がある。
帝都の中心にある宮殿は警備が極めて厳重だ。他の施設などよりも遥かに。だが、抜け目はある筈。一度侵入し、出来る限りの情報を集めようと思う。それが吉と出るか凶と出るか・・・・・・。いずれにしろ、今まで以上に警戒せねばなるまい。
聞くところによると近々遠征に出ていた将軍が戻ってくるらしい。名をエスデス、別名"氷の女王"と大層な異名を持つ。その力は絶大で、北の要塞都市を壊滅させたそうだ。どんな女かは知らないが、もし本当にそんな力を持っているのなら対峙した時俺に勝ち目はない。宮殿に侵入する際は奴のことも気に留めておくべきだろう。
──────────────────────────────────────
「HURM・・・・・・」
静まり返った帝都の夜、宮殿付近の家屋にロールシャッハはいた。屋根から帝具を用い、中の様子を伺っている。実際このスペクテッドはかなり優秀だ。わざわざ近寄らずともこうやって中を把握出来る。
ロールシャッハの予想通り、宮殿の近辺はかなりの厳戒態勢が敷かれている。帝都を震わすナイトレイドもあるだろうが、やはり革命軍の攻撃を警戒してのことだろう。普通に侵入しようものならすぐさま発見され、四方八方から狙撃される。上から入ってみるのも一つの手だが、遠視したところ空中にも危険種の翼獣がいる。そびえる壁を越え、中に入るのは難しい。
どうするか思案する。後回しにしても良いかも知れないが、しかし将軍が戻ってくる前に情報は手に入れたい。軍はナイトレイドの討伐に躍起、警備は普段よりも手薄という可能性もある。行くなら今しかない。だが肝心の手段が・・・・・・。
(・・・・・・あれは)
深く考え込むロールシャッハの眼前に一台の馬車が通っていく。こんな時間に珍しいものだが、向かう先はまっすぐ一本道、丁度宮殿の入り口に走っている。
これは好都合。
(・・・・・・HUNH)
フックショットを放ち、上手い具合に馬車へと降り立つ。そして運転手にバレないよう、大量に詰まった荷物の中へと身を潜めた。小柄なロールシャッハは小さく空いた隙間にすっぽりと入っている。目立たず、更に今は月も出ていない真っ暗な夜。検査等があったとして見つかる可能性は低い。仮に見つかったとしても門番は三人かそこら、増援を呼ばれる前に始末すれば問題ない。
息を殺し、ロールシャッハはそのまま宮殿へと向かった。
「HUNH.下の下だな」
数分後、ロールシャッハは無事宮殿内への侵入に成功していた。積荷の検査もなく、行商の確認だけで終わるとは。積荷を下ろす頃には宮殿の中、周囲にいた兵士もまばらで、見つかっても処理するのは容易い。警備が厳重だと思っていたが、実際大したことはなかったらしい。
気絶させた兵士数人を捨て置き、ロールシャッハは広い宮殿の廊下へ出た。
時間が時間なだけに静かだ。足音がいやに響き、空気が張り詰めている錯覚に陥る。スペクテッドで逐一周囲を視ているが特に異常はなく、その静寂がかえってロールシャッハに不信感を抱かせた。
(・・・・・・おかしい。なぜこうも人が居ない? 深夜だとしても一人や二人、見回りの兵士くらいは居てもいい。だというのにこの静けさ・・・・・・)
もしこれが罠だとしたならば。一抹の不安が脳裏を掠める。それが事実ならここは敵の胃袋、ロールシャッハはみすみす喰われに行ったも同然だ。現状奇襲されるような気配や兆候はないが、しかしこの不自然さ。いつ襲われてもおかしくはない。
(・・・・・・)
神経を尖らせる。かつてなく鋭敏に、あらゆる事態に対応出来るよう。可能な限り気配を消し、迅速に、それでいて着実に宮殿内部を進んで行く。
目的地は資料室。場所は透視で確認済み、あとはそこへ向かうのみだが、急がねば。ただでさえ敵の本丸、今の状況は確かに不自然だがこれはかえって都合がいい。何も無いならそれまで、もし敵が襲ってきても離脱することを最優先すれば逃走くらいは可能だ。
疾駆する。闇の中をロールシャッハは突き進んで行く。何も障害はない、このまま資料室へ一直線だ。
が、しかし。
「おおーっとそこまでだ!」
「!」
突然頭上から声がしたと思えば、屈強なガタイの大男が巨大な斧を振りかざしロールシャッハ目掛け落下してくる。このままでは真っ二つだ。ロールシャッハは素早く跳躍し、その場から後退する。直後、彼がいた地点は轟音と共に抉れていた。破壊の痕からして凄まじい威力が窺える。
スペクテッドで視ていた筈なのになぜ・・・・・・。この帝具にも穴はあるということか。
「貴様・・・・・・帝具使いか」
「ご名答。俺の名はダイダラ。エスデス様直属の三獣士が一人だ」
「・・・・・・なに」
「エスデス様がなんか変な気配を感じるっていうから来てみれば・・・・・・確かにこりゃーおかしなヤツが居たもんだ」
「! エスデス・・・だと」
敵の名はどうでもいい。帝具も見たところ単なる巨斧にしか見えない。相手取るなら問題はないだろう。
ロールシャッハが注力したのはエスデス直属の部下だという部分。その言葉が正しければエスデスは既に帝都へ戻っていることに他ならない。それに加え、自分が来ていることも察知していたのだ。ならばこのがらんどうの宮殿は奴の指示、つまりは罠だったということ。
遅かった。侵入のタイミングを見誤ったのか? 浅はかな失敗にロールシャッハは憤る。もう少し決断が早ければ・・・・・・。だがそれは過ぎたこと。今は戦うしか他ない。眼前の敵を前にロールシャッハは拳を構えた。
「おっ、いいねぇ。宮殿に来ただけはあるな」
「黙れ。お前には死んでもらう」
「ハッハッハ! 威勢もいい! こいつァ俺の経験値アップにピッタリだ。簡単に死んでくれんなよ!」
「やってみるがいいデカブツ」
最初に動いたのはロールシャッハ。あらん限りの脚力でもって突貫する。それはさながら弾丸、驚く程の速さで懐へ飛び込む。だがあくまで直線的な動き、エスデス直属の戦士が避けられない訳はない。どころかダイダラは予見していたかのように嗤っていた。
「そりゃ自殺行為ってやつだぜぇ!!」
ダイダラの右手には巨斧。帝具ベルヴァークが握られていた。並大抵の膂力では持ち上げることすら敵わない重量のそれは使いこなせば途轍もない威力を誇る。人体は当然のこと、適当な建築物程度なら容易く粉砕可能。まともに喰らえば間違いなく死だ。それがロールシャッハ目掛け振り下ろされる。
が、そんなことは想定内。スペクテッドを発動している今、ロールシャッハに予測出来ないものはない。彼は既にダイダラの背後へフックショットを射出、紙一重で避けるように後ろへと回る。それはまるで曲芸、意表を突く動きにダイダラも驚いていた。尤も、それだけに過ぎない。
「ほっほー、妙な技持ってんなぁアンタ。俺様もちょっとビックリしたぜ」
「・・・・・・」
今のは言うなればブラフ。敵の力量を測るためのハッタリでしかない。が、目論見は成功した。武器を振る速度、力の入れ方。スペクテッドの力もあるが、培われた洞察力は敵の行動を見抜く。相手は戦うことに一種の悦楽を見出し、実力を測るような真似をする。それが隙に繋がることも予想せずに。
殺れる。確信したロールシャッハだったが、彼には一つ誤算があった。
そう、相手はエスデス直属の三獣士の一人。他にも二人、同じような従者がいることを。
「お楽しみのところ悪いが、遊びはそこまでだ」
「!? AAKKK・・・・・・!!」
背後からの声に反応する間もなくロールシャッハの脚が貫かれた。走る激痛、たまらずロールシャッハは膝を着く。後ろに視線をやると、そこには髭をたくわえた紳士然な男とまだ年端も行かない少年が居た。
三獣士の残りの二人、リヴァとニャウである。
「おいおいリヴァ! これからだってのにそりゃねーぜ!」
「ただでさえ宮殿に忍び込んだネズミ、早々に始末するのが道理だろう。お前の趣向は勝手だがエスデス様の手を煩わせるようなことはするな」
「へいへいっと・・・・・・」
「さて・・・・・・そこの侵入者。単身ここへ乗り込んだことは褒めてやる。だがお前には死んでもらわねばならん」
(クソッ・・・・・・クソクソクソッッ!! 何か、何か手は無いのか!?)
逃げなければ。だが脚に力が入らない。それもその筈、貫かれたのはアキレス腱だ。どれだけ力を込めようが肉体の構造的にここをやられれば脚は機能しない。例え走れたとしてもこの三人を前にして逃げおおせるだろうか。認めたくはないがその可能性はあまりにも低い。
絶体絶命。ニューヨークでも同じような状況に陥ったが、あの時は程度が知れる警官隊だった。だが今回ばかりは違う。敵は歴戦の戦士、少しでも気を抜けば即座に殺されるような相手。自分の命はこのリヴァという男に握られているのだ。
こんな所で死ぬのか? 巫山戯るな。まだ何もしていないというのに。自身の情けなさと敵への憎悪、二つが混ざり憤怒となる中でもロールシャッハは打開策を見出そうと必死だった。
だが、そんなロールシャッハに更なる苦難が襲う。
「まて、お前達」
「・・・ッ! エスデス様!」
(・・・・・・OH,NO)
カツン、とヒールの音を響かせ悠然と歩んでくる女。透き通る蒼の長髪をたなびかせ、いかにもな軍服を身に纏うその女。凍てつくような目を持ち、冷えるような声色で持って命令する女───。
彼女こそがエスデス。北の要塞都市を壊滅させ、帝国へと舞い戻った氷の女王その人がロールシャッハの目の前にいる。
「・・・・・・こいつか。妙な気配の原因は」
「は。宮殿内に侵入していた所を捕らえた次第でございます」
「ふむ」
非常に不味い状況だ。ロールシャッハにとってこれ程の窮地はない。三獣士にエスデス、その気になれば兵士達もすぐに駆け付ける。まさに四面楚歌、最早逃走すら不可能。付け入る隙も見当たらず、闇雲に反撃したところで返り討ちに遭うのが関の山だ。
だが。だとしても。
「RRRRRAAAALLLL!!!」
「ッ! エスデス様!」
ロールシャッハは抵抗する。まだ動く方の脚を蹴り上げ、その拳をエスデスの顔面へぶち込む為に。人はただのやけくそと嘲笑するだろう。それはまさしくその通り、これは単なる自爆。打つ手の無くなった者が行う最後の手段。足掻き。愚行。渾身の一撃だとして、命中しなければ遊戯と変わりない。当然の如くエスデスには当たらず、どころか片手間で地に伏せられ、頭を踏み付けられる始末だ。
「EHAK・・・・・・EHAK・・・・・・」
「まるで猛獣だな。だがその威勢の良さは嫌いじゃない。リヴァの言う通りここまで来たのは褒めてやるべきか」
「HUNH・・・・・・殺すなら殺せ」
「・・・・・・お前がここへ来た時今まで感じたことのない気配を私は感じた。言葉では言い表せない・・・・・・そう、直感だ。何とも形容し難い感覚。私がこれまで殺してきたつまらん連中とは違うと思った。
そんな私の直感がそう言っているんだ。お前はつまらん奴ではないだろう?」
「・・・・・・」
この女、いったい何を考えている。好敵手でも探しているのか? だがあいにくそんなものに興味は微塵もない。しかしこの女の言葉から垣間見えたのはその真っ黒な本質だ。人を人と思わぬ、それこそチェス盤の駒としか捉えていない歪な価値観。戦いをゲームか何かと勘違いし、大量虐殺に愉悦を覚える悪辣。
何よりこいつは強者との戦いに飢えている。云わばロールシャッハは品定めされ、お眼鏡に叶ったということだろうか。どこまで行っても狂っている。オネストもその一因だが、エスデスもそうだ。無為な戦を呼び込む災い。人の命を散らすクズ。何としてでも殺さねばならない敵だ。
今は手も足も出ない。だが絶対にこの女は殺す。いつか必ず、どんな手段を用いても。例え今死ぬことになろうともただでは死なない。この女の命も連れていく。
「・・・・・・今俺を殺さなければお前は後悔する」
「なに?」
「俺はお前をいつか必ず殺す。お前が地の果てまで逃げようと俺はお前を追い詰め殺す。
・・・・・・お前は死ぬべき存在だ」
その瞬間、エスデスの身体をある感情が襲う。濁流となって流れ込むそれは歓喜でも、憤怒でも、ましてや悦楽でもない。
恐怖だ。
未だかつて体感したことのない感覚。将軍となり、帝具を手に入れ、軍を常勝へ導く女王となったエスデスには微塵も縁がない、そんな感情。暗く、光など見えもしない漆黒の闇。ただひたすらに凍てついた世界がそこにあった。
震えた。一秒にも満たないほんの僅かな時でも彼女は確かに震えを感じたのだ。興奮からくる武者震いではなく恐怖からくる震え。こんなことは有り得ない。有り得てはいけない。最強の将軍として君臨してきた自分が、たかだか賊如きに恐怖するだと?
改めてロールシャッハを見据える。奇妙に蠢き、決して混ざることのない白と黒。ゆっくりとうねる紋様は次第に形を変え、ある姿に変化する。エスデスから見たそれを形容するのなら───。
(女を突き刺す・・・・・・男・・・・・・)
所詮は妙なマスクの紋様。偶然そういう形になっただけかも知れない。それでもエスデスには暗示に見えたのだ。いつかこの男が自身を手に掛けるのだと。
「・・・・・・クククッ・・・・・・アーッハッハッハ!!!」
「・・・・・・?」
「面白い・・・・・・面白いぞお前。良いだろう。そこまで言うのならお前にチャンスを与えてやる。何度でも殺してみるがいい」
「何を言って───」
続きを言う前にロールシャッハの意識は刈り取られた。嗤うエスデス。三獣士の面々はこうも歓喜する主人を見たことがない。戦争を何よりの娯楽として楽しむ彼女だが、その顔に刻む笑みはそれ以上のもの。
「エスデス様・・・・・・この男はいかが致しましょう」
「牢に入れておけ。ただし殺すなよ。こんな面白い男、手放すのは惜しい」
「はぁ・・・・・・面白い、ですか」
また始まった───内心勘弁して欲しいとリヴァはいつも思う。彼女は生来の加虐嗜好の持ち主、俗に言うドS。それに戦闘狂がプラスされ悪い意味で最強に見える。遠征先で戦う相手にそれなりの者がいれば必要以上に嬲り、ありとあらゆる拷問を掛けた末に殺すのだ。リヴァ自身エスデスに感謝こそすれ恨み辛みなどないが、これ程の突飛な趣味趣向はやや辟易してしまう。今回もその類だろうが、しかし少し気色が違う様子だ。
「そうだリヴァ。こいつは私に恐怖を抱かせた。恐怖だぞ? この私がだ。たかがこんな賊に一瞬でも私は恐れ、慄いた。それだけでこいつは生かしておく価値がある」
「しかしエスデス様。この男は明らかに殺意を持っております。下らぬ賊だとして牙を剥かぬ筈がありません。生かしておけば何かしらの不都合が───」
「だからこそだ。この先こいつは大きな脅威になるやも知れん。だがそれがいい。獲物は肥えた方がより美味いだろう?」
つまり、エスデスは戦いたいのだ。自身を殺す為に力を付けたロールシャッハと。今のロールシャッハではエスデスには到底勝てる訳もなく、ただただ蹂躙されるだけ。だが彼女に恐怖を抱かせたということは将来多大なる敵になる可能性が高いことを表している。
エスデスはその成長したロールシャッハを殺すことを楽しみにしていた。今殺さないのは彼にもっと実力を付けさせる為、血で血を洗う殺し合いをしたいがために敢えて殺さない。
磨けば光る原石、ではない。むしろ真逆の異質。タールのようにドス黒く、深淵に誘うかのように身体を呑み込む巨大な殺意。並み居る連中など話にもならない程のそれは、エスデスの闘争心をざわめかせ、これでもかと掻き立てる。
それに───。
「それとこいつは私の部隊に入れる」
「部隊・・・・・・と言いますと、帝具使いのみで構成するというエスデス様の独立部隊のことですか?」
「ああ。実力はあとで試せばいいし、ここまでの殺意を出せる男はそう居ない。元より治安を維持する為の部隊だ、存分に働いてくれるだろう」
クツクツと歪んだ笑みは止まらない。楽しくて楽しくて仕方ない。こんなに笑えるのは久し振りだ。未だかつてここまで殺意を向けてきた者が居ただろうか?
こいつは戦士だとか、勇者だとか、そんな低俗な者とは全く違う。自身の信ずる決意は揺るがず、敵とみなした相手は文字通り死んでも殺す。
狂っている。自分とは違う方向だが、確かにこの男はイかれている。たった数分にも満たぬ問答だとして、エスデスはロールシャッハの輪郭を捉えていた。故に生かしておくのだ。この先強敵として立ちはだかったロールシャッハを殺す為に。
だがエスデスはまだ知らない。
ロールシャッハという男がこの世界にとってどんな意味を齎すのかを。
新たなインクはまだ垂れたばかりだ────。
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