魔女の住む町 (畑々 端子)
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その素敵な水の星は

車窓からは、ただただ蒼い海面が広がっていた。山側のコンパートメントでなくてよかったと、ローゼは弾む気持ちを抑えるにの必死だった。気が緩めば口元も大層綻んでしまう。コンパートメントにはローゼの他に、膨よかな女性とそのペットだろう黒猫が一匹。女性は時折聞こえるローゼの感嘆詞に視線を動かす以外は、ハードカバーに視線を落としている。
 空の青と海の蒼、そして雲の白、全てが強調することなく雄大なコントラストを描き出している。ルナ(月)から見たアクア(地球)に青は無い。しかし、アクアに降り立ってみると、雲よりも高い天井全てが青で塗られていた。それを不思議に思ったのは、ローゼが初めてアクアに訪れた時だった。リトルスクールに入る前、旅行好きの両親に連れられて訪れたアクア。ローゼにとっては見る物、感じること全てが新鮮だった、鼻腔を擽る微風も照り付ける太陽の光さえも。
 レストレーション(地球回復計画)によってテラフォーミングされたルナ・フォボス(火星)に人類が移住してから四五十年。アクアへの入星が許可されてから五十年目の年だった。すでに誰もが、揺り籠の星アクアで、人類が育まれた営みを記憶に残してはいない。リトルスクールでローゼは、人間がアクアで誕生した事実を学び、再び不思議な気持ちになった。
 そして今、あの時の感動を胸にローゼはアクアの大地を列車に乗って走っている。
何の因果と言う訳でもないが、ローゼにはなんとなくわかっていたのだ、自分はもう一度アクアに来ると言う事を。

「あなた、アクアは初めて?」

 あまりにはしゃぐローゼに、女性が呆れた声で言った。

「いえ、小さい時に一度来た事があるんですけど、あんまり覚えてなくて、だから、初
めても同然なんですけどね」

「フォボスから?」 

「ルナです。グーテンベルグ地区から来ました」

「あら、それじゃお隣さんね。私はエラトステネス地区から来たのよ」

 意外とばかりに女性は、読みかけのハードカバーを閉じた。チャンスとばかりに隣で大人しく座っていた黒猫が女性の膝の上に飛び乗る。

「その猫さん、地球猫ですよね?可愛いなぁ」

 ローゼはそう言いながら黒猫の頭を撫でてやった。すると、猫は人懐こく目を閉じてから、お礼とばかりにローゼの手を舐め返してくれた。

「こう見えても、アクアへは数え切れ無いくらい来ているのよ。この猫もアクアの友人にもらったの」

「それじゃあ、観光じゃないんですね」

「そうねぇ、仕事半分観光半分ってところかしら。アクアはとても良い所だから。あなたは…」

 ローゼのラフな格好と、その隣に置かれたリュックサックを見て、女性は『観光』と断定したい言葉を飲み込んで、ローゼの解答を待つ事にした。  

「私、魔女になるんです!」

 女性にとっては、これまた意外な答えが返って来た。 

「まぁ…」


 アクアに来る人間の大多数は、観光客が占めている。ルナにせよフォブスにせよ、アクアへの星間旅行が密かなブームになりつつあるからである。アクアへ就労の為に訪れる者がいるが、それは本当に極々少数である。アクアの特産物をルナに持ち帰る貿易商は少数の中の大多数を占め、後に残った微数が『魔女』を志す人間なのだ。
 いつの間にか、うみねこが列車と平行して飛んでいた。流れて行く周りの景色の中、うみねこだけが、止まって見えた。コンパートメントに流れ込む爽やかな風を感じながらローゼは、きっとこのうみねこは、この風の中を飛べる事を自慢しに来たに違いないと思った。
 急に視界が開けた、空を走っている様な錯覚さえしてしまいそうだ。山沿いに走っていた線路が消え鉄橋の上を列車は進んで居る。大きなカーブに入ると大層列車は弓状に撓って居る様である。

 そして、その見えてくる……鉄橋の続く先に見える町が……

{次はホーエンハイム駅に停車します。セトクレアセア・パリダへお越しのお客様は、こちらの駅でお降り下さい}
 
 うみねこが飛び去った後すぐ、車内放送がはいった。どうやら次の停車駅がローゼの降りる駅の様だ。

「さっき話した友人も実は魔女なのよ」

 車内放送を聞き終えてから女性がローゼに話しかけた。

「じゃあ、私の先輩になりますね」

「そうなるわね。実は私もパリダに用事があるのよ」

そう言いながら女性はおもむろに、隣に置いてある荷物の中から包装された何かを取り出して見せた。大きさと形から言って本だろうか。

「贈り物ですね。でも…確か、パリダへは夏と秋しか入れないんじゃ」

パリダ行きが決まってから、興奮して居ても立っても居られなくなったローゼは、色々とパリダの町について調べてみた。その時に初めて、観光客は夏と秋しか町に入れないと言う事を知り、もしや自分も入れないのでないかと、パニックになりかけたので、そのことははよく覚えていた。

「あら…そうだったわね、うふふ。私ったら、何度も来るといつでも入れる気になっちゃって、本当に困るわ」照れ隠しの笑顔である。

 初めは恥ずかしそうに話していた女性だったが、やがて、

「どうしましょう」

 恥も外聞も捨てて、困り始めた。

「あの、私で良ければ、お届けしましょうか?」

「ありがと、でも隣町から送る事にするわ。残念だけどね仕方ないないもの」

 ローゼの提案を受け入れたい気持ちを押し殺して、女性は苦笑した。社交辞令だろうと思ったからなのだが…

「そんなの駄目です。きっとそのお友達も楽しみにしてると思いますし。今日届かなかったら、何かあったんじゃないかって心配しますよ。お願いします、私に届けさせて下さい」

ローゼの熱意の籠もった瞳に女性は、輝く何かを見た。

「そう、それじゃお願いしようかしら」

「任せて下さい!」

 満面の笑みを浮かべてローゼは拳で胸を叩いて見せた。  


 ホーエンハイム駅はセトクレアセア・パリダへの唯一の玄関としてそれなりの賑わいを見せていた。駅から出てくる人間はこの時期希である。駅前にはカフェテラスが並びあまりの多さに、どこからが駅舎なのかわからない程だった。

「わぁ、すっごい!」

 眼前に広がる風情は車窓から見るものとは迫力が違った。パリダの町は、まるでおとぎの世界に入ったかの様に不思議な感覚だった。煉瓦が敷き詰められた道に山脈の様に連なる家々。精錬されていない様で実に精錬された景観。そして、その町に溶け込む様に、行き交う見慣れない服を着た女性達。そう、彼女達こそセトクレアセア・パリダ名物である『魔女』なのだ。

「おっといけない」

 ローゼは町並みに圧倒されて、パリダに行くことが決まった日から楽しみにしていた事をすっかり忘れていた。

「ニャ~ン」

「ん?どうしたの猫さん」

 いつの間に来たのか足下で地球猫が座っていた。出鼻をくじかれたローゼだったが、根っからの猫好きはどうしようもない。ローゼは例の如く頭を撫でてあげた。良く見るとその猫は口に何かを銜えている。ローゼが指で掴んでみると、猫はあっさりと口を開けてくれた。

 それは何かのコインだった。上部に穴の開いた、少し変わったそのコインをローゼは初めて目にする。 

「猫さんの宝物だね」

ローゼはコインを再び猫の口に差し出す。すると猫はコインをゆっくりと銜えてから、それをローゼの靴の上に置いたかと思うと次の瞬間には人混みの中へ走り去ってしまった。

「くれるのかな…」

 コインをつまみ上げながらそう呟いたローゼは猫が走り去った人混みを見つめていたが、やがて沸々と沸き上がる衝動に耐えられなくなってしまった。

「猫さん、ごめんなさい。後で返すからね」

 コインをポケットに入れて。ローゼは大きく息を吸い込んだ。そして、待ちに待ったこの瞬間を迎えられる喜びを身体全体に漲らせて。

「はじめのはじめの第一歩!」

 大きく高く、飛び上がったのだった。




~その蒼と青に愛された町は~

 

 パリダの町は地図で見るよりもずっと大きく、また、行き止まりと疑いたくなる様な小道が至る所に通っている。駅からとりあえず歩き出したローゼは今だ海を望むメインストリートから外れることが出来ないでいた。腕時計を見る。約束の時間にはまだ十分余裕がある。ローゼは悪戯にニカっと笑ってから、

 

「よしっ、ローゼ・ユナ行きます!」思い切って次の小道に入った。

 

家の壁に挟まれる錯覚を陥りそうな程道幅は狭く薄暗い。路地と言うよりは小道と言った方が正しいかも知れない。道は家々を縫う様に繋がっている。時折先が見えない事もあり、いつ行き止まりに当たるかと、少しハラハラしながらもローゼの胸はワクワクと高鳴って仕方なかった。プチ迷子になるのはローゼの密かな楽しみであったりする。初めての場所に来るとまずは、地図を見ずにただただ自分の思うように歩き回る。意図せぬ出会いや発見をした時の感動がひときわ大きいからだ。それがため、本当に迷子になってしまった事も何度かあるが、それさえも一興なのである。

 そんな風に冒険気分で路地を進んで行くと、急に開けた道に出た。中央には木蓋を被せられた円柱形の物があり、四方は家々に囲まれている。やけに太陽の光が眩しく感じられた、薄暗い小道を歩いて来たからだろうか。太陽が高い。そのスペースには誰もおらず、閑散としている。特にめぼしい物もなく、とりあえずローゼは我慢をしてさらに直進する事にした。

 幾ら歩いても汗ばみもしない、とても気持の良い季候だった。気が付いた事がある。これだけ入り組んでいて複雑な小道だと言うのに、時々、川の様に風流れるのだ。その時刻柄か風は食欲をそそる良い匂いを運んで来る。

 

「そろそろお昼だよねぇ」

 

約束の時間は夕方にしてもらった。なぜなら、パリダの町を少し散策しておきたかったからである。だから、列車も始発に乗ったし、朝食も我慢した。胸は喜び勇んでワクワクを抑えられないでいるのに、お腹は悲鳴の嵐であった。小道を漂う匂いがさらに拍車をかける。これ以上路地に居るのは辛い。

 とは言え、何処まで続くのはわからない小道を抜けるのは、もはや運しだいの領域。

プチ迷子の新たな弊害を身を持って知ったローゼであった。

 

「へぇ」

 

さらに歩き回ったローゼはようやくそこそこ大きな通りに出ることができた。現在はその通りの途中にあった、橋の上から下の水路を通る端艇やゴンドラを眺めている。水面を蹴って往来するそれらには趣がある。水路沿いにはいくつもの船着き場があり、ゴンドラや端艇が繋がれている。この町には自動車や列車と言った陸上を走る大型の移動手段は無い。だからこの町での移動手段はおのずと徒歩か船になってくる。ローゼには安易に納得する事ができた。この町に、けたたましい乗り物は不似合い過ぎる。目を閉じると聞こえて来るのは船首が、水面を切る音と吹き抜けるそよ風、波の騒ぎ立つ音だけ……ローゼはこんな静かな所を初めて知った気がした。やはりパリダの町はローゼと相性が良いようだ。

 

「お腹空いたけど、まずはお届け物…でもお腹空いたなぁ」

 

 通りに出て見たものの、この通りには靴の看板しか掲げられていないのでる。橋の向こう側も見える範囲だけでも靴屋しかない。

 ぎゅるぎゅると鳴るお腹と、お届け物の使命感、天秤はグラグラと揺れ続け両者は一歩も譲らなかった。

 

「レット・クラブって遠いかな…」

 

 特定の目的地を目指す場合、さすがに行き当たりばったりは無理がある。今こそ地図の出番なのだ。

 

「ふーん、あんた新入り?」

 

 地図を探す為にリュックの中をガサゴソとやっていると、後ろからそう言う声が聞こえた。

 

「はい?」

 

 振り向くと、そこには年の頃ならローゼと同じだろう、黒髪の女の子が立って居た。所どころクリムソンレーキを溶かした様な色のルーンが入った制服を身に纏っている。

 

「あんた魔女になる為に来たんじゃないの?」

 

「はいっ、私ローゼ・ユナです。魔女になるべくパリダにやって参りました!」

 

 ローゼはそう言ってから握手を求めたが…

 

「って事はアクア出身じゃないのね」ローゼの手はいつまでも空を漂っていた。  

 

 顎に手をやって意味深に言う女の子はさらにローゼをまじまじと見た。

 

「私はサフィニア。サフィでいいわ」

 

 サフィニアはわざとローゼの差し出した手を無視している様だった。

 

「あの」

 

そんなサフィニアにローゼは今一度手を差し出した。

 

「んー。握手ってのがねぇ」

 

どうやら、握手が気に入らない様だ。

 

ギュルルル

 

 サフィニアにとっては丁度良いタイミングで助け船が到来した。空腹の絶頂にあったローゼのお腹が見事になったのだった。

 

「あわわっ、お恥ずかしい所を」

 

「お昼まだなら一緒に行く?」

 

 この時ローゼには、サフィニアが輝いて見えた、背後に刺す後光はただただ神々しい

ばかりだ。

 

「ぜひ、ぜひ、お願いします!」

 

 そう言いながら眼前に迫るローゼにサフィニアは呆れながらも、ここは先輩として我慢する所だと自分に言い聞かせた。

   

 

 ローゼを伴ってサフィニアが向かったのは、靴屋通りを抜けた先にある。パスタ専門店その名も『長靴猫』店先のイーゼルには長靴を履いた猫のモチーフが飾れてある。

 そのモチーフに目を奪われているローゼを置いてサフィニアはさっさと店内に入ってしまっていた。慌ててサフィニアの後を追って店内に入るローゼ。店内は外観そのままにオシャレにまとまって居た。至る所に店先に飾ってあったモチーフの猫を見ることができる。そんな店内にはすでに多数のお客さんで賑わっていた。それも全て制服を着ている人ばかり、私服でいるローゼが珍しいくらいである。

 

「こっちこっち」

 

 先に席を座ったサフィニアが店内を見回しているローゼを呼ぶ。通りが見える窓側の席に座ったローゼは、こんな素敵な制服を自分も着ることが出来るのかと思うと、ここに来てワクワクが空腹を凌駕してしまった。

 目を輝かせているローゼを見つめながらサフィニアは溜息をついた。なんてマイペースなんだろうか。サフィニアにとってローゼは初めてのルナ出身者にあたる。無論、パリダで最大のカンパニーである、レット・クラブにはすでに、ルナ出身者もフォボス出身者も在籍しているが、全員がサフィニアの先輩であり、気軽に話しかけるのは難しい。ローゼの所属先がレット・クラブであったなら、サフィニアにとっても後輩にあたるのである。

 本当は今日サフィニアは作業場で、仕上げの工程に入るはずだった。だが、無性に外を歩きたくなって昼食も兼ねてぶらぶらしていたその時、観光客の訪れないこの時季に、どれだけ上手くお世辞を言っても地元民には見えない風貌の、ローゼを見つけた。この時季はそれぞれの所属カンパニーを探して町中を歩く新入りの姿は特別珍しいものではない。新入りだろうと橋の上で地図を探すローゼに目をやった瞬間にサフィニアは聞いてしまったのだ、ローゼの口から『レット・クラブ』と言う言葉を。その瞬間に背筋がピンとなる感覚はまだ忘れない。今期初めての新入りかも知れない。レット・クラブを脅かす、ライバルカンパニー、ウェノサ・ヴェノサが最近急成長を見せており、今期レット・クラブにはまだ、新入りが誰も居ない。その事が大きくサフィニアの胸を高鳴らせたのかも知れない……少なくともそれが、ローゼに声をかけさせたわけなのだが。

しかし、ローゼを見れば見る程に、だんだん拍子抜けしてきていた。パリダにやってくる新入りと言えば、普通、不安と緊張で胸がはち切れんばかりの表情でいるものだ。だが、自分の目の前に居るローゼには、そんな色は微塵も窺えない。ひょっとしたら、新入りではないのかも知れないでは?と疑い始めた頃、サフィニアが店に入ってすぐ注文しておいた、長靴猫、特製マルガリータが運ばれて来た。

 

「もしも―し、おーい」

 

 店内と一通り見終わったローゼは天井に描かれたルーン文字に夢中の様子だ。

 

「わぁ、大きいね。このピザぁ」 

 

 ピザの乗せられた木製の皿はテーブルの半分はある。

 

「まぁ、ピザはこの店の隠れた名物だからね」

 

 長靴猫はパスタを売りにする店なのだが、秘密メニューとしてピザも焼いてくれる。今ではこのピザの方が長靴猫の代名詞として魔女の間でも話題沸騰なのだった。もちろん、サフィニアもこの店のピザに魅せられた一人なのだが、いつもは先輩とピザを囲むのが通例で先輩以外とピザを食べるのは初めてであった。

 もしかしたら、自分の後輩になるかもしれない。ここはひとつ先輩らしく…っとついさっきまでの、淡い願望の産物であることは言うまでもない。

 

「いっただっきま~す!」

 

 サフィニアが手慣れた様子でピザを切り分ける。トロトロに溶けたチーズの上にから香る香辛料のスパイシーな香りがローゼの鼻腔いっぱいに広がった。大口でかぶりつくと。薄めの生地が程良い食感を讃え、クリーミーで濃厚なチーズが口の中を支配したかと思えば、その後に、トマトソースの酸味が口いっぱいに広がり、後味を爽やかに演出してくれた。

 

「いいのかなぁ、いいのかなぁ、初めて食べるのにこんなに美味しくてぇ」

 

 本当にほっぺを落としそうな勢いで、ローゼは感動の言葉を述べた。サフィニアにしてみれば慣れた味であったが、ここまで喜んでもらえると、なんだかこちらまで嬉しい気持ちになってしまった。

 

「ふぃ」

 

 早々と三切れ程を平らげ、ローゼは人心地付いた様に、1人幸せそうな表情をしていた。

 

「そうだ、サフィニアちゃん。レット・クラブってどこにあるか知らない?」

 

 思わずサフィニアは、食べていたピザを喉に詰めかけてしまう。

 

「あんたねぇ、そんなボゲボケな質問よく私に出来たわね」

 

「へっ?」

 

 ローゼは真面目に聞いたつもりだったのだが、サフィニアから言わせればそれくらいは知っていて然るべきであって、自分を前にしての質問にしては冗談もいいところなのである。

 

「何にも知らないのね。紅はレット・クラブの色なのよ」

 

 サフィニアは自分の制服の紅を指さして言う。

 

「えへへ、そうなんだ」

 

 サフィニアに言われて、ローゼもさすがに質問した自分が恥ずかしくなった。

 

「あんた所属はうちなんでしょ?」

 

「えっと、レット・クラブじゃないんだけど、列車の中でお届け物預かって。そのお届

け先がレット・クラブなの」

 

 ウェノサ・ヴェノサか。サフィニアは苦い顔をした。これで完全に宛が外れた事になる。本当の所、所属を聞いてもよかったが、ローゼの口からウェノサ・ヴェノサの名前が出るのが正直嫌だった。もちろん他にもカンパニーはある、しかし、そのカンパニはーは可能性であって確率で言えば皆無な極少カンパニーなのだ。

 

「サフィニアちゃん?」

 

「サフィで良いって言ったでしょ」

 

 とは言ったものの、ローゼに罪は無いのである。そもそも、カンパニーは所属人数よりも技術力で勝負するべきであって、気にするサフィニアもサフィニアなのだが。

 

 やはり追い抜かれるのは気分が良くない。

 

「サフィちゃん?」

 

「何でもないわ。そんな事より、時間良いの?遅刻は厳禁よ」

 

 ミミの部分を弄びながら、サフィニアが力なく言う。頭の中では理解出来ていても、やはり、期待がはずれるとやるせない。

 

「大丈夫だよ、夕方にしてもらったから」

 

 腕時計を見ながらローゼがよ余裕の表情を作る。

 

「はぁ」

 

 思った通りだった。カンパニー色を知らないのである。ルナとアクアとでの時差を知らないのも頷ける。

 

「言っとくけど、ルナとアクア時差、3時間だから」

 

呆れた物言いで言うサフィニア。

 

「えっ」

 

 青ざめるローゼ。

 

「今はそうね、夕方近し、四時って所ね」

 

 そんなローゼを尻目にサフィニアは店内にある。時計を横目で見て言う。

 

「それ駄目だよ……間に合わないよ!」

 

 ますます顔を青くして立ち上がった。まだ日はこんなにも高い。ルナとアクアとでは

こんなに日照時間が異なるのか。さすがのローゼも焦りの色を隠せない。

 

「お届け物は私が届けてあげるから。あんたは急ぎなさい」

 

「ごめんね。後、よろしくお願いします!」

 

 ローゼはそう言うと、一目散に駆け出す。俯きつつそれを見送らなかったサフィニアはすっかり冷えてしまったピザを心苦しく指つついた。

 我ながら質の悪い意地悪は気分が悪い。ルナに比べると、アクアの方が日照時間は長い。頭の中でわかって居たのに、この所行である。嘘の時刻を教えた、自分に溜息を一つ。本当は2時だったのだ。

 『先輩から時差を知らなかった新入りへの洗礼』言い替えて見ても、気分は晴れるはずもない。自分の師なら絶対にこんな意地悪はしないだろう。そう思うとなんだか自己嫌悪である。

 工房へ遠回りをする理由も出来た……サフィニアはどこまでも自分勝手でご都合主義名な自分だと呆れつつ、ローゼから託された荷物の宛名を見て、「あうぅ……」生唾を飲んだ……宛名には『ダリア・カラス様へ』とだけ書かれてあった。天罰だ……サフィニアは増してローゼに対する罪悪感を募らせながら、今アクア中で一番会いたくない人の名前を何度も読み返していたのであった。

 

 

「初日から遅刻なんて、絶対駄目だよ」

 

 そんな事を知るよしもないローゼは、地図を片手にパリダの町を走っていた。

 目的地である『ブルーベル』はローゼの持っている地図には乗っていなかった。ルナを出発する3日前、ルシア・アンジェリカと言う人から『時間には十分余裕を持ってね』と星間メールで手紙が来ていた。ローゼはその言葉に随って、始発の列車に乗ってパリダにやって来た。どこから時間の感覚が狂っていたのだろう。思いつくと言えば列車に乗車してから安心してか眠ってしまった。気が付いた時にはすでに向かいの席に女性が座っていた、少なくとも一駅間は眠ってしまって居たらしい。その後は、時間の心配をすること無く、アクアの素晴らしい風景に感嘆していたわけだが、これを不可抗力と言うならば。原因はやはり、プチ迷子にあるらしい。少なくとも小1時間は歩き回っていたはずだから。

 

「すみません!私ブルーベルに行きたいんですが!」

 

 ローゼにとってはそれどころではなかったが、随分と町が活気づいている。町中を歩き回って居たときには閑散としていた小道にも、買い物籠を持った女性や子ども達などで交通渋滞する程だ。ローゼはすれ違った女性にブルーベルの所在を尋ねた。地図とにらめっこをしている時間は無い。

 

「さぁ、知らないわね」

 

 ローゼをまじまじと見て女性は、あっさりそう言うと、そそくさとメイン通りへ歩いて行ってしまった。その後も手当たり次第に尋ねて回ったが、、まじまじとローゼを見てから、まるで口裏を合わせたかの様に皆、同じ台詞を繰り返すだけだった。

 さらに焦ったローゼだったが、手段は選んでいられない。ローゼはカフェテラスでお喋りをしている魔女に尋ねる事にした。魔女なら同業社の所在を知っているはずだ。

 

「お話中すみません。私、ローゼ・ユナと言います。ブルーベルと言うカンパニーをご存じありませんか?そこに行かなくちゃいけないんです」

 

 ローゼが尋ねた魔女の一人はサフィニアと同じ深紅の入った制服を着ていた。もう一人は純白の制服を着ていた。

 

「はて、ブルーベルなんてカンパニー聞いた事あるか?」

 

 女性と同じくローゼの風貌をしっかりと見てから深紅の魔女が言った。羨ましくなる程、つやめく黒髪を掻き上げる様には、威圧感に似た雰囲気があり、思わずローゼは息を飲んだ。

 

「さぁ、聞いたことないわ」

 

 純白の魔女もなぜか微笑んでそう答えた。今にも吸い込まれそうな、エメラルドグリーンの瞳は透き通っていて優しくて、そのせいか、その魔女全体からほんわかした雰囲気を醸していた。

 

「そう言うことだから、他あたって頂戴。そろそろ行くわよ。ミネルヴァ」

 

「うん、待ってぇ、ダリアちゃん」

 

 正反対の雰囲気を醸す二人だったが、とても仲が良いようだった。そんな二人の背中を見つめていたローゼにアリスと呼ばれた純白の魔女が振り返って、手を振りながら何かをローゼに投げ掛けた。

 

「カ・ン・ハ・テ…はい?」

 

 残念ながらローゼにその意味は伝わらなかった様だが、それによってローゼは胸をなで下ろすことができた。

 不安が祟り、つしか、ルナ出身の自分は地元民から、嫌われているのではないかと心の片隅で思い始めていたからである。

 

「よしっ!」

 

 ローゼは再び駆けだした。

 

 

 

 

  ~その蒼の魔女の名は~

 

 

 

 

 迷宮とはその昔、怪人ミノタウロスを閉じこめる為に作られたものだと言う。それならば、パリダの町は、ローゼをブルーベルに辿り着けないように作られた迷宮である。 入り組んだ路地を通り、何本もの通りを抜けて、結局、ローゼはホーエンハイム駅に戻って来てしまった。細かな路地が記載されていない地図はもはや役には立たない。一様右手に握られたクシャクシャの地図は見るだけで虚しかった。

 燃える様な朱を讃える夕日は純白の雲と蒼い海までも朱に染めて、一日の終わりが近づく事を知らせている様だった。駅の真正面にある数本の柱に彫られたガーゴイルが、影の具合で日中以上に不気味に見える。

 途方に暮れたローゼは、恨めしいくらいに優美なる世界を演出する夕日を見上げながら、名実共に約束の夕方になってしまった事を痛感していた。

 

「なんとかなる……何とかなるよ絶対に」

 

 自分に言い聞かせる様にそう言うとローゼはまた歩き出した。一時は少し腰を下ろして休憩しようかとも思ったが、一度腰を下ろすと立ち上がれないような気がしてそれは出来なかった。行動さえしていれば何とかなる。これはローゼがいつも困った時、自分に言い聞かせる言葉だった。保証も根拠もないが、今までそうやって自分を奮い立たせて来たのだ。

 歩き出したローゼは、気休めにしかならない地図をポケットに無理矢理ねじ入れた。

その拍子に、コインがポケットから飛び出してしまった。金色のコインは煉瓦を敷き詰めた道の上を数歩転がってから止まった。

 

「ああぁ」

 

 本気で猫にコインを返す気でいるローゼは、慌てて追いかけたが…

 

「ニャ~ン」もう少しの所で三毛猫が銜えて持ち去ってしまった。

 

「それは預かりものなの、猫さんお願いだから返して!」

 

 猫を追ってローゼも走り出す。今日はすでにどれだけ走ったことだろう。リトルスクールの授業でマラソンをした時以来かもしれない。メイン通りから路地に入り、幾つも角を曲がり、橋も数えられないくらい渡った。猫はローゼと遊んでいるつもりなのか、ローゼが見失ったと思えば、『ニャ~ン』と鳴き、息も絶え絶えのローゼが呼吸を整える為に立ち止まれば、毛繕いをして呼吸が整うのを待っている。そんな不思議な事が何度か繰り返されてから、ついに猫は観念したのか、袋地で逃げるのをやめた。

 

「返してくれるよね」

 

 荒い息を無理に押しとどめて、ローゼは猫に歩み寄った。

 

「ニャ~!」

 

 飽きたと言わんばかりに、猫はコインを地面に置くと、わざとローゼの股の間を通り

抜けた。

 

「わっ」

 

 思わず蹌踉けるローゼ。なんとか尻餅は搗かずにすんだが、

 

「オウム?!」今度はコインのすぐ後ろに、どこから飛来したのか、オウムの姿があっ

た。

 

「ドロシーチャン オリコウサン」 

 

 片言でそう言いながら、オウムはコインを突き始める。良く見れば銜えようとしている様にも見える。

 

「それは駄目なんだってばぁ」

 

 すでに猫との追いかけっこで疲労困憊のローゼなのである。ここに来て、空を飛ばれたら、どうしても追いつく事などできない。ローゼは思うよりも早くコインに向かって飛び込んでいた。

 

 意識はコインに集中している。無論、着地の事など眼中にない、派手に地面に飛び込んだローゼは微かに残った右手の手応えを確認する。指を拡げてみると、手の平には一本の蒼い羽根があった。

 

「ドロシーチャン オリコウサン ドロシーチャン オリコウサン」

 

 オウムは空へぐんぐんを上がって行く。

 

「うそでしょぉ~」

 

 眼前には、民家の屋根より遥かに高い壁がそそり立ち、ローゼの行く手を阻んでいる。

仰向けになって、どんどん小さくなるオウムを見上げながらローゼは溜息をついた。

 

「ちょっと大丈夫?」

 

 絶望の淵に追いやられたローゼに女性が声をかけた。

 

「大丈夫です、えへへ」

 

 両膝やら肘やらを擦り剥いていることに気が付いていないローゼは、悪戯な笑みを作って女性に返答した。

 

「そう、それなら良いんだけど…」  

 

 首を傾げてから、女性は壁の中に消えた。それを見たローゼはがばっと上半身を起こしてから、急いで立ち上がった。女性が消えた場所に行って見ると、なんとそこには人1人がやっと通れる程の螺旋階段があった。せり出した壁のせいですっかり隠れてしまっており、ローゼが気が付く事ができなかったのである。所々に明かり取りの窓が設けられてあるだけの螺旋階段はどこまで続いているのか、皆目見当もつかない。 

 

「大丈夫」

 

 見上げればまだオウムの姿は見える。

 

 もしかしたら追いつけるかもしれない。額の汗を拭ってからローゼは、螺旋階段を登り始める。洞窟のように足音がよく響く、先程の女性のものだろう足音が聞こえるまだ階段は長く続いている。

 すでに自分がどの辺りに居て、どこに向かっているのかもわからない。ただ夢中で駆けて来ただけ、今はコインを取り返すしかない。カンパニーはそれから探さなければならないが、もう約束の時間はとっくに過ぎているだろう、それでも、きっと辿り着いて謝ろう、うんと謝ろう。許してもらえるまで…

 

 ローゼはあきらめていなかった。

 

 

 段差は低いがその分段数は多かった。いつの間にか女性の足音は消え、ローゼは自身の足音と呼吸だけを聞いてひたすら出口を目指していた。夜が近い、窓から入る明かりの量が随分と少なくなっている。お陰で足下は暗くて危なっかしい。 

 風が入り込んで来た。何度目かにつまずいた時に感じた汗ばんだ額がひんやりと気持ちが良い。ローゼは顔を上げて、駆けた。目の前に薄暗い螺旋階段の出口が見えたのだ。

 

「こんなのって…ありなのかな…」

 

 外界に出てみると冷たい風が急にローゼの身体を包んだ、もう夕日も水平線から微かに除いている程度だ。しかし、眼前に広がる景色は、疲労や不安などを軽く凌駕していた。その場所からはパリダの町が一望出来たのだ。ちらほら明かりの灯った家々がクリスマスキャンドルの様に闇と光のコントラストを描き、それはもう町全体がイルミネーションそのものだった。

 

「ドロシーチャン イイコイイコ」

 

 オウムの声がした、あまりに素敵で壮大景観についつい、目的を見失いそうになってしまった。

 ローゼは、はっとして、声のする方を向いた。

 

「ローゼ・ユナちゃん?」

 

 オウムはそう声をかけてくれた女性の肩に止まって毛繕いをしてた……

 

「もしかして、もしかして…ルシア・アンジェリカさんですか?」

 

 きっとそうだと思った。このパリダで自分の名前を知っているのは、今日出会ったサフィニアと、カフェに居た魔女2人を除けば1人しかいない。

 

「よかったぁ、今探しに行こうと思っていたのよ」

 

 カンテラを見せながら笑うその人は、さましく、ブルーベル所属の魔女ルシア・アンジェリカその人であった。

 

「うぅ…」

 

 その微笑みに触れた時、ローゼが今まで我慢してきた全てが溢れて来た、とても不安だった事、約束に遅れてしまったこと、何よりルシアが笑顔で迎えてくれたこと。

 

 気が付くとローゼはルシアの胸に飛び込んでいた。

 

「よくがんばりました」

 

 今にも泣き出しそうなローゼをルシアは最上級の優しい声で、そう言いながら抱きしめてくれた。

 

 

 ブルーベルは螺旋階段の出口から目視で確認できる距離にあった。丁度、袋地の壁に沿って建てられてあった。だから、入り口のドアを入ったすぐ横の窓から下を見た時は

腰が引けてしまった。

 店内はシンプルにまとめられてあり、ショーウインドー付近にテーブルと椅子が四脚置かれている以外に目を引く調度品は特に無かった。しかし、その代わりと言う訳ではないだろうが、パンの香ばしい香りが充満していた。ショーウインドーにも美味しそうなパンが所狭しと並べられている。ショーケースに商品はなく、クロスが被せてある。

 どうやら、ブルーベルはパン店のようである。

 

「あの、私も何かお手伝いします」 

 

 落ち着くまでルシアの胸で目を閉じて居たローゼは、その後、ルシアに案内されて、ブルーベルに到着した。店内のを眺め始めてまもなく、ルシアの進めでお風呂を頂く事になった。落ち着いてみると、想像よりも汗を掻いていて内心気持ち悪かったのである。 お風呂で今日の疲れをすっきり落としたローゼは夢心地で再び店頭に戻って来た。すると、すでにテーブルの上には落ち着く香りのお茶が淹れてあった。どうやらルシアがローゼの為に淹れてくれた様である。至れり尽くせりのローゼだったがさすがに、このまま甘えているわけにもいかない。

 

「もう少しで夕食が出来るからねぇ」 

 

「いえあの…お手伝い…」

 

 甘える訳にもいかない。しかし、好意を無駄にするのは返って失礼と言うものだ。鬩ぎ合いながら、考えた結果、ローゼはルシアの好意に甘える事にした。

 カップからとても心地よい香りが漂って来る。それはまるで、張り詰めた弦を緩める様な。ローゼは目を閉じて香りだけを胸一杯に吸い込む。瞳を閉じただけで世界は変わる。明確な色を失った世界になる、だが香りや音、肌触り、が朧ながら色を付けてくれる。冷たいテーブル、落ち着く香り、そして何かを炒める音。見ないからこそ見える世界がある。ローゼはその世界が実は好きだった。

 

「はい、お待たせ」

 

 次にローゼが見たのは、とても美味しそうなオムライスだった。卵が程良く柔らかくその上にはケチャップソースでハートマークが描かれてある。これはローゼの大好物、ふわとろオムライスに相違なかった。

 

「ふわとろオムライスだぁ、まさかまさか、びっくりです」

 

 瞳をキラキラと輝かせて、言うローズにルシアは、

 

「さぁ、召し上がれ」と言うのだった。

 

「ルシアさんは天才です!!」

 

 身を乗り出して絶賛するローゼ。オムライスには、ちょいとうるさいローゼの舌を文句無しに唸らせたルシア特製オムライスはまさに絶品であった。思わずお代わりをお願いしたくらいだ。ルシアは「あらあら、ありがとう」と謙遜していたが、ローゼは本気でお代わりが欲しかった。

 

「幸せですぅ」

 

 早々とオムライスを平らげたローゼにルシアはまたお茶を入れてくれた。先程のお茶は、香りを楽しみ過ぎて冷めてしまった。

 

「このお茶不思議な香りがしますね。なんだか、すっごく落ち着くと言うか癒されると言うか」

 

「これあはジャスミンティーよ。心を落ち着かせたり、安眠の効能があるの」

 

 自分の分も淹れながら、説明してくれた。

 

「どおりで。ゆったりとした気持ちになって、なんだか眠いです」

 

「あらあら」

 

 心地よい眠気に包まれながら、ローゼは今日一日をゆっくりと回想する。子どもの時の記憶に微かに残っていた町並は今も変わらず、素晴らしかったし、通りを行き交う魔女達を見ると余計にパリダの実感が湧いた。サフィニアと言う魔女とも仲良くなったし、

一緒に食べたマルガリータも美味しかった。時差ぼけと約束の時間を守れなかったのはやるせなかったが、現在はこうしてルシアとお茶を飲んでいる。ローゼ自身の始まりにしては上出来だと苦笑してみる。

 

ただし、気になる事が一つだけあった。

 

「あの、ブルーベルは歴としたカンパニーなんですよね?」

 

 カップを持ったまま、ローゼはルシアに尋ねた。

 

「ええ、他のカンパニー同様歴史のあるカンパニーよ」

 

 驚いた表情を浮かべてルシアが答える。

 

「そうですよね。今日、町の人や魔女の方に、ブルーベルの事を聞いたんですけど、み

んな、知らないの一点張りだったんですよ」 

 

 う~んと首を傾げるローゼ。

 

ルシアはカップを口へ運んだ。何かを知っているかの様に笑みがこぼれている。首を傾げるローゼはそんなルシアさんの口が開くのを密かに待ちわびていたりした。

 

「それはね。みんなが意地悪していた訳ではないの」

 

 カップをテーブルに置いてからルシアは話し始めた。

 

「ホーエンハイム駅から自分が所属するカンパニーまで自身の力だけで辿り着く。これは、魔女を志す者が一番始めにクリアしなければならない試練。この試練は全カンパニー共通で、それを知ってるから、町の人も魔女も教えてくれなかったのよ」

 

 ルシアはそう言い終わると、優しい微笑みをくれたのだった。

 

「知りませんでした…」

 

「この時季は、観光のお客さんも居ないから」 

 

 そう言われて見れば、道を尋ねた人全てがローゼをまじまじと見た後に、『知らない』と言った。ローゼはてっきりパリダに自分が歓迎されて居ないのだと思ったが、ルシアの話しを聞いた今ならば、納得できる。みんな、ローゼが新入り魔女かどうかを見ていたのだ。この時季にカンパニーの場所を聞く人間がいるとしたら、まず新入り魔女しかいない。

 ローゼが納得する頃、ルシアは夕食の後片付けを始めた。ローゼが手伝う旨を伝えたが、またも制されてしまった。どうせ甘えるなら今日はとことん甘えてしまおう。ローゼはそう思い直して、またカップを口へ運んだ。

 水が流れる音食器が擦れる音。安心する音だった。疲れが出たのかお茶の効能か、ローゼが再び心地の良い眠気に包まれてしまった。困った事に今回は我慢する事は難しそうである。

 

 少しだけなら、大丈夫だろうと、ローゼは眠気に身体を預ける事にしたのだった。

 

「そうだったんだ!」

 

 夢の中で答えがわかった。手を振ってくれた魔女が何を伝えたかったのかが。

 

 『ガンバッテ』ローゼの事を応援してくれていたのだと……

 

「あれ?」

 

 気持ちが良いなと思ったのだが、上半身を起こしてみると、そこは食事をしていた部屋ではない事がわかった。天窓から優しい月明かりが降り注いでいる。なぜかベットの上に居る。寝ぼけた頭で思い出してみる。食事の後、ルシアと少し話して、後片づけをルシアがしてくれて、自分は確かお茶を飲んでうとうとしていたはず。  

 

「はうっ」

 

 熟睡してしまった。気が付いたが遅し、きっと自分をこのベットまで運んでくれたのはルシアだろう。なんと言って謝ればいいのだろう。ローゼは枕を思いっきり抱きしめた。自分にしては上出来…前言撤回である。駄目駄目だ。思えば未だ、約束の時間に遅れた事も謝っていない。

 せっかく、あの魔女が自分に対して『ガンバッテ』と応援の言葉を贈ってくれた事に気が付けたと言うのに、今となっては、それさえも素直に喜べない。

 

「明日、ちゃんとお礼言って謝ろう」

 

 今夜は、もう明日に備えて眠ることしかできない。抵抗を感じつつも、気持ちを切り替えたローゼが、眠ろうと枕を置いたその時、見つけてしまった。笑顔が止まらない。今し方、反省したばかりなのに、駄目駄目駄目と自分に言い聞かせるも、この嬉しい気持ちは抑えきれなかった。

 一着の服がベットの片隅に置かれてあった。ルシアが着ていた服と同じ柄が窺える。

ブルーベルの制服。ローゼは袖を通してみたくてうずうずしたが、さすがにそれは我慢する所である。そこは譲れないと、ローゼは葛藤に震える手で服を持ち、水差しの置いてあるテーブルの上に制服を置いた。なかなか制服を放さない手と、どうせ明日着るのだから、今少しくらい着ても、差し障りないだろうと悪魔の囁き。 

 

「駄目よローゼ、駄目だからね」

 

 ローゼは自分に言い聞かす様にそう言うと、制服を離すと同時にベットに潜り込んで、頭から毛布をかぶったのだった。

 

ここから↓

 

「う~ん」

 

 ローゼは鳥の囀りとパンが焼ける香ばしい香りでめをさました。なんて幸せな朝なのだろうとローゼは束の間、目を閉じて部屋に充満する香ばしい匂いと囀りを楽しんだ後、この良い匂いを胸一杯に吸い込んだ。

 ブルーベルに来て初めての朝が、こんなにも素敵な朝だとは思わなかった。食欲をそそる良い香りに鳥達のアンサンブル。優しい朝日に包まれながらローゼは、プレゼントを開ける時の気持ちで一杯だった。目の前には蒼の柄が入った制服が置いてあるだから。

 

 グゥゥゥ

 

 もう少しこの幸せを噛み締めていたかったのだが、空っぽのお腹はそうもいかないらしい。それでおゆっくりと肌触りを確かめる様に着替えを済ませたローゼは、姿見の前で夢にまで見た魔女姿の自分に目を見張った。恥ずかしがってみたり、一回転してみたり、どこからどう見ても制服を身に纏っているのは、自分自身なのである。これまた笑いが止まらない。これからルシアさんに初制服姿をお披露目してから、昨日のお礼と謝罪をしなければならないのである。今日の朝くらいは引き締めて行きたい。そう思うってみても、鏡を見るたびに口元が綻んでしまう。

 

「よし」

 

 気合いを入れていざ出陣。ドアを開けるとより一層良い香りが立ち込めている。思わまた綻びそうになる口元を引き締めて、昨日夕食を食べたフロアへ行ってみる。そこにルシアの姿はなかった。ローゼは反対側に進んでみる、行った事のない廊下を歩いて行くとすぐ三段程の階段があって、それを降りると、そこは煉瓦を敷き詰めた床になっていた。階段を降りると、この部屋がやけに暑い事に気が付く。奥の壁には束になった薪

が山の様に積まれてあり、すす汚れだろう、白い壁も所々黒く汚れている。

 さらに三歩ほど進んで見ると、ルシアの姿があった。額に汗しながら、大きな石窯に薪をくべ、そして、真剣な眼差しで窯の中を見つめている。昨日の柔らかい表情からは想像も出来ないほど、真剣な表情だった。

 

「おはようございます」

 

 一瞬、声を掛けるか否か戸惑ったローゼだったが、思い切ってみた。

 

「あらぁ、ローゼちゃんおはよう。とっても良く似合ってるわよ」

 

 ルシアはローゼを見るなり、そう言って昨日の優しい笑顔を見せてくれた。そして、まるで自分自身の事の様に喜んでくれた。

 

「なんだかこそばゆいです」

 

 そう言われて仕舞うと素直に反応しないわけにはいかないローゼはもじもじしながら

まじまじと見つめるルシアにそう言った。

 

「お腹空いたでしょう、朝食にしましょ」 

 

 ルシアは大きな革手袋を取って、薪の束の上に置くと、薪が積まれているすぐ隣にあるドアを開けた。爽やかな風が優しく舞い込んで来た。ドアの先には中庭の様になっており、庭の向こう側にはもう一棟建物があった。パリダには珍しい木造の建物でログハウスに近い。

 

「わぁ」

 

 庭からは、パリダの町が一望できた。ローゼが行き止まりだと思った壁伝いにあるブルーベルならではの景色だろう。展望台ではないが、パリダの町を一望するにはもって来いの場所に四阿が造られてあり、今日の朝食はそこで食べる様だった。

 

「奮発しちゃった」

 

 まだ温かいパンが、バスケットの中に溢れんばかり入っていて、その隣には果物がやはり十分に盛ってあった。見ているだけでお腹が膨れそうだ。

 

「朝からものすごい贅沢ですねぇ」

 

 景色とテーブルの上とを交互に見ながらローゼはほんわかと言う。

 

「さぁ頂きましょ」

 

エプロンを椅子にかけてから腰掛けたルシアが興奮冷めやらぬローゼに言った。

 

「はいっ!いただきまーす!」

 

ローゼはまずホカホカのクロワッサンを頬張った。濃い小麦の味と上品なバターの味が相俟って絶妙な美味を醸し出している。ローゼはこんなに美味しいパンを食べたのは初めてだった。

 

「ルシアさん!私こんなに美味しいパン食べた事がありません」

 

 驚いて言うローゼ。

 

「うふふっ、よかったわ。縒りをかけて焼いたかいがあったわ」

 

「これルシアさんが焼いたんですか、へぇー」さらに驚いたローゼだった。

 

 空腹の合わせてその後もルシアの焼いたパンを頬張るローゼだったが、ふとしてみると、ルシアが優しい笑顔を向けたままローゼを見つめていた。

 

「ルシアさん、照れちゃいますよ」照れながら言うローゼ。

 

「ローゼちゃん、お揃いね」

 

 一層微笑みを増してルシアはそう言のだった。

 ローゼは確信した。今日の朝はとても幸せな朝だと。そして、今日一日は何がなんでも良い一日になるに違いないと。

 

 

 

~その新人の正体は~

 

 ショーケースには次々と焼きたてのパンが陳列されて行く、先程ローゼが食べたクロワッサンをはじめとして、生クリームを挟んだ菓子パンにフランスパン、ローゼとしては、最後に並べられたアップルパイを食べて見たいと思った。ショーケースの裏側、つまり窯へ続く廊下と壁を挟んだ向こう側に丁度、昨日ローゼが眠った部屋と同じ様な広さの空間があり、冷蔵庫や食器棚などキッチンとして使われているらしい。解放的な天窓や洗い物をしながらパリダの町が一望できる窓などがスペースをずっと大きく思わせた。

 ルシアに、遅刻の件と昨日の醜態を謝罪して感謝の言葉を述べると、

「遅刻?時間ピッタリだったわよ。私、こう見えて力持ちなの」とぼけるようにそう良いながらルシアは力こぶを作るポーズをして見せた。胸の支えは和らいだもの、「時間ピッタシ」にはどこか納得がいかなかった。はっきりしたい気持ちもあったが、ルシアが食器を片づけ始めたので、そうも行かなくなり、せめてもの罪滅ぼしと言う訳ではないが、食器の後かたづけを申し出たのだった。

 ローゼは洗い終わった食器を拭きながら、今日一日はパリダを探検してみようと思った。

 

 気分が晴れない。サフィニアはブルーベルへ続く坂道を登っていた。3日に1度はルシア特製のクロワッサンを買いに行っているのだが、今日はもう一つ要件があった。なんでもブルーベルに新人が入ったとの、噂を耳にしたからである。もちろん、その新人が気になるのである。聞いた話しではルシア以来の新人らしく、先輩の記憶では5年振りになるそうだ。

 

「はぁ」

 

 見慣れた風景にうんざりするサフィニア。今朝もホーエンハイム駅では魔女になるべく初めてパリダを訪れた魔女の卵達が駅舎の前で記念撮影をしているのに出くわした。地元民であるサフィニアには何がそんなに珍しいのかわからないし、記念撮影する気持ちすら理解に苦しむ、努力すればその気持ちがわからないでもなかった。そんな初々しい光景を見ながら、水面に映る自分を見て一様に老け込む自分に驚いてみたり。ここ数日やらなければならない事から逃げている。自分でもそれはわかっているのに、始められないから始末に悪い。工房にいると、止め処無い不安がこみ上げて来る、だから何かしようと思うものの何も手に付かない。こんな時に限って師道者は何も言ってくれないのである、日頃は何かとうるさいせに。

 

 そんなスパイラルに陥ってしまったサフィニアはここ数日、工房には顔を出さず、寮に引きこもって居たのだが、今朝窓の外を見た時、なんだか外に出ないのが勿体ないように思えて散歩にでも行こうと思い立った。食堂で朝食を食べている時、ブルーベルに新人が入ったと言う噂を小耳に挟み、目的地をブルーベルに決めた。

 本当はルシアなら、自分の悩みを悟ってくれるのではないかと淡い期待を抱いていたりもしたのだが。

 開店時間の迫ったブルーベルの煙突からは煙が勢い良く吹き出していた。風向きによっては、風見鶏が煙たそうである。いつもなら3人程が店先で待っているのだが、今日は姿が見当たらない。

 

「おはようございまーす」

 

 サフィニアは挨拶をついでに、未だ「close」の看板が室内から見える店内に入った。何を隠そう、サフィニアはブルーベルに開店時間前に出入りを認められているのである。烏滸がましい気もするが同じ魔女としての役得とでも言えようか。無論、いつでもブルーベルに遊びに行っても良いのだが、迷惑も考えて『開店少し前に店内に入れる』と自分ルールを作った。そう言いつつ、ほとんどの場合、パンを買う為に足を運ぶのであるから、差詰め開店時間をフライングしたお客さんでしかないのだが。

 

「あら、サフィニアちゃん、おはよう」

 

エプロン姿のルシアが丁度廊下から現れた。

 

「いつものお願いします」

 

 サフィニアはいつもクロワッサンを3個買う。常連なのだ、言わずともルシアには伝わる。

 

「はい、お待ちどうさま。そうだっ、これ新商品のシナモンパンなんだけど、食べて」

 手際よく、紙袋にクロワッサンを入れた後で、シナモンシュガーのたっぷりかかったパンをサービスしてくれた。これで少なくとも、このパンを食べ終わるまで退屈はしないで済むし、シナモンパンに至っては楽しみである。

 

「ありがとうございます、頂きます。それで…」

 

 本懐を遂げねばならない。気になるのは新入りなのである。風貌から才色兼備臭がすれば、自分にとってもライバルの出現になるし、それはそれで大ニュースなのである。

 

「なに?」

 

ルシアがエプロンをはずし、何気なく、後ろで一つ括りにしてあった艶のある長髪のブロンドを掻き上げると清潔感のある良い匂いがした。

 

「新人が入ったって本当ですか?」

 

 こう言う時は、遠回しに言わず、単刀直入に限る。

 

 「あら」驚いてみせたルシアだった。

 

 

 ローゼはその頃、完全に自分の世界に入っていた。無臭に近い石鹸の泡立つ事泡立つこと、シルクの手袋をしたかのように、白い泡だらけになった両手を並べ見た後、今度は両手で輪を作りシャボンを吹き出して遊んでいた。幼少の頃、本で見た泡風呂を小さくしたように泡で埋まったシンクを見ながら、泡風呂に入っている自分を想像してみたりもした。

 時間を忘れていたローゼだったが、丁度後ろの壁に掛けられてある、鳩時計が鳴り。我に返った。それはブルーベル開店の合図でもあったのだ。

慌てて、シンクの栓を抜いて排水をし、両手についた泡を落としながら、シンクに残った泡も綺麗に流した。なかなか流れてくれない泡は想像以上に厄介である。タオルで手を拭き、ルシアのもとへ行こうとショーケースの方へ、右向け右をすると、丁度、ルシアが手招きをしていた。なぜか嬉しそうである。

 

「今行きます」

 

 パタパタとローゼがルシアのもとへ行って見ると、顔を引きつらせた魔女が一人立っていた。制服に紅の模様が入っている。

 

「ローズっ!まさか…あんたが…」

 

 好奇心と不安の両方を抱きつつも、ルシアが選んだ弟子とは、どれほどの才能を有した人間なのだろうか、とどこか期待していた。なのに、今自分の前に立っているのは、昨日、ピザを食い逃げした奴が立って居るではないか。何かの間違いではないだろうか、いや間違いに決まっている。サフィは目の前の現実が到底受け止められずに居た。

 

「詐欺だわ」思わず声が出てしまった。

 

「あぁ、サフィちゃんだぁ。昨日はありがとう」

 

 ローゼの方は先の偶然に出会ったサフィに再び会えてとても嬉しい様子である。

 

「あら、2人とも知り合いなの?」

 

 

 1人置いて行かれた形となったルシアは驚いた表情でローゼに聞いた。

 

「はいっ、昨日サフィちゃんに声かけてもらって、お昼までごちそうになったんですよ」

 

 嬉しそうに話すローゼと落胆一色のサフィニアとはまったくの対照的だった。 

 

「また、会えるなんて嬉しいなぁ」続けてローゼが言う。

 

「そりゃどーも」

 

  サフィニアは悪態をついた。過大に期待していたのは自分なのである、ローゼに当たるのは角が違う。

 

「サフィニアちゃん。今日はお休みなの?」

 

 パンの暖かさが伝わって来る紙袋を渡しながら、ルシアがサフィニアに聞いた。

 

「えーっと。まぁ、そんな所です」

 

悪戯な笑みを浮かべながらそう言い繕うサフィニアだった。

 

「それじゃ、今日1日、ガイドをお願い出来ないかしら?」そう言いながらルシアはローゼの顔を見やった。

 

 ローゼは、花が咲いた様な笑顔でそれに返した。

 

「別に良いですけど」1人、首を傾げるサフィニア。

 

「本当なら、私が案内したいんだけどね」

 

 少し困った顔を店の外に向けるルシア。つられてローゼとサフィニアが外に視線を向けると、そこには開店を今か今かと待ちわびるお客さんの列があった。みな一様にこちらを見ていた。

 

「早く行った方が…良さそうですね」

 

 ブルーベルは今日も朝から繁盛するのだった。

 

 

「そんで、どこ行きたいわけ?北側はともかく、南側は特に何も無いわよ」

 

 看板を表に出すルシアと共に店外へ出た二人は、今朝、サフィニアが登って来た坂道を下っていた。サフィニアは手を頭の後ろに回して、いかにも暇そうに歩いていたが、ローゼは店内に吸い込まれているお客さんを見ながら、感嘆していた。

 

「ローズってば!今日はあんたの為にわざわざ、ガイドしてあげるんだからね。後、後ろ抜きに歩くと転ぶわよ」

 

「ごめんねっ。今日はよろしくねぇ、サフィちゃん!」 

 

「まったくもう」

 

「う~ん、そうだなぁ。素敵な場所に行きたい!」

 

 ウキウキを絵に描いた様にはしゃぐローゼは、お気に入りの『餅つき兎』がプリントされたポーチから写真機を持ち出して、早速撮影を初めていた。

 

「あのさ」

 

 写真を撮るローゼを見ながらサフィニアは急に立ち止まった。

 

「何ぃ?」

 

「そんなに珍しい物ある?」今朝の記念撮影と言い、サフィニアの疑問が爆発した。 

 

「パリダの町はとっても素敵だと思うよ、昨日来たばかりだけどねぇ」

 

 ローゼの笑顔に嘘があるはずがない。現にローゼは写真を撮り、サフィニアはそんな事をしようとも思わないのだから。

 観光で来る人々は皆一様に『美しい』と賞賛する。それこそ今朝、記念撮影をしていた卵達と同じ様にホーエンハイム駅前で必ずと言って良い程、記念撮影をするのである。

 この、パリダで育ったサフィニアは、まだ、『美しい』と思った事がなかった。

 

「まぁいいや。方角で決めましょ、北側か南側か」

 

 幼少の頃から、納得できる答えなど一度だって貰った事など無いし、この先もきっと貰える事など無い。気にしなければ良いのだ、そうすれば何も悩まなくて済む。サフィニアは自分自身の中で無理矢理そう納得させた。

 

「にひひぃ。とうっ!」

 

ローゼの蹴り上げた足が制服の裾をまくり上げる。そして、放たれた靴が空に向かって、ぐんぐんと上がって行き、やがて、二人が見つめる中、見事に着地した。

「おぉ」靴裏で見事に着地した靴に、二人共に驚きの声を上げる。

 

「っで。何これ」サフィニアが冷静に聞く。

 

「表なら南側、裏なら北側!表だから南側だね」ローゼはそう答えた。

 

「はいっ?」 

 

 靴を取りに、子どものようにけんけんで軽快に進んで行くローゼ。

 

「お天気占いだよぉ」

 

 靴を履きながら言うローゼ。そう言えば幼い頃、自分もしていたかもと思いながら、サフィニアは、顎に人差し指をやった。

 

「それから、サフィちゃん!私はローズじゃなくてローゼだよぉ」

 

 ケンケンパッ、とやった後に、勢いよく振り返ったローゼは無邪気に、考え込むサフィニアに向かってそう叫んだのだった。

 

 

 今日は、南側を散策する。行き先が決まった二人は坂を下って、小道に入った。パリダの町は全体がよく似た構造をしていて、すぐに行き止まりそうな狭い小道が、迷路の様に張り巡らされている。だが、その路地もしばらく行けば必ず、中央に井戸のある広場に出るのだ。さながら小道の交差点と言った所である。

 

「本当にごめんね、ローゼ」また自分の頭をペシッとやりながら、何度目かサフィニアがローゼに謝った。

 

「良いよサフィちゃん。もう気にしてないから」

 

 自分ではしっかりつもりだと思っていたのだが、まさか人の名前を間違える初歩的なミスをするなんて。

 

 穴があったら入りたい気持ちである。

 

「ねぇサフィちゃん。どうして、通りと通りの間にこんな広場があるの?」井戸をのぞき込みながらローゼが聞いた。井戸はすでに枯れていた。

「ああ、昔、真水が貴重だった頃。みんなこの井戸に溜まった、雪解け水とか雨水を協同で使ってたのよ。洗濯したり野菜洗ったり、社交の場でもあったらしいいわ。井戸端会議ってやつ」

 

 井戸の縁を手で叩きながらサフィニアがローゼに説明する。

 

「へぇ」

 

「水道が整備された今じゃ、まったく使われて無いけどね」

 

枯れた井戸の中を見ていたローゼは、サフィニアの説明を聞いてから、そっと目を閉じて天を仰ぎ、そして、微笑みを浮かべた。無論、サフィニアには何をしているのか不思議だったが、とりあえず、ローゼに習って空を見上げてみた。四方に囲まれた建物に

切り取られた空の一部には雲一つなかった。

 

「どうしたってのよ」

 

 空を見飽きたサフィニアが我慢できずに一人だけ楽しそうなローゼに声を掛けた。

 

「ここ気持ちいいね」

 

 そう言ってから、ローゼは広場を写真に納めるのだった。

 

その広場を抜けると、そこからは『花屋小道』になっており、季節に咲く花が所狭しと並べられてあった。もちろん、ローゼは通りを千鳥足で歩くかのように全ての店を見て回っては、シャッターを切るのだった。そんなローゼを引っ張って行くのはかなりの重労働であった。やっとの思いで、通りを抜けると、そこはホーエンハイム駅だった。

 

「あぁっ!ホーエンハイム駅。ブルーベルから意外と近いんだね。螺旋階段からじゃないと行けないと思ってた」

 

 昨日と同じく、ホーエンハイム駅の回りには魔女の姿が多かった。そして、ローゼと同じく、地図を片手に考え込んでいる少女の姿も…まるで昨日の自分を見ているようだった。

「休憩しましょ、どうせ急ぐ理由でもないんだし」

 

そう言うと、サフィニアは駅舎前の階段に腰を降ろした。

 

「そうだね」それに続いてローゼも腰を降ろした。

 

「ほい」 

 

 サフィニアはローゼが座るや、紙袋からシナモンパンを取り出して、ローゼに手渡した。驚いた事にシナモンパンは初めから2個入っており、サフィニアはルシアが初めから自分にガイドを頼むつもりでいたのだと、そう思った。頼りにされるのは嬉しかった、認められていると言うか、余り人から頼られた事がないサフィニアにとっては、それだけで嬉しかったのである。

 

「美味しいねぇ」シナモンパンを頬張って言うローゼ。

 

「当然でしょ?誰が焼いたと思ってんのよ、天下のルシアさんが焼いたんだからねっ、美味しいに決まってるの」そう考えると、少し元気になったサフィニアだった。

 

「クロワッサンも食べる?」

 

元気が出るとお腹が空く。昼食前と言う事も手伝って、今なら3個くらいならわけなく食べられそうだ。

 

「ワンッ」

 

「わん?っ!、何よその犬!!」

 

 ローゼを見ると、犬がローゼに飛びかかって居る所だった。ローゼは平気らしく、軽くあしらって、頭を撫でていたが。

 

「向こうから走って来て、びっくり」犬はローゼ似の、人なっこさである。

 

「首輪も着いてるし、おまけにリードまで…散歩の途中で逃げて来たのかしらね」

 

「飼い主さん、探してるだろうなぁ」

 

 リードを持って、再びどこかに走り去ろうとする犬を引っ張りながらローゼが言った。

 

「すいませーん!!」

 

 噂をすれば、飼い主と思しき魔女が全速力で走って来る。勿論その声を聞くや否や犬は大はしゃぎで暴れ始めたのだが、

 

「駄目って言ったでしょ!パパチ!!」全力で怒られてしまった。

 

「ありがとうございます。お散歩の途中で逃げてしまって」

 

 呼吸を整えながらそう言う魔女は年格好から言えばローゼよりも年下であろう、新雪を思わせる、シルバーブロンドと純白の制服が何とも言えない調和を見せている。

 

「良かったね。ワンコちゃん」犬の頭を撫でるローゼ。

 

「私は、リリーって言います。この子はパステルです」

 

「私はローゼ。それからサフィニアちゃん。よろしくね」

 

 ローゼはそう言うと、サフィニアの時と同様、リリーに握手を求めた。リリーは戸惑ったものの、わざわざ手袋を外して握手に応じたのだった。そしてなぜか、ホーエンハイム駅をバックにローゼとサフィニアを撮ってくれた。

 

「ありがと~、リリーちゃん」

 

「こちらこそ、ありがとうございましたぁ」

 

リリーは何度も振り返ってお礼を言いながら、カフェテラスの沿いの通りに消えて行った。四方八方に走り回るパステルにはさぞかし悪戦苦闘する事だろうと、ローゼは思うのだった。

 

「あれじゃ、どっちが散歩されてるんだか、わからないわね」

 

「パステルちゃん可愛いかったねぇ」

 

 パステルをみ送った後、ローゼとサフィニアは岸壁に、沿って歩いた。左にアドリア海を望む通りは一際、華やかだった。ホーエンハイム駅を中心に北側にはカフェテラスが並び、南側に色とりどりの果実から生活雑貨品まで、カラフルなアーケードが軒を連ねている。昼前のこの時間帯は店じまいの最中か、すでに閉まっているかそのどちらかなのだが、それでも、買い物客で若干賑わいを見せている。

 

「もう閉めちゃうんだね」

 

 果実にクロスの様を被せる様を見て、ローゼがそう呟いた。

 

「昼間は休んで、今度は夕方にまた開けるのよ」

 

 さも当然とローゼに言ってのけるサフィニア、地元民には常識なのだが、パリダ初心者のローゼには些細な事でも鼻高々である。

 

「そっかぁ。だから、夕方になると通りに人が多くなったんだ」ポンッと 手の平を叩いてローゼが納得する。

 

「パリダの夏は暑いからね、涼しい朝に一度開いて、暑い昼間を休んでから涼しくなる夕方にまた開く。露店なんかは特にね」

 

「でも今は春だよ?」

 

 当然の疑問である、パリダは春真っ盛りなのである。パリダでも指折りの気候が良い時季なのだ。朝夕、肌寒い事を除けば日中は薄着でも寒く無い程である。ローゼが袖を通している制服も、パリダに溢れる魔女達も未だ長袖の冬服を着ているわけだが、そろそろそれでは汗ばんでくる程だ。

 

「んー。秋でも冬でも、変わらないもんね。そっそう、これがここでのリズムなの!」

 

 たまに素人は玄人を悩ませる質問や思いつきをするが、まさか、それを自分が思いしる事になろうとは、思いもしなかった。確かに言われて見れば、夏の暑さに端を発したにしては、春、秋、冬共に同じというのは素直に頷けないな話しである。慣習だと言ってしまえばそれまでなのだが、それではどこか、言い訳をしているようで悔しい。地元民としてのプライドが疼き始めたサフィニアであった。

 

「そうよ、冬は雪が結構降るし、結構積もるし…」秋と春は言い訳のしようがない…

 

「えぇ!雪が降るんだぁ、積もるんだぁ、待ち遠しいなぁ」

 

 すでにローゼには露店の開店時間など、もうどうでも良い様子だった。サフィニアが口にした『雪』と言う言葉で頭の中が一杯のようだ。

 

「雪、見たこと無いの?」

 

「うん、ルナは効率化がすごく進んでてね、雪はホログラムでしか見たことないの。空も海も風も太陽も全部。全部ホログラムだから、触れないし感じられない。ルナはフォボスと違って居住区が狭くて全部地下にあるから効率化も仕方無いんだけど」

 

「へー、そうなんだ」 

 

「だから今、アクアで見るもの触るもの全てが素敵に輝いて見えるんだぁ!」

 

 ローゼはそう言うと両手を拡げ、大きく一回転して見せた。

 

「ふーん」

 

 そんな、ローゼを見て、サフィニアは何となくローゼが、はしゃいでいる理由が見えた気がした。サフィニアにとっては見慣れた日常の風景でもローゼにはそれが輝いて見える。ローゼから言わせれば、自分は贅沢なのかもしれない。だが、今はローゼが羨ましく思える。サフィニアは最近毎日が憂鬱でしかたなかった。毎日が同じ事の繰り返しに思えて仕方ないのだ、工房には次のステップを待っているバイオリンが作業台に放置されたままになっている。これを手に取ればきっと毎日に変化が訪れる。絶対に同じ毎日などと思ったりしないはずなのに、

 

「よぉし!はりきって行くわよローゼ!」今は出来ない。そんな勇気はない。今はローゼのガイドなのだ、地元民としてしっかりパリダの魅力を伝えなければ。サフィニアはやるせない気持ちを、パリダガイドに燃やす事に決めた。

 

 

 

 

 ベノアマエストロはパリダで2番目に小規模なカンパニーである。英才主義をモットーとする異色カンパニーであり、故に所属審査が厳しいのは有名な話しである。所属が決まった新人は原則として1年間は基礎学術を付属する学校で学ばなければならない。

 南側はサフィニアが先に言った通り、特に目立ったものは無かった、ホーエンハイム駅からあまり変化しない風景。民家が堤防の様に隙間無く岸壁沿いに並び、無数に立てられたパリーナ(杭)につながれたボートやゴンドラが水面で動揺している。心が和むそんなゆったりとしたのどかな時間をローゼは十分に楽しんでいた。張り切り出したサフィニアの話しももちろん、聞き逃す訳はない。このパリダは水上都市であること、大昔は家の壁の色で所属カンパニーを表していた事、今ではそれは名残でしかない事。サフィニアの話しを聞けば聞く程、パリダが歴史と伝統のある町であることを感じるローゼだった。 

 

「っでここが、ベノアマエストロよ」

 

 人通りの減った通りに賑わいが戻った。丁度、白壁の建物が消え赤煉瓦の壁が続く様になってからである。見ればそれは全員制服を着た魔女だった。黄色のルーンを持つ制服は初めて見る。

 堂々そしたブロンズの門に、ケロベロスとユニコンの石像がそれぞれの支柱の上に向かい合っている。見るからに格式の高さを窺わせている、敷地内を除いて見ると、建物のほとんどは外壁同様、赤煉瓦の画一的な建物が複数見受けられた。その中で中央に聳える一際大きな建物だけが、バロック様式を感じさせる自由な装飾とパールホワイトの外壁が存在感を一層増していた。

「大っきいね」思わず息を飲むローゼ。考えてみればまだブルーベル以外のカンパニーを見たことがなかったわけだが、これだけ規模だとは思っても見なかった。

 

「実は、私もこんなにじっくり見たのは初めてなのよね。なんかこう1人じゃ、目立って仕方ないし」

 

 もはや、サフィニア自身も好奇心のままに覗き続けている。敷居の高さはパリダでも有名なのだ。

 

「(あの子…)」一方のローゼは覗きに夢中のサフィニアとは相対して、ベノアマエストロ専用の港だろうか、『ベノアマエストロ』と名打たれたアーチを潜った先にある、小さな港を見ていた。この港にもこれまでの岸壁同様に大型船は停泊しておらず、全てボートかゴンドラがパリーナに繋がれてあるのだが、その中の一番手前に停泊してあるゴンドラに一人だけ、黄色いルーンの入った制服を着た魔女が佇んでいた。後ろ姿から何をしているのかは窺い知る事はできなかった。周りを見渡せば、和気藹々とお喋りに花を咲かせる一団や、海に向かってバイオリンの練習をする者。雰囲気としてはとても楽しそうな雰囲気で充満していると言うのに、ただ1人だけその魔女はまるでその空気を避けている様にも見えた。

 

 

 

  ~その水晶が映し出す言葉は~

 

 

 

「さすがはベノアマエストロよね。見せつけてくれるわね」

 

溜息をつくサフィニア。

 

「関係者以外侵入禁止かなぁ?」

 

 サフィニアの元へ戻った、ローゼは門の中央に立ってそう呟いた。

 

「当たり前でしょ。同業者をおいそれと入れるカンパニーが、どこにありますか」

 

 門の端へローゼを引っ張り戻しながらサフィニアが耳元で怒鳴った。

 

「でも、サフィちゃん、うちに遊びに来てたじゃない?」

 

 痛い所を突くローゼ。そう言えばブルーベルには多数の魔女が遊びに来る。それをル

シアは拒む様子も無く、寧ろ歓迎している。

 

「あんたの所は特別なのよ」

 

「えぇー」

 

 

 

 

 セレンは先輩から頂いた銀の懐中時計を見る。そろそろ次の授業が始まる時刻である。

今日も同じゴンドラの同じ場所に座って、休み時間を過ごしたセレンは徐に立ち上がると慣れた足運びで木製の桟橋に降り立った。見慣れた門には見慣れない風景があった、赤いルーン入りを着た魔女と蒼いルーン入りを着た魔女が2人して、何やら話しをしている。

「蒼いルーン…」

 

 セレンはゆっくりと、その2人に近づいた。見間違いかもしれない。こんな間近で見間違う事はない。確認を促したのはセレンが興奮している証しだった。

 2人はどうやら、ベノアマエストロの敷地内に入るか否かを話しているようだった。

 

「入場料を払えば誰でも入れますよ」

 

「うなっ!」

 

「はうっ!」

 

 二人は飛び上がって驚いた。とりわけ、サフィニアは駆け出そうとする始末であった。

 

「逃げなくても、大丈夫です。まだ敷地外ですから」

 

「えっと、私はローゼ・ユナ。っで、こっちがサフィニアちゃん」 

 

 とりあえず、自己紹介をしてみたローゼだった。無表情に近い少女は、まるでサフィ

ニアには興味がないと言った様子で、ローゼのみに視線を送り続けていた。

 

「申し遅れました。セレン・フランソワーズと申します」

 

 セレンは深々とローゼに頭を下げた。

 

「これはご丁寧に」慌ててて、ローゼも会釈返す。

 

「年寄り臭い事やってるわね」

 

 蚊帳の外に置いて行かれたサフィニアが、ささやかな嫌みを呟いた。

 

「あの、その制服。ブルーベルの所属なんですよね?」 

 

 会釈の後、セレンが切り出した。実を言うとセレンは、これを確かめたかったのである。故に、サフィニアは眼中になかったのである。

 

「そうだよ。でも、昨日着いたばかりだから、セレンちゃんの方が先輩魔女だね」

 

ローゼはそう言って笑ってみせた。

 

ブルーベルはセレンの中では、このベノアマエストロを凌駕する、魅力を放つカンパニーなのだ。そのカンパニーに所属が決まった魔女が自分を後輩だと行った。器の大きさでは合格だ。魔女は無駄にプライドが高い人が多い、それは見習い、マーリン問わず

自分の知識や技術力の優劣から始まり、年齢にまで至。たまに、天賦の才能を賦与された者が先輩を上回ってしまう事がある。そんな時、それはそれは大変なのである。実力主義を掲げるベノアマエストロは特に、優れた才知を持つ者がさらに選りすぐられて、所属を許される。故に、プライドの高さも人一倍なのである。

 

「専攻は技術ですか?それとも知識ですか?」

 

 羨望に似た眼差しがローゼに注がれる中、それを一人見つめるサフィニアは、疎外感

を感じずには居られなかった。気配を消して突然現れたかと思ったら、ローゼへの質問攻め。まるで憧れる魔女にでも出会っかのように。しかし、それはあり得ない、何せローゼはまだ、正式な魔女と認められていないからである。

 

 強いて言えば、ローゼの所属するカンパニーに、憧れているのかもしれない。

 

「まだ、決めて無いんだ。何がしたくて、自分でもわからなくて」

 

 少し間をおき言葉を選んでローゼはセレンにそう言った。セレンが目を見開いて、声が出ない程驚いたのは言うまでも無かった。驚いたのはサフィニアも同じだった、度合いはあきらかにセレンの方が大きかったが、まさか、専攻が決まっていないとは思わなかった。

 

「……目標も決めて無いのに、なんで魔女なんかに…それもブルーベルに…」

 

 ローゼの言葉の後、セレンは急に俯いて声を絞り出す様に呟いた。

 

「セレンちゃん?」自分の発言がどれほど、衝撃的なものだったかを知らないローゼは

なんら変わらないトーンでセレンに声を掛けた。

 

「私、次の授業がありますから、失礼します」

 

 明らかに軽蔑の眼差しだった。サフィニアはセレンの放つ視線に、殺気めいたものを感じ思わず息を飲んだ。その視線を、向けられたローゼは何も感じていなかった様子だったが。

 

「感じ悪いわね」

 

 励ましの意味も込めて、サフィニアはセレンの後ろ姿を見つめるローゼに言葉を掛けた。

 

「違うよ。とっても良い子だと思う」ローゼはそう言って微笑むのだった。

 

 

 興ざめとはまさにこの事を言うのだと、サフィニアは思った。正午を知らせる大砲が鳴り、2人は長靴猫へ昼食の向かった。ローゼはそうでもなかったが、サフィニアには重苦しい空気が見える様で、長靴猫に到着するまで変な空気が2人の間に、流れている様に思えて会話もどことなくぎこちなかった。目前に特製マルガリータが運ばれて来てから、サフィニア自身がそんな雰囲気を勝手に感じていた事に気が付いたが、これはローゼには言わなかった。

 

「昨日は本当にありがとう、美味しかったぁ」

 

まだチーズが踊るマルガリータをのぞき込んでローゼが言う。子どもみたいに素直に

なんでも表現するローゼを少し羨ましく思うサフィニアっだった。

 

「ここのマルガリータは特別美味しいからねぇ」事実である。

 

 ピザを頬張るローゼを見つめながら、サフィニアは少し憂鬱になった。自分はすでに目標がある、だから少々の事があってもなんとかがんばれる。でも、ローゼにはそれがない。魔女にとって目標が無い事は、暗闇を歩き回るに等しいのである。何をして良いのか、わからなかった時季を経験したサフィニアには、それが痛いほど理解できる。

 

「ねぇ、サフィちゃん。お店の壁にあるけど、この文字みたいなのって、どういう意味があるの?」

 

 感傷に浸っていたサフィニアは、天井を見上げてそう聞く、ローゼの声に我に返った。

 

「ああ、これはルーンよ。あんたの制服にも刻まれてるでしょーが」

 

「うそぉ」ローゼは慌てて立ち上がると、制服に刻まれた蒼いルーンをまじまじと見つめて「おぉ」と驚いた。 

 

 パリダの町にはルーンをよく目にする、各カンパニーの制服を始めとして、お店の内装、民家の壁に至まで、目立たないが、町の至る所にルーンが刻まれている。ルーンは文字自体に魔力が宿っていると考えられた古代魔術の一種で、現在ではその意味を理解する者すら極々少数となってしまったが、現在でも『魔除け』や『商売繁盛』の意味合いを込めて、ルーンを刻む習慣が残っているのである。

 

「昔の魔女はこのルーンを使いこなして魔術を使っていたそうよ」

 

「ルーンって凄いんだねぇ」

 

「まぁ、文字自体に魔力があるんだもん。手っ取り早いっちゃ手っ取り早いわよね」

 

サフィニアもローゼに負けじとピザを頬張った。

 

 しばらくの間、そんなたわいもない会話が続いたが、やがてマルガリータが無くなると、サフィニアは思い切って胸の内を明かしてみた。

 

「本当に、目標ないの?」

 

「本当はあったんだけどね、アクアに来てわからなくなっちゃった…」グラスの氷をス

トローで突きながらローゼが答えた。 

 

「そう…」

 

 ローゼはサフィニアから見て規格外だ。ルナとアクアではそんなに違うのだろうか。

アクアから出た事のないサフィニアには理解に困る所である。

 

「ルナに居る時はあったんだ」言葉を選んで続けてサフィニアが言う。

 

「うん」

 

「何、それ」

 

目線を外してそれと無く聞いてみるサフィニア。

 

「ヒ・ミ・ツ!」

 

 ローゼの辞書には憂鬱と言う言葉が、無いのだろうとサフィニアは思った。一瞬でも憂鬱な表情を見せなかったローゼは、逆に笑ってみせた。真剣にローゼの事を心配し始めていたサフィニアが呆れる程に。

 

「けちんぼっ」

 

 がっかりした反面、なぜか安心したサフィニアだった。

 

「どうかしたのサフィちゃん?」

 

 挙動不審のサフィニアにローゼが聞いた。

 

 サフィニアの挙動不審は今に始まった事ではなかった、思い起こせば一日中辺りに気を配っているようだ。まるで誰か怯えているかのように。それがはっきりしたのは、長靴猫に入る時だった、まずは店内にレッドクラブの魔女が居ないかローゼに確認させた後に、入店し、席も一番端の表から見えにくい位置に座った。現在もそうである、長靴猫の周辺をブラブラしているのだが、サフィニアは大きな通りに出る前に必ず、通りの左右を確認していたし、出来るだけ通りは避けて路地ばかりを選んで歩いている。

 

「シャラァープ。今日は危険が危ないのよ」

 

 路地に入って、大手を振って歩くサフィニアは、ローゼの問を煙たがって答えた。

 

「わけわかんないよ、サフィちゃん」

 

「気にしなくて良いのよぉ」

 

 そう言われると気になるのがローゼである。

 

「けちんぼぉ」食い下がるローゼであった。

 

 しかし、それ以上ローゼはサフィニアに食い下がる事はなかった。路地を抜けた先に目を見張る建物が聳えていたからだった。

 一際人通りの多い、通りに聳えるそれはホーエンハイム駅にあった、石造りの支柱を入り口前に並べ、壁と言う壁に壁画や彫刻が施してある。教会と言うよりは神殿のイメージをローゼは覚えた。

 

「サフィちゃん、これ神殿?」

 

「これは教館。見習いからマーリンまで、魔女が一般のお客さんに自分の技量を披露する場所よ…うなっ、不覚だわ」

 

 そう説明しながら、サフィニアは顔を青くさせながら、ゆっくりと後ずさった。サフィニアの視線の先には、教館から出てくるお客に、会釈をしている一人の魔女が居た。

サフィニアと同じレットクラブの制服を着たその魔女は、艶めく黒髪と引き締まった眼孔が印象的だった。

 

「あの人…そうだ、昨日、カフェテラスに居た人だ」

 

 ローゼは思い出した。ローゼがブルーベルの所在を聞いた魔女である。確か純白の制服を着た魔女と一緒に居た。

 

「そう言うことね。通りでダリアさんが、ブルーベルの新人の事を知ってた訳だ」

 

数歩後ずさった後に、サフィニアが言った。血色は相変わらずである。

 

「へぇ、ダリアさんって言うんだぁ。綺麗な人だなぁ」

 

 今一度、顔を出そうとするローゼの手をサフィニアが引っ張った。

 

「見つかったら、しばかれるわよ」

 

 切羽詰まった表情でサフィニアはそう言うと、ローゼの手を握ったまま、駆けだした。どこかに行く宛があると言うよりは、一刻も早くこの場から遠ざかりたいらしい。

 逃げるように通りを何本も突っ切り、路地を走り回った二人は、とある広場で息を整えた。パリダでは珍しくない、通りと通りの交差点に当たる広場の中央には相変わらず、井戸があった。変わっていると言えば、その井戸はまだ水を湛えている。さほど深く無いはずの井戸中を覗くと、水は底まで蒼く澄んでおり、まるで空気が充満している様に見えた。

 

「生水呑むと、お腹壊すわよー」

 

 溢れんばかりの井戸水を、両手で掬うローゼにサフィニアが言った。ローゼと違い今だ、胸の動悸が収まらないサフィニアはとりあえず、広場を見回して気を落ち着けようと必死だった。そして見つけた緑壁の家を……

 よく見ると塗料で塗られたのではなく、蔦植物が壁全体を覆っていたのだった。白壁を基調とした四方の家々から浮き出た様子である。

 

「すごく綺麗な水だねぇ、空気みたい」

 

 浄水した水でもここまで透き通らない。ルナの技術でも不可能な透明度がどうしてアクアで可能なのだろかと、ローゼは首を捻った。

 

「それはね。雨水や雪解け水が何十年も、森と土に濾過されたからなのよ」

 

そんな声が聞こえたのは、ローゼが掬った井戸水を太陽の降り注ぐ宙に振りまいた直後だった。

 通りから現れたのは、小柄な初老の女性だった。髪をアップして首もとには琥珀だろう、鼈甲色のネックレスが見える。タータン柄の小さな日傘を差していて、片手には紙袋を抱えている。どうやら買い物いから帰って来たようだ。

 

「こんにちは、私ローゼ・ユナと言います」

 

 ローゼはまるで、知り合いのようにその女性に自己紹介を済ませた。

 

「サフィニアです」女性の視線に促されてサフィニアも軽く会釈する。

 

「ローゼちゃんにサフィニアちゃんね。そこの桶に水を汲んで来てくれくれないかしら」

 

「わかりました!」

 

 よくわからないままに、サフィニアはローゼから桶を渡され井戸の水を汲む。女性は

丁度、ローゼ達の背中側にある家の住人らしい。そうなのである、あの緑壁の住人。パリダの街は一見すると、緑が少ない様に思えるが、決して植物が少ないわけではない。

家の造りからして、庭を持つ家が少ないからなのである。故に、植物の彩りを持つ事はその家のステータスの一部とされている。庭持ちの家では、ガーデニングが奥さんの心得となっていたりする。

 

 だからと言って、一見妖しいこの家は、果たしてステータスと言えるのだろうか。

 

「こっちへお願い」

 

 水がたっぷり入った桶を、蹌踉めきながら運ぶ2人を招くように、女性は手を拱いた。

 

「ふぃ」

 

「腰にくるわね」」

 

 水桶に水を入れ終わった2人はリビングへ通された。リビングには鹿の角や鍵の束、何かの剥製と、物珍しい品々が多数飾られてあり、その他は大体を書籍が覆っている。暖炉がようやく口を開けて居る様子で、お世辞にも広いとは言えなかった。しかし、カビや埃臭さはなく、お香だろうか、微かに香る柑橘系の香り生活感を一層引き立てている。二人はテーブルを挟んだ対面式のソファに腰を降ろして、部屋の中を見回していた。天窓から注がれる太陽光のおかげで、外壁の蔦からは想像できないくらい室内は明るかった。二人がもっとも、気になったのがテーブルの上に置かれた水晶玉であった。占いで使われるそれであろうと、大方の想像は出来たが、果たしてこの水晶玉に本当に何か写るのだろうか。ローゼとサフィニアは、目を細くして物言わぬ水晶玉をのぞき込むのだった。

 

「あらあら、2人とも女の子ねぇ。占いに興味があるの?」

 

 お礼とばかりに、女性は2人の前にカップを置くと、甘酸っぱい香りが食欲をそそる

アップルティを注いでくれた。

 

「ありがとうございます」

 

 2人は香りをまずは楽しむ事にする。

 

「そう言えば、私ったら駄目ねぇ。私の名前はグラナダと言うの、よろしくね」

 

2人が困っているのを見て、グラナダは自分の頭を小突いてからそう言い。強引にローゼとサフィニア両方と握手をした。無論、ローゼは待ってましたばかりに差し伸べられた手を握ったが、サフィニアは複雑な気持ちであった。仕方なく握手をしたものの、手袋をしたままであった為、帰って失礼にあたってしまったと後悔もした。

 

「それじゃ、久しぶりに占っちゃいましょうかね」

 

 ローゼは勿論、自分を占ってもらうつもりでいる。隣に居るサフィニアにはすでにわかる。確かに、サフィニアも占いは嫌いではない。勿論、気になる、でも所詮は占い。当たるも八卦当たらぬの八卦、そんな曖昧な事に一喜一憂するのはバカバカしい。

まして、今のサフィニアにはどんな言葉も後ろ向きにしか捉える事しか出来ないだろう。

悲観して静観して、本当はどうしたいのかすらわからなくなって来た。先程も姿を見ただけ逃げてしまった。まだ何も言われてない、いつもの激も助言も怒鳴り声だって聞いてない。自分が避けるように逃げている性もある。でも、昨日偶然に鉢合わせしたときも押し黙ったままだった。それが一層不安をかき立てる、師が弟子を見捨てる事は珍しい事ではない。それだけ魔女の世界は厳しいのだ。

 ローゼは『大切な物が返って来る。そして、大切なものが見つかる』と占いの結果を告げられていた。

 

「本当に占いが必要なのは、サフィニアちゃんね」

 

悄然としたサフィニアにグラナダはそう言うと、サフィニアの意志を無視して占いを初めてしまった。グラナダは水晶玉を優しく両手で包み込むようにすると、心なしか青い顔をしているサフィニアに優しく微笑みかけた。

 

「はい」

 

 サフィニアも結局占ってもらう事にした。結果がどうでようと、これ以上悪い方向に行くことは無いだろうし、所詮は占いなのだ。そう頭では思っていても、止められない乙女心と言う名の好奇心がサフィニアを水晶玉に釘付けにした。

 

「サフィニアちゃん。光を避けてわざと暗闇を通っているわね。でも、大丈夫よ。全てサフィニアちゃんが思っている逆方向なのだから。今は座ってゆっくり休むと良いわ、それで、少し元気になったら思い切って一歩踏み出してみて、きっともう光が恐くなくなるから」

 

 やや、遠回しな言い加減だったが、サフィニアにはグラナダが言わんとしている事が

理解できた。きっと、はっきり言わなかったのはローゼが居たからだろう。その心配りも含めて、グラナドの占いは核心を突いていた。

「わかりました。ありがとうございます」想像以上の結果にサフィニアは胸を撫で下ろした。もし、占いまでも後ろ向きな結果を告げられた救い様がない。

 

 ボォ~ン ボォ~ン

 

 各々占いが終わり、ホッとするサフィニアとグラナドに今日1日の出来事を話すローゼ。対照的だったが、グラナダが淹れてくれたアップルティを呑みながら2人はとても落ち着いた安らかな時間を過ごしていた。もう何度目だろうか柱時計がお腹に響く低温を奏でながら、夕刻近くを知らせる。

 

「そろそろ、おいとまします」

 

「今日は本当に、ありがとうございました」

 

 珍しく、サフィニアから深々と会釈をした。ローゼもそれに続くと、グラナダは「もうそんな時間なのねぇ」と時間を忘れてお喋りに花を咲かせた時を惜しんでくれた。

 別れ際、もう一度グラナダにお礼を述べた二人は、ホーエンハイム駅を目指して歩き始めた。

「ねぇ、1人で帰れない?」ポケットから最後のクロワッサンを取り出して一口食べたサフィニアがローゼに言った。

 

「大丈夫だと思うけど、どうかしたの?」

 

「悪いけど、私、今とっても張り切っちゃってるのよ」紙袋を圧縮するように丸めて再び、ポケットの中に入れた。

 

「じゃあ、今日はここで、またねだね。今日はありがと」

 

「いいって事よぉ」

 

 そう言うとサフィニアは後ろ手に手を振りながら、駅とは逆方向に歩いて行ってしまった。

 

 

 ローゼがブルーベルへ続く坂道を登っている頃は、まだ夕日が高い位置にあった。この分で行けば夕食の支度を手伝いに十分間に合う。ローゼは嬉しかった、どことなくサフィニアの様子が気にかかっていたのだが、別れ際の彼女には以前の覇気が戻っていた様に感じられたから。摩訶不思議な事に、サフィニアとは昨日出会ったばかりだと言うのに、もうずっと前から友人で居た様な、そんな懐かしさを感じるのだ。

 

「あら、ローゼちゃんお帰り」

 

 坂を登り切った所、つまり螺旋階段の出口の横にルシアが佇んでいた。夕涼みでもし

ていたかのように、長髪のブロンドがアドリア海から吹き上げる風にそよいでいる。

「なんだか昨日みたいですね」昨日自分を迎えてくれた、あの場面を思い出しながらローゼが言った。

 

「そうよねぇ、昨日もここでローゼちゃんと出会ったものね。それで、今日はどうだった?」

 

 首を傾げて聞くルシアに、ローゼはまるで仲の良い姉に話す様に、ベノアマエストロへ行った事、教館に行った事、そしてグラナダに占ってもらった事、今日1日の顛末を話して聞かせた。

 

「そうだったのねぇ」楽しそうに話すローゼの話しをルシアはまるで妹の話を聞く様に親身に聞いてくれた。

そんななか、ローゼは思い出してしまった。ベノアマエストロでセレンに言われた事を。『目標も決めて無いのに、なんで魔女なんかに』ローゼはまだ、魔女の世界でもわからない事がある。もしも、目標をも持たずに魔女になる事が、パリダでのいや、魔女の常識なら…常識であるなら………

 

「ローゼちゃん、こっちよ」

 

 一瞬沈んだ表情を作ったローゼを見て、ルシアはローゼの手を引いて歩き始めた。ブルーベルを通り過ぎてもどんどんとなだらかな坂道を登って行く。石畳は所々カーブを描きながら、丘の上へと続いて行く。

 ルシアは一言も声を出さなかった、それでも、表情は優しいまま。ローゼもそれに習って言葉を発しなかった。ルシアの手は想像よりも大きくそして温かかった。ルシアの手は想像以上に荒れて乾燥していた。見かけではこんなに、荒れているとは思いもしなかった。

 

「足下気を付けてね」

 

 息が少し荒くなって来た所で、ルシアは歩みを止めた。そこは何の変哲もない道ばただったが、ほんの少し身を乗り出して見ると、赤煉瓦で作られた道の様な物があった。町中の通りくらいの広さはありそうだ。ルシアは迷わずそこに降りて行く、ローゼも慌てて降りてみたが、高さで言うと石畳とはローゼの腰くらいの段差しかない。ルシアはさらに進んで行く、進むと言っても大股で少し行った所で先が無くなっており、それ以上進めなかった。

「わっ」端まで行くと吹き上げる風にローゼは思わず、声を出してしまった。

 崩れた様な不規則な断面で道は終わっていた。所々雑草が生えていたりしたが、この建設物自体はまだそれほど傷んでいない様だ。この断面は人為的に壊されたのだろう。

 

「これはね、水道が整備される前、まだ井戸水を使っている時に、活躍していた水路橋なのよ。水道が整備されてからは使われなくなって、今では水路橋の大部分が建築用煉瓦として利用されているわ」憂う様にそう言いながら、ルシアは明かりが灯り始めたパリダの町を見つめていた。

 

 

 

「ルシアさん。私、魔女になって良いんでしょうか」

 

「ローゼちゃん。パリダが嫌い?」自分の隣に座るように促しながら、逆にルシアがローゼに問い掛けた。

 

「大好きです。海も雲も空も太陽も、町並みも全部大好きです!」

 

 本当にローゼはパリダが大好きだった。幼い時に感じた、パリダでの感動。あれから記憶が美化されるには十分過ぎる時間が経過した。

 成長してパリダに再び降り立ったローゼは幼少の頃訪れたパリダとなんら変わらない、そんな雰囲気を感じて感動した。自分はこの町に来るべくして来たのだと思った程だ。

 

「それなら大丈夫よ。ルナとアクアでは色々違うもの、まずはパリダ民になることが大切だと思うわ。この町はね、町ごと魔法がかかっているのよ、だから、ローゼちゃんがこれからこの町で多くに出会ってほしいわ、摩訶不思議な事も含めてね」

 

 ローゼを諭すようにそう言ったルシアは、ポケットからペンダントを取り出した。

 

「あぁっ、それって昨日の金貨ですよね」

 

 それは紛れもなく昨日、ホーエンハイム駅で猫がローゼの足下に落として行った。金貨だった。

 

「この金貨は、ダンネンベルグ金貨と言って、古の昔にアクアで実際に使われて通貨だったそうよ。今では、こうして、金貨に水牛の革紐を通して、身につけておくと、ケット・シーの祝福が得られると言われているの」

 

 ルシアはローゼの首に金貨のペンダントを着けてくれた。

 

「えへへぇ、似合いますか?」

 

「とっても良く似合ってるわよ」

 

 ローゼはとても晴れ晴れとした気持ちになった。自分の師であるルシアに『らしくない』と言われた気分だった。それ以上に、ルシアが自分の些細な悩みを何も言わずに理解してくれた事が一番嬉しかった。

 

「そうだ。ローゼちゃんに、宿題を出します」

 

「えぇっ、とっても不安です」いきなりの提案に、ローゼは両頬を押さえて身構えた。

 

「今回の宿題はローゼちゃん自身の心が安らぐ場所を見つけること!よ」

 

 悪戯っぽく微笑みながら、今回の宿題を発表したルシアだったが、ローゼの反応は意外な程、冷静だった。あっけらかんとルシアを見つめている。発表したルシアが思わず首を傾げる程である。

 

「どうしましょルシアさん。もう見つけちゃいました」

 

 ローゼは驚いた表情で足下を指さした。

 

「まぁ」これにはルシアも驚くしかなかった。

 

 夕日が水平線の彼方へ沈み、橋も一日が終わり、静かな夜の始まりである。麓の家々にはすでに暖かな明かりが灯り、まるで、蝋燭に火を灯した様にきらびやかである。ブルーベルでは、久しぶりに明るい笑い声が木霊してした。それがルシアとローゼのものであることは言うまでもない。

 この夜2人は、夜更けまでお喋りに花を咲かせた。ケット・シーが猫の王様でパリダのどこかに住処があることや、ルシアの見習い時代の話しなど、話題はいつまでも尽きる事はなかった。

 

ここから↓

 

【その悩める手の中には】

 

 

 次の日、ブルーベルは臨時休業だった。ルシアがアドリア海を渡った先にある、ネオフィレンツェで開かれる、創作パンコンクールの審査員として出向かなければならなかったからである。昨夜夜更かしをし過ぎたせいで、ローゼは寝惚け眼でルシアの支度を手伝った。会場には正午までには到着すれば良いとの事だったが、ルシアはネオフィレンツェ行きの定期船の始発に間に合うよう、ブルーベルを出発した。帰りは夜になるとの事だった。 

 

「うぅ~」

 

  朝露が草木の緑を一層濃くしている。ローゼは澄んだ冷たい風が吹き抜ける、中庭で思いっきり。背伸びをした。新しい一日を迎えたパリダの町は今日もやっぱり摩訶不思議な魅力を放っていた。

 着替えを済ませたローゼは、昨日ルシアが焼いた残りのシナモンパンを食べて、早めの朝食を済ませた。

 洗い物を済ませたローゼは、朝食用に淹れておいたダージリンティを飲みながら、広く感じる室内でのほほんと時間を済ませた。こんなにゆっくりと過ごしても、まだまだ朝を迎えたばかりなのである。

 

「今日は何をしようかなぁ」

 

とりあえず、中庭に出たローゼは、四阿で腰を落ち着けた。鳥達のアンサンブルは室内で聞くよりもやはり外で聞いた方が心地よい。ローゼは穴が開く程、パリダの町を見下ろした後、ゆっくりと瞼を降ろして、早朝の音楽会に聞き耳を立てるのだった。

 

 

「もう朝かぁ」

 

 その頃、サフィニアは埃っぽい工房で、寝惚け眼をこすっていた。手元には、ニス塗りを待つバイオリンが置かれてある。今までで最も時間をかけて、最も注意を払って工程を済ませて来た、サフィニアが今持てる技術の全てを注ぎ込んだ文字通り最高傑作である。

 しかし、楽器は全て音を出さなければその善し悪しはわからない。外見だけならサフィニアにも十分それなりの物は作る事が出来る。問題は音色。弓で弦を撫でた時に、多くの時間を掛けて完成させた、その全ての価値が決まる。それはとても繊細なもので、削りの深さニスの厚さに至まで、全てが音色に関係して来るのである。文字通り完璧でなければ感動を与える音色は出せない。結果が全てなのだ。

 だから、完成させたくない。どんなに完璧に出来たと思っても、いざ演奏してみれば

自分でも落胆してしまう程、酷い出来であった事は数知れず。最近になって、ようやく、聴ける音が出るようになったが、自分の作ったバイオリンが自分自身で認められない悔しさと、演奏をし終わった後の虚しさ。サフィニアはいつしか、楽器を作ることが恐くなっていた、どれだけ努力しても結局、残るのは虚無感だけ。だから、このバイオリンを完成させてしまった時、また、自分で自分を否定し、耐え難い虚無感に苛まれる事になってしまう。工房から逃げ出したのはそんな思いからだった。

 だが、逃げてみたものの、胸の内は一向に晴れなかった。それどころか不意に襲う不安に気が気ではなかった。到底、気分転換になり得ないと思い始めていた時、ローゼが

目標を持っていない事を知って、なぜか一瞬、胸中が軽くなった気がした。

 正直、そんな自分にうんざりした、思いたくもないのに、勝手にそう思ってしまったのだから、どうしようもない。だから余計に落ち込んだ。教館に行った時、お客様を見送っていた、魔女が誰なのかはサフィニアには一目でわかった。とっさに隠れたのも、後ろめたいからではなかった、駆けて行けばすぐの距離に居るはずなのに、あの時はとても遠くに感じられた。理由は自分でもわからなかったが、今この場所から離れたい、どうしてもその場に居られず、気が付いた時にはローゼの手をとって、無我夢中で町中を走り回っていた。

 気分展開のはずが、もう雁字搦めで動けなくなる手前まで来てしまった。心の中でローゼを見下したくせに、その時はローゼが羨ましく見えた。そんなサフィニアを解放してくれたのは、グラナダの占いでだった、好奇心に負けて、耳を傾けた占いだったが、結果を聞いた時に、今度こそ胸が軽くなった気がした。占いの結果は、あまり理解できなかったが、冷静に考える切っ掛けを与えてくれた事は確かだ。

 答えは、意外なくらい単純だった。考えなくて良いのである。サフィニアは自分でバイオリン職人でマーリンを目指すと決めたのだ、職人はただ一心不乱に作り続ければ良い、そうすれば道は開ける。単純過ぎて、気が付けなかった事に気が付いたサフィニアはローゼと別れた後、そのまま、工房へ向かい中断していた作業に取り掛かり、それは夜通し行われる事となった。

 サフィニアは顔も洗わずに、刷毛を手に取り、ニス塗りの工程に入った。鼻につくニスの匂いは寝起きには辛いものがあったが、それでも、不思議と作業には集中することができた。

 

 爽やかな風が誘うまどろみは、春の陽気を肌で感じているようで、とても心地がよかった。再び町を見下ろした時には、太陽が随分と高く燦然と輝いていた。朝露も乾いて、カサカサと風に撫でられた草々が擦れ合う音も聞こえる。ローゼは町を眺めながら思いっきり背伸びをしてから、自室へ走って行った。そして、ベットの上に置いたポーチを身につけると、首もとには光るダンネンベルグ金貨が姿見にもしっかりと映っている、ローゼはなんだか嬉しくなって満面の笑みを作った。 

 秋晴に似た晴天に恵まれた本日もきっと何か良い事が起こるはずだと、確証のない確信を胸にローゼはブルーベルを出発したのだった。

 ローゼは昨日同様、まずホーエンハイム駅前に出た。今日はそこから北側に向かって歩き始める。北側は南側とは違って、カフェテラスやブティックなど、華やかな店が軒を連ねており、露店の姿は見当たらなかった。お昼近いこともあり、すでにテラスのあるカフェは大凡、魔女達で埋め尽くされている。しかし面白い、テーブルの上にはランチはもちろん、書籍であったりワイン瓶でっあったり、ドライフラワーであったり、とにかく、多種多様な物が並べられていた。もう一つ気が付いた事があった、テラスに居るのはウェノサ・ヴェノサとレッドクラブの魔女だけで、ベノアマエストロの魔女は一人として見当たらない。

 そんな光景を眺めながら歩いていると、  

「ここどうぞ、私達もう帰るから」ローゼは不意にテラスでお茶をしていた魔女に声をかけられた。

 どうやらテラスを眺めながら歩いていたローゼを、席探しをしているのだと、勘違いしたらしい。

 

「いっいえ、私は」突然の申し出に、うまく反応をする事ができなかった。

 

 慌てるローゼに、首を傾げていた魔女達だったが、最後に「蜂蜜のせトーストセットがおすすめよ」と言い残して立ち去ってしまった。また、勘違いされたらしい。  

 ローゼは躊躇したものの、せっかくなので席に腰掛けた。すると、絶妙なタイミングで、ベストに蝶ネクタイ姿の店員が、注文を取り来た。

「えっとその、あっ!蜂蜜のせトーストセット1つ下さい」狼狽した。何せ、メニューらしき物が何もないのだから初めてのローゼが、すんなりと注文できるはずがない。

「かしこまりました」柔らかいものごしで会釈したウエイターは、途中で別の注文を受けながら店内にへ戻って行った。

 他の魔女達は常連なのだろう、当然の様に、多数の注文を軽くこなしている。サフィニアが居てくれれば心強いと思うローゼであった。

 

 

 同僚の魔女見習い達が、続々と工房からお昼に出て行く中、サフィニアはようやく、ニス塗りを終え、乾燥台へバイオリンを据えた。後は乾燥を待つばかりである、今日の様な日和なら夕方頃には乾いているだろう。

 

「ふぅ」外の風景を見て息をつくサフィニア。

 

 徹夜はもう慣れたものだったが、このきりきりと傷む胃の痛みには慣れるまで時間がかかりそうだ。夕刻までもう一眠りしてもよかったのだが、恨めしい程良く晴れた窓の外を見ると、外に出ずにはいられなくなってしまった。

 レットクラブの工房は、水路に隣接して建てられてある本館とは異なり、アドリア海を望む港沿いに建てられてあった。道具の手入れを油断すると、すぐに錆びが浮いて泣きをみると言う、職人泣かせの立地だったが、その反面、窓の外に広がる港やアドリア海を眺めて、息抜きが出来ると言う立地の良さも兼ね備えている。

 大あくびを繰り返しながら、港沿いを歩く。通りには、純白と紅の魔女で賑わっていた、正午の大砲が轟く前後はこうしてお昼休みの魔女達で賑わうのが常なのである。

 昨日から何も食べてないせいか、徹夜の後遺症か、心なしか足下がふらふらする。カフェテラスに行くか長靴猫へ行くか、食欲はあまりなかったが、食事を催促する様に鳴るお腹がまさに裏腹だった。後者はチーズ料理がメインである、生地の上で踊るチーズを思わず連想してしまった。いつもなら、涎が滴るところだが、今は吐き気すら催しそうだ、それなら前者で異論はない。サフィニアはホーエンハイム駅まで続く海沿いを歩く事にした。

 

 

 ローゼは目を輝かせたまま、しばらく運ばれて来た黄金色の蜂蜜がたっぷりとかかった、厚切りのトーストに見入っていた。こんがりキツネ色の焼き面の上でとろけているバターもまた、食欲をそそった。もう何度目だろうか、ローゼはまた生唾を飲み込んだ。

「冷めないうちにどうぞ」見かねたのか、コーヒーを運んで来たウエイターが促した。

 

「あっ、どうも」

 

 手元には、ナイフとフォークがすでに準備されてある。さて、この造形美をどこから切り分けて良い物やら、悩んでいたローゼだったが、結局まずは四枚に切り分ける事にした。切り口に落ち込んでしまうバターを、未練がましくナイフで表面に塗りつけ、おまけに、皿に溜まった蜂蜜をたっぷりとつけてから、大口を開けて一切れを頬張った。

刹那、口の中にお花畑を連想させる、豊満な香りと、控えめで上品な甘さが広がった。後からやって来る、バターの厚みある旨味と仄かな塩気が、絶妙なコントラスト醸し、後味を整えている。

 

あまりの美味しさに言葉を失うローゼだった。

 

「やっぱりかぁー」カフェテラスを見てサフィニアは思わず声を漏らした。

 

 想像通り、テラスの席はどこも魔女で賑わっていて、サフィニアが腰を下ろせる席は1席も空いていなかった。相席を覚悟して、知り合いが居ないか探し始めたサフィニアだったが、今日に限って、同カンパニーの知り合いが居ない。空腹と寝不足は確実に疲労を促進させる、身をもってそれを知りながら、等々、サフィニアはホーエンハイム駅が見える所まで来てしまった。それは、かなりの距離を歩いたと言う事であり、それがわかるサフィニアは、どっと身体重くなるのを感じた。ここまで来たのであれば、『蜂蜜のせトースト』を食べない手はない。朝取りの蜂蜜だけを使う為、1日30食限定の人気メニューなのである。とはいえ、この混み様なのだ、もうとっくに売り切れているかもしれない。例えまだ、売り切れていないとしても、席にすら着けない現状を考えればカフェは諦めて、ブルーベルに行った方が良いかも知れない。そう思い始めた頃、白と紅の中に紅一点、蒼を見つけた。良く見れば、それはローゼに他ならなず、おまけにローゼは、この店の看板メニューを今まさに頬張ろうとしているではないか、サフィニアの目が燦然と輝きを取り戻した。これで蜂蜜のせが食べられると。 

「あぁ。サフィちゃんだぁ」口の周りに蜂蜜をつけたローゼが、向かって来るサフィニアに気が付き、フォークを持ったまま手を振った。

 

「相席いい?」一様聞いて見たサフィニアだったが、

 

「どうぞどうぞぉ」勝手にサフィニア席を引くローゼには愚問だったようである。

 

 席についたサフィニアは皿の上に2切れ残った、トーストを見つめながら「私もこれにする」と宣言したのだが、その後ろで、

 

「申し訳ありません、蜂蜜が品切れとなってしまいまして」ウエイターの声が聞こえた。

 

 勿論、サフィニアに向けられた言葉ではなく、すぐ後ろの魔女に向けられた言葉だったが、結論から言えば、サフィニアにとっては『売り切れ』と同義語である。

「うりゅうりゅうりゅ」直後は硬直していたサフィニアであったが、やがて、瞳いっぱいに涙をため始めた。希望を持ったが故にショックは大きい。

 

「ご注文はお決まりですか?」嫌みなタイミングでウエイターがサフィニアに声を掛ける。 

 

「コーヒー」サフィニアは潤んだ瞳のまま、ウエイターに注文を告げた

 

「これ半分あげる」 

 

 そんなサフィニアを見て、ローゼが残りに二切れ残っている皿をサフィニアに差し出した。  

 

「いいわよ。そんなの悪いし」一度は断ったサフィニアだったが、

 

「半分ずっこ」笑顔でローゼは皿をサフィニアの前に置いた。 

 

「ありがと」人の好意を無碍にするのは失礼と、今度はローゼの好意を素直に受けたサフィニアだった。

 

 あっと言う間に、蜂蜜のせを平らげたサフィニアは、人心地ついたと言わんばかりに背もたれにだらりと凭れた。程なくしてサフィニアが注文した、コーヒー運ばれてッ来る、サフィニアはコーヒーから匂い立つ香りを楽しんで居たようだったが、ローゼはそれ以外の匂いが気になって仕方なかった。身体に悪そうな匂いでだが、不思議ともう一度嗅ぎたくなる、そんな奇妙な匂い。

 

「これなんの匂いだろ?」鼻をひくひくさせながら、ローゼが身を乗り出してサフィニアに近づいて行く。 

 

「シャラープ!」カップを口元へやっていたサフィニアがローゼを一喝する。

 

「それ、多分ニスの匂いだと思う。さっきまで仕上げのニス塗りしてたから、服に匂いが残ってるのよ。」カップを片手に、服に花を近づけて匂いを嗅ぎながらサフィニアが続けて言った。

 

 改めて嗅いでみると、服に染み付いたニスの匂いがわかるが、作業中ニスの匂いをかぎ続けていたサフィニア自身はすでにニスの匂いに慣れてしまって、意識して嗅いで見ないことには、匂いはしないのである。この匂いは厄介で、何度も洗濯しても完全には取れない、本当ならニス塗りは作業着で行うの常だなのだが、今回は例外なのである。わざわざ、着替える気にもならなかったし、そんな余裕もなかった。

 

「仕上げって事は、完成したんだねぇ」匂いの事はもう気にならないらしい。

 

「まぁね。夕方には弦貼って完成ってとこ」

 

 まるで他人事の様に話す、サフィニアだった。サフィニアの様に見習いは、楽器制作を数こなさなければならない。ペースで言えば、サフィニアは遅い方で、同僚にはサフィニアが一挺作り上げる間に二挺作り上げる者もいる。

 

「それじゃ、演奏してよ!」

 

「やーね。試しに音出す程度だし、演奏なんてしないわよ」 

 

ますます、人ごとの言うにサフィニア。これでも自分の技量ぐらいはわかっているつもりだ。そんなに良い物ができる訳がないのである。試しに音を出して、欠点を洗い出したら、自室で保管するか、廃棄するかなのだ。

 

「えー勿体ないよぉ、せっかく作ったのにぃ、お願いっ!1回だけ演奏して!」

 

 大声でそう言う、ローゼに周りの視線が集まる。

 

「声が大きいわよ」慌てて、ローゼの口を塞ぎに入るサフィニアだった。

 

「ぶ―ぶー」

 

「もうわかったわよ。1回だけよ」

 

「わーい。それじゃ、完成したらブルーベルに来て、演奏にぴったりの場所があるん

だぁ、えへへぇ」

 

 まるで自分が演奏するかの様に嬉しそうなローゼを見て、サフィニアは呆れてしまった。

 

 

 

 ~その音色に乗せて~

 

 

 

 

 ひょっとすると、ローゼは勘違しているのではないだろうか。自分の演奏にかなり期待している様子だったが、はっきり言ってその期待に添えるかどうかは、正直不安である。楽器職人の多くは、試し演奏の為に、ある程度は楽器の嗜んでおくものである。

勿論、サフィニアも職人修行と平行して楽器の練習も行っている。腕前は、そこそこで大体の曲は譜面を見れば演奏できる腕前だ。中には嗜みから本業に変わった魔女も過去にいたらしいが、それは例外中の例外である。

 それから、演奏にぴったりの場所とは何処だろうか。サフィニアが思いつく範疇では、もっとも無難なのは、ブルーベルの中庭辺りだろう。パリダの町を見下ろせるし、三方を建物に囲まれているから、音響もそこそこ良い。後者をローゼが考える可能性は低いから、やはり前者だろうか。正午を知らせる大砲が轟いてからしばらく、たわいない話をした後、ローゼと別れたサフィニアは工房へは戻らず、本館へ向かった。どうせ、工房に行った所で、ニスが乾くまでには十分に時間がある。

 本館はテラス通りを抜けたすぐの通りを曲がって、水路を渡って少し歩いた所にあった。工房よりもずっと近いわけだが、近頃、サフィニアには本館入り口から3階の自室までがとてもアドベンチャーなのだ。

 今日も、まず、こそっと入り口から1回フロアを見回して、中に入ると、念の為に上階の様子も窺っておく。本館は1階フロアから天井までが吹き抜けになっており、上階の内側だけだが、窺い知る事ができるのだった。高い天井からつり下げられた3基のシャンデリアが今日も燦々とフロアを明るく照らしている。しかし、サフィニアに取っては明るすぎて邪魔でもあった。何に、上階を窺っている間ずっとその光を見続けるのだ、視線を下げると眼前がチカチカとしてうっとおしい。

 念には念を入れてみたが、今日は安全のはずなのだ。昨日同様に教館でコンサートが行われているはずなのだから、まさか本館に居るはずがない。通り越し苦労と、サフィニアが階段の手すりに手を掛けたまさにその時、

 

「サフィニア!!」サフィニアの背中に不意打ちが飛んで来たのは。

 

「うなっ!」 

 

 そんなはずはない。一瞬現実逃避を試みてみるも、その人は確かに自分の後ろに居る。声を聞き間違えるはずがないのだから、その通りなのだ。

 

「ダっダリアさん!どっどうしてここに…今日は公演じゃなかったんですか?」振り向くなり、愛想笑いでなんとか誤魔化そうと、偶然を装う様に言ってみるサフィニア。

 

 確か、昨日と今日は教館でバイオリン5重奏の公演に出演しているはず。スケジュールはすでに確認済みなのだから。なのに、どうして本館に帰って来たのだろうか、教館は町の中央に位置している為、レットクラブ本館からだと、そこそこ距離がある。

 

「乾燥台にかける時は、日に当たらない様に気をつけろといつも言ってるだろ!」

 

 荒々しく、両肩で息をしながら、ダリアは恐々とした笑みを浮かべるサフィニアを一喝した。

 

「すっすみませんっ!」

 

気が付いた時には、サフィニアはダリアの横をすり抜ける様にして、本館を飛び出していた。向かうのは勿論工房である。バイオリンの心配もあったが、それ以上に今、合法的に逃げ出せる理由があるとするならば、工房に向かう他にないと思ったからである。

 

「これでよしっと」

 

 ローゼは両手で紙袋を抱えて、食料品店から出た。露店はすでに暖簾が降りていて、買い物が出来なかったので、食料品屋通りの店で、今晩の食材を揃えた。サフィニアと別れた後、ローゼは引き続き、1人で町の散策を行っていたのだが、通りに充満する家々の昼食の匂いに触れた時、思いついてしまった。今晩の晩ご飯は自分が腕を振るおうと。ルシアも帰りは夜になると言っていたし、サフィニアもブルーベルにやって来る。

 キッチンすら備わっている家が少ないルナで暮らしていたローゼだが、ローゼの家にはキッチンがあったし、それなりに料理もしていたので、料理には少し自信があったのだ。それに、ルシアは元よりサフィニアと共に食卓を囲むと言う楽しみもあった、想像しただけで、胸が弾んだ。

 買い物を済ませたローゼは、散策をやめて、ブルーベルへ戻る事にした。上機嫌でホーエンハイム駅方面に向かって歩く。ホーエンハイム駅は町にせり出す様な構造をしていて、駅舎だけでも相当な敷地を誇っている。そのため、方向さえ合っていれさえすれば、いずれ駅舎にぶつかるのだ。

 賑やかになるであろう今晩の食卓風景を想像しながら、歩いていると、広場に出た。通りの交差点だ。中央には井戸もあるり、随分と見慣れた風景となりつつある広場をそのまま通り過ぎようとした時、井戸の傍らに置かれてある桶が気になった。広場にある井戸の大半は、すでに涸れている。その井戸は未だ水を湛えていた、ローゼが唯一知るその井戸の側には、思った通り、ツタに覆われた一見すると不気味な家があった。

 グラナダの家である。

「ごめんくださーい」ローゼはせっかく近くまで来たのだと、ドアにノックした後、

広場中に響く声で、グラナダに来客を知らせた。

「おやおや、お客さんなんて珍しいわね」ドアの向こうで、そんな声が聞こえたかと思った次の瞬間にはドアが、重々しい音を立てて開いた。

 

「こんにわ!」夏の太陽の様な笑顔でローゼが挨拶をする。

 

「あら、ローゼちゃん。遊びに来てくれたのね、さぁさぁあがって」

 

 ローゼの顔を見るなり、グラナダはとても嬉しそうに声を弾ませて、ローゼを家の中に招いた。

 昨日、お茶を頂いた、リビングへ案内されたローゼはソファに腰掛けてから、隣に荷物を置いた。テーブルの上には水晶玉ではなく、古い書物が数冊置かれていた。どの書物の革表紙にもローゼが見た事がない文字が並んでいて、さっぱり意味が理解できない。

その文字に遠からず似ていると強いて言うならば、ルーンだろうか。

「お買い物?」グラナダは、ローゼの隣に置かれた紙袋とローゼを交互に見ながらそう言った。

 また、昨日とは違った鼻腔を擽る、爽やかな香りのするお茶をローゼに振る舞ってくれた。

「はい、今晩は腕を振るおうと思っちゃいまして」

 

「んっと、メニューはカレーかしら」書物をテーブルの端にやりながらグラナダがローゼに言う。

 

「えぇ、どうしてわかったんですか?!」

 

 身を乗り出して驚くローゼ。そうなのである、ローゼの十八番料理はカレーなのである。スパイスの調合で何種類でも味が作れる所に惹かれて何度も試行錯誤しながら作っているうちに、得意料理になってしまった。

 

「うふふっ、紙袋の中身がカレーの材料だもの、それにスパイスの香りもするし、決め手はチョコレートね。私も隠し味に使うのよ」グラナダはいとも簡単に種明かしをしてくれた。

 

「そう言う事ですかぁ、本当にビックリしちゃいましたぁ。昨日の占いもすごかったですねど。昨日、サフィニアちゃん元気がなかったんです。でも、占ってもらった後、急に元気になって」

 

「そう、それは良かったわ。でもね、あれは占いでも何でもないの、言うなれば、アドバイスみたいなものね。少し占い風に言葉はアレンジしたけれど」

 

 そう言うとグラナダは、昨日占いに使用した、水晶玉をテーブルの下から取り出して、ローゼの前に置いた。

 

「この水晶玉はただ水晶玉なのよ。これから言う事は、私とローゼちゃんとも秘密ね」そう言うと、グラナダは人差し指を口元にやった。

 

「チャックですね」興味津々を絵に描いた様にローゼが言う。

 

「占いは、観察力があれば、誰にでも出来てしまうものなの。まず、肩のバッジからサフィニアちゃんは職人見習いである事がわかったわ、表情からは不安・焦りが窺えた。だから、職人特有の悩みがあるとわかったわけ、だから、とにかく行動してみなさいってアドバイスしたのよ」

 

「おぉ」確かに、昨日のサフィニアはどこか元気がなかったと、思い返すローゼ。

 

「見ず知らずの人間に、いきなりアドバイスされても、素直に聴けるものではないでしょ。でも占いなら、半信半疑でも耳を貸すものなの。特に女の子わね」そう言って、クスクスとグラナダは笑って見せた。

 

「ほぉ」

 

 感心するしか出来ないローゼだったが、そう説明されると、果たして自分は何を観察されて占われたのだろうかと、一瞬そんな疑問が脳裏を過ぎった。

 

「ローゼちゃんのは、あなたの瞳を見た時、きっと次に私に会うまでに、この町に鏤められた素敵を出会うだろうな、と思ったからなのよ。これは直感、占いなんてそんないい加減ものだから」今度は、ばつが悪そうに苦笑いをするグラナダ。

 

「いいえっ、大当たりだったんです。私、パリダの素敵に出会っちゃったんです、猫さんからのプレゼントも、この通り」

 

 そんなグラナダに、ローゼはやや大袈裟めにそう言うと、首もとに光るダンネンベルグ金貨をグラナダに見せた。

 

「まぁ、私の直感も捨てたものではないわねぇ」

 

 ローゼが見せた、ダンネンベルグ金貨を見ながら、グラナダは一度は驚いて見せたものの、すぐにそう言って口元を綻ばせるのだった。

 

 

 工房のドアを勢いよく後ろ手に閉めたサフィニアは、しばらく胸の高鳴りを感じながら、外の様子を窺った。どうやら、ダリアは追って来なかったようだ。一頻りの不安は去ったものの、なぜかその後に、哀愁風がサフィニアの横顔を過ぎった。

 工房では他の魔女達が多数作業しており、突如入って来たサフィニアに嫌でも視線が向けられてしまう。一呼吸おいて、平静を取り戻したサフィニアは、それに気が付くとしおらしく、俯いて乾燥台へ向かった。すでに、太陽は傾き、乾燥台付近の窓から日光は注がれていなかった。すっかり日陰に覆われた乾燥台には、バイオリンが一挺乾燥にかけられてある。勿論、サフィニアが昼前にかけたものである。

 すでに、やや褐色がかった茶色に変色している。ニスが乾いた証の色である。ニスを乾燥させる時、接着の時、全ての工程で日光干しはタブーとされている。金属楽器は別として、木製楽器の場合、急速な乾燥をすると木材が反ってしまったり、捩れたりと、

使えなくなってしまうからだ。

 

「(私のって…わかったんだ)」仕切板で保護された自分のバイオリンを見ながら、サフィニアは、ダリアが、自分のバイオリンだと気が付いてくれた事に、少し瞳を潤ませた。

 

 

 サフィニアは、お気に入りのケースに楽器を収納せず、すっかり古ぼけた木製のケースに楽器を収納して、ブルーベルへ向かった。道すがらの坂から見えた夕焼けが、今日はいつもより一段と綺麗に感じられた。このケースをプレゼントされた時も、確か、燃えるような夕焼けが印象的だった事を良く覚えている。

 

「たのもー」サフィニアはブルーベルの店先で、そう叫んだ。

 

「いらっしゃい!サフィちゃん」エプロンに三角巾姿のローゼが、店内から、そう言って出て来た。

 

「演奏する場所ってどこ?中庭?」店内から漂う、食欲をそそる匂いを嗅いでから、ローゼに言う。

 

「ちょっと待ってて、すぐに支度するからぁ」そう言うとローゼは店内に戻って行った。

 

 気勢を削がれたくない。弱虫な自分が出てくる前に、このまま、演奏してしまいたい。

ダリアは自分の事を見てくれている。なら、自分も逃げている場合ではない。工房でバイオリンを抱きしめながら、サフィニアは強くそう思った。例え、音が悪くても、それが今の自分の実力なのだ。

 

 サフィニアはすでに采を天高く投げたのである。

 

「お待たせぇ」

 

「さぁ、レッツラゴーよっ!」 

 

 少し待って、ローゼが再び店内から出て来た。

 

 ローゼは、特に何も持たず、先行してブルーベルから更に坂を登って行く。てっきり、ブルーベルの中庭で、演奏するのだろうと思っていたサフィニアはとっては、意外だったが、ローゼについて行くほかに無く、遅れてローゼの後を追った。

 九十九折る様に続くなだらかな坂道は、ちょっとした運動に最適だろう。横目に広がをパリダの町を見下ろすと、その高さを実感できた。息が荒くなりつつあるサフィニアはそろそろ、何処に向かっているのか、ローゼに問い掛けようと思った時。

 

「こっちだよ」ローゼが道ばたに立ってそう言った。

 

「水路橋じゃない」ローゼの隣に並んだ、サフィニアが言う。

 

赤煉瓦で作られたそれは、地元民であるサフィニアには、取り立てて珍しい物でない。

幼い頃は、実際に水を湛える風景も見た事がある。 

 

「ここからの風景は、絶景なんだよ」

 

 はしゃぐ子どものように、ローゼは水路橋の上に飛び降りると、せり出した先から町を見下ろした。

 まさに、夕焼けもフィナーレを迎えようとしている。朱に塗られた様に白い壁が朱にそまる町並は一見すると、サフィニアの知る町では無い様である。

 だから、と言って演奏に気合いが入るかと言えば、それは別問題である。ローゼはきっと、この素晴らしい風景を前に演奏すれば奏者も聴き手も、気持ちが良いだろうと思って、この場所を選んだのだろう。だが、奏者であるサフィニアからすれば、そんな事はどうでも良かった。ただ、障害物が無いだけに反響による雑音がなく、音色をより透明に聞く事ができる。その点では良いロケーションと言えるだろう。

 サフィニアは、腰をおろし、足をぶらぶらさせながら、自分を見上げているローゼの横に立って、演奏の準備を整えた。

 

「夕暮れ演奏会のはじまりぃ」弓を構えた、サフィニアにローゼがそう言って拍手を送る。

 悪気は無いのだろうが、正直、出鼻をくじかれた。一瞬、調子を狂わされたものの、サフィニアは拍手を送るローゼに視線を送り、拍手を制してから、ゆっくりと演奏を開始した。

 今回も曲目は変わらない。通常の試し演奏曲である。この楽曲には、全ての音階記号が使われているし、強弱の程度も大きく、楽器に試されるべき多くの要素を、この一曲で試す事が出来るため、試し演奏で用いられる事が多いのである。故に楽器に関わる魔女にとっては一番ポピュラーな楽曲となっている。

 演奏し慣れた楽曲。譜面など必要ない。音符の配列から強弱の度合いまで、全て、身体が覚えている。演奏し始めると、今までの不安が嘘のように余裕が生まれてきた。今の今まで、色々と煩悶していたのが幻想だったかの様に思える。もう、そんな事を考えた所でどうしようもないと、開き直ってしまったように。

 サフィニアは、ローゼを見た。ローゼは、眼前に広がる壮大に燦然と輝く世界に、目もくれることなく、ただ目を閉じて、サフィニアの演奏に聴き入って居る様子だった。そんなローゼを見ると、サフィニアはなんだか嬉しくなって来た、ちゃんと自分の演奏を聴いてくれてる人が居る。試験演奏と言いつつ、楽曲の後半からは、教館での演奏顔負けに感情を込めて、精一杯の音楽を贈った。

 最後のルフランを終え。サフィニアの弓が弦から離れた。

 

「終わったわよ」

 

「うん」ローゼは、まだ、目を閉じたまま、余韻を楽しんで居るようだ。

 そんなローゼを尻目に、サフィニアは早々にバイオリンをケースに収納した。本当なら、このバイオリンに対する自分からの評価をしなければならない。しかし、今回はもう少し後でも良いだろうと思った。演奏していて、大方の欠点は見いだせてはいたが。

 

「バイオリンの職人だったんだねぇ」

 

「はぁっ?もしかしてって、そう言えば言ってなかったわね」拍子抜けである。

 

「今演奏したのはなんて言う曲なの?」

 

 悠然と悦楽の中に居る様に見えるローゼだったが、どこかメランコリップな風を吹かせている。

 

「レルフロッケ・カンターナって曲よ。練習曲の定番ね」

 

「とっても不思議。目を閉じてるとね鮮明に見えて。金色の麦畑の中を歩いてるの、懐かし所に帰ろうとしてるんだと思う。でもとっても足が重くなって、最後は涙が溢れて来たんだよねぇ」

 

 ローゼは不思議な話をし始めた。

 

 しかし、サフィニアには、ローゼの言う情景が理解できた。この曲の別名は『旅人に捧ぐ鎮魂曲』と呼ばれている。永遠を探す旅に出た旅人はついに、永遠を手に入れる。しかし、手にした永遠を祖国に持って帰る途中で息絶えてしまう。朦朧とする意識の中で、旅人が最後に目にしたのは祖国を望む麦畑なのである。この物語も曲同様に有名な演目であり、時代を超えて演じられている。

 

「永遠は人には長すぎるのよぉ」幼少の頃見た、舞台を思い出してサフィニアが呟いた

 

「へっ?」

 

「シャラープッ!そんな事よりどうだった、私様の演奏は」ローゼの隣に腰を降ろした。

 

「とっても良かったよ。感動しちゃったぁ。とっても柔らかくて優しい音色。ここの所が温かくなったよ」そう言いながら、胸を両手で押さえるローゼ。 

 

「ありがと、そう言ってもらえると、幾分か報われるわ」サフィニアは自分の最大の欠点を自覚していた、それは、音に張りがでない事、どうしても角のない音色しか出ないのである。

 

「しっかし、さすがはベノアマエストロ。見せつけてくれたわ」続けてサフィニアが言う。

「確かに、すっごい建物だったよねぇ」

 

 施設の規模を言い表しているのだと、思ったローゼだったが、サフィニアの表情を見る限り、それでは内容だ。

 

「違うわ。私らの向かいの門所で、バイオリン練習しいてたでしょ?あの曲超ムズなのよね。前の発表会用の課題曲だったけど私、パスしたし、それくらいムズいのよ。なのに、それをすらすら演奏してたし。演奏専門であることを祈るわね」握り拳を作って力説するサフィニアだったが、

 

「ごめん、私それ知らない」ローゼは聞いて居なかった。

 

「あっそっ」サフィニアが顔をしかめた。

 

「でも、サフィちゃんのもすごいと思うけどなぁ」 

 

「私は、まだまだねぇ。ニス塗りはムラが多いし、板の削りが甘いから、音の響き悪い

し」ケースを撫でながらサフィニアは、溜息をついた。

 

「そうかな、私にはサフィちゃんの音色が聞こえたよ。サフィちゃん演奏してる時、とてもいい顔してた。きっと全力で一生懸命作ったからだよ」

 

 吹き上げる風が、サフィニアの前髪を吹き上げた。そんな風に言われたのは、初めてである。ローゼはちゃんと自分の演奏を聞いて居てくれた。欠点ばかり気になっていたサフィニアは、一度も自分の楽器の音色に感動した事などない。確かに、今回のバイオリンは持てる技術と長い時間を費やして、完成させた自信作だった。だが、結局いつも通り、見過ごせない欠点が幾つもあった。お世辞かもしれない、でも、ローゼは自分の演奏から物語を連想してくれた、表情から自分の努力も察してくれた。それが素直に嬉しかった。  

 

「ありがと」瞳を潤ませたサフィニアは、強がって空を仰いだ。

 

 夕日は潮騒の中、水平線の彼方へ沈もうとしていた。夜闇のベールが山裾から順に町を覆い隠そうと迫っている。しかし、この瞬間が一番美しいくもある。沈み行く夕日のオレンジと藍色のベールのコントラストは、容易に言葉では言い表せない世界を見せてくれた。

 

「ローゼっ」

 

 サフィニアは主室に手袋を外して、ローゼに手を差し出した。

 

「サフィちゃん!改めまして、これからよろしくねっ!」一瞬は、驚いたローゼだったが、差し出された手を両手でしっかりと握り締めて、燦然とそう言った。

 

「こちらこそよろしくね」

 

 諦めた様に言ったサフィニアは、ローゼから解放された手を夕日に翳して、

 

「こんな手、見せたくなかったのよ」と言った。

 

 サフィニアの手は切り傷や擦り傷に加え、肉刺や胝が幾つかできていた。職人病と言っても過言ではない。見習い職人であるサフィニアはまだ、制作工程で怪我をする事が多く、手には生傷が絶えない。それを隠す為、職人の魔女の多くは、手袋をする。

 

「それは違うよ!サフィちゃん!」ローゼが激昂して言った。

 

「その手は働き者の手だよ、努力して頑張ってる証拠なんだよ。手を見ればその人がどんな人かわかるもん。正直で頑張りやさんの手は、いつも傷があるし、グローブみたいな手もある、でもそれは、誇りに思っていいと思う」

 

 ローゼは、サフィニアに面と向かって、強い眼孔でそう言い切った。

 

「…」

 

 働き者の手。サフィニアは傷だらけの自分の手を見ながら、ダリアの言葉を思い出した。その頃、本気で自分の手がコンプレックスだった。バイオリンの出来よりも手の方が気になっていた。そんなサフィニアにダリアは「その手は、お前の誇りなんだ」と言ってくれた。しかし、その言葉の意味を理解することが出来ないで、今日まで来てしまった。ローゼの言葉で、ようやくその言葉の意味を理解できた。

 

「ローゼ、ありがとね。」重ねてサフィニアはローゼに感謝の言葉を述べた。

 

今日も1日が終る。夕日が水平線に沈み、辺りは薄暗くなり始める。眼下の町に、明かりが灯り始めた。

 2人はしばらく、それぞれの余韻に浸っていた。サフィニアは、自分自身が少し好きになれた気がした。そして、自分の努力を詰め込んだ、この楽器をダリアの前で演奏して、しっかり叱ってもらおうと思った。ローゼは、冷たくなりつつある、夜風を感じながら、ルシアやサフィニア、グラナダに出会えた奇跡を静かにダンネンベルグ金貨に語りかけていた。

「そうだ、サフィちゃん。晩ご飯食べていかない?ルシアさん、そろそろ帰って来ると思うから」

 沈黙を破ったのは、ローゼだった。ブルーベルのキッチンには香りと旨味が抜群の、ローゼ特製カレーがその出番を待っている。そう、ルシアとサフィニアとローゼ、3人で一緒に食べようと丹誠込めて、作ったローゼの十八番である。

 

「しょうがないわねぇ。私、料理にはちっとばかし、うるさいわよ」悪戯な笑みを浮かべながらサフィニアが言う。言葉とは裏腹にとても嬉しそうだった。

 

「メニューはカレーだよぉ」そう言いながらローゼは急に駆け出す。

 

「にゃにをっ!」サフィニアもローゼに続いて駆け出した。。

 

とても軽快な空気が二人を包み込んでいた。半分程、坂を駆け下ると、薄暗いながらブルーベルの店先に、女性が立っているのが見えた。手には見覚えのあるキャリーバッグが見える。

 

「ルシアさぁーん!おかえりなさーい!」ルシアに気が付いたローゼは、手を大きく振りながら、そう叫ぶ。

 

「うそっ、ルシアさーん!」サフィニアも負けじと叫んだ。 

 

 息せき切って駆けて来る二人に、驚きながらもルシアは、優しい笑顔で、手を振り返しながら、「ただいまぁ!」と言うのだった。

 

 

 

 ~その協奏曲の旋律は~

 

 

 

 

 アクアの1年は12月。これはA地区ヨーロッパ有人保護区全体に適応されているのだが、パリダの街だけは独特の呼称がある。冬季と雨季を除いて2ヶ月刻みに、セイレーン月(春)、ウンディーネ月(雨季)、サラマンダー月(夏)、シルフ月(秋)、ノーム月(冬)と季節月を妖精で表す。

 アクアの春は短い。5月の初旬に行われるカーニヴァルが終われば、人々の気持はすっかり夏なのである。

 

「ルシアさんっ、行って来ますね!」

 

 お気に入りのポーチを片手に、ローゼは元気よくブルーベルのドアを開けた。

 

「楽しんで来てね」

 

 ショーケースの奥から手を振るルシアは、会計町のお客の相手にてんてこ舞いのようだった。

 パリダに来て、すでに2ヶ月。ローゼは近頃、パン焼きをルシアに褒められるまでになった。

 ブルーベルの朝は早く、1週間前くらいからようやく、空が白々とするようになって来た。まずは一杯、紅茶を頂いてから、作業を開始する。ルシアが生地をこね始め、ローゼが窯に火をいれる。昨日の内に醗酵させておいた生地を2次醗酵させて、それが終わるのと同時に、薪を取り出して余熱でパンを焼くのである。当然微妙な火加減は難しく、これまで、売り物にならないパンを山程作ってしまった。最近ではそれも少なくなって来たが、完璧を当然の様にこなすルシアを見ていると、自分も頑張らねばと思うのだった。

 パンが焼き上がると、ローゼはルシアと共に、ショーケースにパンを陳列する。それが終わってようやく、朝食になる。

 本来ならば、ローゼも店頭に出るのだが、教館に行くために今日はお休みを貰ったのである。きっかけは、昨日、偶然出会ったサフィニアとお茶をしている時だった。憂鬱そうなサフィニアにその理由を聞いてみると、明日教館で行われる演奏会に先輩とデルカンデ(共演)する事になったと言う。サフィニアは主旋律から外れているうえ、クインテットであるため、そんなに不安もないと後付けで語っていたが、全身からは不安オーラーが悶々と湧き出ていた。

その話しを聞いた、夕食。ルシアにサフィニアが教館で演奏をする事を話すと、ルシアはローゼに、教館に行って演奏を聴いて来ると良いと言って、ローゼは明日急遽お休みとなったのだ。とは言え、まるまるお休みと言うのも悪いので、いつも通り早朝作業を一頻り手伝った後に出掛ける事にしたのだ。

 サラマンダー月に入ったばかりのパリダは、すっかり汗ばむ陽気であった。螺旋階段を下りて通りを歩く。振り返って見ると、やはり階段の入り口は無い様に見える。とても摩訶不思議な壁である。

 

 

 開館前だと言うのに教館の前にはすでに多くの人々が列を作っていた。サラマンダー月が始まると観光が解禁され、ノーム月まで多くの観光客でパリダは賑わうのである。

故に、教館しかり、ブルーベルしかり、大忙しとなるのである。

 

「よかったぁ、探してたんですよ。こちらです」

 

 ローゼが、列の最後尾を探していると、不意にそう声を掛けられた。

 

「えっ?私ですか?」

 

 見れば、ローゼに声を掛けて来たのは燕尾服を着た、魔女であった。教館の関係者だろうか、ローゼは、何も言えないまま、その魔女に連れて行かれてしまった。

 ローゼはただ、教館の演奏会と言うものがどんなものか、聴きに訪れただけだったのだが、燕尾服の魔女は勘違いをしているようである。とは言え、観客達の列ぶ扉とは別のドアから教館内に入ると、細長い廊下がしばらく続いていた。荒い石を積み上げられた壁に挟まれた廊下はとても圧迫感があった。しかし、明かり取りの天井にはステンドグラスから注がれる、七色の光がその圧迫感を幾分か忘れさせてくれた。

 

「こちらで、お待ち下さい」

 

 執事の物腰で、きっちりとした会釈で通されたローゼだったが、本人は今だに自体を把握出来ていなかった。

 ローゼが通された部屋はどうやら、出演者の控え室になっているようで、丸テーブルと椅子が幾つか容易されてあり、魔女達が熱心に楽器のチューニングをなどを確認している。緊張の面持ちの者からデルカンデの相手と雑談をする魔女まで色々である。

「あぁ!サフィちゃーん」紅いルーンの魔女が5人、テーブルを囲む様に腰掛けていた。

「ローゼ!こんな所で何してんの?!」手を振るローゼを見たサフィニアは、我が目を疑った。控え室には出演者以外は立ち入り禁止である。観光客が間違えて入らぬように、控え室入り口には燕尾服を着た魔女が監視しいている。本来、ローゼが安易に入ってこれるはずがないのだ。

 

「列ぼうとしてたら、連れてこられちゃって」照れ笑うローゼ。

 

「制服のルーン見れば、わかりそうなもんだけど」

 

 振り向く先輩達からローゼを隠すように、ローゼの前に立ったサフィニアは首を傾げて

そう呟いた。

 しかし、現実にローゼが控え室にいるからには、ローゼの話しを信じる他にない。

 

「ところで、ローゼ。楽器できるの?」

 

「リコーダーくらいなら、ちょびっと」顎に人差し指を当て考えてからそう言うローゼ。

表情は真剣である。

 

「お遊戯会じゃないんだから」呆れるサフィニア。

 

 教館での演奏は、重要な意味を含む場合がある。見回しただけでそれがわかる。室内で緊張した面持ちでいる魔女が数名見える。彼女らは、今回の演奏が昇格試験なのだろう。

 カンパニーによって試験基準は異なるが、観客から捧げられる花束の数か師が直接弟子の演奏を聴いた上で判断するか。その二方法である。昇格試験組と比べれば、今回のサフィニア達のようにただの演奏組はどれだけ気が楽な事だろう。と言いつつも何時かは、通らなければならない茨の道にサフィニアは溜息を吐くのだった。

 

「サフィニアちゃん。出番だよ」

 

 呆れたり、溜息をついたり、情緒不安定なサフィニアを知ってか知らずか、テーブルの座る先輩魔女の一人が優しく声を掛けた。

 

「あっ、すいません。すぐ行きます」サフィニアはそう言うと自分のバイオリンを取りに一度戻ってから、

 

「係の人に言っとくから、ここで大人しく待ってなさいよ」周囲に聞こえない様に、ローゼに耳打ちした。

 

「うん、わかった」大きく頷くローゼだった。

 

「じゃあね」サフィニアはそう言うと、分厚いカーテンがかかる、通路に向かって駆けて行ってしまった。

 

「サフィちゃん、がんばってぇ」

 

 ローゼはサフィニアの背中に小さくエールを送った。

 

 

 控え室には、メロディとその後の拍手の音が小さくではあったが、聞こえる。あのカーテンの向こうの世界はどんなだろうか。時間が経つにつれて、控え室に居た魔女達が1人また1人と、カーテンの向こう消えて行く。

 開けてはならないドア。開けられるドアでも、開けては行けないドア。ローゼにとってあのカーテンがそれなのだ。今なら、少しくらいなら開けられるかもしれない。でも、きっと、それは駄目なのだろうと思った。ここから先は、誰かに何かを届ける事ができる者でないと見てはいけない世界なのだと。

 と言いつつも好奇心は止め処ない。なんとかカーテンに触れずに向こう側を見られないかと、ローゼはカーテンの真横に陣取って、魔女がカーテンを捲った隙から中を覗こうと心みていた。何度か除く事に成功したものの、向こう側は薄暗く良く見えなかった。

 

「あらら」

 

 控え室を見回してみると、いつの間にかローゼ1人だけになってしまっていた。もうサフィニアが入って行って随分経つのだが、燕尾服の魔女は疎か、係員らしき魔女は誰1人現れない。どうしたものかと、ローゼが天井を仰いだその時、控え室のドアが開いた。

 

 

 なんてくじ運の悪い日なんだろう。セレンは、手の中にある最終奏者番号札に目をやった。午前中に終われば、師に付き添ってネオフィレンツェに行けたのだから。気合いを入れて、1番にクジを引いたのに、よりによって最後だなんて。

 今日の演奏会はセレンにとってどうでも良かった。カンパニーのノルマで仕方なく出演するのだから……

 前回の演奏会に参加していれば、今日出演しなくてもよかったのだが、丁度、できあがった作品を海に捨ててしまったばかっりだったので、参加できなかったのである。

 出演時間ギリギリに間に合う様、教館にやって来たセレンは、燕尾服の魔女に奏者札を見せていつも通り、7色の光が降り注ぐ廊下を進み、控え室のドアのを開けた。

 誰もいないだろう。がらんと殺風景にすら見える控え室に入ったセレンは、ここで意外な人物の姿を見つけた。青いルーンの制服を着た魔女。無印の魔女。確か、ローゼと言っただろうか。ただでさえ、気が萎えていると言うのに、演奏する気すら失せて来た。

 ベノアマエストロの入り口で見た蒼いルーン。セレンが憧れていた蒼いルーン。蒼のルーンを宿した魔女はパリダに2人しか居ない。1人は類い希なる才女、ルシア・アンジェリカ。そしてもう1人が、自分の目の前に居る魔女である。納得できない。セレンが認められなかったブルーベル、しかし、その後、ベノアマエストロにスカウトされた。それだけで自分自身に才能や能力が有る事が認められた事は言うまでもない。それでも、セレンはブルーベルに所属したかったのだ。自分なら、きっと自分に秘められた能力を開花させて、今持っている技術も飛躍させる事ができたはず。どれだけ、あの蒼の制服を着た自分をイメージした事だろう。その記憶すら今では恨めしく、そして恥ずかしい。

「セレンちゃん!」ドアを開けるなり、ローゼの笑顔がセレンを迎えた。

 

「出演するんですか」

 

 そんなはずは無い。最終奏者である自分が出演時間間近に控え室に居るのである。ローゼが仮に、奏者であるなら。すでに演奏をお始めて居るか、少なくとも舞台袖で準備しておかなければならないからである。

 

「なんか勘違いされちゃって」苦笑するローゼ。

 

「そうですか」この人は何を考えてるんだろうと、セレンはローゼに冷ややかな一瞥をやってから、手近にある、テーブルの上に楽器ケースを広げた。

 

「へぇ、セレンちゃんは、横笛奏者なんだねぇ」ローゼはパタパタと楽器を構えるセレンの元に駆け寄るとのぞき込む様にしてそう言った。

 

「横笛でも間違いありませんが、この楽器の呼称はフルートです」

 

「凄いねぇ、こんなに細かいのセレンちゃんが全部作ったの?」

 

 今では珍しい、木管のフルートはそれは繊細な部品が多く、1管作り上げるだけでも、相当な時間を要するのである。

 

「当たり前です。私はフルート職人の卵ですから。それよりも、まだ無印なんですか」

 

 褒められてもそれを素直に受け取れないのがセレンの悪い所である。

 

 セレンは、ローゼの肩にまだ専攻エンブレムが着いていない事を確認してから、ローゼに言った。

 

「うん。まだ、見つかってないんだ」ローゼに後ろめたさは感じられない。

 

 わかって言っていても、やはり悔しいし、羨ましい。

 

「私とデルカンデしませんか」色々面倒くさくなって来たセレンは、事もあろうにローゼにデルカンデを申し込んだ。

 

「えっ?!でも、私楽器出来ないよ?」目を大きく見開いて驚くローゼ。 

 

「大丈夫です。私の後ろで、適当にこれでも叩いてて下さい」そう言うとセレンは、譜面台に掛けてあった、タンバリンをローゼに手渡した。

 

「でも、セレンちゃんの邪魔にならないかなぁ」タンバリンを受け取りつつ、不安を口にするローゼだったが、

 

「適当でいいいんですよ。適当で」満面の笑顔を浮かべるローゼの表情を見る限り、不安など皆無だろうとセレンは思った。

 

 ようやく2階魔女専用席に落ち着いたサフィニアは、スポットライトっで火照った顔に手で風を送りながら、一息ついて居た。やはり先輩とのデルカンデは緊張する、ダリアとデルカンデする時よりはずっと楽だったが、このままだと、あがり症癖がついてしまいそうだ。

 恒例の反省は数え切れない程ある。しかし、花束のそこそこ貰う事ができたし、最近にから言えば上々の結果であった。

 

「あっ」今になってローゼの事を思い出した。

 

 すっかりローゼの事を忘れてしまって居た。次が最終奏者である。今頃ローゼは、控え室で1人ぼっちだろう。次の奏者が演奏を終えたら、すぐに迎えに行ってあげよう。

多少の罪悪感を抱きつつ、サフィニアは緊張から解放された至福の時を座席に預けて、天井を仰いだ。薄暗いながらも天井には、鮮やかな壁画が描かれていた。

 

『本日の最終奏者。ベノアマエストロ所属 セレン・フランソワーズ。ブルーベル所属 ローゼ・ユナ。 曲目 カンツォーネ第8番』

 

 最終奏者がアナウンスされる。バイオリン奏者はサフィニア達5人で最後である。バイオリン奏者なら、サフィニアのライバル心に火が灯る所だが、次の奏者がバイオリン奏者ではない。演奏だけなら、目を閉じていても聴けるのである。

「はぁ!?」まったりリラックスしていたサフィニアは、バネ仕掛けのように座席から飛び出して、2階席の最前列から舞台を見た。

 

 すでに、会場全体がざわめき始めていた。奏者アナウンスで『ブルーベル』の名が流れたのは、数十年振りの事である。観客達も2階席の魔女達も顔を見合わせていた。

 拍手と共に迎えられた、セレンとローゼ。セレンはともかくとして、ローゼが持っているのはタンバリンではないか。再び会場が、ざわめいた。サフィニアは頭を抱えて、その場にうずくまってしまった。タンバリン片手に舞台に上がる魔女は演奏会はじまって以来ではなかろうか。観客にせよ魔女にせよ、ざわめきの中に笑い声も混じっている。

 

 それ以上に、どうしてローゼが舞台に上がったのだろうか。

 

「あの子って…ベノアで…」

 

 ローゼの前で主旋律を奏でる黄色いルーンの魔女。サフィニアには見覚えがあった、ローゼとベノアマエストロに行った時、自分から声を掛けておきながら、急に手の平を返したあの時の感じの悪い魔女に間違いない。名前も聞き覚えがある。セレン・フランソワーズ。

 ローゼは楽しそうにタンバリンを叩いて居た。見ているだけでそれが伝わって来る。

摩訶不思議な事に、セレンの奏でるメロディに合わせ絶妙なタイミングで、乾いた高音を響かせている。

 ローゼはこの楽曲を熟知しているのだろうか。『カンツォーネ第8番』サフィニアも聴いた事がない楽曲である。ローゼが打つタンバリンの音は、予めデルカンデ用に練習を重ねた音にしか聞こえない。熟練した演奏家なら、いきなりのデルカンデでもメロディに合わせる事が可能だが、それは多くの楽曲演奏した経験があってはじめて出来る芸当であって、決してローゼに出来るとは思えない。しかし、ローゼはそれをやってのけている。もし、偶然や奇跡を省いたとするなら、後に残るのはローゼ自身に備わっている音感以外にない。

 すでに演奏は終盤に入っている。この頃になると、1階席から笑い声は消えていた、陽気なベネチアンが拍手で調子を合わせている。これもなかなか見られない風景である。2階席も異様な空気が流れていた、すでに、ローゼを小馬鹿にした笑みを浮かべる魔女は誰1人として居ない。みな真剣に、メロディの乱れが無いか探っているのである。

 どれだけ、練習した所で相容れぬ楽器同士がデルカンデをすれば、メロディにずれが生じるはず……

 もし、完璧に演奏しようものなら、一目おかれる事は間違いない。

 

 セレンは何度か音を飛ばしていたが、サフィニアが聞いている範疇で今だローゼにミスは無い。

 

「……」 

 

 セレンはローゼに気を取られ、すでに何度も、音を飛ばしてしまっていた。観客にはわかるか否か、微妙な所だが、2階席の魔女にはミスだと気が付かれているだろう。

 それはどうでも良い、どうせ、消化演奏なのだから。気になるのは後ろでタンバリンを叩くローゼである。この楽曲を知っているんだろうか。カンパニーの所属図書で見つけたベニスの古典楽曲。約500年前に作曲されたこの楽曲を知る者はそう居るはずがない。セレンはそう思って選曲したのだが。ローゼは、完璧にデルカンデしている。相容れぬ楽器なのだ。一叩きすれば、音の相性の悪さに気が付き、叩く手を止めるのが普通、と言うか常識だ。こんなにリズミカルでありながらクラシックに絶妙に共鳴させるなど、認めたく無かったが、驚嘆するに十分過ぎた。 

 

 櫂を置くように静かに演奏を終えた……

 

 セレンは憮然としていた、こんなはずではなかった。それが正直な気持ち。いつもより大きな拍手と多くの花束、その半分以上は自分に向けられたものではない。セレンにはわかっていた。

 

「行きますよ」会釈を終えてから、セレンがローゼに言った。

 

 ローゼは花束を受け取るのに必死になっている。

 

「えぇ、でも、セレンちゃん!」ローゼの慌てて会釈をした後、両手一杯の花束を抱えたまま、出口側の舞台袖に小走りに入った。

 

出口側の舞台袖は入り口側とは異なり、舞台袖からそのまま細長い廊下に繋がっていた。その途中に2階席に上がる階段があり、演奏を終えた魔女はここから、後続の演奏を聴くのだ。

 

「ちょっと、あんた!」幕が降りた舞台袖にサフィニアの怒号が響いた。

 

「私は、ただデルカンデしただけですから」冷水の様な表情でセレンが答える。

 

 怒火を宿した眼と、それを冷然と見つめる瞳。お互いに譲るつもりも無ければ、妥協するつもりも無い。火花散るまさに一足即発の様相を呈していた。

 

「あぁ、サフィちゃんだぁ。見てみてぇ、こんなにお花貰っちゃった!」等の本人は喜悦の絶頂言う様子。

 

「失礼します」サフィニアの気がそれた隙にセレンは、その一言を残して廊下を歩いて行く。悪びれた様子の無い背中が、サフィニアの怒火を燃え上がらせた。

 

「セレンちゃーんっ!またデルカンデしようねぇー」ローゼは両手を口元に当てて、そう叫んだ。

 

 それに対してセレンは答えることなく、やがて、教館を後にしてしまった。

 

 

 教館を後にしたセレンは内心怯えていた。思い出すサフィニアの激昂。彼女は自分の意図を理解している。だから、怒っていたのだろう。

 足早に歩くセレンは、ホーエンハイム駅の前で立ち止まって、ようやく、振り向く事ができた。どうやら追いかけて来ていないようだ。幾分歩幅を縮めて再び歩き出すセレン。自責の念こそあり得ないものの、やはり自分が悪いのだろうと、空を見上げた。

 午後を過ぎて、ますます暑くなって行く。時折吹く海からの風が涼しくて気持ちが良い。器用に畳まれた露店を横目に、セレンは進む。本当なら、途中のカフェでお気に入りのチョコレートパルフェでもと思っていたが、どうもそんな気にはなれなかった。

 ホーエンハイム駅から終始、空を見上げて歩いて居た。セレンの視界に赤煉瓦の壁が入った。もうベノアマエストロに到着してしまったようだ。施設前の専用ポートには相変わらず定位置にゴンドラが繋がれている。セレンは施設とポートとを、両方見比べてから、ゴンドラに乗り込む事にした。季節のわりに風の多い今日は比較的波も高く、ゴンドラの動揺も大きかった。

 やはり、一方的な個人的感情だった。別段、迷っていた訳でもなかったが、セレンは明瞭な答えを出した。今日自分がローゼにした仕打ちは、八つ当たりでしかない。沸々と騒ぎ出す自己嫌悪感は、自分の行いを恥じて居るのだろうか。

 

 

 

 

   ~その信じる瞳に~

 

 

 

 

 

 師であるアリスは夕刻の定期船で帰って来る。膝を抱えてセレンは出来るだけ頭を真っ白にしようと、船底に溜まった水溜まりを見つめていた。オレンジ色に照らされた雲が水面に映る。落日の時は近い。

 セレンは今頃になって、右手にフルートが握りしめられているのに気が付いた。そう言えば、演奏し終えたまま帰って来てしまったのだった。ケースを控え室に忘れて来てしまった。手を開くと汗でぐっしょりと濡れていた、フルートは静かに水溜まりに、落ちて小さな水しぶきを立てた。

 

 ボォーボォー

 

 汽笛が聞こえた。

 セレンは慌てて立ち上がると、船底に落としたフルートを拾い上げると、海に向かって思いっきり投げた。フルートは綺麗な弧を描き、波間に着水した。波が高いせいか今度は水しぶきは立たなかった。その延長には、このポートに接近する定期船が見えている、きっとアリスが乗っているだろう。

 

 セレンは、それがわかると、急に忸怩にかられ魔女寮へ走ったのだった。

 

 

  

「ふぅ」セレンは、半身を起こして時計を探した。

 まだ、午後8時を回った所だった。やけに部屋の中が暗く感じる、ひょっとしたらすでに深夜なのではと期待していたのに落胆である。

 自室に逃げ込んでから、セレンはベットに飛び込んだ。そしてそのまま明日まで眠れと願いながら眠りについた。なのに、時計は8時を指している。余計に落胆だ。部屋の外は、夕食の真っ最中だろう。今晩はオムライスにしようと朝、出立の前に決めたのだ。だが、今晩は食べられそうにない。部屋から出るとアリスと出会ってしまう。本当はアリスと食卓を囲みながら、ネオフィレンツェの話しも聞きたいし、アリスの事である、絶対に自分にお土産も買って帰ってくれているはずなのだ。

 だからアリスと会えない事の方が空腹にも勝る。でも、今夜はアリスの顔を正面から堂々を見れない気がした。

 

 

「セレンちゃん居ないなぁ。怒っちゃったかなぁ」食堂を見回しながら、アリスは呟いた。 

 

 アリスは夕方の便に間に合わず、ついさっき帰って来たばかりだった。

 

 セレンに夕方の便で帰ると伝えていた為、到着後は急いで、魔女の正装である漆黒のマントと同じく漆黒の三角帽子を部屋に置き、お土産で膨れた紙袋を両手に持って、食堂に急いだ。

 約束には厳しいセレン。部屋で膨れているだろうか、この紙袋の様に、っと紙袋を見やった。セレンは悪く無いのである。アリスはフルート職人としても奏者としても、多忙な日々を送っており、たまに取れた休日にも、突然クライアントが訪問してきたり、公演の打ち合わせが入ったりと、セレンとの約束をまともに守れた試しがなかったのだ。

 

 グゥゥ

 

 謝りに行くべきなのに、お腹が鳴る。今日は午前中で仕事が終わるはずだった。なのに、結局次回公演の打ち合わせで、午後にもつれ込んでしまい、午後から予定していたお買い物も十分できず昼食も食べられず仕舞いだった。その為、お腹の虫が激しく騒ぎ立てるのである。

 

「セレンちゃん怒ってるだろうなぁ。でも、空腹に負けた私ったら…駄目よねぇ」

 

 空腹に負けて、しっかりナポリタンを注文してしまったアリスは、運ばれて来た。見るからに食欲をそそる赤い宝石に、口元を綻ばせた。勿論、味は絶品。しかし、両脇に置いた、お土産が恨めしく自分を見ているようで食事中は内心穏やかではなかった。

 食事を終えてから、恐る恐る、セレンの部屋まで行き、ドアにノックをする。セレンから返事はなかった。

 

「セレンちゃん。私よ。アリス」

 

 セレンからの返事は無かった。それほど怒って居るのだろうか。

 

「セレンちゃん。もう寝てる?」

 

 今日中に謝っておきたい。明日も朝から、ベネチアに行かなければならない。帰りは夜である。何としても今日中に。アリスはいつもより大きな声で、ねばり強くセレンに呼びかけた。

 

 

 アリスが自分を呼ぶ声が聞こえる。セレンはベットから起きあがれずにそれを聴いていた。いつもは一言で帰るアリスが、今日はねばり強い。それだけ怒っているのだろうか。それも納得できる、冷静になって考えて見ればセレンが全て悪いのだ。アリスが夕方以降に帰ってきた事を除けば。

 自分はベノアマエストロにスカウトされた才能を持っている。職人としても、演奏家としても、羨望の眼差しを受けている。自分は恵まれているのだ。どちらかと言えば羨まれる立場にいる。それなのに、それなのに、ローゼの事が羨ましい。無印で才能の有無もわからない、魔女としては自分の方が余程恵まれているはず、なのに、ブルーベルに所属していると言うだけで、ローゼが羨ましいし、負けた気持ちになる。しかし、それはローゼが悪い事でも無ければ誰が悪い訳でも無い。

 

 どんなに思いを巡らせても、結局は自己欺瞞でしかないのだ。

 

「入ってもいいかな?お話があるの」

 

 憧れに偽りは無い。今更ながらだが、ベノアマエストロも居心地が悪い訳ではない。食事は美味しいし、師は優しくて大好きだし。後者がベノアの居心地が良い最大の理由なのだが……

 枕に顔を埋めるセレン、きっとアリスなら「謝りに行こう」と言うに違いない。大きな溜息をつく、妙に湿り気のあるなま暖かい息が顔全体に広がった。息も苦しい。顔を上げれば楽になるだろう、しかし、セレンは顔を上げられずに居た。今までにない虚脱感がそれを許さないのだった。

「今日はもう寝るんです」振り絞ってやっと言えた一言。なのに、か細くて鳴き声の様な声になってしまった。

 

「セレンちゃん」セレンの声を聴いて、アリスはドアにもたれかかった。

 

 部屋の中から聞こえた声は寂しそうで、細くて、泣いているように聞こえた。自分がまたセレンを傷つけたと思いこんだアリスの胸は、はち切れんばかりに傷むのだった。

 

 

 翌日の午前中は比較的涼しかった。昼を過ぎると、さすがにここの所続く猛暑の様相だったが。

 ブルーベルではせっせと午後の窯入れの準備が行われていた。ルシアは午後からの目玉商品であるパーネットーネの生地を作り始める。本来ナターレ(クリスマス)に食べられるこの、パンとケーキを混ぜたようなこのパンは、パリダのみならず、ネオフィレンツェなどでもポピュラーなパンである。一昔前までは各家庭で作られていたが、現在は購入するのが一般的となっている。

 ルシアの作るパーネットーネは一際有名で、ナターレが近づくとネオフィレンツェや遠くは、ウィーンからも注文が来る程である。

 

「ルシアさん、二次醗酵見てきますね」

 

「ローゼちゃん、お願い」

 

 ルシアがパーネットーネに取り掛かると、ローゼは決まって朝の仕込みで二次醗酵にかけておいた生地を見に行く。このパーネットーネ生地だけはルシアが、キッチンで作るからである。朝から気温が高いサラマンダー月の間は、ほとんど心配はないのだが、たまに、醗酵が進んでいない生地があったりする。そんな生地を見つけると、人肌よりも少し高めに窯を暖めて、その中に生地を移し醗酵を促す。

 今日の醗酵具合は良好。後は形成を待つのみである。

 

「ローゼちゃーん、お茶にしましょー」

 

 薪でも割ろうかと気合いを入れて腕まくりした所で、ルシアから声が掛かった。いつもなら、パーネットーネ生地を醗酵にかけてからお茶にするのが習慣なのだが。今日はいつもより早いお茶の時間である。

「はーい」ローゼはエプロンと三角巾を取りながら、パタパタとショーウィンドー前のテーブルに走って行った。

 テーブルにはエプロン姿のルシアと、黄色ルーンの制服を着た魔女が座っていた。制服からベノアマエストロの魔女だと言う事はわかったが、見た事のない顔だった。

 

「こちらは、アリス・アインシュタインさん」

 

 ルシアが紹介すると、アリスはペコリと会釈をした。

 

「わわわっ、私はローゼ・ユナです。初めまして」ローゼも自己紹介をしてから、深々と会釈を返す。

 

「ご丁寧にありがとう。ルシアちゃんのお友達のアリスです」そう言って、アリスは、またローゼに会釈をした。。

 

「まだ見習いでもない、駆け出しのローゼです」ローゼも会釈。

 

「ローゼちゃん、座ったら?」見かねたルシアの一言である。

 

「はっ、はい」

 

ルシアに促されて、ローゼはアリスの向かい側に腰を降ろした。ローゼは何が起こるのやらと半信半疑でアリスとルシアを交互に見やった。

 そのうちルシアが、ローゼに紅茶を淹れてくれて、ローゼがお礼を言うと、ルシアは意味深にウィンクを残してキッチンに消えてしまった。まだ、生地が完成していなかったらしい。

 

「ローゼちゃん。昨日のデルカンデ、楽しかった?」ティーカップを持ったまま、上目遣いに、そう聞くアリスは、どこか不安げな表情だった。

 

「はいっ!とっても楽しかったです。花束も一杯もらいましたし」ローゼは昨日のデルカンデを思い出して、瞳を輝かせた。

 

「よかったぁ。うちの子と演奏したんですってねぇ」胸をなで下ろしたアリスはそれとなく話題を変えた。

 

「セレンちゃんです。フルートがとっても上手なんですよっ!」

 

 それはアリスが一番よく知っている。

 

「そうなんだぁ、セレンちゃんの事どう思った?」相槌を打ってから、続けてアリスがローゼに質問をする。余程気になるのだろうか、ティーカップを持ったまま身を乗り出している。

 

「うーん。ちょっぴり照れ屋さんだけど、フルートが大好きな女の子。でしょうか」

 

 鳶色の瞳が次第に大きくなって来る。ローゼは顔を後ずさらせながら、すでに椅子から腰が離れてしまっている、アリスにそう答えた。

 

「ふーん」ローゼの返答にアリスは椅子に座り直し、そう言って何かを考えるように、上目遣いで紅茶を一口含む。 

 

「セレンちやんを見てると、きっと師導者の方も楽器が大好きなんだろうなぁ。って思いました」ローゼも、ようやく紅茶に口を付けて、温かくそう言った。

 

「うん、私も大好きだもの」上目遣いのまま、アリスが呟いた。

 

「へっ?」

 

「私、今何か言った?」真面目にとぼけるアリス。 

 

ローゼはそんなアリスに向けて、首を大きく上下させるのだった。

 

 

 セレンはゴンドラの上に腰掛けて、水平線を眺めていた。今日も研修はある、しかし、不思議とここに朝からずっと座っているのだ。舳先には、どんぐりの両端に細く長い木材を取り付けなおかつ、その両端に双方同じ重さの木の実が刺してある玩具が左右に揺れている。これはアリスのお土産で『やじろべぇ』と言うらしい。両端の木の実にはそれぞれ、ナイフとフォークを象った楊枝が刺さってもいる。時折、撫でる風に身体を左右に揺らしながらも、ちゃんとバランスを取って倒れないで居る。不思議と飽きないこの玩具をセレンは眺めるのが好きだった。

 昨日、ドアを開ければ良かった。心配性のアリスの事、きっと今日は早く帰って来て、何が何でも自分に会おうとするだろう。セレンの事になると、アリスは何でも差し置いてしまう。セレンはそれを良く知っていた。

 現在アリスは、何十人もの楽器製作依頼を抱えている。だから、出来るだけその妨げにはなりたくない、セレンはそう強く思っていた。なのに結局、今日に長引かせてしまった。本気で自己嫌悪である。

 そう言えば今朝、セレンの郵便受けに溢れんばかりのお土産が詰め込まれていた。犯人は誰有ろう、最愛の師アリスである事はすぐにわかった、好意のつもりだろうが、はっきり言って迷惑である。魔女達みんなが、目を止めては眉を顰めて通り過ぎて行く。

 

 なぜか、自分が不潔だと言われてる様な気がしてならなかった。  

 

「やっぱり…」セレンはくだらない事を思いだした後、溜息をついて膝を抱えた。

 

 アリスにこれ以上迷惑をかけない為には、自分で謝りに行くほか無い。色々誤魔化す方法を巡らせて見たが、結局、行き着いたのは『素直な謝罪』だった。

 ブルーベルに赴いて、ローゼに謝るのは当然として。カンパニーに泥を塗ったのだから、代表であるルシアにも謝罪しなければならないだろう。あの、微笑みのルシア・アンジェリカは自分に対して怒るだろうか。想像もつかなかったが、基本的に魔女は誇り高い。マーリンなら尚更。

 ありもしない想像だけがセレンを萎縮させ、腰がどんどん重くなって行く。顔を上げると、相変わらず、やじろべぇが揺れていた。セレンにはそれが自分をあざ笑って居る様に見えて仕方なかった。

 セレンは四つ這いになって、舳先まで行くと、やじろべぇを引ったくると力一杯握りしめた。そして、その手を振り上げる。  

 また、八つ当たり。力を込めた右腕をだらりと降ろすと、恐る恐る手の中を見た。手の中には、無傷のやじろべぇ。ほっと胸をなで下ろすセレン。新しい後悔をしなくてすんだ、アリスから貰った大切な宝物を自分の手で壊す所だった。

 

 短気は損気。昔の人は上手く言ったものである。 

 

 

「おやおや、魔女さん。定期船を待っているんですか?」

 

「なんで、アリス先輩がここにいるんですか!?今日もネオフィレンツェに行くはずじゃなかったんですか!?」四つ這いの状態から。首だけを激しく声の方に向けたセレンは、そこに師導者であるアリスの姿を見た。

 

「えっえっとね、ほら、朝は波が高かったから」そう言いつつ、アリスはセレンから視線を外した。

 

 嘘が下手な、先輩を察するのはあまりにも容易であったが、セレンはそれ以上、言葉を続けなかった。 

 

「一緒に言いに行こっ、ごめんなさいって」

 

 アリスは、セレンが見つめる水平線に視線を移しながら、静かにそう語りかけた。

 

「……」はっとするセレン。思わずアリスの顔をみやる。そこには視線で海猫を追う大きな先輩の姿があった。

 

「嫌です」セレンは立ち上がると、揺れるゴンドラに苦戦しながら、なんとか桟橋の上に上がった。

 

「セレンちゃん」

 

「お子ちゃまじゃないですから、1人で行きます」

 

 アリスに迫るとセレンは、強くそう言って1人で歩き出してしまった。

一緒に行ってもらわなくても、1人で行けるに決まっている。今し方、1人で行こうと決めたのだから。確かに途中で怖じ気づいたし、確かに、一緒に行ってもらえたら、心強いとも思った…。

 

 でも今、1人で行くと決めた。

 

 焼けた地面を歩いていると足の裏が仄かに温かくなってくる。海に足を付けたら気持ち良い事だろう。ホーエンハイム駅まで早足で来たセレンはそう思って足を止めた。ようやく傾き始めた太陽の下、すでに露店が店を開けている。サラマンダー月は観光客がパリダにもっともを訪れる月。だから、その観光客相手に早く店を開けているのだろう。

 

「何か用ですか、アリス先輩」セレンが振り返ると、露店の影に隠れるアリスの姿があった。

 

「べっ、別にセレンちゃんの後をついて来た訳じゃないのよ。その、あの、そうそうっ、露店でお買い物しようと思って」また視線を外してアリスが惚ける。

 

「ついて来ないで下さいよっ!」

 

 眉間に皺を寄せて、セレンは一喝した。買い物客が振り返るのと同時に、アリスは完全に露店の影に身を隠してしまった。 

 

「(まったく)」セレンは無言で毒づいた。

 

 しかし、そのお陰で、足取りは軽くなった気がした。果たしてそれが、アリスがついて来ている安心感からなのか。後ろにアリスが見ている手前、必ずブルーベルへ行く事を腹に据えたのか。何れにせよ、セレン自身にもよくわからなかった。

 ブルーベルへ続く坂道を登っている間、セレンは何と言い出せば良いだろうかと思案していた。常套句調で謝罪するのが、一番ベターなのだが、それでは感情移入に欠けてしまう、義務的に謝っても気持ちが伝わらなければ意味がない。

 

 泣いた方がいいだろうか。セレンの思案はよからぬ方向に向かいつつあった。

 

「演技って…」さすがに、それは酷すぎる。そんな事をするくらいなら、常套句を並べた義務的な謝罪の方がましだ。他人は欺けても、後に忸怩の念を背負うのは自分自身なのである。自分自身を欺くなど出来ようはずがない。

 

 セレンは、立ち止まり溜息をついてから、急に振り返った。 

 

 思った通り、坂の中腹には林檎だろうか、赤い果実の一杯入った紙袋を抱える、アリスの姿があった。アリスは、急にセレンが振り返ったので、慌てて隠れる所がないかと、首を激しく左右に振ってみたが、一本道の坂道には隠れる所などあるはずもなかった。あまりに激しく首を振ったが為に、抱えていた果実が茶褐色の坂道にこぼれ落ちてしまっている。

 1人でてんやわんやの大騒ぎをするアリス。セレンはまた一つ溜息をついてから、アリスの元へ駆けて行った。 

 

 

 その頃、アリスは、こぼれ落ちた林檎を拾おうと、しゃがんだ拍子にまた林檎が袋からこぼれてしまい、どうしようもなく、ただたじろぐばかりであった。

 

「しっかりして下さい、アリス先輩」駆け寄ったセレンが、新たにこぼれ落ちそうだった林檎を、何とかキャッチして言う。

 

「ごめんねぇ。ついつい買い過ぎちゃって」

 

「それで、何しに来たんですか」セレンは、林檎を紙袋に戻しながら、そう言った。

 

「ルシアちゃんに、林檎頼まれてたの」自信ありげに、答えるアリス。

 

 どうやら、セレンに見つかった時の事を考え、言い訳を事前に考えていた様である。

 

「はぁ、転がって行ったのは良いんですか」無惨に坂を転がっている林檎を見下ろしながらセレンが言う。

 

「えっと、これだけ有れば足りると思うんだけど…」そう思い出す様に話す。アドリブも下手なアリスだった。

 

「もう良いですよ。アリス先輩、一緒に来て下さい」

 

 上目遣いでセレンを窺うアリスにセレンは、諦めた様にそう言った。アリスは、「セレンちゃんがそう言うなら」と嬉しそうに答えて、セレンよりも先に歩き始めた。

 

「セレンちゃーん!」

 

 アリスに続いて歩き始めたセレンを後ろから呼ぶ声がした。振り返るまでもなく、それが誰であるかセレンにはわかった。

 

「はぁはぁ、坂道、結構辛いね」

 

 林檎を抱えて坂道を駆け上がって来たローゼは、呼吸を整えながら、驚愕の表情を浮かべるセレンに話しかけた。その後方には、両腕を頭の後ろに回している、サフィニアの姿も見受けられた、つんけんとした表情でセレンを見つめている。

 想定外の展開である。まだ心の準備が出来ていない。セレンは額を痙攣させながら、内心に秘めた驚嘆をどう鎮めていいかわからないでいた。

 

「あぁ、この林檎ってひょっとしてその紙袋のじゃ…」

 

「さっき、こぼしちゃって」そう言いつつ照れ笑いをするアリス。

 

「ブルーベルにご用ですか?」ローゼはそう言いながら、アリスの抱える紙袋に林檎を戻した。

 

「うん。私はルシアちゃんにこの林檎を届けに行く所なの。でも、セレンちゃんは、ローゼちゃんとお話したいみたいよ」

 

「アリス先輩!」余計な事をとセレンが抗議の声を挙げた。

 

「じゃあ、私はブルーベルに行くわね、ごゆっくりぃ」

 

 アリスはセレンの抗議も無視して、一方的にそう言うと、後ろ手に手を振りながら、歩いて行ってしまった。

 

「アリスさんって、セレンちゃんの」

 

「指導者です」

 

「やっぱりそうなんだぁ、今朝ね。ブルーベルでお話ししたんだよ」

 

「えっ」

 

 と言う事は、港にやって来たのはブルーベルからの帰りだったのか。

 

 軽蔑にも似た鋭い視線を送り続けるサフィニアは、自分の視線を気にするセレンに気が付いたのか、坂の町側に設置されてある石造りの塀まで移動し、視線を町の方に向けた。

「楽器ができない事がわかってたから、デルカンデ誘ったんです。ごめんなさいサフィニアが移動してから、間髪おかず、セレンは大きな声でそう言うと深々と頭を下げた」

 

「えっと…?」ローゼは狐につままれたように、ぽかんとしていた。

 

「セレンちゃん?デルカンデとっても楽しかったよ。セレンちゃんが誘ってくれなかっ

たら、あんな素敵体験できなかったと思うもん。だから謝る事なんて無いよ」

 

「それじゃ駄目なんです。教館の演奏会にタンバリンで演奏する奏者はいないんです」

セレンはまだ、頭を下げたまま言う。

 

 いっそ激しい激昂で叱責してくれた方が、楽だとセレンは強く思った。ローゼは、意地悪く惚けているのではないだろう。あの時の悦喜が嘘だとは到底思えない。

 だからそこ、セレンの罪悪感は深まる一方だった。

 

「でも、タンバリンだって立派な楽器だよ」さらりと言うローゼ。

 

 ローゼにとってそれは当然の事なのである。楽器の次元が違うと言ってしまえばそれまでだが、サフィニアしかりセレンしかり、高度な楽器職人見習い兼奏者としては、タンバリンなど低級な楽器は眼中に無く、もっと言えばオーケストラ編成で用いられる楽器以外も眼中に無かった。意識してそうしていたと言うよりも、自然とそう意識する様になってしまって居たと言うのが正しい。名だたる先輩や同僚達を意識すると否が応でもそうなってしまう。

 ローゼの一言は、職人を目指す二人にとっては、多くの意味を含む動揺を与えた。

 

 町を眺めて居たサフィニアも思わず振り返った程である。

 

「サフィちゃんやセレンちゃんみたいに、楽器は弾けないけど、タンバリンもカスタネットも音は出せるし、リコーダーならちょっと自信あるかも、みんな立派な楽器だよ!」

 

『初心忘れるべからず』二人はローゼにそう言われた気がしてならなかった。思い出せば幼少の頃、音楽の入り口だったのは、ローゼの言った楽器達。自分達が低級だと見下していた楽器達なのだから…。 

 

「なんか食べに行かない?」急にサフィニアが提案した。

 

「さっき、お昼食べたばかりだよサフィちゃん」

 

「女の子にはもう一つお腹があるでしょー」サフィニアはようやく口元を綻ばせた。

 

「じゃあ、私お団子ぉ!」

 

「ブッブー」

 

 ローゼの個人的主張は、甘味の代表と言えばお団子。しかし、それはサフィニアによって呆気なく却下されてしまった「えぇ~」と抗議するローゼだったが、聞き入れられる事はなかった。

 

「パルフェなんてどうですかか?」恐々としながら言うセレン。

 

「合格!」

 

「バンザーイっ!」

 

 セレンの提案後、サフィニアは即決し、それを聞いたローゼが万歳をした。とにかく満場一致をみた。

 

 

 

「ぱへぇ~♪ぱへぇ~♪ふんふんふ~」ローゼは楽しそうに鼻歌混じりに、両手を大きく振って坂を下って居る。

 

「パルフェだから」

 

 ローゼの背中にそう、つっこみを入れるサフィニアはセレンと列んで歩いている。 

 

 セレンの行きつけのパルフェ店は教館の近くにあったのだが、サフィニアがホーエンハイム駅経由で行くと言い出し、今は坂道を下って居る所だった。

 

「もう、怒らないんですか…」

 

 教館で自分を呼び止めたサフィニアは、セレンがローゼに行った事の意味を知っているはずだ。

 

「別に、もう良いかなぁって。謝ったんだし」また、両手を頭の後ろに手をやりながら、サフィニアは言った。

 

「でもローゼ先輩は何の事かわかってません」セレンはそう言うと寂しそうに俯いた。

 

 そんなセレンを見て、

 

「あれよ、知らない方が良い事もあるって言うでしょ。ローゼは楽しかったって言ってるんだし」ローゼの後ろ姿を見ながら、声をかけた。

 

「…」

 

 その言葉に対して、無言でサフィニアを見上げるセレン。

 

「サフィで良いわ」

 

「サフィ先輩」

 

「お礼なら、私のもう一つのお腹に言う事ねぇ」セレンの言葉を遮る様にサフィニアが言葉を重ねる。

 

「じゃあ、そうしますね。サフィ先輩の食いしん坊の別腹さんサンキューでした」

 

 調子を取り戻して、セレンが憎々しくサフィニアに言う。

 

「素直じゃ無いわねぇ」呆れた表情で言うサフィニアは、とやかく言わずその一言で住ます事にした。

 

「サフィちゃーん!セレンちゃーん!。2人とも早くーっ」

 

 先を歩いていた、ローゼはいつの間にその距離が大きくなってしまっていた。ローゼは坂の麓で両手をメガホンにして話しながら歩いていた、二人を声を張り上げて読んでいる。

 

「ねぇ、負けた方が奢りってどう?」サフィニアが悪戯な笑みを浮かべながら言った。

 

「望む所です、受けて立ちましょう」セレンも悪戯な笑みを浮かべる。

 

 2人は一度顔を見合わせてから、一斉に駆け出す。どちらが先にローゼの元に辿り着けるか。2人のパルフェをかけた戦いは、ローゼの知らない所で熱くその炎を滾らせるのだった。

 

 

 

  ~その伝う涙の理由は~

 

 

 

 

 そろそろ、落日の頃だろう。パリダの町が一番活気づく時間帯は食料品通りはちょっとした混雑である。ローゼ、サフィニアと別れたセレンは、道の真ん中で本日の戦利品を自慢し合う観光客を厭わしく思いながら、ベノアとは真逆方向に足を進めていた。

 2人はとても気持ちの良い人間であり先輩であると、セレンは確信した。確かにローゼは序列から言えば、自分よりも後輩にあたるわけだが、セレンはローゼの人間性に自分に欠けているもの、見習うべ点を見出せたと思うのであった。

 『魔女の誇り』とは、己に奢る事なく、己の真を姿を透かして見る眼を持つ。そして、然るべき時は頭を垂らす事ができる。これを満たす者だけが、持つ事を許される。

 

 ベノアの制服に初めて袖を通した日の研修で言われた言葉である。セレンには良く意味が理解できなかったが、最近、だから魔女は礼儀を重んじるのだろうかと、気が付いた。礼儀を重んじる事は、己を律する事に繋がるらしい。アリスからそう言われて、しばらく性に合わない事を続けてみたが、どういう意味で自分を律しているのか、逆にわからなくなってしまった。

 

「アリス先輩、居るかな」  

 

 食良品通りを抜けた先には、殺伐とした岩肌を見せる崖が眼前に広がる。ここは昔、大型船の停泊する港が造くられるはずだったのだが、ここまで切り開いて海底が遠浅で有ることが判明し、工事が中止になったのだと言う。固い岩盤に無数に残る楔の後が生々しく工員苦労を今に伝えている。

 セレンは、その岩肌に取り付けられた細い階段を登り始めた。この階段は人1人が通れる幅である為、上から誰か降りて来ないだろうかといつも心配になる。

 階段を登りきると、下から見上げた風貌からは想像できない、スペースが広がっている。オープンスペースはフローリング仕様になっており、テーブルと一体化しているパラソルは海から吹く涼やか風に端を靡かせている。

 

「セレンちゃん」

 

 もっとも海が綺麗に見渡せるテーブルに1人佇んで、アリスがティータイムを決め込んでいた。

 

「やっぱり居ましたね」セレンは風に飛ばされない様に帽子を押さえながら、アリスの隣に腰を降ろした。

 夕暮れの迫る、『終着のカフェ』は魔女にとっては穴場である。最寄りのカンパニーウェノサ・ヴェノサからも十分に距離があるし、食料品通りを抜ければ特に目立った店もなく、この崖が町の終着である事と相俟って魔女を始め観光客も足を延ばさないのである。

 書籍を片手に一人でテーブルに座る周りの男性客から一斉に溜息が漏れる。いつもの事とセレンはあえて無視を決め込んだ。

 

「ブルーベルでお話したの?」

 

「それなら、アリス先輩が知ってるはずですよ」

 

「あぁ、そうねぇ」惚けた様にアリスは言った。

 

「ありがとうございましたアリス先輩、ごめんなさいって言えました」

 

 セレンは、そう言った後、ウェイターにアイスココアを注文した。

 

「そっ」

 

 自分が朝ブルーベルに言った事をセレンが知らない前提でアリスは相づちえお打った。

 

「それから、すみませんでした。今日お仕事お休みしたの、私の所為なんですよね」

 

「朝はほら、私が寝坊しちゃって…」自信なく人差し指を立てて言うアリス。

 

「波が高かったんじゃないんですか」呆れて言うセレン。

 

 港でアリスと会った瞬間にセレンは直感していたのだ。アリスは自分の為に仕事をキャンセルしたのだと。以前にも同じような事があった、あの時はセレンが風邪を押して演奏会に参加したが為に、次の日高熱を出して寝込んでしまったのである。その時も、アリスはその日の仕事を全てキャンセルして、1日中セレンに付きっきりで看病した。

 そんな事があってから、セレンは体調管理はもちろん、ベノアの規則も良く守るようになった。自分の為ではなくアリスの為に。

 

「本当はね、昨日の事は今朝知ったの。今日、仕事をお休みしいたのは、セレンちゃんと1日一緒に過ごそうと思ったからなのよ」アリスは澄んだ瞳で優しく微笑んだ。

 

 アリスはセレンとの約束を守れない事が、堪らなく寂しかった。忙しくなる以前は当たり前の様に一緒の時間を過ごして居たというのに……

 セレンは仕事だからと、いつも許してくれていたが、アリスにとってはそれすら歯がゆかった。休みが取れたと思った次の瞬間には、仕事の連絡が入る。その繰り返し、最近こうして、終着のカフェでのんびりする暇もなかった。仕事がある日でも出来るだけ、時間を割いてはセレンと一緒に居る様にしているが、夕方まで研修のあるセレンと時間を合わせる事はとても難しい。

 そんな日々が続く中。ついに昨日セレンがそっぽを向いてしまった。それはアリスが一番恐れて居た瞬間であった。今更反省しても仕方がない、このままではいつかこんな時がやって来る。そんな事は随分前から予見できていた。ついにセレンが怒ってしまった。わかっていたのに、是正しなかったのは全て自分の責任である。

 心底反省したアリスは、朝一番に仕事先にキャンセルを連絡し、せめて、気持ちだけでもとセレンの郵便受けにお土産を詰め込んだのである。

 セレンが朝食前に、郵便受けを確認する習慣を知っていたアリスは、驚いて食堂に駆け込んで来る可愛い後輩を待っていたのだが、そこで、魔女達がしきりに話題にしていた、昨日の演奏会の話しを聞き挿み、驚いたアリスは居ても立っても居られなくなって、ブルーベルに直行したのであった。ローゼが昨日の演奏会をどう受け止めているかを探ってみたのであった。

 落ち込んだり、怒って居れば、師導者としてローゼとルシアに謝ろうと思っていたが、想定外にローゼが喜んで居たのを見て、ほっとした。無論、その後ルシアを話をした際、それとなく謝ってはおいた。

 

「休んだりして、仕事が減ったらどうするんですか」親の心子知らず、手厳しいセレンの一言である。

 

 運ばれて来たアイスココアのグラスを弄びながらセレンは、内心の嬉しい気持ちをどう誤魔化そうと必死だったのである。

 忙しくなる前、セレンはずっとアリスと共に行動していた。演奏会で自作のフルート

を演奏できるのも、アリスの教えの賜であることは言うまでもない。

 セレンは、アリスの作るフルートの音が好きだった。透き通った音色は優しく柔らかく、それでいて、ビブラートの様な耳に残る存在感。この楽器が評価されないのは、演奏家の見る目が腐っているからだと自信を持っていた。

 そしてアリスの楽器が評価されるようになると、アリスはセレンの隣に居ない日の方が多くなってしまった。それでもセレンは自分自身が望んだ事が現実のものとなったの事が嬉しかったし、最愛のアリスが1流の楽器マイスターとして認められ、その名が広く知られる様になった事は、弟子であるセレンの誇りでもあり一番嬉しいことでもあった。

 だから、アリスが約束を守れなかったとしても、怒る道理なのど持ち合わせていなかったのである。今までも、これからも。

 

「もちろんお仕事も大切よ。でもね、私には、セレンちゃんとこうして一緒に居る時間の方がもっと大切なの」

 

 不意なそよ風が2人の前髪を優しく撫でた。 

 

 夕日が水平線と交わる夕方はゆっくりと暮れて行く。

 

 口を摘むんで瞳を潤ませるセレンは、今にも泣きそうだった。感情を抑えられなくなってしまったのだ。

 

「えっぇっぇっ?!どっどうしたのセレンちゃん」セレンの頬を伝う涙を見て、アリスが慌てて、立ち上がる。その表紙に膝をテーブルにぶつけてしまい、自分の紅茶をこぼしてしまった。

 

「ドジっ子禁止ですよアリス先輩。まったく、私が居ないと駄目ですね」

 

 セレンはそう言いながら涙を拭うと、ポケットからハンカチを取り出して、アリスに差し出した。

 

「セレンちゃん。ありがとう」アリスは差し出されたハンカチを満面の笑顔で受け取った。

 

 この日、終着のカフェで話し込んだ後、ベノアに帰ってからもセレンとアリスはずっと一緒に居た。共有できなかった長い時間を取り戻すかのように。

 

 夜が更けても二人はなかなか眠らなかった。

 

 ローゼとサフィニアがお友達になってくれた事、切っ掛けは何であれ、久々にルシアと話が出来た事。それぞれに話題はなかなか尽きない。

 

 沢山笑って、いっぱいあくびをして、パリダの夜は更けていくのであった。

 

 

 

 

 ~その先に見つめるものは~

 

 

 

 シルフ月が終わり、いよいよノーム月に突入したパリダには、海に替わって季節風が山から吹き下ろす様になり、人々に冬支度を優しく告げるのだった。

 この季節は魔女にとっても、町の人も忙しくなる季節でもある。なぜなら山から季節風が吹いて、魔女達がサバドから帰って来ると、町中がナターレの準備を始めるからである。

 

「3泊なんてあっと言う間よねぇ」四阿でお茶を飲みながらサフィニアが言う。

 

「私は2泊ですけどね」そう言うのはセレン。

 

「今日ルシアさん達帰ってくるんだよねぇ」続いてローゼ。

 

 ここ4日間、華やかな魔女の町、セトクレアセタ・パリダからマーリンの姿が見当たらない。それと言うのもマーリン達全てがネオフィレンツェで毎年開催されるサバド(魔女集会)に参加しているからなのである。

 サバドは歴史が古く、現カンパニーの元となった3ギルド時代から続く、マーリンの書を持ち得る最上級魔女のみが参加許される、魔女の魔女による魔女の為の集会である。

 

「あぁ~ダリアさんも帰ってくるのよぉ~」

 

 サバド期間中、ローゼ1人となったブルーベルに泊まり込みでまったりしていた代償を嘆くサフィニアだった。

 

「アリス先輩はウィーンに行くと言ってましたよ」内心お土産を楽しみにしているセレ

ンはアリスの帰りが待ち遠しい様子である。

 

「奇遇だねぇ、ルシアさんもウィーンに行くって言ってたよ」

 

「そう言えばダリアさんもそんな事言ってたっけ」 

 

 遅い紅葉に染まる山から吹き下ろす少し冷たい風の下、ブルーベルの四阿で朝のティータイムを決め込む3人、サバドが終わり、今日中に帰って来るであろうそれぞれの師導者へ向ける思いも三者三様である。

 

「サバドって何するだろうねぇ。きっと素敵なんだろうなぁ」湯気の立つマグカップを片手に思いを巡らせるローゼ。  

 

「1日目は座りっぱなしで2日目以降は自由みたいですよ。アリス先輩みたいに、示し合わせて旅行に行くもよし、ネオフィレンツェで過ごすもよし」得意げになってセレンが話した。 

 

「門外不出。マーリンしか知る事を許されないサバドをなんで、お子ちゃまが知ってるのよ」サフィニアはまるで信用していない様子だ。

 

「アリス先輩がそう言ってました」サフィニアの指摘にさらりと答えるセレン。

 

「にゃんと!」 

 

「あらら」

 

 ローゼとサフィニアの頭の中ではニコニコと笑顔で手を振るアリスの姿が思い浮かんだ。そして、アリスならば、セレンに容易に話してしまうだろうと、安易に納得できてしまった。

 

「まっ、実際にマーリンになって見ないと、真相はわかりませんけどね」

 

「疑っちゃ悪いよぉ、セレンちゃん」苦笑いでそう言うローゼだったが、

 

「いえ、アリス先輩は時々、お茶目な嘘をつくんですよ」セレンは断言しいた。

 

 そんな会話を聞きながら、サフィニアはすっかり冷めてしまった紅茶に視線を落としながら大きな溜息をついた。  それに気が付いた2人がサフィニアに視線を向けた。

「どうかしたんですか、サフィ先輩?」空になったマグカップをテーブルに戻しながらセレンが言った。

 

「マーリンになれるのかなぁ、ってさぁ」そう言い終えてサフィニアはまた溜息を一つ、ついた。

 

「そうですね…」 

 

 魔女になった者は各カンパニー問わず共通してマーリンを目指す。1人前の証拠でもあり、魔女としての栄誉であるマーリンの書は、無論、見習い魔女全員に授与される訳ではない。毎年、多くの新しい魔女が見習いがパリダに降り立つのと同時に、パリダを去る魔女も少なくない。

 目標を持って毎日、鍛錬に励んでいても「マーリンになれなかったら」と言う不安はついて回る。しかし、だからと言って、マーリンへの近道があるわけでもない。だから皆一様に自分を信じて師導者の教えを守って、日々鍛錬に励んで居る。

 

「私は、もっと素敵を探したいかなぁ」

 

 空になったポットを持って立ち上がったローゼは、脈絡の無い事を言い出した。

 

「ローゼ!シャラープ」

 

「今は、マーリンの話ですよ、ローゼ先輩」

 

 当然、二人のブーイングがローゼに向けられたが、

 

「もちろん、マーリンになった後だよぉ、ほら、ルシアさんやアリスさん、それにダリアさん。みんなパリダを出て、色々な場所で活躍してるでしょ?私も、パリダを出て、アクアの素敵をもっと見てみたいなぁって」ブーイングをもろともせず、ローゼは町並みから続く海を見つめて、そう話した。

 

 そして、「お代わり淹れてくるね」と言い残し、四阿を離れた。 

 

「うなぁー」

 

「一本取られましたね」

 

 後に残された二人はなんだか恥ずかしい気持ちになっていた。

 

 目指すはマーリン。マーリンになる為の鍛錬。マーリン…マーリン…

 

 考えて見れば、サフィニアしかりセレンしかり、いつの間にかマーリンになる事が終着点になってしまっていた。勿論、マーリンになることは意義のあることであり、問答無用で目標に足るのだが、それでは、マーリンになった途端に目標を見失ってしまう事になる。マーリンになってからどうするのか、それが大切なのであってマーリンは終着点でもあり出発点でもあるのだ。それを二人はローゼの言葉で気が付かされたのである。

 

「まだ見習いにもなってないのに、マーリンが通過点だなんて、言ってくれるわねぇ」

そう言いつつ、サフィニアはセレンに視線をやった。

 

セレンは頷いて、

 

「私達も、壮大で高い志も持たないとですね」力強く言うのだった。

 

 

 朝夕冷えるパリダも日中はポカポカ暖かく、屋根でお昼寝をする猫が羨ましい陽気だった。

 モーニングティーを終えた3人は、本日帰って来るルシアを驚かそうと、大掃除を始めた。三角巾にマスクをし、それぞれ手にはバケツやはたき、箒を持って。朝日が見下ろす引き締まった空気の中、始められた大掃除は昼食を挟んで夕方近くまで続けられた。

 取り分け、サバド休業が開ける明日は、日頃と比べられない程のお客さんでごった返すのだとルシアから聞いていたローゼは、店舗フロアを細部に至まで念入りに拭きあげた。 

 

「あぁっ!お帰りなさーいっ」

 

 仕上げに3人で店先の掃き掃除をしていると、ルシアが手を振りながら坂を登って来るのが見えた。  

 お土産だろうか、行きに持って行ったキャリーバッグ以外に、紙袋を携えていた。

 

「セレンちゃーん、ただいまぁ」

 

 ルシアの後ろには、両手に収まりきれない程の紙袋を携えたアリスの姿も窺えた。アリスは何が嬉しいのだろうか、とにかく嬉しくて仕方が無いと言った様子だった。

 

「アリス先輩」

 

「もしや………」サフィニアが絞っていた雑巾を、はらりとバケツに落とした。

 

 身構えたサフィニアだったが、その予想ははずれたようであった。アリスの次に姿を見せたのは、白のルーンが刻まれた制服を着た魔女であった。

 純白に見える制服にはうっすらと銀色で象ったルーンが見える。目を凝らさなければ確認しずらいルーンだったが、太陽光を正面に浴びたルーンは浮かび上がるように煌めいている。

「初めまして、ミネルヴァ・エスコルチアです」ポーチ一つで歩いて来たミネルヴァはそう、自己紹介して目を丸める三人に会釈した。 

 

「ローゼ・ユナです」

 

「サフィニア・K・エルテンピヨーテです」

 

「セレン・フランソワーズと申します」

 

 3人はワンテンポ遅れてから慌てて、三角巾やらマスクやらを取り、身だしなみを整えてから、自己紹介をした。

 

「聞いてた通り、みんな可愛いわね。うふふ」3人を順番に見てミネルヴァが微笑んだ。

 

 ミネルヴァの長髪が微風に揺れると、清潔感のある甘い芳香が鼻腔を擽った。

 

「駄目よミネルヴァちゃん。セレンちゃんは私の教え子なんですからね」

 

 しばらく、ミネルヴァに見とれていた3人だったが、その沈黙を破ったのはアリスだった。頬を膨らませながら、セレンの背中からそう言ったアリスは「行きましょぉ」っとセレンの両肩を持って、そのまま店内に押して行ってしまった。

 

「アリスちゃんたら、くくっ」ミネルヴァはそんなアリスを見て、お腹を押さえながら笑いを必死にこらえて居る様子だった。

 

「…」

 

「…」

 

 そんなミネルヴに呆然とする2人。

 

 ミネルヴァはとても不思議な印象だった。引き込まれるような漆黒の瞳と碧色の髪。白とは相容れぬはずのコントラストが妙に引き立って見えた。

 

「ローゼちゃんもサフィニアちゃんも、一緒にお茶でもどう?」

 

 店の入り口で待って居たルシアがそう言うと、

 

「頂きますっ!こりゃローゼっ、行くわよ!」笑顔を咲かせて駆け出すサフィニア。

 

「あぁっ、うん」ローゼも、サフィニアに続いて店内に入って行った。

 

「さて、私はダージリンを推薦するわっ」紫色のラベルの缶を見せながらサフィニアが自信ありげに言う。 

 

「みんな疲れてると思うから、カモミールティでリラックスって言うのは?」カモミールの入った瓶を指さして、ローゼが言う。

 

「疲労回復でしたら、ロシアンティーなんてどうですか?茶葉はアールグレイがおすすめです」

 

 ブルーベルのキッチンで3人固まってひそひそと相談である。

 テーブルでは旅先の話で盛り上がっている様だった。3人連れだって旅行に行ったようだ。故にルシアとアリスの行き先が同じだったのである。

 盛り上がるテーブルに佇む3人をどうお持て成すか相談していた3人はそれぞれの提案を巡らせた上で「せーのっ」サフィニアの合図と共に、

 

「「「ロシアンティ」」」と満場一致をみたのであった。

 

 出来るだけ、3人の会話を邪魔しないようにと、声のトーンを落として、話す3人は

時折、ショーケースから3人の様子を窺い見ては、お茶の準備に勤しんだ。

 

「ローゼ、ジャムお願いね」

 

「苺とマーマレードでいいかなぁ?」引き出しから小瓶に入ったジャムを取り出してローゼが呟いた。 

 

「グッジョブですよローゼ先輩。つけ合わせは昨日買ったラスクで良いですよね?」

 

「「グッド!」」

 

 バスケットに入ったラスクを2人に見せながらそう言ったセレンに、ローゼとサフィニアは親指を立てOKサインを出した。

 

「後はお湯の沸騰を待つだけね」火に掛けたポットの蓋を開けて、気泡の騒ぎ始めた中を見てサフィニアが呟いた。 

 

「しっかし、こんなタイミングでミネルヴァ・エスコルチアに出会えるとは思わなかったわぁ」つま先立ちでショーケース越しに楽しそうに笑うミネルヴァを見て、サフィニアが話した。 

 

「そんなに凄い人なの?」サフィニアに続いてローゼもつま先立つ。

 

「知らないんですか?ローゼ先輩。ミネルヴァ・エスコルチアと言えば、声楽の本場ウィーンでその美声に列ぶ者なしと讃えられた人物ですよ」説明しつつ、セレンはジャンプをした。

 

「聖天の美声とかセイレーンとか呼ばれてるらしいわ」

 

「アテナの生まれ変わりとも言われているそうですよ」

 

「凄いんだねぇ」

 

 言葉を失ってしばらく3人を見つめていた3人だったが、

 

ピィィィー

 

 汽笛を鳴らした様なポットの沸騰音で我に帰り、わたわたとそれぞれの持ち場に戻って、ティーセットを完成させた。

「一杯目はカップに注いで持って行くのがパリダ式なんですよ」得意げにセレンはそう言うと、高い位置からお湯を注いだ。

 

「じゃあ、私、運んで来るから、ローゼお湯お願い」ウィンクをしてみせるサフィニア。

張り切って居る様である。

 サフィニアを見送ってから、ローゼが残ったお湯をティーポットに移していると、

 

「ぎゃーすっ!!」突然、サフィニアの驚愕の声が店内に木霊した。  

 

 ローゼが慌てて、見に行って見ると、お盆を抱えたまま硬直しているサフィニアが居た。

 

 そして…

 

「サフィニアっ!ここに居るならここに居るって言っとけ!パリダ中探し回ったんだぞ!」

 

 額に汗を浮かべたダリアが勢いよく店内に雪崩込んで来た。

 

「ま、ま……窓の外に張りついてたのよ」ダリア登場と共に、ローゼの後ろに隠れたサフィニアがローゼに囁いた。

 

「大体、ルシアにアリスも知ってるなら教えてくれればいいんだ!」次は驚く3人に牙を剥く。

 

「違うの、私達も知らなかったのよ」アリスは首をぶんぶん振って、そう言ったが……

 

「うふふっ」ルシアは確信犯なのだろうか。

 

「ルシアァ、お前ってやつわぁ」

 

「暴力は駄目よダリアちゃん」慌てるアリス。

 

 いよいよ、怒り狂うダリアは額に青筋を浮かべて、ルシアに歩み寄った。

 

「さぁさぁ、ダリアさんも一杯どうですか?アールグレイティがベースのロシアンティです。疲れも取れると思います」

 

 一際薫り立つティーカップを携えて、セレンがキッチンから出て来る。虚を衝かれた様に、静まりかえる店内。雰囲気に呑まれず堂々とダリアにお茶を勧めるセレンはまるでダリアの本心を見透かして居る様だった。

 

「ほう、私は紅茶にはうるさいぞ」

 

 落としどころとダリアは、ルシアの隣に腰を降ろすと、セレンからティーカップを受け取った。

 

 セレンはそれとなく、ローゼとサフィニアに親指を立てて見せた。

 

 ローゼはそれに頷いて答える。

 

「ほら、サフィニア」

 

 さすがに、この場の空気を考えると、些かやりすぎたと反省するダリアは、顔を紅潮

させながら、サフィニアに小さな箱を投げて渡した。「へっ?」両手で受け止めたサフィニアはただ呆然とダリアを見つめていた。

 

「ダリアさんたら、あなたにそれを早く渡したいからって、私達と別れて先に帰ったのよ」

 

 静観していたミネルヴァが、ダリアの過剰な演出に笑いをこらえながら、呆然とするサフィニアに説明してくれた。

 

「私は本当に怒ったと思っちゃった」アリスが頬を膨らませてそう続けた。

 

 受け取った小箱を開けたサフィニアの表情はたちまち綻びを見せた。中には赤真珠のイヤリングが入っていて、これは以前、ネオフィレンツェに二人して赴いた時に、サフィニアが一目見て気に入ったイヤリングであった。

 

「うりゅうりゅ、覚えててくれたんですね」サフィニアは溢れんばかりの涙を浮かべて

ダリアにお礼を述べた。

 

「おっおいっ、なんで泣くんだ。欲しかったんだろ?」いきなり泣き出したサフィニアに、ダリアはたじたじである。

 

「素敵な泣き虫さんだぁ」ローゼが、うれし泣きするサフィニアをはやし立てると、

 

「いらないなら私が貰いますよ」セレンもローゼに続けてそう言った。

 

「2人ともシャラープっ」

 

 サフィニアが涙を拭いてそう言うと、一度冷めた空気が瞬時に暖かく温もった。

 

 

 サバドが終わり、パリダでもナターレの準備が本格的に始まった。露店に列ぶ商品の数も増えれば、ネオフィレンツェやベネチア、ウィーンから来た露天商が絢爛豪華な装飾品を広げる。

 ナターレに始まるセトクレアセタ・パリダの冬季行事は年を跨いだエピフィニアを迎えてようやく幕が降りる。それまではゆっくりと、今年1年を振り返りながら暮れて行く年に想いを馳せるのである。

 町中の空気が色めく中、リリー・マトリカリアだけはどんよりとした空気を纏って居た。気が付けば溜息をついている。

 

「集中出来ない…はぁ」真っ新のノートを見てリリーは溜息をついた。

 

 朝から続く見習い魔女合同勉強会も、すでに終盤に差し掛かっている。

 

 気分も乗らなかったし、講師の話も全く耳に入らなかった。

 

「ダメダメ、今は講義に集中しなきゃ」1人気合いを入れるリリー。 

 

 そんなリリーと椅子一つ挟んだ隣で講義を受けていたセレンは、溜息をついたり、かと思えば、独り言を呟く、まるで喜怒哀楽を演じているようなリリーが気になって講義に集中出来ないでいた。

 とは言え、今回の講義内容はすでにベノアの研修で学習していて、別段集中できなくても構わなかったのである。むしろ、暇つぶしになってよかったかもしれない。

 

「(あらら)」 

 

 リリーが必死に筆を走らせ始めたのを見て、セレンは暇つぶしもこれまでと、講義の暇つぶしにと、わざわざベノア付属図書館から借りて来た、古典楽曲のスコアを取り出して、いそいそと譜読みを始めた。

 

「それって、バーバリアンですよね?」

 

 全体の半分程譜読みが終了した所で、セレンは不意に話しかけれた。

 

「……そうですけど」

 

セレンが顔を上げると、そこには隣で喜怒哀楽を演じていた、シルバーブロンドの魔女が居た。

すごいですね。もう半分も終わってるんですねぇ。私は全部終わるのに1日かかっちゃいました」はにかみながらリリーが言う。 

 

「演奏した事でもあるんですか」目を細めてセレンが返事を返したが、どこか毒のある物言いであった。

 

 演奏会の時、セレンはわざと誰も知らない古典楽曲を演奏する。当然、観客達は聞き覚えのないメロディに顔を見合わせるのだが、その動揺を見るのがセレンにとっての悦楽であり、優越の一時であった。カンパニーの先輩魔女の中には、それを否とする声も聞こえて来るが、セレンは気にせず古典楽曲の練習を続けている。

 

「うーん。主演じゃないけど、一様、この前ネオフィレンツェで公演したんだよ。喜劇バーバリアンを」厳密に答えるリリーであった。

 

「そうですか」納得して答えるセレン。  

 

 バーバリアンは楽曲でもあるがその前に、有名な喜劇でもある。そこまで知っている以上、この魔女は知ったかぶりをしているわけではなさそうである。

 

「私、リリー・マトリカリアと言います。セレン・フランソワーズさんですよね?」 

 

「その通りです」

 

 些か無愛想にそう言ったセレン。それは、どちらかと言えば驚愕の影響だろう。リリー・マトリカリアと言えば、自分と同い年でありなあがらウェノサ・ヴェノサのエースと噂される才女である。そして、先日ブルーベルで初めて相会った、ミネルヴァ・エスコルチアの弟子である。 

 

「セレンさんは古典がお好きなんですね。演奏会では良く拝聴させてもらってます」趣味の合う仲間を見つけた様に話すリリー。

 

「古典が好きなんですか?」

 

 セレンの好む古典楽曲のほとんどはオペラや喜劇などの為に作曲されたものが多く、

演目名では有名でも楽曲だけではほぼ無名と言うものが多い。にも関わらず、その良さがわかると言うリリーは余程、古典が好きなのだろうか

 

「勿論大好きです!それと、私、声楽家志望なので、歌う機会も多くて」

 

「なるほど、あっ…この後時間ありますか?美味しいパルフェを食べさせる店をしってるんですけど」

 

 セレンはようやく、講義が終了している事に気が付いた。

 

「えっとすみません。この後、ちょっと用事あって…」俯いてそう言うリリー。

 

 その表情から、少なくともその用がリリーにとって楽しみにしていない事柄である事は、容易に窺い知ることができた。

 

「それじゃ仕方ないですね」あっさりとそう言いとセレンは、スコアを鞄に片付けて席を立った。リリーの目前から離れる瞬間、リリーの溜息が聞こえた。

 

 セレンは、何か言葉を掛けようか、考えてみたものの、今知り合ったばかりで特に親密な間柄と言うわけでもなく、そんな義理もない。帰りに1人でパルフェを食べて帰ろうと思いつつ、ドアの前まで来ると不思議とにローゼの顔が浮かんだ。徐に振り返って見ると、リリーは、俯いたままテーブルの前に立ちつくして、今にも泣き出しそうな雰囲気を醸して居た。

 

「フレッド・ドルチェと言うお店です。もし用事が早く終わったら、来て下さいね」

 

セレンは自分が何を口走っているのか自身でも驚いた。らしくない事は言うまでもない。こう言うのはローゼの担当であり、ローゼのなせる業なのだが、

 

「はいっ!必ず行きますね」俯いて居たリリーが精一杯の笑顔でそう答えた限りは、結果オーライである。

 

 

 人を笑顔にするのは悪くない。むしろ気持ちよい、初めて人を笑顔にしたセレンは、いつも周りの人を笑顔に変えるローゼが羨ましく思えた。

 セレン行きつけのフレッド・ドルチェは教館を通り過ぎてから2つ目の水路沿いに店を構えていた。お天気の日は水路を望むテラス席でパルフェを頬張る事ができる。

 夕方を目前に控えて、セレンの足取りは随分と軽かった。アリスから今日は夕食までには帰ると聞いている。甘さ控えめでビターなチョコレートソースが、たっぷりかかったパルフェを食べてながら、のんびりまったりして、それからゆっくりとベノアに帰れば丁度定期船と鉢合うかもしれない。

 

「なんと……」

 

 水路に出る角を曲がった所でセレンの足が止まった。フレッド・ドルチェのテラス席には多くの観光客の姿があったからである。

 想定外っと、唖然とするセレンだったが、テラス席が空くのを見るやいなや、全力疾走でこれを手に入れた。テーブルの上を片付けに来たウェイターに一押しのチョコパルフェを荒い息で注文して、ようやく一息つくことができた。それにしても、これまでの想定が根底から覆りそうである。なんとかパルフェは食べられそうだが、通りを行き交う観光客の喧騒の中、どうやってものんびりまったり出来そうにない。するとどんなに歩みを遅めても夕暮れ前にベノアに到着してしまう。アリスが帰って来るまで小

時間程待たなければならない。

 

「(これだから観光客は…)」

 

セレンはそんな中途半端な時間が嫌いだった。何をするにもようやく集中し始めた頃に作業を終えなくてはならないからである。とは言え、部屋でボーっとしているのも、もっと嫌だ。そうなれば、スコアの譜読みが一番有力である。

 

「ハァハァ、セレンさん…」リリーが息せき切って駆けてやって来た。

 

 リリーはテーブルに片手をついて肩で息をしている。

 

セレンは店内にすし詰め状態の観光客達に、滑稽だと言わんばかりの視線をくべていたのだが、突然のリリーの登場に驚きのあまり、目を丸くしてリリーを見上げているに留まって居た。

 

「…座ってもいいですか?」何度目っかの深呼吸の後にリリーはそう言った。

 

「……どうぞ」頷いて一言。

 

 丁度その頃、セレンが注文したチョコパルフェが運ばれて来た。店内の観光客を見る限りでは、もう少し時間がかかるかと思っていた。

 

「私も、同じ物を下さい」

 

呼吸を整え、ウェイターに注文を終えた、リリーは意味深に俯いて見せる、

 

「用事があったんじゃなかったんですか?」そう聞いてほしいとばかりに。

 

「…その…逃げて来ちゃいました…」神妙な面持ちである。

 

「聞いても良いですか?それとも聞かない方がいいですか?」雰囲気から察するのはセレンは苦手だった。

 

「プランロッテの関係者の人と会う予定だったんです」

 

「お誘いですか」セレンはチョコソースがたっぷりとかかった生クリームを半分程スプーンで抄って口へ運んだ。

 

「えっ…何でわかったんですか?」リリーはきょとんとしてセレンに聞き返した。

 

「私も、ベノアに所属する前、ネオフィレンツェのプランロッテからスカウトされたんですよ。即答で断りましたけどね」平然と言ってのけるセレンであった。

 

 プランロッテは音楽専門の大学を指し、ネオフィレンツェやウィーンに指の数だけ、存在している。一般の入学とは別枠に推薦入学が設けられてあり、音楽に関して特化した才能の持ち主のみがスカウトされるのである。セレンの所属するベノアマエストロでは、見習いマーリン問わず毎年、数名の魔女がプランロッテに引き抜かれている為、セレンにとっては、特別珍しい事ではなかった。しかし、リリーの所属するウェノサ・ヴェノサでは稀な事であり、カンパニーで2人目の栄誉なのであった。

「断るなら、はっきりと言った方が良いです。もし、しつこい様ならカンパニーを通じて断れば確実ですよ」

 

「いえその…私、歌うのが大好きなんです。だから、プランロッテに移ったとしても、歌が歌えるのに代わりは無いから…」苦笑しながらそう言うリリー。

 

 その苦笑を見る限りでは、カンパニーとプランロッテ。二者択一の狭間で悩んで居る様では無いようだ。

 

「ネオフィレンツェには定期便もありますからね」それなら話が早いと、セレンは論点を変更した。

 

「ネオフィレンツェじゃなくって、ウィーンなので、ちょっと遠いかなぁ、とか」

 

運ばれて来た、パルフェに視線を落としてそう言ったリリー。

 

 一方、セレンは一抹の劣等感に気分を害していた。ウィーンのプランロッテと言えば、自分がスカウトされたプランロッテよりも格上であり、ベノアでもそうそう声のかからない高レベルプランロッテなのである。

 

「(自慢したいのかな)」

 

 何でも悪い方に考えてしまう。そんな、セレンの悪い癖が再び顔を覗かせる。ここ最近は、ローゼの影響か良い方向へ考える傾向が続いていたのだが、ここに来て、軽い劣等感がそれを思い出させてしまったようである。

 

「行きたくないと言うよりも…行った方が良いような気がして」スプーンを両手で握り締めて、リリーは俯いた。

 

 セレンはそんなリリーを見て、思わずパルフェを食べる手を止めた。

 

「ミネルヴァ先輩は…本当ならもうパリダを出て…アクア中で活躍出来る実力を持ってるんです。だから私がプランロッテに行けば…先輩をパリダに縛り付ける足枷がなくなるから……」掠れた声で所々言葉に詰まりながら話した。

 セレンからはリリーが泣いている姿は確認出来なかったが、余程思い悩み、苦しんで居たのが痛いほどわかった。

 

「自慢じゃ無いですが、私の指導者もちょっとした有名人なんですよ。だから私も、自分が足枷になってるんじゃないかと思った事があるんです。もし私が居なければ、ウィーンかネオフィレンツェに工房を開いてるかも知れないとか思ったりして」底に残ったアイスを突きながら、セレンはそれとなく話始めた。

 

 てっきり、自慢話かと思って居たセレンだったが蓋を開けて見れば、過去に自分も経験のある悩みであった。有名な師を持つが故の悩み、師を思うがあまりの悩み。セレンの場合はリリー程深刻に悩む事は無かったが、本気で悩んだ事は事実だった。

 

「だから、それとなく先輩にその話しをしてみたんですよ。そしたら、私が居るから仕事もがんばれるし、毎日が楽しいんだって言ってくれたんです」

 

 セレンはすでに、リリーがどうすれば良いかを知っていた。それは一見すれば簡単な様に見えるかも知れないが、今のリリーには難しい解決方法なのかもしれない。

 

「……」充血した目を袖で拭いながら、リリーはセレンの話に聞き入っていた。

 

「それに、私の先輩は例え、私が居なかったとしてもパリダを離れないと思いますしね」

自信満々に言うセレン。

 

「どうしてですか?」

 

「アリス先輩はパリダが何処よりも大好きな、正真正銘本物のパリダっ子ですから」

 

そうセレンが言い切った瞬間、水を駆け抜ける風と共に、頭上に鼓翼が響いた。

 

「羨ましい。先輩の事を良くわかってるんですね」

 

 アドリア海へ飛び去る鳩の群れを見上げながら、リリーはそう呟いたが、その表情に

微笑みが宿っていた。まるで、セレンを羨むどころか、自分もミネルヴァの事なら誰にも負けない程よくわかっていると誇示しているかのように……

 

「今度 ブルーベルへ行って見ませんか?」

 

「ブルーベルへですか?」首を捻るリリー。

 

「ブルーベルに、何でもかんでも笑顔にしてしまう不思議な先輩がいるんですよ。それ

にパンも美味しいですし」

 

 後者は別として、セレンはリリーをローゼに合わせたいと思った。自分ではここまで限界である。続きはローゼに任せた方が良いに決まっている。身をもってローゼの不思議な感性に触れたセレンの選択であった。

 

「はい、是非ご一緒させて下さい」

 

そう言ったリリーは心なしか元気を取り戻した様子であった。

 

 一方その頃、ブルーベルは、比較的暇な時間帯を迎えていた。朝夕の間であるこの時間帯に訪れるお客は少ないのである。

 

 ローゼはこの時間帯を、店内清掃の時間に充てていた。

 

「あぁーミネルヴァさんだぁ」

 

 ディスプレイウィンドーの向かい側に店内を窺うミネルヴァの姿が見えた。

 

「こんにちは、ローゼさん」

 

「いらっしゃいませっ!」

 

 笑顔で迎えるローゼだっったが、ミネルヴァは何かを探すように、キッチンの方へ視線を泳がせている。

 

「ルシアさんですか?」

 

「お仕事忙しいのかしら…?」

 

「ルシアさんなら中庭に居ますから、今呼んで来ますね。掛けてお待ち下さい」ローゼはミネルバにそう促してから、廊下の奥へ姿を消した。

 

 工房から中庭に出たローゼは、ルシアの姿を探した。

 

「あっ、ルシアさん。お客さんですよ」

 

 薪割り場にルシアの姿を見つけたローゼは、駆け寄りルシアに来客を知らせた。

 

「私にお客様?」額の汗を拭いながらルシアがローゼに答えた。

 

 どうやらルシアは薪を割って居た様で、周りには真っ二つに割られた薪が散乱していた。

「ミネルヴァさんです」

 

「……そう。ローゼちゃん、悪いんだけどお茶の用意頼めるかしら」ルシアは少し考えてからローゼにそう言うと、店内へと戻って行った。

 

「任せて下さい!」ローゼもそう答えながらルシアに続いて店内へ戻った。

 

 キッチンの入り口でルシアと別れたローゼは、早速、お茶の準備にかかった。

 

 ローゼはアリスからお土産に貰ったお茶の封を破った。なんでもこのお茶は『B地区日本及び東南アジア有人保護域』から輸入された珍しお茶だそうで、円柱形の缶には『緑茶』と書かれてあった。

 缶を開けると、とたんに香ばしくも青臭いような、今までに香った事のない奇妙な香りが鼻腔を擽った。茶葉も見た事のない鮮やかな緑色をしていて、まるで絵の具から出した色のようだとローゼは思った。

 

 紅茶と同じ様に茶葉にお湯を注ぐと、薬湯に似た濃い緑色と良薬を思わせる匂いがした。それはカップに注いだ後も変わらず、あまりの色にローゼはそのお茶を出すのを躊躇ったが、多少味が悪かったとしてもそれはそれで話題になって良いかもしれないと、

お茶請けのラスクをバスケットに並べると、ルシアの元へティーセットを持って行った。

 

「お待たせしましたぁ」

 

「ありがとう、ローゼちゃん」テーブルへ並べるのを手伝いながらルシアがそう言った。

 

「ありがとう」とミネルヴァ。

 

 ローゼはお茶を配り終えた後、テーブルの端に立って、ずっと二人の様子を窺っていた。果たして、二人はこのお茶にどんなリアクションをするだろうかと。

 

 やがて、ミネルヴァがカップに手を伸ばし、口元へやる。ローズの緊張も高まる瞬間

であったが、 

 

「うっ……苦い…」思わずミネルヴァが口元を手で押さえながらそう言って苦笑した。

 

「ローゼちゃん、紅茶と同じだけ葉を入れた?」つかさず待機していたローゼにルシアが聞く。

 

「はい…?」

 

「このお茶の葉はね、紅茶の葉よりもずっと濃いから、紅茶の半分位で良いのよ」 

 

「そうだったんですか…すみません。すぐに淹れ直して来ます」

 

 ルシアの指摘を受けてローゼは顔を青くしながら、急いでティーセットを片づけようとテーブルに戻った。すると、

 

「緑茶なんて久しぶりだわ。ローゼさん、ここにお座りなさいな」ミネルヴァは控えめな微笑みを浮かべながら、自分の隣に椅子をローゼに勧めた。

 どうやら、ミネルヴァは緑茶を飲んだ事がある様子だった。どこか懐かしむ様に濃いお茶に視線を落としている。

 ローゼがルシアに意見を求めると、ルシアは黙って笑顔を返してくれた。

 

「懐かしい。確か、アリスさんが初めて緑茶を淹れてくれた時も、こんな味だった」

 

ローゼが椅子に座ると、ミネルヴァはローゼに話しかけるようにそう話した。

 

「実は、このお茶もアリスさんから頂いたものなんです」

 

「やっぱり」ミネルヴァは嬉しそうに頷いた。 

 

「ミネルヴァちゃん。リリーちゃんは元気してる?」

 

 唐突にそう切り出したのは、ルシアだった。

 

 ミネルヴァはやるせないような表情で、俯き加減に、

 

「最近、何かに悩んでいるみたいなの、きっとプランロッテの事だと思う」

 

 聞き覚えのある名前にローゼは、ホーエンハイム駅で出会ったシルバーブロンドの魔女の顔を思い出した。確か、パステルと言う犬を連れていた。

 思い出したものの、さすがにこの雰囲気でそれを言い出す訳にもいかず、口を一文字に結んで、話の流れを見守る事にした。

 

「リリーちゃんスカウトされたのねぇ、すごいわ」そう言うルシアだったが、とても本心からの言葉に聞こえない。

 

「リリーちゃんなら、十分ありえる事です。私は、リリーちゃんの好きなように思い通りにさせてあげたいと思っています。少しは引き留めるかもしれませんが…ただ、リリーちゃんが私に何も話してくれないから、私もお話ができなくて」ミネルヴァは深刻な胸の内をルシアに明かした。

 

 ルシアはいつもの笑顔を幾分押さえて、ミネルヴァの話を真っ直ぐ聞いていた。

 

「この手の噂は、本人が知らないだけで、ものすごい早さ知れ渡るものです。もうウェノサ・ヴェノサ中の魔女が知っているのよ。本当なら私が一番に聞くはずなのに……」 

 どうやら、ミネルヴァの中で答えは出ている様子であった。ただ、リリーがいつまで経っても自分に相談してくれないもどかしさと、幾ばくかの焦りがミネルヴァの不安を掻き立てたのだろう。そして、何を言いたいでもなく、ただ話を聞いてもらいたい為にブルーベルを訪れた。ルシアを見ているとそれを全て理解した上で、聞き手に徹している。そこにはローゼの知らない、絆があった。

 そんな二人を前にしてローゼは、自分がここに居て良いのだろうかと疑問に思い始めた。

 

「あの…」ローゼが口を開いた瞬間、

 

「ローゼさん、出来ればリリーちゃんにそれとなく聞いて見てもらえないでしょうか」

ローゼの両手を握ってミネルヴァはそう言った。

 

「あの、はい、えっと、あぁ」ローゼが対応に困り、ルシアを見ると、ルシアは困った表情でただ苦笑している。

 

「はぁ、私ってば駄目ですね。自分の教え子の悩みも聞いてあげられないなんて」再び俯くミネルヴァ。 

 

「大丈夫ですよっ。きっと、リリーちゃんはミネルヴァさんに心配させないようにって、今は話せないだけだと思います。私だったら、そうしますから」次はローゼがミネルヴァの両手を握って力強く言い切った。

 

「えっ…」ローゼの言葉にミネルヴァは、目を丸くして驚いた。

 

「そうね、ミネルヴァちゃん。もう少し待ってみたらどうかしら」ルシアもローゼに続けた。

 

「私、お茶淹れ直して来ますねっ!」

 

 ルシアに視線を移したミネルヴァにローゼはそう言うと、ポットを持ってキッチンへ駆けて行ってしまった。

 

「思いやりがあってともて愛らしい子ね。ローゼさんは」ローゼの背中を追いかけるように視線をキッチンに向けてミネルバがルシアに言った。

 

「リリーちゃんも、とてもいい子じゃない」ルシアがそう言うと、

 

「ええ、リリーちゃんも愛らしくて優しいとてもいい子よ」ミネルヴァはそう言断言した。

 そしてすっかり冷めてしまった。お茶を一口飲んで、

 

「やっぱり、苦いですね」ミネルヴァはルシアに笑いかけるのだった。

 

 

 

 

 ノーム月ともなれば、落日はまさに釣瓶落としの様相である。ミネルヴァが帰る頃にはすっかり日が沈んでいた。

 ミネルヴァはリリーについて懸案を抱いたままではあったが、会話を重ねるうちに随分と顔色が鮮やかになったとローゼは思った。

 ミネルヴァを見送った後、ルシアにそれを話してみると「たとえ解決出来なくても、誰かに話すと楽になるのよね」と言いながらローゼに優しく微笑みかけた。

 今夜の夕食は本来ローゼの当番だったのだが、突然ルシアが腕を振るってくれると提案してくれたので、ローゼはそれを喜んで受け入れた。

 テーブルに水差しなど、食器を並べていると、キッチンからジューシーな音と共に香ばしいトマトソースの匂いが漂って来る。今晩のメニューはルシア特製オムライスのようだった。弾む胸を押さえながらローゼは、思わずキッチン駆けて行きたくなる衝動を抑える為に、店の外へ飛び出した。すっかり冷たくなった風と澄んだ空気。パリダでは気温が下がれば下がる程、空気が澄んで星がより鮮やかに、より美しく見えるらしい。ルシアにそう教わって居たローゼは冬の到来が待ち遠しくて仕方なかった。

「たまには雨も降らないとねぇ」分厚い雲に覆われた空を見上げて、ローゼが呟いた。

 今夜は生憎の空模様だったが、ルナのように定期的に映し出される天気よりも、気まぐれに変わる空模様がローゼにとっては未だに新鮮であった。

 パリダで初めての年越しが近くなって来た。思えば、これまで色々な事があった。一度に思い出すのが勿体ないくらいに……思い返すと、摩訶不思議も多くあった。降り立ったホーエンハイム駅で猫にもらったダンネンベルグ金貨。思えば、この金貨のお陰でブルーベルに辿り着けたのである。

 ローゼは静寂に包まれた町を見下ろして思った。今自分がこうしてこの場所に立って居ることを、幼少の頃パリダを訪れた時、自分は一瞬でも想像ができただろうか。運命があるとするなら、きっとそれは今までに出会った全ての人達の導きなのだろう。そんな風に感慨に浸るローゼにはこみ上げてくるものがあった。

 見下ろす町並みにはすでに煙突から煙りを上げる家も見受けられた。

 感慨に一通り浸った後の、ローゼは無性に何かをやり遂げたくなった。何をと言うわけでもなく、また、その何かも思い浮かばなかったが、とにかく意欲が高揚して仕方がなかったのである。

 

「よぉーし!」

 

拳を突き上げて、歩き出したその時。不意に冷たい何かが拳に触れた。

 

「ほへっ?」

 

 不思議に思いつつ空を見上げると。そこには空一面に広がる粉雪が見えた。静寂の夜闇に振る粉雪は、当たりをより一層静かにして、町に降り注いだ。

 ローゼは袖に付いた結晶を見つけると、脱兎の勢いで店の中に駆け込んで、

 

「ルシアさん!見て下さい!!」とルシアに駆け寄った。

 

「どうしたの?ローゼちゃん」オムライスの盛りつけをしていたルシアが、袖を見せつけるローゼに疑問符を飛ばした。

 

「あぁ…雪ですよ!初雪です!」

 

 雪の結晶はすでに無く、湿り気だけが残っていた。それにローゼは落胆しつつも、気を取り直して、ルシアの手を取って外に飛び出した。

 

「まぁ本当。今年は去年より少し早いわねぇ」

 

「私本物の雪って初めて見ました。それに触りました!」ローゼは手の平で水滴に変わる雪を見ながらルシアに笑いかけた。

 

 

「うん。大丈夫だよ。長靴猫?、うんわかった。正午の大砲だね。うん。じゃあねぇ」

 店内にはオムライスの良い香りが充満していた。雪を見ながらの夕食などと、なんて贅沢なのだろうと、ローゼはルシアの顔と窓の外を行ったり来たりしながら、ルシア特製オムライスに舌鼓を打っていたのだが、そこへ一本の電話が掛かって来た。

 

 相手はセレンだった。

 

 明日昼食を一緒にどうかと言う用件で、サフィニアとリリーも誘ってあるとの事。

 ローゼは受話器を戻すと、テーブルでローゼを待つルシアの元へ駆けて行った。

 

「サフィニアちゃん?」ルシアはローゼのコップに水を注ぎながらそう聞いた。

 

「ありがとうございます。いいえ、セレンちゃんでした。明日のお昼一緒に食べようって」

 

「そう。明日は私も暇だから、ゆっくりしてきてね」

 

「いいんですか!わーいっ」はしゃいで見せるローゼだった。

 

「そう言えば、私が初めてブルーベルに来た時も、特製オムライスでしたよね」

 

 ローゼがオムライスを頬張りながら、そう言うとルシアは、

 

「ローゼちゃん。もしも、悩み事が出来たら、どんな些細な事もいいからお話しましょうね」とローゼの顔を見た。

 

「ルシアさん、ありがとうございます」深く頷いてローゼはそう答えた。

 

 森々と降っていた雪はいつの間にか小雨に変わって町に降り注いでいた。ローゼを見つめるルシアの青い瞳は深々、底が見えない湖の様であった。

 

「でも意外でした。ミネルヴァさんほどの人でも不安になったり悩んだりするんですね」ローゼはコップに手を伸ばしながら話す。

 サフィニアとセレンの話しを聞く限り、ミネルヴァはマーリンからも憧れる存在だろう。そんなミネルヴァが、深刻に教え子の事で悩むとは正直思えなかったのである。

「マーリンだって、1人の女の子だもの。教え子が悩んでいるのに、相談をしてもらえないと、不安にもなるし悩む事だってあるわ。相談されないのは、信頼されてないんじゃないかって…それが可愛い教え子なら尚更よ」珍しく、ルシアが視線を外して、照れながらそう話した。

指導者と教え子。強い絆で結ばれているが故に、すれ違う。教え子であるリリーはミネルヴァを心配させまいとして、相談しなかったのだろう。それはただ、ミネルヴァを思っての事。指導者であるミネルヴァは、心配させまいとしたリリーの配慮によって不安を募らせてしまった。心の中では、可愛い教え子の悩みを聞いてあげたい、出来れば取り除きたいと思っているのに…

 

「お互いがお互いを思い遣り過ぎて、すれ違ってしまうんですね。でもそれって、なんだか温かいです」ローゼは驚いた表情のルシアに満面の笑顔で心中を述べるのだった。

 

 

 翌日の正午前、ローゼは慌ててホーエンハイム駅へ続く坂道を下っていた。正午の大砲はもうすぐ鳴ってしまう。

 朝から予想以上に混み合ったブルーベルでは、窯から売り場へのピストンで、てんてこまいであった。ようやく一息ついた時には、セレンとの待ち合わせ時間ぎりぎりを長針が示していた。

 出先に、電話が掛かってきたのだが、それはルシアに任せることにした。どうやら相手はミネルヴァらしかった。

 昨夜の雨はすでにやみ、晴れ渡った青空が水平線の向こうまで続いている。道端に残る微かな湿り気だけが、昨夜の名残であった。

 

「ローゼちゃーんっ、午後からミネルヴァちゃんが来ることになったからぁ。鍵持って行ってねぇ」坂を駆け下りるローゼにルシアが叫んだ。 

 

「大丈夫でーすっ!」ローゼはバランスを崩しながらルシアに返答をした。

 

ドォーン

 

ホーエンハイム駅に到着した所で、とうとう大砲が鳴ってしまった。駅舎の時計もきっかり正午を指している。とにかくローゼは長靴猫に向かって走り続けた。

 カフェテラスでは、魔女達がお昼の一時をのんびりと過ごしている。ナターレを前にして活気づく町であったが、昼の一時を駆けて居たのはローゼただ1人である。のどかな風景にマッチしない。それはローゼ自身も愁傷の念に尽きるところであった。

 

「セレンちゃん待ってるかな」

 

 長靴猫の店内を窓越しに除いて見ると、セレンの姿は確認できなかったものの、店内が魔女で混み合っている事がわかった。

 

「ローゼ先輩、何か見えるんですか?」

 

 入り口のドアの前からセレンがローゼに声を掛けた。

 

「あれっ?」拍子抜けのローゼである。

 

「私も今来たところなんです。アリス先輩に練習を見てもらってたら、遅くなってしまって」そう平然と言うセレンだったが、やけに額が汗ばんでいる。

 

 長靴猫の店内は、紅いルーンの魔女がほとんどで、少数ながら白い制服も見受けられた。

 一見して、到底席が空いている様子には見えなかったが、セレンがウェイターに話しをすると、窓側の一番奥の席に通された。そのテーブルの上には『予約席』と書かれた

小さなイーゼルが置かれてあった。

 

「予約してたんだぁ」

 

「えぇ、抜かりはありません」セレンは得意げにそう言いながら、親指を立てて見せた。

 

 案内のウェイターにマルガリータを注文した2人は着席してからも、しばしの沈黙の時を過ごした。

 

「サフィちゃん達遅いねぇ」窓から外を覗いてローゼが言う。

 

どうやらローゼは、サフィニア達を待って居たようである。

 

「あぁ、えっと、サフィ先輩達なら来ませんよ」セレンはあっさりと言った。

 

「えっ?でも昨日はみんなでって…?」

 

 確かに昨日の電話では、サフィニアとリリーも一緒だと聞いたはずなのだが。

「すみません、嘘をつきました。折り入ってローゼ先輩にご相談があって」ここは素直に謝罪するセレン。出だしからローゼを怒らせてしまっては、折角呼び出した意味がない。

 セレン自身も、受話器を置いた後、蛇足だったと反省した。なぜそんな余計なことを口走ってしまったのだろうと、後悔したくらいである。

 

「なんか照れ臭いな。私で良いのかなぁ」

 

ローゼの良い所は、細かな事を気にしない所である。すでにセレンなら気分を害して居たかも知れない嘘でも、ローゼは気にも止めない様子である。サフィニア達が姿を現さない理由に納得の感すら窺える。

良く言えば器が大きい。悪く言えば脳天気。サフィニアから以前に聞いた話しをセレンは思わず回想してしまった。

「私で本当にいいの?」不安な表情を浮かべつつも、断然張り切っているのは雰囲気から容易に窺い知れた。

 

「なんでそんなに張り切ってるんですか…」訝しげに問うセレン。

 

 ローゼは他人の事になると自分を二の次に大層全力になる。はじめはただのお人好しかお節介かと思って居たのだが、そうではなかった。正真正銘、筋金入りのお人好しだったのである。

 

「だってさぁ、相談してくれるって事は、信頼っしてくれてるからだよね。せっかく頼ってくれるんだもん。少しでも力になりたいから」

 

 そして、恥ずかしい台詞を平気で言ってしまうのもローゼマジックなのである。自分が言えば耳の天辺まで確実に紅潮するだろう台詞でも、ローゼが言うとそれ相応の説得力を含むのだ。

 とは言え、自分自身の相談で無い以上、そこの所は罪悪感である。

 

「あの、私の相談ではなくて、リリーさんの事なんですよ。昨日、リリーさんから相談を受けまして…」罪悪感からか、自然と声が小さくなってしまった。

 

「プランロッテの事?だよね?」半信半疑と言った感じでローゼが聞いた。

 

「なんで、ローゼ先輩が知ってるんですか!」わかりやすく驚愕するセレン。

 

 そう言えば、ブルーベルに行くようにと遠回しに勧めた。あの後、リリーが単身ブルーベルに行っていたとすれば、ローゼが知っていても不思議はない。しかし、それでは、今日わざわざローゼを呼び出して二人っきりで会った意味が無い。

 

 とんだ番狂わせもいいところである。

 

「実は昨日、ブルーベルにミネルヴァさんが遊びに来て、その時にちょっとだけ、詳しくは知らないんだけど」

 

 リリーの話しでは、指導者であるミネルヴァに自分がプランロッテからスカウトされている事を話していないと言う事だったが…

 ローゼの一言で頭の中の錯綜がすっきり取り除けたセレンは、どうせ、本人だけが気が付いていないだけで、カンパニー中では噂になっってしまったのかもしれない。ベノアしかり、よくある事である。

しかし、

「リリーさんは、ミネルヴァ先輩に話して無いそうですが」念を押すように問うセレン。

 

「リリーちゃんが知らないだけで、ウェノサ・ヴェノサではもう有名な話しになってるんだって。でも、ミネルヴァさん、リリーちゃん自身から聞きたかったって」

 

 ローゼは大方セレンの予想の範疇を述べた。疑ったわけではないが、セレンはこれで納得できた。

 

「私がリリーちゃんの立場だったら、きっとルシアさんに心配掛けたくないから、自分でなんとかしようとすると思う。でも、ルシアさんは、どんな些細な相談も全部話して欲しいって。ミネルヴァさんも例え解決できなかったとしても、一緒に悩みたいって言ってたよ」 

 

 セレンの脳裏に、あの時のアリスの顔が浮かんだ。あの時、セレンはアリスを思い、ただ悩んで居た。しかし、性格からか、リリーとは対照的にそれ程深刻になるわけでもなく、どうにかなるだろうと、安易に構えていたのだが、それでも時折見せるセレンの憂鬱な表情をアリスは見逃さなかった。結果、セレン本人以上にアリスの方が遙か思いを巡らせ、深刻なまでに悩み苦しむ事になってしまった。

 

 蓋を開けてみれば、なんと言う事のない話しであった。今ではあの時の出来事は笑い話でしかない。しかし、アリスは当時の心境を『暗闇の中を彷徨うよう』と表した。

 当初はセレンを気遣っていたに過ぎなかった、しかし、時間の経過に伴ってなぜ、セレンは自分に相談してくれないのだろうか、信頼されていないのではないか。更には、セレンが自分の事をどう思って居るのだろうかとその波及は留まる所を知らなかった。 数日間同道巡りを繰り返したアリスは意を決した。このままただ思いを巡らせても、雲を掴もうとあがいているだけに過ぎない。

 そんな苦悩の日々も今ではただの笑い話なのである。

 リリーから相談を持ちかけられたあの日。セレンは失敗者として、リリーに気の利いたアドバイスでもしてあげれば良かった一時は後悔したが、次の朝には、やはり余計な事は言わない方が良い。思い直した。

 直接的に問題解決の方法を教えてよかったのだが、セレンなりに考えて、これは本人が解決させなければならない。そう思ったのだ。

 それにセレンは、直接言う事は出来ても、気が付かせる伝え方を心得ていない。その点ローゼロは聖人君子なのだ。故に、セレンはローゼに相談をする事に決めたのである。

ローゼ本人が自覚しているか否かは別として、セレン自身もすでに何度かローゼに大切な事を気が付かされているのだから。

「うーん。私達にできることって何があるかなぁ」目を閉じて真剣に考えるローゼ。端から見れば、何かを念じて居るようにも見える。

 

「結局、ミネルヴァ先輩とリリーさんが直接話しをするしか方法は無いと思います」セレンは運ばれて来たマルガリータに目もくれず、力強く頷いた。

 

「そうだよね。うん。それが一番良いと思う」ローゼも異論なく賛同した。

 

「でしたら、急いだ方が良いですね。ナターレが近づくにつれてマーリンは忙しくなりますから」

 

 ナターレが近づくにつれて、公演が多くなる。大体、ナターレの前後4日間に渡って多忙っを極めるのである。アリスも、この4日間は平均して1日3出演すると聞いている。ナターレの準備期間である現在は差詰め公演を控えたマーリン達の束の間の休息と言ったところなのである。

 

「そうだ、今日、ブルーベルにミネルヴァさん来るみたいなんだけど。これってチャンスだよねっ」ローゼは目を見開いてセレンの反応を待った。

 

「グッジョブでローゼ先輩!!」セレンは興奮気味にそう言いながら親指を立てた。

 

 セレンはこの偶然のチャンスを逃す手はないと勇んで立ち上がった。

 

 そして…

 

「そうと決まれば善は急げです!私はリリーさんに連絡しますから、ローゼ先輩はミネルヴァ先輩をお願いしますね」セレンは、拳を胸の前で構え深く且つ力強く頷いてから、

 

一目散に駆け出してしまった。

 

「えっ!セレンちゃんっ!」慌てるローゼ。

 

 店内の注目を一手に引き受けたローゼは、窓から颯爽と走り去るセレンを見送ってから、すっかり冷えてしまった手つかずのマルガリータをどうしたものかと頭を捻るのだった。

 

 

 結局、手をつけなかったマルガリータを携えてローゼは、小1時間前に駆け下りた坂道を息急き切って駆け上がって居た。

 

「あら、ローゼちゃん早かったのね」

 

 道すがら、ハンドバッグを持ったルシアと出会った。どうやら、どこかに出掛ける様子でる。

 

「はぁ、ルシアさん。はぁ、お出掛けですか?」膝に手をやって、ようやくそう言えた。

 

「ええ、駅前でミネルヴァちゃんとね」

 

「…よかったぁ」その場にへたり込むローゼだった。

 

「どうかしたの?」

 

ローゼはルシアにセレンと話した内容を事細かに説明してから、2人がナターレを蟠りなく過ごせるようしたいのだと述懐した。

  ローゼの話しを聞いたルシアは深く頷いて、

 

「それじゃ、30分くらいお喋りしてから、帰って来るから。セッティングお願いね」

そう言った。

 

「ありがとうございますっ」

 

 ローゼはルシアから了解が取れると、再びブルーベルへ駆けだした。後はセレンに連絡しなければならないのである。ローゼは急いで鍵を開けて店内に躍り出た。そして、、受話器を取ってから、しばらく壁に凭れて呼吸を整えた。

 心臓の鼓動は未だに勢い良く脈打っていたが、深呼吸を幾度か繰り返すと肩の抑揚は幾分小さくなった。

 電話帳を捲りダイヤルを回す。数秒のノイズが流れたが、やがて呼び出し音に変わった。どうやら、セレンは電話を使って居ないらしい。

 

「もう出掛けたのかなぁ」

 

 コール音の回数が増す事にローゼは不安になった来た。

 

「(はい、もしもし)」

 

「あれ…えっと…」受話器の向こうから聞こえてきた声は、明らかにセレンのものでは

なかった。しかし、ローゼはその声に聞き覚えがあった。どこかおっとりとしたこの声は確か…

 

「アリスさんですか?」

 

「(ええ、そうよ。こんにちわローゼちゃん)」

 

相手はアリスだった。ローゼは受話器を持ったまま、首を捻った。セレンの部屋に備え付けてある電話にかけたはずなのだが…

 

「セレンちゃん居ますか?」

 

そう思いつつも、今はそれを確認している場合ではない。とにかくセレンと連絡を取れなければ、ルシアの好意もせっかくのチャンスも無駄になりかねない。

 

「(セレンちゃんに用?あっそうか、ここセレンちゃんの部屋だものねぇ)」急ぐローゼとは対照的にアリスはマイぺースである。

 

 しかしながら、番号自体はセレンの部屋に繋がっている用だった。

 

 どうして、セレンの部屋にアリスが居るのかも不明だったが、セレンの替わりにアリスが出たと言う事実はセレンの不在を悟らせた。

 

「(アリス先輩!なんで私の電話に出てるんですかっ?!)」激昂と共にドアが激しく

しまる音が聞こえる、その音は思わずローゼが受話器を遠ざける程だった。

 

「(だってぇ、電話が鳴ってたから。大切な電話だったら大変だか……ローゼちゃんから)」遠くなって行くアリスの声。

 

「(もうっ!アリス先輩早く出て行って下さいっ)」

 

セレンの台詞の後は、声が遠くよく聞き取れなかったが、辛うじてドアの閉まる音だけは聞き取れることが出来た。

 

「(すみません。ローゼ先輩リリーさんOKです。ミネルヴァ先輩はどうですか?)

 

「えっと、ミネルヴァさん30分後にブルーベルに来るって」

 

「(わかりました。それじゃ私達は40分後に行きますね)」

 

「わかった。じゃあね」

 

 セレンよりも先に受話器を置いたローゼは、頭上にある鳩時計に目をやった。ルシア達が帰って来るまでお茶を用意するだけの時間は残っている。お茶を用意するには十分時間が残っている。

 

「そうだ!」

 

 視線を降ろして、ショーケースの上に置いたピザの包みを見た瞬間、ローゼはひらめいた。

 

「よぉしっ」ローゼは張り切って、腕まくりをした。

 

 

「こんにちわ、ローゼさん」ルシアに続いて入って来た、ミネルヴァが軽く会釈をする。

 

「こんにちわ、ミネルヴァさん」ローゼも会釈をする。

 

 ルシアとミネルヴァが席に頃合いでローゼはダージリンティを淹れた。今日はちょっぴり大人のお茶である。付け合わせは、パンケーキの生地を上げたドーナツを出す事にした。

 

「ごめんなさいね。気を遣わせてしまって」ミネルヴァは褪せた顔色で苦笑した。

 

「ごゆっくり、どうぞっ」ローゼはそう良いながら、ルシアを見る。

 

「ありがとう。ローゼちゃん」ルシアはそう良いながら、微笑んだ。

 

 さて、これからが本番なのである。ローゼは、ルシアとミネルヴァが談笑を始めた頃合いで再びキッチンに戻って、予め用意しておいたティーカップにお湯を注いで容器を温める。

 ポットにお湯を注いだところで、ローゼはそっと廊下に出ると、窯まで足早に歩いた。

窯を温める為に薪を焚いていたのだが、そろそろ頃合いだろうと思ったからである。

 丁度ローゼの胸辺りにの高さにある鉄製のドアを開けると、熱風が前髪を撫でた。すでに薪は炭になり、姿無き炎を讃えていた。ローゼはその炭を鉄棒で入り口付近まで寄せると、火ばさみで炭を『シチリン』と呼ばれる土製の簡便コンロの中に入れた。そして替わりに冷えてしまったピザを窯の中に入れた。

「これでよしっと」この温度では焦げる事はないだろうと、ローゼは窯の蓋を閉め、今度は緩やかな足取りでキッチンへ戻った。 

 キッチンへ戻ったローゼは、鳩時計に目をやった。その時が丁度、セレン達が到着するはずの時刻であった。

 今日のミネルヴァは随分と明るい。たわいもないお喋りに花を咲かせる2人の雰囲気はとても軽い。いくらか、ミネルヴァの顔にも赤みが戻った様子であった。

 拭えない不安を紛らわす為にミネルヴァはルシアと話しているのだろうか。ローゼは少し不安になった。ここにリリーが来たならミネルヴァの笑顔は果たしてどうなってしまうだろうか。思わずルシアの表情を窺ってしまった。

 ローゼにとっての確信はルシアが自分達の提案を了承してくれた事だけだった。ミネルヴァの友人であるルシアなら、それが悪く転じるか良い方へ作用するか、わかるだろうと思ったからだ。しかし、考えてみればそれはなんの確信にも価したいのである。

 今から連絡を取ってみても、きっと手遅れだろう。どうしようもない不安にかられたローゼの鼓動は大きく、早くなっていく。

 

「こっ、こんにちわ」緊張した面持ちでセレンがに入って来た。

 

 ローゼの鼓動も最高潮に達する、心臓が止まってしまうのではないかと思ったくらいに。

 

「さっきはごめんねぇ」続いて、アリスが顔を出した。

 

「こんにちは、ローゼさん」そして、最後にリリーが入って来た。

 

 ローゼは、その瞬間にミネルヴァに視線を移した。驚愕に凍り付いた表情かと思いきや、どこか諦めた様なしおらしい物腰で俯いて居た。

むしろ、リリーの方が驚愕に固まって居た。とっさにドアに向き直ったリリーに「外は寒いと思うわ」そう言いながらアリスがドアを後ろ手に閉めた。

 

 師弟二人はお互いに俯いたままであった。

 

「ローゼちゃん。後は私がするわ」ルシアはそう言いながら、ローゼにウインクをして見せた。

 

「あっ、すみません」

 

 重苦しさ漂う店内の雰囲気に飲まれて動けなくなっていたローゼの呪縛をルシアの声が解き放った。

ローゼが見守る中、慣れた手つきでポットにお湯注ぎ、ティーカップを手に取ると、シアはテーブルへと戻って行った。

 ローゼはルシアの言葉に甘えて、次の段階の準備に入る事にした。

 まず石窯の部屋で熱気を上げるシチリン、を手にとってから、中庭へ出る。日陰になるドア付近はさすがに室内との温度差は大きく、鳥肌が一斉に立った。上着を持ってくればよかったと後悔しつつ、シチリンを置いて手を温めたりしてから、四阿まで身震いしながら走って行った。

 太陽の光が燦々と降る四阿は思いの他暖かかった。今日は無風に近い事も手伝って、ポカポカとした陽気は干し立ての布団の匂いがする気がした。日陰とは大違いである。

 ローゼは、シチリンを備え付けのテーブルの足下に置いてから、テーブルの上に重ねて置いた湯飲みを並べ、再び窯の部屋へ戻った。

 

「ローゼ先輩何してるんですか?」

 

 入ると、そこにセレンが立っていた。困惑した様な表情でローゼを見つめて居る。

 

「中庭でお茶でもしようかなって。ほら、2人きりの方が良いと思って」順を追う様に話した。

「名案ですね。私も居づらくて逃げて来たんですよ。お手伝いします」胸に手をやって

深い息を吐くセレン。

「それじゃ、そこの水道でヤカンにお水入れもらおうかな」窯に向かって左側にある、シンクを指さした。 

 

「わかりました」

 

セレンはそう頷くと、パタパタと駆けて行き小さめのヤカンを手に取った。ローゼはそれを見てから、中庭に戻ろうとドアノブに手を掛ける。真後ろにある廊下の先は一体どのような話しがされているだろうか。振り返った所でその様子を窺うことは出来ないだろう。話し声もヤカンに注がれる水の音で聞こえない。怒号が飛び交う心配はしていない、そんな事はありえないからである。それでも、心の片隅には聞こえない環境にある今が安心できる瞬間であった。聞きたくもあり聞こえない事を願っている。自分自身でも良く説明できない。複雑な心境である。

 

「ふぅ」

 

 だから、中庭に出た瞬間に解放された気持ちになった。中庭に居れば聞こえることはまず無い。

 ルシアばかりかアリスも同席して居るのである。そもそも心配する必要はないし、何より、ローゼはリリーとミネルヴァを信じている。だから、こんな不安を抱く事自体がおかしいのだが、どうしても胸の片隅には拭いきれない不安が漂っている。信じているはずなのに。自己嫌悪である。  

 四阿から町並みを見下ろしながらローゼは不意に、今の自分と同じ様な感情を抱いている人間が、見下ろす町にどれだけ居るのだろうかと思った。

 眼下ではシルフィードと呼ばれる、配達員が忙しなく飛び回って居る。

 

「水入れてきましたけど、何処に置けばいいですか?」両手でヤカンを携えたセレンが立って居た。

 

「このシチリンの上に置お願い」

 

「裏方は疲れますね」肩を叩きながらセレンが呟いた。

 

「そうだよねぇ」苦笑するローゼ。

 

「でも、良い勉強になりました。何かが輝ける為には、その影に多くの人の力が必要なんですよね」噛み締める様にセレン。

 

 セレンは十分に思い当たる所があった。教館の公演にしても私生活に関しても、誰かが見えない所で自分の為に尽力してくれている。だから、美味しい物が食べられたり、気持ちよく演奏できるのだと。

「そうだね。みんな助け合ってるんだよね。私、今は何も出来ないけど、いつか誰かを助けてあげられるようになりたいと思うの」そよ風がローゼの前髪を撫でた。

 そんなローゼの懐柔にセレンは感銘を受けるどころか、違う意味でこみ上げて来るものがあった。

 

「心配しなくても、ローゼ先輩はもう誰かを助けてますよ」非力な自分に腹が立った。

 

 少なくともセレン自身、ローゼの何気ない一言に何度も助けられた。的を射ない話題から、変化球で突然、ハッと気づかされるのである。まるで諦観しているかのように。

 密かにセレンはローゼに憧れに似た興味を抱くようになっていた。自然と人が集まって来る不思議な魅力と突拍子もない発想、あやふやだが心に響く感性。ローゼ・ユナと言う人物は観察すればするほど不思議な人物なのである。

 しかし、努力するまでもなく、セレンにはローゼの真似など到底出来そうになかった。

「へっ?」抗議にも似た視線を送るセレンに、ローゼはどうして良いのかわからない様子だった。

 

 

 ヤカンの水はなかなか沸騰しなかった。

 セレンはこまめに蓋を取って、加減を見る今更ながら水を入れ過ぎたと後悔したが、後の祭りである。四阿に佇んでどれくらいが経ったどろうか。水の加減からすればそんなに時間が経過していないだろう。

 ローゼが持って来た、マルガリータはチーズが煮え立ち焼き立てを彷彿とさせていた。

ただトッピングのフレッシュバジルが焦げてしまっているのが残念だった。

 会話もなく、ローゼは海を見つめている。まるで、ホーエンハイム駅前にあるマーメイド像の様だった。どこか寂しそうな眼差しと柔らかい口元、それは不安と期待が入り混じっている様である。

 セレン独自の感覚ではあったが、こんな表情をする時はきっと、感受性が高まっているのだろう思った。映画を見た後、本を読み終えた後、たまにアリスが今のローゼと同様の表情をするからである。客観的にそれら見ることが多い、セレンには不思議に思え手仕方ないのだが、アリスが言うには感動や思いを巡らせている内に何かが研ぎ澄まされるらしい。すると、有り触れた風景でも感慨に触れて不思議な風景に変化するとも言っていた。

 再び、風が吹いた。セレンの後ろ髪が捲し上げられ、慌てて、それを制したセレン。しかし、それは嫌なものではなかった。後どれくらい待てばこの時間が終わりを告げるのだろう。待つことに慣れていないセレンにとっては気まぐれな風の悪戯さえも一興に感じられた。

そんなセレンの耳に聞こえた、ドアの開閉音。セレンはバネ仕掛けのように踵を返した。

 そこには、笑顔を浮かべる、アリスとルシア。そして、火中のリリーとミネルヴァの姿もあった。2人共に満面の笑顔であり、和やかな鉢合わせた時からは比べ物にならないくらい和やかな雰囲気であった。セレンは確信する、自分達のやった事は間違いではな

かった。そして、人の為に奔走する喜びを知った。

 

「ローゼ先輩!」思わず嬉しくなったセレンが振り返りざまにローゼを呼ぶと、

 

「うんっ」待ちかまえて居たかのように深々と頷くローゼが居た。

 

 

 

 

 ~その風の運び手は~

 

 

 

 

 

 ナターレを間近に控えた町は、ポインセチアの赤一色に色づいて居た。パリダでは、

ナターレ前にこのポインセチアを贈る風習があり、恋人はもちろん友人や家族など、大切な人達に対する感謝の意味を示している。町にはポインセチアの鉢植えが所狭しと並べられ。商店では店先に並べられる鉢植えの多さがステータスとされており。今ではすっかり冬のパリダを彩る風物詩となっている。

 

「わかりました。パネットーネ5個予約ですね。あっ、お花ありがとうございます。ルシアさんにですね」

 

 ナターレが迫るにつれて、パネットーネを予約するお客さんとポインセチアを贈るお客さんでブルーベルは大層な賑わいを見せていた。

 店内ではとても間に合わないので、ここ数日は開店と同時にローゼが店先に出て、予約とポインセチアを受け取って居た。

 

「ご予約分、こんなにありますけど焼けるでしょうか…」予約票の束をペラペラとしながらローゼが呟いた。 

 

 大砲が鳴り、店内に静けさが戻って来た頃、ブルーベルでは昼の仕込み前の一時を過ごしていた。

 

「去年より多いと思うけど、大丈夫。今年はローゼちゃんが居るもの」ウィンナーコーヒーを飲みながらルシアが言う。

 

「そうだっ!見て下さい。すっごい数の鉢植えですよ。みんなルシアさんへの贈り物っです!」ディスプレイの向こうに並ぶ、赤い絨毯を指さしてローゼが嬉しそうに言った。

 

「それから、メッセージカードです」エプロンのポケットから取り出したメッセージカードの束をルシアに渡した。

 

「あらあら、こんなに。本当に綺麗だけれど、後で中庭の日当たりの良い場所に移してあげないとね。歩く人の邪魔になるといけないし」

 

 毎年の事なのだろうか、ルシアは赤い絨毯にときめきながらも、ローゼにっそう微笑みかけた。

 

「そうですね」 

 

 少し大袈裟過ぎないだろうか?とローゼは思った。確かにかなりの量の鉢植えが並べられてあるものの、通行の妨げになるとは到底思えない。

 しかし、ルシアが仕込みに入った頃になって、その意味がようやく理解出来た。

 矢継ぎ早に訪れるシルフィード達。そして中庭に降ろして行く大きな木箱に詰められたポインセチア。受け取りのサインをするローゼも、その光景に唖然とするばかりであった。それも全てルシアへの贈り物であり、送り主の中には近くはベネチアやネオフィレンツェ。遠くはウィーンから贈られていた。

 木箱から鉢植えを取り出して並べる。そんな単純な作業も、数が数ならば一苦労なのである。おまけに、片づかないうちから新しい木箱が降ろされて行くのである。捗る

はずがなかった。

 

 

 とうとうその日は日が落ちる頃までひたすら、鉢植えと格闘する事になってしまった。

「ふぅ~」額に手をやったあと、思いっきり背伸びをするローゼ。

 ようやく最後の鉢植えを木箱から出し終えた。残った木箱は、焚き付けに使えるため、

薪置き場まで引きずって行った。

 翌日もほぼ前日と同じような作業工程で時間が過ぎて行った。ルシアは「ごめんね」と申し訳なさそうに言ったが、ローゼは少しも気にとめていなかった。

 パリダに来てから、ローゼは強く思って居る事がある。パリダを彩る色はどれを取っても人工の香りがしない。自然のままにある色彩は四季をとおして様々に変化する。夏の緑、秋の黄色、そして冬の赤。全て自然が織りなす色のスペクタクルである。ローゼの心をときめかせる色は絵の具では作ることが出来ない一期一会の出会い。きっと来年は今年とは違った色を見せてくれるに違いない。だからこそ、今年の赤に出会えたローゼはそれだけで嬉しいのである。

 

「そうだっ!」そんな気持ちがローゼに閃きをもたらした。 

 

 その日は、木箱を運び終えてからもローゼの作業は続いた。

 

 萌葱色の芝も季節柄、斑模様が目立つようになっている。その上にローゼは鉢植えを並べて行く。時々飛び上がったみたり、首を傾げてみたり。夕食を知らせに来たルシアもそんなローゼを見て首を傾げたが、そんなローゼはとても楽しそうに作業に没頭していた。

 次の朝、日が昇る前から起き出したローゼは、おもいっきり背伸びをしてから昨日の続きを始めた。

 昨日の夜も早く朝が待ち遠しくてなかなか寝付けなかった。悴む手に息をかけたり摺り合わせたりしながら、作業は続いた。そして、

 

「どんなもんだい」ローゼは腕を組んで何度も頷いた。

 

 ついに完成したのである。

 

 丁度、時を同じくして山裾から太陽が顔を出し始めた。太陽光を浴びたクリスマスローズの赤く大きな花はまるで、スポットライトを浴びた宝石の様に輝いていた。

 その日も朝から、多くの人でブルーベルは混み合った。ローゼはいつも通り、店先で、パネットーネの予約とポインセチアを受け取りをこなし、昼食がすむや中庭に出て、荷物の受け取りのスタンバイをした。片手にペンを持ち、手には手袋である。

 ローゼが空を見上げて居ると、やはり今日もシルフィード達は忙しなく飛び回っている。今日は、荷物が来るのが遅い。そんなローゼを見たのか、中庭の上を通るシルフィード達が次第に雲を引くようになった。中には、手を振ってくれるパイロットも居る。

 その日は荷物が少なく、2箱届いただけだった。ローゼは四阿に腰を降ろして、一息ついた。

 もう少し待って、荷物が届かなければルシアの手伝いに行こうと思った。

 小春日和に誘われるのは決まって、睡眠なのである。寝不足のローゼは、うとうとしている内に眠ってしまった。

 寝惚け眼に写ったのは、まだ高い太陽。時間で言う所の小1時間程度だろう。心地よい暖かさと肌触りの良いブランケットがとても気持ちが良かった。後少しだけ眠ってもいいだろうと、もう一度瞳を閉じた所で、肩に何かが被せられた。このまま目を閉じたままで居ようかそれとも目を開けようか、ローゼは前者の衝動に耐えて、後者を選んだ。

滲んだ視界には、誰かが居て肩にはセーターがかけられていた。

 

「あらあら、ごめんなさいね。起こしちゃったわね」

 

 目をこすると、そこには微笑むルシアが佇んでいた。

 

「ルシアさんだぁ」ローゼにとっては幸せな目覚めである。

 

「すみません。なんだか気持ちよくって、眠っちゃいました」 

 

「ローゼちゃん、今朝も早くから頑張っていたものね。見て、シルフィードさん達嬉しそうよ」ルシアは空に向かって手を振り返した。

 

「シルフィードが雲を引くのは感謝の気持ちの現れなのよ」 

 

 ローゼは四阿から出て、空を見上げると無数の細長い雲が引かれてあった。

「シルフィードさん達って、想いを届けてくれるんですよね。相手を思って贈った荷物と共に荷物に込めた思いも一緒に届けてくれるんですよ。昨日、そう気が付いたんです。

だから、私もシルフィードさんに『ありがとう』って贈ったんです!」

 両手を広げるローゼ。ルシアは驚いた表情をしたが、やがて、いつもの笑顔に戻った。

 

「ごくろーさまでーすっ!」ローゼは通り過ぎるシルフィード達に大きく手を振り返すのだった。

 

 

 赤い町に黒いコントラストが生まれるのも、ナターレ特有の風景なのである。ナターレは魔女にとっても特別な聖なる日であり、見習い魔女からマーリンまで分け隔てなく魔女の正装である、三角帽子に黒マントを身につける習わしがある。

 

「サフィちゃん何処行くの?」

 

「ついてからのお楽しみよぉ~」サフィニアの足取りも軽やかである。

 

 昼からお休みをもらったローゼはサフィニアと待ち合わせをしてお茶に出掛けた。セレンに教えてもらったお店の特製パルフェに舌鼓を打った2人は、サフィニアの先導で、『縫い合わせ通り』と呼称される通りを歩いていた。

 この通りは、衣類の修理やクリーニングの店が軒を連ねていて、帽子とマントをクリーニングに出す魔女達で賑わいを見せていた。

 仕上がり立ての黒光りするマントと帽子を着てこの通りを出て行くのが通例である。

 

「わかったぁ、クリーニング屋さんでしょ?」自信を持って言うローゼ。

 

 通りの中程にある、『赤いカニ』と言う看板を掲げる店の前にサフィニアは止まった。

その店はパリダではお馴染みの、赤煉瓦仕立ての建物であったが、風化した煉瓦が建物自体の歴史を語って居た。

 

「通りに入った時点で気が付くでしょ普通」手厳しいサフィニアであった。

 

「こんにちわー」  

 

 『商い中』のプレートが釣り下げられたドアを開けると、外装からは想像できないような明るさであった。ローゼの背丈ほどあるクリスマスツリーやポインセチアが並べられているほか、ナターレ当日に行われるイベント告知のポスターなど、店内はナターレ一色に飾られていた。中でも目を引いたのはカウンターに飾られた、手の平くらいあるだろう大きな蝶の標本だった。広げられた羽が見る角度によって全く異なる色に変化するのである。

 

「あっサフィ~、いらっしゃーい」

 

 サフィニアに気が付いた店員はそう言いながら駆けつけて来ると、思いっきりサフィニアを抱きしめた。

 

「あの…ミランダさん…」あきらかに嫌がるサフィニアであった。

 

「うんうん、よしよし。またダリアに虐められたのかなぁ。可哀想にぃ、いーこいーこ」

サフィニアの頭をなで回すミランダと言う女性。

 

「あの…」

 

「あれぇ?この子はだぁれ?」苦笑するローゼを見つけたミランダはサフィニアをようやく解放した。

 

「あっ、私、ローゼ・ユナです」会釈するローゼ。

 

「これは失礼をば、私めはミランダ・アレキサンダーと申しますです」紳士のように膝を折って挨拶をする、ミランダからは柑橘系と蜂蜜を混ぜたようなとても不思議な匂いがした。

 赤毛を三角巾でまとめ、大きな眼鏡とそばかすとインパクトのある女性であるが、エプロンの下には、どうやら制服を着ている様子であった。

 

「ふぅーん」

 

 自己紹介を終えたミランダは、顎に手を当てて、ローゼを足先から頭の先までしげしげと観察していた。

 

「あのー。私のできあがってますか?」呆れながらサフィニアが横やりを入れる。

 

「んもぅ、サフィのいけずぅ。OKちゃーんとできあがってるよぉ。ミランダ特製の愛の洗剤で手荒いしといたから、ばっちりよぉ。ちょっと待ててねぇ」ミランダは胸を張ってそう言うと、ドレスやらマントやらが釣り下げられてある店の奥へ駆けて行ってしまった。

 

「ミランダさんって、魔女なの?」後ろ姿からして…

 

「そうよ。それもレッド・クラブのね。物腰はふざけてるけど、裁縫もクリーニングも腕前は確かよ」

 

 だから、店名も『赤いカニ』なのかとローゼは思った。サフィニアが言う腕前は、仕仕上がり。主人を待つ品々がそれを語って居た。光沢を放つ深紅のドレスに、レースのショール。どれを取ってもオートクチュールの繊細な品ばかり、世界に一着しかない品を預けるのである。余程の信頼が無ければ出来ないだろう。

 しかし、そんな品々の中には魔女の制服や正装、中にはガウンや布団まで目に付くのはこの町の人々から愛されている証拠なのだろう。

 

「じゃーんっ!刮目せよぉ、この妖艶なる漆黒どうだぁ」

 

 がばっとマントを広げて見せるミランダ。なるほど、新品以上に艶やかで吸い込まれそうな漆黒である。

 

「リボンはお姉さんからのクリスマスプレゼントっ!サフィにはエンジリボンは似合わないわ」  

 

 広げられた、マントには鮮やかな真紅のリボンが襟元に掛けられてあった。

 

 そのリボンは不思議なリボンで、見る角度によって真紅でありエンジであり時には藍色に見えるのである。

 

「ローゼちゃん鋭いわ。サフィももう少し観察力が必要ね。この生地は、マジックシルクって言って、見る角度によって3種類の色に変化する生地なのよ」鼻高々とミランダ。

 

「この蝶と同じですね」   

 

 カウンターに飾られた蝶を指さしてローゼが言った。

 

「ローゼちゃんってば天才ねぇ、それアルコバレーノって言う蝶なの。その蝶の羽は見方によって七色に変化するのよぉ。すっごいでしょ~」ミランダは何度も頷きながら

アルコバレーノを説明した。

 

「自然って偉大だわ。海の蒼も雲の白も山の緑も、無造作だけど、どれも本当に綺麗だもの。私達はそれを真似て、絵の具を練るのよねー。でもねっ!今は3色しか出せないけど!絶対に7色に変化する生地を作って見せるわっ!」突然カウンターの上に飛び乗ると、ミランダは拳を突き上げた。

 

「じゃあ、その生地って…」

 

「そうよそうなのよ。昨日できたてホヤホヤの新作生地なのよぉ。おかげでお姉さん徹夜ですことよぉ。お肌は傷むし+白髪は増えるし=婚期は遠のくしぃ」なぜか下腹をしきりに叩きながら、上機嫌なミランダ。

 

「さぁさぁ、その身に纏って見せておくんなましょ」続けて言うミランダは、マントを携えたまま、サフィニアの手を取って試着室へ駆けて行ってしまった。ミランダの勢いについて行けるようになるまではまだまだ修行が必要そうである。

 

1人になったローゼは、アルコバレーノの標本を見つめ、ミランダの言葉を反芻した。

 角度によって色彩が鮮やかに変化する摩訶不思議な羽。それは自然の偉大さを感じさせると言っても誇張ではなかった。ローゼはそれを表現する言葉を探したがなかなか見つからなかった。この羽に辿り着いた切っ掛け、費やされた途方もない時間。どんな言葉もその重みに相応ではない。消去法で最後に残った言葉、それは『奇跡』だった。考え及ばない途方もない時間、それは大凡人知の及ぶ所ではないからである。

 考えるのをやめたローゼが次に投影したのは、アルコバレーノの群が緑と蒼と青が交差する風景であった。浜辺に木霊する細波の音、木の葉を揺らす微風。燦然と輝く太陽に金色を宿す水面、その上を舞う蝶の群れは調子の違う羽を七色に輝かせ水平線を目指して小さくなって行く。追いかけたい衝動にかけれながらも、追いかけては行けない気持ちが湧いてくる。そんな感動的な情景に思わずローゼ目頭は熱くなるのであった。

 

「おーい」

 

「おーいっ、ローゼちゃん?」 

 

「ほへっ!」肩をこづかれて慌てて振り返るローゼ。

 

「涙?何かあったのか?」潤む瞳を見てダリアが首を傾げた。

 

「いえ、その…あの蝶見てたら…素敵な情景が浮かんでしまいました」慌てて、こぼれんばかりの涙を拭うローゼであった。

 

「サフィニアは一緒じゃないの?」 賑やかな部屋の一角を除いて静まりかえった店内を、まるで水平線の彼方を見渡す様に手の平を額に当てて見回しながら、ダリアが言う。

 

「サフィちゃんなら、ミランダさんと試着室です」

 

「ふむっ、まぁ良いか。ところでローゼちゃん」

 

 ダリアの真剣な眼差しがローゼに向けられた。

 

「なっ何ですか?」戦々恐々とするローゼ。

 

「ローゼちゃんはこの町が、いや、パリダが好きか?」

 

 人差し指で仰け反るローゼの鼻先を突きながらそう言ったダリアの瞳は、獲物を狙う

獣のようだった。

 

「はいっ、大好きです。大好きじゃ足りないくらい大好きです!」自信を持ってローゼ

は即答した。    

 

 何を言われるのだろうと、恐々としていた訳だが、質問を聞くや否やローゼは突かれる人差し指を押し戻しながら燦然と笑顔を開花させた。

 

「そう。それを聞いて安心した」

 

 ローゼの反応を見て、ダリアは満更でもないと言う表情をつくった。

 

「ダリアさんも、クリーニングですか?」

 

「まぁね」ダリアが試着室を目で指した。

 

試着室からはミランダの歓声が一際色めき立って聞こえてくる。サフィニアの声は聞こえなかったが、試着室から出て来たサフィニアは晴れ姿に戸惑う子どものように、ダリアを見つめて佇んで居た。

 

「やっぱサフィには鮮やかなる紅が良く似合う似合う。あら、ダリア居たの?どうよぉ、弟子の晴れ姿の感想は?」

 

 三角棒の縁に接する部分に蒔かれた紅リボンが漆黒にうまくアクセントを醸していた。先程の騒ぎは、このリボンの色を決めかねていたようである。

 大きめの縁で紅潮させた額を半分隠したサフィニアは指先を絡ませたりと落ち着かない様子であった。

 

「あーあれだ。馬子にも衣装!」頬を赤らめながらダリアが言う。

 

「それって、ひどいじゃないですかぁ」

 

 驚いた事に、抗議を申し出たのはミランダではなく、サフィニア本人だった。

 サフィニアは憮然とした様子でローゼの手を取ると「ミランダさん、ありがとうございました」と一礼して店を出て行ってしまった。手を引かれたローゼは戸惑いの視線だけを残した。

 

「やっちいゃいましたなぁ。ダリア指導者」

 

 嫌みな笑みを浮かべたミランダは嬉しそうにそう言うと、カウンターの上っから飛び降りた。

「私に感想を求めたミランダが悪い。知ってるだろ」腕を組んで、口をとがらせるダリア。

 

「ええぇ、存じ上げておりますとも、ダリア・カラスと言えばレット・クラブ随一の素敵な照れやさんであると」ますます、調子よく軽快に口を動かすミランダは、すでに下腹に手をやっている。

 

「はぁ、言ってるのはあんただけよ」サフィニア同様に憮然とするダリアだった。

 

「それで?今日はご用件は?新調?クリーニング…じゃないわね」

 

 一頻り楽しんだ後、涙を拭きながらミランダが言った。

 

「用件ならもうすんだ。聞いたんだ、サフィニアがこの店に来てるってな、あの子も一緒だろう思って来てみれば、ドンピシャリ」

 

「ほほう、旧友であるルシア・アンジェリカから大切な教え子を奪おうとでも?」

 

 陰謀の匂いに鼻をピクピクさせるミランダは、興味ありげに甘える猫の様にダリアにすり寄る。

 ダリアはミランダに口外しない事を何度も念を押して注意した後、人目を気にするようにミランダの耳元で『ある計画』について話した。 

 話し終わる前にミランダは思わずダリアの耳元から飛び退いた。丸くした瞳が悦楽の

驚愕を物語っていた。

 

「絶対口外しないこと!」念には念を押すダリア。

 

「合点承知。不肖なれどミランダ・アレキサンダー、喜んで計画に一枚噛ませていただきましょう」噛み締めるように言ったミランダ、再び堅く握った拳を天高く突き上げるのだった。

 

 

 『赤いカニ』を出てからサフィニアは上機嫌であった。それを不思議とのぞき込むローゼにサフィニアは眉を顰めるのだった。

 

「あの人は、褒め下手と言うか何と言うか、とにかく褒めるのが下手なのよ」

 

「照れ屋さんなんだねぇ、サフィちゃんと一緒だねぇ~」ローゼは嬉しくなった。

 

「シャラープ!。だから、あんな言葉でもダリアさんからすれば褒め言葉になるわけよ」帽子のリボンをはためかせながら、そう言うサフィニアもどこかこそばゆい様子である。

 笑顔を向けるローゼに対しての照れ隠しなのだろう。サフィニアは脇に抱えていたマントを派手に宙を舞わせると、誇らしげに自分の肩へ落ち着かせた。最後に首元のリボンで蝶々結びをして完成である。

 

「どうよぉ」

 

 ファッションモデルのように、意識したポーズをきめるサフィニア。沈黙の漆黒に、鮮やかな紅が注がれたそれは、陽に照らされ静寂の魅力を醸していた。

 

「うんっ!とっても良く似合うよサフィちゃん」思わず拍手である。

 

「当然、当然」鼻高々なサフィニアであった。

 

「良いなぁ。来年は私も着られるようになってるかなぁ」天を仰いでローゼが呟いた。

 

 一瞬笑顔が消えたローゼの表情を見て、サフィニアは複雑な気持ちになった。ローゼのように、パリダの外からやって来た魔女志望者は原則として、『見習い』ではなく『駆け出し』とされ、魔女になる資格を有しているかどうか指導者によって見定められる。指導者によって認められ、初めて、地元出身者と同じ『見習い』に昇格できる。その際、魔女の正装である三角帽子とマント、カンパニー章を授与され、正式な魔女として認定されるのである。

 

「ローゼなら大丈夫よっ」 

 

「ありがと、サフィちゃん」 

 

 ローゼならば大丈夫だと本気で思った。根拠が見当たらないの所が矛盾なのだが、

ローゼと別れた後、ローゼにはパリダに居てほしいと願う、自身の個人的願望がそう思わせたのかもしれないとも溜息と共に思わずには居られなかった。

 翌日、約束の時間になってローゼは現れなかった。正午きっかりにホーエンハイム駅で待ち合わせの約束だったはずである。

 すでに、集まった3人は、時折駅舎の時計を見上げては、いつまで経っても姿を見せないローゼを待っていた。

「珍しいですね。ローゼ先輩が遅刻なんて」お気に入りの手編みマフラーをまき直しながら言うセレン。

 

「そうですよね。ローゼさんいつもなら30分前には着てますから」手を摺り合わせながらリリー。

 

 ただ1人、沈黙を保っているのはサフィニアである。いつもローゼが現れる角を見つめたまま、静かに佇んでいた。サフィニアには思い当たる節がある。魔女ならば、この時季に正装で無いのは、駆け出し魔女だけなのである。地元民であるサフィニアには盲点であった。故に、今日は3人共制服なのである。今朝になってサフィニアが提案したのだが、セレンもリリーも素直に承諾してくれた。

 しかしローゼは来ない。サフィニアの脳裏には昨日ローゼが見せた笑顔の消えた表情が鮮明に蘇ってくる。ミランダからのプレゼントも相俟ってはしゃいでしまった自分がなんとも恨めしい。考えすぎかもしれない。そう思うと、どうしても後ろの2人に吐露するわけにはいかなかった。

 

「ハァ、ごめんね…ハァハァ…本当にごめんなさい…」

 

 サフィニアがブルーベルへ行くか否か考え始めていた頃になって、建物の角から勢いよくローゼが飛び出して来た。

 ローゼの話しによると、今日はパンの別注文があった為、ルシアがそれに詰めていてローゼが替わりに販売を担当していた為に遅れてしまったらしい。

 

「本当にごめんね」何度も頭を下げるローゼ。

 

 それこそ、その姿に呆れてしまうくらいに。

 

「ローゼ先輩、別に気にしなくてもいいですよ。30分以上遅れてくるのがパリダの常識のようなものですから」

 

 のんびりとした風土は人々の時間観念すらものんびりさせてしまうようで、待ち合わせと言えば、遅刻分30分を予め考えて時間設定するのがパリダ流なのである。魔女には時間の厳守は徹底されているが、公演や他地域での仕事以外ではパリダ常識に則る方が一般的なのである。

 

「私達も、そんなに待ってませんから」リリーも続いて言う。 

 

「まったく」サフィニアは違う意味で溜息をついた。

 

 考えすぎだった。思えば、そんな事を気にするローゼではないのである。事細かく思いこまない。それがサフィニアのローゼなのだから。

 

「そんなに忙しくて、お昼食べてないんじゃないですか?」 

 

「うんうん、大丈夫。ルシアさんがサンドイッチ作ってくれたから」お腹を摩るローゼ。

 

「そんじゃ、気合い入れてレッツラゴーよっ!」

 

 サフィニアの号令で4人は町へと繰り出した。

 

 本日の目的は、ナターレ用の装飾である。すでに、ナターレの夜はブルーベルでパーティーをする事が決まっており、その彩りにとルシアには内緒で飾り付けようと言う計画である。

 4人が向かうのはセトクレアセアと呼ばれる陸地の町である。浮島であるパリダからは、浮き橋で繋がっている。この浮き橋を使う他はトラゲットと呼ばれる渡し船に乗るほかなく、この浮き橋はパリダからセトクレアセアへ行く為の大動脈なのである。

 セトクレアセアにはヴェネツィアやネオフィレンツェなどの建造物を真似て造られて

建造物が多く、浮き橋を渡りきった先にはヴェネツィアのサン・マルコ広場を思わせる

広場に繋がっている。

 

「この橋、何度渡っても面白いよねぇ」歩調を弾ませてローゼが言う。

 

「別名、うぐいす橋と呼ばれてますから」

 

 浮き橋は海水の浸食などで板と板の間に隙間ができる。この隙間の具合次第では板を踏んだ時に鶯の鳴き声のようなかん高い音がするのである。

 

「けん、けん、ぱっ!」ローゼの声と同じタイミングで板が鳴く。

 

「けん、けん、ぱっ」ローゼに続いてセレンも続く。

 

 そんな2人を見て、呆れているのがサフィニアである。

 

 観光客の往来も含めて作られた浮き橋の幅は想像以上に広く、パリダの水路以上の広さを持っている。さらに、1年を通して波が穏やかであるため、動揺もほとんどない。ましてローゼ達が飛び跳ねた所で往来の支障にもなりえないのだが、向こう端を歩く子どもが指を指して、羨ましそうに母親に訴えている姿を見ると、サフィニアは頭を抱えずにはいられないのであった。

「まぁ、まったくお子ちゃまは困るわよねぇ、リリー……ちゃん……」振り返るサフィニア。

「けん、けん…えっあっ…」リリーは片足で着地した体勢のまま、サフィニアに視線を合わせる。

 

「楽しそうだなぁ、なんて…」上目遣いで続けて言うリリー。みるみる頬が紅潮していくのがわかった。

 

「サフィーちゃーん、早くぅー」

 

 ひと駆け分前でローゼが手を振っている。傍らにはセレンがいて、無邪気な微笑みを浮かべている。背中にはリリーからの熱い視線。

 

「(駄目よサフィニア、私が止めないで誰が止めると言うのっ!)」目を強く閉じて自分自身に言い聞かせる。困った事に、前に居るローゼ達が楽しそうに思えてしまったのだ、おまけにリリーまで…すっかりサフィニアも小揺らぎである。これを葛藤せずして何を葛藤しろと言うのだ。激昂にも似た思いで、自制しようと試みたサフィニアだったが。

 「新ルールっ!ジャンケンで勝たないと進んじゃ駄目ぇ!」リリーの手を引いてサフィニアは駆けだしたのだった。 

 

 

 

 

 ~その素敵な贈り物は~

 

 

 通称、偽サン・マルコ広場と呼ばれるブレッツァ広場を通り抜け、セトクレアセア・パリダの象徴である時計塔の横を通り過ぎると、そこは、食料品から雑貨までありとあらあゆる物が集う商店街である。さすがに、ブレッツァ大広場付近は土産物を取り扱う店が多いが大広場を縦断した先に少し入れば、正真正銘の商店街なのだ。

 

「電飾何色がいいかなぁ」ウインドーディスプレーに額をつけて言うローゼ。

 

 青や赤、黄色に白、クリスマスツリーに飾られた電飾が煌びやかに点灯している。

 

「今年のトレンド色は青だそうですよ。月刊マーリンに書いてありましたから、間違いありません」親指を立てて見せるセレン。

 

「じゃあ、青色に決まりだねっ!」

 

 商店街に入った4人は2人ずつに別れ、それぞれが手分けして装飾品を探す事にした。

ローゼとセレンが電飾を担当し、サフィニアとリリーがそのほかの飾り付けを担当する事になったのでる。

 

 

「ローゼ先輩、購入はまだですよ」

 

 一目散に店内に入ろうとした、ローゼをセレンが制した。

 

「ほへ?」

 

「他の店も見てみるんですよ。同じ商品でも価格が違うかもしれませんし、もっと、良い商品が見つかるかもしれませんから」人差し指を立てて説明するセレン。

 

「おぉー、セレンちゃん買い物上手なんだねぇ」感嘆するローゼ、思わず拍手である。

 

「買い物の常識ですよ。さぁ次の店に行きましょう」

 

 ローゼの褒め言葉に照れながらセレンは次の店目指して歩き出した。

 

 すでに目前に迫ったナターレ。商店街もナターレ一色に化粧をしているようである。食料品を取り扱う店でさえ、電飾をアーケードに飾りつけ、頭上には洗濯用に渡されたロープに電飾や飾りがつり下がっている。ただ、この場所に居るだけで心がワクワクと弾んでしまう。そんな雰囲気の中、ローゼはこの情景を観光の人々にも見せてあげたいと思った。セトクレアセア・パリダへは春から秋にかけての観光シーズン以外は観光客は入る事ができない。その為、秋が深まると、セトクレアセタ・パリダは潮が引いたように静かになるのである。

 

「ローゼ先輩、ぼーっとしないで下さい。ただでさえ人が多いんですから」メモ用紙を片手に先を歩くセレンが言う。

 

「あぁ、ごめんね」 

 

 ローゼは思った。ただでさえ混み合う商店街に観光客が加わったらどうなるのだろうかと。少なくとも、すし詰め状態になるのは決定的である。

 片側の商店を一通り見終わった後、今度は折り返して反対側の商店を見て回る事にした。雑貨店にはヴェネツィアンガラスのランプやバウータがディスプレーしてある。太陽光を受けて煌めくそれらを宿したローゼの瞳も自ずと輝いていた。

 

「ローゼ先輩、この前のマルガリータ覚えてますか?手をつけなかったピザです」俯くセレン。

 

「うん、二度焼きしたからチーズがかたくなっちゃったけど」

 

 先日、リリーとミネルヴァの仲を取り持つ計画を長靴猫で練る最中に注文したマルガリータ。その際、高揚したセレンは等々手をつけずに店を出てしまった。その後、ローゼがブルーベルへ持ち帰り、窯で温め直したのである。

 

「わたし、寮に帰った後思ったんです。とても悪いことをしたんじゃないかって。あの時はリリーさんとミネルヴァ先輩の事で頭の中が一杯だったので、悪気はなかったんです」ここで、セレンは一度言葉を止めた。

 

 ローゼは黙ってセレンの言葉を待った。

 

「リリーさん達が仲直りする為に、色々考えてがんばりました。それと同じように、あのマルガリータ一枚を作るにも、きっと、考えつかない努力があったと思うんです。だから…」顔を上げるセレン、何かを求めるような表情でローゼを見上げていた。

 

 どうやらセレンは自分の気持ちを、うまく言葉に出来ないでいる様子だった。諦めた表情で再び俯くセレン。言葉は足らずともローゼにはセレンの言いたい事が手に取るようにわかっていた。

 

「じゃあ、今度サフィちゃんとリリーちゃんも誘って、みんなで食べに行こうよ、マルガリータ」微笑みを混ぜて、ローゼがセレンに語りかけた。

 すると、

「絶対に行きましょう。お腹一杯マルガリータを食べてやるつもりです」決意を新たにセレンは胸元で小さくガッツポーズをするのだった。

 人混みの中を歩くのは想像以上に体力を使う。額にうっすらと汗を浮かべる程の疲労をお供に、再び、商店街に入って行かねばならない。

 やがてブレッツァ広場に戻って来た2人。店舗別の情報を記入したメモに視線を落とすセレンが言うには、広場からもっとも遠い店舗が一番安価であるとの事であった。

 

「少し休みましょうか?」疲れた表情を見せないセレンが気遣いの言葉をかける。

 

「ううん、平気。セレンちゃん元気だよねぇ」

 

「よくお散歩をするからだと思います。一日中歩いても平気ですから」

 

 しれっと、凄い事を言うなと思うローゼであった。

 

「それでは行きましょう」

 

 再び、商店街を歩き出す2人。今回は目的の商店までの間に足を止める必要が無いため人の流れに乗って、時には追い越して。

 ローゼは面白い事を発見した。ブレッツァ広場へ向かう流れと商店街奥へと向かう真反対の流れ。いずれも大股で歩けない程混み合っているのだが、不思議な事に両極端の流れの中央部分は見えない仕切り板でもあるかの様に、丁度、人1人が通れるだけのスペースがあいて居るのである。

 ローゼはそれをセレンにこっそり話すと、

 

「試しに歩いてみますか?」と興味津々の様子であった。

 

「思い遣りの道だもん。歩くのはやめとこ」ローゼは嬉しくなってそう言うのであった。

 

 セレンは首を傾げたが、ローゼが言うには、この空間は双方を通る人々がお互いに身体が当たらないように思い遣った結果できた道なのだそうだ。

 思い遣り。セレンからすれば、ただ両方にある商店を見たいが為、自然と両端に寄ってしまった結果、中央部分に空間が出来たのだろうと推測したわけだが、前者の方がローゼらしいと思ったし、そちらの方が気持ち良いと思った。

 

「そうですね。今回はやめておきましょう」好奇心を抑えての妥協である。 

 

スムーズな流れに乗って、目的の商店に到着した2人は、迷うことなく店内に入った。

ドアに飾られたクリスマスリースに付いている鐘が来客を知らせている。

 店内には親子連れやカップルなど、先客の姿が見受けられた。皆一様に、クリスマスグッズを手にとっては笑顔で見合っている。

 

「青色で良いんですよね」

 

 店主の立つカウンター前に置かれてある、人工ツリーの電飾を指さした。

 

「うんっ!でも、青だけだと寂しいから赤と白も買わない?」ローゼは入り口付近で点灯する赤い電球を突きながら言った。

 

「それじゃあ、ついでに緑も買いましょう。ナターレは豪華に祝うのが醍醐味ですから」

 

 セレンはそう言うと、パタパタとクリスマスグッズの陳列棚まで駆けて行くと、4色の電飾を抱えて、カウンターへ向かった。

 今頃、サフィニアとリリーも買い物の真っ最中だろうか?キャンデーを象った飾りを弄びながら、ローゼは飾りに目移りさせる2人を思い浮かべていた。

 支払いを済ませるには十分な時間が経ったが、セレンはまだカウンターの前で立ち尽くして居た。気になったローゼがセレンの肩越しに除いてみると、カウンタの上に、

『モッくんトートバッグプレゼント(無くなり次第終了)』と簡略的に書かれたチラシが置いてあり、穴が開く程セレンはそのチラシを凝視していた。チラシの端には小さな文字で、〈商品お買いあげのお客様に限り〉と書かれている。どうやら、一定額の買い物をした人にのみプレゼントされるらしい。

 

「クリスマスバージョン。でも無駄なお金は…クリスマスバージョン…」

 

 セレンの抱える電飾だけでは、金額に届かないらしく、買い足すか否か悩んでいる様だ。

 

「これも一緒に下さい」

 

 ローゼは黙って、近くに置いてあったトナカイのぬいぐるみをカウンターに置いた。

 

「えっ?」セレンは思わず、振り返ってしまった。

 

「えへへぇ」

 

 そこには悪戯な笑顔を浮かべるローゼの姿があった。

 

 しかし…

 

「余計な物は買いません」セレンは次の瞬間に不機嫌を絵に描いたような表情をつくり、ぬいぐるみを返してしまった。

 

 それから早々と会計を済ませたセレンは、きびすを返しさっさと店を出てしまった。

「あのバッグ欲しかったんでしょ?なんで?」首を傾げるローゼ。

 

「ああ言うのは子ども扱いされてるようで好きくありません」振り向かずそう言うと、セレンは歩き出してしまった。

 

 セレンの言葉に驚いたローゼは、

 

「怒らせたのならごめんね。そんなつもりじゃ…」

 

「わかってます。ローゼ先輩は悪くありませんから。それに余計な物まで買うとサフィ先輩に怒られます」言葉とは裏腹につんけんした物言いのセレン。

 

 しかし実のところは、セレン自身にも何が気に入らないのかはっきり理由は見当たらなかったのである。ローゼの好意っを素直に受け取っておけば今頃、大好きなモッくんのプリントされたトートバッグが肩にあるはずなのだから。

 

 変な所で素直になれなず、強がってしまう。本人が自覚できていないだけ厄介である。

 

 朴念仁となったセレンは、早足で商店街の道を歩く。迷惑も気にせず、ずんずん進んで行くセレンにローゼはついて行くだけで精一杯であった。

 

「こっちよぉー」

 

 蛇口から出る水のように狭い通りから解放されたローゼをサフィニアが手招いた。すでにサフィニアとリリーは買い物を終え、喧騒から外れた時計台の端で待っていた。セレンの姿も見受けられる。

 

「リリーちゃん顔色悪いけど大丈夫?」

 

「サフィ先輩に虐められたんですか」嫌みを言うセレン。

 

「何それ」思わぬ変化球に眉を顰めるサフィニア。

 

「ちっ、違います。人に酔っただけですから」リリーは苦笑を浮かべた。

 

 そう言うリリーの両手には、大きな紙袋が握られている。サフィニアも右に同じく、

大きな紙袋を携えていた。

 

「サフィちゃん達、色々買ったんだね」サフィニアとリリーの携える紙袋を見てローゼが嬉しそうに言った。

 

「用も済んだ事ですし。さっさと帰りましょう」

 

 どんよりとした目元でそう促したセレンは、1人で歩き出してしまった。

 

「あららー、朴念仁オーラ全開ねぇ。何かあったの?」

 

 セレンの背中を見ながら、それとなくローゼに聞くサフィニア。ローゼはトートバッグの事を二人に詳しく話した。

 

「モッくん可愛いですもんね」セレンに同感を示すリリー。

 

「ほほおぅ」悪戯な笑みを浮かべて目を輝かせるサフィニア。

 

 話しを聞いた2人の反応はまるで両極端であった。

 

「こりゃローゼ、行くわよ」

 

優しい表情でセレンの背中に視線を送るローゼに、サフィニアはそう言うと、嬉しそうに駆けだして行ってしまった。

 

「待ってぇサフィちゃーん。リリーちゃん行こう」

 

「はいっ」

 

 向かってくる3人を横目で確認したセレンは、わざと歩みを早める。もう既にトートバッグの事など眼中になかった。ただ、気に入らないのである。誰がとも何がと言うわけではない、本当にただ、虫の居所が悪いだけなのだった。八つ当たりと言えば八つ当たりである。

 

「どうしたのぉ?今頃になってトートバッグが惜しくなったとか?」

 

 結局3人がセレンに追いついたのはブレッツァ大広場を縦断して浮き橋の手前であった。

 立ち止まって3人を待つ居たセレンに、ここぞとばかりに仕掛けるサフィニア。

 

「なんの事ですか。さぁ、一勝負です。今度は負けませんから」

 

 サフィニアが言いだした、ジャンケンポンケンケンは最後サフィニアとセレンの一騎打ちとなり火花散る白熱した戦いが展開されたのだが、板一枚差でセレンが負けてしまったのであった。

 

「えっ、またやるんですか…」戸惑うリリーをよそに、

 

「ほほう。返り討ちにしてくれるわ」とサフィニア、

 

「よぉし、今度も一等賞になってやるぅ~」とローゼ、

 

「雪辱戦です。リベンジです。負けませんから」向こう岸を睨み付けるセレン、

 

 三者三様にやる気は満々の様子であった。

 

 

ナターレを明日に控えたブルーベルは更に目まぐるしい忙しさに、てんてこ舞いであった。ルシア手作りのパネットーネを求めるお客の列がいつまで経ってもたえないからである。ここ1週間は、いつもより早くから定番パンの仕込みを始め、それが終わると、開店までひたすらパネットーネにかかり切りになるのである。ここ1週間の嬉しい悲鳴を上げながら走り回るローゼは、今年までこの混雑をルシア1人でこなしていたのかと思うと総毛立つ面持ちになった。

 夏頃から窯を任せられたローゼは、全ての定番パンと加えてパネットーネをも焼くことが出来るようになっていた。ルシアが生地と整形を行い、それをローゼが窯で焼く。

この分業で随分と時間が節約できるとルシアは微笑んでくれた。そんな笑顔を見るとがぜん力が入るローゼであった。

 

 4度目の窯だしの頃にはすっかり大砲の音が町に轟いていた。

 

「あら、もうこんな時間」鳩時計を見てルシアが呟いた。

 

「やっと一段落ですねぇ」

 

 イーゼルを店内に入れ終わったローゼが、息をつきながら言う。

 

「すぐにお昼作るわね」

 

 手を白く染める小麦子を洗い流した、ルシアはそう言いながら、調理用エプロンを身に纏っていた。

 

「それじゃ、私は薪割ってきます!」

 

「あらあら、ローゼちゃんてば元気ねぇ」 

 

「はいっ!」 

 

 ローゼはルシアの言葉に大きく頷いてから、中庭まで駆けて行った。

 今日は風が無く、日差しがととても暖かく感じられた。デージーの花も嬉しそう花びらを広げている。

 

「ニャンさんも気持ちがいいですねぇ」

 

 見れば四阿の屋根を1匹の黒猫が気持ちよさそうに日向ぼっこをしている。語りかけるローゼに猫は耳だけをしきりに動かしているだけであった。ついでに四阿に入ったローゼは日向に座り深呼吸をする。するとどうだろう、空気の栓が抜けた様に瞼が重くなった、ポカポカとした陽気に包まれると、まるでふかふかの毛布に包まれて居るように柔らかく暖かいそんな気持ちがほぐれて行く様であった。

 そこはまるで黄金を敷き詰めた道のようだった。ローゼの歩く銀杏の並木道。黄色い落葉が目映く、本の中に迷い込んだ様に素敵な世界が広がっていた。その道を歩くローゼはとにかく嬉しかったし、どんなに見上げていても首が痛くならなかった。

 

「あっ、ニャンさん!」

 

 突然、ローゼの前に黒猫が現れた。それは丸々と太った大きな猫でローゼの腰辺りに頭がある。愛想のある瞳には驚いたローゼの表情が写っていた。しかし、不思議な事にローゼはその猫に見覚えを感じた。こんな大きな猫には会った事はなかったが、どこか懐かしい、そんな雰囲気が感じられたのだった。

 

「もしかして、この金貨の?」ローゼは首元にある金貨に手をやった。

 

 すると、金貨が虹色に輝き始め、やがてその光はローゼ自身を飲み込むように広がって行く。不安感はなかった、まるで空を飛んで居る様な爽快感と安堵感で溢れていた。誰かに『大丈夫』と抱きしめてもらっているそんな心地よささえあった。

 次にローゼが見た景色はセトクレアセア・パリダの一望であった。傍らにはあの猫が顔を洗っている。

 辺りを見回してみて、そこが丘の上らしいとわかったが、それ以外はなぜかもやのかかった様にしか見えなかった。展望台だろうか、ローゼの立っている場所は石が敷き詰められその上に石組みがしてあり、小さな物見台のような形をしている。

 

「あなたが連れて来てくれたの?」

 

 ローゼがそう言うと、猫は徐に立ち上がると、ローゼの後ろにある石碑に身体をこすりつけた。摩訶不思議な事に、その石碑は今の今まで見当たらなかったはずなのだが。

その石碑は所々欠けていたり、細かな罅が入っていたりと、この場所に立てられてから多くの時間を過ごして来た事が窺えた。ローゼは屈んで石碑には何か刻まれている文字を読み取ろうと試みたが、ついに読み取る事ができなかった。

 

「摩訶不思議」

 

 ローゼが呟きながら、立ち上がると辺りが灯を消したように暗幕に覆われた。それは夜ではなかった。月も無ければ星も見えない。息苦しい様な狭い様なそんな空間にローゼは居た。不意に灯りがついた、光源ははっきりとわからなかった、見上げることのできないほど光は強いものであり、スポットライトの様に石碑とその周辺を円形に照らし出している。

 

「これって…?」ローゼは軽い圧迫感を感じた。 

 

 それは、マントであり三角帽子であった。魔女の正装にして、ローゼが未だ着ることを許されない物である。サフィニアの正装姿を見て、羨ましいと思った。憧れの正装をどうして自分が身につけているのかはわからないが、ローゼはとにかく嬉しくてたまらない。思わず小躍りを始める始末である。

『サンドラ・フェラーリを忘れる事なかれ、アイリス・マテリアを忘れる事なかれ』頭の中にそんな声が聞こえてくる。

 

ローゼが辺りを見回していると、 猫がローゼの前に再び現れた。

 

「ニャンさんが言ったの?」

 

 物言わぬ猫は深く頷き、何度か瞬きをした後、視線を固定させた。どうやらローゼの右手を見つめている様だった。

 ローゼは、左右に右手を振って見た。すると猫は手の動きに合わせて首を動かした。

何も無いはずの右手をゆっくりと開いて見る。

 

「えっ…」

 

 なんと、何もあるはずがない手の中には、虹色に輝く石があった。石は内側から光を発している様に、七色を淡く優しく讃えている。魅了されたローゼはしばらく動けなくなってしまった。

「これ私に?」やがて光が消えた石を手の平に乗せたまま、ローゼは眠たそうに欠伸をしている猫に語りかけた。

 するとまたしても『七色の光は七色の道。歩き出す物に祝福を。始まりの居場所に感謝を』頭の中に声が聞こえて来た。

 言葉が終わると、猫はゆっくりと踵を返して闇に向かって歩き始めた。

 

「ありがとう、私がんばるね」自然と言葉が出てきてしまった。

 

 ローゼがそう言うと猫は一度だけ振り返り、深く頷き、そして、闇に溶け込む様に消えてしまった。

 

 

「ローゼちゃん?ローゼちゃん?」

 

「…あれ?…ルシアさん?」

 

 肩を揺さぶられて目を覚ましたローゼは、惚けた眼でルシアになんとか返事をかえした。

 

「悪い夢でも見てたの?涙これで拭いてね」そう言うルシアの表情は心配を絵に描いた様である。

 ルシアに渡されたナプキンを受け取ったローゼだったが、この時まで自分の頬に涙が伝っていることに気が付かなかった。

 

「私なんで…涙なんだろう」ローゼは、首を傾げながら涙を拭った。

 

 そして、あの不思議な体験は夢であったのだと思った。夢と言うものは目が覚めてしまえば短時間で朧気になってしまう。猫が去った後、ローゼは1人、どうしようない不安と孤独に苛まれ、座り込んでしまった事を思い出した。

 

「悲しい夢?」向かいに腰を降ろすルシアは優しく問い掛ける。

 

「とても、摩訶不思議な夢だったんです」

 

 ローゼは夢の一部始終を極力細部まで思い出してルシアに話して聞かせた。黄金の道銀杏並木、大きな猫の子と石碑の事、そして、サンドラ・フェラーリ、アイリス・マテリアと言う名前。情景は随分と掠れてしまっていたが、大体は伝える事ができた。

 

「そう…ローゼちゃん。お昼食べたら一緒に散歩に行かない?」

 

 ローゼの話しを聞き終わった後、ルシアはしばらく町並みを見下ろしながら何かを考えている様子だったが、やがて、ローゼに向き直りそう提案した。

 

「えっでも、お客様はどするんですか?午後からも予約が入ってますよ」意外な提案にローゼは一抹の戸惑いを覚えた。

 今日は夕方までパンの予約で一杯なのである。とても散歩に行っている暇などない。

 

「予約のお客様には、私から連絡しておくから心配しないで」そう言ってルシアは優しく微笑むのだった。

 お昼ご飯はルシア特製のプレーンオムレツとガーリックバターが香ばしいフォカッチャだった。ふわとろ卵と、程良い酸味のトマトソースが口の中で絡み合って絶妙なハーモニーを醸し出す。

 ルシアはオムレツを食べ終わると、さっそく予約帳を片手に電話をかけ始めた。ローゼはフォカッチャを囓りながらそれを見ていたが、やがて、食器の片付けをする事にした。

 散歩の支度が整った頃、午前中はあれほど澄み渡る青空だったにも関わらず、黒く分厚いい雲が目立つ様になって来た。

 

「雨降らないといいな」ローゼは一人空を見上げて呟いた。

 

「お待たせ、行きましょうローゼちゃん」

 

 ドアに施錠を終えたルシアは正装であった。清新とした黒を讃えるマントと三角帽子。それぞれ、鮮やかなマリンブルーのリボンが装飾してあった。クラウンをすこし折ってあるところがお洒落である。

 ローゼは初めて見るルシアの正装姿に、目を瞬かせた。

 

「どうかした?」

 

「やっぱり素敵ですねぇ、正装」

 

 憧れの視線を贈るローゼにルシアは微笑み返して、ゆっくりと歩き始めるのだった。

 歩くたびに揺れるマントを見ながらローゼは、これをいつか自分も着ることが出来るのだと思うと、なんだか嬉しくなっくる。

 黙々と歩くルシアにローゼが行き先を尋ねると、ルシアは唇に人差し指をやって「ひみつ」と言うに留まった。

 やがて2人は浮き橋を渡り、ブレッツァ広場を横切って路地に入った。パリダと変わらず、路地は狭く、少し行けば井戸のある広場に出る。パリダと異なる点で言えば、水路が無い分橋を渡らないと言うだけで、後は何一つ変わらない。ルシアは依然と無言のまま、ローゼを先導するように歩いて行く、しかし、その表情はいつもかわらない優しいものであった。

 一方、ローゼも初めて通る道、場所。初めてみる風景に心を躍らせていた。

「わぁ、道が紅葉している見たい」階段状になった坂道を見上げてローゼが声を上げる。

 白壁の家々を縫う様に進み、角を一つ曲がった所は一面真っ赤な道であった。まるで夕日に照らされた様な朱は、道に敷き詰められた赤煉瓦が見せる、道の紅葉であった。

「この道はね。昔、この一帯で煉瓦が盛んに焼かれていた名残だと言われているのよ。もう随分前に窯は無くなってしまったけれど」

絨毯をレットカーペットの上を歩いている様ではしゃいで居たローゼだったが、ルシアのその話しを聞くと、急に駆け出し、坂を登り切った所で振り返った。

 

「ルシアさん。敷き詰められたこの煉瓦も、セトクレアセア・パリダを彩る家々の煉瓦もずっと昔に、ここで焼かれた物なんですよね」丁度、ルシアがローゼに追いついた所、でローゼがそう呟くように言った。

 

 ルシアもローゼ同様に振り返って見ると、陸に広がる赤と海に浮かぶ赤が鮮明に見渡せた。ここから見える赤のほとんど、昔この地で焼かれた煉瓦だろう。

「職人冥利に尽きるわねぇ。もう作る事は出来なくても、自分達が作った物が時を超えてこうして人々の記憶に残っているのだもの」

 

 ローゼもルシアと同感であった。しかし、それが故にすこし寂しくなったのである。

煉瓦は時を超えて残る。しかし、パンは食べてしまえば無くなってしまう。

 

「ルシアさん…」ローゼは言うに言えず押し黙って俯いてしまった。

 

「さぁ、行きましょ」 

 

 ローゼとは裏腹にルシアの微笑みは明るかった。

 

 緩やかな登り道を歩き続けるとやがて市街地を抜けて、芝の広がる広い丘が見えて来た。人家がぷっつり消え、今までの白かった風景が急に開ける。まるで違う世界に足を踏み入れた気分である。

 緑の地面に白い一筋の道が通っている、道はピンコロ舗装されてあったが、ある石は割れある石は黒ずんで居たりと、舗装されてから随分時間が経過していることが窺えた。

 

「ルシアさんあれって…」ローゼは思わず、大きな声を上げてしまった。

 

 顔を上げた先には、金色の葉を携えた並木が見えたからである。ルシアは驚くローゼの手を取って駆けだした。相変わらずルシアの手を荒れて居てガサガサしていたが、とても温かかった。

 どんどん目前に迫る金色の世界。それは銀杏並木だった。見た事もない銀杏の大木が

金色のアーチを形作っている。

 ローゼはこの風景を見た事があった。厳密には見た事はない。一時の微睡みの中で見た風景なのだった。見上げたまま手を引かれるままに走るローゼ。しかし、次の瞬間、ローゼの手が解放され、ローゼは力無く立ち止まってしまった。

 

「…ルシアさん…?」

 

 舞い落ちる金色の葉は遠ざかって行くルシアの背中だけを微かに見せてくれたが、やがてその姿は見えなくなってしまった。

 木の葉の輪舞の中、ローゼは朧気ながら一度この場所に来たことがある様な、不思議な感覚であった。すでにルシアの姿は見えなくなっている。ローゼは惜しむ様に歩みを早めた。

 刹那、丘の上から突風が並木道を通り過ぎた。ローゼも思わず目を閉じて風をやり過ごした。恐る恐る目を開けると、

『大丈夫』とローゼの耳元に声が聞こえて来たのである。

 ローゼが振り返ると、1人の魔女がこちらを見て微笑ん居た。疲れた帽子と継ぎ接ぎだらけのマント。そして、窶れた頬。満身創痍と言えるその魔女だったが、唯一、瞳だけは生命力を並々と讃え希望の輝きを宿していた。

 やがてその魔女は、時間をおいて吹雪のように降り注ぎ始めた落葉のカーテンに姿を消してしまった。

 どうしてだろうか、ローゼは胸の奥から湧く熱い何かを感じずには居られなかった。

 

「ローゼちゃん、こっちよ」

 

 気が付くと、ローゼは並木道を抜けた場所に立ち尽くして居た。正面に広がる、緑色の丘は何処までも続き、まるで海を見ている様であった。

 ルシアに呼ばれ、我に返ったローゼは、まだ仄かに残る胸の高鳴りを思いだしながら並木道を振り返ってみた。しかし、そこには誰1人として見当たらなかった。

 ルシアの元へ駆け寄ると、不思議な光景が広がっていた。ルシアが立つ場所は道から出っ張る様に突き出た展望台の様な場所であり、石組みされたそれの中央には見覚えのある石碑も建てられてある。ローゼが夢で見た場所とまったく同じであった。

 その場所からは、セトクレアセア・パリダが一望できた。海岸線から伸びた鉄橋にはホーエンハイム駅へ向かう列車が走っているのが見える。晴れていればもっと素敵だっただろうとローゼはどんよりとした空を見上げた。

 傍らのルシアも町並みを見下ろしていた。ローゼはルシアの表情を伺ってから、そっと振り返って見た。その石碑は所々欠け色褪せていて、過ごした時間の長さを物語っている。夢と同じ、石碑に書かれた文字はすでに読み取れないくらいに腐食していた。

 

「これ…」思わずローゼは大きな声を上げてしまった。

 

 その石碑の下には魔女の正装である三角帽子とマントが綺麗に折り畳まれて安置されてあり、帽子にはマリンブルーのリボンが飾ってあった。

 

「この場所はね。遙か昔、魔女が迫害されていた時代に1人の魔女が希望を見出した所だと言われているの。その魔女がパリダを築きそして、後生の魔女がここに石碑を立てた。その銀杏並木もその時に植樹されたものなのよ。迫害されて、心身共に疲れた魔女達の希望と新しい始まりを象徴するように」ルシアは石碑に置かれた正装を手に取りながら、徐にそう語りかけた。

 

「希望の光…ですね」噛み締める様に言うローゼ。

 

 セトクレアセア・パリダは華やかな町である。ネオフィレンツェやヴェネツィアに比べれば、色褪せてしまうだろう。しかし、素朴な中にも見え隠れする華やかさのコントラストは訪れる者を魅了するのである。故に、ヴェネツィアの模造都市と中傷されよう共、毎年の観光シーズンには多くの旅行客で賑わう。

 そんな町の歴史は明るいものばかりではない。事実、人工浮島であるパリダは、その昔、魔女迫害から逃れて来た魔女達の拠り所として造られたのである。無論、そんな歴史を知るよしも無かったローゼは自分が魔女の制服に袖を通して居ることが居た堪れなく思えた。そして、心身ともに疲れきった魔女達がこの場所から眺めたパリダの町はどれだけ輝いて見えただろう。どれだけの安堵感に包まれただろう。金色の舞い散るその情景にどれだけ希望を見ただろう。古の時を超えて思いを馳せたローゼの心は大きく波打ち胸が熱くなるのを感じずにはいられなかった。そして、止め処なく溢れる涙を止めることなど出来なかった。

 

「ローゼちゃん」

 

「はい…」優しいルシアの声を背中越しに聞いたローゼは、涙を拭いながらルシアに向き直った。

 

「ローゼちゃんがパリダに来てから、ずっと見続けて来ました。パリダでの生活も不安も孤独もあったでしょう?でも、ローゼちゃんの笑顔を見ていたら、ずっと前からパリダに居たような、そんな不思議な気持ちになりました。これは、正式なブルーベルの魔女であること示す正装です。これからがローゼちゃんにとっての本当始まり」ルシアはそう言いながらローゼの頭に帽子を被せ、クラウンを少し折った。そして、

「始まりの魔女、サンドラ・フェラーリを敬い。築きの魔女、アイリス・マテリアの祝福を」そう言いながら、マントを着せ、リボンを結んでくれた。

 いつしか涙は止まっていた。感極まる思いと言葉に表せない想いと、ローゼはただリボンを結び終えて、顔もとで微笑むルシアの表情を見つめるしかできなかった。

 

「そして、これは、私からの贈り物」そう言うとルシアはポケットから何かを取り出してローゼに差し出した。

 

「綺麗…虹みたいですね」

 

 それは七色が詰まった石だった。手の平に入る丸みを帯びた石には配色された様に七色の石が埋め込まれていた。

 

 ローゼがその石を受け取り、曇り空に翳して居ると、

 

「これはオウム石と言って、奇跡に奇跡が重なって生まれた、鉱石だと言われているのよ。私がマーリンになった時に先代の代表から頂いた物なの」懐かしむ様にルシアはそう話した。

 

「そんな大切な物、頂くわけにはいきませんよっ!」ローゼは慌てて、オウム石をルシアに返そうと迫ったが、

「それはローゼちゃんに持って居てほしい。その石はね、それだけ美しいけれど、原石なの、磨けばもっと輝くけれど、二度と七色に輝く事はなくなってしまう。さっきの言葉には『七色の光は七色の道。歩き出す物に希望を。始まりの居場所に感謝を』と言う続きがあって、これは、歩き出す者には七色の道が開けている、多くの道を歩いて、そして最後に自分の歩く道を決めなさいと言う意味が込められているのよ。ローゼちゃんも焦らないで、色々な事を経験して自分の道を探してほしいの」ルシアはそう言って、差し出すローゼにオウム石を握らせた。

 

「私、頑張ります!いっぱいいっぱい頑張ります!」オウム石を握りしめた手を胸にやってローゼが力強く頷いた。

 

「応援するわ」一層優しく微笑むルシアであった。

 

 マリンブルーのリボンをはためかせながら、再び町を見下ろしたローゼは町並みが少し明るく見えた。きっと町並みの色は変化していないだろう。ただ、憧れた魔女の正装に身を包んだローゼの瞳が輝きを増していたからこそ、町並みに色が増した様に見えた

のだろう。正装を着込んだ自分の姿。これで正真正銘本物の魔女の道を歩めるのである。ローゼの中には決意にも似た熱い何かが沸々と沸き上がっていた。

 

「あっ…」

 

 視界に白が加わり、ローゼが空を見上げると、冬の贈り物が静かに舞い降りていた。

 

「雪ねぇ」ルシアも空を見上げる。

 

「積もるといいなぁ」頬で溶ける雪を感じながらローゼは呟いた。

 

 始まりの場所。古の昔この場所から希望を見出した最初の魔女は、ローゼと同様に熱い想いを抱きながら、雪空を見上げたのだろうか。

 

 

 

 

  ~その新しいはじまりに~

 

 

 

 

 ローゼの部屋には、真新しいマントと三角帽子がテーブルの上に安置されてあった。ベッドの上には眠れないローゼ。思い起こせば、心の準備を整える時間は十分会ったのかも知れない。それでも、ルシアからマントと帽子を授与された時、抱いていた全ての思いがローゼの中を駆け巡るのを全身で感じた。これほど心が震えたのはローゼ自身初めてだったからである。

 町行く正装姿の魔女達に憧れる事がなくなったローゼは、帰り道の全てが新鮮に思えた。そして、時間が経つにつれて1つ1つ沸き上がる喜びと実感。その日は、温かい興奮に包まれ、眠る事など出来るはずがなかった。

 それでも朝はやって来る。日の出前には置き出してパンの仕込みを始め無ければならないのだ。今日はナターレ当日である。もっとも賑わいを見せるであろうこの日をローゼは想像すら出来ないである。きっと、昨日にも増して目の回る忙しさが待っていることだろう。

 ローゼは、寝返りをうって、恐る恐るテーブルの上をみやった。そこにはちゃんと、正装が安置されてある。夢ではない、本当に本当なのだとローゼは改めて嬉しさを噛み締めるのだった。

 窓の外には、止め処なく降り続ける綿雪が見えた。夕方からずっと降り続けている。

 

「うぅーっ」

 

 ベットから出たローゼは、手の平をこすり合わせながら、クローゼットを開け、足踏みをしながら、制服に着替えた。無論、マントと三角帽子も忘れない。

 廊下に出たローゼは白くなる息を残して、工房へ向かった。そして、ドアノブに手を掛けると、目を瞑ってからドアをゆっくりと開けた。風は無く、静寂そのものであった。唯一足下に流れ込んで来る冷気が、ローゼの胸を高鳴らせた。

 

「わぁ」ローゼは歓喜の声をあげた。

 

 プレゼント開ける子どものように、ゆっくりと目を開けると、目の前には一面銀色の世界が広がっていた。それはまるで、一枚のシルク生地の様であった。

 ローゼはゆっくりとした足取りで一歩一歩、新雪の感触を味わうように四阿まで歩いた。

振り返って見ると、雪肌に残るローゼの足跡。新しいキャンバスに筆を走らせたみたいな爽快感が堪らなかった。

 しかし、次の瞬間にローゼは言葉を失ってしまった。眼前にはいつも広がる鮮やかな赤色の風景がなかったのである。全てを覆う雪はパリダの町全体を白く塗りつぶしてしまった。まるで銀幕のようである。

 この町は魔法で造られた町。きっとそうに違いない。季節を通して町は豊かな表情を見せてくれる。春の緑、夏の黄、秋の紅、そして冬には赤を銀。どうして、こんなに素敵なのだろう。ローゼは溢れ出る涙をそっと拭った。

 

「冷たっ」

 

 不意にローゼの頬に冷たい何かが触れた。反射的に振り返ってみると、

 

「おはよう、ローゼちゃん」厚手のマフラーを捲いたルシアが立っていた。

 

「おはようございます。ルシアさん」

 

「今年も綺麗に積もったわねぇ」

 

 ルシアも眼前に広がる銀幕に見惚れている様子であった。

 

「ルシアさん大変ですっ、ホワイトクリスマスになっちゃいましたぁ」気が付いた様に言うローゼ。ルシアはそんなローゼを見て、

 

「ここ二年くらい、クリスマスに雪が降ってなかったから、今年は大当たりね」そう言って優しく微笑むのだった。

 

 水平線が仄かに明るくなり始めた。水平線を伝うように青白い光のベールが覆って行く。

「サンドラさんも、この風景を見たんでしょうか…」呟くように言うローゼ。

 

 ルシアは少し驚いた表情の後、口元を綻ばせて、

 

「ええ、町も人も森も丘も少しずつ変わって行くけれど、アクアが見せてくれる季節の贈り物はいつまでも変わらないと思うわ。だから、私達が今見ている景色は先人達が見ていたものと変わらない」優しく言った。

 

 この景色だけが、いつまでもいつまでも残って行く。この町も少しずつ変化しながら悠久の時を超えて行くだろう。そんな永遠の欠片で良い、この町の記憶に残ることが出来たらどれだけ素晴らしいだろうか。

 

「ルシアさん。私、これから何をするのかも決めてませんが、絶対マーリンになります。がんばります」ローゼはルシアに向き直って力強く言った。

 

 まだ、1人前になった自分自身の姿が朧気にも見えない。何年語の未来になるかもわからない。それでも、ローゼはこのパリダで1人前の魔女になりたいと決意を新たにしたのだった。

「一緒にがんばりましょ。ローゼちゃんには、私が教えてあげられる全てを教えてあげるつもりよ」ルシアはローゼの決意を目を閉じて真摯に受け取ると、ローゼの手を取ってそう言ってくれた。

 

「ありがとうございます。一人前に慣れるかなぁ」

 

 町まで伸びて来た光のベールに銀色を讃える町並みを見下ろしながらローゼが白い息を吐いた。

 

「大丈夫。ローゼちゃんが今のまま、ちょっとした幸せを何倍にも何十倍に変えてしまう、そんな魔法のような心を忘れない限り、マーリンへの道はけして遠いものではない。そう思うわ」

 

 ルシアがそう良い終わると時を同じくして、光のベールが二人に柔らかく覆い被さった。

 

「エヘヘェ、照れちゃいますよ。ルシアさん」

 

 果たして、ルシアは照れていたのか優しい微笑みを浮かべていたのか、それは、強い順光を讃える冬の朝日だけが知っていた。

 

「さぁ、今日は今年一番の忙しさになるわ、頑張らなきゃね」ルシアはそう言いながら思いっきり背伸びをした。

 

「はいっ!ローゼ・ユナ。今年一番、頑張ります!」ローゼのそう言って背伸びをする。

 

 2人は顔を突き合わせて愉快に笑った。一番鶏よりも早く木霊する笑い声。クリスマスの朝に相応しい始まりであった。 

 1人1人、思い出の一時が重なって、織りなされるパリダの歴史はこれからもずっと続いて行く。その中で、ローゼはこれからも多くの、不思議や幸せに出会うことだろう。

仲間と笑い、落ち込んで、少しずつ1人前への道を歩んで行く。時には泣いてしまう事もあるかもしれない。だが、すぐに笑顔になれる。セトクレアセア・パリダはそんな魔法にかけられた町なのだから。

 

 

 1人1人。思い出の一時が重なって、織りなされるパリダの歴史はこれからもずっと続いて行く。その中で、ローゼはこれからも多くの、不思議や幸せに出会うことだろう。

仲間と笑い、落ち込んで、少しずつ1人前へ近づいて行く。時には泣いてしまう事もあるかもしれない。しかし、それはまた別の季節のお話。

 

 

 

         魔女の住む町   ~おわり~



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