魔女の住む町 S ~トネリコの想い出~ (畑々 端子)
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魔女の住む町 S ~トネリコの想い出~
登場人物
♪ローゼ・ユナ
ブルーベル所属の魔女見習い。
♪サフィニア・K・エルテンピヨーテ
バイオリン職人志望の魔女見習い。レットクラブ所属。
♪セレン・フランソワーズ
フルート職人志望の魔女見習い。ベノアマエストロ所属。
♪リリー・マトリカリア
声楽家志望の魔女見習い。ウェノサ・ベノサ所属。
♪ルシア・アンジェリカ
ブルーベル所属のパン職人の魔女。ローゼの師。
♪アリス・フロンターレ
ベノアマエストロ所属のフルート職人兼演奏者の魔女。
セレンの師。
♪ダリア・カラス
レットクラブ所属のバイオリン職人、バイオリンス奏者の魔女。
サフィニアの師。
♪イリス・トリアングラリス
「冬に花を咲かせる魔女」と言う二つ名を持つ庭師であり、ファーブル庭園の所有者。
♪エンフェルト・ガーネツェルン
イリスの親友でフルート職人。
プロローグ
ローゼはふわふわとした足取りで板張りの橋のようなものの上を歩いていた。板を踏むたびに小鳥の鳴き声のような音が聞こえる。
足取りはとてもふわふわとしている。もちろん、実際に歩いているわけではないのだから足の裏にも感覚はなく、もちろん疲労感もない。
月明かりに照らされたような、薄暗い視界はどこまでも狭い。つい立ち止まってしまいそうになるのだが、その度に白色の猫が現れてはローゼを導いてくれる。
それはきっとパリダの町ではない。ところどころ地道が見え隠れしていたし、路上に駐車された自動車も見当たった。人工浮島であるところのパリダでは自動車の使用が禁止されているのである。
ずっとずっと、坂道を登ってゆく、だんだんと彩度があがってゆく視界、けれど、それは決して太陽の明るさではない、セピア色のような淡いオレンジ色に包まれた世界。不意に吹き上げる強い風にローゼは思わず目を閉じてしまう。次に見えたのは、殺風景な花壇と思しきレンガを積み上げたものと獣道のような細い小道であった。
いつもここでこの場所でローゼは足を止めてしまう。もちろん、そこにローゼの意思は介在していない。進みたくても進めないのである。今の今まで上り坂をどんどんと登って来たというのに、この場所に到着したとたんに、まるで両足が石になってしまったかのように動かなくなってしまう。
そして、決まって聞こえてくるのである。
『
「だから私はできることなら完成させたくないの」
「そんな、未完成ではいけないわよ」
「けれど、完成してしまったなら……その時から私の物ではなくなってしまう気がして」
「エンフェルト、それは考えすぎだわ。あなたの作ったものをみんな待っているのだから」
「そうね…そう…でも、一番受け取ってほしい人は……欲しがってくれるのかしら」
「きっと受け取ってくれるわよ。このトネリコの木が大きく育ったころ、あなたの手でトネリコの笛を作るの、それまで私がこの木を守り続けるから」
』
「また、同じ夢…」朝焼けをしばらく待たせた暗いうちからベットの上で上体を起こしてローゼはそう呟いた。
それはとても摩訶不思議な夢だった。
季節は同じ冬の風景だった。セピア色の背景に二人の女性がたたずんでいて、朧げなシルエットからすればその女性の立つすぐそばには、大きな樹のようなものも見えた。彼女たちが何を話しているのかはわからなかった。
けれど、決まって目が覚める直前にはささやきかけるようにそんな会話が余韻のよう響
いてくるのであった。
悪夢ではない。
だが、かといって楽しい夢とはとても言えないどこか寂しくて、切ない…何とも言い表せず、とにかく摩訶不思議としか言いようのない夢であった。
「ローゼちゃん?ローゼちゃん??」
「えっ、あ、なななんでしょうか?」
そんなこんなで、今日もローゼは夢の事が気になってしまって。絶賛上の空中なのである。
「何か不思議な事でもあった?」
「えぇ、ルシアさんどうしてわかっちゃうんですか!?」
二次発酵の合間の朝食の時、ココアを片手にぼわわぁとしていたローゼに、こそばゆそうな、そんな表情をしてルシアがローゼにそう聞いた。
「うん。何か気になって気になって仕方がない。って顔しているんだもの」
「はい。とっても気になってしまうんです」
ローゼはマグカップを包み込むように口元に運ぶルシアに真剣なまなざしを向けて、何度なく見続けている夢のことを話した。
「今日はお休みにして、その場所を探しに行ってみたらどうかしら」
ローゼの話を聞き終え、つかの間、湯気をたたえるマグカップの縁を指でなぞっていたルシアは、白々とし始めた窓の外を一瞥してから、優しくそうローゼに言うのだった。
「冬に花を咲かせる人」
白亜の館を評される全面を純白の漆喰で塗り固められたウェノサ・ベノサの教堂は、カンパニーとしてのウェノサ・ベノサが設立された時代より遥かに遡って建築された建造物で、現在ではアクア有人居住地区重要歴史建造物に指定されている。
そんな教堂では本日もウェノサ・ベノサの魔女達が各々の技術を磨くべく、練習に励んでいた。だが、白のルーンの中に黄色のルーンが交じっていた。最初こそ、周りの視線を一身に集めたものの、ここ最近では別段珍しいことでもなくなったのか、特別に意識をされることもなくなった。春に開催される教館での新春発表会までの一ヶ月を切ってしまった昨今、気にしている場合ではなくなった。という理由も明確にあったのだが…
セレンとしては、最初から周りの視線など気にしていなかった。そのそも、ベノアの教堂ではなく、この教堂を選んだのはセレン自身なのだからして、折り込み済みと言うべきだろうか。
練習の相手は、もちろんリリーである。リリーはセレンにとっては唯一の同じ年の魔女見習いであり、友人でもあり、そして古典楽曲マニアである。とにかくセレンにとってリリーはとても貴重な存在なのである。何せ、「これは絶対に誰も知らないと思います!」と「そうですね。今まで一度たりとも教館でも演奏されているところを聞いたことがありませんから」と難易度の有無に関わらず二人して、古典楽曲の譜読みをしている時が楽しく仕方がない。
セレンの所属するカンパニーであるベノアマエストロは、生え抜きの逸材ばかりが所属していることもあって、見習いからマーリンまで基本的にプライドが高い魔女が多い。故に、色々と詮索される上に、そこからあらぬ噂たてられることもある。セレンがアリスの弟子であることそういった妬みの一因であると言えるが、その一方で、セレンが朴念仁であることや他カンパニーの魔女と親しくしていることも手伝って、余計に話題の種とされてしまっているのだが、当の本人はその自覚が皆無なのであった。
正午を知らせる大砲が轟き、練習を中断したセレンとリリーは連れだって、近くのカフェに昼食に出掛けることにした。
「今年は雪が降らないのに、寒いですよねぇ」
ウェノサ・ベノサの教堂を一歩出たところで、リリーが身を縮めて言う。
「雪が降らないから寒いんですよ」
その後に続いて、教堂から出たセレンは分厚い曇天を見上げて、そうあっさりと言った。
「えぇ、そうなんですか?」
毛糸の帽子に、もこもこのマフラーを直しながら言うリリーはさながら羊の様である。
「きっと、そうですよ」
去年の秋ごろから今年は暖冬言われていた。けれど、ナターレの頃には雪が降り始めたし、新年を迎えて少し経った頃には初積雪もあった。だから、今年も例年通り、雪だるまを作ったり、わざわざ新雪の道を選んで散歩をしてみたり、とセレン的冬の密かな愉しみを行えると目論んでいたというのに……
「…」恨めしいほどの曇天を見上げてセレンは唇に力を入れるのだった。
寄り道をしたのがいけなかった。
教堂から一番近いカフェに向かった二人は、赤と白でごった返した店内を除いて、肩を落とした。
「あぁ、確か今日って長靴猫がお休みなのでしたぁ」
「そうだったんですか、それは知りませんでした」
テラス席には誰の姿も見当たらないのに…と日除けが畳まれたテラス席を見つめるセレン。
「さすがに、外は寒いよぉ」
自分を抱きしめるように肩を震わせるリリーは、セレンの後にテラス席を見ては、切実にそう訴えるのであった。
「すみません。私が寄り道してしまったばかりに…」セレンは視線を足元に落としてつぶやくようにそう言った。
「いえいえ、たまには別のお店にも行って見ましょうよ!きっと、今日、このお店がいっぱいだったのは別の素敵なお店と出会うためかもしれません」朴念仁オーラを背中に漂わせるセレンにリリーは首をぶんぶんと振りながら声色を高めて慌てて言う。
「…」
「って、ローゼ先輩なら前向きに言うかなぁって…」キョトンとしたセレンにリリーは思わず恥ずかしくなってそう付け加えた。
すべてはトネリコの笛が悪いのである。いいや、自分にその笛を使いこなす実力があるようなことを仄めかしたアリスが悪いのである。
トネリコを用いて制作された木管楽器は奏者であれば誰でも憧れてしまう。粘りがあって力強い音色低音から、繊細で温もりのある高音。その千変の音色はスコアに並ぶ音符以上に感情をも奏でることができる。だからこそ、奏者の技量も一層問われるのである。
だが、トネリコは成長が他と比べてとても遅い上に、既存の自生数が少ない。特定種の栽培が厳しく禁止されているアクアにおいては特別貴重な木材なのであった。
セレンが練習場所をウェノ・サベノサの教堂にしたのも、教堂から少し北側に向かった所にある楽器店にトネリコのフルートが飾られているのを発見してしまったからと言う理由もある。
ウィンドーの奥に飾られたフルートには値札がついていないところを見ると、そのフルートは非売品のようであった。セレンにとっては、それはさほど問題ではなかった。売り物であっとして、セレンにはとてもではないが手が出る値であるはずがないし、それ以前にフルート職人の卵であるセレンからすれ、他の職人が作った作品を買い求めるなど、考える余地がそもそもない。
それはただの憧れだったのだ。
◇
「ローゼ先輩どこに行くのでしょうね?」
「セトクレアセアの方へ行くみたいですけど…お買い物でしょうか」
セレンとリリーは青いルーンの宿った魔女の後をつけていた。もちろん青のルーンの描かれた制服を着た魔女はパリダの町には2人しかいない。老舗カンパニーであるところのブルーベルにはルシアとローゼしか所属していないからである。その一人であるローゼを長靴猫の近くで見かけた二人は、あえて声を掛けることをせず、その後を追って歩いているのである。
「難関ですね」
パリダからセトクレアセアへ続く、浮橋の前のモニュメントに姿を隠しながらセレンがつぶやいた。
「達磨さんが転んだ、で進まないとですね」見通しの良い一本橋を険しい表情で見ながらリリーが言う。
「それじゃ、見つかってるので駄目ですよ」
「あぁ、本当です…」
すっかり昼食を忘れて。ローゼの後を追うことに夢中になっている二人は、人通りの少ない浮橋の手前で、どうしたものかと思案していた。ローゼが渡り切ってから走ったとしても、距離が開きすぎて見失ってしまうかもしれない。かといって、下手に橋を渡り始めてしまったらローゼに見つかってしまうかもしれない。
何せ、浮橋の上には隠れるところがないのだ。
「あ、セレンさん。レガータを使いましょう!」
浮橋の手すりに止まった、カモメに手を振っているローゼを見つめていたセレンにリリーが船着き場を指さして力強く言う。見ればちょうど、セトクレアセアからパリダにやってきたレガータから荷物が降ろし終わったところのようであった。
胸元に拳を作っている限りはリリー渾身の提案だったのだろう。
「ナイスですリリーさん。早く乗りましょう」
「はい!」
セレンとリリーは、荷物の積み込みが始まったレガート乗り場に走ると、チケットを買ってから急いでレガータに乗り込むと、積み込まれた藁束に姿を隠した。
出港の鐘が鳴らされ、レガータはゆっくりと船着き場を離れてゆく。基本的に、浮橋に沿うように一直線にセトクレアセアへ向かうレガータは観光用の遊覧ゴンドラを大きくした形をしており、その大きさから船頭も船首と船尾に1人ずついる。主に浮橋では運べない荷物などの輸送手段として使われているが、観光シーズンである夏と秋には浮橋の定員を超える往来があるため、渡し船としても大活躍するのである。
「ローゼ先輩遅いですね」
「さっきは、お婆ちゃんとお喋りしてましたけど、今はえっと……女の子に何かあげてる?
」
レガータでローゼよりも早く、セトクレアセアへ到着した二人は急いで近くのお土産店に入ると、その窓越しに、ローゼが通り過ぎるのをこっそりと見ていた。
セレンとしては『してやったりと』とローゼを出し抜いたつもりでいたのだが…等のローゼは、カモメに手を振ってみたり、いちいち足を止めて往来する人々とお喋りをするので
橋を渡り切る頃には、すっかりセレンとリリーは、お土産店の店内に居ずらくなってしまっていた。
「行きましょう」
「あ、ちょっと待って下さい、セレンさん~」
大きなクマのぬいぐるみに隠れて、店の前を通り過ぎてゆくローゼを見送ってから、セレンは、一呼吸をおいて店を出ることにした。あまりもローゼが店側の道を歩くものだから、入ってくるのでは?と少しヒヤヒヤしてしまった。
「見失ってしまうじゃないですか」
商店街に入っていくローゼの背中を確認しながら、慌てて出てきたリリーに言うセレン。
「ごめんなさい~」
とリリーはおぼつかない足取りでセレンの横にやっと落ち着いた。横目で見ればその胸元には小さな紙袋が抱えられてあった。
ローゼの後を追いはじめてどれくらい経っただろうか。日々の散歩を日課としているセレンでさえ多少の疲労感を覚え始めた時分。「先輩、どこに向かってるのでしょうか」とリリーが大きくため息をついた。
「わかりません」不規則に横道に入ってみたり、坂道を上ってみたりまるで、迷路を闇雲に歩き回っているようにも見えるローゼの姿を見失わないようにセレンはリリーに背中越しに静かにそう言った。
やはり浮島パリダとは違いセトクレアセア山の麓に広がるセトクレアセアの町は至る所に坂道がある。それはもう知らず知らずの内、気が付いたら上っていた。そんな感覚なのである。
「こんなに坂道ばかしのところ…住むの大変ですね」
山の中腹に至るまで広がる家々を見上げながら、リリーは信じられないと表情を浮かべている。
「そうですね。でも、その代わり自動車とか乗り物がつかえますから、わりと住みやすいかもしれません」
眼下に広がる町の中には、大小それぞれの自動車が走っている風景がある。道幅が狭い上に、重量軽減の側面からもパリダでは自動車は元より原動機付自転車の使用も禁止されている。そもそも、張り巡らされた水路を渡る祭、そのほとんどで階段を使わなければならない利便状、自転車でさえもほとんど使う住人いない。それ故に、パリダ民の足としてゴンドラなどの水上交通が充実しているわけなのである。
「私、バスって言うのに乗ってみたいんですよね。路面電車には乗ったことあるんですけど」
もはやリリー体力の限界と言ったところだろうか、話がしたいという気持ち反面、すでに両膝に手をついてしまっている。
そんなりりーに、
「私はどちらにも乗ったことはありませんが、歩くのも色々と発見があって楽しいですよ」
と言うセレン…それ以上言葉を続けなかったのは、以前のセレンと今のセレンと変化した部分なのだろう。
多くなった小休止の分、ローゼとの距離は離れてゆく。町中を離れ、山の中腹を目指してのぼっている感覚さえもある見通しの良い坂道。もしも、ローゼが振り返ってしまったなら、たちまち見つかってしまうかもしれない。それでも、もうセレンにもリリーにも身を隠すことをするつもりはなかった。むしろ、ローゼに見つけてもらいたい面持ですらいたのだから…
「今日はこの辺りにしますか」
離れすぎた背中と、多少の徒労感。そして、すでにヘトヘトな友達。何より、昼食をとっていない分、お腹が減ってしまった。
「ふぅ。それはとても助かります~」
安堵した表情と共に、リリーはその場に座り込んでしまった。
「お腹もすきましたし、帰りにピザなんてどうですか?」もちろん、長靴猫の特性マルガリータである。
「もちろん!そう言えばお昼食べそこなっちゃったんでしたよねぇ」
「すっかり忘れてました、これどうぞ」リリーはそう続けながら、ずっと携えていた紙袋の口を広げるとそのままセレンの方へ差し出した。
「ありがとうございます。頂きます」
紙袋からは仄かにシナモンの香りが漂っていたし、大きな円形のクッキーの上にはたっぷりと赤いクリームが塗られてあった。
「赤シナたっぷり乗せのクッキーです」
「通りでシナモンの香りがするわけですね」
赤いシナモンを使ったお菓子は、セトクレアセア・パリダでは知らない人はおらず、お土産の定番でもある。数年前に、ルシアが創作した赤いシナモンパンが爆発的に流行したことに端を発することはあまり知られてはいない。
「ローゼ先輩、どこに向かっていたんでしょうね」
「もしかしたら、ただの散歩かもしれません。目的地があるのであれば、こんなに無駄に歩き回らないと思いますから…」
途中からある程度、その可能性は思い当っていた。明確な目的地があるのであれば、これほどまでに不規則に町中を歩き回ることはしないだろうし……と断定してしまいたいところなのだが、何せ相手がローゼなだけにそれが言いきれないところがなんとも歯がゆい。
素敵ハンターであるローゼであればこそ、そんな一見して不可思議な行動でさえも有り得てしまうのだ。
考えることをやめたセレンは、リリーの隣に腰を下ろして、クッキーを齧りながら、すでに見えなくなってしまったローゼの姿を探すでもなく、ただ、ぼおっと坂の上を見上げていた。
◇
「ふーん、ローゼがねぇ。それただの散歩なんじゃないの」
夕暮れ時を前にしてレットクラブの食堂内はそこその賑わいを見せていた。
「そうなんですかねぇ」ふわとろオムライスお頬張って味わいながら、リリーが言う。
「ローゼ先輩だと、あながち否定できないところが歯がゆいです」セレンが注文をしたのはもちろん、特大マルゲリータである。サフィニアに「絶対に食べきれないわよ」と言われたが、お昼を食べていないこともそして、絶賛腹ペコ開催中のセレンには食べきれる自信があったのである。
坂の途中でのクッキー休憩を挟んで、帰ることにしたセレンは、折角セトクレアセアに来たのだから、加えて少し町はずれにきたのだから、と別の探し物をしてみた。興味心からの浅い探し物であったが、当然と言うか、あまりの想像通りの結果に思わず微笑んでしまった。とは言え、絶望をしたわけではない。帰りの道すがら、目配せをする程度の探し物であるのだか、むしろ見当たっただけでもある意味では満足であったのだから。
疲労困憊を絵に描いたリリーの為に、帰りにもレガータを使った。そして、待ちに待ったピザを、と長靴猫にやってくると、そこにきてようやく、長靴猫が休みであることを思い出しのであった。
「すっかり忘れてました……」
あの時のリリーの悲痛なまでの呟きは今でも鮮明に覚えてる。その場で泣き出しやしないかと本気で少し心配になった程度である。
「二人とも何してんのー?」そんな時だった、不意に声を掛けられた。振り返るまでもなく声の主はわかっていたのだが、疲労と落胆に朴念仁モードに入りかけていたセレンは思わず、「何もしてませんよ、見たまんまです」と悪戯な笑みを浮かべたサフィニアにそう返事を返したのであった。
「私、レットクラブの社員食堂ってはじめてです」オムライスを半分残してリリーが落ち着きなく周りを見回しながら言った。
「そう言えば、私もはじめてです。さすがはパリダでも老舗中の老舗カンパニーだけあって、歴史がありますね」セレンも手を休め、木彫の施された柱や天井に露出した梁などを見上げて言う。
「まあねぇ、古さで言ったらうちが一番だしね。テイストがD地区アジア有人居住区風って言うのもあると思うわ」そういうサフィニアはどこか得意げであった。
「そう言えば、帰り道セレンさんは何を探していたんですか?」
「探したと言うほどではないですが、トネリコの木を……せっかく、セトクレアセアに行ったので」
「トネリコ?そんなの簡単にホイホイ見つかるもんじゃないでしょ」
「いえ、あるにはありましたよ」
「ほんと?! でもどうせ全部、プレート木でしょ」
興味半分。サフィニアも、もちろんトネリコ材のことは十分に知り置いている。だが、トネリコ材に関しては主に木管楽器に用いられる木材であってバイオリン職人の卵であるサフィニアからすれば、話題半分に聞き流してしまえる。
「……はい……」恨めしそうな視線をマリガリータに落としながら、セレンは唇を尖らせた。
トネリコの木が希少であることは言う間でもない。けれど、個人的に植樹されていたりして、セレンの期待以上に帰路の道すがら、その特徴的な鱗のような木皮をしたそれを目にすることが多かった。けれど、その真骨頂は『プレート』の有無なのである。トネリコの木には必ず所有者の氏名が記入されたプレートがかけられてる。その昔は、樹の幹に直接彫り込んだり、焼き印をして所有者を明確にしていた。
トネリコの木はある。だが、所有者のいないトネリコの木こそが希少性が高いのである。
「私は使わないからあんまし、知らないけど、名無しのトネリコって有人区域ぎりぎりの山森にでも行かないとないんじゃないの?」
食後のアイスティーの氷をストローでつつきながら、サフィニアは瞼を半分落としてセレンとその前に置かれた食べかけのマルゲリータを見つめている。
「……別に私は今トネリコが必要なわけじゃありませんから、一人前になってからでいいんです……」
そう。確かに、トネリコ材には興味がある、けれどそれは一人前になってからの話で、今すぐに必要と言うわけではない。もしも、運よく見つかったならば……アリスに譲る心づもりでいたわけで……
「そうねぇそうねぇ。うんうん、後輩ちゃんはトネリコ云々言う以前にしないといけないことがあるわよねぇ」
大袈裟にそう言うサフィニア。そんなサフィニアにセレンは思わず、
「サフィニア先輩に言われなくたってわかってますよ、それくらい」とつい声量を増して言ってしまった。
「いんにゃ、わかってないわ」サフィニアは視線をリリーに向けて、食い下がるように続ける。そのリリーはと言うと一触即発の雰囲気を漂わす二人に視線を泳がせては口をパクパクとさせていたりする。
「!」セレンはギュっと唇を結ぶと、どこか見下したような視線をくべるサフィニアを灰色の眼光で見つめるのだった。
その刹那。
「トネリコの前に、そのピザどうにかしないとね~」サフィニアはしてやったりと悪戯な笑みを浮かべて言うのである。
「うぅ……」
ようやく、サフィニアの意図を理解したセレンは、はっとなって、一層恨めしく、もう手に取る気にもなれない、残りのマルゲリータを見つめるのである。
注文をした当時は空腹の度合いから言って確実に完食できると思っていたのだが……いざ食べ始めてみると……半分と一枚を食べ終わったところでお腹がいっぱいになってしまったのである。いつもなら、笑顔でたたずむアリスが良いころ合いで「セレンちゃんの食べてるのおいしそうね。私にも頂戴」と手伝ってくれるのだが……
「…その、手伝って下さい…勿体ないので」とセレンは呟くようにやっと言う事ができた。
「ったく、だから、1人じゃ食べきれないって言ったのに」そう言いながらサフィニアが二切れ、「私も、もらいますね」とリリーが一切れを手伝ってくれた。残るのは一切れだけ。これからなんとか残さないで済みそうである。
「(そっか…)」
セレンは、満腹なお腹に無理やりピザを押し込みながら、日ごろ、アリスが小食な理由がわかった気がした。セレンは大抵、食事を食べられる量以上を注文してしまうところがある。もちろん、注文する時は食べられると思っているのであるが、いざ食べてみると食べきれないことの方が多く、その都度一緒に食事をするアリスが食べてくれているのである。
アリスのさり気ない気遣いに気が付いたセレンは、恥ずかしくなる一方でこの癖を改めようと心に決めたのだったが、
「(それなら、もっと早く言ってくれればいいのに)」とやはり素直になれずに毒づいてしまうのであった。
◇
「ふう」
春の陽気にぽかぽかとした今日は、坂道を上り続けると額に汗が浮いてくる。
夢に出てきた場所を探すべく、セトクレアセアへ繰り出したローゼは、それらしい場所を探すために、寄り道に寄り道を重ねながら歩き続けていた。町並みに関してはパリダと大差はないものの、やはり圧倒的に坂道が多い。これはセトクレアセア山があるためではあるが、その中腹にまで続く町を見上げると、人々の逞しさを感じえないローゼであった。
先程、休憩をした場所からさらにしばらく登った。本当は振り返りたい気持ちを我慢しつつ、ウズウズとする胸を押さえ『もう少しもう少し』と自分に言い聞かせ続けてきた、そして、ついに我慢ができなくなって
「えいっ」ローゼは勢いよく飛び跳ねながら振り返るのである。
「うわぁ」
その瞬間、眼前に広がる町並みの織りなす壁の白と屋根の赤色、そして海の蒼と空の青、その中に佇む、パリダはまるで宙に浮いているような、不思議な見え方をするのである。ここまで登ってきた者だけが見ることを許される、素敵で壮大な大パノラマにローゼは心の抑揚を隠せなかった。
そして思ってしまうのである。もう少し上に行ってみようと……
すっかり、本来の目的を忘れてしまっているローゼなのであった。
◇
夕暮れには少し早い頃合いで、ローゼは見つけてしまったのである。とても気になる樹を。
家々の壁を右手に見ながら見晴らしの良い道を上っていたローゼは、もちろん本来の目的を見失い、持ち前の感受性に対して忠実にひたすら坂道を上っていたわけなのだが、右手にある町中にあって、頭一つ飛び出している大樹を見つけてしまったのである。その樹も気になったのだが、それと並行してさらに上からの景色を見てみたいという好奇心も同じように存在していて、気持ちをどちらにもってゆこうかと迷いながら登っていると、その気持ちに追い打ちをかけるように道はやがて崖に突き当ってしまい、道が左右に分かれているではないか……これにはローゼも項垂れて困ってしまった。一本道であるならば、登った帰りに寄ることもできるのだが、こんな風に分かれてしまっていては、夕暮れまでの時間を考えるとどちらか一方しか散策をすることはできない。
「どうしようかな……」
ローゼは、首を左右に動かしながら、セトクレアセタ山に傾き行く太陽を見上げて、頭を抱えてしまった。
ニャーン
「ほへっ?」
どちらも行きたいが行けないし、でも行きたいし。と迷いに迷い頭を抱えてしまっていたローゼの耳にそんな声が聞こえた。それは、町中へ続く道の方からであり、ローゼが見やると、そこには道の真ん中でちょこんと座って顔を洗う白い猫の姿があった。その仕草はまるで、ローゼを招いているように見えた。
「にゃんさん。こっちにおいで?」
ローゼは吸い込まれるように白猫の元へつま先を向けた。するとどうだろう、猫はローゼの顔を一度見上げるようなしぐさをしたかと思うと、ゆっくりと腰をあげて、歩き出すではないか。
一層、ローゼは胸を高鳴らせた。あの時と同じ……そう、ローゼが初めてパリダの町にやってきた日、ブルーベルへ導かれたあの日と。
ローゼは、胸元にあるダンネンベルグ硬貨を上着越しになでながら、素敵に出会える予感に溢れた胸の高鳴りを確かに感じたのであった。
白猫の後を追って、歩みを早くする。
少し歩くと、殺風景であった住宅街に大小まばらな花壇が見当たるようになってくる。季節がら、未だ花をつけている草木は少ないものの、夏を前にする頃合いではきっと、眩いほどに花々が咲き乱れることだろう。
その後も、猫は塀の上を歩いてみたり、花壇の上を歩いてみたりとしていたが、時々後ろを振り返ってはローゼに目配せをするのであった。それがローゼを誘っているのかどうかと言われると、ただのきまぐれなのかもしれなかったが、少なくともローゼにはとても、偶然にはおもえなかったのである。
「あ、この木って、さっきの」
住宅街を崖沿いに歩き続けると、やがて、大きな樹がとても近くに見えるようになった。その樹は先程見つけた大樹に違いはないだろう。ローゼは、葉こそないものの、だからこそ、その立派な枝ぶりがひときわ目立つ大樹を見上げて口をあんぐりと開けて見上げているのであった。
「あれニャンさんがいない……」
不意に頬を撫でる冷気を含んだそよ風に、日暮れが近いことを知ったローゼは、急いで視線を戻してみたが、その頃にはすでに猫の姿は見当たらなかった。
小さくため息をついたローゼは、まだまだ続く住宅街の一本道を見てから、再び特徴的な木皮の大樹を見上げると、せめてこの大樹を近くで見てみたいと思ってしまった。
ニャーン
どこかに入口がないものかと探していると、葉の生い茂る常緑樹の垣根のところで先程聞いたのと同じ猫の鳴き声が聞こえたのである。
「あ、ニャンさん!」
ローゼは自分の足元にかすかに残る猫の足跡を見つけると、身をかがめみた。すると、そこに獣道のような穴が開いており、覗いた先には顔を洗っている白猫の姿が見当たった。
ローゼは、急いで立ち上がると他に入口はないかと辺りを見回してみたが、入り口やそれに近しい通路と言った類のも物は皆目見当たらなかった。
再び獣道をのぞき込むローゼ、頑張ればローゼであれば通り抜けられないこともない。
「うん。迷ったら進め!」
ローゼは帽子を脱ぐとそれを右手に持って、頭から垣根に中に入っていったのであった。
◇
アリスのさり気ない優しさに気が付けていなかった、そんな未熟な自分がトネリコ云々を言うなんて身分不相応である。
黄昏時、ベノアマエストの正門前のいつもの港で佇みながら、セレンは膝を抱いて1人、ぼんやりとダメダメな自分への考察を続けていた。小一時間ほど前にレットクラブの前でリリーとサフィニアと別れたセレンはずっと俯いたままベノアマエストロへ帰ってきた。
とても恥ずかしくて虚しい心境で、今はとてもとてもアリスの顔を見たくない気持ちが強くて、ここで腰を石のようにしていたのである。
「少し褒められたらすぐに調子に乗って、ダメダメです」小波にかき消される程度の声で言うセレン。
制作や演奏の腕前に大差はない。けれど、大きく変化があったとすれば、リリーの存在だろうか、今までは誰も演奏をしない古典楽曲をわざわざ選んでは一人で譜読みをして一人で練習をして、そして一人で演奏をして。別段、他人の評価も気にならなかった。だが、ここのところ、セレンは同じ古典好きであるリリーとデルカンデをすることが多く、その分、何もかも二人ですることが多くなり、一人でいる時間が少なくなった。
そのことを一番喜んでいたのはアリスだった。いつも一人で居たセレンにはアリスがそばに居てくれた、けれど今はリリーがそばに……
「(手のかかる後輩から解放されたから……)」
セレンは唇を噛んだ。アリスとは朝と夕食は一緒に食べている。けれど、日中はリリーと一緒に居ることの方が多い……いいや、ここしばらくはウェノサ・ベノサの教堂に出掛けているから顔すら合わせていない。
「(だからって……)」
もちろん、リリーと一緒にいる時間は楽しいし、デルカンデの楽しさも教えてもらったと思っている。だからリリーには感謝している…「(口には出しませんけど)」…自分に気を遣わなくて良くなった分、アリスは自分の事に集中できるだろうし、それはセレンの望むことろなのだ。のはずなのだが…
「だからって、急に居なくならないでいいのに…アリス先輩のいけず…」セレンは唇を尖らせて少し声を大きくして言うのだった。
その刹那。
「セレンちゃん」
「えっ」
セレンが慌てて顔を上げると、そこにはアリスの顔があった。
「ど、なんでアリス先輩がこんなところにいるんですか!」
「(絶対に聞かれてしまった…)」と急いで立ち上がったのだが、その拍子にバランスを崩し、海の方へと上体が傾いてしまった。すでに、自分ではどうすることもできない。と頭の中が真っ白になったその時、細くて長い指が胸倉を鷲掴みにしたかと思えば、ものすごい力で反対方向へ引っ張られたのである。
「危なかったぁ。うん、お腹が空いちゃっているのね。お腹が空いていると足元がフラフラするから」
その始終はもちろんアリスなのだが、引っ張った勢いあまって尻餅をついてしまっているアリスは額の汗を拭う仕草をしながら、何が起こったのかを今一つ掴み切れず、きょとんとしているセレンに、いつものおっとりとした声でそう言うのだった。
◇
猫は平然と遥か樹の上。まるで帆船の船首のように突き出ている枝の上に座り込んで、その身を黄昏色に染めて佇んでいる。
「そう、イカロスがご招待したのね」イルスはそう言いながら、イカロスを指さしているローゼに優しい視線を送るのであった。
垣根をくぐると、そこには別世界が広がっていた。山にも野にも未だに花々の色は少ないと言うのに、その場所には、花壇や鉢植に限らず、細い通路以外に所狭しと花々が咲き乱れているのである。黄昏のオレンジ色が濃くなって行くに従って、肌寒くなる。微かに足元を撫でるそよ風は確かに冷たい。それだけが唯一、ローゼを現実世界に引き留めている糸のような……ローゼはすっかり、その非現実的な素敵すぎる光景に魅了されてしまっていたのであった。
そして、その世界の中心にその樹はあった。紅く花びらの大きな花に根元を覆われるように佇んでいるその様は、まるで神話の時代に言い伝えられた世界樹を連想させた。きっと、枝に葉が茂ったなら、この世界を覆うに相当する立派な姿になるのだろう。
ローゼはその大樹がこの繊細で煌びやかな世界を守護しているのだと思った。魚の鱗のような特徴的な木皮はその身を守る鎧のようにさえも見えてくるからさらに摩訶不思議であった。
「おやおや、こんばんは。こんな夕暮れにお客さんなんて珍しわね」
ローゼが手の平を翳していると、不意に声をかけられた。
それは毛糸で編まれたストールを巻いた年の頃で言うなら初老と言い表した方がいいだろう。目元の笑じわが素敵な女性であった。
「こここっこんばんは、私はローゼ・ユナと言います」驚いたローゼは慌ててそう言いながら会釈をする
女性の名は、イリス・トリアングラリスと言った。このファーブル庭園の所有者にして庭師である彼女は、ローゼの元へゆっくりとやってくると、手に携えているカンテラに明かりを灯し、イカロスに見えるように何度か左右に移動させてみせた。
「?」ローゼはそんなイリスの仕草に首をかしげてみていたのだが……
その次の瞬間に、枝の上で澄ましていたイカロスが樹の幹をまるで走るかのように駆け下りてたかと思えば、着地と同時に、さも当然と言わんばかりにイリスの肩の上に飛び乗った。
「これがね、お夕飯の合図なのよ」
「おぉ」
ローゼはカンテラを揺らして見せるイリスに思わず拍手をしてしまった。
「こちらへおいでなさいな」イカロスを方に乗せたままイリスはそう言うと、静かに歩き始めた。
「あ、はい」
ローゼはイリスの後をゆっくりとついてゆく、カンテラの柔らかい明かりが時々振り返るイカロスの横顔を漏れ出るように照らしている。それは、どこか不気味のような懐かしいような……見上げる空には一番星が輝いていた。
「少し待っていてくれるかしら」
イリスは、テラスの椅子にローゼを誘うと、そのまま、家の中に入って行ってしまった。
ローゼは椅子に腰かけることなく、テラスから降りると庭に出て、ぐるっと景色を一回りさせてみた。窓の多い壁には所狭しと、プランターがつりさげられてあったし、壁の色はきっと白色なのだろうか。夜のとばりが降りてしまって、すべてが色を失ってしまったように見えてしまう。月が出れば明るい。けれど、今夜は月はでていないのである。
不意にローゼは不安になってしまった。朝夕にはまだまだ肌寒い、ローゼを包む寒色の世界に増して体が冷えてゆく感じがした。ローゼの両手は自ずと自身を抱いてしまうのは仕方がなかった。
「この時分は、とても寂しく感じるわ。どれだけ花々が彩っていても、世闇が全てをさらって行ってしまうようで」
「お待たせしてしまったわね」と言うイリスの手にはティーセットと焼き菓子の乗った、銀色のトレーがあった。
イリスは、トレーを丸テーブルの上に置くと、ティーカップに、温かいお茶を注いだ。促されるようにローゼが椅子に腰を下ろすと、立ち上る湯気からスッキリとした香りが鼻腔をくすぐった。
「自家製のハーブティなの。お口に合えばいいのだけれど」
「ありがとうございます。いただきます」
ローゼは、カップを両手で包み込むように持つと、湯気を鼻腔一杯に吸い込みながら、ゆっくりと一口だけ口の中に流し込んだ。
「これ、カモミールティーですよね?」
「あら、大正解。ハーブティーお好きなの?」
「はい!と言っても、あまり飲んだことがないんですけどね、えへへ」
ローゼはルナで暮らしていた頃、紅茶やハーブティと言ったお茶に憧れており、よく飲んでいたのだが、本物の茶葉やハーブは希少であるため、ローゼが飲んでいたのはもっぱら、
香りや味を似せたフレーバーティーだった。
「それはどういうことかしら?」少し考えてからイリスが聞く。
「えっと、私はアクアに来たのは最近で、それまではルナで暮らしていたんです、だから、なかなか本物のお茶を飲む機会がなくって」
「あら、それじゃあ、地球の暮らしは不便ではない?ルナでの暮らしはとっても便利だと聞いているけれど」
「はいルナは効率化がとても進んでいるのですごく便利です。でも、私はアクアの方が好きなんです。私にとっては不便だと思う事をできることが、とっても嬉しいんです。見るもの触れるもの全てが新鮮で温かくって、色鮮やかで!おまけに摩訶不思議な出来事もいっぱい、いーっぱいあって !」
憧れのパリダにやってきてまだ日は浅い。だからこそ、見るもの触れるもの全てが輝いて見える。ホログラムで眺め続けてきた、海の蒼は空の青は、その時分によって大きくそして繊細に色合いを変化させる。色濃く蒼を称える水面には小波が白い泡を立て、髪を撫でるそよ風は潮の香りを運んでくれる。
ルナで感じたそれらにはどこか、何かが欠けていた。パリダに来てからと言うもの、ローゼは何かを五感で感じない瞬間はなかった。
ただそれだけのことが、ローゼにとっては嬉しかったのだった。
「そうなのね。ルナには便利があってパリダには不便があって。うふふ、面白いわね、両方とも無い物ねだりなのだもの」
「あぁ、そういわれてみれば本当にその通りです」ローゼは思わず手をポンッと叩いた。
「おほほ」
すっかり、暗くなってしまった庭園には静寂が訪れていた。もう少し季節が進めば、虫の鳴き声などは耳に心地よく、この暗闇でさえ、素敵に演出されてしまうことだろう。
「そう言えば、あの大きな木ってなんて言う名前の木なんですか?」
「ああ、あの木はねトネリコと言うのよ」
「トネリコって言うんですか……」
不思議とローゼはその響きを知っているような気がした。
「ローゼさんは、この木がほしいの?」
「へ?いえ、この辺りでは一番大きい木だなぁって思っただけで、欲しいとかは全然思いませんでしたけど…?」
「あら、それは変なことを聞いてしまったわね。てっきり、ローゼさんは楽器職人の卵さんなのだと思ってしまって」ハーブティのお代わりを淹れてくれながら「早合点ね」とイリスは悪戯な笑みを浮かべるのだった。
「?…?」
わかりやすく、疑問符を浮かべるローゼに、イリスはトネリコの木が楽器製作に用いられる木材として希少で高級であること、また、成長が遅く、ここまでの大木になるには半世紀以上の時が必要なこと、希少故にトネリコの木には所有者の名が刻まれていることなど、トネリコについて詳しく話して聞かせてくれた。
「それじゃ、あの木にはイリスさんの名前が刻んであるんですね」
「ええ、私の名前もあるけれど、エンフェルト……もう一人。私の大親友の名前も刻まれているの」
「……エンフェルト…さん」
ローゼはその前を聞いた瞬間、軽い頭痛のような不思議な感覚に包まれたかと思うと、曖昧であった記憶が鮮明に開花した。
「その大親友さんは、笛職人なんですよね」恐る恐る聞くローゼ。
「ええ、そうだけれど、よくわかったわね」驚いた表情を隠さず、イリスはローゼ言う。
「その、えっと、実は……」
ローゼは少し迷ってから、意を決っしてここ最近見る不思議な夢のことをイリスに話した。思い出せる分だけの会話の文言もできるだけ詳しく。
そして、今日はその夢に登場する場所を探すためにセトクレアセアにやってきたことも話した。
「そんな…どうして…」
イリスは驚きのあまり、何かを言いだそうとしたそのままに口を硬直させ、危うくハーブティを溢しそうになってしまっていた。
ボーン ボーン
室内からそんな音が聞こえてくる。どうやら置時計が時刻を知らせる音らしい。
「まあ、もうこんな時間なのね」イリスは時計の音にはっと意識取り戻したかのように、取り繕うように言うと「今日はもう遅いから」とテーブルの上に置いてあったカンテラを持つと、ローゼを庭園の表出入り口まで案内してから、
「ローゼさん。その夢の話、もっと詳しく聞かせてほしいの。だから近いうちにまた訪ねてもらえないかしら」とローゼに言ったのである。
「はい。近いうちに必ず来ます! あの、お友達もつれてきてもいいですか?」
「もちろんよ、大歓迎するわ」
イリスは、両手を合わせて朗らかに言うのであった。
◇
セレンは釈然としなかった。別に機嫌が悪いわけではないというのに、アリスはセレンが何かを怒っていると勘違いしている様子で、夕食に迎えに来てくれたその時から、必死の空回りと、おっちょこちょいを連発している。理由がわかっているくせにそれを口に出さないはセレンの意地悪いところであるのだが、セレンとしては口に出しずらい心境もあったことは確かであった……夕食時にコップを倒して、さらに食後にガムシロップをぶちまける前までは……
さすがのドジッ子連発にセレンは本当にイライラし始めてしまっていた。
「ご馳走様でした。私はもう行きますね。今は新しい古典のスコアを探しに行きたい気分なんです」
ガムシロップを必死に拭き取っているアリスにそういうとセレンは静かに食堂を後にしたのであった。
スコアは基本的には宿泊棟から中庭を挟んだ先にある図書館に収蔵されている。通常は1階から2階を利用するのだが、セレンのように古典のスコアを探す場合は地下2階まで降りなければならない。セレンにとってそれはいつもの事だったが、今日に関してはその意味合いは少し違った。
「話さないと伝わらないし、伝えないと伝わらない」ここ最近セレンがローゼから学んだことである。以前は、すぐに心を閉ざしてしまう性格が祟ってか、他者に理解してもらおうとすることをせず、しようと思ってもすぐに諦めてしまっていた。だから、数多くの誤解をされてきたし、それが為多くを失ってきた。そんな自分を見捨てずにずっと寄り添い続けてくれているのが、師でもあるアリスなのだ。
だから、アリスにはきちんと伝えておかなければならない。そう思ったセレンがその場所に選んだのが図書館の地下所蔵室だったのである。あそこであれば、誰もやっては来ない、まして、この時刻であれば確実に……
けれど……アリスと二人だけの話ができる場所が自分にとっては図書館の地下室と言うのはどこか悲しい……ローゼであったなら……リリーであったらなら、どんな場所で話をするだろう。きっと、心が落ち着く場所を知っているはず…
不意にそう思ってしまった気持ちが、セレンの足を中庭の途中で止めてしまった。
月の出ていない今夜はいつもよりも暗く感じた。風もない、だから噴水の音だけが一層静寂を引き立てていたし、見ればその周りにある花壇にはまだ春には早いと言うのに、花々の姿があった。
セレンは少しひんやりとする足元を見てから、そっと踵を返すと宿泊棟に近いベンチに腰を下ろしてアリスがするのを待つことにしたのである。
「てっきり、図書館だと思った」
危なっかしい足取りで中庭にやってきたアリスは、セレンの姿を見つけるや、セレンの隣に腰を下ろすと、とても嬉しそうにそう言うのである。
「はぁ」セレンはアリスが両手に持っている木製のタンブラーを見て小さくため息を漏らした。
「これ、生クリームのせココアよ。セレンちゃん大好きでしょ?」
「図書館は飲食厳禁ですよ」
「あ……で、でも、ここは中庭だしぃ」
苦笑いで言うアリスは、まだまだドジッ子キャンペーン中のようである。
「アリス先輩」セレンは「ありがとうございます」と言いながらアリスからタンブラーを受け取った。
「なぁに」声とは裏腹に目元はとても緊張している。
生クリームのせのココアはとても甘くてコクがあって美味しい。何度も飲んでいるのだから、ココアに溶けつつある生クリームを見ているだけで、喉が鳴るようである。アリスの優しさはこのココアのようだと思った……
「私は怒ってなんていません。ただ、アリス先輩に迷惑を……いいえ、感謝してると思うんです!」
考えることは容易だったが、いざ、口に出すとみるみる間に恥ずかしさが盛り上がってきて、ついにセレンは耳の先まで火照らせて、言いたいことを言えないままに黙り込んでしまった。
「ぇぇっとぉ…?よくわからないけど、怒ってないのなか、安心したわ。また約束とかすっぽかしちゃったのかと思って」
「それって、そもそもの約束自体を忘れてますよね」
「え…そそんなことないと思うよ……多分……」
視線をはずして口笛を吹く真似をする限りは、大当たりのようである。
そんなアリスの姿を見て、セレンは極度に緊張している自分が馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「ふぅ。そんなことが言いたかったわけではなくって、最近、リリーさんと一緒に練習をしていて思ったんです、アリス先輩、とても忙しいのに、私の傍にずっといてくれて、その迷惑をかけていたんだなって、それに、食べられないのに食事を注文しすぎたりして、子供みたいなこともしてしまっていたし……私が食べられなかった分を食べるために、先輩は食べる量をわざと少なくしていたんですよね」
「迷惑だなんてそんな。私は好きでセレンちゃんの傍にいるのよ。全然迷惑なんかじゃないの。食事は……ほら、その、デザートの分を考えていてね……」
「デザート分を食べてからも、またデザート食べてますよね」
「それは別腹?」と首を梶げて見せたアリスだったが、「とにかく、私がセレンちゃんの傍に居たいから居るのよ。だからセレンちゃんは迷惑だなんて感じなくていいと思うの。だって、それは先輩である私の特権だもの。最近はリリーちゃんと練習をしているから、傍に居られなくて、寂しくも思うけれど、でもその反面嬉しくも思っているのよ。私もよく、ダリアちゃんやミネルヴァちゃん、ルシアちゃん達と練習もしたし、お喋りもしたもん。セレンちゃんにもそんなお友達が出来たらって思っていたから、今はとても嬉しいの」とタンブラーの縁をなぞりながら続けて言った。
「アリス先輩……でも心配ご無用です。私にはリリーさんも居ますし、ローゼ先輩もサフィニア先輩もいますから」
「うん。そうね……」
アリスは力強くそう言ったセレンに微笑みをくれてから、北斗七星の輝く夜空を見上げながら、
「セレンちゃん。私ね。セレンちゃんにとって居心地が良い場所でありたいと思っているの。元気な時とかうまくいっている時には忘れていて、落ち込んだ時とか泣きたくなった時にふっと思い出して、帰りたいと思える。そんな居場所に……頼りないって言われちゃいそうだけどね」
夜空から視線を移したアリスのその表情には、どこか寂しそうであったが、それ以上に温かい眼差しが込められてあった。
セレンは少しの間、言葉が出てこなかった……『ありがとう』や『感謝』なんて言葉では到底足りないと思う強い気持ちが口を開かせなかったのである。言いたいに、伝えたいに、どんな言葉を並べても全然足りない。
気が付いた時には溢れてくるものを我慢できなくなっていた。
「えっ、えっえっ? なんでなんで、どうして泣いちゃうの?私ひどいこと言った?」
突然、涙を伝わせたセレンに驚いたアリスは、どうしていいのかわからず、とっさに、呆けたように涙を流しているセレンを力いっぱいに抱きしめたのであった。
「アリス先輩」アリスの耳元でセレンがつぶやくように言う。
「……」アリスは何も言えず、ただ抱きしめる力を強くする。
「もう、先輩はなってます、私にとっての居場所に」
「ありがとう…とても嬉しい」
セレンは震える唇をギュっと閉じていた。そして、思うのだ。また、伝えたいことが全然言葉にできなかったと……けれど、今は痛いくらいに感じるアリスの温もりと、圧倒的な安堵感から、むしろこれでよかったのかもしれない。そんな風に思えてしまうのであった。
「トネリコの想いで」
「はじめまして、セレン・フランソワーズです」
「こんにちは、はじめまして、リリー・マトリカリヤです」
とある麗らかな昼下がり、丁度、時計塔の時計が午後の2時を示す頃、リリーとセレンはセトクレアセアの中心部にある、偽サンマルコ広場でカブトムシを思わせるような丸いフォルムが特徴的な自動車から降りてきたイリスに挨拶を終えたところであった。
「リリーちゃんにセレンちゃんね。こんにちは、イリス・トリアングラリスと申します。今日は、パリダからわざわざ来ていただいてありがとうね」
イリスはにこやかに緊張気味のリリーとセレンの顔をそれぞれ、見た後、「もちろん、ローゼちゃんもありがとうね」とその隣に佇んでいるローゼにも笑顔を向ける。
「本当はもう一人一緒に来るはずだったんですけど、昨日からウィーンに行っちゃってて」
もちろん、そのもう一人と言うのはサフィニアである。サフィニアはダリアの公演の手伝いの為に昨日から、ウィーンに出掛けてしまっていて、3人でイリスのところへ遊びに行くことになった。
「そう。それは残念ね。沢山、苺のパイを焼いたのだけれど」
「わーい! 苺のパイとっても楽しみです!」
ローゼは「苺のパイ」と聞くや、両手を挙げて喜んだ。急に喜びだすローゼに、隣に並んでいるセレンとリリーは目を丸めてその様を見ている。
「おやおや、そんなに喜んでもらえたら、早く食べて欲しくなってしまうわね。ここにいても仕方がないから、行きましょうか」
イリスは手を口元にやって笑うと、笑顔のままに、自動車に乗るように促した。
「「お邪魔します」」「失礼します」
ローゼは助手席にリリーとセレンは後部座席に腰を下ろした。
「少しの間、揺れるけど、我慢して頂戴ね」
イリスはそう言ってから、自動車をゆっくりと発進させた。
自動車は、ローゼ達が歩いたことのある商店街とは真反対の比較的広い道へ進路を取り、しばらく、煉瓦敷の道路の凹凸に車体を揺らしながら、人通りのまばらな道を進んでゆく。見れば、トラックや原動機付二輪車などの往来も見受けられ、その限りは、どうやらこの道は車道として使われているのだろうか。
ウィーンに行ったときなど自動車の往来を目にするリリーとセレンであったが、基本的にパリダ民である二人からすれば、自動車の往来のある景色は見慣れないものだった。
だから、
「前に初めて自動車に乗せてもらった時もそうですけど、自動車で走っている風景って、すっごく不思議な感じがしちゃいます」とローゼは車窓の外に釘づけにしたまま呟くように言いながら、せわしなく首を動かしている。
「ローゼ先輩、ちっちゃい子供みたいで可愛いね」リリーがそんなローゼを見て口元綻ばせてセレンに囁いた。
「はい。おっきいお子ちゃまですね」セレンは呆れたように言ったみたものの、楽し気なその姿にローゼらしい。内心ではそう思っていた。
「えへへぇ、つい楽しくなっちゃって」
すると、ローゼが苦笑を浮かべながら振り向いたので、二人は思わず顔を引きつらせてしまった。
「(聞こえちゃってた…)」「(声が大きかったです)」
「おやおや」
自動車は何度か曲がり角を曲がってから、坂道を登り始めた。その道は、セレンにも見覚えがあり、まだまだ若いトネリコの樹を見つける度に、以前、リリー一緒に歩いた道であることを確認する。
そう、プレート付きのトネリコの樹を見つける度に……
「やっぱり、自動車って早いですね。私なんて一時間以上かかって来たのにぃ」
「そうねぇ、私も若い頃は毎日上り下りしていたのだけれど、この年になるとやっぱり、自動車に頼ってしまうわね」
そんな会話をローゼとイリスがする頃には、あれほど高かった木々を眼下に見下ろす頃合いになっており、そんな崖下をリリーが眉間に皺を寄せながら見下ろしはじめてすぐに、自動車は分岐に差し掛かり、進路を右手にとった。
「セレンさん見てください、まだ寒いのに、お花がいっぱい咲いてます!」
「本当ですね。パリダではまだタンポポさえも咲いてないのに」
道の両端に設けられた煉瓦積の花壇にはすでに色とりどりの花々が咲いていた。
「すっごいでしょ!これ全部イリスさんが育てたんだよ」
感嘆の声を上げるリリーとセレンにローゼが得意になって言う。
「どうしてローゼ先輩が得意げなんですか」
「あ、つい…えへへ」
冷静なセレンのツッコミにローゼが苦笑いをしながらそういうと、車内に大きな笑い声があふれた。
◇
「うわぁー」
イリアと共にテラスへやってきたリリーはシンプルな中にもしっかりと品格の漂う庭園を前にして感嘆の声をあげて眼前に広がるメルヘンな世界に魅了されている様子であったが、一方のセレンは、リリーのように声を出すでもなく、ただ海風に揺れる花々を見ては既視感さえも感じていた。
「ローゼ先輩はどこに?」
「多分、イリスさんのお手伝いに行ってると思う」
「あぁ、なら私たちもお手伝いに行きましょう」
「そうですね」
そう言って頷きあった二人は、家の中へ続くドアへ向かったのだが、セレンが入ろうとしたとき、不意に木々のざわめきのような音が聞こえたような気がした。
リリーの背中に目配せをしながら、小走りでテラスに戻ってみると、庭園では相変わらず花々が咲きそろっていて、時折、鳥の囀りが聞こえて……
「空耳……」
そう呟きつつもどうしてか、何かが気にかかったセレンは庭園に降りて更に辺りを見回してみた。すると、テラスからでは屋根が邪魔で見えなかった大きな樹が見えたのである。その樹はセレンのよく知る木皮がとても特徴的な模様をしている。だが、その樹はセレンがしるその樹のどれよりも大きくて立派な個体であったのである。
セレンは思わず駆け出していた。立派な枝ぶりと年月を感じさせる幹を見上げながら…何度も躓きながら……
「間違いない……トネリコ……こんな大きいの見たことない……」
セレンはトネリコの大樹に触れて、言葉を失ってしまっていた。ただでさえ成長の遅いと言うのに、ここまで育つまで一体どれくらいの年月がかかったのだろう……
「これだけ大きければ、あの枝くらいは…」
ひときわ立派な枝を見つけてセレンはそんなことを思った。思ってしまった……もちろん、この樹はイリスの所有している樹で……ここまで育ててきた苦労を考えれば簡単に譲ってくれなどと、口が裂けても言えない。
けれど、枝くらいならば……
「やっぱり、ここに来ていたのねセレンちゃん」
「イリスさん……」
「ローゼちゃんからも聞いたし、リリーちゃんもお話ししてくれたわ。セレンちゃんは横笛の職人さんで奏者さんだって」
「はい。その通りです」
「この木がほしい?」
「え…」
「トネリコの木って楽器製作者にとっては憧れの木なのですってね」
「そうですけど……」正しくは、木管楽器の…と付け加えたい衝動にも駆られたが、そんなことはセレンの口から出てくることはなかった。
優しい眼差しでセレンを見つめるイリスであったが、セレンにはその目が笑顔でいるようには到底見えなかったのである。自分の欲深い衝動と我儘な考えが、気が付かない内にセレンの中に心苦しい思いを産んでしまっていたのだろう。
セレンはついに、イリスの目をさえも見ることができなくなってしまい、視線を静かに足元に落としたのであった。
「この木はね。遥か昔に、私の友人と一緒に植えた木なのよ。トネリコの木は成長が遅いから、その分、友情が長続きしますように、永久にありますようにって願いを込めて……」
イリスは愛おしむように、懐かしむようにトネリコの幹に手を当てて、静かに言う。
「その人は、楽器職人志望だったんですか?」
「ええ、一人前になったらトネリコで楽器を作りたいって言って、だから植樹を決めた時、トネリコを選んだの。けれどね、面白いのよ。完成してしまったら愛着がなくなるからって、いっつも未完成のままで製作をやめてしまうの」
「……少しその気持ちわかります。私も、完成品は音を出してからすぐに海に捨てるんです
」
セレンは胸のところで両手を強く握り合わせるとそう静かに言った。
「まあ、折角、頑張って作った物なのに?」
「はい。愛着とかそう言うのではないですけど……下手くそだから…持っていると自分が惨めに思えてくるんです」
「そうなの……でもそれって悲しいことよね」
「……私の師も同じことを言ってくれます……」
「そうだ、少し待っていてね」
俯くセレンにイリスはそういうと、家の方へと駆けて行ってしまった。
「……」
イリスの姿が見えなくなってから、セレンはついに我慢ができなくなってその場に座り込んでしまった。膝と口と震えが止まらない、「「この木がほしい?」その言葉を思い出すたびに吐き気さえもする。
別にセレンが何を言ったわけでも、トネリコを譲ってほしいと懇願したわけでもない。だが、イリスには自分の意思を見透かされてしまっている。
「ごめんね。もう少しだけ付き合って頂戴、もうお茶の準備はできているのだけれど、私からセレンちゃんにお願いがあって」
「え…」セレンが顔を上げると、イリスは長方形の木箱を抱えているではないか。サイズで言えば、セレンが楽器を収納するのに使う箱と同じくらいの大きさである。
「私の友人である。エンフェルト・ガーネツェルンが最後に作ったフルートなの。私ではとても演奏なんてできなくて……セレンちゃんに演奏をお願いできないかと思って。彼女が唯一私に送ってくれた、最初で最後の一笛なの」
イリスは不安げな表情と共にそう言いながら、セレンに木箱を開いて見せた。
「これは…本当の木管フルートですね」
フルートと言う楽器の原型に近い、全てが木製で拵えられたそれは、セレンの制作フルートとは異なっていたが、見た感じでは演奏ができないこともなさそうであった。
「贈られて来たのはもう20年以上も前になるのだけれど……よる年波なのかもしれないわね。楽器の事を夢にみるようになってね。彼女がどんな気持ちでこの楽器を私に贈ってくれたのだろう……そんな風に考えてしまうと、どうしても音色を聞きたくなってしまって」
イリスは楽器を取り出しすと、まるで、花びらを撫でるように優しくフルートを撫でるのである。
「うまく……うまく演奏できないかもしれませんけど、やってみたいです」
自信はないし、もしかしたら、うまく演奏できないかもしれない。いいや、その可能性の方が高い。けれど、イリスの心に触れるとどうしても、首を横に振ることができなかったのである。
「ありがとう、本当にありがとう……」そう言って瞳を潤ませるイリスを見ると、セレンは断らなくてよかった。心からそう思えたのであった。
◇
「ふぅ」
ベノアに帰ってきたセレンは工房へと向かうと、イリスから預かったフルートを手に取ると、ある程度分解をするなどしてその仕様を確認する作業に入った。
楽器の腹の部分には、確かに、『エンフェルト・ガーネツェルン』と彫り込まれてある。
苺のパイはとても美味しかったし、イリスが『冬に花を咲かせる魔女』と言う二つ名を持つ有名な庭師であること、そしてベノアの中庭を作ったのも世話をしてくれているのもイリスであることを知った。しかし、セレンの頭の中はイリスから託されたフルートの事ばかりで、ほとんどの会話が上の空であったし、一刻も早く工房へ帰りたい衝動にさえかられていたのである。
「……」
その楽器は、まさしく楽器であった。丁寧な仕上げに彫刻。大切な親友であるイリスに贈るために丹精込めてつくられたのだろうことは、セレンにも充分にうかがい知ることができた。
そして気が付いた……このフルートに用いられているのは、トネリコ材であることに……
組み立て終わったフルートを乾燥台の上に乗せてしばらく、手に取れないでいた。それは、このフルートがセレンの憧れていたトネリコ材で製作された楽器……毎日のように、ウィンドー越しに羨望の眼差しを向けていた楽器……そんな風に思えば普通は、胸が高鳴り高揚感に指が震えるくらいはするはずだろう……けれど、セレンが楽器を手に取ることができなかったのは、一重にその逆の感情に支配されていたからであった。
なんて虚しいのだろう……
手に入らないから欲しくなる…
欲しいから手に入れたくなる……
そんな単純な気持ち。
そう、そんな単純な気持ち……だったのだろうか……そんな単純な思いだけで自分がトネリコの笛を欲しがっていたのかと思うと、悔しい気持ちが沸き上がってきてしまう。そんな軽はずみな気持ちではない!セレンは一生懸命に理由を探して、自分を納得させようと努めた。
けれど、どれだけ言い訳を並べて嘘で塗り固めようとしても、本当の気持ちを覆い隠すことなんてできなかった。
「ふぅ」
セレンは小さく息をついてから、フルートを手に取った。
今大切なことは、自分に嘘をつくことではない。未熟だった自分と向き合うこと。認めること。
このフルートを演奏することで、イリスの願いを叶えることで、それをしたことになるかどうかはわからない。けれど、それをしないわけにはいかない、それが今セレンに出せる精いっぱいの答えだった。
◇
「アリス先輩。エンフェルト・ガーネツェルンって言う人を知ってますか?」
工房を後にしたセレンは、待ち合わせていたアリスと夕食を共にした際にそう聞いてみた。
「うーん。知らない。その人がどうかしたの?」
「いえ、木管フルートの制作をしていた人らしいんですけどね」
「ふーん。ごめんね。聞いたことない」
アリスが知らないのであれば、それほど有名な作り手ではなかったのだろうか。セレンはそれ以上、エンフェルト・ガーネツェルンについても話すことはしなかったし、イリスから預かったフルートのことも話すことはしなかった。
再び、イリスのフルートについて話をしたのは、翌日のこと、ウェノサ・ベノサの教堂でリリーと会った時だった。
「えぇ、音が出ないんですか?」
「そうなんです。このフルート未完成みたいで、いくつか出ない音があるんですよ」
「丁寧に仕上げられているように見えるんですけど……へぇ」
「そうなんです。私も昨日試しに演奏してみて驚いたんです」
そうなのである。昨日工房でセレンが試し吹きをしてみるといくつか音飛びをしていることが判明した。見かけだけは、とても丁寧に仕上げられてあったし。細かい部品に関しても、到底見よう見まねで作られた物とも思えなかった。
「多分、これはわざと未完成のまま仕上げたんだと思います」そうとしか説明のしようがない。
「イリスさんが演奏できないのを知っているからですかね」
「わかりませんけど……もし、そうだとしたら、エンフェルトさんって性格悪過ぎますよね。わからないから、未完成にした、みたいな感じで」
「えぇ。それはないと思うけど…大親友だってイリスさん言ってたし」
そんな風にフォローしてみるリリーではあったが、実際に未完成品をわざわざ贈った事実を加味すると、否定しきれなかった。
「冗談です。きっと、未完成にしたのは意味があると思うんですよ」
それはセレンの本心であった。とはいえ、イリスから聞いた話を思い出さなければ、そんな風に考えることもできなかったのだが……
「困りましたね。音が出ないんじゃ、演奏できません」
「そのことについて、リリーさんに相談があるんです」そう言うと、セレンは今朝一番から図書館に籠って選んだ古典楽曲のスコアをリリーに見せたのであった。
「これって、レルフロッケカンターナですよね?」
「はい。でも、これは声部を主としたポリフォニー仕様になっているものなんです」
「あ、ほんと。でも、それじゃ、主旋律が……そっか、主旋律を私が担当すれば、出る音が限られても演奏ができるってことですね!」
スコアを流し読んでからリリーが嬉しそうに言った。
「そういうことです。声部を主とするので基本的に私は伴奏者みたいな位置ですし、カノンにすれば、なんとかなると思うんです」
「カノン……って?」
「えっと……簡単に言えば輪唱みたいなものですよ。パッヘルベルのカノンなんかが有名ですよね」
「そのカノンなら知ってます。へぇ、カノンって楽曲名じゃなかったんですね」
「はい。よく勘違いされているみたいですけど、楽曲名じゃないんですよ」
「なるほどぉ。なんだか嬉しいです」そう言いながらセレンは、くすぐったいような満面の笑みを浮かべている。
「何がそんなに嬉しいんですか?」
「だって、イリスさん思い出を私もお手伝いできるんだなぁ、って思うと素敵じゃないですか!」
「リリーさんもすっかりローゼ先輩に影響されちゃってますね」
「そう言うセレンさんだって!」
「すっかりです」
そう言い合いながら二人はにこやかな顔を突き合わせるのだった。
その日から二人はレルフロッケカンターナのカノン調を練習しはじめた。
始まりは、セレンのソロではじまり、四小節の後にリリーが加わり、輪唱の体をなし、そして同じ調子を繰り返す。本来であればセレンよりも遅れて入るリリーが四小節分長くおわるのだが、そこは同時に終わるようにした。
思った時に思った音がでない苛立ちは常にあった、だから、いっそのこと自分の手で完成に近い形に手を加えてしまおうか……そんなことも考えた。ニスを塗り直せば、風合いこそ再現できないものの、楽器の品位が落ちることはない。
一度だけリリーも「少しだけでも手を加えるってだめなんですか?」と口に出した。それだけ致命的な音の欠落があったわけだが、
イリスの言葉がそれをセレンに思いとどまらせ続けていた。
『エンフェルト・ガーネツェルンが最後に作ったフルートなの』
あの思い詰めた表情と、イリス自身の年齢を加味すると、きっとこのフルートを制作した親友はすでに……
それをリリーに話すと、リリーは「ごめんなさい……」と視線を落としたのであった。
イリスに届けたい二人の気持ちは練習を重ねるごとに、ただの演奏から鎮魂の調べへと変化していった。
共に笑って泣いて、怒られて、二人の未来を託すように植えられたトネリコの樹。二人は大きく育ったその樹の下で再会を果たすことができたのだろうか。
トネリコは毎年葉をつけ、花を咲かせ、そして実をつける。
たとえ、誰がこの世を去ろうとも、新しく生まれようとも。限られた命のままに生命の続くかぎり、同じように花を咲かせるのだろう。
トネリコの樹は成長が遅い分、寿命も長い。だから、植えられるときは人の想いを託されて植えられ、愛されて愛された後に、誰一人とこの世にいなくなってなお、一人花を咲かせ実をつける。
『忘れなの木』『想い出の木』などと別名されるのはそれがためなのだろう。
「私とリリーさんにもそんな別れがいつかはやってくるんですよね」
最終の打ち合わせを兼ねた練習を終えたその日の黄昏時、オレンジ色に染まる海を見下ろしながらセレンがぽつりと言う。
「セレンさん!」リリーも同じことを考えていたのだろうか……勢いよくセレンに抱き着いた。
「私、ジュニアスクールに入学したとき、卒業なんてすごく遠い先のことなんだって、思っていたんです。でも、入学してしまったら、卒業まであっと言う間で……」
「私も……私もいつかミネルヴァ先輩とお別れをする時がくるんだって、思うと悲しくて不安になる時があります……」
「……ローゼ先輩ならなんて言うでしょうね……」
「え…」
「出会いがあれば、別れが必ずやってくることはわかってることだから……それでも、ローゼ先輩なら素敵な出来事にかえてしまうと思うんです」
「…うん。きっと、私達のこの沈んだ気持ちを何とかしてくれるんだろうなぁ」
そういうと、リリーはようやく、セレンに絡ました腕を解いて、今度は自分の膝に顔をうずめたのであった。
◇
『演奏とは演じると書く以上は奏者は演者なのである』
大演奏家であるハーメルン・H・アイドレンの言葉である。
やがてその日はやって来た。演奏の日時をイリスに連絡をしたのが、3日前のこと。そして、リリーと落ち込んだのが昨日の事、演奏自体は完璧にやってのける自信はあったが、この曇天のような心持を携えたまま、演奏をして果たしてイリスの心にトネリコの笛に託された想いを届かせることができるのだろうか。
演奏者は観客の心に届く演奏をしなければならない。だから、どんなに悲しいことがあっても苦しい時でも笑みを絶やさず気丈を演じきらなければならない……
けれど、セレンにせよリリーにせよ、きっとうまく演じ切ることなどできないだろう。演奏技術を超えた先にある、真の演奏家たる姿にはまだまだほど遠いのである。
「ふぅ」
「はぁ」
待ち合わせ場所である偽サンマルコ広場に到着した二人は、晴天の下でどんよりとして佇んでいた。
「お待たせしてしまったかしら」
やがて待ち合わせよりも少し早く、イリスが自動車に乗って現れた。
「「こんにちは」」
「はい、こんにちは、ローゼちゃんは一足先に家に来ているから」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ、そうなのよ。うふふ」イリスなぜか嬉しそうだった。
そんなイリスを見るにつけ、リリーとセレンは困惑の色を隠せなかったが、とりあえずは自動車に乗り込むしかなかった。
膝の上に置いた木箱がとても重く感じる……セレンは視線を木箱に固定したまま、自動車が揺れるに任せて体を揺らしている。リリーを見やる余裕さえもない。
「セレンちゃん、リリーちゃん。二人とも私の我儘を聞いてくれてありがとうね。今日と言う日をとても楽しみにしていたの」
バックミラー越しにイリスが二人に話しかけた。
「い、いえ。そんな……」リリーがセレンを見てから、急いでイリスに返事をする。
セレンは返事さえもできなかった。それはイリスが言った「今日と言う日を楽しみにしていたの」と言う言葉に反応してのことに違いはなかった。もう二度と会えない親友のくれたフルートの音色を二十年以上の年月を経て耳にするのだから、感慨のことは何も言えない。
けれど、「楽しみ」と言う表現は……どうなのだろうか……そう思ってしまったのである。
瞼を閉じても、感じる陽の光がうっとうしく感じる。今日のような気分は曇り空の方が暖是良いに決まっているのに。
イリスは二人の様子を察してか、それ以上話しかけることはなかった。
◇
「トネリコのところにローゼちゃんが居ると思うから。私はニシンのパイ包焼の仕上げをしなくちゃいけないのよ。間に合わなくて」
門の前に車を置いたイリスはそう言うと、小走りに家の中へ駆けて行ってしまった。
「リリーさん行きましょう」
「
「え、は、はい」
セレンは考えるよりも早く歩き出すと、そのまま歩みを早め、ローゼの元へと向かった。
「ローゼ先輩」
「あっ、セレンちゃんにリリーちゃんだぁ」
トネリコの木の前に置かれたテーブルにクロスを敷きながら、ローゼが大きく手を振る。
「これ、ローゼ先輩が準備してくれたんですか?」
「うん。私は演奏できないから。演奏会の準備だけでもって思って!イリスさんがねニシンの包焼とかいっぱい作ってくれてるんだよっ!」
どこまでも楽し気なローゼの姿に、セレンは抱きしめていた木箱を一層強く抱きしめた。そして、小さく息を吸い込んだ……
「私……今が楽しいんです。でもそれは出会ってしまったから……いつか、別れが来てしまうと思うんです……」リリーはセレンの前に歩み出ると、ローゼに想いの丈を吐露した。
きっと、リリー自身も言葉足らずで、伝えたいことをうまく言葉にできないでいるのだろう。けれど、それをセレンは言うつもりはない。なぜなら、セレン自身でさえうまくこの気持ちを伝えられなかったはずだから……
「うん。きっと別れはくると思う」リリーの言葉に瞳を閉じたローゼは、トネリコの木に視線を向けてそう静かに口を開いた。
「でもね。別れる時の事を考えて不安になったり悲しくなったりするのは、一緒にいる今が楽しくて素敵すぎるからなんだと思う。このままずっと時間が止まってしまえば良いって思うことだってあるけど……それはもったいないって思うんだ。だって、新しい素敵やワクワクにいつ出会えるかわからないんだもん!」
「答えになってないですよ。今が一番いいから、時間が止まってしまえば良いって思うんです…なのに」
セレンは唇を尖らして言った。
「私ね。セレンちゃんやリリーちゃんがマーリンになって忙しくなっても、ルシアさんたちみたいに、サバドに一緒にでかけたり、暇を見つけてお茶をしたり。そんな風になれたらいいなって。夜遅くまで今日の演奏会の事をお話ししたり、思い出話をしあったりしてさ。今のまま時間が止まってしまったら、思い出話ってできないと思うから」
「思い出……」
ローゼの言葉にセレンとリリーは思わずトネリコの木を見上げていた。
「このトネリコの木がイリスさん達の想い出の塊なんですね」
「はい。そして、このフルートも想い出の塊なんですよ。だったら、このフルートの音色で思い出話をさせてあげたいです……」
「そうです。楽しい想い出を沢山思い出してもらいたいです!」
セレンとリリーは拳を強く握ると、二人に立ち込めていた、曇天は春風に乗ってどこかに吹き飛んで行ってしまった。
「セレンちゃんとリリーちゃんにはそれができるんだもん!羨ましいぃよぉ」
「私はローゼ先輩が羨ましいです」
「私も見習わないと思います」
「えぇ、そんな風に言われると嬉しくなっちゃうよぉ」
やはり、ローゼは自分に欠けているものを持っている。セレンは、イリスの気持ちに寄り添おうとするあまり自分が今するべきことを、しなければならないことを見失ってしまっていた。
少なくとも、悲観したり悲しんだり、絶望したり……そんなことをすることではない。イリスから託されたフルートに命を宿すこと、そして音に乗せてイリスに大親友であるエンフェルトの想いを届けること。
「ローゼ先輩。すみませんがイリスさんを呼んできていただけませんか?今とても演奏したい気持ちなんです」
セレンはトネリコの木に微笑んでからローゼに優しく言った。
「じゃあ、イリスさん呼んでくるねっ」
ローゼは大きくうなずくとテラスへ向かってかけて行く。その背中を見送りながら、
「やっぱりローゼ先輩に話してよかったです」とリリーがセレンに微笑みかけた。
「はい。やっぱりローゼ先輩は摩訶不思議です」
セレンは少し困った表情を浮かべて、そう言ったのだった。
◇
テーブルの上には、イリス特製のニシンのパイ包焼を中央に、スコーンや春野菜のバニャカウダーなどが並び、最後に、イリスが花束を持ってトネリコの木の正面の席に腰を下ろした。
その後ろに佇んでいるローゼが小さく頷く。
セレンとリリーは慣れた仕草で一礼をしてから、
「一生懸命奏でます。聞いてください。レルフロッケカンターナ カノン第二創組曲」
イリスに語り掛けるように曲目の紹介をした。
イリスは小さく拍手をしてから、両手を胸元へ落ち着けた。
海風が山風に変わる凪の頃合い、春の陽気を思わせない静寂が駆け抜けた瞬間に二十年の時を超えて、一笛のフルートに息吹が吹き込まれた。繊細にして奥行きのある高音からはじまり、包み込むような低音、カノンの調子は繰り返されるが前奏と言わんばかりの四小節がはじまれば、リリーの透き通ったハミングが重なる。互いの音と重なり合わないように独立した旋律。けれど、主旋律を譲り合い、何度も何度も繰り返されるハーモニーはその度に力強くあり、そしてやがて儚いものへと変化していった。それはまるで、今日まで長い時を紡いできたトネリコの想い出を辿るように、イリスとエンフェルトとの想い出を辿る時間旅行のように……
やがて、風が変わった。セトクレアセア山から吹き下ろされる山風がイリスの頬を優しくなでる。メロディとともに鮮明になってゆく遠い昔の記憶。
そうあれは、エンフェルトがウィーンのプランロッテへ行ってしまう前日の事。
エンフェルトは言った、自分作ったフルートを受け取ってほしい人がいると、だから自分は、その特別なフルートをつくるために、二人で植えたトネリコの木を守り続けると約束をした……
エンフェルトと離れ離れになってしまうことはとても辛かったけれど、彼女との友情の証でもあるこのトネリコの木がある限り、必ず再会することができる。繋がっていられる。そんな想いを込めた特別な木。
あの時の気持ちを思い出すとイリスの目頭はとても熱くなるのであった……
「あら、ごめんなさいね。つい昔のことを思い出してしまって」
指で涙を拭いながら目を開けてみると、演奏を終えたセレンとリリーが困った表情をしてイリスの方を見つめていた。
「ありがとう、本当にありがとう。これはささやかだけれど、私からの感謝の気持ちです」
そう言うと、イリスは花束をセレンとリリーに手渡し、そして、最後にローゼにも手渡した。
「とてもいい香りがします。ありがとうございます」
「なんだか、感動しちゃいました私」
「私までもらっちゃって……なんだか、照れちゃいます」
スコアに対して忠実に演奏する教館での演奏と違い、感情がメロディを奏でさせたと思える演奏だった。セレンは誠意一杯を込めて演奏をし終えたという充実感からか、席に腰をおちつけてからも足元がフワフワとしてしまって仕方がなく、それを言うのであれば隣に座るリリーとて同じであったに違いない。
「お口に合えばいいのだけれど」
イリスはそう言いながら、ニシンのパイ包焼を取り分けてくれた。
「わーひ!おいしそうですぅ」とお腹を鳴らすローゼを横目に、セレンは静かに口を開いた、
「このフルートはとても丁寧に仕上げられています。きっとイリスさんに贈るために丹精込めて作られたんだと思います。でも、このフルートは未完成で……今は……きっと、エンフェルトさんはイリスさんとずっとずっと親友で居たいと思ったから完成させなかったんだと思います」とセレンが言い、
「もう二度と会うことができないから未完成にしたと私も思います」そうリリーが続けて言った。
重苦しい二人の雰囲気を感じてか、イリスはゆっくりと椅子に腰を下ろすと、お茶の準備をローゼに任せ、セレンとリリーを交互に見つめた。
「完成させてしまったら、そこで終わってしまうみたいだから、未完成が良い。エンフェルトはよくそう話していたわ。だから、もしかしたらとは思っていたのだけれど、まさか本当に未完成品だったなんて思わなかったもの。だって、去年、遊びに来た時に、このフルートのことを聞いたら、「大丈夫、それは完成品だと思うから」って胸を張っていっていたのよ。二十年も前の事だからすっかり忘れてしまっているのね。年はとりたくないものよねぇ」
イリスは首を左右に振りながら「最近、忘れっぽくなっちゃって」としみじみと続けていうのであった。
「えっ!」
「ええぇぇっ!」
このイリスの言葉に大袈裟に粗々しく反応したのはセレンとリリーその人だった。
「エンフェルトさんって、亡くなったんじゃないんですか?!」セレンは思わず立ち上がってしまった。
「いいえ。エンフェルトはとても元気よ?」
「えっと……その…私達、エンフェルトさんは二十年前に亡くなったと思っていたんですけど……」
「あらら、どうしてかしら?」
「イリスさん言いました……『最後に作ったフルート』って」
「?、えぇ、彼女はプランロッテ卒業と一緒に結婚してね。ルナに移住してしまったの。だからもう楽器製作はできないって言って」
「ああぁ…」
「うぅぅ…」
セレンは机に突っ伏して額をゴリゴリとリリーは口をあんぐりと開けたまま、視線を空に向けていた。
◇
「そうだったのね」
「イリスさんが酷いと思います」セレンはすっかり朴念仁モードである。
「セレンさん、言い過ぎですよ」そして慌ててフォローに入るリリー。
「ニシンのパイ包焼美味しいぃ~」とローゼ。
イリスの手料理に三者三様、舌鼓を打ちながら、勘違いをしたセレンとリリーが悪いのか、勘違いをさせたイリスが悪いのか。とにかく、それはすでに過去の笑話になりつつあった。
セレンは相変わらず朴念仁になってしまっていたが、対照的にリリーはほっと胸を撫で降ろしたように、いつもの明るさを取り戻していた。
「こうして切り取った一枚も、今から4人だけの思い出になっていくんだねぇ。う~ん、素敵だよぉ」
「あら、本当ねローゼちゃん。また素敵な思い出ができてしまったわ」
ワインを片手にイリスはますます上機嫌になっている様子であった。
セレンとしても、もちろん、エンフェルトが存命であることは望ましいことだったし、リリーと同じで心の片隅に常にあったどんよりと重い物が拭い去られたようで、心持はとても軽かった。
しかしながら、今日に至るまで大小様々に渦巻いていた葛藤の日々を思い返すと、再びゴリゴリをしてしまいたい衝動に駆られるのである。
「さて、セレンちゃんちょっとこっちに来てくれないかしら」
ワイングラスをテーブルの上に置いたイリスは、おもむろにトネリコの木の下へ歩いてゆくと、そう言って手を差し伸べた。
セレンは、手に持っていたカップを置くと、促されるままにイリスの元へと歩いてゆく。
「私の我儘を聞いてくれたありがとう。本当に嬉しかった……実はね、もう一つセレンちゃんに我儘をきいてもらいたいと思っているの」
「何ですか?このフルートを修正するくらいなら多分できると思いますけど」
「いいえ。いつの日か、セレンちゃんが一人前になったとき、この木を使って楽器を作ってほしいの」
イリスはそう言いながらセレンの手を取った。
「それって…」
「そう。このトネリコの木をもらってほしいの」
「そっ、そんなことできません!この木はイリスさんとエンフェルトさんの物ですし、二人の想い出の木なんです。それにイリスさんがここまで育ててきたのに……」
セレンは全力で首を左右に振って、口を必要以上にパクパクさせながら、必死に言った。
「そう、この木には私と親友との想い出が詰まっている。だからこそ、それを知り愛情深く思いやってくれた人に受け継ぎたいと思うの。そして、これは私の勝手な夢なのだけれど、この木が私とエンフェルトとの思い出の木であるように、セレンちゃん達の思い出の木になったなら、どれだけ素敵だろうって」
イリスは優しい瞳をリリーやローゼにも向けながら静かにそう語るのである。
「だったら!私だけじゃ駄目です!」
セレンは一歩踏み出し声を少し大きくしてイリスにそう言い、
「私だけじゃ思い出はつくれません。リリーさんやローゼ先輩もいないと…私一人の木じゃ駄目です」と言うのであった。
「あらあら、私ったら大切なことを忘れてしまっていたみたいね」
少し驚いた表情を作ったイリスだったが、その表情はやがていつもの温かいものへと戻ってゆき、その眼差しに誘われるように、ローゼもリリーもセレンの元へと駆けてゆく。
「サフィちゃんも!」
「そうです!」
「そうですね、仲間外れにしたら泣いちゃいますよ、サフィ先輩」
「素敵な泣き虫さんだもんねぇ」
ローゼがそう言うと、その場に笑顔の輪が生まれたのであった。
エピローグ
エンフェルト、今日はとても嬉しいことがあったのよ。私とあなたが一緒に植えたトネリコの木を受け継いでくれる子達がみつかったの。
みんなとても良い子達ばかりで、私達のようにあの木の下で沢山の思い出を紡いでくれると思うの。
あなたが先に逝ってしまってから、どうしようもなく切なくて悲しくてどうしても心の持って行きようがなかったのだけれど、私はまだ生きているのよね。あの子達に私は救われたわ。
けれどね、最後まで言わなかったけれどやっぱり私、エンフェルト、あなたの事を許せないでいます。ウィーンに行ってしまってから、そのままルナに移り住んで、手紙はくれたけれど、ついに会には来てくれなかったのだから。
いいえ。会いに行かなかった私も悪いの、意地を張って頑なになって……今では後悔してもしきれないけれど。
どうか、謝らないでね。私はあなたを許してしまったら、きっと両足に力が入らなくなってしまうと思うから。
エンフェルト。私の時間はあなたの死を知ってからずっと止まったままだった。でも、未完成のフルートをあなたが望んだ永遠の形をしたフルートの音色をはじめて聞いて、やっと私の時間は動き出した気がするの。
二十年もかかってしまったけれど……
不思議と、今見えている世界はとても温かくて、美しいの、私の周りには色とりどりの花々が咲いていてね。昨日まで、そんなことにも気が付けなかった。
エンフェルト、本当にありがとう。もう私は大丈夫だから。
いつまでも、私はこの木の下で待っているわ。私があなたの所へ行くまでは。
「トネリコの想い出 fin」
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