果て無き黎明 (村雨ハル)
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プロローグ
「序章」


   

 

 夜の帳が下りて、久しい。

 男が見つめる窓の先は、暗闇そのものだった。街の外観を包み込んで、そのままを眠らせたような。人々は眠り、やがて来る明日へと英気を養い、日々の糧にしていくのだろう。

 なんて、小さい。

 だけど、なんて掛け替えのないもの。その一つ一つが人の営みを作り、生活となる。日常として形作る。当たり前なものとしてそこにあるが、それは何よりも掛け替えのない―――。

 

 

 それを、人々の日常を守るのが、男の使命であった。

 

 男は幾多の戦場を駆け抜け、敵兵を、魔の者を打ち倒す。誰よりも勇猛に、誰よりも慎重に、そして誰よりも冷徹に。一人の戦士として雄々しく、恐れもなく剣を振るう。

 その姿に多くの人間が憧憬した。その恐れのない姿に自分もああ在りたいと。その迷いない姿に自分もああ生きたいと。その揺るぎなき姿に自分もああ至りたいと憧憬し、焦がれ、慕った。そうしていつしか男はこの二つ名を頂いた。『勇者』と。

 男の名はオルテガ・ヴァールハイト。アリアハンが誇る勇者―――。

 

 

 オルテガに一つの命が下された。

 魔王を倒せ、という王から勅命がオルテガに下されたのだった。

 この世界に、一つの脅威が蠢いている。人の日常の紛れ、隠れ、しかし確実に傍まで忍び寄ってきている。世界でも有数の魔術師兵団を有していた大国ネクロゴンドが魔王に屈した。この事を重く見た各国はネクロゴンドに対し、救援と同時に援軍と討伐部隊を差し向けた。盟主国ロマリアを初めとして、アリアハン、ポルトガ、イシス、ダーマ、ランシール、サマンオサの七ヶ国は同盟を組み、艦隊を向かわせた。

 

 そこに動員された兵は十五万とも二十万とも言われ、集結した各国軍艦は五千とも言われるほどの大軍勢であった。多くの人間が遠征軍の勝利を疑わなかった。その余地もなかった。そのアリアハン艦隊の中にオルテガもそこに在った。だが、彼が垣間見たのは予想を遥かに超える地獄の具現であった。

 

 

 森林と湖に囲まれ、その神秘的な美しさで名を馳せたネクロゴンドの姿は、どこにも存在しなかった。ネクロゴンドを包み込んだ終わることのない霧の闇、緑豊かであったはずの大地は枯れ果て命のない世界がどこまでも続く。生物は失われ、救護は絶望的であった。

 

 生物を奪った夥しく蠢く魔の者は闇の霧そのものではないかと思えるほど溢れかえっていた。その姿に多くの兵が息を呑んだ。天を覆い潰す異形の雲は、ネクロゴンドの大地を包み込んで、人々にただ、そこに存在し続けるだけで絶望を与える場所へと変わっていた。

 

 オルテガは今でもその光景を鮮明に思い出せる。多くの兵が言葉を失った。その地獄を垣間見れば、人も、動物もそこに生きてはいないと悟るには充分だった。

 

 遠征軍は程なくして撤退を余儀なくされた。無尽蔵に溢れ出て、空を塗り潰す異形たちは遠征軍に容赦なく牙を向いた。倒せども空を黒く染め上げ、大地を食い潰して襲い来る魔物に、遠征軍は次第に疲弊し、物資も限界に来るのは時間の問題だった。その決断が下るまでに、多くの英霊が黒い大地の底に散り、消えていった。彼らを助けられなかった悔恨は、未だにオルテガの胸にある。

 

 

 窓越しに移る一人の女が、寝台に横たわる二人の子供たちに子守唄を唄って聞かせていた。そのせいか子供たちは二人とも既に深い眠りに誘われ、ぐっすり眠っているようだった。様子を確認して、毛布を子供たちに被せた女がオルテガに視線を向ける。

 

「ねえ」

 

 次の言葉を発しようとして、女が短く逡巡する。程なくして言葉を続ける。

 

 

「子供たちがもう少し大きくなるまで待つことはできないの?」

 

 オルテガが視線を向けて、女の顔を直視する。オルテガは言葉を濁すことなくはっきりと告げる。

 

「それはできない」

 

 女もまた、返答がわかっていたようだった。伏し目がちにオルテガを見つめる。オルテガもまた、女を顔を真っ直ぐに見つめる。彼女はオルテガの妻であるクレア・ヴァールハイト。化粧っけのないすっきりとした顔立ちと美貌を持っている美人だった。オルテガは彼女の瞳の青空の色をそのまま落としたような…そんな深い青色の瞳が好きだった。オルテガは寝台まで歩み寄り、深い眠りの底にいる二人の子供たちをそっと抱き寄せる。

 

「すまない……でも、わかってくれ」

 

 オルテガが苦しげに呟くように、クレアや子供たちに告げる。

 

「俺は少しでも早く、平和を取り戻したいんだ。皆のためでもある……だが、それ以上にお前やアゼルス、アルティスのためにも」

 

 世界は乱れている。ネクロゴンド崩落以前の安定は、もうない。魔物も以前と比較して凶暴になり、その牙により多くの安寧が引き裂かれ、この瞬間にも涙が絶えず、悲劇が生まれていることであろう。

 

 それがオルテガにとっては苦痛でもあった。一つでも多くの悲劇と慟哭に肩を震わせ、無念の怨嗟には怒りを共にし、寂寞の涙には手を差し伸べずにはいられなかった。

 彼の願いは、ただ誰もが幸せで、笑顔であってほしいと願っているだけだった。だが、それがどんなに難しく、業深い願いであるのかは、彼自身が誰よりも深く心に刻んでいる。それでも、彼は他者の笑顔と幸福を願わずにはいられなかった。

 

 

「ごめんなさい……わかってるわ。あなた。でも、無茶だけはしないで」

 

 妻の心配に、オルテガは頷くことはできずにいた。

 それだけこれから、オルテガが歩むことになるであろう道筋は熾烈なものになるであろうことは、想像に難くはなかった。

 だが、それでも、オルテガにはその道筋を歩まずにはいられない生き方と理由があった。

 

 

 その数日後、オルテガはアリアハンを旅立った。

 国王の要請を受け、人々の歓待と歓声を背に祖国を後にした。その人混みの中に、彼の家族もまた、その中にいたことはオルテガもまたわかっていた。妻と幼い二人の子供の姿を目に焼き付けるため、刹那ほどの時間であるが立ち止まり、そしてまた歩み出した。

 

 歩み出した彼の道筋は世界を辿っていった。

 かつてオルテガが訪れた国、街、村。そしてこの旅で初めて足を踏み入れた場所、時には美しい光景に彼の心は奪われ、時に忘れ得ぬ出会いと出会った人々への感謝を胸に歩みをやめなかった。

 だが、時として凄惨で残酷な場面にも幾度となく遭遇し、命の選択を迫られる場面にも幾度となく出会い、その度に選択し続けてきた。一つの命に貴賎などなく、老いも若きもなく一つの単位―――。

 それを繰り返し続け、そして、

 

 

 朝方から降りしきる雨は、午後を過ぎても止む気配は見せなかった。

 天から降り注ぐ、銀の雫が落ちていくのは絶えず脈動を続け、蠢きを続ける山の頂の底だった。煮え滾る炎の音は遠雷にも、獅子の咆哮にも似ていた。

 

 そこで、オルテガは漸く、出会った。

 見た目には初老の、紳士然とした男性であった。擦り切れた法衣を身に纏い、青銀の肩まで伸びた長い髪の、男。その顔立ちには幾重にも皺が刻まれているが若かりし頃は美男子であった面影が見て取れ、老いが刻まれたことにより妖艶さとなって不思議な美しさを感じられた。

 

「……バラモスか」

 

 オルテガが男の名を呼び、男が冷笑を浮かべる。

 

 

「如何にも」

 

 男が頷き、オルテガが鋼の剣をきつく握り締める。オルテガが跳躍し、剣を振るう。大気を引き裂く瀑布の如き一閃。だが、男は素手で難なく受け止める。

 

「勇者と謳われた男の一撃。以下ほどのものかと期待をすればこの程度か」

 

 掴んだ剣諸共オルテガを投げ捨て、地面に叩きつけられる。オルテガは立ち上がり、再び剣を構えるが、男は立て続けに指先で魔力を練り始め、指先から生まれた小さな焔は赤から青、銀、金へと散乱光を撒き散らしながら温度の高ぶりと共に色を変え、火の球へと凝縮されていく。指先から開放された火球はオルテガを目掛けて放たれ、目の前で爆発した。激しく炎上した炎は大気を交わって色を変えながら、オルテガを嬲る。

 

 くくっと喉を鳴らした男は間髪を入れずに、指先から火球を生み出し、金色の火球を連続して放つ。オルテガは咄嗟に身を捩り、炎から抜け出すと爆炎の中を掻い潜って、全力で走り出す。雨で抜かるんだ大地を力強く踏み締め、オルテガは必死に走り続けた。

 

 駆け抜けるオルテガの頬に豪火球の焔が触れる。熱風が髪を撫で、皮膚を焼く。それでも異に返さずぬかるんだ土を力強く踏み締めかける。オルテガの正面にメラゾーマが爆ぜ、爆風と熱風がオルテガの体躯を包み込んで、粉塵が巻き上がる。天高く吹き上がる噴煙の中にオルテガの姿が消える。

 

「儚いな…」

 

 冷笑混じりにバラモスが、粉塵を見下ろす。だが、粉塵を突き抜けて真っ直ぐに跳躍してくる一つの影。切っ先を一直線に突き立て、バラモスを穿つ。深く、鋭く痩せた体躯に刃が吸い込まれていく。感触でオルテガは異変を察し、バラモスの身体を蹴り上げて、着地する。

 

 優男の身体は仰け反ったまま硬直したままだった。だが、直ぐに男は身体を起こす。オルテガの姿を直視し、にやりと笑った。不可解にオルテガがその姿に目を細める。

 

「それで、よくも余を倒すなどと言えるものだ」

 

 くつくつ笑うと優男は口元から吐き出された真紅の血を雑にふき取る。

 

「やはり、お前では余には届かん」

 

「…何?」

 

 バラモスの掌から小さな太陽が溢れ出る。魔力の収縮と同時に大気がざわめき、歪んでいく。オルテガはその掌程度の小さな光に全身の血がざわめくほどの戦慄を覚えた。

 

「さよならだ。オルテガ。愚かな勇者よ」

 

 そう言い放つと、バラモスの指先から開放された金色の太陽が、爆ぜた。

 暴風と閃光の輝きに、オルテガの視界は白に支配されていく。純白の世界にオルテガの体躯が解けて、消えていく。

 

 

 まだ、俺は―――。

 

 

 そう言おうとして、言葉にはならずに白の世界に掻き消される。

 

 オルテガの思惟に過ぎったのはアリアハンで待つ妻と二人の子供たちの優しい笑みだった。ふと、オルテガは手を伸ばしていた。家族の姿を、掴もうとして。手が動かない。身体が動かない。光に包み込まれた身体に自由などなく、強い光に、暴風に、オルテガの全てが支配され、奪われていく。

 

 

 帰らなければ、ならないんだ―――。

 

 勇者は、身体も思惟も、白の瞬きの中に、消えていった。

 

 

 

 

 



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プロローグ 「継承」 1/5

   

 

 

 風は温かくなった。先月までの冬の寒さが溶け出し、枯れた木々から少しずつ蕾が咲き誇り、芽吹くまで後もう少し。穏やかになった大気は山々の雪を溶かし、空気が熱を帯び始め、雪解け水が下流に流れ始めていた。冬眠から覚めた鳥たちが歌い始め、春の訪れを肌で感じられるようになった。

 

 アリアハンは温暖な気候にあった。温暖な気候であり、明確に四季があるこの国の気候は冬季を抜け、春季へと移ろい始めていた。

 

 この国はかつては軍事国家として世界に名を馳せた大国であった。だが、過去に幾度となく繰り返された戦争により国力は衰え、小国家となった。だが、その影響力は衰えてはいなかった。国際貿易に力を注ぐことにより国力を回復し、かつての影響力を取り戻しつつある。現国王の善政もあり、生活の水準はかなり高く、貧富の差が激しい国などに比べればだいぶ落ち着いた国といえよう。

 

 綺麗に晴れ上がり、青空の青がどこまでも広がった春先の空。

 若葉が生い茂る路地に一人の少年が困り果てていた。理由は何のことはない。母親と逸れてしまったらしい少女が一向だに泣き止まずに、原因がわからないからだった。

 

「困ったなぁ…」

 少年がのんびりと現状に対する感想を述べる。唇に指を当てて、考え始める。

 

「そうだ」

 ふと、思いついたことを少年が実践してみた。

 

 少年がふと思いつき……銀の横笛を吹き始めた。

 少女はそんな少年をまじまじと見つめ、その音色に聞き入っているようだった。優しい音色だった。伸びやかに少年が唄うのは、幼い頃より曲名もわからない……母が口ずさんでいた童謡。少年の優しく心に染み入ってくる音に泣きじゃくっていたはずの少女は聞き入り、涙は止まっていた。

 少女がはぐれていた母親の姿を見つけ、ぱたぱたと小走りに駆け寄った。母親が少年に小さく頭を下げ、少女がばいばい、と小さく手を振る。それに少年が小さく手を振り返す。

 

「よかった」

 少年が胸を安堵で満たして、そう漏らして微笑む。

 

「よかった……じゃない」

 

 少年の背後から声変わりを経過したばかりの、掠れた声が響く。こつんと、頭を小突かれて少年が後ろを向く。

 そこにいたのは金髪の小柄な少年だった。童顔という訳でもなく年相応の幼さを残す整った顔立ちと、くるくるとよく動く大きな灰色の瞳が活発な印象を与える。

 

 華美ではないものの、着ている上着は明らかに絹。随所に金糸銀糸を使った飾り刺繍が施されていることからそれなりの身分にいる少年だというのがわかる。それなりに筋肉が付いてるが、全体で見るとどうしてもやはり華奢な印象が否めない。快活な印象を他者に与え、人懐っこい無邪気さが目立つ、猫を思わせる少年だった。

 

「やあ、ルシュカ」

「やあ……じゃない!」

 

 むすっとした様子でルシュカと呼ばれた金髪の少年が答える。

 この少年はルシュカ・ハーゲン。アリアハンの城下町にある武具屋の一人息子で、アルトとは学校の同級生であった。それ以前に両親同士が交流があったため、幼馴染という間柄になる。

 

「また、誰彼構わずに親切を焼いて」

「いけなかった?」

 少年がきょとんとしてから、深々とルシュカがため息をつき、しかめっ面をする。

 

「誰かが困ってるのってなんか放っとけなくて。それに泣いてるのより、笑ってるほうがいいじゃない」

「まあ、お前らしいけどさあ」

 

 もう、諦めたとばかりにルシュカが言う。この少年が他人に対して親切を焼くのはいつものこと。困っている誰かを見過ごせずに、声をかけて何に対して困っているのかを察し、解決するために行動する。それがこの少年の性格であった。

 

「まあ、いいか。今に始まったことじゃないし」

「でもさ」

 少年の眼差しは真っ直ぐに親子を見据えて、強い意志を持って告げる。

 

「誰かを助けたら、自分も少しだけ幸せになれるし、助けた人もちょっとだけ楽になって幸せになれるからそれでいいんじゃないかって思う。見過ごしたら僕も後悔するし、苦しいままだよ」

「そんなもんかねえ」

 ルシュカは今一納得できていない様子で、少年を見る。

 

「あ、そうだ」

 大切な用事を思い出したのか、ルシュカがぽん、と手を叩き、にんまりといたずらをする前の子供のような無邪気を笑みを少年に浮かべる。それに対し、少年が小首を傾げ、疑問を尋ねる。

 

「どうしたの?」

「面白そうなものを見つけたんだよ。一緒に行こうぜ」

 少年の肩を叩き、ルシュカが促し、小走りに駆け出す。そして、屈託なく、呼ぶ。

 

「アルト」

 

 アルトと呼ばれた少年が笑顔を浮かべて、ルシュカの後に続いた。少年の笑顔は深い優しさを湛えた穏やかな太陽な微笑みだった。

 

 少年の名はアルトといった。

 黒い髪、藍色の瞳。すらりとした四肢の小柄な、華奢な少年だった。まだ幼さを残す少女のような繊細な顔付きは、目はぱっちりして大きく見えて、鼻梁がすっきりとしていた。藍色の瞳は深く、星空の底を覗き込んだかのように澄んだ、穏やかさを湛えた優しげな眼差しは見る者を癒し、荒ぶる心すら忘れさせる、温和さを感じさせた。

 

 

 

 

 

 ルシュカに連れられてきたのは、城壁の下だった。城下町と外界を囲み内と外とで隔て、魔物や山賊などの外敵から住人を守る堅牢なるもの―――その壁下にアルトとルシュカの二人はいた。

 

「ここが、どうかしたの?」

「これこれ」

 ルシュカが指差す先には微かに隙間が開いている。アルトやルシュカの華奢な体躯だと無理をすれば、通れるほどだろう。

 

「でも、外は危険だし、物騒だし、よくないと思うけど…?」

「大丈夫だよ。アリアハンならさ。いてもスライムぐらいだろ? そんなんで物騒なんていうかよ」

 悪びれる様子もなくルシュカが自身有り気に胸を張る。アリアハンの治安はいい。兵力や騎士団が強く山賊や強盗といった賊は直ぐ様に討伐され、魔物も強大に成長する前に倒される。

 

「もしかして、怖いのか」

 少し馬鹿にするようにルシュカが鼻で笑う。それにさすがのアルトもむっとした様子でルシュカを見る。

「別に……怖くはないけどさ」

 アルトは代々アリアハン王家に仕える騎士の家系の生まれであった。そのために、ルシュカの物言いは穏やかな性分とはいえアルトからすると心外な言い方であった。

 

「じゃあ、決まりだな」

 アルトの返答を待たずして、ルシュカが身を屈めて隙間へと入っていく。アルトも短く嘆息した後、その後に続く。

 

「……待ってよ。もう」

 入り込んだ隙間は狭く息苦しかった。剥き出しの地面と身体を預けることで鼻腔に土の香りが吹き抜け、湿った土は冷たかった。光のない場所を腕の力だけでゆっくり前へと進む。頭を少し上げれば、出口は、もうすぐそこだった。

 

 ルシュカが手を差し伸べた手に捉まって、アルトが立ち上がる。衣服についた土を払いながら、周りを見る。アルトとルシュカの眼前にあったはずの巨大な城壁は二人の背後にあり、戻ることを拒絶されているかのような錯覚を受けるが、閉じた世界から抜け出た感覚もまた、同時に感じていた。

 

「行こうぜ」

「うん」

 ルシュカに促され、アルトが頷く。そして二人が駆け出す。

 

 二人が駆け出し、踏み締めるのは舗装された石畳でもなく、堅い土でもなかった。足から伝わる感触は柔らかかった。湿った冷たい感覚は靴越しでもはっきりと感じられ、不慣れな地面の感覚に気を抜けば足を取られて、転んでしまいそうだった。

 

 たどたどしくも二人が歩くのは森林だった。鬱蒼とし、木々の陰に覆われ昼だというのに薄暗く、手入れのされていない獣道を歩くと身体に木の枝や雑草が絡みついて、足を掬われそうになる。

 まだ育ち盛りで筋肉が未完成な二人の少年にとっては、この城下町を抜け出た場所にある森林を歩くだけでも、かなりの体力を必要とした。太陽が差し込まないはずの場所を歩いているはずなのに、アルトの身体は疲労で熱く、頬に汗が伝う。

 

 

「いってえ!」

「どうしたの…?」

 ルシュカが突然足の脛を押さえて、蹲る。それを見て、アルトが駆け寄る。

 ルシュカの足にぶつかって、ころころと転がる水色の半透明の球根の様な形をした生物がいた。ある程度転がると大きな目をぱちぱちとさせてから、二人の少年を見つめている。

 

「スライムじゃない」

 アルトの顔の半分ほどもない大きさのスライムはただ何をするでもなく、二人を見ているだけだった。

 

「……こん…のぉ……」

 ルシュカが呻く様に顔を上げて、スライムをジト目で睨み付ける。それで自分の危機を察したのか、ぴっと小さな悲鳴を発した後に一目散に逃げ出したのだった。

 

「あっ、待て! …痛ぅ……」

 ルシュカが咄嗟に立ち上がろうとして、足の痛みでまたルシュカが呻く。

 

「ちょっと待ってて」

 アルトがしゃがみ込み、掌を足の脛に翳す。

 

「恵みを齎さん。生命の躍動を呼び覚ませ」

 アルトの掌から白い光の文字が描き出されると同時に光が溢れ出して、ルシュカの傷ついた足を包み込む。

「―――ホイミ」

 アルトの唇から言霊と同時に呪文が放たれ、ルシュカの足の痛みを癒した。

 

「悪い、後、呪文ってのはすげーな」

 ルシュカが立ち上がり、感心して感嘆する。足を伸ばしたり屈伸しながらを繰り返して、痛みを確認するが痛みはすっかり消えていた。

 

「凄くなんかないよ。初歩中の初歩だし」

「おれには呪文なんて使えないからそれでも充分凄いと思うぞ」

「そうかな…?」

 アルトが少し照れ混じりに笑顔を浮かべる。

 

 呪文とは魔力を通じて引き起こされる現象を指した言葉だ。

 呪文とは言葉だ。

 大気に存在するマナの力を自己の力として表現して、文字が力を得て、その効果が具現したものとされる。マナは大気と同化し、常時発生させている神秘的な力の源のことだ。人間は無意識のうちに呼吸と一緒にマナを体内に取り込んでいる。

 

 それを使用し、現実や常識から切り離された独自の認識や感覚、土台となる自分だけの領域を制御する事で始めて呪文として存在する本来はありえない現象を発現させる。発現させるのに、言葉という形で放つことで具現する。

 

 しかし、扱いが非常に難しい。本人とマナの相性、魔力を制御する知識、マナを扱えるほど強くイメージできる集中力と表現力、五感でマナを把握する能力・肉体との同調率、マナを鋭利に感じ取れる能力の全てを兼ね備えた人間だけが呪文を使用できる。

 

「でも、俺が使うんなら回復じゃなくて派手な攻撃呪文を使いたいね」

 ルシュカがくっくと含み笑いをし、アルトが表情を曇らせる。

「僕は……そういう何かを傷つけるための力は、いらないよ」

 アルトが森林に響く虫の音にかき消されてしまいそうな、小さな声で呟く。

 

「なんか言ったか?」

「ううん、別に」

 アルトが誤魔化す様に首を振る。さして気にしていなかったのか、ルシュカが歩き始め、アルトもそれに続いた。

 獣道を掻き分け、湿った舗装もされておらず柔らかい地面を歩く。大小様々な砂利を蹴り、森を抜けた。

 

 開けた視線の先に、青空が広がった。

 穏やかな冷たい風が吹き抜けて、熱くなった身体を冷まし、頬を伝った汗を拭う。鼻腔を付いた青臭い草の匂いが草原から漂う。

 ルシュカがゆっくりと加速し、走り出した。走り出した勢いが削がれ、すぐに転がるようにして倒れこんでしまう。

 アルトも歩み寄り、その場で崩れ落ちるように座り込む。

 

「あー……なんか疲れた」

「うん」

 疲れをそのまま吐き出して、ぐったりとルシュカが草原に横たわる。

 

「でも、なんか楽しいな。こういうのって」

 ルシュカがくつくつと笑い始める。アルトもそれに釣られるようにして笑い出した。旅慣れた旅人からすれば些細な距離かもしれないが、思春期の少年たちにとってはそんな些細な距離でも充分に冒険で、刺激的なことだった。

 

 止め処なく汗が溢れ、春先のまだ冷たい風が拭うのが心地良かった。アルトもルシュカも二人とも言葉を発さず、草原は静寂に落ちる。草原に風が吹き抜ける度に身体の熱が冷やされていくのがわかった。だが、刺激された好奇心は冷めることなくまだ燻り、少年たちの身体を突き動かそうとしていた。冒険心はまだ抑えられそうになかった。それだけ、閉じた城内より魅惑的な世界に思えた。

 

「……ん?」

 アルトが起き上がり、何かを感じ取る。

 

「どうした…?」

 不穏を感じ取ったのか、ルシュカも身体を起こしてアルトに尋ねる。

「わからない…けど、何か変だよ」

 

 森がざわめいていた。木々が騒ぎ、樹木が揺れる度に木々が擦れる音が響き、とても耳障りに騒ぎ立てる。その音に鳥たちが一斉に飛び立ち、動物たちの威嚇の叫びが聞こえたかと思えば、同時に鳴り止み、草原に凪が訪れる。静寂とは違う。大気が張り詰めていた。緊迫した重さが肌で感じ取れた。

 

「…なんだよこれ」

「わからない…けど、何かいる」

 

 アルトが先に立ち上がり、ルシュカに手を差し伸べる。掴まり、ルシュカも立ち上がり、不安げに周りを見渡す。

 

「戻ったほうがいいかも」

「そう…だな」

 

 アルトが城下町に戻ることを提案すると、ルシュカも頷くが表情が引きつっていた。怒られる事を考えたのであろうがこの場に留まって危険に晒されるよりはずっと安全なことだ。

 

 二人が行動を起こそうとしたその矢先。

 大樹が倒れた。大木が倒れた地響きが草原に響き渡り、満ちていた凪が掻き乱される。森を掻き分けて現れた小山ほどもある巨大な影に少年たちの動きが竦む。その視線が向けられ、萎縮し、恐怖に身体の自由を簒奪される。全身の力が抜けていく。

 

 森を掻き分けて現れたのは骨の竜だった。小山ほどもある巨体だが、かつてはあったはずの肉が剥がれ落ちて肉が腐り果てた強い異臭を放っていた。

 竜の歯軋りが草原中にざわめく。草も動物も小さな魔物も、何かもを蹂躙し、二人の少年たちを虚ろで、殺意に満ちた魔物の眼差しが真っ直ぐに射抜いていた。

 

 さっきまで熱かったはずの体温が冷めていくのが全身に伝わる。それと同時に本能が危険を訴え、足を動かすように命じるが目の前の異形に自身の影を縫いつけられたかのように足が凍り付いていた。アルトは自分の身体に恐怖が満ちているのだとその時はっきりと自覚できた。

 

「…逃げろ!」

 

 全身を射抜いた恐怖を振り払って、ルシュカが声を絞り出した。アルトの手を引いて、走り出した。骨の竜は鈍重だがその巨体故に二人の歩幅を詰めるのにそう時間は必要なかった。必死に走る二人の耳に入ったのは地面のえぐれる音と同時に土煙が舞う瞬間だった。気付けば二人は宙を舞い、全身に激痛が走る。走っていたが、地面に叩きつけられていた。高々爪の一振りでも二人の少年たちの傷を負わせるのには充分だった。

 

 アルトが嗚咽し、ルシュカが隣で咳き込んでいた。二人に重なる巨大な影。虚ろな魔物のがらんどうな視線が二人を見下ろしている。

 

「アルトだけでも、逃げろ…!」

 苦痛に呻きながらもルシュカが言う。アルトが首を振って立ち上がり、魔物を見据える。

 

「逃げるのなら…ルシュカが逃げて」

「…馬鹿だろ…」

 

 アルトにも自分自身が盾にもならず、自分が時間稼ぎにもならないことは百も承知だった。だが、それでもルシュカを置いて逃げることなどアルトには出来なかった。

 

 傷ついた身体の力を振り絞って、立ち塞がる。恐怖はあった。足が竦む。だが、それ以上に傷ついてる親友を見捨てて逃げ出すことなんて出来ない。出来るはずがない。呪文を詠唱しようにも魔物の爪は振り下ろされた。間に合わない。凶暴な風が自分たちを押し潰そうとしている。

 

 だが、

 魔物の爪は少年たちに届くことはなく、停止していた。二人の少年の前に重なるもう一つの影。

 青い外套が風に靡く。切り整えられた黒髪。深い海の底を思わせる藍の瞳は鋭利なまでに鋭い。整えられた顔立ちに浮かぶ表情は鋭く牙を突きたてられた狼のようにも思わせる鋭利さが浮かんでいた。柄にアリアハン王家を示す獅子の紋章が刻まれた鋼の剣で魔物の牙を受け止め、それを弾き飛ばす。

 

 そのまま、青年が跳躍し、唐竹から一文字に剣を振り下ろし、熱風の如く一閃は魔物を切り裂いた。引き裂かれた魔物がゆっくりと草原に倒れ、沈んでいく。地面に降り立ち、青年とアルトの視線が交錯する。

 

 

「兄さん」

「よう、無事か?」

 アルトに向けて青年が気さくににっと笑いかける。

 アゼルス・ヴァールハイト。

 この青年は、勇者の子で、そして勇者を受け継ぐとされる次代の希望そのものだった。

 

 少年はアゼルスの弟であり、勇者の次子。

 アルティス・ヴァールハイトといった。

 

 

 

 草原を吹き抜ける春先の涼やかな風は、二人の兄弟の間を吹き抜けていった。

 

 

 

 



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プロローグ 「継承」 2/5

   

 

 

 そこは寂寞とした静寂に包まれていた。

 見上げたステンドガラスには神話の神々が天上に手を伸ばし、光を蒔いていた。光が大地に溢れ、人がそれを神の奇跡として享受される様が描かれていた。教会ではそれをマナだと解釈していた。

 

 マナとは魔術を行使される際に使用する魔力の事を指す。魔法使いが所属する『協会』と僧侶が所属する『教会』とでは講釈が異なる。『協会』ではマナは神秘だと解釈されている。気や動物などが常時発生させ、自分の思念によって働きかけることで目覚める神秘だとされている。『教会』では位相の異なる神の世界から降り注ぐ奇跡だとされ、神々が人を愛し、恵みを齎しているのだと解釈されている。

 二つの議論は二つの組織によって長年意見がぶつかり合い、どちらも譲り合うつもりはないようだ。

 

「いってえ…」

 

 ルシュカが蹲って、礼拝堂の椅子に座り込んで頭を擦る。

 あの後、アルトとルシュカの二人は当然のことながらアリアハンに連れ戻された。その後にアルトの祖父ガルドに長時間説教と拳骨を、罰として教会の礼拝堂の掃除をさせられることになった。

 城下町を抜け出したことによって多くの人に心配をかけたのだから、何かしらの罰があるのは当然ともいえた。

 

「それで済んでよかったとも思うけど」

「……まあ、な」

 

 アルトが思い出して呆然と言い、曖昧にルシュカが頷く。アゼルスが助けに来るのがもう少し遅れていたら、二人はこの場にはいなかった。あの時の恐怖は忘れられるものではない。

 

「もう、あんな無茶しちゃダメだよ。全く」

「それはどうかな?」

 

 アルトが苦笑し、いたずらっぽくルシュカが笑んだ。この好奇心の高さは彼の魅力の一つではあるが時に無謀とも思える行動をする故に、近くにいる側としては常にハラハラとさせられ、心臓にはよくない。

 好奇心が旺盛で活発なルシュカと控えめだが周りを見てその行動を制止するアルト。ある意味でこの二人は真逆だが、ある意味でこの二人のバランスは取れていた。たまにアルトでも制止できずに突っ走ってしまう時があるが。

 

「次はあんまり無茶すると止めるからね。ほんとに」

 アルトが嘆息混じりに言うが、それに対してルシュカは悪びれずにくつくつと笑う。アルトが顔を上げれば、硬い教会の大理石を踏む音が響いた。

 それに対してルシュカが顔を上げようとした瞬間に、彼の頭に厚い聖書で叩かれる。

 

「次のミサまで時間がないので、早くお願いしますよ」

 見上げれば白髪の人の良さそうな顔立ちをした壮年の男性が立っていた。アリアハンの教会で、神父を教会側からローレン神父が咳を払い、慌ててルシュカが立ち上がる。

 

「あまり親御さんを心配させないようにしてください」

「えー……」

 ローレンの言葉に、ルシュカが口を尖らせる。

 神父が深々と溜息をつき、あまり反省する様子が見られなかったので頭を痛めているようでもあった。

 

「君も、アルトも親御さんから見れば宝なのです。好奇心が旺盛なのは結構ですがそれで何かあったらどうするのですか」

「それは…」

 

 ルシュカが口篭り、それと同じくしてアルトもまた沈黙した。

 アルトの父オルテガは優れた戦士であったが、十年前に魔王討伐の旅に出たきり帰る事はなく行方を眩ませた。

 

「あまりご両親を心配させるものではありませんよ」

 ローレンはそう告げると、優しくアルトの肩に手を置いた。

 

「………はい」

 

 アルトが深く頷きを返す。家族がいなくなった空白は簡単に消えないことの重みを、アルトはよく知っている。いるはずの場所に、人が一人いなくなることがどれだけ悲しく、黒い爪痕を残すのか……そしてそれが消え行くのにどれだけの時間を要するのかをその目で見てきている。

 

「説法はここまでにしましょう。ミサまであまり時間がありません。早く掃除を済ませてくださいね」

 

「……はい!」

 

 頷くより、早くアルトが箒を持ち直して掃除を再開する。ルシュカも面倒臭そうではあったが渋々と言った様子で手伝っていた。

 

「お父様」

 

 礼拝堂に可憐で、優しく澄んだ声が響いた。手に聖書を持ち、神父に近づいてきたのはアルトやルシュカと同年代ぐらいの少女だった。

 新雪のようにほんわりとした白い肌、ほっそりとした腕、背中まで届く柔らかそうな髪は、空の蒼を映した水鏡のような透き通る空色の髪。

 少し垂れ気味の目が穏やかな表情がよく似合う清楚さと温和な印象を与える。ただ見ているだけで幸福感を感じさせ、思わずに抱き締めたくなる愛嬌を感じさせる。

 だがアルビノめいた色彩の薄い空色の髪と紅の瞳は同時に目を離せばここから消えてしまいそうな儚さと神秘さを少女に纏わせ、保護意欲を掻き立てずにはいられない……そんな少女だった。

 

「ミサで使う聖書をお持ちしました」

「シエル。すまないね」

 

 それにシエルと呼ばれた少女が笑みで返す。シエルはローレンの娘であり、アリアハンの教会で見習いシスターとして修練をしている少女だ。

 アルトやルシュカよりも一つ上だが、行く行くはアリアハンの教会を継ぐ僧侶としての道が定まり、そのための呪文の鍛錬も日々行い、上達してきている。

 

「アルト君も、ルシュカ君もどうしたんですか?」

「あ、うん。これは…」

 

 こくんと、シエルが小首を傾げる。返答に困ってアルトが言葉を濁してしまう。心なしか顔が熱く、鼓動が跳ね上がっている。乱れた心音に阻まれて、旨く返答が形にならない。あわあわと顔を紅くさせるアルトにルシュカが肩を竦めていた。それが気恥ずかしくて、更にアルトが頬を染める。

 

「あー、うん。ちょっと城下町から抜け出してね。その罰で教会の掃除させられることになっちゃって」

「もうっ。何でそんなことするんですか」

「なんて言うか…好奇心?」

「好奇心でもそんなことしたらダメです」

 シエルが咎めて、ルシュカが乾いた笑いで濁した。

 

「わたしも手伝います」

 シエルがおもむろに雑巾を手に取り、祭壇を拭き始める。

 

「皆でやれば、すぐに終わりますから」

「おー、ありがと」

「どうしてしまして」

 シエルがにこっと微笑んで、掃除を始めた。そんな彼女を尻目にルシュカが近寄り、アルトの首筋に手を回す。

 

「シエルは、可愛いよな」

「ふぇっ!? えー、あー…えっと」

 

 そうルシュカに囁かれて、咄嗟にアルトが顔を赤らめる。振り向いたシエルの紅い眼差しと視線が交錯し、硝子細工のような、紅い瞳の世界に吸い込まれそうになる。

 

「喋ってないで、手伝ってください」

「わかったよ」

 

 ルシュカがアルトから離れ、肩をぽん、と叩いた。

 それまでの乱れた心音を振り払うかのように、アルトもまた掃除を再開し始め、シエルはそんな二人の様子を小首を傾げていた。それを見て、ルシュカがくつくつと笑うのに、アルトがじとっとして目で睨むのだった。

 

 

 程なくしてミサのために、人が集まり始め、それに間に合って礼拝堂の清掃も終えることができた。ローレン神父もその準備のため、礼拝室で聖書に目を通していた。挨拶と報告をし、アルトとルシュカは礼拝堂を後にし、教会を出ようとした時に呼び止められた。

 

「今日はありがとうございました」

 

 シエルが深々と頭を下げてから、笑顔を向ける。自分たちの罰でやらされた掃除ではあったが、感謝されたことに悪い気はしない。

 

「でも、二度としないように」

 シエルが念を押して、釘を刺す。

 

「何かずっとそれを言われてる気がする……」

「仕方ないです。皆を心配させた罰です。我慢しちゃってください」

 シエルが笑んで、気まずそうに二人が視線を逸らす。

 

「それに……」

 シエルが少し言い辛そうに言葉を淀ませる。暫し逡巡する少女に少年たちが顔を見合わせる。言うのが気恥ずかしいのか少女は頬を少しだけ紅く染める。

 

「わ、わたしだけ退け者にしましたから……」

 小さく少女が消え入りそうな声で言い、顔を真っ赤に染める。

 

「な、何でもないですっ」

 

 シエルがわたわたと手を大振りに振ってごまかすも、もともと少年たちの耳に届いていなかったため、二人は不思議そうに少女を見て、少女は二人の様子を見て更に顔を紅くしたのだった。

 

 

 

 教会から時間を知らせる鐘の音が辺りに響き渡り、朝のミサが始まることを知らせる。それに伴って二人は少女に見送られて、ルシュカともその場で別れることになった。アルトが教会を後にしようとした時に、

 

「やっと終わったか」

 

 身を預けていた壁から、身体を離してアルトに近づく一つの影。物陰から現れたのはアゼルスだった。通路を吹き抜けた冷たい風がアルトの頬を撫でた後、アゼルスの黒髪を揺らした。

 

「兄さん」

 アルトが少し驚いた様子で、兄と視線を合わせる。

「なんだ。忘れてたのか」

 アルトが小首を傾げて、それに困ったようにアゼルスが手で顔を覆う。

 

「日々の鍛錬があるだろ。その迎えに来たんだ」

「でも、それは午後になってからじゃないの?」

 

 アゼルスとアルトは毎日昼食後に剣の鍛錬を行っている。無論アルトとてそれを欠かしたことはない。しかし、まだ時刻は九時を過ぎ、まだ一日が始まったばかりの時刻だ。鍛錬の時間までまだ凡そ四時間余りある。

 

「今日は午後から王宮に行くって言ったろ? だから今日は午前中にやるって約束してただろ」

「あ、うん」

「全く。仕方のない奴だな」

 

 呆れたように、アゼルスが苦笑した。それから程なくしてアゼルスに連れ立って、アルトもまた歩き出した。

 教会は北東部の閑静な住宅街の中にあり、そこには兵士や騎士が住む兵士宿舎や兵士寮がある部分に住んでいる場所に存在している。アルトとアゼルスが住むのは町の中央部にある市場や歓楽街がある部分から、南西部に位置する主に貴族などの高貴な身分の人間が住む高級住宅街だ。自宅までは徒歩で一時間足らずで行ける場所にある。

 

 

「兄さん。お城に呼ばれたってことは」

「ああ、たぶんそうだろうな」

 

 アゼルスがアルトに視線をやらずに、神妙そうに目を細める。アゼルスは十六の誕生日を迎えた。アリアハンでは十六になると成人だとみなされる。それ以前にアゼルスは王に許しを請い、旅立ちの許可を進言していたが王は成人を条件に許可すると告げられ、その時がアゼルスにも漸く来たということだ。

 

「勇者として旅立つ日が来たってこと?」

「ああ、そうだろうな」

 

 アゼルスがきつく、拳を握り締めた。アゼルスの紫の瞳は使命と正義がはっきりと宿り、その相貌を見つめると暴風が身体を打ち据えたのではないかと思ってしまうほど強い意志が貫く。そんな兄の姿にアルトは畏怖の念を禁じえなかった。

 

 勇者アゼルス。

 

 かつて蛮族や強大な魔物を打ち倒し、幾度もアリアハンの危機を救い、その名を国内外に轟かせたアリアハンの勇者オルテガの長子。

 オルテガの後継者として最も相応しいと呼び声も多く。兄は数年前に王宮の騎士に志願し、数々の強大化した魔物を倒し、武勲を挙げており、オルテガの血潮を感じ取った人間も少なくはない。事実、その勇者の血潮が成せる業か天賦の才を持っている。

 だが、アルトは知っている。彼が血潮でも、才能でもなくそれ以上に影での鍛錬が成せた栄光であることを。剣はかつての近衛騎士だった祖父から日々努力を積み重ねた結果が今のアゼルスであることをアルトはよく知っていた。

 

 一緒にこうして歩く度にアリアハンへの人間がどれだけ、アゼルスという若き勇者に期待を抱いているかがよくわかる。

 中央部の市場を歩いているが、喝采と応援が否が応でも耳に入ってくる。

 兄個人を勇者として認めているか、それともオルテガの後継者として見られているかなのかはアルトにはわからない。それでも兄が多くの人の希望として認められているというのは紛れもない事実だった。

 

 父では叶わなかった魔王討伐を叶えられる可能性があるもの。

 

 魔王を倒し、世界に希望を示せる存在。

 

 多くの人の願いを背負える者。

 

 それが勇者となった兄の生き様。

 

 

 隣を歩く兄の姿はとても眩しく、そして遠い姿に、アルトには感じられた。

 

 

 

 



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プロローグ 「継承」 3/5

   

 

 

 昇りきった太陽の日差しが燦々と降り注ぎ、春先の温い風が吹き抜けた。澄み切った青空がどこまでも広がり、それを眺めて日向ぼっこでもしていると陽光が眠りを誘われそうになる。

 冬を過ぎ、暖かな季節を迎えた木々は緑が生い茂り、葉と葉の間を擦り抜けた陽光が木漏れ日となり、風が隙間を抜ける度に複雑に影は変化し、葉が擦れた音が風がそこにいた証として静かに響く。

 

 民家の裏庭で、二人の少年が対峙する。

 勇者オルテガの子息たち……アゼルスとアルトだった。二人ともその場に鍛錬用の樫の木刀を構えたまま、微動だにせず立ち尽くしていた。お互いに隙を窺い、最初の一打を打ち込む瞬間を狙い澄ましている。

 そんな二人の少年の間を一際強い春風が吹き抜け、木々が煩く騒ぎ始める。耳が痛くなるほど散々騒いだ木々は風が過ぎ去れば一斉に鳴り止み、静寂が訪れた。その瞬間だった。

 

 アゼルスが大きく打ち込み、甲高い音が反響する。アルトが打ち返し、アゼルスの一打を受け止める。その一打は雷光のようだった。強烈な一撃にアルトが呻き、アゼルスが鍔迫り合ったまま、そのままアルトの身体を弾き飛ばそうとする。だが、アルトもまた負けじと足に渾身の力を込め、その場に踏ん張ろうとする。

 次の瞬間、ふっとアルトの腕の感覚が軽くなった。アゼルスが力を抜き、そのまま後ろに跳び退る。急に軽くなった感覚にアルトの込めていた力がバランスを崩し、体勢が崩れ、前に転びそうになる。

 

「うわあ…うわわわ」

 

 慌てて、アルトが足を前に出して何とか転ぶのを堪え、安堵を覚える。

 だが、その瞬間を見逃すほどアゼルスは優しくない。アルトが気を抜いた瞬間に、距離を詰め、兄はもう眼前にいた。右から薙がれた一打を弾く。一打一打が打ち合う度に衝撃で手が痺れそうになる。感覚が麻痺しそうなくらいの痛みを感じても、兄は攻め手を止めはしてくれなかった。

 派手に木刀と木刀が打ち合って、甲高い音が裏庭中に響き渡る。

 

「守ってばかりでどうする!?」

 

 一喝の如く、アゼルスが声を張り上げて、背筋に落雷が落ちたかのようにアルトの背筋に声が打ち据えられる。

 

「攻撃して来い! それでやる気あるのか!」

 

 アルトがぐっと唇を噛んで、アゼルスの一打を弾く。その後、数歩後退してから足に全ての力を込めて跳躍する。渾身の力を込めてアルトが唐竹からの一打を振り下ろす。

 

 アゼルスが低く身を屈めて、突進し、アルトの腹目掛けて右袈裟から薙ぐ。咄嗟の攻撃に対処しきれずにアルトはそのまま打ち据える。

 アルトの一打はアゼルスに届かずに、アゼルスの放った右袈裟がそのまま腹部を直撃した。勢いをそのままに地面に転がり込み、瀑布の如く一撃に腹が吹き飛ばされたのではないかと錯覚できるほどの痛みにアルトは悶絶し、そのまま地面に蹲る。

 腹の中の全てがぐちゃぐちゃにかき混ぜられたように思える感覚が襲い、しばらく立ち上がる気力は湧いてきそうにもなかった。

 

「いや……だからと言って守りを疎かにしろってことじゃないからな」

 

 呆れ半分にアゼルスが言い、その場に座り込む。

 腹を擦って、そのまま地面にアルトが転がる。見上げる青空はどこまでの澄み渡っていた。熱した身体を風が冷まし、額から溢れ出た汗を拭った。乱れた熱い息をそのまま、全て吐き出して整える。まだ、少し気分が悪く、立ち上がれそうにはなかった。

 

「僕には…」

 熱と共に、アルトが今の自分の気持ちを吐き出す。

 

「兄さんや父さんのように何かを傷つけてでも戦う……なんてできないよ。こうして打たれただけでも痛いのに。剣や魔法で攻撃されたら…」

「何かに傷つけられるのが怖いか」

 

 アゼルスの声に、アルトが首を横に振った。そうではなかった。何かに傷つけられるのが怖い訳ではない。そんなことにアルトが恐怖を覚えたのではなかった。そっと力の篭らない指先を、アルトが握り締める。

 

「そうじゃないよ……」

 息も切れ切れだったけれど、青い空をぼんやりと見上げながら、アルトは言葉にし、気持ちを形にした。

「僕が怖いのは、何かを傷つけて何かを壊れるのが……怖い」

 

 戦うということは暴力だ。暴力を振るえば、何かを壊すということに繋がる。繋がっていた何か。絆、友情、愛情。それを剣を振るい、掌に伝わる暴力で断ち切ったという感覚。その感覚を、アルトの心は拒み、受け入れることが出来なかった。

 甘い、と兄に笑われるだろうか、とふとした恐怖心が芽生えるのを感じた。だが、これがアルトの気持ちだった。

 

「そうだな……そうかもしれない」

 アゼルスも空に独りごちるように、アルトの気持ちを返した。

 

「戦うということは暴力だ。正義や愛といった美談で片付けられないことのほうが圧倒的に多いさ」

「兄さんは……怖くないの?」

「怖いさ」

 

 兄から返ってきた言葉に、アルトが目を丸くする。勇者としてのアゼルスは常に勇猛果敢で、恐れを知らない戦士のように移る。だから、怖いという返答が返ってきたのが意外だった。

 

「俺だって怖いさ。死ぬのはいつだって怖い。でもさ、俺が、勇者が戦わなければ結局別の暴力に小さな何かが踏み躙られてしまう。俺がその方が怖い」

 

 空を見つめる兄の眼差しに熱が宿る。その熱は言葉となって、アルトにも伝わった。

 そうやって周りに灯り、兄を突き動かす原動力となる。言葉は、力だった。意思だった。それを迷いもなく、解き放てる兄は間違いなく、勇者だった。

 

「兄さん……強いね」

「俺は強くなんかないさ。ただ見栄を張ることしか出来ないただのガキだよ」

 

 照れ隠しなのか、アゼルスが笑んだ。その微笑みがアルトにはとても眩しく、輝かしく見えていた。自分に出来ることを理解し、それで最善を尽くそうとする兄の姿がとても、アルトには遠い存在で、彼方にいるような―――。

 

「ずっと…僕に出来ることってなんなのかって考えてた」

 アルトもまた、独りごちるように、呟くように言う。

「僕はまだまだ子供だし、兄さんのように強くないし……僕は」

 

 無力だった。ただの自分が無力な子供だった。それを、アルトは強く自覚していた。勇者の家系に生まれたといっても、自分は勇者ではない。自分の目の前には、常に父の理想を受け継ぐべき大きな存在が既にいる。

 兄と自分を比較したことはアルトにはない。だが、常に思考は続けていた。そんな無力な自分ができることはなにかないかと模索し、方法を考えているが、それでもまだ探し出せていない。

 

「そうだな……」

 アゼルスがふと、思い立ったように告げた。

 

「横笛を吹いてくれないか」

 アゼルスの提案に、言葉を返してアルトが半身を起こして、その勢いで草が舞う。

 

「今、聞きたいんだ。だからさ、吹いてくれないか」

「いいけど…」

 

 アルトが立ち上がり、庭にある大樹の根元に置いた自身の鞄から銀の横笛を取り出し、吹いた。

 

 

 さっきまでの木刀の打ち合いの鈍い音ではなくて、横笛から響く旋律が庭中に響く。

 曲は頭にふっと浮かんできた戦慄を音にしていただけの拙い物だった。それでも、その音色は染み入り、若葉やそよ風に澄み渡って、音色が踊った。その音の響きに合わせて、草花もそよ風も木々の音も音と供に弾んで、辺り一面に澄み渡ったかのようだった。

 

 アルトは楽師ではなく、ただ元宮廷音楽家であった母の見様見真似で横笛を吹き始めただけだった。だけど、アルトは音楽という物を好んでいた。旋律は人を楽しくさせ、泣いている子供でも笑顔になってくれる。どんなに荒れた人でも一緒に音というものを楽しんでくれる。だからアルトは音楽という道に惹かれた。

 音楽に触れている時間は、とても楽しい。みんなが一つのことを楽しんで、一つを共有して、短い時間では在るけれども、そこには争いがなくなり、笑顔になるからだ。

 演奏が終わり、一つの拍手が生まれた。

 

「あったじゃないか。お前にもできることが」

 アルトが小首を傾げて、え、とアゼルスに問い返す。

「簡単に見つかったって言ってるんだよ。アルトにもできることってヤツをさ」

 アゼルスが嘆息し、横笛を指差す。アゼルスも立ち上がり、アルトの頭にぽん、と手を置く。

 

「楽師なんて手先が不器用な俺には無理だし、出来る自信もない。だけど、お前は楽器を演奏し、人を楽しませることが出来る。これも立派な力だぞ」

 アルトの頭から手を離し、その手をアゼルスが握り締める。

 

「俺は確かに戦うことが出来る。でも、それだけだ。だから、強くなって多くの力無き人々の代わりに戦う。それが俺の出来ることだ」

 アゼルスの言葉に熱が篭り、その瞳に強い決意が見て取ることが出来た。だが、不思議とアルトには少しその瞳が寂しげに見えた。

 

「だがお前は俺の出来ないことを出来る。音楽で、人を楽しませて人を笑顔にするって凄いことがさ。だからさ」

 アゼルスがアルトの目の前に拳を翳す。それに呆気に取られて、アルトがアゼルスを見返す。

 

「今、自分の出来ることを全力でやってけばそれでいいんじゃないか。俺は剣で戦って人を守って、お前は楽器で人を癒す。みんなで出来ることをちょっとずつやっていけばそれでいいんじゃないかって」

「…兄さん」

 

 アルトの迷いが消えていくような気がした。人から見れば些細なことかもしれないが、それでも音色で人を癒し、笑顔に出来る。今、自分の出来ることをやっていく―――それで一つでも多くの笑顔を生めるのであれば。

 

「やってみるよ」

 アルトがアゼルスの視線を真っ直ぐに見つめ返して、拳と拳をぶつける。

 

「ちょっとずつかもしれないけど、足りないかもしれないけど。僕にできることを」

「その意気だ」

 

 アゼルスがにっと笑んでから拳を離す。男と男の約束。それは、今、兄弟の間で交わされた小さな約束。出来ることは丸っきり違うけれども、自分に出来ることを少しずつでもやっていくと誓いを立て、その気持ちは一つであった。

 

 

 

 

 剣の鍛錬を終えてから二人は遅めの昼食にすることにした。二人の行動を見越していたかのように女性が調理を終えて、昼食を装っていた。昼食はアリアハンでも好んで食べられる魚介類をしようしたパエリア。サフランを中心とした刺激的な香辛料の匂いが鼻腔をつき、食欲を増進させる。

 腰まで伸びた長い黒髪を束ねて、やや釣り目がちな化粧っけのないさっぱりとした美人であったが、年齢を言わずに姉と言われれば納得してしまうであろうくらいに若く見えた。アルトとアゼルスの母、クレアだった。

 二階から祖父ガルドが降りてきた。若い頃にアリアハンの王宮騎士と勤め、そのためか未だに矍鑠としており、アゼルスとアルトに剣術を指南したのもまたガルドであった。

 

 テーブルに手を洗った後にアルトとアゼルスも座り、一家揃っての昼食となった。窓から差し込む日差しと室内の影の光と影のコントラストに、テーブルの上のパエリアのオレンジが咲いていた。

 ただ、一つだけの空席を除いて。本来そこの席に座るはずだった家族はもう既に居らず、戻らない。その寂しさと悲しさはまだ忘れたわけではない。たが、悲しんでばかりいることも時間が許してくれそうになかった。

 

「いただきましょう」

 

 クレアが促し、その前に短い時間、瞑想を捧げる。アリアハンは精霊ルビスを信仰する宗教が根強く、ルビス教では食事の前に瞑想を捧げるという習慣があった。アルトの家族でもそれは日常として行われている。

 

 瞑想の後、食事を始めた。

 パエリアを口に頬張り、口いっぱいに海鮮の優しい味が広がり、セロリの風味が喉を通って、鼻腔に吹き抜ける。

 

「アゼルス。準備は出来ておるのか」

「ん。ああ、大丈夫だよ」

 祖父に、アゼルスが頷きを返す。旅立つための準備はもう既に出来ているようだった。それに納得か満足したのかガルドは深く聞き返しはしなかった。アゼルスも気にせずに食事に戻り、パエリアをがっつく。今度はアルトに視線を向ける。

 

「アルト。お前はどの職業になるかをいい加減決めたのか」

「まだ、だけど」

「ならさっさと決めろ。それでもわしの孫か」

 

 ガルドの言葉に少し怒気が篭る。前々から今後の道を決めかねているアルトには少し厳しい言葉が飛んでくることも間々あった。その度に居心地の悪さを感じていたが、もうそんな後ろめたさは消えていた。さっきの兄との対話で自分の進むべき方向が、少しずつではあるが見えている。

 

「僕は……」

 おずおずとアルトが言葉を口にする。しかし、自分の意思を強く込めて、言葉を放った。

 

「楽師になりたいなって…思うんだ」

 ようやく自身の道を決めた孫にガルドが真摯に見つめていた。戦士以外の職業を答えれば、祖父が激怒するものとばかりと思っていたアルトには祖父の反応が少し意外であった。

 

「こんな時代だし、少しでも人を楽しませたり笑顔に出来ることをやっていければいいなって…思うんだ」

 ふむ、と祖父が納得したような声を出し、思案するような表情を見せた。

 

「お前の人生だ。お前のやりたいことをやるといい。ただし、剣の鍛錬は毎日欠かさずにな。外部に出る機会もあろう。自分の身は自分で守れるようにな」

 

 拍子抜けしたようなアルトに、クレアがくつくつ笑ってみせた。

 

「おじいちゃんはおじいちゃんなりにアルトのことを心配してたのよ。アルトはアルトなりの考えを聞ければ、それでよかったの。楽師を目指すのなら私に教えられることであれば、教えるけど」

「……ありがとう」

 

 家族の気持ちにアルトの胸がいっぱいになった。不器用な祖父の応援と、優しく支えようとしてくれる母の気持ちが伝わり、アルトの胸を熱くさせた。

 

「あら…」

 クレアが立ち上がり、窓の外の空を見上げる。

「どうやら少し曇ってきたみたいよ」

 アゼルスも空を見上げ、青く澄み切った空は鉛色の雲で淀み始めて、空を覆い始める。今にも、空が泣き出し、大粒の雨を降り注ぎそうな暗雲だった。

 

 

 その日、二人の少年たちの行く先を指し示すかのような、空だった。

 

 

 

 

 



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プロローグ 「継承」 4/5

   

 

 

 鉛色の空は今にも泣き叫びそうだった。午前中までの晴れ上がった春先の快晴はどこへやら、白と灰色の雲に覆われて、鬱蒼とした空だった。

 そんないつ雨が降り始めるかわからない天気ではあったが、孤島に存在するアリアハンの王宮前の門には既に橋の上に人溜まりができており、新しい勇者の勇士を一目見ようと告知はなかったにも関わらず多くの人が集まっていた。

 

 アルトもまた、その人混みの中にいた。そんなことをせずともアゼルスが旅立つ日程はまだ定まっていないため、まだいつでも会えるのだが……なぜかはわからないが、言いようのない不安を感じていた。その原因の理由がアルトにもわからず、その不安がここまで足を進めてしまった。だが、その不安も新たな勇者を待つ人々の歓喜に飲み込まれてしまいそうになるが、それでも消えはしなかった。

 

 取り越し苦労ならそれでいいが、心の奥底でかつて、感じたことのある不安だった。

 かつて、オルテガが消息を絶ったと報告が来た日もこんな灰色の、寂寞とした空だったのをアルトはよく覚えている。その時と似た空が、アルトの記憶の底から呼び覚ましているからこんなにも不安を感じてしまうのか……少年にも答えはわかることはなかった。

 

 ふと、人混みの中からぱたぱたと華奢な腕が手を振っているのがアルトの視界に入り、そこまで人混みを掻き分け、いたのは透き通る空色の髪の少女……シエルだった。

 

「やっと会えました」

 ほっとしたような朗らかな笑みを浮かべる少女にアルトもまた、安堵を覚える。

 

「どうしたんですか? アルト君もお兄さんの姿が見たくてここに?」

「うん……まあ、そんなところ」

 

 曖昧にアルトが言い、シエルも気にしていなかったのか深く言及はしてこなかった。視線を城門に戻した少女の横顔をアルトがまじまじと見つめる。

 

「シエルも、兄さんのことを見に来たの?」

「はい、魔王を倒すのはオルテガ様でも成し得なかった大願です。その悲願を引き継いだ方を見るのはアゼルス君が魔王を倒してアリアハンに戻られるまで叶いません」

「そう、だよね」

 

 魔物の脅威は世界で共通で引き起こされている惨劇だ。魔物たちを統率し、ネクロゴンドを陥落させその軍力で世界中を進軍する元凶。

 言霊に宿る響きは禍々しく、その進軍の爪痕で多くの悲劇と絶望が齎されている人類共通の脅威。勇者オルテガも討伐に出たきり、消息を絶ち叶わなかった。その脅威に立ち向かう新たな希望。それがアゼルス。兄は戦いを選択し、人の幸福を守ることを選んだ。

 

 以前であれば、それをアルトは輝かしく思えたであろうが今は違った。

 アゼルスにはアゼルスの、アルトにはアルトの歩むべき道がある。アゼルスが守るのであれば、アルトはその傷跡を癒して生きていこうと心に決めた。楽師となり、音色で一つでも多くの笑顔を癒していこうと。

 甘さかもしれないが、勇者の息子には似つかわしい生き方かもしれない。それでもそうしたいと感じている少年には他人の評価など微々たるもので、もう気にすることもなかった。

 

「兄さん……遅いね」

「ええ、何かあったのでしょうか」

 

 シエルがこくん、と小首を傾げる。懐中時計をアルトが見つめ、兄が旅立ちの許しを終えて城門に出てくるのは四時過ぎ。だが、現在の時刻はそれを半刻ほど過ぎてしまっている。さっき感じて不安にアルトが突き動かされる形で言葉を発していた。

 

「お城まで見に行かない?」

「え……? でもここで待っていたほうがよろしいのでは?」

「遅いのが気になるんだ……」

「わかりました。そうしましょう」

 

 アルトの不安げな横顔を窺って、シエルが笑んだ。シエルがぴ、っと人差し指をアルトの口元に当てる。

 

「勝手にお城に入ったこと。後で一緒に怒られましょう。ね?」

 少女が悪戯っぽく笑むと、すぐに行動に移したのだった。

 

 

 

 橋の下を降りてから、城壁沿いを辿ってそこに天高く聳えた樹木があった。その上に最初にアルトが攀じ登ってからシエルに手を差し出して彼女を引き上げていく。城壁の高さに達した場所でまず待機する。

「まず僕が降りてから、シエルが飛び降りて。僕が受け止める」

 シエルが頷くと、アルトが飛び降りようとする。が、予想以上の高さに一瞬だけ躊躇してしまった。頬を叩くと高さへの恐怖を押し込め覚悟を決めて、意を決してアルトが飛び降りる。

 地面に吸い込まれるような浮遊感が襲い、突風がアルトの頬をなぞった。一瞬であったが宙を舞い、感覚が消えると同時に地面に降り立った。足に痺れるような痛みが一瞬だけ走り、足に染み入るように痺れが襲う。涙目にはなっていたが、それをアルトが押し殺す。

 

 シエルもまた高さに逡巡するも、そこから飛び降り、宙を舞った少女の身体をアルトが抱きとめて、受け止めた。受け止めたはいいが少年の華奢な身体では勢い余って後ろに倒れてしまい、シエルのきゃ、と小さな悲鳴が耳に入る。

 すぐさまアルトが身体を起こそうとするが、頭にむにゅっと恐ろしいほどに柔らかいふわふわした弾力のあるものに埋めてしまった。慌てて顔を離すとなだらかに華麗に盛り上がる二つのふくらみが眼前にあった。それを理解してかアルトが咄嗟に赤面する。シエルがアルトに覆いかぶさる形で乗っていたからだ。

 

「し、シエル。大丈夫?」

「は、はい。ど、どどいたほうがいいですよね!?」

 

 体勢に気が付いたシエルが赤面させて、ばっと勢いよく後退る。さっきの柔らかな感触が咄嗟に蘇ってきてアルトが首を横に振るが中々に消えてくれなかった。

 

「な、何を考えてるんですか!? す、すぐに忘れてください! はしたないです!」

 アルトの視線から胸を遮って、シエルが頬を真っ赤に染めたまま胸元を押さえた。

 

「ご、ごめん」

 アルトも視線を外して、ばっと後ろを向く。ぱちぱちと頬を叩いて柔らかい感触を必死に消そうとしたが、その瞬間に、

 

 地響きがした。城全体を、孤島全体を震わせるかのように響き、島そのものが強く揺れた。

 

「な、何でしょう…?」

「わからない。けど、行ってみよう」

 

 不安げにシエルがアルトの横顔を窺って、アルトが土を払って立ち上がる。手を差し伸べ、シエルもその手に掴まって立ち上がる。

 

 記憶を辿って、移動して裏口から二人は城内に入るが静まり返っていたのに気がつき、見張りの兵士も給仕の姿も見えずに何か城内で異変が起きているのに気が付く。静まり返った城内が俄かに張り詰めている……緊迫した空気に重さを感じ取れた。

 二人の大理石を蹴る音だけが通路に反響し、アリアハン王宮に何か異変が起きてるのがはっきりと理解できた。言いようの無い押し潰されそうな緊迫感がアルトの中に抱えた不安を増大させ、足を早くさせた。小刻みに響く二つの硬い音が少しずつ離れていく。

 遠くから剣戟の音が反響してくる。一つではなく……二つ、三つと増えては消え、そして生じては弾けてを繰り返し、城内での異常が四方から響き、アリアハン王宮において在り得てはならない事態が起きているのが遠く響く音がはっきりと伝わった。

 

「待って…」

 後ろからシエルの静止する声で、自分の足が速くなっていたことに気が付き、アルトが足を止める。

「ごめん。気が付かなくて」

「いいえ……何か焦ってるようでしたので」

 

 それを指摘されて、アルトが下を向く。気が急いて、シエルとの歩測が違っていた。彼女のことを考えずに気持ちばかりが先行していた。それは紛れも無く事実だった。焦っていた―――紛れなく焦りがアルトの足を進めて、突き動かしていた。

 気持ちばかりが空回りしていてはダメだ。そうアルトは自分に言い聞かせる。まず、ここにいるのはアルトだけでなくシエルもいる。僧侶の初級の呪文を幾つか使えると言ってもシエルは女の子だ。男として女の子は守らないと。そう決めて、アルトはきつく拳を握り締める。アリアハン城は異常事態が起きているなら尚更彼女の傍にいないと。

 

「お兄さんのことが気にかかるのはとてもわかります」

 そんなアルトの気持ちを知ってか知らずか、おずおずとシエルが声をかけて、そっとアルトの眼前まで近づく。紅玉のような大きな紅い瞳に真摯に見つめられ、内心アルトはどぎまぎしていた。

 

「今は信じましょう。きっと大丈夫ですって」

「そうだね」

 

 アルトが心配げなシエルに笑みで返した。それに彼女が微笑みを返してくれた。

 信じるということは言葉にすると簡単だが、それを実行するとなるととても難しい。だが、今は何の根拠も無いけれど兄は無事だって思えてきた。それは見る人を安堵させ、元気付ける彼女の笑顔のおかげなのかもしれない。

 

「今は進もう。なんでこんなことが起きてるのか……微力かもしれないけど、今は僕たちに出来ることを探して、それをやろう」

「その意気です」

 

 ぽん、とシエルが手を軽く叩いて、それにアルトが微笑む。また二人が歩き始めた。まだあちこちで反響する剣戟の音は途切れず、その中を潜り抜ける。

 

 

 どれほど通路を進んだかはわからないが、分岐に差し掛かった瞬間だった。二人が一旦歩みを止めて、驚愕に思惟を支配された。銀の甲冑に身を包んだアリアハン所属の騎士が目の前にばたりと倒れてきたからだった。

 アリアハンの兵士、騎士は勇猛で知られる。その力量、白兵戦での制圧力は世界に知られ、強国として名を轟かせてきた。事実、アリアハン王都や領の大都市や小さな町村が強大な魔物の脅威に晒されないのはその力により、安寧を保っているからだ。

 その勇壮たるアリアハン騎士が目の前に傷だらけで倒れこんでくれば、驚いて当然のことだった。騎士は甲冑諸共左の脇腹を切り抉られて、真紅の出血が止め処なく溢れてくる。大理石の通路に紅い血に染まっていく。咄嗟にシエルが斬り痕に手を翳す。

 

「恵みを齎さん。生命の躍動を呼び覚ませ―――ホイミ」

 

 シエルの掌から白い光の文字が描き出されると同時に光が溢れ出して、シエルの唇から言霊と同時に呪文が放たれ、ゆっくりではあるが光が騎士の切り傷を包み込んで治癒していく。傷口が傷むのか騎士が呻くがそれで生きていることがわかった。

 

「大丈夫です。時間をかけてゆっくりと治療すれば完治できます」

「よかった。でも」

 

 安堵したのも、束の間アルトが騎士の傷跡を見る。刃物で抉られた傷跡だった。騎士の鍛錬が以下に激しくともここまでになるまでやるわけがない。そうアルトが思案した瞬間に、

 

「アルト君!?」

 

 シエルの声に弾かれて、背後を瞬間的にアルトが振り返る。そこにいたのは純白の…肉が全て剥がれ落ちてそれでも甲冑を身に纏った骸骨の剣士だった。

 剣を振り下ろさんとした骸骨剣士にアルトが咄嗟に騎士の、アリアハン騎士団が使役する鋼の剣を持ち、防ぐ。全身がよろめきそうになる重たい感触に振り回されそうになるもののそれで鍔迫り合い、力任せに魔物を弾き飛ばす。勢い良く骸骨剣士が地面に叩きつけられる。

 

 肩が外れそうになるが、きつく剣を握り締める。

 息が乱れ、荒くなっていく。

 恐怖が心を満たしていく。

 足が竦む。剣の重みに手が震える。剣を振るったときの手の痛み、相手に暴力を振るった感触が心に響き、心がずきりと痛む。

 そんなアルトの気持ちを知らず、骸骨剣士はゆっくりと立ち上がり、再び剣を構える。暴力の時間がまだまだ続くとわかり、心が悲鳴を上げているのがわかる。

 戦いたくなんかないのに、したくないのに、震える心が囁きかける。

 

 だが、アルトはその自分の弱さを締め出した。だからこそ、余計にきつく剣を握り締めた。掌が痛くなってくるほどに握った。

 背後には……守るべき者がいた。

 兄の言葉がアルトの心に響く。暴力に小さな何かが踏み躙られてしまう。それを許すわけにはいかないと。だからこそ勇者は戦うのだと。

 傷ついた騎士とそれを治癒しているシエル。この二人を置いて、逃げる訳にもいかない。例え、アルトが弱くても、心許なくとも戦う。二人を守る為に剣を振るう。

 

 骸骨剣士が一気に距離を詰め、猛攻を仕掛ける。幾度なく剣戟の音が弾け飛ぶ。重たい剣に振り回されながらもアルトが防いでいく。普段から兄や祖父に鍛えられていた成果が出て、何とか情けない姿ではあるが、戦うことができている。内心、鍛錬してくれた二人に感謝していた。

 袈裟から振るわれる魔物の剣を、アルトが防いで鍔迫り合いになる。がちがちと刃が噛み合って悲鳴を上げる。それを力いっぱい押し出して、骸骨剣士がよろめく。

 

 ――守ってばかりじゃダメだ!

 

 そう、心に念じて、アルトが地面を強く蹴りだした。体勢を崩した敵は間に合わずに真一文字に振り下ろされたアルトの一閃に間に合わずに切り裂かれた。倒れ臥す前に砂となって魔物は消えた。

 がむしゃらに戦った少年には、勝利の感慨など出ずにその場に崩れ落ちる。

 

「アルト君、大丈夫?」

「僕は何とか……その人は?」

「はい。今、治癒が終わりました。命に別状はないですし、傷つけられてからすぐにホイミをかけたので間に合ったって感じです」

 

「そっか……よかった」

 何とか守りきれた。そんな気持ちがぼう、と湧き出た。こんな自分でも何かを守りきったんだという安堵が何よりも先に感じられた。

 

「アルト君……あんまり無茶しないでくださいね」

「ありがとう」

 心配げな眼差しを向けるシエルに、アルトが微笑む。

 

「あの人を放置するわけにもいかないよ。どこか……医務室を目指そう」

「そうですね。それがいいのかも」

 

 シエルが肯定を返そうとした瞬間だった。言葉が途絶えた。アルトも異変に気が付き、周囲を見渡す。

 四方に骸骨剣士で囲まれていた。数は十数もの数の敵に囲まれていた。それに焦燥感を感じ始める。逃げ場が塞がれていた。一体を倒すのがやっとな少年にとっては充分絶望的な状況といえた。

 

 二人を何とか逃がさなければならない。だが、どうやってか? 通路はどこも敵で塞がれ、退路がない。切り開こうにも通路一つにつき、五~七体の魔物と戦わなければならない。その隙に距離を詰められてしまえば退路がなくなる。

 だが、こうしていても、時間が経過するだけで、更に敵がいつ行動し始めるともわからない。

 

 そんな少年の心境を悟ってか、四方の骸骨剣士たちが駆け始める。

 時間の感覚がゆっくりと、鈍く感じられた。高まった緊迫感が自分の時間を遅めているのだとわかった。知覚できる視野は酷くゆっくりとしていた。音もゆっくりとがちゃがちゃとけたたましく鳴り響く敵の駆け足が聴覚に入るまで遅く感じられた。

 

 覚悟して、少年は引き摺るようにして剣を握り締め、前に向かおうとする。足に力を込める。

 ほんの少しかもしれないけれど、二人が逃げるための活路を切り開くために。アルトは走り出していた。無駄かもしれないけど、それでも生かせる命が、そこにあるのだから。

 そんな少年の気持ちを踏みにじるかのように魔物の進軍はそこまできていた。死がそこまで来ている。圧倒的に脆弱な自分を掻き消す暴力はそこまで来ている。アルトが覚悟を決めたその瞬間、だった。

 

 

 ―――疾風が吹き抜けた。

 

 吹き抜けた熱風は敵を引き裂いて、魔物たちが砂となって粉塵に還る。嵐の如く―――鋭利に振るわれた白銀の牙は鋭く敵の命を吹き飛ばす。

 紺の外套が粉塵に煽られて靡く。アルトは藍の瞳で嵐を巻き起こす者を映す。目の前に立つ、希望。

「兄さん!」

 

 にっと笑った瞬間にアゼルスが、駆け出して剣戟を振るう。

 一瞬の出来事だった。視覚に捉えたその瞬間には自分の置かれた絶望的な状況は、掻き消えてゆく。閃光が描き出されて、その剣戟の閃光がなぞった魔物は絶命し、粉塵として大気に舞う。

 刹那の時間で、瞬く間に骸骨剣士たちを切り裂いた蒼い疾風の背中を、アルトがその眼で見つめていた。

 これが……アリアハンの若き勇者。如何なる絶望すらも切り裂く希望。それが今、目の前に立つ青年。

 

 程なくして救護部隊が駆け付け、傷ついた騎士を介抱する。彼らの話で今の状況が端的にわかった。アリアハン王宮内に突如として魔物が現れ、強襲したのだという。倒しても倒しても湧き出ていたがその数は鎮静化しつつあるのだという。

 

「何とか、終わりそうだな。大丈夫か?」

「僕の方は大丈夫だよ」

「危ないとこを助けていただいてありがとうございます」

 二人にアゼルスが向き直って、シエルが小さく頭を下げる。命の危機を救われ、この事態も終息に向かっている。

 

「いや、戦ったのはアルトだろ?」

「え……?」

 兄に視線を向けられて、アルトが小首を傾げる。

 

「お前が戦おうとしなかったらシエルもあの騎士もどうなってたかわからないしな。紛れもなく、お前が守ったんだよ」

「そう、かな」

「はい、そうです」

 

 こそばゆくなってアルトが視線を逸らす。自分のこの手で、ただがむしゃらにやっただけで、たまたまでしかない。こんな自分でも、誰かの命を守ったのだと、そう告げられてアルトが赤面したまま、下を俯く。そんなアルトにアゼルスが肩を叩き、見上げればアゼルスが親指を立てて笑っていた。

 

 空気が緩みかけた、その瞬間だった。

 大気が重くなった。身体が押し潰されそうだった。重力の全てという全てを凝縮し、自分の上に乗っかってきたように思えた。

 その『何か』の気配と眼光が自分の身体を切り裂いてしまったように鋭利な殺気が場に満ちていた。

 

「目的を果たすだけだったが、こうして敵に出会ったしまった以上、殺さなければ」

 

 その声が響き、それを見つめる。濃緑の法衣を身に纏った魔術師。法衣から覗かせる顔は銀の仮面で上半分を覆われており、仮面で隠されていない部分は整い、かなりの美丈夫ではと思わせる。

 人の形を成しているがこの男はこの場に在ってはならない……押し潰されそうな威圧感と禍々しい違和感を放つ人の形をした『何か』であると、想像に難くない。

 その手に握り締められているものに気が付いた。掌ほどの大きさの宝球であった。銀の光を放ち、神々しさすら感じさせる輝きであった。それを握り締めたまま、男は三人を射抜いた。

 

 

 

 

 



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プロローグ 「継承」 5/5

   

 

 

 押し潰されそうな威圧感を放ち、その耽美な白銀の仮面から覗かせる眼光は鋭い。アルト、アゼルス、シエルの三人の前に立つ男の気配は人のものではなく―――それを凌駕した異形のもの。

 冷徹に三人を見据える男の口元が歪む。

 

「なるほど……どうやら私は幸運であったようだ」

「何…」

 アゼルスが目を細めて、アルトとシエルの前に立つ。くつくつと笑う男の前にアゼルスが立ち塞がる。

 

「キミは先ほどの戦いぶりを見て、屈強な戦士のようだ」

 大仰に、恭しく手を男が振りかぶる。一々が芝居がかっている。

「それはつまり、キミは我が主の障害と成り得るということ。それを我が手で取り除かなければならないね」

「やはり……貴様、魔族か」

 

 忌々しげにアゼルスが言葉を放ち、男が冷笑を浮かべる。

 魔族。瘴気から生まれた魔物。それがより人に近く、人の言語を放ち、より人に近い思考を持つ魔物の超越存在。絶望や呪いから生まれた存在で、禍の種を世界にばら蒔き、人々を襲う人と相容れない種族。かつてのネクロゴンド遠征の際に確認され、魔王の手足として暴虐の限りを尽くし、連合軍を壊滅にまで追いやったとされる。

 圧迫感がより強くなっていく。それは男から放たれる威圧感が増していき、大気諸共城を押し潰すのではないかと思うほどに。

 

「おや……」

 ふと、男の視線がアゼルスから逸れ、その後ろで構えているシエルへと注がれる。それに一瞬だけ、ほんの僅かな時間、男に狼狽の色が浮かぶ。

 

「わ、…たし?」

「馬鹿な。……いや、違う。顔立ちはよく似ている。だが幼過ぎる…」

 

 シエルを見て、男が思案をし始める。指を唇に当てる。この男の知る誰かと、シエルが重なったようだった。当のシエルは呆然とただ佇むのみで、訳がわからないという風だった。

 

 だが、その一瞬に蒼い疾風が爆ぜた。

 距離を一瞬のうちに詰め、一閃が左から薙がれる。それにいつしか男に握られていた蒼い剣で受け止め、噛み合う。くっくと男が喉を鳴らす。

 

「随分と礼節を知らない。騎士ならば名乗るのが礼節じゃないかい」

「人の騎士相手ならばな。だが、貴様は人じゃない。魔の者だ。貴様はここで果てろ―――!」

 

 アゼルスの一閃が蒼い剣を粉砕して、その破片が大気に舞う。その一閃が男を引き裂かんと煌くものの虚空に軌跡を描く。男は大きく後ろに跳躍し、難を逃れる。

 

 それでアゼルスの攻勢は止まらず、そのまま突進し、真っ直ぐ駆け抜ける。唇が何かを囁き、瞬時に詠唱を始めていた。

 男の背後の空間がゆらり、と陽炎のような歪みが生じ―――次の瞬間、蒼い刃の煌きが虚空に出現する。輝きが躍り、展開された蒼い刃の群れ―――その数、八。

 虚空に漂う刃の群れがアゼルスを目掛けて殺到する。轟音は大気を揺るがし、炸裂する氷刃は空間そのものを吹き飛ばさんばかりであった。

 

 だが、それでも疾風の加速は止まらない。真っ直ぐに、深く一直線を駆け抜け、刃の葬列は深く抉らんとアゼルスを襲う。ぎり、と白銀の一閃を振るってアゼルスの剣が氷の刃を叩き落し粉砕し、その破片が凄烈な轟音と共に弾け飛ぶ。

 それでも尚、男の猛攻は止まらない。撃って撃って撃ち据える。攻撃は間断なく激しさを増していく。刃に抉り飛ばされた大理石の通路は発破をかけられたように吹き飛び、木っ端微塵となって視野を覆い尽くす。それでもアゼルスは一向に倒れ伏さずに、蒼い閃光となって駆け抜ける。

 

 氷の刃を叩き落しながらアゼルスが駆け抜け、仮面の男を薙ぎ払わんと鋼の光が煌く。それに青い氷の輝きが噛み合う。刃と刃が悲鳴上げ合い、大理石に通路にけたたましく反響する。仮面の下の眼光で、アゼルスの顔立ちを直視し、合点がいったとばかりに男がくつくつと笑う。

 

「なるほど、その顔立ち、かつての勇者オルテガの血縁か」

 アゼルスが何も答えずに返答代わりとばかりに、足元をすくわんと回し蹴りを放つが男が後ろに跳躍するが、直ぐ様にアゼルスが男を捕らえる。

 

「ならば、この私も……魔王バラモス様が四魔将、霊将エビルマージもまた全力で行かねばなるまい。我が力にて屠り、貴様というオルテガの影を断ち切ろう」

 アゼルスをエビルマージと名乗った魔将はオルテガの影と称した。言い得て妙だ。人々が期待しているのはアゼルスという個ではなく、オルテガの血筋という側面が大きい。そういう意味ではエビルマージの言は言い得ていた。だが、それでも、とアゼルスがその影を振り払うように剛剣を振るう。

 

 アゼルスの剣はエビルマージの氷刃を噛み砕き粉砕し、抉らんとしてまた生じた氷剣によって阻まれる。また生まれた氷の剣を破壊し、氷が舞い踊る。表決の粉砕と爆発が幾度なく生じ、虚空に舞い散っていく。

 

「俺は―――」

 ぎり、と噛み締め、真っ直ぐに魔将を睨み据えてアゼルスが言葉を放つ。

 

「何かを守るために戦う。それは『勇者の息子』ではなく、俺の―――意思だ!」

 

 アゼルスは決して血筋に甘えるような男ではない。英雄の子であるなら自分もそう在るべきだと自負したことなど一度だってない。かつて、家族の中に誰かが消失した。生きて帰ることはなかった。その悲しみを覚えている。忘れたことなどない。それが全世界に広がり、絶望を塗り広げる。

 アゼルスが異を唱えたのはその現実の方だった。誰かにとっての小さなかけがえのない日常が失われていく。それを、守りたいと願えた。だから、自分の心に生じる恐怖を振り切って戦える。それは紛れもなく『勇者オルテガの子』ではなく、アゼルスという意思から生まれた真実だった。

 

 粉砕されて舞う氷の破片は宝石のような輝くを放ちながら虚空を彩っていた。アゼルスの外套が靡く度に、勇者と魔将が刃を打ち合う度に青い雪のように踊る無数の光芒。

 煌いた瞬間に弾け消える氷の星々が死闘を彩り、幻想的な美しさを醸し出す。

 その藍色の眼でアゼルスの戦いを見守る。

 今、彼の眼前で繰り広げられる戦いの、度外れた凄まじさ。刃が軌跡を描く度に風が唸る。呪文が放たれる度に大気が悲鳴を上げ、絶叫している。意思と意思のぶつかり合い。己を、生命をかけた鬩ぎ合い。その刃と刃に込められた互いの信念と思惟が虚空に幾重にも反響し合う。

 

 幾度となく刃が噛み合い、鍔迫り合い、剣戟を振う。大理石の通路と壁は破壊の後に蹂躙され、破壊の傷跡を露にしている。

 仮面の男が舌打ちをし、この状況に焦燥を抱いているようだった。だが、打ち砕かれ、掌から生まれ出でたのは氷の剣ではなく掌と同じ大きさの火球であった。それを叩きつけるように足元で爆ぜる。爆発が生じ視界が白に染まり、粉塵が派手に巻き上がる。粉塵の中にアゼルスの姿が飲み込まれる。

 

 視界は灰色に染まる。

 巻き上がる熱が肌をなぞり、刹那的な熱が肌を焼き、砕け散った大理石の破片が巻き上げられた衝撃で顔に弾かれる。

 魔将の姿を視認しようとしてアゼルスの姿が一瞬だけ静止する。深く鋭い何かがアゼルスの右肩に軌跡をなぞり、派手に弧を描いた鮮血が粉塵と共に巻き上がる。

 エビルマージの姿を確認し、剣を振るおうと判断を下すも抉られた痛みで感覚を遮断され、僅かではあるがアゼルスの動きが鈍る。

 

 その間隙を付いて、アゼルスの軸足である右太腿に氷刃が突き刺さり、筋が断ち切れた摩擦がアゼルスの全身を這いずり回る。痛みを凌駕し、熱となった血潮は派手に虚空を彩り、消炎の最中に鮮血の匂いを漂わせた。

 痛みが奔り、アゼルスが瞬間的に完全に静止する。それを見逃さず、エビルマージがアゼルスの腹部に蹴りを叩き込み、アゼルスの身体が宙に舞う。

 

「さすがは勇者と賞賛しておこう。だが、私を斃すには僅かに足りなかったようだ」

 

 仮面から覗かせる怜悧な口元がにやりと歪む。エビルマージが大理石を蹴る音が幾度か響き、それが耳に届く音が次第に大きくなる。一際大きな音が弾けたかと思った瞬間に静かになる。奴がアゼルスの傍まで近づいたということだ。

 

「キミの死は有意義なものとなる」

 神に祈るようにエビルマージが大仰に両手で天を仰ぐ。

 

「また一つ、キミの死によって世界に絶望が増す。バラモス様が力を増すということだ。キミの死はとても有意義だ」

 

 この男は有意義だと嗤った。人の絶望が、人の苦しみがとても意味のあるものだと、それ以外の何かを切り捨てた冷たさが耳朶を打った。死の気配はそこまで来ていた。抗えない定め。抗えない自分。抗うための力は失われ、冷たいものが全身を優しく包み込む。

 諦めという甘美な優しさが自身に囁きかけ、立ち上がる力を奪う。もう止めようと瓦解した心が溢れ出して立ち上がる力を殺いでゆく。アゼルスは考えることをやめていた。

 それに異を唱えようとしたが、その刹那に深い鈍痛がアゼルスの腹部を襲う。エビルマージが足でアゼルスの身体を踏み付け、固定される。

 

「さよならだ勇者」

 

 その掌に氷の剣が生じ、心の臓に穿たんと鋭く煌いた。だが、その鋭利な刃は静止し、微かに止まる。小さな火球が迸り、エビルマージの右の手を焼く。それを阻んだ誰かをエビルマージが熱を持たない眼差しで、殺意を宿した。メラを唱え、邪魔したのはアルトだった。

 

「兄さんは殺さ…せ……ない」

 肌が粟立つほどの殺意を向けられ、たどたどしくアルトが言葉を口にする。アルトの足は竦んでいた。

唇は震え、場違いな華奢な少年に興味すらないといった様子で一瞥しただけでエビルマージが掌からメラミの火球を放ち、黄金の火球が大理石で爆ぜ、粉塵と共に灼熱を撒き散らす。それに焼かれたアルトは派手に吹き飛ばされる。

 

「無意味だな。無意味な殺生は私は望まない。大人しくしていたまえ」

 冷徹に宣告し、アルトに一瞥もせず、再び掌から氷の剣を生み出し、握る。

 

 迫る。理不尽はそこまで来ている。だが、それを良しとはしなかった者がいる。

 アルト。アゼルスの弟。例え何の力がなくても、暴力に瞬時に踏み躙られてしまうほど脆くとも、自分の意思でその理不尽に抗おうとした。家族…兄であるアゼルスを守るために。目の前で殺されようとしている自分の家族を守ろうとするために。

 

 少年の無謀の行動は―――アゼルスの心を呼び戻し、再び火をつけた。その真っ直ぐな眼差しが、胸を穿つ絶望を振り払ってくれた。

 勇者とは、力無き人々の剣であり、その希望を束ねる。そう在りたいと願うのであれば―――。

 

「焔よ目覚めよ、大地に眠る星の火よ、焔となりて轟け」

 アゼルスが天に向けて、掌を翳す。

 

「―――ベギラマ!」

 アゼルスの唇より放たれた音が熱となり、光となる。収束された閃熱が掌から放たれて、光がエビルマージの身体をも飲み込んで巻き上がる。それに吹き飛ばされてエビルマージの身体が虚空を舞うが、地面にふわりと舞い降りる。

 

 アゼルスが剣を支えにして立ち上がる。全身の肉が絶叫していた。動作の度に血が外に吐き出され、青に真紅が染められる。行動を起こす度に行き場を失った熱が蠢き、鋭い痛みが這いずり回る。

 全身を貫いた痛みが身体を引き裂きそうになる。だが、それでも全身の力を足に込め、崩れ落ちそうになる衝動を堪える。穿たれた鮮血より、臓腑に蠢く暴発より、その胸に蘇った意思がアゼルスの身体を突き動かそうとする。我が身が定めた勇者という道はあらゆる痛みを凌駕していた。

 

「兄……さん」

 呻くようにアルトがその背中を見つめて、問いかける。その声にアゼルスは決して振り向かなかった。

 

「お前は……強いな。アルト」

「―――え?」

 唐突に出た言葉にアルトが困惑を漏らす。

 

「さっきあいつに叶わなくとも俺を守ろうとしてくれた」

 ふっと、アゼルスは自分でこんな状況にも関わらずに、優しい声色で話せていた。心は酷く穏やかだった。

 

「だから、きっと、いつかお前にしか守れないもの、出来ないことがきっと見つかるさ。俺やシエル、ルシュカを守るために勇気を見せれるお前だったら、もっとたくさんの笑顔で強くなれるはずだ―――」

「……うん」

 

 少年の頬を、堰を切ったように溢れ出た涙が濡らす。その誓いに、少年に向き直って勇者は微笑んだ。少年から灯された勇気。それがアゼルスの中から達観も、絶望も消し去ってくれた。そして勇者は駆け出していた。その熱を足に宿し、解き放つように。

 

 目の前の魔将が煌く星の如く氷の刃の群れを幾重にも展開させる。その光は仰ぎ見る星空を連想させる。

 その星に向かって蒼い疾風が駆け抜ける。風が空に吹き抜け、届くように。

 一歩。また一歩と。ただひたすらにそれを繰り返す。降り注ぐ星星。意識さえも遠退きそうな猛威に姿勢が揺らぐ。だがそれはできない。なればこそ立ち止まれない。今、彼が駆け抜ける瞬間こそが己を信じた者、希望を込めた者に示せる祈りなのだから。

 

 星星を越え、踊る鮮血を踏み越えて、もう、すぐ待ち受ける魔将は目の前だ。後一歩―――更にまた次の一歩で、振り翳した剣は奴を引き裂く。勝利を確信したその瞬間。刹那が永遠へと引き伸ばされてゆく。

 振り下ろされるはずだった剣はすでにその手には無く―――腕すら、右腕から消失していた。瀑布の様に暴発した流血が弧を描いて、剣諸共彼方へと飛んで行く。敵の手に握られていた氷の剣が、アゼルスの腕を斬り飛ばしたからだった。

 

 魔将の指先から小さな火球が生じる急速に温度の高ぶりと共に金色に色彩を変えて、その掌から放たれる。

 最後の瞬間まで、その身体を突き動かしたのは誰かを守るという信念だった。その視界の全てが紅に染まり、勇者アゼルスは光の中に、消えていった。

 

 

 

 アルトはその瞬間を瞬き一つすることなく、全てを目に焼き付けていた。

 光と焔の中に世界の希望が消えていく。

 家族が、いなくなった。突然、自分の目の前で。だけど、無力だった。どうしようもないくらいに自分には何も出来ず、出来たのはただ見守ることだけ。

 当然のように自分の近くにいた人が、いて当たり前だった人が、理不尽に奪われてしまった。

 

 こんな風に、一方的に大切な誰かを、その誰かと過ごすはずだった時間を、その誰かのかけがえの無い笑顔を一方的に奪われた者たちが一体何人――。

 まだ十分に生きたとはいえない命、遣り残したこと、言葉を伝えられなかった命、命がこうしている間にも広がり、磨り潰されていく。そんな死は、人の死に方ではない。

 

 この胸を穿つものが、溢れ出る熱い滂沱を、多くの人々が知る。強制され、定めとされる。ささやかでもそこにあった小さな笑顔は理不尽に奪われ、永遠に消失する。

 

 

 それは―――ダメだ。

 

 

 少年の裡に溢れ出た哀しみが、多くの人を傷つけ、消えること無い傷跡を残し、平穏を奪い去る。どんな絶対者でも、それを許してはならないと目の前のを包む焔が猛っていた。

 

 父が、魔王討伐の末にいなくなった時に、少年はそれを自覚した。

 今、目の前で兄が消え去った瞬間に、それは信念へと形を変えた。

 

 アゼルスが残した熱が少年を呼び起こす。

 少年がきつく拳を握り締める。

 少年が立ち上がり、きつく前を見据え、真紅の先にいる異形を見据える。

 

「やってみるよ。僕」

 

 微かな声でアルトが告げる。その眼差しに映し出されていたのは悲しみでも、憤怒でもなく、確かな意思が宿っていた。

 この胸を裂く激情が人を濁し、悲しみや怒りで満たす。誰かの笑顔が消えていく。それを広げる者たち。涙で世界を満たそうとする心無き悪意。それを―――許していいのか?

 ―――否、それを許せるはずも無い。

 

 だが、自分はどうしようもなく無力だった。

 だから力が欲しいとアルトは願った。

 剣、それではダメだ。

 魔法、それでも届かない。

 足りない。足りない足りない足りない足りない足りない―――!

 理不尽に異を唱えられる力。その全てからみんなの笑顔を守りたいと強く誓えるだけの力を―――!

 

「みんなが笑顔でいられるように。それを守れるように。僕が―――そうしたいから…!」

 

 少年が高く、天に向かって手を翳す。そうして言霊に己の信念を宿して、それを解き放つ。

 その瞬間に何かが動き出す。遥かな、深く遠いどこかで、何かが。

 少年の思惟は超越し、自我は遥かな太陽よりも燦然と輝き、雨雲を抜けて、虹となって空を貫く。意思が世界を見渡す。その眼は蒼穹を捉え、身体は遥かな大海を渡っていた。

 青と蒼の狭間で、空と海の間で、少年の意識は何かを見ていた。それが何なのかアルトは知覚出来ない。自分の影に重なるモノ―――鳥のような何かの影が少年を包み込んでいた。

 

 翳された手に重なるように―――優しく何かが手を握り締めていた。それは、柔らかく少女の様な手だった。少年が影を仰いで、鳥の影に見えていた誰か。大空を抜き抜ける聖風に靡かれた金色の絹糸のような髪。陰に隠れて顔は見えなかったが、その表情は笑んでいた。そんな気がしていた。

 アルトの全身を光が駆け巡り、血と同化し光が歓喜と共に騒ぎ出す。少年の思惟は弾かれたように地上に呼び戻される。翳された手に天蓋を突き破って強大な爆雷が飛来する。その光に、華奢な身体は押しつぶされそうになる。全身全霊で身体を支える。

 

 その光は美しいのではなく、尊かった。

 少年の意志が、神代の頃から神の御使いが使うものとして謳われ、人が使うには分相応とされ、封印されしモノ。それを呼び起こした掌が振り下ろされる。

 

 振り下ろされた爆雷は白き竜となり、その全てを消滅させていった―――。

 

 

 この日、世界から一つの希望が失われた。

 

 だが、同時に、新しい希望が芽吹いた―――。

 

 

 

 

 



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第一章
アリアハン篇 「旅立」 1/5


   

 

 

 声が聞こえた。

 

 どこか遠くから。

 

 ずっと空の彼方から。

 

 

 ゆっくりと目蓋を開く。彼の意識は青と蒼の狭間を漂っている。水の中を浮き沈みするように身体を浮遊感と非現実のぼんやりとした感覚が優しく包み、たゆたう。

 

 ―――私の声が聞こえますね。

 

 優しく、穏やかな声が反響し、声が思惟となって少年に伝わってくる。

 思惟の主は目の前をたゆたう、鳥の影だった。それが、あの時、少年に語りかけてきた『何か』だと悟る。少年を包み込むように重なる巨大な影が青い海に映る。少年がたゆたう空と同じ色の瞳でその『影』を映す。

 

 ―――あなたは、とても優しい人。

 

 憂うような、悲しむような甘やかな声だった。思惟に反響した声はどこかで幼い少女が尋ねるような優しいものであり、娼婦が囁きかけるような色艶のある声にも思えた。

 まどろみの底で、青い世界を漂う影に少年が手を伸ばそうとするが、その手は虚空を掴むだけだった。存在はそこに感じられるのに、その場に存在し得ないような―――希薄な存在感ではあるが、何か畏れ多い圧倒的な存在感もまた同時に感じられた。

 『それ』が少年に優しく笑んで、ぼんやりとした感覚でその笑みを見つめていた。

 

 ―――あなたはその優しさ故に、何かを傷つける度に痛みを感じてしまう人。

 

 心の中を覗き込まれている感覚だった。だが、不思議と、不快な感覚は無く、すんなりとその思惟を受け取ることが出来ている。

 少年が声を発そうとしたが声にならなかった。大丈夫だよ、と言いたかった。あまりに悲しく心配する思惟に対して。

 

 ―――それは、どうして?

 

 『それ』に問い掛けられて少年が驚く。『それ』の思惟が少年に響くのと同時に、少年の思惟もまた『それ』に伝わっているようだった。

 自分は大丈夫。自分で選択した道だから。誰かから強いられた訳でもなく、自分で歩む事を選んだ道筋だから、どれほどの困難が待ち受けようとも歩んでいける。その道筋の中で誰かが笑ってくれるのであれば、それをいとうのにも、痛みを感じるのにも迷いも無い。だから、大丈夫。

 

 ―――どうか、忘れないで。あなたの笑顔を望む人たちもまた、いるということを。

 

 

 

 アリアハンは春の季節を迎えていた。山脈の雪解けの水が下流に流れ始め、穏やかな日差しが燦々と降り注ぐが未だに頬を撫でる風は冷たい。長い冬を越した蕾たちが我先にと咲き誇り、冬眠から覚めた動物たちが活発に野山を駆け回る。

 涼しい風が働く人々の汗を拭って、暖かな日差しが染物や洗濯物を乾かした。時折白い雲が吹き抜けていく青空の下、住まう人もまた活発だった。

 

 

 カーン……カーン……カーン……カーン……

 

 教会の鐘の音が、朝霧に溶けていく。

 耳に残っていた音色も、やがては名残惜しげに消えていく。波の響きが、磯の香りと共にその色を彩る。

 

 自室のベッドの上で寝ぼけ眼のまま、彼も鐘の音を聞いていた。身体を起こし、カーテンを開く。窓いっぱいに飛び込んで来たのはからっと晴れ上がった春先の青空だった。

 眠たい目蓋を擦って、ぐ、っと背伸びをする。暖かくなるにはまだ肌寒い。まだ温もりが残る掛け布団が眠気を呼び戻そうとするがそれをぐっと堪えて、ベッドから降りて着替え始める。一般的な布の服ではなく礼服に着替え、自室を後にし、一階へと降りる。リビングには祖父がもう起きて、新聞を読んでいた。

 

「おはよう。おじいちゃん」

「うむ」

 

 新聞から視線を外さずに、ガルドが頷く。彼が、アルトが席に座り、朝食が出来るのを待つ。祖父が新聞を捲る音だけが耳に入ってくる。

 

「準備はできておるのか?」

「―――うん」

 

 アルトが頷く。今日、少年は誕生日を迎える。十六という年齢はアリアハンでは成人と見なされる年齢だ。ミドルスクールでの義務教育が終わり、より専門的な知識を求めて大学校に行くもよし、就業して仕事をし始めるのもよし、アリアハンを出て異国へ旅立つのもよし。

 全て当人の責任の中で自由な行動が許されるようになる。己の判断で行き、それぞれの人生を歩み始める。

 

 リビングから裏庭が見える。耳を澄ませば風の音と共に甲高い木刀の打ち合いが聞こえてくるようだ。かつて兄と裏庭で修練を重ねていた月日が遠い思い出になるのはあっという間であった。

 あれから二年の歳月が過ぎ去った。あれからアルトは自身で志望し、勇者への道を志した。高水準の教育と修練の日々が続き、幾度なく血反吐を吐いたこともあった。それでも課せられた試練を乗り越えた。そんな激動の月日を重ねた賜物か、痩せた身体にはすっかり筋肉が付き、逞しくなった。無駄な筋肉が付かなかったため、華奢という印象を拭うには至っていないが。

 

「おはよう。アルト」

「うん、おはよう」

 

 クレアに声をかけられ、それに挨拶を返した。テーブルの上に焼き立てのパン、海老や大きなオマール貝がまるまると入ったスープ、レタスやトマトで彩られたサラダが並べられ、朝食となる。

 

「いただきましょう」

 

 家族全員で短い時間、瞑想し、朝食となる。ちぎったパンをスープに漬して口の中に頬張る。コンソメの塩気が口に広がり、小麦の風味が鼻腔に吹き抜ける。朝食を咀嚼しながら、三人での静かな空気の中、食事を続ける。

 

 否が応でも視界に入る。空席の椅子が、二つ。父オルテガと兄アゼルスの席。光に消えた兄の姿。魔族と戦い、それでも最期まで駆け抜けた兄の姿を忘れるわけがない。鬼籍に入っても、悲しみが拭えぬ時間で過ごすのをきっと兄は良しとすまい。

 それどころか叱咤するのだろう、とアルトがぼんやり思う。お前にはお前のやるべきことがある、と背中を叩く―――それが兄の気性だというのは重々理解していた。

 朝食を終えて、椅子から立ち上がる。

 

「じゃあ、行ってきます」

「うむ、気をつけてな」

「旅立つのは三日後になるんでしょう?」

「うん、手続きの関係上どうしてもね」

 

 アルトが成人の儀を行い、旅立つ事になるのは三日後となる。国外のギルドの援助の手続きを受けようと考えるのであらばアリアハンのギルドに手続きを済ませなければならない。だが、成人の後に申請をすることが許可されるため、最低でも三日手続きに時間がかかる。アルトが旅立ちは三日後と決めたのはその為だった。

 

「王様に粗相の無いように気をつけてね」

「うん、わかってる」

 

 アルトがクレアに頷きを返してから、家を後にする。

 

 

 穏やかな日差しが降り注ぎ、薄着になるにはまだ肌寒い冷たい風が頬を吹き抜けていく。日差しが白の石畳に影を落として、白と黒のコントラストを成す。見上げれば空の蒼が広がり、純白の通路には花壇に植えられた花々が赤や黄色の華々しさで彩り、通路から覗く並木道に植えられた項垂れた大樹の枝が緑の青々しさで彩った。

 

 人々の雑踏が横切るようになり、様々な商店や工房での生き生きとした仕事、通りすがりの人々の道端会議、喫茶店や酒場での他愛ない雑談などの人々の営みの活気が賑やかな音として行き交う。舗装された道を踏む硬い音が一定で軽やかに弾ける。

 そうした色と音で鮮やかだった場所を抜けて、少年が見上げる。アリアハンの王城に着いた。思えば城に足を踏み入れるのは、あの日以来だ。厳かに少年を見下ろす孤島に聳える城は少年を圧倒する。衛兵に謁見予定と名を明かすとすぐに入場許可が下り、アルトは中に入る。

 

 真っ赤な絨毯を踏み締めて歩く。時折、兵士が敬礼してくるのにアルトが驚いていた。真っ直ぐに歩くと二階へと続く階段があり、上がっていく。

 視界が開けた先は、謁見の間だった。天井には絢爛豪華なシャンデリアが煌びやかに輝いて、大理石の石畳の上の真紅の絨毯が大広間一面に広がっていた。正面には既に王座に王が座っていた。王座の両脇には大臣と王宮仕えの占い師が控えていた。

 指定された場所でアルトが傅くと、穏やかな眼差しを現アリアハン国王サルバオ十世が向けた。肌は日に焼け体格が良く、武人然とした空気を漂わす王は気さくで、親しみやすささえも感じる。

 

「よくぞ来た。アルティス・ヴァールハイト」

 

 温和な笑みと共に、少年を歓迎した。まじまじとアルトを見つめる視線に、少年は少しだけ照れ臭さを感じた。

 

「ふぅむ。まだあれだけ小さかったそなたが成人の儀を行うために、わしの前に現れるとは月日が過ぎるのは早いのう」

 

 豪快に王が笑い、アルトは傅き視線を下に向けたまま相槌を返した。祖父も父も王宮勤めであったため、数度王と顔を合わせたこともあるが、相変わらずのあまりに気さくな王の様子にアルトが面食らう。

「陛下。今は成人の儀の最中です。思い出話は終わった後がよろしいかと」

「おっと……すまんすまん」

 好々爺然とした大臣に咎められ、気さくな面持ちを王が消し、厳かな表情となる。

 

「アリアハンを出、旅に出るというそなたの意思に変わりはないか?」

「―――はっ!」

 

 即答で、アルトが返答する。それに王が力強く頷くと、今度は宮廷占い師が言葉を引き継いで、話し始める。

 

「吉兆の兆しを見た」

 静かに語る占い師は、八十を過ぎた妙齢の老婆であった。

 

「お告げとして剛なる者、疾き風……その二つの血筋を引きし者が魔を討ち払うと託宣が下された。即ちそなたが次代の勇者として相応しい器だと。かつてのそなたの血筋が選ばれたように、そなたもまた神に選定されたのだ。アルティスよ」

 

 その神託にアルトが気持ちを引き締める。オルテガやアゼルスと同じ場所まで立ったことを自覚する。多くの希望を束ね、力無き人々の剣となり、盾となる―――かつてのオルテガやアゼルスのように。

 

「正直、わしは心苦しく思うておるのだ」

 王が沈鬱な表情を浮かべていた。

 

「そなたが勇者と託宣が下されたときにわしは心が引き裂かれたようだった。勇者とは希望の器そのもの。多くの人間の希望を拒もうが惹きつける……オルテガが旅に出た時、支援はあれどあやつに全てを託すことになってしまった。

 じゃがわしらは安穏としているだけで何も出来なかった。一人に全てを押し付け、結果オルテガを死地に追いやってしまった……悔やんでも悔やみ切れぬ。アゼルスやアルティス。そなたらも、また」

 

 王とオルテガは個人的に親しかったと聞いている。オルテガがアリアハン王宮に勤めていた時から歳が離れた兄弟のように仲が良く、主君と臣下以上の関係であったことをアルトは知っている。オルテガの死を誰よりも嘆いたのもまた王であった。

 

「今度こそは全軍を挙げ、そなた一人に全てを背負わせるのではなく共に戦うべきなのだ……それすらも出来ぬとは」

 唇を噛み締め、王が悔しげに言う。今、アリアハンに魔王に対して軍を挙げる余裕など皆無であった。

 

「そなたも我が国の現状は存じておるな」

「……はい。サマンオサ籍の軍艦がルザミ海域でアリアハンの巡廻艇に砲撃したと……」

「その通りじゃ。幾度なく対談の場を設け様としたが突っぱねられるばかりだ」

 

 この二年の間で状況は大きく変わり、アリアハンとサマンオサは互いの動きを牽制し合い、魔王に対して軍を挙げることができなくなってしまった。

 サマンオサの主張はルザミ海域は我が国の領海だと主張し始め、だがルザミ海域はアリアハンの領海であることに間違いは無い。主張するより先に砲撃を仕掛けてきたのはサマンオサ艦隊だった。止むを得ずアリアハン艦隊が防衛に応じた。幾度なくぶつかり合いアリアハン軍は消耗をし続けている。

 

 狙いはルザミ海域に存在する稀少鉱物ミスリルの所有権の独占であろう。鋼を凌ぐ硬度を持ち、マナが宿り易い性質を持つため金属に呪文を宿すことも可能だという。ルザミ海域の独占を諦めていない以上、サマンオサ軍が進軍をしてくる可能性は高い。例え魔王討伐にアリアハン軍を挙げたとしても、その隙をサマンオサがついてくるだろう。だからアリアハン軍は魔王に対して軍を出せずにいた。

 

「魔王という共通の脅威が現れても人と人とが争っておる。嘆かわしいことだ」

 

 憂いた眼差しから熱が宿り、アルトを真っ直ぐに見据える。その熱意に、アルトもまた応える。

 

「じゃが、だからと言って世界の脅威に対して手を拱いているわけにもいかん。それに加え、魔族に奪取された宝珠も奪還せねばなるまい。古に献上されたもので由来もわかりかねるが国宝級のものだ。魔族に対して後れを取ったまま敗北を認めるわけにはいかん」

 

 あの時、エビルマージと名乗った魔将が持っていた掌と同じ大きさの神々しい輝きを放つ宝玉。死闘の場からは結局発見されず、あの光の中に消えてしまった。だが、奪われた強い熱で焼き尽くされたのであれば痕が残る。その痕跡すら発見されなかった。

 あの、魔族はまだ、生きている。

 銀の宝珠を奪い、あの場を撤退し、この瞬間もあの男は呼吸を続けている。

 

「―――はい」

 

 アルトがぎり、と拳を堅く握り締める。また、あの魔族が自分の目の前に立ち塞がるのであれば戦うのみ。兄の仇を討つ……という憎しみではなく、誰かを脅かす存在であるのであれば。

 怨嗟に塗れて戦うなど、兄が望むはずはない。だから、アルトもその気持ちで剣を取るつもりはなかった。

 

「その決意に二言はないのであれば、アルティスよ」

「ありません」

 

 即答で応えるアルトに、王が力強く頷く。王が侍従に合図をし、二人の侍従が何かを持って、アルトに近づく。二人の侍従がアルトに手に持っていたものを差し出す。片方は白銀の円冠…その中央に新緑のエメラルドがはめ込まれていたサークレットを、もう一人はサルバオ王家を示す獅子の紋章が柄に刻まれた鋼の剣を持っていた。

 

「それをつければアリアハンの国家から選出された勇者の証となる。我が名…サルバオ十世の名の元にそなた、アルティス・ヴァールハイトを勇者と任ずる」

 

「御意に」

 

 アルトが忠誠を示し、敬礼を取った後にサークレットを静かに被り、剣を握り締める。冷たい感覚が額を撫でたがすぐに消え、額に馴染んだようだった。

 勇者アルト。アリアハン国王サルバオ十世の名において勇者として認められた瞬間であった。

 

 

 

 

 

 



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アリアハン篇 「旅立」 2/5

   

 

 

 晴れて十六歳となり、成人の儀を終えた。アルトは成人となった。

 王宮を出た後、肺いっぱいに空気を入れて、思いっきり吐き出した。緊張した肩の筋肉が解れると同時に、安堵感と成人した感慨とで綯い交ぜになった気持ちが湧いてくる。親の庇護を離れ、自分の意思で自分の人生を歩み出すその一歩を踏み出したのだ。

 アルトは王城を一度だけ振り返り、すぐにまた歩み出す。跳ね橋が上がっていった。まるでそれまでのアルトを遮るように。少年の足音は遠ざかって、雑踏のざわめきにとける。

 

 王や大臣から二点指示されたことがある。

 一つは勇者としてオルテガの二の舞を踏ませるわけにはいかない。ならば、アリアハンのギルドにて旅の同行者を募り、彼らと協力して旅をするようにと通達された。

 

 もう一つはアリアハン北東部にある『封印』を使用し、大陸を出るようにと命じられた。その封印の解除する方法はアリアハン北部の酪農地帯レーベに住む王宮仕えの魔法使いを尋ね、そのための『手段』を手に入れ、それを使用すべしと命じられた。

 軍艦は出せないと宣告された。サマンオサ軍の動きが不鮮明なため、下手に船を出して向こうを刺激するわけにはいかない。勇者が旅立つというのはアルトの想像以上に目立つ行為だと王は苦言していた。世界に希望を示す代わりにその注目を集める。アリアハンの現状では好ましいものでは決してない。アルトに封印された手段での移動を指示したのもそういった都合があったからだ。

 

「アルト君!」

 街頭の喧騒の中から見知った声が耳に届き、アルトが視線を向ける。雑踏を掻き分けるように大降りに手を振っていたのでそれが目に付いて目立っていた。

 

「やあ、シエル」

「はい、こんにちは」

 

 漆黒のカソックを着て、青い前掛けを羽織った透き通った空色の髪の少女がいた。シエルがぱたぱたと駆け寄って、にこりと優しげに微笑んだ。

 

「今日、お誕生日ですね。おめでとうございます」

 ぽん、と手を叩いてシエルが祝福する。アルトが気恥ずかしくなり、赤面する。改めて、人に祝福されると照れくさいものがあった。

 

「ありがとう…」

「成人の儀を終えた帰りですか?」

「うん、シエルはどこかに行くの?」

「はい、ギルドにちょっと」

「え、ギルドに?」

 

 アルトが聞き返して、シエルが再度にこやかに笑んだ。僧侶なので巡礼の旅に出る……というのは不思議なことではないが、アリアハンでシスターとしてローレン神父の手伝いをして生計を立てていくとばかり思っていたから意外ではあった。

 

「わたしも旅立つ事にしたんです」

「それは……どうして?」

「わたし……実は孤児なんです。お父様に無論感謝もしていますし、実の子供同然に愛情を注いでもらいました。ですけど、やはり実の両親に会ってみたいんです」

 

 シエルはアリアハンの裏路地に捨てられていた子供だった。彼女が覚えていないぐらいに幼く、物心もついていない頃にローレン神父に拾われた。それ以来実の子供のように育てられ、成人を迎えた時にその真実を教えられたという。

 告げられた当初は戸惑いを隠せずにいたが、落ち着いてその事実を受け止めた。だが、同時に自分の実の親を知りたいと感情が生じ、それは月日が経つのと同時に彼女の中で大きくなっていった。

 

「だから旅立つことを決めたんだ…」

「はい、尤も巡礼の旅なので教会のある大きな都市を回るのですけど。両親の手掛かりと共にアリアハンにいるだけでは知れなかった様々なことを見て、見識を広められればもっといいですけど」

 

 照れくさそうに頬を朱に染めてシエルが微笑んだ。

 そのことを告げられてアルトも驚いたが、言葉にはしなかった。シエルもそれに対しての葛藤もあるだろう。それでもその事実を受け止めて前に進める彼女の強さは感嘆に値すべきものだった。

 

「それに―――手掛かりはあると、思います。あの魔族の方は何か知っているのではないかと。勘のようなものですけど」

 真剣な面持ちで、シエルが告げた。

 二年前のあの日、魔将エビルマージは明らかにシエルを見て、動揺していた。何か、あの男はシエルの生い立ちの手掛かりになるものを知っているということだ。魔王直属の配下ならば、ネクロゴンドにいる可能性がある。それは、つまり、

 

「アルト君が勇者として旅立つのでしたら、わたしを同行させていただきませんか? まだまだ僧侶として未熟ですけれども、足手纏いには決してなりません」

 

 シエルの真摯な眼差しにじっと見つめられて、アルトは見惚れてしまいそうだった。まだ少女らしい面影を残すものの、大人びて可憐という表現よりも清楚という表現が当て嵌まるようになった。紅玉の様な紅い瞳に吸い込まれそうになりそうだった。

 

「危険だよ?」

「覚悟の上です」

「もしかしたら死ぬかも」

「それはアルト君も同じです。アルト君が許可していただけないのでしたら、ギルドで仲間を募るか最悪一人でアリアハンを出ます」

「えぇー……」

 

 シエルは冗談ではなく、本気でそう行動するつもりだ。その眼差しに冷やかしやからかいといったものは一切無かった。戦災、暴徒や盗賊による略奪、魔族による侵攻といったものが横行するこの不安定な時代で少女が一人旅をするのはあまりにも危険だ。

 

「わかったよ。一緒に行こう」

「はい、よろしくお願いします」

 ぺこり、と頭を下げ、顔を上げてシエルがにこりと笑う。

 

「でも、ギルドで冒険者として登録してから。そもそもアリアハンから出れないし許可されないし」

 アルトが苦笑する。こういうとき、男というものは女の笑顔に弱い。だが、アルトも悪い気はしなかった。

 

 どっと周囲から歓声が沸き立って、アルトがたじろぐ。

 往来でこういうことを話していたからこの話は周りの人々にだだ漏れだった。商店や露天で働く人は仕事の手を休めて、行き交う人々も立ち止まって話を聞いていたらしい。賞賛、憧憬、喝采、応援……様々な感情で沸き立つ。あわあわと照れくささが極まって赤面して思わずシエルの手を取ってその場から逃げ出すように、アルトが走りだす。がんばって、負けるないで、大事にしてあげろよとか様々な喝采がアルトに届く。

 

 オルテガやアゼルスと同じ血族を引いているのが理由かもしれないが、それだけアルトに希望を託している。まだまだ未熟な自分であるにも関わらず。

 この応援に応えたいとアルトは思った。オルテガの子としてではなく、自分の意思で。駆け抜けるとき、気恥ずかしさだけではなく、少年の心に暖かいもので満たされていた。

 

 

 

 無我夢中で商店街を抜けて、気が付けば城下町の北西部に位置する繁華街まで走り、切らした息のまま見上げた場所は目的地だった。

 

 ギルド。

 

 ギルドとは云わば各国、各町に存在する、流浪する傭兵や冒険者に仕事を斡旋、情報提供するための場所だ。ギルドに登録することで三ヶ月以上の長期間滞在することになった職を得られなかった冒険者などを犯罪者になるのを防ぐのと同時に、街の自治体や貴族や商人などからギルドを通して舞い込んだ様々な依頼をこなし、仕事を斡旋することで金銭が提供される仕組みとなっている。

 無論、短期の滞在者も利用し、登録することも出来る。実際は短期の利用者が多く、より報酬が高いお尋ね者や魔物を狙うための情報交換や依頼主を探索する場となっているのが現状だ。

 各国に存在するそのギルドがアリアハンにおいてはこの『ルイーダの酒場』となっている。

 

 アルトが戸棚を押すと、鼻腔いっぱいに濃厚な、刺激的ではあるが食欲を沸かせる匂いが飛び込んでくる。香辛料と酒と。

 幾多のランプではっきりと照らし出されていた。女給たちが忙しなく動き回り、まだ早い時間だというのに賞金首の張り紙をじっと見つめる者。一仕事終わったのか仲間と談笑し、酒を酌み交わす者。依頼主と仕事内容について交渉をしている者。得た貴重な品々を鑑定してもらっている者など場のざわめきは活気に満ちて、命の鼓動のように人々を包む。

 

 独特な活気にアルトが戸惑いながらも、奥のカウンターまで進む。

 

「いらっしゃい。ここはルイーダの酒場。旅人が仲間を求めて集まる出会いと別れの酒場よ。あなたは何を望みかしら?」

 

 少年を出迎えたのは二十代後半ぐらいの、漆黒の長い髪を束ね、真紅のドレスで着飾った美人だった。女性としての魅力に静と動があるのなら、彼女は間違いなく後者に属するだろう。形のいい唇に笑みを刻んで、より妖美な雰囲気を醸し出す。

 

「お久しぶりね。アルティス。二年ぶりくらいかしら。私のこと、覚えてる?」

「はい、ルイーダさん」

 

 アルトが笑顔を返し、ルイーダも微笑みかける。ルイーダとは顔見知りでもあった。先代のギルド主の娘でオルテガの旅の支援をしていた頃からの知り合いだ。

 アルトとシエルがスツールに腰をかける。ふと、隣にいた冒険者と視線が合い、鋭い視線にアルトが視線を逸らす。視線を逸らした先にドレスから覗くルイーダの豊かな胸元が目に入り、どぎまぎとしながら慌てて下を向く。

 

「誕生日おめでとう。なったのね。勇者に。お父さんとお兄さんの意思を継いで」

「なんだか今日はずっとそれ言われてる気がする」

 思わずアルトが苦笑する。

 

「それと大人しいアルティスが可愛い女の子とデートだなんて。大きくなったわねー、お姉さんも嬉しくて涙が出ちゃうわ」

「で、デートだなんて…! ち、違います! 違いますし!」

 シエルが耳まで顔を真っ赤にしてあたふたと慌てる。必死に否定されると少しアルトは複雑なものを感じるが。

 

「冗談よ、冗談。そんなに必死にならなくても」

 手をひらひらとさせてルイーダがからからと笑う。それにほっとした面持ちでシエルが安堵していた。ルイーダが笑みを消して、真剣な眼差しでアルトを見つめる。

 

「王宮から依頼が来ているわ。あなたに仲間を紹介し、魔王討伐の旅に同行させろという依頼がね」

 ルイーダがアルトに書類を差し出す。アリアハンのギルド登録用紙を受け取り、目を通す。

 筆記されているのはアリアハンギルドの一員となった際の仕事の斡旋、情報提供、登録者は外国においてもその国で簡易的な国籍の取得を与える、戦闘不能になった場合でも金銭を後払いにすることでギルド員に回収してもらえるなどの利点と他国で不祥事を起こした場合、ギルド登録を抹消し、登録した国へ送還される罰則が記載されていた。

 

「まだ、後戻りはできるわよ。これに署名するともう後戻りはできないわ」

 自身の真情を吐露し、ルイーダがアルトを真摯な眼差しで見つめる。

 ルイーダはギルドの管理人として何人もの冒険者を見送り、時には戻ってこなかった人もいただろう。

 

「大丈夫です。魔王を倒すって一度、決めたことです。逃げません。最後までやり遂げます」

 

 アルトが固い決意を持って、告げる。そのことに迷いなどなかった。亡くした誰かのためにこの道を選択するのではなく、自身がこの道を歩むと……もう決めたことだ。誰でもなく自分の意思で。

 

「わかったわ」

 アルトの覚悟に嘘偽りがないことがわかったのかペンを差し出して、アルトが受け取り、登録用紙に署名する。次にシエルに手渡し、署名した後に二人分の登録用紙をルイーダに差し出す。

 

「アルティス・ヴァールハイト、シエル・アシュフォード。二人分、確かに受け取ったわ。職業はアルティスが勇者、シエルが僧侶で登録しておくわね」

「はい」

「ありがとうございます」

 

 ルイーダが登録用紙に書き込み、ギルド登録が完了する。これで後はアリアハンのギルド登録者として二人は登録され、アリアハン国籍の冒険者として認定されたことになる。

 

「じゃあ、アルティスの旅立ちを記念して一杯奢るわ」

「あの、わたしは神に仕える身なのでアルコール類は禁止されてますけど…」

「問題ないわ。アルティスだってまだお酒飲めないし、果物のジュースで乾杯しましょう」

 

 ぱちんと片目を閉じて、ルイーダが不安げに答えたシエルに微笑む。それにほっとしたのか、それならなとシエルも乾杯に応じた。とくとくとグラスに瓶から液体が注がれ、二人の前に置かれる。そして自身の分のグラスにも注いで、目の前にグラスを差し出す。

 

「では、若き勇者の旅立ちを記念して乾杯」

 三人がこつんと涼やかな音を鳴らして、グラスをぶつける。オレンジジュースを流し込み、オレンジの甘酸っぱさが口いっぱいに広がり、冷たさが喉を通っていく。

 

「お前が勇者サマかい。どんなすげぇ奴か思ってみれば酒の飲めねえただのガキじゃねえか。お前みたいなひょろひょろした奴はスライム一匹だってやっとだろうぜ」

 

 アルトの頬を大木のような筋骨隆々とした腕が横切り、視線を向けてみればその腕と同様の筋骨隆々とした大柄な男がにやにやと見下していた。口元から酒臭い吐息が顔にあたり、アルトが顔をしかめる。それでこの男がどれだけ酔っているか明確であった。

 アルトがむっと男を睨むように見つめ、意に返さずとばかりに豪快に笑って酒臭い息が撒き散らされる。アルトから視線がその横にいたシエルに視線が注がれ、顔や身体つきを見てにやにやしていた。

 

「お……中々の上玉じゃねぇか。こんな勇者モドキと飲むより俺に酌してくれや。なあ!」

「やめてください。きゃ……痛…!」

 男が嫌がるシエルの腕を掴み、強引に抱き寄せようとした。女の細腕では抵抗も虚しく引っ張られる。アルトが立ち上がろうとしたその瞬間。

 

 

「やめろ」

 

 カウンターの端から鋭い声が響く。その刹那には黒いシャツの上から、白い厚手のコートを羽織った銀髪の青年が男の手をきつく掴んでいた。

 顔立ちは整っているが、誰彼構わずに睨み据えるかのような目付きの鋭さが、獰猛な獣の如き雰囲気を彼に与えている。鋭い目から覗かせる眼差しには強い意思を感じさせる。体格は標準よりも大きめで、やや細身では在るが、華奢な印象を感じさせず、全体的に引き締まった印象を他者に与える。やや焼けた肌の褐色がそれを強調し、顔を含めて全身に刻み込まれた傷痕が不思議と艶かしい印象を与える。

 

「なんだぁ……てめぇ」

「なんだはこっちの台詞だ。一杯やってたら騒ぎやがって。女なら誰でもいいのかこのロリコン野郎」

「ロリコッ…!?」

 男の顔が見る見るうちに憤慨して耳まで真っ赤に染まる。

 

「どうした? 筋肉が自慢なんじゃないのか。見掛け倒しか」

 そう鼻で笑うと、更に力を込める。それに男が更に痛がっていく。そのまま男の腕を背面に捻り、その反動でシエルの身体が開放される。よろめいたシエルの身体をアルトが抱きとめて、その現状をまじまじと見つめる。

 

 彼が咄嗟に力を緩めたことにより、男がよろよろと無様に地面に尻を付いた。それにどっと嘲笑が沸き、男が憤怒を露にして立ち上がってきつく歯をぎりぎりと鳴らす。

「この野郎……恥をかかせやがって!」

 力いっぱい殴りかかろうとして、彼が一歩下がって足で引っ掛けられてひっくり返る。再び立ち上がろうとするが喉元に短剣を突きつけられて、途端に見る見るうちに血の気が引き、顔を真っ青にして彼を見上げる。

 

「待って。もういいだろ」

 アルトが静止して、睨むように青年がアルトを見据える。その鋭い眼光に貫かれてもアルトは怖じることなく意見を口にする。

 

「助けてくれてありがとう。でも、そこまでしなくてもいいだろう」

「甘いな。それで勇者をよく名乗れる」

「どんな人でも一方的にやられてることを見るのはいい気がしないよ」

「酒のためなら他人の命を犠牲にもして、自分の命がかかるとこの様だ。徹底的にやらなければいけないときもある。特にこういった輩は特にな」

 

「はーいはい、そこまで」

 ルイーダが口を挟んで、その隙に男はそそくさと逃げ出していた。ルイーダに静止されたことでじろじろ見てた観衆たちは興味をなくし、周囲の喧騒が元通りになる。青年も元いたスツールに戻る。

 

「大丈夫?」

「あ、はい。わたしは大丈夫です」

 アルトが声をかけて、シエルが微笑んで頷く。再度、アルトたちもスツールに座る。

 

「迷惑かけてすみません…」

「いいのよ。ギルドを経営してると酔っ払いが騒ぎを起こすなんて日常茶飯事だし」

 シエルが頭を下げてルイーダがからからと笑う。

 

「さてと。仲間だけどね。そーねえ…」

 ルイーダの視線があるところで止まる。その視線をアルトとシエルも目で追う。

 

「勇者の仲間としてパーティに入ってくれる? お願いね、バーディネ」

「オレがか…?」

 ルイーダに勇者の仲間としてお願いしたのはさっき助けてくれた青年だった。顔を顰めてルイーダを見つめる。

 

「それに貴方の旅の目的にも合ってるんじゃないの?」

「それはまあ、そうだが」

「この人の旅の目的ですか?」

 シエルがきょとんとした面持ちでルイーダに尋ねる。

 

「オレは盗賊だ。各地の遺跡やら洞窟やらから貴重な道具を探すのが仕事だ。それだけだ」

「はあ……ドロボウさんですか?」

「断じて違う」

 

 バーディネが即座に否定する。ギルドで職業として定められている盗賊は暴力で他人から略奪するのではなく洞窟、廃墟、遺跡など、主に人の手の入ることのない場所に赴き、遺された「財宝」を探し出すトレジャーハントで生計を立てることを主にしている職業だ。

 魔物に遭遇する率が高い場所での行動が多いため、戦士や武闘家と同等の戦闘能力を有する人間もいるとルイーダが簡潔に説明する。

 

「お願いできるかしら? 貴方なら剣の腕も立つから問題ないだろうし」

 ルイーダがバーディネに微笑みかける。妖美な笑みではなく、なぜか妙に威圧感を感じる微笑みだった。なんというか逆らい辛い。深々とバーディネが嘆息する。

 

「わかった。ルイーダにはアリアハンにいる間の宿やなんかで世話になった。同行すればいいんだろう」

「決まりね」

 ほぼルイーダが強引に決めたようなものだが、異を唱えることは妙に憚られた。

 

「さっきはありがとう。言い争ってごめん。これからよろしく」

「ああ…こっちこそ熱くなり過ぎてたようだ」

「この三人で決定、みたいですね」

 

 勇者アルト、盗賊バーディネ、僧侶シエル。

 この三人が出会い、そして旅立つ。アリアハンを出るときはもうすぐ。

 

 

 

 

 



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アリアハン篇 「旅立」 3/5

 

   

 

 

 太陽が昇り、次の季節が待ち切れなかったのか春を飛ばして夏をもう迎えたかのような初夏の日差しが燦々と降り注ぐ。

 風は先日までの寒さはどこへやら熱を帯びた風が強く吹きぬける。木々の葉と葉が擦れ合う音が轟音となって森から遠く離れているのにはっきりと聞こえる程度には風が暴れていた。

 

 誰もいないアリアハンの教会の裏手の墓地には不規則な十字架の列が続く。

 繁華街の喧騒も遠く、聞こえるのは少年の足音と吹き荒れた海風で騒ぎ立てられた木々の音のみ。黙する死者たちの前をアルトが花束を持って、歩く。

 目的の場所まで歩き、その前でアルトが止まる。

 並んだ二つの十字架の前で立ち止まり、アルトが花束を添える。

 

 十字架の墓石には二人の英雄の生年月日と没日が刻まれていた。

 一つの墓石にはかつて勇名を馳せ、世界に希望を示したオルテガの名が。

 もう一つには、オルテガの後継者として、希望の再来を予感させたアゼルスの名が。

 そしてこの二つの墓には共通して眠っている遺体が存在しない。オルテガは火口に落ち、アゼルスは光の中に消えてしまった。

 

「父さん……兄さん……」

 

 アルトが穏やかな眼差しで、墓地を見下ろし、二人に語りかける。遺体はないが、その二人の魂は共に思い出の中に生きている。その過去の憧憬に対してアルトが語りかける。

 

「僕……勇者になったよ。二人みたいに」

 

 春の日差しを浴びて、サークレットの翠石が静かに光を湛えている。サークレットを二人に見せるようにアルトがしゃがむ。

 

 アゼルスの死後、色々なものが変わってしまった。

 かつての楽師を夢見ていた少年はもういない。いなくなってしまった。

 この二年は勇者になるための鍛錬と魔術の習得に費やされた。細く頼りなかった少年の身体にはすっかり筋肉が付き、二年前は剣を持つ度に振り回されがちだったが、今ではしっかりと握り締められる。楽師として腕を磨いたフルートも暫く触っていない。

 

 今は旅装束でここに立っている。軽装として好まれる旅人の服の上から革の鎧を着込み、篭手や靴なんかも動き易く、丈夫な革のものを選んだ。青い外套を羽織り、柄にサルバオ王家を示す獅子の紋章が刻まれた鋼の剣を背負っている。そして、アリアハン王家が勇者として認めた証であるサークレットを被っている。

 

「まだまだ二人は全然追いつけないけど、僕なりにがんばってみるよ。自信はあまりないけどね」

 

 少し、アルトが微笑む。

 魔王討伐に臨み、幾多の武勲を挙げ勇猛だった父オルテガ。最期の瞬間まで敵に背を向けず、皆を守ろうとした兄アゼルス。まだまだ少年の眼差しはその二人の背中すらも見えない場所に立っている。その地平を目指して、少年もまた歩み、幾多の戦いを経るだろう。大丈夫か、と兄が失笑している様が浮かんだがアルトが優しく笑んだ。

 

「大丈夫。必ず追い抜くから、待ってて」

 

 そう告げて、二人の墓石の前でアルトはきつく拳を握り締める。

 

「みんなの笑顔……僕が守り抜いてみせる。一度言ったことは守るよ」

 

 その戦いに向かう度に今まで鍛錬を重ねて、勇者にまでなったのだ。その誓いを反故にするわけにもいかない。誰かの笑顔を守れるようになりたい。あの……遠い日の兄の戦いを見て、そう強く願ったのだから。

 

「じゃあ行ってくるね」

 

 アルトが立ち上がり、二人の十字架を見つめる。

 ここを訪れるのは、アリアハンに戻ってからになる。世界を旅して魔王を討伐し、二人を追い抜いてから堂々とまた墓参りをしよう。

 

 

「やっぱり。ここに来てたのね」

 アルトが墓地を後にして、教会の囲いの門を過ぎようとして待っていた母クレアに呼び止められ、アルトが足を止める。

 

「旅立ちの挨拶をしてたのね」

「うん。次はいつ来れるかわからないし」

「そうね……お父さんも長らく時間がかかってたみたいだし。たぶん最低でも二年は戻れないんじゃないかしら」

「二年……」

 二年という言葉にすればすぐのようだが、実際の経過は長い。それだけの期間、故郷を後にするのだ。

 

「何、不安げな顔してるのよ。自分で考えて、やると決めたんでしょう」

「うん……」

 

 旅立つのに不安はあるが、それにも増して広い世界をこの目で見れるという楽しみも、多くの魔族や魔物との戦いに対しての緊張もある。だが、アルトが不安に感じているのはもっと別なことだ。

 アルトが旅立つことで席がまた一つ空席ができる。

 母や祖父は不安や恐怖を感じながら過ごすのではないかという不安を感じていた。家族が、自分の見知らぬ場所で命を落とし、帰ってくるのは遺品のみという悲しみをアルトは自身で経験してしまっている。

 

 気丈な母だが、父が死亡したときに声を立てずに泣いているのをアルトは知っている。兄が死亡したときもどこかで泣いていたのだろう。それでも家族を心配をさせまいと穏やかにアルトを励まそうと元気に振舞っていた。

 それがアルトもまた旅立ち、見送ることになった。それを心穏やかに迎えたとは考え難い。それでも旅立つアルトの決意に影を落とすまいと強く振舞っている母は本当に強い人だと強く思った。

 

「オルテガとアゼルスは戻らないけれど、アルティスは必ず戻ってくるんでしょう」

「うん……必ず戻ってくる」

 クレアがアルトを優しく抱擁し、母の温もりが肌に直接伝わる。

 

「だったら私は大丈夫よ。あなたはあなたの道と人生を歩みなさい。無理して違う自分になろうとして、前の自分を押し殺そうとしなくていいのよ。後悔だけはしないようにね」

 

 銀の横笛を手渡された後、アルトの考えていることなどクレアには最初から見透かされていたようだ。空色の瞳には悲しみではなく、決意と覚悟を秘めた眼差しがアルトの瞳を見据える。帰る家も、待っている家族もどこへ旅立とうともアリアハンの生家だけなのだ。ならば、必ず生きて戻ると強くアルトは誓える。握り締めた手には過去の自分の残滓みたいなフルートの冷たい感覚がそこにあった。だが、それは掌の熱で暖かいものに変わっていった。

 

「だからそんな顔しない。仮にも勇者でしょう。しゃんとしなさい」

「……うん」

 

 アルトは潤みかけた目蓋を擦って涙を拭う。アルトの身体から温もりが離れ、クレアが優しく微笑む。己の人生を己の意思で歩む。躊躇いも決意も刻んで、少年もまた歩みだそうとしている。それに反対をするでもなく、背中を押してくれている。ならば、寂しさを理由に立ち止まるわけにはいかない。

 

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 

 いつもの挨拶を交わして母子はそれぞれの道を歩んでいく。アルトは前へと歩み、クレアは墓地へと歩いていく。

 寂しさも郷愁も振り切って、アルトは自分の人生をもう既に歩み始めていた。

 

 

 

 

 教会の前にシエルが立って、アルトのことを待っているようだった。それにアルトが小走りで駆け寄る。

 

「おはよう。待ってたの?」

「おはようございます。はい。お墓に参っているようでしたので」

 

 シエルがにこりと微笑んで、肯定する。

 短い時間ではあったが、シエルを待たせてしまったことに少しアルトは申し訳なく思う。尤も一緒に旅立つのだから、教会に迎えに行くつもりではあったが。シエルの服装は以前の十字架が刻まれた青い前掛けに黒い修道服であったが、靴は汚れ難い革靴で、小さめの背負い鞄を背負っている。先端に裁きを司る神獣が刻み込まれた裁きの杖を持ち、旅の準備は万全のようだった。

 

「先ほどお母様が墓地に入ったようですけど…」

「うん、墓地で会ったよ」

「お母様はなんと…?」

「自分の人生なんだから後悔しないようにって言われたよ」

 

 叶わないな、と内心痛感した瞬間でもあった。寂しさや郷愁に引っ張られたのは母ではなく、アルト自身だったのかもしれない。

 

「わたしも神父様に似たようなことを言われました。心配もしてくれてるようですけど、それ以上にわたしの人生を自分の意思で歩んでいきなさい、って言われました」

 シエルは遠く、言われたことを噛み締めるような眼差しをしていた。やはり、親というものの強さを感じさせられた。

 

「じゃあ、行こうか」

「はい、あ、アルト君」

 

 アルトが歩みだそうとして、立ち止まる。おずおずとシエルが真摯な光を湛えて、アルトを見つめていた。

 

「不束者ですが、よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 

 かしこまって頭を下げてから、それに釣られてアルトも頭を下げる。その様子が可笑しかったのかシエルが微笑んだ。

 

 

 城の外と中を隔てる城門前には既にバーディネと、それにルイーダが待っていた。バーディネもまた肩にかける手提げ鞄のみで簡潔なものだった。

 アルトも簡単な手提げ鞄のみで、必要なものがあるのであれば旅先で補充していけばいいと動きやすさを重視した結果だった。鞄の中は数日分の干し肉や乾燥パンなどの携帯食とそれを食べるための食器、怪我をしたときのための薬草、着替えといったものだけだった。

 

 いざ、正門前に立ってみると旅立つという実感がアルトの中にじわじわと沸き立ってきた。魔王討伐という名目で、辛いもの、悲しいものを多く見るだろう。それでも広大な世界を、まだ見ぬ不思議なもの、美しいものを見られるかと考えた瞬間にその胸を振るわせる。

 かつて、父が旅立つ前もこんな風に希望と不安が綯い交ぜになった感情を抱いたのだろうか。

 

「準備は出来てるみたいね」

 ルイーダが三人に聞き、それぞれで頷く。

 

「アルティス、シエル。これを」

 ルイーダがアルトとシエルにアリアハンの国家を示す獅子を象った紋章を渡す。これがアリアハンでギルド登録された冒険者の証明となる。これで本当の意味で二人は正式な冒険者として国家から認められたことになる。

 

「これが身分の代わりとギルドの冒険者の証明になるわ」

「バーディネさんのは?」

「オレはアリアハン以外の場所で登録を済ませてある。だから、もう既に持っている」

 バーディネが鞄から証明となる紋章を取り出す。海鳥を象った紋章であった。

 

「オレはポルトガのギルドで登録したからポルトガ籍のギルド登録者ということになる。それにさん付けしなくてもいい。呼び捨てでいい」

「じゃあ、バーディネ。君はポルトガの出身なの?」

 

 アルトが問うものの、バーディネは応えなかった。その鋭い眼差しに怒気が篭もっていた様にも見えたが、ほんの一瞬だったので真意を尋ねることは憚られた。

 

「はいはいそこまでよ。冒険者なら詮索されたくないこともあるのよ」

 ルイーダが釘を刺した。

 冒険には人それぞれの理由がある。各地を流離わなければならない理由を人に知られたくない場合もある。脛に傷を持っている場合も珍しくないのだとルイーダがアルトたちを宥める。そう言われるとアルトもまた、深く追及する気はなかった。

 

「ごめん。聞かれたくないことを聞いて」

「いや……気にするな」

 

 アルトが謝るが、バーディネが素っ気なく答える。気分を害しているようにも見えたが。

 

「いいや、バーディネは照れてるだけよ。この子不器用なだけよ」

「そんなんじゃない」

 ルイーダがくつくつと笑って、バーディネがそっぽを向く。気のせいか、照れているようにも確かに見えた。

 

「それとこれ。アリアハン王宮からよ」

 ルイーダが足元にずっと置いておいた小袋をアルトたちに差し出す。じゃらじゃらと硬質な音がしたことから金貨だと理解できた。

 

「先立つものは必要でしょう。貰っておきなさい」

「ご、五十ゴールドくらいかな」

「馬鹿か。もっとあるだろ。五千の間違いだ」

 

 アルトが硬貨を受け取って、バーディネが冷ややかに口を挟んだ。今まで自分が持ったことない重さに眩暈がしたがルイーダの言うように金銭は確かに重要だし、好意で差し出されたものを断り辛くもあった。だから、素直に好意に甘えることにした。

 

「これで私から渡すように言われたものは全部よ」

「ありがとうございます」

 

 アルトが深く頭を下げる。アリアハンの王宮も、ルイーダも自分たちが旅立つのにここまでの準備と手配をしてくれたことにアルトは深く感謝をした。

 

「じゃあ、そろそろ行くぞ」

「うん」

「はい、行きましょう」

 バーディネに促されて、アルトとシエルが頷く。歩みだそうとした瞬間に

 

「待った」

 

 背後から響いた声に制止されて、アルトたちが立ち止まる。背後に視線を向けたら、立っていたのは金髪の青年だった。小柄だった背はだいぶ伸び、逞しさすら感じられるようにもなったが、中性的だった雰囲気はそのまま残されていた。

 

「ルシュカ」

 

 よう、と声を掛けた声は少年のような甲高さはなく落ち着きすら感じさせる。にか、と歯を出して笑う姿にアルトは驚いていた。

 

「どうしたの? 見送りに来てくれたとか」

「いんや、そうじゃない。俺も旅立つ事にしたんだ」

「でも、僕たちは……」

「魔王を討伐しに行くんだろ。そんなことは知ってる。だからさ」

 

 憶測もなく、ルシュカが言い放つ。アリアハンに残り、生家である武具屋を継ぐとばかり思っていた。そう考えていたアルトは当惑し、そんなアルトを余所にルシュカは言葉を続ける。

 

「アリアハンだけじゃなくて、もっと広い世界を見てみたいんだよ。商人として腕を磨きたいってのもあるけどさ。ちゃんと準備はしたし、冒険者として登録はしてあるさ」

 きつく拳を握り締めて、真剣な眼差しがアルトを射抜いた。

 

「親父みたいにアリアハンで生まれ、そこだけで商売をしていくのは古いんだ。もう成人したんだ。反対されたって俺は行くし、一人でだって」

 

 このルシュカの様子だと父と喧嘩して、その衝動で飛び出してきたようだった。

 現在、世界を取り巻く様子は各国間の国交は進み、新たな航路が発見され、船での貿易が栄えるようになった。

 それまで積極的ではなかった国も貿易に乗り出すようになり、魔物の脅威は同時に冒険者をより強く鍛えることを国が推進し始め、結果各国間の貿易が進み、長距離航海が多くなったが故に魔物に備えて強い傭兵や冒険者が求められたというのはなんとも皮肉な話だ。

 冒険者たちと貿易商やキャラバンへの円滑な取引を後押しするためにギルドという組織があるのだが。

 

 この時代で、一番躍進を遂げたのも商人たちだった。陸路のキャラバン、船での貿易、それが栄えることで貴重なもの、その地方で手に入りづらかったものが入手できるようになり、各地を転々とすることで富を得ようとする商人も少なくないという。

 その流れに乗って若き商人や駆け出しの商人が地方で商売をしていくのではなく世界に羽ばたき、ルシュカもまた若さ故に力量を試したいと願うのは無理からぬことだった。

 

「旅立ちをきっかけに自分を磨いていきたいんだよ。頼む」

「でも、やっぱり危ないし、何にも言わずになんて…」

「いいんじゃないか」

 口を挟んできたのはバーディネだった。それに深々と嘆息混じりに、きつく睨み据えるようにルシュカを見る。

 

「ただし、足手纏いは置いてくからな。自分の選択だ。自分できっちり尻を拭けってことだ」

「お、おう」

 バーディネの鋭い視線にたじろぎながらも、ルシュカが頷く。ルシュカは素直そうに見えて、頑固なとこがある。こうなれば梃子でも動かないというのは幼馴染ゆえに百も承知だった。

 

「わかったよ。一緒に行こう」

「結局、そうなるんですよね」

 深く溜息混じりにアルトが失笑し、シエルがまるで先を読んでたかのように、にこにことしていた。

 話が終わり、視線の先は自ずと正門の先を向く。その時が来たのだった。

 

「いってらっしゃい。必ず、帰ってくるのよ」

 

 ルイーダがアルトたちに微笑みかけ、正門を守る衛兵たちは敬礼で、それを見守った街の人たちは暖かな拍手で祝福する。

 

「はい!」

 

 アルトが歩みだして、振り返って大きく手を振る。シエルは頭を下げて、バーディネは素っ気なかったが軽く手を挙げて、ルシュカは手を小さく振っていた。

 踏み出した。踏み出したのだ。

 

 一際強い突風が吹き抜ける。

 風が吹き抜けた先は草の海。どこまで続きそうな街道へと、少年たちは踏み出していくのだ。これからは、これから先は、立ち塞がる全ての困難は己の意思で立ち向かっていかなければならない。その道筋は目の前に広がっている。

 

 

 

 

 

 



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アリアハン篇 「旅立」 4/5

   

 

 

 草の海を踏み締めて歩いた。

 麗らかな春の日差しが降り注ぐ街道はどこまでも続き、それを辿ってアルトたちも歩いていく。アルトたちの目的地はアリアハン大陸北東の都市レーベであった。

 レーベはアリアハン大陸の酪農を担う地域で豚肉や野菜、米、麦などといったものはここからアリアハン全土へと流通されている。そこへと向かい、アリアハン大陸から出るための手段について聞かなければならないからだ。

 

 そこに至るまでの道は穏やかであった。幸い激しい天候の変化はなくあっても小雨が降る程度のものだった。時折、魔物の襲撃があったもののずっと鍛錬を重ねてきたお陰か難なく撃退できている。尤もアリアハンの魔物は騎士団の兵力が高いのと、ギルドによる討伐が盛んなお陰でそう凶暴な魔物は少ないのだが。

 アリアハンを旅立って数日、レーベの町並みが見えてきた。

 

「で、目的の場所はどこだ」

 立ち止まってバーディネが確認し、アルトに問う。

「確か街の中心にある湖のところに住居があるって聞いたけど」

 

 サルバオ王から謁見の間で告げられたのはその協力してくれる人物はレーベ中心にある湖の麓に住む老魔法使いレギンス・クリストフという人物だと教えられている。

 

「わかった。まずはそこに行く」

 バーディネが指示を出して、アルトたちは了承する。アルトも、シエルも、ルシュカも経験も何もこれが旅に出るのが初めてのことだ。魔物の気配の察し方や回避法、食べれる野草の見分け方、街までの距離の目測など旅慣れたバーディネの知恵や経験は実際に旅の大きな助けとなっていた。

 のどかな昼過ぎの街を進む。通り過ぎる人々は皆、麦を抱えていたり、重そうなミルク缶を運んでいたり、酪農のための牛や豚を牽いていたりと農作業で忙しなく行き交っていた。

 

 教えられた場所は街の北西部の最奥にあった。

 灰色の石壁、赤い屋根の拍子抜けしてしまうくらいにごくごく普通の邸宅であった。疑いを立てようにも表札にはレギンス・クリストフという名が刻まれておりここで間違いないようだ。

 呼び鈴を鳴らして、待っていると独りでにぎい、と鈍い音を立てて開く。

 

「ど、どういうこと?」

「入ってよいぞ」

 

 ルシュカが戸惑って尋ねると、窓の奥から声がした。出てきた好々爺然とした老人が少年たちを歓迎していた。

 

「あの…あなたがレギンス・クリストフさんでしょうか?」

「お主がアルティス・ヴァールハイトか。王宮から知らせは届いておる」

「はい、初めまして」

「こんな所で立ち話もなんだし、わしも疲れる。入りなさい」

 

 老人に促され、邸宅に足を踏み入れる。入った瞬間に鼻腔についたのはなにやら薬品のような独特な無機質な匂いが出迎える。レギンスに案内されたのは書庫だった。レギンスがソファに重々しく腰を下ろす。

「適当に座るがよい。くつろいでもよいぞ」

 ソファや床、窓などに腰を掛ける。壁を覆い尽くすような本棚に圧倒されつつ、レギンスが煙管を取り出し、一服し始める。

 

「この一服がないと落ち着かん。わしの人生の潤いじゃな」

「……はあ」

 喫煙者の楽しみというのはまだ成人したばかりのアルトにとってはわかりかねるものがあった。成人したのだから酒も煙管、葉巻も楽しめるのだが楽しもうと思う気にはなれない。

 

 

「はっはっはっ、お主にもその内、こいつの美味さがわかるじゃろうて」

 もう一服老人がし始めるのだが、とてもアルトには美味しそうに見えなかった。

 

「まあ、わしの潤いはまだまだあるのじゃが」

「それはなんでしょうか?」

 おずおずとシエルが聞く。シエルはソファに腰を掛けている。

 

「知りたいか。それはじゃな」

「なんでしょ……わひゃあ!?」

 シエルが頓狂な声をあげる。レギンスの指がわさわさとシエルの胸を鷲掴みにして揉み始める。シエルは驚きのあまりに耳まで顔を真っ赤にして、身体を硬直させていた。

 

「ほほう。これは中々の……」

「やめんか!」

 ご、っという鈍い音がした。バーディネがレギンスに拳骨を叩き込んで、それを静止する。老人が硬直させた隙にシエルが指先を無理やり引っぺがして逃げるように窓際に移動した。

 

「なんじゃい。せっかく楽しんでるところを。逃げられてしまったではないか」

「やかましいわスケベ爺」

 嘆息混じりにバーディネが言う。

 

「お前もお前だ。嫌なら自分から悲鳴を上げるなりなんなりしろ」

「だ、だってお爺さん相手に乱暴なんか出来ないし、逃げるにも無理に身体を動かしたらお爺さんを怪我させてしまいそうだし、悲鳴なんか上げたらみんなに迷惑がかかる気がするし、かと言っていつまでも触られているのも嫌だしで、どうしたらいいのかわからなくなっちゃってそれでそれで」

 わたわたと一気にまくし立てるシエルは涙目になっていた。

 

「楽しみって…」

「女子と戯れることじゃが、なんか文句あるかの」

「いい御歳なんですからもうちょっと自重してください……」

 呆れ半分にアルトが言う。ほっほっほっ、と好々爺然とした笑い声をあげていた。

 

「それでアリアハンの王宮から頼まれてた脱出するための手段ってどんなの?」

「おお、おお、そうじゃったそうじゃった」

 ルシュカが話を切り出して、今、思い出したかのようにレギンスが大袈裟に頷いて、書棚の引き出しから小箱を取り出してアルトに差し出した。

 

「これは…?」

「開けてみい」

 

 レギンスに促されて、アルトが小箱を開く。中に入っていたのは掌程度の大きさの小さな宝玉であった。見つめると無色透明の中に炎が迸ったようにも見えた。

 

「魔法の球という。ミスリル鉱で出来ておる。わしのイオのマナを込め、ミスリルを精製したものじゃ」

「ミスリルってあのミスリル?」

 

 ルシュカがアルトの背後から小箱の中を覗き込んで尋ね、レギンスが肯定する。

 アリアハンとサマンオサとで所有権を巡って、争乱が起きた金属で精製されたものが、今、アルトの目の前で静かな白銀の光を湛えている。こうして手に取ってみるとただの美しい宝玉にしか見えない。

 

「これが…本当に?」

「なぜサマンオサがこれを欲したかはお主の目で確かめるがよい。論より証拠じゃ」

 猜疑の念で尋ねたが、老人によっていなされる。

 

「このレーベより南西の山脈に祠がある。そこが封印された場所だ。そこでこいつに魔力で念じるがよい。それで封印が解ける」

「その封印ってのはなんなんだ」

「封印はかつて百年ほど前に起きた大戦の残り香での」

 

 バーディネの問いにレギンスが煙管で一服し、灰色の吐息が吐き出してから答え始めた。

 レギンスが語るには百年……文献にその開始時期が不鮮明ぐらい前にかつて世界全土を巻き込んだ大戦が起きたらしい。このアリアハンも戦火に見舞われた。

 アリアハンは強国としての地位を当時で既に確立していた。艦隊戦、陸戦、魔術戦、そのどれもが他国を圧倒し、幾度となく圧倒した。

 

 そのアリアハンに奇襲を掛けるために、魔術で別の場所とを繋ぐ扉を常時発生させ、そこから軍を送り込む。その予期せぬ蹂躙に対応が遅れ、辛うじてアリアハンがその戦線では勝利を収めたものの酷い損害を被らざるを得なかった。レーベはこの時に一度壊滅し、王都の寸前まで進軍を許すほどであったと伝えられる。

 二度とこのような事態に陥るのを防ぐために、扉を封印し、使用できなくした。それがアリアハンで伝えられる封印の真実である。

 

「その封印を解かねばならないほどの事態が起きているのは間違いないのう」

「魔王はそれに見合うだけの脅威ってことか」

 ルシュカに、うむと老人が同意する。

 

「オルテガはヤツに届かず果てた。今はどれだけの存在に化けてるか想像だにできぬ」

 

 レギンスの視線が落ちてゆき、煙管の燃えカスを叩いて出す。ぽとりと落ちた灰が灰皿の上で静かに消える。

 

「お主は曲りなりにもオルテガの意思を継いだ者じゃ。希望を託すだけの価値はある」

「希望……」

 

 アルトが小箱を握り締めて、その言葉の重みを確認するが如くに何度となく口の中で転がした。

 

 

 

 

 夕闇がレーベの町並みを包み込んでから、夜闇が街を支配するまでは早かった。農作業や酪農、仕事に終われてた人々は帰路につき、それぞれが明日に備えて寛ぐ時間帯を迎えていた。

 レーベで宿を取り、早朝街を発つことにした。案内された宿の部屋はベッドが四つと机のみの簡素な部屋だった。食堂と浴場は宿にある利用者が共通で使用するものがあるため、問題はなさそうだった。

 

「うわ、久々のベッドだ」

 勢い良くルシュカがベッドに飛び込み、大の字になる。野宿が続いたため、布団の温かみに懐かしさすら覚える。

 

「旅に出てから久しぶりに温かく寝れそうですね」

「そういうこと」

 

 満足気にルシュカが言う。シエルもベッドの上に座り、荷物の中から眼鏡と本を取り出して、眼鏡をかけてから読み始める。

 

「何、読んでるの?」

「呪文書です。これからの旅に備えて少しでも新しい呪文を取得していきたいと思いまして」

 シエルが微笑み、また本に視線を戻す。呪文は呪文書によって取得する。構築法と理論を学び、実践して覚えていく……基本的には学問と同一なのだが、自身の体内の魔力、マナを御しなければならないのが呪文が難しい部分でもある。

 

「暇だからちょっと見せて」

「いいですよ」

 

 シエルから渡された書物にルシュカが目を通す。

「………さっぱりわからない」

 シエルが困ったように失笑していた。一切の呪文について学んでこなかったルシュカにとっては異国の言語のようなものだろう。シエルの手元に戻ってきてまた一字一句頭に叩き込むように、シエルは呪文書を読み耽っていた。それに声を掛けるのも憚られる。

 

 静かな時間が続いて、ルシュカはベッドの上で寝息を立てていた。また明日には暫く歩き詰めの日々が続くのだから今はゆっくりと休ませてあげようとアルトは思い、掛け布団を彼の上に掛ける。

 

「ちょっと外の空気を吸ってくるね」

「はい、でもあんまり遠くにはいかないでくださいね。時間も時間ですし」

 

 シエルに微笑み、アルトが静かにドアを閉める。そのまま宿を出て、街の中心にある湖まで足を運ぶ。宿からそこまで遠い距離ではないこの場所は街の名所として知られている。昼の間は透き通った青も夜闇に染め上げられて漆黒に堕ちていた。月光の光がそのまま湖を照らし、天と地に二つの月が鏡合わせになっている様子は幻想的で美しかった。

 

 

 昼にレギンスに告げられた希望という言葉がアルトには重く感じられる。

 多くの人間が自分に期待し、希望を託している―――それは理解は出来ている。

 だが、それを背負って戦う。それは本当に自分でいいのか。占いで選定され、勇者の血族であるというだけで世間から見れば自身が成人を迎えたばかりの青二才だという自覚はある。

 

 確かにこの二年祖父に教えを請うて、鍛錬を重ねてきた。しかし、実践を経験したことがない。魔族との戦いはあの日の一度だけ。しかもそれは雷光の光を解き放ち、その雷に全てが昇華されたことで有耶無耶になってしまったものも多数ある。アゼルスの遺体もそのせいか消えてしまった。

 アルトが自身の拳を見つめ、そっと握り締める。あの日の雷は使えた試しがなかった。念じても、解き放すことは出来ず、この掌に雷の光は宿ることはなかった。魔族を撃ち払うだけの雷光。

 

「こんな時間で単独で動くのは危ないぞ」

 

 背後から声がして、アルトが振り返る。月光を浴びて絹糸のような銀の髪の青年……バーディネだった。

「ごめん。それにレーベは危険じゃないよ。たぶん」

「まあな。長閑なもんだ」

「バーディネは、色んな場所を見てきたの?」

「ああ……ロマリアも、ポルトガも、アッサラームの方も、それよりも西にも行った事がある」

「色んな場所に行ったんだね」

「これからお前が巡るかもしれない」

 

 これから先、向かうかもしれない国々だ。己が目で、己が経験として旅をしていく。バーディネはそうやって冒険者として巡ったのだろう。ふと、思い立ち、アルトが尋ねる。

 

「どうして僕の旅に同行しようと思ったの?」

 

 アルトが尋ねてみた。そうやって様々な場所を巡った彼ならもっといい条件の仕事を選ぶことが出来ただろう。

 

「理由は聞かないんじゃなかったのか」

「そうじゃなくて、本当に嫌なら断ることだって出来たじゃないか。でも、バーディネは断らなかった」

 

 ルイーダの斡旋があったとはいえ、魔王討伐を命じられた勇者の護衛など断ることだって出来たはずだ。だが、彼はそうせず依頼のままにアルトの旅に同行してくれている。普通なら逃げたって誰も文句は言わないだろう。

 

「断るほどの理由がなかっただけだ。各地をどの道、流離うんだ。利がある判断をしただけってことだ」

「利? 得をするの」

「勇者と旅をしたというのはそれだけ箔がつくってことさ。お前自身がどういう人間であれな」

「なんか納得がし辛いものがあるけど……」

 

 むう、とアルトが顔を顰める。

 

「お前こそ、逃げようと思わなかったのか」

 

 バーディネが遠くの湖畔に反射した月を見据えて、呟くような声で尋ねる。

 

「こうやって勇者を名乗ったからには人には勝手な期待をされ、親父や兄とは比較される。人は人であるはずなのに、我を無視してまるで同じ様に評される。そこから逃げ出そうとは考えなかったのか」

「最初からわかってたことだもの。わかっているんなら耐えられるし、僕が戦わないと結局は誰かを殺して、誰かの笑顔がなくなってしまう。そのほうが僕には辛い」

 

 アルトが微かに笑む。全て、最初から覚悟していたこと。バーディネの指摘通りに血筋で定めを決めたかのように期待されたこともある。それより、自分が逃げ出すことで踏み躙られるものの価値のほうが少年の中では大きかった。ただそれだけの話だった。

 

「それが、お前が勇者であることか」

「まあ……そういうことかな」

 頷きを返すアルトに、バーディネの紫の瞳が少年の姿を映し、真っ直ぐに射抜く。

 

「お前は甘いヤツだが、その覚悟だけは信用させてもらう」

 

 バーディネが踵を返して、宿の方に歩いていく。銀色の髪が月明かりに照らされて煌いていた。

 見据えたバーディネの眼差しに何か遠い郷愁の念が見え隠れしたのは錯覚だったのか。それとも、誰かと重ねてたのか、それはアルトにはわかることのない問いだった。

 

 

 

 

 



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アリアハン篇 「旅立」 5/5

   

 

 

 

 レーベを経ってから更に西の山脈へと進み、慣れない険しい山道に悪戦苦闘をしながらも目的の封印されし地へと辿り着いた。

 アルトたちがアリアハンを経ってから既に一月余り。華やかに花々が咲き誇る時期は当に過ぎ去り、若葉の季節を迎えていた。微かな寒さは抜けきり、故郷の風はもう温かさと共に熱さを帯び始めている。

 

 山脈の中にあった洞窟。天然の石壁ではなく、人の手で加工された鉄の壁が眼前に続く。

 その鉄を踏む堅い足音だけが静寂の中に幾重にも反響しては消えてゆく。風が吹き抜けることの無い空気は淀み、光の射さない深遠には少年たちの手元のランプの灯りだけがぼんやりと辺りを照らしている。

 

 アルトたちが洞窟に入ってからどれだけの時間が経過したか、途切れなく響いた足音が途切れる。大広間へと出たアルトたちの目の前には高々と壁が立ち塞がり、アルトたちの道筋を塞いでいる。

 バーディネが壁の前まで近寄り、手で触って感触を確かめたり、壁を叩いたり、耳を当てたりしていた。

 

「これは構造的なものじゃない。後から塞いだものだろう」

「じゃあ、ここがあの爺さんが言っていた?」

「たぶんな」

 ルシュカの問いにバーディネが同意する。アリアハンに伝えられる過去の遺物の封印、ここと異郷とを瞬時に繋ぐ移動手段は光なき場所で誰から使用されることなく存在し続けている。

 

「アルト君、魔法の球を」

「ん…わかってる」

 

 シエルに促され、アルトが荷物の中から掌と同じ大きさの宝玉を取り出す。こうして握り締めているだけならただの美しいだけのものが……奪われればアリアハンに仇成すものになるとはアルトの中では今一信じ切れるものではなかったが、レギンスが言う通り、自分の目で確かめるより他ない。

 

「アルト。どうした」

「え……これを壊したら、アリアハンから出るんだなって」

 

 ルシュカに背を押され、アルトの中に祖国を巣立つ感慨が沸き立ってくる。十六年間ここで生き、育ってきた。この封印を破り移動すれば、そこからは見知らぬ土地がある。そこからはいつ戻れるかもわからない。アルトの心の隙間に妙な寂しさが吹き抜ける。それはシエルやルシュカも同様だった様で感慨深げに視線を落としていた。

 

 哀愁を振り切るようにアルトが歩み出して、掌の宝玉を握り締め、目を瞑り念じる。レギンスの言う開放手段は魔法の球に念じ、自らの魔力を通せば自ずと目覚めると教えられた。その手順通りに魔法の球を起動させる。

 無色だった宝玉の中心に赤々とした焔が宿り始め、微かに、だが確かに炎の赤は色彩をより濃い赤へと変えてゆく。

 

 魔法の球を壁の真ん中に置き、アルトがそこから小走りで離れる。

 大広間から出た場所で、アルトたちが見守る。

 

 暫くした後で閃光が漆黒に覆われた大広間に広がり、轟音が洞窟を振るわせる。巻き起こった爆風に身体が吹き飛ばされそうになり、吹き荒れた粉塵が視界を覆う。熱風に煽られて外套が靡き、光と熱風が収まると同時に地響きが起こった。

 アルトがその目で、大広間を遮っていた壁を見つめれば壁の真ん中に爆発の衝撃で生じた大きな穴が出来ており、封印が解かれ、道は開いていた。

 

 同時に、レギンスが一目見ればわかると言っていた理由もわかった。

 呪文は攻撃、回復、補助、移動にしろ瞬間的に引き起こされるものだ。だが、鉱石に宿された呪文は発動前のまま、そのまま維持することが出来る。使用する瞬間を延ばす事が出来る。魔法の球のような攻撃呪文を宿して、爆弾、砲弾の代わり……呪文の威力でそれ以上の殺傷力を発揮する。上級呪文を秘められたのであれば、その威力は際限がなく、戦場を揺るがしかねないものになる。

 

 アリアハンがサマンオサに渡すわけにはいかないのもそうだ。軍を遠征させた隙にルザミ海域を侵略され、その威力の矛先が自国に向けられるのは回避すべきと考えるのも無理からぬことだ。

 だから、サマンオサを警戒する余りにネクロゴンドに軍を出兵させることが出来ず、足止めを食らっている。

 魔王に対して、オルテガという一人に頼り、人類の希望を全て背負わせた失態を演じているのにも関わらず、それでも魔王に対して同じ牽制しか出来ずにいる理由が目の前で起こった爆発が全て物語っていた。

 

「すげえな…」

「うん…」

 大穴を開けた魔法の球の破壊力に口をぽかんと開けて、ルシュカが呆然と言う。アルトもそれに同意して頷きを返した。

 

「ともかくだ。封印は開かれた。もう先に進むしかないぞ」

「わっ、わかってるよ」

 バーディネが砂煙を払った後に歩き出す。それに促されてアルトたちも後に続いた。石壁の瓦礫の上を踏み越えて、幾年もの間、誰も入ることの無かった闇の中へと歩き出した。

 

 空気が死んでいた。

 鼻腔に飛び込む大気の匂いは土臭く、風が吹き抜けて空気を入れ替えることがなかったためか、どことなく腐臭がした。

 相変わらず続くの暗闇だけだった。ランプの灯りが視界の周囲だけを照らす。ぼんやりした灯りが陽炎のように揺らめいている。光はただそれだけだった。

 

 足を蹴る感覚は石で舗装されていたためか、堅い。蹴る音は硬質で、反響して消えていく音もまた硬かった。

 洞窟は分岐点などはなく、真っ直ぐに広がっているだけだった。時間間隔が麻痺しそうになるぐらいに代わり栄えのしない道が続いていた。

 

「ここって、どこまで続いてるんだろうな」

 どこまで続く坑道に、ルシュカがうんざりしたように言う。

「さあな。こんな程度でへばってるようじゃ先が思いやられるだけだ」

「なんだよ、それは」

 む、っとした面持ちでバーディネに、ルシュカが口を尖らせる。

 

「そのままの意味だ。それにな……前と後ろから魔物が迫っている。挟み撃ちにされたようだ」

 強烈な飢餓の気配と息遣いが幾重にも反響して、前と後ろから魔物たちの群れが威嚇の唸り声を挙げていた。周りを囲まれたようだ。

 

「前に二匹、背後に二匹…かな」

「どうやら魔物の巣のようだな。ここを通れとはアリアハンの王も無茶を言う」

「仕方ないよ。誰も手入れしてなかったみたいだし。僕は前衛を担当する」

「わかった。俺は後衛を担当する。背後からの敵を叩く」

 

 短くアルトとバーディネが言葉を交わし、お互いの役割を告げる。この場所は人が訪れないことで魔物たちにとって脅かされる存在がいない居心地のいい場所となっていたようだ。アルトが背中に背負った剣を抜き放ち、暗闇に白銀の軌跡がなぞられる。剣を構え、戦闘態勢に入る。

 

「シエルは呪文で援護をお願い。ルシュカはシエルを守って」

「わかりました」

「わかった……」

 

 緊迫した面持ちで、二人とも頷く。アルトが駆け、大地を蹴る。視界に捉えた敵は人間の背丈よりも巨大に成長したお化けアリクイであった。

 

 突然の特攻に驚いたお化けアリクイたちは動作が遅れる。その混乱の隙をついてアルトが剣戟を振るう。大気を切り裂く銀の光が前の一匹を引き裂く。肉を裂き、筋を絶つ感覚がその手に伝わる。鮮血が弧を描き、苦悶の雄叫びをお化けアリクイがあげる。

 先頭の一匹を倒し、空かさずに後ろの一匹が鋭く尖った爪を振るう。それをアルトが剣で弾き、その間隙を縫い、もう一匹がアルトに襲い掛かる。振るわれた爪はアルトの右腕を裂く。鋭い痛みが奔るが、掠り傷程度だ。行動に支障は無い。

 

「風よ、目覚めて。嵐となり舞い上がれ―――バギ!」

 シエルの唇からその言霊が紡がれ、坑道に渦となり、旋風が巻き起こる。それを察知し、アルトが一歩引いた。巻き起こった旋風は刃よりも鋭い風となり、刃となった風はお化けアリクイを切り裂く。たじろいだ魔物にアルトが踏み込み、一閃で突きを穿ち、鋼鉄の刃が真紅に染まる。幾度か甲高い呻き声をあげたが、魔物から力が抜けていき、少し力を込めて剣を身体から抜く。滂沱の如く鮮血が滴る。

 

 仲間の死に哀れみ、残ったもう一匹が爪を振りあげる。爪が虚空を斬り、アルトに襲い掛かる。だが、お化けアリクイが切り裂いたのは、アルトではなく黄昏色の毬だった。切り裂かれた毬は広がり、お化けアリクイの巨体を絡み取る。抜け出そうともがくが、足掻くほどに絡みつき動きを奪う。まだらくも糸を投げたのはルシュカだった。

 

 ルシュカが作った隙に、アルトが踏み込み、真一文字に引き裂く。そのまま倒れ伏して動かなくなる。背後で戦っていたバーディネもまた終わったようだ。アルトと違って、怪我はしていない。

 

「ありがとう」

 アルトが剣の鮮血を払って、納刀する。その後に振り返って、二人に礼を告げた。

 

「どういたしまして」

「アルト君こそお怪我はありませんか?」

 シエルが心配げに尋ねる。駆け寄り、アルトの腕に見える切り傷に手を当てる。

 

「恵みを齎さん。生命の躍動を呼び覚ませ―――ホイミ」

 柔らかな光がアルトの右腕を包み込み、傷を癒す。光が消えた後には傷跡も残さずに完治していた。

 

「ありがとう」

「危ない役割をやってもらっているんです。これぐらいは」

 照れ隠しにシエルがにこりと微笑んだ。その後、魔物たちの亡骸に振り返る。シエルが指で十字を切って、魂を鎮めているようだった。

 

「勝手にあなたたちの巣に入ったのはわたしたちです。こちらの都合で命を奪ってしまいました。せめて安らかになれるようにと。勝手な言い分ですけれども」

「そう、だね…」

 伏し目がちにシエルが魔物たちの亡骸を見つめて言う。アルトが掌の感触を忘れられずに見つめる。筋を断ち、命を奪う感覚がまだその掌に残り続けている。だが、殺された彼らからすればシエルの言う通り、身勝手な感傷だった。

 

「忘れちまえ」

 傷一つなく、戻ってきたバーディネが擦れ違い様に告げる。

 

「こんなことなんてこれから先、幾らだってある。一々気に止めて立ち止まるな」

「慣れろとでも言うの?」

「こいつらだって生きたかった。俺たちだって死ぬわけにはいかない。そうやって言えるのは生き残った側の勝手な感傷だ。こいつらの餌になるわけにはいかないだろ」

 正論だった。それでも未だに命を切り裂く感覚は掌に残り続けて、当分消えそうもなかった。それでいいとも感じられる。少なくとも生き残るために、何かの命を奪った事実だけは変わらないのだから。

 

 

 

 真っ直ぐに続く坑道を抜けて、最奥へと辿り着いた。

 アルトたちを出迎えたのは、光。青い光が柱となって渦を巻いていた。淡い光に照らし出されて薄暗かった坑道と比べ、この大広間は全体が見渡せる程度には明るかった。

 

「これが封印された移動経路ってヤツか」

 まじまじとルシュカが見つめる。この光の渦に入れば瞬時に移動できると聞いた。こうして見ればただ綺麗なだけの淡い光にしか見えず、信じ難いものがあった。

 

 アルトが青い光芒を見据える。

 この光の向こう……その先に、今まで自分が生きた大地とは違う世界が広がっている。新しい大地を踏み締め、知らないもの、不思議なもの、幾多の出会いが待っている。それが好奇心を振るわせる。

 この光の向こう……その先に、踏み入れたらアリアハンに当分戻ることは出来ないだろう。故郷の大地を見ることは叶わずに、ただ歩き続けていかねばならない。それが郷愁へと誘わせる。

 その二つが綯い交ぜになった感情のまま、アルトの視線はただ、青い光の先を見つめていた。目を伏せて、一呼吸した後に、目蓋を開き、仲間へと振り返る。

 

「準備はいい?」

 アルトが三人を見つめて、覚悟を問う。

 

「はい。もちろんです」

 それにシエルが目を細めて、微笑んだ。広い世界を歩む……それは彼女にしてみれば見識を広げる機会だと言っていた。だからか、その笑顔に迷いや郷愁といった影は感じられなかった。

 

「ああ…問題ないぞ」

 バーディネが素っ気なく答えを返した。各地を流離ってきた彼にとってはいつものことだろう。アリアハンもまた、旅路の一つでしかない。別離の覚悟は通過儀礼の一つでしかないのだろう。

 

「お、おう。いいぞ」

 少し緊張気味にルシュカが頷いた。見知らぬ土地を旅する不安があるが、不安以上に期待が勝っているようだった。

 

「行こう」

 アルトが促すと同時に、笑顔を向けた。その笑顔が消えると共に青い光へと足を踏み入れる。シエル、バーディネ、ルシュカの三人も続く。

 踏み出すと同時に浮遊感に襲われ、地面を踏む冷たい感覚が消失する。視界いっぱいに青い光の奔流が渦となって、アルトの身体を包み込む。青い光の眩しさに我慢することが出来ずに、アルトが目を瞑る。

 

 

 

 

 光が過ぎ去り、アルトがゆっくりと目蓋を開き、その目で確かめる。

 ふわり、と着地して再び地面の感覚を足に感じた。しかし、その感覚はアリアハンでのものとは異なり、地面の冷たさではなく石畳の冷たさであった。周囲を見渡せば洞窟ではなく、石造りの人工的な建物の中だとわかる。もうアルトたちはアリアハンではなく、異国にいる。

 わっ、と小さな声が耳に入り、アルトが振り返ると降り立とうとして、体勢を崩したシエルがいた。それにアルトが手を取って、シエルを抱き寄せる。華奢で柔らかな感触を引き寄せる。

 

「あ、ありがとうございます」

「どういたしまして」

 シエルが頬をうっすらと紅く染めて、礼を言う。地面を確かめるようにして踏み、身体を離す。

 

 アルトが荷物の中から、地図を取り出す。色鮮やかに映し出された地図に、ふわりと浮かび上がった小さな羽ペンが現在地を知らせていた。祖父から渡されたものであったが、魔力が込められた高価なものであると聞いている。その魔力を以って、指し示す地平は世界の西の方面の靴の形をした半島を示していた。

「ロマリアか」

 バーディネが現在地を告げる。ロマリア…潜り抜けた光はほとんど一瞬であったのにアリアハンから凄まじい距離を移動していた。

 

「ロマリアはアリアハンと同盟を組んでいる国です。国交も盛んですし、ロマリアとアリアハンの王家とも交流がありますから、初めて訪れるとしたらいい国だと思います」

 ぽん、とシエルが手を叩いて、簡潔に説明する。転移先を知っていた故にサルバオ王はこの移動手段を勧めたのだとわかる。友好国なら安全に送り出すことが出来、これだけ距離が離れているのであればサマンオサを刺激することもない。

 頷き、アルトが頷いてから地図をしまって立ち上がる。

 

「まずはここから北のロマリアの首都に行こう」

「そうだな。ロマリアは大国だ。そこのギルドなら情報も飛び交っているはずだ」

 

 アルトが提案し、バーディネが肯定した。

 飛び込んでくる空気は冷たく、春を過ぎかけて熱さを帯びていたアリアハンの空気とは別物だった。異郷へと踏み出した少年たちの旅は始まりを告げていた。

 

 

 

 

 

 



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ロマリア篇 「王冠」 1/5

   

 

 

 

 かつて世界全土を巻き込んだ戦乱があった。

 覇権を巡り、幾多の国家が武力衝突をし、姦計を巡らせ、他国の国力を如何に削り取るか。他国の領土を蹂躙し、自国のものとして、拡大していくか。

 

 その戦乱の最中に数多くのものが発展をしていった。呪文も如何に強大な威力があるものを探求し、開発され、その威力で幾多もの命を削り取っていった。如何に安全に兵を敵国に移送するかを考案され、その結果が先日少年たちが辿った光の道……旅の扉が生み出され、猛威を振るった。

 技術は大いなる発展を遂げ、それは今日の世界に大きく根付いたものとなった。だが、長きに渡る戦乱は国々の力は疲弊し、衰退を余儀なくされてしまった。

 

 同時に乱れた人心の心を癒したのは神の教え……宗教でもあった。神の御心による愛は荒んだ時代に広まり、僧侶たちが布教に励み、その勢力を拡大させた。そうしてその総本山たる聖王国ロマリアは世界で最も隆盛を誇る国家となった。

 

 ―――魔王バラモスが現れるまでは。

 

 

 

 町を染め上げる白い石造りの家々は白薔薇を連想させる美しさだ。純白に並ぶ白い壁に、色取り取りのレンガが街を彩る。

 狭い路地を埋め尽くす雑踏と、耳を塞ぎたくなる喧騒に負けない露店の活気が溢れ、溢れんばかりに並ぶ売り物が活気を一際大きなものとしていた。様々な肌の人種が行き交い、このロマリアが交通の要所として栄えた理由を知る。

 北のシャンパーニ地方、北方領土に通じ、西には航海で栄える大国ポルトガが、東には様々な文化が混じる商業都市アッサラームが栄える。交通の要所となり、重要な中継点として重要視されている。

 

「まるでお祭りみたいですね」

「いや……ここはいつでもこんなもんだ。アッサラームはもっと凄いがな」

 感嘆したように言うシエルに、素っ気なくバーディネが受け答えをする。

 

「一度訪れてみたかったんです。信仰が盛んな国だと窺っていましたので」

 シエルが嬉しげに言う。

 かつての大戦を収め、ここを足掛かりとして世界に信仰を広げていった。ロマリアは僧侶たちの総本山ともいえる場所であった。同盟を組むアリアハンもまたロマリアと宗派を同じくし、それが切っ掛けで王家同士で交流があるとも言えた。かと言って他教を排斥するのではなく、イシスのように他教と連携を組むなど包容力もまた見せている。

 

「ここからどうしようか」

「冒険者ならまずギルドへ行って、情報を集める。それが基本だ」

「それはそうだけど……」

 訪れたばかりでアルトたちはギルドの場所もまた知る由もなく。深々と嘆息した後にバーディネが渋々告げる。

 

「わかった……ここは来たことがある。場所はわかる」

「そういえば言ってたね」

 失笑混じりにアルトが告げ、人混みを掻き分けて、銀髪の青年の後姿を追った。

 

 気を抜けば飲み込まれてしまいそうになる雑踏を潜り抜けて、灰色の道路を踏み締める。辺りを見渡せば、賑やかな活気が溢れ、平和そのものであった。

 雑踏の向こう、視線を上げれば御伽噺に出てきそうな美しく壮大な、城が城下町を見下ろしていた。

 

 ロマリアの冒険者ギルドがあったのは繁華街の中心だった。女給たちが忙しく走り回り、冒険者たちは張り紙を確認したり、依頼主と交渉をしていたりとアリアハンのルイーダの酒場と負けず劣らずの活気に満ちていた。

 適当に空いてる席に座る。

 封印された場所からロマリア城下町に入り、ここまで休憩なしで歩き詰めだったため、座った瞬間に汗と疲労感がどっと湧き出る。幸いだったのは、地形的なものか、吹き抜ける風はアリアハンのそれと比べてまだ涼しかった。ありがたくもあり、アルトにとって全く違う国を旅しているのだという感慨を感じさせた。

 

「君たち、旅人かい?」

 落ち着いた声に話しかけられて、アルトが視線を声の主へと向ける。視線の先にいたのは派手なアロハシャツのなんとも目立つ服装をし、大きなサングラスをかけていた。うさんくさいことこのうえない男に話しかけられ、バーディネが怪訝そうな顔で男を見ていた。

 

「あ、君君、コーヒー五つね」

 男が勝手に注文を頼み、女給が愛想よく受け答えをする。すると、アルトたちのテーブルの空いてた席に座る。

 

「君たちはロマリアへ来たばかりかい」

「え、あ、はい」

 陽気に話しかけられ、アルトが戸惑いがちに返答を返す。さっきからこの男の勢いに負けて、流されているような感じではあった。

 

「そうかそうか。ここに限らずに物騒な世の中だ。しばらくゆっくりしていくといいよ。ロマリアは……まあ、色々物騒ではあるけど平和そのものだしね」

 からからと笑う陽気な男に、アルトたちが肩を落とす。

 

「ちなみに、ここに来る前はどこにいたの?」

「はい、アリ…」

「そんなこと、お前に関係あるのか。どこから来ようが俺たちの勝手だ」

 答えかけたアルトの横から、バーディネが口を挟み、遮る。

 

「いいじゃないの。個人的な興味なんだし」

「個人的な興味で聞くなら、俺たちは返答を断ることもできる」

「あらら、ごもっともで」

 バーディネが睨む様に警戒を露にし、男は肩を竦める。

 

「べらべら喋り過ぎだって」

 ルシュカがアルトに耳打ちをして、アルトが失笑する。旅の扉を通ったのは秘密裏のことだ。サマンオサに気取られず出るための術を軽々と口にするのは失言だ。加えて男が何者かわからない。それを咎められ、冷や汗がどっと出る。

 

「むー……」

 シエルが目を細めて、男を見つめる。何か思い当たる節があるように。

「どうしたんだい。可愛らしいお嬢さん」

「どこかでお目にかかったことはありませんでしたか?」

「はっはっはっ、貴女のような可憐な方を忘れるはずがない。初対面ですよ」

 男が誤魔化すも、シエルの指摘通りアルトもまた、この男の姿をどこかで見たような覚えがある。それがどこであったのか、思い当たる節はなかった。ただの他人の空似なのか。それをはっきりと証明できない。

 

「ふむ、君の額はとても珍しいものをつけてるね」

「これ、ですか?」

 アルトがサングラス越しの視線に気が付く。先ほどまでの軽薄な口調の中に、どこか鋭利なものが視線に混じっていた。

 

「それ、勇者の証明だったりして」

「まさか。オルテガじゃあるまいし。こんな子供に務まるはずがない」

「それはそうだ。だがね、それが事実なのだとしたら彼は物凄く強い戦士ということになるね」

 バーディネがまた横槍をし、睨み据えるように男を見るが男の眼差しもまた鋭かった。鋭い眼差しが交錯し合う。しばらくした後に男が肩を竦め、失笑した。

 

「冗談だよ。そこまで片意地張らなくてもいいじゃないか。それにねえ」

 男が一息ついた後で、

「そこまで否定すると、返って肯定してるよ。あんまり詮索をするもんじゃないし、ここまでにしておくよ」

 鋭い言葉でバーディネに返した。バーディネは一瞥だけして、この男に対して何の返答も返す事はなかった。それを境に凍てついた時間が緩み始める。

 

 女給がテーブルに近寄り、マグカップを一人一人の前に置いていく。カップの中の黒い液体が湯気を立てており、それに男が口をつけ、味わっているようだったがアルトにはあまりわかりにくいことだった。コーヒーぐらいは幼い頃から飲んだことぐらいはあるが、あまり美味しく感じられたことはない。

 

「美味い。ここのコーヒーは格別にね」

「はい、他のとこよりも格段に」

 シエルが微笑んで口をつける。そうは言っているが見てみるとシエルはコーヒーにミルクと多量の砂糖を入れていたが、コーヒーそのものが味が変わっていることだろう。

 男は別段気にせず、そうだろうそうだろうと満足気に頷いていた。

 

「ポルトガ、イシスのも飲んだがコーヒーの味はロマリアのが一番さ」

「お兄さんは、ロマリアの人なの」

 ルシュカが疑問を口にした。

 

「生まれも育ちもロマリアさ。恐らく死ぬまでロマリアにいるだろうけどね」

 その最後の一言を口にしたとき、男は気のせいか寂しげに映った。それは一瞬のことで、すぐに軽薄な振る舞いに戻る。

 ルシュカの疑問通りに、確かにこの男は何者なのか。派手派手しい服に身を包んでいるが時折見せる鋭利な側面や妙に義理堅かったりする辺り、ただの陽気な男ではないのが窺える。

 

「最近はここも物騒になってきた。流行り病が流行したり、盗賊が王宮の宝物を盗み出したりね。以前は平和でいい国だったんだけれども。人心が荒んでるのはどこも同じだよ」

 アルトの心に深く、入り込んできた言葉だった。

 

 流行り病の流行、魔物の凶暴化、暴漢や暴徒が旅人に危害を加えたりなど世が乱れているのはどこも同じだと実感させられる。加えて祖国は戦争の状態になってしまっている。時代が人を乱すのか、それとも抗えない絶望が人を乱すのか、考えても、それは答えなど出るわけもない。

 そう考えた瞬間に、妙に引っ掛かりを覚える言葉が耳に残る。

 

「あの、今、なんて?」

 おずおずとアルトが聞き返す。

「世が乱れてるってことかい?」

「いえ、そうじゃなくて王宮から宝物が盗まれたとかなんとか」

「ああ……そのことか」

 うんざりしたように、男がぽつりぽつりと口を開く。

 

 一ヶ月前にロマリア王宮に賊が入り込み、宝物を奪い去っていったのだという。数名の負傷者を出したものの、宝物を奪われてしまい、ロマリア王朝はこの王家の威信に関わることと判断し、ロマリアの騎士団を差し向けたが返り討ちされてしまったのだと男が語る。同時に、ギルドからの手配者を発行し冒険者や傭兵を募ったが、成果はなく盗賊に返り討ちに会う人間が多いのだという。

 

「別に、金の冠を奪ったぐらいで大袈裟だよねえ」

「あの、すいませんがその金の冠の価値は…?」

 うんざりしたように言う男に、おずおずとシエルが質問をした。

 

「ああ、あれの価値? 代々王家に伝えられて王家の証とされてきたらしいけれどもね」

「それって物凄く稀少なものなんじゃ…」

 

 シエルが唇を引きつらせる。代々王家に伝わるものだとしたら稀少なもので、その盗賊にとっては物凄く値打ちのあるものであることに相違ないだろう。それに王宮が差し向けた討伐隊を退けるとなるとそれなりに力量のある存在であることは想像に難くない。

 

「さて、そろそろ僕も時間のようだ。そろそろ戻らないとね」

 男がおもむろに時計を見て、立ち上がる。

 

「コーヒーは奢るよ。君がどんな人なのか、なんとなくわかったし」

「あの…」

 男の視線がアルトに注がれる。その眼差しに何かの好奇心のようなものを感じた。アルトに……何かしらの意図を持って接触してきた―――そんな予感がした。まだ旅立ったばかりのアルトをなぜ知ることができたのか。

 

「何者だ」

「ただのコーヒー好きなお兄さんさ。また、近いうちに会おう」

 バーディネに軽薄に答えて、手をひらひらとさせた男の後姿をアルトたちが見送る。

 

「なんというか…不思議な人だったね」

 アルトが呆気に取られて、感想を告げる。

 近いうちと言っていた。それはつまり、どこかでまたあの男と再会するのが決まっているということであろうか。

 

 ルシュカが何かに気が付き、立ち上がる。

「さっきの本当の話みたいだよ」

 指差した手配書に名前と罪状が書かれていた。

 

 名前にはカンダタと記されていた。罪状はさっきあの男から聞いたものと同じだが、何を奪われたかは記載はされておらず強盗、殺傷とだけ記載されている。王家の威信と言っている辺り、奪われたものを記すわけにもいかないのだろう。報奨金はだいぶ高額なものであったが。バーディネが補足し、金額が上がればそれだけ危険度の高い敵らしい。

 

「ねえ…」

 手配書を見て、アルトがおずおずと告げる。

「まず、お城に謁見してみない?」

「謁見? 国王が普通の冒険者には会ってくれないだろ」

 ルシュカが指摘するが、アルトが頭を振るう。確かに、一介の冒険者ならば会ってはくれないだろう。

 

「まず、王家から手配されてるのなら被害の状況や相手の力量を知らないと。それに、たぶん王様に会えるよ」

「勇者の肩書きを使うつもりでしょうか?」

 シエルに、アルトが頷きを返す。勇者という時点で普通の冒険者ではない。アリアハンの国家で選定された存在なのだ。それを無碍に追い払うのは得策とは考え辛い。アリアハンとロマリアは王家同士で交流もあるのなら余計に。

 アルトたちは、ロマリア城下を見下ろす白亜の城へと向かうことにした。

 

 

 

 

 

 



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ロマリア篇 「王冠」 2/5

   

 

 

 

 

 眼前に広がるステンドグラスに目を奪われていた。

 イコン画と呼ばれる聖画で、古の伝承に伝わる聖戦の様子を描き、ロマリアで信仰される神々を奉ったものだ。神を崇めるように聖人たちと妖精たちとが邪悪な何かを追い払ったようにも見える。アリアハン、ロマリアで信仰されるのはルビスという女神だとシエルが説明していた。

 

 ルビスは豊穣と大地を司る炎の神で、精霊、妖精たちの主だと伝えられる。あの謁見の間のステンドグラスはルビス神とその眷属たちの聖書に記された争いを描いたものであるらしい。

 その真下に存在する玉座の前で、アルトたちが膝を着いて待機する。王と王妃は未だに姿を現しておらず、傍に控える大臣のみがイラついた様子で待っていた。衛兵たちにアリアハンの勇者として謁見に参った旨を伝えれば、早かった。謁見の間に案内され、王を待つこととなった。

 

 大理石を踏む音が響き、待機していた近衛兵たちが背筋を伸ばし、アルトたちは視線を下に向け、畏まる。玉座に座り込む音が耳に入り、王と王妃が座ったのだと理解した。

 

「面をあげてよいぞ」

「はっ」

 

 アルトたちが顔を上げれば、まだ三十前後だと推測できる精悍な顔立ちをした男性が純白の法衣に身を包んで、堂々たる威厳で若き勇者たちを睥睨した。その隣で穏やかに女性が微笑んでいた。煌びやかなドレスに身を包んだ美人だった。

 

「そなたがアルティスか。そなたの父、オルテガの名は余も聞き及んでおる」

 威厳のある声が耳朶を打つが、気のせいかこの声に聞き覚えがあるような気がした。

 

「遥々アリアハンからの遠路、ご苦労であった。魔軍の脅威こそあれど我がロマリアは屈するほど脆弱ではない。ゆるりとしていくがよい」

「はい、ありがとうございます」

 

 畏まった礼で、アルトが感謝を告げる。他国の王との謁見はこれが初めてであるため、何か粗相していないか不安はあるが、ロマリア王を見る限りその心配はなさそうだった。

 ふと、隣の王妃がくつくつと声を出して笑う。アルトは何か変なことでもしたのかと不安に襲われる。

 

「ねえ、ルードヴィヒ。その偉そうな態度止めにしない? 正直似合っていないわ」

「アリアハンの勇者だと聞いていたからね。あんまり砕けていてもどうかと思うよ」

「その方が貴方らしいわ。畏まっているとおかしくておかしくて」

 また王妃がくつくつと声を出して笑い始めた。それに調子を狂わされたのか、ロマリア王が顔を顰めていた。

 

「あー、もう、だいぶ台無しだけど、よくロマリアに来たね。歓迎するよ。勇者君」

「は、はあ・・・・・・」

 呆気に取られて、アルトが口を開けたまま態度をころっと変えたロマリア王を見つめる。さっきの堂々とした威厳ある姿よりもこっちの方が地なのだろう。

 王族にしては砕けすぎている気がしないでもないが……思い出したアリアハン王も負けず劣らず気さくではあった。

 

「陛下……せめて王としての威厳は持っていてくだされ」

「そうは言ってもねえ。あんまり威厳がないのは自覚してるよ」

 大臣が嗜め、深々と嘆息をしていた。アルトが見ていると大臣が大袈裟に咳をはらって誤魔化していた。

 

「君の事はアリアハン王からの書状を頂いているからね。それで君の事を知っている。どうやってここまで来たかもね」

 ロマリア王が簡潔に理由を言う。どうやら、旅の扉を使ったことも全部承知しているようだった。それで少し、アルトが安堵の念を覚える。

 

「だから……君がどういう人間か気になってね」

「と言いますと」

 アルトが首を傾げて尋ねると、ロマリア王はにやりと笑んだ。すると、指で自分の目元を隠した。

 

「ほら、ロマリアのギルドであったじゃないか」

「は…い……?」

「コーヒーも一緒に飲んだじゃないか」

「ってええ!?」

 驚くのも無理はない。あの時の胡散臭い男がロマリアを統べる王だなんて想像だにしない。してやったりとしたり顔でロマリア王が不適に笑った。

 

「陛下! またですか!」

「いいじゃないか。たまには下々の暮らしを見てみるってのもさあ」

「たまにはじゃないでしょう! いつもでしょう!」

 大臣が咎めるが、ロマリア王はそ知らぬ顔であった。

 

「だから僕にはガラじゃないんだよ。勇者君、僕に代わってロマリアを治めてみない?」

「えええええ!? む、無理です! それに僕は」

「いやいや冗談だから。面白いねえ、やっぱり」

 

 冗談だとわかり、アルトに一気に脱力感が湧き出て、全身の力が抜ける。なんというか破天荒な人だった。冗談にしては冗談に聞こえないことを平然と口にし、圧倒されてアルトが唖然とする。

 怖じることなく物を聞ける気さくさはこの人の最大の魅力なのだろうとそう考えられる。

 

「陛下、お聞きしたいことがあります」

 話の流れを変えるべく、アルトが異を決してロマリア王に本来謁見した理由で話を遮る。

 

「最近、ロマリアを騒がせている盗賊についてお聞きしたいのですけど」

「ふむ・・・」

 さっきまでの陽気ななりは息を潜め、その眼差しに鋭さが宿る。それでもアルトが言葉にする。

「ギルドでの手配書を見ました。金の冠というものが奪われたのだということも」

「そうだ」

 ロマリア王は一呼吸を置いてから、語り始める。

 

「カンダタというものの仕業だ。その者が王宮から金の冠を奪い、逃走した。ロマリアの面子にも関わるから罪状は誤魔化してるがね。だが、ここでそれ以上の話はできない」

「どうして……ですか?」

「その話はやめとけ」

 

 静止したのはバーディネだった。ここで話すことができない理由は明白だった。勇者とはいえ、アルトたちは一介の旅人に過ぎない。謁見の間で各地を流浪する旅人に為政者が国の面子に関わる話を軽々しくできるはずもない。

 

「察しが早くて助かるよ。ところで」

 ロマリア王が指でアルトに近寄るように示唆し、それに戸惑いながら近寄る。小声で何かを告げられて、顔を離す。

「これで謁見は終わりだ」

「……はい」

 アルトが止む無く頷き、衛兵たちも敬礼を持って少年たちを見送った。

 

 

 

 

 街が黄昏の朱に染まり、沈み行く日差しが建物の影を伸ばす。商店街は相変わらず雑踏で賑わい、仕事や学校を終え、帰路に付く人や夕飯の食材を買いに来た主婦などでより活気に満ちていた。

 商店街の中で一際大きな、赤い薔薇の看板が目印の酒場。

 その中の一席に、一際目立つアロハシャツを着たサングラスの男が座り、暢気にコーヒーを飲んでいた。あの時、ギルドにいた陽気な男だった。

 

「やあ、よく来たね」

 この男の素性を知っていれば、場違いというか目立ちすぎというかルードヴィヒが悠々と寛いでいた。

 

「ここに来いと言ったのは陛下でしょう」

 アルトたちにこの喫茶店に来るように言ったのは、ルードヴィヒだった。周りに聞こえないように小声で囁いて。

「いやいや待ちたまえ、アルティス君」

 ばっと前に手を上げて、困ったような声で眉を潜めていた。

 

「僕はロマリアの陛下なんて大それたもんじゃない。ただの酒場でコーヒー飲んで寛いでいるちょっと陽気なナイスミドルだ」

 人差し指を振って、アルトたちの過ちを指摘する。本当に変わった人だなあ、としみじみアルトは思ってしまった。

 

「何がナイスミドルだ。それに酒場ならコーヒーじゃなく酒を飲め」

 開き直ったように、空いた席にバーディネが座り込む。

「あ、君、そんな口を聞いて」

「ただの陽気なおっさんなんだろ。だったら何も問題ないだろ」

 ルードヴィヒがぐっと言葉を詰まらせる。それを見て、バーディネが勝ち誇ったように鼻で笑う。

 

 

「仕方ない。ここは目を瞑ろう。それと僕は酒は苦手なんだ。だからコーヒーで勘弁してくれ」

 渋々と言った様子で、ルードヴィヒが諦め混じりの溜息をついた。すぐさま立ち上がり、ポケットから金貨を取り出して、テーブルの上に置く。

「ここで話もなんだ。ちょっといいところがある」

 にやりとしたり顔でルードヴィヒが笑んだ。彼に案内されて、酒場の奥にある階段を降りる。薄暗い闇から一気に視界が開け、商店街よりも何倍もの活気に満ちていた。闘技場が併設され、それを取り囲むように観客たちが賑わいを見せていた。それにアルトが圧倒される。

 

「格闘場だな」

 下を見下ろして、バーディネが告げる。格闘場はかけ金を賭けて、捕獲してきた魔物同士を戦わせる賭け事だ。娯楽の一種なのだが、観客たちのざわめきを見る限り、だいぶ盛り上がっているようだった。

「世俗的です。魔物といえども見世物にするなんて」

 呆れたようにシエルが言う。僧侶であるシエルには受け入れ難い娯楽だろう。先に観客席へとアルトたちが座って待っていると、

 

「厳しいねえ」

 そう軽薄な笑みを浮かべて、ルードヴィヒが観客席に座り込む。手に握られていた券から何かに賭けたのだろう。

 観客が一斉に沸き立ち、闘技場に芋虫状の魔物キャタピラー、液体状のバブルスライム、人より大きな大型の兎アルミラージなどが入り、合図と共に試合を始める。

 

「さて、どうかな?」

 

 ルードヴィヒが息を呑んで、試合を見守る。まず攻撃に出たのはアルミラージだった。咆哮をあげて、バブルスライムを眠らせ、その間にキャタピラーを倒す作戦のようだ。しかし、キャタピラーが転がって体当たりで先制攻撃を食らわされて、アルミラージがたじろぐ。そのまま尻尾を打ち付けて、キャタピラーがアルミラージを吹き飛ばす。

 

 眠っていたかと思ったバブルスライムがキャタピラーの上に乗り、皮膚に痣が残り、バブルスライムの液体が染み込んで行く。キャラピラーが苦しみ出して呻き声を上げる。毒が回って来たのだろう。キャタピラーから振り下ろされ身体が散り散りになるが、すぐに収束して元通りに戻る。

 

 この試合で勝利したのはバブルスライムだった。

「よしっ、勝った」

 ぐっと券を握り締めて、ルードヴィヒがにっと笑った。ルードヴィヒが急いで立ち上がり、新たに賭けてきたようだった。また急いで座って試合を眺める。

 

「あの…」

 おずおずとアルトが聞く。試合に没頭して、本来の目的を忘れているような気がしたからだ。たぶん、ルードヴィヒにとってはこれが本来の目的なのやもしれないが。

 

「おっと……忘れてないからね」

「本当ですか?」

 アルトの問いに頷くルードヴィヒ。しかし、ルードヴィヒの視線は試合に注がれたままであったが。

 

「カンダタのことは謁見の間では話すことが出来なくて申し訳ないと思っているよ」

「話せなかったのは俺たちが冒険者だからか」

「それもある」

 真剣な声色で、ルードヴィヒが肯定する。

 

「もう一つ、そのカンダタは僕らにとって身内だからだ」

 ルードヴィヒは変わらずに試合に視線を注ぎながらも、その目には憂いがあった。

「カンダタはかつてロマリアに所属していた密偵だった。盗賊として優秀な男だった」

 

 時に、盗賊を秘密裏に雇うということがある。その主だった理由は彼らの情報網を使って、領土内における取り締まりや治安維持に当たらせる……目には目をという具合に。ロマリアもまた盗賊を雇い、治安維持に活用する国家の一つだった。

 

 カンダタもそう行った事情で雇われた一人だった。雇われた中では特に優秀で、傭兵崩れの戦士数人であろうとも制圧できるほどの実力を誇っていた。粗野な男ではあったが国に対して忠誠度は高く、信頼の置ける男であったという。

 

「そんな男が何故お前を裏切る?」

「さあてね。この国ではちょっと前に疫病が蔓延してね」

 バーディネの問いにやんわりと答え、ルードヴィヒが言葉を区切り、一息つく。

 

 ロマリアがその疫病の感染拡大を防ぐために取った措置は、感染が確認された村を焼き払うという術を取った。

「そんな……それ以外に方法はなかったんですか?」

「方法を模索してるだけの時間がなかった。時間を許せば、感染は拡大し続ける一方だった」

 シエルに、鋭い眼光を向けルードヴィヒが向ける。

 

「呪文は効果がなかったんですか?」

「やったけれども、症状を和らげるのが精一杯だった」

 それを聞いた後で、シエルの視線が下を向く。呪文は万能の力だが、全能の力ではない。時に人の傷を癒し、凄まじい破壊力を発揮するが流行り病や疫病に関してはせいぜい症状を抑えるぐらいのことしかできない。失敗をすればむしろ病を悪化させることもあるそうだ。

 

「元々はこちらの身から出た錆だ。受けるも受けないも君らの勝手だ」

 ルードヴィヒが自虐気味に笑い、掛札をきつく握り締めた。

「いいんですか? 報復のつもりなら命を狙ってくることだって」

「構わないよ。そこで僕が死ぬならそれが天命ってヤツだ」

 ルードヴィヒがからっと言い切り、再び試合を見やる。

 

「わかりました。金の冠を奪還…受けます」

「ありがとうね。情けないのはこっちだというのに。おっと負けてしまった」

 話が終わると同時に試合が終了し、ルードヴィヒの掛札は違ったようだった。

 

「おれは勝ったよ」

「羨ましい限りで」

 いつの間にか掛札を買っていたルシュカが勝ち誇り、ルードヴィヒが失笑する。

 

「カンダタはロマリア北西のシャンパーニ地方の灯台に潜伏している。健闘を祈るよ」

「―――はい」

 アルトが頷くと同時に、寂しげにルードヴィヒが微笑んだ。

 

 

 

 

 

 



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ロマリア篇 「王冠」 3/5

   

 

 

 

 

 空が泣き出した。

 旅をしているのだから晴天がいつまでも続くわけではなく、移動の最中に雨が降るということも間々ある。ぬかるんだ地面に足をとられまいと気をつけながら、先を急ぐ。

 

 暗雲が唸り、獣の咆哮にも似た怒号が轟き、雲の狭間を駆け抜けた雷光が空を引き裂く。密やかに降り出した雨は瞬く間に激しい音を立てて豪雨となる。

 ロマリア王都から北上し、山岳の中継地点カザーブを経由してシャンパーニ地方へと進むアルトたちはカザーブへと向かう道中暗雲と遭遇してしまった。旅人にとって雨は足止めや野宿に不都合が生じるものであるため、あまり好まれない。

 

 音のある静けさとでも言えようか。雨音が騒音を遮り、少年たちの足音だけを響かせる。

 こんな強い雨だ。魔物といえども巣で大人しく暗雲が過ぎ去るのを待っているんだろうか。その前にアルトたちもどこかで雨宿りをしないと体温が奪われ、体力を消耗し易い。そんな状況で、雨道を進むのは好ましいとはいえない状況だった。

 

 雨の森を進んで、開けた場所に出る。

 廃村のようだった。焼けた家があちこちに見えることから焼き討ちに合ってそれで逃げ出したのだろう。人の気配を確認できず、また村に住んでいる様子もまた見受けられない。出て行った家に入るのは少し気が引けるが、その中の家の一つに転がり込む。

 

「助かった…」

 ほっとしたように、ルシュカがのんびりと言う。ここで暫く凌ぐことになりそうだった。アルトが外套を脱ぐと、足元に水滴が堕ちて石畳をびしょびしょに濡らす。

 家を見渡せば壁のあちこちに亀裂が走り、手入れがされていないためか埃が舞っており、家具はあるが物取りに荒らされたような形跡がある。荒れ方からして放置されて大分経過しているようだった。

 

 廃村の様子から見受けるに、ルードヴィヒが語っていた疫病の蔓延を防ぐために幾つかの村を焼き払わざるを得なかったと言っていたが、この村もそう言った事情で焼かれた村の一つなのだろうかと考えてしまう。

 そんな少年の思惟を飲み込むように、雨音は激しくなっていった。

 

 ぼんやりとした眼差しで、シエルが窓の向こうを見つめていた。

 窓の向こうは焼き討ちにあったと思わしき、焼け跡が広がっていた。そこには喧騒があって、温もりがあったはずだ。それが今では人はいなくなり、その残滓だけが残され、崩れ落ちている。

 

「どうしたの?」

「あ、いえ」

 シエルが声を掛けられ、はっとした面持ちでアルトへと向き直る。

 

「僧侶にはこんな時代で何が出来るのかなって、ふっと思ってしまって」

 はにかむようにシエルが言い、そのまま続ける。

「人の人心を救うのは神であり、その教えであると思ってきました。それは今でも変わりません。乱れた時代だからこそ教えを守ることで救われるのだと信じてきました。けど」

 そこから声に愁いを帯びてシエルが言いよどむ。

 

「時代の流れはわたしが考えてるよりずっと早くて………僧侶に出来ることなんて本当はとても少ないんじゃないかって、そう思えてきて」

 そして、再び少女が視線を窓の先の廃墟へと向ける。雨に打たれた燃え滓が濡れ、雨の音となって反響している。

 

「出来ないことなんて無いよ」

 アルトが告げて、シエルが驚いたように向き直る。

 

「出来ないことなんてない。僧侶として誰かのために祈ることだってその人のために心からそうすればきっと心にも届くんじゃないかな?」

「そう、でしょうか」

「そうだよ、きっと」

 不安げな眼差しを向けるシエルに、アルトが優しく微笑みかける。

 

「わたしでも、できるでしょうか?」

「シエルだからこそ、できるんじゃないかな」

 そうアルトが微笑んで告げて、シエルが照れたのかほんのりと頬を桃に染める。

 

「おい・・・」

「わかってる」

 バーディネに促されるまでもなく、アルトも察知していた。人の気配だ。自分たち以外の。この建物の上からあるようだった。シエルとルシュカもまた、それに身構えて応じる。ここに迷い込んだだけの誰かかそれとも金品を狙った物取りか。

 

 階段から降りて来たのは火球だった。部屋の中で燃え上がった炎が爆ぜ、石畳を吹き飛ばす。燃え上がらなかったところを見ると威嚇の意を感じ取ることができた。それでも炎と光が舞い上がるのと同時にそれ以上に派手に舞い上がった埃が視界を土色に染め上げ、器官に入り、アルトが軽く咳き込んでしまう。

 それを防ぐために外套で口元を塞ぐ。その隙をついて離脱しようとした声の主が階段を駆け下りてくる。

 

「げほっげほっ、ちょっ待って。これはマジで勘弁」

 大仰に噎せ返る女のものと思わしき声が聞こえていた。……術者はアルトたち以上に咳き込んでいたが。恐らく一気に離脱しようとして、一気に埃を吸い込んでしまったのだろう。ご愁傷様としかいえない光景だった。

 

「ちょっ、ちょっと休憩…!」

「あ、あの、お水どうぞ…」

「あ、ありがと」

 口元に手を当てたシエルがおずおずと声の主に近づき、自分の水筒を手渡す。声の主が水筒を受け取り、勢い良く喉に流し込んだ。いい飲みっぷりだった。

 

「……はっ」

 何かに気が付いたように声の主が硬直する。がくがくぶるぶると生まれたばかりの子鹿のように小刻みに震えだす。

 

「てっ、敵の施しを受けてしまった……!」

「あまりお気になさらずに~」

「これはこれはどうもご丁寧に」

 シエルが深々と頭を下げて、声の主も深々と礼をした。つかつかとバーディネが歩み寄り、喉元に短剣を当てる。

 

「なんなんだ、お前は」

 鋭く睨み据えるようにバーディネが闖入者に問い質す。

 完全に土埃が晴れ、視界がはっきりと見えるようになる。

 

 そこにいたのは黒いローブに耳まで覆うほどの大きめなマジックハット、そこから覗かせる新緑のワンピースを纏った少女だった。橙色のセミロングに切り整えられた髪。顔立ちは整っていたがつんと釣り上がった大きな目と翡翠の瞳が魅力的な印象を与える。

「なんなんだ・・・・・・はこっちの台詞よ! 人が雨で休憩してたらずかずかと入り込んできて!」

 バーディネの鋭い眼光を物ともせず、がーっと少女が喚き立てる。

 

「ここはお前の家じゃないだろ」

「そうだけど、女の子が一人でいることを大勢でずかずかと! あ、さっきは水ありがとね」

「どういたしまして」

 さすがにシエルも呆気に取られたように少女を見る。喉元にバーディネが短剣を突きつけても、尚物怖じせず少女は態度を変えることをしなかった。

 

「ちょっと、これどけてよ」

 頬を膨らませて、バーディネに抗議するが聞くつもりはない様子だ。この少女の素性が知らないため、警戒をするのも無理からぬことではあるが。

 

「どけてあげてくれない?」

 見かねたアルトが、バーディネに言う。鋭い視線がアルトを射抜くがそれでも物怖じすることなく、アルトもバーディネを見つめる。

 素性が知れない少女ではあるが、自分たちに仇成すつもりはないようだった。現に攻撃しようと思えば威嚇ではなく、こっちに直接攻撃の意思はないことはアルトにも信じられた。

 

「―――どうなってもしらないからな」

「ありがとう」

 短剣を収め、一瞥代わりにアルトにバーディネが告げる。それにアルトが微笑む。

 

「大丈夫?」

「うん、ありがと」

 尻餅をついたままの少女に、アルトが手を差し伸べる。それに掴まって埃を払いながら少女が立ち上がる。そのまま交錯した少女の翡翠の瞳に邪気はなく、敵意もなかった。

 

「君はどうしてここに?」

「雨宿り。あんたたちと一緒」

 アルトの問い掛けに素っ気なく少女が言う。少女は北にある故郷へ帰る最中に雨が降って、この廃村で雨宿りをしていたが、その途中でアルトたちがこの家に入ってきたから敵と思い、臨戦態勢に移ったのだという。

 

「ごめん。驚かせて」

「いいのいいの。誤解だったんならそれで」

 詫びを入れるアルトに少女がからからと笑う。

 

「あたしはメリッサ・カールフェルト。メリッサでいいよ」

「僕はアルティス・ヴァールハイト。こっちがシエル、ルシュカ、そしてバーディネ」

 アルトが順々に紹介をしていく。バーディネだけはさっきのやり取りがあったためか、軽い睨み合いの状況になり、アルトが失笑する。警戒していたとは乱暴なことをしたのだから仕方がないとは言えるが。

 

「あんたたちはどうして北へ?」

「ギルドを通しての依頼。金の冠を奪還してほしいって」

 ルシュカが言い、メリッサが意外そうな顔でアルトたちを見ていた。

 

「噂のあの盗賊? あの義賊の?」

「義賊?」

 

 メリッサの口から出た新しい情報に、アルトたちが顔を見合わせる。ルードヴィヒは奪ったのはかつてロマリアに所属していた密偵が王宮を裏切り、金の冠を奪ったと言っていた。カンダタという盗賊はそれとは別の側面を持っているようだ。

 メリッサが言うには、カンダタは義賊として名を知られ、悪徳な貴族や商人を狙って襲撃し、それで奪ったものを金品に代えて貧しい人々に分配しているのだと言う。

 

「粗暴だったとかあの王様言ってたけど、なんか訳がわからなくなるな」

 ルシュカが顔を顰めて、頭をかく。

「いい人なのでしょうか?」

「わからない……」

 シエルが顔を曇らせて、アルトが横に顔を振る。

 

「気にするな。それがどんなヤツだろうと依頼はきっちりこなす。それが冒険者だ」

 戸惑うアルトたちに、バーディネがぴしゃりと言う。王国で処理し切れなかった罪人を討伐するのもまた依頼では良くあることだと語る。それがどんな人間であろうとも。

 

「あんたたち、あのカンダタと戦うの?」

「うん」

 返答を聞いた後に、唇に指を当ててメリッサが暫し思案をし、

「だったら、あたしも一緒に同行させてくれない? 報酬はいらないからさ」

 と、あっけらかんとした口調で提案してきた。

 

「報酬がいらない?」

「そう、いらない。カンダタが奪った財宝に探してるものがあるか確認したいだけだしさ」

 訝しげに彼女を見つめるバーディネだったが、事情を詮索するつもりはなかったらしく、それ以上は聞かなかった。

 

「攻撃呪文の使い手はあんたたちの中にいないでしょ。あたしは魔法使いだし、いたら役立つと思うけど」

 そういうとメリッサがにやりと笑った。

 確かにアルトたちには、攻撃呪文を使える存在が不在なのは事実だ。回復呪文の専門としてシエルがいるが、彼女に加えて攻撃呪文の使い手が加われば心強いのは確かだった。

 

 僧侶が呪文をマナが引き起こす奇跡として信仰するのに対して、魔法使いはマナで再現できる神秘として探求し、自身の手で生み出し、使役する。攻撃呪文や相手に対して力を弱めるなどといった呪文を操る。アルトやバーディネの剣戟に加えて、メリッサの攻撃呪文が加われば攻撃の枠も広がる。

 

「わかったよ。一緒に行こう」

「え、本当に?」

「探し物があるんなら一緒に探したほうが効率がいいし、それに僕が力になりたいと思ったんだ」

 アルトがメリッサに告げて、微笑む。

 

 それが何よりも彼女と一緒に行動したいと思った理由だった。アルトが気になったのは笑みを浮かべているが、彼女の眼差しが真剣な光を湛えていたのがわかった。何かの事情があって、それを真剣に探しているのなら……。

 

「よろしくなっ」

「よろしくお願いしますね。メリッサさん」

「え、あ、うん、よ、よろしく。あたしのことはメリッサでいいよ。堅苦しいの苦手だし」

「はい、メリッサ」

 シエルが微笑み、ルシュカがにっと笑いかけて、メリッサが照れくさそうに視線を逸らす。

 

「あんまり、素性の知れない人間を信用しすぎるなよ」

 釘を指すように、バーディネが言い、横目でアルトがバーディネを見つめる。

 

「メリッサは大丈夫だよ。悪い子じゃないよ」

「人を頭から信じすぎると痛い目を見るぞ」

「それでもいいよ。何度裏切られたって、それ以上に人を信じたいって、そう思えるから」

 何も言わずに、バーディネが擦れ違う。その姿を見てアルトが拳を握り締める。

 

 バーディネの言わんとしている事もわからないではないことだ。世の中の人間が皆、信じられる人間ばかりとは限らない。だが、それでもアルトは人を信じていきたい。出会う人を皆、最初から疑ってかかるのは悲しすぎることだから。

 

 

 

 

 

 



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ロマリア篇 「王冠」 4/5

   

 

 

 

 

 波涛の音が幾重にも反響し、緩やかに消えていく。

 空を舞う海鳥たちが泣き声で存在を知らせ、彼らが飛び交う空は鉛色の空でいつ、空が鳴きだすとも知れぬ暗雲に染められていた。

 

 海岸の絶壁にその塔は聳え立っていた。行き交う船を照らす灯台としての役目をかつては担っていたのであろうが、それが忘れられて久しいことは寂寞とした雰囲気と長い間雨風に晒され、かつては赤々とした煉瓦だったものが赤茶色に変色していことからわかる。長い年月を経過しても尚、海を見守るその姿は雄々しく、悠然としていた。

 

 ここがシャンパーニの塔と呼ばれる、金の冠を盗んだカンダタがアジトにしている場所だ。

 確かにここならば人の記憶から忘れ去られ、ロマリア地方の西端に位置するここならば追撃から逃れ、身を隠すにはうってつけの場所といえる。

 

 そんな賊たちの居城をアルトたちは少し離れた場所から見守る。

 メリッサが合流してから約二週間余り。ロマリア北部の山脈地帯であるカザーブ地方を西へと進み、緩やかな湿地帯が続くシャンパーニ地方を西へと歩みを進めて、漸く辿り着くことが出来た。

 

「カンダタって奴らいるみたいだよ」

 ルシュカが双眼鏡で見つめ、双眼鏡をアルトが受け取って確認する。数匹かの馬が止められているどこかに出ているのであれば馬でわかることから、当人たちは今日はどこかに盗みに出ずに塔にいるのだろう。金の冠を奪還するだけなのだから、不在なのが好ましかったが仕方がない。

 アルトが気を引き締めて、肺の空気を入れ替える。一戦は避けられないかもしれない。相手はロマリアの密偵として腕利きであったとルードヴィヒが言っていた。決して油断のならない強敵だ。

 

「アルト君」

「どうしたの?」

 シエルに声を掛けられて、アルトがびくりと強張りながら視線を向ける。

 

「い、いえ、緊張しているようでしたので」

 アルトの反応でシエルも驚いたように答える。

「そういえば俺たちにとってみればこれがこのパーティでやる初任務になるな」

 のんびりとアルトたちを見渡しながらルシュカが告げる。魔王討伐と宝珠奪還の任を受けているがそれはあくまで勇者としての使命でのことだ。一冒険者としてギルドを通じての任務はこれが初めて経験することだ。

 

「ふぇ? そうなの?」

「この面子ではな」

 目をぱちくりとしながらメリッサが驚いて見せ、バーディネがそれに同意する。

 

「緊張しているのはわかりますけど、もう少し肩の力を抜きましょう。盗賊さんたちは手強いかもしれませんけど、もしかしたら話せばわかってくださるかもしれませんし」

 シエルが緊張したアルトの手を両手で包み込むように、握る。ほんのりと伝わる彼女の体温にどきりとしながらまじまじとアルトが見つめ、それに応えてシエルが微笑む。

 

「そう、だね」

 アルトもまた微笑みを返して、頷く。

 今からそう強張る必要もないのかもしれない。それに相手は義賊で知られている。話し合いで解決できる望みだってまだあるのだ。

 相手の強大さに尻込みをしていたのかもしれない。そんな自分の弱気を絞り出すようにアルトが頬を叩く。

 

 脳裏に過ぎるかつての兄の姿。その姿はどんな強大な存在にだって怯むことはなかった。その姿が勇者であるというのならそれを自分自身と重ね合わせ、アルトが一歩を踏み出した。

 何故ならば―――今は、自分が勇者の称号を継いだのだから。

 

 

 

 硬質な石畳を踏む音が反響する。アルトたちが塔を歩く音以外は時折何かの虫が蠢く音が耳に入るぐらいで、他の生き物はいないようだった。魔物でさえも。

 曇り空で日が射さないためか、全体的に薄暗くそれが薄気味の悪さを強く感じさせる。まだ日が堕ちる時間帯ではなく、普段使用されない場所であるのか通路のあちこちにある蝋燭が灯されてはいなかった。がたがたと小さい窓を揺さぶる強風が何かの生き物の呻き声に似ていた。それが塔の不気味さを煽り立てる。

 

 塔に侵入してから誰とも遭遇していない。塔内には見張りがいるだろうと予想されたが、その予測は外れていた。奇襲の気を窺っているものとも考えられるが、そんな気配もないらしい。

 どれほどこの塔を上ってきたのか。順調にここまで来たがバーディネが言うにはまだまだ塔の上層に差し掛かった部分ぐらいだという。後少しだけ、頂上まであるということだ。

 

「まだ、あるのか」

 うんざりしたようにルシュカが告げる。息を切らして、立ち止まる。ルシュカはロマリアで買い揃えた鉄の槍を背負っている。一般的な兵士が好むもので、重さもかなりあるものだろう。

 ここまで盗賊一味との遭遇はない。ここまで彼らと遭遇していない。見張りなども含めて見かけていないことから盗賊たちはもっと上の階層に潜んでいるのだろう。先はまだまだ長そうだ。

 

「何この程度でへばってるのよ」

「仕方ないだろ」

 呆れ混じりにメリッサが胸を張って、それに息も絶え絶えにルシュカが反論する。

 

「そろそろどこかで休憩しませんか? まだまだ先は長そうですし」

「お、さすがシエル。気が利くね。どっかの誰かと違って!」

「何よぅ。体力のないそっちが悪いんでしょ!」

 言い合うルシュカとメリッサの二人に、シエルが失笑しながら見ていた。

 

「僕もそろそろ休憩したほうがいいと思うけど」

 アルトが言い、先頭を歩くバーディネに呼びかける。バーディネがアルトたちを一瞥し、向き直る。

「そうだな。この後に、何があるかわからないしな」

 意外にもバーディネが賛同した。それにアルトが驚きを隠せずに、表情に出してしまうも、バーディネはあまり気には止めていないようだった。

 

「…? どうした」

「ん、いや、なんでもないよ」

「変なヤツだな」

 驚くアルトに対して、バーディネが肩を竦めた。彼ならばもっと先に進むべきだと反論されるものと思っていたアルトには意外であった。

 

 

 この階層を進んだ先に、開けた広間があった。四方を見渡せ、視界を阻むものといえば塔を支える二対の巨大な柱のみ。

 だが、そこには、

 

「なんだ!? 貴様らは?」

 黄昏色した甲冑を纏った騎士たちが待ち構えていた。奥に見える上層へと続く階段。その先が彼らのアジトであるのは間違いない。

 彼らが剣を抜くより早く、バーディネが駆けた。一瞬のことだった。瞬きをする頃には敵の懐を掻い潜って、甲冑の間隙を縫って短剣を振るっていた。見張りは微動だにすることなくその場に崩れ落ちた。

 

「こ、殺したのか?」

「違う。殺してはいない」

 ルシュカに応じ、バーディネが倒れ伏した見張りたちに一瞥もくれることなく告げる。見れば確かにまだ呼吸をして、生きている。気絶させただけで、命を奪うつもりはなかったようでアルトが安堵する。

 

「先に行くんじゃないのか」

 鋭い眼光に促され、アルトがバーディネを見やる。

 

「ありがとう。でも」

「でも、なんだ。こいつらは紛れもなく悪党だ。義賊を気取っちゃいるがその影で何人もの人間を泣かせてきた連中だ。覚悟を決めろ」

 反論する言葉も浮かばず、翻したバーディネの背中をアルトが見つめる。躊躇いを……人と戦うことにアルトが惑っている。誰かを傷つけることに迷いを抱いている。

 義賊で、彼らに救われた者がいる一方で、彼らに泣かれた者もまたいる。だからこそロマリアの王宮は彼らの討伐をギルドに依頼したのだから。

 

「アルト君…」

「大丈夫。大丈夫だから」

 呼びかけたシエルの真紅の瞳は心配を湛えていた。それにアルトが自分に言い聞かせるように、言葉を返す。胸元の外套を握り締め、短く深呼吸して気持ちを落ち着ける。アルトがシエルに笑顔を作り、外套を翻して、階段で待っていたバーディネの後に続いた。

 

 階段を駆け上がったその先には宝物庫と居間が合わさったような金銀財宝所狭しと並んだ部屋であった。

 そこにいたのは下にいたのと同じ金色の甲冑の騎士が複数と、黒装束を身に纏った銀髪の化粧っけのない女性、そしてまるで玉座に座るかのように悠然とソファーに座り込んだ黒装束に身を包んだ、漆黒の覆面をした人間だった。

 ぎらつく眼光が少年を見据えている。見つめる眼差しにはまだ何の感情も込められていない。だが、その威圧感は間違いなくアルトの背筋を冷たくさせる。滲み出る殺気だけで人を殺せそうにも思える。

 

「あなたが、カンダタですか?」

「何だテメェら?」

 不愉快そうに少年を見つめる男の声は低く耳朶を打つ。ドスのある声が男の凄みを何倍にも増幅させる。それに負けじとアルトもまた彼を見据える。

 

「金の冠を返してくれませんか…?」

 カンダタがくつくつと笑い始める。

 

「ってことはつまりロマリアから冠奪還で差し向けられた奴らか。金に目が眩んだ馬鹿ってことか。返せと言われてあれだけのもんだ。はい、そうですかと返すわきゃねえだろ」

「その通りだな」

 バーディネが同意して駆ける。銀の一閃がカンダタに閃くが、傍らで控えていたもの一人の漆黒の覆面が同じく短剣で切り払う。刃と刃が悲鳴を上げあって鍔迫り合いになる。

 

「ふん……短気な野郎だ。だが、お前のような奴は嫌いじゃない」

「金の冠とやらを置いて、さっさと逃げ出せば命は奪わないでおいてやる」

「生意気なガキは早死にするぞ!!」

 

 覆面の下から怒号が飛び、バーディネと鍔迫り合いをしていたもう一人が軽やかにカンダタの背面に跳躍する。カンダタが足元のタイルを深く踏み抜く。

 アルトの足元に石畳の感触が喪失し、浮遊感に襲われる。アルトたちがすぐ下の階層まで叩き落される。アルトが咄嗟にシエルを抱きかかえて、そのまま地面に着地する。足に痺れるような痛みを伴うが、すぐさま消えて彼女を地面に下ろす。

 

「ありがとうございます」

「なんであたしは放置しとくのよ!?」

 シエルが頬をほんのりと染めながら頭を小さく下げるのを見て、メリッサががあ、と喚く。尻餅をついたままのメリッサがジト目になって涙目になっていた。

 

「わ、ご、ごめん!?」

 咄嗟にアルトがわたわたとしながら謝る。アルトが手を差し伸べて、それに掴まってメリッサが立ち上がる。

「女っぽさの差じゃないのー?」

「何ですってー!?」

 茶化すルシュカにメリッサががあ、と喚く。

 

 和みかけた空気も一時も一瞬で終わり、上から金色の甲冑たちと横にいた黒装束の片割れが下に駆け下りてくる。それに気を引き締め直してそれぞれが武器を握り締め、すぐさま臨戦態勢となる。

 追撃に来たのか、それとも確実に仕留める為に来たのか。どちらにせよ、地の利を知り尽くしている盗賊たちに優位な状況は変わらない。

 

 階段を阻まれた形となり、カンダタの元へと行くにも、宝物庫に行く為にも彼らを退けなければならない。短く一呼吸をして、アルトがきつく剣を握り締める。人と人との戦い、制する為の戦い。どのような形であれ依頼であれ、誰かを傷つけて事を成す―――。

 

 誰かを守るために、誰かの笑顔のために強くなる。

 最後まで果敢であり続けた背中が、その生き様を示した。それを、そう在りたいと願うのであれば。

 後ろにいる仲間たちを守るために剣を振るう。誰かを傷つけるための戦いではなく、仲間を傷つけるために戦う覚悟。

 

 アルトが一息を付いて、敵を見つめる。

 敵は四人。宝物庫でカンダタの傍に控えていたように、腹心なのだろう。バーディネの先制攻撃を止めた所を見る限り、相当な手誰であるのは間違いない。黒装束が攻撃の要になり、甲冑たちがその守りとして固まっているのだろう。

 

 畳み掛けるように彼らが駆け下りてくる。硬質な足音がじゃらじゃらとけたたましく反響し、豪快な槍の一閃がアルトの胸元へと放たれ、アルトが鋼の剣で弾く。生じた火花を間を擦り抜けて、もう一人が槍での一閃を放ち、崩れた体勢のまま無防備に穿たれんとした瞬間。鋼の槍がそれを弾く。

 

 ルシュカだった。得意げにへへんと笑った後に槍を弾き、予期しなかった邪魔に今度は相手の体制が崩れて、アルトが腹部に蹴りを放って、甲冑を一人吹っ飛ばす。壁に叩きつけられ、勢い良く頭を打ったためか甲冑はそのまま気絶したようだった。

 安堵しかけたその瞬間にルシュカが殴り飛ばされて、派手な土煙が舞う。黒装束の中から切れ長の茶色い瞳がアルトを捉え、握られた小太刀が襲い掛かる。それを阻んだのはバーディネだった。

 

 刃と刃が悲鳴を上げあい、鋭いアメジストの瞳が敵だけを見据える。一際甲高い金属の音が反響し、二人が距離を取る。

 バーディネが駆け出して、握り締めた聖なるナイフが虚空に幾重もの銀の軌跡を生み出しては火花を弾けさせる。紅の華がそこにあった断末魔の叫びのように剣戟が噛み合う。

 幾度目かの切り結びあい弾かれた後にバーディネが真っ直ぐに胸元を穿たんと突きを放つ。剣筋は読まれていたのか再び剣で弾かれようとしていた。

 

 だが、そうはならなかった。空ぶった黒装束の剣は空を切り、その間隙を縫って腹部に突きを放つ。咄嗟に後ろに短く飛び傷を軽減させる。バーディネが空かさず外套を相手の目の前で靡かせて、視界を遮りその隙に黒装束の胸元に銀の一閃が煌く。

 アルトの蒼い眼差しがバーディネの戦いを見つめる。手誰であろうあの黒装束にも匹敵する腕前。速さでは僅かに上かもしれない。アルトの眼差しでは捉え切れないほどの速度の剣の切れと、迅さ、そして巧みさだ。

 

 黒装束が後ろに跳び退り、抉られた傷を庇う様に地面に膝を付いた。それをバーディネが感情を込めずに見つめる。彼がやられたからか残った二人の甲冑も狼狽しているようだった。

 

「情けねえ。こんなガキどもに」

 上から響いた低く野太い声が耳朶を打つ。同じく黒装束に身を包んだ巨躯が広間に降り立った。

 

 

 

 

 

 



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