六六機動部隊物語 (緒方一郎)
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プロローグ 艦船解説

みなさん、初めまして。
ガンダムの二次創作は、別のサイトで別名で書いるのですが架空戦記は人生初めてです。
なので至らないところが多々あるかと思われますがご了承ください。
http://novelist.jp/work_list.php

ガンダムの二次創作作品です


駆逐艦

 

神風型駆逐艦

艦種 一等駆逐艦

艦名

前級 峯風型駆逐艦

次級 天津風型駆逐艦

 

要目

 

基準排水量 1680t

全長 118.5m

水線長 115.30m(公試)

垂線間長 112.00m

全幅 10.36m

深さ 6.25m

吃水 公試 3.20mまたは3.192m

満載 3.50m

機関 AEGフルカン式直結タービン2基2軸推進

最大出力 5500hp

速力 38ノット

航続距離 14ktで4500浬

燃料 重油:458トン

乗員 205名

兵装

50口径12.7cm連装砲3基6門

前期 6.5mm単装機銃2挺

中期 三年式機砲2挺

後期 7.7mm機銃2挺

61cm3連装魚雷発射管3基9門

(八四式魚雷12本)

前期 機雷投下軌道2本、一号機雷16個

中期 単艦式大掃海具1組

後期 八一式爆雷投射機2基、同装填台2基、同投下軌道2条、爆雷18個

 

概要

神風型(二代)は、戦艦長門などの建造に代表される八八艦隊計画の一環で計画された大型駆逐艦である(艦隊型駆逐艦)。

八八艦隊計画での主力大型駆逐艦として27隻の建造が予定されその結果艦名に使用する名称が足りなくなることから艦名は番号を付けることになった。

ワシントン海軍軍縮条約締結により結局本型の建造は、26隻となり1928年(昭和3年)8月には固有の艦名が付与された。

日本駆逐艦としては、初めて61cm魚雷を採用し3連装魚雷発射管3基を搭載した。

機関は、ドイツ海軍の水雷艇V-105級に使用されていた機関をライセンス生産し採用した。

また1943年(昭和18年)8月以降には、一部の艦の魚雷発射管が改造され九一式魚雷(酸素魚雷)が搭載されている。

これまでの駆逐艦と比べて凌波性がかなり改善されており用兵側も満足していた。

しかし14ノットで4500浬と言う航続力は、更に延伸する事を望まれたが航洋駆逐艦としてようやく実用に足る性能をもった艦形であると言える。

用兵側の満足する航続力を達成するには、無条約時代の陽炎型駆逐艦まで待たなければならなかった。

なお妙風以降は、条約違反だったが同盟国の大韓帝国に秘匿してもらった。

 

同型艦 神風 朝風 春風 松風 旗風 追風 疾風 朝凪 夕凪 妙風 清風 村風 里風 沖津風 霜風 朝東風 大風 東風 西風 南風 北風 早風 夏風 冬風 初風 雪風

 

天津風型駆逐艦

艦種 一等駆逐艦

艦名

前級 神風型駆逐艦

次級 谷風型駆逐艦

 

要目

基準排水量 約1780英トン(時津風)

公試排水量 2061.424トン(天津風)

満載排水量 2255.734トン(天津風)

全長 109.50m

水線長 105.50m

垂線間長 103.50m

全幅 10.00m

水線幅  10.00m

深さ 6.00m

吃水 公試平均 3.492m(天津風)

満載平均 3.775m(天津風)

速力 33.27ノット(時津風)

燃料 482.962トン(天津風)

乗員 1937年4月23日附定員 205名

兵装

50口径12.7cm連装砲2基4門

50口径12.7cm単装砲1基1門

7.7mm機銃2挺

61cm3連装魚雷発射管2基6門

 

概要

海軍軍縮会議の結果補助艦の保有量も制限され(駆逐艦で英米10対日本7)駆逐艦には、「1500トンを超える艦は、合計排水量の16パーセント以内」と言う項目があった。

このため当時主力として建造していた特型のさらなる建造が不可能になった。

また大型駆逐艦の建艦競争が起きることを恐れそれ以上の建造を差し控えたという状況でもあった。

そこで海軍では、特型(1680トン)より約300トン小さい1400トンの船体に特型に匹敵する性能を持った艦を計画する。

元の艦より小さな船体に同等の性能は、無茶だったため藤本喜久雄造船大佐(当時)でも失敗した。

基本計画番号F四十五である。

なお排水量が条約の制限(1500トン)より更に100トン少ないのは、保有隻数の増加と建造費削減を意図したと思われる。

第一次海軍軍備補充計画(通称マル1計画)で駆逐艦は、1400トン型(本型)を計画し当初18隻建造の要望だったが5隻の予算が承認された。

魚雷射線数が九射線から6門に減ったものの後の海軍標準装備となる「次発装填装置」を備させた。

これにより射出後に艦上にて再装填ができ再度の攻撃が可能となり雷撃力は、倍加したといえる。

予備魚雷が収められた次発装填装置から発射管への装填は、機力によって行われ所要時間は1本あたり3~5分という短いものであった。

 

同型艦 天津風 時津風 浦風 磯風 浜風

 

谷風型駆逐艦

艦種 一等駆逐艦

艦名 天象・地象名

前級 天津風型駆逐艦

次級 朝潮型駆逐艦

 

要目

 

基準排水量 1685トン

全長 111m

全幅 9.9m

吃水 3.5m

AEGフルカン式式直結タービン2基2軸推進

最大出力 40000hp

最大速力 34ノット

燃料 重油:540トン

航続距離 18ktで4000浬

乗員 226名

武装(新造時)

40口径13cm連装砲2基4門

40口径13cm単装砲1基1門

12.7mm単装機銃2挺

61cm4連装魚雷発射管2基8門

(八四式魚雷16本)

九一式爆雷×36

 

概要

ロンドン海軍軍縮会議の結果補助艦にまで制限を受けた海軍は、第一次海軍軍備補充計画(通称マル1計画)を設定し更なる戦闘力を上げるため新造艦の建造に着手することとなる。

しかし駆逐艦には、「1500トンを超える艦は、合計排水量の16パーセントまで」と言う項目があったため当時主力として建造していた特型の増産が不可能になった。

そこで海軍では、特型(1700トン)より約300トン小さい1400トンの船体に特型に準ずる性能を持った艦の建造を進めることとなる。

しかし過度の軽量化と重武装化は、艦の安定性を損なうと早くから指摘されたため安定性と船体強度に留意した構造になった。

しかし結局この排水量で満足する性能を持った駆逐艦建造は、不可能と判断した海軍は31隻で本型の建造を中止しより大型の朝潮型駆逐艦の建造に着手することとなる。

なお谷風型は、規定排水量をオーバーしているがこのことは諸外国には伏せられていた。

主砲は、ライセンス生産したフランスの「1924年型 13cm(40口径)速射砲」に換装した。

ただし原型と違って動力は、電動油圧式となっている。

魚雷は、6門では少ないとされ海軍初の四連装魚雷発射管を2基装備し8射線を確保した。

太平洋戦争開戦時には、既に旧式艦と見なされていた本型は当初酸素魚雷こそ装備していなかったものの開戦前に九一式酸素魚雷搭載に改造したといわれている。

 

同型艦 谷風 萩風 舞風 山風 江風 海風 狭霧 朧 曙 漣 潮 暁 響 雷 電 初春 子日 若葉 初霜 有明 夕暮 白露 時雨 村雨 夕立 春雨 五月雨 霧雨 秋雨 氷雨 霖雨

 

朝潮型駆逐艦

排水量

基準:約2000t

公試:2394t

全長 118.00m

全幅 10.386m

吃水 3.72m(平均)

機関 パーソンズ式ギヤードタービン2基2軸

   68000hp

最大速力 36kt

航続距離 18ktで5000浬

燃料 重油580t

乗員 230名

武装(新造時)

40口径13cm連装砲3基6門

25mm連装機銃×2

(または13mm連装機銃 ×2)

61cm4連装魚雷発射管2基8門

(九一式魚雷16本)

九四式爆雷投射機1基、三型装填台1基

爆雷投下台 水圧三型2基、手動一型4基

九五式改一爆雷18個

搭載艇 7.5m内火艇2隻、7mカッター2隻、6m通船1隻(母港保管)

ソナー 九三式水中聴音機1組(後日装備)

その他 単艦式大掃海具1基、小掃海具一型改一 2基

 

概要

軍縮条約締結の結果規定排水量内で戦力を拡充するために新型の小型駆逐艦の建造を行うが排水量を条約規定内に納めるための無理な設計は、不可能と判断され各部に修正が加えられることになる。

そして「谷風型駆逐艦」を建造することとなるが結局中型駆逐艦で満足できる性能を持つ艦を建造することが不可能と判断した海軍は、軍縮条約が破綻することを見越して大型駆逐艦を建造することにした。

朝潮型最大の特徴ともいえるのは、艦内の電気系統を交流としたことである。

当時の軍艦は、直流を採用していたが交流化で電気施設のスペースが小さくなったほか陸上施設から直接電源を取ることができるという利点があった。

機関は、フランス海軍の大型駆逐艦に搭載された機関をライセンス生産して採用した。

なお魚雷は、竣工時から九一式魚雷を搭載していた。

 

陽炎型駆逐艦

艦種 一等駆逐艦

前級 朝潮型

次級 夕雲型

 

要目

軽荷排水量 1885.5トン

基準排水量 2077英トン

公表値 2040英トン

公試排水量 2520トン

満載排水量 2772.70トン

全長 119.300m

水線長 117.000m

垂線間長 111.000m

全幅 10.800m

水線幅 10.800m

深さ 6.460m

吃水 公試平均 3.760m

満載平均 4.03m

ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器付)3基

推進器 2軸 x 380rpm

直径3.300m、ピッチ3.545m

機関 パーソンズ式ギヤードタービン2基2軸

出力 定格:74000shp

   最大:100000shp

速力 40kt

燃料 重油622トン

航続距離 5000カイリ / 18ノット

乗員  計画乗員 239名

陽炎竣工時定員 225名

1941年7月10日以降定員 228名

兵装

40口径13cm連装砲3基6門

25mm機銃 連装2基

九五式5型5連装魚雷発射管2基

九一式魚雷20本

94式爆雷投射機1基、装填台1基、水圧投下台2基、手動投下台4基

爆雷18個

小掃海具2組

搭載艇 9m内火艇1隻、7.5m内火艇1隻、7mカッター2隻、6m通船1隻(港保管)

ソナー 九三式水中聴音機1組 九三式探信儀三型1組

 

概要

1937年(昭和12年)からの第三次軍備補充計画(通称マル3計画)で15隻、1939年(昭和14年)からのマル4計画で4隻が建造された。

軍縮条約の制限に縛られず復元性能・船体強度にも留意した日本海軍の艦隊型駆逐艦の集大成といえる駆逐艦である。

第1艦(陽炎)が1939年11月に竣工し最終艦(秋雲)が1941年(昭和16年)9月竣工した。

太平洋戦争では、新鋭駆逐艦として第一線に投入された。

 

同型艦 陽炎 不知火 夏潮 早潮 黒潮 親潮 嵐 野分 高潮 秋潮 春潮 若潮 山霧 海霧 谷霧 川霧 青雲 紅雲 春雲 秋雲

 

夕雲型駆逐艦

艦種 一等駆逐艦

前級 陽炎型

 

要目

 

基準排水量 2567英トン

公試排水量 3048トン(2/3状態)、2920トン(1/2状態)

満載排水量 3323.9トン

全長 129.50メートル

水線長 126.00メートル

垂線間長 120.50メートル

全幅 11.20メートル

水線幅 11.20メートル

深さ 7.02メートル

吃水 2/3状態4.14メートル 1/2状態 4.02メートル

満載 4.36メートル

ボイラー ロ号艦本式缶(空気余熱器・収熱器付)3基

機関 パーソンズ式ギヤードタービン2基2軸

出力 定格:74000shp

   最大:100000shp

速力 40kt

燃料 重油:635トン

航続距離 6000カイリ / 18ノット

乗員 計画乗員 267名

   竣工時乗員 294名

兵装

40口径13cm連装砲3基

96式25ミリ連装機銃2基

93式13ミリ連装機銃1基

九八式5型六連装魚雷発射管3基

九三式魚雷15本

94式爆雷投射機1基、装填台1基、水圧投下台2基、手動投下台4基

爆雷18個

小掃海具2組

 

搭載艇 9m内火艇1隻、7.5m内火艇1隻、7mカッター2隻、6m通船1隻(港保管)

 

概要

日本海軍は、1939年(昭和14年)に昭和十四年度海軍軍備充実計画(通称マル4計画)を策定しその中で駆逐艦(甲)18隻の予算が成立した。

うち最初の4隻(第112号艦から第115号艦)は、マル3計画(1937年計画)に引き続き陽炎型として建造されたが陽炎型を発展・拡大させた第116号艦(後の「夕雲」)から建造する。

なお雷装がより強化され九八式六連装水上発射管は、夕雲型以降に開発された駆逐艦の標準装備となり後日伊吹型重巡洋艦でも装備を検討している。

次発装填装置(予備魚雷)は装備していない。

初期は、7連装2基の案であったが緊急時に人力での旋回が不可能なため6連装3基となった。

艦艇類別等級表でも別型としこれを「夕雲型」とした。

この計画では、上記陽炎型4隻の他に夕雲型11隻が建造された。

戦時急造の計画(通称マル急計画)では、夕雲型16隻が追加で計画され変更がなければ夕雲型32隻の追加建造となるはずだった。

太平洋戦争開戦後戦局の変化を受け1942年(昭和17年)にマル5計画を改定して策定された戦時艦船建造補充計画(通称改マル5計画)では、夕雲型を24隻を建造する予定だった。

しかし戦局の悪化に伴いマル急計画分の内8隻(第348号艦〜第355号艦)と改マル5計画分16隻は建造中止となり最終的に夕雲型は、マル4計画分の11隻とマル急計画分の内8隻(第340号艦〜第347号艦)に当たる19隻が建造された。

また甲型駆逐艦である夕雲型は、1943年以降起工されず代わりに乙型駆逐艦に当たる秋月型駆逐艦と丁型駆逐艦に当たる松型駆逐艦が優先して建造された。

第1艦「夕雲」の竣工が1941年(昭和16年)12月5日(開戦3日前)で最終艦「清霜」の竣工が1944年5月15日である。

 

同型艦 夕雲 巻雲 風雲 長波 巻波 高波 大波 清波 玉波 涼波 藤波 早波 浜波 沖波 岸波 朝霜 早霜 秋霜 清霜

 

軽巡洋艦

球磨型軽巡洋艦

運用者 大日本帝国海軍

種別 軽巡洋艦

前級 天龍型軽巡洋艦

次級 北上型軽巡洋艦

 

要目

 

基準排水量 2890トン

常備排水量 3141トン

全長 139.99m

全幅 12.04m

吃水 3.58m

ボイラー ロ号艦本式缶重油専焼大型6基

     同小型2基

主機 三菱パーソンズ式ギアードタービン3基3軸 57900馬力

速力 35.5ノット

燃料 重油:916トン

航続距離 14ノットで3310海里

乗員 328名

兵装

新造時:

50口径14cm連装砲2基4門

50口径14cm単装砲2基2門

40口径8.8cm高角砲1基1門

61cm連装魚雷発射管2基4門

六年式61cm魚雷8本

一号機雷48個

装甲

舷側:38mm+25mm

 

概要

設計は、平賀譲らである。

当時の不況の中での海軍予算の逼迫により天龍型以上の戦闘力をできるだけ小型の艦に詰め込むことを目標とし3100トン の小さい船体ながら砲力と雷力等の攻撃力は、それ以上であった。

これら今までになかった新機軸は、軽巡洋艦のイメージを一新させジェーン海軍年鑑に特記項目付きで掲載されるなど各国関係者を驚かせた。

平賀譲の才能が遺憾なく発揮された海軍史上特筆される艦とされる。

しかし球磨型は、小型艦であるため航続力は劣り(峯風型駆逐艦が14ノットで4000海里に対して球磨型は14ノットで3300海里だった)また小型の船体に重武装・高速性を追求したため船体の余裕に欠け北上型軽巡洋艦が改装で航空機を搭載できたのに対し本艦では不可能であり大きな欠点となった。

大戦後半では、防空力強化のため主砲2門を撤去せざるを得なかった。

このように本艦の設計には、問題もあったが北上型軽巡洋艦や古鷹型重巡洋艦以降のコンパクトな艦体に重武装を施した重巡洋艦の設計の礎となった言わば実験艦としての意義は大きかった。

 

同型艦 球磨 多摩

 

北上型軽巡洋艦

種別 二等巡洋艦

命名基準 河川名

運用者 大日本帝国海軍

前級 球磨型軽巡洋艦

次級 最上型軽巡洋艦

 

要目 (計画)

基準排水量 6651英トン

公試排水量 7710トン

満載排水量 8338.40トン

全長 174.50m

水線長 172.00m

垂線間長 162.00m

全幅 15.20m

水線幅 15.20m

深さ 10.17m

吃水 公試平均 5.63m

 

機関 ロ号艦本式重油専焼水管缶10基&同石炭・重油混焼水管缶2基+技本式(鬼怒のみブラウン・カーチス式)ギヤード・タービン4基4軸推進

最大出力 90000SHP

速力 34kt

航続距離 14kt/5000NM

燃料 重油:1260t

   石炭:350t

乗員 計画乗員 726名

兵装

計画

四十一式15cm連装砲3基6門

四十五口径四十三年式八糎八高角砲2基2門

羅式7.7mm単装機銃×6

53cm3連装魚雷発射管2基(後に九〇式61cm3連装水上発射管に換装)

 

装甲

計画

機関部舷側 60mmCNC、甲板 20mmCNC鋼

弾火薬庫舷側55mmCNC、甲板20mmCNC鋼

舵取機室舷側 30mmCNC、甲板20mmCNC鋼

操舵室舷側 30mmCNC鋼

 

概要

天龍型を水雷戦隊の旗艦としていた日本海軍は、列強との建艦競争によって発達した造船技術とそれに伴う兵装の強大化に後押しされ軽巡洋艦の大型化を模索し始めた。

大正六年度計画で新型軽巡洋艦10隻の建造が承認された。

軍令部からの要求性能は基準排水量6000トンで15cm連装砲3基、53cm3連装魚雷発射管2基、最大速力34ノット、航続性能14ノットで5000海里であった。

これに対し基準排水量6650トン、15cm連装砲3基、8cm連装高角砲2基、53cm3連装魚雷発射管2基、最大速力35ノット、航続性能14ノットで5000海里の艦として大薗大輔造船官によって設計されたのが本艦型である。

本型の船体形状は、平甲板型船体である。

強く傾斜したクリッパー・バウから艦首甲板上に主砲の「四十一 15.2cm(50口径)速射砲」を連装砲塔に収めて背負い式に主砲塔2基を配置した。

船体中央部に集合煙路式の2本煙突が立つ。

対艦攻撃用の53cm3連装魚雷発射管は、2基が配置されている。

対空火器として「四十五口径四十三年式八糎八高角砲」は、煙突を境にして防盾の付いた連装砲架で片舷1基ずつ計2基を配置していた。

 

同型艦 北上 大井 木曾 長良 五十鈴 名取 由良 鬼怒 川内 神通

 

最上型軽巡洋艦

艦種 軽巡洋艦

艦名 川の名

前型 高雄型重巡洋艦

   北上型軽巡洋艦

次型 利根型重巡洋艦

 

要目

排水量

基準:11200t(最上竣工時)

全長 200.6m

全幅 20.6m(最上、三隈)

   20.2m (阿武隈、熊野)

吃水 6.15m

主缶 ロ号艦本式大型缶8基+小型2基(最上、三隈)

   ロ号艦本缶大型8基(阿武隈、熊野)

主機 艦本式ギヤード・タービン4基4軸

最大出力 152000hp

最大速力 35.0kt

航続距離 14kt/8000浬

燃料

重油:2280t

乗員 944名(最上竣工時)

   874名(鈴谷竣工時)

兵装

60口径15.5cm3連装砲塔4基

五十口径口径九〇式九糎高角砲4基

25mm連装機銃4基

13mm連装機銃2基

61cm4連装魚雷発射管4基

装甲

舷側:100mm

弾薬庫:140mm

甲板:35~60mm

主砲塔:25mm

搭載機

水上機3機

カタパルト2基

 

概要

旧式化した天龍型軽巡洋艦「天龍」、「龍田」と同じく旧式化した3000トン型軽巡洋艦「球磨」、「多摩」計4隻の代艦としてそれぞれ「最上」、「三隈」、「阿武隈」、「熊野」の建造予算が承認された。

艦体に新設計の15.5cm三連装砲塔を搭載して竣工させた。

また居住性が軽視されがちであった帝国海軍戦闘艦艇であるが本型では、初めてハンモックではなく三段式鉄製ベッドが全面採用された。

 

阿武隈型

最上型3番艦阿武隈と4番艦熊野は、船体線図が改正され前期2艦の最上および三隈とは船体形状に違いが生じた。

そこで後期2艦は、阿武隈型と分類されることもある。

また前期2艦のボイラーは、重油専焼罐大型8基小型2基の計10基であったが阿武隈型では重油専焼罐大型8基に変更されている。

このため前期2艦には第3砲塔と艦橋構造物の間に大型の吸気トランクが設けられたが鈴谷型には、それがない。

一番煙突も阿武隈型では、ボイラー減少の分だけ径が細くなっている。

 

大淀型軽巡洋艦

概要

史実の大淀と違い当初から司令部施設がある巡洋艦として竣工した。

 

重巡洋艦

古鷹型重巡洋艦

 

概要

史実の青葉型重巡洋艦と同じ。

 

同型艦 古鷹 愛鷹 青葉 衣笠

 

妙高型重巡洋艦

 

概要

史実の妙高型と高雄型のあいのこである。

特徴は、

・魚雷配置は、高雄型。

・安定性と航続力は、妙高型。

・防御力は、高雄型

 

高雄型重巡洋艦

 

概要

妙高型重巡洋艦の61cm連装魚雷発射管4基8門が61センチ3連装魚雷発射管4基12門になっている。

 

利根型重巡洋艦

運用者 大日本帝国海軍

種別 重巡洋艦

前型 高雄型重巡洋艦

次型 天城型重巡洋艦

 

要目

 

排水量 基準:12200トン

全長 200.6m

全幅 20.6m

吃水 6.9m

機関 ロ号艦本缶大型8基、同小型2基

   艦本式タービン4基4軸

出力 154,226馬力

速力 34.735ノット

燃料 重油:2280トン

航続距離 14ノットで8000海里

乗員 竣工時定員944名

兵装

20.3センチ連装砲塔2基4門

61センチ4連装魚雷発射管4基16門

25mm連装機銃4基

13mm連装機銃2基

 

装甲

舷側:100mm 弾薬庫:140mm 甲板:35~60mm

 

搭載機

12機(カタパルト2基)

 

概要

日本海軍は、航空索敵手段として水上機も重視しており巡洋艦に水上偵察機を搭載することに熱心に取り組んだ。

だがアメリカ海軍の巡洋艦は、日本のそれを上回り4機の水上機を搭載可能であった。

そこで1934年(昭和9年)から最上型軽巡洋艦を改良した軽巡洋艦として本型の設計が開始された。

主砲の門数を妥協した代わりに水上機搭載数を一挙に12機に増やしアメリカ巡洋艦を凌駕する事を狙った。

計画開始時が軽巡洋艦であったために艦名も川にちなんだものとなっている。

1935年(昭和10年)に起工した段階では、ロンドン海軍軍縮会議の制限があったため諸外国には「基準排水量8636トン、水線全長187.21m、喫水4.42m、最大口径砲15.5cm砲」という要目の巡洋艦と通告した。

1936年(昭和11年)に軍縮条約から脱退したことで重巡洋艦の保有制限が失効し建造途中で15.5cm砲搭載の軽巡洋艦から日本軍重巡洋艦の共通武装である50口径三年式20.3cm連装砲を搭載した重巡洋艦へ設計変更された。

また艦が完成する前に第四艦隊事件が発生したため急遽船体構造の見直しと強化が行われた。

こうした諸処の設計変更と船体強化などにより設計当初より排水量の増加と若干の速力低下があった。

なお「利根」に搭載予定の15.5cm砲塔は、1939年(昭和14年)2月に特務艦「知床」によって呉工廠から長崎造船所へ運ばれたという。

艦の特徴は、20.3cm連装砲塔2基を艦の前部に集中配置し艦の後部は、航空艤装となっていることにある。

後部甲板は、フラットではなく階段状となっていた。

また「利根」二代目艦長大西新蔵によれば利根型の主砲散布界は、大きすぎて命中率が低く遠距離砲戦の場合砲術長はお手上げだったという。

しかし研究の結果並んで飛んでいく2つの砲弾の相互干渉が原因と判明した。

そこで一斉打ち方の際は、左右両砲の発砲電路が0.03秒という微小な間隔で接続されるように改正されこの問題はまもなく解消した。

 

同型艦 利根 筑摩

 

天城型重巡洋艦

運用者 大日本帝国海軍

種別 重巡洋艦

前型 利根型重巡洋艦

次型 伊吹型重巡洋艦

 

概要

性能は、史実の利根型重巡洋艦と同じ。

ただし九〇式61cm4連装魚雷発射管を採用している。

 

同型艦 天城 赤城 葛城 笠置

 

空母

 

翔鶴型航空母艦

種別 航空母艦

運用者 大日本帝国海軍

建造期間 1922-1926

就役期間 1926-1953

同型艦 翔鶴・瑞鶴

次級 大鳳型航空母艦

 

要目 (計画)

 

基準排水量 25675英トン

公試排水量 29800トン

満載排水量 32105.1トン

全長 257.50m

水線長 250.00m

垂線間長 238.00m

水線幅 26.00m

深さ 23.00m(飛行甲板まで)

吃水 公試平均 8.87m

満載平均 9.32m

飛行甲板 全長:258.2m x 幅:30.0m

エレベーター3基

ボイラー  ロ号艦本式専焼缶11基

      同混焼缶8基

主機関 技本式タービン(高低圧 2組)4基

推進器 4軸 x 300rpm、直径4.200m

出力 131200hp

速力 計画 32.5ノット

燃料 重油 3900英トン

   石炭 2100英トン

航続距離 8000カイリ / 18ノット

搭載能力

九一式魚雷 45本

爆弾 800kg90個、500kg306個、60kg540個

飛行機用軽質油 745トン

乗員 計画乗員 1660名

兵装

五十口径口径九〇式九糎高角砲6基12門

6.5mm単装機銃×6

装甲

計画

機関室舷側 46mmCNC鋼

同甲板 65mmCNC鋼、25mmDS鋼

弾火薬庫舷側165mmNVNC鋼、50DS鋼

同甲板132mmNVNC鋼、25mmDS鋼、

搭載機

計画(常用+補用)

陣風艦上戦闘機32+2機

彗星艦上爆撃機24+5機

天山艦上攻撃機24+5機

計 常用80機、補用12機

搭載艇

12m内火艇3隻、12m内火ランチ3隻、8m内火ランチ1隻、9m救助挺2隻、6m通船1隻、13m特型運貨船2隻

 

概要

翔鶴型は、八八艦隊案で建造された大型攻撃空母であり八六艦隊案で建造された空母鳳翔・龍翔の拡大発展型である。

機動航空部隊に属し艦隊決戦の際には、敵空母に対して先制攻撃をかけることを第一の任務としている。

当初は、18000t級空母2隻の完成を目指していたが航空機用弾薬を増やした結果3万t級に大型化している。

後に当初から翔鶴型の近代化改装を取り入れた麗鶴型航空母艦が建造された。

 

蒼龍型航空母艦

運用者 大日本帝国海軍

艦種 航空母艦

前級 翔鶴型航空母艦

同型艦 飛龍・黒龍

 

要目

 

基準排水量 17300英トン

公試排水量 20250トン または 20165トン

満載排水量 1882.6ト2ン

全長 227.35m

水線長 222.00m

垂線間長 209.52m

水線幅 22.00m

深さ 15.70m

飛行甲板まで 20.50m

飛行甲板 232.9m x 27.4m

エレベーター3基

吃水 公試平均 7.84m

満載平均 8.21m

ボイラー 艦本式缶(空気余熱器付)8基

主機 艦本式タービン(高中低圧)4基

推進 4軸 x 340rpm

出力 152000shp

公試全力 152733shp

終末全力 153000shp

速力 34.3ノット

公試全力 34.28ノット(20346トンで)

終末全力 34.59ノット(20165トンで)

燃料

重油:3750トン

航続距離 7670カイリ / 18ノット

公試成績 10250カイリ / 18.142ノット

乗員 計画乗員、竣工時定員 1101名

最終時 1103名

搭載能力 ガソリン360トン、魚雷27本

兵装 五十口径口径九〇式九糎高角砲6基12門

   九六式二十五粍高角機銃:3連装7基、連装5基 計31挺

   九一式爆雷6個

装甲 機関部舷側 25mmCNC鋼板

弾薬庫舷側 56mmまたは65mmCNC鋼板、甲板140〜50mmNVNC鋼板

搭載艇 12m内火艇3隻、12m内火ランチ3隻、8m内火ランチ1隻、6m通船1隻、9m救助挺2隻、13m特型運貨船2隻

搭載機 計画(常用+補用)

九六式二号艦上戦闘機 28+4機

九六式艦上爆撃機 18+9機

九七式一号艦上攻撃機 9機

同(偵察用) 9機

同補用機 3機(攻撃用、偵察用共通)

計 常用64機、補用16機

1941年12月7日保有機

陣風艦上戦闘機:28機

彗星式艦上爆撃機:18機

天山式艦上攻撃機:18機

 

概要

昭和9年度海軍軍備補充計画(通称・マル2計画)で建造された中型空母である。

艦橋は、右舷前部にあり右舷中部に下方排出式の煙突を2つ持つ。

艦橋は、4層5甲板となっており艦橋の前後の長さも当初より長くされたため作戦室などが設けらた。

エレベーターは、3基ある。

後部エレベーター脇には、揚収用クレーンがあり翔鶴型に見られた格納庫後端の扉は廃止されている。

また排水量制限のために搭載機数は大型空母(翔鶴型、大鳳型)より少ない。

少しでも格納庫スペースを確保するためにボイラーへの給気や機関室の排気などは、船体中央付近の舷側に外付けされた箱型の通風筒で行われており蒼龍型の外見上の特徴となっていた。

中型空母としての性能は、申し分ないものだったが防御面では機関室と舵取機室は駆逐艦の5インチ砲にガソリンタンクと弾薬庫は巡洋艦の8インチ砲に耐える装甲を施しているが飛行甲板の防御は考慮されていない。

他の日本の空母と同様にダメージコントロールの面では米英空母と比べ劣り3箇所のエレベーターの前後に防火鎧扉が設けられ炭酸ガスで火災消火する方式である。

こうした欠点は、可能な限り多くの航空機を搭載し、搭載戦闘機によって敵機を排除しようという発想からきているものであった。

 

大鳳型航空母艦

基準排水量 30360英トン

公試排水量 35300トン

全長 264.5m

水線長 257.0m

水線幅 28.0m

深さ 22.1m

吃水 9.64m

飛行甲板 265.5m x 30.0m、エレベーター2基

推進 4軸

ボイラー ロ号艦本式専焼缶11基

     同混焼缶8基

主機関 技本式タービン(高低圧 2組)4基

出力 131200hp

速力 計画 32.5ノット

航続距離 8000カイリ / 18ノット

乗員 1800名

装甲 飛行甲板 20mmDS鋼(→HT鋼)+75mmCNC鋼

舷側 130mmNVNC鋼~55mmCNC鋼

甲板 16mmHT鋼+32mmCNC鋼

兵装

五十口径口径九〇式九糎高角砲6基12門

6.5mm単装機銃6挺

搭載数

陣風艦上戦闘機24+1機

彗星艦上爆撃機24

天山艦上攻撃機24

計 常用72機、補用1機

 

概要

第二次大戦前航空機の発達と共に海軍先進国においては、艦隊決戦の主役は戦艦ではなくより遠距離から攻撃できる航空機すなわち空母が重要視されるようになっていた。

しかし空母は、飛行甲板に1発でも爆弾が命中すると機能を失い爆弾が飛行甲板を貫通して爆発すると致命傷となりうるという大きな欠点を抱えていた。

例えば昭和10年頃の日本にある海軍大学校では、艦隊航空戦力の運用の一環として「航空アウトレンジ」に関する研究と同時に飛行甲板の被弾によって機能不能となる空母の脆弱性も深刻な問題として受け止められていた。

このような状況下で開発が開始されたのが大鳳型航空母艦である。

大鳳型の原型は、1923年(大正12年)に大正12年度艦艇補充計画において計画された排水量27000トン級航空母艦「W102」である。

完成するまでは、紆余曲折があった。

大正11年の大蔵省説明資料での初期案は、20.3cm砲6門を搭載するものだった。

大鳳型が単独で前方に進出し味方攻撃隊の中継基地になるという構想のため敵艦隊との水上戦闘を考慮する必要があった為である。

しかし航空機の高性能化に伴い中継基地として使用する案は、破棄され通常の艦隊型空母として開発されることになった。

この時点で船体は、翔鶴型航空母艦を基にしつつそれに装甲を張り巡らせた重防御を持つと構想された。

大鳳型以前の日本空母の飛行甲板は、同時期のアメリカ海軍空母と同様にほとんど無防御だった。

急降下爆撃機の発達により爆撃によって空母の発着能力が容易に奪われてしまうことを憂慮した日本海軍は、航空母艦の飛行甲板には装甲防御が必須であると考えられたが航空機の大型化と高威力化する爆弾に対する限界も指摘されその防御方法の検討には混乱を伴った。

この考えに基づき建造された本艦は、日本海軍が待望久しかった飛行甲板に装甲を施した装甲空母でもあった。

なお大鳳型航空母艦は、ロンドン海軍軍縮条約に違反したものであり同盟国の大韓帝国にその存在を秘匿させてもらった。

 

同型艦 大鳳 祥鳳 龍鳳 瑞鳳 海鳳 白鳳 天鳳 翠鳳

 

改装空母

 

大鷹型航空母艦

基準排水量 17830英トン

公試排水量 20000トン

満載排水量 21262.80トン

全長 180.24m

水線長 約173.70m

垂線間長 168.00m

全幅 23.70m

水線幅 22.50m

深さ 23.50m(飛行甲板まで)

飛行甲 長さ:181.0m x 幅:23.5m

エレベーター(13x12m)2基

吃水 公試平均 8.00m

   満載平均 8.26m

ボイラー 三菱式水管缶4基

     補助缶2基

主機 三菱ツェリー式(高低圧)タービン2基

推進 2軸 x 140rpm、直径5.000m

出力 25200hp

速力 計画 21.0ノット

   1941年5月調査 21.63ノット

燃料 計画 2250トン

   1941年5月調査 2273トン

航続距離 計画 8500カイリ / 18ノット

     1941年5月調査 8538カイリ / 18ノット

乗員

定員 747名(1941年4月26日)

搭載能力

九一式魚雷 36本

爆弾 800kg72個、250kg72個、60kg240個、30kg演習用90個

飛行機用軽質油 190トン

兵装

竣工時

四十五口径四十三年式八糎八高角砲4基

25mm連装機銃2基

13mm4連装機銃2基

搭載艇

12m内火艇1隻、12m内火ランチ1隻、9mカッター2隻、13m特型運貨船1隻

搭載機

計画(常用+補用)

零式艦上戦闘機 12+2機

九七式艦上攻撃機 12+2機

合計24+4機

 

概要

大鷹の前身である春日丸は、昭和初期に好況を博していた欧州航路の老齢船を置き換える目的でまたドイツの新型貨客船3隻(シャルンホルスト、グナイゼナウ、ポツダム)に対抗しつつ1940年(昭和15年)開催予定の東京オリンピックを見込んで日本郵船が建造した豪華客船新田丸級三姉妹船の第3船であった。

新田丸級三姉妹船(新田丸、八幡丸、春日丸)は、日本郵船を象徴する客船であり日本郵船株式会社のイニシャル“NYK”に因んでそれぞれNittamaru, Yawatamaru, Kasugamaruと命名されている。

建造費用は、優秀船舶建造助成施設による補助を受けていた。

また3隻とも三菱長崎造船所で建造され新田丸(起工1938年5月9日、進水1939年5月20日)、八幡丸(1938年12月14日、進水1939年10月31日)、春日丸(1940年1月6日起工)の順番で建造された。

本船は、1940年(昭和15年)1月6日に三菱重工業長崎造船所で起工し船台上で徴用され仮称艦名「第1003番艦」となり商船用の装備を取り外したのち9月19日に進水した。

1941年(昭和16年)5月1日日本海軍は、春日丸を改装空母「大鷹」に定め同日附で第七艦隊付属となった。

同時に日本海軍は、空母鳳翔副長・翔鶴副長や各航空隊司令等を歴任し同年3月25日まで航空機運搬船「小牧丸」艦長だった石井芸江大佐(後日、空母橿原丸《隼鷹》初代艦長、冲鷹初代艦長、神鷹艦長等を歴任、神鷹の沈没時に戦死)を大鷹艦長に任命した。

佐世保海軍工廠へ回航後航空母艦としての改装工事が行われた(八幡丸、新田丸は呉工廠で改造)。

基本的に客船に戻すのは、難しいほどの改造を行ったが三姉妹艦においてはもっとも簡単な工事であり木造部分も多く残されるなど商船としての構造や艤装が残されていた。また商船として完成する前に改造されたので空母として三姉妹艦中最初に完成した。

このため貨客船としては、1番船の新田丸がネームシップであるが空母としては大鷹がネームシップとなり『大鷹型改装航空母艦』と呼称された。

なお大鷹型改装航空母艦のエレベーター6基(各艦2基×3隻)は、もともと浅間丸級貨客船(浅間丸、龍田丸、秩父丸《鎌倉丸》)を空母に改造するために製造されたものだった。

日米開戦前の同年9月5日竣工した。

予想される日米の艦隊決戦に際して大鷹型改装航空母艦は、艦隊用補助空母としての役割を期待されていた。

しかし本型は、小型のうえに速度も遅く用途は限られており大井篤海上護衛総隊参謀は『不渡り手形』『栄養不良児』と表現している。

さらに日本海軍は、終戦まで空母用カタパルトを実用化できなかったため連合国軍の軽空母や護衛空母と比較して本型の航空機運用能力は非常に見劣りするものになってしまった。

特に緒戦以降に登場した比較的大型の新型機(天山、彗星、流星)をカタパルトのない本型が実戦で運用するのは困難であったとみられる。

 

同型艦 大鷹 雲鷹 沖鷹

 

戦艦

 

甲斐型戦艦

排水量

常備:29990トン

満載:31260トン

全長 208.1m

全幅 28.65m

吃水 8.74m

機関

宮原式重油・石炭混焼水管缶24基

+ブラウン・カーチス式直結タービン2組4軸推進

最大出力 40000hp

最大速力 22.5t

航続距離 14ノット/9680海里

燃料 石炭:4600トン

重油:1411トン

乗員 1360名

兵装

四一式45口径連装砲5基

三年式50口径単装速射砲20基

三年式40口径単装高角砲4基

53.3cm水中魚雷発射管6基

装甲

舷側:305mm(水線部主装甲)、89mm(艦首尾部)

上甲板:30mm、主甲板:53~64mm

主砲塔:305mm(前盾)、305mm(側盾)、-mm(後盾)、76mm(天蓋)

バーベット部:292mm

司令塔:305mm

 

概要

甲斐型戦艦の建造費が成立するまでは複雑な紆余曲折を経ている。

元々甲斐型戦艦は1911年(明治44年)に成立した新充実計画によって建造が決定しており1912年(明治45年)3月11日に「第三号戦艦」として甲斐が起工された。

しかし「山城」については未だ建造に着工する事が決定されておらず1912年(大正元年)12月21日に大正2年度の軍備補充既定年度割に600万円を追加して戦艦3隻(山城及び伊勢、日向に該当)の建造に着手する事が決定され建造が一部開始された。

更に1914年(大正3年)には、既に前年度に建造の一部に着手した戦艦3隻の工事を続行させるために大正3年度軍艦製造費所要額として650余万円の予算が成立しこれにより「山城」、「伊勢」、「日向」の3隻の戦艦の建造が本格的に開始される事となった。

甲斐型戦艦の設計にあたりさまざまな案が検討されたが最終的には排水量29990トン、速力22.5ノットとしてまとめられた。

35種に上ったとされる甲斐型の設計案の内計画番号A47〜A57で最終案であるA64が平賀文書に残っておりこの中では、甲斐型は概ね速力22〜23kt、排水量30000t前後、防御は水線主甲帯305mm、バーベット部228mmの艦として設計されていた。

主砲については、かなりの変遷が見られA47では主砲は45口径14インチ砲連装6基12門とはなっていたもののその砲塔配置は中心線上の艦首側に2基で船尾側に2基とされ残りの2基は艦中央部付近に梯形配置にするとされており弩級戦艦と然程変わらない砲塔配置となっていた。

この砲塔配置は、砲サイズが異なるA48〜A49にも共通する砲塔配置であったがA50より主砲を1門減らし主砲塔を全て中心線上に配置する型式が採用され以降の案では中心線上に主砲を配置する形式が採用される事となった。

またA47でも見られた主砲を12インチ砲とする案は、A50以降にも見られA51では12インチ三連装2基・連装3基計12門を搭載するとされており艦首・船尾最前部砲塔が三連装とされ残りの連装砲は中央部に1基三連装後方にそれぞれ1基ずつ搭載するとされていた。

A54では、三連装砲を中心線上の艦首・船尾側にそれぞれ背負い式で2基で艦中央部にも三連装を1基搭載し合計15門の艦とする事が計画されていた。

しかし最終案であるA64では、甲斐型の主砲は各国の弩級戦艦の多くが採用していた12インチ砲では無く金剛型同様に14インチ砲が採用されておりこれを連装砲として5基10門を搭載する超弩級戦艦として竣工する事となった。

また防御に関しても152mm〜178mmとされた水線上部は203mmへと変更され228mmとなっていたバーベット部も「山城」起工前の1913年(大正2年)6月の時点では241mmに変更され最終的には305mmへと強化されており水平防御に関してもHT鋼のみを使用する予定となっていた点が改められ中甲板にはNi鋼が使用される事となった。

最終案であったA64から実際に甲斐型が竣工するまでの間にも幾つかの変更が加えられた結果甲斐型は、初期の設計案と比べるとその防御は強化される事となり主砲にも12インチ砲では無く14インチ砲が採用された事で火力も従来の弩級戦艦と比べると大幅に向上する事となった。

武装は、35.6cm砲連装5基装備しているが3番砲塔を一層上の甲板に設置することで射界を広くとっている。

 

同型艦 甲斐 山城

 

伊勢型戦艦

排水量

常備:33800トン

全長:215.8m、水線長:201.7m

全幅:28.96m

吃水:9.08m

主機:ロ号艦本式重油専焼缶16基

   ロ号重油・石炭混焼缶6基

   技本式オール・ギヤード・タービン4基4軸推進

最大出力:70000hp

最大速力:25.5ノット

航続距離:16ノット/5500海里

乗員:1333名

兵装 35.6cm45口径三連装砲4基

   14cm(50口径)単装砲20基

   四十五口径四十三年式八糎八高角砲4基

   53.3cm水中魚雷発射管4基

装甲

舷側 305mm(ヴァイタルパート部)

甲板 70+75mm

主砲防盾 305mm(前盾)、152mm(側盾)、-mm(後盾)、115mm(天蓋)

副砲ケースメイト装甲 152mm

 

概要

伊勢型戦艦は、「伊勢」と「日向」の2隻が建造された。

伊勢型戦艦は建造時(1920年)世界最大・最高速の戦艦であり日本国民にとって日本海軍の象徴であり当時の子供達も「大好きな戦艦は何か」と聞かれればこの伊勢型(特に伊勢)と即答し写生するときの題材にも必ず挙がったと言われている。

主砲は、新型砲(後の41cm連装砲)を装備することが決まっていたが間に合わず35.6cm45口径三連装砲を装備させた。

条約失効後は、41cm連装砲に換装された。

 

同型艦 伊勢 日向

 

長門型戦艦

排水量

常備:41200トン

満載排水量:47600トン

全長:252.37m

水線長:249.94m

垂線間長:234.70m

全幅

水線上:32.26m

水線下:31.36m

水線幅:30.78m

深さ:18.06m

吃水:9.45m

ボイラー:ロ号艦本式缶重油専焼11基・同混焼8基

主機関:技本式(高圧低圧)タービン8基、4組

推進器

4軸x210rpm

出力:131200hp

速力:30ノット

燃料:重油約3900英トン、石炭約2500トン

航続距離:8000カイリ / 14ノット

兵装

主砲 四一式35.6cm(45口径)三連装砲5基

   四十一式15cm連装砲4基8門

   四十五口径四十三年式八糎八高角砲4基

   53.3cm水中魚雷発射管4基

装甲 舷側254mmVC鋼(傾斜12度)

   甲板95mmNVNC鋼

   主砲塔前面305mm、同側面152-190mm、同上面127mm

   司令塔側面254-330mmVC鋼

 

概要

本型は本来ワシントン海軍軍縮条約で建造できなかったのをアメリカのコロラド級2隻の建造続行を、イギリスは2隻の新造(後のネルソン級戦艦)を認められることを条件に建造が認められた。

だがコロラド級やネルソン級のように16インチ砲の装備も禁止されたため日本には、一見メリットはないように見えた。

しかし本型も伊勢型同様主砲換装を前提に設計されており条約失効後は、45口径41cm連装砲に換装された。

 

工作艦

 

明石型工作艦

 

概要

史実の明石と同じ。

 

同型艦 明石 松嶋

 

給油艦

 

風早型給油艦

 

概要

史実の速吸と同じ。

 

同型艦 風早 速吸

 

給糧艦艦

 

間宮型給糧艦

 

概要

史実の間宮と同じ。

 

同型艦 間宮 大隅

 

伊良湖型給糧艦

 

史実の伊良湖と同じ。

 

同型艦 伊良湖 久須見




まだ本編ができていない状況での投稿です。


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プロローグ 海軍戦闘機解説

艦上戦闘機

九六式艦上戦闘機

用途:艦上戦闘機

設計者:小山悌

製造者:中島飛行機

運用者 大日本帝国海軍および大日本帝国陸軍

満州国(満州国軍飛行隊)

タイ(タイ空軍)など数カ国

初飛行:1935年10月

 

概要

1933年から1934年にかけて欧米各国では軍用・民間用を問わず単葉の高速機が順次開発されていた。

しかし陸海軍とも航空母艦への着艦と空戦時の旋回性を重視し単葉への切り替えが遅れていた。

1935年に制式採用された九五式艦上戦闘機も複葉で速度は、400km/時という低速であった。

この性能では、将来の戦闘は戦えないと判断した海軍および陸軍は1934年の次期戦闘機の設計に際し九試単座戦闘機としてあえて艦上機としての性能を要求せず近代的高速機を求めた。

1934年(昭和9年)三菱航空機と中島飛行機の両社に試作指示が出された。

陸海軍からの性能要求は以下の通り。

最高速度:高度3000m付近で243kt (450km/h)以上

上昇力: 高度5000 mまで5分30秒以内

兵装: 7.92mm機銃×2 無線機は受信機のみ

寸法制限: 幅11 m以内 長さ8 m以内

1935年(昭和10年)に試作機が完成した。

審査の結果中島機が採用された。

 

諸元

制式名称 九六式艦上戦闘機

機体略称 A5N

エンジン:空冷9気筒 中島寿三型

最大速度:470km/h/3,500m

航続距離:627km

全高:3.28m

全幅:11.31m

全長:7.53m

主翼面積:18.56㎡

自重:1,110kg

全備重量:1547kg(燃料満載)

上昇時間:5000m/5'22"

実用上昇限度:12250m

武装:胴体内八九式固定機銃(7.92mm口径)×2(携行弾数各500発)

爆弾:25kg×4

 

零式艦上戦闘機

用途:戦闘機

分類:艦上戦闘機

設計者:堀越二郎

製造者:三菱重工業

運用者:大日本帝国(日本海軍)

初飛行:1939年(昭和14年)4月

運用開始:1940年(昭和15年)7月

退役:1945年(昭和20年)

運用状況:退役

 

概要

零戦の仕様は、「昭和十一年度 航空機種及性能標準」の艦上戦闘機の項に基づいて決定されている。

「昭和十一年度 航空機種及性能標準」

機種:艦上戦闘機

使用別:航空母艦(基地)

用途:1. 敵攻撃機の阻止撃攘/2. 敵観測機の掃討座席数:1特性:速力及び上昇力優秀にして敵高速機の撃攘に適し且つ戦闘機との空戦に優越すること

航続力:正規満載時全力1時間

機銃:20mm1 - 2。1の場合は12.7mm 2を追加。

弾薬包は20mm 1につき60、7.7mm 1につき270

通信力:電信300浬、電話30浬

実用高度:3,000m乃至5,000m

記事:1. 離着陸性能良好なること。

離艦距離 合成風力10m/sにおいて70m以内/2. 増槽併用の場合6時間以上飛行し得ること/3. 促進可能なること/4. 必要により30kg爆弾2個携行し得ること

開発は、1937年(昭和12年)10月5日に海軍から提示された「十二試艦上戦闘機計画要求書」に端を発する。

「十二試艦上戦闘機計画要求書」

1.用途:掩護戦闘機として敵軽戦闘機より優秀な空戦性能を備え要撃戦闘機として敵の攻撃機を捕捉撃滅しうるもの

2.最大速力:高度4000mで270ノット以上

3.上昇力:高度3000mまで3分30秒以内

4.航続力:正規状態、公称馬力で1.2乃至1.5時間(高度3000m)/過荷重状態、落下増槽をつけて高度3000mを公称馬力で1.5時間乃至2.0時間、巡航速力で6時間以上

5.離陸滑走距離:風速12m/秒で70m以下

6.着陸速度:58ノット以下

7.滑走降下率:3.5m/秒乃至4m/秒

8.空戦性能:九六式二号艦戦一型に劣らぬこと

9.銃装:20mm機銃2挺、12.7㎜機銃2挺、九五式射爆照準器

10.爆装:60㎏爆弾又は30㎏2発

11.無線機:九六式飛三号無線機、ク式三号無線帰投装置

12.その他の装置:酸素吸入装置、消火装置など

13.引き起こし強度:荷重倍数7、安全率1.8

「十二試艦上戦闘機計画要求書」は、1937年5月に原案がメーカーに提示されており10月に正式な文書として交付された。

そのため変更点もあって内容が微妙に違うものも残っている。

「目的」が「攻撃機の阻止撃攘を主とし尚観測機の掃蕩に適する艦上戦闘機を得るにあり」というものもある。

堀越二郎によれば5月のものに比べて特に航続距離の要求が強くなったという。

十二試艦上戦闘機に対する海軍の要求性能は、堀越技師らが「ないものねだり」と評するほど高いものでありライバルの中島飛行機が途中で辞退した。

このような経緯から零戦は、三菱単独での開発となった。

三菱では、前作である九試単座戦闘機に続いて堀越二郎技師を設計主務者として開発に取り組んだ。

1938年(昭和13年)1月17日十二試艦戦計画要求に関する官民研究会で第二連合航空隊航空参謀源田実少佐が飛行機隊の集団使用と遠距離進出などの新境地を開拓した経験から航続距離の必要を訴える。

1938年4月10日三菱A6M1計画説明書を海軍に提出した堀越二郎は3日後(4月13日)に開かれた十二試艦戦計画説明審議会において格闘力、速度、航続距離のうち優先すべきものを1つ上げてほしいと要望した。

すると航空廠実験部の柴田武雄は、「攻撃機隊掩護のため航続力と敵を逃がさない速力の2つを重視し格闘性能は、搭乗員の腕で補う」と返答された。

その場にいた横須賀航空隊飛行隊長の源田実もうなずいた。

そのため堀越は、航続力と速力を最優先とし零戦の開発に挑んだ。

1939年(昭和14年)3月16日A6M1試作一号機完成した。

4月1日に岐阜県の陸軍各務原飛行場で試作一号機が初飛行した。

試作2号機までは、栄一二型だったが出力不足で試作3号機からエンジンを換装した。

5月1日栄二一型を装備した三号機をA6M2とした。

翌1940年(昭和15年)7月24日A6M2零式一号艦上戦闘機一型が11型として制式採用された。

 

制式名称 零戦二一型

機体略号 A6M2b

全幅 12.0m

全長 9.121m

全高 3.57m

翼面積 22.44m²

自重 1871kg

正規全備重量 2713kg

発動機 栄二一型(離昇1130hp)

プロペラ ハミルトン定速3翅 直径3.05m

最高速度 540.1km/h(高度6000m)

上昇力 6000mまで7分20秒

実用上昇限度 10700m

降下制限速度 629.7km/h

航続距離 全速30分+1482km(正規)/全速30分+2560km(増槽あり)

武装 九九式20mm機銃2挺(翼内・携行弾数各100発)

   九七式12.7mm機銃2挺(機首・携行弾数各270発)

爆装 30kg爆弾2発又は60kg爆弾2発

 

陣風艦上戦闘機

用途:戦闘機

分類:艦上戦闘機

設計者:川西龍三

製造者:川西航空機(現新明和工業)

運用者:大日本帝国(日本海軍)

初飛行:1940年12月27日

退役:1952年

運用状況:退役

 

概要

1937年(昭和12年)末川西航空機(以下、川西)は水上機の需要減少を見込み川西龍三社長の下で次機種制作を討議した。

川西社内で九八式飛行艇の陸上攻撃機化、新型艦上攻撃機開発、新型陸上戦闘機開発の三案を検討した結果新型陸上戦闘機開発案が決まった。

川西の菊原静男設計技師は、12月28日に海軍航空本部を訪れ技術本部長多田力三少将に計画を提案した。

しかし海軍技術者から陸上機製作の経験が浅い川西の技術力に対して疑問の声があがったため審議会が開かれ1938年4月15日に「仮称一号局地戦闘機」として試作許可を受けた。

部品点数を零戦二一型の2/3に削減して量産性を大幅に高めていた。

自動空戦フラップも装備し改良により実用性を高めた。

零戦の弱点であった防弾装備の欠如に関し本機では、主翼や胴体内に搭載された燃料タンクは全て防弾タンク(外装式防漏タンク)であり更に自動消火装置を装備して改善された。

米軍の調査によると燃料タンクにセルフシーリング機能は無かったとされるが2007年(平成19年)にオハイオ州デイトンにおいて復元のため分解された陣風の燃料タンク外側に防弾ゴムと金属網、炭酸ガス噴射式自動消火装置が確認できる。

操縦席前方の防弾ガラスは、装備されていたが操縦席後方の防弾板は計画のみで実際には未装備だったとされている。

笠井によれば後部には、厚さ10cmくらいの木の板しかなく後方に不安を抱えていたという。

また志賀が急降下テストを行った際には、計器速度796.4km/hを記録し零戦に比べて頑丈な機体であることを証明した。

 

制式名称 陣風一一型

機体略号 A7K

全幅 12.0m

全長 9.376m

全高 3.96m

翼面積 24.0m²

翼面荷重 166.67kg/m²

自重 2657kg

正規全備重量 4000Kg

発動機 誉二一型(離昇1990馬力)

最高速度 596km/h/5600m

実用上昇限度 10760m

航続距離 1800km(正規)/2500km(過荷)

武装 翼内20mm機銃4挺

   機首20mm機銃2挺

(携行弾数各250発)計1000発

(携行弾数各250発)計500発

爆装 60kg爆弾4発、250kg爆弾2発

 

局地戦闘機

雷電

用途:戦闘機

分類:局地戦闘機

設計者:佐野栄太郎

製造者:三菱重工業

運用者:日本海軍(海軍航空隊)

初飛行:1940年3月20日

生産開始:1941年9月

 

開発の経緯

戦前爆撃機隊により甚大な被害を受けると判断した海軍は、十二試艦上戦闘機(零式艦上戦闘機)の開発要求前である昭和11年(1936年)9月に三菱単独指名で「十一試局地戦闘機」(以下、「十一試局戦」と略)を提示し翌昭和12年(1937年)4月に「十一試局地戦闘機計画要求書」を交付した。

計画書に記載されていた海軍の要求値は、概ね以下の様なものであったとされる。

最高速度高度6000 m において325ノット(約601.9 km/h)以上。

340ノット(約629.7 km/h)を目標とする。

上昇力高度6000 m まで5分30秒以内。

航続力最高速(高度6000 m)で0.7時間以上(正規)。

武装20 mm 機銃6挺。

その他操縦席背面に防弾板を装備すること。

これを受けた三菱では、佐野栄太郎を設計主務者とした設計陣を組み開発に取り組んだ。

 

概要

大型爆撃機の迎撃を主任務の一つとする局戦に要求される性能は敵爆撃機が飛行している高度に短時間で到達する上昇力、敵爆撃機に追い付く速力、そして一瞬のチャンスに敵爆撃機へ致命傷を与え得る火力の三つである。

これらを重視して開発されたのが雷電であるが雷電の開発は、困難で時間がかかり任務に就いた後でも全ての技術的な問題が解決されたわけではなかった。

戦歴を通して終始エンジンに起因する問題を抱えていた。

 

 

制式名称    雷電一一型           雷電二二型

機体略号     J1M2              J1M4

全幅              10.8m

全長       9.695m             9.945m

全高              3.945m

主翼面積            20 m²

自重       2539 kg            2510 kg

正規全備重量   3507 kg            3482 kg

翼面荷重    175.35 kg/m2         174.1 kg/m2

発動機 火星二三型甲(離昇1800馬力)    火星二六型(離昇1800馬力)

最高速度  596.3km/h(高度5450m) 614.5 km/h(高度6585m)

上昇力   6000mまで5分38秒   6000mまで6分20秒/8000mまで9分45秒

降下制限速度         740.8 km/h

航続性能 1898km(機内燃料)/2519 km(増槽あり) 全力0.5時間 + 巡航2.4時間

武装 20mm機銃4挺(九八式二〇粍機銃二型210発×4)

   20mm機銃2挺(九八式二〇粍固定機銃250発×2)

爆装  30~60kg爆弾2発

 

艦上爆撃機

九八式艦上爆撃機

用途:急降下爆撃機

製造者:三菱重工業

運用者:日本海軍

初飛行:1937年

運用状況:退役

 

概要

海軍から試作の下命を受けたのは、中島飛行機と三菱航空機であった。

十一試艦上爆撃機では、実用化に向けて堅実な設計が求められたが試作機には「護」エンジン(寿の複列化)を用いて量産機には「栄」エンジンを用いた。

三菱では、設計主務者を河野文彦技師として開発に着手し高速性を実現するため機体の空気抵抗を軽減させるという方針で設計を進めた。

昭和12年(1937年)に初飛行に成功した。

本機は、固定脚を採用しているにもかかわらずアメリカ海軍のSBAと同等の速度に達しなおかつすぐさま大量生産が可能だった。

中島社製の十一試艦爆と競争試作されたものであるが中島十一試艦爆は、海軍側の要求変更に対し設計が間に合わず納期遅れで失格となった。

これにより本機は、昭和13年12月16日「九八式艦上爆撃機一一型」として海軍に正式採用された。

 

制式名称 九八式艦上爆撃機一一型

記号 D3M

全長: 10.34m

全幅: 14.55m

全高: 3.66m

主翼面積: 30.58m²

自重: 2230kg

全備重量: 3322kg

エンジン: 栄一二型空冷星型14気筒エンジン940HP×1

最大速度: 423km/h

航続距離: 1700km

実用上昇限度: 8600m

乗員: 2名

武装 機首固定:7.92mm×2、後方旋回:7.9mm×1

爆弾 爆装 250kg × 1、60kg × 2

 

彗星艦上爆撃機

用途:艦上爆撃機

分類:爆撃機

設計者:海軍航空技術廠、山名正夫

製造者:愛知航空機

運用者:大日本帝国(日本海軍)

初飛行:1938年11月15日

生産開始:1939年11月

運用開始:1941年12月

退役:1957年

 

概要

単発複座の高速艦上爆撃機として設計された彗星は、零式艦上戦闘機とほぼ同サイズとなる艦上爆撃機としてはかなりの小型機である。

機体下部の爆弾倉と中翼配置と空力を重視した平滑な機体外形を採用している。

海軍の航空技術研究機関である海軍航空技術廠(以下、空技廠と略)で開発された本機は、当時の最新技術を多数盛り込んだ性能優先の設計とされた。

本機で採用された機構は、彗星自身の高性能化に貢献しただけではなく後に開発される晴嵐といった海軍機の多くにも採用された。

 

制式名称 彗星艦上爆撃機一一型

機体略称 D4Y1

全幅 11.50m

全長 10.22m

全高 3.175m

主翼面積 23.6m²

自重 2440Kg

全備重量 3650Kg

発動機 金星五四型

最大速度 541km/h

上昇力 高度5000mまで7分14秒

航続距離 1517km(正規)~2389km(過荷)

武装

機首12.7mm固定機銃2挺

後上方7.9mm旋回機銃1挺

爆装 胴体250kgまたは500kg爆弾1発

   翼下250kg爆弾2発

乗員 2

 

艦上攻撃機

九七式艦上攻撃機

用途:艦上攻撃機

設計者:高橋巳次郎

製造者:三菱重工業

運用者:大日本帝国(日本海軍)

初飛行:1937年1月8日

運用状況:退役

 

概要

三菱重工業で開発された一号(B5M1、後に九七式艦上攻撃機一一型と改称)に採用された密閉式風防や上方折り畳み主翼、海軍実用機初のセミインテグラル・タンクや可変ピッチプロペラなどの新技術は後の天山に採用している。

一号の完成は、11年12月31日で翌12年1月8日(1937年)には初飛行に成功している。

この一号の発動機を「光」から「栄」一一型に変更したものを九七式二号艦上攻撃機(B5M2、後に九七式艦上攻撃機一二型と改称)として採用し以後生産の中心は二号に移る。

また特殊な派生型として一一型を練習機に改造した九七式練習用攻撃機一一型(B5M1-K)が存在する。

 

乗員:3名

全長:10.3m

全幅:15.518m

全高:3.7m

主翼面積:37.7m²

自重:2200kg

全備重量:3,800kg(正規)、4,100kg(過荷)

翼面荷重:101.8kg/m²

発動機:中島「栄」一一型 空冷複列星型14気筒 出力970馬力(公称) × 1

最大速度:377.8km/h(高度3,600 m)

巡航速度:263km/h(高度3,000 m)

着陸速度:113km/h

上昇時間:3,000mまで7分40秒

実用上昇限度:7640m

航続距離:1021km(正規)、1993 km(過荷)

武装: 7.9mm旋回機銃×1

爆装

800kg魚雷×1 800kgまたは500kg爆弾×1 250kg爆弾×2 60kg爆弾×6のいずれか

 

天山艦上攻撃機

用途:艦上攻撃機

設計者:松村健一

製造者:中島飛行機

運用者:大日本帝国(日本海軍)

初飛行:1939年3月14日

生産開始:1941年2月

運用開始:1941年7月

運用状況:退役

 

概要

昭和12年(1937年)10月海軍は、早くも十試艦上攻撃機の後継艦上攻撃機として「十二試艦上攻撃機計画要求書」を中島飛行機に提示した。

開発要求書に記載されていた内容は、概ね以下のようなものだったとされる。

最高速度 463.0km/h以上

航続距離 (雷装時)3334km以上

発動機 昭和14年度で装備可能なエンジン

これを受けた中島飛行機では、社内名称BKとして松村健一技師を設計主務者とする設計陣が開発に当たることとし昭和13年(1938年)5月から本格的に開発を開始した。

 

制式名称 天山一一甲型

機体略称 B6N

全幅 14.894m(主翼折畳時7.1935m)

全長 10.865m

全高 3.820m

主翼面積 37.202m²

自重 3,083kg

正規全備重量 5200kg

過荷重重量 5650kg

発動機 火星二五型(離昇1850馬力)

最高速度 481.5km/h(高度4000m)

実用上昇限度 9040m

航続距離 1746km(正規)/3045km(過過重)

爆装 60kg6発、250kg2発、500kgまたは800kg爆弾1発

雷装 八九式航空魚雷1発

武装 13mm旋回機銃1挺(後上方)

乗員 3名

 

夜間戦闘機

零式複座双発陸上戦闘機

用途:戦闘機

設計者:土井武夫

製造者:川崎航空機

運用者:大日本帝国および大日本帝国海軍

初飛行:1939年5月

運用開始:1941年10月

運用状況:退役

 

概要

1930年代半ば航空先進国の欧米の航空技術者たちの間では、「双発万能戦闘機」なる機体の開発が盛んに行われていた。

双発機は、単発機より航続距離が長く爆撃機に目的地まで随伴し護衛が可能である。

運動性は、単発機に劣るが二基エンジンの大出力で単発機を上回る高速でこれをカバーする。

武装(機関銃/機関砲)は、機首に集中装備しこれをカメラに変えれば写真偵察機となる。

大出力と大柄な機体により搭載力が大きく爆撃機ないし攻撃機として多くの爆弾やロケット弾を搭載可能で航法装置や強力な通信機を搭載し複座として後部乗員を航法士・通信士とすることで嚮導機・指揮機ともできる。

結果一機種で戦闘・爆撃・偵察・指揮など多用途な機種としてP-38 ライトニング、メッサーシュミット Bf110やポテ 631といった機体が次々と現れた。

これに影響を受けた日本陸海軍は、1935年(昭和10年)主要航空機メーカーに対し双発複座戦闘機の研究開発を命令し川崎造船所(のちの川崎航空機)にはキ38の名で開発を命じた。

モックアップで止まったキ38に引き続き同年12月陸海軍は、実物の試作機を作る目的で川崎に対しあらためてキ45の開発を命じた。

川崎は、井町勇技師を設計主務者に据え作業着手し1937年(昭和12年)1月に試作1号機が完成した。

しかしながら装備されたハ20乙エンジンは、馬力不足なうえに故障が続出しテスト飛行の結果も軍の要求を到底満足させるものではなくキ45の性能は遠く要求に及ばなかった。

また機体にもナセルストールを引き起こすという問題がつきまとった。

キ45は、不採用になったが双発複座戦闘機の実用化を強く要望する陸海軍は開発の継続を川崎に命じた。

川崎は、これを受けエンジンを実績のあるハ25に換装し設計主務者を土井武夫技師に代え作業に着手した。

ハ25装備の機体は、「キ45第一次性能向上機」と呼ばれテスト飛行で好成績を示し増加試作機が8機製作されたがナセルストールを引き起こすという問題は未解決のままで実用機としては不採用になった。

陸海軍は、この機体をベースにして改修を施せばさらなる高性能機を生み出せると判断し1938年(昭和13年)10月「第二次性能向上機」の試作を命じエンジンには、より強力なハ115(離昇出力1150HP)の採用を命じた。

川崎は、キ45に見切りをつけており機体は1938年(昭和13年)5月に完成したばかりの九八式双軽爆撃機の基本設計を流用して全くの新設計とした。

ナセルストールもナセル自体の取り付け位置を主翼中心よりもより下に配置するなどして解決した。

この機体には、キ45改の名称が与えられ試作1号機は1939年(昭和14年)9月に完成し各種飛行テストが続けられ1940年(昭和15年)2月(皇紀2600年)に零式複座双発陸上戦闘機として制式採用された。

 

制式名称 零式複座双発陸上戦闘機

機体略称 J1KW

乗員:2名

全長:11.00m

全幅:15.07m

主翼面積:32.20m²

自重:4000kg

全備重量:5270kg

動力:栄二一型空冷複列星型14気筒エンジン

出力:1130HP

最大速度:557km/h

航続距離:1,500 km

実用上昇限度:10000m

上昇率:5000/7'00"

武装:7.9mm(旋回)×1・20mm×4

製作会社:川崎航空機

 

水上観測機

九八式水上観測機

用途:水上観測機

製造者:中島飛行機

運用者:大日本帝国海軍

運用開始:1938年(昭和10年)9月

運用状況:退役

 

概要

海軍省は、1933年(昭和8年)に短距離偵察と弾着観測を主任務とし高い空戦能力を持つ複座水上偵察機の試作を八試水上観測機の名称で愛知航空機(現・愛知機械工業)と中島飛行機に指示した。

これは、従来の水上偵察機に水上戦闘機的な性格を持たせ敵の同種機の妨害を排除しつつ任務遂行できる機体を目指していた。

中島が試作した機体は、速度は犠牲とし空戦能力と上昇力を重視してあえて複葉機とした。

胴体は、全金属製のセミ・モノコック構造で細身の楕円状の主翼を有していた。

フロートや主翼間の張り線や支柱は、極力省き尾翼も片持ち式とし空力的に考慮された設計となっていた。

1934年(昭和9年)6月に試作1号機が完成し愛知が試作した機体に加え川西航空機(現・新明和工業)から提案された機体も加えた三者で比較審査が行われた。

中島の提案した機体は、速度や運動性能に関して言えば要求通りだったものの飛行中不意に自転する傾向があることが指摘された。

この解決のために中島では、主翼の形状を大幅に改め直線整形のものにした他垂直尾翼も20種類以上の形状を試用し増面積するなどの必死の改修を行った。

一方川西は、中島の複葉に対抗するべく単葉機で臨んだが初期試験段階で落第した。

当初のエンジンは、九一式六〇〇馬力発動機二型であったがこの改修中に中島製の新型エンジン「栄」(複列・出力約940hp)が完成したため2号機ではこれに換装したところ速度面等が大幅に改善し最高速度390km/hで5000mまでの上昇力8分と高性能を発揮した。

だが競争相手の愛知機も格闘戦に優れた優秀機で慎重な比較検討がなされたが本機の方が格闘性能が優秀であることと愛知機の主翼外板が合板製であり温度・湿度に対する脆弱さがある点が問題となり1938年(昭和15年)12月「九八式一号観測機一型」として制式採用された。

 

乗員:2名

全長:9.50m

全幅:11.00m

全高:4.00m

主翼面積:29.54m²

空虚重量:1928kg

全装備重量:2550kg

最大離陸重量:2856kg

最高速度:390km/h

発動機:中島 空冷星型14気筒「栄一二型」(離昇940hp)

航続距離:1070km

実用上昇限度:9440m

上昇率:5000m/8'24"

武装:八九式7.92mm機銃(機首2門)、九五式7.9mm機銃(後方旋回式1門)

60kg爆弾×2

 

水上偵察機

九八式水上偵察機

用途:偵察機

分類:水上機

製造者:愛知航空機

運用者:大日本帝国(日本海軍)

運用状況:退役

 

概要

昭和10年に日本海軍は、九四式水上偵察機の後継機十試三座水上偵察機の開発を川西航空機製作所と愛知航空機に指示した。

海軍からの要求は、艦載機としても水上基地からでも運用できる長距離偵察機ということで最大速度は370km/hとなっていた。

試作機の納期は、昭和11年9月までとされていたが愛知航空機では他の機体の試作・改良で手一杯で製作する余力がなく納期に間に合わず失格とされた。

しかし愛知航空機では、研究資料とするために製作を続行し昭和12年1月に1号機が完成した。

機体は、金属製(主翼の翼端は木製)で低翼単葉の双浮舟式の水上機で主翼は折りたたみが可能であった。

フラップは、単純フラップとなっていた。

エンジンの出力も武装も九四式水上偵察機よりも強力になっていたが特に胴体に爆弾倉を設けていて小型の爆弾ならば2発搭載が可能だった。

昭和12年6月に川西製の機体が事故で失われたため急遽海軍では、愛知製の機体を受領し横須賀で試験を行った。

その結果飛行性能優秀ということで採用内定となり昭和13年12月に正式採用された。

 

諸元

乗員:3名

全長:11.49m

全高:4.70m

翼幅:14.50m

翼面積:36.20m²

空虚重量:2524kg

運用時重量:3,650kg

動力:三菱 金星 43型 空冷式複列星型エンジン14気筒、 1,080馬力/2,000m × 1

性能

最大速度:367 km/h

航続距離:3326 km /14.9h

実用上昇限度:7,950 m

上昇率:3,000 m/5'27"

武装

固定武装: 7.9mm機関銃×1

爆弾:60kg爆弾×4または250kg爆弾×1

 

陸上攻撃機

深山陸上攻撃機

用途:陸上爆撃機

設計者:海軍航空技術廠 山名正夫中佐、三木忠直少佐

製造者:中島飛行機

運用者:大日本帝国(日本海軍)

初飛行:1940年6月

生産開始:1941年8月

退役:1967年

運用状況:退役

 

概要

1937年(昭和12年)頃海軍では、防弾を装備した航空機を配備するのが望ましいと考えられていた。

その頃空技廠では速度記録機Y-10、航続距離記録機Y-20、高度記録機Y-30の研究を行っていた。

その後海軍からの要求に応えるかたちでY-20をベースにドイツから輸入したJu 88Aに使用されている技術を導入することで高性能攻撃機を開発することとなり十一試艦上爆撃機(D4Y1。後の彗星)試作一号機が初飛行して間もない1938年(昭和13年)末に「十三試双発陸上攻撃機」として開発が命じられた。

ただしJu 88Aの技術は、参考にならなかったとされる。

開発主務者は、彗星の設計主務者を務めた山名正夫技師である。

実際には、総括主務の三木忠直技師が指揮していた。

十三試陸攻に対する海軍の要求性能は、概ね下記の様なものだったとされる。

九六式陸攻と同等以上の航続力を持つこと(約5556 km)。

九六式艦戦と同等以上の速力を発揮可能なこと(約511.2 km/h)。

雷撃が可能なこと

離陸滑走距離600m以内。

なお日本海軍の定義では、急降下爆撃機が「爆撃機」で雷撃機が「攻撃機」に分類される。

 

制式名称 深山一一型

機体略称 G4Y

全幅 20.0m

全長 15.0m

全高(水平) 5.3m

主翼面積 55.0m²

自重 7138kg

正規全備重量 10500kg

過荷重重量 13500kg

発動機  火星二五型(離昇1850馬力)

最高速度 522.3km/h(高度5400m)

実用上昇限度 9560m

航続距離 2000km(正規)/5370km(過過重)

爆装 250 - 500kg爆弾2発又は800kg爆弾1発

雷装 八九式航空魚雷1発

武装 20mm旋回機銃2挺(機首・後部)

乗員 3名

 

練習機

九九式機上練習機

 

概要

機上作業練習機とは艦上攻撃機、艦上爆撃機、陸上攻撃機、観測機のような多座機における操縦員以外の乗員の任務である航法、通信、爆撃、射撃、写真撮影、観測などの訓練を行うための機体である。

日本海軍では、操縦員以外でこれら任務を行う飛行機搭乗員を一括して「偵察員」と呼び複座機や大型機の比率が多かったため偵察員は操縦員と同数ぐらい必要であった。

海軍初の機上作業練習機である九〇式機上作業練習機は、昭和6年から使用され続けていたが流石に性能的に不満が出てきた。

そこで海軍は、昭和12年に後継機の開発を渡辺鉄工所(後の九州飛行機)に指示した。

渡辺では、昭和12年6月から設計を開始し昭和13年11月に試作第1号機を完成させた。

全金属製モノコック構造の胴体に木製骨組み合板張りの主翼を有した中翼単葉機で主脚は固定式でエンジンは、515hpの日立天風を1基搭載していた。

角型断面のやや幅広の胴体には、操縦員1名の他教官と3名の練習生を搭乗させることが可能で座席の配置は訓練の内容によって変更可能であった。

テストの結果若干の安定性不良が指摘されたが改修可能で昭和14年試製九九式機上練習機(K11W1)として量産が開始された。

その後教官席を廃止し代わりに練習生の搭乗人数を増加させた試製九九式機上練習機改(K11W2)が試作され昭和15年3月に試製九九式機上練習機共々制式採用された。

その際試製九九式機上練習機は、一一型で試製九九式機上練習機改は二一型と呼ばれるようになった。

 

運用

安定性や操縦性が良好で機内スペースが広く汎用性に優れた機体だったため戦争直前の練習航空隊には本機が必ずと言ってよいくらい配置され終戦まで活躍した。

また近距離輸送や連絡、対潜哨戒等の任務でも利用された。

燃料は、「八〇丙」と呼ばれるオクタン価80のアルコール燃料を使用していた。

 

スペック

全幅:14.98m

全長:9.98m

全高:3.10m

機体重量:2569kg

エンジン:天風二一型空冷9気筒515hp

最大速度:230km/h

航続距離:1176km

武装12.7mm機関銃×1

爆弾60kg(30kg×2)

乗員:5名

 

九九式高等練習機

 

概要

1935年(昭和10年)以降の航空機の発達は急速なもので特に1936年(昭和11年)に採用された九六式艦上戦闘機や九八式艦上爆撃機などは低翼単葉機で陸海軍は、それまでの九五式一型練習機などの複葉機に代わる近代的な練習機の必要性を感じていた。

折りしも1938年(昭和十三年)に制式採用された九八式直接協同偵察機(キ三十六)の低速安定性に注目した陸海軍は、翌1939年(昭和14年)に立川に対して九八式直協を練習機に改造したキ五十五の開発を指示した。

立川では、開発期間を短縮するため製作途中の九八式直協二機を改造して原型機とすることにし同年三月と四月に原型機二機を完成させた。

陸海軍の審査の結果は、良好で1939年七月に九九式高等練習機として制式採用された。

 

スペック

全長:8.00m

全幅:11.80m

全高:3.64m

主翼面積:18.1m²

自重:1292kg

全備重量:1721kg

エンジン:日立 天風 空冷単列星型9気筒エンジン 510 hp/2300 rpm(離昇) ×1

最大速度:349km/h

航続距離:1060km

実用上昇限度:8180m

乗員:2名

武装:七・九二粍機関銃(八九式固定機関銃)×1

 

輸送機

九七式輸送機

用途:輸送機

設計者:明川清

製造者:中島飛行機・立川飛行機

運用者:日本(陸軍・海軍)

初飛行:1936年6月12日(原型機)

生産数:318機+α

運用開始:1937年11月

運用状況:退役済

 

開発

中島が1936年(昭和11年)に完成させた国産初の近代的な旅客機であるAT-2は、当時としては優れた性能を示していた。

これに陸海軍が目をつけ軍用輸送機(キ34)として翌1937年(昭和12年)4月に改修を指示し11月に審査完了した。

九七式輸送機として制式採用した。

 

緒元

全長 15.30 m

全幅 19.92 m

全高 4.15 m

翼面積 49.20 m2

自重 3500 kg

全備重量 5250 kg

エンジン 寿 空冷9気筒 650np×2

最大速度 365km/h

航続距離 1270 km

乗員 3名

乗客 8名

 

秋空

用途:輸送機

分類:貨物輸送機

設計者:土井武夫

製造者:川崎航空機

運用者:日本(陸軍、海軍)

生産開始:1941年

運用状況:退役

 

開発

日本陸軍、海軍と日本航空輸送(のちの大日本航空)はアメリカの高速旅客機ロッキード L-14 スーパーエレクトラに注目し1938年(昭和13年)にライセンス権を取得した。

1939年(昭和14年)に陸海軍は、L-14 スーパーエレクトラの着陸時の安定性や貨物搭載量を増加させた改良機であるキ56の開発を川崎に対して指示した。

川崎では、土井武夫技師を主務者として設計に着手し1940年(昭和15年)11月に試作第1号機を完成させた。

原形機からの改修点は胴体の延長、フラップの改修、栄二一型エンジンへの換装で胴体の延長により安定性が増した他搭載量も増加した。

審査の結果一部改善箇所が指摘されたものの1941年(昭和16年)12月に一式貨物輸送機(海軍名は、秋空)として制式採用された。

胴体左側面に大型の貨物専用扉が設けられているのが特徴で空冷エンジンならば3基まで搭載できる。

また貨物輸送の他兵員輸送も可能でこの場合兵員14名または落下傘兵10名を輸送することができる。

原型となったL-14と比べると胴体の延長や全備重量の増大により上昇力や速度性能が低下したが安定性や離着陸性能は、向上し搭載量が増加したためより実用的な機体となった。

 

緒元

全長 14.9m

全高 3.60m

全幅 19.64m

翼面積 51.20m²

エンジン 栄二一型×2(1150hp)

乗員 3-4名

最高速度 458km/h(高度3,400m)

最高到達高度 7400m

航続距離 3300km

自重 4672kg

搭載量 2400kgの物資または兵士14名

最大離陸荷重 8024kg



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プロローグ 陸軍戦闘機解説

本編ががががが・・・・


九八式戦闘機

用途:戦闘機

分類:軽戦

設計者:小山悌

製造者:中島飛行機 立川飛行機 立川陸軍航空工廠

運用者 大日本帝国(日本陸軍)

満州国(満州国軍飛行隊)

タイ(タイ空軍)

フランス(フランス空軍)

インドネシア(インドネシア空軍)

中国(中国人民解放軍空軍)など数カ国

初飛行:1937年12月12日

生産開始:1938年4月

運用開始:1938年6月

運用状況:退役

 

概要

1936年(昭和11年)に制式採用された中島製の全金属製低翼単葉機九六式戦闘機(キ27)は、主脚に固定脚を採用した保守的な格闘戦向けの戦闘機だった。

登場当初の九六戦は、速度・上昇力・旋回性に優れた優秀機であったが当時の欧州では引込脚のBf 109(ドイツ)とスピットファイア(イギリス)が出現しており設計面で将来性が乏しい九六戦自体に限界を感じていた陸軍は新型戦闘機の開発を模索するようになった。

そのため九六戦採用と同月である12月陸軍航空本部は、中島に対し一社特命でキ43の試作内示を行い1938年(昭和13年)末の完成を目指して開発が始まった。

主な要求仕様は以下の通りとされている。

最大速度-500km/h

上昇力-高度5000mまで5分以内

行動半径-800km以上

運動性-九六戦と同等以上

武装-固定機関銃2挺

引込脚を採用

中島では設計主務者たる小山悌課長を筆頭とする設計課が開発に取り組み担任技師(設計主任)は機体班長たる太田稔技師、構造設計担当青木邦弘技師、翼担当一丸哲雄技師、ほかに空担当として糸川英夫技師らが設計に協力し群馬県の太田製作所で開発が始まった。

なお九六戦開発中に考案された航本の昭和12年度『陸軍航空兵器研究方針』において単座戦闘機は、「機関銃搭載型」と「機関砲搭載型」の2種が定義されておりこれに則って開発が始められた機体がキ43(前者)とキ44(後者)である(のちに二式戦闘機「鍾馗」となるキ44は1938年(昭和13年)に同じく中島に対して研究内示が行われた)。

昭和13年度『陸軍航空兵器研究方針』では、新たに「軽単座戦闘機」と「重単座戦闘機」の区分が登場した。

「軽戦(軽単座戦闘機)」は、格闘戦性能を重視し機関銃を装備し「重戦(重単座戦闘機)」は速度を重視し機関砲を装備するものと定義され当時開発中であったキ43は「軽戦」でキ44は「重戦」となっている。

キ43は、キ44と比べて格闘戦を重視というものであった。

青木技師は、陸軍の要求は「九六戦に対し運動性で勝ること」で「近接格闘性」という表現を排除していることに着目しキ43は重戦指向であったと述べている。

引込脚以外の機体基本構造は、前作の九六戦を踏襲したことから開発は順調に進み(反対に日本機にとって革新的なキ44には新技術や新構想が盛り込まれた)供試体である試作0号機を経て1936年12月に試作1号機(機体番号4301)が完成し同月12日に利根川河畔中島社有の尾島飛行場にて初飛行している(操縦はテスト・パイロット四宮清)。

エンジンは、中島で開発されたハ25で翼型はNN-2・翼端部はNN-21を採用(上半角6度・取付角2度・翼端部2度捩下)しまたアルミニウム製燃料タンクが出来た時点で陸軍から防火タンク化の指示がなされている。

試作1号機の胴体形状は、増加試作機以降とは大きく異なり引込脚化された九六戦を引き伸ばした感じであり風防は枠の無い曲面1枚物といった特徴がある(初飛行後に景色の歪みが問題とされ平面主用の3枚物に換装)。

1937年(昭和11年)1月立川陸軍飛行場に空輸されたキ43試作1号機は陸軍航空技術研所による審査に移行し同年2月に試作2号機、3月に3号機が完成し合流している。

航技研や明野陸軍飛行学校での審査の結果キ43は、九六戦に比べ航続距離は長いものの旋回性に劣り最大速度の向上は30km/h程度ということが判明した。

九六戦が旋回性能を武器に活躍したこともキ43採用に対して逆風となっていた。

同年11月審査の結果を受け胴体以下各部を改め全体のスタイルがのちの制式機相当となった増加試作1号機(通算試作4号機)が完成した。

参謀本部は、遠隔地まで爆撃機護衛および制空することが出来る航続距離の長い遠距離戦闘機(遠戦)を要求した。

飛行実験部実験隊(航技研審査部門の後身)のトップである今川一策中佐の進言もあり一定の改修を施した機体を制式採用することが決定した。

主に以下を内容とする『キ43遠戦仕様書』が中島に示され翌1938年(昭和13年)3月に改修機が飛行実験部実験隊戦闘班に引き渡され再度試験が進められた。

蝶型戦闘フラップの装備

定回転プロペラの装備

爆弾型落下タンクの装備

行動半径の1,000km以上化

エンジンはハ25を使用

かつて問題となっていた九六戦との運動性の比較については、戦闘フラップを使用しなくとも水平方向でなく上昇力と速度を生かした「垂直方向」の格闘戦に持ち込むことで不利な低位戦であっても圧倒可能と判断されている。

これは、飛行実験部テスパイ岩橋譲三大尉の研究結果であった。

これらの結果を受けて1938年5月キ43は、陸軍軍需審議会幹事会において九八式戦闘機として仮制式制定(制式採用)された。

 

制式名称 九八式戦闘機二型

試作名称 キ43-II

全幅 10.837m

全長 8.92m

全高 3.085m

翼面積 22m²

翼面荷重 117.7 kg/m²

自重 1975kg

正規全備重量 2590kg

発動機 ハ115「一〇〇式一一五〇馬力発動機」(離昇1150馬力)

プロペラ 住友ハミルトン可変ピッチ3翅 直径2.80m

最大速度

前期型:515km/h/6000m

中期型:536km/h/6000m

後期型:548km/h/6000m

巡航速度 355km/h/4000m

上昇力 高度5000mまで4分48秒

実用上昇限度 10500mないし11215m

降下制限速度 600km/h

航続距離 3000km(落下タンク有)/1620km(正規)

武装 機首12.7mm機関銃2門(携行弾数各270発)

爆装 翼下30kg~250kg爆弾2発ないしタ弾2発

 

一式戦闘機

用途:戦闘機

設計者:土井武夫

製造者:川崎航空機

運用者:大日本帝国(日本陸軍)

初飛行:1939年12月

生産開始:1939年

退役:1948年

運用状況:退役

 

概要

1938年2月陸軍は、川崎に対し本格遠距離戦闘機キ61の試作を指示した。

キ61は、1938年12月から設計が開始された。

1939年(昭和14年)12月に初飛行したキ61試作機は、最高速度560km/hを発揮し総合評価で優秀と判定されて直ちに制式採用が決定された。

この数値は、設計主務者の土井の観点から見ても全くの予想外と評された。

 

全幅 12.00m

全長 8.9245m(渡辺) / 8.818m(学研)

全高 3.75m

翼面積 20m²

翼面荷重 174.8 kg/m²(全備状態)

自重 2425kg

全備重量 3395kg

燃料 595リットル(機内)、増槽として400リットル×1

エンジン ハ102型(離昇出力1300馬力)

最大速度 560km/h(高度6000m)

巡航速度 400km/h(高度4000m)

航続距離 機内燃料1200km、増槽装備時/2000km

上昇力 5000mまで7分、8000mまで11分30秒

実用上昇限度 11000m

武装 機首20mm機関砲2門、翼内12.7mm機関砲2門

爆装 250kg爆弾 2個

 

偵察機

九八式司令部偵察機

用途:偵察機

分類:司令部偵察機(戦略偵察機)

設計者:久保富夫

製造者:三菱重工業

運用者:日本(陸軍・海軍)

初飛行:1936年11月

生産開始:1938年

運用状況:退役

 

概要

1935年(昭和10年)航研機操縦者として公式世界記録を樹立したことでも有名なテスト・パイロットで陸軍航空技術研究所の藤田雄蔵中佐らの提案により速度だけを重視した新コンセプトの偵察機の開発を狙った陸海軍は、設計を三菱に特命した。

設計者・久保富夫の「飛行機の姿を見て、ああ奇麗だな、と思うようなものでなければその飛行機は良くならない」の言葉に示されるように本機は特に三型(キ46-III)に代表される高速性を追求したゆえの細身で流線型の胴体と空気力学に基づいた新設計のエンジンカウル(ナセル)、特徴的な尾翼といった従来の日本機とは異なるスマートな外見的特長を持ち性能面でも連合軍の邀撃戦闘機を振り切る高速性、優秀な高空性および上昇限度、長大な航続距離を有していた。

太平洋戦争開戦前から終戦に至るまで常に第一線で活躍し続けた開発思想・機体設計・性能・外観・戦歴ともに旧日本陸海軍を代表する傑作機である。

また性能向上を狙った改良(機体及び各型の特徴)も重ねられ大戦末期には機首に機関砲や機体上部に「上向き砲」といった重武装を施した対大型爆撃機邀撃戦闘機型も生産された。

 

全長:11.00m

全幅:14.70m

全高:3.88m

翼面積:32.0m²

自重:3263kg/3831kg

全備重量:5050kg/5720kg

最高速度:604km/h(5800m)/630km/h(6000m)

航続距離:2474km/4000km(落下タンク装備)

上昇限度:10720m/10500m

上昇力:11分58秒(8000m)/20分15秒(8000m)

発動機:ハ102/ハ112-II

武装:7.9mm旋回機関銃

防空戦闘機型:20mm固定機関砲×2 37mm固定機関砲(ホ204)×1 攻撃機型:タ弾

無線機:九六式飛二号無線機(中距離用)/九六式飛一号無線機(長距離用)

乗員:3名(操縦者1名・偵察者2名)

 

爆撃機

九八式双発軽爆撃機

用途:爆撃機

分類:軽爆撃機

設計者:土井武夫

製造者:川崎航空機

運用者:大日本帝国(日本陸軍)

初飛行:1936年(昭和12年)

退役:1945年(昭和20年)

運用状況:退役

 

概要

帝国陸軍がSB軽爆を元に開発した機体である。

爆弾搭載量や航続距離よりも戦闘機並みの速度と運動性能が重視され主として敵飛行場において在地敵機を撃滅することを目的とし敵地上部隊に対しては、反復攻撃でこれを撃破するという重爆撃機(九七式重爆撃機)と同じく陸軍独自の戦術思想の元に設計された。

日中戦争と太平洋戦争(大東亜戦争)全期間を通して主力軽爆撃機として使用された。

 

乗員:4名

全長:12.88m

全幅:17.47m

全高:4.32m

翼面積:40.0m²

総重量:6,750kg

自重:4550kg

最高速度:505km/h(高度5600m)

上昇時間:5000mまで8分30秒

実用上昇限度:10100m

航続距離:2400km

発動機:中島ハ-115・1150HP ×2

武装:九五式旋回機関銃×3(前方旋回・後部上方旋回・後部下方旋回)・爆弾300~500kg

 

重爆撃機

一式重爆撃機

用途:爆撃機

分類:重爆撃機・雷撃機

設計者:小沢久之丞

製造者:三菱重工業

運用者:大日本帝国(陸軍)

初飛行:1941年(昭和17年)12月27日

生産開始:1942年(昭和18年)

退役:1945年(昭和20年)9月

運用状況:退役

 

概要

九七式重爆撃機の後継にあたる本機は、戦闘機の護衛を必要としない高速性能と重武装を併せ持った重爆撃機として設計された。

しかし実戦においては、常に味方戦闘機の護衛を必要とした。

1938年(昭和13年)に帝国陸軍は、三菱重工業に対して新型重爆撃機キ49の開発を命じた。

陸軍からの指示は、

戦闘機の擁護を必要としないため500km/h超の最高速度を有すること。

20mm機関砲(ホ1)の搭載と尾部銃座の設置。

航続距離3000km以上。

爆弾搭載量は、1000kg。

でいずれも九七式重爆を上回る性能を要求されることとなった。

三菱では、この過酷な要求に各種の工夫をもって取り組み1939年(昭和14年)8月に試作第1号機を完成させた。

翌月から審査が開始されたがその後エンジンの強化を含む各種の改修を施した試作機2機と増加試作機7機が完成した。

そして1941年(昭和16年)12月に一式重爆撃機(キ49)として制式採用された。

 

乗員:8名

全幅:22.5m

全長:18.7m

全高:5.6 m

主翼面積:65.0m²

発動機: ハ104空冷複列星型14気筒 1850hp×2

全備重量:13,765kg

自重:8649kg

最大速度:547km/h(6090m)

巡航速度:400km/h

上昇時間:6000mまで14分30秒

実用上昇限度:9470m

航続距離:3800km

武装:20mm機関砲×1(胴体上部)・7.9mm機関砲×4(機首、胴体左右、尾部)

爆装:50kg爆弾×15、250kg爆弾×3、500kg爆弾×1、800kg爆弾×1、魚雷×1のいずれか

 

襲撃機

九八式襲撃機

用途:攻撃機/偵察機

分類:襲撃機/軍偵察機

設計者:大木喬之助

製造者:三菱重工業

運用者:大日本帝国(日本陸軍)

初飛行:1937年6月

生産開始:1937年6月

運用状況:退役

 

襲撃機

「襲撃機」とは、1936年(昭和11年)1月に参謀本部から陸軍省に提出された「次期飛行機ノ性能等ニ関スル作戦上ノ要望」の中ではじめて明文化された日本陸軍の軍用機の新カテゴリである。

1935年(昭和10年)前後にソビエト労農赤軍の赤色空軍で生まれた高度100m程度を超低空飛行し森などの陰に隠れ敵地上部隊を急襲する戦法を取る「シュトゥルモヴィーク(直訳は襲撃者)」を日本陸軍でも機体のコンセプトを含めて採用したものである。

その用途は、「主として敵飛行場に在る飛行機並びに地上軍隊の襲撃」とされ「超低空並びに降下爆撃に適し努めて行動を軽快ならしむ」ために要求すべき性能が定められている。他方既存のカテゴリである「軽爆撃機」は、「水平爆撃を主とし降下爆撃をも実施し」と用法に差別化が図られていた。

また「襲撃機」は、軽快な低空運動性のかわりに常用高度は低く爆弾の搭載量は抑えられるものの固定機関銃または機関砲を装備し要部の装甲など防弾装備が「軽爆撃機」との違いであった。

敵地上部隊を襲撃するこの「襲撃機」は、いわゆる近接航空支援に比重が置かれた「地上攻撃機」に相当するものでもある。

 

概要

1935年(昭和12年)陸軍は、三菱重工業に対し軍偵察機としてキ51の開発を内示し1936年(昭和11年)1月末に試作を命じた。

ところが7月試作研究の途中で「陸軍航空本部兵器研究方針」の改正があり軍偵察機と襲撃機を同一機種とすることが明示されたためキ51は襲撃機を主用途とした。

大木喬之助技師を設計主務者とする開発陣は指示書に従いエンジンに中島製ハ25を採用した単発複座単葉低翼固定脚の機体を設計した。

固定武装は、両翼内に12.7 mm機関砲(ホ103 九七式十二・七粍固定機関砲)を2挺と後部座席に旋回式7.9 mm 機関銃(九四式旋回機銃)を1挺装備した。

爆弾は、当初200 kg(12 kg×12または50 kg×4)まで搭載可能であった。

また低空飛行で地上を攻撃する任務の性格上敵地上部隊からの反撃を受ける可能性が高いことや陸軍の防弾装備への深い理解から防弾についても考慮されており11号機(増加試作機)からはエンジン下面、操縦席下面、背面、胴体下面、中央翼下面を6 mm 厚の防弾鋼板で保護しまた燃料タンクはゴム張りセルフシーリング式の自動防漏タンク(防火タンク・防弾タンク)とされていた。

試作機における試験結果は、飛行性能および操縦性も良好であったが機体の振動や着陸時の失速特性の悪さといった問題も指摘され量産型では主翼前縁にスラットを設けることでその解決を図り1938年(昭和13年)5月に九八式襲撃機として制式制定された。

また本機は、生産過程で一部仕様(艤装)を変更するだけで軍偵察機にする事もできこの型は九八式軍偵察機として制式制定された。

この派生型では、後部座席の副操縦装置や防弾鋼板を取り外し胴体下・横に開けられた小窓から外部を空中撮影するための写真機が設置された。

この仕様変更に対応するため胴体内に爆弾を収納するスペースは無くなり爆弾は、両翼下に搭載された(軍偵察機は司令部偵察機のような偵察専用機ではなく時には爆装しての攻撃任務を行えることが求められている)。

また視界を広げるために機体に比して風防・天蓋が大きく設計されている。

ただし艤装以外は、元の九八式襲撃機とほとんど同じものである。

1941年(昭和16年)性能向上のためにエンジンをハ115に換装し固定脚を引込脚に変更したキ71が満州飛行機によって試作されたが期待した程の性能向上が見られなかったため実用化には至らずに終わった。

 

主要諸元

構造:単発、低翼単葉、全金属製応力外皮構造、固定脚

乗員:2名

全長:9.21m

全幅:12.10m

主翼面積:24.20㎡

自重:1873kg

全備重量:2798kg

エンジン:中島ハ25(栄) (空冷星型複列14シリンダー、離昇出力940hp)

プロペラ:住友ハミルトン 油圧式可変ピッチ3翅

最高速度:424 km/h (高度3000m)

実用上昇限度:8270 m

上昇率:5000mまで8'47"

航続距離:1060km (燃料608Lの場合)

武装:翼内12.7mm機関銃(九七式固定機関銃)×2、後方7.9mm旋回機関銃(九四式旋回機銃)×1

爆装:最大200kg

離陸滑走距離:165m

着陸滑走距離:276m

 

練習機

百式基本練習機

用途:練習機

分類:基本練習機

製造者:日本国際航空工業

運用者:日本(陸軍)

運用状況:退役

 

概要

陸軍は、1938年(昭和13年)に日本国際航空工業にドイツの傑作練習機であるBü 131をライセンス生産する事を指示した。

国際では、同年11月より国産化作業を開始し試作1号機が1939年(昭和14年)7月に完成し1940年(昭和15年)4月に四式基本練習機として制式化した。

なお海軍は、初歩練習は赤とんぼ(九四式中間練習機)で事足りるとライセンス生産はしなかった。

原型のBü 131とほぼ同じ構造の複葉複座小型機で取り扱いが簡単な事と燃費が良い上に燃料に70オクタンの低質ガソリンを使える事が利点だが点火栓が汚れやすい事によるエンジン不調と馬力不足により上昇力が不足している他脚部の強度不足などの短所もあった。

なお気筒が下向きである為飛行中にエンジン不調になった際は、背面飛行をすると復調する事もあった。

二人乗り時は、教官または助教が前方で訓練生が後方に座る配置で単独飛行する際はエンジンとのバランスを取る必要があり操縦者は後方席に搭乗した。

離着陸が容易で空中特性も良好で本機では平均で9時間半程度の訓練で単独飛行するだけの技量を習得でき従来の初等練習機に比べると5、6時間短く済んだという。

最短6時間半の同乗飛行で単独飛行を許可する事もあった。

物資不足により全木製化の百式基本練習機乙型(キ86乙)も試作されたが試作1機と増加試作機6機のみで制式化される事は、なかった。

 

性能諸元

全長:6.620m

全幅:7.347m

全高:2.25m

自重:401.3kg

正規重量:630.8 kg

エンジン:日立ハ47空冷式倒立型直列4気筒(公称100hp、離昇出力110hp)

最大速度:180 km/h

巡航速度:120 km/h

航続距離:470km(正規)/ 600km(過荷)

乗員:2名



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プロローグ 陸海軍兵器解説

機関砲

九八式四十粍高射機関砲

 

概要

1935年(昭和10年)スウェーデンのボフォース社からライセンス生産したものである。

しかし製造に手間取り制式採用は、1938年のことだった。

 

魚雷

酸素魚雷(別名九一式魚雷)

酸素魚雷では、通常の魚雷で使用される圧縮空気ではなく純酸素を酸化剤として使用し燃料と混合して燃焼させ炭酸ガスを排出する。

炭酸ガスは、海水に良く溶けるためほぼ無航跡とすることができ隠密性の上で大きな意味を持った。

また燃焼効率も大きく上がり高速推進を可能としたほか長い航続力をも併せ持つことができた。

このように使用する酸化剤を酸素のみとすることで多くの利点が得られることは広く知られていたが同時に酸素の反応性の高さから燃焼開始時などに容易に爆発するという技術上の問題点が立ち塞がっていた。

このような事情から各国ともに酸素魚雷の開発に力を入れていたものの頻発する爆発事故で中止の止む無きに至っていた。

このような中で1931年(昭和6年)日本は、世界に先駆け酸素魚雷の開発に成功し以降大戦を通じて唯一の酸素魚雷運用国となった。

酸素魚雷は当時の一般的な魚雷と比べ雷速(魚雷速度)、炸薬量で勝り射程は数倍で加えて無航跡という高性能なもので米軍は開戦当初には魚雷性能を把握できない状況で被害を受けたが1944年になってようやく把握して諸元情報を配布しこれを警戒した。

しかし一方で酸素魚雷の整備性は、良好とはいえず誤爆を防ぐために充分なメンテナンスを要しまた速すぎる雷速の為船底爆破用の磁気式の信管が使用できず接触式信管を採用せざるを得ないなどの短所もあった。

後に日独技術交換により大日本帝国海軍からドイツ海軍へも試験供与されたが戦略的位置付けの違いもあり整備性の悪さなどからUボートでの使用には、適さないと判断され採用されていない。

 

高角砲

四十五口径四二式八糎八高角砲

 

概要

ドイツの「Flak L/45 1906年型 8.8cm(45口径)高角砲」をライセンス生産したもの。

 

五十口径九一式九糎高角砲

 

概要

フランスの「1926年型9cm(50口径)高角砲」をライセンス生産したもの。

 

五十六口径九五式十二糎七高角砲

 

概要

第二次世界大前から航空機は、急速に発達し高高度での作戦行動可能な爆撃機が次々と登場すると予想された。

これに対応するため海軍の技術協力を受け十二糎七の高角砲が開発された。

54口径91式9糎高射砲よりさらに大きい口径となったがそれは

中口径の砲では、高高度まで砲弾を上げるのに限界がある

初速を上げなければ高高度まで到達できないが口径の小さい砲では、初速が高すぎると砲身寿命が短くなる

威力の向上

などの理由によるものである。

本砲は、要地防空が目的のため固定式でありそれにより

電気式で高性能な高射照準具(算定具)の装備

自動装填装置の装備

従来の歯車式の人力操作と違い海軍式の電動モーター駆動の水圧伝導機による迅速な操作が可能

信管は、時計式の機械信管を採用し信管の測合も自動装填装置の作動中に行われる

などそれまでの野戦高射砲とは歴然とした性能差をもつ高射砲となった。

戦後の米軍の調査資料によれば本砲の実用発射速度は、毎分15発となっている。

 

使用勢力 大日本帝国陸海軍

採用年 1935年(昭和10年)

口径 12.7mm

砲身長 6710mm(56口径)

初速 853m/秒

最大射程 20500m

最大射高 14000m

発射速度 毎分15発(実用速度)

重量 19.80トン

 

六十・三五口径九七式十五糎高角砲

 

開発経緯

この砲が存在するに当たっては、五十六口径九五式十二糎七高角砲とB-17爆撃機が重要である。

陸軍は、当初B-17に対しては五十六口径九五式十二糎七高角砲で対処出来ると判断していたが同爆撃機が高度10000~15000メートルの高高度で侵入した場合に心もとないことが明らかとなり有効射高のより高い新型高射砲の開発が急務となった。

このため五十六口径九五式十二糎七高角砲の設計者は、陸軍技術研究所火砲設計部の総力を挙げて有効射高16000メートルの口径15cmの新型高射砲の設計を1936年(昭和11年)4月1日に完成させた。

大阪陸軍造兵廠と日本製鋼所で各一門完成し実弾射撃試験に合格した。

 

要目

 

砲身

重量 9.2トン

砲身長 9メートル (60.35口径)

射界

高低 0~+85度

周囲 360度

最大射程 26000メートル

最大射高 19000メートル

発射速度 約六秒/発

 

航空無線機

九一式飛二号無線機

 

概要

昭和4年度から審査を開始した。

この中距離飛行機用機材は短波および中短波を使用し電信通信距離は十号無線機と対向通信し150km、放送300km、重量約50kgを目指すものだった。

昭和5年度中に通話機能の追加し対地送信500kmとなるよう審査要件が変更された。

対地受信もこれと同程度となるよう研究が行われた。

同年6月から8月に試作機を試験し改修した。

さらに下志津陸軍飛行学校で初期の性能を持つことが確認された。

十一号無線機と対向した場合には、空地間距離20kmで電話通信が可能であり30kmでの通話も可能だった。

十号無線機と対向した場合には70kmの距離で電話通信が可能だった。

変調器を改善することで通信能力の増強が見込まれた。

昭和6年2月満州北部で冬期試験を実施した。

電気的機能になお改善の必要があったが距離500kmでの空地間通信が可能だった。

電源を除き外気温に対して特別の処置を講じる必要はなかった。

昭和6年度には、以下のように審査要件が修正された。

短波または中短波を使用

重量約50kg

十号無線機と対向し通信距離500km

十一号無線機と対向し約30kmの電話通信が可能であること

である。

また爆撃機への搭載用にも研究された。

昭和6年4月には、飛行第七連隊の重爆撃機に十五号無線機を搭載し試験した。

周波数帯の選定によっては、距離1000kmで実用通信が可能だった。

7月には、型式を確定した。

昭和7年初頭満州北部で試作機を試験した。

性能は、概ね良好で受信機の感度が良好で取扱いが容易と判定された。

ただし一部試験は、実施できなかった。

昭和7年中に審査要件が変えられ対地電信送信距離が600kmに延長された。

昭和7年7月には、乾電池と蓄電池を廃止し8月から10月には初期の性能を持つことが確認された。

昭和8年3月短期に製造可能なことが確認された。

11月には、仮制式制定が容認され12月に上申が行われた。

 

九一式飛三号無線機

 

概要

大正13年4月21日航部発乙第六五号により審査開始した。

当初通信距離は、戦闘機相互で5kmで戦闘機用対空機には10kmの通話を目標とした。

重量は30kg以内で送受信器の分離使用を可能な限り目指した。

大正14年4月13日航部発乙第七六号によって審査要件が修正された。

変更内容は偵察機用対空機に対する通話距離が20km、重量が40kg以内、可能な限り小型かつ送受信器を分離できること、審査期限を昭和3年までとすることである。

これと従前の調査研究を踏まえて改飛三号機として第一次試作を開始した。

要件達成に努力が注がれまた戦闘機間で5kmで改対三号機と対向することで30kmの通信を行うことが目指された。

大正15年6月に野外試験を実施しサルムソン2とF.60に搭載した。

結果固定空中線では空対地5kmで飛行機相互3kmの通話距離を得た。

5m長の垂下空中線では、空対地30kmで飛行機相互10kmの通話距離が得られた。

昭和2年1月25日航乙第六四号によって審査要件に変更が加えられた。

内容は審査期限を延長すること、現用無線機が戦闘機用として最適とは言えないこと、無線装備が絶対重要であるため、超短波等の研究と並行し優良機材を得るのが妥当とされたことである。

昭和2年改飛三号機の研究を中止し新規に飛行機用超短波機の研究が開始された。

昭和2年11月から翌年2月にかけて試作機材を試験した。

送信電力機上75ワット、地上200ワット、周波数は100000から80000キロサイクル毎秒である。

空中線は、機上送信半波長垂直型と受信全波長型を使用した。

昭和3年これは、十六号機として研究が進められた。

性能は重量約40kg、超短波を使用して戦闘機相互5km、対地20kmとされた。

さらに戦闘機相互に10kmから15kmの通信が可能なよう研究が進められた。

昭和4年超短波または、短波を使用して戦闘機相互に10kmから15kmで対地20kmの通話を目指した。

全備重量は、目標40kg以内である。

昭和4年9月基礎研究を開始し12月に中短波機の試作を開始し昭和5年3月に完成した。

同年審査要件が変更された。

超短波または中短波を使用すること、戦闘機相互に10kmから15kmの通話ができ、重量40kg以内とされた。

また対空用十号機との通話が目指された。

昭和5年7月から数次の試験を経て型式と通話距離を決定した。

昭和5年12月4日航乙第一〇九六号では、垂下空中線を採用し無線電話機の改善し濾過用蓄電池の決定を指示した。

ほか性能向上と方向性除去を図り実用審査に移った。

昭和6年1月から3月まで陸軍航空本部に試験を依託し若干の改修を行えば機能は、概ね良好であり取扱いが容易で実用可能と判断された。

同年審査要件が変更され重量30kg以内とすること、偵察機、爆撃機からの送話を受信できることが加えられた。

昭和7年2月短期に整備可能であることが確認された。

昭和7年11月陸海軍航空本部は、仮制式制定の上申を認可し12月に上申された。

 

機銃

九六式十二・七粍固定機関砲

 

概要

1934年(昭和9年)それまでの主力航空機関銃であった八九式固定機関銃(LMG08/15のライセンス生産)の威力不足が予想されたため陸軍航空本部は、従来の機関銃に代わる口径12.7mmの機関砲の開発を新たに計画(試製十二・七粍固定機関砲)し以下の4種類の試作を小倉陸軍造兵廠・名古屋陸軍造兵廠・中央工業に担当させた。

ホ101 - 八九式固定機関銃の口径拡大型

ホ103 - アメリカから購入していたブローニング AN/M2航空機関銃(MG53-2)のコピー

ホ104 - ホ101の旋回機関砲型

1935年(昭和10年)審査の結果中央工業製のホ103が優秀であったためこれを1936年(昭和11年)に九六式十二・七粍固定機関砲として制式採用した。

 

九七式二〇粍固定機銃

 

概要

九六式戦闘機乙型を筆頭に採用され始めた口径12.7mm(12.7x81SR弾)のホ103 九六式十二・七粍固定機関砲をベースに機関部などを20x94弾に対応・大型化した口径20mmの機関砲である。

軽量砲弾(弾丸)を使用するホ103の特質を受け継ぎ本砲は、同じ口径20mmながら20x125弾を使用するホ1 試製二十粍旋回機関砲・ホ3 試製二十粍固定機関砲よりも砲弾重量が約25%も軽くアメリカ軍の口径12.7mm(12.7x99弾)のAN/M2(ブローニング M2重機関銃の航空機関銃型。ホ103のベース)より砲自体の重量は軽量にかつサイズはコンパクトに抑えられ発射速度も勝る高性能機関砲であったがこれらの対価として(軽量砲弾ゆえに)弾道特性の悪化や威力減をまねいている。

徹甲弾による射撃試験では射程100mで20mmの装甲を貫通した。

弾種は九八式曳光徹甲弾、九八式曳光榴弾、九八式榴弾、マ202(特殊焼夷弾)、九八式代用弾(訓練用の演習弾)である。

 

 

九三式二〇粍旋回機銃

 

概要

1928年(昭和3年)夏頃日本海軍では、大型爆撃機に対処可能な大口径機銃の導入が検討されていた。

しかし当時世界で唯一20mm機銃の開発に成功していたドイツのベッカー砲も時代遅れになっておりライセンス生産しても意味がなかった。

そこで日本海軍は、八九式固定機銃と八九式旋回機銃を大型化した機銃を試作することにした。

そして1933年に旋回機銃の試作機が完成し各種試験を行った。

しかし試作機は、暴発や弾づまりが多発し実戦で耐えられるものではなかった。

そのため数挺生産されただけで本格的な量産には、至らなかった。

しかしこの経験が後に傑作となる九七式二〇粍機銃を生み出した。

 

九七式二〇粍機銃

 

概要

史実の九九式二号二〇粍機銃と同じ。

 

九四式旋回機銃

 

概要

九四式旋回機銃は、ドイツのラインメタル社が開発したMG15 7.92 mm機関銃を日本陸海軍がライセンス生産したものである。

 

種類 航空機関銃

製造国 日本

年代 第二次世界大戦

仕様

口径 7.92mm

銃身長 600mm

使用弾薬 7.92mm×57

装弾数 75発(甲型・サドル型ドラムマガジン)

作動方式 銃身後座反動利用

全長 1251mm

重量 7.2kg

発射速度 約1000発/分

銃口初速 750m/s

配備先 大日本帝国陸海軍

関連戦争・紛争

第二次世界大戦



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プロローグ 連合艦隊編成

司令官 山本五十六大将

第1戦隊:長門、陸奥

第24戦隊:報国丸、愛国丸、清澄丸(いずれも特設巡洋艦)

第4潜水戦隊:名古屋丸  ※1941年12月2日~1942年4月10日にかけて南遣艦隊へ増援

第18潜水隊:伊53、伊54、伊55

第19潜水隊:伊56、伊57、伊58

第21潜水隊:呂33、呂34

 

第5潜水戦隊:りおでじゃねろ丸  ※1941年12月2日~1942年4月10日にかけて南遣艦隊へ増援

第28潜水隊:伊59、伊60

第29潜水隊:伊62、伊64

第30潜水隊:伊65、伊66

 

第1連合通信隊:東京、高雄、父島海軍通信隊、沖縄通信隊、第3~6通信隊

朝日、室戸、朝日丸は1941年12月2日~1942年4月10日にかけて南遣艦隊へ増援

標的艦:矢風、摂津

工作艦:明石、松島

給炭艦:室戸

特設病院船:朝日丸、高砂丸

第1哨戒艇隊

 

第一艦隊

司令官 高須四郎中将

第2戦隊:伊勢、日向

第3戦隊:甲斐、山城

第7戦隊:青葉、衣笠、古鷹、愛鷹

第10戦隊:北上、大井

第1水雷戦隊:最上

第6駆逐隊:雷、電、響、暁

第17駆逐隊:高潮、秋潮、春潮、若潮

第21駆逐隊:初春、子日、初霜、若葉

第27駆逐隊:有明、夕暮、白露、時雨

 

第3水雷戦隊:阿武隈

第11駆逐隊:早風、夏風、冬風、初風

第12駆逐隊:雪風、天津風、時津風、浦風、

第19駆逐隊:浜風、谷風、萩風、舞風

第20駆逐隊:狭霧、山風、霜風、磯風

 

第3航空戦隊:鳳翔、龍翔

付属 妙風、夕風

 

第二艦隊

司令官 近藤信竹中将

第5戦隊:高雄、愛宕、鳥海 摩耶

第6戦隊:那智 、羽黒、足柄、妙高

第8戦隊:天城 赤城 葛城 笠置

第4水雷戦隊:熊野

第2駆逐隊:村雨、夕立、春雨、五月雨

第4駆逐隊:嵐、山霧、海霧、谷霧

第9駆逐隊:朝雲、山雲、夏雲、峯雲

第24駆逐隊:霧雨、氷雨、紅雨、霖雨

 

第2水雷戦隊:三隈

第8駆逐隊:朝潮、満潮、大潮、荒潮

第15駆逐隊:黒潮、親潮、早潮、夏潮

第16駆逐隊:川霧 青雲 紅雲、春雲

第18駆逐隊:霞、霰、陽炎、不知火

 

第三艦隊

司令官 高橋伊望中将

第16戦隊:長良、球磨

第17戦隊:厳島、八重山、辰宮丸(特設敷設艦)

 

第5水雷戦隊:鬼怒

第29駆逐隊:追風、疾風、朝凪、夕凪

第30駆逐隊:朝東風、大風、東風、西風

 

第6潜水戦隊:長鯨

第9潜水隊:伊123、伊124 ※1941年12月2日~1942年4月10日まで南遣艦隊に増援

第13潜水隊:伊121、伊122

 

第1根拠地隊:白鷹、蒼鷹、掃海艇、駆潜艇など

第2根拠地隊:若鷹、掃海艇、駆潜艇など

第32特別根拠地隊

附属:山陽丸、山彦丸、特設運送船2隻

 

第四艦隊

司令官 井上成美中将

独立旗艦:神通

第18戦隊:天龍、龍田

第19戦隊:沖島、常磐、津軽、天洋丸

 

第7潜水戦隊:迅鯨

第26潜水隊:呂60、呂61、呂62

第27潜水隊:呂65、呂66、呂67

第33潜水隊:呂63、呂64、呂68

 

第24航空戦隊:千歳海軍航空隊、横浜海軍航空隊、神威、五州丸

第3根拠地隊(パラオ群島防衛、司令部はパラオ本島)

第4砲艦隊、福山丸、第13掃海隊、第55駆潜隊

第3防備隊、第16航空隊

 

第4根拠地隊(カロリン諸島防衛、司令部はトラック環礁) 高栄丸、第14掃海隊、第56、57駆潜隊

第4防備隊、第17航空隊

 

第5根拠地隊(マリアナ諸島防衛、司令部はサイパン島) 第7砲艦隊、勝泳丸、第15掃海隊、第59、60駆潜隊

第5防備隊、第18航空隊

 

第6根拠地隊(マーシャル諸島防衛、司令部はクェゼリン環礁) 八海山丸、光島丸、興津丸、第16掃海隊、第62~65駆潜隊

第6防備隊、第51~53警備隊、第19航空隊

 

附属:聖川丸、松栄丸、山鳩丸、氷川丸、金剛丸、金龍丸 第4港務部、第4気象隊(トラック常駐)、舞鶴鎮守府第2特別陸戦隊(ソロモン諸島攻略部隊)

 

第五艦隊

司令官 細萱戊子郎中将

第21戦隊:多摩、木曾、君川丸

第22戦隊:粟田丸、浅香丸

第7根拠地隊

第17掃海隊、第66駆潜隊

父島海軍航空隊、第7防備隊

 

第六艦隊

司令官 清水光美中将

独立旗艦:由良

第1潜水戦隊:靖国丸、伊9

第1潜水隊:伊15、伊16、伊17

第2潜水隊:伊18、伊19、伊20

第3潜水隊:伊21、伊22、伊23

第4潜水隊:伊24、伊25、伊26

 

第2潜水戦隊:さんとす丸、伊7、伊10

第7潜水隊:伊1、伊2、伊3

第8潜水隊:伊4、伊5、伊6

 

第3潜水戦隊:聖川丸、伊8

第11潜水隊:伊74、伊75

第12潜水隊:伊68、伊69、伊70

第20潜水隊:伊71、伊72、伊73

 

第七艦隊

司令官 塚原二四三中将

第1航空戦隊:翔鶴、瑞鶴

第2航空戦隊:蒼龍、黒龍

第4航空戦隊:麗鶴、雅鶴

第5航空戦隊:大鳳、祥鳳

第6航空戦隊:龍鳳、瑞鳳

第7航空戦隊:海鳳、白鳳

付属 大鷹

第4戦隊:金剛、榛名、比叡、霧島

第9戦隊:利根、筑摩

第6水雷戦隊:川内

第7駆逐隊:秋雲、潮、曙、漣

第23駆逐隊:朧、江風、涼風、海風

第3駆逐隊:太刀風、汐風、帆風、北風

 

第7水雷戦隊:名取

第5駆逐隊:朝風、春風、松風、旗風

第22駆逐隊:清風、村風、里風、沖津風

 

第十一航空艦隊

司令官 南雲忠一中将

第21航空戦隊:鹿屋海軍航空隊、東港海軍航空隊、第1航空隊、葛城丸

第22航空戦隊:美幌海軍航空隊、元山海軍航空隊、富士川丸

第23航空戦隊:高雄海軍航空隊、台南海軍航空隊、第3航空隊、小牧丸

附属:りおん丸、慶洋丸、加茂川丸

第34駆逐隊:羽風、秋風

 

第一遣支艦隊

司令官 小松輝久中将

漢口方面特別根拠地隊、九江基地隊

 

第二遣支艦隊

司令官 新見政一中将

旗艦:五十鈴

第4掃海隊

附属:広東方面特別根拠地隊、厦門方面特別根拠地隊

 

第三遣支艦隊

司令官 杉山六蔵中将

磐手

附属:青島方面特別根拠地隊、首里丸

 

南遣艦隊

司令官 小沢治三郎中将

旗艦 大淀 占守

第9根拠地隊 初鷹

第1掃海隊

第11駆潜隊、相良丸、永興丸、長沙丸

第91駆潜隊、野鳥丸

第91警備隊、第91通信隊

 

第11特別根拠地隊 永福丸

第81通信隊



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第一話 栄光

            第一章 真珠湾攻撃

 

 連合艦隊の中で「無敵艦隊」の異名を持つ第七艦隊は、極秘任務のため一切の無線も使わず真珠湾へと向かっていた。

旗艦を務める「翔鶴」の艦橋では、司令官の塚原二四三(つかはらにしぞう)がはるか地平線をにらみながらここまでの経緯を思い出していた。

 

 千九百三十一年ごろから始まった清中および日中での紛争は、千九百三十七年の第二次上海事変で全面戦争に突入寸前だったが英仏による治安維持隊の派遣を日中両国とも了承したため戦争は回避されたものだと思われた。

 しかし千九百三十九年に勃発した第二次世界大戦で英仏の治安維持隊は、アメリカ経由で本国に送られたがこれを待っていたかのように中国軍が攻撃を再開した。

時の総理大臣だった阿部信行は、「もはや隠忍その限度に達し支那軍の暴虐を膺懲し南京政府の反省を促す」との声明を発表しこれに応戦した。

それに呼応するように第七艦隊から第十二戦隊、第六水雷戦隊および第七水雷戦隊が上海派遣軍の上陸援護のため先遣隊として艦砲射撃を行った。

 だが敵の爆撃機による反撃で「霧島」の射撃指揮所が破壊され当時の砲術長が戦死した。

それでも当時の第十二戦隊の司令官南雲忠一(なぐもちゅういち)少将は、攻撃を続行しこの艦砲射撃で中国防御陣は壊滅し作戦を完了させた。

 そして上海派遣軍は、中国軍の激しい抵抗を受けるものの南京を占領した。

しかし中華民国は、アメリカなどの後ろ盾によって抵抗を続けていた。

 日本政府は、その後ろ盾をなくすべく国際連盟で中国を厳しく非難したもののアメリカを中心に多くの国が原因は日本側にあるとして非難決議を採択した。

 日本は、千九百三十八年に決議された対日経済制裁逃れから千九百四十年から千九百四十一年にかけて仏印進駐を決定させた。

しかしこれがアメリカの対日経済制裁の踏切の決定打になりABCD包囲網は、完成されてしまった。

日本は、自国とインドシナから産出される石油では連合艦隊の全艦を運用するが難しかった。

 そこで現在野村吉三郎(のむらきちさぶろう)駐アメリカ合衆国特命全権大使、来栖三郎(くるすさぶろう)遣米特命全権大使とコーデル・ハル国務長官の間で戦争回避のための最後の会談が行われていた。

 

「塚原司令、いかがなさいましたか?」

 虚ろな目で地平線を見る塚原司令を心配したのだろう。

草鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)参謀長が心配そうに声をかけた。

「えらいことを引き受けてしまった。

断ればよかった。

うまくいくかな」

 塚原司令は、作戦をうまくこなせるか心配だった。

草鹿参謀長が励ましの言葉を言おうとしたときだった。

「失礼します」

 通信室に詰めていた通信参謀の小野寛治郎(おのかんじろう)少佐が電文のつづりを持ってあわただしく艦橋に入ってきた。

「会談結果だな」

 塚原司令の問いに「はい」と小野参謀が答えた。

「どうだ」

「『ニイタカヤマノボレ一二〇八』です」

 新高山は、当時日本領であった台湾の山の名(現・玉山)で当時の日本の最高峰で一二〇八とは12月8日のことで「X(エックス)日を12月8日(日本時間)と定める」の意の符丁であった。

ちなみに戦争回避で攻撃中止の場合の電文は、「ツクバヤマハレ」であった。

 

 十二月八日塚原司令の心配をよそに艦隊は、C地点に到着しようとしていた。

「変針命令を出せ」

 塚原司令は、小野参謀に下令した。

「了解しました」

 小野参謀は、発光信号を出すように命じた。

無線封鎖を行っているため信号手によるジェスチャーで意思疎通を行っていた。

 信号手は、緊張しきっているようだが無理もない。

 大日本帝国海軍初のーというより世界初の空母主体の機動部隊が一大作戦を行おうとしているのだ。

その戦力は

第七艦隊司令長官:塚原二四三中将、参謀長:草鹿龍之介少将

第一航空戦隊-塚原二四三直率、空母「翔鶴」、「瑞鶴」

第二航空戦隊-司令官:山口多聞少将、空母「蒼龍」、「黒龍」

第四航空戦隊-司令官:高橋三吉少将 空母「麗鶴」、「雅鶴」

第五航空戦隊-司令官:原忠一少将 空母「大鳳」、「祥鳳」

第六航空戦隊-司令官:近藤英次郎少将 空母「龍鳳」、「瑞鳳」

第七航空戦隊-司令官:三並貞三少将 空母「海鳳」、「白鳳」

艦載航空機八百八十八機(陣風艦上戦闘機三百二十八機、九八式艦上爆撃機二百七十六機、九七式艦上攻撃機二百七十機、天山艦上攻撃機六機)

第二戦隊-司令官:高須四郎中将、戦艦「甲斐」、「山城」、「伊勢」、「日向」

第八戦隊-重巡洋艦「利根」、「筑摩」

第一水雷戦隊-司令官:大森仙太郎少将、軽巡洋艦「最上」

第一七駆逐隊-駆逐艦「高潮」、「秋潮」、「春潮」、「若潮」

第一八駆逐隊-駆逐艦「陽炎」、「不知火」、「霞」、「霰」

第四水雷戦隊-司令官:西村祥治少将、軽巡洋艦「熊野」

第四駆逐隊-駆逐艦「嵐」、「萩風」、「野分」、「舞風」

第九駆逐隊-駆逐艦「朝雲」、「山雲」、「夏雲」、「峯雲」

である。

 発信信号による変針命令を受けると艦隊は、いっせいに回頭してハワイに南下した。

乗員の錬度は、最高潮に達しており素晴らしい回頭を見ることができた。

しかし塚原司令の胸のもやもやは、晴れることはなかった。

 

 運命の時間になり飛行甲板にはずらりと九八式艦上爆撃機と九七式艦上攻撃機が翼を広げ並べられていた。

その時艦橋に総隊長の淵田美津雄(ふちだみつお)中佐が入ってきた。

「長官、出撃準備完了致しました」

 淵田中佐が発進準備が完了したことを伝えた。

「俺は、君達をここまで連れてきた。

あとは、君達だ」

 塚原司令は、パイロットたちを無事にここまで連れてこれたことで少し肩の荷が軽くなったように感じられた。

「最後の情報が入った。

『真珠湾ニ在泊ノ艦、下ノ如シ。

戦艦九、乙巡三、水上機母艦三、駆逐艦十七、空母及ビ甲巡ハ全部出動シタリ。

艦隊ニ異常ノ空気ヲ認メズ」

 草鹿参謀長が真珠湾に停泊中の艦船の艦種と数を読み上げた。

「空母は、いないのか?」

 塚原司令は、がっかりしたように言った。

「はい、日曜日ですから朝までには必ず帰ってきます」

 塚原司令を励ますように草鹿参謀長が強く断言した。

「君たち、出会いはしないかね?」

 塚原司令は、攻撃隊が敵空母に遭遇する可能性を質問した。

「出会えばこっちが優勢です。

そのための六六機動部隊じゃないですか」

 それに答えたのが第七艦隊航空甲参謀の源田実中佐だった。

「真珠湾に行けなくなる」

 塚原司令は、本来の作戦を全うできなくなるのを危惧していた。

「良いじゃないですか、空母さえ叩けば」

 源田参謀は、空母ーとうより航空機こそが次の主戦力と考えているためそれを運ぶ空母をつぶせば緒戦は優位に立てると考えていた。

「時間だ、行け」

 草鹿参謀長が腕時計を見て叫んだ。

「はい、行って参ります」

 そういって淵田総隊長は、去ろうとした。

「しっかり頼むぞ」

 そういうと源田参謀は、淵田総隊長と固い握手をかわした。

そして淵田総隊長は、今度こそ艦橋を去った。

「第二次攻撃隊が発艦した後に敵空母を発見しても何もできないのがもどかしいな」

 第二次攻撃隊発艦後は、味方空母に敵空母を攻撃できる攻撃用航空機がなくなってしまう。

「第二次攻撃隊帰還後に再攻撃を準備すれば間に合います」

 源田参謀は、そんな弱腰の塚原司令の尻を叩くように強く言った。

「それも時間がかかり敵に攻撃のチャンスを作ってしまう。

わが艦隊は、何隻か失うことになる」

 塚原司令は、自分が日露戦争で戦艦二隻を一挙に失った東郷平八郎長官の二の舞になることを予期していた。

 

 第七航空戦隊旗艦「海鳳」では、飛行甲板で司令官三並貞三(みなみていぞう)少将が自ら訓示を行っていた。

「この作戦には、皇国の興亡がかかっている。

旗艦『翔鶴』は、これからZ旗を掲げる。

この旗に恥じぬよう奮戦してほしい。

以上だ」

 三並司令の訓示が終わると搭乗員は、艦載機に乗り込んでいった。

 そして全空母から艦載機が発艦した。

本来艦載機の発艦の順番は艦上戦闘機、艦上爆撃機で最後に艦上攻撃機であるが陣風艦上攻撃機の巡航速度が他の航空機よりはるかに速いため最初に艦上爆撃機と艦上攻撃機を発艦せて最後に陣風を発艦させる手はずになっていた。

しかし単座の艦上戦闘機だけで正確に真珠湾に行くのは、至難の業だった。

そこで速力と航続力がある天山艦上攻撃機を数機配備し水先案内人になってもらおうと考えた。

 九八式艦爆と九七式艦攻が発艦し終わると飛行甲板に陣風が上げられた。

 

 第二航空戦隊旗艦「蒼龍」の艦橋外からは、司令官の山口多聞(やまぐちたもん)少将が美しい翼を眺めていた。

「俺が若ければ」

 山口司令は、飛行機に乗れる搭乗員が羨ましかった。

「飛びますか?」

 参謀は、後方で指揮することを願っていたため前線に出るのはごめんだった。

「もちろんさ。

真っ先に行くさ」

 このあたりが闘将と呼ばれるゆえんだろう。

 

 攻撃隊は、途中雲の切れ間から見える日の出に日の丸国旗と重ね合わせ敬礼をした。

艦上攻撃機は、ひどい雲に入ってしまったためホノルルラジオの電波を逆探してオアフ島に向かっていた。

 そして目的地のオアフ島上空に到着した。

その頃には、遅れて発艦した陣風も追いついてきた。

 淵田総隊長は、信号弾を発射した。

この際奇襲の場合には、合図が信号弾一発で火災による煙に妨げられることない状況で対艦攻撃を実施させるべく艦攻による攻撃を先行させ強襲の場合には合図が信号弾二発で艦爆による対空防御制圧が先行させる作戦計画になっていた。

「総隊長、雷撃隊の反応がありません」

 淵田総隊長が見ると村田重治少佐率いる雷撃隊が展開行動を起こしていなかった。

そこで淵田総隊長は、もう一発信号弾を発射した。

しかし「大鳳」艦爆隊指揮官である飛行隊長高橋赫一海軍少佐は、これを合わせて信号弾二発と誤解し先行した。

「よし突撃だ。

攻撃開始」

 淵田総隊長の命令でト連送が発信された。

 

 それは、翔鶴でも傍受できた。

「隊長機のト連送を傍受しました」

 草鹿参謀長が興奮しながら報告した。

「トトトが来ましたか」

 源田参謀も興奮を隠せなかった。

 

 それは、連合艦隊総旗艦の「長門」でも傍受できた。

「長官、隊長機の突撃信号を直接傍受しました」

 その報告に幕僚たちが興奮しそれは、水兵にまで伝わった。

「よし、全地域で速やかに戦闘開始」

 GF長官山本五十六(やまもといそろく)大将が全部隊に攻撃開始命令を出した。

 

 既にアメリカ兵の何名かは、上空にいる飛行編隊に気付いていたがこの日B-17の編隊がここに到着することが事前に知らされていたためほとんどは日本の攻撃隊をB-17の編隊と勘違いしていた。

「空母二隻がいません」

 総隊長機の電信員の水木徳信上等飛行兵曹が双眼鏡で最後の敵情確認をした。

「やっぱりいないか。

まあ良い。

今誘き出せば再攻撃の時必ず叩く」

 淵田総隊長は、それほど深刻に考えなかった。

 攻撃隊は、攻撃を開始した。

急降下爆撃隊がフォード島ホイラー飛行場へ二百五十キログラム爆弾による爆撃を開始しこれが初弾となった。

続いてヒッカム飛行場からも爆煙が上がった。

雷撃隊を率いていた村田重治は、正しく奇襲と理解し予定通りヒッカム飛行場上空を通る雷撃コースに入ろうとしていたがヒッカム飛行場からの爆煙に驚き目標が見えなくなっては一大事と近道を取り七時五十七分に雷撃を開始した。

淵田総隊長は、飛行場攻撃の爆煙があまり激しくならないうちに水平爆撃を開始する旨を決意し水平爆撃隊に「突撃」(ツ・ツ・ツ・・・のツ連送)を下命した。

 七時五十五分頃に戦艦「アリゾナ」で空襲警報が発令された。

 七時五十八分アメリカ海軍の航空隊が「真珠湾は攻撃された。これは演習ではない」と警報を発した。

 八時〇〇分戦闘機隊による地上銃撃が開始され八時五分水平爆撃隊による戦艦爆撃が開始された。

八時過ぎ「瑞鶴」飛行隊の九七式艦上攻撃機が投下した八百キログラム爆弾が四番砲塔側面に命中した。

次いで八時六分一番砲塔と二番砲塔間の右舷に爆弾が命中した。

八時十分「アリゾナ」の前部火薬庫は、大爆発を起こし艦は千百七十七名の将兵とともに大破沈没した。

戦艦「オクラホマ」にも攻撃が集中した。

「オクラホマ」は、転覆沈没し将兵四百十五名が死亡または行方不明となった。

「よし、第一波は全部帰ったな。

第二波まで三十分ある。

よく戦果を写しておけ」

 淵田総隊長は、水木上飛曹に命令した。

「はい」

 水木上飛曹は、カメラで港湾の地獄絵図をきっちり写した。

 

 ハワイ時間午前八時五十四分第二波空中攻撃隊が「全軍突撃」を下命した。

第二波攻撃隊はアメリカ軍の防御砲火を突破する強襲を行い小型艦艇や港湾設備、航空基地、既に座礁していた戦艦「ネバダ」への攻撃を行いこれを成功させたほか「ペンシルバニア」が収容されていた乾ドッグへの攻撃を行った。

これに対して一息ついて反撃の余裕ができたアメリカ軍は、各陣地から対空射撃を行い日本軍航空隊を阻止しようとした。

しかしこの時点でフォード島のアメリカ海軍機は、全滅し飛行可能な飛行機は一機もなくなっているなど甚大な被害を受けていたため四百機近い急降下爆撃機や戦闘機を抱える圧倒的な数量の日本軍に効果的な損害を与えることは不可能であった。

「よし、戦果は見届けた。

味方は、もう一機もいないな。

引き上げろ」

 淵田総隊長は、帰還命令をだし帰路に着いた。

 

 第七艦隊上空には、続々と艦載機が戻ってきて着艦していった。

しかしその中には、銃弾で油圧が故障したり脚部を破壊された機体もあった。

「故障機は、海へ捨てろ」

 源田参謀の命令に甲板作業員が驚いた。

「バカ者。

再攻撃の邪魔だ。

甲板を傷つけそうな機は、海へ突っ込ませろ。

なに、この辺の海は温かいさ」

 源田参謀は、再攻撃を前提にしていた。

 最後に淵田総隊長機が着艦した。

 淵田総隊長が「翔鶴」の艦橋に上がった。

「帰ってきたか、心配させやがって」

 源田参謀が淵田総隊長の無事な帰艦を喜んだ。

「報告します。

我が攻撃隊は」

 淵田総隊長が話し始めた。

「うむ、戦果を、戦果か?」

 塚原司令は、早く戦果を聞きたくて待ちきれなかった。

「はい、私自身の観測では戦艦撃沈八であります」

 淵田総隊長が興奮しながら報告した。

「全滅だな」

 その瞬間艦橋は、どよめいた。

「『エンタープライズ』と『レキシントン』以外は、みんな」

 その瞬間打って変わって悲しみに包まれた。

「空母か。

空母が残ったか」

 塚原司令は、空母が残ったことが気になった。

「叩きましょう。

二日でも三日でも留まって」

 源田参謀は、この海域にとどまって敵空母を撃滅することを具申した。

「ばかなことを言うな。

俺たちは、タンカーを遠くに置いてきた。

今さら無電で呼び戻せられるとでも思っているのか。

それにウェーク島空襲の任務もあるんだぞ」

 草鹿参謀長が反論した。

「それは、七航戦にでもやらせればいいでしょ。

空母さえ叩いてしまえば敵にこっちの居所が知れてしまっても少しも恐れることは、ありません」

 源田参謀は、脅威を空母のみだと考えていた。

「源田君、私は空母を怖いと思うが同時に潜水艦も怖いと思ってる。

君は、どうかね?」

 ここまで黙っていた塚原司令が初めて口を開いた。

この問いに源田参謀は、何も言えなかった。

 当時の日本海軍の対潜装備は、お粗末で欧米に比べて低性能で見張り員が望遠鏡で敵潜水艦の潜望鏡を探すほどであった。

「失礼します」

 そこに海軍将校が入ってきた。

「司令、『蒼龍』より再攻撃の具申が来ました」

 海軍将校が山口司令官からの要請を報告した。

「再攻撃は、行う。

ただし潜水艦に見つかるか天候悪化の場合は、攻撃を中止し速やかに帰還する」

 塚原司令は、第三次攻撃隊の準備を始めるように命令した。

 

                 ※

 

 アメリカ艦隊司令部では、キンメル長官と将校が日本の出方と自軍の状況について話していた。

「敵は、かならずもう一度くる」

 キンメル長官は、そう断言した。

「当方の反撃体制は、整っています」

 将校が自軍の迎撃態勢を報告した。

「市民は、動揺してはいないか?」

 キンメル長官は、今度は市民の心配をした。

「極度に混乱しています。

ラジオ放送は、中止させました」

 将校が情報封鎖したことを報告した。

「敵の空母は?」

 キンメル長官は、最後に一番知りたいことを質問した。

「敵は、南方ウェーキ島方面と判断します」

 将校は、指示棒で世界地図上のウェーキ島方面を指しながら言った。

 

 第八任務部隊旗艦「エンタープライズ」では、ハワイからの日本機動部隊の大まかな位置を教えられたためそのあたりを重点的に索敵した。

「もう一度哨戒機を出すんだ」

 第八任務部隊司令官のウィリアム・ハルゼー中将が命令した。

「司令、北方海域にも出しては?」

 参謀の一人が北方海域に索敵機を飛ばすことを具申した。

「南方から来るのが常識だ。

良いか、必ず日本の空母を見つけるんだ。

叩き潰してやる」

 しかしこれは、却下された。

 

              ※

 

 第七艦隊旗艦「翔鶴」の艦橋では、草鹿参謀長が戸惑っていた。

「良いのですか?

作戦の目的は、果たしました。

おそらくアメリカ太平洋艦隊は一年以内は、真珠湾から出動できません。

我が南方海域部隊の側面と背後防衛の任務は、尽くしました」

 草鹿参謀長が作戦は、果たしたと説明した。

「命令には、繰り返し攻撃せよとあります」

 源田参謀が反論した。

「命令にできるだけ慎重にして損害を少なくすべしとある」

 草鹿参謀長も一歩も譲らなかった。

「参謀長の言い分は、よくわかるがここは源田参謀のいうとおり再攻撃が得策だと思われるが」

 草鹿参謀長と源田参謀の言い争いに塚原司令が入ってきた。

「相当の反撃能力を回復しているものと推定します。

我が方は、第二次攻撃で二十四機を失っております。

再攻撃は、余程の覚悟がないと。

それに敵空母も見つかっていません」

 草鹿参謀長は、空母の存在におびえていた。

「そのために索敵機も出しているし直掩機もいる。

心配は、無用だ」

 塚原司令は、草鹿参謀長を落ち着かせた。

「航空参謀も航空参謀だ。

作戦立案に深入りしすぎて酔っては、ならない。

攻撃精神と限られた兵力のバランスということを考えてくれ。

現実問題おいそれと熟練搭乗員を育成できないんだ」

 塚原司令は、源田参謀にも頭を冷やすように言った。

「気象長より司令官。

天候が西から崩れています」

 水兵が塚原司令に気象長からの伝令を報告した。

「何?」

 その報告に艦橋のほとんどが双眼鏡で西の空を見た。

見てみると確かに西の雲は、黒々としていた。

「積乱雲だ」

 塚原司令は、雲の正体を見破った。

「これでは、発艦できても着艦ができない」

 草鹿参謀長は、そういいつつも内心ほっとしていた。

「どうやら天気は、アメリカに味方しているようだな」

 塚原司令は、そういうと針路を北に取るように命じた。

 

 搭乗員の待機所に源田参謀がやってきた。

「どうしたんです、こんなところに」

 それに淵田総隊長が気付いた。

「進路を北にとれだと」

 源田参謀が船の針路を伝えた。

「再攻撃は止めか?」

 淵田総隊長ががっかりしたように言った。

「そうらしい。

全く気が狂いそうだ」

 源田参謀は、ひどく疲れており二十歳は老いたように見えた。

「神経衰弱は、長官だけでたくさんだ」

 淵田総隊長もそれに振り回されるのは、ごめんだった。

「連中は、口では飛行機を主戦力と言っているが本当は補助戦力としか見てないんだ。

軍艦ばっかり大事にしやがって。

時代が大きく変わろうとしているのがわからないのか」

 源田参謀は、搭乗員の犠牲は止む負えないと考えていた。

「山口さんだったらな」

 淵田総隊長は、司令官が山口少将じゃないことを悔いた。

 

 これは、第二航空戦隊旗艦「蒼龍」にも伝えられた。

「そうか。

臨機応変に動けるあの人らしい判断だな」

 山口少将は、報告を聞いても驚きもしなかった。

「司令官だったらいかがなさいますか?」

 参謀の一人が報告した。

「敵情や状況にもよるが俺だったら確実に再攻撃は、するだろう」

 山口少将は、少々悩んだがすぐに答えた。

 第七艦隊は、日本に帰還することとなった。 

 

 オワフ島は、地獄と化していた。

艦船のほとんどは、撃沈や着底され港湾施設やガソリン施設も破壊され残存艦隊はサンフランシスコに撤退させられることとなった。

 戦果は、現在もさまざまな諸説が飛び交っているため正確な戦果を上げることはできないのでここではその一説を載せることにする。

沈没

戦艦「オクラホマ」、「アリゾナ」、「カリフォルニア」、「ウエストバージニア」、「ネバダ」

標的艦「ユタ」

 

着底

軽巡洋艦「ローリー」

駆逐艦「カシン」、「タウンズ」、「ショー」

他二隻

 

大破 八隻

 

中破 二隻

 

小破 六隻

 

喪失 基地航空機 全滅

 

 こうして真珠湾攻撃は、日本の半戦略的勝利となり戦術的には大勝利で終わった。

この時の再攻撃は、現在でも物議を呼びある者は臆病と非難しある者は慎重と尊敬していた。

 

           第二章 ウェーク島の戦い

 

 千九百四十一年(昭和十六年)後半イギリスは、極東における最大拠点シンガポールを防衛するためキング・ジョージ5世級戦艦二番艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を基幹とする東洋艦隊を配備した。

大日本帝国は、東南アジアを占領する計画(南方作戦)において重大な脅威となったイギリス東洋艦隊を日本海軍基地航空隊(深山、九六式陸上攻撃機)で攻撃することになった。

千九百三十年代の極東に対するイギリスの基本防衛計画は、来襲する敵(日本軍)をシンガポール要塞で防御しその間に主力艦隊を回航して制海権を得ようというものだった。

幾度かの計画変更の後千九百四十一年四月には、アメリカ・イギリス・オランダの間で協定が結ばれアメリカは艦隊を派遣して地中海のイタリア艦隊を抑制しイギリスは東洋艦隊を極東に派遣するという方針を確認する。

ウィンストン・チャーチルイギリス首相・国防相はキング・ジョージ5世級戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、レナウン級巡洋戦艦一隻と空母一隻の派遣を提案したが海軍大臣は反対した。

イギリス軍海軍当局は、極東での日本の脅威に対応するためにネルソン級戦艦二隻、リヴェンジ級戦艦四隻、空母「ハーミーズ」、「アーク・ロイヤル」と「インドミタブル」を送る計画であり新鋭のキング・ジョージ5世級戦艦二隻は、ドイツ海軍ビスマルク級戦艦二番艦「ティルピッツ」の出撃に備えてイギリス本国のスカパフローから動かすつもりはなかった。

これに対しチャーチルは、高速戦艦を中心とした遊撃部隊を送って抑止力とすることを強く主張する。

最終的に、キング・ジョージ5世級戦艦二番艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、「レナウン級巡洋戦艦2番艦「レパルス」、空母「インドミタブル」と護衛の駆逐艦「エレクトラ」、「エクスプレス」、「エンカウンター」、「ジュピター」からなるG部隊が編成された。

「プリンス・オブ・ウェールズ」は、十月二十三日にスカパフローを出港し十一月十六日南アフリカのケープタウンとセイロン島を経て千九百四十一年十二月八日の太平洋戦争開戦直前の十二月二日にシンガポールのセレター軍港に到着した。

「プリンス・オブ・ウェールズ」は、マレー駐屯陸軍司令官アーサー・パーシバル中将に出迎えられ各国報道陣に公開されてイギリス連邦諸国民に安心感を与えた。

ウェールズ到着のラジオ放送は、南方に向け航海中の第二艦隊旗艦「愛宕」でも受信していた。

十二月四日フィリップス長官は、飛行艇でマニラ(フィリピン)に移動し米国アジア艦隊司令長官トーマス・C・ハート大将と会談し十二月六日の日本艦隊・輸送船団発見の報告を受けて十二月七日にシンガポールに戻った。

その一方空母「インドミタブル」は、十一月十三日にジャマイカ島近海で座礁事故を起こし合流できなかった。

かわりに小型空母の「ハーミーズ」の合流が決定したが「ハーミーズ」はダーバンで修理中のため合流できなかった。

フィリップス提督は自軍の戦力に不安を感じリヴェンジ級戦艦「リヴェンジ」、「ロイヤル・サブリン」、クイーン・エリザベス級戦艦「ウォースパイト」を十二月二十日頃までに派遣するよう希望している。

航空機に関してイギリス軍参謀本部は、「日本軍機とパイロットの能力は、イタリア空軍と同程度(イギリス軍の六十パーセント)」と想定しマレー防衛計画に三百三十六機の配備を決定したが実際には半数程度しか配備されていなかった。

これは、チャーチル首相がソ連に大量の航空機を供給していたからである。

日本軍は、イギリス東洋艦隊の実情を把握しておりまた対策をとっていた。

十二月七日シンガポールの北東約三百キロメートルにあたるアナンバス諸島とマレー半島東岸のチオマン島の間に特設敷設艦「辰宮丸」が機雷を敷設しさらに第四・第五潜水戦隊の潜水艦十二隻が散開線を構成して哨戒していた。

連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、「ウェールズをやっつけたら次は、ジョージ5世でも6世でも良い」と陣中日誌「戦藻録」に記録している。

実際に日本軍は、松永貞市少将の第二十一航空戦隊(美幌航空隊 元山航空隊:九六式陸上攻撃機二十七、元山航空隊 サイゴン基地:九六陸攻二十七)を南方に進出待機させ新たに鹿島航空隊の深山陸上攻撃機五十四機を配備してイギリス東洋艦隊を待ちうけていた。

十二月八日の早朝ハワイの真珠湾攻撃より七十分早く日本軍は、タイ国の国境に近いマレー領コタバルに陸軍部隊を上陸させた(大本営もこのコタバル上陸をもって対米英への宣戦を布告したと報じた)。

この部隊は、マレー半島を南下してイギリスの極東における根拠地であるシンガポールを攻撃予定であった。

十二月六日日本軍輸送船団は、オーストラリア空軍偵察機に発見され同機は戦艦一隻を含む大部隊が南方に向かっていることを報告した。

一方のイギリス軍は、日本軍輸送船団がタイ国へ上陸するのかマレー半島へと上陸するのか判断できなかった。

十二月七日午前九時五十分宣戦布告前にも拘らず日本軍零式水上偵察機と陸軍戦闘機隊がPBYカタリナ飛行艇を撃墜する。

午前十時三十分小沢中将の艦隊は、G点に到達し、日本軍輸送船団は予定に従って分散した。

行く先は、プラチャップ方面に輸送船一隻、バンドン方面に「香椎」と輸送船三隻、ナコン方面に「占守」と輸送船三隻、シンゴラとパタニ方面に第二十駆逐隊(『山風』、『霜風』、『磯風』)・第十二駆逐隊(『雪風』、『天津風』、『時津風』、『浦風』)・掃海艇三隻・輸送船十七隻(第二十五軍先遣兵団)、コタバル方面に軽巡洋艦「阿武隈」(第三水雷戦隊旗艦)と第十九駆逐隊(『浜風』、『谷風』、『萩風』、『舞風』)・掃海艇三隻、輸送船三隻である。

十二月八日午前一時三十分日本軍は、コタバル上陸を開始しイギリス軍も応戦し真珠湾攻撃より2時間前に交戦がはじまった。

イギリス軍機は、輸送船「淡路山丸」を航行不能とし「綾戸山丸」と「佐倉丸」を大破という戦果をあげ護衛部隊司令官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官に一時退避を決断させた。

各方面の日本陸軍上陸作戦は、成功した。

第一航空部隊の松永少将は、イギリス東洋艦隊が出現しない可能性が高まったため配下部隊にシンガポールの四箇所の飛行場爆撃を命じる。

元山航空隊は悪天候のため引き返したが美幌航空隊三十二機が十二月八日午前五時三十八分からシンガポールを爆撃し損害なくツドモー基地に帰投した。

イギリス軍側は、日本軍の兵器は時代遅れでさらに日本人は身体的欠陥によりの夜間飛行は出来ないと錯覚していたため日本軍の空襲に全く対応できなかった。

この時山田隊の偵察機がシンガポールを偵察し『一一二〇、湾内に戦艦二(『プリンス・オブ・ウェールズ』と『レパルス』)、巡洋艦四、駆逐艦四』を報告した。

 海戦の結果「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」を撃沈した。

損失は、深山陸上攻撃機二と九六式陸上攻撃機一を喪失し深山一不時着(後、処分)偵察機未帰還二である。

この海戦は、「マレー沖海戦」と呼ばれた。

既述の通りマレー沖海戦は、「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることができる」ことを証明した海戦であった。

大艦巨砲主義者であった宇垣纏連合艦隊参謀長ですら『鴨がネギを背負って現れた。

新鋭戦艦も無謀な行動で海の藻屑になった』と評し真珠湾攻撃の大戦果とあわせて「日本海軍航空隊」を賞賛している

これを戦訓として各国海軍とも各種艦船に装備されている対空火器を改めて大幅に増強した。

航空機が戦艦を沈める事が可能であるなら当然だが航空機による戦艦の護衛は、必須となり地上基地の航空部隊の行動圏外では戦艦を始めとする水上部隊は敵側に航空戦力が存在する状況ではもはや空母なしで単独では行動できなくなってしまった。

マレー沖海戦以後は、各国海軍は航空支援なしに戦艦を出撃させることに極めて慎重になる。

だが脆弱な飛行甲板という構造上の弱点を抱えかつ航空機用燃料や爆弾と魚雷といった可燃物を満載している空母がわずか一から二発の爆弾命中で航行不能に陥ったり沈没した事例の枚挙にいとまがない事と比較して砲戦用の分厚い装甲を備え水中防御も充実した戦艦を航空機だけで沈めることは、依然として難題であり続けた。

日本軍は、『帝国海軍は開戦劈頭より英国東洋艦隊特にその主力艦二隻の動静を注視しありたるところ九日午後帝国海軍潜水艦は敵主力艦出動を発見し爾後帝国海軍航空隊と緊密なる協力の下に捜索中本十日午前十一時半マレー半島東岸クアンタン沖において再び同潜水艦これを確認せるを以て帝国海軍航空部隊は機を逸せずこれに対し勇猛果敢なる攻撃を加へ午後二時廿九分戦艦レパルスは瞬時にして轟沈し同時に最新式戦艦プリンス・オブ・ウエールズは、忽ち左に大傾斜暫時遁走せるも間もなく午後二時五十分大爆発を起し遂に沈没せり。

ここに開戦第三日にして早くも英国東洋艦隊主力は全滅するに至れり』と大本営発表(昭和十六年十二月十日午後四時五分)を行い英国東洋艦隊主力の撃滅を宣伝した。

このようにマレー沖海戦においてイギリス海軍の最新鋭戦艦一隻と巡洋戦艦一隻が撃沈されたがこれは、アヘン戦争(千八百四十年から千八百四十二年)以来百年に亘るイギリス植民地主義と海軍全盛時代の「破局の序章」でもあった。

シンガポールでは、「プリンス・オブ・ウェールズ」撃沈の速報がラジオを通じてもたらされた瞬間パニックが発生している。

また事実上イギリスの保護国であり反イギリス気運が高まっていたイラクでは、「プリンス・オブ・ウェールズ」と「レパルス」撃沈の報が入るとこれを喜んだイラク人がバグダードにあるセミラミス・ホテルに飾られていた両戦艦の写真をインクで塗りつぶした。

イラクでは、真珠湾攻撃やマレー沖海戦にて日本軍勝利のニュースが入るたび日本支持のデモが起きるほどであった。

イギリスは、この戦いによりマレー方面での制海権を失った。

二か月後のシンガポール陥落(千九百四十二年二月十五日)でイギリス陸軍は、敗れシンガポールは日本軍に占領された。

東南アジア征服の象徴・要というべきチョークポイントであるシンガポールを失うということは、東南アジア支配の終焉を予感させるものとしてインドなど当時イギリスの植民地であった東南アジア各国の独立への機運に影響を与えた。

イギリスの歴史学者であるアーノルド・J・トインビーは、毎日新聞千九百六十八年三月二十二日付にてこう述べている。

「イギリス最新最良の戦艦二隻が日本空軍によって撃沈された事は、特別にセンセーションを巻き起こす出来事であった。

それはまた永続的な重要性を持つ出来事でもあった。

何故なら千八百四十年のアヘン戦争以来東アジアにおけるイギリスの力は、この地域における西洋全体の支配を象徴していたからである。

千九百四十一年日本は、全ての非西洋国民に対し西洋は無敵でない事を決定的に示した。

この啓示がアジア人の志気に及ぼした恒久的な影響は、千九百六十七年のヴェトナムに明らかである」

 

                ※

 

 真珠湾攻撃を終えた第七艦隊は、トラックに着いた。

しかし彼等には、次の作戦が待ち構えていた。

それは、ウェーク島の攻略援護だった。

しかし搭乗員は、疲労しておりある人物を除いて誰も志願しないだろう考えていた。

 塚原司令は、各司令官と参謀と共にウェーク島攻略のための作戦を通達した。

「俺の部隊がやる」

 志願したのは、やはり山口少将だった。

そしてウェーク島攻略部隊が編成された。

その戦力は、

攻略部隊本隊:第六水雷戦隊(軽巡洋艦「鬼怒」、駆逐艦「朝東風」、「大風」、「東風」、「西風」、「南風」、「北風」)

攻略部隊援護隊:第十八戦隊(軽巡洋艦「天龍」、「龍田」)

哨戒艇:第三十二号哨戒艇、第三十三号哨戒艇

海軍陸戦隊:舞鶴特陸一個中隊(三百五十名)、第6根拠地隊一個中隊(三百十名)、舞鶴第二特陸一個中隊(三百十名)

設営隊:特設巡洋艦金剛丸、基地設営班、特設監視艇三隻

付属隊:特設巡洋艦「金龍丸」、特設敷設艦「天洋丸」

第24航空戦隊

潜水部隊:第二十六潜水隊、第二十七潜水隊(呂65、呂66、呂67)

第二航空戦隊(空母飛龍、蒼龍)、第八戦隊(重巡「利根」、「筑摩」)、第十七駆逐隊(「高潮」、「秋潮」)

第六戦隊(重巡洋艦「青葉」、「衣笠」、「愛鷹」、「古鷹」)

である。

 なお残りの空母部隊は、日本本土に帰還した。

 

 攻略部隊は、十二月二十一日日朝四時三十分出撃した。

同じ頃機動部隊から分派された第二航空戦隊はウェーク島西方三百海里の地点にありこの地点より戦闘機二十四機、艦上爆撃機三十機、艦上攻撃機三機を発進させた。

 「飛龍」戦闘機小隊長を務める澤村陽一(さわむらよういち)上等飛行兵曹も攻撃隊として参加した。

 戦前日本陸海軍の戦闘機隊は、ドイツからもたらされたロッテ戦術を取り入れていた。

これは、長機を僚機が援護する形を採っていた。

長機が攻撃を行っている間僚機が上空ないし長機の後方に付いて援護・哨戒を行う。

攻撃を行う長機は、後方に留意する必要がないため攻撃に集中する事ができた。

 さらにシュヴァルム戦法も輸入され現在日本陸海軍は、これを基本編成として訓練を繰り返していた。

 澤村上飛曹は、今度こそ空中戦になると考え部下の横山勝(よこやままさる)一等飛行兵に手信号で注意を喚起した。

横山機は、バンクで「了解」と答えた。

 彼等は、真珠湾攻撃と違い先に先行し敵戦闘機を駆逐し味方爆撃機と攻撃機の爆撃の援護を行う任務でった。

ウェーク島上空に到着するが上空には、飛行機はあがっておらず敵戦闘機は地上にいた。

どうやら自分たちは、敵が飛び立つ前に上空に到達できたようだ。

「攻撃開始」

 隊長の岡嶋清熊(おかじまきよくま)大尉が全機に命令を下した。

澤村上飛曹は、増槽切りおとしボタンを押した。

これは、陣風がこれまでの油圧式で増槽を落とす戦闘機と違い電気式で増槽を落とす方法を取っているからである。

 澤村上飛曹は、もう一度上空を警戒した。

戦闘機は、三百六十度全方位が敵であるため警戒するに越したことはない。

敵がいないことを確認すると地上からの高角砲と対空機銃を避けながら急降下に入った。

ものすごいGで体がしめっけられるような感じに襲われたがそれに負けじと踏ん張った。

そしてOPLのスイッチを入れた。

 地上すれすれの高度になると水平飛行に移した。

そして地上に連なる飛行機に機銃掃射を行った。

機銃を受けた戦闘機も爆撃機も瞬く間に火を噴き炎上した。

 パイロットにとって飛び立つ前に目の前で飛行機を破壊されることは、何よりも屈辱であることは澤村も感じた。

アメリカ軍は、真珠湾に引き続きこのウェーク島でも奇襲に遭ってしまった。

 澤村は、機銃掃射を一通り終えると急上昇した。

他の機体が敵の対空機銃や高角砲に機銃掃射を行ったのか対空火砲は、攻撃前より少なくなっていた。

 そこに九八式艦上爆撃機と九七式艦上攻撃機が爆弾を抱えて到着した。

澤村は、上空警戒を行った。

自分たちが地上攻撃に夢中になっている間に敵戦闘機が飛び爆撃機を手ぐすね引いて待ち構えている可能性もあった。

 幸い上空には、敵戦闘機はいなかった。

九八式艦上爆撃機と九七式艦上攻撃機は、次々と急降下・水平爆撃を行った。

 ウェーク島のアメリカ基地は、見るも無残な姿になっていた。

「全機集合」

 岡嶋隊長の声がレシーバから響いた。

澤村は、横山一飛兵と共に集合場所に到着し帰艦した。

 さらにこの日ダメ押しに千歳海軍航空隊の大隊が空襲を行った。

 

 翌日とどめを刺す為に山口司令官は、最後の攻撃を命令した。

攻撃隊は、陣風八機と九七式艦上攻撃機三十六機が出撃した。

この攻撃隊に澤村も参加していた。

澤村は、慢心していなかったが艦攻パイロットたちは慢心していた。

 というのも二航戦の攻撃前の十二月八日、九日と十日にに第二十四航空戦隊と千歳海軍航空隊などが空襲を行っていた。

実質ウェーク島は、ここまで五回空襲を受けていたためもう稼働できる戦闘機が残っていないと考えていた。

 

              ※

 

 しかしウェーク島の上空には、日本側の淡い期待を無残に打ち砕くように二機のF4Fが待機していた。

彼等は、五回の空襲を生き残りまた残されたわずかなF4Fをたくされた海兵隊精鋭だった。

しかしいくらF4Fがアメリカの最新鋭艦上戦闘機であっても二機では、心許なかった。

 だが彼等には、勝算があった。

それは、日本が「航空機後進国」というレッテルが欧州で常識になっていたことだった。

事に航空機の心臓部たるエンジンに関して日本は、精密工学の技術力が低く良質なものが作れないというのが一般的だった。

 液冷エンジンよりも精密な技術力が不必要な空冷エンジンでもアメリカが現在使っている千馬力エンジンの半分の五百馬力エンジンが日本の主流と考えられていた。

そのエンジンを使っているのが九六式艦上戦闘機ー連合軍が「ネイト」のコードネームで呼ぶ日本海軍の艦上戦闘機である。

だからこそ日本は、ここまで奇襲作戦に徹してアメリカ戦闘機と正面切っての戦闘を避けているのである。

 しかしここでこれまでの引導を渡すべく二人は、今か今かと日本の攻撃隊を待っていた。

 そしてついに二人は、日本攻撃隊を発見した。

攻撃隊の数は、約二十四機で全てが脚が収納されていた。

それを考慮すると攻撃隊は、全て九七式艦上攻撃機ー連合軍のコードネーム「ケイト」ーであろう。

敵は、これまでの空襲で敵戦闘機を全滅できたと錯覚したのだろう。

だからこそ非力な攻撃機のみで大丈夫だと判断したのだろう。

しかし現実は、そう甘くなくここに彼等の希望を打ち砕く死神がいるのだ。

二人は、慎重に攻撃のタイミングを図っていた。

 そして一挙に高高度からの一撃離脱をかけた。

ここで二機は、確実に撃墜できる。

 しかし彼らの予想は、裏切られた。

まるで「ケイト」は、戦闘機のような機動で編隊が左右に分けて攻撃を回避した。

そして事もあろうか急降下してくる自分たちを追撃してきた。

 F4Fは、「グラマン鉄工所」の異名を持つほど頑丈に作られているため並みの戦闘機では急降下したら追撃できないはずである。

しかしこの敵機は、食いついてくるどころかどんどん距離が縮まってくる。

彼は、がむしゃらにフル・スロットルで降下し続けた。

墜落するなど頭になかった。

早くこの正体不明な戦闘機から逃れたいという気持ちでいっぱいだった。

 刹那彼の体は、炎に呑み込まれた。

機体が爆散したのだ。

 

            ※

 

 澤村陽一上等飛行兵曹は、驚愕していた。

何せ全滅したと信じて疑わなかった敵機が上空で待ち伏せをしていたのだ。

攻撃直後こそ陣風隊は、編隊を乱したがすぐに立て直し反撃に移った。

反撃したのは、蒼龍所属の中隊長の菅波政治大尉だった。

管波大尉は、二十ミリ機銃を使ったのか急降下していたF4Fが爆散した。

 二十ミリ機銃には、砲弾と同じく炸裂弾が仕込んである。

これが敵機に命中すると炸裂し内部から機体を破壊するのだ。

 巨人のような四発爆撃機用に開発されたものでF4Fのような単発戦闘機が命中すればひとたまりもない。

 しかしその光景に魅了され続けているわけには、いかなかった。

自分たちを攻撃してきた敵機は、もう一機いる。

その敵機も撃墜しなければならない。

 自分も敵機を追って急降下を始めた。

すると敵機は、急降下から水平飛行に切り替た。

どうやら敵は、左旋回の巴戦を仕掛けようと考えたらしい。

 すると距離は、どんどん広がってしまった。

さすがに翼面荷重が166.67kg/m²もある重戦闘機には、横旋回は苦手だった。

しかし上空で待機していた横山勝一飛曹が急降下で攻撃をしかけた。

 機銃で搭乗員を射殺したのか機体は、そのまま垂直に落ちていった。

 これが陣風とF4Fによる初の空中戦だった。

 

 その後上陸隊は、十二月二十一日二十一時に上陸命令が令されこれと同時に第十八戦隊はウェーク島の東岸に移動して陽動作戦を実施した。

しかしこの日は、海上の状況が悪く大発を降ろすのに順調さを欠いたためついに哨戒艇二隻が海岸に擱座し陸戦隊を上陸させた。

それに続き「金龍丸」、「妙風」、「追風」からも陸戦隊が大発でウェーク島南岸とウィルクス島に上陸した。

上陸した陸戦隊のうち舞鶴特陸一個中隊の本隊は、砲台と機銃陣地の真正面に上陸し猛烈な反撃を受けて中隊長が戦死した。

第六根拠地隊一個中隊は、ウィルクス島に上陸した。

これまた猛烈な反撃を受け小隊全滅等の損害を出した。

舞鶴第二特陸一個中隊も負傷者が続出した。

凄まじい彼我の銃火の応酬により二十三日になっても戦線は、こう着状態となった。

戦況が一気に日本側に傾いたのは、舞鶴特陸一個中隊のうちの決死隊の働きによるものである。

決死隊は、反撃をかわしてアメリカ軍捕虜を道案内として進撃中飛行場近辺で海兵隊指揮官ジェームズ・デベル少佐を捕虜とした。

さらに進撃するとジープに乗った将校を発見した。

尋問の結果将校は、ウェーク島守備隊指揮官ウィンフィールド・カニンガム中佐だった。

決死隊は、カニンガム中佐を捕虜としてジープに乗せ白旗を掲げて戦線を回らせ降伏を呼びかけさせた。

この結果七時四十五分ごろには、ウェーク島からの砲声は途絶え四方の状況からアメリカ軍守備隊の降伏と判断された。

残敵掃討後の十二月二十三日十時四十分日本軍は、ウェーク島の完全攻略を宣言し通報した。

これをもって第二航空戦隊・第八戦隊は、第四艦隊の指揮下を離れた。

 

 太平洋戦争の緒戦は、日本の勝利に終わった。

同時に九八式艦上爆撃機と九七式艦上攻撃機は、機動部隊から降ろされることとなった。

しかしこの二機は、終戦まで哨戒任務などの二級戦として戦うこととなる。

 後継機には、彗星と天山が配備され第一線で終戦まで戦うこととなった。




これくらいのペースで投稿します。


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第二話 奮迅

小説内の時間は、現地時間です。


             第一章 セイロン沖海戦

 

 千九百四十二年(昭和十七年)一月十日ボルネオ島タラカンを占領した日本軍は、ついでボルネオ島のバリクパパンに上陸作戦を開始することになった。

一月二十一日夕刻第一護衛隊(指揮官西村祥治少将/第四水雷戦隊司令官:第四水雷戦隊基幹)と輸送船団の三十六隻(軽巡一隻《熊野》、駆逐艦九隻《村雨、夕立、春雨、五月雨、朝雲、夏雲、峯雲、霧雨、氷雨》、掃海艇四隻、駆潜艇三隻、哨戒艇三隻、輸送船十六隻《敦賀丸、りぱぷーる丸、日照丸、愛媛丸、旭山丸、日帝丸、球磨川丸、須磨ノ浦丸、はばな丸、漢口丸、帝龍丸、呉竹丸、金耶摩山丸、藤影丸、辰神丸、南阿丸》)はタラカンを出撃した。

バリクパパンの製油所を無傷で手に入れるためにコマンド作戦が実施されたがこれは、失敗した。

二十二日船団は、マカッサル海峡に入ったがタラカンの第二十三航空戦隊から「降雨のため二十二日・二十三日飛行場使用不能で戦闘機掩護不能」の連絡が入る。

第二十四駆逐隊(『紅雨』、『霖雨』)は、別働隊として先行した。

一月二十三日夕刻双発爆撃機九・軽爆撃機四機の空襲を受け海軍運送船「辰神丸」が損傷を受けた。

つづいて駆逐艦「霧雨」が敵潜を探知して爆雷攻撃を実施し並行して一時間以上にわたる空襲を受ける。

十九時三十分「南阿丸」がオランダ軍のB-10爆撃機の攻撃により被弾炎上し積荷のガソリンに引火したため船体放棄となった。

乗組員は駆逐艦「峯雲」に収容された。

夜になると船団は、バリクパパン泊地へ到着し第二駆逐隊(『村雨』、『春雨』、『五月雨』、『夕立』)が泊地掃海を実施した。

一月二十四日日付変更時第一護衛隊は、泊地警戒陣形に移行しつつあったが第二駆逐隊は泊地南方数浬で掃海索を揚収していた。

第四水雷戦隊旗艦/軽巡洋艦「熊野」は、第一泊地の「敦賀丸」南西約一キロメートルに停泊していたところ零時三十五分前後に魚雷艇(実際はオランダ潜水艦K-18)を発見し雷跡を認めて艦首ぎりぎりで回避したがこの魚雷が「敦賀丸」に命中した。

「敦賀丸」は、沈没した。

西村司令官は、第三十掃海隊(第十七、第十八号掃海艇)に救助を命じ第九駆逐隊(『朝雲』、『峯雲』、『夏雲』)は船団東方三キロメートルを、第三十一駆潜隊は船団西方を、哨戒艇は船団南方を、第十一掃海隊は船団北方をそれぞれ警戒するよう命じた。

「熊野」は、泊地東方五キロメートル附近を行動して警戒をおこない第九駆逐隊に続行を命じる。

第二駆逐隊は「熊野」、「朝雲」、「夏雲」と「峯雲」のさらに外側を哨戒していた。午前一時四十分第一次上陸部隊が出発する。

 海戦の結果第四水雷戦隊は、敵駆逐隊に翻弄され駆逐艦一隻と潜水艦一隻を損傷させるも輸送船五隻が沈没、哨戒艇一大破後放棄、輸送船二隻が損傷した。

この海戦は、「バリクパパン沖海戦」と呼ばれた。

日本軍輸送船団は、大損害を受けた。

陸軍輸送船は、二隻(『敦賀丸』、『呉竹丸』)が沈没し両船合計約三十名が戦死した。

海軍では、輸送船二隻(『須磨浦丸』、『辰神丸』)沈没し第三十七号哨戒艇が大破航行不能になり、「球磨川丸」小破し、「朝日山丸」被弾した。

空襲による「南阿丸」沈没を合計すると輸送船五隻を喪失した(『南阿丸』は、二十四日夜に爆沈)。

しかし上陸部隊は既に出発しておりバリクパパン攻略作戦は順調に進んだ。

また二十四日は、天候が回復したため戦闘機隊や水上機隊が掩護を再開し輸送船団は激しい空襲を受けながらも大きな被害を受けなかった。

二十六日特設水上機母艦「讃岐丸」と「山陽丸」がバリクパパンに到着して支援にあたるが翌日のB-17重爆五機による空襲で「讃岐丸」は中破した。

だが「讃岐丸」は、その後もマカッサル方面で活動を続けた。

同日駆逐艦「夕立」は、哨戒艇三十七号を浅瀬へ移動させる任務を命じられていたが曳航不能のためその任務を解かれている。

28日以降陣風艦上戦闘機隊がバリクパパンに進出し三十日になると西村司令官は、次作戦(ジャワ攻略作戦)のため第一護衛隊を率いてリンガエン湾へ向かった。

バリクパパンの防備は、第二根拠地部隊が引き継ぎのちに油田は完全に復旧した。

日本軍の作戦に大いに貢献した。

一方の連合国軍の損害は駆逐艦「ジョン・D・フォード」小破のみであった。

タルボット中佐は、大きな戦果を挙げたが、すでに日本軍部隊の揚陸は完了していたためバリクパパンの占領を阻止することは出来なかった。

また完璧な奇襲を成し遂げた割には、戦果に乏しかったといえる。

しかしアメリカ海軍は、十九世紀のマニラ湾海戦以来初めての東南アジア海域での水上戦の勝利としてその戦果を大きく報じた。

なお撃破された輸送船の一隻には、海軍主計中尉として中曽根康弘が乗艦していた。

中曽根の手記では、突入してきた敵艦を「オランダとイギリスの駆逐艦と潜水艦」としているが実際には上記のとおりアメリカ駆逐艦四隻である。

 

                   ※

 

 マレー半島での上陸作戦が順調に進みつつある千九百四十二年(昭和十七年)一月中旬日本軍は、陸軍第十八師団をタイのシンゴラに輸送する計画をたて南遣艦隊司令長官(小沢治三郎中将:旗艦「摩耶」)は、第一護衛部隊(第三水雷戦隊基幹司令官橋本信太郎少将:旗艦「阿武隈」)に輸送船団の護衛を命じた。

輸送船団十一隻と護衛の駆逐艦(『狭霧』、『山風』、『霜風』、『磯風』)は、一月二十日にベトナムカムラン湾を出発し二十二日シンゴラに到着した。

その後のシンガポール方面航空作戦を見据えた際陸軍第三飛行集団の蘭印攻略作戦実施に必要な航空資材をマレー半島南部東海岸にあるエンドウに輸送する必要が生じた。

この航空資材を搭載する輸送船は、「かんべら丸」と「関西丸」の二隻で引続き三水戦の駆逐艦が護衛しさらに軽巡「阿武隈」(三水戦旗艦)等が航行中に合流した。

船団は、一月二十六日午前十時四十五分頃にエンドウ沖の第一泊地に投錨し揚陸を開始した。

午前九時からは、陸軍第十二飛行団第一戦隊の九六式戦闘機が上空警戒を担当した。

第一護衛隊の艦艇は、最上型軽巡洋艦三番艦「阿武隈」と第二十駆逐隊(『山風』、『霜風』、『磯風』)、第十一駆逐隊(『早風』、『夏風』、『冬風』、『初風』)、第一掃海隊(掃海艇一号~第五号)、特設掃海艇二隻、駆潜艇三隻、特設監視艇五隻等で揚陸作業が終了するまで直衛警戒にあたった。

日本軍船団は、エンドウに到着する前に英軍に発見されており英軍はシンガポールよりのべ六十八機の航空機を送り込み空襲を実施した。

だが陸軍戦闘機の援護や各艦の回避行動により被害は、最小限だった(輸送船二隻小破で死傷者十数名)。

だが英巡洋艦二隻出撃という航空隊からの通報で第三水雷戦隊は、対水上艦戦闘に備え警戒態勢をとる。

一月二十六日十六時三十分イギリス東洋艦隊の残存艦であったオーストラリア海軍駆逐艦「ヴァンパイア」とイギリス海軍駆逐艦「サネット」は、米軍駆逐艦四隻が第四水雷戦隊(旗艦「熊野」)を翻弄し輸送船五隻を撃沈したバリクパパン沖海戦の再現を狙いシンガポールから出撃した。

「サネット」は、開戦時香港において日本軍の攻撃開始一時間後に脱出に成功した駆逐艦二隻の内の一隻であり「ヴァンパイア」はマレー沖海戦において戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」の最期を看取った艦であった。

各艦の残魚雷は、三本だった。

両艦とも峯風型駆逐艦と同時代・同規模の旧式艦である。

 海戦の結果被害なしに「サネット」を撃沈した。

この海戦は、「エンドウ沖海戦」と呼ばれた。

日本軍の大本営発表によれば『二対二の駆逐艦戦』『第二には大東亞戦争勃発以来最初の軍艦と軍艦との戦ひ』であり水上戦闘における初勝利である。

しかし実際には、日本軍(軽巡一隻・駆逐艦六隻)と連合国軍(駆逐艦二隻)の水上戦闘であった。

海戦には勝利したが兵力差を考えると日本海軍にとって不出来な一戦といえる。

各艦は、主砲七十から百発前後を発射した。

三水戦の戦闘詳報では、撃破した敵艦(サネット)に拘りすぎて別の敵艦(ヴァンパイア)への攻撃が不徹底に終わった事、各艦が「サネット」に探照灯を重複照射したため他の敵艦(ヴァンパイア)が見えなくなった事と各艦が三水戦司令部(熊野)の命令を待ちすぎて離脱する敵艦への追撃が遅れた点を指摘し『遂に之ヲ逸シタルハ遺憾ナリ』と評価している。

日本艦隊の砲弾が探照灯照射中の「夏風」に集中し橋本少将が射撃中止を命じる場面もあった。

なお本海戦の以前に起きた水上艦同士の戦闘としては、一月十二日夜谷風型駆逐艦八番艦「朧」(第四水雷戦隊、第二十四駆逐隊)と第三十八号哨戒艇によるオランダ敷設艦「プリンス・ファン・オラニエ」の撃沈がある。

本海戦で生き残った「バンパイア」は、のちにセイロン沖海戦において空母「ハーミーズ」を護衛中に塚原機動部隊により撃沈された。

 

                 ※

 

 千九百四十二年(昭和十七年)二月四日日本軍の偵察機がバリ島の北を航行中の連合軍艦隊を発見した。

これは重巡「ヒューストン」、軽巡「マーブルヘッド」、「デ・ロイテル」、「トロンプ」と駆逐艦七隻からなるカレル・ドールマン少将指揮の連合軍艦隊で日本軍の上陸船団攻撃に出撃したものであった。

この艦隊に対し日本海軍第十一航空艦隊(司令長官南雲忠一海軍中将)は、セレベス島ケンダリー基地航空部隊の深山三十六機と九六式陸攻二十四機にて攻撃した。

当時連合軍艦隊は、カンゲアン島南方三十浬を速力二十四ノットで東南に航行していたという。

この攻撃で「ヒューストン」は、五百キログラム爆弾一発が命中して後部砲塔使用不能、「マーブルヘッド」は、五百キログラム爆弾の命中弾二発と至近弾四発を受け損傷、「デ・ロイテル」も至近弾で小破した。

ドールマン少将は、攻撃を断念し引き上げた。

日本軍は戦果を過剰に見積もった。

連合艦隊に伝達された戦果は、デロイテル型一番艦を撃沈確実、ジャバ型二番艦轟沈、ジャバ型三番艦中破、米重巡二隻撃破、米艦マーブルヘッドのみ無事という内容だった。

 

                  ※

 

 千九百四十二年(昭和十七年)一月下旬日本軍は、ジャワ島攻略のための飛行場確保を目的として当初は予定になかったバリ島の攻略を決めた。

第十一航空艦隊は、ボルネオ島バンジャルマシンよりもバリ島に飛行場を建設した方がのちのちの利点が大きいと熱心に主張しこれに蘭印部隊司令部や南方軍総司令部も同意しバリ島海路攻略とバンジャルマシン陸路攻略が決定したのである。

マニラでの陸軍第十六軍司令官今村均中将と第三艦隊司令長官高橋伊望中将の協定は、一月二十三日に成立したがジャワ島攻略作戦の発動遅延によりバリ島攻略作戦の日程も延期された。

攻略に当たる海軍部隊は、第一根拠地隊司令官久保九次少将ひきいる支援隊(軽巡洋艦『最上』、第二十一駆逐隊《若葉、子日、初霜》)、攻略隊(第八駆逐隊《大潮、朝潮、満潮、荒潮》、第五設営班、陸軍輸送船二隻《相模丸、笹子丸》)、補給部隊(マカッサル海峡部隊《筑紫、蒼鷹、第二駆潜隊、第一号駆潜艇》、ケンダリー部隊《白山丸、君島丸、第五十二駆潜隊、第一駆潜隊、いくしま丸》)、さらに第八駆逐隊による第一次急襲作戦成功後は軽巡「最上」を旗艦とする第二次輸送作戦が実施されるという兵力配置となった。

当時の第八駆逐隊各艦は、駆逐隊司令阿部俊雄大佐(海軍兵学校四十六期)、「大潮」駆逐艦長吉川潔中佐(兵五十期)、「朝潮」駆逐艦長吉井五郎中佐(兵五十期)、「満潮」駆逐艦長小倉正味中佐(兵五十一期)、「荒潮」駆逐艦長久保木英雄中佐(兵五十一期)が指揮していた。

バリ島攻略に投入される陸軍部隊は、第四十八師団の一部を抽出した金村亦兵衛少佐指揮の支隊(台湾歩兵第一聯隊第三大隊、山砲一個小隊、独立工兵一個小隊:歩兵一個大隊基幹)と決定し輸送船二隻(『相模丸』、『笹子丸』)に乗船することになった。

 千九百四十二年(昭和十七年)二月中旬のマカッサル海峡は、天候不順だったため航空隊の活動が制限され蘭印部隊指揮官高橋中将は二月十六日にバリ島作戦を一日延期した。

十七日も天候不良で陸上攻撃機は攻撃を中止した。

待ち切れなくなった久保少将は、二月十八日攻略発動(十九日泊地進入)を決定し作戦を開始した。

二月十八日午前一時陸軍支隊を乗せた輸送船二隻(『笹子丸』、『相模丸』)は、第八駆逐隊(駆逐隊司令阿部俊雄大佐)所属の駆逐艦「大潮」(駆逐隊司令艦)、「朝潮」と「満潮」に護衛されマカッサル泊地を出航した。

途中で対潜掃蕩のため先行していた駆逐艦「荒潮」と合流し十八日二三〇〇バリ島サヌール泊地に着き十九日〇〇一五に同泊地へ進入して上陸を開始した。

十九日の日の出は、午前七時二十二分であった。

上陸に対して抵抗は、なく未明には日本軍金村支隊がデンパッサル兵営を占領し午前十一時三十分に飛行場を占領した。

陸上部隊が順調に戦闘を続ける中停泊中の艦艇は、連合軍の空襲を受けた。

小数機による反覆攻撃で「相模丸」が被弾し片舷航行可能状態となる。

一六三〇「大潮」は、敵潜水艦から雷撃されたが回避した。

一七〇〇輸送船の揚陸は、ほとんど終了し空襲を避けるため「『大潮』、『朝潮』、『笹子丸』」は一時ロンボック海峡北側へ退避し損傷した「相模丸」は第八駆逐隊第二小隊(『満潮』、『荒潮』)に護衛されてマカッサルへの退避を開始した。

一方の連合軍は、哨戒中のイギリス潜水艦「トルーアント」とアメリカ潜水艦「シーウルフ」により日本軍の攻略船団を発見していた。

二月十七日連合軍海軍部隊指揮官ヘルフリッツ蘭海軍中将は、カレル・ドールマン少将に日本軍輸送船団撃退を命じた。

だがドールマン少将麾下の艦隊は、二月十五日のガスパル海峡空襲(基地航空隊の攻撃)によって撃退されてきたばかりであり各地に分散していた。

十七日には、陸攻部隊が商船「スロエト・ヴァン・ベレル」を撃沈していた。

やむなくドールマン少将はジャワ島チラチャップの艦艇で第一攻撃隊(『デロイテル』、『ジャワ』、『ピートハイン』、『ジョン・D・フォード』、『ポープ』)、ジャワ島スラバヤの軽巡「トロンプ」とスマトラ島タンジュンカランの駆逐艦四隻で第二攻撃部隊(『トロンプ』、『スチュワート』、『パロット』、『エドワーズ』、『ピルスベリー』)を編制し第一攻撃部隊と第二攻撃部隊は各個にバリ島の日本軍輸送船団攻撃を目指すことになった。

このほかバリ海峡基地の魚雷艇七隻も出動したが戦闘に至らずに帰還した。

米駆逐艦四隻は、二月十七日から十八日にタンジュンカランを出港してジャワ海を東進し「トロンプ」と合流後二月十九日夜にバリ海峡を南下してバリ島南方へ進出した。

ドールマン少将率いる軽巡二隻、米駆逐艦二隻と蘭駆逐艦二隻は二月十八日二三三〇にジャワ島南部チラチャップを出撃し東進してバリ島を目指した。

すなわち本海戦に参加したABDA艦隊の全艦艇は、オランダ海軍のカレル・ドールマン少将指揮の軽巡洋艦三隻(オランダ軽巡洋艦「デ・ロイテル」、「ジャワ」、「トロンプ」)、駆逐艦七隻(オランダ駆逐艦「ピートハイン」、アメリカ駆逐艦「ジョン・D・フォード」、「ポープ」、「スチュワート」、「パロット」、「ジョン・D・エドワーズ」、「ピルスバリー」)であった。

 海戦の結果「ピート・ハイン」を撃沈、「トロンプ」を大破、「ステュワート」を小破させた。

この海戦は、「バリ島沖海戦」と呼ばれた。

巡洋艦三隻・駆逐艦七隻を擁する連合軍は戦力的にかなり優勢であったが多国籍艦隊のため連携がうまくいかず日本軍の駆逐艦四隻に撃退されてオランダ軍駆逐艦一隻を喪失し攻撃は失敗に終わった。

チェスター・ニミッツ太平洋艦隊司令長官は『兵力を集結しなかったためにこの利点(数的優勢)は、無価値に等しかった』と評価している。

宇垣纏連合艦隊参謀長は、『バンダ海峡における第八驅逐隊の海戦振りは、誠に見事なり。

蘭巡洋艦二、蘭米驅逐艦三撃沈其の他二に大損害を與へたり。

之をバンダ海峡夜戦と銘打つて世に問ふべきなり。

一驅逐隊を以て誠に立派なる夜戦なり。

司令は、阿部弘毅少将の弟なりと云ふ』と第八駆逐隊を賞賛した。

宇垣参謀長の戦藻録にあるように第八駆逐隊の戦果報告は、過大であった。

大本営発表では連合軍駆逐艦四隻撃沈、巡洋艦二隻・駆逐艦一隻大破となっている。

なお『大東亞戦海戦以来最初の水雷戦隊に依る海戦』という宣伝もなされたが水雷戦隊同士が戦った最初の海戦は、一月二十四日のバリクパパン沖海戦(第四水雷戦隊の敗北)である。

この後にも連合軍艦隊と日本軍船団が交戦するという類似の状況のスラバヤ沖海戦とバタビヤ沖海戦が発生し連合国軍艦隊は壊滅する。

日本艦隊には報道班員が乗艦しておりのちに作戦に参加した艦長や乗組員を集めて座談会が開かれた。

駆逐艦スチュワートは、その後スラバヤにて損傷個所を修理中に占領した日本軍に鹵獲され第百二号哨戒艇として日本海軍に編入された。

 

                   ※

 

 オーストラリア委任統治領のニューブリテン島ラバウルは、天然の泊地やオーストラリア軍が設営した飛行場を擁していた。

日本軍は、トラック諸島根拠地の防衛と米豪遮断作戦の構想に基づきラバウルを奪取する必要性を見出していた。

千九百四十二年(昭和十七年)一月二十日から二十二日にかけて日本軍は、第七艦隊司令長官塚原二四三中将指揮下の大型空母四隻(第一航空戦隊《翔鶴、瑞鶴》、第五航空戦隊《大鳳、祥鳳》)以下の塚原機動部隊をニューアイルランド島沖合の北東とビスマルク海に進出させ二十一日にニューギニア島のラエとサラモアを空襲した。

この方面に連合軍は、有力な艦隊や基地航空隊を配していなかった。

南洋部隊指揮官井上成美中将(第四艦隊司令長官)指揮下の艦艇群と第二十四航空戦隊(司令官後藤英次少将)と日本陸軍南海支隊(堀井富太郎少将)もラバウル(ニューブリテン島)とカビエン(ニューアイルランド島)への進撃および空襲を開始(陸軍輸送船団は、第十九戦隊司令官志摩清英少将指揮下の艦艇に護衛され一月十四日にグアム島出発)した。

一月二十二日から二十三日日本軍は、カビエンとラバウルに上陸しこれを占領した。

アメリカ軍は、真珠湾攻撃の影響から戦艦部隊の出撃は行えず空母機動部隊によるマーシャル・ギルバート諸島機動空襲など散発的な反撃を行っていた。

二月十五日シンガポールは、陥落(シンガポールの戦い)した。

これにより日本軍の攻勢が続きラバウルを拠点としてニューカレドニアやニューヘブライズ諸島に進撃するのではないかと恐れたアメリカ合衆国やオーストラリアは、アメリカ海軍の投入を決定した。

ウィルソン・ブラウン海軍中将指揮の大型空母レキシントンを基幹とした機動部隊をハーバート・リアリー中将を司令官とするANZAC部隊に編入しラバウルに奇襲攻撃を敢行することにした。

 海戦の結果出撃した深山十八機のうち十五機が撃墜され「レキシントン」を小破させるにとどまった。

この海戦は、ニューギニア沖海戦と呼ばれた。

空戦には、勝利を収めたアメリカ機動部隊であったが奇襲が失敗したことは明白となり燃料の消費も著しかったことから作戦目的であるラバウルへの空襲は中止とし撤退行動に移った。

しかしアメリカ軍が同方面における行動を断念したわけではなくハルゼー提督率いる機動部隊(空母『エンタープライズ』基幹)で二月下旬以降のウェーク島空襲や南鳥島空襲を実施した。

つづいて空母二隻(『レキシントン』、『エンタープライズ』)により再度のラバウル空襲を予定していたが三月八日の日本軍ニューギニア島要所二地点(ラエ、サラモア)に対する上陸作戦を受けて急遽同地点に対する空襲を実施した。

第六戦隊旗艦「名取」以下日本軍に大損害を与えた。

本海戦は、戦闘機の掩護のない攻撃隊が大損害を受けることを立証した。

奥宮正武(太平洋戦争中第四航空戦隊参謀、第二航空戦隊参謀等)は、本海戦について『しかしこの陸攻隊の大きな犠牲は、決して無駄ではなかった。

(中略)ラバウルの被空襲を防いだ点からだけでも伊藤攻撃隊の功績は、正しく評価さるべきであろう』と述べている。

日本軍の機動部隊は、二月十五日にパラオを出航して豪本土ポートダーウィン空襲に向かうためバンダ海にありすぐさま反撃できなかった。

日本軍は第二十四航空戦隊の報告をうけて空母一隻撃沈、艦型不詳一を撃沈、敵戦闘機十機撃墜、味方損害九機との大本営発表を行った。

連合艦隊参謀長宇垣纏少将は、第二十四航空戦隊からの戦果報告(誤認)を受けて陣中日誌「戦藻録」に以下のように記述している。

ラボール東北方に出現せる敵は、其後沓ようとして消息を絶てり。

二十四航空戰隊の攻撃の成果を寫眞に依り調査するにサラトガ型に非あらざる空母一隻を轟沈せること確實なりと云ふ。

敵避退の行動に鑑かんがみ或は、眞ならんと思はる。

あれ丈だけの飛行機の損害ありたる之位は、成果を擧げ得べき筈なり。

 

                   ※

 

 太平洋戦争の勃発と共に日本海軍は、マレー沖海戦でイギリス東洋艦隊の主力戦艦二隻(『プリンス・オブ・ウェールズ』、『レパルス』)を撃沈し東南アジア方面の最大の脅威を排除した。

日本軍はフィリピンを占領するとつづいて資源地帯であるオランダ領インドネシア占領を目標とし三つの進撃路を準備した。

アジア大陸沿いにシンガポールを目指すルート、ボルネオ島を経由して南進しスマトラ島へ至るルートトフィリピンダバオからスラウェシ島両岸のマカッサル海峡・モルッカ海峡を経て最終的にジャワ島を占領するルートである。

千九百四十二年(昭和十七年)二月になると、日本軍はジャワ島占領を目的として行動を開始した。

陸軍の上陸船団とその護衛艦隊として第二水雷戦隊、第四水雷戦隊、第五戦隊、第四航空戦隊と第十一航空戦隊等を派遣する。

日本船団は、東西に分かれて進撃し東部ジャワ攻略部隊として第四十八師団と坂口支隊が輸送船約四十隻に分乗していた。

これを護衛する第一護衛隊(指揮官西村祥治四水戦司令官:「熊野」、駆逐艦八、掃海艇五、駆潜艇五、他三)も含めると約六十隻に及ぶ大規模な船団であった。

これらは、スラバヤ西方のクラガン海岸を上陸目標としてマカッサル海峡を南下しジャワ海を航行していた。

バリ島攻略作戦やチモール攻略作戦に従事していた主隊(『足柄』、『霧雨』、『氷雨』)、東方支援隊(『那智』、『羽黒』、『雷』、『曙』)、第二護衛隊(第二水雷戦隊、第7駆逐隊第一小隊《潮、漣》)、「妙高」等も漸次輸送船団護衛に加わる。

ベトナムのサンジャックに待機中だった第八戦隊(司令官栗田健男少将:天城型重巡洋艦四隻《天城、赤城、葛城』 笠置》)は二十七日朝になってから南方部隊司令官近藤信竹第二艦隊司令長官より蘭印部隊編入とバタビア方面作戦協力を命じられる。

対する連合国軍は日本軍の進撃を阻止すべくABDA司令部を設置しジャワやオーストラリアの防衛のため艦隊を再編した。

トーマス・C・ハート(米海軍大将・アジア艦隊司令長官)は、カレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊を編成する。

しかしこの艦隊は、急遽編成されたアメリカ(American)・イギリス(British)・オランダ(Dutch)・オーストラリア(Australian)の各国で構成された寄せ集めであった。

合同しての訓練は一度も行ったことがない上に連合軍の中で唯一の非英語圏であるオランダのドールマン少将は英語を解さなかった。

母国をナチス・ドイツに占領されたオランダにとって極東の植民地は、最後の拠点であった。

オランダ亡命政府は、アメリカ軍が極東の防衛に真剣でないと判断しアメリカ人のハート大将を解任しオランダ人のコンラッド・ヘルフリッヒ中将(東インド諸島出身)を司令官とする人事を連合軍に行わせている。

しかし既にシンガポールの戦いでシンガポールは陥落した。

大規模海軍基地を失ったことで連合軍は、損傷艦の修理や補給も難しい状態になっていた。

その上ジャワ沖海戦やバリ島沖海戦などの小規模海戦で連合軍に損傷艦が続出する。

たとえば重巡「ヒューストン」は、損傷により前部砲塔六門しか使用できなかった。

さらに連合軍にとっての痛撃は、オーストラリアからジャワ島に至る戦闘機中継基地ティモール島を占領されくわえて二月十九日の塚原機動部隊のポートダーウィン空襲により北部豪州主要港のダーウィンが大打撃を受けジャワとオーストラリアの連絡線が遮断された事であった。

この時点でABDA連合は、既に現有戦力ではジャワの防衛は不可能として撤退を始めていた。

二月二十一日アーチボルド・ウェーヴェル大将は、イギリスのウィンストン・チャーチル首相にジャワの防衛が絶望的であると報告した。

二月二十五日の時点でウェーヴェル将軍は、ジャワを去った。

ジャワには、ドールマン少将指揮の艦隊の他はアメリカとオーストラリアの少数の航空機が残されているのみでABDA司令部の主だったメンバーは既にセイロンやオーストラリアへ脱出しており残っているのはオランダ軍だけであった。

 海戦の結果重巡「エグゼター」、軽巡「デ・ロイテル」と「ジャワ」、駆逐艦「コルテノール」、「エレクトラ」、「ジュピター」、「エンカウンター」、「ポープ」を撃沈させた。

損害は、「朝雲」が大破しただけだった。

この海戦は、「スラバヤ沖海戦」と呼ばれた。

 

                    ※

 

 千九百四十二年(昭和十七年)二月二十七から二十八日のスラバヤ沖海戦(昼戦、夜戦)でドールマン少将ひきいる連合軍艦隊は、ドールマン少将の戦死と軽巡「デ・ロイテル」と「ジャワ」と駆逐艦数隻の喪失により統制を失った。

残存艦隊のうちアメリカ海軍の重巡洋艦「ヒューストン」とオーストラリア海軍の軽巡洋艦「パース」は、スラバヤ沖海戦で戦死したドールマン少将の最期の命令により先任のヘクター・ウォーラー「パース」艦長の指揮下でジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)に撤退し二月二十八日朝バタビアに到着した。

しかしバタビアは、最早連合軍にとって安全な場所ではなく戦力の再編成を行うためにABDA司令部よりスンダ海峡経由でジャワ島南岸のチラチャップへ移動する命令が下された。

二月二十八日夕刻寄港から僅か半日で「ヒューストン」と「パース」の二隻が出港した。

オランダ海軍の駆逐艦「エヴェルトセン(戦史叢書ではエヴェルツェンと表記)」が護衛するはずであったが出撃準備が間に合わず後から続くこととされた。

しかし遅れて出港した駆逐艦「エヴェルトセン」は、先行部隊が交戦しているのを目撃し圧倒的な日本艦隊との接触を避けて海峡を通過しようとした。

その後先行部隊が壊滅した約一時間半後に日本軍に捕捉されて大破しサブク島の海岸に擱坐して失われた。

一方日本軍は、二月十八日に今村均陸軍中将率いる第十六軍が西部ジャワ島攻略(蘭印作戦)のため輸送船五十六隻に分乗しカムラン湾を出撃していた。

これを護衛するのは第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将指揮の第三護衛隊(軽巡二、駆逐艦十五、掃海艇五、その他三、計二十五隻)であった。

これに加えて西方支援隊として第八戦隊(司令官栗田健男少将)の天城型重巡洋艦四隻(第一小隊《葛城、笠置》、第二小隊《赤城、天城》)、第十九駆逐隊の駆逐艦二隻が間接支援を行っていた。

二月二十七日重巡「葛城」水上偵察機が「連合軍艦隊が輸送船団に接近中」と報告したが連合軍艦隊との決戦をのぞむ第五水雷戦隊司令官原顕三郎少将(軽巡洋艦名取座乗)と敵艦隊と距離をとろうとする栗田少将(熊野座乗)は、一日近く電文の応酬をくりひろげた。

みかねた連合艦隊司令部が『バタビヤ方面ノ敵情ニ鑑ミ第七戦隊司令官当該方面ノ諸部隊ヲ統一指揮スルヲ適当ト認ム』と発令し仲裁に入る一幕もあったほどである。

第七戦隊(栗田司令官)の行動について小島秀雄(海軍少将)は、『あとで第八戦隊の先任参謀に、(バタビア沖海戦時)いったいどこにおったんだと聞いた。

先任参謀いわく軍令部に第八戦隊を大事にしてくださいと言われたというんだ。

大事にしてくださいと言われて後におるやつがあるものか』と批評している。

結局第八戦隊の第一小隊は、海戦に参加することはなかった。

日本艦隊は、三月一日午前零時を期して「あきつ丸」以下の船団がメラク湾に「神州丸」以下の船団がバンダム湾にそれぞれ入泊し上陸作戦を開始した。

海戦当日の月齢は、十三で非常に明るい夜であったという。

 海戦の結果重巡「ヒューストン」と軽巡「パース」を撃沈し「春風」が小破した。

この海戦は、「バタビア沖海戦」と呼ばれた。

三月一日〇三三〇第十二駆逐隊(『白雲』、『叢雲』)は、ソワートウェー島西方約五浬で駆逐艦「エベルツェン」を発見し砲撃を行った。

「エヴェルツェン」は、煙幕を展開して逃走後にセグク島で擱座し夕刻に爆発して失われた。

十二駆(『雪風』、『天津風』)が「エベルツェン」を撃破した頃第十一駆逐隊(『早風』、『夏風』)は、バビ島南方を航行中の五千トン級給油船を砲撃して撃沈した。

第八戦隊司令官栗田健男少将が率いる第八戦隊第一小隊(『葛城』、『笠置』)と第十九駆逐隊(『浦波』、『磯波』)は、バタビア沖海戦の後三月四日〇一〇〇に南緯四度四十八分東経百七度三十四分地点で八戦隊第二小隊(『赤城』、『天城』)と合流し五日一九〇〇にシンガポールへ帰投した。

同じ三月一日昼過ぎには、重巡「エクセター」と駆逐艦二隻(『ポープ』、『エンカウンター』)も撃沈されておりABDA連合艦隊の主力は失われた。

スラバヤ沖海戦に参加した艦艇のうち脱出に成功したのは、バリ海峡の突破に成功したアメリカ海軍の駆逐艦四隻のみだった。

その他多くの小艦艇がオーストラリアやセイロン島を目指し脱出を試みたがアメリカ駆逐艦「エドソール」や給油艦「ペコス」のよう撃沈される艦もあった。

アメリカ海軍の軽巡二隻は、大破して本国に回航され生き残った。

またイギリス軽巡二隻とオーストラリア軽巡一隻を中核とした部隊があったが戦闘に参加しないまま早期にスンダ海峡を突破して脱出した。

第十六軍は、三月一月ジャワ島各所に上陸し九日にはオランダ軍が降伏した。

十日にジャワ島の要地バンドンを陥落させて蘭印を掌握した。

本海戦に参加した各隊・各艦は、三月四日以降次作戦に備えてシンガポールやカムラン湾へ移動していった。

なおバンタムの西部に位置するメラクへの上陸部隊である「あきつ丸」以下は、敵艦隊との遭遇も無く無事に上陸を成功させ帰路に就いている。

その後「神州丸」と「龍野丸」は、サルベージされて修理された。

「龍野丸」は、応急タンカーに改装され海軍徴用船となって行動した。

 

                  ※

 

 三月九日日本軍は、ジャワ島を攻略し南方作戦の主な作戦目的である南方資源地帯占領は想定より早く終了し作戦もビルマ方面をのぞき最終段階にあった。

第二段作戦の検討は、始められていたがセイロン島に進出してインド・中国方面を攻略しドイツ・イタリアと連携作戦(西亜打通作戦)を目指す陸軍側とオーストラリア大陸攻略またはサモア諸島まで進出して米豪遮断作戦を目指す海軍側とが対立し最終目標が決まらない状態であった。

さらに日本と日独伊三国同盟を結ぶナチス・ドイツは、インド洋に日本海軍の戦力を投入してイギリスの後方を撹乱することを期待し海軍軍事委員会の野村直邦海軍中将と何度か協議している。

連合艦隊司令部では、二月二十日から二十三日にかけてインド洋侵攻作戦の図上演習を行いセイロン島の占領・英国東洋艦隊の撃滅という計画をたてる。

しかしセイロン攻略作戦に自信を持てない日本陸軍や米豪遮断を目指す海軍軍令部の反対により連合艦隊のインド洋方面作戦計画は後退を余儀なくされた。

この状況において、日本軍虎の子の第七艦隊をインド洋に転用し戦力の復活しつつあったイギリス海軍東洋艦隊を撃滅すべく行われたのがインド洋作戦である。

しかし作戦を行う現地の状況がほとんどわからない状態で行われたこの作戦は、作戦目標もあまり明確でなかった。

 すぐさま第七艦隊旗艦「翔鶴」の作戦室では、攻撃目標について会議された。

「作戦目標もないのに攻撃せよとは、酷な命令だ」

 草鹿龍之介参謀長が軍令部の行き当たりばったりな命令に愚痴った。

「それでもイギリス東洋艦隊は、我々のシーレーンを脅かす脅威です。

今のうちに叩きのめすべきです」

 これに源田実甲航空参謀が反論した。

これに草鹿参謀長が怒り立ち上がると二人は、喧嘩に発展しそうになっていた。

「これは、作戦会議だ。

喧嘩ならよそでやれ」

 その空気を察知っしたのか塚原二四三司令官が二人を止めた。

二人は、その言葉でいがみ合いをやめた。

「イギリス軍基地は、セイロン島のどこにある?」

 塚原司令官が草鹿参謀長にイギリス軍基地の所在を質問した。

「セイロン島にあるイギリス軍基地は、トリンコマリー軍港とコロンボ軍港です」

 源田甲航空参謀がインド洋海域の地図に描いてあるセイロン島の北部と南部を指示棒で指した。

「真珠湾の二の舞にならないかな?」

 塚原司令官は、それを気にしていた。

今回は、二か所の基地を空襲するがイギリス東洋艦隊本隊を見つけれるという保証はどこにもない。

「しかし同日頃に第一南遣艦隊がアンダマン海で作戦行動する予定です。

必ず敵は、発見できます」

 弱気な塚原司令官を源田甲航空参謀が叱咤した。

その時塚原司令官は、あることに気付いた。

「インド洋西側は、完全に盲点なのか?」

 塚原司令官は、指示棒でアッドゥ環礁辺りを指しながら質問した。

「そうですね。

しかしこの辺りは、大型艦を整備できる施設はありません」

 草鹿参謀長がその懸念を払しょくさせた。

「しかしイギリス軍がアッドゥ環礁に軍港を造った可能性も否定できない。

攻撃艦隊は、二分した方がいいな」

 塚原司令官は、真珠湾でアメリカ機動部隊をとり逃したことを後悔しており今度は取りこぼしがないように慎重になっていた。

「ご命令であればそうします」

 草鹿参謀長も源田甲航空参謀も異論は、なかった。

 

 三月二十六日スラウェシ島(セレベス島)南東岸スターリング湾から出撃した第七艦隊は、オンバイ海峡を通過しジャワ島の南方からインド洋に入った。

その後艦隊は、セイロン島を空襲する乙機動部隊とアッドゥ環礁に向かう甲機動部隊に別れた。

 その戦力は、

甲機動部隊

司令長官:塚原二四三中将

第一航空戦隊-航空母艦:翔鶴、瑞鶴

第六航空戦隊-航空母艦:龍鳳、瑞鳳

第十一戦隊第一小隊-戦艦:金剛、比叡

第八戦隊第一小隊-重巡洋艦:利根

第六水雷戦隊:川内

第七駆逐隊:朧、江風、涼風、海風

第二十三駆逐隊:太刀風、汐風、帆風、北風

 

乙機動部隊

司令長官:山口多聞少将

第二航空戦隊-航空母艦:蒼龍、黒龍

第七航空戦隊-航空母艦:海鳳、白鳳

第十一戦隊第二小隊-戦艦:榛名、霧島

第八戦隊第二小隊-重巡洋艦:筑摩

第七水雷戦隊:名取

第五駆逐隊:朝風、春風、松風、旗風

第二十二駆逐隊:清風、村風、里風、沖津風

である。

 日本側は、戦力の二分が吉と出るか凶と出るかの緊張に支配されていた。

 

                ※

 

 一方イギリスは、存亡の危機にあった。

千九百四十一年十二月のマレー沖海戦で英国東洋艦隊旗艦戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」が沈み極東の最重要拠点だったシンガポールも失陥した。

大損害を被ったイギリス海軍東洋艦隊は、インド洋セイロン島(現在のスリランカ)のコロンボ基地並びにトリンコマリー軍港に退避していた。

しかし本国艦隊からの増援を受け戦艦五隻空母三隻の大艦隊となっていた。

 イギリス軍は、従来よりコロンボを拠点として現存艦隊主義をとってビルマ方面に進攻する日本軍に睨みを効かせていた。

イギリスは、シンガポールの陥落が避けられなくなったため新たな拠点の整備にせまられた。

セイロン島西岸のコロンボは、施設は充実していたが商業港のため混雑しており東岸のトリンコマリーとモルディブ諸島南部のアッドゥ環礁を重要な候補地とした。

 イギリス軍は、当時コロンボにあった極東連合部(FECB)という組織により通信解析、方位測定、符丁等の暗号解読に努めており日本海軍の主要な作戦用暗号であるJN-25の解読を行い地点符号の特定に成功した。

これにより三月二十二日には、四月一日にセイロン島を攻撃する予定である事を知った。

サマヴィルは、待避の為三十日にコロンボから艦隊を出港させアッドゥ環礁に向かわせたが日本艦隊の規模は不明であった。

彼の情勢分析では、コロンボを占領を企図していた場合それへの対処は絶望的であるとし中東に至る交通線の維持にも大きな悪影響を与えるというものだった。

そのため規模の大きくない攻撃にのみ対処する為艦隊を洋上に展開してコロンボの東方で陽動に当たり艦隊現存主義を維持する方針が決められた。

三月二十八日戦艦「ウォースパイト」、空母「フォーミダブル」、巡洋艦「エンタープライズ」、「コーンウォール」、「ドラゴン」、「キャルドン」と駆逐艦六隻がコロンボを出港し翌日空母「ハーミーズ」、巡洋艦「エメラルド」、駆逐艦二隻が出港し洋上でR級戦艦六隻と合流した。

英艦隊は、四月二日まで艦隊の連携を高めるための演習を繰り返した。

イギリス軍の問題点は色々あったがその一つにリヴェンジ級戦艦など旧式艦の航続力・真水が作戦期間を支えるに十分ではない事があり四月二日には、戦艦群が帰港を具申していた。

暗号解読は、上記のように行っていたもののそれは完璧ではなかった。

依然として日本軍の動きがつかめず誤報・作戦延期の可能性も考えられたため東洋艦隊は、作戦を中止して帰港することになった。

問題は、何処の港で補給を行うかであった。

商業港で混雑したコロンボと防空施設の貧弱なトリンコマリーに帰港して真珠湾攻撃における米太平洋艦隊の二の舞を恐れたサマヴィルは二日に艦隊主力をアッドゥ環礁に待避の方針を決定した。

同時に改装工事中急遽出撃した「ドーセットシャー」にコロンボでの工事再開を命じその護衛に八日到着予定の船団護衛を控えた「コーンウォール」をつけた。

また空母「ハーミーズ」をトリンコマリーに向かわせ五月に予定されているフランス植民地のマダガスカル島攻撃準備をなすように命じた。

アッドゥ環礁に到着してまもなくセイロン島南東海上に日本軍機動部隊発見との報告が入った。

サマヴィルは、燃料補給中でありかつ速力の遅いリヴェンジ級戦艦を分離せざるを得なくなった。

東洋艦隊は空母「フォーミダブル」、「インドミタブル」、戦艦「ウォースパイト」、「コーンウォール」、「エメラルド」、「エンタープライズ」を主力とするA部隊とリヴェンジ級戦艦四隻と他の巡洋艦のB部隊にわかれB部隊の指揮は次席指揮官アルガノン・ウィリス少将がとった。

サマヴィルは、A部隊を率い十九ノットで進撃を開始した。

 

                ※

 

 千九百四十二年四月五日乙動部隊は、コロンボ南方二百海里に進出した。

「攻撃隊、発進」

 山口少将は阿部平次郎大尉率いる陣風一一型五十二機、天山一一型四十二機、彗星一一型四十二機が発進した。

その中に澤村陽一上飛曹もいた。

彼は、ウェーク島で奇襲を受けた教訓から敵が常に高高度で待ち構えていると判断した。

澤村の読み通りこの時コロンボ上空にはハリケーン、フェアリー・フルマーなどが四十七機待ち構えていた。

 コロンボに向かう途中上空は、厚い雲に覆われており攻撃隊は低空飛行を余儀なくされた。

(こちらが不利だな)

 澤村は、そう直感した。

上空が厚い雲で覆われている以上飛行隊は、低空にて戦闘を強いられる。

無論陣風も巴戦ができるが零戦と比べるとお粗末である。

もし敵機が零戦並みの格闘能力を持っていれば編隊飛行を得意とする陣風隊は、苦戦するのは必須であった。

 澤村の心配をよそに攻撃隊は、コロンボ上空に到着しようとしていた。

その時澤村は、「殺気」を感じた。

後年よく漫画などで描かれるような感じに近いものだった。

 すると前方の厚い雲の隙間からパラパラと何かが降下してきた。

間違いない。

それは、直掩のイギリス戦闘機だった。

数は、こちらと同等くらいだった。

 「飛龍」分隊長の岡嶋清熊(おかじまきよくま)大尉の陣風が海鳳分隊長の相生高秀(あいおい たかひで)大尉の陣風に近づいた。

直後有永機が敬礼にも似たバンクを振った。

「全機、突撃」

 岡嶋分隊長が命令すると全機が増槽を外し敵機に肉迫した。

澤村は、ちらりと後方を見ると海鳳隊と白鳳隊は、増槽を着けたまま攻撃隊の側から離れようとしなかった。

どうやら前方の敵機を見て岡嶋分隊長は、二航戦だけで抑えられると確信したのだろう。

 しかしこの間岡嶋機が各分隊長機と無線を使った気配は、ない。

ここで誤解を招くかもしれないので注釈を入れておくと当時の日本の航空無線は、アメリカ航空機の無線機と同等性能を誇っており巡航飛行中はもちろん空戦中も会話ができた。

そのため使おうとすれば無線機をつかえたのだ。

それでも日本海軍のパイロットたちは、九六式艦戦から使われている手信号と以心伝心のほうが早くて確実なコミュニケーション方法としていまだに使われていた。

それを使って岡嶋分隊長は、各分隊長とコミュニケーションを図ったのだ。

 敵機との距離は、どんどん縮まっていた。

その時澤村は、感じ取った。

ここでは、射撃をせず敵が撃ったら編隊レベルで回避し各個撃破するという空気が流れた。

澤村は、岡嶋機に並んだ。

すると岡嶋分隊長がうなずいた。

分隊長も澤村がそれを悟ったことを感じたのだろう。

澤村は、バンクを振ると自分の編隊位置に戻った。

「敵が撃ったら急降下する」

 澤村は、無線機を通じて部下に命令した。

「了解」

 受信機から部下からの声が返ってきた。

 そして敵機が撃ってきた。

小隊は、各々回避したが澤村小隊は違った。

複数の火箭のうち横山勝一飛曹を狙った一部の火箭が陣風の下部と右側をかすめた。

これに驚いた横山一飛曹は、一人左側に遁走してしまった。

それを待っていたかのように三機のハリケーンが横山一飛曹を追った。

「しまった」

 澤村は、部下を助けるべく再び高度を上げようとした。

「敵機が張り付いています」

 別の部下の石川晃(いしかわあきら)一等飛行兵曹が注意した。

それを受け後方を見ると一機のハリケーンが迫っていた。

「クソ」

 澤村は、悪態をつくと横旋回で逃れようとした。

しかし陣風の旋回能力では、ハリケーンを振り切ることが出来なかった。

刹那そのハリケーンが突然火を噴き墜落した。

見てみると石川一飛曹がそのハリケーンを撃墜してくれたようだ。

石川機が澤村機と並ぶとしきりに前方を指した。

そこには、渦があった。

雁行する形で編隊を組んだハリケーン三機が横山機の二百メートル程後方につきさらにその三機を蒼龍所属の分隊が追っていた。

そしてなおかつハリケーンを追う陣風分隊の後方には、別のハリケーン二機が繋がるという文字通りの犬の喧嘩が広げられていた。

 一瞬の判断で横山機の呪縛を解くのが最優先だと認識した。

互いにロープで繋がれたかのように旋回を続ける陣風とハリケーン。

それぞれがちょっと操縦桿を緩めればたちまち後続する敵機の射角にとらわれてしまう

 ただ当時のハリケーンの武装は、ブローニングM1919重機関銃を各四挺ずつすなわち計八挺装備していた。

陣風は、日本海軍で初めて本格的な防弾装備を施した艦上戦闘機である。

そのため諸外国の七・七粍機銃など命中してもびくとしない。

だから今回も「多少命中してもいい」という決断の許思いっきり操縦桿を反対に向けるなりして敵機の追跡を振り切ることも出来る。

 傍らから見ればそう思えるのだが実際追われるとそうもいかないのだろう。

照準器をにらんだまま親指で機銃の切替突起を探りそれが両翼と機首の二十ミリ機銃合わせて六挺同時発射位置にあることを確かめてから澤村は、スロットルを全開にした。

赤ブーストいっぱいの緊急加速でその渦に突っかける。

 徐々にOPL内に捉えられた三機編隊の敵機がたちまちふくらみ同時に下方へ沈みかける。

急激な加速による揚力増加でこちらの機体が浮き気味なのだ。

これを昇降舵で無理に抑え込もうとすると上下の軸線が定まらない。

そこですぐに横転を入れ機体を裏返した。

これまで幾度となく繰り返した典型的な上位攻撃の姿勢である。

こうすれば翼面反対になるから当然浮の力は、消える。

機軸がぴたりと決まった。

ハリケーン編隊は、依然繋がりあったまま同じ旋回の弧内にある。

目前の陣風に気を取られ上方から襲い掛かろうとする澤村が目に入らないのか気付いていながら後方の陣風に圧迫され動くに動けないか。

距離は、まだ二百メートル近くある。

まだ遠い。

必殺の間合いでは、ないが今は撃墜よりかく乱だ。

敵編隊の左後方に位置する三番機に狙いをつけ引き金に指をのせた。

もう一呼吸おいて撃った。

 六本の火箭が定規で引いたような軌跡を描いて一点に集中していく。

その先を見定めて今度は、操縦桿を揺さぶることで射線を波立たせ弾丸を広い範囲にばらまいて敵編隊を包み込もうとしたのだ。

そのまま敵三番機から二番機、一番機へと素早く照準を移動させ薙ぐような連射を続けながら肉迫した。

 手ごたえは、あった。

二番機は、右翼をおられてそのまま墜落し三番機は火を噴くと機体全体を覆いつくし墜落した。

一番機もキャノピー付近からばらばらと破片が吹き上がるのをはっきりと視認しロールを打って腹を見せそのまま垂直に近い降下で旋回圏から離脱していった。

 墜落だと直感したものの悠長に見てられなかった。

すぐに横山機に近づくと「大丈夫か?」の手信号を送った。

すると「大丈夫です」の合図と共に何度も頭を下げた。

「すいません」と謝罪していた。

それに「気にするな」と返し戦場を改めて見た。

すると予想以上の効果がった。

 それまで機数を頼りにかろうじて格闘戦を維持していた敵邀撃陣がものの見事に統制を失い周章狼狽、算を乱しての退避作動を開始したのだ。

烏合の衆とは、このことだ。

 敵機は、残らず撃墜されコロンボ基地は彗星と天山の急降下・水平爆撃で大ダメージを受け駆逐艦「テネドス」と仮装巡洋艦「ヘクター」が撃沈された。

五日午前九時サマヴィルは、コロンボ空襲の連絡を受け「ドーセットシャー」と「コーンウォール」にA部隊合流を命じた。

二隻は、五日の午後乙機動部隊に発見され江草隆繁少佐率い彗星艦爆隊の急降下爆撃により撃沈された。

 

               ※

 

 その頃塚原二四三中将率いる甲機動部隊が西進しつつ索敵を行っていた。

するとそこに索敵機から報告が入った。

「敵インドミタブル型空母、巡洋艦、各二隻見ゆ。

他に戦艦、一、駆逐艦数隻よりなる護衛部隊の随伴を認む。

地点アッドゥ環礁より方位三十度、距離四百海里、針路八十度、速力十九ノット。

一八三〇」

 将校が敵艦隊の位置を報告した。

「攻撃隊、発進」

 塚原中将は村田重治少佐率いる陣風一一型五十六機、天山一一型四十八機、彗星一一型四十八機を出撃させた。

ここに人類史上初の空母対空母が始まろうとしていた。

 

                ※

 

 「翔鶴」所属の加賀龍一(かがりゅういち) 二等飛行兵曹 は、分隊長の中田一平(なかたいっぺい)少尉と共に敵機動部隊の方角に進軍していた。

すると「翔鶴」隊長の板谷茂(いたやしげる)少佐が「敵機発見」のバンクを振り増槽を落とした。

それに見習い陣風隊は、続々と増槽を捨てると増速した。

確かによく見ると前方に何かいる。

しかし加賀は、当初ゴマをぶちまけたような小型機の群れとした認識できなかったが距離が縮まるうちにその機種を見極められた。

一方は、ホーカーハリケーン(厳密には、シーハリケーン)であったがもう一方がわからなかった。

だがイギリス戦闘機と並行して飛行している以上自分たちの敵であることには、間違いないだろう。

数は、およそ十機前後。

 彼等は、高高度に位置しているがそれは一撃離脱戦法でこちらの艦爆と艦攻を一気に殲滅しようと考えた結果だろう。

いくら編隊をがっちり組んでの集中砲火を行ったとしても欧米の爆撃機のような高火力旋回機銃が存在しない日本機では、防弾装備が充実した米英機にはさして脅威にならない。

そして艦爆と艦攻は、統一機種である流星一一型の登場まで防弾を装備した機体が存在しなかったため一発の被弾が致命傷になりかねなかった。

そのため楯である陣風隊が挺身しなければ真の敵である敵機動部隊の殲滅は、できない。

 敵機群が迫る。

しかし彼等は、どうしたことか反航態勢のままこちらに堂々と突っ込んでくる。

こちらの戦闘機の性能をさしたる証拠もなく自分たちより低性能と思いこんでいるのだろう。

 ともあれ数は、多いと認めたのか上下左右にピシッとした陣形で来ている。

相対速度は、約時速千キロメートルなので一秒間に約三百キロメートル近づいていることになる。

二つの編隊は、射程圏内に入ると敵が機銃を撃った。

陣風隊は、いったん攻撃を避けてからのロッテ戦術による反撃にうつった。

 しかし正体不明機の旋回は、鈍い。

この陣風も重戦闘機よりの機体なので旋回は、苦手だった。

しかし目の前の敵機は、さらに旋回が鈍かった。

だから簡単に背後につくことができたがそこで驚いた。

その機体は、何と後部旋回機銃を撃ってきたのだ。

さすがの加賀二飛曹も面を食らって一時正体不明機から距離をとったが中田少尉を見ると「突っ込むぞ」と手信号を送ってきた。

加賀二飛曹も「了解」と返すと二機は、一機の正体不明機に近づいた。

 一丁の旋回機銃で迎撃できるのは、せいぜい一機だけである。

そのためロッテ戦術の二機を用いることで旋回機銃の照準を乱すことができるため大型爆撃機の旋回機銃つぶしによくこの手法が使われた。

 固定機銃と旋回機銃の命中率は、およそ七対一。

そこで搭乗員たちは、「固定機銃を旋回機銃にするな」ということを常々先輩たちから教えられてきた。

つまり機体を振り回しながらの射撃は、どんなにうまく狙っているつもりでも命中率が七分の一に落ちているという意味だ。

また逆に「敵の旋回機銃を固定機銃にするな」という教えもあってこちらは、大型機に直線的な攻撃を仕掛けることの危険をとがめたものである。

 このため二機は、右に左に機体を振って射線を躱し或いは翻弄して敵機に近づいた。

先に近づいたのは、中田機だった。

正体不明機のため早く撃墜したかったのだろう二十ミリ機銃を撃ち瞬く間に敵機に火を噴かせ撃墜した。

見ると他の部隊も同じで多くがこの正体不明機を撃墜している。

正体は、不明だが性能は恐れるに足らずこちらより低性能だった。

 空中戦に余裕ができたため眼下に目をやった

すると海面を二隻の大型空母、一隻の戦艦、二隻の巡洋艦と多数の駆逐艦がその周囲を走り回っていた。

しかし全ての大型艦は、この時優先的に攻撃されたのか火災が発生し傾斜し速力も低下していた。

 後の調査で分かったことだが当初彼らは、初めて見た彗星艦上爆撃機を新型戦闘機と誤認し急降下爆撃による回避運動を怠ってしまった。

その結果急降下爆撃の恰好の餌食になりその命中率は、七十七パーセントにも及んだ。

ただ雷撃は、少々お粗末で命中率は三十八パーセントしか命中できかなった。

 

               ※

 

 イギリス東洋艦隊A部隊の戦闘海域にB部隊が到着した。

しかし運が悪かった。

その時ちょうど甲機動部隊から発進した第二次攻撃隊が到着していた。

無論第二次攻撃隊は、致命傷を負っているA部隊の艦船ではなく無傷のB部隊に殺到した。

 「翔鶴」所属の第一中隊二十二小隊長の山田昌平大尉は、三機の僚機を率いて敵艦隊に向かっていた。

すると十一時の方向に針路二百の十九ノットで進む敵艦隊を発見した。

 しかしその艦種は戦艦と巡洋艦が四隻に駆逐艦が多数の索敵機の情報とは、違う艦隊だった。

だが構うことは、ない。

「トツレ」が発信され、信号弾が発射された。

幸いなことに直掩機は、なく敵艦に思いっきり攻撃ができる。

既に分隊長の千早猛彦大尉が急降下爆撃を開始した。

 しかし敵艦の対応がお粗末だった。

確かに対空砲火は、マレー沖海戦でも披露したように抜け目がなくしばし僚機の機影を見失うほどだった。

だが回避行動は、緩慢でまるでこちらが艦爆ではないと思っているようだった。

 そのため千早大尉に狙われた戦艦は、早くも被弾し船体に紅蓮の炎を吹き上げた。

それで目が覚めたのか他の艦もあわてて回避行動に移ったが遅い。

何せ今自分たちが乗っている彗星は、「敵艦上機より長大な攻撃半径」と「迎撃してくる敵艦上戦闘機を振り切ることが可能な高速力」を両立した超高性能爆撃機である。

高速を売りにする彗星相手に対応の遅延は、即座に死を意味する。

 山田は、一隻の戦艦に狙いをつけると急降下に移った。

対空機銃の火箭を何とか回避しながら急降下を続けた。

「一〇。

〇八」

 偵察員の野坂悦盛上等飛行兵曹が高度を読み上げる。

「〇四」

「投下」

 瞬間山田大尉は、爆弾投下索を引き同時に操縦桿を思い切り引き寄せた。

気が遠くなるのを歯を食いしばってこらえる。

水平飛行に戻して振り返ると一番砲塔から紅蓮の炎が上がっていた。

列機も次々に爆弾を命中させる。

 

                  ※

 

 イギリス側の方位測定班は、八日朝「蒼龍」の符丁を観測した。

十五時十七分カタリナがセイロン島東方四百マイルに敵艦隊を認めこの情報によりトリンコマリーの艦船は、脱出を始めた。

 九日甲機動部隊と乙機動部隊は、再び合流しトリンコマリー基地への空襲を始めた。

「攻撃隊、発進」

 塚原中将が攻撃命令を出すと淵田中佐率いる陣風一一型百十二機、天山一一型八十一機、彗星一一型六十九機が発進した。

この時第二次攻撃隊として母艦に残った彗星には、徹甲爆弾で天山には通常爆弾を装備していた。

これは、第二次攻撃隊でトリンコマリー基地を攻撃する前に敵艦隊を発見した場合に備えての対応だった。

 「翔鶴」所属の第一中隊第四十一小隊長の岩井健太郎大尉は、小隊を率いてトリンコマリー基地に到着した。

ここでも迎撃機が飛来したがコロンボ基地に比べると数が少なく敵戦闘機の性能も劣っていた。

そのため攻撃隊は、悠々と爆撃が行える環境が整った。

岩井小隊は、軍港施設を爆撃することにし照準器に弾道上の諸元をあらかじめ想定した。

小隊は、爆撃コースに入った。

岩井大尉は、目標が照準器の中央に入った瞬間時計を発動した。

その後は、照準器をから一時も目を離さなかった。

すると目標は、いったん照準器の中央から前方に離れ次いで中央に戻ってきた。

岩井大尉は、中央に戻った瞬間爆弾を投下した。

僚機もほぼ同時に投下した。

 爆弾は、誤らず施設クレーンの支部に命中した。

爆発の瞬間クレーンは、倒れがれきになった。

 日本軍が使っている爆薬は、一般的に焼夷弾であり爆発と共に三千度で約五秒間燃焼し目標を炎上させる。

これは、ダメージコントルールに優れたアメリカ艦船に致命傷を与えるために開発された新兵器だった。

 岩井大尉は、戦果を見るとともに辺りを見渡した。

すると獲物の数は、山ほどありとても第一次攻撃隊だけでは対応できなかった。

それは、攻撃隊総隊長の淵田中佐も感じたのか「第二次攻撃の要あり」と打電した。

 

                 ※

 

 それは、六六機動部隊にも伝わった。

塚原二四三司令官は、第二次攻撃隊用に通常爆弾を装備した天山と陣風の発進命令を出した。

 しかし攻撃隊の帰投中に「空母一、駆逐艦一、南下中」と発見の報告が知らされた。

これは、再び退避中のイギリス空母「ハーミーズ」であった。

山口多聞少将は、通常爆弾を装備した天山での攻撃を具申したがこれは容れられず徹甲爆弾を装備した彗星が出撃した。

空母からは、陣風一一型七十六機と彗星六十九機が発進した。

 

                 ※

 

 加賀龍一二飛曹は、空母発見の報告があった瞬間再び敵艦載機との戦闘を覚悟していた。

しかしどういうわけか敵空母上空に到着したものの肝心の直掩機は、見当たらず彗星と天山は攻撃したい放題で空母に攻撃していた。

もしかしたらこの空母には、艦載機がないのかもしれない。

しかしだとしても油断は、できない。

空母から発信されたSOSを基地で傍受し陸上機が救援に駆けつけるかもしれない。

警戒していることに越したことは、ない。

 しかし加賀の心配は、よそに攻撃は順調に終わった。

 

                ※

 

 しかし全てが順調に終わったわけではなかった。

六六機動部隊では、トリンコマリー攻撃から第一次攻撃隊が帰還しておりこれも「ハーミーズ」攻撃に向かわせるべく補給を行い攻撃機に魚雷を積んでいる最中にイギリス空軍のウェリントン爆撃機九機が旗艦「翔鶴」に狙って編隊爆撃を行い投下された爆弾は挟叉したものの命中しなかった。

日本軍は、直掩の陣風により爆撃機五機を撃墜した。

 

                ※

 

 この海戦による戦果は、以下である。

撃沈

正規空母:インドミタブル、フォーミダブル

軽空母:ハーミーズ

戦艦:ウォースパイト、レゾリューション、ラミリーズ、ロイヤル・サブリン

重巡洋艦:コーンウォール、ドーセットシャー

軽巡洋艦:エンタープライズ、エメナルド、ダナエ

駆逐艦:ヴァンパイア、テネドス

大破

戦艦:リヴェンジ

 

損失

航空機:四十九機

 

                ※

 

 日本軍大本営は作戦全体として空母三隻、戦艦四隻、甲巡二隻、乙巡二隻、駆逐艦一隻、哨戒艇一隻、船舶二十七隻撃沈、戦艦一隻、乙巡一隻、船舶二十三隻大破、航空機撃墜百二十機と華々しい大本営発表を行った。

この戦闘で日英は、休戦に向け協議し終戦時にイギリス側はインドの独立を約束し日本は満州を手放すという条約を締結した。

ドイツとイタリアでは、この作戦以降有力な艦隊をインド洋に投入しない日本に不満が高まった。

クルト・フリッケ中将/作戦部長が野村直邦海軍中将に幾度もインド洋方面への戦力投入を要請しついにはテーブルを叩きながら悲壮な様子で訴えている。

野村は、『北阿作戦の現状は、更に有力な艦隊をもって一層積極的な協力を与えなければ敗退の他なし再考を求む』と報告した。

イタリアのベニート・ムッソリーニ首相も『更ニ一層密接ナル協力ヲ希望ス』として日本海軍が英国東洋艦隊を撃滅することを希望した。

しかし条約上日本は、インド洋でこれ以上の軍事行動がとれなかったため同盟国への要請回答は濁して回避し続けた。

ドイツとイタリアは、日本がイギリスと休戦条約を締結した事に不満を高め真珠湾攻撃で米国を戦争に引きずり込んだ事や同盟国のアフリカ戦線の苦戦に協力しない利己主義を批判しついには「こんなことなら米国に対して宣戦布告を行うべきではなかった」と非難された。

このため日独経済協定の締結や技術交流にも悪影響を及ぼしている。

 

            第二章 珊瑚海海戦

 

 千九百四十二年一月二十九日日本海軍連合艦隊司令部は、「大海指四十七号」にてオーストラリアをアメリカから遮断し孤立させる戦略構想(「米豪遮断作戦」)の一環としてツラギとニューギニア島南東岸にあるポートモレスビーを奇襲攻略することを決定した(「MO作戦」あるいは「モ号作戦」)。

ニューギニア島は、中央部を東西に山脈が走っているため北岸からの陸路での攻略には困難が予想され海路から攻略を行う方針が決まった。

同時にソロモン諸島のツラギ島を占領して水上機基地を設営し珊瑚海の警戒を行うことが決定された。

日本海軍の作戦指揮官は、第四艦隊司令長官井上成美中将であった。

この作戦における海軍の主任務は、陸軍歩兵第一四四連隊と海軍呉特別陸戦隊をのせた十一隻の輸送船の護衛である。

三月十日空母「レキシントン」と「ヨークタウン」がラエとサラモアに航空攻撃を敢行し日本軍は、艦船四隻が沈没し中破小破十四隻で戦死百三十名という損害を出した。

 井上成美第四艦隊司令長官は、『MO機動部隊は、有力なる敵海上部隊の所在判明せざる場合はなるべく速やかにタウンズビル方面の敵飛行場を急襲し所在航空兵力を撃滅すべし』と命令した。

これは、MO機動部隊が制海権のない珊瑚海に十日もとどまり敵艦隊攻撃から敵航空基地撃滅まであらゆる任務に投入されることを意味し連合艦隊司令部は『MO機動部隊の作戦に関し同隊は、敵の機動部隊に対する作戦を第一義とし豪州要地の空襲については同隊の兵力並びに豪州北方海域の情況等に鑑みとくに慎重を用されたし。

なお敵陸上基地航空兵力の撃滅には、所要の基地航空隊を集中作戦する如く取り計らわれたし』と第四艦隊の命令を取り消している。

井上中将は、『MO機動部隊は、珊瑚海方面に敵が出現した場合にのみこれを撃滅せよ』と命令を訂正した。

計画では、五月三日に第十九戦隊はソロモン諸島ツラギ島を占領後にナウルとオーシャン攻略に参加しMO主隊は第十九戦隊を支援したあと西進して南海支隊を支援しMO機動部隊はアメリカ軍攻撃に備えて待機し五月十日にポートモレスビーを攻略するという複雑な予定であった。

日本軍の戦力分散と作戦の複雑さについては、戦闘詳報や米海軍大学校も日本軍苦戦の一因になったと指摘している。

 日本海軍の動きを察知したアメリカ海軍は、第十一任務部隊(空母レキシントン基幹)と第十七任務部隊(ヨークタウン基幹)を派遣し日本海軍の作戦を阻止することとした。

空母「エンタープライズ」と「ホーネット」は、ドーリットル空襲のため日本本土に接近した関係で珊瑚海に派遣することは出来なかった。

 

                ※

 

 千九百四十二年四月三十日ツラギ攻略部隊の第十九戦隊(司令官志摩清英少将、旗艦:敷設艦沖島)がラバウルを出発した。

五月三日第十九戦隊は、軽空母大鷹と特設水上機母艦「神川丸」艦載機支援のもとツラギ島、ガブツ島、タナンボコ島へ上陸したが連合国軍は殆ど撤収しており小競り合いが起きた程度で日本軍の上陸作戦は成功した。

日本軍は、水上機基地の設営を開始し同日夕方までに設営完了となる。

MO作戦第一段階完了にともない第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将)の軽巡洋艦「天龍」と五藤少将の第六戦隊は次々に反転しブカ島クインカロラで補給の後南海支隊と合流することになっていた。

MO機動部隊は、五月一日トラック諸島を出航した。

同日には第四艦隊旗艦「神通」と座乗した井上ら第四艦隊司令部がトラック諸島からラバウルへ向かった。

機動部隊司令官は、高木武雄少将で原忠一少将と三並貞三少将は第五航空戦隊司令官と第七航空戦隊司令官として高木の指揮下にある。

第五航空戦隊と第七航空戦隊の航空戦力は空母一隻につき陣風、彗星、天山が二十四機ずつで第五戦隊重巡洋艦妙高と羽黒は各艦九八式水上偵察機三機を搭載している。

MO攻略部隊には、軽空母「大鷹」(九六式艦上戦闘機十四機)が護衛についていたが作戦会議で公然と反対した杉山利一(『大鷹』飛行長)のように多くの者が軽空母一隻の護衛には限界があると感じていた。

もっとも日本軍は、先のニューギニア沖海戦において空母「レキシントン」を既に撃沈したか本国修理中であると推定しており仮に珊瑚海に米空母が出現するとしても空母「サラトガ」一隻と判断している。

「神通」に座乗した井上ら第四艦隊司令部は四日にラバウルへ到着した。

以後井上は、ラバウルの「神通」艦上からMO攻略部隊・MO機動部隊・援護部隊・ポートモレスビー攻略部隊を指揮した。

日本海軍のツラギ上陸を察知したフランク・J・フレッチャー少将は、艦隊を北上させ四日朝空母「ヨークタウン」からツラギに向け攻撃隊が発進した。

この日「ヨークタウン」からは、四波による攻撃がなされ「軽巡洋艦一隻、水上機母艦一、駆逐艦二、輸送船二、砲艦四隻」を攻撃して「駆逐艦二隻、貨物船一を撃沈、軽巡洋艦一隻大破着底、水上機母艦一、駆逐艦、貨物船一隻が損傷」と報告した。

実際の戦果は、駆逐艦「東風」および掃海艇三隻を撃沈し敷設艦「沖島」と駆逐艦「山風」が至近弾と機銃掃射によって小破し神川丸の九八式観測機二機を喪失した。

損失としてF4Fワイルドキャット戦闘機二機不時着・TBDデバステーター雷撃機一機を失いSBDドーントレス急降下爆撃機六機とTBD雷撃機二機が損傷した。

この他に「神川丸」の戦闘詳報によれば九八式観測機がPBYカタリナ飛行艇を撃墜したが索敵中の水上偵察機二機を喪失した。

第四艦隊司令部は、MO機動部隊に「為し得れば速にツラギの掩護機を出すべし」と催促したが「ヨークタウン」を捕捉することはできなかった。

だが連合艦隊司令部は、ミッドウェー作戦の検討で多忙であり第四艦隊も作戦計画を再検討する必要性を認識しておらず五月四日にMO攻略部隊をラバウルから出撃させた。

MO機動部隊や陸上基地から発進した陸上攻撃機や飛行艇がアメリカ軍機動部隊を索敵したが発見できず日本軍は米空母が南方に避退したと考え始めた。

だが五日には、横浜海軍航空隊の九八式飛行艇(浦田大尉機)が「ヨークタウン」の戦闘機隊によって撃墜されている。

さらに悪天候のため「妙高」と「羽黒」の九八式水上偵察機の回収に失敗し二機とも使用不能になった。

 MO機動部隊は、珊瑚海に進出した。

日本海軍の戦力は、

南洋部隊

第四艦隊 井上成美中将

軽巡:「神通」(独立旗艦)

 

MO機動部隊

第五戦隊 高木武雄少将

重巡:「那智」 、「羽黒」、「足柄」、「妙高」

第七駆逐隊第一小隊

駆逐艦:「曙」、「潮」

第五航空戦隊 原忠一少将

空母:「大鳳」、「祥鳳」

第七航空戦隊 三並貞三少将

空母:「海鳳」、「白鳳」

第二十七駆逐隊

駆逐艦:「有明」、「夕暮」、「白露」、「時雨」

第十七駆逐隊

駆逐艦:「浦風」、「磯風」、「谷風」、「浜風」

第二十一駆逐隊

駆逐艦:「初春」、「子日」、「初霜」、「若葉」

第十一駆逐隊

駆逐艦:「江風」、「白雪」、「初雪」、「深雪」

補給部隊

輸送艦:「東邦丸」、「東亜丸」

第六戦隊(5月7日夜、編入)

重巡:「青葉」、「衣笠」、「愛鷹」、「古鷹」

 

MO攻略部隊

空母:「大鷹」

第七駆逐隊第二小隊

駆逐艦:「秋雲」、「漣」

 

援護部隊

第十八戦隊 丸茂邦則少将

軽巡:「天龍」、「龍田」

水偵機隊:「神川丸」

特設砲艦隊:「日海丸」、「京城丸」、「勝泳丸」

特設掃海艇二隻

 

ポートモレスビー攻略部隊

第五水雷戦隊 梶岡定道少将

軽巡:「鬼怒」

駆逐艦:「追風」、「疾風」、「朝凪」、「夕凪」

敷設艦:津軽

掃海艇:第二十号掃海艇

輸送船:十二隻

である。

 MO機動部隊旗艦「大鳳」の艦橋ではMO機動部隊司令官の高木武雄少将と原忠一少将が地平線を見つめていた。

「発見できるか?」

 高木少将が原少将に質問した。

「私が恐れているのもそれです」

 原少将も敵空母を発見できるか心配だった。

「明日の夜には、サンタクリストバル島の南端を出て東から珊瑚海に出る」

 高木少将が航行予定コースを言った。

「太平洋の中でドジョウを探すようですな」

 原少将は、敵機動部隊をドジョウにたとえた。

 

                 ※

 

 五月五日フレッチャー少将と空母「ヨークタウン」は、第十一任務部隊・空母「レキシントン」と合流し油槽艦「ネオショー」から補給を受ける。

その最中アメリカ陸軍機から日本軍機動部隊出現の情報を受け取りまた九八式飛行艇に発見されたため日没後に北西に転舵した。

 フレッチャー少将と第十一任務部隊の幕僚と共に日本側の動きについて作戦会議をしていた。

「日本側のポートモレスビー攻略部隊は、七日か八日にこのソロモン海を通過するものと思われる」

 幕僚の一人がポートモレスビー攻略部隊の動きを予想した。

「それで日本の機動部隊は?」

 フレッチャー少将は、日本の機動部隊の動きを一番気にしていた。

「ソロモン群島の西側を南下していることは、間違いないのですがまだ正確な位置はまだわかっていない」

 別の幕僚がフレッチャー少将の質問に答えた。

「とにかく敵の空母を先に発見することだ。

一分でも一秒でも早く」

 フレッチャー少将は、空母対空母は先手必勝だと信じていた。

 

                 ※

 

 五月六日午前六時ショートランド泊地で燃料補給を行った軽空母「大鷹」と第七駆逐隊第二小隊二隻が出港した。

午前十時横浜海軍航空隊(横浜空)の九八式飛行艇(山口飛曹長機)が第十七任務部隊を発見し約四時間にわたって触接を続け「空母一、戦艦一、重巡一、駆逐艦五」という戦力と位置・進行方向を打電した。

ラバウルの山田定義少将は、横浜空の飛行艇部隊に魚雷を搭載しての雷撃命令を下令しブナカナウの陸攻部隊には翌朝の出撃準備を命じた。

ただし横浜空は、ツラギに進出して時間がなく出撃することは出来なかった。

午後二時特設水上機母艦「神川丸」がデボイネに入泊し水上機偵察基地の設営を開始した。

翌朝までには、基地設営は完了し「神川丸」は第十八戦隊とともに北方に避退した。

午後五時三十分第六戦隊司令官五藤存知少将は、「味方機動部隊を偵知せざる敵機動部隊は、明日『ルイジアード』南方海面より来襲の算大なり」と通知し重巡洋艦「衣笠」と「古鷹」から九四式水上偵察機各艦二機と第十八戦隊「神川丸」の水上機を索敵に投入した。

その頃MO機動部隊は、山口機のアメリカ軍機動部隊発見電を午前十時四十七分に受信し攻撃準備を行いつつ南下していた。

しかし索敵の不備から第十七任務部隊まで七十浬(飛行時間二十~三十分)地点まで接近しつつ午後八時になって北西に反転し先制攻撃のチャンスを失った。

原少将は、戦後になって「被発見を避けたのと基地航空部隊の索敵を信頼した」と回想しているが米海軍大学校研究では『原は自らの安全を優先しさらに索敵に艦攻を投入して攻撃兵力が減ることを嫌がったからだ』と指摘している。

この時MO機動部隊の重巡洋艦二隻・駆逐艦四隻は、燃料補給が充分ではなく午後四時三十分に機動部隊と分離して北上している。

原少将の空母二隻が第十七任務部隊と最接近した時護衛駆逐艦は、「有明」と「夕暮」の二隻だけであった。

 MO機動部隊の接近に全く気付いていなかったフレッチャーは、第十七任務部隊から油槽艦「ネオショー」と駆逐艦「スミス」を分離し次の給油点(南緯十六度、東経百五十八度)に派遣した。

 

                 ※

 

 「大鳳」の艦橋では高木少将、原少将と第五戦隊などの幕僚らと共に敵の位置を推定していた。

「敵の狙いは、わが軍の攻略部隊がソロモン海を抜けたときか。

いや、たぶん明後日この珊瑚海をポートモレスビーに向かっているときだ」

 高木少将が珊瑚海の地図の前で敵が動く時を推測した。

「明後日だとすると明日は、この南寄りを航行してるだろう」

 高木少将は、敵がいる場所を特定した。

「それでは、かくれんぼだ」

 原少将が愚痴った。

「だから先に敵を発見した方が勝ちなんだ。

明日中に敵を捉え撃滅する必要がある」

 高木少将も攻略部隊の護衛に小型改装空母一隻には、反対しており早く敵を撃滅し「大鷹」の艦長の高次貫一大佐の重荷を軽くしてやりたかった。

「敵が推定の場所にいなかったら?」

 原少将が敵がいなかった場合を質問した。

「その時は、我々も珊瑚海を西に向かう」

 高木少将がしばらく考えてから答えた。

 

                 ※

 

 五月七日アメリカ海軍第十七任務部隊では、午前四時三十分にSBDドーントレス索敵隊十機を発進させ午前六時二十五分に第十七任務部隊から巡洋艦三隻・駆逐艦三隻からなるクレース隊を分離してジョマード水道へ派遣した。

クレース隊(重巡洋艦オーストラリア、シカゴ、軽巡洋艦ホバート、駆逐艦パーキンス、ウォーゲ、ファラガット)の任務は、第十七任務部隊が敗れた場合MO攻略部隊を攻撃して輸送船団を撃退することである。

 

                 ※

 

 午前六時頃北方へ退避する第十八戦隊と水上機母艦「神川丸」がB-17爆撃機の攻撃を受け「神川丸」が小破した。

敷設艦「津軽」に対しても午前三時四十五分と午前八時三十分にB-17少数機による爆撃があったが損害は、なかった。

 

                 ※

 

 第四艦隊司令長官井上成美中将は、水上機部隊に「デボイネ南東百六十五浬にある敵航母に蝕接を確保せよ」と命じMO機動部隊には、アメリカ軍機動部隊の撃滅を下令した。

ラバウルの第四海軍航空隊第二十五航空戦隊からは、深山三機とツラギから横浜海軍航空隊の九八式飛行艇四機も加わり珊瑚海の索敵を行った。

MO機動部隊では、原少将が航空参謀の西方索敵案を却下し南方重視の索敵を指示した。

午前四時第五航空戦隊および第七航空戦隊「大鳳」、「祥鳳」、「海鳳」と「白鳳」から偵察機二十四機(天山艦上攻撃機各艦六機)が発進した。

 

                 ※

 

 午前八時十五分「ヨークタウン」の索敵機が「空母二隻、重巡洋艦四隻、全艦ヨークタウンの北西方向にあり」と報告し続いて周囲の索敵機が日本軍水上偵察機一機・雷撃機一機撃墜を報告した。

 

                 ※

 

 午前八時五十分「衣笠」・「古鷹」偵察機より敵機動部隊発見の報が入った。

それは、「大鳳」の艦橋にも伝えられた。

「敵らしき空母一隻、戦艦一隻、重巡一隻、駆逐艦五隻見ゆ。

ツラギの南南東百九十二度、距離四百二十海里。

針路百九十度。

速力二十ノット。

〇八五〇」

 通信参謀が電文の綴りを読み上げた。

「攻撃隊、発進」

 高木少将が発進命令を出した。

午前九時八分第一次攻撃隊として「大鳳」から嶋崎重和少佐率いる三十機(陣風一一型十二機、彗星艦上爆撃機一一型十二機、天山艦上攻撃機一一型六機)、「祥鳳」から高橋赫一少佐率いる三十機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山六機)、「海鳳」から金秀行(こんひでゆき)少佐率いる三十機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山六機)、「白鳳」から萩原芳夫(はぎわらよしお)少佐率いる三十機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山六機)の全艦合計百二十機が発進した。

 

                 ※

 

 一方アメリカ軍は、午前九時二十五分空母「レキシントン」から五十機(F4Fワイルドキャット戦闘機十機、 SBDドーントレス急降下爆撃機二十八機、 TBDデバステーター雷撃機十二機)と空母「ヨークタウン」から四十二機(F4F八機、SBD二十四機、TBD十機)の合計九十二機が発進して日本軍機動部隊に向かい艦隊には「レキシントン」にF4F八機・SBD十機、「ヨークタウン」にF4F九機・SBD一機・TBD二機が残された。

 

                 ※

 

 午前九時五十三分として「大鳳」から市原辰雄大尉率いる三十六機(陣風一一型十二機、彗星艦上爆撃機一一型十二機、天山艦上攻撃機一一型十二機)、「祥鳳」から坂本明大尉率いる三十六機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山十二機)、「海鳳」から松田真吾(まつだしんご)大尉率いる三十六機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山十二機)、「白鳳」から青井康平(あおいこうへい)大尉率いる三十六機(陣風一一型十二機、彗星十二機、天山十二機)の全艦合計百四十四機が発進した。

 

                 ※

 

 「大鳳」所属の陣風分隊長佐藤貴政(さとうたかまさ)大尉は、部下たちと共に敵機動部隊に向かっていた。

すると午前十時八分前方に直掩機が見えた。

「直掩機は、『大鳳』隊に任せてください」

 佐藤大尉は、「海鳳」分隊長の相生大尉に無線電話を使った。

「了解」

 相生大尉が答えた。

佐藤大尉は、増槽を落とすとバンクを振り列機に合図を出しながら攻撃態勢をとった。

それは、敵機も同じで高度差はこちらが優位だったため何とかその差を埋めようと上昇に転じた。

佐藤大尉は、それを見抜いてこちらも上昇に転じた。

 千馬力と二千馬力のエンジンを積んだ戦闘機の上昇力には、当然差が出て高度差は全く縮まらなかった。

そして陣風隊は、高高度から直掩隊に襲い掛かった。

佐藤大尉は、この攻撃で早くも一機を撃墜した。

そして返し刀のように上昇に転じると一機のF4Fの右翼に二十粍機銃を撃ちこんだ。

F4Fの右翼は、折れ火を噴き撃墜した。

直後背後にいたF4Fが機銃を撃ってきたが速度差があったため必中の間合いでは、なかった。

そのため機体に銃弾が当たることは、なかった。

そのF4Fは、僚機の岩嵜博信(いわさきひろのぶ)飛行兵曹長がロッテ戦術で後ろに回ると九九式二〇ミリ機銃を撃ちF4Fを火だるまにした。

 その間に彗星と天山は、敵空母に攻撃を行った。

佐藤大尉は、目の前で水平飛行するF4Fに後ろから近づくと二十粍固定機銃を撃った。

銃弾は、命中しF4Fは白煙を吐きながら墜落した。

横山大尉は、常に岩嵜飛曹長と自分の後方を気にしながら索敵を行った。

そしてエルロン・ロールしながら降下するとF4Fの後ろにつくと二十粍機銃をコックピット付近に命中させた。

F4Fは、白煙を吐きながらゆっくりと墜落した。

 彗星隊は、漸く空母に一発ずつの命中弾を得た。

天山隊も一発ずつ命中させた。

「全機集合」

 佐藤大尉は、部下に集合命令を出した。

すると続々と集まってきた。

彗星と天山には、多少撃墜されたものがいるらしいが陣風にはいない。

第一次攻撃隊は、帰艦していった。

 

                ※

 

 第十七任務部隊は、艦載機による攻撃を受けている最中の午前十時十二分オーストラリアから飛来したB-17爆撃機二機が「空母一隻、輸送船十、その他艦艇十六隻(MO攻略部隊)」の存在を発見し爆撃を行ったのち報告した。

直後にヨークタウン索敵機が帰還し先の「空母二隻、巡洋艦四隻」は、『巡洋艦二隻、駆逐艦四隻』の送信ミスによる誤報と判明した。

フレッチャー少将は、攻撃隊に目標をMO攻略部隊に変更するよう指示している。

 

                ※

 

 「大鳳」所属の市原辰雄大尉は、第二次攻撃隊を率いて敵機動部隊に向かっていた。

午前十時五十三分敵機動部隊が見えた。

 市原大尉は、信号弾を二発撃った。

直掩機は、第一次攻撃隊が撃滅したのか見渡す限り一機もいなかった。

そこで五航戦と七航戦は、空母を狙うことにした。

 先に彗星隊が空母に攻撃をしたが見る限り命中弾は、各一発のみだった。

(一航戦たちがいなくてよかった)

 市原大尉は、心の中で安堵した。

日本が世界に誇る一航戦と二航戦にこんな体たらくな戦いを見せたらバカにするに決まっている。

市原大尉は、気を引き締め魚雷だけでも多く命中させようと心に誓い操縦桿を強く握った。

「アメリカ空母、十八ノット」

  その空気を感じたのか磯野貞治飛行兵曹長の報告にもいつにもまして力を感じた。

「全機、命中させてくれ」

 市原大尉の願いは、敵空母の撃沈より全機命中を願った。

敵艦からの対空火器を横滑りで回避しながら魚雷を投下した。

そして機体を上昇させると空母の上空を通過した。

「命中一発」

 磯野飛曹長が絶望したように報告した。

(ダメだったか)

 この戦いで市原大尉は、いかに一航戦と二航戦の技量が高いかを思い知らされた。

この攻撃で片方の空母に一発、もう片方に四発で重巡洋艦一隻に一発が命中した。

 

                ※

 

 午前十一時母艦が攻撃されていることなどつい知らずアメリカ軍「レキシントン」の攻撃隊は「右舷に小さな艦橋がある大型の翔鶴型航空母艦」(『大鷹』の誤認)、重巡洋艦四隻、軽巡洋艦一もしくは駆逐艦一隻のMO攻略部隊を発見し祥鳳もアメリカ軍攻撃隊の接近を認めた。

上空には、旧式の九六式艦上戦闘機四機が直掩にあたっているだけだったが彼らはSBDドーントレス一機を撃墜した。

さらに空襲中に残りの九六式艦上戦闘機も発進させた。

 「ヨークタウン」急降下爆撃隊(VB-3)の指揮官マクスウェル・レスリー少佐もMO攻略部隊を発見した。

艦隊は、すでに先行していた「レキシントン」爆撃隊(VB-2)が攻撃をしかけたようだ。

クロードは、「ヨークタウン」戦闘機隊(VF-3)の妨害でこちらには攻撃できない状態だ。

この隙をついて敵空母を沈めようと決断した。

「『スワロー・リーダー』より全機、敵空母に集中しろ」

 マクスウェル少佐は、左主翼の付け根に目標を重ねエンジン・スロットルを絞った。

空母から無数の火箭が向かってきて自機に近くでは、高角砲の紅蓮の花が咲いていた。

しかしSBDドーントレスは、このような対空火器に対し充分な防弾装備があるためそう簡単に撃墜することはない。

マクスウェル少佐は、この機体を充分信頼しながら急降下を続けていた。

「食らえ」

 マクスウェル少佐は、そういうと胴体下部に抱えていた千ポンド爆弾と両翼に抱えていた百ポンド爆弾を切り離すと急上昇に移った。

「爆弾、全弾命中」

 偵察員のトニー・エイバー中尉の弾んだ声がレシーバーから響いてきた。

 

                 ※

 

 MO機動部隊旗艦「大鳳」の艦橋には、戦果が報告され司令部は歓喜に満ち溢れた。

「敵に発見される前に敵空母を撃滅できた。

第三次攻撃隊を出そう。

敵を徹底的につぶすぞ」

 高木武雄少将の提案に幕僚の皆が異論を出さなかった。

「失礼します」

 そこに通信室に詰めていた通信参謀の寺内祥(てらうちしょう)中佐が電文の綴りを持って顔面蒼白しながら入室した。

「どうした?」

 海戦の勝利に酔いしれていた原忠一少将は、能天気に質問した。

「『秋雲』より入電。

『大鷹』が撃沈しました」

 「大鷹」は、爆弾十三発・魚雷七本が命中し午前九時三十一分に沈没した。

直掩戦闘機は、全機が行方不明となった。

 寺内中佐の報告で艦橋の空気は、一気に悲しみに変わった。

自分たちは、空母を敵より先に発見し攻撃することに成功したが囮の役割をしていた「大鷹」を救うことができなかった。

「第三次攻撃は、中止。

第二次攻撃隊の収容を完了次第MO機動部隊は、MO攻略部隊に合流し戦略目的達成の援護を行う」

 高木少将が決断した。

幕僚の中には、異議を唱えたい者もいたが胸の内にしまった。

「了解」

 艦隊は、MO攻略部隊に合流準備に入った。

 

                 ※

 

 日本の攻撃隊が去った後レキシントンの火災も大部分が鎮火して傾斜復元に成功し直衛戦闘機隊・艦爆隊の着艦・補給・発艦を開始した。

雷撃された「ミネアポリス」も同じだった。

しかし「ヨークタウン」は、多数の爆弾と魚雷によって燃え盛る鉄の塊と化してしまい手の施しようがなかった。

キンケイド少将は、「ニューオーリンズ」に移乗し「ヨークタウン」の自沈処分を命じた。

駆逐艦や重巡洋艦が砲雷を行ったがなかなか沈まず漸く沈み始めた。

 その時「レキシントン」の艦内に充満していた気化ガソリンが発電機か電気のスパークによって引火・爆発が発生した。

配電盤が故障して通信機能が麻痺し続いて応急指揮所が全滅した。

5インチ砲弾弾薬庫が誘爆した。

この戦いでアメリカ軍は、二隻の空母を一挙に失った。

 

                 ※

 

 MO攻略部隊は、MO機動部隊に護衛されながらポートモレスビーに無事上陸し同島の制圧に成功した。

日本側は、戦術的・戦略的にも勝利を収めた。

 この海戦の戦果は、

撃沈

空母 「ヨークタウン」、「レキシントン」

 

中破

重巡洋艦 「ミネアポリス」

 

損失

撃沈

空母 「大鷹」

 

航空機 四十機(ただし陸上攻撃機、水上偵察機および飛行艇は含めず)




帰省したりなんだかんだでこんなに遅くなってしまいました。


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第三話 激浪

ここから史実とガラッと変わります。


            第一章 ミッドウェー海戦

 

 ミッドウェー作戦構想は、ミッドウェー島を攻略することによりアメリカ艦隊ー特に空母機動部隊を誘い出して捕捉撃滅することに主眼が置かれた。

日本軍がアメリカ軍の要点であるミッドウェー島を占領した場合軍事上・国内政治上からアメリカ軍は、これを全力で奪回しようとすることは明白であり現時点で豪州方面で活動している米空母部隊もミッドウェー近海に出撃する確率は高いと日本海軍は計算していた。

日本軍は、情報分析の結果アメリカ軍の空母戦力を以下のように推定した。

1.空母レンジャーは大西洋で活動中。

2.捕虜の供述によれば「レキシントン」と「ヨークタウン」は、撃沈された。

3.「エンタープライズ」と「ホーネット」は、太平洋に存在。

4.「ワスプ」の太平洋への存否については、確証を得ない。

5.特設空母は、六隻程度完成し半数は太平洋方面に存在の可能性があるも低速なので積極的作戦には使用し得ない。

これをふまえ日本軍は、ミッドウェー攻撃を行った場合に出現するアメリカ軍規模を「空母二-三隻、特設空母二-三隻、戦艦二隻、甲巡洋艦四-五隻、乙巡洋艦三-四隻、軽巡洋艦4隻、駆逐艦三十隻、潜水艦二十五隻」と判断した。

アメリカ軍がミッドウェー島に海兵隊を配備し砲台を設置して防衛力を高めていることも察知していたがその戦力は「飛行艇二十四機、戦闘機十一、爆撃機十二、海兵隊七百五十、砲台二十前後」または「哨戒飛行艇二コ中隊、陸軍爆撃機一乃至二中隊、戦闘機二コ中隊」であり状況によってはハワイから「飛行艇六十機、爆撃機百機、戦闘機二百機」の増強もありえると推測している。

同島占領の際には、アメリカ軍基地航空隊から空襲を受けることを想定していたが直掩の陣風と対空砲火で排除できるとしている。

日本軍が海兵隊三千名と航空機百五十機というミッドウェー島の本当の戦力を知るのは、海戦後の捕虜の尋問結果からだった。

日本海軍は、ミッドウェー島を占領してからの維持は極めて困難であると考えていた。

あくまでこの作戦は、米空母を誘い出して撃滅することを目的としさらに占領後には他方面で攻勢を行いアメリカ軍にミッドウェー奪回の余裕を与えなければ十月のハワイ攻略作戦までミッドウェー島を確保できると考えた。

大本営(参謀本部・軍令部)と連合艦隊司令部は、この作戦について激しく対立した。

軍令部は、日本の国力からみてハワイ諸島の攻略と維持など不可能と判断しFS作戦を構想していた。

軍令部航空担当部員の三代辰吉中佐は、「仮に日本軍がミッドウェー島を占領しても艦隊は本当に出現するのか。

日本軍の補給路がアメリカ軍に遮断され疲弊した所を簡単に奪回されるだけではないか」という点を考慮して反対しFS作戦(ニューカレドニア島とフィジー諸島の攻略)を重視する立場を崩さなかった。

連合艦隊司令部の黒島参謀と渡辺安次参謀は、山本長官が「この作戦が認められないのであれば司令長官の職を辞する」との固い決意を持っているとして軍令部と折衝した。

だがこの論法は、真珠湾攻撃の際にも使用されていた事もあって今度は容易には通用せず交渉は暗礁に乗り上げた。

大本営海軍部との交渉に見込みなしと判断した渡邉参謀は、伊藤整一軍令部次長に直接連合艦隊のミッドウェー作戦案を説明し山本長官の意向を伝えた。

伊藤次長は、これをふまえてさらに審議を行いFS作戦に修正を加え連合艦隊の作戦案を採用することを四月五日に内定し永野修身軍令部総長の認可も得てミッドウェー島の占領および米空母部隊の捕捉撃滅を狙うこととなった。

作戦は、ミッドウェー島上陸日(N日)を六月七日と決定して一切を計画した。

上陸用舟艇で敵のリーフを越えて上陸するため下弦月が月出する午前零時を選んだ。

七月は、霧が多く上陸が困難なため六月七日に固定した。

上陸作戦の制空と防備破壊は、三日前に塚原艦隊が空母八隻で奇襲することで可能と考えた。

連合艦隊は、奇襲の成功を前提にしておりアメリカが日本の企図を察知して機動部隊をミッドウェー基地の近辺に用意することは考慮していなかった。

米機動部隊の反撃は、望むところであったが米機動部隊は真珠湾にあってミッドウェー基地攻撃後に現れることを前提に作戦を計画した。

 千九百四十二年四月十八日空母「ホーネット」は、ミッドウェーで「エンタープライズ」と合流し第十六任務部隊は日本に向けて進撃した。

「エンタープライズ」は航空支援をホーネットは日本本土に接近しジミー・ドーリットル中佐率いるB-25ミッチェル双発爆撃機で編成された爆撃隊を輸送する役割分担である。

爆撃隊は、「ホーネット」から発進後東京を筆頭に日本の主要都市を攻撃する予定であった。

第十六任務部隊は、四月十八日の朝に犬吠埼東方で特設監視艇第二十三日東丸に発見されウィリアム・ハルゼー中将は予定より早い攻撃隊発艦を決意する。

爆撃隊は、前日に発艦準備を整えていたが40ノットを超える強風と30フィートに及ぶ波が激しいうねりとなりホーネットは大きく揺れていた。

その中でドーリットル隊は、発進し九時二十分までに十六機のB-25は全て発艦した。

B-25爆撃隊は東京、名古屋、大阪を十二時間かけて散発的に爆撃し中国大陸に脱出後不時着放棄された。

セイロン沖海戦で勝利した塚原機動部隊は、台湾沖で第十六任務部隊追撃命令を受けたが距離が遠すぎたため断念した。

空襲による被害は、微小であったが日本本土上空にアメリカ軍機の侵入を許してしまったことは日本に大きな衝撃を与えた。

またアメリカ軍が航続距離の長い双発爆撃機を用いたために対応策が考えられず陸海軍は、より大きな衝撃を受けることとなった。

国民の間でも不安が広がりしばらく敵機来襲の誤報が続き山本長官にも国民からの非難の投書があった。

山本長官は、以前から本土空襲による物質的精神的な影響を重視していたためすでに内定していたミッドウェー攻略作戦の必要をこの空襲で一層感じた。

連合艦隊航空参謀佐々木彰によれば山本長官は、わが空母によるハワイ奇襲が企図できるのであるから哨戒兵力の不十分なわが本土に対しても彼もまた奇襲を企図できると考えていたようであるという。

この空襲により日本陸軍もミッドウェー作戦を重大視するようになり陸軍兵力の派遣に同意しミッドウェー作戦は日本陸海軍の総攻撃に発展した。

淵田美津雄は、昭和天皇の住む東京を爆撃されたことで山本長官のプライドが傷つき航空哨戒線を築くことで東京に対する二度目の米機動部隊襲撃を阻止する狙いがあったと推測している。

 山本長官の意気込みとは、反対に四月下旬に日本本土に戻った第七艦隊は問題を抱えていた。

開戦以来ドック入り長期休暇もなく太平洋を奔走したため艦・人員とも疲労がたまっていた。

さらに「相当広範囲の転出入」という人事異動のため艦艇と航空部隊双方の技量が低下していた。

ミッドウェー海戦後の戦闘詳報では、「各科共訓練の域を出ず特に新搭乗員は、昼間の着艦可能なる程度」と評している。

雷撃隊は、「この技量のものが珊瑚海に於いて斯くの如き戦果を収めたるは不思議なり」と講評される程度だった。

水平爆撃と急降下爆撃は、満足な訓練ができず戦闘機隊は基礎訓練のみで編隊訓練は旧搭乗員の一部が行っただけだった。

着艦訓練は、訓練使用可能空母が「翔鶴」のみだけだった為新人搭乗員の訓練が優先されベテラン搭乗員でも薄暮着艦訓練を行った者は半分程度であった。

戦闘詳報は、「敵情に関しては殆ど得る所なく特に敵空母の現存数およびその所在は最後まで不明なりや。

要するに各艦各飛行機とも訓練不十分にして且つ敵情不明情況に於いて作戦に参加せり」と述べている。

軍令部で説明を受けた一航艦参謀長の草鹿龍之介と第二艦隊参謀長の白石萬隆は、ドーリットル空襲の騒ぎの直後であり敵機動部隊来襲を未然に防ぐためという先入観から主目的を敵機動部隊撃破で副目的をミッドウェー基地攻略と解釈した。

さらに四月二十八日から一週間かけて戦艦「長門」で行われた「連合艦隊第一段階作戦戦訓研究会」と「第二段作戦図上演習」では、日本軍にとって不安な結果が出た。

この図上演習において、ミッドウェー攻略作戦の最中に米空母部隊が出現し艦隊戦闘が行われ日本の空母に大被害が出て攻略作戦続行が難しい状況となった。

審判をやり直して被害を減らして空母を三隻残して続行させた。

空母「瑞鶴」は、爆弾九発命中判定で沈没判定となり宇垣纏連合艦隊参謀長は「九発命中は、多すぎる」として爆弾命中三発に修正させ「瑞鶴」を復活させた。

攻略は、成功したが計画より一週間遅れ艦艇の燃料が足りなくなり一部駆逐艦は座礁した。

宇垣は、「連合艦隊はこのようにならないように作戦を指導する」と明言した。

また米機動部隊がハワイから出撃してくる可能性はあったが図上演習でアメリカ軍を担当した松田千秋大佐が出撃させることは、なかった。

戦訓分科研究会において宇垣参謀長は、草鹿参謀長に対し「敵に先制空襲を受けたる場合或は陸上攻撃の際敵海上部隊より側面をたたかれたる場合如何にする」と尋ねると草鹿参謀長は「かかる事無き様処理する」と答えたため宇垣参謀長が草鹿参謀長を追及すると源田が「艦攻に増槽を付したる偵察機を四五〇浬程度まで伸ばし得るもの近く二、三機配当せらるるを以てこれと巡洋艦の九八式水偵を使用して側面哨戒に当らしむ。

敵に先ぜられたる場合は、現に上空にある戦闘機の外全く策無し」と答えた。

そのため宇垣参謀長は、注意喚起を続け作戦打ち合わせ前に「第七艦隊は、ミッドウェー攻撃を二段攻撃とし第二次は敵に備える」と決まった。

米機動部隊が現れた際に反撃するために半数は、魚雷装備となったが黒島亀人首席参謀は命令として書き込む必要はないと航空参謀佐々木彰に指示した。

第二艦隊長官近藤信竹中将は、米空母がほぼ無傷で残っておりミッドウェー基地にも敵戦力があることからミッドウェー作戦を中止して米豪遮断に集中すべきと反対した。

しかし山本長官は、奇襲が成功すれば負けないと答えた。

また近藤中将は、ミッドウェー島を占領しても補給が続かないと言ったが宇垣参謀長は不可能なら守備隊は施設を破壊して撤退すると答え攻略後の保持と補給には考えがなかった。

源田は、兵力が分散し過ぎて目標を見失っており集中という兵術の原則にも反していると感じたため図上演習後の研究会で連合艦隊参謀黒島亀人に「作戦の重点をアメリカ艦隊撃滅に置くべきである」と主張したが黒島は「連合艦隊長官は、一度決めた方針に邪魔が入ることを望まれない。

機動部隊の主要任務は、ミッドウェー攻略支援だ」と答えたためアメリカ艦隊撃滅は二次的なものと源田は受け止めた。

図上演習と研究会は、ミッドウェー作戦の目的である敵空母捕捉撃滅が難しく高いリスクを伴う作戦であることを示したが連合艦隊は問題点を確認することなく作戦を発動した。

特に山本長官は、「本作戦に異議のある艦長は早速退艦せよ」と強く訓示している。

戦後草鹿は、作戦目標があいまいでミッドウェー攻略が優先であったことを指摘し「二兎を追うことになった」と表現している。

また源田実も作戦目標がアメリカ軍機動部隊の撃滅かミッドウェー基地攻略なのか曖昧であったとし戦略戦術からいってどうにも納得できない部分があったという。

古村啓蔵(筑摩艦長)は、同期の富岡定俊軍令部作戦課長から艦隊はミッドウェー攻略成功後にトラックに集合・米豪遮断のFS作戦実施予定と聞き驚いていたという。

五月二十五日最後の図上演習が行われたがミッドウェー攻略後の日から始まっており成功が前提で奇襲失敗や米機動部隊の出撃は、全く考慮されていなかった。

 

                    ※

 

 千九百四十二年五月二十八日アメリカ海軍太平洋艦隊司令長官発の作戦計画に従い「エンタープライズ」、「ホーネット」を基幹とする第十六任務部隊(TF-16)が真珠湾を出撃し続いて五月三十日には第十七任務部隊(TF-17)も基幹となる「ワスプ」と合流し真珠湾を出撃した。

各任務部隊は、ミッドウェー島へ襲い来る日本軍と戦い作戦計画において死守命令を受けたミッドウェー島守備隊を助けるべく一路ミッドウェー島を目指した。

 

 

                    ※

 

 千九百四十二年(昭和十七年)五月二十七日(海軍記念日)塚原二四三海軍中将率いる第一航空戦隊(『翔鶴』、『瑞鶴』)、第二航空戦隊(『飛龍』、『蒼龍』)、第六航空戦隊(『龍鳳』、『瑞鳳』)を中心とする第七艦隊が広島湾柱島から厳重な無線封止を実施しつつ出撃した。

その戦力は

第七艦隊 司令官:塚原二四三中将

第一航空戦隊 司令官:塚原二四三中将

航空母艦:「翔鶴」、「瑞鶴」

第二航空戦隊 司令官:山口多聞少将

航空母艦:「黒龍」、「蒼龍」

第六航空戦隊 司令官:近藤英次郎少将

航空母艦:「龍鳳」、「瑞鳳」

第三戦隊 司令長官:三川軍一中将

戦艦:「甲斐」、「山城」

第八戦隊 司令官:阿部弘毅少将

重巡洋艦:「利根」、「筑摩」

第四水雷戦隊 司令官:西村祥治少将 軽巡洋艦:「川内」

第二駆逐隊 司令官 橘正雄大佐

駆逐艦:「村雨」、「夕立」、「春雨」、「五月雨」

第四駆逐隊 司令官:有賀幸作大佐

駆逐艦:「嵐」、「萩風」、「野分」、「舞風」

第九駆逐隊 司令官:佐藤康夫大佐

駆逐艦:「朝雲」、「山雲」、「夏雲」、「峯雲」

油槽艦:「東邦丸」、「極東丸」、「日本丸」、「国洋丸」、「神国丸」、「日朗丸」、「豊光丸」、「第二共栄丸」

 

第八戦隊 司令官:栗田健男中将

重巡洋艦:「天城」、「赤城」、「葛城」、「笠置」

第八駆逐隊 司令:小川莚喜大佐

駆逐艦:「朝潮」、「荒潮」

第二水雷戦隊 司令官:田中頼三少将 軽巡洋艦:「三隈」

第十五駆逐隊 司令:佐藤寅治郎大佐

駆逐艦:「親潮」、「黒潮」

第十六駆逐隊 司令:渋谷紫郎大佐

駆逐艦:「川霧」、「青雲」、「紅雲」、「春雲」

第十八駆逐隊 司令:宮坂義登大佐

駆逐艦:「不知火」、「霞」、「陽炎」、「霰」

哨戒艇:哨戒艇一号、二号、三十四号

油槽艦:「あけぼの丸」

駆逐艦:「早潮」

哨戒艇:第三十五号哨戒艇

工作船:「明石」

ミッドウェー諸島占領隊 輸送船十八隻(『清澄丸』、『ぶらじる丸』、『あるぜんちな丸』、『北陸丸』、『吾妻丸』、『霧島丸』、『第二東亜丸』、『鹿野丸』、『明陽丸』、『山福丸』、『南海丸』、『善洋丸』 )

油槽艦:「日栄丸」

第二連合特別陸戦隊 司令官:大田実(海軍)大佐

横五特(横須賀第五特別陸戦隊)、呉五特、第一一設営隊、第一二設営隊、第四測量隊

である。

第七艦隊旗艦「翔鶴」の艦橋にあるラジオからは、軍艦マーチが流れっぱなしだった。

「ラジオは、朝から軍艦マーチをかけっぱなしだ」

 草鹿龍之介参謀長もこう朝から軍艦マーチを聞き続けると飽きてきた。

「俺たちへの贈り物さ」

 これに源田実航空甲参謀が必勝を願う国民からの応援だと感じていた。

「全くその通りだ。

どうせ勝つに決まってる」

 草鹿参謀長が源田参謀の肩に手を乗せると二人で笑いあった。

塚原二四三司令官もその光景に微笑んでいた。

 搭乗員待機室では、陣風のパイロットたちと報道班員が話し合っていた。

「報道班員さん、どうだ。

俺と一緒に陣風に乗ってみないか?」

 パイロットの一人が報道班員に二人乗りしないか誘った。

「でも陣風は、一人乗りでしょ?」

 彗星や天山ならまだしも陣風は、一人乗りなので二人乗りは無理だと思った。

「平気、平気。

座席の後ろに座布団をしいて座るんだよ」

 パイロットが自分のアイディアを言った。

「大丈夫ですかね?」

 報道班員は、不安で仕方なかった。

「大丈夫さ。

グラマンより速いし二十粍機銃があるんだ。

真珠湾の腕前を見せたかったぜ」

 パイロットは、真珠湾奇襲時に報道班員に自分の技量を見せられなかったことを後悔していた。

「敵の空母は、まだ出ないのかな?」

 別のパイロットが能天気にそんなことを言った。

「いやいや、出てこなかったらもう一度真珠湾を叩けばいい」

 この時第七艦隊の油断は、乗員全員に広まっていた。

 三和義勇(連合艦隊作戦参謀)は、『今は、唯よき敵に逢はしめ給えと神に祈るのみ。

敵は、豪州近海に兵力を集中せる疑あり。

かくては、大決戦は出来ず。

我は、これを恐れる』と述べ『長官から兵にいたるまで誰一人として勝利についていささかの疑問をいだく者はいない。

戦わずして敵に勝つの概ありと言うべきか』と日記にしたためている。

宇垣参謀長は、アメリカ軍の無線交信が増えたことを気にして『日本軍輸送船団が察知されたのではないか』と疑ったがそれ以上の手を打つことはなく戦後日記を分析した千早正隆は、「これ以上なく悔やまれる」と述べている。

五月二十八日ミッドウェー島占領部隊輸送船団が駆逐艦「親潮」と「黒潮」と共にサイパンを出航した。

海軍陸戦隊(太田実海軍少将)と設営部隊、陸軍からは一木清直陸軍大佐率いる陸軍一木支隊が乗船していた。

船団は、第二水雷戦隊(旗艦 軽巡洋艦『三隈』)他に護衛され北上した。

作戦では、日本側の事前索敵計画として六月二日までに二個潜水戦隊をもって哨戒線を構築する予定だった。

しかし担当する第六艦隊(潜水戦隊で構成された艦隊)で長距離哨戒任務に適した三個潜水戦隊の内第二潜水戦隊はインド洋での通商破壊戦後の整備中、第八潜水戦隊は豪州・アフリカでの作戦任務中、第一潜水戦隊は北方作戦に充てられる事になった為どれも作戦には投入できなかった。

このため「海大型」で構成される第三・五潜水戦隊が担当する事になったが五潜戦は、日本からクェゼリンへの回航途上で(第六艦隊に作戦が通知された五月十九日時点)予定期日に間に合うのは不可能で三潜戦も所属の潜水艦の内三隻が第二次K作戦に充てられた為両隊あわせて九隻の潜水艦が予定配置についたのは六月四日になってしまった。

特に第十六任務部隊が六月二日に五潜戦の担当海域を通過しており本作戦における大きな禍根になった。

次に予定されていたのは、第二十四航空戦隊によるミッドウェー周辺への航空索敵である。

これは、九八式飛行艇によるウェーク島を経由した索敵計画であったがウェーク環礁が九八式飛行艇を運用するには浅すぎ経由地がウォッゼ環礁に変更された結果ミッドウェー全海域の索敵が不可能となった。

更にパイロットの技量不足で夜間着水が困難であることから薄暮までには、ウォッゼ環礁に帰還する必要があったので肝心な北方海域哨戒(五月三十一日)が短縮された。

これにより結局米艦隊を発見する事は出来なかった。

仮に予定通り北方海域を哨戒していたら米艦隊を発見できた確率は、非常に高かった。

最後に計画され連合艦隊が最も重視した第二次K作戦は、オアフ島西北西四百八十海里にあるフレンチフリゲート礁で潜水艦の補給を受けた二十四航戦の九八式飛行艇によるオアフ島の航空索敵である。

第一次は、三月に実施しさらに九八式飛行艇によるハワイ空襲時にもフレンチフリゲート礁は使用された。

しかしアメリカ軍は、日本軍の作戦を暗号解読で察知すると海域一帯に警戒艦艇を配置して封鎖した。

潜入した伊百二十三は、「見込み無し」という報告を送った。

これを受け第十一航空艦隊は、五月三十一日二十一時二十三分に作戦中止を二十四航戦に指示した。

この作戦ももし実施されていたらオアフ島には、米空母がいないことが判明し以後の作戦が大きく変わった可能性が高かった。

さらに塚原機動部隊にも作戦中止を連絡しなかった。

六月三日午後総旗艦「長門」にて連合艦隊司令部敵信班は、ミッドウェー島付近で敵空母らしい呼び出し符号を傍受した。

連合艦隊首席参謀黒島亀人によれば4日頃に(大本営からの連絡又は通信傍受で)ミッドウェーに機動部隊がいる兆候をつかみ山本長官は、第七艦隊に知らせるかと尋ねたが黒島は無線封止の優先し第六航空戦隊が搭載機の全機が陣風であるため反撃に備えていることと機動部隊も兆候をつかんだであろうことから知らせないように具申した。

連合艦隊参謀佐々木彰によれば四日に通信呼出符号を傍受したという。

回虫から来る腹痛に悩まされていた山本だが直ちに第七艦隊に通報するよう参謀に伝えた。

だが「無線封鎖を破れば敵に位置を知られる」「第七艦隊も同じく傍受したはず」という判断から見送られた。

しかし第七艦隊は、傍受しておらず予定通りに作戦を続けた。

この件を取材した亀井宏によれば黒島参謀を含めて連合艦隊、軍令部、第六艦隊、全員の証言が一致しなかったという。

土井美二(第八戦隊首席参謀)は、草鹿龍之介参謀長が「空母は、マストが低くて敵信傍受が期待できない。

怪しい徴候をつかんだらくれぐれも頼む」と出撃前に何度も確認していたと証言し草鹿の回顧録にも同様の記述がある。

日本時間六月三日午前十時三十分第七艦隊は深い霧の中で混乱し旗艦「翔鶴」は「飛龍」、「蒼龍」、「甲斐」、「山城」の艦影を見失った。

そんな中源田参謀が体調を崩してしまった。

「おい、大丈夫か?」

 草鹿参謀長が心配して声をかけた。

「少し熱っぽいですが大丈夫でしょう」

 源田参謀は、皆に心配させまいと気丈夫にふるまった。

「肺炎でも起こした大変だな」

 塚原司令官が最悪の事態を予想した。

「総隊長が病気で寝込んでいるのに自分まで寝込んでいたら申し訳ないですから」

 源田参謀は、心配し過ぎだといった。

「分かった」

 二人は、それ以上心配しなかった。

「敵の目をごまかすには、いい霧だ。

出てくるかな?」

 塚原司令官は、敵空母が出てくるかが心配だった。

「まず出てこないでしょう」

 源田参謀が自分の意見を言った。

「今度は、敵も警戒してると見える。

しかしこれだけ大きな作戦にも関わらず作戦投入されたのがわが第七艦隊だけとは、どうも面白くないな」

 塚原司令官が連合艦隊主力隊が内地にいるのが気に食わなかった。

「敵に襲われたら裸で戦わなくては、ならない」

 草鹿参謀長が護衛艦の少なさを嘆いた。

「戦艦なんて足手まといになるだけです。

この部隊のパイロットは、真珠湾以来の歴戦の猛者揃いです。

今度も奇襲は、やれます」

 源田参謀が力説した。

「飛龍」と「蒼龍」は、衝突しかけたため司令部では無電を使用するかどうか議論があったが長波無電を使用して艦隊の針路を定めた。

 無線の使用によりアメリカ軍が第七艦隊の行動を察知したという説が日本側にあるがアメリカ軍側にこの通信を傍受した記録は、ない。

六月四日午前三時三十七分第七艦隊は、補給隊と駆逐艦「村雨」を分離した。

午前十時二十五分塚原司令部は、各艦に「敵情に応じ行動に変更あるやも知れず」とし制空隊の集合や収容に注意するよう通達を出している。

午後四時三十分「翔鶴」と「利根」がアメリカ軍機らしき機影を発見すると「龍鳳」から四機の陣風が発進して迎撃に向かった。

塚原機動部隊は、誤認の可能性が高いと判断している。

 

                    ※

 

 第十六任務部隊では、司令官レイモンド・スプルーアンス少将がウィリアム・ハルゼー・ジュニア中将の代わりに指揮を執っていた。

スプルーアンス司令官は、進行方向の地平線を眺めていた。

「敵機動部隊のその後の情報は?」

 スプルーアンス司令官は、参謀に質問した。

「確実な位置は、まだわかりません」

 参謀がまだ敵の位置が分かってないと報告した。

「空母隊空母は、先に敵を攻撃した方が勝つ」

 スプルーアンス司令官も先手必勝が勝利をつかむ唯一の方法だと思っていた。

「北から北西の哨戒に重点を置いております」

 参謀が哨戒方向を報告した。

「敵に知られないように北東より奇襲をかける」

 スプルーアンス司令官が作戦を言った。

「真珠湾の仕返しですね」

 参謀がスプルーアンス司令官の胸の内を悟った。

 

                    ※

 

 アメリカ軍は、五月三十日以降ミッドウェー島基地航空隊の三十二機のPBYカタリナ飛行艇による哨戒が行われていた。

六月二日フランク・J・フレッチャー少将の第十七任務部隊とレイモンド・スプルーアンス少将の第十六任務部隊がミッドウェー島の北東で合流しこの合流した機動部隊の指揮はフレッチャー少将がとることになった。

六月三日午前五時三十七分カタリナ飛行艇一機(ジャック・リード少尉機)が日本軍輸送船団と護衛の第二水雷戦隊を発見する。

午前九時七分ミッドウェー島から第七陸軍航空部隊分遣隊のB-17爆撃機九機(指揮官:ウォルター・スウィーニー中佐)が発進し攻撃に向った。

六月四日午後一時船団を発見したB-17部隊は爆撃を開始し戦艦、空母、輸送船など多数の艦艇撃破を報告した。

実際は、輸送船「あるぜんちな丸」と「霧島丸」が至近弾を受けたのみで損害も無かった。

午後六時七分オアフ島より増援されたPBYカタリナ飛行艇四機(指揮官:チャールズ・ヒッパード中尉)に魚雷を積んだ雷撃隊が出撃する。

午後九時五二分レーダーで船団を発見し雷撃を開始した。

夜間だった事で完全な奇襲になり輸送船「清澄丸」が機銃掃射され「あけぼの丸」に一本が命中し戦死者十一名が出たが両船とも航行に支障はなかった。

この時船団を護衛すべき第八戦隊(栗田健男少将)の重巡洋艦四隻(天城、赤城、葛城、笠置)は、船団を見失って離れた地点にいた。

これは、栗田少将のミスというより田中頼三少将(船団指揮官・第二水雷戦隊司令官)の判断により輸送船団が予定航路から北百浬地点を航行していたからである。

ミッドウェー基地からの艦隊発見の報を受け太平洋艦隊司令部は、B-17が攻撃した艦隊は敵主力機動部隊にあらずと判断し第十六・十七両任務部隊に日本軍機動部隊と間違えて攻撃に向わないよう緊急電を打った。

フレッチャー司令官も同じ判断を下し行動を行わなかった。

午後4時50分には、予想迎撃地点に向けて南西に進路を変更している。

この段階では、フレッチャーとスプルーアンスも塚原機動部隊の位置を把握していなかった。

 

                     ※

 

 第七艦隊は、ミッドウェー島攻撃準備を終えようとしていた。

司令官と幕僚は、見送り位置に立っていた。

「ミッドウェー攻略部隊が攻撃されました。

奇襲は、望めませんな」

 草鹿参謀長が塚原司令官に現状を報告した。

「電波が敵にキャッチされたのかもしれない」

 塚原司令官は、自分の判断を悔いた。

意気消沈していた所に虫垂炎の手術を終えたばかりの淵田美津雄中佐があがってきた。

「おい、寝てなくていいのか?」

 それに気づいた草鹿参謀長が肩を貸した。

だが淵田中佐は、病人とは思えない元気さで一人で皆の輪に入った。

「気が重くて寝てられない。

見物させてくれ」

 そういうと飛行甲板に並んだ本当は、自分が指揮するはずの攻撃隊を眺めた。

この時淵田中佐に代わって指揮するのは、友永丈市大尉だった。

「総隊長、無理しないで」

 源田参謀は、淵田中佐を心配した。

「哨戒機は、もう出たのか?」

 淵田中佐は、自分の体調より作戦がうまくいってるか心配だった。

「第一攻撃隊と一緒に出る」

 源田参謀が哨戒機の出撃予定時間を言った。

「一段作戦だな」

 淵田中佐は、作戦を理解した。

「いつもの通りさ」

 源田参謀がいつも通りだと言った。

「ミッドウェー島を攻撃中に哨戒機が敵艦隊を発見したらどうするんだ?」

 淵田中佐は、自軍がミッドウェー島を攻撃中に敵艦隊を攻撃可能か質問した。

「心配ない。

第二次攻撃隊が魚雷を抱いて待機してるさ」

 源田参謀がアメリカ機動部隊への対処法を言った。

 旗艦「翔鶴」の艦橋にある時計が攻撃開始時刻を指した。

「攻撃隊発進」

 塚原中将が攻撃隊の発進を命令した。

日本時間六月五日午前一時三十分第七艦隊は、ミッドウェー空襲隊(友永丈市大尉指揮:陣風艦上戦闘機四十四機、彗星艦上爆撃機三十三機、天山艦上攻撃機三十三機の合計百十機)を発進させた。

本来ならば淵田中佐が総指揮官として出撃するはずだったが淵田中佐は、虫垂炎による手術を行ったばかりなので出撃できない。

源田実航空参謀も風邪により熱を出していた。

日本軍は、「敵空母を基幹とする有力部隊附近海面に大挙行動と推定せず」という方針の元に攻撃を開始する。

田中少将の攻略部隊(第二水雷戦隊)がミッドウェー島に上陸する日は、六月七日と決定されており第七艦隊はそれまでにミッドウェー基地の戦闘力を奪わなければならなかった。

奇襲の成立が前提にあり空襲の攻撃主目標は地上・上空の飛行機、副目標が滑走路、航空施設、防空陣地であった。

源田実参謀によれば滑走路が副目標であるのは、支那事変の戦訓から長期間使用不能にすることが困難であるからまた艦爆が対空砲火による被害が大きいことも支那事変でわかっていたが命中率の良さから採用し800キロ爆弾は開戦後の経験から陸上攻撃に大きな効果があることが分かっていたため採用したという。

各空母からの発艦機数は「翔鶴」から陣風十六機、彗星艦爆十二機、天山艦攻十二機(八百番キログラム爆弾装備)、「瑞鶴」から陣風十六機、彗星艦爆十二機、天山艦攻十二機(八百キログラム爆弾装備)、「蒼龍」から陣風十四機、彗星艦爆九機、天山艦攻九機(八百キログラム爆弾装備)、「黒龍」から陣風十四機、彗星艦爆九機、天山艦攻九機(八百キログラム爆弾装備)である。

六空母に残った戦力は陣風百五十二機(『翔鶴』十六機、『瑞鶴』十六機、『龍鳳』六十機、『瑞鳳』六十機)、艦爆三十三(『翔鶴』十二機、『瑞鶴』十二機、『黒龍』九機、『蒼龍』九機)、艦攻三十三(『翔鶴』九機、『瑞鶴』九機、『黒龍』九機、『蒼龍』九機)であった。

一航戦の艦攻には、航空機用魚雷で二航戦の艦爆には二百五十キロの通常爆弾が装着され各空母格納庫で待機していた。

なお第六航空戦隊は、防空任務のため陣風のみを艦載していた。

 また偵察機として 「翔鶴」と「瑞鶴」から天山艦攻各三機と重巡洋艦「利根」、「筑摩」から九八式水上偵察機各二機と戦艦「甲斐」、「山城」から九四式水上偵察機各二機が発進した。

索敵機の発進は、日の出の三十分前午前一時三十分と定められていた。

だが第八戦隊司令官阿部弘毅少将の判断で「利根」は、対潜哨戒につく九四式水上偵察機の発艦が優先された。

このため筑摩機は、午前一時三十五分(第五索敵線)と午前一時三十八分(第六索敵線)に九八式水上偵察機が発進し午前一時五十分に対潜哨戒機が発進した。

「利根」は、午前一時三十八分に対潜哨戒機で午前一時四十二分(第三索敵線)と午前二時(第四索敵線)にそれぞれ水偵が発進した。

戦闘詳報には、「『利根、筑摩』とも出発著しく遅延す」「『筑摩』六号機は、天候不良のため午前三時三十五分に引き返せり」という記載がある。

「筑摩」の遅れは、機長兼飛行長の黒田信大尉によれば待機していたが艦長から発艦命令がなかったので催促したという。

艦長の古村啓蔵によれば発艦が遅れた理由は、思い出せないが催促されて判断し発艦させたという。

「利根」の遅れは、通信参謀矢島源太郎と飛行長武田春雄によれば射出機の故障は記憶になく大きく遅れた感じはなかったという。

第八戦隊首席参謀土井美二中佐によればなにか滑走車のピンが抜けた入らないで騒いでいた気がするという。

 最後に第六航空戦隊より陣風約一個大隊六十機が直掩のため出撃した。

この直掩隊は、爆撃機と雷撃機の多重攻撃に備え「龍鳳」隊は高度五千メートル付近を警戒し「瑞鳳」隊は高度二千メートル付近を警戒していた。

 そして第七艦隊は、針路を再びミッドウェー島に向け進撃を開始した。

午前二時二十分塚原長官より「敵情に変化なければ第二次攻撃は、第四編成(指揮官瑞鶴飛行隊長)をもって本日実施予定」という信号が送られた。

これは、米艦隊が出現しない事が明確になった時点で兵装を対地用に変更しミッドウェーを再空襲する事を予令として通知したものである。

仮に第二次攻撃隊が出撃すると第七艦隊に残された航空兵力は、第六航空戦隊の陣風を除いて零となるはずだった。

 午前二時十五分ごろアディ大尉が操縦するPBYカタリナ飛行艇は、日本軍九八式水上偵察機 (利根四号機)を発見し近くに日本艦隊がいると判断した大尉は付近を捜索した結果十五分後に第七艦隊を発見して「日本空母一、ミッドウェーの三百二十度、百五十浬」と平文で報告した。

日本側もPBY飛行艇を発見し警戒隊の軽巡洋艦「川内」から続けて戦艦「甲斐」から敵機発見の煙幕があがった。

第七艦隊は、直掩隊の陣風で迎撃しようとしたがアメリカ軍飛行艇は雲を利用して回避しつつ接触を続け陣風隊はとうとうアディ大尉のPBY飛行艇を撃墜できなかった。

午前二時四十分アディ大尉機と同じ針路を遅れて飛んでいたチェイス大尉のPBY飛行艇もミッドウェー空襲隊を発見・報告した。

アメリカ軍偵察機が第七艦隊発見を通報した無電は、ミッドウェー基地や第七艦隊などには傍受されたが第十六・十七任務部隊には混線したため内容が把握できなかった。

両部隊が内容を把握できたのは、PBYからの続報を元にして午前三時三分にミッドウェー基地が打電した平文の緊急電を傍受してからである。

この平文電報は、「翔鶴」でも傍受している。

 

                 ※

 

 空襲が予想されるミッドウェー基地では午前三時に迎撃の戦闘機二十六機(バッファロー二十機、ワイルドキャット六機)が出撃し続いてTBFアベンジャー雷撃機六機、B-26マローダー爆撃機四機、 SB2Uビンジゲーター急降下爆撃機十二機、SBDドーントレス急降下爆撃機十六機という混成攻撃隊が第七艦隊へ向けて発進した。

基地には、予備のSB2U五機及びSBD三機が残された。

午前四時七分ミッドウェー基地経由で日本軍空母発見の報告を受けたフレッチャー少将は、直ちに行動を開始すると「エンタープライズ」のスプルーアンスに対して攻撃を命令した。

アメリカ海軍の三空母は、直ちに出撃準備を開始しスプルーアンスは、「エンタープライズ」と「ホーネット」の攻撃隊発進を午前四時と指定した。

 

                 ※

 

 午前三時十六分澤村上飛曹は、第一攻撃隊に参加し彗星隊と天山隊の直掩の任務に就いていた。

この時間外は、薄暗かった。

しかし日本軍パイロットは、初等教育にて夜間に視力教育が行われ夜間でも視力が効くように訓練される。

これによって日本軍パイロットは、夜間でも敵機の姿が確認できた。

そのため上空にいた敵迎撃隊を発見することができた。

 岡島清熊大尉は、バンクを振り増槽を落とすと一気に上昇にうつった。

他の機体もそれに倣ったが一航戦の陣風隊は、そのままだった。

どうやら別働隊の攻撃に備えて動かないつもりのようだ。

敵機の機種までは、不明だったがその機体はまっすぐ先行する友永隊に上空から機首を向けていた。

させるものかと二航戦の陣風隊は、さらに上空に陣取りその編隊に向けて機首を向けていた。

後は、隊長機からの突撃命令あるのみだった。

「突撃開始」

 岡島大尉からの命令だった。

その瞬間陣風隊は、闇夜にまぎれる敵機に突撃した。

刹那近くで閃光弾が光った。

この時澤村は、友永大尉が敵機を発見したためそれを僚機に伝えるために閃光弾を使ったと思ったが実際はカタリナ飛行艇の吊光弾の投下だった。

陣風隊は、機銃を撃った。

直撃を受けた数十機が墜落した。

攻撃を受けなかった数機は、急降下で遁走した。

澤村は、この照明弾で敵機種が分かった。

一方がF2Aでもう一方がF4Fだ。

 横山勝一飛兵が急降下に移り遅れた一機のF2Aに機首にある九八式二十粍固定機銃を撃った。

火箭は、F2Aの尾部付近に命中して炸裂した。

この九八式二十粍固定機銃には、九九式二〇粍機銃同様炸裂弾が使用されているため九七式一二・七粍固定機銃よりはるかに破壊力が向上した。

そのため尾部付近に命中に命中されたF2Aは、尾部を失いそのまままっさかさまに墜落した。

澤村は、その戦果を見届けると戦場全体を見渡した。

すると敵迎撃隊の数は、ほぼなかった。

 アメリカ軍の妨害を排除した日本軍攻撃隊は、午前三時三十分から午前四時十分にかけて空襲を実施した。

映像撮影のため派遣されていた映画監督のジョン・フォードなどが見守る中重油タンクや水上機格納庫、戦闘指揮所、発電所、一部の対空砲台を破壊し基地施設に打撃を与えたが滑走路の損傷は小さく死傷者も二十名と少なかった。

彗星艦爆の搭乗員は、飛行機のない滑走路を爆撃して虚しい思いをしたと回想している。

 友永大尉は、攻撃の効果が薄いと感じた。

「おい、『翔鶴』長官に連絡だ。

第二次攻撃の用意」

 友永大尉は、水木徳信上等飛行兵曹に命令した。

「無線機が壊れてます」

 水木上飛曹が無線機で電文を送ろうとしたが無線機は、故障していた。

「バカ。

貴様の責任だ。

直せ」

 友永大尉は、無線機の修理を命じた。

水木上飛曹が無線機のパネルをとると銃弾が食い込んでいた。

水木上飛曹は、その銃弾を手に取ったがまだ熱くすぐに放り投げた。

「仕方ない。

二番機に頼め」

 友永大尉は、自機での通信を諦め小型黒板を通じて二番機に中継代行をさせた。

 

                 ※

 

 第十六任務部隊の旗艦「エンタープライズ」の艦橋では、スプルーアンスと幕僚が作戦会議を開いていた。

「敵の全飛行機数は、約二百五十。

パイロットも優秀だ。

このゲームに勝つただ一つの方法は」

 スプルーアンスは、この海戦の勝利方法を言おうとした。

「敵がミッドウェーを攻撃して空母に戻るとき」

 参謀の一人がそういった。

「その通りだ」

 スプルーアンスは、力強くうなづいた。

「敵は、ミッドウェーから二百八十キロメートルの位置にいます。

午前三時四十分現在二十五ノットで前進しています。

今攻撃隊を発進させれば味方の攻撃機は、二百七十キロメートル飛ぶだけで敵の空母が攻撃隊を収容する際を狙える。

黄金のチャンスをつかめるのです」

 参謀は、作戦海域地図に定規と鉛筆で敵空母の動きと味方攻撃隊の動きを書いた。

「ミッドウェーのわが陸上機が先に攻撃してくれれば奇襲は、成功する」

 スプルーアンスの言葉に参謀もうなづいた。

「最高のゲームには、最高のタイミングが必要です」

 幕僚の皆は、タイミングが少し狂えばこちらが敗北すると感じていた。

「つかむんだ。

奇襲の時。

黄金のチャンスを」

 しかしスプルーアンスは、弱気ではなかった。

「全力投球します、閣下」

 幕僚の皆は、そんなスプルーアンスの姿に勇気づけられた。

 

                  ※

 

 ミッドウェー基地攻撃中の午前三時四十九分「筑摩」の四号機が天候不良のため引き返すと報告(受信午前三時五十五分)した。

午前三時五十五分「利根」の一号機から「敵十五機わが艦隊に向け移動中」という報告を受けた。

アメリカ軍側の記録によれば「ヨークタウン」から発進した十機の索敵機である。

 

                 ※

 

 友永大尉の電文は、「翔鶴」で確認された。

「第一次攻撃隊より無電が入りました。

『我、攻撃終了。

帰途ニ就ク。

第二次攻撃ノ要アリ』」

 塚原司令官は、難しい表情をした。

日本軍空襲隊(友永隊)がミッドウェー島を攻撃していたころ第七艦隊は、「〇四〇〇に至り敵第一次攻撃ありその後〇七三〇頃迄殆ど連続執拗なる敵機の襲撃を受ける」というようにアメリカ軍機の継続的な空襲に悩まされていた。

午前四時五分重巡洋艦「利根」は、アメリカ軍重爆撃機十機を発見する。

アメリカ軍攻撃隊の正体は、ミッドウェー基地から発進したTBFアベンジャー雷撃機六機(フィバリング大尉)と爆弾のかわりに魚雷を抱えたB-26マローダー双発爆撃機四機(コリンズ大尉)だった。

シマード大佐(ミッドウェー司令官)が友永隊の迎撃に全戦闘機を投入してしまったため彼らは、戦闘機の護衛なしに進撃してきたのである。

「翔鶴」と「利根」が発砲し直掩の陣風三十機が迎撃する。

アベンジャー六機のうち三機は、直掩機により撃墜され残り二機も投下後に撃墜されアーネスト中尉機だけが生還した。

「翔鶴」は、アメリカ軍の魚雷を全て回避した。

被害は、機銃掃射で「翔鶴」三番高角砲が旋回不能(三十分後に修理完了)で砲員に負傷者が出たほか両舷送信用空中線が使用不能となり旗艦の通信能力に支障が生じた。

「翔鶴」を狙ったB-26隊は魚雷二-三本命中を主張しているが実際には回避されている。

B-26は、二機が撃墜され生還した二機もひどく損傷して放棄された。

ミッドウェー基地から発進したアメリカ軍陸上機による空襲は、ミッドウェー島の基地戦力が健在である証拠であった。

「哨戒機からの連絡は?」

 本当に付近に敵機動部隊がいるならばもう見つかっても良いころでった。

「ありません」

 しかし草鹿参謀長は、無情な回答をするだけだった。

その間も第七艦隊は、カタリナ飛行艇の接触を受け続けていた。

「バカに敵の飛行艇がちらつくな」

 草鹿参謀長は、双眼鏡で敵機を見てそういった。

「敵は、兵力の三分の一を哨戒に使うと聞いています」

 それに源田甲参謀が答えた。

「それにしても多すぎる」

 草鹿参謀長は、事前に予想していた敵兵力から計算してもこの数は異常だった。

「確かに先に見つけられたのは、我々です。

しかし敵の攻撃隊など第六航空戦隊で防ぎきれます」

 源田甲参謀が力説した。

午前四時十五分塚原司令部は、各艦で待機中の攻撃隊に対し『本日航空機による攻撃を実施する為第二次攻撃隊を編成せよ。

兵装は、爆装に転換』と通知し陸上攻撃用爆弾への換装を命じた。

 

                  ※

 

 その頃アメリカ海軍第十七任務部隊の指揮官フレッチャー少将は、ミッドウェー基地航空隊の活躍によって第七艦隊の位置をほぼ特定することに成功し攻撃するタイミングを窺っていた。

午前三時七分フレッチャー少将は、スプルーアンス少将に「南西に進み敵空母を確認せばそれを攻撃せよ」と命じこれを受けたスプルーアンス少将は午前四時過ぎに攻撃隊発進を命令し第十六任務部隊は次からなる百十七機の攻撃隊を発進させた。

空母エンタープライズ

F4F戦闘機十機(VF-6指揮官:ジェームズ・グレイ大尉)、SBD爆撃機三十三機(指揮官:第六航空群司令クラレンス・マクラスキー少佐、VB-6指揮官:リチャード・ベスト大尉、VS-6指揮官:ウィルマー・ギャラハー大尉)TBD雷撃機十四機(VT-6指揮官:ユージン・リンゼー少佐)

空母ホーネット

F4F戦闘機十機(VF-8指揮官:サミュエル・ミッチェル少佐)、SBD爆撃機三十五機(VB-8指揮官:ロバート・ジョンソン少佐、VS-8指揮官:ウォルター・ローディ少佐)、TBD雷撃機十五機(VT-8指揮官:ジョン・ウォルドロン少佐)

しかし午前四時二十八分に日本軍の偵察機が艦隊上空に現れたことからまだ日本側には空母を発見されていなかった上発艦した飛行隊を小出しにすることは、戦術としては非常にまずいにもかかわらず敢えてスプルーアンス少将は発進を終えた飛行隊から攻撃に向かわせるように指示した。

艦をあげての全力攻撃で全機を飛行甲板に並べて一度に発進させることができなかったのである。

また日本軍の空母六隻すべての所在を確認した第十七任務部隊も警戒のために出していた偵察機(当日はヨークタウンが警戒担当)の収容を終えた後の午前五時三十分に次からなる三十五機の攻撃隊を発進させた。

空母ヨークタウン

F4F戦闘機六機(VF-3指揮官:ジョン・サッチ少佐)、SBD爆撃機十七機(VB-3指揮官:マクスウェル・レスリー少佐)、TBD雷撃機十二機(VT-3指揮官:ランス・マッセイ少佐)

ヨークタウンは、午前六時五分に攻撃隊を発進させるとすぐにウォリー・ショート大尉のSBD爆撃機十七機(VS-5)と戦闘機六機を甲板に並べ発進準備を行った。

また米潜水艦「ノーチラス」は、日本戦艦を雷撃したあと午前六時十分に「敵巡洋艦(駆逐艦嵐)を雷撃するも命中せず爆雷六発で攻撃される」と日誌に記録したが誰にも報告しなかった。

 

                   ※

 

 午前四時二十八分「利根」の四号機(機長は偵察員の甘利洋司上等飛行兵曹、操縦員は鴨池源飛行兵長、電信員は内山博飛行兵長)だった。

 電文は、すぐに「翔鶴」に送られた。

「我敵艦隊見ゆ。

空母二隻、重巡五隻、駆逐艦多数。

方位二百十度、距離二百三十海里、速力二十八ノット」

 小野通信参謀が電文の綴りを読み上げた。

予期せぬアメリカ機動部隊発見報告に塚原司令部は、興奮した。

一方で特に動揺もなく平静だったという証言もある。

 なお「利根」の四号機がアメリカ機動部隊の位置を報告する前筑摩一号機(機長:黒田信大尉/筑摩飛行長)がアメリカ軍機動部隊上空を通過していたが雲の上を飛んでおりアメリカ艦隊を発見できなかった。

さらにアメリカ艦載機と接触しながらこれを報告しなかった。

 午前四時四十五分魚雷から陸用爆弾への兵装転換を一時中断し再度魚雷への兵装転換を命じた。

塚原司令官は、対艦爆弾を装備した艦爆隊の発進を命じたかったが新たなアメリカ軍航空隊が接近していた。

日本時間午前四時五十三分戦艦「甲斐」から敵機発見を意味する煙幕が展開されヘンダーソン少佐が指揮するミッドウェー基地のアメリカ海兵隊所属SBDドーントレス爆撃機十六機が艦隊上空に到達した。

午前四時五十五分同隊は、日本軍直掩機の迎撃を受けヘンダーソン機以下六機が撃墜されなおも空母「黒龍」と「蒼龍」を空襲するも命中弾を得られずヘンダーソン隊長機を含む合計八機を失った。

ヘンダーソン戦死後に攻撃隊を率いたエルマー・G・グリデン大尉は、航行する日本空母の甲板に日の丸が描かれており容易に見分けられたと述べている。

アメリカ軍側は、「黒龍」に命中弾二と「瑞鶴」に命中弾三を主張しているが命中した爆弾は一発もない。

アメリカ軍機の攻撃は続いた。

午前五時十分B-17爆撃機十七機(スウィニー中佐)による空襲が行われ「翔鶴」、「蒼龍」、「黒龍」が狙われたが損害は無かった。

攻撃したB-17隊も無傷だったが空母に直撃弾一と不確実一発を主張している。

一機のB-17乗組員達は基地に戻ると彼らの爆撃が日本艦隊を撃破したと主張した。

最後に海兵隊のSB2Uビンディケーター爆撃機十一機(ノリス少佐)による空襲が行われた。

この隊は、陣風の防御網をくぐりぬけて空母を狙うのは困難と判断し戦艦「山城」を狙った。

直掩機の迎撃で一機を失い二機が燃料切れで不時着した。

直撃弾二発を主張したが「山城」は、無傷だった。

 日本軍の戦闘詳報は、「〇五一〇:『翔鶴』、『黒龍』ニ爆弾命中スルヲ認ム(誤認)」、「敵飛行機、『蒼龍』(原文ママ)ニ急降下、利根(水偵)揚収」、「『瑞鶴』後方ニ爆弾投下命中セズ」、「『翔鶴』左百二十及五百メートルニ爆弾二個弾着スルヲ認ム」、「『利根』左百及四千メートルに爆弾投下、『蒼龍』『黒龍』、盛ニ発砲、『蒼龍』周囲ニ猛烈爆弾投下」、「『翔鶴』後方ニ爆弾投下、命中セズ」、「敵飛行機十機、『山城』ニ対シ急降下、爆弾投下命中セズ」など断続的に空襲を受けていることを記録している。

 

                   ※

 

 ニミッツ提督は、「ミッドウェー基地隊は、日本軍艦艇十隻に損傷を与え一-二隻を沈めたかもれないが阻止に失敗し基地隊主戦力は失われた」とキング大将に報告した。

この後ミッドウェー基地航空隊は、SB2U五機とSBD六機で夜間攻撃に出撃したが会敵せずSB2U一機を事故で喪失した。

 

                   ※

 

 日本時間午前五時から午前五時三十分にかけてミッドウェー基地を攻撃した日本軍攻撃隊(友永隊)が第七艦隊上空に戻ってきた。

ちょうどアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊が第七艦隊を攻撃している最中であり日本軍攻撃隊は、母艦上空での待機を余儀なくされている。

「翔鶴」からは、護衛の駆逐艦が友永隊を誤射する光景が見られ後に着艦した千早大尉(翔鶴艦爆隊)と山田大尉(翔鶴艦戦隊)は友軍に激怒している。

混乱した状況下の中午前五時三十分さらに「利根」の四号機から「敵艦隊見ゆ。

空母一隻、巡洋艦二隻、駆逐艦多数。

ミッドウェー島ヨリノ方位百九十度、七十海里。

敵針路十度(発午前五時二十分)」との打電が入った。

この空母は、ホーネットである。

偵察機からの通信は、母艦側の受信と暗号解読により十分の差が生じている。

草鹿龍之介参謀長は、「予想していなかったわけではないがさすがに愕然とした」と述べている。

 各空母の状況に加え塚原司令部は、二つの条件を検討した。

1.上空待機中の日本軍ミッドウェー基地空襲隊(約百機)の燃料が尽き掛けておりこれ以上待たせる事は、出来ない。

貴重な機体と二百名以上の熟練搭乗員を危険にさらすことは、大問題である。

2.戦闘機の護衛のない攻撃隊は、艦隊護衛戦闘機の餌食になることを珊瑚海海戦やアメリカ軍ミッドウェー基地航空隊が実証している。

塚原中将にとって大損害を受けることがわかっていながら「はだか」の航空隊を出すことは、出来ない。

塚原中将は、戦闘機の護衛をつけずに攻撃隊を出す危険性や第一次攻撃隊を見捨てることへの懸念から帰還した第一次攻撃隊の収容を優先すべきと考えた。

草鹿参謀長によれば敵の来襲状況を見ると敵は、戦闘機をつけずに面白いように撃墜され全く攻擎効果をあげておらずこれを目前に見ていたのでどうしても艦戦隊を付けずに艦爆隊を出す決心がつかなかったという。

航空参謀の源田実は、図上演習ならば文句なしに第一次攻撃隊を見捨てたが苦楽を共にしてきた戦友達に「不時着して駆逐艦に助けてもらえ」とは言えず機動部隊が移動すれば不時着した搭乗員達は見殺しになるので歴戦の搭乗員達の回収を優先させることを進言した。

 午前五時三十七分各空母は、日本軍ミッドウェー基地攻撃隊の収容を開始する。

午前五時五十五分「(第一次攻撃隊)収容終らば一旦北に向ひ敵機動部隊を捕捉撃滅せんとす」と命じた。

同時刻重巡洋艦「筑摩」から「水上偵察機を午前六時三十分発進予定」との報告がある。

午前五時四十五分「更に巡洋艦らしきもの二隻を見ゆ(発信午前五時三十分)」という「利根」四号機からの追加情報が入る。

攻撃隊収容中の午前五時四十八分「利根」四号機から帰投するという電報が届いた。

阿部少将は、第八戦隊(『利根』、『筑摩』)に交代の偵察機発進を命じると「利根」四号機に「帰投まて」を命じた。

九八式水上偵察機の航続距離は、通常十時間であるためまだ十分飛べると考えたためである。

塚原司令部も午前五時五十四分に無線方位測定で位置を把握する為の長波輻射を「利根」四号機に命じた。

だが利根四号機は、午前五時五十五分に「敵攻撃機十機貴方に向かう」の通報のみを行い輻射は行わなかった。

 第一次攻撃隊の収容は、午前六時三十分までに完了したとされるが「蒼龍」では午前六時五十分頃までかかっている。

この状況下午前六時二十分頃にジョン・ウォルドロン少佐率いるホーネット雷撃隊TBDデバステイター雷撃機十四機が日本の機動部隊上空に到達し日本側では「翔鶴」や「筑摩」が確認した。

この時点で第七艦隊の直掩機は、一機の欠落もなく健在だった。

アメリカ軍攻撃隊は、部隊毎に進撃したので連携が取れずホーネット雷撃隊は戦闘機の護衛の無いまま「翔鶴」を狙った。

一機の雷撃機は、赤城の艦橋に接近して墜落し草鹿参謀長は死を覚悟している。

デバステーター隊は、陣風隊により全機が撃墜され不時着水した機体から脱出したジョージ・ゲイ少尉一人を除く隊員二十九名が戦死した。

ゲイ機は、「蒼龍」を雷撃して飛行甲板上を通過したが魚雷は命中せず直後に陣風に撃墜されたとされる。

戦闘後の名誉勲章推薦状には、「ホーネット雷撃隊は、日本空母に魚雷を命中させ日本の空母に最初に大打撃を与えた」とあり後にホーネット隊は他の部隊から恨みを買うことになる。

一方「ホーネット」の戦闘機隊と爆撃隊は雲で雷撃隊を見失い第七艦隊も発見できなかった。

戦闘機隊とドーントレス十三機は、ミッドウェー基地へ向ったが燃料切れでワイルドキャット全機とドーントレス三機が不時着水し残りのドーントレス二十機はホーネットに帰艦した。

午前六時三十七分「利根」の四号機から「燃料不足のため帰投する(発午前六時三十分)」と連絡が入る。

阿部司令は、午前七時まで接触を維持することを命じたが「我れ出来ず」との返答を受け帰還を許可した。

同時刻「利根」の四号機と交代すべく「筑摩」の五号機が発進した。

午前六時五十分ユージン・リンゼー少佐率いるエンタープライズの雷撃隊十四機が第七艦隊上空に到達した。

通信不良と連携ミスにより十機のワイルドキャットは、ホーネット雷撃隊を護衛していたためエンタープライズの雷撃隊を掩護できなかった。

エンタープライズの雷撃隊は、「瑞鶴」を目標にするが十機を失い一機が帰還後投棄し隊長機を含む二十九名が戦死する。

その上命中魚雷も得られなかった。

戦闘機隊の連携ミスで護衛を受けられず多くの隊員を失った事に生き残った隊員達は、激怒し帰還後に戦闘機隊隊員の控室に拳銃を持って怒鳴りこんだと同隊の戦闘詳報に記載されている。

午前七時十分ランス・マッセイ少佐指揮のヨークタウンの第三雷撃隊が第七艦隊上空に到達した。

「黒龍」は、他の五空母より前方を進み雲の下を航行していたという。

ヨークタウン雷撃隊十二機は、突出した「黒龍」を挟撃すべく二個小隊(六機)にわかれると攻撃を開始した。

TBDデバステーター十機が撃墜され残りの二機も燃料切れで不時着水し全機損失し二十四名中二十一名(隊長含)が戦死し「黒龍」に魚雷五本を発射したが全て回避された。

 

                ※

 

 その頃「龍鳳」所属の陣風小隊長の一岡進一(いちおかしんいち)少尉は、南西方向から来る航空機の群れを発見した。

すると隊長の西正也(にしまさや)大尉機に近づいた。

「南西方向より敵機接近」

 一岡が無線機で方角を教えると西隊長は、その方角を見た。

「了解」

 西隊長も敵機と判断し増槽を外すと上昇に移った。

各機も倣い一岡も自分の位置に戻った。

 陣風隊は、SBD爆撃隊の上空に着いた。

しかし敵機は、こちらに気付かなかった。

なぜなら彼等は、当時眼下にいた駆逐艦「嵐」を見つけこれが艦隊本隊に戻ると思って一瞬も目を離さなかったためであった。

 なお戦後に開かれた「嵐」の戦友会は、空襲直前の日本時間午前七時の段階で「嵐」は「翔鶴」の直衛で傍を離れていなかったと主張している。

そして陣風隊が攻撃を開始した。

一歩遅れて漸くこちらに気付いたSBD側が旋回機銃を撃ってきたがもはや手遅れだった。

陣風隊の攻撃を受けた何機かが墜落した。

しかし敵機は、煙は噴くが火焔が噴出する様子はなかった。

しかもSBDは、遁走するどころか編隊に空いた穴を残った機体で密集して死角をなくそうとした。

これには、陣風隊も感心していた。

 この時陣風隊は、知らなかったがエンタープライズの艦爆隊SBDドーントレスとヨークタウン艦爆隊は共に日本の機動部隊を見つけられず燃料消耗のために飛行範囲限界を迎えつつあったため火焔は噴かず敵艦隊接触を目前に遁走など考えられなかった。

一岡分隊は、左旋回でSBDの背後に着くとロッテでSBDの旋回機銃を翻弄しながら接近し一岡機が一機のSBDに二〇粍機銃を撃った。

二〇粍機銃は、左翼に命中すると翼が折れそのまま回転しながら墜落した。

他の分隊も同じようにSBDを攻撃していた。

陣風が放つ二〇粍機銃は、SBDの主翼や胴体などに命中し瞬く間に墜落していく。

一岡は、再び一機のSBDの背後についた。

偵察員は、どうやら部下の寺原大海(てらはらこと)一等飛行兵曹の機体を旋回機銃で狙っていた。

そのため一岡は、その隙をついて二〇粍機銃を撃った。

火箭は、誤らずキャノピーに命中し破壊した。

機体は、そのまま垂直に降下していった。

一岡は、その戦果を悠々と見てる余裕はなかった。

彼等の目的は、空母であり自分たちが見落とせば艦内にいる熟練パイロットたちが命の危機にさらされることになる。

それだけは、避けなければならなかった。

そのため辺りを見渡し他の敵機が接近していないか哨戒を続けた。

既に接近していたSBDドーントレス隊は、全滅したが陣風たちは一機の欠落なく編隊飛行に戻りつつあった。

(他には、こなさそうか)

 近藤少将は、「龍鳳」直掩隊が戦闘で燃料を相当消費したと判断しすぐに代わりの直掩隊の発進命令を出した。

そしてSBDドーントレスの奇襲を見事防いだ西隊長の部隊の着艦作業を急がせた。

 

                ※

 

 午前七時五十分第三戦隊三川軍一司令官は、計画が破綻していることを通報した。

三川は、「機動部隊ヲシテ敵空母ヲ攻撃セシメ機動部隊ハ一応北方ニ避退し兵力ヲ結集セントス」と述べ続いて第一航空戦隊に「敵空母ヲ攻撃セヨ」と命じた。

第一航空戦隊司令官塚原二四三中将は、三川の命令を待たずに敵空母に反撃するため間合いを詰め始める。

確認では、敵空母は三隻だったがうち二隻は正確な位置が分かっていたものの時間がかなり経ってしまったため哨戒機が示した位置にはもういないと判断した。

四隻の空母は、既に発進準備が完了していた。

午前七時五十八分塚原中将は、三川に対し「我今より航空反撃の指揮をとる」と米空母に全力攻撃をかけることを告げた。

敵空母は、攻撃を終えた艦載機を収容中であり接近して攻撃力を発揮できる好機だった。

 第二航空戦隊旗艦「黒龍」の飛行甲板では、山口少将がパイロットたちに訓示をしていた。

「哨戒機の報告によれば敵空母は、全部で三隻だ。

だがうち二隻は、敵の度重なる攻撃で姿を見失った。

そのため残る一隻に今は、全力であたってほしい。

位置は、西に百四十四キロメートルにいる。

しかも護衛艦は、巡洋艦と駆逐艦のみでこちらが圧倒的に優勢だ。

先ほど塚原司令官は、三川長官に艦隊殴り込みを進言した。

当攻撃隊の目的は」

「敵空母一刀両断」

 山口少将が言おうとしていた目的を松村平太大尉が言った。

「よし、体当たりでやってくれ」

 山口少将は、部下たちの腕前を信頼していた。

午前八時第一航空戦隊および第二航空戦隊から第一次波撃隊として村田重治少佐率いる陣風一一型五十二機、彗星艦爆四十二機、天山艦攻三十六機が発進した。

第七艦隊は、第一波攻撃隊を発進させるとすぐに第三次攻撃隊の準備を行い同時に米機動部隊の方向に進撃した。

第一波攻撃隊が発進するのと同時刻「筑摩」五号機が発信した米艦隊の位置情報が届いた。

第八戦隊は、「筑摩」四号機・五号機に対し「敵空母ノ位置ヲ知ラセ攻撃隊ヲ誘導セヨ」と連絡している。

すぐに筑摩五号機から「敵空母の位置味方の七十度九十浬。

我今より攻撃隊を誘導す〇八一〇」との連絡があり第一波攻撃隊の誘導を開始した。

 

                ※

 

 午前八時十五分「ワスプ」では、攻撃隊着艦作業がはじまったが着艦事故が発生して甲板が損傷した。

午前八時五十分修理が終わりSBD爆撃機十機に索敵任務が与えられた。

偵察隊が発進してまもない午前九時レーダーが南西四十六浬に日本軍機を探知する。

「ワスプ」は重巡洋艦「アストリア」、「ポートランド」、駆逐艦「ハムマン」、「アンダースン」、「ラッセル」、「モーリス」、「ヒューズ」に輪形陣を組むよう命じF4Fワイルドキャット十二機を発進させた。

 

                ※

 

 米空母に接敵する筑摩五号機からの電波を頼りに進む日本軍第二次攻撃隊は、ついに「ワスプ」を発見した。

 

                ※

 

 「ワスプ」VF-3所属のケニー・ゲーデル少尉は、母艦から指示された方向から来る群れをSBDドーントレス隊と認識していた。

「気をつけろ。

正面は、味方機じゃない」

 隊長のアンドレ・ラディッツ中尉の警告にケニーは、罵声を吐いた。

予想では、ミッドウェー航空隊による攻撃で日本軍ミッドウェー攻撃隊が着艦する瞬間に艦載機が攻撃する手はずだった。

しかし目の前の機数からすると欠落した空母は、一隻もいないと考えるのが適切だった。

 敵機は、戦闘機だけでも五十機はいる。

こちらの四倍である。

しかも高度上の優位性も敵がしめていた。

不利は、目に見えていた。

(やるしかないんだ)

 しかし彼等に退くことなど許されていなかった。

ジョージ(陣風の連合国コードネーム)の胴体は、F4Fとは対照的にスマートできゃしゃだった。

開戦以来戦ってきたジーク(零戦の連合国コードネーム)やオスカー(九八式戦闘機の連合国コードネーム)とは、別次元の強さを誇っていた。

これらの戦闘機相手ならサッチ・ウェーブや高高度からの一撃離脱戦法で圧倒できるがジョージは、この戦法が全く通用しない敵だった。

しかも最高速度と上昇力もこれらの機体を凌駕しておりF4F-3より重量が重くなったF4F-4では、分が悪くなってしまった。

(しかしやるしかない)

 一瞬弱気になった自分を奮い立たせると隊長機に追従した。

戦闘の火蓋を切ったのは、日本側だった。

五十機のうち数十機が編隊から離れ高高度からこちらに機銃を撃ってきた。

アメリカ戦闘機の多くが採用しているブローニングM2重機関銃の火箭と比べると太く発射速度が遅い。

まるで艦砲射撃のようであった。

F4F隊は、その艦砲から逃れようと次々と水平旋回や急降下で回避した。

ケニーは、操縦桿を倒して水平旋回を選んだ。

直後機体の横に太い火箭がかすめた。

 しかし中には、反応が遅れ撃墜された機体もいた。

「畜生」

 その中には、部下のザック・ラドキー軍曹もいた。

大切な部下を失った悲しみも束の間ジョージが高度差を速度に変え背後から迫っていた。

ケニーは、ジョージが唯一不得意とする水平面の旋回格闘に持ち込もうとした。

ジョージが食らいついてくる。

戦友を葬り去った余勢で今度は、自分を葬ろうとしている。

「追って来い、追って来い」

 ケニーは、ジョージにそう叫んだ。

機体は、ほぼ垂直に近い形で旋回していた。

遠心力で体中が鉛のように重い。

しかしその甲斐あってジョージを照準器に収められた。

水平飛行に戻ったのは、それとほぼ同時だった。

しかし発射把柄を押す前にケニーは、右上方から来るジョージに気付いた。

ケニーが絶叫するのとジョージの両翼から発射炎がほとばしるのは、ほぼ同時だった。

直後ケニーの体は、炎に包まれた。

機体が空中分解したのだ。

 その空中に咲いた焔は、ジュディ(彗星の連合国コードネーム)とジル(天山の連合国コードネーム)の攻撃によって第十六任務部隊から吹き上がる炎と同様だった。

 

                      ※

 

 偵察と攻撃部隊誘導に活躍した「筑摩」の五号機は、午前九時五分にアメリカ軍戦闘機の追跡を受け退避したがその十五分後新たなアメリカ軍機動部隊を発見した。

午前九時第七艦隊は、速力三十ノットで北東に向かった。

それより前駆逐艦「嵐」は、海面に漂う「ヨークタウン」雷撃隊隊員ウェスレイ・フランク・オスマス海軍予備少尉を救助し尋問を行った。

有賀幸作第四駆逐隊司令は、尋問内容を受けて以下の内容を発信した。

この電文は、内地の戦艦「長門」(連合艦隊総旗艦)も受信している。

1.空母は「ヨークタウン」、「エンタープライズ」と「ワスプ」および巡洋艦六隻と駆逐艦約十隻。

2.「ワスプ」は、巡洋艦二隻と駆逐艦三隻とを一団とし他の部隊とは別働しつつあり。

3.(米機動部隊)五月三十一日午前真珠港を出発し六月一日「ミッドウェー」附着しその後南北に移動哨戒をなし今日に及べり。

4.五月三十一日真珠港在泊主力艦なし(本人は、五月三十一日まで基地訓練に従事しハワイ方面主力艦の状況明らかならず)。

連合艦隊は、アメリカ軍機動部隊の戦力と出動空母の名前を知った。

この時オスマスは、エンタープライズ型空母の搭載機数(爆撃機十八、偵察機十八、雷撃機十二、戦闘機二十七)や真珠湾攻撃で沈没した米戦艦群のうち戦艦「アリゾナ」、「ユタ」や艦型不詳を除く戦艦四隻が回航修理中であることも証言している。

後にオスマス少尉は、兵の独断で殺害されてしまったという。

オスマスは、水葬に附された。

彼の名前は、バックレイ級護衛駆逐艦「オスマス (護衛駆逐艦)」に受け継がれている。

午前十時十五分第八戦隊(阿部司令官)は、各艦(『甲斐』、『山城』、『利根』、『筑摩』)に対し直ちに索敵機を発進させよと命じた。

 午前十時三十分第二次攻撃隊が各空母に着艦した。

村田少佐が「翔鶴」の艦橋に上がってきた。

「報告します。

空母一、巡洋艦二の各艦に爆弾三発と魚雷三発が命中。

さらに駆逐艦三に魚雷が一発ずつ、駆逐艦二に爆弾が一発ずつ命中」

 その瞬間艦橋がどよめいた。

大戦果だったからだ。

草鹿参謀長は報告から空母一、巡洋艦二、駆逐艦五が沈んだと判断した。

「第三次攻撃隊の発進準備を行え。

敵空母の正確な位置が分かり次第発進する」

 塚原中将は、間髪入れずに命令を出した。

 

                     ※

 

 第十六任務部隊旗艦「エンタープライズ」の艦橋では、幕僚がスプルーアンス少将を説得していた。

「考え直してください、閣下」

 参謀の一人がスプルーアンス少将を励ました。

「ダメだ。

帰還する」

 スプルーアンス少将は、全く譲らなかった。

頼みの黄金のチャンスも「ラッセル」からの電文によるとつかめられず帰艦した艦載機も被弾がひどく急降下爆撃隊は、一機も帰艦していない。

もはや第十六任務部隊に敵空母を攻撃できる力が残っていなかった。

「次の勝利をつかむためには、退く勇気もまた必要だ。

『ワスプ』の仇は、絶対に討つ」

 スプルーアンス少将の気迫に幕僚たちは、負け第十六任務部隊は撤退した。

 

                     ※

 

 そんなことつい知らず第七艦隊は、血眼になって残りの空母を探した。

しかし既に第十六任務部隊は、撤退した後であり見つけられなかった。

 午後十二時四十分最後の偵察機が帰艦した。

この時間は、作戦終了時間と定められていた。

「帰艦する」

 塚原中将は、やりきれない思いと共にそう命令した。

無論第二航空戦隊旗艦「黒龍」から薄暮攻撃も視野に入れるように催促されたが塚原中将は、これを無視した。

戦果は、

撃沈

空母 ワスプ

重巡洋艦 アストリア、ポートランド

駆逐艦 ハムマン、アンダーソン、グウィン、ヒューズ、モリス

 

損失

三十二機

である。

 

                ※

 

 山本長官は、ミッドウェー島を占領しなかった塚原中将と三川中将を激怒したが三和大佐の説得もあり事なきを得た。

 

            第二章 第二次ソロモン海戦

 

 日本海軍軍令部はニューカレドニア、フィジー、サモア方面への進出作戦であるFS作戦をたてたが千九百四十二年(昭和十七年)六月に発生したミッドウェー海戦で少々FS作戦は延期された。

ただし当時の前線基地であったラバウルからニューカレドニアまでは、零戦の航続力をもってしても往復は不可能だった。

そこで井上成美中将(第四艦隊司令官)の進言によりガダルカナル島にルンガ飛行場を建設し八月五日に戦闘機三十・艦載機三十が進出予定し八月十五日には一個航空戦隊の収容が可能となるはずだった。

実際第十三設営隊岡村徳長少佐は、七月末に一部滑走路が完成すると報告して日本軍戦闘機の進出を要望している。

これは、「ソロモン諸島・ニューギニア島東部における航空基地獲得設営のための作戦(SN作戦)」の一環だった。

七月二十六日第四艦隊は、第八艦隊(旗艦『鳥海』三川軍一中将)に外南洋方面受持警戒区域の引継ぎを行ったが井上以下司令部は「アメリカ軍は外南洋の島伝いには来ない」と断言した。

ラバウルの第八根拠地隊司令官金沢正夫中将も第八艦隊に井上と同様の見解を示した。

 

                       ※

 

 第四艦隊の思い込みとは、対照的に連合国軍は同方面を重要視しガダルカナル島に日本軍飛行場が建設されればアメリカとオーストラリアの連絡を遮断される恐れがあると判断する。

連合国軍の絶対防衛圏の死守・ソロモン諸島を奪還するための足場確保・東部ニューギニアの戦いの間接的支援のためミッドウェー海戦後にソロモン諸島とサンタクルーズ諸島の奪還と確保が研究された。

七月の上旬にはフランク・J・フレッチャー中将指揮の空母二隻(『エンタープライズ』、『サラトガ』)、戦艦一隻(『ノースカロライナ』)、重巡洋艦四隻(『ニューオーリンズ』、『ミネアポリス』、『サンフランシスコ』、『ソルトレイクシティ』)を基幹とする空母機動部隊とリッチモンド・K・ターナー少将指揮の約一万九千名からなる海兵師団と巡洋艦八隻、駆逐艦十五隻、掃海艇五隻からなる上陸部隊と支援艦隊がフィジー諸島に集結した。

千九百四十二年(昭和十七年)八月七日早朝アメリカ軍海兵隊約三千名を主力とするアメリカ軍がガダルカナル島および対岸のツラギ島に奇襲上陸した。

これに対しツラギの日本軍守備隊は、偵察部隊の飛行艇隊であった横浜海軍航空隊要員を含めて僅か四百名にしか過ぎず奇襲を受けた日本軍守備隊は〇四二〇に敵を「空母一隻、重巡四隻を含む二十隻以上の機動部隊を含む上陸部隊」と通報した上でこの海域の警備を担当するために同年七月十四日に新設されたばかりの第八艦隊に至急の救援を要請した。

さらに〇五三五には「戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦十五隻、輸送船多数」を報告した。

だが兵力差は、圧倒的であり〇六一〇に駐留していた横浜空司令からの「敵兵力大なり。

最後の一兵まで守る。

武運長久を祈る」との打電を最後に連絡は途絶し守備隊はその日夕刻に玉砕した。

これによりフロリダ諸島の戦いは、終わった。

ほぼ同時刻にガダルカナルにもアメリカ軍が上陸し飛行場建設のために駐留していたガダルカナル島の日本軍守備隊は、情況連絡する余裕もなくガダルカナル島内陸部西方に撤退した。

宇垣纏連合艦隊参謀長は、「アメリカ軍機動部隊を含めた大部隊が接近していたのになぜ現地軍は、発見できなかった」と著作中で嘆息している。

 

               ※

 

 ツラギからの緊急電を受けた日本海軍第八艦隊司令部は「有力なる敵機動部隊および上陸部隊出現」と判断しただちに対応を開始した。

第八艦隊の神重徳首席参謀と大前敏一参謀は、陸軍第十七軍の司令部に飛び込み寝ていた二見秋三郎参謀長を叩き起こしてアメリカ軍の本格的な上陸部隊による反攻作戦が始まったことを知らせた。

第十一航空艦隊参謀高橋大佐は、事態を聞くと直ちに第二十五航戦司令官山田定義少将と協議し事の重大性を確認する。

基地航空隊でガダルカナル島を爆撃し第八艦隊で水上部隊を駆逐し第七艦隊で上陸部隊を援護しなおかつガダルカナル島に空襲と艦砲射撃を行い上陸部隊が夜襲で残敵を駆逐すれば占領された地域を早期に奪回できると考えた。

そこでラビ攻撃のために爆装していた第二十五航戦と第四航空隊の合同部隊(深山二十七機)を直ちに発進させ台南空の零式艦上戦闘機二十四機と合流させてアメリカ軍上陸部隊の迎撃に向かわせた。

この攻撃は、飛行距離が長いためアメリカ軍の迎撃による被害と燃料消費による不時着が予想された。

そのため特設水上機母艦「香久丸」、駆逐艦「秋風」と「追風」(第八艦隊第二十九駆逐隊所属)と九八式飛行艇が乗員回収のためにツラギ方面へ派遣された。

 海戦の結果第八艦隊は、「キャンベラ」 、「ヴィンセンス」 、「クインシー」、「アストリア」、「シカゴ」と「ジャービス」を撃沈、ラルフ・タルボットを大破、「パターソン」を中破させた。

本海戦では、日本海軍が一方的な勝利を収めその夜戦能力の高さを示した。

第八艦隊は、「重巡洋艦四隻、甲巡三隻大火災沈没確実(戦藻録)、軽巡洋艦一隻、駆逐艦六隻撃沈。

軽巡洋艦一隻、駆逐艦二隻撃破」を主張した。

これを受けた大本営は、第二十五航戦があげた誤認戦果をあわせ「米甲巡洋艦六隻、英甲巡洋艦二隻、米乙巡洋艦一隻、英乙巡洋艦一隻、艦型未詳乙巡二隻、駆逐艦九隻、潜水艦三隻、輸送船十隻」、「戦艦一隻、重巡洋艦四隻、軽巡洋艦四隻、輸送船十隻撃沈。

甲巡一隻撃破、輸送船四隻撃破・大破、戦闘機四十九機、爆撃機九機撃墜。

味方航空機二十一機喪失、巡洋艦二隻損傷」と華々しい大本営発表を行った。

そして本海戦を「第一次ソロモン海戦」と命名する。

実際の戦果は、豪重巡洋艦「キャンベラ」、米重巡洋艦「アストリア」、「クインシー」、「ビンセンス」と「シカゴ」を撃沈し駆逐艦「ラルフ・タルボット」と「パターソン」が大破というものだった。

また九日昼間駆逐艦「ジャービス」がターナーの命令に背いて独自に戦場を離脱し第二五航空戦隊に撃沈された。

米軍は、この艦も第一ソロモン海戦の被害に加えている。

連合軍艦隊は四百七十一発を発射して最低十発が命中した。

日本側の損害は、「鳥海」が一番砲塔と後部艦橋を破壊された。

「青葉」は、被弾により2番魚雷発射管が炎上し一番・二番魚雷発射管が使用不能になった。

「愛鷹」と「古鷹」については、被害報告はなかった。

「衣笠」は、左舷舵取機室が故障し第一機械室に火災が発生した他若干の浸水があった。

「天龍」と「夕張」の被害は最小だった。

第八艦隊は、千八百四十四発を発射し百五十九~二百二十三発を命中させた。

しかし本来の主目的であったはずの上陸船団への攻撃は、行われなかったためまだ揚陸されていなかった重装備などは無傷であった。

だが連合軍は、日本軍の攻撃を懸念し輸送船団は揚陸作業を中止した。

重装備も揚陸したものの数は、少なく大半の重装備とレーダー設備やを積みこんだまま上陸船団は退避した。

上陸船団の攻撃は、行われなかったものの物資の揚陸作業を妨害し中止に追い込んだため第八艦隊の攻撃は一定の効果をあげた。

ミクロで見れば重装備も含む物資を一定数揚陸したもののマクロでは、予定量より少なく米軍海兵隊の物資に欠乏し一日の食事は二食に制限された。

二見の日記には、第八艦隊が空母を恐れて退避した事への不満が書かれている。

海軍では敵輸送船を結果として殲滅出来なかった(最終目的を果たさなかった)事に山本五十六連合艦隊司令長官は、激怒し第八艦隊の海戦功績明細書に「こんなものに勲章をやれるか」とその報告書を握り潰そうとした。

しかし連合艦隊参謀の説得を受け功績を認めたという。

ただし山本五十六は、三川の第八艦隊が事前に提出した夜間強襲作戦に消極的であり打って変わったような対応となった。また山本の幕僚である宇垣纏参謀長も第八艦隊の行動を「損害少なく弾薬もまだあるのになぜ撤退する必要があるのだ」と批判しているが同時にガダルカナル島周辺の偵察をおざなりにしている航空隊と潜水艦に対しても「本作戦の重要性をまったくわかっていない」と指摘している。

今後のガダルカナル島での戦いの帰趨を変える可能性があった船団への攻撃が行われなかった理由は、アメリカ空母部隊による航空攻撃への恐れから早期退避の必要があったという有力な見方がある。

「鳥海」の戦闘報告書は、「小成に甘んじてしまった」と評している。

海軍反省会では、海軍兵学校での伝統教育である海上決戦至上主義的心理が司令官の判断に与えた影響が大きかったのではないかと振り返っている。

日本海軍は、「艦隊決戦主義」を標方しており輸送船破壊等の通商破壊活動を全く考慮しないという風土があった。

その為山本が指示した輸送船殲滅という目的の本質を八艦隊の幕僚は、理解しておらず山本自身も輸送船破壊の目的と意図を八艦隊に説明しなかった為結果として敵戦闘艦の殲滅だけで目的を達成したと八艦隊は勘違いしたという事である。

一方で当時の永野修身軍令部総長が第八艦隊司令長官三川中将に対して「無理な注文かもしれんが日本は工業力が少ないから極力艦を毀(こわ)さないようにして貰いたい」という注意を与えていたことが早期退避の決定に影響を与えたという説もある。

艦隊参謀であった大前敏一の戦後の証言によると「米空母部隊の無線交信が『鳥海』でも盛んに聞こえていたことが敵空母が近距離に存在していると判断する材料になり早期撤退の結論に達した」ということであるが敵機動部隊は南方洋上遠くにあり戦闘圏内にはいなかった。

 

                  ※

 

 八月十七日には、阿部俊雄第十駆逐隊司令指揮下および村上暢之助第二十四駆逐隊司令指揮下の駆逐艦八隻(『秋雲』、『夕雲』、『巻雲』、『風雲』、『霧雨』、『氷雨』、『紅雨』、『霖雨』)がトラックを出発し十八日にガダルカナル島に遊弋した。

なお「秋雲」と「夕雲」は、空襲で損傷し「巻雲」と共にトラックへ撤退し第二十四駆逐隊(『霧雨』、『氷雨』、『紅雨』、『霖雨』)はラビの戦いに参加する事が決まっておりラバウルへ移動した。

このためガダルカナル島海域に残ったのは、「風雲」一隻となり単艦で偵察や対地砲撃をおこなった。

十九日第二水雷戦隊旗艦「三隈」(司令官田中頼三少将)がトラックを出発した。

第一次ソロモン海戦直後に日本軍は、師団のような大規模な兵力を投入するなどの積極的な行動をせずガダルカナル島からアメリカ海兵隊を撃退する絶好のチャンスを逃した。

逆に海兵隊は、遺棄された日本軍の器材を利用してヘンダーソン飛行場基地を完成させた。

一木清直陸軍大佐指揮下の一木支隊、川口清健少将率いる川口支隊、佐世保鎮守府第五特別陸戦隊、呉鎮守府第三および第五特別陸戦隊の護衛として塚原二四三中将の第七艦隊が行うこととなった。

第一航空戦隊、第四航空戦隊、第五航空戦隊、第七航空戦隊の空母八隻(『翔鶴』、『瑞鶴』、『麗鶴』、『雅鶴』、『大鳳』、『祥鳳』、『海鳳』、『白鳳』)を主力とする第七艦隊は十六日にトラックに向け出撃した。

その戦力は、

支援艦隊

司令官:塚原二四三中将、阿部弘毅少将

空母 第一航空戦隊:「翔鶴」、「瑞鶴」

戦艦 第十一戦隊:「比叡」、「霧島」

重巡洋艦 第八戦隊:「利根」、「筑摩」

軽巡洋艦 第七水雷戦隊:「名取」

駆逐艦 第五駆逐隊:「朝風」、「春風」、「松風」、「旗風」

    第二十二駆逐隊:「清風」、「村風」

 

攻略艦隊

司令官:原忠一少将

空母 第四航空戦隊:「麗鶴」、「雅鶴」

   第五航空戦隊:「大鳳」、「祥鳳」

   第七航空戦隊:「海鳳」、「白鳳」

戦艦 第二戦隊:「伊勢」、「日向」

重巡洋艦 第八戦隊:「天城」、「赤城」

軽巡洋艦 第四水雷戦隊:「川内」

駆逐艦

   第二駆逐隊:「村雨」、「夕立」、「春雨」、「五月雨」

   第四駆逐隊:「嵐」、「萩風」、「野分」、「舞風」

   第九駆逐隊:「朝雲」、「山雲」、「夏雲」、「峯雲」

輸送部隊

「嵐」、「萩風」、「浦風」、「谷風」、「浜風」、「陽炎」

敷設艦「津軽」、輸送船「明陽丸」(5628トン)、砕氷艦(測量艦)「宗谷」(戦後、南極観測船)、第二一号掃海艇、第一六号駆潜艇、第二四号駆潜艇、「ぼすとん丸」、「大福丸」、「金龍丸」

である。

 なお「朧」が第七駆逐隊に異動したため「灘風」が連合艦隊に合流した。

 

               ※

 

 一方アメリカ軍も「エンタープライズ」、「サラトガ」、「レンジャー」の三空母を主力とする第六十一任務部隊(F・J・フレッチャー中将)をこの方面に進出させた。

 

               ※

 

 日本側は、一木支隊と川口支隊の輸送を始めていたが二十日に日本軍の偵察機がガダルカナル島南東で空母を含む艦隊を発見した。

そのため輸送を一時中止しガダルカナル島海域の航空優勢の確立のため第七艦隊は、トラック入港を取りやめ南下した。

ラバウル基地の第十一航空艦隊と第二十六航空戦隊は、米軍空母を求めて攻撃隊を発進させたが何の成果もなかった。

 

               ※

 

 アメリカ軍は、既に完成させていたヘンダーソン飛行場に航空隊を進出させることを試み八月二十日護衛空母のロング・アイランドが軽巡洋艦ヘレナと駆逐艦一隻の護衛のもと戦闘機F4Fワイルドキャット十九機と急降下爆撃機SBDドーントレス十二機を輸送した。

 

               ※

 

 日本軍は、これをアメリカ機動部隊と誤認し輸送船団を一旦後退させた。

 八月十九日外南洋部隊および田中司令官は、「陽炎」に対し「風雲」と任務を交替するよう下令した。

「陽炎」は、第二水雷戦隊から分離してガ島海域へ先行し燃料不足の「風雲」とガダルカナル島周辺警戒任務を交代した。

八月二十二日未明「陽炎」は、単艦でルンガ泊地へ突入した。

米駆逐艦三隻(「ブルー」、「ヘルム」、「ヘンリー」)と交戦し魚雷十本を発射して一本をブルーの艦尾に命中させブルーを撃沈した(二十三日曳航中に自沈処分)。

 第七艦隊は、主に二つの集団で構成されからなる輸送部隊を護衛する攻略部隊と第十一戦隊(『比叡』、『霧島』)・第八戦隊(重巡洋艦:『天城』、『赤城』)・第八戦隊(重巡洋艦:『利根』、『筑摩』)の支援艦隊に分かれている。

従来の円形陣形とは、異なり前衛艦隊は空母部隊から百-百五十浬前方に進出して横一列陣形(艦間隔十-二十km)をとり索敵と敵機の攻撃を吸収する役割を担った。

空母は、その後ろから縦に連なって続き真上から見ると丁の字の形になった。

いわば囮となる前衛艦隊将兵からは、不満が続出したが指揮官達は新陣形・新戦法を検討する時間も与えられないまま最前線へ進出した。

機動部隊決戦に向けて前衛と本隊の役割および位置関係についての戦術を説明する機会や時間がなかったためやむを得ず航空機から筒を投下するという方法で各隊・各艦に配布している。

第七艦隊は支援艦隊の「翔鶴」に、攻略艦隊は「麗鶴」にそれぞれ将旗を掲げた。

 八月二十三日朝アメリカ軍のPBYカタリナ飛行艇が日本軍の増援部隊を発見する。

「サラトガ」から攻撃部隊が送られるが天候不良のため発見できなかった。

同日午前フレッチャー司令官は「日本艦隊は、トラック北方にあり」という太平洋艦隊情報部の判断を信用して「レンジャー」を燃料補給のため南下させた。

第七艦隊は、索敵を行いつつ南下したが午後四時ごろ北上した。

日本海軍航空隊(基地航空隊)は、二十三日も何の戦果もあげられず宇垣纏連合艦隊参謀長は「何を目標にしているのだ」と失望している。

二十四日午前零時日本軍は、攻略部隊を分派し陸軍上陸予定日二十五日を前にガダルカナル島攻撃に向かわせた。

ヘンダーソン飛行場基地に損害を与えると見られる。 詳細な命令は、以下の通り。

「カ」号作戦に於ける機動部隊作戦種別左の通り

第一法(特令ナケレバ本法トス)/全軍東方ニ対スル警戒ヲ厳ニシツツ二十四日〇四〇〇概ネ地点ケロヒ五十五附近ニ進出「サンクリストバル」島南東方ノ敵艦隊ヲ捕捉撃滅ス

第二法/攻略艦隊ヲ以テ支隊トシ第二戦隊司令官指揮ノ下ニ増援部隊ノ支援及「ガダルカナル」ノ攻撃ニ任ジ尓余ノ部隊ハ第一法ニ作戦ス

第三法/支援隊ハ直ニ第二法ニ依リ作戦シ尓余ノ部隊ハ概ネ地点ケユソ五十五附近ニ適宜行動シ敵ノ動キヲ見テ第一法ニ転ズ

第四法/全軍東方ニ対シ作戦ス

四航戦と五航戦の航空隊がガダルカナル島の飛行場を攻撃してアメリカ軍機動部隊の注意をひきつけその間に一航戦がアメリカ軍機動部隊を撃破するという囮作戦であった。

草鹿龍之介第七艦隊参謀長は、輸送船団が八月二十五日ガ島上陸予定なので前日中にガ島ヘンダーソン航空基地を叩く必要があり『珊瑚海海戦の轍を踏むことであるがこの際仕方がなかった』と回想している。

 

                ※

 

 同日九時アメリカ軍の飛行艇が攻略艦隊を発見した。

 

                ※

 

 それは、原少将も確認した。

「直掩は、七航戦に任せる。

四航戦と五航戦は、予定通りガダルカナル攻撃する」

 原少将は、作戦変更をしなかった。

午前十一時三十分四航戦および五航戦からガダルカナル島へ攻撃隊が発進した。

フレッチャー司令官は、「翔鶴」と「瑞鶴」の存在に気付かず十一時四十五分「サラトガ」より三十八機を攻略艦隊に向かわせた。

宇垣参謀長は、攻略艦隊がちょうど囮のような役割になったと表現している。

十二時過ぎ「筑摩」水上偵察機がアメリカ艦隊を発見し消息を絶った。

十三時第一次攻撃隊(関衛少佐:彗星艦上爆撃機二十四機、陣風艦上戦闘機三十二機)が発進した。

十三時八分第一航空戦隊は、SBDドーントレス二機の奇襲を受け「翔鶴」の艦橋舷側すれすれに至近弾となった。

「翔鶴」搭載のレーダーは、ドーントレスを探知して艦橋に報告していたが喧噪により指揮官達に伝わらなかった。

十三時五十分「サラトガ」からの攻撃隊が攻略艦隊を発見した。

同時刻アメリカ軍偵察機が攻略艦隊の北方六十マイルに第一航空戦隊を発見していたものの電波状態悪化のため母艦とサラトガ攻撃隊の間の連絡がとれなかった。

 

                 ※

 

 SBDドーントレスが空母に攻撃を仕掛けている中「サラトガ」所属のTBFアヴェンジャー雷撃機八機が海面すれすれの低空飛行で敵空母に接近していた。

このグラマンTBFは、ダグラスTBDデバスター雷撃機の後継機としてアメリカ海軍に迎えられ全ての性能でデバスター雷撃機をしのいでいた。

デビュー戦であったミッドウェー海戦では、残念ながら敵空母に被害を与えることはなかったが今度は自分たちがこの機体で花を咲かせようと意気揚々としていた。

この機体は、F4Fと同様グラマン社が開発した航空機で「グラマン鉄工所」の異名も受け継ぐ頑丈な雷撃機だった。

この防弾に優れた航空機にパイロットたちは、絶大な信頼をおいていた。

 VT-3隊長のロドニー・ジェイカー少佐もその一人だった。

「全機、狙いは敵旗艦に絞る」

 ロドニーは、指示を下した。

索敵機の情報によれば敵空母は、全部で六隻である。

全てを攻撃しようとすれば虻蜂取らずになる危険がある。

攻撃機の数が少ない以上確実性を期した方が得策だ。

 ロドニーは、先頭に立って部下たちを先導している。

するとこちらの気配に気づいたのか対空砲火の焔が咲き始めはるかかなたに見える敵艦からはわずかに対空機銃の発射光が見える。

敵艦は、それなりだが搭載している対空火器が少ないのか密度が粗く散発だ。

「ボギー」

「『ホーク3』被弾」

 直後偵察員を務めるダン・カーンズ中尉と電信員のアラン・カリーオ軍曹が絶叫しながら報告した。

ロドニーは、罵声を漏らした。

どうやら敵の眼を逃れられると考えたのは、甘かったようだ。

「『ホーク4』被弾」

 ダン中尉がまた新たな報告を送った。

「全機、回避しろ」

 ロドニーは、マイクに怒鳴りつけると操縦桿を左に倒した。

機体が左に倒れたかと想うと今度は、右に操縦桿を倒した。

左右の旋回を不規則に繰り返し敵機の射弾をかわそうと考えた。

「『ホーク5、6』被弾」

 しかしそんなパイロットたちの抵抗むなしく敵機は、確実にこちらを撃墜していく。

これでは、標的演習の的になっているのに等しい。

いまだにアメリカは、ジョージの鹵獲に至っていないためこの戦闘機は未知であった。

(ジョージがアメリカの常識を凌駕するほどの高性能機なのか。

或いは、戦闘機と雷撃機とではこれほどにまで速力と運動性に差が出るものなのか)

 ロドニーは、胸の中で一瞬そんなことを考えたがすぐにそんなそんな迷いは捨てた。

今は、敵空母を沈めるのが先決である。

「『ホーク2』被弾」

 直後最後の部下が敵機によって撃墜された。

残りは、自分だけである。

「ボギー、後ろ」

 アラン軍曹が発狂しながら報告し同時に十二・七ミリ旋回機銃の発射音が響いた。

この旋回機銃は、F4Fが装備するブローニングM2重機関銃であるため命中さえすれば一矢報いることができる。

その時前方上空から二機のジョージが降下してくるのが見えた。

ロドニーは、絶叫しながら機首の十二・七ミリ固定機銃を撃った。

しかし前方二門だけで二機の敵機を牽制するのは、難しく敵はそれをあざ笑うかのように接近してきた。

すると一機の両翼から発射炎が見え直後右翼に激しい衝撃を受けた。

 しかしロドニーは、すぐに回避しそのジョージに十二・七ミリ固定機銃を撃ち牽制したため大きな損害にはならなかった。

だがその隙をついてもう一機が接近し今度は、機首から発射炎がほとばしるのが見えたのは一瞬だった。

直後体中に激しい衝撃が走るとともに意識が暗転した。

 彼が操縦していたTBFは、パイロットを失い動力も低下したため海面に叩きつけられた。

 敵空母の付近では、先行していたSBD隊と直掩隊の攻防も終了していたが炎を吹き上げる敵空母は一隻もいなかった。

 

                ※

 

 第七航空戦隊旗艦「大鳳」の艦橋では、司令官の三並貞三少将と幕僚が直掩隊の活躍を双眼鏡を使ってみていた。

「どうやら敵の攻撃をしのげたようだな」

 三並少将は、安堵したように言った。

「しかし妙ですな」

 その時航空参謀の半田道元(はんだどうげん)中佐が首を傾げながらつぶやいた。

「どういうことだ?」

 三並少将が気になって声をかけた。

「私は、戦争前にアメリカへの留学経験があります。

そこでアメリカの戦術を学びましたがアメリカは、防御-人命-を優先する戦術や作戦をとる方針をとると聞きました。

そのアメリカが『はだか』で爆撃機や雷撃機を繰り出すのが私には、理解できないのです」

 半田航空参謀は、この留学でアメリカの優れたダメージコントロールを破壊する爆薬として新型の九八式爆薬の開発を提言した一人でもあった。

「もしかして戦闘機は、全て空母の直掩に充てたのではないのか?

それなら人命重視も納得できる」

 すると首席航空参謀の渡辺正樹(わたなべまさき)中佐が自論を述べた。

「空母も重要ですが空母には、艦上機が不可欠です。

そして空母に離着艦できるパイロットは、もっと貴重です」

 半田中佐は、力強く反論した。

戦前日本は、航空機パイロットの育成に躍起になっていたがその中でも艦上機パイロットは貴重でこれを重点的に育成していた。

「今敵の戦術を推測したり批判しても意味がないだろ」

 三並少将は、意味のない口論を止めた。

「敵攻撃隊に戦闘機の護衛が就いていようが就いていまいが関係ない。

我々の任務は、敵機から空母を守ることそれだけだ」

 三並少将は、敵攻撃隊から空母を守ることが自分たちの任務であり敵の戦略などあまり気にしていなかった。

 

                 ※

 

 午後二時第二次攻撃隊(高橋定大尉:彗星艦爆二十四機、陣風一一型三十二機)が発進する。

 

                 ※

 

 午後二時すぎ支援艦隊の戦艦「比叡」偵察機がアメリカ軍機動部隊を発見し報告する。

 

                 ※

 

 午後二時二十八分第一次攻撃隊がアメリカ空母を発見した。

攻撃隊の直掩を担う陣風隊と空母の直掩を担うF4Fが空中戦に入った。

F4Fは、数が互角なうえパイロットの技量と航空機の性能差に圧倒され次々と撃墜された。

一方陣風は、撃墜されたものはいない。

 その隙に彗星隊は、敵空母に急降下爆撃を試みようとした。

「翔鶴」所属の第二十五小隊の三番機の黒沢巧(くろさわたくみ)飛行兵長もその中の一人だった。

彼は、ミッドウェー海戦では第二次攻撃隊に所属し見事巡洋艦に爆弾を命中させた戦果を上げた。

そのためアメリカの対空砲火がどれほど粗末なものかは、知っていた。

 しかし今自分が見ている光景は、どういうことか。

敵の対空砲火は、熾烈で古参パイロットたちはその対空砲火の熾烈さに照準を合わせられず右に左に回避し爆弾はほとんど命中していない。

(アメリカは、ミッドウェー海戦の反省から対空火器を増やしたのか?)

 ミッドウェー海戦でアメリカは、一艦隊を壊滅されるほどの被害を出した。

その轍を踏まないように対空火器を増設した可能性は、考えられる。

 自分たちは、今からその雨の中に突入する。

(生きて帰れるのか?)

 黒沢飛長は、一瞬弱気になったものすぐにそんな気持ちをはねのけた。

自分たちは、栄えある一航戦のパイロットなのだ。

そんな自分たちに対空火器など当たりは、しない。

その信念があれば銃弾からこちらを避けるという精神論は、海軍の中で浸透していた。

その信念の元黒沢飛長の番が回ってきて空母めがけてダイブに移った。

偵察員の鬼屋正克(おにやまさかつ)飛長が高度を読み上げる声が聞こえる。

 すると突然すさまじい爆発音と同時に機体に激しい衝撃が走り操縦が難しくなった。

黒沢飛長は、何とか水平飛行に戻そうとするが機体が大きく揺れており正確に計器を読み取ることができない。

それでも赤とんぼ時代から培ってきた飛行経験から水平飛行に戻せた。

しかし計器を見る余裕は、なかった。

 なぜなら機体は、海面すれすれで水平飛行に戻ったのだ。

しかも眼前には、戦艦クラスの大型艦船もいた。

早く高度を上げなければというはやる気持ちとは、裏腹に「金星」エンジンが突然止まってしまった。

黒沢飛長を絶望が襲ったのも一瞬機体は、海面に叩きつけられ黒沢飛長はこれまで感じたことない衝撃を体中に感じた。

 黒沢機が海面に叩きつけられた直後敵空母は、火山の噴火と思しき炎と黒煙を噴出した。

待望の命中弾が敵空母に突き刺さったのだ。

 

                  ※

 

 フレッチャー司令官は、無傷だった「サラトガ」より雷撃機TBFアベンジャー五機と急降下爆撃機SBDドーントレス二機を戦闘機の護衛なしで発進させたが戦果はなかった。

 

                  ※

 

 同じく日本側も第二次攻撃隊は、敵を発見できなかったが「サラトガ」に爆弾命中・火災発生を記録したが実際の損害はない。

なお第一次攻撃隊は、エンタープライズ型空母に爆弾五発命中を主張した。

 

                  ※

 

 日没午後四時十五分を迎えた。

この時間まで攻略艦隊は、第三次攻撃隊まで発艦させ攻撃隊到着の間は戦艦・巡洋艦による艦砲射撃を行った。

この隙に輸送部隊がガダルカナル島に上陸し夜襲のため敵陣地近くまで前進していた。

 

                  ※

 

 支援艦隊は、第二次攻撃隊の収容後帰投した。

攻略艦隊もそれを追うように帰投した。

出番のなかった天山艦上攻撃機を指揮する淵田美津雄中佐は、第二航空戦隊の奥宮正武航空参謀に「艦爆ばかり出したから折角やっつけた空母を逃がしたね」と皮肉を述べている。

ガダルカナル島上陸部隊の装備は、不十分であったが昼間の空襲と艦砲射撃の混乱から立ち直っておらずすぐに制圧できた。

ヘンダーソン飛行場は、ルンガ飛行場として日本側に奪還された。

 戦果は、

撃沈 エンタープライズ

 

   飛行場奪還

 

損失 航空機二機

である。

 八月二十四日-二十五日第三十駆逐隊司令(安武史郎中佐)に率いられた駆逐艦四隻(『朝東風』、『大風』、『西風』、『島風』)は、ガダルカナル島輸送船団護衛に就く。

午前六時両艦隊の陣形変更中にニューカレドニア島所属の陸軍航空隊のB-17および海兵隊のSBDドーントレスからの航空攻撃を受けた。

第二水雷戦隊旗艦の「三隈」が中破し駆逐艦「朝東風」と「大風」が撃沈されが同部隊は、ガダルカナル島行きを続行した。

「三隈」は、駆逐艦「島風」に護衛されてトラック泊地へ向かい翌年一月まで戦線離脱を余儀なくされた。

 日本陸軍第十七軍では、海軍は任務遂行よりも自己艦船の保全を優先している。

戦況に関わらず敵の空母のみを攻撃の目標としている。

敵の輸送船を攻撃して全般作戦を容易にする着意が認められないといった不満が出た。

 

                  ※

 

 アメリカ軍は、珊瑚海海戦以来貴重な空母をことごとく沈められていった。

日本の空母に損傷を与えられずガダルカナル島も奪還されるなど完敗に等しかった。

それでも草鹿龍之介参謀長は、B-17爆撃機の発進基地であるエスピリトゥサント島とニューカレドニア島の空襲圏を「クモの巣」と表現している。

第七艦隊の戦力では、アメリカ軍機動部隊で補強された「クモの巣」を一挙に破ることができなかった。

三十一日珊瑚海の哨戒を行っていた空母「サラトガ」は、日本軍の潜水艦伊二十六の雷撃で損傷しこの修理には三か月を要した他フレッチャー司令官を初めとする幕僚や乗組員の多数が死傷し後日フレッチャー司令官は静養も兼ねて後方の任務に回されることになった。

さらに九月十五日には、空母「ホーネット」が潜水艦伊十九の雷撃により浸水と誘爆を招いて大破し重巡「ソルトレイクシティ」、軽巡「ヘレナ」、駆逐艦「ラフェイ」、「ランズダウン」に乗員を移乗の後復旧が行われた。

しかし被雷後燃料に引火して発生した火災を鎮火できず「ランズダウン」の魚雷三本による雷撃処分で伊十九の攻撃による被雷から約六時間後に「ホーネット」は、沈没した。

「サラトガ」の大破と「ホーネット」の沈没によりこの方面で活動可能な空母は、「レンジャー」のみとなってしまったアメリカ海軍は空母戦力を失うがニューカレドニア島の航空隊増援でこれを補おうとした。



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第四話 暗雲

               第一章  南太平洋海戦

 

 千九百四十二年(昭和十七年)八月七日よりはじまったガダルカナル島の戦いで日本軍は、制空権を掌握して日中に輸送船団をおくりこみ連合軍は駆逐艦による高速輸送作戦(鼠輸送)を用いて夜間に活動した。

日本軍は、FS作戦を本来の軌道に乗せエスピリトゥサント島の攻略に乗り出した。

ガダルカナル島攻略方法と同じで

1.機動性に優れた巡洋艦隊で制海権を奪取。

2.機動部隊でエスピリトゥサント島を空襲と同時に上陸部隊を揚陸させる。

3.上陸部隊は、闇夜に紛れて敵本拠地を攻撃する。

だった。

 エスピリトゥサント島周辺の制海権確保を命じられたのは、第六戦隊司令官五藤存知少将が指揮官とする八隻(第六戦隊『青葉』、『衣笠』、『古鷹』、『愛鷹』、第十一駆逐隊『早風』、『夏風』、『冬風』、『初風』)であった。

第六戦隊は、十月十一日一〇〇〇に出撃した。

第六戦隊の計画では、日没頃にエスピリトゥサント島飛行場二百海里の地点に到達し三十ノットでエスピリトゥサント島北方から侵入して二十六ノットに減速して砲撃を行う。

この間に会敵すれば敵の撃滅を優先する。

その後エスピリトゥサント島北方から日の出近くに敵空襲圏内から撤退するというものであった。

 

                      ※

 

 同時期アメリカ軍も日本軍のエスピリトゥサント島上陸を予想しアメリカ軍海兵隊を増強すべく輸送船団を編制し同島へ派遣していた。

十月十一日一一四七航空偵察によって巡洋艦二と駆逐艦六からなる日本艦隊の出現を確認したアメリカ軍は、輸送船団の露払いとして以前から日本艦隊の攻勢任務にあたっていたノーマン・スコット少将を指揮官とする巡洋艦部隊を先行させる。

この部隊は「サンフランシスコ」、「ソルトレイクシティー」、「ボイシ」、「ヘレナ」そして駆逐艦五隻からなる第六十四・二任務部隊であった。

スコット少将は、一四〇〇に全艦に向けてポテ島周辺へ向かうよう指示した。

一六一〇に先ほどと同兵力の日本艦隊を発見したという航空偵察の報告を受け一六一五の日没とともに戦闘配置を指示し日本艦隊を待ち構えていた。

旗艦の「サンフランシスコ」は、最新式のSGレーダーを装備していなかった。

 日米双方の艦隊は大混乱したが海戦の結果「衣笠」の砲撃で「ボイス」が大破、「ソルトレイクシティ」を「早風」と「夏風」の雷撃で「古鷹」の砲撃で「フォーレンホルト」が中破、「愛鷹」の砲撃で「サンフランシスコ」が小破した。

しかし日本側の被害は甚大で「古鷹」が撃沈、「青葉」が大破し「衣笠」が小破した。

さらに五藤存知少将も戦死したがアメリカ艦隊をエスピリトゥサント海域から追い出すことは、できたため戦略的勝利だった。

 日本側は、この海戦を「エスピリトゥサント島沖海戦」と呼称した。

 

                       ※

 

 千九百四十二年(昭和十七年)十月十三日戦艦「甲斐」と「山城」を主力とする第二次挺身攻撃隊(指揮官栗田健男中将)がエスピリトゥサント島の飛行場に対して夜間艦砲射撃を開始した。

明け方まで砲撃を続け滑走路および航空機に対して損害を与えた。

日本軍がエスピリトゥサント島を確保するにあたっては、輸送船により島に大規模な増援を送り込む必要があった。

しかし日本軍の航空隊は、損害により消耗しておりこのままでは飛行場に展開する米軍航空機により攻撃を受け増援輸送が失敗する恐れが大きかった。

そのため日本海軍は、艦砲射撃により敵飛行場に損害を与えその間に増援の輸送を行うことを計画した。

アメリカ軍の航空攻撃をさけまたできる限り大きな打撃を与えるために艦砲射撃部隊は、甲斐型の高速戦艦を主力とした。

実施部隊の指揮官栗田健男中将(第三戦隊司令官)は、危険が大き過ぎると作戦に反対していたが山本五十六連合艦隊司令長官に「ならば自分が『長門』で出て指揮を執る」と言われたためしぶしぶ引き受けたという。

ただし同作戦の頃初めて栗田と会った奥宮正武によれば栗田は、首席参謀の有田雄三中佐と共に強い自信を示していたという。

 結果日本側の被害は、なく第三戦隊の砲撃により飛行場は火の海と化し各所で誘爆も発生した。

アメリカ軍側は、九十六機あった航空機のうち五十四機が被害を受けガソリンタンクも炎上した。

滑走路も大きな穴(徹甲弾による)が開き飛行場は、一時使用不能となった。

しかしこの攻撃の少し前に戦闘機用第二飛行場が既に完成しており攻撃目標は、第一飛行場のみであった為飛行場の機能は半減したに過ぎなかった。

また戦闘詳報でも「戦艦主砲を以てしても所在飛行機を一機も残さず撃破することは、困難なり」と報告している。

 

                       ※

 

 エスピリトゥサント島をめぐる日米の攻防戦において日本軍が使用するルンガ飛行場基地は、最も重要な役割を担った。

千九百四十二年(昭和十七年)十月下旬ガダルカナル島の日本陸軍第十七軍がエスピリトゥサント島に総攻撃を実施することになり日本海軍は、空母機動部隊を含む多数の水上艦艇を投入して支援にあたる。

これを阻止するためアメリカ軍も空母機動部隊をロイヤルティ諸島方面に派遣し十月二十六日の本海戦に至った。

 千九百四十二年六月のミッドウェー海戦で敗北した米軍は、二か月後の八月七日ウォッチタワー作戦を発動し米軍海兵隊がツラギ島(フロリダ諸島)・ガダルカナル島を占領しガダルカナル島に完成したばかりの日本軍飛行場(のちにヘンダーソン飛行場と命名)を占領した。

日本軍は、外南洋部隊指揮官三川軍一中将率いる第八艦隊に米軍撃退を命じ第一次ソロモン海戦で勝利を収めた。

続く第二次ソロモン海戦でも勝利をおさめガダルカナル島の奪還に成功した。

日本海軍連合艦隊は、日本陸軍第十七軍(司令官百武晴吉中将)が予定していたエスピリトゥサント島の総攻撃支援のために塚原二四三中将指揮下の第七艦隊(『翔鶴』、『瑞鶴』、『蒼龍』、『黒龍』等)を派遣する。

 

                       ※

 

 アメリカ海軍は、八月三十一日に日本軍潜水艦の攻撃で空母「サラトガ」が大破本国回航し九月十五日にも空母「ホーネット」を撃沈され作戦行動をとれる空母は「レンジャー」のみとなった。

アメリカ軍は、「サラトガ」を真珠湾に帰港させ急ピッチで修理を行った。

太平洋艦隊司令長官のチェスター・ニミッツ大将は、南西地区の司令官をゴームレー中将からハルゼー中将に交代させた。

ニミッツは、ゴームレーがガダルカナルで部隊の多くを失ったことで自信喪失と感じていたのである。

ハルゼーは、着任すると直ちに日本艦隊と決戦するための計画の策定を開始した。

 

                       ※

 

 十月二十二日夜利根型重巡洋艦「筑摩」と秋月型駆逐艦「照月」が牽制部隊となり日本軍機動部隊から分離して南方二百浬(三百七十キロメートル)地点に進出した。

利根型重巡洋艦は、水上偵察機十二機を搭載する偵察能力に優れた艦種で秋月型駆逐艦は十糎連装高角砲を装備した防空駆逐艦である。

「筑摩」は、偵察機を発進させるが米艦隊を発見できず米軍飛行艇の雷撃を回避したあと第七艦隊に合流した。

十月二十三日連合艦隊は、以下の警告を発した。 

1.ここの数日来敵空母の所在不明。

敵機動部隊に対し方面とくに警戒の要ありと認む。

2.二十四日X区哨戒機および二式飛行艇は、なるべく早く発進しかつ許す限り長く哨戒のことに取り計らわれたし。

 外南洋部隊(第八艦隊)は、日本陸軍のエスピリトゥサント島総攻撃に呼応して支援攻撃を行うことになっていた。

外南洋部隊麾下の第六駆逐隊司令山田勇助大佐指揮下の駆逐艦三隻(『暁』、『雷』、『白露』)と第四水雷戦隊は、二十四日深夜から二十五日朝にかけてエスピリトゥサント島に突入する。

突入時掃海駆逐艦「ゼイン」が荷役作業中であったが三隻の日本駆逐艦の出現により逃亡を図る。

「暁」、「雷」と「白露」は「ゼイン」まで五カイリに接近したところで砲撃を開始し「ゼイン」に命中弾一発を与えるが主任務であるアメリカ軍陣地砲撃との兼ね合いからそれ以上の追撃はできなかった。

再度エスピリトゥサント島に向かうと今度は、アメリカ海兵隊向けの軍需品をエスピリトゥサント島に陸揚げ中の艦隊曳船「セミノール」と沿岸哨戒艇YP-284を発見した。

「セミノール」とYP-284は、接近してきたのが日本駆逐艦だと知ると陸揚げ作業を打ち切り直ちに逃亡を開始した。

間髪入れず砲撃を開始しYP-284を砲撃で炎上させて撃沈したのに続き「セミノール」も砲撃により撃沈した。

突撃隊は、小型輸送船一隻・仮装巡洋艦一隻の撃沈を記録した。

続いて海兵隊陣地に対して艦砲射撃を開始するが海兵隊陣地の五インチ海岸砲からの反撃により「暁」の三番砲塔の薬室に一発が命中して一時火災が発生し四名の戦死者を出す被害を受けた。

「雷」も緊急発進したF4Fワイルドキャット戦闘機の機銃掃射で損傷し銃撃で数名が死傷する被害を受けた。

この状況をうけて外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は、外南洋部隊各隊にショートランドへの帰投を命じた。

 

                       ※

 

 アメリカ軍も空母「レンジャー」と「ヴィクトリアス」を中心とする艦隊(第十六任務部隊)が日本軍の攻撃を警戒していた。

 

                       ※

 

 日本側の戦力は、

支援艦隊

司令長官:塚原二四三中将 参謀長:草鹿龍之介少将

第一航空戦隊:塚原二四三司令長官直率

航空母艦:「翔鶴」、「瑞鶴」

第二航空戦隊 司令:山口多聞少将

航空母艦:「蒼龍」、「黒龍」

第四航空戦隊 司令:高橋三吉少将

航空母艦:「麗鶴」、「雅鶴」

第四戦隊 司令:山本英輔中将

戦艦:「金剛」、「比叡」

第八戦隊 司令:西村祥治少将

重巡洋艦:「天城」 、「赤城」

第九戦隊 司令:阿部弘毅少将

重巡洋艦:「利根」、「筑摩」

第六水雷戦隊 司令:坂本伊久太少将

軽巡洋艦:「川内」

第七駆逐隊 司令:山田勇助大佐

駆逐艦:「秋雲」、「潮」、「曙」、「漣」

第二十三駆逐隊 司令:若木元次大佐

駆逐艦:「朧」、「江風」、「涼風」、「海風」

第十駆逐隊 司令:阿部俊雄大佐

駆逐艦:「風雲」、「夕雲」、「巻雲」、「秋雲」

第四駆逐隊 司令:有賀幸作大佐

駆逐艦:「嵐」、「舞風」、(『野分』は、補給部隊護衛)

第十六駆逐隊 司令:荘司喜一郎大佐

駆逐艦:「川霧」、「青雲」、「紅雲」、「春雲」、(臨時編入『陽炎』)

第六十一駆逐隊 司令:則満宰次大佐

駆逐艦:「秋月」、「照月」

 

攻略艦隊

司令官:原忠一少将 主席参謀:大橋恭三中佐

第五航空戦隊:原忠一司令官直卒

航空母艦:「大鳳」、「祥鳳」

第六航空戦隊 司令官:近藤英次郎少将

航空母艦:「龍鳳」、「瑞鳳」

第三戦隊 司令:栗田健男中将

戦艦:「甲斐」、「山城」

第六戦隊 司令:高木武雄少将

重巡洋艦:「那智」 、「羽黒」、「足柄」、「妙高」

第七水雷戦隊 司令:井上継松少将

軽巡洋艦:「名取」

第五駆逐隊 司令:野間口兼知中佐

駆逐艦:「朝風」、「春風」、「松風」、「旗風」

第二十二駆逐隊 司令:脇田喜一郎大佐

駆逐艦:「清風」、「村風」、「里風」、「沖津風」

第二十一駆逐隊 司令:天野重隆大佐

駆逐艦:「初春」、「子日」、「初霜」、「若葉」

第二十七駆逐隊 司令:瀬戸山安秀大佐

駆逐艦:「有明」、「夕暮」、「白露」、「時雨」

輸送部隊 「香久丸」、「衣笠丸」、「多摩」、「由良」、「龍田」、「朝雲」、「谷風」、「暁」、「雷」、輸送船六隻、「木曾」、「五十鈴」、「最上」、「峯風」、「澤風」、「沖風」、「島風」、「霜風」、「灘風」、「江風」、「磯波」、「浦波」、「霧雨」、「氷雨」、「村雨」、「夕立」、「春雨」、「五月雨」

である。

 日本軍部隊は、第七艦隊司令長官塚原二四三中将が指揮する第七艦隊本隊(第一航空戦隊:空母「翔鶴」 、「瑞鶴」、「蒼龍」、黒龍」)、駆逐艦(『嵐』、『舞風』、『雪風』、『時津風』、『天津風』、『初風』、『浜風』、『照月』)、第四戦隊司令官高橋三吉が指揮する機動部隊前衛部隊(戦艦:『金剛』、『比叡』、重巡:『天城』、『赤城』、『利根』、『筑摩』、軽巡:『川内』、駆逐艦:『朧』、『潮』、『曙』、『漣』、『灘風』、『江風』、『涼風』、『海風』、『太刀風』、『汐風』、『帆風』、『北風』)、本隊の後方に補給部隊(駆逐艦:『野分』、油槽船六隻)という三つの集団にわかれて行動していた。

機動部隊前衛部隊は、空母へ向かう敵機の攻撃を吸収するために機動部隊前方に横一列に並んだ。

十月二十五日日本軍は、数日前から見失っていたアメリカ軍機動部隊を求め索敵を活発に行ったが米軍機動部隊の発見には至らなかった。

対するアメリカ軍は、哨戒中のPBYカタリナ飛行艇が二十五日午前中に日本軍機動部隊を発見した。

米軍哨戒機の出現により塚原中将は、反転北上を命じた。

 

                    ※

 

 一方キンケイド少将は「レンジャー」から索敵を兼ねてF4Fワイルドキャット戦闘機十六機、SBDドーントレス急降下爆撃機十二機とTBFアヴェンジャー雷撃機七機からなる攻撃隊を発進させた。

その後の報告で日本軍機動部隊が北に反転した事が判明したがキンケイド少将は、無線封止を維持するため攻撃隊に日本軍位置情報を転送しなかった。

米軍攻撃隊は、反転した日本軍機動部隊を捕捉出来ず燃料切れや着艦時の事故でF4F一機、SBD四機とTBF三機の計八機を失った。

また朝の着艦事故でF4F四機が失われており「レンジャー」の航空隊は、決戦を前に航空機十二機を失うという大きな痛手を受けている。

 

                    ※

 

 午前十時前衛部隊索敵機が「米軍戦艦二-三、防空巡洋艦四、巡洋艦一、駆逐艦十二、ツラギより方位百六十度、百七十マイル」を報じた。

十九時十八分連合艦隊電令作第三百五十四号は、『陸軍は、今夜十九時エスピリトゥサント島突入の予定にして二十六日敵艦隊はエスピリトゥサント島南東海面に出現の算大なり。

連合艦隊は、二十六日敵艦隊を補足撃滅せんとす』と伝える。

海戦当時の日本艦隊の配置は、機動部隊本隊と前衛の距離が五十~六十浬を行動していた。

十月二十六日塚原二四三中将の機動部隊本隊は、午前零時三十-五十分に米軍PBYカタリナ飛行艇から爆撃を受け「瑞鶴」の至近距離に爆弾が落下した。

「瑞鶴」、「金剛」、「朧」を攻撃した航空隊(B-17とカタリナ)はいずれもエスピリトゥサント島から飛来しており爆撃・雷撃を実施するとともに日本艦隊の位置を通報している。

カタリナ飛行艇が発した情報は、エスピリトゥサント島基地航空隊を経由して二時間後の二十六日〇三一二に米軍機動部隊へ届けられたという。

ニューカレドニア島ヌーメアの司令部から指揮をとるハルゼー提督は、「攻撃せよ、反覆攻撃せよ」の命令を発した。

これに対し米艦隊の奇襲を受ける可能性があると判断した塚原機動部隊は、エスピリトゥサント島北東四百六十キロメートル地点で反転北上する。

そして黎明(日出三時四十五分)から艦上攻撃機十二機による二段索敵を開始した。

レーダーがないと夜間は、索敵できないため夜明け前と夜明けの直前といったように時間差をあけて同一の方面へ偵察機を派遣し先発の機が索敵できなかった海域を後発の機が索敵し夜明けと同時または夜明けから短時間で捜索を完了させるという方法である。

 

                    ※

 

 一方米軍も空母「レンジャー」からドーントレス十六機が発進し二機ずつのペアになって索敵に向かった。

 

                    ※

 

 日の出は、午前三時四十五分である。

午前四時五十分日本軍「翔鶴」四番索敵機は、アメリカ軍機動部隊を発見し「敵空母サラトガ型一、戦艦二、巡洋艦四、駆逐艦十六、針路北西」(支援艦隊から百二十五度二百十浬)を報告した。

「瑞鶴」索敵機も敵艦隊を発見していたが同機の報告は、母艦に届かなったという。

日本軍は、米軍機動部隊戦力を空母三隻と判断した。

午前五時三十分頃第一次攻撃隊として旗艦「翔鶴」から(『翔鶴』飛行隊長淵田美津雄中佐指揮、彗星艦上爆撃機十二機、天山艦上攻撃機九機、陣風艦上戦闘機十六機)、「瑞鶴」から(彗星艦上爆撃機九機、天山艦上攻撃機九機、陣風艦上戦闘機十六機)、「蒼龍」から三十四機(彗星艦上爆撃機十四機、天山艦上攻撃機六機、陣風艦上戦闘機十四機)、「黒龍」から(彗星艦上爆撃機九機、天山艦上攻撃機六機、陣風艦上戦闘機十四機)が発進した。

続いて第二次攻撃隊の発進準備が行われたが「翔鶴」のレーダーが米軍機の機影をとらえた。

しかし直掩は、第四航空戦隊に任せていたため第一航空戦隊と第二航空戦隊はかまわず第二次攻撃隊の発進準備をつづけた。

 

                    ※

 

 ほぼ同時刻アメリカ軍も日本艦隊を発見した。

まもなく第十偵察隊隊長J・R・"バッキー"・リー少佐と僚機から『空母二隻、護衛艦八、南緯七度五分、東経百六十三度三十八分』(距離三百二十キロメートル)の連絡が入った。

 

                    ※

 

 それは、塚原機動部隊でも確認できた。

「天城」は、光信号で「翔鶴」に伝えた。

「『天城』より敵機らしきもの見ゆ。

方位百六十、距離二〇〇、高度八百」

 双眼鏡を覗き草鹿参謀長は、「天城」からの光信号を読み上げた。

「全艦変針。

進路二百七十。

直掩機を向かわせろ」

 塚原中将は、針路変更と迎撃命令を出した。

すぐさまSBD二機に陣風八機が迎撃に向かい瞬く間に二機を撃墜した。

 

                    ※

 

 第十六任務部隊旗艦「レンジャー」の艦橋では、キンケイド少将と幕僚が作戦会議を開いていた。

「エスピリトゥサント島が空襲されているという情報も入りました。

敵は、前回同様戦力を二分して同時攻略を狙っているものと思われます。

偵察でSBDが出払って爆撃機が不足していますが直掩機以外は、出撃させます」

 参謀の一人が敵の戦力情報を報告した。

「ほかに敵のグループは、いるかね?」

 キンケイド少将は、敵機動部隊がほかにいないか気がかりだった。

「各機とも索敵線の先端に達するころですがまだ報告は、ありません」

 参謀の一人が報告なしと答えた。

 日本軍機動部隊の位置をつかんだキンケイドは、直ちに攻撃隊発進を命令する。

空母「レンジャー」から第一次攻撃隊二十七機(F4Fワイルドキャット八機、SBDドーントレス八機、TBFアベンジャー六機)が発進した。

さらに「レンジャー」から第二次攻撃隊十六機(F4F七機とTBF九機)が推定距離二百浬の日本艦隊にむけて発進した。

 

                     ※

 

 支援艦隊旗艦「翔鶴」では、格納庫内の作業が終わりまもなく発進が可能だった。

「『瑞鶴』より発艦作業が三十分遅れるとのこと」

 通信参謀の小野少佐が艦橋に入ると「瑞鶴」からの通信を読み上げた。

「何をやってるんだ」

 思わず草鹿参謀長が声を荒げた。

「敵機六時」

 その時見張り員が敵機発見の報告をした。

艦橋にいた皆が六時の方向を見た。

すると直掩の陣風に二機のSBDが追い立てられていた。

しかしSBDが必死に蛇行飛行を繰り返しながら敵艦隊位置を母艦に送ったのを「翔鶴」でもキャッチした。

「翔鶴隊を先発させろ。

『瑞鶴』を待っていては、こちらが負ける」

 まず「翔鶴」から(千早猛彦大尉・翔鶴飛行隊長:艦爆十二機、村田重治少佐・翔鶴飛行隊長:艦攻十二機、新郷少佐・翔鶴飛行隊長:陣風十六機)、「蒼龍」から三十二機(長井彊大尉・蒼龍飛行隊長:艦攻九機、池田正偉大尉・蒼龍飛行隊長:艦爆九機、飯田房太大尉・蒼龍飛行隊長:陣風十四機)、「黒龍」から三十二機(松村平太大尉・黒龍飛行隊長:艦攻九機、下田一郎大尉・黒龍飛行隊長:艦爆九機、能野澄夫大尉・黒龍飛行隊:陣風十四機)が発進した。

三十分遅れた午前六時四十五分「瑞鶴」から(北島一良大尉・瑞鶴飛行隊長:艦攻十二機、牧野三郎大尉・瑞鶴飛行隊長:艦爆十二機、二階堂易大尉・瑞鶴飛行隊長:陣風十六機)が発進した。

 日本軍機動部隊の第一次攻撃隊は、進撃途中に日本艦隊を目指す米軍のレンジャー隊とすれ違った。

それは、松崎三男大尉も気づいた。

「中佐、二時方向に敵機です」

 その報告に淵田中佐も見た。

すると豆粒ほどの黒いものが母艦に向かっていた。

「アメリカの攻撃隊だな。

『翔鶴』に打電。

敵機多数、わがほうに向かいつつあり。

警戒を厳にせよ」

 淵田中佐は、水木徳信上飛曹に打電するように命令した。

お互いに相手を視認しながら両軍とも素知らぬふりをしてやり過ごした。

 

                      ※

 

 日本の攻撃隊接近は、レーダーによって「レンジャー」でも確認できた。

「敵大編隊が接近中。

本艦より十一時の方角へ向かえ」

 管制官が直掩隊に指示を出した。

「現在貴艦を視認できず。

敵の絶対方位を知らせよ」

 しかし「レンジャー」は、スコールの中に隠れていたため直掩隊から確認できなかった。

「『レンジャー』の艦首方向へ進め」

 しかし管制官は、あくまで「レンジャー」を基準に方角を伝えていた。

「見えないと言っているだろ。

西へ行ってみよう」

 分隊長は、らちが明かないと感じ西へ行くことにした。

 

                       ※

 

 六時五十五分日本軍第一次攻撃隊は、米艦隊(『ヴィクトリアス』、重巡二、防空巡二、駆逐六、直衛戦闘機十二)を発見した。

「突撃隊形を作れ」

 淵田中佐の命令で「トツレ」が発信され信号弾が発射された。

 

                       ※

 

 それは、「レンジャー」でも確認できた。

「日本軍は、『ヴィクトリアス』に向かっている。

一万九千六百八十五フィートまで上昇。

『ヴィクトリアス』に向かえ」

 ここでやっと管制官が絶対方角を教えた。

「了解」

 分隊長は、部下とともに「ヴィクトリアス」に向かった。

 「ヴィクトリアス」は、対空戦闘の準備に入った。

「方位三百四十。

距離十七マイル」

 砲術長が敵の位置と方角を報告した。

 

                       ※

 

 日本の攻撃隊は、攻撃命令を待っていた。

「二航戦が東に回ります」

 水木上飛曹の報告に淵田中佐も確認した。

周りの編隊が規定に倣っているか確認すると正面上空から敵機が迫っているのに気付いた。

「翔鶴」の陣風隊もそれに気づき上昇し迎撃に向かった。

「瑞鶴」の陣風隊は、敵の増援に備え動かないつもりだった。

「全軍突撃せよ」

 淵田中佐の命令で攻撃隊は、一挙に敵空母に向かった。

 

                       ※

 

 そうは、させぬと直掩のF4F中隊が攻撃をしようとしたがジョージの妨害で出鼻をくじかれた。

先に攻撃を受けたF4Fの数機は、炎を噴き上げ墜落した。

一機のF4Fは、右翼に機銃を受けキャノピーにも亀裂が入ったが計器に異常は見られなかった。

すると僚機が援護に近づいてきたが別のジョージの攻撃で近づけなかった。

直後正面から別のジョージが機銃を撃ちながら上空を通過した。

命中した一発が潤滑油タンクか循環系統を撃ちぬかれたのだ。

足元は、どす黒い油まみれになっていた。

それに追い打ちをかけるかのように背後から接近した一機のジョージが機銃を撃った。

そのうち一発がエンジンに命中したのかタンクに残っていた潤滑油がキャノピー前面に飛び散りR-1830は、不気味な音を立てて止まってしまった。

パイロットは、慌てて脱出するとパラシュートを開いた。

 

                       ※

 

 彗星艦爆隊の分隊長江草隆繁少佐がしきりにあたりを見回していた。

自分たちを襲おうとした直掩のF4Fの数は、少なくそれに気づいた陣風隊が迎撃に向かい完全に妨害に成功した。

とはいえいつまた別動隊が攻撃してくるかわからなかった。

直後対空砲火が放たれたため江草少佐は、もう敵機は来ないだろうと判断した。

 その対空砲火の密度が半端なかった。

黒い黒煙が次々に湧き出し彗星を襲ってきた。

これまでに経験したことのない密度の高い対空砲火だった。

しかもその砲弾も「母艦への攻撃を妨げる」から「敵機撃墜」を目的としており砲弾から強い殺気が感じられた。

 さらに海面に目をやると空母を取り囲む艦艇同士の間隔も狭かった。

当初輪形陣を発見した日本も艦同士の間隔を狭くし対空砲火の効果を上げる意見もあったが万一大型艦が被弾し舵をやられた場合ほかの艦と激突する危険性があった。

そのため日本は、艦同士の間隔を広くし被弾艦との衝突を避け艦が自由に動けるようにしたのだ。

「沈める」

 そう意気込むと江草は、エンジンスロットルを絞り機首を押し下げた。

空が吹っ飛び空母と海面が迫ってくる。

 高度が急速に下がるにつれ敵空母の正体が分かった。

「イラストリアス級か」

 それは、世界初の装甲空母として知られるイラストリアス級だった。

アメリカ海軍が空母不足を補うためイギリス海軍から借りたという話は、聞いていたが実際に見るのは初めてだった。

「〇四」

 偵察員の石井樹飛曹長からの報告と同時に江草は、爆弾の投下レバーを引いた。

足下から動作音が響き機体が急に軽くなった。

胴体下に抱えた五十番爆弾がイラストリアス級の装甲を穿つべく投下された。

 直後江草は、機体を上昇させようとした。

しかし操縦桿は、重くちょっと力を込めたくらいでは全く動かなかった。

渾身の力を込めて操縦桿を引きやっと海面ぎりぎりで水平飛行になった。

 江草は、機体を上昇させ上空で投弾を終えた「蒼龍」艦爆隊の終結を待つべく巡行飛行で旋回飛行に移った。

しかし対空砲火は、熾烈を極め部下の多くがその火箭にからめとられ撃墜されていった。

 

                      ※

 

 日本軍塚原機動部隊では、午前六時四十分に「翔鶴」レーダーが百三十五度距離百四十五キロメートルに敵機群を発見した。

午前七時十八分にSBDドーントレス爆撃機八機を確認する。

直衛の陣風は、六十機(『麗鶴』三十、『雅鶴』三十)だったという。

「レンジャー」第一次攻撃隊は、午前七時二十七分日本機動部隊を発見する。

直後に陣風八機からなる日本軍直掩隊が現れF4F二機が撃墜された。

 麗鶴隊所属の陣風隊分隊長の豊田慶之(とよだよしゆき)大尉も機影に気づいた。

単発機は、梯団を一組作って進軍していた。

(護衛の戦闘機は、いないのか)

 豊田は、周囲を見渡し心の中でそうつぶやいた。

雅鶴隊からの情報によるとF4Fの多くは、TBFアヴェンジャー雷撃機を護衛しておりその多くを撃墜しTBFもてんやわんやに遁走したと聞いた。

さらに前衛隊を任された藤原譲(ふじわらじょう)中尉からの報告によるとF4F全機を撃墜したのでもういないだろうと思ったが慢心は、禁物である。

見張りをきっちりし敵戦闘機が潜んでいないか周りを見渡した。

 しかし敵戦闘機は、人っ子一人いなかった。

豊田は、安心すると高度を上げSBDを高高度から攻撃しようとした。

「突撃」

 高高度に位置すると豊田は、部下に攻撃開始を指示し突撃した。

 なおこの陣風は、誉二一型を装備した一一型から誉二四型を装備した二二型となっている。

誉二四型は、二一型のプロペラ減速比を変更し強制冷却ファンを装備し中島式低圧燃料噴射方式(シリンダー内への直接噴射ではなくキャブレターの代わりに吸入管内へ燃料を噴射する方式)を採用した。

これによって航続距離が二百キロメートルほど向上したが整備が煩わしくなり整備兵からの評価は、悪化した。

 さらに機首先端を絞り更に大型のプロペラスピナーを装備して空気抵抗の低減を図っている。

雷電のようにプロペラ延長軸による機首延長は、採用されていないが気化器や潤油冷却器用をエンジンカウル内に収めることに成功している。

ただし技術者の努力とは、裏腹にあまり速度向上にはつながらなかった。

 SBD隊も陣風隊に気づき後部旋回機銃を撃ってきたが陣風隊は、かわしながら突撃すると必殺の二十ミリ機銃を撃った。

命中弾を受けたSBDの何機かが空中分解した。

豊田は、急降下から機体を起こして上昇させながら右旋回すると最後の一機の背後につくと機首の二十ミリ機銃を撃った。

火箭は、キャノピーに命中し空中に砕けたキャノピーの破片が飛び散った。

その破片が南国の太陽の陽を反射し幻想的な光景を映し出していた。

 しかし現実は、殺伐としており搭乗者を射殺されたSBDは原形を保ったまま墜落していった。

 

                        ※

 

 日本側第二次攻撃隊は、八時十五分敵空母を発見した。

直掩隊は、第一次攻撃隊の陣風隊が駆逐したのか見当たらなかった。

天山攻撃隊は、攻撃態勢に入った。

「翔鶴」所属の第五中隊長の根岸朝雄大尉は、燃え盛る戦艦に超低空飛行で横滑りを行いながら接近していた。

 雷撃隊搭乗員の戦死率は、戦前からの図上演習でも非常に高い数値が出ており搭乗員たちは雷撃戦術に工夫を必要とした。

その答えが左右に横滑りさせて飛行経路を変化させながら射点に到達するまで射弾を回避するものだった。

緒戦こそ対空砲火がまだ薄かったのでこの戦術は、非常に有効であったが近接信管が実用化された後期ではそれすら意味をなさなくなり昼間の攻撃作戦をあきらめ夜間雷撃に徹底せざる負えない状況に追い込まれるほどだった。

「敵空母、十ノット。

火災を起こしています」

 それは、さておき偵察員の川村正明飛行兵曹長が敵戦艦の速力と状態を報告した。

先に彗星艦爆隊が攻撃を開始し二発の直撃弾を与えていた。

「当てるぞ」

 根岸大尉は、高角砲の発射に合わせて対空機銃に気をつけながら機体を横滑りさせた。

そして魚雷を投下させた。

そのまま高度を上げると敵艦の上を通り過ぎ反対側に逃避した。

「魚雷二本命中」

 根岸大尉もそれを確認しほほを緩めた。

 

                       ※

 

 十一時十五分に支援艦隊から残存機をかき集め第三次攻撃隊として四十機(『翔鶴』飛行隊長淵田美津雄中佐指揮、彗星艦上爆撃機十二機、天山艦上攻撃機十二機、陣風艦上戦闘機十六機)、「瑞鶴」から(彗星艦上爆撃機十二機、天山艦上攻撃機十二機、陣風艦上戦闘機十六機)、「蒼龍」から二十八機(彗星艦上爆撃機九機、天山艦上攻撃機九機、陣風艦上戦闘機十四機)、「黒龍」から(彗星艦上爆撃機九機、天山艦上攻撃機九機、陣風艦上戦闘機十四機)が発進した。

淵田は、敵艦隊を発見した。

海上には、大型艦が五隻に駆逐艦が十三隻いた。

「水木、全機に送信。

『翔鶴隊と黒龍隊は、目標戦艦。

瑞鶴隊と蒼龍隊は、二番艦』」

 淵田は、手早く命令した。

大型艦の中で一番大きい艦を戦艦だと判断した。

「全機に発信。

『全軍突撃セヨ』」

 淵田の命令で水木は、ト連送を発信すると同時に攻撃隊が大きく散会した。

しばらく不気味なほど静寂な飛行が続いたがしばらくして稲光を思わせる閃光が走り黒々とした爆煙が湧き出す。

淵田の仕事は、対空砲火で被弾する味方機を報告し自機が墜落しないように祈るだけだった。

すると目の目の戦艦が突然艦首を大きく左に振り淵田機に迫ってきた。

どうやら魚雷に艦首を向け対向面積を最小にすることで雷撃をかわそうというのだ。

「隊長」

 松崎大尉が不安そうな声でいった。

「このまま突入しろ」

 部下の不安を取り除くかのように淵田は、力強く命じた。

こうなれば目一杯肉迫して魚雷を撃つまでだ。

 距離は、千メートルを切り九百メートルをも割り込む。

戦艦は、火箭を飛ばしながら回避運動をつづけた。

 攻撃隊は、射点に到達した。

敵戦艦の左舷前方からの雷撃だ。

射角は、約七十五度だ。

ほとんど真正面からの雷撃に近く適正角度では、ないが距離は二百メートルを切っている。

ここまで近づけば外しようがない。

「てっ」

 松崎がそう叫び投下索を引いた。

八九式魚雷を切り離した天山は、身軽になり上昇しながら左旋回した。

投雷を終えた機体は、敵戦艦の艦首をかすめるようにして右舷側に回り込む。

淵田は、ちらりと右側に視線を移した。

海上を漂う黒煙の向こう側に海面すれすれを飛行する機影が見えた。

二航戦の部隊は、淵田隊とは反対側から巡洋艦へ雷撃を敢行していた。

「魚雷二本命中」

 後方を偵察していた水木の声が伝声管から伝わった。

淵田は、舌打ちをした。

堅牢な装甲に包まれた戦艦に魚雷が二発程度命中しても沈まない。

マレー沖海戦で沈んだ「プリンス・オブ・ウェールズ」のようにアキレス腱を攻撃しない限り致命傷は、得られない。

淵田は、絶望に打ちひしがれた。

 

                     ※

 

 支援艦隊は、米軍機動部隊に水上戦闘を挑むため追撃戦に移った。

一方の米軍は、「サウスダコタ」から総員を退艦させると駆逐艦「カッシング」に大破した戦艦の魚雷処分を命令した。

「カッシング」からは、搭載魚雷すべての八発の魚雷が発射されたが三本しか命中しなかった。

代わって攻撃を行った「ポーター」は、六発の魚雷を命中させたが「サウスダコタ」の傾斜角と喫水はほとんど変わらず米軍の報告書によると「駆逐艦による魚雷攻撃の結果にはとても失望した。

駆逐艦の攻撃は、『サウスダコタ』に殆どダメージを与えられなかった」とある。

魚雷を使い果たした両艦は、十二・七センチ砲弾三百発を撃ち込んだが「サウスダコタ」は沈まず日本軍索敵機に発見されたため急いで現場海域から離脱した。

日本軍前進部隊は、天城機・赤城機・川内機などに誘導されながら接近した。

日が暮れようとする海原を前進した日本海軍前進部隊は、彼方から遠雷のような砲声を聞いた。

これは、先に「カッシング」と「ポーター」が「サウスダコタ」に砲弾と魚雷を撃ち込んでいた音だったと考えられた。

十八時三十分頃塚原長官は、第六水雷戦隊や第八戦隊に米駆逐艦二隻(『カッシング』、『ポーター』)の追跡を命じたが全速で逃走する駆逐艦の補足は難しく各隊は追跡を諦めて「サウスダコタ」の傍に戻った。

連合艦隊司令部は、新型艦である「サウスダコタ」を捕獲しようと試み「事情許さば拿捕曳航されたし」と迫った。

だが「サウスダコタ」は、火災と浸水でひどく損傷しており曳航は不可能だった。

「鉄の船があんなによく燃えるものか」という「天城」乗組員の感想が残っている。

「秋雲」は、十三センチ砲二十四発を「サウスダコタ」に撃ち込んだが「サウスダコタ」は微動だにせず爆雷での処分も検討されたが爆雷の射程が短く断念された。

結局魚雷で処分することとなり「秋雲」と「巻雲」からそれぞれ二本ずつ発射され四本が命中した。

巻雲艦長によれば最初の一本は、艦首に命中して傾斜が復元し二本目を反対舷に発射し三本目で沈没し「此ノ駆逐艦魚雷ヲ三本モ打チ込ンデヤツト沈メタノニハ、ナサケナキ限リナリシ」と回想している。

この後「秋雲」では、「サウスダコタ」の断末魔を記録すべく絵の上手な信号員に炎上中の「サウスダコタ」を描くよう命じた。

艦長は、スケッチの助けにしてやろうと「サウスダコタ」に向けて何度もサーチライトを照射した。

スケッチが終わりやがて「サウスダコタ」の火災は、艦全体に広がった。

合計魚雷十六本(重複あり)、爆弾二発、十二・七糎砲弾三百発を喫した「サウスダコタ」は「秋雲」と「巻雲」が見守る中十月二十七日午前一時三十五分ニューヘブリディーズ諸島沖に沈んでいった。

日本軍は、救助した米軍兵士の尋問結果から米軍の戦力と沈んだ空母が「レンジャー」と「ヴィクトリアス」であることを知った。

 

 

                     ※

 

 この戦いでアメリカ海軍は、太平洋・大西洋で稼働できる空母を一時的に零となりアメリカ軍側に「史上最悪の海軍記念日」と言わしめた。

さらにエスピリトゥサント島も陥落しそれに呼応するようにニューカレドニア島の米軍守備隊も降伏した。

これだけ見れば日本側の大勝利であるが特に艦爆隊や艦攻隊の損害が大きく村田重治少佐(戦死後大佐)をはじめとする真珠湾攻撃以来のベテラン搭乗員を多数失いこれ以上の攻勢に打って出ることが困難となった。

特に急降下爆撃機の損害が大きくその後の母艦搭載機定数は、艦爆の数を減らしている。

本海戦の損害を補うべく日本海軍は、教育部隊の教官を前線に出したり飛行学生を卒業したばかりの士官を母艦に配属するなど必死で穴埋めをする。

奥宮参謀は新任搭乗員が本海戦前母艦航空隊の技量になる時期を千九百四十三年六月以降と推測したがその再建した航空兵力は、ギルバート・マーシャル諸島の戦い、トラック島空襲といった航空戦における大敗北で完全に消耗してしまい終戦までその損害を補うことが出来なかった。

戦果は、

撃沈

空母 「ヴィクトリアス」、「レンジャー」

戦艦 「サウスダコタ」

重巡洋艦 「ノーザンプトン」

 

陥落 エスピリトゥサント島

   ニューカレドニア島

 

損害 六十九機

 

                 第二章 い号作戦

 

 千九百四十二年八月アメリカ軍は、ウォッチタワー作戦を発動しガダルカナル島とフロリダ諸島を占領した。

日本軍は、ガダルカナル島奪還を試み見事成功した。

さらにエスピリトゥサント島とニューカレドニア島の攻略も成功した。

そして次なる一手としてフィジー島の攻略を試み日本海軍(連合艦隊)は、大口径砲を装備した戦艦による艦砲射撃をふたたび実施して飛行場を破壊し遊弋する敵艦隊の撃退も決断した。

第三戦隊の甲斐型を中核として「第五次挺身隊」を編成し彼らに飛行場の砲撃を命じた。

「甲斐」も「山城」も就役してから二十五年以上が経過していたが改装によって速力三十ノットを発揮する高速戦艦となり真珠湾攻撃やミッドウェー海戦で空母機動部隊の護衛艦をつとめるなど第一線級の能力を持っていた。

吉田俊雄(海軍少佐、軍令部勤務)は、「本来海軍が担当すべきFS作戦で陸軍が苦労している。

せめて海軍は、艦砲射撃で掩護しなければならない」という陸軍に対する日本海軍の引け目が作戦の背景にあったと指摘している。

「甲斐」と「山城」を擁する第三戦隊や各艦将校は、「柳の下のドジョウ掬いで二回目は、危ないのではないか」と懸念を示していたが山本五十六連合艦隊司令長官がみずから陣頭指揮をとることを示唆すると作戦を了承したという。

それでも日本海軍は、アメリカ軍の空母機動部隊が十月二十六日の南太平洋海戦で壊滅したとみてアメリカ軍による妨害を排除可能と判断した。

 

                     ※

 

 アメリカ海軍は、日本軍の動きを察知すると機先を制するように動き出した。

オーストラリアに脱出したウィリアム・ハルゼー提督がフィジー島にいるアメリカ海兵隊のバンデクリフト少将との約束を守るべく行動を開始しハルゼー提督はリッチモンド・K・ターナー少将に陸軍第百八十二歩兵連隊、第四海兵隊補充大隊、第一海兵隊航空技術者大隊をフィジー島に投入するよう命じた。

ダニエル・キャラハン少将に対しては指揮下の巡洋艦「サンフランシスコ」、「ペンサコーラ」、「ポートランド」、「ヘレナ」、「ジュノー」と駆逐艦十隻の第六十七任務部隊四群をもってターナー輸送船団の護衛を命じた。

海兵隊航空地上要員部隊は輸送艦「ゼイリン」、「リブラ」と「ベテルギウス」に乗艦しノーマン・スコット少将が率いる第六十二任務部隊第四群(巡洋艦『アトランタ』、駆逐艦四隻)に護衛されフィジー島へ向かった。

 

                     ※

 

 日本艦隊も米艦隊の出撃を第十一航空艦隊の偵察により察知した。

当初は、「戦艦三、巡洋艦一、駆逐艦四」という規模の艦隊と「重巡洋艦二隻、軽巡洋艦三隻、駆逐艦十一隻」に守られた十隻程度の輸送船団がフィジー島に接近しているという情報だったが十二日に「戦艦は、防空巡洋艦の誤り」という訂正電報が入った。

その一方で日本軍は、フィジー島のアメリカ軍航空戦力を戦闘機二十と艦上爆撃機二十程度と推測し十一日には第十一航空艦隊がアメリカ軍戦闘機十一機を撃墜し第二〇四空が二十四機撃墜を報じた。

第五八二海軍航空隊に至ってはフィジー島周辺のアメリカ軍巡洋艦一隻、駆逐艦五隻と輸送船三隻を攻撃して「米軍機撃墜二十五、駆逐艦一隻、輸送船一隻撃沈(艦爆四喪失)」を報告している。

宇垣纏連合艦隊参謀長は、航空隊の戦果報告と偵察部隊からの戦果報告が全く一致しないことに「全然別個の一群存在するや否や総合判断に苦しむ」と困惑していた。

このような状況下日米両軍は、期せずして船の墓場と両軍がよぶ「アイアンボトム・サウンド(鉄底海峡)」(サボ島とガダルカナル島周辺海域)に引き寄せられていった。

 

                     ※

 

 十一月十二日日本軍より一足はやくフィジー島に到着したアメリカ軍は、島で待つアメリカ軍海兵隊に増強兵力と補給物資の揚陸を開始した。

十二日午後アメリカ軍は、B-17爆撃機による航空偵察をおこないフィジー島に接近する日本軍艦隊を発見する。

そこでターナーは、自身の護衛艦隊から巡洋艦三隻(『アトランタ』、『ジュノー』、『ヘレナ』)と駆逐艦二隻を分離させキャラハン少将の艦隊に加えた。

 海戦は、史上まれにみる混乱に見舞われたが「アトランタ」、「ジュノー」、「カッシング」、「ラフェイ」、「バートン」と「モンセン」を撃沈、「サンフランシスコ」と「アーロン・ワード」を大破、「ステレット」を中破、「ヘレナ」と「オバノン」を小破させた。

しかし「暁」と「夕立」が撃沈、「甲斐」が中破、「天津風」、「村雨」、「雷」が小破した。

 

                     ※

 

 アメリカ軍の第六十七任務部隊第四群は、かなりの損害を受けたが日本艦隊のフィジー島飛行場砲撃を阻止したという点で任務を果たした。

 

                     ※

 

 しかし日本軍は、諦めたわけではなくエスピリトゥサント島に進出した第一戦隊(『伊勢』、『日向』)を中核にした艦隊を投入することにした。

十一月十三日午後二時艦隊は、オントン・ジャバ島東岸沖で待機していた補給隊と合流し駆逐艦に燃料補給を行った。

兵力は、

司令官:高須四郎中将

第一艦隊

戦艦:「伊勢」、「日向」

第六戦隊

重巡洋艦:「妙高」(旗艦) 、「羽黒」、「足柄」、「那智」

第六一駆逐隊

駆逐艦:「照月」、「秋月」

第四水雷戦隊(軽巡洋艦:『熊野』

第四駆逐隊(駆逐艦:『野分』、『嵐』

第三水雷戦隊(軽巡洋艦:『阿武隈』)掃討隊

第十一駆逐隊(駆逐艦:『早風』、『夏風』)

第十九駆逐隊(駆逐艦:『浜風』、『谷風』、『萩風』、『舞風』)

第六水雷戦隊(軽巡洋艦:『川内』)

第七駆逐隊(駆逐艦:『朧』、『潮』、『曙』、『漣』

第二十三駆逐隊(『灘風』、『江風』、『涼風』、『海風』

第三駆逐隊(『太刀風』、『汐風』、『帆風』、『北風』

である。

それに先立つ午前九時五十五分艦隊に残敵掃討とフィジー島砲撃命令が出る。

午後二時四十三分艦隊に対してフィジー島周辺に残るアメリカ軍艦艇への攻撃命令が出たがこの二つの命令は取り消された。

なお「伊勢」は、午後二時十四分に米潜水艦から雷撃され魚雷一本が命中するも不発だった。

第二陣が編成される中で日本軍は、再び飛行場砲撃を計画した。

山本長官は、「ルンガ方面の残敵を掃討し十三日に外洋部隊巡洋艦で十四日に第一戦隊で飛行場を砲撃せよ」という二段構え作戦の実施を各艦隊に求めた。

 

                     ※

 

 アメリカ軍では、ハルゼー提督がリー少将の第六十四任務部隊に対し「戦艦一隻と駆逐艦四隻は、最高速度で北進せよ。

あえて指示する。

フィジー島の東方付近へ向かえ」と命令する。

艦隊の任務は、日本軍艦隊の撃退だったが燃料が最も多く残っている駆逐艦を集めただけの急造艦隊であり司令官達は艦隊の練度に不安を抱えていた。

米艦隊の切り札は、新世代艦である新鋭ノースカロライナ級戦艦「ワシントン」が搭載する計九門の四十センチ砲であった。

戦闘前リー少将は、「われわれは兵員の経験、熟練、訓練あるいは実行能力においてジャップに優れているとはいえなかった。

しかしわれわれは、この戦闘で敵を突き崩すことができると信じる」と記した。

「ワシントン」では、乗組員の誰もが待ち望んだ艦隊決戦に興奮していたという。

 

                     ※

 

 十一月十三日午前五時四十分第七戦隊は、ショートランド基地を出港した。

今後の作戦成功のためにもアメリカ軍制空権の要であるフィジー飛行場を夜間の内に使用不能にすることが必須だった。

無傷のまま日中にフィジー島で揚陸作業を敢行すれば支援の機動部隊の被害拡大と補給部隊に飛行場発進機に攻撃されるかもしれないからだった。

近藤艦隊の使命は、前夜の挺身艦隊と同じくヘンダーソン飛行場の壊滅とアメリカ軍艦隊の第三十八師団の露払いである。

午後三時三十五分前進部隊指揮官は、以下の命令を発した。

今夜敵巡洋艦と駆逐艦各数隻「フィジー島」付近の出現の算大なり。

右の場合は、一時陸上砲撃を中止し敵を撃滅したる後再興の予定。

計画及び予想に捉わるることなく会敵時の処置に万遺憾なきを期すべし。

午後七時二十五分特設水上機母艦「讃岐丸」がフィジー島周辺にアメリカ軍巡洋艦二隻と駆逐艦四隻の存在を確認した。

この時点で日本軍は、アメリカ軍の戦力を「戦艦四隻、巡洋艦二隻、駆逐艦四隻」と判断し夜間水上戦闘に備えた。

突入前各艦は、水上偵察機をレガタ基地に退避させている。

 海戦結果は「ウォーク」、「プレストン」と「ベンハム」、「ワシントン」を撃沈、「アーロン・ワード」を大破、「グウィン」を中破、「オバノン」を小破させた。

しかし「舞風」が撃沈、「伊勢」が中破し、「足柄」と「那智」が小破した。

日本側は、この海戦を「第三次ソロモン海戦」と呼称した。

アメリカ海軍は、フィジー島の防衛に失敗した。

チェスター・ニミッツ大将は、「フィジー島の防衛に成功するか失敗するかは勝利への道の分岐点である」と述べた。

アメリカの軍史家のイヴァン・ミュージカントは、第三次ソロモン海戦を「エル・アラメインの戦い、スターリングラード攻防戦」と同じく第二次世界大戦の転換点であると位置づけている。

 

                     ※

 

 第三次ソロモン海戦後フィジー島周辺海域の制海権奪取に成功した日本海軍は、同島の攻略を決めた。

 第二水雷戦隊の戦力は、

旗艦:軽巡洋艦「名取」

第三一駆逐隊:駆逐艦「長波」、「高波」、「巻波」

第一五駆逐隊:駆逐艦「黒潮」、「親潮」、「陽炎」

第二四駆逐隊:駆逐艦「霧雨」、「氷雨」

である。

 

                     ※

 

 この通商破壊をいち早く察知したアメリカ海軍は、その阻止のためにカールトン・ライト少将率いる第六十七任務部隊をフィジー島沖に派遣する。

 海戦の結果「ノーザンプトン」、「ミネアポリス」、「ペンサコラ」「ニューオーリンズ」を撃沈、「ホノルル」を大破、「フレッチャー」と「ドレイトン」を中破させた。

引き換えに「高波」が撃沈した。

海戦には、勝利したとはいえ目的であった攻略輸送には失敗した。

田中少将は、十二月二十九日附で第二水雷戦隊司令官の職務を解かれた。

この戦いは、戦術的には日本軍の一方的勝利であった。

これは、九一式魚雷通称酸素魚雷に拠るところが大きい。

この魚雷は、当時の魚雷の中では最大級の破壊力を持つものであり直径六十一センチで頭部の炸薬は四百九十キログラムとアメリカ軍の艦載用魚雷であったMk.15魚雷の直径五十三センチの炸薬三百七十五キログラムに比べ段違いの破壊力で且つMk.15の射程四千五百メートル毎四十五ノットに対して酸素魚雷は射程二万メートル毎四十八ノットと四倍以上の射程がある上航跡がほとんど見えないので発見が困難という強力な兵器であった。

日本軍の駆逐艦の中では、白雪型駆逐艦から搭載されておりこの海戦に参加した日本軍の駆逐艦は全艦が九三式魚雷搭載艦であった。

従ってアメリカ軍巡洋艦部隊は、回避する間もなく立て続けに被雷した上にたった一本の被雷で戦闘不能に追い込まれるような大損害を被ったのである。

しかし日本軍は、海戦では大勝利を挙げたものの肝心の攻略隊輸送は完全に失敗であった。

従って日本軍の完全な戦術的勝利ではあったがフィジー島攻略を阻止したということでは、アメリカ軍の完全な戦略的勝利でもあった。

そして以後太平洋戦争の海戦における夜戦において日本軍の完全勝利といえるものは、この海戦が最後となる。

 

                      ※

 

 日本軍航空部隊は、千九百四十三年(昭和十八年)一月十五日からフィジー島への夜間攻撃を強化を企画しほぼ連夜に渡りフィジー島飛行場の爆撃を行っていた。

一月二十五日からは、フィジー島のアメリカ軍飛行場に対し航空撃滅戦を実施した。

第一次となる二十五日陣風七十二機が深山十二機とともに侵攻するも一機(深山一機)を喪失し撃墜戦果無しと一方的な敗北を喫した。

一方で第二次の二十七日海軍の要請によりソロモン方面へ進出していた陸軍航空部隊飛行第十一戦隊と飛行第一戦隊の一式戦「隼」六十八機が飛行第四十五戦隊の九八双軽九機とともに侵攻した。

この空戦においてアメリカ陸軍航空軍第三百三十九戦闘飛行隊および海兵隊第百十二海兵戦闘飛行隊の戦闘機二十四機と交戦し一式戦「隼」は、喪失なしに七機を撃墜していた。

一月二十九日日本軍の偵察機がサモア島の南でアメリカ艦隊(護衛空母二、重巡洋艦三、軽巡洋艦三、駆逐艦八)を発見した。

これは、ギフェン少将の指揮するフィジー島の部隊の交代要員を乗せた輸送船を護衛する第十八任務部隊であり護衛空母二隻(『シェナンゴ』、『スワニー』)及び重巡洋艦三隻(『シカゴ』、『ルイビル』、『ウイチタ』)、軽巡洋艦三隻(『クリーブランド』、『コロンビア』、『モントピリア』)からなっていた。

二隻の護衛空母は、十八ノットしか出せず巡洋艦の足を引っ張る結果となった。

またトーチ作戦から太平洋へ転属になったばかりで日本軍の戦術に慣れていなかった。

敵艦隊を発見した日本軍はラバウル、バラレ、ブカ、ショートランドから触接機を発進させた。

日本軍は、攻撃が太陽が没する直前の薄暮になるようにわざと時間を遅らせてラバウルから攻撃隊を発進させた。

まず十二時三十五分に第七〇五航空隊の深山十二機が続いて十二時四十五分に第七〇一航空隊の九六式陸攻二十一機が発進した。

指揮官は、七〇一空飛行長檜貝襄治少佐である。

なお第七〇一航空隊の二十一機のうち七機は、夜間攻撃用の照明隊である。

また第七〇五航空隊のうち一機は、故障のため引返している。

ギフェン隊は、十九時に駆逐艦四隻と合流予定でありその時間に遅れそうであったため低速の護衛空母を護衛の駆逐艦二隻と共に分離した。

日没後の十七時十九分第七〇五航空隊が攻撃を開始したが戦果は、なく対空砲火で一機を失った。

その後触接機が照明弾を投下した。

十七時四十分第七〇一航空隊が攻撃を開始した。

この攻撃で重巡洋艦「シカゴ」に二本、「ルイビル」、「ウイチタ」に各一本の魚雷が命中した。

「シカゴ」は、大破し「ルイビル」と「ウイチタ」は中破した。

日本軍は、指揮官機を含む二機を失った。

翌三十日日本軍は、再びギフェン隊を発見し十時十五分ブカ島から第七五一航空隊の深山十二機が発進した。

十四時六分攻撃隊は、ギフェン隊を発見し攻撃を開始した。

損傷して曳航中の「シカゴ」に魚雷四本を命中させて撃沈させ駆逐艦「ラ・ヴァレット」にも魚雷一本を命中させ大破させた。

日本の大本営は『戦艦二隻、巡洋艦三隻撃沈、戦艦一隻、巡洋艦一隻中破、戦闘機三機撃墜、味方損害三機』と大本営発表を行った。

 

                      ※

 

 アメリカ軍は、重巡洋艦一隻が沈没し駆逐艦一隻大破の損害を受けたが輸送船は無事にフィジー島に到着できた。

 

                      ※

 

 千九百四十三年三月二日~三月三日~三月四日にフツナ島沖海戦が発生した。

この戦闘で日本軍は、重爆撃機で連合軍の輸送船を攻撃し多数を撃沈させた。

 

                      ※

 

 FS作戦も終末期に差し掛かった千九百四十二年十一月末アメリカ軍は、アナトム島に日本軍が新たな飛行場を建設中であることを知る。

アナトム島とフィジー島の距離は、ガダルカナル島りよ近くフィジー島の攻略やアメリカ軍の進撃を妨害するには好適地であった。

陣風のガダルカナル島上空での行動時間は大幅に伸び爆撃機も従来以上の量の爆弾を搭載してフィジー島を爆撃する事も可能となる。

実際には、日本軍がアナトム島での飛行場建設に乗り出したのは十二月一日からで第一期工事は二週間ほどで終了した。

当然アメリカ軍からしてみればアナトム島の基地が本格稼動した暁には、相当な脅威となる厄介な存在と判断されていた。

そこで千九百四十三年に入るや否やアメリカ軍南太平洋部隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将は、水上部隊にアナトム島への艦砲射撃を繰り返し行わせ同時に爆撃や航空機による機雷投下も行った。

すなわち一月四日には、アナトム島への砲撃が行われて十分な打撃を与えた。

とはいえ圧倒的な力をかけるには、アメリカ軍の戦力は十分とは言えず日本軍は新たな橋頭堡を強固なものにすべく中部ソロモン諸島行きの輸送部隊を次々と送り込んでいた。

 

                      ※

 

 三月四日十六時第四水雷戦隊(高間完少将)指揮下の艦隊が兵糧や弾薬などを積載した輸送部隊を護衛してラバウルから出撃しアナトム島へと向かった。

「村雨」と「峯雲」は、前日三月三日ラエに第五十一師団を送り込む第八十一号作戦の陽動としてコロンバンガラ島方面を行動しておりラバウル入港直前に「村雨」が座礁事故を起こし離礁してラバウルに帰投したのは三月四日の夜明け前のことだった。

また「村雨」と「峯雲」は、この輸送作戦が終わればブインからラバウルへ航空部隊基地員百四十名と物資を輸送する任務も与えられていた。

 

                      ※

 

 一方アメリカ軍もコロンバンガラ島砲撃のためこの日艦隊を出撃させていた。

当時アナトム島を砲撃するアメリカ艦隊には、二つの任務部隊があった。

ヴォールデン・L・エインスワース少将の第六十七任務部隊(旗艦「ホノルル」)でもう一つがアーロン・S・メリル少将の第六十八任務部隊(旗艦「モントピリア」)であった。

この二つの任務部隊は、交替で夜間にアナトム島へ接近し艦砲射撃の後即座に退却して基地に帰投するというパターンを繰り返した。

またフィジー島をめぐる海戦に登場した臨時編成の任務部隊とは、違い夜戦を得意としていた日本艦隊によりよく対抗できるようレーダーに関する知識を学び常にまとまって訓練と行動を繰り返した結果均整が取れた部隊となっていた。

ハルゼー大将は、過大報告された前回の砲撃結果に基づき再度の攻撃のためメリルを出撃させた。

メリル少将の第六十八任務部隊は、サモアを出撃し「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡をひたすら北上する。

このニュージョージア海峡突入時から「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様のPBY「カタリナ」三機が第六十八任務部隊の前路警戒配備に就いた。

なお第六十八任務部隊の軽巡洋艦群のうち、「コロンビア」は、修理を行う必要があったため作戦から除外された。

 海戦の結果「モントピリア」と「クリーブランド」を中破させたが「川内」が大破し「有明」、「夕暮」、「白露」、「時雨」が中破・小破した。

この戦いは、戦術的にはアメリカ軍の判定勝ちであったが輸送は完了していたため日本の戦略的勝利だった。

この海戦は、「アナトム島沖海戦」と呼ばれた。

 

                      ※

 

 第三次ソロモン海戦を期にアメリカ軍の反攻が徐々に強くなってきた。

そんな中アメリカ軍が「空の要塞」の異名を持つB-17戦略爆撃機の後継機を開発しているとの情報を手にした日本軍は、南方の通商破壊だけでなく北方の通商破壊にも本腰を入れなくてはならなくなった。

このためこの方面を担当する日本海軍第五艦隊(細萱戊子郎中将)は、全力で敵輸送船の撃滅を任され重巡洋艦「『那智』(旗艦)、『摩耶』」と第一水雷戦隊(司令官森友一少将)等が出航した。

 海戦の結果「ソルトレイクシティ」、「リッチモンド」(旗艦)、「ベイリー」、「コグラン」、「モナハン」と「デイル」を撃沈し「那智」と「摩耶」が小破するだけの完勝に終わった。

アッツ島沖海戦は、航空機や潜水艦の介入なしに行われた太平洋戦争中の数少ない海上戦闘となった。

この海戦でも主目的だった通商破壊は、達成できなかった。

この海戦は、「アッツ島沖海戦」と呼ばれた。

 

                      ※

 

 日本海軍は、FS作戦中止後の千九百四十三年三月に発令された第三段作戦帝国海軍方針と同時期に日本陸軍との間に取り決められた陸海軍中央協定で春以降の作戦方針としてニューギニア方面を重視していくことを確認した。

連合軍は、フィジー島の防衛に成功しこれより発進する戦闘機と爆撃機はガダルカナル島を連日のように空襲した。

日本海軍はFS作戦中止後も中部ソロモン地区強化の為輸送艦による輸送作戦を実施していた。

この頃南東方面の日本海軍基地航空部隊は、練度低下と器材搭乗員の損耗共に激しく夜間少数機で行っていた陸攻の夜間爆撃すら実施困難となり十一航艦の水偵がそれを肩代わりする事態に陥っていた。

二月十四日にアメリカ陸軍航空隊や海兵隊航空隊の航空機からなる戦爆連合がガダルカナル島を攻撃し日本海軍の航空隊が迎撃したが日本軍は、損害零だっただったのに対してアメリカ軍は四十機を被撃墜されセントバレンタインデーの虐殺と呼ばれる被害を出した。

連合艦隊が母艦飛行機隊を陸上基地で大規模に運用する構想については、千九百四十三年一月のFS作戦中止直後の連合艦隊の作戦指導構想の中にすでに見えている。

ただしこの時点では、消極的で目標も敵機動部隊を想定していた。

また「い号作戦」そのものの構想が固められた時期について戦史叢書では、一月に大本営海軍部(軍令部)より提案された昭和十八年度帝国海軍戦時編制案について連合艦隊が二月二十五日に回答した中に次期作戦についての言及がありこの次期作戦が「い号作戦」を指すのではないかと推測しそこから遅くとも二月中旬頃には作戦に関する構想は固まっていたのではないかとしている。

作戦を計画するにあたり軍令部からの直接の作戦指導は、なくろ号作戦時のような現地部隊からの増援要請も無く連合艦隊が独自に立案し実行されたものだった。

この作戦は、初めから荒ごなしのつもりであり母艦飛行機隊保全の観点からそうなったという。

い号作戦は、航空参謀である樋端久利雄が担当した。

第七艦隊作戦参謀長井純隆の回想によれば「第七艦隊母艦機を南東方面に使うことについて連合艦隊と第七艦隊司令部幕僚間では、相当の論争があったように記憶している。

七艦隊側は、反対意見であった。

しかしこの問題が司令部上層までに及んで論議されたことは、聞いていない。

おそらく山本長官自ら発案し小澤第七艦隊司令長官に直接了解を得られたものと思う」という。

このように作戦立案に関する経緯が現在も不透明な部分が多いのは、作戦終了後作戦立案の中心的人物であった山本五十六が戦死していることや当時連合艦隊参謀長であった宇垣纒の記した『戦藻録』の千九百四十三年一月一日~四月二日までの記述が戦後紛失してしまっていることも影響している。

宇垣纏の口述書によれば作戦を決意したのは、三月の中旬でありその目的は以下のようであった。

フィジーおよびサモアの敵船団、航空兵力を撃破しその反攻企図を妨げる。

同地域の急迫する補給輸送を促進し戦力の充実を図り部隊の強化を実現すること

作戦の実施時期については、内地において訓練中だった第八航空戦隊のトラック進出を待って開始された。

また作戦指揮に関して第七艦隊と基地航空部隊である第十一航空艦隊を統一して指揮する必要がありこれまでの慣例では、先任にあたる十一航艦の草鹿任一が統一指揮をとることになるのだが母艦飛行機隊の指揮を基地航空部隊の指揮官に任せて必要以上に消耗させたくないという第七艦隊の意向もあり連合艦隊司令長官である山本五十六が統一指揮をとることになった。

戦史叢書では作戦の概要は以下のようなものだったと推測している。

作戦目的

1 敵の反攻企図を撃砕と妨圧

2 補給輸送を促進し、第一線戦力の充実を促進する

3 現地陸海軍部隊の作戦指導強化

作戦期間

第一期 四月五日から四月十日までソロモン方面(X作戦)

第二期 四月十一日から四月二十日まで、ニューギニア方面(Y作戦)

参加兵力

第三艦隊 第一航空戦隊、第二航空戦隊、第四航空戦隊、第五航空戦隊、第六航空戦隊、第七航空戦隊、第八航空戦隊

第十一航空艦隊  第二十一航空戦隊、第二十六航空戦隊

参加兵力の詳細な内訳

第一航空戦隊 瑞鶴(艦戦三十二機、艦爆二十四機、艦攻二十四機)、翔鶴(艦戦三十二機、艦爆二十四機、艦攻二十四機)

第二航空戦隊 蒼龍(艦戦二十八機、艦爆十八機、艦攻十八機)、黒龍(艦戦二十八機、艦爆十八機、艦攻十八機)

第四航空戦隊 麗鶴(艦戦三十二機、艦爆二十四機、艦攻二十四機)、雅鶴(艦戦三十二機、艦爆二十四機、艦攻二十四機)

第五航空戦隊 大鳳(艦戦二十四機、艦爆二十四機、艦攻二十四機)、祥鳳(艦戦二十四機、艦爆二十四機、艦攻二十四機)

第六航空戦隊 龍鳳(艦戦二十四機、艦爆二十四機、艦攻二十四機)、瑞鳳(艦戦二十四機、艦爆二十四機、艦攻二十四機)

第七航空戦隊 海鳳(艦戦二十四機、艦爆二十四機、艦攻二十四機)、白鳳(艦戦二十四機、艦爆二十四機、艦攻二十四機)

第八航空戦隊 隼鷹(艦戦二十四機機、艦攻二十四機)、飛鷹(艦戦二十四機、艦攻二十四機)

第二十一航空戦隊 二五三空(艦戦三十六機、陸偵三機)、七五一空(陸攻三十六機)

第二十六航空戦隊 二〇四空(艦戦四十四機、陸偵六機)、五八二空(艦戦二十四機、艦爆十五機)、七〇五空(陸攻三十六機)

さらに作戦要領として敵艦船の攻撃は、艦上爆撃機を主用で戦闘機はその掩護にあたるほか制空隊により敵機の制圧し陸上攻撃機隊は敵航空基地攻撃に主用するなどとしている。

この基本計画に従って攻撃予定地や参加部隊などが決められた。

攻撃予定地:フィジー島方面(X攻撃)

参加部隊:第七艦隊、第十一航空艦隊

攻撃予定地:サモア島(Y攻撃)

参加部隊:第七艦隊、第十一航空艦隊  

 

                        ※

 

 フィジー島の空襲は、当初四月五日実施予定であったが天候不良により二度延期された。

六日の敵通信情報によればフィジー島付近には、艦船約三十五隻の所在が確認され同夜フィジー島を爆撃した陸攻からもフィジー島北東海面に北上する巡洋艦三隻と駆逐艦六隻の発見報告があり七日朝に実施された二五三空の九八式司偵による偵察でもフィジー島に巡洋艦二隻、駆逐艦六隻、大型輸送船二隻などを確認しその他フィジー島付近にも敵艦船の存在を認め前日の敵通信情報が裏付けられた。

攻撃隊は、午前九時四十五分から十一時にかけて次々と各飛行場を発進し攻撃隊ごとに空中で合同し目標上空を目指した。

午前十一時二十五分頃第一制空隊フィジー島上空に突入し続いて十五分遅れて発進した第二制空隊もフィジー島上空に到着した。

午後十二時三十分二〇四空の陣風隊が敵戦闘機と空戦に入る。

「右前方、敵艦船」

 偵察員兼雷撃手を務める金刃恵一(かねとけいいち)飛曹長の声が伝声管を通じて届いた。

日本海軍第七五一海軍航空隊の分隊長小宮山武氏(こみやまたけし)少佐もほとんど同時に目標を発見していた。

「金刃、無線封鎖解除。

全機宛発信。

『目標発見。

全機突入セヨ』」

「『目標発見。

全機突入セヨ』

全機隊に発信します」

 金刃飛曹長が命令を復唱した。

 なおこの時の零戦は、零式艦上戦闘機二一型から三一甲型に機種変更されていた。

改良点としては、折り畳み機構を廃して翼幅を十一メートルに短縮し円形に整形されエンジン排気による空気の整流・推力増強を狙い排気管を分割して機首部の外形に沿って配置する推力式単排気管が外見上の特徴である。

なお三一型は、二一型と同一エンジン装備で正規全備重量で二百キログラム近く増加しているにも関わらず最高速度は約時速二十キロメートルで上昇力も向上しており推力式単排気管の効果を垣間見ることができる。

ただし極初期生産型には、推力式単排気管が間に合わず二一型同様の集合排気管を装備している。

単排気管装備後に排気管からの高熱の排気がタイヤや機体外板を痛めることが判明したため最下部の排気管を切り詰め残りの排気管口付近に耐熱板を貼り付けるといった対策が施されている。

 なお甲型では、ドラム給弾式の九九式一型二十ミリ機銃をベルト給弾式の九九式二型二十ミリ機銃に換装した型である。

給弾方式としてベルト式を採用することによって翼内スペースを有効に活用できるようになり携行弾数は、それまでの百発から百二十五発まで増加した。

主翼外板を〇・二ミリメートル厚くして強度を高めたことで急降下制限速度は、時速七百四十・八キロメートルに達し最高速度は時速五百五十九・三キロメートルに達する。

 直後編隊の右側で動きがあった。

護衛の陣風隊が次々に上昇を開始している。

 その前方に銀色に光るものが見える。

「来たな」

 小宮山少佐は、つぶやき軽く唇を舐めた。

 敵の電探に引っかからないようにフィジー島付近から高度を下げ地上すれすれの低空を飛行していた。

そのため敵艦船を視認するまで敵機と遭遇することは、なかった。

 だが敵戦闘機隊は、日本海軍機の集結を事前に察知しておりこれに対応するために使用可能な戦闘機の全てがフィジー島に集められ当日は七十六機の戦闘機が上空で攻撃隊を待ち構えていた。

 陣風隊は上昇しつつ敵機との距離を詰めていく。

 連合軍は、続々と新型機を投入し戦闘方法も一撃離脱戦法に切り替えたため零戦や陸軍の九八式戦闘機では対抗が難しくなってきたが陣風や隼であればまだまだ対抗可能だった。

 それでも敵機は、自分たちの陣地を死守すべく陣風隊に立ち向かってゆく。

「突っ込むぞ、金刃」

 叩きつけるように小宮山少佐が叫びエンジン・スロットルを開いた。

 火星エンジン二五型二基がけたたましい咆哮を上げた。

熱帯用の密林迷彩を施された深山が加速された。

 小宮山機だけでは、なかった。

 後続する第七艦隊所属の天山隊も同じだった。

 なお七五一空は、二個中隊で水平爆撃隊と雷撃隊に分かれており小宮山少佐は水平爆撃隊の分隊長を務めていた。

 そして第七艦隊の彗星隊と雷撃隊が先行していた。

 眼下の密林がすさまじい勢いで後方に流れ敵艦船が視界の中で急速に拡大する。

指揮所、格納庫、クレーン、兵舎等の付帯設備はどれをとってもニューカレドニアのそれらより立派に見える。

「日本の真珠湾」の異名を持つトラックの設備と比べても遜色ない。

「さすがは、金持ちの国だ。

最前線に贅沢なドックを作りやがって」

 小宮山少佐は、毒づいた。

半分以上は、嫉妬の感情から来ていることはわかっていた。

 敵戦闘機が襲ってきた。

酒樽のようにずんぐりした機体が前上方から突っ込んできた。

グラマンF4Fーワイルドキャットーでアメリカ海軍の主力艦上戦闘機だ。

 開戦後の間もない時期ー特にウェーク島攻略ーで二航戦の陣風隊が不利な位置からF4Fを見事迎撃したと聞いた。

あらゆる面でF4Fを凌駕している陣風にとって全く怖くない敵だった。

 ただし爆撃機や攻撃機にとっては、恐るべき強敵あることには変わりはない。

 小宮山少佐は、咄嗟に操縦桿を右に倒しF4Fの真下にもぐりこむ。

 F4Fは、射撃の機会を失ったのかけたたましい爆音を響かせながら小宮山機の頭上を抜ける。

 二機目のF4Fが続いて向かってくる。

 小宮山少佐は、唸り声を発し右へ右へと旋回する。

 F4Fの両翼に発射炎が閃いたが火箭は、小宮山機をとらえることなく密林の木々の間に吸い込まれるように消える。

「陣風隊の一部がグラマンと空戦に入りました。

残りは、直掩をつづける模様」

 電信員兼機銃手の杉山直人(すぎやまなおと)上飛曹の声が伝声管を通じて聞こえた。

 敵は、こちらの動きを察知しありったけの戦闘機をかき集めてきたようだが結果はこちらのほうが上だったようだ。

 第七艦隊の彗星隊は、すでに敵艦隊に取り付こうとしている。

各艦から対空砲の火箭が突きあがり彗星隊の面前で交差する。

 複数箇所から放たれた火箭を一度に浴びた彗星がひとたまりもなく空中分解を起こし分断された主翼や引き裂かれた胴体を海にばらまく。

 それでも彗星隊は、急降下爆撃を敢行した。

これまでの海戦で第七艦隊の艦爆隊と艦攻隊の練度は、開戦前と比べて著しく低下していると聞くが闘志は衰えておらず果敢に爆撃を試みるがなかなか命中しないが一発を駆逐艦に命中させた。

 火炎が踊り引き裂かれた艦体から大量の黒煙が吹きあがる。

 艦橋直下に直撃を受けた艦船は、艦橋が折れ上部が艦体に落下し爆風と弾片に乗員たちがなぎ倒される。

そして駆逐艦の魚雷に誘爆すれば甲板上で爆発を起こしおびただしい火花と弾片が船外に飛び散る。

 この時には、すでに彗星隊と雷撃隊が攻撃を終えており敵艦の多くが被弾し船体から黒煙を噴き上げていた。

 艦船に五十番爆弾や魚雷が命中するたび轟音とともに黒煙や巨大な水柱などが噴きあがる。

停泊しているのは、小型艦ばかりなので命中するたび船体は大きく身もだえる。

 艦橋や煙突などの構造物に直撃弾は、徹甲能力で大穴を穿ち焼夷爆薬が内部を焼き尽くす。

 爆弾が弾薬庫に直撃したのか船体が引きちぎれそこから流血したかのように海面に重油を流していた。

 小宮山少佐は、港に近づきつつまだ被弾していない敵艦を探した。

 胴体下には、八十番爆弾を一発抱えている。

 真珠湾攻撃時に九七式艦攻が敵艦に使用したものと同じである。

ただこれは、戦艦を沈めるために開発されたものであるため小型艦に落とすと爆発することなく艦底まで貫く可能性もあった。

「分隊長、左前方に巡洋艦が見えます」

 金刃飛曹長の弾んだ声が伝声管から伝わってきた。

「そいつをやる」

 小宮山少佐は、躊躇なく目標を定めた。

 左の水平旋回をかけると海上に駆逐艦よりも明らかに船体が大きい艦がいた。

 あれを沈めればニューカレドニアの友軍が助かると思いつつ小宮山少佐は、地上すれすれの低空をフル・スロットルで突進した。

 前方に漂う火災煙を両翼のプロペラが巻き込み後方へと吹き飛ばす。

 火災煙は、コックピットの前にも流れ視界を妨げる。

 だが小宮山少佐は、その向こうに見える巡洋艦をしっかり見据えていた。

 速力を全く落とすことなく小宮山少佐の深山は、巡洋艦の真上に近づいた。

 金刃飛曹長が八十番爆弾を投下したのだろう。

風防ガラスの内側が後方で上がった黒煙を反射し黒々していた。

「巡洋艦、轟沈」

 金刃飛曹長の弾んだ声が伝声管から伝わってきた。

「了解」

 小宮山少佐は、即座に返答した。

 前方には、すでに攻撃を終えた深山の姿が見える。

追撃してくる敵機は、いないようだ。

 ここで初めて小宮山少佐は、後方を振り返った。

 フィジー島の港湾は、十数か所から黒煙を上げている。

 一か所を除き火災煙の量は、それほど多くはない。

黒煙が噴出してる箇所は、多いがさほど大規模な火災を引き起こすには至らなかったようだ。

「もう一度来ることになりそうですな」

 金刃飛曹長も戦果を見てそういった。

「一度だけでは、終わるまい」

 小宮山少佐は、金刃飛曹長の言葉にぼそりと答えた。

 ニューカレドニアには、友軍がいる。

 第六師団の将兵がニューカレドニア一帯を死守している。

敵艦を一隻でも沈めたり敵機を一機でも多く撃破すれば守備隊がそれだけ助かるのだ。

 南方の戦いは、簡単には終わらない。

戦い続ける以外の道は、自分たちにはない。

 それが直視しなければならない現実だった。

 戦果は、

三十二隻撃沈。

三十六機撃墜。

である。

損害は、十一機である。

 攻撃終了後午後三時から午後五時までの間に各部隊は、発進基地へ帰着したが飛鷹艦攻隊の内三機と隼鷹艦攻隊の内一機はコロンバンガラ基地に隼鷹艦攻隊の内六機はムンダ基地に帰投した。

また連合軍は、航空機の写真偵察により日本海軍機の集結を事前に察知しておりこれに対応するために使用可能な戦闘機の全てがガ島に集められ当日は七十六機の戦闘機がフィジー島周辺で日本軍の攻撃隊を迎えうち爆撃機は全て事前にフィジー島南西端上空へ避退していた。

さらに当日の日本軍の攻撃隊の発進もコーストウォッチャーにより逐一動静をつかんでいた。

またこの方面には、当時第十八任務部隊の軽巡「ホノルル」、「ヘレナ」、「セントルイス」と駆逐艦六隻も在泊していたが日本軍の接近を察知し当日予定されていたムンダへの砲撃をキャンセルし南下し避退していた。

 

                    ※

 

 予定では、四月十日にY攻撃実施となっていたが前日より天候悪化のためこれを延期し十日以降Y一とY二攻撃を実施するとし整備の為一日間をおいて十一日サモア方面攻撃であるY二攻撃が実施された。

午前八時三十分から九時にかけてニューカレドニアを発進した攻撃隊は、午前十一時二十五分から四十分にかけて上空に到達した。

 第七艦隊および第二十六航空戦隊の陣風隊が敵の迎撃機めがけて突進し双発双胴の重戦闘機P-38と空中戦に入った。

しかしこのP-38は、陣風隊を爆撃隊から離すための精鋭隊であり陣風隊はそれに乗せられ爆撃隊と雷撃隊から離れてしまった。

 裸になってしまった爆撃隊と雷撃隊の正面上方に銀色の光がきらめく。

高空で待ち構えていたP-40が攻撃に移ったのだ。

 ほとんど垂直に近い角度で急降下をかけたP-40が両翼に装備した十二・七ミリ機銃六丁を乱射しようとした。

 しかし寸前で異変に気づいた一部の陣風隊と零戦隊が妨害に入った。

 それでも無事なP-40は、主翼と言わず胴といわず一二・七ミリ機銃弾の曳痕が突き刺さり激しい火花を散らす。

銃撃を終えたP-40は、そのまま速力を緩めることなく猛速で下方へと離脱する。

攻撃に参加した深山、天山と彗星は上部旋回機銃や下部旋回機銃などを装備していなかったため高空から下部に抜けたP-40に対して何もできなかった。

 その様は、攻撃隊めがけて鉄槌を振り下ろすかのようだ。

 P-40が撃ち込んだ射弾は、深山の主翼や胴体をえぐりジュラルミンの外鈑を引きちぎる。

 エンジン・カウリングを貫かれエンジンを傷つけられた深山が黒煙を引きながら高度を落とし送油管を切断された深山が火焔を吹き出す。

 致命的な損傷を受けた深山は、編隊から一機また一機と落伍する。

 主翼の火災が拡大した深山は、機体の後ろ半分が炎に包まれた状態で真っ逆さまに墜落する。

 コックピットに銃撃を浴び操縦者と前部機銃者を失った深山は、機体を大きく傾け原形を保ったまま悲鳴じみた音を発しながら墜ちて行く。

 エンジン出力が低下し速度が大幅に衰えた深山は、機体の揚力を保てなくなり滑り込むようにして海面に突っ込む。

 深山隊のうち四機がサモア島沖や海岸に墜落した。

 損傷を受けた深山の何機かは、反転し戦場から離脱した。

 残りの深山隊や無傷の彗星隊と天山隊は、依然進撃を続ける。

 P-40の直上攻撃は、深山に対して有効であるが決定打ではなかった。

そのためP-40隊は、もう一撃を加えようとしていたが直前に陣風隊と零戦隊の妨害によってそれができなくなってしまった。

 それでもこのパイロットたちは、熟練であるため陣風と零戦を巧みに翻弄し撃墜されなようにしていた。

 サモアの港湾内に発射炎が閃いた。

 攻撃隊の行く手を塞ぐように閃光が次々とほとばしり黒々とした爆煙がつづけさまに湧き出した。

 地上の対空砲陣地と在泊艦船の高射砲が応戦を始めたのだ。

 迎撃機が阻止しきれなかった以上海上から撃ち上げられる砲弾が攻撃隊を食い止める最後の楯となる。

 Mk 12 5インチ砲が攻撃隊の前後左右上下で次々と炸裂する。

 攻撃隊の左右で爆発した砲弾は、横殴りの爆風を浴びさせ正面で爆発した砲弾はおびただしい弾片を礫のようにたたきつける。

 陸上や艦船に搭載されたMk 12 5インチ砲からは、相当数の砲弾が敵機の至近距離で炸裂しているように見えた。

敵機が片端から火を噴き墜落していく光景を思い描いた兵もいた。

 だが攻撃機は、墜ちない。

 損傷を受けたのかうっすらと黒煙をなびかせている機体もあるがそのような機体も速度を落とすことなく編隊に付き従っている。

 ほどなく港湾の海面に弾着の飛沫が奔騰し始めた。

 その後攻撃隊は、午後二時から二時四十分にかけて帰着した。

 戦果は、小型艦三十二隻撃沈

である。

 損害は、四機である。

 

                    ※

 

 山本長官は、い号作戦の終結を下令した。

また同日連合艦隊は、第二期作戦の戦果並びに被害を報告し「フィジー・サモア方面航空作戦に敵の意表を衝き甚大なる打撃を与え敵の反撃企図を相当防遏し得たるものと認む」と所見を出し概ね作戦目的を達しえたものと判断した。

しかし米軍側は、日々の偵察機により逐次日本軍の兵力配備の把握に努め邀撃戦力の準備を進めレーダーやコーストウォッチャーにより攻撃を事前に予測し当日は爆撃機や在泊艦船を避退させ被害を極限した。

そのため日本軍が認識していたよりも米軍の被害は、大幅に少ないものだった。

作戦終了後の十七日連合艦隊は、ガダルカナル島で「い号作戦」研究会を行なった。

ここでは、連合軍の増勢遮断と前線航空基地の整備を主題として取り上げ山本も航空戦の成否が勝敗を決するという趣旨の訓示を行なった。

また宇垣は、航空作戦に関して偵察を徹底すること小目標であってもこまめに攻撃すること大型機に対する対処法や新たな攻撃法に対する研究の促進などを希望として述べた。

今回の作戦についての連絡は、現地の第八方面軍には三月十二日に参謀本部には同十八日に正式に伝えられていたが海軍の航空作戦に呼応して積極的な航空作戦や大規模な船団輸送を実施するような機運にはならず中央も現地も傍観的な態度であったという。

これに関して四月十一日天皇からもい号作戦に関連して陸軍の作戦指導に関する質問がなされた。

そのため参謀本部では、現地第八方面軍に対して十二日には補給の現状と今後の見通しについての問い合わせが十四日には海軍の航空作戦に呼応して積極的に輸送作戦を実施するよう督促が発せられたがもとより現地の第八方面軍ではガダルカナル方面の輸送計画に関して海軍側と困難な折衝を続けていたいきさつもあり方面軍参謀の井本熊雄はそれまでの中央の現地に対する無理解への不満も相まって中央からの神経質な干渉に相当な苛立ちを感じていた。

ただ現実問題として当時積極的な航空作戦を実施できるほど陸軍の航空戦力が充実していなかったことは井本自身も認めており当時の南東方面は、もはや航空援護無しに輸送作戦を実施することはありえない情勢であったため事は簡単ではなかった。

またこの当時の南東方面に展開していた陸軍航空部隊である第六飛行師団の三月二十日頃の実働戦力は一式戦闘機五十機、九八式双発軽爆撃機十六機、九七式重爆撃機十七機、九八式司令部偵察機三機の合計八十七機でありこれは部隊定数の六十パーセントに過ぎずこの頃の第六飛行師団はもっぱらフィジー・サモア湾方面への夜間爆撃と輸送部隊の船団護衛に従事する程度の活動に甘んじていた。

それでもこの作戦中にガダルカナル方面への輸送は、数回実施されておりX攻撃直後の四月八日のガダルカナル輸送は連合軍の妨害を受けることなく成功しこの後始まる中部ソロモンの防衛の一助となった。

第八方面軍もい号作戦によってフィジー・サモア方面の連合軍の活動が低下したことを認めている。

とは、いえ作戦実施期間の関係でその効果が現れた期間は短く陸軍側には物足りないという思いが残った。




亀更新ですみません。


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第五話 終戦

長かった。これにて六六機動部隊は、終わりです。


                     第一章 ガダルカナル島沖海戦

 

 ソロモン諸島の戦いのうち千九百四十二年十一月三十日から十二月一日にかけての深夜に起こったルンガ沖夜戦でカールトン・H・ライト少将率いる第六十七任務部隊は、田中頼三少将の第二水雷戦隊の一隊によって重巡洋艦群が手痛い損害を受けた。

南太平洋軍司令官ウィリアム・ハルゼー大将は、第六十七任務部隊の立て直しを図り十二月十日付でヴォールデン・L・エインスワースをライトの後任として第六十七任務部隊司令官に据えた。

軽巡洋艦を中心に再建された第六十七任務部隊は、エインズワースに率いられ南方から日本軍を追い出す最後の戦いの支援に任じた。

特にアナトム島に新たに建設されていた日本軍飛行場に対する艦砲射撃を行った戦闘行動は、「エインズワース・エクスプレス」とも呼称され歴史家サミュエル・E・モリソンに「基地攻撃に関する長期間にわたるお手本」と評された。

千九百四十三年三月に入り合衆国艦隊の再編成が行われて南太平洋部隊は、「第三艦隊」と呼称されるようになり水陸両用戦部隊以外は「第三十六任務部隊」と改められた。

エインズワース少将率いる第三十六任務部隊は「ザ・スロット」と呼ばれたニュージョージア海峡にてアーロン・S・メリル少将率いる第六十八任務部隊と交互に行動することになった。

三月五日深夜から三月六日未明にかけて行われたアナトム島沖夜戦では、メリル少将の第六十八任務部隊が輸送任務を終えて帰途についていた日本海軍の水雷戦隊を捕捉しレーダー射撃を行ったが判定勝ちで圧勝できなかった。

 ソロモン方面にいた主な有力なアメリカ艦隊は、上記の二つのみであり前年のガダルカナル島を巡る戦闘で多数の航空母艦を撃沈され太平洋・大西洋で行動可能なアメリカ海軍の正規空母はサラトガ一隻程度しかおらず航空戦力はもっぱら基地航空隊に頼っていた。

このため千九百四十二年六月から十月に限っては、急遽イギリス海軍から借り受けた空母「ヴィクトリアス」を投入したがこれも南太平洋海戦で沈んでしまった。

またタンナ島上陸は、六月中旬に予定されていたがヨーロッパ戦線でのイタリア本土上陸作戦の準備と大西洋の船団護衛に多量の航空機と艦艇が回されたためタンナ島は六月初についで六月三十日に延期になった。

六月三十日アメリカ軍は、アナトム島対岸のタンナ島に上陸し占領した。

 タンナ島を占領する意味は、ここに重砲を据えてアナトム島の飛行場へ直接砲撃が可能になるということでありいわば「不沈砲台」とするものであった。

しかし日本軍は、その事を理解しておらずわずか百二十名の守備隊はリッチモンド・K・ターナー少将率いる水陸両用部隊に一蹴されたのである。

引き続きタンナ島の重砲の援護下アナトム島攻略部隊は、続々と舟艇機動によって東方海岸に殺到する。

ところが攻略部隊は、ジャングル内で日本軍側の縦深防御に手を焼いて進撃は進まなかった。

ウィリアム・ハルゼー大将の南太平洋部隊内部では、この戦いをちょうど八十年前の南北戦争時のビックスバーグの包囲戦になぞらえ包囲戦が終結した七月四日には同じように勝利を手にする事ができるだろうと考えていたがこの目論見も外れる形となった。

 

                           ※

 

 一方の日本軍側は、第十一駆逐隊(『早風』、『夏風』、『冬風』、『初風』)が七月二日十六時にブインを出撃して日付が七月三日になろうとする頃にタンナ島沖に到着した。

タンナ島に対して艦砲射撃を行い引き揚げた。

タンナ島占領は、第八方面軍にアナトム島の防衛強化の重要性を再認識させた。

三日にニューカレドニアの日本軍南東支隊司令部で会議が開かれ陸軍は、海軍に「ニュージョージア島防衛にこだわった責任を取って支援部隊を送れ」と要求したが海軍からは「ガダルカナルの航空部隊は、消耗しており艦隊は燃料不足で出撃できず」と返答された。

さらに陸軍の佐々木支隊長がタンナ島へ逆上陸して重砲を破壊することを提案し海軍に協力を求めたが上陸に必要な大発は、米軍の砲撃で破壊されており実行は不可能だった。

ニュージョージア島は、喉元に刃物を突きつけられた状態となって輸送が困難になることが予想されたため防衛強化のために速射砲と陸兵千三百名と大発十五隻分に相当する物件をアナトム島に輸送する事とした。

輸送は、二度の鼠輸送によって行われることとし七月四日と七月五日に駆逐艦四隻ずつを送り込むことになった。

一方アメリカ軍側もニューカレドニア奪還の支援のためイロマンガ島に対しても上陸作戦を行う事となりアメリカ第三十七歩兵師団三個大隊を乗せた高速輸送艦を主体とする輸送船団とヴォールデン・L・エインスワース少将率いる火力支援担当の第三十六・一任務群を送り込む事となった。

戦力は、

第十五駆逐隊(『涼月』、『黒潮』、『親潮』、『早潮』)

第一次輸送隊 「清風」、「村風」、「里風」、「沖津風」

である。

 海戦の結果「ストロング」を撃沈し味方の被害は、なしの一方的な勝利で輸送も成功させた。

一方のアメリカ軍側は、駆逐艦一隻を失ったものの上陸作戦には成功しアナトム島に対する圧力をいっそう強める事となった。

 

                           ※

 

 これに続き第二次輸送部隊も編成された。

戦力は、

第三水雷戦隊

旗艦 「鬼怒」

第十五駆逐隊(『黒潮』、『親潮』、『早潮』、『陽炎』)

第十七駆逐隊(『高潮』、『秋潮』、『春潮』、『若潮』)

第一次輸送隊(『早風』、『夏風』)

第二次輸送部隊(『清風』、『里風』、『沖津風』、『妙風』」

である。

 海戦の結果「ホノルル」、「ヘレナ」、「セントルイス」、「ニコラス」、「オバノン」、「ジェンキンス」、「ラドフォード」を撃沈し「鬼怒」が沈み第三水雷戦隊司令部も全滅した。

アナトム島への輸送は、完全に成功した。

駆逐艦「高潮」戦闘詳報では、アメリカ軍のレーダーの脅威を訴えまたアメリカ軍巡洋艦の装備と能力を正当に評価した。

『肉薄しないのは、精神力の不足』と批判せぬよう指摘している。

しかしフィジー方面の戦闘は、依然として厳しい状況でありアナトム島へ一部の兵力を移すこととなった。

この事により、その分だけ後方の島の兵力に穴が開くこととなるため後詰め兵力を送り込む必要性が出てきた。

そこで七月九日にニューカレドニア島への緊急輸送が行われ七月十二日にも輸送作戦が行われるが同日夜にアナルゴワット湾夜戦に似たような経過でニューカレドニア島沖海戦が発生した。

また司令部が全滅した第三水雷戦隊の後任司令官として七月七日付で伊集院松治大佐が発令され七月十日に着任した。

 大本営は、この海戦を「アナルゴワット湾夜戦」と呼んだ。

 

                            ※

 

 千九百四十三年六月三十日にアメリカ軍は、タンナ島に上陸し七月五日にはイロマンガ島へ上陸した。

この状況で七月四日と七月五日に日本軍によるアナトム島への増援部隊の輸送が行われ七月四日の輸送は、ヴォールデン・L・エインスワース少将率いる第三十六・一任務群と遭遇したが達成し七月五日の輸送では途中で再度第三十六・一任務群と遭遇してアナルゴワット湾夜戦が発生したが物資の輸送は完了した。

また軽巡「鬼怒」がアナルゴワット湾夜戦で沈没して秋山輝男少将以下第三水雷戦隊司令部も全滅したためその後任司令官(増援部隊指揮官兼任)として七月七日付で伊集院松治大佐が発令されて七月十日に着任するが伊集院大佐の到着までの間重巡洋艦「鳥海」艦長有賀幸作大佐が臨時の増援部隊指揮官となった。

さらに連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、第二水雷戦隊(伊崎俊二少将)とその旗艦「三隈」と駆逐艦「清波」および第七戦隊(西村祥治少将)をラバウル方面に進出させて南東方面部隊に編入させそれぞれに出撃準備を命じた。

フィジー方面の戦闘は、依然として厳しい状況であり連合国軍の横腹を突くため陸軍はアナトム島へ一部の兵力を移すこととなった。

その兵力としてニューカレドニア島に駐屯していた第十三連隊を転用する事とし転用に伴う後詰め兵力の輸送は、七月九日夜に実施される事となった。

戦力は、

主隊:重巡洋艦「鳥海」(外南洋部隊指揮官座乗)、軽巡洋艦「三隈」

警戒隊:駆逐艦「雪風」、「夕暮」、「谷風」、「浜風」

輸送隊:駆逐艦「清風」、「村風」、「里風」、「沖津風」

である。

 七月九日十七時主隊、警戒隊と輸送隊はブインを出撃し輸送隊はアナトム島に向かう。

なんら妨害を受けることなく輸送任務は、成功した。

主隊と警戒隊は、タンナ島のアメリカ軍に対して艦砲射撃を行ったあと七月十日に三隊ともブインに帰投した。

輸送作戦の効果は、「味方の航空支援などもあって効果てきめんであり明るい材料が多い」と判断された。

しかし第十三連隊をアナトム島に移したという事は、その分ニューカレドニア島の兵力が減少したという事につながる。

第八方面軍は、更なる後詰め兵力として歩兵第四十五連隊中から第二大隊と砲兵一個中隊合計千二百名と物件約百トンを送り込む事としその輸送作戦の指揮はラバウルに進出したばかりの伊崎少将に委ねられる事となった。

 

                             ※

 

 一方アナルゴワット湾夜戦で全滅した第三十六・一任務群は、その代役として輸送船団の護衛任務についていたニュージーランド海軍の軽巡洋艦「リアンダー」 を引き抜いて旗艦とした。

また駆逐艦も同等数に戻した。

 

                             ※

 

 戦力は、

第二水雷戦隊部隊

軽巡洋艦:「三隈」

駆逐艦:「清波」、「雪風」、「浜風」、「黒潮」、「親潮」

輸送隊

駆逐隊:「清風」、「村風」、「里風」、「沖津風」

である。

 海戦の結果「グウィン」と「リアンダー」を撃沈し「ラルフ・タルボット」、「ブキャナン」、「モーリー」、「ウッドワース」を大破させたが「三隈」が大破した。

太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は、後年とニューカレドニア島沖海戦におけるエインスワース少将の戦いぶりについて以下のように評した。

 

 エーンスワース提督は、アナルゴワット湾夜戦とニューカレドニア沖海戦の二回の海戦において適当な夜間隊形で接敵した。

単縦陣の巡洋艦部隊を中央にその前後にそれぞれ駆逐艦を配備していた。

二回ともエーンスワースの巡洋艦は、日本艦隊に近迫し五分間ほど急射撃を浴びせ次いで日本の魚雷を回避するため針路を反転した。

これは、理論としては適当であったが実施の面では二つの欠陥があった。

第一にレーダー手が効果的な射撃の配分を示す代わりに一番大きな艦または、最も近い目標だけを選んだので連合軍部隊は双方の海戦で兵力の点でははるかに優勢であったにもかかわらず各回ともわずかに一隻である。

二海戦とも軽巡洋艦に損害を与えるしかなかった。

第二にエーンスワースが自分の肉眼で容易に目標を視認できるほど日本艦隊に近寄りすぎしかも射撃開始の時機を失したため日本軍は、慎重に狙いを定め魚雷を発射することができた。

日本の魚雷は、彼が針路を反転しているときに列線に到達した。

したがって各海戦において彼の巡洋艦には、転舵中に魚雷が命中し第三十六・一任務部隊は最初の夜戦で「グウィン」と「リアンダー」は二回目の夜戦でともに撃沈したのである。

 

 ただしレーダーにより日本艦隊を発見した後指揮下の艦艇に攻撃命令を出すまで十八分の時間を要しその間日本艦隊に発見と反撃の機会を与えたアナルゴワット湾夜戦においては、ニミッツ提督の指摘通りエインスワース少将の指揮の遅さはあったがこの夜戦では逆探によってアメリカ軍のレーダー射撃の危機を察知した日本艦隊が米艦隊を上回る速度で前進したためアメリカ軍のレーダー探知の僅か四分後に互いを目視で確認できる距離まで急接近した点は状況が異なる。

またニミッツ元帥は、エインスワース少将が日本の駆逐艦に魚雷次発装填装置があることを知らず無警戒だった点を指摘している。

巡洋艦を中央に置き前後に駆逐艦を配置する陣形は、千九百四十二年十月十一日のエスピリトゥサント島沖海戦以来常用していたものである。

しかし大乱戦となった千九百四十二年十一月十三日の第三次ソロモン海戦は、さておいてニューカレドニア島沖海戦で「三隈」へ突撃をするまで駆逐艦は海戦においてあまり活躍していなかった。

この点を踏まえニミッツ元帥は、評を以下のように締めくくっている。

 

 要するにアメリカ側は、この海戦において戦術の面では前年にくらべて大きな進歩を示したが戦闘能力と敵戦闘力に対する認識の点では依然として欠けるところがあった。

 

 いずれにせよ第三十六・一任務群は、艦艇が沈むか損傷などにより壊滅となった。

ソロモン方面のもう一つの有力なアメリカ海軍の水上部隊である第三十六・九任務群は、七月十二日未明にアナトム島を砲撃し七月十五日に哨戒しているものの日本艦隊と会敵する事はなくフィジー島を経て七月の中旬から下旬にかけてはサモア近海で行動していた。

 

                              ※

 

 連合国軍は、魚雷艇を配備して妨害行動に出たものの大発一隻を撃沈したのみで駆逐艦の「東京急行」には通用せず効果がある妨害とはならなかった。

連合国軍の敗北により第三十六・一任務群の解体と第三十六・九任務群の遠方での行動は連合国軍による当面の妨害手段は魚雷艇と駆逐艦、航空機のみとなっていた。

 

                              ※

 

 大本営は、この海戦を「ニューカレドニア沖海戦」と呼んだ。

日本海軍は、アナルゴワット湾夜戦とニューカレドニア沖海戦の結果フィジー方面の連合国軍の残存水上兵力は「巡洋艦三隻と駆逐艦六隻」程度と判断した。

またアナルゴワット湾夜戦とニューカレドニア島沖海戦で巡洋艦を伴った連合国軍艦隊が出現した事を鑑みフィジー方面部隊に増援させていた第七戦隊を活用して残存水上兵力を撃滅し輸送作戦を安全に実施できるようにするという計画を立てた。

七月十八日夜以下のような顔ぶれで輸送作戦を再開する事になった。

主隊

重巡洋艦:「葛城」、「笠置」、「鳥海」

第三水雷戦隊

軽巡洋艦:「阿武隈」

駆逐艦:「雪風」、「浜風」、「清波」、「夕暮」

輸送隊:駆逐艦「北風」、「朝東風」、「松風」

主隊および第三水雷戦隊は、七月十八日二十二時にラバウルを出撃し翌十九日夕刻に輸送隊と合流した。

主隊と第三水雷戦隊は、敵艦隊を捜索するも遭遇せず反転し輸送隊は二十三時四十分にアナトム島の泊地に到着して七月二十日零時三十五分までに揚陸作業を終えた。

しかし艦隊は、姿を見せなかったものの一連の第七戦隊など行動は「ブラックキャット」の異名を持つ夜間哨戒仕様のアメリカ海軍のPBY「カタリナ」によって筒抜けとなっていた。

「ブラックキャット」機の報告によりフィジー島から夜間攻撃隊が出動し引き揚げる第七戦隊と第三水雷戦隊を攻撃する。

陣形の関係上先頭を航行していた「清波」が最初の攻撃でが轟沈し次いで「葛城」にも魚雷が命中して舵故障等の被害を与えた。

輸送隊の「朝東風」と「松風」も至近弾で損傷した。

アメリカ軍の損害について「雪風」は、対空砲火で四機を撃墜したと主張している。

残存艦艇は、十七時三十分にガダルカナルに帰投した。

輸送作戦自体は、成功したものの昼夜分かたぬ航空攻撃を避けるためこれ以降アナトム島への輸送作戦に使用するルートの変更を余儀なくされた。

 

                                ※

 

 七月五日以降の南方での戦いでアメリカ軍は、度重なる苦戦や上陸部隊指揮官の入れ替え可能な限りの予備兵力の投入などを経て八月五日にはアナトム島飛行場の占領に成功した。

しかしアナトム島に残っていた日本軍は、その後も数週間にわたってアメリカ軍を翻弄し一部兵力は敵わないと見るやニューカレドニア島へ逃れて同島の防備隊に加わった。

第三艦隊司令官ウィリアム・ハルゼー大将やその幕僚たちは、アナトム島占領には一応の満足を示したもののその経過については極めて不満でありこれ以上ジャングルでの戦闘を重ねるべきではないという考えすら芽生えていた。

次の攻略目標は、ニューカレドニア島にある日本軍飛行場であったが増援が重ねられていたニューカレドニア島の兵力は相当なものであると見積もられていた。

そこでハルゼー大将は、ニューカレドニア島を無視してその北方にあり防御が手薄なエスピリトゥサント島を奪還することに決めた。

ハルゼー大将は、作戦計画変更のため南西太平洋方面総司令官ダグラス・マッカーサー大将の下にオーブリー・フィッチ少将を派遣して作戦計画変更の承認を何とか取りつけエスピリトゥサント島奪還が正式に決まった。

八月十五日セオドア・S・ウィルキンソン少将率いる第三水陸両用部隊は、占領したばかりのアナトム島飛行場に配備された戦闘機部隊の援護の下エスピリトゥサント島南端に約六千名の部隊を上陸させた。

エスピリトゥサント島の日本軍の守備隊は、六百名だったばかりか上陸地点の地区には配備させていなかった。

日本軍は、基地航空隊による攻撃を行ったがほとんど戦果はあげられなかった。

上陸したアメリカ軍は、陣地を構築しシービーズが飛行場の建設を始めた。

やがてアメリカ軍に対する反撃がないと確信すると上陸部隊は、海岸沿いに二手に分かれて戦線を北上させまたニュージーランド軍部隊を呼び寄せて戦力の増強を行った。

 

                                ※

 

 エスピリトゥサント島逆上陸は、日本軍の防衛計画を根本から揺るがせることとなった。

ニューカレドニア島への兵力増強策がニューカレドニア島防衛強化の時間稼ぎにつながっていたものが海で隔てたエスピリトゥサント島にアメリカ軍が逆上陸したことでガダルカナル島やソロモン諸島が直接の脅威に晒される可能性が極めて大きくなった。

これに対し日本軍は、エスピリトゥサント島北東へ陸軍部隊と海軍陸戦隊を送り込む事を決める。

陸軍部隊は、ラバウルからブインに送られた第六師団(神田正種中将)から派遣された二個中隊をあてる事とした。

 海戦の結果「第五号駆潜特務艇」と「第十二号駆潜特務艇」、大発一隻が沈没し戦果は得られなかったが輸送は一応成功したのでアメリカ側の戦術的勝利で日本側の戦略的勝利で終わった。

大本営は、この海戦を「第一次エスピリトゥサント島沖海戦」と呼んだ。

 これを受けて好機を見てエスピリトゥサント島上陸部隊を撃滅するという方針が確認された。

しかし上陸部隊が九月上旬から進撃を開始するとエスピリトゥサント島の戦況は、一気に悪化する事となった。

ベララベラ島の日本軍は、舟艇などによる補給輸送がことごとく妨害され水上偵察機によってわずかに補給を受けているに過ぎず兵力も圧倒的なアメリカ軍およびニュージーランド軍の圧迫により徐々に減少してその運命は時間の問題と考えられるようになっていった。

 

                                ※

 

 八月十五日にエスピリトゥサント島に逆上陸したアメリカ軍とアメリカ軍と入れ替わりで増派されたニュージーランド軍は、圧倒的な兵力で日本軍守備隊に圧力をかけ続け九月に入ってから二手に分かれて攻勢に転じた。

当時エスピリトゥサント島にいた日本軍は、陸海軍および付近海域で遭難しエスピリトゥサント島に到達した艦船乗員など合わせて六百二十九名であり寡兵をもってニュージーランド軍と交戦し続けたものの徐々に島の北西部に追い詰められていった。

舟艇などによる補給輸送がことごとく妨害され水上偵察機によってわずかに補給を受けているに過ぎずその運命は、時間の問題と考えられるようになっていった。

九月二十八日には、第十七軍と南東方面部隊から決別とも解釈できる電文が送られた。

そもそもエスピリトゥサント島守備隊は、ニューカレドニア島守備隊のバックアップ的な存在であったがニューカレドニア島守備隊はセ号作戦で撤退を完了しその役割も終えることとなった。

第八艦隊の撤退方針に対し上級司令部の南東方面艦隊は、作戦延期を指導し第八艦隊参謀長がラバウルに飛んで「鶴屋部隊には、すでに撤退を命じてしまったので承認してほしい」と懇願した結果鶴屋部隊の撤退許可がおりる。

十月六日には、エスピリトゥサント島からブインへの撤収が急遽行われることとなった。

夜襲部隊:軽巡洋艦「阿武隈」(第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐座乗)、駆逐艦「秋雲」 、「風雲」 、「夕雲」 、「磯風」 、「時雨」 、「五月雨」

輸送部隊:駆逐艦「太刀風」、「汐風」、「松風」、小発六隻、折畳浮舟三十隻

収容部隊:第20号駆潜特務艇、第23号駆潜特務艇、第30号駆潜特務艇、艦載水雷艇三隻、大発一隻

 海戦の結果「シャヴァリア」を撃沈し「セルフリッジ」と「シャヴァリア」を大破させた。

引き換えに「夕雲」が沈没した。

大本営は、この海戦を「第二次エスピリトゥサント島沖海戦」と呼んだ。

 「秋雲」と「風雲」、「時雨」と「五月雨」がそれぞれ発見したのは同じウォーカー隊であったが海戦当時は前者が発見したのが巡洋艦群で後者が発見したのが駆逐艦群と考えられていた。

一つの駆逐群を別々に攻撃した結果戦果は、「巡洋艦または大型駆逐艦二隻撃沈し駆逐艦三隻撃沈」と判定された。

実際の戦果と大きくかけ離れているのは、言うまでもない。

戦果は、第八艦隊司令官鮫島具重中将から天皇にも報告され第二十七駆逐隊司令原為一大佐に軍刀一振で「時雨」駆逐艦長山上亀三雄少佐と「五月雨」駆逐艦長杉原与四郎少佐には短刀一本が贈られた。

「夕雲」の生存者は、一部はレンドバ島からの魚雷艇に救助されたが一人の夕雲乗員が艇上で乱闘を起こした末に見張り兵を殺害したため復讐の意味で皆殺しにされた。

他方機関部員を中心とする二十五名は、途中アメリカ軍が放置していった内火艇を分捕った。

やがて魚雷艇が接近して移乗するよう命じられるも「No」と叫んで拒否すると生存者分の食糧と飲料水を内火艇の甲板に置いて去っていった。

内火艇は、一日半経ってからブインに到着し鮫島中将に「『夕雲』は、行方不明で全滅と聞いたが敵のボートを分捕って帰るとはよくやった。

御苦労」と賞賛された。

 

                                 ※

 

 太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は、後年ウォーカー隊の敗因としてウォーカー大佐が雷撃を回避する運動を行わず射撃効果を上げるために隊形と針路を維持し続けたことを挙げている。

 

                                 ※

 

 連合国および南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将が千九百四十三年四月二十六日に発令したカートホイール作戦の計画では、ガダルカナル島を攻略せず無視することがすでに決まっていた。

第三艦隊(南太平洋部隊ウィリアム・ハルゼー大将)は、ガダルカナル島包囲のためにマライタ島を攻略することとサボ島島とその周辺の島々のうちラッセル諸島をパスするところまでは作戦進捗に伴う計画修正により決めていたもののマライタ島のどこで上陸作戦を行うかについては候補地が二つあった。

潜水艦から派遣された偵察班の調査により選ばれた二つの候補地は、マライタ島北東部とその反対側の港湾であった。

しかし港湾は、ドックとしては優れていたもののガダルカナル島から遠かったことなどの理由により北東部に上陸する事が決まった。

また予備作戦としてジェラスール島にニュージーランド軍一個旅団を欺瞞作戦でムボコニンペティー島にも上陸部隊を送ることとなったが第三艦隊目下の悩みは、手持ちの兵力の少なさであった。

アレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵中将率いる上陸部隊は、二個師団とニュージーランド軍一個旅団合わせて約三万四千名である。

上陸部隊を護衛・輸送するセオドア・S・ウィルキンソン少将率いる第三水陸両用部隊は、輸送船十二隻と駆逐艦十一隻である。

そしてこれらの部隊を支援する水上兵力は、アーロン・S・メリル少将の第三十九任務部隊だけでありあとは、第五艦隊(レイモンド・スプルーアンス中将)から借用の第三十八任務部隊(フレデリック・C・シャーマン少将)があっただけである。

アメリカ海軍がソロモン方面に投入していた空母は、千九百四十三年七月以降第三十八任務部隊の「サラトガ」一隻だけであった。

アメリカ海軍は、ガルヴァニック作戦の関連で主力やエセックス級航空母艦などの新鋭艦などは中部太平洋方面に投入していた。

太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将の認識では、中部太平洋方面への進撃により日本軍の注意はこちらへ集まりマライタ島作戦は第三艦隊手持ちの艦艇だけで遂行できると判断していた。

ブーゲンビル島への上陸作戦を決定した後ハルゼー大将は、真珠湾の太平洋艦隊司令部に向かい増援を要請する。

その結果新鋭の軽空母「プリンストン」 (USS Princeton, CVL-23) と巡洋艦群、駆逐群が派遣される事となったがタロキナ上陸作戦の予定日である十一月一日までには合流できなかった。

このような制約があったにもかかわらず十月二十七日には、ジェラスール島とマライタ島に先行部隊が上陸し次いで十一月一日早朝上陸作戦が敢行され上陸作戦から日本軍の注意をそらすために第三十九任務部隊はニュージョージア島とコロンバンカラ島に対して艦砲射撃を行い第三十八任務部隊の艦載機はニュージョージア島を爆撃した。

 

                                  ※

 

 日本側は、アメリカ軍の動向を慎重に見極め十一月一日まで艦隊を出撃させなかった。

戦力は、

本隊(大森少将直率):重巡洋艦「妙高」、「羽黒」

警戒隊(伊集院松治少将):軽巡洋艦「阿武隈」、駆逐艦「時雨」、「有明」、「夕暮」、「白露」

である。

 海戦結果は「モントピリア」を撃沈し「デンバー」、「フート」、「スペンス」を損傷させたが「阿武隈」が撃沈し「五月雨」と「白露」が衝突し損傷した。

大本営は、この海戦を「マライタ島沖海戦」と呼んだ。

 

                                  ※

 

 本海戦は、日本側の戦術的判定勝ちで戦略的敗北(連合国軍輸送船団撃滅失敗と海戦による損傷沈没艦比較)であった。

それでも日本側は、「重巡洋艦一隻轟沈、同二隻魚雷命中撃沈確実、大型駆逐艦二隻轟沈、重巡あるいは大型駆逐艦一隻魚雷命中撃沈確実、駆逐艦一隻同士討ちで損傷、重巡一ないし二隻および駆逐艦に命中弾」といった戦果判断をしていた。

また第二十七駆逐隊司令原為一大佐は、「巡洋艦一隻轟沈、同二隻撃破、駆逐艦一隻轟沈、同一隻撃破」という判断であった。

いずれにせよ実際の戦果とは、相当な開きがありタロキナへの基地建設阻止および輸送船団撃滅は失敗した。

この海戦後大森少将は、「拙劣な戦闘の実施に憤慨した(連合艦隊司令長官)古賀提督」により十一月二十五日付で第五戦隊司令官を解任されて海軍水雷学校長に左遷となり十一月三十日に退任した。

海戦における連合襲撃部隊の戦闘については、開戦直後から批判の的であった。

第三艦隊の長井純隆首席参謀は、当時もっとも批判されていた事として「戦闘隊形が複雑であったため運動の自由がなかったこと」を挙げている。

アメリカ軍(および指揮官メリル少将)の積極的な指揮と行動に対し日本軍の指揮は、稚拙かつ消極的であった。

「時雨」が零時四十九分に敵艦隊発見を報じてから主隊(『妙高』と『羽黒』)が砲撃を開始したのは、二十六分後の一時十六分である。

警戒隊(『阿武隈』、『時雨』、『五月雨』、『白露』)がアメリカ軍に対し苦戦する二十分以上の間主隊(『妙高』と『羽黒』)は、遊兵化してなんら支援行動を起こさず適切な戦闘指導もなかった。

第五戦隊による電探射撃についても「羽黒」の元砲術長と第五戦隊首席参謀の間で見解が分かれている。

 

                                  ※

 

 「ネルソン式の全滅戦闘」を採らず「攻撃部隊を単に撃退する」という使命を果たした第三十九任務部隊であったが全ての戦闘がうまくいったわけでは、なかった。

太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は、後年の回顧でメリル少将の失敗としてレーダー射撃の精度と目標配分の点がマイナスであったと指摘した。

また海戦においては第四十六駆逐群の行動が味方に少なからぬ混乱を与えていた。

第四十六駆逐群は、海戦当時第三十九任務部隊に編入されたばかりで訓練の機会がなく海戦では巡洋艦群の射線方向に入り込んで射撃を阻害し「フート」が巡洋艦群の前を横切ったため「デンバー」が「フート」に衝突しかけるというアクシデントもあった。

ニミッツ元帥によればメリル少将が「戦術上の教義とその実行が適切であった」という。

 

                                  ※

 

 千九百四十三年六月三十日の連合軍によるタンナ島上陸に始まる南方を巡る戦いは、九月二十八日に始まる「セ号作戦」によって日本の現地部隊はエスピリトゥサント島から撤退し十月六日にはニューカレドニア島からも撤退した。

これに先立って七月二十七日には、サンタイサベル島のレカタ基地も撤収しており秋には南方から日本軍の姿が消えることとなった。

また日本軍が南東方面の確保すべき要域としていたサボ島も九月四日北東部に連合軍が上陸しその南方には空挺部隊が降下しこの結果連合軍部隊との間で三方から包囲される体勢となった。

これによりサボ島は、急速に事態が悪化し後退しつつ集結した日本軍守備隊は転進を決めた。

しかし連合軍の攻勢は、止まず九月二十二日にはそのバングヌ島の先端部北部に上陸しその南方の半島先端部の要衝へと迫った。

当時この付近の日本軍部隊は、広く分散しておりまたバングヌ島南部に上陸した連合軍に対する備えのため部隊の多くを南部に展開していた。

連合軍は、その日本軍の手薄で要衝の間近である半島先端部の北部に上陸してきたのである。

このため日本軍は、対応に手取り十月四日には早くも連合軍は飛行場を占領しこれを使用し始めた。

その後陸路から送られた第二十師団の攻撃が十月十六日より開始されたが同地の奪回はならず二十四日には西の高地へ後退した。

十月十二日には、バングヌ島基地から飛び立った米第五空軍所属の大型爆撃機八十七機、中型爆撃機百十四機、ビューファイター十二機、P-38戦闘機百二十五機、その他合計三百四十九機による連合軍による初のガダルカナル島昼間爆撃があった。

こうした状況下南東方面の10月後半の前線は、東部ニューギニアと西部ニューブリテン島をつなぐダンピール海峡周辺からソロモン諸島のブーゲンビル島、ショートランド諸島の線にまで後退していた。

また昨年末来積極的な活動の見えなかった米機動部隊は、五月以降新造空母のエセックス級とインディペンデンス級の増勢などを受けた結果秋には正規空母六隻と軽空母五隻となり日本海軍に対してようやく同等な陣容を構えるにいたり八月三十一日のベーカー島空襲を皮切りに再び活動を開始した。

九月一日に南鳥島、同月十六日にはギルバート諸島でそして十月にはウェーク島を相次いで空襲し大本営は「敵機動部隊による本土空襲のおそれあり」と警報を発した。

千九百四十三年の九月初め連合艦隊は、内地で米軍の無線の傍受を行っていた通信隊から米軍の無線通信の増加や電文中に見慣れぬ艦名の符号が現れたことから近く何かの作戦を起こす可能が高いとの報告を受けていた。

 十月六日米機動部隊は、ウェーク島を空襲した。

これに対し連合艦隊は、九月一日の南鳥島空襲、十九日のギルバート諸島の空襲と同様に攻略の意図のない一過性のものでありまたこの空襲は南東方面への新攻勢に関連した陽動作戦と判断しむしろダンピール地区への警戒を命令し七〇二空陸攻十八機をマーシャル方面へ送ることを命令した以外は事態を静観する体勢であった。

 この頃主に船舶問題の観点から太平洋における戦域の全般的な見直しが図られその結果いわゆる「絶対国防圏」と呼ばれるものが設定されそれに合わせて新たな戦争指導要綱が策定した。

これは、従来の攻勢的な指導から長期持久体制の確立を謳った第三段作戦方針からさらに踏み込んで南東地域のガダルカナル島やニュージョージア島、バングヌ島は絶対国防圏の外郭とされこの地域は主に現有戦力をもって敵の撃破に努め明年春以降の後方要域の完成まで可能な限り持久戦闘を続けるというものであった。

この構想は、ヨーロッパ情勢や相次ぐ消耗からの船舶不足に起因する政府(陸軍省)側からの意向が強く反映されたもので作戦指導的立場ではなくどちらかと言えば戦争指導的な立場から発案されたものだった。

しかしながらこの構想は、前線と後方要域という「陣地」を重視する陸上作戦的な思想の元に策定されたものであり機動部隊をもって自在に攻撃目標を捉え前線において可能な限り敵の攻撃を食い止めている間に好機あらば決戦を挑もうとする海軍の思想とは相反するものであった。

そのため決戦兵力を擁する連合艦隊では、この構想に疑問をおぼえむしろ陸軍側の消極的な構想に批判的な立場をとった。

また後方要域の強化も船舶と兵力抽出の問題から容易なことではなく新たな前線として設定されたバングヌ島には第十九軍が、コロンバンカラ島は第二軍の担当地域とされはしたが当面連合軍を迎え撃つ地域であるへ投入される部隊は十一月に到着予定の第三十六師団のみで後続の第三師団の到着は翌年四月までかかる状況であった。

またその一方で参謀本部は、ベラ・ラベラ島には先に第四十六師団の投入を十月に決めており強化すべき地域の順序が逆ではないかと第十九軍の稲田正純から批判されている。

この構想が発令された九月下旬は、連合軍がダンピール海峡の要衝フィンシュハーフェン近郊に上陸した時期であり後方要域の強化に取り掛かかる前に早くもその外郭が崩れさろうとしていた。

当時参謀本部第六課の参謀であった堀栄三によればニューギニアへ現地視察へ赴いた際第四航空軍司令官寺本熊市から「大本営作戦課は、この九月絶対国防圏と言う一つの線を千島-ソロモン諸島-ニューギニアに引いて絶対にこれを守ると言いだした。

一体これは、線なのか点なのか?

要するに制空権がなければみんな点になってしまって線では、ない。

大きな島でも増援と補給が途絶えたたらその島に兵隊がいるというだけで太平洋の広い面積からすると点にさせられてしまう」という批判を聞いたという。

また当時軍令部戦争指導班長だった大井篤も「誰の目にも明らかなように作戦の鍵は、航空戦力であると見られていた。

いまガダルカナルやムンダの前線でさんざん敵に圧迫されて苦戦している重大原因もこちらの航空戦力が足りないからであった。

そしてニュージョージアやマリアナの線に後退してみたところで航空戦力が不足では、そこでも敵を食いとめる見込みがない。

この新しい防御戦を『絶対国防圏』と名前だけえらそうにつけてみたところで絵にかいた虎の役にもたたないだろう」と回想している。

現地の主力であった第一基地航空部隊は、九月二十二日の連合軍のバングヌ島上陸や九月二十五日に始まるセ号作戦支援のため乏しい戦力を南方でやりくりを続けていたが十月十二日「セ号作戦」終了を期に一ヶ月程度を目処としてマキラ島の連合軍補給遮断作戦である「ホ号作戦」を開始した。

この間主にバングヌ島とその周辺の連合軍拠点を攻撃し十五日には、陸軍の総攻撃に呼応してバングヌ島の敵陣地や物資集積所を陸攻で夜間爆撃を実施した。

この頃の南東方面艦隊は、連合軍のパングヌ島の飛行場占領以降急迫するブラケット海峡方面の連合軍の動静に注目しており同海峡地区の確保を目指す南東方面艦隊はパングヌ島の対岸に位置するテテパレ島に対する敵の上陸を非常に懸念していた。

このような状況下十月一日~十月十二日までの間に連合艦隊および南東方面の各海軍部隊から各所に以下のように繰り返し警報が発せられている。

十月一日  南東方面部隊から

十月六日  連合艦隊から(この日ウェーク島に米機動部隊の空襲があった)

同日   ビスマルク諸島方面防備部隊から(ニューブリテン島西岸付近に敵新企図の兆候) 

十月十一日 南東方面部隊から(ニューギニア方面の敵艦船増加)

十月十二日 南東方面部隊から(ラバウルに初の戦爆連合昼間空襲)

同日   ビスマルク諸島方面防備部隊から(同上の理由により)

その後二十日には、連合軍ダンピール岬に上陸という現地人の情報を得た南東方面艦隊は二十三日以後二十八日まで四回の予定で同地の防衛強化のための輸送隊を送ることとし基地航空部隊に上空警戒を実施させた。

しかし二十五日になりブインに司令部を置く第八艦隊司令長官の鮫島具重は、「敵上陸の算大ナリ。

第一警戒配備トナセ」と指令した。

これは捕虜の証言によりこの日ニュージョージア島に上陸の計画があるとの情報があったためと推定される。

しかし当時南東方面艦隊は、ダンピール海峡やテテパレ島方面を重視しておりまたソロモン方面に振り向ける戦力もなく十月二十五日と二十六日とも通常の哨戒を実施するのみで二十六日も航空哨戒も見張り所からも特に報告はなく同日ソロモン方面防備部隊指揮官は第一警戒配備を解除してしまった。

十月二十七日午前一時二十五分ニュージョージア島方面の哨戒に向かった九三八空の水偵のうち一機がニュージョージア島付近に駆逐艦五隻を発見しその後同島西方沖に停止したのを確認しコロンバンカラ島南方を哨戒したあと帰着した。

九三八空は、四時十五分に「敵水上部隊十三隻見ユ。

ニュージョージア島に向フ」と打電した。

その後ニュージョージア島守備隊から「〇三四〇 敵上陸開始。

我交戦中」との報告が届きブインの第八艦隊司令部は、六時二十九分「敵大部隊、ニュージョージア島に上陸開始セリ」と各部に打電した。

 ガダルカナルの基地航空部隊は、緊迫した情勢の中二十七日の連合軍のニュージョージア島上陸を迎えた。

現地の基地航空部隊のほかに日本海軍の決勝戦力と位置づけられていた第一航空戦隊(一航戦)も作戦に投入されている。

一航戦の陸上基地投入がその俎上に上がったのは、二月の八一号作戦の計画時に始まる。

この計画時において輸送船団の上空警戒に多大な不安を抱えていた陸軍参謀本部は、海軍軍令部へ母艦飛行機隊の全力投入を要請した。

軍令部もその必要性は、認めたものの第七艦隊の反対などもあり結局「雲鷹」零戦隊のみで十分と判断し全力援護は実施しなかった。

結果的に八一号作戦は、成功したが陸軍側は海軍の作戦協力に関して相当な不満を抱えることとなった。

六月三十日連合軍は、タンナ島に上陸しやがて始まったニュージョージア島の戦いに関する七月九日に行われた陸海軍部間の作戦指導方針の打ち合わせの中で陸海軍双方から母艦飛行機隊の陸上基地投入が提案されたがすでに第二航空戦隊を南方へ投入している連合艦隊側はこれを拒否した。

その後現地守備隊である南東支隊からエスピリトゥサント島からの撤退が表明された八月五日同地確保を目指す南東方面艦隊と第八艦隊から兵力増強が中央へ意見され連合艦隊側からも母艦飛行機隊の投入を含む兵力増強による南方方面の態勢挽回の意向が伝えられた。

軍令部もこれを受けて翌七日に参謀本部と協議を重ねたが一航戦投入の条件として海軍側が提示した陸軍一個連隊の増援は見込めず陸軍側もエスピリトゥサント島の奪回に懐疑的な姿勢を崩さなかったため結局この提案は実現を見ず十三日に南方からの撤退が決まった。

この一件以降連合艦隊は、一貫して一航戦投入に対して反対を表明をしており八月二十八日南東方面艦隊からの増援要請を拒絶し九月二十二日連合軍がバングヌ島に上陸した際も大本営で一航戦投入が検討されたが軍令部側から提案された一航戦の南東方面投入後の措置として南西方面への陸軍航空隊の増強に対し参謀本部側が難色を示したため結局一航戦の南東方面投入は沙汰止みとなった。

さらに九月二十六日「セ号作戦」中手薄となベラ・ラベラ島の支援を南東方面艦隊が要請した際も連合艦隊は、再び拒絶している。

さらに同日トラックを訪れた軍令部第一部長中澤祐と綾部橘樹参謀本部第一部長からの直接の要請に対しても連合艦隊は拒絶し却って陸軍航空戦力の増加を要請されている。

また十月一日にベラ・ラベラ島に敵上陸の報告があり急遽その事態に対応するため陸海軍部の主務者間で作戦研究が行われたがこれは、誤報であった。

この場で陸軍部からニューギニア方面への一航戦投入が強く要求されたがこの時は、軍令部側も連合艦隊の意向を受けてこの要求を拒絶し翌日参謀部次長から軍令部次長に再度要求が出されたがやはり拒否の姿勢を貫いている。

これら母艦飛行機隊の投入要請の根拠となったものは、三月に締結された陸海軍中央協定の「状況に依り好機母艦飛行機を転用増強することあり」とした一文によるものだったがこういった要請に対し連合艦隊は基本的に拒否の姿勢を示しており九月以降は米海軍機動部隊の策動に対し中部太平洋での決戦近しと考えていたため各方面からの増援要請をことごとく拒絶している。

また当初は、一航戦の陸上基地投入に前向きであった軍令部側も中部ソロモン海域での決戦生起の可能性が高まった十月以降は一貫してこの要請を拒んでいる。

 

                                ※

 

 千九百四十三年一月のカサブランカ会談後米軍は、南方の攻略を決定しその準備として七月にはエリス諸島に爆撃機用の飛行場を九月初めにベーカー島に戦闘機用の飛行場の建設に取り掛かった。

この頃真珠湾には、新型の正規空母四隻(『エセックス』、『ヨークタウン』、『レキシントン』、『バンカーヒル』)と軽空母五隻(『インディペンデンス』、『プリンストン』、『ベロー・ウッド』、『カウペンス』、『モンテレー』)などが到着し「サラトガ」などと合同し強力な機動部隊を複数編成していた。

これらの機動部隊は、九月一日の「エセックス」、「ヨークタウン」、「インディペンデンス」による南鳥島の空襲を手始めとして同月十九日には「レキシントン」、「プリンストン」、「ベロー・ウッド」がギルバート諸島を空襲した。

これは、エリス諸島に対する空襲の脅威を取り除くことが主な目的であったが同時に新たに編成された機動部隊の乗組員と搭乗員に実戦の経験を積ませることもその目的の一つであった。

これらの目的は、首尾よく果たされたがそれに加え攻略が予定されているマキンとタラワ両島の詳細な写真撮影に成功したことも大きな成果であった。

その後十月には空母「エセックス」、「ヨークタウン」、「レキシントン」、「インディペンデンス」、「ベロー・ウッド」、「カウペンス」の計六隻からなる第十四任務部隊がウェーク島に空襲を加え中部太平洋の日本軍の航空戦力はさらに打撃を受けた。

千九百四十三年八月連合軍統合参謀本部は、太平洋方面の各作戦を発表した。

そこでマッカーサーとハルゼーにニューギニアとソロモンからガダルカナルに対する二方向進撃の続行を指示しさらにガダルカナルについては「ガダルカナルは、占領するよりもむしろ無力化するべきである」とされた。

ガダルカナル周辺の拠点を奪取しここからガダルカナルに航空機による連続攻撃を加えればガダルカナルを孤立化できると考えたのである。

そこで当初ハルゼーは、ニュージョージア島を攻略するための準備としてその付近のレンドバ島とテテパレ島の占領を考えていたがFS作戦を巡る攻防戦の教訓からいたずらに時間と兵力を消耗してムンダを攻略するよりもむしろこのニュージョージア島南端に位置する日本軍拠点を迂回することを考えたのである。

さらにこれらの地域を迂回すると同時にガダルカナル攻撃のためニュージョージア島に航空基地の建設が可能な要地を絞込み北東部沿岸と南西部沿岸が選ばれた。

前者は、良好な港湾を持ち小型の飛行場も存在していたが攻略のためにはボナボナ島を確保しなければならずまたこの島を攻略するにはいずれも連合軍拠点のフィジー島やサモア島から遠く回り込まねば成らなかった。

後者は、上陸のための接岸ができる場所もわずかでありしかもまもなく来るモンスーンシーズンの影響で風雨にさらされる地域でもあった。

しかしながら南西部沿岸は、上陸船団の発進地点から近いメリットがありまたこの地域は日本軍の守備も手薄でありいったん確保されたら反撃の準備を整えるまでには数週間かかるほど周囲とは隔絶された地形であった。

さらにその後の現地調査の結果この沿岸部は、沼地であったがその奥に飛行場に適した地形があることもわかった。

また南西部沿岸攻略準備のための確保すべき地域であったボナボナ島は、マライタ島よりも確保は容易であった。

この結果ハルゼーは、九月二十二日ボナボナ島の占領を決め十月二十七日の夜明けニュージーランド軍の一個旅団(六千三百名)が駆逐艦と航空機による支援の元ボナボナ島のに上陸を開始したのである。

 

                                 ※

 

 ろ号作戦の計画立案の理由については、計画者である連合艦隊司令長官古賀峯一大将が戦後直後に死去したため戦史叢書では関係者の聞き取り調査から次のように推測している。

連合艦隊では、十月十二日のガダルカナル空襲以来のガダルカナル周辺地域の情勢急変に対応するため一時南東方面へ一航戦投入するのもやむを得ないと考えていた。

基地航空隊の戦力低下による彼我の航空戦力の懸隔が日に日に大きくなっていることと連合軍のボナボナ島上陸によって当面連合軍の反攻は南東方面でありマーシャルやギルバート方面への侵攻は年末頃と判断していたこと。

陸上基地に一航戦を投入することで南東方面の戦局に寄与すべきと考えたこと。

さらに第七艦隊関係者には、作戦について事前に知らされていなかったことから十月中旬頃より連合艦隊内部で構想していたものが二十七日の連合軍ボナボナ島上陸の報によりその計画が具体化したのではないかと結論づけている。

作戦目的としては、以下の三点をあげている。

ソロモン方面の敵進攻の一時阻止と防衛体制強化の時間を稼ぐ。

そのための敵航空兵力と海上兵力の攻撃。

上記の成果によりガダルカナルを中心とする南東方面の持久を一日でも延ばす。

ろ号作戦の当初の攻撃目標は、主にニュージョージア方面の連合軍でありショートランド島に来襲した連合軍上陸部隊とそれを支援する機動部隊を目標とするものではなかったという見方もありその理由として戦史叢書では以下を挙げている。

横空戦訓調査委員会刊行の「大東亜戦争戦訓(航空の部)第十三篇」に「『ろ』号作戦(ニュージョージア方面輸送遮断作戦)」という見出しがあること。

基地航空部隊である二十五航戦の戦闘詳報にある主要任務の中に「ニュージョージア方面に対する航空撃滅戦と艦船攻撃(一航戦と共同)」と明示されていること。

陸軍第四航空軍の金子参謀が十月三十一日ガダルカナルで十一航艦からろ号作戦について「ムンダ敵艦船を主目標とする」と説明されていたこと。

第七艦隊の先任参謀長長井純隆および通信参謀中島親孝の戦後の証言によれば計画当初は、ニュージョージア方面重視であったという。

こうした経緯がありながらも十一月三日の連合軍モノ島上陸によりその目標がニュージョージア方面からブーゲンビル島周辺の連合軍攻略部隊に向けられたために「ろ号作戦」の本来の目的がわかりづらいものになってしまったという意見もある。

 

                                  ※

 

 ガダルカナル島は、ソロモン諸島最大の島であり南太平洋西部のメラネシア地域に位置する。

日本側が飛行場を建設したが一時期アメリカ軍に占領されたが千九百四十二年八月二十四日に日本軍が奪還した。

以後後方のラバウルなどとともにFS作戦に於いて日本軍の重要な基地となっていた。

これ以降ガダルカナルの日本軍に対する空襲の主役は、フィジー島などを根拠とする連合軍の大型爆撃機に移り散発的な空襲を繰り返し受けることとなった。

空襲は、主にB-17が少数単位で時を定めず来襲し他にはB-26も投入された。

千九百四十三年に入ってからは、B-24も投入され一連の空襲は「点滴爆撃」とも呼ばれ被害自体は大したものではなかったものの来襲高度が高くて容易に撃墜できなかった。

小園安名中佐率いる第二五一海軍航空隊が夜間戦闘機零式複座双発陸上戦闘機一一型とともにガダルカナルに到着し難攻不落のB-17を撃墜したのは、五月二十一日の事である。

 

                                  ※

 

 千九百四十三年春にFS作戦に敗れて以降前線が伸び切った日本軍の南方での防衛線は、徐々にガダルカナル側へと押し上げられていく。

開戦以降の敗退に次ぐ敗退から体勢を立て直した連合国軍との航空戦力の差も数と質の両方の面で広がり数の方は、千九百四十三年四月の「い号作戦」に代表されるような母艦航空隊の投入が幾度か行われたが損害が増すばかりであった。

やがてニューカレドニア島、エスピリトゥサント島、サボ島からの撤退で防衛線はさらに押し上げられ九月下旬からはムンダなどへの空襲が激化し同方面の陣風隊もラバウルに後退する外なかった。

この時点で南方の戦いで勝利を手中に収めつつあった連合国側ではあったが緒戦で多くの空母を失ったアメリカ軍の機動部隊の中核である空母の配備数は日本軍と拮抗した状態で多方面から反攻作戦を実施するには戦力不足であった。

太平洋艦隊は、ベテランの「サラトガ」 しか空母の持ち合わせがなかった。

連合国軍の空母陣も千九百四十二年末以降は、アメリカ海軍の「エセックス」 (USS Essex, CV-9) 、「バンカー・ヒル 」(USS Bunker Hill, CV-17) などのエセックス級航空母艦と「インディペンデンス」 (USS Independence, CVL-22) などインディペンデンス級航空母艦が続々と竣工して訓練の後太平洋艦隊に配備される。

特に「エセックス」の真珠湾到着は、太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ大将をして新しい中部太平洋部隊の編成の第一弾として位置づけられた。

八月に入り第五艦隊が編成され艦隊司令長官にレイモンド・スプルーアンス中将が指揮下の高速空母任務部隊の司令官にチャールズ・A・パウナル少将がそれぞれ就任した。

パウナル少将の高速空母任務部隊は千九百四十三年九月一日に南鳥島を空襲したのを皮切りにして九月十八日と十九日にギルバート諸島を、十月に入ってからウェーク島をそれぞれ攻撃して成果を収めた。

もっともこれら新鋭空母の話は、全て中部太平洋方面での事であってソロモン方面には関係のない話である。

しかし新鋭空母の回航を望んでいたのは、ハルゼー大将も同じであった。

「サラトガ」と新鋭空母の組み合わせで空母作戦を行う事を望んでいた。

この望みを一度は、断ったのはニミッツ大将である。

ニミッツ大将の言い分では、続々戦列に加わる新鋭空母の乗員およびパイロットのレベルは高くなくまずは経験を積ませるために一撃離脱式の攻撃を繰り返す必要があった。

また中部太平洋方面に攻勢をかけたならば日本軍の注意は、中部太平洋に向けられソロモン方面の戦闘は第三艦隊の手持ち部隊だけで対処できると考えていた。

第五艦隊は当時ギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦を控えており主だった戦闘艦艇は、第五艦隊に割り振られていた事情もあった。

連合国および南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将が千九百四十三年四月二十六日に発令したカートホイール作戦の計画では、強力な日本軍が構えるガダルカナルを攻略せず避けることがすでに決まっていた。

第三艦隊は、ニュージョージア島を攻略することまでは決めていた。

攻略地点についてはアナトム島の戦いの苦い経験から日本軍が集中しているであろうムンダ地区、レンドバ島とテテパレ島をパスし南西部沿岸に飛行場適地があったことと南西部沿岸方面の日本軍部隊がわずかであるなどの理由により九月二十二日に南西部沿岸への上陸に決した。

その時点での第三艦隊の兵力といえばアレクサンダー・ヴァンデグリフト海兵中将率いる二個師団とニュージーランド軍一個旅団合わせて約三万四千名の陸上部隊に輸送船十二隻とその護衛にあたる駆逐艦十一隻、アーロン・S・メリル少将の第三十九任務部隊、そして「サラトガ」だけであった。

南西部沿岸への上陸作戦を決定した後ハルゼー大将は、真珠湾の太平洋艦隊司令部に向かい増援を要請する。

その結果新鋭の軽空母「プリンストン」(USS Princeton, CVL-23) と巡洋艦群、駆逐群が派遣される事となった。

第三十八任務群は、以下の艦艇で構成されることとなった。

空母:「サラトガ」、「プリンストン」

軽巡洋艦:「サンファン」、「サンディエゴ」

駆逐艦六隻

 南西部上陸作戦の予定日である十一月一日までには、合流できなかった。

唯一の救いは、ジョージ・ケニー少将率いる第五空軍とネーサン・トワイニング少将のソロモン方面航空部隊が任務遂行のために必要な航空機を確保しているとみられたことであった。

十月十二日第五空軍機と同じくケニー少将の指揮下に入っていたオーストラリア空軍機およびニュージーランド空軍機合わせて三百四十九機の爆撃機は、ガダルカナルに対する初の大空襲を敢行する。

第一の目標は、深山が常駐していたルンガ西飛行場であったが天候に恵まれず思ったほどの成果はあげられなかった。

この空襲により駆逐艦「太刀風」、「沖津風」、「南風」、給油艦「鳴戸」などが損傷し「鳴戸」では十数名が戦死した。

続いて十月十八日には、約五十機のB-25による空襲が行われ以後六日連続して爆撃を行った。

二十四日には、ガダルカナル島南方で駆逐艦「沖津風」が空襲により撃沈された。

十月二十七日ボナボナ島にアメリカ軍が上陸した。

十一月一日早朝ニュージョージア島への上陸作戦が敢行され上陸作戦から日本軍の注意をそらすために第三十九任務部隊は、ベラ・ラベラ島とショートランドに対して艦砲射撃を行った。

「プリンストン」が合流した第三十八任務部隊の艦載機は、ソロモン方面航空部隊とともにブカ島を爆撃した。

十一月二日の第五空軍機等によるガダルカナル空襲は、約二百機あるいは七十二機のB-25と八十機のP-38で行われる。

この時ガダルカナルには、二日未明のマライタ島沖海戦を戦って帰投してきたばかりの連合襲撃部隊(大森仙太郎少将)が入港したばかりであった。

この時の空襲では、重巡洋艦の「妙高」が至近弾によりタービンに亀裂が入り駆逐艦の「白露」も方位盤を損傷した。

その他船舶十五隻が撃沈され十一隻が損傷した。

それでも八機のB-25が撃墜されるか帰投途中で失われその中には第三攻撃集団長レイモンド・H・ウィルキンス少佐の乗機が含まれておりウィルキンス少佐はそのリーダーリップが称えられて名誉勲章を死後授与された。

またP-38は、九機が失われた。

ここまでの空襲は、それなりの成果を挙げたものの日本軍の強力な対空砲火と迎撃機を警戒するあまりほとんどの場合において高高度からの攻撃を行ったため目標に爆弾を命中させる事がなかなか出来ず「ケニーの爆撃機は、どうでもいいような成果をあげただけであった」とアナポリス海軍兵学校歴史学名誉教授だったE・B・ポッターは述べている。

 十月二十七日ボナボナ島に先行部隊が上陸し次いで十一月一日早朝ニュージョージア島への上陸作戦が敢行され上陸作戦から日本軍の注意をそらすために第三十九任務部隊は、ベラ・ラベラ島とショートランドに対して艦砲射撃を行った。

「プリンストン」が合流した第三十八任務部隊の艦載機は、ソロモン方面航空部隊とともにブカ島を爆撃した。

第三十八任務部隊を含めたアメリカ機動部隊がガダルカナルやブカ島近海で行動したのは、未遂に終わったラバウル空襲作戦以来初めてのことである。

ハルゼー大将にとっては、待望の新戦力であったが行動には制限が課せられていた。

「サラトガ」も「プリンストン」もガルヴァニック作戦支援を命じられていたため十一月二十日までに当該海域に戻らなければならなかった。

第三十八任務部隊は、十一月二日にもブカ島を空襲した後レンネル島近海まで引き揚げて燃料補給作業を行った。

そこに突然事態を緊迫化させる情報がもたらされる。

 

                                  ※

 

 ニュージョージア島への連合軍上陸の報を受け連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、第七艦隊の投入を決心し(ろ号作戦)ガダルカナル方面に投入して決戦を挑む事となった。

兵力は、

第七艦隊

司令官:小沢治三郎中将 参謀長:草鹿龍之介少将

第一航空戦隊:小沢治三郎司令長官直率

航空母艦:「翔鶴」、「瑞鶴」

第二航空戦隊 司令官:山口多聞少将

航空母艦:「蒼龍」、「黒龍」

第四航空戦隊 司令官:高橋三吉少将

航空母艦:「麗鶴」、「雅鶴」

第五航空戦隊 司令官:原忠一少将

航空母艦:「大鳳」、「祥鳳」

第六航空戦隊 司令官:近藤英次郎少将

航空母艦:「龍鳳」、「瑞鳳」

第七航空戦隊 司令官:三並貞三少将

航空母艦:「海鳳」、「白鳳」

第八航空戦隊 司令官:角田覚治少

航空母艦:「隼鷹」、「飛鷹」

第四戦隊 司令官:山本英輔中将

戦艦:「金剛」、「比叡」、「霧島」、「榛名」

第八戦隊 司令官:西村祥治少将

重巡洋艦:「天城」 、「赤城」、「葛城」、「笠置」

第九戦隊 司令:阿部弘毅少将

重巡洋艦:「利根」、「筑摩」

第十一駆逐隊 司令:山代勝盛大佐

駆逐艦:「早風」、「夏風」、「冬風」、「初風」

第十九駆逐隊 司令:福岡徳治郎大佐

駆逐艦:「敷波」、「浦波」、「磯波」

第九駆逐隊 司令:井上良雄大佐

駆逐艦:「夏雲」、「峯雲」、「薄雲」、「白雲」

第十六駆逐隊 司令:鳥居威美大佐

駆逐艦:「初風」、「雪風」、「天津風」、「時津風」

第六十一駆逐隊 司令:大江賢治大佐

駆逐艦:「秋月」、「照月」、「涼月」、「初月」、「若月」

第三十駆逐隊 司令:折田常雄大佐

駆逐艦:「大風」、「西風」

第六水雷戦隊 司令:坂本伊久太少将

軽巡洋艦:「川内」

第七駆逐隊 司令:山田勇助大佐

駆逐艦:「秋雲」、「潮」、「曙」、「漣」

第二十三駆逐隊 司令:若木元次大佐

駆逐艦:「朧」、「江風」、「涼風」、「海風」

第十駆逐隊 司令:阿部俊雄大佐

駆逐艦:「風雲」、「夕雲」、「巻雲」、「秋雲」

第七水雷戦隊 司令官:井上継松少将

軽巡洋艦:「名取」

第五駆逐隊 司令:野間口兼知中佐

駆逐艦:「朝風」、「春風」、「松風」、「旗風」

第二十二駆逐隊 司令:脇田喜一郎大佐

駆逐艦:「清風」、「村風」、「里風」

第二十一駆逐隊 司令:天野重隆大佐

駆逐艦:「初春」、「子日」、「初霜」、「若葉」

 

 

                                    ※

 

 先に述べた「事態を緊迫化させる情報」とは、この事でありハルゼー大将が後年「これは、南太平洋軍司令官としての全任期中に直面したもっともきびしい緊急事態であった」と回想するほど難しい状況であった。

ブカ島とショートランドへの砲撃およびブーゲンビル島沖海戦とほとんど不眠不休で戦ってきた第三十九任務部隊は、レンネル島にあり遊撃部隊を迎え撃つにしても強力かつ距離が遠すぎた。

しかしここで第三艦隊の参謀が第十四任務部隊、第三十八任務部隊と第五十任務部隊による敵機動部隊迎撃を思いつく。

これまでアメリカ海軍の機動部隊が行ってきた海戦は、連戦連敗で一度も勝利したことはなかった。

参謀から作戦プランを打ち明けられたハルゼー大将にとって敵機動部隊の迎撃はほぼ一年前の第三次ソロモン海戦の時と同じぐらいの危険な命令だと感じており第十四任務部隊、第三十八任務部隊と第五十任務部隊の運命は悪いものになるとすら予想していた。

それでもハルゼー大将にとっては、ボナボナ島の上陸部隊を死守することが任務でありしばしの沈黙の後に発した「行かせよう」との一言で作戦は実行に移される事になった。

同時にハルゼー大将はガダルカナル方面航空部隊に対し第十四任務部隊、第三十八任務部隊と第五十任務部隊への全面的支援を命じた。

 

                                    ※

 

 十一月十一日日本軍部隊は、南太平洋海戦とほぼ同じ陣形で行動していた。

そして黎明(午前二時四十分)から二段索敵を開始した。

しかし午前四時四十分を過ぎようとしても策敵機から何も情報は、こなかった。

第七艦隊の第一航空隊の通信参謀小野寛治郎少佐は、「とてももどかしい時間だった」と回想している。

 午前四時五十三分ついに日本艦隊は、敵偵察機に発見された。

 

                                    ※

 

 偵察隊隊長から「ガダルカナル島より方位九十度、三十浬」の連絡が入った。

この時アメリカ艦隊に近づいていた日本の偵察機は、最新のSA対空レーダーに引っかかり戦闘空中哨戒をしていたF6Fに瞬く間に全機撃墜されており緊急無線を発する暇すらなかった。

フレッチャー中将は第十一任務部隊、第十四任務部隊、第十五任務部隊と第五十任務部隊から第一次攻撃隊百七十機(F6F五十一機、SBD五十五機、TBF六十四機)と第二次攻撃隊百七十五機(F6F四十二機、SBD六十三機、TBF七十機)の合計三百四十五機が日本艦隊にむけて発進した。

 

                                    ※

 

 第七艦隊旗艦「翔鶴」の艦橋では、航空甲参謀の大原秀幸(おおはらひでゆき)中佐と航空乙参謀の松下海峰(まつしたかいほう)少佐が対応で二分していた。

大原甲参謀は、暖機運転を完了している機体を直ちに敵偵察機が飛び去った方角へ向かわせる索敵攻撃を提案した。

しかし松下乙参謀は、むやみに攻撃機を出すのは得策ではないと一度格納甲板で待機させ彗星数十機を艦隊の半径二十九海里で哨戒飛行させようと提案した。

両者は、全く譲らなかったため参謀長の草鹿龍之介少将は小沢治三郎司令官の指示を仰いだ。

この時小沢司令官が命じる前に信号長から第二航空戦隊および第八航空戦隊から索敵攻撃の具申を報告した。

小沢司令官は、索敵機から敵艦隊も敵機も発見したという報告が来ていないことを通信参謀に確認した後松下乙参謀の提案を採用した。

「翔鶴」からの命令で大鳳型航空母艦を除き艦上であわただしい動きが始まった。

飛行甲板に並べられていた航空機が全機前部・中央部・後部の昇降機に乗せられ格納甲板におろされた。

 午前九時二十一分哨戒飛行をしていた彗星の一機から「敵大編隊見ユ。

位置、『ガダルカナル』ヨリノ方位百十度、百四十浬。

機数約百六十。

〇五一〇」を報告した。

原少将は、これを受けて「発艦可能ナ直衛機ハ直チニ発進。

高度四〇ニテ待機セヨ」との命令を送信させた。

 

                                     ※

 

 アメリカ合衆国海軍第十四任務部隊、第三十八任務部隊、第五十任務部隊の空母「エセックス」、「ヨークタウン」、「バンカー・ヒル」、「インディペンデンス」、「サラトガ」、「レキシントン」、「プリンストン」、「ベロー・ウッド」より発進した第一次攻撃隊百五十八機は高度一万フィートに取り西北西に進撃していた。

「日本の指揮官は、今頃思い知っているでしょうな。

TF14、TF38、TF50がこれまで戦ってきたTF16、17、61とは違うってことを」

「サラトガ」爆撃飛行長(VB-12)ローレン・アダムス少佐のレシーバーにスティーブ・バエズ大尉の声が入った。

心なしか声に笑いが含まれているように感じられた。

 午前十時七分第一次攻撃隊は、機動部隊前衛部隊を発見した。

しかしパイロットたちは、ニューヘブリディーズ諸島沖海戦(南太平洋海戦の連合国側の呼称)でこれが前衛部隊だということは知っていた。

そのため目もくれずに突破を試みた。

「ジョージ」

 レシーバーからスティーブ大尉の絶叫が響いた。

ローレン少佐は、咄嗟に周囲を見回したがジョージの姿は目に入らない。

見えるのは、果てしなく広がる蒼空とところどころにかかる千切れ雲だけだ。

「隊長、後ろです」

 スティーブ大尉が悲鳴じみた声を上げた直後護衛のF6Fが次々とドーントレスの近くから離れ始めた。

どの機体も右の水平旋回をかけ後方に機首を向けようとしている。

ローレン少佐は、首を捻じ曲げ後ろ後方を振り返った。

視界に入ってきたものを見て息をのんだ。

少なめに見積もっても六十機以上は、いる。

ジョージは、後ろ後方という攻撃隊にとって一番不利な位置から襲い掛かってきたのだ。

ジョージの両翼から次々と閃光が走った。

真っ赤な赤い火箭が次々とほとばしった。

護衛戦闘機には、全く機銃を発射する機会を与えなかった。

ジョージに機首を向けるよりも早く二十ミリ弾が殺到し機首に、主翼に、コックピットに突き刺さる。

F6Fの編隊は、瞬く間に切り崩された。

エンジンに被弾し炎と黒煙を吹き出しながら高度を落とすもの、主翼を付け根付近から吹き飛ばされきりもみ状態になって墜落するもの、コックピットを直撃され機体の原形をとどめたまま戦場から消える等のものが続出した。

何機かは、とっさに機体を倒し垂直降下に移る。

バーボンの樽のように太い胴が横転し海面に向かって降下を始める。

ジョージは、急降下によって離脱した機体には目もくれなかった。

エンジン音をたけだけしくとどろかせながらドーントレスの編隊に襲い掛かってきた。

TBFアヴェンジャー雷撃機の姿は、すでに見えない。

雷撃を敢行するため高度を下げたのだ。

 これは、ニューヘブリディーズ諸島沖海戦の教訓からでありこの時アヴェンジャー隊は直掩機からの攻撃にひるみてんやわんやに逃げ回り何も雷撃することができなかった。

そのため今回は、眼前の艦艇を雷撃するようにと訓示があったのだ。

「ジョージ、後方より六機」

 スティーブ大尉の絶叫が再びレシーバーから響いた。

「応戦だ。

応戦しろ」

 ローレン少佐は、スティーブ大尉の絶叫に勝るとも劣らない声で命じた。

F6Fの多くは、最初の一撃で打ち払われている。

護衛があてにできない以上自分で自分を守るしかない。

ドーントレスのコックピット後部から青白い火箭が噴き延びる。

偵察員が七・七ミリ旋回機銃を放ったのだ。

何条もの火箭が右に左に振り回され無数の射弾がばらまかれる。

狙いを定めるよりも機銃を乱射し敵機を近づけさせないことが目的だ。

銃把を握り引き金を引くドーントレスの偵察員は、誰もが表情を大きく目を見開き表情を引きつらせている。

ジョージは、七・七ミリ弾の乱射など歯牙にも掛けなかった。

右に左に旋回しつつドーントレスとの距離を詰め両翼と機首から発射炎を閃かせた。

七・七ミリ弾よりはるかに太い火箭が噴き延びドーントレスの主翼に、尾部に、胴体背面に突き刺される。

F6Fと同じ災厄がドーントレスを見舞う。

左主翼を失ったドーントレスが左の揚力を失い機体を大きく傾けて墜落する。

垂直尾翼を失ったドーントレスは、機体のバランスを失い錐もみ状に回転を始める。

コックピットに被弾したドーントレスは、偵察員とパイロットが朱に染まる。

ジョージの機銃がドーントレスに命中するたび攻撃隊の尖兵たちは、片っ端から火を噴き破片をばらまきながらガダルカナル東方の海面に落下し飛沫の中に消えてゆく。

「ゲイリー機被弾。

ブレント機被弾」

 僚機が撃墜されるたびローレン少佐のレシーバーにスティーブ大尉の悲痛な声が響く。

しかしローレン少佐には、どうすることもできない。

偵察機が送った位置に一機でも多くの味方機を誘導するだけだ。

「ジョージ、右後方」

 スティーズ大尉が切迫した声で報告した。

ローレン少佐は、咄嗟に操縦桿を右に倒した。

右に旋回したドーントレスの左方を真っ赤な曳痕が通過し次いで黒い影が後方から迫った。

背後から機銃の発射音が届く。

スティーブ大尉が七・七ミリ機銃を放ったのだ。

これは、空振りに終わりジョージの黒い影がローレン少佐の頭上を通過する。

ローレン少佐は、咄嗟に右の親指に力を込めた。

正面に発射炎が閃き十二・七ミリ固定機銃を放ったのだ。

装備数は、少ないとはいえ一発当たりの破壊力はF6Fが装備する機銃と同等だ。

しかしこれは、ジョージを撃墜するに至らない。

二条の火箭は、大気中に吸い込まれるように消える。

前方に抜けたジョージが反転し正面から向かってくる。

「ジョージ、正面上方」

 ローレン少佐が再び機銃の引き金を引く直前に誰かの声がレシーバーから響いた。

直後ローレン機の左方で火焔が躍った。

それでもローレン少佐は、引き金を引いたがそれより早くに正面のジョージが急降下に移り照準器からジョージの機影が消えた。

直後ローレン少佐は、首をひねるとVB-9の二番機を務めるポール・イエーツ中尉のドーントレスが火を噴き墜落してゆくさまが見えた。

 ジョージの攻撃は、それが最後だった。

前衛部隊を務める艦艇が対空射撃を開始したのだ。

ジョージの攻撃を振り切ったSBD隊は、このチャンスを逃すまいと必死に前衛部隊を突破しようとした。

見事全機が突破できた。

 しばらくして眼下に再び艦隊を発見した。

間違いない。

今度こそ本物の敵機動部隊である。

敵艦隊もこちらに気づき対空砲火を放った。

それを回避しつつローレン少佐は、注意深く敵艦隊を観察した。

輪形陣の艦隊は、二手に分かれ前方に六隻で後方に八隻いた。

「『グリズリー・リーダー』より『グリズリー』全機へ。

目標、左前方の敵空母。

俺に続け」

 ローレン少佐は、早口で下令した。

相手を選ぶ余裕は、ない。

最も手短な相手を叩くと決めた。

エンジンスロットルを絞り込み操縦桿を左に倒す。

「アンジェロ機、被弾」

 スティーブ大尉がまた新たな被害を報告した。

第二中隊長を務めるアンジェロ・ウォーカー大尉のドーントレスが弾片を浴び火を噴いたのだ。

ローレン少佐は、唸り声を発しながらも突撃を続ける。

敵弾は、間断なく撃ち上げられ前後左右あらゆる方向に爆発光が閃く。

爆風が機体を揺さぶり飛び散る弾片が不気味な音を立てて命中し漂う爆煙は、視界をさえぎる。

 敵弾炸裂の火焔や漂う黒煙が視界の中で回転しドーントレスが急降下に入る。

照準器の白い環が捉えた空母は、最初は小指の先程度の大きさしか見えなかった。

 降下するにつれ小指の先が人差し指から親指の大きさになりさらには、複数の指を合わせたほどへと拡大する。

後席から高度計を読み上げるスティーブ大尉の声が聞こえる。

ともすればその声が敵弾の炸裂音によってかき消される。

目指す空母は、対空砲火を激しく撃ち上げながらローレン機の真下に艦首を突っ込んでくる。

「逃がさぬ」

 一声叫びローレン少佐、操縦桿を前方に押し込める。

最初は、六十度だった降下角が七十度まで深まる。

体感する角度は、ほとんど垂直に近い。

ともすれば身体がシートから浮き上がり照準が狂いそうになるがローレン少佐は、歯を食いしばり空母に追随した。

 高度五千フィートまで降下したとき至近距離で敵弾が炸裂した。

鋭い音ともに衝撃が走り機体が激しく振動した。

直後降下速度が一気に増大した。

「いかん」

 何が起きたのかをオーレン少佐は、はっきりと悟った。

敵弾が主翼の後部を直撃しダイブ・ブレーキをもぎ取ったのだ。

ローレン少佐は、やむなく爆弾の投下ハンドルを回した。

足下で乾いた音が響き機体がわずかに軽くなった。

引き起こしを掛けるべく操縦桿を引く。

しかし動かない。

ドーントレスは、依然垂直に近い角度で降下を続けている。

ローレン少佐は、愕然とする。

両手を操縦桿に掛け渾身の力で引くが結果は、同じだ。

操縦桿は、びくともせずドーントレスは海面に向かって真一文字に墜ちてゆく。

ローレン少佐は、絶望の叫びを上げた。

後席からもスティーブ大尉の絶叫が届いた。

ドーントレスが海面に激突し盛大な飛沫を上げると同時に二人の叫び声が消えた。

 

                                              ※

 

 第二次攻撃隊のVT-12隊長のピート・カーター少佐は、日本機動部隊の前衛部隊を落胆した。

事前に日本軍は、攻撃力は恐ろしいほど高いが防御力は低いと聞いていたため第一次攻撃隊で多数の艦艇を水葬させ大型艦のいくつかが炎上している光景を予想していた。

しかし結果は、大型艦は炎をあげておらず艦艇の数も少ないという印象はなかった。

「『ウルフ』目標、敵戦艦一番、二番」

 ピート少佐は、その中で沈めると致命傷になりえる戦艦を狙った。

「ジョージ」

 悲鳴じみた声がレシーバーに飛び込んだ。

ピート少佐は、息をのんだ。

九十機前後のジョージが舞い降りてくる。

「かわせ。

降下しろ」

 ピート少佐は、咄嗟に叫び操縦桿を押し込んだ。

ほとんど同時にF6Fが動いた。

スロットルをフルにアヴェンジャーの真上を通過する。

機首を引き起こし上方から襲ってくるジョージに正面から立ち向かう。

機体そのものを楯としてアヴェンジャーを守る態勢だ。

F6Fが発砲した。

両翼からほとばしった火箭が上方へとつきあがった。

ジョージの半数は、機体を急角度に傾け半数は水面から跳ねる魚のように機体を大きく跳ね上げた。

急角度に傾いた機体は、半径の小さな円を描きF6Fの射弾をやり過ごす。

跳ねあがった機体は、ねじを回すように回転し十二・七ミリ弾を回避する。

ジョージは、垂直旋回と緩横転を使ってF6Fの正面攻撃をかわしたのだ。

ジョージが機体を水平に戻したときには、F6Fとジョージの位置が入れ替わっている。

話には、聞いていたがこれほど素早く動きF6Fの銃撃をかわせる機体があるとは信じられない。

東洋の魔術を目の当たりにしているようだ。

F6Fが慌てて反転しジョージに追いすがろうとするが間に合わない。

ジョージは、急速にアヴェンジャーとの距離を詰めている。

「撃て。

近寄らせるな」

 ピート少佐は、叫ぶと同時に親指に力を込めた。

正面に発射炎が閃き二条の火箭が噴き延びた。

ピート機だけでは、ない。

左右に展開するVT-12のアヴェンジャー各機が自衛用に装備しているブローニング十二・七ミリ固定機銃二丁を放っている。

ジョージが機体を左右に振った。

フットワークに優れるボクサーが相手のパンチをかわすような動きだ。

十二・七ミリ弾のストレートは、目標を据えることなく消えている。

ジョージの両翼に閃光が走った。

真っ赤な曳痕がほとばしり正面上方から殺到してきた。

あたかも松明を目の前に突き付けられているようだ。

ピート機は、辛くも被弾を免れるが左右に展開するアヴェンジャーが火を噴く。

二番機がエンジンから火を噴いて墜落し三番機が左主翼を中央から分断され回転しながら海面に突っ込む。

隊列の端に位置する五番機も見えざるハンマーを食らったかのように海面にはたき落される。

一連射を放ったジョージは、速力を落とすことなくアヴェンジャー群の頭上を通過し後方へと抜ける。

ピート少佐の背後から機銃の連射音が届く。

電信員を務めるダッチ・グリーン兵曹が胴体上面の七・七ミリ旋回機銃を放ったのだ。

これは、ジョージを捉えることはない。

七・七ミリ弾の細い火箭は、大気だけをむなしく貫きジョージは悠々と後方に抜ける。

「エディー機被弾。

ポップ機被弾」

 悲痛な声がレシーバーに響く。

ジョージを追うF6Fがアヴェンジャーとすれ違いたけだけしい爆音が前から後ろに抜ける。

「ジョージ、後方から来ます」

 若干の間をおいてダッチ兵曹の悲鳴じみた声が響く。

F6Fは、またもジョージの阻止に失敗した。

直接視認したわけでは、ないがおそらくジョージは驚くべき旋回性能を生かしてF6Fの攻撃をかわしアヴェンジャーの後方から食らいついてきたのだ。

「撃て。

撃ちまくれ」

 無線電話機のマイクに怒鳴りこむようにしてピート少佐は、命じる。

VT-12の各機が鍛えぬいた操縦技術と射撃術を駆使してこの窮地を切り抜けることを祈る。

「ビンセント機被弾」

 ダッチ兵曹がまた一機の墜落を報告する。

ジョージに食らいつかれるたびアヴェンジャーは一機、また一機と海面に叩き伏せられる。

「なんて奴らだ、日本軍は」

 ピート少佐は、呪詛の呻きを発した。

「ガース機被弾」

 新たな被撃墜機の報告がレシーバーに響く。

「あきらめぬ」

 ピート少佐は、歯ぎしりしながら叫んだ。

どうなろうと任務は、遂行する。

最後の一機になろうと必ず投雷し敵空母の下腹を抉って見せる。

その決意のもとピート少佐は、残りのアヴェンジャーの先頭に立ちなお突撃をつづけた。

「後方にジョージ」

 ダッチ兵曹の叫び声がレシーバーに響いた。

同時に七・七ミリ機銃の連射音が届いた。

ピート少佐は、咄嗟に機体をふった。

しかしそれが無意味だったとすぐに思い知らされた。

直後これまでに感じたことのない衝撃がアヴェンジャーを襲った。

右主翼から補助翼が吹っ飛びエンジンカウリングと機体の合わせ目から炎が這い出し黒煙がコックピットに流れ込んだ。

速力がみるみる衰えはじめ機体の高度が下がった。

操縦桿を手前に引くが機首が上がらない。

プロペラは、今にも波頭をたたきそうだ。

「ダメか」

 ピート少佐は、絶望の呻きを発した。

空母への雷撃どころか生還すら望めそうにない。

頭を上げたときはるか前方に巡洋艦がいた。

「せめてあいつに」

 最後の執念を込めピート少佐は、魚雷の投下索を引いた。

足下で乾いた音が響きアヴェンジャーの機体がひょいと上がった。

重量八百キログラムの航空魚雷を切り離した反動で機体が束の間浮き上がったのだ。

だがすぐに機体の高度が下がる。

海面が急速にせり上がり目の前に迫って来る。

(当たれ)

 海中に投じた魚雷にその思いを投げた直後すさまじい衝撃が襲いピート少佐のアヴェンジャーは、滑り込むようにして海面に突っ込んだ。

ピート少佐の思いとは、裏腹に魚雷は巡洋艦に命中しなかった。

 

                                     ※

 

 第一次攻撃と第二次攻撃で「清風」と「村風」が撃沈し、「笠置」が大破し第十九駆逐隊の護衛の下戦線離脱し、「霧島」、「名取」、「大鳳」が小破した。

しかし小破艦は、戦闘への支障はなかった。

 空襲の終了後第七艦隊は、「瑞鶴」より彗星を出撃させ敵の攻撃隊を尾行させた。

並行していったんは、中止を命じた攻撃隊を今度こそ出撃させるべく発進準備にかかった。

 午前九時十一分彗星から「敵艦隊見ユ。

位置、ガダルカナルヨリノ方位百十度、百六十浬。

敵ハ空母八、巡洋艦七、駆逐艦十隻以上。

〇九一一」の報告が入った。

 午前九時二十分第一次攻撃隊として旗艦「翔鶴」から三十九機(『翔鶴』飛行隊長楠美正少佐指揮、彗星艦上爆撃九機、天山艦上攻撃機十二機、陣風艦上戦闘機十八機)、「瑞鶴」から四十二機(彗星艦上爆撃機十二機、天山艦上攻撃機十二機、陣風艦上戦闘機十八機)、「蒼龍」から二十八機(彗星艦上爆撃機九機、天山艦上攻撃機九機、陣風艦上戦闘機十機)、「黒龍」から(彗星艦上爆撃機九機、天山艦上攻撃機九機、陣風艦上戦闘機十機)、「隼鷹」から(天山艦上攻撃機十二機、零式艦上戦闘機十二機)、「飛鷹」から(天山艦上攻撃機十二機、零式艦上戦闘機十二機)が発進した。

 午前十時四十五分三「瑞鶴」所属の第一中隊第二十五小隊長の相川嘉逸大尉は、右前方の海面にアメリカ機動部隊を発見した。

「よし、あれだ」

 その声が口から漏れた。

約一年三か月前のミッドウェー海戦同様中央にまな板を思わせる形状の大型艦が位置しその周囲を中小型艦が囲んでいる。

これまでの復讐を果たすべく先制攻撃を行ったものの失敗したため東方へ退避しようとする敵空母を沈めるだけだ。

「分隊長、制空隊が前に出ます」

 市町準一飛行兵曹長の叫びで相川大尉は、顔を上げた。

頭上に中島「誉」の爆音がとどろいている。

市原飛曹長が報告した通り制空隊が攻撃隊の前方に出ようとしているのだ。

正面上方に一群の機影が見える。

敵の直掩機であるグラマンF6F“ヘルキャット”であろう。

相川機は、隊長機がトツレ連送を発信したのをキャッチした。

 前方では、陣風とF6Fが空中戦を始めている。

F6Fの数は、予想していたほど多くない。

制空隊とほぼ同数かやや多いくらいだ。

しかし制空隊の中には、零戦が混じっていた。

この零戦は、三一型乙と呼ばれ主翼に九七式十二・七ミリ固定機銃を一挺ずつ追加し前部風防を四十五ミリメートル厚の防弾ガラスとし座席の後部に八ミリメートル防弾鋼板を装備させた性能向上型である。

しかしそれでも敵の最新鋭機と戦うには、荷が重いが「誉」の供給量と国力の限界から低速な商船改装空母も第一線で使用しなければならない関係上どうしても零戦も第一線で戦ってもらわなくてはならないのだ。

 しかし陣風も昨年と同じでは、ない。

機動部隊に配備されている陣風は、全て陣風二二型甲となっている。

二二型甲は、内翼部を新型の二式二〇粍固定機銃に換装した。

この機銃は、一式三十粍機銃のスケールダウン版として「十五試二十粍固定機銃」が試作されて重量約四十キログラムで初速九百二十メートル毎秒を誇る高性能機銃である。

現在翼内機銃を全てこの機銃に換装した二二型乙の生産に取り組んでいる。

 するとどの空母を攻撃するかの指示も来た。

どうやら自分たちの獲物は、小型空母二番艦になったようだ。

そしてト連送が発信された。

V字編成を形成した艦爆隊は、輪形陣の中央に鎮座する敵空母に向け進撃した。

巡航速度で飛んでいた彗星が速力を上げ猛進する。

その時F6Fが襲ってきた。

陣風の「誉」や彗星の「金星」とは、異なるエンジン音を立てながら蒼龍隊の左前方から突っ込んできた。

相川機の後方から火箭が飛びF6Fに殺到する。

後続機が機首二丁の十二・七ミリ固定機銃を発射したのだ。

F6Fは、銃撃などものともしない。

中口径弾を蹴散らす勢いで突進し両翼に発射炎を閃かせる。

「石川機、被弾」

 市原飛曹長が被害を報告する。

第三小隊を率いる石川敏雄(いしかわとしお)一等飛行兵曹と塚原涼(つかはらりょう)三等飛行兵曹のペア機が敵弾を受け火を噴いたのだ。

「敵機、反転。

後方から来ます」

 市原飛曹長が新たな報告を送った。

同時に後席から機銃の連射音が届いた。

野辺飛曹長が十二・七ミリ旋回機銃を放ったのだ。

相川大尉は、操縦桿を左右に倒す。

彗星が振り子のように振れ敵の火箭が風防の右側を通過する。

敵機の爆音が後方から迫り黒い影が相川大尉の頭上を通過する。

相川大尉は、咄嗟に発射杷柄を握る。

目の前に発射炎が踊り十二・七ミリ機銃の中途半端な火箭がほとばしる。

射弾は、敵機の尾部を据えたように見えたがF6Fはぐらつきもしない。

命中したのは、錯覚だったのか十二・七ミリ弾が装甲板を貫通できなかったのかはわからない。

F6Fが一旦相川機と距離を置き急角度の水平旋回をかける。

零戦や陣風に比べてスマートさに欠ける機体だが運動性は、意外と高い。

敵機が相川機の正面から突っ込んでくる。

胴体に二本戦を巻いている相川機を見て指揮官機だと判断したのかもしれない。

回避すべきところだが相川大尉は、逃げなかった。

機首を心持ち上に上げ発射杷柄を握った。

相川機だけでは、ない。

後続する各機も一斉に十二・七ミリ機銃を発射する。

多数の火箭が無数の赤い針のように敵機の正面から殺到する。

F6Fの両翼にも発射炎が閃く。

双方の一二・七ミリ弾が交差する。

青白い曳痕が真正面から相川機に向かってくるような気がしたが寸前で右にそれ風防の脇を通過する。

一二・七ミリ機銃の弾幕射撃は、敵機を墜とすことはできなかったが照準を狂わせる効果はあったようだ。

F6Fが相川機とすれ違う。

後席から連射音が届き相川機の右正横に中途半端な火箭が噴き延びる。

市原飛曹長が敵の面前に突き出す格好で一二・七ミリ機銃を放ったのだ。

「敵一機撃墜」

 市原飛曹長が弾んだ声で報告した。

「了解」

 しかし相川大尉の返答は、そっけないものだった。

命中率が小さいことに加え破壊力も低い十二・七ミリ旋回機銃でF6Fを墜とせたとは、信じがたい気がするが手傷を負わせたのは確かなようだ。

渡部 俊夫が直率する「瑞鶴」第一中隊は、一機を戦列から失ったものの敵戦闘機の撃退に成功したのだ。

 海上に発射炎が閃いた。

若干の間をおいて艦爆隊の周囲で次々と閃光が走り黒い黒煙が艦爆隊の周囲で次々と閃光が走り黒い黒煙が湧き出した。

敵艦隊が対空射撃を開始したのだ。

前方に閃光が走り炸裂音が響いた直後左右でも敵弾が爆発し飛び散る弾片が機体を叩く。

かと思えば左右で敵弾が炸裂し爆風を受けた機体が大きくよろめく。

前方、後方、左右のあらゆる方向で十二・七センチ両用砲弾が炸裂し飛び散る弾片と爆風が彗星の機体を揉みしだく。

「森機、被弾」

 二小隊の二番機は、森太一(もりたいち)一等飛行兵曹と新垣健一(あらがきけんいち)二等飛行兵曹のペアだ。

続いて三番機の東條乙(とうじょうきのと)飛行兵長と中塚昇平(なかつかしょうへい))飛行兵長の彗星が敵弾の断片を浴びて火を噴く。

F6Fの攻撃を辛くもしのいだ戦友の機体が敵弾を浴び太平洋の上空に散華してゆく。

相川大尉の機体にも何発かの弾片が命中している。

幸い急所は、全て外れておりエンジンにも操縦系にも異常はない。

三菱「金星」六二型エンジンは、快調に回っており爆弾槽に五十番爆弾を抱いた機体を目標上空へと導いている。

 相川大尉は、小型空母三番艦に狙いをつけると降爆の教範に従い右主翼の付け根に敵艦が重なるように機体を持ってゆく。

「二中隊、突撃を開始しました」

 市原飛曹長の報告が届いた。

小野大(おのまさる)大尉が率いる第二中隊が一足先に突撃を開始したのだ。

それに呼応するように牧野機も突撃を開始した。

「よし、行くぞ」

 相川大尉は、一声叫び操縦桿を右に倒した。

雲や空、漂う爆煙が視界の中で目まぐるしく回転し敵空母が正面に来た。

「三〇・・・・二九・・・・・二八・・・・」

 数字が小さくなるに従い照準環が捉えた敵の艦影が拡大する。

「二〇・・・・一八・・・・一六・・・・」

 市原飛曹長が高度を報告する。

時折敵弾が近くで炸裂し爆風を受けた機体が大きく揺れるが相川大尉は、操縦桿を操作し機体を投弾コースに戻す。

不思議と致命的な一撃は、受けない。

相川大尉の彗星は、空中を滑り降りるようにして敵空母の頭上に降下を続けている。

 高度が千四百メートルを切ったとき敵の艦上に多数の発射炎が閃いた。

一拍置いて無数の火箭がつきあがり始めた。

敵艦が対空機銃による迎撃を開始したのだ。

青白い曳痕がすさまじい勢いでつきあがり相川機の翼端や胴体脇を通過する。

麾下の機体に被弾撃墜されたものがあるかもしれないが市原飛曹長からの報告は、ない。

相川大尉の機体は、敵弾に抉られることなく真一文字に降下を続けている。

「一二・・・・一〇・・・・〇八・・・」

 市原飛曹長が高度の報告を続ける。

視野いっぱいに敵艦が広がる。

構造物は、右舷に集約されており艦橋の前方にクレーンがあり後方には四つの小さな直立煙突が並んでいる。

間違いなく新設計の空母だ。

 相川大尉は、高度四千メートルまで降下したので爆弾の投下レバーを引いた。

同時に操縦桿を目一杯手前にひきつけた。

目の前の空母が外に消えその前方に位置する巡洋艦が正面に来る。

肉体が岩と化したかのように重くなりともすれば操縦桿から手を放しそうになる。

 遠心力がゆるみ肉体が軽くなった時相川大尉の機体は、海面すれすれの高度を水平に飛んでいる。

「命中」

 後席の市原飛曹長が弾んだ声を上げた。

直後相川大尉の面前に天山が飛び出した。

相川大尉は、思わず叫び声をあげ操縦桿を左に倒す。

彗星が左に大きく傾斜し翼端を海面に突っ込みそうになる。

相川機の右の翼端をかすめるようにして天山が通過してゆく。

その機体の向こうにも別の天山が見える。

 艦攻隊も直掩機と輪形陣を突破し空母に肉迫しようとしていた。

「後は、任せた」

 その言葉を艦攻隊に投げかけ相川大尉は、集合位置へと向かった。

 

                                                   ※

 

 四隻の空母より飛び立った第二次攻撃隊は、高度を千メートルに取り毎時三百三十三キロメートルの巡航速度で北北西に向かった。

編成は旗艦「翔鶴」から四十二機(彗星艦上爆撃機十二機、天山艦上攻撃機十二機、陣風艦上戦闘機十八機)、「瑞鶴」から四十二機(『瑞鶴』飛行隊長江草隆繁少佐指揮、彗星艦上爆撃機十二機、天山艦上攻撃機十二機、陣風艦上戦闘機十八機)、「蒼龍」から二十八機(彗星艦上爆撃機九機、天山艦上攻撃機九機、陣風艦上戦闘機十機)、「黒龍」から二十八機(彗星艦上爆撃機九機、天山艦上攻撃機九機、陣風艦上戦闘機十機)、「隼鷹」から二十四機(天山艦上攻撃機十二機、零式艦上戦闘機十二機)、「飛鷹」から二十四機(天山艦上攻撃機十二機、零式艦上戦闘機十二機)が発進した。

搭乗員のほとんどは、不敵な笑みを浮かべ北北西にかかる断雲を見つめていた。

「果報は、寝て待て。

待てば回路の日よりありか」

 宮國良平(みやぐにりょうへい)上等飛行兵曹は、我知らずほほが緩んで来るのを感じた。

右手で口元を拭うとわずかによだれがついた。

いささかだらしないと思いつつも笑いを止めることができない。

そもそも笑いを止めようという気がない。

水上偵察機は、敵空母の発見ができずあろうことかわが軍は敵に先手を打たれた。

幸い直掩機の奮戦で駆逐のみ沈み空母は、全艦戦闘続行可能である。

そして送り狼として彗星を飛ばし敵攻撃隊を尾行させついに敵空母の所在を突き止め第一攻撃隊を発艦させた。

報告は、ないものの敵機動部隊は第一次攻撃隊によって甚大な被害を被ったに違いない。

そしてとどめを刺すのは、自分たち第二次攻撃隊だ。

 攻撃隊は、緊密な編隊を組んだままエンジン音を囂々と響かせひたすら北北西に進んだ。

 大きくバンクし全機に「敵発見」の合図を送ったのは、隊長機だった。

「あれだ。

右前方」

 守屋正人(もりやまさと)飛行兵曹長が弾んだ声で叫んだ。

宮國上飛曹は、右前方の海面を見た。

一群の艦船が東方に向け航行している様子が見えた。

数は、五十隻前後だ。

巡洋艦と駆逐艦が城壁を思わせる環状の陣形を作っている。

その中央に草鞋型の艦が見えそれが三群いる。

「来たぞ」

 伝声管から守屋飛曹長の声が聞こえた。

「『翔鶴』、『蒼龍』隊目標小型空母。

『瑞鶴』、『黒龍』隊目標大型空母。

トツレ電受信。

準備にかかれ」

 「翔鶴」隊と「蒼龍」隊二十一機の彗星は、千早大尉の機体を右先頭に斜単横陣を作っている。

「瑞鶴」隊と「黒龍」隊二十一機の彗星も伊吹大尉の機体を右先頭に斜単横陣を作っている。

 迷いも躊躇も一切ない。

目標は、ただ一つ輪形陣の中央に鎮座している空母だ。

どんなことをしてもあの空母に五十番爆弾を必中させる。

「清風」、「村風」、「笠置」、「霧島」、「名取」、「大鳳」の仇をとるのだ。

そのことだけが脳裏を占めていた。

 ほどなく高角砲弾の炸裂が始まった。

艦爆隊の前方に次々と黒煙が沸きたつ。

下方でも砲弾が炸裂し艦隊と攻撃隊の間に黒い花園を作っている。

空母本体よりも輪形陣の外郭を固めている巡洋艦と駆逐艦の砲火が激しいようだ。

自艦を守るよりも空母の上空に向けて撃ち次々と爆煙を沸き立たせ弾片を飛ばしてくる。

あたかも空母の真上に高角砲弾の傘をさしかけようとするようだ。

日本機は、空母しか攻撃してこない。

少なくとも空母を最優先目標に置いていることは、間違いない。

だから自艦を守ることなど考えず空母を守るべきだ。

そんな割り切りが見て取れた。

 やがて対空砲火の薄いところを見出したのだろう。

牧野少佐の彗星がぐらりと傾き空母を目指して急降下を開始した。

「黒龍」隊も順繰りに機体を翻し始めた。

海戦からここまで連合軍の多くの艦船を葬ってきた彗星の突撃が始まった。

 艦の左右両舷では、大小の波紋が海を沸き返らせ海面を白く染め変えている。

高角砲弾の破片、対空機銃の外れ弾によるもののや外れ弾が噴き上げた水柱の名残によるものだろう。

海面の様子を観察している時間は、ごく短かった。

 千早大尉の彗星を先頭に「瑞鶴」艦爆隊が接近したときアメリカ空母は、すでに命中弾を受け海面をのたうっていた。

草鞋型の巨大な船体は、ともすれば絶え間なく噴出する黒煙の中に隠れようとしているように見える。

艦の左右両舷では、大小の波紋が海を沸き返らせ海面を白く染め変える。

高角砲弾の破片や対空機銃の外れ弾によるもののほか、外れ弾が噴き上げた水柱の名残や直撃弾炸裂によって甲板から飛び散った破片によるものだろう。

にもかかわらず空母は、屈した様子を見せない。

対空砲火は、大部分が健在であり速力も衰えを見せない。

空母の様子を観察している時間は、ごく短かった。

千早機がくるりと機体を反転させ降爆の態勢に入る。

一小隊の二番機がこれに続く。

視界いっぱいに海が広がる。

 火災を起こしながらも回避運動を続ける空母、なびく火災煙と海面を切り裂く航跡の上に先に急降下を開始した三機の機影が見えている。

照準器を通して敵の艦体を睨み据える。

五十番爆弾を何が何でも必中させる。

頭にあるのは、それだけだ。

対空砲火がにわかに激しさを増したように見える。

赤や黄色のキャンディーが吹雪さながらの勢いで飛んでくるが大部分は、機体の左右へと流れ去っていく。

彗星の機体が炎の束をかき分けつつ突進していくような気がする。

千早隊長機の一番機が投弾を終えたらしく機体を引き起こす。

空母と同じ方向に飛び機首を抜けるようにして飛び去る。

宮國一飛曹は、ちらりと高度計に目をやる。

現在千四百メートルを指している。

まだ少し距離がある。

複数の火箭が一小隊三番機を包み込んだように見えた。

思わず目を見開いた瞬間三番機は、火を発し次の瞬間ばらばらに砕け散っていた。

中ほどから引きちぎれた翼の破片がプロペラのように高速で回転しながら目の前に迫る。

思わず首をすくめるがそれは、すれすれのところでコックピットの上部をかすめ視界の外に消え去る。

それ以外の破片や二人の搭乗員の行方を追っている余裕は、ない。

ただ心の片隅で両手を合わせ仇は討つと誓うだけだ。

高度は、さらに下がる。

降下を始めたときは、黒煙を噴き出しながら回頭する空母の全体が照準器に収まり切らなくなる。

(絶対当たる。

いや、当てる)

 照準器と高度計を交互に見つつ降下を続ける。

コックピットの右わきに異音が響き機体が振動する。

左翼からも異音が聞こえ衝撃に機体がわななく。

(追い払われないぞ、俺たちは)

 黒煙を噴き出す空母の甲板を見つめ宮國上飛曹は、その思いを込めた。

(俺たちは、空のすっぽんだ。

食らいついたら放しは、しない)

 高度計が五百を指し四百を指す。

高度三百で宮國上飛曹は、投下レバーを引いた。

乾いた音とともに重いものが腹の下から離れる感触が伝わって来た。

操縦桿を手前にひきつけ引き起こしにかかる。

遠心力が全身を締め上げる。

操縦桿を握る両腕が砂袋を括りつけたように重い。

目の前に巨大な巨大な黒雲が出現する。

宮國上飛曹は、かまわずに機体を突っ込ませる。

プロペラと両翼が多量の黒煙を切り裂く。

吹き飛ばされ薄くなった黒煙の向こうに沸き立つ海面がちらりと見える。

やがて機首が上向いた。

彗星は、上昇を開始した。

高度計の針が再び右に回っていく。

対空砲火は、なお熾烈だ。

アイスキャンディーは、コックピットの後方から出現し蒼空の中へと吸い込まれていく。

「命中しましたか?」

 大声で宮國一飛曹は、聞いた。

「命中だ」

 守屋飛曹長は、弾んだ声で答えた。

 「瑞鶴」隊の全機が投弾を終え高度二千まで上がったとき敵空母は、沈み始めていた。

 宮國上飛曹は、今一度敵艦隊を眺めやった。

艦爆隊と艦攻隊全機が投弾と投雷を終えたと判断したのかアメリカ艦隊は、打ち切っていた溺者の救助を行っている。

F6Fは、なおも陣風と空中戦を繰り広げていた。

宮國上飛曹は、その執念深さに驚いていた。

 

                                ※

 

 午後十二時十七分第三次攻撃隊が発進した。

現地時間では、十四時十七分である。

太陽は、なお赤々と輝いているが水平線までの距離はそう遠くない。

攻撃隊が向かっている西の空は、断雲が茜色に染まっている。

その中を陣風と天山の編隊は、エンジン音を轟轟と唸らせながら日が沈みゆく方向に向かっていく。

「『翔鶴』、『蒼龍』、『隼鷹』隊目標大型巡洋艦一番艦。

『瑞鶴』、『黒龍』、『飛鷹』隊目標大型巡洋艦二番艦」

 電信員を務める嶺井純(みねいじゅん) 一等飛行兵曹が爆音に負けじとばかりの大声で報告する。

「『トツレ』電受信」

 小林上飛曹は、第二中隊の動きを注視した。

 発艦前の打ち合わせでは、第一中隊は第二中隊に続いて突入し両中隊で挟撃することになっていた。

第一小隊は、第二中隊長機に従い敵艦隊の左前方へと回り込んでいく。

小林上飛曹も第一小隊の三番機の後方につき小隊麾下の二機を誘導する。

輪形陣の外郭を固める駆逐艦が艦上に閃光をほとばしらせる。

当の巡洋艦も艦体の前部と後部、左右両舷を橙色に染め発射炎を明滅させる。

旗本だけに任せておかず刀折れるまで白刃をふるうかのような眺めだ。

輪形陣の一角を固める軽巡と思しき艦が一番派手に見える。

艦首から艦尾まで甲板上のほとんど全てに発砲の閃光を明滅させおびただしい火弾を撃ち上げてくる。

その軽巡を中心とした空域には、ひときわ多数の閃光が煌き爆煙が沸き立ち活火山の真上のような様相を呈している。

(なりが小さい割に重火力だな)

 水上の砲雷撃戦よりも対空戦闘に重点を置いて建造されたのかもしれない。

アメリカにも今後の海戦における主役は、航空機になるといち早く見抜き高角砲や機銃で航空機を撃墜するための艦を建造した者がいるかもしれない。

防空巡洋艦とでも呼ぶべき新時代の軍艦だ。

 実際日本でもマル五計画で小型防空巡洋艦の阿賀野型軽巡洋艦を計画した。

この艦は、秋月型駆逐艦を大型化したもので雷撃能力を強化し航空機を搭載できるようにしたのだ。

さらにマル急計画で計画された伊吹型重巡洋艦は、五十口径九一式九糎連装高角砲を六基に二十五ミリ三連装機銃十三基三十九挺、同単装九挺、二十粍単装機銃三十六挺を装備することを盛り込まれるなど日米双方とも防空艦の建造に躍起になっていた。

 第一小隊がその巡洋艦の上空を避けるコースをとる。

小林機も第一小隊の後方に続く。

 突然左前方にカメラのフラッシュを何十倍にも拡大したような白い閃光が走った。

小林上飛曹が追従していた第一小隊三番機が防空巡洋艦からの高角砲弾の直撃をくらい一撃で空中分解したのだ。

翼も、胴も、エンジンもほとんど瞬間的に砕けてしまいおびただしい断片と化して飛散する。

八九式航空魚雷と思しき細長い塊がむなしく海面に落下していく。

一小隊三番機の最期を見極められたのは、そこまでだった。

搭乗員三名の遺体は、見ることができなかった。

小林上飛曹は、胸の中で三番機の三名に手を合わせた。

戦闘行動中に敬礼などは、しない。

今は、ただ残り二機になってしまった第一小隊に追従し機体を降下させることに集中する。

 防空巡洋艦の上空からは、離れたが対空砲火はいよいよ熾烈さを増してくる。

高角砲弾は、次々と炸裂し空中におびただしい鉄片が飛び交っている。

一発が胴体を直撃し操縦席の右わきに不気味な音を響かせる。

続いて別の一発が白煙を引きずりながら右の翼端をかすめる。

さらに風防ガラスに何かが弾けるような音が響き偵察員席から罵声が上がった。

「小隊長」

 小林上飛曹は、思わず声を上げた。

「大丈夫だ。

破片が飛び込んできただけだ。

かすり傷だ」

 竹山大尉が気丈な声で返答した。

「了解」

 小林上飛曹は、答した。

高角砲弾が炸裂する中「黒龍」の第一、第二中隊は敵艦隊の左方に回り込みつつ高度を下げていく。

海面が大きくせり上がる。

目の覚めるようなブルーの中におびただしい白い斑点が見える。

対空砲弾の破片が海面に落下しいたるところで飛沫を上げているのだ。

味方機や敵機が撃墜され海面に落下したものも混じってるかもしれない。

小林上飛曹は、海面と高度計を交互ににらみ小隊を誘導した。

針が四百を切り三百を切る。

艦爆なら引き起こしをかける高度だが艦攻隊は、これからだ。

敵巡洋艦をにらむ。

高速で急速転回をを繰り返しているかと思いきや動きは、予想より鈍い。

右舷側より黒煙を噴き上げながらのろのろと動いている。

「やったな、『瑞鶴』隊」

 小林上飛曹は、直感的に事態を悟り声に出してつぶやいた。

先陣を切って敵巡洋艦に突撃した葛城大尉率いる「瑞鶴」の艦攻隊が敵空母に一番槍をつけた。

見事魚雷を命中させ速力を低下させたのだ。

「これならやれる」

 小林上飛曹が言った。

すでに手傷を負い行き足が鈍った巡洋艦になら魚雷を必中させられる。

そのことを確信している口調だった。

だが敵の巡洋艦は、あきらめる様子を見せなかった。

速力を衰えさせながらも白波を立て回避運動を続けている。

舷側を発射炎で橙色に染め無数の火箭を飛ばしてくる。

一発が翼端をかすめ別の一発が目の前に飛沫を上げる。

「敵も必死、こっちも必死か」

 小林上飛曹がつぶやいた。

「どっちの必死さが上回るかだ」

 敵弾に捕まらないように高度を目一杯下げ横滑りを繰り返す。

その時機体に寄せられるようにアイスキャンディーが迫った。

小林上飛曹が思わず首をすくめた瞬間機体に衝撃が走りエンジン脇から炎が噴き出した。

高度が限界まで下がっていたため重い魚雷を放つことも機首を上げることも間に合わず機体は、海面にたたきつけらればらばらになった。

 

                        ※

 

 日米ともに機動部隊は、壊滅したため両艦隊は引き上げることにした。

 

                        ※

 

 ニミッツ元帥は、「新生機動部隊の損失は、ガダルカナル作戦のみに限られたものではなかった。

新生機動部隊は、敵機動部隊に対し攻撃の冒険をあえてすることができるか否かについて長い事論議された問題の全てを解決した」と回想している。

 戦果は、

撃沈

航空母艦「エセックス」、「ヨークタウン」、「バンカー・ヒル」、「インディペンデンス」、「サラトガ」、「レキシントン」、「プリンストン」、「ベロー・ウッド」

重巡洋艦「サンフランシスコ」

軽巡洋艦「サンファン」、「サンティエゴ」、「オークランド」、「バーミングハム」

 

損害

撃沈

駆逐艦「清風」、「村風」

大破

重巡洋艦「笠置」

小破

戦艦「霧島」

航空母艦「大鳳」

軽巡洋艦「名取」

損失 百八十三機

 

 確かに戦術だけで見れば日本の勝利であるが搭乗員の損失は、軽視できずまたアメリカ軍の上陸作戦も阻止できず戦略的には大敗だった。

 

                      第二章 ギルバート諸島沖海戦

 

 千九百四十三年(昭和十八年)八月ソロモン諸島方面で日本軍を圧倒しつつあった連合国軍は、中部太平洋で日本に対する本格的な反攻作戦に着手することにした。

そしてその最初の攻略目標としてギルバート諸島(タラワ、マキン環礁)が選ばれ作戦名は、「ガルヴァニック作戦」と決定された。

ギルバート攻略部隊を支援するため高速空母機動部隊である第五十任務部隊(指揮官:チャールズ・A・パウナル少将)が投入されることになった。

第五十任務部隊は、四群に分かれた大型正規空母五隻と軽空母六隻を中心とした艦隊で搭載機は約六百六十機に及んだ。

しかし第五十任務部隊などは、先のガダルカナル沖海戦で壊滅したため作戦開始が一年遅延してしまった。

 その任務は、予想される日本軍の航空反撃から攻略船団を守るとともに攻略目標のギルバート諸島を孤立化させさらに防御陣地を破壊することにあった。

なお第五十任務部隊以外の空母戦力として護衛空母五隻もガルヴァニック作戦に参加している。

 

                        ※

 

 これに対する日本軍も連合国軍が中部太平洋方面で反攻作戦に出てくることを想定していた。

日本の連合艦隊司令部は千島列島から南鳥島(マーカス)、ウェーク島、ギルバート諸島など太平洋正面で連合国軍が反攻作戦に出てきた場合に備え基地航空部隊と機動部隊、潜水艦などの全力を挙げて迎撃する計画を立て「Z作戦」と命名していた。

ギルバート諸島方面の基地航空部隊としてはタラワ飛行場のほかクェゼリン環礁など周辺島嶼に第六十一航空戦隊、第六十二航空戦隊、第二十二航空戦隊と第二十六航空戦隊が配置された。

千九百四十四年(昭和十九年)九月二日-四日にギルバート諸島とナウルの各基地がアメリカ海軍機動部隊(「イントレピッド」、「カウペンス」、「モンテレー」)の空襲を受けて航空機十三機以上が地上撃破されるなどの損害を受けたものの同年十月十六日の時点で戦闘機四百六十四機・陸上攻撃機(陸攻)三百十二機・艦上爆撃機二百八十八機の計七百六十四機の兵力を擁していた。

 日本側の航空攻撃計画は、機動部隊は敵機動部隊へ先制攻撃のちアウトレンジ戦法で反復攻撃し戦闘爆撃機で空母を封殺し次に本攻撃に移る。

黎明を狙ったのち昼間にアウトレンジ戦法だけで攻撃を行う。

基地航空部隊には、索敵を期待しており哨戒圏を利用して接敵し翼側から攻撃し協力困難なら縦深配備とするというものだった。

航空参謀田中正臣は、「小澤長官が強調された戦法で四百浬~四百五十浬から発艦し全速力で敵方に突き込み飛行機隊を収容して反復攻撃を行う方法である。

この遠距離からの攻撃が可能であるかどうか検討され全機種(彗星、天山)で可能であるとの結論になった。

この戦法は、当然の策でありこの戦法でなければ勝算はないものと考えていた」という。

また停泊した米機動部隊を特四式内火艇で奇襲する竜巻作戦をZ号作戦に伴って実行する案もあり九月十日本作戦について中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将は、情勢に適応しないとの理由で反対を表明しているが連合艦隊司令部は既定の計画に従って九月十九日Z作戦命令の一部として発令した。

しかし特四式内火艇にエンジンの轟音、低速、キャタピラが小石で破損するなど性能上の欠陥があることが分かり九月二十八日本作戦の実施は不可能と判断し中止された。

 十月六日豊田副武連合艦隊司令長官は、「Z号作戦」開始を発令した。

同日小沢治三郎中将は、旗艦「翔鶴」で訓辞を行った。

 

今次の艦隊決戦に当たっては、我が方の損害を省みず戦闘を続行する。

大局上必要と認めた時は、一部の部隊の犠牲としこれを死地に投じても作戦を強行する。

旗艦の事故、その他通信連絡思わしからざるときは各級司令官は宜しく独断専行すべきである。

もし今次の決戦でその目的を達成出来なければたとえ水上艦艇が残ったにしてもその存在の意義は、ない。

 

 ただし三番目の訓示に関して、艦載機搭乗員の中には、その様な訓辞は聞いてもいないし知りもしないと証言している者もいる。

 十一月一日豊田長官は、Z号作戦発動を命令した。

 同日Z号作戦の決戦発動を受けて日本の第七艦隊は、トラック泊地を出撃した。

兵力は、

第一航空戦隊:小沢治三郎司令長官直率

航空母艦:「翔鶴」、「瑞鶴」

第二航空戦隊 司令官:山口多聞少将

航空母艦:「蒼龍」、「黒龍」

第四航空戦隊 司令官:高橋三吉少将

航空母艦:「麗鶴」、「雅鶴」

第五航空戦隊 司令官:原忠一少将

航空母艦:「大鳳」、「祥鳳」

第六航空戦隊 司令官:近藤英次郎少将

航空母艦:「龍鳳」、「瑞鳳」

第七航空戦隊 司令官:三並貞三少将

航空母艦:「海鳳」、「白鳳」

第八航空戦隊 司令官:角田覚治少将

航空母艦:「隼鷹」、「飛鷹」

第九航空戦隊 司令官:岡田次作少将

航空母艦:「天鳳」、「翠鳳」

第十航空戦隊 司令官:和田秀穂少将

航空母艦:「雲龍」、「昇竜」

第十一航空戦隊 司令官:柳本柳作少将

航空母艦:「海龍」、「白龍」

第四戦隊 司令官:山本英輔中将

戦艦:「金剛」、「比叡」、「霧島」、「榛名」

第八戦隊 司令官:西村祥治少将

重巡洋艦:「天城」 、「赤城」、「葛城」、「笠置」

第九戦隊 司令:阿部弘毅少将

重巡洋艦:「利根」、「筑摩」

第五駆逐隊 司令:野間口兼知中佐

駆逐艦:「朝風」、「春風」、「松風」、「旗風」

第十九駆逐隊 司令:福岡徳治郎大佐

駆逐艦:「敷波」、「浦波」、「磯波」、「初風」

第九駆逐隊 司令:井上良雄大佐

駆逐艦:「夏雲」、「峯雲」、「薄雲」、「白雲」

第十六駆逐隊 司令:鳥居威美大佐

駆逐艦:「初風」、「雪風」、「天津風」、「時津風」

第六十一駆逐隊 司令:大江賢治大佐

駆逐艦:「秋月」、「照月」、「涼月」、「初月」

第三十駆逐隊 司令:折田常雄大佐

駆逐艦:「西風」、「里風」

第六水雷戦隊 司令:坂本伊久太少将

軽巡洋艦:「川内」

第七駆逐隊 司令:山田勇助大佐

駆逐艦:「秋雲」、「潮」、「曙」、「漣」

第二十三駆逐隊 司令:若木元次大佐

駆逐艦:「朧」、「江風」、「涼風」、「海風」

第十駆逐隊 司令:阿部俊雄大佐

駆逐艦:「風雲」、「夕雲」、「巻雲」、「秋雲」

第七水雷戦隊 司令:井上継松少将

軽巡洋艦:「名取」

第四十三駆逐隊 司令:菅間良吉大佐

駆逐艦:「睦月」、「卯月」、「皐月」、「水無月」

第四十一駆逐隊 司令:脇田喜一郎大佐

駆逐艦:「新月」、「霜月」、「冬月」、「若月」

である。

 

               ※

 

 アメリカ艦隊は、十一月二日のうちには日本艦隊の出撃を知っていた。

米潜水艦「フライングフィッシュ」が日本艦隊を発見して報告した。

スプルーアンス提督は、日本艦隊への攻撃を決意した。

 第五十任務部隊旗艦「イントレピッド」の甲板上では、パイロットたちが他の隊との親睦とリクリエーションのためボクシングをしていた。

一方は、非力だが腕が長くリーチがありもう一方はパワーはあるが腕が短くリーチが短いパイロットだった。

それをポウノール少将と艦長のオスカー・ウェーラー大佐もその様子を見ていた。

試合は、リーチが長いほうが一方的に殴り相手をノックダウンして試合を終了させた。

するとポウノール少将がその場を去った。

そのあとをオスカー艦長もついてきた。

「やっぱりだめだな。

リーチの短いほうがパンチは、強いが負けた」

 ポウノール少将が重苦しく言った。

「先のボクシングですか?」

 オスカー艦長が尋ねた。

「日本の艦載機は、四百八十キロメートル以上飛べるがわがほうの飛行機の行動範囲は三百二十キロメートル以下だ。

リーチの長い日本にアウトボクシングをされたらこっちは、手も足も出せない。

しかし敵の攻撃を防げるイージスを身に着ければ問題ない」

 ポウノール少将は、第五十任務部隊が置かれている状況を分析した。

「CIC、近接信管とボフォーズですね」

 オスカー艦長がイージスの正体を言った。

「そうだ。

我々の任務は、マキン・タワラの攻略にある。

だからギルバート諸島を離れることは、できない。

しかしこのままでは、一方的に日本の攻撃を受けるだけだ。

リーチの長い奴にな。

だからその猛攻を何としてでも防ぎ切らなければならない」

 ポウノール少将も固い決意を持っていた。

するとポノール少将は、振り返りはしゃいでいる部下たちを見た。

「あんな朗らかな連中を殺したくは、ない。

必ず小沢中将は、アウトレンジ戦法で来る」

 ポウノール少将は、小沢司令官の考えを確信していた。

 シーホースも三日に日本艦隊を追尾していた。

 上陸二日前の十一月三日朝アメリカ海軍第五十任務部隊は、ギルバート諸島及びナウルに対して激しい空襲を開始した。

 

               ※

 

 これに対して日本海軍の第七五五航空隊は、索敵機を出して機動部隊を発見し深山陸上攻撃機十三機を攻撃に向かわせた。

この攻撃隊は、体当たり攻撃により空母一隻の撃沈を報じたがアメリカ軍に該当する損害は無い。

日本の攻撃隊は、二機が未帰還となった。

 

               ※

 

 第七艦隊旗艦「翔鶴」では、小沢司令長官が指令室に真珠湾から生き残った分隊長とともに作戦会議を開いていた。

「敵の兵力は、マーシャル上空の偵察写真や鹵獲した資料によるとわがほうの倍以上である。

これに勝つには、敵の矛先が届かない距離から敵を襲うしかない。

幸いにも真珠湾を攻撃した士官諸君や陣風二二型乙といった最新鋭の航空機が配備されている。

搭乗員の技量は、真珠湾時と比べれば圧倒的に低いがそれを諸君らが誘導して必勝を期してほしい」

 小沢中将が作戦内容を述べた。

「また敵を発見したらすぐ飛び出すんですね」

 分隊長の一人が確認した。

「そうだ」

 小沢中将がうなずいた。

「また第七艦隊がアメリカの空母を全て水葬できるんですね」

 分隊長の一人がワクワクしながら言った。

「おそらく海戦は、明日以降でしょう。

今夜は、盛大に会食をして長官の上海の花売り娘でも伺いましょう」

 分隊長の一人が提案した。

「そうだな」

 分隊長の誰一人も異議を唱えなかった。

「よかろう。

歌うぞ」

 小沢中将も部下の景気づけに歌うことを決意した。

そこに草鹿参謀長が来た。

「なんだ?」

 小沢中将が用事を聞いた。

「第七五五海軍航空隊嘉村栄司令から通信が入りました」

 草鹿参謀長が用事を言った。

「『敵機動部隊ハ、ギルバート諸島及ビ『ナウル』ヲ空襲ス。

迎撃機デ敵ヲ百機撃墜ス。

追撃隊ハ体当タリ攻撃ニヨリ空母一隻ヲ撃沈ス。

未帰還機三十二機。

地上撃破多数』」

 報告後指令室は、どよめいた。

海戦前から敵は、空母を沈め艦載機にも甚大な被害を与えたからだ。

しかし小沢中将の表情は、固い。

「誤認だな」

 小沢中将は、冷徹に言った。

「長官」

 分隊長の多くが異を唱えた。

「これまでの航空戦でも誤認が多く見られた。

今回もそれと同じだ。

誰かが言ったように敵機動部隊を水葬するのは、我ら第七艦隊だ。

水兵に舞い上がりだと言ってくれ」

 小沢中将が分隊長たちに命じた。

 

               ※

 

 四日スプルーアンスは、ミッチャーに対し第五十任務部隊は敵空母の撃破を第一の目標とするよう指示した。

しかしその後アメリカ艦隊は、日本の機動部隊の所在を見失った。

スプルーアンスは、日本艦隊が攻略船団だけを狙った一撃離脱を試みることをおそれ警戒しつつ東方への航行を続けた。

 十一月四日にもアメリカ軍機動部隊は、ギルバート諸島やミリ環礁、ジャルート環礁(ヤルート)の日本軍航空基地を激しく空襲した。

これにより飛行艇三機などが地上撃破された。

日本軍は再び航空機による反撃を試みたが索敵に出た二十機のうち十二機が失われクェゼリン環礁のロイ=ナムル島(ルオット)からの攻撃隊十五機は、目標を発見できず一機未帰還となった。

 その後十一月五日未明にもアメリカ軍機動部隊は、ギルバート諸島やジャルート環礁などを空襲した。

これは、日本軍の航空部隊や地上施設に相当な打撃を与えた。

タラワとマキンの陸上では、上陸作戦が行われタラワ地上戦とマキン地上戦が始まった。

 なお一連の空襲でアメリカは八十八機、日本は八十八機と多数の地上撃破を被った。

 

               ※

 

 十一月五日朝日本側は、攻撃を免れたマロエラップ環礁から索敵機を出した。

「索敵機より受信」

 「翔鶴」の通信長が興奮しながら報告した。

「敵艦隊見ユ。

アバマーマ島ヨリノ方位二十度、八十浬。

針路二百七十。

空母十一隻ヲ伴ウ』」

 通信長が敵機動部隊の位置と数を報告した。

「長官」

 草鹿参謀長の表情が輝いた。

敵機動部隊を発見できずに陸上基地にかなり被害が出たがとうとう敵機動部隊の位置を確認した。

「第一次攻撃隊発進」

 この時を待っていたと言わんばかりに甲板上で暖機運転がされていた機体が次々と飛び立っていった。

 

 第一次攻撃隊五百二十機は、編隊の集結を終えると同時に針路を三十五度に取り進撃を開始していた。

総指揮官は、「翔鶴」の垂井明少佐である。

艦爆隊を束ねるのは、比良国清大尉でる。

「右前方、島が見えます」

 宮國一等飛行兵曹が後席にいる守屋飛行兵曹長に報告した。

 本来ならこの海戦から第七艦隊には、流星と烈風が配備されることになっていた。

流星は世界初の艦爆艦攻の機種統一機であり急降下爆撃、水平爆撃、雷撃も可能な高性能機である。

さらに天山と彗星がろくに防弾装備を持っていなかったのに対し流星は、充実した防弾装備を持っていた。

しかしこれは、うたい文句だけで実際は軽量化の際取り外されてしまった。

 烈風は、三菱が零戦の後継機として開発に取り組んだ機体である。

より空気抵抗の低減された美しい機体である。

さらにエンジンは、中島飛行機の「勲」一二型エンジンを採用した。

このエンジンは、「誉」と同時期に開発されたエンジンであるが当初からスーパーチャージャー二段三速が採用された高高度用エンジンである。

 しかしこれらの機体は難産でともに必要数を揃えられず機体は従来通り陣風、彗星、天山が使われた。

 鮮烈なまでに染まった海、そこだけではっきりと色が変わって見える珊瑚礁、黄白色に染まる浜辺、内陸に向かって伸びる緑の木々などが見える。

「三番機は、どうですか?」

 気にかかっていたことを宮國一飛曹は、聞いた。

「後続している。

これほどの大編隊を組んでいるんだ。

新米だってよほどのへまをしない限りはぐれることは、ないだろう」

 先のガダルカナル沖海戦で消耗した部隊の補充と再編が行われた。

これによって三番機には新米の戸柱誠一(とばしらせいいち)二等飛行兵曹、白浜繁(しらはましげる)一等飛行兵曹のペアである。

 彼らは、今回の海戦が初陣であり小隊を組んでから日が浅く編隊飛行の訓練も十分に積んだとは言えない。

それだけに目を少しでも離せないような危なっかしさを感じる。

「問題は、往路より復路だ。

敵艦隊の上空では、乱戦に必ずなる。

新米ほどはぐれやすいし単機での帰艦も難しい。

直前まで極力編隊を崩さず爆撃終了後は、集合場所までうまく誘導してやらないと」

 守屋飛曹長の言葉で宮國一飛曹が時計を見た。

出撃してから二時間が経過しようとしていた。

アメリカ艦隊が発見された位置はアバマーマ島よりの方位二十度、八十浬。

針路は、二百七十度である。

攻撃隊の進撃速度は、流星に合わせて時速三百七十キロメートルである。

約四百浬の距離を二時間で飛ぶ。

敵艦隊が針路と速度を変更しなければ発見できていなければならなかったはずだった。

 前方におびただしい黒点が見え始める。

降下していく艦爆隊と艦攻隊の頭を押さえる恰好でF6Fが仕掛けてくる。

陣風が艦爆隊と艦攻隊をかばいF6Fへ立ち向かう。

空中戦の戦場は、たちまち拡大する。

陣風とF6Fが上に下に飛び違い互いの背後をとろうと旋回格闘戦を展開する。

あるいは騎馬武者同士の戦いのように正面から二十ミリと十二・七ミリを撃ちまくりながら肉迫し猛速ですれ違う。

陣風が被弾し炎の尾を引いて墜落すればF6Fにも二十ミリ弾をコックピットに叩き込まれおびただしいガラス片と金属片をまき散らしながら墜落する機体がある。

陣風の攻撃を突破することに成功したF6Fは、爆撃隊と攻撃隊に取り付く。

彗星の一機が被弾し黒煙の尾を引きずりながら脱落する。

陣風の一機がそのF6Fに二十ミリ弾を浴びせる。

いくつものアイスキャンディーが吸い込まれたとみるやそのF6Fは、垂直尾翼を破壊され錐もみ状になって墜落を始める。

 敵艦隊も対空戦闘を開始する。

各々の攻撃隊は、敵空母を求めた。

宮國一飛曹たちの攻撃隊が十分ほど飛行を続けた後陣風の一機が大きくバンクをした。

正面上方にいくつもの黒点が見える。

みるみる数を増やしF6Fのずんぐりした姿をあらわにする。

本陣の空母をやる前にまず突破しなければならない旗本隊だ。

陣風隊が上昇し空中戦が始まる。

 飛行機雲が絡み合いアイスキャンディーが頭上で展開される。

「瑞鶴」と「大鳳」の陣風隊のうちそれぞれ一個小隊ずつが艦爆隊と艦攻隊からつかず離れずの位置を保っている。

どちらも第一小隊の中隊直率の小隊だ。

艦爆隊と艦攻隊を守る最後の楯を中隊長自らが引き受ける。

 二機のF6Fが乱戦の中から抜け出し彗星隊に肉薄してくる。

宮國一飛曹は、機首二丁の十二・七ミリ機銃で迎え撃つべく発射把柄に手をかける。

しかし流星隊が自ら戦う必要は、なかった。

二機の陣風が機体を翻しF6Fに向かった。

二十ミリの火箭が浴びせられF6Fの一機が火を噴く。

一機は、かなわないと見たのか急降下で離脱する。

また一機別のF6Fが今度は、攻撃隊に向かう。

これまた「大鳳」の陣風が火箭を浴びさせて追い払う。

 迎え撃つ吉良邸の侍臣を一人また一人と斬り伏せつつ上野介の白髪首を求める四十七士さながらである。

恨み重なる仇は、土蔵ではなく大洋の広大さを利用して身を隠している。

「空母は、まだか」

 いらだちを覚え宮國一飛曹は、つぶやいた。

四十七士は、本懐を遂げるまで一人もかけることはなかったがF6Fは吉良邸の侍たちより厄介な敵だ。

空中戦が長引けば確実に被撃墜機が出る。

 焦燥感にさいなまれながらの進撃の続けた後ようやく機動部隊が視野の中に入り始めた。

やはり空母を中心に据えた輪形陣だ。

護衛は戦艦、巡洋艦、駆逐艦でこれまでの海戦同様艦と艦の間の間隔が小さく対空砲火の高密度ぶりがうかがわせる。

 四群いる機動部隊は、心なしか大鷹型航空母艦と同規模の空母が多い。

 無尽蔵な国力と生産力を誇るアメリカとて正規空母を短時間に大量生産することは、不可能らしい。

「機とも撃墜されたと結論付けた。

「『翔鶴』、『雲龍』隊敵軽空母一番艦。

『瑞鶴』、『昇龍』隊敵軽空母二番艦。

『蒼龍』、『麗鶴』隊敵軽空母三番艦。

『黒龍』、『雅鶴』隊敵軽空母四番艦。

第五航空戦隊、敵軽空母五番艦。

『龍鳳』、『海龍』隊敵軽空母六番艦。

『瑞鳳』、『白龍』隊敵大型空母一番艦

第七、第九航空戦隊、敵大型空母二番艦

『トツレ』電受信」

 直後武山一飛曹の声が伝声管から響く。

攻撃隊は、早くも高度を下げにかかっている。

爆撃隊隊長の比良大尉が自機を含めた百九十八機の爆撃隊を各中隊ごとの斜単縦陣に展開させ敵艦隊の上空に誘導する。

 宮國一飛曹は、第一小隊の三番機を見て次いで左後方を振り返った。

第二小隊の二番機と三番機は、ぴたりと左後方についている。

小隊を敵空母の上空に誘導する役割は、当面果たせたことになる。

あとは、敵空母にきっちり五十番を叩き込めるかどうかだ。

 敵空母の両舷にも輪形陣を形成する護衛艦の艦上にも対空砲火の閃光が明滅し始めている。

 進撃している爆撃隊の下方に黒々とした爆煙が湧き出す

一つ一つは、巨大な黒いキノコを思わせる姿だがその周辺には無数の鉄片が飛散している。

それを思うと毒キノコさながらのまがまがしさがあった。

「グラマン二機、左後方」

 不意に武山一飛曹の声が上がった。

同時に後席から十二・七ミリの発射音が響いた。

 宮國一飛曹は、とっさに機体を左にひねった。

 十二・七ミリの火箭がコックピットの脇をかすめる。

一瞬でも操縦桿の操作が遅れていたらコックピットもろともに喰らい頭を吹き飛ばされていたかもしれない。

 黒い影が二つ連続して頭上をかすめる。

 宮國一飛曹は、とっさに機首の十二・七ミリを放った。

 命中の手応えを確かに感じF6Fがわずかに機体を震わせたように見える。

 それ以上は、何も起こらなかった。

十二・七ミリのか細い火箭は、F6Fの分厚い装甲板を撃ち抜き撃墜するには至らなかった。

 この時ほとんど同時に第一小隊の三番機にアイスキャンディーが吸い込まれていた。

 宮國一飛曹が言葉にならない叫びを上げたとき三番機は、ぐらりと傾き墜落を始めていた。

 最後尾にうずくまる偵察員の姿がちらりと見える。

F6Fの十二・七ミリ弾はコックピットを襲い操縦員と偵察員をまとめて射殺したのだろう。

「二番機と三番機は、無事ですか?」

 宮國一飛曹の叫びに守屋飛曹長が即答した。

「うちの小隊は、無事だが三小隊の二番機がやられたようだ」

 宮國一飛曹は、唇を噛んだ。

 第三小隊の二番機は部隊再編前に組んでいた井納良平一飛曹、薮田健司一飛曹のペアだ。

ガダルカナル沖海戦では、ともにエセックス級を攻撃した戦友だが彼らの武運は敵空母に五十番をたたきつける前にここで尽きたのだ。

 急降下の進入点に達する前にさらに二機の爆撃隊がF6Fに喰われていた。

 だがここまで来れば完全に敵空母をとらえたことになる。

 宮國一飛曹は、第一小隊二番機に続いて機体を翻した。

 それまで機首越し、翼越しに見えていた敵艦隊が正面に来る。

 高度計の針は、みるみる反時計方向に回り始める。

 高度が三〇〇〇を切るあたりから対空砲火が激しさを増す。

もはやアイスキャンディーの束などという言葉では、形容できない。

赤や黄色の吹雪が真正面からたたきつけてくるようだ。

 後続機に目をやっている余裕は、ないがこれほど激しい対空砲火の中全機が無事とは思えない。

 高度は、まもなく一〇〇〇に入ろうとしている。

 護衛艦は、視界の隅に押し込められ照準器は空母をとらえている。

 五〇〇〇以上の高みから見ると全艦が発射炎と砲煙に包まれているように見えたが高度が下がるに従い艦型が露わになってくる。

構造物を右舷側に集中し三本の煙突がその特徴を物語っていた。

(やっぱりインディペンデンス級だ)

 宮國一飛曹は、敵艦の正体を悟った。

「用意」

 宮國一飛曹は、投下レバーに手をかけタイミングを図った。

「てっ」

 その掛け声とともに引いた。

 操縦桿を目いっぱい手前にひきつけ引き起こしにかかる。

 視界の大半を占めていた空母の姿が消え失せ白く泡立つ海面が、対空砲火を吐き出し続ける護衛艦が視界に入って来る。

 インディペンデンス級航空母艦は、正規空母のエセックス級航空母艦の穴埋めとしてグリーンランド級軽巡洋艦の船体を改造した軽空母だと聞いた。

 その空母に爆撃をした。

 流星の機首が大きく上向き視界いっぱいに蒼空が飛び込んでくる。

 エンジン・スロットルを開き急上昇に転じる。

高度計の針が動きを止め次いでこれまでとは、反対方向に回り始める。

 アイスキャンディーがコックピットの脇や頭上を後ろから前方に通過していくがそのようなものには、目もくれない。

 一分一秒でも早くあの空に戻る。

そうすれば対空砲火の脅威からは、逃れられる。

 今は、それ以外考えられなかった。

 高度六〇〇〇で宮國一飛曹は、機体を水平に戻した。

 すぐ近くに犬の呼吸を思わせる荒い息を聞いた。

自分自身があえいでいる音だった。

 掌に濡れぞうきんを握っているような感触があり首筋にも伝うものがある。

 どこもかしこも汗でぐっしょりと濡れていた。

「二番機も三番機も無事だ」

 守屋飛曹長がまず報告してくる。

「無事か」

 喜びに加えていささか意外な感を宮國一飛曹は、抱いた。

 あの苛烈な対空砲火だ。

二番機は、ともかく三番機はやられる可能性が高いと思ったが見事に生き延びたのだ。

いわゆるビギナーズ・ラックというやつかもしれない。

 この時になってようやく宮國一飛曹は、海面に目をやり戦果を確認した。

 海面に黒煙を噴出させている艦がある。

 インディペンデンス級だ。

 心なしか速力が低下し傾斜し始めているように見える。

「敵空母に五十番三発命中だ。

他の空母も見たが爆弾は、わからないが水柱は見た限り四発だな。

まだまだ獲物がいるな。

あと一度は、ここに来る必要がある」

 それに続いて守屋飛曹長が言った。

 

               ※

 

 第二次攻撃隊は、八時二十五分に出撃し約二時間飛行した。

「あれか」

 比嘉大成(ひがたいせい)一等飛行兵曹は、小さく叫んだ。

 巨大な艦影が八つに小さな艦影が三十だ。

 速力は、多くが失っている。

「第一次攻撃隊が派手に暴れたようだな」

 森貢(もりみつぐ)上等飛行兵曹の声が後席から聞こえた。

「隊長たちの犠牲も無駄にならなかったようだな」

 第二次攻撃隊は、進撃中第一次攻撃隊とすれ違ったがその際艦戦隊の菅波政治少佐機と攻撃隊の垂井明少佐機を確認できなかった。

両機とも撃墜されたと結論付けた。

「『翔鶴』、『蒼龍』隊敵大型空母一番艦。

『瑞鶴』、『黒龍』隊敵大型空母二番艦。

四航戦、敵戦艦一番艦。

五航戦、敵戦艦二番艦。

六航戦、敵戦艦三盤艦。

『海鳳』隊、敵駆逐艦一番艦。

『白鳳』隊、敵駆逐艦二番艦。

『天鳳』隊、敵駆逐艦三番艦。

『翠鳳』隊、敵駆逐艦四番艦

十航戦、敵駆逐艦五番艦。

十一航戦、敵駆逐艦六番艦。

『トツレ』電受信」

 森上飛曹の声が伝声管に響いた。

比嘉一飛曹の意識は、一瞬で目の前の戦場に戻った。

 攻撃隊総指揮官江草隆繁少佐の誘導に従い斜め単横陣を形成する。

 比嘉一飛曹の機体は、二小隊一番機である。

前から四番目の位置である。

 艦攻隊も降下を始めている。

 第二次攻撃隊は、見た感じ敵戦闘機の迎撃がなさそうだ。

(どれだけの艦艇が浮いていられるかな?)

 比嘉一飛曹は、そう感じていた。

 敵は、早くも対空戦闘を開始している。

戦艦と駆逐艦の艦上に発射炎が閃き艦爆隊の下方にあるいは艦攻隊の前方に爆煙が湧く。

艦の数が少ないわりに発射弾数が多くともすれば海面が半分黒く染まるように感じられる。

 射撃精度は、恐ろしく高く爆煙が四方八方で繰り広げられている。

そのため近くで炸裂するたび破片が機体をたたく音が響く。

「ト連送受信」

 森上飛曹が叫ぶのと一番機が機体を捻るのがほとんど同時だった。

二番機と三番機が続けて降下に入る。

 三番機が六十度の降下角に入ったところで比嘉一飛曹も機体を捻りエンジンスロットルを絞った。

 目の前にあった空が視界の上に飛び真っ青な海と敵の艦影が視界のすべてを占める。

 三菱「金星」六二型エンジンのうねりが急減し風切り音とダイブ・ブレーキ音が拡大し始める。

 比嘉一飛曹は、照準器を通して敵戦艦を見つめる。

敵戦艦の姿が照準器の環の外にはみ出す高度まで降下するつもりだ。

 その敵戦艦がにわかに爆発したように見えた。

艦全体がおびただしい光点に覆われた。

 次の瞬間無数の火箭が付きあがり始めた。

敵は、両用砲に加えて機銃も撃ち始めたのだ。

 比嘉一飛曹は、ごくりと音を立てて息をのんだ。

 南太平洋海戦やガダルカナル沖海戦で敵空母に降爆を仕掛けた時も対空砲火は、すさまじいものであったが敵戦艦が放つ対空砲火はそれ以上だ。

アイスキャンディーの束などという生易しいものでは、ない。

スコールのような勢いを想起させる。

 それが休むことなく連続して続くのである。

後進の操縦員に「対空砲火で撃墜されないためには、爆煙を避けて突入しろ」などと教えたこともあるがそんなのんきなことができる状態では、ない。

 比嘉機の直前に機体を翻し右斜め前方を降下している三番機に火箭が集中されるのが見える。

 三番機は、ほとんど瞬間的にバラバラになりおびただしい破片と変わり空中に散っていく。

(次は、俺かもしれない)

 そんな思いがちらりと脳裏をよぎるが引き起こしをかけるつもりは、ない。

愛機の機首は、ひたすら敵戦艦を目指している。

 照準器の中央におもちゃの船のように小さく見えていた敵戦艦の姿が急速に膨れ上がる。

それに伴い対空砲火が主として艦中央部から放たれていることが分かってくる。

 ほどなく敵戦艦の艦首と艦尾が照準器の外にはみ出す。

 艦影は、さらに膨れ上がり艦中央の左右両舷が照準器の縁に近づく。

(これなら当たる)

 そう確信し「てっ」の叫び声とともに投下レバーを引いた。

堪えに堪えていたものを一気に吐き出したような爽快感がその瞬間感じられた。

 引き起こしをしつつ機体を左に捻る。

 敵戦艦の姿が視界の外に消え護衛の駆逐艦の姿が見え始める。

その艦も舷側からおびただしい火箭を吐き出している。

 その駆逐艦の頭上をかすめ射程外へと脱出する。

 後席から機銃の発射音が響く。

 森上飛曹が行きがけの駄賃とばかりに駆逐艦めがけて機銃掃射をかけたのだろう。

うまくすれば対空機銃座の一つくらいは、潰せたかもしれない。

 機首を空に向け高度二千まで上昇する。

 機体を水平に戻すや比嘉一飛曹は、真っ先に敵戦艦を見た。

あのすさまじい対空砲火の中で何発の爆弾を命中させることができたのか自分の眼で確認したかった。

 目標とした戦艦は、黒煙を噴出している。

数か所で火災を起こしているようだ。

 速力は、大幅に衰え左舷中央付近の海面に波紋が見える。

航跡が黒く染まっているのは、重油が噴出しているためであろう。

「五十番は、三発命中。

魚雷は、四本命中。

戦艦が沈み始めてるぞ」

 森上飛曹が言った。

「本当ですか?」

 比嘉一飛曹は、歓喜した。

 あのすさまじい対空砲火を潜り抜け敵戦艦を沈めることに成功したのだ。

投弾と投雷を終えた彗星と天山が対空砲火から逃れ上昇する。

 戦闘を行っていない陣風は、置いといて彗星と天山はかなり数を減らされている。

しかも攻撃隊総指揮官江草隆繁少佐の機体が見当たらない。

(江草少佐まで)

 比嘉一飛曹は、先とは打って変わって悲壮感に支配されてしまった。

それは、攻撃隊全体にいきわたり悲痛の中帰艦した。

 その後アメリカ艦隊は、第七五五海軍航空隊所属の深山十四機の攻撃を受け駆逐艦一隻が沈んだ。

 

                    ※

 

 この海戦は、「ギルバート諸島沖海戦」と呼ばれた。

 ギルバート諸島沖海戦の結果アメリカ海軍は、再びすべての新悦空母を失った。

護衛艦も壊滅し航空機隊は、全滅した。

対する日本軍の艦艇損害は、皆無だったが航空機は二百五機失った。

さらに基地航空隊に多大な損害を受けた。

ギルバート諸島沖海戦の敗北とそれに伴うガルヴァニック作戦の中止は、アメリカの戦争継続に大きな影響を及ぼした。

全力をあげての決戦で機動部隊は、全滅し完全に再起不能となり当分反撃戦力を有しない状況となった。

機動部隊の再起不能は、日本軍の再度の進攻を許す結果になった。

ガルヴァニック作戦の失敗でフランクリン・ルーズベルト大統領は、辞職に追い込まれた。

 

勝敗の要因

航空兵力

航空戦力に決定的な差があり日本側千三百七十六機に対しアメリカ側六百六十一機である。

母艦部隊は、開戦から消耗しており訓練はできていたものの本作戦を行うには練度不足であった。

一方母艦部隊の練度自体は、海軍が新規搭乗員の大量養成・母艦搭乗員の急速錬成にもかなりの努力を払ったので本海戦に参加した全母艦搭乗員の練度は開戦時と比べてもあまり遜色ないレベルであったという指摘もある。

 

迎撃態勢

米機動部隊に艦載されていた戦闘機は、すべてF6Fであったが日本の陣風に対し完全に優位に立てなかった。

陸上攻撃機も性能不足で空襲への迎撃態勢も米軍がレーダー・無線電話・CIC(戦闘指揮所)などを使用して戦闘機を有効活用し高角砲の対空射撃にVT信管も使用していたが日本では進歩していなかった。

これは、潜水艦など他にも言えることで全般的に兵器進歩と要員練度で日本軍はアメリカ軍に劣っていた。

アメリカ海軍機動部隊は、レーダーとCICによる航空管制を用いた防空システムを構築していた。

潜水艦からの報告で日本艦隊の動向を掴んでいたアメリカ機動部隊・第五十任務部隊は、初期のレーダーピケット艦と言える対空捜索レーダー搭載の哨戒駆逐艦を日本艦隊方向へあらかじめ約二百八十キロメートル進出させておいて日本海軍機の接近を探知した。

そしてエセックス級航空母艦群に配備されていた方位と距離を測定するSKレーダーと高度を測定するSM-1レーダーの最新型レーダーで割り出した位置情報に基づいて日本側攻撃機編隊の飛行ベクトルを予測し百四十八機にも及ぶF6Fを発艦させて前方七十から八十キロメートルで日本側編隊よりも上空位置で攻撃に優位となる高度約四千二百メートルで待ち受けさせた。

第五十任務部隊旗艦のエセックス級航空母艦「イントレピッド」のCIC(Combat Information Center)には、進出させた哨戒駆逐艦や他空母など自艦と同じ最新型レーダーを搭載した艦を含む傘下各艦隊、早期警戒機と早期警戒管制機の元祖といえる高性能レーダーと強力な無線機を搭載している特別なTBMが戦闘空域近くを飛んでいてそれらから各々探知した日本機編隊の情報が伝えられた。

当時のCICはまだ戦闘に関する情報をほとんど完全な手動で処理、統合、分析を行なうだけで戦闘機誘導所がCICからの情報をもって空中待機中の戦闘機隊を無線で向かってくる日本機編隊ごとに振り分けその迎撃に最も適した空域へ管制し交戦開始後は各戦闘機隊の指揮官が現場指揮を執った。

しかし日本戦闘機パイロットの練度がとても高く優位な立場を確保できたにもかかわらず逆に日本機から逃げ惑う羽目になってしまった。

また千九百四十三年の末頃から対空砲弾が命中しなくても目標物近く通過さえすれば自動的に砲弾が炸裂するVT信管を高角砲弾に導入した。

この結果従来の砲弾に比べて対空砲火の効果は数倍に跳ね上がった。

アメリカ軍は、概ね三倍程度と評価している。

なおギルバート諸島沖海戦におけるアメリカ艦隊の対空砲火のスコアは、製造が間に合わなかったにも拘わらずVT信管弾や40mmボフォースなど全てを合計しても三百八十機(アメリカ側確認スコア。

当然誤認を含むと思われる)に上った。

日本軍でもアメリカ艦隊の対空防御能力を「敵艦艇の対空火力は開戦初期は、パラバラでその後火ぶすまに変わり今やスコールに変わった」としてこれまでのような方法でアメリカ空母を攻撃しても成功は、奇蹟に属すると考えるようになった。

 

戦果

撃沈

空母 「イントレピッド」、「ワスプ」、「ホーネット」、「フランクリン」、「カウペンス」、「モンテレー」、「ラングレー」、「カボット」、「バターン」、「サン・ジャシント」

戦艦 「マサチューセッツ」、「インディアナ」、「ノースカロライナ」

駆逐艦 「フレッチャー」、「ラ・ヴァレット」、「テーラー」、「ニコラス」、「ラドフォード」、「ジェンキンス」、「ブラウン」、「ラッセル」、「エドワーズ」、「マリー」、「マッキー」、「スタック」、「ストリット」、「ウィルスン」、「エルベ」、「ヘール」、「キッド」、「チョウンシー」、「バラード」、「アイザード」、「コナー」、「ベル」、「シャレット」

 

損失 二百五機

 

                               第三章 終戦

 

 ギルバート諸島沖海戦後戦争継続派の陸軍からモノ島奪還について案が上がったものの兵力がそこを尽き始めておりとてもでは、ないが大規模反攻作戦を実施することはできなかった。

山本五十六大将をはじめとした親米派は、早期講和を訴えたものの戦果に酔いしれる上層部を説得しきれなかった。

 反攻作戦の準備をしていたが千九百四十五年八月八日事態は、急変した。

ソ連が日ソ中立条約を破棄し宣戦布告したのだ。

それに伴い中国に進攻し中国軍と共闘し日本駐留軍と清軍を壊滅させ清は、滅び朝鮮まで進攻を始めた。

 何とかソ連による朝鮮進攻は、防げたものの中国は社会主義国家となった。

さらにソ連は、八月十六日に樺太に進攻した。

この時千歳海軍航空隊の活躍で上陸船団は、壊滅した。

しかし日本は、すでに連合国にポツダム宣言受諾を打電により通告しておりこの攻撃は第二条に触れるとしてアメリカに攻撃を要請した。

 しかしアメリカは、ソ連の中国進攻を遺憾に感じておりこれを拒否(黙認)した。

 これは、後のヤルタ会談にも影響し両国が対立する一つになった。

 八月十七日東久邇宮稔彦王内閣成立した。

連合国の許可を得て皇族を各支配地域に派遣し天皇の勅旨を伝えた。

 八月十九日には、関東軍とソ連極東軍が停戦交渉開始し各地域で停戦命令を受領した。

 八月二十九日には、米軍第一陣百五十名が横浜に上陸した。

 八月三十日には、連合軍最高司令官マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着した。

 九月二日には、停戦協定が結ばれ太平洋戦争は終結した。

 九月三日は、ソ連・中国にとって対日勝利の日になり各地の日本軍が続々と降伏した。

 九月五日には、関東軍首脳部がハバロフスクへ移動し後に五十七万人がシベリア抑留となる。

 九月中旬には、中国大陸の支那派遣軍降伏し支那派遣軍総司令官岡村寧次が停戦文書に南京で署名した。

 講和の条件として日本は開戦後の全占領地域及、仏印、蘭印からの撤兵に加えてマーシャル諸島の放棄、トラック、パラオ、マリアナの非武装化、原爆の保有禁止、在日米軍の駐留の了承(これは、大韓民国も同様である)、帝国憲法の破棄、財閥解体など軍事、政治、経済にわたった。

有利な戦いを続けていた日本にとってどれも屈辱的な内容だったがその見返りとして欧州と比較して格安で資源を購入できさらにアメリカが持っていた最新鋭技術を無償で得られるなどである。




もしかしたら外伝として各兵器に対する評価を書くかもしれません。


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