アルトとイングリドとヘルミーナのアトリエ(あとオマケが一人) (四季マコト)
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序章 旅の人へ
プロローグ


 初めまして。
 四季マコトと申します。
 この作品はプレイステーション2専用ソフト『リリーのアトリエ』というゲームの二次創作作品です。
 原作プレイ済み推奨ですが、なるべく原作未プレイの方でも楽しめるように努めています。
 尚、原作のネタバレを含む恐れがあるので、ゲームをプレイ中の方はご注意下さい。


  錬金術という学問があった。

  鉄を黄金に変える力、永遠の命を吹き込む力、無から有を造り出すための力――

  人が神を越えようとする術であると言う者もいた。

  だが、それは見かけだけの判断に過ぎない。

  飽くなき探究心と斬新な発想が、それらを具現化させているだけなのだ。

  我々は、好奇心を持っていたからこそ、こうして進歩してきたのだから……。

 

 

 

 

 エル・バドール大陸の東の外れ、海岸線に面した大きな街がある。

 街の名前はケントニス。斜面に造られたせいもあって、坂道ばかりの街だ。

 今、俺が歩いている小道もその例に漏れず、緩やかな坂道となって頂上へと続いている。

 錬金術アカデミーの裏にある小高い丘。

 ひっそりと作られた道の終着点が、俺の目的地だ。

 俺の名前はアルトヴィッヒ・フォン・ファーゼルン。今年で十八歳……ということに表向きはなっている。少なくとも、戸籍ではそう記されている。

 しかし、俺個人の感覚では三十八歳となっている。

 どうしてそんな意味不明な事になっているのかといえば、俺には生まれる前の記憶――いわゆる一つの『前世の記憶』と称される二十年間が存在するからだ。

 ……自分でも、何を馬鹿なと言いたくなる。他人に説明したところで、理解してもらえるとは思っていない。俺だって、誰かから「俺には前世の記憶があるんだ!」なんて言われたら、ソイツの正気を疑うか、自分の聴力を疑うだろう。

 だがしかし、これが事実なのだからどうしようもない。

 前世といっても、特別珍しい生い立ちではない。英雄だの何だのといったものとは程遠い人生だ。自分で言ってて空しくなるが、俺はどこにでもいるような極々平凡な人間だった。

 日本の東京生まれ。享年二十歳。日本人の平均寿命からしてみたら短いかもしれないが、それだって珍しいというほどでもないだろう。

 記憶の中の二十年と、この世界に誕生してからの十八年。両方を足して合計三十八歳となる。

 身体は少年、中身はオッサン。……どこかで聞いたようなフレーズの出来上がりだ。

 まあ、そんなことはどうでもいい。

 現状、生きる上での問題は何も無いのだから。

 問題なのは――今生きているこの世界が、前世における『とあるゲーム』だという事実の方だろう。

 ……そう、ここには日本なんて国は名前すら存在しない。

 俺が今、生きているこの世界は――ゲームの中に存在した世界だ。

 

 

 前世の記憶、ゲームの中の世界。

 どちらか一つでも頭が痛くなりそうなのに、二つが同時とか目も当てられない。

 今でこそ、こうして違和感無く平然と生活していられるが、最初からそうだったわけではない。到底受け入れ難いそれら二つの事実を認めるまでには、それなりに長い年月を必要とした。

 当然だ。誰がそんな非常識な現実を容易く受け入れられるものか。

 前世の記憶は生まれた当初から持っていたが、この世界がゲームの中の世界だというのに気付くのには、少なからず時間を必要とした。

 俺が世界の真実に気付く切っ掛けとなったのは、幼少時の出会いが原因だ。

 当時、六歳になった俺は色々とあってストレスが限界に達していた。

 貴族という出自は生活において不自由しないメリットはあったが、自由が無いというデメリットもあった。

 ある日、何かと口喧しい使用人達の目を盗み、俺は一人こっそりと別荘の屋敷から抜け出した。たまには誰の目もない所で、気楽に寛ぎたいと思ったからだ。目的なんてない、ただの気分転換の散歩だった。

 ――とある一棟の建物を目にするまでは。

 そのゴシック調(?)建築物は、石材や木材が主の中世めいた街並みの中、一際異彩を放っていた。尖塔が天高く数本そびえ立ち、街で目にする機能美とは異なる、見るものを感嘆させる程の繊細な意匠が施された威容を誇っている。

 その絢爛豪華さから、宮殿か神殿か何かかと見当をつけた俺は……忍び込むことにした。その時の俺は、目新しいものを目にした高揚感でどうにかなっていたのだろう。そんな後先考えない馬鹿な行為をしでかすくらいには、浮き足立っていたのだと思う。

 ……もっとも、その愚かな行為のお陰で今の俺があるのだから、人生何が幸いとなるかは分からない。もしあそこで違う選択肢を選んでいたら、今頃は全く異なる人生を歩んでいただろう。

 人の目を盗んで建物の中に入り込んだ俺は、そこで驚愕の光景を目の当たりにした。

 ドアの隙間から中を盗み見ると、そこは試験管等の実験器材が多く並ぶ、研究室のような場所だった。

 冴えない髭面のオッサン(後に『ドルニエ』という名前だと発覚)が、大鍋に妙な色をした石を一つ入れる。いったい何をしているのかといぶかしむ俺をよそに、彼は次々と材料を入れ、ゆっくりと鍋の中身を道具でかき混ぜる。

 どれくらいの時間が経ったか……最後に彼が両手を鍋にかざした瞬間、それは起きた。

 光だ。

 光り輝く粒子のような眩しい何かが、大鍋を中心にして部屋中を踊るように乱舞している。

 やがて光が収束し、髭面のオッサンが大鍋に手を伸ばして持ち上げると――その手のひらには、銀色に光り輝く一個の物体が乗せられていた。

 銀の練成。

 銀色のその物体は、正真正銘の銀だった。

 そこで行われていたのは、錬金術士による錬金術そのものだったのだ。

 錬金術士。

 錬金術。

 前世の常識では眉唾物しか存在しなかった、ペテンともいえる技術。

 科学を探求する研究者ではなく、神秘を追究する求道者。

 俺の今までの常識を根底から覆す、きらきらと眩しく光り輝く奇跡の存在。

 次の瞬間には、自分が不法侵入者だという事すらすっかり忘れて、俺は髭面オッサンに突撃していた。その後に起こった騒動は語るまでもないだろう。

 

 

 錬金術との運命的な出会いから半年後。

 寝る間も惜しんだ猛勉強の甲斐もあり、俺は見事、アカデミーへの入学試験に合格した。六歳で合格なんていうのは、異例の事態だったらしい。……外見はともかく、中身はイイ年した人間なのだから、あまり騒がれても反応に困るのだが。

 大変だったのはむしろ、その後の家族の説得の方だったくらいだ。錬金術の勉強のためにと、資料やら家庭教師やらを頼んだ際には快く了承してくれた両親だが、入学のために家元を離れて寮で暮らすことになると態度は一変した。片手間に趣味としてやるならともかく、貴族としての生き方を放棄し、錬金術士として生きていくと宣言したも同然なので当たり前だ。

 最後には髭面のオッサンまで巻き込んで、一緒に両親への説得を行った結果――錬金術研究機関の総本山である錬金術アカデミーに入学することとなった。

 髭面のオッサン改め、ドルニエ先生に師事する立場として……。

 この時点での俺は、欧州辺りの中世時代によく似ているが、異なる点もある世界だと認識していた。あくまで、過去の自分が存在した世界を基本にしていると。

 だって、そうだろう?

 いったい誰が、ここは『ゲームの中の世界』だ、なんて思うんだ?

 それだったら、今までの常識と少しばかり変わっているだけだと思う方が、まだしも現実的だろう。……転生しているのに現実的も何もないだろ、とツッコんではいけない。そんなもの、俺が何度もしたからな。

 それに、俺が生まれたケントニスという地名にも要因がある。ここが俺の考えた通りの世界だとしたら、ザールブルグじゃないとおかしいと思っていたからだ。

 錬金術を学ぶうちに次々と類似点に気付いたが、それでも俺はそれらを努めて意識しないようにして、ただひたすらに錬金術を学び続けた。

 今思えば、それらは単純に現実を認めたくなかっただけなんだと理解出来る。前世だけでお腹一杯なのに、この上ゲームの世界とかもう勘弁してくれ、そういう意識が俺の中にあったのだろう。我ながら、幼稚な現実逃避だ。

 足掻き続けた挙句、ついに世界の真実を認めざるを得なくなったのは、一人の生徒が入学してきたからだ。

 その日、ドルニエ先生に紹介されたのは、俺と同い年かあるいは少し年下かと思われる年齢の少女だった。

 緊張しているのだろうか? やけに肩に力が入っている。

 彼女が身に付けているのはどこかの民族衣装のような服で――なぜか見覚えがあり――、茶色の頭巾をかぶって焦げ茶色の髪を耳の辺りで二つに束ね――やはり見たことがある――、金色の瞳でこちらを見つめるその視線――これもまた記憶にある――これは既視感? 否、違う。俺は彼女を見たことがある。けれど、それは実際にこうして対面したわけではなく。

 そうだ、彼女は――

 

『はじめまして、リリーです! よろしくお願いします!』

 

 嵐が吹き荒ぶ俺の心中なんてまるで露知らず、アホっぽい微笑みを浮かべて、その少女は元気良く挨拶してきた。

 リリー。彼女は自らの名前を、リリーと名乗った。

 その名前は、俺の前世の記憶の中に存在する名前だ。より厳密に言えば、ゲームの中の登場人物の名前だ。

 ……そう、アトリエシリーズ三作目の主人公。それがリリーという少女の名前だ。

 事ここに至って、ようやく俺は目を背けていた現実を受け入れた。……受け入れるしかなかった。

 ここが『リリーのアトリエ』の世界なのだ、と。

 そして、それを裏付けるように後年、『イングリド』と『ヘルミーナ』の二人が入学してくるのだった。最早、疑いようも無い。

 

 

 

「過ぎてしまえば、あっという間だったな」

 

 イングリドとヘルミーナに出会った人生最良の日は、まるで昨日の事のように鮮明に思い浮かべることが出来る。

 もう、あれから二年も経ったなんてな……月日が経つのは本当に早いものだ。

 ああそうそう、一応視界にはリリーもいたけど、彼女の事はどうでもいい。あいつはもう出会った時には、既に対象外だったしな。年増女には興味なんて皆無だ。有害ですらある。

 

「……っと、やっと着いたか」

 

 目的地に到着し、やれやれと一息つく。

 東の海を遠くに望める小高い丘の上には、彼の残した偉業に相応しからぬ質素な墓が建てられていた。

 墓碑銘にはただ一言、『旅の人』と刻まれるのみ。

 この地に眠る人こそ、今日におけるアカデミーの基礎を築いた偉大なる存在だ。

 明日、この大陸を旅立つ前に、どうしても一度ここへ訪れておきたかったのだ。

 それは、一つの決意として。

 こんな余人には理解不能な世迷言、誰に誓えばいいか、分からなかったしな。

 

「話に付き合わせる代価だ。安物だが受け取ってくれ」

 

 持参した花束を置くと、まるで故人が返答をするかのように強い風が一度吹いた。

 俺は風に乗せるようにして、訥々と彼に語り掛ける。

 

「――旅の人、これから物語が始まるよ。俺は本来、存在しない人間だ。俺がいるだけで、物語は大きく変わってしまうかもしれない」

 

 ここが『リリーのアトリエ』の世界なら、俺は異分子だ。いてはならない存在だ。

 俺がいることによってどんな影響が出るか、誰にも分からない。

 それどころか、既に登場人物に関わってしまっている以上、もしかしたら現時点で物語への影響は少なからず出ているのかもしれない。

 

「本当なら、俺は何もしない方が良いのかもしれない。俺の知る物語を変えてしまう事に抵抗が無いわけじゃない。不安が無いわけじゃない。恐れが無いわけじゃない」

 

 俺が関わる事で、とんでもない事態を引き起こしてしまうかもしれない。

 いや、大小に関わらず、たとえ僅かだとしても変えて良いのだろうかという迷いがある。

 世界の事を考えたら、俺の知る物語の事を考えたら、俺は今すぐ屋敷に引きこもるべきなのかもしれない。そして、それこそが唯一正しい選択なのかもしれない。

 

「もしかしたら、これは誰も望んでいない事なのかもしれない」

 

 世界はあるがまま、俺なんていない方が良かったのかもしれない。

 いや、いない方が良かったんだろう。

 だって、物語はあれで完成していたのだから。

 

「だけど」

 

 そう、だけど。

 

「俺はこの世界に生きているから。この世界で生きていくと決めたから。だから――」

 

 何一つ遠慮なんてせずに。

 

「物語を変えるよ」

 

 ここは、決められた物語の世界ではない。

 ここは、俺の生きている世界なんだ。

 だから、好き勝手にやらせてもらう。

 『リリーのアトリエの世界』ではなく、『リリーのアトリエを基にした世界』なんだ。

 多少、知らない事を知っているだけの、良く似た世界と解釈させてもらう。

 俺は俺のやりたいように、やらせてもらう。

 そう、決めた。

 

「旅の人、あなたが望んだ未来と違うかもしれないけど、それでも良ければ……応援してくれよな?」

 

 願わくは俺だけでなく、あなたにとっても幸福な物語であらん事を。

 最後の別れを告げ、俺は静かにその場を後にした……。

 

「アルトがまた何か怪しいこと言ってる……!」

「ちょっ、イングリド!? なんで、ここにいるのー!!」

 

 その後。

 アカデミーに戻る道すがら、俺は彼女を相手に必死になって弁解するのだった。

 ……物語の開始から、すでに不安になる俺だった。

 

 

 

 

 

 

  ◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 

「終わったぁ……!」

 

 綺麗に片付けられた自室を見渡し、あたしは快哉の声を上げた。

 このまま終わらなかったらどうしよう、と不安だったので、ホッと一安心。これで、例え明日から違う生徒がこの部屋に入居してきたとしても大丈夫だ。

 突然に海外行きの話が決まってから、急遽大慌てで取り掛かった荷物整理。イングリドとヘルミーナといった二人の子ども達の面倒を見ながら進めたせいもあり、結局出発前日の今日まで掛かってしまった。

 本来なら、もっと早く終わると思っていたんだけど……。

 あたしの予想よりも、遥かに多くの物があたしの部屋にはあったらしい。

 でも、それも当然か。

 あたしがこの錬金術アカデミーに入学して、同年代の生徒達と寮生活を送るようになってから、今年で早三年が経過する。入寮当初は背負い袋一つだった手荷物も、今では両手で抱え切れないほどに膨れ上がっていのだから。

 部屋を引き払うためには、持って行く荷物以外を全部処分しなければならない。いらない物や使わなくなった物、現地で購入出来そうな物などを、焼却炉に捨てたり、購買に売ったり、学院唯一の親友にあげたり、あちこちを駆け回って片付けた。これはあの時に使ったな、これはこんなことがあったな、なんて懐かしみながらの整理だ。

 最初はあれほど殺風景に感じていた自室にも、今やすっかり愛着感がわいてしまっていた。

 おそらく、もう二度とこの部屋に戻ってくることはないだろう。もしかしたらアカデミーにだって、戻ってくることはないかもしれない。

 そう思うと、ちょっとだけ物悲しい気持ちになってしまう。

 アカデミーで過ごした三年間、本当に色々な出来事があった。思い出はこの部屋だけでなく、アカデミー中に残っている。

 例えば、部屋から覗ける噴水のある広場。日の当たるベンチでは、親友と良くお昼を食べた。

 例えば、研究塔の実験室。何度も失敗しながら、成功するまで実験を繰り返した。

 例えば、南の訓練場。泥まみれになりながら、必死で魔法を身に付けた。

 数え上げれば、キリがない。

 良い思い出だけではなく、嫌な思い出だってたくさんある。

 でも、それだって大切な思い出だ。忘れられない過去だ。

 明日からは、ここを離れて遠い地での生活となる。

 元老院の偉い人達の決定で、あたし達は海の向こうへ行くこととなった。

 数年越しとなる壮大な計画だ。

 責任ある一員にあたしが入っているという事実に、最初はちょっと怖気づいたりもした。あたしなんかにそんな大役が勤まるのかな、と。

 でも、もうそんな不安は欠片もない。昨夜なんてわざわざお別れ会と称して、親友と夜通し語り合って元気付けてもらったしね。……いらん激励も、もらったりしたけど。

 彼女と手紙でやり取りする約束をしたけど、それでもどこか寂しいと感じてしまうのは、あたしの我が侭だろうか。今後は故郷へ里帰りしたいといっても、ほぼ不可能な環境になるし。

 ……って、そんな風に考えていてはダメよね。

 弱気になりそうな自分に活を入れ、新天地での生活を想像して己を奮い立たせる。

 アカデミーに入学した時も驚きの連続だったけれど、きっとそれ以上の物が向こうでは待っているに違いない。何せ、国そのものが違うのだから。

 

「これで足りてるかなぁ……。もうちょっと、服とか持っていった方がいいかも?」

 

 旅行用鞄を前に、むむむと唸り声を上げる。

 厳選に厳選を重ね、持って行く物を減らしはしたけど、それでも少なくない荷物となってしまった。けれど、異郷での生活を思うとこれでも足りないくらいだ。何があるか分からないし。

 でも、あまり多くの物を持って行くとなると、大嫌いな兄弟子から嫌味を言われかねない。

 持って行く物は厳選しろと言っただろ、と顔を歪めるあいつの姿が目に浮かぶ。

 これが口だけで自分は何もしていないやつだったら、あたしだって反撃してやる。

 でも、彼はあたし以上に大忙しなのだ。

 渡航するための船舶の手配と諸所への連絡、必要となる食べ物や道具の調達、掛かる日程の計算と調整、アカデミーでの後任への引き継ぎなどなど。あたしが考え付かないような細々とした面倒事を一手に引き受け、それらを全て完璧に解決してみせる彼の手腕は並大抵ではない。少なくとも、あたしだったら絶対無理。自分とあの子達の分だけでも、手一杯なのに。

 だけど、だ。

 だけど、あたしにはあいつを素直に賞賛することが出来なかった。

 

「あいつと出会ってから、三年も経つのよね」

 

 月日が経つのは早いものだ。本当に、そう思う。

 あたしが彼と出会ってから今までに過ごしてきた期間は、そのまま、あたしがアカデミーで過ごしてきた期間と同じになる。

 あたしの生まれ育った村は、ケントニスから遠く離れた片田舎にある。秋の季節になると、見事に実った麦穂が黄金色に光る景色が見られる、そんな場所だ。

 あたしは錬金術を学ぶために、故郷を離れて身一つでアカデミーへと入学した。

 入学初日。あたしは師となるドルニエ先生から、一人の男性を紹介された。

 慣れない環境に、早くも余裕を無くしつつあるあたし。せめて、挨拶だけでもしっかりしようと、笑顔で彼に自己紹介をした。

 

『はじめまして、リリー。僕の名前はアルト。こちらこそ、これからよろしく』

 

 そんなあたしの緊張を解きほぐすかのように、柔らかく微笑み掛ける優しい雰囲気の男性。

 まるで御伽噺に夢見た王子様のような印象を受ける人。

 それが彼、アルトだった。

 

 ――今思えば、詐欺以外の何物でもない。

 

 アルトは、アカデミー創設以来の尋常ならざる神童だった。

 まず、入学時点で他人とは違っていた。

 入学試験を受けたのは、彼がまだ六歳の時だ。受験者の平均年齢が十代半ばであることを考えれば、その異常性が際立つ。しかも、満点で通過するなんて偉業を達成したのだから、アカデミー中が大騒ぎになるのも当然だ。

 その後も、彼はその非凡な才能を遺憾なく発揮し続けた。

 入学するや否や、瞬く間に基礎過程を学び終え、僅か二年でアカデミーを卒業。マイスター・ランクに進学して上級過程を学び終えるのにも、二年しか必要としなかった。もちろん、本来必要となる時間を大幅に短縮した、異例の処置だ。一介の学生の時点で、既に新しい調合品をいくつも生み出していたというから、飛び級が行われるのも当然だった。

 そして彼は若干十歳という前代未聞の若さで、一人の錬金術士として大成したのだ。

 眉唾物の噂として、王様直々に依頼を賜ったとか、他国の戦争を終結に導いたとか、一夜にして巨万の富を築いたとか、様々な事が実しやかに囁かれている。実際にそれが真実だったとしても、彼だったらありえる、と納得してしまえる辺り、彼という存在を証明している。

 もっとも、当の本人は周囲とは違う考えらしく、「自分がやりたい事だけを学び続ければ、誰にでも出来る事だ」と言って憚らない。「自分が一流の錬金術士だと自負はしているが、決して天才なんかではない」と、呆れながら苦笑するのだ。

 その言葉の内容からも察せられるように、彼は自身の才能を全く自覚していない。周囲からは謙虚な人だと思われているが、実際には無自覚なだけだ。

 幼い頃に勉学のみを継続する事は無論、それを理解出切るかどうかは別問題だし、たった四年で錬金術士になる事も、新たな調合に成功する事も、普通の人間では成し遂げられないというのに。

 歴代最年少の錬金術士となった彼の進路は、誰もが耳を疑うものだった。アカデミーの講師として、あるいは宮廷魔術師として、他にも様々な有望な道があったというのに、それらの栄光をあっさり捨てて選んだのは――

 ドルニエ先生の片腕となる、ただの助手としての立場だった。

 彼の類稀なる才能を諦めきれない人達からは、今も尚、しつこく誘われているようで、以前に辟易とした表情で愚痴られたのを覚えている。才能をドブに捨てるようなものだ、と口さがないセリフを言った人とは、金輪際二度と会話するものか、と息巻いてもいた。

 当時、アルトは錬金術士の模範として、アカデミー中で称えられていた。自らの才能に驕る事無く、常に新しい知識を求め、真摯な態度で技術を研鑽する様を見習うようにと。

 錬金術士としてだけでなく、気になる異性としても、女生徒からは絶大な人気があった。

 優しくて、頭が良くて、カッコ良くて、実家は貴族のお金持ちで――性格、知性、容姿、家柄といった、年頃の女の子が気になる要素を全て兼ね備えているのだから、彼女達が夢中になるのも頷ける。……だからといって、彼に一番近しい立場で接していた(と周囲には見えていたらしい)あたしが、色々と陰湿なイジメを受けたりしたのは納得できないけど。

 右も左も分からない新入生だったあたしに、彼は随分と親身になって世話を焼いてくれた。それは、ドルニエ先生に師事する同じ立場としての義理や義務だけでは到底足りないくらいにだ。

 アカデミーでの勉学だけでなく、私生活における暮らしといった様々な面でも、数多くの事を彼に助けられた。どうしてこんなに優しくしてくれるのかといえば、やっぱり彼の人柄のせいなのだろう――そんな能天気な勘違いをしてしまうほどに、あたしは他の人達と同様に騙されてしまっていたのだ。

 実際、あたしも彼の本性を知らないままでいたら今頃どうなっていたか分からな……いやいや、それはない。ないわね。さすがにそれはなかったと思いたい。だって、あんなやつを好きになるとかありえない。うん、ありえないな。ないない。

 

 そう、誰もが憧れてやまない人物は――変態だったのだ。

 

 それも生半可なものではなく、年端もいかない女の子相手に興奮するような極めて異常な真性のド変態だ。

 遡る事二年前、その真実が発覚するに当たって大騒動があったのだけど、今や彼に対する評価はアカデミー中でもほぼ統一されている。

 天才だけど変人。あるいは変人だけど天才。

 そんな評価に落ち着いている。実績がある以上、天才なのは疑いようのない事実だからだ。それでも未だに女生徒から異性としての人気が高いというのは、納得がいかない。どうして、あんな変態相手にそういう感情を持てるのかと。

 まあでも、完璧な人間なんているわけないし、その性癖に目をつぶれば十分過ぎるほどの高物件だから、彼女達の考えも分からないでもない。実際、彼の性癖が明らかになる以前も以降も、彼は女生徒だけでなく全ての人達に対して優しいから。その人気に、陰りは無いのだ。

 ……けれど、優しさの理由が『自分にとってどうでもいい相手だから、人間関係を円滑に進めるために平等に優しく接している』からだと知っているあたしは、呆れて物も言えない。いったい何匹の猫を被れば、そこまで完璧に好人物を演じられるのかしら?

 皮肉な事に、彼の変人たる理由故にアカデミーで彼の被害にあった女生徒は誰もいない。唯一被害を受けそうな二人に関しては、あたしが責任を持って保護しているし、二人にもしっかりと言い聞かせているから問題ない。危ない時には、あたしが実力行使で止めることもあるしね。

 そのせいもあってか事件以降、あたしと彼の関係は正反対なものになった。

 今まで築き上げた関係なんて幻想だったとばかりに木っ端微塵に打ち砕き、毎日のように言い合いするような険悪な関係に一変した。

 変態という真実を知り、今までの態度が演技だと知った以上、あたしの彼に対する態度が豹変するのは当然だし、彼のあたしに対する態度も変わったのでお互い様だ。

 でも不思議な事に、ドルニエ先生は彼の性癖に対して何も苦言を呈さない。アルトが二人を害する行為に出ないと信頼しているようだ。それは、いくら御目付け役であるあたしがいるとはいえ、二人を彼の近くに置いてアカデミーで過ごしてきた日々からしてもそうだし、今回の海外行きからしてもそうだ。ドルニエ先生が認めている以上、あたしが文句を言っても仕方ないとは思うけど……でもあたしとしては、あの子達が行く以上、彼を一緒に連れて行くのは感情的にはあまり気乗りしない。何か間違いが起こってからでは遅いのだから。

 彼が無理矢理、彼女達相手にそういう行為に及ぶようなタイプの人間ではないとあたしも思っている。でも普段の言動を鑑みるに、とても信用なんて出来ない。あたしの前で隠そうともせずに、おかしな事ばかりしでかすのだから。何かの拍子に、間違いを犯してもおかしくはない。

 だって、彼の目下の研究対象である『不老薬』にしたところで、『小さい子が大きくなるなんてとんでもない』とか平気な顔でのたまっているのだ。そんな人間を相手に信用なんて出来るわけがない。信頼にしたって、その性癖が関知しない場合に限ってだ。あの変態は陰で何を企んでいるか分からないのだから。

 あたしが、あの子達をアルトの魔の手から守ってあげなくては!

 そう意気込み新たに決意する。

 ――と、ドアをノックする音が聞こえた。

 

「はーい、どうぞ」

「失礼します」

 

 訪問者はイングリドだった。あたしが守ると決意した二人の女の子、その一人だ。

 まだ二人とも十歳だというのにその才能は目を見張るもので、平凡なあたしとは比べようも無い。今はまだアカデミーで学んだ年数の差で、あたしの方が錬金術士としての技量は上だけど、数年後にどうなっているかは分からない。今でこそあたしが教える立場だけど、あっという間にあたしが教えられる側に回ってもおかしくはないのだ。

 彼女達に見損なわれないためにも、あたしは錬金術士として日々学び続けなければならない。アルトといい彼女達といい、周囲の才能に嫉妬する面が微塵も無いとは言い切れないけど、それ以前に、あたしを先生と慕ってくれるこの子達の前で、みっともない姿は見せたくないしね。

 

「リリー先生、アルトを呼んできました」

「ありがと」

 

 あたしがアルトのことに対して色々と彼女に言い含めたせいか、イングリドは彼の事を粗雑に呼び捨てにしている。

 それは彼の立場を思えば色々と問題のある行為なのかもしれないが、彼自身気にしていないし、あたしも気にしない事にしている。幸い、ドルニエ先生も特に何も言わないしね。

 イングリドにはさっき、荷運びを手伝わせようとアルトを呼びに行ってもらっていた。

 あたしとイングリドとヘルミーナ、三人分の荷物だ。男手がなければ運べないような重い物(調合に使うための大鍋とか、向こうで買えるかどうか分からないしね)もあるので、変態といえど労働力として使えるものは使うべきだろう。

 

「……で、そのアルトはどこに?」

 

 その肝心の彼の姿が見えないようだけど。

 そう思って尋ねると、イングリドはきょとんと目を丸くした。

 

「先に、ヘルミーナの部屋に荷物を受け取りに行きましたけど?」

「なっ!?」

 

 へ、ヘルミーナの部屋に男一人で行った!?

 予想外の返答に、唖然とする。

 アカデミーの寮は、男子寮と女子寮に分かれている。これは風紀の面から見ても当然といえる処置だ。

 その女子寮に堂々とあいつが入れる理由があり、しかもヘルミーナと密室で二人っきりになれる状況。

 そんな絶好の機会に、彼が大人しく荷物を受け取るだけで済ますとは思えない。

 急いで駆けつけなくては、と愛用の鉄製の杖を引っつかんで部屋を飛び出す。後ろから慌てた様子でついてくるイングリドを引きつれ、ヘルミーナの部屋目指して突っ走る。

 廊下は走ったらいけない? そんなの緊急事態に言ってられないわ!

 ヘルミーナの部屋がある方向から、かすかに二人の声が漏れてくる。

 

「ふぉぉおお……ご、ごくり。ここがヘルミーナの部屋か。このどこからともなく香る甘い匂いがヘルミーナの香りか……くんかくんかっ!」

「ふふっ、アルト先生ってばまた変な事言ってるー」

 

 すでに手遅れ!?

 ああもう、やっぱり二人には危機感という物が足りない! 変態と部屋で二人きりになるなんて、飢えた狼の前に生肉を置くようなものよ!

 特にヘルミーナはアルトの事をなぜだか気に入っているようで、警戒心がほとんどない。イングリドにしてみても、警戒はしても根本で甘い部分がある。女の子としての意識がまだまだ足りていないのだ。普通は彼女達くらいの年齢でそういう意識を持つ方がちょっと難しいから、それは仕方ない。彼女達にそういう警戒をさせなくてはいけないアルトが異常なのだ。

 これから先の事を考えると暗澹たる思いはあるものの、それをなんとかしてこそ年長者足り得るだろう。ただでさえ、才能という部分で二人の子供達には大きく後れを取っているのだから。こういう面でくらい、しっかりと二人を支えてあげなくては!

 

「ち、ちなみにヘルミーナ。この箱には何が入ってるのかな?」

「んー、たしか服とか? 着る物が入ってる箱かなぁ」

「つ、つつつつまりヘルミーナの下着もこの中に! 中に! ね、念のため開けて中身を確認した方が良くないかな? いっ、いや別におかしな事を考えてるわけじゃないよ! ちょっとほら、そう、調合材料が何かの間違いで入っていたりしたら、それが腐って下着が大変な事になったりするかもしれないからねっ! ねっ!」

「うーん、そんなの入ってないと思うけど……アルト先生がそう言うなら、確認した方がいいのかなぁ?」

 

 よくなーい!!

 やっぱり、この男は信頼なんて出来ない!

 あたしは息を整える時間も惜しんで、走る勢いのままドアを一気に開け放った。

 今まさに、箱の蓋を開けようとしていたアルトの姿が目に入る。

 

「ア~ル~トォ~ッ!?」

「リ、リリー!? ちょ、ちょっ、待てよ! 落ち着けって!」

「あんたはまた、何をしようとしてんのよッ!?」

 

 怯えるように後退る変態を逃がさないよう、ゆっくりと一歩ずつ壁際に追い詰めていく。右手に握り締めた杖がピシッという音を立てた気がするけど、きっと気のせい。鉄で作られた杖が、そんなに脆いわけがないわよね……?

 

「ご、誤解だ! 俺は何も怪しい事なんてしていない!」

「あ、リリー先生。アルト先生は、あたしの下着を確認しようとしてくれただけですよ?」

「ちょっ、ヘルミーナぁ!? フォローになってない!」

「……アルト、短い付き合いだったわね」

「なぜに過去形!? いや待て! 待ってくれ、未遂だ! まだ何もしてないぞ!?」

「まだって事は、そういう意図があったってわけよね?」

「しまった! つい本音がポロッとぉ!?」

 

 見っとも無く言い訳するアルトの鼻っ柱に、杖の切っ先を突きつける。

 訓練通りに精神を集中し、怒りの赴くままに力を貯めて魔力を操作する。

 杖の先端に力が集まっていくのを間近に見たアルトが、慌てふためいて顔を青ざめさせる。

 

「ま、待て! さすがに、この近距離でそれはちょっとシャレに――」

「問・答・無・用!!」

「ぎゃぁぁぁぁぁああああああああああああッッ!!」




 誤字脱字等は気付き次第、修正。
 頂いた感想には、全て目を通しています。一言だけでも十二分に執筆の励みとなりますので、読んで頂けた際に良ければお願いします。


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一章 ザールブルグ
海の向こうへ


「ふむ……。大変なことになったな」

 

 大変なこと、とは先程の部屋の中でのことだろうか。

 話の内容が予想出来ていた俺からすれば、ついに来たかという感じなのだが。

 学院の広間に面した廊下で顔を付き合わせるのは、俺を含めた三人の錬金術士。俺達は先程、元老院の御偉方から直々に『お願い』されたばかりだった。

 

「異国でのアカデミーの建設、か」

 

 顎に手を当て厳格そうな顔付きで唸るのは、俺の師であるドルニエ先生だ。深緑の重厚な法衣をまとった、四十絡みのオッサン。モミアゲと髭がつながっているのがトレード・マークだ。

 彼の左右の瞳の色は異なっているが、前世ならともかく今の世界の常識では珍しくもなんとも無い。なぜなら、これはエル・バドール大陸の人間特有の特徴だからだ。当然、俺も左が蒼色で右が金色の瞳といったオッド・アイだ。

 それにしてもこのオッサン、いつも何かしら考え込んでいる節がある。彼に師事して約十年になるが、彼が悩んでいないのを見た記憶が無い。ここまで来るともはや習性なのかもしれない。

 

「そうですね」

 

 ドルニエ先生に追従して、俺とほぼ同年代の少女がコクリと頷く。茶色の頭巾をかぶり、青と白の遊牧民めいた民族衣装に身を包んでいる。その服装といい、焦げ茶という髪の色といい、両方とも金色という瞳といい、いかにも地方から出てきた田舎娘といった感じだ。

 彼女の名前はリリー。俺と同じく、ドルニエ先生の徒弟の中の一人だ。

 前世の『リリーのアトリエ』という原作では主人公という立場だったが、今の俺にとっては、俺と二人の愛し子との仲睦まじい関係の邪魔さえしなければ心底どうでもいい存在だ。つまり現状、邪魔しまくりなので不倶戴天の敵。許すまじ年増女め。

 

「私とアルトはともかく、リリー、キミはどうするかね?」

「えっ、ちょっ! なんで俺はともかくなんですか。先生、扱い違いすぎません?」

「あたし、行きます! 実は話を聞いたときから、もうワクワクしちゃってて」

「選択は君の自由だが……しかし、本当にいいのかね?」

「いや無視しないで! 俺にも聞いて! 先生、あなたの可愛い教え子が尋ねてますよ!?」

「…………。キミはあの子達が行く時点で一緒に行くだろう?」

「当たり前です! あの二人を、俺の目が届かない所に行かすなんてありえないッ!」

 

 ググッと拳を握り締め、熱く語りかける。あの子達と離れ離れになるなんて、そんな事態は天地が引っ繰り返ったとしてもありえないのだ。

 イングリドとヘルミーナ。

 現世に舞い降りた、穢れ無き純白の天使達。

 何かと俺に厳しいこの世界での、生きる希望。

 無垢で可憐で触れることすら躊躇われる、ああっ、でも触りたい、けど我慢、いいや限界だ触るね!――っていう存在。

 後年激しくガッカリな事になる二人だが、今は神に愛される至高の存在と言っていい。

 まずは、イングリドについて語ろう。

 

 十月二十六日生まれ(蠍座)の十歳。身長百三十八センチ体重三十三キロ。好きな物は実験、嫌いな物はヘルミーナ(いわゆるツンデレだ可愛いッ!)。夢は錬金術の先生になる事。八歳の時からアカデミーに所属しており、まだ年端もゆかぬ少女でありながら錬金術の知識、技能等かなりの素質を持った神童だ。勝気でちょっぴり短気で自信家なのが玉に瑕だが、それがいいっ! 素晴らしく良い! 似たような立場のヘルミーナと度々いがみあっているが、その姿がまた可愛いらしいっ! 出会ってからもう二年になるというのに一向に俺に懐いてくれないが、そこもまた良しっ! 緩やかに波打つエメラルド色のセミロングの髪に、ブラウンのヘアバンドをアクセントにつけている。ベージュのフレアスカートに、小さなリボンがあしらわれたジャケットを髪と同じ色で揃えているのが、最近のお気に入りの格好だ。凛と立つその様は、整った顔立ちといい、大人顔負けな言動といい、貴族の品の良いお嬢様を思わせる。リリーの馬鹿を真似ているとしたら腹立たしいが(もちろんリリーの事が)、言動も外見も共に少しずつ大人びてきていて、可愛いというよりも美しいという言葉が似合うようになってきた。……ちなみにこれは秘中の秘だが、日々、彼女を見守っている俺の見立てでは、少しずつ胸も膨らみつつあるようだ。少女と女性の狭間、今しかない一瞬の美、未成熟な膨らみがそこには存在した。素晴らしい……素晴らしすぎる! 服の上から見て愛でる事しか出来ないのが心底歯がゆい。が、しかし! これ以上、育ってしまうと恐ろしい大惨事を招く事になる。原作での成長した姿のイングリドは、可愛らしさの欠片もないおぞましい姿になってしまうのだから。あれはもうただの醜いナニカだ。無駄に膨らんだデカイ脂肪の塊といい、慎ましさのない身長といい、横柄な態度といい……あれはもう存在する価値すら無い! 時の流れの残酷さを思い知らされる存在だ。だからイングリド、君はそんなに焦って成長しないでいいんだ。今のままでいてくれ。俺は可能な限りの努力を重ねているが、まだそれらの成果が実を結ぶには時間が掛かりそうなんだ。だから、どうかお願いします神様。二人がこれ以上、間違った成長をする事のないように。今のままの姿で正しく成長してくれますように!

 

 ……ふう、お祈りも済んだので、もう一人の愛しい娘を紹介しよう。

 次は、ヘルミーナだ。

 

 一月十四日生まれ(山羊座)の十歳。身長百四十センチ体重三十四キロ。好きな物はちょっと危険な実験、嫌いな物はイングリド(こちらもツンデレだ可愛すぎるッ!)。夢はイングリドよりデキる錬金術の先生になる事。彼女もイングリドと同じく、八歳の頃よりアカデミーに所属している神童だ。けれど、何もかもが同じというわけではない。例えば、健康優良児で外での運動を好むイングリドと違い、ヘルミーナは身体が少々弱くて室内での読書を好んでいる。元気一杯、天真爛漫な明るい少女のイングリドと異なり、大人しめの性格で……ちょっっっとだけ陰湿だ。いやいや、もちろん、そういった部分もまた子どもらしくて可愛いのだ。ていうか、二人に可愛くない箇所なんて無いけどね! ……けれど、一年前の事を今でも時々思い出したかのように、ねちっこく責めてくるのはちょっとアレかもしれな――いやいや、そんな事ないな甘えていると思えば可愛いものだ! 中身だけでなく、外見も当然異なっている。ヘルミーナはまだまだ子どもといった幼い感じ。綺麗よりも可憐といった言葉が似合う少女だ。紫色がかった銀髪のボブカットの前髪を、眉の上で綺麗に一直線に整えている。最近の彼女は、袖の膨らんだ純白のブラウスの上に、背中で大きなリボンを結ぶ形の青色のジャンパースカートを着ている姿を見かけることが多い。スカートと同じ色のスカーフを、頭の上でドーナツ状にして巻いているのが、彼女なりの他人と異なるこだわりらしい。もしこの時代にティーンモデル誌があれば、表紙を飾れるほどに整った顔立ちをしていて、これがもう微笑んだ日にはアンタ、俺はご飯三杯は軽くいけますよ? その証拠に、俺の脳内には彼女の笑顔が多数保存されている。イングリドよりもヘルミーナの方が枚数が多いのには理由がある。俺とヘルミーナは読書好きという同じ趣味を持った同士で、本の貸し借りをしたり感想を述べあったりするうちに、多くの時間を共有して仲良くなったからだ。どれくらい仲が良いかというと、俺が突然抱きしめても許されるくらいにだ。むしろ、向こうからして欲しがる時もある。……まあ、大抵どこかの空気読めない年増女に妨害されるんだけどな! マジあいつは邪魔者すぎる。しかも、あいつはヘルミーナだけでなくイングリドまで自由に抱きしめているのだから怒り心頭に発する。俺はなぜかやたらとイングリドに警戒されているというのに。いつも愛を持って真摯に接しているのに、なぜ避けられるのか? 解せぬ。俺も例え一度でもいいから、彼女が終末を招く容姿になってしまう前に、思う存分抱きしめたいものだ。イングリドもヘルミーナも、どこをどう間違えればあんな恐ろしい怪物に変貌してしまうのか。謎である。だが大丈夫、彼女達には俺がついている。俺が決して彼女達をあんな姿にさせはしない。俺には、彼女達が見るに耐えない姿にならないように防ぐ義務がある。持てる力全てを使い、今の彼女達のまま――そう、生命の神秘を司る素晴らしき姿のままで成長させて上げなくてはならないのだ!

 

 イングリド、ヘルミーナ。

 彼女達二人のために、俺が出来る事。やらなければならない事。世界に託された事。

 この世界に俺が生まれた理由、その一つが彼女達の待つ悲劇的な運命を救う事だろう。

 そのための手段も無論、考えている。

 ――俺の錬金術士としての悲願は『不老薬』だ。

 美しさをそのままに保つ、かつて何人もの錬金術士が挑んだであろう偉大なる命題だ。おそらく、先人達も俺と同じような純粋な想いでそれを願ったに違いない。彼らの情熱を思うと胸が震える。同志達よ、汝らの情熱、この俺がしかと受け取った。必ずや、実現させてみせる!

 イングリドとヘルミーナのためだけではなく。

 不老薬の完成を待つ、世界中の少女達のためにも!

 全ての少女達が、あるがままの姿で成長するためにッ!!

 ……しかしなぜか現状、アカデミーでの評判は極々一部を除いて芳しくない。不老薬と聞いて目を輝かせる連中も、俺がその素晴らしい目的や効能についてあますことなく克明に語りだすと、皆一様に目を逸らして口を閉ざすのだ。なぜだろう。不思議だ。やはり、その完成に至るまでの道程の至難さに、無理だと最初から諦めてしまうのだろうか?

 無理も無い。悲しい事ではあるが、確かにそれは非常に困難な事なのだから。イングリドとヘルミーナに出会う以前から似たような研究を続けて、今年で早四年。未だ望む結果は、何一つとして得られていない。一朝一夕には叶わない、何人もの先人が夢見て挫折した途方も無い願い。

 だが俺は、決して諦める気は無い。

 彼の偉大な『旅の人』だって、最初は孤独だったのだ。無理だと他人が諦めるような絵空事の錬金術を、自らの身体を犠牲にしてまで会得したのだ。

 高く険しい壁だからこそ、身命を賭す価値がある。

 それに、もしかしたら今回、異国で俺の研究に必要な何かが見つかるかもしれないし。そう考えると、今から期待に胸が膨らむというものだ。

 

「それに、イングリドとヘルミーナも行くんですよね? だったら……」

「あの二人は元々身寄りが無くてアカデミーが引き取っているから、私などから見ると、言わば親子のようなものだと思っている。連れて行くのは止むを得ない」

「いや親は俺ですよ? 俺が父親兼兄貴兼旦那兼恋人兼親友兼ペットですよ。いくら先生といえど、そこは譲りません」

 

 話の内容はさっぱり聞いていなかったが、聞き逃せない部分があったので、すかさず訂正しておく。父親代わりという立場は、俺のものだ。

 ていうか、まだ終わってなかったのかよ話し合い。何を長々と喋っているのやら。

 

「だが、リリー。キミは違う。親もいれば、帰るべき家もある」

「俺の発言がまた流された……」

「海の向こうに行くのは命がけだ。それこそ、二度と戻って来られないかもしれない。元老院の提案とはいえ、こんな大掛かりな計画にキミを巻き込むのは、私としては少々気が引けるのだよ」

「俺を巻き込むのは気が引けないんですね、分かります」

「キミの家族だって、我が子をそんな危険な度に出すのには反対するだろう」

 

 俺の一言にも、全く動揺する様子すら見せずにリリーを見つめるドルニエ先生。

 ……いや違うこれはスルーされているのではない。きっと信頼しているから、俺に対して何も言わないのだ。

 そ、そうですよね、ドルニエ先生? 信じてますよ……?

 

「で、でも! 海外と言っても、すでに行ったことのある人がいっぱいいるわけだし、大丈夫ですよ! それにあたし、ずーっと錬金術にのめり込んでいたから、もう両親に完全に呆れられちゃってるし。ははは……」

「わはははははっ! そりゃ、呆れられるわ!」

「アルト、あんたが笑うなッ!」

「ぐはっ!」

 

 くそっ、この暴力女め。お前がそうやってポンポン俺の頭を殴るから、イングリドが真似をするんだろうが。

 いや、イングリドに叩かれるのはむしろ御褒美だけどな!

 それにきっと、あの娘が俺を叩くのはツンデレのツン部分だ。好きな相手に素直になれないお年頃だからなぁ……。

 

「たぶん、何か新しい事を考えたり、造り出す事があたしは好きなんです。あの『旅の人』の調合を知って自分もやってみたい、って思ったんです。あたしの家はそこのバカの家と違ってそんなにお金持ちじゃないし、自分一人で錬金術を研究する事なんて出来ないし、こんなあたしに色々と教えてくれたドルニエ先生にも恩返しをしたいし……」

 

 リリーの言う通り、俺の生家はかなり裕福な家庭だ。何せ、爵位持ちの貴族の生まれだ。俺が望んだら望んだだけ、書物も器材も家庭教師もつけてもらえた。そのお陰でアカデミーに入学する際も成績面では問題なく、あっさり入れた。俺が望めば、金銭面だけで言うなら、きっと工房を構えて一人で錬金術を研究する事も可能だろう。

 けれどその逆に、海外渡航に関しては物凄く苦労しそうだ。錬金術士になると告げた際にも大反対されたが、次男とはいえ一応貴族だしな。立場を考慮しないにしても、感情面は別だろうし。何よりも、ある意味では両親より手強いのがいるしな……。

 

「だから、行きたいんです! 錬金術が好きで好きで仕方がないんです! ……なんて、本当は面白そうだなーってくらいしか考えてないんですけどね」

「何恥ずかしがってるんだ? そういう仕種は年増女がしてもキモイだけだぞ」

「うるさい! ちょっともう、あんたは黙ってなさいよ!」

「先生ー、最近あなたの生徒が僕をイジメるんですよー。どうにかしてくださいー」

「……分かった。同行してくれるならばありがたい、とは最初から思っていた。そこまで言ってくれるならば、是非私からもお願いするよ」

「あ、あれ……? もしかして俺、先生からもイジメられてないか?」

 

 おかしいな……目から汗が出てきたよ。

 

「アルト、いつまでもふざけていないで。キミも、異論は無いね?」

「はい、俺が行くのは決定事項なので。……まあ、そこの世界的に恥ずかしい年増女を置いて行ければ言うことないんですけど」

「それはあたしの台詞! なんで、あんたみたいなのが選ばれるんだか……」

「そりゃ、俺が優秀な錬金術士だからだろーよ」

「どうして、あんたみたいなのが頭良いのよ!? 信じられない!」

「俺からしたら、どうしてあの程度の理論も理解できないのかが信じられないな。脳の容量が足りないのなら、その無駄に膨らんだ胸にでも詰め込んでみたらどうだ?」

「なっ!? し、信じられない! 何考えてるのよ、エッチ!」

「はあッ!? 冗談じゃない! どうして、俺がそんな脂肪の塊に欲情しなければならないんだ? 俺が心より愛してるのは、イングリドやヘルミーナのような愛らしい少女達だけだ!!」

「それが一番、許せないんでしょうが! この変態! ド変態!」

「ハッ、売れ残りからいくら言われようと痛くも痒くも何ともないね。これだから、熟しすぎて腐るだけの年増女は」

「誰が年増よ!? あたしはまだ、十七歳だっつーの!」

「十二歳より上は、見る価値すらない。そんな常識も知らないのか?」

「あんたの特殊な性癖なんて聞いてないわッ!」

 

 俺とリリーが互いに次の言葉を放とうと、肩を上下して息を大きく吸い込むと同時。

 

「いい加減にしなさい」

 

 怒鳴るでもなく、静かな、けれど頭に上った血を落ち着かせるだけの力が込められたドルニエ先生の一喝に、俺とリリーは渋々口を閉じた。

 

「これから私達は、一緒に、海の向こうへ行くのだよ? 仲良くとまではいかずとも、喧嘩をしないように努力して欲しい。いいね、リリー?」

「……はい、すみません」

「アルトも。いいね?」

「俺はそもそもこんな年増女と喋りたくなんてないですし」

「アルト」

「……はい。以後、気をつけます」

 

 ちくしょー、なんで俺まで叱られなければならないんだ。これでも三十八歳なのに。まるで聞き分けの悪い子どもみたいじゃないか。

 とはいっても実際、そこまで年を取った感覚はないんだけどな。今の俺が、前世と比べて精神的に成長したという感覚は全然無い。近頃、やっと精神に身体が追いついてきたといった程度だ。

 精神が身体に引っ張られているのか、環境に左右されているのか、それとも別の何かのせいなのか。単純に月日を重ねれば、精神年齢が高くなるというほど簡単じゃないのは分かってるけどな。大人になるっていうのは、思ったよりも難しい。特に俺の場合、中身はどうあれ、外見は子どもとして過ごしてきたしな。

 精神年齢による違いといったら……幼い頃から恋愛感情を知っていたので、そのままそれが対象への年齢に固定されてしまったという事だろうか。そう、だから俺は六歳以上且つ十二歳以下にしか興味が……うん、ごめん、ちょっと我ながら無理のある言い訳だったな。

 正しく言い訳するならば、前世で女性と全く縁の無い生活を送っていた俺が、この世界にこうして二度目の生を受けた時点で、こういう性癖になるのは運命だったのだ。

 ――そう、運命! 嗚呼、運命だったのだッ!

 運命。なんて素晴らしい言葉だ。取りあえず運命と言っておけば、どんな言葉でもなんとなくそれっぽく聞こえてくる気がするから不思議だ。

 

「アルト、リリー、一緒に行こう。あの子達二人も連れて、皆で、海の向こうへ」

「行きましょう、海の向こうへ! ……でも、海の向こうのどこへ行くんですか? ドルニエ先生」

「お前、そんな事も知らずに盛り上がってたのかよ? おめでたいや――」

「アルト」

「……つだな、とは思いません。気付く俺の方がおかしいですよね、ドルニエ先生」

「アルトはもう分かっているようだが……、東の大陸にあるシグザールという王国の中心都市だよ、リリー」

「シグザール?」

 

 

「ザールブルグ。それが、私達が錬金術を広める街の名前だよ」

 

 

 

 

 

 

 見渡す限りの大草原。

 荒れるがままに任せられた土地は、まだ何も使用用途が決まっていないのか放置されているようだ。立て看板すら見当たらない。

 街の中心部から少し離れているとはいえ、これだけの土地を遊ばせたままなんてもったいないなぁ、なんて思ってしまう辺り、あたしも結構都会的な考え方になってきたんじゃないかと思う。故郷じゃ、土地が勿体無いなんて考えたことすらなかったしね。ましてや、値段を付けて考えるなんて想像すらしなかった。

 ここにアカデミーを立てたいとドルニエ先生が言っていたし、うまく話がまとまればいいなぁ。

 

「わーい! こっち、こっちー!」

「イングリド、待ってってばー!」

 

 ドルニエ先生達と別れた場所で彼らの帰りを待ち続けるあたしをよそに、イングリドとヘルミーナは元気に草原を駆け回っている。ちょっと目を離すとすぐに何かをしでかすのは、神童と言われようと年相応の子どもに変わりない。故郷で良く見かけた光景と重なり、自然と笑みが浮かんでしまう。

 旅立った当初こそ初めての船旅に目を輝かせていた二人だったけど、さすがに数日も経つと水上での生活に退屈していたようだ。久しぶりに自由に駆け回れる環境が嬉しいのか、広大な敷地内を止まる時間すら惜しいとばかりに動き回っている。

 元気にはしゃいで回る二人の様子を見ていると、思わずそのまま静かに見守っていてあげたくなる。

 ……でも、二人とも? 今は遊ぶ時間ではなく、ドルニエ先生を待つ時間よ?

 

「ほらー! 二人とも、大人しくしてなさーい!」

 

 二人を捕まえるべく駆け寄ると、歓声を上げた二人が、そうはさせじとばかりに走る速度を上げる。

 こらこら、追いかけっこじゃないってば。懐かれるのは嬉しいけど、威厳がない先生っていうのもそれはそれで困りものね。

 二手に分かれて散開したり障害物を利用したりと、その頭の良さを無駄に発揮して逃げ回る二人をなんとか捕まえた頃には、すっかり息が上がってしまっていた。故郷じゃ同年代の男の子にも駆けっこでほぼ負け無しの体力が自慢だったけど、さすがに現役の子ども達には勝てない。アカデミーでの勉強生活で鈍った体も、折を見て元に戻さないと。錬金術士には体力も必要だ、とアルトも言ってたしね。こと錬金術に関しては、あいつの言うことは間違ってないから。

 

「ずいぶん賑やかだね、リリー」

「ドルニエ先生!」

 

 弾む息を整えながら二人の手を引いて戻ると、舗装された道にはドルニエ先生が苦笑しながら待っていた。期せずして追いかけっこをする様を目撃されてしまい、気恥ずかしさを覚える。十七歳にもなって子ども達に混ざって走り回る女……ドルニエ先生になんて思われているのかが気になる所だ。

 アルトが一緒じゃないのだけは幸い。もし、あいつに見られていたら散々馬鹿にされていた事だろう。

 

「先生、お城の方はどうでしたか?」

 

 アカデミー建設に必要となる資金の融資をお願いしに、ドルニエ先生はお城を訪れていた。

 国王様にお目通りするという事なので、その間、あたし達は迷惑を掛けないように別行動をしていたのだけど……先生の曇り顔から察するに、どうやら結果は芳しくないようだ。

 

「それが……残念ながらダメだった。錬金術などという、聞いた事もないような技術に融資できるお金はないと言われてしまったよ」

「そう、ですか……」

 

 予想していたとはいえ、改めて言葉にされると気落ちしてしまう。

 まさか、本当にアルトの言った通りになるなんて信じられない思いだ。

 

『――知らないモノに大金を融資するとは到底思えない。十中八九、今回の件は断られるだろうな。良くて妥協案って所か。じゃあ二人とも、俺はさっき先生と相談したように住居を探してくるから、大人しく待ってるんだぞ?』

 

 淡々と言うアルトに、何を馬鹿な事を言ってるんだ、とあの時は内心で相当憤ったけど……。

 あたしとドルニエ先生は錬金術の素晴らしさを知っているから、それを広められる機会があるのなら融資も難しくはないと考えていた。

 けれど、現実は違っていた。アルトの予想の正しさを証明している。

 本当、平常時の彼は憎たらしいほどに優秀だ。

 いつもいつもあたしを小馬鹿にしてくるし、イングリドとヘルミーナに対して変態的な行動ばっかりしてるから忘れがちだけど、実際、アルトは並外れて優秀な人間なのだ。錬金術の腕だけでなく、何においても人並み以上にこなす事が出来るほどには。

 例えば、炊事。貴族といえば自分でする必要がない事は使用人に任せっきりという人間が多いのに、彼は下手したら同じ年頃の女性よりも上手に料理が作れる。どうしてそんな事を知っているのかといえば、アカデミーに入学した当時、歓迎会と称して彼の部屋にお呼ばれした事があるからだ。綺麗に整頓された彼の部屋で振舞われた料理の数々は、味だけでなく見た目にも素晴らしいもので、『錬金術ってこんな美味しい物まで作れるんですね』とあたしは赤面物の勘違い台詞を言ってしまったのだった。

 それだけでなく、わざわざあたしの部屋に彼自ら材料を持ち込んで調理してくれた事もある。

 アカデミーでの難解な試験勉強や日々増えていく実験、運動場での魔力を操る訓練に、体力を養うための適度な運動。錬金術士としての基礎が皆よりも劣っていたあたしは、毎日を死に物狂いで過ごしていた。積み重なるストレスに追い詰められ、次第に食生活が疎かになっていたあたしを労わってくれた彼の優しさに、つい故郷のお母さんを思い出して食べながら泣き出してしまったものだ。

 当時は恥ずかしさのあまり、二、三日顔をまともに見られなくなるという事態に陥ったけど、今のあたしからしたら一生の不覚。人生の消えない汚点だ。

 幸いにも彼は、あたしが彼の本性を知る前の出来事には一切触れて来ないので、あたしも色々となかった事にしている。そうでなければ今頃、会話もロクに交わせなくなっていただろう。故郷を離れての一人暮らし。あたしが弱っている時に、気づけばいつも傍にいてくれたあいつには、色々と弱みを握られてしまっているのだ。今となっては到底信じられないような出来事ばかりだけど。いっそ本当に全部夢であってくれたら、どれだけありがたいことやら。

 

「そう、がっかりすることはないよ、リリー。かつてケントニスに現れた錬金術の祖『旅の人』も最初は同じだった。始めは、誰も信じてくれないものだよ」

 

 あたしが過去を思い出して暗澹たる気分に陥っていると、それを何やら勘違いしたのか先生が慰めてくれた。その慈愛に満ちた眼差しが、今だけはとても胸に突き刺さります。

 えーと……ごめんなさい先生、今あたし全然関係ない事で落ち込んでいました。錬金術と勘違いするなんてあたしは馬鹿かとか、泣くだけならまだしも慰められるなんてとか、彼から誕生日に貰った物を未だに捨てられないでいるとか、故郷の家族には未だに妙な誤解をされているとか、そんなあれこれで。

 

「先生ー?」

「先生……」

「だ、大丈夫! なんでもない、なんでもない!」

 

 イングリドとヘルミーナの二人までが心配そうな顔をしてこちらを見つめてきたので、慌てて表情を取り繕う。笑顔、笑顔っと。二人の頭を優しく撫でてあげながら、大丈夫よ、と重ねて言って笑い掛ける。守るべき対象の二人にまで心配させてしまうなんて先生失格だ。これというのも全部、あの馬鹿男のせいよ!

 

「こうなる覚悟は最初から出来ていたよ。まずは自力で力を示して、そして国王に認めてもらうしかないだろう。慌てず、じっくりいこう。そしていつの日か、この場所に錬金術のアカデミーを建てようじゃないか」

「はいッ!」

 

 気を取り直し、先生の言葉に力強く頷きを返す。

 そう、まずは錬金術というものを周囲に知ってもらうことから始めないと。

 あたし達が一生懸命頑張れば、きっと『旅の人』のように錬金術の素晴らしさを皆に認めてもらえるようになるはずだ。

 だって錬金術は、皆を幸せに出来る技術なのだから。

 それに――

 王様に錬金術の素晴らしさ認めてもらってアカデミーを建てられれば、あいつからのあたしに対する評価も変わるかもしれない。一緒に頑張って結果を出せば、一人前の錬金術士として対等な存在に見てもらえるはずだ。

 そうすればあたしにだって、もうちょっとこう――いや、まあ別に、あいつにどう思われようと構わないんだけど? うん、気にならないけど……でも、あたしの方が立場が低いみたいなのは嫌なのだ。他はともかく、あたしの生き甲斐である錬金術という分野だけでは負けたくない。現状、物凄い差があるのは分かっている。だけど、最後まで負けを認めて諦めたくなんて無い。いつの日かきっと必ず、あいつに並び立つ存在になってやる。

 だから今は、やれる事をただひたすらに頑張るしかない。

 

「でも、先生。これからあたし達、どうすればいいんでしょうか……?」

 

 やる事は決まったけど、何から手をつければいいのやら。

 それに錬金術を知ってもらうためとはいえ、まさか『旅の人』に倣って広場でいきなり金の調合を始めるわけにもいくまい。そんな事をしたら、見回りの衛兵さんに捕まっちゃうのがオチだろう。

 それ以前の問題として、あたしは金の調合なんて高度な物は出来ない。

 というか、金の調合に成功したという錬金術士は『旅の人』以外、聞いた事すらない。その『旅の人』も、生涯その調合方法を誰一人にも伝えなかったといわれている。もし調合に成功すれば、噂くらいにはなりそうなものだけど……。

 さすがにあのアルトだって、こればかりは作れないみたい。以前に尋ねてみたら、『どうして金の調合方法を旅の人が伝えなかったか良く考えてみろ』と煙に巻かれてしまったし。

 

「うむ、実は王城へ向かう途中に良い空き家を見つけてね。アルトに交渉を頼んできたから、今から行ってみるとしよう」

「……アルトが選んだんじゃなくて、先生が選んだんですよね?」

「ん? そうだが……それが、どうかしたかい?」

「良かったー! それなら安心ですね!」

 

 もし、あの変態が選んだ場合どうなっていたことやら。

 いや、まだ安心するには早いかもしれない。あいつのことだから、先に行って何かしら仕掛けている可能性もある。

 そう例えば……いやいや、まさかそこまではしないでしょ、いくらあいつだからって。でも変態だしなぁ……うん、やっぱりそのくらいはありそうよね……となると、他には……そうね、そのくらいはしてもおかしくないわ。あとは……うーん……。

 

「リリー?」

「……覗き穴くらいは平然と仕掛けそうよね。それに階段の下に変な空間とか……って、先生?」

 

 これからどう対処するかを考えていたら、いつの間にか三人に置いて行かれていた。

 慌てて早足で三人に追いつくと、イングリドとヘルミーナが左右それぞれの手を握ってきた。

 

「リリー先生、早く行きましょう!」

「新しい家、どんな家かなぁ?」

 

 二人は期待に、あたしは不安に、という違いはあるけど、これから住むことになる家が気になるのは同じようだ。

 不安点に関しては後できちんと確認するとして、今は二人と一緒に期待に胸を膨らませるとしよう。

 これから目標達成までにどれだけの期間が掛かるか分からないけど、おそらく数年間は過ごす事になるに違いない場所。どんな家なのか、気にならないわけがない。

 先生に聞けばすぐにでも分かる事だけど、それは無粋というものだ。

 だって聞いてしまったら、家に向かうまでの楽しみがなくなってしまうじゃない。

 ああいう家かな。

 それとも、こういう家かもしれない。

 うん、きっとそういう家だよ。

 あたし達はまだ見ぬ我が家へ思いを馳せて、意見を交わし続ける。

 最終的に『小さな庭付き犬一匹、三階建てで使用人のいるお城さながらの内装の屋敷』という話にまで至って、ドルニエ先生がやや引きつった笑みを浮かべるのだった。

 ……ま、まあ、夢を見るのは自由だしね!



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物語は動き出す

※一部、捏造設定が含まれます。今後も細かい部分で増えていくと予想されます。あらかじめ、ご了承下さい。


「――それでは、本日はこれで失礼します。何かとご迷惑をお掛けするかもしれませんが、どうぞ今後とも宜しくお願い致します」

「あははっ! いいんだよ、そんな畏まらなくて。困ったことがあったら、なんでもいいな!」

「また、いらしてくださいね」

「はい、ありがとうございます」

 

 最後にもう一度だけ頭を下げ、家主さん宅を後にする。

 俺が家主という響きから想像していた人物像よりも、実際の家主さん夫妻はずっと話せる人だった。親しみの持てる人柄と聞き上手な人であったせいで、当初の予定よりも随分と長居してしまった。さすがに、お茶を三杯も頂いたせいでお腹がたぷんたぷんしている。

 気になる家賃は先生から提示された額よりも、かなり安かった。異国から来た得体の知れない職業の人物達に貸すということで、多少ぼったくられるかと覚悟していただけに嬉しい誤算だ。

 錬金術士という職業は、やはりザールブルグでは知名度が低いようだ。夫妻に説明した時、微妙な表情で首を傾げていた。

 まあ、だからこそ俺達は遥々、海を越えてザールブルグまでやって来たのだ。

 錬金術を広めるために、アカデミーを作るために、イングリドとヘルミーナと親密になるために!

 船旅を終えてザールブルグに到着した俺達は、持ってきた荷物を停泊中の船に数日間置かせてもらい、その間に住居を探す手筈になっていた。調合に使う大鍋や各種錬金術の本、生活雑貨等、持って歩くには到底無理があるからだ。本来なら荷物は両手に持てる程度にするべきだが、錬金術が広まっていない以上、錬金術に扱う品物が揃えられるか分からなかったため、色々と持ち込んだ弊害だ。

 船自体は往復をアカデミーが貸しきってくれたので、スペースを間借りさせてもらう事は問題ない。それでもあまり長い間、停泊させるのは色々と好ましくない。早々に住居を決められたのは幸いだ。あとは人手を借りて荷物を運び入れれば、さっそく今夜からでも生活する事が出来るだろう。

 ドルニエ先生達と合流すべく、ひとまず契約してきた住居へと向かう。

 赤い屋根の二階建ての家だ。原作と同じ家なのかは分からない。そこまで細かい部分は覚えていない。

 職人通りにあるその家は、やはり以前に住んでいた人物も職人だったらしい。これが普通の家なら、錬金術に使用する大鍋を火に掛けるためとか、何箇所か大掛かりな施工をする必要があっただろう。間取り等を確認した感じ、そのまま流用出来そうだったので助かる。何より、多少の騒音程度なら気にしないで済むというのが都合が良い。錬金術は、必ずしも静かな作業ばかりではないからだ。

 職人通りというのは、錬金術士にとっても最適な場所のようだ。

 

「先生達も今頃、家に向かってる頃かな?」

 

 賃貸交渉の成否に関わらず、一度家の前で合流する予定になっている。

 先生と別れて結構時間が経っているし、さすがに国王との謁見は終わっているだろう。融資の申し入れをしてくるという事だったが、俺には結果がどうなるか予想がついている。大方、原作通りの展開で間違いないだろう。

 

「融資は断られる。その代わり、展覧会という行事に出品するために課題を毎年こなす。その出来次第で援助金をもらえる……だったっけ」

 

 一年目の課題は『薬』だったはず。展覧会に出す品は、今の俺の腕なら現時点でも特に問題なく最後の課題までクリアできるだろう。そう豪語出来るだけの努力を、日々積み重ねてきた。

 アカデミーで学ぶ際に原作での知識が随分と役に立ったのは確かだが、それだけではここまで腕を上げることは出来なかっただろう。なぜならば、原作と現実では細かい部分で異なる事が良くあったし、そもそも俺はそこまで原作の内容を細かに覚えていなかったからだ。これは俺のプレイスタイルのせいでもあるし、転生してからの月日のせいでもある。十年以上前にやったゲームの記憶なのだから仕方がない。

 原作と現実の違いとして一例を挙げると、原作ではMPがマイナスになるまで一度に大量の調合を行う事が可能だったが、現実では不可能だ。調合品によって魔力の込め方や込めるタイミングが変わるので一概には言えないが、精神力が尽きた以降の調合は必ず失敗する。精神力が尽きると、気絶して何も出来なくなるので当然ともいえる。そして、魔力が自然回復するまで数日間、軽い寝たきりの状態に陥る。これは何度か繰り返し試して(気絶して)みたので、ほぼ間違いないだろう。

 精神力と魔力との違いだが、要は加工前と加工後だ。精神力は気力とも呼べるもので、多さに差はあれど誰しもが持つものだ。錬金術での調合を行う際には、精神力を魔力として込める必要がある。その結果、色々と不思議な物を作れたり、壊れにくかったり、ある程度鮮度を保てる代物が出来たりするわけだ。

 そんなわけで、原作での知識は『あれば便利』くらいに思っておかないと思わぬ場面で痛い目に遭う。世間には、ぷに相手なら楽勝と思って挑んだら、死闘を繰り広げるハメになったというイタイ男がいるくらいだ。

 ――俺の事だよ!

 今でこそ笑い話だが、当時はマジで死ぬかと思った。可愛い顔してても、やっぱ魔物は魔物なんだよな……。

 

「それにしても、平和な街だなぁ……」

 

 中世の西洋風めいた街並みを見渡しつつ、のんびりと石畳で出来た道を歩く。まだ明るいうちから飲んだくれてるオッサンもいれば、バカみたいに駆け回る子供達もいるし、井戸端会議するオバチャン連中も、世界が変わろうといつの時代も変わらず存在するものらしい。

 

「あら?」

 

 井戸水を汲みつつお喋りに花を咲かせていたオバチャン達が俺の視線に気づいたらしく、こちらを見つめてきた。まるで良い獲物を見つけた狩人のように一瞬ギラッと瞳が光った気がした。反射的に回れ右して逃げたくなる……が、ここはぐっと堪える!

 年増女と会話するのは苦行だが、今後の事を考えれば近所付き合いは大切にしなければならない。前世と違い、今は横の繋がりが密接な時代だから、うっかり村八分なんて状態になってしまったら目も当てられない。それでなくとも今後は客商売をする事になるのだから、人付き合いは大事にすべきだろう。

 

「ちょいと、そこのお兄さん。ここらじゃ、見掛けない顔だねえ?」

「こんにちは。はじめまして、私はアルトといいます。ケントニスから来た錬金術士です」

 

 足を止め、営業スマイルを浮かべて挨拶する。前世での経験に加え、現在に至るまでの貴族としての嗜みやらアカデミーでの生活といった様々な経験により、俺の面の皮は異常な程に厚くなっている。きっと今の俺の外面は、オバチャン達の瞳には紳士的な好青年として映っている事だろう。

 当然、好感触が得られるだろうと思っていたが……しかし、オバチャン達は予想に反して皆、戸惑ったような顔をした。

 

「れんきん……じゅつ、し?」

 

 ああ、なるほど。引っかかったのは、その部分か。

 本当に知られてないんだな、こっちでは。たまたま家主さん達だけが錬金術を知らなかったという可能性も考えないではなかったが、やはりこの辺りではそれが普通のようだ。自己紹介する度に説明の必要があるのは面倒だが、これも最初だけだと割り切るしかあるまい。

 

「ええ、錬金術士です。皆さん、ご存知ないですか?」

「聞いたことないねぇ……あんた知ってる?」

「いんや? 私も聞いたことないねぇ」

「あたしも知らんねえ」

「どんなものなんだい? その、れんきなんちゃらってのは」

「ええと、そうですね……一言で言えば、世の中の物質を変化させて新しい物質を作る技術、でしょうか」

「はあ、新しい物質ねえ。なんか難しそうだねぇ」

「いえ、そこまで難しいというほどでは。今までにない画期的な品物を作り出す事が可能なので、生活が色々と便利になったり、悩み事を解決出来たりすると思いますよ」

「ほう、そうなのかい!」

「ええ。例えば、暑さを和らげたりするアクセサリーとか、植物の成長を早めたりする栄養剤とかですね」

「それはすごいね! そんなものが本当に作れるのかい?」

「ええ、これはまだ一例ですけど。実際にアトリエを開いて経営する形になると思うので、その際にはぜひご利用下さい。アトリエの場所は、その突き当りの角の赤い屋根の家です」

 

 忘れずしっかりと営業をする。

 実際には酒場で請け負う形になると思うけれど、身元のしっかりしたご近所さんなら直接依頼を受けても問題ないと思うしな。常連になってもらえるなら、何よりだ。

 ――誰が依頼の品物を作るのかは、さておくとして。

 陽気すぎるオバチャン達と別れた後も、何度か街の人達に声を掛けられ、その都度、同じような会話を繰り返す。何度も何度も同じようなことを喋っているといい加減辟易してくるが、それも仕事のうちと割り切って我慢する。

 どうやら、この街の人たちは結構フレンドリーな感じらしい。閉鎖的な人達だったら馴染むまでに苦労するなと思ったが、原作内でも感じていた通りに気さくな人達ばかりだ。この分なら錬金術を広めるのもそう苦労はしなさそうだな。勿論、きちんと成功すれば、という大前提はあるが。

 ゲームと違ってセーブ・アンド・ロードなんて出来ない一発勝負。これが普通なんだけど、改めて実感すると少しばかり不安ではある。ケントニスで多少の経験は積んでいるが、実際に工房を構えて仕事を請けるというのは、また違う緊張感がある。

 俺が家の前にたどり着くと、そこには既に皆が集まっていた。ドルニエ先生と、イングリド、ヘルミーナ、あとオマケでリリーの合計四人だ。先生の話では、これに俺を加えた五人で共同生活を送る事になる予定らしい。

 

「すみません、遅くなりました。どうでしたか? 話し合いの結果は」

「やあ、おかえりアルト。それが……ちょっと困った事になってね」

 

 本当いつもアンタは困ってるな。

 ドルニエ先生から国王様との話し合いの詳細を聞いた所、やはり原作通りの展開だった。ちなみに課題は『薬』と、これまた原作通り。作るとしたら……まあ、フェニックス薬剤が無難なところか。提出する品物は一つでいいようなので、その辺りはリリーと相談しないとだな。どちらが作るのか、あるいは二人で作るのか、とか色々と。

 

「それで、そちらはどうだったかな? 首尾良く、家は借りられたかい?」

 

 ドルニエ先生が俺に尋ねた瞬間、他の三人も期待のこもった熱い眼差しで俺を見上げてきた。

 やっ、やばい! イングリドとヘルミーナの表情が可愛すぎて生きてるのが辛い!

 その上目遣いと赤らんだ頬は反則だ! くぅっ、興奮もとい感動のあまり鼻血が出てしまいそうッ!

 

「アルト?」

「……え? あっ、ああ……すみません、大丈夫です。ちょっと脳内に今の光景を保存していただけなので」

「ふ、ふむ?」

「で、この家は問題なく借りられましたよ。鍵と契約書類を預かってきたので、あとで確認しておいてください。井戸はこの先に共用のがあるので、それを利用して良いとの事でした。あまり騒がなければ、夜も活動していて問題ないようです。あと、前の住人が使っていた家具等が残っているのでそれは自由に使って良いそうです。処分する際の代金に関してはこちら持ちで、その分家賃は想定よりも安く済みました。そうそう、道すがら何人かと街で話してみたんですが、やはり錬金術は皆さん知らないようでしたね」

「ありがとう。相変わらずこういう事にはソツがないね、キミは。とても貴族とは思えないよ」

「褒め言葉として受け取っておきますよ。まあ、あとの細かい事は追々。さ、中にどうぞ」

 

 預かった鍵で玄関のドアを開け、皆を中に招き入れる。我先にと急いで入っていくイングリドとヘルミーナ。それに続いて、ドルニエ先生とリリー。最後に俺が入り、ドアを閉じる。

 

「わあ、ひっろーい!」

 

 イングリドが嬉しそうな声を上げながら、さっそく部屋の中をはしゃぎ回る。ヘルミーナはヘルミーナで、本棚から次々と本を取っては中身を確認しているようだ。

 それにしても、イングリド。そんなに元気良く動いたら危ないぞ? やれやれ、まったく。困ったなぁ、ああ困ったなぁ、本当に困った……怪我をしたらどうするんだ。仕方ないな、うん、仕方ない。ここは、大人である俺がきちんと見守ってあげなくてはならないよな。

 俺は慈愛に満ち溢れた笑みを浮かべ、ゆっくり床へと屈み込み……なっ、なんだリリー、その冷たい視線は!?

 ……ち、違うぞ。俺は別にわざとスカートの中身を覗こうとだなんてしていない。だから、無言で拳を振り上げるなッ!!

 

「アルト……それ以上、変な格好をし続けようとしたら、今すぐ追い出すわよ?」

「んぐぅッ!? お、お前は素晴らしい錬金術士の俺をもうちょっと尊敬すべきだと思うぞ?」

「人間性が異常すぎて、その一面だけでマイナス極めてるから無理ね」

 

 容赦ねえよ、この女!

 

「ねえねえ、先生! 今日から、ここに住むんですよね?」

「ああ、そうだ。今はまだ基本的な家具しかないけど、持ってきた器材とか色々運んだら結構手狭になるぞ?」

「アルトには聞いてないもん!」

 

 う……うん、イングリドはいつも通り平常運転だな。

 大丈夫、俺は泣いてないぞ。泣くもんか……ううっ。

 

「アルト先生、これって自由に読んでいいの?」

「ああ、大丈夫だ。前の人がもう読まないからと置いてった物らしいからな。好きにしていいぞ」

「ふ~ん……」

 

 シグザール王国の本が物珍しいのか、ヘルミーナは興味深そうに物色している。本当に、読書が好きなんだな。どこかのバカもこれくらい本を読まないと、彼女達に追いつけないと思うんだが。

 さて、ドルニエ先生はどうしているのかと探してみれば、早くも椅子に腰掛けて一息ついていた。今日は歩き回ってばかりいたし、王様との謁見は精神的に来るものがあっただろうしなぁ……年齢のせいだとは言わないでいてあげよう。

 

「へー、奥にも部屋があるのね」

「台所、風呂、トイレとかだな……って、なんで俺の腕をつかむんだお前は!?」

「放っとくと何をしでかすか分からないから。監視よ、監視」

「一流の錬金術士に向かってこの扱い! 先生、こんな不当を許すんですか!?」

「疲れたので私はちょっと休んでいるから、確認は君達に任せてもいいかね?」

「許しやがった! ドチクショー!」

 

 現実の理不尽さをかみ締めつつ、リリーに抵抗できないまま引きずられていく。抵抗してもいいのだが、そのための労力が惜しい。そして、命が惜しい。

 何が面白いのか、イングリドとヘルミーナも騒ぎながら俺達の後ろをついてきた。

 

「先生、お風呂ー!」

「ひっろーい!」

「へえ……本当ね。さっき見た台所もそうだけど、お風呂も結構、広いじゃない」

「元が職人の住居だからな。弟子とかが住む事を考えたら、多少は広く作らないとだろ」

「これならイングリドとヘルミーナも一緒に入れそうね?」

「ほんとー? 先生と一緒ー」

「やったー!」

「いやっふぉおおおおおお!!」

「何でどさくさに紛れて、あんたまで喜んでるのよ。誰が二人とあんたを一緒にさせるか。当然、アルトは一人よ」

「ですよねー」

 

 分かっていたけどな!

 しかし、惜しい。惜しすぎる。せっかくのチャンスだというのに、俺は一人で寂しく入らなければならないのか!?

 

「どうしても誰かと一緒に入りたいなら、ドルニエ先生と入れば?」

「お前はどうあっても俺を怒らせたいようだな!」

「あんたがあたしを怒らせてるのよ!!」

 

 フッ……まあ、いい。今はそうやって妨害するといいさ。

 同じ家に住むのだから、チャンスはまだまだこれからもたくさん訪れる。自然を装い、意図的にちょっとエッチなハプニング展開を起こしてやるぜ!

 ――と、本来なら並々ならぬ決意を胸に表明したい所なんだが……。

 うーむ……どうしたものかなぁ? 物語を変えると決意したけど、だからって変えなくてもいい部分まで変える必要はないんだよな。あくまで、俺は俺としてこの世界で生きるだけで、最低限で済ませるべきなんじゃないだろうか。特に、人生を俺に左右されかねない人間もいる事だし。

 

「……な、何よ。急に黙っちゃって……本当に怒ったの?」

「ん? いや、なんでもない。気にするな」

「そ、そう?」

 

 いつもみたいに口論にならなかったせいか、不審気な顔をするリリー。言い返したら言い返したで怒るくせに、黙っていても不満らしい。いったい俺に、どうしろというのか。

 

「アルト、二階はどうなってるの?」

「大きな部屋が一つだな。寝室にしてたみたいだから、ベッドとかタンスもあると思うぞ」

「そっか。じゃ、使える物はそのまま使うとして足りない物だけ買い足そうか。節約出来る部分はしないと」

「お前にしては、良い心掛けだな」

「お前にしては、っていうのは余計。まあ、お金はいくらあっても困らないし、無駄遣いのせいで破産なんて目も当てられないものね」

「いざとなったら、俺の実家に頼る手もあるけどな」

 

 それなりに由緒ある裕福な貴族なので、その程度のお金は余裕で出せる。俺が錬金術士として個人的に稼いだお金もあるしな。

 そんな思いで気軽に口にした途端、俺の腕をつかむリリーの手にギュッと力がこもった。

 

「それは絶対にダメ! あたし達の力で成し遂げないと意味は無いもの。錬金術を広めるのも、アカデミーを建てるのも、全部あたし達自身の手でやるのよ」

「…………」

 

 予想外の強い眼差しに、思わず面食らって言葉を失う。

 ……忘れていた。普段の会話の馬鹿らしさのせいで。

 リリーの本質は、錬金術に全てを捧げられるほどの情熱にある。拙いものとはいえ、独学で錬金術を学ぶというのは容易く誰にでも出来ることではない。人から教えられるのと、自ら学ぶのとには大きな隔たりがある。その錬金術に向ける貪欲なまでの姿勢は、俺にも真似が出来ないものだ。

 その一点において、こいつは誰よりも錬金術士だと言える。

 

「それに、あんたに貸しを作ると後で何を要求されるか分かったものじゃないし」

「その一言で全部台無しだッ!!」

 

 見直す必要なんてなかったな! 所詮、売れ残り女は売れ残り女だ!

 

「さ、二階も確認しに行くわよ」

 

 リリーが二階に向かおうとすると、ちびっ子二人組みが先を争うように勢い良く階段を上っていった。仲良しなんだか仲が悪いんだか。

 思わず、リリーと顔を見合わせ苦笑する。……って、なんでこいつと意気投合してるんだ俺は。

 ハッと我に変えると、リリーもなんだかバツが悪そうに顔を逸らした。

 

「二人とも、ちょっといいかな」

 

 なぜだか気まずい雰囲気になってしまい、黙ったまま二階へ向かおうとする俺達を、ドルニエ先生が呼び止めた。

 

「先に、相談しておきたいことがあるのだが」

「はい、なんです? ドルニエ先生」

「俺には今すぐあの子達を見守るという重要な義務があるのですが」

「うむ。これから我々はここで生活するわけだが……我々にはアカデミーを建てるという大いなる目的がある」

「また俺の発言無視だよ……」

 

 ケントニス出発してから、加速度的に俺の立場が低くなっていってる気がするぞ……。

 

「普通に生活する分には問題ないが、おそらく私達三人も目的のために何かと手一杯になるだろう。となると、今が一番はしゃぎたい盛りのイングリドとヘルミーナの二人を、同時に面倒を見るのは厳しいと思うのだ」

「そうですね。作業中は特に掛かりっきりになると思いますし」

「俺は二人とお留守番で一向に構いませんが。いえ、むしろそうしたいです」

「そこで思うのだが、私達三人のうち二人が、一人ずつあの子達の面倒を見るというのはどうだろうか」

「うーん、そうですねぇ」

「…………」

 

 なんかもう、俺の意見って大概流されるよな。出会った当初はもうちょっと取り合ってくれてたのに。先生も冷たくなったものだ。

 ……って感傷に浸るのは後にしよう。良い機会だし、俺の考えもそろそろ言っておいた方がいいだろう。

 考え込むリリーを尻目に、いつものように流されては困るので、きちんと挙手をしてからドルニエ先生に話しかける。

 

「ドルニエ先生、その前に実は俺から提案したい事がありまして」

「うん? なんだい、アルト」

「またなんか変な事言い出すんじゃないでしょうね?」

 

 半目でこちらを見遣るリリーを無視して、さらりと口にする。

 

「――俺は、この家とは別の場所で暮らそうと思います」

 

 

 

 

 

 

 一瞬、何を言われたのか理解出来なかった。

 

「別の場所で……かね。ふむ」

 

 アルトの発言に、ドルニエ先生も戸惑いを隠せない様子だ。

 この家とは別の場所で暮らす。アルトはそう言った。

 それはつまり、あたし達とは一緒に暮らさないということ。

 ……え?

 なんで?

 どうして?

 

「ちょっとアルト、何をいきなり――」

「仮に皆でここで暮らすとした場合、この家は普通の住居よりは広めですが、それでも五人だと若干手狭だと思います。特に錬金術を行う一階は、二人分ともなると機材も相当増えますし。イングリドとヘルミーナの分も置くとなると調合するのにも一苦労でしょう」

 

 言葉の真意を確かめようとアルトに問い詰めるも、まったくこちらを見ようともしない。

 あたしを無視して、あくまでドルニエ先生に提案という形で喋り続ける。

 なんで? どうして、あたしを見ないのよ。

 

「それに二人で調合となると、色々と軋轢も生じるかと。一人が静かに集中して作業をこなす工程なのに、もう一人がトンカチで叩くような作業をすると問題でしょう。素材に関しても、錬金術士二人分の物を置く場所を確保するとなると一苦労です。同じ錬金術士といっても技術は異なりますし、思いも寄らぬ事故を引き起こすかもしれません」

 

 理路整然と語るアルトに、苛立ちが募っていく。言っている事は正しいし、その通りだと納得出来る。

 でも、どうしてそんな大事なことを一人で全部決めてしまうのか。なぜ一言も相談してくれなかったのか。

 彼の考えには、あたしという存在は一切入り込む余地がなかった。あたしの考えなんて、考慮する必要がないってこと?

 あんたのことは気に食わないし、最低だし、大嫌いだけど……でも錬金術士として、一緒に頑張っていく仲間だと思っていたのに。だけど、あんたからしたらあたしなんてただうるさいだけの邪魔な人間でしかないの? あたしの勘違い?

 怒っているはずなのに、なぜだか無性に悲しくなってきた。

 ……ねえ、あたしってそんなにあんたにとってどうでもいい人間だったの?

 

「――仕事面だけでなく、共同生活という部分だけでも色々と揉め事は起きると思います。本人達の意思はともかく、世間一般でいえば、それなりの年頃の男女が同じ家に住むわけですから。俺はともかく、彼女達には相当の負担になると思います。そうでなくとも、他人と一つ屋根の下で暮らすわけです。ただでさえ慣れない異国での初めての仕事なのですから、負わせる必要のない負担は除くべきでしょう」

「あ……」

 

 知らず、声がもれてしまった。

 分かってしまったのだ、彼の言葉の裏側が。

 努めて冷静に、強調しないように平然と口にしたその内容。

 あえて目立たないように、最初に言わなかった理由。

 さっさと喋り終えて、すぐに次の話題に移ってしまったけど。

 でも、だからこそ、気付いてしまった。

 なんて事はない。色々と言葉を重ねてはいるけれど、言いたい事は一つだけ。

 あたし達の迷惑になるから、自分は違う所に行く。

 そう言いたいだけなんだ。

 ……そうか。先生がアルトを信頼している理由が、なんとなく分かった。

 彼は他人の事を思い遣れる人間で、だからこそ相手が本当に嫌がる行為は決してしない。

 イングリドやヘルミーナに対してもそうだ。彼が本当にそういう行為を目的として、それを遂げることを第一に考えるなら、誰にも告げずその真意は秘密にしておくはずだ。だって、その方が目的を遂げるのに好都合なのだから。彼だったら、誰にも警戒心を抱かせない演技くらいは平然とこなすだろう。実際、彼の態度が豹変するまで、誰も彼の嗜好に気づかなかったのだから。

 あたしみたいな二人の保護者相手にそういう態度を取れば、警戒されるに決まっている。それなのに隠さず、あっさり正体を晒した。それはそれでどうかと思うし、日常的な変態行為に心休まる日はないけど――

 それでも、それは彼なりの優しさなのだろう。

 今回に関しても、あたし達の……というか、たぶん、あたしの。うん、あたしの事を考えて、そうと気づかれないようにしているのだろう。

 誰があんたに、そんな事を頼んだのよ。

 誰があんたに、いつ迷惑だなんて言ったのよ。

 誰があんたに、傍にいて欲しくないだなんて言ったのよ。

 誰があんたに……。

 ――本当、バカなやつ。

 でも今回ばかりは、彼の優しさは的外れだ。根本的に間違えている。

 

「同じ場所で錬金術を広めるより、二人でそれぞれ違う場所で活動した方がより広範囲に広まるでしょう。まだ住居を見つけたわけではないですが、違う場所といっても同じ王国内です。連絡を取るのに、それほど困りはしないでしょう」

 

 提案というより最早、言い包めるというような感じで前のめりに熱く語るアルトに、ドルニエ先生は困ったようにアゴに当てた手をさする。その視線が、ちらっとあたしの方に向けられた。

 ……ええ、分かってますドルニエ先生。

 あたしはドルニエ先生の意図を察して、さっそく行動に移す事にした。

 まだまだ言い足りないと言うように口を動かし続けるアルト。

 その頬に――

 

「ふんッ!」

 

 容赦なく、ビンタをくれてやった。

 

「ッ痛ぁあああーーー!? えっ、ちょ、何してくれてんのお前ッ! 今、そういう場面じゃないだろ!?」

 

 アルトはあたしの攻撃が予想外だったのか、打たれた頬に手を当ててオカマっぽい姿勢で抗議した。本気で引っぱたいてやったので、少し涙目になっている。

 あー、すっきりした。まったく、バカも休み休み言って欲しいものよね。

 あたしに行動するよう視線を向けた先生はといえば当然……あれ? ちょっと過激だったせいか、目を白黒させていた。でもちょっと言葉だけで遮るには、あたしの感情が吹っ切れちゃってたから仕方ないと思うのよね。うん、これは仕方ないことだ。アルトの自業自得。

 

「お前、ちょっと空気読もうぜ!?」

「空気読めてないのはあんたの方よアルト。一人で突っ走っちゃってるバカを止めるっていう、そういう場面よ今は」

「はあ?」

 

 やだ、こいつ。まだ分かってないの?

 

「アルトが言ってるのは、自分がいるせいで生じるデメリットに関してだけじゃない」

「…………」

 

 やっとこちらが言いたい事を察したのか、瞳から怒りの色が消える。まあ、その非難めいた視線からすると、全然納得出来ていないみたいだけど。

 そんな分からず屋に、あたしはきっぱりと言ってあげる。

 

「あんたが居る事に対するメリットはどこにいったのよ?」

「……そんなの」

「あるわよ。――ありますよね、先生。だからアルトを連れてきたんですよね?」

 

 ドルニエ先生に水を向けると、同意するように深く頷いてくれた。ほら、あたしの言うことの方が正しかったじゃない。

 

「その通りだよ、リリー。君達が気を悪くするといけないと思って言わなかったが、アルトには表立って動くより、むしろ、リリーのフォローをしてもらいたいんだ」

「フォロー、ですか?」

 

 オウム返しに問うアルトに、ドルニエ先生が椅子から立ち上がりながら頷く。

 

「私は色々と交渉へ出かけなければならない都合上、ここを留守にしがちになる。けれど、リリーはまだ錬金術士としてその道を歩み始めたばかりだ。子供達だってまだまだ手の掛かる年頃だ。彼女達だけで生活していくには、いささか不安が残る」

「いや大丈夫ですって。実際、こいつら問題なかったし」

「アルトが言っているのはケントニスでの生活の事だろう? ここでの生活は、さっきキミが自分で言ったように大きく異なるものとなる。仕事だけでなく、環境もまた新たなものとなるのだから、負担は増えるだろう」

「いや、そういうわけじゃ……」

 

 ごにょごにょと言い訳にならない事を口の中で呟くアルト。本当、往生際の悪いやつめ。

 

「錬金術士としてのキミは、既に一流といって差し支えない。私の手が届かない域にまで達している部分さえある。そんなアルトになら、彼女達を導けるだけの資格は十分にあると私は思っているよ」

 

 性格に関しては問題しかないけどね。

 まあ、今はドルニエ先生が説得してる場面だから黙って見ていよう。

 

「仕事面だけでなく、生活面に関してもそうだ。アルトは色々と、その年齢にしては驚くほどに処世術に長けている。貴族というのが何かの冗談にしか思えないほどにだ。自活能力に関しても、寮生活をするリリーへ何度となくアドバイスしていたことだし、語るまでもないだろう」

「そりゃ俺は二度目なんだから当然……」

「二度目?」

「あ、いや。なんでもない。じゃない、です。ま、まあ、たしかに多少は物を知ってますけど、それにしたってそこまで大げさに言うほどでは」

 

 事態の不利を悟ってか、アルトはますます困った顔で頭をかく。そうしていると、ちょっとは同年代の男の子っぽく見えるんだけどね。

 

「イングリドやヘルミーナは言うに及ばず、リリーもまだまだ色々と悩み多き年頃だ。間違いだって犯すかもしれない。けれど、そんな時に頼れる大人が傍に居るのと居ないのとでは、大きな違いがあるだろう?」

「リリーは俺とそう大差ない年齢だと思いますが……」

 

 ふん、普段は年増年増って言ってくれるくせに!

 

「それに、だ。私が居ない時、女の子達だけでは何かと危ないだろう? やはり、こういうのは男性がいないと」

 

 アルトがいたらいたらで、また別の心配事は増えるけど。

 という事実もまた伏せておく。

 実際、あたし達だけで住むのは不安なのだ。それこそ、無意識でアルトが一緒に住むものだと決め付けて安心したがるほどに。

 普段のあたしなら、それこそアルトが一緒に住む事自体、大反対してもおかしくはないのに。

 アルトはすっかり意気消沈した様子で、それでもまだ降伏しないのか恨みがましい視線であたしを横目に睨んできた。

 でも、そんな目で見つめてきても無駄よ、無駄。だって、あたしも先生と同じ意見なのだから。

 あたしがアルトを無視していると、彼は小さく舌打ちしてから再度ドルニエ先生に向き直った。

 

「た、確かにドルニエ先生の言う通り、メリットもあるかもしれません。ですが、それでデメリットが消えるわけではありません。それらはどうするのですか?」

 

 こればかりは誤魔化されないぞ、とアルトが眉根に力を入れて抗議する。

 確かに、アルトの言う通り。今回は正しいことを言っている。メリットはあっても、デメリットが消えるわけではない。

 でも、残念。その質問こそ、きっとドルニエ先生が待ち望んでいたものだ。そして、あたしが望んだものでもある。

 ドルニエ先生は会心の笑みを浮かべて答えた。

 

「それなら問題ない。その大半はアルトとリリーの二人できちんと話し合えば、解決出来ることだろう。まずは、二人で良く相談しなさい」

 

 まったくもって、先生の言う通りだ。

 頭が良くて何でも自分で器用にこなせちゃうから、分からないんだ。そんな簡単なことが。

 他者と協力するということ。

 今まで自分一人で済ませてきたから、彼の頭には最初から思い浮かばなかったのだろう。処世術の延長としてなら問題なくても、信頼関係として頼り頼られる間柄というのは苦手なのかもしれない。信用ではなく、信頼。用いるのではなく、頼る関係。

 アカデミーでの彼は分け隔てなく誰にでも好かれていたが、アルトが特定の個人と親しく付き合う友人というのはあたしが知る限り一人もいなかった。神童として周囲に見られてしまう以上、彼がどう思おうと、友人という対等の立場に立てないのだ。

 アルトには、本当の意味での友人というものがいないのかもしれない。それは親友と呼ぶべき存在。その家柄、才能、容姿、性格、皆が知らずに遠慮してしまう。それは本当に寂しい事で、悲しい事だ。あたしにだって、故郷にも、アカデミーにも、数は多くないけど親友と呼べる人達はいる。でも、彼にはいない。

 ……もしかしたら、彼に一番近い位置にいるのがあたしなのかもしれない。

 打算のない、想いによって繋がる関係。

 アルトがあたしを頼り、あたしがアルトを頼る。

 あたしがアルトを頼り、アルトがあたしを頼る。

 そんな持ちつ持たれつな関係。

 ……いや、あたしもアルトを信頼するというのに、未だに根強い抵抗がないわけじゃないけど。ていうか、すごいあるけど。本気で悩むけど。

 まあでも、一部分を除けば確かにこれほど頼り甲斐のある男性というのはいないのだ。少なくとも、あたしの人生で同年代では初めてだし。うん、そう、いや、そうじゃなく。男性じゃなくて、錬金術士として頼るわけだから。そう、だから、問題はないはず。ないよね? ないと思う。ないんじゃない? ないってば!

 

「お前はそれでいいのかよ?」

 

 最後の抵抗とばかりに、ついにあたしへと言葉に出して聞いてくるアルト。

 でも、残念でした。あたしの答えは最初から決まってます。

 

「良いも悪いもないわ。最初からアルトと一緒に住むことになるって思ってたんだから」

 

 そうでなければ刻々と迫る期限を考え、船旅の最中に一人で顔を赤くして身悶えるなんてことをしていない。ベッドの中で唐突に苦しむあたしを、イングリドとヘルミーナが病気かと心配したほどだ。

 悩む様子のないアルトにあたしだけ戸惑っているのかと腹が立って言わなかったけど、まさかこんなバカげた事を考えていたとは思わなかった。

 

「それと、一つだけ訂正。あたしはあんたの事を、ただの他人だなんて思っていないわ」

 

 だからといって、じゃあ何なのかと聞かれると困るのだけど。

 だって、あたし自身にだって分かっていないのだから。でも、アルト以外の他のアカデミーの男子生徒だったら、あたしはたぶん一緒に暮らすことに反対したと思う。それだけは確かだろう。

 あたしの返答を聞いて観念したのか、アルトは長いため息と共に両手を上に広げた。

 

「分かった。俺もここで一緒に暮らす」

「ん。分かればよろしい」

 

 うんざりとした表情でつぶやくアルトを見て、あたしは胸が空く思いで頷きを返した。

 まさか初日からこんなことになるなんて思ってもいなかったけど、これはこれで良かったのかもね。もっとも、アルトにとっては不本意でしょうけど、今回ばかりは譲るわけには行かない。ドルニエ先生だってそう思ったからこそ、協力してくれたんだろうし。

 今回の件でちょっとだけ、今までよりアルトのことも理解出来た気がする。その不器用な優しさを。

 でも、イングリドとヘルミーナへの対応を改める気は絶対にないけどね。それとこれとは別問題だ。変態には甘い対応なんて不要。あの子達の安全はあたしが守る。今まで通り、容赦無くビシバシいくから覚悟するように。

 勝者と敗者といった正反対の表情で対峙するあたし達の腕を、ドルニエ先生が手に取る。

 

「私は立場上、キミ達のように表立って動く役割ではない。だがだからこそ、二人が錬金術士として自由に動けるように、全力で裏側から支えよう。これから三人で、協力して、この地に錬金術を広めていこうじゃないか」

 

 あたしとアルトの手を重ね合わせ、その上にドルニエ先生の手が置かれる。

 

「――ここから始めよう。錬金術を広めるための物語を」

 

 ドルニエ先生が仰々しく言うと、アルトが深い感銘を受けたかのように静かに頷いた。

 アルトも、さっきまでの会話で何かしら思う所があったのかもしれない。

 

「……分かりました。つまり、イングリドやヘルミーナが着替える際にうっかりドアを開けてしまうとか、お風呂に入っている時に間違えて入ってしまうとか、トイレのドアを鍵が掛かってないのに気づかず開けてしまうとか……そういうハプニングは認められる――そういう事ですね?」

「全然違うわ、このド変態がぁぁぁぁあああーーーッッ!!」

 

 アルトと一緒に同じ家で住む事に決まったけど……大失敗だったかもしれない。

 早くもあたしは後悔しつつあった。



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古風なペンダント

「では二人には後程、相談してもらうとして……最初の話に戻ろう。イングリドとヘルミーナ、誰がどの子の面倒をみようか」

「ドルニエ先生、提案があります」

 

 俺が挙手と共に発言すると、リリーがじとーっと半目で睨んできた。いつの間に持ってきたのか、鋼の杖を持つ右手をグッと握り締め、無言でこちらを威圧してくる。要約すると、『また変なこと言うようなら今度は本気で殴る』だろう。

 ……ついに発言の無視どころか、言論の弾圧まで始まったよ。なんて、ひどい世の中だ。

 

「俺とリリーで二人の面倒はみますので、先生は基本的に自由に動いて頂いて結構ですよ」

「ちょっと、アルト! また、そんな勝手に!」

「いいのかね? しかし、それではキミ達の負担が大きくなるのだが」

 

 負担云々で言うのなら、今、俺の隣で膨れ上がる脅威の方が生命の危機を感じてなりません。

 待て、落ち着け! 今から理由を説明してやるから、一先ずソレを静かに地面へ置くんだ!

 

「俺とリリーが調合する傍ら作業を手伝わせれば彼女達の勉強にもなりますし、俺達も助手がいれば作業の負担が減って助かります。採取に関しても同様のことは言えますし、実際に体験してみて分かることも少なくないでしょう。魔物との戦闘や野営の準備など、経験を積ませたいことは山ほどあります。それだけでも十分彼女達の面倒を見る理由にはなりますし、それに何より先生の行く場所は、子どもを連れて行くのに相応しい場所とは言えないでしょう?」

「それは確かに……アルトの言う通りだね」

「どういうこと?」

 

 まともに話を聞く気になったのか、リリーが言葉の意味を尋ねてくる。

 

「今日みたいに、お城や貴族の屋敷に行く時にどうするのかって話だよ。その都度、交渉の邪魔にならないよう俺達に預けるなら、最初から俺達が世話した方が早いだろう?」

 

 原作内ではドルニエ先生仕事しろよ引きこもりじゃねえかと、ともすれば思われがちだが(実際に俺は思っていた)、現実には地元の名士やら富豪やらに渡りをつけたり何なりとやるべき事は数多い。

 錬金術を広めるには依頼をこなす必要があるが、ただ依頼が来るのを自然と待っているだけでは時間が掛かりすぎる。それに錬金術を広めるのも目的の一つだが、もう一つの目的であるアカデミーを建てるには知名度をあげるだけではダメだ。目的のために必要となる事柄は、数え上げたらキリが無いほどある。

 錬金術の腕を磨いて周囲への知名度を上げ、資金を蓄えるだけの俺達は、ドルニエ先生と比べてむしろ気楽な方なのだ。

 

「納得したか?」

「納得はしたんだけど……」

 

 だけど、なんだよ? 不満そうな顔しやがって。まさか、面倒を見るのが嫌だとでも言う気か?

 よろしいっ! ならばいっそ、二人とも俺が面倒をみてあげようじゃないか! そして、恋愛フラグを多数発生させて見事に同時攻略してみせる!!

 

「あんたがそういうまともな意見を言うのが信じられなくて。特に、あの子達が関わってる事なら、変じゃない方が変なのよ」

「ギクッ!」

「……気のせいかしら。今、『ギクッ!』て言わなかった?」

「言ってません!」

「今、素直に白状するなら殴らないであげるわ」

「本当だな!? 本当に殴らないな? 絶対だな! 約束したからなッ!」

「そこまで必死に言われると、有無を言わさず今殴っておきたくなるけど……ていうか、やっぱ何か隠してるんじゃないの!」

「しまった!!」

 

 リリーのくせに生意気な! この俺を誘導尋問にハメるとは!!

 だが、甘いぞ。そう簡単に俺が降伏すると思ったら大間違いだ。さっきはドルニエ先生に言い含められた形になってしまったが、相手がお前だけなら問題はない。

 

「これを機会に、二人と仲良くなれればと思っただけだよ」

 

 そう、ただそれだけの事だ。だから、俺は焦ることなくすんなりと答えを口にする。

 両手を広げ、白状します、とポージング。表情は、内緒事がバレて残念といった程度のものに固定。

 怪しまれることなんて何もない――そう、本音なんてバレるわけがないのだ。

 

「そしてあわよくば、あたしがいない隙に色々としよう、と?」

「やっ、やだなぁリリーさん! ぼ、僕がそんな事考えるわけないじゃないですかあ!」

 

 バカなっ!? なぜバレた!!

 必死に取り繕う俺に、リリーは頭に右手を遣ると頭痛を堪えるような仕草で長々と溜め息を吐いた。

 

「あんたがいかに演技しようと、その悪質な性癖知ってるから何も意味はないわよ?」

「なんてことだ!」

 

 残念! 俺の画策はここで終わってしまった!

 

「警告しておくわ。今後もし二人に対していかがわしい行為をしたら――ちょん切るわよ?」

 

 リリーがピースサインの人差し指と中指を、シャキンシャキンとハサミに見立てて動かす。

 その言動が意味する物は……。

 たらり、と冷や汗が不意にこめかみを伝う。

 ごくり、と生唾を飲み込む音がやけに大きく響く。

 眼前の光景からは、嫌な想像しか思い浮かばない。

 

「な、何を!?」

「うふっ」

 

 慈愛に満ちた笑みを浮かべて、指を動かし続けるリリー。

 黒い! 黒すぎる! 表情と発言のギャップが恐ろしすぎる!

 そして、この女はやると言ったら絶対やる。容赦無くやる。俺が泣き喚こうが、無慈悲にやるに違いない。見える、見えるぞ。高笑いしながら楽しそうにハサミを握るリリーの姿がっ!

 思わず、腰を引いた格好になって呻く。

 

「わ、分かった。仲良くなる程度で我慢する」

「あら、そう? 分かってくれて良かったわ」

 

 この女は分かっていない。自分がどれだけ男にとって残酷極まりない事を口にしたかを。

 同じ男性であるドルニエ先生を見遣ると、自分が対象でないにも関わらず、やっぱり強張った表情でちょっと腰を引いていた。分かる、分かります、その気持ち。この女マジ今のうちに処分しておいた方がいいと思います俺も。さっきといい今といい、本当に忌々しいやつだ。

 このまま言い様にやり込められたままでは、男としての沽券に関わる。

 一言くらい、やり返させてもらおうか。

 

「もっとも! 彼女達に教えるといったところで、実際には二人から教わる事になりそうなへっぽこ錬金術士もいるけどな。誰のこととは言わないが!」

「う、うるさい! いいのよ、これから挽回するんだから!」

「ほう、それはそれは! いつか、そんな日が来るのを楽しみにしているよ。い・つ・か!」

「ぐっ……! こいつ、ムカつく!!」

 

 それはお互い様だっつーの!

 ぐぬぬ、と唸り声を上げるリリーを見て少しばかり溜飲を下げる。

 

「ドルニエ先生、そういうわけなんで二人は俺達に任せてください」

「ふむ。二人がそう言うのなら、今回はお言葉に甘えさせてもらおう」

 

 となると問題なのは……どちらの面倒を見るか、だな。

 イングリドとはイマイチ良い関係が築けていないが、これを機に仲良くなるのもありだろう。アカデミーとは違い、四六時中一緒にいて面倒を見てあげれば、きっと俺の素晴らしさに気づくに違いない。

 ヘルミーナとはすでに結構仲良しなので、上手く相手をする自信がある。今までよりも一緒にいる時間が増えるから、より親密になれるのは間違いない。

 つまり、俺は二人のどちらになっても問題はない。

 

「リリー、どっちの面倒を見るかはお前が決めろ」

「え? いいの?」

「ああ。ちなみに、二人とも俺に任せるという素晴らしい手もあるぞ?」

「そうすると、あんた絶対働かないでしょうが」

「なにを馬鹿な。二人と過ごす時間より仕事を選ぶわけがないだろう?」

「馬鹿なのはあんたよ!!」

「で、どっちだ?」

 

 さっさと決めろ、と急かす。ちなみに俺が選ばなかった一番の理由は、二人に順位をつけるなんてとんでもない!――という理由だ。俺がどちらかを選んだ場合、もう一方の耳にその事実が入ったら、嫉妬されてしまうかもしれないからな。平等に愛を注ぐのは当然のことだ。

 これでリリーは選んだことにより、選ばなかった方に嫌われる。完璧だ。今回の勝負、俺の勝ちだ!!

 リリーのバカはこちらの思惑など想像もつかない様子で考え込んだ後、やおら顔を上げて言った。

 

「……そうね。じゃあ、あたしはイングリドの面倒をみようかしら」

「てことは、俺がヘルミーナ担当か」

「何よ、意外そうな顔して」

「イングリドは俺のことを苦手にしてるようだから、これを機会に少し仲良くなってもらえれば、とか言い出すかと思ったんだが」

「それも考えなかったわけじゃないわよ? でも、イングリドがあんたと行動するのを納得してくれるとは思えなくてね。ヘルミーナなら、あんたとうまく付き合っていけそうだし。あと訂正しておくけど、イングリドはあんたのこと苦手じゃなくて嫌ってるのよ」

「その訂正は余計だ!」

 

 事実を突きつけるだけが優しさだと思うなよ!?

 

「まあ、嫌うように差し向けたのはあたしだけど。変態とはいえ、好意持ってる相手に警戒するのは難しいだろうからね」

「お前と次に会うのは決闘場でだな!」

 

 ドッと血涙が流れた(気がする)。

 まさか、俺が地道に彼女達の好感度を上げようと努力する傍ら、それを無に帰そうとする人間がいるとは! 汚いな、さすが年増女汚い。彼女達に嫌われるように陰謀を巡らすとか、とても人間のすることとは思えない。そんな手段、常識のある人間ならば絶対に取らないだろう。

 

「それなのに、ヘルミーナはどうしてかあんたのこと気に入ってるみたいだし。優しい子達だから、自分に好意的に接してくる相手を、変態相手とはいえ嫌うのは難しいのかしらねぇ……。仲良くなる程度なら構わないけど、変態相手に警戒しなくなると厄介よね」

「俺の努力を厄介とか言われた! 二人に好かれようと日々精進しているのに!」

 

 あまりにも無慈悲な言葉に、ついに俺は両膝をついて屈服してしまう。

 あれ……おかしいな、なんだか目の前がぼやけて見えるよ。

 

「お前は結局どうしたいんだよ……二人が俺を憎むようにしたいのか? そうなのか!?」

「そ、そこまでは言ってないわよ。ただ、変態に対する警戒を怠らないようにして欲しいだけよ。二人ともまだ女の子としての自覚が足りないから、男がどういう生き物なのかっていうのを分かってないみたいだし」

 

 困ったものね、と苦笑いをするリリーを見ていると、ふつふつと心の奥底から衝動がこみ上げてきた。熱を伴った衝動はどん底だった気分を強引に天へと押し上げ、俺を新たな感情に燃え上がらせた。今この瞬間、この身は理性の束縛から解放され、本能によって行動する荒ぶる獣と化す!

 人はその感情をこう呼ぶ――怒り、と!!

 ……決して、逆ギレではない。

 

「変態……この俺が、変態……だとぉ?」

「何よ。その通りでしょ」

 

 反論があるなら言ってみなさいよ、とフフンと余裕ぶった笑みを浮かべて両腕を組んで胸を張るリリー。ええいっ、その無駄に膨らんだ脂肪を強調して見せ付けるな、うっとおしい! そういう仕種は、イングリドのような天使がしてこそだといつも言っているだろうが!

 人のことを散々こき下ろしやがって……いったい何様なんだお前は!

 激情の赴くまま、すっくと立ち上がり、リリーに人差し指を勢い良く突きつける。

 

「さも分かったかのように言うが、そういうお前は男と付き合ったことがあるんだろうな!?」

「えっ?」

 

 俺の一言に、きょとんと目を丸くするリリー。

 やはり、な。俺の予想した通りだ。

 

「『えっ』てなんだ、『えっ』て。まさかとは思うが、知ったかぶりをしてるんじゃないだろうな? 恋愛経験豊富どころか、一人も恋人がいたことがないとか言わないよな? そんな有様で男についてしたり顔で講釈ぶちかましたなんて、そんなことあるわけないよな?」

 

 問いかけつつも、俺はほぼ確信している――こいつは異性と付き合ったことが無い、と。

 なぜなら原作内では直接的に表現されたわけではないものの、イベントの内容から察するにこれまで深い関係になった相手はいないようだったからだ。この世界でもやっぱり錬金術バカなので恋愛なんてする時間はなく、そういう関係に至る相手はいるはずがない。アカデミーでも浮いた噂一つ無い……いや、厳密には一つあるにはあるがそれは勘違いだと声を大きくして断言できるので除外して良い。どうしてそんなふざけた結論に至るのか理解に苦しむ。

 と、ともかくだ。俺の推測通りに異性経験が無いというのなら、それはつまり、俺に対して偏見で迫害をしているということになるだろう。男と深く付き合った事もないやつが何を根拠に俺が変態だなどと語るのだ。いくら述べようと、それは実体験を伴わない机上の空論であるために説得力に欠ける。

 そう、俺が変態などと言うのはまったくの濡れ衣だ!

 ただちょっと……そう、ちょっと年下趣味なだけではないか!!

 …………。

 いや、よしんば俺が変態だとしてもだ。もし仮に、百歩譲って俺が変態だとしてもだ。

 だとしても! だからといって二人に無闇に警戒するよう働きかけるのは、あまりにも非道すぎる。ちょっとくらいは大目に見てくれても、罰は当たるまい。

 

「そ、それは……」

「そこまで滔々と偉そうに語るのだから、さぞやご立派な武勇伝をお持ちなんでしょうねえリリー先生?」

「う、ううっ……」

「どうなんだ、どうなんだリリーよ? 答えろ! さあ、さあ、さあ、さあっ!!」

 

 そ、それは……と後退るリリーを追い詰めて返答を促す。今頃その頭の中では、自分がどういう状況に置かれているのかを必死で整理しているのだろう。だが、すべては手遅れだ。お前は既に負けている。この勝負……俺の勝ちだッ!!

 まあ、俺も鬼ではない。素直に負けを認めるというのなら、許してやろう。二人に話しかけるな、とか言うつもりもない。俺は寛大なのだ。

 というか、変に迫害するとそれが原因で二人に嫌われそうなので、やりたくても出来ないとも言う。

 

「……と」

「と?」

「と、当然でしょう! いいいいっぱいあるわよ! 恋愛経験、超豊富よ!」

 

 己がビッチだと大声で宣言するリリー。疑われたのがそんなに腹に据えかねたのか、プルプルと怒りに身体を震わし、顔を真っ赤に染めている。そこまで激怒するということは、つまり、本当なのだろう。

 なるほど、そうか。つまり全ては、俺の思い違いか。

 俺は今まで身体を燃え上がらせた熱が、不自然なほど急速に冷めてくるのを感じた。

 

「――そうか。経験豊富、か」

 

 ……その程度のものだったのか、お前の錬金術への想いは。

 経験豊富と言えるほどに恋愛をしてきたのなら、異性に費やした時間は錬金術に使わなかったということだ。錬金術よりも恋愛を優先したという事実になる。これが他の人間なら気にならない。頑張れと応援してやる余裕すらあるだろう。錬金術士だって人間だ、恋をするのは当然だ。でも、リリーがそうだとは思わなかった。脇目も振らず、一途なまでに錬金術を追い求める姿勢に、敵わないと負けを認めてさえいたから。

 すっかり勘違いしていた。錬金術に掛けるこいつの熱意を。信念を。理想を。

 ……いや、何を俺は悔しがっているんだ? 別にリリーがどうあろうと俺には関係ないじゃないか。

 どうでもいいことだ。そう、どうでもいいことじゃないか。

 うまくいけば警戒させるのをやめるよう言い包められるかと考えたが、そうならなかったのは残念だ。ただ、それだけのことだ。それだけのことでしかない。その、はずだ。

 

「そ、そうよ。あたしは男の人と付き合ったことたくさんあるもの! それなら文句ないでしょ!?」

「なぜ異性経験が豊富だと自慢げに言うのかが、俺には理解できないな。付き合った数の分だけ、異性との付き合いに失敗して別れたということだろうに」

「べ、別に自慢なんかしてないし! ハイッ! と、とにかく、これでこの話題終了! 終わりなの!」

 

 こちらとしても年増女の話題になんぞ興味もないので、素直に同意しておく。

 ……いや待てよ。そうだ、それならそれで手はあるな。異性に興味があるのなら、それはそれで利用価値がある。

 俺は内心で、ほくそ笑む。

 薄れたとはいっても、原作の知識はまだ多少残っている。こいつが気になる異性と結ばれるよう、手伝ってやることは容易いだろう。

 無論、俺がそんな面倒なことをわざわざ理由も無しにするわけがない。当然、目的はある。

 こいつが異性と結ばれるよう取り計らう見返りに、俺がイングリドとヘルミーナとうまくいくように手を回してもらうのだ。そこまでいかずとも、今までのような警戒をやめさせるだけでも十分意味はある。

 

「……な、何よ。なんで黙ってるのよ」

 

 俺が完璧な未来計画を脳裏に描いていると、それをリリーが邪魔しようと声を掛けてきた。

 

「話題が終わったなら、喋る必要はないだろ」

「それは、そうだけど……」

 

 ふん、おかしなやつだ。まあ、年増女の考えていることなんて分からないし、分かりたいとも思わないが。

 一旦、計画は保留にしておく。リリーがそれらしい動きをしたら、さりげなく手助けしてやろう。そして上手くいった頃を見計らい、恩に着せて俺の提案を認めさせる。

 なんて完璧な計画なんだ。我ながら、あまりにも完璧すぎて恐ろしくなってくる。

 

「ちょっと、どこ行くの?」

 

 俺が階段へ向かおうとすると、またしてもリリーが行く手を遮って邪魔をしてきた。

 

「ヘルミーナに伝えてくるんだよ」

「つ、伝えるって何を!?」

 

 手早く返答を終えて階段へ向かう。が、すぐさまリリーに右腕を引っ掴まれて妨害された。

 ……どうして、さっきから俺の邪魔ばかりするんだ、こいつは。まさか、まださっき疑ったことを根に持ってるのか? なんて執念深いやつだ。

 

「さっき話しただろ」

「えっ! さっきのこと!? で、でも別に二人に話すことのほどでもないんじゃ……」

「は? 二人の面倒を誰が見るかというのを、二人に伝えないでどうするんだ?」

「……あ、あーあー! そっちね! そっちか! そうね、伝えないとよね!」

「他に何があるんだ?」

「ないない! 何もない! うん、そうと決まればあたしも伝えてこないと!」

 

 一気に駆け上がるようにリリーが二階へ走って行き、一階には呆然とした俺とドルニエ先生が残される。

 しばらくの間、すっかり蚊帳の外状態だったドルニエ先生に目を向ける。

 なぜか、落胆を隠せないといった様子で嘆息され、首を左右に振られた。

 意味分からんわ。

 

 

 

 

 

 

 あー、失敗した!

 でもアルトもアルトだ。あんな言い方されたら、嘘でもああ答えるしかないじゃないの。

 そりゃ、故郷では好きになった相手もいたし、自慢じゃないけど何回か告白されたこともある。

 でも片思いのまま終わったり、相手はすでに結婚してたり、好みの相手じゃなかったり、勉強の方が忙しかったり。色々と当時なりの事情があって、そういう関係には一度もなれなかったのだ。

 興味がないわけじゃない。あたしだって恋人という響きに憧れはあるし、幸せそうな恋人や夫婦を見ると、いいなぁって羨ましくもなる。

 でも、仕方ないじゃない。何より誰より優先したいっていう相手に、今まで縁が無かったんだもの。

 それに、アルトもアルトだ。あたしの返答に、まったく動じないのもどうかと思う。

 そんなに、あたしは遊んでいるように見えるのか。錬金術よりも恋愛を優先するような人間に見えるのか。

 錬金術も恋愛もどっちが上だとか良いとか悪いとか、そういう問題じゃない。

 アルトなら今のあたしがどっちを優先しているかくらい分かっていると思っていたのに。アカデミーにいる間、あたしがどれだけ一生懸命に錬金術を勉強し続けていたかを知らないわけでもないだろうに。一番分かってくれていてもいいはずなのに。

 それなのに、あっさり信じるってどういうわけ? 疑われたらそれはそれで困るけど、でもあの素っ気無い態度はあんまりすぎる。

 そりゃね、あの変態があたしに興味なんて全然無いのは分かってるけどさ。それにしたって、もうちょっと別の反応するのが普通じゃないの。同じ錬金術士なんだし。これから一緒に頑張っていく仲間なんだし。ちょっとくらいさ。錬金術より恋愛を優先するなんて、と怒るとか、呆れるとか。

 無表情で淡々と納得するなんて、全身であたしの事なんてどうでもいいって言っているようなものだ。ついさっきあたしのことを思い遣ってくれていると感じたばかりだけど、それもやっぱりあたしの勘違いだったのだろうか?

 ……でも、どうしよう? アルトはあたしの嘘を真に受けちゃったみたいだし、今後はそういう前提で行動してくるよね?

 いっ、いやいや! そういう風な対象としてあたしを見てるんじゃないから! 例え、あたしの事を勘違いしていても何も身の危険を感じる必要はない。そういう関係になる要素が皆無だから、その点については何も心配いらない。気をつけるとしたら、さっきみたいに皮肉を言われるかもしれないことだけど、身に覚えが無い嘘の出来語を責められても全然大丈夫……じゃないかも。見当違いのことでも、ああいう風に言われるとやっぱりキツイ。あんな風にこれから先ずっと皮肉られるかも、と思っただけでも気が重くなる。

 そして一番問題なのは、イングリドとヘルミーナに変な事を吹き込まれた場合だ。そのせいで二人があたしの事で変な勘違いをしたらと考えると、もう居ても立ってもいられなくなる。

 今からでも遅くない、やっぱり嘘だったって言うべき? でもそうしたら、ロクに経験も無いのに口出しするなとか、ここぞとばかりに言ってきそうだし……。

 ぐるぐると苛立ちばかりが胸中を駆け回り、思わず横に並んだアルトを睨みつけてしまう。

 

「な、なんだよ? 俺だってお前と買出しに行くのは不満なんだ。文句があるなら、ドルニエ先生に言えよ」

 

 あたしとアルトは今、二人で街中を連れ立って歩いている。

 というのも、そろそろお昼の時間になるし、何はともあれ腹ごしらえを済ませようと、昼食の材料を買い出しに来たからだ。

 初日くらいは外食もいいかなとちょっと思ったけど、あたしが二階に上がった時には既に、はしゃぎ疲れた二人が二階で寝てしまっていたのだから仕方ない。さっきあれあけ走り回ったから、疲れているんだろう。わざわざ、起こすのもなんだしね。

 

「俺の隣にいるのがイングリドかヘルミーナなら、俺も嬉しさのあまり天にも昇る気持ちになれるのに。年増女相手じゃ憂鬱になるだけだ。あー、だるい」

「誰が年増よ誰が。あたしだって変態と買出しに行くのなんてヤだったわよ」

「だったらお前も、あの時そう言えよ!」

「言えるわけないでしょ? 感情を抜きで言えば、先生の意見は正しかったんだから」

「ぐぬぅ……」

 

 つまり、こういう事だった。

 先生曰く、どうせ外出するのなら食材以外にも色々と足りないものを買ってくるといい。一人では多くても二人なら持てるだろう。街中を見て回るついでに、方々へ錬金術士として挨拶してきなさい。リリーが足りないものを調べていたようだし、アルトは街中を少し見て回っていたようだし、今後錬金術士として依頼を受けるのは二人だ。それなら、二人が一緒に挨拶にいく方がいいだろう。子供達が起きた時に事情を説明しないとだし、私は少し長旅の疲れが出たから家で休んで待っているとしよう。時間があれば、軽く掃除もしておくよ。だから二人で行ってきなさい。いいね、二人で、一緒に、行きなさい。

 ――と、そういう事だった。

 

「感情を抜きに考えれば確かに正しいな……なぜかやたらと押しが強いように感じたが」

「ええ、感情を抜きにすれば正しいわね……なんかやけに強引に押し切られた気もするけど」

 

 もしかして、気を遣われた?

 だとしたら、申し訳ない事をしてしまった。まだ初日だというのに、すでにこの有様。さっそくドルニエ先生に気を遣われているようでは、この先が思い遣られる。

 でも、これというのもアルトが全部悪いのだ。あんなこと女の子相手に堂々と聞いてくるとか、どうかしている。これだから変態は常識が通じなくて嫌なのだ。

 だいたい、アルトの方こそどうなのよ。アカデミーで人気があったのは知っているけど、そういう噂の一つもないし。いや、正確にはあったにしても、自称恋人さんだった。あとは妙な思い違いをしている根も葉もないデマとか。どうしてそんな噂になるのか、しかも発信源があたしの親友とか笑い話にもなりはしない。

 それとも、アカデミーには特定の相手がいないけど故郷には……いたらいたで、ちょっとショックよね。そんな素振りみせたこともないのに。それがあたしと大差ない年齢の女の人だったら、さらに……も、もちろん、彼の性癖を知っているからどんな恋人なのかなって興味的な意味で! まあ、イングリドやヘルミーナみたいな年頃の女の子だったら、それはそれで大問題だけど。

 

「本当に、感情を抜きにすれば正しいな」

「ええ、正しいわ。感情を抜きにすれば」

「…………」

「…………」

「「不満なのはあたしの方よ(俺の方だ)!!」」

 

 顔を突き合わせ、にらみ合う。

 ドルニエ先生はたぶん、少しでも仲良くなるため、二人で行動させようとしてくれたのだろう。

 でも無理! ごめんなさい、やっぱりアルトと仲良くするのは無理みたいです!

 以前みたいな優等生然とした人格者のアルトならともかく、今みたいな変態アルトと親しくなるのは無理がありすぎる。向こうだってそう思ってるに違いない。

 出会ってから数年経つけど、今や言い争いにならなかった日の方が少ない。それこそ、彼の本性を知るまでの日々くらいかもしれない。それくらい何かと衝突しているのだ。もちろん、アルトのせいで、だ。

 

「あら、何かしら。ひょっとして痴話喧嘩?」

「まあ、そうなの? 原因は男の浮気かしらね」

「モテそうな顔してるしねえ。女の方がもっとビシッと言ってやんないと」

 

 気付けば、いつの間にか遠巻きにヒソヒソと会話している人達がいた。噂話が好きそうな主婦の方々。あたしも噂話は嫌いじゃないけど、今に限ってはやめてほしい。

 アカデミーでは毎日のように口論していたから、言い合いに違和感がなかったけど、これからは控えよう。世間の目っていうのがあるのを忘れていた。

 

「ねえ、アルト」

「分かってる。街中で言い合いはやめよう。健康に悪い」

「そうね、知らないうちに変な噂を立てられそうだわ」

 

 アルトも周囲の不穏当な気配を感じ取ったらしく、あたしの意見に珍しく素直に同意した。

 まったく、いつもこうだとあたしも苦労しないのに。

 

「おや、見掛けない顔だね?」

 

 目立ってしまったせいか、一人の男性があたし達に声を掛けてきた。やや恰幅の良い、気の良いオジサンといった優しそうな雰囲気の人だ。

 

「はじめまして。私はアルト、こちらはリリーといいます。実はまだ、ザールブルグに引っ越して来たばかりなんです」

「ええと、そこに見える赤い屋根の家に住む事になったんですよ」

 

 一瞬で猫を被って態度を豹変させるアルトに気圧されながらも、あたしは我が家を指差した。

 そういえばこいつって、初対面の相手に名乗るときは家名を絶対に言わないのよね。貴族という家柄を抜きで対等に付き合いたいって無意識で思ってるのかしら。だとしたら可愛げがあるけど、余計なやっかみを受けたくないとか、単に面倒臭いからっていう理由の方がありそうだ。

 

「ほほう、そうかね! ワシはこの坂を上がった所で雑貨屋をやってるヨーゼフってもんだ。これから、よろしくな。ご近所さん同士、仲良くしようや」

「ええ、こちらこそよろしくお願いします。雑貨屋というと、食材とか日常品などを扱っているのですか?」

「ああ。大概の物はうちに揃っとるよ。うちに置いてないような変わった物は、二階のヴェルナーがやっとる雑貨屋で買うといい。あっちには色々と普通じゃない物が置いてあるからな」

「へー、そうなんですか」

 

 ふむふむ。普段はヨーゼフさんの所で、ちょっと変わった物を探す時はヴェルナーさんの所か。錬金術の素材には珍しい物も多いし、あとでそっちも寄ってみよう。どんな物があるのか、今から楽しみね。

 

「あたしとアルトは錬金術士で、これからこの街でお仕事をしようと思っているんです」

「はあ。錬金術士」

「んーと、ある物とある物を組み合わせたりして、色々と新しい物を作れる人達のことです」

 

 アルトが何やら物言いたそうな視線で見てくるけど無視だ無視。いいのよ、分かりやすければ。

 ヨーゼフさんはあたしの説明に納得してくれたのか、なるほどと首肯した。

 ほら、見なさい。きちんと分かってくれたじゃない。

 

「何か必要な物があったら、ぜひうちに寄ってくれよな。安くしておくよ」

「はいっ、ありがとうございます!」

「こちらこそ、何か必要なものがあったら遠慮なく言ってください。値段については、応相談ということで」

 

 おどけたように笑うアルトだけど、あれ絶対本音よね。技術の安売りはしない、ってアカデミーでは良く言ってたし。そうでもしないと、無理難題吹っかけてくる人達が多すぎたせいもあるんだろうけどさ。

 

「ところで、お嬢さんはホレタハレタには興味があるかね?」

「ホレタハレタ?」

「恋愛事に関してでしょうか?」

 

 アルトがあたしのフォローをすべく口を挟んでくる。

 し、知らなかったわけじゃないから。ちょっと、聞き慣れない言葉だったから戸惑っただけ。感謝なんてしないわよ。

 彼の言葉に、ヨーゼフさんがその通りと言わんばかりに大きく頷いた。

 

「うむ。見れば年頃のお嬢さんだから興味があるかと思ったんでな」

「え? ええと……」

 

 うっ! どうして今日に限って、そんな話題を振ってくるのよー!

 ついさっきアルトの前で、あたしは恋愛経験豊富だとか答えちゃったばかりなのに。興味がないとか言ったらアルトに疑われそうだし、だからといって興味があると答えたら、やっぱりそうなのかと呆れられそうだし。そもそも、どうしてあたしはあんな嘘ついてしまったのか。イングリドとヘルミーナに知られたら、どんなことになるか分からないし、アルトだってそういう女なんだという態度を取るだろうし、っていうか既にそうなんだと勘違いしてるだろうし、いや確かにそういう嘘ついたのはあたしだからそれは当然なのだけど、ああ、もうっ、うがーーーッ!!!

 

「何を悩む必要があるんです?」

 

 いっぱいいっぱいになって爆発しそうになるあたしを、アルトが怪訝そうな表情を浮かべて窺ってくる。その口調は、社交的な彼を装ったままなので丁寧なままだ。素を知ってるせいで違和感がすごい。って、それは今はどうでもいいわ。

 問題なのは、経験豊富って嘘を真に受けているせいで、今のアルトみたいな言動になるということ。

 でも、本当は違うんだってば!

 

「そりゃ、興味がないって言えば嘘になるけど……」

「――正直に、恋愛に興味津々です錬金術なんてどうでもいいって言えばいいだろ」

「なっ」

 

 言葉を失う。

 何にも思ってないような平坦な声音で口にするアルトだから、逆に気付けた。普段があまりにも分かりやすいから、その違和感が凄まじい。それに、装っていた口調がすっかり元に戻ってるし。

 怒ってる。理由は分からないけど、彼は静かに怒っている。

 どこが素っ気無い態度よ、全然違うじゃない。勘違いしていたあたしに腹が立つ。

 一目瞭然だ。さっきは話を途中で打ち切ってしまったし、あたし自身が動揺していたから気づけなかった。でも、分かった。これは、いつもみたいにからかい半分で口にしてるわけじゃない。本気で軽蔑したような冷たい態度だ。吐き捨てるように嫌悪した上での台詞だ。

 嘘でしょ、冗談じゃない、そんな勘違いしないで。

 

「勘違いしないでよ! 興味はあるけど、だからってそれが一番ってわけじゃないわ。あたしにとって一番大事なのは錬金術だもの!」

「ああ、そうかい。だが、一人二人ならともかく、経験豊富になれるくらいの時間的余裕はあったんだろ? それに費やした時間は、恋愛の方が錬金術よりも大事だったわけだ。一番大事ってのが聞いて呆れるね」

 

 反論するあたしを、アルトの言葉の刃が抉っていく。彼は冷ややかな笑みを浮かべ、冷徹な眼差しで見下してくる。身も心も凍てつかせる鋭い視線は、今までに一度だけ目にしたことがある。二年前にあの人達を言葉と実力で震え上がらせた態度で、アルトがあたしに対峙する。

 ……やめてよ、なんであたしのことをそんな目で見るのよ。あたしがあいつらと同じだとでも言いたいの? ただ貴族というだけで驕り昂って努力もせず、他者を見下すことで優越に浸ってるような連中と一緒だと? あんたが嫌う、あたしやあの子達も嫌う、あんな連中と一緒だと言うの?

 あの時、あたし達を守ってくれたあんたが、どうしてあたしのことをそういう目で見るのよ!

 

「――ごめん。嘘吐いた」

「だろうな。最初から正直にそう言えばいいんだ」

「そうじゃ……なくて。経験豊富、って……そっちが嘘、なの」

 

 考える間もなく、口にしていた。怖くて彼の顔を見られず、うつむいたまま告白する。

 だって、耐えられない。他の誰かに見下されるならいい。あたしはあたしだ。知らない人になんて言われようと耐えられる。反撃だってしてみせる。

 例え、あの時の連中に見下されても痛くないし、腹は立つけど相手するのもバカらしいから無視するだけだ。それに、あの時アルトは庇ってくれたけど、あたし自身は自分が優れているなんて思えるほど自惚れていないから。

 でも――アルトにだけは、こんな目で見られたくない。そんな風に思って欲しくない。

 あんたにだけは、あたしのことを対等に見て欲しい。このまま、勘違いされたままでいるなんて絶対に嫌だ。

 ごめんなさい。嘘を吐いてごめんなさい。

 どうしてそんなに怒っているのか、理由は分からないけど謝るから。普段はなんだかんだいって、態度でふざけて怒ってみせるだけのあんたが、そこまで感情を剥き出しにして怒るのだから、きっとあたしがそれだけのことをしてしまったのだと思うから。

 だから、許して。お願いだから、やめて。そんな目であたしのことを見ないで。

 

「は?」

 

 アルトの間の抜けた声が耳に入る。

 今、彼はどんな顔をしている? 怒ってる? それとも呆れてる?

 怖い。怖くて、顔を上げられない。

 彼にどう思われているのかを考えると、たったそれだけの動作が怖くてたまらない。

 心が悲鳴を上げて軋む。

 痛い、痛いと全身が震えてくる。

 

「だから、あっちが嘘。本当は付き合ったことなんてないの」

「何それ。じゃあ、本当は処女ってことか?」

「しょ……っ!?」

 

 な――なんてこと言うのよ、こいつはぁぁぁぁあああああッ!!!

 一瞬にして、今まで自分がどういう心情だったのかなんて綺麗さっぱり吹き飛んだあたしは、反射的に、顔を上げてしまった。

 アルトの呆気に取られたような表情が目に入る。

 ……良かった。

 バカなことを言うなって怒るよりも先に、気が抜けるように安堵してしまった。

 あたしの言った言葉を、まだ完全に信じてくれたわけじゃない。でも少なくとも、さっきみたいな態度は崩れている。

 アルトは返事を待つように、じっと黙してあたしを見つめてくる。

 ……うん、そうね。その態度は間違っていないわ。質問をした以上、相手の答えを待つのが普通だもの。

 でも、待って! その質問に重大な欠陥があるとは考えないの!?

 

「そ、それは……」

「それは?」

「そ、そう……よ」

 

 沈黙を決め込もうとする理性を必死に宥めすかし、嘘を吐いた罰にしてはあまりにも酷過ぎると思いながら口にする。

 ううっ……恥ずかしさのせいで、今にも憤死してしまいそう。あたしはこんな往来で、なんて台詞を口にしているんだろうか。

 顔全体だけじゃなく、首筋から耳に至るまでが真っ赤に染まっていくのを自覚する。あまりにも頭部に血が上って熱を持っているせいか、瞳が潤んで涙が浮かんでしまいそうだ。人が羞恥心で死ねるって、あたしは今初めて知ったわ。知りたくなんてなかったけど!

 ここまであたしに言わせたんだ、これでもまだ勘違いなんてしていたら承知しないわよ!?

 

「なんでまたそんな嘘を?」

 

 心底、不思議そうに聞いてくるアルトを見て、プツンとあたしの中の何かが切れる音がした。

 

「あ……」

 

 声が震える。

 臨界点突破。さっきまでの感情の昂りもあって、もう自分でも今、どんな感情でどんな表情を浮かべているのかが分からない。

 

「あんたのせいでしょ!!」

「はあ? なんで俺のせいだよ」

「あんたが経験もないのに、あたしが二人に色々と言うなって言うから!」

「言って無いだろ、そんなこと! ……まあ、そういう風に話を持っていこうとは思っていたけど」

「やっぱり思ってたんじゃないの! だったら、ああ言うしかないでしょ!」

「なんでだよ!? 素直に言えばいいだろ!」

「言ったら、あんたどうしてた!?」

「だから、経験も無しに二人に変な事を吹き込むなと」

「それがダメだって言ってるんでしょうが! 変態に警戒するなと言わないわけにはいかないでしょ!」

「誰が変態だ誰が!」

「あんた以外に誰がいるって言うのよ!?」

「年増の分際で他人を変態呼ばわりするな!」

「誰が年増よ誰が! この変態がっ!」

「お前以外に誰がいるって言うんだよ!?」

「はあ!?」

「なんだよ!?」

「「ぐっ、ぬっ、ぬぅぅぅぅううううううッッ!!」」

 

 ポンポンポンポン、売り言葉に買い言葉。次から次へと互いに罵声を浴びせ掛ける。

 アルトが大きく息を吸い込み、あたしがそれに対抗すべく思考を頭の中で巡らせる。

 ――と。

 不意にゴホンゴホンと、わざとらしい咳払いが耳に入った。

 

「あー……ちょっと、いいかね?」

「なに!? あたし、今ちょっと忙しいんだけど!」

「うるさいな! なんか用なら後にしてくれないか!?」

 

 アルトと二人で一時休戦して、声のした方向へ視線を向けると……

 

「いや。その、なんだ。ワシの不用意な一言が原因のようで、なんだかすまないと思うんだが」

 

 ひっじょーに肩身を狭くしたような態度で、申し訳なさそうな表情で、それでいて愉快さを隠せないような声音で、ヨーゼフさんが立っていた。

 あー……。そういえば、彼もいたんだっけ……。

 

「あまりに目立っているから、もう少し声を抑えた方がいいと思うぞ?」

「「ハッ!?」」

 

 慌てて周囲を見渡すと、即座に視線を逸らした人達が大勢。それとは別に、未だにこちらへ視線を向けたまま、何やら口々に囁き合う人達もそれなりに。チラチラと盗み見るようにして歩いていく人たちも幾人か。

 気付けば、あたし達を中心に、なぜだか人だかりのような輪が出来上がっていた。

 いや、なぜも何もない。ついさっき言い合いはやめようと決意したばかりなのに、この体たらく。この惨状は当然といえた。

 もう、どうしたらいいものかと泣きたくなってきた。

 

「……アルト」

「……なんだ」

 

 悄然として力なく呼びかけると、同じような様子でアルトが顔を右手で覆ったまま反応した。

 

「あたしは恋愛に、ちょっと興味があるだけ。いいなぁ、って思うだけ。今は、錬金術が一番大事。分かった?」

「分かった。納得した。理解した」

「うーむ……なんだか色々と事情があるみたいだけど、話はまとまったようだね。いやぁ、良かった良かった」

 

 どこが良いのよ!? こんな人目のある場所であたしが受けた辱めを、良かったなんて言えるわけないでしょ! 

 まるで親の敵を見るような視線でヨーゼフさんを睨みそうになるも、必死に自制する。耐えろ、耐えるんだ、あたし。話題を出したヨーゼフさんに責任はあるとは言えない。元はといえば嘘をついたあたしのせい、なんだけど……納得できるかぁっ!

 ううん、違う。ヨーゼフさんが悪いわけじゃなく、あたしのせいでもない。

 全部、アルトのせいだ。あいつが最初に変なこと言い出さなければ、あたしが嘘を吐く必要ももなかったのだ。だからアルトのせいだ! バカアルトが悪いのよ! どうしてくれるのよ、バカ! 本当もう、これだから常識の通じない変態は嫌いよ!

 周囲に集まった野次馬も、こちらが大人しくなったのを悟ってか、三々五々に帰っていった……ひそひそと内緒話をしながら。

 は、ははは……あ、あたしの一人前の錬金術士としての道が遠のいていくー。

 

「お嬢さん、これはワシからプレゼントだ。迷惑を掛けた詫びも兼ねてね。こんなもので良かったら、もらってくれ」

「これは……?」

 

 ヨーゼフさんから唐突に差し出されたのは、古風なペンダントだった。見るからに、年代物というのが分かる。傷ついた部分もなく、きっと大切に扱われてきたのだろう。物凄く高価な品といったわけではなさそうだけど、なんだかとても心惹かれるようなペンダントだ。

 

「これは、恋が叶うっていうペンダントだ。ワシも、もう何十年も前にカミさんからこれをもらったんだよ」

「そんな……悪いですよ、そんな大切な物を」

 

 いくら詫びといっても、これはさすがに受け取れない。何十年も前に贈られた物をずっと持っていたなら、それはヨーゼフさんにとって、とても大事な物に違いないのだから。奥さんからの思いのこもった品物を、あたしなんかが気軽に受け取るわけにはいかない。

 

「いいって、いいって。これはお嬢さんみたいな若い娘が持っていてこそ、意味がある物だよ。ワシはもうカミさんがいるでな。ステキな人がいるなら、その相手にあげるといい」

「でも……」

 

 どうしよう、とアルトに視線を移す。

 アルトは一度化けの皮が剥がれてしまったせいか、どこか落ち着きの無い様子でこちらを見返した。

 演技を続けるべきか、開き直って正体を晒すか悩んでいるのだろう。ご愁傷様。でもその程度、あたしの受けた被害に比べたら全然マシよ! 本当もう、どう責任を取ってくれるというの!? これが原因でお嫁にいけなくなったら、どうしてくれるんだ。

 

「いいんじゃないか? もらっておけば。せっかく、くれるって言うんだからさ」

「そ、そう? それじゃ、その、戴いておきますヨーゼフさん。こんな素敵な物を、ありがとうございます!」

 

 アルトの意見に後押しされ、ヨーゼフさんからペンダントを慎重に受け取る。いきなり落としたりしたら、さすがに相手に申し訳ない。

 恐々受け取るあたしを見ていたアルトが、何やら言いたそうな顔でこちらを見る。

 

「俺はどうせもらえるなら、銀貨五百枚の方がいいけどな」

「アルト! 何いきなり変なこと言ってんのよ!」

 

 どうやら素の態度に戻すことにしたみたいだけど、いくらなんでも失礼すぎる。

 第一、迷惑を掛けた御礼になんて言われても、さすがにお金は受け取れない。どこからそんな具体的な金額が出たのかは知らないけど、とアルトを咎める。

 

「えっ! そ、そうかい? は、ははは……」

 

 ヨーゼフさんがビクッと頬を引きつらせて空笑いをする。

 ……まさかとは思うけど、断っていたら本気でお金を出すつもりだったんだろうか? いくらなんでもそれはない、と思いたい。

 

「ステキな人に、かぁ……」

 

 掌に乗せた恋が叶うペンダントを見ていると、なんだかその気になってしまいそうだ。

 今はまだそんな相手はいないけど、それでもいつかは出来たらいいなって思う。

 それは、どんな人なんだろう?

 あたしが好きになる男性。錬金術と同じくらい大切だと思えるような相手。

 今まで、あたしがいいなって思った相手には共通点がほとんどない。きっと、好みのタイプっていうのがないんだと思う。

 きっと、好きになったら、その相手があたしのタイプっていうことなんだろう。

 

「そのまま墓まで持っていくに、一シグザール銀貨」

「失礼な! いつか渡すわよ! ……たぶん」

 

 でも、変態だけは絶対お断り! そんな未来は金輪際、ありえないと言い切れる!!

 今は渡す相手がいないけど、あたしにだって、きっといつかは現れるはず! ……現れる、よね? だ、大丈夫よね、きっと。今は錬金術が大事だけど、生涯ずっと一人で錬金術と結婚するなんて言うつもりはないんだし。

 その時が来たら、思いと共に相手に渡すから。

 だから、絶対に恋を叶えてよね! どうか、お願いします!

 ペンダントを手に切実な願いを込めていると、ヨーゼフさんが怪訝そうな顔でこちらを見た。

 

「二人は恋人同士なのかと思ったのだが……どうやら、まだそうじゃないのかな?」

「「……は?」」

 

 おかしい。あたしの耳が急に悪くなったようだ。

 恋人同士、なんて戯言が聞こえた気がするんだけど……。

 恋人同士? 誰と、誰が?

 まさかとは思うけど……いやいや、そんなバカな。何かの聞き間違いに決まっている。

 あたしは今のが聞き間違いだと、ヨーゼフさんに否定してもらうことにする。

 

「今、なんて? 恋人同士、とか聞こえたような気が……?」

「違うのかい? お嬢さんと彼、お似合いだと思うよ」

「全っ然、違います! 冗談でしょ、こんなバカで変態なやつと恋人なわけじゃないですか! 寒気がします!」

「恋人とかありえなさすぎ! 誰がこんな年増の売れ残りなんぞと! 想像しただけで吐き気がするわッ!」

 

 悲鳴と共に、アルトと顔をつき合わせて睨み合う。

 でも、言い合いはしない。そんなことをすれば、さっきみたいな事態に陥る。バカで変態のアルトといえども、その程度には知恵が働いたようだ。

 

「そ、そうなのかい? そういう風にしていると、とても仲が良さそうに見えるんだが」

「おいおい、冗談だろ? どこをどう見れば、仲が良さそうになんて見えるんだ?」

「そうです! どこからどうみても、険悪な関係じゃないですか! 見る目がなさすぎます!」

 

 心外だ、と息も荒く二人でヨーゼフさんに詰め寄る。

 ヨーゼフさんはこちらの心境を知ってか知らずか、のほほんとした態度を崩さず笑った。

 

「喧嘩するほど仲が良いって言うだろ? ワシとカミさんも、昔は良く喧嘩したもんだよ」

 

 在りし日の思い出に浸ってか、遠い目をして語るヨーゼフさん。

 ……いやいや。なにその『うんうん、分かる分かるよー』っていう表情は。

 違うから! 全然、違いますから! 一から百まで全部、間違えてますから!

 

「おっと、いけない。もうこんな時間か。それじゃあな、二人とも」

「ちょっ、勘違いしたまま行くなよ!?」

「分かってる、分かってる。まだ、そういう関係にはなってないんだよね?」

 

 追いすがるアルトに対して、ぽんぽんと彼の左肩を叩いて微笑むヨーゼフさん。

 ああ……いたいた、アカデミーにもいたわ、こういう人間。物凄い既視感を覚えるわ。あたしが何を言っても聞き入れてくれず、『本当は好きなんでしょ。分かってる。だから、そんな必死に否定しなくていいってば』とか笑顔で言う人間――あたしの親友のことよ!

 他の事に関しては、どんな馬鹿げたことにでも理解を示してくれるほどに懐が広く鷹揚な人格者なのに、事その一点に関してだけは分かってくれないという人物。皆に半ばイジメ状態にあっていたあたしに対してさえ、優しく友人として接し続けてくれた掛け替えの無い親友。

 ――でも、『うんうん、分かる分かるよー』といった微笑みと共に、未だにずっと誤解をし続けたままの女性。当然、今回の海外行きの件を話した時も、『二人の仲が進展したら教えてよね。上手くいくように祈ってるから』とか、まるで見当違いな応援をしてくれやがりました。

 こういうタイプの人間に対しては何を言っても無駄なのだ。せめて、これ以上は誤解を広めないようにするしかない。

 アルトもそれを理解したのか、空ろな視線であたしに同意を求めてくる。あたしは、小さく頷いた。

 あたし達が否定すれば否定しただけ、向こうは勝手に誤解してしまう。誤解を解くことが出来ない以上、その話題に触れないように大人しくしていよう。

 悲壮な決意が、あたしとアルトの間に結ばれた気がした。

 

「それじゃ、また。カミさんがお昼作って待ってるでな」

「あのっ、ペンダントありがとうございました!」

「あとで買い物に行くから、その時は安くしてくれよ!」

 

 アルトと二人で、ヨーゼフさんの後ろ姿を見送る。

 やがて雑踏に紛れて彼の姿が見えなくなった途端、どっと押し寄せてきた疲労感に肩を落とす。なんだかもう、今日一日分は疲れた気がする。まだ先生に頼まれたお使いは全然こなせてないけど、一度どこかで一休みしたい気分だ。

 でもその前に、と。

 せっかく素敵なペンダントをもらったのだし、ちょっとつけてみようかな。普段は動き回ることも多いし、調合もあるから無理だけど、今日くらいは身に付けてあげないとペンダントが可哀想だしね。

 

「……う、あれ? ここがこうなって、ええと、あれ?」

「何やってんだ?」

「見ての通りよ……う、なんでつけられないんだろ」

 

 あたしが首の後ろに両手を回し、留め金を相手に四苦八苦していると、アルトがじれったそうに右足を小刻みに踏み鳴らしてきた。早くしろよ、と言外に態度で匂わせてくる。

 ……な、何よ。しょうがないでしょ、こういうの普段つけないんだから。慣れてないのよ!

 焦りで余計に指先の動きが怪しくなり、手間取る。ともすれば落としてしまいそうになって、さらに戸惑う。

 時間が経つにつれて、段々とアルトの足踏みが早くなっていく。

 あーっ、もう! そう急かさないでよ、余計につけにくくなるじゃないの!

 

「はぁ~……ったく、貸してみろ。つけてやるから」

「えっ?」

 

 聞き違いかと思って、目を瞬かせる。

 アルトは右手をあたしに差し出し、ペンダントを寄越せと重ねて言ってきた。

 

「いいから、渡せって。ほら」

「あ……うん」

 

 その強引な態度に、ペンダントを言われるがままに手渡す。

 すると、アルトがペンダントの留め金をはずし、両手を広げてあたしの首に――

 

「って、ちょっ、ちょちょ、ちょっと待って!」

「は? 何を待てって?」

「な、何をするつもりなの?」

「だから、ペンダントをつけるんだろ?」

「そ、それは分かってるけど……」

「? いいから、ちょっと頭下げてろ。つけにくい」

「~~っ!!」

 

 いいって何がいいのよ!? 頭下げろって何!? つけにくいって何よ!?

 ガチガチに固まるあたしをよそに、正面からあたしの首に抱きつくように両手を回すアルト……って違う違う抱きつくわけないでしょ! ように、じゃないって! 何考えてるのあたしは! これはただ、見るに見かねて手伝ってくれてるだけなんだから!

 なすがままされるがまま、これじゃまるで子どもがされるみたいだと羞恥に顔を赤く染めつつ、予想以上に近いアルトの顔に心臓が激しく脈打つ。違う、違うの。これはアルトが相手だからではなく、単純に異性の顔がこれほど近寄ったことなんてないから、だからつい動揺しちゃってるだけなの! サラサラの金髪が羨ましいなーとか、男のクセに睫毛長いなーとか、こうして黙っていれば綺麗な顔なのになーとか、そんなことは思ってない! 全然、思ってないし、意識なんて絶対してないんだから! だから、ええいっ、そんな妙に忙しく動くな心臓! 鼓動がアルトに聞かれたらどうするのよ! もういっそ、止まれ!

 

「ほい、付け終わったぞ」

「えっ? もう……?」

 

 あっさり身を離したアルトに、なぜだか惜しいような気がして尋ねる。時間にして数秒だったはずなのに、なんだかやけに長かったような、もっと短かったような。そんな不思議な感覚に襲われる。

 ――って、もう、ってなんだもうって。我ながら意味不明なことを言うな。その言い方ではまるで、あたしがもっとそうしていたかったかのように聞こえてしまうじゃないの。惜しいも何もない。何を考えているんだ、あたしは。

 そうよ、きっと動揺していたからおかしなことを口走ったり考えてしまったんだ、うん、きっとそうに違いない。

 冷静になろう。落ち着け落ち着け、平常心平常心、と自らに言い聞かせていると、不意に一つの疑問が思い浮かんできた。

 

「なんか妙に手馴れてなかった?」

「あー……まあ、姉さん達に良く頼まれたからな」

「お姉さん!? あんた一人っ子じゃなかったの?」

 

 予想だにしない真実を暴露され、動揺に声が裏返る。

 この変態にお姉さんがいたなんて……信じられない。いったいどういう風に、お姉さんに接しているんだろうか。まさか家族相手に、あたしにするみたいに横暴な態度を取っているとは思えないし、それ以前にお母さんだっているわけだし……だからといって、筋金入りの変態のこいつがまともな対応をするとも思えない。

 普段、一人で飄々としているから考えた事が無かったけど、当然、アルトにも家族がいるのよね。この変態が家族にどう扱われているのか……知りたいような、知りたくないような。

 でも、兄弟がいると聞いてどこか納得してしまうあたしもいる。

 

「隠していたわけじゃないんだが……言ってなかったか?」

「初めて知ったわ。でも、そうね。あんたって意外と面倒見いいし、一人っ子よりも兄弟がいる方が納得できるかも」

 

 ちなみにあたしの家族に関しては、アルトは既に知っている。というか、あたしから話してしまっていた。他にも色々と故郷の話を……あー、思い返すと色々と話すべきじゃなかったことまで暴露してしまっていた気がする! あの時は心身ともに弱ってしまっていたし、アルトの本性を知る前だったし!

 こ、これ以上はあたしの精神衛生上良くないから、思い出さずにいよう。

 そうだ、丁度良い機会だし、アルトの家族のことを教えてもらおう。アルトがあたしのことを知っているのに、あたしがアルトのことを知らないのは不平等だし。噂話程度の情報しか知らないのは、なんだか気分的に面白くない。

 

「他には? お姉さん一人だけ?」

「いや、兄も一人いるぞ。あと」

 

 む、とアルトが言葉に詰まる。

 家族構成を説明するだけなのに、何か言い辛いことでもあるのだろうか?

 

「妹……のような存在が一人だな」

「へー、四人兄弟かぁ。結構、多いわね」

「ま、まあ、な」

 

 ……妹のような、ね。

 引っ掛かりを覚えるものの、それ以上は言及はせずに、当たり障りの無い感想を言うに止めておく。

 妙だとは思うし、正直気になるけど……でも、好奇心だけで家族間の事情に首を突っ込むのもね。

 つい忘れがちだけど、こいつも貴族だし、やっぱそういう家柄って色々あるみたいじゃない? 世継ぎ問題とか領地問題とか、噂で耳にするだけでも十分すぎるほど。貴族という家柄は、色々と庶民には推し量れない複雑な問題があるみたいだし。

 そう考えると繊細な問題かもしれないし、今のあたしに出来る事は当面口を出すのは差し控え、後日、何らかの相談でもされた時のために気に留めておく事くらいかな。アルトがそう簡単にあたしを頼ってくれるとは思えないけど、これから先そういった機会もあるかもしれないしね。

 

「ね、ねえ? どう? 似合ってる?」

 

 なんか微妙な空気になってしまったので、それを誤魔化すように、強引に明るさを取り繕ってペンダントを披露する。

 ……しまった。アルトにこんなことを聞けば、どう答えるかなんて分かりきっていたのに。

 もっと他の話題にすれば良かった、と後悔するも時既に遅し。

 どうせ、皮肉めいた口調で散々に扱き下ろしてくるんでしょうけど。

 けれど、あたしの予想に反して、アルトは爽やかな笑顔を浮かべて頷いた。

 まさか、とは思うけど……褒めて、くれたり?

 

「ああ、超似合ってるぜ! 時代を感じさせる古臭さが、お前の年齢とぴったりだな!」

「それ褒めてないでしょう!?」

 

 ちょっとでも期待してしまったあたしがバカでした!

 やっぱり、変態は変態だ。余計な気なんて回すんじゃなかったわ!



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『金の麦』亭

 ――バ カ か 俺 は !?

 雑貨屋の店主ヨーゼフさんと別れた後、俺のテンションは急降下していた。

 元々、リリーと二人での外出という時点で低かったが、先程とある出来事があったせいでさらに沈みまくっている。

 職人通り中に響き渡る、数多の作業工程によって奏でられるまとまりのない音色が、強引に心を躍らせようとしてくるが、今の俺には無意味だ。絶賛轟沈中の俺を動かすには、イングリドやヘルミーナのような天使達の笑顔なくしては不可能だろう。

 俺が今のような状態になっている原因は、自らのあまりにもあんまりすぎるリリーへの態度だ。

 いくらなんでも、あれはない。なさすぎる。

 落ち着いて我が身を振り返ってみれば、己の愚行に嫌でも気付かされる。

 今更、後悔しても仕方がないと分かってはいるが、本当なぜあんなことをしてしまったのか。あの時の俺は普通じゃなかったとしか思えない。

 リリーが恋愛経験超豊富だと嘘を吐いていた。

 それを事実だと騙されていた俺は、期待外れだと思って落胆した。

 そこまではいい。確かに年増女は俺にとって目障りな存在に違いないが、ここ数年は何かと係わり合いのあった相手だったからな。そのくらいの感情を抱いても不思議じゃないさ。俺が色々と面倒を見てやったのにその程度かよ、ってな。

 ……だけどな。どこをどう間違えれば、そこから子ども染みた八つ当たりなんて行為に発展する!? どうして俺が怒る必要がある!?

 あの場面ではむしろ、適度にからかいつつ、自らの利益となるように誘導するのが普段の俺の対応だろう。少なくとも、最初に会話した段階ではそう考えていたはずだ。

 もしくは、お前のことなんて興味ない、の一言で済ませれば良いだけの話だ。

 ――だというのに。何をトチ狂って俺は逆ギレなんてしているんだ!?

 大人気ないにも程があるだろう。正当な理由があるならまだしも、理不尽な理由で相手を恫喝してどうする。それは例え、常日頃から嫌っている相手だろうと、してはならない行為だろう。

 前世から数えれば、三十八年。この世界に生れ落ちてから数えても、十八年。そんな良い年した男がやる態度じゃないだろう、あれは……。人並み以上には精神年齢の高さを自負していたつもりだったが、先程の失態を演じてからはその自信も消え失せた。

 愚かだ。愚か過ぎる。バカだ。バカすぎる。アホだ。アホすぎる。最低だ。ああ、最低だよ俺は!!

 謝って済むことならば、今すぐにでもそうしてしまいたい。今回ばかりは、俺が全面的に悪い。リリーが嘘を吐いたのが元々の原因であっても、俺が散々な体たらくをさらしてしまったのは事実だ。罵られようが、全力で殴られようが、当然の罰だと甘受しよう。

 しかし、だ。そういうわけにも、いかないのだ。

 なぜなら、話は既に終わっているからだ。今更、話を蒸し返せば、せっかくまとまった話が台無しになる。こちらの謝罪を受け入れてもらおうにも、相手がリリーではまともな会話にならず、口論となってしまうのは目に見えている。そうやって騒ぎになれば、また噂話好きなオバサン連中に良い餌を与える結果になってしまうだろう。それだけは何としても避けたい。

 穏便に謝罪を済ませられるような相手であれば話は早いのだが、相手はあのリリーだ。俺と相性が悪いにも程がある。

 だからといって、このまま放置するというのは論外だろう。信条的な問題ではなく、心情的な問題によって。

 いくら相手がリリーだったとはいえ、さすがにあれは俺といえども罪悪感を抱かざるを得ない。今こうして何気なく二人で歩いているときでさえ、俺は妙にリリーの様子をチラチラと窺ってしまっている。こんな風に気後れしたままでは、今後の展開に重大な悪影響を及ぼしてしまうだろう。俺とリリーのイングリドとヘルミーナを巡る争いは、熾烈を極める。そんな相手に一歩引くなど冗談ではない。第一、リリーに遠慮とかありえなさすぎる。

 不幸中の幸い、とでもいうべきか。リリーはまだ、先程しでかした俺のバカな行動に思い至っていないようだ。向こうが話を打ち切るようにして終わらせたことから考えて、どうやらリリーはもう終わった話だと自分の中で結論付けているのかもしれない。

 けれど、安心は出来ない。何かの拍子に落ち着いて考えられでもしたら、すぐに俺の不自然な態度に気付くはずだ。同時に、それが尋常ならざる愚かな行為だと気付くだろう。

 そうなったら、おしまいだ。あの年増女はここぞとばかりに責め立ててくるに違いない。何せ、俺の自由にさせないため、ただそれだけのためにド阿呆な嘘を吐くようなバカ女だ。鬼の首を取ったかのような顔で高笑いするリリーが目に浮かぶ。

 黙って頷くしかない俺をここぞとばかりに痛罵した挙句、当然のような顔でイングリドとヘルミーナとの会話を禁じてくるのだろう。どこまで無慈悲なのだ、この女は。血も涙も無いとは、こいつのような人間の事を言うに違いない。

 そんな救いの無い真っ暗な未来だけは、絶対に避けなければならない!

 謝罪は不可能。現状維持も却下。となれば、第三の手段を用いるまでだ。

 そのための手段は、既に思い付いている。

 相手に悪いことをしてしまったから、と罪悪感を抱く。

 ならば相手に良いことをすれば、それを打ち消す事が出来るのではなかろうか。

 所詮、問題となるのは俺の気持ちだ。そう難しいことではないだろう。

 その内容についても、心当たりはある。図らずも、リリー自身が口にしていた。――恋愛に興味がある、と。

 錬金術や日々の生活に関して助言することは、ドルニエ先生から頼まれているし、先達としての義務でもあるし、今更だ。これからは同じ場所で生活するのだから、最早他人事でもなんでもないし。

 だが、彼女の恋愛がうまくいように取り計らうというのは、確実にリリー個人にとって良いことだろう。異性絡みの問題を手助けするのは義務ではなく、俺の純粋な善意からなる行動に他ならない……まあ、本心は別にあるわけだが。

 嘘を吐かれた際に思いついた考えの流用だが、この作戦は俺にとってメリットが大きい。リリーに恋人が出来れば、俺の罪悪感はなくなるし、邪魔者の厄介払いが出来るし、恩に着せられればイングリドとヘルミーナと仲良くなれるし。

 恋のキューピッドなんて俺の柄じゃないが、その性能は折り紙つきだ。なぜなら、俺は原作でのイベント知識という反則技を持っている。実際にその通りのことが起きるかは分からないが、それでも基となった世界である以上、全く異なっているという可能性は少ないだろう。薄れたとはいえ莫大な価値のあるその知識を生かせば、錬金術士として活動する片手間、リリーを支援することなど容易い。もっとも、原作外の人物に好意を寄せられてはその限りではない。その時はその時で、また別の案を考えよう。

 今回の作戦で要となるのは、秘匿性。

 俺がリリーの恋愛成就のために動いていることを、彼女自身に知られてはならない。

 もし、リリーにバレてしまったら、あいつのことだから確実に余計な勘繰りをしてくる。そうなってしまったら、作戦失敗だ。二度と同じようなことは出来なくなってしまうだろう。あくまで、慎重に影からこっそ~りと支援することに意味がある。

 原作でリリーと恋愛要素が絡むイベントがあった人物は……。

 えーと……冒険者『テオ』、冒険者『ゲルハルト』、王室騎士団『ウルリッヒ』、雑貨屋『ヴェルナー』の四人……だったか? もう一人くらい男がいたような気もするが……あ、いや、神父『クルト』は既婚者だし、違うか。

 彼ら四人の中の誰かに惚れてもらった方がこちらとしては好都合なので、機会があれば積極的に手を回してみてもいいだろう。

 今、考えられるのはこのくらいか。

 

 

「どうかしたのか? やけに静かだな、お前」

「えっ? ああ……」

 

 心境の整理に一段落ついた俺は、足を止め、振り返って同行者に尋ねた。俺が未だかつてないほどの長考をする原因となったリリーは、不気味なほどに静かだった。

 ペンダントをつけてやった後は黙って俺の後ろをついてきて、何も文句も無しに歩き続けるだけ。いつもみたいに無駄にキャンキャンと噛み付かれるのもウザイが、こうもひたすら沈黙を続けられるのも、それはそれで居心地が悪い。

 

 具合でも悪くしたのかと顔色を窺うと、リリーは手を振りながら苦笑した。

 

「なんでもないわ。ちょっと騒ぎ疲れただけよ」

 

 俺のせいだって言いたいのか、コノヤロウ。

 ……まあ、いい。確かに俺が悪かったのは事実だ。俺の失態のせいでお前に負担を掛けた、それは認めよう。

 だが、しかし!

 だからといって、俺がお前に遠慮するかと思ったら大違いだぞ? それに関しては、既に俺の中では解決済みだ。お前の恋愛が叶うように応援してやると決めた今の俺には、引け目なんて全くないのだ。気を遣ってやるわけがない。

 

「もう少し我慢しろ。酒場に着いたら、少し休めるから」

「……な、何よ。あんたが気を遣ってくれるなんて、珍しいじゃない」

 

 気を遣ってしまっていた!!

 

「ぐっ……た、たまにはな」

 

 何をやっているんだ、俺は!

 案の定、いつもと違う俺の態度をリリーに訝られたのだが……くそぅ、早いところ誰か気になる相手でも見つけてくれ。また今みたいに、無意識に罪悪感に駆られてリリーを気遣ってしまうなんて冗談じゃないぞ。

 俺はまた余計なことを口走ってしまう前に踵を返し、歩き出す。リリーが俺の横へ並び、時折、何か言いたそうにこちらを見上げる。

 だが、無視する。喋らなければ、迂闊な発言をする恐れは無いからな。

 

「……あのさ、アルト」

「…………」

「その……わざわざ、ゆっくり歩いてくれなくてもいいよ。気疲れしただけで、普通に歩けるから」

「ぐあっ」

 

 本当に、何をやっているんだ俺は!! 

 ……どうやら、罪悪感というものは俺の予想以上に厄介らしい。この俺がリリーを気遣うような態度を見せるとか……ありえない失態だな。まさか、一日に二度も自分の行いを恥じる日がこようとは。心底、情けなくなってくる。

 言い訳しようにもまた墓穴を掘りそうなので、周囲を見物するフリをして誤魔化しながら歩みを進める。

 街の住人から集めた情報では、酒場や武器屋の位置関係については原作と全く同じだった。無論、移動距離が家の数軒分ということはないが。

 目的地である酒場があるのは、ザールブルグの西側だ。職人通りを抜けた先にある噴水広場の端に店を構えている。

 『金の麦亭』という名前のその酒場は、名前通りに麦の穂と葡萄の蔓が絡み合った意匠が凝らされた看板が目印となっているらしい。

 文字ではなく絵を看板にしている理由は、文字が読めない人が多いといった所謂、識字率が低いからではない。ザールブルグに限らず、今の時代はそれなりに知識に重きを置いており、文字だけでなく計算も簡単なものなら庶民がラクにこなせるほどだ。そうでなければ、貨幣がこれほどまでに出回りはしない。

 ならなぜかといえば、この手のお店の場合は異国の文字が読めない連中のために、パッと見で分かるように工夫を凝らしているからだ。麦の穂は酒場の名前に因んだもので料理関係が由来だと思うし、葡萄の蔦は良い酒があるという意味合いだろう。

 酒場兼宿屋ともなれば旅をする連中が立ち寄ることも多いし、金の麦亭にはそれ以外にも別の用途があるからな。

 

「でも、酒場で休めるの?」

 

 昼間からお酒を飲むのはどうかと思う、と口を尖らせる言うリリーに俺は呆れの色を隠せなかった。

 

「どんだけ田舎者の世間知らずだよ。お前の故郷にも、酒場くらいあっただろ?」

「あったけど……あたしが行こうとすると、お前にはまだ早いってお母さん達に止められたし」

「ふーむ? 田舎での酒場は、日用品を扱う雑貨屋みたいなもんかと思ったが」

「? 雑貨屋は雑貨屋で別にあったわよ?」

 

 ……とすると、だ。もしかして、そういう系の店も兼ねていたのか?

 金の麦亭はそういう商売はやっていないが、その手の酒場も別段珍しくはない。

 村同士の繋がりがあれば、必然的に息抜きの場所は必要とされる。お祭りにしたって、数少ない村人以外の異性との出会いの場という側面もあるしな。

 そう考えてみれば、このどこか抜けてるアホを親御さんが近寄らせなかったのも頷ける。

 

「アカデミーに来てからは、行こうと思わなかったのか?」

「忙しい毎日を送っていたから、そんな暇はなかったし。錬金術漬けの日々だったのよ。知ってるでしょう?」

「……ああ」

 

 ツンと澄ました表情で同意を求めてくるリリーに、俺は苦々しげに頷いた。

 ……くそっ、なんだ嫌味か。先程の俺の大人気ない態度への仕返しか?

 だとしたら、見事だと言ってやる。お前の勝利だ、おめでとうございます、地獄に落ちろ。

 

「それに、外で買うとお金が掛かるから、アカデミー内でやりくりしろって言ったのアルトじゃない」

 

 そう言われてみれば、そんな気がする。

 リリーと出会ったばかりの頃は、ドルニエ先生から頼まれたという理由と、『原作の主人公だからなんとなく』という他人には絶対に理解不能な理由で、何かと気に掛けていたからな。そんな台詞を俺が言っていても、おかしくはない。

 アカデミーでは寮生活を送る生徒達のために、その内部に巨大な購買部があった。扱うのは主に、生活必需品や嗜好品、錬金術に必要な品々だ。わざわざ、外部に出ずとも大体の品物は揃うので、寮生達はこぞって利用していた。値段も品質も品数も、それなりに満足のいくものだったしな。

 品物を卸している商会側は安定した儲け口になるし、アカデミー側は生徒達の雑多な要望に応えられるしで、一時期流行ったウィン・ウィンの関係ってやつだな。

 もちろん街中で探せば、購買部で買うより良い品物があるのは自明の理だ。逸品を手に入れたいなら、自分で足を運んで探した方が良い。実際、俺はそうしていた。

 とはいえ、そのために必要な店探しやら交渉やら何やらを、引っ越してきたばかりで慣れない生活に四苦八苦するリリーがこなせるとは到底思えなかった。

 だから、アカデミー内で生活した方が良い、と簡潔に言った気がする。

 

「そんなこともあったかもな」

「かもじゃなくて、あったのよ」

「ふむ。じゃあ、酒場が宿屋を兼ねていたり軽食を提供している事は知らないのか?」

「あー、そういえば故郷の酒場も二階建てだったなぁ……」

 

 それはたぶん、別の意味で『寝る』のに使われていたんだと思うぞ。

 

「まあ、夜が酒場のメインなのは確かだが、昼間も営業はしているんだよ。その場合は、軽食や果実水なんかが主になるけどな。ちょっと休むくらいなら、何も問題はないんだよ」

「へー、そうなんだ」

 

 しきりに感心した様子で頷くリリーを目にしていると――唐突に、言いようのない不安感がこみ上げてきた。じわりじわりと背筋を這い寄る違和感は、際限なく膨らんで俺を包み込んでいく。

 ……なんだ? 俺は何を、そんなに不安がっているんだ?

 待て。まさかとは思うが、また罪悪感から余計な気遣いをしようとしているのではないだろうな?

 そうなのだとしたら、自分の気持ちとはいえ呆れるぞ。世間知らずに対して抱く不安にしては、あまりにも大きすぎる。心配性にも程があるだろう。

 バカバカしい、と胸中に立ち込める暗雲を振り払う。

 会話を打ち切り、しばし雑踏の中を歩き続ける。

 ――と。

 不意に、視界が広がった。

 職人通りのにぎやかさとはまた異なる種類の喧騒が、耳をつんざく。

 何よりも目を惹くのは、溢れんばかりにいる大勢の人、人、人……。

 

「うっわぁ……! たくさん、いるわねー!」

「その発言、すげえバカみたいに聞こえるぞ」

「う、うるさい!」

 

 街の規模でいえばケントニスの方が大きかったが、人口密度でいえばこちらも負けていない。それに、リリーはほとんどアカデミー内で過ごしていたから、これだけ多くの人達を目にするのは珍しいのかもしれない。

 俺はといえば、前世では満員電車に揺られてコンクリートひしめく都内の企業へ勤めていたので、特に深い感慨は抱かない。転生してからも、貴族の催しに招待されて大きな祝い事のパーティーに参加することも何度かあったしな。

 だがやはり、この盛況振りには多少圧巻されるものがある。活気が違うとでも言うべきか。

 

「リリー、迷子になるなよ?」

「子ども扱いすんな!」

 

 声を大きくして話さなければ、すぐ隣同士で会話するのにさえ不自由な程の賑やかさ。人の流れに逆らわないように歩くだけで一苦労だ。

 中央には大きな噴水が配置され、広々としたスペースが確保されている。もっとも、今は空き場所が勿体無いとばかりに、そこかしこに露天が立ち並んでいるが。出来合いの食べ物を売る露天もあれば、得体の知れない品物を売る行商人もいるし、派手なパフォーマンスを披露ししている大道芸人もいる。

 露天の数に負けず劣らず、それらを楽しむ人々の姿も驚くほどに多い。店を冷やかして楽しそうに笑う連中がいるかと思えば、噴水の近くのベンチで愛を語り合う恋人達がいたり、顔を真っ赤にして酒瓶片手に居眠りしているオッサンなんかもいる。

 人々がひしめく様子を眺めていると、ザールブルグの住民全員がここにいるのでは、と錯覚してしまいそうになるくらいの盛況振りだ。

 原作では、ただ噴水があるだけで見所の無い広場だと思っていたが……なるほど。王城へと繋がる位置にある広場だけあって凄まじいな。平日でこれなら、祭日にはどれだけの騒ぎになることやら。これだけの活気溢れる場所でなら、占い師『イルマ』のように遠方からの隊商がいるのも頷ける。

 なんともなしにぐるっと周囲を見渡してみたが、それっぽい服装の人達は見つからなかった。見るからに異国めいた容姿と格好をしていれば目立つから、すぐに見つかるかと思ったのだが、期待が外れた。どうやら、まだこの街に着いてはいないようだ。

 そういえば、原作でも多少時間が経過しないと現れないんだったか?

 まあ、いなければいないでいいさ。原作に登場した人物だからといって、積極的に関わりたいと思う相手もいないしな。多少興味はあるが、その程度だ。原作と違い、何かの手違いが起きて女性陣が十年くらい若返っていたら、是が非にでも親睦を深めたいとは思うけどなッ!!

 

「おっ……あれは教会か。想像していたよりも大きいな」

「ん? あんたって信徒だったの?」

「そういうわけじゃない。ただの確認だよ」

 

 広場の周囲をぐるっと囲むように様々な家々が立ち並ぶ中、一際目立つ建物。フローベル教会だ。行けば、クルト神父がいると思うが、特に用は無いな。イングリドとヘルミーナに好かれる恐れのある相手だし、今後も関わることのないようにしよう。リリーにも後で言って聞かせなければならないだろう。

 そして、王都のどこにいても目に入る堅牢な威容を誇るのは王城だ。国の歴史に相応しい風格を放つ白亜の城では、王立騎士隊副隊長『ウルリッヒ』と国王『ヴィント』と会うことが可能だ……原作ならば。もちろん、実際には国王様はおろか、王室騎士隊副隊長でさえ会えるわけがない。試すまでもなく、門番の衛兵に不審者として追い返されるだろう。

 

「うーん、あの食べ物なんだろう……すっごいイイ匂い。おいしそう~」

「おい、リリー。いつまで、バカ面してキョロキョロ見回してる気だ? 酒場見つけたから行くぞ」

「だ、誰もそんな顔してないわよ!」

「はいはい」

 

 食って掛かるリリーを適当にあしらいつつ、看板を目印に移動する。

 ごった返す人込みの中を掻き分けながら、店の入り口の前まで辿り着く。

 酒場とはいったものの、その店の造りは一般家庭とそう大差ない外見だった。煉瓦と木材で作られた二階建ての中規模の建物。おそらく、一階部分が酒場で二階部分が宿泊施設なのだろう。

 違和感無く街並みに溶け込んでいるせいで、看板と家の横に山と詰まれた空樽がなければ、誰も酒場だとは気付かないだろう。前世でいうファンタジー的な酒場のように目立つ印象はなく、日常の一部といった感じだ。入り口である大きな扉は要所を鉄で補強され、見るからに頑丈そうだ。これならば、例え酔っ払いが気まぐれに蹴っ飛ばしてもビクともしないだろう。

 

「ここが、そうなの?」

「みたいだな。看板が出てるし、間違いないだろう」

「そっかぁ……、やっと休める~」

「おいおい、しっかりしろよ。お前を休ませるためだけに来たわけじゃないんだぞ?」

「えっ、そうなの?」

「そうに決まってるだろうが」

 

 何を図々しい勘違いをしてやがる。元々、俺はある理由で最初から、ここに寄る予定だったのだ。

 

「どうして?」

「百聞は一見にしかず、ってな」

 

 ドアを押し開け、リリーと二人で中に入る。

 真っ先に出迎えてくれたのは、鼻先をくすぐる芳醇なるワインの香りだ。これぞ酒場という名に相応しい。

 金の麦亭では飲食を提供するだけでなく、他の物も扱っている。

 それは、情報だ。

 多種多様な人間が集うここには、それに相応しく様々な情報が集まる。当然、その情報の中には俺達錬金術士にとって有益になるものも少なくない。情報を集めるだけでなく扱ってもいるので、その情報を頼りにしてか、今も酒場の一角にはそれらしき連中の姿が垣間見える。

 まだお昼には少し早い時間にも関わらず、通常の客の姿もちらほら見掛けるので、結構繁盛しているのだろう。

 ワインの保存のためか、やや薄暗くひんやりとした店内は、昼間だというのに各所に設置されたランプで照らし出されている。けれど、場末の酒場といった小汚い印象は決してなく、むしろ小洒落た喫茶店のような明るく賑やかな雰囲気がある。ワインの香りに関しては長年染み付いたものなので仕方ないし、不快感を覚えさせるものではないので気にはならない。これが夜ともなると、また違った姿を見せるのだろう。

 見た感じ、今はお酒よりも軽食を頼む若い年齢の客層が多い。酒を飲んでいるのは独特の格好をした一部の客か、だらしなく飲んだくれるオッサンくらいだ。

 広々とした店内には丸テーブルと丸椅子が何セットか設置されており、清潔感溢れる真っ白なテーブルクロスがピシッと敷かれている。これが常だというなら男性では中々こうもいかないだろうから、店の経営側には女性がいるのだろう。

 酒場の奥には掲示板らしき大きな木製ボードが打ちつけられていて、その壁には何やらベタベタと色々な紙が貼られている。先程から、その近くにいる連中の何人かが、俺達の正体を窺うような視線を向けてきていた。

 それに気付く様子もなく店内を見回しているリリーにやや呆れつつ、彼らに軽く頭を下げる。怪訝な顔をしつつも、ジョッキを手に掲げたり、手を振って合図したりして応えてくれる彼らを見るに、その肩書きから想像していた柄の悪い人達ばかりでもないのだろう。彼らの中には、これから付き合うことになる人達もいるかもしれない。

 入り口のすぐ左側には何やら舞台めいた空間がある。寸劇など、ちょっとした座興を楽しめるような場所となっているのだろう。残念ながら、今は何の催し物も無いようで、誰の姿もそこにはない。

 入り口の右側にはカウンターがあり、一人の壮年男性が立っている。

 彼の後ろの棚には何十本もの瓶に入ったお酒が収められていた。なるほど、葡萄の蔦を看板に用いるに相応しい種類の豊富さだ。当然、味も保障出来るだろう。今から、それらを味わう日が待ち遠しい。隅のドアをくぐれば調理場があるようで、今も肉が焼けるイイ音と匂いがそこから漂ってきていた。

 ――と、店の主人であろうガタイの良い男性とカウンター越しに目が合ってしまった。いつまでも入り口付近で突っ立ってるわけにもいかないし、動くとしよう。観察にも飽きたしな。

 リリーの肩を軽く叩き、一緒にカウンターへと向かう。

 樹齢何百年といった木々を丸ごと切り出したかのように長大なカウンターは良く磨き上げられ、そのどっしりとした風格を思わせる主人と並ぶと一枚の絵画のように映えて見えた。仕事上、荒くれ者達を相手にすることもあるだろうから、その筋肉は伊達ではないだろう。どことなく熊を連想させる愛嬌のある顔立ちをしている。その巌を思わせるがっしりした体格といい、豪放磊落な雰囲気といい、いかにも酒場のマスターといった面構えだ。人生経験を感じさせる渋みがあり、葉巻を咥えさせたらさぞ似合うことだろう。

 

「いらっしゃい。見掛けない顔だな」

「はじめまして、私はアルト。彼女はリリーと言います」

 

 木製スツールにリリーと並んで腰掛け、代金と引き換えに二人分の飲み物を注文する。酒にはそれなりに強い方だが、今回は酔う目的で来たわけではないので、普通の果実水を頼むことにした。

 さほど待たされることなく運ばれた飲み物を受け取って俺達が一息吐いていると、主人は自らを『ハインツ』だと名乗った。原作で彼の人となりを知っている俺はそうだろうなとは思っていたが、予想通りで安心した。これで人違いだったら、原作とのズレに頭を悩ますところだ。

 

「私達はケントニスから海を越えて、やっと今日到着した所なんです」

「ほお! ケントニス!? こりゃまた、随分と遠くから来たもんだなぁ」

「あたし達、錬金術士なんです! ザールブルグには、アカデミーを建てるために来ました」

 

 やっとオノボリさん状態から脱したのか、カウンターから身を乗り出すようにしてリリーがハインツさんに説明した。人の多さに当てられたか、意味も無くテンションが上がっているらしい。まったく、子どもじゃあるまいし。

 

「錬金術士……確か、なんだか良く分からない物を作れる連中だったか?」

「ご存知でしたか」

 

 良く分からない物、という表現に俺は苦笑しながら答える。まあ、確かに普通の人から見たらそうかもしれないな。

 錬金術は得体の知れない代物にしか思えないだろう。学べば、それが単なる技術に過ぎないと分かるんだがな。

 

「良く分からない物というか、物質と物質を合わせて、また異なる新しい物を作るんですよ」

 

 リリーの説明は例によって、また大雑把だった。言いたいことが伝わっていればそれでいいとは思うが、その適当さ加減は錬金術士として若干心配になる。繊細な作業を必要とするブレンド調合とか、こんな調子で大丈夫なんだろうか。

 

「それでウチに来たってわけか」

「?」

 

 なるほど、と髭に覆われたアゴを撫で付けるハインツさんとは逆に、目を瞬かせて何のことかと俺に尋ねるリリー。

 ……ここまで察しが悪いと、呆れるという以前に情けなくなってくるな。イングリドを預けるのが不安になってくるぞ。なんでもかんでも、俺に聞けば全部答えてくれると思ってるんじゃないだろうな?

 

「リリーさん。この酒場は、冒険者への仕事の斡旋もしているんですよ」

 

 店の主人の前なので、丁寧な口調のまま、リリーに答えを教える。

 金の麦亭と長い付き合いになるのは確実だから、初対面の印象は大事だしな。……だからそんな、気持ち悪いものを目にしたような顔で俺を見るんじゃねえよアホ女。俺だって、お前相手に敬語使うのは気持ち悪いんだからな。

 

「冒険者?」

 

 なぜここでその言葉が出てくるんだろう、といった様子のリリー相手にハインツさんが説明を始める。良い人だな、ご主人。俺はさすがに説明するのは疲れたよ……。

 二人を横目に、ゆっくりと果実水を味わって飲む。喉越しが爽やかで、この時代も中々捨てたものではないと感じさせる。

 冒険者とは、前世のファンタジー作品なんかで良く耳にする存在だが、この世界での彼らは所謂、何でも屋といった立場に当たる。名乗るために特別な資格なんてものはいらず、その代わりにギルド等の彼らを保護したり援助したりする立場の人達もいない。彼らは仲間同士、相互扶助の繋がりによって生きている。縛る者はおらず、頼れる者は自分達だけ、といった気楽な根無し草稼業だ。その性質上、お上品ではない性質の連中が集まることも多い。

 けれど、そんな彼らも一切、無遠慮に生きられるわけではない。冒険者仲間は甘えるだけの優しい存在ではなく、時には厳しく律する存在でもあるのだから。彼らの中の一人がしでかした不始末が、彼ら全員の悪評となるのも珍しくない。一部の評判が悪くなれば全員の立場を危うくするため、彼らは仲間に対して寛大である一方、非常に厳格である。だからこそ、見慣れない格好をした俺とリリーを、新たな冒険者かと思って値踏みしていたのだろう。

 そんな彼らが出会い、依頼を受けるための場所を提供するのが、金の麦亭のような酒場だ。おそらく、この酒場の宿泊施設は彼ら冒険者が主な利用客だろう。ここをねぐらに活動拠点として扱い、店側から紹介される依頼をこなして日々の糧にありつき、日々の生活を送っているのだ。

 錬金術士である俺とリリーは、錬金術で対処することが可能な依頼を選び、請け負うことになる。

 だからこそ、俺はこの場所へ足を運んだのだ。ドルニエ先生が錬金術の話を出して、興味を示した人達からの依頼も、この場所へ寄せられる形になるだろう。

 

「そっかー。だから、アルトは真っ先にここへ来たのね。おかしいと思ったのよね。あんたが、わざわざあたしを気遣うなんて気持ち悪いなぁって」

「……リ、リリーさん、あまり人聞きの悪いことを言わないで下さいね?」

 

 笑みを浮かべた唇が、プルプルとひきつる。

 店主の前だというのに、あまり相手に悪い印象を与えるようなことを口走るんじゃねえよ。

 

「そうかそうか、錬金術士かぁ。いや、丁度良かった。簡単な採取の依頼ならまだなんとかなるが、普通の冒険者じゃ難しいような代物もあるんでな。そういう依頼はいつも最後まで残ったり、難しいものなんかは受ける前に断ったりしているからな」

「私達が力になれる依頼があれば、是非とも受けさせて頂きたいです」

「あ、あたしはアルトみたいにまだ高度なのは出来ない未熟な駆け出しですけど……でも、精一杯頑張ります!」

 

 ハインツさんは店の不良在庫ともいえる依頼が片付いて助かるし、俺達も堅実にお金を稼ぐことが出来て喜ばしい。懸念となる冒険者達にしてみても、依頼内容が被るわけではないから問題無し。むしろ、彼らにとっては利益となる場合もある。これぞ正に、文句無しの良好な関係だな。

 そんな風に和やかな雰囲気で談笑していると――突然、ガラリとハインツさんの雰囲気が剣呑なものに変わった。

 

「ただしっ! 分かっているとは思うが、仕事だからな。手ぇ抜いたりすりゃ、すぐに信用は落ちる。品質もそうだが、くれぐれも期日を破ったりしないよう、気をつけてやってくれよぉ……?」

 

 それまでの陽気な様子から一転して、低くドスの利いた迫力のある声音で告げるハインツさんを見て、俺とリリーの喉が同時にゴクリと鳴る。

 ……この人、絶対に元冒険者とかそういう荒事の職業だろう。尋常じゃないぞ、この圧力は。

 

「分かりました! しっかりと肝に銘じておきますッ!」

「はい! 絶対、依頼を失敗することはないように努力しますッ!」

 

 背筋を正して勢い良く答えた俺達の返事に、気を良くした様子で鷹揚に頷くハインツさん。その雰囲気はすでに、陽だまりで寝転がる熊のような明るいものに戻っている。まあ、どう言い繕っても熊なわけだが。誰だよ、愛嬌があるとか考えたバカは。

 

「今日はどうする? さっそく、何か受けていくかい? そうするなら、依頼の受け方なんかも説明するが」

「いえ、今日の所は挨拶だけで。まだ荷造り等も終えていない状況ですから。仕事を請けるのは、明日以降にさせて頂きます」

「おう、分かった。なら、こっちでも兄さんと姉さん向けの依頼を、いくつか見繕っておくよ。ダメそうなのは他に回すか断るから、やれそうなやつだけ受けてくれや」

 

 それは助かるな。俺達が受けない依頼はどうなるのか、少し気になっていたからな。わざわざ俺達のために依頼を引き受けてきたと言われても、二人で全部を達成出来るわけがないのだから。受ける依頼を内容次第で自由に選べるのならば、一安心だ。

 リリーと二人で謝辞を述べ、席を立つ。

 休憩というには少し長話してしまったが、そろそろ次の店に向かうべきだろう。あまりゆっくりしすぎては、昼食が遅くなってしまうからな。

 ……って、危ない危ない。うっかり、もう一つの用事を忘れる所だった。

 

「ちなみに、冒険者に護衛の依頼ってありますか?」

「護衛の依頼? まあ、あるにはあるが……兄さん達がやるのかい?」

 

 どう見ても守る側には見えないヒョロッとした、良く言えば頭脳派、悪く言えば頼り無い体格のリリーと俺を見て、ハインツさんが怪訝そうに聞いてくる。

 ああ……そうか。確かに、今の聞き方ではそう取られてしまうな。

 

「いえ、そうではなくて逆です。私達が彼らを雇うこともあるかと思いまして」

「んん? ああ、そういうことかい。なら、直接自分達で話し合ってみた方がいいだろう。ちょうど、そっちの隅にいる坊主が冒険者になりたてという話だったし、そいつに声を掛けてみたらどうだ? 同じ駆け出し同士、気が合うだろうさ」

 

 そう言って、ハインツさんに指差された方向には、何やら難しい顔をして掲示板の前に立つ少年の姿があった。

 やや赤み掛かった茶色の髪を適当な長さで切り揃えた、首に巻いた青いスカーフが印象的な少年だ。身長はリリーより幾分か高いが、まだまだあどけなさが抜けない顔の造作からして、彼女よりも年下だろう。

 俺は彼の姿を見て、すぐにピンと来るものがあった。酒場を訪れる時点で出会えるかもしれないとは思っていたが、初日から遭遇するとは運が良い。恐らく、間違いないだろう。

 

「そうですね、彼に話し掛けてみます。何から何まで、ありがとうございました」

「そう畏まるなって! もっと気楽にしていいからよ! これから長い付き合いになりそうだしな!」

 

 ガハハと大口開けて笑うハインツさんに、俺も釣られて自然に笑顔が浮かんだ。作り笑顔ではなく、本心からの笑顔だ。腹の探り合いを必要としない相手は、それだけで貴重な人物だ。貴族の社交場やアカデミー内では、そんなのばかり相手にしていたから尚更だな。

 足取りも軽く、カウンターを離れて紹介された少年の下へ向かう。彼はこちらの話し声に気付いた様子もなく、先程からずっと掲示板の前を行ったり来たりしている。良い依頼が見つからないのだろうか?

 

「ねえ、アルト。護衛って、何の話?」

「お前な……少しくらい自分で考えろよ。今後は、イングリドに説明するのはお前になるんだからな」

「うっ! わ、分かってるわよ」

 

 なんでなんでと尋ねて許されるのは子どもの特権だ。今後、俺達は教師として二人を導く立場になるのだから、今のままではどうしようもない。リリーが錬金術士として未熟なのは分かった上でのことだが、だからといって今のままでいていいというわけではないのだから。

 

「でも、あたし達は錬金術士でしょ。物を作るのに、護衛なんて必要ないと思うけど」

 

 本気で言ってるんだとしたら相当だぞ、お前。

 まあ、箱入り錬金術士だし仕方ないか。これから徐々に慣れていくとしても、最初くらいは手助けしてやるのが先達の務めと我慢しよう。

 

「外に出れば、獣といわず魔物や盗賊だっているんだぞ。採取しに行く際には最低限、身を守る物は必要だ。それでも敵わない相手なら護衛を雇って事に当たるのは当然の備えだろう。魔物から剥ぎ取れる希少な素材は店に売ってないことも多いし、その品物を目的に自ら狩りにいかなければならない時もある。まあそうは言っても、いつも護衛を雇っていたら、お金がいくらあっても足りなくなるだろうがな」

「だから護衛かぁ……。出先に武器屋に寄るって言ってたのも、そういう理由があったのね」

「自分達の装備を整えるためだけにではないぞ。武器を扱ってる店へ挨拶しておけば、買い物に来た冒険者の人とかに、店主が俺達の事を話してくれたりするかもしれないだろ? 彼らが必要とする物の中には、傷薬なんていう錬金術で比較的簡単な品物もあるしな。雇うにしても、依頼をもらうにしても、冒険者の間に俺達の名前が知られるのは得なんだよ」

「なるほどねぇ……。ちゃんと考えてるのね」

「他人事みたいに言ってるんじゃねえよ」

 

 ため息と共に、ゴツンとリリーの頭にゲンコツを落とす。リリーは悲鳴を上げて恨みがましい目で睨んでくるものの、俺に何も言い返してこない辺り、自分でもマズかったと自覚しているのだろう。そうでなければ、困る。 今後もフォローするつもりではいるが、何から何まで手伝うわけにはいかないのだから。そんなことをしていては、何よりもリリー自身のためにならない。

 

「痛たた……。ううっ、でもそうよね。あたしが、ちょっと考え浅かったかも」

「かも、じゃなく間違いなくな。しっかりしてくれよ、リリー先生」

 

 先生、の部分にアクセントを置き、強調して言う。

 ムッと顔をしかめながらも、リリーはぐぬぬと唸るだけで反論してこなかった。

 クククッ……気分いいな、これ。癖になりそうだ。いつもは口やかましい年増女も、正論なら何も言い返せないようだ。

 今後、リリーをあしらう時は今みたいに対応することにしよう。

 

「あたしも、頑張らないとだなぁ。あたしのせいで、イングリド達を死なせるわけにはいかないんだから」

「――――」

 

 …………。

 ぞくり、とした。

 

「今までは実験を失敗したからって死ぬことはなかったけど、これからはそうもいかないんだものね。先生として、しっかりと彼女達を守って上げなくちゃ」

 

 ふんっ、と両手に力をこめて意気込むリリーの姿が、どこか遠くの光景のように映る。

 ……そうだ。全くもって、彼女の言う通りじゃないか。

 この世界は、ゲームじゃないんだ。冒険を失敗したからって、体力と気力を失って家に戻れるわけではない。

 失敗=死だ。

 死ぬのだ。

 実験を失敗したからって、常に産業廃棄物が出来上がるわけではない。

 一歩間違えれば、危険な事態に陥る調合だってあるのだ。

 死の危険性が、身近に存在する世界。

 取り返しなんてつくわけがないんだ。これは現実なんだ。

 この世界は『リリーのアトリエ』の世界ではなく、あくまでそれを基に創られた世界。そんな結論は、今までに何度も出したじゃないか。今更、焦る必要もないくらいの自明の理だ。

 

「いつもそうやってきちんとしてれば、あたしもあんたのこと素直に認められるのに……」

 

 ……違う。俺のせいじゃない。俺のせいなわけがない。

 けれど、震えが止まらない。

 今までに何度も兆候はあったんだ。それはリリーの現状から、何度も何度も察していた。

 原作では、これほどまでにリリーは世間知らずの箱入り娘な感じではなかったはずだ。分別のつく少女であり、良き先生、良き母親役だったと思う。

 だというのに現状、こんなことになっている。

 まさか、俺が良かれと思ってしたことの影響が、こんな所で出てきているとでも言うのだろうか?

 思えば、ドルニエ先生が俺のことを説得しようとした際の言葉からも、それは察せられた。彼女達だけで生活させるには不安、という言葉。原作はゲームだから平気だった、と思考を放棄する事は出来ない。そんなのは何の解決にもならない。

 今の所、目に見える影響は大したものじゃないが、今後もそうとは限らない。

 俺がいるせいで、何かしらの影響を彼女達に与えている可能性がある。それは彼女達、原作に登場する人物達に関わると決めた時点で気付いていたし、俺が『リリーのアトリエ』を基にした世界に干渉すると決めた時点で覚悟はしていた。

 ――いや、したつもりだった!

 彼女達の人生を左右するとは決して誇張された表現ではなく、比喩ですらなかったのだ。それは正しく、生死に関わることなのだ。

 その中には、彼女達の人生が道半ばで途切れるという、原作では絶対にありえない展開も存在するのだ。

 そう、もし――もし、俺のしたことのせいで、リリー達が命を落としたら?

 俺がいたせいで、彼女達が死んでしまったら?

 ……ゾッとしない話だ。

 俺が他人の運命を左右するかもしれない?

 前世での中学生が夢見る戯言じゃあるまいし、冗談じゃない。

 でも、この世界は現実だ。ゲームじゃない。呆れる程に簡単に人は死ぬし、人の善意を妄信出来るほど優しく出来てはいない。そんなのは、この世界に生まれ落ちて今まで嫌となる程に思い知らされた。

 セーブなんてない。ロードなんてない。やり直しなんて利かないんだ。

 一度限りの人生なのだから、それが当然なんだ。

 俺が勝手に、物語に関わって自爆する分には問題無い。それは自業自得だからだ。

 でもそのせいで、周囲に迷惑を掛けたら? ゲームでは生きている人物が、この世界では亡くなったら?

 了見が甘かった。実際に、こうして言葉に出されて差異を感じ取るまでは実感がなかった。危機感が沸かなかった。せいぜい、エンディングに関わる条件でリリーを誘導できるかも、なんてバカなことを考えた程度だ。エンディング? 誰が保障するというのだ、その結末を。 俺のせいで彼女達が途中でいなくなる……そういう未来もあるかもしれないのだ。いや、あって当然なのだ、この世界では。

 俺が抱く罪悪感は彼女達にしてみたら、的外れもいいものだろう。

 なぜなら、彼女達は原作なんて知らないし、想像すらしないのだから。俺のせいで本来とは違う流れになった、なんてそんなものと比較されても困るだろう。そんなことは、俺にだって分かってる。分かってるんだ、そんなことは!!

 でも、前世での知識が俺にそれを楽観視することを許さない。感情の話だ、理性で納得なんて出来やしない。

 物語を変えるくらいいいだろ、と思っていた。

 だが……物語を変えるということは本来、それ程に恐ろしく、覚悟を必要とすることなのだ。

 

「リ、リリー」

 

 自分が口にしたとは思えない程、頼りない声が口からこぼれ出た。

 彼女の名前を呼び、泣きすがろうとでもするような愚かな声が。

 

「ん?」

「あ、いや……」

 

 ――バカなッ! 今、何を言おうとした俺は!!

 俺のせいで、お前が死ぬかもしれないって?

 助けてくれと泣き喚く気か? 許してくれと慈悲を乞う気か?

 なんだそりゃ……意味不明すぎるだろう。

 

「――っ!?」

 

 誤魔化そうと、何か適当な言葉を探す俺に、なぜかリリーが血相を変えて詰め寄ってきた。

 俺の額に手を当てて、心配そうに顔を覗き込んでくる。

 

「どうしたの、顔真っ青よ!? いったい何が……ねえ、大丈夫なの!?」

 

 そうか、俺は今、そんな顔色になってるのか。どうりで目の前が真っ暗だと思った。

 やたらと気の滅入ることばかり考えていたから、気分が悪くなって当然か。今にも、腹の中といわず魂までも嘔吐してしまいそうだ。

 ああ本当、吐き出せるものなら全部そうしてしまいたいよ。そうしてしまえば、多少はラクになれるだろうから。

 ――でも、出来ない。それは、彼女にだけは伝えてはいけないことだ。

 そんなものは、八つ当たりもいい所だ。自分がラクになるためという浅ましい理由だけで、こいつに余計なものを背負わせるわけにはいかない。

 そんなことをしてしまえば、俺は絶対に自分を許せなくなる。二度と、彼女達の前で笑うことが出来なくなる。話し掛けられなくなる。

 だから、それだけは出来ない。絶対に、したくない。

 

「どこか休む所……って、ああ、今ここがそうよね。ほら、いいから取りあえず椅子に座って! そうだ、家に戻ったら何か良くなるもの調合してあげるから! ねえ、喋ることもできない? 黙ってたら、何も分からないじゃない!」

 

 見ていられないくらい慌てふためくリリーの姿は、まるで寸劇を見ているかのようで思わず苦笑が漏れる。

 そういえば、こいつの前でこんな無様な姿を見せるなんてこれが初めてか。知り合いが体調を崩したからといって、いくらなんでもこれは動揺しすぎだろう。まるでヘルミーナが風邪を引いた時の俺のようじゃないか。俺の場合は愛故にだったが、リリーは単にどう対処していいか分からないからだろう。

 まったく……、仕方のないやつだ。

 

「……何か良くなるものって、適当すぎだろ。それに、お前が俺に調合って立場が逆だろう?」

「うっ! ……そ、そうかもしれないけど! でも、放っとけないじゃない!」

 

 騒ぎ立てるリリーの様子に、周囲の人間がどうかしたのかと視線を向けてくるのに気付く。先程出会ったばかりのハインツさんが、心配そうに声を掛けてくるのが耳に入る。冒険者の人達の大丈夫かという声がする。

 そして――

 

「――アルトにしてみたら頼り無いかもしれないけど……でも、あんたが苦しんでる時に何もしないでなんて、いられるわけないでしょッ!?」

 

 リリーが激情のままに叫んだ声に、頬を張っ叩かれたような錯覚を覚えた。

 そう、だよな……。

 こいつだって、誰かに言われるがままの人間じゃない。ちゃんと考えて生きているんだ。

 当然のことだが、街の人達にだって意思があり、生きているのだ。原作のように決められた役割を演じているわけではない。

 誰も彼もが、その一瞬一瞬を必死に生きているのだ。

 何度も言うが、この世界は『リリーのアトリエ』を基にした世界であり、俺だけが生きている世界ではないのだ。自分のためだけに存在する世界とか、精神年齢以前に中学生からやり直してこいと言われかねない考えだな。まるで、俺がこの世界に生きる人達、全ての行動を左右しているかのような勘違いをするとは……。

 自惚れるにも程がある。人間は、そんなに簡単な生き物じゃない。

 例え影響を与えられたとしても、その行動の決定権はあくまで本人にあるのだから。

 だったら俺に出来るのは、自分が関わった相手が死なないように気をつけることだろう。

 そのくらい、造作もない。何せこっちは、人生経験なら二人分積んでいるのだから。最近は何かと自分の至らなさを自覚させられてばかりで嫌になるが、それでも気負わなければなるまい。放って置いたら、どこまでも間抜けなことをしでかすやつがいるんだから。年上として、先輩として、同僚として、仲間として、情けない姿ばかり晒すわけにはいかない。

 俺には付録として、原作の知識なんて今後の展開の手掛かりを知るには十分な代物もあることだし、使い方を間違えなければどうとでも対処可能になるだろう。

 イングリドとヘルミーナのために全力を尽くし、どんなことをしてでも守るのは本望だ。ドルニエ先生には、まだまだ恩を返しきれていない。家族には……特に姉には、一生掛かっても償いきれないほどの迷惑を掛けてしまっている。

 

「あっ、ごめん、怒鳴ったりして……。ねえ、本当に大丈夫? お水飲む? どうしたのよ、気分が悪くなったの?」

 

 それに、リリーだ。

 あたふたと落ち着きの無い様子で、俺を気遣ってくるリリーが目に映る。

 手を伸ばせば届く距離。すぐ近くにいる。遠くなんかじゃない、目の前にいると分かる。

 リリーは……こいつは、まあ原作の主人公だし、こんなムカつくやつでもいなくなれば二人は悲しむだろうし、ドルニエ先生も弟子がいなくなっては困るだろうし、俺も――いや、俺はそうだな、自分勝手な罪悪感で寝覚めが悪くなるだろうし、それに、不倶戴天の敵といえども知り合いが死ぬのは気分的に嫌だし、だからええと、そうだな、あとはええと……まあ、そんな感じで、うん、そうだ、だから死なれては困るよな。うん、そうだな。誰であれ、俺の知り合いがいなくなるのは嫌だ。

 だから、これは誰が相手でも当然のこと。なんら、不自然じゃないよな。

 

「リリー」

 

 ――守ってみせる。もし、この先に理不尽な展開が待つのだとしても、せめて俺の手が届く範囲は守り通してやるさ。

 俺は場違いな記憶を持つ者だ。俺の持つ責任感は、この世界の誰とも共有できないものだろう。

 だが、それがどうした。その程度、飲み込んでやる。こいつの前で、そんな弱音を見せて堪るかよ。

 何も特別なことなんてない。生きていれば、誰でも自分の知る人に死んで欲しくないと願っているはずだから。

 

「もう、大丈夫だ。ちょっと立ち眩みがしただけで、すぐに良くなるから」

「本当に? 本当に、大丈夫なの? 何かの病気とかじゃなくて?」

「ああ、ちょっと人込みに酔ったのかもな。もう顔色だって元に戻ってきてるだろ?」

「そう言われれば……」

 

 バカなやつ。

 自分のアホな発言のおかげで、俺が持ち直したとは思いも寄らないんだろうな。

 でも、しょうがない。そういうやつだからな、こいつは。

 まったく……本当にバカなやつだな、お前は。

 いつの間にか俺達の周囲に人垣が出来てしまっていたので、申し訳ない大丈夫ですと手を振って応える。しっかりしろよ兄ちゃん、と軽く肩を叩いて戻っていく冒険者達。薦めた飲み物が合わなかったか、と未だに心配そうにこちらを見るハインツさんに大丈夫ですと再度重ねて言う。

 やれやれ、大騒ぎになってしまったな。後で何かしらフォローしておかないと、俺が病弱扱いされかねない。

 

「お前も、いつまでそんな顔してんだよ。大丈夫だって言ってるだろ?」

「そうは言うけどさ……。今度また少しでも体調悪くなったら、すぐに言いなさいよ? 我慢なんてしたらダメよ?」

「ああ、分かった分かった! そう俺を病人みたいに扱うな。お前が俺のことを心配するなんて、気持ち悪くて仕方ない」

「な――っ!? だ、だだ誰がいつあんたの心配なんてしたのよ!? そんなのしてないわよ!」

「痛てえっ! お前、気分良くなって来たとはいえ、さっきまで倒れそうだった俺をぶつか普通!?」

「うっさい! バカ! バーカ! あんたなんか、あのまま倒れてりゃ良かったのよ!」

「ちょ、やめ、やめろバカ! 痛いっつーの!」

 

 ポカスカと……いや、そんな可愛いものではなく、ビシッ、バシッ、と俺の頭を景気良くぶっ叩くリリーの両腕を掴み上げ、その暴威から身を守る。フーッフーッと息を荒くして興奮するリリーは、もうなんというか手負いの獣かよお前はと言いたくなる。

 

「なあ、兄さん達。もう大丈夫なのかい? なんか倒れてたみたいだけど」

 

 俺とリリーが無言で力のせめぎ合いを繰り広げていると、席に戻っていった冒険者達の中、一人だけそのまま残っていた少年が声を掛けてきた。先程ハインツさんから紹介された駆け出しの冒険者だ。その手には、何かの飲み物が注がれたコップを持っている。

 

「いや、倒れてまではいってないが」

「ん、そっか? ま、いいや。はい、これ。ハインツさんから飲むようにって」

 

 リリーと一時休戦して手渡されたものを受け取ると、何か独特な香りがした。スーッと鼻から通り抜けていくような香りから察するのに、ハッカか何かに似た飲み物だろうか?

 ハインツさんの方を振り向くと、彼は無言で頷いた後にクイッとアゴを少年の方に動かした。

 せっかくの好意なのだし、遠慮なくいただこう。俺はハインツさんに小さく頭を下げて礼を述べ、一気に飲み干した。途端に胸がスーッと軽くなり、心持ち、気分が楽になった気がした。

 

「わざわざ、ありがとう。ええと、キミは?」

 

 俺は少年に向き直ると、ほとんど答えを確信しながら問いかけた。

 

「オレかい? オレはテオ! 冒険者になりたての駆け出しなんだ!」

 

 少年――テオはどこか自慢気に胸を張り、そう言って朗らかに笑った。

 

 

 

 

 

 

「ちゃんと乾かしてから寝るのよ? 一人じゃ難しかったら、ドルニエ先生に手伝ってもらいなさい」

「はーい、先生。おやすみなさい」

「おやすみなさーい」

 

 イングリドとヘルミーナの髪の水気をタオルで軽く拭き取ってから、あたしは二人におやすみと言って浴室に戻った。

 いつもなら、きちんと乾かしてあげて一緒に寝る所だけど、今日はもうちょっとゆっくり湯船に浸かりたかった。バスタブを満たすお湯に身を深く沈める。そのじんわりとした温かさにホッとして、自然と溜め息が漏れる。割と大きめのお風呂なので、一人なら手足を伸ばしても余裕がある。

 ドルニエ先生はお疲れの様子だったので最初にお風呂へ入ってもらい、一足先に寝室へ上がっている。あたし達が入る前に確認した時には、何やら手紙をしたためていたようだった。たぶん、アカデミーへ無事到着したことの連絡等だろう。

 アルトは酒場で夕食を取った時に冒険者の人達と話が盛り上がっていたらしく、先にあたし達を帰して自分一人で残ったままだ。遅くならないうちに帰る、と言っていたのでそのうち帰って来るだろう。だからこそ、アルトがいないうちにと思って、二人にさっさとお風呂を済ませるよう言ったのだけどね。あの変態がいると、二人の入浴中に覗いてきそうで気が休まらないし。さすがに初日からそんな不埒な真似はしないはずだとは思うけど、あいつ筋金入りの変態だからなぁ……年頃の娘の身の上としては、自分よりも幼い彼女達の方を心配しなくてはいけないのは、複雑な心境だ。

 伸ばした手足を、ゆっくりと手指で揉んでいく。

 今日はなんだか色々あって肉体的にも精神的にも疲れてしまった。初日からこれでは先が思い遣られる。

 

 

「酒場に、武器屋に、雑貨屋に……あたし、ちゃんと挨拶できてたかなぁ?」

 

 最初に街中で出会ったのが、雑貨屋のヨーゼフさん。奥さんと仲睦まじいオジサン。

 次に訪れたのが、酒場のご主人のハインツさん。明るく豪快な性格だけど、ちょっと怖い時もある人。

 その酒場で知り合ったのが、冒険者の駆け出しテオくん。いかにも年相応の男の子といった感じな少年。

 で、その後に挨拶したのが、武器屋の店主のレオさん。ちょっと元気がくて心配になるお爺さん。

 隣の製鉄工房で会ったのが、鍛冶師の駆け出しカリンさん。男の人みたいにカッコイイ男前なお姉さん。

 最後に顔をあわせたのが、二階の雑貨屋のヴェルナーさん。道楽で店を経営してるというちょっと変わった男性。

 今日だけでも、たくさんの人達に錬金術士として挨拶している。これからあたしは錬金術士として仕事をしていくことになる。今日の挨拶はその第一歩だ。

 午前中に挨拶を済ませ、午後は買出しとケントニスから持ってきた物をアルトの手引きで船から運び終えたので、既に生活するのに不便さはない。今日、買い揃えることの出来なかった物については、また後日、買い出しに行く予定だ。順調といえば順調ね。

 明日からは、錬金術士として本格的に動いていくことになる。

 金の麦亭で依頼を受け、商品と引き換えに報酬となるお金を貰う。自分の調合品を売り物として渡すのは始めての経験だ。今までみたいに、ただ言われた課題をこなすのではない。錬金術という技術を基にした商売を行っていくのだ。全ては、自分達の行動次第となる。

 そのことを意識すると、途方も無い重責となって双肩に圧し掛かってくる。

 ……本当に、あたしにそれが出来るんだろうか?

 

「うう、不安になってきた……」

 

 きっと、アルトはこういう不安とは無関係なんだろうな、と一緒に頑張る予定の仲間のことを思って溜め息を吐く。

 今日だって、あいつは平然とした顔で挨拶回りを済ませていた。どんな人と会話しても慣れたものとばかりに話を進めていくあいつに、あたしはただ黙ってついていくばかり。このままじゃダメだと思って慌てて会話に加わってみても、そんな急に人は変われるものでもなく。彼にばかり責任を負わせているという事実に自己嫌悪した。

 

「急に真っ青になった時には、びっくりしたわね」

 

 酒場でのことだ。

 それまで普通に会話していた彼が突然、顔色を真っ青にして震えだしたのだ。彼は人込みに酔っただの、立ち眩みがしただの、なんだのと言い訳していたけれど……あの様子は、どう見ても変だ。今までに、アルトがあんな風になったことなんて一度もない。どんなに疲れていても、そんな素振りさえ見せたことがないのだから。いつだって憎たらしくなる程、自信に満ちた表情と態度で、あたしが心配する必要なんてないくらい完璧なやつだった。

 でも、今日は違った。今にも倒れそうな程に弱っていた。

 きっと、あれはあたしのせいだ。あたしがしっかりしてないから、あんなことになってしまったんだ。

 自分一人なら問題なくても、あたしとイングリドとヘルミーナといった三人分まで余計に面倒を見るとなると、さすがに許容範囲を超えてしまってもおかしくはない。イングリドの面倒を見るのはあたしだと、きちんと分担したはずなのに。

 今までずっと、知らず知らずのうちに頼っていた。口では信用できない、信頼してない、なんて言いつつも、あたしはあいつに頼ってばかりいたのだ。アルトに任せていれば大丈夫、そんな気持ちが微塵もなかったとは言えない。

 その結果が、酒場での一場面を招いた。

 あたしは、彼に無理をさせ続けてしまっていたのだろう。

 持病なんてないのは知っている。ヘルミーナと違って体が丈夫なのも。今までに一度もあんな姿を見せたことはなかった。あいつだって人間なんだ、疲れないわけがない。あたしの前では、決して見せないように痩せ我慢していたのだろう。そんな彼が、疲労を隠し切れなくなる程に追い詰められていた。そう、させてしまった。

 いつだってムカつく程に余裕綽々な態度で、不安そうな素振りなんて一度たりとも見せた事が無くて、あたしが本当に困っている時にはいつだって助けてくれて。

 今思えば、渡航が決まってから今まで一度も彼に相談されることはなかった。ただ、あたしは先生とアルトの後ろをついていくだけだった。これからのことを自分で考えることもせずに、全部アルトに投げっぱなしにしていた。そのことに、何の疑問も抱いていなかった。

 その癖、相談してくれない、自分勝手だ、と不平ばかり述べていた。上から目線で、彼に不満を抱いていた。

 なんて身勝手だったんだろう。なんてバカだったんだろう。

 ――これじゃ、まるで子どもだ。

 

「そんな相手じゃ……、頼れないよね」

 

 く、と喉の奥に声が込み上げてくる。

 パシャン、と両手でお湯をすくって顔にぶつける。一人になって気が緩んだせいか、感情の制御が出来なくなっている。

 まなじりに熱が滲むのを感じる。温かい雫が一滴、頬を伝って流れ落ちていく。

 自覚した途端、視界がぼやけてきてしまった。

 違う、泣いてなんかいない。これはお湯が落ちてるだけだ。

 こんなことじゃ、ダメだ。

 あたしは、両手で顔を覆って瞳を閉じる。瞼を抑える端から、とめどなく涙が溢れ出す。

 何をしているんだろう、あたしは。

 悔しい。何も出来ない自分が。何もやらなかった自分が。

 威勢だけは一人前で、けれどあいつに対して何の力にもなれない自分が。

 押し殺し切れなくなった嗚咽が漏れ、浴室に小さく反響する。

 遠く離れた故郷を不意に、懐かしく思った。会いたい。家族に会いたい。会って、慰めてもらいたい。大丈夫、リリーは良くやっているよ、頑張っているよ、そう言ってもらいたい。優しく抱きしめて、守ってもらいたい。

 ――でもそれじゃ、ダメだ。そんな弱気じゃ、絶対にダメだ。そんなの分かってる。 

 アルトに頼られる程の一人前の錬金術士になるって、そう決めたのに。

 アルトの隣に立てるくらいの存在になりたいって、そう思っているのに。

 なのに、現状はどうだ。全然、理想に現実が追いついていない。

 今回は、まだ平気だった。幸い、アルトはすぐに体調を持ち直したようで、その後は変わりなく平然と過ごしていたから。

 でも、今後もそうだとは限らない。

 このままあたしが何も変わらずにいたら、きっとあいつはまた倒れてしまう。なんだかんだと文句を言いつつ、助けを求めた時にはいつも助けてくれるやつだから。自分が無理をしているなんて弱音は、決して口にしないやつだから。

 今のままでは、もしかしたら今以上に無理をさせてしまうかもしれない。ううん、きっと本格的に工房が稼動していけば、そうなってしまうだろう。あたしにとって分からないことだらけなのだから、あいつに頼ってしまいそうになるのは目に見えている。そんな情けないあたしが頼れば、その分あいつは無理をしてでも助けてくれるだろう。

 その結果、アルトがまた今日みたいなことになったら……。

 そしてその時もまた、無事に済むという保障はどこにもないのだ。

 だったら、あたしはどうすべきか。

 だったら、あたしはどうしたいのか。

 だったら――

 

「……変わらなくちゃ」

 

 両手を離し、もう一度だけ、湯船のお湯をすくって顔に掛ける。

 いつまでも、頼ったままではいられない。もう、弱いままのあたしじゃ、ダメなんだ。

 イングリドとヘルミーナを守るのは、あたし達なんだから。しっかりしろ、あたし。彼女達に先生と呼ばれるに相応しい存在になるんだ。

 二人の面倒を見る。

 それはただ、お金を稼いで食費等を得ればいいというものではない。錬金術士としての知識を教え、何か失敗した時には適切な後処理を行うといったことも必要になる。それは今まで、アルトがあたしに当然とばかりにしてくれたことだ。

 お金が無いといえばお金を稼ぐお手伝い先を紹介してくれたり、錬金術で分からないことがあったら理解するまで何度も懇切丁寧に教えてくれたり、慣れない学生寮での生活を親身になって手伝ってくれたり、実験でとんでもない失敗をした時には一緒に方々へ謝ってくれたり、何日も掛けて一緒に部屋を片付けてくれたりした。

 諸々全部、その時のあたしに足りない部分をアルトが手を差し伸べてくれたことだ。

 落ち込んでいる時には励ましてくれたし、課題を成功した時には一緒に喜んでくれた。アカデミーに知り合いがいなくて孤立していたあたしを何かと気に掛けて誘ってくれたし、時には我が身のことのように真剣に怒ってくれた。それはまるで、実の両親のようにアルトがあたしを見守っていてくれたのだ。

 ――だから、今度はあたしの番だ。あたしが、イングリドとヘルミーナにそうしてあげる立場になるんだ。そう、なりたいんだ。

 今までみたいに上辺を取り繕うだけでなく、もっときちんと、心から彼女達の先生として自負できるくらいになるんだ。

 錬金術士としてだけではなく、一人の人間として尊敬出来るような大人になりたい。

 そうでなければ、アルトの仲間だなんて言う資格はない。誰でもない、あたし自身がそんな言葉を言わせない。

 今までは、彼に甘えていた。出会ってからずっと、何かあったらアルトに頼るのが当たり前みたいになっていた。彼の優しさに甘えきっていた。

 でもそれじゃ、ダメなんだ。

 これからは、あたしも一人の錬金術士として生きていくんだ。それはもう、アルトと同じ立場に立つということなんだから。

 段々と冴え渡ってきた頭の中で、これからのことを考える。

 明日からは、錬金術士としてザールブルグで活動していくことになる。あたしもアルトも、主に金の麦亭で依頼を受けて報酬を得ていくのは同じだ。

 でも、こなせる依頼は随分と変わるはずだ。それは、あたしとアルトの錬金術士としての技量の差が原因。彼の腕は既にドルニエ先生と比べても遜色ない程で、片やあたしといえばまだ駆け出しといってもいい頼り無さ。アルトとあたしでは、作れるものに差がありすぎる。

 だからあたしは最低限、自分で引き受けた依頼だけは責任を持って自らこなさないといけない。あたしが受けた依頼の手伝いをアルトにしてもらうわけにはいかないし、ましてや後始末をしてもらうなんて以っての外だ。

 あたしにはあたしの仕事があるように、彼には彼にしか出来ない仕事があるのだから。面倒を見てもらうだけの立場は、もう卒業するんだ。

 協力するとは、どちらか一方が頼ることでは成り立たない。その関係を築くにはアルトだけではなく、何よりもあたしが一番に変わらなければならない。あいつがあたしを頼っても大丈夫だと思ってもらえるように、しっかりと自立しなくてはならないんだ。そうでなくては、あたしがあいつに何を言っても説得力なんてない。

 

「よしっ! 反省、終わり!」

 

 ザバーンと勢い良く、湯船から立ち上がる。

 うん、頑張ろう! もうウジウジ悩むのはやめだ。自分が至らないなんて分かり切っていたことだ。

 だから、これから先を見据えよう。

 急になんて変われない。いきなり、一人前の錬金術士だとか大人にだなんてなれるわけがない。

 でも、努力しよう。努力し続けよう。

 最初に錬金術を学び始めた時だって、そうだった。独学で勉強していた時だって、何も最初は分からなかった。無理だって何度も諦めかけたけど、その度に負けるものかと努力し続けたのだ。諦めずに毎日毎日学び続けていたら、憧れのアカデミーにだって入学出来たんだ。夢に見ていた錬金術士になれたんだ。

 だから、これからだって何とかなる。ううん、絶対に何とかさせてみせる!

 

「そうとなれば、さっそく明日の準備しないと!」

 

 明日からどう行動するか、その予定を立てておかないとだ。

 アルトと相談して決めるにしても、少しくらいはあたしの方でも考えをまとめておかないと。彼に頼り切ってはダメだと、たった今決めたばかりなんだし。

 まずは道具を整理して調合出来る環境を整えることから始めてバーン!と勢い良く浴室のドアが開け放たれてどんな依頼を受けるかを考えて――って、ちょ、ちょっと待って、何か今おかしなことが起こったような……??

 ギギギとさびついた音を立てる首を動かし、なぜか突然開いたドアの方へ視線を巡らせる。

 

「たっだいまー! イングリド、ヘルミーナ! 俺も一緒にお風呂に入っていいかーい?」

 

 さっきまで殊勝な気持ちで想像をめぐらせていたアルトが、うざったいくらいイイ笑顔でそこに立っていた。

 

「――――」

 

 …………。

 予想だにしない事態に、思考が完全に停止した。

 え……えっと?

 つまり、どういうこと状況だこれは。

 待って待って待って。

 落ち着いて、ゆっくりと整理してみよう。

 あたし――お風呂に入る以上、当然ながら素っ裸で、ついさっき湯船から立ち上がった所だ。

 アルト――お酒が入っているらしく、なんだかやたら陽気な様子でこちらを見つめている。

 そんな二人が立っている場所は、湯気に覆われた浴室だ。

 以上、状況確認終了。

 ん、んー……?

 えーと。えっと……、うん?

 つまり、どういうこと?

 

「あれ? なんだ、お前かよ入ってたの。チッ、さっそく突発イベント発生かと思って期待したのに……」

 

 意味不明なことを呟いて、がっくりと肩を落とすアルト。

 いきなり浴室に乱入してきたかと思えば、身勝手なことを言って落胆するその姿。

 その常軌を逸したド変態の姿を見て、ああそうか、とようやく理解が追いついた。

 なんだ、簡単じゃない。あまりにも簡単すぎて感情が動いていなかったようね。やっと、理解したわ。

 こんなの、たった一つしかやることはないじゃない。

 

「……遺言は、それだけ?」

「は?」

 

 羞恥なのか激怒なのかそれとも別の感情なのか自分でもよく分からないけど、全身に熱がこもっているのがはっきりと分かる。同時に、この痛いほどに握り締めた右手に今だかつて無い程の力がこめられていることも、はっきりと分かる。今がどういう場面なのかも、はっきりと分かる。

 これはもう、こういう場面だ。

 

「この……っ!」

 

 あたしが、このどうしようもない最底辺の愚か者に天罰を下すという場面だ。

 

「とっとと出てけ、このド変態がぁぁぁぁああああああああああッッ!!!!!」

「ぎゃぁぁぁぁああああああああああ!!!!???」

 

 

 迸る思いのままにぶつけた容赦無い制裁は、それに相応しい被害をアルトに与えたとだけ言っておこう。

 ほんっと、深刻に悩んでいた自分が心底バカらしく思えてくるわ!



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物忘れにご注意を

「――そうだな、素材と調合品、資金に関してはお前の言う通り共有でいいだろう。問題を避けるために、帳面をしたためて在庫数を常に把握しておくというのは良い手だと思う。資金の管理のために家計簿をつけたり、生活費と店の経営費を別に扱うのも問題は無い。大金を使う際には、あらかじめ相談し合うのも妥当だな。……だが、各種調合に使う器材と参考書に関しては却下だ。これらは、一切共有しない」

「ええっ? どうしてよ、一緒の使った方が安上がりでしょ」

「あのなぁ……。いいか? 器材は使う人間のクセが出るし、俺とお前が同時に同じ物を使いたい時もあるだろう? そういう時にどうするつもりだ? それに参考書だが、俺とお前では錬金術士としての技量が違いすぎる。だから、俺が読んでいる物をお前にも読ませるというわけにはいかない」

「むー……、どうしてよ?」

「錬金術には、大まかに分けて幾つかの段階がある。高度な理論を理解するには、その基礎となる理論を理解している必要がある。全てを理解して、やっとそれらを発展させたものに理解が及ぶんだ。それなのに、過程を全部すっ飛ばして難しいのをお前が読んだ所で、理解が足りずに何一つとして取得出来るわけがない。何より問題なのは、その難しさに比例して危険度も上がるということだ。うかつに試して、大怪我を負いたいのか?」

「うっ!」

「まあ、錬金術士が自分の器材と参考書を持ってないという時点で、お話にならんけどな」

 

 ぐうの音も出ないといった様子で黙り込むリリー。

 まったく……、ちょっとは考えているかと思ったが、相変わらず変な部分が抜けているやつだ。

 長テーブルに置かれたランプの灯りが、二人分の影絵を一階に作り出していた。

 姿が見えないイングリドとヘルミーナ、ドルニエ先生は二階にいる。少し前に着替えを取りに行った時には、三人とも眠そうな顔をしていたので、今頃は夢の世界の住人になっていることだろう。その証拠に、上からは全く物音がしてこない。俺もさっさと眠ってしまいたいのだが……。

 俺とリリーは、明日からに備えて打ち合わせの真っ最中だった。元々、俺は一人で生活するつもりでいたから、今更になって話し合うハメになってしまったのだ。

 まあ、その件は俺も納得したからいいとして、だ。

 

「なあ」

「なによ?」

 

 リリーは寝巻きのラフな格好で椅子に腰掛けている。風呂上りなのか、しっとりとした髪をいつも違って紐で結ばず、肩口から前に降ろしていた。そうしていると、少しは落ち着いた性格のように見えるから不思議だ。

 対する俺は……。

 

「どうして、俺は床に正座させられているんだ? いやそれ以前に、ズブヌレだったり全身痛かったりといった理由も知りたいんだが」

 

 目覚めたら、体中至るところに激痛が走るし、頭から水でもぶっ掛けられたかのような有様だった。

 目の前で殺意のこもった視線で睨みつけてくるリリーに事情を聞こうとするも、有無を言わさず強引に風呂に入らせられ、出てきたら出てきたで、なぜか床に正座を強制させられる始末。

 そして、そのまま済し崩しに打ち合わせをし始めることになったのだが……、さすがにそろそろ両足が限界だ。ついでにいうなら、俺の忍耐も。

 

「何かご不満?」

「これで不満がない人間がいたら見てみたいな。せめて、俺がこういう状態に置かれなければならない理由を説明しろ。そうでなければ、反論もできん」

「何それ、覚えてないの!?」

「覚えて……」

 

 未だにズキズキと痛む頭を抑えつつ、どうにか考えを巡らせる。

 えーと、たしか……方々への挨拶回りと諸所の問題事を片付けた後、器材を運んだり掃除したり何なりで全員疲労困憊だったので、夕食を酒場で取ろうと皆揃って出掛けたはずだ。予想通りに美味しい料理に舌鼓を打ちつつ、予想以上に美味しかった葡萄酒についハメを外して飲みまくり、予想外に冒険者の人達と話が盛り上がって酒場中の客を巻き込んで騒ぎまくった気がする。

 で、肝心のその後の記憶はというと……困った事に、何も思い出せない。

 

「……ないな。俺、何かしたのか?」

「ほんっっっっとーーーーに、何も覚えてないの!?」

「ああ」

 

 覚えていたら、こんな屈辱極まりない状況を打破すべく行動している。

 覚えていないからこそ、何をしたのか分からずに現状に甘んじているのだ。

 

「……ん? いや、待てよ」

 

 そうだった、そうだった。

 まだまだ飲み足りないと、先に皆を帰らせたんだったような?

 で、一緒に乱痴気騒ぎをした連中がお開きにするというから、そのまま解散したような……

 

「その後、家に帰ったらすでに真っ暗で、浴室だけ明かりが――」

「お、おおおお覚えてないならいいのよ! それ以上、思い出さなくていいってば!!」

「な、なんだよ。急に大声出して?」

 

 二階で睡眠中だと予想されるイングリドとヘルミーナを起こしちゃったらどうするんだ、このアホ女は。ドルニエ先生は起きても構わないけどな。むしろ、起こしてリリーだけ叱られてしまえ。

 本当、こいつはいつもいつも理不尽すぎる。覚えていないのかと責め立てやがるから、頑張って思い出そうとしたのに。

 

「も、もう、いいわ。覚えていないのなら、それでいいの」

「いや、お前は良くても俺は――」

「いいったらいいの! ほら、そんな所で座ってないで、椅子に座りなさいよ」

「そんな所も何も、お前が――」

「いいから! もう、その話は終了なの!」

「なんなんだよ、まったく……」

 

 これだから年増女は理屈が通じなくて嫌なんだ。

 結局、どうして俺は正座させられていたんだ? 納得いかねぇ……。

 不満を表面上は押し殺し、椅子に座る。納得は出来ていないが、座っていいというのなら断る理由は無い。それに、まだ話し合いの途中だったしな。

 今回、話を持ち掛けたのは驚くことにリリーの方からだった。正座の強要を押し切られたまま話を始めたのは、その珍しさに面食らったせいもある。いつも全部、俺任せだったくせに、いったいどういう心境の変化やら。

 しかも、きちんと具体的に自分なりの考えを提案してきたし、その中には俺も頷けるくらいにまともな物も数多くあった。真面目に色々と考えた上で発言をしているな、と感心させられた。

 これだけでも異常といっていい程に珍しいが、他にもおかしな点があった。

 

「これから俺達がどう活動していくかだが……聞くか?」

「うん。教えて」

 

 これだ。なんか、やけに素直なのだ。

 何かと言っては、俺に突っ掛かって来るのが普段のリリーの対応なのだが……こいつなりに、ようやく一人の錬金術士としての自覚が芽生えて来たのかもしれない。まだまだ未熟とはいえ、手が掛からなくなるのは喜ばしいことだ。これからは、イングリドやヘルミーナのことも対処しなくてはならないのだから。

 けれど、いきなりこうも態度が豹変すると、気味が悪くて仕方ないな。

 

「基本的に、俺とお前は別行動を取る。別箇に依頼を受けて、各自で活動する。これは錬金術士としての技量の差もあるし、当然だな。作りたい物もやりたい事も、お互いに違うだろうからな。基本的にと言ったのは、二人で仕事を行う場合もあるかもしれないからだ。例えば、依頼で大量の受注品が必要になった時とかだな。二人で協力することによって作業能率を高めれば、調合品を大量に作ったり、作成に掛かる時間を減らしたり、成功率を高めたりすることが可能だ。こういう時は、例外として二人で動くのもありだろう」

「んと……都合良く、二人同時に空いている期間にそういう依頼があるかどうかは分からないんじゃない?」

「そうだな。だから、あくまで例外だ。行動予定表を書いたボードを参考にして、調整が利きそうなら相手に相談してみるのも有りって程度だな」

「ん、分かった」

「…………」

 

 本当、何があったんだこいつ。目に見えて態度変わり過ぎて、ちょっと怖くなってきたわ。

 ドルニエ先生、俺が知らない間にリリーを洗脳していやしないだろうか?

 

「取り合えず、リリーは覚えた調合の復習から始めてみたらどうだ? 初級の調合に必要となる材料は、街中で揃えられる物も多いしな。自分が知る調合を、イングリドに教えながら一緒にやるといい。特に中和剤なんかは良く使うし、作っておいて損は無い。ある程度まとまった数を作っておくのも良いと思う」

「アルトはもう、どこで何が買えるか分かっているの?」

「ん、まあな。今日、見て回った時にだいたいは確認しておいた」

 

 原作をプレイした時の品揃えを今でも多少覚えていたので、本当に確認といった感じだったのだが。無論、それは口には出さない。

 ついでに今日見て回った以外の場所――教会や隊商からも、品物を購入出来そうだということもリリーに教えておく。その際に、注意を払うことも忘れずに。

 

「いいか、教会に行く時はくれぐれもイングリドから目を離すなよ?」

「もう……、心配しすぎよ。イングリドだって、そこまで小さい子じゃないんだから。何かを壊したりなんてしないわ」

 

 リリーが呆れたように笑う。

 が、そうじゃない! そこじゃないんだ、心配なのは!

 既婚者のクセに、イングリドとヘルミーナに色目を使いかねない神父に気をつけろという意味なのだ! 一見まともな人間に見えるが、彼女達に好かれるという恐れがある時点で、許しがたい罪人だ。可愛い彼女達をお嫁さんにすることが許されるのは俺だけである!

 

「そっかぁ……。アルトはただ挨拶してただけじゃなくて、そういうのもきちんと調べていたのね」

「アカデミーみたいに、注文すればお金次第でなんでも手に入るってわけじゃないしな。頻繁に使用する物くらいは、覚えておいた方がいいぞ。依頼の中には、探すのが面倒臭いからとか言って、街中で売っている物を渡すだけで終えられる依頼もあるかもしれないしな。取り扱い品目は通ってるうちに覚えると思うが、面倒なら紙に書いてメモするなりしておくといい」

「分かったわ、そうしてみる」

「…………」

 

 あまりにも素直すぎて、怖い以前に別人に見えてきた。

 これリリーに似ているだけの違う人だとか、そういうオチはないだろうか?

 

「アルト?」

「え? あ、ああ……。街中で揃えられる物を使って大体の調合を終えたら、街の外に出て素材を探して来るといい。近くの森なんかは日帰りで行けるし、最初に行くなら丁度良いだろう。ただし、外に出る場合は必ず冒険者とかを護衛に雇っていくこと。絶対に、一人で行こうだなんて思うなよ。一人と二人じゃ、全然違うんだからな」

 

 くどいと思われかねない程に、強く念押ししておく。

 もっとも、実の所、近くの森はそこまで危なくはない。無理をしなければ、リリーが一人でも十分に行ける場所だろう。

 けれど、もしもがあってからでは遅すぎるのだ。

 この世界では、外に出れば危険の無い場所なんてほぼないが、不注意や慢心でわざわざ危険性を高める必要もあるまい。熟達の錬金術士ならともかく、駆け出しの錬金術士のリリーには尚更注意が必要となるだろう。金貨数枚を惜しんで命を落とすなんて笑い話にもなりはしない。特に、イングリドの世話をリリーに任せる以上、間違いがあっては困るのだ。もし、あの可愛いお顔に傷がついたりしたら、俺のお嫁さんにするしかないじゃないか。いや待てよ、むしろ俺がお嫁さんになってもいいな。

 

「ちょっとアルト? 続きは?」

「ああ、ウェディングドレスも頑張って着こなしてみせるさ。可愛いイングリドのためだからな」

「何の話をしているのよ、いったい!?」

「すまん、脱線した」

「どこをどうしたら、そんなわけの分からない話に繋がるのよ……。いいから、さっきの続きを話してよ」

「えーと、どこまで話したんだったか」

「街の外に出る時は、冒険者を雇えって所までよ」

「ああ、そうだったか。まあ、理想は確かにその話の通りではある。かといって、あまりにも賃金が高い人間を頻繁に雇うとお金が足りなくなるから、懐具合と相談して相手を選ぶことだな。当然、採取場所にもよるが……、近くの森程度なら駆け出しの冒険者でも十分だろ。この場合、どちらかというと必要なのは頭数だからな」

「冒険者って、今日会ったテオくんとか?」

「そうだな、彼なんかちょうどいいと思う。多少賃金が安くても雇われてくれるだろうし、危険性が少ない場所だから問題無いと思うしな。他にも誰か仲の良い知り合いが出来たら、冒険者に限らず誘ってみてもいいかもな。腕に自信のある人間もいると思うし」

 

 クルト神父なんかは、無料で奉仕してくれるから原作の序盤では重宝したものだが……この世界でのヤツは危険だ。何度も言うが、イングリドやヘルミーナ相手に余計なフラグを立てられたら堪ったものではないからな。俺がフローベル教会に向かう際には、ヘルミーナはお家でお留守番させておかなくては。

 冒険者の中ではテオは駆け出しで物足りない実力だし、お金も多少必要と色々中途半端だが、イングリドに変な目を使わないからその面では安心だ。あいつが興味を抱くとしたら、それはリリーの方だろう。原作ではリリーとの恋愛イベントがあったしな。まだ具体的に手を回すような段階じゃないが、すでにリリーの恋を影ながら応援しよう作戦は、ひっそりと進行中なのだ。

 

「依頼に関しては、無理をしないことを優先に。ハインツさんに依頼を受ける際には、内容を良く確認するのを忘れずにな。受けた後でキャンセルするとか依頼期日を過ぎてしまうなんて絶対にするなよ。工房だけでなく、錬金術士そのものの評判が悪くなりかねないからな」

「分かってる、気をつけるわよ。それに、ハインツさんに怒られたくないしね……」

 

 うむ、俺も気をつけよう。工房云々を抜きにしても、あの人を怒らせたくはない。

 

「もしも自分だけでは判断しかねるようなら、ハインツさんに相談してみるのもいいかもな。錬金術士のことを多少は知っていたみたいだし、今のお前で達成可能な依頼内容かどうか、簡単な目安を教えてくれるかもしれないからな」

「ん、そうしてみるわ。ねえ、あたしはアルトの言う通りに行動してみるけど、あんたはどうするの?」

「俺か? 俺も基本方針は、お前と同じだ。一先ず、近場の採取地へ行ってみて、何が取れるのかを調べるつもりでいる」

 

 おおよその場所の検討はつくとはいえ、さすがにいきなり強敵のいる場所へ殴り込むといったような無謀なことはしない。アカデミーの実技で多少訓練したとはいえ、俺の冒険者としての力量は頼りないものだ。それこそ、リリーと大差ないだろう。これは錬金術士としての腕を磨くことを優先していたから、仕方のないことだ。錬金術で作った品物を使ってカバーするにしても限界はある。失敗は許されないし、わざわざ無理をする必要も無いので堅実にいく予定だ。

 それに、単純に腕っ節が強ければそれで十分というわけではない。原作と違い、現実に採取へ行くとなれば話は変わる。その辺りで必要になる事柄は、実際に冒険者を雇って徐々に慣れていくしかないだろう。

 まずは近くの森やヘーベル湖といった無難な採取地を巡り、採取できる素材が原作と大差ないかを確認しよう。調合は、ある程度素材が揃ってからでいいだろう。錬金術士としての技量があっても、肝心の素材がなければ調合出来る品物はリリーと変わらない。それに、ヘルミーナに教えつつ調合することを考えると、一通り簡単なものから教えていく必要があるしな。段階を踏まなければならない、とリリーに先程教えたばかりだし。

 それに俺が行ったことのある採取地なら、どういう場所で何が取れるとか何に気をつければいいかとか、そういった助言をリリーにすることが可能だしな。危険な目に合う可能性は、出来るだけ抑えてやらないと。年増女が怪我してもアホめと思うだけだが、一緒に行くイングリドが可哀想だからな。

 

「今の所、話しておくべきことはそのくらいだな。他に何かあるか?」

「んー……。ううん、特にないわ」

「何か困ったことがあったら言えよ? ドルニエ先生に頼まれているし、出来る限りのフォローはするから」

「うん、ありがと」

「――っ!?」

「何よ、その反応は! どうして、そんな壮絶な顔するのよ!?」

「いや、そうは言うけどな……」

 

 もはや天変地異の前触れといっていい有様に、俺は動揺のあまり椅子ごと後ろ飛びしてしまっていた。

 我ながら凄まじい反応だが、リリーを知る人物からしたら、これは当然の反応だと思ってもらえるだろう。

 別人というか、これはもう世界崩壊する前兆とかじゃないだろうか?

 

「リリーが俺相手に素直に感謝するなんて異常事態すぎる。気味が悪いとか、恐怖を覚えるとか、別人ではと疑うとか、世界崩壊とか、色々言いたいことはあるが――やっぱり、お前変だぞ? 大丈夫か? いったい、何があったんだ?」

「心底本気で心配してるような態度なのが余計に腹立つわね……。そんなに、あたしがあんた相手にお礼言ったらおかしい?」

「おかしいというか、気持ち悪い。『アハハッ、あたしのために働けるなんて光栄だと思いなさい!』とか言うなら納得出来るんだが」

「どんだけ歪んだ性格してんのよ、あたしはっ!? あんたが普段あたしのことをどう思っているのか、よ~~く分かったわ」

「まあ、今言ったのは三割冗談としてだ」

「七割も本気で思っているの!?」

「真面目な話、急にどうしたんだ? 良い兆候だとは思うが、少し疑問に思ったんでな」

「そ、それは……」

 

 ごにょごにょと何やら口の中でつぶやくリリー。

 向上心を持つのは素晴らしいと思うが、何が原因でそうなったか分からないので、空回りしないかが心配だ。血気に逸った挙句に大失敗なんてのは、新人には付き物だからな。その失敗を次に生かすことこそが成長する上で大事なことだとはいえ、被害は出来るだけ抑えたい。

 そのために、事情を知っておきたいと思うのだが……。

 

「べ、別にいいでしょ。あんたには関係ないわよ」

「関係ない、ねえ。一応、明日から同じ工房で働く錬金術士になるんだがな」

「ちがっ、そういう意味じゃなくて……」

 

 どういう意味だよ?

 相変わらず、支離滅裂なやつだ。説明すら満足に出来ないとは。

 このまま問い掛けても時間の無駄だし、後日、ドルニエ先生に聞いてみた方が早いか? 俺のいない間に、何かあったのかもしれんし。もしかしたら、俺の記憶が飛んでる原因も、そのせいかもしれないしな。

 

「まあ、いいか。打ち合わせも終わったし、寝ようぜ。もう結構な時間だしな」

「ん、そうね。そうしましょう」

「――っ!?」

「だから一々、ヒクなぁ! ただ普通に同意しただけでしょう!?」

「お、おう。そうだな……」

 

 俺に突っ掛かってこないリリーなんて、イングリドとヘルミーナに出会う前、以来じゃないか? 何かと衝突するのが普通となってしまった今では、違和感しか覚えないな。ただの気分の問題だったら、どうせすぐに戻るんだろうけどな。

 金物製のランプを片手に、物音を立てないようにゆっくりと階段を上る。

 案の定、三人とも既に眠っているようだ。二階は真っ暗だった。

 暗がりの中、山積みにされたままの木箱等に足をぶつけないように、慎重にベッドへ近付く。

 

「おお……っ!」

 

 思わず、口から感嘆の吐息が漏れる。

 ベッドには二人の天使達が、見るものを魅了するかのような愛らしい寝顔で眠りについていた。

 ――ドルニエ先生と同じベッドで。

 

「ちょ、おまっ」

 

 なんて羨まゲフンゲフン……妬まゲフンゲフン……けしからんっ! 男女七歳にして席を同じうせずという教えを知らないのか!? いくらドルニエ先生といえど、さすがにこれは見逃せない! 今すぐ俺と変わるべき、そうすべき! 俺だって二人の匂いを嗅いでクンカクンカしたり、抱きしめてハァハァしたりしたい!!

 ――いや、しかし。危急の問題はそこではなく。

 背後で硬直しているリリーをよそに、俺は改めて事態を把握し直すことにした。

 まず、二階に置かれたベッドの数は二つだ。

 そのうち一つを、ドルニエ先生とイングリドとヘルミーナが占領している以上、残りのベッドは当然一つとなる。

 しかし、これから寝る予定の俺とリリーは合わせて二人いる。

 つまり、この状況が指し示す答えとは?

 

「…………」

 

 俺は無言でランプをベッド横の木製枕頭台に置いた後、どうしたものかと溜め息を吐いた。

 ……ヤバイ。ベッドを買うの忘れていた。

 

 

 

 

 

 

 ええええええぇぇぇぇぇぇえええええええッッ!!!?????

 ちょっと何これどういう状況!? 誰か分かりやすく説明してよ!

 ドルニエ先生の両脇で、抱きつくようにして眠っているイングリドとヘルミーナの姿に、微笑ましい気持ちを抱いたのも束の間。

 はたと我に帰ったあたしを待っていたのは、想定外の事態だった。

 ……そういえば、ベッドを買っていなかったわ。

 小物とかは色々と見て回って確認したから忘れずに買っていたのだけど、家具については前に住んでいた人のを使えばいいやと見過ごしていた。アルトも買い物中に何も言ってこなかったし、あたしと同じく忘れていたのだろう。覚えていたら、さすがに何かしら言ってきたはずだ。

 だって、ベッドを買わなかったから、今あたし達が置かれている状況になってしまうのだから。

 購入しなければならない物を調べておくのはあたしの仕事だったから、その責任はあたしにある。

 でも、たった一つの失敗がこんなことになろうとは……っ!

 

「アルト」

 

 目の前で、あたしと同じように硬直しているアルトに声を掛ける。

 さすがに、アルトも今の状況を看過することは出来ないだろう。

 残されたベッドは一つ。しかし、あたし達は二人だ。この状況を覆すには、どうすれば良いか?

 

「ねえ、アルト」

 

 何か良い手はないかと、すがる思いで再度、彼の名前を呼ぶ。

 するとアルトはこちらを振り返りもせず、やおら唐突にベッドに潜り込んだ。

 

「よし、寝るか。おやすみ」

「えっ?」

 

 お、おやすみって……、えっ? な、何をそんな冷静に言ってるのよ!?

 だ、だって、残ったベッドは一つしかないのよ? いくらなんでも、ドルニエ先生達が寝ているベッドはもう一杯だし、起こして相談するわけにもいかないし。かといって、寝ないわけにもいかないし。

 となれば、答えはおのずと一つしか残ってないじゃない?

 元はと言えば、あ、あたしのせいだし、仕方ないっていえば仕方ないし、我慢しろって言われたら、そうするしかないって分かってるけど……。で、でも、そんなあっさりと言われても、こ、こっちにも覚悟っていうか、その、心構えっていうか、選択権っていうか、ええとだからその……。

 

「ア、アルト?」

 

 どうしてあんたは、そんなに落ち着いていられるのよ!?

 自分でもどうしてこんな焦るのかってくらい頭が沸騰しかけてるのに、相手がこんなにも平然としていると腹立たしくなってくる。

 さっき、お風呂場に乱入してきたときもそうだ。思わず全力でぶん殴ってやったり、お湯をぶっ掛けたり、色々投げつけたりした後で、裸を見られたせいでどんな顔して会えばいいのかとあたしは散々悩んだっていうのに……何事もなかったかのように話し掛けてきた挙句、全部綺麗に忘れているとか何なのよ! 必死に平静な表情を取り繕っていたあたしが馬鹿みたいじゃない!

 今だって、どうしてそんな普通の様子で、ベッドの真ん中を占拠していられるのかが分からない。それとも、あんたからしたらこれくらいなんでもないってこと? そりゃ、あんたみたいな変態からしたら、あたしなんて興味無いんだろうけどさ。にしても、ちょっとは動揺するとか、あたしに何か一声掛けるとかしたらどうなのよ? なんのフォローも無しに、そんな普通に寝られても困る。そう、そんなあたしなんてまるで気にせず寝るような……ん?

 ちょっと待て。なんでさっきから、こちらに背を向けてもう寝る準備万端なんだ、この男は。

 しかも、どう見ても真ん中にいるせいで、あたしが横に入る隙間とかないわよね。

 まさかとは思うけど……そういうこと?

 

「アルト、あんたもしかして一人で寝る気?」

「は? 何をバカなことを言ってるんだか」

「そ、そうよね。いくらあんたでもさすがに――」

「当然、寝るに決まっている。バカか、お前は」

「当然って……。じゃ、じゃあ、あたしは!?」

「一階のソファーとかで寝ろよ。まさか、一緒に寝るとかアホなことをぬかすんじゃないだろうな?」

 

 寝る前から寝言とは器用だな、とこちらに向き直ったアルトが欠伸をしながら言う。

 いくらなんでもそれはないだろう、と思っていたのだけど。

 この男、あたしを差し置いて一人でベッドを使うつもりらしい。

 

「だ、誰がそんなこと言うか! あんたと一緒なんて、こっちからお断りよ!」

「なら大人しく下に行けよ。大丈夫だ、今の季節なら一晩くらいで風邪を引いたりはしないって」

「ど、どうしてあたしが? あんたが下で寝ればいいじゃない」

「それこそ、どうしてだ。ベッドを買い忘れたのはお前の責任だろ、俺のせいじゃない」

 

 ぐっ……! い、今それを言うの!?

 確かにその通りだし、そう言われたら仕方ないってさっきは思ってたけど……でも、こんな対応、納得できるかぁっ!!

 

「女の子をソファーで寝かせて、あんたはベッドで寝るって言うの?」

「誰が女の『子』だ、誰が。都合の良い時だけ子ども扱いしろとか、あつかましいやつだな。十年前に戻ってから出直して来い」

「そんなの出来るわけないでしょうが!」

「出来るわけがないから諦めろ。ほれ、分かったらさっさと寝ろ。おやすみ」

 

 もう話は終わりだとばかりに、あたしに背を向けるアルト。

 え? ……何? 本当にあたし一人、ソファーで寝ろって言うの?

 こ、この仕打ちは酷過ぎない? そりゃ確かにあたしのせいだけど、だからってこれはなくない?

 打ちひしがれるあたしを無視して、アルトは早くも眠る体勢に移っていた。

 フ、フフフ……。

 そうね、忘れていたわ。

 いくら、アルトが錬金術士として素晴らしかろうと。

 いくら、アルトがあたしのことを手助けしてくれようと。

 こいつが、最低で最悪でド変態で大っっっ嫌いな男だってことを忘れていたわ!!

 アルトだけが、ぬくぬくとベッドで寝るっていうのは絶対に許せない!

 

「どきなさいよっ!」

 

 最早、残された手段は実力行使あるのみだ。

 布団を引っ掴み、アルトの背を蹴っ飛ばし、強引にベッドを横取りする。ベッドから転がり落ちるアルトを尻目に、さっさと奪い取った布団に入る。

 あ~、暖かい。そうよね、最初からこうしていれば良かったのよ。アルト相手に、変な遠慮なんてする必要すらなかったわ。

 

「何しやがる、コノヤロウ!」

「野郎じゃありませ~ん、女です~。ほら、さっさと下に行きなさいよ、うるさいわね」

「てめぇ……っ!!」

「あまり騒ぐと皆が起きちゃうわよ? アルトが大好きなイングリドとヘルミーナが起きちゃったら、どうするのよ?」

 

 ふふん、と勝利者の笑みを浮かべてやる。

 ぬぐぐっ、と床から起き上がったアルトが悔しそうに立ち尽くす。

 

「オ・ヤ・ス・ミ☆」

「――っ!!」

 

 ついさっき、アルトがしたように背を向けて会話を打ち切る。

 あー、良い気分だわ。すっかり溜飲が下がるってものよ。

 まあ、さすがにあたしも鬼じゃない。明日は家具屋に行って、きちんとベッドを買ってきてあげよう。イングリドとヘルミーナはあたしと一緒に寝ればいいから、一つだけ買い足せばいいかな。本当ならこのまま一週間くらいソファーで寝てもらう所だけど、寛大なあたしの処置に感謝することね。

 

「……って、ちょっとぉ!? 何してんのよ!」

 

 背中をグイグイと押してくる感触に振り返ると、信じられないことに布団に入ってこようとするアルトがいた。

 

「やめてよ! 落ちちゃうでしょ!?」

「人を落としておいて言う台詞がそれか!?」

「やめなさいってば! 触んないでよ!!」

「俺だって好きで触ってるわけじゃない! 変にやわらかくて気持ち悪い!」

「や、やわらかいって……な、何言ってるのよエッチ!」

「誰がお前なんぞに欲情するか自意識過剰女め! いいから、ベッドから出ろ!」

 

 さすがに男と女では純粋な腕力では敵わず、あたしはベッドから追い出されて床に転げ落ちてしまった。

 し、信じられない! 普通、ここまでする!? 横暴なんてもんじゃないわ!

 落ちた拍子に打ち付けたお尻を撫でながら立ち上がると、アルトはまたもあたしに背を向けて寝る体勢に入っていた。再度、追い出すにしても、残念ながら腕力で劣るあたしに勝ち目は無い。かくなる上は、泣き寝入りするしかないのか。仕方なく、ソファーで眠るしか選択肢はないのか。

 ……いや、いっそのこと、こいつが寝た隙にどかすか、天罰を与えてやろうか。

 暗い感情が、フッと胸の奥底から湧き上がる。

 アルトはそんなあたしに気付いた様子もなく、さっきと変わらずベッドの端の方であたしに背を向けている。なんて酷いやつなんだ。変態だとは思っていたけど、人間性に問題があるとは思っていたけど、もうちょっとあたしに優しくしてくれてもいいじゃないか。そりゃ、あたしのことを嫌ってるのは分かってるし、あたしだってあんたのことは嫌いだけど、でも、こんな時までそんな対応しなくてもいいじゃないの。そんな、もう反論の余地無しって打ち切るように、頑なな態度で背中を向けて……って、あれ? さっきもこうだったっけ? ううん、さっきはもっと真ん中にいたと思う。今、アルトはやや右端の方に寄っている。そのせいで左側になら、ちょうど一人分くらいなら、なんとか入れそうな空間が空いてるわけで……。

 

「……我慢してやるから、好きにしろ。それが嫌なら、下に行け」

 

 あたしに背中を向けたまま、アルトが素っ気無い口調で呟く。

 彼なりに精一杯譲歩した結果、というわけだろうか。ふん、素直じゃないやつ。最初からそうしてくれれば、余計な言い争いもしなくて済んだのに。

 異性と同じベッドで寝るということに、少なからず躊躇いを覚えたけど……結局、あたしは彼の提案に乗る事にした。アルトと背中合わせになるように、おずおずと身を横たえる。

 もちろん、あたしだってアルトと一緒に寝るなんて嫌だ。どうして、変態と一緒になんて寝なければならないのよ。それくらいなら、一人でソファーで寝た方がマシだ。

 でもここで断ったりなんてしたら、まるであたしがアルトを意識してるみたいに勘違いされそうだし。向こうは全然気にしていないのに、あたしばかりが気にするなんてシャクだわ。

 だいたい、ド変態なアルトがあたし相手にどうこうするわけないし、そんなのはさっきのお風呂での対応から分かり切っている。だから、彼を異性として意識なんてする必要はないのだ。ないんだってば。深く考えるな、あたし。変に恥ずかしくなってきてしまうじゃないのよ!

 

「……おい。あまり、くっつくなよ。もうちょっと離れろ」

「だ、誰がくっついてるっていうのよ。しょうがないでしょ、狭いんだから」

「ったく、なんで俺がこんな目に……」

「それは、あたしの台詞よ……」

 

 本当、どうしてこんな目に合わなければならないんだか。

 故郷の家族は勿論、アカデミーでの友達にも絶対に言えないわね。アルトと同じベッドで寝たなんて言ったら、どんな騒ぎになるか分かったものじゃない。お父さんなんかは、嫁入り前の娘がとんでもないとか怒り出すわよね。お母さんは何やら激しく勘違いしていたし、良くやったわねとか斜め上の賞賛を送ってきかねない。アカデミーの友達は、きっとまた面白おかしく騒ぎ立てるに違いない。特に親友に知られてしまったら、恐ろしい程に誤解を増長させてしまうだろう。アルトとあたしはそういう関係じゃないと何度も口を酸っぱくして言ってるのに、事あるごとに冷やかしてくるのだから。

 

「消すぞ」

 

 アルトがランプの火を消すと、部屋の中が真っ暗闇に包まれた。

 布団の引っ張り合いをしながら、瞼を閉じる。

 明日からは、今までとは全然違う毎日を過ごすことになる。

 異国での共同生活という環境は当然ながら、工房の運営という大仕事が待っている。教師として、イングリド達を導いていかねばならないし、何よりもアカデミー建設という偉業を達さなければならない。

 ただひたすら錬金術の勉強に明け暮れた日々からは、想像もつかないような出来事ばかりなはず。

 今までの狭い日常から飛び出した先では、きっと数多くの未知との遭遇が待ち構えているだろう。

 まるで初めて錬金術を知った時のような、抑えきれない高揚感が胸に広がっていく。

 期待が痛い程に、心臓をドキドキと高鳴らせる。けれど、驚く程に不安は感じない。

 大丈夫。

 だって、あたしは一人じゃない。

 皆がいるから。

 ドルニエ先生がいる。

 イングリドがいる。

 ヘルミーナがいる。

 あと……まあ、もう一人オマケがいる。

 

「ねえ、アルト」

「なんだよ? さっさと寝ろって」

「あたし頑張るから。だから……」

「だから?」

「…………」

「おい?」

「お、オヤスミっ!」

「? ああ、オヤスミ」

 

 だから……、一緒に頑張ろうねアルト。

 あんたを頼りにしているから。

 あんたも、あたしも頼ってよね。

 そうしてあたしは、ザールブルグでの波乱の初日に終わりを迎えたのだった。

 

 

 

 ……翌朝、アルトと同じベッドで寝ているのを皆に目撃されて騒がれるなんて知らずに。

 

「違うのよ、無意識なの! 本当に違うんだってば! 最近ずっと、イングリドとヘルミーナを抱きしめながら寝てたから、その癖でつい抱きついちゃってただけで、他意は全然ないの!!」

 

 生温かい視線で見つめるドルニエ先生、きょとんとした顔をするイングリド、どこか不満そうな表情で頬を膨らますヘルミーナ、うんざりした表情で溜め息をつくアルト。

 朝一番から、あたしは涙目になりながら必死に弁解するハメになったのだった。

 それというのも全部アルトのせいだ。

 この変態男のせいなのだ。アルトのせいなのだ。あたしのせいなんかじゃない。

 何度も思ったけど、再認識したわ。

 

 

 

 アルトなんて大っっっっ嫌いッ!!



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閑話 出会い

「では先生、留守番をお願いします」

「いってきます、ドルニエ先生」

「いってきまーす!」

「いってきます」

 

 シグザール王国の首都ザールブルグ。

 職人通りの一角にある赤い屋根の家屋の前に四人の人影があった。

 青年が一人に、彼と同い年程度の女性が一人、幼い女の子達が二人といった四人組だ。

 ドルニエと呼ばれた壮年の男性は玄関に立って彼らを見送ると、一人家の中へと戻った。

 

「さて、私は私で仕事をしなくては」

 

 階段を上り、二階へと向かう。

 主に寝室として使用する予定の二階には、ベッドや洋服箪笥といった家具だけでなく、隅には木製の文机と椅子が置かれている。

 ドルニエは椅子に腰掛けると、引き出しからインク壷と羽ペン、そして上質な紙の束と封筒を取り出した。昨夜は長旅による疲労から早く眠りについたため、必要な手紙を書き終えることが出来なかったので、その残りをしたためなければならない。

 羽ペンの先をインク壷につけ、丁寧に手紙へ文字を書いていく。

 アカデミーへ航海を無事に終えたことの連絡、急な航海を快く引き受けて下さった商人の主への感謝状、明日以降訪問する予定の方々への挨拶状等――事前に用意した分を含めても、まだまだ必要となる手紙は多い。

 ……手紙だけでなく、資料も作成しなくてはならないな。

 錬金術や建設予定のアカデミーについての詳細をまとめた書類の作成には時間が掛かる。しかし、絶対に必要となる以上、手は抜けない。

 自分の見通しが甘かったせいか、とドルニエは苦笑いした。

 錬金術アカデミーへの融資の件についてはけんもほろろに断られてしまったが、はいそうですかと諦めるわけにはいかない。仕事に対する責任感だけでなく、この国に錬金術を普及させたいという使命感もあるからだ。

 日を改めて再度、国王に拝謁を願うつもりだ。せめて、建設予定地の話だけでも許しを得なくてはならない。

 今度は資料だけでなく、実際に調合した品物も持参していく予定だ。最初から持っていっていればとは思うが、それは後になった今だから言えることなのだろう。錬金術という技術が存在して当然の生活をしていたドルニエは、錬金術を知らない相手に対しての考えが楽観的過ぎたのだ。

 ……アルトとリリーが錬金術士として表立って動くのが仕事ならば、私は人と会うのが仕事といっても良い。

 自分の弟子達のことを思う。二人とも、自分にはもったいないくらいの良い生徒達だ。彼らに世話を任せた二人も、将来が楽しみになる子ども達だ。

 彼らが錬金術士として動きやすいように全力を尽くそう。そうでなければ、子供たちの面倒を見てくれている彼らに申し訳が立たない。

 予定では今頃、金の麦亭へ到着した頃だろうか。

 アルトとリリーの目的は互いに異なる。アルトは冒険者へ護衛のお願いをするために、リリーはどのような依頼があるかを店主に確認するためにだ。今日だけでなく、今後も基本は別行動となるらしい。

 二人で相談し合った結果だというのなら、ドルニエからは特に何も言うことはなかった。到着早々に言い合いをする二人を見て若干不安にも思ったが、どうやら問題は無さそうだ。

 二人の仲はアカデミーにいた頃から何度も衝突を繰り返し、一見、険悪そうに思える。しかし、それは離れることなく何度も近付いているということに他ならない。

 ……不思議なものだな。

 仲が悪いのかと思いきや迷いなく手助けをし、かといって仲が良いのかと思いきや些細なことで口論を繰り返す。普通であれば、険悪に相争った後はお互いに喋ることすら気まずく思うものだが、彼らは平然とした顔で話し出す。けれど互いに仲直りしたわけではなく、面と向かって相手を大嫌いだと言い放つ。しかし、協力することに躊躇しない。なんとも、チグハグな印象を受ける関係だ。

 これが若さというものなのか、それともお互いに本心は別にあるのか、余人には窺い知れない複雑な関係のようだ。最初に二人を引き合わせた時には、彼らが今のような関係を築くことになるとは予想だにしなかった。

 ……最初は良好な間柄になれそうで良かったと素直に安堵したものだが。

 ドルニエはインク壷にインクを補充しながら、二人が出会った頃の事を思い浮かべる。

 二人の出会いは、ドルニエがリリーを弟子としてアカデミーに招待したことに端を発する。親元を離れ、単身寮生活をすることになった彼女の助けになればと、当時既に一人の錬金術士として自立していたアルトを紹介したのが出会いだ。

 第一印象は互いに悪くないように思えた。やや緊張しながら会話するリリーに、それを緩和させるように気を遣った話題を提供するアルト。彼らなら、うまくやっていけるだろう。ドルニエは、そう思った。

 実際、出会いから一年間、彼らは共に錬金術を極めんと切磋琢磨する存在として、親しい間柄のように見えた。ドルニエが思っていた以上に、アルトは先輩として公私共にリリーの面倒を良く見てくれたし、そんな彼をリリーも後輩として純粋に慕っているようだった。

 問題があるとすれば、リリーがアルトに若干頼り過ぎる傾向にあるということだろうか。また彼女とは逆に、アルトは仕事が関わるならば多少は融通が利くものの、私的なこととなると極力一人でこなそうとしてしまう点か。

 それらの問題箇所については今も尚、残っている。双方共に、今後の成長課題だろう。老婆心ながら、互いが互いに影響を与え合い、自らを高めあって欲しいものだと思う。

 ……今回の元老院からの提案が、良い切っ掛けになればいいのだが。

 どうだろうか、と思う。

 諦観と期待が半々。今のままでも十分だが、もう少し穏やかになれば平和なのだが。

 文章を書きつつ、今朝の騒動を思い出して嘆息する。

 二人が現在のような奇妙な関係になったのは、出会いから一年後。今から二年前のことだ。

 イングリドとヘルミーナの二人がアカデミーに入学し、アルトの困った性癖が全員に知られることとなったのが原因だ。当時、まだ幼い二人を入学させることに対して学院側からは色々と言われたが、アルトという前例があったために比較的容易に話は済んだ。孤児院の出ということで身元引受人となる必要はあったが、概ね何も問題はなく入学させることができたといって良い。

 だからこそ、ドルニエが変貌したアルトを目にした時には、青天の霹靂とばかりに目を疑ったものだ。入学以来、ずっと彼を見守ってきた自分でさえそうだったのだ。付き合いの浅い他の人達からしてみたら、それこそ冗談のように思えただろう。

 しかしそれでも、ドルニエはアルトの真意を疑う気にはなれなかった。

 あの日、語った彼の言葉に偽りはないと信じているし、彼がリリーや子ども達に向ける思い遣りには、そういった意図は含まれていないと判断しているからだ。彼女達を傷つけるようなことを、彼は決してしないだろう。それは子ども達がアルトから逃げたり恐れたりしないことからも察せられる。多感な子どもだからこそ、悪感情には敏感だったりするものなのだから。

 もちろん、それでも万が一ということはあるかもしれない。決して、そんな間違いがあってはならない。

 けれど、それもリリーがいれば問題はない。

 豹変した彼に対して、彼女もまた随分と変わった。

 それまでの和気藹々とした仲の良さが嘘のように消え去り、罵倒の言葉が挨拶代わりになった。ほんの少しでもアルトがおかしなことをしでかしたら実力行使すら厭わない。信頼していた相手のあまりにもあんまりな姿に、リリーがどう思ったのかは本人にしか分からない。しかし、その最初の一年間があるからこそ、今のような複雑な関係になったのだろう。

 度々、騒ぎを巻き起こす二人に対して色々と思うことはあるが、ドルニエ個人としては今のアルトの変わりようをそう悪くは無いと思っている。どこまで本気で言っているのかは分からないが、良い意味で今の彼の方が生き生きとして見えるからだ。それこそ入学したばかりの頃に比べれば、随分と人間味が出てきたと思う。

 

「あれからもう十年以上になるのか……」

 

 月日が経つのは早いものだ。あの小さかった子が、今やあんなにも大きく成長しているのだから。

 初めてドルニエがアルトと出会ったのは、まだ自分が元老院に入る前の頃だった。

 当時のドルニエは講師として最低限の仕事をこなしつつ、自らの研究を進める毎日を送っていた。

 その日、彼は翌日行う講義の準備を実験室で行なっていた。銀の調合を終えたドルニエが、不備が見当たらないかどうかを確認していた最中、一人の少年が飛び込んできたのだ。

 ――その少年こそが、アルトだった。

 近所の子どもが迷い込んできてしまったのか、とドルニエは溜め息を付いた。錬金術は子どもが触れては危険な代物も多々存在する。大事に至る前に見つけられて良かった。

 ドルニエは彼を叱い、警備の者に預けようとした。実際、普段通りの自分なら、そうしていただろう。

 しかし、

 

『すっげー! なに今の! 手品!? 魔法!? それ、銀だよな! なんで!? どうやったんだ!?』

 

 悪びれた様子もなく、目を輝かせて矢継ぎ早に質問してくる少年を見て、ドルニエは考えを改めることにした。そこまで興奮する程に求めるのなら、少し位は良いだろうと。最近は自分の研究が行き詰っていたせいもあり、気分転換をしたかったせいでもある。

 ドルニエは明日の準備を早々に切り上げ、急かす少年を落ち着かせてから、錬金術とはどういうものなのかを丁寧に説明した。まだ幼い子どもが相手なので、可能な限り難しい言葉を使わずに、けれどきちんとした内容が伝わるように苦労しながら話し掛ける。それでも、少年が理解するにはまだ難しいだろうな、とそう思っていた。

 

『様々な物質を調合によって掛け合わせ、魔力を加えることによって劇的な変化を与える技術、か……。一応は、誰にでも再現可能な技術っていう扱いなんですね』

 

 説明が終わると、ドルニエの話に聞き入っていた少年は、なるほどと頷いた。

 ドルニエは、ほうと感心した。分かりやすく噛み砕いたとはいえ、それでも簡単とはいえない錬金術について、少年はきちんと内容を理解してのけたのだ。

 子どもらしからぬ物言いといい、年齢以上に賢い子どものようだ、と評価を改める。

 

『もっと詳しい事を教えてくれませんか? 例えば、先程の調合に使用した石がありますよね。大きさが変わると完成した際の銀の大きさが変わるだけなのかとか。指先ほどの石や、もっと小さく砕いた石でも同様に銀になるのかとか。条件が同じなら、必ず同じ結果になるんですか?』

 

 良い質問だ、とドルニエは口元を緩めた。

 さすがに無理だろうかと思いつつ、それでももしかしたらとどこか期待しつつ、錬金術の基礎の触り部分を語る。

 説明を終えると、すぐさま反応が返ってきた。きちんと理解した上での返答と質問だ。

 まさかと思いつつ、再度幾つかの問題を投げ掛けるも、それら全てに少年は模範解答を示してみせる。

 ドルニエは手探りをするかのようにして、徐々に説明の内容を変えていった。既に頭の中に、話し相手が子どもだという考えは無かった。生徒の理解度を測るように話の難易度を、次第に段階を踏んで上げていく。

 いったい、どこまで話についてこられるのだろうかと、ドルニエ自身、少年に教えることが面白くなってきていた。少年の理解力もさることながら、その貪欲なまでの知識の吸収力と、錬金術に対する探究心に胸を打たれた。自分の言葉の一つ一つに対して反応があり、その返答によって気付かされることもあった。愉快だ、とドルニエは少年に説明しながら感じていた。

 すっかり忘れていた。アカデミーで生徒達に教えている時も、研究をしている時も。最近ではただ仕事としてこなすだけだったり、打ち込むだけだったりで、錬金術を楽しむことを忘れていたのだ。

 そのことに気付かされ、ドルニエの説明にも熱が入る。アカデミーの生徒達に講義する時と同じような内容を、大真面目な顔で少年相手に教える。

 ――だからだろう。ドルニエは普通であれば、少年に抱くであろう感情を一切感じなかった。良くも悪くも、彼は錬金術士だったのだ。

 二人で時を忘れて喋り続け、ふと気付いた時には子どもが外出するにはまずい時間帯となっていた。まだ聞き足りない、といった様子で渋る少年に、日が暮れては危険なので帰宅するようにと諭す。

 しかし、ドルニエもまた彼と同じように、まだ話したりないと心残りを感じていた。

 授けた知識を恐ろしい程の勢いで吸収し続ける少年を見て、その才能をここで手放すのは惜しいと思ったのだ。彼が錬金術士として成長すれば、今ある錬金術をさらに発展させられるかもしれないという打算も、少なからずあった。

 けれど何よりも、錬金術について質問をする際の、少年が浮かべる楽しそうな笑顔が印象的だったのだ。本人が知りたがっているのなら、その機会を上げるべきではないかと。

 だから、ドルニエはアカデミーへの入学を少年に薦めた。もし望むのなら私自ら教えようと、そう口にした。今までは研究を一番に考えて弟子は取らなかったが、彼ならば是非自分が教えたいと思ったのだ。

 少年の反応は良かった……いや、あまりにも良すぎた。

 嬉しそうな顔で頷いたかと思うと、彼は明日からでも通いたいと言い出したのだ。

 さすがに、その反応は予想しておらず、ドルニエは動揺した。もう少し大きくなったら、と考えていたのだ。

 少年はあまりにも幼い。その年齢で人生の生き方を決めるには早すぎる。同時に、今日話していた限りでは問題なさそうではあったが、やはり他の生徒達と一緒に講義について来られるのだろうかという心配も少なからずあった。金銭面に関しては、彼の着ている衣類が上等な物だったのでそこまで心配はしていなかったが。

 しかしドルニエが何を言おうとも、少年は頑として引き下がらなかった。

 錬金術を学びたいんです、の一点張り。どうしてそこまでこだわるのか、この時のドルニエにはまだ理解出来なかった。ほんの数年待つだけで良いのに、と。

 結局、そこまで決意が固いのならばと、ドルニエは二つの条件を彼に提示した。それに応えることが出来れば、入学を認めると。

 その条件とは、ご家族へ錬金術アカデミーに入ることの了承を得ること。

 そして、半年後に行われる入学試験へ合格すること。

 この二点だ。

 特に一番目の条件は必須だった。例え、大人顔負けの知能を持っているとしても、彼はまだ両親の庇護を必要とする年齢なのだから当然だ。

 お互いの情報を交換し合い、意気揚々と自宅へ帰っていた少年を見送ったドルニエは、すぐさまアカデミーでの根回しに移った。彼の側だけではなく、受け入れる側でも多数の問題があったからだ。

 少年の名は、アルトヴィッヒ・フォン・ファーゼルン。貴族の次男で、六歳になったばかりだという。当然ながら、貴族の子どもを受け入れるには少なからず対処が必要となる。また、若き才能を伸ばすために若い頃からアカデミーに入学させることがあるとはいっても、いくらなんでも彼は幼すぎた。

 アカデミーへの入学を認めると言ったのは、完全にドルニエの独断だ。たかが一講師にそんな権利はない。

 しかし約束をした以上、どうにかしてアカデミー側に認めさせなければならない。半年後の入学試験までに、少年を入学させるにあたっての諸所の問題を解決しておく必要があった。

 その日から半年間。

 色々と頭を悩ませ、足を棒のようにして駆け回り、ドルニエはやっとの思いで少年の受け入れ態勢を整えた。今思えば、我ながら無茶なことをしでかしたものだと苦笑いしてしまう。

 そして彼――アルトはドルニエの期待に見事に応え、無事にアカデミーへ入学することとなった。試験を満点で通過するという異例の事態を成し遂げるオマケつきで。

 アルトを預かる際、事前にドルニエは彼のご両親へ挨拶に伺った。今後はアカデミーで寮生活を送ることになるので、自分が責任を持って私生活でも面倒を見るという約束になっていたからだ。

 何度もお会いして話し合った結果、アルトはとてもご家族に愛されているようだと思った。錬金術について調べ上げ、錬金術士という職業について、まるで自分達がなるかのように理解していた。ひたすらに彼のことを案じ、大切に思い、その上で彼の意思を認めたのだ。自分達の手の届かない場所へ手放すことに、どれだけの葛藤があったことか計り知れない。

 だからこそ、その時に託された言葉が印象に残った。

 

『先生、どうかアルトを一人にしないであげて下さい』

 

 どこか悲しみを堪えるように微笑む御主人の表情を、今でもドルニエははっきりと覚えている。

 その時は、子どもだから寂しがらせないようにという意味なのかと安直に思っていた。

 自分が思い違いをしていることに気付いた時には、既に手遅れだった。知っていたとしても、どうにか出来る自信は無い。ドルニエに出来たのは、ただ彼に錬金術の知識を授けることだけだったのだから。

 ……そう。彼を繋ぎ止めたのは家族であり、開放したのは――

 

「ただいま戻りました、ドルニエ先生ー」

「ただいまー!」

 

 玄関のドアが開く音と共に、元気良く響き渡る声。どうやら、生徒達のお帰りのようだ。

 一瞬にして静寂が去り、賑やかな笑い声が家中に木霊する。

 ドルニエは羽ペンを握る手を止め、彼女達を迎えるために椅子から立ち上がった。

 階段を降り、一階へ向かうと笑顔のリリーとイングリドの姿。さっそく、素材を引っ張り出して作業をしようとしていることから察するのに、丁度良い依頼が見つかったのだろう。

 

「おかえり、リリー。イングリド」

 

 自分が彼女達に出来ることは、そう多くは無い。

 それこそ、錬金術に関してのことだけかもしれない。

 けれど、だからこそ今出来る全てで彼女達を支援してあげなくては。

 何より、自分に出来ないことに関しては、頼れる自慢の弟子達がいるのだから――

 

 

 

 

 

 

 彼は代わり映えのしない退屈な毎日が大嫌いだった。

 いっそ、唾棄していたと言ってもいい。

 来る日も来る日も畑仕事の繰り返し。

 うんざりするほどに見慣れた光景。

 閉塞された村での、変化の無い日常に嫌気が差していた。

 このまま漫然と生きていた所で、何も面白みが無い。

 ただ緩やかに終わっていくだけの平凡な人生。

 そう思ったら、居ても立ってもいられなくなった。

 気付けば、衝動に促されるがままに彼は村を飛び出していた。

 置手紙を自室に残し、十六年間を過ごした故郷を後にする。

 荷袋を肩から吊り下げ、お古の長剣を腰に差し、意気揚々と足を運ぶ。

 確かな事など何もない逃避行。若さに任せただけの無謀な旅路。

 家族に知られようものなら、何を馬鹿なことをと諌められること確実な出立。

 されど、地を踏みしめる足取りは軽い。

 若者特有の後先考えない浅はかな行動は、大人から見ればさぞ愚かな事に見えるだろう。

 しかし、その浅慮な道行には夢を見る人間の切なる思いが込められている事は確かなのだ。

 連綿と語り継がれる叙事詩に憧れ、眩く輝く未来を夢見ての彼の冒険は、そうして始まりを告げた。

 

 ――その結果。冒険者生活初日から、現実の厳しさを思い知らされる羽目になったのだが。

 

 辛うじて道としての機能を残した街道を、獣や魔物、盗賊に怯えながら先を急ぐ。

 勘違いされては困る。当然、村では少なからず狩猟の経験がある。

 しかしその際には、慣れがあったし、生息している獣も熟知していたし、何より頼りになる仲間達がいた。

 けれど、今はその全てが無かった。自分以外頼る者のいない孤独な生活。

 早くも挫けそうになったが、さすがにそれは情けなさ過ぎるだろ、と自らに発破を掛けて先へ進む。

 幸い、何も危険な目に遭遇することなく首都へと辿り着くことができた。

 安堵の余り、門の衛兵の前で尻餅をついてしまったのはご愛嬌。

 街で彼を待っていたのは、更に厄介な問題の数々だった。

 まず田舎者への洗礼とばかりに、物価の違いに唖然とさせられる。村での二倍の値段なんていうのはまだ良い方。酷いのになると、その十倍の値段。なけなしの資金は、このまま何もせずにいれば一週間とせずになくなってしまうだろう。

 その後も様々な問題が次々と浮かび上がり、その度に場当たり的に対処していく。

 

 ――こんな筈じゃ、なかった。

 

 そんな風に弱気になる自分を喉の奥に押し殺し、必死の形相で冒険者としての生活に食らい付く。

 諦めるものか、諦めてたまるものか。

 非情な現実に対抗し、夢を見続ける毎日。

 やがて、そんな日々にもあっさりと限界が訪れた。

 誰に言われるともなく、自然と理解していた。

 本当の所、最初から自分でも気付いていたことだ。

 

 自分には、冒険者としての力量が足りていないことなんて――

 

 彼の実家はケシ農家であり、農作業で体力には自信があった。木登りだって村一番だと自負していた。

 が、しかし。それと冒険者としての実力は何ら関係ない。

 冒険者の酒場で知り合った先輩冒険者達と語らいあう内に、自分が抱く根拠の無い自信が揺らいでいった。本当に、自分は冒険者としてやっていけるのだろうか?――と。

 悪のドラゴンを倒したり、囚われのお姫様を救ったりする英雄に憧れた。

 いつかは自分もそんな風になりたい、と思った。けれど、現実はそれ以前の問題だった。

 駆け出しの冒険者として、配達の依頼やら何やらのちょっとした便利屋の真似事のような依頼を受けて糊口を凌ぐ毎日。刺激のある生活を求めて村から出て来たはずなのに、やってることは以前と大して変わらない。

 

 ――こんな筈じゃ、なかった。

 

 現実を思い知らされる。夢は所詮夢なのだと事実を叩きつけられる。

 それでも、諦めることは出来なかった。諦められるほどに潔い性格ではなく、達観するには彼は幼すぎた。元々、楽観的な性格だったせいもある。

 いつかきっと、冒険者として成功してみせる。

 自らに言い聞かせるようにして、毎日を送っていたある日。

 彼は、とある人達に出会った。

 それは、彼の人生に影響を与えた運命的な出会い。

 見慣れぬ格好をした人達は――錬金術士という存在だった。

 

「アルトさん、良かったのかい? リリーさん……だっけ? 彼女達が一緒じゃなくて」

 

 テオは酒場の出入り口から出て行く二人の少女達を見送りながら、正面に腰掛けた男性に問い掛けた。

 痩せ型の長身で、性格は至って温厚。都会的な雰囲気を持つ異国人の優男だ。自分とそう大差ない年齢に見えるが、落ち着いた物腰のせいでやけに大人びて見える。彼は昨日、挨拶したばかりの錬金術士達の一人だ。

 今、酒場から小さな女の子の手を引いて一緒に出て行った女性がリリー。昨日聞いた話では、彼女も同じく錬金術士らしい。彼ら二人とは知己となったばかりの間柄だ。

 先程、テオが依頼を探していた時に彼らを見つけて声を掛けた時には、酒場の主人ハインツと四人で話していたのだが、リリーともう一人の女の子はそのまま帰ってしまった。

 後で話がある、とアルトに言われて待っていたのだが、彼女達が一緒でなくていいのだろうか?

 アルトは店員に、自分の分と隣に腰掛けた小さな女の子の分の注文を頼むと、こちらへメニューを差し出してきた。右手を振り、いらないと言う。自分は水で十分だ。節約しなければ、生活が立ち行かない。

 

「リリー達はハインツさんの所へ依頼の確認をしに来ただけだからね。今日は僕とこの娘、ヘルミーナの二人で話をしたいんだ。ヘルミーナ、彼に自己紹介を」

「こんにちは、はじめまして。ヘルミーナです。よろしくお願いします」

「オレはテオ。えっと、よろしく、ヘルミーナ」

 

 アルトに促され、少女がちょこんと頭を下げてくる。テオのいた田舎では、まず見かけないような、繊細で可憐な気品ある少女だ。まるで一級品の人形のようだ、とテオは思った。冗談抜きに触れたら壊れそうで怖い。大口開けてガハハと笑い、こちらの背中をバシーンと叩いてくる田舎の女達とは大違いだ。

 瞳の色が左右で異なるのが特徴的。アルトもそうだし、さっきリリーの隣にいた少女もそうだった。リリー以外の全員が同じ特徴だと考えると、もしかしたらお国柄なのかもしれない。そうだとしたら、リリーだけは出身国が違うのだろうか。

 

「今日はいてくれて良かったよ。先日の埋め合わせついでに昨夜飲みに来たのだけど、姿が見えなかったから気になっていたんだ」

「ごめん、そうだったのか。ちょうど夜の仕事があったんだ」

 

 簡単に言ってしまえば、納入の手伝いだ。冒険者らしい仕事とは言えない。カッコ悪く思えてしまい、テオはつい言葉を濁して誤魔化してしまった。

 

「いやいや、こちらこそ悪かったね。先日は僕が体調を崩したせいもあってあまり話せなかったから、あの時のお礼も兼ねて一杯奢ろうと思っていたんだ」

「そんな感謝してもらわなくてもいいってば。お礼ならハインツの親父さんに言ってくれよ」

「もちろん、したさ。いまさっきね」

 

 つい、とアルトの視線がハインツの方へと向く。釣られて視線を動かすと、カウンターの片隅に小瓶が一つ置かれていた。その中には飴のようなものが幾つか入っている。

 

「あれはお酒アメという錬金術の調合品だよ」

「お酒アメ?」

「簡単に言えば、お酒を飴状に固めた物だね。度数が低いからお酒を飲めない人にもオススメできる一品だよ」

「へー……そんなものも作れるのか、錬金術士っていう人達は」

「こっちへ航海する際に船員へ手渡した物の残りだけどね。これは内緒だけど、作業をしながらバレないようにお酒を楽しめるのがウリだね」

 

 アルトは人指し指を口の前に立て、悪戯めいた笑みを浮かべた。彼の雰囲気からもっとお堅い人物を想像していたけれど、意外に話しやすい人物なのかもしれない。

 

「錬金術士というのはリリーが説明した通り、物質と物質を組み合わせて新たな物を作り上げる存在だ。あの飴みたいな嗜好品から爆弾みたいな危険物まで、作れるものは本当に幅広い。それこそ、知識と技量と器材、それともう一つがあれば作れない物はないといっても良いかもしれない」

「それはすごいな! で、そのもう一つっていうのは?」

「当然、元となる素材さ。合成させる大元の物質がなければ何も作れやしない。材料の中にはサラマンダの尾とか、魔物を退治しなければ手に入らない物も少なくないのが難点だね。――そこで頼みがある。キミに僕達二人の護衛の依頼をお願いしたいんだ」

「護衛? そりゃ、出来るならやってみたい、けど」

 

 倉庫の整理だの何だのといったものより、よっぽど冒険者らしい仕事だ。自分にやれることならやってみたい。

 けれど……。

 

「でも、オレは……その」

 

 他の誰でもなく、アルトは縁があったとはいえ自分を頼ってきてくれた。そのこと自体は凄く嬉しいし、彼の期待に全力で応えたいと思う。

 けれど、一つの事実が返答を躊躇わせる。

 駆け出しだから、実力不足。

 宥めるように、諭すように、何度となく皆に言い聞かされた言葉が頭の中で繰り返される。

 自分でその事実を認めて相手に伝えるには、あまりにも情けなくてつい口ごもってしまう。

 そんなテオの内心を察してか、アルトは分かってるよとばかりに首肯した。

 

「駆け出しでも大丈夫。しばらくは護衛といっても、そう大げさなものではないんだ。近くの森とか、そこまで危なくない場所に出掛ける際に頼みたい。予定日はまだ決まっていないが、近いうちに二・三日ばかり。その後は時間が合う時に調整してになるかな」

「そのくらいなら平気……だと思う」

 

 自信を持って断言出来ないのが歯がゆい。

 

「不安に感じるかもしれないが、実はもう一人、ある程度腕の立つ冒険者も雇う予定なんだ。だから、危険性はほぼないよ。その時に良ければ、その人から冒険者として必要な事や現地での心構えを、キミに学んでもらいたい。護衛となると、また色々と勝手が変わるだろうしね。金額としては、日数契約でこのくらいでどうだろう?」

 

 アルトに提示された金額は、十分満足出来るものだった。うまくいけば、今持っているお金と合わせて新しい武器か防具を買えるかもしれない。そうすれば、今よりも強くなれる。

 すぐにでも飛びつきたいくらいの好条件。何から何まで、自分にとって破格といっていい程の待遇だ。

 しかし、だからこそ、テオは気が引けてしまった。

 

「なあ、アルトさん」

「ん、なんだい? どこか不満な点や、おかしな部分があったかな?」

「いや、そうじゃないんだけどさ。むしろ、オレにとって条件が良すぎないかい?」

「もちろん、裏が無いってわけじゃないさ」

 

 ニヤリとわざとらしく人の悪い笑みを浮かべるアルト。

 ……どうやら、何か他にもあるらしい。都会のうまい話には気をつけろ、と田舎では良く囁かれていたけど、まさかその類なのだろうか。

 ひそかに戦々恐々とビクついていると、アルトは運ばれてきた飲み物にゆっくりと口をつけた。

 

「さて、ここからが本題だ――といっても、難しいことじゃない。今後、リリーが護衛を探していたら声を掛けてやって欲しいんだ。こっちに来てまだ知り合いも少ないし、少しでも面識のある相手の方があいつもやりやすいだろうしね。色々と間の抜けた所があるやつだから、その辺はうまくフォローしてやってほしい。そのためにもキミに冒険者としての経験を少しでも多く積んでもらって、それを次回以降あいつの時に生かしてやって欲しいんだ」

「なるほ……ど?」

 

 ふむふむ、ともっともらしく聞いていたテオは、うん? と小首を傾げた。先程のアルトの言い様だと、悪巧みの誘いとかではなく、純粋に同僚を心配しての相談事のように思える。

 いや、同僚の面倒を見るにしたって、これはいささか過保護だろう。彼女が雇う相手を斡旋し、尚且つその冒険者の力量を育てる。いくらなんでも、ここまでフォローする必要はないだろう。

 ……それとも、他に何か特別な理由でもあるのか?

 テオは昨日の騒動を思い出し、その時の彼らの様子を考え、なるほどと改めて頷いた。

 

「ああ、そうか。アルトさんとリリーさんは恋人同士なのかい?」

「――あ!?」

 

 ギシリ、と空気が軋んだ。

 ……ヤバイ。なんか今、ドラゴンの逆鱗に触れたっぽい。

 ニコニコと自然な笑みを浮かべるアルトは、表面上何も変わっていない。上機嫌に見えるといってもいい。

 しかし、明らかに空気が変質していた。彼から放たれる怜悧で重厚なプレッシャーは、すぐさま泣いて慈悲を乞うか、回れ右して逃げ出したくなるほどだ。

 咄嗟に助け舟を求め、先程紹介された女の子――ヘルミーナに視線を向けて縋り付く。

 

「……?」

 

 小さな両手でカップを持ち、こくこく、と美味しそうに果実水を飲んでいるヘルミーナ。彼女はきょとんと目を瞬かせてこちらを見つめ返してきた。まるで状況が理解出来ていない。

 彼女には、ビュオオオオと効果音付きでアルトの背後から雪風が吹き付けてくるのが見えていないようだ。いや、それは錯覚。幻覚だ。落ち着け、落ち着くんだ。クケケケとどこからか不気味な笑い声が響いてくる気がするのもただの幻聴だ!

 ドッと滝のような冷や汗が、テオのこめかみを伝う。知れず、ガクガクと全身が震える。

 

「今、なんて言ったのかなぁ?」

「いっ、いやだってさぁ! リリーさんが雇う相手として俺を先に雇い、他の先輩冒険者雇ってまで手伝わせるとか。すげえ大事にしてるじゃん! 普通、いくら同僚だからって理由だけでそこまでしないって!」

「誰があんなやつのことを大事にしているものか。どこをどう見たら、そうなるんだ」

 

 いや、どこをどう見てもそう見えます――当然、そんな返答は口が裂けても言えないが。言った瞬間、どうなるかは分かりきっている。例え、十人中九人が同意するような事実であったとしてもだ。

 アルトは不貞腐れたような態度で言い捨ててそっぽを向き、「どいつもこいつも、なぜそんな勘違いをするんだ」と苛立たしそうに髪をかきむしった。そんなみっともない態度でさえ、どこか様になっているのだから神様は不公平だ。

 ともあれ、アルトの言うことを信じるならば、彼とリリーはそういう関係ではないらしい。むしろ、嫌っているように思える発言内容だ。

 言ってることとやってることが激しく矛盾している気がするが、とにかくそういうことらしい。

 そしてもし、アルトの言うことが事実なのだとしたら、リリーには今特定の相手はいないということになる。

 ……可愛い子だったし、喋ってて面白そうな相手だったし、仲良くなれるといいなぁ……。

 そんな思春期真っ只中な少年に相応しいことをテオが考えていると、いつになく真面目な顔をしたアルトが「断っておくが」と向き直ってきた。

 

「もし、あいつに手を出すつもりなら……必ず、僕に言うんだ。これは絶対にだ」

「え?」

「これはキミのためでもある。分かるね?」

 

 それはもしかして、『娘をお前みたいな馬の骨になんぞやれるか! どうしてもと言うなら、俺を倒してみろ!』みたいなノリなんでしょうか。あるいはやっぱり彼女に気があるんでしょうか。ていうか、どっちにしても目がマジすぎて怖いですヤバイです半端ないです。

 

「分かったか、分からないか、返事!」

「は、はいっ!」

「それは重畳」

 

 アルトは満足そうに頷き、一息に果実水を飲み干した。

 彼の豹変振りはいったいどういうことかとヘルミーナに視線を向けても、彼女は相変わらずニコニコと笑みを浮かべるだけで何も気にした様子は無い。いや、そもそもだ。大の男がこんな小さな女の子に答えを求める時点で間違っている。

 テオは一連の話の流れを鑑みた後、やがて晴れやかな笑みを浮かべた。

 ……うん、無理!

 いやいやいやいや無理だ、これ無理。こんな過保護且つ恐ろしい相手がバックにいたら、怖くてそういう対象には見れないって。しかも、アルトが本当のところどう思っているのか怪しいもんだし。

 良いお友達で、と自らの想像に結論付ける。

 さらば、可愛い女の子との出会い。現実はそう甘くないってことか。

 

「ああ、それと。分かっているとは思うが、今まで話したことは他言無用だ。特に、リリーには絶対に教えないように。変な勘違いをされると始末に困るからね」

「…………」

 

 変な勘違いも何も、どう考えたって答えは一つしか思い浮かばないのだが。

 

「もし、あいつに知られるようなことがあったら……」

「そ、そうしたら……?」

「キミには責任を取ってもらおうかな?」

「ア、アハハ……」

 

 やっだー。冗談めかして言っても、目が全然笑ってないじゃないですかー!

 ……この人、第一印象は紳士的な好青年だったけど、本質は絶対違うな。

 テオは出会って二日目にして、アルトの印象を改めた。基本良い人っぽいけど、結構腹黒な部分がある人だと。

 

「わ、分かった。気をつけるよ」

「うんうん、素直でよろしい。とまあ、脅かすのはこのくらいにしておこうか。信頼関係は大事だしね」

 

 ……やっぱり、脅しなんじゃないかよ!!

 そんなに心配なら自分以外のもっと信用出来る相手でも良かったんじゃないか。そんなちっぽけな反論を、口には出さずに内心で呟く。抵抗するには、先程抱いた恐怖心が大きすぎた。

 それでも、どこか面白くなくてブスッとむくれた表情をしてしまう自分がいる。

 

「そう怒らないでくれ、僕が悪かったよ。果実水を一杯どうだい? 奢るよ」

「お礼ならいらないって、さっき……」

「これはお詫びだよ。もしくは、口止め料ってことで」

 

 すっかり元通りの好印象を与えるような笑みを浮かべたアルトに言い包められ、言われるがままに注文する。そうして好青年の如き態度を取られると、先程見たものが夢幻であったかのように錯覚してしまいそうだ。

 運ばれてきた久しぶりとなる果実水を味わいながら飲む。田舎にいた頃は何気なく飲んでいたものだが、こうして飲んでみると実に美味しく感じるから不思議だ。

 

「キミを雇う一番の理由をまだ言ってなかったね」

「え? なんだい、それ?」

「それは、キミが信頼出来る人間だと思ったからだよ。これでも人を見る目はあるつもりだ」

「ええ!?」

「冒険者を信用していないわけじゃないが、中にはそういう人間がいてもおかしくないからね。天使と見紛うほどに可愛らしい女の子を相手に血迷うのも無理はない。あの子はあらゆる意味で素晴らしい少女だからね。けれど、いくら優れているといっても、小さな女の子だということには変わりない。何か問題が起きた場合、自分で対処出来るかは難しい所だろう」

 

 ……やっぱり、リリーさんのこと好きなんじゃないのか?

 饒舌に語るアルトを、テオは半目でじとーっと見つめた。嫌いな相手を可愛らしいだの、素晴らしい少女だのと言う人間はいない。いるとしたら、余程屈折した人間だけだろう。

 同年代の女の子を小さなと表現するのは疑問に思えるが、アルトからしてみたらいつまでたっても手が掛かる後輩には変わりないのかもしれない。子離れできない親、という言葉がふと頭に思い浮かんだ。

 

「だから、キミなんだ。信頼出来る相手でなければ、彼女を任せることは出来ない」

「俺なら信頼出来る、と?」

「少し違うな。――テオだから信頼するんだ」

 

 アルトが、笑みを作って言う。昨日出会ったばかりの相手に向けるには過分すぎるほどの温かい笑いだ。

 ……ズルイなぁ。

 先程、自分を相手に冷ややかな態度を取った癖に。落として持ち上げるとか、本当、この人は腹黒いな、とテオは思う。同時に、そうと分かりつつも嬉しくなってしまう自分がいる。

 冒険者として信頼されるには、まだまだ未熟だ。応えることは出来ないだろう。

 けれど、人間として信頼してくれる相手に応えるのは簡単だ。全力で向かい合えばいいだけのことなのだから。

 燻り続けた自分の中の何かが、熱を持って動き出すのを感じる。

 テオは素直に、頷いた。

 

「分かった。期待に沿えるように頑張るよ」

「頼んだよ。キミなら彼女を守ってくれると信じている」

「もし仲良くなって彼女と付き合うことになったら、きちんとアルトさんに言うよ」

「ふざけるなっ! 誰が彼女をお前に渡すものか! ぶん殴るぞ、てめぇ!!」

 

 一瞬にしてキャラが崩壊していた。

 ……ついさっき自分で言った台詞、全否定じゃないか!

 いったい何がしたいんだ、この人は。

 殺意が込められた眼差しで今にも殴りかからんとするアルトに、テオは土下座せんばかりに謝り倒し、絶対にそんな間違いは犯しませんと神に誓った。理不尽だ、と心の中で涙を流しながら。

 必死の説得の甲斐あって、どうにか憤懣を抑えてもらい、ほっと胸を撫で下ろす。

 アルトは苛立ちを抑えるように長々と溜め息をついた後に、そういえばと言った。

 

「まだ名前を教えていなかったな。リリーと一緒にいたあの子の名前は、イングリドだ。俺とリリーだけでなく、イングリドとヘルミーナも錬金術士だよ」

 

 と、アルトが隣に座るヘルミーナへ片手を伸ばしながら言う。

 話題に出された少女は、アルトに頭を撫でられて気持ち良さそうに微笑んだ。

 

「えっ、でもまだこんな小さいのにかい?」

「彼女たちは天才だよ。それこそ、知識だけならリリーより優秀かもしれないな」

「そ、そうなのか」

 

 テオは、信じられない、といった思いを隠しきれなかった。錬金術という技術については知らないが、少なくともそれはまだ幼い子どもが学ぶには難しい物だろうと予想が付いたからだ。

 少なくとも、子どもだからといって見かけだけで侮っていい相手ではない。

 まるで相手が自分の知らない未知の生き物であるかのように思え、反射的に警戒心を抱く。途端に、今までの子ども然とした態度ですら疑わしく思えてきた。

 

「……だけどさ」

 

 そんなテオに気付かない様子で、アルトはヘルミーナの髪の毛を指先で梳く。

 

「天才だけど、一人の華奢な女の子であることに変わりは無い。彼女達が傷つくことのないように、しっかりと守ってあげないとな」

 

 事実は事実として認めた上で、それに拘泥せずに一人の人間として真摯に相対する。

 最初から色眼鏡で見ずに、きちんと相手を評価する。簡単なことのようで、難しいことだ。

 アルトは色々と問題のある性格をしているけど、その考え方は良いものだとテオは思った。同時に、先程の自分が愚かだと。ごめん、と胸中でヘルミーナに詫びる。

 

「そのためにも、腕の立つ冒険者が必要だ。可能なら女性がいいんだが、心当たりはあるかな?」

「女性?」

「ああ。女性の方が、何かと心配事がなくなるからね」

 

と、アルトはくすぐったそうにして頬を染めているヘルミーナを見て微笑みながら言った。



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登場人物

一章終了時点での主要な登場人物の紹介となります。


●アルトヴィッヒ・フォン・ファーゼルン(Altowig-Von-Ferzelen)

 Age:18歳 Height:182cm Weight:68kg

 本作の主人公。現実から転生(?)した青年。略称はアルト。

 その境遇に当初は色々とあったものの次第に落ち着いていき、現在はこの世界を第二の人生と考え、自分なりに好き勝手に生きようと思っている。

 容姿端麗、才気煥発、貴族という家柄にも関わらず、分け隔てなく他者を気遣って見下したりはしない穏やかな人柄で、アカデミーの女生徒だけでなく、男子生徒や教師陣からも人気を評していた……。

 が、しかし。実は幼女趣味という終わっている性癖の持ち主。周囲に知られてからは『天才だけど変人』と評価されるも、自身に実害がないためか、その人気は相変わらず衰えていない。

 完璧人間なのは表向きの装いで、一部の親しい人間を相手にする際は、年相応の砕けた態度を取ることもある。砕けすぎるあまり、問題を起こす事も多々。

 イングリドとヘルミーナを巡って、リリーとは犬猿の仲。彼曰く『12歳より上は見る価値すらない』らしく、リリーのことを『年増』『売れ残り』と面と向かって罵っている。

 現在はリリー、イングリド、ヘルミーナ、ドルニエの四人と共にシグザール王国の中心都市ザールブルグに在住。今後は錬金術を広める事とアカデミー建立という目的のために、活動することになる。

 

 

●リリー(Lilie)

 Age:17歳 Height:159cm Weight:50kg

 原作『リリーのアトリエ』の主人公。色々と原作とは異なる部分の多い少女。

 ユリの花が由来の名前は、家が貧しいのでせめて物腰だけは女らしく優雅に、という願いが込められたが、生憎とじゃじゃ馬に育ってしまった。

 何事にも熱中しやすいタイプで、現在は錬金術を極めることが目標。

 原作とは異なり、アカデミーに入学してからはアルトに様々な事で頼っていたので、私生活や社交的な面など、残念な部分が多い。

 現時点ではアルトは言うまでもなく、イングリドやヘルミーナより錬金術の技量で劣る。しかし、錬金術に対する情熱だけは凄まじく、天才と周囲から謳われるアルトを以ってしても敵わないと賞賛させるほど。努力の天才。

 イングリドとヘルミーナからは先生と呼ばれ、母親のように慕われている。アルトの魔の手から彼女達を守るべく、彼の性癖が判明してからは毎日のように喧嘩している。ただし周囲からは違って見えるらしく、何故か頻繁にありえない勘違いをされて困っている。本人は大真面目にアルトを嫌っており、『変態』と呼んで憚らない。口論だけでなく、時には物理的にお仕置きすることもある。

 才能ではなく、独学で知識を身に付けた努力を元老院に認められ、今回大抜擢された。今後は彼女が主に前面で活動し、アルトはその補佐という役割で工房を経営していくことになる。

 

 

●イングリド(Ingrid)

 Age:10歳 Height:138cm Weight:33kg

 八歳からアカデミーに所属しており、年齢に相応しからぬ錬金術の知識、技能を持つ素質溢れる少女。いわゆる神童。

 勝気で短気で自信家といった性格で、ケンカになると口より先に手が出てしまうタイプ。同じような立場と年齢のヘルミーナとは仲が良いのか悪いのか、言い合いから発展して取っ組み合いのケンカをすることも。もしかしたら、アルトに対するリリーの態度の影響を受けているのかもしれない。

 アルトのことは、彼がリリーと頻繁に喧嘩しているせいもあり、あまり良く思っていない。だが錬金術士としての腕は認めており、彼が自分とヘルミーナに対して優しく包み込んで守ってくれていることも嬉しく思っている。なのに、どうしてリリーに対してだけああいう態度なのかと、ご立腹。

 リリーのことを先生と呼び、母親代わりとしても懐いている。リリーがどこかに出かける時は、アヒルの親を追いかけるヒヨコのように、後ろをついて離れない。トイレの個室の中にまでついてきそうになった時は、さすがに止められた。

 今回イングリドとヘルミーナが懐いている人達が全員渡航してアカデミーにいなくなってしまうせいもあり、後進の育成のためにもという名目で同行することになる。今後はリリーと共に行動することになる。

 

 

●ヘルミーナ(Hermina)

 Age:10歳 Height:140cm Weight:34kg

 イングリドと同じく、八歳からアカデミーに所属している神童。読書が好きで、本の虫であるアルトとは本の貸し借りをするほどに仲が良い。体が多少弱く、そのせいもあってか大人しい性格。だが、同年代のイングリドには少なからず対抗心があるようで、彼女とのケンカでは口でやりこめる時もある。昔の事をいつまでもネチっこく覚えているなど、若干陰湿な部分もあるが、基本的には良い子。

 アルトのことは出会った当初こそ警戒していたが、とある一件で助けられた事もあり、今ではリリーへの想いに勝るとも劣らないほどに慕っている。そのせいでアルトに対する警戒心をほとんど持っていないため、リリーはいつも苦労している。

 リリーのことを先生と呼び、イングリド同様に彼女を母親のように慕っている。また、独学で錬金術を学んだリリーのことを、錬金術士としても尊敬している。一方、アルトを警戒するようにとリリーが言うので疑問に思っている。優れた錬金術士であり、イングリドとヘルミーナ、それにリリー自身にも優しいアルトを、どうしてそこまで悪く言うのかと。もっと仲良くすればいいのに、と自分とイングリドの関係を棚に上げて考えている。

 今回皆と一緒にザールブルグを訪れた理由は、イングリドと同様。今後はアルトと行動を共にすることになる。

 

 

●ドルニエ(Dornie)

 Age:40歳 Height:169cm Weight:57kg

 ケントニスが誇る錬金術アカデミーの中心部、元老院の一員。

 穏やかな性格をしており、滅多に声を荒げない。黙々と研究に打ち込むタイプで、年がら年中、常に何か考え事をしている。アゴに手を当てるのがクセ。

 錬金術士として未熟であり、大人とはいえない少女であるリリーの教師兼保護者役。両親のいないイングリドとヘルミーナに対しては、実の子どもようにも思っている。

 アルトとはアカデミー入学以来からの長い付き合いで、困った弟子だと呆れる時もあるが、概ね高評価。錬金術士としての腕だけでなく、人格面でも信頼していて、リリーの世話役を任せている。アルトとリリーといい、イングリドとヘルミーナといい、もう少しお互い素直になれないものかと気苦労が絶えない毎日。

 アルト、リリー、イングリド、ヘルミーナの四人を率いて、錬金術の普及とアカデミー建設のためにシグザール王国へ。今後は表立って動くアルトやリリーと異なり、王宮への錬金術アカデミー建設援助の交渉といった舞台裏を支える重要な役割を担う。

 

 

●ヨーゼフ(Josef-Carossa)

 Age:47歳 Height:167cm Weight:55kg

 ザールブルグで雑貨屋を営む主人。愛妻家。

 優しく面倒見が良く、実直な性格をしており、その店も堅実な品揃えをしている。

 常連も多く、店は繁盛しているのだが、その性格上あまり高い価格帯にして儲けようとしていないために、それほど裕福な生活を送ってはいない。

 アルトとリリーの関係を見て、昔の自分と家内のようだと懐かしく思っている。……当の本人達からしたら、とんでもない誤解だと声を大きくする事だろう。

 

 

●ハインツ(Heinz-Maddok)

 Age:47歳 Height:180cm Weight:70kg

 冒険者の酒場『金の麦亭』のマスター。

 熊のような印象を与える大きなゴツイ体格といかめしい顔つき。

 豪放磊落を絵に描いたような人物で、その店の性質上、駆け出しの冒険者の面倒を見ることも多く、彼らからは父親のように慕われ、時には恐れられてもいる。

 これから錬金術士として仕事をこなすアルトとリリーのことは興味深く思っている。その職業も、人柄も、関係も。面白そうな連中だし、長い付き合いになれば良いと。

 しかし、仕事に失敗したときに容赦する気は全然ない。それとこれとは別問題。

 

 

●テオ(Theo-Mohnmeier)

 Age:16歳 Height:165cm Weight:52kg

 駆け出しの冒険者。

 実家がケシ農家だったために畑仕事で身体は鍛えられているが、冒険者としての力量は経験不足のせいもあって、まだまだ頼りない。

 明るく元気な少年だが、やや考え足らずな面もある。

 錬金術士という職業については知らないものの、アルトとリリーに雇ってもらえたらと思っている。駆け出しの自分を対等に見てくれた人達だから。

 アルト曰く、『リリーへの恋の生贄第一号』。



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二章 二人のアヤマリ
別行動


「はあ――っ!!」

 

 裂帛の気合と共に放たれた横一閃が、飛び掛かってきた襲撃者を二匹まとめて薙ぎ払う。

 影の正体は灰色の毛皮の狼、ウォルフだ。空中にいた彼らには、彼女が振るう槍の軌道上から逃れる術は無い。

 決して軽いとはいえない重量の狼が女の細腕で吹き飛ばされる様は、まるでフィクションの世界の出来事のようだ。けれど、これがノンフィクションである証拠として、その二匹は弾かれるようにして樹木に叩きつけられた後、倒れ伏したままピクリともせずに動かなくなった。

 

「さすがだね、シスカ。聖騎士を目指しているというのは、伊達ではないようだ」

「何を今更、言ってるのよアルト。腕がなかったら、最初から雇っていないでしょう?」

「当然。腕の立つ冒険者でなければ、そもそも雇う意味が無いからね」

 

 慢心せずに残心の姿勢を取るシスカと軽口を叩き合いつつ、俺は傍らの小さな少女の手を取って後方へと下がる。シスカの背中に庇われる位置まで移動すると、素材収集のために背中に背負っていた大きな籠を地面に降ろした。これから先、重荷があったせいで動けませんでは済まされないからな。

 ……大丈夫、何もそんなに深刻な状況ではない。慌てふためくような大した場面ではない。

 俺が焦れば、それは同行者にも伝わる。だから、表面上だけでも取り繕わなければならない。

 

「先生……」

「大丈夫だよ、ヘルミーナ。何も心配はいらない」

 

 怯えるヘルミーナに優しく笑い掛け、少しでも安心出来ればと繋いだ手にギュッと力を込める。すると、それに応えるかのように、ヘルミーナが震える手でソッと握り返してきた。

 そのまま彼女の震える手を繋いで勇気付けてあげたいが……、生憎とそうもいかない状況だ。俺は心を鬼にして手を……断腸の思いで手を……くっ、後ろ髪を引かれつつ手を……ぬおおっ、泣く泣く手を……手ぉおおお――手を、離した……。

 く……っ! 我が身を切り裂かれる思いとは、正にこういう時の心境を指す言葉だな! 思わず、目頭が熱くなってきてしまった。後ほど迅速にヘルミーナ成分を補填しておかなくては!

 俺が代わりに握り締めたのは、ヘルミーナの繊手とは似ても似つかない代物。道中で左腰に吊り下げていた極々平凡な木の杖だ。アカデミーでの訓練や模擬戦で何度か使用したこともあるが、実戦での使用は今回が初めてとなる。

 叶うならば使いたくはないが、余り贅沢も言っていられないだろう。

 ヘルミーナを敵の視線から遮り、残った敵へ正面から杖を構えて警戒する。知らず、じっとりと掌に汗が浮かび、杖を握る手が滑りそうになる。いくら上っ面を誤魔化そうとした所で、身体は正直だ。緊張を隠し切れない。

 けれど、不安感はそれほど無い。

 何故なら、俺達には頼れる護衛が二人もいるのだから。

 出会い頭の強襲をあっさり撃退されて警戒したか、残りの奴らが遠巻きに低い唸り声を上げて威嚇してくる。

 敵の残りは、狼一匹と魔物一匹の計二匹だ。

 狼の方は、先ほどシスカに鎧袖一触されたのと同じウォルフだ。

 俺の知る狼という野生の生き物は、群れを作って生息する獣だ。仲間に犠牲が出ないように行動し、集団で敵を包囲するように狩りを行い、隙を見せた弱者を見逃さずに仕留めてくる優れた知性を持つ野生の生き物。

 けれど、この世界での狼は少し事情が異なる。――否、狼というよりも獣全般がだ。

 それは、自分達以外の種族と一時的に結託することがあるという点だ。そうして、自分達よりも強い相手を狩る。己が生き抜くためには、仲間ですら利用することさえあるという。パワー・バランスの激しい弱肉強食故の生き方なのか、原作がそうだったからという身も蓋も無い理由故なのか、はたまた全然違う理由のせいなのか。何にせよ、厄介であることに変わりは無い。

 そして更に厄介なのは自然の生き物ではなく、魔的な要素が加わった生物……魔物だ。

 ウォルフの隣で、ぷるぷるとゼリー状の水色の身体を震わせているのがその魔物だ。ぷにという見た目通りの名前があり、その外見は原作と同様に可愛らしい。

 が、しかし。油断は禁物だ。これでも、れっきとした魔物だ。彼らを甘く見てはいけない。幸いにも今回はぷに一匹なのでそこまで恐れることはないが、常識外な生物である彼らは単体でも侮れない生き物だ。酸素がないと生きられないだの、脳や心臓が潰されたら死ぬだの、そういった生命としての常識は、彼らには一切通用しないからだ。事前知識無しで戦うと、思わぬ苦戦を強いられる羽目になるのは確実だ。

 

「テオくん、いける?」

「任せてくれよ、シスカさん。やってやるぜ!」

 

 後方からの敵の追加を警戒していたテオが、威勢の良い返事と共にシスカと位置を交代する。両手に鉄の剣を握りしめてどっしりと両足を地に下ろして敵に対峙し、眼光鋭く睨みつけて威圧する。駆け出しの冒険者とはいえ、中々堂に入った様だ。

 ……これなら、大丈夫そうだな。

 そう楽観視するも、念のために俺は自らの精神を集中し始めた。錬金術を扱う際と同じく、調合品へ魔力を込めるのと同じ要領で、内に在る精神を魔力へと変換して練る。調合との違いは、魔力を物質に流すのではなく、外へと放出することだ。そのために、俺は魔法を放つのに相性が良い、ただの杖という得物を武器に選んでいる。

 ……まぁ、俺なんかの筋力で刃物を手に殴りかかった所でタカが知れているせいもあるが。

 

「どうした? 来ないなら、こっちから行くぞ!」

 

 じりじりと距離を保ったまま襲い掛かってこない敵に焦れたか、テオが長剣を上段に構えたまま勢い良く駆け出す。健康優良児の面目躍如といった素晴らしい速さだ。相手の反応を許さず、一気に間合いを詰める。

 

「うおりゃっ!」

 

 肉薄するや否や、斬撃がぷに目掛けて真っ直ぐに振り下ろされる。

 膂力と速度の乗った一撃は、狙い違わずに標的を一刀両断に処する。異常な再生機能を持つ魔物も世の中にはいるらしいが、ぷには違う。あれでは流石に、一溜まりもないだろう。勢いあまって剣が地面に刺さったのは、ご愛嬌といったところか。

 

「へへっ、楽勝楽勝!」

 

 勝ち誇って会心の笑みを浮かべるテオだが――忘れてはいまいか? 敵は一匹じゃないということを……。

 ぷにを無力化させたことで気が緩んだのか、その隙をついたウォルフがテオの横を素早くすり抜ける。自身の失態に気付いたテオが慌てて止めに入るも、草木が邪魔となって間に合わない。

 初速が乗ったウォルフは脇目を振らず真っ直ぐに標的――ヘルミーナを目掛けて疾走する。この面子の中で一番目に見えて弱者なのが、か弱い子どもであり少女であるヘルミーナなのだから、敵の狙いは当然だ。

 シスカがやれやれとばかりに溜め息を吐きながら俺とヘルミーナの間に入ろうとして――

 

「アインス・クルッペン!」

 

 彼女が動き出すより早く、俺は溜め込んでいた魔力を解放した。

 ――刹那、杖の先端から青白い輝きが放たれる。

 錬金術と同じく、前の世界では存在しなかった代物、魔法の輝きだ。大きさは丁度、人間の頭程度だろうか。眩い発光体は、篭められた俺の意思に従って迫り来る狼を迎撃に向かう。

 見慣れぬそれに本能で脅威を覚えたか、ウォルフが咄嗟に横へ回避を試みる。

 でも残念、これは魔法だ。尋常なやり方では、避けることすら儘ならない。

 一度放たれた魔法は篭められた意思に従い、自動的に目標を追尾する。加えて、肉体的な被害を与える質量を伴った魔法ならいざ知らず、俺のそれは精神に影響を与える実体の無い魔法だ。例え間に障害物があろうとも、容易にすり抜けて目標へ衝突する。

 決まりきった結末を迎え、ウォルフが発光体に追いつかれる。

 魔法に接触した瞬間、まるで雷に打たれたかの如く大きな痙攣を起こして悲鳴を上げた。走った勢いを殺せず、そのまま無様に横転する。

 地面へ横たわったまま、何度か小さな痙攣を繰り返したが、やがてそれも収まった。精神を破壊され、そのまま意識を保てずに気を失ったようだ。

 

「うん、やれそうだな」

 

 安堵に胸をそっと撫で下ろす。

 錬金術の片手間で学んだ程度の魔法だ。上手くいくかどうか多少不安だったが、これなら自分の身を守る程度では出来そうだ。いざという時に役に立たないようでは、仲間へ負担を掛けることになるからな。

 俺が一息吐いていると、シスカとテオが倒した敵の確認へ向かった。まだ息があるようなら、トドメを差して置かねばならないからだろう。死んだフリをする知能があるとは思えないが、遠吠えでもされて仲間を呼ばれては面倒なことになるからな。

 ともあれ、一先ずこれで状況は落ち着いたと言って良いはずだ。

 俺は手早く汗を拭うと、一応、杖を手にしたまま背後へ振り返った。

 

「もう大丈夫だよ、ヘルミーナ。怖くなかったかい?」

 

 彼女にとっては、初めて目にする命の奪い合いだ。実際に彼女が手を下したわけではないが、目の当たりにした危機的状況に恐怖を覚えても何ら不思議ではない。恐慌状態に陥らず、冷静に行動しただけでも大したものといえる。

 ヘルミーナは緊張に強張った表情を緩め、ゆっくりと息を吐いた後、

 

「ううん、平気。アルト先生が守ってくれるもん」

 

 パーーッと花開くような笑みを浮かべてみせた。

 ああっ、何この可愛い生き物! 天使! 天使ですか! 俺の天使ですね!

 これはもうっ、頭を撫で回して可愛がらざるを得ないッ! というか、すでにしている!

 

「そうかそうか! ヘルミーナは本当、良い子だなぁ!」

 

 ヘルミーナの千分の一でいいから、どこぞのアホ女にも見習わせたいものだ。彼女の爪の垢でも煎じて飲むといい。……いやむしろ、そんなものがあるのなら俺が一気飲みするけどな!

 

「だけど、くれぐれも無理はしないように。いいね? 少しでも体調が悪くなったら、我慢しないですぐに言うんだよ?」

「はーい、アルト先生」

 

 心地良さそうな表情を浮かべて、俺のなすがままにされているヘルミーナが返事をする。

 彼女が浮かべる緩みきった表情に、いっそ抱きしめて頬摺りやろうかと考えていると、安全の確認を終えたシスカとテオが一緒に戻ってきた。

 シスカは渋面で肩を怒らせ、テオは肩を落としてトボトボと重い足取りだ。

 これがリリー相手なら無視したまま、先ほど考えた事を実行に移す(そして邪魔される)ところだが、彼女達を相手にそれはマズイ。

 こちらが賃金を支払い、その対価としてあちらに護衛してもらっているとはいえ、それはあくまで対等に近しい関係だ。金銭契約だからこそ、互いに相手を尊重し合うようでなければ、良好な間柄になれはしない。どうせ同じ時間を過ごすのなら、お互いに気分良く過ごせる環境の方が好ましいのは言うまでもないだろう。

 だからこそ、俺も彼女達相手に失礼にならない程度に砕けた態度を取っているわけだ。

 もちろん、一切の損得勘定がないわけではない。

 リリーへの恋の生贄第一号たるテオとは、それなりに親しくなっておいた方が後々都合が良いし、シスカにしても俺の望む条件に相応しい人間だからこそだ。

 本来ならシスカは十二歳より上の女なので係わり合いすら避けたい相手だが、今後の付き合いを考えるとそうもいかない。腕の立つ女の冒険者という存在に、そうそう運良く出会えるとは思えないし、ヘルミーナのためだと俺が事情を説明したら、すぐに理解を示してくれたしな。

 これがどこぞの年増女みたいにアホなやつだったら論外だが、シスカはまだそれなりに話が通じる人間のようなので我慢は可能だ。

 何より彼女はアカデミーでの連中と違い、色ボケしていない。それだけで随分と付き合い安いタイプの人間といえる。そういう意味ではリリーも同じなのだが、あいつはイングリドとヘルミーナを俺から奪おうとする外道なので、最初から問題外だ。敵を相手に、付き合いも何もあったものではない。

 俺はヘルミーナの頭を撫でる手を止め、幾分か疲れた様子の二人に労わりの声を掛けた。

 

「お疲れ様、二人とも」

 

 俺たち四人は今、近くの森へ採取に訪れている最中だ。

 工房経営の初日、テオに冒険者のツテで紹介してもらったのは、誰あろうシスカだった。

 『シスカ・ヴィラ』――彼女は原作にも登場している人物だ。初めて彼女を目にした時、あまりにもそのままの姿すぎて、名前を言われる前に呼びそうになったのは、ここだけの話である。

 あと十年出会うのが早ければさぞ可愛らしい少女だったろうにと惜しむ気持ちになったが、元より俺が探していたのは頼りになる女性の冒険者だ。その目的は無事に達成されたことになる。

 シスカは真っ赤な鎧に身を包んだ、腰まである緑掛かった綺麗な黒髪が印象的な女性だ。頭に巻いた青いスカーフと耳を飾るイヤリングが、どこぞの年増女と違って外見にも気を遣うタイプの人間なのだと教えてくれる。

 身長は俺よりも十センチ程低い程度だろうか。年齢は聞いていないし、原作の知識としても覚えていないが、見た目からしてたぶん俺とそう大差ないだろう。女性らしい細身の身体といい、一般的には若いとされる年齢といい、荒事なんて凡そ似つかわしくないように見えるが、見掛けだけで実力を判断するのは早計だ。彼女は女性初の聖騎士となるためにザールブルグへやってきただけあって、その華奢な体からは想像もつかない程の、卓越した槍の腕を持つ冒険者なのだ。

 試しにテオと数回打ち合ってみてもらったら、鎧袖一触。一度も体に掠らせる事無く、簡単に彼を打ち倒して見せた。いくらテオが駆け出しだからといって、ああも簡単に冒険者を目指す少年をあしらえるのだから、その実力は間違いないと判断して良いだろう。

 そのシスカだが、どうやら俺が初日に酒場でワインを飲んでバカ騒ぎしていた現場に彼女も居合わせていたらしく、こちらの顔を覚えていたようだ。あの時の、と開口一番に驚かれた。一方の俺はと言えば、なぜかその辺りの記憶があやふやで思い出せないのだが……。

 わざわざ、腕の立つ『女性の』冒険者と限定した条件で探していたせいもあり、当初は少なからず警戒されていたようだ。まあ、俺は彼女に全く興味が沸かないとはいえ、用心は当然の心掛けともいえる。女性の冒険者ならではの苦労もあるだろうからな。怪しむ彼女の気持ちも、分からないでもない。

 それでもテオの顔を立てて、胡散臭い依頼者に会いに来てくれたわけだ。これだけでも、冒険者同士の繋がりという言葉だけではない、彼女の心根が察せられる。

 そんな感じで始まった顔合わせだが、前述の理由で彼女が俺の顔を覚えていたのと、俺が条件を付けた理由に彼女が納得いったお陰で、簡単に誤解は解けた。

 やはり、可愛い少女を守るためにという行動原則は全世界共通の理由となり得るのだ。イングリドのために、ヘルミーナのために、と健気に行動する俺を妨害しやがるあいつだけがただ一人の例外なのだ。

 そして、その話し合いの最中。護衛の依頼と一緒に、駆け出し冒険者のテオのフォローをしてもらう契約をしたのだが……。

 

「まったく、もう……。テオくん、全ての敵を倒すまで決して油断してはダメよ。目の前の敵を倒したら、すぐ次に移れるように行動しないと。いい? 敵を倒すのは目的のための一手段でしかないの。依頼者の身の安全を確保することが、何よりも大事なのよ?」

「……はい」

「今回は私もいるからいいけど、一人で護衛する時は必ず依頼者の保護を第一に考えて。彼我の戦力を鑑みて、時には戦わずに逃げることも必要よ。依頼者が自分の身を守れるかどうかは、その相手次第になるのだから」

 

 さっそく、ダメ出しをされているらしい。

 シスカは道中も何かと皆に気を配ってくれていたし、割と面倒見が良い性格のようだ。テオのフォローをお願いする相手に、彼女を選んで正解だったな。

 先頭に立って後続の俺達が歩きやすいように草木を踏み固めてくれたり、小まめに休憩を提案してくれたり、怪しい気配がしたら立ち止まって警戒を促したり……冒険者として、テオに彼女から学んでもらいたい事柄は数多くある。リリーと共にイングリドを、その身を呈してでも守ってもらわなくてはならないのだから。

 今夜は野宿をする予定なので、その辺りの知識も是非、彼には吸収して欲しい。都会で暮らしてきたイングリドに何らかの不都合があった場合に、きちんとした対処を取れないようでは困るからな。

 リリー? あんな年増女のことは知らん。あいつは田舎暮らしだからその程度は平気でやりそうだし、よしんば違っていたとしてもどうでもいい。慣れろ、と言うくらいだ。

 

「ねえ、アルト。もう少し歩いた先に小川があるから、そこでお昼にしようかと思うのだけど、いいかしら?」

 

 ……ふむ。戦闘したばかりだし、休憩するには丁度良い時間帯か。

 俺は杖を腰のベルトに固定し、素材の入った籠を背負い直しながらシスカに頷きを返した。

 

「ああ、そうしようか。さっき使った魔法のせいで、少し精神的に疲れたしね」

 

 余談だが、この竹細工製の籠を背負うのには、少なからず葛藤があった。主に見栄え方面で。

 どこの竹取の翁だよとか、中世ならザック背負えよとか、ツッコミを入れて拒否したくなった俺は悪くないはずだ。これを平然と受け入れるやつの方がおかし――いや、ヘルミーナは除く。彼女は純真だからな。言われたままに受け入れても、何ら不思議ではない。

 だから俺が出掛ける際に無言で抗議したのは当然の成り行きだったのだが……、最終的に俺は折れた。折れるしかなかった。

 郷に入っては郷に従えという格言があるし、作業能率的には理に適っていると言えなくもないし、恩師であるドルニエ先生も若かりし頃には背中に担いでいたというから、弟子である俺が錬金術士の伝統を拒否するわけにもいくまい。

 やるせない表情を浮かべて籠を背負った俺を見るイングリドの、これまたなんとも言えない微妙な表情が心に残っている。

 うん、イングリド……、キミの気持ちは良く分かるよ。でもね、残念ながらキミも遠からず、これを背負う日が来るんだよ……。

 余談どころか蛇足だが、年増女は全く気に掛けた様子がなかった。その籠がどうしたの、とでも言いたげな興味の無さっぷり。そんなことはどうでもいいことでしょ、と言外に匂わせる態度で睨みつけてくる有様。これだから女として終わっているやつは語るに値しないのだ。

 

「ほんと便利よね~、魔法って。通用するかどうか試してみたいって言ってた割に、あっさりと一発で倒しちゃうんだもの」

「無理を言って悪かったね。でも一度、通じるかどうかを試しておきたかったんだ」

「別に構わないわよ。邪魔にはならなかったし。これならアルト一人でも十分、戦えるんじゃないかしら?」

「まさか。一人じゃ、話にもならないよ」

 

 フフンと挑発めいた笑みを見せるシスカに、苦笑しながら肩を竦めて答える。

 そう、俺一人で戦うのは無謀すぎるのだ。

 というのも、魔法を使うには精神を集中する時間が必要だからだ。熟練者なら維持しつつ動くことが可能なようだが、俺には到底不可能だ。これは、錬金術士としての腕を磨くことを第一に考えた結果なので仕方がない。

 それでも一応、威力を高めたり、単体ではなく複数の魔法を同時に放ったりといった芸当も可能だが、それには更に時間が掛かるし、精神力の消耗も大きくなる。

 常に遠距離から相手取れるならば何とかなるかもしれないが、それはあまりにも現実的ではない。原作でいうターン制なんてものが現実には存在するわけがない以上、複数を相手に近寄られたら、それだけで一巻の終わりだ。数の暴力という言葉を思い知ることになるだろう。

 そしてこれが一番の問題となるのだが、ヘルミーナという保護対象の存在だ。彼女を守りながら戦うとなると困難どころか実質不可能だ。錬金術での調合品によって戦力を高めたとしても、それでは根本的に無理があるのだから。

 

「利点もあるけど、欠点もあるってことね」

「だから、二人にはしっかり守ってもらわないと」

「はいはい、任せてちょうだい。傷一つ負わせないようにしっかりと守るわよ」

「僕はともかく、ヘルミーナの顔に傷がついたら責任を取ってもらうよ?」

「その時は私がお嫁さんにするしかないかしら?」

「僕がお嫁さんにするから、それは遠慮しとくよ」

「あははっ! そうね、それがいいわ!」

 

 俺の言葉に明るく笑って同意するシスカ。

 どうよ、この対応。これがあの邪魔者だったら、蔑んだ眼差しで唾を吐きかけてくるところだろう。シスカはやはり、可愛らしい少女を愛でる気持ちを理解してくれている。

 

「でも、その心配は杞憂よ。だって、私達護衛が守るもの」

「ああ、信用してるよ」

「まったく、もう。本当に過保護なんだから。……ちょっと待ってて。ついでだし、ウォルフを解体してくるわ。お肉は多少、癖があるけど、せっかくだしね」

「あ、オレも手伝うよ。そういうのは慣れてるからな」

「牙が折れてなかったら、取っておいてくれないかな? 錬金術の素材になるから」

 

 オッケー、と二人は慣れた手つきでウォルフの処理を始める。

 俺はそれが終わるのを待つ間、ヘルミーナを連れてぷにがいた辺りへと向かった。

 ぷにの残骸とでも呼ぶべき、ゼリー状の物体が真っ二つになって地面に転がっている。既に生命として存在していないからか、こうして見る間にもその形が崩れて地面に消えていく。本当に、魔物という生物は不思議の塊だ。何を今更と自分でも思うけどな。

 この有様ではあったとしても一緒に潰れてしまっているかな――そう思って俺が諦めかけた時、視界の端に何かが引っ掛かった。そこらに落ちてた枝でゼリー状の物体を崩すと、その中に小さな水色の玉を発見した。

 ……あったらいいな程度だったのだが、本当に見つかるとは。

 

「ヘルミーナ、見てごらん。これが何か分かるかな?」

「んー……。ぷにぷに玉?」

「正解。ぷにはその体内に、魔力が固まって出来た塊を稀に形成する。それがこれ、ぷにぷに玉だ。色鮮やかで、触るとその名前の通り、ぷにぷにした感触のする玉だね」

 

 付着していた体液を布切れで拭き取り、ヘルミーナに手渡す。知識として知ってはいても、こうして自分で目にするのは初めてだろう。

 

「ぷにぷに玉は、魔力がこもっているだけあって調合の素材として適している。ミスティカの葉やアザミ茶葉なんかが代表的だね。他には、生きている物を調合する際にも使われるんだよ」

 

 その感触が気に入ったのか、指先で突付いて楽しそうに笑うヘルミーナへ簡単に説明する。

 彼女の身の安全だけを考えれば、こうして外での冒険に連れ出すのは悪手だろう。

 ――でもそれでは、今みたいに彼女が笑顔を浮かべることは出来ない。

 実地での素材集めは、彼女が錬金術士として今後も生きていくのならば、必要不可欠となる。売っている物を扱うだけでは限界があるからだ。それに、自分の手で素材を得た喜びを、彼女には知ってもらいたかった。それは必ず、錬金術士としての糧となるはずだから。危険を伴うからこそ、達成した時に得るものもあるのだ。

 そして危険があるならば、俺の傍に置いて保護しながら学ばせた方が絶対に良いはずだ。俺の手が届く場所にいるならば、どんな相手だろうが絶対に、彼女に指一本触れさせたりはしない。

 リリーにイングリドを任せるのは大いに不安だが……、いくらアホでもその辺は理解しているだろう。テオにフォローは任せてあるし、あらかじめ、リリーには口を酸っぱくして単身で採取はするなと言い含めてあることだしな。

 さらに念には念を押して、イングリドに手渡した調合品もある。時間がなくて一つしか用意出来なかったが、きちんと身に付けていれば、万が一もあるまい。

 ここまで病的に用心したのに不測の事態が起こるとしたら……、あのアホが何か余程のとんでもないことをしでかした時くらいしか思い浮かばない。

 今頃は丁度、イングリドと二人で調合でもしている頃だろうか?

 初めての依頼だから、と見るからに張り切っていたが、どうなることやら……。

 

 

 

 

 

 

「うん、成功っ! 良い出来だわ!」

「やったー!」

 

 ランプの火を止めた小鍋の前で、あたしとイングリドは手を叩きあって歓声を上げた。

 うん、本当に素晴らしい出来栄え。とてもこれが初めての調合とは思えない完成度だ。

 教師としては、教え子の大成功を喜ぶべき場面。

 でも、錬金術士としてのあたしはつい落ち込んでしまいそうな状況。

 分かっていたけど……、分かっていたつもりだったんだけどなぁ。ここまではっきりと才能の差を見せ付けられると、どうしても溜め息の一つも出そうになってしまう。

 あたしが初めて調合した時なんて、勝手が分からずに目茶苦茶苦労したのに……。

 これが天才と凡人の差ってやつなのかしら――ってダメよダメよそんな風に考えては。いや例え考えたとしても、そんなみっともない姿を生徒に見せるようでは先生失格だ。

 気にはなっても、気にはしない。

 そう、そんなことを気にしたって仕方がない。そんな暇があったら、その余分な時間を使って少しでも目標へ近付く努力をした方が百倍はマシってもの。努力し続ければ、いつかは目標に手が届く日が来るに違いない。ちょっと前まで錬金術士になるなんて夢でしかなかったあたしが、曲がりなりにも名乗れるくらいに成長したのだから。

 あたしは頭を軽く左右に振って気分を切り替え、傍らの木箱の蓋を開けて、中に入った空の容器を一つ取り出した。昨日の段階で準備しておいた、何の変哲も無いありふれた硝子瓶だ。この品物に商品価値が付くようになるのは、きちんと中身が収められてからだ。

 割らないように、そっとイングリドへ硝子瓶を手渡す。

 

「あとはこれに詰めて蓋を閉じれば、緑の中和剤として表に出せる品物になるわ」

「はーい! こんなの簡単簡単!」

「ちょ、ちょっと勢い良く入れすぎよ! もう少し、ゆっくり入れないとこぼれちゃうわ!」

 

 いくら容器へ流し込みやすいように小鍋の縁が形作られているといっても、直角はないでしょ直角は……。

 あたしの制止の声に、イングリドが慌てて調合用の小鍋を傾ける角度を浅くする。

 うーん……。調合中にも思ったけど、イングリドはどうもこう一々豪快なところがあるわね。大雑把なイングリドと几帳面なヘルミーナ。どちらが良いとも悪いとも言えないけど、その辺に注意してあげないと失敗の原因になるかもしれない。

 今のあたしは技術面では頼りにならないかもしれないけど、それでも彼女達の先生であり先輩なのだから、せめてそういう面だけでも気をつけてあげないとだ。

 ……まぁ、あたしなんかに言われなくても、万事ソツのないアルトならその辺は重々承知してると思うけどね。錬金術士として未熟なあたしの面倒を見てくれたのは他でもない、あいつなのだから。

 イングリドがぎゅーっとコルクの蓋を閉め終えるまでをきちんと見届ける。

 ――と、唐突に閃いた。

 

「あっ!」

「? なに、リリー先生?」

「え、あ、ううん。なんでもないわ。割らないように慎重に置いてね」

「むーっ、そんな失敗しないもん!」

 

 むくれるイングリドをあやしながら、たった今思いついたことに考えを巡らす。

 完成した緑の中和剤は、今のままでは何も特徴が無い品物だ。このまま店先に並んだとしても、どこの誰が調合した物なのかは分からないだろう。

 現在、ザールブルグにいる錬金術士はあたし達だけだと思うし、それでも何ら問題はない。安価で大量に使うような品物だし、他と差別化を図るような必要性も無い。あくまで価値があるのは中身であり、容器をもっと高価な物にした所で利益が出なくなるだけ。

 ……とはいえ、だ。

 今後のことを考えると、このアトリエで作った品物だと分かるようにした方がいいような気がするのよね。どこがどう良いのかと具体的に問われると、ちょっとうまく言葉に出来ないけど。

 なるべくお金を掛けないようにしたいなら、例えば決められたリボンを一つ巻くだけでも十分だし、何ならこのアトリエの名前を書くだけでも……。

 

「ああっ!?」

 

 そういえば、このアトリエの名前を決めていないわ!

 うわー……、うっかりしていたわ。そんな基本的なことを忘れているだなんて。

 ヨーゼフさんの雑貨屋さんみたいに、お店の持ち主がある意味顔になってるんだったら名前はいらないかもしれない。彼は長年営業していて、街の皆に知られていることだし。

 でも、あたし達はそうじゃない。まだザールブルグに来て日も浅い。これから皆に知ってもらう段階なのだ。

 お店を知らない人に説明する際、分かりやすい名前があるのは利点だ。ハインツさんのお店に『金の麦亭』といった名前があったり、看板があったりするのも同じ理由だろう。あたし達は錬金術士というザールブルグではあまりよく知られていない職業なんだし、尚更、皆に知ってもらう努力をしなくてはならない……。

 

「――って、そうだったわ!」

 

 看板よ、看板。やっぱり、看板もあった方がいいわよね。職人通りでも、どこのお店も一目で分かるように掲げているもの。

 あー、どうしよう。たった一つ気になることを思いついただけなのに、次から次へと考えなくちゃいけないことが芋蔓式に増えていってしまった……。

 と、取り合えず。さっき考えたことは全部まとめて後日、アルトと相談して決めるとしましょうか。うん、そうしよう、そうしよう。こういう細かいことを決めるのはアルトの方が得意だし。そう、これは適材適所であって、決してアルトに問題を丸投げしているわけじゃないわ。その証拠に、あたしだってアルトと話し合うつもりでいるのだもの。

 はぁ~……。これでアルトも、ちょっとはあたしが頼れる仲間だと思ってくれる……といいんだけど、急には難しいかしらね。今までが頼ってばかりだったのだし。

 あたしだって少しは物事を考えているのよって気付いてもらえたら、今はそれで満足しておくべきかな。アルトに守られるだけの立場はもう卒業したのだと、あいつに知ってもらえたら、取り合えずそれで良しとしよう。実力不足なのは、身に染みて自覚しているしね。

 

「もうっ! リリー先生!」

「えっ!? な、なに?」

 

 袖をぐいぐいと引っ張られ、慌てて視線を下に向ける。

 イングリドがじとーっとした視線であたしを見つめていた。

 ええと……、イングリド。そ、そういう目で先生を見ちゃいけないと思うわよ……?

 

「さっきから様子がおかしいです。急に声を上げたり、ソワソワしたり、悲しい顔したり」

「だ、誰もそんな表情してないわよ?」

「しーてーまーしーたー」

「うっ!」

 

 無駄に鋭い!

 この年頃の女の子だからなのか、彼女の性格なのか、天才だからなのか――いや天才は関係ないか。それ以前に、あたしが分かりやすすぎるのかもしれないし。

 とにかく、先生が生徒に心配されるのはマズイわね。こんなことあいつに知られたら、絶対にバカにされるに決まっている。

 言い訳を必死に頭の中で考えたあたしは、ゴホンと咳払いをした後、

 

「残りの依頼を確認しましょう」

「……誤魔化した」

 

 ご、誤魔化してないわよ? 今、必要なことだから言ったのであって、決して言い訳が思いつかなかったから、強引に話題を変えたわけじゃないのよ? 違うからね?

 背中にイングリドからの視線がグサグサ突き刺さるのを感じながら、あたしは気付かぬフリして依頼書を手に取った。羊皮紙に書かれた内容を、確認の意味でも声に出して一度読み上げる。

 

「え、ええと……中和剤(緑)を四個。期日までは、あと十四日。報酬は銀貨二百八十三枚ね」

 

 あたしがイングリドに教えながら作ったのが一個。

 イングリドの様子を見ながら、彼女自身に作らせたのが一個。

 残り個数は二個となる。

 調合品の材料となる魔法の草は十分足りてるし……、うん、このペースならこのまま今日中に終わらせられるわね。

 

「じゃあ、イングリド。次は二人で一個ずつ作りましょう。さっき、あたしが教えたことを忘れずにね」

「任せて下さい! ヘルミーナと違って、わたしは素早く作りますから!」

「ええっと、速度よりも正確さの方が欲しいかな今は……。ま、まあ、怪我だけはしないように気をつけてね」

「はーい!」

 

 本当、二人は何かにつけて張り合おうとするから困り者だ。切磋琢磨という格言もあるけど、もうちょっと仲良くしてくれるといいのだけど……。そういった部分は、まだまだ子どもっぽさが残ってるのよね。

 

「それじゃ、さっそく――」

 

 と、言いかけた時だった。

 二階から足音が聞こえてきた。

 階段から姿を見せたのはドルニエ先生だ。

 今朝から、二階でずっと手紙を書き続けていたのだけど……?

 

「リリー。そろそろ昼食の時間だが、どうする?」

「えっ?」

 

 いっけない! もうそんな時間!?

 ハッとして時間を確認すると、ドルニエ先生の言う通り、置時計の針は正午を指していた。

 あたしは錬金術の調合を始めると、つい時間を忘れて熱中してしまうことが多い。食事も取らずに、半日ぶっ続けで調合することも少なくない。そういう時は大抵、完成後に猛烈な空腹感で倒れそうになったりする。ていうか実際、倒れたこともある。

 今日も調合に集中するあまり、すっかり時間を忘れていたようだ。

 あー、失敗したわー。

 これからはイングリドのことも考えて、きちんと時間を気にして行動しないとダメね。もう、あたし自身のことだけを考えてればいいわけじゃないんだし。子ども達のお腹を空かせたままにさせるなんて、絶対にしたくないもの。

 

「ごめんなさい、すぐ支度します!」

「いや、そのまま調合を続けていなさい。もう少しで終わるのだろう? 昼食は私が作るよ。今日の朝食は、キミ達に任せてしまったしね」

 

 階段を下りてきたドルニエ先生が、腕まくりをしながら厨房へ向かう。

 材料は昨日アルトと一緒に仕入れてきたものが残っているから問題はないけど……、先生にわざわざ調理をお願いするということに少なからず抵抗が残る。なんだか申し訳ないような……。

 これからは一緒に暮らしていくのだから、そういう所で変に遠慮しない方がいいとは思うんだけどさ。

 

「えっ、でも……」

「このくらい気にしないでくれ。私も同じ屋根の下で暮らす仲間の一員なのだから。それで、何か希望はあるかね? とはいっても、私は簡単な物しか作れないが」

「は、はい。ドルニエ先生が、そう言うなら……」

「アップルパイが食べたいです!」

「イングリド……、すまないがそれはアルトがいる時に彼へ頼みなさい。残念ながら私が作っても、彼ほど美味しくは作れないよ」

 

 と、ドルニエ先生が苦笑しながら言う。

 でも確かに、そうなのよね。あたしも彼ほど美味しい物を作れる自信は無い。

 イングリドの誕生日に彼が披露した、ランドージャムをたっぷり使った甘いパイ。

 あれは本当に美味しかった。イングリドは口元をベタベタにしながら頬張っていたけど、たぶんあたしも似たような状態になっていたと思う。食後、料理を食べ過ぎたせいで動けなくなったのをアルトにバカにされた程なのだから(動けるようになったあとで当然仕返しはした)。

 でもあれは、仕方ないことだ。だって今まで食べたことがないくらい、絶品のアップルパイだったんだもの。

 あれを超える美味しさの物というと、ペンデルくらいしか思い浮かばない。小麦粉にモカパウダーと呼ばれる高価な甘味料などを加えた焼き菓子で、ほのかに甘くてほろ苦い味のサクサクした食感がお気に入りの、ケントニスでは特に有名なお菓子だ。波の形になった模様が特徴で、喫茶店ではその高い値段にも関わらず、売れ筋上位となっているらしい。

 初めて食べたのは、イングリド達と出会って間もない頃だ。

 当時、アカデミーで噂になっていたから気になっていたのだけど、あたしはお金がなくて泣く泣く諦めていた。そんなあたしにある日、アルトが錬金術で作って食べさせてくれたのだ。既に犬猿の仲となっていたあたしとアルト。そんなあたしにどうして彼がと当初は警戒したあたしだけど、噂のペンデルの誘惑には勝てなかった。一個だけなら……と一口食べた瞬間、そのあまりの美味しさに、あたしは完全にペンデルの虜となってしまった。

 彼の分までもらって完食してしまったので、お礼と一緒に謝ると、彼は笑ってそれを許してくれた――ニヤリと。

 そして後日、あたしは思い知った。

 人間とは……一度、蜜の味を知ってしまうと、それを諦めることは難しくなる、と。

 お陰であたしは数少ない自由になるお金の中から、さらにやりくりに苦労する羽目になったという……。あいつがあたしのために善意で行動するわけがないという教訓にもなった出来事だ。

 

「昨日、ベルグラド芋を大量に買い込んでいたようだし、ポテトスープとパンでもいいかね?」

「そうですね。多めに作っちゃえば、余りは夕食に使えますし」

 

 ポテトスープに香辛料を入れて味を薄味に整え、パスタと絡めるとまた違う美味しさになる。簡単お手軽、大量に作れる料理は錬金術士として重宝する。どうしても錬金術に使う時間を増やすと、他のことに使う時間が惜しくなっちゃうからね。

 ドルニエ先生が厨房で料理を始めると、しばらくしてイイ匂いがし始めた。あたしとイングリドのお腹がぐうっと同時に鳴る。意識すると途端に、お腹って空くのよねぇ……。

 イングリドと顔を見合わせ、お互いに照れ笑いを浮かべる。

 

「さ、あたし達も始めましょう。ドルニエ先生が作り終える前に、完成させちゃわないと」

「はーい」

 

 中和剤の調合に、難しい手順は必要ない。

 錬金術士が一番最初に習うレシピだけあって、作るだけなら結構簡単だ。

 あたしの場合は、魔力を込めるという過程に不慣れで四苦八苦したけど、それは例外。普通にアカデミーに通っている生徒ならば、誰でも作れるようになる。

 だから、アルトが出掛ける際に言ったような事態になるなんてことはないのだ。

 

『帰ってきたら、家が吹き飛んでるとかは勘弁しろよ』

 

 ――って何よ、いったい! 吹き飛ぶか、バカ!

 どれだけ、あたしを信用してないのよ。まったく、もう! 失礼しちゃうわ!

 そりゃ確かに? アカデミーに入学したばかりの頃は色々とあったわ。魔力の配分を間違えて煙を大量発生させたり、手順を間違えて爆発させちゃったり、素材の分量を間違えて実験室を水浸しにしたりと、色々散々な失敗をしでかしたわ。

 でも、それはぜーんぶ過去の話よ!

 あたしだって、あれから随分と成長しているのだ。魔力の込め方だってもう慣れたし、たくさん勉強して様々な知識を身に付けた。あの頃のあたしとは、もう別人なのだ。

 そんなあたしが中和剤の調合程度で今更、失敗したりするわけがない。

 ほーら、見てみなさい。あとはもう魔力を込めて待つだけで完成よ。

 アルトの言うような失敗なんてありえないわ。

 

「…………」

 

 ――たぶん、その何もせず待つ時間がいけなかったのだろう。

 フッ、となんともなしに今朝目撃した光景が脳裏を過ぎった。過ぎってしまった。

 ……ああもう、深く考えないようにしてたのにぃっ!!

 思い出したら思考が止まらなくなる。だから、極力考えないように忘れるように努めていたというのに!

 今日、アルトとヘルミーナの二人は、護衛の二人を伴って近くの森へ採取に出掛けている。今頃は同じように昼食を作っている頃かもしれない。

 今朝方、思わぬアクシデントがあったものの、さっそく錬金術士としての活動を行うことにしたあたし達。まずは簡単な依頼から受けてみることにしたあたしと違い、アルトは近場での採取から試していくことにした。あたしは依頼を受けるために、アルトは護衛を探すために、目的は違えど目的地は同じというわけで、皆で『金の麦亭』へと足を運んだ。

 あたしとイングリドは手頃な依頼が見つかったのですぐに帰っちゃったけど、アルトとヘルミーナは護衛となる冒険者を探すために残ることにした。その時、チラッと横目に確認したときにいたのはテオくんだった。手を振って挨拶だけして別れたけど、彼なら知り合いだし、護衛として雇うなら安心だよねと思った。

 思った、のだけど……。

 予想外だったのは、アルトがなぜか護衛を二人も雇ったことだ。一人はテオくん。そして、もう一人は……。

 無駄遣いとまでは言わない。街の外に出掛ける際に護衛を雇うということは、当然のことだとあたしも今ではそう思うから。

 けど、何も二人も雇わなくていいのに。近くの森くらいなら、そこまで強い魔物も出ない。聞くまでもないから確認しなかったけど、どうせヘルミーナのためとかそんな理由でしょ。まったく、これだから変態は。

 でも、まあそれはいいのよ。アルトが決めたことなんだし、それで資金に困るような羽目にはならないだろうから。もしそうなったら、その時は日頃小馬鹿にされている恨みもあるし、大いに嘲笑ってあげればいいだけだしね。

 じゃあ、何が問題かというと――

 

 彼が連れてきたもう一人の相手が、『女性の』冒険者だということだ。

 

 ……そう、女性だ。しかも、大人の。さらに、美人の。

 冒険者という職業である以上、当然ながら彼女の年齢は私より年上に見えた。

 でもそれは、アルトという変態が関わっている以上、当然ではない。異常事態だ。

 だってあいつ、あたしのことを年増とか売れ残りとか暴言ばかり吐くような人間なのよ? イングリドやヘルミーナに対して興奮するような変態なのよ? そんな人間が大人の女性を雇うなんて、絶対にありえないでしょ。おかしすぎるわ。

 し・か・も、よ! テオくんが教えてくれたけど、わざわざ女性の冒険者と条件を限定した上で探して雇ったらしいし。詳しい理由を聞こうとしたら、間が悪く、アルトがテオくんに話しかけてきたのでその機を逃しちゃったけど。結果として彼女になった、ではなく、最初から女性の冒険者を探していたのだ。奇妙すぎる話だ。

 ……納得いくわけがない。

 話がトントン拍子に進んだから、急な話だがこれから出掛ける――ちょっと待ちなさいよ、説明はそれだけ?

 今日は近くの森で野宿して、明日の夕方には戻る予定だ――そんなことより、他にもっと言うべきことがあるんじゃないの?

 さっさと出掛ける準備を始めるアルトに、不満が募る。他にも何かごちゃごちゃ言われたような気もするけど、その時のあたしは彼にまともな返答をする余裕なんてなかった。そんなことより、今、目の前にいる人について納得のいく説明をして欲しかった。

 だって、そうでしょう?

 これがいかにも荒くれ者といった感じの女性なら、まだしも納得できるのよ。彼が大嫌いな大人の女性だけど、腕が立つ冒険者だから仕方なく雇ったのかなーなんて。

 でも、彼女……シスカさんは同性のあたしから見ても見惚れちゃうくらいの美人だったのだ。綺麗な大人の女性といった言葉がそのまま形になったような人。あまりお洒落に興味を惹かれないあたしだけど、彼女を見てると思わず自分が恥ずかしくなってきてしまうほどだ。

 それに、まだちょっと話しただけだけど、話し上手で一緒に居て楽しいと思える素敵な女性だった。機会があれば、もっとたくさんお喋りしたいし、髪がすごく綺麗で手入れをどうしてるのか教えて欲しいし、お洒落のことだって彼女さえ良ければ色々と勉強させて欲しいし。友達になれたらいいなーって思う、そんな優しい人だ。

 だから、シスカさんに対しての不満は全く無いのだ。というか逆に、どうして彼女みたいな良い人が、アルトなんかの護衛を引き受けたのかと疑問にさえ思う。

 アルトは……彼女相手に話し掛けるアルトは、アカデミーで女生徒を相手にする時に良く目にした紳士的な彼とは違っていた。あたしを相手にする時のムカつく態度とも違っていた。まるで親しい友人にでも話し掛けるような気安い雰囲気だった。

 ……そんなアルトを、あたしは今まで一度も見たことが無い。出会ってから数年間、一度もだ。

 アルトはテオくん相手にも、同じような言葉遣いで喋っていた。これも珍しいことだとは思うけど、相手が同性だからそこまで気にはならない。でもつまり、これは少なくともアルトにとって、シスカさんはテオくんと同じような立場の女性ということだろう。

 その事実に、物凄い違和感を感じる。

 別に、アルトが誰を雇おうと、そんなのは雇い主である彼の勝手だし、口を出すつもりなんてないわよ。あたしが彼の立場だったら、そんなことまで干渉して欲しくないって思うだろうし。

 ……でも、納得いかない。不満だ。どうして、って思ってしまう。

 もちろん、その対象はアルトに対してだ。

 十二歳より上は見る価値もない、とか言ってたクセに。

 どういうことよ、話が違うじゃない。

 それとも、美人だけは例外ってこと?

 なによ、それ。なんなのよ、もう……。

 素直にアルトに聞けば、たぶん答えてくれるとは思う。どうしてわざわざ女性の冒険者を雇ったのか、シスカさんへの態度がいつもと違うのはどうしてなのか。

 だけど、それはしたくない。

 だって、それだと、なんだかあたしがアルトのことを気にしているみたいじゃないの。そんな勘違いはされたくないし、考えるだけで鳥肌ものだ。誰があんな変態のことを考えるものか。

 だからあたしは、妙にモヤモヤとした気分のままでいるしかない。

 そしてそれが嫌だから、極力考えないようにしていたのに――

 

「せ、先生? なんか凄いことになってますけど」

「え?」

 

 イングリドの声に、はたと我に返ったあたしの目に映ったのは、ズゴゴゴゴと物凄い音を立てて沸騰するナニカの姿だった。過剰な火力と魔力の暴走により、今にも爆発しそうな……。

 

「ちょ、ちょっと待った! 待ったぁ!」

「せ、先生! 早くなんとかしないと!」

「リリー、イングリド。昼食が出来たけど、そっちは――」

「ドルニエ先生、今来ちゃダメー!」

「ああっ、先生! 煙が出て……」

 

 

 

「「「あ。」」」

 

 

 

 ……産業廃棄物、一個獲得。



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Atelier

 人間には休息が必要だ。

 休むことなく働き続けていたら、誰だって身体を壊すに決まっている。

 それは当然、俺だって例外ではない。

 だから、素材採取という名の小旅行から戻るや否や、荷物を置く暇も無く相談事を持ち掛けられるというのは論外なのだ。しかもその話し相手が大嫌いな相手と来た日にはもう……。

 

「――って感じなんだけど、どう思う?」

 

 疲労の元凶――リリーが、長々と続いた説明を終えて俺に感想を求めてきた。

 ……そうか、俺がどう思うか答えればいいわけだな?

 俺は即座に、自ら思ったことを率直に口にした。

 

「今すぐ、ヘルミーナに添い寝して一緒にお昼寝がしたい」

「それは話の感想じゃなくて、あんたの欲求でしょうが!」

「やかましい、二階で寝てる彼女が起きたらどうする気だ」

 

 身体があまり丈夫ではないヘルミーナは、帰るなり昼食も取らずにお休み中だ。

 俺は言うまでもなく、シスカも彼女の体調を第一に考えて行動していたので、具合を悪くするといったようなアクシデントはなかった。

 しかし、慣れない野外での活動は単純に肉体を疲労させる。普段は俺と同じくインドア派で外出もあまりしない彼女だ。大事を取って、二、三日はゆっくり身体を休めさせてあげた方が良いだろう。

 幸いにもというべきか、いくつか採取出来た素材もあることだしな。簡単な調合等を、彼女の理解度を確かめつつ教えるとしよう。

 ……まあ、俺自身予想よりも疲れたというのもあるんだが。

 さっさと会話を終えて休みたいのに、相談事の内容が内容だけに無視出来ないのが辛いところだな。

 

「こっちは慣れない野宿なんてして疲れてるんだぞ? 休む間もなく話を聞かされたところで、まともな返答が出来るわけないだろうが」

「うっ……! わ、悪いと思ったから、昼食はあたしが用意してあげたじゃないの」

「あからさまに残り物で済ませたパスタだったけどな。……ま、味は悪くなかったが」

 

 テーブルの上の、欠片一つなく綺麗に空になったパスタ皿に目を遣る。

 飾り気のない真っ白な食器類は、先日ヨーゼフ雑貨屋でまとめて購入したものだ。他にも色々と彼の店で大量に揃えたので、全体的にかなりの値引きをしてもらえた。収入が安定していない今、少しでも出費を抑えられたのは懐が助かった。

 しかし、ただでさえ良心的な価格なのだから、あれではほとんど利益も出ないだろうに。彼が笑顔で言っていたように、今後も彼の店を贔屓にすることで恩を返すとしよう。

 

「素直に美味しかったって言えないの?」

「はいはい、美味しかった美味しかった。食後のデザートはまだか?」

「あんたって、ほんっっとムカつくやつね!」

「奇遇だな、俺も同意見だ」

 

 悪態を吐きながら二人分の食器を片付け、厨房へ向かうリリー。ふん、俺とヘルミーナが帰宅する時間を見計らい、わざとイングリドを外出させる相手に誰が感謝などするものか。

 リリーがイングリドにお使いとやらを頼まなければ、きっと彼女は「おかえりっ! アルト! 寂しかった!」と俺の胸に飛び込んでくれたに違いないのだ。リリーはそれを見越して妨害工作に出たに決まっている。なんと許しがたき所業かっ!

 

「イングリドはお前が姦計を巡らせたとして、ドルニエ先生はどこに出掛けたんだ?」

 

 ティーセットを手に厨房から戻ってきたリリーに聞く。先程の食器類と同じようなタイプの物だが、なぜか一人分のカップしか用意していない。

 俺への嫌がらせとは……上等だ。お前が争いを望むのならば、喜んで相手になってやろう!

 

「姦計って何よ、姦計って……。ドルニエ先生は王城よ――って、ちょっとぉ!?」

「またか? ……お、意外と旨いな。しかし前回、断られたばかりだろう、にっ!」

「だからこそ、でしょ! 融資は断られた、けど! せめて、建設地だけでも確保したいって意気込んでいた、わ!」

 

 お茶菓子のクッキーの熾烈な奪い合いをしつつ、会話だけは和やかに進める。

 ……そうか、まだ建設地に関しては決定していなかったのか。

 街外れの広大な空き地に建てる予定だと完全に思い込んでいたが、まだその話自体、出ていなかったらしい。

 原作でこうだったからという先入観があるからか、勘違いをしていた。あまり原作を意識し過ぎないようにしているつもりだったが、見えない部分ではやはり影響を受けているようだ。

 原作の知識のお陰で見えないものが見えるようになるのはいいが、そのせいで付近が見えなくなって足元をすくわれるのは頂けない。知識を使っているはずだったのに、知識に翻弄されていたなんてのは御免だ。

 とはいうものの、原作の出来事なんて余程印象深いイベントでなければ、もうはっきりとは覚えていないんだけどな。この世界で過ごして十数年の月日が経つし、前世の事を忘れようとしていた時期もあるので無理も無い。そうでもしなければ、日常生活をまともに送れなかったのだから、今更言っても仕方が無いことだな。

 

「アルト?」

「……ん? なんだ、まさかクッキーを返せとでも言うのか。食い意地の張ったやつめ」

「あたしが用意したものを強引に奪い取ったあんたが言うな!」

「バカを言うな。俺はクッキーが食べたかったわけではなく、単にお前に嫌がらせをしただけだ」

「バカなのはあんたでしょうが! じゃなくて……ん、まあいいわ。あたしの勘違いみたいだし」

「何のことだ?」

「別にいいって言ってるでしょ。そんなことより、さっきの相談事の続きだけど」

 

 ――と、リリーがまた俺の疲労を増加させる話を蒸し返そうとしたその瞬間。

 

「ただいまーっ!」

 

 元気の良い声が響くと同時にドアが開いた。

 ドアベルの涼やかな音と共に現れたのは、俺の心のオアシスである少女――イングリドだ。

 その彼女だが、なぜか顔が少し赤い。走って帰って来たのだろうか?

 ――ハッ!? そうか、俺に早く会いたい一心で走って帰ってきたのかッ!

 一瞬で正解を導き出したのは、俺の彼女に対する愛ゆえにだろう。

 ああ……っ! たった一日目にしなかっただけで、イングリドの可愛らしさにより一層磨きが掛かって見える。きっと、俺と会えなかった日々が彼女を美しく成長させたに違いない。

 俺は椅子から颯爽と立ち上がり、バッと両手を大きく広げた。

 イングリドとの熱い抱擁を交わす瞬間に備え、準備万端に待ち構える。

 

「イングリド、お帰り! さあッ! 我慢せず、俺の胸に飛び込んでおいで!」

「あれ? アルト、いたの?」

「がふ――ッ!?」

「はいはい、変態は無視していいわよ。で、どうだったの?」

 

 顔面から床へ崩れ落ちた俺の横を素通りし、イングリドがリリーの傍へ歩み寄る。

 ……え? 本当に、俺へのリアクションはそれだけですか?

 無事に帰ってきて嬉しい、とか言って飛びついて頬にチューしてくれたりはしないの? 寂しかったんだからぁ、とか言って抱きついてきてくれたりはしないの? 今夜はずっと一緒にいてね、とか甘えて添い寝する展開はないの?

 ――いっ、いやいや。……大丈夫だ。何も落ち込む必要はない。

 彼女の今の態度は、ツンデレのツンの部分だからな。本当は今すぐにでも俺に抱きつきたいが、リリーが何やら催促するから涙を呑んで我慢しているのだ。そうに違いない。いやぁ、イングリドは本当に恥ずかしがり屋さんだなぁ、ははは……。

 

「あ、はい。引き受けてもらえるそうです」

「本当に? 良かったー」

「おい、リリー。いったい何の話だ? 俺が無事に帰宅したお祝いにパーティーでも開くのか?」

「後半部分を完全に聞き流して言うけど、さっきもした看板の話よ。カリンさんに造ってもらえないかを聞きに行ってもらったの。鍛冶屋さんなら、お願い出来ないかなと思って」

 

 なるほど、俺に相談する前に一応やれることはやっていたわけだ。

 

「イングリド、少し帰ってくるのが遅かったけど、何か良いことでもあったの? なんだか嬉しそうな顔してるわよ」

「えっ!? そ、そうですか? 気のせいですよ、気のせい! 遅れたのはちょっと道に迷っただけで、別になんにもありませんでした。ほ、本当です!」

 

 慌てて頭を振るイングリド。これでは、あからさまに何かがあったと白状しているようなものだ。

 そして、何があったかなど分かりきっている。

 

「愚問だな、リリー。無論、愛しの俺が無事に帰ってきたから喜んでいるに決まっている」

「ご苦労様、イングリド。台所にオヤツ用意しおいたから食べていいわよ」

「やったー!」

「…………」

「アルトも突っ立ってないで座りなさいよ。まだ話は終わってないんだから」

 

 イングリドが嬉しそうに飛び跳ねて台所に走っていくのを呆然と見送る。

 ああ、俺の潤い成分が……。

 クソッ、リリーめ。相変わらず卑怯な手を使いやがる。そんなにまでして、俺から彼女を遠ざけたいのかお前は。もう少し手段を選べ、手段を。

 

「で、アルト。看板を造ってもらえるお店は見つかったけど、他はどうする?」

「あぁ? 他だぁ?」

「……なんでそんなやさぐれてんのよ。あんたもパンケーキ食べたかったの?」

「そんなわけあるか! 食べたかったら、自分で作るっつーの!」

 

 まったく、食べ物でイングリドの関心を引くなんて最低のやつめ!

 そんな行いは、絶対に、絶対に神様は許さないぞ! 当然、俺も許さないけどな!

 

「あ、そうそう。イングリドがあんたの作ったアップルパイが食べたいって言ってたわよ」

「なにぃッ!? では、今すぐにザールブルグ中の材料を買い占めて作るとしようッ!」

「あんたはいきなりアトリエを潰す気かっ!」

「イングリドの笑顔のためなら、それも已むを得まい」

「そんな無駄に真剣な顔して言うセリフじゃないでしょ、それ。本当に、あんたってやつは――」

 

 リリーが何かを言い掛けて、それを誤魔化すようにカップに口をつける。

 そして、そのまま何も言わずに、無言で黙り込んだ。

 いや、黙るなよ。喋れ。

 

「なんだ、言いたいことがあるならはっきり言え。気持ち悪い」

「べ、別に! ただ……、いつも通りだなって思っただけよ」

「は? なんだ、そりゃ」

「なんでもないわ、気にしないで。しつこい男は嫌われるわよ」

「お前に嫌われたところで、なんとも思わんぞ」

「奇遇ね、同意見よ……って、ああもう、そんなことはどうでもいいのよ。さっきから全然、話が進まないじゃないの。さっきの話の続きよ、続き」

 

 厨房から蜂蜜がたっぷりと掛かったパンケーキを取ってきたイングリドが席に着き、それを美味しそうに頬張る様子を眺めながら、先程の相談内容を思い返す。

 リリーから相談を受けた内容は、大きく別けて三つだ。

 

 ・調合品の他商品との差別化

 ・看板の有無

 ・アトリエの名前

 

 まず、一つ目。調合品の他商品との差別化については、リリー自身良く分からずになんとなくいいかもと思って提案したようで、ぶっちゃけ俺に丸投げ状態だった。

 だが、その発想自体は悪くない。

 要は、ブランド戦略のことだ。

 ブランド戦略とは平たく言えば、企業や製品等に対する顧客の印象を高め、経営や販売上の戦略としてブランドの構築、管理といったものを行うことだ。アンゾフの戦略モデルといえば、経営学を少しでもかじった者なら耳にしたことがあるだろう。市場浸透、市場開拓、製品開発、多角化の四つの構成要素から成り立っているものだ。

 詳しく説明しても、錬金術バカのリリーには理解出来ないだろうから省くとして、だ。

 経営方針としては間違っていないが、……今の俺達の実力では勇み足になりかねないな。

 確かにメリットはある。しかし、デメリットがないわけではない。それに、競合相手となる別の錬金術士はザールブルグにはいないし、土台となる足場が不安定な現状で急ぐ必要性は低いだろう。

 まあ、せっかくリリーが無い頭を捻って考えたんだし、そのうち何か良い折衷案でも思いついたら試してみるのもいいだろう。疲れた頭では考えることすら億劫だ。

 次に、看板の有無だが、これは考えるまでもないだろう。リリーが言わなければ、俺が提案していた。依頼する相手も見つけたようだし、後日デザインや材料費等に関して、先方と良く話し合って決めるとしよう。

 最後に、アトリエの名前だ。これを決めなくては看板も作りようが無いし、ブランド化なんてお話にもならないだろう。

 もっとも、俺は最初からこの点については悩みもしていなかったのだが。

 

「じゃあ、俺の考えを述べるが――」

 

 リリーにも分かるように頭を悩ませつつ、なるべく話の内容を噛み砕いて説明する。

 イングリドは俺の話を、ふむふむ、とリリーの真似をしてか時折頷きながら(可愛い!)聞いていたが、さすがに退屈な話だからか途中で飽きて二階へと上っていってしまった。たぶん、寝ているヘルミーナにちょっかいを出しに行ったのだろう。休養は大切だが、お昼に寝すぎても夜眠れなくなるし、ちょうどいいか。

 俺が苦労して話し終えると、リリーは何やらとてもイイ笑顔で大きく首を縦に振った。

 

「なんだかとっても難しい感じってのが良く分かったわ!」

「返せ! 俺が説明に費やした時間を今すぐ返せ!」

「でも、肝心のアトリエの名前はどうするの? 何か良い案ある? ――言っておくけど、変態的な名前は問答無用で却下よ。あんた一人のアトリエじゃないんだからね」

 

 何を警戒してか素っ頓狂な予防線を張るリリー。

 まともに相手をするのもバカらしいのでスルーして、そのまま素直に案を伝える。

 すなわち、

 

「――『リリーのアトリエ』で、いいんじゃないか?」

「ええっ!?」

 

 いったい何をそんなに驚くのやら。

 俺からしてみたら、これ以上に相応しい名前なんて思いつきもしないのだが。

 

「店主の名前を、店名に入れるのは珍しくないだろう。ヨーゼフさんのところなんかがそうだし。むしろ、ありきたりだと思うが」

「そ、そうだけど! いや、そうじゃなく!」

 

 どっちだよ。

 

「店主って言うなら、あたしじゃなくてもいいじゃない。このアトリエで働いているのはあたしだけじゃないわ。あんただってそうだし、イングリド、ヘルミーナ、ドルニエ先生だって支えてくれているもの」

「じゃあ、リリーとアルトとイングリドとヘルミーナとドルニエのアトリエか? とてもじゃないが、長すぎて看板に収まりきれないだろ。それ以前に、そんな舌を噛みそうなほど長ったらしい名前なんかじゃ、誰にも覚えてもらえないしな」

「それはさすがにあたしもどうかと思うけど……」

「イングリドとヘルミーナはまだ店の看板を背負わせるには幼すぎるし、ドルニエ先生は今回裏方として動くことが多い。俺は一応、お前と一緒に表立って錬金術士として活動はするが、どちらかといえばフォロー役として動くことを期待されている」

「それはドルニエ先生からも説明されたけど……」

 

 けど、なんだよ?

 いったい何を悩んでいるんだ、こいつは?

 

「今回、一番目立って動くことになるのはリリーだと初日に先生も言っていただろ? だったら、お前の名前が一番アトリエに相応しい」

 

 ――と、色々もっともらしい理由をつけてみたが、俺の一番根底にある理由は決まっている。

 ここが『リリーのアトリエを基にした世界』だからだ。

 皆で共同生活を送る話が出た時にも思ったが、俺は別に何もかもを自分の好き勝手にやりたいわけではない。変えなくていい部分まで、わざわざ変更する必要はないだろう。

 

「まさか、俺が責任を全部お前に押し付けようとしてる、とか勘繰ってんのか?」

「そんな勘違いするわけないでしょ。バカじゃないの?」

「じゃあ何をそんなに渋ってんだよ? 反対する理由を言え。それとも、何か他に案があるのならそれを言えよ」

「だっ、だからそれは……あ、あたし一人じゃなくて、その、あんただって、だから、その……」

 

 よほど言い出し難い理由だからなのか、リリーがごにょごにょと聞き取れないほど小さな声で呟く。

 ええいっ、言いたいことがあるならはっきりと言え! 前から思っていたが、この女は何かと言いたいことを言わない傾向がある。普段は言わなくていいことまで言う癖に、言えという時だけ黙るとは、なんとも面倒臭い性格をしていやがる。

 

 その後――

 ドルニエ先生が無事にアカデミー建設地の許しを国王様から得て戻ってくるまで、いくら問い詰めようが、リリーのアホが理由を口にする事はなかった。それどころか「どうして分からないのよ!」と逆ギレされて怒鳴られる始末だ。それからは口喧嘩に発展してしまい、ドルニエ先生に止められるまで延々と言い合いを続けてしまったが、今回ばかりは完全に俺に非は無いだろう。自分なりの案がある癖に、理由を口にしないリリーに全責任がある。

 結局、二階から降りてきたイングリドとヘルミーナも交えて、全員で改めて相談した末に、ようやくアトリエの名前が決まった頃には、既に夕飯の時刻となっていた。

 

 『Atelier Lilie & Alto』――リリーとアルトのアトリエ。

 

 俺は断固として反対したのだが、ドルニエ先生に無難に代表者二人の名前にしたらどうだろうか、と押し切られてしまい、俺とリリーの二人の名前が付けられることとなった。ドルニエ先生が相手では俺も強く出ることが出来ないし、俺以外は賛成意見だったので諦めたとも言う。リリーの名前に拘る本当の理由が言えない以上、ある意味仕方のない結果なのかもしれない。リリーの名前が頭に来るようにしたのが、せめてもの抵抗だ。

 リリーとアルトのアトリエ。

 それが、ザールブルグ中に錬金術を広めようと試みる、我らがアトリエの名前だ。

 

 

 

 

 

 

  ◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 近くの森での素材調達も、三回目ともなれば慣れたもの。

 今日のメンバーはいつも通り、あたしとイングリド、そして護衛に雇ったテオくんの三人だ。ドルニエ先生は近隣の諸侯の元へと出向いているらしく、アルトとヘルミーナは、ヘーベル湖へと一週間位前から出掛けたまま。予定では、三人とも近日中には戻る日程になっている。

 元々はもうちょっと早く出掛ける予定だったのだけれど、当初の予定よりも看板作りに時間が掛かってしまったためだ。値段や素材はもちろん、デザインや飾る場所等々。いざ作ろうと思うと、考えることは多かった。

 金の麦亭での依頼をないがしろにするわけにもいかず、昼食の時や寝る前なんかの空いた時間に、ああでもないこうでもないと皆でワイワイ騒ぎながら決めた。その甲斐あって、あとは完成を待つだけという状態。仕上がるのがとても楽しみだ。

 ……打ち合わせの時、カリンさんから看板の名前のことで思いっきり冷やかされたことについては、あまり考えたくない。

 

「先生ー! これが、うに?」

 

 背後からの呼び声に振り返ると、そこにはトゲトゲで覆われた茶色い物体をじーっと不思議そうに見つめるイングリドの姿があった。チクチクした見た目のそれは、素手で持ったら怪我をしてしまいかねないけど、心配いらない。あらかじめ、野外での活動用に、きちんと皮製の手袋を装着済みだ。

 初回こそ、素材採取になぜか難色を示していた彼女だけれど(外で遊ぶのは好きなのになぜ?)、今では自分の知識が生かせるのが嬉しいのか、自ら進んで採取に励むほど。今も自分の頬に土がついているのに気付かないほど、夢中になって探していたみたい。

 やれやれと思いつつ、ポケットからハンカチを取り出す。こんなこともあろうかと、いつも二枚は常備している。

 イングリドの頬についた土埃を綺麗に拭き取ってあげると、彼女は未だに素材から目を離さずに見つめ続けていた。

 いったい、何をそんなに不思議がっているのかしら?

 

「ええ、そうよ? 昨日も見つけたでしょ?」

「うに……。やっぱりこれが、うに。じゃあ、海で採れるあれはいったい……」

「あー……」

 

 ムムム、と眉をひそめて妙な唸り声を上げるイングリド。

 ケントニスでの生活しか知らない彼女からしてみれば、その疑問はもっともだ。他ならぬ、あたしもザールブルグに来て疑問に思ったことなんだよねぇ、それ。

 当然のことだけど、このうにと海で採れるそれとは別物だ。

 それなのに、どうしてそんな風に呼ばれているのか?

 その理由はとても単純。

 まあ、教えてくれたのは例によってアルトだけど。

 いつもは皮肉の一つも言ってくるのに、今回は珍しくあっさりと教えてくれたのだ。

 代わりになぜか「うにー!と言え」とか、意味不明なことを要求されはしたけど……。この前も「たる、と言え」とか妙なことを頼まれたし、挙句の果てには「やっぱお前じゃダメだな」とか溜め息を疲れるし、変態の考えることは常人の斜め上を行き過ぎていて困るわね。なぜだか分からないけど、無性にイラッと来たから本能的に一発入れておいたけど。

 

「海のないザールブルグでは、これが一般的に『うに』って呼ばれているのよ。見た目は確かに似ているしね。海と陸地で交流するうちに、自然と混同してしまったのではないかって言われているわ。でも、実際には森の中で採れる栗のような物の一種だから、生物であるうにとは別物よ」

「へえー。海で採れたうにが進化して、森で生えてるわけじゃないんですね」

「…………」

 

 変態どころか、天才の発想の飛躍にも時々ついていけないあたしがいる。

 が、頑張れあたし。彼女の教師はあたしなのだから……!

 

「そ、そういう考え方も興味深いかもしれないわね」

「先生、じゃあ、海で採れるうにはなんて呼ぶんですか?」

「それも当然、うによ」

「えっ? あれもうに? これもうに? うに……うに……うにに……」

 

 言ってて頭が混乱してきたのか、イングリドの目つきがなんだか怪しげなものになっていく。

 あー、こういうのなんて言うんだっけ。なんとか崩壊とか言うやつかしら? アルトが随分と前に口にしていたような気が……ええと、確かゲシュ……ゲシュタン……ゲシュタール? うーん、なんか違うような……もうちょっとで思い出せそうな気はするんだけどなぁ、ってあれ? どうして、そんなことを考えていたんだっけ?

 うーん? と腕組みをして頭を捻ろうとすると、金属が擦れるような音が小さく響いた。

 ちらりと視線を胸元に下ろす。

 今日のあたしは、いつもアトリエで過ごしている時の格好とは異なり、危険性も考えてなめし皮の服を着ている。普段と違うのはもう一点あって、アクセサリーを首元から下げていることだ。ちょうど胸元の辺りに位置するように調整されたネックレス。

 出掛ける時はいつも服の中に収めていたのだけど、採取している間に、表に出てきてしまったようだ。

 そのアルトからの贈り物が「バカなこと考えてないで仕事しろ」とでも言いた気に、ゆらゆらと揺れている。

 ――ああいや、イングリドの話では「これはあたしからリリー先生へのプレゼントです。お外で素材を集めたりする時に、必ず身に付けて置くようにって言われました」だったわね。一応、イングリドからの贈り物ってことになっているのだ。

 それにしても、言われました、って……隠す気ないでしょイングリド。あからさまに誰かさんから頼まれたって言ってるわよ、それ。

 大粒の琥珀色の宝石を綺麗にカッティングして、それを光沢のある銀の鎖で仕上げたネックレス。あまりアクセサリーに詳しくないあたしから見てさえ、それなりに値が張りそうな一品だと分かる代物。仄かに魔力が込められているのを感じるし、一流の錬金術士が調合した品物と見て間違いないはずだ。

 では、そんな代物をイングリド経由であたしに贈ろうとする犯人とは?

 考えるまでもなく、あいつ以外にこんなおかしな真似をする人間がいるわけない。アルトが妙なことをしでかすのなんていつものことだし、肝心のチェーンの長さにしても、以前あたしの首にペンダントを掛けてくれたあいつなら、大体は把握してそうだしね。そういう変な部分に関しても抜け目ないのだ、あの変態は。イングリドとヘルミーナの誕生日にドレスをプレゼントする、なんて前科もあることだしね。

 もし仮にこれがドルニエ先生からだった場合は、直接あたしに手渡ししてくれるだろうし。

 アルトがあたしにわざわざこんな回りくどいやり方でプレゼントをするとなると、今度は違う意味で不安になるけど、たぶん大丈夫なはず。万が一おかしな物なら、さすがにイングリドがあたしに渡すことを拒否すると思う。効果は分からないけど、少なくとも所有者に害をもたらす類のものではないはずだ。

 ……でもそうなると、今度は違う疑問が浮かび上がる。

 どうして、そんな物をわざわざあたしに?

 毛嫌いするあたしに贈っておいて、大事にしている(本意はどうあれ結果的に)イングリドには何も無しっていうのが腑に落ちない。お守り代わりというのなら、それこそあたしなんかよりもイングリドにこそ渡しそうなものだけど。

 うーん……。

 異性からアクセサリーをプレゼントされるという、普通の女の子なら胸をときめかすようなシチュエーション。だというのに、ちっとも心が躍らないのは相手が悪すぎるせいだろう。

 ……なんだか違う意味で胸がドキドキしてきた。ほ、本当にこれ、身に付けてても大丈夫よね……?

 おかしなことをしでかしたらタダじゃおかないわよ、と人差し指でネックレスを小突く。

 

「おーい、姉さん達。そろそろ昼食にしないかい? この辺りにちょうど小川も流れてることだしさ。もう腹減って死にそう」

 

 あたしとイングリドが採取している間、周囲を警戒していてくれたテオくんが、お腹を抑えつつ情けない声を出した。

 はいはい、分かったってば。お腹を鳴らしながら空腹をアピールしなくてもいいわよ、もう。

 

「オレもほら、そこで素材になりそうなの拾ったし。これで午前中は終了にしないかい?」

 

 そう言いつつ差し出された手には、うにに似たようなトゲトゲのある木の実。

 でも、うにとは違って緑色だし、細長いし……なんだろう? 見たことが無い。若いうにってこんな形をしているのかしら?

 でも、な~んか頭の奥のほうで記憶が刺激されるのよね。どこかで見たような、知っているような、そんな気がする。

 

「これ、どこで拾ったの?」

「なんか食べられるものないかとその辺見てたら見つけた」

「はいはい、お腹が空いたんだったわね。今、用意するわ」

 

 一応、何かに使えるかもしれないし、正体不明の木の実も籠に入れておくとしましょう。参考書を見てみたら載ってるかもしれないし、それでも分からなければアルトもいるしね。こんな時くらいは、こき使ってやら無いと。

 あたしは知恵熱を出しそうな感じに陥っていたイングリドに声を掛け、三人で一緒に昼食の準備をすることにした。

 分担はあたしとイングリドが調理で、テオくんが食べ物調達とか場所の設営だ。最初こそ手間取ったけれど、今や何も言わないでも各自が各自のお仕事をこなす慣れっぷり。

 中でも、護衛に雇った冒険者のテオくんには頼りっぱなしだ。今も近くに小川があるなんて、あたしは気付きもしなかったし。野外で活動する際に、水の確保は重要となる。飲み水だけでなく、使った後の食器を洗うのにも必要になるしね。それ以外にもまぁ……、色々と。

 あたしよりちょっと年下で、第一印象の通りに活発な男の子。

 最初は、あたしと同じで駆け出しだからもっと頼りない感じなのかと思っていたけど、全然そんなことはなかった。

 故郷で多少なりとも野外活動の経験のあるあたしはともかく、イングリドはまったくの未経験。でも、そんな彼女が歩きやすいように道を作ってくれたり、渡りづらそうなところでは手を差し伸べてくれたり、休憩する時も小まめに様子を見て気を配ってくれたり、狼とかに襲われた時は絶対にイングリドが襲われない様に気をつけてくれたり。本当に、野外活動中は何から何まで至れり尽くせりで、テオくんにはお世話になりっぱなしだ。

 一方、あたしはもうなんていうか……彼の足を引っ張らないように気をつけるだけという。

 そんな不甲斐ないあたしに対して、彼は「姉さん」と呼んで慕ってくれている。彼は大家族の長男で、自分よりも年上の兄弟がいなかったらしく、兄や姉といった存在に憧れていたらしい。あたしとしても、やんちゃな弟が出来たようで悪い気はしない。イングリドのことも、年の離れた妹と接した経験があるからか、思ったよりも早く打ち解けてくれたしね。

 

「あたしのこと姉さんって、テオくんは呼ぶじゃない?」

「え? うん。それがどうかしたかい?」

 

 小川のほとり。火に掛けた鍋の周りを囲むように、三人で丸太の上に腰掛けたあたし達は少し早めの昼食を取ることにした。

 今日の昼食は工房から持ってきたパンと干し肉、ベルグラド芋のスープ。飲み物はイングリドでも飲める程度に度数の低いワインとお水で、テオくんが現地調達した果物がデザート。毎日こればかりだとさすがにとは思うけど、野外で活動する最中だけは我慢我慢。

 テオくんの二杯目を鍋から器に盛りつつ、あたしは気になった事を聞いてみた。

 

「アルトのことは、兄さんって呼んでるの?」

「ええっ!? ア、アルトさま……じゃなかったアルトさんかい?」

 

 ちょっと待ちなさい。今一瞬、聞き捨てなら無いことが聞こえたわよ。

 

「アルトさんはアルトさんだよ。とてもじゃないけど、兄さんだなんて呼べないよ」

 

 あたしが差し出した器を受け取ったテオくんが、さっきまで勢い良く動かしていたスプーンと一緒にブンブンと首を横に振る。

 以前にアルトがテオくんと話していたのを見る限り、友好的な関係を築けていたように見えたのだけど……、この短期間にいったい何があったのかしら?

 

「実は試しに一度だけ、兄さんと呼んだことがあるんだけど……」

「だけど?」

「『だ・れ・が・義兄さんだッ!? お前に彼女はやらんわぁぁぁああ!!』って、物凄い剣幕で怒鳴られた……」

 

 がたがたがたがた。

 惨劇を思い出してか、全身で身震いするテオくん。

 ……どうやらアルトの悪い癖が出たらしい。ピンポイントで刺激してしまったテオくんには、ご愁傷様と言う他ない。

 またぞろヘルミーナとテオくんがどうこうって妄想でも働いて暴走したんでしょうね。こうも簡単に予想出来てしまう我が身が悲しくなるけど。

 

「そ、それは災難だったわね。でも、一応フォローしておくと、アルトもそう悪いやつじゃないのよ? ただ、そう……致命的なまでの欠点があるだけで」

 

 それはもう、不治の病といってもいいレベル。

 彼の有名なエリキシル剤でも手に負えないんじゃないかしら?

 

「ああ、心配しなくてもそれくらいは分かってるって」

 

 へへっ、と一転して笑顔を浮かべるテオくん。

 無理に作ってるような不自然さはないし、本当にそう思ってるみたいね。良かったわ。

 あたしとしては、あいつが誰に嫌われようと別に構わないんだけど……でも、やっぱりあたしの知ってる人達が、いがみ合うようなのはちょっと嫌だしね。どうしても気になってしまいそうだし。仲が悪いよりは、仲が良い方がいいに決まっている。アルトのイングリドやヘルミーナに対する態度は、それ以前の問題だけどね。

 

「もう本当にさ、あの人どれだけ姉さんのことが――」

「あたし?」

「いっ!? あっ、いや、ええと、その!」

「?」

「こっ、このスープ美味いな! もう何杯でもいけるぜ! おかわり!」

「そ、そう? ありがと。ちょっとしか残ってないけど、全部食べちゃっていいわよ?」

 

 あたしが言った直後、鍋ごと抱えて猛然と食べだすテオくん。その物凄い食べっぷりに、あたしの隣で食後の果物をかじっていたイングリドが目を丸くする。

 あー、ダメよイングリド、真似しちゃ。あれは悪い見本だからね? そんな興味深々な感じにイキイキした表情しないの。

 もっと良く噛んで食べないと、消化に悪いと思うんだけどなぁ……。

 こういう部分を見ていると、仕事中とは打って変わって年相応の手の掛かる弟に見えて仕方なくなるのよね。護衛としては、とても頼れる人だと評価を改めたんだけど。

 

「ふう、ご馳走様」

「お粗末様でした」

 

 口元を手の甲でぐいっと拭いながら言うテオくんに、苦笑しながら返事をする。そういう大雑把な仕種も、彼がやると似合っている。彼らしいといえば彼らしいわね。

 ……ってイングリド、ダメだってば。あなたは真似しちゃダメ。いいわね?

 慌ててイングリドの手を掴み、ハンカチで果物の汁を拭いてあげる。なんだか不満そうな表情をしているけれど、これもあなたのためなんだからね? 女の子がそんな豪快なことしちゃ、将来、異性にヒかれてしまうわよ。

 

「あっれ? 姉さんって、そんなものつけてたっけ?」

 

 そんなもの? ……ああ、ネックレスのことね。

 テオくんの視線の向かう先には、木漏れ日を反射して光り輝くネックレスがあった。

 そういえば、普段は服の中に入れているから、彼に見せたことはなかったかもしれない。

 

「いつもは邪魔にならないように隠しているから。……お、おかしい?」

 

 やっぱりあたしみたいなのがこんな高価そうなのを身に付けていると、それだけで違和感があるのだろうか? 鏡の前で自分で確認した時は、ふふん結構似合っているじゃないのと自己満足に浸っていたのだけれど。

 人に指摘されると急に恥ずかしくなってくる。

 

「いや、似合っていると思うよ」

「本当!? わぁ、ありがと!」

 

 お世辞でも、そう言ってもらえると嬉しくなってしまう。普段一緒にいる相手が相手だけに、そういうお世辞ですら言ってもらえることってないから余計にね。

 お世辞だと分かっていても、ついつい口元が緩んでしまう。

 

「いっ、いや、別に。お、思ったことを言っただけだし」

 

 思わず満面の笑顔でお礼を言ってしまったあたしに、顔を背けて言葉少なめに言うテオくん。

 ……はいはい、分かってますよー。お世辞に対して全力で喜びすぎだって言うんでしょー。

 でも仕方ないじゃない。普段が普段なんだもの。

 

「まあでも、オシャレよりはたぶんお守りって意味でつけてるから。街の外に出ている間だけね」

「ふーん、そっかぁ……。贈り物、だよね?」

「あ、うん」

「やっぱりなぁ。そうだと思ったんだ、アトリエの名前のことを聞いた時からさ……」

「アトリエの名前……って、もう知ってるの!? 誰から聞いたの!?」

 

 動揺のあまり、思わず立ち上がって頭を抱えるあたし。

 決まってしまったことだから、今更どうこう言うつもりはないけど、まだちょっと自分で口にするには勇気がいる名前。

 あたし一人で店名を名乗るのはちょっと憚られて、でも二人だと今度は違う意味で問題が出てしまいそうな名前。

 リリーとアルトのアトリエ、という名前。

 男女二人の名前が店名になっている意味を考えたら、こちらの事情を知らない人の大半は勘違いしてしまいそうになるような名前。

 そんな名前。

 今の所、まだカリンさんにしか教えた事の無い名前なのに、それをどうして彼が知っているの!?

 

「え? アルトさんから普通に教えてもらったけど」

「そんなことだろうと思ったわよ!!」

 

 ええ、そうよね! 店名を聞いた他人がどう思うかなんて、まったく気付いた様子のないあのバカ男なら平気で口にするわよね!

 それどころか、嬉々として行く先々で店名を周囲に広めている様が目に浮かぶもの!

 どうして言ったのと問い詰めるあたしに、「知ってもらうための店名だろう」と平然と言い返してくる様子さえ、ありありと思い浮かんでしまうわ!

 あ・い・つ・はぁぁぁぁああああ!!!

 

「な、なあイングリド……、なんかオレ、まずいこと言ったかな?」

「んーん。わたしも良い名前だと思うんだけど、なんだかリリー先生とアルト先生は微妙だったみたい。最後まで揉めてたし。テオはどう思う?」

「呼び捨てかい。ん……まあ、オレも良い名前だと思うよ。分かりやすいしね――色々な意味で」

 

 そこ! 何をヒソヒソと二人で話しているのよ!?

 

「テオくん、勘違いしないでよ!? そういうんじゃないからね!」

「あー、はいはい。二人ともそういうスタンスなのな。分かったって」

 

 むむ、二人とも?

 一人はあたしのことだとして、もう一人は……順調に考えてあのバカしかいないわよね。

 あいつも何かしらテオくんに誤解されるような発言をしたってこと?

 本当にロクなことをしでかさないわね、あの男は。自分だって困るだろうに、迂闊な言動は謹んで欲しいわね。

 

「っていうか、絶対分かってないでしょ!? その態度で誤解したままの人間を、何人も知っているのよ!」

「分かってるって。本当、あの人、隠す気ないよな。店名のことといい、アクセサリーのことといい、オレのことといい」

「だから、そういうんじゃ――」

 

 ……ん?

 んっ、んっ、ん~~??

 

「別にさー、オレもさー、人の事情に首突っ込む気はないけどさ。でも、お互いバレバレなんだし、もうちょっと素直になればって言うかさー」

「――テオくん」

「はっ、はい! なんでしょうか!?」

 

 即座に立ち上がって、ビシッと気をつけの姿勢を取るテオくん。

 あれ? おかしいわね。誤魔化したりしないように、自然に喋ってもらえるように、さりげな~い笑顔で話しかけたというのに、なぜそんなに怯えた表情をしているのかしら?

 

「今、オレのことといいって言ったわよね? それ、どういうこと? どうして、そこでアルトの名前が出てくるの?」

「いっ!? そ、それは……ええとぉ……」

「ど・う・い・う・こ・と?」

 

 ニコニコニコニコ。

 笑顔笑顔。会話の基本は笑顔よね。

 じーっと見つめて静かに問い掛けると、テオくんは何やらぶわっとこめかみに脂汗を滝のように流しながら数秒。やがて、何かを観念したかのようにうなだれた。

 

「はぁ~っ……。分かった、話すよ」

 

 うんうん、良かった良かった。なんだか意図したことと違うような気もするけど、結果オーライよね。

 ……って、イングリド? どうして、テオくんの背中に隠れているの? そんなガタガタと震えて、何か怖いことでもあったの?

 

「アルトさんには、オレが喋ったって絶対に言わないでくれよ?」

「そう……、あのバカが口止めしていたのね」

「えっ? あ、その」

 

 アクセサリーのことといい、とも言ってたし、何を裏でコソコソやってるのかしらあの男は。

 これは帰ったら、じっっっくりと話し合う必要性がありそうね。

 

「それで? テオくんに、あいつは何を頼んだの?」

「その……初めてアルトさんが外に行く時、オレとシスカの姐さんが一緒に雇われたのって覚えているかい?」

「ええ、もちろん」

 

 二回目以降は、彼女だけを誘って素材採取に行っていることも知っている。

 なんだかとても親密そうな雰囲気で、彼らしからぬ砕けた態度を取っていることも知っている。

 ……よ~~~く、知っているわ。

 

「不思議に思わなかったかい? どうして二人も雇うのかって。オレみたいな駆け出しが二人ならまだ分かるけど、姐さんはベテランの冒険者だ。わざわざ、オレも雇う必要なんてないだろ?」

「確かにその通りだけど……、自分でそれを言うの?」

「駆け出しなのは事実だしね、仕方ないよ。でも、その駆け出しを雇うための理由がアルトさんにはあったんだ。なんだと思う?」

 

 不意に質問を投げかけられ、返答に詰まるあたし。

 それは以前にも何度か考えて、結局答えが出ずに保留した疑問だ。

 答えが出せずに沈黙するあたしに、テオくんが真実を投げかける。

 あたしにとっては、予想外にも程がある一言を。

 

 

 

 

「姉さんのために、だよ。オレが姉さんに雇われる際に、少しでもフォローが出来るようにって」

 

 ――そのアクセサリーもアルトさんからなんだろ? お守りって言ってたし。あの人も口ではどうこう言ってても、本当、過保護だよなぁ。普通、いくらなんでもそこまではしないって。まあ、相手が姉さんだからこそだとは思うけどさ。ああ、分かってる分かってる。そういう関係じゃないって言うんだろ? アルトさんも同じセリフを口にしていたしね。どう言ってても、周囲からしてみたら何を言ってるんだか、って感じがして仕方ないけど――

 

 

 

 

「――ああ~っ! これでやっと新しい武器が買えるぜ。今、使ってるのは先輩からもらったお古だからなぁ~」

 

 帰り道。

 衛兵さんに挨拶して街の門をくぐった途端、テオくんが大きく伸びをした。

 彼から教えられた真実を知り、あたしはとてもじゃないけど採取の出来る気分ではなくなってしまった。そんな状態では怪我をするかもしれないし、昼食を終え、少し早いけれど予定を切り上げて帰ることにしたのだ。

 道中は、二人に気付かれないように取り繕うのが精一杯。

 今だって、彼が口にしたセリフに、相槌を打つのすら苦労する有様だ。

 

「そう……」

「武器を購入したら、そのまま演習場で夜まで特訓する予定なんだ。明日のオレは、今日とは一味違うぜ?」

「ねえねえテオ、どんなのを買う予定なの?」

「もちろん、でっかい剣さ! 竜も叩き切れるようなやつ!」

「なにそれ? あったとしても使えるの、そんなの?」

「はぁ~っ……。これだから、お子様は。いいか、イングリド。これは、男のロマンってやつなんだよッ!」

「ロマンでご飯が食べられたら苦労しないわよ。これだからテオはダメ男ね」

「十歳児にダメ出しされるオレって……」

 

 おどけた様子で地面に両手をつくテオくん。

 その様をお腹を抱えて笑いながら見ているイングリド。

 ……ああ、たぶん気付かれてるな。

 二人があたしに気を遣って、わざとそんな素振りを見せていることに今更ながら気付く。

 あたしの様子がおかしいことに、たぶん、もう二人は気付いているんだろう。どうしてこんな状態になっているのか、その理由は知らなくとも、察することは出来る。

 ――あたしは今、酷く落ち込んでいる。

 アルトがあたしのために人知れずフォローしてくれていた、という事実。

 ケントニスでの、アカデミーでの生活中を思えば別段不思議でもなんでもない。あの頃のあたしはそれを疑問にも思わなかったのだから。

 でも、今のあたしは違う。そう思っていた。

 だからこそ、予想出来たはずの事実が予想外で。

 ザールブルグに来て、アカデミーを建設しようと張り切って、アトリエを経営しようと勢い込んで、イングリド達にとって良き先生になれるよう頑張ろうと思って、アルトの隣に立てるようにと決意して――

 変わったと思っていた。変わっていこうと思っていた。

 けれど、そんなあたしは既にフォローされていたという、以前と何も変わらない事実。

 それを知り、彼に感謝の念を抱く前に、自分に落胆してしまった。

 そんなに……そんなにも、あたしは頼りないのだろうか?

 自分なりに努力して、変わろうと、少しでも前に進もうと決めたけれど。

 それでもやっぱり、アルトから見たら何も変わっていないのだろうか?

 どうして分かってくれないの、と彼を責める気すら起こらない。

 どうして気付いてくれないの、と悲しくなる感情すら沸かない。

 自分のしてきたことが徒労に終わったという無力感に打ちひしがれるのみ。

 テオくんは知っていた。あたしをフォローするために雇われたということを。

 それはたぶん、シスカさんも知っている。彼女が教えてくれたから、テオくんは駆け出しらしからぬ万全さであたしを護衛出来たのだろうから。

 イングリドも知っていた。あたしにネックレスを渡したのは彼女だ。

 ドルニエ先生は? ヘルミーナは?

 分からない。でも、もしかしたら何かあたしに隠しているのかもしれない。

 そうして、あたしの知らない所であたしはフォローされているのだ。

 あたしだけが仲間外れ。

 一緒に頑張っていこうと、あの日、皆で誓ったのに。

 アルトの考えが正しいことは分かっている。

 いつもいつも、いつもいつもいつもいつもいつもいつも……。

 普段のあいつがすることは、いつだってシャクに触るくらいに正しいことなのだ。彼の残した結果がそれを物語っている。

 リリーとアルトのアトリエ。それが工房の名前。

 でも、これほど滑稽なものもない。何から何までアルトのフォローを受けているあたしが、いったいどんな顔で店の看板足り得るのか。

 アルトにはアルトなりの考えがあり、いつだってそれは正しい。

 確かに、そうかもしれない。

 でも、とあたしは思う。

 だけど、とあたしは否定する。

 彼の考えには、あたしの意思は一切関与していない。

 良かれと思ってしてくれたことだとは分かっている。あたしのフォローをすると約束した以上、それをあいつが破る事は無い。

 でも、あたしにはあたしなりの意思があるのだ。

 どれだけ未熟で幼稚で、彼からしたらこの上なくバカげたものだとしても。

 だから、とあたしは思考を繋げる。

 うつむいたままの自分を、無理矢理にでも上を向かせる。

 あたしと同じ駆け出しのテオくんだって頑張っているんだ。あたしに出来ないはずがない。

 共同生活を送る際にも決めたことだ。

 話し合い、あたしの意見と彼の意見を衝突させる。

 あたしにだって、譲れないことの一つくらいはあるのだ。

 もうアカデミーで彼に甘えてばかりいたあたしとは違うんだってことを、彼に知ってもらいたい。自分だけが分かった気になっていてはダメなんだ。彼に知ってもらわなければ、何も始まらない。彼に言わなければならない。

 もう、そんなにまでして面倒を見てもらわなくても大丈夫だと。

 あたし一人でも、これからはやっていけるからと。

 彼にフォローしてもらわなくとも、立派にやれるって所を見せてやるんだ。

 

「ほーら、二人とも道の真ん中で騒がないの! 他の人の邪魔になるでしょ?」

「姉さん……」

「先生……」

 

 こちらを気遣うようにして見上げる二人に笑いかける。

 大丈夫よ、いつまでも気落ちしている暇なんてないものね。

 心配かけて、ごめんね。

 でも、もう心配いらないわ。

 あたしは、一人でだって頑張れる。

 アルトに頼らなくたって、立派に錬金術士としてやっていける。

 あいつを見返してやる。

 絶対に。

 あたしは決意を新たに、二人と一緒に街の喧騒の中へと戻った。

 

 

 

 

 ――その考えこそが大きな間違いだと気付いた時には、既に事態は致命的なまでに手遅れとなっていた。

 あたしはこの後、自分が原因で招く事となった出来事を、後悔と共に一生忘れることが出来ない過ちとして記憶することになる。



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不意打ち

「早めに気付けて、本当に良かった……」

 

 ヘルミーナの寝顔を見下ろすと、自然と安堵の溜め息が漏れた。

 ベッドで静かな寝息を立てるヘルミーナだが、その顔色は若干優れない。

 近くの森、日時計の草原、と順調に採取が出来たので、俺の気は緩んでいたのかもしれない。俺が次の目的地であるヘーベル湖に行くには、十分な休暇を挟んだと思ったとしても、彼女にとってもそうとは限らないのだ。

 知らず知らずのうちに、ヘルミーナに無理をさせていた。

 今回は徒歩で片道二日のヘーベル湖だったから、体調を崩しているように見えた時点ですぐに戻ってくることが出来た。

 しかし、これが例えばストルデル滝だったとしよう。あそこは往復で十二日間、片道でも六日間は必要となる遠方の採取地だ。そうなれば、体調を崩したままロクな療養も出来ずに、何日も野宿をさせることになる。

 そんな事態は、想像すらしたくない。

 だからこそ――

 ……反省、しないとな。

 俺は悪くない、慎重に慎重を重ねて頑張った結果だ、仕方ないことだったんだ。そう言い訳がましくわめき散らしたくなる衝動をグッと押さえ込む。

 全ての行動の決定権が俺にある以上、全ての行動の責任も俺のものだ。彼女を一人前の錬金術士に導くことも大事だが、健康に気遣えないようでは何も意味が無い。一瞬の気の緩みが命取りとなることもあるのだから。

 

「迷惑掛けて、ごめんなさい……か」

 

 帰り道。俺の背中で揺られながら、何度も申し訳なさそうに口にしていたヘルミーナ。

 謝るのは俺の方だ。俺の方こそ、至らない教師でごめんな。

 けれど、その言葉は決して言ってはならない。

 言えば必ず、ヘルミーナが傷つくからだ。

 自分のせいで、と優しい彼女は思ってしまうだろう。

 ヘルミーナは、彼女の年齢にしては良い子すぎるほどに気遣いが出来る。今回はそれが裏目に出て、体調を崩し掛けていることを中々言い出せなかったようだ。

 今後はスケジュール管理を、今まで以上に彼女の体調に気を遣ってやらなくてはならないなと思う。今回はまだ教えていない調合品の作り方を教えながらの休息だったから、俺が思ったよりも彼女は休めなかったのかもしれない。勉強熱心なヘルミーナは、一度教わったことは完璧に覚えようとしてしまうからな。何もせず、自由に過ごせる休日を小まめに作ることにしよう。

 怪我をする可能性を考えて、治療出来る薬品は持っていっていたが、今回みたいな疲労には効果が無い。今後は疲労に効く調合品も忘れずに持っていこう。

 後悔するだけで、次に生かせないのでは何も意味がない。もう二度と彼女が倒れたりしないように気をつけなくては。

 そして、これからのことで大事なのがもう一つ。

 気は進まないが……。

 本当に嫌で嫌で仕方ないが、俺はヘルミーナに謝ることではなく、叱ることをしなければならない。そうでなければ、また同じ過ちを繰り返す結果となるし、他ならぬ、ヘルミーナ自身のためにならない。

 俺が彼女を気遣うだけでなく、彼女自身も自らに対して気を付けなければどうにもならないのだ。きちんと彼女に言い聞かせられるのか、そしてその後で彼女が俺に対してどう思うのか、それ考えるだけで泣きたくなってくる。ヘルミーナに「先生なんか、大嫌いっ!」なんて言われたらと想像すると、もう目の前が真っ暗に……ああっ、怒った顔のヘルミーナも可愛いなぁ、もうっ!

 ……リリーのアホは、平然とやっていたんだけどな。

 アカデミーで二人が何かしでかした時は、あいつが彼女達を叱っていた。だからこそ、俺は二人に対して常に彼女達を守る立場でいればいいだけだった。

 だが、今回ばかりは俺がするしかない。今、ヘルミーナの先生は誰でもない、俺なのだから。その責任を投げ出すわけにはいかない。

 それにしても、まさか、リリーがいてくれたらと思う日が来るとはな……。

 ヘルミーナの呼吸する音だけが、カーテンを閉め切った室内に響く。

 本当に、本格的に体調を崩す前に気付けて良かった。

 これなら、あとは安静にしていれば大丈夫だと思うが……一応、念のために、常備薬を食後に飲ませるか。俺がケントニスから持ってきた薬箱の中に、何個か入れてあるからな。備えあれば憂い無し。怪我や病気に罹った時のためにと、薬関係を色々と持ってきておいて良かった。

 そっと頭を撫で、ヘルミーナの傍を離れる。

 ずっと傍にいてあげたい所だが、そうもいかないからな。

 

「……アルト。荷物、運び終わったわよ」

 

 背後から、小さく呼び掛けられた。

 心配そうに顔を覗かせたのは、今回も同行を依頼したシスカだ。彼女はヘルミーナを起こさないためにと、足音を忍ばせてゆっくりこちらに近付いてきた。

 

「すまないね。帰路といい今といい、荷物持ちなんて護衛がするような仕事じゃないのに」

「それくらい構わないわよ。変な所で律儀なのね、あなたって」

「そうかな?」

「そうよ。玄関脇に置いてあった竹籠も一緒に運んでおいたから」

「重ね重ね、申し訳ない」

 

 まったく、リリーのアホめ。

 素材を採ってきたなら、きちんと収納しておけとあれほど言ったのに。後でやればいいや、などと思ってそのまま放置してしまったのだろう。おそらく、今行ってる採取には別の竹篭を買って行ったのだろう。当日になって竹篭を使えなくて焦るあいつの顔が易々と想像できる。

 竹篭だって安くはないのだ。二個も三個も買う必要はなく、使ったらすぐに素材を片付ければ一個で十分だ。帰ってきたら、きつく言ってやる。節約しなくちゃと言いつつこれでは先が思い遣られるぞ。

 

「……でも良かった、これなら大丈夫そうね」

 

 寝息を立てるヘルミーナの顔を覗きこみ、安心したようにシスカが微笑む。

 

「錬金術の素材よりも優先してアルトが背負うほど、大事に扱っている子だしね。万が一があるわけない、か」

「当然だよ。素材は最悪捨ててもまた取って来ればいいけど、ヘルミーナはそんなこと出来ないからね。出来たとしても、しないけどさ」

 

 もっとも、そのせいでシスカが竹篭背負った面白傭兵姿となってしまったのだが。

 見栄えに気を遣う方である彼女への仕打ちに少しばかり胸が痛むが、戦闘の度にヘルミーナを起こすわけにもいかない。慌てて放り出すなんて問題外なので、そうせざるを得なかったのだ。

 

「過保護ねぇ……」

「それくらいしても、まだしたりないくらいだよ。本音を言えばね」

 

 俺が苦笑すると、彼女も苦笑で返した。

 何があるか分からないのが現実だ。

 それくらい慎重になって丁度良い程度だろうと俺は思っている。

 シスカと一緒に一階へ下り、台所から紅茶を二人分淹れて来てテーブルへ着く。リリーのやつがいたなら、あいつに先に用意させておいたんだが、生憎とイングリドと一緒に採取へ出掛けているらしい。間の悪いやつだ。

 玄関脇の壁に吊るされたボードに視線を遣る。各自の予定を把握するために、と用意した物だ。他にも今週の掃除当番の名前や、ザールブルグでの催し物等といったチラシも張られている。

 俺とヘルミーナの部分を書き直した際、他の三人の予定を確認した。

 リリーとイングリドの部分には、やや丸い文字で同じ内容が書かれていた。

 

【近くの森にテオくんと一緒に採取に行ってきます・三日間くらい・戻るのは夕方?】

 

 なんで最後が疑問系なんだアホ、と帰ってきたら問い詰めてやろう。

 一昨日の日付で書かれていたので、戻るのは今日の夕方頃になるらしい。イングリドの顔を見るのはしばらくぶりとなるので、今から会うのが楽しみで仕方がない。シスカが見ていなければ、鼻歌の一つも歌いたいところだ。

 一方、ドルニエ先生はというと……。

 

【大工の棟梁と打ち合わせ・帰宅は夕方頃を予定】

 

 と綺麗な筆跡で簡潔に書かれている。つい最近まで貴族の御偉方やらと折衝をしていたというのに、戻ってから落ち着く間もなく、次へと出掛けるドルニエ先生には頭が下がる思いだ。

 大工が必要となるのは勿論、アカデミー建設のためである。場所こそ確保したものの、造る人がいなければ立つわけがない。

 皆で話し合った結果、アカデミー建設に必要な金銭の管理も含めて、ドルニエ先生が行うこととなった。俺とリリーはあくまでアトリエの運営が本業ということだ。

 そのドルニエ先生も夕方には帰宅するようなので、今日の夕食は久しぶりに全員揃っての食事となりそうだ。リリーが帰ってきたら、何を作るか相談して買出しに行くとしよう。

 

「お疲れ様、シスカ。なんだか慌しくて、すまなかったね」

「気にしないでいいわよ。予定はあくまで予定なんだしね」

「護衛費用はきちんと当初の予定通り、二日後分まで支払うから安心してくれ」

 

 そう告げて、俺は懐から財布を取り出した。

 俺が彼女を雇う際には、支度金として前渡しで二割、残りの八割を帰宅時に払う契約となっている。というのも、冒険者という職業は色々とお金が入用になる職業だからだ。武器や防具は言わずもがな、保存食や何やといったものも入用となる。仕事が終わるまで一切お金が入らないとなると、長期の依頼の時に困った事態になることが予想されるのだ。

 今回は予定よりも二日ほど早い帰還となったが、それはあくまで雇用側の都合だ。彼女には何ら責がない。元々、彼女が俺達の護衛をする予定で空けておいた日なのだから、それはこちらが拘束期間として保障するのは当然のことだろう。

 そう思って銀貨を契約日数分支払った俺だったが、シスカはそのうちの数枚を残して受け取ると、残りを俺に全部返した。

 

「いいわよ、今日の分までで」

「いや、だけど……」

「そのくらいの融通は利く性格のつもりよ、私は。それとも、そんなに堅物に見えるかしら? だとしたら、ちょっとショックね」

「そんなことはないさ。でも、これは――」

「私はアルトとの仕事を気に入っているわよ。性別に関係なく、きちんと腕で判断して妥当な金額で雇ってくれているし。私を女として扱って変に関わってこないし。それでいて、ちゃんと性別を意識した上で気遣った行動をしてくれるしね」

「は?」

 

 いきなり何を言い出すんだろうか、この女は。

 話題がいきなり飛んだせいで、思わずポカーンと口を開けてしまった。

 

「だから、これからも良い関係を築けたらって思うし、そうしたいわ」

「それは僕も同意見だよ。ヘルミーナを安心して預けられる護衛というのは希少だ」

 

 これはお世辞ではなく、本音だ。

 

「それは光栄ね。でも、だったら尚更、もうちょっとお互いに気を許しあってもいいと思わない? ちょっと水臭いっていうか、ね?」

「……? どういう意味かな?」

「あ、別に男女関係として親しくなりたいってわけじゃないから誤解しないでね?」

「誰がするか」

 

 反射的に、素でツッコミを返してしまった。

 いかん、取り繕った仮面がはがれている。

 ゴホンゴホン、と誤魔化すように咳払いをする。

 

「それはそれで女としてちょっと不満ね」

「……あ、いや。僕なんかではシスカのような美人と釣り合わないと思って、つい照れ臭くて言い返してしまっただけなんだ」

「頬、引きつってるわよ?」

 

 しまった。

 無理のある言葉すぎて、表情筋が歪んでしまったか。ここ最近、アカデミーでの生活と違って毎日演技する必要がないためか、ちょっとしたことでボロが出るようになってしまっている。困った物だ。

 言葉に詰まる俺とは対照的に、シスカは笑いを堪えきれないといったように楽しげだ。

 

「ぷっ、ふふっ……冗談よ、冗談。大丈夫、アルトが誰を一番大事に思っているのかは、きちんと分かっているつもりだから。彼女に妙な誤解されちゃ、困るものね?」

「そ、そう言ってくれると助かるよ」

 

 これが彼女とリリーの違いだろう。

 あのアホ女と違い、彼女は俺がどれだけヘルミーナを大事に思っているのかを知った上で、その意思を尊重してくれる。今まで周囲に彼女のような人間が少なかったために尚更、その事実を有難いものだと思う。

 だからこそ、先程俺が口にしたセリフは嘘ではない。彼女のような護衛とは、今後も長い付き合いをしていきたいと思っているのだ。

 

「話がそれちゃったけど、言いたいことは分かってくれた?」

「…………」

 

 俺が沈黙で答えを返すと、シスカは呆れたように深々と溜め息をついた。

 ……くっ、普段は俺がリリーにやる側だったから分からなかったが、こうして目の前でやられると腹が立つな。今後はあいつにやるのも控えて……やる必要はないか。あいつがアホなのは事実なのだから。

 

「アルトって頭は良いけど、こういう方面には疎いのかしら?」

「……どういう意味かな?」

「つまり、もうちょっとお互いに対しての信頼関係があってもいいんじゃないかしらって言ってるのよ。仕事である以上、信用は大事だけど、信頼がないと個人的に長い付き合いにはなれないでしょ?」

「そういうことか」

 

 多少のことなら、なあなあで済ませても許されるような関係、ということだろうか。

 俺はあくまで仕事上の付き合いとしか考えていなかったが、彼女はもう一歩踏み込んだ先を考えていてくれたようだ。まだ出会って一ヶ月と経っていないのに、一体何をそんなに気に入ってくれたのか……と考えれば、答えは自ずと浮かんでくる。

 すなわち、

 

 ――ヘルミーナの可愛さの虜になった、ということだろう。

 

 無理もない。彼女の可愛さは天使級だからな。

 さすが俺のヘルミーナだ。マンドラゴラも裸足で逃げ出すほどの魅力っぷり。かの魔物が撒き散らす粉は相手を二割、あるいは四割の確率で魅了するが、ヘルミーナのオーラは十二割魅了するということだろう(余剰分は一度魅了された後に、もう一度魅了されるということだ)。

 シスカがヘルミーナを大事に思う同志となってくれたのは心強い。今後は護衛としての義務感だけでなく、それ以上の気持ちで彼女を守ってくれることだろう。

 志を同じくする存在として、俺は彼女の提案を快く受け入れることにした。彼女から返された銀貨を財布に収め、懐に戻す。

 

「それじゃ、今回はシスカの好意に甘えさせてもらうよ」

「ええ、それでいいわ。もし、まだ気に掛かるようなら……そうねえ。またお酒の一杯でも奢ってくれれば、それで十分よ」

「それなら、さっそく今夜にでもどうかな? リリーが夕方には帰って来るから、その後で良ければ軽く付き合うよ」

 

 あいつにヘルミーナを任せるのは多少不安だが、いくらあいつでも安静にしているヘルミーナを起こすような馬鹿な真似はしでかさないだろう。

 イングリドはヘルミーナと喧嘩することが多いが、本気で嫌っているわけではない。体調を崩して寝ているヘルミーナを起こしたりはしないだろう。……たぶん。

 

「そうね、ちゃんと彼女には伝えておかないとね」

「……?」

 

 どういうことだと聞き返そうとしたが、間が悪く響いたドアベルの音に掻き消された。

 玄関のドアを開けて入ってきたのは、

 

「おや? アルト、早かったんだね。おかえり」

「ちょっと事情がありまして……。ドルニエ先生も、おかえりなさい。お疲れ様です」

 

 やや疲れた様子のドルニエ先生と……

 

「カリン?」

「やあ、アルト。帰ってきてたんだ? お邪魔するよ」

 

 気さくに片手を上げて挨拶する『カリン』だった。

 製鉄工房の紅一点の女性で、彼女も原作に登場する人物の一人だ。赤色掛かった茶色の髪をベリーショートといっていいほど短く刈っているのと、すらりとした長身のせいで、一見男に見間違えるような外見の女性だ。

 話し方も世間一般の女性とは異なっているし、その服装も動きやすさを重視したシャツにパンツといったスタイル。首元のチョーカーと耳元のピアスが、辛うじて女性だという主張といったところだろうか。

 そんな彼女が、どうしてドルニエ先生と一緒に?

 

「そこで偶然会ってね。看板のことで話したいことがあるらしい」

「ああ……、そういえば期日がそろそろでしたね」

 

 二人に椅子を勧め、飲み物を取ってくるために席を立つ。

 

「シスカは、おかわりいるかい?」

「いいえ、いいわ。そろそろ、帰ろうと思っていたし。それより、看板ってココの看板のこと?」

「ああ、そうだよ。カリンには看板の依頼をお願いしたんだ。彼女は製鉄工房で働いているんだが……って、そんなことは知ってるかな」

「ええ、何度か武具の手入れを彼女のいる工房にお願いしたことがあるからね」

「といっても、あたしは武具の担当はまだ任せてもらえてないんだけどね」

「大丈夫、そのうち任せてもらえるようになるわよ」

「だといいんだけどなぁ……」

 

 紅茶を淹れて戻ると、ぐだーっとテーブルに上体を投げ出したカリンがいた。

 ……どうも、彼女にはお客様が相手だという意識がないらしい。

 まあ、以前に打ち合わせをした後、リリーと何やら遅くまで喋っていたから、そういう認識が薄れたのかもしれんが。

 あるいは、シスカもそうだったし、こっちで出会った人達は皆、そういう気質の人が多いし、これがザールブルグの気風なのかもしれないな。

 

「はい、ドルニエ先生。カリンも」

「ああ、ありがとうアルト」

「ありがと」

「それで、どうでした先生? 大工の職人さん達に引き受けてもらえましたか?」

「ああ、無事に棟梁へ話をつけることが出来たよ。当座の資金は先払いで渡しておいたから、早ければ来週にでも工事を始めるそうだ」

「それは良かった。じゃあ、あとは僕とリリーがお金を稼ぐだけですね」

 

 これから本格的にアカデミー建設という夢が始まる。

 そのために必要な金額は決してラクなものではないが、そう難しい物でもない。一応、きっちりと二等分して稼ぐ予定にはなっているが、いざとなったら俺の稼ぎで補填すれば工事中止といった最悪の事態は防げるしな。

 看板に続いて、着々とアトリエとして動き出してきた気がする。

 

「ねえ、アルト。看板を造るってことは、このアトリエの名前が決まったっていうことよね? 何にしたの?」

 

 気になっていたのか、俺とドルニエ先生の会話が落ち着いたのを見計らって、シスカが尋ねて来た。

 

「あれ? まだ言ってなかったか」

「聞いてないわ。カリンは知ってるのよね?」

「ん、そりゃ知ってるよ。知ってるけど……、あははははははっ!」

 

 なぜか、大ウケして笑われた。

 こいつ、やっぱ個人的に客商売向いてないだろ。失礼な。

 

「そんなに笑うほど変な名前か?」

「ごめん、ごめん。そういう意味で笑ったんじゃないんだよ。気分悪くしたなら謝るよ」

「えっ、なに。どんな名前なの?」

「……リリーとアルトのアトリエ。別に、おかしくないだろう?」

 

 憮然として答える。

 シスカは何やら考え込むような沈黙を挟んだ後、

 

「……なるほど。カリンが笑ったのは、そういうことね」

 

 と、何かを理解したかのようなことを言って、しきりに頷いた。

 そういうこと? どういうことだ。

 ドルニエ先生も俺と同じで理由が分からないらしく、いつもの考え込むポーズをしている。いや、全然違うことを考えているのかもしれんが。

 

「その名前ってアルトが考えたのかしら?」

「いや? 皆で相談し合った結果だよ。リリーが最後までやたらと煮え切らない態度でゴネたせいで長引いたけどね。反対はしないけど、微妙といった感じでさ」

「うーん、それって恥ずかしがっていただけじゃないかしら?」

「恥ずかしがる? いったい、何を? 自分の名前が目立つからかい?」

「いや、そうじゃなくて……」

「シスカ、シスカ」

 

 何かを言おうとしたシスカを呼び止め、カリンが彼女を手招きする。顔を寄せるシスカの耳元で何かを囁いたかと思うと、そのまま二人で内緒話をし始めた。無意識、微笑ましい、要観察物件、そんな言葉が漏れ聞こえてくる。

 ……なんなんだ、いったい。

 そんなに言いづらいような何かが店名には含まれているのだろうか? ケントス出身者では分からない、ザールブルグ特有の何かか? しかし、テオに伝えた時は特に何も言われなかったんだが……いや待てよ、そういえば何やら微妙な表情を浮かべていたような気もするな。もし、そうなのだとしたら、変更を検討した方がいいのかもしれないな……。

 

「なあ、二人とも。正直に答えてくれ。アトリエの名前、変更した方がいいと思うか?」

「「それを変えるなんてとんでもない!!」」

 

 物凄い勢いで答えが返ってきた。

 具体的にどれくらいかというと、二人とも上体をテーブルの上に乗り出して、今にも俺に掴み掛からんがごとき必死の形相だ。

 ……そ、そこまで強烈に反対されるとは思わなかったぞ。

 

「あー、えっと、ほら。別に、おかしな名前ってわけじゃないんだし。ねえ、カリン?」

「そ、そうそう! 分かりやすくていい名前じゃん――色々な意味で」

「しかし、思わず笑いたくなるような名前なんだろう?」

「えっ? そ、それは……ねえ、カリン?」

「ええっ!? んーと、だね。い、良い意味で笑顔になるような名前だってことだよ!」

「良い意味で……?」

「そう、良い意味! だから、気にしないで大丈夫よ。ううん、むしろドンドン広めるべきだと思うわ!」

「そうだよ、知ってもらってこその店名だしね!」

「まあ、そうなんだが……」

 

 なぜだろう。彼女達が言えば言うほど、騙されているような気がしてくるのは。

 

「そ、それよりも! カリン、看板のことで何か打ち合わせしようとしていたんじゃないの? それ話さないと!」

「そうそう! 看板のことで相談したいことがあったんだ。リリーは上にいるの? せっかくだから、一緒に話し合いたいんだけど」

 

 なんだか強引に話題を逸らされた気がしないでもない。

 が、取り合えず仕事を片付けるのが先だろう。話はその後でゆっくりするとしよう。

 

「いや、リリーはまだ帰ってきていないよ。夕方になるとそこに書いてあった」

「え? いないの?」

 

 俺がボードを指差すと、カリンが怪訝そうな顔をして聞き返してきた。

 

「ああ、そうだが……リリーがいないと困るようなことがあったのかい?」

「いや、そうじゃないんだけどさ。おっかしーなぁ……そもそも、あたしがアトリエに訪ねたのって仕事先から帰る途中でリリーを見かけたからなんだよ」

「どういうことかな? もうちょっと詳しく話してくれないか」

「二時間くらい前かな? 金の麦亭のハインツさんから、鍋の修繕の依頼を受けててさ。それを納品しにいった帰りに、リリーとイングリドが足早に歩いてるのを見掛けたんだ。よっぽど急いでたのか声を掛けたけど気付かないで行っちゃってさ。まぁ、帰ってるなら丁度良いやと思って、工房から資料を持ってきてここに来たんだよ」

「その途中で私と出会って同行したというわけだね」

「そうそう」

 

 ドルニエ先生が思案気に眉根を寄せ、ふむと再度考え込む。

 ……どうやら話しに参加しないだけで、きちんと会話そのものは聞いていたようだ。だったら、アトリエの名前について先生からも突っ込んで聞いてくれればいいのに。

 しかし、今気になっているのはそこじゃない。

 カリンの話が正しいとすれば、リリーは既に帰宅しているということになる。

 

「でも、僕達が帰ってきた時にはいなかったよ? ボードも書き直していなかったしね」

「うーん? 見間違えたのかなぁ……?」

「それか、夕飯の買い物に出掛けたんじゃないかな。玄関脇に置いてあった竹篭は、先に買い物を済ませてから片付けようとしたのかもしれないしね」

「でも、それにしては長すぎじゃない? 私達が帰ってからで計算しても、結構な時間が経ってるわよ?」

 

 確かに、その通りだ。

 いくらなんでも、食材を買いに行くだけでこれだけ時間が掛かるのはおかしい。カリンが見掛けたのが二時間前。俺達が帰ってくる直前に出掛けたとしても一時間近く経つ。ヨーゼフさんの所へ買いに行ったにしても、二人が帰ってくるには十分すぎる時間だ。

 また何かアホなことでもしてんじゃないだろうな……?

 さすがの俺でも、あいつの考えることは予想が付かないぞ。

 

「ヨーゼフさんと長話でもしてるんじゃないかな? リリーはお喋りするのが好きだしね」

「んー、それかどこかに寄ってるのかもね。教会とか。イングリドが最近よく出入りしているのを見かけたし」

「――ちょっとその話を詳しく」

 

 聞き逃せない言葉を耳にし、俺が椅子から腰を上げた瞬間。

 乱暴に玄関のドアが開け放たれた。

 焦った様子で駆け込んできたのは、もはや見慣れたいつもの顔だった。

 

「どうしたんだい、テオ? そんなに慌てた様子で」

「ああ、アルトさん、ちょうど良かった。姉さんはいる?」

 

 弾む息を整えようともせずに、息も荒くテオが言う。

 リリーの護衛を依頼された彼がこの街にいるということは、やはりリリーは一度戻ってきていたようだな。

 それにしても、いったい何があったというのか。

 心なしか顔色の悪いテオを見ていると、なんだか不安な気分になってくる。

 ……あのアホ、本当になんかロクでもないことしでかしたんじゃないだろうな?

 

「いや、いないよ。今回の護衛は終わったんだろう?」

「うん、もう結構前に二人とは別れたんだけどさ。でも、ちょっとその時の姉さんの様子が気になって。それで帰った後に、一応訪ねてみたら留守で。だから、街中探してみたんだけど見つからなくて。それで……」

「ちょ、ちょっと落ち着いて。一遍に言われても分からないって」

「姉さんがイングリドと二人だけで街の外に出るのを見たって門番の人達が言ってたんだ!」

「――――っ」

 

 テオが苦しそうに吐き出した一言に、心臓がドクンと跳ねる。

 二人きりで外へ出た……? 護衛もつけずに? いったい、なんのために?

 わけが分からない。何がしたいんだ? あいつは。

 あれほど護衛もつけずに外へ出るなと言っておいたのに。イングリドの身に何かあったらどうするつもりなんだ、まったく。

 

「二人じゃ危ないって呼び止めたらしいんだけど……、すぐに帰るから平気だって話を聞かずに行っちゃったみたいで」

「……それはいつのことだい?」

「たしか、一時間以上前だって言ってた。アルトさんが知ってて許可を出したならって思ったけど……、その顔じゃ知らなかったみたいだね」

「うん、何も聞いていないね」

 

 というか、あいつに会ってすらいないしな。どうやら、ちょうど俺達が帰ってくるのと入れ違いになったようだ。

 本当に、あいつはもう次から次へと……っ!

 呆れるあまり、開いた口が塞がらない。

 まあ、近くの森だったら危険度もさほどないし、問題ないとは思うが。ぶっちゃけた話、冒険者としての純粋な力量だけでいえば、俺よりもリリーの方が上だしな。それこそ、よっぽど運が悪くない限り、群れに出くわすこともないだろうし。

 そもそもだ。

 俺の言いつけを破ったリリーが悪い。身から出たサビ。自業自得だ。ちょっとくらい怪我した方が良い勉強になるだろう。アホなことするからそうなる、と。

 

「ねえ、アルト。探しに行った方がいいんじゃないかしら?」

「今からかい? 随分と時間が経ってるし、行き違いになるのがオチだと思うよ。それに、あいつだって何度か行ってるんだ。自分の身くらいは守れるさ」

「アルトさん……」

 

 なんだよ、そんな不安そうな目をして。

 大丈夫だっつーの。テオは心配性だなぁ。

 もうちょっと落ち着けって。

 大丈夫だって、小さな子どもじゃあるまいし。リリーだって、良い年した大人なんだから。そんな慌て返って騒ぐようなことじゃないって。

 俺はゆっくりと息を吐いて、淹れたまま口をつけていなかったカップを手に取る。

 ふぅ……、良い香りだ。安物にしては中々イケるね。

 ……なぜかカップが小刻みに震えて、ソーサーにぶつかってカタカタと音を立てているせいで、ちっとも落ち着いた気分になれないが。

 

「ちょうど今からシスカと軽く酒場で飲もうかと思っていたんだ。テオとカリンも一緒に行くかい? ついでだし、二人の分も奢るよ」

 

 だからもうその話は終わりにしよう、と彼らに提案する。

 しかし、返って来たのはやたらと気遣わしげな視線だった。

 なんだよ……そんなに動揺するようなことじゃないだろ、大丈夫だって――俺まで不安になってくるだろうが。

 大丈夫……だよな? 何かトラブルが起きてたりしないよな? 怪我とかしてないよな? 別に、あいつ一人が怪我する程度で済むなら気にはならない。それだったら、アホなやつめ、と帰ってきたら説教をしてやろう。でも、あいつの傍にはイングリドがいる。彼女が怪我をしたらと思うと不安で堪らない。いや、リリーはヘルミーナに怪我させるような真似だけはしない。だから、大丈夫だ。でも、こんな意味不明な行動を取っている以上それも……いや、大丈夫だって。何も心配いらないって。考えすぎなだけだって。

 リリーだって、自分で大丈夫だと思ったから、彼女を連れて行ったんだろうし。

 だから……

 

 ――でも、もし万が一、怪我では済まないような事態に陥っていたら?

 

 ……そんなわけないだろ。

 だって、近くの森だぞ? ザールブルグの住人だって、たまに薪や果物等を取りに入る人がいるような場所だ。ヴィラント山みたいに凶悪な魔物が多数いる場所ならともかく、命の危険があるような場所ではない。現に、今まで俺達が採取しに訪れた時も、何ら危険らしい危険も起きなくて拍子抜けしたくらいだ。第一、探すとしたらどうやって? 森というだけあって、どこにいるのかすら分からない人間を探すのには広すぎる。今ここにいる人数だけで探すには難易度が高すぎだ。土台、無理な話なんだ。慌てるだけ無駄。だから、ここでこうして落ち着いてリリー達の帰りを待つ方が無難な答え。それで問題ない。

 だから、いや、でも、だから、しかし……。

 

「……大丈夫、だよな?」

 

 誰ともなしに確かめるようにして漏れた声は、我ながら頼りなくかすれていた。

 そして、俺は――

 

 

 シスカとカリンとテオの三人と一緒に、金の麦亭へと向かった。

 

 

 

 

    ◆◇◆◇

 

 

 

 

 無我夢中で、とにかく前へ前へとひた走る。

 後ろへ伸ばされた左手は、遅れるイングリドを半ば強引に引っ張るように繋いでいる。

 疲労を訴える全身を無視して、薄暗い森の中を二人で逃走する。

 避け切れなかった枝葉がピシリと頬を打つ。

 熱と痛みに掠り傷を負ったことに気付くけど、これまた無視して足を動かし続ける。

 必要な動作は走ること。今すべきことは、それのみだ。

 

「はっ……、――っ!」

 

 悲鳴が漏れそうになるのを、グッと奥歯を噛み締めることでギリギリ我慢する。

 大声を上げるのは、ただの自殺志願にしかならない。近くを偶然通りかかる人がいて、その人が助けてくれるお人好しで、尚且つ追っ手を倒せる技量を持つ人間、とかそんなありえない幸運に期待するほど、あたしはバカじゃない。

 ……いや、結構なバカだ。

 そうでなければ、こんな事態には陥っていないのだから。

 

「せん、せ……っ!」

「頑張って、イングリド! お願いだから!」

 

 苦しそうに息を吐くイングリドに、ただ声を掛けて励ますだけしか出来ない。

 足を止める余裕は無い。

 頭だけ振り返り、イングリドの様子を確認するついでに、背後を見回す。何も姿は見えない。けれど、相手を振り切ったと楽観するのはありえない。

 今もほら、姿こそ見せないけど足音と吐息がついてきている。

 時折、草木に触れて物音が立っている。

 それは幻聴かもしれない。恐怖から勘違いしているのかもしれない。

 でも、追われていることが確かな以上、そんなのは何も意味が無い。

 ハンカチで縛って止血した右足が、じくじくと身体を蝕む。本来なら、こんな状態で走るなんて言語道断。血の染みが広がっていくのと同時に、どんどんと残り少ない体力が削られていくのを自覚する。

 もしかしたら、追跡者はそれを考慮に入れているのかもしれない。

 すぐに追いつけるはずなのに待つ理由。それはあたし達が力尽きて倒れれば容易く勝てると理解しているからなのか。もしそうなら、獣の本能というのはバカにならない。

 あたし達を追いかけてきているのは、ウォルフの群れだ。

 目に見えない追っ手への恐怖に、がりがりと精神が削られていく。

 一度でも立ち止まってしまえば、糸に絡め取られて動けなくなってしまいそう。

 どうして、こんなことになっちゃったのよ――

 もし、やり直せるなら絶対に同じことはしないのに。

 あたしは直視したくない現実から逃避しようと、半ば本気でそんなことを考えていた。

 

 

 

 あたし達はテオくんと別れた後、妙にはしゃぎながらアトリエに帰宅した。

 ……いや、テンションが上がっていたのはあたしだけで、イングリドはそんなあたしに付き合っていただけかもしれないけど。

 まだ夕飯には早い時間。でもちょっと小腹が空いてしまったので、素材採取に使った竹篭をそのままに金の麦亭へと向かう。片付けは休憩してから気分を改めてやろうと。

 軽くお茶とケーキを食べながらお喋りしつつ、なんともなしにハインツさんから依頼を確認して……おや、と首を傾げる。何やら見覚えのある文字だな、と。

 うにゅう。

 どこかで聞いたような? はてさて、いったいどこだったか。

 むむむ、と頭を悩ますと隣のイングリドが元気良く答えた。さっきの緑色のやつじゃないですか、と。

 ……生徒に先に答えられてしまって立つ瀬が無いけど、答えは正にそれだった。

 うにゅう二個で銀貨三千枚。期日が間近とはいえ、破格の依頼だった。

 うにゅうは中々採取することの難しい希少素材で、アルト達やあたし達が何度も近くの森に行ったけど、今まで見つけることは出来なかった。でも、テオくんが見つけた辺りに行けば、まだあるかもしれない。

 いきなりこれだけの銀貨を稼げば、あいつもちょっとはあたしを見直すかもしれない。

 あたしはそう考えて、今すぐ近くの森に行くことを決めた。ついさっき拾ったばかりだし、今すぐ行けば他の誰かに拾われる心配もない。

 テオくんは訓練しに行くと言っていたから誘えないけど、どうせちょっと行ってすぐ帰るだけだ。それくらいならあたしだけでもなんとかなるだろう。

 一応、見つからなかった時のことを考えて、依頼そのものは保留しておく。素材を確保したら、その場で報酬と引き換えにしようと決めてアトリエへ戻る。

 そして、イングリドに外出を伝えて出掛け……ようとしたらなぜかついてくるイングリド。一人じゃ危ない、心配です、って……それ、あたしのセリフよね?

 口論に発展しかけつつも、あたしの言うことに絶対に従うという条件で渋々同行を許可する。のんびり歩いていたら日も暮れてしまうので、うにゅうを探すこと以外に時間の余裕は無い。そのため、我が侭を言わないことを言い含めて、いざ出発。

 荷物は極力軽くして、鉄の杖と飲み物の入った水筒のみ。うにゅうだけしか拾う予定はないし、野宿するつもりもないし、それで問題無し。

 道中まったく敵に遭遇せず、お昼を取った川原を目印にテオくんがうにゅうを拾った場所に当たりをつける。段々と辺りが暗くなってきて、これはもう見つからないかな、と諦めようとしたら、突然イングリドが歓声を上げた。

 先生これこれ、と笑顔で駆け寄る彼女の手には、見覚えのある緑色の物体。うにゅうだ。

 大手柄よ、と彼女を褒めて意気揚々と帰路に着く。

 あとはこの一個とアトリエに置いてきたままの一個を手に酒場に向かえば依頼達成。あっという間に銀貨三千枚の大儲けだ。

 ……そうなるはずだった。

 帰り道、薄暗くなった森の気配に不安と恐怖を感じるも、それ以上にこれであいつを見返せるという上向きの気持ちの方が多かったので、あまり気にはならない。

 イングリドと上機嫌で歩き――その結果、敵の襲撃に反応が遅れた。

 気付いた時には、ウォルフ三匹に進路を塞がれていた。

 間が悪い。こんな時に。

 でも、三匹程度ならなんとかなる。

 先制の魔法で一匹を倒し、その隙にと飛び掛ってくるウォルフは鉄の杖をフルスイングして殴り飛ばす。残るは一匹だけね、と油断したのがいけなかった。

 地面すれすれを身を低くして走るウォルフに反応が遅れ、右足に噛み付かれる。ふくらはぎの部分に激痛が走るも、悲鳴を堪えてその脳天へと杖を叩きつける。

 口を離したウォルフが、ふらふらと地面に倒れこみ、断末魔を上げるように大きく吠える。もう一発必要かと身構えるも、そのまま動かないので息耐えたと安堵する。

 あたしの怪我で慌てて駆け寄るイングリドにこれくらい平気よと笑い掛ける。軽症ではないけど、歩けないほどではない。傷口を水で洗い流し、ハンカチで縛って止血する。

 アトリエに帰ったら、アルトから薬を分けてもらおう。あいつがケントニスから持ってきた物の中に、何度かお世話になったことのある薬箱があるのは確認済みだ。小言の一つ二つは言われるだろうけど、それは自業自得と諦めよう。

 ――気楽に考えていられたのは、その時までだった。

 まるで森が叫び声を上げているかのように、周囲から一斉に吠え声が響き渡る。一匹、二匹どころの話ではない。いったい、何が……。

 ハッ、とさっき倒したばかりのウォルフに視線を向ける。最後の声は無念を訴えるための物なんかではなく……あれは、群れを呼ぶための遠吠えだったんだ。

 そして、あたしはイングリドの手を取ると、事情を説明する手間も惜しいと全力で走り出した。三匹くらいなら、あたしでもまだなんとかなる。でも、片手では収まりきらない数を相手取るとなると話は別。どう考えても無理だ。フラムとか錬金術の調合品を使っても難しいのに、今のあたしは怪我まで負っている。追いつかれたら最後、ろくに抵抗も出来ずに……。

 想像して、背筋が凍る。

 あたし達がが置かれた状況を認識する。

 そうして、やっとあたしは理解した。

 自分がどうしようもないほどバカなことをしでかしてしまったという事実に。

 

 

 

「きゃあっ!?」

 

 突然、悲鳴と同時にがくんと左手を引かれてつんのめりそうになり、あたしはハッと我に返った。

 勢いのまま走りそうになる足を慌てて止めて、後ろを振り返る。少し離れた位置に、イングリドが地面に膝をついてうずくまっているのが見えた。

 体力には自信のあるあたしでさえ、とっくに疲労困憊なのだ。まだ小さなイングリドなら言うまでもない。いくら外で遊ぶのが好きとはいえ、彼女がこれまで走り続けられただけでも奇跡に近い。それだけ彼女も必死だったのだ。

 慌てて立ち上がろうともがくイングリド。その手に力はなく、立ち上がることすらおぼつかない。

 ……でも、その行為にいったい何の意味があるというの?

 そうよ、どうせ逃げ切れるわけがない。こんな苦痛を受け続けるくらいなら、いっそ諦めて受け入れてしまった方がずっとラクなのでは?

 違う、絶対に違う。そんなわけないわ!

 弱気になるあたしの心を叱咤する。

 ここで立ち止まったら、それこそおしまいだ。ウォルフの群れに好き放題にされる末路が待っている。

 まだ、止まれない。

 だから、立ち止まるわけにはない。

 早く早く、と心が急かす。

 けれど、意識と相反して身体は頑として動こうとしなかった。一度、立ち止まってしまったことで、全身が動くという命令を拒否している。このまま休憩しろとがなりたて、勝手に休もうとする。

 それでも動かなければ、とイングリドに手を貸すために近寄ろうとして、

 

 ――刹那、時間の流れが停止する。

 

 目の前の光景が色を失くし、音が全て消えうせる。

 思考が加速し、止め処ない本能が叫び声を上げる。

 本当に立ち止まっていいのか――と冷静な声が響く。

 このまま助けずに彼女を囮にして走れば、自分だけは助かることが出来るかもしれない。例え彼女を連れて走ったとしても、足が遅い彼女を連れて行けば追いつかれるのは道理。ならば、共倒れになるよりは彼女を犠牲にしてでも助かる道を探す方が生物としては正しい判断だ。この状況で責任だの何だのを語ったところで、それは自らの命よりも尊いものか? これ以上、迷う猶予は許されない。止まってしまえば、後戻りは出来ない。惨たらしく死ぬだけだ。さあ、今すぐ駆け出せ。迷いを振り払え。判断ミスは許されない。一秒の迷いで容易く生死が分かたれる。よもや、彼女の命と自分の命の天秤、どちらが重いか分からぬはずもあるまい?

 

「――――っ!」

 

 両目を力いっぱい閉じ、未練たらしく騒ぎ立てる迷いを捨てる。

 見開いた瞳に決意を込めて、ざわざわと煽る囁き声を捻じ伏せる。

 

 ――分かってるに決まってんでしょうがッ!!

 

 だから、あたしは立ち止まる! イングリドに駆け寄るのよ!

 あたしとイングリドの命、どっちが大切かって!?

 そんなもの、両方大事に決まってるッ!

 だから、ここで彼女を見捨てるなんて選択肢はない。無意識とはいえ、そんな考えが少しでも思い浮かんだあたしに吐き気がする。前提条件が破綻した希望に縋るなんて、いくらなんでも情けなさ過ぎる。

 自分も守るし、イングリドも守る。両方やれなくて何が先生だ。錬金術士として頼りないとしても、人間として自分に保護を求める幼い相手を守らずに逃げ帰るわけにはいかない。そんなことでは、先生としての責任なんて果たせはしない。

 ううん、責任なんて関係ない。今まで一緒に過ごした大切な仲間を切り捨てるなんて、あたしには出来ない。そんなことをすれば、あたしはもう二度と『自分が生きている』だなんて思えなくなる。錬金術士になるだなんて夢を大見得切って言えなくなる。あいつの傍に並び立つだなんて、とてもじゃないが出来るわけがない。

 ――そうだ、だからあたしはこれで正しい!

 

「イングリド、立って!」

 

 力なくうずくまる彼女の手を取って立ち上がらせ、引きずるようにして走り出そうと――

 

「つ……ぅっ!」

 

 ずるずると膝から崩れ落ちるようにイングリドが倒れる。

 両手を地面に、ぐっと力を込めて立ち上がろうとするも、上体を起こすのが精一杯。立ち上がることが出来ずに、そのままぺたんと尻餅をついてしまう。

 吐息は荒く、顔色は青ざめ、声音は弱々しく。

 ごめんなさい、と泣き出してあたしに謝るイングリドからは、普段のお転婆お嬢様な彼女は見る影も無い。自分の意思とは裏腹に、身体が言うことを利かないのだろう。

 倒れたときに足をくじいたか、全身が溜まりに溜まった疲労で限界を超えたか。

 どちらにしても結論は同じだ。

 走れない、という絶望。

 もう助からない、という諦観。

 だったら、もう必要なのは覚悟しか残っていない。

 二人とも逃げて助かるという希望は絶たれた。

 だけど、まだ道は残っている。

 残されているなら、それを選ぶしかない。

 

「……先生?」

 

 起こそうとするのをやめ、不安そうな表情を浮かべて見上げるイングリドの手をぎゅっと握り締める。しゃがみこんで、彼女の顔を覗きこむ。

 一瞬の視線の交差。

 あたしはじっと彼女の顔を見つめる。絶対に、彼女の顔を忘れないように。

 この期に及んで震えそうになる声を、短く息を吐いて押さえ込む。

 そして、言う。

 

「イングリド。このまま、まっすぐに行けば街まで戻れるから――後はあなた一人で行きなさい」

 

 残された道は、ただ一つ。

 奇しくも先程、血迷って考えた中に答えはあった。

 二人で逃げられないなら……、一人が犠牲になって足止めするしかない。

 多少は腕に自信のあるあたしだったら、彼女が離れるまでの時間を稼ぐことが出来るはず。それに、本当に難しいことだけど、生き残ることだって出来るかもしれない。

 だから、あたしはその可能性に賭ける。

 ……そう、どれだけ頼りなくか細い道だとしても。

 

「先生は……?」

「この足じゃ、これ以上走れないし、今の速度じゃ追いつかれるわ。だから――」

「……いや」

「イングリド!」

「いやいやいや! だったら、私も残る!」

「お願いだから聞き分けて、あなたまで死なせたくないのよ!」

「いや――っ!」

 

 恐慌にかられたかのように泣き喚き、暴れだすイングリド。どこにそんな力が残っていたのかと不思議になるほどの力であたしの手を振り払う。

 まずい。こんなことをしている時間はないのに。

 彼女が正確に事態を把握しているかは分からない。でも、ここで別れればもう二度と会えなくなるということを理解したのかもしれない。

 そこまであたしのことをと嬉しく思う反面、それでも今はと憤りたくなる。

 こんな事態を引き起こしてしまったのは、あたしのせいだ。

 無理をしてまで稼ぐ必要はなかったのに、アルトへの見得でうにゅうを採取しようと試みてしまった事。

 慢心から護衛も無しで街の外へ出てしまった事。

 あまつさえ、イングリドを連れてきてしまった事。

 失態ばかりが思いつく。

 こんなだから、あたしはあいつにフォローされてばかりいるのだ。

 でも、だからこそ、あたしの失敗にイングリドを巻き込みたくない。

 せめて彼女だけはどうにかして助けたい。

 だから、

 

「……イングリド、ごめんね。巻き込んじゃって。もう……、間に合わないわ」

「先生……?」

「でも、大丈夫よ。先生が、ついてるからね」

 

 ……追いつかれてしまった。

 鬱蒼と生い茂る木々の向こう、ぎらぎらと光る数え切れないほどの眼光が目に入る。

 追いかけっこは終わりとばかりに、堂々と正体を現したのは予想通りにウォルフだ。扇状に展開した彼らの数は、ざっと見て十匹ほど。腹立たしくなるほどに、その姿を見せ付けるようにして悠々と近付いてくる。

 これで全部かどうかは分からない。もしかしたら、すでに背後に回りこんで退路を断っている連中もいるかもしれない。

 悲鳴を上げることも出来ずに震えるイングリドを、一度だけ力強く抱きしめる。

 立ち上がり、彼らの視線からイングリドを遮るように一歩前へ。

 震えそうになる両足。がちがちと歯の根がかみ合わずに音を立てそうになる。目に見える恐怖に涙が浮かびそうになる。固めた決意を翻し、今すぐ逃げ出しそうになる。

 

 ――それでも、守ってみせる。

 

 鉄の杖の柄を力いっぱい握り締め、ふっと肩に入った力を吐息と共に逃がす。

 状態は最悪だ。

 立っているだけで座りたくなるほどの痛みが走る右足。武器は鉄の杖のみ。おまけに背後には守るべき相手がいる以上、あまり動いて彼女のそばを離れるわけにはいかない。

 そんな状態で、十匹近い相手と戦わなければならない。

 じりじり、と遠巻きにしていたウォルフ達がその包囲網を縮めていく。

 物理的な圧力を持って襲い掛かる強烈な重圧に、負けるものかと睨み返し――。

 群れの中から、我慢できないとばかりに一匹のウォルフが飛び出してくる。それに向き直ろうとした途端、激痛が右足に突き刺さって反応が遅れる。

 一瞬だ。ほんの瞬きするほどの空白。

 けれど、敵の攻撃があたるには十分な隙。

 

「づ――ぁあッ!」

 

 強靭な顎が左足に噛みつく。鉄の杖を振り下ろそうとした右手から力が抜け、代わりに悲鳴が口からこぼれ出る。痛い痛いと悲鳴に脳を圧迫されそうになる。

 だけど、その程度で諦めるくらいなら最初から立ってない!

 震える右手に左手を合わせ、鉄の杖を両手で握り締める。

 勢い良く垂直に突き刺し、先端で狙うはウォルフの目。

 貯まらず悲鳴と共に口を離したその一瞬を見逃さず、その身体目掛けて渾身の一撃を振り下ろす。地面に叩きつけられ、ぐったりと力を失うその姿を見届けることなく、油断なく周囲へ気を配る。

 まだ一匹仕留めただけだ。

 戦闘は始まったばかり。油断は出来ない。

 乱れた呼吸を整え、次の相手は誰だと睨みを利かせる。

 てっきり次は一斉に飛び掛ってくるかと思いきや、彼らは唸り声を上げるだけで近付いては来ない。けれど、そのまま立ち去るわけでもなく、一定の距離を置いてあたし達を包囲する。

 

「……なるほど、そういうことね」

 

 激痛に全身が痺れていく中、彼らの意図を把握する。

 ……体力切れを狙うってわけ。

 獣ながら頭が良い。いや、獣だからこそか。

 このまま、何もしなくともあたしは弱っていく。流れ出す血液がどんどんとあたしの体力を、精神力を、生きる力を奪っていく。遠からず、あたしは意識を失うことになる。

 近付けば余計な犠牲を増やすかもしれない。そう思い、無駄な犠牲を出さないためにあたしが力尽きるのを待っているのだろう。

 悔しいけど、それは正しい。イングリドでは彼らに抗う力を持っていないのだから。

 だけど……そう、だけどもだ。

 

「それでもね――そうそう簡単にくれてやれるほど、あたし達の命は軽くないのよ……!」

 

 がくん、と落ちそうになる膝を、踵を地面に打ち付けることで強引に耐える。

 吠えることで、自らを奮い立たせる。歯を剥いて、まだまだあたしは戦えると鼓舞する。

 隙を見せれば、すぐさま彼らは襲い掛かってくるだろう。

 だから、絶対に耐えてみせる。

 一秒でもいい、二秒でもいい。

 とにかく、ほんの数秒だろうと生き残る。

 その結果、助けが来るだなんて可能性はありえないだろう。それでも、今はその可能性に縋るしかない。ありえない幸運だろうと、それが生き残るために必要ならつかんでみせる。そのために努力が必要なら、いくらでも耐えてみせる。

 痛かろうが、苦しかろうが、それがどうした。いっそのこと、あたしがここで全部倒してしまってもいい。どれだけ可能性が無くとも、今諦めてしまったら最初から手に入らない。

 見えない心が軋みを上げる。途方も無い重圧が圧し掛かる。

 今この瞬間、あたしの行動には自分だけではない、イングリドの命も賭けられている。

 だからこそ、容易く折れるわけにはいかない――ッ!

 

「――っ、ぐ……ぁ」

 

 無茶なのは理解していた。

 無理なのも承知していた。

 無謀なのも覚悟していた。

 けれど、試す前に諦めるのは許されない。

 努力もせずに放棄することは許されない。

 希望を捨てて絶望することは許されない。

 全てを受け入れるには、まだ早すぎる。

 あたしはまだ全部やりきっていない。放り出すのはそれからでいい。

 諦めが悪い。

 そんなことは何度だって言われてきた。

 だけど、いつもいつも努力と根性で乗り切ってきた。

 だから、こんな状況だって――全然、あたしが絶望するには役不足だッ!!

 

「――――」

 

 冷酷に獲物を見据える獣達の双眸。

 もし彼らに知性があれば、おそらく舌なめずりをしそうな場面。

 このまま待っていた所で、埒が明かない。

 いっそのこと、体力切れになる前にあたしから打って出るべきか。

 それとも、一秒でも長く、とにかく待ち続けるべきか。

 前者なら全滅を、後者なら助けを、どちらも可能性の低さでは変わらない。

 考え、迷い……ふと、あいつならどうするだろうと思った。

 あたしの大嫌いな……けれど、誰よりも頼りになるあいつなら。

 想像してみて、苦笑する。

 あいつならそもそも、こんな事態には陥らないわね。

 こんな状況なのに、なんだかおかしくて笑いたくなってきた。

 でもそうね、あいつだったら……あいつなら、なんとかしてくれそうだ。どれだけ酷い状況でも、きっとあたしの予想に付かないことをしでかしてくれるに違いない。バカなことをして、と怒るあたしだけど、本当はいつも感謝している。悔しいとか、悲しいとか、色々と思うことはあるけど、ただ素直になれないだけ。空回った気持ちが、必死に誤魔化そうと取り繕っているだけだ。

 ……ああ、そうか。

 分かってしまえば、簡単だ。

 あたしはいつだって、あいつにお礼を言いたかっただけなんだ。

 ありがとう、って。

 その一言を伝えるのに、どれだけ回り道をしているのやら。まあ、それもこれも全部あいつがバカなことをしでかすせいだけど。本当、あいつのバカ騒ぎを見ていると素直に感謝する気持ちにすらなれないのだ。

 でも、まあ、もしまたあいつに会えたら……。

 その時はちゃんと話をしよう。

 あいつは云々と偉そうに言ってみたあたしだって、肝心なことはいつも言わないで我慢してしまっていたみたいだから。フォローなんていらない、頼って欲しい、なんてあたしが勝手に思っていたことだ。それじゃ、アルトを笑えない。

 きちんと伝えよう。あたしの考えを。

 もしそれで、また口論になったら……、まあ、その時はその時だ。開き直って言い合えばいい。口にしないで自分の考えを押し付けるよりは、よっぽどマシよね。

 だから――生き残ろう。

 あたしはまだ、死ぬわけにはいかないんだから。

 血が流れすぎたのか、目の前はぼやけて見える。

 ウォルフ達の唸り声が、聞こえているはずなのに耳に入らない。

 握り締めたはずの手は、今にも鉄の杖を取り落としてしまいそう。

 地面に立っているはずなのに、ゆらゆらとなんだか地面が近く見える。

 限界は近い。

 それでも、もう一度頑張るためにもあたしは息を吸い込み、

 そして――

 

 

 

「リリィ―――――ッッ!!!!」

 

 

 

 声が――届いた。

 それは、いるはずのない人の声。

 それは、何度も耳にした人の声。

 それは、誰よりも望んだ人の声。

 けれど……、いるわけがない。

 幻聴に決まっている。

 この期に及んで耳にするのがあいつの声か、と自分の頭を疑ってしまいそうだ。

 けれど――

 

「ぁ……」

 

 今、声を出せば狼達を刺激してしまうことになる。

 そうなれば、一斉に襲い掛かってくるかもしれない。

 それは愚策。生き延びるためにはしてはならない判断。

 だけど――ああ、それでも!!

 

「ア……っ」

 

 それでも、何を信じればいいかと言えば、あたしはあいつを信じたい。

 どうして、とか。なぜ、とか。どうやって、とか。

 そんなのはもう、どうでもいい。

 ただ、信じる。

 

「――――」

 

 今にも力尽きてしまいそうになる全身に活を入れ、すぅと大きく息を吸い込む。ただそれだけの動作に、やたらと苦労する。

 ぐるぐると空転する思考は沸騰寸前。

 早鐘を打つ心臓は、今か今かと爆発を急かす。

 喉が裂けようが構わない。倒れてしまおうが構わない。どうなろうが構わない。

 だからお願い、今、この一声だけは彼に届かせてっ!

 

「アルト――――ッッ!!」

 

 アルトだけが、この一瞬だけが唯一、生き残れる可能性なのだから!!

 突然の大声に、慌てたようにウォルフ達が一斉に動き出す。彼らがあたし達の元にたどり着くまで、あと十秒足らず。あたし達が殺されるまで、ほんの少し。

 それでも、いい。やれることはやった。

 だから、あとはあいつを信じるだけ。

 いつだって、あたしの予想もしないことをしでかすバカなあいつ。

 大嫌いで大嫌いで仕方ない、それでも肝心な時には頼れるあいつ。

 そんなあいつだからこそ、

 

「リリー!」

 

 絶対に、来てくれると信じていた。

 どれほど必死に探してくれたのだろうか。

 今まで見たことのないほど切羽詰った形相をしたアルト。その顔にはそこら中に傷が出来、血が流れ出している。髪だってボサボサ。服のあちこちに葉っぱがくっついている。まったくもう、せっかく綺麗な顔立ちなのに台無しよ。

 なんだかバカらしくて……ずっと我慢していた涙が溢れ出してしまう。

 あたし達を発見するや否や、なりふり構わずに全力で駆け寄ってくる。

 ああ、それでも……絶望的な距離だ。

 どう考えても、あいつよりもウォルフ達の方が早い。

 間に合わない。助からない。

 でも、それでもいい。

 だって、そうだ。

 これなら――

 

「あとはお願いね……、アルト」

 

 ……ああ、そういえばまた会えたらお礼を言おうとしていたのに。

 結局、アルトと話し合うことが出来なかったわね。それが残念。

 それでも、イングリドだけは助けられる。きっと、アルトなら何とかしてくれるはずだ。

 振り返り、倒れこむようにしてイングリドを抱きしめる。その全身を、あたしの身体を盾にして覆い隠す。イングリドの泣き顔が目に入る。ごめんね、こんなことしか出来なくて。

 きっと、あたしは助からないだろう。

 でも、イングリドだけは最後まで守ってみせるから。

 イングリドの泣き出す声、ウォルフ達の唸り声、アルトの叫び声――

 

 

 

 そして、ウォルフ達の攻撃が一斉にあたしに襲い掛かり――

 硝子が砕け散るような音と共に、あたしの意識を真っ白に染め上げた。



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ゼーレの奇跡

「リリィ―――――ッッ!!!!」

 

 これでいったい何回目、いや何十回目になるだろうか。

 一向に返事のない彼女の名前を呼びながら、目が痛くなるほどに集中して二人の姿を探す。それと並行して、二人の声が聞こえないかとじっと耳を澄ます。ぜいぜいとあえぐ自分の呼吸音だけが、やたらとうるさい。まるで山彦のように二人を呼ぶ声が反響して聞こえる気がするのに、肝心な二人の声は聞き取れない。

 叫び声の上げすぎで、喉が焼けるように痛い。休む間もなく走り回っているせいで、全身が疲労でガタガタだ。酸欠状態になっているのか、頭痛までしてきた。

 いい加減、身体だけでなく、精神も限界に来ている。

 悪態を吐きながら、額に汗でへばりついた前髪を払う。

 ……いったい俺は何をしているんだ? こんなになってまで、あいつを探す必要はあるのか? どうせ何食わぬ顔で今頃、アトリエに帰宅していたりするんじゃないのか?

 今のままでは運悪く魔物に遭遇した場合、疲労でロクに対処も出来ないだろう。だから、そのためにも少し身体を休ませるべきなんじゃないか?

 そんな考えが脳裏を過ぎるが、どうしてもその提案が呑めない。今、ここで休憩してしまったら、何かが決定的に手遅れになるという予感がする。

 だから、休むわけにはいかない。どれだけ辛く苦しくとも。

 二人からの反応が無いことを確認し、再び駆け回るために無理矢理気合を入れ直す。

 グッと両足に力を込め、

 

「アルト――――ッッ!!」

 

 ――それが、リリーの声だと脳が認識した瞬間。

 考えるよりも早く、身体が動いていた。

 行く手を邪魔する木々の合間を、声の聞こえた方角へと強引に最短距離で突破する。

 避け切れなかった枝葉がしたたかに肌を打つが、そんなことに構っている暇は無い。とにかく、一秒でも早く二人の下に駆けつけなくてはならない。

 それほど必死で急いでいるのに、全然、近付いている気がしない。

 全力で走っているはずなのに、遅々として身体が前に進まない。

 まるで水中を走っているかのようだ。全身が重く、呼吸が出来ないほどに苦しい。一歩進むごとに身体が悲鳴を上げる。

 しかし、それら全てを無視してひたすら走る。

 今ここで走れないようなら、二人を探している意味がない。

 今ここで頑張れないようなら、俺の身体なんて必要ない。

 だから、走る。

 一秒が一分にも十分にも感じられる狂った時間を越え、不意に視界が一気に広がる。

 鬱蒼と生い茂る木々の切れ間にある、猫の額程度の草原。

 そこに、

 

「リリー!」

 

 捜し求めた二人の姿があった。

 満身創痍といった有様のリリーと、その背後に庇われてうずくまるイングリド。杖を構えたリリーの胸元でネックレスがきらりと光り、彼女達の無事を誇示してみせる。

 良かった、と安堵する暇はない。すぐさま気力を振り絞り、再度全力で駆け出す。

 なぜなら二人の姿を目撃するのと同時に、敵対者の姿も目に飛び込んでいるからだ。すでにウォルフの群れが彼女達まで、あと僅かという距離まで近付いている。のんびり歩いているような時間的余裕は、まったくない。

 ――彼我の距離は絶望的。

 俺が彼女達に駆け寄るよりも、ウォルフの群れが彼女達を襲う方が早い。感情が納得していないのに、理性がそう冷酷な結論を突きつけてくる。

 二人を探すことが目的ではない。

 二人を守ることが目的なんだ。

 だから、間に合わせる。間に合うんだ。間に合うに決まっている。ここまで来ておいて、助けられないなんて許せない。そんな結末は到底認められない。

 漏れそうになる悲鳴を堪え、迫り来る現実に抗って足を動かす。

 ウォルフの群れと向き合うリリーの視線がスッと逸れ、走り寄る俺と視線が重なる。

 彼女が何かを呟くように唇を動かす。

 何を言っているのかは聞き取れない。

 聞き取れないが、その顔に浮かべた微笑が気に入らない。いつもいつもムカつく顔して怒鳴りつけてくる癖に、なんで今そんな表情で微笑むのかが分からないし、絶対に分かりたくも無い!

 それなのに、彼女が何をしようとしているのかがはっきりと理解出来てしまう。

 リリーが倒れるように背を向けて、イングリドを両手で抱きしめる。自分の身を盾にしてでも、イングリドを庇うつもりだ。ああ、その根性だけは認めてやる。常日頃、俺に口やかましく文句言ってくるだけはあるよ。

 だけどな……、お前はどうなるんだよ!? 散々言いたいこと言いまくっておいて、そんなにあっさりと俺の前からいなくなれると思ってんじゃねえぞ!

 だから、諦めるな。絶対に、助けてみせるから。

 俺が、守るから。だから……。

 ――二人がウォルフの群れと接触するまで、あと僅か。

 俺が二人の下まで辿り着くのに、あと少し。

 距離にして十数メートル。時間にして、ほんの数秒の差が縮まらない。

 すぐそこに二人が見えているのに、間に合わない。

 このままでは、どうしたってウォルフの群れが二人を攻撃する方が先。

 他ならぬリリー自身がそれを理解している。だからこそ、我が身を捨てて犠牲となることを選んだ。

 それが分かっていて尚、俺は止まるわけには行かない。

 それだからこそ、ここで立ち止まるわけには行かない。

 ……今ここで立ち止まったら、本当の意味で、間に合わなくなってしまうッ!

 一歩でも、一秒でもいい。

 瞬きする程度の違いだったとしても構わない。

 二人の下へ駆け寄るために、二人を守るために。

 とにかく前へと、ひた走る。

 必死で追い縋る俺を嘲笑うかのように、ウォルフの群れの先頭が姿勢を更に低くする。飛び掛る前兆だ。気配を察してか、リリーの肩が震える。

 次の瞬間、ウォルフの群れの一斉攻撃が二人へ襲い掛かり――

 

 条件を満たした『ゼーレネックレス』の効果が発動された。

 

 一瞬の閃光、硝子が砕け散るような音。

 二人に飛び掛かったウォルフが数匹、見えない障壁に弾き飛ばされる。後続のウォルフの群れが、脅威を警戒してか一旦距離を置いて遠ざかる。

 その横を、脇目も振らずに駆け抜ける。この隙を見逃したら、もう二度と二人を助ける機会は巡ってなど来ない!

 怯むウォルフの群れの間隙を縫うようにして、やっとの思いで二人の下へ辿り着く。

 

「ア……ぅ……」

 

 イングリドへ覆いかぶさったリリーが、焦点の定まらない視線で俺を見上げてくる。

 ――生きている。

 その事実に心底、安堵する。

 彼女の胸元で砕け散っている琥珀の欠片、それがこの奇跡の立役者だ。

 ゼーレネックレス。

 銀鎖に竜の化石をあしらったこの調合品の効果は、『身に付けた者が致命的な外傷を負った際に、ネックレスが装着者の身代わりとなって砕け散る』というものだ。

 わざわざ、イングリド経由で手渡すという面倒臭い手間を掛けた甲斐があった。俺が渡したところで素直に身に付けるとは思えなかったからな。役に立つ事態などない方が良かったが、もしリリーにこれを渡していなかったらと思うと身の毛がよだつ。

 俺は乱れる呼吸を整えて少し屈み、憔悴しきったリリーの頭に左手をポンと置く。

 ……今ある状況は、こいつが最後までイングリドを守ろうとしたからこそだ。

 閉じつつある彼女の瞳を見つめながら、万感の思いで告げる。

 

「良く頑張ったな。あとは俺に任せろ」

 

 言い終えると同時に、リリーの瞼が落ちて身体から力が抜ける。

 まさかと思い慌てるが、その胸が浅い呼吸を繰り返して上下するのを見て、ほっと胸を撫で下ろす。どうやら、意識を失っただけのようだ。

 いや、だけではないか。そこまで追い詰められるほどだったのだ。

 本当に、限界ギリギリだったんだろう。

 あと一分……いや、一秒でも俺の決断が遅かったら、間に合わなかったかもしれない。生きるか死ぬかの瀬戸際だったのだ。

 

「あるとぉ……っ!」

 

 気絶したリリーにしがみつき、イングリドが肩を震わせてしゃくり上げる。見ているだけで幸せになれる愛らしい笑顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだ。

 ――ああ、くそ。イングリドにこんな顔をさせてしまうなんて保護者失格だ。

 ぼろぼろとこぼれる涙を見て、ギリギリと胸を締め付けられるような苦しみを感じる。

 途中で転びでもしたのか、イングリドは顔といわず服まで汚れまみれだ。傷一つ無い綺麗な肌だったのに、そこら中に引っかき傷がついている。擦り剥いた片膝も含めて、出来る事なら今すぐにでも手当てしてやりたい。

 ……でも今はまだ、それは出来ない。もう少しだけ、待っててくれ。

 こんな状況を招いたリリーにも、こんな真似しやがった狼共にも腹が立つ。

 何より、こんな事態になると見抜けなかった俺自身の間抜けさ具合が許せない。

 たかが前世で二十年生きたくらいで、何もかもが全部自分の思い通りになると思い込んでいた。それは浅はかな考えだと思い知っていたというのに。これじゃ、年相応どころか未熟極まりないただのガキだ。

 憤怒と後悔で、周囲に当り散らしたくなる。

 だが、全部後回しだ。その前にやることが残っている。

 

「イングリド、もう大丈夫だ。俺が来たからには――」

 

 立ち上がり、二人を傷つけた憎き連中へと向き直る。

 ……ああ、畜生。奴らを見ているだけで、ふつふつと怒りが湧き上がってきやがる。

 右手は木の杖。

 左手は上衣のポケットにしのばせ、そっと中にある物を握り締める。

 睨み付けるはウォルフというご大層な名前を持った、たかが獣の群れ。野生だか何だか知らないが、ここまで二人を傷つけてくれやがったんだ。それ相応の報いを受けさせてやる。

 

「絶対に……、二人には指一本、触れさせやしないッ!」

 

 直後、態勢を整えたウォルフの群れの一部が動き出した。

 同時に、三匹。

 一匹を先頭に、それに続くようにして二匹が三角形を作るようにして突進してくる。

 残りは様子見のつもりなのか、その場を動こうとしない。余裕なのか、慎重なのか。どちらにせよ、俺にとっては好都合だ。包囲されて一斉に襲い掛かられる前に、可能な限り数を減らさせてもらう。

 最初に狙うのは、草むらを掻き分けるようにして走る先頭のウォルフだ。

 ポケットから取り出した左手に魔力を込め、てのひらサイズの小袋をオーバー・スローで投げつける。小袋はウォルフの咄嗟の反応で、鼻先をかすめて避けられる。

 しかし、何も問題はない。元より、ぶつける相手はお前じゃなく――

 

「爆ぜろッ!」

 

 地面に小袋が叩きつけられると同時。

 ウォルフの足元で、小袋が破裂した。

 否、それは破裂等という生易しい音ではない。最早、爆発だ。

 炎に包まれたウォルフが、煙と共に爆発の衝撃で空へと舞い上がる。

 突然発生した爆発音に、付近の鳥達が難を逃れようと木々から羽ばたく。爆風と土煙を避けようと、後続のウォルフがあたふたと右往左往する。

 それを尻目に杖を構え、魔法を使うべく精神を集中する。たった今起きた爆発は、俺にとって当然の結果なので、慌てる必要はどこにもない。

 爆発の正体は、『クラフト』だ。その材料は、衝撃と共にパンパンと弾け飛ぶだけの、どこにでもあるニューズという名前の木の実。それを小さな袋に詰め込んで作っただけの代物だが、その破壊力はバカにならない。

 子どもの悪戯に使われる木の実が、錬金術士の手に掛かれば、爆発を伴う危険物へとランク・アップだ。特に今回は、俺自ら作成した威力効果高めの調合品。直撃せずとも、巻き込まれるだけでひとたまりも無いだろう。

 けれど、その頼りになるクラフトも一つしか持ってきていない。元々、緊急事態用に持っていただけなので、悔やんでも仕方が無い。シスカ一人で護衛として十分過ぎるほどだったので、その必要性を感じられなかったしな。

 だからこそ、魔法の出番となる。こちらは精神力の続く限り、使うことが出来る。疲弊しているせいでキツイが、それでも腕力に頼るよりはまだ勝機がある。

 今、必要なのは二発分。それには通常よりも多くの時間と消費量が必要となり、本来ならば足止めとなる前衛がいなければ使い物にはならない。

 しかし、相手が前後不覚に陥っているこの状況ならば何も問題はない。

 土煙が晴れ、遅れて正気を取り戻したウォルフ二匹が、俺の行動の意味に気付いてか慌てて動き出す。

 が、残念ながら、もう手遅れだ。十分に時間は稼げた。

 

「ツヴァイ・クルッペン!」

 

 溜め込んだ魔力の奔流が、詠唱を引き金に二つの球体状の光となって射出される。近距離にまで迫っていたウォルフ二匹には、回避動作を取る時間すらない。

 ……もっとも、あったところで魔法からは逃げられないけどな。

 青白い輝きが二匹同時に接触し、その身に溜め込んだ威力を発揮する。電気ショックに打たれたように痙攣する二匹から視線を外し、残りのウォルフに警戒を配る。

 ここからが本番だ。

 群れ全体を視界内から外さないように注意しながら、なるべく刺激しないように、そっと杖を構えて精神を集中する。先程の爆発をウォルフの群れが警戒している間に、どこまで魔力を練れるかが問題だ。しびれを切らして襲い掛かってくるまでの時間次第で、俺の戦いの結果は左右される。

 ……ウォルフの残りは九匹。

 これはさすがに一人ではキツい、か。

 冷や汗がこめかみを伝い、彼我の戦力差に苦笑いが浮かぶ。

 錬金術士は、勝てる準備を整えてから戦闘を行う。それは自らの生み出す調合品こそが、勝利の鍵を握る職業だからだ。事前準備に全てが掛かっているといっても過言ではない。行き当たりばったりなどありえない。その論からいえば、今回の様な場面は前提からして間違えている。

 とはいえ、だからといって諦めるという選択肢は除外だ。

 宣言通り、後ろの二人は守ってみせる。

 特にリリーは瀕死状態だ。これ以上怪我をすることがあれば、本気で命を失いかねない。こうしている今でさえ、刻一刻と彼女の体力は失われていくのだ。イングリドの期待に応えるためにも、絶対にウォルフを二人に近付けさせるわけにはいかない。

 そのためには……。

 まだか、と息を詰めながら様子を窺う視界の先。扇状に広がった群れの中から、二匹がその姿を誇示するように、ゆっくりと左右別々に動き出す。

 ……おいおい、冗談だろ。狼という生き物は、想像以上に厄介な獣らしい。

 俺はウォルフの群れが一斉に襲い掛かってくるか、警戒して慎重を期すか、どちらかだろうと予想していた。前者だったら後ろに通さないことだけを考え、後者だったら魔法を多数生み出す時間を作れる、と。

 結果は、両方とも違った。

 やつらは包囲するという、俺にとって一番困る手段を選んだ。一匹ずつ動き出したのは、先程のクラフトを警戒してのことだろう。単体で距離を取って動けば、爆発に巻き込まれないように動くことは、ウォルフにとってそう難しくない。

 誘われているとは分かっているが、これはさすがに防がざるを得ない。戦えるのが俺一人な現状、背後に回られたらそれだけで一巻の終わりだ。

 まだ魔力を十分に練れていないが、時間切れ。考える時間も、迷う余裕も残されていない。目の届かない場所に移動される前に打つ。後のことはなるようになれだ。

 覚悟を決めて気合と共に、魔法二発分の精神力を魔力として消費――訂正。時間が足りずに急ピッチで仕上げたせいで、余剰に一発分持っていかれる。

 

「――ツヴァイ・クルッペン!」

 

 左右に各一つの閃光を打ち出した直後、ぐらりと立ち眩みに襲われた。そのまま身体に力が入らなくなっていき、視界が暗くなっていくのと同時に足元が覚束なくなる。

 ……マズい。予想以上に身体を酷使しすぎていたか。

 精神を疲弊しすぎたことで、早くも身体に影響が出始めた。

 まだだ。まだ倒れるには早すぎる。今、俺が倒れたら二人を守りきれない。怪我一つさせないと約束したんだ。だから、まだ倒れるわけにはいかない。

 リリーでさえ、俺が来るまで耐えてみせたんだ。だったら、兄弟子であり一流の錬金術士である俺が耐えられなければ恥以外の何者でもない。あいつに出来て、俺に出来ないことなんてない。例外として一つだけは負けを認めてもいいが、あのこと以外で負ける気は一切ない。

 だからこれは、それ以前の問題。

 ――リリーだけには、負けられないんだよ!

 意地の問題だ。

 こいつの前で情けない真似は出来ない。醜態を晒すわけにはいかない。

 だから、のんびり意識を失ってる場合なんかじゃないッ!

 勝手に意識を落とそうとする自分に活を入れ、閉じる瞼を無理矢理開く。かすむ視界と揺れる足場で、ウォルフの群れと相対する。

 俺が目を離した一瞬の隙に、ここぞとばかりにやつらは攻め立ててきていた。魔法一発分くらいは打てた距離が見る見る間に埋まっていく。

 先程の魔法で二匹削れたが、まだ残り七匹は健在。それが一斉に早い者勝ちとばかりに疾走して向かってくる。

 迎撃の魔法を放つ時間はない。手持ちの調合品は尽きた。後ろの二人は動けない。

 だったら、することは一つだけだ。迷わなくて良い分、考えなくて済むから丁度良い。

 アカデミーでの訓練を思い出しながら、杖を手に身構える。

 ウォルフの群れは様子見無し、七匹揃っての総攻撃。出来の悪い扇状に広がった陣形相手では、例え一方向を抑えたところで、別方向から無防備に攻撃を受けるハメになる。

 最悪、どこかのアホじゃないが身体を張って止めるしかないだろう。違うのは、致命傷を受ければそれまでだということと……。

 ラスト・スパートとばかりに、群れの中から三匹が突出する。大きく口を開き、散々お預けを食らった獲物を食いちぎろうと一斉に飛び掛り――

 

 炎を纏った長槍に、三匹まとめて一挙に貫かれた。

 

「アルト、怪我は無い?」

 

 颯爽と飛び出して来たのは、赤い鎧を身に付けた女性冒険者のシスカだった。

 ぐるん、と長槍を一振りしてウォルフの死体を振るい落とすと、彼女は俺と役割を交代して最前線に立ち塞がった。

 飛び込み参加と同時に三匹も血祭りに上げられ、ウォルフがシスカを警戒して足を止める。唸り声を上げ、背後に回ろうとするもシスカによって巧みに遮られる。

 いやあ何度も邪魔をして、すまないなウォルフ諸君。でも、これで最後だ。もう食事の心配はしなくて済むから安心してくれ。

 

「ああ、助かったよ」

 

 構えた杖を下ろし、両膝に手を当てて素直な感想を口にする。正直、杖を構えるどころか立っているのすらしんどい有様だ。本当、助かったよ。

 シスカの背中の頼り甲斐があることといったら、もう……俺みたいに痩せ我慢で頑張っていた男とは、別次元の強さがそこにはあった。今の彼女になら、年増ではなく美少女と言っても……いや、それはいくらなんでも無理があるな。十二歳より上を評価するなんて、神様に喧嘩を売っているとしか思えない。

 ともあれ、彼女が来てくれたなら一安心だ。

 ――そう、一人ではキツイが、彼女と二人なら何も問題はない。

 イングリドの前で情けない真似は出来ないと、必死で虚勢を張って自分を奮い立たせて誤魔化していたが、今更ながらに危機感を実感して足が震えてくる。

 多数を相手に一人で後ろをかばいながら戦う、なんてありえなさすぎる。無謀にも程がある。少なくとも、錬金術士がやることではない。適材適所、そういうのは冒険者に任せておけばいいことだ。

 俺はまだ、時間さえ稼げばシスカが助けに来てくれると知っていたから多少余裕はあったが、リリーのやつは救援の当てもない状態で良く耐えたなと思う。そこだけは評価してやる。さすがアホ女、心臓に毛でも生えているのだろう。

 あー、死ぬかと思った。もう二度と、こんなことやりたくないぞ。

 ……が、しかし。もし、また同じ場面に出会ったら、同じことをするけどな。

 

「まったく、もう……爆発音で居場所を知らせるくらいなら、最初から一声掛けて行ってよね。急にいなくなるから、どこに行ったのかと思ったわ」

「すまん」

 

 面目次第も御座いません。二人一組での行動を提案した張本人が、作戦無視して単独行動をしていたのでは、呆れたくもなるよな。

 ――アトリエでテオからの報告を受けた後。

 俺達は万が一を考えて行動することにした。

 あんまりにもテオ達が心配するもんだから、俺も重い腰を上げざるを得なかったのだ。リリーはともかく、イングリドに何かあったらと思うと居ても立ってもいられない。

 俺、シスカ、カリン、テオの三人は酒場へ。何事もなくリリー達が戻ってきた時のため、ドルニエ先生は眠ったままのヘルミーナと一緒に、アトリエへ残ってもらった。

 酒場でたむろしていた冒険者を雇い、取るものも取り合えず人海戦術でのローラー作戦を決行。テオが森に入った際の行動場所を参考に、二人一組での行動を取る。

 リリー達がいなくなってからの経過時間を元に、行動範囲を想定。途中を流れる小川を目印にして集合。二人を見つけた場合、そのまま合流。魔物に襲われていた場合は二人で対処する。時間までに現れなかった組がいたら、問題があった場所だと判断して皆で駆けつける。全員が揃った場合は、さらに奥へと進む。

 それが、時間が無い中で捻り出した苦肉の策だった。

 ……にもかかわらず、俺は独断専行してしまったわけだ。文句の一つくらい言われても当然だった。

 

「まぁ、いいわ。彼女達の緊急事態じゃ、冷静でいろっていう方が無理だものね? それに、ちゃんと私の分の獲物も残しておいてくれたみたいだし」

「あとは任せてもいいか? 先に、やっておきたいことがある」

「もちろん。じゃあ、皆が駆けつけてくる前に、いけないワンちゃん達にお仕置きをしましょうかしらね」

 

 うふふ、とどこか愉しそうな笑い声と共に槍を構えるシスカ。背中越しなので彼女の顔は見えないが、何やら不穏な気配が彼女から漏れている気がする。

 思わず、一歩後退る。

 何せ、気合一つで武器に炎を纏わせるようなトンデモ人間だ。勢いあまって、俺まで串刺しにされては堪らない。

 

 

 

 その後。

 彼女の予告通り、ウォルフの残党が蹴散らされるのには、三分と掛からなかった。

 本当に、細身の彼女のどこに、そんな力が秘められているのかは理解不能だ。

 こうして、リリーがしでかしたアホな騒動は無事に収拾された。

 巻き込んだ人の数を考えると、頭痛でおかしくなりそうだ。

 しかし、ある意味、彼女にフォローが必要となるのはこれからなのだ……やれやれ。

 

 

 

 

 

 

    ◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 

「――それでね、アルトがリリー達の情報をテオくんから聞いた時のうろたえ具合ったらもう、傍から見てて可哀想になるくらいだったのよ? 『落ち着け、大丈夫だ』とか言いながら、カップを持つ手がカタカタ震えちゃってるの。捜索すると決めた時だって、それはもう必死だったんだから。一緒に行動する私達相手に、態度を取り繕う余裕もないほど慌てふためいちゃって。『間に合わなかったらどうするっ!』って物凄い剣幕で食って掛かるほどだったんだもの。そうそう、ウォルフを処理し終わった後に私がリリーを背負おうかって提案した時だって――」

「も、もういいからっ! シスカのおかげで事情は十分に分かったわ。だから、その話は終わり!」

 

 何やら不穏当な気配を感じたあたしは、ぴしゃりと会話を打ち切った。

 ただ状況説明をしてもらっていただけのはずなのに、何がどうすれば未来の破滅の匂いがしてくるのだろうか。

 あたしはベッド横の椅子に腰掛けて微笑む意地悪な女性を、じろっと睨みつける。

 お互いに面識こそあったけど、こうしてじっくり彼女と話す機会は今まで無かった。だから勝手に理想の大人の女性という想像を当てはめていたのだけど、実際は結構、子どもっぽく茶化してくる部分もあるみたいだ。しょうがないなぁ、とでも言いたそうなニヤニヤした笑みが憎たらしい。

 あたしがベッドの上で目を覚ました直後は、ちょっと揉めた(主にあたしが取り乱して)。でも、それも仕方ないことだと思う。誰だって、死んだと思った自分の目が覚めて、しかも傷一つない状態だったり、いきなり自宅にいたり、今までちゃんと話したことない相手が目の前にいたりしたら、おろおろと動揺するのが普通でしょ。

 なんとか気を持ち直してシスカから色々と事情を聞いたけど、結局、あたしが一命を取り留めた理由は分からずじまいだった。シスカが駆けつけた時には、既にあたしは昏睡状態だったらしいから。

 ……一応、心当たりならあるんだけどね。

 背後から襲われたにも関わらず、宝石が砕け散って銀の鎖だけとなってしまったネックレスを、そっと右手で触れる。

 でもそうなると、それはそれでまた新たな疑問が浮かんでしまう。だから詳細はアルトに聞けば分かることだとして、今は疑問に蓋を閉めて考えないことにした。

 そんなこんながあって、今ではこうしてシスカ、リリーと気軽に呼び合えるような親しい関係を築けるようになった。

 今あたしがシスカから経緯の説明を受けていた場所は、アトリエの二階だ。元々は大部屋だったけど、衝立とカーテンで男女の仕切りを作り、現在では二部屋の寝室として使用している。今いるのはその奥側、女性陣が占拠している部屋だ。

 どうしてそんな面倒な改装をしたのかといえば、もちろん変態対策に他ならない。着替えたり何なりといった場面に、あいつが何か血迷う可能性があるからだ。あたしだって実害はともかく、仮にも異性のいる所で着替えたくはないし、寝顔も見られたくはないしね。……今更、手遅れな気がしないでもないけど。

 女部屋は二つのベッドをくっつけて、一つの大きなベッドとして使っている。イングリドとヘルミーナがどっちもあたしと一緒に寝たがるので、こういう変則的な形を取った。

 今もあたしの隣では、イングリドが寝息を立ててお休み中だ。

 シスカから聞いた話では、随分と泣きじゃくっていたらしい。それこそ、アルトが睡眠作用のある『ズフタフ槍の草』の匂いを嗅がせ、無理矢理眠らせなくてはならなくなるほどにだ。

 ……保護者であるあたしが目の前で倒れたんだものね。

 大人顔負けの頭脳を持つとはいっても、子どもである事実は変わらない。そんな彼女に心配を掛けてしまったことが申し訳ない反面、そこまで心配してくれているということが純粋に嬉しい。口に出して言えば、ふざけてるのかとアルトには怒られるだろうけど。

 ……そのアルトの姿を、目を覚ましてから一度も見ていない。

 

「ドルニエ先生とヘルミーナは、酒場へ夕食に出掛けたのよね?」

「ええ、そうよ。たぶん、そろそろ戻ってくるんじゃないかしら?」

「テオくんとカリン、一緒に探してくれた冒険者の皆も一緒よね?」

 

 今回、あたしがしでかした失敗には多くの人達を巻き込んでしまったらしい。それこそ、近日中に方々へ頭を下げて回らなくてはいけないだろう。アトリエの名前が悪い意味で広がってしまわないように、誠心誠意、きちんと感謝と謝罪を告げなくては。

 

「今頃は酒盛りでもしてるんじゃないかしらね? 皆、お酒が大好きな連中ばかりだし」

「……ごめん。シスカも行きたかったよね?」

「ふふっ、何を言ってるんだか。リリーの様態を見守るなんて重要な任務を任されたのに、私に不満があるわけないでしょう?」

「……あ、ありがと」

「どういたしまして」

 

 さらっと受け答えするシスカの顔を見るのが恥ずかしくて、視線を逸らす。こうやって不意に大人の余裕を見せるから、シスカはズルイ。可愛いだけじゃなく綺麗だなんて、女性として魅力的すぎる。

 

「それで、その」

「ん? 何かしら?」

「あいつ……は?」

「あいつって誰のことかしら? もっとはっきり言ってくれないと分からないわ」

 

 シスカが白々しくすっとぼけて首を傾げる。

 だ、誰かなんて言わなくても分かるでしょ!?

 あたしがキッと睨みつけると、シスカは人を食ったような意地悪な笑みを浮かべて見つめ返してきた。

 うう……絶対、面白がっているわね。この様子じゃ。

 説明してもらっている最中にも思ったけど、やっぱりシスカもあたしとアルトのことを勘違いしているみたいだ。だから、あたしとあいつはそんな関係じゃないって言ってるのに。

 だいたい、そういう感情をあいつに抱くっていうことがまず無理なのだ。だって、あの変態よ? まだ小さい子相手に好きだの愛してるだの言うような。あたしのことなんて、と、年増とか言ってくるような相手よ? そんな変態相手に、どうやってそういう感情を――

 

『良く頑張ったな。あとは俺に任せろ』

 

 頭を撫でて、

 褒めてくれて、

 安心してしまった――頼もしいあいつの顔。

 

「――っ!」

「ど、どうしたの? 顔真っ赤よ?」

「ちがっ、違うから! 今の無し!」

「?」

 

 なんでもない、なんでもない。

 勢い良く布団に顔を押し付け、両手で頭を抱えてうずくまりながら自分に言い聞かせる。

 おおおお、落ち着きなさい。落ち着けってば、あたし。

 あんなのは一時の気の迷い。今際の際に、身近な知り合いがいたせいで錯覚しただけだ。気が緩んで、ちょっといつもと違う何かを感じてしまった気がするだけ。勘違い。思い違い。なんでもいい。とにかく、そういう何かだ。

 だから、落ち着け。落ち着きなさいってば。

 あたしが動揺する理由なんて何もないのだから。恥ずかしいと感じるようなことなんて、何も起きていないのだから。

 ……そうよ、誰だって窮地を助けてもらったら安心してしまうじゃない。心強いことを言われたら頼ってしまうじゃない。だから、普通のことよ。相手が誰であっても不思議じゃない。アルトだから特別ってわけじゃないわ。

 だから、何も慌てる道理なんてない。

 これは、普通のことなのだから。

 だから……ちょっとくらいあいつのことを頼もしく感じてしまったとしても、それはおかしくなんてない。……はずよね?

 

「ごめん、取り乱した。それで、アルトは?」

「ふ~ん……やっぱり彼のことが気になるのね?」

「な、何よ? 何が、やっぱりなのよ」

「ううん、なんでもないわ」

 

 ぜんっぜん、なんでもないって顔してないんですけど!?

 言ったら藪蛇になりそうだから、言わないけど!

 

「彼だったら下のソファーで横になって、ぐっすり寝ているわよ」

「え? そ、そう……」

 

 アルトがあたしのことを全く気に掛けてくれていないわけじゃない。

 そのくらいのことは、さすがにあたしにだって理解出来ていた。普段はそりゃ、にべもない冷たい態度ばかりだし、口を開けば憎まれ口ばかりだし、たまに本気で首を絞めたくなるような言動をするけど……でも、なりふり構わず必死に助けようとしてくれたんだから。これでまだ気遣われていないなんて言うほど、あたしは恥知らずじゃない。

 もちろん、あたしはあくまでイングリドのついでだってことも承知している。

 そこを勘違いするほどバカじゃない。

 あいつはあくまで自分にとって大事なイングリドを助けるついでに、あたしを助けてくれたんだと思う。それでも、助けに来てくれた事実がある以上、イングリド達程ではないにせよ、多少は気に掛けてくれていたんだと思う。

 でもなんていうか、どうせ助けるなら最後まで傍にいて欲しかったというか……。

 

「なんだか不満そうな表情ね。寝起きに見る顔が彼じゃなかったのが残念?」

「そ、そんなこと言ってないわよ!」

「そう? なんだかそう言いたそうな顔してたから」

「どんな顔よ、どんな……」

 

 してないし、そんな顔。

 言いがかりもいいところよ。そんな顔するわけないじゃない。なんで、あたしがあいつのことなんか。あいつが変態なのは今に始まったことじゃないんだし。

 

「アルトがリリーのことを心配していないわけじゃないわ。むしろ、その逆よ。その証拠に、足だってもう痛くないでしょう?」

「それは分かってるけど……」

 

 事情説明を受けている間に、傷の具合は確認済みだ。

 最後に襲われた際に受けたはずの致命傷どころか、両足の傷跡だって綺麗に完治していた。枝葉に引っ掛けてついたかすり傷も消えて、まるでそんな事実がなかったかのようだ。

 当然、手でさすったり揉んでみたところで、痛みも違和感も何もなかった。

 

「見事なものよね、錬金術って。私も一つ欲しくなったわ。痕になったら困るからって、アルトが持っていた塗り薬ですぐに治療したのよ。リリーを最優先で、ね」

 

 塗り薬とは、アカデミーで怪我をした時に何度かお世話になった事のある『常備薬』をペースト状にした物のことだろう。効果こそ若干弱まるものの、即効性があり、お値段が安いという利点があるお手軽な代物だ。確か、正式名称は『傷薬』だったかな?

 ……うん。なぜかまたも、シスカが何か言いたそうな含みのある笑顔で見てくるけど、いったい何が言いたいのか分からない。別に、それ以外に今の会話でおかしなことはないものね。

 アルトがあたしを治してくれたのは、あたしがそのことで文句を言わないように、とかだろうし。うん、何もおかしいことなんてないわね。

 

「余った物もイングリドに全部使っちゃって、彼自身は切り傷だらけで疲労困憊。そんな有様なのに、リリーを背負ってここまで帰ってきたんだから。その上、一息吐く間もなくそれを調合したり、イングリドをなだめたりと……」

 

 ちらっと彼女が視線を横に向けた先にあるのは、鏡台の上に置かれた一組のティーポットとコップ。疲労回復効果もある『何か』は、あたしのために用意された調合品だ。

 口が曲がるほどの苦さと、飲んだ後も舌に残る後味の悪さ。いったい何を混ぜればこんな酷い味になるんだという代物を、あたしは決して飲み物だとは認めない。

 ……まあ、それでも一応、感謝はしてるけどさ。だからこそ、どれだけ壊滅的な味だろうと残さずに、全部ちゃんと飲み干したし。

 

「いくら精神的にタフなアルトだって、さすがに限界。下で寝ているのも納得でしょう?」

「だから、それは――」

「そこまでリリーのことを考えて行動してくれたのに、まだ不満?」

「も、もう! だから、そんなんじゃないって言ってるのにぃ!」

 

 反応しても変にこじれるだけだろうからと流していたけど、もう限界。

 シスカのからかうような言葉を、あたしは首を振って強く否定した。

 本当、どうしてこう会う人会う人そういう変な誤解をするのよ。ヨーゼフさんも、カリンもそうだったし。意味不明すぎる。

 あたしもアルトもそんな発言はしていないし、それどころかお互いに嫌悪しているって一目見れば分かるでしょうに。いったいどこにどんな勘違いを招くような余地があるというのか。

 アルトがシスカの考えているような……そ、そういう理由で行動するわけがないのに。そんなのは、あいつがどういう人間なのかという本性を知っていれば、百も承知の事実だ。

 

「そんなに意固地になってまで否定しなくてもいいわよ? 警戒しないでも、私は彼のことをそういう対象として見ていないもの」

「警戒なんてしていないし! い、意固地も何も、そんな事実は一切存在しません! いい? 今シスカが思ってるようなことは全部勘違い。有り得ないの!」

「あら、そう? 勘違いねぇ……。本当に、そうなの?」

「そうよ! シスカは誤解しているのよ。ええと、例えば……」

「例えば? 何かしら?」

「例えば……痕になったら困るっていうのは、あたしが自分に文句言うんじゃないかと思ったとか。慌てた理由はイングリドが心配だからで、当然あたしはそのおまけ程度。アルトはイングリドとヘルミーナのことが第一なの。ていうか、二人が無事ならそれで十分って思ってるはずよ」

「んー、確かに彼、ちょっと過保護よねぇ」

「でしょ? だから、あたしのことなんてどうでも……まぁ、ちょっとは心配してくれたみたいだけど。と、とにかく、そのくらいにしか思ってないの! 変な勘違いしないでよね? あたしもあいつも、お互いに嫌い合ってるの。だから、そういう勘違いは本当に迷惑なの! ……分かった?」

「ええ、分かったわ」

 

 本当に? なんかそう、あっさり笑顔で頷かれると微妙に不安になるわ。

 なんでか知らないけど、あたしやアルトが言えば言うほど周囲に誤解されているような気もするのよね。そういう人間だから誤解するのか、たまたまそういう人間が多いのかは分からないけど。でも、だからって何も言わなかったら肯定しているようなものだし。いったい、どうしたら誤解を解くことが出来るのよ……。

 あーもう、本当あいつのことを考えるとイライラさせられるわね。本当、困ったものだ。アルトのバカ。あいつのせいよ、こんな勘違いされるのも。全部全部、あいつが悪い。

 

「えーと……もしかして、怒ってるつもりだった?」

「もしかしても何も、それ以外にどう見えるのよ?」

「とっても嬉しそうな顔してるわよ?」

「――っ!?」

 

 バッと鏡台に振り返り、じーっと鏡を覗き込む。

 うん……大丈夫、別に嬉しそうな顔なんてしてないわ。

 そ、そりゃそうよね。なんだって、あたしがそんな意味不明な理由で嬉しそうにしなくちゃならないのよ。あいつに心配されて嬉しいだなんて、そんな……ねぇ? ないない。ありえない。そうよ、アルトはあたしのこと嫌ってるんだし。あたしだって、あいつのことは大嫌いだし。

 

「ふふっ……。リリーの気持ち、よ~く分かったわ。じゃ、アルトを起こしてくるわね。リリーの目が覚めたら知らせてくれ、って彼に頼まれたし」

「え? あ、うん」

 

 いや、それはいいんだけど。

 ええと、さっきシスカが言ったことに対してのフォローはないの? あたし嬉しそうになんてしてないわよ? ただのシスカの勘違い?

 

「何か軽い食事も作ってきた方がいいからしね。お腹、空いてるでしょ?」

 

 立ち上がったシスカが、ドア代わりのカーテンに手を掛けながら振り向く。

 

「うん、ちょっと……」

「よしっ、じゃあ任せて。本当はお酒のおつまみの方が自信あるのだけれどね。それはまた今度の機会にしておくわ」

「えっ、でも、そこまでしてもらうのも悪いわよ。ただでさえ、迷惑掛けちゃったんだし。後で自分で――」

「いいからいいから。アルトもそうだけど、一々そのくらいで遠慮しないでいいわよ。知らない仲でもないんだし、ね?」

 

 女のあたしでも見惚れるようなウィンクを残し、シスカがカーテンをくぐって外へ出る。

 彼女の姿が見えなくなった代わりに、鼻歌交じりの軽い足音がトントンと響き、そのまま一階へ降りていった。

 ぽつんと一人、部屋に取り残される。

 途端に手持ち無沙汰になった。

 まさか、イングリドを起こすわけにもいかないし……。

 ベッドに身を投げ出し、天井を見上げながらじっと待つ。

 アルトを起こしてくるってことは、やっぱりあいつが様子を見に来るってことよね。女の子の寝起き姿を見に来るとは、本当気が効かない奴だ。

 起き上がり、そそくさと鏡を見つめながら手櫛で乱れた髪を整える。たとえアルトみたいなバカであっても、あまりボッサボサの状態の自分を見られたくないしね。

 ……ただの現実逃避だ。

 はぁ、と力無い溜め息を吐く。

 あたしは今回、本当にバカなことをしてしまった。

 あいつが言ったことを守らずに暴走した挙句、イングリドの身を危険にさらした。言い訳しようのない大失敗だ。

 アルトは怒っているだろうか?

 どうだろう。イングリドに危険な橋を渡らせたことに怒り狂ってもおかしくはない。

 でも、あたしのバカさ加減に呆れるだけというのも有り得る。ここぞとばかりに馬鹿にしてくるかもしれない。

 でも、それも当然だ。あたしだって、なんてバカなことをしたんだろうって思うから。

 イングリドを危険な目に合わせたことに対して、あたしはどうやって彼女に償えばいいのだろう。あんな怖い目にあった後でも、イングリドはあたしのことをまだ先生と呼んでくれるだろうか? 見限られても仕方ない。泣きじゃくる彼女相手に、あたしは何も出来なかったのだから。

 イングリドが素材集めを怖がるようになってしまったら、それはあたしの責任だ。どうにかしてあげたいって思う。先生失格といわれても仕方ないあたしだけど、せめて自分がしでかしたことの責任くらいは取りたい。

 ……アルトがどう思っているかは分からないけど。

 イングリドとヘルミーナのことを、一部大問題はあれども、心底大切にしているアルトのことだ。今回のことであたしに失望したかもしれない。イングリドを任せるには不安だと。

 ……ううん、そうでもないかも。あたしになんて、あいつはそもそも期待なんてしていないのだから。

 最後の審判の日を待つような気分でじっとしていると、不意に階下から足音が響いた。

 一段一段確かめるようにして、ゆっくりと上ってくるその足音は、アルトの物だ。ここで暮らして一ヶ月も経つと、だいたい誰の足音なのかが把握出来るようになっていた。

 カーテンの前まで来ると、その足音はぴたりと止んだ。

 

「入るぞ」

 

 思わず返答に詰まったあたしを無視して、勝手にアルトがカーテンをめくって入ってくるアルト。

 今更なことだけど、本当こいつはあたしを何だと思っているのか。もしも、あたしが着替えていたら、どうするつもりだ。

 ……いや、どうもせずに平然とするというのは風呂場での一件で知っているけど。

 

「調子はどうだ?」

 

 さっさと椅子に腰掛けたアルトが、静かな声で尋ねてくる。

 彼がどんな表情をしているのかは分からない。どうしてか、最初にアルトの声を聞いてから、あたしは顔を上げることが出来なくなっていたからだ。

 そればかりか、返事をするのすら難しく感じている。

 正直に言ってしまえば、今、アルトの顔を面と向かってみるのが怖い。

 彼がどんな風に思っているのか、知ってしまうのが怖くて、うつむいてしまう。

 

「どこか痛みを感じたり、違和感のある箇所はあるか?」

 

 重ねてアルトが聞いてくる。

 返事をしないあたしに焦れたか、いきなり毛布をまくって怪我を確認しようとしてきたので、慌ててそれを止める。

 

「だ、大丈夫。どこも痛くないし、むしろ調子が良いくらいっていうか」

「そうか」

 

 その拍子に、アルトの顔を見てしまった。

 まるで無理矢理に表情を消そうとしているような、そんな強張った表情を浮かべる彼の顔を。

 思わず、息が詰まる。

 

「なら、遠慮はいらないな」

 

 それはどういう意味――

 と、聞き返すよりも早く。

 右手で頬をしたたかに引っ叩かれた。

 ……え?

 反射的に叩かれた頬に手を当て、何が起きたのかと呆然とする。

 遅れてじんじんと痛みが伝わってきて、やっとあたしはアルトにぶたれたのだと理解した。

 いきなり何するのよ、とアルトを睨みつけ、

 

「――お前は、どれだけ自分がアホなことをしたか分かっているのか?」

 

 淡々と詰問するアルトに、二の句を告げられなくなった。

 どれだけの感情を押し殺せばそうなるのか。一語一句を震えるようにして口にするその声音は、今まで聞いたことのないほどに真剣なものだった。

 いつも口喧嘩をする時に睨み合うのとは違う。

 いつぞや、冷ややかに軽蔑されたような時のそれとも違う。

 徹底して、冷静さを装った雰囲気だった。

 だというのに、押さえ切れずに剥き出しになって伝わる感情。

 物理的な圧力すら伴って襲い掛かる感情に心臓を貫かれ、息苦しさを覚える。彼が今も必死で押さえ込んでいる気迫が、耐え難いほどの重圧となってあたしに圧し掛かる。

 こんなアルトの姿は、今まで一度も見たことが無い。

 こんな……余裕の無い表情を浮かべるアルトなんて。

 

「あと少しでも助けに向かうのが遅かったら死んでいたんだぞ。お前だけじゃない、イングリドもだ。お前が軽率な行動をして、その結果どうなろうとそれはお前の自業自得だ。だけど、お前に巻き込まれたイングリドはどうなる」

 

 歯を食いしばり、激情を押し殺し、感情的にならないようにと努めれば努めるほど、アルトの感情がその瞳からあたしに直接的に伝わってくる。

 咄嗟に、怯み、彼から目を逸らそうとしてしまう。

 けれど、それをアルトの瞳が捉えて許さない。

 

「お前はイングリドの先生であり、彼女はお前の生徒だ。その先生が生徒を危険な目に合わせてどうする」

 

 怒鳴られたわけでもないのに、彼が一言口にする度に、びくんと身体が震えてしまう。

 言い返せない。

 言い返せるわけが無い。

 何も言えずにうつむくあたしを見てどう思ったか、アルトが長い溜め息を吐いた。

 そして、言う。

 

「お遊び気分で錬金術士をやるつもりなら、今すぐ荷物をまとめてケントニスに帰れ。俺があの子達を一流の錬金術士に育てる。アカデミー建立も、俺一人で十分だ」

 

 最終勧告だ。

 彼は本気でそう思っているし、あたしが何も言わなければ、そのまま言葉通りに実行するというのが分かった。

 だから、あたしはそんな資格はないと思いつつも、顔を上げ、それに言い返そうとして――

 

「お前が俺を嫌うのは、別に構わない。だけどな、そのせいであんな危険な真似をするのはやめてくれ。頼むから……っ!」

 

 今度こそ、何も言えなくなった。

 言えるわけがない。

 だって、アルトが心配してくれているのが分かってしまったから。

 イングリドだけではない。

 あたしのこともだ。

 本当に心配して、

 本気で気遣って、

 心底思い遣ってくれて、

 だからこそ、ここまで真っ直ぐに怒っている。

 本当なら、心の赴くままに怒鳴りつけてやりたいだろうに。

 ふざけるな、と声を荒げて思い切り殴ってしまいたいだろうに。

 それでも、自分を押し殺してまで真摯に叱ってくれている。

 他の誰でもない、ただ一人、あたしのことを思うからこそ。

 それが分かるから、何も言えない。

 それが分かるから、何も言わない。

 ……ずるい。やめてよ、今そういう風に言うの。

 いつもみたいに命令口調で言ってよ。バカなやつ、って頭ごなしに怒ってよ。

 そうすれば、あたしも不貞腐れながら頷くことが出来たのに。

 なのに、そんな……まるで懇願するかのように言われたら、あたしは。

 思い出す。記憶を失う直前の光景を。

 アルトがどれほど必死になって助けようとしてくれたのかを。

 追い込まれた状況で、あたしがどれほど彼に感謝したのかを。

 ……ダメだ。この思考の流れはマズイ。

 やめて。これ以上、考えてはきっとダメだ。そう思うのに、止められない。それどころか、考えないようにすればするほど、堰を切った感情の奔流がどっと心の奥底から流れ出す。

 嫌よ。やめて。こんなみっともない姿をさらしたくない。

 そう思うのに、止まらない。

 そう思うから、止められない。

 我慢して耐えようとするのに、勝手に口が動く。

 聞かなければいいことを、聞いてしまう。

 

「……ねえ、一つだけ教えて」

「? 何をだ?」

「どうして、ネックレスをあたしに渡したの?」

「……なんのことだ」

「イングリドから聞いたわ。あたしに渡すように頼まれたって」

 

 う、と唸るアルト。

 共犯者が証言したとあっては、言い逃れ出来ないでしょ。

 観念したように溜め息を吐くアルトに、疑問に思っていたことを尋ねる。

 その答えを聞いたら、きっともう意地を張れなくなると知っていながら。

 

「イングリドの安全を考えるなら、あの子に渡した方が良かったんじゃないの?」

「……大した物じゃなかったからな」

「あれのお陰で、あたしは助かったのに?」

「――っ!? 気付いていたのか?」

「ううん……、確信したのは今のアルトの答えを聞いたからよ」

 

 やっぱりそうだったのか、と胸にストンと落ちて納得がいった。

 何らかの魔法が掛かった調合品のネックレス。

 それをアルトがわざわざ回りくどい方法を取ってまで、あたしに渡したのはなぜなのか。

 その効果は想像することしか出来ないけど、おそらく一度切りの使い捨ての物だ。

 だけど、決して安い品物ではないし、そう簡単に作れるようなものでもないはず。

 命を救ってくれるような凄い調合品だ。

 そんな代物なら、最初からイングリドに渡した方が、あの子の身は安全だ。

 

「もう一度、聞くわ。どうして、あたしに?」

 

 アルトはそんなあたしの当然の問いに、

 

「お前はあの子のためなら、自分の身を呈してでも守るだろ」

 

 当然だろ、とその答えを口にした。

 ……ああ、なんだ。そういうことだったんだ。

 ずっと、それだけが疑問だった。

 どうして、あたしにネックレスを贈ったのかが知りたかった。

 もしかしたら、とは思っていた。

 でも、そんなことあるわけがないと否定した。

 効果こそ分からなかったけど、もしそんな大切な物だったら、イングリドに渡すはずだと。

 だから、あたしは……。

 だけど結果は、あたしが意固地になっていただけだった。

 あたしは、ちゃんと彼に信頼されていた。

 今更、そんなことに気がついた。

 認めてくれないも何も、あたしが気付こうとしていなかっただけ。

 心配されていないどころか、あたしが認めようとしなかっただけ。

 あたしが認めて欲しいと思った部分は、彼からしたら未熟すぎて。

 あたしが当然だと思って考えていなかったことを、彼はきちんと見ていてくれた。

 もう我慢は出来なかった。

 ただ、どうしても彼に伝えたい言葉があった。

 

「ごめ、なさ……」

 

 ごめんなさい。バカなことをして。

 ごめんなさい。身勝手に反抗して。

 ごめんなさい。心配ばかりかけて。

 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。

 謝ろうと口を開くのに、震えるばかりで上手く言葉に出来ない。

 伝えたいことの一割だって、伝え切れていない。

 謝罪だって、感謝だって、言葉で伝えるには足りない。

 助けてくれてありがとう。

 いつも助かっているわ。

 全然、何も言葉にならない。

 そればかりか、見つめるアルトの顔までぼやけてくる始末だ。

 

「……泣くほど痛かったか。その、もう少し、手加減すべきだった、か?」

 

 アルトがギョッと驚き、罰が悪そうに頭を掻く。

 ぶんぶんと首を振る。

 そうじゃない。そんなことで泣いているわけじゃない。

 あんたに殴られたからって理由だけで、ただそれだけで泣くわけが無い。

 あんたになんて、絶対に泣き顔を見られたくないって思っている。

 それなのに、今こうしてみっともなく涙を流しているのは、そんな安い理由なんかじゃない。

 だけど、絶対に今泣いている理由を自分で口にしたくなんてない。

 どうして泣いているのかなんて、言葉にしたら台無しになってしまう。

 あたしは勘違いばかりしていた。

 アルトに頼りっぱなしの自分が嫌で。

 フォローばかりしてくるアルトが嫌で。

 だから、一人でも大丈夫だということを彼に示したかった。

 でも、それは浅はかな考えだった。

 ひっついて、よりかかって、支えてもらう立場でいたくない。

 ――それは正解。

 でもだからって、何から何まで一人でする必要なんてなかった。

 ――それは当然。

 仲間だから話し合えばいい。初日にそうやって話し合ったのに。

 ……なんにもあたしは分かっていなかった。

 分かってくれないとアルトに言いながら、あたしだってアルトの気持ちを少しも分かろうとしなかった。

 フォローをされることが多いのは当たり前だ。彼は先輩であり、あたしは後輩なのだから。

 それに反発してみせても、彼からしたら生意気言って自爆しているようにしか見えないだろう。

 本当に彼と協力し合いたいと思うなら、あたしはまず自分を理解しなくてはいけなかったんだ。

 あたしに何が出来るのか。

 あたしは何がしたいのか。

 その上で、彼が苦手とすることや得意とすることを考え、二人で協力する必要があったんだ。

 きっと、今のあたしの顔はぐちゃめちゃになっている。

 それを見せたくなくて、耐えようとして、でも出来なくて。

 ぼろぼろと涙が流れ出る。

 言葉を口にしようとすると、意味を成さない声が漏れ出してしまう。

 何も言い返せない。

 全部、アルトの言う通りだ。あたしは本当、なんてバカなことをしてしまったんだろう。

 それが悔しくて、悔しくて。悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて――嬉しくて。

 アルトが本気で叱ってくれたことが、嬉しくて泣いてしまった。

 

「もう二度と、あんなアホな真似するなよ?」

「……うん。絶対に、しない」

 

 涙をハンカチで拭いながら、同じ過ちは繰り返さないと決意を込めて頷く。

 この失敗をなかったことには出来ない。あたしがバカだったせいで、多くの人に迷惑を掛けてしまった。危うく、取り返しのつかないことになるところだった。

 だから、それを忘れない。後悔するためにではなく、もうこんな後悔をしなくて済むように忘れない。

 あまりにも泣きすぎたせいで、用意したハンカチがべちょべちょになってしまった。ここ最近泣いた記憶なんてなかったのに。一生分の涙を流し切った気さえする。

 

「ほれ」

「?」

 

 なぜか、アルトが苦笑しながら自分のハンカチをあたしに向かって差し出してくる。

 ……なに? もう涙は拭き終わったけど。

 

「鼻水、垂れてるぞ」

「――ッ!?」

 

 奪い取るようにして借りると、彼に背を向けてこそこそと処理する。

 最悪だ。子どもじゃあるまいし。こんな姿を見られるなんて、恥ずかしすぎて死にたくなる。

 ……あ。どうしよう。思わず使っちゃったけど、これはアルトのハンカチだ。

 気まずい思いで振り返り、おずおずと申し出てみる。

 

「ええと……洗って返す?」

「いらんわ、そんなもん。そのまま、もらっとけ」

 

 言い方っていうものがもっと他にあるんじゃないの、と思いつつ、素直にそのまま受け取っておく。だって、返せって言われたら困るし。

 ……あー。もう本当、ひどい目にあったわ。

 失態も失態、大失態だ。

 よりにもよって、そんな姿を晒した相手がアルトっていうのがまた最悪すぎる。

 アカデミーにいた頃に情けない姿を見せてしまったことは何度かあったけど、今のような関係で彼と付き合うようになってからは今回が初めてだ。

 二度と、そんな弱みを見せてやるものかと思っていたのに。

 ……でも、まだ終わりじゃない。

 あたしは結局、言えてない。

 ごめんなさいと、ありがとうを。

 だらーっと緩んでしまった空気を誤魔化すように、小さく咳払い。

 そして、今の気持ちが失せてしまう前にとアルトに話しかけ――

 

「アルト、その……」

「待て。まだ、もう一つ大事なことを言っていない」

 

 ようとして、出鼻をくじかれた。

 ……大事なこと? いったい、なんのこと?

 あれからどうなったか、とかの報告? ドルニエ先生から何か言われたとか? それとも、まだあたしに対して何か言い足りないことがあったとか?

 話の内容を予想してちょっと怖くなりつつ、聞かないわけにもいかないので先を促す。

 すると、アルトはバッと潔く頭を下げた。

 

「悪かった」

 

 一言。

 それはどう聞こうとも、謝罪の言葉だった。

 

「……え?」

 

 アルトがあたしに、謝った?

 あたしがアルトに謝るのではなく?

 

「ごめん」

 

 意図が通じなかったか、とわざわざ言い直すアルト。

 違うってば、そうじゃない。どうしてアルトがあたしに謝るのかが分からなかったのよ、あたしは。

 だって、そうじゃない。なんでアルトがあたしに謝るのよ? 今回は完全にあたしが悪かったんだし。どこにアルトの非があるっていうのよ?

 

「ちょっ、待って。やめてよ、意味わかんない。なんであんたが謝るのよ? あたしが謝るなら分かるけど」

「理由ならある」

 

 アルトは頭を上げると、真っ直ぐにあたしの目を見た。

 

「俺はお前のフォローをしたつもりでいたが、お前がどう感じるかを考慮にいれていなかった。テオから聞かされるまで、シスカとカリンに言われるまで、お前が何を不満に思っているのか、全く検討さえついていなかった。というか、その可能性すら考えていなかった。……何から何まで頭ごなしに口出しされれば、たとえそれが理に適っていたとしても、不快に感じるのは当然だ」

「ちがっ」

「いいから黙って聞け。俺は自分で言うのもなんだが、他人よりも要領良く物事をこなすことが出来る。不得意なことっていうのが、あまりない。だから、誰かに任せるよりも自分でやった方が早いと判断した時は、そういう風にやってきた。その方が効率的だ、と。……まさか今更、上司からの苦言を実感するとはな……情けない話だ」

 

 饒舌に語るアルトの話は、アルトの気持ちそのものだった。

 今まで自分のことを話そうともしなかったアルトが、いったいどんな風の吹き回しなのか。

 初めて聞くアルトの考えに、自然とあたしは黙って聞く形となる。

 ……それはともかくとして、上司って誰? ドルニエ先生のこと? アルトでも、先生に叱られるようなことがあったんだろうか?

 

「その場はそれでよくとも、もっと先を考えれば周囲に任せるべきだったんだ。あれもこれもと全部を俺がこなす必要はないのだから。今回だって、もっとお前の意見を聞き入れて、やれることを任せれば良かったんだ。あれをしろ、これをしろと言われてその通りに動いたからって、お前が何も思わないわけじゃないんだからな」

 

 いつになく語るアルトの表情は、どこか恥ずかしそうに見える。

 

「でも、それで当然なんだ。物語の登場人物なんかじゃないんだ。自分で考えるし、行動するんだからな。俺がそう判断しからといって、誰もがそう判断するわけじゃない。受け入れたつもりではあったんだが、俺はまだどこか一人の人間として、お前のことを見ていなかったようだ」

 

 なんだかものすごく失礼なことを面と向かって言われたような気がする。

 いったいあんたはあたしのことをなんだと思っていたのよ。そう問い詰めたくなるが、ぐっと堪える。まだ、アルトの話は終わっていない。

 

「もう二度と、そんな思い違いはしない。リリー。本当に、すまなかった」

 

 謝罪で始まった長広舌は、最後も謝罪で締めくくられた。

 あたしはなんとも複雑な心境で、それを聞き終えた。

 不覚にも本音を当てられてしまい、しかもあたしがそれに気付いた直後に謝られ、穴に入りたいくらいに恥ずかしいという気持ち。あたしのことを、全然理解してくれていなかったのかと悲しくなる気持ち。そもそも一人の人間として見ていなかったとか言われて怒りたくなる気持ち。今まで全くあたしに対して自分のことを話そうとしなかったアルトが話してくれたことで、彼があたしと向き合ってくれたかのように感じて、ちょっとだけ嬉しく思ってしまう気持ち。

 他にも、たくさんの気持ちがいっぱいになった。

 誤魔化そうにも誤魔化しきれない。

 いつもふざけてばかりだったアルトが、初めてきちんとその想いを体当たりで伝えてくれたのだから。

 

「ん、分かったわ。でも……」

 

 そう、でも、なのだ。

 確かに、あたしはアルトのしたことに反感を抱いた。

 その結果、言うことを聞かずにバカなことをした。

 でも、だからってアルトのしたことが何から何まで気に入らなかったわけじゃない。

 むしろ、逆だ。自分が助けられていることに気付いたから、自分の至らなさが我慢ならなかったのだ。迷惑だなんて、そんなのは上辺で考えていただけで、本当の本当、奥底ではいつも違うことを思っていた。

 だから。

 

「あんたがフォローしてくれて、本当はいつも感謝していたわ。だから、その……」

 

 大丈夫。今のあたしなら、素直に言えるはずだ。

 気を抜いて、自然体で、気負うことなく、思っていたことを伝える。

 

「アルト……いつも助けてくれて、ありがとう」

 

 本当なら、目覚めてすぐに伝えるはずだった。

 なんだかんだと言うのが遅れてしまったけど、きちんと言葉に出来て良かった。

 アルトはなんだかポカーンとバカみたいに口を開けて固まっている。

 どうやら、よっぽどあたしが言った言葉が予想外だったらしい。感謝もしていないような薄情な人間だと思っていたのだろうか。バカなやつ。

 それに、他にも彼の思い違いはある。

 今回の原因についてだ。

 アルトは自分に責任があるみたいなことを言っていたけど、やっぱり原因はあたしにあると思う。あたしがアルトに従うのを嫌がったのは事実だけど、彼は彼なりにあたしに良かれと思って行動してくれていたのだから。あたしの身勝手さから出た我が侭な行動にまで、彼に責任を取らせるのはお門違いだ。

 

「あたしの方こそ、ごめんね。勝手なことばかりして。悪かったのはあたしよ。あたしが最初から――」

「待て! まだ、お前にしてもらわなければならないことが残っている」

「むぐぐ!?」

 

 口を両手で押さえられ、もごもごと言葉にならない声を出すあたし。

 ……この男、まさかあたしへの嫌がらせのためにわざとやっているんじゃないの? あながち、ありえないことでもない。

 二度もセリフを遮られ、ちょっとムッとしながら彼の手を振り払う。

 

「なによ? その、あたしがすることって」

「殴れ」

「……え? ごめん、もう一回言って」

 

 おかしな言葉が聞こえた気がして、あたしは問い返した。

 

「俺を殴れ」

 

 アルトは真面目な表情で、再度そう繰り返して言った。

 ……どうしよう。あたしがあまりにもポンポン気軽に殴ったせいで、おかしな趣味にでも目覚めたのだろうか。変態の変態さ加減がさらにマズイことになってしまったのかもしれない。

 殴られて喜ぶようにまでなったら、本気で手に負えなくなってしまう。

 

「おい。何か妙な勘違いをしていないか?」

「え? し、してないわよ。でもそうね、今度からは肉体的にではなく、別の手段で――」

「そうじゃねえ! 俺が殴られて喜ぶような変態なわけねえだろ!」

「は?」

 

 ごめん、急に耳が遠くなったみたい。

 今、自分が変態じゃないとかふざけた世迷言が聞こえた気がするわ。

 

「いいか、これはケジメだ。お前だけ俺に殴られて、俺がお咎め無しじゃ、不公平だろう」

「えっ、だって」

「何も遠慮はいらない。全力で――く、薬で治る程度で」

 

 おい。なんで、わざわざ言い直した。

 どんだけあたしに対して偏見があるんだ、あんたは。

 こっちは別にいいって思ってるのに、アルトは何やら覚悟を決めた様子で目をつぶった。さあ来い、とばかりに受け入れ態勢を整えている。

 そりゃ、あたしはあんたが変なことしでかす度に実力行使で止めたりしたわよ。でもこう、はいどうぞ、とばかりに用意されると勝手が違うというか。

 それに、今回はあたしが悪いのであって、そんなあたしがアルトを殴るというのは、どうなのだろう。

 アルトはそれでいいのかもしれないけど……。

 じーっとアルトの顔を睨みつける。

 そうして気付いたけど、あっちこっちにかすり傷が出来ている。

 これは……どう考えても、あたし達を探す時に負った怪我だろう。

 あたしのせいで、ついてしまった傷だ。

 あたしとイングリドだって、同じように怪我したはずなのに。そのあたし達には、どこも傷なんて残っていなかった。

 いつものアルトだったら、イングリドだけ治してあたしなんか放置するだろうな、なんて思うのに。こういう時だけそんな気を遣うなんて……ちょっと卑怯だ。イングリドだけじゃなくてあたしの怪我もきちんと治しなさいよ、とか文句を言えないじゃないの。

 アルトに近寄り、その傷跡をそっと撫でる。

 頬に触れたあたしの指の感触に、アルトがびくっと震える。

 こんな怪我、あの塗り薬を使えばすぐに消えちゃうだろうに。

 あたしとイングリドばかり優先して、自分を後回しにするなんて。

 ……バカなやつ。

 

「……これ、痛い?」

「いや、大した怪我じゃない。ただのかすり傷だ。二、三日もすれば消える」

 

 そっか、消えてしまうのか。

 なんでか分からないけど、ちょっと残念に思ってしまった。

 かさぶたをはがすように、ちょちょいっと指先を細かに動かす。

 

「おい。何やってんだ、お前」

「えー、何もしてないわよー」

「余計なことして遊んでないで、さっさとやれ」

 

 勢い込んでみたものの、いざ殴られるとなると怖いのか、アルトが情けない悲鳴を上げる。

 アルトがあたしの指先一つで翻弄される機会なんて、この先二度と無いだろう。

 そう考えると、ちょっとばかり今の状況が楽しくなった。

 殴るかどうかはともかくとして、折角のこの機会だ。普段やれないようなことをして、アルトをおちょくるのも良いかもしれない。

 いつもはアルトの変態っぷりに振り回されているあたしだ。

 ささやかな意趣返しをしたところで、バチは当たるまい。

 あたしは悪乗りして、アルトの耳元に息を吹きかけてみた。

 

「ふぅー……っ」

「――っ!? なにしやがんだ、お前は!!」

 

 ぞわぞわーっと身を震わせたアルトが怒鳴り声を上げる。

 それでも自分で一度決めたことだからと、目を開けようとしない辺り、アルトもかなり強情な性格だと思う。

 いっそ、どこまで耐えられるのかを試してみるのも面白いかも。

 

「ほらほら。大声上げたらイングリドが起きちゃうわよ?」

「お前……っ! 本当、ムカつくやつだな!」

「ちょっとぉ、顔を動かさないでよ。ぶてないでしょ?」

「だったら、さっさとやれ……!」

 

 顔を背けるアルトの両頬に手を当てて挟み、ぐいっと正面へ動かす。

 ふっふっふっ……日頃、あんたがどんだけあたしに迷惑なことしてるかっていうのを、身を持って思い知るといいわ。

 強情に目を閉じたままの姿勢を取り続けるアルトを目に、あたしはフフンと鼻で笑う。きっと、今のあたしを他人が見たら、それはそれは意地の悪い笑みに見えることだろう。

 さーて、次はどんなことをしてやろうかしら……。

 

「リリー先生、ポテトスープを持ってきました!」

「調子はどうだい、リリー?」

「姉さん、目が覚めたんだって?」

「本当、心配したんだからね。リリー」

「もう……、せめて入る前に一声くらい掛けなさいよ」

 

 その瞬間、きっとあたしは光の速さを越えた。

 バッと素早くアルトから離れると、惚れ惚れするほど素晴らしい笑顔を作って振り返る。

 完璧だ。これならもし見られていたとしても、それこそが勘違いだったのだと絶対に誤魔化されるほどの演技力だ。

 

「「「「「…………。」」」」」

 

 誤魔化しきれないほどの沈黙が、全員の胸中を物語っていた。

 演技力とはいったいなんだったのか。

 いっそ、殺せ。

 

「ま、待って。誤解、誤解だからね?」

 

 分かる。確かに、今、冷静に考えてみるとあたしのしていた格好はちょっとおかしかったかもしれない。いくらなんでも、やりすぎたかもしれないわ。うん、そうね。ちょっと、変なテンションになっていたかもしれない。おかしかったわね。それは、認めましょう。

 でも、決してそれは皆の考えているような行為をしようとしていたからじゃないの。

 きちんと説明すれば、それは皆にもきっと分かってもらえるはずよ!

 

「……む? なんだ、さっさとシろ」

 

 すべてをぶち壊すような発言を平然とする、空気の読めない男がそこにいた。

 変わらぬ格好でじっと待つアルトと、硬直して身動き出来なくなるあたしの間を、皆の視線がいったりきたり。

 そして、全員が笑顔で頷いた。

 ああ、良かった……! あたしの誠意が通じたのね!

 

「先生ー。良く分からないけど、アルト先生が待ってますよ?」

「ヘルミーナ。お皿はここに置いて、下に戻るとしようか」

「ご、ごめん姉さん! 邪魔する気はなかったんだ! 本当なんだよ!」

「コラ、そこは気付かないフリして流してあげないと。ねえ、シスカ?」

「ええ、そうよ。何も見なかったし、何も気付かなかったし、何も起きなかったわ」

 

 通じてないいいいいぃぃぃいいいい!!

 それどころか、何か余計な気遣いまでされちゃってるじゃないのよ!

 

「違うってば! 本当に、今、皆が考えてるようなことは――」

「じゃ、リリー。私達のことは気にしないで。ちょっと二時間くらい下でうるさく騒いでるから、上で何か物音が立っても気付かないと思うわ。――安心して。私は二人の未来を応援しているわ」

「今まさにシスカのせいで酷い目にあってるんだけど!?」

 

 こちらの言い分に全く聞く耳を持たず、ワイワイガヤガヤと騒ぎながら皆が階下へと戻っていく。

 いったい……いったい、あたしが何をしたというのか。

 確かに、あたしは今回バカなことをしでかしたわよ。

 でもね、いくらなんでもこんな勘違いをされるようなことをした? どうして、またアルトとそういう関係だと思われなくちゃいけないのよぉ……。

 

「いったい、なんなんだ? いきなり騒がしくなったが」

 

 打ちひしがれるあたしをよそに、さすがに耐え切れなくなったのか、目を開けてきょとんとするアルト。

 ……こいつはたった今、自分がしでかしたことに何も気付いていないのだろう。せっかく、あたしが誤解を解こうと頑張ったっていうのに……。

 ぷるぷると布団に上体を投げて震えるあたしを見て、アルトが呆れたように溜め息を吐く。

 

「で? いつになったら殴るんだ?」

「……んなに……ったら」

「? なんだ?」

 

 あたしはガバッと上体を起こすと、ぐりんと身を捻る。体調は絶好調。もはや、何も躊躇う理由は無い。右腕に力を込め、ぎゅっと硬く拳を握り締める。

 ……あら、どうしたの? 殴れ殴れって散々言ってた癖に、どうして今更そんなに顔を青ざめさせているのかしら? 逃げようとするなんて往生際が悪いわよ、アルト?

 今更、後悔しても遅いのよ! 全部、あんたのせいなんだからね!

 

「そんなに殴って欲しかったら今すぐ殴ってやるわよ、このバカぁぁあああああああああッッ!!」

 



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雨降って……

「お前は手加減って言葉を知らないのか?」

「あんたが常識って言葉を覚えれば考えるわよ」

 

 俺が抗議の視線で睨みつけると、リリーはフンと鼻で笑って挑発してきた。

 常識云々に関して、お前にだけは本気で言われたくない。

 確かに俺は全力で(薬で治る程度で)殴れとは言った。

 だが、だからといって本気で思い切り殴るやつがどこにいる? 普通は多少なりとも手加減をするものだろう。俺だって、さっきは少なからず手加減してやった(つもりだ)というのに。

 しかし、これ以上俺が不平を述べるわけにはいかない。

 なぜなら、これは俺が言い出したことだからだ。

 今となっては激しく後悔しているが。

 調合品を使えばすぐに治るというのだけが、せめてもの慰めだろうか。

 とはいえ、今すぐに治療するわけにもいかない。痛いからといって、すぐに治しては反省も何もあったもんじゃないしな。それはリリーも同じくだ。

 さすがに、翌日二人揃って頬を腫らしていたのでは周囲のいい笑い者になってしまうので、あとで眠る前に常備薬か何かを飲んで治すことにする予定でいる。

 リリーはその辺りのことなんて、これっぽっちも考えてなんていないんだろうけどな。いつもいつも後先考えないことばかりしやがるのだ、このアホ女は。おそらく、思考と行動が直結しているんじゃなかろうか。それなら、突拍子もない行動も納得出来る。

 ……いきなり泣き出したり、とかな。

 こいつの泣き顔を目にするのはこれで二回目だが、普段が普段なだけに、急にしおらしい態度を取られると調子が狂って仕方が無い。さっきも、言わなくて良いようなことまで思わず口走ってしまったし。

 けれど、伝えた内容は間違いなく俺の本心そのものだ。

 今回、予想外の失敗を招いてしまった原因は俺にある。

 アカデミー時代の延長で接してしまったことが、そもそもの間違いだったのだ。

 あの頃のリリーはまだ右も左も分かっていないような状態だったが、今はもう違う。錬金術だってそれなりに扱えるようになったし、都会での暮らし方にだってすっかり慣れたものだ。それこそ、イングリドを任せても大丈夫だと思えるほどに、しっかりしてきた。

 だというのに、俺はそのことについて深く考えていなかった。

 いつも通りに世話を焼き、ついでとばかりに裏であれこれと手を回した。

 俺は、彼女がどう考えるかなんて全く気にしていなかったのだ。せいぜい、テオをあてがうようにしたことで、ヤツを恋の生贄にしようとしたのがバレないかと懸念したくらいだ。

 彼女の補佐をするなんて言っておいてその実、本人が邪魔をしていたのではお話にならない。

 本来ならそういった場面こそ、錬金術士として先輩である俺が気を遣ってやるべきだったのだ。慣れない環境に置かれたリリーがストレスを溜めることなんて、最初から予想出来ていたことなのだから。少なくとも、ザールブルグに到着した初日にはきちんと考えていたはずなのに。

 近年稀に見る大失敗だ。ここまで大きな失敗となると、かれこれ五年ぶりくらいだろうか?

 少しだけ他人より人生経験があって、少しだけ他人より要領が良くて、少しだけ他人より錬金術の腕があって――たったそれだけのことで慢心していた。

 この世界は原作に似た世界ではあっても、原作の世界そのものではない。

 リリーは原作の登場人物ではあるが、今俺の目の前にいるリリーはそうではない。

 彼女は今、実際に息をして生きている人間なのだ。

 何も考えず、何も思わず、何も行動しないわけがない。

 未だに、この世界を受け入れ切れていない自分に嫌気が差す。そんな問題は、とっくに上手く折り合いをつけた気でいたのにな……。

 

「本当、今回は失敗したわ」

 

 ドサリ、と。

 リリーが背中からベッドへ、糸の切れた人形みたいに倒れ込んだ。

 こいつはこいつで、今回の自分の行動に対して少なからず思う所があるらしい。根本的な原因は俺にあるが、リリーの浅慮な行動のせいで余計に大事になったのも事実だしな。

 見るからに意気消沈しているリリー相手に、さてどうしたものかと首を捻る。

 反省は当然のことだが、いつまでも落ち込んでいるようでは困るのだ。

 俺達が国外を訪れることになった目的を達成するまでに、幾度と無く失敗を経験することになるだろう。その度に一々、ヤル気を失っているようではやっていられない。

 改めて、フォローという言葉が持つ意味を考える。

 ……責任重大だな。

 まさか年増女への気遣いで、頭を悩ます日が来ようとは……。

 何を言うべきか悩んだ結果、一先ず無難に後始末についてを伝えることにする。

 

「明日か明後日にでも、今回迷惑を掛けた皆に感謝と謝罪を伝えに行くからな。もちろん、その時はリリーも付き合えよ。原因はどうあれ、お前とイングリドの二人を探し回るために、色々と無理を言って手伝ってもらったんだからな」

「分かってるわよ、そのくらい」

 

 リリーが唇を尖らせ、不満そうに呟く。

 けれど、その声は力ないままだ。

 俺が思っているよりも、今回の失敗は精神的にキているのかもしれない。イングリドを巻き込んでしまったのだから、その気持ちは分からないでもないが……。

 

「皆って、具体的にどんな人達?」

「今、下で騒いでる五人は当然として……」

 

 身を起こして質問するリリーに、右手の指を折りながら答える。

 

「急な依頼を受けてくれた冒険者が六人。あと、ハインツさんと門番の人達にも」

 

 冒険者の方達は無報酬で構わないと言ってくれたが、さすがにそれでは心苦しいしな。

 彼らの厚意を無碍にしないように、金銭ではなく錬金術で作った調合品を手渡すつもりだ。

 リリーにそう事情を説明すると、なぜか待ったコールが掛かった。

 

「持っていく物って、もう決まっているの?」

「候補は考えてある……が、何か良いものでも思いついたのか?」

「傷薬、とか……どう?」

 

 彼女がおずおずと提案したのは、俺が発明した調合品の名前の一つだった。

 今回、リリー達の怪我に対して応急処置的に使用した物で、常備薬を元にした塗布剤の一種だ。

 予想だにしなかった答えに、思わず返答に詰まる。

 

「それは……」

「あ、やっぱりだめ?」

「いや、そうじゃない。俺も同じことを考えていた」

 

 だから驚いただけだ、と言葉を繋げる。

 リリーは俺の返答に安心したように、小さく息を吐いた。なぜかいつもと違って妙に自信が無さそうな彼女の様子に、少し面食らう。

 

「ちなみに、どうして傷薬を選んだんだ? 理由は?」

「冒険者の人達って怪我すること多そうじゃない? 傷薬だったら塗るだけだし、錬金術を知らなくても扱い易いかなって」

「傷薬を小瓶に小分けして持っていけば、持ち運びにも嵩張らないしな。それに、錬金術のことを知ってもらうには丁度良い機会だ。錬金術の知名度は低くとも、身を持って効果を知れば興味も沸くだろうからな」

「あ、そっか。そういう意味合いもあるのね」

「もちろん、お礼をしたいといった気持ちは嘘じゃないぞ」

 

 転んでも、タダで起きる気が無いだけで。

 たとえ失敗したとしても、そのくらいはしておかないとな。

 

「今回のことで、悪い意味でアトリエの名前が広がったら困るからな」

「そう、よね」

 

 苦笑しつつ同意を求めると、リリーはうつむきながら物凄い暗い声で相槌を打った。

 ……むう、薄々どころか大分はっきりと感づいてはいたが、これはさすがにマズイな。

 いつものアホ女であれば、ギャンギャンと言い返してくるところだ。

 先送りした問題を、再度突きつけられる。

 精神的なケア、か。

 先ほど反省した内容を胸中で反芻する。

 リリーのフォローをするというのならば、こういう時こそ俺は動かなければならない……のか? 本当にそれで合っているのだろうか。俺はまた何か見当違いなことをしようとしているのでは? 第一、言うとしても何を言えばいいんだ。気にするな、とでも慰めるか? いつまでも落ち込んでいるんじゃない、とでも叱咤するか? それとももっと別の何かか? というか、元気付ける行為そのものが間違っていたりするんじゃないのか?

 ……分からん。考えれば考えるほど、思考が煮詰まってくる。

 が、何も言わないよりはマシなはずだ。

 意を決して、うなだれるリリーにゆっくりと話し掛ける。

 

「リリー。今から俺がイイことを言ってやるから、良く聞けよ」

「なんなの、その意味不明な前フリは……」

 

 ツッコミを入れる口調ですら、どこか投げやりだ。

 深刻だな、と声には出さずに心の中だけで呟く。

 一応、話を聞く気はあるらしく、じっと俺が話し出すのを待っているリリー。

 その瞳を正面から見据えながら、少しだけ緊張しつつ話し出す。

 勢い任せにぶちまけた、リリーに謝罪した時とは違う。

 気落ちしているリリーを励ますために、慎重に言葉を選んで自らの意思を伝える。

 

「失敗するのが悪いんじゃない。そんなのは人間なら、誰だってすることだ」

 

 失敗しない人間なんていない。

 そんなのは神様だけだ。

 

「失敗を恐れていたら、何も出来なくなる。かといって、成功ばかりを夢見ていればいいわけじゃない」

 

 それはただの、現実が見えていない人間だ。

 失敗した際のリスクを考えから外してはならない。

 

「悪いのは、失敗した事実を忘れ、失敗から何も教訓を得ないことだ。失敗して後悔するからこそ、次は必ず成功しようと強く心掛けられる」

 

 誰だって失敗なんてしたくない。

 でも、成功だけの人生なんてありえない。

 

「一番悪いのは失敗を恐れる余り、立ち止まってしまうことだ。自分では何もせず、他者の失敗を嘲笑って賢い自分を取り繕うことだ」

 

 そうなっては、全部お終いだ。

 先に進むことなんて、到底出来なくなってしまう。

 

「二度と取り返しのつかない失敗なんて、ほとんどないんだ。幸いにも、今回は二人とも助かった。だから今回の反省を生かし、これからは今まで以上に気をつければ、それでいいんだ」

 

 断言した。

 途中から支離滅裂な感情論になっていた気もするが、言いたいことは伝えられたと思う。

 問題なのは、リリーが今した俺の話をどう受け取るかだ。

 俺の稚拙なフォローなんかで、役に立ったのだろうか。はっきりと正解が記されている物事ではないので、どうにも自信が無い。ましてや、相手はあのリリーだ。何を考え、どう思うかなんて予想もつかない。

 語り終え、リリーの反応を待つことしばし。

 リリーはポカーンとアホみたいに口を開けて呆然としている。アホ丸だしというか、アホそのものの面である。こんな無様を晒すのは、世界広しといえどもリリーくらいだろう。

 

「えっと……、もしかして、なんだけどさ」

 

 俺の顔色を窺うような、そんな視線をリリーが寄越してくる。

 なんだ、気持ち悪い。言い難いようなことなのか?

 早く言え、とアゴでしゃくって続きを促す。

 すると、リリーはバッと顔を上げて力のこもった表情で、

 

「あたしのこと……励まそうとしてくれてる?」

「ばっ、誰が――」

 

 そんなことを言うか、と脊髄反射的に口走りそうになり……はたと気付いた。

 極めて遺憾なことながら、客観的事実を求めるとするならば、そういう説が無いこともないのだ。

 俺はリリーの精神的フォローをしようと考え、実際に彼女を励ますために行動した。

 これは同じ師を仰ぐ立場であり、彼女の兄弟子である俺からすれば至って普通の行いだ。ドルニエ先生から、リリーのフォローをするようにと頼まれているという立派な理由も在る。

 だから、この考えはおかしくないはず。

 これは、当然の行為なのだから。

 だが、なぜだろうか。

 こうして、その当事者から改めて口にされると無性にムカつくのは。

 

「ふーん? アルトが、あたしを、ねぇ?」

 

 返答に詰まった俺の態度をどう邪推してか、リリーがニヤニヤとした笑みを浮かべる。まるで鬼の首でも取ったかのような、はしゃぎようだ。

 対して、苦虫を噛むような表情とは、きっと今の俺のことを言うのだろう。

 ……言うんじゃなかった。誰だ、言った方がマシなんて考えたアホは。

 見てみろよ、このアホ女の憎ったらしい態度を。到底、落ち込んでいるようには見えないぞ。

 だいたい、傷ついて落ち込むほどに、こいつが繊細な性格しているわけがないのだ。そんな大人しいやつだったら、こんな苦労なんてしていない。俺の目の錯覚もいいところだ。なんであんな勘違いをしてしまったのかと、数分前の自分を殴りたくなってきた。

 くそ、次は絶対こんなこと言わな――

 

「ありがと。ちょっと、元気出てきたわ」

 

 完璧な不意打ちだった。

 リリーの明け透けな笑顔に虚を突かれ、言葉を失う俺。

 いったい何がそんなに楽しいのか、彼女はニコニコとアホ丸出しで笑っている。

 それは、俺がリリーに初めて出会った時と全く変わらない表情。

 陰りの見えない、どこまでも純粋な笑顔だった。

 

「ねえ、アルト。もう一つ、もしかして、なんだけど」

「お……、お前はどれだけ、もしかしてんだよ」

 

 すっかり調子を取り戻した様子のリリーが小憎たらしい。どうフォローするのが彼女にとって一番良いのかと真剣に悩んだ俺が馬鹿馬鹿しく思えてくる。

 また妙なことを言うんじゃないだろうな、と予防線を張る。

 

「さっきみたいなセリフが出るってことは、アルトも何か失敗したことがあるの?」

「は? お前は何をアホなことを言ってるんだ。そんなもの――」

「あははっ、そうよね。あたしなんかとは違うし」

「あるに決まっているだろ」

 

 何をふざけたことを聞くのかと思ったら。

 もしかして、なんて言葉が頭に付く理由を知りたいぞ。

 

「えっ!? あるの?」

「お前は俺をなんだと思っているんだ……」

「どんな失敗したの? やっぱり、幼い子に悪戯して捕まったとか?」

「お前は俺をなんだと思っているんだ!?」

 

 神様扱いしたかと思いきや、いきなりの犯罪者扱いだった。

 もう一回、ぶん殴ってやろうか。

 

「違うの? じゃあ、どんなの?」

 

 なぜか目をキラキラさせて追求してくるアホ女。

 他人の失敗談が聞きたいとか、どんな神経しているんだ。いや、無神経だから神経そのものがないのか。

 

「一番最近のだと、五年位前に……というか、わざわざお前に教える必要性は無いだろ。それに、面白い話でもないしな」

「そっか……。別に、無理にとは言わないけど」

 

 けど、なんだよ?

 

「アルトは、あたしが失敗したことをたくさん知っているけど、あたしは何も知らないのよね。アルトがどんなことをしてきたかとか。一つも」

「…………」

「だから、一つくらい知りたかったっていうか。ズルイっていうか。その……」

「…………」

「アルトって、何でも余裕でこなしちゃうじゃない? 錬金術も、訓練も、家事も、人付き合いも、お仕事も、アトリエの経営のことだって何だって。教わるも何も、最初から完璧だーってくらいに。そんなアルトでも失敗するんだって思って、だからちょっと気になったの。それだけ」

「…………。つまんない話だぞ?」

 

 俺はせめてもの抵抗に、仏頂面で言った。

 毒を食らわば皿までといった心境だ。

 

「えっ!? 話してくれるの?」

 

 途端に目を輝かせたリリーが、嬉しそうに声を弾ませる。

 現金なヤツめ。さっきまでの見ている方が元気を失くすような様子はどこに消えたんだ?

 話してやるから、うっとおしいその笑顔をやめろ。

 

「本当に面白くない話だぞ。聞くんじゃなかったと後悔するかもしれんぞ?」

「そう言われると余計に気になるってば。さっきといい今といい、アルトは前フリの使い方を致命的に間違えてると思うわよ」

 

 心底、余計なお世話だ。

 俺は目を閉じ、肺から絞り出すようにして息を吐いた。

 ……話すと決めたが、それでもやっぱり気は進まない。

 

「今から話す内容は、同じ失敗をしてはならないという意味で反面教師にしろ。錬金術士として生きるなら、遅かれ早かれぶち当たる問題だろうからな」

「えっ、錬金術のことでアルトが失敗したの? 本当に? 嘘、信じられない」

「さっきからなんなんだ、お前の意味不明なまでの俺への信用は。お前が俺をどう評価しているかは知らんが、俺はお前が言うほどに大した人間じゃないぞ。何でも出来るわけじゃないし、間違いを犯すことだってあるし、失敗だってたくさん経験した。俺は多少、要領が良いだけの人間だ」

「それだけで、神童だの天才だの呼ばれたりはしないと思うけど……。まあ、いいわ。続けて、続けて」

「その前に、いくつか質問だ。俺が錬金術士になってから、いくつも新しい調合品を生み出したのは知っているよな?」

「ええ、もちろん。在校中に作った物もあるって有名だしね。そこの青汁だってアルトが発明したやつでしょ」

 

 すごい苦かったわ、と恨めしげに言ってくるが、敢然と無視する。

 効能は完璧なのだから、何も恨まれる筋合いは無い。

 

「じゃあ、俺がどんな分野の調合品を得意としているかは知っているか?」

「え? それこそ手当たり次第にってくらい新しいレシピを考え付いてたんだから、全部じゃないの? 最近は不老薬の調合を目指して、薬の分野の発明に限定しているみたいだけど」

 

 その目的がまともなら褒められるんだけど、と呆れ顔で言ってくるが、やはり無視する。

 別にお前に褒められたくて作っているわけではない。

 

「じゃあ、これが最後の質問だ」

「あら、やっと最後? なんか意図が良く分からない質問だったけど」

「俺が薬という分野にこだわる前――最後に発明した物がなんだったかは、知っているか?」

「それは……」

 

 当然のように答えようとしたリリーが、そのまま硬直する。

 まあ、知るわけないよな。レシピを公開する時に作って以来、二度と作ろうとしなかったし。俺も極力、広めようとはしなかったからな。

 

「分かった! 『生きてるゴミ箱』でしょ!」

「ゴミを放ると、外に落ちたゴミを投げ返してくる画期的なやつか。中に入ったゴミまで投げつけてくる失敗作だったが。ていうか、なんでそんな発表もしていないやつを知っているんだ、お前は……」

 

 リリーがあれじゃないこれじゃないと唸り声を上げながら考え始める。

 このままだと本題がズレるな、と思った俺はさっさと答えを明かすことにした。

 

「正解は、『テラフラム』。世界最高の火力を誇る爆弾だ」

「爆弾?」

「そうだ。そして、これが俺の失敗の原因だ」

 

 原作での最高威力の爆弾は『ギガフラム』だ。

 メガ、ギガときて、それよりも上だからテラだ。

 我ながら、実に安直なネーミング・センスといえる。

 俺は原作までに発売された三作品しかやったことがないので分からないが、もしかしたら他の作品では登場するのかもしれないな。テラだけでなく、ペタとかエクサとかも。

 そこまでいくと、どれほどの威力があるのか想像したくもないが。

 

「『フラム』なら知っているよな? 訓練用の巻き藁程度なら一発で吹き飛ぶ威力の爆弾だ。あれのざっと一千倍の火力といえば、その凄まじさが分かるか?」

「せ……っ!?」

 

 絶句するリリーを見て、まあそれも当然の反応かと思う。

 俺だって、強い魔物を倒す時にラクかなーくらいの軽い気持ちで作って、いざ実験してみたら大地にクレーターが出来てビビッたからな。念のためにと大げさに避難していなかったら、今頃命を失っていただろうし。

 テラフラムでそれなのだ。それより更に威力を高めたものなんて作ろうとも思わない。

 

「当然、効力だけじゃなくて範囲も広い。何も考えずに使えば、使用者とその仲間どころか、一区画そのものが巻き込まれるほどだ。そのテラフラムの調合自体は簡単に成功した。とはいえ、作ったはいいものの、威力がありすぎておいそれとは使えない代物だ。しばらく、管理するだけで放置していた。そして三ヶ月くらい経った頃かな。俺の元に、とある遠方の王国から依頼が来たんだ」

「国から? いったい、どんな内容だったの?」

「テラフラムを三ヶ月以内に十個作成してくれって依頼だった。一個、五万銀貨でな」

「ご、ま……ええと、それが十個だから五十万ッ!? ……ごめん、途方も無さ過ぎて実感沸かないわ」

「それだけの大金だ。当然、俺は引き受けた。実験には何かとお金が掛かるしな。そして、調合品を無事に納め、報酬を貰い、それから半年後。さて、何が起こったと思う?」

「え? また質問? さっき最後とか言ったのに。えーと……、あれ? これって失敗したお話よね? じゃあ、作った爆弾が失敗作で使えなかったとか?」

「いいや、使えたよ。完璧な出来栄えだった。だから、その結果――」

 

 俺は言う。

 

「何千人という人間が死亡した」

 

 その事実を。

 え、とかすれた声が、リリーの口から漏れる。

 その表情から、色が失せていくのが分かる。

 ……だから、面白くない話だと言ったんだ俺は。

 

「戦争だよ。強敵の竜や魔物を倒すためではなく、人間を殺すために使われたんだ。俺の作ったテラフラムは、な」

「う、そ……」

「事実だ。俺が軽い気持ちで作った爆弾のせいで、遠い他国で顔も知らない人間が大勢犠牲となった。自分がどれほど凶悪な代物を発明したのかということを、正しく理解していなかった愚か者だったんだ俺は」

「…………」

 

 リリーは言葉も無い様子で、俺の話に聞き入っている。

 もし自分がその立場に置かれたら、なんて想像をしているのかもしれないな。

 だとしたら、俺も苦い思いを押し殺してまで話した甲斐がある。

 

「もちろん、それは誇張された数字なのかもしれない。本当のところ、戦死したのは百人かもしれない。でも、死傷者が出たのは事実なんだ。俺の作った爆弾のせいで、多数の人間が命を失うことになったんだ」

「……その、王国の人は」

「喜んでいたよ。感謝状が来た。貴殿の発明品のお陰で自国の兵が最小限の犠牲で済んだ、感謝する、とな。なんと聞いて驚き、決死隊宜しく爆弾抱えて敵兵に突っ込み、敵味方諸共大爆発させたんだと。まさかの使い道だよ。それなら、威力さえ高ければ用は足りるものな」

「アル……トは?」

「俺? 俺はもちろん――」

 

 失敗したなと反省を胸に、次に生かそうと思ったよ。

 そう結んで、過去話を切り上げようとした。

 しかし、覚悟を決めたかのように静かな表情で俺を見つめるリリーの視線を受け止めて……

 やめた。全部、正直に話すことにする。

 本当はそこまで話す気ではなかった。俺の情けない過去を晒すことになるからだ。

 だが、反面教師というのなら。

 きちんと、リリーと向き合うのなら。

 今後も、フォローをしていくつもりがあるのなら。

 きちんと最後まで真実を告げなくてはならないだろう――そう思った。

 不意に息苦しさを感じ、意識して長々と呼吸を繰り返す。

 粘ついた何かが、それ以上言うなと抑制するかのように喉に張り付いた。

 それでも……リリーが同じ失敗をしないために、俺は言う。

 

「後悔したさ。やるんじゃなかった、こんなはずじゃなかった、どうして俺が、ってな。実際に手を下したわけじゃないが、俺が人間を殺したようなものだ。何度も泣いたし、吐いたし、悪夢にうなされた。物に当り散らしたり、理由もなく叫び声を上げたりもした。実験室の設備が整っていなかったら、当時噂になっていたかもしれないな」

「でも……でも! それってアルトのせいじゃないわよ。だって、知らなかったんだから! そんな、ことに、使われるなんて……」

 

 遣り切れなさを感じてか、痛切な面持ちでリリーが繰り返す。知らなかったんだから、と。

 それは当時の俺が何度も自分に言い聞かせるように呟いた言葉だ。

 けれど、それは逃避でしかない。甘えでしかない言い訳だ。

 

「知らなかった、で済む話ではないんだ。失われた命のことを考えればな」

「それは……っ、けど」

「何より、俺は使用目的を尋ねる義務を怠ったんだ。それが危険物であることを重々承知していながら何も聞こうともせず、使用後に相手に文句を言うのは間違っている。依頼者に目的を聞いた結果がどうあれ、その時点で改めて受けるかどうかを判断すれば良かったんだ。目先の利益に釣られて深く考えることを放棄した結果の失敗だよ」

 

 そんなのは今だからこそ冷静に言えることだけどな、と自嘲する。

 当時のことを思い返すと、未だに憂鬱な気分になる。

 何度、忘れたいと思ったことか。

 何度、記憶を消し去りたいと思ったことか。

 そして――その度、忘れてはならないと何度も自分に言い聞かせた。

 何もかもをなかったことにして逃げることだけは、絶対にしてはならないと。

 

「当時の俺は精神的に追い詰められる所まで追い詰められて……自殺こそしなかったが、一時は錬金術士を辞めようと本気で思った」

「嘘! やめちゃったの!?」

「やめてたら、今ここにいないだろ」

 

 どんだけ動揺しているんだよ、お前は。

 ちょっとは落ち着け。

 泡を食って取り乱すリリーを見ていると、知らず苦笑が漏れた。

 少しだけ、気がラクになった気がする。

 

「だけど実際、あのまま一人でいたら、そうなっていたかもな」

 

 やめた後は屋敷で引きこもるか、出家する坊主よろしく神父にでもなっていたか。懺悔を繰り返す毎日を送りたいなんていう、甚だ不適当な理由で。

 

「でも、そうはならなかった。ドルニエ先生に諭されたからだ。いや、叱られたのかな? 教えられた、が一番近いかもな」

「? ドルニエ先生に何か言われたの?」

「俺がドルニエ先生に自己弁護の言い訳かましながら、錬金術士を廃業して実家に戻りますと伝えた時だよ。いきなり、大声で名前を呼ばれたんだ。『アルト!』ってな。初めてだったよ、先生のそんな怒鳴り声を聞くのは」

 

 おそらくあれは、俺が耳にする最初で最後のドルニエ先生の大声だろう。

 あの人が続けて言った言葉は、一語一句違えず、正確に記憶している。

 俺は当時を懐かしみながら、噛み締めるようにしてリリーに伝えた。

 

『――錬金術士として生きるのなら、自分の調合した品物がどのような結果を招いたとしても、全てを認め、それを受け止めなさい。意図しないことに使われようとも、それを調合したのは自分だと胸を張って言いなさい。必ず最後まで、それを生み出した者としての責任を持ちなさい。そうでなければ、いったい誰がその調合品を認めるというのかね』

 

「今まさに錬金術士を辞めるって言った相手に、言うセリフじゃないよな。ましてや、傷心の相手に言うセリフでもない。それに、言葉の意味だけを受け取るなら、当たり前のことすぎて普通のセリフだよな」

 

 ドルニエ先生が口にしたのは、錬金術士としての気構えだった。

 錬金術士とは、かくあるべき、という覚悟だ。

 思えば、俺は知識ばかりが先行して、そういう部分をきちんと学んでいなかった。学ぶ前に発明して、気付いたら錬金術士になっていたからな。

 

「でも、俺はその言葉で救われたんだ。錬金術士として、という言葉にな。もしあれが引き止める言葉だったら、俺は本当に辞めていたと思う。あくまで一人の錬金術士の師として、失敗した錬金術士である弟子に語ってくれたから。だから、俺は錬金術士として立ち直ることが出来た」

「錬金術士として、なの?」

「ああ。俺は錬金術士として生きていくことを、その時になってようやく決心したんだ。それまではただなんとなく、やれることが見つかったからなった程度の薄っぺらな気持ちだった。過程と結果があべこべだけどな」

「……そうね、あたしとは正反対だわ」

「お前は錬金術士になるために、錬金術を学んだんだよな。それも独学でだ。目的が見つからなくてやってた俺とは大違いだよ」

 

 前世で見たことがなかったから、不思議に惹かれて学んだだけの俺とは雲泥の差だ。

 ただの興味本位とは、自分のことながら開いた口が塞がらない。

 

「で、その後は……一応、実家へ戻って少しモメて、色々あったが錬金術士として復帰して、やることが見つかったから不老薬を作ることにした。そんなこんなで、今に至ると。以上で、俺の失敗した話は終了だ」

「そんなことがあったんだぁ……って、なんか今、後半すごい駆け足でまとめなかった!?」

「気のせいだ」

 

 言い切る。

 言った通りに、当時の失敗談は全部語ったのだから問題無い。

 何と言われようが、これ以上話す気はないぞ。これ以上、恥の上塗りをして堪るか。

 自分で喋っておいてなんだが、正直、自分に対してドン引きしているしな。悲劇のヒロインじゃあるまいし、いい年した男が過去を語ったところで、イタい以外の何物でもない。

 

「そんなこともあって、俺はドルニエ先生を一人の錬金術士として尊敬している。二度に渡って進むべき道を示してくれた恩師だからな。一生頭が上がらない。ドルニエ先生のように立派な錬金術士になるのも、目標の内の一つだ」

「ああ、だからなのね。アルトがどこにも就職せず、先生の手伝いをしているのって?」

「そういうことだ。俺はまだドルニエ先生から、錬金術士としての全てを学び終えてはいないからな」

 

 他にも理由はあるんだが、それを一々本人相手に説明しなくてもいいだろう。

 説明したところで、理解してもらえるような話じゃないしな。

 

「まあ、いい教訓になっただろ。俺みたいな失敗をしてはならないっていう意味でな。いかに俺がアホかが分かるってもんだ」

「……ううん、そんなことないわよ」

「はあ!?」

 

 唖然として叫ぶ。

 人が喋りたくもない過去をわざわざ話してやったというのに、いったいこのアホは何を聞いてやがったんだ!?

 本気でもう一発くれてやる、と右手を顔の前にかざして力を込める。

 すると、リリーが両手で俺の手をギュッと挟んで握り締めてきた。

 いったい何の真似だ? 殴られまいと先手を打ったということか?

 訝しげに半目で睨む俺をどこ吹く風と、リリーは小さく笑みを浮かべる。

 

「アルトはそんな辛いことがあっても、忘れないで覚えてるんでしょ。失敗の記憶として。ちゃんと逃げずに、向き合ってるんでしょ。だから、アホなんかじゃない」

「…………」

「錬金術士として生きていくって覚悟がどういうものなのか、ちょっとだけ分かったような気がするわ。ごめんね、辛いことを話させて。ありがとう、きちんと話してくれて」

「……おい」

「なに?」

 

 俺は脱力しながら、まさかと思いながら、バカなと思いながら、力ない声で尋ねた。

 

「慰めているつもりか?」

「アルトが自分語りに浸って喋るのを聞いて、ヒかないで感謝する程度にはね」

「慰めているつもりか!?」

 

 リリーの手をバッと勢い良く振り払う。

 ええい、くそっ! 慣れないことはするもんじゃないな。

 ドルニエ先生のように、とは一朝一夕にはいかないもんだ。

 

「お返しに、あたしも何か故郷にいた頃の失敗話をしようか?」

「いらん気遣いだ。そんな暇があるなら、迷惑掛けた方々への詫びの一言でも考えておけ」

「もちろん、考えておくわよ。でもそういうのって、下手に考えるよりも実際に本人に会って、直接その気持ちを言った方が伝わると思わない?」

「減らず口を……。今回はたまたま助かったから良かったものの」

「そうね、今回は運良く……ううん、アルト達が頑張って助けてくれたけど、次もそうとは限らないものね。ていうか次があったら、ダメなのよね。よしっ、頑張らないと」

 

 リリーは両手を上に伸ばすと、ぐっと背伸びをしてみせた。その顔はまだ少しばかり疲れの色が見えるものの、目はイキイキとした輝きを放っている。

 この様子なら、今度こそ大丈夫だろう。

 もう、俺がフォローをする必要はないはずだ。さすがにこれ以上まだ何かあったとしても、俺は断固として断るぞ。

 

「今回は全部あたしが悪かったわ。もう二度とこんなバカな失敗しでかさないようにしないと」

 

 良い心掛けだ、と頷きそうになり――ぴたりと止まる俺。

 待て。うっかり聞き逃しそうになったが、今、こいつは聞き捨てなら無いことを言わなかったか?

 まさか、そんな思い違いをしていたから落ち込んでいたのか?

 だとしたら、俺はとんでもなくアホなフォローをしていたことになるぞ。

 

「ちょっと待て、リリー。今回の騒動の原因は俺だ。お前じゃない。それを履き違えるな」

 

 まったく、何を考えているんだか。

 こんなのは誰に聞いても同じ答えが返ってくるほどに明白だろう。

 俺がピシャリと言い含めると、リリーがそれに納得する――

 

「アルトこそ何言ってるのよ。悪いのは、あたし。そうでしょ?」

 

 わけがなかった。

 つくづく、このアホ女は俺の予想の斜め上をいく反応をしやがる。

 何をどう勘違いしたのか、リリーは頬を染めて恥らうようにうつむく。

 

「そうやって、あたしを庇ってくれるのは嬉しいけど……さ」

「は? 俺が? お前を? いったい何の冗談だ?」

「えっ……いや、だから、その、えっ? 照れ隠しとかじゃなくて、素で言ってる?」

「意味が分からん。なんで俺がお前を庇う必要があるんだ。イングリドやヘルミーナならともかく、俺がお前に優しくする理由は皆無だ。気持ち悪いことを言うな」

「え、だって、さっき……え? ええええええー!?」

 

 なんでよー! と叫び声を上げるリリー。

 なぜ今更、そんな当たり前のことに驚くのかを俺の方こそ知りたいわ。

 俺が年増女なんかに全く興味が無いことは百も承知だろうに。

 どこにそんな意味不明な勘違いを招くような言動があったというのか。

 やれやれと溜め息を吐きながら、俺は暴れるリリーを両手で抑えつけた。もう少し寝ているイングリドのことにも気を遣えっつーの。

 

「今回の原因は、俺が全てを独断で取り仕切りすぎたことにある。お前に何も相談せず、お前の気持ちも考慮せずにだ。最初からきちんと打ち合わせをしておけば、今回のようなことにはならかった。だから、責任は俺にある」

「それは違うわ。アルトはきちんとやることをやっていただけよ。あたしが身勝手に、それに反発したんだもの。あたしが余計なことを考えて、軽率な行動を取ってしまったから、自業自得で危険な目に遭ったのよ。だから、責任はあたしにあるわ」

「…………」

「…………」

 

 両手を離し、どちらからともなく、額をつき合わせるようにして向かい合う。

 ……落ち着け。決して怒ったりしてはいけないぞ、俺。

 正論で言い負かした所で、リリーが納得していないようでは、また今回と同じ失敗を繰り返すだけだ。相談すべきことはきちんとして、意見をすり合わせる必要があるのだ。リリーが子ども染みた聞き分けの無さを発揮しても、大人である俺はそれに対して冷静に対処すればいいだけだ。

 だからこそ、極力リリーの言い分を認めた上で言い聞かせなければならない。

 俺が悪かった、という事実を。

 冷静に、努めて冷静に、決して激昂してはならない。

 

「おい、リリー」

「なによ、アルト」

「確かに、リリーの言うことにも一理ある。危険だから護衛も付けずに行くなと言い含めたのに、それ無視したお前にも責任は多少ならずあるだろう。だけどな、やっぱり一番悪いのはお前を無視した俺の行動に決まっているだろ」

「そうね、アルトの言うことも間違っていないわ。何から何まで全部フォローされっぱなしで、落ち込んだのは本当だし。だから、あんたを見返してやるって思ったもの。でも結局、あたしが我慢すれば良かっただけのことでしょ」

「今回お前が我慢したところで、いつかは結局同じような問題が起きていただろ? 根本的な問題が解決しない以上、それは必然だ。それに比べて、俺がきちんとした行動を取っていた場合、今回みたいなことにはならない」

「そうとは限らないわ。アルトだったら絶対に途中で気付いて、何かしらの対策を取るに決まっているもの。あたしはたまたま切っ掛けがアルトだっただけで、遠からず同じような失敗をしていたに違いないもの」

「…………」

「…………」

 

 れ、冷静に……。

 

「確かにお前は、浅慮な行動を取ることが多々ある。しかし同時に、お前がイングリドやヘルミーナのことをどれだけ大事に思っているかくらいは分かっているんだ。そんなお前が、俺の失敗以外が要因で、今回と同じような失敗を行うわけがないだろ。第一、俺はさっきの失敗談でも言ったように、何から何まで出来るような高尚な人間じゃない。言われなければ分からないような、ただの人間なんだ。今回のことだって、言われるまでずっと気付かなかったに違いない」

「確かに、アルトはあたしのことなんて何も気遣ってくれていないって思っていたわ。でも、それはあたしの思い込みも結構あったのよ。だって、アルトは錬金術士としてのことだったら手を惜しまずにフォローしてくれていたもの。それをあたしが認めなかっただけ。だからきっと今回のことだって気付いてくれたわ。あたしなんて感情が先走ってしまえば、それこそ何をしでかすか分からないわ。だからこそ、今回みたいな失敗を招いてしまったようなものなんだし」

「…………」

「…………」

 

 ――――ブチッ!

 

 

「俺がお前のことを無視して一人で決めたのが悪かったと言ってるだろ!」

「あたしが悪かったのよ! あんたにあれほど注意されたのに無視したんだから!」

「誰だって無視したくなるだろ、何から何まで頭ごなしに言われれば!」

「生意気な後輩が我がままな行動をとっていたら、誰だって全部仕切らなくちゃって思うわよ!」

「そんなことは無い! リリーはそこまでアホなんかじゃない!」

「何言ってんの! アルトこそ自分を変に見下した言い方するのやめてよね!」

「誰がいつそんなこと言った!?」

「たった今、言っていたじゃないの!」

「言ってない!」

「言った!」

「言ってないっつーの! 今回は俺が全部悪かった、お前は少しだけ悪かった、それが事実だ!」

「それは逆でしょ! あたしが全部悪かったの、アルトは全然悪くないもの!」

「逆と言いつつ、俺が全然悪くないことになってるじゃねえか!」

「だってアルトは悪くないもの! 今回はあたしが悪かったんだもん!」

「『もん』とかいい年齢した大人が言う言葉じゃねえだろ、気色悪い!」

「何よ、あたしがどんな言葉遣いしたってあたしの勝手でしょ! この変態!」

「はあ!? 俺が変態だとしたら、お前はただの猪突猛進の錬金馬鹿の年増女だろうが!」

「そこまで言う!? あたしは一言で済ませてあげたのに!」

「それだけお前が欠点だらけだと言ってんだよ! いいから、今回は俺が悪かったと認めろ!」

「アルトこそ、あたしが悪かったって認めたらどうなのよ! この分からず屋!」

「誰が分からず屋だ! 自分を棚に上げて言うな! この頑固者が!」

「そっちこそ、ちょっとはあたしの言うことに耳を貸したらどうなのよ!」

「それは俺のセリフだ! 意固地になってないで素直に言うことを聞け、このアホ!」

「うっさい、バカ! あんたは何も悪くなんて無いって言ってるでしょ!」

「いいや、俺が悪かったんだ!」

「あたしが悪かったんだってば!」

「俺だ!」

「あたしよ!」

「お・れ・だ!」

「あ・た・し!」

「――やめてええぇぇぇぇぇええええッッ!!」

「は?」

「え?」

 

 予想外の叫び声と、身体への軽い衝撃に、思わず呆気に取られる。

 リリーの腰にがっしりとしがみついているのは、なぜか涙で顔をぐしゃぐしゃにしたイングリドだった。彼女が勢い良く飛びついてきたせいで、揺らいだリリーの身体を受け止める形になってしまったようだ。

 そう分析し、即座にリリーをひっぺがし、泣いているイングリドへと腰を屈めて笑い掛ける。

 ……くそ、いったいどこのどいつだ、俺の天使を泣かせやがった不届き者は! 見つけ次第、血祭りに上げてくれる!

 

「イングリド、どうした? 何か怖い夢でも見たのか? リリーが嫌いか?」

「ちょっと待ちなさい! 最後の質問は何よ?」

「俺のことが大好きか、の方が良かったか?」

「尚更悪いわ!」

「喧嘩しないでっ!」

 

 ぴたっと喋るのをやめる俺とリリー。

 このくらいの言い合いはいつものことだし、イングリドもヘルミーナもドルニエ先生も全然気にしていない。そう思っていたのだが……。

 なんだかイングリドの様子がおかしい……?

 

「い、イングリド。どうしたんだ? 喧嘩なんてしていないぞ?」

「そ、そうよ。イングリド、このくらいいつものことじゃない」

「アルトぉ……私のせいでリリー先生を怒らないで!」

「「え?」」

 

 どういうことだ、とリリーを睨みつけると、なぜかリリーからも同じような視線が返って来た。責任転嫁も甚だしい。俺は身に覚えが無いぞ。

 

「私がついていきたいって言ったから。リリー先生はダメだって言ったのに。私が無理矢理ついていったから……だから、悪いのはぜんぶ私なの。リリー先生は何も悪くないの!」

「……え、ええと」

 

 やばい。なんだか知らないけど、イングリドが泣いている理由は俺が原因らしい。

 どうしよう。イングリドに嫌われた? え? どうしよう。俺、死んだ方がいい?

 いやいやいや、待て待て待て。おおお落ち着け俺。死ぬのは事実を確かめた後でもいい。

 だが、イングリドを泣かせたままにしておくのは絶対にダメだ。それでは、死んでも死に切れない。彼女を笑顔にさせないまま放置するなど、男としてあってはならない所業だ。

 リリーと一緒にイングリドをなだめすかしながら事情を確認した所、どうやらイングリドはイングリドで、今回の騒動に関しては自分に責任があると思っているようだった。

 俺がリリー相手に怒っているのは間違いで、責任は自分にあるから怒るなら自分に。彼女曰く、そういうことらしい。

 色々と引っ掛かる部分はあるが、真っ先に否定しなくてはならない部分は決まっている。

 泣き止みはしたが、まだ依然として涙を堪えるイングリドの瞳を見つめ、きっぱりと言う。

 

「イングリドは、何も悪くなんて無いよ。経緯はどうあれ、最終的につれていく決断をしたのは、リリーなんだから。もし責任があるとしたら、それはリリーだ」

「そうよ、イングリド。あなたは何も悪くないの。あたしのせいで怖い目に合わせちゃって、ごめんね」

「でもぉ……でもぉ!」

 

 なだめようとすればするほど、なぜか更に事態が悪化していく。

 なんとかしろよ、とリリーを見れば、あんたこそなんとかしなさいよ、とばかりの表情が返って来た。ええい、役に立たないやつめ。

 イングリドが悪いなんてことは絶対に有り得ない。もしそんなことを言う人間がいたら、二度と口が利けないようにしてやる。

 けれど、本人がそう言ってるという場合は、どうしたらいいんだ……。

 彼女は悪くないと伝えても、彼女自身がそれを認めてくれないと意味は無い。

 難題すぎるっ、と思わず悲鳴を上げてのた打ち回りそうになる。

 ――と。

 そんな俺を押しのけ、リリーがイングリドをギュッと抱きしめた。

 

「イングリド。今回のことは、あたしが全部悪かったということで話はついてるから大丈夫。もう、アルトも怒ってなんていないから」

 

 おい、ちょっと待て。

 何しれっと自分が悪いとか結論付けてやがる。話はまだ途中だっただろうが。

 しかも、俺が怒っていたとか悪印象を植え付けるなんてどういうことだ。

 そう言おうとして――しかし、イングリドのすがるような表情を見て咄嗟に口をつぐむ。

 さすがに、今のイングリドを相手に滅多なことは言えない。俺の一言でまた彼女が泣き出してしまったらと思うと、俺が耐えれば済む話なのだから今はそうすべきだろう。

 

「ほんと?」

 

 じっと俺を見上げてくるイングリド。

 恐る恐る、怯えたような態度だ。

 どうしてイングリドにこんな態度で接されなくてはならないのか。

 泣きたい。切実に泣きたい。というか既に、視界がにじんでいる気がする。

 ううっ……、なんで俺がこんな目に。

 

「ああ、本当本当。もう怒ってなんていないよ」

 

 俺が涙を懸命に耐えて微笑み掛けると、イングリドの表情からやっと緊張が抜けた。

 良かった、と心底安堵するように微笑むイングリド。

 ……うん、その笑顔が見られただけで俺が疑われたのも許せてしまう。

 だが、リリー! お前だけは許さん!

 お前のせいで、俺が怒っていたのが事実になってしまったじゃないか。あまつさえ、自分に全責任があると事実を捻じ曲げやがるなんて。どこまで意地っ張りなんだ、このアホ女は。

 

「じゃあ、あくしゅして」

「え?」

「握手?」

 

 なんのことだ、と思わず疑問符を頭に浮かべる俺。

 次いで、リリーが鸚鵡返しに問うと、イングリドが再度繰り返して言った。

 

「あくしゅ。仲直りする時には、しないとダメなのよ。ヘルミーナと仲直りする時に、アルトが教えてくれたんだもん」

 

 あんたそんなこと言ったの!? とリリーが小声で責めてくる。

 言った……確かに、俺は言った。いつまでも半端にしこりが残るより、仲直りした、と分かりやすくお互いに態度で表明した方がいいだろうという意味合いで。

 俺が何の気なしに言ったことを覚えていてくれて嬉しい反面、それをよりによってここで持ち出すのかと溜め息を吐きたくなる。

 別に俺とリリーは仲違いをしていたわけじゃないのだから、そうする必要は無い。喧嘩をしていたわけじゃなく、非を認め合うために話し合っていただけなのだから。

 俺はイングリドにきちんとそう説明しようと口を開き、

 

「ほ~ら、あくしゅ。あくしゅ」

「あ。はい」

 

 嬉しそうなイングリドに手を取られ、気付けば深く考えずに頷いてしまっていた。

 無言で非難する視線がリリーから投げられるが、知ったことではない。だったらお前は、こんな嬉しそうな表情をしたイングリドに対してノーと言えるのか?

 

「リリー先生も」

「わ、分かったわよ。もう……」

 

 ほれ、見ろ。やはり天使には誰も逆らえなかった。

 リリーもイングリドに手を取られ、仕方がなさそうに苦笑した。

 そして、促されるがままにリリーと手を差し出しあう。

 これがイングリドやヘルミーナならいざ知らず、年増女の手なんぞ握っても嬉しくもなんともない。だがここで嫌そうな顔をしたら、イングリドがまた泣き出してしまいかねないので、グッと我慢する。

 そして、お互いの右手が触れ合い――

 その手の小ささに驚かされた。

 そういえば、こうして手を握り合うのは初めてだったな。

 俺が天使達を愛でている場面にタイミング悪く現れては、空気を読まない暴力を振るってきたりしていたから知っていたはずなのに、こうして触れてみるとその手は俺の手にすっぽり隠れてしまうほどに小さかった。

 少し荒れた感触のある手は、何度も何度も錬金術の調合を繰り返してきた証だ。

 今俺の手を握る彼女の指先は、俺が力を入れたらあっさりと折れてしまいそうなほどに細い。

 世間一般で言う年頃の乙女がするようなマニキュアなんて、まったくしていない爪。それは調合の妨げになるからと短く切り揃えられている。

 小さくとも、それは錬金術士の手だった。

 ……こんな小さな手で、俺と張り合っているのか。

 あれもこれもと頑張っている癖に、その手はまだ子どもと変わりないほどに小さい。

 だから、なんとなく思ってしまった。

 今回だけは俺が折れてやるか、と。

 俺はリリーが一番悪いだなんて思ってはいないが、彼女がそう思いたいというのなら、今回くらいは譲ってやってもいいだろう。責任の追及よりも大事なことは、お互いにもう理解しているようだしな。

 

「はい。二人とも、謝って」

 

 え? イングリドの目の前でするの?

 いったいどんな羞恥プレイ、と俺は身悶えしそうになった。イングリドの前では、素晴らしく頼りになる男性の姿だけを見せてあげたいのに。アルト、カッコイイ! 素敵! とか言われたいのに!

 一縷の望みを託してイングリドの顔を見遣ると、早く早くと急かすような表情が返って来た。

 

「早く早く」

 

 というか、そのまま言葉に出して急かされてしまった。

 うん、往生際悪かったよね俺。ごめんね、イングリド。

 色々と吹っ切れ、リリーに頭を下げる。

 

「俺が悪かった。ごめん」

「あたしも。ごめんね」

 

 なぜか、リリーは笑いを堪えるような表情で謝ってきた。

 きっと、俺がイングリドに情けない姿を晒す羽目になったのを嘲笑っているのだろう。なんて性格の悪いやつなんだ。チクショー。

 絶対に挽回してやる。イングリドが俺を頼りに思ってくれるように頑張るぞ俺は。

 リリーと手を離し、そういえば夕食を廊下に置いたままだったと思い出した。さすがにもう冷めてしまっているだろうから、温め直す必要があるか。

 どうせだし、イングリドの分も取ってくるとしよう。

 

「イングリド、もう大丈夫だよな? 俺が怒ってないって分かってくれたか?」

「うんっ!」

「よしっ、いい子だ。それじゃあ、少し待ってなさい。お腹も空いただろうし、夕食を温めなおしてくるから」

「あ、それくらいあたしが――」

「いいから、お前は大人しくしていろ。調合品で治したとはいっても、まだ様子見なんだ。どこかに後遺症が残っていないとも限らん」

「そんなことないって。もうどこも痛くないし、大丈夫よ?」

「やかましい。悔しかったら、フォローをされなくとも済むようになれ」

「喧嘩……」

「「してない、してない!!」」

 

 いきなり表情を曇らせたイングリドを見て、瞬時に同時に笑い掛ける俺とリリー。

 ……すっかり元気になったように見えたが、どうやらまだ元通りとはいかないようだ。

 でも、それも当然か。あれだけのことがあったのだから。

 今後しばらくは、イングリドのことを今まで以上に注意して見守ってやらなくちゃな。せめて俺の目が届く間だけでも。無論、リリーにも良く言い聞かせておくとしよう。

 もし何かグダグダ言いやがっても、今度は無理矢理にでも言い聞かせてやる。

 ……まぁ、イングリドのことを心配してのことだから大丈夫だとは思うけどな。

 シャクだけれど、リリーがイングリドのことを大事に思っているのは確かなのだから。

 カーテンをくぐる拍子に、ふとリリーと目が合った。

 イングリドの頭を撫でてあやしながら、俺へと何かを囁くように唇が動く。

 四文字の言葉だ。

 俺はそれを目にして――しばし動きが止まった後、無言で部屋を出た。

 だから、

 

『お前を助けられて良かったよ』

 

 そんな血迷った言葉なんて俺は……声に出しては言っていない。

 

 

 

 

 

 

    ◆◇◆◇

 

 

 

 

 

 

 近くの森での騒動から、明けて翌日。

 あたし達は、今日一日を休息に当てることにした。

 身体を休めるという意味だけではなく、皆が自由に過ごすという本当の意味での休日だ。

 例えば、あたしはイングリドとヘルミーナの二人と一緒にお菓子作りに精を出している最中だし、アルトなんかは朝食後から黙々とソファーで読書中だし、ドルニエ先生はお昼頃まで二階で寝ているご予定だ。

 昨日あんなことがあったばかりだし、特にドルニエ先生はあっちに行ったりこっちに行ったりと、連日の外出疲れが溜まっているだろうしね。ここらで全員が一休みしたところで、誰も文句は言えないでしょ。

 

「先生、こんな感じ?」

「そうそう、粉っぽさがなくなるくらいでいいわよ。ヘルミーナもそれくらいで大丈夫よ」

「はーい」

 

 イングリドとヘルミーナの二人と会話をしながら作業を進める。

 二人にお手伝いをしてもらうのはいつものことだけど、今回の理由の大半は昨日あんなことがあったからだ。イングリドはもちろん、ヘルミーナにも何かと心配を掛けてしまったし。今日はずっと二人の傍にいて安心させてあげたい。

 迷惑を掛けてしまった方達への謝罪は、相談した結果、明日きちんと体調を整えてからということになっている。あたしはともかく、アルトはまだ多少疲れが残っているっぽいしね。それに、お礼の傷薬を小瓶に小分けして持っていくのにも、準備の時間が必要だし。

 

「食べやすい形に整えて……これで、よしっと。じゃあ二人とも、フォークで表面に穴を開けてみましょうか」

「はーい」

「先生、どうして穴を開けるんですか?」

「そうすると、熱が芯までしっかり通るからよ」

「なーんだ、ヘルミーナったらそのくらいのことも分からないの?」

「なによぉ! イングリドだって、バターを溶かすの分からなかったくせに!」

「なんですってぇ!?」

「もう……イングリド、ヘルミーナ! 喧嘩するなら、お菓子作りはやめるわよ!?」

 

 フォークを手にしたまま、言い争いを始めるイングリドとヘルミーナ。

 その手からフォークを取り上げ、叱り付ける。

 二人はお互いに対抗意識があるせいか、ちょっとしたことでもすぐに張り合う。気付けば口喧嘩しているから、二人を一緒に行動させる時には目が離せない。

 けれど、彼女達の仲は決して悪いわけじゃない。アカデミーにいた頃は二人一緒に行動することが多かったし、頻繁にお互いの部屋を行き来していたほどだ。

 それでもこうして事あるたびに衝突してしまうのは、相性とかそういう問題なのかしら?

 もうちょっと喧嘩せずに、仲良く出来ないのかなぁ……。

 あたしは身を屈め、二人の顔をじっと見つめた。腰に手を当て、眉根を寄せ、怒ってますと見るからに強調してみせる。

 あたしが怒っていることに気付き、しゅんと大人しくなった二人が揃って頭を下げる。

 

「ごめんなさい、先生」

「ごめんなさい。……イングリドのせいよ」

「どうしてよ!? ヘルミーナが悪いんでしょ!」

「イングリドが突っかかってくるからじゃないの!」

 

 ああ、もう……言った傍からまた始まっちゃうし。

 そして二人を宥めすかし、時には叱りながらも、なんとか一時間後にはお菓子が完成。

 今回作ったお菓子の名前は、ショートブレット。材料が簡単に手に入り、子どもでも手軽に作れて、尚且つ美味しいというバタークッキーだ。サクサクした食感と、しつこすぎない甘みがクセになる一品。紅茶と一緒に頂くと、堪らなく幸せな気分になれるお菓子だ。

 一人では全部を一度に持ちきれないので、イングリドとヘルミーナにも運ぶのを手伝ってもらう。真っ白なお皿に焼きあがったショートブレットを乗せ、お揃いのティーセットに紅茶を入れ、台所から居間へ移動する。

 香りに気付いてか、アルトが読み耽っていた本から顔を上げた。

 

「俺の分は?」

「用意してあるわよ。泣いて感謝しなさい」

「ありがとう、イングリド。ヘルミーナ」

「…………」

 

 あたしに対してはないんかい、と怒りそうになるが我慢我慢。昨夜からどうにもイングリドがあたし達相手に敏感になっていて、喧嘩でもしようものなら途端に泣き出しそうになるからね。そんなのはいつものことなのに、不安定な状態の彼女にとっては違うらしい。

 数日も経てば落ち着くとは思うけど、まだしばらくは刺激しないように気を付ける必要があるだろう。

 

「はい、アルト先生。まだ少し熱いので気をつけてくださいね」

「ありがとう、ヘルミーナ。美味しそうに出来たね。二人も手伝ったのかい?」

「リリー先生に教えてもらいながら作りました」

「そっちがヘルミーナの作ったもので、こっちが私が作ったものよ」

 

 ふふん、と胸を張って誇らしげに笑うイングリド。それに対抗してか、自分の作ったお菓子が乗った方を、そっとアルトの手元に寄せるヘルミーナ。

 それを横目に、あたしはアルトの対面に移動しながら紅茶を人数分カップに注ぐ。茶葉はあらかじめ全部こし取ってしまってあるので、難しいことを考えずに入れるだけで済む。アルトなんかは邪道だと言うけど、この方がラクなんだからそれでいいじゃないの。

 

「はい、二人とも座って座って」

「はーい」

 

 あたしが椅子に座って呼び掛けると、すぐ隣の椅子にイングリドが腰掛けた。

 そしてヘルミーナは……

 

「ヘ、ヘルミーナ?」

「ダメですか?」

「いっ、いや、俺は構わないよ。というか、むしろ望むところなんだが……」

 

 うろたえたアルトが、露骨にあたしの顔色を窺う。

 まあ、彼が動揺するのも分からないではない。

 ヘルミーナはなんと、そこが自分の定位置とばかりに平然とアルトの膝の上に座ったからだ。

 行儀が悪いし、何より変態の前に餌を置くようなものだ。

 当然、あたしはアルトに――

 

「まあ、いいんじゃない? アルトが大丈夫なら」

「へっ?」

 

 怒ることはせずに、ショートブレットを一つ摘まんでかじる。

 うん、久しぶりに作ったからちょっと不安だったけど、腕が落ちていないようで何よりだ。ケントニスにいた頃は割と頻繁にお菓子を作っていたのだけど、ザールブルグに来てからは中々趣味の時間を取れなかったからね。

 

「お、怒らないのか?」

 

 まるで信じられないものを目にしたかのような形相で慄くアルト。

 おいこら、そこまであたしが怒らないのはおかしなことなの?

 ……おかしなことかもしれない。

 自分で納得してしまった。

 でも、これも昨夜自分なりに考えた結果なのだ。

 

「怒らないわよ、別にそのくらいのことで」

「そうか!」

「口移しで食べさせてくれ、なんて限度を弁えないこと言わなければね」

「じゃあ、ヘルミーナ口移しで――な、なんだと!?」

 

 先回りして注意しておくと、正にその言葉通りの発言をしようとしたアルトが仰天した。

 分かり安すぎる。

 気を取り直したアルトがショートブレットを手に取ろうとして、ヘルミーナとイングリドの顔を交互に見ながら硬直する。どっちのを先に食べるべきかで悩んでいるらしい。バカか。

 

「アルトは疲れているだから休ませてあげなさいって、ヘルミーナにも言ったんだけどね」

「別に問題ないだろ、このくらいは。どちらかというと、幸福感のあまりに昇天しそうだ」

「あんまり甘やかすのもどうかと思うわよ?」

「甘やかしているんじゃない。――愛でているんだ」

「無駄にキメ顔で意味分かんないこと言わないでよ」

 

 まったく、と溜め息を吐きながらヘルミーナに視線を移す。

 彼女はどこか得意げな顔で、イングリドを斜め上から見下ろして挑発している。

 ぐぬぬ、と唸り声を上げたイングリドがちらっと上目遣いにあたしを見上げる。その目線が要求するところは明らかだ。

 んー……まあ、今日くらいは我がままもいいかな。

 あたしは少し椅子を引き、膝の上を空けてイングリドに手招きした。嬉しそうにイングリドがあたしの膝の上によじ登る。

 

「ふん、お前だって同じことをしているじゃないか」

「あたしはいいのよ、あたしは。たまになんだし。アルトはいつもでしょ。せっかく、人が疲れているだろうと気遣ってあげたってのに、あんたときたら」

「いらん気遣いだ。お前の方こそ病み上がりなんだから大人しくしていろ。……んんっ、美味しい! 香りといい食感といい、こんなに美味しいショートブレットは初めて食べたよ! ヘルミーナは料理が上手だね! イングリドも、きっと良いお嫁さんになれるぞ!」

「本当ですか? 良かったー!」

「ま、まあ。当然よね、私が作ったんだし。たくさんあるから、もっと食べていいわよ?」

 

 なによ、人の気も知らないで好き勝手言って。

 不満を紅茶を飲むことで紛らわし、口論を終える。あまりやり過ぎるとまたイングリドが泣き出してしまいかねないし、それはアルトも承知しているはずだ。だからこそ、急に話題を変えたんだろう。

 ……それに、彼のすることに一々口出しをし過ぎたかなとも思うのよね。

 アルトが二人に接することに対して、今までのあたしは過剰に反応しすぎだったかもしれない。

 昨日の出来事から考えて、アルトが二人のことを大切に……それこそ自分のことよりも大切に思っているのは、確かだ。二人を傷つけるようなことはしない、そう本心から信じられた。

 だから、あたしも多少は融通を利かせようと思う。今までは、どうしても変態から守らなくちゃって警戒心の方が強かったけど。

 ああもちろん、アルトの性癖に関しては別問題。そこに関しては今まで通りだ。いくらアルトが二人を大事に思っていようとも、一線を越えようというのなら、実力行使で止める覚悟だ。

 

「ねえ、アルト。ふと気になったんだけど」

 

 でも、だからこそ気になることがある。アルトが二人を大事に思うのなら、尚更。

 自分が作ったショートブレットを仲良く食べさせっこしている二人の頭の上で、アルトと静かに会話を交わす。

 

「ヘルミーナの身体を治す調合品って、あんたなら作れるんじゃないの? どうして作らないの? まさか……」

「おい。俺が彼女の世話をしたいがために見過ごしているとでも思っているのか? そんなわけないだろ。見損なうなよ」

「誰もそこまで言っていないでしょ。そんなこと欠片も思っていないわよ」

 

 さすがにそんな思い違いをするほど、あんたを理解していないわけじゃない。

 ジロッと睨みつけてくるアルトに、ジトッとした視線で見つめ返す。

 

「ただ、治療が難しいようなものなのかと……思っただけよ」

 

 口にした後で、もしそうならヘルミーナがいる前で出す話題じゃなかったなと後悔(その当事者は全然気にした様子もなく、美味しそうに次から次へと舌鼓を打っているけど)。

 けれど、この場合は良い意味で予想を外していたようだ。アルトから、それは違うと短く否定の答えが返って来た。

 

「ただの運動不足と先天的な体質の問題だ」

「じゃあ、どうして治さないの? 調合品で一発でしょ?」

 

 天才とまで言われるアルトなのだから、それこそ鼻歌交じりに作ってしまっても不思議ではないのに。それとも、素材が滅多に手に入らないような代物なの?

 

「俺だったら作ることは可能だ。調合に必要になる素材も、そこまで入手が難しい物ではない」

 

 あたしの考えていることが分かったかのような答えを返すアルト。その顔はなんだか気難しげにしかめられ、どうやら彼自身ヘルミーナのことで悩んでいるらしいとあたしに思わせた。

 

「不老長寿の薬、奇跡の薬などと称えられる『エリキシル剤』なら、間違いなくヘルミーナの身体を健康に出来るだろう」

「……そうしない理由があるの?」

「今から言うのは、あくまで俺個人の考え方だ。錬金術士は皆そう考えるべきだ、と思っているわけじゃないぞ」

 

 いいか? と確認するように聞いてくるアルトに黙って頷きを返す。

 

「治すのは簡単だ。でも、それが本当に良い未来に繋がるかどうかは分からないだろ?」

「どういうこと?」

「例えば、だ。自分の筋力を増加させる調合品を俺が作るとしよう。そして、一人の冒険者にそれを与えた場合、彼はたぶん喜ぶだろう。一瞬で今までの自分よりも強くなれるわけだからな」

「それは、そうね。そう思うわ」

「しかし、その結果どうなると思う?」

「んー、今までより強い相手を倒せるようになったんでしょう? 良いことじゃないの?」

「それが自らの実力で手に入れた力なら、な。しかし、そうやって安易に手に入れた力はその身を滅ぼすよ、きっとな。調子に乗って身の丈に合わない相手を戦い、自滅するのがオチだ」

「そういうものなの?」

「自分の身に置き換えて想像し辛いなら、大金を手に入れた場合で考えたらどうだ? 例えば、このショートブレット。これがひょんなことから銀貨一千枚で売れたと考えよう。そうして手に入れたお金を、お前はきちんと考えて正しいことに使うことが出来るか?」

「うーん……」

「……いや、お前だったら間違えずに使えるか。これは俺の質問が間違えていたな」

 

 どうだろう? 今のあたしだったらアカデミー建立に使うと思うけど、でもそれってきちんと考えた上でのこと? 状況が状況なだけに、他に選択肢がないっていうのもあると思う。

 それに、もし他の状況だったらあたしは自分の好きなことに使っていたかもしれない。普段は高くて手が届かない衣服を試してみたり、高価な器材や参考書を買い漁ってみたり。否定してくれたアルトには悪いけど、さすがにそれは買い被りだ。

 

「少し話が逸れてしまったが、結果に予想が付かない以上、時間は掛かっても自分の力で治させる方が確実だろう。安易に調合した結果の失敗なんていうのは、二度と経験したくないからな」

 

 アルトが言外に、彼自身の過ちを匂わせたのに気付く。彼はきっと、こうして今までに何度も自分を諌めているのだろう。簡単に手に入るからといって、安易に手を伸ばさないように。

 失敗を教訓に次へ生かす。言葉にすれば簡単だけど、誰だって自分の苦い失敗なんて見直したくはないものだ。その後悔が大きければ大きいほどに。

 それでも、こうして実際に体言してみせるアルトを見ていると、なんかこう、グッと来るものがある。

 もちろん、一人の錬金術士としてだ。錬金術士としてなら見習うべき箇所が多々あるのだ、この男は。人間としてはどうかと思うけど。

 

「まあ、そういう理由だよ。これで、納得出来たか?」

「ええ、もちろん。少なくとも、あたしはあんたの意見に賛成よ。ヘルミーナの将来に関わることなんだし、慎重なくらいで丁度良いと思うわ」

「とはいえ、当の本人がもっと外に出たいと望まないと話は始まらないんだがな」

 

 困ったような表情を浮かべつつ、ヘルミーナの髪をさらりと撫でる。

 突然、頭を撫でられた意味が分からず、きょとんとした表情を浮かべでアルトを見上げるヘルミーナ。でもすぐに、見ているこっちまで幸せになるほどに寛いだ表情で微笑み掛けた。

 ……あー、はいはい。イングリドもしてあげるから、そんな露骨な視線で見ないの。

 アルトのせいで、二人に変なクセでもついたらどうしてくれるんだか。

 

「読書をすることが悪いとは言わん。知識が深まるのは良いことだし、俺自身も趣味は同じだしな。ただ、これからはもう少し積極的に外出するようにしないとかもな」

「そうね。今後も素材収集するために、外出する機会が増えるわけだし」

 

 ヘルミーナが昨日体調を崩したという話は、既にアルトから聞いて知っている。アルトがきちんとヘルミーナに叱ってみせたことも。体調が悪くなったら隠さないように、ときちんと言い聞かせたらしい。

 あたしが言わなくちゃかな、と思っていたので、ちょっと驚いた。いつもそうならあたしも苦労しなくて済むのに、と思ってしまうのは贅沢だろうか?

 

「取り合えずの目標は、外に出ても体調を崩さない程度にはしたいな。アトリエで調合を教えながら、空いた時間でストレッチや散歩を日課に組み入れてみるのはどうだ? 遊びの要素を取り入れて、一緒に楽しみながらやれば嫌がりはしないだろ」

「あんたって、そういうところは本当ソツがないわよね」

「女心が分かる男だからな」

 

 この場合は子ども心じゃないの、とは思うが言葉には出さない。十二歳より上は見る価値すらないと言い切る相手に、正論を言ってもあたしが疲れるだけだしね。もう諦めた。

 

「アルト先生、これからどこかへお出掛けに行くんですか?」

「ん? 今日か?」

「はい」

 

 断片的に話を聞いていたのか、ヘルミーナがちょっとズレたことを尋ねた。聞かれたアルトがどうしたものか、とこちらに視線を投げて問い掛けてくる。

 

「あまり遠くには行けないわよ?」

 

 時間的にもそろそろお昼になってしまうし、体調的にもあまり無理はさせたくない。

 けれど、せっかくヘルミーナが外出したがっているというのに、それを諦めさせるのも……。

 あたしが行き先を考えていると、アルトが何かを思いついたようだ。日が暮れる前に帰れればいいよな、とあたしに確認してきたので頷いておく。

 

「じゃあ、街外れにある空き地に行かないか? あそこなら距離的にも丁度良いだろ」

「空き地? えーと……、どこの?」

「ザールブルグに来た時、お前達と別行動をしたのを覚えていないか? その時に待ってもらった場所だ。どうやら、その場所がアカデミー建設予定地に決まったようで、早ければ来週にでも工事が始まるらしい。だから、空き地として使える今のうちに、一度行ってみるのもいいかと思うんだが」

 

 どうだ? と同意を求めるアルト。

 あたしはイングリドとヘルミーナの何かを期待するような視線を受け、深く考える間もなく、頷いた。アルトの言う通り、そのくらいなら丁度良いしね。建設が始まったら気軽に入ることも出来なくなるし、最後に見納めとして行くのも悪くないでしょ。

 途端に、イングリドとヘルミーナがピクニックだーと喜んで歓声を上げる。お出掛けの支度をするためにか、さっそく騒がしく階段を駆け上がっていった。

 ああ……ドルニエ先生ごめんなさい。お休み中なのに邪魔するようなことしちゃって。

 

「喧嘩していたかと思ったら、あれだもんな。もうちょっと素直に仲良くしたらいいのに」

「そうよねぇ。お互いに好きなのは分かっているんだから」

 

 やれやれ、とアルトと二人で同じような感想を言い合う。さすがにもう、あの子ども特有の高いテンションにはついていけないわね。

 本当はもうちょっとゆっくりしていたいところだけど、そうもいかないか。出掛けるとなれば、色々と用意しなくちゃならないしね。

 カップに残った紅茶を一息に飲み干し、椅子から立ち上がる。同じように席を立ったアルトへお皿を手渡し、台所へ移動する。

 

「片付けくらいは手伝ってよね」

「言われんでもそのくらいはやる。それより、昼食はどうする? あの様子だと、二人とも今すぐにでも出掛けるつもりだぞ」

「そうねぇ……。ドルニエ先生がどうするかによるけど、どの道、向こうで食べられるようなものを作らないとよね? 今からじゃ、あまり凝ったものは作れないけど」

「そうするしかないか。出来合いのものを買ってもいいが、それじゃ味気無いしな」

「あっ、そうだ。せっかくだし、あんたが前にイングリドの誕生日に作ったやつ教えてよ。あの甘くてふわっとしてトロトロのやつ」

「ああ、あれのことか。まあいいが……、じゃあ代わりにあれ作れよ。あのピリッとする辛さのやつ。ソースが好きなんだよな、あれ。独特の味わいがあってクセになる」

「いいけど、あれお酒のおつまみ用の物なんだけど。お父さんが好きで良く作ったのよねぇ」

 

 

 

 そうして、あたし達はイングリドとヘルミーナの期待に応えるべくアイデアを出し合って、美味しい昼食を二人並んで作るのだった。

 早く早くと急かすイングリドとヘルミーナの二人が乱入してくるまでは。

 結局、今日はそんな風に休んでいるんだかいないんだか分からないような慌しい休日になりそうだ。

 でも……こんななんでもないような一日が、すごく嬉しいと感じるあたしがいる。

 ザールブルグで初めてしてしまった大失敗の翌日。

 そんな風にして、あたしの一日は過ぎていった。



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閑話 草原

 ザールブルグの南西、広大な面積の大半を草木に覆われた空き地がある。

 おそらく、元々は貴族の屋敷でも建っていたのだろう。

 イングリドは周囲を確認しながら、そう考えた。推測の根拠である建物の基礎部分や壁面らしき建材などが、むき出しのままさらされているのが目に入る。

 随分と長い期間、この場所は人々の営みから忘れ去られていたようだ。隅の方には多数の正体不明のガラクタや何かが、つる草に覆われるがままになっている。

 もっとも、その放置されっぷりのおかげで、こうして自分達は誰に遠慮することなく走り回ることが出来ているのだが。

 

「待って、イングリド……! ちょっと、もう限界ぃ……」

「バカ言ってないで、もっと早く走りなさいよヘルミーナ!」

 

 背後からの情けない悲鳴を耳に、イングリドは仕方なく走る速度を緩めた。走る最中に喋るから余計に辛くなるのだが、それを相手に指摘する気はない。言ったところで、無駄な反感を買うだけと、これまでの経験から分かりきっていたからだ。

 

「む……無茶、言わないでよ。これ、でも……全力、だって、ば!」

 

 案の定、減らず口を叩いて寄越すヘルミーナ。

 イングリドは若干の呆れと苛立ちを覚えながら足を止めた。

 やれやれとその場で身を返すと、幼馴染の少女がひいひい言いながら駆けて――いや、歩いてくるのが目に入った。本人的には精一杯走っているつもりなのかもしれないが、まるで地を這うようなソレをお世辞にも走るとは言い難い。

 ヘルミーナは一目見て分かるほどに疲労困憊、体力の限界、無様な芋虫といった有様だ。言いだしっぺがいの一番に音を上げるとは何事か。体力不足といえども、ここまで壊滅的に酷いともはや開いた口が塞がらない。

 

「…………」

 

 腕組みをしたまま、ヘルミーナが追いつくのを待つことしばし。

 遅々とした歩みのヘルミーナが追いつくよりも先に、イングリドに我慢の限界が訪れる方が早かった。少なからず自覚しているのだが、イングリドはあまり待つのが得意ではない。

 

「あーっ、もう! 仕方ないわね!」

 

 すぐさまヘルミーナに走り寄ると、その手をぐいっと力強く引っ張った。彼女が追いつくのを待っていたのでは、あっという間に後ろから追いつかれてしまう。

 これだから、体力皆無の万年不健康の陰険根暗女は。

 イングリドはこれみよがしに溜め息をついてみせた。

 こっちは追いかけっこという単語のせいで無駄に萎縮したというのに、当の張本人がこれでは文句も言えない。とはいえ、実際に走り出したら昨日の失敗なんて綺麗さっぱり忘れていて、感じた不安はただの杞憂に過ぎなかったのだが。

 

「もうだめ、もう限界! ほんと死んじゃう……」

 

 息も絶え絶えに泣き言を繰り返すヘルミーナ。

 そんな彼女をちらりと見て、イングリドの心に潜む悪魔がひょいと顔を覗かせる。

 ふむふむなるほど、そんなに辛いのか――ならもうちょっとこの状態のままでいさせておくのもありか? 日頃のいけ好かない彼女の態度を思い出し、そんなことをふと思う。

 ――が。もちろん、思うだけだ。

 正直、すぐ後ろで今にも死にそうな状態で走られるというのは気分が悪い。

 素早く周囲の地形の確認を済ませ、休めそうな場所の目星をつける。

 ちょうど進路の先に、いい感じに木々が生い茂っている一角があるのを発見。この木陰なら、背後からは十分に身を隠せられそうだ。

 

「仕方ないわねぇ。ちょっと、ここで休みましょうか」

「ほんっと、だめ。疲れたぁ……。もう、一歩も動けないわ。いいえ、動かないわ!」

「何バカなこと力強く言い切ってんのよ。少し休んだら、またすぐ移動するわよ」

 

 おしりをついて地面にへたりこむヘルミーナをよそに、ちらと背後を確認する。

 ……よし、今のところは大丈夫そうだ。まだ向こうとの距離は結構ある。この分なら多少、ゆっくりと休んでも余裕はありそうだ。

 ヘルミーナの隣へ腰を落とし、背中を樹の幹に預けて一息つく。

 身体を休めると、途端に先ほどのムカムカとした感情がぶり返した。

 

「だいたい、ヘルミーナが最初にやりたいって言い出したんでしょ。もうちょっと頑張りなさいよね。せっかく、わざわざ付き合ってあげてるのに」

「それはそうだけど……、ていうか自分だって外出には乗り気だったくせに、恩着せがましく言わないでよね!」

「なによぉ! そっちが先に文句言ってきたんじゃないの!」

「文句なんて言ってないわよ! 疲れたって言っただけでしょ!」

「それを文句って言うんでしょ!」

「ただの感想じゃない!」

 

 むむむ、とにらみ合い火花を散らせる。

 ああ言えばこう言う。ほんと、口だけは達者なのが余計に腹立たしい。

 我慢比べから先に目線を逸らしたのはヘルミーナだ。私の勝ちね、とイングリドがふふんと余裕の笑みを浮かべる。

 

「……調子」

「?」

「調子、戻ったの?」

「え? 誰が?」

「あんたがよ。昨夜から様子、変だったし」

 

 そっぽを向いたまま出し抜けに言われ、イングリドは思わず頭の中が真っ白になった。

 様子が変だった、といわれて思い当たるのは、昨夜からの自分の姿だ。

 アルトとリリーが争う姿を見る度に、みっともなく取り乱して泣き喚くといった、まるで小さな子どもみたいな失態を演じてしまった。

 今ではもうだいぶ落ち着いてきたが、それでも二人が喧嘩する姿を見る度に、不安な気持ちになるのを止められない自分がいる。理由は分からない。何かが胸の奥でざわついて、自分の感情を制御出来なくなる。

 そんな不安定な状態でいるのを、他でもないヘルミーナに気付かれていた。

 その事実を認識して、羞恥に顔を赤らめる。

 知られたくなかった。何かにつけて張り合う関係だからこそ、こんな自分の弱みを知られたら何を言われるかなんて分かったものではない。

 

「あ、あんたの方こそ変じゃないの! 自分から外で遊ぼうだなんて!」

 

 咄嗟に話題を変えたのは、見栄のせいだ。馬鹿にされるにせよ、同情されるにせよ、まっぴらごめんだ。対等な相手だからこそ、そんなことで気遣われたくはなかった。

 もっとも、どう考えても不自然な話題変更だった感は否めないが。

 誤魔化すにしてももうちょっと他にあるでしょ、とイングリドは自らの頭を抱え込みたくなった。

 不幸中の幸いというべきか、ヘルミーナは挙動不審なイングリドに気付かなかったらしい。どこか上の空の様子で曖昧に頷く。

 

「別に、遊びが目的なわけじゃないわよ。まあ久しぶりだし? 楽しいのは否定しないけれど」

「どういう意味?」

「身体が動かせれば何でも良かったのよ」

 

 要領を得ない返答に、イングリドは首を傾げた。いつも理路整然とふてぶてしく詭弁を並び立てるヘルミーナらしくない説明だ。

 イングリドが無言で話の続きを催促すると、ヘルミーナは何かを躊躇うような仕種を見せた。

 そんな彼女をイングリドはさらに無言で、じーっと見つめる。ここまで話したのだから、きちんと最後まで話してもらわないと据わりが悪い。

 

「……最近、ちょっと失敗したのよ」

 

 観念したようにぽつりとこぼれたセリフは、語るヘルミーナの表情からして苦い思い出らしい。話題が変わればなんでもいいか、とイングリドは話を聞く態勢に入った。それに、彼女がいったいどんな失敗を仕出かしたのか、気になるところではある。

 

「出先で疲れているのを無理に我慢していたら、いきなり倒れちゃったの」

「ふーん……それで?」

「帰ってきてから、アルト先生に初めて叱られたわ」

「ぶたれたの!?」

「そんなことされるわけないでしょ! アルト先生、優しいもの!」

 

 驚いて声を上げると、ヘルミーナが血相を変えて言い返した。疲労で青ざめていたその顔が、見る見るうちに怒りで真っ赤に染まっていく。

 もちろん、アルトが優しいなんてことはイングリドだって知っている。いつどんな時だって、自分達に優しく接してくれるのが彼という人間だ。

 アルトが喧嘩するのは(どうして彼女だけ例外なのか)リリーだけで、イングリドは今ままで一度も叱られたことはおろか、声を荒げられたことすらない。

 だからこそ、そのアルトにヘルミーナが叱られたと聞いて仰天したのだ。

 

「でも、叱られたんでしょ?」

「そっ……、そうよ! 体調が悪い時はすぐ言うように、って約束させられたわ」

「ていうか、なんで黙ってたのよ? 素直に言えば良かったじゃない」

「……イングリドには分からないわ。体調崩すなんてこと滅多にないんだから」

 

 突き放すような言い方をされ、瞬時にイングリドの頭に血が上る。

 

「なっ、なによそれ!」

「わたし、すぐ疲れるもの。ちょっと動けば熱が出るし、体調を崩すことなんていつものことだわ。だからその度に休憩してもらって……、そんな風に足手まといになる自分が嫌だったのよ」

 

 心底悔しそうに言うヘルミーナを前に、イングリドはそれ以上文句を言う気になれなかった。

 事実、ヘルミーナは頻繁に体調を崩す。それこそ、またかの一言で済んでしまえるくらいに。

 季節の変わり目なんかは毎年のように風邪を引くし、ちょっと運動した翌日に疲労で寝込むなんてことも珍しくない。

 ベッドで寝込む彼女を目にする度、なんて軟弱なヤツだなんて思っていたが、ヘルミーナはヘルミーナなりに思うところが合ったらしい。

 

「結局、余計に迷惑掛けちゃったけど」

「そんなにキツく言われたの?」

「そうじゃないわ。……そうじゃないの」

 

 目に見えて落ち込んだ様子のイングリドに、これはかなり絞られたんだろうな、と思って聞くと、予想に反して否定の言葉が返って来た。

 

「とても辛そうな顔して言うんだもの、アルト先生」

「そうなの?」

「叱っている本人の方が辛そうな顔をするのよ? あんな顔、アルト先生にして欲しくないわ」

 

 あんな顔と言われても、見たことがないイングリドには想像もつかない。

 でも、ヘルミーナがそう言うからには余程なんだろう。

 

「だから、少しでも元気にならなくちゃって。体調を崩すことの方が珍しくなれば、アルト先生に心配を掛けることも少なくなるでしょう?」

 

 そうね、と頷きを返す。

 ヘルミーナの方から外出したがるなんて珍しいこともあるものだと思ったけど、そういう事情があるのならば納得だ。理由の大半がアルトな辺り、ヘルミーナも大概だとは思うけど。

 でもそれも仕方がないことか、とイングリドは内心で苦笑する。

 だって、ヘルミーナは恋もまだしたことがないようなお子様だし。身内への好意と特定の異性への好意の区別がついていないのだから。

 その点、素敵な大人の男性相手に恋をする、自分のような大人の女性とは違うのだ。

 そう、イングリドはとある男性に恋をしている。

 ――二人の出会いは偶然だった。いや、これは既に運命だったといってもいいだろう。

 その日、イングリドはリリーに頼まれてちょっとしたお使いに出掛けることになった。アトリエの看板の作成依頼を製鉄工房に聞いてくるだけの、至って簡単なお仕事だ。

 首尾よく用事を済ませ、あとは自宅に戻るだけとなった帰り道。

 せっかく出掛けたのにこのまますぐに帰るのも、なんだかもったいないような気がする。

 そう思い――思うと同時に行動するのがイングリドだ。目に入ったお店で小物や衣服なんかを見て回ったり、普段は通らないような細い道を歩いてみたり。まだザールブルグに引っ越してきて日が浅いせいもあり、イングリドの興味を惹くようなものは多い。

 そうして気の向くままにあちこちを渡り歩いて――ふと気付けば、自分が今どこにいるのかが分からなくなっていた。端的に言うと、迷子になった。

 この年になって、さすがにそれはない。

 真っ先に思ったのが、そんな感想だった。

 道行く誰かに尋ねるには恥じらいと自尊心が邪魔をして。

 けれど、闇雲に歩いたところで今よりも悪化する可能性は高く。

 イングリドは途方に暮れた。

 ザールブルグという都市は、子どもの足で闇雲に歩き回るには大きすぎる。

 そんな時だ。

 ――何かお困りですか?

 そんな風に優しく声を掛けてくれたのが、彼だった。

 清潔感のある真っ白なローブに身を包んだ、温和な顔立ちの黒髪の男性。見慣れぬその格好から、おそらく教会の神父様だろうとイングリドは予測を立てた。

 彼の申し出は願ってもない絶好の助け舟だったが、イングリドは躊躇した。

 誰であれ、今の自分が迷子だと知られるのは嫌だったからだ。子ども扱いなんてされるくらいなら、なんとしてでも自力で帰ってやると内心で息巻く。

 けれど、彼はそんなイングリドの態度に嫌な顔をするでもなく、それどころか体面を傷つけないよう気遣った口調で事情を聞いてくれた。

 だからこそ、イングリドも反発することなく、彼が自宅へ向かう途中まで道案内するという提案をすんなり受け入れられたのだ。

 別れ際、気恥ずかしさからお礼の言葉を口に出来ないイングリドの胸中を慮ってか、名前も言わずに穏やかな笑顔のまま去っていった素敵な男性。

 もちろん、後日きちんとお礼を言いに行った際に、その名前はきちんと確認済みだ。

 愛しの彼の名前は――

 

「つーかまーえたっ!」

「――ッ!?」

 

 不意に右腕をつかまれ、桃色めいた思考が停止する。

 慌てて声のした方へ振り向くと、そこにいたのは自分達の兄弟子であり、先生であり、保護者であるところの男性、アルトだった。

 付け加えて言えば、今は追いかけっこの最中で、彼からヘルミーナと二人であちこち逃げ回っていたのだった。

 いったい、いつの間に――と思った直後、その答えに辿り着く。こちらが身を隠すために利用した樹を迂回して、死角から密かに走り寄って来たのだと。

 まったく、なんて大人気ないひとだ。あの人とは大違い。

 ともあれ、つかまってしまったので遊びは終了だ。もう少し逃げ回れるかと思ったけど、ヘルミーナが足手まといだったのだから仕方がない。

 決して、物思いに耽るあまり今が遊んでいる最中だったということすら忘れていた自分が悪いのではない。ないったらない。

 

「アルト先生ひどい! どうして、イングリドを先につかまえるんですか!?」

 

 ヘルミーナが立ち上がるや否や、アルトへ猛然と食って掛かる。おいこら、さっきまで死に掛けていたのにその元気はどこから出た。 

 ヘルミーナの勢いに気圧されたアルトが、あたふたとイングリドから手を離す。

 

「えっ? ど、どうしてって……何が、どうしてなんだい?」

「だから! どうして、わたしじゃなくてイングリドなんですか!」

「えええええッ!? だから、それは、その」

 

 近かったから、とあまりにもそのまますぎる答えを返すアルト。

 ダメだ。ダメダメすぎる。そんな答えでは落第点。彼はもう少し、女心の機微というものを理解した方がいい。

 イングリドは巻き込まれては堪らないとばかりに、こっそりとアルトの傍を離れた。

 アルトの残念な回答を耳にしたヘルミーナが案の定、不機嫌そうにぷうと頬を膨らませる。こうなったら最後、この女はいつまでもネチネチと根に持って面倒臭いのだ。忘れた頃にグサリと突き刺してくる陰湿さがあるので手に負えない。

 到底付き合っていられないので、イングリドはあっさりアルトを見捨ててその場を離れることにした。とばっちりを受けたら堪ったものではない。

 すると、ちょうど良いタイミングでリリーが近付いてくるのに出くわした。その片手には、出掛ける前から気になっていたバスケットと水筒が吊り下げられている。

 

「みんなー、そろそろ昼食に……って何してんの、アルト?」

「リリー!? いや待て誤解だ! 俺は何もしていない! だから落ち着け!」

 

 冷めた視線で見つめるリリーを前に、血相を変えて言い訳するアルト。自分を放っておくアルトを見て、益々機嫌が悪くなるヘルミーナ。そして、すっかり蚊帳の外のイングリド。

 見た限り、リリーは呆れているだけで怒っているわけではないはずだ。それなのにそんな態度を取ったら、何かあるんじゃないかと疑われても仕方がないと思う。

 アルトの情けない取り乱しっぷりを目に、イングリドの彼への評価がぐんぐんと下がっていく。これでは大人の男性とはとても言えない。思い人の落ち着いた大人の男性といった態度とは大違いだ。

 

「誤解も何も、どうせあんたが何かヘルミーナを怒らせるようなことでもしたんでしょ?」

「おい、ちょっと待て! それは聞き捨てならないぞ。俺がヘルミーナを怒らせるようなことするわけないだろ!」

「じゃあ、なんであんなに分かりやすく、むくれているのよ」

 

 うっ、と図星をつかれたアルトが反射的に何かを言い返そうとして――くるりと回ってヘルミーナにぎこちなく笑いかけた。

 

「お、怒ってないよね? ヘルミーナ?」

「はい、怒っていません」

 

 どう見ても怒っていますといった仏頂面でヘルミーナが言った。

 

「うっ……! ヘ、ヘルミーナ、ごめん! 俺が悪かった! ほら、今度はヘルミーナを先につかまえるから!」

「別に、いいですし。どっちでも」

 

 どっちでも良いなんて欠片も思っていない様子でヘルミーナが答える。

 取り付く島もないとはこのことだろう。

 甘いお菓子だの可愛い衣服だの新しい絵本だの何だのと、ヘルミーナの機嫌を直そうと必死にアルトが提案するも、効果は今ひとつ。つーん、とそっぽを向いてアルトを無視し続けるヘルミーナ。

 だが、イングリドは気付いていた。態度と表情こそ未だに怒っているアピールしているものの、彼女の唇の端は嬉しそうに上がっていることに。とどのつまり、この女はアルトがこうやって自分に構ってくれるだけで十分嬉しいのだ。性格が悪い上に、本当に面倒臭い女だ。

 隣のリリーの様子を窺うと、彼女もそのことに気付いているのか苦笑していた。

 知らぬは、アルトばかり。彼に真実を告げ口すると後で面倒なことになるので、イングリドもリリーに習って沈黙を保つことにした。

 

「うう、いったいどうしたら……そ、そうだ! ヘルミーナ、今から楽しいことをしてあげるよ! 軽く両足を広げてみてくれないかい?」

「? こうですか?」

「そう、そのままじっとしてて」

 

 進退窮まったアルトが、良い事を思いついたとばかりに妙な事を提案する。

 意味不明な内容ながらも、彼に言われるがまま従うヘルミーナ。

 アルトは彼女の背後に移動すると、腰を屈め、

 

「アルト、あんたまさか――」

「なんだよ?」

「……ううん、やっぱりなんでもない」

 

 リリーが何か言おうとしたものの、途中で気が変わったのか何も言わずに首を振った。アルトがこれから何をするつもりなのか分かったのだろうか?

 アルトは怪訝そうな顔をしつつも、ヘルミーナの両足の間に頭を突っ込んだ。そして優しく、けれど離さない程度に彼女の両足をつかむ。

 

「アルト先生?」

「ヘルミーナ、俺の頭に手を当てて。しっかり持っててね」

「はっ、はい!」

 

 いったい何をするつもりなのかと見守る先、ヘルミーナの様子を確認したアルトがぐっと力を込めた次の瞬間。

 

「うっわぁぁぁぁ! すごい、すっごーい!」

 

 ぐんっ、とアルトが背筋を伸ばす勢いのまま、ヘルミーナが急上昇する。アルトの肩に担がれた状態となったヘルミーナが、見上げる位置からしきりに興奮した声を上げる。

 そんな二人を下から見上げ、イングリドはやれやれと溜め息を吐いた。

 何をするのかと思えば、こんなこととは。

 時折、小さな子が父親にああやってされているのを見たことがある。生憎と、自らの父親という存在を見たことすらないイングリドは体験したことがないけど。

 子どもみたいにはしゃいじゃってバカみたい、とイングリドはすっかり満面の笑顔となったヘルミーナを見上げる。今回はアルトの作戦勝ちといったところか。

 どうしてあんなに喜べるのか気が知れない。

 イングリドはつまらなそうに、はしゃぎ回る二人を見る。

 あんなのまったく面白そうには思えないし、ちっとも興味なんてない。そもそも淑女である自分は、あんな子ども騙しなんて全然楽しそうには見えないのだ。だいたい、ヘルミーナはあんな格好して恥ずかしくないのだろうか。まあ、子どものヘルミーナにはピッタリだけど。

 そんな風に見つめるイングリドの気なんて知らずに、しばらくの間、ヘルミーナはアルトにあれこれ指図して、ぐるぐる回ったり、走ったりしてもらっていた。

 いつまでやっているつもりなのか、とイングリドが段々イライラし始めていると、不意にその頭をそっと撫でられた。リリーだ。

 見上げるイングリドと視線を一度合わせると、リリーは顔を上げてアルトの名前を呼んだ。それに気付いたアルトがこちらを振り向く。

 

「なんだ? 俺は今、素晴らしく幸せな空気を満喫している真っ最中なんだが」

「あんたはいつでもイイ空気吸ってんでしょうが」

 

 言いながら、リリーが再度イングリドの頭を優しく撫でる。

 すると、こちらを見ていたアルトが何かに気付いたようだ。

 走って戻ってくると、ヘルミーナに一言断りを入れてから、膝をついて彼女をゆっくりと地面に下ろした。そうそう、いつまでもそんなことをしていたらお昼も食べられないじゃない。良く気付いたわ、とイングリドはうんうん頷いて見せた。

 まだだの、もうちょっとだのと不満を垂れているバカは見ない方向で。

 

「じゃあ、次はイングリドの番だね」

 

 腰を屈めたままの姿勢でアルトが言った。

 えっ、と瞬きをするイングリド。別に自分はして欲しいだなんて一言も言っていないし、そんなこと思ってもいないのだけど。

 瞬間、その背中をぽんとリリーに優しく押された。その勢いのまま数歩進み、アルトの前で立ち止まる。

 

「な、なんで私がそんなこと……」

「俺がしてあげたいからだよ。大丈夫、何も怖くなんてないぞ?」

「べ、別に怖がってなんかいないわよ!」

「なら良かった。ほら、ゆっくりと片足ずつ俺の肩にまたがって」

「ふ、ふん! アルトがそこまで言うなら……仕方ないわね!」

 

 不承不承、仕方なくといった返事をしながらイングリドがアルトの指示に従う。

 

「えー!? イングリド、ずっるーい!」

「ヘルミーナ~? そういう意地悪なこと言ってると、ヘルミーナだけお昼無しよ?」

「ぐぬぬ……」

 

 リリーとヘルミーナが何やら騒いでいる間に、準備完了。

 アルトの頭をしっかり持ち、姿勢が崩れて落ちないようにする。

 

「それじゃ、準備はいいかい?」

「い、いつでもいいわよ」

「よし、それじゃあ……」

 

 よっ、というアルトの掛け声と共に、イングリドの視点が一気に変わった。急激に変わった視界に意識が追いつかない。

 気付けばそこは、別世界。

 普段見慣れない視点からの景色が広がっていた。

 高さが違う。ただそれだけなのに、世界がまるで違って見える。

 

「わぁ……っ!」

 

 知らず、イングリドの口から声が漏れる。

 地面までがすごく遠くて、空までがとても近く感じる。

 あんなにも見上げるほど高かった木が、今ではちょっと手を伸ばせば届きそうなくらいだ。視線を下ろせば、こちらを不満そうな顔で見上げるヘルミーナの顔が目に入る。さらにその下には、走るのに少し邪魔に感じていた草があんなにも小さい。

 不思議な気分、とイングリドはあちこちをきょろきょろ見渡しながらそう思った。もっと高い建物から地面を見下ろしたこともあるのに、今の方がより高さを実感出来ている気がする。

 

「ねえ、アルト、あっち向いて! あっち!」

「了解、お姫様の仰せのままに」

 

 ぐるりと視界が移動すると、普段は見えない位置にあるものまで目に入る。なんだかとても胸がドキドキする。今まで自分が見ていたものが、アルトの視点だと別物のようだ。

 もっともっとたくさんこの景色を満喫したい、とイングリドの胸の奥から欲求が沸いてくる。それは衝動となってイングリドの心を突き動かす。

 

「走ろうか?」

「うん……っ!」

「しっかり捕まってるんだぞ」

 

 アルトが言うや否や、風をびゅんびゅん切って、景色が後ろへと流れていく。馬車に乗っていた時に覗き窓から見た感じに近いが、気持ち良さは段違いだ。走っているのはアルトなのに、まるでイングリド自身がすごい速さで走っているかのような錯覚に陥る。

 自分がとても背が大きくなったような、まるで別の生き物になったかのような。

 見上げていたものを見下ろして、見えなかったものが見えるようになって。

 気付けば、笑い声が止まらなくなっていた。

 楽しくて、楽しくて、何が楽しいのかすらどうでもよくなってしまうくらいに楽しくて。

 あっという間に時間が経っていた。

 そうやって、イングリドの気が済むまで付き合って上げたアルトだが、さすがに肩車を全力で二人分付き合うのは体力的にキツかったのだろうか。イングリドが名残惜しみながら彼の肩から降りると、アルトは額にびっしりと汗を浮かべていた。立ち上がる気力もないのか、座り込んだ姿勢のまま、肩で息をしている。

 リリーが彼にそっと近寄ると、水筒から飲み物を注いでコップを手渡した。

 

「はい、アルト。お疲れ様」

「んっ、ふっ、なん、の、こと、だ……?」

「まともに喋れないくらい疲れてるのに、無理しないでもいいわよ。汗びっしょりじゃないの」

「誰が疲れ、て、なんて……うっ、げほっげほっ! ええいっ、自分で拭けるっつーの!」

「あんたがイイコトした後だから、あたしも感謝してわざわざしてあげてるんでしょ。感謝しなさいよね?」

「お前は今、猛烈に理不尽なことを口にしているぞ!?」

 

 ごくごくと一気飲みしたアルトが、ハンカチ片手に彼の汗を拭くリリー相手に喚き立てる。色々言ってみたところで両手が塞がっている状態なので、結局はリリーにされるがままだ。

 

「アルト……、疲れたの?」

 

 イングリドが不安になって尋ねると、アルトがぎょっとした顔でこちらへ振り向いた。

 バッと元気良く立ち上がると、ぶんぶんと首が取れそうな勢いで横に振る。

 

「疲れてないよ! 全然、疲れてない! 二人と遊んでて疲れるなんて、そんなことあるわけないじゃないか! なんだったら、もう一回やるかい?」

「あんたって本当、心底バカよね」

 

 アルトからコップを受け取ったリリーが半眼でうめく。

 アルトが力強く否定してみせるのを目にして、良かったとイングリドは安心して笑顔で言った。

 

「じゃあ、次はリリー先生の番ね!」

「「…………え?」」

 

 乾いた沈黙の後、期せずしてアルトとリリーの口から同時に困惑の声が出る。

 イングリドは何かおかしなことを言っただろうか、と不安になりつつも、再度同じセリフを繰り返した。

 

「次はリリー先生の番でしょ? リリー先生だけ、まだアルトにしてもらってないんだし」

「えっ、いや、それはそうなんだけど……」

「イ、イングリド? あたしはいいのよ、あたしは」

 

 イングリドは遠慮するリリーに首を振って答えた。

 遠慮する必要はないのだと。

 なぜなら、さっきアルトは疲れていないとはっきり口にしたのだから。

 もし、リリーだけアルトにしてもらえないとしたらそれは――

 

「リリー先生だけ、仲間はずれ?」

「うっ!」

「うっ、じゃないでしょバカアルト!」

「だって、あんなに可愛いんだぞ!? 拒否出来るわけないだろ!」

「理由になってない!」

 

 途端に言い争いを始めてしまう二人。

 自分の言い出したことが原因で、仲違いしてしまう二人。

 それを見ていると、イングリドの中で収まったはずの不安がまた――

 

「わ、分かった! 大丈夫だよ、イングリド。リリーにも肩車するから!」

「そ、そうね! だからそんな顔しないで……ってあんた本気!?」

「当たり前だ。イングリドが望むのなら、それがたとえ針山だろうと、血の池だろうと、釜茹でだろうと、リリーに肩車することだろうと、やってみせるッ!」

「そんな苦行と並べられるほどにイヤなの!?」

「どちらかといえば、そっちのがマシだ」

「そこまでイヤがられるとそれはそれでムカつくわね! いいわよ、やってやろうじゃない!」

「良い度胸だ、全力でやってやる!」

 

 売り言葉に買い言葉といった様子で、二人が合意する。

 イングリドとヘルミーナに持っていたものを手渡すと、リリーがアルトの背後に回る。

 

「いいわね!? 行くわよ!」

「よっしゃ、いつでも来い!」

 

 そこまで気合を入れないでも、と思わないでもないイングリドだったが、二人が仲良くしてくれるならと胸を撫で下ろす。

 

「アルト先生達、別に喧嘩してたわけじゃないわよ?」

 

 呆れたような表情で、いつの間にか隣にいたヘルミーナがぼそっと口にした。

 言っている意味が分からない、とイングリドは首を傾げた。どう見ても先ほどの二人は口論をしていたし、その状況をヘルミーナも目にしていただろうに。

 するとヘルミーナは、ふっと鼻で笑ってあからさまに見下した視線を寄越した。

 

「そんなことも分からないなんて子どもね」

「どういう意味よ!?」

 

 鼻息を荒くして言い返すイングリド。

 ――と。

 

「ひぃぃぃぃっ!?」

 

 今にも取っ組み合いの喧嘩に移行しようとしていた二人の耳に、なんとも情けない声が耳に入った。振り向くと、なぜかリリーがアルトの頭をバシバシ叩いている。

 

「こっ、これ想像以上に怖い! 怖すぎる!」

「暴れんなアホ! 小さい頃、木登りとかしてたんだろ!? だったら、別に怖くないだろ!」

「それはそうなんだけど、そうじゃないのよ!」

「支離滅裂すぎる! いいから落ち着けアホ!」

「あれとこれとは別っていうか、この年になると怖いっていうか――ひゃぁっ!?」

「ぐあっ!? なにしてんだ目をふさぐな、前が見えない!」

「そんなこと言われても、こっちは落ちないようにするので精一杯なのよ!」

「無駄にフラフラ動くからだろうが! 痛ててて! そっちに首は曲がらん!」

 

 あっちにフラフラ、こっちにフラフラ。

 今にも倒れそうな動きをしているアルトとリリー。

 けれど――と、イングリドは頬を緩めた。

 言っていることは互いに身勝手で、やっていることも目茶苦茶なのに。

 それでも全然倒れる様子もなく、楽しそうに騒いでいる二人。

 思い返せば、今までだってそうだった。

 何か問題事があったとき、なんだかんだ言い争いながらも、結局そのまま解決してしまうのだ。口論というよりは、意見の衝突。あれが二人なりの円滑な会話なのかもしれない。時にはイングリドとヘルミーナが不安に思うほどの時もあるが、そんな時にはドルニエ先生が静かに止めてくれる。

 そういう二人の姿を、今まで何度となく目にしてきたのだ。

 そんな二人が今更、口論くらいでどうにかなるわけがない。

 自分達の関係が壊れる日が来るわけがない。

 誰かがいなくなるなんてありえない。

 何も怯える必要なんてない。

 だから――

 

「私も混ぜてー!」

「ちょっ、イングリド!? 今飛びついてくるのはやめて! 普段は大歓迎だけど今やられると俺の根性が天元突破!?」

「アルト!? ちょ、ちょっとしっかり支えてなさいよ!」

「抜け駆けしないでよ! わたしもー!」

「ヘルミーナまで!? ちょっ――ああ、もう限界です……」

「ちょっ、あ、アルトぉぉぉぉ!? 諦めんなー!」

 

 だから、大丈夫。

 怖いこともあったけれど、過去は過去だ。

 昨日に怯える暇があれば、その分、今日を精一杯楽しもう。

 一人で難しいことを考える必要はない。

 だって自分は、一人ではない。

 みんなと一緒だから――これまでも、これからも。

 



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閑話 草原2

 まだ幼かった頃の話だ。

 少女は街の外へ出ることを硬く禁じられていた。

 街の外には恐ろしい化け物や人間がいて子どもには危ないらしい。

 けれど、いつも決まった時期にだけは他所の街へと連れて行ってくれた。

 雪が溶け、萌える草花の絨毯が色鮮やかに広がる季節だ。

 なぜその時だけ例外なのか。疑問に思った少女が両親に尋ねる。

 すると彼らは、どこか誇らしげな顔で微笑んだ。

 王室騎士隊が討伐してくださるから安全なのだ、と。

 彼らが遠征する理由は大きく分けて二つだ。

 越冬した魔物が活発化する時期であるため、その間引きであること。

 初等訓練を終えた新兵達の実戦を兼ねた行軍であること。

 当時の少女には思い至らず、だったら毎月討伐してくれればいいのに、などと減らず口を叩いて両親に頭をはたかれたのだった。

 とはいえ、それもある意味では仕方がないことだ。

 地方都市の、しかも幼い子どもである少女には、彼らの姿を目にする機会など一度もなかったからだ。自分と接点がなく、現実味のない存在。会話の中にしか登場しない存在であれば、それは御伽噺の中の登場人物と何ら変わりない。

 

 だからこそ――初めて目にしたその姿は忘れえぬものとなった。

 

 その年は近隣で魔物による被害があり、冬もそろそろ終わりに差し掛かるとはいえ、周囲の大人たちの顔色は冴えなかった。このままでは生活も侭ならない、と皆で溜め息をついていた。

 暗い空気が、街中を覆っていた。

 そんな折だ。一糸乱れぬ綺麗な隊列を組んだ王室騎士隊が王都から派遣されたのは。

 陽射しを反射して燦然と輝く全身鎧は、青空よりも尚、透き通った青色だった。

 もちろん、実際には度重なる戦闘や旅路での汚れ、経年による劣化や補修などで痛んでいたり、くすみが多少ならずあったはずだ。客観的に見れば、それほど上等な色ではなかっただろう。

 けれど、それすら誇りであるといわんばかりの、彼らの毅然とした勇姿が見るものを圧倒させた。

 彼らの堂々たる立ち居振る舞いは、怯える人々の精神を等しく安堵させた。

 もう大丈夫だ、と彼らは言葉だけではなく態度で示していた。

 そして、少女は思ったのだ。

 自分もああなりたい、と。守られる側ではなく、守る側として。

 その姿に強く、強すぎるほどに焦がれた。

 誰もが一度は経験するような、幼心に抱く他愛無い憧れだ。成長するに従って、消えてしまうような、そんな淡い思い。

 違ったのは、少女にとってそれは成長と共に強くなっていったことだ。

 

 憧憬は夢となり――やがて、将来の目標となった。

 道程は決してラクなものではない。目標に到達するのを阻む壁には、何度も突き当たった。

 それは時に技量であり、両親であり、金銭であり、その他別のことであったり様々だ。

 その中でも一際大きな壁として立ち塞がったのが――性別だった。

 王室騎士隊は男性のみで構成される組織である。女性がなれない、という原則があるわけではない。ただし前例のない事例というのは、それだけで敬遠されるものだ。伝統と格式ある組織であればあるだけ、尚更に。突破するには、それに足るだけのモノが必要とされる。

 夢を目標とし、それを現実にするために手放したものは多い。

 女としての生き方を捨てたわけではない。過去には何人か、思いを通じ合った男性がいたこともある。彼らとの付き合いの中で、女としての悦びを感じたことに偽りはない。

 しかしそれでも――

 破局の理由は、判を押したように全て同じだ。

 ――それでも、諦める事が出来ない目標があった。

 自分が女でなければ、と思ったことは幾度もある。

 けれど、女だからなれない、という結論だけは絶対に出さない。性別も含めての自分だからだ。優先順位こそ違えど、自分が女であることを否定したくはない。

 理解を示してくれる人は非常に数少ない。

 心無い言葉を吐かれることすらあった。

 もっとも辛いのが、自分を受け入れてくれた人の善意による提言だ。

 

『夢を見るのは自由だが、夢を見続けられるのは子どもの特権だ』

『夢を諦め、現実を受け入れて妥協することが大人になるということだ』

『目標とは達成出来る見込みがあることを言い、叶わない願いは目標足り得ない』

 

 遠回しに同じような台詞を、周囲から何度も諭され続けてきた。

 だから、だろう。

 

「なれるさ、きっと。諦めず、努力し続けることが出来れば」

 

 たったそれだけで、あっさりと初対面の彼を信用してしまったのは。

 

 

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 

 

「この中に今すぐ動ける冒険者がいたら言ってくれ! 頼みたいことがあるんだ!」

 

 場所は金の麦亭。時刻は夕暮れ時。酒場兼宿屋であるこの店が一番賑わう時間帯だ。

 普段は喧騒に包まれた状態となっているが、今は水を打ったかのように静かになっている。

 それも当然だろう。勢い良く入った来た客が突然、意味不明なことを叫んでいるのだから。

 シスカは軽く眉をしかめ、彼の肩に手を置いて嗜めた。

 

「アルト、ちょっと落ち着きなさいってば。それじゃ、何が言いたいのか分からないでしょう」

「だが、こうしている間にも――」

「おいおい。こりゃいったい何の騒ぎだ?」

 

 戸惑う声は、店主のハインツだ。ただ事ではない彼の様子を悟ってか、問い掛ける表情は緊い。

 シスカの手を乱暴に振り払うと、アルトはハインツを一瞥した。

 

「騒がしくして、すまない。だが、急いでいるんだ! 今すぐ、冒険者を何人か雇いたい」

 

 説明というには簡潔すぎる答えを返すと、卓を囲んでいる多数の冒険者達の元へ急ぎ足に歩み寄る。いや、最早それは詰め寄るといった勢いだ。

 

「俺の仲間――リリーとイングリドが近くの森に行ったきり帰って来ない。二人を捜索するための人員を雇いたい」

「あんたの連れっつーと……元気な姉ちゃんとちっこい嬢ちゃん達か」

 

 覚えがあったのか、店内がざわつき始める。

 彼ら錬金術士が依頼を受けるのには、基本的にこの酒場を利用していた。常連の中には、彼女達の姿を覚えている人間も少なからずいたのだろう。そうでない人達も切迫した事態を察して、やにわに顔色を変える。

 

「そうだ。一秒が惜しい、今すぐにでも出発して欲しいんだ。無理を言っているのは自分でも承知している――だが頼むッ!」

 

 アルトは切羽詰った様子で語り終えるやいなや、テーブルに打ち付けんばかりの勢いで頭を下げた。

 形振り構わない彼の様子を見て、シスカは冷静に判断した。焦りすぎだ、と。

 リリーとイングリドが出掛けてから、既に二時間近く経過している。二人の身に何かあったのではと想像するには十分すぎる時間だ。

 

 ここに来る前、テオからもたらされた情報によって事情を把握したシスカ達は、三手に分かれた。アトリエに残る人間、衛兵の下へ向かう人間、そして酒場に向かう人間だ。

 相談した結果、ドルニエとヘルミーナにはアトリエに残ってもらい、二人が戻ってきた際に備えてもらうことに。カリンには門番の人達に事情を説明がてら、出来れば何人か手伝ってもらえないかを交渉してもらいに。そして、シスカ、アルト、テオの三人は捜索のための人員を集うためにこの場所へと。

 テオは先ほど、自分の用意のために一目散に二階へと駆け上がっていった。知り合いの何人かに声を掛けてみると言っていたので、彼に関してはそのまま任せていいだろう。

 

 不安なのは、アルトだ。

 感情を理性で抑え込み、冒険者を募るよう提案したのは彼自身だ。森の中を当てもなく探し回ったところで、探し人が見つかる可能性は少ない。例え一刻を争う状況とはいえ、だからこそ時間を無駄にすることは出来ない。それは正しい。

 ただし、理解するのと納得するのとは別のことだ。

 普段シスカが彼を目にした時の泰然自若とした雰囲気など欠片もない。張り詰めた糸を想像させる思い詰めた様子だ。無理もない。彼にとって大事な存在に危機が迫っているかもしれないのだから。

 そしてそれはシスカにとっても同じことだ。顔見知りとなってまだ間もないが、これから良い友好関係を築いていけたらと思っていた少女達が事件に巻き込まれているのだ。平然としていられるわけがない。

 けれど、だからこそ尚更冷静でいなければならない。そうでなくては、解決出来るものも出来なくなる恐れがある。

 アルトの懇願に顔を見合わせていた冒険者達を見て、シスカが助け舟を出そうとした瞬間だ。彼らがニカッと男臭い笑みを浮かべた。

 

「水臭えな、良いに決まってるだろう。酒を一緒に呑んだ仲じゃねえか」

「ちっとばっかり酔っちゃいるが、こんなもん屁でもねえさ」

「すぐに見つけ出して、また宴会やろうぜ。今度は嬢ちゃん達も一緒にな」

 

 アルトの無茶な頼み事を、当然とばかりに聞き届けた彼らが迅速に動き出す。

 すぐさま身体をほぐすものや、武器を手に取って調子を確かめるもの、水を頭からかぶって酔いを冷まそうとするもの、腹ごしらえをするべく無言で食事をかっこむもの、各々が自分なりの準備をし出す。全ては、一秒でも早く二人を助け出すために。

 

「……っ、そ、そうか! すまない。なら、すぐに報酬と手続きを――」

「そんなもんいらねーよ! いいよな、皆。なあ、マスター?」

 

 長い黒髪を一つに束ねた男の冒険者が、長剣を肩に背負って気風良く答える。

 彼の言葉に、冒険者達全員が一斉に首を縦に振った。もちろん、ハインツもだ。

 本来ならば、例え無報酬であろうと依頼は正式な手続きをしなければならない。そういう取り決めであるし、無視すれば問題ごとが起こった際に色々と面倒な事になるからだ。

 けれど、今は火急の事態だ。例え緊急時だろうと規律を遵守しようとするアルトは正しいが、有事にあっては融通を利かせるべきだ。

 冒険者というのは、元々そういう自由な気質の人間達の集まりなのだから。

 

「依頼だったら必要だが、困っている顔見知りに手を貸すのには不要だからな」

 

 右手で顎を撫で、にやりと唇の端を歪めるハインツ。よっ男前、などと囃し立てる声がどこからともなく上がる。無理矢理にでも明るい雰囲気を作り出し、緊張を緩和させようとしているのだろう。先ほどまでのどこか暗い張り詰めたものが、安心させるような明るいものに変わる。

 その中にあっても、アルトは先ほどまでと全く様子が変わっていなかった。いや、手段を確保出来たせいか、一層その顔色は深刻なものとなっている。

 唇を噛み締め、まだかまだかと苛立たしげに足踏みをしている。

 きっと彼は今、必死に耐えている。今すぐ何も考えずに近くの森へと駆け出したくなる自分と、冒険者達を待つことが最善だと判断する自分の間で葛藤して。

 

「大丈夫、きっと無事に助けられるわ」

「間に合わなかったらどうするっ!」

 

 シスカが気遣って声を掛けると、血走った目でアルトが睨み返してきた。

 顔色が悪いどころか、最早蒼白だ。

 

「……俺のせいだ」

 

 ゾッとするほど暗く静かな声だった。

 諦観と悲嘆と絶望に満ちた空虚な声音。これがアルトの口から出たとは信じられないくらい、普段の彼から掛け離れたものだ。

 すっぽりと表情の抜け落ちた顔で、力なくうなだれる。

 

「俺が余計なことをしたから。俺がいるから。俺のせいで、俺が……俺がいるせいで、こんなことになったんだ。全部、俺のせいだ。また、俺のせいで人が死ぬ。やっぱり……やっぱり、俺なんかいなかった方が――」

「アルト、気をしっかり持ちなさい! 冷静になるのよ。焦っていると、良くない考えばかり浮かぶわ」

 

 聞き取れない小さな声音で何事かを呟くアルト。その両肩を、シスカは力強く掴んで揺さぶった。彼が抱えている事情は知らない。でも彼の様子がおかしいのは、焦燥だけではないことが分かった。こんな状態に陥るほどの何かがあるのだ。

 でも、理由を聞き出して落ち着かせられるような時間的余裕はない。

 だから、それ以外の手段が必要だ。

 

「もし、間に合わなかったら……」

「あなたは錬金術士で、私達は冒険者よ」

 

 すがるような視線を向けるアルトを正面から見つめ返し、きっぱりと断言する。

 

「荒事関係なら、こっちがプロよ? 非常事態は、私達冒険者に任せておきなさい」

 

 自信たっぷりに言い切ってみせ、余裕のある微笑を浮かべる。

 演技だ。いくら冒険者とはいえこんな事態は想定外。上手くこなせる自信なんてない。

 それでも、シスカは頼れるところを彼に見せなければならない。今、必要なのはアルトを立ち直らせることだ。いつも通りに、冷静に頭の働く彼になってもらわなければならない。

 不安に怯える人を安堵させる、そういう人達を目標としているのが自分だ。友人の一人も安心させてやれないでは、王室騎士隊に入るなんて到底出来っこない。

 シスカはハインツに一言断りを入れると、カウンターに置かれた小瓶を手に取った。蓋を開け、中のものを一個取り出して包み紙を剥がす。

 そして、持ち手の部分をつかんでそれをアルトの口へと突っ込んだ。

 

「舐めて。そんな疲れが抜けていない状態じゃ危険だわ」

「!? こ、これは……」

「あなたが作ったものなんでしょう? だったら、その効果は知っているわよね」

 

 突然の行動に目を白黒させたアルトだったが、それが何かを悟ると黙ってそれを舐め始めた。

 真面目な表情で飴を舐める彼を見て、シスカは場違いにも噴出しそうになるのを堪えた。

 シスカとて、何も好きでこんな真似をしたわけではない。きちんとした理由がある。

 彼が今、無言で舐めているのはお酒アメという調合品だ。微量ではあるが、疲労回復効果があるらしい。以前に採取で出掛けている時、彼から一度同じものを貰ったのを覚えていた。

 度数が低いから酔いも気にならないし、これから走るにしても問題ないだろう。焼け石に水だとしても、今の彼には気を和らげることが必要だと判断したのだ。

 アルトがお酒アメを舐め終わる頃、支度を終えたテオと彼の知り合いらしい若い冒険者が階段から降りて来るのが目に入った。周囲を見ると、他の冒険者達も準備が終わったようだ。どう動くのか、と問いたげな視線がこちらに投げ掛けられる。

 シスカはアルトを気遣い、再度同じ言葉を繰り返す。

 

「大丈夫、きっと無事に助けられるわ」

「ああ……そうだな。そうに決まっている」

「ちょっとは冷静になった?」

「さっきよりはまともに判断できるようになった……つもりだ」

「うん、客観的に自分を判断出来れば上等よ」

「すまない。どうかしていた」

「いいのよ、気にしないで。大切な人達のことだもの。あなたが焦るのも分かるわ」

「……すまない」

「謝ってばかりね。それよりも、これからのことを皆に説明しないと」

「ああ、分かっている」

 

 アルトが目を閉じ、深呼吸する。

 そして、瞼を開ければそこにはいつもの彼がいた。

 周囲に集まった冒険者達を前に、アルトが堂々と宣言する。

 

「さあ、二人を助けにいこうか! そのために、まずは――」

 

 

 

 

  ◆◇◆◇◆

 

 

 

 一日の鍛錬の遅れを取り戻すには三日必要になる、というもっともらしい格言がある。

 真偽の程はともかくとして、今のシスカには足踏みしていられるような余裕はなかった。

 だから例え肉体も精神も疲労した日の翌日といえども、こうして街中で走り込みをしている。

 もっとも、流石に激しい鍛錬は肉体を苛めるだけで逆に良くない。この後は昼食をどこか適当な店で済ませ、知り合いの冒険者を誘って軽く組手に付き合ってもらう予定でいる。

 短距離ではなく、長距離をこなして体力を作るのが目的なので、走る速度は常に一定だ。ただ走るだけならば、冒険者として活動しているシスカにとって然程苦ではなかった。問題は、女性であることの不利、筋力面での問題だ。

 聖騎士試験では、重鎧や武器を装備した上で長距離を走らされる。当然だ。彼らにとって、その状態で平時通りに任務をこなせられなければ意味はないのだから。

 以前の聖騎士試験では、実技試験の厳しさもさることながら、全体的に筋力面で劣っていたために無残な結果となってしまった。

 だからこそ、その反省を生かすためにも、一日たりとも無駄には出来ないのだ。

 そして今度こそ、憧れの聖騎士に――王室騎士隊の一員になってみせる。

 

 ――と、走る前方に草原が広がっていた。

 どうやら勢い余って街外れにまで来てしまったらしい。

 シスカは折り返すために一度、足を止めた。途端に、玉の汗が額から流れ落ちる。用意していたタオルで拭いながら息を整える。

 そうやってなんともなしに草原を見ていると、不意に緑以外の色が目に入った。おや、と小首を傾げる。

 シスカがよくよく目を凝らしてみると、それはどうやら人間のようだ。というか、もっとはっきり言ってしまえば知り合いだった。遠目でも分かるほど、特徴的な格好をした女性だ。別人と見間違えようがない。

 こんな場所で一人座って何をしているのかは知らないが、取り合えず一声掛けておこう。昨日のこともあるし、体調が完全に戻ったのかどうかも改めて確認したい。

 

「リリー!」

 

 突然名前を呼ばれてびっくりしたのか、彼女がキョロキョロと周囲を見回す。すぐに、こちらに気付いたようだ。片手を振る彼女に、シスカも振り返す。

 こんな場所で何をしているのかを続けて聞こうとすると、リリーはそれを制止するかのように慌てて両手をブンブン振った。人差し指を立てた右手を口元に沿え、静かにとジェスチャーで伝えてくる。

 そんなリリーの様子をいぶかしみつつも、彼女に手招きされたので素直に草原へと足を踏み入れる。どうやら物音を立てないで欲しいようなので、心持ち気遣いながら彼女の元へ近付く。

 リリーの付近まで来ると、ようやくその理由に納得がいった。

 

「あ。そういうことね」

「そ。そういうことよ」

 

 苦笑するリリーの膝の上には、安らいだ表情で眠る男性の姿があった。

 アルトだ。静かに寝息を立てる彼の両脇には、お腹にもたれかかるようにして眠る二人の子ども達の姿。彼らを起こさないようにとの配慮だったわけだ。

 

「昨日あんなことがあって疲れてないわけがないのに、二人に付き合って無理しちゃうから」

 

 ほんとバカなんだから、と小さく呟くリリー。

 本人は気付いていないのだろう。自分がどんな表情でその言葉を口にしているのかを。

 見ているこっちが、くすぐったくなってしまうようなそんな表情を。

 そのことを彼女に指摘するような愚行をしてはいけない。もしそんなことをすれば、リリーはきっとすぐさま全力で否定するだろう。そうなってはこの大切な一時が台無しになってしまう。

 リリーだけではない。アルトもそうだ。

 採取の都合上、彼らと共に野宿することが今までにも何度かあった。でも、その時の彼の寝顔はどこか常に警戒した硬いものだった。魔物の襲撃の恐れなどもあるし、当然といえば当然だ。ただ、それだけの理由では今ここまで安心しきった寝顔を浮かべたりはしないだろう。

 

『リリーのフォローは俺の役目だ。他の誰にも、その責任を譲る気はない』

 

 リリー達を助けた後に、彼が口にした一言を思い出す。

 シスカがリリーを背負おうかと提案した時のことだ。自分だってそんな余裕なんてない癖に。頑なに、その責任を手放すまいと頑張る彼の姿を。

 不器用な人ね、とシスカは思う。リリーの前では常に余裕綽々な態度でいる癖に、その影では必死に彼女の頼れる先輩であろうと努力するその姿に。

 二人とも相手を大切に思っている癖に、そんなことはないと否定してみせる。立場上仕方なく相手をしているだけだと。そんな言い訳をするとこばかり、よく似ている。傍から見ればどうなのかは分かりきっていることなのに。当事者達だけが全く気付いていない。

 シスカはそう心に思うだけで、口にすることなく封印した。からかうのも時と場合によりけりだ。今はこうして、彼女達の安らぎの時間を邪魔しないようにするべき場面だ。

 

「それ手作り? おいしそうね」

 

 リリーの横に置かれたバスケットの中身が目に入った。サンドイッチや揚げたお肉など、見ているだけで食欲をそそられる。

 

「ありがと。アルトと一緒に作ったんだけど、お昼まだならシスカもどう?」

「いいの?」

「あまりもので良ければ、だけど。途中からバカと張り合って、つい作りすぎちゃったから」

 

 普通は、仲が悪い人間と一緒に料理なんてしないものだ。シスカはそんなことを思いつつも、昼食の誘惑に負けてご相伴に預かる事にした。空腹だったので彼女の申し出は願ってもない。

 敷き布の上に腰を下ろしてバスケットを受け取ると、遠慮なく次から次へと口に放り込んでいく。冒険者になってから、食事をするのが早くなった。咀嚼もそこそこに飲み込む。

 空腹は最高の調味料とはよくいったものだが、それを差し引いても素晴らしい出来栄えだ。

 

「ん~~っ! このソーセージ絶品ね! 特にこのマスタード、お酒に良く合いそうだわぁ」

「それ、アルトと同じセリフ。まあ元々、お酒のつまみにするような品物だしね」

「お酒が好きな人間なんてそんなものよ?」

 

 ついついお酒に合うかどうかを判断してしまいがちになるものだ。特にシスカの場合、酒豪といっても良いほどに酒に強いから尚更だ。

 食事を終え、軽く雑談をする。

 どうやら体調はすっかり元通りになったらしい。昨夜も確認したことだが、実際に生活してみないと分からない部分もある。違和感もないらしいし、大丈夫だろう。

 二、三、適当な話をした後に、今度カリンも誘って一緒に三人で買い物する約束を交わす。前々から気になっていたのだが、リリーの作業する服装と街で過ごす服装が同じような種類というのは、シスカ的には見過ごせない点だったのだ。これを機に、化粧や衣服で着飾ることを覚えてもらうつもりだ。もちろん、リリー本人にはその時まで内緒だが。

 

「さて。それじゃ、そろそろ戻るわ」

「もう行くの? もっとゆっくりしていったら?」

「そうもいかないのよ。なにせ、冒険者だからね」

 

 返事になっているようななっていないような、そんなことを言い残して彼女達と別れる。

 食後の腹休めも終えたことだし、この後は予定通りに鍛錬の続きといこう。

 

 走りながら、思い出す。

 先ほど見たばかりの彼女達の姿を。

 まるで仲の良い家族のような、そんな幸せな景色を。

 自分には手が届きそうで届かなかった、その光景を。

 寂しさがないといえば嘘になる。

 未練がないというのも嘘だろう。

 女として生きることを捨てたわけではない。

 身なりには人一倍に気を遣っているし、素敵な恋人だってもちろん欲しい。

 きっかけは何度となくあった。

 両親に郷里で見合いをすすめられたときだったり。

 当時の恋人に、家庭に入ることを持ち出されたことだったり。

 中には、理解を示してくれる人もいた。

 片手で数えられる程度の、少ない人数だけれど。

 それがシスカの選んだ道だ。

 ほとんどの人にとって受け入れてもらえないようなことだ。

 後悔はしていない。

 ただ、そういうのにもまた違う憧れは残っているのだ。

 時折、羨ましくなってしまうこともある。

 そして、それでも尚、優先したい目標があるのがシスカという女性だ。

 だから今は、

 

「私も頑張らなくちゃいけないわよね!」

 

 夏には待望の王室騎士隊の入隊試験がある。

 今度こそ、なんとしてでも合格しなければならない。

 シスカは意気込みを新たに、速度を若干上げて走るのだった。

 自らが掲げる目標へ続くと信じ、ただひたすらにその道を。



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