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「……どうしても、この提案は受け入れてもらえない――ということでしょうか」
問いかけるまでもなく、その答えを彼らの視線と表情が雄弁に語っていた。単純明快な非難の目、まるで聞き分けのない子供を見ているかのような目もある。中には一人、器用に目で語っていた将校が居た。『全く話にならない。君のような若輩が一体全体、何故……』云々と。
ひとしきり沈黙に責められた後、ようやくこの場を仕切る“お偉い方”が口を開く。だが、無慈悲にもそれは会議を締める言葉だった。
「以上で、新戦略による反抗手段の説明会議及び、“新任提督”の紹介を終える」
言葉を強めて視線を飛ばした先は、針のむしろに立たされたばかりの女性であった。つまり彼女こそ“新任提督”であり、『新戦略による反抗手段』において重要な役割となる人物でもある。
はっきりと美人と言える女性である。目元は優しげだが、この会議の場においては瞳に真剣さが宿り、やや表情も固く、敵意にも似た感情が見て取れる。食いしばった歯のことを感付かれまいとしているようだが、長年人を見てきた立場の人間なら分かる。彼女は今、解決できない悔しさに震えているのだ、と。理不尽といえる過酷な訓練の中で、自らの無力さと向き合うことになった青年も同じような顔をする。縦社会が全ての世界では、比較的よく見る顔であった。
海自――ではなく、“海軍”であることがすぐに分かる白地の軍服に身を包み、正式な場であるために髪も結い、軍帽の中へと収めている。そうして見えるうなじはうっすらと赤らんでおり、興奮しているのだとも分かった。
ぞろぞろと会議室を後にする軍上層部の――いわゆる“大本営”と揶揄できる――上官たち。その中で一人の気難しそうな男性が彼女の肩を叩いた。
もともとあまり口数の多い方ではないのだろう。しかしその将校は胸元の勲章をひけらかさないだろうし、若いころの武勇伝を語ったりもしない誠実で寛大な人だとすぐに分かる。失礼は承知で、横目にて一瞥するに済ませた。なんと答えていいのかが、分からなかった。
「……後の事は頼む」
勇猛な海軍大将の大きな背中もまた、去るために動き出す。
きっと彼は、全てではないにしろ、賛同できる部分があることを認めてくれたのだ。慰めになるのか励ましになるのかは彼女次第だが、それだけは言っておきたくなったに違いない。
会議中、意見具申と言える発言を始めた時は心臓が弾け飛びそうだった。今は心臓に穴が空いて、徐々に血の気が引いているような気がする。沈みゆく船に乗っているような気分だった。
軍帽を脱いで胸に当てる。そこに隠さざるをえない思いを、ここで封じ込めておかなければならない。でないと今後の職務に影響が出かねないから。
上からの命令は絶対。受け入れられなかった意見は、破棄しなければならない。封印しなければならない。そして、もしこの封印を解く時があるとすれば、それは千載一遇、一生に一度、絶対的な確信が全身を貫き、人生を賭けても良いと思える時しかあり得ないだろう。
諦めてしまいそうになっていたその時だ――本当に不思議だと後になって思う時が来るのだが、そのチャンスというのは、何もかもが始まってすらいない、ここなのではないかという天命のようなものがあった。小さくなってしまう、今にも扉を開けて消えてしまいそうになっているその海軍大将の背中を見て、何かが囁いたのだ。
『今だ』と。
自分が待つしか無いと思っていた千載一遇のチャンスは、ここでしか手に入れられないものなのだ、と。
だから――“提督”になるために。
「――あの!」
大将はドアノブに伸ばした手を止め、振り返った。
「折り入って――お願いしたことがあります」
その時の提督の瞳は、覚悟を決めた者の色をしていた。
――さあ、“提督”になろう。
1
横須賀鎮守府。かつて存在した同名同目的の施設を、現代的な要素の大部分を排斥した上で可能な限り再建し、“彼女たち”の生活に適した環境を生み出した施設群のことだ。端的に言えば昭和テイストで作られており、この施設群の中だけで、軍務を遂行しながら日常生活も謳歌できるようになっている。訓練施設からレジャー施設まで揃っているのだ。
……正しくは、そうなる予定になっている。
つまり、横須賀鎮守府は未完成だった。最終的な完成形はそうなる、ということである。
現在の横須賀鎮守府は、まさに軍の作戦拠点でありながら主要港でもあるという軍令向きの出で立ちで、施設のほとんどは工業的な施設。通称、『工廠』。そして立ち並ぶ寮――あえて昭和風に表すのであれば“寄宿舎”だろうか――があり、立派なレンガ造り三階建ての建物が鎮守府の司令部だ。埠頭に面しており、海を水平線の彼方まで眺めることもできるし、各施設へのアクセスも整えられているから、まさに鎮守府の心臓と言える場所である。今日からそこに勤務することになるのだ。
もちろん住み込みとなり、実質、このお金をかけた博物館のような鎮守府から外に出ることは滅多にないだろう。だから自分としてもここの生活に慣れていかねばならない。海自所属の自分が旧海軍の――素人目には同じだろう――眩しすぎる白い軍服をまとっているのにもそういった理由がある。今のところはまだ少ないレジャー施設で息抜きをし、庶民的な商店で買い物をし、夕ご飯を作って――布団で寝る。夜には蚊帳を使うのだろうか。それとも蚊取り線香くらいは使わせてもらえるのだろうか。
真夏。海辺は日差しが余計に強く感じ、眩しさに目つきが鋭くなっていることは自覚できた。
予定より随分と早く到着したので軽く施設を見学させてもらった。一時間ほど歩いたものの誰とも出くわさず、人の気配は無い。しかしどこからかは見られているような視線は感じた。話に聞いている通りならば、その視線は気のせいではないのだろう。視線は特に工廠の付近で多く感じたことも根拠となる。そういうものだと、聞いていた。
「品定めされているのかしら」
不快な視線ではないことが救いだった。その視線はひとえに好奇心で構成されていて、例えるならば、ピエロが目の前に現れた子供たちの視線――だろうか。ピエロは何をするか分からない。不思議がる。不思議がってじっと見つめ、次に何をするのかを見逃すまいとするのだ。
「…………」
コンクリートの埠頭から、海原を眺めていた。
こんなに静かで綺麗な海なのに。
波の音に合わせて陽光のキラキラが増す。海は輝いている。決してその神聖さを失ってはいない。まだ希望は残されている。この地に。この場所に。この海に。
そのはずだ。そうでなくては――戦わせる意味が無い。
独り身の荷物にしては大きかったと後悔していた革張りのスーツケースを持って、埠頭を離れた。
鎮守府に向き直った背中へ、海の輝きが無数に瞬いたことに彼女は気が付かなかった。
一人で背負うことになった責務に対する秘めた思い。そんな固い決意をしていた彼女に、海の声は聞こえなかった。届ききらなかった。“彼女たち”と共にある母なる海が『安心しなさい』と語りかけていたことは、知る由もなかった。
海は諦めていないのだ。
例えその水底に、決して照らし出せない深海の闇が広がっていようとも。
2
鎮守府本棟の玄関先には、二人の少女が立っていた。五段ほどのステップを上がれば屋根付きのアプローチ空間であり日陰でもあったのに、彼女たちは律儀に熱射の下で直立待機していて、提督の姿を見ると汗を振り切らんばかりに敬礼して見せた。脇を締め、地面とほぼ垂直とも言える角度の敬礼だった。
提督から見て左の娘はスラリと高めの身長に長い黒髪、眼鏡を掛けていて知的そうだ。衣服は標準的なセーラー服に見える。……待って、スカートのあの隙間は何……? 見えているのは地肌なのだろうか? いや、そんな設計のスカートは知らない……。
雑念を振り払って右の娘を確認する。こちらは目立つ髪色だった。まず目に入ったのはその芳しそうな桃色の髪で、左の黒髪眼鏡の娘と同じセーラー服を身にまとっている。品のあるおさげにまとめた二房が風に揺れ、快活そうな輪郭が見えた。目元もきりりとしていて、サバサバとしているように思う。
「提督、着任をお待ちしておりました。私は大淀と申します。艤装が無いため実戦には出られませんが、艦隊指揮、運営はどうぞお任せください」
落ち着いた声だ。印象通りの冷静な娘なのだろう。流れるように挨拶を済ませると、横目で桃色髪の娘を一瞬だけ見た。『次はあなたの番』というわけらしい。
それに応えるように笑顔を見せたもう一人は、フレンドリーに右手を差し出してきたのだった。
「どうぞよろしくお願いいたします!」
一先ず握手は交わした。……だが、名乗りはしないのだろうかと思った矢先、大淀と名乗った娘が眉を寄せて小声で指摘する。
「まずは名前からって、打ち合わせしたじゃない……」
「え? あぁそうでしたすみませーん! 工作艦、明石です! でも大淀と同じで艤装が無いので……えっと、しばらくは酒保とか、ちょっとした日曜大工とかでみんなを助ける便利屋だと思ってくださいね!」
明るい。思った通りの快活で磊落な性格なようである。笑顔は屈託なく、階級差や立場上の鬱屈とした諸々と軽く吹き飛ばし、一息に警戒心の内側に入ってくるようなタイプだ。気軽に話せる相手だと思った。しかし一方の大淀が話しにくいタイプなのかと問われれば、それも違う。事務的でありながらも優しさと真面目さを両立させている様子で、断言するが、仕事でのミスは無いだろうし、ミスをミスと思わせない解決力も持っていそうだ。きっと素晴らしい補佐であると同時に、相談役にもなる。
大淀と明石。実は、名前は聞き及んでいた。この鎮守府に何週間も前から住み込み、コツコツと準備を進めていたという。つまり、提督の着任を待っていた。
この鎮守府に住まう“彼女たち”。
“彼女たち”についてはもはや思い起こすまでもないほど何度も復習した。ここで全てを思い出す必要もないだろう。
“彼女たち”こそ、自分が提督に正式任命され、上層部に顔見せを行ったあの処刑場でいうところの『新戦略による反抗手段』である。そしてそれを“艦娘”と呼ぶ。
人のようでありながら、艦の名を冠した存在であり、“敵”に抗うことのできる存在。
彼女たち艦娘と提督。それがこの戦いに勝つための欠かせないピースなのだ。
「明石が失礼しました。お許し下さい」
頭を下げる大淀。しかし彼女が一番理解していそうだ。明石はきっと、どんな時でもこんな様子で、着飾らず、誰とでも仲良くなれるのだ、と。
だから自分も明石のことを失礼だとは思わなかったし、大淀の謝罪も必要なしと判断した。
一礼する大淀の脇腹付近に存在する謎の空間、スリットが再び目に入る。一体どうなっているのかしら……――。
「構わないわ。――執務室に案内を頼める?」
隠さなければならない内心を打ち消すと、自分でも驚くほど無愛想な声が出た。同時に、それが“提督”の第一印象になってしまったことを悟る。明石は面食らった様子で二の句が継げなくなり、大淀は一瞬口を真一文字に閉じて視線を床に落とし、一秒もしない内に口を開いた。
「はい。ご案内します」
――暑い中、ご苦労様。挨拶だって、執務室で構わなかったのよ。
心の中ではそんな労いの言葉が出てくる。だが自分が与えてしまった第一印象が早くも地球を一周して背中に伸し掛かってきたようで、明石以上に口が重くなってしまった。
明石もしどろもどろになりながら――当然だ。目の前の人間と握手を交わした瞬間は間違いなく『すぐ仲良くなれそう』と確信したのに、次の瞬間には裏切られるように冷たい人に変わっていたのだから。驚かないわけがない。失望しないわけがなかった。それでも何とか、執務室に着くまで後ろについてきていた。
――
明石は目の前を歩く提督の背中を、恐る恐るという様子で見た。視線を気取られないように、控えめに。
――どうして? すごくいい感じの握手だったのに……。
暖かくて、ふんわりしていて、それでいて力強さを感じて、これまでに全く会ったことのないタイプの、優しくて『いい人』だと思った。大淀ですらあまりかしこまらずに、小声で注意してきたくらいなんだから、彼女もきっと提督はいい人で、『礼節や立場などを必要以上に厳格に定めないような人』だと理解していたはず。そもそも提督とはそういう人が選ばれると聞いていた。
案内を頼んだ時の提督の顔は無表情だった。鉄の仮面のように。声にも、何の感情も入っていないかのようだった。握手とは正反対の印象。ついさっきまで談笑していた相手に突き飛ばされて転んだかのような理不尽さと不可解さが、明石の胸に渦巻いた。
きっと自分が失礼な挨拶をしたからだ。口ではああ言っていたけれど、やっぱり怒らせてしまったに違いない。大淀の注意がなければもっとふざけていたかもしれない。大淀はもしかするととっくに提督の性格を見抜いていて、これ以上失礼を重ねないように自然体を装って注意してくれただけなのかもしれない。
――あーぁ……やっちゃったなあ……。
明石の中に後悔が生まれる頃には、鎮守府本棟三階にある執務室へと到着していた。大淀が丁寧な言葉で何かを言っているが、明石の耳には入らなかった。
そのまま大淀と提督が執務室に入っていくのを見送ることしかできず、上の空ではあったが『私も自分の仕事に戻ります』とかなんとか、言えたような気がする。
仕事――といっても、大事な相棒である工作機械を載せた艤装が無い以上、やれることが限られてはいる。
特に鎮守府はまだ準備中であり、明石がやろうとしている酒保仕事も本営業はしていない。大淀とともに準備はしていたが、提督や他の艦娘たちの利用で賑わうのはまだまだ先になりそうだ。
特に今日は提督との顔合わせの日だ。大淀は提督のお相手で忙しくなる。これまで共に小さな準備を進めてきた無二の友達が居ない以上、明石は暇になってしまう。大淀には悪いけれど、今日は気分を晴らす息抜きが必要だと思う。
きっと提督に嫌われた。第一印象からしてそんなことでは、今後、ちゃんと戦えるようになった時、ちゃんと工作艦としての役割を果たせるようになった時に使ってもらえるか分からない。そんな漠然とした、いつ来るかもわからない事態の不安を抱えたままでは、仕事が始まってもきっと失敗する。それは嫌だ。
だから今日は、今日だけは、やりたいことをして過ごそうと決めた。
もちろん命令があればすぐに飛んで行くしかないが、本当に提督に嫌われてしまったなら、そんなこともないだろう――と思った。
提督も大淀もすぐに忙しくなる。早ければ今日中に、遅くとも明日か明後日には、戦力の拡充を図るに違いない。自分たちも、大淀と二人きりじゃなくなる。そして遠くない内に出撃が始まり、奴らとの戦争が幕を開けるのだろう。
“深海棲艦”。深海から現れ出ずる人類の敵。海の平和を奪い、孤島の秩序を奪い、世界の絆を破壊した。この国は孤立し、他国の情勢も分からない。海上線が使用不能になり、海原を通る空路さえも危険になってしまったこの世界のことは把握済みだ。
大淀と共にこの鎮守府に生まれて自分の足で立った時には、そういった事情の断片を、どことなく察知することができていた。例えるのならば、母体の中で聴いた音楽に聞き覚えがあるかのように。この世界は、かつて自分たちが艦船であった時代からはるか未来で、何かの呼び声に応えるようにこの世界に受肉した。そういったことは、本能であるかのように理解していたのだ。
後に人の口から直接、詳しい事情を聞かされた。今では、最前線に立つ者として申し分ない知識がある。大淀もその知識を前提に、今後の艦隊指揮を行っていくのだろう。
大淀は艦隊の指揮と鎮守府の運営に関する知識を。明石は鎮守府の構造と工廠技術、艦娘の知識などを中心に身につけていた。二人とも提督にとって必要な存在となることは明白で、必須だとしても過言ではない。
だからこそ自分たちが“最初”に選ばれたのだと分かった。素晴らしい艦隊司令部を持っていた大淀と、数々の艦艇の修理に携わった明石。提督だけでは知り得ない、行いきれないことを請け負える艦娘として。
その責任は理解しているし、恐らく、今後生まれてくる艦娘たちも全く同じはずだ。
自分たちには戦う意思が最初から備わっている。その中で自分に与えられた役割を果たさなければならないことも理解していることだろう。明石の場合は戦う意思よりも、本来の役割の影響が大きいようだが、大淀は今でも『いつか海に出て――』と語ることがあった。
つまるところ艦娘は、戦わせるための兵器だった。
それをあの提督は、完全に、完璧に、余すところなく理解している。
だからあれほど冷たい言葉を吐き出したのだ――。
あなたたちと必要以上に馴れ合うつもりはない――と言っていたのだ。
そのことを受け入れることができたのは、随分と後になってからだった。
大淀はきっと、挨拶を交わし、提督の言葉を聞いた直後の一瞬でそれを察知していた。
少なくとも、工廠の中にある自分の工房と化した倉庫の中で、レンチの柄で耳の裏を掻きながら『提督の頭をかち割って修理したら、さっきのことを忘れてくれるんじゃないかなあ』などと考えていた時には、思いつく由もなかった。
――
執務室は簡素であった。恐らく大淀明石の二人が触れずにいたのだろう。あるのは山積みの段ボール箱だけだった。机すら用意されておらず、机上演習に使えるスペースもない。床をそのスペースとして見るのであれば充分過ぎるほど有る、と言えるが。しかしこの部屋の空調は稼働していた。小さな気遣いを感じて、お礼を言おうと振り返ると大淀が口を開いた。非常に事務的で、実務的な内容。口を挟む余地も無かった。
――そうなってしまうわよね。でも、仕方がないこと。
自分の撒いた種だ。今は受け入れる他無い。
苦渋があからさまにならないよう下唇を噛んで内容を聞き取る。これから提督としてここで働くことになる自分に伝えておくべき事項を事前にまとめていたのだろう。それらしきひとまとめの紙束をどこかから手に取っていた。きっとこの部屋に自ら用意していたに違いない。手作りのマニュアル――のはずだ。そのようなものがあるとは聞いていなかったから。しかし当の大淀の言葉尻にはトゲがあるように感じる。心苦しいばかりだ。
「提督には、我々艦娘を“管理”していただき、敵勢力、深海棲艦への反抗を実施する責務があります」
責務は『敵深海棲艦への反抗』である。この『反抗』という言葉には多数の解釈の余地があると思っている。実際、上層部の望むことは間違いなく『勝利』であろうし、守るべき国民が望むものは『安寧』である。漁民や商人にとっては『護衛』であり、既に被害を受けた難民にとっては『奪還』なのである。価値観と立場によって無数に色を変える言葉だった。
では、自分にとってはどのような意味を持つのだろう。
たった二人の艦娘からさえも警戒されるようなダメな提督で、全うできるのだろうか。
大淀は説明を続けてくれていた。どうやら知っていて当然のことを聞き入っている提督に対し、内心では『知らないのですね』と、ほんの一瞬くらいは思ったに違いないが、それでも彼女の優しい真面目さがそうさせているのだと思う。提督の頭の中は別のことで一杯だった。
大淀は言っていた。『我々艦娘を管理していただき』と。それは、提督の第一声が『艦娘は兵器である』と言っているも同然だったからだ。責任はこちらにある。彼女たちは戸惑いながらも職務を遂行してくれようとしている。
本心では――そんなこと。
思えるわけがない。
実際の彼女たちを目にした瞬間思った。彼女たちは人間と違わないではないか。事前に聞いていたことなど、ほとんど全て嘘だった。兵器などとは思えない。『思え』と言われたが、できるわけがない。そこにいて、喋って、感情豊かに――今は、提督を『嫌っている』。
本来艦艇に意思はない。それが彼女たち“艦娘”は違う。その揺らがない事実が、提督の胸を抉っていた。
――
「次に、近日中に偵察と、可能ならば敵の排除をせよと指令の下っている海域についてですが……提督?」
大淀は、感じていた気まずさと直面しないよう、なるべく資料を見て話していたのだが、それでも、提督の気配がこの部屋から解脱してしまったかのような――空気になってしまったかのような気がして、提督の存在を確かめるために顔を上げた。
その目に入ったのは、思案にふける提督の顔だった。かなり思い詰めていて、悲しげで、何かを憂いている。大淀の中の提督の印象が、その表情を見ただけですぐさま塗り替えられた。それほどに提督は……鬱屈した何かを胸の中に抱えているのだ、と理解する。
途端に大淀は、肩の力が抜けた。手元の資料、夜なべして明石と一緒に作った『マニュアル』は、きっとこの提督になら伝わる。そう思えた。あまり深いことまでは分からなかったものの、この人は、今の態度や言葉の冷淡さの裏に何かを抱えている。悩んでいる。
気難しそうに見えるかもしれないが、それは仮面だと思う。彼女は努力を無下にはしないし、親切を捨てたりもしないだろう。そんな人であると理解が及んだ大淀は、少しだけ――小さな一歩を、踏み出してみることにした。
「提督」
そっと呼びかけ、自分の胸元で小さく手を振ってみる。
「提督? 聞いていらっしゃいます? ねえ」
その動きで気付いたらしく、ようやく瞳に力が宿って、この世に戻ってきた提督と目が合った。だが次の瞬間には無表情に近くなり、冷酷な一面が表に出てくる。しかしそれは、嘘。
無言で用件を促す提督に対し、大淀は口元に微笑を浮かべながら言った。ちゃっかりと、小首も傾げて。
「提督、今日のお夕食は何がよろしいですか。……お刺身、とか……?」
この鎮守府に今のところあるものは、明石が作った釣具で釣った魚と、近々着任予定の『給糧艦間宮』が使用予定になっている食事・甘味処の厨房くらいだ。簡単な厨房ならばこの本棟にもあるのだが、明石に『いざっていう時に使える人が多い方がいいって』と促され、大淀が根負けし、あえて開業前の間宮の厨房を使うことにした過去がある。だだっ広い鎮守府に二人で居た中でも、思い出は既にいくつもあった。
提督は呼気を漏らし、顔も微かな驚きを見せた。
狭量な人間ならば間違いなく怒鳴る。しかし大淀には確信があった。提督は、そんな人じゃない。
「……ええ、任せるわ」
提督の心は揺れるだろう。もちろん掻き乱すようなつもりはないけれど、これで提督は『嫌われている』と思わなくて済むはず。少しだけ。ほんの少しだけ考えを改めました。
だから、提督が抱えている悩み、いつか聞かせてくださいね。
――
「この資料をどうぞ。それから、執務室はどうぞご自由にお使いください。家具など何かご用命なら明石の方へお願いします。それ以外のご用は大淀にお任せください。……では、私は、そうですね、私も、仕事をさせていただきます」
大淀の仕事とは、明石が言っていたことと同じようなものだろうか。つまり、提督着任までにやっていたことの続きということ。実際の業務は提督である自分が動き出し、戦力となる艦娘たちが集まって初めて行うことになるはずだ。
「それでは後ほど」
一礼して大淀は部屋を後にした。手渡された資料に目を落とすと、大淀の急変した態度についての考慮がようやく追いついた。
彼女は見抜いたのだ。提督の胸中にある押しつぶされた思いを。
上層部に提案し、ぼろっかすに叩かれ、打ちのめされ、踏み潰されてしまった思いを。
『艦娘はただの兵器ではない』。あの時の自分は正しかった。それを認められないだけの圧力が自分には有る。しかしもう、表に出すわけにはいかなくなったものだ。
『兵器に感情移入など無意味だ』
『そのような甘ったれたものはマイナスにしかならない』
『何が絆だ。我々は危機的状況にあるのだぞ!』
あの会議の場で振りかけられた言葉が再び突き刺さる。
自分も訓練を受けてここまで成長した兵士の一人だ。だから理不尽に思えるような物言いも無数にかけられてきたし、人間扱いされないような過酷な時もあった。怒鳴られるのは慣れていたが、あの袋叩きは……違うものだった。少なくとも、受け止める自分側の考えでは。
自分が女だからではない。総意に異を唱えたから、出てしまった杭を全力で叩いたのだろう。
『これは決まったことなのだ』
『どれだけ訴えようとも我々の総意は変わらない』
『君はただ従っていればいいのだよ。分からないのかね』
確かに逆らうのは間違いだ。上の命令に従うのが兵士。
それが如何な“提督”と呼ばれる不可思議な地位にあっても変わらない。上司は存在し、部下として艦娘も従えていくことになる中間職だから。
その場だけならば、嫌々でも、折り合いをつけながら上手に従ったことだろう。
だが問題はその後だった。会議に参加していた誰かから聞き及んだのだろう“鬼”が、直接説教を行うとして呼び出し、恨み辛みを全てぶつけるかのように、暴力を振るってきた。
承知の上ではあった。どこかで、こんな目に遭うかもしれないとは思っていた。
『艦娘は兵器』、『戦争には勝たねばならない』、『自分は命令に従うだけの存在だ』。この三つを嫌になるくらい叩き込まれ、ここに立っている。血が出るまで殴られたし、まともな声も出なくなるくらい叫ばされた。相手も自分と同じ修羅場を超えてきた女であったから、容赦など全くなかった。だからこそ――辛かった。
「……っ」
眩暈と不安が起こって、ダンボールに手をつく。
“提督”という特殊な存在は、この鎮守府が『昭和である』ということと同じくらい、艦娘の指揮系統に必須の存在で、自分が選ばれた。経験や訓練過程など関係なく、ただ、何故か選ばれてしまった。それが――その結果を生んだ。
そのことに嫉妬していたあの人は、喜んでしていたに違いない。
あの時の怪我は完治したが、心には今も刻み込まれてしまっている。恐怖として。
大淀はそれを見透かしてくれた。頼りになる娘であることは間違いない。
微笑もうとしたが、できそうになかった。引き攣ってしまい、頬を揉んで誤魔化した。誰に見られているわけでもないというのに。ここまで来たのだから、もう大丈夫なはずなのに。
――明石を探して、謝ろう。
鎮守府の大部分を締めると言っていい工廠は、絶対に見ておくべきだと判断した。
3
工廠ですることは艦娘の『建造』と装備の『開発』だ。少し気色が違うが、『入渠』を行う建物もあり、さらに道一本挟んだ施設では、艦娘本人の身体を労ることができるようになっている。健康ランドと言ってしまえばそれまでなのだが、艦娘の要望に応える形で、今後改築や改装を重ねることにもなるのだろう。今のところは温泉と気持ち程度の療養設備が用意されているとだけ聞いていた。
かつての戦争で、無数の艦艇が海の底へと沈んでいった。その艦艇から艦娘を生み出す技術のほとんどは非公開であるが、提督である自分には、ある程度までは聞かされている。
なんでも、妖精と呼べる存在が重要であるとか。精霊と言い換えることもできる概念的な存在で、特に艦娘とは切っても切れない存在であり、消滅することはあっても死亡することはなく、消滅した個体も何かの拍子に復活するらしい。
深海棲艦の研究の副産物のように進んだ科学技術は魔法のように変貌し、妖精の発見に至った。鎮守府にやってきて見学したときに感じた好奇心の視線は、間違いなくこの妖精たちのものだろう。
そうして水底に沈んだ艦艇の残骸から、妖精という存在を人間サイズにしたような“艦娘”を生み出す技術が登場した。
深海棲艦の跋扈により海底が荒らされ、海流も激しく乱されたことにより、沈んでいた艦艇の残骸も粉々に砕かれ、その破片が世界中の海に散らばったと、とある専門家が研究結果を発表している。それがどういうわけか研究のきっかけになり、過去の艦艇の残骸を用いて妖精の力を借りると――“艦娘”になるということが分かったのだ。
理論の完成からしばらくして、艦娘の明石と大淀がこの世界に誕生した。
乱れた海流によって大時化となっていた海岸に、残骸が打ち上げられていたのだ。妖精に精査してもらうと、これが明石のもの、これが大淀のもの、と教えてくれたそうだ。艦娘の誕生までにも時間は掛かったが、彼女たちこそが“深海棲艦に対処できる存在である”ということの方が、重大なことであった。
そして妖精たちの力を借りて青天井的に進歩した我が国の技術は、ついに鎮守府を建設、艦娘を用いた反抗作戦を実施することになった。妖精によって『提督』が必要であるとされ、自分が選ばれた。
指揮系統が複数あると、彼女たちの行動にも支障をきたすそうだ。つまり、提督という存在を外の世界との緩衝材にすることで、負担をかけずに戦いに集中してもらうことができる、と。
それはつまり『艦娘は人間ではないため、外の人間と関係を持つことは望ましくない』ということだ。どちらの立場に立ってみても正しいかどうかは分からない。人間らしい生活を望むような娘も居るかもしれないし、兵器としてでも戦えるだけでいいというような武人然とした艦娘も居るのかもしれない。例外の話をすればキリはないが、ともかくそこには艦娘たちの意思は介在していない。そして提督の意見も握りつぶされている。
「――」
ともかく、海に眠っていた残骸から艦娘を生む――それはまさしく魔法だった。
それでも一端の造船所のような設備が必要で、こうしていくつも棟が並んでいる。それは、艦艇の残骸を実際に用いたその艦艇のレプリカが必要だから。
妖精たちが協力して『建造』するのは、艦艇のレプリカだ。明石と大淀は実際の残骸を使用して建造され、具現化した。技術が不十分で艤装までは再現できなかったらしいが。
後に改良され、『艦艇の残骸の有無』は関係なくなり、妖精たちの気分次第で、ある程度正確な建造も可能になったそうだ。もちろん精度を確定的なものにするためには艦艇の残骸が必要だが、そのほとんどは、世界の海に散らばってしまっている。もし確実にこの世界に呼び起こしたい艦娘が居るのであれば――その残骸を見つけなければならないということだ。
今では、妖精たちに必要な資材を与えれば、彼らの気分で作られるレプリカを元に、艦娘を呼び起こすことが可能だ。正確さに欠けるものの、急場の戦力増強にはもってこいだった。
ここまで仕組みが分かっていても、具体的にどうやって妖精がレプリカから艦娘を呼び起こしているのかは――分からない。だから、魔法だと言うしかないのだった。
十分の一程度のスケールで作られるレプリカから、艦娘が生まれる。そのレプリカを作るための工廠に辿り着いた。
明石ならきっと、ここに入り浸っているはずである。
提督としての初の業務も、ここで行わなければならない。
執務室に置かれたダンボールの一つから取り出して持ってきたのは、初手に必要な物品だった。
脇に抱えていたその“鉄片”を持ち直し、工廠の鉄扉をスライドさせ、中に入った。
――
上官たちは『初期艦』というような呼び方をしていた。『一番艦』というと紛らわしくなるため、新しく作った用語なのだろう。提督にとっての最初期の艦娘、という意味だ。提督が初めて生み出す艦娘。
その選択は、既に完了していた。提督に選ばれた自分の最初の選択だった。
簡単な流れとしては、海流に乗って流されてしまった船の残骸は、今や海と、海に面する至る所に存在しうる。研究者たちは、提督と艦娘を用いた戦法をより確実なものとするため、戦力として確保するべき艦艇がもう一つ必須だと判断した。
つまり、明石と大淀の実現には成功したものの、艤装の再現はできなかった。大淀の艤装が完成していれば実戦投入も可能だったろうが、それもできなかった。
『艤装を装備した艦艇』が、この計画には必須だった。提督に預けるための戦力として、必須だったのだ。明石、大淀、そして配備予定の間宮も含むとして、そこにもう一つ必要な枠ということ。
政府はそれを受け、艦娘艤装具現化技術の確立と並行し、近海の調査を開始した。深海棲艦の侵攻が現在のところ落ち着いている海域で、広範囲の調査を行ったのだ。その結果得たのは、五ヶ所の海底に未知の金属が流れ着いているということだった。
五種の残骸は全てが駆逐艦のものと判断されており、提督として最初の選択は、その五種の内一つを、深海棲艦の隙を突いて一つだけサルベージする――というものだった。
五ヶ所に分散して同時に引き上げ作業を行う余力は残っていなかったため、やるならば一カ所に集中しなければならないとのことだった。そうして全力の護衛をつけた状態で何とかサルベージされた残骸の内一つだけが――“一つだけ”という点で、おおよその結果は察せられるだろう――手元に残った。
この駆逐艦の残骸を用いて妖精にレプリカの建造を要請すれば、百パーセント、この残骸の持ち主が艦娘となって現れることになる。
駆逐艦一隻から始まる戦争というと、なんとも非力に思えた。
明石を探す前に仕事を済ませようと残骸を持ったまま工廠をうろついていると、頭上に突然ふわりと何かが伸し掛かってきた。クモの巣か何かが落ちてきたように感じて咄嗟に手を伸ばすと、引っ掴んでしまった。
「……」
何とも言えない憮然とした顔……にも見えるし、どこから来るか分からない自信に溢れているようにも見える、小さな人――妖精を捕まえてしまった。
ツナギと言うべきなのだろう作業服を着ており、青い髪を結んでいた。手のひらサイズのほぼ二頭身。言葉は話さないがこちらの意図を理解する知性はあるという。
握っていた手を押しのけられて妖精がジャンプし飛び乗った先は、脇に抱えた残骸だった。
引っ張って奪おうとしたようだが力の差の前に諦め、提督の顔を見上げ、今更ながらの敬礼を一つすると、小さな指先が道の先を指した。
「そちらが作業場なのね」
小さいながらも豪胆だった。しかしその剥き出しの無垢さのようなものは、提督にとってただただ癒やしとなったのである。
鎮守府に入ってから初めて微笑んだ彼女は、妖精に従って進んだ。大小様々の配管が見える天井とコンクリートの床。鉄筋の油臭さと、どこからか響いてくる蒸気の音。工廠は既に稼働を始めている様子だった。
いつの間にか、鉄くずに乗って道案内をしてくれる妖精の他にも、もう一つ二つ、頭の上に重みを感じていた。もういきなり掴むというようなこともせず、妖精たちの好きなようにさせておくことにする。きっと似たような作業服を着た船大工たちなのだろう。
彼らが指差す方向へ行き、青塗りの鉄扉を開いた先が、建造ドックだった。まさに造船所であり、船のレプリカが建造されるためのスペースだ。足を踏み入れたことを合図にでもしたのか、広大な工場の天井にあるライトが点灯される。それでも無人のドックは、ややもすると不気味と言うこともできたが、実際に目にしてしまった妖精たちが大勢隠れていると思えば、何の事はない、彼らの仕事場である。
見たことのない機械が目に入った。四枚のパネルとツマミで目盛りを調整するアナログな操作盤がある。その機械に目を奪われていた隙に脇から駆逐艦の残骸を奪われた。気づくとわらわらと、大勢――いや無数の妖精たちが出現しており、作業服を着た妖精たちが指示を出すと、働き蟻のように残骸を運んで、目の届かないどこかへと持って行ってしまう。
その代わりに非常に大きな、まるで帳簿のような大判の冊子を置いていった。本の虫としか表現できない、未知の生命体を大事そうに抱えた妖精が小さなお辞儀をして去っていった。屈んでその冊子を持ち上げ、近場のドラム缶の上で広げてみた。
購入したばかりのアルバムのような、空白の図鑑であった。ページ数は目測で千ページはくだらないだろうが、めくれるだけめくったとしても、全部白紙であった。
しかしよく見れば、まるで写真を貼り付けてくださいと言わんばかりのそれっぽいのりしろがあり、そのスペースに写真を貼ったとしても有り余る余白は、きっと補足でも書き込めと言っているのだろう。
これは間違いなく、艦娘図鑑だ。既に覚えただけでも百、二百は軽く越える数の艦船たちを、ひとまとめにできる。とても便利だろう。妖精からのプレゼントに満足気に頷いた。
図鑑を閉じると、今度は工廠が動き出した。まず、先ほど目についたスロットマシーンのような機械が動作を停止した。入力はもう受け付けないということらしい。それから作業開始を知らせる警告灯が回転し、黄色の明かりを振りまく。カンカンとなる鐘の音と同時にクレーンが動き出し、さらに周りではみるみるうちに足場が組み上がっていく。丸太小屋の解体映像を逆再生したような光景がしばらく見られた。そうして一分もしない内に足場が組み上がる。数歩離れて全景を眺めてみると、既に船のサイズを想像できることに驚きを隠せなかった。
船の形を、足場を組む時点で把握しているのだろう。仮に足場全てに布でも張れば、船らし形ができあがるに違いない。
そして工廠の造船スペース一つにつき一台存在する、鳩時計のようなギミックがあるらしい巨大な機関が蒸気を噴き出し――その演出とのギャップがひどかったが――小さな扉が開いた。そこからカタカタと音を鳴らしながら空中に階段ができあがっていく。巻物を広げるようにして完成した階段を、先ほどの作業服の妖精たちが駆け足に下っていった。その後ろから、小さな段ボール箱を抱えたヘルメットの妖精も駆けてくる。
そして堂々とした風情の、ボイラーのようなその巨大機関の中央部のパネルが開く。
――『00:22:00』
数字のパネルが、カウントダウンを始めたのだった。
ようやく妖精たちの作業が始まる――と興味をそそられていたのだが、次の瞬間にライトアップが強力になり、逆光となって造船所を見上げることができなくなってしまった。足場が形作るシルエットしか見ることができない。
さらに作業服妖精が何か飛び跳ねながら指示を出すと、奥の機関がカーテンを吐き出した。天井に吊られていて、レールにしたがってカーテンが伸びていく。すぐに視界を遮られた。強力な明かりに照らされているカーテンの中から、すぐにすさまじい音が鳴り出した。耳を塞ぎ、すぐに走ってドックを後にするしかなかった。あそこにいては耳が飛んでしまいかねない。
どの道、あれではどの船ができあがるのが、判別できなさそうだ。妖精は気分屋であり、恥ずかしがり屋でもあるらしい。ある意味職人気質を極めているようにも感じた。
不思議なことにドックを出て扉を閉めれば音はあまり気にならなくなった。今度こそ明石を探しに行けるだろう。
――
明石は、唐突に建造ドックが騒がしくなったことを察した。少し前に妖精の数が激減したため、何かしらの動きがあったのだろうとは思っていたのだが、どうやら提督が建造を始めたらしい。戦力の増強ではなく、初期艦の建造だろうと判断した。
明石は、妖精たちが自発的に集めてくれるガラクタを使って、生活に必要なものを作ることが現在の趣味であった。そのために、元は倉庫として作られた場所を借りて自分の作業場にしてしまった。提督の許可を得ていたわけでもないため、見つかれば怒られて追い出されるかも知れないなぁ、とどうしてもため息をついてしまう。
――大淀も一緒かなぁ、立ち会ったほうがいいのかも……。
手作りの、足踏みペダルで回転させるヤスリを使ってバリを取っていた木の棒に、ふっと息を吐きかけてくずを飛ばす。これで最後の一本だ。後は組み立てるだけ。
もちろん金属を主に扱いたい。いつもいつも、赤く溶けた鉄の熱気と、溶接するときの独特の匂いなんかに楽しさを覚えてしまう、そんなダメな子だと自覚はあるが、今日は木材を扱っていた。いや、ここしばらくと言うのが正しい。
立ち上がり、できあがった“足”を持って、今度はブルーシートを敷いてある床から、同じように完成していたもう一本の足を手にとって見比べる。左右対称にできていた。組み合わせて三角形になるようにすれば立派な足となって――。
鉄扉が突然、開かれた。明石個人の空間でもあるそこにノックも無しに入ってくるのは、現在のところ提督しか居ない。大淀は律儀にノックをしてくれるし、こちらから出て行くまで入っても来ないからだ。……ノックに気付かない時なんかは、扉一枚挟んだだけの近距離なのに無線を入れてくるあたりも、面白いのだが。
「へっ? うわぁぁ! ちょっと待ってくださいね!? 今片付けるからぁっ!」
ブルーシートの端を持って材料ごと丸めて簀巻きにして端に蹴飛ばし、慌てて敬礼をした。
提督の仏頂面は相変わらず、騒ぎで舞い上がった埃に目を細めていた。
「お、大淀に聞いたんですか? 私がその、ここで……ガラクタいじりしてるって……」
本当ならば二十畳ほどある大きめの部屋なのだが、明石がしばらく使っていただけで壁際が大型工具と棚で埋まっていた。加工前のガラクタの山と、加工した後の材料の山が入り口から見て左右にあり、各種作業台の上も散らばっているし、手で使う工具たちも至る所にある。同じ工具だって何個も転がっている。この惨状を見れば、提督が怒るのも当然で――。
「……」
提督はそうして部屋中を目だけで観察したが、視線は先ほど簀巻きにして蹴飛ばしたブルーシートに止まった。
「――」
その顔は『何を作っていたの?』という疑問が見て取れた。一瞬だけ提督の顔のこわばりが取れて、柔らかくなったのだ。その表情が如実に疑問を浮かべていた。
「こっこれはその、えーっと、試作品みたいなもので……なんでも……ないんです……」
気まずさに負けて視線が床に落ちてしまった。
――提督の外套掛けとして作っていたんだけど、衣装掛けになりそうなんだよねえ……。
縦に長い外套掛け、コート掛けだったはずなのだが、慣れない木材加工で失敗作を量産し、材料も底をつきかけた。思いついたのは、えもん掛けを使って衣装を並べる簡素な衣装掛けだった。執務室に置いてもらえれば、衣服を掛けておける。
大淀にも言っていない個人的な製作だった。というより大淀は、この部屋で明石のやっていることを監視もしないし、口出しもしないのだった。
少し気色が違うかもしれないが、大淀が艦隊指揮を得意とするのと同じく、明石はこういうことをやりたくなるのだった。それをお互い分かっているのかもしれない。
「そう」
提督はこれ以上ないくらいシンプルな反応で、明石の混乱をすり抜けた。
そうして、まるで何か、言いたいことを物理的に飲み込んだかのように唾を飲んだ提督は、心にもないことを言うように口を開いた。
「建造ドックを動かしたわ。初期艦が着任次第、正式に提督としてこの鎮守府を率いることになるわね」
「はい! よろしく、お願いします」
返事だけでもしっかりしないと……、と張り切ってしまった。
「……」
提督は明石の顔を見つめ、言いたいことを言うべきか逡巡しているようだった。
言ってくれないと、もやもやする……。
明石は焦れていた。だが、コワイ人であるという印象を持ってしまった以上、何をどうすればよいのかが分からなくなっていた。
混乱に錯乱が加わりかけて、明石は自分も修理したいと思った。しかし自分の身体の中に電線が張り巡らされているわけでもなし、この場で自分を修理できるのは、自分の心しかないのだと言い聞かせる。
――提督とはできれば仲良くなりたい。でも、聞いていたより全然優しくなさそうだし、厳しそうだし……。
今にもこの工房を解体せよと命令を出すのではないかと思うくらい、提督の表情は、険しかった。
提督はふいに目をそらすと、身体ごと壁の方を向いてしまった。無愛想な無表情が崩れて、途端に憂いが見えた気がした。その横顔は――苦しそうだった。
提督の様子がおかしい。やっぱり修理が必要――いや、違う。提督は艦娘じゃないのだから修理は……違う、はず。
じゃあ何が効くかな。甘いもの? それともバットで頭を殴ってみるとか?
いけない、どうしても叩いて直すという観念がついてまわる。
提督は初期艦の建造のために工廠へやってきたという。大淀も居ない様子だ。それがどうして、こんな人知れず使っていた倉庫にまでやってきて、『提督業を始める』なんて報告をしたのだろうか。
自分が執務室の前でさっさと帰ってしまったから? わざわざ言いに?
そんな人なのだろうか。気まぐれという性質でも絶対にないだろう。迷子? そんなバカな。
迷路にはまりかけた明石だったが、ここで、思考が飛んだ。
――そうだ。建造をしたのだから、次は開発だ。提督は開発の指示を私にご用命に違いない。
――
「提督! 装備の開発ですか!? だ、だったら明石の出番ですね! お任せください!」
明石の提案に驚いてしまった。面食らってしまい眉が上がり、一秒の停止のあと頷いた。
「ええ」
明石が先に歩き出し、鉄扉をすり抜けていってしまう。
先ほど咄嗟に彼女が隠したブルーシートの中には、加工済みの木材が巻かれている。しっかりと組み上がるように『ほぞ』も付けられていたし、組み立てれば何かができあがることは違いない。何かは分からなかったが、作業の邪魔をしてしまったに違いない。
左右の手足が一緒に動いている明石は一人でどんどん歩いて行ってしまっている。このままでは置いて行かれると思い、早足に部屋を出た。
それにしても、謝罪を言えなかった。言うべきかやめるべきか悩んだ挙句答えを出せず、それが心苦しくて仕方がなかった。
こんなことでは、提督などできない。
揺れ動きすぎている。やろうとしていること、その決意に、また火を付けなければ。
今は、小さなことを悩むのは厳禁だ。やるべきことをやってから初めて、未来が見えてくるはずだから。
明石には悪いが――このまま自分を嫌っていてもらうことが最善だと思った。
明石の案内で装備開発の工廠へとたどり着いた。建造ドックの裏手になるのだろうか。改めて、工廠はかなり広いことを実感した。
道中、緊張を紛らわすためか、明石はしゃべり続けた。そもそも明石の私室にノックもせずに入ってしまったのは自分のほうで、なし崩し的にこうなってしまっただけだ。彼女の緊張の理由はただひとつ、やはり提督に対する印象の悪さだろう。
「そういえば、初期艦を建造しているんでしたよね? 何分でした? というか、あの大きな機関が動いているところ、後で見に行きたいです!」
「何分……?」
呟いてから、思い出した。ドックの巨大機関のパネルには、フリップ時計のようにパタパタとした数字が『00:22:00』を指して数え下ろしていた。
「二十二分だったわ」
「あ! それだったら大体の目安ですけど、白露型か朝潮型の駆逐艦です! 工廠とか建造については、この明石の右に出るものはいませんよ! といっても比べる相手が大淀しかいないんですけど」
これが普段の明石なのか、ただテンパっているだけなのかの判断はまだ付かない。
しかし彼女はやはり明るいのだろう。自分は聞く専門のようになってしまっているが、それで彼女の気が少しでも晴れてくれれば構わない。
ふと見てみると、明石の手足の動きは直っていた。ちゃんと歩いている。
「白露型か、朝潮型か……」
特に意味のある呟きではなかった。明石にも届かなかったようで、建造時間と妖精について舌が回っていた。
「やっぱり早いですよねえ! 駆逐艦とはいえたった三十分足らずで完成しちゃうんですよ? これは明石の推測ですけど、戦艦級でも多分、一日は掛からないんじゃないかなあ」
作るのは十分の一のレプリカ。されど材料は鉄という本物そっくりのものだ。おそらく最低限、船としても機能するに違いない。妖精は、どんな艦種でも一日以内に作りあげてしまうという。凄まじい技術だ。
「ここの妖精さんたちとは仲良くしてますけど、でも、どうやっているのかは絶っっ対に見せてくれないんですよねえ……。あぁ、早く見たいなあ……造船ドックの妖精ボイラー……」
妖精ボイラー!? そんな呼び方をしているとは思わなかった。
確かに見た目はボイラーだと思った。蒸気を吹き出していたし、中身の得体が知れないという意味では“缶”のようにも見えた。
しかし個人の見立てでは、あれは『巣』だ。蜂の巣があの丸い土の塊の中に様々な部屋と階層があることと同じ。蟻の巣もまた廊下によって繋がった各部屋の役割が決まっているように、あの機関の中には妖精の何かが詰まっているに違いない。そうでもなければ、納得できなかった。
明石はやはり工廠では頼りになりそうだ。素晴らしい知識を持っているし、不可思議な存在である妖精たちとの橋渡し役にもなってくれる。
彼女のトークを聞きながら時計を見やった。
「……あと五分よ。好きにしなさい」
「ふえ?」
唐突の言葉。
竹を割ったような正確であるはずの明石が、本当の何の考えもなく口から可愛らしいリアクションを漏らしたことが、自分にとっても少しだけ救いになった。
明石はドックの機関を見たいと言った。明石の工房を見つけるまでに時間も掛かったし、徒歩での移動も少し長い。今から五分となると、急がなくては間に合わないくらいだ。
そう思って――思っただけのはずだったが、言葉となって口から出た。
すっ飛んでいた理性が戻ってきた明石は、すぐに顔を輝かせた。
「いいんですか!? あの、開発の方は……?」
「これで充分よ」
大淀が作ってくれたマニュアルがある。ひと通りの説明があるため、案内は無くても構わないのだった。
「でも、案内は私が言い出したことですし……」
「……今後、私は常に全部門を監督できるわけではないわ。そういう時のため、ドックのことを知り尽くしている誰かがいると、将来的な問題が一つ片付くのだけど」
遠回しになってはしまったが、明石には伝わるはずだった。
明石は目を丸くして言葉の意味を追い、頷いた。
「ありがとうございます! 行ってきますね!」
最初はきっと、気まずかったことだろう。だが、それでも彼女のアクティブさが自然と案内へと駆り立て、そしてマシンガントークを繰り広げる内、いつもの調子に戻ったということだ。
きっと彼女たちは、提督は非常に不器用で、無愛想で、真意が分かりにくい、どうしようもない人間だと思っていることだろう。
彼女たちは海に出て、人類の敵と戦わなければならない宿命を背負っている。背負わされている。
そんな艦娘たちにとって、それがたとえ人間一人の悩みであっても、余計な重りとなってはいけない。
だから打ち明けることもない。自分はただ、板挟みになって潰されてしまった、歪な人間であるという風に思われていればいい。
仕事はこなす。与えられた責務を果たすまで、提督の戦いは終わらない。
終りが来るその日まで、“彼女たちを使うしかない”呪縛が、提督の肩にはある。
「――」
歯噛みする。拳が固くなる。
――それが何故、“彼女たちと戦う”ではいけないのか。
4
装備の開発方法をひと通り確認した提督は、初期艦との対面を果たすために建造ドックへ戻った。明石が見てくれていたはずだし、呼び起こされた艦娘は実際に迎えに行くまで外に出られないとマニュアルに書いてあったから、行かなければならなかった。
明石は、建造ドックの青扉が開く音に反応してすぐに振り返って、明石らしい言葉で完成を教えてくれたのだ。『初期艦がもう完成したみたいです! たのしみですねー!』と。ドックにある妖精ボイラーの稼働状況をつぶさに観察したのであろう。抑えきれない様子の興奮状態は、提督に対する印象さえも乗り越え、普段通りの明石であった。
提督は満足な返答もできなかったが、妖精ボイラーの膝元に歩いていった。
艦艇のレプリカは背後に存在する。鉄の重厚感をカーテン越しに感じ、シルエットでも立派な船が存在することは明らかだ。中からの作業音も聞こえない。妖精たちも休養に入ったかのようである……いや、ここにいた。
妖精ボイラーの足元に行くと、ツナギを着た見覚えのある妖精たちが提督に向けてバンザイをし始めた。
――かわいい。
「……できたのね」
「白露型! 誰だろう? やっぱり一番艦かなあ? 煙突とか――装備は……ここからじゃ見えないかー……」
明石は明石でレプリカに興味津々のようで、ぴょんぴょんと跳ねたり、額に伸ばした手を当てて観察したりして、シルエットから分かる限りの情報で船を特定しようとしている。それができる人ももちろん居るだろうが、自分はそんな自信はない。よほど特徴的でなければ――例えば、とある戦艦などはひと目で見当をつけるくらいはできるだろうが――分からない。
現に明石は『白露型』であると特定しているらしい。明石の知識が本物かどうか、確かめてみようではないか。
「ここを押すのね」
妖精の一人がトンカチでボタンを叩いている。何故か英語で『GET!』とあった。
この工廠を設計したのは一体、どこの誰なのだろう。遊び心なのかミスなのか、それとも雑な作りなのか……よく分からなかった。
しかし妖精――おそらく棟梁と思われる青髪ツナギの妖精――のドヤ顔を見るに、もしかすると工廠の外側だけを人間が作り、中身は全て妖精が作ったのではないだろうかとさえ思う。
昔を思わせるスチームパンクさと、魔法のような効果を数えきれないほど実現する妖精の機械。……自分の推測は、もしかしたらかなり正確に的を射た可能性があった。
固そうなボタンだったため拳で押した。目測通り固いボタンだったが、カチリと押し込まれると同時にボイラーが少しだけ唸り、背後のカーテンの中身が凄まじい光を発した。背中を向けていてもなお目が焼けるかと思うほどの強い光。真っ白になったのは一瞬で、光はすぐに収まった。そしてさきほどまでバンザイしていた妖精も……消えている。
そしてGETボタンのすぐ横にあった、人一人が出入りできそうな扉の向こうに、気配を感じた。
背後のカーテンも消え、レプリカも消滅していた。明石もそれに気付いて声を上げる。すぐに振り向いて言う。
「いよいよご対面ですねー!」
「……そうね」
外からハッチを開けなければ出られないようになっているようだ。培養カプセルの液体を抜かなければならない行為と同じような気がして、個人的には気が引けた。
手をかけようとした瞬間、大淀が鉄扉を開いて駆け込んできた。
「大淀?」
明石もそんなに急いでどうした、と言わんばかりだった。
少しだけ息を切らしていた大淀は真面目な顔になって、義理堅さ溢れることを言う。
「大淀も、記念すべき初期艦の誕生の瞬間に立ち会うべきかと思いまして」
提督は大淀の言葉に小さく、本当に小さく頷き、今度こそバルブに手をかけて回し、扉を開いた。
扉はそれほど重くはなかった。触った感触は間違いなく鉄だったのだが、やはり何かが違うような気がする。そんな不思議に軽い扉を開けた先には小部屋があり、中に一人の少女が座っていた。
青く透き通るような髪はとても長く、小部屋の壁際にある腰掛けに居ても床に落ちてしまっているくらいだった。清楚で動きやすそうなセーラー型の制服を着ていて、腰元に鮮やかな彩色の宝玉のようなアクセサリーがあった。まん丸の瞳が小部屋を開けた提督の顔を見てぱっと輝くと、その場で立ち上がって――頭を打った。
「うわぁん! いたぁーっ!」
「大丈夫!?」
明石が駆け寄って、そっと寄り添いながら外へと誘導した。入り口にも頭をぶつけないよう、二人は相当腰をかがめて出てきた。中の小部屋は、改良の余地がありそうだった。
「うぅぅ……」
「あちゃー。たんこぶになっちゃいそう……」
新しい艦娘の髪をかき分けながら、ぶつけた頭頂部付近を観察して明石が言う。少し赤くなっていて、すぐにも腫れてしまいそうだった。
「明石」
大淀が心配そうに見ていて、提督は扉に手をかけたまま石像のようになってしまっていた。
それでも新しい艦娘の少女の姿はしかと見ており、二人よりも小柄であること、これが“駆逐艦サイズ”であることなどを考えていた。
内心では明石のように心配している。怪我をしたならすぐに入渠ドックに移さなければ――。
「痛いの痛いのー、飛んでけー! はい! 応急修理完了したよ! どう? 治った?」
明るく振る舞う明石だったが、対する青い髪の艦娘は涙目のままだった。
「治らないです……」
「えぇー? この明石さんの修理が効かない?」
おどけるように言う明石。しかし、見た目以上にしっかりしているのは艦娘の特徴なのだろうか。小学生か中学生という見た目ではあるが、彼女は潤んだ瞳のまま明石の手をそっと退かし、小さくお礼を言うと、提督に向いた。
「五月雨……っていいます! 護衛任務はおまかせください!」
敬礼と、健気な笑顔だった。
白露型駆逐艦『五月雨』。明石の予想は的中しており、駆逐艦であることも事前調査の通りだった。妖精の技術、艦娘の呼び起こしに関連する一連の全て――完成していた。
艦娘から見れば違和感のない出会いだったのかもしれない。
だが提督から見れば、十才前後の娘が、自分の頭にできたたんこぶのことも放っておいて、真っ先に提督への挨拶を優先した。この五月雨という少女――艦娘は、何か強引な手段でそうするように刷り込まれているのではないかという疑念が、ふっと湧いた。
そんなこと、あって欲しくはない。だが――大本営が望む提督像にとっては、こうすることこそが最も効率的だということも理解できる。
悲しみと納得が共存し、どんよりと曇りかけた心に、大淀が横からさっと風を吹かした。
「五月雨はいい子ですね。でも、艦娘にとって怪我は大事です。それは昔から変わりません」
少しだけ説教するかのような、教師のような風格を出して人差し指を立て、言う。
「提督、この子を入渠ドックに連れて行きましょう」
「えぇ!? いきなり……? あのっ」
五月雨も困惑するように大淀を見、提督を見た。
「私は大丈夫です! このくらい、へっちゃらですから!」
「提督はそんなことは望んでいません。怪我をしたままでは、満足な性能を発揮できませんから。提督、よろしいですか?」
提督が言えないことを大淀が全て代弁した。それと同時に、自分の怪我を押してまで立場や任務を優先しなくていい、ということも言い含めている。素晴らしすぎる補佐役だった。
「ええ」
そして何より、提督に対しても説明を兼ねていた。五月雨や他の艦娘たちには、何か『刷り込み』がされているのではないかと疑った提督に対し、目の前で五月雨を優しく諭した大淀は、やんわりとその事実を否定していたのだ。
『刷り込み』とは、洗脳に近い。だからこそ提督は嫌悪感を抱いたし、懸念した。しかし洗脳とは、優しく諭したところで解けるわけもない呪縛である。もし五月雨にそのような束縛が存在するのであれば、大淀が教師の真似事をするように茶化しながら言ったところで、五月雨は決して納得しないだろう。そこで、『ご自身でお確かめください』と提督に決断を迫ったのである。
それに対して提督は頷き、五月雨に呪縛があるのかどうかを確かめようとした。
もしそのようなものがあるのであれば、五月雨は意地でも挨拶を続けて、すぐに正式に配属しようとするだろう――と。
大淀は、そうならないことが分かりきっていた。そんなものは、無いからだ。
五月雨は健気に、自らそうしたにすぎない。艦娘として誕生したその瞬間から、まるでずっと人生を歩んできて、ふとその小部屋の中に待機していて、これから新しい場所での暮らしが始めると思ったから、じゃあ、これからお世話になる人には、まず元気に挨拶をしよう! と決めていただけである。ちょっとしたドジでたんこぶは作ってしまったが、挨拶を忘れていたことに気付いた五月雨は、慌てて口走ったに過ぎなかった。自己紹介のために教室に入ったまでは良かったが、そこで躓いて転んでしまい、でも強がって元気な挨拶をしてみせる――そんな微笑ましい光景だったに過ぎない。
逆に言えば、提督は、そこまで歪んでしまっていた。
そんな、他人から見れば不器用すぎる提督の扱いも、大淀は既にマスターしていると言ってよかった。彼女がいてくれてよかった。心からそう思う。
それは、五月雨の照れ笑いを見て、確信へと変わった。
「じゃあその……修理を、お願いします!」
隣で大淀が満足気に頷いていた。提督も目の動きで頷く。明石が五月雨の肩に手を置いて呼びかけた。
「んじゃ行こっか! こっちだよー!」
二人はそうして歩いて行き、やがて工廠を出て行った。
その背中を提督と大淀、二人揃って見送っていた。自然と、そうしていた。
無言。沈黙が続くと思われた。大淀としては提督の次の仕事を見越して何かアドバイスを……と思っていたのだが、ふと提督を横目で見た大淀は、ぞわりと、感じた。
提督が、かつてないほど真剣な顔をしていたのだ。それはこれまでの無愛想且つ無気力そうな、生気のない人形のような顔ではなかった。なまじ美人である提督がお面のような顔貌であると、寒気がするほど怖い顔となる。本人はそれに気付いているかは分からないが、あのままではこれから出会うだろう艦娘たちも絶対に怖がってしまう。そう心配していた。しかしその表情は、何かを抱えて悩んでいる提督に、新たな、そして確かな決意が生まれたことを表していた。
大淀は直感したのだ。そして自然と背筋が伸び、その頭の動きで眼鏡がズレてしまった。
そして提督はそんな大淀の様子を知ってか知らずか、口を開いた。
提督のクセであると思われた、言葉の前になにか考えるような間を置くことも無かった。
迷いなく、自信に裏付けされた決意がそこにある。
――ついに、この人が動き出す。
――“本当の”この人は、資質がある。だから選ばれたのだ。
――今はこんなだけど、この人は絶対に、私達を導いてくれる。
――暁の水平線、その彼方に、勝利を刻むことができるだろう。
大淀の確信は、少しばかり時間を掛けて、全員の知るところとなる。
その第一歩が、ここから始まった。
「これより明日にかけて、五月雨を含む六隻の水雷戦隊を建造にて編成、近海への訓練出撃を命じます」
「はい!」
「大淀は明石の手が空くまで工廠の監督を。明石と交代次第、艦娘による作戦要項をまとめて執務室へ持って来なさい」
「了解しました!」
5
初期艦として五月雨が着任した鎮守府は、立て続けに建造を実行し、戦力の拡充をはかった。その用意が整ったのは翌日の午後であった。あの後は、大淀の宣言通りに用意された刺し身を食べ、近況の整理を行い、五月雨と明石は入渠の縁からか相応に親しくなったようだった。
大淀は夕餉を四人で共にしようと提案していたが、提督は首を振った。代わりに、三人で集まって食べるよう提案をし、自分は一人で食事を終え、独りで諸々の準備を済ませていた。それが明るみになった時、大淀は当然、苦言を口にする。
「提督、本当に海へ? いくら演習海域とはいえ、海に出ることそのものが危険だと聞いています。無茶はなさらないでください。……いえ、はっきり言わせてもらいます。危険です。やめてください」
大淀の進言は尤もだ。提督はほとんど徹夜で建造された艦娘たちと顔合わせをしていて、夜中でも時折起きて工廠に顔を出す明石と共に最低限のことはしていた。それ以上に、朝になってみると埠頭には漁船を改装した船が一隻停泊していたのだ。大淀は提督が心配だったし、海のことは艦娘に任せて欲しいというプライドのようなものもあった。
「どうしても折れてくださらないのなら、私も同行しますよ。それでも構いませんか」
むしろその言い方では、一緒に行かせて欲しいと言っているようにも聞こえる。
「では鎮守府のことは明石に。私と大淀で演習に同行し、訓練を見学するわ」
「……分かりました。伝えます」
まだ心配そうに頷く大淀。海が危険であることは明白だが、提督はそれを望んでいた。
大淀にはまだ気付かれていないが、提督は海で、やりたいことがあった。
彼女は怒るだろうか。それとも、ただ驚くだけだろうか。呆れ返る可能性もある。
この提督は未だに何を考えているか分からない――そう失望するのだろうか。
騙すような真似をして、申し訳ない。しかしタイミングとしては、今しか無いのだ。
「……大淀、鎮守府の運営開始は大本営へ報告済みかしら」
「いえ、訓練出撃ということで正式稼働ではないと判断していました。報告しておきますか?」
頷いて答えておいた。午後の出撃を前に報告を入れておく。今後は、上から次々に指示が飛んでくることになるだろう。提督と大淀は漁船に乗り込み、艦娘たちの着水を待ったのだった。午前の内に最低限の基礎を見た。全員の顔と名前も一致させた。提督としては、準備は完了していた。
――
今朝の総員起こしの後、朝食の場で伝えた集合時間を前にして、艦娘たちが埠頭へと集まり始めた。水雷戦隊を編成すると決めていた提督はそれを有言実行していた。建造は、物言わぬ妖精たちの働きによって上手くいったと断言できる結果となっている。
計十二隻、十二人の艦娘が建造された。二つの戦隊を作ることができるよう、軽巡洋艦ニ、駆逐艦十となっている。非常にわかりやすく簡潔な構成となった。
明石と大淀によると、艦娘は呼び起こされてこの世界に受肉した瞬間には、この世界についての知識がある程度身についているという。
それは、建造されたばかりの駆逐艦『響』によると“海の記憶”のようなものらしい。
非常に詩的で、とても具体的な回答ではなかったが、艦娘の先輩である二人も、そして何より提督自身も、その回答で納得した。海が持つ記憶を付与されて、この世界に再び降り立つのだ。
海とのつながりが極めて強い艦娘たちの原型が――残留思念のようなものを蓄積した記憶ということなのだろう。
その仮説を元に、提督はその後建造された新たな駆逐艦『夕立』と『時雨』に質問を投げかけた。二人は白露型の姉妹艦ということで、五月雨とも仲良くできそうだ。
『コンビニとは何か、分かるかしら』
その質問に二人は思い思い首を傾げ、『分からないっぽい』『聞き覚えはないよ』と答えている。あまりにも近代的なことは伝わらない。だからこそ鎮守府は昭和でなければならない。それを確かめた提督は、次に生まれた軽巡洋艦『那珂』で、度肝を抜かれた。
彼女はしきりに『アイドル』という言葉を使っていたからだ。しかもその概念も理解しているようだった。残念ながら提督には『アイドル』という言葉がその当時にも広まっていたのかが分からなかったが、那珂の解釈は非常に現代的であった。
『アイドルはぁー、みんなの憧れで、みんなの太陽なんだよ! きらりーん☆』だそうだ。
確かにそのような趣はある。暗喩のプロパガンダを歌唱喧伝するような存在ではないと理解しているのだ。性格的に不安はあったが、那珂も那珂でしっかりとした艦娘であった。マイクは自身の指の一つかのように自然と持って、さらに主兵装の艤装に関しては『小道具』と言っていた。アイドル然としながらも、中身は他の娘達とそう変わらないようだった。
さらに、睦月型『如月』は不相応の大人っぽさがあった。その方向性はともかく、この時点で提督は、艦娘の個性があまりにも強いことに愕然としていた。個性の強い娘と出会う度に提督の心はざわついて、その度に揺れた。
『吹雪』『白雪』『初雪』『深雪』『磯波』は比較的統一性のある艦娘だと判断した。特型駆逐艦として世界を震撼させた艦型であり、同じデザインの制服を着て、みな心根は真面目で、明るく、頑張り屋なのだろう。……初雪だけは、例外かもしれないが。
最後に那珂の姉妹艦『川内』が着任を果たす時にはそろそろ夜も明けようという頃合いだった。川内曰く『朝……か。どことなく眠いね』らしく、寝ぼけ眼のままぼんやりと那珂に連れられていった。
十二人、二つの水雷戦隊を編成できるようになった。提督は迷わず二人の軽巡に旗艦を任せ、一方は初期艦五月雨を含む白露型の三人と響、如月に入ってもらった。もう一方は特型駆逐艦で固めることにした。
全員この世界に受肉したばかりだというのに、きっと一晩を通じて折り合いを付けられたらしい。一度に多くの仲間ができたことがむしろ効果的だったのだろう。
人数が少なければ、必然提督との関わりの密度が違ってくる。提督が大淀によるところの『難しい人』であることが知れ渡るまで、少しばかり猶予ができたということもできる。
提督はそれを避けたとも言えるし、早い内に鎮守府を戦力として稼働させるべきと判断したとも言える。
だがそれよりも、提督は、メトロノームのように揺れ続けてしまう自分自身に折り合いをつけるために、やるべきことがあった。
――
艦娘たちは海を走る。艤装を装着した彼女たちは氷上のように水面を滑走し、移動することができる。主機は脚部の艤装と、背負っている機関部だ。そこが海上での移動に関わっていると思われるが、詳しい原理は明石でさえも説明できないようだった。しかも艦娘によっては背負う機関部がない場合もあった。五月雨は背中に魚雷発射管があり、機関部らしきものは見当たらないためだ。同型の駆逐艦であっても、装備の違いがあるようだ。
提督と大淀を載せた改造船舶を輪形陣で取り囲み、演習海域への出撃を果たす。
漁船の左舷には仮称第一水雷戦隊。川内を旗艦とし、特型駆逐艦がメンバーに固められている。
右舷は同じく仮称第二水雷戦隊。那珂を旗艦とし、初期艦五月雨たち白露型が主なメンバーを務める。
川内と特型駆逐艦、那珂と白露型駆逐艦は相応に昔馴染みの記憶があるようで、埠頭にて顔合わせをした時から、まごまごするようなことさえなく、自然と馴染めているようだった。『久しぶり』や『また戦えるね』などの会話はあった。それは、艦娘が自分たちの役割を理解しているという明石の言と一致していた。彼女たちは呼び起こされたその瞬間から、戦う準備ができているのだ。
まだこの世界に呼び起こされて一日にも満たないとは思えないくらい、意志が強く、はっきりと自我を持ち、連携さえ取ることができる。
とはいっても五月雨は波に躓いてコケていたし、引き起こそうとした夕立を巻き込んで加速、止まりきれずに特型駆逐艦の列に突っ込んだりしていた。あやうく深雪にぶつかるというところだったが、磯波が引っ張って助けていた。小心者らしい彼女だが、やる時はしっかりとしている。
そんな様子を見て笑っていた川内を傍目に、吹雪が五月雨にコツを伝え、白雪が補佐に回って五月雨を立ち上がらせた。安定して航行できるように、午前を使って港付近で練習をした。その後艦娘たちに任せる形でお互いの連携を取らせてみた。大淀の助言もあって、そのほうがスムーズにいったことは明らかだった。
那珂はやや明るすぎる応援をしながらもちゃんと旗艦として先導していたし、響は教えることがないと那珂に言わしめるほど完璧な航行をし、如月も安定していた。むしろさっさと艦娘としてのコツを掴んでしまった彼女は、ノルマを終えるとすぐに提督のそばにやってきて、『ご一緒させて?』と迫っていた。提督が反応できずにいる内に大淀に追い払われたが、戦列に戻る時にもゆるやかに手を振っていた。
――
一度昼食のための休憩を挟み、演習用装備であることを再確認させ、補給をし、再度出撃となった。
演習海域が安全かどうかは、鎮守府にある基地電探で調べられる。その防衛用の電探に敵艦の反応はないようだ。港に一時帰投した際、明石がそう報告にやってきていた。昨夜の内に少々手を加えていたことは気付かれていなかった。しかし明石の責任にするわけにもいかず、提督はこの時明石にこう伝えていた。
『基地電探は設置時に歪があることが確認されているわ。不具合がないかどうかだけ、これから念のため点検をしなさい』、と。
明石が快活に答えた直後に出撃し、大淀はそれからになってようやく考えがまとまったのか、疑問を口にした。
「……提督、基地電探の不具合は報告されていません。大淀、見覚えが無いです」
「そう」
「提督、何をお考えですか?」
その質問には答えられない。だが、彼女たちを信頼しているからこそ、やりたい、確かめねばならないことがある。
提督は大淀に伝える。全艦へ通達させた。
「演習海域は最新の調査によってやや南方面に変更になっているわ。約十五キロ南へ目的地を変更、針路を修正しなさい」
言った通りのことを、漁船を操縦して行う。輪形陣がやや崩れかけたものの、しっかりと進路変更が行われた。
「……提督、“また”です。私が把握していない情報で、いきなり作戦に手を加えるのはやめてください。私たち艦娘も、混乱してしまいます」
「……」
提督は、無言だった。
――
「もうっ」
大淀は耐えかねたように海図を広げた。手早く距離を測って、提督が口にした南十五キロの目的地を算出し、声を上げる。
「えっ?」
大淀が事前に書き込んでいた演習海域を表す緑の円から離れ、南西方面にズレた中心点から、同じ直径の円を描く。円が重なっている部分は僅かしかなく、ほとんど別の海域と言える場所だったのだ。
演習海域とは、安全が確保されていて、地上からの防衛が届く範囲でもある。同じく描かれた地上基地による防衛範囲の円からも、わずかに離れている。
「提督。目的地は――安全ではありません。地上からの支援も届かない危険地帯です! 今すぐ目的地を再修正するよう意見具申致します!」
提督の頭のなかにも、大淀が描いたような海図が入っているのは間違いない。
演習用の計画を二人で立てたのだ。提督が知らないはずがない。
ならば提督の指示した進路変更は、提督にとって、計画通りということ……。
「却下よ」
「そんな――!」
しかし大淀の一存で全艦に忠告することはできない。ならばせめて、危険地帯であるということだけでも伝えたい。
「提督、彼女たちは演習のつもりでついてきています。装備も演習用で、実戦には使えません。このままもし安全ではない海域で演習を行うつもりなのであれば、彼女たちにはそれを知る権利があります、いえ、知っておかなければなりません。全艦に通達させてください」
「そうね。『海域は不安定で、安全と危険の緩衝地帯である』と伝えなさい」
言い方にごまかしを感じる。引き返すことも、提督の指示がなければできない。それに現状、提督が引き返すとは到底思えない。大淀は、言われたことをそのまま伝えるしかできなかった。
だが、伝える前に、提督に言う。
「提督、艦娘たちを沈めるおつもりですか。そうなのですか? だとすれば、私は、大淀は決して――」
「断じて違うわ!」
「っ」
提督が――怒気を露わにした。
決してそんなことはしない。
声にははっきりとした力が入り、大淀でさえ固唾を呑んで言葉が出せないままになるほど鮮烈な、決意だった。
提督は片手で舵を握ったまま、右手は手頃な高さの操作盤の端っこへと置いて、体重をかけた。それは思いつめている人が無理やり言葉を吐き出している時にする行為だ。
「――あの娘たちに渡した装備はね、私が夜の内に『塗り変えた』もの。だから演習用の橙色をしているけれど、中身は本物の装備。妖精に装填させて引き金を引けば、本物の弾頭が撃ち出される。――これは、演習ではないのよ」
提督は、五月雨の建造を開始したあと、明石の案内で装備開発を行うため開発工廠へと入った。明石は道中で建造ドックへと走って消え、提督は一人で装備を検めたのだ。
ひと通りの装備を開発してみた後、主に駆逐艦用の装備である12.7cm連装砲の弾丸を手にとった。普通の銃弾にも見えるが、妖精の力によって艦娘用のサイズへと圧縮された本物の砲弾である。威力は、申し分ない。そんな装備を見て、閃いたのだ。
艤装に装填する弾頭を演習用に偽って装備させる。そうして――初陣へと駆り出す。
提督がそうした、という意味。
「うそ……そんな――」
大淀は提督の考えを理解できず、固まった。どうして初陣でいきなり、実戦をさせるのか。
危険海域にまで出張って――何をさせるつもりなのか。
分からなかった。
練度も無く、戦闘訓練さえ行っていない十二人の艦娘たちをいきなり海へと連れ出した行動を、どう正当化するというのだろう。
全くセオリーに反している提督の行動は、大淀にとって、正気とは思えない沙汰だった。
それでも何とか大惨事を防ぐために、自分にできることを探る。そうだ、まずは『この海域は危険である』ということを全艦に伝達しなければ。
大淀は無線通信で周囲を航行する艦娘全員に危険を知らせる。そして余計なことだとは思いながら、命令にないことだということを理解しつつ、もう一言付け加えた。
「提督の判断が私には理解できない状況です。皆さん、何があっても、無事で帰ることのできるよう精一杯――」
今度は漁船に搭載されている無線機が声を受信した。大淀も声の相手が明石であることに気付いて、言葉を止めてしまう。無線機越しに明石が何を言うのか、願わくば平和ボケしたいつもの明石であって欲しかった。
だが――。
『提督! 明石です。提督に言われて基地電探の点検をしたんですけど、本当に歪んじゃってました。おかげで防衛網に一部観測不能な場所ができてたみたいです。今ちゃちゃっと修理しちゃいましたけど――って、えっ? どうしてその海域に? そこ、さっきまで観測できてなかった場所ですよ!?』
防衛網に穴が開いていた。明石はそれに気付いたのだ。
大淀は知っている。電探に不具合など無かった。その不具合を指摘したのは提督で――。
つまり、提督が自ら工作して私たち艦娘を裏切るような行為をしている。
昨日、提督に対して誓った信頼は――間違いだったのだろうか……?
大淀の中には解答が存在しなかった。この状況、提督が何をしているのかが、全く理解できない。考えるための筋道すら立てられないのだ。
何故そんなことを? 何故こんな危険なことを? 提督は、自殺でもするのではないか――。
「明石、そのまま海域の監視を続けなさい」
無線で短く指示した提督は、海原の向こう、水平線の彼方に双眼鏡を向け始める。
左手では舵を握り、右手で双眼鏡を使う。その顔は真剣そのもの。生気のないあの顔ではなかった。
大淀にとっては信頼できる顔のはずだった。
だが、提督がしていることは一体なんなのか。その疑念が晴れない以上、素直には頷けない。
「提督……」
その背中に、ぶつける。
「提督! 私を蚊帳の外にするのだけは、やめてください!」
互いに、見えにくい信頼の糸が繋がっていたはずだ。何か悩みを抱えていた提督のことを理解し、大淀は歩み寄り、提督もまた――少しだけ応対に変化があった。
もう相棒同士のように思っていた。それが、こんなにも訳の分からない状況に立たされることが、こんなにも不安だなんて。
提督が怖いのではない。提督の考えが読めない、自分が怖い。信じていた自分の力が、思ったよりも大したことのないものだったと突きつけられているかのようだ。
これはすごく、嫌だった。
大淀は提督を信頼しようと思っていたし、大淀自身、自らの力に疑いは持っていなかった。
だから、唯一無二の提督の考えを読み取ることのできない自分は、提督に必要とされていないのではないか――その考えが何より、怖いのだった。
提督にとって必要なことならば協力する。勝利のために必要ならば全力を出す。全身全霊を尽き果たす覚悟がある。それを――無駄にしないで欲しい。
「――」
提督は双眼鏡を置き、振り返った。鋭い目つきで、大淀をまるで睨むかのようだった。
しかし違う。それは分かる。大淀にとっての提督は今、怒っているのではないはずだ。
ただ――気が立っている。
まるで猫が、体毛を膨らませてハリネズミのようになってしまっている時のような。警戒心と闘争心、言うなれば戦闘態勢に入った人の顔だった。
提督は今、戦っているのだ。
何を隠そう、自分自身と。
――
奮い立たせるのだ。進化の過程で弱まってしまったはずの人間の本能というものを総動員して、自らの命を脅かす存在を感じ取れ。
それが、自らに与えた無理難題であることは承知だ。
艦娘の感覚には敵わないだろうし、目視では限界がある。
しかし、建造されたばかりの艦娘たちに電探装備はない。この海域が安全ではないと聞かされた彼女たちも、同じように目視で警戒行動を取っているはずだ。もしかしたら索敵能力は対等かもしれないし、そうではないかもしれない。
それでも提督は、自分が真っ先に敵を見つける覚悟だった。
着任初日、昨日の大淀との打ち合わせは途中で切り上げてしまったが、大淀も確かに認知していたではないか。
『近日中に偵察と、可能ならば敵の排除をせよと指令の下っている海域について』。
深海棲艦の侵攻は本当に静かだ。じわじわと忍び寄る影のようなのだ。既に、この国が把握できている中でも太平洋の大部分は敵の出現地点になってしまっている。
特に、鎮守府の建設が遅れたことで、『南方海域』と名付けられた太平洋南部の島々が戦禍に飲まれたばかりだ。つまり、そこにあった国もまた、絶望的な状況にあるということ。
こちらの戦力を鑑みれば、南方海域へ偵察を行うことさえも自殺行為だ。何をどうしようとも、南方の島々を“今”救うことはできない。
それは、提督として決断したことだ。南方海域への進出は、いくら上層部が望もうとも不可能だ。現在の鎮守府にそのような力はない。例え強行偵察などを行ったとしても、被害が出るだけである。
だが本当の問題はそこではない。問題は、南方の“島々”が飲まれたということ。
深海棲艦は、艦娘と同様、海の上で本領を発揮するとされている。特に確認されている深海駆逐艦イ級を始めとする異形の敵は、陸地に上がることがそもそもできなさそうなのである。
それは事実として、領土が深海棲艦に侵されていないことが証拠となる。
国内が、特に陸地が安全圏にあるのは、ひとえに深海棲艦が陸に上がれないからという説明ができる。もちろん侵攻という形で攻撃を受けた南部の島が存在するが、駐屯していた海外の軍と自衛隊が協力し、これを打ち破っている。
乗り上げたクジラのように無力だった、と報告がなされたとも聞いている。
深海棲艦は、陸の上からならば撃退できる。人類が海に出ることさえ諦めれば、防衛を固めるだけでも何とかなるかもしれない――。最終的にはそんな後ろ向きな意見を述べる者も居た。
だが、南方海域に点在する諸島が次々に占領されたという事実が、これを揺るがす。
もちろん我が国は最新鋭の軍事力を持っていて、当初は陸地の防衛も可能だったと言える。充分な戦力があったのだから。
だが、そのような充分な戦力を持たない、持てないような小さな島では、事情が変わった。
抵抗する軍隊はなく、市民の抵抗など蚊の威嚇であった。
深海棲艦は“島”を占領することができる。そこに根を張り、拠点とすることさえ可能になったということだ。
現に南方海域の情勢を聞きかじったところによると、人類の安全はもはや無いとさえ言われていた。
つまり島に居た人々は、救いのない地獄に居るということ。
未知の敵に侵攻され、すみかを奪われた。故郷を奪われたのだ。
深海棲艦はそうして、陸地へと侵出する手段を確立していくつもりなのかもしれない。
ノウハウを培い、いずれ大陸をも占領する心積りなのかもしれない。
――これは充分に有り得る話だ。
だからこそ、知っておきたい。
知らねばならないのだ。
信頼する艦娘たちよりもまず――人間である自分がやるべきこと。
それは――深海棲艦を、海の上で、人の手によって倒すこと。
それができなければ――――。
「提督! 私を蚊帳の外にするのだけは、やめてください!」
大淀の声に、何も繕わずに振り返ってしまった。大淀は一瞬だけ怯んだようだが、瞳は強く提督を見つめており、やはり揺るがない信頼を感じる。
「何なんですか! 演習用の弾に偽って本物を持たせたり! 明石には、あなたが壊した電探の修理をさせた! こうして海に出てからも、大淀を大淀として扱ってくれていません!」
申し訳無さの火種が燻る。鎮守府に来てからというもの、この火種が鎮火したことは一度もなかった。艦娘たちにとって、自分のような提督はどう映るのか。それを思うと、申し訳無さが消えることなどあり得なかった。
大淀には一際、辛い目に合わせてしまっている。
だから提督はただ、願っていた。
願わくば、人類にも、希望がありますように。
それを確かめることができれば、大淀にはすべてを話そう。
大淀の懇願するような瞳から逃げるように、提督は自動操舵に切り替えて、船の中へと入った。小さな階段を下って就寝用の狭いベッドのある通路を抜け、そこに用意していたケースを三つ、抱えて外へと戻る。
大淀はまだそこに立って、いじわるな提督がする次のいたずらを見る風に、何も言わず非難を続けていた。頬をふくらませ、肩を怒らせている。
三つのケースを漁獲作業用の台の上に置いた時、二人のもとに明石から無線通信が入った。
『提督、基地電探に小さな敵艦反応です。あまり確かじゃ無いかもしれないですけど――』
反応は弱いだろう。深海棲艦の数は、減れば減るほど見つけにくいと聞いている。実際の船舶でも同じことだ。
さらに輪形陣の進行方向、正面に展開する二人の駆逐艦、『五月雨』と『吹雪』からの報告も続いた。
『十二時の方向に、敵艦発見です!』
『司令官! どうすればよろしいですか!』
すぐに指示を出そうとする大淀を手で制する。
「第一、第二水雷戦隊、速度をこの船に合わせ、それぞれの隊列を単横陣へと変更。回避に専念させて」
「……了解です」
気落ちしている様子の大淀だったが、すぐに指示を飛ばす。遠くに見える艦娘たちが、やや戸惑いながらも手信号で意思疎通をはかり、そのまま、提督の乗った漁船を中心にして、両翼へ展開した。
提督はその間に三つのケースを抱えて、船首へと乗り出していった。船の速度は、なんと……ゼロであった。エンジンは稼働しているが、スクリューを動かしていない。
海上で停止した船の上で、大淀は提督を追う。そして目にする光景で、いよいよ、大淀は諦めることにした。
提督がケースから取り出したのは、陸自から貰い受けた最新式のミサイルランチャーだった。熱源誘導のミサイルを発射し、ロックオンした場所、機体、車体、船舶などを攻撃できる。
現代の戦争では極めて優秀な性能を誇る装備であり、兵器だ。人間が扱える中でも、特に際立っていることだろう。
「提督……それは一体……なんですか? 噴進砲でしょうか、大淀……はっきりとは見たことが……ありません……」
自信を失っているのが自分でもはっきり分かる。身体に力が入らなくなっているのを感じた。
これが、失望なのだろうか。
「後ろには立たないで。危ないわ」
大淀は慌てて提督の横へと並ぶ。船首から海を見れば、遠方に黒い艦影が見て取れた。紛れも無く敵艦であり、深海駆逐艦イ級であった。
この海域は危険であると散々言われた。確かに、危険だろう。
鎮守府近海ではあるが、昨今の南方海域の情勢からするに、深海棲艦は『本土上陸』を果たすために偵察艦を出す。それは充分推測可能だった。
島の占領手順を確立しながら大陸への進行方法を模索していると思われる深海棲艦と、その深海棲艦に立ち向かわんとする大陸側……厳密にはその前の島国にある鎮守府。敵にとって目下の敵は、紛れも無くこの国だ。この国に向けて偵察をしないわけがない。
仮にあれが『はぐれ艦』だったとしても、偶然にでも敵の情勢を偵察して帰還することができれば、向こうにとっては朗報となってしまう。
どちらにしても、叩かなければならない敵なのである。
電探に細工をして防衛網に穴を作り、それを敵側にも察知させた。罠を警戒したのだろう深海棲艦は、使い捨ての駆逐艦を投げて寄越した。そもそも陸地に近づけば痛い目にあうということは、彼らが一番よく知っているはずだ。防衛網に穴があったとしても、決して大群で押し寄せたりはしないと、分かっていた。だが索敵できるチャンスであることは間違いなく、最低限の戦力を送り出すことになるだろう、と。
「だから、実験に選んだのよ」
「……はい?」
「敵が駆逐艦一隻か数隻というだけなら、十二人の“未知の戦力”である艦娘を前にして、奴らも大きな手は出せない」
そう、深海棲艦にとっても初見であるはずなのだ。艦娘との戦闘は、この場所、今この瞬間が初めて。駆逐艦一隻とはいえ、深海棲艦も無闇矢鱈な行動はしないと思われる。
「……」
「自殺行為はしない。それは、大陸が侵攻を受けたという報告が無いことからも明らか。深海側は南方海域で大量の土地を奪い、資源を手にした。そこで一旦休止状態に入ったの。大陸を攻めるための確実な方法を見つけるまで、敵は主力を出さない」
「提督……?」
「私は今、艦娘を盾にしてでも、海の上で人類が戦う方法を考えているのよ。こんな悠長な実験ができるのは、本当に、“今”しかないのだから」
深海側の動きから、タイミングとしては、今しかない。遅くなればなるほど、敵に準備の時間を与えてしまうから。そしてもう一つ理由がある。提督個人の問題。大淀に投げかけた『今』という言葉は、彼女が思うよりも重い。提督にとっては、まさしく今しか無いのだ。
通信が届く。駆逐艦よりも視野が広い軽巡の報告だ。
『那珂ちゃんより報告でーす! 敵艦は移動を停止ちゅう♪』
『こちら川内。敵はこちらの射程ギリギリ外だよ。このままじゃ撃てない。なんで停まってるの?』
「――このタイミングを、待っていたわ」
肩に担いだランチャーのスコープを除く。起動しているシステムが熱源を探し、ロックオンをしようとするのだが――エラー音が鳴るだけで、ロックオンできない。
「報告通りね」
海上で深海棲艦に一方的に蹂躙される要因の一つはこれだった。
現代兵器の『熱源誘導』は、一切効かない。だからミサイル兵器は彼らにとって、取るに足らないものと化してしまったのだ。座標誘導ならば着弾までは可能だが、命中させることは至難の業となってしまう。つまり、大昔の大砲と変わらない命中率しか出せないといっていい。
このランチャーは想定通り無用の長物だった。次のケースから、もう一丁のランチャーを取り出す。
今度は、赤外線誘導。レーザーを照射し、照射地点への着弾を促すものだ。対深海棲艦ならば、まだこちらの方が使えると聞いている。
事前に望遠スコープもつけた。レーザーが敵駆逐艦の黒光りする巨体に照射されていることを確認し、発射した。
白煙がランチャーの後方へと噴出し、けたたましい音と共に、ミサイルが海上を滑るように走る。まるで艦上攻撃機の雷撃体勢のようだった。海面スレスレを飛行し、確実に船体をぶち抜けるように魚雷を撃ち込むため。
大淀の認識はそうだった。ミサイルという武器を知らなかった以上、提督がしていることが攻撃であるということしか分からなかった。その光景を目にできたのは、漁船に一番近い両舷に居た二人、如月と磯波だけだった。提督は漁船から何かをして、敵深海棲艦に自ら攻撃をした――と。
提督はレーザーの照射が外れることのないよう、膝をついてブレを抑えていた。それでもやはり射程が遠すぎたのか、照準のブレは避けられない。
「お願い――当たって――」
真っ直ぐに、白煙を吹き出しながら海上を突っ走るミサイル。敵もその接近に気づき、回避をしようと船体を右へ向けた。舵を右に切ったのだ。
だが、僥倖だった。敵駆逐艦は、実際の船と同じく、正面から見ると的としては小さい。横っ腹を見せてくれるというのは、的が大きくなったということ。
――当たる。
確信した。その瞬間、海の向こうで爆煙が上がった。遅れて爆発音も響き渡る。
二本目のランチャーは役目を果たした。提督はすぐに三つ目のケースに手を伸ばし、中身を組み立て始めた。しかしそれは、大淀もどこか見覚えがあるものだった。陸軍の所有物で詳しくは知らないが――確か“迫撃砲”というのではなかったか。
「大淀、船を最大船速に変更。戦隊ごとの単縦陣二列、複縦陣でついてくるよう伝えなさい。戦闘態勢!」
「了解!」
戦闘という言葉に呼応するように身体はすぐに動いた。操縦桿を握って手動運転にし、漁船が動き出す。
途端に安定しなくなった船上で、提督は迫撃砲を組み立てる。この射程は短いが、当てなければならない。手元に集中しながら、大淀に呼びかける。
「敵の動きを報告しなさい!」
イ級の姿は、ミサイルの爆煙から飛び出してきていた。現在も船体左から怨念を吐き出しているかのように黒煙が上がっている。ダメージを与えたと見て間違いないようだ。
イ級の行動を把握した提督は、ケースの中に緩衝材で固定された弾頭三つを見下ろし、生唾を呑んだ。
「距離二百で針路を左十五度へ変更!」
イ級は後退を始めようとしている。そのまま背中を向けて遁走するつもりのようだ。
だからそれを追うようにしてイ級の左舷に全艦を付ける。もしこの攻撃が無効であったとしても、同航戦へと持ち込むことで艦娘たちが一方的に攻撃を撃ち込める。
敵の駆逐艦の砲塔は正面に付いているからだ。逃亡するための背中を追えば、こちらに損害は出ない。
全艦の針路が折れ曲がり、イ級の左舷へ滑り込める位置まで来た。
「舵を零時に戻して! 同航戦に持ち込むのよ!」
大淀もそれは分かっていた。通信しながら舵を切り、特殊な陣形を敷いた艦娘一同が、イ級を射程内に捉えた。
「射撃待機! 私の指示まで待て!」
提督の指示を大淀が伝えている間に、提督は、迫撃砲の発射管に砲弾を落とし込んだ。
耳を塞ぐと、甲高い音を立てて砲弾が空を飛んだ。
高いアーチを描き、標的に近い海面へと落ちた。高い水柱が上がり、鈍い爆発音も届いた。
すぐに狙いを修正、二発目を発射する。
イ級がその音を聞いて警戒したらしく、急に速度を上げていく。
「――逃がさない」
提督は二発目の着弾を待たずに、三発目を発射した。これが最後だ。
偏差射撃を行った。一発目の着弾が思ったよりも正確だったのが幸いしたし、イ級が回避運動を取ることもなかったのが何よりの幸運だったのだろう。二発目は着弾前に夾叉すると確信があった。そして三発目は、速度を上げたイ級に合わせて、空へと舞い飛んでいった。
海上で使うことなど無いであろう迫撃砲弾が、イ級の頭部へと、直撃した。
悲鳴とも取れるような微かな声が残響のように聞こえてくる。
提督はそのイ級を倒したかどうかの判断だけに集中した。目を凝らし、固唾をのむ。
「――――」
たった三つの装備で二発の着弾を与えた提督の射撃能力に感嘆する余裕さえなく、大淀もまた、提督が望んでいるものを見極めようとした。
船の縁を掴んで船体の外へと身を乗り出している提督。さらに指示通り単縦陣を維持してついてきた二つの水雷戦隊は、砲塔を構えたまま待機している。
「――――」
イ級は、身体から吹き出す黒煙の量が見るからに増えていた。
この漁船と同じくらいかさらに大きい身体。先ほどまでは、海上を進むイルカかトビウオのように豪快に波をかき分けていたその身体が、沈んでいく。
速度も落ちていき、もはや正常な航行さえできない様子だった。
敵は航行不能であった。このまま放っておいても、消えることだろう。
だが、提督は感激に打ち震える身体を抑えるように俯き、満足気に何度も頷いた。
人類に、希望は残されている。海の上でも、それは変わらない。
そして、大淀に伝えた。
「――全艦、全砲門、斉射――!」
突き抜けるような夏の青空、その青空からやってくる光を飲み込み、深い群青色となっている広大な海。真っ更な空間に、無数の爆風と爆音が轟いた。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
第二幕へ続く
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第二幕
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鎮守府の運用が開始され、提督は上層部から次々に送られてくる指令書の束に囲まれるようになっていった。大淀や提督は『任務』と単純に呼び、大本営のお望み通りの働きを艦娘にさせるよう動き出した。
鎮守府の稼働時メンバーは明石と大淀を含めて十四人。数日後には給糧艦間宮が着任することとなった。その間にも提督は戦力を増やし続けており、艦娘の数も着々と増えていった。出撃させて敵を撃退し、その海域に漂っていた船の残骸を回収できたときは持ち帰る。それを素材にして建造された艦娘が仲間に加わる。そのようなサイクルができつつあった。
駆逐艦、軽巡洋艦を中心に大幅な拡充をしていた鎮守府は賑やかになったし、艦娘同士の交流が盛んになったことで、徐々に提督という存在が艦娘たちにとって遠い存在となることは必然であった。
学校でいうところの校長や理事長などといった存在へとなっていた提督について、いつのまにやら、このような噂が立つようになる。
『私たちの提督は、初陣で訓練と偽って危険海域へと出撃させ、自身の手で敵を撃退した。それも見たことのない噴進砲にも見える兵器を使っていた。提督は非常に好戦的で、いざとなれば戦場を荒らしまわるようになるかもしれないような怖くて危ない人』だと。
その噂の源流は、事実を知っている如月と磯波だけであった。大淀ならば真実を知っているかも知れないとされているが、艦娘の間に広がるこの噂に対し、真実が公表されることはなかった。
そもそも噂が浸透するようなこともなかった。あくまで、そういう見方もできるという程度。誰が広めたかもわからない、根も葉もない暴言である――と。
提督と大淀は互いを信頼し合っている様子であることは誰の目にも明らかだったが、『何故提督が静かなのか』を説明できる艦娘は、存在し得なかったのである。
そのような好戦的な人ならば、今だって艦娘の出撃に立ち会って、その兵器を乱射していてもおかしくない。だが、提督はそんなこと、今では一切しない。新入りの艦娘と顔合わせはするし、任務の説明時や艦娘の編成時、招集時には当然顔を出して声も発するが、基本的に提督は、あくまでも『司令塔』なのであった。
駆逐艦長月によれば『仕事はできるようだが、頼れる人かと問われると分からないな』であり、軽巡洋艦大井によれば『あの人は事務的すぎます。私たちのことを何だと思っているのかしら』である。
そう、好戦的だという提督は、新しく入ってきた艦娘にとっては、存在しないのである。
だからこそ噂が少しだけ広まった際には、その時鎮守府に配属していた十四人に注意が向いたわけであるが、あの時一緒に出撃していた十二人は提督の行動を不可解だとは思いつつも、結果的に敵の駆逐艦を撃滅したことは確かだと言う。
磯波と如月だけははっきりとその兵器を目にしていたし、最終的に敵に致命的な損害を与えたものがどうやら迫撃砲らしいということまでは答えることができた。しかし真相は、提督と大淀の中だけであるらしい。
提督は着任初日から徹夜をして、夜な夜な水雷戦隊編成のための人数を揃えた。そしてその間に、鎮守府に設置されている防衛用の電探に細工をしていた。一部部品固定を緩め、アンテナの角度を曲げることで不具合を生み出していた。さらに実際の兵装に細工をし、演習用の装備であると偽っていた。そのまま十二人の艦娘と大淀、そして提督本人が海へ出た。
提督は急遽進路を変更し、演習海域から出て進撃をしていた。電探の防衛網にできた穴へと向かったのだ。明石が電探を修理した直後に、提督の不可解な行動が次々に起こり始める。
磯波によれば『言い争っている様子だった』大淀の意見具申を退け、充分な説明をしないまま武器を用意した。全艦に停止させ、その地点から二本の武器による攻撃を実施。友軍の射程外であったため、攻撃できたのは提督が持ち込んでいた武器のみだったことは明らかだろう。
直後に全艦に単縦陣を組むよう発令し、最大船速で敵に接近した。夜戦時並みの至近距離での撃ち合いになるところだったが、敵は反転して横っ腹を見せていた。そこで提督の迫撃砲が、イ級に着弾したという。トドメに全艦一斉射を命じ、その後撤退している。
港に帰投した際の大淀は意気消沈、茫然自失といった様子だった。かなり心配したし、提督に何かされたのではないかと本気で尋ねた。だが、大淀は『提督に真実を聞かねばなりません』と呟いて、執務室へ向かった。
翌朝の大淀は目元を腫らしていて、『少し、半日だけの休暇を頂きました』と謝罪していた。しかし、休暇といいながら大淀は思いつめた顔で鎮守府内を歩きまわっていたし、それどころか、一番忙しなかったようにも感じた。日が暮れてからの大淀の行動は知らない。
当然、疎外感を覚えた。
あの日、皆が知らない大淀を目撃していた明石の中には、一層強く疑問が浮かび上がる。
一体あの時、提督は何がしたかったのだろうか。
そして何故、それ以降提督は“なり”を潜めたのだろう。
ただ静かに――業務を義務的に行っているのだろうか。
大淀は確実に真実を知っているだろう。
鎮守府の未来を託す提督が、皆に心からは信頼されていない現状。おそらく二人がそうした。
ずっと大淀と二人だった明石は、寂しさを感じざるを得なかった。
1
明石は、大淀に直接聞いてみるのが一番だと思った。鎮守府の執務室正面にある階段を降りた二階で、彼女が出てくるのを待つ。大淀は朝一番の任務確認を提督と打ち合わせて、順番に指令を出して片付けていく。打ち合わせが終わり次第一旦部屋を出て朝食を取るか、見回りながら任務の通達を済ませるのが日課だった。
我ながら大淀の行動を把握しすぎてちょっとだけ気持ち悪いが、どれもこれも大淀が黙っているのが悪い。そういうことにしておきたい。
大丈夫。そう言い聞かせながら、明石は待った。
「明石さん、おはようございますなのです」
「電ちゃん。おはよう」
駆逐艦電は、暁型四姉妹の一人だ。第六駆逐隊を構成していたことで有名であり、この鎮守府でも四人が揃って仲良く駆けまわっているのを見かける。明石の工房も探検遊びで発掘されてしまい、それ以来少しばかり懐かれたようだった。
「朝、早いね。こんなに早起きしてたの?」
「あの……電は、その、牛乳を貰いに行くのです……」
恥ずかしそうに頬を赤くして俯いてしまう電。なるほど、これは彼女にとって内緒にしたかったことらしい。
「そうなんだ。じゃあ……大淀に見つからないようにね。もしかしたら『規律違反です』って言われちゃうかも」
眼鏡をくいっと上げる真似も付けておどける。牛乳程度で大淀はそんなこと言わないだろうが、明石は当の大淀を待ち構えて詰問しようとしている身。早いところ追い払いたかったのかもしれない。
「気をつけるのです。……あの……その、明石さんは、何をしているのですか?」
「私は……ちょっと大淀に用があってね。朝は大体、執務室から降りてここを通るから……それで」
ごまかしきれないかぁ、と自分で喋りながら落胆していた。
そんな明石の微妙な表情の機微を察知した電は、優しい性格そのままに明石のことを見上げた。
「あの……もしかして、その……明石さんと大淀さんは、喧嘩中……なのです?」
「へ? どうしてそう思うの?」
「はわわ……あの、なんでもないのです! ただ、ちょっとだけ、明石さんが、不安そうだったから……なのです……」
「私、不安そうに見えてる? ……あちゃー……じゃあ、大淀にもバレちゃうなあ……」
痒くもない頭を掻いて、バツが悪そうにする。実際明石は、居心地の悪さを感じていた。
親友である大淀を、理不尽に問い詰めようとしている。心が痛まないわけがなかった。
「あ、あの!」
「うん?」
電はそんな明石のことをどうしても放っておけず、言った。
「い、電もよく、雷ちゃんと喧嘩をしちゃうのです。でも……いつの間にか仲直りもしているのです……。だからその、ちゃんと、いつも通りの仲良しさんで居られれば、絶対に仲直りできるのです」
「……うん。そうだね。でも、別に喧嘩してるわけじゃないんだ。ただちょっと……気になることがあるから、それを聞こうとしてるだけ。ありがとう電ちゃん。……さ、早く行かないと、牛乳こっそり飲めなくなっちゃうよ」
囁くように言って背中を押す。電は一礼して小走りに駆けていった。
そういえば電は寮から出てきたわけではないようだった。てっきり姉妹四人揃って寮で寝ているものだと思っていたが。鎮守府本棟には座学の時間にやってくることがあるが、それ以外で駆逐艦がここに立ち入ることはそれほど無いだろう。
……もしかすると、四人で探検に出たまま適当な空き部屋で寝泊まりしたんじゃないだろうか。
すごく微笑ましいが、規律にうるさい艦娘に見つかると怖い目に遭いそうだなぁ、と勝手な心配をしていた。
「……明石? どうしたの、こんなところで」
階段の踊場を見上げた。そこには、大淀が紙束を抱えて立っていた。明石が居たことに心底驚いているようだった。不思議がりながらも階段をそっと降りてくると、立ち止まってくれた。
「何か用? 新装備のアイデアなら、ちゃんと妖精さんと話し合って形にしてからお願いね?」
仕事モードの大淀だ。でも、明石は電に元気づけられて緊張がほぐれていた。
「違うの。ねえ大淀、聞きたいことがあるんだけど……すごく、真剣な話になると思う」
「ん……、そう。分かった。……そうね、十分くらいなら」
感覚で概算したのだろう。作業の遅れを取り戻せる時間が十分ということらしい。
「ありがとう! じゃあちょっと、聞かれないようにこっちに来て」
大淀の手を取って引っ張っていく。前はこうして二人でやりたいことをしていた。大体は明石が珍妙なことを思いついて大淀を引っ張っていったのだが。
事前に人が居ないことは確認済みの大部屋に入って、窓際まで進んでから振り向いた。
「大淀、素直に答えてね?」
「はい。何なりと」
お茶目なところもある大淀は、そう茶化しながらも真剣な応対を約束していた。目がそう言っている。
「私の事、嫌いになっちゃった?」
「…………………………はい?」
「へっ? あれ? 今私なんて言った? あれぇ?」
「『嫌いになっちゃった?』と……」
「うわぁぁ! 違う! 違うの! ほんとに違くて! そんなこと聞くつもりこれっぽっちも無かったの!」
苦笑した大淀だったが、それでも頷いて明石の手を握った。
「やり直した方がいいかしら? もう一回、入るところから」
「いい、いい! やり直さなくていいよ!」
首を振って必死に拒否し、深呼吸をして混乱を治めた。
でも、大淀は前のままだった。ちょっとだけ疎遠になっただけで、自分たちの関係は何も変わっていない。そう思えた。
電の言うとおり。いつも通りにしていれば、絶対に仲直りできる。
……いや、だから、そもそも喧嘩をしていたわけでもないのだけれど。
「はぅ……じゃあ、今度こそ、聞くね?」
「うん」
大淀はいつの間にか、手に持っていた紙束をすぐそばにあった机に置いていた。明石の話以外に気を向けないという心遣いだった。
「……大淀」
「何でしょう」
「初めて出撃したあの日、提督から何か、聞かされたんだよね? だから、大淀は泣いてた。……違う?」
大淀の瞳が固まった。唇も少しだけこわばると、喉も鳴った。
聞かれたくないことだったらしい。でも、すぐに大淀は息を吸って、ゆっくりと鼻から吐息を漏らした。
「あれからもう、二週間は経ったかしら……」
「大淀はずっと忙しそうだったしさ、愚痴なら何でも聞くつもりだったのに、全然話してくれないしさー……」
拗ねたように言い続けると、大淀は宥めるように微笑んだ。
「確かにあの日の夜は、提督から色々とお話を聞かされました……それで、少しだけ、感情が高ぶってしまったんです。夜も遅かったのでそのまま寝てしまって……」
だから目が腫れてしまいました、と。
「ぶー。大淀が『ですます』使う時は、嘘ついてる時ぃー」
「それじゃあ私が、普段から嘘しか言わないみたいじゃない! やめて」
「じゃあ答えてよー」
「もう……っ。……いい? 嘘じゃないわ。提督は私に打ち明けてくれたのよ」
「何を?」
がっつくようなタイミングになってしまった。大淀はそれでも言葉を選ぶように慎重に答えた。
「私の一存で全てを暴露してしまうのは、提督との約束に反してしまうから……。その、そうね、提督は、並々ならぬ思いを持ってこの鎮守府に着任してくださったんです。その理由と、あの出撃の時どうして自らの手で戦おうとしたのか、これから何をしようとしているのか、何が目的なのか――全て、説明していただきました。何故そうしたいのか、というのも聞き及んでいます。……明石には特別に、このことだけは教えてあげるけど……」
「それ以上は教えてくれないの?」
「その……ね。提督は、あの日のあの時でなければできないことをやったのよ。それで、今は言うなれば『機を待っている』状態。だから私も精一杯お手伝いさせてもらっているわ」
「じゃあ、大淀はあの提督のこと、もう微塵も疑ったりしないんだ? そんなにすごいこと?」
「ええ。もう微塵も。何の疑念が入る余地もないわ。彼女は……提督は、必ずこの戦いに勝利をもたらしてくれますし、私たち艦娘にとっても最善の選択をしてくれる。だって提督ったら本当はすごく優し……あっ、これは……」
大淀が自分の口を信じられないと思いながら手で押さえた。
「あれ? 大淀が口を滑らせた? ほんとに? メモっておかなきゃ……!」
「ちょっと!」
「提督はすごく優しい人……。しかも『彼女』って呼んだね? 呼んだよね?」
「ああしまった……。失敗よ、本当に」
大淀が頬を紅に染めている。仕事でミスはしない大淀が、まさかこんなところでミスをしてくれるとは。しかもかなり真剣に照れている。やり場のない目線が地面に落ちているほどだから、相当である。
これは重要に違いない。提督は“すごく優しい”。これがキーワードになるのだろうか。
「やってしまいました……。ごめんなさい、提督……。大淀、まさかの自爆です……」
合わせる顔がないらしく、両手で顔を覆ってしまう。
「むぅぅー」
そのままむくれてしまう大淀。顔を上げたかと思ったら明石を恨めしげに睨みつける。対する明石は予想外の収穫に楽しんでいた。
「なるほどねー。大淀がそこまで信頼してるんだったら、もう私も、変に詮索はしないよ」
「本当に?」
「そりゃ、提督が不可解で、理解できないような人だっていう不安は残ったままになるけどさぁ。……だけど、それが艦隊全体にあるままだと、士気が落ちたりしないかな?」
「……そうね」
「なんていうか、私たち艦娘でしょ? だからさ、感情もあるし、個性だってある。そういうのは全部、海からの贈り物だって納得してたけどさ」
「ええ」
神妙に説明を始めた明石の言葉を真剣に聞く大淀。艦隊の運営に関わる懸念なのであれば、聞き逃すわけにもいかない。
「大淀は知らないかもね。私は、大淀と提督に放っておかれて穀潰しみたいになってたからよく知ってるつもりなんだけど」
「嫌味よね? 明石ったらやっぱり、怒ってるじゃない」
「ちょっとくらい言わせてよ。それくらい我慢したんだから!」
「もう……」
呆れながらも、大淀にも罪悪感はあったらしい。それ以上の文句はなさそうだった。
「でね、何がいいたいかって言うと、今の大淀と提督は、この艦隊の艦娘たちにとって……そうだなぁ、緞帳の降りた舞台の中で何やら見世物をしてる奇術師、みたいな感じ?」
「……言い得て妙ね」
「うん。とにかく、ハトが飛び出したり、何やら火がついて燃えた瞬間に早変わりしたりしてるんだろうし、観客である私たちにとっても、何かスゴイことをしているっていうのは分かるわけよ。……でも、その奇術師が素人なのかプロなのかも分からないし、このまま演目を見続ける意味はあるのかなって、そう思っちゃう娘だって居ると思う」
「艦娘には個性もあるものね」
「そう! 我慢しきれなくて席を立つ娘も出てくるだろうし、私みたいに、立ち上がって舞台の下まで行ってさ、大声で『あんたたち一体どこのどいつなんだー!』って野次を飛ばす娘も出てくるかもしれない。そりゃ奇術師って口も達者だから、姿が見えなくてもそういうお客さんを宥めることもできるかもね? 助手さんが絶大な信頼をおいている奇術師さんは、上手いこと言いくるめて最後までやり通すつもりなんだよね?」
「もちろん。それができなければ……奇術師さんは、舞台に立った目的さえ塗りつぶしてしまうことになるから」
明石は途端に口を噤んだ。大淀の言った喩え話が、核心を突いている気がしたから。
「…………」
大淀もそれを理解した上で喋ったのだから、今度は失敗だと恥じたりはしなかった。
明石の意見は尤もだった。提督もそれを懸念していたし、実際、そのような事態になるまでの間に提督の思いが成就しなければ、この艦隊が瓦解もあり得る、と。
「じゃあ……喩えついでにもう少しだけ、教えてよ」
「……」
「提督は、私たちの助けも必要としているの?」
「艦隊として、艦娘の力を必要としているわ」
つまり現状は……『兵器』として。
「私たちから、離反のような行動に出ようとした娘が居た場合は、どうするの? 逃亡とか」
「出入り口を封鎖してでも、阻止するわね」
「……」
絶対にこの鎮守府から出さない、ということ。
「提督は『機を待っている』。だったら、その時が来るまで、私たちは何もさせてもらえないわけ?」
「いいえ。基本的には自由に行動できるわ」
それは助かる。出撃や遠征の任務をこなしながら、休暇には自由を与えられるということ。
「提督の準備は……順調?」
「………………」
何とも言えない、らしい。
確実性が無い何かを待っているということになる。
「つまり提督には確かな目標があるし、それについて準備をしているけれど、絶対にうまくいくとは言い切れないことで、艦娘とは関係ないところで終わる話――ということ」
「それは質問かしら? だったらそれには答えられないわ」
「――――」
もし手にレンチを持っていたなら、耳の裏辺りを掻いていたかもしれない。
「もうそろそろ、時間が……。明石、そろそろ解放してもらえない?」
「ごめんあと一個だけ聞かせて!」
明石はそう呼び止めてから必死に考えを絞りだすように、しばらく掛けて最後の質問をした。
「えっとえっと……その……だから、そう……。『提督は優しい人』というのは、具体的に、どんなところが優しいと言い切れる、かな……?」
これまでの質問に比べるとかなり抽象的だった。
明石の中には考えがあって、それまでの質問の答を元に、自分がやるべきことを整理しながら思い描いて、そうしてその過程で重要になってくることだと思ったから、聞いた。
「それこそ、例えばどんな状況で?」
大淀が喩え話を所望した。明石は、いくつかシチュエーションを思い描いた。
「うーんと……。じゃあ、艦娘たちが結託して何かやろうとしたらどうすると思う?」
「しようとしていることに依るわよ、そんなの。悪いことだったら怒るのは当たり前だし、逆だったら……何も言わないかも」
「じゃあ、仮に命令違反したら?」
「それも状況によるじゃない。結果として責められる点が残ったりしなければ、見逃してくれるんじゃないかしら」
「本当に?」
「明石……あなた何を企んでるの?」
「それは内緒。大淀だって提督のこと内緒にしてるんだから、私はじゃあ、艦娘たちのことを内緒にする! そういうこと!」
「はぁ……」
「なあに、そのため息は! お互い様じゃん!」
「…………構わないけど、でも、明石や他の娘たちが知らずの内にでも提督の目的の邪魔をしてしまって、その結果失敗したりしたら、私たちもその後どうなるか……分からないのよ。それだけは留意しておいて」
何となく、概要は掴めていた。
提督は優しい人。それはつまり、個性豊かな艦娘と同じく、提督もまた感情豊かであり、様々なことに共感して、悩み、抱え込み、それでも目的のために必死に解決策を編み出すような、熱さも持っている人なのだ。
その結果暴走のように見えてしまうこともしてしまうだろうが、それは大淀が心の底から信頼するほど崇高な目的のためであるらしい。つまり、緞帳の向こうでマジックショーを行うという理解不能な現状も、大淀にとっては素晴らしいこと。提督にとっても正しいことであるらしい。実際に観客からは舞台の中で何が起こっているのか正確に把握することはできないわけで、全く予想の付かない事態が繰り広げられていることも考えられるのだ。
いつの間にか緞帳の向こう側へ行ってしまった大淀。明石はそれを、最前列の舞台下から見ていることしかできないと思っていた。だが実際には、観客たちを先導して舞台をぶち壊すこともできるし、むしろ盛り上げてしまって、ショーを全く奇抜で斬新なものとして祭り上げることだってできるに違いない。
それが分かっただけでも、救いだった。
幸い大淀によれば、提督は艦娘たちが怪しい動きをしても咎めないらしい。舞台の中から出てこない奇術師は、観客たちがどういう行動に出ても、ショーを続けるつもりのようだ。
ただしそのショーを途中で見限って退出することは許さない。それは逆を言えば、観客たちに楽しんでもらいたいと思っているからではないのだろうか?
提督は優しい人。善意でこのショーを開いているし、観客を楽しませたいと思っている。だが、観客は無数にいて、全員が全員辛抱強く座っていられるわけではない。それも、舞台演目の最後の最後にやってくるであろうネタばらしの瞬間まで全員が行儀よく居てくれるわけではない。とても難しいことだが、やらなくてはならないらしい。
もしくは別のパターン。例えばその奇術師は、外の世界が恐ろしい怪物によって壊滅的被害を受けるであろうことを知っていて、観客として村の人々を集め、怪物の脅威が去るまで舞台の中で結界を貼る儀式を行っているのかもしれない。
本当は、通常では考えられないほどの聖人君子でありながら、なかなか理解が及ばない――理解されない存在なのではないか。
明石が考えたのは、どちらかと言えば後者のほうだった。
艦娘たちの自由な生涯を保証するために影に徹し干渉しないことを選んだというよりは、提督という立場を越えて鎮守府にも振りかかり得る理不尽な脅威を、艦娘たちに及ばないよう食い止めているかのような。
大淀が涙するほどの真実は――そのほとんどを、明石の前に現していたのだった。
大淀も何だかんだ言いつつ、とても優しい艦娘だ。
「分かった。ちゃんと、提督の邪魔をしないよう気をつけるよ。――ありがと、大淀」
「こちらこそ、教えてあげられなくてごめんなさい。いつか分かる時が来るから」
「うん。そう願ってる。追いつけるなら、追いついてみせる」
大淀は明石に頷きかけて口角を上げて微笑むと、背を向けて去った。
親友同士だ。お互いがどうするかくらいは、大体分かる。
明石が大淀の言葉から何となくの事情を理解したように、大淀もまた、明石の表情や態度でこれから明石がどうするか、少しだけ察したに違いない。
明石は艦娘を纏めようと思った。一番個性豊かな駆逐艦たちが結託してさえいれば、個々の離反や逃亡などは防ぐことができるから。
そのためには、明石が少しばかり汚れ役を引き受けなければならないだろうが……でも、大丈夫。明石は大淀を信じていたから。
2
明石は一旦工房に戻って、ブルーシートに簀巻きにされたままの材料を仕舞い直した。結局これをプレゼントする機会は失われてしまったし、しばらく組み立てることもなさそうだった。ブルーシートごと引っ張りだして材料を紐で縛り、完成品を並べて悦に浸る棚と壁の角へと立てかけておいた。わだかまりを整理して、明石は腕が鳴る思いだった。
ついでに工房の掃除もした。大量のおがくずで空気が悪いし、油の香りも充満してしまっていたからだ。明石が掃除を始めると妖精も集まってきて彼らなりに手伝ってくれる。工廠はいつも妖精たちの住処で、明石はそこの一部屋を使わせてもらっている形になっているが、妖精にとっては明石も艦娘も等しく仲間なのだろう。もちろん、提督も。
三十分程を使ってゴミの整理を終えることができた。
「ありがとう、助かったよ」
妖精たちにもお礼を言うと、敬礼と共にどこかへと散り散りに消えていった。
鎮守府のしきたりに従う形で、ゴミ袋にひと通り詰め込んだものを両手に持って工房を後にした。鍵も施錠した。しばらく留守にするつもりだったからだ。
鎮守府の中に仕入れられるゴミ袋は等しく真っ黒のポリ袋だった。この中にゴミを詰めて集積場に出しておけば、回収してくれる人が居て、処分を請け負ってくれると聞いている。ゴミ捨て場は鎮守府の門の近くにあって、収集車で乗り入れて回収後、すぐに出て行くそうだ。
その辺りの組織立ったものは大淀が詳しいけれど、明石も鎮守府で生活して長いのだ。自然とそういった事は身についていく。それに、間宮もよく調理で出たゴミを出しているから、よく顔も合わせる。それは今朝でも同じだった。時間帯は丁度朝食の準備を終えた頃だったのだろう。
「あら、明石さん。おはよう」
「間宮さん! どうも!」
鎮守府での生活、主に食事面をサポートするために着任した間宮は、朝昼晩の食事を用意して艦娘たちに振る舞う。さらにそれ以外の時間には与えられた食事処を開業しており、食事だけでは足らなかった補給を済ませる艦娘たちも多い。
明石としては、その“大量の”食材が一体どこに保管されているのかを知らない。鎮守府の艦娘たちのお腹を満たす沢山の食材を、間宮はどこに隠しているのだろうか。
ともかく、柔和で包容力のある間宮は特に駆逐艦たちには大人気だ。甘味の質も高いから、明石も時折疲れを癒やすために寄ることがある。恐らく間宮に行ったことのない艦娘は居ないだろうと思っている。
「珍しいのね、朝にゴミ出しなんて。急にお片づけ?」
確かに、いつもここで顔を合わせるのは昼間か夕方だ。朝に会ったのは数えるほどしか無いと思う。どれも明石が工房で寝泊まりしたあと慌ててゴミを集めた時だった。
「ちょっとだけ、整理したくなって。大淀が忙しそうにしてるのに、私もいつまでも工房で遊んでるわけにはいきませんから」
「あら、じゃあ酒保の方が本格営業? 私の方も調味料が足りなくなったりした時に頼れると思うから、助かるわ。あとは金物ね。やっぱり作る量が多いから、すぐにだめになることが多くて……」
フライパンとか、すぐに焦げちゃうのよねえ、と愚痴をこぼす間宮。
「まだ二週間ちょっとじゃないですか。多分それ、ケチられてますよ! 大淀に報告した方がいいですね。私から言っておきましょうか?」
「そう? あ、じゃあ、明石さんに調理器具をお願いする……というのも、アリなのかしら?」
「いいですよ。この明石に、お任せください。現物を見せてもらえれば、同じものを作れると思います」
感心を露わにしている間宮が、両手を合わせて言った。
「丁度朝ごはんの用意が終わったところで時間があるから、もし良かったら……今からなんてどう? そちらは大丈夫?」
やりたいことはあるが、それは朝食の場から動き出そうとしていたところだ。朝食まではまだ余裕もあるし、問題はない。
二つ返事で頷いて間宮についていくことにした。工房は一時閉めたが、金物を作るくらいならすぐにできる。妖精にも手伝ってもらえば、良い物ができるはずだ。
道中、間宮はここぞとばかりに自らの疑問を口にした。
「ねえ、この際だから、ちょっと確認したいことがあるの。いい?」
「何です?」
「私、提督に着任の挨拶をして以来、提督のお顔を……見てないの。これって普通かしら?」
「あー……あはは……」
タイムリーな話題に思わず口をついて出たのは苦笑だった。
「うちに来る駆逐艦の娘たちもね? 提督ってどんな人なんだろうってしきりに盛り上がったりしてるのよ? だって、そういう娘たちも着任の時の顔合わせ以外、提督と会うことがほとんど無いらしくて」
「みたいですねー」
「それに、あの噂……。提督が本当はすごく危なっかしい人なんじゃないかって……言う娘も居たわ。大淀さんが黙って付き従っている以上、暴走を抑えてくれているんじゃないかって私は思っているのだけど。同じく鎮守府の先輩でもある明石さんなら、何か知っているんじゃないかと思って」
間宮は艦娘との距離が非常に近い場所に居る。だからこそ、様々な会話が聞こえてくるのだろう。それを彼女は客観的に見て、心配していた。
「でもね、本来だったら……確かに、私たちの指揮をしている人と交流するなんていうことは、無いのが当たり前だとは思うのよ? だけど艦娘としてこうして生まれてからは……なんていうか、もっと他の人のことを知りたくなったというか、そんな気がして。だからみんなももしかしたら、提督についてもっと、知りたいんじゃないかって……。私たちがどんな人の指揮下にいるのか、知りたくてうずうずしてるんだと思うの」
「間宮さんもそうなんですか?」
「そうねえ……提督の好みが知られたら、もっと美味しいレシピを作ることもできるわねー……と、思わなくもないかしら~♪」
ご飯を作るのが楽しくて仕方がないという様子。そして美味しく食べてもらえるともっと嬉しいのだろう。間宮のことが好きになる駆逐艦の気持ちがよく分かる。
明石は少しだけ考えた。やはり新しく入ってきた艦娘にとって提督と大淀は、すごく遠い存在に見えているようだ。ただ自分たちに命令を与え、自分たちはそれを遂行する。報酬は美味しいご飯と自由な休暇。新しい友だちと新たな……人生か。
そこに提督との繋がりを深める要素は、無い。そして大淀によれば、提督はこの状況を意図的に作った。提督と艦娘が近づき過ぎないようにしているのか。
「でも間宮さんの勘も当たってますよ。この明石の親友である大淀が、提督にゾッコンなんですから。何の疑いも抱いてないみたいなので、私も別に心配とかはしてないんですけど」
「あらら、親友なのに距離ができちゃったの?」
「……うーん。そういうわけでもないみたいなんですけどねー。でも、提督がみんなと距離を置いてるのは確かだと思います。大淀はきっと忙しいだけです」
「士気が下がったりしなければいいけど……。提督はそのことも考えているのかしらね? 明石さんはどう思う?」
「多分、みんなをまとめ上げるだけの考えくらいはちゃんとしてますよ。大淀だってついてますから」
「そう……。なら、私があれこれ心配するのも下世話かも知れないわね」
「いえいえ、間宮さんはそういう立ち位置なんだと思います。みんなの動向をちゃんと、一番近くで把握できるのは、きっと間宮さんだけですから」
「そうよね。だったら私も、もっと耳を大きくしなくちゃ……!」
これでも諜報は得意なの、と間宮は意気込み、明石も少しだけおかしくて笑った。
そうやって話しているうちに到着したのは、本棟近くに建築されている食事処間宮の本格的な厨房だった。ここで作った食事は直通通路一本で繋がった寮の食堂に運ばれ、艦娘たちの食事となる。配給……いや給食のような方式で当番たちが間宮から各自の寮へと運搬する役を担う。しかし駆逐艦では大変だという声を受けて、主に重巡洋艦が運搬を請け負うことがほとんどだったりする。
「あぁぁ……いいですねえ、間宮さんの豚汁大好きなんですー」
厨房に入った瞬間鼻腔を刺激する出汁と味噌の匂い。
「もちろん一番はカレーですけどね!」
聞かれてもいない釈明をしながらも、次々に感じる朝食の匂いにお腹が鳴ってしまいそうだった。和定食の品目はやはり良い。身体が求めている感じさえする。
「うふふ、ありがとう」
間宮は厨房を進んで、だめになってしまった調理道具を集めた。すぐに明石の前に並べる。普段は艦娘たちが座るカウンター席の机に金物が並べられた。
「フライパンは焦げ付いちゃうし、鍋なんかは取っ手が緩んじゃって、いつ抜けるかと思うと怖いのよ。幸い、みんなの料理を入れる大型のはすごく丈夫なんだけどね、どうしても小物のほうが、その……粗悪品みたい」
はっきりと言うあたり、間宮も悩んでいたようだ。
「あー、これは確かに、あんまりよくないみたいです。加工が雑だし、正直薄っぺらいですね」
叩くと音が軽い。軽すぎる。それだけで明石には眉を顰めてしまいたくなるほど貧弱な物品だった。白金に輝く金物は明石にとっては初見で、軽すぎるところもただの不安要素だった。
次にフライパンも見てみる。やはり持ってみるだけで分かるほど軽い。鉄フライパンのはずが必要以上に黒ずんでいるように見えるし、知らない模様がついている。
「これなんていう加工なんだろ……。見たことないなあ……。……うわ、すっごい滑る! 摩擦係数低いなあ……!」
フライパンの底を撫でてみた明石は驚きの声を上げた。ものすごくさらさらと指先が滑るのだった。金属特有の触感ではない。
「そのフライパン、油汚れはすぐに落ちるのよ。だから洗う時はすっごく助かるわ。でも……どうなのかしら、強火で使うのがいけなかったのかも……」
「かも知れないですねえ。薄くて軽いっていうことは、鉄をケチってるってことです。その鉄だって純度が高くないかも。中で不純物が小さな爆発とか起こして……実はボロボロになってるとか……」
明石はまだ知らないし、間宮も知りようがないのだが、この厨房に仕入れられていた調理器具のほとんどは現代の技術で作られたものだった。安くて仕入れやすく、実用の面で変わらないと判断されたためだ。ややカラフルな彩色が施され見た目に違和感はあるかも知れないが、言われなければ分からないだろうと高をくくっていたに違いない。
“現代”という概念から艦娘を遠ざけようとしているようだが、このような小道具一つ一つまで厳密に演出することはできなかったようである。
汚れにくく、とにかく軽いステンレス製の小鍋や、テフロン加工を施されたIH対応フライパンを見て、明石が粗悪品だと思ってしまうのも無理はない。特にフライパンは、正しく使用しなければすぐに焦げ付くようになってしまう欠点があるからだった。
「うーん……この摩擦の少なさは、ちょっと私でも再現できないかも……。それに、軽くしようと思ったらやっぱり鉄は減らさないといけないし……」
「大丈夫、鉄フライパンの扱いなら慣れているわ。少しくらい重くても平気!」
「それなら、全く新しい鉄フライパンを私が作ってもいいですか? つまり、新品を」
「本当? 助かるわ」
「任せて下さい。あと、鍋の方は、取っ手をしっかり固定しなおせば使えますよね」
「そうね。怖いのは取っ手だけなのよ」
「じゃあそっちはビスを付け直しますね。他には無いんですか?」
明石の職人魂に火が付き、やれることならやりたいと思った。間宮の方も明石が頼れると分かり、いくつかさらに細かく気になっているものを集めて相談を始める。
いつの間にか朝食の時間が来てしまって、大淀の号令が流れてくるまで、二人の取引は続いていた。
3
駆逐艦寮の食堂に紛れ込んでいた明石は、手早く食事を済ませて片付けも終えてしまう。早食い自慢の駆逐艦たちと同着といったところだった。一回り年上に見える身体のサイズはあるため、彼女が立ち上がると自然と皆の注目が集まった――気がする。
駆逐艦も駆逐艦でとにかくアクの強い性格の持ち主が多く、マイペースな娘ほど明石の存在に気付いてさえいなかったことだろう。しかし真面目な娘などは明石が何の用でここにいるのか、しきりに気にしていたようである。
正確な数は覚えていなかったが三十人に近くになった駆逐艦たちに向かって、明石は手を叩いた。
「はいちゅうもーく! ご飯中ごめんね、少しだけみんなに聞きたいことがあって」
口々に『なになに?』やら『早く済ませてよね』だとか聞こえてくるが、それでも見た目年齢的にも現在の軍歴的にも先輩である明石の話は、ちゃんと聞いてくれるつもりなようだ。
明石は皆の視線を集めやすいよう、給仕が食事を配る中央部へと立った。
「この後大淀がいつもみたいに今日の任務を伝えに来るだろうから、その前に手早く終わらせるね。みんなもできれば、騒がず、手短にお願い」
大淀はまず、指揮系統の上の方から順に食堂を回っていく。現在のところ空母、戦艦の居ないこの鎮守府では重巡洋艦が最初だ。その後に軽巡洋艦のところにも通達し、最後に駆逐艦となる。だからまだ時間はあるはずだ。
前置きはそれだけにしておいて、明石は直球に尋ねた。
「みんなここの提督について正直どう思ってる? まずは――特型の娘たちから聞かせて?」
「えぇっ? 私たちですか?」
吹雪が真っ先に反応し、周りの白雪深雪たちと顔を見合わせる。深雪は調子よく請け負うような口ぶりだった。
「いいじゃんさっさと答えちゃえよ吹雪!」
「私が代表で?」
「それがいいと思う」
白雪も頷く。初雪は無関心そうだったし、磯波は申し訳無さそうにうつむくだけだった。五人はこの鎮守府の最初の十二人でもあるから最初に選んだ。
「えぇーっと……」
質問の答えは、もう彼女たち姉妹の中で出ていたようである。つまり、同じ話題が出たことがあるということだった。
恐る恐るという様子で吹雪は立ち上がり、睦月型や綾波型の視線を受けて恥ずかしそうに変な笑いを漏らしていた。
「前に白雪ちゃんたちと話したことがあります。えっと、司令官が直接指揮を取っていたのは最初の出撃の時だけで、それ以降は……離れてしまったみたいで、ちょっと寂しいと……ね? 磯波ちゃんそう言ってたじゃない?」
「ぇっ……あの……はぃぃ……」
消え入りそうな声で磯波は頷いた。顔は真っ赤だった。
「そうだぜ。司令官ってば、あれ以降遠征ばっかだし。特型といえば主力じゃなかったのかねぇ?」
深雪の言を受けて、明石にも心当たりのあることがあった。
「そういえば、睦月型と特型で遠征任務が増えてたね」
「そうです。それも大事な仕事だと思いますけれど……」
白雪が丁寧に答えるが、顔にはやはり『司令官は謎が多い』と出ていた。
「特型の総意は分かった。ありがとう。……じゃあ次は睦月型。誰が答える?」
「如月でいいのかしら?」
如月が笑顔とともに手を上げた。特型が鎮守府の初期メンバーであることから、睦月型の中で唯一初期から居た如月は、代表にはもってこいだったろう。
他のカラフルな姉妹艦たちも特に反対意見は無いようだった。
「こちらも話題が出たことは同じよ。もぅ、司令官ったら、恥ずかしがり屋さんなんだわ……って」
色気のある声で平然と述べ、睦月型の意見を発した。
「長月ちゃんや菊月ちゃんは頑張り屋さんだからもっと戦いたがっているけれど、如月や睦月ちゃんはそうでもないの。例え遠征でも、司令官のお役に立てるのなら、それでいいのよ」
「ふむ……」
「だから実は、意見はまとまっていないの。けれど、ちゃんと命令をくれる人なのだから、一先ず文句はないみたいね。私はもっと、お近づきになりたいわ」
怪しい空気については触れないことにして、長女であり姉妹艦の中でも特に明るい睦月にも目を向けて問いかけてみる。
「ちなみに、長女としても同意見?」
「およ? まさかのバトンタッチですか~? でも、睦月も文句はないかも。睦月型はどうしても戦力としては他の娘たちに負けちゃうから、如月ちゃんの言ったとおり、お仕事をくれるだけでもうれしい……かな!」
「そっか。分かった。……ちなみに後の娘たち、綾波型、暁型とそれから……白露型、陽炎型の娘たち、今の意見とは別の意見、あるかな?」
なるべく省略して早く本題へ進めたかった。全員に聞くのは時間の関係でそもそも論外だったため、こうして代表の意見を聞いてみたが、このように質問を変えたほうがさらに早くなりそうだった。
寂しいという意見と、仕事をくれるならいいという意見。どちらともない意見とは……つまり。
「…………無いっぽい?」
夕立が沈黙に耐えかねた様子で呟くと、自然な頷きの波が起こった。並んだ頭たちが少しだけざわつく。
「じゃあ手を上げて? 吹雪たち特型と同じ意見だよって娘は?」
寂しいという意見に一致する娘たちが手を上げた。中には性格からか、かなり控えめに上げた者もいる。
丁度半分くらいか。
「一応聞かせて。どっちにも当てはまるよっていうのは?」
少し時間は掛かったが、結果的に全員が手を上げた。
「なるほどね。……協力ありがとう。手は下ろしていいよ」
「それで、何がしたいのさ」
菊月が問いかける。それにも頭たちが騒がしく同調していた。
「えっとね。つまり……提督と私たちって、やっぱりまだ『分かりあえていない』って思わない?」
「せやなぁ……。折角おしゃべりもできる身体になったんやから、もっと仲良くできたらええなあ」
陽炎型、黒潮がはんなりと答えた。その隣で同型姉妹の不知火が黙々と食事を続けている。長女の陽炎も不知火に合わせているのか特段口は挟まないつもりのようだった。
そのすぐ隣にいた暁が、最後に牛乳を何とか飲み干し、ようやく口を開いた。
「ぷはぁ。……もう、明石さんったら、人が食事している最中なんだから、ちょっとくらい待ってよね! レディは静かに食べるものなのよ!」
胸を張っているが、口元には牛乳の口ひげができていた。響が何も言わず布巾を取り出すと、雷がそれを取って拭った。
「そういう暁は、いつもと違ってすごく早食いだったじゃない。それはいいの?」
「そ、それは、先輩の明石さんが話してるからちゃんと聞かないとって……もう! 私のことはいいのよ!」
「……何の話だったかな。司令官と私たちが、分かりあえていない……だったか」
響が締めると姉妹も落ち着きを取り戻す。そういうバランスになっているようだった。
「そうそう。提督についてわからないことが多いから、私たちも不安になっちゃうことがあると思うの。そこはどうかな」
「なるほどな。それで、明石さんはどうしたいんだい?」
響は他の駆逐艦と比べてみると頭ひとつ抜けて冷静だった。こういう場では助かる。
「大淀は提督にかかりっきりで、今じゃ提督と二人で秘密を共有したまま頑張ってる。提督がどんな人か知った上で、私たちに隠してるんだよね。まあ、意地悪とかそういう気持ちでやっていることじゃないんだけどさ、でも、君たちからするとやっぱり、どうなのかなって私は思ったわけ」
「士気が下がるって言いたいの?」
そこで声を上げたのは、先程は口を噤んでいた陽炎であった。駆逐艦の中ではやはり精神的に年長のような印象がある彼女もまた、冷静に事を眺めていただけだったようだ。
「艦娘になった私たちには感情がある。そうでしょ?」
「まあ、そうね。不知火とも仲良くできるのは、感情があるからよねー」
「……どうして不知火に振るのです」
口元を布巾で拭ってから両手を合わせていた不知火は、静かに低い声で応えた。
「何となく?」
それに対しツインテールの先を指でくるくるしながらとぼける陽炎だった。
「…………」
黒潮が手振りで『気にせんでええよ』と促してくれたので言葉を繋げることにした。
「そう、士気が下がると私は思う。だからね、大淀と提督っていうコンビができちゃった以上、あなたたち艦娘の側にも頼れるお姉さんが居ないと対等じゃないっていうか。分かる?」
「明石さん……野心が溢れてますよ……」
吹雪が若干引いていた。吹雪から見るとそうかもしれないが、これはいわゆる労働組合のようなものだ。そういう組織があるとどこかで聞きかじったことがある。
「違うって。そういう個人的なものじゃなくてさあ」
明石は少しだけ言葉を練り直した。
「規模は違うけど、権力で言えばあの二人は強力だよ? 鎮守府としてなら、大本営にも口を出せる二人だしね。だけど今のあなたたちはどう? 駆逐艦だけじゃなくて、軽巡や重巡の人たちも含めてさ、ただただ機械のように、兵器のように使われるだけの現状に、思うところはない? 提督や大淀、果ては大本営に対して言いたいことの一つや二つ、無いかな?」
「――不知火は構いません。現状でも、役目を果たせていると判断します」
ひときわはっきりと宣言した不知火は、駆逐艦の中でもかなりの“武人派”だった。戦闘が好きと言え、好戦的で、現状に異を唱えないタイプであることは明石も承知である。
「私も賛成だ。司令官との距離を縮める必要性は、悪いが感じないな」
長月だった。彼女も同じタイプ。
「うん。二人の意見は聞いた。……その上でも、やっぱり私は艦娘側のまとめ役として立たなきゃいけないと思うの。艦娘たちの意見を聞いて、ちゃんとあの二人に伝える役目。そして必要なら――あの二人に反抗しないといけない立場になる。だって、大淀にはっきりと文句言えるのって、今のところ私くらいしかいないし、あはは」
茶化すのも大概にしないと、もう真面目に受け取ってくれないかもしれないなぁ、と反省し、明石は声の調子を落とした。
「じゃあもう一つみんなに質問。みんなは提督についてほとんど何も知らない。私も知らないけど、みんなよりは知ってる。そして誰より大淀を知ってるのは、私だけ。……それで、現状は絶対的な場所からただ命令を下すだけの提督が、もし、とてもじゃないけど承諾できない無茶な命令を出したら? みんなも噂で聞いたはず。それに、ここには経験者も居る。提督は暴走する可能性があるってことを、薄々不安に思っているはず」
「……」
誰も、口を開かなかった。明石が喋っているからというのもあるが、言い返せなかったからだ。
「その命令に反対するとして、みんなで執務室に乗り込む? 提督の命令は間違っているって――自信を持って言えるのかな」
「……どういう、意味でしょうか」
白雪が緊張した面持ちで問う。
「私たちは提督のことを知らないんだよ。知らなさすぎる。だから、初出撃したあの時の提督の行動が、全く理解できない。提督なりに筋道の通った理由があるんだとしても、それが何なのか見当もつかない。艦娘から見たらあり得ない作戦でも、提督には確実に成功させるだけの判断材料があるのかも知れない。だけど、提督を知らないとそれも見当が付けられないの。そんな状態で提督の執務室に押しかけても、提督は絶対に折れないよ。そもそも私たちとは持っている情報が違いすぎて、話すら噛み合わなくなるからね」
「……以前は、それで成り立っていたと思うけれど」
響だ。あまり言及したくはないが、彼女の艦歴は長い。この食堂に集まっている誰よりも、長い。だからこそ、老練したかのような判断ができる。
「でも、不安を抱えたまま動くということがどれだけ嫌で、自分自身の動きを鈍らせることか、想像できる?」
「それは……分からないな」
「提督の判断はきっと間違っていないんだろうけど、自分じゃ全くそう思えない無茶苦茶な作戦をやらされる羽目になる。そんな状態で、つまり……“感情”を持った私たちが、そのまま戦えるとは到底思えないのよ」
明石は必死に訴えていた。普段の明石からしても考えられないくらい情熱的に、皆の賛同を得ようとしていた。
「明石さん……すごく燃えてるね」
睦月が如月に耳打ちする。如月もそっと頷き、動向を見守る。
「だから私は、そういう時に、みんなの代表をして提督と大淀に真意を聞く。それをみんなに伝えるよ。みんなが納得できる回答を得ない限り折れない。約束する。提督の暴走を抑止できるのは、誰でもないみんな自身だってこと、忘れないで。明石がその代表を務めてみるから」
一歩間違えば悲惨な結果になっていたであろう初出撃の時、提督の暴走を止められる者は居なかった。大淀でさえこの世の終わりかも知れないという顔をしていたくらいなのだから。
あのようなことは、もう繰り返させない。もう大淀にあんな顔、させたくない。
「つまり明石さんは……その、敢えて……大淀さんと……あの、争うような立場に、なるのです?」
今朝会ったばかりの電がそっと発言した。
「そうじゃないよ。大淀は私がそういうことをしそうだって分かってるはずだから」
「そう……なのです?」
「……うん」
少しだけ自信がなくなって、目をそらした。その先で夕立、時雨、五月雨が顔を寄せあって何かを打ち合わせ、そして三人ともが頷きあった瞬間を目撃した。
そして、こちらを向く。
「明石さん! ちょっとだけいいですか?」
「いいアイデアがあるっぽい!」
「僕たちの意見だよ。白露型の、ね」
この三人は、陽炎、不知火、黒潮の三人組と同様に見て間違いないくらいの仲良しだ。それに初期艦である五月雨も居て、駆逐艦の中での発言力は多少なりとも高いはずである。さらに時雨と夕立という、色々と凄まじいコンビがいるのでは、なかなか正面から立ち向かうことはできなさそうだ。
全員がその三人組の言葉に耳を貸した。明石も、じっと聞く。
「そんなに難しい話ではないんじゃないかな、と思うんだ」
「そうそう、だって明石さん、最初に言ってたことと最後の方で言ってること、違うっぽい」
「……え? そうかな?」
「最初は、提督がよく分からないから、僕たちも不安になってしまう、と言っていたよね」
「てっきり、それを解消しようっていうお話かと思っていたんです」
「でも今は、よく分からない提督に、ただ意見をぶつけようとしてるだけっぽい」
「結局どっちがどっちなのか、よく分からなくなってしまいました……」
五月雨が気付いたのだろうか。それともやはり、三人の力なのか。
「僕たちの意見を聞いているつもりで、明石さんは自分の意見をいつの間にか声高に述べるようになっていたね。黙っていようかとも、思ったんだけど」
「夕立、明石さんがそんなに必死な顔してるの、初めて見たっぽい!」
「うっ……ごめん。私、ちょっと前が見えなくなってたかも……」
鋭い指摘に、何も言い返せなくなっていた。
「あの、明石さん。それで……三人で考えたんです! 明石さんもきっと不安になってしまって、ちょっと寂しくなっているだけです。あの、元気を出してください!」
五月雨の応援が心にしみた。瞳が少し潤うのを感じながら、頷き返した。
「それで考えたのは、結局、明石さんが何を望んでいるか……なんだ」
「私が何を望んでいるか……?」
「明石さんはただ、……そう、ただ単純に、提督と大淀さんの間に何があるかを知りたいだけなんじゃないかな」
「そうっぽい!」
「私も気になっていました! 提督はちょっと難しい人なのかなって思っていたんですけど、やっぱりもっと提督のこと、知りたいんです! それがもし誤解だったりしたら、ごめんなさいしないといけないですし……」
律儀で健気な五月雨と、冷静で達観している時雨、そして素直で力強い夕立。
この三人と、もっと早く仲良くできてたらなあ……。
そう思わざるをえない明石だった。
やはり、工房に引きこもっているだけではダメだったのだろう。
提督に大淀を取られたなんて……そんな思いをずっとひた隠しにして趣味に没頭していただけだ。それで大淀を問い詰めて、勝手に知った気になって、駆逐艦の娘たちを間接的に利用さえしようとした。自分の感情的な行動が、結果的にみんなの時間を無駄にしていただけになってしまった。
もっと冷静にならなきゃ……。でも、駆逐艦たちの目は、何とか自分に向いてくれたようだった。提督への不信感は明石に言う、そういう向きができれば、明石としては万々歳だったのだ。
これは……間宮甘味の大盤振る舞いじゃ済ませられないかなあ……。
「……みんな――」
明石が頭を下げて謝罪しようとした瞬間だった。食事を終えてからずっと、机に腕枕を敷いてだらけていた初雪が、ふと廊下に気配を感じて顔を上げた時、そこに、通路を歩いてくる提督と大淀の姿を見たのだ。
他の皆が難しい話をしている間、初雪はずっと狸寝入りをしていたわけであるが、明石は提督たちが来ない間に終わらせようとしていた。きっと見つかると厄介なのだろう。初雪にとっても、これ以上だだっ広い食堂に釘付けにされるのも好ましくない。
だから、教えてあげることにした。
しゅた、と音が聞こえそうなくらい、機敏な挙手だった。
「えぇ!? 初雪ちゃん急に何!?」
正面に居た吹雪が椅子から落ちそうになるくらい驚いていた。
「敵襲……です」
「? はっ! 明石さんやべーぜ! 司令官と大淀さんが来てる!」
深雪が気付いて代弁してくれた。明石はそれを聞いて仰天する。
「嘘……逃げなきゃ!」
逃げ道を探す明石。まだ高らかに上げられていた初雪の手が、ゆったりと動いた。その指先は、窓を向いている。
「分かったありがと! あぁみんな、ここで話したこと、全部内緒ね! お願い!」
明石は窓へと駆け寄って開けると下を見て、迷わず飛び出していった。一階であるし気にするものはない。初雪は、もし自分が重要な任務を与えられそうになった場合に備え、機敏に逃亡するための通路を教えただけである。自分ならそこから逃げる、と。
「それじゃね!」
明石が窓から走り去ると同時、食堂の入口が開いて、今日の任務を伝令するための集会が始まったのだった。
4
明石は一先ず駆逐艦たちに思いを伝えることはできたと思い、間宮に頼まれていた鍋とフライパンの修繕と製作に取り掛かった。妖精にお願いして材料の鉄を成形してもらう――造船用のプレス機を使ってもらった――と、後は工房へ持ち帰っての作業となった。閉めたばかりの工房だったが、これが今のところ本当に最後の作業になりそうだった。艤装のない明石では艦娘たちの艤装を直すことはできないし、この工房が役に立つ場面は今のところ少ない。この工房の新たな、より実用的な使い方のアイデアくらいはあるが、それが実現するにしても、随分と先の話になりそうだった。
妖精と協力して作った電動の回転工具を一つ、手早く改造。回転する材料に同じく鉄のへらを押し当て、テコの原理を使った製品の成形を行う。すぐに見慣れたフライパンの形になった。
まさかの一発成功だったので手早く面取りと表面加工も終わらせ、次の作業に入った。ビスを打ち込む場所を決めてから、鍋の方のビスも取り外しておく。両者に柄を取り付けるまでの明石は、まるで本物の職人のようであった。ちなみに柄は木材で作ったが、これは例のアレの失敗作から削り出したものだ。
「ふぅ…………」
我ながらいい仕事をした。間宮から相談を受けたなかで特に重要だった二つの案件は片付けた。実のところ、他の細々とした問題は、直接提督側に申請してもらったほうが早いと思い、間宮にもそう伝えた。彼女の方から相談を受ければ、大淀が手配してくれそうだった。
だから明石はこうして手先を使って直接何かをするものだけ請け負って、完成品を洗浄して早速間宮に向かったのだった。
いつの間にか時間は午後になっていて、鎮守府の運営も一日の佳境に入る頃だった。間宮にとっては昼食の用意も終わっていて、夕飯について考えている頃合いだと思った。
間宮のお店の表から入ることはなんだか気が引けて、裏口から入ることにした。厨房傍の勝手口で、すぐに間宮に会えると思ったからだ。
だが、現実は時に予想外を引き起こす。運命のいたずらがあるとすれば、まさに今だった。
「こんにちわー。間宮さーん、フライパンと鍋を……――えっ? 提督!?」
思わずフライパンを構えてしまった。しかし全く失礼な行為だと思い直し、よく分からない動きをした後とりあえず、直立に収まった。
提督は厨房に立って真剣な顔をしていた。明石の声を聞いて振り返り、しばらく目だけを動かして何かを考えていたようである。そして、明石の頭に浮かんでいる疑問の答えを短く言った。
「間宮からいくつか申請があったわ。明石に、そうするよう言われたと」
「そ、それで直接視察ですか……?」
「大淀は出撃中の艦隊指揮に従事しているから」
つまり、手が空いているのは提督しかいなかった、と。
相変わらずの能面のような顔で、提督は厨房を見渡しながら検査表に何かを書き込んでいく。
「…………」
明石は何を言うべきか分からなくなった。そもそも、提督と会話するようなことは持ち合わせていない……。
向こうもその必要がなければ何も喋ることはないだろう。
……いや、ここは、勇気を出してみようか。
大淀は踏み込んだんだ。だから今はああやって、提督の思いを知ることができていて、信頼しあっている。自分は置き去りにされたような疎外感を覚えてしまって、恥まで掻いた。
提督は……優しい人。提督のことはまだ信じ切れないが、大淀のその言葉を信じてみよう。
だから思い切って……聞くんだ。
提督は検査表の一番下の欄に何かを書き込むと、明石を一瞥してから、厨房を出ようとした。明石が立っている傍の裏口ではなく、表から出るつもりらしい。その背中を既のところで呼び止めた。
「提督!」
立ち止まった提督は、ちゃんと振り返って明石の言葉を待ってくれた。
「……」
無表情の瞳が明石を見ている。怯みそうになったが、そっと切り出した。
「提督は……今、間違いなく提督としての仕事を……その、してると思います。ちゃんと、しっかり。……でも、私たち艦娘はみんな、感情を持って生まれてきたんです。こうして、ちゃんと立ってます。そして、悩んで……不安になって、自分でも何をやろうとしてるのかわからなくなるくらい、無闇矢鱈に、ヤケになったみたいになっちゃうこともあります」
自分のことだ。戒めのためにも、しっかりと言葉に出した。
「私たちが悩んで、誰かのことを心配し合ったり、どうにかしてあげたいとか、そういう風に思って“生きて”いるのに……どうして提督は……」
言うんだ。拳に力が入った。
「どうして、提督が一番……機械みたいになっちゃっているんですか……?」
提督の瞳が、見開かれた。急激な驚きによるものではなく、心に言葉が突き刺さった顔だ。
「機械みたいに、大本営から受信した信号をそのまま私たちに伝えているような……そんな風になっちゃっているんですか? 私は……明石には、それが分からなくて」
趣味を楽しいと思える。楽しいと思うことに没頭できる。困った人を助けようと思える。実際に助けられる力がある時もある。艦娘としての人生は、全く悪くない。
素晴らしいとさえ、思っている。大淀との思い出も、胸を張って、艦娘として生まれたからできたことだと言える。
なのに提督にはそれが……ない。提督が一番無感情で、無関心で、無存在になってしまっているのか。それが分からないから、言い知れない不安ばかりが募るのだ。
だからはっきり答えて欲しい。答えが欲しかった。
「…………か……艦娘は」
「提、督……?」
苦渋の表情で床を睨む提督。唇も噛み切らんばかりで、眉間に力も入っていた。
怒らせたのだろうか。それとも、いくら何でも言ってはいけない事だったのだろうか。
ふいに大きく息を吸った提督。顔を上げた時には、明石の知っている無感情の提督だった。
「――――艦娘は兵器よ。無駄なことは考えないで、命令に従っていなさい」
「っ!」
おかしい。提督はおかしい。こんなのは絶対におかしい。
どうして、もっと素直に助けを求められないの? どうして相談をしてくれないの?
明石の方が、怒ってしまった。
「何で!? 一体何が提督にそんなことを言わせてるのさ!? 何でそんな悲しいことを!!」
提督の表情がまた歪みそうになっている。これ以上核心を突かれると壊れてしまいそうな、そんな脆さが、うっすらと――感じ取れた。
「同じ鎮守府の仲間なのに! なんで頼ってくれないんですか!? ねえ!!」
声は止まらなかった。明石は思いの丈を全て提督にぶつけるつもりだったが、提督は、もう耐えられないといった様子で、逃げるように消える。お客用のテーブルと椅子をかき分けて追う。提督は引き戸を開けて走り去る。明石も追い縋り、表の通りにまで飛び出した。だが――提督の姿が無い。どこかに隠れたか、路地に入ったんだ。
「ああもうっ!! こんなの――なんでこんな不具合だらけなの――?」
頭を抱えてしまう。やり場のない悔しさとか、やるせなさが溢れていた。
だが、ようやく分かった。
言い方は悪いが、この鎮守府で一番壊れているのは提督だ。
提督の問題を解決しないことには、明石の悩みも解決しない。
つまり明石はずっと、自分の中に巻き起こった『言い知れない不安』という不具合で悩み、その原因が提督であることに気付いた。
提督が何かを隠し続けていることが、何よりも明石にとってはストレスになっていたのだ。
もっと気楽に、もっと仲良く、お互いに寄り添えるような関係を望んでいたのだ。
それは、明石と大淀の関係にほぼ等しい。明朗快活な性格である彼女は、誰とでもそういう関係を築ける自信がある。飾らない関係を望み、時には頼り、時には頼られる。そんな理想的な関係が良いのだ。
だからこの悩みを解決するには――必然、提督の隠し事を暴かねばならないということになる。
大淀には邪魔はしないようにと言われているが……こうなってしまっては、どうにも我慢できそうにない。
明石の手には、提督と交わした最初の握手の感触がこびりついていた。
『絶対仲良くなれる』と確信したあの握手。それが、その次の瞬間には綺麗に裏切られた。
あの時から提督は……明石を裏切ってばかりだった。
大淀は先を行っている。提督との間にある不具合を修正して、整合性を得た。だから同じ言語で通じ合えるし、同じ環境に居られるのだ。
明石も、そこに入りたい。
もっと仲良く、なれるはずだから。
その輪を広げていくことができれば……この鎮守府は、もっと楽しくなる。
記憶の隅に、誰が言ったのかわからないこんな言葉がある。
『人生は、楽しまなきゃ損である』、と。
5
「明石さん! お邪魔するっぽい!」
寮の部屋がノックされたのは夕食の後のことだった。同室の大淀はまだ執務室で提督と仕事中で、今日一日の総括に入る頃。つまり、明石が食堂で演説した時と同じような、間隙だった。
夕立の声に呼ばれて扉を開ける。駆逐艦たちがわらわらと集まっていた。
「な、何事……?」
「お部屋に入れてっぽい!」
「他の人に聞かれちゃうしね」
時雨の言葉で理解が及んだ。この二人が先頭であるということは、朝の続きを所望のようだった。明石にとってもありがたい訪問だった。すぐに扉を全開にして、招き入れる。
「入って」
集まっていた駆逐艦たちを招き入れる際、部屋に入ってくるメンバーを観察した。
夕立と時雨、吹雪と深雪、そして雷と電、如月が続き、不知火が入ってきて、最後が五月雨だった。
扉を閉め、こちらが尋ねるまでもなく、時雨が切り出した。
「あれからみんなでも、話し合ったんだ」
「明石さん、なんだかすごく悩んでいるみたいでしたし……」
吹雪もまた心配そうな顔だ。
「お昼時には、なんだか修羅場だったわね?」
如月が楽しんでいるかのような言い振りをしたが、それはちょっとしたお茶目なようだった。
「司令官と殴り合ってたって聞いたぜ?」
「深雪ちゃんどこでそんなこと聞いたっぽい?」
「あれ? 違ったっけ?」
「はわわ、さっそくお話が逸れてしまっているのです!」
「そうだね……僕が代表して話すから……。そう決めたじゃないか」
事前に決めたことがすぐさま崩れてしまうくらいに、みんながみんな明石を心配してくれていたようである。
「なんていうか……みんなありがとう。というか、不知火が居るのが、すごく意外」
明石はようやく口を挟めるタイミングを見つけて、それだけ聞いてみた。
不知火は手袋を直すふりをしながら、そっけなく答えた。
「黒潮に頼まれました。陽炎とともに海上護衛の任についていなければ、本人が来たことでしょう。不知火は代理です」
「そういうこと」
納得した。不知火は不知火で非常に義理堅いと聞いている。友人に頼まれれば断らないのだろう。
「暁とか響とか、睦月なんかも行きたいって言ってたけどなー。でもあいつら防空射撃演習だかなんだかで疲れちまったみたいで、もう寝ちまってたよ」
深雪がさらに補足したあと、ようやく時雨が口を開く。
「僕らで話し合ったことを、明石さんにも聞いてもらいたくて来たんだ」
「分かった。聞かせて」
時雨ならば安心して聞いていられる。
「明石さんは昼間、提督と言い争っていたそうだね。念のため確認させて。本当のことかな?」
「……うん。恥ずかしながら。あれで謹慎処分とかが飛んでこないのが不思議なくらい」
肩を落として首を振った。自分があんなに冷静さを欠くことになるとは。溜息はもう出尽くしていた。
「言い争っていた内容は、やはり朝話していたこと関連かな」
「そうだよ」
簡単に事情を説明した。提督に答えて欲しかったが満足な返答を得られなくて、『兵器だ』と宣言され、怒ってしまって――私はそれを解決したいと思ったことも。
説明を終える頃になって、ずっと後ろのほうでちょこちょこと動いていた五月雨が戻ってくる。
「みんな、お茶を淹れてみました! 明石さんもどうぞ」
「ありがとう。貰うね」
――。
「うん……ありがたいんだけど……夏場に温茶かあ……」
仕方ないが、一口すすってみた。味は普通だった。部屋に備え付けの緑茶である。
ちょっと不知火、後ろのほうでバレないからってそっと盆に戻してる! ずるい。
深雪は舌を火傷しかけていたし、電は必死に息を吹いて冷まそうとしていた。個性豊かで微笑ましい。そう、こういう光景が、色んな所で見られるようになるといい。そう思った。
お茶でひと休憩挟んだところで、やはり時雨が切り出す。いい仕切り役だと思った。
「でも良かった。ちょうど、僕らで考えていたことと同じみたいだ」
「どういうこと?」
「僕らは同じ鎮守府で頑張る仲間だから、仲間の悩みは解決してあげたい。だから、明石さんがすごく悩んでいるなら、それを解決するお手伝いをしたい。そういう結論が出た」
「それで明石さんが何を悩んでいるのかもう一度聞こうと思っていたんですけど、さっきのお話で大体分かりました」
吹雪が意気込むと、時雨も頷く。
「明石さんの悩みは、提督の隠し事を知ることでしか解決できそうにない。……だから、僕らは提督の隠し事を暴く手伝いをしようと思う」
「そんな……だって、私はともかく、みんなは普通に怒られるかもしれないよ?」
「いいんだ。元々僕らも気になってはいたことだしね。提督が隠し事をしたままなのが気になる、そういう気持ちを持った娘は多いんだ。僕らは物言えぬ船じゃなくなったから、行動を起こせる。僕たちの命を、二度目の命を預けられる人のことを知る権利があると思う」
「……」
「正当なことだよ。納得しないことには、無茶な命令は聞けない。そういうことを明石さんも朝、言っていたじゃないか」
「うん……」
明石は嬉しさを噛み締めていた。そこに、雷。
「明石さんったら、朝の演説の時すっごく辛そうな顔してたのよ? 自分じゃ気づいていなかったかもしれないけど、見てられなかったわ!」
「今もそうっぽい」
「うっ」
自分でも鏡を見て気付いていた。もちろん、部屋に帰ってきてからの話だ。見るからに落ち込んでいたし、憔悴しているようだった。
「どう反応すべきか、みんな飲み込めていなかっただけなんだ。明石さんはきっと助けを求めているけれど、どう助ければいいのか、あの時は分からなかったから。一日話し合って、こうやって、決めることができた」
「あの……明石さん」
電が小さな声で明石を呼んでいた。
「何……?」
電の中には、牛乳を飲んでいる秘密を応援してくれた明石が居た。優しくて頼れる、鎮守府のよろず屋的存在。お姉さん。
「明石さんにも、もっと……電たちを頼って欲しいのです」
「僕たちのことは気にしないでよ。ただ、明石さんを助けたいだけなんだ。提督に怒られたりするのは別のことだよ。それに、怒られないかもしれないしね」
「でも、どうやって?」
明石はその提案を受け入れたいと思った。みんなで提督の謎を解き明かすなら、こんなに心強いことはない。だけど、その取っ掛かりをまず見つけなければ。
どこから掘り下げていけば……提督を暴けるのか。
そこでさらなる意外な人物が口を開いた。そう、不知火である。
「……こんな謀反とも取れることを推奨する気はありませんが……」
そう前置きしながらも、不知火は小首を傾げるようにしていた。自分でもどちらの味方なのか考えあぐねている様子である。
「陽炎や黒潮に知られたら、下手な暴走をしかねません。……黙っておくことにします」
「どういうこと?」
近くに居た吹雪が問いかけると、不知火は虚空を見ながら言った。
「ここでのことは、二人には伝えません。適当に繕って、何もなかったかのように報告します。ですが……ここに立っていた以上、不知火も呉越同舟ということは避けられません」
「なに遠回しに言ってるのよ。もっとはっきり言っちゃいなさい? 『不知火も頼っていいのよ』って!」
「違います」
「何が違うのです?」
「中立を選ぶということです。積極的な協力はしませんが、強いて止める気もないということです」
「つまり、客観的に見守ってくれるってことね。やり過ぎだと思うことは反対するし、そうじゃない場合は助けてくれることもある……と」
明石の言葉に頷いた。
「そうなりますね」
「それで、不知火は今、助太刀してくれるの?」
何となく、そんな気がした。
提督について調べる一番初めの取っ掛かりを、不知火は知っているのではないか。
みんなの注目が集まると、不知火は自分の右腕を左手で抱くようにして、やや目線を逸らした。
「……陽炎と黒潮が、南西諸島方面の海域へ出撃する艦隊に選出されました。作戦開始は近日中と聞いています。新しい海域ということで、大淀さんも艦隊指揮に集中するでしょう」
「その話初耳だわ」
明石だけが知らなかったようでもある。実際に出撃している艦娘たちの情報に敵うものは残念ながら無いらしい。
「そして司令ですが、南西諸島海域攻略を成し遂げた折には、大本営に召喚される予定だそうです。恐らく定例報告を兼ねたものでしょう」
「ちょっと待てよ不知火、一体どこでそんな情報を掴んでくるんだ?」
深雪でさえも分かるほど、不知火は情報通に過ぎる。あまりにも駆逐艦離れした知識の差に、愕然としたのだろう。
「不知火は陽炎たちと同様、南西諸島海域の攻略作戦に編入される予定ですが、海域深度に違いがあります」
その海域における敵の脅威度が増すほど、深い場所と言うことができる。南西海域は大きく四つの海域に分類されているが……まさか、最も深い場所、沖ノ島近海のことを言っているのだろうか。
つまり陽炎たちが最深部への道を切り開いた後、海域攻略の主力として編入されている、ということになる。不知火は事実として、頭ひとつ抜け出していたらしい。
「…………ですが、不知火はこの作戦に懸念を抱いています」
「どういうこと?」
「南西諸島海域への侵出とオリョール海付近に展開する深海棲艦の通商破壊までは、現戦力でも可能かもしれません。ですが、沖ノ島周辺海域を攻略しようとするのは、無茶なのではないかと。戦艦や空母の戦力がなければ厳しい戦いになると判断しています」
「それを進言したことは?」
「……いえ。進言は控えました」
つまり、と不知火は続ける。
「今のまま司令が沖ノ島海域の攻略を進めようとするのであれば、それは間違いです。明石さんが朝に言っていた状況とも一致する状況……というわけですね」
提督が間違っているという意見を通すことができない状況。不知火にとっては『やろうと思えばできる』が、彼女が『黙殺』してしまえば、状況は同じになる。
駆逐艦の意見を提督に通す者が必要だと、不知火は言っているのだ。
明石の背筋が、すっと伸びた。
「でも……私がそれを代弁する形で提督に進言しに行っても、昼間と同じようなことが起こりかねない……」
「ええ。ですから明石さんには……もっと“上”へと進言することを推奨します」
「不知火ちゃん、本気なの?」
吹雪が不安を露わにする。だが、やるからには徹底的に、という性格がにじみ出ている不知火のことだ。間違いなく本気で言っている。
「大本営に……直接かぁ……」
明石は頭を抱えた。前髪をかき分けて額を押さえる。熱でも出そうだった。
「司令のことを暴こうとするのであれば、何よりもこちらに足りないのは情報です。鎮守府の外の世界と繋がっている情報源がありませんから、司令のことを一番知っているはずの外部の人間に聞くという、最も確実な方法を取ることができません。だから……呼び込んでしまえばいいのです」
「大本営に提督の指揮に問題があることを報告して、直接文句を言いにこさせる……? うわ、本当に謀反になっちゃいそうだよ……」
「閉鎖空間である鎮守府の中から事を起こすのであれば、それくらい大それたことでなければなりません。それともあなたは、艦娘として不安定のまま、ここで働くのですか?」
「それは嫌だよ」
「ならば、やるしかありません。外部の人間を鎮守府に呼び込み、そこで聞き出すのです」
不知火の意見はかなり強引なものだ。提督を間接的に叩きのめす結果にもなりかねない。
それが『邪魔』にならなければ、いいのだが。
「そうと決まれば、僕たちの役目も決まったようなものだね」
不知火の話を聞き終えた時雨も述べる。
「この鎮守府に偉い人が来たら、その人と提督を引き剥がす役だ。何か少し騒ぎを起こせば、その隙にどうにかできると思う。そういう作戦を立てよう」
「司令官の指揮に不満があると報告しているから、何か騒ぎを起こせば反乱かもって焦るわね。だからその間に分断してしまおう……っていう作戦なのね?」
雷が自分なりにまとめて反復する。
「幸いなことに鎮守府は、外部からの干渉を受けない設計になっています。そのことは誰の目にも明らかでしょう」
「逆を言えば、多少問題が起こったところでお咎めがあるとは思えない。それくらい大事にされている、ということだね」
深海棲艦に対抗できる戦力をひとまとめにしておける施設。それが鎮守府である、という認識を持っていた。そのことに疑問の一つや二つ、みなあったのだろうが、戦うという至上命題の前には些細な問題だったのだろう。
しかし明石が真剣に悩んで苦しんでいるのを見て、皆が変わったのだ。
この無機質な鎮守府で戦い続けることだけじゃない。自分たちはそれ以外のこともできるのだ……と。それを自分たちが示さなければ、何も変えることはできない。
その『宣誓行為』の先に、明石が求める真実がある。
提督とは一体、どのような人間なのか。
一体どんな過去を抱えて、あのような支離滅裂な、無理やり二つの生き物を繋ぎ合わせてしまったかのような不自然な人になってしまったのか。
前向きの頭と後ろ向きの頭が毎日喧嘩をしているような、そんな提督の正体を明かさないことには、明石の悩みは解消されない。
鎮守府を覆っている、朝靄のような、全てを曖昧にしてしまう緞帳を引き裂き、提督が何故そうなったのかを明かさないことには。
大淀との話し合いで納得したつもりだったが、やはり、やらないことには気が済まない。
「分かった。やるよ。みんなの助けが要る。提督の謎を暴いてみせる。そして私と……みんなが、すっきりした気持ちで戦って、そして帰ってこられるような鎮守府にしよう!」
駆逐艦たちの声が、高らかに重なった。
第三幕に続く
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第三幕
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南西諸島海域の攻略作戦を実行に移すだけとなった段階で、提督は非常に厄介な事態が起こったこと知った。
いよいよ明日から出撃を開始して順繰りに南西方面の攻略を行うはずだったが、そう言ってはいられなくなった。
執務室で電話を受けた提督の相手は、直属の上司である将校だった。
『君の鎮守府内部から、匿名の告発があった』
「……」
『艦娘の中に、君への信用を失った者が居るようだな。鎮守府の運営は任せていたつもりだが、君はそれほど無能だったか?』
「告発内容は、一体何なのでしょう」
『南西諸島海域への進軍は賛成であるが、我々艦娘の意見の一切を退け、強硬的な作戦を執る提督の調査追求を要請したい、とある』
「……そうですか」
……おそらく明石だ。何となくそう思う。
『そちらが上申した計画書はこちらでも確認しているが、この予定はしばらく見送ることとなる。幸い南方が犠牲になっている間、南西諸島方面は静かだからな。一、二週間の遅れは問題ないだろう』
「…………」
『こちらから人を送る。君もよく知っている人物だ。明日
「なっ!? まさか……彼女ですか――!?」
提督の背筋に薄ら寒いものが迫り上がってくる。歯が震え、カチカチと鳴るのを必死に押さえた。
冷静だった提督が瞬時に動揺を見せたところに追い打ちを掛けるように続けられた。
『彼女のような“敵”ならば、君の問題をしかと報告してくれるだろうからな。それに、鎮守府に詳しい人物というのも、彼女しか居まい。会議にて推薦状も提出され、可決されたことだ。この決定は揺るがない』
なんてことだ。ただでさえ辟易していたのに。上手くやれていたとは思っていないが、それでも、これはあんまりだ。受話器を持つ手が震えだしていた。
『調査内容は、君の勤務態度と、艦娘たちへ直接質疑応答を行うものだ。可能な限り全員に意見を聞いて回るよう言ってあるし、君が普段どういった態度であるのかを詳らかにする。その報告書を元に我々も精査に入る。君が提督として相応しくないという結論になれば、こちらとしてもこのような手段を繰り返したくはないが、更迭せざるを得ないだろう』
「もし、そうなってしまった場合、私の後継は誰になるのですか」
『それはまだ議論の余地があるな。妖精の審査基準を誰よりも完璧にパスした君でさえ、艦娘たちの不信を買う羽目になったのだ。要件を洗い直す必要が出るだろう』
理不尽だ。
自分は――彼女たちに嫌われるために提督になったのではない。
心が痛む。
艦娘は兵器ではない。そう主張した意見を揉み潰したのは一体どこの誰だ。今電話口にいる貴様じゃないか――!
「――くっ」
『悔しいかね? 人の上に立つということがどういったことなのか、今一度考えてみたまえ』
電話はそれで切られた。
震える手で黒電話に受話器を置く。そのまま顔を覆った。
涙が出そうだった。あまりの悔しさに。あまりの理不尽さに。
艦娘たちは悪くない。自分が、提督として不甲斐なかったからだ。
「私は――ただ命令に従っただけなのに。忠実に職務を果たしていたじゃない――!」
そうすれば上手くいく――。
自分のことを目の敵にしている外部の敵も諦めるだろうと思っていた。
そうすることで得体の知れぬ敵との戦争に勝利できるとも、思っていた。
だが違う。
結局、自分が動かなければ何も解決などしないということだ。
逃げ出してきた自分が、消極的な行動で何かをできると思うのが間違いだった。
『どうして提督が、機械みたいになっちゃっているんですか?』
その質問にはっきりと、堂々と理由を話せなかった自分が全て悪い。
明石はあんなに心配してくれていたのに。痛いほど分かっていたのに、解消させてあげることができなかった。
自分自身に降りかかっていた問題の解決手段として、今のような提督になることが重要だと思っていたから、こうしていたのだが――。
ついに、この時が来てしまったか。
提督の首には、死神の鎌が差し迫ったようなものだった。
「…………提督? っ! どうされたんです!?」
執務室に入ってきた大淀がすぐに気付いた。駆け寄ってきて提督の肩を支える。提督の顔を見て尋常じゃない何かを感じ取った。
「大淀……ごめんなさい。明石のこと……やっぱり失敗したみたい……」
「ぁ……。ということは、明石が何か……?」
「いえ、まだ確定じゃ、ないのだけど……。そうね、明石を……すぐに呼んで貰える?」
「分かりました。……提督、しっかりしてください。涙を拭いて……」
「私……泣いているの……?」
言われて気付いた。涙がこぼれ落ちていた。
「提督、やっぱり……明石には打ち明けたほうが良かったのでしょうか」
ハンカチで涙を拭い去りながら、大淀が問いかける。二人で話し合って決めたこととはいえ、明石に冷たくしすぎてしまったようだ。
大淀もまだ何があったのか把握できないが、提督の様子はそれこそ異常だった。ずっと冷静に事を運んできた提督が、ここぞという時に、ついに箍が外れてしまったかのように震えていたのだから。提督にとって非常に良くないことが起こったに違いない。それは確信できた。
「……ありがとう。もう大丈夫よ」
涙は止めた。平常心に戻らなければ。
解決しなければ。明石のことも、あの人のことも。全てを。
少し間を置いて、大淀の質問に答える。
「こういうことを防ぐために……あなただけに打ち明けたつもりだったのにね」
「……まさか、艦娘から離反が出たのですか?」
「そっちが重要なんじゃなくてね。……私が更迭されそうなのよ」
最悪の場合、この世から――ということは口には出せなかった。
艦娘は兵器であるという一貫した意見を持つ上の連中は、艦娘を失うことはもちろん避けた上で、艦娘が艦娘として、つまり命令に従って戦果を得るためだけの道具として、確実に保有したままにしておきたいのだ。
艦娘の逃亡や離反、亡命などを起こされてしまっては溜まったものじゃない。
いざとなれば処分されるのは艦娘ではなく、提督の側であるということ。
だからこそ提督である自分にその権利がある刺客まで送り込んで、艦娘が道具のままで居られるようにと、提督の行動を封殺したのではないか。
「……なるほど。一刻を争いますね」
来る時が来てしまった。そういうことだと大淀は理解した。
噛みしめるように考えていた大淀が、そもそも……と切り出す。
「そもそも、どうして提督は……私に打ち明けられたのでしょうか? 艦娘たちを道具として扱うために、上の方たちは……その……提督に厳命をしたのですよね。ですが提督は、それを破って打ち明けてくださいました」
「……救いが……欲しかったのかも知れないわ」
提督は怯えていた。だから、大淀に甘えてしまったのかもしれない。
「……。提督、やはりまずは、“呪い”を解くことを最優先にしましょう。大淀もお手伝いします。提督にはもっと、自由な……そして、みんなに慕われるような人であって欲しいです」
――だから明石を除け者にするのは、もうやめてください。
言葉裏に、そのような意味も含めてみた。もう、二人だけではどうしようもないことになってしまった。
そして最後には、提督自身が解決しなければならない事態だ。
「ごめんなさい。大淀にとって、明石は大切な友達だものね――。本当に、辛い思いをさせてしまっていると……わかっているのだけれど」
「明石だけじゃありません。艦娘全員、艦娘は皆が皆仲間で、家族です。きっと……海がそうさせてくれたんです。だから、そこにあなたもお迎えしたい。……そういう気持ちがあるんだと思いますよ」
――海が、そうさせてくれた。
「それなのに私は……どんどん離れていこうとしているのよね」
「はい。私が何とか繋ぎ止めている錨となっているんです。……でも、提督が敵の思惑通りに左遷されてしまったら、大淀には押さえきれません。無理です」
「そうよね……。私も…………私自身、この呪いが解けたらと思う時は、もう、数えきれないくらいあったわ。あんな事がなければ、もっと素直に……こんな無愛想な提督になる必要もなかったら、一体鎮守府は、どれだけ活気の溢れた場所になっただろうって」
無機質な鎮守府だ。色彩が無いように、提督には見えていた。
それが――機械が見る景色だった。
「――ねえ、大淀」
「はい」
「前に話した私の問題、その全てが上手く解決すると、本当に思ってくれているの?」
「はい」
「私の話した理想も、きっと叶うかしら」
「はい。提督は提督として信用を獲得し、さらにご自身の呪縛も解放できると、信じています」
「……そう。ありがとう。……明石を呼んで頂戴」
大淀は自ら退室を選び、明石を呼びつけた。
きっと提督はこれから、提督としての仕事よりも、自分のことを優先するようになる。
それはつまり、艦娘から見れば、また“暴走”することになる。
そうしてもなお全てが上手くいくかどうかは、母なる海のみぞ知ることだろう。
しかし大淀は、揺るぎなく、信じていた。
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「率直に聞くわ。告発したのはあなたね、明石」
「はい? 何のことですか?」
無知を装っているが、明石はそれができるくらい聡い娘であるということくらい、わかっているつもりだった。だから、真剣に話さなければならない。
提督は軍帽を脱ぎ去った。机に置き、立ち上がり、上着も脱いでしまう。脱いだものは椅子に掛けていく。
「……?」
明石は目だけでそれを追って疑問符を浮かべる。何をするつもりか見極めようとしていた。
正装とも言うべき――トレードマークともいうべき白の軍服を脱ぎ去った提督は、最終的に上半身はタンクトップシャツだけになった。下は脱ぐわけにもいかないため、これが精一杯だ。
「何も言わず付いてきなさい。少し急ぐわ」
「……はい」
いいながら提督はすぐに歩き出し、その最中、明石の目前を通り過ぎる際には髪まで解いた。
重巡洋艦妙高のように後ろで束ねてシニヨンにしていた髪を解くと、提督は艶のある黒髪の“女性”へと変貌する。短すぎず長すぎない、背中に掛かった髪からは少しばかり汗ばんだ匂いがした。しかし香水を使っているのか、不快ではなかった。
明石には判断が付けられないが、きっと彼女はすごく魅力的な人なのだと思う。きっとそうだ。
明石はなんとか足を動かしてついていくが、提督は執務室から出て左右を見、明石を促す。
「早くしなさいと言ったはずよ」
「……分かりました」
軽いランニングのようなペースで廊下へ飛び出した二人は、提督の先導で本棟からも出て行った。夜の闇の中、ジリジリと鳴く虫の声が煩く、明石は提督を見失いそうになってしまう。足音を追うしかないような闇だったからだ。
「なんで明かりがついてないんです?」
施設を結ぶ道には外灯があるはずなのだが、どういうわけか全て消えていた。
「故障でしょうね」
「……」
理由は教えてくれなさそうだった。
しかし提督も明石の質問で暗さを見て考え直し、明石に向かって手を伸ばした。
「行くわよ」
「えぇっ? 提督、そんな、だって、危ないです……」
何が危ないのかは、自分にも分からなかった。レンチは持ってきていないし。
「握りなさい」
「……はい」
逆らえるような声色じゃなかった。提督はきっと、怒っている。このまま工廠裏にでも連れて行かれて……夜な夜な、目撃者も居ない中……解体されるに違いない……。
提督の手を握った明石は急に引っ張られた。何とかもつれそうになる足を奮い立たせて、提督とともに夜闇を駆けた。
提督はもはや感覚で進んでいるようだった。大分、通い慣れているらしい。
「……あの日の夜も、大淀とこうしたわ」
「へ……? 大淀と?」
「いい? 明石。……私は……精一杯努力しているつもりよ。これから、それを説明できる場所に行くわ」
「どこなんです? それに、説明できる場所って?」
「……今はとにかく、見つからないように」
それ以降提督は口を開かなかった。時には草むらの影に隠れ、建物の壁に背中を付けたままカニ歩きをさせられ、土の壁を垂直に登らされ、そして……フェンスを抜けた。
まるで……何かを避けていたかのように。
フェンスを潜って草むらの中で身を屈めたまま止まる。車のエンジンらしき音が二つ通過すると、提督はすぐに明石の身体を引っ張りあげるようにして立ち上がらせた。
「うぇ……はぇ!?」
少し苦しくて声を上げた直後、目に入ってきた光景は……“未来”だった。
いや違う、“現代”だ。
数えきれない星空のような街の灯と、想像もできないような高さの建造物が建ち並んでいる。何もかもが、自分の知っている光景とはかけ離れている。海の記憶と艦娘たちが呼ぶ知識さえも遠く及ばない全てが、この光景に集められている気がする。
「これって…………私たちには見せちゃいけないやつじゃ……」
何となく察していたものの、提督と大本営は、艦娘と現代の接触を拒むような趣があった。鎮守府の中に人間が居ないことも、現代的なものがほとんど排斥されていることも、また満足な説明が受けられないこともそれに帰結していたように思う。
提督はもしかして、鎮守府を脱走したのか――。
「まだ終わりじゃないわ。道を渡って」
アスファルトの上を駆けて道を渡る。すぐそこに、煌々と明かりを放っている四角い金属の箱がある。赤と青の対称的な箱二つ、ガラスの壁の向こうには、缶詰のようなものが並べられていた。
道は左右に続いている。片方はカーブだったが、もう一方はずっと向こうまで続いているように思う。先ほど目に入った街へと繋がっているのだ。
提督に手を引かれながら路地に入る。そのまま細い道を進んで別の道に出たかと思えば、また路地に入る。そして走り続け、提督の息も上がった頃。
ようやく提督は止まり、明石の手も開放された。
「はぁ……はぁ……ふぅ……」
息を整える。明石も少しばかり疲れていた。
「ここなら安全」
提督が止まったのは、どこかの高架下だった。申し訳程度の外灯に照らされている。十メートルほどのコンクリートの壁上に線路が引かれていて、暗がりのトンネルの中で立ち止まったのだ。鎮守府から数百メートルといったところだろうか。こんなひと目のないトンネルに、一体何の用なのだろう。
「……一体、何なんですか? ……こんなに遠くまで」
「いつもはもっと余裕があるのだけれど。今日は……いえ、今は、もう一刻も争っていられないから」
提督の表情が違うことに気付いた。いつもの仮面ではない。提督は今……提督ではないのか。
瞳に力が宿っていて、活き活きとしていて、“人間らしい”。
「いい、明石。正直に答えて頂戴。お願い」
『お願い』。そんな言葉遣い、自分たち艦娘に向かって使う人ではなかったはず。いつもいつも、命令口調だったはずなのに。
「――私のことを不信任で告発したのは、あなたよね」
もう一度だった。今度ばかりは、明石も逃げなかった。
「はい」
『釈明することはあるか』そう聞かれると思って覚悟を決めていた。だが。
「そう。分かったわ」
提督は簡単に流してしまう。明石は信じられないものを目にしている気分になった。
提督は何か考えながら話すように口元に手をあてがったまま、数歩後ずさる。
「今からじゃ取り返しもつかないことだけれど、修正することは可能なはず。明日の午前十時に、外から一人の人間が鎮守府を訪ねてくることになっているわ。その人は――結果的に、私の敵というべき人よ。理由は、私に地位を奪われたと思っているから」
「……えっと、それって……提督の立場ってことですか?」
「そうよ。私に前任者が居たことは知ってる?」
「前の提督ってことですか? それは……初耳です。知りませんでした。そもそも、今私の前にいるあなたが初めての提督で――……違ったんですね」
察することができた。
その前任者は、後から出てきた今の彼女に、提督という役職を掠め取られたと思っている。つまり、彼女のほうが適正だと判断され、急遽すげ替えられてしまったということだろうか。
「執務室に届いていたダンボール箱の内、二つはその前任者の荷物だった。私の私物はケースに入れて持ち込んでいたから。でも、最後の小さな一つだけは、私が選んだ初期艦の鉄片だったのよ。私は手早く二つの箱を片付けて彼女に……前任者に送り返しはしたけれど。彼女は……本当に、直前まで提督になる予定だったから、怒り心頭ってだけでは済まないくらい……激怒していてね。むしろ当てつけにも思われたらしくて」
明石は自然と聞き入ってしまっていた。提督自身が語る真実が、予想外の奥深さを持っていたからだろうか。
「何故、どうして私が、彼女に代わって選ばれたのか……分からなかったわ。妖精が決めたとは聞いていたけど、どうして私だったのか」
溜息とともに首を振る提督。すぐに気持ちを切り替えて顔を上げると、今度はトンネルの壁にある『定礎』のパネルの前に屈みこんだ。ポケットからペーパーナイフを一本取り出して隙間に突き刺すと、テコの原理で石版を取り外してしまう。
その中を覗きこんだ明石は、さらに息を呑んだ。
「……私宛に届いた彼女の嫌がらせの証拠と、現在の鎮守府が彼女の……非正規の監視を受けていることの証拠もある。そして私自身が受けた彼女の拷問に対する告発状も」
「ご、拷問!? 提督、なんの話ですか、一体……」
「そう言うと強すぎるわね。だから大淀にも“厳命された”と言ってあるくらい。……その、彼女は非番の私を一時的に監禁して……それで、まあ、色々あって」
「嘘ですよ……そんな、提督、だってそんなの、ただの犯罪じゃないですか! なんで憲兵隊に報告しないんです!?」
「今は警察ね。その警察も、ちゃんとした証拠がないと動けないし、何より内部の問題だから、打ち勝つには相応の覚悟と確実性が必要だったのよ。だから私は、大本営にとって優秀な提督を演じて、機を伺っていたというわけ」
何よりの問題は、彼女に味方している将校が居ることだ。提督の存在と艦娘という戦力をよく思っていないが故に、彼女と利害が一致した人物。
「大本営の中にも敵が……」
明石は前髪をかきあげて、熱っぽくなった額を冷やそうとした。
「……そうなるわね。だけど、私は……いえ、提督は戦争に勝利を齎さなければならない。その責務がありながらこうして余計な敵との戦いに邪魔されるわけにはいかなかった。深海棲艦を撃滅する傍らで、あなたたち艦娘には関係のない、人間同士のいざこざなんて持ち込むわけにはいかなかったのよ。……だから最初は、私だけで片付けようと思っていたの」
「でも、大淀に助けを求めたんですね?」
「そうとも言えるわ。でも、何よりの理由は、大淀が真剣だったから。私の中にある問題を見抜いて、問い詰めてくれたから。彼女なら頼りになるし、味方をしてくれる。そう思えたのよ」
「提督、私はぁ? 私じゃ力不足だって思ったってことですか?」
途端に拗ねるように口を尖らせる明石。提督はその質問の答えを持ち合わせていなかった。
「……大淀を巻き込む時に、明石にも話しておけばよかったと……今は後悔しているわ」
明石の口から吐息が漏れた。疑念は晴れた。
「私、先走っちゃったなあ……。提督の正体を暴こうって意気込んで……」
「私の素性が知りたいの?」
私の? と再度確認のように繰り返した提督。
「だって提督は……私たちのこと放ったらかしだったじゃないですか!」
「だから仕返しに?」
「そうじゃなくって……んぁー、なんていうか、はっきりとは分からないんですけどぉ……」
歯切れの悪い明石に代わって、安心させるように言った。
「私はただの一兵士だったわ。防衛大学で勉学に励んで、相応に野心も持っていたけれど。でも提督の任に就けっていう辞令が下って、私の人生は一変することになった。それまでのキャリアとか……ああ、経歴とか実績みたいなものは一旦白紙にされて、全く新しいけれどもその実態は不思議としか言えない“提督”を任せられた」
「提督って……あの、実のところ階級は……」
「さあ。少佐ってところかしら」
腕を広げてあっけらかんととぼける提督。
「提督に階級は関係無いらしいの。提督は提督という役職で、そういう存在なんだと聞いているわ。妖精たちや艦娘が、安心して命を預けられる存在――ということ」
だけど。
「私は、その安心を集められなかった。私の選択間違いで、明石や他の娘たちが悩むことじゃない。ごめんなさい。辛い思いをさせてしまったわね」
肩を落としてしまう提督。真実を自ら明かした提督の前で、明石は、ふと思い出す。まだまだ確認していないことがある。
「……じゃあ、提督、謝りついでにいいですか?」
「ええ、いいわよ。何でも聞いて」
「初出撃の時――提督は何をしようとしていたんです?」
顎に指先を当てて、少し整理をしたようだった。
「まず、色々と前知識を教える必要があるわね。私はあの日、陸自……陸軍にも伝手があったから、少しだけ実験をしたのよ」
陸の人間と繋がりのある提督……。それは提督の立場になってから得たものなのか、自前のものなのかは分からなかった。
「深海棲艦が陸を攻められずにいるのは、陸軍の武器や装備に対抗できていないから。実際のところ深海棲艦へダメージを与えるには、物理エネルギーを用いた武器を使わなくてはいけないの。これは知っているわよね」
「はい」
つまり、砲弾や銃弾を撃ち出して、相応の衝撃を与える兵器でなければならない。化学反応で爆発するような兵器も着弾すれば爆発の威力で損害を与えられるが、そもそもの誘導技術が無効になってしまう。だからこそ命中率を犠牲にしてでも砲弾や銃弾が有効と言えるのだった。
そして最も有効だと判断されたのが、大戦時の主兵装だった『大砲』なのである。
陸の上では戦車の砲台、カノン砲などそのほとんどが深海棲艦にとって効果的だった。
そして海の上に限って言えば、軍艦に積まれた砲塔であった。
敵は海から来る。海の上で戦うのは船だが、小型で且つ強力な深海棲艦の前では、通常の船舶はただの的であり、反抗するまもなく撃沈させられてしまう。
深海棲艦と同じ土俵で戦うことができる船が必要だった。そして、彼らに確実にダメージを与えられるだけの装備を備えた船が。
「その技術を研究し始めたところ、人類は妖精と出会い、その結果あなたたち艦娘の発見に繋がった。妖精が小型化した軍艦の設備を艤装と呼んで、艦娘が装備する兵器となった。これによって、海の上で、深海棲艦と同じサイズ同じ土俵で戦い、敵を圧倒できる武器が完成したということ。……海軍の上層部は、それを決戦兵器だと考えて、深海棲艦を効率的に屠ることを考えているの。それが、『艦娘は兵器』だと」
だから。
「陸の武器を海に持ち込んで、それで戦えるかどうかを確かめたの。結果は上々だった。……けれど、鎮守府を不法に監視している誰かさんの存在に気付いた私は、あの日、あの時のタイミング以降、自由な行動を制限せざるを得なかった」
「詳しく、教えてください」
「あの日の午後、初出撃の直前になって初めて、私は提督として大本営に打電した。大淀に伝えさせてね。『これから鎮守府を稼働させる』と」
「えっと、つまり、初期艦を建造する、っていうのと同じ意味ですか?」
「そうよ。文章は同じでも、認識が違う。そこにズレがあるから、空白の時間を作ることができたの。実際の鎮守府の稼働開始日時は、その日の前日。私とあなたたち二人が会ったあの日ね。大本営からは『事前に見学でもしておきなさい』って言われていた時間だったのよ。大本営が想定しているよりも早く鎮守府を動かした私は、初出撃の時を鎮守府の稼働開始時刻だと偽った。大本営は同時に、『提督が着任したタイミング』だと思っていたでしょうね」
「それで……?」
「私の前任者はあくどい人でね、大本営と共に鎮守府の中を監視しようとしていたのよ。それで、映写機を使って大本営に映像を送ることを要求してきた。だから私は徹夜しながら、建造ドックの妖精さんたちに許可を得て映写機を設置したの。それで次の日の午後、彼らとの約束の時間に建造を開始して、あのカーテンに映る影の映像を送ったまま、出撃した」
建造ドックで建造中の船は、シルエットしか分からない。ただの映像としても退屈であるし、あの大音量を聞き続けるのはただただ苦痛になる。
「これがあなた方の望んだ映像ですよって、こちらは『建造の様子を見るのは初めてだから、私よりも詳しい方々に、何も異変や異常は無いか、一部始終の確認をお願い』したの。だから向こうは律儀にも建造過程を見続けたのでしょうね。私の前任者も同席したまま。さらに大音量過ぎて人の声なんて届かないから、私はあとで『何も聞こえませんでした』ととぼけることもできた」
提督は指を立てて得意気に語る。
「その間に海に出て、人間でも海上で戦えることを証明した私は、ある程度確信を持って戻ってきた。だけどその後すぐ、私の反撃に気付いた前任者が、独断で鎮守府に監視網を引いてしまったの。間宮が来た時、鎮守府には外部から様々な物資が届けられたわね? あの時のどさくさでやられてしまったわ。それ以来、私は監視網を抜ける方法を模索するのに精一杯で、私の作戦はまた封じ込められてしまったと思った。実際、まともに動ける状態じゃなくなってしまったから、事実上、檻の中で飼われているようなものよ。今もね」
「その人……」
明石は、あまりの理不尽さにどうにかなりそうだった。
「提督にひどいことをして……私たち艦娘の扱いも、道具としてしか見ていないその人……どうにかできないんですか」
「……」
提督は鼻から漏らした溜息で応え、両手を腰に据えた。お手上げなのだろう。
「私は、当初から『艦娘は兵器である』という意見に反対だったわ。それは逆説的に『人間も兵器である』ということを証明できれば、覆せると思ったの」
提督が語る、計画。それは明石にとって、いや、全艦娘にとって救いとなるものだった。
「だから海で戦った。私自身が。そして、駆逐艦一隻とはいえ撃破した。『艦娘にしかできない』じゃない。『艦娘にしかできないことをやらせるから兵器でなければならない』と言っている連中に、『人間も戦えるのだから、艦娘だけの役目じゃない』と叩きつけてやりたかった! そうすれば、そんな意見は消えてなくなるはずだから」
証明したまではいい。だがその後提督が出撃することは避けねばならなかったし、実際していない。人間も海で戦える。その事実を胸に秘めていることが今のところは重要だった。
「提督……」
提督の熱い気持ちがこもった言葉を聞いていた明石は、心が暖かくなっていることに気付いた。
正直、自分たちでも分からない。艦娘は兵器なのか、人間なのか。
しかし曖昧すぎて……逆に言えば、よく撹拌されてしまっている。どちらと呼んでも構わない……そんな気がするのだ。
クモを虫だと言うか動物だと言うか、はっきりしないように。
もちろん知識を持っている人から見れば、はっきりとした分類が可能な事実ではある。
しかし、どちらでもいい、という曖昧な問題であることも確かだ。
気味が悪い小さな生き物のことをひとまとめに虫という人も居るだろう。だとすればクモは虫である。かと言って、虫ではないから動物……というのも成り立たない話ではないように思う。
艦娘が兵器であるか人間であるのか――。それは、見る人によって違う。
自分たちでもはっきりとは言い切れない。でもすごく人間らしいと思うことだって沢山あるし、人間にはできないことをやっているから兵器である――と言えなくもない。
だから――どちらでもいい。
「提督は――いいえ、あなたは、艦娘は兵器だと、そう思ってはいないんですよね?」
先ほど提督が言っていたばかりのことを、確認のためにもう一度、改めた。
「ええ、もちろん」
堂々と、そして一考の余地すらなく、提督は即答した。
「……あなたたちが人間とは違う生まれ方をするのは事実。だけれど……人間って、知性や感情があるからそういう分類をしたんだと思うわ。猿から進化して、生物を事細かに分類していくうちに、自分たちが人間であると自覚した。いつの間にかそういう誇りを持って、進化を続けている。でも、人間だという自覚なんて無くても、昔からヒトはヒトだった。そういう生物だった」
「……と、いうことは……艦娘は……」
「艦娘よ」
「!」
明石の心が、色づいた。
――あぁ、ダメだ。大淀と同じで、泣いてしまいそうだ。
「ぃ、今のと――同じことを……大淀にも……?」
「ええ」
ヒトが猿から引き継いだ多くのことを残しながらも、ヒトとしての独自の要素も多く持っているように。
艦娘は人に作られて生まれ、人から多くを引き継いで存在している。だから、艦娘としての独自の要素も、これからどんどん生まれてくるはず。
提督は艦娘を、心から許容していたのだった。
「そりゃあ……提督が…………選ばれるわけですよ……! 提督は……あなたしか考えられない!」
「ありがとう。そう言って貰えて、すごく嬉しいわ」
提督も頷き返す。しかしその微笑みは、やはり悲しげだった。
「それで……その、提督は、どうやってこの状況を……打破するつもりなんです?」
「やることは山積みなのよ」
提督は総括に入った。
もし提督の考えが上手く行けば、提督は提督としての信用を絶対的なものにし、もはや大本営も容易には口出しできなくなることだろう。
そのための、計画。
「私は、艦娘たちが艦娘として生きていけるようにするために、あの初出撃の実験で結果を持ち帰った。人間である私が戦果を上げることで大本営の意識を変える。そして鎮守府の運営に彼らの意志が介在しないようにする。そうすれば艦娘はより自由な、開かれた世界を見ることができるようになるから」
艦娘は艦娘である。その認識を絶対のものにする。
「ここまで来てしまったら、この証拠がある限り私の前任者は……大した問題ではないのよ。あまり。あくまでも『人間が戦える』ということを完全に証明できればいいの。そうすれば大本営も、彼女じゃなく私の味方になるはずだから」
「そんな。その人に制裁しないと、私の気が済まないです!」
「ダメ。あれでも同僚だもの」
「提督の……同僚? それでも、やられたことはみんな、ひどいことですよ!?」
「そうね。でも、私は別に恨んでいないもの。まあ、事実は事実として……こうやって証拠を集めてはみたけれど。これを明るみにするかどうかは、彼女に任せようと思うわ」
「絶対処分しちゃいますって! 私が大本営に送ってみます! そうすれば提督じゃなくて“匿名の誰か”が恨みを――」
「ダメ。許可しないわ」
言いながら『定礎』を元に戻してしまう。かなりの早業だった。
「だって、提督も言ってたじゃないですか、“拷問”ですよ? それって――」
許しがたい暴挙? 度し難い暴力だろうか。
「それで、提督が理不尽に攻撃されているですよね!? なんで恨まないなんてことができるんですか!」
提督はふいに、両腕を広げた。タンクトップの上半身を見せつけるように。
「……どう?」
「どうって……?」
「拷問を受けた人の身体かしら?」
「……いや、分からない……です」
目立った傷はないし、とても健康的な身体に見える。修理箇所は無さそうだ。
「ちょっとした言葉の綾だったのよ」
「でも、提督は――」
「ええ。人間らしさを奪われているといえるわね」
「それはつまり、その人がしたことが原因なんじゃ……」
「ある意味ね」
提督はさらなる真実を述べる。
「確かに……怖いわ。でも、その恐怖さえも、私は受け止めるべきだと思った」
「……はいぃ?」
「だから……私は確かに殴られたし、脅されたわ。でもその時、このままこの人を敵にしておいたほうが、後々助かるかもしれない……そう思ったのよ。私が狙われ続ける代わりに、いいこともあるって」
「意味が全く分からないんですけど……」
「いい? 私が今でも鎮守府の中で寡黙を演じているのは、あの人の監視網があるからなのよ。あの人の望む私を見せておけば、それであちらは納得してくれるから。つまり、こっちに文句を言ってこないということ。『こうやって監視を続けていれば、いずれボロを出してくれるに違いない』と思っているはず。静かにしていてくれるイコール、鎮守府に邪魔が入らない。私個人にとっては脅威だけれど、艦娘たちにとっては助かると思った」
「え……? でもそれ、後々助かるかもしれないって、提督が鎮守府に来るよりもずっと、前のことなんですよね?」
「艦娘ってどんな娘たちなんだろう……そうやって想像を膨らませていたこと……笑う?」
「あ、いえ! なるほど、そういうことなんですね」
提督は鎮守府に着任する遥か前から、『艦娘にとって良いこと』を見極めようとしていた。
着任すると決まった瞬間から、この提督は、自分の身に何が起ころうとも、何もかもを艦娘のためにと捧げていたのだ。
「でも、着任初日から、提督は冷たかったじゃないですか」
「じゃあ、もしあの時から私と明石、大淀が仲良しこよししていたとして。それであの人が鎮守府に監視を敷いた後、私が急変したらどうなっていたと思う?」
「大淀は分かりませんけど、私は文句言っちゃうと思います……」
「そうよね。だから最初は、距離を取るしかなかったの。それでいつか大本営の意識改革を実現することができたら、あの人の件も解決になると思っていたし、艦娘たちとは心置きなく接することもできる。……長くなってしまったけど、これが全てよ。大淀に話したことよりも詳しいかもしれないわ」
『提督は優しい人』。それを明石も完全に理解した。もう疑う余地はない。
彼女は完璧な提督だった。艦娘たちにとっても、人類にとっても。
両者の間に立ち、事態を見極め、解決のための道標を示そうとしている。
互いのストッパーとなりながら、いつかその堰を緩和できるような未来を手に入れようとしているのだ。
「鎮守府に戻ったら、あなたはここに来る前のあなたで居なさい。提督に不信感を持って、告発したことを隠している明石に。できる?」
「待って! 提督、まだ聞いてないです。過去の話は理解しました。だから、これからの話を――」
「ごめんなさい。時間が押しているの。鎮守府に私が居ない時間は、夜間鍛錬の時間だけだから。ここに立ち寄るためにわざわざ作った名目だけど、もう三十分を超えてしまった。これ以上消えていると怪しまれるわ」
「じゃあ帰りながらでいいですから!」
明石はここまで来た道を歩き出した。提督もすぐに後を追う。
「帰りながらでも間に合わないわ。今後のことを全て話す時間はないの。私は明日に備えないと……。明日から私を更迭するための審査が入ってしまうから……まずこれをどうやって躱すか……」
「提督、実は私、駆逐艦の娘たちと協力して、提督がどんな人なのか、暴き出そうとしていたんです。だから、提督を告発したら調査員が来るはずで、それで、その人から情報を得ようと考えてました。実際、駆逐の娘たちはしっかりと作戦を実行しようとしてます」
「駆逐艦もグルなのね……」
「つまり……ちょっとだけ作戦の変更を伝えさえすれば、提督の前任者が鎮守府に入り次第、こっちで捕まえられますよ!」
「……なるほど」
提督は立ち止まった。明石も気付いて止まる。
「ふむ………………」
長考だった。トンネルの中で語られた真実の濃密さからして、この提督は極めて聡明であることがもはや明白だったが、その頭脳が今、新たな計画を練っていた。
しばしの間待つことになった。夜の街は静かだ。家々も明かりがついていても騒がしくなく、この国の人々が実際に暮らしている光景を間近で見られた。住宅の形はのっぺりとしていて見慣れないが、それでも家であることに違いはない。温かみのある町並みは、いつの時代でも変わらないのだと思う。
そして――人の温かさも、決して変わらないのだろう。
目の前の提督が、まるで静かなる太陽のような人であったように。
「……明石」
「何ですか?」
目を合わせる。お互いすれ違ってしまったが、今ではもう、錯綜することはないだろう。
「駆逐艦の娘たちが張り切っているところ悪いけれど。その、捕まえるっていうのは無しにしてくれていいわ。その必要はないもの。でもその代わり、明石、無茶なお願いを一つ――聞いてもらえる?」
自然と、勝ち気な笑みが生まれた。
「明石の出番ですね?」
提督も微笑み返すと、すぐに明石の肩を押して進みだす。
「お礼に、自販機で好きな飲物買ってあげるわ」
「自販機、って何でしたっけ?」
記憶の片隅にはあるような気もするのだが、はっきりと思い出せなかった。
「自動販売機。……あれよ」
指さした先には街灯があって、その明かりの下に、あの箱があった。ここに来る時に見かけた赤と青の二つの箱ではなくシンプルに白の筐体に英語の書かれた箱だったが、それでも同じような大きさで、やはり明かりを煌々と放っている。缶詰の下に金額が――。
「って、えぇええええっ!? 百三十円もするんですか!?」
明石の顔が一瞬で真っ青になり、首をブルブル振って拒否し始めた。
「無理無理無理! 無理です! そんなすごい仕事やれって言われても明石には荷が重すぎますって!!」
「えっと…………あ、そうだったわ。艦娘にとっては大金なのね」
うっかり忘れてしまっていた。というより、現在の貨幣価値は“海の記憶”には含まれていないらしい。
「大丈夫。百三十円は……そんなに大した額じゃないのよ。現代では」
「ど、どれくらい……なんです?」
「そうねえ……一日の食費分くらい?」
「やっぱり高いじゃないですか!」
「ふふ、嘘よ。一食に一つ買っても割に合うくらいの値段。だから、好きなもの何本でも。どんなのが好き?」
「提督の、お仕事次第ですね。徹夜作業なら、コーヒーがいいです」
「そう。じゃあオススメがあるわ」
二人で一本ずつ手にとって缶を開ける。明石は提督に見よう見まねでちゃんと缶を振ってからプルタブを引っ張って開けた。
「きっと上手くいくと願っているわ。乾杯」
「はい。お任せください。きっとこの明石、役目を果たしてみせますから」
缶が心地よい音を立て、満月の夜に響いた。
「なにこれおいしい! えっ!? ……えっ?」
あまりの衝撃に理性が全部吹き飛んでしまった。砂糖の甘味がふんだんにあるだけでなく、コーヒーの香り高さが無限のように感じられる。すごく贅沢な味だと思った。
「はぁぁぁぁ…………♪」
幸せだった。とにかく、幸福を感じた。
「提督、このコーヒーがあれば私……二十四時間でも四十八時間でも頑張れそう……!」
「他のも試してみる?」
よく見ると自販機には十種類以上のコーヒーが並んでいるではないか。
目移りどころではない。まるで――黄金の山に見えた。
「全部飲んでみたいです!」
「いいわ。それくらいのことを頼むつもりだから」
「わぁあ♪ 提督、自販機、鎮守府に欲しいですねえ!」
「全部解決したら、明石のために導入するわ。約束よ」
「やったぁ! 大淀にも一本あげよーっと」
次々に出てくる缶を抱える明石の笑顔は、とびきりのものだった。
提督は、艦娘たちのこんな顔をずっと、見たかったのだ。
第四幕へ続く
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第四幕
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提督と明石、大淀は、前任者の監視網から外れている数少ない場所、執務室で会合していた。明石も抜け目なく用意をし、ようやく分かりあえた大淀とも信頼を確かめ合い、さらに、提督の『無茶なお願い』を達成するために来た。
「……ぁの、提督……そんなにじっくりは……見ないでくださいよぅ……」
恥じらいが前面に溢れ出てしまっている明石の声。しかし提督に容赦は無いようだった。
「いいえ、すごく綺麗だし……立派だわ。私の想像通り……明石って、すごく“良い”のね」
「うぅぅ、そんなに弄られちゃうと……壊れちゃいそうですよぉ……」
「大丈夫。すごくしっかりしてるわ……」
二人の会話を傍から聞く大淀の目は冷ややかだった。
「あぁっ! 提督、そこは危ないです! んあぁぁ! そこはもっと危ないですからぁ!」
「いいじゃないの。いざという時のために……確かめておかないといけないわ」
「ダ、ダメですよそれ以上はぁ……撃鉄が落ちちゃいますからぁっ!」
「明石の撃鉄……いいわ。すごく固い……」
大淀はついに耐えかね、明石の脇腹をペンで突っついた。
「あう! 痛いよ大淀!」
「……提督も、いい加減にしてください。確認は済んだでしょう」
提督は咳払いして持っていたものを元通りに収めると、箱を閉じた。
「ごめんなさい。少し理性が飛んでしまったわ」
「でも、自信作になりました! 提督のコーヒーのおかげです!」
「こちらこそありがとう。これで何とかなりそうよ」
「それで、まずは……あの人を待つんですね」
「ええ。こっちは手早く終わらせるつもりだから、これの管理は任せるわ」
明石に箱を渡す。
「はい。あとは、提督のタイミングで好きなようにしちゃってください!」
大淀にも向かって頷く。彼女も神妙な面持ちだった。
「大淀、心配かけてごめんね。やっと追いつけたと思う!」
「ええ。待ってたわ、明石」
二人の絆は固い。提督からしても、見習うべき関係であるように思った。
これから――全てが上手くいきますように。
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高馬力の爆音二輪で鎮守府に乗り入れし、慣れた足つきで停めた。ツーリストであれば本格的なカスタムを施してある愛車を見て、一言挨拶したくなるほどの『高級品』だ。鎮守府には似つかわしくないことを承知で、敢えてこれを選んだ。
鎮守府側には既に提督と大淀が立っている。遠くには二輪の音を聞きつけて何事かと野次馬しにきた艦娘らしき影もある。その中で、堂々とフルフェイスを脱ぎ去った。
「よう、久しぶりだな」
提督に向かって笑いかける。歯を見せて目を吊り上げ、敵意満載といった感じに。
「何そのバイク。また買い替えたの?」
提督の隣に立っていた大淀の表情が一瞬だけ崩れた。提督の応対が想像を超えていたらしい。もっと堅くいくと思っていたのか? 違うな。こいつは恐怖を誤魔化して普段通りにしようとしてるだけだ。
「前のは弟にやっちまったよ。……つーか貴様、こいつらにあたしのこと言ってないのか? なんだよその目、文句あんのか」
軽巡大淀。自分の部下になるはずだった艦娘。武闘派だと聞いていたが、そんな風には見えなかった。意外にも軟弱そうだ。眼鏡なんぞ掛けてやがる。ガン付けただけでビビって半歩下がった。大したことないな。
「艦娘を脅しても何も出ないわ。あなたこそ、任務を忘れてないわよね。服はどうしたの。ライダースーツじゃ暑いだけじゃない」
「てめぇも偉そうになりやがったなぁ、おい。……はッ。貴様こそ、“大和”を放ったらかしにしてる役立たずじゃねーか。ハリボテのクセしていい気になりやがってよ」
「……」
「けっ……」
互いに睨み合う。しかし相手の目つきはこっちとは違って無表情だ。いつもそうだ。あいつはそうやって人を脅すタイプだから。
「………………」
それ以上何も言うつもりはないらしい。こちらの出方を伺っているつもりか?
「“ババア戦艦”さんよぉ、案内の一つもできねえのか?」
「……え?」
思わず声を漏らしたのは大淀だ。だが、お前が思ってるのとは違ぇよ。嘲笑してやろうかと口を開きかけたが、当の提督が先手を打った。
「語弊があるわね。ただのあだ名よ。不本意な」
「そう! あだ名だよ! だがお前は偶然にも、あの船と同じ名字だ! だからそう呼ばれるし、それで提督に選ばれたんだろ!?」
「違うわ。例えあなたの名字が“宗谷”であったとしても、今と同じ」
「ちっ……。まあいい。その透かしたツラ見んのも少しは楽しみにしてたんだ。それで? てめぇをこき下ろせると来たもんだ。余計楽しくなりそうだな? ん?」
「公平な調査をお願い致します!」
大淀が唐突に割り込む。自然と睨むことになった。この三白眼を見てビビらないような肝を持っているとは思えない。眼鏡だしな。
「公平、ねえ。組織内の人間がこうして出向いている時点で、そんなもの望んでるんじゃねえよ。正義を望むなら外から弁護士でも呼ぶんだな」
「考えておくわ。……それにしても、艦娘に対する態度を上に報告しても構わないのかしら? 兵器の士気があなたのせいで失われたと報告することくらいはできるわよ。分かるわね?」
『艦娘は兵器である』という認識を肯定している自分だが、逆を言えば、同じ論調の大本営の機嫌を取り続けなければならないということである。
自ら入り込んだ立場とはいえ、現状は些か煩雑だった。
その鬱憤を提督相手に発散しようとしていたのだが、どうも本調子とは言えない。こいつに対する後ろ暗さがあるからか、それとも単純に、自分を見失っちまってるからか。
にしても、やはりこいつも切れ者である。
何度も出し抜かれたし、今でもきっと裏で黒いことを考えてやがるに違いない。
自身のことは自覚しているが、自分と目の前の提督は、間違いなく正反対だ。
冷静沈着でありながら非常に人情に近い判断を下す提督と、短気無鉄砲で非常に短絡的で野心的な判断をする自分。両者は相容れないと思われるだろうが、向こうはほとんどの場面で上手でありながら、その壁さえも乗り越えんばかりの慈愛の持ち主なのだ。
それを知っているからこそ、容赦なく立ち回れる。
「フッ……。いいさ。お前はあたしに屈服して立派なお利口さんになってるわけだしな。生意気効けんのも今のうちだ。泣きついても許さない」
「……おかげで上手くやっているわ」
“上手く”、ねえ。明石という反逆者を出しておきながらよく言うよ。
こちらは隠しカメラとマイクで鎮守府を監視していたのだ。明石が駆逐艦の前でやった演説もしっかりと見ている。さすがに執務室には入れなかったが、それ以外の場所はほとんどこちらの目が届く。届かない場所は、明らかに使われていない様子の空き部屋くらいだ。そもそもそういった場所には仕掛ける算段がなかった。ともかく、鎮守府の様子は見させてもらった。
こいつは立派な傀儡だ。大本営の望み通り艦娘を兵器として扱い、作戦を淡々とこなしている。あとは――何とかこいつを焚き付けて南方に出撃させたい。
理想としては、これから始まる身辺調査で焦ったこいつが、どうにかして戦果を上げて大本営から褒められたい――提督を続けたいと思い、南方海域へ強襲を行うストーリーだ。
そのためには……そうだな、少しくらい希望を持たせてやらないとダメだ。
大本営は必ずしもこちらの味方をしているわけではなく、提督の戦果次第で今回の告発を黙殺しても良いとしている……そういう嘘を吐こう。
そのための、“大和”という餌だ。
「まず教えておいてやるよ。大本営はやはり“大和”をご所望だぞ。……なあ、そこにあるのが分かってるのに、何故お前は取りに行かない? 大和の残骸が打ち上げられた海岸が南方にあるってわかっているのに。何故だ?」
「現状の戦力では到底辿りつけないからよ」
「へえ? 本当にそうか? 優秀な提督であるお前なら、大和を持ち帰ることも可能なはずだ。少なくとも上の連中にも一人や二人、まだそう思ってるヤツも居る。……お前にとっては僥倖ってヤツだぜ、ちゃんと聞いとけ。もしお前が“大和”を持ち帰ることができたなら、あたしの意見なんてそっちのけで味方してくれる将校が居るってことだ」
「…………そうね、喜ばしいことだわ」
だけど、といけ好かない顔のまま続ける。
「深海棲艦の生態を知らないあなたたちには、その作戦の難しさを理解できないわ」
「はァ?」
「私は最前線に居るのよ。毎日、艦娘に報告書を出すように言ってあるの。敵深海棲艦について気付いたことを全てまとめたものをね。未だに彼らは、いえ、あなたたちは、荒れた海の上に鉄片が漂っていると思っているの?」
「……どういうことだ」
「深海棲艦は海の底より出づる。それについては同意よ。実際にそうとしか言えないもの。でも、彼らが身に纏っている硬い装甲が何でできているかは知らないようね」
「鉄か」
「そう。海に飛散した船の残骸が、敵に渡っているのよ。……それで私は、ある時南方海域の攻略を机上だけで考えてみたの。どのような敵が現れうるか、どのような戦術、編成を組んでくるか。……私が考えた最悪のケースは、『大和の装甲を身にまとった深海棲艦が居る』というシナリオ。到底、私の鎮守府では及ばないわ。そんなものに勝てる戦力を保有していないもの」
そんな敵から装甲を剥がし取って大和を呼び起こすことは不可能……そう断じたわけだ。
深海棲艦は海を荒らし回っただけでなく、海の底に眠っていた鉄くずを鎧として使っているということ。こちらの想定とは大分違う現実だった。確かに、現状、提督以上に深海棲艦について詳しい人間も居ないだろう。
「じゃ南方は見捨てるってか?」
「……現状、そうせざるをえないわね」
「惜しいねえ。あの海域で戦果を上げれば、あたしなんぞすぐに追い払えるのに」
自分でも、この言葉が彼女に味方している風に聞こえたかどうか反芻して考えた。よく、分からなかった。
しかしこいつは、やはり大和を迎える絶好のチャンスをふいにするつもりらしい。
大和が居れば、戦力は飛躍的に上がるというのに。
「……夏場に立ち話なんてするものじゃないわ。……行きましょう」
「やっとかよ」
挨拶代わりのジャブが効いたか?
2
提督は執務室へと戻り、冷房のある快適な空間で、泥沼としか思えない調査の開始を自ら宣言した。どうやら艦娘とは接触させたくないらしい。出来る限りこの執務室に留めておきたいとでも考えているようだ。
「さて。あなたが入りたがっていた執務室よ。座るなら床になるわね。椅子は、私と大淀のしか用意していないから。後は好きにしなさい」
「別にいいぜ。この窓際なんか良さそうだ」
こちらのジャブが効いたからって、反撃はなよなよしたアッパーだ。簡単に避けられる。
窓の下に、壁を背もたれにして座り込んだ。堂々と、胡座をかいて。
……このまま密着取材二十四時を始めると思ったら大間違いだ。こちらはやりたいことをやらせてもらう。それが、セオリー無視の超大技であろうが、使いたいと思った時に使う。それが自分という女だ。
「で、お前。何で夜間トレーニングはわざわざ外でやってるんだ?」
「?」
質問の意味が理解できないのではなく、いきなり脈絡のない質問が飛んできたことが不思議だったのだろう。
「あぁ、『何で知ってる』なんてアホな返事はやめろよ? こっちはもう、お前のスケジュールから生活習慣まで全部把握してるんだ。優秀な艦娘のおかげで、綿密な事前計画が練られたよ。残念なことにその艦娘は匿名だったが……ま、いいさ」
「鎮守府に軟禁状態の私が、外に出たいと思うのはいけないことかしら。一日に三十分。ちゃんと上の許可も得ているわ」
「何で夜なんだ? てめぇ、襲われても仕方ねえだろ」
それくらいアツい女だ。女から見てもこいつは美形だし、見た目だけなら軟弱な女子大生とか新入社員で通用しちまう。まあ軍人の端くれであるから、実際にそんなことをしようものなら全治半年は固いがな。
「夜間は鎮守府も業務を終えているからよ。そんなの当たり前じゃない」
執務机の上で羽ペンを手に答える。
「じゃあトレーニングメニューを教えてくれよ。三十分でどんな運動すれば、満足に身体を維持できるんだ?」
一日三十分程度で軍人としての肉体を維持できるなら苦労はしない。その時間で疲れ果てて動けなくなるくらいの運動ができるなら別だが。
「……大淀、彼女にメニュー表を」
「はい」
執務机の右側の壁、入口側にある机に居た大淀が、小さなキャビネットから一つのファイルを取り出して持ってきた。
「……」
目を通す。一日ごとにやることを変えるが、基本的には三十分間の有酸素運動に統一されていた。また業務の内容次第で負担を増やすこともあるようだ。鎮守府近隣にトレーニングルートを決め、その日にやると決めたメニューをこなす。例えば小さな公園では遊具を使って三種類のトレーニングが実行可能で、手入れのされていない雑木林の中では自然を用いた足腰の訓練が可能。どれも夜間になるため精神的にも統一が不可欠になる。自分との戦いという言葉がより強くなるように……。なるほど、隙がない。
「じゃあ、昨夜鎮守府内で不自然な停電が起こったのは知っているか? 丁度お前がトレーニングに出掛けようとしていた時間だ」
「後から大淀に報告を受けたわ。その後明石に修理を頼んだ。彼女の報告書もここに」
処理したばかりなのだろう並べられた書類から一枚を出し、投げて寄越した。
「ネズミが配線を噛み切っていたのよ。……人が少ないから、自然と害獣が増えるみたいね。猫でも持ち込もうかしら」
ネズミの死体の写真まで添付されていた。これまたハズレ。残念。
「……そちらこそ、どうしてそんなところまで知っているのかしら。この鎮守府内に電気系統を管理するシステムは無いのよ。全てアナログなのだから。……あなたは当然知っているはず。停電していたという“ログ”は、残らないじゃない」
コンピュータ制御ではないのだから、異常をログとして出力するものは存在しない。証拠として残らない。電気系統の異常は全て、物理的な要因。
「そうだったな。じゃあ教えてやろう。この鎮守府の対岸、ちょうどあっちの方に、海自の基地がある。ここに鎮守府を建てるからって仮に移設したもんだがな。そこからこの施設を監視することができるんだ。それも、死角なんて無いくらい精密に」
もちろん嘘だ。こちらにはカメラがあるのだから。
「そう。人力で記録したということ。ご苦労なことね」
「幸い、“暇人”が溢れてるんでな」
カメラのことは気付かれていないか。それとも気付いた上でカマトト振ってるのか。
こいつは本当に読み切れない。悪賢さと狡賢さで生き残ってきた自分がそう言うのだから間違いない。こいつは仮面を作るのが巧すぎる。本当の顔と瓜二つだが、全く別の表情をした仮面を付けられるようなヤツなのだ。
こういうヤツが、本気で何かを潰そうと思って立ち上がった時が、一番厄介なのだ。
だからこそ困難に立ち向かう役目を背負わせるに相応しかったのだろう。
さて……では、次だ。先ほどの大技と比べれば大したことのないことだが、これはつまり、仕事のための質問だった。明らかにすべきことをするだけ。
「告発の内容は知ってるな。南西諸島海域攻略に際して、提督様が強硬手段を採っている、と。自分たちじゃ止められないから調査をしてくれとのお願いだった。兵器の方が懸念するくらいなんだからな、相当ひどいことをしたに違いない」
「大本営が望むことをしようとしただけよ。仕事への評価は、別段悪くないわ」
そう、こいつはこちらの思惑通りに動いていただけだ。それが、艦娘たちからどう思われているかなど知らずに。
艦娘に感情があって思考があることなど明白だった。だから、定義をしなければならなかった。こちらとしては、『その上で、彼女たちは兵器である』と決定している。つまり、感情があろうが思考を持とうが、どれだけ人間のように振る舞えようが、艦娘はそのような兵器だという認識を決定した。
艦娘たちにとって提督とは、『妖精に選ばれた、たった一人の頼れる上司』だ。残念ながら無条件でそれを刷り込むような技術は作れなかったようだが、妖精が選んだという時点で、彼らと同じ価値観を持っていてもおかしくはない……という結論になっている。
だから、提督があまりにも機械的で事務的、好意的でない人物なのであれば、中には、提督という人間に不信感を抱いて反抗する艦娘が出てくるだろうことなど承知だった。
むしろこちらとしてはそれを望んでいた。匿名の艦娘はその役目を十全に果たしてくれたといえるだろう。
目の前のこいつを引きずり落とすための口実を、見事に作ってくれた。
「違うな。上が望んでるのは、あくまでも『大和の着任』だ。それ以外の功績なんて全て些事にすぎない。お前がどれだけ功徳を積もうが、大目的には敵わない」
「……素直に言ったら? 私を殴って脅して、艦娘たちに嫌われるよう仕向けたって」
「何を言ってるんだ? お前の妄想だろう」
あいつが録音機械を持っていない保証はない。こちらがカメラとマイクを使っているように、この執務室は提督のホームだ。幾重にも張り巡らされた罠があると見て間違いない。
「……そうかしらね」
提督は執務机の引き出しを一つ引き、一枚の紙っぺらをまた投げて寄越した。
あまりにも自然な反撃の狼煙だった。こちらにわざと警戒させた直後の、カウンター。
「……ッ」
唇を噛み締めてしまった。こいつ、やはりクソッタレだ。どこまでも突き抜けて腹黒いじゃねえか。思ってた通りだ。とんでもない反撃を、なんとも無いような素振りでいきなりぶち込んできやがった。
「診断書のコピー。それだけ言えば伝わるわね」
確かにやり過ぎたさ。ヤツは口の中を切って血を垂らしてたし、痣だらけだった。しかし……ちゃんと躾けたはずだ。医者に行けばもっとひどい目に合うとちゃんと明言した。
――こうなったら、それを現実にしてやるしかないか。
「…………なるほど。あたしを嵌めるための偽造書類だな」
「いいえ、本物よ。医者の印が見えないのかしら」
「軍医じゃねえか。しかもこいつ、過去にミスを一回やらかしてるから、弱みを握ろうと思えば簡単な野郎だ。……お前も詰めが甘いよ」
「そのミスの後、もう一度、今度は最難関大学の医学部に入り直して、卒業をしているわ。しかも主席でね。これ以上に信頼できる医師はいないと思うのだけど」
「そういうヤツほど、過去の失敗を恐れて逆らえないんだよ」
利用するなら真っ先に候補になるような医者だ。全く信用はできない。
だが議論は平行線。先に矛先を変えてやる――。
「あぁ、忘れていたわ。これも返さないと」
「んだよ」
連続攻撃だ。それも、畳み掛けるつもりの一手。
嘘だろ。開始から十分も経ってない。こんなところで終わってたまるか。
そう、思わざるを得なかった。
「小型カメラと集音マイク。今朝収穫した新鮮なものよ。――そうね、あなたがご自慢のバイクを乗り回している辺りの時間かしら」
「――ぎ」
歯ぎしりのような音が出る。
「私の鎮守府に、現代の要素を許可無く持ち込むことは――重大な軍規違反よ。当然知っていたわよね? それとも、私が許可を出したとでも? その証拠は出せるかしら」
「――――出せる!」
結果的に、この問いは罠だった。まんまとハメられた。
「あらそう。楽しみにしてるわね。――でも、こちらはどう否定するの?」
ポケットから出した一枚の紙。また紙だ。もう、見るのも嫌になってしまいそうだ。
「もう見る気も起きない? だったら説明しましょうか。『通信記録』よ。基地内に不当な手段で設置された“回線”の通信記録。……ダメじゃないの。一番ダメなものを持ち込んでくれたわね、あなたは」
現代の象徴とも言うべき電気通信網――インターネット――の存在は、艦娘たちにとってあまりにも刺激的に過ぎるとされ、厳重に規制されていたはずだ。鎮守府内には電線と電話線くらいしか無いのはそのためで、提督もこれを使用した行為は、公私どちらにおいても、行えない。
「妖精ってね、電波に敏感なのよ。電探妖精なんかすぐに気付いたわ。見たことのない小さな機械があるって、大淀にすぐ報告が入ったもの」
だから気付いたというのか。妖精の存在を甘く見すぎていた。こちらのミスだ。
いや――取り返しの付かない証拠を押さえられている。これはただのミスではない。
チェックメイトだった。
数手しか打っていない局面。会話の中で、いつの間にかこちらが墓穴を掘るように仕向けられていたように思う。こちらがこう避けると予想して、次の手を用意していて、次々に畳み掛けた。最初からこちらに勝ち目がないと分かっていたのだ。そのための証拠も完璧に押さえてある。破滅したのはこちらだった。
「………………クソッタレ」
「もう諦めたの? あなたらしくないわ」
「はぁぁ!? 何だよあたしらしくないってのは!」
立ち上がって凄む。座ったままだった提督の胸倉を掴んで引っ張りあげた。
「っ――また、殴るのかしら」
拳は既に握っている。振りかぶって、打ち抜くだけだ。それでこいつは無様にもつれて床に倒れるだろう。怯えた目でこちらを見上げ、次の痛みが来ないよう懇願するだろう。
だが――。
「ねえ……」
そう呼び掛けられ、力を込めて持ち上げていた右の拳が止まる。
真っ直ぐにこちらの目を見て、あの慈愛に満ちた顔をしやがる。どうせそれも仮面だ。仮面に決まっている。それを打ち割って、貴様の本性を引きずり出してやる。
しかし、手は動かなかった。
「不毛なのよ。こんな争いは。人間同士の醜い争いなんて……この戦争には関係ないわ。必要すらない」
「うっせぇなあっ……!」
「……」
そっと、提督の両手が、襟を掴んでいたこちらの手を包み込む。
「ひっ――」
――不覚にも、父を思い出した。
自分の顔が、歪んでいくのがわかった。
「あなたがどうしても提督になりたかった理由は知っているし、その気持ちも推し量ることができるわ。でもその恨みを私に向けている時間は、あなたにとって何か――為になったの?」
「ぐぅッ――やめろ、言うな」
「いいえ。言わなければ終わらないから、言うわ」
もう逃げない。逃げてしまって申し訳ない――そんな顔をしていた。
「やめろ――!」
「――お父様に顔向けできるの?」
「クソッタレェええ!!」
手が先に動いていた。提督は殴られ、床に落ちる。軍帽が飛び、執務机の椅子も転がった。
大淀が駆け寄ろうとしたが、提督は手で制す。
「大淀は関わらないで。これは、あなたたちには関係のないことだから。――でも、見届けて頂戴」
「……はい」
大淀が椅子に腰を下ろしたのと同時、提督は立ち上がり、再び真っ直ぐにこちらを見る。
「私とあなたの問題で、鎮守府も艦娘も関係ないわ。これは、ただのいざこざなのだから。でも、そのいざこざのせいで、有意義に使えたはずの時間を、大いに無駄にしてしまったのは事実! 艦娘を、間接的にでも巻き込んでしまったのは私の責任。あなたとの問題を解決しないままここに着任してしまったことが、間違いだったわ」
提督はすっと背筋を伸ばして、優しい声で言った。
「あなたの怒りを受け止めたつもりだった。私が殴られればそれで、あなたの気が済むと思ったから。でも、あなたは私の考えよりもずっと人間らしい人で、家族のことを思い続ける人だった。それが、私がここに逃げ込んだせいで、あなたの恨みを強いものにしてしまったのよね」
「っ――っく、ふぅ――!」
怒りは荒い呼吸となって漏れてくる。知ったような口を利きやがる。
「ねえ……。あなたは、今、何を望むの? 手札は全部使ってしまったわ。でも……あなたとのことを解決する方法は、あなたに聞くしかないと判断したの。……私があなたの代わりになるために、私は何をすればいいのかしら? 教えて頂戴」
「……ふ、ははは! お前、どこまでもいけ好かないヤツだとずっと思ってたが、……最悪だ。お前……何のつもりだ?」
「何って……。できることはするつもりよ」
「例えあたしがお前に要求したとしても、このクソッタレな紙っぺらがある限り、あたしはおしまいだ! 何の意味がある! どうせ破滅するなら、今更気が済むまで命令したところで意味がねえだろうが!!」
そうやってがなると、提督はすっと振り向いて、壁際に置かれていたダンボール箱を机の上に置いた。
「あなたがしたことの証拠、全てがこの中にあるわ。……あなたに任せるつもりよ」
先ほどの診断書のオリジナルと、通信記録、それに――カメラを設置した瞬間の写真まであった。一体どうやって――。
「写真? ああ、それは確か、偵察機妖精が撮っていたものね。目が良いの」
鎮守府の中において、妖精に勝てる者など居ないのか――。
動かぬ証拠はここに全て揃っている。いっそ突き抜けて、呆れた。
「何でだ……。何でお前は、こんなこと……」
理解できない。ずっとそうだったが、この提督は……考えていることが分からない。
だから――。だから……?
「………………バカバカしい」
首を振った。考えることなど性に合わない。
「ならお前、鎮守府の指揮権を渡せと言ったら、できるのかよ!?」
「――できるわ。一日なら」
「本気で言ってるのか? なあお前、本気なのか!?」
「ええ」
特に何でもない。大した問題じゃないとでも言うような顔だ。
それも仮面なのだろう。一体何個……無限にあるように思える。
「その一日で弔いができるというのならば、一日明け渡すことも厭わない」
「できるわけがないだろう! 奴らは無限に湧いてきやがるのに!」
「……そうよね。だから、あなたが望んでもいないことを言うのは、やめなさい」
「はっ! 何もかもお見通しってか……?」
力が抜けてしまった。こんなの、もう、座り込むしかできない。腰が抜けてしまいそうだった。
「……あなたが望むのは、深海棲艦の撲滅よね」
「決まってるだろ……そんなの」
死んだ父の仇だ。だから提督になって、奴らを殺せると聞いた時は小躍りしそうだった。いや、実際、酒も入っていて、そうしていたに違いない。狂喜乱舞していた。神は居たのだと確信さえしていた。
だが――提督の地位は目の前のこいつに掠め取られた。
そりゃあ――もう痛いほど分かったさ。こいつは提督として、信じられないくらいの適性を有している。自分じゃできないことの全てを実現しかねないこの提督なら、艦娘たちも、そして大本営も、いずれ全てを委ねるようになるかもしれない。
女傑と讃えられ、そしていつか――勝利を掲げる時が来るかもしれない。
目の前のこいつから提督の地位を奪うことは――自分には不可能だった。
もう立派な提督だ。決して揺るがないだろう。
「………………」
何も言えなくなり、うなだれた。床を見る。見つめる。それ以外にできることが思いつかなかった。
もっと嫌がらせをしてやろうと考えていたのに、全部台無しだ。
そんな時だった。
執務室の扉が叩かれ、大人びた艦娘が返事も待たず飛び込んでくる。その様子からするに、敵襲でもあったのだろう。それか、新しい深海棲艦の動きがあったか――。
提督になることを夢見ていた時に、何度も頭の中に浮かんだ光景の一つだった。
『提督、敵襲です』
『何? どこだ』
『南方より大規模な敵艦隊が接近中とのこと。すぐに迎撃部隊を編成してください!』
『任せろ!』
――なんて。
「提督! 哨戒中の第ニ艦隊が想定外の敵艦隊を発見したとのことです。幸い損傷も軽微で全艦撃沈したとのことですが……」
「分かったわ。妙高、それで、原因は分かる?」
「はい。突発的な渦潮を避けたところ、新しい海流のせいで艦隊の流れが南方へと吸い寄せられるようにずれ込んでしまったと、旗艦天龍から報告がありました」
「南方……」
「はい。……提督、どうされますか?」
上品な姿の艦娘だ。成熟した雰囲気があり、ひと目で長女だとわかった。これはあくまでもただの、勘だったが。
「南方から深海棲艦が出てきた……ということね。だとすれば考えられる最悪のケースは本土強襲……」
「……あたしなら、ここを狙うね」
ふいに口が勝手に動いた。
空気と化していた大淀も含め、全員の視線がこちらを向いた。
「ぽっと出の輩に好き勝手される気持ちならよく分かる。南方を占領していい気になってたところに、斥候を潰され南西諸島まで狙われてると知れば……当然大本を叩きに来るだろ」
「……一理あるわね」
提督は一考し、妙高ではなく大淀に伝えた。
「大淀、すぐに天龍に通達。可能な限り索敵を行って、他に敵部隊が居ないかを探らせて頂戴」
「はい。すぐに」
大淀は駆けるように出ていき、同時に妙高も執務室を後にした。
執務室には、二人だけとなる。
「天龍型は偵察機を持ってるのか?」
おいおい、何を言っているんだ。何でこいつを助けるような風に口が動くんだ。
「いいえ、偵察機は搭載できないのよ。……せめて川内型だったなら、偵察機を出せたのだけれど」
それはつまり、この提督にとっても本当に想定外だったということらしい。
事前に少しでもその可能性があったなら最初から川内型に任せていたに違いないからだ。
「空母は居ねえのかよ」
「……まだ、着任していないわ」
少しだけ悔しそうに肩を落とす提督。
「地上支援があるとはいえ……もし敵の主力艦隊が別に居るのなら非常に危険よ。……狙いもあなたの言う通り“ここ”なら……」
「“大和”に反逆されちまうことになるのかね? あたしらは」
何が『あたしら』だ。いつの間にそんなに仲良くなりやがった? なってねえだろ。
もう遠い昔になってしまったように感じるが、訓練学校でのことを思い出しそうになっていたなんて、そんなことあるわけない。
「……それだけは考えたくないわね。でも……やれるだけのことをしないと」
そこに、追い打ちを掛けるように執務室の黒電話が鳴り響いた。
「私よ。………………分かったわ。天龍には撤退を伝えて。少しだけ時間を頂戴」
「……」
こっちが相当『教えて欲しがっている』とでも思ったのか、提督は最新情報を伝えた。
「敵潜水艦による攻撃を受けたと報告があったわ。主力に近づけさせないためね」
「……なんで教えるんだよ」
「あなたは私と違って、実力で大本営の側に選ばれていた提督だったのよ。妖精に選ばれたなんていうお伽話チックなものではなくて、あなたは……硬派な提督になれたはず」
「お前が軟派だったとは知らなかったぜ」
軟派な悪魔だ。少なくとも……こっちの認識は。
「あなたなら、どうする?」
「…………。対潜装備の駆逐艦と重武装の重巡を迎撃艦隊として送る。駆逐艦に余裕があれば対空兵装も」
「鎮守府の全戦力を使うことになるけれど、潜水艦、水上艦、空母全てに対応できるわね。そうしましょう」
同意見だったらしい。
黒電話を使って大淀に指示を与えると、提督は執務机に両手を突いて、深く息を吐いた。
「……もう、することはないのか?」
「これが提督の仕事よ。あなたたちも望んでいたことでしょう。提督は操り人形で、深海棲艦を沈めるのは艦娘の仕事。……『艦娘は兵器』。そうじゃなかったの?」
「む…………」
「もどかしい? やるせない? ……待っているのが、わずらわしい?」
「……」
また、唇を噛んでしまった。
「そういうことで悩むのが嫌だったから、私はあの意見を上申したのよ」
「……『艦娘は兵器ではない。艦娘は艦娘であり、人間と一緒に多くを学び、成長し、そして強くなっていく。共に戦い、共に悩み、共に勝利を分かつ存在である』……だったか?」
「ええ」
「だから『一緒に海に出て戦う許可をください』なんてアホなこと言い出したんだろ?」
「別に、アホなことだとは思っていないわ。私なりに考えた提案だったもの」
バカだ。こいつは、幾重にも重ねた仮面の中に、たまにどうしようもなくマヌケな、バカとしか言えないような顔を持っている。
あの深海棲艦相手に……海で、自ら戦うなんて。…………あり得ない。
したくてもできないと思えるだけの理由がある。
そりゃあ、自分だって、そうできるなら…………していた。
だが敵は。深海棲艦は、そんなに簡単に太刀打ちできる相手じゃない。
人間が海に一人出たところで、まともに戦うことなどできない。
だから艦娘を使うしかないのではないか。
何でそんなことも分からず、『海に出て戦う』なんて、バカげた発想ができるんだ。
「……親族を殺されてしまったのだから……深海棲艦に対する恐怖心は、人並み以上にあるのでしょうね」
嘲笑するような声色ではなかった。ただ心の底から、哀れんでいる。慈しんでいるのだ。
「でも私は、その恐怖を――人類が皆持ってしまっている同じような恐怖心を、払拭できると思ったの。――人類だって、まだ海の上で戦うことができるって証明できれば、まだ希望は残されていると断言できるから」
「そんなこと…………できねえから追い詰められてるんだろうが。陸に押し込められちまってるんじゃねえかよ」
「…………」
「何とか言えよ。お前だってどうにもできないって痛感してるから、ここで黙ってるんだろ」
提督は、冷静だった。
自らの行いを、否定した。
「――ええ、そうね。海に出て戦うのは、人類にとっては難しすぎるわ。実際にやってみての感想よ」
「……は?」
「武器を借りてやってみたの。あなたたちの知らない間に。……敵を倒せはしたけれど、簡単じゃなかった。それにその時は、敵はこちらに反撃をしなかった。敵が本気でこちらを沈めようと思っていれば……もしくは混戦の最中だったりしたら、海の上で人が船に乗って戦うなんて、到底無理よ。攻撃手段はあっても、気休め程度にしかならない」
腕を組んで、諦めを吐露した。
「だから私は出撃をやめた。海で戦うのはやっぱり、彼女たちが適任よ。任せるしかないと察したわ」
「……」
「そういうわけで、私はあなたたちの思惑通りの、傀儡提督になった。艦娘に不信任されるような提督にね。もちろん、あなたの妨害があったというのもあるけれど」
さらに続けた。
「明石は信じてくれていたけど、大淀には訊かれたわ。『何故、提督は自ら戦えることを証明したのに、それを大本営に伝えないのですか』って。私には分かっていたから。私が運良くあの時に戦えたのは、本当にタイミングが良くて、敵が逃げることを選んだから。偶然と言ってもいい出来事だったのよ。だから、継続的に、連戦連勝を自らの手で勝ち取ることなど不可能だと分かっていたの」
提督は提督でなければならない。それは、死んだら意味が無いというのと同じ意味である。
「私の無謀な計画は、私が海上で戦ってしまえることを証明したことで頓挫してしまった。自分で自分の首を絞めたのよ。あなたにも恨まれていたし、艦娘からも不信感を得た。このまま行くと私に提督としての未来なんて無い、と……すぐに見えた」
「それで……この証拠をあたしに明け渡して、お前は辞めさせられることすらも良しとするのか? “提督”は、もう辞めなのか?」
悪事の証拠を利用しないと断言している以上、本当にどんな目に遭っても文句は言えないのだぞ、と忠告してやる。
「…………辞めたくないわ。まだ、やれることが残っているもの」
「なら、こんな証拠あたしに渡すんじゃねえよ……」
箱を蹴って押し返す。
「てめぇがやれ。あたしはもういい。提督なんてやってられるかよ」
足に当たった箱を見下ろしてから、礼を呟いた。
「ありがとう」
箱を持って壁の方へ追いやる。その背中には、風格のようなものが見えた。
この鎮守府の長であるということと同時に、人と……艦娘にも好かれる何かがあるように思うのだ。
だから妖精が彼女を選んだのかもしれない。
よくは、分からないが。
「私はやるわ。……やってみせる」
「…………何をだよ」
背中を向けたまま、提督は最後の願望を口に出した。
それが実現すれば――確かに、彼女は全てを手に入れられるだろう。
人間同士のいざこざを解消して、提督の地位への脅威と和解した直後。今度はその地位を固め、狙いをさらに上へと定めている願いを。
彼女が望む“提督”が、そこにある。
これまで失敗を繰り返してきた提督が、このようなことを言い出すのはさぞ勇気が必要だっただろう。
偶然に選ばれたことで、前任者から恨みを買った上、逃げてしまった提督。
自らの行動で自らの願望が実現しないことを証明してしまった提督。
その後の失意のまま艦娘との交流をないがしろにし、信用を失った提督。
離反者さえ出してしまった、自らの無能さに歯噛みした提督。
理想や願望が叶うと信じて、甘すぎる考えを平気で口にする提督。
それでも――もう決して、諦めない。
いつか叶う。叶えてみせる。それこそ理想論の極地だろうが、彼女はそれを願っているのだ。
「――ったく。ほんと……分からねえヤツだよ――」
いいさ。やれるというのなら、やってみせてくれ。
むしろ興味が湧いてきたくらいだ。
この提督が、本当の意味で“提督”へと成る瞬間を見たくなった。
彼女はまだ――孵化を待つ卵だったのだから。
3
鎮守府本棟を出て一人になったところで、鎮守府には似つかわしくないスマートフォンを使って、上司に連絡を入れる。自分にとっては、味方をしてくれる将校というだけで貴重な存在だ。自分のような強硬派を受け入れてくれていただけでもありがたい。しかし、自ら『あなたの思い通りにはできなかった』という失敗の報告をしなければならないというのは、心苦しいものだ。
提督は今後の作戦を練るのに忙しそうだ。このまま鎮守府を去ってもいいのだが、最大三日間と言われていた調査期間が、わずか三十分もしない内に『看破される』という情けない結果に終わってしまったため、それもそれで恥ずかしい。
「申し訳ありません。こちらの手の内が全て把握されていて……手も足も出ませんでした」
『息巻いて出て行った挙句がそれかね。……全く。やはり彼女も相当の曲者のようだな』
「はい。何せ……合法的な手段を取ることができなかったこちらの不手際です。……処分は、受け入れるつもりです」
本当に対岸から監視という離れ業ができていればよかったのだが。自分もそうだが、電話の向こうに居る上司でさえも手が届かない場所だったのが悪い。敵味方の派閥のせいで、強引な手段にせざるを得なかった。
『君がそれほど殊勝になるとはね。絆されたか?』
「いえ、そのようなことは。ただ……“提督”はもう、彼女に託しました」
『ほう……。君ほど敵意を剥き出しにする人間がそんなことをするとはね。それを絆されたと言わずになんというべきだ? 誑かされたとでも?』
「……言葉もありません」
妖精などという存在に科学技術の大半を上回られ、艦娘という存在の確立で自らの地位を危ぶんだお偉方が、こうして派閥を作るようにして政治的争いを軍内部に持ち込んでいるのがそもそも、全ての発端だ。
彼らの世代は本物の船を使って軍事作戦を実施してきたのだ。彼らなりの苦境も乗り越えてきただろうし、深海棲艦という新たな敵が出現してからの十年以上の期間、実際に最前線で戦ってきた英傑たちなのだ。
それが……若者、特に妖精に選ばれたなどという、本来あるべき経験や過程の何もかもをすっ飛ばしてやってきた者に、戦争の全てを委ねざるをえないような現状へと切り替わってしまった。
自分たちが戦ってきた戦争であるにもかかわらず、急速な発展によって実質の指揮権を取り上げられ、自分たちは隅に追いやられるようになってしまった。
その理不尽は理解できる。自分だって経験したのだから。
だから、同じ経験をした者としてこうして……乱暴者の自分を使ってくれていたんじゃないか。
しかし……。そう、しかし、だ。
自分は間近で見てしまった。
妖精に選ばれた提督が、彼女なりの全てを賭けて全力で戦争に取り組んでいることを。
彼らが戦っていた時代と変わらない。いや、むしろ苦労や惨劇を分かち合えていただけ、彼らのほうがマシだったと言える。
今は、彼女が一人で背負わなければならないのだから。
例え何が起こっても、全ての重責が彼女の肩に伸し掛かっていくことになる。
だから自分たちのようなはぐれ者は、むしろ……彼女を支えてやるか、それができないなら黙って去るべきだったのだろう。
もっと早くそれを理解できていれば……妖精に選ばれたのは、自分だったかもしれない。
そんな自嘲を含んだ笑みを浮かべた時だった。
電話の向こうで、きっと痺れを切らしていたのだろう壮年が、静かに……低い声で言った。
『南方から出た深海棲艦の前衛部隊と接敵したようだと報告を受けたが……』
「はい。実際に執務室で、そういった報告を聞きました」
『そうか。ではこちらから捕捉情報だ。敵の前衛主力艦隊が、我が軍の護衛艦を追って鎮守府に接近している……君は今のうちに、鎮守府から離れたまえ。……これは、忠告だ』
「…………一体どういう――」
何故護衛艦が出撃し、南方の前衛主力などと呼べる艦隊を引き連れる結果になっているんだ。
『我々の求めるところは百も承知だろう。……彼女は、少しばかり遅きに失した。こちらからその遅れを取り戻させる』
意味を理解した瞬間、スマートフォンを握る手に力が入った。それも並大抵の力ではなく、握力だけで壊せてしまいそうなくらいの力だ。ギリ、と機械が鳴く。
さらに――鎮守府の厳戒態勢を告げるサイレンがけたたましく唸り出す。
『言ったはずだ。忠告だ、と。早くそこを離れることを勧める』
電話は切られた。
「――クソジジイどもォ――! なんてことやりやがる――!!」
艦娘と提督に、人間同士の諍いをこれ以上持ち込むんじゃねえよ! バカバカしい! なんて考えなしだ、なんて無駄なことに全力を出しやがるんだ。いくら暇だからって、そこまでやるのか!?
立っていた場所からでも見えた。鎮守府本棟を出たすぐそこだ。海に面した本棟は、当然水平線まで全てを見渡せる。
その海で、護衛艦が一隻走っていた。言うまでもない。本物の船舶だ。
掻き分ける波の高さからして、相応の速度を出している。その護衛艦がこの厳戒態勢の原因だ。
そして――この鎮守府を危機に陥れた犯人でもある。
血管がはち切れんばかりに怒り狂っていた。すぐに振り返り、執務室に居るはずの提督を見上げる。
丁度、窓を開けていたところだった。こちら同様、護衛艦を目にしたはずだ。そいつに向かって声を張り上げる。
「おい!!」
すぐに気付く。言われるまでもなく、彼女が求める答えを叫んだ。
「“上”の罠だ!! 深海の連中にちょっかい出したのはあの船だ! あれがヤツらを南方から連れてきやがった!! 分かったな!?」
「――ええ! 理解したわ!」
すぐに執務室に引っ込む提督。
本当に、とんでもないことをしやがった。
提督をこれ以上煩わせるんじゃねえ。クソ共が。
だが――あとでいい。あとで必ずてめぇのクソをてめぇの鼻っ面に叩き込んでやるから、覚悟しておけ。
今は――――ひとりでも多く戦えるヤツが居たほうがいいだろう。
それが例え、無力な人間一人でも。
4
『こちら横須賀鎮守府。停泊は許可できない。繰り返します。当湾内への進入は許可できない。こちらの指示に従い、転進せよ』
「深海棲艦に追われているんだ! そちらが何とかしてくれ!」
通信兵の叫びは本物だ。死ぬ思いでここまでやってきたのだ。
再三助けを求めた鎮守府に、見捨てられたかのような思いだった。
『理解しているわ。いいから聞きなさい。このまま入港すれば、瞬時に湾内が戦地と化すことくらい分かるわね? 陸の人間も容赦せず砲撃をするでしょう。そちらの船にも被害が出ることは避けられないわ』
「だが――! すぐそこまで来てる!! 入港許可を出してくれ頼む!!」
兵士はレーダーの観測結果を見て焦りが強くなる。深海棲艦の反応が多数接近している。南方から離脱する際にすれ違った艦娘たちによれば、潜水艦も存在している可能性が高い。いつ魚雷が飛んできてやられるか――。そんな瀬戸際に居るのだ。
『艦娘の応援は出せるわ。だけどその前に、転進しなさい。北東へ針路を取り、敵深海棲艦を引き付けるのよ。そうすればこちらが敵を有利に叩ける。丁字戦くらい分かるわね』
「死ねというのか!」
『説明している時間はないわ。ケツを撃たれて死にたくなければ、少しでも戦いなさい!!』
「なッ――」
喝を入れられた水兵は、思わず無線機を取り落としてしまった。
深海棲艦の影響で艦娘が使う艤装以外の長距離無線が繋がらなくなってしまっているため、こうして鎮守府に入電できたのはほんの少し前だ。いきなりになってしまったことは確かだが、こちらは命懸けで逃げてきたのである。その上で、彼女――評判に聞いている“提督”とやらは、護衛艦にも戦うように命じていた。
そして、無線機が別の人物に取って代わられた。
「――部下が失礼をした。以後、そちらの指示に従おう。北東に転進し、深海棲艦を引き付ける。……後は頼んだぞ」
それは艦長だった。そろそろ老齢と言っても間違いない男性で、深海棲艦との激戦を生き延びた生ける伝説である。
鎮守府を通さない政府からの勅令に応え、南方敵棲地への強行偵察作戦を成功させたものの、その成果を持ち帰る背中に敵を連れてきてしまった。これはこちらの失態ではあったが、その尻拭いを頼む以上、こちらにもやらねばならないことが残っている。
船と深海棲艦で戦争を行う時代は終わった。今は、艦娘と深海棲艦がぶつかる時代だ。
それを理解していた艦長は、無線の向こうに、若いころの自分を見たような気さえしていた。
意志が強く、諦めが悪く、勝利に貪欲であり、そして――仲間を一人でも多く生き残らせるために立ち上がった時、より一層強く燃えあがる情熱の持ち主。
噂にしか聞いていなかった提督と初めて交信した。この一瞬のやりとりで、彼女が信頼に足る人物であることはよく分かった。
何より、自分がそうやって生き延びてきたのだから。
深海棲艦を迎撃し、撃滅する。それが現状最優先事項。陸に近づけさせるわけにはいかないというのなら、海の上で始末を付けるしかあるまい。
陸からの支援が届く警戒線内には入っているが、恐らく提督はその支援を権限で止めているだろう。その理由も推測できる。提督はこれから出撃させる艦娘の安全を確保するつもりのようだ。正直に言えば、陸の防衛戦力は対空に特化しており、砲撃戦力の方は、時折やってくるようなはぐれ艦や偵察機の迎撃のためにある。敵の主力が攻めこんできた場合にも相応の火力を発揮することは可能だろうが、しかし十全とはいえない。あくまでも陸地にまで侵攻された場合にも戦うことができる、という程度の認識で間違いはない。海岸線で抑え、兵員を侵攻ルートに配置して最終的に撃退する、という方法を採っている陸自のやり方も間違っているとは言えないだろう。だから国土近海で深海棲艦の“艦隊”を相手にする場合は、海上で艦娘に任せるのが得策だ。
『ご理解感謝します。必ず守ります!』
提督も動き出すために通信を切断した。艦長もそれに倣い、どすの利いた声で号令を出すのだった。
5
敵艦船は護衛艦を追う形で近海へと到達しようとしていた。最大船速で可能な限り引き離していたおかげで攻撃は免れていたが、入港を巡る悶着の間にも深海棲艦は距離を詰めてきていた。鎮守府観測台から目視できたという妖精の報を受け、水平線内にまで侵入されたこと知る。
だが敵の狙いは、南方という蜂の巣を突付いてしまった護衛艦であるはず。彼らには悪いが、もう少しだけ囮になって貰わなければ。
天龍の報告で空母がいた事は明らかになっている。同じような前衛部隊の一つと考えれば編成は同じだろう。その空母に既に空襲を受けていてもおかしくない距離であるが、それが今のところないということは、あくまでも狙いは護衛艦であるということ。
護衛艦は、南方で安穏としていた敵泊地に近付いて悠々と掻き回し、そして逃亡した。何をしていたかは具体的に判明していないが、先程まで恨み辛みで一触即発だったあの人によれば、上層部の暴走の結果だ。鎮守府近海に敵を連れてくることが目的だったらしい。護衛艦が撃沈されてしまえばそれまでの杜撰な計画だが、それを成功させてしまえるだけの艦長が選ばれていたということ。できれば犠牲は出さないという考えでは一致しているが、向こうがしたことはただの友軍への故意の銃撃と同じである。
この事態を招いた人物の考えは恐らく、鎮守府近海にまで敵の侵入を許し、命からがら逃げてきた護衛艦を失い、さらに地上へ被害を出したという責任を提督に取らせるというもののはずだ。だから提督としては、護衛艦を湾内に入れることだけは一番に避けねばならなかった。
護衛艦が入港しなかったことで、深海棲艦が護衛艦を追い続けるのか、それとも目的を転じて鎮守府を攻撃するのかの判断をさせる。そうすることで既に、犯人の狙いを幾分か外せる可能性を引き出した。いくら陰謀を手招きした人物といえど、深海棲艦を正確に操ることなど不可能であるからこそ成立する。
敵が護衛艦を追えば、今のところ鎮守府は深海棲艦にとっても重要拠点ではないということ。
上からの圧力に屈することなく南方海域への強行偵察も実施していないし、南方を脅かすような艦娘戦力も敵側に確認されていないのだから、そもそも鎮守府という施設の脅威度を低いままに保つことができた。彼らは南方に作った拠点を育てるのに精一杯で、鎮守府近海から南西諸島方面への静かなる反抗が起こっていたことを、まだ認知していない可能性さえある。
――戦力の拡充を計ってはいたが、戦艦級と空母級を建造できていなかったことが幸いした。
しかし、もし敵がこのあと鎮守府へと狙いを変えた場合、それが裏目に出ることになる。
こちらが戦力的に劣っている状況で、しかも本土近海にまで攻め込まれているのだ。
早期に全戦力を海上に投入し、決着させなければならない。
その際鎮守府は――。
「――それで、どちらを狙うのかしらね」
既に艦娘への出撃命令は下してある。重巡洋艦と軽巡洋艦を配備した高耐久の水上部隊で、対潜のために駆逐艦も付けた。
敵を罠に嵌め、そして撃滅することが至上命題だ。
だがそれはあくまでも、護衛艦という餌で敵を釣れた場合に限る。
そうでなかった場合、艦娘たちは深海棲艦と正面衝突することになる。
「なあ、この鎮守府には防衛設備はあんのか?」
当たり前のように作戦司令室に同行してきていた彼女も、かつてなれなかった提督の補佐として、今だけ動くつもりだった。
「公的なものは、電探だけよ」
「機銃も高射砲も無いのか?」
「ええ。海岸線を守るのは陸自の仕事だもの。それに、鎮守府に戦艦と空母が配備され次第空襲に備えることが可能になるから――人間を可能な限り入れないという方針を守るには、防衛を捨てなければならなかったのよ」
かといって艤装は妖精だけでは扱えないものも多い。艦娘が使うことで初めて機能するものがほとんどだ。特に機銃や高射砲などは、艦娘が狙いを定めて引き金を引き、妖精が装填を行い、狙いを外さないようアシストすることになる。妖精だけでは防衛ができないのだ。
「クソ。じゃあ陸自の真似事もできねえな」
「…………どうかしら」
「あん?」
提督の言い方が今になって何か引っかかったが、それを追求する時間はなかった。
大淀が管理する無線機が鳴る。出撃した艦娘からの報告だ。
『司令部へ! こちら妙高。深海棲艦の転舵を確認しました! 護衛艦を追っています!』
「鎮守府は一先ず、安泰ね」
そう、一先ず――。
「これで艦娘も敵を背後から狙えるんだな」
海図を眺めて状況を予測する。針路を変えた護衛艦の駒を進ませ、深海棲艦を表す赤の駒も同じ方向へと移動させる。艦娘を表す青は、鎮守府から真っ直ぐ進行中だ。
その後の予測を立てるならば、護衛艦はさらに陸地を離れていき、深海棲艦もそれに準じ、艦娘がそこに追いつく。背後からの奇襲となればいいのだが――。
「敵の偵察はザルなのか?」
奇襲は可能なのか、という質問。
「間違いなく気付かれているでしょうね。でも、さらに選択肢を迫るわ。護衛艦と艦娘どちらを狙うかという選択で、敵も混乱するでしょう」
餌を前に、その後ろから艦娘が追ってくれば、敵艦隊は前後を挟まれる。両方を同時に攻撃するには、戦力を分散するしかない。
「なるほどな。……今確認されてる敵艦隊、報告と違うんじゃないのか?」
「天龍によれば空母が居たという話だけれど……今のところここで確認したのは重巡と駆逐艦だけね。同じ水上部隊同士、互角にはなるわ」
「空母が居るならアウトレンジから来るだろ。万が一に備えて敵艦隊が分裂した可能性は無いのか?」
新しい赤い駒を手に取って海図の端の方、鎮守府から見ればかなりの南方へ置く。それが彼女の言う空母だとしたら……。
「ここまで護衛艦を追ってきたヤツらが実は偵察を兼ねていて、護衛艦の転進に合わせた仲間内の通信で、待機させていた空母に、攻撃指示を出したとしたら? 水上艦は護衛艦、空母部隊が鎮守府を狙える」
敵の艦載機を表す小さな赤の駒をばら撒き、鎮守府まで線を引っ張った。
深海棲艦は護衛艦が本土へと帰ることを予想して敢えて尾行していたという発想。そして本土が近付いたことを確認して空母を待機させ、鎮守府という目標を定めるために近海まで誘われてきたように見せかけた――。
現在空母が近海に確認できない以上、彼女の予想は当たっている可能性が高い。
深海棲艦らしくないと言えばらしくない非常に高度の戦術だが、深海棲艦が大陸を狙う道に立ちはだかるこの国を狙っているという予測は、提督も建てることができていた。深海棲艦側の利益も加味すれば、この状況を優秀な護衛艦一隻で生み出すことも可能なのか。
思わず舌を巻く。自分は相当に厄介な人物を敵に回してしまったらしい。
これを仕掛けた犯人は、本当に優秀な海の男だ。そんな人間でも味方を撃つまで変えてしまうように、この戦争を巡る軋轢は大きいのか。
早く、解決しなければならない。
提督の中では、その軋轢を解消するためのステップが次々に踏まれていたように感じた。
相手が英雄たる海の男なら、こちらはその間違いを正す女神にでもなってやろうじゃないか。
「――さすがね。私はまだ、海戦の方には自信が持てないままだったのよ」
平然と、嘘をついてしまった。しかし、彼女のことを褒めたのは本心だ。彼女だって本当に優秀な提督になれたに違いない。
「対空装備の水雷戦隊も出しましょう。外回りの警戒に当たらせ、同時に敵水上艦を囲い込む」
海図に新たな青の駒を並べる。別働隊は護衛艦と敵を避けるように外洋側へと出て行き、対空警戒に当たらせる。既に打撃部隊の追撃を受けているであろう敵艦隊は逃げ道も失う。
「いいんじゃないか。だが、対潜艦も付けるべきだ」
「もちろんよ。二隻ずつ、対潜、対空、そして砲撃戦重視にするわ」
「六人か。それだけしか出せないのか?」
囲い込むための戦術ラインの維持には少なすぎる。対空戦闘も、精々敵艦載機の発見が早くなる程度になってしまいそうだ。
「鎮守府に残るのはあと六人ね。重巡二人を含む打撃部隊がもう一つ作れるわ」
ここまでの予測が正しいのならば、この部隊は空母を含む敵の主力を叩くのに最適だ。
「なんでまず戦艦を作らなかったんだよ。戦力としてなら絶対に押さえておくべきだったろうが」
「今はそんなこと論じている場合じゃないわよ」
大淀に、対空防衛の別働隊の出撃を指示する。すぐにこの作戦が実行に移されるだろう。
「なあ、お前のことだから、どこかに戦艦を隠してたりしねーよな?」
「残念ながら本当に戦艦は居ないのよ。空母もね」
「あたしならまず“長門”を作ったね」
「……妖精に嫌われると、建造はうまくいかないわよ」
そのぼやきにも聞こえた呟きが、糸口になった。……もちろん、提督いびりの方の。
「あん? じゃあ何だ? お前は艦娘からだけじゃなく妖精からも嫌われて『戦艦を作れなかった』のか?」
「……さあ。どうかしら」
「はっ! それでできたのが重巡以下の巡洋艦ばかりってか! ふはは! ウケる!!」
面白すぎて腹を抱えて転げそうだった。
「頭はいいのによぉ! 運が無えよなお前って、ほんとによう!」
「…………」
あの提督が、バツの悪そうな顔をしている。自覚があるらしい。
「分かった分かった! この戦いが終わったら、あたしに建造やらせてみろ。お前に戦艦プレゼントしてやるよ」
「あなたは幸運だものね。……ああ違ったわ、悪運よね」
「幸薄よりは全然マシだ。ぷっ、くく……っ。『戦艦が作れなかった』だと……くふふふ!」
また笑いがぶり返してきた。だがそこで、大淀が口を挟む。
「……お二人は一体、何をしているのですか」
「よく言われるんだよ、仲悪いのになんで連んでるんだってよ」
「大淀はそういう意味で聞いたんじゃないわ。指揮に戻れと言っているのよ。……あと、別に連んでいたつもりはないわ。同期で同僚だっただけ。そうよね?」
「そうかぁ? まあそうなのかもな」
含みのある笑い。提督の地位についての諍いで一方的に恨みと怒りが強くなってしまっただけで、それ以前は、ごく普通の同僚だったと思う。話す時は話すし、殴り合う時は本気だった。
「この通り仲直りはしたぜ? 今だけかも知れねえけど」
「仲良くなりたいのか敵対したままで居たいのか、はっきりしなさいよ」
「どっちも嫌だな。ああ。そう思うことにした」
ふざけるだけふざけて、急に真面目なトーンに戻る。そういう人だった。
「どうせこの後本部に帰っても爪弾きだ。海自なんか辞めて、お袋の待ってる田舎に帰るよ」
「……そう」
励ますべきか同情すべきか迷った。だが思い直す。彼女はそのどちらも求めていない。本人がそうだと割り切ってしまえば、後はどんなことを言われようが大したことじゃないはずだ。
「っ」
遠方から、砲撃の音が次々に響き始めた。本棟にある作戦司令室の窓も微かに揺れる。
続いて大淀が声を上げる。
「第一艦隊が砲撃戦を開始しました。護衛艦は速度を上げて海域の一時離脱を図っているようです。それから、第三艦隊も配置について警戒態勢です」
第二艦隊は天龍率いる遠征部隊だ。哨戒を終えて帰ってくるはずだが、まだ連絡はない。無事は確認されているものの、無駄な無線連絡も避けねばならないため、どこに居るのか詳細は分からなかった。予定では――帰港も近いはずだ。天龍ならば帰投次第海戦に参加させても問題ないだろう。だから、この作戦上においては第二艦隊という扱いにしておく。現状においては、こちら側の隠し球とでも言える戦力だからだ。
「第二艦隊に打電可能か確かめて。まだ燃料と弾薬が残っているなら、敵空母への奇襲が可能かもしれない!」
「第二艦隊……」
補佐は提督の横で、壁にある編成一覧を見てメンバーと装備を簡単に確認した。
天龍を旗艦とする遠征部隊。元々海上の護衛任務だったようで装備は十全。予定外の航路で敵と遭遇して戦闘。南方から敵が出てきていることを察知した。
もしこの第二艦隊が接敵した前衛部隊とやらが、敵にとっては後衛艦隊だった場合。
敵の主力は現在逃走中の護衛艦を追い北上していた。後衛艦隊が艦娘を発見して一時離脱し、その後撃沈される。艦娘側は他にも深海棲艦が居ないかと周辺を哨戒したが、その頃にはもう主力は本土に向けて全力疾走中だった。そして現在は、ここに居る。
だとすれば、背後から敵の主力を叩くことは充分可能だ。
問題は、その水雷戦隊で敵の主力を叩けるかということ。戦力的に上回られている場合、奇襲をしても勝つ見込みは薄くなる。
空母が一体や二体であれば、駆逐艦の機動力を活かして接近してしまえばいい。だが、仮に戦艦クラスが居た場合は、それだけで戦力のバランスが逆転されると見て間違いない。
「敵の主力がどこにいるかも分からないし、戦力差も分からないまま。下手に消耗したまま突っ込ませても無駄だ。どうする?」
「……そうね。天龍に通信を。意見を聞くわ」
「了解しました。第二艦隊天龍に打電します」
海図に第二艦隊を置く。大淀との通信で正しい場所が分かった。現在鎮守府に向けて航行中、敵艦を捜索しながら遊撃に移りたいとのこと。了承しておいた。
「これで天龍とやらは自分の判断で戦線に加わるわけか。優秀なのか?」
「こと戦闘に関しては勇猛果敢で的確よ。特に仲間のためなら尚更強くなるわ」
「へえ……。骨のありそうなやつだ」
そして入れ替わりにこちらの主力である妙高から報告が上がる。
『こちら妙高。敵水上部隊は壊滅しました。綾波が軽度の損傷、敷波は直撃弾を受け曳航中です。二人を帰投させてあげてください』
頷いた提督を見て、大淀が返信する。
『分かりました。ですが、未だに敵潜水艦を発見できません。このままでは、奇襲もあり得るかと』
妙高は重巡洋艦として鎮守府でも頼れる姉のような役割だ。戦場にいながらも冷静で、懸念の意見もしっかりと述べる。それが結果的に悲劇を防ぐのに重要であるのだ。
「対潜装備の駆逐艦に頼るしかないわね。それか……もしかすると、潜水艦は主力の護衛についているということもあるわね」
「ここまでに潜水艦の攻撃がない以上、近海には居ないのかもな。だったらそっちの方が理に適ってる」
提督は指先を口元に合わせて一考する。
決断は早かった。
「少し先走ることになるけど、足柄を旗艦とした第四艦隊を編成して即時出撃。敵主力を発見し次第、強襲させるわ」
大淀の素早い打電があった。これですぐに出撃が行われるだろう。
しかし鎮守府の中に残る艦娘がこれで全員出払うことになる。戦闘のために出撃した三艦隊と、天龍たちの艦隊、さらに二部隊が遠征で遠洋にいるため、鎮守府の残存戦力はゼロ。現状行える全力の戦いだということだ。
「どうやって見つける?」
「――たった今売った恩を、返してくれそうな船が居るじゃない」
「あぁ。確かにレーダーの性能だけなら少しはマシか。……やっぱりお前は腹黒いよ」
艦娘の偵察装備に不安がある現在、護衛艦に搭載されたレーダーが有効ならばそれ以上に強力な装備はない。使えるものは全て使わなければ。勝てるものも勝てなくなってしまう。
「護衛艦に伝えるわ」
無線機を取って連絡を入れようとした提督だったが、大淀の息を呑む声で動作が止まった。
「提督! 第三艦隊が敵艦載機を発見! 対空戦闘を開始しました。数はおおよそ百以上、このままでは――」
「爆撃を受けるわね」
「……クソッタレ。間に合わなかったか」
護衛艦に積まれているイージスシステムも、敵艦載機を感知できないため意味が無い。空の防衛は艦娘に頼るしか無いが、百機以上の艦載機を全て撃ち落とすなど夢のまた夢。間違いなく空爆を受けてしまう。
窓の外、上空を見上げた。
虫のような黒い粒が、大量の弾幕を受けながらも回避行動を繰り返し、そして再編成し、こちらに向かってくる様子が見える。
「地下へ避難! 大淀、あなたも!」
「はい!」
「待機中の戦力はもう居ないんだったな!?」
「ええ、全員出払ったわ!」
「おい、マジで鎮守府は空だったのか! マジで守る気ゼロかよ!」
言いながらも駆け、階段に飛び込むようにして地下室へと退避した。
あとは耐えるだけ。そう思った時だ。
提督が絶望を浮かべた。鎮守府に残されている“戦力”はもう居ない。だが――。
「! 明石――!!」
大淀もその声を受け、すぐに取り乱してしまう。
「私が行きます!」
駆け出そうとした大淀の肩を掴んで押し戻すと、提督が飛び出した。防空壕の鉄扉を押し上げて外に出る。
「何でお前が行くんだッ!?」
あまりの早業に反応が遅れた。閉められようとしている鉄扉の隙間に見えた提督は、一つ、頷いた。
まるで、『何かあったら後はお願い』とでも言うような顔で。
「ふっざけ――――――」
直後、経験したことのない大地震のような地鳴りが襲いかかった。耳を劈かんばかりの爆音が次々に鳴り響く。裸電球が明滅しながら派手に踊り狂い、天井からは土埃が落ちてくる。
残された二人は、壁に手をついて耐えるしかできなかった。
6
重巡妙高と那智は、護衛艦――自分たちが知っている船の姿とはずいぶん違う――を防衛しきった。艦の方は敵重巡リ級の砲撃が一発だけ至近弾となり、装甲の一部がかすり傷程度の被害を受けただけで、護衛艦は北へと直進を続けていった。
そしてこちらは、反転してきた深海棲艦たちと相対することになった。一時的に護衛艦のことを忘れ、背後から接近してきたこちらと戦うことを選んだのだろう。
赤の靄を纏っている深海棲艦のエリート級との戦闘は、つい最近になって艦娘たちの間でもやや恐怖と共に語られるようになってはいたが、火力で優っていたこちらの先制攻撃で始末できたのが何より助かった。そうして士気を上げた那智の号令で、駆逐艦たちも全力を惜しみなく発揮することができたようだった。
対潜警戒をしていた綾波が不意打ちで損傷を受け、さらに綾波に向かった追撃を敷波が庇ったことで大打撃を受けはしたものの、その隙に再度砲撃を行った重巡二人と軽巡二人で倒しきった。
気を失っていた敷波を曳航しながら、水中探信儀にて潜水艦を見つけようとしていた綾波だったが、提督の許可を得て止む無く帰投させた。普段はおっとりとしている娘だが、戦闘となると少しだけ雰囲気が変わる艦娘だ。少しだけ悔いを残しているような顔だったが、仕方ない。それも、過去の活躍の影響なのだろう。
だが、問題はその後に起こった。
綾波によると敵の水上部隊の近辺に潜水艦は居らず、さらに鎮守府近海に展開した防衛部隊の報告でも潜水艦は発見されていない。目視による潜望鏡発見も当然無かった。
どうやら近海に潜水艦は居ないようだという結論を皆が出した直後、防衛線を展開していた駆逐艦から、敵艦載機の襲来が告げられた。
こちらも持っている装備で援護をしたが、百機以上の艦載機をすべて落とすことはできなかった。それに、敵は――この近海全てを焼け野原にするのではないかというくらいの、絨毯爆撃を敢行したのである。
防衛線の駆逐艦たちに向けて艦攻隊を送り、対空戦闘ではぐれたと見せかけた部隊はこちらに向かってきた。二手に分かれたと思われた編隊だったが――ニ部隊の気を引き付けている間に、今度は対空砲火を逃げ切った大部隊による鎮守府への爆撃が開始されたのである。これを防ぐことができなかったのが、何より妙高にとって屈辱であった。さらに言えば、二部隊に向かったはずの艦載機すら、主力編隊が攻撃を抜けたことを察知すると、同様に鎮守府に向かっていったのである。つまり、全艦載機が最初から鎮守府を狙っていたということ。
どこかに隠れている敵空母の攻撃目標は護衛艦でも艦娘でもなく、鎮守府だったのだ。
提督の指示を受けて、妹である足柄と羽黒も出撃したばかりだっただろうし、綾波と敷波も鎮守府に向かっていた。きっとすれ違いになっているだろうから、妹二人が守ってくれたとは思うが――。
爆撃の直前、鎮守府の埠頭近くで対空機銃の弾道が見えたが、あまり効果があったようには見えなかった。幸いなのは、敵の目標が鎮守府の施設の方にあって、出撃直後だった艦娘たちが狙われた様子が無かったことだ。
足柄たちを含めれば、鎮守府内の戦力は全て海に出てしまっている。爆撃で真っ赤な炎と黒煙を噴き出す鎮守府には、提督と大淀、明石が残っていたはずだ。もう一人の客人がどうなったかは分からない。
三艦隊による対空射撃を受けて敵艦載機の編隊はバラバラになっていて、思い描いていた通りの絨毯爆撃とはいかなかったようではあるが、それでも凄まじい数の爆弾が、絶え間なくスコールのように降り注いでいく光景は――艦娘たちにとって悲劇以外の何物でもなかった。
無機質な提督だが大淀は信頼していたようだし、自分たちを編成して実際に戦果を上げていることからも、悪くない提督なのだと思う。妖精が選んだということは聞き及んでいて、代わりが居ないということも知っている。どんな提督であっても、最終的に提督の命を守れなければ敗北と同じだ。彼女が死んでしまえば――自分たちを率いてくれる人がいなくなる。
その言い知れない不安が、艦娘たちの心に影を差したことは、言うまでもない。
「――――」
鎮守府が攻撃を受け、敵艦載機は陸地を離れようとする。しかし、人類側の本土防衛力は提督も断言するほど進歩していた。海から地上に向けて飛行していた艦載機は、爆撃を終えて当然反転しようとした。その飛行ルートは、陸の上。
引き付けるだけ引き付けてから――自分たちの陣地へと誘い込んだ艦載機たちに、まるで蚊柱に向けて火を噴きつけるかのように、容赦の無い対空砲火が襲いかかった。
鎮守府のある湾岸には、鎮守府以外の地上基地が多数存在する。その基地全ての全兵装を用いての対空一斉射。艦娘だけでは落としきれなかった全ての艦載機が、一瞬にして焼き払われてしまった。
何故、もっと早く――鎮守府が焼かれるよりも前に同じことができなかったのだろう。
海上戦闘への支援攻撃が無かったのは提督の指示だと聞いている。誤射、誤爆を防ぐためだと納得できるが、対空戦闘は別だったはず。何故ほんの一分か二分、早く撃てなかったのだろうか。
何故誰も――提督を守ってくれなかったのだろう。
提督へ不信を叩きつけた艦娘が居たという噂はどこからともなく漏れ出した。誰かが撒いたというわけではなく、そういう雰囲気のようなものがあった。そして実際に、彼女の身辺調査を行うための客人もやってきた。偶然二輪車のエンジン音を聞いて見に行ったという足柄から聞いたが、相当に鬼気迫る顔で、敵意のある人だったらしい。提督は叩きのめされるかも、と思ったという。
艦娘から絶対的な信頼を得ていたわけではない提督だが、それでも自分たちは、鎮守府のことはあの人に任せようと決めていた。あの人が提督なのだから、鎮守府は安全だと――どこかで思っていた。
それに、鎮守府がある場所の周囲には、先ほど対空砲火を行った地上基地が山ほどある。いざというときにはその基地たちが鎮守府を――提督を守ってくれるはずだと思い込んでいた。
なのに、守ってくれていなかった。
むしろ鎮守府は、先ほど護衛艦にしたことと同じような扱いを受けた。餌として使われ、敵を撃滅するための囮として。
そして提督は――もしかすると、亡くなったかも知れない。
あの密度の爆撃では、地下壕が崩れるようなことがあってもおかしくないからだ。
一体提督には、どんな敵が居たというのだろう。
護衛艦が南方海域に強行軍を実施した帰りだというのは知れ渡っている。だがその目的は一体なんだったのだろう。
たった一隻の護衛艦が敵地の最深部を刺激して、敵を連れて、全速力で帰ってきた。
その結果だけ見れば、鎮守府が壊滅的被害を受けたということになる。
仮にこれが――護衛艦に指示を出した人間の思惑通りだというのなら――。
鎮守府を訪ねてきたばかりの“提督の敵”。その敵と同じ考えを持っていた人間が居たとして――鎮守府が目障りだったのだとしたら。
今起こっている全ての事象が――戦争に政治を持ち込んだ愚者の仕業だとしたら。
提督は、権力に命を狙われていた――ということになる。
だとすれば、対空砲火が遅かった理由も推察できる。
これは――悲劇を装った計画的なものだ。
誰かが提督を殺そうとした。
――私たちの、提督を。
確証はないが、怒りは湧いてきた。
そこに通信が入る。丁度いい、時機だった。
『妙高姉さん! 聞こえてる?』
足柄だった。すぐに応対する。
『鎮守府に戻ったほうがいいかしら? 提督を探す? それとも――』
「いいえ。足柄、今するべきことは一つよ。この戦い、引くわけには参りません」
足柄の望む言葉を口に出そう。提督がどんな人であれ、彼女は戦いに勝とうとしていた。
だから――。
通信を全艦に切り替えて宣言する。
「深海棲艦の主力への反撃へと移行します! 全艦の指揮は、提督が復帰されるまでこの妙高が執ります!」
『いいわ! 漲ってきたわ! 妙高姉さんの本気が見られるのねっ!?』
「提督が警戒していた敵潜水艦の発見を最優先にしましょう。敵艦載機は壊滅的で、空母は無力化したと見て間違いありません。この近海の、どこかに居るはずです。恐らく潜水艦と空母による変則的な艦隊が、どこかに居ます。水中探信儀と水上電探を持った艦娘を起点に、索敵を開始してください!」
『私と羽黒、偵察機持ってきてるわ! 飛ばすわね!』
足柄の用意の良さに感心しながら了承する。
「いいですか、こちらの全戦力が協力すれば、敵を打ち負かすことは難しくありませんわ。各艦は役割を明確に」
いつの間にか、すぐ後ろに軽巡龍田が寄ってきていた。きっと何か言いたいことがあるのだろう。
「それから、艦隊の再編成を行います。主力を集めて近海に待機。偵察艦隊が敵主力を発見し次第攻撃に転じます」
『じゃあ妙高姉さんに合流するわ! 行くわよ羽黒! 特型の娘たちも、この足柄に付いてきなさーい!』
『足柄姉さん! 針路を変えてから言うのやめてくださいぃ……!』
後ろのほうで小さく羽黒の慌てる声まで聞こえた。
微笑ましい限りだが、まだ戦闘中であることを忘れてはならない。通信を一時切断した妙高に、龍田が話しかけてくる。
「天龍ちゃんのこと、何か聞いていないかしら~?」
「いいえ……。大淀さんによれば、帰投中だったかと。……それ以上は。連絡もないということは、まだこの辺りには到着していないのかもしれませんね」
「天龍ちゃんなら、喜び勇んで駆け込んでくると思ったのに~……」
彼女の性格を思い出すと、思わず微笑んでしまいそうなくらい容易に想像できた。しかし龍田も龍田で周りくどい心配をするものだ。
「大丈夫ですよ。長女というのは、妹のことを必ずどこかで気にかけているものですから」
龍田の瞳が丸くなり、妙高の言葉の意味を反芻しているようだった。
「必ず駆け付けてくれます。それも、格好良く。そうではありませんか?」
龍田はゆったりと頷いて、にこりと笑った。
「そうだったわぁ。天龍ちゃんったら、どこかで登場の機会を待ってるのね~」
気が晴れたのか、龍田はUターンして艦隊後方の持ち場へと戻った。入れ替わりに、すぐ後ろでずっと電探による警戒を行っていた那智も一言告げる。
「頼りになる長女を持って、僥倖だ」
「もう、照れてしまいますわ……」
無駄話もこれくらいにしなくては……と眉間に真剣味を与え、気持ちを改めるためにも水平線の彼方を一望する。
そして、背後から、短い汽笛が聞こえた。想定以上に大きい音で耳を覆ってしまったが、振り返ってみると正体が分かった。護衛艦だ。深海棲艦を撃滅したため安全となった海域へと戻ってきたのだ。
艦娘と通信する手段を持たない護衛艦は、汽笛で知らせるしかなかったようだ。
すぐに信号旗が目に入った。意味は『貴艦と通信したい』。こちらが手を振って応えると、モールスによる伝令が始まった。信号用探照灯の明滅を見逃さないよう、那智と共に読み取っていく。
「……本艦が索敵を行う……」
「……なるほど。電探よりも高性能なものを積んでいるようですね。素直にお願い致ししましょう」
こちらは返答する手段を持っていなかったため、両手で大きな○を作って応えた。
汽笛が一度鳴り、護衛艦は針路を少し変え、より遠洋の方へと向かうようだった。
「ふむ。どうやらあの船にも、優秀な艦長が搭乗しているようだな」
那智の静かな言葉は、提督の指示無く、さらに鎮守府の損傷よりも敵の撃滅を優先する辺りの勇猛果敢さに感心していたようだった。そうではあるのだが、大きな船はその分、的になってしまいかねない。ここは素直に鎮守府に向かい、人員を使って提督の救助をお願いしたいくらいだった。
だが、敵の主力を発見できない以上、索敵能力に自信のある船を頼ることも間違いではないだろう。彼らなりの恩返しだと思うべきだ。
「単独で航行させるのは危険じゃないのか?」
「いいえ。だってあの船は、南方海域から敵を引き連れたまま、遠路はるばるこんなところまで来たのですよ。きっと素晴らしい“家族”なのでしょう」
船にとって乗員は家族のようなもの。一体となって初めて、戦果をあげられる。
「なるほどな。合点がいった。……さて、足柄とも合流できたし、後は敵の発見だけだな」
那智の言葉で気付いた。遠くから呼ぶ声がする。
「妙高姉さーん! 羽黒を一人お届けよー!」
「は、離してください足柄姉さぁぁん……!」
足柄に腕を組まれて引っ張られている様子の羽黒。危うくバランスを崩して転倒しそうだ。当の羽黒は泣きそうな顔をして足柄に追従していた。離して、と口では言いつつ、しがみついているのは羽黒の方にも見える。
「……全く。羽黒はおもちゃじゃないぞ」
那智が頭を抱える。
「でも、私たち姉妹の中では屈指の頑張り屋さんですわ」
「それに異論はないさ。だが羽黒はもっと、足柄を上手く扱えるようになるべきだ」
「いいじゃない。かわいいんだもの」
妙高が幸せそうに笑う。長女の愛とでも言うのか。余裕のある顔だ。
いつか那智も、同じような雰囲気のようなものを得ることができるだろうか。手本にすることは多くあっても、妙高のような立派な姉になれるとは思っていない。偉大な姉だった。
「まあ……その、なんだ。四姉妹が揃ったのだ。敵などすぐさま粉砕してやろう。……楽しみだな」
「胸を張って持ち帰ることのできる戦果を上げましょう」
「二人して何の話? 勝利のための作戦会議なら、私も混ぜなきゃダメじゃない?」
足柄は勝利に飢えている。いつもこうだった。
「やることはもう決まっている。索敵を厳とし、敵を破砕する」
「そうよね! 思いっきりやっちゃってもいいのよね! あぁ……戦場が、勝利が私を呼んでいるわ! 声が聞こえるのよ!」
また足柄が変なことを言い出した……と呆れる那智の下に、そっと足柄の呪縛を抜けた羽黒が報告をしにきた。足柄はどこでもない海に向かって何やら騒ぎたてたままだった。
「あの、鎮守府の埠頭近くで、綾波ちゃんたちと一時合流しました。それで……その、綾波ちゃんが鎮守府を捜索してくれるそうです。……あ、あと、司令官さんがご無事であれば、すぐにでも戦線に復帰したいと……」
「一人でも多いほうが助かりますね」
妙高もそれを了承したところで、足柄の叫びが一際大きくなった。
「あっち! あっちよ! この方角から、私を呼ぶ声がするの!」
海の向こう、何もない水平線を指さして目を輝かせている足柄。だが、何やら絶対的な自信でもあるかのような口ぶりだった。
「……足柄、貴様はついに幻聴まで……。全く、姉として嘆かわしいぞ……」
「足柄? もしかして、偵察機からの通信ではないのですか?」
「あれ? ……あっ! ほんと、そうだったわ! ありがとう妙高姉さん!」
耳を澄ませるようにして『呼び声』とやらに集中してようやく気付いたようだった。
「それならそうと、早く言え……」
那智は呆れが一層強くなったが、もしかすると足柄はお手柄だったのではないだろうか。
「えーっとなになに? ……敵軽空母ヌきゅっ――――」
足柄が報告を口に出していた最中だった。絶妙なタイミングで、護衛艦の汽笛が聞こえた。そういえば、足柄の指さしていた方向は、護衛艦も向かっていた方向だ。
もしかすると護衛艦の艦長は、これまでの戦闘を整理して、まだ索敵が充分でない海域を洗い出してからこちらに接触してきたのでは? そうなのであれば、こちらの想像以上の英傑のようだ。
「やっぱりそうだわ! 私の勝利がそこにあるのよ!! 姉さんたち! 羽黒! それから特型の娘たちも! すぐに出発するわよー!」
後ろのほうで元気のいい駆逐艦が『はい!』と斉唱した。意外にも足柄は旗艦の才能があるのだろうか。
「全艦、足柄機の報告に従って航行を開始してください! すぐに叩きます!」
妙高が手を上げて宣言。さらに全艦にも同じことを伝えた。艦娘側の打撃部隊が、敵主力を叩く瞬間がやってきたのだ。
「それから足柄、偵察機の通信内容を正しく教えてください。敵の編成は?」
「待って。……よしっ。空母ヲ級一隻、軽空母ヌ級一隻、さらに戦艦ル級が一隻よ」
「三隻か。空母二隻は無力化したはずだ。艦載機の数も計算が合う」
「待ってください……! 敵の主力は今や……潜水艦と見て間違いないと思います!」
羽黒も発言し、それらしくなってきた。彼女も出撃となると少しだけ勇気を振り絞ることができる艦娘だ。
「今のまま私たちが突撃するのは危険だと思います!」
「対潜装備の駆逐艦が先に到達できるだろうか?」
「航行距離はほとんど同じですから、駆逐艦に先行させるべきです。戦艦は脅威ですけど、こちらにとっては潜水艦が何よりの脅威ですから……!」
水上に見えている敵艦よりも、水中で見えない潜水艦。どれだけ数が居るかも分からない以上、下手に近づけばやられるのはこちらだという判断だ。
「さっすが羽黒! 私が確実に勝利するために必要なことをぜーんぶ言ってくれるわ!」
「お前だけのためじゃない。羽黒はみんなのために言っているんだ」
「へぅっ!? あの、ご、ごめんなさい……!」
「謝ることはない。敵潜が脅威なのは間違いないことだ」
妙高は羽黒の提案を受けて、防衛線から出撃している対潜駆逐艦たちに考えを伝えた。了解の声を聞くと、随伴艦に告げる。
「私たちも同等の速度で敵に近づきましょう。危険は承知ですが、敵の攻撃を引き付けます」
「……何?」
那智は耳を疑った。それは囮作戦というのだ。
「敵の潜水艦が主力を守っているのであれば、近づいてくる部隊に対して先制攻撃をするために必ず動き出すでしょう。つまり前に出てきます。探信儀はありませんが、こちらは龍田さんと多摩さんを警戒に当てて潜水艦を監視。敵の先制攻撃に合わせて魚雷を回避することで、敵を引き付けます」
「任せるにゃ」
今まで本物の猫のように気配を断っていた多摩――元々、自ら積極的に発言する方ではない。それこそ気まぐれな猫のように――だったが、自分の出番となれば違ったようだ。龍田と共に役目を担う。
「そこを側面から叩くように伝えました。主力から引き剥がした潜水艦の頭上を通過できれば、駆逐艦が圧倒できます」
妙高は両手で空中に図を描いていた。
潜水艦を表す左の拳が上から下に降りてくる。その下にある自分たちを表す右拳が転進して逃げると、追ってきた潜水艦の横から、位置を変えた右の拳がぶつかってくる。その位置とタイミングがぴったり合えば、間違いなく潜水艦は爆雷で撃沈できるだろう。
「厳命しますが、敵主力に対する一斉射を実現するためには、味方部隊とすれ違う形にならなければなりません」
潜水艦を攻撃する駆逐艦の航跡を左の拳が担うようになり、再び右の拳が自分たちを表す。そちらが駆逐艦とすれ違うと、敵主力までへの射線が開くことになる。
「この時点で戦艦の反撃は免れないでしょうが、攻撃の好機としては、こうするしかありません」
艦娘の戦い方は実際の船とは随分と感覚が変わる。船と比べてかなり機敏になるため、より細かな艦隊行動が取れるのだ。また、単純に『避けろ』や『すぐに砲撃戦に移行』というものの行動全てが人間サイズの行動速度に準拠しているため、まるで歩兵戦のような立ち回りすらも可能になっている。その上移動は、地上で言えばローラースケートでも履いているようなものだ。地上との違いは、地面が自在に形を変えるという点のみか。
そのため基本的には、すばしっこく動いて確実に討ち取ることが重要になる。
しかし相手は戦艦と潜水艦。こちらとしてはかなり戦いにくい編成をしている。駆逐艦は戦艦に狙われたらおしまいだし、潜水艦を野放しにすれば痛い反撃を受ける。だから、同時に叩くしかないと判断する。
味方と至近ですれ違うなど、船舶サイズでは極めて難しい。しかし艦娘ならそれがいとも簡単に実現できる。
「勝てればいいのよ!」
「単艦で突っ込むような真似だけはするなよ、足柄」
「それは夕立ちゃんの仕事っぽい! ……ふふ、大丈夫よ。ちゃんと姉さんたちにも獲物は残しておくから!」
「貴様……」
那智の頬が引き攣った。
「足柄姉さぁん……那智姉さんを怒らせるのはやめてください……」
「別に、怒ってなどいない。ただ……」
「ただ、足柄が心配なだけですわ」
「ぐぬ……」
四姉妹揃うと、何故か自分だけが恥を掻く気がしてきた那智であった。
妙高もまた、これ以上無駄な会話は必要ないと判断したのだろう。すぐに表情に真剣さが戻った。それも、視界にあの護衛艦が映ったからだ。つまり、敵主力ももう近い。
「話はここまで。気を引き締めて行きましょう」
「……ああ」
那智も掻いたばかりの恥を隅に置き、戦闘の覚悟を決める。
「勝ちに行くわよ!」
足柄は特に変わった様子はない。それがむしろ、羽黒にとっては救いだった。
「姉さんたちの背中は私が守ります……!」
宣言した羽黒の後ろから、龍田が囁く。
「あら~。私たちはどうでもいいってことかしら~? 潜水艦には気を付けないと、どうなってもしらないから~」
「やめるにゃ。龍田は多摩が守る……にゃ」
「……あら~……」
何も言えなくなってしまったらしい。多摩は密かに、龍田の表情が緩んだことを見て取った。龍田は天龍と連絡が取れないことをずっと不安に思っている。励まされたとしても、定期的に不安はぶり返す。多摩は球磨型軽巡の次女で色々と手間のかかる妹たちがいることを知っている。まだ鎮守府には大井以外着任していないが、海の記憶がそう言っていた。だから忖度も得意なのであろう。
「特型の娘たちも、大丈夫ですね?」
ずっと艦隊の後ろで警戒を行っていた四人の駆逐艦たちがそれぞれ頷く。
「では戦闘態勢に。これより敵艦隊と接敵します――!」
7
駆逐艦綾波は、足柄たちと共に対空防御に参加した後、鎮守府へ入港して艤装を下ろした。丁度意識を取り戻した敷波には待機を命じて、そのまま惨状となってしまった鎮守府の中へと足を踏み入れることにした。
「司令官! どこですか!」
きっと提督は作戦司令室に居たはず。最上階の執務室は跡形も無くなってしまっていたが、作戦司令室は万が一にも備えて本棟の裏側に別棟として建っている。一種の管制室であるため背も高い。空爆が行われた以上、目標物と定められていてもおかしくないだろう。
しかし遠目から見ても作戦司令室の高いアンテナは健在だった。ひとまずはそこに向かおう。
「司令か~ん!」
防空壕もあるし、鎮守府に残っていた艦娘の仲間たちは居ないと足柄に聞いた。つまり鎮守府内に残っていたのは極少数。防衛線からの報告も遅くはなかったから、まず間違いなく避難は完了していたはず。きっと大丈夫。
焦燥を隠すように辺りを見回すと、突然大きな音が鳴った。ガン、という重い金属が鳴らす音で、誰かが扉を破ろうとしているようだった。
耳を澄ますと、微かに声も聞こえた。
『クソッタレ開かねえ! 誰か居ねえか!?』
思い切り叫んでいるようだが、それほど大きな声として聞こえない。しかし綾波にとっては聞き覚えのない声で、それもかなり怒気をはらんだ声だったため、少し尻込みしてしまいそうだった。
けれどこの鎮守府の生存者とは、イコールで提督と言って間違いない。イメージとは違うが、綾波はもしかしたらこの声の主が提督である可能性も無いとはいえない――と葛藤しながら、声に近づいていった。
防空壕があったと記憶している場所に、本棟から吹き飛んできたと思われる大量のレンガが伸し掛かっていた。壁の形が残ったままの部分もあったが、綾波一人でも、何とかできそうだった。
「あの! 司令官ですか!?」
精一杯の声を張り上げて問いかける。すると少し間を置いて、大淀の声が聞こえた。
『大淀です! 地下に閉じ込められました! 救援をお願いします!』
「分かりました! 少しだけ待っていてください!」
綾波は疾走して、埠頭まで戻った。すると、敷波の傍に見覚えのある姿もあった。
「間宮さん! ご無事だったんですね!」
敷波を介抱していた間宮がしっかりと頷いた。
「私は私で隠れていましたから」
綾波は先ほど下ろしたばかりの艤装を手に持った。海の上を行く必要はないので、12.7cm連装砲の砲塔だけを選び、肩掛け紐を身体に巻いた。
「綾波、司令官……見つかった?」
間宮の膝に臥せて動けないままの敷波だったが、それでも意識ははっきりしていた。戻ってきた綾波もしっかりと頷く。
「はい! 大淀さんと一緒に避難していたみたいです。助けに行ってきますね」
間宮も安心したように呼気を漏らしていた。
「うん……頑張って……」
敷波の応援を受けて再び走り、鉄扉に向けて呼びかける。
「一番奥まで下がっていてください! ちょっとだけ――撃ちます!」
『は、はい! 分かりました!』
大淀の声に動揺はあったが、大量のレンガを自分の腕力だけで除去するのは難しい。でもこの砲塔があれば、一人で充分。大丈夫。丈夫に作ってある地下室だから、そんなに簡単には壊れないはず。
自分の身も守らないと。充分に距離をとって……。
「よ~く狙って…………」
大丈夫。狙ったものに当てる自信はある。上手く爆風でレンガを吹き飛ばせるように、少し手前で。そして……鉄扉にだけは直撃させないように……。
「――てぇぇええ!!」
掛け声と共に引き金を引く。一発だけ装填された砲弾が直線的に着弾し、爆発。バラになっていたレンガは砕け散り、壁は崩壊した。いくつか欠片がこちらにも飛んできたが、当たることはなかった。
砲塔を置いて駆け寄る。土煙と燻る火種が残っていたが、綾波は記憶を頼りに鉄扉に近付いて、残ったゴミを取り除き、そしてようやく取っ手に手が届いた。少しだけ熱かったが、あとで入渠できれば、これくらいは平気。
「大淀さん! 司令官! 綾波が助けに参りました! もう大丈夫です!」
階段を降りて奥の方を見やる。即興で作ったと思われる棚のバリケートが壁のところにできていて、その向こうから大淀が立ち上がった。
「ありがとう綾波さん! 混乱させて申し訳ないのだけど、提督は――ここにはいないの」
「えっ?」
更に一人、奥から人が立ち上がった。目付きが悪い大人の人で、顔には怒りがありありと浮かんでいる。その人を見てようやく、先ほどの怒鳴り声が提督のものではなく彼女のものだと理解した。同時に彼女こそ、明石が昨晩駆逐艦に回した手紙に書かれていた人物だと結びつく。もちろん口には出さないようにした。
「――助かった。だが……」
――あいつ、出て行っちまった。
その呟きの直後に、大淀は綾波に向かって言う。
「引き続き、提督を探してください。明石を探して出て行ったきり行方がわからないんです」
「はい。了解しました」
頷いたのを見て大淀は振り返る。
「私は艦隊指揮に戻るつもりですが――あなたは、どうされますか」
目付きの悪い人はまだ迷いがあるようだった。しかし――。
「あいつ、頷いたんだ。こっちを見て」
「……はい。私も見ました」
その意味も、理解したつもりだ。
正直、もはや本望ではない。そんな考えがはっきりと出ている顔で決断する。
「大淀と共に作戦指揮を執るのが、あいつの頼みだったはずだ。……クソッタレ。任せるっつったばっかだろうが」
「決まりですね。私たちは指揮に。綾波さんは提督をお願いします」
「はい!」
敬礼してすぐに振り返り、防空壕を飛び出した。
明石を迎えに行ったという提督は、ここからどちらに向かっただろう。
答えは明らかだ。工廠しかない。
防空壕を飛び出して工廠への最短ルートを通る。瓦礫だらけで、例えどこに居ても、目視だけでは発見が難しいように思った。やはり、声を出そう。
「司令か~ん! 返事をしてくださーい!」
呼びかけ続けたが、道中で返答はなかった。結局工廠まで辿り着いてしまう。ということは提督は、きっと間に合ったのだ。爆撃は多少バラけていたし、奇跡的に爆弾を避けながら工廠に飛び込むことができたに違いない。
工廠の建物はすごく丈夫だと聞いていたが、それでもあれだけの規模の空襲を受けてしまっては、被害は免れなかったようだ。屋根の一部に穴が開いていたし、壁には生々しい焦げ跡がいくつもついていた。コンクリートや石の床も損傷がひどい。
しかしそれでも、やはり工廠は丈夫だったと言えるだろう。レンガ造りの本棟と比べると、その被害の違いは歴然だった。
明石の秘密基地に一番近い扉を選んで中に入った。
「司令官! 明石さん! 居たら返事をしてくださーい!」
呼び声に応えたのか、綾波の前に飛び出してきたのは、多くの妖精だった。
「ふわぁぁ! そんなに引っ付かないでください~!」
たくさんの妖精がまるで綿のように飛びかかってきて、まとわりついてくる。しかし妖精たちの目的は一つだった。綾波を引っ張っていこうとしたのだ。
「ほ、ほっぺたは引っ張らないで~! ついひぇいきみゃすから、ほっぺたはぁ~!」
妖精はみな真剣な顔をしていた。彼らのやる気を引き出すことができれば当然その顔になるが、真剣な顔で艦娘を引っ張っていく妖精たちなど、めったに見ることはないだろう。
妖精との和解に成功した綾波は、妖精の指差す方向へと走った。そこは間違いない、明石の秘密基地――駆逐艦から見れば宝物の宝庫だからそう言われていた――だった。
――やっぱり司令官は、ここまで逃げることができたんだ。
そう確信した直後、目に入ってきたのは――そこにあったはずの分厚い鉄扉だ。
「……そんな」
丁度、至近弾を受けたのだろうか。
廊下一本挟んで外との壁が一枚あるだけの、工廠の端っこにある倉庫だ。その壁が大きく吹き飛んでいて、廊下の床もコンクリートが剥き出しになってしまっている。そして、肝心の鉄扉が吹き飛んでしまっていた。
足元に注意しながら鉄扉があった場所を潜って、工房に入る。明石と妖精が趣味で使っていた部屋は、やはり爆撃の衝撃を受けて散らかっていた。完成品とジャンク品問わず全てが崩れてしまっていて、一部の工具は電気系統が壊れたのか火花を散らしている。
「し……司令官! 明石さん! ご無事ですか!?」
身体にしがみついていた妖精たちが次々に地面に飛び降りていって、一つの瓦礫の山に集まっていた。
「そこなんですね!」
駆け寄ろうとして、崩れた瓦礫で転けそうになってしまいながらもすぐに、手が届いた。
妖精と協力することで辛うじて動かすことのできた瓦礫の下から、見慣れた白い軍服が現れる。背中だった。
「司令官!」
背中を叩いて呼びかける。頭の方に伸し掛かっていたのは鉄骨だが、幸い、少しだけ空間ができているようだった。大丈夫。大丈夫そうだ。それに、背中は温かかった。
妖精とタイミングを合わせて、全員で強く押した。鉄骨は勢い良く転がって、いくつか瓦礫を動かすと提督のはだけた髪が目に入った。そして、明石も。提督が明石に覆いかぶさるようにして倒れていたのだ。二人とも気を失っていたが、瓦礫を動かして光が差して眩しかったのか、明石が呻いて目を開けた。
「うっ……~ん……。あれ、ここは……私、何が……」
そして、すぐ目の前の提督に気付いて、全てを思い出したようだ。
「はっ――! 提督! 起きてください!」
提督の下でもぞもぞと動き、そして綾波にも気付いた。
「綾波ちゃん! 助けに来てくれたんだ、ありがとう!」
「はい! ご無事でよかったです!」
「提督を起こしてあげて! もしかしたら何か、怪我しちゃってるかも……!」
まだ重みが伸し掛かっていて身体を起こすことはできないようだ。提督を動かせるようになれば、明石も起き上がれるだろう。
すぐに瓦礫を動かすと、明石が両手で提督の身体を持ち上げて脱出、そして彼女を寝かしたまま肩を揺さぶった。
「提督! 提督! 起きてください!」
呼び掛けて反応がないことを確認しても、明石は焦らなかった。脈があることを確認して、呼吸もしていることを確かめる。続いて身体を触診して異常がないかを見ていった。
「損傷箇所は………………うん、無さそう。気を失ってるだけだと思う……」
自分に言い聞かせるようにして、眠るように倒れたままの提督の頬を、手の甲で少し強めに叩いた。
綾波は脇で見ていて、そんなことをしていいのかと一瞬だけ思った。
でも、明石も明石で必死なのだと思い直す。
「司令官! みんなはまだ海で戦っています! 司令官が居ないと、勝てなくなってしまうかもしれません!」
「そうですよ、提督! 早く起き……て?」
明石の目に入ったのは、バケツ一杯――といってもミニサイズ――の水を持った妖精だった。青ツナギのあの妖精は、提督の顔に中身をぶっかけた。
――
「ふぁ!!」
びっくりするほど瞬時に意識を取り戻した提督は、顔にかかった液体から何やらいい匂いがすることに気付いたが、その直後に明石と綾波を見て、工房の惨状を確認し、何度か瞬きをした。
「……はぁ。良かった。死にかけたわ」
何やら動悸が激しい気がするが、きっと気のせいだ。そう思う。
「良かったぁ……! 提督、明石を守ってくれて、ありがとうございました!」
提督の手を握って顔を見つめる明石。両の瞳は少し潤んでいて、握手の強さが信頼の強さだと言わんばかりに、強く握られていた。
「提督が飛び込んできてくれなかったら私、寝たまま……海じゃないところで死んじゃっていたかも……」
自分で言っていて、明石は段々と感極まってきた。今更になって安堵が押し寄せ、気づくと提督に抱きついてしまっていた。
提督は小さく微笑み、明石の背中をそっと撫で擦りながら、彼女の重みを受け止めていた。
綾波はまだ困惑が抜けきらなかったが、明石が思っている提督と、綾波が思っている司令官のイメージは、ずいぶんと違うものなのかもしれない……とは感付き始めていた。そして今目にしている光景は包み隠せない真実なのだから、司令官は、本当は、とっても暖かい人なのかも。
ひとしきり泣いてしまった明石だが、ふいに……気付く。
「……あれ……? 提督」
「何かしら」
「……間宮さんは……?」
「彼女は大丈夫。間宮にも地下室があるのよ」
「へ? 初耳です」
明石の返答に、提督は手早く答える。少しだけ気恥ずかしそうだった。
「あの……明石から逃げてしまった時があったわよね」
「ぅ、あの時ですか」
明石にも心当たりがあったものの、蚊帳の外だった綾波は首を傾げていた。
「間宮に設備の点検を頼まれてそれで、『地下冷蔵庫』の調整も含まれていたの。ほら、間宮が扱う食材がどこに保管されているのか、疑問に思ったことはない? あれ、地面の下にあるのよ」
指で地面を差す提督。彼女が言った通り、明石は食材がどこに保管されているかは知らなかった。なるほど、地下ならば説明がつく。
「もし鎮守府に何かがあっても、食料だけは確保できるようにかなり頑丈に作ってあるから、間宮もそこに避難したと思うわ。もちろん基本的にはネズミ対策なのだけれど、ちゃんと攻撃にも耐えうるわ」
「へぇぇ……。それで、提督は間宮さんよりも、私を……優先、してくれたんですか……?」
「そう、なるわね。ええ」
気持ちが伝わったかどうかは分からないが、ともかく提督はまだまだ絶好調のようだ。
「間宮さんなら今、敷波を見てくれていますよ」
綾波がそっと報告すると、明石もやっと安堵できたようだった。提督も頷いていた。
そして明石はもう一つ気付いたことを言う。先ほど抱きついた時からずっと鼻腔をくすぐっていた匂いがあった。
「……ところで、提督。高速修復材、被って大丈夫なんですか?」
「これ修復材なの? 道理でなんだか……気絶から起きたばかりとは思えないくらい調子がいいのよね……」
「妖精サイズでしたけど……それでも、その……人が被っちゃったら……どうなるのかなー……なんて、ちょっとだけ、興味が……」
どうやら明石も少しばかり修復材の影響を受けてしまっているように思える。
「ものすごく値の張る栄養ドリンクを沢山飲んだ後みたいよ……。夜、寝られるのかしら」
「て、徹夜でも明石がお付き合いしますから! 大淀も一緒に、どうです?」
「あなた二日連続徹夜しても大丈夫なの?」
「ちょっとずつ仮眠をとるのがコツなんですよ」
お堅いイメージだった提督像が崩れ去った綾波は、二人の間に割り込むことを決意した。
――
「あの!」
そう、まだ戦闘は継続中なのだ。綾波は、また出撃したいとさえ思っている。仲間が海で戦っているのだから。そしてまだ、敵は残っているのだ。
「司令官! まだ戦闘継続中です! 早く指揮に戻ってください!」
明石の顔からも和やかな雰囲気が消えた。そうして彼女はすぐに提督から離れて、立ち上がる。提督に手を貸して、別人かと思うくらい真剣な声で言った。
「私は入渠ドックを見てきますね。戦いが終わったら、みんなが入れるように。まずは敷波ちゃんのためにも」
明石はいくつか工具を見繕って瓦礫から探し始める。
「お願いね。……綾波、大淀はどこに居るか把握している?」
提督も綾波の今までのイメージ通りに戻ったが、提督の素顔を知ってしまった今、彼女への信頼度はむしろ、自分なんかの呼び掛けに応じてすぐに立ち上がってくれたこともあり、増していた。
「大淀さんと民間人が一人、作戦司令室に入っています!」
「そう。その人も、指揮に関しては信頼できるわ。もし今後その民間人からの指示があっても、私と同等の権限があると思って頂戴」
「はい!」
「良い返事ね」
言った提督の顔は、綾波から見てもすごく安心できる、優しい人の顔だった。先ほどまで明石に見せていたような、素顔なのだ。
これが――私の司令官。
綾波はここに来て初めて、提督の素顔を見た。
見た者を瞬時に安心させることができるような――そんな人柄が滲み出ているように思った。
「今までは隠していてごめんなさい。でも、もう安心して。私の仕事は、あなたたちを守ることだから。今日ここで、それを確たるものにしてみせるわ」
その意味の全ては分からなかったが、提督はまだまだ何か作戦を隠し持っているらしい。
「提督! 提督の帽子、ここにありましたよ!」
瓦礫の下から見つけた帽子を、明石は綺麗に払ってから提督に投げた。
「ありがとう」
髪は流麗に解けてしまっているが、その上から軍帽を深く被る。
「あとこれも! 予定通り仲直りしたんだったら、もう隠すこともないですよね?」
弾薬ベルトのように工具を身体に巻いた明石が持ってきたのは、大きな細長い箱だった。持ち歩けるように取っ手のついたケースだ。長さは綾波の身長くらいあるのではないかというほど。衝撃で吹き飛んだことで傷が目立ったが、明石と提督にとっては非常に重要なものであるようだ。
「明石特製ですからね。ちゃんと使って、それで、提督の威厳を見せつけちゃってください!」
「ええ。予定よりは大分早くなってしまったけれど、結果同じことはできそうね」
「なんていうか、提督の敵の人たちは――すごくせっかちですよね」
「本当にね。少しは信頼して欲しいものだわ」
右手でケースを持った提督は、左手で髪を掻きあげた。
また蚊帳の外だった綾波だったが、提督はその後すぐに綾波に向き直った。
「綾波、あなたは補給を済ませてから再出撃して構わないわ。どの隊に合流するかは司令室の指示を聞いてね」
「は、はい!」
綾波は少しだけ恐れ多かったが、許可を得ずに発言することにした。
「あの、司令官! その――司令官は、どこに向かうのですか?」
何となくそう思った。先ほど綾波が出会ったばかりの民間人――提督によれば信頼できるのだから、恐らく軍人――に指揮権を渡しているかのような口ぶりだったし、明石と二人で何かを企んでいるようだった。それに、提督の敵とは一体……。
「鋭い娘なのね。大丈夫。あなたたちを見捨てたりはしないから。今は、深海棲艦との戦いに集中して頂戴」
「了解、しました」
少しだけ躊躇いはしたが、きっと、大丈夫。綾波は提督を信じることにした。
提督はその返事を聞いて頷くと、綾波の頭をふわっと撫でて、工房から立ち去った。
あまりに唐突な行為で、綾波はしばし呆然としてしまった。
しかし、元気を貰うことができた。綾波はこれでまた、頑張れる。
第五幕へ続く
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第五幕
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工廠から出た提督は駆け足で、外周を辿って建造ドックへと入った。その一区画に集められた鉄くずの山の前に行くと、停めてあったリアカーに積み始めた。重い物軽い物、大きさも様々で劣化具合も十個十色の鉄くずたちを可能な限り積載し、工廠を出て行く。全力を振り絞って運び、そして所定の場所にて載せたものを全て下ろす。リアカーを空にして、また工廠に戻り、そして鉄くずを集め、工廠の外、周りに何もない空き地から海の中へと鉄くずを投げ入れていった。
三度繰り返して充分な数だと判断した提督は、明石に渡されたケースを持って、やるべきことをするため、自分の周りで起こったすべての出来事に決着を付ける作戦を実行に移したのだった。
1
大音声の汽笛で敵の存在を知らせてくれた護衛艦だったが、海域を安全に脱出できる保証は無かった。実際に搭載されたレーダーが深海棲艦らしき反応を観測し、それを目視にて確認した直後から、深海棲艦には目をつけられていた。
遠すぎてはっきりと確認できなかったことが災いしたのだ。敵の戦艦が戦艦であるということが確定できず、護衛艦は不意打ち気味の至近弾を受けてしまった。
鎮守府の湾外で受けた重巡の至近弾とは比べ物にならないほどの威力で、装甲の薄い現代護衛艦は一時船体が傾いてしまうほどの衝撃に耐えねばならなかった。
歴戦の英傑の一人である艦長の的確な指示で夾叉を避けると、護衛艦は即時離脱を図る。第二斉射の狙いは大きく外れ、その装填の最中に最大出力による全力逃走が可能となった。
レーダーにある反応が追ってくる気配なかった。これは僥倖である。深海棲艦は目下の敵と判断したものを狙う傾向にあり、場合によっては追撃戦も厭わない。お互いの脅威判定もできるらしく、劣勢と見れば退避もするし、優勢と見れば追ってくる。しかし、それをしなかったということは、深海側には何か考えがあるらしいと判断するのが妥当だ。
現代の戦争では、見つかれば終わりというものが定説だ。そうするように技術が進歩していったとも言える。だが、深海棲艦との戦いはまたひと味違うことを海兵は身に沁みてわかっていた。結果的に『逃亡』が一番の選択肢であることが非常に多いのだ。
見敵必殺は通用しない。むしろ見敵逃亡が最善手であり、生き残ることを最優先しなければならない。そして深海棲艦もまた『見敵必殺を信条としているわけではない』のだ。彼らなりの考えがあって行動していることは明らかで、扱いとしては、非常に巨大な蜂の巣と似ている。
例えば深海棲艦の艦隊と鉢合わせしてしまった場合は、こちらがすぐに針路を変更して大きく回避するようにすれば、よほど怒らせたのでもなければ追ってくることはない。しかしそれでも、彼らのその時の目的が『警戒』であった場合は、領海内の標的を狙ってくることもある。
誰かが突っついた巣から出てきた蜂に追われるという理不尽も存在するが、こちらが彼らにとって脅威でさえなければ襲ってこないこともあるということ。
そして艦長の経験からすると、深海棲艦の主な目的は『通商破壊』にある。その次が『脅威の排除』であり、『偵察と哨戒』があり、最後に『殺戮』がある。
つまり人類の船で最も狙われるのはタンカーなのだ。だからこそ国同士の貿易が壊滅的になってしまった。これにより、深海側も油や鉄などを欲していると断定することにもなったのだ。
そして次は軍艦。深海棲艦に対して脅威であることに違いはないため狙われることになるのだが、こちらに攻撃の意志が無いことを明らかにすれば、先ほど述べたように逃亡できることもある。偵察隊に見つかった場合も同様で、すぐに海域を離れれば問題はない。最後の目的は滅多に見られない。特に、海が危険であると周知された現在においては起こりえないと見て間違いないものだ。つまり、客船が狙われる事態である。蜂の巣を突付いてしまった客船が沈没する悲劇は、艦長も何度か実際に目撃していた。乗員の救出も困難を極めるため、二度と経験したくなかった。
艦娘はこの序列の一番目と二番目を同時に保有する新たな輸送手段であり戦力でもあるため、深海棲艦の前に人類のタンカーと艦娘が現れれば、恐らく艦娘が最優先目標となるだろう。
だからこそ、艦娘たちが大勢で待機してくれていた現在の状況において、艦長は真っ先に逃亡を選択した。汽笛によって艦娘たちが気付いてこの海域にやってくるまで生き残ることができれば、すれ違いにやってきた艦娘たちが引き受けてくれる。
――そうせざるを得ないというのは、孫を持つ男としては心苦しい限りなのだが。
しかし、常に最善手を選ばならければならない立場である彼がこれ以上の無謀を犯すことは無かった。部下を信じて艦娘を信じているからこそ、生き残ることができるのだから。
艦娘は、対深海棲艦における最善手。それを駒としてみるか人としてみるか。
彼女たちを讃えることはあっても、奴隷のように扱うことだけは、心情が許さない。
艦長はそれでも、彼女たちを盾にすることを選ばなければならなかった。
彼女たちは希望でありながら、大事な尖兵だ。その二つを一緒に掲げ、彼女たちの意志で世界が救われることを何より望んでいる。
この戦いがその始まりになるのであれば、彼女たちの戦う意志に賭けよう。
それを導く、提督に賭けよう。
彼女たちを送り出す立場である提督が、彼女たちの戦う意志を引き出す。
それは人でも艦娘でも変わらない。
艦長である自分が奮い立たせなければ、兵士が立ち上がることはないからだ。
人と艦娘は紙一重で違うものだが、同時にその程度の違いしかない。
どちらとも言える曖昧な存在でありながら、確たるものはいくつも、数えきれないほどある。
人は人であり、艦娘は艦娘だ。
それを理解し、許容できなければ――艦娘との共存さえできなくなる。
それを知ってか知らずか是としてしまった上層部の信頼は失墜するだろう。
その駒として使われてしまったことを理解した我々兵士たちもまた、考えが変わるほどの大失態だ。
人類に対する裏切りとさえ言える鎮守府への攻撃計画が暴き出されれば、もはや提督と艦娘たちを目の敵にする者は居ない。
彼女たちが紛うことなき人類の希望であることを疑う者も排斥されていくだろう。
しかしそのまま、彼女たちを崇拝する者だけが残っても意味が無い。
メビウスの輪のように、この相反する二つの意見は、さらなる先の両端で繋がっている。
艦娘は希望だ。もっと戦わせて救ってもらわねばならない。
艦娘は兵器だ。もっと戦わせて勝ってもらわねばならない。
言っていることが同じになってしまうのでは、何の解決にもなっていない。
その輪を断ち切らなければ。そんな不毛な意見の争いは、消し去ることが望ましい。
――だから。
この希望は、提督に託す。
この熱望は、提督に託す。
その解決手段しかないのだろう。
彼女は揺るがない地位に身を置き、全てを受け止めなければならない。
だから彼女が“提督”なのだ。
この戦争において、絶対的な立場に居なければならない人間。
すべての意見を飲み込み、すべての解決を託される運命。
艦娘と人類双方が提督に負担をかけることで支えあうことができるようになっていく。
そう遠くない未来では、きっと、両者が尊重を覚えて、いつの間にか共に戦う運命の道を歩くことになるはずだ。
艦長はその未来を見届けるために、部下と共に、生きるのだ。
2
駆逐艦五月雨は初期艦として生まれ、必然出番も多く、いつの間にか経験と練度を蓄えて、艦娘の中では無意識的に一目置かれる存在でもあった。しかし駆逐艦は駆逐艦同士の繋がりがほとんど平等で、かつて所属していた駆逐隊や実際の姉妹艦であることを問わずみんな仲がいい。それは五月雨から見ても変わらず、別段、初期艦だからといって無理にいろいろ任されるようなこともなかった。
そして今日の出撃も、主力艦隊に盛り込まれるのではなく防衛線形成の方へと駆り出されていた。全力の対空戦闘を行ったものの鎮守府は戦火に飲まれ、黒煙を吐き出し続けている。
自分たちが守れなかった場所で、提督の命もどうなったのか分からない。
みんなからすると冷たく無機質な提督だという話だが、五月雨はそっと思うところがあった。
初期艦として生まれた自分を最初に迎えてくれたのは提督で、大淀と明石も居た。
自分のドジでできてしまったたんこぶを治すことを優先してくれた提督のことを、忘れてはいなかった。
後に明石が思い悩んで提督を糾弾する胸の内を吐露した後、自分たちは明石の部屋に行って話し合った。『提督の正体を暴いてしまおう』と。
その計画も動き出して、明石が告発したことでやってくる内部調査員から、提督のことを聞き出そうとしていた。しかし直前になって明石が『みんな少しだけ待機。作戦は中断。鎮守府にやってくる調査の人は、しばらく触っちゃダメ』と手回しの手紙で連絡してきたのだ。
明石が言うには『かなり怖い人』だという。さらに理由として『大淀が真剣な顔でそう言っていた』という凄まじい説得力があったため、駆逐艦たちは慄いてしまい、結局『調査員を捕まえる』という作戦は、呆気無く流れてしまった。
時雨は明石の悩みを真剣に捉えていたからこそ言い出したことであるし、不知火も事態が好転すればという思いで協力してくれた。そのため二人には申し訳ないことになったと明石も謝っている。だが、その代わりにと明石が提案していたことを、駆逐艦たちは忘れていない。
『提督は、少しだけ事情があってみんなに冷たくしてしまっていたけれど、本当は仲良くなりたいと心から思っている人だと分かったの。正体を暴こうって意気込んでいたけれど、そんなことするまでもなく、提督は自分から明石に歩み寄ってくれた。みんなが明石のことを心配して提案してくれたことは本当に嬉しかったし、本当に提督のことを丸裸にしてやろうって思った。でも、それはやっぱりなし。その代わりみんなでやりたいことがあるの』
五月雨は、明石の手紙を時雨たちと共に読んでしっかりと頷きあった。
提督との間にあった誤解が解けてよかったと喜んだのだ。
詳しいことは書かれていないけれど、それはきっと、明石の口から言うべきではないと判断したからに違いない。いつか提督自身から聞ける時が来るはずだから。
だから、明石が提案したことに協力しよう。そうすれば提督とも仲良くなれるはず。
そう信じて、出撃している。
潜んでいた敵主力を発見し、自分たちは潜水艦撃沈の命を妙高から受けた。難しいが、妙高たちが引っ張りだした潜水艦を横からなぎ払う作戦だ。そのため、一番練度の高い五月雨が先頭を行くことにした。これはみんなから任されたのではなく、五月雨がやるべきだと自ら言い出したことだった。
絶対に成功させなければならないことだから、少しでも経験が長い自分がやる。
過去に色々と失敗をしてしまった経験もあるし、艦娘となった今でもその傾向がある五月雨ではあるが、みんなを率いたかった。普段なら失敗はして構わない。だけど、失敗してはならない時に失敗することは、嫌だった。
だから一生懸命、頑張らないと――!
3
『綾波です! 戦線に復帰します!』
通信が入って、それを受け取った妙高は、すぐにこちらの座標を伝えた。戦闘海域であるため、綾波を待っている時間は残念ながら無い。しかし、一人でも戦力が増えるのは歓迎だ。
そして綾波の通信の後に、今度は作戦司令室から大淀の声が届いた。
『全艦に通達します。大淀が作戦指揮に戻りました。妙高さん、現状報告をお願いできますか』
相手との距離はギリギリだった。それに、右舷側遠方には既に味方の駆逐艦隊が見える。
「残念ですが、その時間はありません。すぐに深海棲艦と戦闘を開始致します」
『分かりました。敵主力艦隊の撃滅はそちらの指揮にて完遂してください』
「はい。必ずや仕留めてみせましょう」
通信を終え、妙高は気を引き締め直す。大淀は無事。きっと提督も無事ということだ。
無線封鎖を行う。深海棲艦とは離れた場所で既に打ち合わせは済んでいるため、後はこちらの行動だけ。深海棲艦がこちらの無線を傍受している可能性はいまのところ分からないが、それでも万全を期すものだ。
傷の増えていた護衛艦とのすれ違いを終え、敵の狙いは完全にこちらになっているだろう。護衛艦を追って来なかったことも幸いし、敵主力は、そこに留まっている。
海の只中にまるで取り残されてしまったかのように。
すれ違いざま、護衛艦とのモールスでのやりとりによれば敵戦艦の攻撃を受けたという。それでも追ってこなかった深海棲艦は恐らく、警戒状態にある。近づくものを排除しようとしているのだ。
無力になってしまった空母を守ろうとしているのか、それとも孤立してしまってどうしようもなくなってしまっているのか。
どちらにせよ叩くなら今。潜水艦を排除さえしてしまえば戦艦と殴り合うことで勝利が近づく。戦力だけなら、こちらが圧倒的有利だ。
目を凝らしていた妙高は、敵戦艦の主砲が火を吹いた瞬間を見た。
「回避!」
何が、などという言葉は要らない。この状況で撃ってくるものは戦艦しか居ない。
単縦陣がS字を描くように曲がる。自分たちが通過したばかりの海面に着弾し、巨大な水柱が吹き上がる。海の飛沫を全身に浴びながらもターンを続け、敵の狙いを混乱させ続ける。
さらに戦艦は気付いたことだろう。自分たちの左舷方面から別働隊が近づいていることに。距離のある主力艦隊を叩くべきか、近くから奇襲を狙っている駆逐艦を狙うのか。
駆逐隊の狙いを見破ったならば、狙いは駆逐艦たちに向くことになる。だが、その頃にはこちらが射程に入っている。妙高は部隊に直進を命じ、ほとんど同時に、主砲を構えた。
「駆逐隊を援護します! 全重巡、主砲用意!」
「了解!」
妹たちの重なる声の後、はっきりと三隻の水上艦が見える距離になって、ついに砲撃戦が開始となった。
「撃ちます!」
妙高が引き金となり、全員の主砲が火を吹いた。狙いはこの際外れることを前提にしても構わない。敵戦艦の狙いを定めさせないことが目的だからだ。
反動が腹を打つ。衝撃が駆け抜ける。発射音の方は不思議と気にならないのだが、発射の衝撃が身体を抜ける感覚は、まるで至近距離で花火が炸裂したかのようだ。しかしそれが好きだという艦娘も居る。
「これよこれ! この時を待っていたの!」
そう、例えば――足柄とか。
妙高は自弾の着弾を確認し、敵戦艦の脇に控えていた軽母ヌ級が直撃弾を受けて爆発したことを見て取る。
「軽空母一隻大破! 再度回避運動を!」
敵に損害を与えたということは、こちらが敵にとって脅威になるということ。戦艦の主砲がやってくるはず。
予想通り、装填を終えた第二斉射もこちらを向いた。しかし狙いは外れ。左側で水柱が立った。
「潜水艦への警戒を開始! 軽巡前へ!」
龍田と多摩の二人が単縦陣の先頭へ。潜望鏡か、それとも魚雷の航跡を見逃さなければ、回避もできる。潜水艦相手の索敵は、専門家とも言える軽巡に任せる。ソナーは無いが、経験で物を言わせるしかない。
艦娘の動きの素早さは、こういう時にこそ真価を発揮するものだ。船ではどうにもできないタイミングでも、艦娘であれば間に合う。
直進をする単縦陣。敵戦艦は、より接近してきた駆逐隊を狙う。第三斉射はそちらに向いた。駆逐艦たちが素早い動作で回避を終え、難なく水柱を置いてけぼりにしていった。駆逐隊も牽制の砲撃を行いながら、さらに加速していった。
同時に、深海棲艦に動きがあった。すぐ隣で駆逐艦隊の直撃弾を受けて軽空母が爆沈したのを見た空母ヲ級が、戦艦さえも置き去りに単艦で逃亡を図ったのだ。それが逃亡であるとは断定できないが、とにかく味方から離れ始めた。
予想外の動きではあるが、こちらがやることはまず、潜水艦の撃退だ。
もう充分に近付いた。さあ、いつ仕掛けてくる――?
――
五月雨は艦隊を率いて単横陣を展開。敵戦艦の主砲がこちらに向いたことを見逃さず、隙のない回避行動で危険な攻撃を無駄なく避けきった。さらに一回限りの砲撃も放つ。大破していた軽空母が音を立てて爆発した。
「回避に集中しながら、爆雷投下準備をしてください!」
今後の砲撃戦は重巡のお姉さんたちに任せる。戦艦を倒す装備は持ってきていないから、そうするしかない。
「探信儀に感有り! 潜水艦を発見したよ!」
時雨が声を上げる。足元の艤装から水中に音波を発信、潜水艦をついに捉えた。
提督が警戒していた潜水艦を仕留める時が来た。
その数、三隻。潜水艦の反応は三つだった。
計六隻の編成は、艦娘にとっても深海棲艦にとっても都合が良い。何より実際の艦隊よりも直接的な指示を出しやすく、役割分担を明確化することでどんな場面でも対応可能でありながら、さらに活躍の場もできる。まだまだ練度不足の艦娘たちにとってもありがたいのだった。いずれ全体の練度が上がれば、もっと人数を増やした行動もできそうではあるが。
深海棲艦にとっては、六隻以上集まった場合、人類側に察知されることを知っている趣がある。事実として現在南方海域に集中している深海棲艦側の戦力は人類の知るところとなっていて、深海棲艦相手に本来の性能を発揮できないような大型レーダーでも検知できるほど『違和感』を発信してしまうのだ。大きく展開すれば位置が発露する。そのため小さな編成で細々とした行動を執ることで、自分たちの優位を取ろうとしているのだろう。
さらに、その海域全体でどれだけ力を持った深海棲艦が集まっているかという脅威の測定結果があるように、個々の艦隊の動きは分からないが、深海棲艦が巨大艦隊を展開している海域は把握できている。だから提督はそれを元に、現在は南西諸島海域、沖ノ島に向けて侵攻を開始しようとしていたのだ。そこに強力な深海棲艦の溜まり場あると、知っていたから。
この敵主力も、そして鎮守府のある半島に近づいてきた艦隊も、どちらも六隻だった。十二隻――天龍たちが遭遇した艦隊を合わせれば十八隻――の艦隊だった時は護衛艦にも察知できる戦力だったが、それを二つの隊に分けたことでレーダーから消失。充分に近づかなければ発見できないように、隠れたのだろう。
さらに時雨が声を上げる。
「魚雷の発射音! 釣られたみたいだね!」
時雨の感知した潜水艦は妙高たちの方へ向かって魚雷発射した。
通信で伝えている間はない。こちらはこの隙に潜水艦の頭上を通過し、爆雷を撒かなければならない。
「爆雷投下――今です! 撒いてください! やぁっ!」
駆逐艦の速力を活かした突撃。潜水艦の頭上を間違いなく通過しながら、艤装後部に装備している爆雷投射機を使って広く展開。単横陣による、水中への絨毯爆撃だった。
鎮守府が受けた空爆と同じような密度の攻撃で、魚雷発射直後の隙を突くことができた。目前に敵戦艦が居てこちらを睨みつけているようだが、未だにその主砲はどこを狙うのか迷っている。そして迷った挙句、戦艦は恐らく、潜水艦の存続を諦めた。駆逐艦への攻撃は止め、狙いを重巡艦隊に向ける。
足元の水面が振動し、潜水艦への着弾を身体で感じることができた。これが、手応えというものだろう。
「このまま戦線を離脱します! みんな、ちゃんとついてきて!」
背後で沢山の主砲の音が鳴った。残念ながら、もう役目は果たした。あとは、火力で押し通すだけ――!
――
駆逐隊が潜水艦を発見したと同時、潜水艦の機微に目敏い龍田と、同時に多摩も声を上げた。
「魚雷よ~!」
「今にゃ!」
すぐさま、打ち合わせ通りの針路変更を執る。全員が急ブレーキを掛けるように身体を捻って傾け、急激な角度の変更でも倒れないように耐える。海水が舞い上がる中、全員はほとんど同時に針路を真横へと変更。速力を落とさないままのドリフトカーブを行って魚雷を一斉に回避した。バランスさえ崩さなければ、無茶な行動でも許容できる。それが、艦娘の強みだ。
三隻の潜水艦から放たれた大量の魚雷だったが、こちらが単縦陣であったこと、そして敵の想定を越える真横への転進が功を奏し、魚雷のすべてを回避することに成功した。
回避を確認する頃には駆逐隊が通過、爆雷の鈍い発破音も微かに聞こえた。駆逐隊が全速力で離脱すると同時、こちらはやや取舵へと方向を変えてから直進、敵戦艦に対し、丁字戦へと持ち込むことに成功した。
敵は既に単艦であるため丁字戦ということもおかしいが、こちらの主砲すべてを敵戦艦に向けられる絶好の位置取りに成功したのである。
「全砲門、斉射始め!」
「撃てえぇぇー!!」
足柄の声を掻き消すように、重巡四人、軽巡二人、駆逐艦四人の全力斉射が巻き起こった。
敵戦艦は不利をようやく悟って、先に逃げ出していたヲ級同様、移動を開始する。すらりとした身体に、まるで礼装でもしているかのような恰好のル級が、艦娘同様に海上を滑りだす。
ル級を追うように、その背後から次々に水柱が弾けていく。ル級の背中側に至近弾。バランスを崩したところに、その眼前に着弾した爆風が船体を、殴り上げたかのように吹き飛ばした。
容赦なく巻き起こる凄まじい物量の爆発に為す術がなかったのか、水しぶきの中にル級は吹き飛んだ。
その刹那、那智の至近に一発、敵戦艦のものと思われる着弾があった。こちらの砲撃音にかき消されていたが、向こうも一発反撃をしていたのだ。
「ぐはッ……!」
那智が後ろ向きに吹き飛ばされ、妙高は背中側から衝撃を感じ、足柄と羽黒は水柱を慌てて避けた。那智は浮いた身体を何とか制御して受け身を取るようにして海面に着地、すぐに航行を再開することができた。
「大丈夫だ! 敵は!?」
那智の声を受けてル級が居た方を向く。目を凝らして、舞い上がった蒸気の白煙の中にル級を確認しようとするが……できない。
――しかも、肝心の直撃弾の確認ができなかった。
「誰か当てた!? 確認したかしら!?」
「いや……」
「分からないわ! でも、損傷は与えたはず!」
「私も分からないです……! ごめんなさい!」
軽巡二人も首を振っていた。駆逐艦たちも各々首を振ったりバツを両手で作ったりして否定していく。
「相手は戦艦……至近弾だけじゃ倒せない……!」
見た目よりも硬い、というのが定説だ。艦娘と同じような人型になればなるほど強い傾向にあり、特に戦艦級は脅威。確実に直撃させ、装甲を破り去らなければ沈めることができない。
それに現状ではル級だけでなく、先に逃亡したヲ級の行方も気になる。艦載機は持っていないはずだが、それで一体何をしようというのか……。
「煙晴れます!」
羽黒が言った通り、海面の視界が回復した。その向こう、海面に膝をついているル級が霧の中から現れた。その主砲と両の瞳が、こちらを向いている。
「回避……!」
三連装砲が順に火を噴く瞬間を見もせず、速度を上げて避けることを祈る。
全て至近だった。妙高の目前、足柄と羽黒の間、そして駆逐艦の隊列にそれぞれ着弾し、二人がバランスを崩した。駆逐艦は装甲も体重も軽いため、至近弾ですら致命的になりうる。
防御態勢を取っていた妙高に変わって那智が振り返って損傷を確認する。より着弾地点に近かった深雪が大破、装備を吹き飛ばされてしまい無力化された。その前にいた初雪も中破といったところか。先頭にいた吹雪が深雪を支えにいって戦列は維持。妹二人の損傷は、自分より軽いくらいだ。
単縦陣を形成し直すと同時に、四姉妹と軽巡二人による魚雷の一斉射で追撃する。魚雷の発射を見て取ったらしいル級も、再び速力を上げて移動を開始、黒煙を吐き出しながらこちらの進行方向に向けて迫ってくるつもりだ。想定以上の加速で魚雷も避けられてしまった。この後は同航戦、しかも敵は捨て身。接近される前に当てなければ――!
この状況では誰かが貧乏くじを引く結果になるのは避けられない。お互いどんどん接近しながら主砲を撃ち合うなど、ただの泥仕合だ。
その時――戦線を離脱したはずの駆逐隊が向かった先から、支援砲撃があった。ル級の背後から駆逐艦の小さな砲弾がいくつか襲いかかる。対潜装備以外を装備した駆逐艦たちが戻ってきてくれたのか。
ル級は直撃弾を受けたらしい。駆逐艦の砲弾とはいえ、相応に効いたはずだ。わずかに身体が揺らいで航路が蛇行した。そして――。
『オラオラぁ! 天龍様の攻撃だぜぇ!!』
「へっ? 天龍ちゃん?」
龍田が通信で流れてきた声に機敏な反応を見せ、目をぱちくり瞬かせた。
『待たせたな龍田ぁ! ったくよ、オレのこと忘れてたわけじゃないよなぁ?』
「天龍さん……!?」
『チビ共もう一発だ! よっしゃぁ!!』
妙高も驚きの声を上げた直後、再びの支援砲撃がル級に降り注いだ。それがついにル級の動力を止めるに至る。大戦果であった。
ル級は足に力が入らなくなったらしく、膝をついて倒れるように、海上で停止した。
しかしまだ主砲は生きている。
「撃たせません――!」
妙高はこれまでにない速度で主砲を構えた。狙いは運良く極めて正確だった。ル級が発射した砲弾が砲塔を飛び出してくる瞬間に着弾したのだ。ル級の眼前で自分の砲弾が暴発。大火力に焼かれることになった。
妹たちも同様に、妙高に続いて同じ座標に向けて射撃。ル級が居た場所から、一段と大きな爆発が発生。誰の目にも明らかだ。ル級は、轟沈した。
「やったわ! やったわよね! ねえ妙高姉さん!?」
「ええ、間違いありませんわ」
「あっははは! 当然よね! だってこの足柄がいるんだもの!」
胸を張って一番晴れやかに笑う足柄。長い髪に海水が滴っていて、バンザイと共に水しぶきが輝いて舞ったのが印象的だった。
だが、羽黒は冷静だった。
「あ、あの、まだヲ級が行方不明です!」
「そうだったな。……姉さんどうする? 探してみるか?」
「そうですね……何かがあってはいけませんから、万全を期しましょう。……龍田さん、天龍さんにヲ級の心当たりはないか聞いていただけませんか?」
妙高の気遣いだった。ようやく再会できた姉と、少しでも会話させてあげたかったのだ。
「天龍ちゃん? 今どこなの?」
『オレか? 五月雨たちと合流して反転しただけだぜ? だから、後ろの方に居るってことになるな』
龍田は思わず振り返った。本当に遠くだが、豆粒より小さな点の人影を見ることができた。
「良かったぁ。天龍ちゃんったら、連絡途切れちゃうんだもの。途中で鮫にでも食べられちゃったのかと~」
『バカ、おっかねえこと言うなよな! で? 何か用じゃなかったのか?』
「そうだったわぁ。ヲ級が一隻逃げたみたいなの。天龍ちゃん何か知らなぁい?」
『ちょっくら聞いてみっから、待ってろ』
天龍の周りには駆逐艦が集まっているのだろう。龍田から見える豆粒でもそれが分かる。
少しして、天龍から返答があった。
『一人水上電探で捕捉したのを見たってのが居るぜ。どっちに行ったって? 言ってみ?』
天龍の面倒見の良さから、敢えて駆逐艦本人に報告をさせるつもりのようだ。きっとこういったことの積み重ねが、経験として身についていくことになりそうだ。
『アタシ、綾波型駆逐艦、朧です。その、実は……居ました、はい』
『気にすんなって。それで? 潜水艦倒した後に電探に感があったんだろ?』
『はい。気のせいかと思うくらい小さな反応でした。ですけど、ル級ではなかったと……思います。敵は単艦だったので、誤動作の可能性も、あります、たぶん……』
「いいえ、ちゃんと聞かせてください。どちらに向かっていましたか?」
例えそれが本当に誤動作でも、追ってみる価値はある。もし逃してしまったのだとしても、また敵が撤退を選んだのであれば……仕方ない。
単艦の深海棲艦は、深海側の編成が六隻に最適化されていることと同様に、非常に見つけづらくなる。だが、ル級ではないものが映ったというのであれば、それがヲ級である可能性は非常に高いだろう。
『それが……その、自信はないんですけど、たぶん、鎮守府の方じゃ、ないかと……思います』
「……本当ですか?」
『はい……。西か北……もしかしたらその合間くらいの方角に、二回引っかかっただけですけど、方角は、間違いないと思います』
確かに鎮守府の方角らしい。護衛艦を狙っている可能性もあるが、艦載機のないヲ級がわざわざ狙う理由は分からない。いやそれを言うなら、鎮守府に単艦で突撃していく理由も分からないのだが。
敵が撤退するのであれば南方面に向かうはず。南方の基地を目指して逃げるはずだから。
だがどうやら、違うらしい。
まだ深海棲艦は、諦めていないというのか。
まだ鎮守府を狙うというのだろうか。
一体……何故?
『報告は、以上です。ありがとうございました』
礼儀正しく終えた朧。天龍が引き継いだ。
『じゃあ鎮守府に向かうか。連戦で疲れてるしな』
「あぁ……それがね、天龍ちゃん。落ち着いて聞いてね~?」
『ん? 何だよ龍田』
「鎮守府はね、焼け野原になっちゃったからぁ……」
『はぁぁ? 風呂は!? 風呂は無事か?』
「まず心配するのは、お風呂なのね~……」
提督も信用が無いわね~、と戯ける龍田。
「焼け野原は言い過ぎです。見たところ、入渠ドックは無事そうでしたよ」
妙高が付け加えると、天龍は一先ず喜んだようだった。
『よっしゃあ! じゃあさっさとヲ級も片付けて、風呂入らなきゃな!』
見ると、豆粒の艦娘たちが一斉に動き出していた。きっと天龍が号令して早速動き出したのだ。
「私たちも参りましょう。艦載機のないヲ級が何をするつもりなのか、胸騒ぎがします」
「そうだな。まだ祝杯には早いか」
「どうせなら完全勝利を目指さないとよね! 行くわよ羽黒!」
「ま、待って足柄姉さん! ちゃんと敵の装甲を回収しないと……!」
羽黒は律儀に、深海棲艦から剥がれ落ちた装甲の一部を拾い上げていた。どの敵から落ちたものかは分からないが、それはイコールで、自分たちの原型の一部だとされている。深海棲艦に取り込まれていた装甲は暫くの間海面を漂うのだ。それは深海棲艦が海上に浮いていられることと関係がありそうだが、詳しくは分からないままだ。再び沈んでしまう前に回収できなければ、諦めるしかないのである。
見たところ羽黒が拾い上げたのは船体の一部で、滑らかな表面をしていた。重みも相応で、羽黒は結局足柄に助けを求めていた。
「仕方ないわねぇ羽黒は。ほら貸しなさい! はぁんっ? 意外と重いのね……生意気じゃない!」
「だから言ったじゃないですかぁ!」
「貴様らはまだヲ級と戦う任務がある。……悪いが、白雪、これを頼めるか?」
那智が言いながら鉄片を奪い取って、白雪に向けて差し出す。軽巡二人もまだ戦えるし、ここは駆逐艦に任せるのが妥当だと判断した。吹雪は深雪を曳航しているし、初雪はブツブツと『帰りたい……』を連呼しているので近寄りがたかった。だから白雪に白羽の矢を立てた。
「は、はい。お任せください」
白雪が丁重に受け取り、両手で抱えることで何とか持ち運べそうだった。
「では残党のヲ級を追って、鎮守府方面へ向かいます!」
妙高の先導で、戦いは最終局面を迎えたのだった。
4
「ふー…………」
提督は一人、静かに待ち構えていた。
提督だけで組み上げた理論。そして大淀にも『きっと上手くいきます』と太鼓判を押された計画。これまでに得た協力と、行った実験と、手に入れた情報と、的確な推察があって初めてここまでこぎつけた。
本来であれば、提督が出撃するという衝撃を与えたあの時と同じように、更なる実験をしておきたかった。確証を持って挑みたかった。
大淀も非常に堅実な性格で、この推論と計画の全貌を話した時には、半日の熟慮を自ら行ってくれてから、先ほどの『上手くいきます』という返答をしてくれたくらいだ。提督が思っている通りであるならば、それを確かめておきたい。大淀も同じ気持ちであったため、その機会を二人で待っていた。
静かに、艦娘たちと提督の間を辛うじて繋ぎ止めながら、提督が再び実験を行えるチャンスが来る時を待ってくれていた。しかしその機会を待つよりも先に、向こうがそのチャンスを与えてくれたようなものだ。そして状況は、やらなければならないという極限状態。実験でありながら、結果を出すための王手を出す事態になっていた。
また提督が暴走したと思われても構わない。都合一度の暴走でこの計画が上手くいくかどうかの追証ができたのだが、もはや実験を省略して結果を取りにいかなくてはならなくなった。
明石に用意してもらったものも、まさか一晩で完成品が上がってくるとは思ってはいなかった。調査員である彼女と和解し、提督に対する内部調査が終わった辺りにでも試製品ができてくれれば、くらいに思っていたものだ。
提督もすっかり設計図を徹夜で作ったと思っていたのだが、明石は完成品を持ってきてくれた。明石の才能が想像よりも素晴らしかったことが、今回、計画の前倒しを実現するに至った一番の要因だ。そうでなければ、提督は現在の敵の侵攻を押し留めるだけにしておいたことだろう。
明石に依頼したこの品の完成がまだ先の話であれば、調査員の彼女と和解したことで生まれる、権力剥奪までの僅かな間隙に、再び実験の機会が訪れる計算だったから。
そして本来の計画ならば、その実験の結果で確実性を高めた状態で、計画の練り直しや別の方法を検討することになっただろう。実験が思った通りの成功ならば精査するだけ。失敗ならば別の方法を。……そうしたさらに後、いざ『大本営』がこちらへの妬みを暴走させ、提督の地位を脅かそうとした日が来た時に、三度目の暴走を以って完遂、計画は達成する予定だった。
しかし明石に話した通り、『結果同じことはできそう』だった。『せっかちな提督の敵』を打ち負かすという結果を得るために、やはり今日この時、やらなければならないことができた。
「さあ、お願いだから……こちらの推理通りであって頂戴」
海原に向けて祈る。
工廠の建物の屋上で、提督はうつ伏せに寝そべっているのだ。望遠のレンズを覗き込みながら、ただ祈る。
「……来なさい……深海棲艦……」
提督は明石を救って目を覚ました後、工廠から鉄くずを運び出して、工廠すぐそばにある海に沈めている。
ではその鉄くずは何だったのか。
それは艦娘の原型のレプリカを製造する際に使う、『艦船の一部』だった。
艦娘たちが出撃し、倒した深海棲艦から剥がれ落ちたものを見つけて持ち帰ってきてくれるものだった。海の底に眠っていたはずの船の残骸。深海棲艦の登場とともに荒れ狂った海流によって世界中の海に散らばったとされていた欠片たち。同時に、艦娘からの報告で、どうやら深海棲艦が装甲として身体に取り込んでいるらしいことが明らかになっていたものだ。
跳梁跋扈する深海棲艦を叩くことで取り返すことのできる鉄くず。それを使って艦娘を増やすことができる。それが鎮守府の戦力拡充方法だった。
だが……一つの船から生まれる鉄くずの数は、その劣化具合や現存率で数も大きさも違い、無数に存在する。つまり艦娘たちは、既に『吹雪』、『陽炎』、『五月雨』など代表的な駆逐艦の鉄片も複数回収しているのだ。
提督はこの『重複した鉄片』に目をつけていた。既に現世に顕現した艦娘が居て、そこに同じ鉄片を用いて再び建造をするとどうなるのか――。
結果は、建造妖精の首振りだった。
『できない』。はっきりとそう宣言していたのだ。
仕組みを明らかにしたかった提督は妖精にそっと問いかけた。
『では、既に生まれた艦娘が――再び海に沈んだ場合はどうなるのかしら』
その答えは、頷きだった。
艦娘はこの世に一人。しかし、海に還った後ならば、また呼び起こすことができるということ。
恐ろしい発想をしたと自分でも後で深い後悔をした。誰も沈めるつもりはないし、沈んで欲しくはない。彼女たちが帰りたいと望んでも、提督はきっと拒否してしまうだろう。
そういったやりとりの後、艦娘たちが回収してきて、妖精によって『重複している』と判断された鉄くずを保管するか解体するのかを妖精に問われた。提督は少しだけ考え、保管することを選んでいたのだ。
工廠の隅、母港の貯蔵庫を圧迫しかねないほどの量が集まっていたそれを、提督は一時的に海へと投げ捨てた。鉄くずを海へと落とし込み、半分は工廠に置いたままだ。海中と地上の二箇所に貯められたことになる鉄くず。その両方を、『餌』に使う実験。
提督の考えはこうだ。
まず、なぜ深海棲艦が鉄くずを装甲として融合するように取り込むのか、という疑問が糸口だった。
では仮に、深海棲艦の目的そのものが『鉄くずを取り込んで、より強い装甲を手に入れようとしている』というものだったらどうだろうか。
これまでの深海棲艦の動きが、それを裏付けていたのだ。
深海棲艦が現れ始めた十年以上も前。世界各地で起こり始めた襲撃は散発的で、海流の乱れも少なく、海底に眠っていたものまで流されているとは思いもよらなかった時代。深海棲艦という存在そのものが都市伝説的だった時代だ。その頃の深海棲艦は装甲の弱い駆逐艦級がほとんどで、空母や戦艦が確認されたのは五年以上経ってからだった。
しかし駆逐艦級でも客船やタンカーを沈めるには充分過ぎる力を持っていた。海は恐慌状態となり、貿易はすぐさま死にかけになってしまった。
そんな時分に、深海棲艦に本気の反抗をしようと立ち上がった軍隊が、世界中で撲滅に乗り出した。最終的には、『着弾すれば損害を与えられる』という結果だけが残った。
その内人類は、海の上を渡ることを諦めてしまうようになった。
深海棲艦はより一層強くなり、海流は万華鏡のように変化して至る所に渦潮が発生するなどの危険もあり、思いもよらない漂流物が船底を荒らし回る。そんな海の上は、もう人類の縄張りではなくなってしまったのだ。
その後艦娘の技術が発見される。
対して深海棲艦の研究は全く進んでいなかったが、艦娘を生み出すことに成功した。
そして提督は実際に深海棲艦に接近して戦い、勝利することのできる艦娘の力を借りて、誰もやろうとしなかった深海棲艦の研究を、実地にて行ったのである。
この鎮守府こそ、戦争の最先端を行かなければならない場所だったから。
だから艦娘の力を借りて、深海棲艦に関する報告書を常に作成するよう指示した。そして掴んだ事実が、『深海棲艦の装甲』に関する事実だった。
深海棲艦が跋扈して十数年。深海棲艦は目覚ましい進化を遂げている。海上から人類を追い払い、自分たちがより強くなるために、『艦娘の材料でもある鉄片』を集めている。
その仮定を裏付けていると思ったのは、南方海域が急速な侵攻で陥落したことだった。かつてあった戦争で、その海域に沈没した船舶の一覧を調べた提督は愕然としたのである。
『深海棲艦の狙いは艦艇の鉄』であり、『艦艇の鉄を取り込みたい』から『それが無数に存在している南方海域』で、『さらなる力を手に入れようとした』のであれば――。
南方は――言うなれば餌の宝庫だ。栄養豊富なプランクトンが水中を覆い尽くしているかのような、凄まじい規模の餌場だったのだ。
そして海流の変化が著しい現在において、どの船の残骸がどこに沈んでいるかという正確な情報は、一切役に立たなくなってしまった。
さらに目付きの悪い彼女も言っていたように、南方海域には『大和』の実在が確認されている。場所だけでいえば『武蔵』の可能性の方が高かったが、そこに大和が居る。これは事実だ。
よって沈んだ場所と、現在に現れる場所に整合性は一切ないと見て間違いない。
むしろ深海棲艦が海流を操って積極的に集積している可能性さえ出てきた。南方海域というおぞましい敵棲地に、絶大な力を持った深海棲艦が現れたことも事実であるし、提督はその絶大な深海棲艦こそ『大和』の装甲を手にした、現状最強の深海棲艦だと思っている。
このいくつもの事実と推論から、『深海棲艦を釣る方法』を考えてみた。
南方海域に眠る大量の鉄を手にするために集まったように、自らの力を強化していくために、積極的に鉄くずを集めようとするのではないか、と。
しかも普通の鉄ではダメなのだろう。艦娘を生み出すことに――当初は――実際の船の鉄片が必要だったように、深海側もきっと同じものを求めている。
そこにどんな関係があるのかは、考えたくない。提督の中にあるぼんやりとした推測は『海が持つ善と悪の概念』というものだったが――この説は表には出したくないものだった。
ともかく、工廠の隅で母港のスペースを圧迫していたこの鉄片こそ、深海棲艦を呼び寄せる餌足りえるのではないか――。
孤立させ、圧倒的不利の状況に陥った深海棲艦が、手っ取り早く自らを強化できそうな鉄くずの集積場があると感知したら――引き寄せられる可能性があるのではないか。
それを確かめるための実験方法を用意していたが、それと同じ状況を今この瞬間実現するだけの条件は整っていた。だから、この場でやってみせる。
艦娘たち本人のことを思えば、彼女たちの――母親と言ってもいいかもしれない鉄くずを、このようにして扱うことは気が引けたが……。
やはり自分は、腹黒いのだろうか……。
いや、迷っている場合ではない。
近海のどこかに潜んでいるという主力は、南方から離れすぎて孤立してしまっている。その数隻の深海棲艦の内一隻でもいいから、この鎮守府にある“餌”に食いついてくれることを願おう。
人類は、深海棲艦と戦うことを諦めた。
一方で艦娘を生み出し、彼女たちに頼って、戦わせて、そして他力本願で勝とうとしている。
人類と艦娘は、深海棲艦という存在で結びつき、三角形を描く。
人類は『艦娘しか戦えない』と思い込み、艦娘たちを酷使してしまうだろう。その結果もし……艦娘たちの意志に何かが起こって、反逆を起こしたら。
深海棲艦とは違う別の勢力に、また人類が狙われることになってしまったなら。
そんな結果は誰も望まない。深海棲艦がこの地球を征服してしまうだけだ。人類を滅ぼした後は、艦娘と深海棲艦の終わらない戦いが――なんて、そんなことは絶対にさせない。
人類は何もせず、安穏とした陸地で生きていけるつもりかもしれない。だが、深海棲艦はそんなこと待ちはしないし、彼らは着々と力をつけている。これも明らかだ。南方海域が征服されたことは、人類の生息域が簒奪された状態なのだ。
人類は決して諦めてはならない。そしてその人類の支えとなり、力となってくれる存在こそが艦娘。二つの勢力が同時に深海棲艦を叩くことで初めて、勝機が見えるのだから。
人類はあらゆる手段で艦娘を支援し、艦娘は人類の代わりに戦って敵を倒せる。深海棲艦の情報の全てを艦娘に渡せば、彼女たちもより一層強くなれる。艦娘たちが戦って勝つことで、人類は再び生活を取り戻すことができる。人類はそうやって粘り強くなければならない。艦娘たちもそれが生きがいであって欲しい。
人類が艦娘を愛することができれば、艦娘もそれに応えてくれるはずだから。
だから、『艦娘は兵器』だなんて、そんな冷たいことは、絶対に許さない。
そんな人類のどうしようもない甘えを、打ち砕く。
必ず人類は勝利を得る時が来る。必ず艦娘は平和を得る時が来る。
――私が、そうしてみせる。
「――――――っ――」
提督の目の先に、空母ヲ級が映ったのは、その時だった。
5
『司令室へ、こちら綾波です! 敵空母ヲ級がこちらに向かってきています――!』
その報告通り、作戦司令室の電探に反応が現れた。非常に弱い信号だが、未確認の物体だ。そして大きさからすると明らかに――人型の深海棲艦。
「見つかりましたか?」
『いいえ、気付いていないみたいです! 動力を切って、姿勢を低くして隠れてます』
綾波の囁くような声。駆逐艦一人でヲ級に挑むべきかを問うてきたのだ。
「ではそのまま待機を。いいですか、待機してください」
『は、はい。応援を待ちますね……!』
綾波には安全策を取らせた。さすがに一対一は無謀だ。
作戦司令室の双眼鏡で湾内を確認し、大淀に伝えた。
「頭がでかいヤツ……あれが空母か。……綾波に叩かせたほうが良かったんじゃねえのか。このままじゃ鎮守府が――」
「艦載機は全滅したはずですから……ふむ、安全ですね」
「――――は?」
大淀は澄ました顔で言い張る。
「何言ってんだお前? 敵だぞ? 深海棲艦だ。すぐそこまで来てやがるんだぞ! 何が安全だってんだ!?」
「そちらこそ、どうしてです? ヲ級が攻撃をしようとするなら、もうしてきているはずです。綾波も無事ではなかったでしょう。その攻撃が無いということは、艦載機も無いまま打つ手がなくなったということです」
「いやだから、そんな場合じゃねえっつってんだよ!!」
敵襲だろうが、と怒鳴る。
だがやはり大淀の表情は変わらなかった。むしろ眼鏡を直す余裕さえ見せて、再度口を開く。
「そういえばヲ級には、申し訳程度の対空砲もありましたね。あれは脅威です。射程内に入ってしまう前にどうにかしなければなりませんね」
「そう! そうだよ! すぐに艦娘を呼び寄せて排除させる!」
通信機を取ろうとした手を叩かれた。
「んだよてめぇ!!」
「怒鳴られましても、大淀怖くはありません。無駄です」
澄ました顔は変わらない。こいつ、もしかして――あの提督の影響受けまくりなんじゃないのか。
「ちくしょうが! なんで地上基地からも攻撃が無いんだよ! 対空砲火はやったんだろうがよォ!?」
「提督が命じられたからですね。この戦闘が始まる前――丁度、あなたが無線電話で本部と通話していた、その後です。あなたの忠告で作戦を切り替えた提督は、周辺のすべての地上基地に通達しました。『深海棲艦の艦載機空襲から市街地を守る以外の一切の行動、攻撃を禁止する。また深海棲艦が湾内に侵入した場合も、同様の措置を厳命する』と。この命令は、あなたの上司が強行したらしい命令とは衝突しないはずです。『鎮守府への攻撃を見逃せ』という命令が下っていたとして――の話ですが」
実際にはそのような直接的な言い方ではないはずだ。例えば『鎮守府には防衛手段があるが、地上基地の支援が邪魔になる場合があるため、所属の基地を守る以外は必要ない』などと。
それと提督の命令は辻褄が合い、結果的に鎮守府は空襲の被害を一挙に引き受ける形になった。提督は鎮守府そのものを犠牲にして、本土までも防衛していたのだ。
そしてその一つの命令が、提督の望んだただひとつの状況を生み出していたことに、大淀は気付いている。だから余裕を持って、ただ心のなかでは『良かった』と思った。
「これでようやく――提督の願いが叶います」
「……あぁ?」
この状況が生まれたということが、提督の存命も証明している。大淀にとっては、もう戦いは終わっていた。
「大淀より全艦に通達。鎮守府湾内に深海棲艦が侵入しましたが、脅威ではありません。繰り返します。脅威ではありません。こちらで対処しますので、皆さんは是非――各々の好きな場所で、待機していてください」
「どういうことだよ……」
通信機器を取り外してしまった大淀が立ち上がり、無言で『ご一緒にいかがですか』と誘う。何もかもが分からない状況だったが、その答えを得るために、行くしかない。
あの腹黒女が一体何を仕掛けたのか、見てやろうじゃないか。
6
埠頭で敷波は一人だった。間宮は介抱を続けてくれようとしていたが、敷波から断った。間宮も間宮でやることがあるはず。自分は大丈夫だから……と。
そうして呆然と眺めていた海から、深海棲艦、しかも空母ヲ級が静かにやってくることに気付いた。
「敵艦見ゆ……ってか……。………………えっ? うそ! マズイじゃん!」
冷静になってみるととんでもない状況だった。敷波はひどい打ち身のようになって痛む身体を立ち上がらせて、何とか歩き出す。
海の上を滑ってくるヲ級の姿は徐々に大きくなる。鎮守府に向かって真っ直ぐだ。迷いなくこちらに突っ込んでくる。目的地は少しだけ違って、もしかすると、工廠の方?
敷波はお腹を押さえて右足を引きずるようにしながらも駆け足で、司令官か大淀に伝えなくてはならないことがあると走った。
しかし、作戦司令室から大淀ともう一人見知らぬ女性が出てきた背中を見て、足が止まる。
「なんで……? なんで作戦指揮……してないのさ……?」
敵が湾内に侵入して鎮守府に到達しようとしている。さながら宇宙人との遭遇のように、ただ立ち尽くすしかできない絶望的な状況だということだろうか。
そんなのいやだ。綾波がまだ帰ってきてないのに。友達もたくさん、海に出てるのに。鎮守府と一緒にやられるなんて絶対にいやだよ。
でも、見つかるほうがもっと危険だ。敷波は、大淀たちに大声で呼びかけることは避けた。
ヲ級に見つからないまま、なんとかして二人に追いついて、何でなにもしないのか、聞かなくちゃ。
ヲ級が、光のない瞳で工廠の方を見た。手に持っている杖を動かして、何かを探すように。ダウジングのようにも見えた。そんな風にしてから、さらに方向を工廠の方へ向ける。
どうやら目的地を確定したみたい。工廠までやられたら、鎮守府がもっと壊されちゃう。
「だめだって……イヤだよ……! そんなのは……っ」
こんな状況で何もしない――というか、姿のない司令官は、一体何なの。
これまで敷波たちを散々こき使ってさ、それでいて宿題は沢山出すし、でも何にもお返しはないし、冷たいし、司令官からお礼言われたこと無いし、そもそも話したことも全然ない。それでも綾波が真面目に頑張っているのを見て、敷波もちょっとは頑張ってきたつもり。
だけど、なんであそこに司令官が居ないのさ。
なんで、こんな時に、何もしてないのさ。
――司令官のヤツ……もうほんと、意味が分かんない。
なんで敷波たちを見捨てるようなこと――してるのさ。
敷波の顔がぐにゃっと歪んでしまい、涙が溢れだした。
司令官のバカ。そうやって叫べたら、どれだけ良かったか。
艤装のない艦娘には見向きもしない様子のヲ級は、悠々と、工廠まであと数十メートル、埠頭まで数メートルというところまで、近付いてしまっていた。手を伸ばせば陸地に乗れるという近さ。そこで立ち止まって、ふと目線を、足元に。
そこに、何かがあることを感じ取っているようだった。
ヲ級は、杖を振りかぶって――まるで、そこに、突き刺そうとしたかのようだった。
そのヲ級の頭部――人の形をした方の頭部で、突然爆発が起こった。
ほとんど同時で気が付かなかったが、聞き慣れた発射音も聞いた気がする。そして、やはり、ヲ級の顔で起こった爆発も、どこか見慣れた、馴染みのある発破だったように思う。
ヲ級は両の手のひらで顔面を押さえてうずくまる。あれは実際の戦闘でもかなりの損傷だ。海上戦闘だったら間違いなく中破と判断されるだろう。膝から崩れるように――海の上にへたり込むヲ級。杖を支えにして何とか浮いているようだが――。
でも一体、誰がヲ級を撃ったのだろう。綾波じゃないはず。だって、正面からだったから。
正面ってことは――工廠から? 一体、どういうこと?
ヲ級が大きく呼吸すると、頭部が上下に揺れて見える。大きな、被り物のような頭部が。
その真中心に、二発目の着弾があった。
そして今度こそ敷波は確信する。
これは、駆逐艦に配備されている12.7cm砲の発砲音だ。
だから爆発も同じなんだ。道理で、見慣れているはずだった。
――でも、あれだけ正確に狙い撃てる駆逐艦なんて――。
「いない……よね」
そんなに練度の高い駆逐艦は、知らない。綾波だって再出撃したし、五月雨だって今は出撃中だし、艦隊行動中。だから、鎮守府に残っていた駆逐艦に心当たりは、無かった。
空母としての機能の大半を担っている大きな方の頭部が破壊されたヲ級は、海面にうつ伏せで叩きつけられた。脱力して浮いている人のように。
だがそれでも杖を突いて、強く握って、立ち上がろうとしていた。両足に力はほとんどはいっていない様子。もう、沈みかけていた。明らかに分かる。
顔からは黒煙を上げ、杖と両手の力だけで、身体を起こそうとしていた。
最後の力を振り絞って、巨大な方の頭部の側面にある対空砲が、照準を定めようとした。
きっと、どこから撃たれたかも分かっていないんだ。一方的に撃たれて、それで、その敵を倒そうとしている。でも――。
ヲ級の心臓部に、最後の着弾があった。砲弾が身体を突き抜けてヲ級の背後の海面へと着弾。大きな水柱が上がって、ヲ級は完全に倒れた。前に向かって吹き飛ばされ、埠頭に激突しながら、沈んだ。
大淀が、隣に立っていた人の顔を見て頷いていた。その相手の方も、呆れるように両腕を広げて、大声を張り上げた。
「オイ!! 姿見せろよ!!」
人の声とは思えないくらい大きな威圧の声だったが、その声を掛けた方向を、敷波も見遣った。そこは、工廠の屋上だ。――余談だが、勇敢な駆逐艦が備え付けのはしごを使って上り、屋上から高さを実感するという度胸試しをしていた話を聞いたことがある。ちなみに深雪であり、真っ青になって帰ってきた。他の娘たちは誰も登らなかったという。
そんな屋上で立ち上がったのは――。
「し、司令官……!?」
見慣れた白色の制服が、工廠の屋上で少しだけはためいていた。
帽子が飛ばないように押さえてはいたが、そのポーズがなんだか……すごく……カッコよく……ない。よくなんてないし! サボってた司令官なんだから。
それに、司令官が持っているあの長いものは一体、なんだろう。
見たことのない武器だった。ヲ級を倒したのが司令官だというなら、あの武器は一体……。
敷波には、わからないことが多すぎた。
――
『試製12.7cm単発銃』。明石は格好良くそんな名前をつけていたが、一本限り、一回限りの特注品だ。
艦娘の技術が発掘されてからしばらくの間、艦娘に与えられる艤装の技術を人類が使うことはできないのか、という研究が当然成された。深海棲艦の研究と違い、こちらに関しては実用化を目指して日夜研究に明け暮れる者たちも居た。
だが、彼らがそれを実現しようとするためには、大きな――そして無慈悲な壁が一つ存在したのだ。
妖精である。
妖精は艦娘技術の立役者でもあり、艦娘が生まれてからも必須の存在だ。この鎮守府の大半も、妖精が居なければ成り立たない。提督も助けられた経験があるし、逆に見捨てられているようなこともあった。
彼らは、極めて気まぐれでありながらも、自分たちの信条は決して曲げることがない。
究極の職人気質であるという表現をした覚えがある。
そして妖精の中にある『絶対に譲れない信条』も判明していて、その中の一つが、『艤装は人類に使わせない』というものだ。ちなみにどういうわけか『猫には屈しない』という信条があるらしいが、提督はこの意味を未だに測りかねている。
ともかく妖精は、絶対に艤装とその技術を人類に使わせることがない。これは、建造途中のレプリカを見せないようにしていることと繋がりがあるようだ。
そのため、いくら人類が使えるように兵器をデザインしたとしても、妖精がその武器を作ってくれないのだ。
作ってくれない上に、その武器で発射するための砲弾も絶対に提供してくれない。
だから形だけ人類が作ったとしても意味がなく、妖精が居ないことには何も始まらない艤装技術――主に、大口径の砲弾を圧縮して弾丸サイズにまで変化させる技術――は、日の目を見ることがなかった。
しかし、艦娘は違う。
提督のことを信頼すると決めた明石は、提督のために一本の武器を拵えたのだ。
提督は『艤装の技術を使った武器、狙撃銃が一つ作れないかと思っているの』と明石に相談を持ちかけた。明石にとって狙撃銃として使える銃とは、海軍にも配備されていた四式小銃くらいだったため、その武器を元に設計を請け負い、有り余った材料を使って、工房にて一晩で作り上げてしまった。
将来的に艤装の改修をしてみたいと決めていた明石は、妖精が練習用にちょくちょく持ってきてくれるジャンク品、艦娘用の装備の中から砲弾を見つけて隠し、五発だけ用意してくれた。
その上で完成させた試製12.7cm単発銃は、弾丸を一発ずつ装填して発射しなければならない不便さはあるものの、ちゃんと艤装の単装砲と同じ技術が盛り込まれており、威力も性能も申し分ない『人間用の艤装』となっていた。
ただ、実のところ明石はこんなことを言っていた。
『正直かなり無理のある設計なので、本当に五発撃てるかも分かりません。それに、このことが妖精さんたちにバレたら――まあバレますけど、ちょーっと機嫌損ねちゃうかも……』
明石の言う『ちょっと』が少しも『ちょっと』ではないことは明らかだった。
しかしそちらは提督が何とかすると約束した。明石に頼んだのは自分で、嫌われるのは自分でいい、と。
それに忘れてはならないが、妖精は気まぐれなのだ。『ごめんなさい』と謝罪して、その時には頬を膨らませて怒るかも知れないが、次の日に新しい鉄片を持ち込んだとしたら『よこせ』と言わんばかりに寄って来てくれる。
ある意味では、自分に厳しいだけなのかもしれない。
色々と明石に苦労をかけた銃だが、この銃を頼んだ理由ももちろんある。
一つ、深海棲艦には銃弾も有効である。これはつまり、地上戦において銃による斉射を行い、蜂の巣にすることで倒すこともできるということだ。
しかし銃の威力は、艤装のサイズに圧縮された砲弾とは比べ物にならず、銃が軍隊規模での乱射が必要なのに対し、艤装の砲弾は一発から数発で深海棲艦を倒せる威力を持っている。
提督は一人しか居ない。それに目的を達成するためには、普通の銃では意味がなかった。
さらに一つ、人類もまだ戦えるのだと証明したかった。
これは初出撃の日に提督が証明したことでもあるが、かなり奇跡的な状況が重なったことによる偶発的なもので、確実性に欠けたものだった。
だがしかし、あの時の反省点を踏まえ、今度こそ確実に、人類側に『未来』を提示することができると確信したのだ。
つまり、将来的に人類と艦娘の友好的な共存が実現しようとしたとき、今回は明石だったが、いずれは妖精の扱う艤装の技術が、彼らの了承を得て人類の側にも提供されるようになりさえすれば、必ず人類も戦うことができるようになる、と。
人類と艦娘が共に戦える未来。そして深海棲艦を撃滅する未来。
二つの勢力が協力しなければ、堅固な三角形の頂点に君臨する深海棲艦の座を、決して崩すことができない。
だから、共存した先にあるはずの『未来』を、ここで実現してみせたのだ。
『艦娘は兵器』などという戯言は捨てろ。我々は平等に、深海棲艦の敵だ。
艦娘は、人類の救いとなれる存在だ。彼女たちを支援して共に戦い、そして艦娘だけでなく妖精たちからも人類が信頼に足る存在だと示せるようになった時、初めて――深海棲艦に対する本当の『反抗』が始まるのだ。
提督に課せられたただひとつの任務。それは『敵深海棲艦への反抗』だったのだから。
終幕へ続く
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終幕
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「よぉし! やっと完成したー!」
明石が最後に手を加えて宣言すると、手伝ってくれた駆逐艦たちから拍手が湧いた。
いつの間にやら軽巡洋艦たちにも話が回っていたらしく、軽巡組も端の方から見守ってくれていた。ここには居ないが、軽巡に伝わったということは間違いなく重巡にも伝わっていそうだった。
「後は夜を待つだけ。一旦解散! みんなありがとう!」
明石の号令を受けて駆逐艦たちはがやがやと移動し始めた。『楽しかったね』や『ちゃんとできたかな』など口々に感想を言い合っていたり、『司令官って本当はすごい人だったんだね』や『私も見たかったなぁ』など、提督に関するイメージがはっきり変わった雰囲気も感じられた。
大淀、敷波と綾波、それからもう一人の目撃者が居た提督の戦い。その話は、大淀に『各々待機』を命じられた艦娘たちの疑問を解決するために、すぐさま知れ渡ることとなった。何故大淀、いや提督は待機を命じたのか。比較的鎮守府に近い場所にいた綾波を始め、目がいい艦娘や偶然に双眼鏡を持ち寄っていた駆逐艦なども、かなり遠い場所から鎮守府で何があるのか見てはいたが、詳しくはやはり敷波に聞いたことで判明している。待機していた艦娘たちは、精々ヲ級らしき影が爆沈したことくらいしか分かっていなかったのだが、敷波の話で真実を知り、瞬く間に『提督はすごい』という論調になってしまった。
敷波いわく『すっごくカッコよかった! あっ、いや……敷波がそう思ったんじゃなくて、こう、画になってたっていうか。私がもしキネマ監督だったらそう言うかなぁ……みたいな……』という言が決定的だったのだろう。
さらに言えば、提督の敵として知られていた人物が、敷波の言う『カッコいい提督』を写真に収めており――大きな狙撃銃を手に、軍帽の鍔を押さえて立ち上がった瞬間の提督の姿だ――それを現像したものを横流ししたことで確たるものとなっていた。
本人は面白がっていたようだが、提督はそんなことになっているとは知る由もないだろう。
さらに、口が堅く遠い存在だった艦娘、大淀の口もついに開かれ、これまでの主な経緯を明かすことになっていた。提督の計画が達成された以上、もう隠すことも無かったからだが、大淀としては、本人の口からみんなに説明させてあげたかった。
しかし駆逐艦のキラキラした目と明石の後押し、さらにこれまでの提督の無機質さの説明を求める艦娘全員からの圧力に屈したとも言えた。特に妙高の表情は真剣で、隠し事はもう無しにしましょう、と語っていた。
全てが語られた鎮守府は、まるで息を吹き返したばかりの人が見る光景のように、コントラストの強い鮮やかな色へと変わったように思う。
色めき立って、謎も無くなり、提督が示した未来が明るかったから。
もし外の人たちが今回のように何かを企てたとしても、提督が解決してくれる。そして自分たちに問題が起こっても同じだ。そうしている内に中と外の軋轢が縮まっていって、いつか必ず、お互いが理解し合える時が来るはず。そのために提督は自ら戦ったのだから。
「完成したのかしら?」
間宮が店の暖簾を潜って入ってくる。甘味処間宮の厨房を借りていたが、大人数で押しかけてしまったこともあり、間宮が身を引いて好きにやらせてくれたのである。駆逐艦たちが出てきたのを見計らって戻ってきたらしい。
まだ店内には川内型三姉妹や睦月型など代表的な姉妹艦が残って、それぞれ雑談に興じていた。他の駆逐艦の中にも居残りが居て、こちらもやはり何かを話していた。色鮮やかな髪が集まっている辺り、長女組と何人かという組み合わせだろう。駆逐艦の長女たちは数の多い駆逐艦を纏めるためにもああやって集まっていることがよくある。頑張り屋が多いのだ。間宮の帰宅に気付いて挨拶を欠かさない辺りからも、いい娘たちなのだと分かる。
「間宮さん、おかげで美味しいのができました!」
「そう、良かったわ。提督もきっと喜ばれるはずよ」
「間宮さんも忘れず来てくださいね?」
「ええ、もちろん。用意して参加するわね」
厨房の明石とカウンター席越しの間宮。完成品の数々を見て微笑んだ。
「提督はたった今、大本営に乗り込んでいったそうよ。例の怖い目の人から連絡があったわ」
通称“怖い目の人”。鎮守府内でも有名人だったし、提督の前任者だったということで、もしかすると自分たちの提督になっていたかもしれない人。遠征に行っていて彼女を知らなかった天龍が何も言わず会釈をした辺りに、その目つきの怖さを推し量れる部分があると思う。
そんな彼女だが、すっかり提督に丸め込まれて――明石がそう言った――、鎮守府にやって来た時とは別人のようになって、鎮守府を去っていった。元々快楽主義的な性格らしく、楽しいと思うことには加担するタイプである彼女は、提督の写真を渡した後、ほとんど誰とも交流などせずに鎮守府から姿を消していた。しかし間宮はそんな彼女とも連絡先の交換を果たしていたらしく、こうして間諜役になっているのだった。
「あの映像を見たら、上だって納得しますよ。提督の邪魔をしている暇なんてないって、分かってくれるはずです」
明石はできあがったものにそっとフタをした。提督とする夕餉の時間まで冷蔵庫で保管だ。
「そうねえ。凄かったわ。私たち、艦娘なのに海に出ないから、みんながああやって戦っているんだ、って感心してしまったの。もちろん、提督の考えが素晴らしかったというのもあるけれど」
提督は、事前に現代のカメラを使って狙撃の様子を余すところなく撮影していた。それを持って、目付きの悪い人と共に、人類の城へと乗り込んでいったのである。ちなみに映像は、大淀にねだり続けた駆逐艦たちの手柄で公開されたものである。
「だから提督に、お疲れ様って早く言ってあげたいです」
「あらあら。明石さんもすっかり提督好きね」
「うへぇ!?」
「なあに、その変な声、うふふふ」
間宮は明石をからかいはしたものの、楽しそうだった。鎮守府に立ち込めていた霧が晴れるのと同時に、みんなの心の霧も晴れていったからだろう。
「早く帰ってくるといいわねー」
「もう間宮さん! そういうんじゃないですからぁ!」
「そうよねえ、提督は女の人だものねー」
「だから違うんですってばぁー!」
「衣装掛けもようやくプレゼントできるのよねー」
「ああもう! 間宮さん意地悪ですー!」
明石は真っ赤になっているが、大淀と似たところがあると間宮は思っていた。
提督への信頼度というか、親しみ方のようなものがそっくりに思えたのだ。
「あなたたち二人、姉妹艦ではないのによく似ているわね」
間宮は、厨房の奥の方で分厚い資料を読みふけっていた大淀にも呼びかけた。
「そうですか? ありがとうございます」
明石は素直に喜び、大淀は何やら含みのある謎めいた笑みで応えたのだった。
間宮と大淀の間には、内緒の出来事があった。
大淀は成熟した精神の持ち主で、大抵のことには冷静沈着に対処できる。しかし、提督の口から全てを聞き及んだ大淀は、その日の実に半日を消費して悩んでいた。即断即決が望まれる立場でありながらその時間を浪費したというのは、後にも先にも無かったのでよく覚えている。間宮に全てが伝わることはなかったが、それでも大淀はここで間宮に相談をしていたのであった。
もし本当にそんなことを実現できたなら、自分は、自分でもおかしいと思うくらいに彼女のことを崇拝してしまうかもしれない、と。提督が考えていた理想は魅力的で、傍から見たら夢見がちの世迷い言だと言われてもおかしくなかった。それでも大淀は信じたいと思っていたし、実現して欲しいと心から思っている、と。
大淀は、明石とともにこの世界に呼び起こされてからしばらくの期間のことを思い起こしていたのだ。
彼女たちは実のところ、人間として、そして女の子としても扱われた記憶が無かった。
最初から『人ではないもの』、『思考をする兵器』として見られていたから。
最初に聞いた言葉は『やったぞ、これで人類の未来は安泰だ』だった。
明石と一緒に顔を見合わせている内に、『君たちにやってもらわねばならないことがある。拒否権はない』と言われ半ば監禁状態に置かれ、深海棲艦と人類の戦いの歴史と、研究されてきた艦娘技術を叩き込まれた。でもその時自分たちは、艦娘として呼び起こされた時から何となく感じていた役目が、これなのだと思っていた。人類のために身を挺して戦うための知識を頭に詰め込むことが、今の役割なのだと思うことにした。
互いに得意分野が違うことに気付いたらしい先方は、明石には鎮守府の設計や、工廠技術と妖精との交流の仕方を。大淀には艦隊指揮と提督に関すること、及び鎮守府の運営に関する全ての事柄を分け与えるようになった。
自分たち二人には艤装がない。『だから君たちは戦闘面ではなく支援の役目がある』。『艦娘を率いて人類を救う役目だ』、と。
よって『提督には服従せよ』、『提督の意見は人類の意見だ』とも言われた、と。
自然と大淀と明石は『何かがおかしい』と気付いていったし、まるで捕虜のような扱いだという現実に耐えるため、絆を深めた。励まし合い、むしろ自分たちがしっかりしていないと、いずれ出会う仲間たちまで同じような目に遭うかもしれない、と。だから熱心に勉強に励み、自分たちの役目を理解したと思わせることにした。
そうしてようやく解放されてからは、鎮守府での二人の生活が始まった。初日はどちらともなく手を繋いでいたっけ、とぼやくように言っていたのを間宮は見ていることしかできなかった。
『礼節や立場などを必要以上に厳格に定めないような人』が提督に選ばれるとは聞いていた。
それもそのはずだ。彼らにとってみれば、『提督は上層部の傀儡であり、艦娘は礼儀など必要のない兵器』なのだから。整備や点検はするが、機嫌を取る必要はない――そう言っていたのである。
だから――初めて提督に会った時。
『もしかしたら提督は、研究者たちに聞いていたような人ではないんじゃないか、って思いました。明石なんかは希望が湧いたような顔をして、挨拶に自己紹介を忘れるくらいでしたから。私もきっと、緊張が解けてしまっていたんです。そんな明石に対して、戯けてみせたりなんかして……。その後の、“裏切られた”っていう明石の顔が……本当に辛かった』
ウイスキーと共に沈んでいく大淀は本当に珍しく、間宮が見た限り、その日が一番辛そうだった。
大淀たちと同じ目には遭っていない間宮には、残念ながら助言することができなかった。自分も同じように半監禁状態に置かれて料理の知識を詰め込まれていたなら事情は変わったのだが……。
提督の仕事振りに対する評価として、上層部は秘蔵の鉄片を使用して間宮を呼び起こした。決して艦娘たちの舌を幸福で満たす目的ではなく、あくまでも艦娘の行動を食事で持続させるため……だったのだろう。元々、艦娘による深海棲艦狩りが上手くいった暁に間宮を顕現させる計画ではあったようだ。
同じ経験をしていない以上、間宮が言えるのは一つだけだった。
『このお酒を持って、提督と少し、話し合ってみてはいかがでしょうか』と。
ウイスキーを好んでいた大淀に日本酒を勧めたのは、きっと提督の好みが日本酒だと思ったから。根拠は残念ながら無かった。何となく、勘で。それに、絆を深めるという意味では、日本酒で杯を交わすのがいいと思ったから。
二人で飲み潰れてみれば……もしかすると、新しい道が見えるかもしれない。そんな期待をしていたのだろう。
大淀は、すべてを聞いた直後とはいえ、提督に酒を勧めるのは気が引けた。それに自分もまだ答えを出せていなかったから。でも……ちょっとだけ勇気を出してみたのだ。後に提督の正体を暴こうと立ち上がった、明石と同じように。大淀も似たような悩みを持って、そして自力で解決していたのである。
執務室で飲み明かしたその日、提督は蕩けそうになっている目と顔を精一杯引き締めて、『自分も逃げてきたから』と言った。提督が覚えているかどうかは知らない。
『友達のお父様が海で亡くなってしまって……その友達は、提督になって仇討ちするって意気込んでいたわ。でも……最終的には、私が選ばれてしまった。彼女、ものすごく怒ってて……ひどく殴られたし、でも……解決できなくて……それで、逃げてしまったのよ……』
提督になれば何かが変えられると思った。友人も自分が立派な提督になればいつか分かってくれる――そんな風に考えていた。でも日に日に嫌がらせは増えるし、上と仲がいいから締め付けが強くなっている。このままではいつか、一番親しかった人に潰されてしまう、と。
それが怖い。提督は酔いの勢いで零したのだ。
一番の友人に――つまりあの目付きの悪い人に――殺される日が来るのではないかと怯えていた。
そんな怯えている提督を見て、大淀は、自分たちと同じようなものを感じたのだ。具体的には違うが、似たような不安だった。だから、一度だけ、今だけでも信じてあげたいと思った。明石と助け合っていた時のように、一度だけでもいいから、この人を信じてあげようと思った。確実に、絶対に信用できるのだと断じるのは、もう少し後でもいいから。
だからまず、大淀は妖精に依頼して、その友人が仕掛けた罠のようなものがあるのではないかと探してもらった。すると、カメラとマイクが無数に発見されたのである。
提督は攻撃を受けていた。鎮守府も同様に。味方に背中を狙われているような状況にあったのだと知った。提督も提督で、極限状態に立たされていたのだ。
それでも一刻も早く事態を収拾するために、自分が立派な提督であると上に示さなければと思った。だから艦娘たちに対し、冷たく融通の効かない提督を演じた。
そうしている内に立派な提督だと認められれば、友人とも和解できると思ったから。
だが、そうはならなかった。
明石が引き金を引き、その憤怒に燃える友人が鎮守府に来るとなった時、提督はそれまでで一番、取り乱していた。怯えていたから。直接乗り込んできて撃たれるかもしれないとさえ、思っていたのかもしれない。
でも、大淀が支えた。かつて間宮に言われて提督と飲み明かすことができたように、明石にも同じことをさせてあげる機会を設けた。それも、かなり手早く。
提督は辛うじて平静を取り戻した様子で、明石との和解が上手くいったと笑った。
大淀がしたこと、明石にしたこと――どちらも腹を割って話しただけだ。
『だから今度も、そのご友人と腹を割って――殴り合ってでも、話してみてください』
大淀はそうして提督を説得した。自信を獲得した提督は、再び、友人との和解を目指そうとしてくれたのだ。
それが今度は、上手くいった。この上ないくらい完璧な形で上手くいったのだ。
提督はかつての友人を少々強引な手段で暴き倒し、自分がやっていた異常な行為の数々と向き合わせることで正気を取り戻させた。元から熱しやすく冷めやすい性格であった彼女が、ここまで長い間恨みを燃やし続けていたのは、半ば引き下がれなくなっていた何かがあったからだと調べて知っていたから。
彼女もまた、上層部に操られていたことを知った。
提督が武器を陸軍から取り寄せた方法とか、提督の友人がしていた不正行為の証拠を集めた方法なども含めて。
その答えは――最初からずっと、提督が持っていた。
1
静寂の会議室が暗転し、スクリーンに映像が流れ始めた。
提督はまず『艦娘に依頼して製作してもらった』と紹介した狙撃銃に、12.7cm砲で使う艤装用の砲弾を装填し、構えに入った。映像はそこで早送りされ、時間が進む。うつ伏せで熟練のスナイパーのように海に向けて構える提督の先に、ヲ級が映し出される。
充分にカメラにも映る距離まで引き付けた時、提督が一発目を発射する。
銃とは思えないほどの発砲炎が吹き出し、提督の身体は反動で屋上を滑った。発射の瞬間提督の苦しそうな呻き声も含まれていた。想像以上の反動があり、それに熱気が髪を焼くのではないかとさえ思ったくらいだったからだ。
しかしすぐに二発目を装填し、今度も命中させた。二発目の発射と同時に甲高い金属音が鳴っており、映像でも金属片が弾き飛んでいる様子が見て取れた。
この時点で銃は崩壊寸前だった。しかしヲ級を仕留めきれていないと判断した提督は、折れて飛んでしまったコッキングレバーを足で蹴ることで装填、三発目を構える。
だがこの時、この試製単発銃の本体温度は、高温だった。提督は肩が焼けていることを自覚していた。映像にも、生々しい音が録音されていた。
そして三発目の発射と共に、提督の身体は爆風を受けて一時画面から消えてしまうほど吹き飛んだ。しかし命中はしており、ヲ級が居た埠頭で爆発も起こっていた。
提督が手にしていた単発銃は三発の発射で完全に壊れてしまった。銃身がまるで花弁のように開いてしまっており、あまりの高温に蒸気が立ち起こっている。四式小銃という銃をモデルにしていることから木製の銃床ではあったが、そこに金属板を埋め込むことで強度を上げていた。だがそれが仇となったのか、木製の本体から煙が上がってしまっていたのだ。
金属板がないグリップ部分は何とか持つことができていたし、提督は達成感もあって銃を手放すことはできなかった。そこで映像は止まり、会議室に明かりが戻る。
「――以上が、今回の私の戦果です」
映像の余韻が会議室に立ち込めていた。素直な驚嘆と、これまでの自分の思い込みをすぐに反省する聡い者、そして――敵意をむき出しにして顔を真っ赤にしている者。
さらにもう一人、全く正反対の澄ました表情で全体を眺める者が居る。
提督は肩の火傷を治療するため片腕を吊っていたし、飛んできた破片で怪我をした顔には縫合用のテーピングをして、服の下でも何箇所かガーゼを貼っている場所がある状態だった。むしろその見た目こそ、彼女が戦ったのだという証となり、堂々とした立ち居振る舞いが自信を表していた。
提督はそのまま、持論を展開する。かつてこの会議の場で提案し、袋叩きに合い、二度ほど挫折しかけた理想を語った。
提督のことを信頼してくれた艦娘が作製した武器で、深海棲艦を倒すことができた。
その証明映像もあり、艦娘が作ったというその武器の現物も持ち込んでいる。ただ、もはや原型は留めていないため、残骸と言って差し支えなかったが。
つまりこの技術はまだまだ未完成だし、実現は遠い遠い先の話になるということを示している。
だが、そこには可能性が秘められていた。
人類が諦めてしまった光が差したのだ。
彼女はそれを自ら証明し、そして――信頼を勝ち得た。
会議の場は、かつてとは真逆で――拍手の中終えられた。
「っ――」
提督は深い一礼をし、顔を隠した。
そして全員がこの場を後にしようとした瞬間、会議室の扉を開けて入ってきたのは、提督の友人その人であった。兵士二人を伴って、お迎えに来たのだ。
「まだ一つ、用があります」
立ち去ろうとしていた将校たちを前に、逮捕状を掲げる。
「――お分かりですね」
まだ席から動けずに居た一人の軍人が、恨めしげにその書状を見ていた。
「そんなことをして、君もただでは済まんだろう」
低く唸るような声。顔には血管が浮き出て、今にも心臓が止まりそうなほど。哀れな顔だった。
提督は、顔を上げることができないままだった。必死に、感情を抑えていたから。
全てが終わる瞬間は、提督にとってはもう迎えたものだ。ここで今起こっていることは、自分ではなく、友人にとっての完結劇だから。
「そうですね。ただ、くたばる時は道連れにしてやるつもりでしたから」
兵士に指示を出すと、その将校は直ちに拘束され、部屋を後にした。
提督が暴いた真実には、紛うことなき反逆の痕跡があった。その動かぬ証拠を軍令部に提出した人物こそ、彼女。さらに――その反逆を提督に伝えた人物が居る。この場に。
静かに連行された男の背中を見届けてから、ようやくその人は立ち上がった。
あの日、打ちのめされた提督にたった一人声をかけた大将殿だ。
彼は提督を叩くこともなく会議を静観していた。そして最後には、『後の事は頼む』と託してくれた人物だ。彼は自らの意見をひた隠しにしながら、腐ってしまった上層部を嘆いていた。
そこに提督があの提案を持ち込んで針の筵に立たされた光景を見て、心苦しく思っていた。しかし、どうすることもできなかった。あの場では。
だが彼女は折れず、会議の直後大将を呼び止めて協力を仰ぎ――こうして戻ってきた。そして、確かな未来を見せてくれた。
人類が目指すべき未来を。忘れかけていた未来を取り戻させてくれたのだ。
提督が明石の離反を知らされたあの時、提督は『あの人が調査員としてやって来る』という事実に取り乱した。決して『告発状が提出された』ことに驚いたのではなかったのだ。
何故なら、事前に知らされていたから。
ゴミ収集車の職員が鎮守府内に手紙を持ち込み、それを誰かに拾わせる。宛名を見れば誰でも提督に届け出ることは当然だったため、必ず手紙は提督に届けられた。そうして提督は、彼による軍内部の告発を受け取ったのだ。
『鎮守府内の艦娘から提督の不信を訴追要請する告発状が届けられた。宛先は、君をずっと睨んでいる将校だ。お気に入りの部下に鎮守府を監視させている上、あらゆる不正行為を是としている。鎮守府と君を狙った謀略があることは事実だ。警戒したまえ』
差出人は当然書いていなかったが、提督は知っていた。唯一の、鎮守府外部の協力者だったから。
『やはり狙われている』という不安を掻き立てられた。
だからこそ、鎮守府がもし直接狙われるようなことがあれば――多少無茶でも、鎮守府に艦娘を残すわけにはいかなかった。護衛艦が深海棲艦を連れて鎮守府にやってきた時、既に出撃していた遠征組を差し引いて全ての戦力を用いたのは、鎮守府に万が一のことがあっても彼女たちを守れるようにとの配慮だったのだ。
さらに言えば、狙われたのが提督なのだということを明確にできた。艦娘の居ない鎮守府を深海棲艦に襲わせるなどという奇抜なアイデアで提督を殉職させようとしたようだが、その証拠は実に何日も前に集めきっていた。告発状の受理から調査員の派遣まで一週間もの期間があったことが何よりの救いだった。明石に話した証拠の隠し場所には、数日以内に将校の不正の証も追加されていたことなど言うまでもない。
さらにこれは別件だが、不正を行った将校は、事前に『深海棲艦が鉄を始めとする資源を求めている』という事実を掴んでいた。長年の経験からか自ら推察したのかは不明だが、かなり確実性の高い事実として把握していたのである。だからこそ鎮守府の側には、『回収した鉄くずを保管させる』という役割も担わせていたのだ。つまり今回の攻撃は、なるべくしてなったという恐ろしい計画の結果だったのである。鎮守府が狙われたのには、ちゃんとした根拠があったのだ。
大将はただ立ち上がって、まだ顔を見せまいとしている提督に対し、静かに言った。
「よく耐えた。感謝する」
寡黙な大将はそうして、騒然と終わった会議室を後にした。
残ったのは提督と――その友だけ。
「……泣いてんのか? ザマ無えな」
「そうよ……悪い?」
袖で涙を拭い去って、何とか顔を上げた。
友人……悪友は、急に改まった。背筋を伸ばし、敬礼を一つ。提督が驚く間もなく、その場に膝をついた。そして、頭を下げる。
「――すまなかった。これまでの――全部」
提督もまた、一呼吸置いてから頷いた。
「……ええ。許すわ。そして――ありがとう」
「ああっ……。こっちこそ、ありがとう……!」
悪友の声が変わる。
「……泣いているの?」
「クソッタレ…………海水だ! 浸水しやがったんだ、ちくしょう!」
「ふふ……」
気づけば二人とも充血した目で握手を交わしていた。
悪友は言う。
「……深海棲艦はお前に任せる。……あたしは田舎に帰って、親父への恩を、お袋に返す」
「それがいいわ。……連絡はしてね」
「ああ。時折電話する」
そこで、気付いたように早口で続けた。
「電話と言えば携帯落としたんだった……。おかげで有線探したんだよなクソめんどくせぇ」
「ちゃんと探しなさいよ?」
それだけ言っておいて、こちらも言いたいことを言うことにした。
「あの娘たちも、あなたのこと嫌いじゃないと思うわ」
時折、会いに来るのはどうかと誘ってみる。
しかし彼女は首を振った。
「いや……もういいんだ。艦娘の活躍は、新聞で見ることにする」
でも、と続けた。
「たまには海を見たくなる時が来るかもな。……その時は、艦娘よりも、お前と話したい」
「そう」
「……軽いな」
「それ以外に何と答えればいいのよ?」
「……それもそうだな。忘れてくれ」
内心、もう少し何かあってもいいんじゃないかと思っているのがありありとわかった。
折角仲直りしたのだし、と。
だが、これも彼女らしいか。
「そうだ。……早く鎮守府に帰ってやれ」
「急に何?」
「鎮守府の復興が第一だろ。それに、あいつらにはお前が必要だ。寂しさで死ぬ艦娘とか居たりするんじゃねえの?」
「否定したいところだけど……どんな艦娘が出てきてもおかしくないのよね……」
「だろ? だから早く帰ってやれよ。……あと、もう一つ」
時計を見て何やら一、ニ、三……と五まで数えた。
「あと少しで、建造ドックにプレゼントができるな」
「……あ」
「思い出したか? 言っただろ、『戦艦をプレゼントしてやる』って。置き土産だ。しっかりやれよ、提督」
「ありがとう」
「じゃあな」
提督の火傷をしていない方の肩を叩いて、悠然と出て行く。
悪友の背中には、もう迷いや霧は存在していなかった。誰かのところに繋がっていた糸も、綺麗さっぱり消え去ったようだ。
もう一度、悪友の背中に礼を言った。
提督は軍帽を被り直し、因縁の場所にけりを付けた達成感を胸に、鎮守府へ帰ると決めた。
2
こっそりと鎮守府に帰ってきた提督だが、執務に戻る前にやっておかなくてはならないことがあった。工廠へと向かって、ロープと滑車装置を持ち出す。
そして……新入りの艦娘の協力を仰ぐことにした。
「司令官……。イムヤの初仕事が、これなの……?」
言いながら海に向かって手に持った小さな板切れでシャッターを切っていた。
「スマフォ……どうして?」
お互いの疑問が口に出てしまったが、まずは提督が答えることにした。
「まあ、いいわ。これも、そのままにしておくわけにはいかないから、助けてもらいたいのよ」
「潜って、このロープを結びつければいいの?」
「そう。ここの海底に落ちている船の欠片。みんなに言わないまま捨てたみたいになってしまっているから……気分が悪いのよ」
「それはさっきも聞いたわ。司令官は潜らないの?」
「ダイビングスーツがあればよかったのだけれど……」
二人の背中に、新たな声。艶やかな声色の“戦艦”がリアカーを持ってきてくれていた。伊168、イムヤと同時に着任した『陸奥』だ。友人の置き土産。彼女は長門を作ると言っていたが、やはり妖精の気分までは思いのままにできなかったらしい。
「荷車、持ってきたわよ」
「ありがとう。ここに」
提督が位置を指定し、滑車装置にロープを渡した。
「じゃあ……イムヤ、お願いするわ」
「はーい」
係留した浮き輪の上から勢い良く飛び込んだイムヤは、素潜りの要領でロープを持って海底まで進んだ。
「提督って、こんなことまでするの?」
やや間延びしたような喋り方をする陸奥は、露出の多い服で水面を覗きこんでいた。両手は腰元で組んで、やや胸元を強調しているようにも見える。
「……」
視線が自然と自らの胸元に……。
「提督? ねえっ聞いてる?」
「え? あ、えっと……礼儀みたいなものよ」
「ふうん……?」
ロープが結び付けられた合図として、ロープが大きく揺れた。提督はそっと滑車の下に行き、ゆっくりと引き始めた。片腕は火傷していたので、足と自分の体重を上手く使って引く。
「うんっ」
意外にも重い。もしかするとイムヤは、何個も纏めて縛ったのかもしれない。
「手伝ってあげるわ」
陸奥もしなを作りながら歩み出ると、提督の後ろにつく。曲がりなりにも戦艦であり、鎮守府の艦娘の中でも大人の身体をしているため、力は提督と同等かそれ以上はあるのかも知れない。提督も最低限鍛えていたつもりだが、イムヤの頑張り次第で、今は辛かった。だから陸奥が居てくれたことが素直にありがたい。
そうしていざ吊り上げられた鉄片は五つだった。これは重いわけだ。何とか滑車まで上げてリアカーに載せた。
それに合わせたのか、イムヤも一旦顔を出す。
「司令官、重くない? イムヤも手伝う?」
「これくらいなら何とかなりそうよ。一つ一つやっていても日が暮れてしまうし、この調子でお願い」
「下、すっごく大漁なんだから。どうしてこんなに投げ入れちゃったの?」
「色々あったの。……まあ、他の娘からも聞けるかもしれないわ」
二人には最初から素顔で接している。もしかすると少しばかり戸惑いが生まれてしまうかもしれないが、些細な問題だとも思う。
金具付きのロープをそっと投げ入れると、またイムヤがそれを持って潜水を開始した。
ロープは勝手に沈んでいくので、イムヤが毎度のように顔を出す必要はないのだが。
彼女はかの伊号潜水艦だ。長時間の潜水もお手の物である。
そうやって次々にテンポよく鉄片の回収を済ませた提督たちは、リアカー一杯になったそれを見てまた溜息をひとつついた。
「大丈夫、お姉さんがついてるわ」
言いながら陸奥はリアカーを後ろから押してくれる。かなり力強かった。
「……私とあなたって、どっちが年上なのかしらね」
「さあ? 私は……生まれたばかりよ? それとも艦齢で言ったほうが良いの?」
「やめて……それはやめて……」
「そうよね。私だって嫌よ」
「だったら金輪際、艦齢の話は無しにしましょう。その方がいいわ。そうに決まってる……」
「司令官はいくつ? 何歳?」
イムヤも同じく後ろから問いかけてきた。
三人でリアカーを押しながら、雑談も始まってしまう。
「提督としては若い自信がある……と言っておくわ」
「あら。あらあら。誤魔化すの?」
「“若すぎる”とも言われてるのよ。だから……少しサバを読んだわ。上に」
カシャ、とシャッター音。……って、そのスマートフォン、まさかとは思うが、見覚えがあるようなないような……。
「ちょっとイムヤ……? どうして撮ったの?」
「色んな娘に聞いてみようかなーって。司令官がいくつに見えるか」
「……。二十代って回答じゃダメなのかしら……」
そんな辱めは受けたくない。
「上にサバを読むくらいの、二十代なのね?」
「そうよ……」
「司令官、すごく若いんだ」
「……恥ずかしいわ」
リアカーを引いて工廠にたどり着くと、元の鉄くずの山に中身を戻した。
想定よりも大変だった。イムヤがいなければ作業はもっと難航していたに違いない。本当に助かった。
鎮守府襲撃の際羽黒が回収、白雪が持ち帰った鉄片は、イムヤのものだった。鎮守府初にして唯一の潜水艦であった。そして戦艦陸奥も。
後日談になってしまうが、最新の観測で、南方海域に現れていた『大和』の残骸は、残念ながら捕捉不能になってしまったらしい。つまり、行方不明になってしまった。提督としては、『大和』を確実に保有するチャンスを失ったことになっていた。
「それじゃあ私も、年齢、“それくらい”ということにしてあげるわ」
「まだその話題続くのね……」
「いいじゃない。ややこしくなるよりは、大体でも決めちゃったほうが楽よ」
しかし、悪くない話ではある。戦艦の中でも最大級の長門型戦艦が同い年くらいであると主張してくれるのであれば、鎮守府内の形式だけの年功序列も明確化される。
「いいわ。……そういうことにしましょう」
「うふふ。でも、私はお姉さんよ?」
「長門でしょう。姉は」
「提督のお姉さんになら、なってみたいわ」
「同い年と言ったばかりじゃないの……?」
「同い年“く・ら・い”よ♪」
「……イムヤ、写真撮って、写真」
首元に絡んできた陸奥の腕を掴んで押さえると、必死にアピールした。イムヤも慌てながら一枚撮影する。しかしその頃には陸奥もノリノリで、華麗にウインクとピースを決めていた。
「いつか長門が来たら長門に見せるわ。きっと叱ってくれる。そうよ……姉だもの。国民レベルのビッグセブンなのだから……!」
「あらあら。どうかしら? 分からないわよ?」
「ど、どうして?」
まさか長門がどんな艦娘なのか分かっていたりするのだろうか。
「うふふっ。だってぇ、私の姉よ? もーっと積極的かも……?」
「…………くぅっ」
耳元で囁かれてしまう。如月の積極性に似たものがあるが、駆逐艦と戦艦では……なんというか、物量だけでなく、あしらいにくさも段違いのように思えた。
誰か助けてほしい。
その願いが通じたのか、工廠の鉄扉を開けてやってきてくれたのは、明石だった。
「あれ? 提督? いつの間に帰ってきてたんです……か?」
「明石! 丁度よかったわ!」
明石は提督と陸奥が絡み合っている姿を見てどう思ったのだろう。一方的に陸奥が絡んでいただけだったが。……というより、イムヤに撮らせた写真も、思惑通りの働きをするものなのだろうか?
必死で手招きして呼び寄せると、まだ呆然としてる様子の明石に陸奥を紹介した。
「こちら鎮守府初の戦艦である……陸奥よ。明石もきっと、興味あると思って」
「えっと……どうも」
明石は提督と陸奥の姿を見て何を言えばいいのか分からなくなってしまっていた。
「よろしくお願いするわね」
陸奥の華奢な手が明石と握手を交わす、が、陸奥は提督に後ろから抱きついたまま離れようとしなかった。
「あと、同じく鎮守府初の伊号潜水艦伊168も」
「イムヤでいいわ。よろしくね」
イムヤが明石に向かって手を差し出す。明石は紺色の水着姿に面食らいながらも応えた。どちらも、駆逐艦に負けず劣らない強い個性を持っているようだった。というより……印象か。
「あーっと……提督、明石はその……別の用事が」
両手を胸の前に持ってきて意味のない指の動きであらぬ方向を指している。完全な混乱状態であるようだった。しかし明石はどんどんと後ずさっていってしまう。
「逃げないで! 助けて」
「おっ、大淀に言いつけちゃいますからぁっ!」
「どうして!?」
耳元で陸奥が含み笑いを鳴らし始めた。楽しいのは陸奥だけだ。間違いない。
明石はそのまま工廠を飛び出して行ってしまった。
「そんな……」
耳元でずっと笑っている陸奥だったが、ひとしきり笑った後、ようやく提督を開放した。
「提督、ごめんなさい。謝るわ。ちょっと意地悪しすぎたわね」
「はぁぁ……」
陸奥に絡まれてからの十分で一日分の体力を奪われたような気がした。
「あなたがどれくらいみんなに好かれているのか、ちょっと知りたくなったのよ」
「どういう意味かしら」
「さっきの娘の反応だけで充分だわ。提督、あなたいい人なのね」
陸奥は小首を傾げるようにして微笑んだ。後ろ手にしてしなを作るのが陸奥の癖なのだろうが、やはり様になっている。非常に美しい戦艦だった。
さらに可憐に一礼をすると、畏まった声で言った。
「艦娘としてこの鎮守府に呼び起こされたこと、非常に嬉しく思うわ。初仕事が出撃じゃなかったというのも、面白かったし。ウフフ」
陸奥はそのまま提督に向かって小さく頷いた。
「あなたの“初めて”の戦艦として全力で戦えること、光栄よ。私に手伝えることがあるなら、いつでも言ってね」
最後のウインクはともかく、なぜそこを強調したのか。
聞く人が聞けば間違いなくドギマギしてしまう色気のある言い方だ。
駆逐艦だけでなく、戦艦さえも個性豊かであるらしい。
艦娘との生活は、やはり全く飽きないものになりそうだった。
毎日が絶対に忙しく、騒がしくなる。
新たな仲間イムヤも加えて一層――鎮守府は…………。
「……イムヤ?」
こちらに背を向けて何かしていた。声をかけても反応がないので少し気になり、肩越しに覗きこんだ。工廠のライトが影を作って、イムヤの持っていたスマフォ周りが暗がりになったことで気付かれる。
「はっ!」
「使いこなしているようね」
「あ、遊んでたんじゃないからね!?」
「別に怒っているわけじゃないのよ。ただ……」
「ただ……?」
「艦娘と“現代”は……別に切り離さなくてもいいのかも……知れないわね」
提督はそれだけ呟いて、イムヤに言った。
「もしそれの調子が悪くなったりしたら私に言って頂戴。分からないことばかりだろうから」
「分かったわ。司令官が言うなら……そうする」
「あとひとつだけ聞かせて。それ、誰かから貰ったもの?」
心当たり通りなら……そのスマフォは……。
「ううん、落ちてたの。あっちの方で」
建造ドックの方を指して言うイムヤ。それで興味を惹かれて使っていたということらしい。
最後に建造ドックに入って、スマフォを持った人間とは……あいつしかいない。『携帯をなくした』と言っていたのを思い出す。
「そう……まあ……仕方ないわ。とにかく、何かあったら私に任せて」
恐らく電池切れが起こり、動かなくなったら持ってきてくれるはず。そうすれば、同じ製品の新品と交換してあげようと思った。何故なら、あれを落とした本人が一番困っていそうだから。
「カメラ……なのよね?」
後ろから陸奥が問いかけるが、その説明は省きたかった。
「その辺りは、これから時間を掛けて知っていきましょう。今は、私も執務に戻りたいから」
二人を大淀と会わせて寮に案内させよう。やることは沢山あるのだった。
3
明石と艦娘、そして妖精たちに鎮守府の修繕を頼んでいた提督は、その日は一日中外での作業に追われた。工廠で陸奥たちと戯れていたのも束の間、日中の全てが潰れてしまった。
妖精と明石は鎮守府の設計を熟知していて、こういった事態には土木建築業者顔負けの活躍を見せる。
それに……妖精の手に掛かれば、建造と同じ要領のカーテン一枚隔てるだけで、人間がやるよりも数千倍早い時間で建物をも組み上げてしまう。明日には鎮守府の本棟も復興し、執務室に戻ることもできそうだ。後の損害は修繕費用と資源と相談しながら、明石指揮の下で少しずつ直していけばいい。
どこかの誰かが戦艦を作るために消費していた資源量を思うと、財政難の市町村並みの修繕速度になってしまいかねなかったが……。時間はある。のんびりやっていこう。
残暑の頃、提督はとてもじゃないが制服姿で居られずに、トレーニング用の恰好で帽子は木綿のバンダナという、軽やかで涼しげな恰好へと変貌していた。提督のそんな姿を見ることもまた初めてだった艦娘たちも、最初の内は遠目に見ているだけだったが、綾波を始めとする何人かが差し入れの麦茶を持っていくなどのきっかけを経て、徐々に慣れ親しむことができていた。
艦娘たちは任務もあり、ローテーションも組まれていたため顔ぶれは頻繁に変わったが、提督はずっと鎮守府のために身を粉にしていた。
夕方、藍色の帳が空に降り始めた頃、妖精が笛を吹いてお得意のカーテンを宙に舞わせたのを見て、ようやく提督も一日の終りを実感した。これで一晩経てば、鎮守府本棟は再建だろう。
工廠にあったクレーンを使って一時的に空き地へ集められていた瓦礫に座り込んだ。夏場の一日続いた肉体労働の疲労は正直言って尋常ではなく、既に猛烈な眠気に襲われていた。
「提督? お疲れみたいですね」
大淀が隣に腰を下ろした。
大淀には、被害の無かった重巡寮の一室で通常業務を最低限の範囲で任せていた。一日、提督の代理を務めてくれていたのだ。
「ええ……もう……このままここで寝てもいいくらいよ……」
言いながら、堅いコンクリートの上に寝転がってしまう。自分が脱ぎ捨てていた服を枕に、目も閉じてしまう。
「ダメです。風邪を引いてしまいますよ」
「眠るところ……無いわ……。考えるのを忘れてた……」
執務室か、そこに隣接された空き部屋で眠ることがほとんどだったし、鎮守府内に一応建てられていた一軒家に帰宅する習慣もなかった。何より、空襲で木っ端微塵になっていたし。
「そういう時に大淀が居るんです。間宮さんがお座敷を貸してくれるそうですよ。夕食と朝食も付きます。また本日に限り、お代はいただかないそうです」
「……そう」
寮の部屋ではなく敢えて間宮というところに、思いやりを感じた。あそこは、提督と艦娘の中立地帯だ。言い方は物騒だが、とにかく艦娘たちに余計な気遣いをさせたくなかったのだろう。また、逆に艦娘たちが疲れている提督を煩わせないように。
「なら……お邪魔しようかしら……」
提督はのっそりと身体を起こして、一呼吸置いて立った。
「司令官! 間宮さんが待ってるって言ってたぜー!」
通りがかった特型姉妹の中から、深雪が手を振っていた。白雪は肝を冷やしていたようだが、提督も手を振り返したのを見て、彼女も小さく一礼していた。
「きっと今日は、みんな疲れているはずですから。間宮さんも繁盛しそうですね」
「そこに私が行ってしまったら……やっぱり迷惑じゃないかしら」
「あぁ……それは、きっと大丈夫ですよ。甘いものでも食べながらなら、もっと仲良くなれるはずです」
最初だけ大淀が言い淀んだ理由は分からなかったが、疲れている提督は特に気にしなかった。
「いいわね……甘いもの……」
亡霊のように呟いた提督が歩き出したのを見て、大淀は提督の軍服を持って追いかけていった。
――
「みんなー! 司令官呼んでおいたぜー!」
深雪が姉妹と共に元気よく飛び込んできたが、ほとんど全員から『シー!』と怒られ、吹雪たちに連れられていった。
「ごめんごめん……! 悪かったって」
そこに間宮が姿を表し、手を叩いて注目させた。
「大淀さんから秘密通信がありました。提督とこちらに向かっているそうです。準備はいい?」
『はーい』という声と『了解』の声が交じり合った大勢の声。
――これだけの娘たちが提督のために集まってくれましたよ。
間宮は満足気に笑みを零す。
本日最後の遠征に出ている娘たちの中にも、手紙を残していった娘もいる。
みんな提督ともっとお話したかったのだ。
提督は自分たちのために必死に戦ってくれた。そのことが余計に拍車をかけたのだ。
きっと提督自身が思っているよりもずっと、艦娘たちはしっかりと見抜いている。
自分たちが戦う時、長い間一緒に過ごした“海”に願うように。
海が教えてくれる。暖かくて、優しくて、安心できる場所を。
それがきっと――“ここ”なのだ。
提督があらゆる全ての敵から守り抜いてくれた、この鎮守府なのだ。
――さあ、提督。みんなで作った食事がお待ちですよ。
Fin.
お読みいただき誠に恐縮、ありがとうございました!
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※第一幕の前書きに記載した通り、他サイト(Pixiv)からのマルチ投稿作品です。同名アカウントにて活動しております。
※上記サイトにて長編小説として投稿したものを、当サイトの投稿形式に合わせる形で分割したものです。不自然な箇所が残ってしまっている可能性もあります。その際はお教えいただければ幸いです。
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