斯くして、一色いろはの日常は巡りゆく。 (あきさん)
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その場所にも、一色いろはの居場所はある。

  *  *  *

 

 六月の終わり。

 うっすらと汗ばむくらいだった気温はさらに上昇し、空から照りつける日差しは道路のアスファルトをじりじりと焦がす。

 手にしたハンカチでときどきおでこの汗を拭きながら、今となってはすっかり通い慣れた道をぺたぺた歩く。視界の先はもやもやと揺らめき、サンダルを履いたわたしの足元でも無機質なコンクリートが確かな熱を放っている。

 今日は一段とあっついなぁ……。

 炎天下のせいか、普段よりも目的地までの距離が長く感じてしまう。身体と心の不快指数が天井なしに上がり続けていく中、黙々と足を進める。

 時間にして、駅から数分。わたしの体感では、数十分。ようやく見えてきた一角に、ふーっと大きく息を吐いた。

 駅前の大通りの喧騒から外れた、閑散とした住宅街。夜になるとどこか寂しげな感じを醸し出すこの雰囲気が、わたしは結構好きだ。遠くに見えるコンビニの看板も、塗装が剥げて少し錆びている標識も、今はもう頭にはっきりと焼き付いている。

 そのまましばらく歩いて、すっかり通い慣れた一軒家のインターフォンを一切の躊躇なく押す。直後、玄関の戸を挟んでどたばたと騒がしい物音が耳に届く。

 あー、小町ちゃんだなこれは……。

「いろはさん、いらっしゃいませー!」

「小町ちゃん、こんにちはー」

 勢いよく扉がばんっと開かれ、小町ちゃんがにこぱっとした笑顔でわたしを迎えてくれた。

「ささ、あがってください」

「はーい、お邪魔しまーす」

 中に入ってサンダルをよいしょと脱ぐと、すぐに小町ちゃんがスリッパを出してくれた。ほんとよくできた妹さんだなぁ……。でも将来そんなこの子はわたしの義妹に……や、さすがにまだ気が早すぎるか。

「兄ならたぶん部屋で寝腐ってると思いますので、叩き起こしちゃってください!」

「あ、あはは……」

 叩き起こしてもいいけど、怒られるのはわたしなんだよなぁと苦笑しつつ。

 気を利かせて一階に残ってくれた小町ちゃんに促され、とんとんと階段を上る。一段、また一段と上るたび、わたしの弾む心を表すかのように軽快な足音が床板を鳴らす。

 二階に上がって目的の場所へ一歩、また一歩と近づくたび、一段、また一段と、胸のどきどきが早まっていく。

 そうして、猛暑の中を潜り抜けてやっと見えた扉。わたしのほっぺたはふにゃんと緩む。

 髪とか大丈夫かな……? メイクや服も変じゃないかな……? 恋する乙女特有の不安に陥りながらも、その隔たりの前に立つ。

「せんぱぁ~い、来ましたよ~」

 けど、扉の奥から返事はない。わたしのテンションは一段階落ちた。

「せんぱーい? 来ましたってばー」

 併せてこんこんとノックしてみたものの、やっぱり返事はない。わたしのテンションはさらにもう一段階落ちた。

 あー、朝まで本読んでたりしたパターンかなこれは……。しょぼくれつつ、ドアノブに手をかけそーっと扉を開く。すると、空いた隙間からひやりとしたエアコンの冷風が流れてきた。他には机に突っ伏して寝ているらしき先輩の姿。

 ……風邪引いてないといいんだけど。

 ドアを開けたことでできた小さなスペースにんしょっと身体を滑り込ませ、そろりそろりと近づく。さてさて遅くまで一体何読んでたのかなーと投げ出されたままの手元を見ると。

「……せんぱい、お疲れさまです。あと、ありがとうございます……」

 わたしの目に飛び込んできたのは、二つ。

 一つは、自分の受験用に広げられたノート。克服しようとしているのか、文系科目だけじゃなく苦手な数学関係の参考書も一緒に積み重ねられていた。

 そしてもう一つは、わたしのためにまとめたと思われる、二年次の期末試験対策用のメモ。わざわざ引っ張り出してきたのか、せんぱいが当時使っていたらしきノートもいくつか見受けられる。

 ベッドの隅に丸まっていたタオルケットをわたしは手に取り、それを優しく、せんぱいの肩にかけた。

「……寝顔、可愛い」

 普段からは想像もつかないほどあどけない顔立ちに、思わず手を伸ばしてしまう。……なんかこうやって見ると、せんぱい、子供みたい。

 ……頭、撫でちゃおっかな。

 あーでも、でもでも……!

 ううっ……。

 ……だめだめ! 今日は我慢するの!

 甘い誘惑にふるふるとかぶりを振って、机のある側とは反対側の壁に向かってとてとて歩く。そうして壁に立てかけられていた折りたたみ式のテーブルの脚を持つと、そのままゆっくりと床に着地させた。

 さてさて、お次はっと。

 肩にかけっぱなしだったショルダーバッグを床に置き、持参した教科書やノートと筆記用具を中から取り出し、テーブルの上にぱたぱたと広げて準備を整える。

 そこでわたしは一旦振り向き、猫背のちょっぴり頼りない背中を名残惜しむように、じーっと見つめる。

 ……やっぱり甘えたいなぁ。

 ちょ、ちょっとくらい……。

 いやいや、我慢我慢……。今日は勉強するために来たんだし……。

 ……よしっ、頑張ろっと!

 雑念を振り払い、改めて意気込んだわたしはペンをぐっと握った。

 

 時計の針はかちこちとした音を刻み、冷たい風を吹きつけるエアコンは物静かに機械的な音を立てている。二つの規則正しい環境音に挟まれながら、わたしは文字をノートに書き連ねていく。

 ここで勉強を始めてから、一時間くらいは経っただろうか。さすがに集中力も切れかけてきたので、組んだ両手を上へ伸ばし、んんっと背伸びする。

「ふいー……」

「ん……」

 溜まった疲れからつい吐息をこぼすと、それに反応したのか、背後から呻く声が聞こえた。ずっと聞きたかった声にわたしはノータイムで振り返り、意識も視線も全力で注いでしまう。

 のそっと上体を起こし、気だるげにせんぱいが首をこきこき動かす。そりゃあんな体勢で寝てたらなぁ……。

 数秒の間の後、わたしに気づいたせんぱいはごしごしと瞼をこする。

「……ん、ああ、もう来てたか。悪い、完全に落ちてた……」

「おはようございます、せんぱい」

 起きるには起きたんだろうけど、まだ相当眠そうだなぁ。目は半開きだし、まばたきはゆっくりだし。

「……ちなみに、今何時だ?」

「もうすぐお昼ですよ」

「マジか……。その、すまん……」

「あー、気にしなくていいですよ」

 ……や、ほんとはすっごい寂しかったけど。今もすっごい甘えたいけど。でも寝落ちしちゃうくらい頑張ってたせんぱいを見たら、わたしももっと頑張らなきゃって思ったから。

 今すぐ飛びつきたい衝動をなんとか抑え、すっくと立ち上がる。

「せんぱい起きましたし、先ご飯作っちゃいますね」

「ん、頼む。……いつもありがとな」

「いえいえー。じゃあ、キッチンお借りしますねー」

 せんぱいと付き合い始めてからはわたしたっての希望で、こうしてよくご飯を作っている。お休みの日にここへ来た時もそうだし、学校がある時だってちょくちょくせんぱいの分のお弁当も作ったり。

 全然やる気が出なかった料理も、おいしそうに食べてくれるせんぱいを想像するだけで今は途端にやる気になってしまう。ほんと、恋の魔力って不思議。

 ふんふんと上機嫌で一度一階に下り、リビングへと繋がるドアを開く。

「小町ちゃんー」

「およ、時間的にアレですかな?」

「うん、またお願いしたいんだけど……」

「了解です! 小町にお任せあれー!」

 わたしの意図を即座に汲み、びしっと敬礼する小町ちゃん。う、うーん……やっぱりわたしと似てるよなぁ、そういうとこ……。

 

  *  *  *

 

 もうすっかり使い慣れた二階のキッチンで、てきぱきと調理を進めていく。

 今日作るものは、冷やし中華。季節的にもちょうどいいし、それが一番せんぱいに喜んでもらえそうだったというのが理由だ。……冷蔵庫の中身的に。

 小町ちゃんに具材を切ってもらっている間、わたしは調味料を混ぜ合わせてタレを作る。とんとん、かちゃかちゃと、二つの物音が楽しげに響く。

 そうして作ったタレをスプーンでひとすくい、小皿にとってぺろりと味見してみる。……わたし的にはこれでいいんだけど、小町ちゃん的にはどうだろう。

「ごめん小町ちゃん、お願い」

「あいあいさー!」

 小皿を差し出し、今度は小町ちゃんに味見してもらう。

「……どうかな?」

「んー、もうちょっと濃くしたほうが兄好みかなーと」

「はーい、かしこまりですー」

 これが、わたしの料理修行に小町ちゃんが必要な理由。

 基本的にせんぱいは何を作ってもおいしいって言ってくれるし、残さずに全部食べてくれる。だから、普通に料理を作るだけならわたし一人で充分。でも、わたしはせんぱいの好きな味が知りたい。すごく些細なことも一つ残らず、全部、知りたい。……恋する乙女の舞台裏を見せるのはなんか恥ずかしいから、せんぱいには内緒だけど。

 ほんのちょびっと味を濃くしてから、もう一度。たぶん、このくらいで合格点をもらえるはず。

「これでどう?」

「おお、ばっちり……」

 やっぱり。小さくて大きな正解に、自然と口元が綻んでしまう。

「短い時間でここまでとは……やりますねー、いろはさん! あー、ほんとお兄ちゃんにはもったいないくらい素敵な彼女さんだなぁ……」

 …………。

 ……せんぱいの、彼女。

 わたしが、せんぱいの、恋人……。 

「……ふへへ」

「いろはさん、いろはさんや」

 意識の外から聞こえてきた小町ちゃんの声に、はっと我に返る。

「……わたし、今、顔に出てた?」

「とっても幸せそうな顔をしておられました」

 またやらかした。一体これで何回目だ。

 反省ついでに、両手で自分のほっぺたをあうあうぺちぺち叩きながら数えてみる。

 一、二、三、四……。

 ……え。

 毎週毎回とか……。

 …………。

「待って待って待って待って待って」

 思わず声が出た。声に出た。ああもう恥ずかしい泣きたい穴があったら今すぐ入りたい飛び込みたい潜りたい埋まりたい。

 あまりの失態の多さに、いやいやうりんうりん身体をくねらせていると。

「おうふ……」

 ふと聞こえてきた、妙な吐息交じりの声。不思議に思い瞳をちらり動かしてみると、小町ちゃんはおでこに手を当てて身体を後ろにのけ反らせていた。心なしか、くらくらしているようにも見える。

「ど、どうしたの……?」

「ああいえ、お気になさらず。兄と同じ気持ちが小町にも芽生え始めてきたってだけですから」

「えっ、せんぱい? ……えっ? どういうこと?」

「いろはさん」

「うん?」

「将来はぜひとも小町のお義姉ちゃんになってください」

「へ……? あ、うん……」

 わたしとしてもそのつもりではあるけど……って、そうじゃなくて。

 さっきの言葉の意味を聞こうと思ったものの、話はおしまいとばかりに小町ちゃんがぐいぐい背中を押してきた。

「ささ、この調子で残りも仕上げちゃいましょう」

「う、うん……」

 はぐらかされた挙句、無理やり話を流された。

 ……なーんか、なーんかなぁ。

 

 小町ちゃんに頼まれ、一度キッチンを離れて自室待機しているせんぱいを呼びに行く。わたしがいない間に顔くらいは洗ってくれただろうから、二度寝してたりはない……はず。

 廊下へ出てすぐ、実質目の前に近い扉を開き、空いた隙間からひょいっと中を覗き込む。 

「せんぱーい、起きてますかー? ご飯できましたよー」

「おお、今行くわ」

 わたしの声に、せんぱいが読んでいたラノベをぱたんと閉じる。……なんかこうしてると新婚さんみたい。今はまだ無理だけどいつかは……なんて。

 幸せな未来を勝手に描き膨らませつつ二人揃ってキッチンへ戻ると、テーブルの上に移された冷やし中華を残して小町ちゃんはいなくなっていた。

 ……いつもありがとね。

 毎回気を遣ってくれる小町ちゃんに心の中でぽしょっとお礼を言った後、わたしは恋人と二人きりの時間をめいっぱい楽しんだ。

 

  *  *  *

 

 窓から降り注ぐ日差しがいっそう強まった、昼下がり。

 お昼ご飯を食べた後は、中断していた試験勉強を再開した。たださっきと違うのは、せんぱいがすぐ後ろにいることと、そのせいでわたしの集中力が散漫になっていることだ。

「……さっきからどした」

「あ、いえ、なんでも……」

 ベッドのフレームに寄りかかってラノベを読んでいたせんぱいが、定期的にちらちらと向けられるわたしの視線に訝しむ。

 ……甘えたい。

 甘えたい甘えたい甘えたい甘えたい!

 ハグもキスも何もかも足んない! せんぱい成分が圧倒的に足んない!

 ……でもでも勉強がぁ。テストがぁ。

 ううっ……。

 内心でうだうだ葛藤するわたしを見かねてか、せんぱいがはぁと一つため息を吐く。おっ、もしかして……?

「……いろは」

「はい!」

「手、止まってる」

「……はい」

 鬼! 悪魔! わたしが今どんだけ甘えたくなってるか知ってるくせにー! ……けど、自分で決めたことだしなぁ。

 仕方なく、しぶしぶ諦め、手元の教科書とノートに意識を戻す。表では頬を、裏では不満をぷっくり膨らませつつ。

 

 かちこち。

 かりかり。

 ぺらっ、ぺらっ。

 

 時計の針の音、わたしがペンを走らせる音、わたしとせんぱいがページをめくる音。規則的な環境音と不規則な物音が、エアコンの冷風に包まれた部屋の中で反響する。

 つい浮気しがちな集中力ながらも、一ページ、一ページと進めていく。ゆっくり、確実に、試験範囲の終わりまで近づいていく。

 ……よしっ、もうちょっと。ようやく見えてきた終わりに、あと一息と鼓舞してラストスパートをかける。

 

 かちこち。

 かりかりかりっ。

 ぺらっ……。

 

「終わったー! ……あれ?」

 なんとかゴールまで辿り着いた瞬間、喜びと開放感のあまり叫び声をあげてしまった。けど、跳ね返ってきた音はわたしの声だけで。

 不思議に思い、はてと視線を後ろに向けてみると、そこには。

「…………」

 くてりと身体を崩れさせ、片手に本を携えたまま、くうくうと寝息を立てているせんぱいの姿があった。寝るつもりはなかったことを体勢が物語っているくらい、明らかな寝落ちだった。

 ……これは、もしかしなくてもチャンスなのでは。

 手にしていたペンをていっと机の上に転がし、足音を殺して近づいてみる。 

「せんぱーい……?」

 距離を大きく詰め、耳元で小さく呼びかけた。けど、反応はない。わたしのテンションは一段階上がった。

「せんぱぁ~い……?」

 ちょんちょんと肩を突っつきながらもう一度呼びかけてみたものの、案の定せんぱいから反応はない。わたしのテンションはさらにもう一段階上がった。

「……やっぱり寝顔、可愛い」

 視界いっぱいに映る、二回目のあどけない寝顔。……あーもうたまんないっ!

 これはしょうがない、これはしょうがないとよくわからない自己暗示をかけつつ、我慢できなくなったわたしはおそるおそる手を伸ばす。

 ぷにっ。

 ……わー、ほっぺた柔らかいなぁ、せんぱい。

 つんつん。

 ぷにぷに。

「……ん」

 くすぐったいのか、指の感触から逃げるようにせんぱいが反対側へ顔を背ける。……ほんと可愛いなぁ、もう!

 わたしはたまらず、逸らしたことで大きく広がったその部分へ唇を落とす。かすかな水音を伴って触れた直後、胸の奥からじんわりと愛情が込み上げ、溢れ出してきて。

「大好きですよ、せんぱい……」

 無意識に、完全に緩みきった口元から、そのままこぼれていった。

 わたしはせんぱいの隣に並んで座り、近くに丸めてあったタオルケットをよいしょと掴む。そしてそれを、優しく、包み込むように、自分とせんぱいの身体にかける。

「えへへ……」

 

 心が満たされていくのを感じながら、わたしはゆっくりと瞼を下ろし、目を閉じた――。

 

 

 

 

 




本編から引き続きご覧下さった方、お久しぶりです。
初めてご覧下さった方は、初めまして。あきさんと申します、どうぞお見知りおきを。

いろはの誕生日に合わせて投稿しました。
この平和で幸せな感じ、久々。超久々。
不定期ではありますがまたふらっと投稿しますので、気長にお待ちくださると幸いです。

ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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どこまでも、雪ノ下陽乃はかき乱してくる。

  *  *  *

 

 からからとした暑さが続く、夏の日のこと。

 期末試験は無事に終わり、いい結果も出せた。しかし、これから先を考えればまだまだ足りていない。テスト明けの開放感に油断せず、わたしは今日も今日とて生徒会室で自習に励んでいる真っ只中。その横では、数学の特別講師をしてくれている陽乃さんが読書に勤しんでいた。

 ……でも、こっちにしょっちゅう来てて大学大丈夫なのかな。や、余計なお世話かもだけど。

「いろはちゃん」

「あ」

 つい脱線した思考のせいで、ケアレスミスをやらかしていた。ていうかなんで本読みながら指摘できるの……。どんだけ視界広いんだこの人……。

「さてはなんか違うこと考えてたなー?」

 鋭い。怖い。

 陽乃さんに隠し事が通用しないのは、相変わらずだ。毎回毎回、なぜか即バレする。……おかしい、適当に誤魔化したりはぐらかしたりするのは得意だったはずなのに。わかりやすくなったのかな、わたし。

 だとしたらせんぱいと付き合い始めたからかもー、なんて考えていたら。

「あ、今比企谷くんのこと考えたでしょ」

「ううっ……」

 わかりやすいどころか露骨だった。ほっぺたへにゃへにゃになってた。そんなわたしを見て、陽乃さんがくすくすと楽しげに微笑む。

 陽乃さんだけじゃなく、最近は小町ちゃんにもこんな感じでやたらといじられる。昔はわたしもよくせんぱいをからかってたから、嫌ではないけどいろいろ複雑だったり。

 わたしは赤くなった顔を冷ますように、ひんやりとした警戒色の缶を傾ける。

 瞬間。

「……で、その比企谷くんとはどこまでいったの?」

「んぶっ」

 陽乃さんが投げた言葉の爆弾に思わず吹き出しかけた。いきなりなんてこと聞くんだこの人は。

 ちろりと軽く睨んだが、当の陽乃さんは口元を手で隠して笑いをこらえていた。むー……。

 それにしても、なんというか。

 大抵ネタにされるのは、せんぱいが絡んだ時ばかり。ふと考えた時もそうだし、なにげなく思い出した時だって。実際に隣にいる時とか、甘えたくなった時とかも。小町ちゃんいわく、その様子が見てて微笑ましいらしい。あと、危ない人みたいでちょっと心配にもなるだとか。

 ……まったく、わたしが一体何したって言うんだ。妄想してうっかりやらかすのがせいぜいなのに。

 胸の内だけでぷりぷり怒っていると、陽乃さんが読んでいた本をぱたんと閉じた。そして、ずずいと顔を寄せてきて。

 そのにんまりとした表情から察するに、尋問は続くようだ。うえー……。

「ねぇ、どうなの?」

「どうって……」

 言われても。

 ……うーん、困った。

 言葉を詰まらせているのがじれったいのか、陽乃さんがわたしの頬をうりうりと指で押して催促してくる。

「ほらほら、包み隠さずお姉さんに話してみなさい」

「え、ええっと……」

 どうしよう、と一瞬目を泳がせたものの。

 進路について平塚先生に相談があるらしく、今日せんぱいは別行動。つまり、ここにわたしの味方はいないわけで……。

 そもそも、こうなった時の陽乃さんは絶対逃がしてくれない。どうせ逃げたところで次来た時に改めて聞かれるだけだ。しかも質問が増えてたりとおまけつき。

 仕方なく抵抗を諦め、もにゅもにゅと唇を波打たせつつ体験談を紡ぐ。

「…………き」

「き?」

「……き、きっ、……き、きす? まで?」

 恥ずかしすぎてやたらと疑問形になってしまった。死にたい。

 スカートの裾をぐっと握り、叫びながら逃げ去りたい気持ちを必死にこらえていると。

「あっははははははっ!」

 お腹を抱えて大爆笑された。死にたい。

「そ、そんなに笑わなくてもいいじゃないですかー!」

 ぺっしんぺっしんわたしの肩を叩き、陽乃さんが抱腹絶倒する。素直に言っただけなのに、なんでだ……。

 ひとしきり笑い終えると、陽乃さんが目の端に溜まった涙を拭う。一体何がそんなに面白かったんですかね……。

「いやーごめんごめん。意外とウブなんだねぇ、いろはちゃん」

 陽乃さんの言葉に、ほっぺたに溜めていた空気がぷしゅっと抜けた。

 ようやく理解が追いついたのは、燃え上がりそうなくらい顔が真っ赤になってからだった。

「な、なな……」

「わたし、もっとぐいぐいいってると思ってたからさ。もうてっきり……」

「は、はるさんっ! ストップです!」

 突き出した手をぶんぶん振って、声の先を制止する。それ以上具体的に言われたらせんぱいとの妄想が捗りすぎて最後まで止まらなくなりますごめんなさい……って、そうじゃなくて!

「やーん、ほんと可愛いんだからー」

 赤面したままあわあわ戸惑っていると、陽乃さんががばっと抱きついてきた。たまらず、といった具合だ。何がたまんないのかはわかんないけど。

「……もう」

 奉仕部とのことが片付くまでは、散々振り回してきた陽乃さん。でも、打ち解けてからはずっとこんな感じだ。や、せんぱいとのことをオモチャにしてくるところは相変わらずだけど。

「じゃ、そんないろはちゃんにお姉さんからアドバイス」

「ふぇ?」

 間の抜けた声をあげたわたしを抱きしめながら、陽乃さんが耳元でこしょこしょ囁く。

「……チャンスがあったら、いろはちゃんからもいかなきゃだめだよ」

「あう……」

 しゅんと肩を落とすと、陽乃さんが吐息交じりに笑った。

 お互い、今より大人になれない理由は違うだろうけど。

 わたしの場合は、単純に怖い。痛そうだからだとか、満足してもらえなかったらだとか、そういうのは二の次で。

 

 たぶん、実際にその時がきたら、わたしは。

 嬉しくて嬉しくて、幸せで幸せで、どうしようもなくなる。身体も、心も、やっと全部せんぱいのものになれたって。

 だからこそ、怖い。わたしはまだまだ精神的にも子供で、ようやく一人でなんとか立てるようになっただけで、まだまだ独りでは歩いていけないから。

 けど、したくないわけじゃない。

 むしろ、いっぱいしたい。

 たくさん、愛されてるって実感したい。

 

 ……でも。

 せんぱいは、どう思ってるんだろう……。

 

 視界の端のほうから、陽乃さんのとぼけたような声が聞こえた気がした。しかし言葉の意味を理解する前に、わたしの頭の中を通り抜けていってしまった。

 

  *  *  *

 

 一日の学校生活が終わりを迎えるまで、あとわずか。人気は次第に薄れていき、遠ざかっていく喧騒ばかりが徐々に増えていく。

 そんな中、わたしは生徒会室の窓から薄く滲み始めた空を一人眺めていた。

 正直、チャンスなんてわざわざ作らなくても充分ある。ぶっちゃけ、これまでに散々あった。でも、今の距離以上をわたしが求めなかった。お互い初めての恋人だからといって、臆病になりすぎてるのかもしれないけど。

「……やっぱり済ませといたほうがいいのかなぁ」

 ファーストキスの時は、自然と。だったら、初体験の時も……なんて。や、さすがに夢見すぎでしょ、わたし。

 自分のロマンチストぶりに自嘲のため息を吐いていると。

「悪い、待たせた」

 がらりと扉が開き、待ち望んでいた恋人が姿を見せた。ただ、わたしの変化にはすぐ気づいたらしく。

「……どした」

 中に入るなり、頭にぽんと優しく手を置いてくれた。……ほんと、ずるいなぁ。わたしなんかより全然あざとい。

 わしゃわしゃと撫でられる感触に、頬が緩む。でも、消えない疑問は心に不安の風を吹かせたまま。それを裏づけるかのように、大好きな温もりに確かめたくなって。

 恋人の背中に腕を回し、身体を前に倒して押しつける。

「せんぱいは……」

「ん?」

「……わたしに、どきどきしてくれてますか?」

 直後、頭を撫でていた腕がぴたりと止まった。

 言葉を待つ間の沈黙が、すごく痛い。どくんどくんと、心臓の鼓動が早くなっていく。唇がふるふると震え、隙間から吐息だけが漏れる。

「お前が何を心配してるのかは知らんが……」

 ようやく聞こえた声に瞳を動かし、上目遣いでせんぱいの顔を覗き込む。

「……少なくとも、好きじゃなかったらこんなことしねぇよ」

「ふあ……」

 空いていた左手をわたしの腰に添え、せんぱいがやんわりと抱き寄せてきた。完全に隙間が埋まり、お互いの身体同士が密着する。同時に、止まっていた右手が再びくしゃくしゃと動き始める。

 

 これやばい……超好きかも……。

 

「……もっと」

 甘えたい気持ちがおねだりとして、無意識に口からこぼれた。

 言葉は何も返ってこないけど。

 わたしのわがままに対する返事は、優しい手つきが静かに物語っていた。

 

  *  *  *

 

「……で、なんであんなこと聞いたんだ」

 二人並んで帰路につく途中、隣で自転車を押しつつせんぱいが尋ねてきた。やっぱり気になっていたらしい。しかし内容が内容だけに、わたしは答えあぐねてしまう。

「その、なんと言いますか……」

「お前にしては歯切れ悪いな」

「だって……」

 せんぱいとしたいとか、したくないとか。それについて悩んでたなんて、恥ずかしすぎてすごく言いにくい。絶対気まずくなるし。でも、隠し事はしたくないんだよなぁ……。

 葛藤に苛まれ、あっちこっちに視線が泳ぐ。口があうあうと何度も言い淀む。

「まぁ、そんな言いにくいなら無理には聞かんが……」

 そんなわたしの様子を見て、せんぱいの表情がかすかに歪む。

 ……えーい、一色いろは! 既に今まで散々やらかしてるだろ! 何をいまさら! せんぱいに心配かけるよりは全然マシでしょ!

 一種の開き直りをして、陽乃さんとの一幕を説明しようと改めて口を開く。

「えっと、はるさんと話してて……」

「待て」

 だが、なぜかせんぱいがわたしを遮った。そして、おでこを手で押さえながら盛大にため息を吐く。……え、なんで?

「もしかしてお前、チャンスがどうとか言われなかったか?」

「……へ?」

 的を射た予想外の言葉に、素っ頓狂な声が抜け出てしまった。その様子にせんぱいは何かを察したらしく、呆れ交じりに続ける。

「あのな、いろは」

「は、はい」

「……俺も言われたんだよ、それ」

 思わず絶句した。

 ということは、つまりあれか。

 たきつけるためか。またか、またなのか。

 今回はからかい半分、面白半分的なやつか。

「…………」

「…………」

 わたしが赤裸々な告白をする必要もなく、気まずい沈黙が流れた。

 やがて、時間差で、わたしの顔はぼしゅっと火を吹いた。

「あああぁぁ……」

「え、な、なに」

「わ、わたし、また振り回されただけ……」

 陽乃さんがくすくすと笑うイメージが、即座に脳裏に浮かんだ。脱力し、膝から崩れ落ちそうになる。真剣に悩んで必死こいてバカみたいじゃないですか、わたし……。

 やり場のない気持ちを晴らすように、せんぱいの左腕にしがみついてがくがくと揺さぶる。

「せ、せんぱいぃ……」

「おわっ、ちょ、とりあえず落ち着け」

 

 どうやら、わたしがまた一つ大人になるのはだいぶ先の話みたい――。

 

 

 

 

 




いろはすとはるのんの絡みを書きたくて、日常に落とし込んだお話でした。

以下、告知です。
「やせん」というサークル名義で、夏コミの参加を予定しています。
俺ガイルの合同誌なのですが、「一般」と「R-18」の二冊のうち、私は一般組のほうで参加させて頂きます。もちろん、ヒロインはいろはすです。
お話の内容としては、雰囲気的に本編のアナザーストーリーに近い感じかなーと。繋がりはありませんけども。
まだ合否すら出ていませんので、詳細は追々という感じで。
落ちた場合は、別のサークルさんのスペースに置かせて頂く予定です。今のところは。
それと予定についてはツイッターで呟くと思うので、宜しければ。

それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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唐突に、相模南は尋ねてくる。

  *  *  *

 

 今期の生徒会活動もほとんど終わり、残すは終業式のみとなった。けど、わたしには自習という日課がある。そのためだけに今日も生徒会室目指し、廊下をとてとて歩く。

 ただ、最近ちょっとした悩みを抱えていたり。去年は確か、誰とどこに行こうかなだとか、何して遊ぼうかなとかだったっけ。でも、今年は行く相手も何をしたいかも既に決まっていて。

 お祭りに花火、もしかしたらお泊りも。初めてできた彼氏と過ごす夏は、今から楽しみでしょうがない。

 だから、わたしが現在頭を抱えているのは違うタイプの困りごと。

「…………」

 まただ。一体なんなんだろう。

 近頃、やたらと妙な視線を感じる。特にせんぱいのクラスに寄った帰りが一番酷い。生徒会室や職員室に向かう時。階段や廊下、果ては気分転換のためにベストプレイスへ行く時まで。そして大抵は、わたしが一人の時。

 当初はあまり気にならなかったが、こうも毎日続くとさすがに居心地が悪くなってくる。……今日、せんぱいたちに相談してみよっかな。

 止めていた足を再び動かし、いつもの場所へ急ぐ。そうして辿り着いた扉を開くと、不在の役員に代わって二人の人物が迎えてくれた。

「よお」

「ひゃっはろー、いろはちゃん」

「こんにちはです、せんぱいっ」

「ちょっとー? お姉さんにはー?」

 自分だけが挨拶されなかったことに対し、陽乃さんがむーっと抗議の眼差しを送ってくる。ふふん、こないだわたしをからかったお返しです。

 とはいえ、やりすぎると後が怖い。これくらいにしとこっと。

「……冗談ですよ。はるさんもこんにちはです」

「よろしい」

 陽乃さんからお許しが出たところで、せんぱいの隣に腰掛ける。いつもと変わらない二人に安心しながらも、ふうと息を吐く。

 ……さて、本題に入らなきゃ。

 机に置いた鞄から勉強道具一式を取り出し、脚をぱたぱたと遊ばせつつ。

「なーんか最近、誰かに見られてるんですよねー……」

 愚痴るようにぽしょり言葉を落とすと、二つの瞳がわたしに向けられた。一方は心配そうに、別の一方は興味深そうに。

「……ストーカーか?」

「あ、いえ、それはないかと」

 わたしが感じている視線の種類は、男子特有のエッチなやつじゃなくて。どちらかと言えば、女の子特有のねちっこい目。悪意とまではいかないけど、それに近い感じのもの。

 根拠なんてない。でも、確信はある。だって、その手の嫌な感情は散々味わってきたから。

「……何かされたりとかは」

「今のところ、特に何も」

 表立った行動はされてないし、実害も受けていない。また、これから起こる気配もない。ただただ、まとわりつくような視線が鬱陶しいだけ。

「そうか……」

 わたしの身に何も起きていないことがわかると、せんぱいの表情が少し和らいだ。その変化を見て、自分のほっぺたもふにゃんと溶けた。

 ……えへへ。とっても愛されてるなぁ、わたし。

「いろはちゃんってさ、比企谷くんのことになるとよく別の世界に旅立つよねぇ」

 くすくすと笑う声にはっとして、妄想に飛びかけた意識を現実に引き戻す。……いけないいけない、またしても失態を晒すところだった。や、もう既にいろいろ手遅れかもだけど。

「はぁ……」

 陽乃さんの言葉に、せんぱいが恥ずかしそうにわたしから目を逸らす。ちょっ、なんですかそのため息は! せっかく恋人が愛情を感じて喜んでいるというのに!

「……それより他にないのか、手がかり的なもんは」

 さらには話題の舵を強引に戻し、わたしのやらかしを完全に流す体勢に入っていた。なにこれ恥ずかしい。別に悪いことしたわけじゃないのに無性に恥ずかしい。

 誤魔化しも兼ね、こほんと咳払いして場を取り繕う。

「……じーっと見られてるだけなんですよね、ほんと。なんかやな感じで」

「嫌な感じ、か……」

「ちなみにいろはちゃん、いつぐらいから?」

「七月に入ってちょっとしたくらいからですかねー」

 順に答えていくと、せんぱいがふむと顎に手を添えて考える仕草をとる。陽乃さんも視線を斜め上へと移し、んーと小さく声を発していた。わたしも二人に習い、ペンをくるくる回しながら一応はと思索を巡らそうとした時。

 ぎしりと椅子を軋ませた音と共に、恋人が重々しそうに口を開いた。

「……一人、心当たりがある」

「奇遇だね比企谷くん、わたしもだよ」

「……へ?」

 そして、陽乃さんが間髪を入れずに声を重ねた。

 遠くにいる誰かを思い浮かべたような表情を見せる二人。だが、何も知らないわたしはぽかんと口を開けることしかできなかった。

 

  *  *  *

 

 翌日の放課後。

 日課をこなすためだけに、変わらず生徒会室へ足を運ぶ。ただ、少しルートを変えて。

 リノリウムの床をとんとんと踏み叩きながら、わたしは昨日の一幕を思い返す。

 せんぱいと陽乃さんが揃って候補に挙げた人物は、自分の予想からそう遠くなく。推測で欠けていた部分は、二人の説明ですとんと腑に落ちた。

 わたしに恋人ができたのが面白くない。なら、普通はせんぱいに敵意が向くはずで。自身の経験からくる直感に正当性のある理由が加わり、視線の主が男子という線はほとんど消滅した。もちろん、完全に消えたわけじゃないけど。

 そして、学校内でのせんぱいの評判は最悪だ。なので、わたしに嫉妬する女の子はほとんどいない。もしせんぱいに恋心を抱く女の子が結衣先輩の他にいたとしても、あの人の優しさを知っているのなら、そういうことは絶対にできないはずで。

 つまり。

 せんぱいに恋人ができたことが、なにより面白くなくて。

 だからといって、直接的な行動に踏み切る勇気はなくて。

 でも、やっぱり気に入らなくて。違う形で屈辱を晴らしたくて。

 疑問や動機の全てが集約して、結びつく人物。

 その正体は――。

「ねぇ」

 呼び止める声に緊張しながらも振り返ると、赤茶色のショートカットヘアをした女の子が、不機嫌そうに立っていた。

 記憶の刹那に覚えのあるシルエット。

 わたしを見つめる嫌悪感に溢れた瞳は、散々感じたものとまったく同じ。

 ――相模南先輩。

 視線の主は、せんぱいたちの予想通りだった。

「……わたしに何か?」

 最初はしらを切り、まずは用件を引き出すことに徹する。

「今、ちょっといい?」

「はぁ、別にいいですけど……」

 首肯すると、声を返さずに相模先輩がくるりと身体を反転させた。どうやら、ついてこいという意味らしい。

 お互いに無言のまま、中央階段から屋上へと続く階段を上る。そこにある扉の鍵が壊れていることは、女の子の間ではわりと有名な話だ。

 まるで、秘密基地へ繋がる細い道を進んでいる気分のよう。

 一段一段踏み進めるにつれ、終点へ近づいていく。外と内を隔てる扉の先にあるのは、開けた行き止まりだ。

 だから、たぶん。

 わたしも、せんぱいも。

 きっと、彼女とこの先深く交わることはないだろう。

 なんとなく、そんな気がした。

 

  *  *  *

 

 立てつけの悪くなった扉をぎっと開くと、空との距離が狭まった。快晴の下、吹き抜けていく風がうっすらと汗ばんだ肌に心地よい。

 そんな中、一歩前を歩いていた相模先輩がわたしに向き直った。

「……あんたさ、あいつと付き合ってんでしょ?」

「はい、今も超ラブラブです」

「いや、別にそこまで聞いてないんだけど……」

 間を空けずに答えると、相模先輩の顔がひくっと引きつった。あれ、おかしいな。一言余計だったか。

「一体、あいつのどこがいいの?」

「……は?」

 わたしはともかく、先輩のことをバカにするとは。ついつい冷たい声が出てしまった。

「な、なによ……聞いただけじゃん……」

 自分で思うより迫力があったらしく、相模先輩がひっと身体を後ろにのけ反らせた。わたしは素直な反応しただけなのに、まったく失礼な。

 ……でもまぁ、ちょっと大人げなかったかも。未だ幼い部分が残る自分に反省しつつ、唇に人差し指を当てながらうーんと小首を傾ける。

「いいところ、ですか……」

 せんぱいの顔を思い浮かべ、頭と心の隅から隅まで確かめてみる。

「……たぶん夜になっても終わらないと思いますけど、それでも聞きます?」

「うちが真面目に聞いてるのに、あんまふざけないでくんない?」

 正直に言ったのに、なぜか怒られた。なんでだ、理不尽すぎる……。

 にしても。

 相模先輩は、どうしていまさらせんぱいのことを知りたがっているのだろう。

「……ていうか、なんでそんなこと聞きたいんですか?」

 切り返すように尋ねると、相模先輩が気まずそうにふいと目を逸らす。……はっ! もしかして泥棒猫!? ……や、ないな。

「別に。あんたなら男に困ることなさそうなのに、なんでよりによってあいつなのか気になっただけ」

 なるほど。話はだいたいわかった。

 一月前にせんぱいと恋人になってから、ちらほらと噂されるようになり。おそらく、それを耳にして。ただあの時と違い、敵意や悪意といった否定的な色にはまみれてなくて。それで、噂の真実が知りたくなって。

 だったら、わたしと相模先輩はこの場において対等だ。

「あの、逆にお聞きしてもいいですかね?」

「……なに?」

「去年の文化祭で、せんぱいは何をしたんですか?」

 わたしの問いかけに、相模先輩が俯きながら唇を噛みしめる。スカートを握る拳は固く、未だ相当に根が深いことがわかった。

 当時は、まったく興味のなかった舞台裏。奉仕部と関わりができるまでは、まったく知らなかった関係図。それを全部語ってはくれないだろうけど、また一つ、せんぱいのことを知るきっかけになれば。

「……うちは、あいつに酷いことを言われた」

 しばらくの空白が続いた後、相模先輩がようやく口を開いた。その声は上ずっていて、かすれ気味で。喉の奥からなんとか言葉を絞り出したような感じだ。

「具体的には?」

「………………言いたくない」

「……そうですか」

 相模先輩のメンタルが弱いのか、せんぱいの言葉があまりに辛辣だったのか。どちらにせよ、相当こたえているらしい。その様子からこれ以上は望めそうにないので、わたしはどうしたものかと吐息を漏らす。

 すると、相模先輩がふと顔を上げた。

「うちは、今でもムカついてる。だから、あいつなんかと付き合ってるあんたも気に入らない」

 わぁー、直球。まぁ、おかげでぴんときたけど。

 わたしは、せんぱいに救われた人間だ。ただ、同じ境遇のはずの相模先輩と決定的に違う部分がある。印象の奥にある認識のズレがあるからこそ、勘違いしてすれ違う。結果、食い違ったまま交わらない。

 きっと、一歩間違えば。あの冬の日に、歯車が噛み合わってなかったら。

 わたしも、相模先輩と同じ思いを抱いていたかもしれない。

 巡り合わせに感謝しつつ、時間差で問いかけの答えを返す。

「……わたしがせんぱいを選んだ理由、でしたね」

 そんなの、決まってる。

 今もずっと追いかけ続けているのも、好きになれたのも。

 知りたくなれたのも、理解したくなれたのも、真剣に向き合えてこれたのも。

 付き合い始めて、もっと大好きになれたのも。

 全部、全部、せんぱいだから。せんぱいだったから。

「たぶん、言ってもわからないと思いますけど……」

 見下すように目を細め、相模先輩がわたしを睨む。でも、そんなのはお構いなしだ。だって、それが真実だから。問いかけに対する言葉は、わたしの嘘偽りない本音だから。

「せんぱいは、自分の手が届くところには誰よりも優しいんです。自分を犠牲にしてまで必ず守ってくれます」

 誰よりも狭い優しさに、何度救われてきただろう。

 誰よりも不器用な手に、何度守られてきただろう。

 わたしには、痛みを一緒に受け止めてあげることしかできないけど。それでも、せんぱいの痛みがちょっぴり和らぐのなら。ぼろぼろになった心と身体を、少しでも癒してあげられたらって。

 そのために、わたしは伝えるんだ。伝えたいんだ。

 遠まわしでも、遠回りでも。

 あの人が、そこにいた証を。

 誰かを守ったことでついた、確かな傷痕を。

「だから、相模先輩もせんぱいに救われたんですよ、きっと」

 強い感情の込められた瞳同士がぶつかる。なのに、見ている景色は間違いなく別々で。

「……うち、あんたに名前言ってないよね」

 肯定も否定もせず、わたしはくすりと一つ笑う。瞬間、相模先輩の目つきがより細まった。

「やっぱりあんたも……ムカつく」

 くるりと身を翻し、相模先輩がわたしから離れていく。でも、最後に吐き捨てた声には最初ほど嫌な感情が込められていなかったように思う。

 なら、わたしと相模先輩の始まりは。

 もう、ここで終わりだ。

 そうして、複雑な心境のままほっと一息つこうとした時――。

「ここか?」

 錆びついた扉が開かれ、話題に挙がっていた人物が乱入してきた。

「…………」

「え、相模?」

 そのせいで、ちょうどこの場を離れようとした相模先輩とばっちり目が合ってしまっている。

 ……さすがにタイミング悪すぎませんかね。や、わたしを心配して探しにきてくれたのは超ポイント高いけど。ていうかもう上限を振り切りすぎてせんぱい以外にときめかないまであります。

「……ねぇ、そこ、どいてくんない」

「あ、ああ……」

「…………っ」

 一瞥もくれず、かと思いきや。

 道を譲ったせんぱいを横目で見ながら、相模先輩は階段を下りていった。ただ、口元が一瞬だけかすかに動いた気がする。

 そのせいだろうか。

 今はない相模先輩の後ろ姿に、せんぱいの視線が固定されたままだ。わたしが駆け寄っても、抱きついても、それは変わることがなかった。

 うーん。

 なんか、やだ。

 ……すごく、やだ。

 だって、わたしが目の前にいるのにー!

「せんぱいは、わたしだけを見てればいいんですっ!」

「おい、いきなり引っ張るな……んむっ」

 ちょっとしたやきもちから、独り占めしたくなって。

 わたしは、せんぱいの制服の襟元を掴んで引き寄せ、強引に口付けた。

 

 相模先輩に、どんな心境の変化があったのかはわからない。

 でも、たとえそうだとしても。

 

 ――せんぱいは、渡さないもん。

 

 

 

 

 




原作やアニメだとまったく接点がない二人なので、焦点をあててみるべや。
そんな発想から書いてみたお話です。

それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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ふと、平塚静と一色いろはは現在進行形と過去形について説く。

  *  *  *

 

 終業式を経て、ようやく始まりを迎えた夏休み。

 それはきっと、過ぎていくのがあっという間なんだろう。勉強の合間を縫って一緒にぶらぶらお出かけしたり、二人並んで花火を見たり。そうして初めてできた恋人と、大好きでたまらない想い人と、素敵な思い出を一緒に作っていって。

 たったこれだけのことが、まるで子供の頃に戻ったようにわくわくした。絶対に幸せいっぱいな夏になると信じて疑わなかった。だから甘えのアクセル全開でがんがんブッ飛ばして、ノンストップでせんぱいにべったべたまとわりついてやるんだ!

 ……なんてカラフルな期待に胸を高鳴らせていたのが、さっきまでのわたし。だが現実は無情にも、出来る限りいろいろな夏期講習に参加するという恋人との別行動だった。

 受験のためというもっともな理由を出されてしまっては、ぐぬぬと歯がみするしかできず。

「はー……いちゃいちゃしたかったなぁ……」

 といった具合にベストプレイスで一人、恋人の不在をぼやいているのが今のわたし。近すぎるくらいすぐ隣に、奇抜なデザインをしたお気に入りの缶を置きながら。

 別に明日でも明後日でもいいじゃん。

 思い出なんて、いつでも作れるでしょ。

 自分の中で何度そう言い聞かせようとしても、本音ではやっぱり納得できない自分がいて。

 確かにそうかもしれない。それでいいかもしれない。けど、二人で共有できる時間は確実に減っていってしまう。だって、青春のカウントダウンは何があっても絶対に止まってくれないから。

 今しか、できないことがある。

 今じゃないと、見れないものがある。

 それがたとえ、ちっぽけな自己満足の山だとしても。

 わたしのためだけにある、些細な宝物の積み重ねだとしても。

 だからこそ、貴重な一日一日を少しでもせんぱいと過ごしたいのに。でも、わたしという存在が足枷になりたくない。そんな願望と自制がせめぎ合った結果、葛藤や焦りとしてもんもんとした感情を生む。

「ううっ……時間、時間が足りないぃ……」

 両手で頭を抱えつつ理想と現実の差にのたうち回っていると、かつかつと床を叩くヒールの音が耳に届く。

「……おや? ここに一色だけとは珍しいな」

 やがて、間を開けずによく通った声が背中に飛んできた。

「あ、先生……」

 しょんぼりとしたまま振り返ったわたしを見るなり、平塚先生が苦笑気味に口元を緩ませる。その表情から察するに、こちらの心境や事情はだいたい把握したらしい。……わかりやすくてごめんなさい、マジで。

「どうした、比企谷と喧嘩でもしたか? 君がそうやって落ち込んでいる姿を見るのは久々だが」

「いえ、そういうわけじゃないんですけど……」

 両手をわたたっと振って否定したものの、平塚先生はわたしの顔をまじまじと見つめながらふむと腕を組んだ。うわ、なんか捕まりそうな予感が……。ていうかわたしのことせんぱいから絶対聞いてるだろうし、もしかしてお説教じゃ……。

「まぁ何にせよ、そろそろ君とも直接話をしたいと思っていたところでな。ちょうどいい、手持ち無沙汰なら付き合いたまえ」

 やっぱりぃぃぃ……!

 勝気に微笑んだ平塚先生の姿に、わたしはうえーと顔を歪めた。

 ……うーん。

 わたしの夏休みは、ほんと、出だしから先行き不安だなぁ……。

 

  *  *  *

 

 多少薄れたとはいえ、青春真っ盛りの浮かれた声はまだまだあちこちから聞こえてくる。それはわたしも例に漏れず、せんぱいの隣できゃいきゃいとはしゃぎながら、今までとまったく違う夏を満喫する……はずだったのに。

 どうしてこうなったと内心嘆きつつ、平塚先生の後を黙ってついていくどうもわたしです。おまけに強制連行されてるようにしか見えなくて、とにかく周りの視線が痛いです。わたし、何も悪いことしてないってば……。

 しかし愚痴ったところで現状が変わってくれるわけでもない。結局もじもじむずむずとしきりに身をよじって耐えているうちに、やっと職員室の前まで辿り着く。……あー、恥ずかしかった。

「少しここで待っていたまえ」

 人目からの開放感にふーっと一息ついていると、平塚先生はそう言い残して中に入っていってしまった。……あれ? お説教は? ないの?

 首を傾げつつ、わたしは壁に寄りかかっておとなしく待つ。

 きっと半年前の自分だったら、「ラッキー! 今のうちに適当な言い訳作って逃げちゃえー!」なんて不届きなことを考えて、ほくほく上機嫌になっていたと思う。

 でも、そういう悪い子はもうとっくにやめたから。自分に都合のいい時だけいい顔して、都合が悪くなったら逃げるわたしは、もういないから。

 目の前にある隔たりを眺めながら当時の記憶を視界に重ねていると、再び扉が開いた。

「待たせたな。では行こうか、一色」

 戻ってきた平塚先生はわたしの姿を視認した直後、肩を軽く叩いてそう促してきた。しかし突然すぎるあまり、わたしの頭上にふよふよとはてなが浮かぶ。

「……行く? どこに?」

「いいからついてきたまえ。すぐにわかる」

「はぁ……」

 含ませた物言いにわたしは一つため息を吐いた後、平塚先生の後に一歩遅れて続く。ただ、隣には追いつかないように。また、その背中は追い越さないように、ゆっくりと。

 付かず離れず、こっそり歩幅を調整しつつ進んでいく。するとある一角に差し掛かった時、平塚先生が白衣のポケットから金属製の何かを取り出した。

 ちゃらりと音を立てたそれは、見飽きるくらい散々お世話になったものだ。

「あ……」

「君の場合、こっちのほうがいろいろと好都合だろう?」

 キーリングに指をひっかけて生徒会室の鍵をくるりんと回し、平塚先生がふっと笑う。

「……ちょっとずるくないですかね、その手は」

「充分手のかかる生徒だからな、君も。私もこれくらいのことはするさ」

 その『これくらい』が、本当にずるい。わたしの周りには、わたし以上にずるい人ばっかり。だから、余計にたちが悪くて。

「先生のそういうところ……好きですけど、嫌いです」

「なかなか言ってくれるな、可愛くないやつめ」

 ついつい減らず口を叩いてしまったが、平塚先生は気にせずわたしの頭にぽんと手を乗せた。この人にされるのは久しぶりなせいで、ちょっぴり照れくさくなる。

 触れられた箇所をさすっている間に、がららと扉は横へ流されていく。

 その音に気付いた瞬間、わたしの心に嫌な風が吹いた。

 視界に飛び込んでくる、ぽつんと並んだいくつかの机や椅子。主の不在を訴えるようにしんとした空気が漂い、外の環境音だけが虚しく響く。

 ぎらついた太陽に照らされる風景は、眩しいくらい明るいのに。

 それを彩る人の声も、うるさいくらいにまだまだ賑やかなのに。

 恋人に対しての感じるものとはまた別の、意味合いが違う寂寥感。その原因の一つである、調子のいい朗らかの声が今は一切聞こえてこなくて。

「……誰もいない生徒会室って、こんな寂しかったっけ」

「そういえば君は、陽乃にも勉強を見てもらっていたんだったな……」

 無意識にこぼれ落ちた感情たっぷりの声を、平塚先生が独り言を呟くように拾う。

「常に、自分のそばに誰かがいる。それは何も当たり前のことではない。だからこそ、その当たり前がふとなくなった時……人は、寂しいと感じてしまうのだろうなぁ」

 言葉の宛先はわたしへ向けてでもあり、自身へ向けてでもある。腕を組んで壁にもたれかかった平塚先生の姿を見ていたら、なんとなく、そんな気がした。

「……あの、はるさんって、どんな生徒だったんですか?」

 ふと興味が湧いたので尋ねてみると、なぜか平塚先生は苦笑する。なのに、うっすら細めた瞳は今まで見たことないくらい楽しげだ。

「少なくとも優等生ではなかったよ。おかげでずいぶんと手を焼かされたものだ。まぁ、君や比企谷も陽乃に負けず劣らずだがな」

「そんな不名誉なお揃いは求めてないんですけど……」

 不満からぶすっと頬を膨らませてみたものの、笑われただけでやっぱり効果なし。相変わらずわたしのことマジでなんだと思ってるんですかね、この人……。や、確かにめんどくさいタイプの人間だって自覚、超あるけど。

「ただ……」

 ふと、真摯さを帯びた声が耳朶を打つ。思わず目を向ければ、平塚先生の力強い感情の灯った瞳がこちらをじっと見据えていた。

「君たちのような手のかかる生徒がいるからこそ、教師が必要なのだと私は思っているよ」

 やがて紡がれた理屈は、するりとわたしの心に落ちて、濁ることなく溶けた。

 綺麗事、理想論、絵空事、夢物語。

 きっと平塚先生じゃなかったら、間違いなく、そう否定していた。

 でも。

 わたしはもう、この人を知ってしまっている。

 それに、わたしが進んできた道の途中には。

 なにより、これから歩いていく夢物語の先には。

 そんな絵空事が、理想論が、綺麗事がたくさん詰まっていて。

 だから。

「……かっこつけすぎです、先生」

 わたしは、否定なんかできっこなくて。

「かっこつけるのが私だからな」

 最後の強がりも、あっさり、そんなふうに返されて。

「さて……おしゃべりは終わりだ。いい加減、そろそろ観念したまえ」

 あの時と変わらない優しい眼差しが、わたしを射抜く。

 まったく、もう。

「……お世話になります」

 おせっかいにしちゃ、やりすぎ。

 あーあ。

 ――ほんと、かなわないや。

 

  *  *  *

 

 悩みを相談、というよりかは、半ば愚痴る体で話を積み上げていく。

 わたしのこと、せんぱいのこと、二人のこと。

 奉仕部のこと、はるさんのこと、これからのこと。

 その上で、今わたしが感じていることを説明した。うまく話せたかもちゃんと伝わったかもわかんないけど、平塚先生は黙って耳を傾けてくれていた。

「……といった感じです」

 わたしのぼやきがそれ以上続かないとわかると、組んでいた腕を解いて平塚先生がゆっくりと目を伏せる。

「……比企谷から聞いていた限りでは、変わらず甘えてばかりなのだと思っていたんだがな」

 その後、大人びた笑みを浮かべながら平塚先生はわたしの頭へ手を伸ばしてきた。くしゃくしゃと撫でられる感触に、じんわりとした温かさが心からも広がっていく。

「本当に君たちは……いい意味で私の期待を裏切ってくれるな」

 わたしを見つめる温かみ溢れる表情は、生徒の成長を心から喜んでいて。なのに、それがすごく寂しそうにも感じて。

 もしも、巡り合わせが違ったら。

 きっとわたしは、あの時に道を踏み外していた。

 もしも、気付くことなくすれ違ったままでいたら。

 きっとわたしは、後悔と一緒に間違い続けることしかできなかった。

 ――あの人が、先生だからだ。

 今なら、身にしみるくらいわかる。

 捻くれ者の上級生が言った、その意味を。

 不器用な恋人が、そこに隠した感謝の声を。

 だからわたしは、この人を追いかけたいとは思わない。

 いつまでも、追いついてしまいたくない。

 だって、この人は先生だから。このままわたしたちが大人になってしまっても、平塚先生はずっと、わたしとせんぱいの先生だから。

 それは、時間の経過なんかじゃ変わらない。

 たとえ、何十年という遥かに遠い過去になってしまっても。

 いつか、それぞれの思い出の中にしか存在しなくなってしまっても。

 一度色の付いた景色は、絶対に色褪せない。

 だから、たぶん。

「お説教は、やっぱり嫌ですから」

「……本当に、二人揃って可愛くないやつらだ」

 

 ――こんな皮肉で返すのが、今のわたしにできる精一杯の恩返しになるのだろう。

 

 

 

 

 




お久しぶりです(震え声)
これを投稿する時は、ガハマちゃんの誕生日ですね。おめでとう!

ガハマちゃんのお話は他の人に任せ、こっそり巡りゆくの続話を投稿する私でした。

以下、告知です。
夏コミ、参戦決まりました! 『1日目東カ-33b』でございます!
改めて書かせていただきますが、二冊のうち、一冊目は高橋徹さんと暁英琉さん。
二冊目が私、ねこのうちさん、山峰峻さん、さくたろうさんとなっておりますです。
表紙は稲鳴四季さんに依頼させて頂きました。
色々なテイストや雰囲気がそれぞれ楽しめますので、宜しかったらぜひぜひ!

それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!




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どうしようもなく、比企谷八幡は一色いろはのわがままに弱い。

  *  *  *

 

 七月ももうじき終わり、新しく彩られた日常はやがて八月へ舞台を移す。青一色の空から降り注ぐ太陽の光は、本格的な夏がやってきたことを実感させてくれるくらいに強い。

 そんな中、わたしはというと。

「ほら、せんぱいっ! はやくはやく!」

「わかったからいちいち引っ張るな……。っつーか、暑いんだけど……」

 肌を焦がす日差しに負けないくらいのハイテンションで、千葉の街を二人並んで歩いていた。もっと正確には、せんぱいにぴったりと張り付きながら。やっぱり有限実行って大事だしね!

「夏が暑いなんて当たり前じゃないですかー?」

「いや、気温がじゃなくてだな……」

 きょとんと見上げた先から、お前が原因なんだが、と言いたげな視線が注がれてきた。

「やん、そんな見つめられたら照れちゃいますってー」

 わたしはそれを軽くスルーして、恋人の左腕をより強くぎゅっと抱きしめた。んふふー、離してあげなーい!

 春からずっと我慢していた、二人一緒のお出かけ。しかもわたしの甘えたがりを邪魔するものは何もない、とくれば、当然制御不能にもなってしまう。そのくらいには絶賛浮かれ中だ。

「はー、せんぱいの匂い~……」

「おい馬鹿やめろ、嗅ぐな」

「んー……」

「ねぇ、恥ずかしいから。ほら、みんな見てるから」

 がっしりホールドしてうっとりし続けるわたしを振りほどこうと、居心地悪そうにせんぱいが右へ左へ何度も身体をよじる。ふふん、それくらいじゃわたしは離れませんよ。

 逃がさないために、べったりぴっとりくっついて。

 それでも逃げようとして、余計にむぎゅっとくっつかれて。

 お互いに譲らない押し問答を、ひたすら繰り返すことしばし。

「あーもう、わかったよ……」

 一歩も引かないどころか引こうとすらしていないわたしに白旗を上げ、せんぱいが深々と諦めのため息を吐く。やっと観念してくれたらしい。うーん、敗北を知りたい……。

「えへへ……」

 昼間から、しかもこんな街中でなんて。ほんと、何やってんだろって、自分でも思ったり思わなかったり。

 でも、これでいいんだ。

 だって、これが今のわたしだから。

 なにより、昔のわたしが一番欲しかった幸せが。

 現在進行形で、今のわたしのすぐそばに、隣に。

 ちゃんと、あるんだから。

「マジで歩きづれぇ……」

 にへらにへらと幸福感に頬をだらしなくさせていると、歩き出したせんぱいの動きに釣られて腕ごと前に引っ張られた。ただそのなにげない流れが、姿勢が、わたしの心をどんどん高く舞い上がらせる。

 一種の合図、って言えばいいのかな。どうしてもだめって時は、せんぱいがぺしりとおでこを軽く叩いてくる。

 それがないってことは、つまり。

「……せんぱぁい」

「今度は何……」

「キスもしてほしいです」

「これ以上の死体蹴りはやめろ」

「あうっ」

 調子にのっておねだりしたら、今度はぺちんとばっちりNGをもらってしまった。くそー、せっかく毎日せんぱいのために頑張ってお手入れしてるのに……。

 とはいえ、せっかくの二人きりだ。これからまだまだチャンスはあるだろうし、やりすぎて怒られないようにじっくりじっくり……。で、いい雰囲気に持っていったらー……。

 あれやこれやとわたし得な展開や願望を画策していると、うわぁとせんぱいが両眉を寄せた。ひどいな、この人。

「なんかまたろくでもないこと考えてませんかねぇ……」

「さー? 何のことでしょう?」

 くりんと首を傾げ、すっとぼけたものの。

「毎回毎回、すぐ顔に出てんだよなぁ」

「……はっ!」

 指摘され、慌ててせんぱいの肩に顔を埋めて隠す。しかし、頭上からちくちくと刺さり続ける視線が完全に手遅れなことを物語っていた。……だめだこりゃ。

 おそるおそる瞳だけをちらりと覗かせ、白状するようにこもった声でもしょもしょ呟く。

「だって……我慢した分、いっぱいちゃいちゃしたいんですもん……」

 寂しかった、という感情を言外に込めて。最近は放置され気味だった分、余計に甘えたかった。

 それが伝わったのか、わたしを見つめるせんぱいの表情に呆れとは違う種類の色が浮かぶ。

「まぁ、確かに全然かまってやれなかったけどよ……」

「だったらー……」

 瞳をうるうるとさせたまま、じーっと目で訴える。今日くらいわたしをたっぷり甘やかせー!

「……どうすりゃいい」

 お、珍しく効いた。おまけにせんぱいから聞いてきてくれるなんて、これ、もしかしなくても大チャンスだよね? 甘え放題ってことでいいんだよね?

 ……じゃあ、お言葉に甘えてー!

「んーっと……ハグ、キス、なでなで付き……それをセットで定期的にしてもらってー……」

「待て待て待て」

「なんですか、もう。まだ途中なのにー……」

「え……まだあんの? 多くない? 多すぎない?」

「これでもだいぶ削ったんですけど」

「……マジかよ」

 けろりと言い放ったわたしを見て、額を手で押さえながらせんぱいが苦悩の声をあげた。……好きな人といちゃいちゃしたいって思うの、そんなに変かなぁ。

 釈然としないせいで、うーんとしきりに頭を悩ませていると。

「一応聞くが……それって、場所関係なくなんだよな」

「もちですよ。わたしとせんぱいの超ラブラブっぷり、周りにいっぱい見せつけちゃいましょう」

「……オーケー、わかった」

「ほんとですかっ!? ではでは早速……」

「いや違う違う違う、そういう意味でのオーケーじゃねぇから!」

 うきうきとしながら瞼を閉じた瞬間、高速で強めの否定を入れられてしまった。おかしい、なんでだ、いいって言ったのに。

「とりあえず、埋め合わせについては後でゆっくり善処できるよう前向きに検討する方向で調整しとくわ」

 出た、先延ばし。でもその手には乗らないもん。我慢した分、今日は絶対に全力で甘えるんだ。

 わたしは抱きしめる腕の力をふっと弱め、頬をぷっくり膨らませながらそっぽを向く。ただ、絡めた腕は離さずそのままに。

「……せんぱいのばか」

 最後の仕上げに、つーんと拗ねた子供のように呟いた。……ほんとわがままだな、わたし。そのうち叱られちゃいそう。

 わかりつつも、自身の乙女回路に逆らえないあたりが悲しい。

「あー……その、いろは」

「……なんですか」

 困った様子でかける言葉を探し始めたせんぱいと、目を合わさずにぶーたれっぱなしのわたし。二人の間の無言は街の喧騒だけが埋めていて、さっきまでの華やぎが嘘のように止まっている。

 糖度の薄れた空白が続いた後、不意に、隣から息を吐き出す音が聞こえてきて。

「はぁ、しゃあねぇか……。いろいろ我慢させた俺も悪かったしな……」

「へ……?」

 直後耳に飛び込んできたらしくない言葉に、思わず顔の向きを戻す。すると、お互いの瞳同士がばっちりぶつかって――。

「でも今は、これで勘弁してくれ」

 ぼそりとした声と共に、おでこに柔らかい感触が伝わった。

「……はう」

 触れられたのは一瞬だったものの、それは確かにわたしが今日何回も求めた口付けで。……求めていた展開とはちょっと違ったけど、まぁいっか!

 ご機嫌ななめはどこへやら。優しい唇の余韻は、心の曇り空まで一瞬で吹き飛ばした。

「せんぱい、せんぱい、今のもう一回! 次はできればこっちに!」

「ねぇ話聞いてた? しかもハードル上がってんじゃねぇか」

「あうっ」

 勢いに任せてさらに濃く深い愛情をせがんだものの、二回目のぺちりをもらってしまった。流れ的にも雰囲気的にもいけると思ったのになー……。でもでも、ただじゃ終わらせないっ!

「じゃあ、さっきのをあと一回だけ……あと一回だけでいいですから!」

「絶対一回じゃ終わらんだろうが……ソースは今までのお前」

 食い下がっていたら、ばっさりな上にごもっともな指摘までされてしまった。あはー、見に覚えがありすぎて困っちゃう。むしろ見に覚えしかないまである。

「ぐぬぬ……」

「ほれ、もう行くぞ。さっきから周りの視線が痛い。ここからさっさと逃げたい」

「あっ、ちょっと、引っ張らないでくださいよー」

「人を散々引っ張っておいてどの口が言いやがる……」

 ちくりと刺す声に、てへりんっ、と内心でふざけつつ一歩遅れて続く。半ばわたしを引きずる形で先を行くせんぱいだが、歩調はかなり緩やかだ。表に出している雑な態度とは裏腹に、転んでしまわないようちゃんと配慮してくれているのだろう。

 えっへん、わたしの彼氏はとっても優しいんだぞ。素敵なんだぞ。……目はやばいけど!

 なんて周囲に自慢げな笑顔でひけらかしつつ、当初からの目的地である書店目指しぷらぷらついていく。

 思い出の場所は、もう、すぐそこだ。

 時間と共に関係が進めば、また新しい発見がある。わたしの知らないまた別の物語が、きっと見つかる。

 読書を始めたきっかけなんて、不純だらけのどうしようもない自己満足からだった。でも、今のわたしにとっては大事な根っこの部分で。胸の奥深くにしまい込んだ、欠けてはいけない大切な宝物の一つで。

 そして、なにより。

 本来交わるはずがなかった二人を、固く結びつけてくれたのは本の世界だった。

 だから。

「読んでみたくなる本、あるかなー」

 つい、そんな本音が口からこぼれた。

 

  *  *  *

 

 書店の中に入ると、本独特の紙の匂いが漂ってきた。以前なら全然馴染みのなかったこの空気はもう、昔から読書が趣味だったかのようにしっくりくる。

 四方八方にある本棚には雑誌や漫画、小説といった、様々なジャンルの本がぎゅうぎゅうと背差しで陳列されている。その下に平積みされているのは、新刊や今話題の人気作。

「先月出たのって、どんなのありましたっけ……」

「あー……なんだっけな。少なくともお前が好きそうなのはなかったと思うぞ」

「そうですか、残念です」

 確認しつつ、わたしは店内をぐんぐんと進む。かつてとは違い、足取りはふらつくことなく、お目当ての場所へ向かって一直線に。

 やがて、多種多様なイラストが目を惹くコーナーが視界の中を占めていく。わたしはそこで一旦足を止め、すぐ右隣へ意味ありげに視線を流す。

「……けど、実際に手にとってみたら読んでみたくなるかもしれませんね?」

「うるせぇほじくり返すな……。あとそのどや顔と疑問系やめろ」

「あはっ」

 つい茶化すように言ってしまったけど。

「でもわたし、確かにそうだなーって思いますよ。表紙とかタイトルからは想像できない内容だったり、意外なくらい面白かったり……」

 せんぱいの言うとおり、いざ読み始めたら朝まで夢中になっちゃってたとか。また、その受け売りが当てはまるのはもちろん本や読書についてだけじゃなくて。

「……それに、印象だけじゃわかんなかったこともありますしねー」

「だからその顔やめろ、鬱陶しい……」

 誇らしげに付け加えた一声に、せんぱいがぷいっと上半身を逸らした。ただ、かすかに覗く頬は若干の赤みを帯びていて。

「せんぱいのそういうところ、やっぱり可愛いです」

「変なこと言ってないでいいから本見ろ、本」

 当分の間はこっちを見ないつもりらしい。あーもうほんと可愛いなぁ。や、でもこれ以上はやめとこっと。やっぱり帰るとか言い出しそうなレベルで照れてるし。

 恋人とのやりとりはひとまず小休止。わたしは陳列されている新刊を見下ろしながら、ふむふむと頷いた。

「……さて、始めますか!」

「毎回毎回んな気合い入れんでも……」

「いいんですよ、これで!」

 さいですか、と諦めの息を吐いているせんぱいはさておき。

 わたしが本を探す時には、一つだけこだわりがある。今日も今日とて同様のスタイルで、最初はぱぱっと目で判断していく。といっても、イラストに惹かれる、雰囲気がよさげ、ストーリーが面白そう、みたいな感じの大雑把な仕分けだ。

 でも、大事なのはここから。一冊一冊ちゃんと手に取ってみて、ぴんとくるかどうかを確かめていく。や、まぁ、ただの直感頼りなだけなんだけど。

 しかし残念ながら、わたしの探究心をくすぐるものはなかなか見つからない。

「……うーん」

「ん、今回もなさそうか」

「ないっていうか、単純に弱いっていうか……」

 やっと芽吹いた恋心の補正が大きかったにしろ、あの時は心の奥底にまで簡単に至ったわけで。

「お前の場合、ただ単に選り好みしすぎてるだけな気もするけどな。難しく考えるほどのもんでもないだろ」

 違う。

 わたしは、素敵な本をただ見つけたいだけじゃない。ただ読みたいだけじゃない。

 言葉の勘違い、価値観のすれ違い。誰にでもある、よくある間違い。けど、今のわたしにならできることがある。もう、遠慮なく声にすることができる。

「……だって、共有したいんですもん」

 だから、素直な願望を、何一つ偽ることなくそのまま吐き出した。

「これからわたしもいっぱい本を読んで……お互い読んだ本を交換したりとか……。それで、好きな本とか面白かった本とかの、ここがよかったーとか、ここはいまいちだったー、みたいな感想も言い合ったりして……」

 俯いた先、ちょうど真下。そこには、夜空に打ちあがる花火を見上げる男の子と女の子の姿。

 わたしは、イラストの中にいる二人をつつりと指先でなぞりながら。

「……そういうのも、わたし、もっともっと欲しいんです」

 間を空けて、ぽしょり呟いた。

「いろは……」

「わがままばっかり言う彼女でごめんなさい。でも、せんぱいと……せんぱいとなら……って、いつも思っちゃうんです。だんだん我慢できなくなって、どうしようもなくなっちゃうんです……」

 一緒に卓球をして、ご飯を食べて、カフェでだべったりとか。図書館や書店に寄った後は、二人並んで読書して、帰り道が寂しくなってつい電話しちゃったりとか。そんな思い出の中には、小さなやりとりが数えきれないくらいたくさん詰まっている。

 だからこそ。

 これからも一緒にいろいろな景色を見て、二人で写真を撮ったりして。小さなやりとりの中でお互いのことをたくさん話して、またより深く知って、ずっと一緒にいられるように理解して。そんな思い出を数えきれないくらい積み重ねて、わたしとせんぱいだけの宝物にしたい。

 願望を詰め込めるだけ詰め込んだ眼差しで、恋人の顔に瞳で縋りつく。ただ少しだけ、自嘲に近いはにかみを表情に交ぜて。

「んじゃ、それ買うか」

「……ふぇ?」

 いきなり話が飛んだ。そのせいで、思わず間抜けな声が口から漏れ出てしまった。

「あ、あの……そ、それってどれ……?」

「落ち着け」

「ひゃう」

 プチパニックを引き起こしているわたしの頭をぽんと軽く叩いた後、やれやれとせんぱいが別の方向に手を伸ばす。う、嬉しいけど叩いたら直るみたいな扱いはちょっと複雑……。

「ほれ」

 喜ぶべきかむくれるべきかの葛藤の最中、するりと胸のあたりに差し出されたのは、さっきまでわたしが指先を滑らせていた表紙の本だった。

「え、でもこれ……」

「最新刊があるならこの辺に一巻もあるだろ。ないならないで別の店に行けばいい」

 口にしようとした疑問は、せんぱいがしっかり継いでくれた。

 せんぱいが何を言いたいかなんて、すぐにわかってしまう。だって、自分なりに近くで見てきたから。今はまだ短い道のりでも、ちゃんと隣に寄り添って歩いてきたから。

「せんぱい……」

「……まぁ、なんだ。お前と一緒に読む本が一冊くらいあっても悪くねぇしな、俺も」

 捻くれてて、わかりづらいくせに。

 この人は誰よりも優しくて、なによりもあったかくて。

 いつも、なんだかんだ甘やかしてくれる。

 いつだって、最後にはわたしの全部を受け入れてくれる。

「それに前からちょっと興味あったんだよ、この作品。だから、あれだ、いい機会的な……」

 まったく、誰に言い訳してるんだか。

 右へ左へ視線をうろうろとさせ始めたせんぱいを見ていると、つくづく思う。

「……えへへっ。じゃあ、一緒に読みましょうねっ! 二人で……一緒にっ!」

 

 こんなどうしようもない人が。

 ――わたしは、どうしようもないくらい大好きなんだって。

 

 

 

 

 




ぜ、前回よりは早いし……(震え声)
これを投稿する時は、はるのんの誕生日ですね。おめでとう!(白目)
二回目も空気を読まずにかぶせていくスタイル。いやまぁただ単にネタが浮かばなかっただけなんですけどもね、はい。

以下、引き続き告知です。
夏コミ、『1日目東カ-33b』でございます!
私の参加作品タイトルは「人知れず、一色いろははその思いを芽吹かせる」となっております。再掲になりますが、私は一般のほうになります。

許可を頂いた上で、ツイッターのほうに表紙を上げさせてもらいました。
素敵なイラストとなっておりますので、ぜひぜひ!

長々と宣伝失礼致しました。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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たとえばこんな間違ったバースデーソング。

  *  *  *

 

 大した意味も込めていない無価値なものに、とびっきり嘘くさい言葉を添えて送る。そんな薄っぺらいものでさえ、とびっきり嬉しそうに喜ぶ男子たち。

 ほんと、チョロいなぁ。わたしからすればただの社交辞令だったり、自分の誕生日に備えての撒き餌でしかないのに。

 ……なんて、前は思っていたけど。

「ううっ……わかんない、わかんないぃ……。わたし、どうしたらいいのー……」

 まさか今、その経験とひねた価値観が自らを苦しめることになるとは。夕刻寸前の歩道橋の上でわたしの弱音が虚しく響いた。

 タイムリミットである八月八日は、もう明日にまで迫ってしまっている。プレゼント選びなんて余裕余裕、わたしなら楽勝でしょ! ……といった調子でどや顔していた数日前のわたしを今すぐはっ倒したい。

 一昨日は千葉パルコとC・one、昨日はイオンモール幕張ときて、今日は東京BAYららぽーと。しかしここまで遠出しても未だ収穫はなく、両手は留守が続くばかり。

 たった一人の、誰よりも大切な人。そして、誰よりも大好きな人。その人が生まれた日に、わたしの愛情をめいっぱい詰め込んだ物を贈る。どうでもいいイミテーションの宝石ばかり身にまとっていた時には、経験したことのない特別感。けど、その感覚が逆に向かい風を吹かせていた。

「ぱぱっと決められた……はず、なんだけどなぁ……」

 あの人が好きなもの、嫌いなもの。

 あの人が好きなこと、嫌いなこと。

 それらを全部、とまでは言えなくても、今ならだいたい知っている。わたしが知らない部分もまだまだあるだろうけど、それでも、なんとなくわかってしまうくらいには理解していて。

 なのに、全然わからない。いくら想像しても、まったくイメージが湧いてこない。一体どうしたらわたしが一番になれるんだろう。

 きっとあの人はわたしが何を贈っても、不器用なお礼を優しく言ってくれる。どんなに微妙なプレゼントでも、嬉しそうに受け取ってくれる。

 でも、それじゃ嫌だ。そんなんじゃ、だめなんだ。

 一年のうちのたった一日しかないからこそ、わたしが一番喜ばせてあげたい。いずれどうでもよくなるような薄っぺらい思い出なんか、あの人には絶対にあげたくないし絶対に作りたくない。それこそ、自分の時以上に強く思う。

 わたしはたまらず手を伸ばし、前髪を飾るヘアピンにそっと触れた。

「……泣いちゃいそうになるくらい、嬉しかったなぁ」

 忘れない。忘れられない。なにより、忘れたくない。

 綺麗にラッピングされた箱を差し出してきた時の不慣れな様子や、真っ赤だった顔も。

 当時は素直になれなくてついつい減らず口を叩いてしまったわたしに向ける、苦々しい視線も。

 わたしを褒めてくれた時のそっけない声も、ぎこちない言葉も。

 結構な時間が過ぎた今でも、思い返せば嬉しさで表情が緩む。心の奥底から温かい気持ちが溢れ出してくる。

 だから。

「……よしっ、もうちょっと頑張って探してみよっと!」

 やっぱりわたしは、同じ幸せをせんぱいと分かち合いたい。せんぱいの恋人になれた一色いろははどうしようもなく諦めが悪くて、簡単にはくじけない女の子なんだっ!

 ひびが入りかけていた意思と折れかけていた意志を両方奮起させ、わたしは今しがた歩いてきた帰り道を引き返した。

 

 ――もしかしたら見落としがあるだけかも。

 そう前向きに考えつつ、ショッピングモール内を必死で駆け回ることもう一周。しかし結果は変わらず、最後まで手ぶらなまま入り口へ戻ることになってしまった。

「……明日、どんな顔してせんぱいに会えばいいのかなぁ」

 壁際でぺたりとしゃがみ込み、悲しく細めた目を頭上へと向けた。

 そこには、すっかり色合いの逆転した空が広がっている。まるで目的を達成できなかったわたしをあざ笑うかのように。

 流れていく雲。刻々と近づく期限。こんなことしてる余裕なんてないのは、わたしが一番わかってるけど。

 やり場のないストレスに何度もため息を吐いていると、ぶらさげたポシェットの中からぶるりと震えが走った。

 こんな時に一体誰だ、と不満に思いながらも携帯を取り出せば、なにやら着信中の画面が表示されている。そして、発信者の名前を確認したわたしはそっと視線を外す。

 よし、見なかったことにしよう。寝ちゃってて気付かなかったことにしよう。

 といった具合に一度は無視を決め込んだものの、振動は止まらない。そのせいで徐々に罪悪感が膨らみ始めてきてしまったわたしは、結局ぽちりと通話ボタンを押したのだった。

「もー、なんですかはるさんー……」

『ひゃっはろー、いろはちゃん。どう? 元気?』

「たった今元気じゃなくなりましたけど」

『あ、そんなこと言うなんてひどーい。お姉さんすごく悲しいなー……』

 電話口の向こうからよよよと嘆く声。うん、超わざとらしい。まぁ、人のこと言えないけど。

 先々月に連絡先を交換して以来、陽乃さんはちょくちょく電話をかけてくるようになった。しかも暇だとか眠くないだとか、毎回毎回、理由が超しょうもない。……うん、やっぱり人のこと言えないけど。

「……そういうのはいいですから。で、今日も暇つぶしの相手しろーって感じですか? だったらわたし今家にいないんで他の人を……」

『違う違う、今日はちゃんと用があってね』

「……えっ」

 だからてっきりまた同じパターンなんだろうなと予測していたが、どうやら今回は違うらしい。

『なにその意外そうなリアクション……。いろはちゃんはわたしのことなんだと思ってるのー?』

「ちょっ……人の真似しないでくださいよー!」

『あはは、ごめんごめん。ついからかいたくなっちゃった』

 つい、にしてはやたらと多すぎませんかね……。まったく、みんなしてなんでわたしをいじめるんだ。わたしをいじめていいのはせんぱいだけなのに。せんぱいだけなのに!

 なんて自分でもよくわからない怒りを覚えていると、耳元からくすくすと楽しげに笑う声が響いた。せんぱいのことを考えていたのがバレてしまったらしい。

『ま、今日は触れないでおいてあげよう』

「ううっ……」

 これ以上はやめて! わたし恥ずかしくて死んじゃう! ていうか結局からかわれてるし!

 むず痒くなる優しさに思わず髪を振り乱したくなるがぐっとこらえ、思考を切り替える。

「……と、とにかくわたしのことはいいですから! で、さっき言ってたはるさんの用って一体なんなんですか?」

 あまり聞きたくないけど、この場で延々と捕まり続けるのも面倒だ。なので仕方なく、嫌々ながらも尋ねると。

『あ、そうそう、今から静ちゃんとご飯食べに行くんだけどいろはちゃんも来れる? ていうか来なさい』

 うん、やっぱり聞くべきじゃなかったかも。おまけに命令形ときた。

「で、でもわたし今日はまだ……」

 そこまで言いかけたところで口をつぐむ。

 このままがむしゃらに探し回る以外の案が、わたしには浮かんでこなくて。かといって具体性に欠けた周回ばかり増やしても、結果は一向に変わらない気がした。

 ――なら。

『まだ……なーに?』

「……いえ、なんでもないです。場所どこですか?」

 未練を振り切ってそう伝え直すと、携帯で繋がった先から蠱惑的な微笑を漏らしたような息の音が聞こえた。

 

  *  *  *

 

 メールで送られてきた情報に従い、目的の駅で降りる。

 せんぱいと付き合い始めてからは帰りが遅くならないよう気をつけていたので、こんな時間まで外にいるのは結構久しぶりだ。また、この辺り一帯はわたしの主な活動範囲ではないことも手伝って、なんだか新鮮な気分にもなる。それこそ、いけない夜遊びをしている感じの。

 でもでも、わたしの心はずっとせんぱいだけのものですからっ!

 ふと生まれた些細な自責に、胸の中だけで惚気じみた言い訳を浮かべつつ。吐き出される人の波に押されながらも駅の出口を抜けると、車の前照灯にライトアップされたロータリーが視界の先に広がった。

 ……さてさて、待ち合わせはこのあたりのはずだけど。

「あ、いたいた。こっちこっち」

 陽乃さんたちはどこかなーと首を動かし始めたタイミングで、すっかり聞き馴染んだ声が耳に届いた。反応してそちらに視線を移せば、目的の人物がこちらに向けてひらひらと手を振っている。

 ただそれだけの、ありきたりな風景なのに。陽乃さんの姿は、雑踏の中でも相変わらず目立っていた。

「改めてこんばんはですー」

「はーい、こんばんはー」

 陽乃さんにぺこりと一礼した直後、はてと気付く。

「……あれ? 先生は?」

「静ちゃんならお店で待ってるよ。席押さえとかないと待たされちゃうからね」

「あー……今の時間帯、席は早い者勝ちですもんね……」

 夜の駅前というのは、大抵どこも似たり寄ったりなんだろうけど。少なくとも現在の混雑模様だけでも、付近のお店がほぼ満員に近いことは想像に難くない。

 空席状況に懸念を示していると、一歩前を歩いていた陽乃さんがちらりと首だけで振り返った。

「ま、これから行くところはそんなに心配しなくても大丈夫だと思うよ。ちょっとした穴場だからねー」

「そうなんですか? あ、ていうかわたし何食べるか聞いてない……」

「ふふっ、それは着いてからのお楽しみ」

 はるさんがそのセリフ言うと超怖いんですけど。サプライズだとかかこつけて変なもの食べさせてきそうなんですけど。で、わたしのリアクション見て大爆笑しそうなんですけど。

「……ちゃんと食べられるもの、なんですよね?」

 はっきりと浮かんだ嫌なビジョンに耐えかね、自ら地雷を踏み抜いてしまった。そんなわたしの疑問を聞いた陽乃さんは、むっと頬を小さく膨らませる。

「もー、失礼だなー。さすがにそういうのはしないってば。静ちゃんもいるんだし」

 ……あのー、それって先生がいなかったらやるかもしれないってことですよね?

 顔を引きつらせたわたしとは対照的に、陽乃さんがくすりとした笑いを落とす。でも今は、前ほど耳にこびりつくようには感じられなくて。

 わたしは歩調を少し早め、陽乃さんの隣に並ぶ。

「疑われるのは日頃の行いが悪いからですよーだ」

「おっ、言うようになったなー?」

 だからわたしも、こうやって生意気な部分を表に出せるようになったわけで。

 という具合に、陽乃さんと仲良くきゃいきゃいじゃれ合いながらも岐路の一つを進んでいくと。

「はい、到着」

 暖簾のかかったお店の前で陽乃さんが足を止めた。釣られて看板を見てみれば、お好み焼きともんじゃ焼きがメインのお店らしいことがわかった。

「もんじゃ焼き……」

 ええっと……確かでろでろーってしてる感じの食べ物だったっけ。見た目くらいしか知らないけど。

「ありゃ、もしかして知らない?」

「いえ、名前とかくらいは。でも実際に食べたことはないです」

「そっかそっか。じゃあ今日が初体験だね」

 ……わざと誤解を招く言い方するの、やめてほしいんですが。ほら、あれこれ想像してわたしがいろいろ大変なことになっちゃうから!

 一体困り顔なんだかにやけ顔なんだか、自分でも判別がつかない。そんな曖昧な表情を晒したわたしにかすかな笑いを置いて、陽乃さんは引き戸を開けて中に入っていった。

 改めてもう一度店構えを眺めつつ、おそるおそる遅れて続く。すると何かが弾けるような音やら焼けるような音やら、ソースの香ばしい匂いやらがまとめて襲ってきて。

 あまり馴染みのない空気だ。……でも、嫌いじゃないかも。

 なんて感想を抱きながら少し離れてしまった後ろ姿を追っていくと、奥側の席の手前で陽乃さんが立ち止まった。どうやらあそこに平塚先生が座っているらしい。

「静ちゃん、お待たせ。席取っといてくれてありがとね」

「このくらい構わんよ。……それはともかく、肝心の一色はどうした?」

「いろはちゃんなら……」

 再び大きくなった背中にちょうど合流した直後、陽乃さんが身体を反転させる。動いた肩口から覗かせたわたしの顔が、その向かいにある平塚先生の瞳と線を結ぶ。

 そういえば、プライベートで先生と会うのって……。ふと頭を通り過ぎた思い出の一つに、少しだけ遠くを見つめてしまった。

 苦いのに、甘くて。

 甘いのに、苦くて。

「……こんばんはです、先生」

 陽乃さんと不意打ちと一瞬の回想が重なったせいで、挨拶を済ませるまでワンテンポほど空いてしまった。その時間差を見ていた平塚先生は、わたしを気遣うように優しい笑みを口元に宿す。

「急に陽乃が悪かったな、一色。……詫びと言うのもなんだが、今日は私が全て持とう。好きなだけ食べるといい」

「おー、静ちゃん太っ腹ー! じゃあわたし今日は飲んじゃおっかなー」

 花を咲かせ始めた会話とは正反対に、わたしの心は萎んでしまっていて。しかしこのままというわけにはいかず、場の流れに従って椅子を引く。そうして平塚先生の対面には陽乃さん、その隣にはわたしが、といった位置取りになった。

「いろはちゃん、何飲む?」

「……あ、えっと、アイスティーで」

 上の空気味になってしまったせいか、どうにも反応が鈍くなる。二人とも触れてこないのが不思議なくらいに。

 やがて運ばれてきた冷たい紅茶をちびちび飲みながら、合間合間にため息を交ぜる。

 せっかく気分転換しに来たのになー……。

 明日が期日という事実を認識するたび、重圧としてのしかかってくる。水浸しになった服のように重くまとわりついてくる。とはいえ、どん詰まりになった現状を打破する策なんかない。そもそも障害となっている壁が何かすら今だわかっていない。

 そんな心境から、両手で頬杖をついてむすっとふてくされていると。

「……つくづく感情の移り変わりが忙しいやつだな、君は」

 苦言を呈しつつ、どこか嬉しそうにも見える表情で平塚先生が吐息交じりに笑う。一瞬で心情を見透かされた気がして、ぷいっと視線を流してしまう。

 すると、陽乃さんが何かを閃いたようにぱんと手を打った。

「あ、それで悩んでたのか」

「……ふぇ?」

「ほら、比企谷くんの誕生日プレゼントがーって」

「え、なんで知ってるんですか」

 いつのまに仕入れたんだその情報。わたしのプライバシーどこいった。

「いろはちゃん、この前電話中に自分で言ってたけど」

 じとりとした眼差しを送ると、すかさず反撃が飛んできた。そこに含まれていた単語に、一つだけぴんとくる出来事が。思わず嫌な汗がつつりと垂れる。

「……もしかして、わたしが途中で寝ちゃった時、だったり?」

「うん。寝言、ばっちり聞いちゃった」

 あああぁぁ……。ど、どうしよう、わたし変なこと言ってないよね? やばいこと言ってないよね?

「いろはちゃんったら、ずっと比企谷くんのこと呼んでてさ。そしたら急に、どうしようどうしようってうなされ始めてね~」

「やめて……お願いしますやめてください……」

「案の定比企谷絡みか。面白いくらいにわかりやすいな」

 真っ赤になった耳を両手で塞ぎながらのたうち回るわたしを見るなり、やれやれと肩をすくめる平塚先生。

「ほんとにねぇ」

 果てには陽乃さんまで乗っかってくる始末。底意地の悪そうにくすくすと踊る口元を手で隠す仕草が、自分を見ているみたいでやたらとむずむずしてしまう。なるほど、これが同属嫌悪……や、ちょっと違うか。

 なんて今度は妙な心地悪さを覚えていると、メインディッシュがやってきた。つまり、もんじゃ焼きである。

 しかし、まだタネの状態なわけで。見た目の色合いなどは当然、完成系と違うわけで。

「へー……これがああなるんですねー」

 ほんほんと感心しているわたしを見て、陽乃さんはなぜかけらけらと笑い出す。うっ、嫌な予感が……。

「いろはちゃんは無縁そうだもんね、こういうの。パスタとかアボガドとかそういうおしゃれなものがいいー、みたいなこと普段言ってそうだし」

「はるさんまでせんぱいみたいなこと言わないでください!」

 まったく、みんなしてマジでわたしのことなんだと思ってるんだ! そういうのはとっくにやめたの! もうしないの!

「なんだ、一色も食べたことないのか」

 ぎゃーすかぎゃーすか憤慨しているわたしの耳に、疑問めいた言葉がふと届いた。見れば、平塚先生が不思議そうに目をぱちくりさせている。

 ……も?

 変な言い回しでもないのに、やけに引っかかった。

「このお店ね、去年の文化祭の打ち上げで雪乃ちゃんたちと来たの」

 けど、その違和感の正体はすぐに陽乃さんが解説してくれて。

「あー、そういうことですかー……」

 集まった人たちは交流関係から簡単に想像できた。奉仕部の三人や今ここにいるメンバーを除けば、小町ちゃんとか戸塚先輩とか材木座先輩とか。きっと、すごく……すごーく楽しかったんだろうなぁ。

 一方、わたしはどこへ行ったかも何をしたかもろくに覚えていないわけで。……まぁ仕方ないけどさ。当時はそれでいいって思ってたんだし。

 せんぱいたちが過ごしたわたしの知らない時間を比べて羨んでいると、不意に、陽乃さんがにこりと微笑んだ。

「だからお姉さんね、いろはちゃんも連れてきてあげたいなーって思ってたんだ」

「…………へ?」

 数拍の間が空いた後、わたしの間抜けな声が狭い空間の中に広がった。

「それにいまさら仲間はずれってのはさすがにね。せっかくここまで仲良くなったんだし、タイミングもちょうどよかったから誘っちゃった」

 打って変わって最後はてへりんと軽くふざけた陽乃さんだったが、その変化が逆にわたしの違和感を大きくさせる。直前の言葉は露骨に含ませた言い方だった分、なおさら。

 真意を探ろうにも、さっぱりわからない。……タイミング? ちょうどいい?

「相変わらず表向きだけはまともなことを言うな。しかし陽乃を見ていると……本当に物は言いようだと実感するよ」

「ひどいなぁ、静ちゃんまで……」

「その言い方からして、一色にも既に何か言われていたようだな」

 ぷっくり頬に空気を溜めた陽乃さんを見て、平塚先生がくくっと声をかみ殺す。

 仲睦まじげな二人が交わす言葉の空中戦の横で、わたしの思考は引き続き散らかったままだ。けど、今水を差すのもなんだか気が引けて。

 終着点のない迷いから瞳をふらつかせていると、小さく笑みを漏らした声が二つ重なった。

「……さて、時間も限られていることだ。そろそろ焼き始めなくてはな」

「ん、お願い」

 頭にぐるんぐるんはてなが回りっぱなしのわたしを置いてけぼりにして、次から次へ話が進んでいく。陽乃さんの一声から始まった時間は、結局わたしだけが仲間はずれ。

 らしくない言葉は嬉しかったのに、やっぱりどこか腑に落ちなくて。

 なのに、その言葉自体が嘘だとは到底思えなくて。でも、どこか嘘くさくて。

 複数の色がごちゃごちゃに混ざり合った表情をしそうになった瞬間、見計らったように陽乃さんがわたしへ向き直る。

「じゃ、いろはちゃんはお姉さんとお話してよっか」

「……え?」

 突然の提案に、ますます感情がこんがらがる。なんなんだ、さっきから一体何がしたいんだはるさんは。

 内心文句を言いつつ焦点の定まらない視線を隣に向けると、陽乃さんは組んだ両手の上にそっと顎を乗せた。

「決まらないんでしょ? 比企谷くんの誕生日プレゼント」

 優しく諭すような声振りを聞いて、ようやく理解と納得の歯車が噛み合う。点と点が結ばれた先で、陽乃さんがあどけなく微笑む。まるで最初から予定どおりだったとばかりに。

「……なんだかはるさん、お姉ちゃんみたいです」

「わたし、実際お姉ちゃんなんだけどなー」

 つい出た皮肉も、あっさり、そんなふうにかわされて。

 平塚先生といい、陽乃さんといい、せんぱいといい。わたしの周りには、本当にずるい人たちしかいない。

 まったく。

 ――いつだって、ほんと、かなわない。

 

  *  *  *

 

 自分の内側を曝け出すというのは、相当に勇気がいるわけで。それがたとえ、些細な願いだとしても。また、どれだけささやかな願いであっても。

 別に強制されたわけじゃない。実際どうするかはわたしの自由なのだから、陽乃さんの持ちかけを拒否することだってできた。

 けど、わざわざこんな回りくどいやり方を用意してまで。

 ただの手間でしかない、わたし専用のステージを準備してまで。

 もちろん、建前の裏には陽乃さんらしい理由が隠れているかもしれない。それでも今は、わたし以上にめんどくさいこの人を信じてみよう。誰かさんと同じで、特別わかりづらい優しさに甘えてみよう。

 そんな結論に至った途端。

「……ガチのプレゼントするって、ほんと難しいです。わたし、そういうの、せんぱいを好きになるまで一切なかったので」

 わたしの胸裏は、驚くほど自然に口から抜け出ていった。

「だから……どんなもの渡したら一番喜んでくれるのかとか、全然わかんなくて……」

 言葉にするのは、こんなに簡単なのに。

 とめどなく溢れ続けるこの想いは、いくら頑張っても形にできない。

 舌ばかり回って、気持ちは空回り。恋人に対して不甲斐なさすぎる自分が、どうしようもなくもどかしくて。

「おかしいですよね、ほんと……。わたし、先輩の彼女なのに……」

 あはっと誤魔化しながら、押し潰そうとしてくる感情を必死で外へ逃がす。だが、所詮は粗末なその場しのぎでしかない。なくなった部分を穴埋めするかのように、同種の切迫感が再び心の中に這い上がってくる。

 役立ちそうなものも、身につけるものも、全部しっくりこなかった。かといって、一過性のものじゃちっぽけな記念品くらいにしかならない。

 心に描いた甘い理想とは裏腹に、いつまでたっても留守なままの両手。現実とのいたちごっこが続き、比例して視線の高度も下がっていく。

 すると――。

「なんだ、そんなこと」

 拍子抜けしたらしく、陽乃さんは脱力してふっと短く息を吐いた。しかしなんだか吐き捨てられた気がして、悪意はないとわかってはいても眉をしかめてしまう。

「そんなことって……」

「だってそうじゃない。いろはちゃんはそんなつまらない子じゃなかったと思うけど」

「じゃあアプローチが間違ってるってことですか? わたしはただ、せんぱいに一番喜んでもらいたいだけなのに……」

「それは恋人だから?」

「……もありますけど、やっぱり、思い出って大事じゃないですか。だからわたしが誰よりも素敵な思い出、作ってあげたいです」

 せんぱいとの他愛ないおしゃべりも、くだらないやりとりも。これから二人で共有する時間も、ふとした時に惹かれ合う瞬間も。大小関係なく、その一枚一枚が愛すべき記録だから。いつか二人で、未来の幸せを噛みしめられるように。

「そういう健気な部分は好きよ。でもそれじゃあと一手が足りないんじゃない? 誰だって似たようなこと考えるわけだし」

 感情のままになんとか食いついていたが、最後の正論にはぐうの音も出なくなってしまった。

「……じゃあもうどうしたらいいんですかー」

 がっくりうなだれたわたしの頭を、視界の端から伸びてきた手がぽんと軽く叩く。拗ねながらもちらり表情をうかがうと、瞳の先で陽乃さんが目を細くさせる。

「自分でよく考えなさい。……いろはちゃんからしか渡せない強烈なものをね」

 やけに落ち着き払った声。そして、付け足された一言。言葉は酷く冷たいのに、声色は逆に温かくて。

 苦々しい現実の中に芽生えた一抹の甘い期待が、わたしの錆びついた思考をぎちぎちと動かし始めた。

「わたしにしか渡せない強烈なもの……」

 うわ言のように呟きつつ、ぴこんと閃きそうなものがないか心のアルバムをめくっていく。

 付き合ってからは、この前のデートや相模先輩の一件以外これといった出来事はない。……となれば、もっと前なら。

 わたしとせんぱいの記念日、奉仕部での一件やサッカー部を辞めた日のこと、進路相談。

 二度目のデート、わたしの誕生日。

 初めて自分以外の人に本当のわたしを見せた瞬間や、独りよがりな依頼を押しつけようとしていたあの頃。

 どれも一つ一つがすごく濃くて、どれも欠かすことなく書き留めてある大切なわたしの――。

「あっ」

 今まで気付かなかったのが不思議なくらい、わたしの気持ちと願いがぴったり合致するものが一つだけ。思わずこぼれ落ちた独り言を聞いて、陽乃さんが表情をいつもの調子に戻す。

「無事見つけられたみたいだし、お姉さんの役目はこれでおしまい、かな?」

 この人には、やっぱり最初から全てが見えていて。

 そして、これからどうなるかもきっとわかりきっていて。

 でも、前みたいに突きつけて、突き放すんじゃなくて。

 誰かさんみたいにめんどくさいやり方で、きっと、こうやって。

「……ありがとです、はるさん」

 まったく。

 ――ほんとに、お姉ちゃんみたいだ。

 

 夜風にあたろうと、一旦席を離れて外に出た。

 もう一度空を見上げれば、流れていく雲と共に星がぽつぽつと輝いていて。

「せんぱい、喜んでくれるといいな……」

 この場にない温もりを求めるように虚空へ自己満足を投げかけた時、誰かが引き戸をがららと開く。そこから現れた人物を横目で確認すれば、見知ったどころか見知りすぎた姿がある。

「邪魔するぞ」

 店の壁に寄りかかるわたしに気付き、平塚先生が短く言い添えながら隣に並んできた。

「……先生」

「私は一服しに来ただけだ。安心したまえ」

「や、別にそんなつもりじゃ……」

「冗談だよ」

 顔が強張ったわたしを見るなり、紫煙をくゆらせつつ平塚先生が口元を崩す。……みんなしてわたしをからかいすぎじゃないですかね。

 とはいえ、今はちょっぴりセンチメンタルな気分だ。そのせいか頬の膨らみ具合はいつもより悪く、すぐにぷしゅっと空気が抜けていってしまった。

「……はー、ほんと、おせっかいな人たちばっかりです」

「おや? 君はむしろ世話を焼かれるのが好きなほうだと思っていたが」

「それはまぁ、そうなんですけど。……なんて言いますか、こう、くすぐったいっていうか」

「くすぐったい、か。……そのくすぐったさを忘れないでほしいなぁ」

 なんてことない素直な感想だったが、なぜか平塚先生は懐かしむような色を灯した瞳を遠くへ向けた。相変わらず宛先は不透明で、不明瞭で。けど、戻ってきた視線を見る限りは確かにわたしへのメッセージで。

「君が今感じているくすぐったさは、損得勘定では測れないものだ。それは大人になるにつれてどんどん薄れていってしまう。だから、今、そのくすぐったさをきちんと見ていてほしい。大事なことだよ」

 対策会議をした帰り道の、車の中でも。

 一回目の進路相談の時も、二回目も。

 つい最近の、私情まみれの個人面談でも。

 真摯な優しい眼差しと語りかけてくる口調は、今でもまだ、やっぱりくすぐったくて。

「……だから、かっこつけすぎですってば」

「悪いが、そういう性分でな」

 わたしの皮肉をするり流すと、平塚先生は煙草の火を消し始めた。けど、言葉の忘れ物がないか確認する時間をこちらに与えるように。ゆっくりと、静かに。

「私はそろそろ戻るが……どうする? もう少し夜風にあたるなら付き合うが」

「……いえ、大丈夫です」

「そうか」

 あまり遅くなると陽乃が拗ねるぞ、と言い残し、平塚先生は先に店内へ戻っていく。

 閉じられた引き戸の奥へ消えていく背中を見送った後、残ったわたしはもう一度空を仰いだ。

 すると、大した時間も過ぎていないのに。

 夜の海でぽつぽつと浮かぶ星は、さっきよりも、ずっと輝いて見えた。

 

  *  *  *

 

 二人との食事会、もとい相談室を経て迎えた当日。

 もう迷いはないけど、不安はまだある。そんな胸中のせいか、普段よりも目的地までの距離が長く感じてしまう。身体と心のどきどきが際限なしに上がり続けていく中、黙々と、確実に足を進める。

 時間にして、駅から数分。わたしの体感では、数時間。ようやく見えてきた一角に、わたしは一度大きく深呼吸をした。

 照らす陽の光が人々や建物の影を作り、どこか寂しげな感じを漂わせる閑散とした住宅街。夜になるとその雰囲気がさらに強まるこの場所は、心の持ち方次第でこうも変わって映るのだと新しく知った。遠くに見えるコンビニの看板も、塗装が剥げて少し錆びている標識も、もちろん。

 そのまましばらく歩いて、すっかり通い慣れた一軒家のインターフォンを一切の震え交じりに押す。直後、玄関の戸を挟んで気だるげな足音が耳に届く。

 わたしは誤魔化すように、温もりに縋るように、鞄の中にしまってある宝物をぎゅっと抱きしめた。より強く、より届けと、心の中で恋人の愛称を呼びながら、何度も、何度も。

 やがてゆっくりと扉が開かれ、のそっとした顔がわたしを出迎えた。

「よう」

「こんにちはです、せんぱい。それと……お誕生日、おめでとうございます」

「……ああ、昨日の電話はそういうことか。今まで小町くらいにしか祝われたことねぇから考えもしなかったわ」

 なんて言いつつ、せんぱいは恥ずかしそうにがしがしと頭を掻く。

「まぁ、なんだ……わざわざありがとな、とりあえず上がってくれ」

 手をドアノブに固定したまま、せんぱいがふいっと目で促す。

「……お邪魔します」

 でも、わたしはお礼の言葉が欲しいんじゃない。

 ただ、プレゼントを渡しにきただけじゃない。

 中に入るなり、わたしはくるりとその場で振り返った。

「ん、どした」

「あの……これ……」

 そして、せんぱいの胸元めがけて宝物だったそれを鞄ごとずずいと押しつける。

「……開ければいいのか」

 こくりと首肯すると、受け取った鞄の留め具にせんぱいが指をかけた。

 今日持ってきたものは、化粧を直すためのセットでも、勉強をするための道具一式でもない。ある種の宝箱と呼べるものが開かれていくたび、わたしの心臓はばっくんばっくんとうるさくなっていく。

 そうして、かぱっと開いや鞄の口から。

 わたしの、わたしだけの宝物だったものが、取り出されて。

「……ラッピングされたノート? いやでもこれ……もしかしてお前の?」

 シンプルなピンクのリボンで束ねられた数冊のノート。けど、角や糊付けされた部分なんかは痛んでぼろぼろだ。上側も下側も、すれたり引っかかったりで傷だらけ。

「せんぱいに、読んでほしいです。……わたしのこと、もっと知ってほしいから」

「……わかった」

 そこで言葉は途切れ、代わりに一つ、しゅるりとリボンを解いた音。

 

 十二月、一月、二月、三月。

 せんぱいは、どんな心境で見ているのだろう。

 

 四月、五月、六月。

 せんぱいは、どんな気持ちで読んでいるのだろう。

 

 先月、先々週、先週。

 なんてことのない平凡な日常も、全て欠かすことなく書き留めた内容を。

 

 一昨日、昨日、空白。

 始まりから今の今まで、わたしの全部を綴った、わたしの全てが詰まった日記を。

 

 ノートの時系列が進んでいくたび、だんだんと視点が下がっていく。怖気づいて、逃げ出したくもなる。もし嫌われたらどうしようだとか、もし幻滅でもされたら二度と立ち直れないだとか。どれだけ相手を信じていても、自分の全てを打ち明けることはやっぱり怖いことだから。

 そして、誰よりも特別だからこそ、不安はいっそう強まってしまう。涙が浮かんでしまいそうなくらいに、負の感情ばかりがどんどん膨れ上がっていく。

 でも、それ以上に。

 わたしのことを、もっと知ってほしいから。

 今までよりも、もっと理解してほしいから。

 今、どのあたりを読んでいるのかはわからないけど。

 震える指先をそっと伸ばし、瞳の先にあるシャツの裾を片手で甘えるようにつまむ。

 すると、一拍の後にぱたりと日記を閉じた音が静寂の終わりを告げた。

「……ったく。人の誕生日にとんでもねぇ爆弾押しつけてきやがって」

 そのままノートで頭をぽすりと優しく叩かれ、おそるおそる顔を上げる。けど、わたしの視界には日付の書かれた表紙しか映らなくて。

「あの……気に入らなかったら、別に、捨てても……」

「捨てられるかよ、こんなにお前の気持ちが詰まったもん」

 きっと、わたしが感じていたように。

 他の人からすれば、大した意味も込められてない無価値なものかもしれない。

「……その、なんだ。こんな時くらい気の利いたこと言えりゃよかったんだが……さっぱり浮かばん。だから、まぁ、人並みな言葉で悪いんだけどよ……」

 どこか噓くさくて、薄っぺらいお世辞のやりとりかもしれない。

 でも、それでも。

 よかった、と口の中だけで安堵を溶かした。

 だって――。

「ありがとな、いろは」

 震えていて、かすれ交じりの声遣いと。

 そっと引き寄せられた先から伝わる、優しい温もりと。

 頭上からぽとりと頬へ落ちてきた、喜びのかたまりが。

 

 ――わたしの求めていた答えを、くれたから。

 

 

 

 

 




これを投稿する時は、八幡の誕生日ですね。おめでとう!
しかし仕上がったのがギリギリな上、肝心の八幡はラストにしか出てこないという。まぁ斯くしてシリーズはいろはすが主人公だから仕方ないですね!(逃避

続いて重ね重ね申し訳ないですが、この場をお借りして宣伝と再掲をば。

R-18本の方では
高橋徹さん【PixivID:13134519】【ハーメルンID:85690】
暁英琉さん【PixivID:716569】【ハーメルンID:103839】

同時配布の一般本の方では、私の他に
さくたろうさん【PixivID:9357622】【ハーメルンID:103208】
ねこのうちさん【PixivID:1538917】
山峰峻さん【PixivID:2530485】が執筆しています。

素敵な表紙は稲鳴四季さん【PixivID:789384】に描いていただきました!
8月12日(一日目)の東カ33-b【やせん】でお待ちしていますので、よろしくお願いします!

長々と宣伝失礼致しました。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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斯くして二人の夜は更けゆく。

前回の後日談的な。


  *  *  *

 

 もうすっかり通い妻だー、なんて胸の内でにやにやしつつ、わたしは今日もせんぱいのおうちで自習に励む。

 日頃からこつこつと積み重ねてきた成果だろうか。わからないことを聞く回数も、答えに詰まったせいで手が止まる時間の長さも、はっきりと自覚できるくらいには減ってきていて。

 進歩が目に見える形で表れるというのは、やっぱり嬉しい。

 ふと感じた自身の成長を喜びながら、黙々とペンを動かしていく。すると、あっという間に今日やる分の予習も昨日の復習も全て片付いた。

「あはっ、せんぱい、わたしの勝ちでーす!」

 一足先に勉強用のノートを閉じたのを見て、隣で数学の参考書と格闘していた恋人がぎょっと目を剥く。

「え、なに、もう終わったの? マジで?」

「ふっふーん」

 どやっと自信満々にピースするわたしとは対照的に、せんぱいは力なく首を前に垂らした。

 勉強という行為自体には、勝ち負けの要素なんてない。でも、今回はちょっと違ったりする。なぜなら、『どっちが先に予定していた自習範囲を終わらせられるか』、というルールを急遽わたしがブッ込んだせいだ。……まぁ、勝ったからといって特に何かあるわけじゃないんだけど。

「……まぁ、負けたからといって特に何かあるわけでもねぇし別にいいんだけどよ」

 直後、わたしの心の中とせんぱいの言葉がシンクロした。……なるほど、これが以心伝心。言葉どおり通じ合ってるというか繋がってるというか、そんな感じがしてなんか素敵! ちゃんと意味合ってるかわかんないけど!

「むふふー」

「なんだよ……」

「いーえ、なんでもっ!」

 このまま全力の甘えモードに突入したいところではあるが、せんぱいの勉強が終わるまでは我慢しなきゃ。……うん、これ以上は我慢しよう。ほら、我慢した後のご褒美って格別だし。それにわたしショートケーキの苺は最後までとっておく派だし。……や、前までは逆だったけど。とりあえず速攻で手をつけてたけど。

 なんてよくわからない言い訳をだらだら述べつつ、未だにつなぎたがろうとする手やうずうずと密着したがる身体を無理やり抑えた。

 そうして、手頃な読み物でも借りて時間をつぶそうと立ち上がった時――。

「……あっ」

「どした……え、マジでなんなの……」

 その場で突然ぽけっと棒立ちになったかと思えば、一歩も動かないまま、同じ位置にぺたんと座り直したわたし。傍から見なくても完全に奇行だ。でも今はそんなこと気にしてる場合じゃない!

 わたしはきらきらきらっと擬音がつきそうなくらい表情を明るくさせた後、ぱっと横を向く。

「そういえば、もうすぐ花火大会ですねっ!」

 最近までどたばたしっぱなしで、すっかり頭から抜け落ちていた。あれだけ楽しみにしていたというのに。とはいえ、こうやって誘うことができたし結果オーライだ。雑すぎる上にわざとらしさと回りくどさ全開だけど。

「……ん、そうだな」

 あ、これ、行けたら行くと同じ感じだ。一緒に行く相手がわたしなのは全然いいけど、人混みがめんどくさいから相槌だけ打って済ませて流そうとしてるパターンだ。

 普通の人ならここで誘うのを諦めたり会話自体を終わらせたりするんだろう。しかし、今現在せんぱいの目の前にいるのは彼女のわたしである。

「……そういえば、もうすぐ花火大会ですね!」

 わたしはきらきらきらっと擬音がつきそうなくらい華やいだ表情のまま、せんぱいの顔をひたすらじーっと見つめ続けた。……つまり、ただのごり押しなわけなんだけど。でも毎回毎回ばっちり効いちゃうんだよなー、これが。

「……ん、そうだな」

 むっ、今日のせんぱいはやけに粘るなー。よし、ならここは……。

「そ・う・い・え・ば!」

「うおっ」

「もうすぐっ! 花火大会っ! ですねっ!」

 花火ですよ? 夏の一大イベントですよ? もちろん行きますよね? 行かないとか意味わかんないですよね? そう訴えるように腕ごと身体をがっくんがっくん揺さぶり続けていると、せんぱいは軽く開いた手をわたしに向けてふらふらとさせ始めた。顔の旗色や挙動から察するにどうやらギブアップらしい。

「わ、わかったからやめろ。行くから、ちゃんと行くから……」

 うーん、いい加減敗北を知りたい……。

「はぁ……ったく。毎回毎回強引すぎんだよ、お前……」

「それがわたしですから!」

「にしてももうちょっと言い方とかやり方とか他にあんだろ」

 悪びれる様子もなく腰に手を当てどやっと胸を張ったわたしに、せんぱいは呆れと諦観を詰め込めるだけ詰め込んだようなため息を吐く。うんうん、いつものいつもの。

 ……さてと。

 やることやったし約束もちゃんと取り付けたし、ちょっとだけどかまってもらえたし、今度こそおとなしくしてよーっと。で、せんぱいの勉強が終わった後にわたしいい子にしてましたアピールして、たっぷりご褒美をもらっちゃおーっと!

 内心で企みつつ、組んだ腕の上にほっぺたを乗せてテーブルに突っ伏した。そのまま恋人の横顔を眺めながら、わたしはむふーと満足げな息を漏らす。

 我慢することはあっても、自分に嘘をつくことだけはしなくなった結果。

 作り物なんかじゃない、心からの素直な表情を浮かべられるようになって。

 逃避という不純物のない心どおりの気持ちを、遠慮なく言葉で伝えられるようになって。

 そして、ありのままのわたし自身を。

 せんぱいになら、こうやって、いつだって――。

 

 しばらくすると、愛情たっぷりの視線に気づいたせんぱいが居心地悪そうに眉をひそめる。

「なんでそんなガン見してんの……やりづれぇから」

「いいじゃないですか。大好きな人の顔くらい見てたって」

「……余計やりづれぇ」

 それっきり、二人っきりの部屋の中に言葉はなく。

 代わりに、ぎこちなく動いては止まりを繰り返すペンを走らせる音と。

 わたしが上機嫌にハミングする声だけが響いていた。

 

  *  *  *

 

 際限なく汗が滲む昼の暑さも、茜色が混ざる頃にはだいぶ和らいでくる。生温かった風も、夕方という時間帯のおかげで今は少し心地よい。

 地平線の遥か向こうから延びる夕陽の光が建物や道行く人々に影を落とし、様々なシルエットを街のあちこちに作り出している。そんな風景の中を、新しく増えた二つの影が千葉の一角を進んでいく。

「久しぶりですね、こうやって帰り道を一緒に歩くの」

「いや、俺の帰り道はあっちだから」

 ちらりと後ろを振り返り、通ってきたばかりの道をせんぱいが視線で示す。

「もー、そういうのはいいですって。ほら、雰囲気大事ですよ、雰囲気」

「俺にそういうの期待すんな」

「まぁせんぱいの場合、雰囲気作るより壊すほうが得意ですもんねー」

「うるせぇ、ほっとけ」

「わひゃっ」

 楽しさのあまりついつい軽口を叩いたら、わしゃわしゃっと雑に頭を撫でくり回された。

「……せんぱいに傷物にされたぁ」

「相変わらず説得力皆無だな……」

 ひっそりとした住宅街に二種類の声色と足音を溶かしながら、わたしとせんぱいは駅までの距離を縮めていく。……そういえば、今と似たような雰囲気だった時が前にもあったっけ。確か進路で悩んでた時期くらいに。

 無性に懐かしくなったわたしは、いつもより少しだけ遠回りしたい気分になった。とんとんと弾んだ歩調のまま、立ち寄るのにちょうどよさげな場所は何かないかなーと辺りを見回してみる。すると、帰路から外れた道の先に公園らしき平地があることに気づく。

「せーんぱいっ」

 恋人の肩を指でちょいちょい叩いて目配せすると。

「ん……ああ、あそこ行きたいのか」

「たまにくらいこういう日があってもいいかなーと思いまして」

「……そうだな。うし、行くか」

 あれ、珍しく乗り気だ……。もしかしたら明日雪が降るかもしれない。まだ夏なのに。

 らしくない返答にほへーと感嘆めいた声をあげると、不慣れな肯定が恥ずかしくなったのか、せんぱいの視線が慌てて空へと逃げる。

「……たまにはこんな日があってもいいと俺も思っただけだ」

「ふふっ、そういうことにしておいてあげます」

 

 すぐ近くの自販機へ飲み物を買いに行ったせんぱいを待つ間、デートのやり直しで中央公園を訪れた時のことを思い返す。

 見上げれば、夕映えの空を流れていく雲がある。あれから大した時間も経っていないはずなのにまるで違う風景のようにすら感じるのは、前よりわたしが大人になっている証拠なのかな。

 そんな感慨に浸りながら、脚をぱたぱたさせて暇をつぶしていると。

「ほれ」

「あ、おかえりなさい、せんぱい」

「おう。……これでよかったか?」

「もちですよ」

 ごちそうさまですと言い添えつつ、二つある飲み物のうちの一つを受け取る。それはもちろん、わたしの永久トレンドになったマッ缶だ。

「……お前もすっかりハマってんな」

「くせになりますよね、この甘さ。これがない人生なんて死にたくなるー……みたいなっ」

「だから人のセリフ取るんじゃねえっつの」

 手元にあるまったく同じ種類の缶を見合せ、お互い楽しげな笑いを漏らす。

「しっかしまぁ……人間どうなるかわからんもんだな、マジで」

「わたしと付き合ってることとか、ですか?」

「それもあるけど、他にもいろいろ……だな」

「……まぁ、いろいろありましたしね」

 付き合い始める前も、付き合い始めた後も、本当にいろいろ。

 でも、その一つ一つが繋がっているからこそ、わたしはここにいるんだ。紆余曲折の末にやっと実を結んでくれたからこそ、わたしは今、幸せのど真ん中を生きていられるんだ。

 だから――。

「……だからこそ、やっぱりわたしはせんぱいと出会えて……こうやって付き合うことができて、ほんとによかったなーって」

 缶を傾けるのを止め、恋人がこちらを横目で見やる。

 こんな些細な会話や他愛ないやりとりも、いつかは記憶の隅へ追いやられていってしまうけど。いつまでも、なんて絵空事は胸に抱いたまま、わたしもありふれた大人になってしまうのかもしれないけど。

 でも、それでも。

 わたしはずっと、この人のそばを歩いていきたい。この人の隣で、限りのある大切な時間を過ごしていきたい。あの時はこの時はと振り返るたび、せんぱいの顔や仕草が、温かさと優しさが、いつだってそこにあるから。

「……ありがとよ」

 どっちから、じゃなくて。驚くほど自然に、初めからそうだったみたいに。

 お互いが、お互いの指先にそっと近づいて、触れて。

 次第に絡まって、繋がって。最後には、ぎゅっと固く結ばれて。

 小さくもつれることはあっても、きっともうほどけたりはしない。もしまたほつれかけたなら、ちぎれて離れてしまう前により強く結び直せばいい。そうやって、二人で結び目を一つ、また一つと大きくしていけばいい。

 わたしとせんぱいなら、そうすれば、大丈夫――。

「なぁ、いろは」

 大好きな温もりの感触にもぞもぞ指を動かしていると、恋人が不意にわたしを呼んだ。

「んー?」

「前は不思議でしょうがなかったのに、お前とこんなふうに過ごすのが……今じゃすっかり当たり前になっちまったな」

 狭めた瞼の奥は少し遠くを、けど、虚飾のない黒い瞳はすぐ近くのわたしを。二つの感情を灯しながら、せんぱいはふっと微笑む。

「……まぁ、当たり前のように人を平気で振り回すところは前から変わんねぇけど」

 続けて吐き出されたのは、他の人からすればただの皮肉でしかない言葉だった。

 でも、わたしにとっては違う。当てつけでしかない皮肉も、最大級の褒め言葉へと逆転する。

「だって、それでこそわたしですから!」

「……違いねぇな」

 目を閉じ軽くふんぞり返って誇らしげに笑うと、しょうがないやつだと言いたげな様子でせんぱいが肩をすくめた。

 変わった当たり前、変わらない当たり前。

 その二つの当たり前が、ずっとなくならないように。

 わたしがわたしでいられる最後まで、この幸せが夢から醒めないように。

「ねぇ、せんぱい」

「ん?」

「強引でむちゃくちゃなわたしを、これからも、末永くよろしくです」

 せんぱいが向き直った隙を狙い、わたしはちょっぴり腰を浮かせる。

 そうして、顔と顔の距離をさらに近づけたわたしは。

 かすかな接触音と同時に、抑えきれない愛情を込めた唇の花を咲かせた。

 

  *  *  *

 

 ベンチで二人寄り添いながら、わたしはこの小さな小さな空間を楽しむ。

 わたしがおねだりするように声を出せば、せんぱいはやれやれと呆れた顔をする。おしゃべりの合間にちびちびと飲み進めたコーヒー飲料は、もともとの味よりやっぱり甘ったるく感じて。

 けど、限りがある以上いずれその甘さも尽きてしまう。楽しい時間も心地よい雰囲気も、中身がなくなりつつある缶と共に。

 どんどん藍色が濃くなり始めた空を一度仰いだ後、せんぱいが一気に缶を呷った。

「暗くなってきたし、そろそろ帰るぞ」

「……そうですね」

 切なげなため息を吐きつつも、立ち上がったせんぱいに続く。帰りたくないなぁと缶を振ってみたものの、耳に聞こえたのは周りの環境音ばかり。

 仕方なく、しぶしぶゴミ箱へ空き缶を捨てると、からんと虚しい音が響いた。

 独りぼっちになってしまう帰り道は、毎回寂しくなる。明日になればまた会える、また甘えられるとわかってはいても、寂しいものは寂しい。だから、わたしという人間は本当にめんどくさい。

「……今日は家まで送っていくわ」

 しゅーんと落ち込むわたしを見かねてか、ぽりぽりと唇を掻きながらせんぱいが呟いた。そこはさっきまでわたしの唇がくっついていたところで。

「えへへ……今日のせんぱい、なんかすごく優しいです……」

「……たまにはな、たまには」

 自分を納得させるようにぶつくさ同じ言葉繰り返す恋人に、たまらず笑みが湧き出した。まったく、ほんと心配性なんだからー!

 センチメンタルなわたしはどこへやら。気づけば、せんぱいの腕にすりすりとほっぺたをこすりつけている自分がいた。やん、わたしったらほんとめんどくさ~い!

「こいつ……せっかく人が……」

 ご機嫌るんるんなわたしの横で、やらかしたとばかりに額を押さえるせんぱいがいた。ふっふーん、もっともっと甘やかしてくれてもいいんですよ?

「それじゃあ、行きましょーっ!」

「……へいへい」

 しんみりとした空気からいつもと変わらない調子へ戻ったわたしたちは、小さな公園を出て今度こそ駅前のロータリーを目指す。やがて視界の前方に改札が見えてきた時、わたしはほんのちょっとだけ歩く速度を落とした。

「いつもならここで……なんですけど、今日は違うんですよねー?」

「……おう」

 念のため確認してみると、どうやら本当に家まで送ってくれるらしい。絶対明日は雪だ。しかも大雪になる可能性まで出てきた。

 先延ばしにしただけでも、一緒にいる時間が増えたこと自体はどうしようもなく嬉しくて。二人一緒の帰り道は久々で、どこかノスタルジックで。

 改札を抜けてホームへと続く階段を下りていく途中、わたしは吐息交じりに口を開く。

「知ってると思いますけど、前にここで泣きそうになっちゃったんですよね、わたし」

「……そういや、そんなことも書いてあったな」

「あはっ、恥ずかしいです」

「ならなんで言ったんだよ……」

「懐かしくて……ですかね」

「……まぁ、わからんでもないが」

 こうして見ている景色も、辿っている記憶が同じでも。言葉は、形は、意味は、当時とは比べ物にならないくらいに違う。

 だとしたら、やっぱり――。

 

「……あ」

 電車が到着する旨のアナウンスが、わたしの意識を追想と予想から現実へ引き戻す。思わず名残惜しむような声を漏らすと、せんぱいが困った顔でがしがしと頭を掻く。

「んな残念そうにせんでも……お前、明日もこっち来るんだろうし」

「……や、そうじゃなくて」

 ううんとかぶりと振るわたしに、違うのかとせんぱいが返した時。ちょうどやってきた電車のライトが、わたしとせんぱいを一瞬だけ強く照らした。たとえ刹那の明かりだとしても、それはとても眩しくて、酷く綺麗で。

 あのお話だと、確か、夜中の十二時になった瞬間魔法が……みたいな内容だったっけ。けど、わたしたちは都合のいい魔法によって作られた関係じゃないから――。

「せんぱいと一緒なら、なんてことない帰り道もやっぱりこんな素敵に映るんだなーって」

 すっかり捻くれてしまった自分と、わたしを捻くれさせた張本人。

 その両方へくすりとした微笑みを向けながら、わたしは一人、そんなことを思った。

 

  *  *  *

 

 総武線に揺られること約十分、千葉駅到着のアナウンスが流れる。

 この電車を降りてモノレールに乗り換えれば、自宅の最寄り駅に着いてしまう。そこから少し歩けば、やがてわたしの家が見えてきてしまう。また明日を言わなければいけなくなってしまう。

「……着いちゃいましたね」

「帰りたくないみたいな言い回しすんなよ……」

「だって帰りたくないですもん」

 こういう時、一緒に住んでたらなー……。

 ぷーっと口先をとがらせていると、不意に、せんぱいが駅内の吊り時計をちらり見た。帰りの電車の確認かな……? でもせんぱいが乗る電車って反対だし……。

「……なぁ、お前時間まだ平気か?」

「ふぇ……?」

 困惑しているわたしの横から、やっぱりらしくない問いかけが飛んできた。

「俺も寄りたいところができた。……だから、いいか」

「あ、は、はい……わたしは大丈夫ですけど……」

 普段のわたしならあからさまに、やったー! 一緒にいれる時間が伸びたー! とほくほく笑顔になっていたところではあるが、別の部分が気になって仕方ない。

 書店にでも行きたいのかな……? しきりに首を傾げつつ促されるままに隣を歩いていくと、東口のほうから外へ抜けていくらしいことがわかった。

「何か新刊、出てましたっけ?」

「ああいや、今日はそっちに行くわけじゃないんだ」

 もしかしたらと尋ねてみたけど、やっぱり違うみたい。……今日のせんぱい、ほんと、一体どうしたんだろう。

「じゃあ寄りたいところって……?」

「もう着く」

「え、ええっと……」

 しかし返ってきたのは、噛み合っていない上に情報が足りなすぎる返答だった。

 千葉駅周辺は、行き交う人々の賑わいどおりあちこちに店がある。わたしが買い物やご飯に来た時も、あまりの多さにどこへ行こうか毎回悩むくらい。そのため、ショッピングやらグルメやらの脳内サーチをかけるだけ無駄なのはわかりきっていたからこそ聞いたわけで……。

「もー……相手がわたしだから全然オッケーですけど、何も言わずに女の子を連れ回すのはよくないですよー?」

「……買いたいものがあんだよ」

 むーっと食い下がるわたしに、せんぱいはさっきより少しだけ具体的な返答をした。ほう、買いたいもの……となると、一緒に夜ご飯という線は消えたなぁ。それはそれでちょっと残念。

 左手の指先を唇に添えながら候補を絞っていると、検索結果が出るより先に着いてしまったらしい。本当にすぐだった。

 目先には、どーんと構えるようにそびえ立つ大きな建物がある。それは、わたしもよく知る千葉そごう店だ。

「なるほど……」

「なんだよその妙に腹立つ顔……」

 面白さ半分意外さ半分といった表情でほーんと頷いたわたしが大層ご不満らしく、隣の恋人が眉間をぴくりと動かす。

「せんぱいもこういうところ、来るんだなーって」

「うるせぇ……ほれ、早く行くぞ」

「あっ、ちょっと、だから引っ張らないでくださいよー」

「だからどの口が言うんだっつの……」

 ほんのりと頬を赤らめたせんぱいは照れを誤魔化すように、にやけ顔が収まらないわたしは半ば引きずられる形で正面口から建物の中へと入っていく。一階は主に女の子をターゲットにしたフロアになっているので、向かうは当然左手にあるエレベーター。

「で、お客様……な、何階へ行かれますかー?」

 ぷっくすくすと笑いを隠さないわたしにじとりとした視線を送りながら、せんぱいは口元を波打たせつつも無言で8Fのボタンを押した。 

 そこは確かロフトがメインのはず。……文房具を買うにしてはちょっと高すぎる気がする。でもせんぱい、雑貨やインテリアとか買うキャラじゃないしなー……小町ちゃんと一緒に来たならともかく。

 なんてことを考えているうちに、ぴんぽーんと音が鳴った。

「……あー、悪いけどここで待っててくれるか」

 エレベーターを降りてすぐ、つないでいた手を離して恋人がそんなことを言う。それがなんだかここで置いてけぼりにされる気がして、途端に胸がずきずきと痛み出す。

「え、わたしも……」

「いや、お前に見られてると……その、ちょっと」

「……置いてかないですよね?」

「何言ってんだお前……」

 不安げに瞳を揺らすわたしの頭に、せんぱいがぽんと手を置く。何度か忙しなく移した視線を戻すと、恋人はためらいがちに声を紡いだ。

「……お前に渡すもんなんだから、当たり前だろ」

「へ……?」

「すぐ戻る」

 言葉の意味を問う前に、せんぱいは店内のスペースへ向かってしまった。とっさにあっと伸ばした指先は空を切ったまま、そこで止まったまま。

 わたしに渡すものって、一体なんだろう……?

 疑問を反芻しながら手を引っ込めたわたしは、小さく息を吐きつつ壁に寄りかかった。そうして伸びたり屈んだりする恋人の姿をひたすら追いかける。

 

 ……あ、なんか店員さんに話しかけられた。

 もー、そこできょどっちゃだめですってばー。

 うわ、すっごいわたわたし始めた。やばっ、これわたし行ったほうがいいかも。

 ……お、こっち見た。なんか必死で説明してるっぽい。

 一応、手、振っといてあげよーっと。せんぱーい……みたいなっ。

 あはっ、今度は必死に店員さんが頭ぺこぺこさせてる。うんうん、よかったよかった。

 

 ときどき通りすがっていく人たちが、ころころ表情を変えるわたしへ興味深そうな眼差しを一方的に送りつけてくる。

 けど、それらが一切気にならないくらい、わたしは恋人の一挙一動に夢中になっていた。

 そして、同時に思う。

 こんなに一途だったんだなぁ、ほんとのわたしは……って。

 

「……マジでえらい目にあった」

 戻ってくるなり、はーっと盛大にため息を吐くせんぱい。

「わたしをほったらかしにするからですよ」

「悪かったよ……だから、ほれ」

 慣れないことはするもんじゃねぇなと言い足しつつ、せんぱいは黄色の手提げ袋をずいと差し出してきた。

「……開けても?」

「ん、まぁ」

 許可も得られたので袋の中を覗いてみると、この間せんぱいに贈ったばかりのノートとまったく同じデザインをしたノートが何冊も入っていた。

「……これって」

「まぁ……アレだ。こういうことに付き合うのもなんだかんだ悪くないっつーか……」

 ぱちぱちとまばたきばかりを繰り返すわたしの前で、歯切れの悪い言葉が繋がれていく。

「……要は、その……お前、……いや」

 どこにでもある、よくあるノートが。

 けど、わたしのための。わたしのためだけのノートが。

「……いろはのことを、俺はもっと知りたくなった。もっと理解したくなった」

 わたしの勝手な願いを象徴した、バカげた自己満足の日記が。

 保証なんてどこにもない、自分勝手を綴った夢物語が。

「だから……」

 平凡な日常や、わがままな幸せばかりを記録した宝物へと変わって。

 八月八日という特別な日を境に、わたしにしか渡せない特別な贈り物となって。

「……書いたらまた、読ませてくれ」

 今、目の前で。

 わたしの、大好きな人の手で。

 二人で共有する、二人だけの宝物へと生まれ変わって。

 そして、置いてけぼりだった理解がようやく追いついた瞬間。

「ちょっ……」

 ――わたしの瞳から頬へ、温かい滴がつつりと垂れた。

「ばかっ……ばかっ、ずるい、ばかっ、ばかばかばか……っ」

 思考が止まっていたことでせき止められていた感情の奔流が、わたしの左右の瞳からとめどなくこぼれ落ちていく。拙い言葉の雨が、勝手に口から抜け出ていく。

「んな泣くなよ……」

「せ、せんぱいの……ばかっ、ばか……っ、……ばか、ばかっ……ばかっ……」

「はいはい……ったく」

「……ばかっ、ばか……ばか……っ」

 

 その日、わたしは年甲斐もなく泣きじゃくった。人目も気にせず泣きじゃくり続けた。帰りたくない、離れたくないって。一緒にいたいって、そばにいてほしいって。

 顔をぐしゃぐしゃにしながら子供じみたことばかり言うのがやっとのわたしを、せんぱいは嫌な顔一つせずずっと撫で続けてくれた。抱きしめたままでいてくれた。

 でも、今は我慢するしかないから。いつか、毎日一緒に暮らせるようになる日までは。

 だから、声にならない声で。

 

 ――また、明日、です。

 別れ際に、そう告げることしかできなくて。

 

 涙で服もメイクもぐしゃぐしゃに崩れたまま家に帰ったわたしは、その日、久々にお母さんの胸で泣いた。みっともないくらいお母さんのエプロンをしわくちゃにして、わんわん子供みたいに大泣きした。

 それでも、お母さんは何も言わずにわたしの頭をずっと撫で続けてくれて。よしよしと子供をあやすように、わたしが泣きやむまで背中をぽんぽんと叩いたままでいてくれた。

 寂しさや悲しさが落ち着いた頃には、瞼が目も当てられないくらい腫れていて。でもお母さんはわたしが話し始めるまで、ずっと優しく包んでくれていて。

 あの時より、わたしがちょっと大人になった証拠なのかな。不思議と恋人のことを、大好きなせんぱいのことを話せた。

 一つ一つに対して、うんうんとお母さんは相槌を打ってくれて。だからわたしも、心の中を素直に打ち明けることができて。

 会いたい、寂しい、甘えたい。一緒にいたい、離れたくない、そばにいたい。バカみたいに同じことばかり、何度も、何度も伝えた。

 声が枯れ始めるまで繰り返した頃、お母さんはそっと呟く。

「……いろはは、その人のことがそんなに好きなのね」

 わたしは頷く。だって、本当に本気で大好きだから。

「じゃあ、いろはの気が向いた時にでも会わせてね」

 一瞬だけ、迷った。

 でも、すぐに振り払った。

 だって、ずっと二人でなんてバカげた夢を本気で追いかけられるくらいに。いつまでも、なんて絵空事が本当に現実になるって信じられるくらいに。

 わたしは、せんぱいが。

 大好きで大好きで、どうしようもないから。

「……うん」

 お母さんの胸に顔を埋めたまま、ちょっとだけ照れを残しつつ。

 小さく、小さく。

 

 ――わたしは、もう一度頷いた。

 

 

 

 

 




更新するまで一か月以上空いてしまいました、ごめんなさい。
ついに作中時間をリアルが抜いてしまった……。今年中に終わらせられるのかなこれ……。

さて、この場をお借りしまして。
コミケお疲れ様でした。売れるかな……と不安で仕方ありませんでしたが、結果はまさかの完売でした。メンバー全員びっくりでしたw

それに伴い、ちょっとしたお知らせを。
合同誌の再販についですが、活動報告に書いておきました。
欲しかったけど会場に行けなかった方々や売り切れで買えなかった方々がいらっしゃいましたらぜひぜひ。興味が湧いた方もぜひぜひ。

あまり長々と書くのも申し訳ないので、ここらへんで。
それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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ときどきラブコメの神様はいいことをする。―前―

  *  *  *

 

 夏休みも中間地点を過ぎ、季節はやがて本格的に秋へと移り変わっていく。そのせいか、これまでずっとご機嫌だった空模様がついに怪しくなった。

 そしてその日の夜、わたしの機嫌までも濃く深い曇りへと巻き込んだ空は、ついに滴をぱらぱらと落とし始める。

 明日は念願の花火大会だというのに――。

「……ほんと、タイミング悪すぎませんかね」

 ふてくされつつ見た予報によれば、短時間で済む雨とのこと。しかし、こういう時ほど裏切られてしまうのがお約束だ。

 わたしは手にしていた携帯から視線を外し、天井に向かって切なげな息を吐いた。

 なんでよりによって今なのかなぁ……。

 ……あー、もー、むしゃくしゃするーっ!

 こんな時こそせんぱいに思いっきり抱きついて全力で甘えたいのに、物理的な距離がわたしの欲求を拒む。おまけに部屋の窓を叩き鳴らす雨音や水溜りを掻き分けて走る自動車の音が、芽生えた不満や苛立ちを余計に加速させてくるから困りものだ。

 とはいえ、いくら文句を言ったところでどうにもならない。ただ口にするだけで雨雲がおとなしく引っ込んでくれるなら、もうとっくに晴れている。

 憂いのほうに天秤が大きく傾いているせいで、本を読んでも文章が頭に入ってこないだろう。かといって恋人と電話でおしゃべりしようにも、おやすみなさいはもう済ませてしまっていて。

 現在の時刻は、夜の十一時を少し回ったあたり。

 小降りではあるものの、やむ気配のない雨がついにはネガティブなワードまで呼び始めた。

 ――雨天中止。

 最悪な結末が頭の片隅にちらつき、かき消してもかき消してもしつこく再浮上してくる。追い出したら追い出した分だけ、その隙間を埋めるように無意識の奥底から湧き出してくる。

「……もう寝とこ」

 うだうだぐちぐちとめんどくさいわたしが出てくる前に、散らかった感情をリセットしよう。そう思い、部屋の照かりを消してベッドに潜り込んだ。

 明日には、青空が広がっていることを祈りながら。

 そして同時に、この天気がもたらした妙な胸騒ぎを覚えながら。

 

 ――瞼を閉じてから、どのくらい経ったのだろう。

 夢なのか現実なのか区別のつかないあやふやな境界を意識がふらついていると、ぼんやりした白い光のような靄が真っ暗だった視界に割り込んできた。

「んー……」

 眠気の残るとろんとした声を上げ、あと五分だけとばかりにもぞもぞ寝返りを打つ。だが、そのタイミングでわたしはスイッチが入ったかのように頭が冴えていって――。

「……そ、そうだ雨はっ!?」

 昨夜危惧していたことをはっと思い出し、慌てて身体を起こす。雨の音こそ今は聞こえてこないが、ただ単に勢いが弱まっただけという可能性がある。

 おそるおそる窓を開けると、生温く湿っぽい空気が肌を撫でてきた。

 だからわたしは手のひらを空に向ける。しかし落ちてくる雨露の感触はないまま、雨上がり独特の何とも言えないにおいが静かに漂ってくるだけだった。

 ……どうやら、無事に峠を越えてくれたらしい。

 雲間を裂く淡い光の柱を眺めながら、今度こそ、わたしは肩の力を抜いた。

 

  *  *  *

 

 家を出る頃には、朝方の仄暗さが嘘だったみたいに消えていて。分厚かった灰色の雲はもう見えず、代わりに、切れ端みたいな白い雲がところどころに浮かんでいるだけだ。

 これなら充分に快晴といえるので、何らかのトラブルによる遅延や中断こそあっても、中止になることだけはまずないだろう。

 ……なんだか自分でフラグを立ててしまった気がするけど、それはまぁ、気のせいだということにして。

 駅までの道のりを進んでいくにつれ、一体どこから湧いて出たんだ、というくらいに人の密度が増加していった。

 わたしと同じような浴衣姿だったり、そうじゃなかったりする女の子たち。

 手をつなぎ、仲睦まじげな様子で歩くカップルたち。

 買い物袋をぶら下げていたり、クーラーボックスを背負っていたりする家族連れの人たち。

 そんな各々のざわつきや浮ついた足並みに一人、また一人と加わりながら、それぞれが花火大会の会場という一つの場所を目指し集約していく。

 もちろんその中の一人であるわたしも、からころと履き慣れていない下駄の音を鳴らしつつ。

 そうして駅からモノレールへ乗り込んだところで、指先にぷらぷらさせていた巾着から携帯を取り出して時間を確認する。

 ……うん、ちょっと準備に手間取っちゃったけど余裕で間に合いそう。や、間に合う間に合わない以前に毎回毎回家を出るのが早すぎるまである。

 という具合に、わたしの恋煩いはまだまだ終わらない。それどころか、最近じゃこの重症っぷりがデフォルトとなっている。

 けど、一分一秒でも早く会いたいって気持ちがわたしをそうさせるんだから、自分じゃもうどうしようもないんだ。離れている間に積もったいっぱいの寂しさが、わたしをいてもたってもいられなくしてくるんだ。

「……早く会いたいなぁ」

 じきに叶う望みをぽつり漏らし、胸元のあたりで携帯をきゅっと軽く握った。すると、その声に呼応するように車内アナウンスが流れ始める。

 やがて景色のスクロールが完全に止まり、一拍置いてからぷしゅーとドアが開く。

 我先にと降りていく人たちの中で、下駄の音を響かせているのは自分だけ。しかしわたしは気にも留めず、改札へと続く階段を一人かこかこ下りていく。

 全開の笑顔に弾んだ歩調のわたしとは違って、めんどくさそうな顔で気だるげに歩いてくるのだろう。ありありと目に浮かぶ恋人の様相に頬や口元を綻ばせつつ、改札を抜けた先の壁際で佇む。

 当然、お目当ての人物の姿はまだ見えるはずもない。

 落ち合うまでのこの時間は、毎回毎回やっぱりもどかしくて、いつだってじれったくて。

 けど、だからこそ、会えた時はやっぱりたまんなくて。

「……んー、なんかちょっとズレてる気が」

 ヘアピンの位置やアップにまとめた髪を気にしては、何度も触り。

 ときどき浴衣の合わせや裾の乱れ、帯の緩みなどもしきりに確かめ。

「はー……せんぱい、はやくはやくー……」

 わたしは、ただただ、待った。

 顔がやっと見れた時の、嬉しさの爆発を。

 我慢できずに飛びついてしまうくらいの、愛情の暴発を。

 悶々としているうちに一分、また一分と時間や距離は確実に縮まっていく。はやる気持ちは既にメーターを振り切り、抑えきれなくなったときめきが挙動として表に溢れ出ていく。

 まだかなぁ。

 まだかなぁ。

 一定のリズムをとるようにつま先だけで地面を叩いていると、不規則な雑踏が遠くから混ざり始めた。またたく間に打楽器じみたこもった音は、どかどかと大きくなっていく。

 たぶん、この一波に。

 かつこつぺたぺたと様々な音色が、今度はモノレールのホームへ、あるいは駅の出口へとばらばらに流れていく。そんな中、気配を殺してのろのろと歩く甚平姿の恋人を視界の隅に捉えた。

 その瞬間、わたしは表情と心いっぱいに満開の幸せが咲いていって――。

「せんぱぁ~い!」

 ボリューム最大の甘え声で呼びかけながら、わたしは勢いよく駆け出した。自分が今何を履いているかも忘れて。

「…………」

「わわっ……はっ、と、よっ」

 他人のふりを決め込もうとしていたせんぱいだったが、よたよたと危なっかしいわたしの足運びに気づくと慌てて方向転換する。

 もちろんわたしはその隙を見逃さない。

「お、おい危ないから……」

「……えいっ!」

「うおっ、……とっ」

 どーんと勢いよく胸元めがけて飛び込んだわたしを、よろつきながらもせんぱいはなんとか受け止めてくれた。

「……お前なぁ」

「んー……」

「聞けよ……」

 まったくぶれないわたしに、げんなりとした言葉と吐息が頭上からこぼれてくる。あーあー聞こえなーい!

 こっそりと匂いを堪能し始めたところで、わたしはあえて、過程がわかりきっていることを尋ねてみる。

「せんぱい、今日は珍しく空気読んだ格好なんですね」

「ああ、いや、読んだっつーか読まされたっつーか、とにかく強制だったんだよ……ったく小町のやつめ、なんで俺がこんな……」

 むず痒そうな声と身体の揺らぎに見上げれば、思わずぽっと頬を赤らめてしまった。

 改めて間近で、いつもよりちょっとだけ近づいた目線の高さで。たったそれだけなのに。

 わたしのすぐ目の前にある、肌色面積の広がった恋人の首元に胸元。ぴたりと密着している部分からダイレクトに伝わってくる、せんぱいの肌の感触と体温。

 ……うーん、たまんないっ! 小町ちゃんありがとっ!

「いいじゃないですかそれくらい。ていうか結構似合っててわたし的にも興奮間違えました新鮮ですしこうしてるといつもよりあったかくて余計くせになるまた間違えましたもっと甘えたくなる感じでとにかく最高なわけですよ!」

「……間違えすぎだから」

「あっ……」

 熱弁を振るったものの、とりあえずもう喋るなとばかりに引き剥がされてしまった。

「……もー、なんでそうなるんですかー」

「ストップかけとかないとお前、暴走した挙句に自爆すんだろうが……。いつも巻き込まれる俺の身にもなってくんない?」

「せんぱい、死なばもろとも、ですよ。ほら、わたしとせんぱいって一心同体みたいなところあるじゃないですかー?」

「だから俺を道連れにすんじゃねぇよと何度……あとそういう場合に使うのは一蓮托生な」

 ほう、一蓮托生……意味の違いは後で調べておくとして。

 間違えたなら、正さなくちゃ。どんなに些細なことでも、間違いだと自分が判断したならなおさらだ。間違ってしまったとわかっていても認めないのは、経験上、とっても間違ったことだから。

「せんぱい、一蓮托生、ですよ! ほら、わたしとせんぱいって……」

「わざわざ言い直さなくていいから……」

 訂正しようとしたが、言い切る前に盛大なため息で制されてしまった。

「……最後まで言わせてくださいよー」

「どうせ後半は同じだろうが……」

 たまらずぷーっと膨れたわたしに、やれやれと言いたげな様子でせんぱいは肩を落とす。そんなわたしたちを、なんだこいつらと通りすがった人たちが一瞥していく。

 日常の中にあるちょっぴりの非日常でも、結局わたしたちはいつもどおりだ。夏の熱に浮かされたところで、基本は変わらない。

「くそ、お前のせいでまた……いや、今日はさすがに目立つなってほうが無理か……」

 けど、日常から少しだけ脱線しているからこそ、やっぱりちょっとだけズレていて。

 きょろきょろと動いていた瞳の先がわたしへと戻ってくるなり、頬をぽりぽりと掻きながらせんぱいが意味深なことを呟いた。

「それって……」

「まぁ、その……ひいき目なしに、だな……」

 唇が開いては閉じてを繰り返すたび、ぎこちない声の粒ばかりが続く。

 わたしの恋人は、そういった類のことを基本的に言わない。どちらかといえば、行動で愛情を示してくるタイプだ。

 だからこそ、放たれた時の一発はものすごく重い。

「……似合ってて、可愛い、と、思う」

 途切れ途切れに散らせた褒め言葉がようやく最後まで辿り着いた直後、せんぱいはもう限界だと訴えるように。

 一方、わたしは。

 勝負服についてだけじゃなく、何度でも言われたい褒め言葉を、誰よりも一番で特別な人から同時にもらったことで。

「……せんぱいがわたしの浴衣姿、似合ってるって……わたしのこと、可愛いって……」

「…………死にたい」

「えへへ……えへへ……」

 お互い羞恥の火で顔を真っ赤にしながら、二人仲良く悶絶した。

 ううっ、恥ずかしい……でもにやけるの止まんないなにこれほっぺた溶けちゃうわたし幸せすぎて死んじゃう。

 左右のほっぺたに両手を当ててわたしがうにうに余韻を引きずっていると、この雰囲気に耐えきれなくなったらしく、せんぱいは改札のほうへと身体を傾けた。

「……と、とりあえずそろそろ行くか」

「あっ……そ、そうですよね。時間、なくなっちゃいますもんね……」

 いつまでも夢心地に浸っていたかったが、仕方ない。甘く濃い残響を手放す代わりに、わたしはせんぱいの左腕をぐいと抱き寄せる。

「……今それは厳しくねぇか」

「大丈夫ですよ、絶対」

「どっから来るんだよその根拠のない自信……」

「だってせんぱい。わたしが転びそうになった時はいつも受け止めてくれたじゃないですか」

 真剣に悩んでいる時でも、さっきみたいなスキンシップをした時でも、いつだって。どれだけ振り回そうが、どれだけわがままを言おうが、なんだかんだぼやきながらも。おまけに付き合い始めてからは、前よりもわたしを甘やかしてくれるようになったりなんかもしちゃって。

 それも、すごく……すごーく。

「……確かにお前には甘いかもしれんな、俺は」

 わたしに対してなんだか自分に対してなんだかわからない苦笑を添えつつ、せんぱいがぽふぽふと頭を撫でてきた。くしゃくしゃとしなかったのは、髪型を崩さないよう気を遣ってくれたからだろう。

 物足りない気がしなくもないけど、まぁ、これはこれで。

「んふふー……」

 だらしなく緩んだ素顔を晒しながら、わたしは絶対離すもんかと恋人の腕を強く抱きしめる。すると、わたしの主張を受けたせんぱいは仕方なさそうに短い息を吐く。

「……足元気をつけなさいよ」

 ほら、こんな感じで。

 すごく……すごーく、わたしに甘いんだ。

「はーいっ」

「言ったそばから……俺じゃなくて前見なさい、前」

 お互いがようやくいつもの調子を取り戻し始めたことで、未だ微熱の残る空気も次第に落ち着いていくのだろう。このお祭り騒ぎがいずれ記憶の一部へと消化されていくように。

 けど、やっぱり。

 もう一方の温かさは、四か月とちょっと経った今でも、冷めるどころか勢いを増していて。

 スタートの時点でちぐはぐで、進んでいる道すらも別々だったわたしたち。そんな二人が、今は一緒に同じ場所を目指して、こうやって。なんとなくとか妥協とかじゃなくて、お互いの意思と意志で、ちゃんと。

 だから。

 すぐに足並みが揃っていくのだって、足音がぴったりと重なっていくのだって。

 もう、偶然なんかじゃない。

 だからこそ。

「花火、きっと綺麗なんだろうなぁ」

 そんな確信めいた期待を、わたしは、言葉にせずにはいられなかった。

 

 熱狂の中心部へと向かうモノレールの車内は、わたしが降りた時とは比較にならないくらいの混雑模様を見せていた。二駅ほど離れた場所でこの有様なら、花火大会会場は既に大勢の人波や人垣で埋め尽くされているだろう。

 容易に想像のつく光景がわたしにため息をもたらすと、それが隣の恋人にも伝染した。

「……こっちも無駄に混んでんなぁ」

「まぁ、仕方ないかと……」

 口ぶりから察するに、総武線でも大差ない状況だったのだろう。少しだけ疲れた表情をせんぱいが浮かべた。

 ……よしっ、ここは彼女であるわたしが一肌脱いでふくよかな癒しを提供するとしますか!

「せんぱい、せんぱい」

「ん?」

「だいぶお疲れみたいなので、後でわたしがたーっぷり癒してあげますからねっ」

「やめとく」

「なんでですか!?」

 即答だった。おかしい、ほんとなんでだ。

「いや、だって今より余計疲れそうだし……ていうかそれ、癒しと称してお前がやりたい放題するだけだろ……」

「……それはまぁ、そうなんですけど」

「否定しないのかよ……」

 なんてやりとりをぐだぐだと交わしている間に、モノレールは緩やかなカーブを描く。

 左手に白い建物が見えてくれば、もうすぐ次の駅だ。

 千葉の街並みを迂回するような視点が戻ると、少しの直線を経て、車体は駅のホームへと吸い込まれていった。

 減速の後にぴーんぽーんと開いたドアからは、降りていく数よりも遥かに多い数の人々と熱気がなだれ込んでくる。

「……なぁ、今からあっち側行こうぜ」

 一番線側のホームへ羨みの眼差しを向ける恋人。

「何ナチュラルに帰宅提案してるんですか……ここまで来ておいて往生際悪いですよー」

 捻くれた冗談とわかりつつ、念を押すように恋人の腕をぺしぺしと叩くわたし。だがその間にも乗客は次々と押し寄せ、いちゃつくことのできる余裕も余地もすぐになくなってしまった。

 再び扉を閉めたモノレールが、ゆっくりと動き出す。

 可能な限り詰め込めるだけ詰め込んだ車内は、満員といっても過言ではないくらいに人と人がひしめき合っている。となれば当然、身体と身体の距離も近くなってしまうわけで。

「……うー」

 すごく窮屈だ。たまらなく嫌だ。状況的に仕方ないことだとしても。

 そんな不快さを強い幸福感で上書きしたくて、わたしは恋人の胸元へもぞもぞと身を寄せる。

「ん……どした」

 周りの顔色をうかがいながらお目当ての場所にすっぽり収まると、耳元に若干のくすぐったさを孕んだ小声が届いた。

「あ、えっと……その……」

 どう伝えるべきか迷う。

 うーん……せんぱい以外に触られたくなかっただと変な誤解させちゃいそうだし。わたしがせんぱいに触りたかった……これもちょっと違うか。や、どっちも間違ってはないけど。

 恋人の胸元で口元を隠したまま、落とし所を探しつつ言葉を繋げていく。

「……せんぱい以外は嫌だなーって……」

 あ、噛み砕きすぎたかも。

 急いで補足を重ねようとした矢先、小さな咳払いが耳元に響いた。

「………………待ってろ」

 数秒遅れて言葉を付け加えると、建物と建物の間にある隙間を無理やり通ろうとするように、車内のわずかな空白地帯を狙ってせんぱいが身体を割り入れていく。ぴったりくっついているわたしもその動きに釣られて回転し、ぎちぎちの空間内を二人一緒に縫っていった。

 微弱で繊細な移動を何度か繰り返した結果、わたしの背後には無機質な扉の感触だけが伝わるようになっていて。つまり、恋人はお互いの立ち位置を交換したのだ。

「……とりあえず、これで我慢してくれ」

 不充分すぎた言葉でも、しっかり汲み取ってくれたのが嬉しくて嬉しくて。方法は全然スマートじゃなくて、すごく地味で、ちっともキマっていない。

「はわ……はわわ……」

 それでも、わたしの乙女回路をショートさせるには充分すぎた。

 顔も身体も熱い。心臓がうるさい。も、もも、もしこのまませんぱいにプロポーズされちゃったらわたし、わたし……きゃーっ! きゃーっ!

「……やっぱり似合わないこともするもんじゃねぇな」

 喜びのあまり興奮がオーバーフローを起こしているわたしを見て、恋人がふらりと窓の外へ視線を移す。その直後、天井のほうからがたがたと機械的な音が鳴り始め、モノレールが終点前の大きなカーブに差し掛かる。

 なら、正反対の感情へと一転したこの窮屈さとはもうじきお別れだ。体験した時間こそ短かったが、これもまた、ちょっとした季節感や特別感が起こすイベントの一つなのだろうか。たとえそれが神様の気まぐれだったとしても。

 名残惜しみつつもわたしは身体をごそごそと反転させ、並列するように伸びた真向かいの線路を眺める。あちら側とは違い、こちら側のレールの先は行き止まりだ。

 けど、もし、もしもお互いがお互いに終わりの続きを求めたなら。

 ゆっくりと減速していく箱舟に揺られながら、わたしは一人、そんな願いを遠くの空に馳せた。

 

  *  *  *

 

 モノレールを降りると、すぐにあちこちから人々の熱狂が伝わってきた。京葉線との合流地点というのもあり、案の定、駅前のロータリーへと続く通路は渋滞を起こしていて。

 そのせいか、どうやら携帯が通じにくくなっているみたいだ。改札脇や出口付近にいる人はみんな待ち合わせ中らしく、何度も携帯の画面を確認してはうーんと困り果てている様子。

 これだから現地集合は絶対NGなんだよなー……。ていうかそもそもそんなの超味気ないし、雰囲気だって全然出ないのに……。

 ある種の惨状とも呼べる光景に内心で同情めいた声を漏らしながら、半ば押し流されるような形で駅の中を抜けていく。

 花火大会の会場までは多少歩かなければいけないものの、そこまで離れているわけじゃない。通行が滞り気味という点を踏まえた上でも早めに到着できるだろう。……あとは花火が始まるまでにどれだけいちゃいちゃできるかだ。

 何を一緒に食べようか。何をして一緒に遊ぼうか。

 そんな画策をしつつ歩くこと約十分。大きめの交差点を渡りきった頃、遠目に千葉ポートタワーが見えてきた。オレンジ色の増した空を照らし返す壁面は、開幕を待ち望む人々の期待と共鳴するようにきらきらと輝いていて。

 既視感のある光の反射に、自然と目を細めてしまう。一昔前のわたしなら、ただ眩しくて、ただ綺麗なだけにしか映らなかったと思うけど。

「……ポートタワーって恋人の聖地らしいですよ」

「いきなりなんだよ」

「つい言いたくなっちゃいまして」

 あの場所には、いつか、別の形で訪れることになるだろうから。

 ――そしてもう一つの場所には、近いうちに、昔と違う形で。

 ハーフミラーガラスが跳ね返す小さな光の宝石に自身の心情を投射したまま、わたしは恋人に笑いかける。

「……そうか」

「はい」

 お互いに短く肯定を交わし合った後、どちらからともなく口を閉ざした。すると、賑やかな喧騒には似つかわしくない穏やかな空気が二人の間に流れ始める。

 でも、この沈黙はやっぱり心地よい。

 やがて心の状態がハミングとして表に抜け出ていく。履いている下駄も自分の歌声とリンクして楽しげな足音を奏でていく。

 気づけば、千葉ポートパークは目の前にまで近づいていて。それに伴い、鏡の塔が視界を占める割合も大きくなっている。

 横断歩道を渡りながら、わたしは今一度、その煌めきに少しだけ瞼を下ろす。

 過ぎた時間は、二度と戻らない。

 けど、失ってしまったことで新しく映るものがある。

 それは、場所も、人も。

 巡り巡った先にある光景も、情景も。

 きっと、全部同じだ。

 だから、たぶん。

 確かめることができたその時に、その瞬間に感じる想いが、今のわたしにとってはいつまでも変わることのない答えとなるのだろう。

 ……さてと。

 せっかく来たんだ。浸るのはここまでにして、今年最後の夏をめいっぱい楽しむとしよう。

 

 ようやく辿り着いた広場は、花火大会という特殊なスパイスが加わったことで、普段とはまったく別の空間へと変貌していた。

 いくつもの出店が軒を連ね、その看板の下にもたくさんの人々が集う。ほのかな磯の香りも運んでくる風は、夏の熱と一体化して喧騒の中を吹き抜けていく。

 勝手にわくわくしてくるあたり、夏はそういうものだと無意識レベルで染みついているのかも。

「これぞまさに日本の夏って感じですよねー? 何から食べようかなー? わたあめ? やっぱりわたあめですかねー?」

「なんでわたあめ限定なの……」

「だってなんかそれっぽい感じ、しません?」

「あー、まぁ、定番だしな。……んじゃ、とりあえずわたあめから行くか」

「はいっ」

 せんぱいからの合意も得られたので、まずはわたあめの屋台へ向かった。

 興味を惹かれるのは何もわたあめだけじゃなく、たこ焼きやお好み焼き、りんご飴にかき氷と目移りが止まらない。他にも型抜きだとか宝釣りだとか、全部回っていたら時間がいくらあっても足りなさそうだ。

「子供かお前は」

「や、でも、こういう時は童心に返ってこそですよ! ……あ、せんぱいせんぱい、金魚すくいですよ金魚すくい!」

「わかったからちゃんと前見て歩きなさいっての……ったく、確かに一理あるかもしれんけどよ」

 心の赴くままに瞳と身体を動かし続けるわたしを見た恋人が、微笑にも似た苦笑を浮かべる。とはいえ、追って届いた独り言のような声を聞いた限りは、わたしと過ごす非日常を自分なりに楽しんでくれているのだろう。

 嬉しいなぁ、と。

 そんな呟きを口の中だけで溶かしながら、わたあめの屋台の前に並ぶ。

 わたあめの屋台は機械をぶんぶんといわせ、白い糸を絡め取ってはまとめ上げ、甘い香りを周囲に漂わせていて。その匂いに釣られて集まってきた子供たちは、ふわふわの雲みたいな形とアニメのキャラクターやヒーローがプリントされた袋を物欲しそうに見つめている。

 子供の頃のわたしも、たぶん、こんな感じだったんだろうなぁ……。

 年相応に子供だった頃の自分を想像しつつ、いつの時代も変わらない眼前の風景に重ねつつ。

「いつ来ても無性に懐かしくなりますよね、こういうのって。どれにしましょっか」

「全部中身同じだろ。……俺これでいいわ。これお願いします」

 選ばれたのはプリキュアでした。電球の光に照らされたピンク色がとても眩しい。

「プリキュア……」

「……な、なんだよ」

「あ、いえ、ほんとに好きなんだなーって思ったので」

「ばば、ばっかお前、べ、べべ別に好きじゃねぇし……」

「朝、テレビ観ながら泣いちゃうくらい好きなのに?」

「……待て、お前どこでそれを」

「前に小町ちゃんが言ってました」

「あいつ……また余計なことを……」

「別にいまさら引いたりしませんよ? せんぱいですしねー」

「全然フォローする気のないフォローありがとよ……」

 ほんとのことなのになー。ていうかこれくらいでドン引きしてたらせんぱいの彼女なんてやってらんないし! 大事なのは中身。中身超大事。わたしが言っちゃうかそれ。

「……っつーかお前も早く選んじまえよ。他回る時間なくなんぞ」

 以前の自分を棚に上げて一人うんうん頷いていると、横から催促する声が飛んできた。けど、わたしも最初からどれにするかは決まっていたり。

「やだなー、そんなの決まってるじゃないですかー」

 あらやだうふふと手招きした後、恋人が買ったばかりのわたあめを一切の迷いなく指さす。

「わたしのぶんも、それです」

「え、いやこれ俺の……ああ、そういうことね……」

「はい、そういうことです」

 言外に含めた意味は無事通じたらしく、納得のいった表情でせんぱいがかくりとうなだれる。うんうんそうそう、カップルソーダ的なね! ……あ、今度本家のも誘ってみよーっと!

「まぁそうするのはもう別にいいんだけどよ……これ以上は持てんぞ」

「じゃあ、ここで食べてっちゃいますか」

「組んでる腕を離すっつー選択肢を当然のように省くあたり、ほんとぶれねぇよなお前……」

 さすがいろは検定一級所持者。わたしの思考回路をしっかりと把握している。もちろんわたしも自称せんぱい検定一級所持者だ。やだっ……わたしとせんぱい、ラブラブすぎ……?

「ふふ……でもその前にー……」

「……え、まだ何かあんの」

 諦観の滲んだ表情で袋の紐を解こうとしていたせんぱいだったが、じらすようなわたしの言葉に眉をひそめる。

「写真、撮ろうかなーと思いまして。携帯、携帯っと……」

 巾着をごそごそ漁りながら手短に答えると、せんぱいはフラットにあーと呟く。表面上はめんどくさそうではあるが、わりとまんざらでもない様子。

 一番最初のデートの時は、わたしが何回も何回も急かしてやっと撮ってくれたくらいだったのになー……。恋人の“変化”に、ちょっとだけ遠くなってしまった冬の出来事を思い出しつつ。

「や、せんぱい違いますそうじゃないですわたあめの位置そこじゃないです。もっとこう、こっちに寄せる感じで」

「うわぁ細けぇ……」

「いいからはやくはやく」

「…………はぁ、これでいいか?」

「あ、そこ、ばっちりです! ではでは、いきますよー。はい、ちーずっ」

 頭の中に描いた構図どおりになったところで、空いていた左手でカメラをかざしてぱしゃり。そのまま撮った写真の映り具合などを確認した瞬間、小さな幸福感に満ちた笑みが思わずこぼれてしまった。

 携帯の画面には、ぱちりとウインクしてキメ顔のわたしと、恥ずかしそうに目を逸らしながらも身体をこちらに寄せているせんぱいの姿が映っていて。

 ……よし、後でこっそり壁紙にしておこう。誰が何と言おうとそうしよう。絶対にだ。

「はいっ、せんぱい。ほらこれ、いい写真ですよー! どうですかー!」

「あー、まぁ、思ったよりは悪くないんじゃねぇの。知らんけど」

「後でせんぱいの携帯にも送っておきますねー。……消したらだめですよ?」

「……わかってるよ。これもお前の言う共有なんだろうし」

「ですです! それじゃあ、今度こそ食べましょっか」

 こんな、ありきたりなやりとりも。

 こんな、ありふれた時間と日常も。

「せんぱい、あーん」

「やっぱりそうなるよなぁ……」

 きっと、あっという間に積み重なっていくのだろう。

 きっと、すぐに懐かしくなっていってしまうのだろう。

 それが少しだけ、寂しい。

「ほれ……」

 遠慮がちに差し出されたわたあめをはむっと頬張り、舌触りのいいふわりとした感触や優しい甘さで一抹の寂しさを塗り潰す。

「……んふふ、今度はせんぱいの番ですねー」

 いたずらを思いついた子供みたいに微笑みながら、せんぱいの右手ごとわたあめを押し返す。

 大人になった頃には、こんなおままごとみたいなやりとりもできなくなっていく。歩みが進めば進むほど、蔑ろになっていく。

 けど、形として残っていれば。形として繋ぎとめておけば。

 わたしたちが大人になってしまっても、二人で一緒に歩いてきた道を何度だって振り返ることができるから。思い出すたび二人で一緒に懐かしんだり、笑い合ったりできるから。

「あーん」

 たとえそれが勝手な願いを象徴しただけの、バカげた自己満足の文字でしかないとしても。

 たとえそれが日々の一幕を切り取っただけの、無価値な記録の寄せ集めでしかないとしても。

「ん……ってお前、なんでまた携帯構えて……」

 そしてやっぱり、わたしとせんぱいは。

「はい、ちーずっ」

 いつも、いつだって。

「ちょっ、おい……っ」

 ――お互いに近すぎるくらいのこの距離感で、ちょうどいい。

 吐息同士が混ざり合いそうなほどの近さと閃光の中、再び口に含んだ甘さが、心の奥まで染み渡るようにゆっくりと溶けていく。

「お、お前……いきなりなんてことしやがる……」

「……でもせんぱい、こういう甘いの、嫌いじゃないですよね?」

 頬に手を添えうふふとはにかみ、わたしらしさをひとつまみ。

「ぐっ……にしたって甘すぎなんだよ……」

「その甘すぎるくらいのが今は好きなくせに」

「んぐ……」

 苦しまぎれの皮肉に対してさらに追い打ちをかけると、詰まった声と共に恨みがましさたっぷりの視線が返ってきた。ふっふーん、もっと素直になってくれてもいいんですよ?

 対抗するようにしたり顔で見つめ続けることしばし。恋人が沈黙を貫いたまま、わたあめをするりと口元に運んできた。

 わたしはそれに嬉々としてかぶりついた後、攻守交代とばかりにずずいと押し戻す。もちろん言葉は発さずに。

 そうしてお互いに口をつけた箇所を無言でひらすら交換し合っているうちに、ふわふわの甘いお菓子は二人の間に残り香を漂わせるだけとなった。

「……よしっ、もう一発甘いのいっときますかー!」

「ええ……また甘いの……」

「……好きなくせに」

「わかった、わかったから……」

 細めた目でじーっと凝視しつつ顔を寄せると、せんぱいはわたしを右手で制しながらはーっと大きなため息を吐く。……もう! ほんと素直じゃないんだから!

「……んじゃ、まぁ、それっぽいのだと次はりんご飴あたりか」

「あ、わたしもそろそろかなーって思ってました!」

「なら一旦戻るか。確か入り口のほうにあった気が……」

 話もまとまり、二人揃ってくるりときびすを返した時だった。

「……あら」

「あっ……」

 二つの瞳の先と。

「あ……」

「……よう」

 二つの瞳の先が。

 ぶつかって、そのまま結ばれた――。

 

 

 

 

 




三か月近く空いてしまうというこの体たらく……いやもう本当にごめんなさい。
ものすごく悩みましたが、分割することにしました。

話は変わりまして、今年ももうすぐ終わりですね。長いようであっという間でした。
昔と変わらず遅筆な私ではございますが、来年も宜しくお願いします。

また、この場をお借りしまして、告知でござい。
弊サークル、冬コミにも引き続き本を出させて頂くこととなりました。
私は多忙のため参加できませんでしたが……。

出版物に関しては、以下のとおりです。
一冊目は高橋徹さんと暁英琉さん。
二冊目がねこのうちさん、山峰峻さん、さくたろうさんとなっておりますです。
表紙は前回と変わらず稲鳴四季さんに依頼させて頂きました。
R18のほうは今回挿絵もあります。宜しければ一般と併せてぜひぜひ。

日程は二日目12/30(金)東ア-50b【やせん】なので、興味のある方は寄ってみてくださいな。

それでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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ときどきラブコメの神様はいいことをする。―後―

  *  *  *

 

 こうして二人と顔を合わせるのは、六月の、あの日以来か。あれからまだ二か月ほどしか経っていないにもかかわらず、何年も前の出来事だったようにすら感じてしまう。

 ただ、事が事なだけに、再会を素直に喜ぶことができずにいて。また、目の前の二人もわたしたちと心境はそう変わらないみたいで。けど、ここであっさりさよならというのもなんだか憚られてしまって。

 どうすればいい。

 何を話したらいい。

 どうしたらいい。

 何を言ったらいい。

 次第に重苦しく居心地の悪い気まずさが生まれ始め、横殴りの雨でずぶ濡れになった服のようにまとわりつく。誰も声を発せないことも相まって、まるでわたしたち四人だけが世界から取り残されてしまったかのような感覚に襲われる。

「……あ、えっと……久しぶり、だね」

 そんな中、たどたどしくも口を開いた人物がいた。

「……はい、お久しぶりです、結衣先輩。雪ノ下先輩も」

「ええ……本当に久しぶり」

 結衣先輩が紡ぎ出した声をきっかけに、ようやく長い膠着状態が解けた。様子をうかがっていたせんぱいも表情を和らげ、流れに続く。

「……お前らも、来てたんだな」

「息抜きにちょうどよかったから……」

 雪ノ下先輩が理由を告げると、結衣先輩が隣で小さく頷き顔を綻ばす。

「こんなふうに遊んだりするの、これからあんまできなくなるしね。……もしかしたら今日が最後になっちゃうかもだし。だからゆきのんのこと、誘ったんだ」

 その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 頭ではわかっていても。わかっているからこその痛み。

「……そうだな」

「うん、そうだ」

 恋人が返したのは淡白な同意だったが、結衣先輩は困りもせず即座に同調した。しかしわずかに落ちた眉と笑みを保ったままの口元は、複雑な胸中を確かに物語っていて。

 でも、なんでかな。ちぐはぐで今にも壊れてしまいそうなその笑顔が、わたしの瞳には、あの時よりもずっと大人びて映った。

 すると、今度はかすかな吐息が漏れる音が耳に届いた。

「あなたたちと再びこうして話すのは久々なせいか、なんだか不思議な気分にもなるわね。……いえ、正確には、あなたたちが二人揃っている状況で……かしら」

 声の主である雪ノ下先輩は、わたしが視線を移すと同時にそっと空を仰ぐ。その穏やかな表情は結衣先輩と変わらず、今すぐに泡となって消えてしまいそうなくらい儚くて。

 けど、やっぱり。雪ノ下先輩の佇まいも優しげな瞳も、あの時よりもずっと大人びているように思えて仕方ない。

「……しばらく見ない間に、お二人とも、髪……ちょっと伸びましたね」

「いろはちゃんもね」

「あなたもね」

 別に嫌味でもなんでもなかったのになぁ……。

 ただ、その意地悪な二つの重なった声が、わたしの胸の内に衝動を呼び起こす波となった。

「……じゃ、あたしたちはそろそろいこっか」

「そうね……」

 なんでそんなことをと聞かれれば、安心したからかも知れない。

 なんでそんなことをと自分に問えば、そうしたいからとしか言えない。

「それじゃあ、また……」

 二人にとっては、酷でしかないというのに。

 わたしにとっては最高でも、二人にとっては最悪だというのに。

「……じゃ、またね」

 でも。

「あの、結衣先輩、雪ノ下先輩」

 それでも。

 本当のお別れとなってしまう前に、わたしははっきりとした声で。

「お二人も一緒に、花火、見てくれませんか?」

「……はい?」

「えっ……」

 誰よりも自分勝手で、誰よりもわがままな提案を口にして。

「は? いろは、お前、いきなり何言って……」

 ほんと、自分でも突拍子がなさすぎると思う。

「……え、えっと」

「一色さん、あなた……自分が今何を言っているのかわかっているの?」

「はい」

 でも、これでいいんだ。

「結衣先輩がさっき言ってたじゃないですか。こんなふうに遊んだりするの、もしかしたら今日が最後になっちゃうかもーって」

 だって、わたしは。

「だから、この四人で……一緒に花火、見ておきたいなーって」

 好意のベクトルは当然違うけど、雪ノ下先輩も、結衣先輩も、やっぱり好きだから。

 それに、なによりも。

「……諦めろお前ら。こいつがこうなった時は、何言っても絶対に聞かん」

 去っていく二人の背中をこのまま見送ってしまったら、こんな最低な方法をとる以上に、また間違えてしまう気がしたから。

 

 水平線の向こうに太陽が落ち、少し先に臨める東京湾が濃い藍色に満ちた頃。いくつもの屋台が連なっている道を、雪ノ下先輩と結衣先輩を加えた四人でのろのろ進んでいく。……四人というよりは一組と一組か。

 前方に見えてきたメイン会場は、気温が上昇しかねないほど人々の熱気が渦巻いている。隙間なく敷き詰められたビニールシート、あちこちからひっきりなしに聞こえてくる宴会じみた声に、同年代らしき男子女子の騒ぐ声。他には子供のはしゃぐ声だったり泣き声だったり、大人同士がごたごた揉めている声だったり。

 それだけ大勢の人々がこの特別感を待ち望んでいたのだろう。そう考えれば、これだけやかましくなってしまうのも仕方ない。

 どこか達観したような心境で、けど、好奇心も忘れずに立ち並ぶ出店の一つ一つをほーほーと眺めながら歩いていると。

「……ね、ねぇいろはちゃん、あたしとゆきのんいて……ほんとに、いいの?」

 未だ戸惑いに揺れる言葉が、遠慮がちな響きと共に後方から飛んできた。

「だめなら誘いませんし、そもそもあそこで引き止めたりしませんよー」

「そ、それはそうだけど……う、うーん……」

 振り向きざまに平然と迷いなく返したわたしを見て、腑に落ちないといった表情を浮かべつつも結衣先輩が言葉をしまう。そりゃそうだ、わたしが結衣先輩の立場でも絶対そうなる。何が悲しくて失恋相手と恋敵のデートに同行しなきゃいけないんだ……みたいな感じで。

 とはいえ、お互いにばったり会ってしまった以上、どうせお互いこれまでどおりの気分じゃいられない。だったら、一緒に行動しようがしまいが同じだ。嫌な記憶というものは、一度こびりついてしまったら消えない。……や、結衣先輩はどう思ってるかはわかんないけど。

「今に始まったことではないけれど、本当に突拍子もないわよね、あなたって……」

「やだなー、それがわたしじゃないですかー」

「……はぁ」

「おい、なんで俺を見る。こいつはもとからこんな感じじゃねぇか」

「確かにそうだけれど、以前よりもますますろくでもない開き直り方をするようになったところは比企谷くんが原因でしょう? あなた、一色さんにものすごく甘いもの」

「……それを言われるとぐうの音も出ねぇ」

 会話を繋いだだけのつもりだったのだが、すぐ隣と斜め後ろでなぜかわたしのディスり合戦へと発展している。おかしい、こんなはずじゃ。

「ちょっとせんぱい。そこで終わっちゃったらわたしがますますろくでもなくなったみたいじゃないですかー」

「いやお前、自分でもそれがわたしだ的なことこの前誇らしげに言ってただろ……」

「……それを言われるとぐうの音も出ません」

「あ、あはは……」

 ちょくちょくどやっていたことが時間差でブーメランとなって戻ってきた。うーん、これが敗北の味というやつか……さすがに涙の味はしなかったけど、ちょっぴり苦い味だなぁ……。

 なんてやりとりや自分への茶化しを交えながらも、アンテナだけは張り巡らせたまま歩く。だが当然、落ち着いて花火を見れそうな場所はとっくに先客で埋まっていて。

 しかもこちらは四人だ。四人が全員並んで座れる都合のいい場所なんて、いくら見回しても都合よく空いてくれているわけがない。

「やー、混んでるねぇ。もうちょっと空いてればシート敷けそうなんだけどなぁ」

「いや、これじゃ敷けても全員座れないだろ……っと」

 おまけに、背後から押し寄せてくる人の洪水が足を止めることを許してくれない。さらには、始まる直前の駆け込みで正面からも別の足並みがこちらへと向かってくる。つまり、追い風と向かい風の両方が吹いているという超めんどくさい板挟みの状況だ。

 けど、人も時間も待ってはくれない。身勝手な予定変更に伴うツケの清算は一旦後回し。

「あ、すいませーん通りまーす」

「…………」

「失礼しまーす、ごめんなさーい」

「……っ、どうしてああいう連中はきちんと前を向いて歩けないのかしら。迷惑極まりないわ」

 不規則で不揃いな人の波をそれぞれ自分なりのやり方で捌き、かいくぐり、多くの人が忙しなく往来する激流地帯を切り抜けていく。……なんだかコースを逆走してる気分だ。考え事が迷走するのはしょっちゅうだけど。

「確かこの先って……」

 人気を避けるに避けて進んでいると、困惑と驚きが混ざった結衣先輩の呟きが聞こえてきた。その声に周囲を確認すれば、密度の薄れていった理由はそういうことかと把握する。

「あー……有料エリアのほうまで流れちゃってましたか……」

 広場全体が木々に囲まれているせいで、花火を座って眺めるにはちょっと厳しめな場所。そこからさらに奥の、小高くなっている丘の部分にはロープの張られている一角がある。警備体制も万全で明らかに一線を引かれた区画は、チケットを買わないと入ることはできない特等席だ。

 広く開放的な空間とは対照的に、狭く閉鎖的な空間。がやがや騒がしいエリアと、穏やかで優雅なムードすら漂うエリア。二つのエリアはロープを境にして、まるでビルの上層と下層に分けられているように雰囲気が変わっている。

 もしあそこで花火を楽しめたら、きっと素敵なんだろうなぁ……。

 身の丈に合わない上座をちょこっとだけ羨みつつ、わたしはくりんと首を傾げながら隣へ声を投げかける。

「……穴場的なの、ここらへんに何かないですかね?」

「そこで丸投げするのかよ……」

「や、一応、手がなくもないわけじゃないんですけど……」

 ある種の貴賓席ともいえる高みと後ろの二人へちらり目配せをした後、わたしははーっと落胆めいた息を吐いた。極上の悪そうな間違えたにこやかないい笑顔を脳裏に浮かべながら。

「……たぶん来てますし。ただ、今は余計めんどくさいことにしかならないと思うので、やめておこうかなと」

「……確かに」

 絶対わたしたちをからかうだけじゃ済まないというか、間違いなく二人にガチの飛び火するというか。……さすがにこれ以上振り回すのは申し訳なさすぎる。あの人、わたし以上に超振り回すだろうし。

 だが、迫りくる開始時間という枷のせいで代案をゆっくり考えている猶予はない。警備の人に勘違いされても困るし、一旦動くことにしよう。

「とりあえず、手前をぐるっと一周してみますか。もしかしたらワンチャンあるかもですし」

「そうだね。もうちょっと探してみよっか」

「端のほうとかまだぎりぎり空いてるかもな。見づらくはなるだろうけど」

 結果のわかりきっている代案ではあったが、他に手が浮かばないのはみんな同じらしい。それぞれ仕方なさそうな様子で首肯した。

「ゆきのん……?」

 ――ただ一人を除いて。

 結衣先輩が心配そうに声をかけたところで、雪ノ下先輩がはっと顔を上げた。

「あ……ごめんなさい。少し考え事をしていて……」

「ほんとに? ……無理、してない?」

「大丈夫よ」

 顔を覗き込んで尋ねる結衣先輩に大げさねと言い添えつつ、雪ノ下先輩が微笑む。くすりとした声と共に細めた瞳には、特定の人にしか見せない優しい色が灯っていて。

 けど、次にしっかりと瞼が開かれた時には、諦観と覚悟が滲んだ表情へと切り替わる。

「……この際仕方ないでしょう。なんとかできないか、姉さんに聞いてみるわ」

 続けて発せられた提案に、わたしは驚きに目を見開いてしまう。

 そうして不意に落とされた雫は波紋を呼び、伝播していく。

「ちょ、ちょっと待ってゆきのん……それは……」

「雪ノ下、お前……」

「平気よ、ちゃんと自分で考えて決めたことだもの。それに……」

 懐疑や悲痛さを孕んだ二人の問いかけに一切の迷いなく返すと、雪ノ下先輩は含ませたように一旦声を区切った。

 そして、蚊帳の外にいるわたしへそのまま瞳の先を移したかと思うと。

「……私にだって、わがままを言いたくなる時くらいあるわ」

 らしくない言葉を気恥かしげに呟きながら、雪ノ下先輩はすぐに視線を外した。誰かに似ているようで、誰とも似ていない表情は、わたしが初めて見た色で。

「……何か?」

 思わずぽかんと口を開けたまま見つめていたら、いつもの声調へ戻しつつ雪ノ下先輩が不服そうに訴えてきた。

「あ、いえ……ちょっと意外だったので」

「う、うん……あたしもびっくりしちゃった……」

「……そんなに、意外、だった、かしら」

 抱いた印象を率直に伝えたわたしと結衣先輩のダブルパンチに、雪ノ下先輩がしょぼんと肩を落とす。二方向からはさすがに傷ついてしまったらしい。

「す、すいません、つい……」

「わー! ご、ごめん! ゆきのんってそういうこと全然言わなかったからさ!」

「……別に、いいけれど」

 うん、嘘だ。絶対気にしてる。超根に持ってる。

「やれやれ……」 

 騒がしい空気の中で唯一口を閉ざしていた隣の恋人が、わたしの隣で呆れたように脱力した。けど、表情は嬉しそうに緩んでいて。自然、わたしの口元も釣られて綻ぶ。

 同感です、と。

 心の中で懐かしさと嬉しさを消化していると、ひたすら謝り続ける結衣先輩に折れたらしく、小さなため息の音が響いた。

 と、そこで入れ替わるようにざざっとノイズの音。開幕前の事前アナウンスだ。

「もうあまり時間はないようね……では、いいかしら?」

 ぶら下げていた巾着から携帯を取り出し、最終確認とばかりに尋ねてくる雪ノ下先輩。

 瞳を何度動かしてみても、四人がまとめて座れるスペースはやっぱり見つからない。また、他の二人も同じ結論に辿り着いたようで、ためらいがちではあったが、静かに首を縦に振った。

 だから、わたしも。

「……もしもし、姉さん?」

 気乗りはしないけど、そうするしかなかった。

 

  *  *  *

 

 定刻どおりに花火大会は開幕を迎え、あちこちから拍手の嵐が巻き起こる。

 わたしたちが今いる場所は打ち上げ場所の正面に位置していて、周辺の草木に遮られることなく花火を眺められるポイントとなっている。まさにVIP席というやつだ。

「まさかこんな面白い組み合わせになっているとはねー。お姉さん、びっくりしちゃった」

 ……つまり、まぁ、そういうことである。

 本来なら入ることすら許されないそのエリアの境界は、雪ノ下陽乃という人物を介したおかげであっけなく飛び越えることができた。自分の友人と一言告げただけで確認の一つもなく警備を下がらせてしまったり、自席とは別の椅子が新しく用意されていたりと、陽乃さんは他よりも優待されていることがうかがえる。

 市長や関係各所のスピーチや祝辞がだらだらと続く中、陽乃さんに促され、全員が用意されていた椅子に腰掛けた。

「でも、どういう風の吹き回し? 雪乃ちゃんがいまさらまたわたしに頼るなんてさ」

 いろはちゃんならともかく、と付け足しつつ、陽乃さんは興味深そうな様子で左隣の雪ノ下先輩へ疑問を投げかけた。や、わたしならって。まぁ実際頼っちゃおっかなーって考えはしたけど。

「私も花火……見たくなったから」

 それ以上深くは語らずに、雪ノ下先輩は頭上に広がる夜闇の海を仰ぐ。高々と上り浮かぶ月に照らされた横顔は、形のない、そこにある何かへ手を伸ばそうとしているみたいに思えて。

「……ふーん。ま、雪乃ちゃんがそうしたいんなら別にいいけど」

 言外に仄めかしたものが伝わったらしく、関心を失ったように陽乃さんもふっと瞳を外す。かと思ったら、視線の行き先はそのままぐるりと右隣に座っているわたしのほうへ。

「それにどうせいろはすがまた何かやらかした結果なんだろうしね」

「その呼び方はやたらとムカついてくるのでやめてくれませんかね……」

「ありゃ、この呼び方気に入らなかったか。残念」

 気に入らないというより、あれだ、全部戸部先輩が悪い。や、全然悪くはないんだけど。

「ていうか、なんでわたしがやらかした前提なんですか……おかしくありません?」

「お前の場合いつも何かしらやらかしてるから仕方ないな」

「いやいや、だから援護射撃の相手間違えてますって。せんぱいがわたしを背中から撃ってどうするんですか」

「むしろいつも背中から撃たれてるのは俺なんだよなぁ」

 という具合に、すっかり当たり前となったやりとりを右隣に座っている恋人と続けていたら。

「……ほーんと、二人は相変わらず仲いいなぁ」

 突然聞こえてきた蠱惑的な響きを持った声に、思わずびくりと肩が跳ねる。……いきなりさらっと黒い部分出してくるの、ほんとやめてくれないかなぁ。わたしだってまだ怖いんだから。

「……はるさん」

「ん? なぁに?」

「そういうことばっか言ってるからわたしにも疑われるんですよ」

 肩をすくめつつ言うと陽乃さんはしばらく目をぱちくりとさせていたが、やがてこらえきれずにぷっと吹き出した。そしてわたしのおでこをちょんと軽く突っついた後、楽しげに笑う。

「いやーいろはちゃん、わたしにますます遠慮しなくなったねぇ」

 そりゃ、まぁ、あれだけ散々いじられたり振り回されたりすれば嫌でも慣れるし。何度死にたくなったことか。

「え、えっと……仲いいんですね、いろはちゃんと」

 左側最奥に座っている結衣先輩から、おそるおそるといった感じの声が飛んできた。

「そうだね。一緒にご飯食べたり相談に乗ったりするくらいには仲がいい、かな」

 ね? と首を傾げ、にっこり笑顔で陽乃さんがわたしに同意を求めてくる。

 実のところ、陽乃さんには感謝している。仲良くしてもらえているのもそうだし、誕生日の時のことも。ただ、それらの全てを口にするにはまだくすぐったくて。でも、そのくすぐったさは忘れてはいけないことで。

「……わたし的には不本意なんですけどねー」

「あ、ひどーい。そういうこと言っちゃうんだー」

 だから、つい、減らず口を叩いてしまったけど。わたしが思っていることは、たぶん、ちゃんと伝わったと思う。だって、ほんのり赤く染まった頬を見た陽乃さんは、素直じゃないなぁと言いたげな顔をしていたから。

「……前から聞いてはいたけれど、本当に仲がいいのね、一色さんと」

「んー? 雪乃ちゃん、羨ましい?」

「いえ、別に……と、少し前の私なら言っていたかもしれないわね」

 自嘲じみた笑いをくすり落とし、雪ノ下先輩が物悲しげな雰囲気を漂わせたまま声を連ねる。

「私と姉さんじゃ、もう、絶対こうはならないもの。……それがやっぱり、羨ましいわ」

 かつて聞いた、優しくもどこか仄暗い言葉。いまさらになって、その意味がやっと理解できた気がした。たとえ、含まれていた一部でしかないとしても。

「……そうだね。わたしも雪乃ちゃんも、お互い振る舞い方を変えるには遅すぎるし」

 いじけたような口調で呟いた陽乃さんだったが、普段の明るさからは想像もつかないくらい、声は弱々しくて。

 共通項、というわけじゃないけど。

 再びうっすらとだけ見えた雪ノ下陽乃の本質に、たまらずせんぱいのほうへ瞳を流す。

「……なんだよ」

「はるさんもせんぱいと同じで大概だなーと……わひゃっ!」

 こしょこしょと耳打ちした直後、背中を指先でつつりとなぞられた感触。

 文句を言おうと振り向けば、口角を歪めた陽乃さんがわたしをじっと見つめていた。視線の温度だけが凄まじく冷たいあたり、見事に地雷を踏み抜いてしまったようだ。しかも特大級の。

 ――だめだよ。

 人差し指をぴとりとわたしの唇に当てながら、陽乃さんが口の動きだけで手短にそう呟く。

 はい! わかりました! わたし今何も言ってません! 

 瞼を大きく開いたままこくこくと何度か頷きを返すと、くすりとした声を残し、陽乃さんが指を離していく。正面にはもう、いつもどおりの朗らかな笑顔があるだけだ。

 ……あー怖かった。久々にぞくりとしちゃった。

 恐怖を感じつつも心に余裕があるのは、たぶん、わたしが雪ノ下陽乃という人間を多少知ったからだと思う。といっても、全体の一割にすら満たないくらいなんだろうけど。

 わたしがほっと胸を撫で下ろしたところでちょうど偉い人の挨拶が終わり、ついに一発目の花火が打ち上がろうとしていた。

「あ、始まるね」

 結衣先輩の声とほぼ同時に音楽が流れ始め、一拍の後、ひゅるるるると光の蕾が夜空に向かって昇っていく。そして息つく間もなく花は開き、辺り一帯を明るくさせる。

 赤、黄、オレンジの光はポートタワーにも映り込み、降り注ぐカラフルな花びらが鏡のような壁面をイルミネーションのように彩っていく。

「ほわぁ……」

「……おお」

「……綺麗ね」

「わー……」

 轟音と炸裂音が途切れることなく響く。光が明滅するたび、あちこちからも歓声が湧き起こる。

 普段はすれ違うどころか交わることすらもなかった人たちが、今は全員がまったく同じ景色を眺めていて。

 誰もが、誰しもが、鮮やかな光の移り変わりを楽しんでいる。

 けど、今日が終わってしまえば、きっと。

 誰もが、誰しもが、何事もなかったかのように日常へと戻っていくのだろう。

 それはやっぱり、少しだけ寂しく感じることで。

「……うん。来てよかった」

 ちょっぴりセンチメンタルな気分に陥っていたら、火薬の匂いと一緒にかすかな呟きを風が運んできた。意識していなければ聞こえないはずの声量は、不思議と、鳴り止まない歓声の中でも確かな輪郭を持っていて。

 そう感じたのはわたしだけでなく、この場にいる全員が同じだったらしい。四人分の視線が一斉に一人へと集まる。

「……あ」

 自分が注目を浴びていることに気づき、発信原である結衣先輩がたははと困ったように笑う。

「や、やー、なんか、こうやってみんなで何かするのが懐かしくてさ……つい」

 ごめん、忘れて、と。

 そう付け加え、まるで失言だったかのように取り繕う結衣先輩にわたしはかぶりを振る。

「……忘れちゃったら、二人を誘った意味がないじゃないですか」

 転じて、今度はわたしに四人分の視線が注がれる。光輪がスポットライトのように千葉の一角を照らす中、わたしは、たった一つの答えを。

「わたし、雪ノ下先輩と結衣先輩も、やっぱり好きですから」

「一色さん、あなた……」

「いろはちゃん……」

 遠まわしに語りかけるように、それでいて、まっすぐ一直線に伝えた。

 すると、一人静かに花火を楽しんでいた陽乃さんがゆっくりと立ち上がる。たまらず引き止めようしたが、それはぱちりと片目を閉じた仕草に遮られてしまった。

「……姉さん?」

「ん? わたしのことは気にしなくていいよ。ちょっと残りのご挨拶に行ってくるだけだから」

 何かあったら連絡ちょうだい、と言い残し、下駄の音を鳴らしながら陽乃さんは離れていく。心なしか機嫌のよさそうな背中にぺこりと会釈しつつ、わたしは胸の中だけでお礼を述べた。

「……お気をつけて」

 陽乃さんの意図を察したのか、ぼそりと追うようにせんぱいが言葉を重ねた。

「き、気を遣ってくれたのかな……?」

「どうかしらね……昔から裏があったりしてわからない人だから……」

 ぽっかりと一人分空いたスペースを漠然と見つめつつ、雪ノ下先輩が情感たっぷりにこぼす。ただ、その声はもう本人に届くことはなくて。

 ちょうど花火の谷間に入ってしまったらしく、ふと周囲が暗くなる。あれだけ賑やかだった歓声もぴたりと止まり、静寂だけが空間を支配する。

 やがて幕間めいた空白が終わり、再度花火が打ち上がった時。

「……けれど、今になって少しだけ……本当に少しだけ、姉さんのことがわかった気がするの」

 花火の音や拍手の音、歓喜の声の中に小さな呟きが交じった。夜空からぱらぱらと落ちてくる光の粒に照らし出された横顔は、たくさんの感情を宿していて。

「それ、はるさんが聞いたら死ぬほど喜ぶと思いますよ、雪ノ下先輩」

「絶対に嫌」

 うわー、強情だなぁ二人とも……わたしみたいに素直になったほうがいいと思うよ、うん。

 以前の自分を棚に上げてやれやれと頷きつつ、そっと願う。

 いつか、二人が――。

「まぁ、いんじゃねぇの、お互いゆっくりで」

 わたしの密やかな願いを継ぐようにして、隣の恋人が呟くと。

「……そうね」

 雪ノ下先輩はもう一度、煌びやかな光で埋め尽くされた頭上へ届くことのない言葉を贈った。

 黒いスクリーンに映っていた残像と薄い煙は、ゆっくりと空の彼方へ流れていく。まるで霧が晴れていくかのように、跡形もなく、静かに消えていく。

「……やっぱり、難しいよね、そういうの」

 プログラムの切り替わりに生じるその隙間を埋めるようにして、また別の声が届いた。

「言いたいこととか言わなきゃいけないことって、タイミング外すと、どうしてもさ……。言わなきゃ言わなきゃって思えば思うほど、ずるずる行っちゃうじゃん?」

 ああ、それはすごくよくわかる。時間が経てば経つほど、切り出しづらくなってしまう。時間が経てば経つほど余計に口が重くなり、何かのきっかけでもない限りは、ずっともやもやした気持ちを抱えたままになってしまう。

「……あたしも、ずっとそうだったから。それで、気づいたら……こうなっちゃってた」

 ときどき花火が照らし出したのは、諦めや失意といった感情が滲んだ微笑じゃなくて。

「でも、あんな後悔はもうしたくないんだ。だから……言うの。今、ちゃんと言っておくの」

 自分に言い聞かせるようにして繰り返した後、不意に、結衣先輩が視線の行き先を変えた。確かな意思のある、前に進むための意志を灯した瞳がわたしを射抜く。

「……おめでとう、いろはちゃん。そのヘアピン……すっごく、似合ってる」

 今、時間差で紡がれた祝福の言葉はとても眩しくて。

 今、目の前にある心からの笑顔は、酷く綺麗で。

 伝わってくる結衣先輩の本音は、相変わらず優しくて、温かくて。

 そして、ちょっとどころか、めちゃくちゃくすぐったくて。

「いまさらそんなこと言うなんて……ずるいです……」

「前にも言ったじゃん。あたしだって、ずるいんだよって」

 伝い落ちそうになる感情のかたまりをこらえるために、感情の奔流をせき止めるために、わたしはたまらず上を向く。

 けど、次第に花火の光はぼやけていって。浴衣の袖口で何度拭っても、その滲みはちっとも視界から消えてくれなくて。代わりに、わたしの頭へ優しい温もりを持った手がぽんと置かれて。

「……っ、ありがとう、ございます……」

 なんだか負けた気分だ。すごく、惨敗したみたいな気分だ。でも、通り過ぎていく涙の味や苦さの中には、確かな安心感や達成感もあって。

 長い間つっかえていたわだかまりが、やっと全て、解けた。

 そんな感覚に身を委ねつつ空へ瞳を固定させている間に、花火大会は粛々と進んでいく。

 やがてフィナーレを飾る金色の雨が祝福するように降り注ぎ、盛大な拍手が贈られる中。ふと思い立ったわたしはそっと席を立つ。

 そして――。

「……っ、ちょ、ちょっと」

「ひゃっ! ……な、なに?」

「結衣先輩も。雪……乃、先輩も」

 非日常らしく、ちょっぴり特殊なスパイスを加えながら。

 突然の愛情表現に慌てる二人を、後ろから強く、ぎゅっと抱き締めながら。

「お二人とも、受験、頑張ってくださいね」

 もしかしたら、また、今日みたいな出来事が訪れるかもしれない。別離ではなく、今までと違う形で、再び交差するのかもしれない。

 学校か、あるいは、別の場所か。それは、わたしにも、誰にもわからない。わかるとしたら、こんな気まぐれを起こした神様くらいだろう。

 でも、わたしはやっぱり、雪ノ下先輩と結衣先輩が好きだから。

 すれ違って、絡まり合って、引っかかって、つまずいて。

 その結果として、二人と二人に別れてしまったけど。

 もし、このまま本当のさよならを迎えてしまったら。これから先、すれ違うことも、絡まることも、引っかかることも、つまずくこともなくなってしまう。

 やっぱりそれが、わたしにはどうしても嫌で。

 前みたいに。もしくは、いつまでも。

 そんな願いは結局どこまでいっても、わたしのバカげた綺麗事で、理想論で、絵空事で、夢物語でしかない。どれだけ突き詰めても、実現するには程遠い、自分勝手さを詰め込んだものでしかない。

 文字にしても、記録にしても。また、この瞬間においてもそれは同じで。

「……うん、ありがと」

「……ありがとう」

 でも。

「だから……」

 それでも。

 ちゃんと、伝わると信じて。

 わざわざ言葉にしなくても、けど、こういう時こそ言葉にして。

 

 ――また、そのうち。

 

 

 

 

 




明けましておめでとうございます。
いやー、年内完結どころか年明けちゃいましたね。
遅筆にもほどがあるというか、本当に申し訳ないです。
という具合に引き続きぐだぐだガバガバな私ですが、お付き合いくださる方、本年も何卒宜しくお願い申し上げます。

挨拶はこれくらいにしまして、冬コミの話も少しだけ。
結果だけ言わせて頂きますと、無事完売でした。夏に引き続きびっくりです。
参加できなかったことは悔やまれましたが、サークルとしてはいい結果で年越しを迎えることができて感謝です。
そして、実際手に取って頂いた方、本当にありがとうございます。

以下、宣伝失礼致します。
夏に出させて頂いた「俺ガイルSSつ・め・あ・わ・せ」はとらのあな様にて委託を行っております。この場所にURLを張るのは憚られるので、会場で買えなかった方や来られなかった方、興味がある方や私の固定ツイートからぜひぜひ。
それ以外のツイートは大体頭のネジ飛んでるので、気にしないでくださいまし。

ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!




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少しだけ、一色いろはと比企谷八幡は立ち止まる。

  *  *  *

 

 今日から、新学期だ。

 時間的には長いようで体感ではあっという間だった夏休みは、すごく楽しかったけど、ときどきちょっぴり切なくもあって。だからこそ、思い出としての色は今までよりも、ずっと濃くて。そのぶん、終わってしまったのがやっぱり寂しくて。

 そんな余韻を引きずりつつ、わたしは一人、駅の出口横で恋人の到着を待っていた。

 だいぶ早い時間に家を出ていても、朝の駅はどこも大混雑。東京方面へと向かう京葉線がやってくるたび、改札からたくさんの人たちが勢いよく吐き出されてくる。同時に、減った密度を埋めるかのように、あちこちから集う別の人たちが絶えず駅内へとなだれ込んでいく。

 きっと、わたしが乗ってきた電車と同様に、今も車内はひしめき合っているのだろう。満員電車は前から煩わしく思ってはいたが、まだ感情は抑えられていた。しかし、せんぱいと付き合い始めてからは、どうにも我慢できなくなっている。

 ……だって、わたしはもうわたしだけのものじゃないし。や、何言ってるんだわたし。気が早いでしょまだ。

 うん……まだ。

 でも、いつかは……。

 ……えへへ。

 なんて具合に、にへらにへらとだらしなく緩む頬を隠さずにいたら。

「…………あっ、ちょっと! なんで今見なかったことにしたんですか!」

 恋人の気配を感じはっとそちらに目を向けた直後、視界を見慣れた自転車がすいーっと横切っていった。それはそれはもう見事なスルーっぷりだった。とても恋人に対する扱いとは思えない。

「こらーっ!」

 慌てて叫びながら追いかけると、せんぱいはすぐにブレーキをかけてくれた。うんうん、そういう甘っちょろいのはとても殊勝な心がけというかすごく恋人に対する扱いっぽくて超いい感じですよ!

 追いつき腕をえいっと掴めば、自転車にまたがったままのせんぱいがなぜかため息を吐く。

「……だから声でけぇっつーに」

「別に減るもんじゃないのに……」

 すっかりお約束となってしまったこんなやりとりも、じきに、もうすぐ。

 たぶんその瞬間も、約一か月間の青春と同じで、あっという間にやってきてしまうのだろう。

「んー……」

「……なに、どしたの」

 いつものように鞄を差し出すこともせず、いつまでたっても後部座席に乗ろうとすらしない。そんなわたしを見た恋人は、やたらと神妙な面持ちで尋ねてきた。心配しているというよりかは、何企んでんだこいつと言いたげな感じ。……相変わらずマジでわたしのことなんだと思ってるんだ。

「なんですかその超めんどくさそうな顔……」

「いや、だって嫌な予感しかしないし」

「やだなー、何も企んでませんってー………………今回は」

「最後に不穏な単語が聞こえたんだけど……」

 そりゃわざと聞こえるように言ったんだし。ほら、やっぱり心の準備って大事だしね! 全然準備できてないわたしが言えることじゃないけど!

 ……はっ! あぶないあぶない、取り返しのつかない痴態を晒すところだった。

 口から出ていきかけたご都合主義の妄想は一旦引っ込め、代わりに一つ、こほんと咳払い。

「ところでせんぱい、今日はゆっくりめな感じで行きません?」

「あ? まぁ時間は全然あるからいいけどよ」

「さっすがー」

 それを合図にして、わたしはようやく自転車の荷台に腰掛けた。そのまま前に腕を回し抱きつくと、安全確認の後、せんぱいがぐっとペダルを力強く踏み込む。

 最初は、乗せてほしいと頼んでもだめだったのに。

 今じゃ、これが当たり前になっているのが嬉しくて。

 でも、今は、あの時みたいな感情任せじゃなくて。

 素直に、そうしたいからって気持ちで。

「むふふー……」

 もう離さない、離してあげないと主張するように。

 自分よりも大きな身体を、両手でめいっぱい抱きしめながら。

「んだよ……」

「わたし、ちゃんとせんぱいの特別になれてるんだなーって……」

「……やめろ、手元狂っちゃうだろ」

 そしてそのまま、居心地悪そうに丸まった背中へ、自身の頭もそっと預けた。

 

  *  *  *

 

 通学路の途中にある、コミュニティセンター。

 海浜総合高校との合同クリスマスパーティーに、二月のバレンタインイベント。鬱陶しくて忌々しいだけだった会議に、当時では重すぎた責任。そして、陽乃さんの投じた一石により生じた関係の波紋や、いくつもの道に分かれたわたしのスタートライン。

 そのどれもが、今のわたしへと繋がっている。その一つ一つ全てが、わたしの刻んできた青春の証だ。

「ここ、懐かしいですよねー……」

 買ったばかりのあんまんを片手に、目前の風景に残した軌跡を愉しむ。

「……だな。懐かしさのあまりつい意識が高くなっちまいそうだ」

「や、それはさすがにちょっと……」

 苦笑を交えつついやいやと手を振れば、せんぱいも口元に小さな笑みを宿す。かつての大惨事もこうして笑い飛ばせるようになったのは、たぶん、わたしたちがあの時よりも大人になったからこそなのだろう。

 だからわたしは、隣の恋人へちらりと横目で意味深な視線を送る。

「……今だったら答えてくれるのかなぁ」

「ん、何をだ」

 昔、当事者の両方に濁されたこと。あの頃はそこで満足して、それ以上知りたいと思わなかったこと。また、そこ止まりで、それ以上興味もなかったこと。

 けど、今だからこそ、それを聞くのがどうしようもなく怖くて。でも、好奇心や嫉妬が心の中で引っかかったままになるくらいには、やっぱり知りたくて。

「……なら、聞いても?」

「いや、だから何を……」

 ただ、いまさらというのも否めなくて。ましてや、干渉のできない部分なわけで。それでも、知りたい、わかりたい、わかっておきたいと諦めのつかない自分がいて。

「…………覚えてます? 前に、わたしが聞いたこと」

 空いているほうの手を伸ばし、今度は制服の袖ではなく、恋人の指先をちょこんとつまむ。冬のワンシーンを再現するように。

「前にって…………あー、そのことか」

 すると、わたしが回想している部分へ辿り着いたらしく。せんぱいは頭上を見上げながら、物憂げに息を吐く。

 過去をほじくり返しても、現在に何かあるわけでもない。昔何があった、前に何をしたという詮索自体が藪蛇なのだとも今は理解している。それが興味本位となれば、なおさら。

 わたしの場合、褒められた過去なんて、全然ない。あるのは、そうしてきたことが今でも後ろめたくなるくらいに、間違いだらけの世界ばかり。どんなに素敵な思い出で塗り潰そうとしても、過去は消えない。真っ白な状態に戻ることは絶対ない。

「聞いてどうすんだ、んなこと。……今、お前にもそう言えれば楽だったんだけどな」

「そんなの、わたしだって同じですよ。いっぱい恥ずかしいところも見せましたし、他の人には言えなかったことだってたくさん書きましたし……」

 でも、それを受け止めることならできる。痛みを拭うことならできる。せんぱいにどんな過去があっても、どれほど深い傷痕があっても。そして、お互いがお互いにと心から願い続けられるのなら、一緒に傷つくことだってできる。

「……だから、その、無理にとは言いませんけど」

 あんまんにかぶりつき、いじけたようにあむあむ口元を波打たせつつ。

「……聞いてて面白い話じゃないと思うぞ」

「別に面白さなんて求めてないですよ? 二人の雰囲気的にそんな感じはしてましたし……」

「そういう意味じゃないんだが……まぁいいか」

 はてなの浮かぶわたしをよそに、せんぱいは少し目を細めて空を仰ぐ。どこから話したもんかと言いたげな瞳から察するに、話はそこそこ長くなるみたいだ。

「……俺もあいつも、最初を間違えたんだろうな。だから……こうなっちまった」

 そうして、恋人の口から最初に紡ぎ出されたのは、具体性のない曖昧な一節だった。

 

 誰とでも分け隔てなく接するその姿勢が、優しさの表れだと当時は勘違いしてたからな。

 昔の俺はそれすらわからずに、上っ面だけでもいいからと会話を捻りだそうとしてた。話が終わらないよう必死に次の会話を考えてた。メールが返ってくるたび、突然返ってこなくなるたび、何度も一喜一憂した。

 そりゃもう、周りからすればさぞ滑稽だっただろうよ。ちょっとでも目立つことすりゃ、いちいち話題に出されるくらいだったし、俺。……もちろん悪い意味で、だ。

 でも、浮かれるあまり見失ってたんだよ。誰とでも分け隔てなくって部分をな。

 周囲のやつらからどれだけ馬鹿にされても、自分だけはあいつにとって特別だって、自分だけがあいつに選ばれたって、疑いもしなかった。んなもん、あいつにとっては一過性の気まぐれでしかないってのに。

 だから、あいつに対するそんな認識の違いが、一人で舞い上がっていた俺の中で身勝手な勘違いを生んだ。当然、昔の俺はそんなことにも気付かずに……まぁ、その……あいつに告白、的なもんをしちまった……わけなんだが。

 …………。

 ……まぁ、俺と折本の間にあった出来事はそんな感じだ。

 

 ときどき、自転車や自動車がわたしたちの横を通り過ぎていく。直進、あるいは右へ左へと曲がり、それぞれが進むべき道を進んでいく。まるで、人と人の交わりを表しているかのように。

 聞いた話を統括しながら、改めて、わたしは思う。

 平塚先生と話した時のように、もし、出会い方が違っていたとしたら。そこからの始め方も、これまでの築き方も、全部、繋がらなかったとしたら。

 ……やだ。

 でも、こっちもこっちで……うん、やだ。

 とにかく、やだ。

 どっちも、すごく、やだ。

「んにー……」

 残り一切れ分となったあんまんを口に含むと、わたしは必要以上に唇と舌を動かす。

 今の巡り合わせを喜べばいいんだか、昔の告白にやきもちを焼けばいいんだか。こちらに関してはなかなか整理がつけられず、できたのなんて、やり場のないもやもやを一時的な甘さで濁すことくらい。

 だが、所詮は間に合わせの付け焼刃。餡はすぐに溶けてしまった。

「なーんか……なーんかなー……」

「だから言ったじゃねぇか……」

 面白くないって、そういう意味かといまさら納得する。……確かに面白くない。うん、超面白くない。とはいえ、自分から聞き出したことなので文句は言えるわけもなく。

 なので、わたしは暇になった指先でスカートの裾をくりくりといじり始める。しかしすぐに飽きてしまい、ちっとも甘さの代わりにはならなかった。

「はぁ……いいからほれ、機嫌直せ」

「わたし別に不機嫌じゃありません」

「んじゃその複雑そうな顔はなんなんだよ……」

「だって……」

 聞けてよかった、言ってくれて嬉しいという気持ちは充分ある。他には、今現在に対する安心だとか、せんぱいへの愛情を再確認できただとか。でも、嫌なものは嫌だ。面白くないものは面白くない。

 ただ、そのプラスとマイナスが入り乱れる感情を、わたしはうまく言語化できなくて。

「これは……そう、あれですよあれ」

「どれだよ」

 結果、ほとんど指示語だけで構成された返答をしてしまった。しかも冷静に指示語のみで突っ込まれた。ちょっとつらい。

 まとまらない言葉の代わりに、わたしは観念したような吐息を一つ。

「とにかく……いろいろ複雑なんですよ。嬉しいとか羨ましいって気持ちももちろんあるんですけど、それ以上に悔しいというか……」

「……悔しい?」

 言葉の核が掴めず、せんぱいがわたしの吐露を復唱する。まぁ、相模先輩の時は純粋なやきもちだったし、噛み合わないと思うのも仕方ない。

「はい。……わたし、好きな人のほうから告白されたことって、実は一度もなかったんですよ。それだけじゃなくて……こんなに人を好きになったことも……」

 けど、そういう意味でも。

 せんぱいとの恋は、どうでもいいものばかり手に入ってきた時と全然違ってて。

 どこかで諦めてるんじゃなくて、何度諦めようとしても全然諦めきれなかったくらいに。

 それは、今も、今でも変わらない。

 全部、一つ残らず、欲しい。

 せんぱいの過去も、未来も、わたしが丸ごと独り占めしたい。

「だから……折本先輩に先手を取られていたことが、どうしようもなく悔しいです」

 本当に、醜くて酷い独占欲だと我ながら思う。でも、これが誰にも隠しようのない、今のわたしなんだ。言葉は軽くて、中身も薄っぺらい。そんなのは、とっくにやめたんだ。

 だって、もう、他の男の子にどう見られてるかを気にする必要なんて、どこにもないから。たとえ、強引でも、むちゃくちゃでも。どれだけわがままだらけでも、これだけめんどくさくても。

「……言ってやれてたらよかったんだけどな……悪い」

 わたしには、こうして、甘やかしてくれる大切な恋人がいる。全部、ちゃんと受け入れてくれる大好きなせんぱいがいる。

「や、せんぱいが謝ることじゃ……あ、そうだ。じゃあ、代わりといってはなんですけど……」

 きっと、それはどこにでもあることじゃない。他の人からすれば、綺麗事や理想論、あるいは絵空事や夢物語だと吐き捨てられるかもしれない。叶うことのない幻想や、欺瞞に蓋をした理想だとバカにされるのかもしれない。

 でも、わたしとせんぱいはそんな“本物”を願い合い、信じ合ってきた。相手を知って、次は向き合って。理解したら、今度はぶつかり合って。求め合って、お互い押しつけ合ってきたから。

 もちろん、言ってくれなきゃわかんないことだってまだまだあるし、言われてもわかんないことだっていっぱいある。言わなくてもわかってることだって、たくさんある。

 それでも、どうしてもってなった時は、ちゃんと。

「わたしが言ってほしくなった時は……せんぱいも、ちゃんと言ってくださいね?」

 返事を待たずに、半歩、距離を横に詰める。そのまま恋人に寄りかかると、瞳の行き先が自然な形で空へ移った。

 穏やかな時間を感じさせる心地のよい風が、わたしの肌を撫でていく。

 夏休みと同様に、夢のような時間はあっという間に過ぎていくのだろう。二学期はイベントが盛りだくさんで、きっと楽しくなる。でも、ときどきは切なくて。だからこそ、濃密な時間は素敵な思い出となる。そのぶん、寂しさや名残惜しさも強くなってしまうけど。

「まぁ、お膳立てくらいはしてあげますので……よろしくですっ」

「……はいよ」

 わたしは、優しい温もりに全身を委ねながら。

 せんぱいは、本当にしょうがないやつだと言いたげな声で。

 お互いにそんな会話を交わし合った、新学期の始まりだった――。

 

 

 

 

 




お久しぶりです(震え
更新遅すぎてごめんなさい、本当。

さてさて、この場をお借りしまして、宣伝を二つほど。
Pixivでも作品を読んでくださってる方は既にご存じだと思いますが、「俺ガイルバレンタイン2017文士絵師コラボ企画」に引き続き、「一色いろは誕生日文士絵師コラボ企画」のほうにも参加させて頂くこととなりました。
こちらには絵師様の関係上、転載は致しません。他にも転載していない作品がいくつかあります。なので、興味があればわたしのPixivのほうも覗いてみてくれると嬉しいです。

もう一つ目は、オリジナルについて。
少し前から、カクヨムにて連載を始めました。こちらも更新に関する報告などは引き続きついったーのほうでしますので、併せてぜひぜひ。

宣伝のほう、長々と失礼しました。
ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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だから、一色いろはは約束する。―い―

  *  *  *

 

 二学期は、始まってすぐに文化祭という大きな行事を迎える。

 そのため、クラスの出展内容や各係などを早々に決めなきゃいけなかったりと、スタートからとにかく慌ただしい。しかもそれだけじゃ終わらず、文化祭の次は体育祭、その次は修学旅行と行事のラッシュが続いていく。

 なので、生徒会の活動やテスト期間も含めれば、詰め込みすぎと思わず突っ込みたくなるくらいにスケジュールは超カツカツ。

 ……や、ほんとマジでどれか一つくらい別学期にずらしたほうがよくない? 一学期なんかはわりと暇だし。あ、でもそうしたら今度は一学期が忙しく……うわぁ、どっちにしろ忙しいとかなにそれ超ブラック。

 なんて感じに、指摘なんだか文句なんだかなことを内心でぐだぐだ垂れ流しつつ。わたしは自習の息抜きも兼ねて校内をぶらぶらと散歩していた。

 通りがかった教室の中、階段の上、廊下の向こう側やわたしの背後。案の定、いろいろな場所から同じような話ばかりが聞こえてくる。出展内容に関するあれこれ、今年の有志バンドについてのあれこれ、当日一緒に回る予定の人へのあれこれ……などなど。

 それくらいに話題性があり、イベント性なんかも強く含む文化祭は、青春の記録として特に存在感のある行事の一つだと思う。

「文化祭、かぁ……」

 ふと足を止め、周囲の喧騒と輪唱するように改めて呟いてみた。しかし、去年までのわたしは今以上にろくでもなかったせいで、素敵な思い出どころかもはや黒歴史と化した記憶ばかりが頭の中で再生されていく。

「……ぅぁあぁ……」

 なぜわたしはあんな無駄な時間を……と思わず大音量で叫びたくなってしまったが、なんとか小声の領域で留める。

 いけないいけない、息抜きしに来たのに自分から息苦しくしてどうするんだ、わたし。

 ぺちぺちと自分の頬を軽く叩きながら、思考の方向転換を図った。とはいえ、一度でも考えないようにと考えてしまった以上、しばらくの間はこの悩みに付きまとわれることになりそうだ。

 なんとなく、本当になんとなく、手をきゅっと丸めてみた。けど、そこにあるはずの大好きな温もりが、今はなくて。たとえそれが一時の、一過性の冷たさだとしても、わたしだけがここに置いていかれてしまったような――。

 

 ……なんか、あの時みたいだ。

 ちょっぴりのデジャヴを感じながら。また、今は感じることのできない温かさの名残を求めるように。

 気づけば、ひときわ特別な思い出の生まれたあの場所へと向かうわたしがいた。

 

  *  *  *

 

 通称、ベストプレイス。

 何がどうベストなのか実は未だによくわかっていなかったりもするけど、紆余曲折を経て、この場所はわたしにとってもお気に入りの場所となった。

 だから、思い悩んだりした時なんかは、マッ缶ともどもよくお世話になっているのだが。

「……売り切れとか超意味わかんないんですけど。マジでありえないんですけど」

 気分転換セットのもう片方を求めて自販機へ寄ったわたしが目にしたのは、ボタンに赤字で点灯する「売切」の無慈悲な二文字だった。

 マッ缶なんてわたしとせんぱい以外に誰が飲むっていうんだ……。おかしい……こんなの絶対おかしいよ……。

 しかし、八つ当たりやないものねだりをしたところで、留守なままの手が勝手に埋まってくれるわけもなく。

 ……仕方ない、帰りにコンビニかなんかで買って飲もう、そうしよう。わたしはこれ見よがしにずずーんと落ち込みながら、鬱陶しさたっぷりの長々としたため息を吐く。

「一色さん」

「……ふぇ?」

 一呼吸ほど置いた空白の後、覚えのある声に呼ばれたのでそちらへ瞳を合わせてみると、テニスバッグを背負った戸塚先輩がにこにこ笑顔で歩み寄ってきた。

「あ、戸塚先輩。こんにちはですー」

「こんにちは。気分転換の邪魔しちゃったならごめんね」

「や、全然大丈夫ですよー」

「そっか。ならよかった」

 気にしないでくださいとわたわた両手を振って応えつつも、わざわざどうしたんだろうと内心首を傾げる。

 一人、もしくは先輩と一緒に、テニス部の練習光景をぼーっと眺めていた時は何度もあった。でも、戸塚先輩は嬉しそうに手を振ってきてくれただけで、わたしたちとそれ以上のやりとりを交わすことはなかったから。

 きっと、言葉どおり邪魔をしないよう気遣ってくれていたのだと思う。もちろん、部活中だったからという至極当然な理由もあるだろうけど。

「それより、どうしました? せんぱいなら今日は……」

「あ、ううん、八幡に用があったわけじゃなくてね。たまたま近くを通ってたら、一色さんがすごく落ち込んでるの見ちゃったんだ」

「あー……」

「それで、いつもと雰囲気が全然違ったから、どうしたのかなって思って。……余計なお世話かもしれないけど、ぼくでよかったら、話、聞くよ」

 ……言えない。こんなガチの心配されちゃったら、実は超しょうもない理由で落ち込んでましたなんて言えるわけない。せんぱい相手にならともかく。

 や、まぁ、悩んでるってのは嘘じゃないんだけど。でも、こちらに関しては悩みというほどのレベルではなくただの愚痴である。

「え、えっと……その、わたし的にあれがあれしてあれなだけなので……だから、そこまで悩んでるってわけではなくてですね……」

「一色さん、なんか八幡みたい」

「……ううっ」

 戸塚先輩の配慮を台無しにしないよう言葉を選んだら、心底おかしそうにくすくすと笑われてしまった。

 あう……すごくむずむずする……。でもでも、せんぱいみたいってことはわたしもすっかりせんぱいに染められちゃってるってことだよね? なにそれ超幸せ……じゃなくて!

 どちらの感情に従えばいいのかわからなくなってしまったわたしは、うにうにと唇を波打たせながら次の言葉をうやむやにする。

 そんな様子に戸塚先輩は再び敵意のない笑いを残した後、瞳の先を前方のテニスコートへ移す。

「一色さんが羨ましいなぁ……」

「……へ?」

 追って届いたのは、あまりに意識の外すぎた言葉。

 理由を視線で尋ねてみると、戸塚先輩は過ぎた思い出を懐かしむように瞼を閉じる。

「だって八幡があんな顔するようになったの、一色さんと付き合い始めた頃くらいからだし」

「あんな顔……?」

「うん、あんな顔。ぼくが相手じゃ絶対見れなかった八幡の一面だと思う。だから、羨ましい」

 戸塚先輩の語る『あんな顔』とは、わたしと一緒にいる時の顔だろうか。なら、そこまで印象が変わって見えるほど、せんぱいもわたしの影響を受けているということに。……えへへ、わたしもせんぱいのこと染めちゃってるんだぁ……っていやいやだからそうじゃなくて!

 みっともないくらい頬が緩みそうなのを咳払いで誤魔化しつつ、そのことについて少しだけ言及してみることにする。

「……そんなに違って見えるんですね」

「ぼくも八幡とは付き合い長いほうだから」

 両手を腰に添え、むんと胸を張る戸塚先輩。得意げな表情は、自分もただの惰性で付き合ってきたわけじゃないと確かに主張していて。

 もしこれが戸塚先輩じゃなかったら、心底呆れて何も言えなくなっていたところだ。けど、この人も、奉仕部の二人や平塚先生に負けないくらいあの人の近くにいて。そして、あの人のことを近くで見てきて。

 それを、わたしは充分すぎるほどに知っている。

「……まぁ、あの人も戸塚先輩のこと話してくれますしねー。それも、すごく、たくさん」

「あ、あはは……」

 加えて、まだ続くのかと耳を塞いでしまいたくなるくらい、戸塚先輩とのことを延々聞かされたりもしたから。自分じゃない相手、しかも同性との惚気みたいな話を聞かされる彼女ってマジで一体なんなの……。まぁ、最近はわたしがやきもちを焼くので自重してくれてるっぽいけど。

「あ、でも八幡もね、最近は一色さんのこととか結構話してくれるよ?」

「どういうことですかそれぜひ詳しくできれば一字一句間違えずにお願いします」

 もはや脊髄反射と呼んでも過言ではない速度で反応したわたしに驚き、戸塚先輩がびくっと肩を震わせた。それを視認したところでようやく思考が現状に追いつく。

「すいません……つい……」

「……ううん、ちょっとびっくりしただけだから気にしないで」

 困惑の色をまだ表情に残しつつも、戸塚先輩はすぐにフォローを入れてくれた。その優しさが逆につらい……。

 なんて感じに、またしても一人であうあう身悶えていたら。

「一色さんは八幡のこと、ほんとに好きなんだね」

「ふひゃっ!」

 心が落ち着く前に追い打ちが飛んできた。思わず身体が跳ね、変な声も出た。

「……なっ、なな、なんですか急に……そんな……そりゃ、好き、ですけど……」

 慌てて顔を逸らし、ぽっと赤く染まった頬を隠す。

 やだ……そういうのほんと困る……。ていうかなにこれすごく恥ずかしい。なんだこれ……なんだこれ……。

 相手が小町ちゃんでもなく、はるさんでもなく、戸塚先輩だったからだろうか。誰にも言っていないはずの好きな人を、ふと言い当てられてしまったような感覚に陥ったのは。

 ふわふわぽわぽわと妙な気まずさを心に抱えながらも、未だにないリアクションが気になったわたしはそちらを横目でちらり。すると、戸塚先輩は嬉しそうに口元を綻ばせただけで、それ以上は言わず語らずのまま。

 察したような沈黙にますます羞恥心をかき立てられてしまい、たまらず再度顔を背けるわたし。

 戸塚先輩も、そんなわたしに微笑みの声を残すだけ。

 となれば当然、聞こえてくるのも環境音ばかりとなる。中でもひときわ目立つのは、やっぱり、テニスボールをぱっこんぱっこん打ち合っている音。

 だから、わたしも戸塚先輩も、自然と意識がテニスコートのほうへ流れていく。

 そうして、壁打ちやラリーの練習を遠巻きながら眺めていると、こちらの存在に気付いた部員の人たちが手やラケットを振ってきた。正確には、元部長である戸塚先輩へ向けて。

 完全な外野であるわたしにもわかるくらい、みんなすごく嬉しそう。

 微笑ましい挨拶の先を追って視線をついっと戻せば、何回もぶんぶん手を振ってしっかりと応える戸塚先輩の姿。

「慕われてるんですね」

 温かみ溢れるやりとりに、つい、そんな一言がこぼれ出た。

「最初は慣れないことばっかりで大変だったけどね。……でも、今のみんなを見てると、頑張ってきてよかったなぁって思うんだ」

 はにかみながらも、戸塚先輩の視線はテニスコートの一点から外れることはなく。

 きっと、他の人には見えない裏方の部分でたくさんの種を蒔いてきたのだろう。その種は易々と芽吹いてくれるはずがないとわかっていても、それでも。

「行ってあげたほうがいいんじゃないですか? わたしは大丈夫なので」

「うん。じゃあ、そろそろ行こうかな」

 ……そろそろ? あー、そういうことかー。戸塚先輩がテニスバッグを背負い直したのを見てようやく、いまさらながら納得する。

「またね、一色さん」

「はい、またです」

 返事と共にぺこりと軽く会釈し、戸塚先輩の後ろ姿を見送りながら。

 途中でわたしを見つけたのは、本当にたまたまなのだと思う。偶然じゃないのは、戸塚先輩が近くを通りがかったことのほうで。

 テニススクールに通っていることも、昼休みに自主連をしていることも知っていたせいで、特に違和感は抱かなかった。

 けど、巣立っていった鳥が、ふとした時にそこへ帰ってくることがあるように。役目を終えたからといって、全てが終わることとは必ずしもイコールじゃない。

 前方に広がる光景も、戸塚先輩が目に見える形でそれを実現したもの。わたしも持っている、大切な居場所と呼ぶにふさわしいもの。

 しかし、それは、あくまでも限りなく狭い輪の中でだけの話だ。

 そうじゃなくて、それとは違う形で。みんなにとっては無理でも、せめて、親しくしてくれる人たちにくらい。

 ふとした時に帰りたくなるようなところを。

 いつでも思い出の中へ戻ることができるようなところを。

 この学校の生徒会長として、わたしは作れているのだろうか。

 また、一人の先輩として、この背中に残せているのだろうか。

 そして、なにより、一人の後輩として――。

 

 ここへ来た目的どころか、考えないようにという自戒すらも、すっかり頭から抜け落ちていることに気づけないまま。

 結局は、意思の空回りを繰り返すわたしがいた。

 

  *  *  *

 

 引き続き上の空気味ながらも、せめて最低限のやることだけはやってしまおうと別口の勉強をしていた、その日の夜。

 机の上に置いていた携帯が突然ぶるると震え出し、着信を知らせてきた。画面を見れば、そこには『はるさん』と表示されていて。……時間的に暇つぶしの相手かな?

 わたしのほうも気晴らしになればと通話ボタンを押し、深慮することなく携帯を耳に当てた。

「……もしもし?」

 すると、繋がった先から雑踏のノイズ。

『いろはちゃん、ひゃっはろー』

「はーい。……ていうかはるさん今外にいたりします?」

『うん、お出かけ中。もしかして周りの音うるさかった?』

「や、別にそういうわけじゃないですよ。なんていうか、ちょっと意外だっただけで」

『意外?』

「ほら、はるさんって基本、電話かけてくる理由が暇だーとか眠くなーいとかばっかりじゃないですかー?」

『まるでわたしが暇人みたいな言い方だなー。お姉さん、こう見えて結構忙しい人なんだぞー?』

「冗談ですよ、冗談。……たぶん半分くらいは」

『もー、次会った時覚えてなさーい』

 なんて調子にからかいの応酬を重ねていたら、その最後でわざと引っかけるような言い回し。

「え、次って……」

『……っと、もうそろそろ来ちゃうな。じゃ、おしゃべりはこれくらいにして用件言うね』

 だが、こちらの問いかけを相手はそこで強引に打ち切って。

『明日からしばらくの間、勉強見てあげられなくなるの』

 けど、その小さな引っかかりだけは、今ここでほどいていくように。

 普段と変わらない声色で、いつもとは少し違った内容を、わたしは告げられた。

「……そうですか」

『ありゃ、拗ねさせちゃった』

「だって寂しいものは寂しいですし……」

『ま、今は比企谷くんともなかなか一緒にいられないだろうしね』

 ……せっかく人が必死に考えないようにしてることを。しかもさらっと。

「なんで言わなくていいことわざわざ言っちゃうんですかね……はー、ほんとにもう……」

『言わなくていいことなんてわたしは一つも言ってないんだけどなー』

 一体どの口が言うんだ。

 思わずへっと笑ってしまったわたしに、電話口の向こうからもくすくすと笑う声。

『でも、いい機会でしょ? ……だから頑張りなさい』

 直後、こちらの返答を待たずに陽乃さんはじゃあねと通話を切ってしまった。

 嫌味ったらしくもあの人らしい一方的なエールを反芻しながら、心の詰まりを吐き出すように重く深いため息を吐く。

「……その頑張り方がわかってたら、今こんなに悩んだりしなくて済むのになぁ」

 解き方を知っていても、そもそもの問題自体が曖昧なら、輪郭の定まらないぼやけた答えしか浮かんでこない。それこそ、解答の末尾に疑問符がつくような手応えのない結論しか出てこない。

 たった一日で、全部が大きく膨れ上がりすぎた。また、そんなつもりはなかったのに、終わってみれば感情がまったく逆の方向へ進んでしまっていた。

 何をしても、うまくいかない。うまくいってくれない。嫌なうじうじが止まらない。

 だからこそ、会いたくなる。触れたくなる。包んでほしくなる。

 けど、今それをしたら、だめなんだ。

 やっと迎えられるその時のために、今は我慢しなきゃいけない時なんだ。

 それでも、せめてと。

 せめて、終わらない夢を願うくらいはと。

 

 無音だけを返す携帯は一旦そのままに、部屋のカーテンを開く。

 二つの季節に挟まれた空に浮かぶ月は、今日も変わらず地上を照らしている。暗い夜が明けるまで、一人一人を優しく見守るように、静かな光を放ち続ける。

 そんな輝き方をする月に、自身の心境を重ねながら。

 メールの作成画面を開き、愛情をたっぷり込めた『おやすみなさい』を入力し終えたわたしは。

「……寂しいけど、頑張らなきゃ」

 唇をきつく結びつつ、送信したばかりのメールを追うように。

 もう一度、窓越しの月と夜空を眺めるのだった。

 

 

 

 

 




お、おひさしぶりです……(小声
今回は長くなりそうなので、ひとまずの分割を投稿ということで。

ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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だから、一色いろはは約束する。―ろ―

分割二つ目ですー。


  *  *  *

 

 文化祭実行委員会、略して文実。

 その第一回目となる会議が始まるのは、今年も去年と同じく、各分担を決めた日の放課後から。

 去年はありとあらゆる手を使い全力で回避したポジションだったが、生徒会長という役職に就いている以上、今年は強制的にこちら側となる。

 縁の下の力持ち。影の立役者。

 文実をプラスの言葉だけでたとえるならこんな感じになるだろうか。しかし、青春のど真ん中を生きるわたしたち生徒の大多数はこれをマイナスの方向へ変換する。

 損な役回り。貧乏くじを引かされる。

 どうせやらなきゃいけないなら、みんなでわいわい楽しみながらやりたい。みんなで一緒に遊んでる時みたいなノリができるほうがいい。

 だから、文実かそれ以外かという二択の天秤は、一方に大きく傾く。

 結果、勝っても負けても恨みっこなしのじゃんけんとかで決められた、モチベーションの乏しい寄せ集めの実行委員会となるケースがほとんどだと思う。また、責任という枷が重くなればなるほど誰もやりたがらないし、誰かに押しつけようとしたりもする。ソースはわたしとあの会議。

 かつての経験から容易に想像のつく流れの打開。生徒会の業務をこなしつつ、城廻先輩が言っていたような揉め事が起きないよう気を配ったり。

 自身の悩みも解決の糸口が掴めないまま、日に日にタスクばかりが増えていく現状。

 つまり、何が言いたいのかというと。

「……だるい」

 この一言に尽きる。わたし、気が滅入ります。

 今の時刻は午後三時四十五分。身体をずるずる引きずるように割り当てられた会議室へ。

 ミーティングの場に向かう人通りこそちらほらとまばらだが、クラス同様、雑談で賑わう声は相変わらず。特に出し物のことについてなんかはそれぞれ方針が違うので面白く、耳にしている間は余計なことを考えなくて済むのでだいぶ助かっている。

 ちなみに、わたしのクラスは『ピーター・パン』の演劇をやる予定だ。ベタすぎるチョイスというか、王道すぎて超無難というか。

 でも、まぁ、下手に奇をてらうよりはそれで正解なのだろう。

 やりすぎれば本末転倒。増えすぎれば逆効果。色物枠は二割くらいでちょうどいい。

 という具合に、思考を一旦本題から脱線させて気をまぎらわせていたものの。歩いて数分の距離じゃだらだら補正があってもすぐにタイムアップだった。

 いまさら引き返しても仕方ないので、がららと扉を開く。

 直後、一瞬の無音と共に多方向から視線を浴びせられたが、知り合いじゃないと視認した途端に関心を失い散っていく。ごめんね、わたしで。

 だが、未だ逸れることのない視線がわずかにある。そちらを見れば、生徒会の面々と。

「いろはさーん」

「あ、小町ちゃんー」

 見知った顔どころかむしろ見知りすぎている顔が一人。ていうか未来の義妹(予定)である。

 そして、視線の主は他にもう一人。小町ちゃんの横に座っている一年生らしき男子だ。しかし敵意などは一切ないらしく、目が合うなり控えめに会釈してきて。

 ……誰? 小町ちゃんの友達? まさかの彼氏? んー、本人に直接聞いちゃえばいっか!

 疑問の解消も兼ねて、わたしは当たり前のようにもう片方の隣へ着席しようとする。だが、それを即座に制する声。

「いや、会長はこっちだから……」

「あ、そうでした」

 悩ましげな表情で来い来いと手招きしてきた副会長の隣に腰を落ち着けると、小町ちゃんがまたのちほどーとばかりに手を振ってきた。ぜひとも義妹になってもらいたい。

 それはさておき。

 ぼちぼち会議の開始時刻が迫ってきているので、段取りや話す内容くらいは組み立てておく必要があるだろう。パズルのピースをはめるように、この場合はこう、こうなった場合はこうと状況に応じたQ&Aも同時に浮かべながら。

 黙々と脳内会議を行っているわたしをよそに、一人、また一人と密度が増えていく。生徒たちが作り出す人声の波音は、絶えることなく重なり続けていく。

 そうして、時計の針がそろそろ午後四時を指し示そうかという頃。開かれた扉から最後にやってきたのは、体育教師の厚木先生と平塚先生の二人。

 平塚先生はわたしの姿を見つけると、ぱちりと片目を閉じてアイコンタクトを送ってきた。どこか挑発的な印象も受けるその表情は、とあるメッセージが暗に込められていて。

 期待されること自体は素直に嬉しい。けど、頑張り方がまだわかってない以上、間違った努力をしてしまいそうで怖くもなる。

 しかし、時間がわたしの心を待ってくれるはずがない。

 教師陣がやってきたことで緩んでいた空気は引き締まり、会議室内のざわめきも今はすっかりと鳴り止んでいた。

 その変化を合図に副会長たちが書類を配り始めていく。やがて全員に行き渡ったのを確認したわたしは、よしと頷き席を立つ。

 だが、すぐに口を開くことはせず、胸に手を当てながら呼吸を整える。

 人前に立つ緊張を和らげたかったわけじゃない。頭の中で作り上げた会議用フローチャートを再確認したかったわけでもない。ただ、覚悟の一拍が欲しかった。

 様々な停滞や停止を終わらせるために幕を引いた時と比べれば、あまりにも大げさで大概な心構えかもしれない。また、あの時とは含んだ意味も向いている方向も、思い描く形だって全然違う。

 けど、だからこそ、最後まで走り切るために必要なことだと思ったから。

「……では、文化祭実行委員会を始めまーす」

 大層な覚悟があるようには到底思えない号令になってしまったが、それでもみんなは居住まいを正してくれた。まぁ、わたしの声は間延びしがちなんていまさらか。

「じゃあ、まずはかるーくご挨拶から。生徒会長の一色いろはです。よろしくお願いしまーす」

 事前に頭の中でまとめていたようには到底思えない軽薄な切り出し方ではあったが、それを特に気にした様子もなく、全員が会釈を返してくれた。

 なんて締まりのない挨拶なんだと額を手で抑えている副会長や、相変わらずだなぁと苦笑していたりする書記ちゃんには、後でだらだら言い訳するとして。

「で、わたしがこうやって長々と話しててもあれなので、とりあえず先にぱぱっと実行委員長決めちゃいましょう。というわけで、やりたい人、誰かいますかー?」

 言葉が最後まで辿り着いたとほぼ同じタイミングで、集まっていた全員の視線が散り散りに逃げていく。それぞれの瞳の先は、読んでもいない書類や窓の外、時計の数字といったものにばかり向けられていて。……ですよねー、やっぱりそうなりますよねー。

 とはいえ、理由自体はわからなくもない。わたしも昔はそっち側の人間だったし。

 すると、揃いも揃って黙りこくる光景を見かねたのか、厚木先生がうおんと咳払いする。

「なんじゃおい、文化祭はお前らのためのイベントだぞ。ほれ、もっとやる気出さんかい。毎年毎年覇気が足らん覇気が」

 汗をかいてしまいそうなほどの暑苦しさを孕んだ鼓舞だったが、効果なんてあるはずもない。

 そりゃそうだ。メインコミュニティが学校の生徒たちからすれば、誰だって沈黙を選ぶ。自分のためという不透明で不確実なリターンに比べ、賭けるものがあまりにも大きすぎる。

 責任なんてほしくない。失敗した時に文句を言われたくない。話題の人になって晒し上げられたくない。何度も糾弾されたくない。だから、やりたくない。

 やっていなければ他人事にできる。安全なところから好き勝手に物を言える。失敗した人間を指差し下卑た愉悦に浸ることだってできる。独りぼっちの不幸はみんなにとっての甘い蜜になる。だから、誰かがスケープゴートになってくれるのをみんなが待っている。

 こんな状況下で平然と手を挙げられる人間なんて、何も考えていないバカな見栄っ張りか、明確な目的を持ち込んで文実に参加している変わり者くらい。

 もし他にいれば譲ろうと一歩引いていたが、そうする必要はなさそうだ。

「はぁ、このままだと埒が明かなさそうですね。だったら……」

 城廻先輩の時と違ってわたしはまだ二年生。そこはクリアしているし、生徒会の人間は実行委員長を兼任しちゃいけないなんて取り決めは聞いたことがない。つまり、受験のためという理由で三年生が候補から外れるように、現実的じゃないからという暗黙の了解みたいなものだ。

 限られている時間をこれ以上無駄に消費していても、進行が遅れるだけでしかない。なので、当初の予定通りわたしが委員長もやっちゃうかーと手を挙げかけた時。

「あの……他にやりたい人いないなら、自分やってみてもいいっすか」

 おそるおそる挙げられた手と遠慮がちな声が、居心地と肌心地の悪い静寂を破った。声の主は小町ちゃんの横に座っていた一年生らしき男子。

「……へ?」

 この割り込みはさすがに予想外。おかげでずいぶんと間抜けな表情を晒してしまった。

「……はぇ?」

 小町ちゃんに至っては正気かこいつと言いたげにぽかんと口を開き、半眼になってくりんと首を捻っている。うーん、この義姉妹いろいろ変なところ似すぎじゃないかなー?

 まぁ、至極どうでもいい内輪の話は一旦置いといて。

「……あ、えっと、立候補してくれてありがとう。それじゃあ、自己紹介をお願いしますー」

「は、はいっ!」

 促すと、その男子は緊張交じりに席を立つ。

「一年D組の川崎大志っす。……正直自信はないっすけど、精一杯頑張ります」

 わたし的にも負担が減って助かるし、なにより、誰もやりたがらないポストに自ら就こうとしてくれているのだ。となれば、否認の声など上がるはずもなく、ぱちぱちと湧き起こった拍手が就任を証明する。

 ……ていうか、川崎? 

 書記ちゃんが板書した文字と聞き覚えのあるようなないような響きに、はてと首を傾げつつ。

 ひとまず、一番責任の重い委員長を決めるという最初にして最大の難関は、川崎くんのおかげで越えることができた。

 といっても、まだまだ道のりは険しく長い。それはもちろん、わたしだけに限った話じゃなく。

「では、委員長も無事決まったところで、次は各役割を決めたいと思いまーす。五分くらいで希望を取るので、その間にお手元の書類をご確認ください。ざっくりとですが、だいたいの仕事内容は書いておきましたのでー」

 宣伝広報、有志統制、物品管理、保健衛生、会計監査、記録雑務など。これらに関しては肩書きのハードルもだいぶ下がるため、手も挙げやすいだろう。むしろここで挙げなければ一体どこで挙げるのという話である。

 なんて感じで自主性に対する疑念を呈していると、退屈そうな表情で携帯を弄り始めたり、くあと欠伸をして呆ける人なんかが早くも出てきた。……できればその自主性や行動力をさっきの委員長決めの時に発揮して欲しかったんですけど。そして今日のお前が言うなスレはここですか。

「そろそろいいですかねー?」

 一声かけ、一応の再確認。

 空気感で無言の首肯を伝えてくる全員にわたしは軽く頷いた後、ちょいちょいと指を動かす。

「じゃあ、川崎くん。ここからわたしの代わりに進行、よろしくー」

「あ、やっぱそうなるっすよね……」

 緊張気味に口元を困らせつつも、川崎くんが板書役である書記ちゃんの横に付く。となれば、瞳に映す対象も自然とわたしから委員長へと移る。

「……っ」

 値踏みするような目と吟味するような沈黙の洗礼に、たまらず喉を鳴らした川崎くん。スポットライトを一度でも浴びたことのある人間なら、誰しもが必ず通った道だろう。

 場数さえ踏んでしまえば負の感情ごとあっさり受け流せてしまえる空気も、慣れないうちはまさに針のむしろ。それどころか、スタートダッシュでつまずいた途端に笑い者コース一直線だ。

「えっと……」

 言葉を選び、迷う。話を進める口数よりも悩みの空白が勝る。しかし、その無言は長引けば長引くほど強迫観念めいた焦りを生み、自らを蝕む毒となる。悪手がさらに悪手を呼び、やがては破綻し崩壊する。

 なので、こういった時は多少強引にでもさっさとペースを握ってしまうのが得策。

 会話の手綱を思うがままに振り回しまくる陽乃さんも、ほんわかした雰囲気と独自のノリで穏やかにまとめていく城廻先輩も、自分にしかできないやり方でしっかり主導権を握ってはきっちり落とし所へ落としている。……自覚の有無はともかく。

 そんなわけで、致命的な敗着手を指されてしまう前に、こちらは布石を打つ。

「川崎くん。そんな緊張しなくても大丈夫、大丈夫。ほら、さっきわたしがやった時みたいな感じで決めてけばオッケーだからっ」

 脳内お花畑の軽い口調にがくりとうなだれる副会長や、緊張感ないなぁと呆れ交じりの困り顔を浮かべた書記ちゃんには、後でぐだぐだ言い訳するとして。

「……なるほど。なんとなくわかったっす」

 けど、こんないまさらが、プレッシャーの緩和に繋がってくれたなら。や、わたしが楽観的すぎて単に毒気を抜かれただけかもだけど。

 まぁ、どちらにしても、強張りの剥がれた表情を見る限りはもう大丈夫みたいだ。小さく頷きを返し、わたしは川崎くんへ一時のバトンを託す。

 そして、同時に。

 表面上だけでも、ぎこちなくて拙くても、ようやく前へ動き出した複数の物語に。

「じゃあ、まずは宣伝広報から……」

 お手並みはいけーんと、どこかの誰かさんが言いそうなセリフを。

 一人、声には出さずに吐いておいた。

 

 ――そうして。

 多少噛んだりとちったりはするものの、一つずつ役割を決めては、一歩ずつ丁寧に会議を進めていく川崎くん。まさに順風満帆といったところ。

 ……にしても。

 ぶっちゃけ、意外も意外だった。まさかあんなアドバイスもどきだけで、こうも場を回してくれるとは。初々しい反応ばっかりのできたてほやほや委員長どこいった。

 しかし、フォローや口添えの必要がなさすぎるというのも、それはそれでしょんぼり気分。実際わたしが口を挟んだのなんて有志統制を決めた時だけだし。うー……もうちょっとだけ超どや顔で先輩ぶってみたかったのにー!

 まぁ、こんなくだらない冗談はどこかの隅っこにでも放り投げておくとして。

 時計の短針は、じきに5の数字を指し示そうとしている。残っているのは各担当の部長を決めることだけだ。となれば、決まった組から順次解散の流れになるだろう。

 川崎くんのおかげでなかなかの好スタートを切ることができた第一回目の文実。主観でしかないけど、現状、不安要素も問題も欠陥も見当たらなかった。

 やがて、それを裏付けるように、お疲れさまでしたの声があちこちから上がっていく。会議室内の密度はどんどん薄れていき、平和な閉会へと向かっていく。

 なのに、終わりを迎えられていない会議がある。不安要素や問題が今も山積みで、欠陥だらけの主題が残っている。

 だから、つい、どうしたものかと呆けたままでいたら。

「いろはさーん、お疲れさまですー!」

 改めてとばかりに、人懐っこさ全開の笑顔を浮かべながら小町ちゃんが駆け寄ってきた。今すぐ義姉になりたい。や、法律上でならもう実現できるけどさ……。

「小町ちゃんもお疲れさまー!」

 拒む理由もないので、わたしは義妹(予定)を受け入れる。

 そのまま仲睦まじい姉妹みたいな図を繰り広げていると、収まりの悪そうな顔でこちらを眺めている川崎くんと視線がぶつかった。どうやら続くタイミングを逃したらしい。

 ……ははーん?

「川崎くんもお疲れさまっ」

「あ、会長さん、お疲れさまっす!」

 小町ちゃんを迂回するように挨拶を投げかけてみたが、返ってきたのは動揺も困惑もない普通の反応。ふむ……なるほどなるほど。

「大志君もお疲れー」

「比企谷さんもお疲れ!」

 次いで挨拶を重ね合う小町ちゃんと川崎くん。しかし、二人とも、わたしに対する時とは明らかな温度差があって。……ははぁ、なるほどなるほど! 把握しました!

 わたしが作る人物相関図は精度の高さに定評がある。また、それを自負もしている。……欠点は統計学的に信頼できない数しかサンプルがなかったことだろうか。だめじゃん。

 とはいえ、今まで大きく外れたことはないから、結構な正確性はあるはず。……例外が一人だけいたけど。

 にやぁと嫌な笑み、もとい悪い子の部分が出そうになるのを我慢しつつ、持ち越しとなっていた疑問を口にする。

「あっ、そうそう、気になってたんだけどさ。二人って……」

「やだなーいろはさん。大志君はただのオトモダチですよ」

 直後、小町ちゃんが言及の先を潰してきた。無慈悲なまでにばっさりだった。

 うわぁとたまらず川崎くんの顔色をうかがってみると、当人はこのいたたまれなさにも慣れてしまっているのか、諦念気味な吐息を一つ吐いただけ。……ここまでくるとさすがに充分同情できるレベル。まぁ、小町ちゃんがそうする理由も川崎くんがそうなる理由も、わたしにはわかるけど。

 乙女特有の思考回路。自身も経験したことのある立ち位置。双方にシンパシーを抱くと同時に板挟みにもあいながら、なんとか繕いの言葉を紡ぎ出そうと試みる。

「……と、とりあえずここ、出よっか?」

 だが、口から出てきてくれたのは、強引な話題の換気でしかなかった。……てへぺろっ!

 

  *  *  *

 

 オレンジ色のキャンバスに、ところどころ青い絵の具で線を引いたような空。そこへ浮かぶ雲を切り裂くように飛行機が彼方へと消えていく。

 人の手で作られた鳥の行き着く先なんて最初から決まっているけど、ゴールの見えない今は、それが少しだけ羨ましく思えた。

「いろはさん?」

「どうしたんすか?」

 玄関口と校門を繋ぐ階段部分で不意に立ち止まると、小町ちゃんも川崎くんも足を止める。

「あ、ううん……空、綺麗だなーって」

「……確かに綺麗っすね」

「ねー……」

「はふぅ……これぞまさに女心と秋の空……」

「それっぽく言ってるところ悪いんだけど、全然意味が違うよ、小町ちゃん……」

 しがない話の種に様々な方向から水をやりつつ、三人固まって歩き出す。

 ……んー、わたしが後輩に挟まれてるとかめっちゃ違和感。年下はわたし一人だけ、もしくは年上とのサンドイッチってパターンばっかりだったからなぁ。まぁ、いずれ気にならなくなるんだろうけど。

 一時的なちぐはぐさと目新しさが同居する気分の中、小町ちゃんが突然あっと思い出したような声を上げた。

「ところで大志君はなんで急に委員長やろうと思ったのさ。小町、素でびっくりしちゃったよ」

「あ、それ、わたしも気になってた」

 すかさず話に飛び乗って関心の矢印を二人分に増やすと、頭の後ろに手を添え、どこか気恥ずかしそうに視線を落とす川崎くん。

「……姉ちゃんのためっす」

「え、お姉ちゃんのため……?」

「そっす……あ、俺の姉ちゃん、比企谷先輩と同じ学年で川崎沙希っていうんすけど。何回か生徒会のイベントに参加したって言ってたから、会長さんも知ってるっすよね?」

「………………い、一応は」

「なんすかその微妙な間……」

 だって、今の今になってやっと関係の把握ができたなんて言えるはずないし……。精度の高さに定評のある人物相関図とは一体なんだったのか。

「……まぁそこらへんは聞かないでおくっす」

 答えあぐねていると、不自然に空いた間のせいでシリアスな方向へ解釈が飛んだらしく、訳知り顔で川崎くんが一つ首肯した。

 それっぽく納得してるところ悪いんだけど、わたしがガバガバすぎただけなんだよなぁ……。

「で、話の続きなんすけど……うちの場合は両親共働きなんで、親の代わりに姉ちゃんがいろいろしてくれるんすよ」

「沙希さん、ああ見えてすごくしっかりしてるからねー。しかも結構な世話焼き」

「あー……」

 やたら家庭的というか所帯じみてたのは全部それが理由か。でも、確かに、面倒を見るのは嫌いじゃないみたいな雰囲気は出てたなぁ。あーもーと困ってる感じで言いつつも、妹さんっぽい子の口元を嬉しそうに拭いてあげてたり……とか……。

「……はう」

「あの、このタイミングで会長さんが恥ずかしがる理由、全然わかんないんすけど……」

「いろはさんがこうなる時ってだいたい理由決まってるから大丈夫だよ。気にしないであげて」

「そ、そうっすか……」

 別のワンシーンが連鎖的に蘇ったせいで羞恥心の大炎上を起こしていると、はいはい消火消火とばかりに淡白な言葉が小町ちゃんから放られてしまった。悔しいけど反論できない!

「……わ、わたしのことはいいから! ほら、続き!」

「はぁ、じゃあ……」

 未だ戸惑いの色が残っているも、促された川崎くんは本題を再開させる。

「……で、俺も昔から姉ちゃんには世話になりっぱなしなんす。去年も学費のことですげぇ迷惑かけちまって……でも、今度は姉ちゃんが受験じゃないっすか」

 川崎家の事情は詳しく知らない。けど、言葉の末端部には理解と共感を示せた。また、端々に隠れている遠慮や配慮も痛いほどよくわかってしまう。

 そして、次の瞬間、ふと記憶が巻き戻っていくような錯覚。

 あれ、この展開って……?

「ただでさえ……あ、俺の下にもまだ弟と妹が二人いるんすけど、姉ちゃん、自分の勉強するのも二人の面倒見ながらなんすよね」

 ――ああ。

 わたしが昔、通ってきた道と。

 現在、川崎くんが通ろうとしている道は。

「だから、せめて俺の分くらいは負担を減らせねぇかなって、考えて……」

 恐ろしくなっちゃうくらい、よく似ていて。けど、ちょっとだけ道の作りは違っていて。

 それでも、ぴったりと重なってしまいそうなくらいに、近くて。

「まぁ……」

 こんな方法しか思いつかなかったっすけど。

 最後に一言、そう付け足しながら。

「自分のことくらい自分でなんとかできるってわかれば、姉ちゃんも安心できると思うから」

 川崎くんは、長い独白をそう締めくくった。

 

 

 

 

 




ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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だから、一色いろはは約束する。―は―

  *  *  *

 

 時間の進行に伴い、校内の様子も本格的に文化祭モードへと切り替わった。

 すれ違う生徒たちの手には、書類や道具、買い物袋。耳に届く楽しげな雑談の裏には、釘を打つ音やノコギリの切断音。

 お祭りだ。自然と心はそう叫ぶ。

 しかし、花火大会の時と違って、今回は頭の中がお祭り気分でいられなかった。そういう気分になれなかった。なってくれなかった。

 これまでにあった当たり前がふとなくなった時、人は寂しいと感じてしまう……か。以前、平塚先生と一緒に見た夢跡のような風景を思い返す。

 その結果、ただでさえメランコリックな足取りが余計に重さを増した。

 リノリウムの床を叩く自分の足音も、どこか泣きを帯びているように聞こえる。

 けど、こんな場所で立ち止まっているわけにはいかない。明確な目的と意思の両方を持って臨む後輩がいるのを知ってしまったのだから、なおさら。

 ネガティブな感情を諦めの悪さでぐっと押し返し、わたしは会議室の扉を開いた。

 

 そうして迎えた定刻どおりの午後四時。定例ミーティングに今日も欠席者なし。

 会議室全体を見渡すようにしながら、川崎くんが号令をかける。

「では、定例ミーティングを始めるっ……ます」

「よろしくお願いします」

 日を置いたせいか、川崎くんの表情にはちょっとだけ硬さが戻ってしまっていた。だが、嘲笑や苦笑、誹り罵りといったものは起こらない。

 初々しさの戻った顔色も、はっと思い出したような語尾修正も、どうやら川崎くんの個性や属性として肯定的に認識された模様。そりゃまぁ敬語も態度も適当で中身空っぽそうなやつが生徒会長やってるくらいだもんね! みんないまさら気にしないよね! ……はー、つらたん。

 わたしが非生産的な自虐をしている間に、会議の主題は各部署ごとの進捗報告へ移る。

「じゃあ、宣伝広報から順に……」

 指定された担当部長の人がはいと返事をし、のそっと席を立つ。

「掲示予定の半分は終わりました。で、ポスター制作のほうもだいたい同じくらいの進行度です」

「は? いくらなんでも遅すぎませんか?」

 おっといけない、ついつい素の声が。

 ただのオブジェと化していた生徒会長が突然のカットイン。困惑と驚愕が場の空気を支配し、温度の下がったような静寂が強調されていく。

 このままわたしが仕切り続けても議事進行的には何の問題もないが、そうした場合、川崎くんがお飾りの委員長になってしまう。つまり、多少強引にでも軌道修正しなくちゃいけない。

 ……というわけで。

「ほら、委員長。仕事仕事」

「そこで俺に振るんすか!?」

 首突っ込んでおいてと言いたげな顔に対し、わたしはあえて他人事にしたまま、んふーと無言のスマイルでその抗議を受け流す。

 すると、川崎くんは気抜けしつつも、奪われては雑に投げ返された自分の仕事を引き継ぐ。

「……実際、今のペースじゃやばいってのは確かっすよね。何か問題でも起きたら一発でアウトな状況だっつーことくらいは俺にもわかるんで」

「はい……なるべく前倒しできるように急ぎます……」

 なるべくじゃ困るんだよなぁ……。

 そんなどこかのお偉いさんじみた追撃は喉の奥へ引っ込め、ひとまず静観者に戻っておく。

「じゃあ次は、有志統制、お願いします」

「……あ、は、はい。ええと、現在参加予定となっている有志団体は……」

 という調子で、受け答えする側のほとんどがしどろもどろになりながら。

 以降も、定例ミーティングは続いていく。

 

 ……さて、どうしてくれようか。あ、違うどうしたものか。

 各部署ごとの報告事項もひととおり済んだところで、わたしはうーんと頭を捻る。

 後は問題点の洗い出しと対策、スケジュールの修正と共有。今日はそこまでのはずだった。

 しかし、困ったことに。今後に支障をきたすレベルで大幅な遅れを生じさせている部署が出てきている。おまけに、そういった問題の部署は一つや二つじゃない。

 先行きがどんどん怪しくなっていく。悠長に構えていられなくなっていく。

 積み上げた予定と過程の防壁を現実が飛び越えてくる。理想を理不尽に裏切ってくる。

 けど、ここで先を諦めてしまったら。未来のためよりも、今の楽を選んでしまったら。

 また、何もしなかったせいで、もう一人の未来までも潰してしまったら。

 きっと、わたしは死ぬほど後悔する。

 だから、結果的には無駄な空回りとなってしまっても。

 他の人からすれば、不可解な言動に捉えられてしまったとしても。

 今の自分にできることが、それしかないのなら。

 今は見つけられなくても、そうすることで、やっと見つけられるものがあるとしたなら。

 精一杯、わたしはやってみよう。

 ――正しくなくて、正しい嫌われ者を。

 

  *  *  *

 

 時計の短針と並走するように、議事も一巡りした頃。

 温度もすっかり三方向へ分かれてしまった雰囲気は、解散という委員長の号令により、ようやく平穏を取り戻す。

 はたして、道化じみたわたしの姿はみんなにどう映っただろう。

 生徒会長という権力を振りかざし、水を差すだけ差し、場を乱すだけ乱す迷惑な奴。そんな印象の更新が起きたかもしれない。最悪、もっとマイナスのイメージで塗り替えられた可能性もある。

 でも、何かを成し遂げるためには、それが必要不可欠だから。

 差し込んでくる陽の光に照らされつつ、儀式的な労いの言葉や遠ざかっていく足音を、わたしは無言で見送った。

 かちこちと時計の音のみが響く会議室内は、幕引きの悪さを強く物語る。

「……いろはさーん」

「勘弁してほしいっす……」

「会長……いくらなんでも……」

「さすがに、うん……」

「……口を挟みすぎだと思う」

 小町ちゃん、川崎くん、生徒会メンバー。わたしを気遣い残ってくれた全員が、折を見て、揃えた視線と言葉を一斉に向けてきた。どうやら暴走と判断されたらしい。

「だって、嫌じゃないですか。なぁなぁで進めて、また前みたいな思いするの」

 しかし、後付けた一言を聞いた途端、生徒会の面々は複雑そうな表現で苦言を飲み込む。責めることも庇うこともできず、ただただ、歯がみするように。理由を知らない二人だけがその光景に首を傾げていた。

 遅延を生じさせる原因なんて、何事においてもある程度決まっている。加えて、アクシデントやハプニングが起こったという報告はどの部署からも聞いていない。つまり、どうしようもない、どうにもならないものが原因で進行が滞ったわけじゃないのだろう。

 となれば、残る可能性は二つ。効率を度外視したか、精神的な問題かだ。

 もちろん断定はできないし、これも推測でしかない。けど、今は特に仕事のない記録雑務を除いた全員が終始、言われて仕方なくという正反対の気概を背負っていたわけで。

「……みなさまに一体何があったのかはわかりませんが、とにかく、なんとかしなくちゃですね」

 再び下り始めた重苦しい帳を裂いたのは、件の例外、記録雑務の担当部長による一定の理解を示したため息。

 すると、似たような感情が込められた吐息を重ねた人物がもう一人。

「まぁ……なぁなぁで進めたくないってのは、俺たちも同じだけど。……それに、会長がむちゃくちゃなのも今に始まったことじゃないし」

「なんですかその誤解されそうな言い方……」

「だって事実じゃないか……突然生徒会を休みにしたかと思ったら、今度は思いつきで仕事命じてきたり……」

「それはまぁそうなんですけど」

「そこはあっさり認めちゃうんだ……」

 被害者直々の切り返しにわたしが開き直れば、書記ちゃんたちの呆れ笑いが連なって。そんな生徒会の日常が、ほんのちょっぴり、収まりの悪い空気を弛緩させた。

 といっても、所詮は一時的な空気のほぐれ。逸れた話題の焦点もすぐに引き戻されてしまう。

「……あの、それで結局俺たちはどうしたらいいっすかね?」

「ん? 何もしなくて大丈夫だよ?」

「それだと会長さん、みんなに誤解されたままだと思うんすけど……」

「だから、それでいいの」

「……どういうことっすか?」

「わかんない?」

 にっこり笑顔でくりんと首を捻り、どやっと質問に質問を返す。ふっふーん、どうですかこの先輩力! もちろん悪い意味で!

 そんなふうに、物事をわかっている先輩っぽく振る舞ってみたものの。

「……全然わかんないっす」

「はぁ、もう……兄といい、いろはさんといい、どうしてこう……」

 川崎くんには本気で頭を抱えられ、小町ちゃんにはなぜかマジなトーンで呆れられ。

「本当に何か考えがあるのか、単に誤魔化しただけか……沙和子ちゃんたちはどっちだと思う?」

「今のは別に誤魔化したとかそういうわけじゃなさそうだけど……でも、いろはちゃんだし……」

「会長の場合、前科もありますしね……判断に悩みます……」

「さすがにひどくないですか!?」

 生徒会メンバーに至ってはガチの審議を始め出すとかいうこの仕打ち。散々である。ていうか副会長たち疑いすぎでしょ……。

「なんか思ってた反応と違いすぎて超納得いかないですけど、まぁいいです……。とにかくっ」

 不平不満をもっと叩きつけておきたいが、ぐっとこらえ、こほんと仕切り直すことにして。

「何も考えてないのにあんな口出しの仕方するわけないじゃないですか。このままでいいってのもちゃんと理由があります。わたしもそこまでアホじゃないです」

「……本当に?」

「や、そこは素直に信じてくださいよ……」

 どんだけ信用されてないんだ……。

 尊敬も尊崇も信頼も信任もまるで感じられない有様に一人打ちひしがれていると。

「……会長さんがそこまでして文化祭を成功させたいのって、一体何のためにっすか?」

 不意に、そんな質問が飛んできた。

 声の主である川崎くんは、どこまでもまっすぐな眼差しで。けど、緊張とはまた別の険しさを滲ませた表情で、じっとわたしを見据えている。

「んー……」

 聞かれたのがそっちでよかったと安堵しつつも、なんて説明したものかと悩む。

 別に答えられないわけじゃない。ただ、今は胸の内を明かしたくない。今は、口にした瞬間にわたしの中から一気に重みを失ってしまう気がして。

 でも、そのさらに奥、心の根っこに生まれたものは。

 どれだけ大義名分を並べ立てても、変わらない。

 どれだけ万人向けに飾り立てても、変わっていない。

 だから、わたしは。

 嘘にならない範囲で、妙に納得のいく一言を。

「そんなの……もちろん、わたしのためだよ!」

 いつもどおりのわたしらしく、ひけらかすような笑顔で宣言するのだった。

 

  *  *  *

 

 特に方針を変更することもなく、とりあえずはみんなの出方をうかがってみよう、ということで話のまとまった延長戦。フォローの対象が一人どころじゃなくなってしまったが、そちらは大した問題でもない。……や、それはそれでだいぶ問題あるかもだけどさ。

 とにかく、後はみんなのバイタリティ次第だ。素直に受け止めてくれるか、強制性を感じることなく受け入れてくれるか、本音を閉ざし耳も心も塞ぐか、言葉に窮して本能から反発するか。こればかりは蓋を開けてみないとわからない。

 期待と危惧が入り乱れた心境での帰り道。わたしの隣には小町ちゃん。

 でも、昨日みたいに和気あいあいとしたムードは一切なくて。たまたま帰る方向が一緒というだけのような、そんな距離感。今ここに川崎くんがいたとしても、たぶん、この微妙も微妙な空気は変わらない。

「それにしても、お姉さんの代わりに妹ちゃんのお迎えかー。川崎くん、頑張るなぁ……」

「ですねー」

 話の種としてもちょうどよかったのでそのまま振ってみたものの、小町ちゃんは起伏のない相槌を打っただけ。

「……もしかしなくても、怒ってる?」

「いえ、別にあのくらいじゃ怒りませんよ。小町が何年アレの妹やってきたと思ってんですか」

 ぐうの音もでない正論だった。やっぱり怒ってるようにしか見えない……。

 ええとあのそのと気まずそうに視線を回すわたしを見て、小町ちゃんは観念したようなため息を一つ挟んだ後、冷たさの裏側をぽつりとこぼす。

「……ただ、そんなところまで影響されなくていいのにとは思ってます」

「へ……? そんなところって……」

 誰の、という部分は瞬時に理解できたが、もう片方はいまいちぴんとこない。そこだけが思い至れないのは、わたしの知らないところに発端があるからだろうか。

 頭に疑問符を浮かべたままでいると、小町ちゃんがじとりとした眼差しを向けてくる。

「もちろん、めんどくさくて馬鹿なところに決まってるじゃないですか」

「んなっ……」

 前者については否定しないけど、後者については異を唱えたい。

 しかし、小町ちゃんの追撃がわたしの反撃を遮る。

「……まぁ、いろはさんは彼女さんですし、似てくるのはしょうがないかなぁって思う部分もあるにはあるんですけどね」

「小町ちゃん……」

「でも、それだけで済ませられるのは、小町がお兄ちゃんの妹だからなんだろうなぁ……」

 引いているような表情から一転、寂しげな微笑と共に小町ちゃんが目を閉じた。

 視点が変わることで見え方も変わってくるのなら、その人の視点でしか見えてこないもの、その人にしか見えないものだったりが必ずある。

 わたしは一年にも満たない時間。あの人たちは一年と約半年。小町ちゃんはその何倍、何十倍もの長い時間を、あの人と一緒に過ごしてきたからこそ。

 定例ミーティングの延長戦。そこに参加していたメンバーの中で唯一、今年の文実には無関係なあの人のことを口にしていたのだって、きっとそう。

 だから、きっと。

 小町ちゃんなら、小町ちゃんにならと。

 そんな都合のいい理解を願いながら。

 一方的で身勝手な信頼を押しつけながら。

「ねぇ、小町ちゃん。……ちょっと長めの独り言、聞いてもらっても、いい?」

「……小町でよければ、ぜひ」

「ありがと」

 そうして今、わたしは胸中を紡いでいく。今は、伝えるための言葉にしていく。

 衝動的で突拍子もないのはいつものことだし、今回に限っては、巻き込んだ規模が内輪の話で片づけられる大きさじゃないのも重々承知の上。

 けど、もう、あと半年もないんだ。

 だから、今やるしかないんだ。

 今始めなかったら、もう間に合わなくなってしまう。

 だから、たとえ、うまくいかなくても。

 このまま失敗して、否定されて、笑われて、責められることになってしまっても――。

 

  *  *  *

 

 小町ちゃん、わたしね……今の、この学校がすごく好きなんだ。

 せんぱい、雪乃先輩、結衣先輩がいて。

 小町ちゃん、はるさん、平塚先生がいて。

 葉山先輩に三浦先輩、ついでにまぁ……戸部先輩も。

 あとは城廻先輩に、今の生徒会メンバー。最近だと川崎くんもだね。

 こんなふうに、ここでたくさんの人と出会ってさ。で、あれこれ話すようになってさ。

 最初はあんなにつまんなかったのに……気づいたら、すごく好きになってた。

 大切なことも、いっぱい……その人たちに、教えてもらった。

 ……なのに。

 わたし、その人たちにまだ何も返せてないの。

 いつもいつも、わたしがもらってばっかりで……何も、返せてないの。

 みんなは、そんなことないって言ってくれるかもしれない。

 でも、それで納得しちゃうのは、わたし的にやっぱりなんか違くて……。

 けど、わたしにできることなんて、みんなと比べたら限られてて……。

 だから、せめて……。

 みんなが……大切な人たちが、この学校にいるうちに……卒業していっちゃう前に……。

 素敵な思い出の一つくらい、作ってあげられないかなって。そう思ったの。

 まぁ、そんなサプライズ的な感じで……わたし、やってみたいんだ。

 どんなに難しくても、大失敗しちゃうとしても、頑張りたい。

 苦しくて、つらくて、何が何だかわかんなくなっちゃっても、諦めずに最後まで……。

 だから、わたしがひとりでやろうとしてるってこと、今は内緒にしてて。

 後でいくらでも怒られるから、今は……めんどくさくてバカなわたしのこと、見守ってて。 

 

 ――ありがと、小町ちゃん。

 

 

 

 

 




お久しぶりだったな(小声

文化祭編はまだまだ続くます。
あと、この話が今年最後の投稿になりますので、併せてご挨拶をば。

更新ペース遅いわ間隔空くわで本当、申し訳ありませんでした。
にもかかわらず、ずっと更新されるのを待っていてくれた方、本当にありがとうございます。
こんなわたしですが、来年もお付き合いくださると泣いて喜びます。
そして、来年は更新速度を上げれるよう頑張ります。

ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!
みなさま、よいお年を!


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だから、一色いろはは約束する。―Interlude―

  *  *  *

 

 誰かに嫌われるのなんて、そんなの、わたしにとっては当たり前のこと。

 いつも陰口を叩かれていた。数人がかりで悪口を言われたことだってある。

 おかげで、嫌われることには慣れた。というより、慣れちゃったといったほうが正しいかもしれない。そんな毎日ばっかりだったから。

 

 最初の頃は、その誰かに嫌われることが、どうしようもなく嫌だった。

 たくさん落ち込んだし、いっぱい傷ついた。悲しくて、苦しくて、つらかった。

 でも、わたしがいくら泣いたって、誰もわたしをみんなという輪の中に入れようとはしてくれなかった。

 だから、みんなの中の一人になることを、わたしは途中で諦めた。諦めるしかなかった。

 けど、やっぱり、何も変わらなかった。

 何一つとして、変わってくれなかった。

 そしたら、気づいたんだ。

 わたしがこの顔でいる限り、この先も、ずっと同じなんだなって。 

 それを一度でも恨んだことはないといったら嘘にはなる。けど、恨むよりも最大限の武器として使うことをわたしは選んだ。

 だって、そのほうがいろいろと都合もよかったから。

 

 わたしにとっては、誰かにちやほやされることも当たり前だった。

 そのたびに、わたしを嫌っているほうからは何度も陰口を叩かれ、何度も悪口を言われ、何度も貶めるための噂を流されて。

 なのに、わたしの味方であるはずの誰かは、いつも口先や見せかけばかりで、実際にわたしを守ろうとはしてくれない。

 けど、それは仕方のないことだった。

 本気でわたしを守ろうとしてしまえば、自分も輪の外に追い出されてしまうから。

 誰だって、自分が一番可愛い。

 どれだけ相手を信じていても、それを晒すことは、なによりも怖い。

 ましてや、それが信じてもいない相手になら。

 たとえ心の中のわたしが全部バレていても、晒すのなんて、絶対に無理なこと。

 だから、言い訳ばかりしていた。誰だってそうすると正当化していた。求められているからを免罪符にしていた。二つの当たり前として割り切っていくしかなかった。

 それは、きっと、これからも。

 これからも、ずっと。

 

 そうやって、わたしは生きていくんだ。

 

 でも、ほんとはわかってた。

 そんなことしてたって、いつか寂しくなるだけだって。いつか虚しくなるだけだって。

 でも、やめられなかったんだ。

 そんなことしてる間だけは、誤魔化せていたから。見て見ないふりができたから。

 

 そうやって、わたしは『一色いろは』を肯定し続けていくんだ。

 

 でも、ほんとはわかってた。

 そんなことしてたって、事実は変わらないって。人気者の皮を被った嫌われ者のままだって。

 でも、やめられなかったんだ。

 そんなことしてる間だけは、否定できたから。真実を受け止めなくて済んだから。

 

 ほんと、バカみたい。

 わかっているのに繰り返してばかりいる。終わらせることができないでいる。逃げ続けてばかりいる。抜け出せないでいる。

 

 だから、そこが羨ましかった。

 でも、仕方なかった。

 それでも、そこにいられるのが、わたしにはどうしようもなく羨ましかった。

 

 そこは、あまりにも遠くて、あまりにも眩しい。

 めいっぱい手を伸ばしたところで、指先すらも届かない。

 だから、この先も、わたしがあの場所に立つことはないんだろうなって。

 きっと、わたしじゃ、主役にはなれないんだろうなって。

  

 絶えることのない歓声を浴びるあちら側に、ただ、悲鳴にも似た声を送りながら。

 煌びやかなスポットライトに照らされる向こう側に、ただ、目を細めながら。

 それぞれが強い主張をしている音の波に、ただ、悔しさを感じながら。

 飛び跳ねるアリーナに、ただ、混じりながら。

 

 熱気と輝きの中心であるステージの上とは、全然違うところで。

 主役を引き立てるための、その他大勢の中で。

 

 ――わたしは、そんなことを考えていたんだ。

 

 

 

 

 




明けましておめでとうございます。
そして、本年もよろしくお願いします。

幕間のお話なので、凄まじく短かったと思います。ごめんなさい。
一旦ここで切ったほうが綺麗だなって思ったんです。あと、こういう流れ一回はやってみたかったんです。だから許して。

ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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だから、一色いろはは約束する。―に―

  *  *  *

 

 ずいぶん懐かしいことを思い返してしまった。といっても、懐かしく感じられるってだけで、実際にはまだあの時から一年も経っていないけど。

 そんな回想に浸るきっかけとなったのは、自分のクラス、そこでの出来事。

 わたしは文実での仕事があるため、劇のほうには参加できない。なので、缶詰め状態になる前にせめて顔を出しておくくらいはとドアに手をかけた時だった。

 

 ――いつまでもここにいて、いつまでも楽しい時間を。それでいいじゃないか。

 ――ダメよ、そんなの。いつまでもここにいたら、いつまでも大人になれないもの。

 

 もし、耳に届いてきたセリフが、なんてことないシーンのものだったなら。きっとわたしは、何のためらいなくこの扉を開いていただろう。

 けど、そうじゃなかったからこそ。わたしは今も目を閉じたまま、中に入ることもできず、ドア脇の壁に寄りかかりながら。

 クラスのみんなが練習している様子を、サウンドオンリーの劇を、一人静かに輪の外で観賞し続けていた。

「ねぇ、ピーター。わたしたちはロンドンへ帰っていいかしら?」

「……好きにすればいいさ。だが、言っておく。大人になってしまったらここへは戻ってこれないんだからな。いいか、二度とだ。絶対にだ」

 大人になったら……か。確かにそのとおりかもしれない。

 永遠に続く楽園も、夢の国も。

 綺麗事に理想論も、絵空事に夢物語も。

 全部、大人に近づけば近づくほど肯定しづらくなっていく。大人ならではの知識や理性が童心に邪魔をして、現実的じゃないものは認めづらくなっていく。そうやって、大抵の子供はおとぎ話を卒業していく。

 じゃあ、いつまでもを信じ続けるわたしは……ピーター側?

 けど、ウェンディの言いたいこともわかるしなー……。

 なんて感じで自己投影したり共感したりしながら物語にのめり込んでいると、制服のポケットに入れていた携帯がぶるると震え出す。おそらく、なかなか戻ってこないわたしにしびれを切らした副会長か、不思議に思った書記ちゃんのどちらかが電話をかけてきたのだろう。

 コールが教えてくれたとおり、休憩に入ってから結構な時間が経ってしまっている。その間に何かトラブってしまった可能性も否定できない。劇の続きは気になるが、そろそろ戻らなきゃだ。

 電話を取る代わりに、壁に預けていた身体をよいしょと起こす。

 そうして、再び歩き出した直後。

「……どうせすぐ戻ってくるさ」

 大人になれない少年の、物悲しげなセリフが追いかけてきて。

 思わず立ち止まりそうになった。振り向いてしまいそうになった。だって、今のわたしには、そう言いたくもなるピーターの気持ちがわからなくもないから。

 どれだけ寂しくても、認めたくなくても、飲み込めなくても、さよならをしなきゃいけない時は必ずやってくる。ましてや、『みんな』と永遠に続く楽園なんて現実の世界には存在しない。

 でも。

 だからこそ、そんな『いつまでも』を、わたしは『ずっと』夢見ていたいんだ。そんなものなんてと切り捨て、諦め、手放してしまえる大人にはなりたくないんだ。

 ピーターのセリフには、達観と執着の二つを共存させた独白を。

 セリフから続く無音の場面転換には、今戻るべき場所へ戻っていく自分の足音を。

 わたしは、それぞれ、返しながら。

 

  *  *  *

 

 階段を下りてすぐの空中廊下を進んでいくと、男子が数人、会議室の前に寄り集まっていた。

 ひそひそ声で話しているため会話内容まではわからない。ただ、トラブルを面白がって覗き見している野次馬というよりは、高嶺の花を遠巻きに眺めているような。そんな印象だ。

 とはいえ、彼らが陣取っているのは会議室への入り口、扉の前。そこにそのまま居続けられても邪魔なだけである。

 なので、表面上は申し訳なさそうに。けど、何を言いたいのかは伝わる困り笑顔で、わたしは彼らに声をかける。

「あのー……」

「……っ、か、会長!?」

 そしたら、マジのガチで驚かれた上、恐ろしい速さで道を開けられた。わたしは腫れ物か何かですか、まったく失礼な。……まぁ、昨日の今日じゃ、この扱いは仕方ないかもだけど。

 ぷんすかしつつも、納得はしつつ。人の捌けた先にある扉をがららと開く。

「戻りまし……」

「あ、いろはちゃん、おっそーい」

「……は? いや、なんでいるんですか」

 中央に立っていた人物の姿に、ついつい、フィルターもストッパーも介していない声が抜け出てしまった。

 ほんとマジでなんでいるの……ていうかしばらく来れないんじゃなかったの……。

「なんでって、そんなの決まってるじゃない。これを取りに来たのよ」

 動揺するわたしとは対照的な、平然とした様子で。手にしていた書類らしきものを何枚か、こちらへ差し出すようにひらひらと踊らせる陽乃さん。

 はぁと微妙な返事をしながらもそれを確認してみると、ひとまずの理解と納得に至る。

「あー、なるほど、有志団体の……え、じゃあなんであの時電話でしばらく来れないなんて言ったんですか」

「わたしはそんなこと一言も言ってないよ。勉強見てあげられなくなるとは言ったけど」

 …………確かに。

 や、確かにそうだけど……そうなんだけど……!

「その超ふてくされてる感じ……。いやー、期待どおりの反応でお姉さん嬉しいなー」

「またそうやってわたしで遊ぶ……」

 せめてもの反撃に目を細めむーっと睨んでみたものの、ムカつくくらいにとっても素敵な笑顔を返されただけで安定の効果なし。うん、知ってた。

「……まぁいいです。それよりはるさん、今日はしばらくここにいる感じですか?」

「うん、そのつもり」

「そうですか……」 

 寂しさが埋まったことによる安心からくるものなのか、嵐の前の静けさに対する不安からくるものなのか。自分でも判別のつかない吐息が思わず漏れた。

 すると、そんな感情の排気を聞いていた陽乃さんは、にやりと意味深に口元を歪めた後。

 わたしの耳元に顔を近づけ、こしょっと秘密めかすように囁く。

「大丈夫よ、今回は見てるだけで何もしないから」

「……………………はい?」

 そして、耳打ちされた内容は、わたしがまったく予期していない方向からのものだった。

 ……見てるだけで、……何もしない? あのはるさんが?

 これまでの全てを根底から覆すようなノータッチ宣言に思考力を奪われ、わたしはひたすら目ぱちくりの口あんぐり。

 やがて、どれくらい放心しているのかもわからないほど真っ白な頭の中に、ぷにっと頬を突っつかれた感触が差し込む。

 そこでようやく、長いような短いようなフリーズが解けた。

「ちょっ……なっ、何してるんですかー!」

「んー、やっぱりいい反応するねぇ」

 慌ててばたばたっと距離を取るわたしのうろたえぶりに、陽乃さんが心底おかしそうにくすくす笑う。あー、もー、みんなの前なのに……。しかも、しかも乙女の柔肌を……!

 恥ずかしさにほてる顔や心をどうにか冷まそうと視線をあたふたさせているうちに、そんな笑い声も、時間の経過と共にフェードアウトしていく。

 しかし、その声が完全に絶える寸前。仕切り直すように咳払いをして、陽乃さんが話の逸れ目や切れ目といったものを、本題の継ぎ目へと戻す。

「……ま、とにかくそういうわけで、お姉さんのことは気にせず好きにやりなさい」

 わたしをじっと見据える瞳が、言外に語りかけてくる。――そういうの、得意でしょ、と。

「無責任なこと言うなぁ……先生のくせに」

「なんでもかんでも教えてあげるのが指導者ってわけでもないでしょ。だからこそ、時には黙って教え子を見守ることも先生には必要なのであ~る」

 うわ……。

 真面目くさった雰囲気はどこへやら、今度は目を閉じ指を振り振り、おどけた口調で何事か説き始めた陽乃さん。とりあえずその超得意げな感じがめっちゃイラッときたので今後は控えてもらえますかだめですかそうですか。

 わたしは、うさんくさいものを見るような目を向けつつ、はーっと長めの息を吐いた。

 別に苛立ちを逃がしたかったわけじゃない。呆れて思わずってわけでもない。ただ、らしくなさの水面下に見えたものが、頭の中に根拠のないひょっとしてを生んだからってだけで。

 けど……仮にそうだとしても……一体何のために……?

「仲睦まじく談笑しているところ悪いんだが……」

 しかし、終着点を見つけ出す前に制止の声がかかってしまう。副会長だ。

 思量の中断を余儀なくされ、仕方なく、はいはいなんでしょとそちらを向けば。

「会長。……そろそろ仕事をだな」

 呆れいっぱいのため息を添えながら、副会長がちらと瞳を動かす。

 その先にあったものは、生徒会役員用に割り振られたスペースだ。もっと正確にいうなら、机の上にある書類の山だ。

 …………。

「うえー……あれ全部わたしの判子待ちですかマジですか……」

「だからこうなる前に電話したんだ。まぁ、それを言ったところでもう後の祭りだけど……」

 どうしてこんなになるまで放っておいたんだ!

 ……どうしてもなにもないですね、はい。ただの自業自得ですね、はい。

 

  *  *  *

 

 はぐるま、はぐるま、ぐーるぐる。

 社畜のはぐるま、ぐーるぐる。

 ……まぁ、そんな感じで、ブラックなテーマがふと脳内再生されてしまうくらいには忙しいどうもわたしです。もうかれこれ一時間近く、ひたすら書類を捌いては山を崩し、山を減らしては増やされての繰り返しだ。

「会長。次はこれを」

「あ、いろはちゃん、これとこれもお願い」

「……了解ですー。そこ置いといてください」

 いやあのほんとマジで片付けても片付けてもキリないんですけどなんですかこれ回転寿司か何かですかわたしもうお腹いっぱいなんでお会計したいんですけどどこですればいいですか。

 胸の中でうだうだぐだぐだ愚痴りながら、はーっと長い長いため息を吐く。

 連戦も連戦、しかもぶっ通しなので、さすがに疲れてきてはいる。けど、このタイミングでやる気なしのだらだらモードを発動してしまえば余計に片付かなくなるだけだ。さらには仕事のお持ち帰りとかいう全然嬉しくないおまけつき。

 ……大事なプライベートの時間を仕事に奪われてたまるか! 意地でも終わらせてやる! それで、この戦いが終わったら、わたし……や、なんでもないです。

 ついついうっかりと心の口でいけないフラグを立ててしまったけど、そこはまぁ、途中で止めたからギリセーフということにして。

 とりあえず今はと強引に思考の脱線を切り上げ、次の書類へ手を伸ばす。

 ちょうどその時、がららと扉の開く音。

「……先生でしたか」

 てっきり何かしらの申請や報告をしに来た人かと思ったが、平塚先生だった。

「ん? 誰かを待っているのかね?」

「あ、いえ、そういうわけでは……」

「新しく仕事を増やされずに済んでほっとしたってだけでしょ。ね、いろはちゃん」

「……またそうやって余計なことを」

 なんでこういう時だけ反応するんだ……今の今までほんとに見てるだけだったのに……。

 ちくり刺すようにむっと睨めば、返ってくるのもくすくす笑い。そんなわたしたちのやりとりは相変わらず、いつもどおりで。また、そのいつもどおりは相変わらず、どこか子供じみていて。

 そんなわたしたちのやりとりに、平塚先生は苦笑にも似た微笑を浮かべつつ。現教え子に向けていた会話の矢印を、今度は元教え子へと向ける。

「こんな時間まで付き合ってるとは珍しいな、陽乃」

「そう? 去年もこんな感じでちょくちょく一緒に残ってたと思うけど」

「だからこそ珍しいと思ったのだよ。去年と今年ではいろいろと勝手が違うだろう。……少なくとも君にとっては、な」

「ん……まぁ、ね。本当にいろいろと違うよ。あの子たちやめぐりはいないけど、可愛い教え子がいるところとか、特に」

「……まぁいい。今はそういうことにしておいてやろう」

「嫌な言い方するなー、もう」

 どこか既視感のある会話に、またしてもわたしは手を止めてしまっていた。

 けど、そんな言葉の交わし合いが続いたのは、ほんの短い間だけ。

「……いやぁ、それにしても、時間の流れとは本当に早いものだなぁ。私にはまだ去年の文化祭が最近の出来事であるかのように感じるよ」

「静ちゃん、そう感じるのはわりとやばいラインだよ? 大丈夫?」

「うぐっ……だ、大丈夫だ。私はまだ若い……私はまだ若手のはずだから……」

「ありゃ、思ったより深刻」

 だからわたしも、二人の他愛ない話をBGMに仕事を再開する。……あと誰か手遅れになる前に早くもらってあげてください、ほんとに。

 そうして、ぺらり、ぺらりと。一枚、また一枚、おまけでもう一枚と。

 押印済みの書類を、わたしは順調に増やしていく。

 かたかたキーボードを打っている音、ごそごそ鞄を漁る音、かりかりペンを走らせる音。誰かの笑い声や呆れの声、ひそひそ話す声。……あと、悲しい自虐に怨嗟の声。

 周りの作業音や様々な声が耳を素通りせず入り込んでくる時もあったものの、そちらに気を取られすぎることもなく、引き続き一定のスピードで捌いていく。

 どうやら、思いのほか集中できているらしい。書類が回されてくるペースも落ちてきたし、これならなんとかなりそうだ。

 ……ただ、今日の神様は、どうしてもわたしに意地悪をしたいみたいで。

「ところで一色。今日は席を外したままな者が少し多いようだが……何かあったのかね?」

 世間話の谷間に平塚先生が落としたのは、そんな疑問の種。

 視線はそのままに、わたしはぽつりとこぼすようなトーンで答える。

「……委員長は宣伝広報のフォローで外回り、記録雑務の担当部長は物品管理のヘルプに回ってます。他は単に欠席かと」

 これ以上手を止めたくないから。核心をつくような質問だったから。そんな二つの理由が声を介した結果、自分でも引くくらいに事務的な返答となってしまった。

 あまりにも露骨で、不自然で、淡々としすぎている。見る人が見れば、わたしをよく知る人からすれば、間違いなく違和感を覚えるくらいに。

 なのに、平塚先生は。

「……そうか」

 言及するわけでも追及するわけでもなく、一つ、意味深に頷いただけだった。今はそういうことにしておいてやろうと言いたげな表情で、静かにゆっくりと目をつぶりながら。

 しかし、今はこの場に、些細な引っかかりすらも見過ごしてくれない人がいる。

「あれ? いろはちゃん、委員長じゃないんだ」

 やっぱり……。

「です」

 ……なんだけど。

 やっぱり……では、あるんだけど。そこから先は全然やっぱりじゃなくて。

「そっか」

 なぜか陽乃さんは、わたしがそうしたことを、どこか残念がるように。でも、わたしがそうしたことで、どこかほっとしたように。

 わたし宛てとも独り言とも取れる言葉をそっと漏らした後、優しげにふっと笑いつつも。

「……ま、いいや」

 何かを言いかけてやめるというめっちゃ気になる違うムカつくトークテクニックを頼んでもいないのに披露してくれた。……あー、もー、ほんとめんどくさいなこの人。わたしもそれよくやってたから人のこと言えないけど。

 なので、リアクションは一瞥とため息だけに留めておく。

 だが、一度でも入り込んでしまえば、外に吐き出すか内に飲み下すかをしない限り、引っかかり続けるのが異物というもの。考えても仕方がない、意味がないと、冷静な自分が頭の片隅でちらついていても。

 陽乃さんは言った。自分は何もしないと。

 この人は真実を具体的には語らないけど、真実そのものを騙ることだけはしない人だ。たとえそれが本人にとってどれだけ残酷なものでも、優しい虚実とすることなく、これが現実なのだと容赦なく突きつけることができる人だ。 

 ……けど、同時に。

 語らないし騙らないからこそ、誰よりも嘘つきな人。――それが、はるさんだって。  

 

 少し前に根拠もなく生まれた、ひょっとしても。今、生まれたばかりのもしかしても。

 全部、わたしの推測で、邪推で、経験則で、希望的観測でしかないというのに。

 その帰結は、少なくとも、間違ってはいないだろうと。

 判断したわたしは、最後の書類にぽんと判子を押し、わたしの承認済みとした。

 

  *  *  *

 

「たまには一緒に帰ろっか」

 帰り支度をしていると、そんなお誘いを受けた。

 特に断る理由もなかったので、わたしはオッケーですと二つ返事で頷く。

 そうして、階段を下り、玄関口を通り、通用門を抜け。

 今は、夏の気配がまだ強く残る空の下を二人、不揃いな足並みで歩いていた。

 いつもみたいにじゃれ合うわけでもなく、お互いに口を開くわけでもなく、どこかへ寄り道するわけでもなく。たまたま帰る方向が同じだったから、なんとなく一緒に帰っているというだけのような、そんな歩調。

 無理して話すくらいならいっそ黙ってたほうがいいんだろうけど……その、あれだ。いくら忙しかったとはいえ、ちょっとそっけなくしすぎたかな的な罪悪感があるというか。しかも、ひょっとしたらーとかもしかしたらーとかいろいろ裏読みしちゃったし……。

 なんて感じで、開けては閉じてと何度も唇をあたふたさせていたら。

「いつもどおりでいいのに」

「あ、あー……そう言ってもらえると助かります」

 それが結果的に功を奏したようで。くすっと笑う声に釣られ、わたしも胸を撫で下ろす。

「……ま、そういうところも可愛いから、ついつい意地悪したくなっちゃうんだけどね」

「意地悪っていうか取って食うじゃ……」

「こらこら、人聞きが悪いこと言わないの」

「悪いのは性格もじゃ……」

「もー……生意気なことばっか言うのはこの口かっ」

「ひゃうっ……ごめんにゃしゃひ……」

「よろしい」

 ……代わりに、ほっぺたをぷにーんとつままれてしまったけど。まぁ、今回は悪ノリした報いということで。

 みたいな感じで、気づけば、ずれていた空気はすっかり元通り。後ろめたさに遅れ気味だった歩調も、曲がりくねった道が終わる頃には、いつもどおり。

 けど、その先、駅へと一直線に伸びた道を進んでいた時のこと。

「なんか、懐かしいな」

「へ……? なんですか急に……」

 突然のノスタルジックな呟きには、何の前触れも前置きもなかった。何を見てだとか、何を聞いてだとか、そういう脈絡だってなかった。

 一体何の話だと首を傾げていると、陽乃さんは口元を笑みの形に作りつつ。

「昔はさ、こうやって一緒に帰ってたんだよ。雪乃ちゃんとも隼人とも」

「あー、そういえば葉山先輩と幼馴染みなんでしたっけ」

「そそ。……ま、そうしてたのもちっちゃかった頃だけなんだけどね」

 隼人も、雪乃ちゃんも、わたしも。ふっと一笑しながら細められた瞳に、あるかどうかもわからないそんな結句が浮かんでくる。

 何かを切り捨てることや何かを諦めることはすごく簡単なのに、切り捨ててしまった何かや諦めてしまった何かを再び手に入れることはすごく難しい。

 それは、時間が経てば経つほど。すれ違いや勘違いを重ねれば重ねるほど。

「なんか、大人になるのってすごく虚しいことのように思えてきました……」

「当たり前でしょ、そんなの。大人になるって要はそういうことなんだから」

 覚えておきなさいとばかりに、陽乃さんがわたしのおでこを指で軽く突っつく。

 そして、今度は、どこか意味ありげに空を仰ぐと。

「ただ……だからこそ、そうじゃない大人が一人くらい、周りにいたっていいのかもね」

「そうじゃない大人、って……?」

 流れていく雲を漠然と見つめていた瞳が、ちらと動いて。

「大人になりきれない大人のこと、かな」

「……そういう大人なんて、どこにでもいると思うんですけど」

「それは悪い意味で大人になれない人でしょ」

 今度は茶化すように一笑すると、陽乃さんはやたらと上機嫌な様子で、わたしも聴き覚えがある歌を口ずさみ始めた。ちょっと苦くて、ちょっと刺激的で、ちょっと甘い。そんな歌を。

 やがて、マリンピアも駅前広場も後ろへと過ぎ、改札を抜けた先のコンコースまで来ると。

「いろはちゃん、蘇我方面よね。じゃ、このあたりで」

 陽乃さんは電光掲示板に目をやりながら。どうやら帰り道の電車は別々らしい。

「あ、はい。……また明日? です?」

「うん。また様子見に行くね」

 疑問符だらけのめちゃくちゃな挨拶になってしまったものの。わたしの心情を察したように笑顔で手を振った後、陽乃さんは反対のホームへと続く階段を上っていく。

 ……けど、はるさん、また明日とは言わなかったな。

 

  *  *  *

 

 大人になった誰もが一度は思う。いつ、どこで捨ててしまったかもわからない自身の翼を、何度も求めながら。――ああ、子供の頃に戻りたい、子供に戻れたらと。

 子供の頃に誰もが一度は思う。あの空を自分の好きなように、好きなだけ羽ばたけることを何度も夢見ながら。――ああ、早く大人になりたい、大人になれたらと。

 大人になれない少年は言った。大人になってしまったら、二度と戻ってはこれないのだと。その『いつまでも、ずっと』がすぐに恋しくなるぞと。

 大人になろうとする少女は言った。誰にでも帰らなくてはいけない場所があると。だから、その『いつまでも、ずっと』は捨てていかなければと。

 そして――当たり前のように大人になってしまったあの人は言った。だから、だからこそ、その『いつまでも、ずっと』大人になりきれない大人が、一人くらい、周りにいてもいいと。

 なら。

 大人になれないこと。

 大人になろうとすること。

 大人になってしまうこと。

 大人になりきれないこと。

 それらの違いは、一体なんだろうか。

 

 ただ、一駅という短い区間の中じゃ、その答えは見つかるはずもなかった。

 

 

 

 

 




くっそ遅れてごめんなさいでしたァ!


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だから、一色いろはは約束する。―ほ―

お久しぶりです。一年近くもお待たせしてしまって、ほんとごめんなさい。


  *  *  *

 

 青春は最後のおとぎ話。

 どこかで見たか聞いたかした、そんなフレーズ。

 言われてみれば、確かにそうかもしれない。

 大人と子供の境界線、そこからちょっぴり外れたどっちつかずなところで、わたしたちは恋に部活に一喜一憂。んっと背伸びして大人びてみたりする子供そのものな時もあれば、社会からそれなりの振る舞いを求められて素直に応じたりもする。

 そんな毎日は、ほんとにほんとに、なんだかんだいろいろめんどくさい。けど、そんなめんどくさい毎日が、なんだかんだ楽しくて仕方なくて。今までで一番きらきらしている感じがして。

 それこそ、自分が主役のおとぎ話みたいに。

 まるで、ピーターのいるネバーランドで日々を過ごすように。

 

 ……でも。

 夢は、いつか醒めてしまうもの。必ず、醒めてしまうもの。

 

 だから、子供が大人になりかけた、その時……ガラスの靴もひび割れ、壊れかけてしまう。果てしなく途方もなく伸びた長い長い階段は、あと何段あるのかも、あと何段上れるかもわからないというのに。

 ただ、だからこそ、その時……大人になった時の自分が決まるんだ。

 

 ひび割れたガラスの靴をこれ以上壊してしまわないよう、そこで立ち止まるのか。

 ガラスの靴がひび割れていることに気づきながらも、そこから前に進むのか。

 ひび割れているガラスの靴に気づくこともなく、そのまま歩き続けてしまうのか。

 もう価値がないものとして自らガラスの靴を壊し、そこに放り捨てていくのか。

 

 きっと、そのどれもが正しくて、そのどれもが間違いなのだろう。自分にとっては正しい選択だとしても、他の人からすれば間違いだらけ。そんな価値観や倫理観のズレなんて、どこにでもありふれていて、どこででもよくある話。

 たらればから始まる後悔も未練も、全部ひっくるめてこその青春。どれだけ間違えても、どれだけ失敗しても、まだ間に合う時間。いくらでも取り返しがつく頃。

 それらが全て許されるのは、今、この時だけ。

 まだ子供のままでいられる、今、この時だけ。

 おとぎ話のほとんどがハッピーエンドで終わるのだって、きっと、そういうこと。

 

 ――なんて感じの解釈で一旦そう締めくくりつつ。物思いに耽っているんだか単にぼーっとしているんだかな瞳を頭上に固定したまま、わたしははーっとため息を吐く。

 疲れを感じて思わず出たというわけじゃない。誰かや何かに呆れてうっかり出てしまったというわけでもない。や、後者はわりと当たらずとも遠からずか……。

 ……もう遠くはない。

 なのに。そのはずなのに。

 羨み願い求めた末にようやく近づけたあの場所が、今は、ますます遠ざかってしまったように感じる。路傍の木々や草花がこれでもかと必死に幹や茎を伸ばしたところで、あの高く眩しい空へは絶対に届かない。そんな現実を突きつけられているように。

『きっと、わたしじゃ……』

『やっぱりわたしなんかじゃ……』

 つい先日『未完成で不完全な劇』を観ていたことも相まってか、オレンジがかったスクリーンにふと浮かび上がったのは、『今よりも中途半端で宙ぶらりんだった頃』の、とある場面。

 当時も今と同じで、今と同じようなことを考えていた。

 ただ、前と今で違うのは、甘ったるい助け船がないことと……わたしが泣いていないこと。

 もちろん、泣いてないってだけで、泣きそうになってないわけじゃない。だって、独りはやっぱり寂しいし、心細いし、甘えちゃいたいし、溺れちゃいたいってのも本音だから。

 

 けど……。

 

 頑張るって決めたから。

 破りたくないから。

 諦めたくないから。

 好きだから。大好きだから。

 

 だから、上を向いたまま、下なんか見てやらない。

 立ち止まって振り返ることはあっても、後ろに戻ってなんかやらない。

 絶対。

 

  *  *  *

 

 四階の空中廊下から夕闇グラデーションの空を一人眺め始めて、それなりの時間が経っただろうと思われる頃。

 不意に、ガラス戸の開く音がした。

 ちらりそちらを横目でうかがうと、わたしと目が合うなり、ふっと微苦笑めいた吐息を漏らしつつ腕を組む平塚先生の姿。

「一体どこで何をしているのかと思えば、こんなところにいたか」

「先生。……もしかして何かありました?」

「ああ、いや、様子を見に行ったら電気がついたままだったんでな。まだ残っているんじゃないかと見回りついでに君を探していたんだ。もうじき最終下校時刻だからな」

「あー、それでわざわざ……え、ていうかもうそんな時間ですかマジですか」

 言われてようやく、実際の時間経過は全然それなりどころじゃなかったのだと知る。どうやら自分が思っていたよりもだいぶ長く深く回想劇に浸かってしまっていたらしい。

 やっば……間に合うかなぁ……。

 ここから会議室までは少し距離がある。後片付けや鍵の返却もまだ。こんな有様じゃ駆け足でも厳しい。けど、駆け足ならワンチャンあるかも?

 ……よし。

「すいません、お手数おかけしました。大至急の超特急であれこれ済ませてきます」

 走れ! いろはす! とばかりに駆け出そうとした矢先、肩にぽんと手が置かれる。

「いや、私も一緒に行こう」

「は? なんで?」

 時間的にも余裕がなかったせいでぽろりと素が、しかもタメ口までやらかしてしまった。

 さすがにいくらなんでもな物言いをやらかしたわたしに対し、平塚先生はというと。

「なに、私が一緒ならば他の先生方に見つかっても大した注意は受けまい。そのほうが君にとっても都合がいいだろう? 焦る必要もなくなるしな」

「……重ね重ねすいません、いろいろ、ほんとに……」

 湧き立つありがたさと襲い来る申し訳なさに、視線の高度がすすすと下がる。

 なんだこの人……ぐう聖かよ……。

 

 そんなこんなの流れがあって、行きの上りから一人増えた、下りの戻り道。

 最終下校時刻になるかどうかの際ということで、校内は閑散としている。リバーブをかけたような足音の二重奏は、対岸の廊下にまで聞こえていそう。

 ……あれ?

 本番はこれからのはずなのに、なんか……。なんでだろう……。

 回想劇の名残だろうか。寂れた雰囲気は、わたしにまた別の感傷をもたらした。

 あちこちに見える飾り付けは何もかもがやりかけの未完成で、掲示物はところどころが貼り替え途中の不完全で。けど、だからこそ、見方を一八〇度ぐるっと変えれば、解体されていく風景と共に人々の記憶からも薄れ消えていくお祭りの後と同じで。

 ただ、その後がなかったなら。特別な時間の跡が、そこになかったなら。そう考えると、この寂しさと侘しさは、あって然るべきの仕方がないものだ。

 なんて調子で黄昏色の心を引きずったまま、無言でぺたぺた歩いていると。

「経過を見ているだけでも、これはまさしく祭りのそれだな」

 視界の中で、平塚先生の長い黒髪が楽しげに右へ左へ揺れなびく。言動からして、祭りのそれがどちらのそれなのかは、わざわざ聞かなくても。

「……まぁ、わからなくはないです」

 理解が半分、不理解が半分。そんな塩梅の返答をした。

「含みのある言い方だな」

「だって、お祭りって……楽しいものだけど寂しいものでもあるじゃないですか」

 何かが始まれば、何らかの終わりも必ずくっついてくる。その始まりから進んだ分だけ、その終わりも近づいてくる。けど、終わりなくして成立しないものがある。終わりがあるからこそ、特別になれるものだってある。

 そんなの全部頭じゃわかってることだけど、心のほうはそうもいかなくて。理不尽かつ無慈悲に打たれる終止符の全てをはいそうですかの一言だけで片づけられるなら、どんなに楽か。

「……だから、わかるんですけどわかりたくない気持ちもあるっていうか……」

 でも、大人になろうとするわたしが、子供のままでいたがるわたしの邪魔をする。ひび割れたガラスの靴なんてもう脱いでしまえと迫ってくる。

 我ながら何を言ってるんだかと思う。言うこと聞かない子供みたいに駄々こねてるだけじゃんと呆れもする。けど、冷静に現実を見るわたしも含めて、心のままで。

「……少し前、君と似たようなことを思ったなぁ」

「へ……?」

 まさかの共感が、知らず知らずのうちに落ちていた視線を水平へと戻す。

「年甲斐もなく恥ずかしい話なんだがな……私にもあるんだよ。君の言う『わかるけどわかりたくないこと』がね」

「……先生にも、ですか?」

「ああ、もちろん」

 わたしの問い返しにそう答えると、平塚先生はふと足を止めて。

「理解はできても、心がついてこない。そういう場面や局面が訪れるたび、仕方のないことだ、どうしようもないことだとひたすら自分に言い聞かせてみるものの、結局は割り切ることも受け入れることもできずに時間だけが過ぎていって……今でもそうだよ」

 平塚先生の寂しげな声音と吐息が、夢跡のような風景の中に溶けていく。

 ……正直ビビった。ガチの弱音っぽいこと吐いてる平塚先生なんて、初めて見たから。

「そんなにらしくなかったかね?」

 口が半開きになったままでいるわたしに、平塚先生は首だけで振り返りつつ。

「あー、まぁ、はい……ちょっと意外だったので」

「……そうか」

 わたしの返答を聞くと、穏やかに微笑む平塚先生。ノスタルジックな残陽に照らされているのもあってか、その横顔に浮かんだ色は、切なさからくるもののようにも見えてしまう。

 平塚先生の『わかるけどわかりたくないこと』がなんなのかは知らない。けど、半分の理解と半分の不理解で構成されているそれは、わたしの胸で燻り続けている矛盾とそうかけ離れてはいないのだろう。じゃなきゃ、そんな奥深いところまで話してくれたりなんかしないはずで。

 なんて結論づけている間に、階段へ辿り着いた。湿っぽい話をしていたせいか、ただまっすぐなだけの廊下は、結構な迷い道の回り道をしていたんじゃないかって。それくらい長く感じた。

 と、そのタイミングで、きんこんかんこんと馴染みのある音が校舎中に鳴り渡る。どうやらここでタイムアップの模様。……いやまぁ当然なんだけどさ、こんだけゆっくり歩いてたら。

「少しゆっくり歩きすぎたな」

 今しがたの振り返り話が恥ずかしくなってきたのか、平塚先生がわしゃわしゃと頭を掻く。そういう照れ方をするのは捻くれ者の誰かさんみたいで、思わずふふっと頬が緩んでしまう。

「わたしは大丈夫ですよ。避雷針になってくれる人がいるので」

「君なぁ……」

「冗談ですよ、冗談。……ちゃんと感謝してます」

 かつての一幕と似たやりとりの最後に、今度は、嘘偽りない本音の言葉を加え溶かしながら。わたしも階段をとてとて下りていく。

 そうして、段の先が二階の床へ切り替わろうとした時。わたしはたまらず顔をしかめる。

「うわぁ……めっちゃ目立ってるー……」

 外からの光が多少カモフラージュしてくれてはいるものの、周り全てが消灯済みの中でぽつりと明かりがついているのはさすがに目立つ。これ、先生いなかったら絶対詰んでたやつだ……。

「……という有様なわけだ。ほら、ちゃっちゃと片付けてきたまえ」

 音を抑えるように扉を開くと、苦笑を添えつつ、平塚先生がわたしの頭をぽんと撫でてくる。こんなふうに頭を撫でてもらったのはなんだか久しぶりな気がして、ほんのちょっぴり、照れくさい気がしないでもなかったりして。

「……はーい」

 はにかみ交じりの返事をした後、急いでペンとか判子とかを片付けて、わたしは帰り支度を済ませた。この時期はまだコートとかマフラーとかがいらないから、こういう時ほんと楽で助かる。

 電気をぱちり消すと、光源の一つが消えたことで、曖昧だったコントラストがはっきりしたものへと変わった。かすかな粒がきらきらと舞う夢名残りのような光景は、まるで、今の今まで、ピーターがそこを飛んでいたみたいに。

「……どうした? 忘れ物か?」

 視線を固定したまま立ち尽くすわたしを不思議に思い、平塚先生が尋ねてきた。

「あ、いえ……」

 ふるふると首を横に振り、なんでもないと仕草で示す。先生になら別に言ってもよかったけど、言ったところで、だからなんだって話なわけで……。

 代わりに、白黒入り混じった感情の吐息を、ふっと一つ。

「……ふむ」

 すると、その一声を聞いた平塚先生は、なにやら思案顔で腕を組む。わたしがただなにげなく息を吐いたようには思えなかったらしい。

 そういうとこもやっぱり気づいちゃいますか……ほーんと、よく見てるなぁ……。

「先生は……」

「ん?」

「大人になるって、どういうことだと思います?」

 言うつもりなんてなかったのに、気づけば、そんなことを口走ってしまっていた。

「大人になるとはどういうこと、か……」

 単なるわたしの口走りでしかない問いかけにもかかわらず、笑うでもなく、呆れるでもなく、驚くでもなく、怪訝そうにするでもなく、ただ静かに瞑目した平塚先生。

 いくら無意識だったとはいえ、厄介なクエスチョンをぶつけてしまった……。唇を開いてはすぐ閉じてと沈黙の問答を始めた平塚先生の様子に、ちくちくとした後ろめたさを時間差で抱く。

 そんな唇問答を見て自責を重ねること五回目、階下のほうから誰かの足音が。そしてそれは間もなく、徐々に大きくなっていく。

「あぁ、平塚先生……と、一色? なんじゃお前、まだ残っとったのか」

 階段を上ってきたのは厚木先生だった。まぁ、この人が様子を見に来るのは当たり前か。文実の顧問なんだし。

 わたしの姿を改めて視認した厚木先生は、ため息交じりに。

「こんな時間までご苦労と言いたいところじゃけど……」

「すみません厚木先生。本来なら彼女はとっくに帰宅していたんですが、私の用事に付き合わせてしまったもので……」

 そのまま生徒会長たるものとか言い出しそうな流れに、もっともらしい理由をつけた平塚先生の声がぱっと割り込んだ。しかし、話を途中で遮られたことが面白くないのか、単純に怪しんでいるだけか、厚木先生は眉根を寄せてううむと唸る。

「平塚先生の? ……何にせよこんな時間まで生徒を付き合わせるのは感心しませんな」

「いやぁまったくもってそのとおりで……」

「あのっ」

 わたしを庇ったせいで、言われる必要がないこと言われて。それがとにかく申し訳なくて心苦しくて、たまらず口を挟もうとした。

 けど、平塚先生はいいからとでもいうように、わたしの肩に優しく手を置く。

 そんなわたしたちの交錯に厚木先生は一度首を傾げたものの、さしたることではないと判断したようで、うおっほんと大げさな咳払いをして仕切り直す。

「……とにかく。時期が時期だけに、今後はこういったことがないようにしてくださらんと。おい一色、お前もだぞ。わかっとるか」

「はい」

 手短で淡泊な返事をした。じゃないと、せっかくの心遣いを台無しにして、言わなくていいこと言っちゃいそうだった。それどころか、ほんとに余計なことまで言っちゃいそうだった。

 ただ、こんな空返事みたいな首肯でも、一応は許してもらえたらしく。

「うし、じゃあはよ帰れや」

 注意モードから一転、厚木先生は事もなげな感じでじゃあのと会議室を離れていった。そういう系のイメージは確かにあったけど、マジで言うとは……や、そうじゃなくて。

 逸れた思考を本線に戻して、わたしは平塚先生の白衣をきゅっと掴む。

「ほんとすいません……。わたしがもっとしっかりしてれば、こんなことには……」

「私が言い出したことだよ。気にしなくていい」

「でも、それじゃ先生が……」

『それだと会長さん……』

 口にしかけて、頭をよぎって、そこで思わず言葉を止めた。

 先輩であるわたしが通ってきた道と、わたしの後輩である川崎くんが通ろうとしている道。その二途は恐ろしくなっちゃうくらいよく似ていて、ぴったりと重なってしまいそうなくらいに近い。道の作りは違うはずなのに、それでも。

 なら、あの人たちの後輩であるわたしが、今まさに通ろうとしている道って……。

「……簡単には納得しなさそうな顔だな」

 そりゃ、まぁ……。唇を引き結んだまま心の声で呟く。

 うやむやになってしまった問いかけのことも、自分に非があることすら言わせてもらえなかったことも、わたしの立てた筋書きはリメイクにもリライトにもなれないことも、全部まるごと納得いかないし、できないし、したくない。

 なんて具合に、内心でつらみ言をがたがた並べていると。

「では、本当に付き合ってもらうとしよう。話も途中だったしな」

「……はい?」

 平塚先生は大きくひとかたまりの息を吐いた後。

 わたしを見つめながら、どこか儚げに、そっと笑った。

 

  *  *  *

 

 ……どういうことだろう。

 具体的なことは何一つ言わずに、ただ、門の前で待っていたまえと。本当にそれだけを告げて、平塚先生は職員室へ戻っていってしまった。

 だからわたしは、素直に律義にここでぽけっと突っ立っているわけなんですけど。や、別に暑くも寒くもないから待つこと自体はとにかくとにかく……。

 とはいえ、手持ち無沙汰なのは事実なので、意味もなくつま先立ちしてはすぐに飽きてやめたりしつつ、その合間に長かったり短かったりするため息を吐いたりもしつつ。

 そういった何の生産性もないことばかりを繰り返しているうちに、視界の端から見覚えのある黒い車がこちらに向かって走ってきて、わたしの横につけた。

「待たせてしまって悪いな」

「いえ、お気になさらずでだいじょぶですー」

 平塚先生、ハンドルを握る姿が相変わらず似合いすぎ問題……そういうとこだぞ! 何がとは言わないけど! だから早く誰か!

 そんな失礼極まりないことを思っていたら、平塚先生が助手席のシートをぽふぽふ叩き出す。

「さて、それじゃ行こうか。乗りたまえ」

 どこに? 何をしに? 疑問は増えていくばかりだけど、事がねじるにねじれてしまった起因はわたしにある。なら、つべこべ言わずに黙ってお供させていただくほかない。

「……お邪魔します」

 車は左ハンドルなので、反対側に回ってからお邪魔させてもらう。そうして座りの調整やシートベルトの着用を済ませると、平塚先生は一つ頷いて、アクセルを踏んだ。

 にしても、どこ行くか何しに行くかもわかんないまま乗ってるから、ドナドナされてる感すごい件……。どなどなどーなー、どーなー……わたしをのーせーてー……。

「あの、これ、どこ向かってるんです?」

 売られてゆく子牛よろしく瞳を向ければ、平塚先生は咥えた煙草をふかしながら。

「特に決まってないな」

「はぁ、そうですか……」

 つまり、気ままのドライブというやつなんだろうか……。でも、そのわりにはなんか、最初から行くとこ決まってるような感じがするのは、わたしの考えすぎなのかな……。

 まぁ、本当か嘘かはさておき、平塚先生がそう言うのならそういうことにしておくしかない。これ以上は無粋だと判断したわたしは、シートの背もたれに身体ごと重さを預けた。

 そのまま横目で外を眺めることしばし。高速道路のような代わり映えしない景色ばかりが続いたこともあって、意識がだんだんぼんやりと……うとうとと……。

「少し寝ててもいいぞ」

「……ふぁい。じゃあ、……お言葉に……あまえて……」

 

 …………。

 

 ………………――んぅ?

 不意に身体を揺すられたような感覚。わたしはなんだなんだと瞼を開く。

 寝ぼけた頭で状況を確認してみたものの、こんな状態でわかったことなんて、景色が全然動いてないってことくらい。

 信号かな……。勝手にそう解釈して、終わらせて、再び目を閉じる。

「着いたぞ」

 しかし、今度はきちんと平塚先生に起こされてしまい、わたしの二度寝は叶わず。なので、大きな欠伸にとろんとした目をこしこし、睡魔と格闘しつつ。

「んー……どこにー……」

 平塚先生の後に続いてよたよた車を降りると、ほんのわずかに潮の香り。それに釣られて周囲を見渡せば、すぐ近くにポートタワーがぴょこっと飛び出ていて。そのことからだいたいの現在地は割り出せた。

 でも、このあたりって、それ以外は特に何もなかったような……。あっても海がちょこっと見える場所くらいで……。はてと不思議がりながらも平塚先生の後をついていく。

 そうして、駐車場脇の歩道を通り、桟橋の前を右に折れ、大きく曲がる道を抜け。

 今は、その先、まっすぐ伸びた道を。親に連れられる子供みたいに、ただ。

「いくらか目は覚めたかね?」

 道すがら、平塚先生がそんなことを聞いてきた。

「……まぁ」

 ていうかこんだけ歩いてたら嫌でも覚めると思うんですけど……。そんな捻くれ言を、拗ねた時の声音に乗せて。

 ただ、起きるには起きたってだけで、眠気がなくなったわけじゃない。次の瞬間には、ふあと欠伸が漏れてしまった。わたしの愛しいベッドちゃんはどこ……?

 すると、見かねてか、平塚先生は白衣のポケットから何かを取り出して。

「ほら、追加の眠気覚ましだ」

「え? ……わっ、とっ」

 言葉と共にぽいっと放られたものをなんとかキャッチ。紅茶のペットボトルだった。

「ありがとうございま……」

 けど、それは、いつもの甘い甘いミルクティーじゃなくて。

「無糖……」

「それしかなくてな。だがまぁ、今はちょうどいいだろう。……それともこっちにするか?」

 ストレートティーのラベルをじっと見つめるわたしに、今度は冗談めかすような感じで真っ黒な缶コーヒーを差し出してくる平塚先生。……なかったなら仕方ない、うん、仕方ない。

「いえ、こっちでいいです」

 ぶんぶんかぶりを振って全力ノーサンキュー。次いで、ははっと楽しげに笑う声。そんな他愛ないやりとりを間に交えつつ、わたしたちはゴール地点じみた広場へ。

 ……まぁ、気分じゃないとこ連れてかれるより全然マシか。あそこからだとここくらいしかないし。そもそもポートパークとここくらいしかないし。

 着いたばかりの海がちょこっと見える場所で、そんな何様モノローグを入れながら。わたしはいただいた紅茶のペットボトルをくぴと傾ける。……うえ、苦っ。

 たまらず口元をもにょつかせていたら、追うように、缶のプルタブをかしゅっと引いた音。

 そして、わたしと同じように、甘さの存在しない液体をそっと口に含むと。

「さて……大人になるとはどういうこと、だったか」

 薄明の地平線を穏やかに見つめたまま、平塚先生はぽつりと切り出した。

「君に合わせて言うと……諦めてしまえるようになること、だろうな」

「諦めてしまえるようになる……」

「うん。手放してしまえるようになると言い換えてもいいかな」

「諦めてとか手放してとか……そんなの絶対後悔するやつじゃん……」

 苦々しい視線を送るわたしに平塚先生は微苦笑を返した後、どこまでも続くように伸びる青い道の側と、行き止まりでしかないこちら側を区切る手すりの上に腕を乗せて。

「やりたいこと、夢、理想の自分……子供の頃は好き勝手に描き追いかけられたそれらも、大人になるにつれて、できない理由ばかりを追うようになってしまうんだよ。大半の人はね」

 聞いて、一度、物言いたげな瞳を伏せた。思い当たる節しかなかったから。

 ……けど。だからこそ。

 過去のわたしを棚に上げて、今のわたしは、その綺麗事を口にする。

「もったいなくないですか? そんなの……」

「そうだな。……けれど、仕方がないことでもある。それらは、大人として生きていく上で邪魔になることのほうが圧倒的に多いからな」

「かもしれないですけど……」

 平塚先生の言うとおりだ。言うとおりではある。でも、かけがえのない素敵なものがたくさん詰まったそれらを、邪魔になるものとして片づけちゃいたくなくて。かといって、それらのものがどう邪魔になるかを想像できないほど、わたしはまだまだ子供というわけじゃなくて。

「でも、なーんか……なーんかなぁ……」

 結果、熱の受け皿を失った瞳の先は、緩やかな下降線を描く。そこにあるのなんて、潮風に吹かれ揺れる薄黒い海面だけ。

 もし、もしも。たとえそれが夢の途中だとしても。

 はたと飛び方を忘れ、次第に飛ぶことを諦め、やがては翼を失くしてしまったら。大口を開いたように広がる海原を見つめたまま、つい、そんなある種のバッドエンドじみた夢の終点を考える。

「ただ、だからこそ……それらなくして大人にはなれない、とも言えるな」

 と、その直後、平塚先生の言葉によってまた別のエンディングが。

「えっと……つまり、通過儀礼的な?」

「ああ。どれだけ前向きになろうとも努力しようとも、気持ちや努力だけではどうにもならないことがたくさんある。夢や理想というのはいつだってそういうものだ」

「なんて夢のない話なんだ……」

 あまりにもあんまりすぎて思わず唇がうえーと歪む。そんなわたしの様子に、平塚先生は優しく叱るような声音で。

「……言っただろう? できない理由ばかりを追ってしまうようになると」

 わたしの頭をくしゃりと軽く撫でながら。

「だから、そうやって……」

 昔の自分を俯瞰するような瞳で。失われた日々を懐かしみ惜しむような顔で。

「子供の頃に描いたたくさんの落書きを、一つずつ、いろいろな形で諦めては手放しながら……いつしか夢見る心そのものすら失って……子供は、大人になるんだよ」

 

  *  *  *

 

 やりたいこと、夢、なりたい自分。

 長い長い階段を彩る花のアーチじみたそれらは、上へ上へと進むにつれて色を失いながら、くたびれ枯れて垂れ下がる。力をなくした蔓は、前へ進もうとする足に巻きつき未練となる。

 そうなるのは仕方がないことで、避けられないことなのかもしれない。夢や理想の対となる言葉が現実であるように。希望的観測を積み上げるだけの空想は、空虚な語りにしかならないように。

 だから、平塚先生はこんなことを。陽乃さんはあんなことを。はっきりなにげなくの違いはあるけど、少なくとも、示していた大人の形は同じで。

 だから、そうやって……。

 子供のままじゃ難しくて、やってもうまくいかなくて、できなくて派手に転んじゃって、向いてないのかなって苦しくなって、ほんと何やってるんだろってなって、しまいには……。

 そうやって……。

 みんな……。

 

 夢から、醒めていくんだ……。

 

 大人になること。わかるけどわかりたくないこと。

 それらの現実はやっぱり、わたしにとっては理解と不理解が半分ずつで。納得と不納得も半分こで。また、どこにでもありふれている、どこででもよくある話で。

 それらの現実はやっぱり、夢がなさすぎのあまりにもあんまりで、つい目を逸らしてしまいたくなる。難しくてできなくて諦めてしまいたくなる。向いてないのにほんと何やってるんだろって逃げてしまいたくなる。もういいやって手放してしまいたくなる。

 

 けど……わたしは、約束したから。誓ったから。

 すぐ目を逸らして諦めて逃げて手放していた、あの頃のわたしに。

 だから、改めて。戒めも込めて。

 ちらつく後ろ向きな気持ちを塗り潰すように。

 

 きらきらと輝く陽の残滓が消え、ますます暗さと黒さに染まっていく向こう側。こちらに近づいては遠ざかる波音だけが響く、一人きりみたいな世界の中。

 ぐいと勢いづけて口に流し込んだ紅茶は、さっきよりも、だいぶ苦い味がした。

 

 

 

 

 




ここまで間を空けてしまっても、ここまでお読みくださった方。
ほんとに、ほんとに、ありがとうございました。


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だから、一色いろはは約束する。―Interlude―

お久しぶりです。そして、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。


  *  *  *

 

 数合わせの役立たず。全然、まったく、これっぽっちのやる気すらも感じられないごく一部のメンバーに対しては、正直そう思う。

 そのくせ文句だけはいっちょまえで、とにかくめんどくさくて、無駄に厄介。おまけに往生際も悪いときた。だから、ほんとにほんとにめんどくさい。

 ……はーつっかえ。わたしは責め問うような冷眼をそちらへと向ける。

「いちいち言われたくないなら結果出してどうぞ」

 事の発端は、そんな連中のうちの一人、そんな男子が、会議の途中でわたしに文句をつけ始めたことだった。

 ぴしゃり一蹴したものの、その男子はなおも食い下がる。

「あのさ、会長。立場上そうしなきゃいけないのはわかるけど、こうも毎回毎回口うるさく言われちゃ、みんな疲れるだけだよ」

 は? どの口でなにいってんだこいつ……。みんなを言い訳に使うとか……。

「わたしだってできれば言いたくないですけど」

「だったら、もうちょっとさぁ……」

 もうちょっとゆるーくぬるーくしろって? ここまでカツカツのきつきつになった原因なんだと思ってんだ? はっ倒すぞ? 仕事なめんな? 働け?

 とはさすがに言えないので、代わりに、魔法の言葉でお返しする。

「こちらの指示にそこまで不満があるのでしたら、今後はあなたが指示してどうぞ」

「え……い、いや……そんな……そこまで大げさなものじゃ……」

 で、出たーっ! 手のひらくるくる保身おじさんだーっ! 今までの調子はどこへやら、男子の声がものっそ小さいぼしょぼしょしたものになった。露骨すぎるクズっぷりに思わず笑っちゃいそうになる。訴訟。

 というわけで、けぷけぷ咳払いしてから、にっこりはすはすといろはすスマイルを浮かべるわたし。すると、書記ちゃんがひえっと小声で呟く。どうやら目まではきっちりスマイルできていないらしい。

 っべー……。思ったよりイライラしてるかも……。

 内心ひとりごちながら、表情もそのままに、わたしは言外の真実を口にする。

「なるほど。つまり、文句は言うけど責任は持ちたくない……と」

「だ、だからそこまでは言ってないって……」

 言ってるっつーの。わたしはため息と共に目を伏せつつ。

 さてしかし、困った。この手の輩は詰めすぎると悪態つくわ逆ギレするわだし、おだてたらおだてたで調子に乗るわの弁えないわでやらかすしだし、ていうかもう既にやらかしてるしだし……。

 おかげで、ついつい、ため息を重ねてしまいそうになったけど。

「……ここまで言われても、じゃあやってやるって開き直れないなら、こういうとこでそういうこと言っちゃだめですよ」

 ネガティブな感情はひとまず遠ざけ、トーンも穏やかにして、やんわり釘を刺す。

 だが、当の男子はというと、何か物言いたげに眉根を寄せるだけ。ですよねー、こんな頭軽そうなやつに言われてもイラッとするだけですよねー。けど、イラッときてるのはわたしもなのでおあいこですよ?

 ……まぁ、そんな私情は今はさておき。

 人の心を動かすために必要なもの、それは強烈な外部刺激だ。何かを見たり、聞いたり、突きつけられたり、目の当たりにしたりして、そこでようやく、心の底にあるめんどくさい部分がもぞもぞと動きを見せる。

 ただ、その何かが一体なんなのかは人それぞれだろうし、後にも先にも、そもそも存在するのかどうかもわからない。けど、だからこその、特別な瞬間。

 それを一緒に探してあげられるなら。でも、心の関わり交わりすらない他人のそれを一緒に探してあげられるほど、わたしは暇人でも偉人でも善人でも聖人でもない。

 なので、こいつどうしてくれようかと次の一手を決めあぐねているうちに。

「……あのー、ちょっといいですかね」

「はい小町ちゃん」

「空気的にも休憩を挟んだほうがいいのでは?」

 双方のイライラゲージを察したらしい小町ちゃんが、そんな提案をしてくれた。

「……そうだね。わたしは異議なしです」

 次いでぽつぽつ上がる声もまぁとかうんとか肯定的で、異を返す者は誰一人としていない。噛みついてきた男子すらも無言は肯定とばかりに何も言わない。

 これは小町ちゃんの普段あってこそかなー……。わたしが同じこと提案しても、逃げたとか投げたとか言われてわたしもキレておしまいだろうし……。

 バッドエンド確定ルートを避けられたことに感謝しつつ、溜まりに溜まった重たいものを外へ追いやるように、ふーっと息を吐いてから。

「……では、一旦休憩ってことでー」

 

 それからしばらくして。

 時間になったので会議を再開させようとした時、あることに気づく。

 空席。あの厄介な男子が座っていた席だ。

 

 そして、主が不在の、ぽつりぽっかり空いたスペースは。

 会議が再び始まっても、会議が終わっても、埋まることがないままだった。

 

 

 

 

 




分割という名の幕間その②でした。あと生存報告も兼ねてます。
今回が短いってことは、つまり……?
さくっと終わらせるつもりがだいぶ膨大になっちゃったなーといまさら。

ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました。


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だから、一色いろはは約束する。―へ―

  *  *  *

 

 割れ窓理論というものがある。割れた窓を放置していると、それが誰も関心を向けていないことの証明になり、他の窓も割られやすくなる……といったものだ。

 そういった同調の心理は、一人からみんなへ、そして大衆へと伝染していく。つまり、うまく利用できたら、プラスのほうにも働いてくれるということ。実例だっていくつもある。

 結局のところ、どんな形であれ、まずはアラートやNGを出すことが大事なように思う。誰もがまぁいいかと見ないふりを繰り返した末にあるものなんて、間違った馴れ合いと終わりのない後退だけ。わたしはそれをよく知っている。

 だから、わたしも。

 わたしなりに、わたしのやり方で――それだけだったのに。

「……難しいなぁ」

 金色とピンク色と水色が淡く溶け合う空の下、自分の言動が生んだ空席を憂い、空中廊下で一人こっそり青息吐息。

 仕事なんてめんどくさい。やりたくない。わかる。

 何を偉そうに。何様だ。それもわかる。上からみたいでムカつくもんね。

 言われるたびにもやもやが積み重なって、やってらんないとか、付き合ってらんないとか、そういうこと思っちゃうのは仕方ないし別にいい。思うなとも言わない。

 ……だからこそ、真正面からちゃんとぶつかってきてほしかったな。支離滅裂でもいいから、納得できるまで。今みたいに、もういいやってなっちゃう前に。言い方とかやり方とか、わたしも失敗だらけだけど……それでも。

 という感じにモノローグでうだうだ愚痴っていると、屋内側から足音が。

 そして間もなく、かららとガラス戸がスライドされると。

「……川崎くん?」

 いつもなら直帰しているはずの川崎くんが、今日はなぜか学校にいて。

「どしたの? なんかトラブった?」

「あ、いえ、そういうのじゃないっす。俺、会長さんにちょっと話があって……」

「……話? わたしに?」

「はいっす。それで一旦こっちに戻ってきたっす」

 なんだろ……やっぱり文実のことかな。

 と、思わず困ったような顔になるわたしを見て、彼があっと声を上げる。

「すんません、まだ仕事残ってるっすよね……手伝うっす」

「や、だいじょぶ。もう片付けて終わりだし。ありがと、気持ちだけもらっとくね」

「……っすか」

 あ、あれ……? あれれー……? なんでかどうしてか、わたしの言葉に川崎くんは残念そうな吐息を漏らした。文実の仕事に妹ちゃんの送り迎えにと毎日大変な彼を気遣っただけなのだが。

「え、えーっと……それで、話って?」

 微妙な空気になってしまったので話の軌道を元に戻そうと試みる。

 すると、またしても、なんでかどうしてか、川崎くんは頭を下げてきた。

「バックレの話、聞いたっす。……嫌な役まで押しつけっぱなしですんません」

「……ちょっ、ちょちょちょちょ! そういうのいいから!」

 突然の謝罪にわたしは思いっきり慌てふためく。謝るのは慣れてても謝られるのには慣れてないどうもわたしです。……慣れないんだよなぁ、この感じ。むずむず。

 身体をもじっとさせつつ、彼の言葉に乗っかる形で、わたしはこちらこそを返す。

「ていうか、あやまんなきゃいけないのはむしろわたしのほうだし……」

「会長さんが? え、なんでっすか?」

「……ちょっとでしゃばりすぎたなって」

 仕事の領域にしても、口出しの範囲にしても、わたしがパラーバランスを崩してしまった。そのせいで川崎くんを肩書きだけのお飾り委員長にしてしまった。

 どれだけ言い繕おうとも、大義名分を振りかざそうとも、それは変わらない。

「だから……わたしこそ、川崎くんの文化祭を台無しにしちゃって、ごめんなさい」

 今度はわたしが頭を下げた。不甲斐ない先輩だ、ほんと……。

「いやいやいや、台無しなんて、そんな。思ったことないっすよ」

「でも、ほんとのことだし……」

「元は俺の力不足が原因なんすから、会長さんが責任感じる必要ないっす」

「……そう言われてもなぁ」

「変なところ強情っすね……」

 唇をつんととがらせ納得できないアピールすると、苦笑気味に笑われた。これじゃなんだかわたしのほうが後輩みたいだ。ぐぬぬのぬ……。

 なんて謎の対抗心を意味もなく無駄に燃やしている間に、わたしから夕空へと視線を移した川崎くんが、思い出したように言葉を落とす。

「そういえば……ちょっとわかった気がするっすよ。会長さんが前に言ってたこと」

 前……あー、あの時言ったことかな。それしか心当たりないし。

「あれって……」

「まぁまぁ、いいじゃん細かいことは」

 彼の言葉を途中で遮り、かき消すように声を重ね、笑顔で断ち切った。

 川崎くんが今言おうとしたこと。あの時わたしが語らなかったこと。それらはたぶん当たらずとも遠からずで、そう食い違ってはいない気がした。じゃなきゃ、嫌な役とか力不足とか、そういう言葉自体、彼の口から出てくるはずがなくて。

 けど、こんなの、所詮はただの綺麗事だ。理想論だ。絵空事だ。夢物語だ。それらは全て実現を伴わなければ、聞こえのいい嘘で固めただけの張りぼてで。希望的観測へと成り下がった空虚な論で。まさしく絵の中にある空で。もう許されることはないおとぎ話で。

 だから、こんなの、正しくなんてない。

 バカげていて、間違っていて、ちっとも正しくなんてない。

 だからこそ、これは、わたしが抱えてなきゃいけないものだ。

 失敗も、否定も、失笑も、責も、わたしが背負っていかなきゃいけないものだ。

 これから先の、わたしのためにも。

 最後まで諦めずに、折れることなく、貫くためにも。

「……さー、文化祭まであともうちょっとだよ。最後まで頑張ろうねっ」

「……本当に強情なお人っす」

 話を無理やりぶった切った挙句、今もなお意地を選ぶバカな先輩を見て。

 とてもとても仕方なさそうに、わたしの後輩が、ふっと笑う。

 

 そんなやりとりの結び、わたしは、遥か遠くで眩しく輝く斜陽へ瞳を向けた。

 今日もまた、心地よく揺らいでは滲んで、地平線の彼方へ音もなく溶けていく夢の残滓みたいな光を――今日もまた、追いかけるように。

 

  *  *  *

 

 ……さて。意地張った以上はがんばんないと。

 申し訳なさそうに帰っていく川崎くんを形式だけの笑顔で見送った後。長めの吐息で気持ちを切り替えたわたしは再び、独りきりの戦場へと、一人。

 なんかあったら言ってください……か。どう考えてもバレてんだよなぁ……。

 別れ際の一言に内心あはーとお世辞笑いしつつも、空気読んでくれて助かるなーとか、わたしにはもったいないくらいよくデキた後輩だなーとか、そんなことを思ってうんうん頷いたりなんかもしつつ、夕焼け小焼けな廊下を歩くことしばし。

「おーい、いろはすー!」

 背後から、聞こえないふりしたい声ぶっちぎり一位の声ががが……。

 しかし聞こえてしまったものは仕方ない。超しぶしぶ振り向くと、秒で後悔した。

「やぁ、いろは」

 ははっ、お呼びじゃねー。

「……葉山先輩もご一緒でしたか」

「そんな嫌そうな顔しなくてもいいだろ、ひどいな」

「あー、すいません、つい」

「もっとひどくないか、それ」

 や、だってほんとにお呼びじゃないし……。

「それなー。隼人くんほんとそれだわー。いろはすってばマジひでーわー」

 いやいやいや、平常運転ですけど。まぁ、戸部先輩のほうは、いつもどおり放っておくとして。

「………………えーっと、それで、わたしに何か?」

「ああ、いや、たまたま見かけたから」

「はぁ」

 つまり、ただのコミュニケーションで、他意はないと。……えぇ~、ほんとにござるかぁ?

 と、ジト目になるわたしに、葉山先輩が微苦笑する。

「手厳しいな……」

「仕方ないかと」

 なんてやりとりをしていたら。

「……ん~? んん~? あんれ~?」

 空気化していた(させた)戸部先輩が突然やかましくなる。ちっ、うるせーな。

「二人とも、またなんかあった感じ? 雰囲気っつーの? 前と違くね?」

 あーうるせ……おっと。

「いや、何もないよ」

「……ですねー」

 これ以上余計なこと言う前に黙らせなきゃと思ったけど、それよりも早く葉山先輩が戸部先輩を黙らせにかかっていた。さすはや!

「んー……じゃあ気のせいなんかなー」

「まぁ、いろはと話すのは俺も久しぶりだしな……。だからじゃないか?」

「あー、あるわー。それあるわー。いろはす部活やめちゃったもんなー」

 違和感の理由がそういうことなら確かに納得できる。葉山先輩、っべー。

 と思ったのもつかの間、戸部先輩はすぐにあーと口を開いて。

「っつーか、なんで辞めたん?」

「……戸部」

「え、え? もしかして聞いちゃまずかった系……?」

 や、じゃなくて、単にデリカシーないこと聞くなってだけでしょ……。そういうとこだぞって、わっかんねーかなぁ。わっかんねーだろうなぁ。

「ごっめ、いろはす! なんでなんかなーって思っただけなんよ! いやマジで!」

「いまさらなんで大丈夫です」

「お、おう……いやそれひどくね!?」

「だって戸部先輩ですし」

「……っかー、いろはすマジきっついわー……」

 それもいまさらなんですけど……。まぁ、全部戸部先輩が悪い。いや全然悪くないけど。

 なので、小さく、くすっと笑ってから。

「まぁ、別にいいんですけどね、言っても」

「あ、そうなん……。それ、先に言ってほしかったわ……」

 がっくり肩を落とし、「っべー……」と静かにうるさい戸部先輩の横で、葉山先輩がいいのかとでも言いたげに見つめてきた。

 癪だなぁ。でも、嫌いじゃない。

 わたしは大きく息を吸って、ふーっと吐く。

 

「――どうしてもやりたいこと、見つけたから」

 

 始まりはどうしようもなく不純で、けど、今じゃ、どうしようもないくらい純粋な想いを、詰まることも余すこともなく、わたしは言い切った。

 ほんとバカだなって思う。ほんとアホだなって思う。

 逃げちゃえば楽になるのに、諦めちゃえば楽になれるのに、また転んでる。

 向いてないな、らしくないな、何やってんだろって惨めになりながら。

 なのに、ほんとバカの一つ覚えみたいに。

 向いてないのに、らしくないのに、ほんと何やってんだろって呆れながら。

 どうせまた転んじゃうのに。どうせまた傷ついちゃうのに。

 

 それでも、こうやって、わたしは手を伸ばすんだ。

 だって、ほしかったものは、ずっと、そこにあるから――。

 

「……なにそれ超よくね? めっちゃいいやつだべ! うわー、アガるわー!」

 一言ではあったが、一言以上のものを込めた。それはちゃんと伝わったようで、ぱちんと指を鳴らし、ガチのマジでうるさくなる戸部先輩。

「そういうのってなかなか見つかんねーっつーか、探して見つかるもんでもねーわけじゃん? それ見つけちゃうとか、いろはす、パなくね? やばくね? これもうマジリスペクトするしかないでしょ!」

「……うるっさ……」

 戸部先輩のこういうところは憎めなくはないと思わなくもないけど、借りももうないし調子に乗られると余計鬱陶しいので照れ隠ししておく。あーうるせー……。

 わたしは、面白くなさそうに、それでいてほんのり赤くなってるっぽい顔をふいと逸らす。すると、視界の端で葉山先輩が目を閉じて微笑んだ……ような気がした。

「見習わないとな」

「だべ……。でも俺こんなだしなー、見つけられるんかなー」

 困ったようにわっしわっしと襟足を掻き上げる戸部先輩を横目で見つつ、改めて思う。わたしはだいぶ『普通』からズレた高校生になったんだって。

 けど、不純で純粋なこの『特別』は、決して正しくなんてなくて。

 それでも、後悔なんて、どこにも、ひとつも、これっぽっちだってなくて。

「わたしが見つけられたくらいですし大丈夫かと。たぶん。知らんけど」

 だから、その形容動詞の代わりとして、らしくてそれっぽい添え言を、ぽしょりと二つ。

「そっかー。んじゃ、これからの俺に期待ってことでいいべ」

「はぁ、まぁ、戸部先輩がいいんならいいんじゃないですか、それで」

 相変わらずだな、この人……。と、適当におざなりに雑に戸部先輩の相手をしながら、その隣で意味深な反応をしているもう一人をちらと見る。

 そのもう一人、葉山先輩は、無機質な虚空を見上げたまま。

「見つけた……か」

 やがて、そっと呟いた。

 わずかに細められた瞳と憂いを帯びた横顔は、何もない空間へ向けているようで、そこではないどこかへ向けられているように思う。

 

『昔はさ――』

 

 一瞬だけ、もしかしたらが頭をよぎった。

 でも、それは、わたしが言うことじゃない。わたしが言うのは違うから。

 だからわたしは、代わりに、別のもしかしたらを口にする。

「……もしかしたら、違うとこばっかり見てるからかもしれませんね、見つかんないのって。ふと思いました」

「あー、それあるわー。絶対あるわー」

「でしょ?」

「俺もこのパターンだべ?」

「いやそれは知らないですけど」

「だべー……」

 いつもどおり、お約束どおり、こっちは置いといて。

「葉山先輩もそう思いません?」

 ついでに、ばちこーん☆といろはすウインク。すると、葉山先輩は何度かぱちくりまばたきをした後、ぷっと吹き出した。

「いろはがそれを言うのか……」

「逆です。わたしだから言えるんですよ」

 お互いにどこか挑発的な表情で再び軽くやり合い始めたわたしと葉山先輩に、やっぱりか、戸部先輩もまたうーんと唸り出す。

 しかし、当然、葉山先輩がその機先を見逃すはずもない。

「さて……俺らはそろそろ行くか」

「え? な、なんか話途中っぽいけど、いいん?」

「ああ、これ以上引き止めても悪いしな」

 言われてみれば、確かにちょっと時間を使いすぎた気もする。けど、まぁ、たまにはこんなことがあってもいいだろう。それなりの刺激になったし。

「じゃあ、お言葉に甘えて、わたしもこれで」

「……頑張れよ、いろいろ」

「言われなくても」

 くすっと意地悪く微笑み返すわたしに、葉山先輩は肩をすくめつつも。

 あの頃から変わらない笑顔で、あの頃と同じように。

「またな、いろは」

「あ、えーっと……いろはす、またなー?」

 戸部先輩は未だ困惑しながらも。

 あの頃から変わらない調子のよさで、あの頃と同じように。

「はい。お二人とも、またです」

 ――また、そのうち。

 続けて小さく呟き、くるっとふわっとスカートをはためかせたところで――。

「そうやって、みんな変わっていくんだな……」

 そんな小さな独り言が、ふと、背中越しに聞こえた。

 

  *  *  *

 

 ため息を吐く。これで何回目だろう。四回目かもしれないし、五回目かもしれないし、六回目どころじゃないかもしれない。

 文実の間はそれなりの密度になるこの会議室も、わたし一人だけになると、ずいぶんと広く感じてしまう。本来なら集中できる環境ではあるのだが、今日は立て続けにいろいろなことが起きたせいで、誤魔化していた疲れをただ実感させられるだけの状況にしかならなくて。

 最後にもう一回ため息を吐くと、わたしはスマホで時間を確認する。

「……帰ろ」

 ここまで散漫な集中力じゃ、いくら粘ったところで結果なんてお察しだ。最終下校時刻も近いことだし、さっさと家に帰ってやるなりしたほうが全然いい。

 そうして、帰り支度やら消灯やら戸締りやらを済ませ、廊下に出たところで。

「あ……」

 青みがかった黒髪をポニーテールにした、川崎くんのお姉さんとばったり。相変わらず怖そうな人だ。ていうか怖い。なんでいるの?

「お疲れさまですー……」

 くんしあやうきにちかよらず……。というわけで、わたしはぺこりと軽く会釈し、絡まれる前にそそくさとすたすたとクールに去ることにする。クールとは。

「ちょっといい?」

「ひえっ」

 しかし回り込まれてしまった! 思わず肩もびくっと跳ねた!

「……わ、わたしですか?」

「いや、あんた以外に誰がいんの」

「で、ですよねー……」

 なんか今日はいろんな人に捕まるなぁ……。

 まぁ、なんとなくそんな気はしていたし、ここで逃げるつもりもなかったので、川崎先輩に手の鍵を見せつつ。

「えっと、先に鍵、返してきてからでもいいですか?」

「……じゃ、あたしも行くよ」

「は、はぁ……わかりました……」

 できればそれはご勘弁願いたかったでござるなぁ~……。なんて内心でだらだら嫌な汗をかいていると、別の方向から、かつかつかつ。この足音はどうせ平塚先生だ。

「おーい、そろそろ時間だぞー」

 やっぱり平塚先生だった。ここ最近は毎日わたしが時間ぎりぎりまで残っているから、気を利かせてくれたのだろう。

 と、川崎先輩の姿に気づいた平塚先生が、ぱちくり目を見開く。

「……おや? 奇妙な組み合わせだな」

「あたしがこの子に用あったんで」

「そうか。なら、その用とやらを早く済ませたほうがいいな」

 平塚先生がふっと含んだように笑うと、居心地悪くなったのか、川崎先輩が眉根を寄せた。わたしのお腹が痛くなるだけなのでやめてほしい……。

「鍵は私が返しておくよ」

「……お願いします」

 ちょっぴり恨みがましくほっぺたを膨らませつつ、会議室の鍵を手渡した。けど、それだけでは終わらずに、平塚先生はなぜかわたしの顔をじっと見つめてきた。

 え、なに……?

「川崎。ついでに一つ頼めるか」

「なんですか」

「君が可能なところまででいい。一色と一緒に帰ってやってくれ」

「へ……?」

「……まぁ、別にいいですけど」

「え、ちょっ……」

 なんか勝手に話が進んで勝手に終わったんですけど……。あとあと、さすがのいろはちゃんでもそれはさすがにきついかなー、なんて……。とはさすがに言えなかったので、代わりにうえーと表情で抗議した。

 そんなわたしをなだめるように、平塚先生が頭をぽんと軽く撫でてくる。

「……では、二人とも気をつけてな」

 先生のことだから、理由、ちゃんとあるんだろうけどさぁ……。でも、もっと、こう……。と、不満たらたらなわたしをそのままに、平塚先生はひらひら手を振って職員室のほうへ歩いていってしまった。

 となれば、必然、微妙さ極まった気まずい空気が流れ出す。そのせいで、遠ざかっていく平塚先生の足音がやたら虚しく聞こえ、無慈悲に思えた。

「と、とりあえず、よろしくお願いします……?」

「……はいよ」

 うーんこの愛想なしめ。……あ、今のオフレコでお願いしますね? バレたら怖いので。なんて感じで、いちいちビビり散らかしながら、なんとかどうにか歩き出したものの。

「あー……」

 っべー。何話したらいいか全然わかんねー。

 せんぱいの数少ないお知り合いということで、わたしも何回か顔合わせてるし、川崎くんのお姉さんだしで、悪い人じゃないってのはわかってるんだけど……。

 落ち着けわたし。普段、あんなにめんどくさい人たちの相手をしてるんだ。この人とお話するくらいできるはず。がんばれわたし、できるぞわたし。

「その……なんでわざわざ待ってたんですか? 別にこんな時間まで待たなくても、声かけてくれたら済んだ話ですよね?」

「あたしもクラスの準備あったから。それだけで他意はないよ」

「あ、そうですか……」

 困った。ほんとにそうなんだろうから困った。おかげで会話が続かない。お話したいのにお話にならないとかやめてほしい……。

 たまらず口とか眉とかがもにょっちゃったけど、バレてるのやらスルーしてるのやら、お隣さんは何も言わないまま。……話が進みません誰か助けろください。

 なんて切実に訴えていたら、神様に願いが通じたのか、昇降口を抜けたところで。

「……あのさ」

 おもむろに、ぶっきらぼうに。それでいて、タイミングはきちんと見計らっていたように。川崎先輩が吐息と共に口を開く。

「あんた、大志になんかした?」

 その問いかけに思わず足が止まった。

 自然、川崎先輩も足を止めて振り返る。

 変わらず目つきは鋭くて怖い。けど、そこに敵意は感じられない。

 なら、わたしも、ちゃんと尋ねることにする。

「と、言いますと?」

「あの子、文実に入ってから……いや、あんたと関わり始めてからって言ったほうがいいか。あたしにやたら気を遣ってきて、なんでもかんでも自分がやろうとすんの」

 心当たりがある。というより、心当たりしかなかった。

「……あー、妹さんの送り迎えとか、それでなんですねー」

「そ、俺がやるから自分のことだけ考えろって。最近は毎日そればっかり……」

 うんざりしているような言葉とは裏腹に、川崎先輩の目元や口元はとても優しい。そしてその表情は、せんぱいたちがときどき見せてくれるあの表情にとてもよく似ていた。

 そういう顔をされてしまったら、わたし的にはお手上げというほかなく、下の子的にはもどかしさを感じてしまう。

 だから、わたしはふっと自虐的に笑って、目を細める。

「なるほど、だいたいわかりました。それは確かに、わたしのせいかもです」

 

  *  *  *

 

 学校を出て、ちょっと歩いて、公園の中。休憩スペースの柱を背にしつつ。

 誰かに影響されるのは悪いことばかりじゃない。それは同時に、いいことばかりでもないということだ。

 以前にあった平塚先生との一幕を、空中廊下での川崎くんとの会話を、思い出しては照らし合わせながら。言ってもいいことと言っちゃまずいことを、都度、頭の中で振り分けながら。

 わたしは、ぽつりぽつり、言葉を紡いでいた。

 

 もらってばっかじゃなくて、返したくて。

 もらってばかりなのを、変えたくて。

 だから、きっかけが欲しくて。機会が欲しくて。

 なんでもいいから、どんな形でもいいから。

 

 けど、やっぱり、うまくいかないことだらけで。

 そんなできない自分に、余計、無力さを感じてしまって。

 

 でも、できないなりに、できることをやっていくしかなくて。

 だから、たとえ、非効率でも。合理的じゃなくても。そこに気持ちしかなくても。

 

 けど、あの人たちも、おそらくこの人も、みんな優しくこう言ってくれるのだ。

 自分がやりたくてやったことだと。だから、恩なんて感じる必要はないと。

 

 ――それでも、やっぱり。

 もらってばっかじゃなくて、返したいから。

 もらってばかりなのを、変えたいから。

 だから、なんでもいいから、どんな形でもいいから。

 どれだけ強引でも、むちゃくちゃでも、めちゃくちゃでも。

 

 自分にとっての、誰かにとっての、大切な人のために。

 そして、大切にしてもらった自分のために。

 

「……という感じで、わたしが変な発破かけちゃったかなーと」

 ひととおり説明し終えたものの、正しく伝えられたかどうかは怪しい。あくまでそれはわたしの話で、かもの話で……ということにした上、ぼかしたり省略したりもしたから。

 誤解を避けるためには包み隠さず全て伝えるのが正解なんだろう。けど、本人の気持ちなんて結局は本人しかわからないし、なにより、本人が隠したがっていることをわたしが勝手に全部ぺらぺら話すのはもっと違う。だったら、そういうことにしておいたほうがいい。

 川崎先輩はそんなわたしの自分語りを黙って聞いてくれていたが、余白をもって話に終止符を打つと、静かにため息を吐いた。

「バカだね、あの子も……。そんなこと気にしなくていいのに……」

「あ、えっと、ですから今のはあくまでわたしの勝手な推測……」

「大志も同じでしょ。前からそういう傾向ある子だったし」

「……本人から聞いたわけでもないのに、そこまで言えちゃうんですね」

「言ってはくれないけど、わかるよ。だって、今まで見てきたから」

 見てきたから……か。一応、わたしとせんぱいも、お互いがお互いに言葉にしなくても、意思疎通的なことはできるようになった。けど、小町ちゃんや川崎先輩と比べたらまだまだだろう。

 そうやって、自然に、当たり前に。時にはぶつかって、削れて、丸くなって。長い年月をかけて繰り返して、積み重ねて。

 それもまた、わたしのとは、別の形の――。

「なんか、伝わります。弟さんのことちゃんと見てきたんだなーって感じというか」

「ま、まぁ、家族だし……。これくらい、別に……」

 たまらず微笑みを漏らすと、川崎先輩は顔を俯かせて、ものっそ小さい声でぽしょぽしょ返してきた。わたしの反応で恥ずかしくなったらしい。なんだこの人、可愛いかよ。そういうギャップはずるいと思います!

 なんて感想を胸の内で抱いていたら、頬にほんのり朱を残したままながらも、川崎先輩がいつものぶっきらぼうめな感じで切り返してくる。

「……それより、あんたは大丈夫なの?」

「はい? なにがですか?」

「文実。このままだとやばいんでしょ」

「あー……」

 そこを突かれると弱い。言葉に詰まってしまう。

 スケジュール遅れの数々は、川崎くんや小町ちゃんがフォローやリカバリーに回ってくれたおかげで、なんとかなっていた。

 しかし、フォローやリカバリーなんて余計な仕事は、もともと二人の仕事じゃないのだ。本番当日までの日数が減っていけば減っていくほど、本来すべきだった仕事に追われ、二人もリソースを割けなくなる。最初のミーティングの時点でそんな予感はしていたし、織り込み済みだった。

 そんな中、わたしは自分で自分の首を絞めてしまったわけだけど……。

「……なんとかします」

「なんとかって、あんた……」

 結局、口から出てくれたのは曖昧もいいところな言葉だけ。当然、川崎先輩には呆れたようなため息を吐かれてしまう。

 でも、これは、わたしが一人で解決しなきゃいけない問題だから。

 こんな独りよがりを、こんな自分勝手な自己満足を、こんな拗ねた子供の意地張りを、他の人に責任ごと渡すなんてできっこないから。

「とにかく……わたしが、なんとかするんです。わたしがなんとかしなくちゃいけないから」

「言ってることむちゃくちゃなんだけど……」

「自覚してます」

 だって、それがわたしだから。

 そんなニュアンスを込めて誇らしげに胸を張るわたしに、川崎先輩がふっと笑う。

「……やっぱり大概だね、あんたも」

「あの人の後輩ですから」

 同じように笑み返すと、川崎先輩も納得がいったように「ああ……」と吐息を漏らした。

 そう、わたしはあの人の後輩なのだ。ド腐れの目と根性で、バカなことばっか言って。普通そこまでする? ってくらい、バカなことばっかやって。

 そのくせ、ほんとは誰よりも優しくて、わたしには誰よりも甘くて。でも、ときどきちょっぴり厳しくて、めんどくさい時はめっちゃめんどくさい。それが、わたしのせんぱいなのだ。

 

 ……だから、余計に。

 悔しいけど。

 認めたくないけど。

 許せないけど。

 諦められないけど。

 

 だから、せめて、今は……。

 代わりに、最後まで考えて、悩んで、もがいて、じたばたしよう。

 苦しくなっても、思い詰めても、しんどくなっても、嫌になっても。

 そしたら、今度は、甘えて、吐き出して、泣いて。

 まだ泣いて、また泣いて、精一杯、泣ききったら。

 立ち上がって、それを糧にして、また前を見て、少しずつ、進んでいこう。

 きっと、いつか、なんて。

 夢を見ては夢に焦がれる子供みたいに、いつまでも、ずっと。

 

「だから、やります。誰に何を言われても、わたしがなんとかします」

 ――心の中でそんなことばかりぼやいていたせいかもしれない。

 わたしは、今になって、ふと。わたしは、今となって、ようやく。

「そこまで言うならちゃんとなんとかしなよ。大志のためにも。……無理しない範囲でさ」

「お気遣い、どうもです。守れるかどうかはちょっと自信ないですけど」

 はるさんの不可解な言葉の意味を。平塚先生の意味深なお願いの理由を。

 ちょっとだけ、理解できた気がした。

 

 

 

 

 




半年まではいかなかったけど、うーんこの体たらく……。
というわけで、また期間空いちゃってごめんなさいでした。いつも待っていてくれる方々にはマジで頭上がらないです、ほんとに。


ではでは、ここまでお読みくださりありがとうございました!


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