ペルソナ×ラブライブ! (藤川莉桜)
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1話

 世界は人智を超越した不可思議な事象で満ちている。それは科学が急激に発展した現代に於いても変わらない。

 むしろ、なまじ数多の理を知ってしまったがゆえに人の好奇心は肥大し、抱える謎もより巨大かつ膨大な量と成り果ててしまったのではないか。知恵の実を口にしたアダムとイブが死の恐怖に怯えるようになってしまったように。

 

 遥か遠くの外宇宙。

 生命誕生の原点。

 心のメカニズム。

 神や悪魔の実在。

 

 長きに渡って人が積み上げてきた英知を持ってしても多くが未だに解明不能のままだ。

 しかし、そんな人の矮小ぶりを嘲笑う超常的な存在が、もしも人に牙を剥いたとしたら、無力な人々はそんな理不尽をありのままに受け入れることが出来るだろうか?

 

 もしも、世界は影に支配されているとしたら……

 もしも、己の影が我が身を喰らおうと狙っているのだとしたら……

 もしも、天の頂へと続く巨塔の中で、人知れず世界の命運を賭けた闘いが繰り広げられているとしたら……

 

「希!希!お願い、しっかりして!」

 

 金髪をポニーテールにした少女が必死の形相で血塗れになった親友の肩を揺らす。返事が返ってこなくとも、諦めるわけにはいかなかった。

 

「ことり先輩!……ダメだわ。気を失ってるみたい」

 

 赤毛の少女は壁際でうずくまった少女に掛けよった。意識が無いことを確認した赤毛の少女は背負って安全な場所へと運び込もうとする。そんな二人の後方で爆炎が広がった。

 

「にゃぁぁぁ!も、もう少しで凛達に当たるとこだったよ⁉︎」

 

 ショートカットの少女がベージュ色のベストに纏わりつく火の粉払いながら狼狽している。

 

「なんて威力……あんなものが直撃すれば私達ではひとたまりもありませんね」

 

「ちょっと花陽!あんた、まだ分析終わんないわけ!?サポート役のことりがダウンして、こっちはもう限界なんだけど!」

 

「ま、待って下さい!もう少し……」

 

 黒髪をツインテールにした幼い見た目の少女がイラついた様子で後方に首回して怒声を浴びせる。怒りの矛先にされてた眉毛を八の字にした臆病な印象を与える少女、花陽は必死な様子で手にした巨大な本に視線を走らせていた。

 

「早くしなさい!……ったく、弱点と物理以外は全部跳ね返すなんてトンデモないにも程があるわよ!」

 

 そう愚痴を零しながら少女は対峙する"敵"へと視線を戻した。

 そこに君臨するは二つの黒い"影"。少女達を遥かに超える巨大な体躯を備えるそれは、各々が三日月と太陽を模した形状をしていた。中央にそれぞれ無機質な印象を与える不気味な仮面を貼り付けており、宙に浮きながら仮面の目に当たる部分から少女達を見下ろしているようにも思える。

 

 どう考えても常識で当てはまる生物、いや存在ですらなかった。

 

「すいません。後、もう少しなんです……!」

 

 花陽の力はこの場に於いて重要な役目を担っている。文字通り人智を超えている怪物達が、いかなる攻撃手段を操るのか、それを知ることが出来るのは彼女だけである。

 

「にこ先輩、花陽に当たっても仕方ないではないですか!」

 

「言われなくったってわかってるわよ!わかってるの!」

 

 怒鳴り散らしたところで状況は好転するわけではないし、目の前で解析を続ける花陽は確実な仕事をしてくれることくらい本当は頭で理解している。しかし、次々と仲間が傷つき倒れる光景はツインテールの少女から冷静さを着実に奪っていくのだ。

 

「出ました!」

 

 分析を終えたと思わしき花陽が本から顔を上げた。

 

「穂乃果先輩!その大型シャドウは火炎が弱点です!穂乃果先輩の火炎属性魔法で牽制をお願いします!」

 

「ありがとう花陽ちゃん!よーし、そうとわかれば……」

 

 穂乃果と呼ばれたサイドテールの少女は太腿のホルダーから一丁の拳銃を取り出した。全体が黒一色の無骨な大型リボルバータイプ。およそ華奢な少女には似つかわしくない代物だが、人智を超えた怪物を相手取るには過ぎた武装ではないだろう。

 しかし、穂乃果がその銃口を向ける先は三日月の形をした"影"ではなかった。穂乃果は()()()()の側頭部に銃口を突きつけ、そして、躊躇いなく引き金を引いた。

 

「ペルソナッ!」

 

 ガキンッ!とガラスが砕け散るような音を鳴らしながら、煌めく粒子と青い光が穂乃果を包み込む。

 嵐の如く風が吹き荒れる。

 少女の鼓動の高鳴りに合わせて、霧のように散っていた粒子が一箇所に集結していく。

 

 やがて"それ"は姿を現した。

 

 全身に纏う白づくめの衣装が印象的な女性の幻影。

 

 仮面を被っているかのように顔全体を覆い隠している覆面によって表情は伺えないが、鮮やかな橙色の頭髪と合わせてどこか穂乃果を彷彿させる雰囲気を発している。

 

「いっくよー!カリオペイア!」

 

 ギリシャ神話に登場するオリュンポス神族の一柱”カリオペイア”

 

 音楽(ミュージック)の語源となった九柱の芸術を司る女神の九姉妹”ミューズ”。カリオペイアはその中でもリーダー格として知られ、いくつもの逸話を残していた。

 ”幽玄の奏者(オルフェウス)”の母であり、”烈日と蒼穹の支配者(アポロ)"の伴侶とも伝えられ、古代より芸術家達から崇拝される存在。

 その名と姿を借りた”人格の鎧”が少女の想いを通じて常闇の世界に降臨する。人々に害を成す影共を討ち滅ぼすべく。

 

「カリオペイア!〈アギラオ〉だよ!」

 

 穂乃果の指示に合わせて、カリオペイアは両手の掌を前方に向ける。その瞬間、"影"は爆炎に包まれた。

 

「燃えろ!」

 

 再び同じ規模の炎の柱が立ち昇り、辺り一帯の気温を急激に高めていく。

 

「燃えろ!燃えろ!燃えろ!」

 

 カリオペイアが生み出した豪炎が、穂乃果の叫びに合わせて何度も何度も標的を一方的に容赦なく焼き尽くす。休む間無く、炎を生み出す代償である精神力消耗を顧みることなく、穂乃果は念じ続けた。

 燃え盛る業火を幾度も真正面から受け止めることになった三日月型の巨大な”影”はその威力に耐えきれず、やがて炎に包まれたままゆっくりと崩れ落ちる。その光景を前に勝利を確信した穂乃果の仲間達は歓喜した。

 

「やったにゃー!牽制どころか倒しちゃったにゃー!」

 

「見事です穂乃果!まずは一体ですね!」

 

 しかし、そんな彼女達の後方で、傷ついた仲間の介抱を続けていた金髪の少女は唸るように声をあげた。

 

「まだ安心しては駄目よ!油断しないで!」

 

 結論から言うと金髪の少女の懸念は的中していた。三日月の形をした"影"が力尽きると同時に、もう一体の太陽を模した姿の"影"が淡い光を放ち始める。

 

「もしかして回復が使えるの!?」

 

 類似している異能を有する穂乃果には、その光の意味はすぐさま理解できた。それでも、自身が限界まで焼き払ったはずの三日月型の"影"が一瞬の内に戦列に復帰できるほどの回復力を見せつけるとは予想外にも程があった。

 何事もなかったかのように傷が癒えた"影"はもう既にこちらに狙いを定めている。それどころか穂乃果達を脆弱な存在であると言わんばかりに、せせら嗤っているようにさえ見えた。

 

「えええっ!?そんなっ!あっさり復活しちゃうわけ!?ねえねえかよちん!どうすればいいのお⁉︎」

 

「えっと……」

 

「まずはあの太陽の姿をしたシャドウを葬らないとまた回復されてしまいますね」

 

 海未は額から吹き出る汗を拭いながら、未だに分析を続けている花陽に目を向ける。戦線離脱した仲間が何人もいる以上、長期戦ではあまりにも分が悪い。海未としてはなるべく確実に弱点を突いて、早急に各個撃破していくのが理想だと考えていた。

 

「わかりました!あのシャドウは氷結属性が弱点です!」

 

「なら私が!」

 

 本から顔を上げた花陽の叫びに誰よりも先に反応したのは海未だった。請われるまでもなく、即座に太腿から穂乃果の物と同型の拳銃を引き抜いて自身の頭部に銃口を突きつける。

 

「来なさい!ポリミューニア!」

 

 引き金を引くと共に、ミューズに名を連ねる女神の一人"ポリミューニア"が海未の心の力として降臨する。

 海未と同じく腰まで伸びる青みがかかった黒髪。男性物の燕尾服とコートで身を包み、腰には大振りな一本の太刀を携えている。その姿は男装の麗人と呼ぶに相応しい。

 

「〈ブフーラ〉発動!」

 

 男装の女神が右の掌を翳すと同時に周囲の空気が冷たくなっていく。次の瞬間、巨大な氷塊が大気中で生み出され、太陽を模したと思わしき”影”目がけて襲いかかる。

 

 はずだった。氷塊が直撃する寸前で三日月型の"影"行く手を阻まなければ。

 

「そんな!反射された!?」

 

 男装の女神が放った氷の塊は軌道を逆方向に曲げ、少女達へとまっすぐ飛来する。

 

「にゃ!?こ、こっちに飛んでくるよ⁉︎」

 

「凛ちゃん危ない!」

 

 回避する余裕の無かった凛を寸でのところで穂乃果が抱えて跳んだ。氷塊は壁に突き刺さるも、誰も怪我をせずに済んだようだ。

 

「た、助かったにゃー……ありがとう穂乃果先輩!」

 

「すいません凛。私のせいであなたを危険に晒してしまいました。まったく、穂乃果ったらまたこんな無茶を……」

 

「えへへへ、体がどうしても動いちゃって」

 

 二人に手を差し伸べながらもバツが悪そうにしている海未に対し、穂乃果は朗らかに笑って応える。

 

「笑ってる場合じゃないわよ!あいつら今までの連中とは比べ物にならない強敵なんだから!また攻撃されたり反射されたりしたら堪ったもんじゃないわ!」

 

 三人を庇うように立ちながら、にこは吼えた。その先には相変わらず巨敵達が立ち塞がっている。

 

「あの二体は片方が回復を行い、もう片方が盾になって攻撃を無力化する役を担ってるんです!」

 

「ふん、化け物の分際でずいぶんと頭が回るじゃないっ!」

 

 花陽の解説を聞いたツインテールの少女、矢澤にこは苦々しげに吐き捨てた。

 今までにもこのように集団で襲ってくる敵は少なからず存在していた。しかし、それはあくまで多数の敵が単にばらばらに攻撃を仕掛けるだけの、数で攻めるしかしない本能のみで突き動かされた戦法しか用いていなかったはずだ。

 

 だが、この二体はそれらとは一線を画す程の能力を秘めている。それぞれが単体でも厄介なまでに高い攻撃力とタフさを誇り、かつ各々が相棒の弱点をカバーするかのように特殊能力を使用しながら立ち回るのだ。

 

 命を賭けた戦いの場で今まで目にしたことの無い連携を見せつけてくる。既に幾度も絶望的な死線を乗り越えてきたこのメンバーでも、経験したことのない恐怖を与える強敵なのは間違いなかった。

 

「どうすればいいの、かよちん⁉︎」

 

「そ、それは……」

 

 幼馴染に活路を問われ言い淀む花陽。

 

「地道に削っていくしないだろうね」

 

 花陽の代わりに答えたのは、瓦礫の山からフラフラとおぼつかない足取りで姿を現した少年だった。酷い怪我をしているようだ。顔と腕だけでなく、少女達と同じ柄のズボンと白のシャツを自らの血で赤く染めている。その出血量は素人目でも危険であると伺えた。

 

「静流先輩!」

 

「静流君!ダメだよ勝手に動いたら!傷が開いちゃう!」

 

 少女達の制止を押し退けて、少年は"影"と対峙する。

 

「心配してもらえて嬉しいけど、女の子達が必死に戦ってるってのに男の僕がこそこそと隠れてるなんてプライドが許さないんだよね」

 

「馬鹿なことを言わないで下さい!格好つけてる場合ではありませんよ!」

 

「なあに、傷は一応塞いだから大丈夫だよ。それに勝機も見えてきた」

 

 静流と呼ばれた少年は顔にこびり付いていた血を拭った。

 

「奴らの回復能力も万能じゃない。 見てごらん。あの三日月のようなシャドウは穂乃果ちゃんに付けられた傷が完治していない。つまりダメージは確実に蓄積されているってことさ。奴らの回復が追いつかない程までに、こちらの攻撃を叩き込み続けるんだ。そうなんでしょ花陽ちゃん?」

 

「は、はい……それしか方法はありません……」

 

「うん、花陽ちゃんが言うならきっと間違いないね。ありがとう」

 

 か細い声で答える花陽。そんな彼女に静流はにこりと微笑んだ。だが、出血のせいか、顔色が良くない。

 

「ですがマズイですね。このまま我慢比べを続けていても間違いなくジリ貧です。怪我を治癒する事に長けたことりが前線に不在のこの状況では、むしろ私達の方が先に力尽きる可能性こそ高いかもしれません」

 

「じょ、冗談じゃないわ!」

 

 一見冷静さは失っていないものの額の冷や汗を手で拭っていて明らかに焦りが見える海未の後ろ向きな予測を聞いて、にこの顔はどんどん青ざめていった。

 

「こんな所で死ぬなんてまっぴらゴメンよ!まだトップアイドルになってないってのに!」

 

「凛だって駅前のラーメン屋の新メニュー食べてないにゃー!」

 

 人智を超えた怪物と戦う術を持つとはいえ、つい最近まで平和な日常を生きていただけの少女達である。今世に対する未練は数え切れないほどあるのだ。死の恐怖を前にそれがつい爆発してしまったのだ。

 

「まだ諦めちゃ駄目だ」

 

 そんな浮足立つ少女達に喝を入れたのは、リーダーの穂乃果だった。

 

「今までだって何度も危ない目にあってきたけど、全部乗り越えてきたんだ!だから今度だってきっと大丈夫だよ!」

 

 全く根拠の無い自信だが、そんな彼女の持ち前の明るさに惹かれて少女達は集ったはずだ。暗く沈んでいた少女達に僅かだが希望の光が灯り始める。

 

「ぷっ、何言ってんのよあんた。こんだけヤバいってのに言い切れる度胸は尊敬に値するわね」

 

「ほんと穂乃果先輩の能天気さは羨ましいにゃー」

 

「ですが、実に穂乃果らしいです」

 

 仲間達がやる気を取り戻したのを確認した穂乃果は拳を高く掲げる。

 

「よーしっ!あのシャドウを倒して生きて帰る!そして、来週のオープンキャンパスも成功させる!絶対にだよっ!」

 

  しかし、穂乃果の鼓舞だけでは払拭出来ない懸念はいくつも残されている。

 

「で、でも……ことり先輩も希先輩も倒れてるし……真姫ちゃんと生徒会長さんは二人の介抱で手が離せないですし……」

 

 特に普段からネガティヴな思考の持ち主である花陽はそれらが見過ごせないようだ。

 

「彼女達の穴は僕が埋める」

 

 静流は自分の状態の惨状に反して、力強く言った。

 

「何を言っているのですか静流!あなたこそ治療が追いつかない程にボロボロで……」

 

「ペルソナチェンジ!ハイピクシー!」

 

 少年は叫ぶと同時に自分の側頭部を拳銃で撃ち貫いた。

 同時に掌サイズ程の小さな妖精が出現。静流の周囲をクルクルと回り始める。

 

「ことりちゃん程じゃないけど、回復なら僕も一応やれるからね。まあサポートは任せてよ」

 

 淡い光が静流を包む。一度は倒したかに見せた三日月の"影"を再生させた光と同質の物だ。良いとは言えなかった静流の顔色が若干改善される。

 

「にこ先輩、切り込み役よろしくお願いします。弱点を突くだけじゃあいつらを倒すまでには至らない。弱点属性を持たず、なおかつ直接攻撃力の高い先輩が鍵なんです」

 

「え?わ、私?にこが?」

 

「本当は僕が真正面から飛び込みたいんですけど、あいにく結構フラフラで。せいぜいサポート役が限界なんですよ」

 

 一瞬狼狽えていたものの、少年の意図を理解したにこは自慢気に仁王立ちしながら胸を張った。小中学生にも間違えられる程に小柄な体躯がコンプレックスである彼女が身につけた、自分を少しでも大きく見せる手段だ。

 

「ふふーん、あんたもようやくこのニコちゃんの凄さがわかってきたみたいね。いいわよ、やってやろうじゃない。ここまでコケにされて黙っちゃいられないわ。必ず奴らに後悔させてやるんだから!」

 

 所詮は空元気ではあるが、仲間達の知っているにこの余裕のある尊大な物言いが帰ってきた。先程から切羽詰まった表情しか見せていない彼女の様子に不安を抱いていただけに、皆が安堵の笑みを浮かべる。

 

「海未ちゃんと穂乃果ちゃんは防御姿勢をとって!君達はあいつらとは属性の

相性が最悪だからね。二人まで倒れたらもう後が無い。チャンスが来るまで待機を!」

 

「了解です!」

 

「うん、わかった。任せたよ静流君!」

 

にこは穂乃果と海未とは違い、心臓のある右胸に銃口を突きつけ、引き金を引いた。

 

「出撃よ!エウテルーペ〉!」

 

 青い光に包まれ、ミューズの一柱"エウテルーペ"がにこの人格の鎧として具現化される。巨大な馬車を操る少女の姿をしているエウテルーペは蹄の音を高らかに鳴らしながら、巨大な影に向かって勢いよく飛び込んでいった。

 己の現し身が標的目掛けて突進していくのを確認したにこは、愛用の得物である金属製のバットを握り締めて追従するように同じ標的へと駆け出していく。

 

「ったく、スクールアイドルやるはずが!なんで!」

 

 バットを勢いよく振り上げたにこの絶叫が、時の止まった夜の世界にて響き渡る。

 

「なんでこうなっちゃったのよおおおおおおおおお!!!!!!」

 



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2話

「珍しいな。ここに君みたいなお客人が来るなんて」

 

 そこはオペラやオーケストラの演奏会場を思わせる巨大な劇場だった。全てが青一色に染まった劇場の舞台の中央にはテーブルが置かれており、そこには一人の男が客席側に顔を向けて座っていた。いや、正確には女だと判断するには些か低い声で男と判断していた。なんせ男の顔には靄がかかっており、その容貌を判断することはできない。

 

「生者と会うなんて、いったいいつ振りなんだろうか。ここは本来契約を果たした者のみが訪れることができるはずなんだが、どうやら君は何の因果か迷い込んで来てしまったみたいだね。しかし、それもまた一興」

 

 来訪者は戸惑わずにいられなかった。何故ならこんなところへ来た記憶が無い。そもそも自分は音楽や演劇の類に関心を全く抱いていないのだ。だから来る理由さえ持たない。

 にもかかわらず、来訪者はここにいる。

 

「ようこそベルベットルームへ。ここは夢と現実、精神と物質の間にある場所。って、小難しいことを言っても仕方ないかな。まあゆっくりしていってくれ」

 

 目の前の男は自分の言いたいことだけを一気にまくしたてると、今度は手元に置かれたカードの山をシャッフルし始めた。

 

「うん。早速だけど、君の運命を占わせてくれないかな」

 

 なんだいきなり。それよりここはどこなんだ?

 そんな不満を目の前の男にぶつけようとしてようやく気付いた。

 声が出せない⁉︎

 

「ふふふ、そう邪険にしないでくれ。俺も久々に今を生きる人間と話が出来て嬉しいんだ」

 

 何も喋っていないはずなのに男はまるで全て聞こえているかのように振舞っている。そんなはずはない。さっきから声を発することが叶わないのだから。

 いや、声だけではない。自分がどうなっているのか周囲を確認しようと試みたが、手も、足も、口も動かない。そもそも今の自分は呼吸をしているのか?

 

「ここは心の海と繋がる、人の思いが流れ着く場所なんだ。君の魂は肉体から離れ、この場所へと辿り着いた。ここでは言葉という形で口にする必要は無い。ただ想うだけでいい。たったそれだけで君の思いが俺の中に伝わってくるよ」

 

 戸惑う来訪者を尻目に、男はテーブルの上に並んだカードを一枚一枚めくっていく。その度に男は眉根を寄せて低く唸る。最初に出てきたのは時計の絵柄のカード。その下には『FORTUNE』の文字。

 このカードには覚えがあった。実物は所有せずとも、誰しもが一度は目にした記憶はあるだろう。いわゆるタロットカードだ。

 

「……ふむ、どうやら君は近い内に特別な出会いを経験するようだ」

 

そして続けて表になる、炎を掲げる男、杖を構える楚々とした女性祭司、ハートマークの下で見つめ合う一組の男女の絵柄がそれぞれ描き込まれた三枚のカード。

 

「それは物語の中心に立つ『魔術師』、そしてその両側で寄り添う『女教皇』と『恋愛』……か。ずいぶんと素敵な出会いみたいだね」

 

 配置したタロットカードを全て表にした男はにこやかに笑っていた。

 

「さあ、今日はこれでお別れだ。また会える日を楽しみにしているよ」

 

 視界が白く染まっていく。同時に男の声も徐々に遠くなっている気がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「起きなさい天宮君。朝ごはん出来たわよ」

 

「はい!」

 

 少年の記念すべき日は部屋中に響き渡る程の発声から始まった。その勢いでベッドから跳ね起きる。

 

「またあの夢……」

 

 大量の段ボールに囲まれたベッドの上で、天宮 静流はポツリと呟く。あの奇妙な青い劇場ではなかった。カーテンから漏れる日光の心地良さを感じながら、視線を声の聞こえた扉の方へと向ける。

 

「……い、いきなりどうしたの?まあ、いいけど」

 

 突然の大声に扉の向こうにいる少女が面食らっているようだが、夢の話をしたところで仕方ないだろう。それよりも待たせるのは悪いとベッドから身体を起こした。

 覚醒を迎えたばかりでイマイチ働かない頭をポンポンと叩きながら意識を現実へと戻していく。しばらくして視界がクリアになった静流はおぼつかない足取りで自室のドアを開く。

 その先にはブレザーとスカート姿の少女が待っていた。

 

「おはようございます絵里さん」

 

「おはよう」

 

 二人は軽く挨拶だけ済ませるとリビングへ向かった。テーブルには三人分のトーストとオニオンスープ、そしてコーヒーが並べられてある。

 

「すいません絵里さん。昨日はなんだか寝付けなくて」

 

「慣れない土地に来たんだもの。誰だって最初はそうでしょうね。私も日本に来たばかりの頃はそうだったからわかるわ」

 

 合間にコーヒーを少しずつ口に含みながらポニーテールの少女、絵里は言った。

 

「だけど、今日から学校が始まるのだからいつまでも四の五の言ってられないわよ。今日だけは遅めの登校で済むけど、明日からは通常の時間で家を出てもらうわ」

 

「はい、以後気をつけます」

 

 そこで会話は途切れる。黙々とスープを口に運び続ける二人。スプーンが食器を突く音と、テレビに映ったアナウンサーによる淡々としたニュースの読み上げのみがBGMとなる。

 

『今日未明、千代田区内の高校に通う17歳の少女が、秋葉原駅内にて意識不明の状態で発見されました。警視庁は今回の事件も、都内各所で発生している謎の連続昏倒騒動と関係していると見ており……』

 

「……これってやっぱり……」

 

 ニュースの内容は、多くの人々にとっては恐ろしいという印象はあれど、あくまで日常を揺るがすレベルではない些細な事件にしか映らないだろう。しかし、この二人のテレビを見る目は、『他人事』に対するそれではなかった。

 

「でしょうね。確証は無いけど。理事長もおそらくそうだろうと仰ってたわ」

 

 そう言うと絵里は残っていたコーヒーを最後まで一気に飲み干した。

 

「四月に入ってから急に増えてますよね。だとしたら今すぐにでも僕達がやるべきことは……」

 

 絵里はその問いは答えず、静かに口元をティッシュで拭いた。

 

「この件に関しては、明日理事長が出張から帰り次第話があるそうよ。あの人も今回は手をこまねいて見てられないってことね。それまでは焦らずに待機して……」

 

 ギィィ

 

 二人の会話に挟まるようなタイミングで、ドアがゆっくりと開いた。

 

「お姉ちゃん、おは……あ……」

 

 絵里を小さくしたかのような容姿を持つ少女がリビングに現れる。戸惑うもう一人の同居人の登場に対し、静流は自分なりの微笑みで返した。

 

「やあ、亜里沙ちゃん。おはよう」

 

「お、おはようございます……」

 

 パジャマ姿の少女、絵里の妹である亜里沙は静流が声を掛けた瞬間ビクッと震えたようだった。亜里沙は伏せ目がちに歩きながら、自分の朝食が並ぶ席に座った。

 

「亜里沙、私は生徒会の仕事があるからもう出るからね。朝食はあなたの分も用意してあるわ。家を出る時は戸締りお願い」

 

「あ、はい。お姉ちゃん」

 

「じゃあ天宮君。また学校で」

 

 身だしなみを整えた絵里は早々と家を出て行った。取り残された亜里沙と静流は再び手元のスープを消費し始める。

 

「……」

 

 しばらくは二人とも無言で朝食を突いていたが、この空気に耐えらえなくなった静流は口を開いた。

 

「亜里沙ちゃんは偉いね。もしかして片付けや戸締りはいつも自分でやってるの?」

 

「は、はい……お姉ちゃんはいつも忙しいので迷惑を掛けるわけには……いかない……ですから……」

 

「なるほどね」

 

 最後の方は殆ど消え入るようなか細い声だった。結局、その後の会話は続かない。

 先に食べ終えた静流は制服に着替えて身だしなみを整える。リビングに戻ってきた時には亜里沙も食べ終え、片付けを始めていた。

 

「僕も手伝うよ。まだ時間に余裕はあるし」

 

 静流としては、決してやましい思いがあるわけではなく、少しでも警戒心を緩めて欲しい一心で提案したのだが、当の亜里沙から受けたのはより過剰な拒絶だった。

 

「いえ!け、結構です!亜里沙一人で大丈夫ですから!天宮さんは先に学校に行ってて下さい!」

 

 そそくさとスープの容器を抱えて炊事場へと小走りで駆けて行く。流石にここまで警戒されていると何か粗相でもしていたのかと本気で悩まざるをえなかった。

 

「……うーん、伝達力でも足りないのかな?絵里さんに相談した方が良いかな?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 東京都千代田区の秋葉原、神保町に挟まれたこの下町地域には、戦前から続く古い街並が残っている。東京という最新のビル群が並ぶ大都会のイメージはそこに無く、映画のセットの如く古めかしい一軒家が所狭しと続くその光景は良くも悪くも時代から取り残された下町の風情に溢れているのだ。

 

「お台場の人工島とはずいぶんと違うな」

 

 合理性からかけ離れた町の造りは道の狭さと階段の多さとなって通学を些か不便なものにしている。つい最近までモノレールや水平式エスカレーターといった最新の設備がいくつも整っていた環境にいた静流にとっては苦痛なはずだ。

 しかし、新鮮な風景と心地良い春風が与える癒しはそんな不満を掻き消している。

 

「穂乃果ちゃん!急がないと遅刻しちゃうよ!」

 

「ま、待って二人共!もう、もう息が……切れ切れで……走るのもう無理……」

 

 静流と同じデザインの青いブレザーを身に纏った三人の少女が前方の階段を駆け上っている。

 

「まったく……新学期が始まって早々に寝坊するだなんて呆れて物が言えませんよ。ほら、しっかりしてください」

 

 向かっている方向も同じ。間違いなく静流や絵里と同じ『音ノ木坂学院高校』の生徒だろう。転校初日ゆえに通常より遅い時間での登校となっている静流と違い、在校生達は定められた時間が迫っているはずだ。他にもチラホラと同じ制服に袖を通した少女達を見かけるが、皆一様に駆け足気味である。

 

「ありがとう海未ちゃ……へばぁっ!」

 

 三人組の中で一番後方にいた少女が階段を踏み外して派手に転倒した。

 

「ほ、穂乃果ちゃん!?」

 

「ちょ……大丈夫ですか!?」

 

「はいほーふだよ〜」

 

「ちっとも大丈夫じゃないでしょう。どうぞ、肩に捕まってください」

 

 少し心配になったが、ちゃんと意識はあるようだ。それに他の二人が駆け寄って世話を焼いている。静流の出番は無いだろう。

 

「そっとしておこう……」

 

 三人を尻目に静流は絵里から聞いていた通学路をマイペースに歩む。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 事前に教えられていたルートを辿って目的地に到着した静流は思わず感嘆した。学校前の規則的に並んだ道路と桜並木の組み合わせはどこを切り取っても美しい光景で、思わず写真に収めたくなってしまう程だ。

 

「来たわね」

 

 そして、桜並木が続いた先にある階段の前には知っている顔がいた。先に家を出た同居人の絢瀬 絵里だ。

 

「すいません。なんだかお待たせしちゃったみたいで」

 

「気にする必要は無いわ。別に遅れたわけでもないし、転入生に校内を案内するのも生徒会長である私の仕事なんだもの」

 

 二人は共に歩み始める。階段を登った先にあるのはこれから静流通うことになる校舎。

 

「これは……」

 

 正直驚いた。()()()()()()()とは違い、レンガ造りの校舎は目新しさこそ無いが、伝統校を名乗るに相応しい威厳を放っている。

 校庭、講堂などの設備を含めても、規模は前にいた学校に及ばないかもしれないが、日本有数の財団が経営する新設校と比べるのは酷だろう。比較対象が『平凡な公立女子校』という立ち位置なら逆にこの学校を上回る所がそうあるだろうか?

 

「どうかしら?まあ、確かに、あなたが前にいたところに比べれば小さいかもしれないけど」

 

「いえ、ただその……近々廃校になるかもしれないと聞いていたから……」

 

 古びたオンボロ校舎を想像していた静流は、絵里の前ながらつい動揺してしまう。

 むしろ、これだけ立派な校舎を備えていながら、生徒が全く集まらず廃校の危機が迫っているというのが不思議でならなかった。

 

「もっとうらぶれてて、見すぼらしいと思ってた?正直ね」

 

 絵里は仕方ないと言わんばかりに肩を竦める。

 

「あいにく我が音ノ木坂学院は私が、いえ、私達が誇るとても素敵な学校なのよ。生徒会長である私が何一つ恥じる点なんて無いくらいにね!」

 

 後ろ姿ゆえに表情は確認できないが、正面からは笑顔を見れるであろう程の弾んだ声だ。絵里を何事にも冷淡でクールな少女だと思い込んでいた静流は、彼女の知らない一面に目を丸くした。

 

「ここが今日からあなたの学び舎になります」

 

 先を歩んでいた少女は桜の花びらが舞い散る中で、ポニーテールを揺らしながら振り向いた。

 

「ようこそ、国立音ノ木坂学院高校へ。生徒会長として、新しい学友となるあなたが有意義な学生生活を送れることを祈っています」

 

 絵里はニコリと微笑みながら手を差し伸べてくる。握手を求められているのはわかるが、静流にはどうにも彼女の雪のように白い手を握り返すのが躊躇われた。

 

「……なんだか視線が痛いです」

 

「仕方ないわよ。だって我が校初の男子生徒なんだもの。まあ、いずれは彼女達も慣れるでしょ」

 

 そこまで言われて静流はようやく絵里の手を取り、握手を行った。

 一段と視線の量とそれに込められた感情が強くなった気がした。

 

「さあ職員室に行きましょうか。今からあなたが編入するクラスの担任の先生が待っていらっしゃるわ」

 

 自分に向けられる感情は好奇心が大半だとは思うが、その中にはチラホラ異物に対する拒絶心が混じっているような気がしてならなかった。



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3話

「ねえねえ、聞いた?今朝見つかった意識不明の女子高生ってさあ、UTXの子なんだって」

 

「それマジ?秋葉原で見つかったって話だからもしかしてって思ったけど、実際すぐ近くで事件起きたならあたしらもヤバくない?」

 

「マジだと思うよ。だってUTX通ってる友達がLINEで言ってたもん。これだと、うちの学校から被害者出るのも時間の問題かもねえ」

 

「うっわ、こわ〜」

 

 教室内が『噂話』で話題が持ちきりになる中、三人の少女達はいつもと変わらぬ日常を送っていた。

 

「ふわああぁぁ……なんとかギリギリ間に合ったよ〜」

 

「ほんっとうにっギリギリでしたね!」

 

 だらしなく机に顔を突っ伏している穂乃果を腕を組んだまま睨む海未。

 

「私達ももう2年になったのですから、そろそろ節度のある生活を心掛けましょう。でなければ新入生に示しがつきませんよ!今日という今日こそはその不摂生ぶりを改めてもらいます!」

 

 鼻息を荒くしている海未だが、幼い頃より彼女の度重なる説教を受け続けてきた穂乃果としては、この幼馴染の変わることのない口うるささには正直うんざりしていた。

 

「えー?海未ちゃんと違って私は部活入ってないんだし、1年の子とはあんまり関わりないと思うんだけどー。それくらい大目に見てよ〜」

 

「ダメです!」

 

 不満たらたらで口を尖らせている穂乃果をビシッと効果音が出そうな程にキレのある動きで指差した。

 

「その気の緩みこそが!あなたを怠惰へと導いているのです!新学年では心機一転で気持ちを引き締めないと!それに新入生だけではなく、このクラスには今日から転校生も編入してくるのですよ。私達は新しい学友のために模範となるべきであってですね!」

 

「まあまあ。海未ちゃん落ち着いて」

 

 口喧嘩が止まらない二人の間に入って仲裁役を担うことりは、長年続いているこの光景に苦笑いせざるをえなかった。

 

「はいはい静かにー!さっさと席座りなさいよー!」

 

 担任が手を叩きながら教室へと入ってきた。

 

「噂に聞いてた人もいるだろうけど、今日からうちのクラスに転校生がやって来るから」

 

 この発表に教室内の騒めきは静まるどころかより酷くなってしまった。

 

「ほら静かしなさい。ちょっと特殊な事情で来てる子だから、みんなも出来る限りサポートしてあげなさいね。じゃあ入ってきて」

 

 さっきまでお喋りに夢中だった女子生徒達も、今度は皆が固唾を飲んで見守っている。やがて、教室のドアがゆっくりと開かれた。

 現れたのは少女達と同年齢と思わしき男だ。少年は黒板に自分の名前をチョークで書き込むと、その赤い瞳を新たなクラスメイト達に向けた。

 

「港区お台場の月光館学園高校から転入してきました。天宮 静流です。今後ともよろしく」

 

 少年が教壇に立って自己紹介を済ませた途端、教室にガヤガヤと喧騒が戻ってきた。無理もない。『廃校の危機』とその対策としての『共学化』の話題は度々生徒の間でも取り沙汰されていたが、実際にこの少年がやって来る今の今まで現実味を持っていなかったのだ。

 女子校故に、少なくとも入学以来縁の無かった同世代の男性という異分子の突然な登場に、戸惑い、畏怖、期待、不満、様々な感情が教室中に充満しているのが窺える。

 

「しーずーかーにー!彼は共学化のテストケースとして色々大変なこともあると思うの。男だからってなるべく距離を取らずに仲良くしてあげなさい。えっと席は……高坂さんの前が空いてるわね。そこ行きなさい」

 

「え?私の?」

 

 前触れも無く槍玉に上がった穂乃果は、キョトンとしながら自身を指差す。

 

「そこの席の人は始業式前にUTXに転校しちゃったからね。問題無いでしょ。そんじゃ後はよろしく」

 

 戸惑う穂乃果をよそに担任の教師は早々と話を進めて教室を出ていく。どうやらこのお見合いに失敗し続けていると噂されているアラサー女教師にとっては既に確定事項らしい。担任がいなくなったことで喧騒が完全に帰ってきた教室の中で、少年もスタスタと迷いなく指示された席に向かう。穂乃果に拒否権は一切無かった。

 

「やあ、どうも」

 

「どうもどうもー!私、高坂 穂乃果!よろしく!」

 

 もっとも、幼少期より物怖じしない性分の穂乃果にとって戸惑いこそあれど、この少々特殊な新しい同級生も既に受け入れられた存在のようだ。未知の環境に放り込まれたも同然の転入生にとって、ある意味最も幸運な席位置だったのかもしれない。

 新天地にて自分の居場所を得た少年は、穂乃果の顔をしばしジッと見つめた後、納得したようにポンと手のひらを叩いた。

 

「……君、今朝階段で派手に転がってた人だよね?」

 

「え?天宮君見てたの⁉︎」

 

 今の穂乃果は登校時に自分がバランスを崩して転倒した際の光景がフラッシュバックしている。

 

「うん、ばっちり。すってんころりんて感じで。なんだかずいぶん元気な人だなーって」

 

「あ、あれを見られていたのですか……なにやら私の方が恥ずかしくなってきました……」

 

「あははは……」

 

 片や顔を羞恥で赤らめ、片や苦笑いする穂乃果の幼馴染達。当の本人はというと、なんてことないと言わんばかりにケラケラと笑っている。

 

「そう思う?なんせ元気は私の取り柄だもんね!」

 

 このポジティブシンキングこそがこの少女のアイデンティティであると周囲は認識している。

 

「元気があれば良いというものではありませんよ。まったく……」

 

「そんなことないよ。僕は逆に周囲から無気力だとか覇気が無いだとか散々に言われてるからね。高坂さんの溢れんばかりのパワーは羨ましいくらいかな」

 

「そうなのですか?いつも一緒にいる私としてはもう少し落ち着いてもらいたいのですが……」

 

 怪訝そうに尋ねる海未に反して、褒められたと思っている穂乃果はキラキラと目を輝かせている。

 

「ねえ、聞いた海未ちゃん!私が羨ましいんだって!」

 

「……すいません。この子はおだてるとすぐに調子に乗ってしまうのです。天宮君もあまり甘やかさないであげて下さい」

 

 まだ出会ったばかりだというのに、転入生相手に早くも穂乃果らしさを全開で発揮している様に呆れ果て、眉を吊り上げる。

 

「うーん、でも、彼女を見てると親友のエリザベスを思い出すんだよね。だからつい……」

 

「エリザベス?私が?もしかして外国人さん?」

 

「なんと……穂乃果のような外国の方がいるのですか?」

 

 少年は首を横に振りながら肩を竦めた。

 

「いや、犬だよ。昔住んでた家で飼ってた子犬のセントバーナード。ほんと元気な奴だったよ。姉のマーガレットや弟のテオドアと一緒によく遊んでてね。今はどうしてるかなあ……」

 

「「「犬?」」」

 

『ワンワン!ワンワン!海未ちゃん!ことりちゃん!穂乃果と一緒に遊ぼっ!ワンワン!』

 

 三人の脳内には骨を咥えながら犬耳と尻尾を揺らす穂乃果の姿が浮かんでいた。

 

「わ、私が犬みたいだなんて……天宮君、酷いよー!」

 

「でも、穂乃果ちゃん可愛くて似合ってるよ」

 

「こ、ことりちゃんまで……!」

 

「元気で人懐っこいところがエリザベスに似てるって意味だよ。君が犬そのものにそっくりってわけじゃないから気にしないで」

 

「あ、なんだそっかー。じゃあ安心だね」

 

 静流はしばし思案すると、突然穂乃果に手のひらを差し伸べた。

 

「おてっ!」

 

「わんっ!ってだから私は犬じゃないからー!」

 

「いや、どう見ても犬だね」

 

 お手に反応したのが面白かったらしく、微妙に口の端を吊り上げている。

 

「穂乃果ちゃんもなんだかんだで結構ノリノリだよね……ってあれ?海未ちゃん?さっきから顔を押さえてどうし……海未ちゃん⁉︎」

 

「ぐ……ぶほ……」

 

 苦笑いしていたことりは幼馴染の姿を見て思わず素っ頓狂に叫んでしまった。両手で顔を覆い隠す海未の指の隙間からはポタポタと鮮血が滴り落ちているからだ。この光景には穂乃果も思わず顔を引きつらせている。

 

「海未ちゃん……は、鼻血……」

 

 海未は顔を下に背けたまま、救いを求めるように真っ赤に染まった左手で宙を切る。

 

「ず、ずいまぜん。だ、誰か……ティッジュを……。犬の姿になっだ穂乃果を想像じでいたら……急に溢れてぎで……」

 

 顔が引きつらせたまま動けない幼馴染二人に代わって救いの手を差し伸べたのは、静流だった。表情を変えず、何も語らず、ポケットから携帯ティッシュを一つ取り出して海未にそっと渡す。

 

「はい、どうぞ」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 鼻血を全て拭き終わった海未は、何事も無かったかのような澄まし顔で胸に手を当てる。

 

「そういえば自己紹介が遅れましたね。私は園田 海未と言います。これからよろしくお願いします」

 

 落ち着きのある凛とした佇まい。長い黒髪をなびかせるその姿はまさに、校内にて同性の少女達からも人気を得ている大和撫子の称号に相応しいものだった。

 

 鼻の穴からほんの少し、たらりと出ている鼻血さえ無ければだが。

 

「どうぞよろしく。ああ、ちなみにティッシュのお礼は結構だから」

 

「ご、後生です!お願いします!さっきのはどうか忘れてください!どうか!」

 

 必死に何度も頭を下げる様はクールなイメージから程遠い。二人のやりとりがあまりにもおかしかったのか、海未の後ろに座っている少女はクスクスと笑う。

 

「南 ことりです。穂乃果ちゃんを含めた私達三人は幼馴染なんですよ」

 

「へえ。そうなんだ。もしや家もこの近辺なのかな?」

 

「うん!小さい頃から二人とはいつも一緒!幼稚園も小学校も中学校も同じ音ノ木坂なんだー」

 

 にこやかに答える穂乃果。学校の少ない田舎の僻地ならともかく、仮にも都会で一貫教育校でもないのに仲良し幼馴染グループが高校まで同じというのはかなり珍しいケースではないだろうか。

 進路を揃える程に、この三人は強い絆で結ばれているのが見てとれる。

 

「なるほどね。幼馴染か……」

 

 静流は手のひらで顎を撫でる。考え事をする際の彼の癖だ。

 

「天宮君だってそれくらい仲の良い友達いるんじゃないの?結構気さくでなんだかとっても優しそうだし!月光館学園て生徒がいっぱいいるんでしょ!」

 

「そう言えば月光館学園はかなり規模を誇り、港区では生徒数もトップの新設校だと聞いていますが……」

 

「あー!そういえば雪穂が集めてた学校紹介のパンフレットに載ってたの覚えてるよ!なんかすごく綺麗な校舎の写真があったような気がする。確か教室から海も見えるんだよね!」

 

「え?私が見えるのですか?」

 

「違うよ〜。海未ちゃんじゃなくて本物の海だよ〜」

 

 話が脱線する中で、当の静流は浮かない顔をしていた。

 

「うーん、なんせ月光館学園ってエスカレーター式の一貫教育校だからね。僕のように高校から入った人間はちょっと浮いちゃうんだよ。結局あそこにも1年しか通わなかったし」

 

「『あそこにも』?もしかして天宮君て……」

 

「うん、御察しの通り、小さい頃から転校を繰り返してるよ。いわゆる転勤族とはちょっと違うけど」

 

 静流はあくまで笑ってはいるが、歯切れの悪い口調で答えた。

 

「僕って両親がいないから、高校で寮に入る前は親戚の家を転々としてたんだ」

 

 身の上話を告白された穂乃果達の表情に翳りが射した。

 

「ご、ごめん……」

 

「なんだか悪いことを聞いてしまいましたね……」

 

 穂乃果達は三人共両親は健在であり、今のところ家族関係に悩みも抱いていない。肉親の不在という経験の無い彼女達にとって静流の家庭環境の過酷さは想像の域を出ないが、それが決して恵まれたものではないことだけは推測できた。

 思わぬ暗い話に、気が滅入って沈んでしまう。感受性の豊かさゆえか、想像以上に落ち込んだ三人の姿に、静流は余計なことを言わなければ良かったと逆に申し訳なさそうにしている。

 

「あー……気にしないで。親戚の人達には可愛がってもらったから別に嫌な思い出ってわけでもないし、色んな土地に行けたのはなかなか楽しかったよ。それに、友達はまたこれから作っていけばいいだろうし」

 

「そ、そうだよ!さっそく私達三人が友達になったわけだしね!」

 

 前向きで明るい穂乃果らしく、自分にも言い聞かせるように両手を握りしめてる。

 

「うん、今まで寂しかった分、この学校で埋め合わせすればいいと思うな」

 

「私も同じ気持ちです。正直言って男性の方が転入するらしいと聞いた時は戸惑いも大きかったのですが、あなたを見る限りどうやら杞憂になりそうです。共により良い学校生活を送れるように励みましょう」

 

「……君達優しいんだね。転校して最初に相手をしてくれたのが君達で良かったよ。まだ初日だけど、おかげで素晴らしい学校生活が送れそうだ」

 

「この学校に来て良かったと思うのはこれからだよ!」

 

 穂乃果はフフンと自慢げに胸を張った。

 

「音ノ木坂学院はとっても素敵な学校なんだよ!この学校の魅力、天宮君にも全部教えてあげる!」

 

 学校の自慢話をしながら朗らかな笑みを浮かべるその姿に、登校時の絵里の姿が重なって見えた。

 

「ははっ、まるで絵里さ……生徒会長さんみたいな事言うんだね」

 

「生徒会長も?へえ、あの人も音ノ木坂が大好きなんだ!」

 

「こら!静かに!授業を始めるわよ!」

 

 気がつけば授業開始のチャイムが鳴り響く時間になっていた。

 厳しいと評判の英語教師の登場に、クラスの皆が慌てて教科書を開いていく。初めて音ノ木坂学院の授業に参加する静流も周りに合わせて同じ教科書を鞄から引っ張り出した。

 

 少年の新たな学校生活が、今始まる。




他のラブライブ二次創作さんが主人公をボケキャラの多いμ'sに対するツッコミキャラとしてることが多いようなので、本作はあえて穂乃果ですらツッコミサイドに回ってしまうくらいのボケキャラにしていこうと思います。
歴代愚者アルカナ達も天然ボケですし。


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4話

「はあ〜、まさか翻訳で当てられるとは思わなかったよ〜ついてなーい」

 

 一時限終了のチャイムが鳴り響く中、穂乃果は背もたれに寄りかかってギシギシ言わせながら不平不満を並べていた。

 

「あんなあからさまに居眠りをしていたら白羽の矢が立って当然です。自業自得以外の何物でもありませんよ」

 

 両耳を塞いで聞こえない振りをする穂乃果。逃げの体勢の入ったのが気に食わない海未は、もっとキツいお灸でも据えようかと言わんばかりに睨みつける。際限無い口喧嘩が始まるのを見かねたことりは少々露骨ながらも話題を逸らすことを決めた。

 

「そ、それにしても天宮君凄いよね。まさか初日で当てられて即答出来るなんて」

 

「まあ、あの程度の文章だったら予習無しでもわかるよ」

 

 前にいた学校のカリキュラムが音ノ木坂よりも多少早いペース配分で組まれているのも幸いした。私立から国立の音ノ木坂学院へ移ると勝手が違わないか不安もあったのだが、少なくとも勉強について行けないという情けない状況はなんとか避けれそうだ。

 

「へー、じゃあさ!今度私が当てられたらこっそり教えて〜」

 

「ダメです」

 

 悪徳商人を彷彿させる動きで両手を揉みながら静流に擦り寄る穂乃果を海未はばっさり斬った。

 

「な、なんでそこで海未ちゃんが断るの!」

 

「よりにもよって転入生を頼ろうなどと不埒な考えを抱いたからです。新しい環境に不慣れゆえに遠慮がちになっている弱みに付け込むような真似は許しません!」

 

「そんなんじゃないよ!」

 

 結局こうなってしまうのか。穂乃果の大雑把すぎる気質と海未の気難しさに苦笑いせざるをえないことり。いつものこととはいえ、どうやって二人を抑えようかと逡巡する。

 そんな時、教室の扉が勢いよく開かれた。

 

「ねえねえ!これから緊急の全校集会だってさ!なんか理事長から大事な話があるんだって!」

 

 各々穏やかな時間を過ごしていたはずが、途端ざわざわと教室内が色めき立つ。突然のことに戸惑う者。不安を吐露する者。中には授業が一コマ潰えたことに歓喜する声もある。

 

「ことり、何か聞いてましたか?」

 

「ううん、お母さんは何も言ってなかったよ。というより、昨日出張から帰ってきてからずっと一人で考え事をしてるみたいで、全然口もきいてないの」

 

「お母さん?」

 

 状況が飲み込めない静流に、穂乃果は種明かしするように答えた。

 

「ふふーん。何を隠そう、この学校の理事長先生はことりちゃんのお母さんなんだよ!」

 

「へえ。そういえば苗字一緒だし、見た目も似てるような気がするね」

 

 静流の頭の中では転校前に幾度か顔を合わせた音ノ木坂学院の理事長の姿が思い起こされていた。言われてみれば、確かに目の前の少女は理事長を小さくしたような雰囲気を持っている。おっとりとした印象を与えるタレ目に、薄い色の地毛。そして、頭頂部に存在する謎のトサカ。

 むしろ今思えば、この圧倒的存在感を誇るトサカを目にしながらことりと理事長の血縁を何故疑わなかったのだろうか。

 

「しかし、わざわざ全校集会を開いて理事長自ら伝達するとは、一体どのようなお話なのでしょうか?」

 

 狐につままれたような表情で首を傾げる海未。その疑問は教室にいる誰もが抱えているものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「う、嘘……やっぱり夢じゃない……」

 

「穂乃果ちゃん……海未ちゃん……これ……廃校って……」

 

「つまり……学校が無くなる、という事ですね……」

 

 全校集会で理事長からとある重大発表が行われた後、その内容がにわかに信じられなかった四人は教室前に貼り出された貼り紙を見て改めて目を丸くしていた。

 

「おいおい、いくらなんでも冗談きついなあ……」

 

 太くわかりやすく書かれた『廃校』の二文字が冷徹に心へ突き刺さる。

 全校集会にて理事長が発表したのは、来年度の入学希望者が定員を下回った場合には現一年生の卒業と同時、すなわち丁度三年後には音ノ木坂学院を廃校にするというものだった。

 

「ああ……」

 

 一番顔を近づけて食い入るように貼り紙を見つめていた穂乃果は、力が尽きたように倒れ込む。両端にいた海未達は慌てて支える。

 

「穂乃果!?大丈夫ですか⁉︎」

 

「穂乃果ちゃん!?しっかりして!」

 

「わ、私の……私の輝かしい……高校生活が……」

 

 穂乃果が意識を手放した瞬間、倒れぬように海未達が全力で支えていた彼女の体が急に軽くなった。

 

「まったく……卒倒したいのは僕の方だよ」

 

 転校初日にして転入先の廃校が決まってしまうという前代未聞のイベントを経験した静流は、完全に気を失ってしまった穂乃果を二人の代わりに抱えながらため息を吐いた。横で見ている海未達としては、一見ひ弱そうな少年がまだ女子高生とはいえ人一人を抱える光景に不安を抱いたわけだが、当の静流は何食わぬ顔で二人に背を向けて歩き出す。

 

「彼女は僕が保健室に運んでおくから、二人は僕が次の授業には遅れるって先生に伝えておいてくれないかな。ああ、保健室の場所なら朝来た時に教えてもらってるから大丈夫だから」

 

「は、はい。分かりました。ありがとうございます」

 

「天宮君、穂乃果ちゃんをよろしくね」

 

「雪穂〜お母さん〜、もう餡子は飽きたよ〜」

 

 肩に抱えられた少女は未だに意識の無いまま、パンだのケーキだの奇妙な寝言を呟いている。なんだかんだで穂乃果にはまだまだ余裕があることに安堵した静流は、廊下で通り過ぎる度に浴びせられる女生徒達の視線に耐えつつ保健室へと向かうのだった。

 

「ほんと大丈夫なのか、この学校?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いやー今日もパンが旨いっ!」

 

 中庭の大木の下で、所謂ランチパックと呼ばれる類の惣菜パンにかぶりついた穂乃果は満足そうに頷いた。

 

「太りますよ」

 

 ジト目で海未が言う。穂乃果はそんなことはお構い無しといった様子で、にこやかな笑顔を浮かべたまま最後の一欠片を丸呑みした。年頃の少女らしかぬ豪快な食べっぷりには海未も呆れてしまっている。

 

「だけど、穂乃果ちゃんも元気が戻ってきて良かったよ」

 

「それはそうかもしれませんけど」

 

 海未とは逆に嬉しそうにしてることり。

 廃校決定の報には失神してしまった上に、意識が戻った後も涙目で編入試験がどうのこうのと見当違いの心配ばかりしていた穂乃果だが、今はしっかり元気を取り戻しているように見える。

 

「いいじゃん、これくらい別にー。天宮君なんて、ほら」

 

ズルズルズルッ!ズルズルズルズルッ!ズルッ!ズルズルズルズルッ!

 

「「「……」」」

 

ズルズルズルズルッ!ズルズルッ!ズルズルッ!ズズッ!

 

「ぷはー!あー食べた食べた!」

 

 噂の転校生といえば、三人の隣でカップ麺一つを派手な音を立てながら空っぽにしていた。

 

「いやー陽の光を浴びながら食べる緑のたぬきは最高だね」

 

 元来、少食の女性しかいなかったこの学校では、豪快にカップ麺を平らげる大食いの男子という存在はあまりにも異質であった。男だからか食べっぷりが凄いからなのか、どちらが一番大きな原因かは不明だが、先程からあちらこちらからの視線を側にいる穂乃果達もセットで受けている。

 この学校に友人が全くいない彼を気遣って一緒の昼食に誘ったわけだが、今は若干の後悔が生まれ始めていた。

 

「さあ、次は赤いきつねだ」

 

 隅に置いていた、大きな油揚げの入っていることで有名なインスタント麺を膝に乗せた。

 

「……天宮君もちょっと食べすぎだと思いますよ」

 

 いくら成長期の男とはいえ、カップ麺を二つも食べれば摂取カロリー量も膨大になるだろう。

 

「大丈夫大丈夫。僕って燃費悪くてこれくらい食べてないと耐えられないから」

 

 片手をヒラヒラと振りつつ、膝の上に乗せた二つ目のカップ麺の蓋を外す。

 沸き起こる湯気をふーふーと息を吹きかけながら、麺と割り箸を絡ませ、ほぐしていく。辺り一帯に鰹節出汁の香りが広がった。

 

「まあ、でも良かったよ。一応僕らが卒業するまでの間は廃校にならないんだから。高坂さんも転入先を探さずに済みそうだし。僕だって転校初日で新しい受け入れ先を探さなきゃいけないとか笑えない冗談は遠慮してもらいたいしね」

 

 そう言いながら、きつねうどんの代名詞である油揚げを楽しそうにパクッと一飲みした。どうやらチャーシューに代表される料理に盛られた具材は先に食べてしまう派らしい。

 

「それに、まだ正式に決定したわけじゃないでしょ」

 

 廃校はあくまで暫定的な決定であった。もしも、来年の入学希望者が定員を超えるなら即時の廃統合は撤回される予定だからだ。

 しかし、静流を除く三人の表情は暗い。

 

「でも、正式に廃校が決まったら次の一年生は入ってこなくなって、来年は二年と三年だけ……」

 

「今の一年生は後輩がずっといないことになるのですね……」

 

 おまけに廃校を回避する唯一の手段である、入学希望者の増加は決して楽な道のりではない。そもそも長年の間に渡る新入生の減少に悩まされていたから廃校が決まってしまったのであって、それが今さら一年で解決するなど困難な話である。

 

「そっか……」

 

ズルズルッ!ズルズルズルズルッ!

 

「ちょっと天宮君ー!一応シリアスな話してるんだから雰囲気ぶち壊さないでよー!」

 

 返事の代わりに、ふーと大きな息を吐いた。そして、再びズルズルとうどんを喉に掻き込んでいく。

 

「もしかして、天宮君て結構図太い?」

 

「少なくとも転校初日から中庭でカップ麺を食べるのは、なかなかできることではないとは思います」

 

 まだ知り合ったばかりだというのに辛辣な評価を受けてしまった。だが、塞ぎ込んでいた三人の表情は明るくなっていた。この転校生が彼なりに気を使ったのかはわからない。

 

「ねえ」

 

 一瞬、風が吹いた。大して強い風だったわけではない。だが、風が運んだ爽やかな音色は談笑していた穂乃果達の意識を風上に向けさせる。その先には金色の髪を靡かせた少女の姿があった。

 僅かに乱れた髪をさっと搔き上げながら、ポニーテールの少女は再び口を開く。

 

「ちょっといい?」

 

後ろには長い髪を二つに分けて結っている少女が柔和な笑顔を浮かべている。二人共リボンの色からして三年生だろう。

 

「「「は、はい!」

 

 返事は何故か三人分のみ。三人は頭を動かさずチラリと視線だけを移す。静流はいつの間にやら離れた距離に移動して、背を向けたまま知らぬ存ぜぬを決め込んでいた。顔は見えないが、相変わらずズルズルとうどんの麺を啜っている。

 

(ねえ海未ちゃん。この人達、誰?)

 

 穂乃果は隣の海未にそっと耳打ちした。

 

(生徒会長の絢瀬絵里さんと副会長の東條希さんですよ。知らないんですか?昨年の秋から行事ではいつも挨拶をしていたではありませんか)

 

(ははは……たぶん寝てた……)

 

(まったく……)

 

 現生徒会長がロシア人クォーターなのは校内では割と有名な話だ。決して生徒数が多いとは言えないこの学校に1年間も在籍していながら、これ程までに存在感を誇る目の前の少女を一切気にも留めていなかったとは。幼馴染のマイペースっぷりは既知のはずだが呆れて言葉も出ない。

 

「南さん」

 

「はい!」

 

 ことりは緊張のあまりか声が若干裏返ってしまった。

 

「あなたは理事長の娘よね?何か廃校の件で聞いたことは無かったかしら?些細でもいいから知ってることがあれば教えてもらいたいの」

 

「いえ、私も今日知ったので……」

 

 いくら娘とはいえ、これほどの重大な情報を軽々しく他人に漏洩などしないだろう。ことりは申し訳なさそうにしているが、不可抗力と言えた。

 

「そう、ありがとう」

 

 絵里もそれは充分に周知しているようだ。特段失望の顔色は見せない。

 そんな二人のやりとりに何か思うところでもあったのか、いたたまれない面持ちの穂乃果は口を開く。

 

「本当に学校……無くなっちゃうんですか?」

 

「……あなた達が気にすることじゃないわ」

 

 感情を徹底排除しているかのような剣呑な声色で答えた。

 

「それとそこにいる転校生の天宮君」

 

 今まで背を向けたまま知らぬ存ぜぬを決め込んでいた静流は突然の指名にビクッと震える。

 

「は、はい」

 

「その三人と一緒にいて丁度良かったわ。理事長から言伝があったから」

 

「理事長から……?」

 

 同居を匂わせない徹底した他人行儀。二人はただの生徒会長とただの転校生。校内ではあくまで()()()()()()になっている。

 

「今から理事長室に来てくれないかしら。理事長から直接話があるそうよ」

 

「え?今すぐですか?」

 

 寝耳に水とはまさにこのこと。とはいえ、静流としても理事長にはすぐにでも問い詰めたい話があっただけに好都合だと言えた。

 絵里は『今すぐ』を別の意味で解釈しているようだが。

 

「その赤いきつねとやらを食べ終わってからで結構よ」

 

 まだ微妙に麺と汁が残っている赤いきつねをチラッと一瞥した後、静流は照れ臭そうに頭を掻いた。

 絵里は背を向けて去っていく。後に続く副会長の少女はにこやかな笑顔で手を振った。

 

「ほなな〜」

 

 二人の姿が見えなくなったところで、直立不動だった穂乃果達はようやく緊張を解いて石の上に座り直した。体力を殆ど消耗したかのようにヘロヘロになっていた。

 

「き、緊張した〜!」

 

「私もあの人の雰囲気には思わず飲まれそうになります」

 

 悪いことをしたわけでもないのに、警察官に呼び止められると神経を擦り減らしてしまう状態に似たものがある。一応絵里は殆ど歳の変わらぬ少女のはずなのだが。それだけあの生徒会長は威圧感を放っているということだろうか。

 

「それにしてもお母さんから急に呼び出されるなんて、転校生も大変だね」

 

「理事長室の場所は分かりますか?」

 

「大丈夫大丈夫。理事長室も朝来た時に教えてもらってるから」

 

 今度こそ赤いきつねを食べ終えた静流は重い腰を上げると、まっすぐ理事長室のある部屋へと向かっていった。少年の姿が見えなくなると、穂乃果は腕を組んで考え込む。

 

「うーん……昼ご飯を食べ終わったら天宮君にこの学校を案内しようと思ってたんだけどな〜」

 

「仕方ありません。彼は特例でこの学校にやって来たわけですから。何か大事な用事があるのでしょう」

 

 共学化に向けての音ノ木坂学院設立以来、史上初の男子生徒にして、史上唯一、史上最後の男子生徒になりうる可能性も出てきた少年の行く末は如何なものか。

 

「よーし!じゃあ天宮君がいない間は音ノ木坂の良いところ探しだねっ!ファイトだよっ!」

 

「いずれにしても学校中を回るつもりだったのですね」

 

 すっかりいつも通りな幼馴染の強引さに呆れつつも、海未はどこか嬉しそうに笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうかしら?我が音ノ木坂学院の感想は?さっそく私の娘と仲良くなったみたいだし、新生活も順調そうでなによりだわ」

 

 音ノ木坂学院の理事長を務める南夫人がにっこりと微笑みかける。高校生の娘を持つ母親には到底見えない若々しい容姿ゆえに保護者男性から絶大な人気を誇っているというのが本人談だが、今の静流には腹にイチモツ抱えている悪魔と呼ぶ方が相応しいように思えた。

 

「素晴らしいですね。伝統を感じさせる校舎は非常に趣がありますし、生徒達は理事長の娘さんも含めて良い人達ばかりです。穏やかな校風は僕の気質にも合致している。しかも、なによりも理事長が美人なのが最高ですね」

 

「まあ嬉しいわ。でも、お世辞でも人と場合を選びなさいね。私には夫も娘もいるのよ」

 

 ほほほと口元を抑えながら笑う理事長。対して静流はブスッと不機嫌なのを全く包み隠そうともしていない。本人として精一杯の皮肉を込めて言ったつもりなのだが、軽く流されたのが腹立たしいらしい。

 

「ほんと最高ですよ。これで後三年で廃校だなんてちっとも笑えないブラックジョークさえ無ければ文句無しだったと思います。ええ」

 

「……やっぱり怒ってる?」

 

 笑顔を決して、恐る恐るといった様子で理事長は尋ねる。なんだかんだで悪いことをしたという罪悪感はあったようだ。静流は仏頂面を崩して深いため息を吐いた。

 

「怒ってません。だけど、転校して一日目で新天地の廃校が決まった僕のやり馬のない気持ちはどうすればいいのかって悩んでいますね」

 

「大丈夫。少なくともあなたが卒業するまでの間は廃校にならないわ。特待生の契約もそのままよ」

 

「そうでなければ困ります。というか、もしそうじゃなかったら流石に冗談抜きで怒ってますよ」

 

 年々受験する生徒が減少している、近いうちに廃校になるかもしれないとは事前に聞いていたが、まさか転校してきてすぐさま廃統合が決定するとは想像もしていなかったのだ。この学校にまだ愛着など湧いていないとはいえ、決して良い気分のする知らせとは言えない。

 いや、穂乃果達の前では何ということはないかのように振舞ってはいたものの、むしろ割とショックを受けていると言えた。廃校の宣言が信じられずに職員室の掲示板を確認するも、しっかり太文字で廃校と書かれた貼り紙を目の当たりにしてその場で失神した穂乃果程ではないが。

 

「もしかしたら月光館学園からここに来たの、後悔してないかしら」

 

 イエス。と言いたい気持ちもなくもないが、その答えは決まっている。ここへやって来た()()()()()を思えば。

 

「例えそうであっても、断るわけにもいかないでしょう」

 

 だから当たり障りの無い返しをするしかなかった。

 

「ありがとう天宮君。あなたの決断には感謝するわ」

 

 理事長は静かに目を閉じると、ソファーを回して窓の方へと顔を向ける。

 

「廃校の件は……忘れてと言っても無理よね。とりあえず頭の片隅に置いてちょうだい。それじゃあ改めてここ呼んだ理由を説明するわ。絢瀬さん」

 

 今まで扉の近くで控えていた絵里が、抱えていた小型のアタッシュケースを理事長の机の上に置いた。

 

「今日の深夜の12時、『エリュシオン』の探索を開始します」

 

 アタッシュケースが開かれる。中に収められていたいたのは、銃身からグリップまで、全て黒一色に染められた大型拳銃だ。いわゆるリボルバーと一般に呼ばれる回転式弾倉を有したタイプである。

 静流は拳銃を手に取り、全体を眺め回した。

 実はこの銃、奇妙なことに銃口と弾倉の穴は塞がれているために存在しない。弾を込められないし、放つこともできない。つまり、銃としての本来の用途は一切機能しないのだ。

 

「貴方用の召喚器よ」

 

「これが僕の……」

 

 一応男性であるはずの静流の手のひらにすら収まらないサイズは、アクション映画のヒーロー達が使用しても違和感が無いと思われる。

 もしも街中で見せびらかしたら警察のお世話になっても仕方ない程の重量感と存在感を放っている……と言いたいところだが、銃口もシリンダーも全て塗り固められている以上、せいぜい注意されるのが席の山か。

 

「ここ最近で急にペルソナ使いが増えたもの。製造が追い付かなくて完成が遅れてたのだけど、あなたの転入までになんとかギリギリ間に合って良かったわ」

 

 ふとグリップ部に視線を移す。何やら文字が刻まれている。

 

「『No.0』、君のアルカナ『愚者』に合わせて彫っておいたの。こういうこだわりのせいで完成が遅れたとかいう野暮な突っ込みは無しでお願いね」

 

「……かっこいい」

 

「気に入ってくれたかしら?」

 

 静流の好反応に満足気だ。

 

「絵里さんの召喚器は一度拝見しましたけど、やはりスタームルガー・セキュリティシックスにそっくりですね」

 

 指先にトリガーを引っ掛けてクルクル回した後、拳銃をアタッシュケースの中へと戻す。

 

「あら?こういうのが好きな辺り、やっぱり男の子ね」

 

 男性の皆が皆、兵器の類に興味を抱いているわけではないのだが、今まで娘の同世代男性と触れ合う機会が無かったかゆえか、理事長は新鮮さを感じているのかもしれない。

 

「転入したばかりなのに早速で悪いけど、今日は天宮君にも付いて来てもらうわ」

 

「今絢瀬さんから聞いた通りよ。今夜の『あの時間』、校門前に集合。今現在この学院に所属している全てのペルソナ使いに参加させる。天宮君、あなたにもよ」

 

 そう言うと理事長はアタッシュケースをパタリと閉める。

 

「ふふふ……集まったメンバーを見たら、きっとあなたもビックリすると思うわ」

 

 静流は首を傾げた。彼はまだここに来たばかりで、この学院の生徒との付き合いもまだ無いに等しいと言えた。そんな状態で驚くほどの面子とは?

 

「まあ気を楽にしなさい。今日は顔合わせだけで本格的な探索は次回以降よ」



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5話

 夕暮れの赤色に染められた放課後の中、一日の授業を終えた生徒達は各々自分のための時間を自由に使っていた。

 帰路につく者。部活に励む者。予備校で改めて勉学を続ける者。アルバイト先へと向かう者。

 力尽きたように机にうなだれる穂乃果も、立派とは言えないが自由な過ごし方の一つを選んでると言えた。

 

「はあ〜やっと終わった……いつになっても勉強は好きになれないー!今日はもう教科書なんて絶対見たくないよ!」

 

 机に顔をぐりぐりと擦りつけながら学生の本分に対して愚痴をこぼす穂乃果。そんな彼女を囲む友人達は呆れ果てた様子で苦笑いしていた。

 

「よく言うわよ。穂乃果ったら今日の授業中は寝てばっかだったでしょ」

 

「んがっ!」

 

 穂乃果の友人である仲良しトリオの一人、ヒデコはやれやれと首を振りながら言い放った。心なしか穂乃果がますます机に顔をのめり込ませているように見える。

 

「というかしょっちゅう寝てるし」

 

「ぐぎっ!」

 

「むしろ寝てない日とかあったっけ?」

 

「ごほっ!」

 

 トドメを刺すかのように、残る二人が続けざまに追い討ちを掛けた。仲良しトリオのジェットストリームアタックには、能天気を絵に描いたような穂乃果も流石にたまったものではなかったようで、顔だけを上げて抗議する。

 

「三人共それはもう言わないでー!さっき海未ちゃんにはすっごく怒られたんだから!」

 

「あー、いつもに増してガミガミ言われてたわよねー」

 

「確かに。海未ちゃんすごい剣幕だったよね。『まったくあなたは!転校生を前にそのような醜態を晒すようなまねをうんたらかんたらー!』って」

 

「んでもまあ、そうやって怒られた次の授業でもナチュラルに居眠りするんだから世話無いわ」

 

 『今夜は用事があるから』と幼馴染二人は穂乃果に先んじて早々と帰路についたのだが、もしそうでなかったら今日は延々とお説教を受ける羽目になっていたかもしれない。

 

「なるほどね。高坂さんは今日みたいな居眠りの常習犯なんだ」

 

 静流は顎に手を乗せて納得したように呟く。

 

「そうそう、なんせ一年の頃からこの調子だからね。ある意味全くブレない子よ。天宮君は真似しないようにね」

 

 ヒデコはアメリカの俳優が映画の中でしばし行う、所謂『お手上げ』のポーズを披露する。

 この三人組は静流とは穂乃果を通じて交流を持ち、放課後までの間に多少は口をきく程度には打ち解けていた。一応それなりに注目を浴びてはいるものの、他の女生徒達とは接点そのものを持つ機会をなかなか得られずに校内では完全アウェイ状態が続いている静流にとっては、ありがたい存在と言えた。

 

「ちょっと、天宮君までそんなこと言うの⁉︎ヒデコも余計なこと吹き込まないでよ〜」

 

「えー、だってそんなこと言ったって事実じゃん」

 

 憤慨しながらーーと言っても机に顔を貼り付けているダラけ具合は相変わらずなのだがーー抗議する穂乃果だが、ヒデコは無情にも残酷な現実を突きつける。

 ちなみに穂乃果の成績順位は言うまでもなく下から数えた方がかなり早かったりする。流石に留年まではいかなくとも、去年はテストが終わる度に補習でお世話になりっぱなしだったらしい。

 それをこの三人組から聞かされていた静流は手のひらで宥める。

 

「まあまあ、勉強のことばかり気にしてても仕方ないよ。それに寝る子は育つって言うし」

 

「それ全然フォローになってないからー!」

 

 両腕を高く上げてブンブンと振り回す穂乃果。幼馴染達曰く、幼少期から精神面で全く成長していないという評価を体現するかのような幼さ全開の仕草だ。

 

「廃校が決まっても、穂乃果ちゃんは穂乃果ちゃんだなあ」

 

「まあ、いつまでも塞ぎ込まれるよりかはよっぽどマシだけどねえ」

 

 年中元気なムードメーカーが意気消沈していたら、周囲も釣られてさぞ気落ちしてしまうことだろう。いつも通りな穂乃果の早期復活は友人達も望むものだったのだ。

 

「しっかし、天宮君も災難だよね。まさか転校したばかりで、いきなり学校の廃校が決まるだなんてさー」

 

「ははは……」

 

 さっき理事長にそんな不満をぶつけていたわけだが、我が身に降りかかった不運は客観的に見てもやはり酷いものだったらしい。

 

「そうそう。わざわざ月光館学園みたいな良いとこから転校なんて止めておいた方が良かったんじゃない?こんな伝統しかアピールポイントの無いお先真っ暗な学校に来ても仕方ないでしょ」

 

バンっ!

 

 今まで力尽きたように机に張り付いていた穂乃果が突然飛び起きた。

 

「ちょっとちょっと!音ノ木坂は月光館学園やUTXにも負けない素敵な学校なんだよ!そんな酷い言い方は無いと思う!」

 

 頬を膨らませながら憤慨する穂乃果に対し、友人の反応はどうにも冷ややかだった。

 

「そう思ってるの穂乃果だけじゃないのー?じゃなきゃUTXに転校する子なんているはずないでしょ。おまけに今年は1年生1クラスだけなんだし。受験生もわかってるってことよ」

 

「でも……」

 

「じゃあ聞くけど、音ノ木坂の良いところって何?さっきも三人でうんうんとひたすら頭捻ってたけど、結局見つからなかったみたいじゃない」

 

「それは……」

 

 穂乃果と幼馴染二人とは昼休みの間、学校の隅から隅まで歩き回り『音ノ木坂の良いところ探し』に時間を費やしたわけだが、その結果は芳しくないものだった。三人が校内の施設や過去の部活動実績を調べて至った答えは『長い伝統があるのが良いところ』という一点のみ。つまり古いことしか特徴が無い、というわけである。

 

「ほら無いんじゃん。やっぱ音ノ木坂って駄目なんじゃん」

 

「むーっ!!!」

 

 ひたすら煽り続けるヒデコの肩をミカがポンと叩く。

 

「それくらいにしときなさい。いくらなんでも穂乃果が可哀想でしょ」

 

「穂乃果ちゃんもさ。もう諦めなよ。廃校の問題は私達ではどうしようもないことなんだし」

 

「……」

 

 穂乃果は答えずに目を逸らした。

 

「そりゃあね。私だって自分が通ってきた学校が無くなるなんて正直嫌だよ?ヒデコだってあんなこと言ってたけど、本当は廃校なんて聞かされて辛いと思う。でもさ、世の中には出来ることと出来ないことがあるんだよ。別に穂乃果ちゃんが悪いわけじゃないんだから、無理してても仕方ないって」

 

「だけど……」

 

 諭そうとするフミコから目を背けるように穂乃果が俯く。流石にヒデコも少し言い過ぎたと思ったのか、申し訳なさそうに頭を掻いている。

 四人の間に流れる気まずい空気を察した静流は背中を背もたれに預け、顔を天井に向ける。

 

「いやー!音ノ木坂は最高の学校だなあ!月光館学園なんて比べものにならないよ!」

 

 四人の視線が静流一人に集中する。

 よく見ると、顔を上げた穂乃果の頬には一滴の雫が伝っていた。

 

「こんな素晴らしい学校が無くなるだなんて黙って見過ごせないよね。僕としても何か出来ることがあったら是非とも手助けしたいもんだよ」

 

 暗く沈んでいた穂乃果の表情がパアッと明るくなっていく。

 

「そうだよ!外から来た君なら音ノ木坂の良いところを改めて見つけだしてくれるよねきっと!」

 

「あーなるほど。この学校てちょっとお堅い女子高だからか、外部の意見てなかなか入ってこないからねえ。確かに天宮君の意見は価値がありそうだわ」

 

「うん!うん!ありがとう天宮君!」

 

「いえいえ、どういたしまして」

 

「さっすが穂乃果だわ。落ち込んでたと思えば復活もやたら早い」

 

 両手で静流の右手を握ってぶんぶんと振り回すように握手する。なかなか力が込められていたのか、手を離した瞬間に静流は腕をさすり始めた。

 

「よっし!燃えてきた!どんな手を使ってでも、必ず廃校を阻止してみせるぞー!ことりちゃんと海未ちゃんにも手伝ってもらわなくっちゃ!」

 

「穂乃果ちゃん……ど、どんな手でもってのは……今度は流石にちょっと極端すぎじゃない?」

 

 握りこぶしを作って高らかに挙げる穂乃果。さっきまで心配していたはずのフミコも、瞳に炎をチラつかせる友人のいつも通りなハイテンションには軽く引いてしまっているようだ。

 再び廃校阻止の意欲が戻ってきた穂乃果は、その情熱が消えないうちに早々と教室を飛び出していった。なんでも、音ノ木坂学院のOBだったという母親の助言を貰うつもりらしい。

 

「別に急ぐ必要無いよね……今すぐ廃校ってわけじゃないんだし」

 

「ま、本人の気が済むんだったら、良いんじゃない?」

 

 そう言い交わすとミカとフミコも教室を出るため、鞄に教科書を詰め込み始めた。既に外は夕陽を沈みかけていて、静流の波乱に満ちた音ノ木坂学院での学生生活初日に終わりを告げようとしている。

 

「穂乃果ってああやってたまーに超大胆になるよね。あるいは考え無しとも言うけど……」

 

 二人に続いて帰宅の準備を終わらせたヒデコはボソリと呟く。

 

「まだこの学校に来たばかりだけど、彼女のことが分かってきた気がするよ」

 

「ま、わっかりやすい子だからねー」

 

 穂乃果が普段の姿に戻ったのに安堵したのか、穂乃果がいなくなった教室でヒデコはまたもや皮肉交じりに言った。

 

「天宮君もお人好しというか物好きだねえ。言っとくけど、度に穂乃果の思い付きに付き合ってたら身がもたないと思うよ」

 

「ははは……忠告ありがとう。せいぜい音をあげて逃げださないよう努力しておくよ」

 

「まあでも、穂乃果に元気が戻ってきて良かった……かもね」




会話シーンはラブライブ原作よりもペルソナの日常会話を思い出しながらノリを似せようとしてるつもりです


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6話

「もうすぐか……」

 

 自室のベッドで横になっていた静流は手元の腕時計を確認した。後、数分で針は深夜12時を指し示し、新しい1日が始まるを告げる。少なくとも、()()()()()()そういう認識になっている。

 

『私は理事長と今夜の件で話があるから先に向かうわ』

 

 1時間前に家を出た絵里の言葉がフラッシュバックする。流石に深夜前に女子高生がたった一人制服姿で外に出るのはマズイのではないのかと思ったのだが、その辺の根回しは既に済ましているらしい。絵里がそう言うのなら間違いないのだろう。なら、自分は余計な心配はせずに待てば良い。

 

 しかしながら、どうにも落ち着かない。いても立っていられなくなった静流はベッドから身を起こしてキッチンへと向かった。冷蔵庫に冷やしていたペットボトルのコーヒーを飲むことで、少しだけ気が晴れる。

 そんな中で廊下と繋がるドアがゆっくりと開かれた。静流は一瞬焦るものの、もう一人の同居人の姿を見て胸をそっと撫で下ろした。

 

「あ、静流さんも起きてたんですね」

 

 パジャマ姿の亜里沙はおぼつかない足取りで炊事場の前に立つ。

 

「亜里沙ちゃん、もしかして眠れないの?」

 

「はい、なんだか寝つけなくて……」

 

 亜里沙は蛇口を捻り、コップの中身を飲み水で満たしていく。

 

「でも、明日も学校ですから。早く気持ちを落ち着かせて休まなきゃ」

 

 そう言って水を一気に飲み干す亜里沙。空になったコップを炊事場に置いて、フウと深く息を吐いた。

 

「僕も同じだよ。いきなり女子校に入れられて今日は緊張しっぱなしだったからね」

 

「え?静流さんもなんですか?」

 

「当たり前だよ。僕だって人並みの感情を持ってるわけだから」

 

 亜里沙は驚いた様子でパチパチと瞬きを幾度も繰り返した。幼い顔立ちに、その幼い仕草がよく似合っている。

 

「まあ、おまけに今日は色々あったし。でも、人間誰しも同じなんじゃないかな」

 

「そうですよね。亜里沙なんてまだ全然日本に慣れてないから、今でもお姉ちゃんにも迷惑を掛けっぱなしで……学校でも他の子達について行けるのか心配で……」

 

 絢瀬姉妹はロシア人の血が混じったクオーターだ。今は日本に移り住んではいるが、生まれ故郷のロシアから異郷の地で思春期を過ごすのは抵抗があったに違いない。特に移住して間も無い亜里沙の場合は余計にそれが顕著だろう。

 

「もしかしたら亜里沙は日本に来ない方が良かったのかもって、そう思う時も何度かあって……」

 

 少女は俯向く。混血の亜里沙は日本人離れした容姿を備えている。日本人の中学生に混じっていたら疎外感を抱くのも無理はない。例え、周囲の子ども達に仲間はずれにしている意図が無くとも、異分子を一切特別扱いしないというのは並大抵の人間に不可能だからだ。多感な年頃の亜里沙は、そんな彼らからの微妙な一線を感じ取ってしまっているのだろう。

 学校の中では異分子となっている点は静流と同じと言えた。

 

「あ、でも、ここに来てから楽しい事もいっぱいありました!クラスで新しい友達が出来たんです!おっちょこちょいな亜里沙の面倒を見てくれるすごく優しい子なんですけど……って、あわわ!ご、ごめんなさい!亜里沙、自分のことばかり喋ってました!」

 

「……お姉さんにそういう話はしないの?」

 

「え?」

 

 面倒見の良さそうな絵里が、血の繋がった実の妹である亜里沙が秘めるこの悩みを無視するはずがない。それに新しい友達の話をすれば、きっと喜ぶだろう。

 

「……あまりお姉ちゃんには心配は掛けたくないんです。最近忙しいみたいだし、今日だってこんな遅くになっても用事で帰って来ないんですから。お姉ちゃんのことだから、きっとまた無理してるんだと思います」

 

「なるほど。絵里さんのこと、よくわかってるんだね」

 

 静流はそれ以上深くは詮索しなかった。亜里沙は同世代の中学生達と比較しても抜けている部分はあるが、決して愚鈍な少女ではない。絵里に打ち明ける時は自分の意思で決めることが出来るはずだ。

 

「当たり前ですよ。だって、姉妹なんですから」

 

 ほんの少しだが、この内気な少女が抱えこんでいた知られざる一面が見えた。人なら誰もが他者には打ち明けられない本音を隠しているものだ。それは、もしかすると他者から見れば些細な苦悩にしか映らないかもしれない。だが、当人にとっては人生を左右する問題かもしれない。

 

「亜里沙のお話を聞いてくれてありがとうございます。おやすみなさい、静流さん」

 

 やがて時計の針が12時の到来を指し示す。

 

 そして……

 

 時は止まる。

 

「おやすみ亜里沙ちゃん。良い夢を」

 

 リビングの電灯が消えてしまった中で、静流は目の前の()()に向かって優しく微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 制服に着替えた静流は深夜の秋葉原を歩き進める。

 ここでは時が、世界の全てが停止していた。

 本来ならば眠らない街と呼ばれる東京を眩いほどのネオンサインが照らし、帰宅を目指す自動車のエンジン音やクラクションが鳴り響いているはずだ。そして、歩道を見れば、日を跨いで帰宅中のサラリーマンや買い物客、あるいは夜の裏通りを根城にする無法者達が必ず目につく。それが東京という世界有数の大都市の日常なのである。

 だが、今の静流の視界を埋め尽くしているのは、ネオンサインや街灯が消えても月の光に照らされたおかげで姿形だけは確認可能な物言わぬただの無機物。そして、無数の棺桶達。ただそれだけだった。

 

 静流は秋葉原を通り過ぎて下町通りに入り込む。やはり、街灯の光どころか、人の気配が存在しない。いや、それどころか虫の鳴き声すら耳に入ってこない。生命の灯火が一切消え去った、まるで異空間に迷い込んだかのような静けさで世界に満ちていた。

 

 やがてゴーストタウンのように静まりかえっていた下町を過ぎていくと、目的地である音ノ木坂学院の所在地へと辿り着く。しかし、そこに昼間はあれほど存在感を示していた風格のある校舎の姿は無かった。代わりに静流を迎えたのは、雲を突き抜けて天まで登る巨大な塔だ。

 白く輝くそれは闇に世界に不釣り合いな程に美しい。旧約聖書に登場する虚飾の塔バベルはまさにこのような姿ではなかったのだろうか。

 校舎そのものは消えても、未だに残っている校門に向かって、静流は一歩足を進めた。

 

「誰⁉︎」

 

 突然呼び止められ、静流は足を止める。女の声だ。それもかなり年若いように思える。下手をすれば静流と同世代の少女かもしれない。

 

「あなた、『この時間』に象徴化もせず、平然と動けるだなんて何者?人間なの?」

 

 闇に隠れていた声の主が月の光に照らされてその全貌を見せる。予想した通り、やはり少女と言うべき外見の持ち主だ。なおかつ、その身に纏うは静流と同じ音ノ木坂学院の指定制服であった。

 癖の強さを感じさせる赤毛をセミロングで整え、身長は日本人女性としては充分すぎるほど。制服の上からでもわかる細身の肢体は、バランスが取れすぎているあまりに精巧なマネキンと称しても違和感が無いかもしれない。

 贔屓目に見ても美人と呼べるであろう少女は、月の光の中で静流の姿を捉えると目を丸くしてパチパチと瞬きを繰り返した。

 

「お、音ノ木坂学院の制服?まさか昼間の全校集会で見かけた例の共学化試験生?いや、今はそれどころじゃないわ。問題なのは、なぜあなたが今、ここにいるのかよ!」

 

 つり目がちな紫色の瞳がギリリとますます鋭くなっていく。隠しきれない程の敵意が込められているのが見てとれた。

 

「答えなさい!」

 

 少女は太腿のホルダーに収まっている黒い拳銃に手を掛け、そしてーーー

 

「やめなさい西木野さん」

 

 反対側の物陰から別の少女が姿を現す。淡い月光だけが頼りのこの世界でもはっきりと存在感を示しているポニーテールで纏めた金髪にキラキラと輝く蒼い瞳。静流も既知の人物だ。

 

「警戒する必要は無いわ。彼は私達の新しい仲間よ」

 

 絵里は興奮気味の赤毛の少女を宥めるように言った。

 

「新しい仲間?」

 

 味方であると教えられたにもかかわらず、それでも赤毛の少女は形の整った眉毛を不可解と言わんばかりに歪めた。

 

「そんな……だってこの人は男……!」

 

「そうよ。つまり世界最初の男性のペルソナ使いってことね」

 

 静流と赤毛の少女の視線が一瞬交差する。本当に一瞬だった。少女はすぐに目を逸らす。そして、拳銃のトリガーから手を引っ込め、不機嫌そうに腕を組んだ。それを皮切りに静流は口を開く。

 

「2年の天宮 静流です。よろしく」

 

 相変わらず目を合わせないままではあるものの、赤毛の少女も渋々といった様子で口を開いた。

 

「……1年の西木野 真姫……です。よろしくお願いします」

 

 そこで静流はようやく少女のリボンの色が自分やクラスメート達のそれとは違うことに気づく。

 

「1年生か……」

 

「西木野さんは中3の受験間近の時期に能力に目覚めててね。それから進路を急遽音ノ木坂学院に変えてもらったの。1年生とはいえ、実戦に関してはあなたより1日の長があるわよ」

 

「実戦経験ありと言っても、あの塔から出てきたはぐれシャドウを狩ってただけです。会長に比べたら大したことありませんから」

 

 謙遜してる、という風には見えない。事実を正直に言ったまでなのだろう。外見同様に言動もまた、高校1年生らしかぬ大人びた少女だ。

 

「ええっと……真姫ちゃん?西木野さん?」

 

 静流としてはなるべくフレンドリーに接しようと試みているわけだが、眉間に寄ったシワを見る限り逆効果だったようだ。

 

「……初対面で馴れ馴れしくされるのは正直苦手です。それとだけど、さっきだってこっちは本気で緊張してたんですよ。悪い冗談はもうやめてもらえますか」

 

 眉間にしわを寄せたまま不機嫌そうに言った。

 

「はは……ごめんね西木野さん。僕としても脅すつもりは無かったんだけどね」

 

 ようやく警戒は解けたようだが、静流に対する不信感は消えていないようだ。あまり理想的なファーストコンタクトとは言い難かったのは確かだが、あからさまなまでのつっけんどんな態度に思わず乾いた笑いが漏れてしまう。

 赤毛の少女、真姫は壁に寄り掛かると、癖っ気の強いもみあげを回すように弄り始めた。

 

「2年に共学化モデルケースの転校生が来たって聞いてたけど、まさか自分と同じペルソナ使いだとは思いませんでした。いや、そもそも共学化モデルケースってのがただの建前で、本当は世にも珍しい男性ペルソナ使いだから呼び寄せたってとこかしら」

 

 腕を組んだまま自分の癖毛をクルクルと指で回す真姫。まるで映画やドラマのキャラのような少々芝居掛かった仕草だが、不思議とこの少女の場合は様になっている。

 

「察しが良いわね西木野さん。流石は今年度新入生の首席なだけはあるわ」

 

 新たな人物が姿を現したことで、三人全員の意識がそちらに向かう。灰色のスーツを着た女性が姿を見せる。

 音ノ木坂学院の生徒なら誰もが知る、南理事長その人だ。

 

「理事長、ただ今希に可能な限りの範囲を索敵させています」

 

「そう、ご苦労様です。私もあの二人を連れてきたわ」

 

 そう言って首だけ後ろに向けた理事長の背後で、二人分の影が月の光に照らされ全貌を現した。

 

「初めまして、2年の南 こと……」

 

「2年の園田 海未と申します。どうぞよろしくおね……」

 

 昼間に新たな旧友となった少年の姿を目にしたことりと海未の二人は口を押さえながら絶句した。

 

「やあ」

 

 静流は努めて平静をアピールしたつもりだった。だが、混乱してしまっているのか、海未とことりの唖然とした表情は一向に解かれない。

 

「天宮君⁉︎」

 

「なぜあなたが⁉︎」

 

「何故って、まあこういうこと」

 

 そう言いながら静流は制服の上着をハラリとめくる。腰のベルトに固定されたホルダーに収められている、召喚器と呼んでいた大型拳銃を見せつける。事情を知る者なら、これだけで全てが理解可能なはずだ。

 

「あなたはあんまり驚かないのね」

 

 理事長室で言っていたサプライズとはこのことだったのだろう。意外と反応が薄かったのが不満なのか、若干面白くなさそうな顔をしている。

 

「まさか。これでも内心動揺してますよ。動機が激しすぎて息が詰まりそうです」

 

「ふーん、そうは見えないけど」

 

 少々大袈裟な表現で返したわけだが、どうも信じてはもらえていないようだ。昼間のやりとりからも察するに、この理事長は他人の反応を見て楽しんでいる節がある。真面目そうに見えて意外とお茶目な一面があるのかもしれない。

 

「お母さん……もしかして」

 

 そんな理事長の娘であることりは静流よりよっぽど度肝を抜かれていたらしく、恐る恐るといった様子で尋ねてきた。こちらこそ期待通りの反応だったからか、理事長の口元がつり上がっているように見える。

 

「そうよ。彼が新しく入った仲間よ」

 

「まさか……ですが……」

 

 ことりと同じく、未だ驚きを隠せない海未はこめかみに手を当てて深く考え込むポーズをとっていた。竹を割ったかのような言動の彼女も今はどうにも歯切れが悪い。

 

「この時期に仲間が増えるというなら、てっきり西木野さんと同じ新入生の誰かだとばかり思っていました。なぜなら……」

 

「ペルソナは本来、具象化に必要な因子であるアニムスを持つ女性にしか使えない。私もそう決めつけていたわ。彼が現れるまではね」

 

 海未以外の全ての少女達も真剣な面持ちで耳を傾けている。

 

「ではいったいどうして?」

 

「さあ?」

 

 理事長は笑顔を崩さないまま首を傾げた。

 

「さあって……わからないのですか?」

 

「それは僕こそ聞きたいくらいだよ」

 

 代わりに答えたのは静流だった。

 

「理由はわからないけど、とにかく彼はあなた達と同じ力が使える。今はそれだけで充分よ。少しでも戦力が欲しい今は……ね」

 

 そう言うと理事長は燦々と輝く満月へと目を向ける。この話はもう終わりだ、ということなのだろう。

しかしながら、海未としては納得出来たわけではなかった。ポーカーフェイスを苦手とする彼女は不服であるという感情を表に出したまま、もう一度問い詰めようと口を開く。

 

「なんや、騒がしいようやね」

 

 だが、それは新たな登場人物によって妨げられた。

 今度は校舎側ーーー今は校舎など影形も残っていない白銀の巨塔に変異しているのだがーーーから一人の少女が姿を現したからだ。関西弁が特徴的なその少女はふうっと深い息を吐くと背中に流しているおさげを掻き上げる。

 

「おー、集まっとる集まっとる。ずいぶんな大所帯になったなー。うちとエリチの二人きりだった春前に比べたら大躍進や」

 

「希?調査はどうしたの?さっき始めたばかりでしょ?」

 

「調査も何も、いつもと全く変わらないよ。ウチの『ウラーニア』の索敵範囲の限界まで探ってみたけど、特に異常は無いみたいやなあ。これ以上は時間とウチのプラーナの無駄使いと思うんよ」

 

「そう、ありがとう希」

 

 希と呼ばれた少女は肩を竦めて疲労をアピールする。

 

「あー、肩こったなー。誰か肩揉んでくれへんやろうか?出来たら特上60分コースでやってくれたら嬉しいんやけどな〜」

 

 場にいる全員にチラチラと視線を送りながら、わざとらしく肩をコキコキと鳴らす。

 

「そういう軽口を叩く余力はあるのね。まだ元気ならもう一働きしてもらおうかしら?」

 

「冗談や、じょーだん♪」

 

 呆れたように見おろす絵里に対して、希は白い歯を見せながらシッシと笑った。それからしばし肩をグルグルと回すと、今度はその穏やかさに満ちた瞳を新参者へと向ける。

 

「君が新しく入ってきた子やね。昼間にも会ったの覚えとるかな?」

 

「はい、僕は天宮 静流です。よろしく」

 

「ふーん」

 

 希は品定めするように静流の全身をジロジロと眺めている。今日一日だけでも学校中の女生徒から観察されていただけにもう慣れたと思っていた静流だが、ここまで真正面から見られていると流石に恥ずかしくなってくる。

 

「……どうしました?」

 

「エリちが言ってた通り……やっぱりなんだか頼りなさそうな子やねえ」

 

「ちょ、ちょっと希!もう……」

 

 あの絵里が、冷静沈着で厳しい生徒会長と影で恐れられている絵里が顔を赤らめ、軽く取り乱している。あまりにも珍しい光景に、ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべている希を除いた全員が目を丸くした。

 

「んんっ……関係無い話は置いといて……」

 

 場の雰囲気がおかしくなったのを察した絵里は、仕切り直しのつもりなのか、コホンと咳をする仕草で空気を誤魔化す。

 

「天宮君、最後のメンバーを紹介するわ。私と同じ3年の東條 希よ。この子はちょっと変わった能力を持っててね。今は戦闘には参加させずに索敵と支援を頼んでるわ」

 

「これでも一応生徒会副会長としてもエリちのサポート役をやらせてもらってるんよ。よろしゅうね〜」

 

「……東條先輩、関西出身の人じゃないですね」

 

「あ、わかった?」

 

 ほんの僅か、ほんの一瞬だが、希の余裕に満ちていた笑顔が僅かに崩れたように見えた。口元は軽く吊り上がったままだが、瞳が曇ったのだ。

 

「僕は小さい頃から日本各地を転々してたので。イントネーションが違えばわかります」

 

「へー……なるほどね」

 

 手に顎を載せて考え込む希。既にさっきまでと同じ余裕のある笑みに戻っている。

 

「これで全員揃ったわね」

 

 コツコツとハイヒールで足音を鳴らしながら、理事長は6人の少年少女達の中央に移動する。街の喧騒も、虫の鳴き声も、風の音すら聞こえないだけに足音は著しく響き渡っていた。

 

「我が校に所属するペルソナ使いは天宮君を含めて6人。ほんの数ヶ月前までは絢瀬さんと東條さんの2人しかいなかったことを考えれば充分すぎる数に増えたわ。よって明日より、この天へと続く塔『エリュシオン』の攻略を開始します!」

 

 理事長はウインクしながら新入りの少年に微笑んだ。

 

「頼りにしてるわよ、天宮君」

 

 静流は何も答えず、雲を突き抜ける程に空高くそびえる白銀の塔へと目を向けた。楽園と名付けられた謎の巨大建造物。待ち受けるのはその名の通り楽園か、冥界からの使徒か。少年少女達の行く末は、誰も知る由も無かった。



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7話

長くなったので分割しました。なるべく1話ごとに5000位の軽く読める感じを目指したいです。それと原作ラブライブ1話の展開からかなり逸れた展開になっていきます。



 


「アイドルは無しです!」

 

 昼休みゆえにクラスメイト達が和気あいあいと談話に励んでいるにも関わらず、その凛とした声は透き通っていて教室内を響き渡った。

 

「穂乃果はいつも考えが甘すぎるのです。何がスクールアイドルになって廃校を阻止しようですか。彼女達は普段から私達の想像も出来ないような厳しい努力を続け、その中でもほんの僅かな一握りの選ばれた人のみがこうやって栄光を掴んでいるのです!アイドルになって有名になればと簡単に言いますけど、そのための日々の鍛錬がいかに辛い物か理解していますか?穂乃果みたいな飽きっぽくてぐうたらな人には想像出来ないかもしれませんが、まずは毎朝基礎体力をつけるために……」

 

 そのまま数分程お説教に費やした後、海未は深呼吸でワンクッション挟む。

 

「良いですか?もう一度はっきり言わせてもらいます!アイドルは!無しです!」

 

 俄かに周囲からの視線が集まっているわけだが、海未はそんなことにはお構い無しにことさら強い語気で言い放った。

 

「……海未ちゃんの分からず屋」

 

「はい?」

 

 俯つむいたまま海未の説教を聞かされていた穂乃果の手元から、一冊の雑誌がポロリと落ちた。風に吹かれてめくれたページには、見た目麗しい少女達のグラビ写真が並べられている。デカデカと自己主張する煽り文の内容は『全都道府県網羅!人気急上昇中スクールアイドル特集!』であった。

 

「海未ちゃんの石頭ー!」

 

 今まで暗い顔で俯いていた穂乃果が顔を上げた。目元からは涙が溢れんばかりに零れ落ちている。握りしめた拳も彼女の心情を表すかのようにふるふると痙攣していた。そして、背中を向けてドアの方へと駆け出した。

 

「穂乃果!」

 

「穂乃果ちゃん⁉︎」

 

 幼馴染2人に呼び止められた穂乃果は足を止め、顔を再びこちらに向けた。舌を出しながら。

 

「海未ちゃんのバーカ!バーカ!ベロベロバー!」

 

「なっ……」

 

 穂乃果の幼稚な挑発を前にして、海未は顔を真っ赤にしている。

 

「いい加減にしなさい!いくらなんでも今回ばかりは本気で怒りますよ!」

 

「ふーんだ!年中無休で毎日鬼みたいに怒ってるくせにー!」

 

 頬を膨らませた穂乃果は両手の人差し指を立てて、それぞれ頭の両端にくっ付けた。

 

「な、な、な……なんですってえ⁉︎こら待ちなさい穂乃果!その角は何のつもりですか!」

 

 待て、と言われて本当に待つような追われる側の人間など存在しない。ひとしきり海未に挑発の言葉を投げつけた穂乃果は、そのまま勢いよく教室の外へと飛び出して行ってしまった。

 流石の海未もわざわざ追いかけるようなマネはしなかった。代わりに不機嫌さ全開の表情を隠さないまま勢いよく椅子に座った。

 

「はは……ずいぶんな言われようだね」

 

 一部始終を目の当たりにしていた静流は2人の小学生のようなやりとりに思わず苦笑いする。

 

「まったく……あの子ったら!」

 

「どうするの海未ちゃん?」

 

 少し離れた位置から2人の喧嘩を傍観していたことりが心配そうに声を掛ける。穂乃果と海未の揉め事はもはや日常茶飯事だが、今日の場合はいつものそれと毛色が違っていた。海未に自分のアイデアを真っ向から全否定されたことが我慢出来なかったように見えた。少なくとも『スクールアイドルになって学校を有名にして廃校を阻止する』というプランは穂乃果の中では本気なのかもしれない。

 しかし、穂乃果から捨台詞で罵られた海未としては、そんなことは全く関係ないらいしい。

 

「どうするのも何も、もう穂乃果なんて知りません!アイドルでも何でも勝手にしてればいいんです!」

 

「でも……」

 

 話はこれで終わりだと言わんばかりに、海未は自分のノートをバシンッと派手な音を立てて机へと勢いよく叩きつける。そのままノートにペンを走らせ、完全な自習モードに入ってしまった。

 

「いいのこれで?」

 

 2人と付き合いの長いことりは、頑固な海未が一度こうなったらなかなか折れないことを理解している。静流の疑問には困った顔をしながら首を傾げるしかなかった。

 学生達の憩いの時間は親友の喧嘩別れで始まった。なぜにこうなってしまったのか?それは今朝まで遡る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いーえい!今日も凛の方が先に着いたにゃー!」

 

「ま、待って凛ちゃん……」

 

「もー!かよちん遅いよー!」

 

 名も知らぬ女生徒達が全力疾走で静流の前を過ぎ去っていく。登校時間ゆえに玄関口には多数の生徒達が集まっているが、その二人組はドタドタと激しい足音を立てているために特段に印象を残している。一方静流はマイペースを維持してのんびりと玄関をくぐっていた。

 そんな中でショートカットが似合うボーイッシュな印象を与える少女が一瞬チラリとこちらに視線を送った。少女のレモン色の瞳と静流の真紅に染まった瞳が交差する。まるで見世物小屋の珍獣を見ているかのような目だ、と静流は内心苦笑いしてしまった。

 とは言っても、少女にわざわざ文句を突きつけるつもりは全く無い。なにせ初の男子生徒を一目見ようと好奇心に満ちた視線を飛ばしてくるのは、何もこの少女に限った話ではない。昨日今日この学校を過ごす中で慣れたと言わずとも、いちいち目くじらを立てても仕方ないと諦めるようになっていた。

 

「……ねえ、あの男の人、例の共学化のテストのために来た転校生だよね。確か2年の」

 

 ショートカットの少女が、息を切らせながら追いついてきた眼鏡の少女にそっと耳打ちする。

 

「うん、そうだと思うよ。と言うより他に男の人はこの学校にいないし」

 

「ふーん」

 

 再びレモン色の瞳が静流の姿を捉える。

 

「……なーんかいまいち頼りなさそうな先輩だにゃー」

 

 本人としてはヒソヒソ話のつもりなのかもしれないが、ショートカットの少女の毒舌はボリューム高めでこれ以上無い位はっきりと静流の耳に届いていた。昨夜、生徒会副会長の希から言われた評価そのままである。

 

「ちょ、ちょっと凛ちゃん!失礼だよ〜!」

 

 言いたいことを言うだけ言ってさっさかと階段を登り始めてしまった相方に代わって、眼鏡を掛けた気弱そうな少女がこちらに顔を向けて大袈裟な程にペコペコと頭を下げる。静流は『気にしないで』と身振り手振りで返したが、少女はそれでも謝り続けようとする。なかなかに律儀な性格の持ち主のようだ。

 端から見れば無礼な仕打ちを受けたわけだが、当の静流は特に気にしていない。少女達の無邪気な振る舞いを平穏な日常の帰還の象徴のように捉え、むしろ歓迎してると言えた。

 件の異形の塔はすっかり鳴りを潜めている。まるで昨夜の変貌など、最初から無かったように。昨日の昼間と何一つ変わらない平穏な学院の姿を鑑賞した静流は教室へと向かった。

 

「やあ、二人とも。おはよう」

 

「天宮君、おはよう」

 

「お、おはようございます……」

 

 昨日と変わらず、穏やかな笑みを浮かべて静流を迎えたことり。一方で海未はと言えば、どうにぎこちない、なんとも言えないような表情をしている。

 そこで静流はこの二人が揃っているなら本来いるべき人物が足りないことに気づいた。

 

「あの子はまだ来てないんだね」

 

「穂乃果ちゃんは秋葉原で何か用事あるんだって。早くしないと遅刻しちゃうのにね」

 

 隣街の秋葉原からここまではそう遠くない。少し寄り道したところで即遅刻という事態にはならないはずだ。しかし、昨日目の当たりにした穂乃果のズボラさとドジ加減を思えば、どうにも不安が残る。

 

「あの……その………」

 

「ん?どうしたのかな?」

 

 まだ1日程度の付き合いだが、海未が竹を割ったような態度を好む少女であることは既に静流にもわかっている。そんな彼女がはっきりしない様子でモジモジとしているのには違和感を感じざるをえなかった。

 

「お願いします!昨日の晩のことは……穂乃果にはくれぐれも内密にしていただけないでしょうか?」

 

「へ?」

 

意を決して口から出た言葉を聞いて静流は思わず面食らった。

 

「お人好しなあの子のことです。もしも私達が穂乃果に黙って危険な真似に関与していると知ったら、きっと我が身のように心配してしまうと思うんです。穂乃果は『あの時間』も『あの塔』も私達の『力』の事も何も知らないんです。あの子には……あの子だけには平穏な日々を送らせてあげたい……そのためだったら、私は……!」

 

 海未は再び深々と頭を下げた。日舞の名家の跡継ぎだという彼女のお辞儀は思わず見惚れるほどに綺麗なのだが、今のは感情が篭り過ぎてむしろ鬼気迫っているように見える。

 

「お願いです!なるべく穂乃果にだけには悟られぬように……」

 

「はは……なんだそんなことか」

 

「そ、そんなことって!私は真剣に……」

 

 静流の茶化すような態度が不服だったようで、琥珀色の瞳がまっすぐ静流を射抜く。込められた威圧感は只ならぬと言ったところだ。

 

「まあまあ落ち着いて」

 

 静流は両手を広げて、語気が荒くなってしまった海未を宥めた。

 

「大丈夫だよ。というか別に君から言われなくても、秘密厳守が理事長との約束だしね」

 

「そ、そうですね……つい取り乱してしまいました。申し訳ございません。あなたには無礼な真似を働いてしまいました。お恥ずかしい」

 

 ここまで念を押されるということは、海未にとって穂乃果は厄介ごとに巻き込みたくない程に大事な友人だというのが窺える。

 

「気にしない気にしない」

 

「ね?海未ちゃん。言った通りだったでしょ?」

 

 落ち着きを取り戻した海未に、ことりは柔和な笑みを浮かべた。

 

「はい。どうやら私の取り越し苦労だったようですね」

 

「園田さんってもっとクールな人かと思ってたんだけど、意外にそれとも、そんなにあの子が大事なのかな?」

 

「べ、別にそういうわけでは……ただ私は穂乃果には余計な心配を掛けたくないだけで……」

 

 顔を赤らめて目を背ける。これでは言われた通りであると白状しているような物だ。やはり穂乃果という少女は海未にとって、『凛とした大和撫子』という自身の仮面を砕いてしまう程に大きな存在なのだろう。

 

「でも、気をつけて下さい。あの子は普段はずぼらで鈍感な癖に、時々妙に勘が鋭い時がありますから」

 

「肝に命じておくよ。まあでも気にし過ぎじゃないかな。そもそも()()()()()誰も信じたりしないと思うよ」

 

 人智を超えた異常現象の数々。それらを直に目にして、直接触れることが出来るのは自分達だけなのだから。その術を持たぬ多くの大衆には認識すら不可能な領域の世界である。穂乃果もそんな大多数の内の一人に過ぎない。

 

「それはそうなのですが……」

 

「おっはよーみんなっ!!!」

 

 海未がなおも不安を吐き出そうとしていると、突然教室のドアが勢い良く開かれた。右手がパンフレットと雑誌類で塞がった穂乃果だ。クラスでも抜群の存在感を放っている穂乃果は、クラスメイト達からの挨拶に元気良く応えながら自分の席へとやって来る。

 

「おや、噂をすれば何とやらって奴だね」

 

「おはよう穂乃果ちゃん」

 

「もう、遅いですよ穂乃果。またもや遅刻してしまうのではないかと肝を冷やしてしまいました」

 

さっきまで神経質なまでに穂乃果を案じていた穂乃果とことりとで幼馴染三人が揃った際によく見せる『いつも口煩い海未ちゃん』モードというわけだ。

 

「ごめんごめん。ちょっとUTXに寄ってたから!」

 

「UTX?ああ、確か秋葉原にあるこの辺じゃ一番人気の学校だったっけ」

 

 UTX高校。数年前に秋葉原の一角に誕生したばかりだというその新設校の噂は、静流が以前通っていたお台場の学園でもしばしば流布していた。莫大な学費と凄まじい受験倍率を勝ち抜く学力を求められる代わりに、千代田区はおろか日本でも最高の教育環境が得られるのだと。そして、UTXの制服を身に纏うことは付近の学生の間では最高のステータスである、と。

 

「そんな所に何の用が?まさか、廃校する前に転校しようと思ってたりとか」

 

「天宮君、冗談でもそんな笑えない話はやめて下さい。あの学校は音ノ木坂以上の成績が求められているのですよ。実際に先日UTXへ転校した子は学年でもトップクラスの成績優秀者でした。穂乃果の学力では、例え東京が核ミサイルで崩壊しても不可能です」

 

「二人とも何を言ってるの⁉︎編入試験だなんてそんなつもり全然無いし、穂乃果いくらなんでもそこまで馬鹿じゃないから!……た、たぶんだけど」

 

 最後は蚊が鳴いているようなか細い声音になってしまった。元気はつらつがモットーの穂乃果も、勉学の話題になると生まれたての子鹿の如く弱ってしまうのであった。

 

「じゃあなんでわざわざUTXまで行ってきたの?」

 

「ふっふっふー!ことりちゃん、よくぞ聞いてくれました!」

 

 意外と打たれ弱いが、開き直りも早さにも定評のある穂乃果は、待ってましたと言わんばかりに腰に手を当ててフンスッと鼻息を放った。

 

「今日はなんと重大発表がありまーすっ!」

 

「「「重大発表?」」」

 

 三人はやけに自信満々に宣言する穂乃果の姿に、むしろ逆に一抹の不安を覚えたようだった。互いに怪訝そうな表情で顔を見合わせる。

 

「廃校を阻止するために最高のアイデア閃いちゃって!みんなきっとビックリすると思うよ!後でじっくり教えてあげるから楽しみにしててね!」

 

「穂乃果の思いつきはいつもろくな物ではないのですが……」







海未ちゃんのキャッチフレーズである大和撫子は社会から求められる姿を演じているという心理学におけるペルソナそのものですよね。


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8話

今回は御説教要素強いです。個人的にはそういうの苦手なんですけど、強くて安定感のある主人公を演出するには不可欠ですからね。それと穂乃果ちゃんのわがまま度が上がってますが、アニメ版穂乃果ちゃんのまっすぐな主人公っぷりが好きな人には申し訳ない。


「んで、その最高のアイデアが、まさかのアイドル活動……か」

 

 廊下を歩く静流は学食のパン屋が1日20個限定で販売しているというホットドッグを頬張りながら呟いた。

 

「……天宮君もやっぱり反対なの?」

 

 一方、その隣を歩く穂乃果は昨日の昼食と同じランチパックを口にしていた。海未とは口論の末に喧嘩別れしただけに、昼休みに彼女と行動を共にするのは躊躇われたのだ。おまけにヒデコ、フミコ、ミカの三人も別の用事で都合がつかず、そこで白羽の矢が立ったのは自身と同じく学食のパンを買うため行列に並んでいた静流だった。よってこうして教室に着くまでの間、横に並んでそれぞれの昼食を堪能するようになったわけである。

 

「そんなつもりじゃないけどね。まあ、そりゃあ驚きはしたけど、断固反対ってわけでもないかなーとか」

 

 お茶を濁すように答えながら、静流はホットドッグの最後の一欠片を口に放り込んだ。

 本来なら、歩き食いは行儀が悪い行為である。それも会話をしながら。もしもこの場に海未がいれば、二人はキツいお説教を受けていたことだろう。しかし、今現在海未とは別行動中。マイペースを地で行くこの二人組は思う存分モグモグと口を動かしていた。

 

「クラスメイトにいきなり『アイドルやりたい!』と言われて戸惑わない人がいたら、その人はとんでもない鋼メンタルの持ち主だね」

 

 穂乃果の語った『廃校を阻止するための最高のアイデア』とは、『アイドルになって学校を有名にして入学希望者を増やそう計画』という一見破天荒かつ無謀極まりないものであった。

 しかし、可能性がゼロ、というわけではない。穂乃果のアイデアの発端となったUTXは実際に学校お抱えのアマチュアアイドルグループ『A-RISE』を看板係として起用し、周辺地域はおろか全国レベルでその名を轟かせていた。おかげで秋葉原近辺の女子中高生は皆A-RISEに憧れ、その人気にあやかろうと必死に地獄のような合格倍率と戦っている。

 さらにはUTXを真似して同じくアイドルグループを結成する女生徒達が全国の高校から出現。この学校を拠点に活動するアマチュアアイドル、通称スクールアイドルはもはや社会現象と言えるレベルまでに世間一般に熱を帯びているのだ。

 すぐ近くに成功例があるのだから、決して全否定すべきではないだろう。問題は自分達が同じマネをしても上手くいくとは限らない、ということだ。もっとも、そこが一番の難点なわけだが。

 

「でもでも!海未ちゃん、あんな言い方しなくても良いと思う!穂乃果だって真剣に考えたのに!」

 

 それを言ってしまったら、喧嘩別れした際の穂乃果の言い草も中々に酷いレベルではないだろうか。それに海未としても穂乃果のことを真剣に思って反対してるに違いないはずなのだから、お互い言いっこなしという奴だろう。穂乃果の日頃の不摂生を十年以上目の当たりにしてきた海未なら余計に難色を示しても仕方ない。

 と内心で思いつつも、穂乃果の機嫌を損ねるのを避けるため余計なことは口にしない静流であった。

 

「まあ園田さんってすごく真面目そうだし、芸能活動で学校宣伝して入学希望者倍増計画なんて少し安直過ぎると考えるのは仕方ないんじゃないかなーって」

 

 遠回しな表現でやんわりと諭したつもりだったのだが、穂乃果はますます不機嫌そうに口を尖らせた。昨日はあんなにも美味しそうにしていたランチパックをやけ食い気味に口の中へと詰め込んでいく。

 

「……安直じゃないもん。ちゃんとライブやるし、練習だって頑張るつもりだもん」

 

 意外なまでの頑固ぶりを見せる穂乃果。どうやら説得するのは骨が折れそうだ。一先ずこれ以上機嫌を損ねないようにしばらく黙っておこう。

 そう決心した静流は新しく焼きそばパンの袋を開けて口に放り込もうとする。が、その寸前で手は止まった。

 

「あれ?何か聞こえない?」

 

 キョロキョロと周囲を見渡し始めた。

 

「もー!話逸らさないでよ!」

 

「いや、ほんとほんと!」

 

「えー?そうな……の?」

 

 訝しげだった穂乃果の表情がみるみると柔らかくなっていく。

 

「本当だ。ピアノの音と……女の子の歌声?」

 

 穂乃果の言う通りだった。耳を澄ましたことで、今度は女性のややハスキーな歌声と合わせて奏でられるピアノの伴奏がはっきりと聞こえてくる。

 

「……上手い」

 

 音楽に関する教養の無い静流でもわかる。この女性の歌唱技術はかなりの物だ。

 

「でも、聞いたことない曲……」

 

「えっと……あそこは……音楽室なのかな」

 

 静流が指さした場所はいわゆる音楽の授業用の実習室だ。どこの学校にも設けられている、ピアノと偉大な作曲家達の自画像でお馴染みのその部屋には、音楽には欠片も興味の無い静流にとって昔から縁の無い場所である。前に通っていた学校にも音ノ木坂より遥かに設備が充実した音楽教室が存在していたが、芸術科目は美術を選択した彼には関係無い話だった。

 と、そこで今まで隣にいたはずの穂乃果の姿が消えていることにようやく気がつく。音楽室に視線を戻す。穂乃果が窓に顔をくっつけて変顔を晒したまま拍手をしていた。

 

「歌、上手だね!」

 

「うぇえ!何よ!あなたいきなり!」

 

「ねえねえ!聞いた事ない曲だけど、もしかしてあなたが作ったの?」

 

「この人、話聞いてない⁉︎」

 

 穂乃果はズカズカと遠慮無く音楽室の中へと入っていく。中から聞こえるやりとりを察するに、歌声の主は戸惑っているようだ。それも当然なんせ今は昼休み。もしかしたら誰かが気分転換にピアノを弾いてるのかもしれないというのに、よくも遠慮なく踏み込めるものである。

 遅れて静流も顔だけ出して部屋を覗き込んだ。この学院における、非常に数少ない顔見知りがそこにいた。

 

「やあ」

 

「うげっ!天宮先輩!」

 

 昨晩知り合ったばかりの赤毛の少女、真姫の姿がそこにあった。静流を目にした途端、人形のように整った顔を台無しにする程引きつらせてしまった。

 

「驚いたよ。まさか君がピアノが得意だなんてね。でも……うん、ちょっとビックリしたけど、すごく似合ってる」

 

「べ、別に趣味くらい何でもいいじゃないですか。それに小さい頃から続けてきたからそれなりに弾けるだけです。わざわざ自慢する程じゃないですから」

 

 ニヤニヤとほくそ笑む静流の視線に耐えられなかったのか、真姫は顔を赤らめながら目を逸らした。

 

「いやー、僕は音楽全くわからないから。こういう人に誇れる特技を持ってる人って尊敬するんだ」

 

「なにそれ意味わかんない!」

 

「あれ?もしかして二人って知り合いだったの?」

 

 真姫の両手を握りしめていた穂乃果は、キョトンとした様子で静流と真姫の顔を交互に見つめる。

 

「んー……知り合いというかなんというか……微妙な間柄?」

 

「え?何それ?」

 

「少なくとも知り合いよりもよっぽどディープな関係だね」

 

「うわっ!なんだか凄そう……」

 

「ちょっと先輩!変なことを言わないでもらえます⁉︎」

 

 真姫は立ち上がるとピアノの鍵盤の蓋を手早く閉めてしまう。

 

「ねえ、お願い!さっきの話を……」

 

「私、息抜きにピアノ弾いてただけですから!」

 

「待って!せめて名刺だけでも!」

 

バタンッ!

 

 真姫はそれだけ言うと一切振り返ることなく、そそくさと音楽室を後にした。残された穂乃果は落胆したと言わんばかりに肩を落とす。

 

「あー、行っちゃった。あの子なら絶対アイドルになれると思うんだけどな〜」

 

「確かに、西木野さんてすごい美人だよね。しかもピアノも弾けて歌も唄えるのか……」

 

「ふーん、あの子……西木野さんって言うんだね」

 

 昨晩理事長が言っていたが、あの少女は今年度新入生の中でもトップの成績で入学したのだ。まさに才色兼備と言ったところか。何も将来をアイドルに限定する必要は無い気がするが。

 

「うん!あの子が入ってくれれば音ノ木坂スクールアイドルグループは百人力だよね!きっと!」

 

「……それにしても君、本気でアイドル始めるつもりだったんだね」

 

「だから穂乃果は最初から本気だって言ってるじゃーん!あの西木野さんって子にだって絶対スクールアイドルになってもらうんだから!」

 

「だったら園田さんを説得するところから始めなきゃね」

 

 海未の名前が出てきた途端に、穂乃果の顔があからさまに引きつった。

 

「な、なんでそこで海未ちゃんが出てくるの⁉︎海未ちゃんは関係無いでしょ!」

 

 静流はハアと深いため息を吐いた。穂乃果と海未の諍いはしばらく放置しようと考えていたはずだが、どうにも放っておけない。

 

「あのね……はっきり言わせてもらうけど、幼馴染で気心が知れてるはずの彼女すらも説得できやしないのに、今の女の子をアイドル活動に参加させるなんて夢のまた夢としか到底思えないよ」

 

「……なんだかんだ言って、やっぱり天宮君も反対なんじゃん。いいよ別に!穂乃果一人でもやってみせるもん!」

 

「一人で?」

 

 頬を膨らませる穂乃果を前に、静流は小馬鹿にしたような笑いを漏らした。

 

「何がおかしいの!何度も言ってるけど、私は本気なんだから!」

 

「音楽の知識も無い。ダンスの経験も無い。自己管理もろくに出来ないのに?」

 

 本人に聞いた限り、この少女は音楽に関する専門教育は受けていない。カラオケは幼馴染二人と共にしばしば利用してはいたようだが、それを経験に含めるわけにはいかないだろう。ダンスもせいぜい学校のイベント位が関の山だろう。文字通りゼロから始める必要があるわけである。

 

「そ、そうだよ!私一人だけになっても必ず学校を守るの!」

 

「へえ、園田さんから不貞腐れながら逃げた君がねえ」

 

「そ、それは……」

 

 歯切れが急に悪くなる辺り、痛いところを突かれたらしい。根拠の無い自信があっという間に崩れ去ったようだ。

 

「だいたいこの学校の会長さんて厳しそうじゃない?もしもこの学校でアイドルをやるのなら、いずれはあの人も説得しないといけない。園田さんを味方にしておいた方が良いんじゃないかなー」

 

「でも海未ちゃんはスクールアイドルは駄目だって……」

 

「アイドル『が』駄目だって言ってたわけじゃない。君の本気が見えないから、中途半端な気持ちのままアイドルを始めて君が傷つくのが嫌だから彼女は反対したんだと思う」

 

 穂乃果が登校する前に見せた海未の姿は、まるで過保護なまでに娘を心配する母親のそれだった。性分で長いお説教になってしまったが、おそらくそれも過剰ながら穂乃果が心配ゆえの愛情の裏返し。静流が見た限り、少なくとも嫌がらせや鬱憤を晴らすために怒りをぶつける不躾な人物ではないはずだ。

 

「他者の本音を知れば、きっと自分が知りたくなかったことだって知ってしまうと思う。それは誰だって抱えてる恐怖だよ。だけど、アイドルってのは人と触れ合わなきゃいけない存在でしょ。大勢の観客達が最初から君に好意的なわけじゃないんだ。彼らの無関心や嘲笑にも逃げるのかい?」

 

 アイドルに限らず、古今東西大衆の無自覚な悪意に晒されて身を滅ぼした人間は数多に存在した。海未は『お人好しで心優しい穂乃果』が同じように大衆の無自覚な悪意によって傷つけられるかもしれない未来に耐えられなかったのかもしれない。

 ゆえに穂乃果は否定しなければならない。そんなことで傷つくような弱い幼な子ではないと。海未から逃げ出しては逆に弱いままだと肯定しているようなものだ。

 

「だから本気でアイドルになって学校を救いたいなら絶対に逃げちゃだめだ」

 

 静流は穂乃果の肩をポンと叩く。

 

「園田さんからじゃないよ。自分が傷つく事を恐れる『自分自身』から逃げたらだめだ」

 

「え?」

 

 穂乃果は目を丸くした。

 

「君の願い……アイドルになって廃校を阻止したいっていう想いが本気だって園田さんに見せつけるんだ。君は彼女が思っているような弱い人間じゃないって」

 

 穂乃果は何も答えない。あまりにも長く続く沈黙に、もしや余計なお説教のせいで完全に機嫌を損ねたか、と思ったのだが、どうやらそういうわけでもないようだ。ただ惚けた顔でしばし固まっていたのだ。

 

「どうしたの?」

 

「ううん……なんだか懐かしい気分になって」

 

 穂乃果は静かに笑っていた。

 

「懐かしい?」

 

「小さい頃にね。誰かに同じことを言われたの。それが誰なのかは思い出せないんだけどね。大人の人だったのは確かなんだけど」

 

 その幼い時分を回想しているのだろう。穏やかな笑みを浮かべたこの少女は、窓の外を向いて過去に思いを馳せているようだった。

 

「誰だったのかは全然思い出せない。でも、穂乃果に『自分自身から逃げるな』って。その時のこと……不思議とそれだけは今も覚えてるんだ」

 

 静流も穂乃果と同じく窓の外に目を向けた。入学シーズンを迎えたばかりの校門では、満開に咲き誇る桜並木が春風と共に花びらをヒラヒラと舞わせている。その光景は思い出に耽る穂乃果だけでなく、静流さえもノスタルジックな気分に浸らせた。

 

「……うん、決めた!私、もう一度海未ちゃんを説得してみる!」

 

 穂乃果は拳を握りしめ、自分自身に言い聞かせるように断言した。

 

「海未ちゃんと一緒にアイドルやりたい!ううん、やるっ!絶対っ!」

 

 もはや、その青い瞳に迷いは見えない。

 

「よし、その意気だ」

 

「うん、ファイトだよっ!」

 

「はは……頑張るのは君の方なんだけどね」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 教室に戻った二人を待ち受けていたのは憤怒の面を被ったかのような形相の海未であった。

 

「穂乃果!数学の先生から聞きましたよ!この前忘れていた宿題をまだ出していなかったそうですね!明日の朝一番までに提出しなかったら夏休みに補習を受けてもらうそうですよ!」

 

「うげっ!海未ちゃんその話いつの間に聞いてたの⁉︎先生には海未ちゃんだけには黙っておいてって言ったのに〜!」

 

「逃げようったって無駄です!そんなにアイドルをやりたいなら補習なんて不様な真似は許しませんよ!」

 

「わーん!やっぱり海未ちゃんの鬼だよー!悪魔ー!ベルゼブブー!」

 

「そこまで罵られる覚えはありませんよ!人を蠅の王呼ばわりするんじゃありません!こら待ちなさい!話は終わってませんよ!」

 

「二人とも落ち着ついてよ〜」

 

 今度は逃げられないようにがっしりと穂乃果を抑え込む海未と、二人を宥めることりを尻目に、静流は完全に無関心な態度を決めながらポテチを口に運ぶのだった。



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9話

 1時間。たった約1時間という短い時間ではあったが、海未による穂乃果へのしごきは(穂乃果基準で)過酷なものだった。数学を不得手とする穂乃果にとって、公式を当てはめるという行為そのものが既に苦痛で仕方ないようだ。しかし、海未はそんな彼女に対して、冷酷にもまず公式の暗記という試練を課した。

 横から見ていた静流とことりは、宿題なのだから公式は教科書を参考にさせれば良いではないかと口を挟んだのだが、海未は二人の助け舟に喜ぶ穂乃果を一睨みして却下させた。

 

「海未ちゃーん……もう限界……」

 

 結果、ギャグ漫画なら頭から湯気が出そうなほどに憔悴した穂乃果が出来上がったのだった。机に顔を突伏し、息も絶え絶えな穂乃果を無視して、海未はポンポンとノートを叩いた。

 

「これで七割は出来上がりましたね。さあ、今日の所はこれで結構です。後は家で完成させて来てください。私は弓道部に顔を出さなければなりませんから」

 

 穂乃果から返事が無い。まるでただの屍のようだ。そんな幼馴染を海未は冷たい目で見下ろす。

 

「この程度で根をあげているようでは、とてもではありませんがスクールアイドルなんて続けられませんね。やっぱり穂乃果には無理なのではないですか?」

 

 死に体だった穂乃果は慌てて顔だけ上げた。

 

「そ、そんなことないもん!馬鹿にしないでよ!何度も言うけど、穂乃果は本気なの!」

 

「口だけならば幾らでも言えます。有言実行こそが説得力を持たせれる唯一の機会です」

 

「ぐぬぬぬ……」

 

「ぐぬぬぬとかリアルで言う人、僕初めて見たよ……」

 

 泣きっ面の穂乃果は追いすがるように、ことりに頬ずりを始めた。

 

「うう……助げでことりぢゃん……」

 

「あー……えーっと……」

 

 普段のことりなら二つ返事で助けてくれそうなものだが、彼女の反応はどうにも芳しくなかった。

 

「ことりはこれから保健委員の用事です。あいにく手助けする余裕はありません」

 

 言い淀んだことりの代わりに海未が冷たく答えた。

 

「うっ、そうなんだ……」

 

「ごめんね穂乃果ちゃん……」

 

 ことりは申し訳なさそうに両手を合わせて頭を下げた。

 

「んじゃあさ。夜はー?」

 

「言ったでしょう。私とことりは今夜やらないといけないことがあるのです」

 

 ならば、と穂乃果は最後に新しい友人へとすり寄る。

 

「天宮君ならここの問題わか……」

 

「さあ行きましょう天宮君!今日は弓道部の体験入部に参加していただきます!」

 

「ええっ⁉︎今から⁉︎」

 

 カバンに教科書を詰め終わった海未は、勢い良く静流の腕を掴んで引っ張る。

 

「ええ、今からです」

 

 海未は当然と言わんばかりに強く言い放った。

 新天地では心機一転のために今まで経験したことの無いクラブ活動に参加しようと決めていた静流だが、肝心の音ノ木坂に存在する数多の部の活動内容について全く前知識が無い。と言うよりも女子校ではどこの部に入っても浮いてしまうであろうことが悩みであった。

 そんな彼の相談に乗ったのが現役弓道部員の海未だった。海未曰く新入生達と同様の体験入部を試してみてはどうか、と。正式入部後の練習も強制参加ではないらしく、その点でも静流にとって都合が良い。

 まだ入部先を決めていはいないが、まだ知り合って間も無いとはいえ、他の女生徒達に比べれば幾分か気心の知れた海未のいる弓道部に所属するのも悪くないとは確かに思い始めている。

 しかし、それは一刻を争う話ではないはずだったのだが。

 

「いやー、僕としては別に今日じゃなくてもいいんだけなあ」

 

 穂乃果が先程からうんうん唸りながら頭を抱えている問題の内容は、前いた学校では既に済ませている範囲だ。請われたならば助け舟を出して構わないと考えていたのだが、それは問屋が卸さないというのが海未の意思らしい。

 

「いいえ!善は急げと言います!二年から中途入部ならば早めに参加しておいた方が今後のためにもなるでしょうし!さあ!早く!」

 

「い、痛い痛い……わかったからそんなに強く引っ張らないで」

 

 新調したばかりの特注男子生徒用ブレザーが千切れないよう、興奮気味の海未を宥める。女性と思えない程の力の入り様。よっぽど腹に据えかねているようだ。

 

「海未ちゃんのいじわるー!そこまで嫌がらせしなくていいでしょ!」

 

「知りません!あなたの自業自得なんですから!」

 

 シュビッと風を切るような音が聞こえそうな勢いで、人差し指を穂乃果の鼻に突きつける。あまりの迫力に穂乃果も気圧されてしまっていた。

 

「良いですか!朝一ですよ!朝一!家で片付けずに明日の朝ことりに助けてもらおうなどという真似は許しません!」

 

「あはは……それじゃあ」

 

「ぶーっ!海未ちゃんのバーカ!バーカバーカバ……」

 

 教室のドアをピシャリと締める瞬間、穂乃果が両手を振り上げながら何か抗議していたのが目に映ったが、海未は全く振り返ることなく完全に無視してしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 シュッ!

 

 風を切るような音と共に、一本の矢が弓道場の一角に設置された的へと突き刺さった。

 

「まさかのジャストミート……」

 

「おおっ!初めてにしてはなかなかやるじゃん!」

 

 弓を構える静流の体を支えていた弓道着の女生徒は、的の丁度真ん中に命中した矢を見て感嘆の声をあげた。静流自身もこうも上手くいくと思っていなかったのか、しばしポカンと的を見つめていた。

 

「天宮君だっけ?君って結構筋良いねえ。本当に弓道初めてなの?そういや月光館学園て弓道部はかなり強かったはずだけど。去年もあそこに優勝持ってかれちゃってさー」

 

 弓道着の女生徒は感心しながら呟く。そして、どうやら月光館学園高校弓道部にはかなりの辛酸を舐めさせられたらしく、後半部分は苦々しそうな顔をしながら回想に耽っていた。

 

「ええと、あそこではSF超常現象研究部に所属してました。……一度しか部室行ったことないですけど」

 

 いわゆるオカ研という奴だが、どうやら完全な幽霊部員だったらしい。

 

「じゃあ完全に初心者か。でも、磨けば光る逸材間違いなし!これで今年の我が部は男女で優勝杯をいただきね!フッフッフッ……今年の都大会では覚悟しときなさい月光館学園!」

 

 女生徒改め弓道部部長はまるで悪役のような不敵な笑みを浮かべる。既に彼女の中では輝かしい壮大なプランが出来上がっているようだ。取らぬ狸の皮算用とも言うが。

 

「いやー、素晴らしい掘り出し物を見つけてきてくれたじゃないの。でかしたわよ海未!部長の私も鼻が高いわ!」

 

「いや、別に弓道部に決めたわけじゃ……」

 

「というわけだから、新入部員君の指導頼むわよー?海未」

 

「あのー?部長さん、人の話聞いてますー?」

 

 廃校寸前ゆえに数の少ない新入生を巡って、これまで熾烈な部員獲得争いに興じてきただけのことはある。相当なふてぶてしさだ。強引ながらも新たな部員を増やすことに成功した部長を務める少女はすこぶる上機嫌なようだ。

 

「ってあれ?」

 

 別の的を相手に練習に励んでいるはずの海未の方へ振り向いた部長は目を丸くした。

 

「どうしたのよ海未!今日は一発も的に当たってないじゃない!珍しいこともあるものねえ」

 

 海未が練習に使用していた的の周囲には大量の矢が転げ落ちているが、中心に突き刺さっている物は一つも無かった。と言うより、まともに的に掠っている矢すら無い。

 

「うう……」

 

 海未は頬を赤らめたまま床に泣き崩れている。その姿はやたらと扇情的だった。

 

「駄目です……集中出来ません……」

 

「はあ、仕方ないわねえ」

 

 部長は壁に掛けられている時計を見やるとため息を吐いた。

 既に殆どのクラブは練習を終えて帰宅の準備を始めている頃合いだ。弓道部員も既にここにいる三人しか残っていない。

 

「もう時間だし、二人とも帰りなさい。海未がこの調子じゃこれ以上練習しても仕方ない気がするわ。今日の片付けは私がやっとくから」

 

「面目ありません……」

 

 頭を深々と下げる海未に対して、部長はケラケラ笑いながら手を振った。

 

「良いってことよ。海未は期待のルーキーを引き込んでくれた功労者だしね」

 

「なぜか僕が弓道部に入部するのが完全に確定してるみたいなんですが……」

 

「いちいちこまけえことは気にしないの。禿げるわよ」

 

 説得もとい上手く丸め込まれる形になったが、別段悪い気はしなかった。多少おべっかも混じっているとはいえ、自分の存在価値を認められて不愉快になる者などまずいないだろう。これもまた運命の巡り合わせというものだろうか。

 そんな風に半分観念していた時だった。弓道場の外からコンコンと扉を叩く音が聞こえてきた。

 

「海未ちゃーん!……あれ?」

 

 練習の終わりを見越してやって来たのだろう。ことりが扉を勢い良く開けて弓道場へと入ってきた。だが、中の光景を目にするなりキョトンとしている。力無く床に倒れたまま項垂れる海未を前にして戸惑っているようだ。

 

「……いったいどうしたの?」

 

「まあちょっと……ね」

 

 聞かれた静流は肩を竦めるしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「申し訳ありません。せっかくの体験入部だったというのに情けない姿ばかり見せてしまい……」

 

 制服に着替えた海未は相変わらずどんよりとした空気を放っていた。それでもさっきまでに比べれば幾分かマシではあるものの、俯き加減は変わらず表情も暗い。

 

「まあ弓道部のエースさんの本領発揮はまた今度ってことで」

 

「うう……面目ありません……」

 

 部長曰く、普段なら百発百中らしいのだが、今日の練習ではその冴え渡る技量をついぞ目にすることが出来なかった。自分の弓の実力にはそれなりの自負がある海未にとって、屈辱的とも言える時間だったわけである。

 

「それもこれも穂乃果のせいです!あ、アイドルだなんて……!」

 

 顔を赤らめ、妙に語気が荒い海未。その姿にもしやと思い、隣で黙々と煎餅を頬張っていた静流は一端食べるのを止めて海未に問いかけるのだった。

 

「……もしかして園田さん、本当はアイドルに興味あるのかな?」

 

 もしそうだとしたら、穂乃果の結成したスクールアイドルに海未を加入させる計画は決して望み薄ではない。海未も内心で可愛らしい衣装を纏って歌とダンスを披露してみたいと思っているならば、お互い望み叶ったりだろう。

 

「そ、そ、そ、そんなわけないに決まってるではないですか!わ、わ、ワラシがアイドルをやるだなんて……ありえないでしゅっ!」

 

「落ち着いてよ。噛んでる噛んでる」

 

 別に『海未がアイドルになりたいのか』を聞いたわけではないのに墓穴を掘っていた。おまけにあからさまに挙動不審となっているのだから、本当は自分がアイドル活動に興味津々であると自供しているようなものだ。

 

「だ、だいたいあの穂乃果のことです!どうせまたすぐに飽きて投げ出すに決まっています!今日の宿題だって途中で放り出すかもしれませんよ!」

 

「……ねえ海未ちゃん」

 

 今まで海未の話に一切口を挟まずにひたすら黙って聞いていたことりは突然立ち止まり、静かに校舎裏の一角を指差した。いまいち陽当たりが良くないためか、昼食時以外はたむろする生徒も殆どいない場所だ。

 

「見て」

 

 ことりに従い、二人は少し遠く離れたその場所を凝視する。

 

「えいっ!ふっ!ほっ!」

 

 少女の掛け声と軽やかな流行曲のメロディが耳に飛び込んでくる。

 

「あれは……」

 

 海未は目を丸くした。

 

「やっ!はっ!」

 

 穂乃果だ。上着を脱いだブラウス姿の穂乃果が、スマホから流れる人気アイドルソングに合わせて、激しいテンポのステップを刻んでいる。どこかたどたどしいその動きは時折危なっかしくて見ていられないが、ダンスの練習に一心不乱で打ち込んでいるのは間違いなかった。

 

「有言実行……だね」

 

 煎餅を口に咥えたままの静流はボソッと呟いた。穂乃果は自分が本気であると示すため、廃校阻止の夢さっそく行動に移し始めたのだ。

 

「さっき弓道場に行く途中で見かけたの。穂乃果ちゃん、あの後ずっとここで練習してたみたい」

 

 未経験者である穂乃果のダンスははっきり言って、同じく素人でしかない海未達の目から見ても技術的には稚拙でしかなかった。肝心のステップはどこかぎこちないし、その表情はあまりにも硬い。さらに練習の疲れもたまってきているのだろう。さっきからどんどん音楽とのテンポがズレてしまっている。

 これでは人前に出て披露したところで笑い者になるだけだ。今のままでは学校を有名にするなど夢のまた夢でしかない。おそらく形になるだけでも途方もない努力が必要になるだろう。海未の判断はあまりにも残酷な真実だった。やはりスクールアイドルで廃校阻止など無謀極まりない賭けに過ぎなかったのだ。

 

だが、それなのに。

なのに穂乃果のぎこちない舞から、何故か目が離せない。

そのひたむきな姿に心打たれずにいられない。

 

やがてスマホから流れるアイドルソングがフィナーレを迎える。同時に穂乃果のステップも止まった。

 

「ふう……遅くなってきたし、続きは家でやろうっと!」

 

 額に流れる一雫の汗を拭い、道具をバッグに詰め込んでいく。

 

「練習もこれから毎日続けて、宿題もちゃんと提出して、絶対海未ちゃん見返してやるんだから!そしてそして!」

 

 穂乃果は手をぎゅっと握りしめる。

 

「海未ちゃんと……一緒にアイドルやるっ!海未ちゃん認めてもらって、一緒に学校を守ってみせるっ!」

 

 夢見る少女が瞳をキラキラと輝かせる。その眼差しは輝きに違わず、希望に溢れているのだった。

 

「よーしっ!頑張るぞー!!」

 

「穂乃果……」

 

 鼻歌交じりで軽やかにスキップしながら校舎裏から立ち去っていく穂乃果を見送った後、ことりは穏やかな笑みを浮かべつつ口を開いた。

 

「ふふふ……穂乃果ちゃんったら、よっぽど海未ちゃんと一緒にスクールアイドルやりたいんだね。ちょっとだけ妬いちゃうかも」

 

 海未は何も答えない。

 

「海未ちゃん、私ね……穂乃果ちゃんとアイドル活動、やってみる」

 

 ことりの決意を耳にした海未は、一瞬惚けたような顔をした。普段は自己主張をしないはずのことりが、自ら親友の夢に力を貸すと宣言したのだ。幼い頃より彼女を知る海未には驚きだった。

 

「だって、あんなに真剣な穂乃果ちゃんって久しぶりだもん」

 

 人は無意識の内にいくつもの仮面を使い分けて生きている。

 ズボラでいい加減な穂乃果。

 わがままで人の話を聞かない穂乃果。

 いつも明るく元気で皆の中心にいる穂乃果。

 そして、一度決めたら何処までも突っ走るという穂乃果の別の一面が、明らかにされたのだ。これが彼女の持つ本当の自分なのかは、まだわからない。だが、少なくともこの穂乃果もまた穂乃果である。

 

「穂乃果ちゃんがああやってみんなを巻き込む時って、いつも楽しいことばかりだったよね。ほら、小さい頃に三人で木に登った時とか」

 

「はい、私も覚えています。あの時は大変でしたよ。嫌がっていた私を無理やり一緒に登らせた挙句に、結局降りれなくなって危うく大怪我を負ってしまうところでしたね。あれは本当にいい迷惑でした。怖くて怖くて……それまでで一番泣いてしまっていたかもしれません」

 

「そうだね。ことりも怖かったよ。でもね」

 

「ええ……でも、楽しかった。今でも忘れられない、穂乃果との大切な思い出……」

 

 海未の琥珀色に煌めく瞳が、風に吹かれた水面の如くユラユラと揺れる。口元は微かにつり上がっている。美しい思い出が少女の目に映し出されているのだろうか。

 過去に思いを馳せる幼馴染に、ことりは優しく笑った。

 

「ねえ。海未ちゃんもどう?穂乃果ちゃんと一緒に……アイドルやろう?」

 

「私は……」

 

 形の整った唇がゆっくり開かれる。

 

「私は……私には無理です」

 

 海未は……首を縦に振らなかった。

 

「あの子は本気だったのに、私は信じてあげれませんでした。それどころか傷つけるような事を言ってしまった……」

 

 穂乃果に対して、スクールアイドルに対して、海未は徹底して全否定を突き付けてしまった。傍から見れば、穂乃果の邪魔をしてしまったも同然だ。そのことが海未の中で重くのしかかっているのかもしれない。当の穂乃果はむしろ海未と一緒に踊ることを望んでいるというのに。

 

「きっと私にはあの子と一緒に歩む資格なんてありませんよ……」

 

「そんなこと無いよ!アイドルに反対してたのは海未ちゃんは穂乃果ちゃんが心配で……」

 

「二人のスクールアイドル活動は陰ながら応援します。頑張ってください……」

 

 海未はことりに背を向けた。ことりの説得には応じない、という意思表示だろう。

 

「海未ちゃん……」

 

「すいません。少し……一人にさせてくれませんか?今日は初の迷宮探索ですから、心の準備を頂きたいのです」

 

 海未が俯き加減でトボトボとその場を離れていく。普段は背筋を伸ばしている彼女らしくない、あまりにも小さな後ろ姿だった。

 やがてスマホから海未の姿が見えなくなったのを確認した静流は、空気を読んで音を立てぬようにと口で咥えたままだった煎餅をようやくパリッと噛み砕いた。そして、

 

「この学校の女の子は不器用な子ばっかりだなあ」

 

 隣で暗く沈んでいることりには聞こえない程度の小さな声で呟くのだった。



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10話

「あれ?あれ?あれれれ⁉︎」

 

 風呂上がりの寝間着姿に着替えた穂乃果は自室で慌てふためいていた。冷や汗を垂らしながら、必死にカバンの中身を探っている。

 

「あ、あれ〜?」

 

 帰宅してからはダンスの参考にするためにアイドルのPVをチェックしたり、家族の訝しげな視線を尻目に振り付けとポーズの練習に打ち込んでいた穂乃果だが、いつの間にか廃校阻止の目的どころか夕食すらも忘れてそれらに夢中になっていた。

 普段は色気より食い気を地で行く穂乃果とはいえ、やはり年頃の少女。スマホに映るアイドル達の煌びやかな舞台衣装や華麗なダンスを前に、目が釘付けになっていた。今まで知らずにいた輝かしい世界がそこにあったのだ。

 そんな彼女が宿題はまだ終わっていないのを思い出したのは、業を煮やした母親がいつまでも部屋から出てこない娘に苦言を呈してきた時であった。そこで時計の針が深夜近くまで迫ったことにようやく気づいたのだ。幼い頃より一度何かに没頭すると周囲が見えなくなるタイプだと評されてきたとはいえ、アイドルの練習のために宿題までも放置して補習を受ける羽目になってしまっては流石に本末転倒である。

 しかし、そこはやはり穂乃果。結局宿題を済ませるよりも風呂を優先してしまう。どうせすぐに終わるだろうという甘い算段ゆえに。そして、ようやく嫌々ながらも昼間の内にかなり片付けた宿題の残りに手を付けようとカバンを開いた。

 のだが……

 

「無い……」

 

 何度も何度も……既に無駄だと頭では理解していても、繰り返しカバンの中を隅から隅まで手を潜り込ませる。

 

「無い無い無い無い無い……うわーーーーーんっ!!!どうしよう!!肝心の教科書が無いよーーーーーー!!!」

 

 結局お目当の物は見つからず、穂乃果は頭を抱えた。一時は海未のスパルタ教育を乗り切ったとはいえ、公式の数々は穂乃果の記憶からは既に消え去っていた。参考書の類を使わず問題を解くなど、もはや不可能に近い。

 

「そ、そう言えば、海未ちゃんに言われて、教科書見ないで問題解いてたんだっけ……もしかして今も机の中⁉︎」

 

 ガラッ

 

「もう……お姉ちゃん、さっきからうるさーい」

 

 気づかない内にかなりの大声になってしまっていたようだ。パジャマ姿の妹が目を擦りながら襖を開けて姿を現した。せっかくの睡眠を邪魔されて相当お冠らしく、眉間に皺を寄せている。

 

「さっきからどうしたの?もうとっくに11時過ぎだよ。あんまり大騒ぎしてるとお母さん達からまた怒られ……」

 

「それどころじゃ無いんだよ雪穂ー!」

 

 不機嫌さ全開で不満を漏らす妹を放置して、穂乃果は慌ててスマートフォンを手に取った。

 

「なんなのもう……」

 

 落ち着きの無い姉に呆れる雪穂は扉を閉める際に小言を並べていたようだが、目の前にピンチが迫る穂乃果としてはそれどころではない。すぐさま電話帳を開き、慣れしたんだ幼馴染の番号を入力する。

 

「神様仏様ことりちゃん〜!お願いだから電話に出て〜!」

 

 こんな夜遅くに起きている保証は無い。プルルルと虚しく響く呼出音に精神をすり減らされながら、穂乃果は普段ろくにお参りもしていない神に祈り続ける。そして無機質な呼出音も六回程続いた時、突如終わりを告げた。

 

「た、た、た、大変だよ〜ことりちゃん!」

 

『どうしたの穂乃果ちゃん?こんな夜遅くに』

 

「実は……」

 

 穂乃果はおそらく机の中に教科書を入れたままにしていたであろうことをことりに説明した。

 

「どうしよう〜!これじゃあ明日の朝一とか絶対間に合わない!もう無理だよ〜!スクールアイドル活動出来なくなっちゃう!」

 

『そんなあ……』

 

 数瞬の間を置いた後、電話越しにことりのため息が届いてきた。

 

『仕方ないなあ……それじゃあ明日朝は早めに来て。ことりのノートをこっそり写させてあげるね』

 

「ほ、本当ぅ⁉︎」

 

 歓喜のあまりに思わず声が裏返ってしまった。そんな穂乃果のあまりにも必死な様子がおかしかったのか、電話の向こう側からクスリと笑いが漏れ聞こえてくる。

 

『本当に本当だよ。勿論、海未ちゃんには内緒にしておくから』

 

「おおおおおお!!!」

 

 愛くるしい容姿と包み込むような母性的優しさの持ち主ゆえに彼女を知る者達からは天使と称されていることりだが、今日の穂乃果にとってはもはや天使を超越し、女神と呼んでも差し支えなかった。

 

「ありがとう、ことりちゃん!ほんと助か……」

 

ーーーーーほらやっぱり。あなたには無理だったんですよ。私にはわかっていましたーーーーー

 

 穂乃果の頭の中で海未の冷たい声音が響き渡る。

 違う。確かに海未は自他共に厳しすぎる一面はあるが、こんな風に人を見下すような態度を取る少女ではない。これは穂乃果の中にある罪悪感が海未の姿を借りて自分自身を責め立てているに過ぎない。

 これは海未ではない。だから気にする必要なんて無いはずだ。そのはずなのに。

 

ーーーーー何もかもが中途半端なあなたがアイドル?フフフ……心底笑わせてくれますねーーーーー

 

 頭の中から、愉しそうに嗤う海未の姿が焼き付いて離れなかった。

 

「……ごめん、ことりちゃん。やっぱり手伝ってくれなくても大丈夫だから」

 

『え?』

 

「それじゃあまた明日!」

 

 ことりが戸惑っているのも構わずに通話を無理矢理終わらせた穂乃果は、意を決した表情でベッドの上に散乱していたパーカーと靴下を手に取るのだった。

 

「ふあー……もう、お姉ちゃんのせいで無理矢理叩き起こされちゃったよ。せっかく良い気分で眠ってたのに。まったく、高2になっても相変わらず落ち着きが無いんだから……」

 

 欠伸を手で抑える雪穂。気晴らしに水でも一杯飲んでおこうと台所に向かっていたのだが、その途中に玄関口に照明が灯っているのが目についた。

 

「あれ?お姉ちゃん今度はどうしたの?」

 

 既に深夜だというのにバタバタと慌てた様子で靴を履いている姉を見て、雪穂は不可解そうに首を傾げた。

 

「ん!ちょっと近くのコンビニでお買い物!」

 

 本当の理由を話すのは憚られるからか、適当にそれらしい言い訳を並べた。

 

「ええっ⁉︎こんな時間に⁉︎もうすぐ日付変わっちゃうよ⁉︎」

 

「うん!だからお母さん達には黙っておいてね!」

 

「ちょっとお姉……あーあ行っちゃった」

 

 スニーカーを履き終えた穂乃果は雪穂の制止にも振り返らずそそくさと玄関を飛び出して行ってしまった。雪穂の中で一抹の不安がこみ上げてきた。もう高校生とはいえ、姉はまだまだうら若き少女だ。深夜近くになって一人で夜道を出歩くのは決して褒められた行為ではない。

 おまけに最近はテレビで不可解な怪事件が頻繁に報じられているだけに余計不安は大きい。自分達が次の被害者になってしまう可能性はなきにしもあらずなのだ。しかし、

 

「ま、いっか。近くのコンビニならどうせすぐ帰ってくるでしょ」

 

 それよりも早く寝なければ。自分はぐうたらな姉と違って部活の朝練にも参加しているのだから。雪穂は窓から覗く三日月を眺めながら、欠伸を堪えた。

 巷を賑わす怪事件の被害者には、幸いにも雪穂の知り合いはいなかった。そのせいか、秋葉原周辺で騒動が起きているのにも関わらず、どうにも実感が無いのが正直なところだった。ゆえに雪穂にとって結局は関心の薄い他人事でしかなかったのだ。

 雪穂は本心では疑っていなかった。あれはどこか遠い別世界の出来事であると。あんな事件は自分達の与り知らぬ話であると。明日も同じ日常が続くと。

 己に襲い掛かる睡眠欲に負けた雪穂は、そうやって姉のことなど記憶の片隅に置いて思考放棄してしまうのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「綺麗な満月……」

 

 深夜の12時を過ぎた夜の世界で、静流はポツリと呟いた。

 

「やっぱり驚いちゃうよね」

 

 ことりが横に並び立ち、同じように上空を見上げた。

 

「ああ、12時になる前、今夜の月は確かに()()()だった。なのに今は満月。それも異常な位に巨大なサイズになってる」

 

 古来より月には人を狂わせる魔力が宿っているとされてきた。ヴァンパイア、ウェアウルフ、魔女、伝承に残る忌み嫌われし者達も月下にて本性を晒け出すという。実際それまでは正常だったはずの人間が突如満月の夜に豹変してしまったという記録も残されている。

 眉唾なオカルト話ではあるが、目の前でギラギラと輝きを放つ満月を見ていればそうなっても仕方ないと思えてくる。

 

「気づいた時は面食らったよ。なんせこの時間ではどんな悪天候でも必ず綺麗に晴れて、そして、その日の月がどんな満ち欠けであっても常に満月になる」

 

「お母さんが言ってたけど、この現象も大きな謎の一つなんだって。機械が使えないんじゃ調べようがないから……」

 

 そう言ってことりはポケットから普段から自分用のスマートフォンを取り出した。画面は真っ黒で何も映っていない。試しに画面やボタンに触れるものの、一切反応は無かった。

 

「まあ、悪いことばかりじゃないけどね。おかげで街の電気が全て消えてライトも使えないにも関わらず、視界が困らない程明るい。けど……」

 

「でも、やっぱり……すごく気持ち悪い」

 

 何事もオブラートに包んで表現する傾向にあることりが、こうもはっきりと嫌悪感を露わにした。それ程までにあの満月には人の不安を掻き立てる何かがあるのは確かだった。とはいえ、その正体が何なのかは彼らが知る術は今の所存在しないわけだが。

 

「数々の怪現象の正体ね……私も気にはなるけど、考えても仕方ないわ。私達の足で辿り着くしかない」

 

静流とことりは声がした方へと振り向く。

 

「三人共、覚悟は良い?今日は軽く慣らしておくだけのつもりだけど、人智を超えた危険な存在と命の奪い合いをすることに変わりはないわ。後戻りするなら今の内よ」

 

 絵里の忠告に対し、同級生を代表して海未が前に出る。海未は今まで二人からは離れて弓の弦の調整に没頭していた。

 

「はい、問題はありません」

 

「そう、ならいいわ」

 

 お互いに感情を込めずに淡々と言葉を交わす二人のやりとりはあまりにも女子高生らしくない。

 そんなやりとりもどこ吹く風といった様子で希は肩を伸ばして準備運動を始めていた。

 

「さーて、索敵索敵っと……?」

 

 しかし、徐々にその表情が険しい物へと変化していく。

 

「ちょい待って!」

 

 全員の視線が希に集まった。

 

「なんや……うちら以外の誰かがここに来とる……それもほんの少し前みたいやね」

 

 皆が戸惑う中で、希はしばしの間こめかみに指を当てて考え込んでいた。

 

「えりち!鏡を用意してくれへん?」

 

「鏡?」

 

 希の意図を理解していない二年生達は全員頭を傾げたが、絵里は無言で頷くとすぐさまバッグの中から一枚の手鏡を取り出し、希の足元に置いた。

 

「これやるの久しぶりなんやけど……」

 

 しゃがみ込んだ希は鏡の表面にそっと手のひらをかざした。すると今までなんの変哲もない普通の鏡が、まるで液体のようにゆらゆらと揺れ始めた。同時に鏡の中に変異前に音ノ木坂学院の校舎が映し出される。

 

「わっ!鏡に映像が……」

 

「すごいな。副会長さんってこんなことも出来るのか……二人も知らなかったの?」

 

「はい、私もことりも初めて見ました。驚きです」

 

 賞賛に近い反応にずいぶんと気を良くしたらしく、希は自慢気に胸を張った。

 

「ふっふーん!これでも自分の能力はかなり研究してきたつもりなんよ。まあ見てみ」

 

 希は再び鏡へと手を伸ばした。またも鏡に雫が落ちたかのような波紋が広がり、映像が切り替わる。今度は校門よりも奥、玄関口が映し出された。いや、正確には玄関口を通り過ぎる謎の人影が映し出された。

 

「よく見えないけど、これって女の子かしら?もしかしてうちの生徒なの?」

 

 顎を手に乗せながら、絵里が首を傾げる。夜の学校は月の光と小さな照明灯しか頼れる物が存在しない。そのせいか、体格と髪型から年若い少女だと辛うじて判明可能だが姿は朧げになってしまっている。少女は時折辺りを見渡して警戒しつつ、駆け足で校舎の中へと入っていく。

 

「……どうやらこの女の子が校門を乗り越えて校舎に忍び込んだみたいやね。もうちょいズームインしてみようか」

 

「……⁉︎」

 

 視点が動いたことでより学校に近づき、鏡に映った少女の姿がより鮮明に浮かび上がる。そのハツラツとした顔立ちとサイドテールの髪型の組み合わせは2年生にとってよく知る容貌だった。

 

「穂乃果ちゃん⁉︎」

 

 そして、パーカー姿の少女が、穂乃果が校舎内に入り込んで間も無く、深夜を過ぎた学院は異形の巨塔へと変貌を遂げた。

 

「嘘でしょう……そんな……」

 

 海未とことりの顔がどんどん青ざめていく。今の映像を見た限り、穂乃果が学校から出た気配は無かった。それは即ち、穂乃果が未だこの塔の中に囚われている可能性を示している。

 

「もしかして君らの知り合いなん?」

 

「は、はい……我々の幼馴染で……」

 

「昨日の昼休みに私達といた女の子です」

 

「……あー、あの時の」

 

 その場にいた希は思い出したようだ。もはや普段のふざけた調子は鳴りを潜めている。

 

「おそらく彼女は校舎に侵入して、そのままエリュシオンの変異に巻き込まれてしまったのね。何故深夜に学校へ忍び込んだかは知らないけど」

 

 顔見知りではないとはいえ、生徒会長を務める絵里にとって音ノ木坂学院の生徒の安否は他人事ではない。一見冷淡なまでに状況確認を行っているように思えるが、整った顔は険しさに満ちている。

 

「そういえば穂乃果ちゃん、さっき電話してる時に教科書を教室に忘れてきたかもって……」

 

「ま、まさか、それを取りに学校へ……?」

 

 正直言ってくだらない理由だった。命を危険に晒す理由としては、あまりにもくだらなすぎた。しかし、だからと言って何も知らずに迷い込んでしまった少女と、彼女の身を案ずる幼馴染達を誰も笑う気にはなれなかった。

 

「くっ……今後は夜間の学校には一切侵入できないよう、理事長に進言しておくべきね。変異に巻き込まれないために警備員や用務員は深夜前には帰してたのが仇になったわ」

 

 眉根を寄せてますます険しい表情を作っている絵里は吐き捨てるように言いつつ、自身の右腕的存在へと振り返った。

 

「希、その子の居場所は⁉︎」

 

 希は瞼を閉じて、静かに首を横に振った。

 

「そこまではちょっと無理やね。どうやら完全にうちの索敵範囲外みたいやから」

 

 そう言って、手鏡にかざしていた手を引っ込める。様々な光景を映していた鏡面は元の何の変哲も無い姿へと戻っていた。

 

「おまけに今日はいつもに増して迷宮の構造が入り組んどるみたいやし、探索そのものも中止しといた方が良いと思うわ。敵さんも普段よりずいぶん活性化してるようやしね」

 

 希の提言に、海未は著しく顔を強張らせる。

 

「そんな!だったら穂乃果は!」

 

「ちょっと顔が近い近い!少し落ち着いてくれへん?」

 

 食らいつくかのように迫る海未を宥める希。

 

「そう無茶言わんどいてくれへんかな。そもそもウチの探知能力は強い生命反応を探り当てるものなんよ。ペルソナ使いの1割以下のプラーナ量しか持たない普通の人間だったら、今みたいなのが限界」

 

「星の運行を司る女神『ウラーニア』。その星占術は百発百中。だけど、肝心の星の燦々たる輝きが見えなければ、星が導く未来を知ることも出来ないわ。

ペルソナが使えない彼女は、私達に比べて星屑にも等しいか弱い生命力しか持っていない。離れれば離れる程、その輝きはか細く、酷く見えづらくなっていく」

 

「そういう事やね」

 

 絵里の補足に希は苦笑いで返した。

 一方、海未は予期せぬこの事態を前に、その華奢な身体をふらつかせる。

 

「わ、私のせいです……」

 

 今にも倒れてしまいそうな程に震える足をなんとか支える。

 

「私が……穂乃果にあんなキツく当たったりしなければ……」

 

「海未ちゃん、それは違うよ!」

 

「そうだよ。君が悪いわけじゃない。ただ……色々と間が悪かったんだ」

 

 しかし、周囲の慰めは彼女にとって何の意味も無かったようだ。握りしめた拳をわなわなと震わせていた海未は、意を決した様子で絵里へと振り向いた。

 

「私に行かせて下さい!私一人でも構いません!」

 

 彼女にとっての救いは穂乃果を救い出すこと一点のみ。

 

「駄目よ」

 

 そんな海未に対して、絵里は冷たく言い放った。海未の決心を握りつぶすかのように、感情を込めず。

 

「希が今言ったはずよ。今日の探索は中止にすべきね。ろくに戦闘経験も無いあなた達に無茶をさせるわけにはいかないの。わかってちょうだい。あなたまで行方不明になったら、今度は誰が彼女を助け出すっていうの?」

 

 海未の顔がクシャクシャに歪んだ。

 

「私も生徒会長に賛成。勝ち目のある賭けならともかく、あの先輩が何処にいるか手掛かりすら一切無いのに手当たり次第探し回ったところで徒労に終わるだけだと思いますから」

 

 壁に寄りかかったまま、今まで口を挟まずにいた真姫も絵里達に追従した。いや、真姫だけでは無かった。幼馴染と新しい級友も恐る恐る口を開く。

 

「僕も……先輩達の言う通りにした方が良いと思う」

 

「海未ちゃん……お願い……」

 

 再び意気消沈して項垂れる海未の肩を希はポンと叩く。

 

「海未ちゃん、ごめんな。確かに可哀想やし、うちもえりちも本当は一刻も早く助けだしてあげたいって気持ちは一緒なんよ?でもな、それでうちらまで犠牲にでもなったら本末転倒やろ?今は堪えてくれへんかな」

 

 絵里の言い分を海未が納得したのかはわからない。俯いたままの横顔から歯を食いしばっているのが見える。

 

「海未ちゃん……」

 

 今にも泣き出しそうなことりの前で、海未はしばし俯いたまま静かに肩を震わせていた。やがて静かに顔を上げる。瞳は充血して兎のようの赤く染まり、目元からはボロボロと涙が溢れていた。

 

「穂乃果……ごめんなさい……ごめんなさい……私が弱いせいで……()()……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日の朝、音ノ木坂学院で急遽全校集会が開かれた。その内容は学院の生徒達を、特に彼女をよく知る者達を唖然とさせた。

 

『二年の高坂 穂乃果が昨晩家を密かに出たっきり帰って来ていない』

『家族は既に警察へと連絡はしているが、目撃情報も未だ入ってきていない』

『彼女には非行の傾向は一切無かった以上、何かの事件に巻き込まれた可能性が高い』

 

 教師達は頑として口にしないが、戸惑う生徒達は昨今の他校生達の身に起きた騒動と結びつけるのも時間の問題であった。とうとう母校の学友に犠牲者が現れたと混乱に陥りつつある音ノ木坂学院生達には、今後各自警戒を怠らないように呼びかけられる。

 穂乃果を娘を通じて幼少期から知っている身であり、彼女の身に何が起きたかことの真相を知る理事長は始終悲痛な面持ちで壇上に立っていたのは言うまでもない。

 

「嘘でしょ穂乃果ぁ……」

 

「二人共落ち着きなって。まだ穂乃果の身に何かがあったって決まったわけじゃないでしょ」

 

「でも……でもぉ!」

 

「も、もしかしたら、あの穂乃果のことだからさ!ひょっとしたらこの後ひょっこり帰ってくるかもしれないじゃん!ねえ、そうなんでしょ?そうなんで……うわあああん!!!」

 

「穂乃果ちゃん戻ってきてよお……」

 

 最悪の未来を想像して泣きじゃくるミカ達の隣でも、海未とことりは険しい表情のままだった。




3日で仕上がる予定がまさかの3週間……だらしねえなと言わざるをえない。ペルソナ5発売前には序章を終わらせたいですね(震え声)


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11話

時間掛かってしまいました。しかも以前に一話ごとを6000文字前後に収めたいと言っときながらその倍です。


『あたしのせいだ!あたしがあの時、お姉ちゃんを止めてたら、こんなことにならなかったのに!」

 

 スマートフォンのスピーカーから後悔に苛む少女の悲痛な叫びが溢れる。少女の懺悔を聞いていたことりは電話を握りしめたまま、言葉が全く見つからず何の慰めも掛けることが出来ずにいた。

 

「雪穂ちゃん……」

 

 一人の生徒を失った教室の放課後は閑散としていた。いや、正確に言えば放課後だけではない。全校集会が終わった後の、このクラスの空気は常に陰鬱としたものであった。

 授業を再開したのは良いものの、生徒全員が揃って上の空。特に穂乃果と親交が深かったヒデコ達は始終沈み込んだままであった。海未は眉間に皺を寄せて考え込んだ表情のまま一日中黙して語らず、一見して比較的立ち直ったように見えることりすらも、教師から当てられても全く答えられないという普段の彼女なら考えられないミスを犯してしまう。

 まるで教室全体に大きな穴がぽっかりと空いてしまったかのような喪失感に襲われていたのである。眩い輝きでクラスを明るく照らしていた太陽が消えた代償は大きい。かの天照大御神が岩戸に隠れた際には世界全体が暗くなってしまったと伝えられているが、まさに今のような光景だったのではないだろうか。

 

「雪穂ちゃんのせいじゃないよ」

 

 ようやく口を開いたことりは優しく諭すような口調で、通話相手である雪穂の自責を否定した。

 

『だって……だって……お姉ちゃん……お姉ちゃぁん……」

 

 電話の向こう側にいる雪穂はとうとう泣き出してしまったようだった。どうすればいいのかわからずことりがオロオロしていると、突然海未がスマートフォンを取り上げた。

 

「そうですよ雪穂。あなたのせいではありません」

 

 海未はひたすら考え込んでいたさっきまでとはうって変わって、微笑みすら浮かべる穏やかな表情と口調になっている。突然の変貌にことりと静流は顔を見合わせた。

 

『そんなこと言ったって!』

 

 行方不明になった姉の身を案じる少女はやはり泣き止まない。そんな雪穂に対して、海未は驚くべき言葉を投げかけた。

 

「それに心配する必要はありません。穂乃果ならすぐに帰ってきますから。穂乃果は私が連れ戻してきます」

 

『え?』

 

 事情を知らないために海未の話が理解出来ずに戸惑う雪穂だけでなく、隣で聞いていることりも目を丸くした。

 

「必ず連れ戻します。どんな手を使ってでも。私の命に代えてでも」

 

『待って!どういう意』

 

「失礼します」

 

 雪穂の疑問を遮って電話を切った海未は、無言でことりにスマートフォンを手渡した。一方、スマートフォンを受け取ったことりは血の気の引いた青い顔で呆然と海未を見つめていた。

 

「う、海未ちゃん!それって……」

 

「言った通りです。私は今夜穂乃果の救出に向かいます」

 

 さも当然と言わんばかりに、何の淀みもなく海未は答えた。

 

「でも、会長さん達が穂乃果ちゃんの居場所はわからないって……」

 

「関係ありません。例えどんなに反対されようと、私一人でも行かせてもらいますから」

 

 決意を新たにした海未は窓の外を仰ぎ見た。赤く染まった夕焼けの空に浮かぶ太陽は既に、無数に並ぶ東京の高層ビル群の中へと消え行こうとしている。まもなく夜が来る。穂乃果が待っているであろう、あの夜がやって来る。

 

「待っててください穂乃果。必ず助け出してみせます」

 

「海未ちゃん……」

 

 太陽は沈んでも必ず再び登ってくる物だ。だから、あの少女もそうでなければならない。もしも世界が太陽を覆い隠そうというのなら、誰かがそのベールは取り払う必要がある。そして、その役目は自分が担う。

 そう心に決めていた海未の前に少年が立つ。少年は今までにない険しい表情を見せていた。それだけで海未には彼の考えが予想ついていた。

 

「……止めても無駄ですよ。私の決心は固いのですから」

 

「……」

 

「もしや力づくですか?言っておきますが、私には武道の心得があります。怪我の1つや2つは覚悟していただきますよ」

 

 二人はしばしの間、無言で威圧感をぶつけ合う。お互いに睨み合ったまま、決して視線を外そうとはしない。普段は穂乃果と海未のストッパーを務めていることりも、今はただ隣でオロオロしているだけで間に入ることすらままならないでいた。一体いつまで一触即発の状態が続いてしまうのかと、ことりの胸中に不安が渦巻き始めた頃、静流の方から目を逸らして深いため息を漏らした。

 

「やっぱり、どうやら説得は無理っぽいね」

 

「わかってもらえて嬉しいです」

 

 しかめ面だった静流が徐々に表情を緩ませていく。むしろ、呆れ顔と呼んでいいかもしれない。

 

「はー……別に止めるつもりは無いけど、君一人でどうやって彼女を見つけ出すつもりだったの?副会長ですら居場所がわからないって言ってるのに」

 

「え?」

 

 冷静沈着な大和撫子として校内でも人気のあるこの少女だが、その人となりを知ればまた違った面が見えてくる。

 一度血が昇ると穂乃果を笑えない程度に周りが見えなくなる。そして何より、クールなイメージに反して感情を隠すのが下手だ。元より己の感情を隠すつもりすら無い穂乃果とは正反対のベクトルで察しやすいと言えた。

 

「そ、それは迷宮内をしらみ潰しに……」

 

 露骨に目を逸らし始める海未。静流はまたもや、ため息を吐きながら見下すような視線を送った。

 

「探索の時間は限られてるし、僕らの体力だって無限じゃないんだ。そんな非効率な事を続けていたら命がいくつあっても仕方ないよ。なにより時間が掛かれば掛るほど高坂さんの身も危なくなる」

 

「で、ですが……」

 

「そもそも、あの塔は毎日、いや常に中の構造を変化させているんだ。どの道誰かの手助けに必要になるよ」

 

 さっきまでの強気な姿勢は何処へ行ったのか。今の海未は歳相応に弱々しくなっている。

 

「君も中々に無鉄砲な所あるよね。危なっかしいなあ」

 

「うう……」

 

「仕方ないね。それじゃあ僕が助太刀してあげよう!」

 

 海未は琥珀色の瞳を大きく見開いた。

 

「君と一緒に迷宮の奥まで潜ってみるよ。あの子が見つかるまで」

 

 少年は自分の命を危険に晒そうというのだ。出会って間もない級友のためだけに。

 

「貴方は……貴方は何故そこまでしてくれるのですか?私達と貴方はまだ知り合ったばかりです。殆ど互いに何も知らない間柄だというのに……」

 

「何故……か。うーん、困ってる人を助けるのに大層な理由はいらないとは思うけどね」

 

 それに、と少年は続ける。

 

「彼女の歌、まだ聴いてないからね」

 

 無言で海未は静かには下を向いた。大和撫子と称される一因である癖の無い黒髪が、少女の表情をまるで仮面のように覆い隠す。

 

「おかしいこと、言っちゃったかな?」

 

 海未は俯いたまま首を横に振った。

 

「いえ、違います。そうではありません。ただ……」

 

 慌てて静流の懸念を否定した海未が顔を上げた。目元には今にも溢れ落ちそうなほどの雫が出来上がっていた。急に顔を上げたせいか、溜まっていた大粒の涙は目元を離れて海未の頬をそっと伝っていく。

 

「手を差し伸べてくれる人の存在が……共について来てくれる人の存在がこんなにも嬉しいだなんて……」

 

「海未ちゃん……」

 

 これまで黙って二人を見ていたことりが、涙を手で拭きとろうとする海未の肩を支えた。静流はそんなやりとりを前に満足気に笑っている。

 

「うん!よし決まりだ!早く妹さんもヒデコちゃん達もこれ以上悲しませるわけにはいかないからね。ちゃっちゃと助けに行こうじゃないか!」

 

「ところで……貴方はどうやって穂乃果を助けだそうというのですか?」

 

 涙を拭き終えた海未が恐る恐るといった様子で尋ねた瞬間、静流の笑顔が凍りついたように固まった。

 

「えっと……それはこれから……」

 

「……貴方も思いついていなかったのですね」

 

 さっきの意趣返しと言わんばかりに、海未は大袈裟にため息を吐いて見せた。

 

「ま、まだまだ!夜まで時間はあるし!」

 

「もう、そんな調子で私のことをとやかく言われても困ります」

 

 咎めているというより、からかっているような口調だ。二人の間にあったピリピリとした緊張感に包まれていた空気が、既に和らいでいるがわかる。安堵したことりは二人から視線を外し、ふと、今は消えていなくなった親友の席へと今度は目を向けた。

 

「あれ?穂乃果ちゃんの机の中……」

 

 ただ日常から消え失せてしまった穂乃果との時間を慈しむだけのつもりだった。故にこの少女が抱いた違和感は偶然の産物でしかない。だが、人の世はいつの時代も偶然によって大きなうねりを見せてきたのだ。これもまた少年達にとって大きな転機となるのだろうか。

 

「二人共!これ見て!」

 

 ことりに言われた通り、二人の少年少女は穂乃果の机の中を覗き込む。思春期を迎えた静流にとって、うら若き乙女の秘密の領域を探るのはあまり褒められた行為ではないとは思うのだが、この際構っていられない。

 結論から言えば、静流の心配は杞憂でしか無かった。穂乃果の机には彼女の私物はおろか、教科書やノートといった勉強用具の類すらも全く残されていなかったのだから。

 だが、

 

「穂乃果ちゃんの机の中、何も入ってないの」

 

「そんなはずはありません!穂乃果は教科書を回収するために学校へ侵入したのでしょう⁉︎」

 

 何も残っていないからこそ、三人にとって大きな違和感がそこにあった。

 

「……ごめん南さん。もう一度高坂さんの妹さんに電話を掛けてもらえないかな?」

 

 言われた通りに再び雪穂と連絡を取りあったことりは、通話が終わるなり静かに頷いた。静流は唸りながら手に顎を乗せる。

 

「ありえる理由は2つ。まずは1つ目、最初から高坂さんは忘れ物なんてしていなかった。でも、これに関しては現時点では可能性が低い。彼女の妹さんに確認してもらった限り、家に数学の教科書は無かったんだよね」

 

「うん、雪穂ちゃんに頼んで穂乃果ちゃんの部屋を全部調べてもらったんだけど、やっぱり見つからなかったって」

 

 すなわち、穂乃果の見立て通りに机の中に置き去りだった可能性が高い。と言うよりほぼ間違いないだろう。図書館などの公共施設も一応ありえなくもないが、穂乃果は大の勉強嫌いである。言い方は悪くなるが、彼女が友人達が側にいない中、教室と自宅以外で教科書とノートを開くなど到底考えられない。

 

「ということは……」

 

「ああ、もう1つの可能性、高坂さんは影時間が到来する前、既に教室に来ていた。そして、机の中に放置されたままだった教科書を回収していた、ってことだね。そして、今朝、教室の扉は解放されたままだった。つまり……」

 

「穂乃果ちゃんは教室にいた時に校舎の変異に巻き込まれた?」

 

 自分の教科書を机から引っ張り出したまさにその時だったのかもしれない。不運な事故に巻き込まれてしまった少女は、日付が変わる直前お目当の物を手にしていたのだろう。

 

「……そうか!だったら!」

 

 手に顎を乗せた状態で愉快そうに静流はニヤリと笑った。さながら犯人の正体を見破った推理小説の主人公のように。

 

「ど、どうしたの?」

 

「すごいよ。閃いちゃった。これこそまさにパズルのピースが揃ったって奴なのかもしれない!」

 

「意味がわかりません。いったい、どうしたのです?」

 

 やけにもったいぶった物言いにイラついたのか、海未は眉を顰めながら問いかけた。

 

「ごめんごめん。ふざけてるつもりは無いんだ。二人共、よく聞いて欲しい。これはあくまで可能性が高いという話。絶対に上手くいく保証は無いし、リスクもかなり高い。けど、それでも彼女を探し当てるにはやはり一番可能性が高い方法があるんだ。それを今、この場で僕は見つけ出した!」

 

 一瞬怪訝そうにしていた海未とことりの目が徐々に丸くなっていく。静流の言わんとしていることを理解したのだ。

 

「まさか……」

 

「そのまさかだよ。高坂さんに会いたいなら、僕らも彼女と同じ道を辿っていけばいいんだ!あの子は教室にいる最中に巻き込まれてしまった。だから……」

 

 静流はグルグルと空をかき混ぜているかのように人差し指を回している。その姿はさながら、察しの良い生徒の反応に喜びながら答え合わせを始める教師のようだ。

 

「僕らも教室で影時間を迎えれば、彼女と同じ場所に行けるかもしれない!」

 

 静流が妖しく口元を釣り上げると同時に、穂乃果が行方不明になって以来ずっと翳りが差していた海未達の瞳に輝きが戻ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「駄目よ!危険過ぎるわ!二重遭難に陥いったらどうするつもりなの!」

 

 絵里は開口第一に怒鳴りながら理事長室の壁に拳を叩きつけた。かなりの力を込めていたようで、ドンっと重く鈍い音が部屋中を響き渡った。

 

「教室に入ったまま影時間に突入するですって?馬鹿を言わないで!正面のゲートからでも何が待ち受けているのかわかったものじゃないのよ!どこに飛ばされるかなんて全く予想もつかない!そんな不安要素だらけの作戦、断じて許さない!」

 

 関係者以外は誰もいない理事長室とはいえ、人目を憚らずに威圧感を放つ彼女の剣幕に、海未の後ろで控えていたにも関わらずことりは一瞬ビクッと震えてしまう。絵里とは互いに視線を外さない海未は一切動じなかったが、表情は微かに険しくなった。

 

「うーん……でも、あの子の居場所がわからない以上、見つけ出すアイデアとしては悪くないとは思うんやけどね」

 

「希まで何言ってるの!確かにそう!救出に向かうだけならね!問題はその後よ!」

 

 本来なら味方のはずの希がよりによって後輩達の肩を持ったのが気に入らないかったのか、絵里の怒りはまさに火に油を注いだかのように更なる苛烈さを増していた。

 

「おまけにただでさえ実践経験の乏しい新人ばかりなのに、そんな博打みたいな真似……決して認められないわ!」

 

 一気にまくし立てた後に、より強い語気で言い放つ。絵里の怒りは後ろの机で手を組んだまま黙して語らない理事長にも向けられた。

 

「理事長も何か言ってください!たかだか一人のために、ようやく確保した貴重な戦力をみすみす失う危険を冒すなんて……」

 

 その時、無表情を務めていた海未の眉毛がピクリと動いた。

 

「たかだか……一人?」

 

「えりち……」

 

 絵里の隣にいた希が眉毛を八の字にしながら横に首を振った。

 

「気持ちはわかるけど、あの女の子は海未ちゃん達の大事な幼馴染なんよ。もうちょっと言い方があるんやないかな?」

 

「……くっ!」

 

 片腕とも言える存在の希に諭された絵里は苦々しげに、壁に叩きつけていた拳をゆっくり下ろした。ヒートアップしていた親友がいくらかクールダウンするのを見届けた希は、ため息混じりで少し気まずそうに海未達に向き直る。

 

「君らも許したげてな。えりちも君らが心配やから反対しとるんよ。おまけ今日はあの子の件で警察から事情徴収も受けさせられてたからなあ。今朝からちょっとイライラしてるみたいなんや」

 

「いえ、会長のお考えはリーダーとしては当然ですね。単純な足し算引き算なら一般人の穂乃果を切り捨てるのは自明の理でしょうから」

 

「う、海未ちゃん!」

 

 もはや挑発とまで呼べる海未の棘がある物言いに、矛先を向けられている絵里は不愉快そうに顔をしかめた。喧嘩腰の海未を止めようと、ことりがその華奢ながらしっかりと鍛えられて無駄な肉の無い腕を掴む。

 あまりにも剣呑な空気を放つ二人に、横にそれぞれ並ぶ友人達は頭を抱えているようだった。

 

「ともかく……私は反対です。この判断は断固として覆すつもりはありませんから」

 

 絵里は苛立ちを隠せない様子で前髪を雑に掻き上げると、背後の静流をギロリと睨みつけた。精錬されたサファイアのように深みのある青の瞳が、鋭い眼光を放ちながら少年をまっすぐと捉える。

 

「……天宮君、あなたには少しがっかりしたわ。まさかよりにもよって言い出しっぺとはね。もうちょっと思慮深くて聞き分けの良い子だと思ってたのに」

 

 睨まれた静流は困ったような顔で肩を竦めるだけだった。

 理事長室にしばしの沈黙が訪れる。壁に設置された時計の針が刻み続ける際の無機質な音が少女達の精神を苛ませていく。

 

「園田さん……いえ、海未ちゃん」

 

 ようやく理事長は沈黙を破り、ゆっくりと口を開いた。

 

「あの子を……穂乃果ちゃんを……どうしても助けてあげたいのね」

 

「はい、そのつもりです」

 

「そう……やっぱり。いえ、当然ね」

 

 理事長は迷いなく即答した海未に微笑むと、椅子から立ち上がって窓際に移動した。大人の貫禄のある背中が生徒達に向けられる。

 

「貴女の気持ち……すごくわかるわ。だって大切な幼馴染なのだもの。当たり前よね。私にもそんな人達がいたから、すごくわかる」

 

 少年少女達からはその表情は見えない。だが、背中越しのその語り口は普段の理事長としての厳格な口調ではなく、自分達の母親が我が子に優しく語りかける際のそれに酷似していた。

 

「責任者として、まだ子どもに過ぎない貴方達の命を預かっている身としては……貴方達の作戦に反対です。あまりにも無謀すぎます。決して認められる内容ではありません。綾瀬さんの言う通り、貴方達まで失うわけにはいかないのですから」

 

 結局、理事長は穂乃果よりも、海未達の身の安全を優先させた。

 この決断に絵里はそっと胸を撫で下ろし、海未は今にも理事長ヘと飛びつきそうな勢いで食ってかかろうとする。

 

「ですが」

 

 理事長がこちらへと向き直った。

 

「友達を心配して一晩中泣きじゃくった娘を持つ母親としては……放っておけないわね」

 

 理事長は、いや、穂乃果と海未の幼馴染を娘に持つ女性は、手がかかる子どもを前にしているかのような、困っているかのような、しかしながら何処か嬉しそうな顔をしていた。

 

「ことりったら、貴方達がいないところでは目が腫れちゃうくらいに泣いてたのよ?」

 

「も、もうお母さん!」

 

「ことり……」

 

 海未は驚いた様子でことりを眺めた。ことりにはそれが少々気恥ずかしいらしい。微かに頬を赤く染めてはにかみながら、天井を仰ぎ見ている。まるで悪戯が見つかった子どものようだ。

 

「海未ちゃんを心配させたくなかったから……みんなの前では絶対に泣くもんかって決めてたの。でも、その分、家では我慢できなかったみたい」

 

「すいません、ことり。私は自分の事しか考えていませんでした……私には穂乃果だけでなく、あなただっていつも一緒にいたはずなのに」

 

「そうやって一人だけで抱え込まないで海未ちゃん」

 

 自分の不甲斐なさを痛感するあまりこうべを垂れる海未に、ことりは優しく微笑み返した。

 

「海未ちゃんはいつだって一生懸命な子だから。穂乃果ちゃんが心配で頭がいっぱいになっちゃうのは仕方ないと思う。それにそんな海未ちゃんだから、私は海未ちゃんを信じて追いかけていられるんだ。真っ先に穂乃果ちゃんを助けに行くって言った時、海未ちゃんはやっぱりすごいなって思ったもん」

 

 だけどね海未ちゃん、と付け足してことりは続ける。

 

「穂乃果ちゃんが大事なのは……海未ちゃんだけじゃないんだよ?」

 

 穂乃果の友人の中では一番早く冷静さを取り戻していたかのように見えていたことりだが、その実、陰で一人悲しみを堪えていたのだろう。そして、今は海未の勇気に触発されて、危険を顧みず自ら穂乃果を助け出そうとしている。そんな娘の健気な姿に、最も側にいる理事長としては思うところがあったようだ。

 

「……今回だけですよ。今後は同じような手を使うことは一切認めません」

 

「理事長!」

 

「ありがとうございます!」

 

 絵里の怒声と海未の歓声が同時に飛び交う。

 

「東條さん、絢瀬さん、彼女達の突入の際にはサポートをお願いしますよ。貴方達の能力は高坂さんを救出するのに必要不可欠です」

 

「はい、理事長先生」

 

「納得出来ません……こんな!」

 

「絢瀬さん、気持ちはわかりますが、もしも高坂さんを見捨てれば、いずれにせよ園田さんは二度と我々に協力してくれなくなりますよ。彼女の意思は誰にも曲げることはできないと薄々気づいているでしょう?だったら少しでも救出の可能性を向上させるべきです」

 

「くっ……」

 

 歯を食いしばって眉間に皺を寄せる絵理に苦笑いしつつ、理事長は再び自分の椅子に腰を落ち着けた。

 

「時が経つのは早いものね。いつも穂乃果ちゃんとことりの後ろで泣いていたあの子が、こんなにも強い女性に育つなんて……」

 

 感慨深げに呟く理事長に対して、海未は微笑みながら首を横に振った。

 

「私はまだまだ強くありません。穂乃果がいなくなった途端、これ程までに取り乱してしまうように未熟者です。むしろ、私にも弱い姿を見せまいとしていたことりの方が本当に強いのだと思います。私は激情に駆られ、ことりの涙に気付けない程まで周りが見えなくなってしまっていました」

 

「ふふふ……そんなことないわ。どんなに大切な人であっても、迷いなく危険な場所へ飛び込んでいくなんてなかなか簡単に決めれるものじゃない。それに貴女はそうやって自分の過ちを素直に認めれる。大丈夫よ。貴方は間違いなく強い。そしてこれから、今よりももっと強くなれるわ」

 

 海未はここまで言われても納得しきれなかったようだが、娘と同年代の少女の強い決意に理事長は満足しているようだ。

 

「ですが、作戦を認める代わりに一つ約束です」

 

 突如として理事長の笑顔が消え、真剣な表情に切り替わった。理事長が慈愛に溢れる母としての姿ではなく、再びこの場の責任者としての仮面を付け替えたのだろう。人は無数の仮面を付け替えて生きている。この女性もまた例外ではないということだ。

 

「必ず帰って来てください。貴方達と同じような思いをする人をまた増やしてはいけません。もしも失敗すれば、次は御家族が今の貴方達のような辛い悲しみを背負います。ある日突然大事な人が消えていなくなる苦しみはもはや理解できるでしょう?」

 

「その心配は無用です。必ず穂乃果を助け出して帰ってきますから!」

 

 やけに自信たっぷりと応える海未を前に、理事長は苦笑いしながら肩を竦める。

 

「……ここまで決意が固いなら、私が止めても無駄だったでしょうね」

 

「ええ、理事長と会長が諌められたとしても、私一人で行くつもりでした。例え力づくで止めようとしても」

 

神妙な面持ちで拳を強く握りしめる海未。そんな彼女の肩に、ポンと手を置く人物がいた。

 

「何を一人で背負ってるの。僕も行くよ」

 

 まるでピクニックでも付いて行くかのような軽いノリで語る静流に、絵里は青ざめる。

 

「天宮君!君はまだ一度も実戦を経験してないでしょ!無茶よ!」

 

「いや、でも作戦を考えた僕が行かないとか、ちょっとありえないかなーとか」

 

「そういう問題じゃないわ!」

 

「……良いのですか?」

 

「さっきも言ったけど、君だけでどうにかなるわけないでしょ。ここは言葉に甘えて、ね?」

 

「はい……ありがとうございます」

 

「海未ちゃん!天宮君も!一緒に頑張ろう!絶対に穂乃果ちゃんを助け出そうね!」」

 

「ふふ……もちろんです」

 

 ことりは海未に抱きつきながら満面の笑みで笑った。これで穂乃果を助けに向かうメンバーは揃った。そう思っていた。

 

「……私も行きます」

 

「西木野さんまで⁉︎」

 

 壁際に寄りかかっていた真姫はそっと手を上げた。この場にいる誰もが驚いたようで、各自大袈裟なリアクションを取っている。合理主義者の真姫はてっきり反対派なのだとばかり思っていたのだろう。たった一人の女生徒を助けるために、複数人が不確実な計画によって身を危険に晒す。どう見ても非合理的な判断であるのは海未すらも認めるところであった。

 

「先輩達は戦いに関しては素人に毛が生えたレベルでしょ?私も一緒に行けば生存率は格段に向上するはずです。少なくとも損はしませんよ」

 

 真姫が右目をつぶって軽くウインクした。同世代の少女と比べても長身、かつ華やかで大人びた容姿を持つ彼女だけに非常に様になっている。

 

「でも、あなたまで行く必要は……わざわざ危険を冒す理由は無いでしょう」

 

「顔を知ってる人が死ぬかもないなんて、目覚め悪いじゃないですか。それに先輩達の作戦、今度はまるっきり勝ち目が無いってわけじゃないでしょ?まあ相変わらず分は悪いけど」

 

 意外な人物の参加表明にあんぐりと口を開いていた静流だが、次第に口元を楽しそうに吊り上げた。

 

「西木野さんって……意外とお人好しなんだねえ」

 

「お、お人好しは余計です!それに闇雲に先輩を探すのだったら私だって力を貸そうだなんて思ったりしませんよ!あくまで勝算があるからですから!」

 

 今までの殺伐としていた理事長室に、和気藹々とした空気が流れ始める。

しかし、その中でも未だに交わろうとしない者がいた。拳をきつく握りしめ、わなわなと震わせている絵里だ。彼女は俄然として己の主張を変えていなかった。変えるつもりすらなかった。

 

「……みんな何言ってるのよ。自分達のやろうとしている事がどれだけ危険か本当にわかっているの?ゲームみたいにやり直しなんて一切効かないのよ?」

 

 絵里の声は震えていた。一時的に絵里と険悪な空気まで流れていた海未までもがいたたまれなくなったかのように俯く。

 

「これは単なる迷子探しじゃない。あなた達まで犠牲になってしまったら私は……私は……!」

 

「わかってますよ」

 

 内心を吐露したこの少女に優しく声をかけたのは静流だ。

 

「だから絢瀬先輩は心配してくれてるんですよね」

 

 少年は、絵里に対してこれ以上無いほどに深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

 深々と頭を下げる静流の姿を前に、絵里はもはや言葉を失ってしまったようだ。苦々しそうに歯を食いしばりながらも、視線を合わせることができなくなっていた。一方、少年は慌てて目を背けた絵里の姿に微笑むと、体を起こして背後の共に戦場へ向かう仲間達に振り返った。

 

「よし、善は急げだ。今日の夜に僕らの教室から高坂さんに会いに行こう!」

 

 穂乃果を助けることを目標に団結した少年少女達。最後まで反対を続けていた絵里には、もはやその意思を喪失しようとも彼らを直視できなくなっていた。顔を見せまいとするかのように壁の方を向いていた。

 

「本当にえりちは心配性やなあ。素直になれないのが玉に傷やけど、本当に良い子や」

 

 疎外感に苛まれているであろう親友に希は背後からそっと声を掛けた。他の誰にも聞こえないように声のボリュームを落としているのは、絵里に気を使ってのことだろう。

 

「なあに、大丈夫や。一度この子らが中に入ってしまえば、うちの索敵でばっちり拾えるからな。なんとかなると思う」

 

 絵里は希に一切黙ったまま何も語らない。どんな表情なのかも見せようとしない。決して見せたりはしないだろう。如何なる時も強い存在たらんとする絵里が自分の弱った姿を見られるのは許されることではないのだから。

 しかし、絵里の親友である希には、彼女の後ろ姿を目にするだけでそれとなく秘めた感情を察することができる。希から見た今の絵里の後ろ姿は、少なくとも常に模範的な生徒であろうとする厳格な生徒会長としてのものではなく、か弱い年頃の少女そのものの小さな背中でしかなかった。

 

「ねえ希」

 

 口をようやく開いた絵里もまた同じく、すぐ側にいる希にしか聞こえないような小さな声で呟く。

 

「ん?」

 

「もしも私が高坂さんの立場になっていたら……あなたはあんな風に助けに来てくれる?」

 

 決して顔を見せようとしない絵里の背中に向かって、希は改めて優しく微笑んだ。

 

「当たり前やん。それはえりちも同じやない?うちは海未ちゃんみたいに一人で飛び込んでくるじゃないかって逆に心配になってるよ?」

 

「……ふっ」

 

 相変わらず顔を見せることなく、返事も返ってこなかったが、絵里も同じく静かに笑ったように見えたのだった。



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12話

『みんな……準備は良いわね』

 

 小型の懐中電灯と月明かりのみが視界を照らす暗闇の中で、抜き身の日本刀を左手で握り締めた静流は電話を片手に頷いた。

 

「はい、こちらは全員準備完了しました」

 

 三人の少女が同調するように頷いた。静流は辺り一面を見渡す。闇夜ゆえに見えにくいが、学生なら見慣れた日常の光景である、規則的に並ぶ木製の学習机と椅子の数々。そして巨大な黒板。

 深夜24時を、いや、隠された25時を目前に控えた音ノ木坂二年A組の教室だ。

 

「いつでもドンと来いですよ。と言っても、突入可能なタイミングは決まってるわけですけどね」

 

『そう、頼もしいわね。でも、油断はしないで』

 

 笑いながらちょっとした軽口を叩いた静流だったが、通話相手の絵里はとてもではないが冗談を言える調子ではないようだ。若干声が震えているようにも思える。もっとも、それは絵里に限った話ではない。少年の後ろに控える三人の少女達も、神妙な面持ちで来るべき時を待っているからだ。

 

『深夜の24時を過ぎ次第、希にすぐにでも索敵させるわ。なるべく早く見つけさせるつもりだけど、それでも希の探知能力には限界がある。あなた達を探し当てるまで少し時間が掛かってしまうはず。だから、その間は極力交戦は避けて。自分の身の安全を最優先にしなさい』

 

「心配ありません。誰一人欠けずに帰ってきますよ。勿論、高坂さんも連れて」

 

 自信満々に応えた静流は、スマートフォンを教卓の上にそっと置いた。

 教室を静寂が支配する。耳に入ってくるのは少年少女の吐息のみだ。そんな中で、暗闇と沈黙に耐えられなくなったのであろう真姫が真っ先に口を開いた。

 

「……天宮先輩、緊張してないんですか?」

 

「緊張?別に?」

 

 質問の意図がわからないと言いたげに首をかしげる静流に対して、真姫は訝しげに顔をしかめた。

 

「別にって……本気なんですか?あの夜が近いってのに、それも目醒めたばかりの先輩が平然としてられるなんてありえないわ。私ですら未だに気が抜けないってのに」

 

 先日、問答無用で敵意を向けていたのを思い出す。もしかしたら、あれは単に静流に対する不信感だけが生んだ焦りではなかったのかもしれない。『あの時間』には異分子である自分達を情緒不安定にさせる何かがあるのかもしれない。

 

「そんなこと言われてもねえ。むしろ僕は夜の方が落ち着く気質みたいだからね。だからじゃないかなあ。おまけに僕ってほら、マイペースだし」

 

「自分で言うんですか、それ」

 

 歯を見せて笑う静流の能天気とも取れる返しを前に、真姫だけでなく海未すらも呆れた様子でため息を吐いた。

 

「マイペースなんて言葉で片付けれるのですか?あなたより早く目醒めたはずの私とことりも未だに慣れないというのに、もう平気な顔をしていられるなんて……」

 

「天宮君って、やっぱり変わってるよね」

 

『無駄話はそこまでよ。もうすぐ日付が変わるわ』

 

 教卓に置かれていた静流のスマートフォンから再び絵里の声が漏れる。この場にいる全員の視線が教卓の上に移った。

 

『園田さん』

 

「は、はい!」

 

 突然名指しされた海未は、突入作戦の緊張もあって思わず素っ頓狂な声をあげた。さっきまで絵里には邪険な態度を取り続けていたのだ。いきなり呼ばれたら何事かと肩肘を張ってしまうのも無理はない。

 そんな海未の内心を知ってか知らずか、絵里は淡々と続けた。

 

『あなたが私に良い感情を抱いていないであろうことは容易に想像できるわ。だって大切な親友を見殺しにしようとしてたんだもの。恨まれて当然だと思う』

 

 急に絵里の懺悔を聞かされた海未はしまった、と言わんばかりに眉を八の字にした。いくら頭に血が上っていたとはいえ、あの皮肉たっぷりの返しは言い過ぎだったと冷静さを取り戻した今は後悔し始めているようだ。目の前にいるわけでもないというのに、スマートフォンに向かって律儀にも深々と頭を下げる。

 

「すいません生徒会長!さっきはあまりに無礼な……」

 

『謝る必要は無いわ。さっき言った通りに私は憎まれて当然の人間よ。けど、それでも、これだけは必ず命令を守って欲しい』

 

 絵里は一間置くと、無理やり捻り出すかのように言った。

 

『お願い……みんな、絶対に帰ってきて』

 

 呆気に取られた海未達は目と口を大きく開いた。これまでの自分達の持つ絵里のイメージから逸脱した発言ゆえに。少女達が戸惑いを隠せない中で、静流だけは口元を愉快そうに吊り上げた。

 

「だそうだよ。生徒会長さんがこれほどまでに懇願しているんだし、ここは一つ見事に成し遂げてみせようじゃないか」

 

 電話越しゆえに絵里の表情は全く確認できない。しかし、声音からして彼女が悲痛な面持ちで言っているに違いないのは明白だ。一度は仲違いをしたとはいえ、絵里が決して冷酷非情な人間ではないのだと認識を改めた少女達は頷く。

 

『来るわ!』

 

 絵里が叫ぶと同時に、教室の時計の針が12の数字を差した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歌が聞こえる。ピアノが奏でる優しくも儚い旋律に乗せて、女性歌手の幻想的なソプラノが辺り一帯に響き渡っていた。美しい歌声は来訪者の意識を徐々に覚醒させていく。それでも、視界はまだ完全には晴れない。

 

「やあ、また会えたね」

 

 男性と思わしき誰かが穏やかな声音でこちらに語りかけてくる。歌とピアノの伴奏にこの場が支配されているはずにも関わらず、はっきりと耳に届いていた。聞き覚えのある声だ。

 今の一声によってこれまで朧げでしかなかった視界がまでもが次第に鮮明になっていった。カーテンや絨毯、椅子、装飾品全てが深い青色で統一された巨大な劇場。そして、今の自分は観客席の中央部、舞台全体を見渡せる位置に座しているようだ。

 最近の夢に出てきていた全く同じ光景。今自分がいるのはまたしても夢の中なのだろうか?

 

「ようこそ、ベルベットルームへ。久しぶり……って程でもないか」

 

 舞台上にスポットライトが差し込む。まるで舞台劇の一幕のように、一人の男が一筋の光に照らされて姿を表す。これもまた、以前の夢に出てきた男だった。

 

「君は一目見て結構気に入ってたから、こうしてまた会えたのが嬉しいよ」

 

 戸惑う自分に呼び掛けてくる男は、以前の夢と同じく舞台の中央に置かれたソファーに座ったまま手を振っていた。顔の部分には霧が掛かっているのも同じだ。

 

「君と俺の出会い、もはやこれは偶然じゃないな。必然、運命と呼ぶべきかもしれない。これはとある男が言っていたことなんだが、全ての命には存在する意味があるらしい。この出会いにも何かしら意味があるのだとしたら、その先を見てみたいと思わないかな?」

 

 暗闇の中でスポットライトに照らされることで、舞台上で手を高らかに伸ばす男の姿は圧倒的な存在感を放っている。さらに芝居掛かった物言いと語り口調。まさに舞台劇の登場人物達を彷彿させた。

 

「ところでどうだい?俺の占いは当たったかな?」

 

 男が突如話題を変えた。相変わらずこちらの意思を全く歯牙にも掛けずに話を進めていく。

 返答する必要は無かった。こちらが反応を見せる前に男はうんうんと頷くと、ソファーに背中を預けるように倒れ込んだ。

 

「ふむ、ずいぶん素敵な出会いを果たしたみたいだね。いや、実に結構だ。よし、また占ってみるとしようか。ああ、謝礼はいらないよ。単に俺がやりたいだけだから」

 

 そう言って男は背もたれから身を起こすと何処からかカードを取り出し、慣れた手つきでシャッフルを始めた。

 

「カード占いは面白いよね。占う度にまるっきり違う結果が出てくる。まるで移り変わっていく人生のようだ」

 

 やがて男の手が止まった。今度はカードをテーブルの中央に置いて、裏側を向けた状態で放射状に並べる。そして、その中から一枚だけ引き抜く。

 

「さあて、今度は何が出るのかな?」

 

 まるでピクニックにでも来ているかのような口ぶりで引き抜いたカードを表に返した。だが、その瞬間、男が顔をしかめる。無論男の顔は今も霧が掛かっていて表情が読めない。正確にはなんとなく、そんな気がしたのだ。捻り出したような唸り声を聞くからにも、決して良い結果ではなかったであろうことは想像できた。

 

「これは……」

 

 男は渋々といった様子でめくったカードを手前に置いた。

 人の傲慢さを象徴する虚飾の巨塔が、神の怒りに触れたために裁きの雷を受けて崩壊を始めた姿が描かれた『TOWER』のカード。

 殆どが何かしらポジティブな解釈が可能なタロットカードの中でも、ネガティヴな意味合いしか持たないというある意味稀有な存在だ。

 迫る厄災を暗示するアルカナのタイミングを見計らったかのような登場に、人を食ったような言動を繰り返してきたこの男ですら思わず一瞬言葉を失ってしまっていたようだ。

 

「……ふーん、『塔』か」

 

 男は一呼吸置くと、ソファーの背もたれにゆっくりともたれかかった。

 

「どうやら君にはこの先には長く険しい道のりが待っているようだ」

 

 明らかにさっきまでの調子からトーンがいくらか落ちている。たかが占いのはずだが、男は出た結果に対して本気で身を案じているようだ。

 今度は次々と多くのカードを並べて魔法陣を形成していく。

 次はいったい何をする気なのだろうか。

 

「けど、臆する必要は無いよ。なんせ君には……」

 

 男は中央のカードを反転させた。

 『FOOL』

 愚者。

 始まりにして終わりの数字『0』の性質を有する大アルカナ。

 何物にも決して染まらず、何物にも決して束縛されず、己の意思によってのみ道を切り開いていく放浪者。時に他者から見れば何処までも愚かにしか映らない選択もまた、自由が与えし可能性の体現である。探究の旅路の果てに待ち受けるは夢にまで見た楽園か、それとも地獄か。

 

「共に歩む仲間……」

 

 『愚者』の真上に配置されていたカードがその全貌を表す。

 『MAGICIAN』

 与えられた数字は『1』

 始まりと無限の可能性を示す『魔術師』のアルカナ。

 

 テーブルの上にはさらに八枚のタロットカードが裏側を向けたまま、中央の愚者のカードを守るかのように円形の配置で並べられている。

 

「尊き調を奏でる麗しい女神達が付いているのだからね!」

 

 劇場に響き渡る歌が佳境に突入したのか、ピアノの伴奏と共にその歌声は激しくなっていく。それに合わせるように、男は両手を大げさに広げた。その瞬間、まるで風が吹いたかのように全てのカード達が誰の手も借りず、自分で反転する。

 

『PRIESTESS』

 

『LOVERS』

 

『FORTUNE』

 

『CHARIOT』

 

『EMPRESS』

 

『HANGEDMAN』

 

『HIEROPHANT』

 

『JUSTICE』

 

 これで愚者を取り囲むように配置された九枚のカードの全貌が明らかとなった。

 

「さあ、君と共に困難に立ち向かう仲間達を紹介しよう!」

 

 男が指をパチンと鳴らすと同時に、舞台上に九つの眩い光が降り注ぐ。スポットライトに照らされて姿を現したのは、同じく九体のマネキン人形だ。うら若い少女の体格を再現したと思わしきそれらは、それぞれが無機質的な仮面を被っている。

 男はソファーから立ち上がり、高々と腕を振り上げた。

 

「『魔術師』は歌う!始まりの歌を!」

 

 ばらばらに九体の人形を照らしていたスポットライトが一箇所に集約された。音ノ木坂の制服を身に纏った少女を模したマネキン人形が、舞台劇の役者のようにその存在感を誇示する。

 

「『女教皇』は想う!友と歩む未来を!」

 

 次にスポットライトが集中したのは、小道具と思わしき人工の木にもたれ掛かって自分を隠くそうとする少女を模したマネキン人形だった。俯き加減で、今にも消えてしまいそうな儚さを感じてしまう。

 またもや男が指を鳴らした。それに合わせて、スポットライトは次々と新たな人形を輝き照らす。

 

「『恋愛』は求める!己が往くべき道を!」

 

 今度はメイド服を着て何処かに向かってさすらう少女。

 

「『運命』は知る!願いは勝ち取るものであると!」

 

 ブラウン管にしがみつき、画面の向こう側に住まう憧れの存在に恋焦がれる少女。

 

「『戦車』は駆ける!真なる姿を探し求めて!」

 

 自らのウェディングドレスを破ろうとする少女。

 

「『女帝』は紡ぐ!女神達が存在した証を!」

 

 埃の被ったピアノにしなだれかかる少女。

 

「『刑死者』は待ち続ける!苦難の日々が終わる時を!」

 

 教室の机に座って一人孤独に耐える少女。

 

「『法王』は繋ぐ!夜空に散らばる光を一つに!」

 

 空を仰ぎ見る巫女服の少女。

 

「『正義』は踊る!信念と希望の間に揺れながら!」

 

 そして最後に、床に崩れ落ちている、バレエ衣装の少女。

 

 そこからスポットライトの輝きは再び九体それぞれに分かれていく。同時に、再びソファーに座り込んだ男は満足そうに静かに笑った。いや、正確に言えば、笑ったような気がするのだ。顔に霧が掛かっているせいで男の表情は全くわからない。なのに、男の中で沸き起こってるらしき『喜』の感情は仄かに伝わってくるのだ。だから、この男は笑っているのだと確信した。

 思考を読むなんて大層なものではない。現に男が「何故喜んでいるのか?」ということまでは把握できていない。言語化されていない根源的な感情だけがダイレクトに伝わってくるのだ。まるで男と自分の心が直に繋がっているかのように。

 

「さあ、今日はここまでだよ。とはいえ、また会えるとは限らないのが辛いところだ。これが最後の邂逅になってしまう可能性も無きにしも非ずだからね。もしも次に会えるとしたら……」

 

 仮面を被った少女達を照らしていたスポットライトが一つづつ消えていく。同時に男の姿も徐々に遠くなっていく。この巨大な劇場も朧げと化していっている。どうやら今宵の終幕は近いようだ。

 

「君が最初の試練を乗り越えた時だ」

 

 中央のテーブルを照らす最後の灯りが消えた瞬間、世界は暗転した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふんっ!とうっ!そりゃっ!ぐぬぬぬぬ……!あーん、やっぱり駄目だー!」

 

 忘れ物をこっそり回収するために学校へと侵入した少女高坂穂乃果は、どんなに力を込めてもピクリとも動かぬ扉を前に頭を抱えていた。

 

「いったいどうなってるの⁉︎やっぱり開かないよー!」

 

 穂乃果なりに考えつくありとあらゆる手段を用いて開閉を試みていたのだが、一向に開かない現状についに観念し、自分の机に戻ってその上にペタンと座り込んだ。もしもこの場に海未がいれば行儀が悪いと説教が始まったに違いない。

 長い扉との格闘の末、とうとう降参した穂乃果はおもむろにポケットからスマートフォンを取り出す。画面は闇夜のように真っ暗だった。

 

「スマホも何故か急に電池切れちゃったし、ほんとどうしよう」

 

 穂乃果が教室の中に出られなくなってから、感覚的に1時間以上は経過していた。感覚的に、と表現したのは、実際にどれだけ時間が過ぎたのかを確認する術を穂乃果が持っていないからだ。

 黒板の上に設置された時計を見やる。長針単身が重なり合った状態で12の数字を刺し示したまま、動かなくなってしまっている。

 しかも、この少女に降りかかった災難はそれだけではなかった。穂乃果をさらに驚かせたのは、これらの異変と示し合わせたかのようにスマートフォンの電源が急に切れ、使用不可能になってしまったことである。

 さっきからずっと電源ボタンを押しているのにも関わらず、うんともすんとも言わない。スマートフォンが利用不可ということは、連絡を取る手段の消失を示している。夜間の学校に侵入したのが知られれば親や教師や海未から叱られるのが目に見えている故にあくまで最終手段ではあるが、これでは外部から助けを呼ぶことすらも不可能だろう。

 

「おっかしいなー。さっき満タンになるまで充電してたはずなのにー」

 

 物言わぬ金属の塊と化したスマートフォンを懐のポケットに戻しながら穂乃果はため息を吐いた。どんなに必要なのだとしても、使えないのなら仕方ない。

 普段文明の利器の恩恵を授かりながら生きる現代人の穂乃果にとって、それらが喪失した世界が如何に辛いものなのかを思い知らされているのだった。

 

「いったい、いつまでここにいなきゃならないんだろう?」

 

 机を椅子代わりにしている穂乃果は、両足をブラブラと揺らした。

 

「もしかして永遠に教室から出られない……なんてあるわけないよね!ないない!そんなの絶対ない!」

 

 穂乃果は全力で否定した。否定しなければ、少女のまだ未完成な心が折れてしまいそうだったからだ。

 永遠に夜が終わらないなど、本来ありえない。

 太陽が再び登らぬ日など決してありえない。

 この暗黒の世界も穂乃果が生まれてから、いや、それ以前から幾度も繰り返されてた夜と同じ変哲のない1日の光景なはずである。窓の外に浮かぶ怪しい輝きを放つ満月から目を逸らしながら、穂乃果は自分にそう言い聞かせていた。

 

「そうだよ……ここから出られないわけ……」

 

 心が沈む一方の穂乃果は机の上で体を丸めた。気休め程度ではあるが、ほんの少しだけ心細さが緩和された気がした。

 

「……海未ちゃんに色々酷いこと言っちゃった罰があたったのかなあ」

 

 普段は陽気に振舞ってはいるとはいえ、穂乃果はまだ年端もいかぬ少女でしかない。一人で孤独に過ごす今の状態は否応無く自分自身と向き合わざるをえなくなる。

ああすれば良かった。こうすれば良かった。

後悔ばかりが

 

「海未ちゃん……ことりちゃん……」

 

 自業自得とはいえ些細な理由で仲直りの機会を得られなかった親友といつも喧嘩を仲裁してくれた少女の姿を思い浮かべる。

もしも、永遠にこの場所から出られないなら、彼女達と再び平穏な日々を送ることもできない。ましてや、3人でアイドルを始めたいという細やかな望みすら叶えられないであろう。

 そこまで思考が行き着いた瞬間、穂乃果はブルブルと首を横に振った。

 

「駄目駄目!こんなの私じゃないよ!」

 

 握りこぶしを作りながら、椅子代わりにしていた机から飛び降りる。あれこれといつまでも悩み続けるのは自分に性に合わない。とりあえずやれるだけやってみる。それが高坂穂乃果という少女のモットーである。

 さっきは鍵やドアの噛み合わせが悪かっただけかもしれない。今度は駄目元で力の加減を変えながら試してみよう。穂乃果はそう考えて、入り口へと手を伸ばした。

そんな時だった。

 

「うわっ!」

 

「きゃっ!」

 

 黒板の手前でドスンと大きな音を響かせて、何かが降ってきた。

 

「痛たたた……大丈夫ですか?」

 

「へ、平気だよ。一応怪我はしてないみたい」

 

「私もです。まだ少しお尻は痛みますが……」

 

 謎の二人組はキョロキョロと周囲を見渡す。

 

「ねえ、ここってもしかして私達の教室じゃない?」

 

「間違いありませんね。黒板の日直の欄にミカの名前が書かれています。以前に理事長先生が『変異しても元の校舎の部分が残されている場合もある』と仰っていましたが、ここのようなことを言うのでしょう」

 

「じゃあ穂乃果ちゃんはこの近くに⁉︎」

 

「ええ、その可能性が高」

 

「あのー、お取り込み中すいません。何処から入ったのか知らないけど、助けてくれませんかー?私この教室から出られなくなっちゃってー」

 

 教室の隅で様子を伺っていた穂乃果だが、とうとう我慢できずに声を掛けることにした。二人組の顔が穂乃果へと向いた。

 

「え?」

 

「その声は……」

 

 月の光に照らされて明らかとなった闖入者達の全貌を目にした穂乃果は、まるで狐につままれたかのような顔で唖然としていた。ついさっき会いたいと願ったばかりの少女達がそこにいたからだ。

 

「あれれ?海未ちゃん?ことりちゃん?どうしてここにいるの?」



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13話

 少女が脇目も振らず、幾何学模様が刻まれた大理石で築かれた通路を全速力で駆け抜けていく。既に呼吸は激しく乱れ、額からは汗が滲み、赤みのかかったセミロングの髪は形を崩してしまっている。その身に纏う、まだ色の抜けや皺を感じさせない真新しい制服すらも埃が被ってしまっているようだった。

 

「ハア……ハア……!」

 

 普段なら年頃の少女らしく些細な乱れも気にしてしまうはずながら、今は身だしなみを省みる余裕すら無くひたすら走り続けていた。

 そうして一切後ろを振り返りもせずにしばらく全力疾走を維持していた少女だが、やがて曲がり角に突き当たるなり、減速をしてすぐさま手前の壁に身を寄せた。呼吸の乱れと動悸が多少治っていくのを待ち、まずは来た道を振り向く。ひとまず背後の安全を確認した少女は、今度は曲がり角の先を見ようと頭だけを慎重に出した。

 

「うげっ……」

 

 察知されぬようにそっと片目だけを出して奥を覗いた少女は、目と鼻の先に広がっているおぞましい光景を前に思わず嗚咽を漏らした。

 

「あっちもこっちもシャドウだらけ……」

 

 気づかれる前に頭を引っ込めた少女、西木野真姫は曲がり角前の壁に背を預けたまま、ボソリと誰に言うまでもなく一人呟く。イライラした様子で燃えるような赤い髪を掻き上げた。

 

「クッ……何が楽園(エリュシオン)よ!完全に化け物の巣じゃない!」

 

 頬に冷や汗を垂らしている真姫は壁に身を寄せて息を潜ませ、もう一度奥の様子を伺う。真姫の視界に映るは、百鬼夜行の如く通路を抜けた先の大広間を跋扈する大量の『影』。

 影と言っても、文字通り光を遮られて発生する現象を意味するわけではない。漆黒の肉体を備え、本物の影のように暗闇へと潜む習性に皮肉を込め、この隠された時間の住人達をそう揶揄しているに過ぎない。

 住人、と表現したが、そもそも我々が認識する生命体のカテゴリーに彼らが含まれるかも怪しい。少なくとも、自分と同じサイズの巨体をナメクジのように地面を這いずり回る漆黒の生物など真姫は知らない。まるで汚泥のようにドロドロとした胴体と不気味な仮面という異様な出で立ちは、遠くからただ見ているだけでも強烈な生理的嫌悪感を発露させてしまう。そんなこの世の物とは思えぬ異形達が死体に群がる蛆虫さながらにわらわらと涌いているこの光景は、嫌悪感を超えてもはや吐き気さえも催してしまいそうだ。

 唯一幸運だったのは、彼らはこちらを捉える聴覚や嗅覚を有していない点であった。この巨塔内部を徘徊する『影達』は視界情報を頼りに目標を付け狙う性質を持っている。ゆえに、こうやって物陰に隠れていれば一先ず襲われる心配は無い。この性質を熟知している真姫は、今までにも不意打ちなどの常套手段として利用してきた。本来ならば、ここはやり過ごしてしまうのがベターだと思われる。

 だが、今回は勝手が違う。救出作戦ゆえに、今の真姫には急いで静流達と合流する必要があった。そもそもこの影時間には制限時間が存在する。あまりにも呑気に助けを待っていれば、絵里に言われた通り自分までもが迷宮内に囚われたまま第二の遭難者になる可能性も高い。これ以上ただ逃げているだけでは時間の浪費になってしまうだろう。

 ほんの少し前に受けた絵里の忠告が脳裏に浮かんでくる。

 

『交戦はなるべく避ける。自分の命を守るのを最優先に』

 

 ならば、必要を迫られた戦闘はまさに今のこの時だ。意を決した真姫はポーチに保存されていたスポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出して、中身を一気に喉に流し込む。水分を補給し、呼吸を整えることで一応の落ち着きを取り戻した。口元を袖で拭き取りながら真姫は壁の向こう側で群がっているであろう『影』を睨みつける。今ここにいる影達は全て真姫とは戦闘の経験がある種類ばかり。つまり対処法も知っているというわけである。

 

「冗談じゃないわ。こんな所で野たれ死ぬなんて真っ平御免なんだから」

 

 人並みに生に対して執着を持つ真姫に、大人しく墓標に葬られるつもりは全くない。加えてプライドの高いこの少女には自信があった。自分の強さに、たった一人でも戦場を駆け抜けることが可能だという自信が。

 

「そうよ。私なら出来る。一人でだって!」

 

 真姫は自分に言い聞かせるように呟きながら、太腿のホルダーに収められた漆黒の大型拳銃へと手を伸ばした。

 

「あなたの力を借りるわよ……タレイア!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「何処まで続くんだろう。この通路は」

 

 仲間の少女達と早速はぐれてしまった少年は巨大な大理石の広間を突き進みながら大きなため息を吐いた。どこまで歩いても終わりが見当つかない、あまりの広大さに気力を削がれそうになる。いや、既になっていた。

 

「まさか学校の変異と同時にみんなと離ればなれになってしまうなんて……」

 

 予定では四人揃って穂乃果のいる所に移動しているはずだったのだが、気づけばこの広間で一人立ち尽くしていたのだ。四人はものの見事にバラバラに分かれてしまった。勿論、今いる場所が何処なのかもさっぱり不明。理事長が言っていた絵里達の能力を使った連絡が行われるまでどうしようもないだろう。とりあえず出口の類を求めて歩き回っているわけだが、あまりに広すぎるせいで出口はおろか景色の変化すら見受けられない始末であった。

 結局、絵里が危惧していた予期せぬアクシデントに遭遇してしまったわけである。幸いだったのは、この空間には『影』が全くいないことくらい。今の所は命の危険に見舞われてはいないとはいえ、一歩間違えれば自分達を止めようとしていた絵里に余計な心配を掛けてしまっただけに、申し訳なさが込み上げてくる。

 

「うーん、あの変な夢のせいかな?僕には理解不能な内容だったけど、次に会ったらあの男を問い詰めてやらなきゃ」

 

 とは言っても、あの夢の中では体を動かすどころか、口を開くことすらも不可能なのだが。しかしながら、何故か意識だけはっきりとしているだけに、夢を見る度にもどかしい思いを燻らせていた。

 込み上げるフラストレーションを夢に出てきた謎の男にぶつける決意を固めた静流は、正面へと向き直った。先には幾何学模様の刻まれた白色の大理石の壁と床が何処までも広がっている。この密閉空間にて唯一視界を照らす壁に設置された燭台も全くの乱れなく一定間隔で並べられている。精密な造りはまさしく絢爛にして壮観、芸術の域。もしもここが極一般的な建築物なら、思わず見物でもしたくなっていたことであろう。それほどにまで内装は見事な美しさを誇っていたのだ。

 

「エリュシオンか……」

 

 理事長から聞かされていた、学院のOB達によって便宜上名付けられたというこの迷宮の名をそっと呟く。この単語は神話にルーツを持っている。本来の意味はギリシャ神話に登場する、冥界の裁判官ラダマンティスが管轄している死後の楽園の名だ。

 冥王ハーデスが支配する深淵の流刑地『タルタロス』が、咎人達が贖罪のために死神タナトスによって堕とされる地獄そのものなのに対し、エリュシオンは英雄や善人の魂が英知を司る神ヘルメスの手で導かれる場所であるとされている。そこでは、太陽も届かず草木もろくに生えないタルタロスとは正反対の花畑や果樹園が揃った美しい風景が広がっており、まるで香水のような芳醇な香りに包み込まれているのだという。日本人に馴染み深い表現をするなら、仏教に伝わる極楽浄土の概念に近い存在と言えるだろう。

 しかし、静流から見たこの迷宮エリュシオンは、そんな伝説上の楽園からは程遠いようにしか映っていない。加えて迷宮内にて跋扈する無数の『影達』の存在。確かに塔の外装に関しては白銀の光を放ち神々しいが、その邪悪な内部を見る限り、むしろ今を生きる人間達を苦しめる悪夢の世界と断言しても過言ではないと思っている。

 それは他のメンバーも同じに違いない。おそらく、この名を自分に教えた理事長当人すらも。ここまで恐ろしい世界なら、いっそのことギリシャ神話の地獄として名高いタルタロスの名を冠するべきだったのではないだろうか?

 

「名前負けというか、いくらなんでも悪趣味すぎるよ。百年前の我が校の先輩達は何を考えてこんな名前を付けたのやら」

 

 先達のネーミングセンスに失笑しながらも、終わりの果てが存在しないかのような大理石の広間を突き進んでいく。が、

 

「なんだろう?あの扉は……」

 

 意外にも終わりは数分経たぬ内にやって来た。さっきまでは通路には何も無かったはずでありながら、今この時、突如として目と鼻の先に扉が出現したのだ。数々の超常現象を目の当たりにしてきただけにある程度予想はしていたが、どうやらエリュシオンの塔は物理法則すら無視してしまうことが可能らしい。

 改めてこの迷宮の人智を超えた出鱈目ぶりに驚愕しつつも、手掛かりを求めて静流はすぐさま駆け寄った。

 扉とは言ったものの、どちらかと言えば巨大な門と言うべきかもしれない。鋼鉄製に思えるそれは右側と左側で半分づつ分けるような形でギリシャ文字で『14』の数字のレリーフが彫られている。一見して人間の手では動かせないような分厚さを有しているようであり、静流の身長の数倍は軽く収まるサイズも相まって、まるで巨人が通ることを前提にしているかのような造りに思えた。

 

「開けるのは大変そうだな」

 

 そんな感想を抱いた時に静流はようやく気付いた。この門は既に開かれていたのだ。僅かに開かれた隙間から漏れ出ている瘴気に触れたことで感知することが出来たのだ。しかし、この門の異変はそれだけではなかった。

 

「誰かが……いや、『何か』が門の向こう側から抜け出してきたのか?」

 

 静流の疑問には誰も答えない。その代わりに、視界に入ってきた門の隙間周辺に付けられた、おびただしい数の傷跡が疑問への解答としての役目を果たしていた。より門に近づいた静流は大きく抉られたかのような傷を発見して、思わず身震いしてしまう。まるで『巨大な何か』が門を無理矢理こじ開けたかのように見える。

 

「門の向こうにはいったい……」

 

 いったい扉の先には何が存在するのか?それとも存在していたのか?好奇心に駆られた静流は扉を自分自身が通り抜けるまでにもっと開こうと、隙間に向かって手を伸ばした。

 その時だった。

 

『天宮君!聞こえる⁉︎』

 

 自分を呼ぶ声の登場に思わず伸ばしていた手を引っ込めた。予期せぬ事態の到来に、静流は周囲をくまなく見渡した。声の主の姿は全く見当たらない。やはりこの空間には静流しか存在しないようだ。無論声が漏れてきそうな窓や通気口の類も一切見つからない。

 

『お願い!聞こえているなら返事をして!』

 

 再び声が聞こえてくる。今度はある程度覚悟していたおかげで、どこから聞こえてきたのかがわかった。この声は静流の脳内に直接届けられているのだ。

 突如頭の中に響き渡る少女の声。耳を通さずに脳内へ直接声が送られてきているという初めての感覚に一瞬何事かと戸惑うものの、聞き覚えのある声だったおかげでなんとかすぐに冷静さを取り戻せた。恐る恐る、問いかけるように口を開く。

 

「絵里さん……ですよね?」

 

 静流の脳内に届けていた声の人物は、安堵したかの大きな吐息を漏らした。

 

『良かった、あなたも無事だったのね』

 

「え……ええ、なんとか。一応敵には全く遭遇しなかったので」

 

 慣れない感覚に戸惑ってしまうせいか、どうも歯切れが悪くなってしまう。聡明な絵里は静流の戸惑いはすぐさま察したらしい。

 

『あなたに使うのは初めてだったわね。これが私のテルプシコーレの能力よ。正確に説明すると、標的の精神に干渉して幻覚を見せたり、あるいは直接操ったりして同士討ちを狙うのが本来の使い方なのだけれどね。それを応用して今は声だけを飛ばしてるの。ああ、安心して。変なことはしなから』

 

「そ、それって僕に掛けて大丈夫なのかな?」

 

『どうしたの?』

 

「いえ、なんでも」

 

 操るだの同士討ちだの、何やら物騒なキーワードが聞こえてきたが、今はあまり関係ないために触れないでおくことにした。

 

『そんなことより!こうして四人とも無事で良かったわ。希に調べさせたら西木野さんとあなたは別のポイントに飛ばされてたとわかって心配したのよ!』

 

「西木野さんも?じゃあ園田さん達は?」

 

『園田さんと南さんは行方不明になった子を発見したわ。あなたの予想通りにね。作戦は上手くいったみただわ』

 

 とりあえず仲間二人はなんとか目的を達成出来たようだ。安心感と同時に、ついさっき込み上げていた申し訳なさが蘇ってくる。つい自嘲気味に笑う。

 

「……すいません、なんだか心配掛けてしまって。絵里さんの言う通り、無謀だったんだと思います。次からはもうこんなやり方では入れませんね」

 

 結果的には上手くいったのかもしれないが、結果オーライで済ますわけにはいかない。このようなアクシデントが毎度のように起きては命がいくつあっても足りないだろうし、絵里としても気が気ではないだろう。立案者としてはあまり成果を誇れない状況に自重してしまうしかないのだった。

 そんなわけで絵里の説教を覚悟した静流だが、返ってきたのは全く予想外の内容だった。

 

『今はそんな話をしてる場合じゃないの!それよりも場所を案内するから、同じようにはぐれてる西木野さんと一緒に園田さん達と合流しなさい!今すぐに!』

 

 絵里には一切咎める様子はなく、逆にあまりにも切羽詰まった様子に思わず首を傾げてしまう。目的である穂乃果の身の安全を既に確保し、一度はバラバラになってしまったとはいえ、場所も把握出来ている。いったい何が絵里を焦らせているというのだろうか。

 しかし、続きを聞いている内に静流の顔は血の気が引いて青くなっていく。もしかすると絵里も同じ有様になっているのかもしれない。

 

『西木野さんの報告で巨大なシャドウが確認されたわ!彼女が相手にならないだなんて、おそらく今のあなた達じゃ全く相手にならないレベルよ!それも行方不明の子を連れた園田さん達のすぐそばにいるの!早く彼女を連れて脱出して!』




後2週間ちょいでペルソナ5発売ですね。僕はDLC目当てで豪華版買うか通常盤にするか迷ってます。発売までになるべく更新進めたいな。

どうでもいいけど、鞠莉ちゃん可愛いすぎて彼女をゲスト出演させたい欲が湧き起こってます。


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14話

「……希、四人の様子はどう?」

 

 校門にて、腕を組んで眉間に皺を寄せている希は、絵里の問いに対して首を横に振った。

 

「んー、悪いけど、少しだけ待ってくれへんかなあ。後もうちょいとで掴めそうなんよ」

 

「そう、お願い急いで。あまり待たせたら、あの子達への危険は増すばかりよ」

 

「はあ……あんな?えりち」

 

 大袈裟にため息を吐いた希は、耐えかねた様子で絵里を横目で睨んだ。

 

「あの子達が心配なのはわかるけど、頼むからそうやって急かすのはやめてくれへん?集中乱れたら、その分まで遅くなるんやから」

 

「ご、ごめんなさい。そうよね。気をつけるわ……」

 

 そう言って絵里は希の視界に入らないように、すごすごと後ろに下がった。再び目を閉じて集中を始める希。一方、絵里といえば希の背後でそわそわと体を揺らしながら、時折履いているローファーのつま先で床をコツコツ叩いている。

 音ノ木坂学院高校が誇る才媛の生徒会長は夜の25時を迎えてからずっとこの調子であった。大して時間が過ぎたわけでもないのにまだかまだかと何度も希に問い詰めてくる。あまりに落ち着きの無い親友の質問攻めにうんざり、とまでは言わずとも内心軽く呆れてしまっているのだった。

 

「その素直さをもうちょっと人前でも出せれば良いんやけどねえ」

 

 そうやって少し時間が経った頃、希は突如片眉を少しだけ吊り上げた。

 

「ん……この感じは……真姫ちゃんやね。どうやら無事みたいや」

 

「ほんとに⁉︎」

 

 報告を聞いた絵里は顔を綻ばせる。が、すぐに真剣な表情に切り替えた。

 

「こほん……西木野さんね。希、頼むわよ」

 

「はいはい。ほな、鏡に映すわ」

 

 苦笑いしながら希は手鏡に手のひらをかざした。以前、海未達に希の力の一端を披露した際と同じ手順だ。あの時は校舎に侵入しようとする穂乃果を海未達に見せていたが、今回の場合は赤毛の少女の姿を代わりに映し出そうというわけである。

 しかしながら、実際に映った光景には絵里はおろか希も唖然としてしまう。

 

『ハアッハアッ……!これで……ようやく最後っ!』

 

 黒い影が粉々に砕けて、そして大気中へと霧散していく。希は慌てて視点をスライドさせる。赤毛の少女の後姿が映し出された。真姫はたった一人で広間に中央にて、息を激しく弾ませながら立ち尽くしている。周囲を見渡し、自分以外誰もいないことを確認した真姫は深呼吸を始めた。激しく上下していた肩がやがて落ち着きを取り戻していく。

 一方、さっきまで空中に漂っていたはずの影の破片は、今や影も形もなく消え去っていた。まるで最初から何も存在していなかったかのように。

 この光景だけで、絵里と希の二人は全てを悟った。

 

「えりち、座標の指定は完了したわ。いつでもいけるよ」

 

「西木野さん」

 

 絵里は鏡の中の真姫に向かって『自分の声を飛ばした』

 

『うえええっ⁉︎生徒会長⁉︎』

 

 鏡の中の真姫がギョッと目を見開いて周囲をキョロキョロと見渡す。どうあやら絵里の声はしっかり届いているようだ。

 

「西木野さん……ずいぶんと息を切らしているようだけど、私は交戦はなるべく避けろって言ったはずよね?私と連絡が取れるまで待ってもらえなかったのかしら?」

 

『うっ!』

 

 あからさまな程には顔に出していないが、絵里の声には僅かながら怒気が含まれているのがわかる。絵里の顔が見えていない真姫もそれを察したゆえか、若干返事が裏返っているようだ。

 

『さ、避けてますよなるべく!だけど今回は必要が迫られたからやむを得ずで……』

 

「……西木野さんも中々一筋縄ではいかない子ね。このフロアの敵は大して強くないのが救いだわ」

 

 額に手を当てた絵里はため息を漏らさずにいられなかった。

 真姫との付き合いは、海未、ことりとのそれに毛が生えた程度でしかない。が、見た目に違わず高いプライドを起因とする自信過剰な面がたびたび浮き彫りになっており、絵里と希、理事長の間で議論の的となるのもしばしばであった。

 そして何より、ストレス解消の捌け口にしているのかまでは不明だが、この非日常的な状況をどこか楽しんでいる節が見られていた。

 同世代の少年少女に比べて理知的な印象を与えるとはいえ、彼女もやはり齢15のまだまだ幼い少女。第一印象に反して意外と安定感に欠ける真姫の精神面は、絵里の中では若干の懸念事項となっている。それでも現状、海未とことりよりも実力は先を行っているために絵里達もあまり強く言えず、とりあえず不問にしてきたのだった。

 

「まあ、そこら辺のメンタルに関する話はえりちにブーメランするんやけどね」

 

「ん?何か言ったかしら?」

 

「いーや、空耳やと思う。最近えりちも気を張りすぎてお疲れやからな。例の行方不明の子を助けだしたらゆっくり休んだ方がいいんとちゃうん?」

 

「そう、ならいいけど。一応休暇も少し考えてみるわ」

 

 口笛を吹いて目を逸らす親友から、再び鏡の中の背筋を伸ばして直立する真姫に向き直った絵里は腕を組んで考え込むポーズを作る。

 

「まあいいわ。もうすぐ他の三人の場所もわかりそうだし、少しそこで待機を……」

 

 だが、絵里が指示を出した途端、真姫の表情が険しくなった。

 

『待ってください。あれはいったい?』

 

「あれ?」

 

 手鏡の中で背を向けたままの真姫が通路の奥側を指差した。位置の関係で絵里達にはどうにも見えづらい。

 

「気になるわね。希、お願い」

 

「りょーかい」

 

 真姫が指し示す先へと早速鏡の視点が切り替わったが、映し出されている光景は広間の奥深く、カラスの体色よりも深い暗闇のみだった。先程の真姫の大げさなリアクションが腑に落ちない希は首を傾げる。それは手鏡を眺める絵里も同じであった。

 

「んー……別に何も反応は無いんやけどなあ。近くに大物がいる気配も感じないし」

 

「私にも何も見えないわ。と言うより、さっきから鏡には西木野さん以外何も映ってないわよ?」

 

 だが、

 

『ちょっと……ちょっと!意味わかんない!何よ、あんなデカいの⁉︎私は聞いてないわよ!』

 

「えりち、なんだか真姫ちゃんの様子がおかしくない⁉︎」

 

「落ち着きなさい西木野さん!あなたには今何が見えているの⁉︎」

 

『うえぇ!気づかれた⁉︎」

 

 今の真姫の取り乱し方は尋常ではない。見間違いか何かだろうと結論付けつつあった絵里達も流石に心配になってきていた。なにせ今彼女達が対峙しているのは、人智を超えた非常識的な存在や現象の数々なのだから。真姫の身に降りかかっているのは、そんな予期せぬトラブルではないのだろうか。

 

「いったいどうしたの西木野さん!」

 

 しかし、額から汗を垂らしながら逃げの体勢に入った真姫には、絵里の呼びかけが届いているようには見えていなかった。

 

「返事をしなさい!」

 

『マズいわ!こっちに向かってまっすぐ……』

 

 そこで鏡の映像が乱れ始め、やがて壊れたテレビのように全てが砂嵐に変わった。

 

「な、なんや、これは!こんなん初めてやわ!」

 

「西木野さん⁉︎応答して西木野さん!」

 

 何度呼びかけても返事は返ってこない。手鏡を覗き込んでいる絵里の顔しか映っていない。今、目の前ににあるのは、元の何も変哲の無い鏡面でしかなかった。突然の事態に絵里の顔から血の気が引き、元々色白だった肌が不健康な程に青くなっていく。

 

「えりち、あかん……」

 

 希が呆然としている絵里の肩を揺さぶる。

 

「たった今、めちゃくちゃデッカい反応が出よったわ。おまけにうちの索敵も妨害されてるみたい。こいつは前代未聞の大物かもしれへん!」

 

 絵里と同じく、希の顔も青色に染まりつつあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あれ?海未ちゃん?ことりちゃん?どうしてここにいるの?」

 

 月の光に照らされている中で、予期せぬ幼馴染達との遭遇を果たした穂乃果は首を傾げていた。

 

「もしかして二人も学校に忘れ物とか……って海未ちゃん達に限ってそんなのあるわけな……」

 

「穂乃果!」

 

「穂乃果ちゃん!」

 

ガツンッ!

 

「お、おっとっと!」

 

 海未とことり、二人分の突進を受け止めた穂乃果は勢いで軽くよろめいてしまった。

 

「どうしたの二人共?そんなに慌てちゃ……」

 

「馬鹿!」

 

「いいっ⁉︎」

 

 突然海未が大声で叫ぶ。あまりのボリュームに夜の教室を激しく木霊する。穂乃果もいきなりの音量MAXの罵声に思わず身を縮み込ませてしまっていた。

 

「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!あなたは本当に大馬鹿者です!最低です!」

 

 穂乃果の胸元に顔を埋めたまま、海未は両手でポカポカと穂乃果を叩き始める。

 

「ちょ……いきなり馬鹿って何⁉︎しかもそんなに強く叩かれたら痛いんだけど⁉︎」

 

 流石の武道少女だけあってか、込められた力は結構なものだったようだ。穂乃果はたまらず白旗を掲げた。

 

「馬鹿の穂乃果にはこれくらいやらなきゃわかってくれないからです!馬鹿っ!宿題のために学校に忍び込むとか馬鹿以外の何なのですか!」

 

「うっ……気づかれてる。で、でも!それは海未ちゃんがちゃんと課題やれってうるさいからなんだから!」

 

 自分は悪くないと意地になっている穂乃果はプイッと顔を逸らした。何事にもストレートに感情を伝える穂乃果らしい反応であった。

 

「そりゃあ私だって海未ちゃんのことを馬鹿って言っちゃったけど、そんなに何度も言わなくてもいいで……しょ?」

 

 急に訳もわからないまま一方的に罵られたために憤慨していた穂乃果だが、顔を自分の胸元に埋める海未の姿を横目で見ている内に怒りの矛を収める。

 

「海未ちゃん?」

 

 海未に言い返してやろうと考えていた穂乃果の毒気は完全に抜かれていた。

 

「心配したんですよ……もしかしたら、もう……会えなくなるんじゃないかと思って……」

 

 海未が目元を擦り付けているパーカーは濡れていた。決して顔を見せようとしないが、間違いなく涙を流していた。

 

「もしも穂乃果に何かあったら……私は……私は……っ!」

 

 穂乃果には海未が何を言っているのか理解出来ていなかっただろう。自分が今置かれている状況に対して何も把握していないのだから。しかし、嗚咽を交えながら心情を吐露する姿を茶化すようなことはしなかった。表情は見せずとも、普段大人のように凛々しく振舞っているこの少女が流している涙は紛れもなく本物なのだから。

 

「海未ちゃん……」

 

 穂乃果がそっと海未の頭に手を伸ばす。そして、腰まで届く艶やかな黒髪を優しい手つきで撫で始めた。海未は髪に穂乃果の手が触れる瞬間、ビクッと身を震わせるが、そのまま黙って受け入れる。

 

「よしよし、穂乃果は大丈夫だよ、海未ちゃん」

 

「ほのかちゃん……ほのかちゃあん!」

 

 素直な感情表現の持ち主であることりは、溢れる涙を隠したりしなかった。微笑む穂乃果は同じようにことりの頭をそっと撫で始める。

 

「ことりちゃんも。なんだかよくわからないけど、二人とも心配してくれたんだね。ありがとう」

 

『悪いけど、感動の再会はそこまでにしてもらえる?』

 

 三人だけの時間は突如終わりを告げた。謎の声が間に入ってきたからだ。しかも、ただ聞こえてきただけではない。スピーカーを通さずに、脳の中で直接響き渡ったのだ。漫画などで見られるテレパシーを彷彿させる。

 予期せぬ事態とかつて経験したことのない奇妙な感覚に、穂乃果は不審者のようにキョロキョロと周囲を見渡し始めた。

 

「え?え?何この声?誰なの?何か頭に響いてくる!」

 

「生徒会長!」

 

 その呼び名で穂乃果の中で浮かんでくる人物は一人しかいない。先日、中庭で昼食を摂っている際に声をかけてきた少女の姿が記憶の奥底から呼び起こされる。

 

「えええええっ⁉︎生徒会長さん⁉︎あ、あの生徒会長さんだよね⁉︎うちの学校の⁉︎」

 

 取り乱す穂乃果を放置して、声は再び語りかけてくる。

 

『聞こえてるようね園田さん?』

 

「は、はい!」

 

『良かった。無事に高坂さんを見つけることができたみたいね。彼の立てた仮説は半分正しかったってわけだわ』

 

 半分、と表現したのは、作戦を立案した当人がこの場に来れなかったのが影響しているのだろう。教室内で学校の変異を待つのは絶対的な成功条件ではなかったということだ。

 

「そう言えば、教室に辿り着けたのは私達だけですか……」

 

 穂乃果に再会出来た喜びですっかり失念していたわけだが、仲間二人がこの未知の領域で離れ離れになっているのだ。今になって急に不安が込み上げる。

 

『はっきり言って芳しい状況じゃないわね。とりあえず、あなた達だけでも先に脱出してくれないかしら』

 

「わかりました。会長は私達の誘導をお願いします」

 

 穂乃果から離れた海未は目元の雫を拭い取った。

 

『ええ、天宮君と西木野さんの捜索と並行して調べさせるわ。希、お願いね』

 

 スムーズに会話を進める海未と絵里のやりとりに、蚊帳の外とかしていた穂乃果は納得出来ずにいられなかった。口を挟まずにもいられなかったようだ。

 

「なんで生徒会長さんの声が頭の中で響いてくるの⁉︎ていうか、今更だけど、その手に持ってる武器なんなの⁉︎おまけによく見たら二人共わざわざ制服着てるし!さっきからわけわかんないよー!」

 

「穂乃果、これは……」

 

『積もる話もあるでしょうけど、今はそれどころじゃないの。早くその部屋から出てちょうだい』

 

「うーん……でも、この頭に直接聞こえてくるのはなんか変な感じ……」

 

『詳しく説明してる暇は無いわ!いいから三人共、今すぐそこから離れなさい!今すぐよ!』

 

「は、はい!わかりました生徒会長殿ー!」

 

 あまりにも切羽詰まった様子の絵里に気圧され、疑問符を浮かべてばかりいた穂乃果もすんなりと従った。慌てて当初の目的であった教科書を鞄に詰め込む。

 

『実は西木野さんから超大型のシャドウを確認したって連絡が入ったの。希も今までに無いレベルで大きな反応を確認してる。正直言って今のあなた達じゃ、とてもじゃないけど対処するには力不足だわ。遭遇する前に早く脱出を……』

 

ドンッ

 

 静寂が包み込む教室の中で響く轟音。壁に並べられた貼り紙の数々がふわりと揺らめく。そこで絵里の声は一瞬途切れた。

 

「じ、地震?」

 

「いえ、これは……」

 

 地震は日本人、特に関東に住む者なら日常茶飯事の現象だ。普段なら特別大きいレベルでなければ気に掛けたりはしない。しかし、この揺れはいつものそれらとは違った。

 

ドンッ……ドンッ……ドンッ!

 

 一定間隔で揺れは起きて、その勢いを徐々に大きくしていく。やはり穂乃果達の知る地震とは全く違う。例えるならば、まるで『巨大な何か』が歩いている際の足音のように思えた。

 

『マズイわ!既にかなり接近していたみたいね!希!なんで今まで接近に気づかなかったの⁉︎』

 

 絵里が隣にいるのであろう希に向かって声を荒げている。海未には歯を食いしばると、出口である普段から見慣れたスライドドアへと目を向けた。

 

「穂乃果!」

 

「わわっ!」

 

 穂乃果の腕を引っ張っる海未。既に目から流れていた涙は拭き取られている。ことりも既に先ほど投げ捨てていた槍と海未用の弓を無言で回収していた。

 

「ちょ、ちょっと海未ちゃん⁉︎」

 

「いいからついて来てください!ことりも早く!」

 

「わかってるよ!海未ちゃんの弓も拾ったから!」

 

「では脱出しましょう!これ以上ここに居ては危険です」

 

 三人はさっきまで穂乃果が格闘していた開かずの扉と向き合う。穂乃果は頭をポリポリと掻きながら、言いにくそうに口を開いた。

 

「あ、そのドア開かないよ。さっき何度も試したんだけど、ビクともしなくて……」

 

「ことり!」

 

「うん、わかった!えーいっ!」

 

 海未の合図に合わせてことりがドアめがけて勢いよく蹴りを放った。頑強な金属製のはずのそれが紙のようにいとも容易くくの字に折り曲げられ、はるか後方へと吹き飛んでいった。

 

「ちょ……ええええええええええっ⁉︎」

 

 もしやこれは夢ではないのだろうかと穂乃果が頬をつねるも、痛みからすぐに手を離す。幼少より共に過ごしてきた穂乃果が知る限り、ことりの身体能力は部活をしていない穂乃果よりも圧倒的に劣っていたはずだった。そのはずなのに、今のことりはキックボクサーも真っ青な破壊力の蹴りを披露したのだ。穂乃果に限らず、普段のことりのお淑やかさを知っている者なら誰もが夢でないかと疑ったに違いない。

 

「海未ちゃんもことりちゃんもさっきから一体どうしたの⁉︎いきなり何処からかやって来るし、変な武器は持ってるし、ドアを蹴破れるくらいことりちゃんは強くなってるし……って学校の中がおかしなことになってる⁉︎」

 

 自分が知らぬ間に超人化していた幼馴染に驚愕したばかりの穂乃果が余計に混乱するのも無理はない。なんせ教室から抜け出した途端に大理石で造られた広間が視界に飛び込んできたのだ。穂乃果の記憶に間違いはなければドアの先には見慣れた廊下が続いてるはずなのだが、この場所にはそんな物は影も形もない。

 そのまま背後を振り向く。今度は今さっき通り抜けたばかりのドアが綺麗さっぱり消えていた。

 

「な、何がいったいぜんたいどうなってるのー⁉︎」

 

 数々の異様な現象を前に、何が起きてるのか理解出来ずに頭を抱える穂乃果。それでも海未は穂乃果を無理矢理引っ張っていく。

 

「時間がありません!急いでここから離れないと!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「希!なんで今まで接近に気づかなかったの⁉︎」

 

 真姫の時もそうだった。現場にいる少女達が報告するまで、希は気配を察知することができなかった。絵里の知る限り、強敵なら希が気づけないはずがない。本来なら強い生命力を秘めていれば、強ければ強い程、希の索敵網からは逃れられないはずだというのに。

 それは当の希も承知の上であった。

 

「そう言うても、うちだって今日は想定外のハプニング続きで戸惑ってるんよ。調べる限りは迷宮の構造もいつもに増して無茶苦茶やし、敵さんの動きも活発になってて予想が出来へん」

 

 だから、いつもに増して希は索敵に気合を入れていたつもりだった。何があっても勇敢な後輩達を見逃さず、迫り来る敵達の居場所は手当たり次第暴き立てる。100%を超えて自分の役割を全うしてみせる。

 しかし、そのはずがこの様だ。

 

「本当に突然、なんの前触れもなく反応が現れたんや。そして、またしても突然気配が消えてしまった。まるで幽霊みたいになあ。おそらく、件のどデカい敵さんの能力なんやと思う」

 

「希……」

 

 希の頬にはうっすらと雫が伝っていた。

 

「悔しいなあ。うち、もう二度と後悔したくなくて、今日までうちなりに頑張って来たつもりやったんよ?でも、結局その頑張りもまだまだ足りなかったみたいやなあ」

 

「……ごめんなさい希。あなたに当たっても仕方ないのに」

 

 いつも飄々としているはずの親友が見せる悔し涙を目にした絵里は苦々しげに俯いた。

 

「やっぱり……やめておくべきだったのよ!こんな無謀な作戦!」

 

「えりち……」

 

 希は心配のあまり、気負う親友の肩をポンと叩いた。

 

「投げ出したい気持ちはわかるよ。でも、今うちらが冷静さを失ったらあの子達はどないするん?うちだって悔しいよ。でも、だからこそ……諦めたくない!必ずあの子らを助けたい!そう思ってるんや!」

 

 希は懐から一枚のタロットカードを取り出す。そして、投げナイフの要領で投擲した。

 放たれたカードは、校門から続く桜並木の1つに深々と見事に突き刺さった。カードの表側が月の光に照らされて明らかとなる。

 

『STAR』

 

 暗示するは希望。希望への道中、何が待ち受けているのかすら不明なままながらも、旅の終着点が必ず存在することを証明する星の輝き。

 俯いていた絵里がゆっくりと顔を上げる。その表情は、迷いを捨てて覚悟を決めたのが窺える気迫に満ちていた。




次回でようやく戦闘。誰が戦うかは秘密です。ペルソナ5発売前には戦闘させる目標は達成出来そうです。


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15話

ペルソナ5発売おめでとう!私はkonozamaでした!


「はあ……はあ……お、お願い海未ちゃん!ストップ!ストーップ!」

 

 通路を全力疾走していた穂乃果達三人が道中で立ち止まったのは、教室出てから間もなくであった。基本的に怠惰な生活を送っており、運動をする習慣の無い穂乃果には、常日頃から己を鍛えている海未のペースに合わせるのは酷だったようだ。ぜえぜえと息も絶え絶えな様子でパーカーに汗を滲ませている。

 

「はあ……はあ……す、少し……はあ……休ませて……もう……限界……」

 

 呼吸が少し落ち着いた穂乃果はそのまま大理石の床にペタリと座り込んだ。

 

「まったく……立ち止まっている余裕はありませんよ」

 

「そんなこと言ったって、海未ちゃん達足早すぎだよ〜!私の体力で付いていけるわけないんじゃん!」

 

 尻餅をついたまま不平不満を並べる。そんな穂乃果を見下ろしながら、海未は呆れ顔で両手を腰に当てた。

 

「仮にもアイドルを目指してるのに、この程度で力尽きるですか?そんな調子では今後のダンスレッスンに耐えられませんよ?」

 

「う……そ、それは……」

 

 図星だったのか、穂乃果の目が泳ぎ始めた。そんな彼女に助け舟を出したのは、二人のやりとりを隣で見ていたことりだ。

 

「海未ちゃん、穂乃果ちゃんは”普通の人”なんだからしょうがないよ」

 

「……はあ」

 

 海未としても、ことりの意見はもっともだと自身の考えを変えたのか、苦笑いしながらも頷く。

 

「では、仕方ありませんね。穂乃果、手を貸してください」

 

 ヒョイっ

 

「ひゃあっ⁉︎海未ちゃん⁉︎」

 

 海未は右手で穂乃果の背中、左手で脚を抱え込んだ。いわゆるお姫様だっこの姿勢だ。

 

「しっかり掴まってて下さい!」

 

「うおおっ!」

 

 軽々と穂乃果を抱き上げた海未は、一気に駆け出す。そのあまりの早さには穂乃果も三度驚かされた。まるで車に乗っているかのように、通路の背景が颯爽と流れていくのだ。

 

「は、速い!」

 

 確かに海未は文武両道を地で行く少女なのは知っていたが、本気を出せばこれ程の力を出せるなどとは幼馴染の穂乃果すらも思いもよらなかった。まだ未発達な少女とはいえ、人一人を抱えて全力疾走を行い、しかも息切れ一つしないとは。腕を引っ張られて並走していた穂乃果が先にばててしまうのも当然だろう。

 そんな風に内心感嘆している時だった。穂乃果の視界に長く続いていた通路の終わりが飛び込んできた。その先には大きな部屋が広がっているわけだが、問題は広間の床が存在せず、底が見えない暗闇になっていることだ。

 

「あ、行き止まりだね」

 

 距離が狭まるにつれ、崖の全貌が明らかになっていく。巨大な広間が丸々穴底になっているわけだが、その面積はかなりの物。一応入り口から抜けて正面に出口は存在するものの、その距離は間違いなく100メートルを余裕で超えているだろう。諦めて早く引き返し、道を変えるべきだと考えた。

 しかし、

 

『そのまままっすぐ進みなさい』

 

「了解」

 

「へ?」

 

 海未は止まらなかった。それどころか減速すらしていない。むしろ絵里の指示に合わせて、さらに加速を始める。それは後ろで追走することりも同じだった。穂乃果は涙目で身を揺すった。

 

「わー!わー!止まって海未ちゃん!その先は崖だよーっ!」

 

 例えオリンピックの金メダリストでも、この距離を飛び越えるなど不可能だ。スポーツ万能少女の海未とはいえ、どうしようもないように見える。しかし、穂乃果の必死の訴えも虚しく、三人は入り口をあっさり潜り抜けてしまう。穂乃果の心配を他所に、広間に到達した海未は脚に力を込め、そして、

 

「ふっ!」

 

「うおおおおおおおおおおおおっ!!!!!!」

 

 穂乃果を抱えたまま、地面を勢いよく蹴り、宙を舞った。

 

「うひゃあああああああああああああああ!!!!!!」

 

 海未渾身の走り幅跳びの最中に、穂乃果はついうっかり下を見てしまった。下方には底が見えない程の暗い深淵世界が広がっていた。落ちてしまったらもう戻ってこれないかもしれない。そんな恐怖に駆られた穂乃果はこの地獄のようなひと時を乗り越えようと、叫びながらもギュッと目を閉じる。

 やがて、軽い衝撃の到来と同時に浮遊感は消えた。穂乃果が恐る恐る目を開く。先程と同じように海未が穂乃果を抱えたまま通路を駆け抜け、ことりが後ろから追走していた。崖の反対側に辿り着いたのだと頭でようやく理解した頃には、例の巨大な穴底は海未達の遥か後方まで遠ざかっていたのだった。

 

「これだけ離れたならおそらくもう大丈夫でしょう。地震を起こす程の巨躯ならば、あの崖を跳び越えるのは至難の技でしょうし」

 

「す、すごい……」

 

 なんてことのないかのように言いきった海未。そんな海未に平然と付いてきていることりもにっこりと笑って返した。今の穂乃果には件の追跡者よりも、幼馴染達が揃って超人的な身体能力を得ている事実の方が気になって仕方ない。

 

「う、海未ちゃんもことりちゃんもいったいどうしちゃったの⁉︎これならオリンピック優勝も夢じゃないよ!あ、そうだ!これで廃校阻止するのもいいかも」

 

 この状況で場違いな発想を抱く穂乃果に、海未はクスリと笑った。

 

「ふふふ……残念ですが、私達にこんな事ができるのは今だけですよ」

 

「今だけ?それってどういう……」

 

『よくやったわ、二人共。これなら無事に合流できそうね』

 

 突然、絵里が二人の会話に割り込んできた。相変わらず海未にお姫様抱っこされている状態だが、穂乃果は少しでも姿勢を良くしようとする。脳内に直接流れているのだから、わざわざ耳を傾ける必要はないはずだ。にもかかわらず、ついつい身構えて真剣に聞こうとしてしまうのは、絵里の放つ怜悧な空気感による物か。

 

『このまま真っ直ぐ進んでいったら、いずれ迷宮の外に出られるはずよ。そこまで誘き寄せれれば、私と希の二人で例の大型シャドウを仕留めて……』

 

ドンッ!

 

 揺れは再び起きた。それも、教室にいた時よりもさらに大きく。ことりは顔を青ざめさせて後ろに振り向いた。

 

「そんな……あんなに走ったのにさっきより近づいてるよ⁉︎」

 

『嘘でしょ。なんてしつこさなの!』

 

 またも大地が震える。今度の規模は激震と呼んでも差し支えなかった。絵里の声からも焦りが伝わってくる。

 

「まさかこの地震を起こしてる元凶って、あの崖を跳び越えちゃったわけ⁉︎」

 

 事情を知らない穂乃果ですら察してしまう。その元凶に遭遇すれば、ただでは済まないに違いない。一方、苦々しげに背後を睨んでいた海未は突如、その脚を止めた。

 

「……私が時間を稼ぎます。ことりは穂乃果を連れて先へ進んで下さい」

 

「え?え?」

 

 穂乃果は戸惑いを隠せなかった。時間を稼ぐ。穂乃果がその意味を理解するのを待たず、ことりは手に持っていた弓を海未に譲渡する。そして、代わりに穂乃果を抱えた。

 

「海未ちゃん……ごめん!先に行ってるね!必ず待ってるから!」

 

「え、こ、ことりちゃん⁉︎待って海未ちゃんが……」

 

 海未の代わりに穂乃果を抱えたことりは、穂乃果の戸惑いも他所にそのまま元の方向に向かって走り出す。

 

『ちょっと何を言ってるの園田さん!あなた一人では無茶よ!』

 

 声を荒げて制止しようとする絵里の奮闘も虚しく、海未は弓を手に踵を返して反対側へと走り去っていった。

 

『戻りなさい園田さん!ああ、もう……どうしてみんな勝手なことばっかり!』

 

 ことりの脚力は海未に負けず劣らずであった。あっという間に海未との距離がどんどん開いていく。すぐに姿が見えなくなってしまうだろう。声も届かなくなるだろう。

 それでも、穂乃果はことりの肩越しに手を伸ばさずにいられなかった。

 

「う、海未ちゃーん!待って!待ってよ!海未ちゃんには、まだ言ってないことがあるんだよー!!!!!」

 

 穂乃果の声は親友の耳に届かなかった。距離的に届いたとしても、友を守ろうとする少女の心には無意味だったかもしれない。今の海未はただ、迫る脅威に立ち向かい、穂乃果を守ることしか頭に無い。一人でも助けに行くと言っていた時の信念は変わっていないのだ。

 

「さあ、来なさい。穂乃果には……穂乃果だけには指一本触れさせません!」

 

 またもや大地が揺れた。無論、大きさももはや今までとは比べものにならない。邂逅の時は近いのだとわかる。これ程の揺れを引き起こせる巨大な存在。一人で立ち向かうなど、無謀極まりない。しかし、海未は逃げなかった。

 覚悟を決めた海未は対峙する。人類を仇なす影に。そのために太腿のホルスターから一丁の拳銃を取り出す。そして、

 

「力を貸してください……もう一人の私!」

 

 震える手で拳銃を自身の側頭部に突き付け、叫んだ。

 

「ポリミューニアッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『仕方ないわね。ひとまず、あなた達だけでもこっちに戻ってきて。出口までもうそんなに離れてないはずよ。残りの二人も同じように誘導してるから、いずれ合流できると思うわ』

 

「こ、ことりちゃん……海未ちゃんは……」

 

 不安のあまりに背中から恐る恐る尋ねる穂乃果に対し、ことりはにっこりと笑って返した。

 

「心配しないで穂乃果ちゃん。穂乃果ちゃんは私が……私と海未ちゃんが絶対に守るから」

 

 だが、自覚が無いのかもしれないが、ことりの声は明らかに震えていた。顔色も芳しいと言えない。おそらく空元気なのだろうが、それでも穂乃果を安心させたいと思っていることりなりの気遣いに違いない。しかし、穂乃果が知りたかったのはそんなことではなかった。たった一人、”謎の追跡者”と対峙することを決めた海未の安否を尋ねたのだ。

 そんなのは答えになっていない。穂乃果がそう言おうとした矢先、ことりは急に足を止めた。突然の停止に驚いた穂乃果は正面に顔を向けるが、眼前に広がる光景を前に目を丸くして仰天してしまう。

 

「あわわわわっ!な、な、なになになに⁉︎何なの、この顔と手だけの化け物!」

 

 穂乃果の言う通り、それは化け物と形容するしかなかった。液体なのか固体なのかもわからないドロッとした胴体に奇妙な仮面がくっ付いている奇妙な生物。黒色の体をずるずると床に這わせるその姿は、まるで油の塊が意思を持って動いてるかのようだ。そんなおぞましい存在が目の前に三体も揃っていた。

 

「”マーヤ”⁉︎しかもこの数!」

 

『なるほど、獲物は逃がすつもりはないってわけね』

 

 脳内に響く絵里の声には舌打ちが混じっていた。

 

「嘘……よりによってこんな時に……」

 

「ことりちゃんはこれ何なのか知ってるの⁉︎こんな怪物、穂乃果見たことないんだけど!」

 

「……」

 

「ねえ、ことりちゃん!この怪物の仲間がさっきから私達を追いかけてきてるんでしょ⁉︎もしかして海未ちゃんは私を守るために一人で……ねえ!」

 

「……」

 

 何も知らせようとしないことり達に対する不満がついに爆発した。

 少なくとも穂乃果は漫画やアニメならともかく、テレビのドキュメンタリーや図鑑ですらこのような生物は見た記憶がない。ナメクジのようにどろりとした軟体の巨大生物。一応五本の指を持つ手は生えているが、むしろその中途半端に人間を思わせるパーツの存在が逆に不気味さを際立たせていた。

 

「これは……」

 

 そして、こんな奇怪な存在を見て驚かないことりが何も知らないはずがない。

 

「これは”シャドウ”。私達の……人間の敵だよ!」

 

 いつになく真剣な表情のことりは忌々しげに言い放った。無論、穂乃果はシャドウなどという怪物の存在は知らない。自体はとっくの昔に、このお気楽少女の理解の範疇を超えつつあった。

 

「しゃ、シャドウ⁉︎人間の敵って……なんでそれをことりちゃんが知ってるの⁉︎」

 

 しかし、穂乃果の疑問は掻き消された。ことりがシャドウと呼称した怪物が指から鋭利な爪を伸ばし、腕を大きく振り上げたのだ。

 

「危ない穂乃果ちゃん!」

 

「ひゃんっ!」

 

 見かねたことりが穂乃果を抱えて横に転がる。寸でのところで、怪物の爪は空を切った。

 

「うえええ!思ったよりすばしっこくて凶暴だよ!」

 

 床を転がった穂乃果は声を震わせながら後ずさりする。穂乃果達の腰程度の大きさと貧弱そうな見た目に反し、この謎の怪物はただ不気味なだけではない。明確に穂乃果達に対し、敵意、殺意を抱いている。そして、現実に命を奪うだけの力を持っていた。

 

『まずいわ、南さん。前から三体、背後から二体。完全に囲まれてる』

 

「そ、そんなあ……」

 

 こんな凶悪な怪物がまだ他にもごろごろいて、しかも自分らの命を狙っているとは。

 今のはことりに助けられて運良く避けられたが、次も大丈夫だという保証はない。喧嘩や格闘技の心得が全く無い極普通の少女である穂乃果は、恐怖のあまりに完全に血の気が引いてしまっていた。

 

『どうやら逃げ道は無いみたいね。仕方ないわ。応戦しなさい南さん!』

 

「でも……」

 

 ことりはチラリと穂乃果の姿を横目で見ていた。穂乃果は恐怖のあまりに、不安に満ちた表情で肩を震わせていた。天真爛漫な少女と言えど、理不尽な暴力の前には狼に襲われる子羊のように無力でしかない。

 

『大丈夫。そのタイプのシャドウは疾風属性が弱点。あなた一人だけでも充分に撃破可能よ。ペルソナを使いなさい』

 

「……はい」

 

 絵里の指示に静かに頷くことり。額から一筋の冷や汗を流しながら、深呼吸を行う。

 

「やるしかないんだ……ことりがやるしかないんだ……」

 

「ことりちゃん?」

 

 目を閉じて深呼吸を行っていたことりが、ゆっくり瞼を開いた。

 

「穂乃果ちゃん」

 

 ことりは微笑んでいた。手に持っていた槍を床に落とし、太腿に手を伸ばす。

 

「もしも私が悪魔だとしても、あなたは……私を好きでいてくれますか?」

 

「え?」

 

 謎の怪物の登場で混乱に陥っている穂乃果には、ことりの言わんとしていることが全く理解できずにいた。しかし、首を傾げていた穂乃果は、さらなる予期せぬ事態に目をひん剥かせた。

 

「け、拳銃⁉︎」

 

 穂乃果は思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。無理もないだろう。普段からお淑やかな幼馴染が、全く似つかわしくない大型の拳銃を取り出していたら。

 そして、躊躇いなく自分の眉間に突きつけていたら。

 そんな非日常な光景を目の当たりにして冷静に受け止められるわけがない。

 

「ちょっと……ことりちゃ……」

 

 穂乃果の目には、思い詰めた幼馴染が拳銃自殺を図ろうとしているようにしか映っていない。その引き金が引かれる前に、すぐにでも力づくで止めるべきだろう。

 しかし、できなかった。

 

「お願いします……もう一人の私……私の中の悪魔……」

 

 今のことりの顔は生きることを諦めた自殺志願者には見えなかった。むしろ、死に抗おうとしているように思えた。それほどまでにことりの瞳は生への渇望、死に抗う意思に満ち溢れていた。真剣な表情で自分に銃口を突きつけているのだ。こんなことりは十年以上共に時間を過ごしてきた穂乃果が全く知らない。

 自分ですら知らない幼馴染の一面を目の当たりにした穂乃果には、ことりを止めることなどできなかった。根拠など無い。それでも、ことりを信じるべきだと直感していた。

 

「ことりに穂乃果ちゃんを……友達を守る力を……下さい!!!!」

 

 額に冷や汗を滲ませ、手を震えさせながらもトリガー部に指をかける。

 そして、意を決したことりは……

 

「お願い!!クレオ!!!!」

 

 引き金を引いた。

 

<私は貴女……貴女は私……>

 

 風が吹き荒れる。青白い閃光が薄暗い大理石の広間を輝き照らす。同時に穂乃果達の目の前で、ことりの全身から漏れ出ている小さな粒子が集っていく。やがて、それは人の形を成していった。

 

<私はクレオ……>

 

 青い光と共にことりの体から飛び出してきた人影は、徐々にその存在感を明確にしていく。人影は女性であった。大きさは約3メートル程。ロングスカートのメイド服を身に纏い、その両手にはバラの花束が握られている。頭部は口と後ろ髪だけが露出した銀色の金属製兜で覆われており、女性の表情は全く読めない。

 しかし、穂乃果はこの正体不明の女性の出現に恐怖を抱かなかった。むしろ安らぎすら感じていた。何故かはわからないが、この女性は自分を救おうとしていると直感しているのだ。それと、女性のヘルメットからはみ出ているグレーのロングヘアーが、どこかことりを彷彿させていたからかもしれない。

 

<未だ己の道定まらぬ我が半身たる雛鳥よ……いつか巣立ちの時を迎えるその日まで、私が貴女を見守り続けましょう>

 

「行くよ、クレオ!」

 

 ことりがクレオと呼んだメイド服の女性は宙に浮いたまま、穂乃果とことりに迫る怪物との間に割って入る。まるで二人を護ろうとするかのように。

 

「クレオ!疾風魔法( ガル )!発動!」

 

 ことりに同調してシャドウと対峙していた女性が、右手に抱えていた花束を天に向けて掲げた。それと同時に辺りの空気は一変する。

 クレオのヘルメットに備え付けられた両翼が突然肥大化。そして、先程穂乃果に襲い掛かった手前の一体に向かって、大きくはばたいた。

 その瞬間、風が吹いた。ただの風ではない。怪物一体を丸々包み込み、目にも見える程に空気を荒れさせ、まるで刃のように身を引き裂いていく。かまいたちと呼んでもいいだろう。

 

「!!!!???」

 

 怪物の内の一体はそんな風の刃に容赦なく切り刻まれていく。発声器官があるかは不明だが、これが人ならば慈悲を乞う余裕すら無いに違いない。無情なかまいたちが延々と漆黒の肉体に傷を与え続けるのだ。徹底的に身を引き裂かれた影は黒い気体となってあえなく霧散した。風が静まった頃には、その場にチリ一つすら残されていなかった。

 

『一体撃破!残り四体よ!』

 

「まだまだっ!クレオ!広域疾風魔法(マハガル)!発動!」

 

 普段のお淑やかさをかなぐり捨てて、ことりが高らかに叫んだ。その時、先程と同じく、再び銀色の翼がはばたいた。今度は幾度も、はばたきを繰り返す。回数と同じだけ、巻き起こった風は辺り一帯を支配していく。そして、残っていた多数の怪物をこれまた同じようにグチャグチャになるまで切り刻んでいった。

 そして、全ての怪物は同時に霧散。気づけば、通路は何事もないかのように再び静まりかえっていた。

 

「やった……!」

 

 とりあえずの危険を排除して安心したためか、全ての怪物を壊滅させたことりはガクリと床に膝をついた。同時に、女性の身体が霧のように元の粒子に戻って崩れていく。

 

「す、すごい……」

 

 穂乃果は思わず感嘆する。今の光景は幼馴染達の超人的身体能力以上の興奮を穂乃果に与えてしまった。なんせ、形容しがたい異形の怪物達を跡形もなく葬り去ったことりは、まるで漫画に出てくる主人公達だったのだから。またしても幼馴染の見知らぬ一面を目にした穂乃果は、興奮を隠しきれない様子でことりに駆け寄った。

 

「すごい!すごい!すごいよ、ことりちゃん!ねえねえ!今のいったいな……」

 

「はあ……はあ……」

 

「こ、ことりちゃん?」

 

 ことりの額はびっしょりと濡れていたのだ。息は激しい運動を行った後のようにきれぎれで、瞳もどこか虚ろに思えてしまう。

不安にあまりに顔を覗き込む穂乃果。そんな親友に対し、ことりは引きつった笑顔で返した。

 

「ご、ごめんね。でも、心配しないで。ちょっと緊張しちゃっただけだから」

 

「でも、ことりちゃんすごい汗かいてるよ!」

 

 少し観察しただけでも額や首元に尋常でない程の汗を滲ませているのがわかることりを前に、穂乃果は不安に駆られていた。ことりは今でこそ普段の生活に全く支障は無いが、かつては病弱で無茶な運動は禁じられていたからだ。穂乃果の頭の中では、幼少期のことりが体を抑えて苦しみに耐えていた姿が想起されている。

 そんな穂乃果の心中を察したのか、当のことりは何でもないと微笑み崩さない。しかし、その笑顔はどこか無理に作っているかのように見えていた。

 

「本当に大丈夫。ことりは大丈夫だから、ね?早く行こう?」

 

 ことりが穂乃果の手を取った。気丈さをアピールする言葉とは裏腹に、ことりの手は震えていたのだった。




〈恋愛・クレオ〉
 音ノ木坂学院2年の南 ことりの初期専用ペルソナ。対応アルカナはLOVERS。花束を携えたメイド服の女性の姿をしている。頭部には翼の意匠を備えた鳥の頭部を模した兜を被っている。
 物理攻撃は一切使用不可能だが、代わりにレベルの高い疾風属性の攻撃魔法と回復魔法を操る後方支援を得意とするタイプ。しかし、ステータスそのものは魔法攻撃力がずば抜けて高いのを除いて全体的に低め。弱点属性は電撃。

力・D
魔・A+
耐・D
速・C
運・B

 ギリシャ神話に登場する、ムーサ(ミューズ)と呼ばれる九姉妹の女神の一柱。ゼウスの娘達としてオリュンポス神族に連なる神々であり、音楽(ミュージック)の語源となった彼女らは芸術を司る女神として官民問わず篤く信仰されていた。


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16話

「西木野さん!」

 

 絵里に誘導された先で静流を待っていたのは赤毛の後輩であった。

 

「すいません。ちょっとドジっちゃいました……」

 

 ようやく再会した真姫は床に尻餅をついたまま呼吸を乱していた。一見すると大きな怪我をしているようには思えない。が、決して何事も無かったわけではないのもまた確かだった。額からは大量の汗が流れ、そのせいで自慢の赤毛もべっとりと顔に貼りついていた。相当な危機的状況が迫っていたのだろう。

 

「それより先輩!急いで園田先輩達と合流して下さい!例の大型は恐らくあっちに向かって……くぅっ!」

 

「動いちゃ駄目だ!君だって足を怪我してるじゃないか!」

 

 苦悶の声を漏らす真姫に駆け寄った静流はすぐさましゃがんだ。制服のスカートから伸びる細長い両脚はモデル顔負けに色白で華奢な印象を与えている。しかし、そんな自然の造形美を台無しにするかのように、靴下を脱いで露わになった右側の足首は赤く腫れていた。

 

「逃げる途中で挫いちゃいました。シャドウから受けた傷じゃないと回復魔法も効かないから治しようが無くて。さっきは逃げて隠れるのが関の山だったんです。情けない!」

 

「絵里さん!絵里さん!ダメだ。急に声が聞こえてこなくなった。なんでなんだ⁉︎」

 

「無駄ですよ。私もさっきから生徒会長に呼びかけてるけど、全然返事が返ってこないんです。きっと私が戦った『奴』のせいね」

 

 苦虫を噛み潰したように顔を歪めながら、広間の奥にある通路を睨みつける真姫。

 

「あいつ、冗談抜きでヤバいわ。強さも今まで奴らと桁違いだったけど、生徒会長との通信も妨害できるなんて!園田先輩と南先輩の二人で、言い方は悪いけどしかも荷物を抱えたままどうにかなる相手じゃない。早く助けに行かないと」

 

 そうは言うものの、少年の目には、この少女の方にこそ一先ず手助けする必要があるように思えた。

 

「君こそ安静にしてなきゃ……」

 

「もう平気です。このくらいなら……いつっ!」

 

 無理矢理自力で体を起こそうとするが、腫れた足首を抑えてすぐに再び尻餅をついてしまう。誰がどう見ても、真姫一人で行動できる状態では無かった。

 

「ごめん。ちょっと大人しくしてて」

 

「へ?あ……はあっ⁉︎」

 

 真姫はギョッと目を見開く。いきなり眼前で異性が服を脱ぎ出したら動揺するのも無理はないだろう。

 一見して運動とは無縁そうな細身の割に、意外にもしっかりと筋肉が付いている少年の肌がみるみるうちに露わになった。父親以外の男性の裸を間近で見た経験の無い真姫は、同世代の少年による突然の行動を前に顔を赤らめ、両手でなんとか視界を塞ごうとする。

 

「な、何を!?」

 

 戸惑いのあまりに裏返った声を発してしまう真姫に構うことなく、新しいシャツの下部を躊躇いなくビリリと音を立てながら破っていく。

 

「じっとしててね」

 

 そして、破いたシャツの切れ端を使って真姫の足首にグルグルと巻いていった。

 

「うん、これで良し」

 

 真姫の足首を固定し終えた静流は満足げに頷いた。

 

「とりあえず捻挫の応急処置は済ませから。ここから出たら病院でちゃんと見てもらうんだよ……って、院長の娘に言うのは釈迦に説教かな」

 

「あ、ありがとうございます……」

 

 なんとか冷静になって少年の意図をようやく理解した真姫は、目を逸らしながらもポツリと感謝を述べた。

 

「お礼を言われる程の事じゃないよ。それより僕こそ君に謝らなくちゃ」

 

「え?」

 

 シャツに再び袖を通し、上からブレザーを羽織り直した。上着のボタンを留めてしまえば、破いた部分は一応隠れて見えなくなるようだ。

 

「君を一人にさせてごめんね。女の子がたった一人でこんな所に取り残されたんだから恐かったでしょ?」

 

「べ、別に!私は先輩よりは戦い慣れてますから一応!心配は余計な御世話です!」

 

「そうか、なるほど。流石は西木野さんだね」

 

「先輩こそ実戦経験ゼロでしょ?一人じゃ恐くて震えてたんじゃないですか?」

 

「うん、だけど君と再会できたおかげで今は大丈夫だよ」

 

「……ほんとにそう思ってるのかしら?」

 

 口を尖らせて不満を漏らす今の真姫は、普段の大人びたイメージとは違って年相応の少女らしさを感じさせている。こうやって一緒にいる時間が多くなれば、もっと意外な姿を目にすることが可能かもしれない。もっとも、そのきっかけが得体の知れない怪物に襲われたから、というのはあまりにも数奇な運命と言わざるをえないが。

 静流がそんな感想を抱いた時だった。赤毛の少女が真剣な表情に戻った。

 

「待って先輩!後ろを見て!」

 

 真姫に指摘されてすぐさま振り向く。反対側の通路からから、何かがゆらゆらと宙を浮遊しながら二人に迫って来ている。漆黒オーラを纏うそれらはまるで影のようだ。この迷宮に関する知識を持つ二人は、影の正体を既に知っている。

 

「まずい!シャドウだ!」

 

 自由に動けない真姫を庇うように、静流は前に出てきた影達と対峙する。

 その姿形は既存の生物から完全にかけ離れていた。一言で形容するならば、ビーチボールサイズの球体に舌の飛び出した唇だけが存在する。そんな奇妙な体型でフワフワと宙で揺らいでいた。

 一見すると愛嬌のある外見だが、口のサイズに比例して肥大化した舌の部分は妖しく舌なめずりを始めている。二人の人間を獲物として認識しているのだろう。さらに翼も無しに自在に空中を滑空する飛行能力。まさしく人知を超えた危険な存在である。

 

「あれは"アブルリー"!」

 

「アブルリー?ふーん、背中に貼りついた仮面を見る限り、魔術師タイプのシャドウだね」

 

 さっきまでニヤニヤしていた静流から笑顔が完全に消えた。代わりに、迫り来る異形達を一体ずつ目で追っていく。

 

「1……2……3……全部で4体か。初心者相手にちょっと手加減が足りないんじゃないかな?チュートリアルでゲームオーバーとか勘弁してもらいたいもんだけど」

 

 軽口を叩いているように聞こえるが、その目は真剣そのものだ。

 

「気をつけて下さい先輩!そいつは一体一体の戦闘力そのものは大したことないけど、常に集団で獲物を狙う厄介な習性を持ってるの!追跡能力も高いから、一度も目を付けられたら逃げるのは至難の業よ!」

 

「なるほど。だったら西木野さんを抱えたまま逃げるのは無理みたいだね……」

 

 そう言って静流は逆手に持っていた日本刀を反対に持ち変える。

 

「迷ってる暇は無いか。僕が応戦する!」

 

「待ってください!だったら私も戦いま……痛っ!」

 

「君は僕の後ろに隠れてて!」

 

 悔しそうに歯を食いしばる真姫。納得はしていないようだが、それでも素直に従い、座ったまま入り口付近まで後ずさりしていく。

 

「……お願いします」

 

 真姫が後方に下がったのを確認した静流は腰のホルダーから一丁の拳銃を取り出した。だが、その銃口は今目の前に迫り来る脅威に対してではなく、自分自身の側頭部へと向けられた。

 

「さあ、来るんだ……」

 

 この銃は本来の機能である、銃弾の発射機構を備えていない。

 見た目がそっくりなだけの単なるレプリカ。

 にも関わらず、銃という存在が喚起する死のイメージは、決して消えることはない。なんせその重みと威圧感は本物と変わらないのだ。死の象徴たる兵器は早過ぎる命の終わりを少なくともイメージだけであっても、若人に突きつけていた。

 自ら死に迫る残酷な儀式は少年の中に眠る『生存本能』は無理矢理呼び醒された。少年は確信する。己の分身は今ここに降臨する、と。

 そして、

 

「もう一人の僕……」

 

 トリガーを一気に引き抜いた。

 

「来い!タミュラス!!!!!」

 

 何かが砕けるような音と共に、辺り一帯で凄まじい勢いの風が吹き荒れ始めた。青白い光も燃え盛る炎の如く、溢れんばかりの輝きを放つ。背後の真姫も思わず袖で視界を抑える程だ。狩人として静流を狙う異形の怪物達も、獲物の特異性に今になって気づき、明らかに動揺してるように見える。

 

<我は汝……汝は我……>

 

 拡散していた粒子が一箇所に集まり、人の形を成していく。その体躯は並の人間を遥かに上回っている。

 

<我は汝の心の海より出でし者……>

 

 現界した大男は静流や真姫と同じ人とは到底思えない異様な存在感を放っていた。三メートルを超えるであろう長身。パンクロッカーを彷彿させる、レザー風の黒づくめ衣装。表情までも覆い隠す銀色の仮面。

 そしてなにより、背中に配置されている白いVの字型エレキギターが目を引いた。どう見てもただのエレキギターではない。何故ならそのサイズは持ち主本人ほぼ変わらぬ等身大レベルの物だったからだ。

 衣装から持ち物、その全てがおっとりとした印象を与えるこの少年からかけ離れた攻撃的な意匠であった。

 

<黄昏の奏者、タミュラスなり!>

 

 青い光と共に姿を現した大男は、背負っている巨大なエレキギターのネック部分を右手で握りしめると、背中から一気に引き抜いて豪快に振り下ろす。ブオンっと風を切る音と共に大地が一瞬激しく揺れる。件のエレキギターは大理石の床に大穴を開けていた。

 その雄々しい外見に違わぬ強大なパワーを目の当たりにした真姫は、ゴクリと喉を鳴らしながら感嘆した。

 

「これが天宮先輩のペルソナ……」

 

 ペルソナ。

 

 それは誰しもが無意識の中で持っている、もう一つの自分自身。

 その名の通りに素顔を仮面で覆い隠し、古来より民草にとっての強さの象徴たる、神話上に名を残す神や悪魔あるいは英雄達の姿を借りて具現化された存在。

 信仰と精神の融合。謂わば、人の心の力そのもの。困難に抗う意思を示す人格の鎧。

 本来ならば、封じられた闘争本能( アニムス )を有する()()()にのみ与えられた異能力。

 それが今、一人の少年の呼び掛けに応じ、共に戦う守護者となりて姿を現す。

 

「行け!タミュラス!」

 

 穴からエレキギターを引き抜き、肩にからい直した大男、タミュラスは静流の指示に合わせてアブルリーと呼ばれた怪物に肉薄する。しかし、アブルリーもその様子を大人しく見ているだけのはずもない。小さな体躯を活かした素早い動きで逆にタミュラスへと接近。一斉に体当たりを開始した。その内の一体が、なんとか回避しようとする黒衣の奏者の脇腹を正確に捉える。ドンッと鈍い音がした。

 

「ぐっ!」

 

 静流は苦悶の表情を浮かべながら脇腹を抑えた。まるで自分自身が同じ痛いを味わっているかのような反応を見せる。とはいえ、黙って痛みに耐えているだけのつもりはない。少年は己の分身に目配せした。少年のペルソナはなおも脇腹を抉ろうとするアブルリーを左手で鷲掴みすると、無理矢理自身から引き剥がし、床に目掛けて思いっきり投げつける。

 派手な音と共に、アブルリーが大理石の床に沈み込む。予期せぬ反撃を受けたからか、アブルリーはすぐに動ける様子ではない。これを好機と見た静流はタミュラスに右手で握りしめていたエレキギターを高く掲げさせる。

 

「このおっ!」

 

 そのままアブルリー目掛けて、勢いよく振り下ろした。見た目に違わぬ重量がのし掛かる。床ごと叩き潰された異形の存在は黒い塵となって、その肉片を大気中に散らしていく。

 

「まずは1体!」

 

 床の割れ目から等身大エレキギターを引き抜いたタミュラスが、三体に減ったアブルリーを仮面越しに睨みつける。怪物達はさっきとは打って変わって、距離をとりながらこちらの様子を窺っている。仲間が一匹撃破されたために警戒しているであろうことが見てとれた。今のは不意打ち気味に反撃したおかげで難なく撃破できたが、この様子では次はそう簡単にいかないかもしれない。

 静流がそんな判断をした時だった。背後で壁に寄りかかっている真姫が大声で叫んだ。

 

「先輩!そいつらは電撃属性が弱点なんです!タミュラスが使える属性は⁉︎」

 

 静流は真姫のアドバイスにニヤリと笑って応えた。

 

「ありがとう西木野さん!だったら、この勝負はいただきだ!」

 

 背後の真姫に微笑んだ静流は再びアブルリーに視線を戻すと、右手をタミュラスに向かって伸ばした。

 

「タミュラス!電撃魔法( ジオ )発動!」

 

 仮面から覗くタミュラスの双眸がギラリと輝く。同時に、これまで鈍器のように扱っていたエレキギターを本来の使い道である演奏時の構えをとる。そして、弦に指を掛け、勢い良くかき鳴らした。耳を裂きそうな程の甲高いエレクトリックサウンドが広間中に響き渡る。

 その時だ。広間の中央にて突然、青白い光と共に放電現象が発生した。それを見てアブルリーの一体が慌てて逃げの態勢を取り始めるが既に遅い。バチバチと派手な音を鳴らしつつ、巨大に成長した雷が一直線に襲いかかる。自然界に存在する本物の電気とは違う、"心の海"を通じて精神エネルギー( プラーナ )を変容させた擬似的な放電現象だが、秘められた性質は実際の物と何ら変わらない。

 目が眩む程の凄まじい輝きを放ちながら、アブルリーの肉体を高圧電流によって徹底的に焼き焦がす。やがて耐えられなくなったのか、アブルリーは黒こげの体から煙を出して霧散していった。

 

「2体目っ!」

 

 安堵する余裕は無い。半分の数を撃破したところで、敵の動きが変わってしまう。突然残された二体が静流を中心として周囲をグルグルと回り始めた。そして、そのまま少しづつ距離を狭めていく。今度は真正面からではなく、翻弄してじわじわと追い詰める作戦のようだ。

 

「ならもう一度!」

 

 同じ要領で再びタミュラスが弦を弾く。再び広間をこだまする本物そっくりな電子音と共に降り注ぐ電撃は、アブルリーの体を容赦なく撃ち貫いた。先程の個体と同じように、激しく身悶えしながら砕け散っていく。

 

「これで3体目!」

 

 仲間を全て撃破されてしまった最後の個体は戸惑いからか、その場から動こうとしない。このチャンスを逃すわけにはいかないだろう。すぐさま三度目の電撃魔法を指示する。

 だが、

 

「とどめ……っ⁉︎」

 

 エレキギターをかき鳴らすのも三度目に入ろうとした時だった。タミュラスはその動作を直前で止めた。急に動きが悪くなったために、後ろで見ていた真姫は心配のあまり冷や汗を流す。

 

「ちょっと先輩!」

 

「だ、大丈夫!少し目眩がしただけだから!」

 

 心配ないと後輩に手を振りながら、額から伝っている汗を袖で拭った。

 

「くう!実戦で魔法を使うとプラーナの消耗が思った以上に激しいな!こいつはそう何度も連発出来ないや!例の大型のためにもなるべく温存しておかないと……!」

 

 魔法攻撃をキャンセルして、再び白兵戦を指示。再び距離を詰めて背中のエレキギターを鈍器として使用する。が、幾度となくエレキギターを振り回しても、かすりもしない。アブルリーはこちらを嘲笑うかのように、大きな舌を振り子の如く揺らしている。

 

「くっ……」

 

 僅かな隙を見出す度にすかさず薙ぎ払いを行うものの、やはり身軽な動きで上空に逃げられてしまう。そう同じ手は通じないということなのか。理事長からシャドウは人とコミュニケーションを行う知性を持たないと聞いていたが、どうやら本能的に敵の動きを把握する位の学習能力は有しているようだ。

 

「ちょこまかと!」

 

 このエレキギターは鈍器物として見た場合、身の丈程ある巨大さゆえに重量と破壊力は充分ではあるが、取り回しに関しては少々扱いづらいには違いない。大型犬程度のサイズしかない標的相手には正直分が悪いと言えた。しかし、雷を発生させるのもまた静流の精神に大きな負担を掛けてしまう。この先にも強大な敵が待ち受けている以上、そうおいそれと使うわけにはいかない。

 

「だったら……戻れ!タミュラス!」

 

 構えを解いたタミュラスが青い光と化して、静流の肉体に吸収されていく。いや、元々は彼の中に居たのだから還っていくという表現が正しいかもしれない。

 分身を体内に戻した代わりに、手の中にあった日本刀を再度構え直す。切っ先を空中でゆらゆらと揺れながら滞空している最後の一体に向けた。

 

「こいつだけなら……!」

 

 アブルリーがこちらに向かって突進を始めた。同時に床を勢い良く蹴って駆け出す。

 

「はあっ!」

 

 いかに空中を自在に浮遊できようと、加速している途中で起動を変えるのは至難だろう。少年の狙い通りに、二者は正面で肉薄した。

 一気に距離を詰めた静流はそのまま眼前に踏み込み、斜めに刀を振り下ろす。一直線に太刀筋が走る。ブシュッとグロテスクな音と共に深い切り傷を負ったアブルリーは不気味な苦悶の声を漏らす。

 

「こいつで……」

 

 堅実なダメージは与えたが、まだ致命傷には至っていない。ならば、もう一太刀浴びせておくべきだろう。

 だったら袈裟斬りを受けて怯んでいる今が好機。もはや、今のアブルリーに静流の剣撃を回避するような余裕は残されていない。

 天に向かって高く振り上げた日本刀の刃がキラリと白い輝きを放ちながら、風前の灯となった命に容赦なく狙いを定めた。

 

「終わりだ!」

 

 少年の叫びと共に、刀がもう一度振り下ろされる。今度は傷を入れるどころか、綺麗に一刀両断。真っ二つに分かれたアブルリーは既に倒された三体同様、塵と化して消えていくのだった。

 一部始終を眺めているしかなかった真姫は思わず感嘆する。

 

「す、すごい……ここ最近になって使えるようになったばかりとは思えない……」

 

「ふう……戦闘終了っと」

 

 迫っていた全ての脅威を片付けた静流は、安堵のため息を吐くとくるりと後ろを向いた。

 

「どうだった?」

 

「え?」

 

 制服の乱れを直しながら駆け寄ってくる静流を真姫は、唐突に尋ねられたためにすぐには反応できず、キョトンとした惚け顔で迎える。

 

「ど、どうって?」

 

「僕の初陣だよ。百戦錬磨の西木野先生からの評価が気になっちゃってー」

 

 歯を見せて笑う上級生を眺めている内に、真姫は西洋人形のように端正な顔をトマトのように赤くしていく。

 

「だ、誰が百戦錬磨ですか!それに先生だなんて!今は怪我して戦力外になってる私への皮肉や当てこすりにしか聞こえなかったんですけど!」

 

「ごめんごめん。そういうつもりじゃなかったんですけど」

 

「えっと……そ、そうですね……まあ、初めてにしてはなかなか良かったんじゃないですか?ちょっと不慣れでぎこちない動きが目立ってたけど、初めての実戦なんだから充分に及第点ですね。この調子ならすぐに自在に使いこなせるようになると思います」

 

「なるほど。西木野先生からお墨付きを貰っちゃったよ」

 

「だから先生ってのはやめ……」

 

「ほら」

 

 不平不満を訴えようとした矢先に遮られ、今度は突然背中を向けられた。

 

「ほらって?」

 

 静流の意図が理解できず首を傾げる。

 

「僕の背中に乗って」

 

「……うええっ⁉︎せ、背中って!」

 

「急いで園田さん達と合流しなきゃでしょ。君をここに置いてくわけにもいかないし」

 

「うっ……」

 

 一応撃退はしたが、ここではあの怪物達は無尽蔵に湧いて出てくる。またしても襲いかかってくるかもしれない。そうなれば怪我で自由に動けない真姫は奴らの格好の餌食だろう。それくらいは真姫としても自分でわかっている。

 

「しょうがないですね……」

 

 さっきは下着一枚の半裸姿を見せつけられ、今度は背中におんぶされそうになっている。実はサンタの存在を未だに信じている純真少女の真姫にとって、ある意味異能力を使って怪物と戦う以上に刺激的な体験かもしれない。

 それでも羞恥に耐えることを決めた真姫は、渋々といった様子で静流の背中に身を預けた。

 

「乗ったね。それじゃあ、よいしょっと」

 

「ひぃっ!」

 

 ぎゅっ!

 

「わわわ!西木野さん⁉︎」

 

 なるべく直に肌に当らぬようにハイソックスの部分を握ったのだが、その気遣いがあっても初心な少女にとって、男性、それも同世代の少年に触れられるのは刺激が強すぎたようだ。気恥ずかしさと体勢を維持することの間に揺れ、結果少年の首は後ろから両手で思いっきり締め付けられた。

 

「けほっ!けほっ!ちょっと!君、腕に力入れすぎ!」

 

 窒息寸前まで追い込まれているせいで、美少女との触れ合いを楽しむ余裕は無い。あやうく戦いと関係ないところで昇天してしまういそうになったが、真姫が少し力を緩めたおかげでなんとか一命はとりとめる。

 

「し、仕方ないでしょ!パパ以外の男の人の背中に乗るのは初めてなんですから!」

 

「……パパ?」

 

パシンッ!

 

「あいたっ!」

 

 大人びた容姿の真姫にあまり似つかわしくない単語が飛び出したことで静流は疑問符を浮かべるが、その瞬間今度は頭頂部に真姫の手刀が降り注いだ。これ以上は戦闘以外で命が保たないかもしれない。

 

「む、無駄口叩かない!体力温存のためにも黙って走る!」

 

「はいはい」

 

「はいは一回ですよ!」

 

「はーい」

 

 顔を赤くしながら通路の奥を指差す真姫の指示に大人しく従う。が、背中の真姫からは見えなかっために、少年が密かに半笑いなのには気づくことはなかった。




〈愚者・タミュラス〉
 音ノ木坂学院に共学化モデルケースとして転入してきた少年、天宮 静流のメインペルソナ。対応アルカナはFOOL。巨大なエレキギターを背負ったパンクミュージシャン風の容姿を持つ。原典のタミュラスは竪琴の名手だが、音楽に興味の無かった静流の音楽家に対する貧困なイメージと偏見が反映されている模様。
 普段は背負っている等身大ギターを用いた格闘戦と電撃属性の攻撃魔法を主な戦法としている。能力に欠点は無いが、特筆する点も無いバランス重視のステータス。弱点属性は氷結。
力・B
魔・B
耐・B
速・B
運・B

 ギリシャ神話に登場する、神の血を引く吟遊詩人。竪琴の名手として不動の地位と名声を得るも、増長したタミュラスは芸術の女神であるミューズの九姉妹を全て我が物とするため彼女らに歌の勝負を挑む。しかし、結果は敗北。この行為はミューズ達の怒りを買い、タミュラスは音楽に関する才能を全て剥奪されてしまう。




〈女帝・タレイア〉
 音ノ木坂学院1年の西木野 真姫の初期専用ペルソナ。対応アルカナはEMPRESS。詳細は不明だが、一人であらゆる状況に対応可能とのこと。

 ギリシャ神話に登場する、ミューズの女神の一柱。


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17話

「そんな……ここで行き止まりだなんて……」

 

 穂乃果は目の前に立ち塞がる岩山を前にして頭を抱えた。海未と別れてから相当な道を走った後に待っていたのが、まさかこれとは。

 

「生徒会長、どうしますか?岩で道が塞がれてて通れないんですけど……生徒会長?」

 

「どうしたの?ことりちゃん?」

 

 ことりは首を横に振ると、その落胆ぶりが目に見えてわかる程の深いため息を吐いた。

 

「さっきから生徒会長から反応が返ってこなくて……」

 

「え?それ結構まずくない⁉︎」

 

「結構というか、かなり……」

 

 脇目も振らず逃げ続けた二人を絶望の淵に叩き落としたのは、とある広間にて出口を塞ぐ巨大な岩の存在だった。広間そのものは何の仕掛けもないごく普通の部屋であったが、肝心の反対側の出入り口には岩石がこれでもかと言う程積まれてしまっていたのだ。

 おまけにここまで誘導していた絵里を頼ることもままならない。八方塞がりの状況に二人は立ち尽くしかなかった。

 

「……ん?うわ、なんか石が落ちてきた!」

 

「気をつけて穂乃果ちゃん。多分この岩は天井が崩れてきた物なんだよ」

 

 パラパラと頭に掛かった砂埃を払いながら、穂乃果とことりは天井を仰ぎ見た。驚くべきことに、ちょうど真上に巨大な穴を見つけた。今、出口を塞いでいる岩石とほぼ同じサイズで大きく抉れてしまっている。おそらく、ことりの推測は正解に違いない。

 

「何なんだろあれ……どうしたらあんなに大きな穴が出来ちゃうのかな?この部屋老朽化してるって感じでもないし」

 

「今は考えてても仕方ないよ。生徒会長の指示を待ってばかりってわけにもいかないし、それより先に出口が無いか探してみよう?」

 

「うーん……それもそうだね」

 

 どうにも腑に落ちない様子の穂乃果だったが、ことりの意見も正しい。ひとまず穴を開けた存在の正体は頭の片隅に置いて、周囲を歩きながらキョロキョロと眺め始めた。

 

「うわーダメ。抜け穴一つ見当たらないよー」

 

 結局、隅から隅まで岩石の周辺を探し回るも徒労に終わってしまった。一仕事済ませた穂乃果は、近くの丁度いい大きさの石に腰掛ける。年頃の少女らしかぬ豪快な座り方に、ことりもつい笑ってしまっていた。

 

「もー!ことりちゃん!何がおかしいの!」

 

「ううん、そうじゃないよ。ただ、穂乃果ちゃんはこういう時でも相変わらず穂乃果ちゃんらしいんだなーって」

 

「むー、それってまるで私が緊張感の無い底抜け能天気みたいじゃん!」

 

 まるで、というよりそのものなのだが、当の本人だけはどうにも自覚があまり無いのが穂乃果という少女だ。この評価は不服らしく、ヘソを曲げて頬を膨らませた。

 

「えー、でも、それが悪いわけじゃないと思うんだけどなー」

 

「ちょっと!少しは否定してよーっ!」

 

「ごめんごめん」

 

 ことりは舌を出してペロリと笑う。この愛らしい仕草が逆にますます穂乃果の機嫌を損ねてしまった。

 

「もう!ことりちゃんのイジワルッ!」

 

 普段はそこまで穂乃果を弄らないことりにまでからかわれたせいでかなりのご冠なようだ。腕を組んで不満そうに口を尖らせている。

 

「ことりちゃんも海未ちゃんも酷いよ!みんな揃って私のことを馬鹿にし……あっ……」

 

 穂乃果の口から海未の名前が出てきた途端に、ことりの表情が一気に暗くなった。しまった、と慌てて口を抑えている穂乃果は口笛を吹きながら立ち上がった。

 

「そういえば、ことりちゃんさっきは電話いきなり切ってごめんね!実は急に自分で宿題済ませたくなっちゃって!参考書と教科書を取りに行こうって思ったの!まあ、そのせいでこんなことになっちゃったけど……」

 

 そう言って穂乃果はバッグから教科書を取り出した。無理矢理感のある話題逸らしに滲み出る気遣いを感じ取ったことりは、はにかむように微笑んだ。

 

「ありがとう穂乃果ちゃん。でも、無理しなくてもいいよ」

 

「え?いやー、そんなつもりは……」

 

「海未ちゃんならきっと大丈夫だから」

 

 図星を突かれて焦り出した穂乃果の隣に座ったことりは、手慰みに近くの小石を拾って遠くに投げ飛ばした。小石は放物線を描いて別の岩にぶつかり、粉々に砕け散る。

 

「私から見ても、海未ちゃんってすっごく強いからね。心配しなくて良いよ」

 

「う、うん!そうだよね!あの海未ちゃんだもん!どんなのが相手でも絶対負けるはずないよね!」

 

 穂乃果は自分に言い聞かせるように、大げさに頷く。

 

「それにしてもビックリだよー。ことりちゃんも海未ちゃんもここにずいぶん慣れてるみたいだけど、もしかして結構前からあのなんちゃらって怪物達と戦ってたんじゃない?」

 

「まあね。二年に上がる少し前だったから、二ヶ月くらいかな?」

 

 その間、幼馴染二人が自分にだけ秘密にしていたということが癪に触ったのか、またも頬をぷくりと膨らませる。

 

「かなり前じゃん!水臭いよー。その間はずっと秘密にしてたわけでしょ?教えてくれたら絶対応援してたのに」

 

「そういうわけにはいかないよ。海未ちゃんからも他言無用だって言われてたし。それに穂乃果ちゃんも直接目にしなきゃ信じれなかったでしょ?」

 

「あー、うん、それもそうか……」

 

 もし今日体験した内容を家で待っているであろう妹や両親に話したとしても、おそらく信じてはもらえないだろう。そう考えると、彼女達が秘密にしていたのは仕方ない話ではある。

 

「でも、いいなー。私もことりちゃんみたいに、あんな感じでバーっと出してみたいっ!なんかすっごくカッコいいじゃん!あの変な怪物達をあっという間にやっつけちゃうんだもん!」

 

「そうかな?海未ちゃんはともかく、私なんかより穂乃果ちゃんの方がずっとカッコいいと思うけどな」

 

「へ?わ、私が?」

 

 突然の話に穂乃果は戸惑い、自分自身を指差す。

 

「うん、私だけじゃない。海未ちゃんもきっとそう思ってるよ。だって……穂乃果ちゃんは小さい頃からずっと私達のヒーローだもの」

 

「もー!ことりちゃんったら冗談キツいよー!そんわけないって!だって私だよ?海未ちゃんいっつも穂乃果はだらしないって怒ってばかりなのにありえないよ!うん、ありえない!」

 

 気恥ずかしさを押し隠すかのように、穂乃果は慌てて立ち上がり、ことりに手を差し伸べる。

 

「さーて!少し疲れがとれたし、それじゃあそろそろ行こうか!どうせ道が塞がれてるなら、戻って別の道探してみよう!途中で海未ちゃんと合流出来るかもっ!」

 

 ことりは静かに笑いを漏らすと、穂乃果の手を握り返してゆっくり立ち上がった。

 

「そうだね。ここには他に出口も無いみたいだし、穂乃果ちゃんの言う通り、一度前の部屋まで戻って別ルートを……」

 

 ドンッ!!!

 

 爆音が鳴り響くと同時に、天井からパラパラと砂が舞い落ちる。二人は血相を変えて背後に振り向いた。そして、"それ"を目の当たりにした穂乃果は口を抑えて慄く。

 

「あれって……」

 

「こ、これが生徒会長さんの言ってた例の“超大型”⁉︎」

 

 ことりは声を震わせながらも、穂乃果を庇うように前に出る。

 

「な、何あれ……?」

 

 ことりの背中越しに"それ"から目を離せないでいる穂乃果は、思わず後ずさった。今日だけでももはや片手では数え切れない程に驚愕の光景を目にしてきた穂乃果だったが、今度ばかりは心臓が止まりそうになる。

 

 あまりにも巨大な存在だった。

 

 16年の人生の中で、彼女は象より大きい生物をこの目で見たことがない。いるにしても象より巨大な存在と言えば、多くの人が滅多にお目にかかれないであろうクジラくらいのものだろう。だが、それは明らかに象を遥かに上回るサイズを有している。

 しかも、異様なのは大きさだけではない。不気味な仮面の張り付いた漆黒の胴体には、蜘蛛のように多数の脚が生えていて、その巨体を見事なまでに支えていた。脚同様に多数存在する腕はうねうねと忙しなく動いており、まるで"目の前の獲物"を求めているかのようだ。

 先程ことりが追い払った怪物達と似たり寄ったり、いや、それ以上にこの世のものとは思えぬ異形。威圧感からして、おそらく怪物達の親玉か的存在に違いない。

 あまりの醜悪さと、離れていても伝わってくる殺意に、穂乃果は思わず吐き気が込み上げそうになる。そして、恐怖に打ちひしがれているのは穂乃果だけではなかった。

 

「こんな大きいサイズのシャドウ……初めて見た」

 

 この怪物に対抗する力を持っているはずのことりですら膝を震えさせている。穂乃果に見せたあの超人的身体能力と風を操る謎の女性を呼び出せることりですら。

 穂乃果の胸の中に不安が立ち込めた時、その蒼い瞳にあるものが映った。

 

「あーっ!う、海未ちゃん⁉︎見てよことりちゃん!あそこ!海未ちゃんが!」

 

「え……ああっ!」

 

 幾多にも存在する怪物の手の一つに、少女達がよく知る人物が握られてる。さっき通路で一人残った幼馴染の海未が、ぐったりとしたまま怪物の手中に囚われていたのだ。

 

「おーい海未ちゃーん!目を覚まして海未ちゃーん!」

 

「海未ちゃん!お願いしっかりして!」

 

 少女達の叫びの甲斐なく、海未はだらんと首を横に傾けたままだ。

 

「ダメ!気を失ってるみたい!」

 

 ことりは親友の絶体絶命の危機に冷や汗が止まらない。さらに言えば、危機に瀕しているには海未だけではない。次の標的である自分達もだ。

 

「生徒会長!ど、どうすれば?」

 

 ことりはすぐさま絵里の指示を仰ごうと耳を澄ませた。しかし、いくら待っても何も返ってこない。

 

「生徒会長の声が全然聞こえない……」

 

「そんな……」

 

 正直言って絵里に苦手意識を抱いている二人だが、こんな状況ではあの毅然さはむしろありがたかっただろう。彼女の助力を得られないことがここまで心細いとは思ってもみなかった。

 

「そうだ!ことりちゃん!さっきの女の人を使ってあいつをやっつけれないの⁉︎あの人ってことりちゃんが呼んだんだよね⁉︎」

 

「一応そうだけど……」

 

「それじゃあさ!さっと呼び出して、パーっとやっつけてよ!ことりちゃんなら出来るんでしょ⁉︎」

 

「……」

 

 ことりはすぐには頷かなかった。迷っている顔で下を向いてしまっていた。しかし、その時間も長くはなかった。今の瞬間にもあの巨大な敵が迫りつあるのだから。しばしの間深呼吸したことりは、やがて覚悟を決めた表情で穂乃果へ目配せする。

 

「……穂乃果ちゃんはそこの岩陰に隠れてて!」

 

 この状況では穂乃果は足手まといでしかない。ことりに指示された通りに、足を震わせながらも大きな岩陰へと移動する。穂乃果がひとまず安全圏内に隠れたのを確認したことりは太もものホルスターから黒いリボルバータイプの拳銃を取り出し、額に突きつける。

 

「行きます!ペルソナーッ!」

 

 引き金が引かれると同時に青白い光がことりの周囲に拡散。やがて、それは収束し、女性の姿を形取る。

 

「さっきと同じ……やっぱりことりちゃんが!」

 

 銀色の兜を被ったメイド服の女性が怪物の前に立ちはだかる。女性も穂乃果達よりかなり巨体ではあるが、それでも怪物とは明確なまでに体格差がある。おかげで不安はどうにも消えなかった。

 

「お願い!クレオ!!!海未ちゃんだけは外してっ!」

 

 ことりの叫びに合わせて、女性の兜の装飾である金属の翼が肥大化する。そして、空に飛び立つ鳥の如く優雅に羽ばたいた。

 

「〈ガル〉!発動!」

 

 そこから生まれるは一陣の疾風。かまいたちの如き猛風と化したそれは怪物の巨体を全て覆い尽くす。

 小さな竜巻は丁寧にも海未だけは避けつつも、身動きのとれない怪物を遠慮なく切り刻んでいった。

 

「やったあ!」

 

 無機質な仮面から表情は窺えないが、身を震わせながら風に耐えているだけだ。穂乃果は勝利を確信して拳を握り締める。

 しかし、

 

「だ、ダメ!止まらない!」

 

 風の中で体勢を立て直した怪物が突如腕を豪快に振り回し、ことりの風をあっさり相殺してしまう。

 腕を振るうことで風を消滅させた怪物は、まるで何事も無かったかのように距離を詰め始めた。先程は"影"達を全て八つ裂きにして葬ったはず風の刃も、今度は全くの無力に終わったのだ。しかも、それだけでは終わらない。風を完全に消し去った上で、さらに反撃へと移った。

 怪物の手の内、二本は巨大な黄金の盃を握りしめている。黒い腕をまるで触手のように伸ばし、その盃を女性目掛けて叩きつけてきた。

 

バキンッ!

 

 仮面の女性は殴打された途端、ガラスが砕け散ったかのような音と共にバラバラに引き裂かれ、元の粒子に戻っていく。同時にことりは目を見開き、苦悶の声を漏らす。

 

「くっ……」

 

「ことりちゃん!どうしたの⁉︎」

 

 ことりの様子がおかしい。ことりはまだ何もされていないはずだ。だというのに、女性が破壊された途端、まるで自分が怪我を負ったかのように苦しみだした。

 

「ほ、穂乃果ちゃんは来ちゃダメっ!」

 

 不安のあまりに岩陰から飛び出そうとしている穂乃果に向かってことりが吠える。普段は穏和な彼女らしかぬ怒声に思わず足を止めた。ことりは胸を抑えつつも、強気の表情を崩そうとしない。

 

「大丈夫!心配しないで!この位なら平気だから!」

 

 そう言って再び拳銃を額に突きつけて引き金を引く。

 

「もう一度!お願いっ!クレオ!」

 

 ガラスを割ったような破砕音と共に、ことりがクレオと呼ぶメイド服の女性が再び怪物の前に立ちはだかる。

 

「〈ガル〉!発動!」

 

 ことりの風が再び怪物を捕捉した。そのまま一気に全体を緑風が飲み込む。その勢いは今までの比ではない。ことりがしかし、今度は歩みを止めることすら叶わなかった。まるで羽虫を蹴散らすかのように、腕で容易く風を払いのけてしまったのだ。

 

「そんな……」

 

 自分の力が一切通用していないことにショックを受けていることりが反応するよりも早く、風を消し去った腕がそのまま伸びて女性の体を捕らえた。逃げ出す間も無く、グシャリと握りつぶされてしまう。

 

「くぅっ!」

 

「ことりちゃん⁉︎」

 

 苦しそうに胸を抑えつつも、それでも膝は着かぬと耐えることり。息は荒れ、目は血走っている。もしも普段から彼女を知っている者が見れば誰もが、本当にあれがことりなのかと疑わずにいられないだろう。

 

「ま、まだまだぁっ!!!」

 

「ことりちゃん無理しないで!」

 

 必死な形相のことりに危機感を覚えた穂乃果は止めようと叫ぶが、本人には届くことはなかった。

 

「穂乃果ちゃんと海未ちゃんは……私が守るんだああああああっ!!!!」

 

 何かに取り憑かれたかのように三度銃口を己の額に突きつける。

 

「今度こそ!お願い!クレ……」

 

 だが、今度は呼び出す前に少女へと魔の手が忍び寄る。黒い腕が鞭のようにしなりながら伸びてきたのだ。ことりは反応するよりも先に打ちつけられた。不意を突かれてしまっては、少女の華奢な体ではとてもではないが受け止めきれない。

 怪物の狙い通りなのか、ことりは手から拳銃を弾き飛ばされた上で、小さな悲鳴を漏らしながら宙を舞った。

 

「きゃっ!」

 

「こ、ことりちゃん⁉︎」

 

 慌てて倒れたことりの元へ駆け寄ろうとする穂乃果。だが、それが耳に飛び込んできた途端に足を止めた。

 

「くっ……」

 

 虫の羽音のようにか細い少女の呻き声。怪物の方から聞こえてくる。穂乃果が目を向けると、意識は戻っていないながらも海未が歯を食いしばって痛みに耐えているのが見えた。どうやら海未を拘束する指に相当な力が込められているようだ。ことりを軽く吹き飛ばす腕力を有しているなら、華奢な海未の身体を握りつぶすのは怪物にとってわけないに違いない。

 

「ど、どうしよ……」

 

 穂乃果は逡巡していた。大切な友を助けたいが、こんな怪物に自分が対抗できるわけがないという恐怖が少女を支配する。武道に秀でるあの海未ですらあっさり捕まったのだ。何をやっても中途半端に終わってばかりな劣等生の自分にどうにかなるはずがない。

 そう、だから仕方ない。

 

『ほら、やっぱり。今度は私とことりを見捨てて逃げるんですね』

 

 穂乃果の頭の中で、幻影の海未が愉快そうに顔を歪めて嘲笑する。家を出る前には今度は否定する気力は湧いてこなかった。

 

「そうだよ。海未ちゃんの言う通り……穂乃果は何をやっても駄目なんだよ。二人を助けることだけじゃない……廃校を止めるのも……きっと最初から無理だったんだ……」

 

 なけなしのちっぽけなプライドを粉々にされた穂乃果は、全て諦めたことを認めるかのように瞳から光が消えていた。ペタンと床に尻餅をついて、人知れず静かに懺悔を繰り返す。

 

「はは……やっぱり穂乃果って馬鹿だったんだなあ……なんでそんな簡単なことにも気づかなかったんだろ……」

 

 逃げるしかない。

 助けようとしたって無駄に終わるに決まってる。

 どうせ二人と同じような目にあって殺されて……

 

「うう……」

 

「海未ちゃん……」

 

 俯き気味だった穂乃果が少しだけ顔を上げた。その双眸からはポロポロと涙が溢れている。おかげで視界に映る海未の姿がボヤけてしまっていた。

 

「い……た……い……」

 

 蜃気楼のように揺らめく海未が苦しみを訴えている。

 

「無理だよ……無理なんだよ!穂乃果は海未ちゃんとことりちゃんがいてくれなきゃ何もできないの!助けるなんて絶対に無理だよ!海未ちゃんだってそう思ってるんでしょ!穂乃果は……駄目な子だって!」

 

 穂乃果は頭を抱えて首を横に振った。それでも海未の苦悶の声は絶えず漏れてくる。

 

「いたい……よ……」

 

「海未ちゃん!ごめん……ごめん……!」

 

 泣いてるのは穂乃果だけではなかった。苦しみに耐えている海未も涙を流していた。あの常日頃気丈な振る舞いを心掛けている海未が、だ。穂乃果は目を背ける。罪悪感に苛まされ、現実から目を逸らそうとしていた。

 だが、

 

「た……て……の……」

 

「え?」

 

 海未から目を逸らし続けていた穂乃果は慌てて顔を上げた。

 

「たす……けて……ほの……か……」

 

「……っ!」

 

 海未がおそらく無意識ながら穂乃果の名を呼んだ時、穂乃果の中で何かが弾けた。

 

「海未ちゃん……海未ちゃんは穂乃果が助けてくれるって信じてくれてるんだね……」

 

 幼馴染達と過ごした幼少時代の記憶が蘇ると共に、かつて穂乃果は自分がどのような少女であったかを見つめ直していた。我が身可愛さに、親友を見捨てるような人間であったか?違う。あの頃の穂乃果は弱い者に我が身を省みず手を差し伸べる海未達にとって勇者だったのだ。

 立ち上がった穂乃果は目元の涙を袖で拭う。その瞳には再び強い輝きが灯っていた。

 

「ごめんね海未ちゃん!かっこ悪いとこ見せちゃって!もう少しだけ我慢して!」

 

 さっきは自分よりもか弱い少女だと思っていたことりが身を呈してまで海未と自分を救おうとしていた。なら自分はどうだ?海未とことりに守られ、無力さを言い訳に岩陰でこそこそと隠れてるだけで何もしていない。そんな自分に海未は助けを求めた。いつも凛としてて、もはや誰よりも強くなったとばかり思っていたあの海未が……まるでかつて物陰に隠れていた内気な幼少期のように穂乃果に助けを求めた。

 なのに無力だから手をこまねいてただ見てるだけ?何もせずに終わるのを待つだけ?違う!こんなの私なんかじゃない!

 できるか、できないかなんて……無駄に考えるのはやめた!

 

「こんのおおおおお!!!よくもことりちゃんと海未ちゃんをおおおおおおおお!!!!」

 

 意を決した穂乃果がことりが持っていた槍を拾って駆け出す。ことりと海未のヒーローが帰ってきた。

 

「海未ちゃんを……海未ちゃんを返せえええええええええっ!!!!!!」

 

 怪物に向かっていく最中、穂乃果と同じ大きさを誇る腕が触手のように伸び、ハンマーのように振り下ろされる。穂乃果は直撃を受ける寸でのところで回避した。床に大穴が空いた。一歩間違えれば穂乃果も同じ目に合うだろう。だが、彼女はその程度ではひるまなかった。穴の空いた後ろには一切目もくれず、海未を縛る腕の元へと一直線に進んでいった。

 覚悟を決めた穂乃果の爆発力は、幼馴染達が認める程の凄まじさだ。勉強は自他共に認めるレベルで苦手だし、運動も自慢できる程得意なわけじゃない。おまけに、ことりが見せたような特別な力を有しているわけでもない。そんな彼女がたった一本の槍を握りしめて怪物の懐に肉薄していく。

 

「大丈夫!あの水たまりに比べたらこんなの屁でもないよっ!」

 

 穂乃果は怪物の猛攻を躱しながら、幼少期に飛び越えた巨大な水たまりを思い出していた。無理も通せばやがて道理になるという穂乃果のポリシーのルーツ。あの頃よりも遥かに成長した今なら、このくらいなんとでもなる。

 数々の妨害をかい潜り、とうとう怪物の懐へと到達した。近づけば近づく程、怪物の巨大さが改めてわかる。しかし、穂乃果は畏怖しつつも決して止まりはしない。

 

「ふんだ!あの木に比べたら小さい小さいっ!」

 

 蘇る、かつて幼馴染達の反対を押し切って登った公園の木の記憶。今思えば何の変哲も無い平凡な木のはずだったが、少なくともあの頃の穂乃果にとっては空へと続くバベルの塔のように巨大な存在だったのだ。あれ比べたら目の前の障害など遥かに矮小でしかない。だから登るなどわけないはず!

 どれも根拠皆無の理屈であったが、穂乃果に与えた力は凄まじかった。勢いを緩めず、一気に怪物の頭上に向けて全力で跳躍する。とうとう海未の元へと辿り着いたのだ。

 

「おっしゃあ!!海未ちゃん!今助けるからねっ!」

 

 見事背中に乗ることに成功した穂乃果は海未を拘束している腕の根元を睨みつける。致命傷を与えれずとも、せめて痛みで拘束を弱めさせれば……

 怪物の体が激しく揺れる。背中の異物を振り払おうとしているのだろう。

 

「ふんっ!ふんっ!なんぞこれしき!」

 

 穂乃果はしがみついて必死に耐える。しかし、弾き出されるのも時間の問題。すぐにでも次の行動に移らなければならない。

 

「海未ちゃんを……離せえええええええええええええ!!!!!」

 

 覚悟を決めた穂乃果は激しい揺れの中でも集中することによってなんとか立ち上がれた。やれる!そう確信した穂乃果は胴体部分に部分に狙いを定め、

 

「おりゃあああああああああああああああああ!!!!!!!!!!」

 

 そのまま一気に槍の穂先を怪物の体に突き立てた。

 

パキンッ

 

「へ?」

 

 急にテンションが下がった穂乃果の口から思わず変な声が出てしまった。穂乃果は怪物と槍を幾度も交互に眺めている。槍の先は見事にボッキリと折れて無くなってしまっていた。

 槍と共に、穂乃果の闘争心はへし折られた。

 

「う、嘘……折れちゃ……」

 

ドンッ!

 

 全部言いきるまえに、黒い豪腕の内の一本が穂乃果を薙ぎ払う。

 

「へぶしっ!」

 

ガンッ!

 

 勢いよく吹き飛ばされた少女の体は岩壁へと容赦なく叩きつけられた。

 

「うう……」

 

 無様に地面を転がった穂乃果の目からは一筋の雫が滴り落ちている。全身を襲う痛みもあるが、それ以上に自分の無力さと友を救えなかった後悔で胸がいっぱいになっている。痛みを我慢してなんとか立ち上がろうとするが、力が全く入らない。

 

「くあっ!うううっ!」

 

 怪物が力を込めているせいか、海未はより一層苦しみだしていた。

 

「海未……ちゃん……」

 

 穂乃果は涙目で海未に向けて震える手を伸ばす。無論届かない。手も声も。

 

「か……は……」

 

 やがて海未からは苦痛を訴える呻き声すら聞こえなくなっていた。もう彼女も限界が近づいているのだろう。そんな中でも、怪物は地面に伏したままのことりと穂乃果にゆっくり迫っていく。海未の次には自分達が標的になるはずだ。そうなれば死ぬのは自分達の番。

 だが、今はそんなことはどうでも良かった。今ここで失われようとしている海未の命に比べれば。

 

「そんな……い、嫌だよ……」

 

 穂乃果は嗚咽を漏らす。人生の半分以上を共に過ごした親友の命の灯火が消えようとしている。目の前で。

 

「誰か……」

 

 穂乃果は人生の中で最も祈りを捧げた。もしも本当にこの世界に神様がいるのなら、彼女を守って下さい。いや、いっそ神様じゃなくてもいい。穢らわしい悪魔でもいい。神の尖兵たる天使であろうが、闇に潜む堕天使でもいい。もし、海未を救うために代償が必要なのだったら、今後我が身と引き返しても構わない。

 だから、

 

「誰か海未ちゃんを助けてええええええええ!!!!!!!!」

 

 大理石の広間を少女の悲痛な叫びがこだました。

 

「はああああ!!!!」

 

ピシィンッ!

 

 鋭い金属音が駆け抜ける。

 次の瞬間、海未を拘束していた巨大な腕は胴体から離れ、ビタンビタンとのたうちまわった後、霧のように蒸発してしまった。束縛から解放された海未もそのまま床を転がっていく。

 

「今だ!今すぐ彼女を!」

 

「え……?え……?」

 

 若い男、少年の声だ。一瞬何が起きたか理解できずにあやうく気が動転しそうになるも、穂乃果は指示された通りに満身創痍の肉体に鞭を打ってすぐさま床に転がった海未の元に駆け寄る。

 

「海未ちゃん!海未ちゃんしっかり!」

 

 海未の容態を見てなんとか安堵した。少々顔色は悪いものの、目に見える致命傷は無いし、呼吸もちゃんとしている。

 

「ふう……良かった。ギリギリセーフ……ってわけでもないな。みんなボロボロみたいだし」

 

 海未を救い出した人影が額の汗を拭き取る。その姿は紛れもなく音ノ木坂学院の制服。それも百年の歴史の中でまだ誕生したばかりの男子用のズボンとの一式。心当たりのある人物は一人しかなかった。

 

「あ、天宮……君?」

 

「やっほー、呼ばれたみたいだから助けに来たよ」

 

 少年、天宮 静流は教室での朝の挨拶となんら変わらない柔らかい笑顔を向けた。まるでアイドルがステージからファンに向けたリップサービスの如く手を振っている。だが、その右手には物騒にも日本刀が握りしめられていた。

 

「な、なんでここに天宮君が⁉︎」

 

「僕だけじゃないよ、一応ね」

 

 静流が目配せした先には、足を布で巻いた赤毛の少女が床に座り込んでいた。

 

「はは……」

 

 赤毛の少女、真姫は気まずそうに手を振った。

 

「昼間のピアノの子まで⁉︎どうして⁉︎」

 

「説明は後。とりあえず二人を安全な所まで移しておいてよ。手伝ってあげたいのは山々なんだけど、どうやらそんな余裕は無さげだし」

 

 そう言って静流は腕を失った怪物に再び目を向ける。驚く光景がそこにあった。今さっき斬り裂いたばかりの切断面から、新たな腕が生え始めたのだ。まるでトカゲのように。だが、スピードは現実の生物の比ではなかった。最初から傷など負っていなかったかのように、あっという間に元通りの姿に戻ってしまう。

 

「うわっ!あっさり再生しやがった……ったく、こいつナメック星人か何かなの?」

 

 軽口を叩いているように聞こえるが、額からは冷や汗を垂らしている。その表情に余裕はあまり感じられない。

 

「気をつけて!さっきことりちゃんがそいつに!」

 

「南さんが?」

 

 前方に顔を向けたまま、ほんの一瞬だけ視線を変えた。少年の視界に気を失ったことりが映る。少女の傷つき倒れた姿を目にしたためか、不愉快そうに眉間にしわを寄せた。

 

「彼女達の敵討ちだ。行け!タミュラス!!!」

 

「そ、その銃って!もしかして……」

 

 ことりが例の女性を呼び出す際に使っていた物と同じ形。少年は穂乃果の疑問に答えるよりも先に、銃口を自分の側頭部に突きつけながら引き金を引いた。

 

バンッ!

 

 ことりと同様に青白い光が溢れたかと思うと、一瞬にして収束し、人の姿を形取る。人型ながら、通常の人間を遥かに超える巨体。カラスを彷彿させる黒衣。そして、表情を覆い隠す銀仮面が鈍く光る。

 

「ええっ⁉︎天宮君もその変な人を出せるの⁉︎」

 

 まだ知り合ったばかりのクラスメートまでもが幼馴染と同じ芸当を有していることに穂乃果が驚愕する中、黒衣の男性はギターを演奏する際のスタイルをとった。

 

「一気にたたみかけろタミュラス!<ジオ>発動!」

 

 仮面の男は少年の指示に合わせて、背中のギターのストリングスを盛大にかき鳴らした。轟音と共に電撃がレーザーのように光速で伸びて、怪物の巨体を一気に貫く。しかし、その肉体を焼き尽くすどころか、何事も無いかのように静流の元へと迫り続ける。ことりが敗れた時と同じ状況だ。

 

「くっ……こいつ、電撃属性が通用しないのか……」

 

 しかし、風を発生させるしか攻撃手段を持たないことりとは違い、少年にはまだ手は残されている。

 

「だったら……叩き割ってやれ!」

 

 今度はギターを持ち替えて、胴体に目掛けて斧の要領で一気に振り下ろす。ギターのボディ部分を模した鈍器が怪物の巨体に叩きつけられた。

 

「この!このお!」

 

 グチャッグチャッ

 

 幾度も幾度も、振り上げてはハンマーのように打ち込む。肉が潰れるグロテスクな音があたり一帯を響き渡る。だが、

 

「全然効いてないな。嘘だろう……」

 

 驚愕を隠せない静流は止まらない冷や汗を拭った。

 穂乃果が槍を突き立てた時とは違って、タミュラスのギターは確実に怪物に肉体をすり潰している。だが、その度に発生した傷はあっという間に癒えてしまう。とてもではないが、ダメージを与えている気がしない。まるで粘土に対して傷を与えているかのような徒労感に満ちていた。

 

「くっ!颯爽と現れたはずがこれか!マジで格好つかないぞ!」

 

 考え無しでは消耗するだけだと判断した静流は自分の分身を体内に引っ込めさせる。

 

「万事休す。せめてみんなだけでも逃げさせれば……」

 

 その結末はベストではないが、このまま何もできずに全滅するよりは遥かにマシなはず。この状況をなんとか乗り切るための打開策を脳内で思案する。そんな中で小さな悲鳴が少年の耳に横から飛び込んできた。

 

「う、海未ちゃん⁉︎」

 

 海未を介抱していた穂乃果は素っ頓狂な声をあげてしまった。今の今まで意識を失っていた海未が突然身を起こしたせいだ。全身擦り傷だらけで血も流れている海未は、驚く穂乃果を尻目にゆっくりと起き上がっていく。

 

「……許さない」

 

 立ち上がった海未は、汗で顔にべったりと張り付いた髪に一切構うことなく、修羅の如き形相で怪物を睨みつけた。

 

「……穂乃果を傷つける奴は……私が許さないっ!!!」



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18話

P5の真ちゃんが性格からチーム内の立ち位置まで絵里そっくりで驚いてます。ラブライブ!とペルソナってキャラ造形似てると感じてるのですが、あそこまで既視感を覚えるとは。どちらの作品もアニメキャラっぽくない等身大キャラクター像が魅力ですよね。


「海未ちゃん!駄目だよ!いくらなんでもその怪我じゃ……」

 

 命に別状は無かったとはいえ、全身を擦り傷だらけにしている上に肩で息をしているような容態では無茶も良いところだろう。だが、海未は穂乃果の忠告には耳を傾けず、颯爽と駆け出した。

 怪我をしていても、疲弊はしていても大穴を飛び越える跳躍力は健在。床に転がる岩をかの義経の如く次々と飛び移っていく。静流と格闘を続ける標的との距離はすぐに僅かとなった。

 

「海未ちゃん危ない!」

 

 敵も黙って待っているはずがない。多数の腕の一本がまっすぐ、次の岩に向けて飛んだばかりの海未を捉える。今の海未の体は宙を泳いでいる状態で、とてもではないがすぐに回避行動はとれない。しかし、海未は焦ることなく、太もものホルスターから拳銃を引き抜き、流れるような動作で自身の側頭部に突き付けた。

 

「ペルソナッ!」

 

ガキンッ!

 

 引き金を引いた海未の全身から青い炎が広がる。

 

<妾はポリミューニア……>

 

 拡散していた青白い粒子が一箇所に収束し、炎に包まれながら人の姿を形取る。やがて明確になっていったそれは長身の女性だった。背中に流れる黒髪をなびかせながら、海未の守護神が現界しする。

 

<妾はそなた……そなたは妾……>

 

 纏うは青を基調にした男性向けの礼装。そして、腰には一振りの長刀。背筋を伸ばして意志の強さを見せつけながらも、女性らしく黒の長髪を優雅になびかせる。まさに戦場へと馳せ参じた男装の麗人と呼ぶに相応しい佇まいだ。

 

<そなたとそなたの友を護るが妾の役目。我が半身に仇なす痴れ者よ。妾の剣で一片残さずその身を灰燼に帰してくれようぞ!>

 

 女性は腰から長刀を引き抜き、指揮棒を操るコンダクターの如く軽やかに振るう。一瞬にして幾多の太刀筋が、刃に反射する光を伴って走る。海未の眼前まで迫っていたはずの巨大な腕は、容易くただの肉片へと切り刻まれてしまっていた。

 

チンッ

 

 別の大岩へと華麗に着地した海未はそれに合わせ、海未がポリミューニアと呼んだ女性が刀を静かに鞘へ収める。鍔と鞘が当たった際の軽い金属音が鳴ると同時に、黒い肉片の数々は直ちに霧のように霧散していった。

 一仕事終えた海未はふうと一息漏らす。件の女性も海未の背後に優雅に降り立ち、青い光を放ちながら黒髪をはためかせていた。

 その鮮やかな居合斬りはまさに神速。戦場においても高貴な振る舞いを失わぬ華麗な佇まいは、女神を名乗るに相応しい。

 

「やっぱり海未ちゃんも……」

 

 海未の背後で構え続けている女性を見て、穂乃果は感嘆した。姿形は別物だが、ことり達が呼び出していた存在と同類だと穂乃果は察している。

 

「ポリミューニア!切り刻め!!!」

 

 海未がそう叫んだ瞬間、女性の姿が消えた。

 

シュパンッ!

 

 鋭い金属音と共に、怪物の腕の内の三本が弾け飛んだ。ボトボトと鈍い音を鳴らして、醜悪な黒腕がのたうち回るように地面を転がる。腕を失い、怪物は苦しみ悶える。そんな様子を海未は冷たい目で見下ろしながら、絹のように艶やかな黒髪を掻き上げるのだった。

 再び女性が姿を現わす。たった今獲物を切り捨てたであろう抜き身の長刀がキラリと輝く。

 

「えっ?えっ?何?いったい何が起きたの⁉︎」

 

 穂乃果は緊迫した状況でありながら、間抜けな声を漏らしてしまった。率直に言って、彼女の目には何も見えなかった。気がついた瞬間には、怪物の腕が複数同時にバラバラに切り刻まれていたのだ。そして、驚いているのは穂乃果だけではないらしい。

 

 「なんて早さだ……僕の目も全く追いつけなかった……」

 

 その鮮やかな一連の動きに、離れた位置で別の腕と格闘している静流も目を丸くしてしまっている。だが、当の海未の表情は浮かないままだ。致命傷を与えたはずが、切断面からすぐさま新たな腕が生えてしまってはそうなるのも仕方ないが。

 

「やはりすぐに再生されてしまう……」

 

 舌打ち混じりに、不愉快そうに呟く海未。地団駄を踏むまではいかなくとも、その顔には焦りが見える。しかし、その間にも怪物は再生した腕を海未目掛けて伸ばしていく。

 

「ポリミューニア!氷結魔法( ブフ )!発動!」

 

 五指が海未へと到達するよりも早く、少女は叫ぶ。海未の怒声に呼応するかのように、男装の麗人は目を覆い隠すクリアバイザーから紅い瞳を一瞬光らせた後、床に向かって勢いよく拳を叩きつけた。

 

「凍れえええええええええええっ!!!!!!!」

 

 腕が海未へと届く前に無数の氷塊が空中に出現。磁石に吸い寄せられるかのように腕に降り注がれる。氷塊の大雨は衝突する毎に固着され、やがて一個の巨大な氷柱と化していった。その中に閉じ込められているのは、本来なら海未を捕まえるはずだった怪物の腕だ。獲物である海未によって逆に氷の中に囚われてしまった腕は、動かすことすらままならない。

 

「おおー!う、海未ちゃんすごいっ!」

 

「いえ、これだけでは駄目です!」

 

 氷漬けにされたことでしばらく動きを止めていたが、それも長くは続かなかった。自力で張り付いた氷を全て砕いて振り払ってしまう。拘束を脱した腕は相変わらず海未へと矛先を向けていた。

 慌てて背後に下がったおかげで足場代わりの岩を破壊されるだけで済んだ。危うく再度囚われの身になる事態は回避されたようだ。海未は額に流れる汗を手の甲で拭いた。

 

「くっ……やっぱり氷結属性の魔法が効かない……」

 

 ダメージが通るなら苦労しない。そうでなければ、一度はあの怪物に敗北を喫して囚われの身になってしまうような醜態は晒さなかったはずだ。

 

「効かない……というより決定的なダメージにならないって感じかな」

 

 忌々しげに怪物を睨む海未の隣の大岩に、あちこちに散らばった岩を飛び越えてきた静流が降り立った。

 

「あー……悪いニュースがあるんだけど、一応聞いておく?」

 

「正直言って今の私はあまり余裕が無いので、手短にお願いします」

 

 一切表情を変えない海未に少年は苦笑いしながらも、真面目な顔を作り直して続けた。

 

「実は僕のタミュラスが使う電撃属性魔法もダメージがろくに通らなかったんだ。物理攻撃も効果が薄いようだし、かなりの難敵だね」

 

 なるほど、と海未は納得しながらも不機嫌そうに静流から顔を背ける。その視線は離れた位置で穂乃果が介抱することりに向いていた。幼馴染達も自分もかなり傷ついている。この戦いにあまり時間を費やしたくはないというのが海未の本音だ。

 

「あそこでことりが倒れているということは、クレオの疾風属性も駄目だったわけですね。つまり……」

 

「ああ、あいつに通用するのはおそらく火炎属性の魔法攻撃だけだ」

 

 ことりは嵐の如き『風』を引き起こした。静流は大気を揺らす程の『雷』を放った。そして、海未は一瞬であらゆる物を凍てつかせる『氷』を呼び寄せた。どれも本来威力自体は申し分なかったはず。それでも、標的の"耐性"の前に無力化されてしまった。

 ならばダメージソースとなりえるであろう属性と言えば、彼らが知る限り、"特殊な三種"を除けば全てを焼き尽くす『炎』しか考えられない。だが、

 

「ですが、火炎を操れるのは今の所、副会長のウラーニアだけですよ。私達ではどうするのこともできません」

 

 静流はわかってる、と静かにため息を漏らした。

 

「つまり僕らには、ひとまず全力で逃げるか、それとも先輩達が救援に来てくれるのを祈るかの二択しか残されてないわけだ」

 

 後者はおそらく絶望的だろう。一番近い通り道は大岩で塞がれ、索敵をこの怪物に妨害されている。そんな中で絵里達が迷わず駆けつけてくれる保証は何処にも無い。だったら前者を選択するのが当然というものだろう。問題はこの敵の追跡能力は想像を絶するしつこさということだ。

 怪我人が複数いるというのに、彼女を抱えながら逃げ切るのは至難の技に違いない。

 

「というわけで、あの二人と西木野さんを連れて遠くまで逃げてね。よろしく!」

 

 まるでピクニックにでも行くかのような軽い調子で語る静流に対して、海未は血相を変えて首を横に振った。そんなことは決して認めないと。

 

「駄目です!さっきは私が囮になったのにすぐさま二人が追いつかれてしまったのですよ!あの追跡力を省みるに、無闇に一人だけ残るなんて勇敢を通り越して無謀です!危険すぎます!」

 

 その恐ろしさは一度は囚われの身となった海未こそ熟知している。ただでさえ有効な攻撃手段を持っていないのに、やみくもに立ち向かったところで防戦一方になるのがオチだろう。

 

「それに、もしどうしても誰かが囮になるのなら私がやります!男性のあなたがいた方が怪我していることり達を運びやすいはずですから!」

 

「でも、今の君だととてもじゃないけど、長くは戦えないでしょ」

 

 海未は図星を突かれたのか、胸を抑えながら一瞬目を泳がせた。別にこの少年でなくとも、全身擦り傷だらけな上に肩で息をするありさまの海未を見ていれば、誰でも察するに違いない。狼狽える海未の隙を逃さず、静流はそれにさ、と続けた。

 

「だいぶお疲れみたいだけど、ペルソナを召喚できるのは、後二回程度が限界じゃないかな?それじゃあ時間稼ぎにもならないのに囮役なんて無理だね」

 

 何か反論しようと口を開きかける海未だが、その前に悔しそうに歯を食いしばりながら俯いてしまう。

 

「……ええ。一度捕まる前に精神力を殆ど使い切っちまって……」

 

 渋々といった様子で海未が頭を下げた。しかし、すぐにブンブンと首を勢いよく横に振る。一瞬揺らぎが見えていた瞳からも迷いが消えた。

 

「いえ、やはり駄目です!ここは私が……」

 

ガンッ!ガンッ!

 

 地面が揺れ、何かが砕かれる轟音が響く。二人は慌てて前に向き直った。怪物が腕を伸ばし、手に持っている杯を反対側の出口情報の天井に叩きつけていたのだ。その光景に二人が唖然としている内にも、幾度も殴打された天井のヒビは目に見える程大きな綻びとなり、やがて崩壊を始めた。ガラガラと派手な音を立てて天井の破片が散らばっていく。

 いくつもの大岩は出入り口を塞がれてしまった。逃げるためのルートはたった今失われたわけである。

 

「きゃっ!ちょ、ちょっと危ないじゃないのよ!」

 

 出入り口付近で座り込んでいた真姫が拳を振り上げて怒鳴った。あと少し落下位置がズレていたならば岩の直撃を受けていたはずだ。

 

「ここの天井をぶっ壊したのはこいつだったのか。これで逃げ場は無くなった。もう戦ってあいつを倒すしか道は残されてないってわけだ!」

 

「くっ!」

 

 心なしか怪物の仮面が愉快そうに笑っているようにも思える。もはや覚悟を決めるしかないのか。苦い顏で海未が弓を手に、一歩前に出ようとした時だった。怪物が握りしめる杯が黒い輝きを放ち始めた。同時に、周囲の床も半分ほど黒い煙をユラユラと立ち昇らせる。

 

「園田さん!下がって!」

 

 海未はすぐにバックステップで乗っていた岩から距離を取る。異変は海未が離れるとほぼ同時に起きた。

 

「ゆ、床が⁉︎」

 

 今の今まで海未がいた場所が丸々消滅した。まるで別に部屋で見て大穴のように、底の見えない暗闇の世界が突如誕生したのだ。怪物に隠されていた恐るべき力に、海未は冷や汗を垂らした。あと一歩遅ければ、海未も地面を失ったために落下していく岩と運命を共にしていただろう。

 

「ふーん、どうやらデスマッチをお望みみたいだね」

 

 深淵の中へと吸い込まれていく岩を呆然と見つめずにいられない静流達。戦える範囲が狭まったせいで、逃げ回る余裕すら無くなった。

 既にしのごの言わずに戦う以外の選択肢しか残っていない。生き残るには目の前の強敵を倒すしかない。ある意味シンプルでわかりやすい展開だ。が、決して容易い障害とは言い難い。それどころか死ぬ確率の方が遥かに高い。

 

「……ごめんなさい」

 

 目に見えて悪化する状況を前に、俯き気味の海未がポツリと呟く。

 

「私が穂乃果を助けるためにあなたや西木野さんを巻き込んでしまった。きっと生徒会長が仰った通り、私こそ無謀すぎたんです。会長の忠告を聞いて慎重になれば……せめて私一人で行ったならば……!」

 

 起こってしまったことに対して、たらればでいつまでも引きずっても仕方ない。しかし、それでも口にせずにいられないほどに心折られかけていた。

 

「こんな事態になるのも予想できたはずなのに、穂乃果を救うことで頭がいっぱいになってしまって……!私は……私は!」

 

「それは今言うべきじゃないでしょ」

 

 後悔を涙混じりに吐露しようとする海未を遮る。

 

「懺悔するのはあいつをやっつけてここから脱出してからだよ」

 

 少年は得物の日本刀を構えた。絶体絶命の危機が迫ろうとも、その目はまだ死んでいなかった。




〈女教皇・ポリミューニア〉
 音ノ木坂学院2年の園田 海未の専用ペルソナ。対応アルカナはPRIESTESS。目元を青色のクリアバイザーで覆い隠し、青い礼服を纏った男装の麗人の姿をしている。腰には海未の心の中に眠る強さの象徴である日本刀を携えており、戦闘ではこれをメインの武器として戦う。
 強力な氷結属性魔法とバッドステータス付与、そして刀を用いた神速の居合斬りを得意とする攻撃特化型。スキルのバリエーションは限られている代わり、物理と魔法の両面で平均レベル以上のステータスを有する。さらにはミューズをモデルとしたペルソナの中では最高のスピードを誇り、それを活かした切り込み役を担う。欠点は運が尋常ではない程に低いこと。そのため状態異常にはほぼ確実に陥ってしまう。弱点属性は火炎。
力・B
魔・B+
耐・C
速・A
運・D

 ギリシャ神話に登場する、ミューズの一柱。ポリミューニアという表記は、ポリデュークスやヒューペリオン等の女神転生シリーズ独自の表記を参考にした作者独自の物。実際はポリュムニア等の表記が一般的。


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19話

「 ことりちゃん、しっかり!」

 

 同級生と親友が命を賭けて戦っている間、穂乃果は必死にことりに声を掛けていた。彼女達と違って戦えない自分にとって出来ることと言えば、今ここで気を失っていることりを介護するくらいだ。

 

「……うん」

 

 穂乃果の声にうっすら反応することり。呼吸も安定しているし、心臓も動いている。失神した際には血の気が引いたが、どうやら命に別状は無いらしい。穂乃果は安堵した。

 いや、安心するのは早い。今も海未達は自分のために戦っている。何も出来ずにいる自分を助けるために、ここにいる。

 

「まただ……また誰かに頼って助かってるだけ!」

 

 そして、穂乃果はまたしても、無力な自分に対して悶々とした思いを抱いていた。

 

「なんで……なんでこんなにも私って……穂乃果って無力なの?だって……」

 

 床を拳で叩いた。全力で感情をぶつけたつもりでも、うら若い少女の力ではコツンと小さな音を立てるだけ。何もかもが自分の弱さを笑っているように見えた。目元から滲む涙が、穂乃果の拳を濡らす。

 

「だって、みんな……みんな、あんなに必死で頑張ってるのに!」

 

 意気込んで立ち向かったのにも関わらず、結局自分の無力さを改めて見せつけられただけに終わった。いつだって理想の自分と現実の自分の間にある溝は埋まらない。

 

「こんなんじゃダメだ!変わらなくちゃダメなんだ!」

 

 穂乃果は気づかなかった。自分の背後にてヒラヒラと宙を舞う青い蝶々の存在に。やがて蝶は穂乃果の背中に降り立った。己の弱さを嘆く彼女に寄り添うかのように、そっと……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「外しません!」

 

 険しい表情の海未は弓矢を弦に掛けて引き絞る。

 

「せいっ!」

 

 ギリギリと音を立てながら狙いを定め、怪物の胴体に向けて放たれた。

 

ヒュッ!

 

 闇を切り裂く閃光の如く煌めいて、一瞬にして腕の一本を容赦なく刎ね飛ばした。苦しそうに断面を別の腕で抑え込む。普通であればここで勝利を確信出来そうなものだが、

 

「また再生……!」

 

 先程と全く同じように、切断面から腕が生えてきた。おそらくすぐに元通りとなってしまうだろう。

 海未はそのなんともグロテスクな光景を前に顔をしかめた。こうやって何度怪物の腕や脚を斬り飛ばしたり、胴体を砕いたりしているのだが、やはりすぐさま復活してしまうからだ。もしや再生能力にも限界があるのではないかと一縷の望みを抱いて休まず攻撃を加えていたが、いくらやっても結果は同じだった。

 むしろ状況は悪化しているかもしれない。なんせ超人的身体能力を得ているとはいえ、海未達はあくまで人間。このままでは先に体力が尽きてしまうかもしれないのだから。

 

「まだだ!」

 

 矢を受けて怯んだ隙を逃さず、静流は刀を握り締めて走り出す。

 

「諦めません!勝つまでは!ってね!」

 

 大穴に変えられたことで大幅に少なくなった足場に気をつけながらも、なんとか駆け抜けていく。

 

「それっ!一本もらい!」

 

 すれ違いざまに、海未によって刎ねられた腕と同様に脚を刀で斬りつける。

 

「手応えあり!」

 

 出来たての切断面から黒い液体を漏らしながら、脚の一本が宙を舞う。そのまま奈落の底へと落ちていく。バランスを崩したために、動きは途端悪くなった。だが、それでも反撃の意思は全く揺るがない。むしろ静流の命を狙う執念そのものはより強大になったように思える。一撃に込められた殺意は人間の肉体が耐えられるものではないだろう。

 慌てて距離をとって海未の隣に寄った時には、ひたすら回避する二人の代わりに殴られていたせいか、床は見るも無惨な穴ぼこだらけと化していた。元より面積が減ってしまったわけだが、おかげで動き回るだけでも一苦労だ。余計に体力を消耗する羽目になったせいでじんわりと額から滴った汗を拭う。

 

「さすがにちょーっと疲れてきたかもね」

 

 汗でべっとり張り付く前髪を払いながら、静流はふーっと息を深く吐き出した。その様子を海未は怪訝そうに眺めていた。あらゆる日本武道に心得のある海未としては、この少年の動きに、さっきから違和感を持たずにいられなかったのだ。

 

「……天宮君、あなた、もしや剣道の経験は?」

 

「ん、無いよ。全部我流。参考にしたのは……少年漫画とか」

 

 和かな笑みを向ける。しかし、海未はあっけらかんと答える彼に対して、呆れたと言わんばかりに大げさなため息を吐いた。

 

「だと思いました。ずいぶんと太刀筋が荒いですし、構えも指導を受けたものに到底見えませんから」

 

 気になってしまうのも仕方ない。なにせ、海未は武道を幼少期より学んできたのだ。作法はともかく、武道の教えにある無駄を捨てた動きは大事な要だと思っている。その肝心な部分が少年には欠けていた。それでも一見問題なく戦えているように思えるのは、生来のセンスのおかげなのか。

 

「それじゃあ、ここから出たら園田師範代にみっちりしごいてもらおうかな?」

 

「え?」

 

 いきなりな話に思わず面食らったが、ようするに必ず倒そうというわけだ。彼なりの気遣いを感じ取った海未は静かに笑った。

 しかし、今はいつまでも戯れる余裕もない。放っておいたとしても、脅威は自分から攻め込んでくるのだから。突如、海未の視界が影で染まる。黒の鉄槌は既に目前まで迫っていた。

 

「ええ……そうですね!」

 

 ギリギリまで引きつけてから、腕押しを受けた暖簾のようにスルッと海未は盛大な右ストレートを躱した。おかげで背後の床がバラバラになったが、それでも一切怯むことなく背中の筒から新たな矢を取り出し、流れるような動作で手際よく放っていく。一本一本が確実に標的の各部を正確に射抜いていった。

 無論、怪物側もここまま黙ってやられているばかりではない。いくらバラバラにされようが発揮される程の圧倒的回復力によって再生したばかりの腕を振り上げ、人の子らの命を今度こそ奪おうと画策する。

 

「言っておきますが、私の指導は!厳しいですよ!剣道も!弓道も!」

 

 それらも次々と避けつつ、代わりに海未渾身の矢で幼馴染達を傷つけた怒りに満ちたお礼を容赦無く返していた。

 

「そいつは良いや!却ってしっかり身につきそうだね!」

 

 特訓マニアに等しい海未の鍛錬メニューの恐ろしさを知ってか知らずか、同じように回避行動を続けながら静流は口元を吊り上げる。

 

「……私が次にあいつを氷漬けにします!その隙に天宮君は全力で攻撃を叩き込んでください!二度と再生できない程、粉々にしてあげましょう!」

 

「そんなこと出来るの?」

 

 海未は自信満々な表情を浮かべなら力強く頷いた。かつては引っ込み思案だったこの少女も、今では自分の武術に驕りはせずとも、客観的に分析した上での絶対的な自信を持つ戦士の端くれへと成長していたのである。

 

「はい!次の召喚で私が持つ残りのプラーナ全てを注ぎ込みます!そうすれば動きだけでも封じれるはずです!」

 

「わかったよ!」

 

 薙ぎ払いを飛び越えることで難なく避けた二人は、互いに別方向から回り込み始めた。二点から同時に攻められたことで反応が遅れ、若干の隙が生まれる。海未はこの隙を断固として見逃さなかった。

 

「出でよ!ポリニューニア!!!!!」

 

 海未の呼びかけに応じて、男装の麗人が再び姿を現す。

 

「全てを……!」

 

 友を護る剣たらんとする少女の願いを受け取った海未の分身は、右腕に眩いほどの輝きを放ち始めた。

 

「凍てつかせろおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」

 

 その琥珀色の瞳に激情を乗せて、海未は吼える。同時に、麗人は拳を床に叩きつけた。次の瞬間、海未の周囲の気温が急激に低下する。同時に辺り一帯に夥しい量の、もはやつららを通り越して槍の如く鋭い凶器と化した氷塊が、海未を中心に広がっていくように次々と形成されていく。

 壁も天井も御構い無しに、あらゆる物を氷が侵食していった。その範囲は怪物にも及んだ。逃げ出す暇もなく、人の手によって作り出されし氷点下の世界が海未の何倍もある怪物の巨体を全て飲み込んだ。

 襲いかかる過大な疲労のために海未が呼吸を乱しながら床に膝を付いた時には、怪物は巨大な氷のオブジェクトさながらに動けない木偶の坊にされてしまった。海未の宣言通り、これではもう身動きは取れないだろう。

 

「よし、行け!タミュラス!!!!」

 

 海未の奮闘を無駄にはさせない。少年も同じく全速力で駆けながらも、己が分身を呼び出した。

 

「砕け散れえええええええ!!!!!!」

 

 静流は海未が作り出した氷が及んでいない部分に狙いを付けて、刀を振るった。幾度も幾度も、原型は一切残させまいとする勢いでひたすらめちゃくちゃに振り回した。

 海未が先程評した通りに、彼の技は所詮は付け焼き刃に近い素人剣術。ただ単に振り回し、日本刀の威力に任せて真っ二つにするだけである。技と呼ぶのも過ぎたものかもしれない。だが、その一撃一撃に込められた力と想いは今までの比ではなかった。氷漬けにされたために動けずにいるのもあって、容易く怪物の巨体を切り裂いていく。

 

「遠慮はいらないっ!持ってけえっ!」

 

 背後に控えていたタミュラスのエレキギターが、腕を失って無防備と化した胴体を見事に捉えた。凶悪な鈍器と化したそれは、遠慮なく本体に叩きつけられた。氷塊を砕き割りつつ、その中に封じられていた黒い肉体も押しつぶされていく。これには流石の怪物もたまったものではないらしく、ピクピクと痙攣を始めている。

 

「まだです!これが私の最後の一撃……」

 

 呼吸を整えて再び立ち上がった海未の背後で、一瞬だけ鈍い光が線を描いた。

 

「斬り裂け!ポリミューニアッ!!!!!!!」

 

 次の瞬間、怪物の肉体に数多の斬撃の跡が走る。静流自身の手で徹底的に切り刻まれ、巨大な鈍器で叩き潰されていた部分すらも一切容赦なく刀傷が与えられていた。怪物の背後に影が差す。そこには刀を抜いた海未の分身がいた。

 

「まだ動ける⁉︎」

 

 怪物は最後の悪あがきか、このポリミューニアと呼ばれた存在を仮面越しに捉える。そして、握りつぶそうと唯一原型を留めていた腕を伸ばす。

 

「往生際が……悪い!」

 

 だが、羽虫を払い除けるかの如く、刀でさっと振り払われる。その指が届く前に手首の部分が真っ二つに切り裂かれるのだった。切断面から溢れ出た、影達の血とも呼べる黒い体液が周辺の床をべっとりと染め上げる。

 

「はあ……はあ……どうかな?流石にもう起き上がらないでくれたら嬉しいんだけど?」

 

「はあ……はあ……お願いします!これで……終わって!」

 

 まるで床全体が汚泥に塗れたかのような、ずいぶんと醜悪な光景だが、生命が掛かっている状況で確実に息の根を止めるためにも気にしてなどいられない。なにせ相手は人知を超えた怪物。むしろ、ここまでやっても復活しないという保証も無いのだ。二人の少年少女は激しく鼓動する自身の心臓の音と共に、張り詰めた空気にひたすら耐え続ける。

 黒い肉片の数々は、望み通りにいつまで経っても動こうとしなかった。

 

「はあ……はあ……や、やった……やりました!」

 

 今度こそ勝利したと確信を得た海未は、強張った表情を解いてペタンと床に座り込んだ。弓も、拳銃もコロコロと床を転がっていく。今まで緊迫した状況が続いていた反動もあったのだろう。おかげで床に散らばった怪物の血が制服についてしまっているが、気にする余裕も無い。肩で息をし、目は何処か虚ろげで、おまけに糸の切れた人形のように手足を震わせていた。

 

「はは……やった……私……穂乃果とことりを守れたんですね……」

 

 感極まったように涙をボロボロと流す。その姿は今の今まで勇ましく戦っていた戦士のものではない。どこにでもいる、ただの少女のそれであった。

 

「……」

 

 一方、静流の表情は浮かないまま。刀を握りしめたまま、肉片と液体の山から一向に視線を逸らそうとしない。そして、突如赤い瞳を大きく見開いた。

 

「まだだよ!避けて!」

 

「え?」

 

 勝利を前に完全に緊張が緩んでしまっていた海未は、静流の叫びに反応出来なかった。気づいた時には、背後から痛烈な殴打を受けていた。

 

「きゃっ!」

 

 完全に油断していた。だから防御する余裕もなかった。海未の華奢な体はボウリングのピンのように軽く弾き飛ばされてしまったのだ。

 

「園田さん!」

 

 当たりどころが悪かった。海未が勢いよく跳ね飛ばされた先には、光すらも届かない奈落の底が待っている。今まで焦りを見せなかった静流は珍しく血相を変えて反射的に手を伸ばしたが、海未との距離は今更走ったとしても間に合わない間隔だった。

 

「ああっ……」

 

 宙を舞い続けている海未の顔からは血の気が去っていた。いくら友のために命を賭ける勇敢な少女であっても、死を間近で突きつけられる絶望には耐えられなかった。脳裏には、これまでの人生が走馬灯のように駆け巡っていた。

 

『おはよう!海未ちゃん!』

 

『でねー雪穂がねー』

 

『もう!海未ちゃんのいじわるっ!』

 

『海未ちゃん……お願い……海未ちゃんも一緒に……』

 

「ああ……」

 

 もはや叶わぬ願いだったが、出来ればもっと幼馴染達と同じ時間を過ごしたかった。穂乃果が目指した未来とその先をこの目で見て見たかった。もっと、穂乃果の話を真剣に聞いてあげれば良かった。海未はそんないくつもの後悔の中で、意識を深淵に飲み込まれようとしていた。

 

「海未ちゃああああああん!!!!!!!」

 



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20話

第1章はラノベ1冊分(13万文字)に収めるつもりがむやみやたらに長くなってしまってますね。更新スピードアップと合わせて今後の課題にしたいと思います。


「おっしゃあ!間に合ったぁ!」

 

 本来なら底無しの深淵世界に落下してその短い生涯を終えるはずだった海未は、未だ自身の命が健在であることに戸惑っていた。恐怖のあまりに閉じていた瞼をゆっくりと開けていく。

 

「ファイトだよっ!海未ちゃん!」

 

「ほ、穂乃果⁉︎」

 

 海未の命を辛うじて繋ぎ留めたのは穂乃果の右腕だった。九死に一生を得た彼女の代わりに、得物の弓が代わりとなって奈落の底へと飲み込まれていく。海未はその光景を呆然として見つめていた。

 

「しっかり捕まっててよ!今絶対に助けてあげるからね!」

 

 ろくに体を鍛えてもいない少女の華奢な腕では、人一人を持ち上げることすら難しいだろう。現に、海未の腕は穂乃果の手からズルズルと滑り落ちつつある。しかし、穂乃果も決して離すまいと、身を乗り出しながら必死に腕が震えるのを耐えていたのだ。

 

「やめてください穂乃果!このままでは二人ともとも一緒に落ちてしまいます!」

 

 だが、穂乃果は自分を犠牲にしようとする海未に対して、ぶんぶんと必死にかぶりを振った。

 

「や、やだよ!絶対……海未ちゃんを助けるんだから……!一緒にスクールアイドルやって……一緒に音ノ木坂を廃校から守るって……私決めたんだから!!」

 

「何をこんな時に馬鹿なこと……それこそ貴女まで死んだら意味が無いでしょ⁉︎手を離してください!そして、一刻も早くことりを連れて何処でもいいから逃げるんです!」

 

「嫌だ!」

 

 穂乃果は断固として友の犠牲を認めなかった。理由は言うまでもない。友の死の上で生きながらえるなどまっぴらごめんだからだ。

 

「海未ちゃんも言ってたでしょ?穂乃果はワガママだって……そうだよ!私ワガママだもん!海未ちゃんと一緒じゃなきゃ嫌だ!海未ちゃんも助からなきゃ嫌だ!海未ちゃんとアイドルやれなきゃ嫌だ!」

 

「あ、あなたって子は!」

 

 しかし、啖呵を切るように言い放った穂乃果ではあるのだが、表情は必死さのあまりに歪んでしまい、声も腕も力なく震わせている。やはり本音では腕の限界が近いのだろう。このままでは海未言う通り、2人一緒に暗闇の中に真っ逆さまだ。

 しかし、それでもこの少女は決して諦めていなかった。

 

「ねえ海未ちゃん……勝負してみない?助かったら必ず一緒にスクールアイドル始めるって!どっちかでも欠けたら、穂乃果はすっぱりアイドル活動諦めるよ!」

 

 突然の提案に面喰ったってしまった海未。あまり唐突ゆえ、穂乃果の真意図り損ねているようだった。

 

「か、賭け事って……そんな場合じゃ……」

 

「乗るの⁉︎乗らないの⁉︎どっちなの⁉︎」

 

 声を張り上げる穂乃果の問いかけに、海未は俯いて顔を見せないまま何も答えない。

 

「……貴女は卑怯です」

 

 永遠に等しい時間が流れたかと思われた頃、ようやく海未はゆっくりと顔を上げた。目元から雫を頬へと伝わせながら。

 

「私に選択肢なんて……最初からあるわけないじゃないですか!」

 

 海未は泣きじゃくりながら笑っていた。クールな大和撫子という周囲からの評価を台無しにしてしまう程に顔をクシャクシャにしてしまっている。にも関わらず、その瞳は何処か澄み切っていて晴れやかだった。

 

「ここを出て、一緒にスクールアイドルを始めましょう!勿論ことりも一緒にです!」

 

 もはや穂乃果と海未の二人は揃って迷いなどない。親友と共に歩めることを確信した穂乃果はにっこりと歯を見せながら笑った。

 

「ふふふ……決まりだね!」

 

「……っ!」

 

 海未は幼少時代を回想していた。この顔をしている時は、いつも穂乃果が何かを成す時だ。

 

「悪いけど、穂乃果の勝ちだよ。海未ちゃん!」

 

 不敵な笑みを浮かべる穂乃果。しかし、肝心の二人の手は今にも離れつつある。残酷な現実を前に、見るに耐えかねた海未は目を閉じてしまう。

 そして、穂乃果の震える指先から、海未の感触が消えた。

 

「海未ちゃああああああああああんっ!!!!!」

 

 二人の手が限界を迎えたその瞬間、吠える穂乃果から()()()が飛び出した。

 

「い、今のは……!」

 

 遠くから穂乃果達を見守ることしかできずにいた真姫は、思わず目を見開いた。真姫から見える穂乃果から伸びた腕は、確かに存在はしているもののひどく朧げで、まるで霞のように虚ろな状態だった。しかし、それでもあわや奈落へと消えそうになっていたはずの海未をしっかりと掴まえている。まるで自身の無力に抗おうとする穂乃果の意思のあり方そのもののようだ。

 

「まだ、完全に目覚めていないからモヤみたいな中途半端な姿になってる?でも、もしあの先輩が自分の力を自覚出来たら……」

 

「でりゃああああああ!!!!!!」

 

 真姫の中で思案が続く間に、謎の手によって一気に引き上げられた海未の体は宙を舞った。地上に帰還を果たした海未の体は勢いよく床に叩きつけられる。ひとしきりゴロゴロと転がった後、岩に衝突したおかげでようやく止まった。その光景は一応助け出した張本人の穂乃果が冷や汗を流してしまう程に凄まじいものだった。

 

「だ、大丈夫?海未ちゃん……」

 

 海未は全身を砂埃まみれにしながらもゆっくりと立ち上がる。穂乃果は思わず変な声を漏らしてしまう。大和撫子と呼ばれるにふさわしい絹糸のような黒髪を持つ彼女だが、今はまるで階段に登場する怨霊のような有様になっているのだ。殺気を感じ取った穂乃果は、つい顔を引きつらせていた。

 

「ご、ごめーん!ちょっとだけ……いやあ、結構力入れすぎちゃったみた……」

 

 いつものような説教を覚悟していた穂乃果に訪れたのは、平手打ちでも鉄拳制裁でもなかった。

 

「馬鹿!」

 

「おおっとお⁉︎」

 

 代わりにぶつけられたのは、涙混じりの怒声と、鍛えられているとは思えない程に華奢な海未の体だった。絹のように滑らかな黒髪が穂乃果の鼻をそっとくすぐる。

 

「馬鹿馬鹿馬鹿!やっぱり貴女は正真正銘の大馬鹿者です!あんな無茶をして!」

 

 穂乃果の胸に頭を埋めた海未は小さく嗚咽を漏らした。

 

「ワガママで……自分勝手で……向こう見ずで……そんな穂乃果が、私は大嫌い……」

 

 でも、だけど、と前置きして海未は続けた。

 

「そして……そんな貴女が……私は大好きなんです……」

 

「海未ちゃん……」

 

 海未のある種の告白を前に、穂乃果は静かに笑みをこぼした。恥ずかしさが今更ながら込み上げてきた海未は、涙声混じりながらも不機嫌そうに不満を漏らす。

 

「何がおかしいんですか……全然笑えませんよ……」

 

「海未ちゃん、私も一緒だよ」

 

 穂乃果が自身の胸元に埋められた海未の後頭部に手を回し、そっと撫で始める。

 

「融通が利かなくて……頑固で……口うるさくて……そんな海未ちゃんが穂乃果大っ嫌いだった……」

 

 一見すれば悪口にしか聞こえないはずだが、発せられる声音そのものは不思議と深い慈しみに満ちている。涙が止まらない幼馴染をそっと撫でる姿は聖母を思わせる。

 

「だけどね……そんな海未ちゃんが何故か大好きなんだよ」

 

「私と同じですね。ふふ……何故なのでしょう?こんな勝手気ままで無茶苦茶な人が何故かこんなにも愛おしいだなんて、私には全くわからないです」

 

 なかなか止まらない涙を袖でごしごしと擦りながら、海未は困ったように首を傾げた。

 親兄弟にも負けない程に長い時間を共に過ごし、お互いを誰よりも熟知しているはずなのに、ほんの些細な諍いで離れ離れになってしまう。いや、むしろ近すぎるからこそ、危うい距離感を作ってしまっていたのかもしれない。そんな強くも脆くも二人の絆は偶然に偶然が重なって引き裂かれてしまっていた。そして、理不尽な試練を乗り越えた末に、ようやく再び一つに結びついたのだ。

 

「海未ちゃん、こんなダメダメなところがいっぱいある穂乃果だけど、これからもずっと一緒にいてくれますか?」

 

「もちろんですよ。さっき言ったばかりじゃないですか。あなたが望むように、ずっと一緒にいましょう。一緒にアイドルをやりましょう」

 

 離れてしまっていた距離を埋めるかのように、二人はより一層力強く抱きしめ合う。しかし、その時だった。

 

がんっ!

 

 静かに続けられていた二人の時間は容易く破られた。豪快な破砕音が鳴り響き、盛大な砂埃が辺り一面を覆い隠してしまう程に舞った。

 

「ぐあっ!!!」

 

 埃だらけになってしまった制服姿の少年が砂煙から飛び出す。いや、飛び出したというより、無理矢理弾き飛ばされたように見えた。続けて例の怪物が多数の足を蜘蛛のように動かして姿を現わす。穂乃果達はそのおぞましい光景に我が目を疑った。

 あれだけ細切れになるまで引き裂いたというのに、粉々に砕いたというのに、穂乃果が海未を助け出すまでの僅かな時間で既に元の五体満足へと再生していたのだ。

 黒い巨大な五指が少年を握り潰そうと広げられていく。

 

「くっ!」

 

 危うく捕まりそうになったもののすぐさま刀で薙ぎ払い、なんとか退けることはできた。しかし、それでも今できたばかりの大きな傷跡があっという間に治っていく光景は、これ以上ない程に著しい絶望感を与えてくれる。

 

「やっぱり電撃も物理攻撃も効かないんじゃどうしようも……」

 

 静流は頬にこびりついた砂埃を袖で拭い取った。その表情にもはや余裕は無い。海未はおろか、穂乃果の目から見ても、危機的状況なのがすぐに理解できていた。

 涙を袖で拭いた海未はフラつく足で体を支えつつ、穂乃果を庇うかのように前へと出る。

 

「急いでことりを連れてここから逃げてください穂乃果!私は彼を助力して時間を稼ぎます!」

 

 しかし、そんな風に決心を固めていた海未を穂乃果は睨んだ。

 

「海未ちゃん、一緒にアイドルやるっていう約束をもう破るつもり?もしそうなら、本気で怒るよ」

 

 まさかの穂乃果が放つ鋭い眼光に圧倒され、海未は思わず息を飲んだ。普段は天真爛漫で、誰かを害したりしない彼女だけに、その落差は著しい。

 本来は幼馴染グループの主導権を握っていると称しても過言ではないはずの海未が、まるで悪さが見つかった子どものようにたじろぎ、目を逸らさずにいられなかったのだ。

 これも幼少時代からの常であった。有事の際、穂乃果と海未の力関係は容易に逆転してしまっていた。そして、今がまさにその時なのである。

 

「た、確かにそれはそうですが……」

 

「嘘つきな海未ちゃんは一番大嫌いだよ」

 

 穂乃果らしかぬ、淡々としつつも怒気を滲ませた声音は彼女がいかに本気であるのかを物語っていた。思わず気圧されそうになる海未。しかし、それでも今だけは海未とて引くわけにはいかなかった。

 

「でも!今はしのごの言っている状況では……」

 

 がちゃっ!

 

 口論を始めた二人を制するかのように、派手な音が鳴り響く。どうやら何かが穂乃果達のすぐそばの岩に衝突したらしかった。二人の視線が『それ』に移る。その瞬間、海未は瞳を大きく見開く。

 

「これは西木野さん用の召喚器⁉︎」

 

 海未はそれ拾い上げながら驚愕していた。ことり達が自分に向けて銃口を突きつけていた物と全く同じ形状の大型リボルバーだ。違いと言えば、グリップ部にギリシャ数字の3が刻まれている点だろう。

 

「なんとか届いたみたいね!」

 

 声のした先には、銃の持ち主である赤毛の少女が手を振っていた。

 

「せんぱーい!」

 

「に、西木野さん⁉︎」

 

 足を怪我したために動けずにいる真姫は二人が自分に気づいたことを察すると、口元をニヤリと吊り上げた。

 

「先輩!その銃で自分の頭を撃ち抜いてください!」

 

 そう言って真姫は指で銃の形を作り、側頭部を撃ち抜くような真似をする。精巧な人形を思わせる整った顔立ちの真姫だとかなり様になっている。

 

「天宮先輩や園田先輩達のを見てたでしょ⁉︎大丈夫!それに弾は入ってません!」

 

 その行為が意味する事をよく知る海未は唇をわなわなと震わせ、額から冷や汗を垂らした。

 実弾が入っていないから問題ないわけがない。あの拳銃は一種の儀式礼具だ。あえて己を死に極限まで近づけて錯乱状態に精神を追い込み、生存本能を掻き立てることで無理矢理に闘争心を表へと引きずり出す装置。これを用いて少女が大人になる過程で辿る不安定期を利用して強制的に使用者をトランス状態へと陥らせる。理事長曰く、巫女が行う儀式の過程を一気に省いたお手軽な神憑り。だが、その危険性はお手軽から遥かに遠い。

 徐々に慣れていく訓練を受けた自分達と違い、穂乃果はぶっつけ本番で行おうとしている。その悪影響はどれほどの物か知れたものではないのだ。海未としては大事な親友をそんな危険極まりない賭けに晒すなど、看過できるわけがなかった。

 

「西木野さん、何を言って……」

 

「わかった!ありがとう!やってみるよ!」

 

「穂乃果⁉︎」

 

 相変わらずな天真爛漫な笑みと共に真姫に手を振り返す穂乃果の姿に、海未は思わず声を裏返させる。当の彼女はその危険性を全く認識していない。一から十まで説明したところで穂乃果では到底理解可能には思えないが、だからと言って見過ぎせるはずもなかった。

 

「やめてください!もしもそれを使ったら、貴女はもう普通の女の子じゃいられなくなるのですよ!」

 

 だが、

 

「そうなんだ。じゃあ……」

 

 親友の必死めいた制止を前にしても、穂乃果は軽やかな笑みを浮かべた。

 

「これで海未ちゃん達と一緒だね!」

 

 今の穂乃果の表情はひどく穏やかだった。この少女が見せる一面としては珍しいものである。なおも力づくで穂乃果を止めようとしていたはずの海未は、自分でも意識しない内にその手を引っ込めていた。

 

「来て……」

 

 少女は静かに黒い銃口を自身に突きつける。何も知らぬ者が見れば、自ら命を絶とうとする背徳的な行為。しかし、そうでありながら、その姿は穂乃果の澄み切った表情と合わせて、神に対して献身的に祈りを捧げる神聖な儀式に挑む修道者のように清らかで美しかった。

 

「お願い……もう1人の……私!」

 

 覚悟を決めた穂乃果は、迷いなくトリガーを引いた。

 

「ペルソヌァァァァッ!!!!!」

 

 穂乃果の魂からの叫びに呼応するかの如く、部屋全体が騒めき始めた。

 

<我はカリオペイア……>

 

 穂乃果の体から湧き出た、溢れんばかりの輝かしい光を放つ粒子が辺り一帯を充満する。その潮流は生命の躍動のような力強さに溢れていた。この広間は決して狭いとは言えないにも関わらず、部屋の全てを包み込んでいくように激しく、静寂を打ち破る波紋のように広がっていく。

 

<我は汝……汝は我……>

 

 光はやがて収束し、人の姿を形作る。その身に纏うは高貴なる白の装束。偉大なる太陽神に追随し、人々の抱える苦しみを癒さんと降誕した存在の名を冠するそれは穂乃果を守るかのように側に寄り添う。

 

<汝の友への想いが技芸の女神の長たる我を呼び起こしたのだ。さあ、奏でるがいい。心の海に封じられし黎明の旋律を。今こそ我らの力を見せつける時ぞ!>

 

 今宵、新たな女神がここに誕生した。




〈魔術師・カリオペイア〉
 音ノ木坂学院2年の高坂 穂乃果の専用ペルソナ。対応アルカナはMAGICIAN。白装束と赤いマフラーを纏う。原典のギリシャ神話で親子関係なためか、原作P3に登場したオルフェウスを彷彿させる見た目をしている。
 火炎属性の攻撃魔法と物理攻撃に加え、回復と強化も可能と、非常にバリエーション豊かなスキルを所有する万能型。また、防御力は随一で非常にタフ。さらに運が最高レベルなために状態異常に強い耐性を持ち、攻撃がヒットすれば確実に痛恨の一撃(ゲーム的にはクリティカルヒット)を発生させる。ただし、本人の学力を反映しているためなのか、魔法攻撃力はあまり高くない模様。速度も平均レベル以下なため物理技の命中率にも難あり。弱点属性は疾風。
力・A
魔・C
耐・A
速・C
運・A

 ギリシャ神話に登場する、ミューズの女神の一柱。カリオペイアはその中でもリーダー格として扱われており、他の姉妹達と比べても多くの伝承を残している。また、太陽神アポロンとの間に設けた息子に、冥界渡りの吟遊詩人として有名なオルフェウスがいる。


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