乱世を駆ける男 (黄粋)
しおりを挟む

転生編
プロローグ 走馬燈。そして転生


黄粋と申します。

この作品には原作とは異なる展開が多々あります。
そしてオリジナルキャラも何人か出す予定ですのでその辺り、寛容な目で見ていただければと思います。

更新頻度はそれほど早くはありませんが今後ともよろしくお願いします。

尚、この作品はにじファンからの移転作品です。



「まったく長く生きたもんだ」

 

 もはや息をするにも補助が必要な身体で呟く。

 俺は真っ白な部屋の真っ白なベットに横になっていた。

 ベットの周りには人が集まっている。

 様々な年代の老若男女。

 いずれもが俺の縁者、友人たちだ。

 

 今年で九十歳になり、今まさに息絶えるところの俺を看取る為にこいつらは集まってくれた。

 浮かべている表情は様々ではあるが、皆が一様に俺が死ぬ事を悲しんでいる事がわかる。

 ありがたい事だ、と悲しんでるやつらには申し訳ないがそう思った。

 

 彼らに看取られて逝ける事を喜びながら、俺は自身の人生を振り返り始めた。

 

 

 ごくごく一般的な家庭に生まれた。

 恵まれた幼少期を過ごし、当たり前のようにその幸せを享受していた。

 

 二十歳になる頃、家に届いた召集令状。

 父は涙を噛み殺しながら敬礼して俺を送り出し、母は人目もはばからず泣きながら俺を抱きしめて生きて帰ってきてと懇願した。

 

 この時代の国民にとって戦争への召集は誇るべき事だったが、両親は『国への忠義』ではなく『息子の生還』を願っていた。

 友人たちが誇らしげに送り出されていく様子を俺は知っていた。

 だから彼らと違う態度を取る両親に戸惑ったけれど、戸惑うのと同じくらい生きて帰ってきて欲しいと思ってくれた事が嬉しかった。

 

 

 戦争は熾烈を極めた。

 飛び交う銃弾、爆発する地雷、降り注ぐ爆弾。

 お国のためにと共に訓練を受けた仲間が死んでいく様を見た、見続けた。

 銃弾に撃ち抜かれ、爆弾に身体を吹き飛ばされ、戦場で生き延びても手当てが間に合わずに死ぬ者もいた。

 戦いの気に酔わされて発狂してしまい仲間に殺される者もいた。

 

 俺も右腕を失った。

 犠牲者の数など数える気にもならない程。

 敵も味方も、老若男女の区別もなく毎日毎日死んでいった。

 

 だが運が良かったのか悪かったのか。

 俺はそんな戦争を生き抜いた。

 国が望み、自身が夢見た形ではなかったが平和が訪れ、その中を生きていく事になった。

 

 戦争が終わった時点で俺は軍を辞める事になった。

 利き腕を無くした事でお役御免にされたのだろう。

 辞めさせられた事に文句は無かった。

 虫の息とも言える軍の再編の足手まといになるだろう事がわかっていたからだ。

 

 父は戦争で俺が知らぬうちに死んでいた。

 硫黄島で戦いそして散ったのだと伝えにきたのは父の同僚で、彼も左足を無くしている。

 松葉杖をつきながら、それでも背筋を伸ばして父の最後を報告するその人の姿。

 俺にはその姿がとても雄々しく、力強く見えた。

 伝えられる言葉の一つ一つが父が最後まで戦ったのだと教えてくれていた。

 

 母は戦後に流行った病で死んだ。

 息を引き取るその瞬間まで俺を一人残す事を気にしていた。

 

 いつの間にか俺は独りになっていた。

 

 あまりにも凄惨な戦場での経験が災いして、戦後初めの五年ほどは普通の生活に馴染むことが出来なかった。

 物音がすれば既に手元に無いはずの武器を掴もうと手が腰に回り、ふと目の前を横切る人影がかつての敵兵に見えた。

 もう無いはずの右腕が痛みを発する事など日常茶飯事だった。

 

 眠れば浮かぶのはかつての戦場。

 そこで死んでいった仲間たちの幻影が俺を責め立てる悪夢を見た。

 

「なぜおまえは生きている」

「なぜ俺たちは死んだんだ」

 

 抑揚のない声が俺を縛り付け、追いつめていく。

 だがそれでも俺は生き続けた。

 

 死んだ仲間と殺した者の命を背負い、最期の最期まで生きる決意があったから。

 生き続ける事が俺を育ててくれた両親に報いる事になると信じていたから。

 

 そんな生活を二年ほど続けた頃。

 心身共にボロボロになった俺と共にいてくれたのは当時、看護師の真似事をしていた女性だった。

 

 俺よりも三つ年上の、失礼ながら母親のような暖かい雰囲気を持った女性。

 そんな人が狂う寸前だった俺を拾い、甲斐甲斐しく世話してくれた。

 生きる事に執着し続けてきたが同時に生きる事に疲れ果てていた当時の俺が、彼女を心の拠り所にするのに時間はかからなかった。

 

 俺は新しくなった社会に適合出来る程度に心身共に回復した頃、彼女に告白した。

 正直なところ、世話になりっぱなしでなにも返せていなかった俺に彼女の隣に立つ資格などないと思っていた。

 

 断られたら潔く諦め、二度と彼女の前に現れまいと覚悟していた。

 

 だが彼女はそんな俺を受け入れてくれた。

 嬉しかったが同時に不安にもなった。

 当時の俺は本当になにも出来ないヤツだったから。

 

 だから思わず聞いてしまった。

 

「なぜ俺と一緒になってくれるんだ?」

 

 彼女の答えは呆れるほどにシンプルだった。

 

「最初に出会ったその時、その瞬間に貴方が好きになったからよ」

 

 どうも彼女が俺を拾った理由は一目惚れしたからだったらしい。

 ボロボロでありながら、その目に宿った生き続ける意志にどうしようもない程に惹かれたのだと。

 恥ずかしくもあったがそれ以上に嬉しかった。

 

 そして俺は彼女と一緒になり、その生涯を共に生きる事を誓った。

 

 幸せな日々。

 かけがえのない人を守れるようにと肉体は勿論、精神を鍛える為に運動をするようになり、戦場に出るまで習っていた格闘技を再び始めた。

 相手を倒すのではなく『過去の自分に克つ』という標題の元、心身を鍛えるという目的を持って。

 戦争の爪跡がまだ色濃く残っていた頃だった為か、精力的に身体を動かす俺の姿は人の関心を惹きつけた。

 やがて人が集まり、いつの間にか青空道場のようになっていたのには驚いたものだ。

 

 法制度が正常に動き始め、何をするにしても手続きが必要になり始めた頃、一応の創設者に当たる自分が隻腕である事を理由に青空道場の解散を提案した。

 

 元々、我流でありその『心得』を除いて軍格闘技やうろ覚えの流派、果ては剣道などの技術とあらゆる部門のごちゃまぜであった格闘技を流派として正式に広める気は無かった為だ。

 

 しかし弟子(と呼んで良い物かはわからない)たちが続行を主張した為、正式な道場主として一番弟子の立場にいた教え子を置き、俺は今で言う名誉顧問のような立場になる事で道場を存続させる事になった。

 

 皆が『俺の教えを乞う為ならば』と奮起してくれた気持ちを無碍には出来なかった。

 今でも道場の標題は変わっていない。

 あくまでも『過去の己に克つ』為の精神を養う場のままだ。

 

 

 教え子の何人かが大成し、空手や柔道の大会に優勝するようになった。

 俺も、妻も、道場の仲間たちも、友人たちも、まるで自分の事のように喜び教え子たちを讃えた。

 

 子供が産まれ成長していき、同時に俺と妻が年を取っていくのを楽しんだ。

 

 時には喧嘩もしたけれど、それも思い出として笑い合えるようになる事を喜んだ。

 

 息子が大人になり愛する人を紹介された時、時の流れを嬉しく思った。

 

 孫の小さな手を握りながら、妻と息子たちと笑いあうその瞬間に幸せを噛みしめた。

 

 そして先に逝った妻が満足げに浮かべた笑みを俺は絶対に……たとえ死んでも忘れないと心に誓った。

 

 

「親父」

 

 走馬灯から戻った俺の耳に息子の声が聞こえた。

 今にもこぼれ落ちそうな涙を堪えたその顔は、俺を戦争に送り出した時の父親に似ていた。

 

 ああ、父さん。

 貴方の孫はしっかりその血を継いでるみたいだよ。

 

 声を出す事も出来なくなった身体を無理矢理動かし、頭を垂れていた息子を左手で撫でてやる。

 

「幸せに生きろ。俺たちのように」

 

 そう言ったつもりだったが伝わったかどうかはわからない。

 もう目元も霞んできた。

 どうやら時間切れのようだ。

 

「陽菜(ひな)」

 

 唯一無二の愛しい人の名を呟く。

 

 俺と一緒に生きてくれてありがとう。

 

 目を閉じる。

 二度と目を覚まさない眠りに身を委ねる為に。

 

 意識が遠のいていく。

 眠る時と変わらない、ゆっくりと落ちていく意識。

 あらゆる物を置き去りにしていく奇妙な感覚に身を任せようと力を抜いたその瞬間。

 俺の脳裏に愛しい人の笑顔が浮かんだ気がした。

 

 

 

 目を覚ました瞬間、俺が最初に認識したのは『無いはずの右腕』の感覚だった。

 

「ふぎゃぁ!?(なんだ!?)」

 

 驚きで思わず出た声が馬鹿みたいに甲高く、俺は二重に驚く。

 

「あらあら? どうしたの、駆狼(くろう)?」

「ふぎゃ……(か、母さん?)」

 

 さらに俺が知っている頃よりも幾分か若い母親の姿に俺は呆然とする羽目になった。

 

「ふふ、寂しかったの?」

 

 ひょいと抱き上げられる。

 よしよしと頭を優しく撫でられ、なんとも言えないむずがゆい感覚に身をよじろうとするが体格がまったく違う為、意味がなかった。

 

「こらこら、暴れないの。落としてしまったら危ないでしょう?」

 

 生前と変わらない笑み。

 立て続けに起こる訳の分からない出来事に混乱する俺を、優しく撫で続ける手。

 

 現実逃避を許さないその暖かさ。

 夢ではありえない。

 だが現実と認めるには、あまりにも突飛すぎる事態。

 

「(俺は……赤ん坊になったのか?)」

 

 自分に起きている事態に思考が辿り着いた瞬間、ぐらりと意識が揺らぐ。

 

「うぅ……(ね、眠い……)」

「ふふ、お休みなさい。駆狼」

 

 どこまでも暖かな声。

 その声が俺の名前を呼んだ事にひどく安心して、俺の体から力が一気に抜けていった。

 

 

 どうやら俺は本当に赤ん坊になってしまったらしい。

 

 次に目を覚ました時、俺の傍には若い母と俺を戦争に送り出した頃よりも若い父がいた。

 嬉しそうに声をかける二人のとろけそうな顔は息子や孫を抱いていた頃の俺とそっくりで、ものすごい気恥ずかしさに襲われた。

 

 他にも母乳を飲まされたり、下の世話をされたりと恥ずかしい出来事は続いていく。

 九十歳まで自分の事は自分でやっていた老人にとっては拷問に近かった。

 さすがに死ぬ間際は排尿、排便は自分で処理出来なかったので看護師がやってくれたが。

 体がすこぶる元気な状態で世話をされるのはかなり厳しい。

 羞恥心で死んでしまいそうだ。

 

 泥水を啜ってでも生きる事に執着したあの頃とは別の意味で辛い。

 とはいえ羞恥心で死んでやれるほど命を軽んじるつもりもない。

 俺はとにかく耐えて、今の自分に必要な情報を集める事に集中した。

 

 その甲斐あって色々とわかった事がある。

 

 まずここは俺が生きていた時代よりもずいぶんと昔だと言う事。

 俺が両親の腕に抱かれながら観察した範囲での話ではあるが、家はすべて木造か藁を束ねて作られていた。

 最初は弥生時代にでも迷い込んだかと思ったが。

 にしては両親や村人の服がその頃の日本よりも遙かに上等な代物のように見えた。

 

 そして言葉は通じるのだが、妙な違和感がある。

 その最たるモノが両親とその友人知人で俺を呼ぶ名が一貫していない事だ。

 

 俺は普段『凌操(りょうそう)』あるいは『刀厘(とうりん)』と呼ばれている。

 基本的に刀厘と呼ばれるのだが、両親だけがたまに俺の事を『凌操』かまたは『駆狼(くろう)』と呼ぶ。

 それも両親以外は誰もいない家の中でだけだ。

 

 どうも駆狼という名は真名という物らしく、親しい間柄でしか呼ばれない渾名のような物らしい。

 父は『公厘(こうりん)』、母は『清香(せいこう)』と普段は呼ばれており、傍目にも仲が良いと感じられる人間には『泰空(たいくう)』、『楼(ろう)』と呼ばれていた。

 

 親しい者以外に呼ばれない名を持つ風習。

 日本語が流通している場所にそんな風習はなかったはずだ。

 少なくとも俺の記憶にはない。

 

 俺の真名である駆狼と言うのは俺の生前(と言っていいのかどうかわからないが)の名『玖郎』とは字が違っていた。

 呼ぶ時の響きが一緒だったから、字が違う事に気づいたのはごく最近だ。

 

 そして重要な事がもう一つ。

 生活の中でほとんど文字を見かけていない事。

 それはつまり『今』が、生活する上で必ずしも文字を必要としない時代である事を示している。

 真名の字がわかったのは子煩悩な父がわざわざ墨でしたためて、俺の寝台に飾って見せたからだ。

 

 一体なにがどうなっているのか、一ヶ月は経っただろう今も俺は消化しきれていない。

 そして赤ん坊の頭ではあまり長く考え事をしていると眠くなってしまい、ここまで思考するのにも難儀している状態だ。

 

 不透明な状況、不可解な現象。

 

 しかし。

 そんな足下すらもおぼつかない不安定な状況にあってただ一つ理解できている事がある。

 

「ほら、息子よ。俺の名前を言ってごらん。姓は凌、名は沖(ちゅう)、字は公厘だ。公厘だぞ、こ・う・り・ん」

「あ〜だぁ〜〜〜(無茶を言うな、父さん。こちとらまだ発音すらおぼつかないんだぞ)」

「もう……貴方。まずはお父さん、お母さんからでしょう」

 

 自分の名を一字ずつ区切って強調する父。

 声に出来ないとわかっていながらも文句を言う俺。

 苦笑いしながら俺たちの様子を眺める母。

 

 ただ一つ理解できている事。

 それは赤ん坊の俺を愛おしげに見つめている生前の両親と、またこうして親子でいるのだという事。

 

 

 それと今、気づいたが……どうやらこの場所では姓と名は基本的に一文字で他に字という物まであるらしい。

 さらに何度となく親に呼ばれて覚えたが、俺のフルネームは『凌操(りょうそう)・刀厘(とうりん)』と言うらしい。

 薄々、思ってはいたがここは日本ではないのかもしれない。

 

 姓名の付け方が日本ではなく中国風。

 なぜ日本語で喋っているのかを問い詰めたいが、あいにくと今の俺は話すことが出来ない。

 もういっそこの異常な事態について考察するのをやめて流れに身を任せてしまうのも手かもしれない。

 

「ふぎゃ?(ん? 凌操?)」




楽しんでいただけたでしょうか?

作中に出たようにこの作品の主人公は孫策、孫権に仕えた勇将『凌操』になります。
彼が今後、どのような一生を送るのかを楽しみにしていただければと思います。

戦時及び戦後の描写は作者の想像です。
こんな事もありえたかもしれない程度に流していただければ幸いです。

両親の名前は作者の創作です。
後に凌操の字も出てくるのですが彼は史実では字は不明のままなのでこれも作者の創作になります事を前もって宣言させていただきます。

それではこれからよろしくお願いします。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第一話 状況整理。未来を見据えて

前書き
凌操たち凌家の人間の『凌』の字ですが本当はさんずいの方の字になります。変換が上手く出来ないのでwikipediaに載っているこの『凌』を使わせてもらっています。

前もってご理解の程、よろしくお願いします。


 凌操(りょうそう)

 

 中国は後漢末期に孫呉(そんご)に仕えたとされる武将。

 江東の虎『孫堅(そんけん)』の長男『孫策(そんさく)』、次男『孫権(そんけん)』を二代に渡って支え続けたとされる。

 その武勇は誰もが認める物であり、常に先陣として戦場を駆け抜けたという。

 一説によれば孫呉の宿将の一人、韓当(かんとう)と同等の扱いを受けたと言われている。

 孫堅の頃から仕えている韓当と孫策の頃から仕えた凌操。

 仕えた年数が異なる両者が同等とされていた事からも孫呉の人間が凌操をどれだけ信頼していたかが窺える。

 しかし孫権と共に劉表配下の黄祖を攻めていた折、当時は黄祖の下にいた甘寧の矢を受けて戦死。

 この出来事で彼の息子『凌統(りょうとう)』は甘寧を憎み、有名な二人の確執と和解のエピソードにへ繋がる。

 もっともその死因については諸説あり、甘寧の放った矢ではなく甘寧軍が放った流れ矢にやられたという説もあると言う。

 

 いや今、問題なのは死因ではない。

 重要なのは俺がそんな歴史に名を残すような武将と同じ名前であるという事だ。

 

 これが意味する事は一体何なのかを考えなければならない。

 正直、嫌な予感しかしないが。

 

 一つ目の仮説、ここがかの三国志の時代である。

 二つ目の仮説、かの武将の名に肖(あやか)って名付けている。

 三つ目の仮説、まったくの偶然。

 

 個人的には二つ目か三つ目であってほしい所なのだが、確認できただけの時代背景と照らし合わせると笑い飛ばしたくなるような仮説一が最も有力に思えてしまう。

 

 これが当たりだとするならば、俺は孫に曰く『転生トリップ』という奴を体験中らしい。

 しかしここが後漢末期の中国大陸であるというのなら幾つもの疑問が浮かんでくる。

 

 前にも考えたが、まず言語。

 なぜ日本語が標準語になっているのかが謎だ。

 中国語を日本語として俺の頭が無意識に変換しているという可能性も考えた。

 だがその仮説に説得力を持たせるにはまず俺自身に中国語を日本語に変換できるだけの知識と経験が必要になる。

 しかし生きていた頃の中国語ならまぁそれなりにわかるが、それでもすらすらとと言う程ではない。

 こんな大昔の言葉を日本語のように俺の脳が変換してくれるわけがない。

 ついでに言うなら会話する時の口の動きも日本語そのままだったのでこの仮説は立てた数瞬後には崩れている。

 

 次に言葉は日本語なのに流通している文字は中国語だと言う事。

 父が異様に達筆あるいはど下手であると言う事でなければ、あの文字は中国語で間違いない。

 この時代に使われた物よりも字体が現代よりだった為、俺にも文字の意味は理解できた。

 読めたのは今のところ俺の真名と両親の名前くらいだが。

 文字に触れる機会が少ない為、断言できないのが辛いが確認した部分だけでも文字が中国語である事はほぼ間違いないと推測できる。

 

 日本語と中国語の違いは半端ではない。

 初めて中国の地を踏んだ時、現地の言葉を聞いてここは本当に地球なのかを疑ったくらいだ。

 もっともそれは碌に言語を予習でずに日本に初めて来た中国人も似たような感想を抱くのだろうが。

 それほど言語の壁という物は厚い。

 だと言うのに原住民である彼らは違和感など感じさせずにこの環境に順応している。

 それはつまり『昔からこういう環境であった事』を示している。

 中国語を勉強している日本人、あるいは日本語を勉強している中国人に喧嘩を売っているような環境だ。

 時代考証など以前に意味がわからない。

 

 さらに技術。

 この時代ではありえない服飾品、娯楽の存在だ。

 この頃、世界中のどこであっても紙と言う物は貴重だったと記憶している。

 だと言うのにこんなのどかな村に製本された紙の本があるのははっきり言って異常だ。

 しかもそれがファッション雑誌だと知った時は、頭を抱えたくなった。

 赤ん坊の状態なので手が頭に届かなかったが。

 ありえん、なんだ雑誌『阿蘇阿蘇』って。

 しかも若い女性の間で大人気の雑誌らしく、売りにくる行商人は売り上げがっぽがっぽな状態だそうだ。

 しかもその雑誌の中身も問題だ。

 どれも中華風ではあったが明らかに俺の知っているこの時代の技術力を逸脱している。

 なんだ、『流行は大将軍にあり』ってキャッチフレーズは。

 歴史家に喧嘩を売ってるのか?

 しかも服の材質こそこの時代の物っぽいがやたらきらびやかで、現代の服装と比べても遜色がないように見える。

 あんな女性向けの可愛らしい服を権力を持った人間が着ているわけがないだろうと盛大に突っ込んだ。

 勿論、言葉は出せなかったが。

 

 思い返してみれば父が俺の名前を書いたのも紙で、俺に見せる為に自分の名前を書いたのも紙だったな。

 

 今、挙げた物だけ見てもこの世界の異常性はよくわかる。

 これほどの違いがあると歴史的な出来事にもズレが生じるかもしれない。

 例えば漢王朝の腐敗、そしてかの有名な黄巾の乱や反董卓連合、その後に起こる群雄割拠の世。

 現段階では起きるかどうかわからない。

 もしかしたらこの世界は俺の知る古代中国よりもずっと平和な所なのかもしれない。

 しかしもしもそれらの出来事が早まる、あるいは出来事の規模が悪い方向で大きくなったらまずい事になるだろう。

 こんな辺鄙な村、時代の転換期とも言える出来事の波に晒されてしまえばひとたまりもない。

 

 特に黄巾の乱はまずい。

 黄巾賊は最初こそ王朝の腐敗を糾弾するという高い志をもって武装蜂起したが、それは乱の首謀者『張角(ちょうかく)』がいればこそのはず。

 彼を含めた張三兄弟が亡くなってからの黄巾党に統率などなく、半ば暴徒と化していた。

 この村がそんな連中の猛威に晒される事だけは防がなければならない。

 

 仮に歴史的な出来事が起こらないのだとしても、村全体の自衛手段の充実化は急務だろう。

 いつの時代も悪い事を考える人間はいるものだから。

 せめて迫り来る脅威に対して対抗できるようにならなければならない。

 

 俺が今のうちから出来る事はなにか?

 まず健康面に気をつける事になる。

 何事も身体が資本だ。

 衛生面があまり期待できないこの世界でどの程度の事が実行できるかわからないが、やらないよりは遥かにマシのはずだ。

 

 後は身体ができてきてからの体力作り。

 外で遊ぶという名目でランニングだな。

 子供なら外を走り回っていても問題はないだろうし。

 同年の子供たちを先導して身体を使う遊びをしてもいい。

 そういう身体作りに向いている遊びは多い。

 畑仕事など大人たちの手伝いをして成長の妨げにならない程度に筋力も付けるとしよう。

 

 一般的な成長が止まる十代後半からは生前やっていた格闘技の型をやる。

 いや型だけなら十代前半からでも構わないか。

 ウチの道場にも十歳になるかならないかぐらいの頃から通っている子供もいたのだし。

 今の身体で動き慣れておく意味で必要な事だから早いに越した事はない。

 いつどういう形で血生臭い事件が起こるかわからない時代だ。

 何事も早く始めておくに越した事はない。

 

 出来れば読み書きも習いたい所だが、年齢的に今の段階では厳しい。

 身体が丈夫だという程度なら訝しがられる程度で済むとは思うが、頭の出来が良すぎると不気味がられ最悪迫害される可能性がある。

 もう少し時期を見て両親から学ぶべきだな。

 幸いな事に両親はある程度の教養を持ち合わせているようなので、学ぶ宛があるだけでも儲け物だろう。

 

 今、出来るのはこんな所だろうか?

 しかし年を取る事を楽しいと感じた事はあったが、年を取っていない事にここまで焦燥感が湧くとは思わなかった。

 だがやるしかない。

 俺がすべてをやる必要はない。

 正直、凌操という人物の歴史をなぞって動くべきかどうかは不確定要素が多すぎて迷っている現状では判断できない。

 そんな今の俺に出来ることはなにがあっても対応出来るだけの力を得る事とこの世界の知識を得る事だ。

 さすがに死ぬとわかっている道筋に沿って進むのは御免だからな。

 

 せいぜい気張るとしよう。

 どんな世界で生きていく事になろうが俺の決意は変わらない。

 再び両親からもらった命を精一杯生きるだけだ。

 

 というか赤ん坊の段階でこんなに気苦労を背負い込んで将来、若禿とか胃痛持ちとかにならんだろうな?

 今から心配になってきたぞ。

 

 などと暢気な事を考えていたのが悪かったのか、俺の知る歴史をあざ笑う出来事が訪れる事をこの時の俺は知る由もなかった。

 

 

 

 黄蓋公覆(こうがいこうふく)。

 孫堅の代から孫策、孫権と三代に仕えた老将。

 宿将と言われる韓当、程普と共に孫呉に置ける軍の中核をなし晩年まで活躍したとされている。

 赤壁の戦いに置ける彼の『苦肉の計』は曹操軍に大打撃を与え、天下分け目の戦いにおいてのその活躍は三国志を知る者ならば誰もが知るところだ。

 俺自身、まったくブレる事なく孫家に忠義を尽くした彼には憧れにも似た感情を抱いていた。

 だったのだが。

 

「ほら、祭ちゃん。この子がうちの刀厘よ。仲良くしてね?」

「まかせよ、ろうどの! とうりん、わしの名はこうこうふくじゃ。これからよろしくたのむぞ!」

 

 舌っ足らずな言葉遣いで俺に笑顔で話しかけてくる『少女』。

 銀髪をショートカットにしているこの子がなんとあの黄蓋らしい。

 

「ああ、えっと……りょうとうりんです。よろしくおねがいします」

 

 ショックで挨拶をするのに間が出来てしまったがそれは許してほしい。

 まさか黄蓋の『性別』が違うとは思わなかったのだから。

 

「あらあら? どうしたの、刀厘。もしかして祭ちゃんに見惚れちゃったとか? 可愛いものね」

「な、なにを言うのじゃ。ろうどの! わしはかわいくなどありませんぞ!」

 

 あの黄蓋が女の子で母さんにからかわれて顔を赤くしている。

 訳がわからん、どういう事だ?

 

 現実逃避の為にこんな状況になった経緯を考えてみる。

 俺は赤ん坊の時の決意をそのままに問題なく成長を続け、今年で四歳になった。

 

 ちなみに俺が最初に口に出した言葉は『おかあさん』で子煩悩の父さんを盛大に凹ませた。

 いやいつも一緒にいるのは母さんだったから、順当だと思ったんだが。

 思いの外、父さんが凹んだのですぐに『おとうさん』と言ってやるとさっきまで凹んでいたのがなんだったのかという程の笑顔で俺を抱きしめてきた。

 

 まぁそれはさておき言葉を発する事が出来るようになった後も順調に成長を続けていき、一年と少し経つ頃に『はいはい』を卒業。

 自分の足で歩けるようになった。

 この一年と少しの間の時間はもどかしさと焦りとで、とてつもなく長く感じた。

 なので記念すべき第一歩を踏み出した時は思わず目尻に涙が浮かぶほどに感動したものだ。

 

 それからすぐに家の中を歩き回るようになり、すぐに村の中へと活動範囲を広げていった。

 そしてさらに二年と半年が経過し、四歳になってしばらく経った頃。

 村中を一人で走り回るようになった俺は母さんに隣村の友人のところまで行こうと誘われた。

 訓練も兼ねて二つ返事で了承した俺と母さんが半日歩き通しで着いたその村で、母さんに駆け寄ってくる女の子の姿。

 

 その子が黄蓋である事を知り、そして今は絶賛混乱中の状態だ。

 というか勘弁してくれ。

 ただでさえ諸々の違和感について疑問が尽きないと言うのにここに来て性別の相違とはな。

 もう俺の知る歴史は役に立たないのかもしれない。

 

「どうした、とうりん。あたまをおさえて? いたいのか?」

「ああ、うん。だいじょうぶ」

 

 どうやらこうなった経緯を思い出していたら、無意識に頭を抱えてしまっていたらしい。

 公覆嬢が俺を心配そうに見つめている。

 うわぁ、これが黄蓋かよ。

 

 いや歴史上の黄蓋も人間なのだから幼少期と言うのは当然、存在するはずなのだが。

 男だと思っていたのでこの展開はさすがに想定外過ぎる。

 またしても頭痛を感じて思わずこめかみを指で抑えてしまった。

 

「あ、ごめん。やっぱりちょっとあたまがいたいかも……」

 

 取り繕うのをやめてしまえば後は楽だった。

 

 公覆嬢が彼女の母親と談笑していた母さんに慌てて呼びかけ、駆けつけてくる大人二人に少し休みたいと伝える。

 罪悪感を感じないわけでもないが、頭痛というのは本当なのだし今回だけ大目に見てほしい。

 

「あら、さすがに半日も歩き通しで疲れちゃったのかしら?」

「ほう、この年で自分の村からずっと歩いてきたのか? てっきりお前が抱いてきたのかと思ったのだがの」

「……村の外に出たのはこれが初めてだったからね。少し無茶な事させていたのかもしれないわ。悪いのだけど少し寝かせてあげてもいいかしら?」

「ああ、うちの寝床を使えばいい」

 

 とんとん拍子に話が進む。

 さすが友人同士と言うべきか。

 

「すみません」

「礼儀正しい子じゃのう。うちの跳ねっ返りとは大違いじゃ」

「はは! わしのせいかくはははゆずりじゃぞ!」

「これ、具合の悪い人間の前で騒ぐな」

「うっ、わかりました」

 

 会話を聞いているとすごく和む。

 なんだ、この似たもの親子。

 

「ほら、刀厘。豊(ゆたか)の家に行くわよ」

「うん、母さん。こうふくちゃん、ごめんね」

「あ……う、うむ。きにするな」

「そうじゃぞ、刀厘君。ゆっくり休むといい」

「はい」

 

 心配そうな黄親子の視線を受けながら、俺は母さんに手を引かれて歩く。

 言われてみれば半日も歩き通しだったせいで疲れたかもしれない。

 少し足下がおぼつかない。

 

「ごめんね。貴方が平気そうな顔をしていたから気づいてあげられなかったわ」

 

 ふわりと俺の身体が持ち上がり、母の腕の中に収まる。

 

「ううん、だいじょうぶ。でも少しねむい」

「ええ、寝てもいいわよ。お休み、駆狼」

 

 自分の子供言葉に身もだえる程の恥ずかしさを感じながら、俺は眠りについた。

 この後、目を覚ました時に黄蓋同様にこの世界では女性になっている韓当の姿を見て俺の頭痛がひどくなる事になる。

 誰か俺に平穏と頭痛薬をくれ。

 

 という俺にとっての衝撃的な出会いから早数週間。

 そういう存在であると理解してしまえば慣れるのもまた早い物で。

 公覆嬢、義公嬢とは友人になり、さらに三人で遊んでいるところに程普徳謀(ていふ・とくぼう)、祖茂大栄(そもう・だいえい)も加わった。

 驚いた事に孫呉が誇る忠臣たちは全員、同じ村の出身らしい。

 突っ込み所満載ではあったが、正直なところ歴史上の彼らの出身などどうでもよかった。

 

 それよりも彼らが『男』であった事に、俺は言葉では言い表せないほどの安心感を抱いていて突っ込みどころではなかったのだ。

 

 彼らとはすぐに意気投合した。

 どうも公覆嬢、韓当嬢に頭が上がらず頼りになる男の友人を切望していたらしい。

 まぁ確かにあの二人、異様に押しが強い上に男勝りな性格なので、良くも悪くもまともな性格でさらに一つ年下の程普と祖茂では尻に敷かれるのも理解できた。

 

 まぁそんなこんなで。

 俺は将来の武将たちと友人として付き合いを持つ事になった。

 相変わらず俺の知る歴史に喧嘩を売っているとしか思えないが、もう知識を参考にするのは諦めるべきかもしれない。

 

 黄蓋に続いて韓当まで性別が違う上に全員が同じ村出身となると、伝えられてきた歴史が間違っているというよりもこの世界と俺の知る歴史は別物であると考えた方が賢明だろう。

 

 知識はあくまで知識として活用するとして。

 今はこの貴重な幼少時代を友人たちと過ごそう。

 

 もちろん予定通りに鍛錬を交えつつ、な。

 




後書き
いかがだったでしょうか?
やや年齢の重ね方が駆け足ですが幼少期ではあまり書くことがないので、これからも飛ばし飛ばしになると思います。

次のお話も楽しみにしていただければ幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二話 幼馴染みとの日々。別の場所で生きる者

 将来の名武将四人組との出会いから早四年。

 八歳になった俺は現在、友人たちと鬼ごっこの真っ最中だ。

 

「こんどはぎこうがおにじゃな!」

「よぉし、ぜんいんつかまえてやるからな~~!」

「にげきってやる!」

「ずっとまけっぱなしなんていやだもんね!」

 

 ちなみに上から公覆嬢、義公嬢、大栄、徳謀のセリフだ。

 俺はと言えば彼女らがわいわいと騒いでいる間に、手の届かないところに全力疾走中である。

 

「あ~~、とうりんずるい~~!」

「あ、あいつ早すぎるって」

 

 義公嬢と徳謀がぎゃいぎゃい何か言っているが聞こえんな。

 

 全力を出すと言うことはとても重要な事だ。

 自分の限界を知る事が出来る上に、過去の自分と比較する事で成長を確認する事が出来る。

 今は遊びの範疇だが。

 だからこそ何も気にすることなく、それこそ倒れるまで全力を出し続ける事が可能なのだ。

 この環境を利用しない手はない。

 

 という名目で俺は未だ遠くにいる四人をさらに引き離すべく速度を上げる。

 なんだか最近、公覆嬢たちと付き合っているせいか自分が精神的に幼くなってきている気がする。

 まぁ何の為に努力しているかを忘れなければ、根本的な部分まで影響される事はないだろう。

 

 たまには童心に返るのも良い。

 それも今の内だけだ。

 楽しめるうちは楽しませてもらおう。

 という訳で。

 

「くやしかったら追いついてみろー!!」

 

 大声で後ろの四人を挑発する。

 恐らく聞こえたのだろう、鬼である義公嬢含めて全員が俺を追いかけてくる。

 どうでもいいがこれはもう鬼ごっこじゃなくて俺対四人の変則かけっこだな。

 

 む、さすが公覆嬢。

 四人の中では抜きん出ている走りだ。

 その後は少し遅れて大栄、かなり離れて徳謀と義公嬢か。

 

「またんか、とうりんーーー!!!」

「まってよ、とうにぃ~~~!」

 

 挑発が思いの外、効いたらしい公覆嬢の怒鳴り声にかき消されそうな大栄の声。

 大栄は走り負けてるのが悔しいのか、前で怒鳴っている公覆嬢が怖いのか涙目になっている。

 その様子に罪悪感を覚える……というか大栄、お前はほんとに男か?

 公覆嬢と比べるとどっちが男か疑問を抱いてしまうような光景だ。

 大人たちは微笑ましそうに見ているが。

 

 さすがに俺も疲れてきた。

 俺の体内感覚による推測だが、かれこれ十五分は走りっぱなしだから当然と言えば当然だ。

 たぶん村の全周に換算して五周分は走ってるはず。

 

 切りの良いところで足を止めて息を整えていると二人が追いついてきた。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……よ、うやく、おい…ついた。はぁはぁ……」

「はぁ、ふぅ……とうにぃ、はやすぎだよ」

 

 バテバテな公覆嬢は膝に手をついて息をを整えているが、大栄はまだ余裕があるようで深呼吸一つで呼吸が整っていた。

 どうやら公覆嬢よりも祖茂の方が持久力は上らしい。

 

 しかし全力での単純な力勝負は五人の中で公覆嬢が一番で次に俺、義公嬢になる。

 

 子供時代で既に力の付き方に特徴がでるとは、三国時代の武将と言うのはかなりの規格外だ。

 真剣に突っ込むなら七歳そこらの子供でこんなに体力がある事自体、おかしいんだが。

 

 俺も自分の身体の成長性には驚いている。

 不思議な事にこの身体、通常では考えられない早さで運動した分の体力が付くのだ。

 公覆嬢や徳謀たちはまったく気にしていないようだが、これははっきり言って異常だ。

 前世の記憶を持っている自分だから、以前の身体との比較ではっきりとこの身体の異常性を認識できる。

 

 六歳の頃、鍛錬と称したランニングを始めたその日は村を一周する程度の体力しか無かった。

 だと言うのに三日も走り続けると同じペース配分で二周できるようになっているのだ。

 どう考えてもおかしい。

 

 俺に付き合って鬼ごっこなどの遊びや競争をやっていた武将四人組も個人差はあるが、同じように異常な勢いで成長をしている。

 

 しかし遊び(という名目の鍛錬)を始めた頃の地力は公覆嬢、義公嬢の方が俺や大栄、徳謀よりも上だった。

 この『武将の男性→女性化の三国志世界』は『潜在能力レベルで女尊男卑なんじゃないか?』という不吉且つ理不尽な推測が頭によぎるほどに差があった。

 なにせ俺たちは言うに及ばず、彼女らの父親ですら当時六歳の彼女たちに腕相撲で敗北する程なのだから。

 うちの父さんは負けなかったが、あの時の父さんの目は遊びに対してとは思えないほどに気合が入っていた。

 

 二十歳は年が離れている子供相手に本気を出す男親。

 しかもそのほとんどが敗北したという事実。

 子供の小さい手に合わせての勝負だった為に力が入れにくい体勢だった事を差し引いても酷い有様だ。

 これが世界規模での常識だとしたらと思うとぞっとする。

 

 閑話休題。

 ともかく伸び盛りの子供で済ませる事は絶対に出来ない成長の仕方を俺たちはしている。

 しかしどれだけ考えてもその事に納得の出来る説明が出来ないのだ。

 

 家に籠もって数日もの間、この事を考えていた事もある。

 いきなり引きこもってしまった俺は友人たちや彼らの両親、父さん母さんにまで心配をかけてしまった。

 それについては平謝りする他ない。

 しかし数日、それも心配をかけるほどに集中してこの不思議の解明に勤しんだが納得のできる答えを得る事は出来なかった。

 

 精神年齢換算で今年九十七歳になるのだが、まだまだ世の中という奴はわからない事だらけという事らしい。

 この世界が特殊すぎるのが悪いとも思うのだが。

 

 最終的に俺は強くなる為に努力すればそれだけの結果が返ってくるという『最高の環境』にいる事を喜ぶ事にした。

 開き直りであり、思考の放棄とも言う。

 とにかく己が生涯に課した『過去の自分に克つ』という標題を肉体的に実践できる環境を得られたと思えば、多少の理不尽も受け入れられると思うことにしたのだ。

 

 そう考えてしまえば女性陣にスタートラインで負けている事など気にもならなかった。

 たとえ生まれたその日に差があろうと、追い越す事は可能なのだから。

 以前の身体で出来た事が、より恵まれたこの身体で出来ないはずがない。

 

「うう、ちょっと前までわたしたちにおいつけなかったくせに~~」

「それがくやしかったからむらにもどってから走り込みしてたんだよ」

 

 ようやく追いついてきた義公嬢が俺を睨み付けてくるが正直、怖さなどまったく感じない。

 同年代ならともかくこちとら一回、人生を終えているのだ。

 曾孫並に年が離れている女の子に睨まれたところで痛くも痒くもない。

 

 ちなみに義公嬢と一緒に追いついてきた徳謀だが、しゃべる事も出来ないほどに疲れて地べたに倒れている。

 

「なんと! とうりんはかくれてとっくんをしていたのか!?」

「うん。まけてばかりいられないからまいにち、走ってたんだ」

「あ、ぼくもとうにぃのむらにいったときにいっしょに走ったよ」

 

 俺の事を慕う祖茂は、俺と一緒にという部分が嬉しいらしくニコニコ笑いながら言った。

 心なしか胸を反らして誇らしげにしている。

 微笑ましい限りだ。

 

「まけたくないならがんばらないと、ね」

 

 してやったりと笑いながら気持ち胸を張って言ってやる。

 公覆嬢、義公嬢にはこうやって挑発気味に言うとやる気が倍増する。

 負けん気が人一倍強い性格なのだ。

 

「むぅ~~、だったらわたしも今日から走る!」

「とうりんにまけてばかりではくやしい! わしも走るぞ!」

「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ。……お、おれも」

「ぼくも、とうにぃに追いつけるくらいがんばる!」

 

 精神的な成長において負けるという事は重要な事だ。

 勝利から得られる物よりも敗北から得られる物の方が多いのだから。

 敗北の悔しさを、自分よりも強い者がいるという現実を、そして何かを失う事への恐怖を知る。

 失った物が大きければ大きい程に、失意のどん底まで沈み込むだろう。

 立ち上がる事も容易ではない。

 逃げ出したくなる事もあるだろう、あるいは沈んだまま立ち上がる事さえ出来なくなるかもしれない。

 しかしそこから立ち上がることが出来たならば、負けた時の自分よりも遙かに強くなっているだろう。

 

 自慢にもならない事だが俺は前世で敗北と言う物を腐るほど経験し、沢山の物を失ってきた。

 今更、一つや二つの負けが増えたところで膝を折るような柔な性根はしていない。

 

 絶対に負けられないというここぞという所で負けないように、今は精一杯全力を出して負け、精一杯努力をしよう。

 

 そういう気持ちで走り込みを続ける事、一年後の現在。

 少なくとも走力では公覆嬢、義公嬢を圧倒できるほどに成長した。

 それもこの努力した分がすぐにでも返って来る身体のお蔭だ。

 

「それじゃこんどはかけっこね。ここから村を一周してこうふくちゃんのいえについたらかち」

「こんどは負けない!」

「なにおぅ、わしがかつぞ!」

「いや、おれがかつ!」

「ぼくもがんばる!」

 

 俺が決めたルールに素直に従う四人。

 その様子に苦笑いしながら、俺は声を張り上げる。

 

「よーい、どん!」

 

 俺を含めて一斉に走り出す。

 とりあえず様子見で俺は四人の後ろに着く事にする。

 

 彼らの背中を見つめながら思う。

 

 俺だけが強くなっても駄目だ。

 確かに個人の強さも重要ではある。

 自分の身を守れない人間に他者を守ることなど出来るはずがないのだ。

 だが一人が強くてもすべてを守る事は出来ない。

 戦争に駆り出されたあの頃に、俺はその事を嫌と言うほど思い知っている。

 人生一つ分で得た数々の教訓を無駄にする必要はないはずだ。

 

 時々村を訪れる行商人が言っていたが、懇意にしていた村が滅ぼされていたなどと言う話もざらにある事だという。

 賊の存在はどこにいても付き纏うというのは、俺が知るこの時代となんら変わらないらしい。

 

 この村が、あるいは公覆嬢たちが住む村が賊に襲われないという保証はない。

 

 現状、村の警備体制に意見できるような年齢ではない俺が何か言っても子供の言葉としか受け取ってもらえない。

 この辺りは治安がそこそこ良いようで村人の危機感もそれほど強くないのだ。

 子供であるという事も影響して、以前に雑談に紛れ込ませて『定期的な村近隣の巡回』を提案してみたのだが取り合ってもらえなかった。

 

 今の俺に発言力と言うものは無い。

 無い物ねだりしても仕方がない以上、当初の予定通りに自分に出来る事をしていくしかない。

 いざという時に動けるように。

 

 公覆嬢たちを先導して体力作りに付き合わせているのは最低限、逃げるだけの体力をつけてほしかったからだ。

 未来の武将だからとかそんな理屈を抜きにして彼らは俺の友人だ。

 この訳のわからん世界での初めての友人。

 死なせたくないと思って何がおかしい?

 

 俺は聖人君子ではない。

 すべての人間を幸せにするなんて言葉を自信を持って言えるほどの器などない。

 だがそんな俺にも大切なモノはある。

 それを守る為ならば多少の無理をしてでも手を尽くすべきだろう。

 それこそ必死になって。

 

「こらぁ、とうりん! まじめに走れぇ!」

 

 物思いに耽っている間にずいぶんと離されてしまったらしい。

 かなり遠いところから公覆嬢の声が聞こえてきた。

 どうやら手を抜かれていると思ったらしい。

 かなり怒っている。

 ほんと生まれてくる性別を間違えたとしか思えないな、公覆嬢は。

 

「さっさと来いよ、とうりん~~」

「早く来ないとおいてくぞ!!」

「とうにぃ、早く~~」

 

 口元が自然に弛んでいくのが自分でわかった。

 ほんと、気持ちの良いガキどもだ。

 

「よぉし、いっくぞぉ~~~~~!!」

 

 気合いを入れる為に腹の底から声を出す。

 俺が全力疾走で四人をごぼう抜きにするのにそう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 私は懐かしい気配を感じて部屋の窓から外を見た。

 ゆっくりと動く白い雲とどこまでも続く青空が広がっているのが見える。

 

「どうしたのだ、幼台?」

 

 姉に尋ねられ、なんでもないと答える。

 本当はなんでもないというのは嘘なのだけど、心配をかけたくなかったので黙っている事にした。

 

「なんでもないってことはないだろ? ほら、姉に話してみせろ」

 

 すっごくわくわくしている顔で、私ににじり寄ってくる『この世界』で出来た姉。

 こうなった姉はたとえ両親でも止められない事を私は良く知っている。

 だから正直に話すことにした。

 

「すこし、なつかしいかんじがしたの」

「なつかしい? 前から思ってたがせいはときどきへんな言い方をするなぁ」

 

 そう。

 とても愛しくて、とても優しかった『あの人』の気配を感じた気がした。

 もちろん、それは気のせいだろうけれど。

 

 この世界に生を受けて八年。

 暖かい家族に囲まれて、私は第二の人生を過ごしている。

 

 生まれ変わって一ヶ月間はただひたすら混乱していた。

 愛する人と家族、友人たちに看取られて幸せなまま喪に伏したのに。

 

 まるで夜明けのような眩しさを瞼越しに感じて、思わず目を開けてみればそこは見たことのない部屋で。

 思わず頭上にかざした自分の手が小さくてとても驚いた。

 

 赤ん坊になっているという事実を、しっかりと認識するのにもひどく時間がかかったっけ。

 そして混乱の只中だった私の寝台の横には別の赤ん坊が寝かされていた。

 その赤ん坊が姉だと言うことは、状況に混乱した私の本能的な大泣きを聞いて駆けつけた母が教えてくれた。

 

 その姉があの有名な『孫堅文台(そんけんぶんだい)』だと知った時は、頭が真っ白になるほどに驚いた事を覚えている。

 

「ふふふ」

「なんだ? 何か面白いことでもあったのか?」

 

 好奇心旺盛な姉は何にでも興味を示す。

 特に私の事になるとどんな些細な事でも見逃さない。

 それが嬉しくて、でも対応に困ってしまう事がある。

 

 今がまさにそれだ。

 まさか自分が生まれた時の事を思い出していたなんて言えない。

 下手に誤魔化しても姉はすごく勘が鋭いからきっと気づかれてしまうだろう。

 

 うん。せっかくだから前から聞きたかった事を聞いてしまおうかな?

 

「ねぇ姉上。もしも……もしもわたしに好きな人ができたら姉上はわたしをしゅくふくしてくれる?」

 

 この質問は予想外だったらしい姉は目を丸くして驚いている。

 しかしすぐに十歳児とは思えない、でもこの上なく似合っているニヤリ笑いを浮かべるとこう言った。

 

「しゅくふくする前にそいつにはわたしとしょうぶしてもらうぞ。わたしにかてないようなやつに大事な妹はやれん!」

 

 前世での頑固親父のような事を言う姉。

 正直、そういう言葉が出てくるのは予想していた。

 だから私は予め用意していた言葉を言う。

 

「だいじょうぶだよ、姉上。わたしが好きになった人なら姉上だってたおしちゃうから」

「ははは! それはたのしみだなぁ」

 

 本当に楽しそうに笑う姉と一緒に私も笑う。

 

「(ねぇ、玖郎。あなたがもしもこの世界のどこかにいるのなら私を見つけだしてくれるって期待しても良いよね?)」

 

 彼がこの世界にいる保証なんてない。

 たださっきふと感じた懐かしい気配だけが私に儚い希望を抱かせていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三話 鍛錬の日々。初めての戦い

「いくぞ、駆狼!!」

「さっさとかかって来い。激(げき)」

 

 今、俺は村に届け物をしにきた程普改め激と向かい合っている。

 激と言うのは徳謀の真名だ。

 

 十歳になった頃、俺たちはそれぞれの親から自分で真名を許す許可が降りたのでさっそくいつもの五人で交換した。

 なんでも真名とは許された者以外が決して呼ぶ事があってはならない物であり、許可なく呼べば殺されても文句は言えない神聖な物なのだそうだ。

 親しい者にしか呼ばれない渾名程度にしか考えていなかった俺はしゃべれるようになった頃、両親に説明されて戦慄したのを覚えている。

 気軽に口にしなくて良かったと心の底から安堵したものだ。

 

 この地方独特の風習らしいのだが、子供が誰かに真名を許すには親の許可が必要になるらしい。

 この辺りの地域は真名の神聖性を特に重んじる傾向にある。

 そうであるが故に子供の頃、つまりしっかりとした判断基準を持たない段階で真名を許すという行為を許さない。

 それを許可するかどうかは親が責任を持って判断しなければならないのだ。

 例外として相手から真名を預けた場合は返礼として預ける事が出来る。

 公覆嬢改め祭(さい)嬢と母さんなどはその典型だし、俺も真名についてのレクチャーを受けたその日に両親と祭嬢たちの親に真名を預けてもらったので返礼している。

 

 

 そして俺たち五人はそれぞれ十歳の誕生日に自分で真名を預ける判断が出来るとされたというわけだ。

 俺にとって真名という風習自体が馴染みの薄い物なので実感は湧かなかったが、この年齢で許可されるのは珍しいらしい。

 

 正直、許可云々は俺にはどうでもよい話だったが祭嬢たちにとっては違ったらしい。

 親から許可をもらったその日の喜びようは半端ではなかった。

 親たちも許可を出した感動で盛り上がり、その日は酒宴が開かれた。

 正直、一人置いてけぼりを食らっていた俺は怒濤の流れにまったくついていけなかったのだが。

 

 真名が云々の話よりも、酒宴で十歳児に酒を勧める阿呆どもを毎日の走り込みのお陰で馬鹿みたいに強くなった蹴りで沈めたり、場の雰囲気に酔ってノリノリで飲もうとした激と祭に拳骨をお見舞いしたりと宴の火消しに忙しかった記憶の方が濃厚に残っているくらいだ。

 そんな神聖さなど微塵も感じさせない騒がしい空気の中で俺たちは真名を預け合い、さらに仲を深めたというわけだ。

 

 

「シッ!!」

「ふッ!!」

 

 そんな人生の節目を終えてさらに四年後の現在。

 俺たちは今年で十四歳になり、身体的発育に明暗が分かれる時期に差し掛かりつつあった。

 

 既に俺、激、大栄改め慎(しん)は個人差はあるが背が伸び始めているし体付きもがっしりとしてきた。

 祭嬢と義公嬢改め塁(るい)嬢は身体が女性らしいしなやかな丸みを帯びてきている。

 

 女性らしく成長しつつある彼女らだが強いのは相変わらずだ。

 むしろ常識を外れつつあるという意味では悪化していると言える。

 

 塁嬢などは最近、落石で塞がれてしまった道の大岩を持ち上げてどけるという恐ろしい事をしでかしている。

 その件の大岩を蹴り砕けるか試したら出来てしまったので、俺も人の事は言えない身なのだが。

 

 毎日、鍛錬を欠かさなかったとはいえ十四歳でこの成果はさすがに引いた。

 代償として蹴りに使った右足に罅がが入ってしばらく使い物にならなくなったのだが、それにしてもあんな見上げるような大きさの岩を生身で砕けるとは思いもしなかった。

 

 周りの人間がその事を特に気にしていなかった事が救いと言えば救いだ。

 前世と比べて色々と常識が規格外である事に初めて感謝したくなった。

 前世でこんな力を持っていたら怯えられて迫害されかねん。

 

「いだだだ!? おい、駆狼!! 考え事しながら関節きめんな!! 折れる折れるッ!?」

「ん? ああ、すまんすまん。真面目にやる」

「ぎゃぁあああああ! 違う違う、真面目に折る方向で考えてんじゃねぇ!! 俺の負けだから離せって言ってんだよぉおおおお!!」

「やかましい奴だ」

「この極悪冷血漢ッ!!」

「ああ、手が滑った」

 

 激の肩から鈍い音を発てた。

 

「ぎゃああああああああああ!!!!!!」

 

 折るのではなく、肩を外してから関節技を解く。

 そして白目を剥いて気絶した激の肩をはめなおしてやる。

 うめき声と共に目を覚ますが、はめなおした肩の痛みでまた気絶した。

 

 忙しい奴だ。

 

 ……即興でやってみたがこれはお仕置きに使えそうだな。

 

 とりあえず肩に負担がかからないよう仰向けに寝かせ、日光が直に当たらないよう木陰に運ぶ。

 ビクビクと身体を痙攣させている激を無視しながら俺は地面に胡座をかいた。

 

 考えるのは現在の俺たちの状況と今後の村の安全について。

 

 それぞれに強くなると言う事を明確に意識し始めた。

 祭嬢は親の指導の元で弓の訓練をしている。

 ついこの間、その腕が認められて『多幻双弓(たげんそうきゅう)』という弓をもらったとはしゃぎながら言っていた。

 慎は剣を、激は弓を習いつつ俺と素手での戦い方を試行錯誤しながら学んでいる。

 塁嬢は親から譲られた大鎚(名前を『観世流仁瑠(みょるにる)』というらしい。どこの神話だ)を用いて鍛錬に励んでいる。

 俺自身は毎日の走り込みに加えて格闘技の型を繰り返し体に馴染ませている。

 

 激が実験台もとい練習相手になってくれるので想定以上に順調に強くなっている。

 しかし俺の格闘技はいわゆる試合を行う為の物であり、基本的に一対一しか想定されていない。

 色々と応用が利く技術ではあるが、賊や正規の軍隊を相手に一対多数で戦う可能性を考えるとこれだけでは些か心許ない。

 よって今は鍛錬と農作業を行う傍ら、俺に合った武器がないかを思案している。

 

 

 この世界に正当な武術の型や流派という物は存在しない。

 最も基本的な突く、斬るなどの動作は別として。

 武を志す物が敵を倒す為に日々精進して生まれた型はあるのだろうが、それは一人一人が生み出した個人技に過ぎない。

 

 大衆向けの一般的な(と言うと語弊があるかもしれない)武術、万人に教えられ努力を怠らなければそれなりの使い手になれる汎用性の高い技術と言うものは無いのだ。

 

 俺という例外が生前に生み出した『精心流(しょうじんりゅう)』を除いて。

 前世の記憶を持つという反則的な環境にいる俺には、この時代の武将が歴史として語り継がれるほど先の世界の武術の記憶がある。

 

 その中には棒術などの武器を用いた物も含まれている為、村で有志を募ってこれの訓練してもらえば村全体の防衛機能をある程度、上げる事が出来るだろう。

 もちろん力を持った事で調子に乗る者がいないとは言えない。

 そういう連中が出た場合は見せしめも兼ねて容赦なしに叩き潰すつもりでいるが。

 

 しかしこの周辺の村は子供の年代にかなり差がある。

 俺たちと同年程度の子供はおらず、年上は既に二十歳に近い。

 下になるとまだ生まれたばかりの子やまだ一歳にも満たない程度の年齢ばかり。

 なんとも極端な話だ。

 

 村周辺の治安を守る為にまとまったグループ、いわゆる自警団を設立するに当たって解決すべき一番の問題は上の年代をどう説得するかになるだろう。

 

 十四歳でその力を周囲に認められつつある俺たちだが、未だ村の中で発言力を持つには至っていない。

 それは子供だからという事が一番の理由なのだろうが、人を率いるにあたり必要な威厳が足りない事もあると思っている。

 幾ら大岩を持ち上げて打ち砕ける力があっても、人を引っ張っていく為の威厳は別次元の話だ。

 それにこんな子供に意見されるというのも大人のプライドを刺激してしまうだろう。

 

 正論であるからと言って万人がそれを受け入れるとは限らない。

 理由は様々だろうが反発と言うものは必ずあるものだ。

 その反発にどう対応していくか。

 

 こんな時代だ。

 守りたい物を守るためには正論だけではやっていけなくなる。

 泥をかぶる事もそろそろ覚悟しておかなければならないだろう。

 

「う、うう……」

 

 思考に沈んでいた俺の意識を引き上げる激のうめき声。

 ずいぶん長い時間、考え事に没頭していたらしい。

 俺は太陽が真上に在る事にここでようやく気がついた。

 

「起きろ、激。早く村に戻らないとおばさんと塁にどやされるぞ」

「うう、はっ!?」

 

 目を開くと同時に跳ね起きる激。

 そして真上に昇った太陽を見て顔を真っ青にした。

 

「やっべぇ!! 早く戻らないと塁にボコボコにされる!!!」

「ほう、災難だな。頑張れ」

「お前、他人事過ぎるだろ! 半分以上、お前のせいだぞ!!!」

「言い訳する相手は俺じゃなくて塁にしろ。まぁ問答無用だろうがな」

「だぁ~~~! ちくしょう、覚えてろよ、駆狼!!!」

 

 木陰に置いてあった籠を背負って激は三流悪役のような台詞と共に去っていった。

 

「騒がしい奴だ。と言うか既に塁の尻に敷かれてるな」

 

 将来はカカァ天下確定か。

 などと考えながら既に米粒のような小ささになっている友人の背中を見送る。

 俺が泥を被ってでも守りたいと思うモノの一つを。

 

「……さてと」

 

 まずは飯。

 その後は畑仕事の手伝いだったな。

 

「今日も一日、安らかに過ごせますように」

 

 いないと思っている神仏に願うのではなく、己に言い聞かせるように呟いて俺は立ち上がった。

 

 そしてこの数日後。

 俺はこの世界で初めて人を殺す事になる。

 

 

 

 山賊による襲撃。

 襲われたのは俺の住んでいる村ではなく、祭嬢たちの住む村だった。

 

 村の中で一番、足が速かった慎がうちの村に救援を求めて来たのだ。

 

「お願いします! 一度は凌ぐ事が出来たけど、もう一度襲撃されたらひとたまりもないんです!!!」

 

 慎の話によれば賊は初めて襲撃してきた際に村側からの想定外の反撃を受けて一度、逃げ帰ったらしい。

 

 反撃をしたのは慎たち四人だ。

 既に弓の使い手として狩りなどに参加していた祭嬢と激が弓で牽制。

 何人かを射抜き、その攻撃で敵の動きが止まったところに塁と慎が突撃。

 子供と侮った連中を文字通り粉砕し、追い返す事に成功したのだそうだ。

 

「でも塁さんと祭さんが人を殺した事を気にしていて……今は戦えないんです」

 

 そう語る慎の顔も青い。

 この村まで全力で駆け続けた事以外に理由があるのは明白だ。

 

 そもそもなぜ四人だけで、村の人間に相談する事なく敵を迎え討ったのか。

 どうも賊が村に迫っている姿を見て四人はパニックを起こしたらしい。

 このままでは村が襲われるという事だけに意識が向かってしまい、村に危険を知らせるなどの冷静な対応が出来なくなった。

 実際に村の目の前まで賊は迫っていたらしいので、冷静な対応などとても出来ない状況だったんだろう。

 

 その結果、追い返した後に自分たちが『人を殺した事』を認識してしまい鬱ぎ込んでしまったのだ。

 

 しかし賊を追い返す事は出来たが、連中は「てめえら許さねぇ、覚えていろ!」と言うような言葉を残して退却していったと言う。

 また来る、それもすぐにでも襲撃してくる可能性が高い。

 それに加えて村にとっての主戦力だっただろう祭嬢と塁嬢が戦えないという状況。

 近隣の村に救援要請が来るのも当然の成り行きだろう。

 

「どうかお願いします!」

 

 地面に顔を擦り付けながら土下座する慎。

 しかし彼の必死な思いを聞いて尚、村長他俺の村の住人の反応は芳しくなかった。

 

「しかし救援と言っても我々も自分たちの村を守らねばならん……」

 

 慎の懇願を断る事への罪悪感か、子供に事実を突きつける事への羞恥心か。

 村長は顔を背けて言葉を濁した。

 

 だが彼の言葉は正論だった。

 さほど裕福とは言えないこの辺り周辺の村同士は助け合いが暗黙の了解だ。

 しかしそれは互いに余裕がある場合という前提の元に成り立っている。

 

 賊に他の村が襲われたという事は、次にどこに矛先を向けられるのかわからないと言う事だ。

 連中の言葉を鵜呑みにして戦える人間を余所に向かわせている間に、自分たちの村が襲われない保証は無い。

 ただでさえ各村に戦力と呼ばれる物は少ないというのに余所にまで手を回せる余裕などないのが現状だ。

 

「う、く……」

 

 それが理解できているのだろう慎は、泣き声を上げそうになるのを必死に堪えて頭を下げ続ける。

 しかしその仕草に動揺はしても心動かされはしない俺の村の住人たちは黙ってこいつから視線を外すだけ。

 

「村長、はっきり言ったらどうです? 救援を出せるほどの余裕などない、と」

「ッ! く、駆狼……」

 

 弾かれたように会議の場所とされた村長宅に集まった人間たちの視線が俺に集まる。

 地面に顔を擦り付けていた慎も俺の声に顔を上げていた。

 

「ここで慎を引き留め続ければそれだけ彼の村が危険に晒される可能性が高くなる。彼は老人の多いあの村で戦力に数えられている貴重な人間なのだから。一瞬だって惜しい彼に対して言葉を濁して出せもしない救援に対する期待を高めさせてどうするんです? まさか彼に自分の村を見殺しにしろとでも言うつもりですか?」

「な、なにを馬鹿な! 私にそんなつもりは無い!!」

「だが俺が口を挟まなければ結果的にそうなっていたかもしれない。慎はどういう結果であれ貴方のはっきりとした意志表示の言葉を待っているんですよ? 貴方が答えを出さない限り出ていかない」

 

 今まで平和だったこの村で、付き合いの深い隣村を見捨てるかどうかの決断を迫るのは酷な事だろう。

 だが必要な事でもある。

 平和を当然の物であると思っていたこの村全体に現実を思い知らせるという意味で。

 

「た、確かにそうだろうがならば隣村を見捨てろと言うのか!?」

「違います」

「「「「!?」」」」

 

 声を荒げる村長に対し、俺は無表情のまま即答する。

 あまりの即答ぶりに周りが驚いているがいちいち反応を窺っているほどの暇も無いから無視した。

 

「慎、悪いがこの村には父さんたちくらいしか武器を扱える人間はいない。村が賊に襲われた時、一人でも欠けていては対抗も難しいくらいだ」

「う、うん」

 

 ずっと土下座していた慎を立たせて、優しく語りかける。

 我慢できずにこぼれ落ちそうな涙を腕で拭いながら慎は俺の言葉を聞く。

 

「だから『戦力に数えられていない』俺がお前の村に行く」

「え? 刀にぃが?」

 

 そう俺が一人で彼らの村に行く。

 村の防衛者として勘定されていない俺が勝手に慎たちの所へ行く分には問題はない。

 腕前については村中に知られている俺だが、両親の方針で十五になるまで戦力になる事を禁じられていた。

 村長は俺が頭角を表し始めた十二歳頃に、すぐにでも村の守り役にしようとしていたようだが村の防衛責任者である父の言葉でその時まではと我慢していた。

 

 それが我が子に血生臭い事をさせたくないという父の親心なのだと俺は理解していた。

 

「駆狼、お前……」

「父さん。父さんの気持ちは嬉しい。でも俺は行くよ」

 

 親子にしか伝わらない短いやりとり。

 だがお互いの想いが伝わった事は数秒見つめ合っただけで確認出来た。

 

「行くぞ、慎。父さん、この村をお願いします」

「……ああ」

 

 震える声で俺の言葉に返事をする父さん。

 その声は前世で俺を戦場に送り出した時を思い出させる。

 

 村長宅の出入り口を通り抜ける。

 最後に振り返り、父さんと言葉もなく立ち尽くす他の面々、そして頭を下げて「すまん」と小さく呟く村長を視界に納める。

 

「行ってきます」

 

 背筋を伸ばし、両足を揃えて、視線を正面に、右手を真っ直ぐに伸ばして額に当てる。

 敬礼を終えた俺は慎と共に言葉もなく駆けだした。

 

 目指すは慎たちの村。

 俺の大切な者たちがいる場所。

 

 

 

 儂たち四人はいつも通り、村の外で鍛錬に励んでいた。

 駆狼が儂たちに黙って鍛錬している事を知って以来の習慣じゃ。

 この鍛錬のお陰で儂らは年々、着々と腕を上げて今では父や母に自分たちよりも強くなったとお墨付きをもらえるほどになった。

 

「と言っても未だあやつには届かぬがの」

 

 弓の弦を確認しながら呟く。

 思い浮かぶのは初めて出会った頃から何かと儂らの中心にいるあの男の事。

 

 出会った頃から妙に落ち着きのある空気を持っていたが年々、その雰囲気が強くなってきている気がする。

 たまに年齢を偽っているのではないかと思うほどじゃ。

 

 あのすべてを包み込む、思わず寄りかかってしまいたくなるような巨木のような気配。

 優しさと同時に力強さを感じさせる男。

 同じ男である激や慎は勿論、儂や塁も持っていない物を持つ者。

 

 しかし儂は奴に寄りかかるつもりはない。

 どうも最近、一緒にいる時も何かを考え込む事が多いあやつ。

 悩み事を相談しない事を水くさいと思う。

 同時に相談されない、駆狼に頼りにされていない己をふがいないとも思っていた。

 こうして四人で鍛錬に勤しんでいる間も悔しさを噛みしめているくらいに。

 

「刀にぃの事? 祭さん」

「うん? なんじゃ慎。聞いておったのか?」

 

 頷きながら儂の横に腰掛けて剣の手入れをする慎。

 昔から駆狼を兄と慕っているこやつにとっても今のあやつの態度は気に食わないのじゃろうな。

 

「最近、何か考え込んでる事が多いんだよね。この間、行商人さんから話を聞いてからは特に」

「……かなり近い所の村が襲われたと言う話か?」

 

 確かにそうかもしれん。

 もしかしたらあやつ、自分たちか儂らの村が襲われる事を心配しているのかもしれんな。

 

「でもそれは気にしてもどうにもならないんじゃないの?」

「そうだよなぁ。連中がどこを襲うかなんてわかるわけねぇし」

 

 先ほどまで打ち合いをしていた塁と激が話に入ってくる。

 

「……塁、ぬしはもっと加減できんのか? その鎚を振るった跡でそこら中、穴だらけなんじゃが」

「う、仕方ないじゃない。これ、手加減なんて器用な事出来ないし、激は受け止めないで避けちゃうし」

 

 ふくれっ面でそっぽを向いても誤魔化さんぞ。

 毎度毎度、鍛錬の場所を変えなければならん元凶なんじゃからな。

 

「あんなもん避けるに決まってるだろぉぉが! あんなの受け止めたら両手が粉々になるか、最悪死ぬわ!!」

「え~~、だって駆狼は受け止めて見せたわよ? 私の振り下ろしに合わせた蹴りで。むしろ私の方が吹き飛ばされたくらいだし」

 

 なんと駆狼はあんな人の胴体丸々納まってしまうような大槌を受け止めたのか!?

 

「あいつと俺を一緒にすんな!! ええい、ちくしょう! 駆狼め。絶対に追いついてやる!!」

「あ、激。駆狼に追いつくのはあたしが先よ」

「んだとぉ。俺が先に決まってんだろ!!」

「あはは、二人とも。話がズレてるんだけど」

 

 慎と顔を見合わせて苦笑いする。

 駆狼の話をすると最後にはこうしていつか追いついてやると言う話になってしまう。

 儂ら全員がずっと持ち続けている共通した思いじゃからなぁ。

 こればかりは仕方がない事じゃ。

 

「ん?」

「あれ?」

 

 じゃが『いつも通り』はここまでじゃった。

 

「どうしたんじゃ? 激、塁」

 

 二人が口喧嘩をやめてどこか遠くに視線を向けている事に儂は首をかしげる。

 

「なぁ、祭。お前、俺らの中じゃ一番目が良かったよな?」

「あれ……向こうに土煙が見えるんだけど」

「なに?」

 

 塁が指を指す方に顔を向ける。

 むぅ、確かに何か砂が舞っているようだ。

 しかもどんどんこちらに近づいて……っ!?

 

「慎! 激! 塁! あれは山賊じゃ!!!」

「「えっ!?」」

「なにッ!?」

 

 この日、儂らは初めて人を殺した。

 そしていつも儂らと共におった優しいあやつが、儂らよりも遥かに強いあやつが、死にもの狂いになる様を見せつけられる事になる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四話 守るための戦い。誓いを新たに

 幸いな事に俺と慎が到着した時、村は無事だった。

 しかし村を取り巻く空気は、さながらかつて俺が体験した戦場跡を思わせるほど暗い。

 

 普段ならば畑を耕す人がいて、世間話に花を咲かせる人がいて、質素ながら笑顔の溢れる場所がこの有様だ。

 皆、賊に怯えて家に隠れて息を潜めている。

 そんな行為に意味がない事を理解していながら、恐怖で逃げる事もできないんだろう。

 荒事とは無縁でいた人間ならばこれが普通の反応だ。

 

 パニックになっていたとはいえ、迫り来る脅威に立ち向かう事が出来た慎たちの方が稀有なのだ。

 

「慎、激たちはどこだ?」

「激は村のみんなに家に隠れているように伝えて回ってる。祭さんと塁さんは……たぶん自分の家だと思う」

「おばさんたちは?」

「山賊が攻めてきた村の南方に防柵を作ってるはずだよ」

「そうか」

 

 この村には若い人手が不足している。

 こういう時に力仕事を任せられる人材が四十半ばの慎たちの両親を含めて十人少しだけで後は老人か子供しかいない。

 だからどうしても慎たちの両親に負担がかかってしまう。

 

「ねぇ、刀にぃ」

「なんだ?」

 

 沈んだ声はひどく苦しげで。

 俺にはなんとなく次に出てくる言葉に察しが付いた。

 

「聞かないんだね。祭さんたちの事」

「……ああ」

 

 たとえ聞いても今、会う気は俺にはない。

 正確には会って慰めてやるだけの余裕がない。

 いつ賊が攻めてくるかわからないのだから。

 

「なんで? 心配じゃないの?」

 

 すがりつくような声で質問を重ねながら慎は俺の腕を掴んだ。

 

「心配じゃないわけないだろう。何年一緒にいると思ってるんだ?」

「だったら……」

「今、俺が行って慰めてやって……それであいつらが立ち直れると思うか?」

 

 慎の言葉を遮って言い募る。

 俺を慕ってくれるのは嬉しいが、なんでも俺を頼りにするなと暗に伝える。

 

「自分で乗り越えなきゃどうにもならない。心配は心配だがこれはそういう問題だ。お前と激も他人事じゃないんだぞ?」

 

 雷に打たれたように身体を震わせる慎。

 そんな真っ青な顔で、俺を誤魔化せると思っているのか?

 

「他人の心配もいいが、それを言い訳に自分の事を後回しにするな。どんな経緯であれお前がやった事だ。向き合えるのはお前だけなんだぞ」

「あ…、う……」

 

 真っ青を通り越して白くなっていく慎の目を真っ直ぐに見据えて俺は言葉を続ける。

 

「自分の所業から目を逸らす為に他人を、それも友人を利用するな。それは今まで築いてきたお互いの信頼を汚す行為だ」

 

 こいつは四人の中で一番、頭が良い。

 そしてこの年代からすれば異常に思えるほどに視野が広い。

 だから無意識に周囲を観察し、人間の本能が臆病であるが故に自分がもっとも傷付かない方向に物事を考えてしまう。

 周りが見えすぎるくらいに見えているこいつは常に逃げ道を捜しているのだ。

 傷つけたくない一心で、傷つきたくない一心で。

 

 今までならそれで良かった。

 だがこいつは成り行きでではあるが、人生を血塗れにする事を決断したのだ。

 なにもかもを逃げ腰で済ませる事はもう許されない。

 

「いつまでも俺の後ろに隠れるな」

 

 今までした事がないほどに突き放した冷たい言い方をする。

 今ここで言わなければこいつはいつか公然と他者を陥れるような人間になってしまうかもしれない。

 慎が誰よりも優しい人間である事を知っているからこそ、そんな風になってほしくなかった。

 

 立ち止まってしまった慎を置いて俺は歩く。

 

「激を見かけたら村の南方に来るように伝えてくれ。手伝ってほしい事がある、とな」

 

 伝言だけ預けて遠ざかっていく俺を慎が追いかけてくる事はなかった。

 

 

 

「駆狼君!?」

 

 俺の姿を見て目を見開いて驚く祭嬢の母親である豊さん。

 防柵建築の作業を塁嬢の両親に任せて、こちらに走り寄ってくる。

 

「ご無沙汰しています」

「あ、ああ。しかし来てくれたのはありがたいが……君は」

「父さんは俺の意志を認めてくれました。それがすべてです」

 

 俺の言葉を受けて辛そうに眉を寄せる豊さん。

 しかし事が一刻を争う事も理解している彼女はすぐに頭を切り替えてくれた。

 

「娘と塁が使い物にならなくなった。お陰で人手が足りん」

「慎に聞いています。ただうちの村にも救援を出せるだけの余裕がありません」

「ああ、わかっとる。正直、君が来る事も期待していなかった。君の両親には悪いが嬉しい誤算じゃよ」

 

 苦笑する豊さん。

 俺も苦笑いを返す。

 

「俺一人いた所で何が変わるかわかりませんが最善を尽くします。後悔しない為に」

「その冷静な物言いを聞く度に思うんじゃが……本当に君は子供らしくないなぁ。実は私より年上なんじゃないか?」

「ははは、それはおもしろい冗談ですね」

 

 本人は冗談のつもりなんだろうが、実に心臓に悪い事を言う。

 まぁ仮に俺の事がばれてもこの人や皆なら気にしない気もするが。

 

「ふっ、そうか?」

 

 そういう意味深な笑い方をしないでほしい。

 気づかれているのではないかと勘繰ってしまうから。

 

「とりあえず話を戻します。うちの村からの救援はありません。俺は『一人で勝手に』ここに来ました」

「来た以上は『覚悟がある』という事でいいんじゃな?」

 

 問いかける豊さんの目は真剣だ。

 先ほどまでの飄々とした雰囲気は微塵もない。

 

「それは敵を殺す覚悟ですか? それとも敵に殺される覚悟ですか?」

 

 だから俺も真剣に問い返す。

 無言で頷く豊さん。

 

「両方ともあります。ですがそれよりも前から決めていた覚悟があります」

「ほう? 良ければ聞かせてもらえるか?」

 

 ふと視界の端にこちらに走ってくる激の姿が映る。

 俺を見つけて手を振ってくる姿に、手を挙げて応えながら俺は豊さんにこう返した。

 

「なにがあっても生きていく覚悟です。たとえどれだけの血に塗れても」

「っ!?」

 

 激の方に視線を向けていたから俺に豊さんの表情を知る事は出来ない。

 ただ彼女が驚いて息を呑んで驚いている事はわかった。

 

 

 

 豊さんと別れ、激と合流した俺は村近辺の偵察に出た。

 賊がいつ来るかわからない以上、入れ違いになる事だけは避けたい。

 よってそれほど村から離れた所に行くことは出来ないが、俺たちはそれなりに目が良い。

 村の近隣は基本的に平野になっているから何か異変があればすぐに察知する事が可能だ。

 

「激、お前は大丈夫なのか?」

「ああ? ……んなわけねぇだろ。ただ意地張ってやせ我慢してるだけだよ」

 

 周囲を油断なく見回しながらさらに村から離れる。

 現状、特に異常は見当たらない。

 

「塁や慎みたく近づいて直接殺したわけでもないのによ。震えが止まらねぇんだ。正直、何かやってないと動けなくなっちまいそうだぜ」

 

 その言葉に誇張は無いんだろう。

 実際にこうして足を止めて周囲を見回している間、激の体はずっと震えている。

 俺と話をしている間も、ずっとだ。

 

「それでも今はへこたれてる暇はねぇ。慎だって辛いのを我慢してるし、お前が俺らを助ける為に来てくれたってのにへこんでる暇なんてねぇよ」

 

 激は深呼吸と同時にぐっと拳を握り締め、力を込める。

 俺にはその姿が震えが止まるようにと自分に言い聞かせているように見えた。

 

「無理はするなよ?」

「それこそ無理だな。生まれ育った村の一大事だぜ? じっとしてなんかいられねぇよ。たぶん祭たちだってそう思ってるはずだ」

「……そうだな。すまん」

 

 そこからしばらくはお互いに沈黙し近隣を見回る。

 一時間は捜索しただろうが遠目に見える村に異変はなく、また周囲にもこれと言って目を引くものは見つからなかった。

 

「この辺りには賊はいないみたいだな。一旦、戻るぞ」

「なぁ駆狼」

「どうした? 何か見つけたのか」

 

 激は「いいや」と首を横に振る。

 そして俺の横に並んで歩きながら言った。

 

「祭たちは大丈夫だと思うか?」

「……俺はあの二人がどんな様子か知らないからな。たとえ気休めでも大丈夫だとは言ってやれない」

「そっか」

 

 俺の言葉に希望を見出したかったんだろう激は俯いて黙り込む。

 冷たい言い方になるが一分一秒を惜しまなけりゃならないこの状況で村の防衛以外の事に割く時間の余裕はない。

 

 だから俺は今まで祭嬢たちの様子を慎や激に聞かなかった。

 豊さんに詳しく聞かなかったのも知れば気になってしまうから意識して避けていた。

 

 だが経験測で言えば人殺しという業の衝撃は人によって度合いが違う。

 再起不能になっても仕方ないほどにショックを受ける人間も少なくないのだ。

 その事を身を持って知っている俺は根拠のない自信で大丈夫と言ってやれるほど無責任にはなれなかった。

 

「ただ……」

「ん?」

 

 暗い雰囲気の激が顔を上げた。

 

「あいつらなら乗り越えてくれると俺は信じている」

「駆狼……」

 

 目を見開いて驚く激に構わず俺は言葉を続ける。

 

「十年も一緒にいる俺たちがあいつらの意志を信じてやれないでどうする?」

 

 気休めにしかならないかもしれない。

 だがこれは俺の本音でもある。

 

 今でも瞼を閉じれば思い出せる『最初の殺し』。

 お国のためにと銃剣を振るい、相手の喉笛に突き立てたあの感触。

 相手の目に映る自分。

 何かを言おうとして、しかし喉が潰れて声も出せないまま崩れ落ちていった相手。

 最後に言い残そうとしたのは果たしてどんな言葉だったのか。

 

 次から次へと迫り来る敵を前に。

 俺は狂ったように銃の引き金を引き、狂ったように前へ進み、狂ったように吼え声を上げた。

 

 人の命がとても軽く感じられた頃の記憶を思い出しながら俺は続ける。

 

「乗り越えるのに必要なのは意志だけだ。ただ生きたいと強く思えばいい」

 

 あの凄惨な戦場で俺はただただ生きたいと願った。

 死神が笑いかけてきた事など数え切れない。

 だがそんな死を身近に感じた時に必ず『両親の顔』がよぎった。

 あの人たちにもう一度生きて会いたいと願った。

 その意志が在ったからこそ俺は最後まで戦い抜く事が出来たんだ。

 

「何を思って生きたいと思うかはたぶん人それぞれで違うんだろうがな。もちろんお前もだ、激」

「……」

 

 俺の言葉に黙って考え込む激。

 何度目かの沈黙の中、それでも俺は意識を周囲から逸らさずに警戒を続ける。

 

「あ~あ、ったくなんだってお前ってヤツはよぉ」

「なんだ、その含みのある言い方は」

 

 いきなり両腕を広げて降参のポーズを取る激。

 投げやりな物言いをしているが、先ほどまで空元気だったはずの声にはいつも通りの張りがあるように感じた。

 

「いっつも俺たちより先に行きやがる。追いかけるこっちの身にもなれってんだよ」

「なんだ、立ち止まって待っていてほしいのか?」

 

 言ってはなんだが、俺が激たちよりも精神的に先にいるのは当たり前の事だ。

 なにせ人生一回の蓄積分があるからな。

 むしろ簡単に追いつかれたら、立つ瀬がないくらいだ。

 

「余計な気ぃ使うなよ。追い越して吠え面かかしてやるつもりなんだからよ」

「そいつは頼もしい限りだ」

「言ってろ」

 

 激は拳を握り締めて俺の目の前に突き出す。

 意図を察した俺は同じように右拳を掲げて激の拳に軽く突き合わせた。

 

「山賊ども片づけたらまた手合わせな」

「ああ」

 

 俺たちは笑い合い、村への帰路に着いた。

 激の身体の震えはもう止まっていた。

 

 

 

 今日、俺は初めて人を殺した。

 いつも通りに四人で鍛錬していた時の事だ。

 隣村にいるあいつの話で盛り上がって、いつか絶対に追いついてやるって塁たちと気合いを入れ直す。

 

 そんな当たり前の生活を打ち砕くように、土煙と一緒にやつらがやってきた。

 ろくに手入れもされてないような剣やら槍やらを持った俺たちと比べりゃ全然年上のオッサンたち。

 

 祭がやつらを山賊だと言った瞬間、俺は全身に寒気を感じた。

 

 連中の目は飢えた獣みたいにぎらついていて。

 あんなのに村が襲われると考えたら怖くて怖くて仕方がなかった。

 たぶん俺たち全員が同じ気持ちだったんだと思う。

 

 だから誰かがなにか言う前に全員で武器を構えた。

 

 最初に攻撃したのは俺。

 練習した通りに狩りをする時と同じ要領で放った矢が、もう数歩で村に入るところまで来ていた賊の一人を貫いた。

 

 そこからは無我夢中でやっていたからあんまり覚えてない。

 ただふと気づいた時には、俺たちのすぐ傍に賊の死体があった。

 

 むせかえるような血の匂い。

 でもそれは狩りで獲物を殺した時とはまた違っていて。

 俺が人を殺したんだと思い知らされた。

 

「う、うげぇ~~!!??」

「あ、ああ……う、っぷ」

 

 俺よりも早く正気に戻っていたんだろう祭が腹の中の物をぶちまけた。

 便乗するように塁が地面に両手を付いて吐く。

 

 その様子を見たせいか、俺はひどく冷静に目の前の出来事を見ていた。

 二人がうずくまる様子がどこか他人事のように思えて、心が壊れちまったのかと不安になったが。

 けどそいつは気のせいだった。

 じわりじわりと身体が震えてくるのがわかったから。

 

 そこからは必死に動き回った。

 祭と塁を慎と手分けして抱えて家に放り込んで、朝から狩りに出ていた親父たちに山賊たちの事を話して村の人間に山賊たちの事を触れ回って。

 立ち止まったら動けなくなっちまいそうだったからとにかく思いつく限り、出来る限りの事をやった。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 息切れするのも構わず走り続けた。

 止まったらなんか得体の知れないもんに追いつかれて動けなくなりそうな気がした。

 

「激!」

 

 粗方、賊の事を伝え終わった頃に慎のやつが駆け寄ってきた。

 色々と自分の事で一杯一杯だったから、俺はこいつが何をやっていたかも知らない。

 

「慎、どうしたんだよ?」

「刀にぃが来てくれたよ!」

 

 さっきまで死にそうな顔をしていたのが、ずいぶんマシになってたのはそういう理由みたいだ。

 こいつはほんとの兄貴みたいにあいつに懐いてるからな。

 

「そっか……」

 

 普段の俺なら憎まれ口の一つでも叩く所なんだが、今日は出来そうになかった。

 

「でね。刀にぃが手伝ってほしい事があるから村の南に来てくれって」

「あ、ああ。わかったわかった。もう山賊の事は伝え終わったからすぐ行くわ」

「うん!」

 

 目に見えて元気になってる慎を羨ましいと思いながら俺は教えてもらった通りに村の南目指して駆けだした。

 

 

 

「色々と疲れてるところ悪いが一緒に来てくれ」

「はっ? いやちょっと待て駆狼。どこ行く気だ!?」

「周囲の索敵だ」

 

 相変わらず俺の言う事を聞き流す駆狼。

 いつも通りなその様子にすげぇホッとして、でも同じくらい『俺の気も知らないで』って思った。

 

 こいつがいつも通りなのは俺たちと違って人を殺していないからだ。

 だからこいつは変わらない。

 

 こいつが人を殺したら、俺たちみたいに取り乱すのか?

 

 不意にそんな事が気になった。

 いつも冷静でどっしりと構えているこいつが慌てふためく様子が見たいだなんて最低な事を考えた。

 俺たちがボロボロなのに平然としているこいつが憎らしかったのかもしれない。

 

 

 けど俺の考えは、見当違いだった。

 こいつは俺たちが今、受けている痛みや苦しみをとっくの昔に味わって、とっくの昔に乗り越えていたんだ。

 

「乗り越えるのに必要なのは意志だけだ」って駆狼は言った。

 

 その言葉には……なんて言えばいいのか、思わず頷いちまうくらいの重みってやつを感じた。

 こいつも俺たちと同じモノを経験しているんだって自然と理解出来るくらいに、だ。

 

 ずっと一緒にいたはずの幼なじみが、思っていたよりもずっと先にいる事を思い知らされた。

 今のへこたれてる俺じゃどうやったって追いつけねぇって事がわかっちまった。

 

 だったら乗り越えてやるしかねぇじゃねぇか。

 悔しいって下向いてるだけじゃ到底、届かない所に親友がいるんだぜ?

 

 この極悪冷血漢が暢気に俺の事を待ってくれるわけがねぇ。

 むしろ立ち止まって後ろなんて振り返りやがったら俺の方が情けなくなっちまう。

 

 なら振り向く余裕なんてやらねぇくらいに俺が気張らなきゃだめだろ。

 人を殺したのが怖いなんて言ってる暇なんてありゃしねぇじゃねぇか。

 

 ああ、認める。

 俺は人殺しだ。

 これからもたぶん人を殺す。

 村にいる大好きなやつらを守りてぇって思って知らない連中を殺す。

 もしかしたら知ってるやつも殺すかもしれねぇ。

 

 でもなぁ、そんな血を踏みしめて歩かなきゃならない道を親友はもう歩き出してるんだ。

 

 助けてやりたいんだ。

 俺たちに弱音なんて一度も吐いた事がないこの馬鹿野郎と肩を並べて歩きたいんだ。

 

「余計な気ぃ使うなよ。追い越して吠え面かかしてやるつもりなんだからよ」

 

 俺は強くなる。

 今日、人を殺したこの日に俺は今までにないくらいに強くそう思った。

 

「そいつは頼もしい限りだ」

「言ってろ」

 

 笑いながら俺は拳を突き出す。

 駆狼もなにがしたいのかわかってくれたみたいで、笑いながら拳を突き合わせてくれた。

 

 

 

 僕にとって凌刀厘という一つ上の男の子は特別な人だ。

 僕たちが小さい頃にその年の頃から今ぐらい元気だった祭さんと塁さんと対等にいる男の人。

 言ってはなんだけど僕や激は毎日毎日、あの二人に引っ張られて過ごしてきた。

 いわゆる尻に敷かれていたというかなんというか、とにかくそんな感じだった。

 

 そんな僕らの中に突然入ってきて、あっと言う間に溶け込んだのが刀にぃだ。

 

 嫌な事を嫌だとはっきり言う刀にぃに影響されて祭さんと塁さんに言われるがままになっていた僕は、しっかり自分の意見を言えるようになった。

 

 あの頃は僕と同じかそれ以上に誰かに意見するのが苦手だった激なんてすっごく変わった。

 今は自分から進んで塁さんと喧嘩するくらいだ。

 

 僕の中で刀にぃの存在が、頼りになる人に変わるのに時間はかからなかった。

 表には出さないようにしているけれど、祭さんたちも心の中で刀にぃを頼りにしてる。

 

 だからいつの間にか『頼りにする』が『甘える』にすり替わっている事に気づけなかった。

 

 

 人を殺した事実から僕は目を逸らしていた。

 

 だってあの時は無我夢中で、自分がなにをしていたかもよく覚えていなくて。

 祭さんたちも倒れちゃって意識してる暇なんてなくて。

 

 そんな言い訳を自分に言い聞かせて。

 

「他人の心配もいいだろうが、それを言い訳に自分の事を後回しにするな。どんな経緯であれお前がやった事だ。向き合えるのはお前だけなんだぞ」

 

 そんな弱い僕の心を見透かして、言い訳なんて意味がないんだって事を叩きつけられた。

 

「いつまでも俺の後ろに隠れるな」

 

 そう言って僕を突き放した刀にぃは今まで見たことがない冷たい瞳をしていた。

 その目は『甘えるな』と告げていた。

 

 ずっと頼ってきた刀にぃにあんな風に言われてしまうほどに僕は遠ざかっていくあの背中に甘えていたんだと嫌でも理解出来た。

 

 自分が情けなかった。

 自分の意志で人を殺した僕に、その事で言い訳する事なんて許されていないのに。

 

「ごめん。刀にぃ」

 

 いつも僕たちを見守っていてくれて。

 

「ありがとう」

 

 今、ここで僕の甘えを叱ってくれて。

 僕はもう大丈夫。

 人を殺したらまた震えるかもしれない。

 弱音を吐くかもしれない。

 でももう逃げたりはしないから。

 

「……行こう」

 

 猫の手も借りたい状態なんだ。

 僕も出来る限りの事をしないといけない。

 でないとまた刀にぃに負担がかかってしまう。

 今まで甘えてきたんだから今度は僕が頑張らないといけない。

 そしていつかきっと。

 

「刀にぃに頼られる男になるんだ」

 

 『なりたい』じゃなくて『なる』。

 これが僕の初めての決断。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五話 友と。仲間と。戦場を駆ける

 俺たちは村に戻ってすぐに豊さんたちの防柵建設を手伝い始め、それからはずっと作業に没頭した。

 幸いな事に偵察の時点では村に近づく気配は無かった。

 この事から多少は時間的余裕が残されていると推測できる。

 

 余裕が出来た事に安堵する俺の脳裏に祭嬢たちの様子を見に行こうかという考えがよぎったが。

 結局、あいつらの元へは行かなかった。

 

 慎に言ったようにこれはあいつら自身が乗り越えるべき問題だ。

 第三者に出来る事などたかが知れている。

 

 個人的には乗り越えてほしいと思っているが、同時に戦闘者として自力で立ち上がる事が出来ないと言うのならそれはそれで構わないとも思っていた。

 

 それがあいつらの限界ならば構わない。

 戦いなんて戦える人間だけでやればいいのだから。

 

 これから世が戦乱に満ちる可能性が極めて高い以上、戦力になる者を放置しておく方が問題なのかもしれない。

 だがそれでも無理強いはしない、してはいけない。

 たった一度きりの人生を棒に振ってまで戦えなどと言う権利は、たとえ親であっても有りはしないのだから。

 

 激や慎と共に木の板を運び、釘を打ちつけて即席の壁を作りながら俺は今もまだ苦しんでいるのだろう祭嬢と塁嬢を想った。

 

 

 

 山賊の襲撃は俺たちが偵察から戻ってから半刻(およそ一時間)後に起こった。

 

「慎たちの話では二十人程度と聞いていたんだがな」

「ざっと見て五十人はいますね」

 

 豊さんと横並びになり、迫ってくる山賊たちを見据える。

 

「祭たちが七、八人殺した事が効いているんだろうな。自分たちの半分程度の年の小童どもに完全に圧倒された事に腹を立て、大人げなく仲間を全員連れてきたと言うところか」

「あれで全員とは限りませんけど、たぶん相手の考えとしてはそんなところでしょうね」

 

 俺と豊さんは今、作り上げた防柵の前に立っている。

 いわゆる最前線である。

 危険だからやめろと散々言ったのだが豊さんはどうしても賊どもに言いたい事があり、柵に隠れた状態では言いたくないとの事だ。

 

 最初は全員で説得していたのだが一人また一人と拳で黙らされてしまい(比喩表現にあらず)最終的に暴力に屈しなかった俺が彼女を守る為に共に行く事になった。

 

 ちなみに豊さんの夫である松芭(まつば)さんは一番最初に豊さんの拳に屈している。

 いつも尻に敷かれているのだからこういう時くらい断固とした態度で妻を説得してほしかったんだが。

 

「良い様にしてやられたせいか、あっちは頭に血が上っているな」

「ですね。相手の様子を見る限り、問答無用のようです」

 

 どいつもこいつも怒りに顔を真っ赤にしている。

 同時に口元に喜悦に満ちた笑みが張り付いているのは、恐らく村を蹂躙した後の事を夢想しているからだろう。

 

 既に勝ったつもりでいるとは馬鹿にされたものだ。

 とはいえ勢いがあると言うのはそれだけで厄介な物でもある。

 

「豊さん、そろそろ下がらないとまずいと思うので言いたい事があるならさっさとお願いします」

「駆狼君、なんだか冷たくないか? さっきので怒っとるのか?」

「気のせいでしょう? 危ないところに率先して行こうとする誰かさんに腹を立てたりしてますけど」

「……やっぱり怒っとるじゃないか」

 

 がっくり肩を落とす豊さん。

 とはいえ同情はしない。

 徹頭徹尾、自業自得なのだから。

 

 豊さんは咳払いを一つして、なんとも形容しにくい空気を払拭する。

 真剣な表情を浮かべると彼女は目測百メートルと言ったところまで迫っている賊たちに対して口を開いた。

 

「うちの村に手を出そうとする阿呆な賊ども!!! お前たち、うちの子供たちにこっぴどくやられて尻尾を捲いて逃げたらしいなぁ!!!」

 

 嘲るように鼻で賊たちを笑う豊さん。

 かなりの大声で、連中にも一字一句間違うことなく伝わっているだろう。

 連中の顔がさらに真っ赤になっているのがこの上ない証拠だ。

 

「賊に成り下がるだけで恥だと言うのに、子供に負けて逃げ帰るとは恥の上塗りとは正にこの事!! だが安心しろ、これ以上の恥を掻かないようにここでお前たちの人生を終わらせてやる!! 感謝するんだな!!!」

 

 俺は素直に感心していた。

 真っ赤を通り越して赤黒くなっている賊たちを見据えて、よくもまぁこれだけの事を言えるものだと。

 

「ふふん、これだけ言えば撤退しようなどどは考えんだろ」

「ああ、なるほど」

 

 つまりこれは俺にはとうてい理解出来ない山賊どものプライドを刺激することで連中の意識から『撤退』と言う言葉を無くす事が狙いだったわけだ。

 おそらく連中の大多数はこう思っているはずだ。

 

『たかが村人にこんなに馬鹿にされて黙っていられるか!』と。

 

 怒りによって相手の視野を狭くする事でその思考を単調で読みやすい物にする。

 ここまで思考が一本化されると目に見えて劣勢になるまで敵の興奮は収まらないだろう。

 

 戦の常套手段ではあるが、ここまでたやすく術中にはまるとは。

 こちらを村人だと侮っている事も挑発の効果を高めている。

 多少、腕が立っても大人数で囲めばどうとでもなると踏んでいるんだろう。

 別に間違ってはいないが。

 

 豊さんは敵が冷静になる前に叩き潰すつもりだ。

 こいつらを全滅させ、取り逃がした連中にほかの村が襲われる心配もしなくて済むように。

 

 しかし挑発は上手くいったが、それは同時にこの戦いが絶対に負けられない物になったことも意味する。

 ここで俺たちが破られれば、連中は興奮した状態のまま村を蹂躙するだろう。

 下手をすればその勢いでほかの村にまで手を伸ばすかもしれない。

 そんな事を許すつもりは毛頭ないが。

 

「では一旦下がろうか。儂もさすがに石を当てられるのは勘弁じゃし」

「だったらさっさと下がりますよ」

 

 山賊たちに背を向けて駆け出す。

 後ろから「逃げるな」などの怒声が飛ぶが気にもかけない。

 後方に配置した防柵に身を隠すと同時に豊さんが叫んだ。

 

「放てぇッ!!!」

 

 合図と同時に防柵の裏から村人たちが石を投げる。

 柵の建設の傍ら、俺が激たちと手分けして集めていた誰でも持てるような拳大の石だ。

 

 矢には数の制限があるが石は集めようと思えばいくらでも集められる。

 さらに弓を射るには技術が必要だが、石を投げるのにそんなものはいらない。

 

 あとは石投げ要員として村から有志を募れば即席の遠距離攻撃部隊の完成だ。

 絶対に防柵の外へは出ないように厳命してあるので危険もほとんどない。

 

「ぎゃあ!?」

「うげっ!?」

 

 前に出てきていた賊の何人かが石に当たる。

 投石要員には激と慎もいる。

 普通の大人よりも遙かに力があるあの二人の投げた石は矢にも劣らない凶器だ。

 

「投げまくれ! 連中を粉々にするくらいの気概でな!!!」

 

 村の皆を鼓舞しながら豊さんも俺も柵の裏に用意していた石を投げつける。

 勇んで走っていた賊たちも石つぶての雨を前に足を止めざるを得なくなった。

 

連中の勢いを殺ぐ事には成功したようだ。

 

 「一旦止まれ。そんな遠くまで届きゃしねぇ!」

 

 賊たちの後方から野太い男の怒声。

 その声によって感情の荒ぶるまま犠牲を気にせず向かってこようとしていた賊の足がが完全に止まる。

 石つぶてで混乱していた連中がたった一声で落ち着きを取り戻してしまったようだ。

 

 この声の主がこの集団の頭か。

 

「やれやれ。それでは次に行こうかの」

 

 豊さんが後ろに手を振り、それを合図に石つぶてはぴたりと止まる。

 

「石がなくなったか!! てめえら、今だ!!!」

「「「「「おお~~~~~~!!!!!!」」」」」

 

 石の雨がぴたりと止まった事を好機とみた賊頭の指示で足を止めていた賊たちが吠え声と共に駆け出す。

 

「本当にいいんじゃな?」

「確認してるような悠長な状況じゃありません。志願したのは俺です」

 

 俺は防柵の後ろで拳を握り締めた。

 豊さんは柵の上から弓を構えたまま、俺を見つめる。

 

「死んでくれるなよ。君に死なれては楼たちは勿論、祭たちにも申し訳が立たんからな」

「最後まで足掻きますよ。事切れるその瞬間まで」

 

 そして俺は迫り来る敵に向かって駆け出した。

 

 

 

 ガキにやられたと言って逃げ帰ってきた連中を頭(かしら)がぶっ飛ばして、その落とし前を付ける為にその村に襲撃をかけた。

 腕の立つガキって言うのは気になったが何人いようと五十人全員でかかればどうとでもなる。

 

 そう俺たちは高を括っていた。

 

 いざ村に着くと急拵えの柵が見えた。

 へ、無駄な抵抗ってやつだぜ。

 俺たちははっきり言って油断してた。

 強いガキがいようが所詮はのんびり安穏と生活してる村人だろうって。

 

 だが村の代表かなんかなんだろう銀髪の女に馬鹿にされて血気勇んで飛び出してった何人かが石つぶてでやられちまった。

 

 そこそこ戦い慣れてやがる。

 

 仲間が何人かやられても俺の感想はそんなもんだった。

 こいつらだってたかが石でやられるような柔な体はしてねぇんだ、すぐに立ち上がるだろう。

 何人か当たり所が悪かったみたいでうずくまって呻いてるが、そっちは後で手当してやればいい。

 

 しかし生意気な連中だ。

 ぜってぇ叩き潰してやる。

 

 そう思った時だった。

 俺たちと比べて明らかに小柄な人影が柵の後ろから飛び出してきたのは。

 

「なんだ、てめっべげぇ!?」

「うわぁ!?」

「何だぁっ!?」

 

 近くにいた仲間がそいつに剣を突きつけようとした瞬間、吹き飛ばされた。

 冗談のように後ろに飛ばされた仲間の姿に思わず足を止める。

 吹き飛ばされた仲間の巻き添えを食って二、三人が倒れ込むのを俺は唖然とした顔で見送った。

 

 なにが起きたのかわからなかった。

 

 いきなり起こった出来事が理解できなくて一瞬、呆然としたのが悪かった。

 

 仲間を吹き飛ばした人影は、俺が瞬きした瞬間にすぐ傍まで迫ってきていたんだ。

 

「ひっ、げぇっ!?」

 

 悲鳴を上げる暇もない。

 馬にでも突進されたかって言うぐらいの強い衝撃を腹に受けて俺はさっき吹っ飛んだヤツと同じように吹き飛ばされた。

 

 そして仰向けに地面に叩きつけられて。

 腹の中から唾やら息やらと一緒に生暖かい物を吐き出したところで目の前が真っ暗になった。

 

 

 

 柵から飛び出し、出会い頭に賊の一人を後ろ蹴りで打ち抜く。

 

 大岩を打ち砕いた時は岩の硬さに足の骨が負けたが、人体が岩よりも硬いと言うことはありえない。

 よって砕けるのは相手の身体の方だ。

 

 足の裏には骨を砕き、内蔵に突き刺さった何ともいえない嫌な感触が残っている。

 だがそんな事を気にしていられない。

 

 吹き飛んだ山賊の姿を見て呆然としていた別の賊に、地面を踏み抜くほどに強く蹴りつけて駆け出し一歩で肉薄する。

 

「シィッ!」

 

 賊の横を駆け抜け様に膝蹴りをくれてやる。

 

 交通事故を思わせる轟音と共に賊は吹き飛び、仰向けに倒れた。

 そいつの生死を確認する暇もなく次の相手に飛びかかる。

 

 ここに来て思考の止まっていた賊たちが再起動し始めた。

 

「ひるむな! ちょろちょろ動かれる前に取り囲め!!」

 

 賊頭の指示を受け俺を取り囲もうと動き出す賊たち。

 だがその行動はこちらの思惑通りだ。

 

「ぎッ!?」

「ぎゃァ!?」

 

 俺に意識を集中させれば当然、その他への意識が外れる事になる。

 その隙をついて慎や激の石つぶて、そして一発必中の豊さんの弓術が敵の数を確実に減らしてくれる。

 

「くそ、村の連中だ! 先にあいつらをぐぎゃ!?」

 

 かと言って彼らに意識を向けてしまえば即座に俺が蹴り砕きに行く。

 

 既に山賊側は八割方、俺と村のどちらを優先すればよいかわからず混乱している。

 こちらの策に見事にはまっている状態だ。

 あとはどっちつかずの意識のまま右往左往していてくれれば遠からず片づけられるのだが。

 

「やるじゃねぇか、小僧。まさかそんな小さい成りで最前線に出て囮と遊撃をやってのけるとはよぉ」

 

 そう簡単にはいかないらしい。

 俺を囲い込もうとしていた連中の後ろから大柄の男が出てくる。

 身長は軽く二メートルを越えている。

 とてつもない重量がありそうな戟(げき)を片手で持っている事から、すさまじい腕力の持ち主である事が嫌でも理解できる。

 

「か、頭!!」

「おい、お前ら。このガキは俺が殺るから村を潰してこい」

 

 部下たちと違ってこちらの攻撃にまったく動じていない。

 どっしりと構えたその男の姿に浮き足立っていたはずの連中がまたしても落ち着きを取り戻してしまった。

 

「でも頭、そいつただのガキじゃありませんぜ」

「んな事はわかってる。だから俺が直々に殺すんだろうが。うだうだ言ってると先にてめぇを潰すぞ」

「ひぃっ!? わかりやした!!」

 

 ギロリと睨み付けられた賊は悲鳴を上げながら走り去っていく。

 そいつの動きに合わせるように山賊たちが村の方へ向かう。

 

「ちっ!」

「おっと、行かせんぜ」

 

 その大柄な身体で俺と賊たちの間に滑り込む頭。

 だがそれではまだ甘い。

 

「行かせてもらう必要はない!!」

 

 足下に落ちていた石を幾つか蹴る。

 靴を履いていると言っても前世の靴と比べると足を覆う部分が薄い為、蹴った瞬間に痛みが走った。

 だがこれくらいは許容範囲。

 

「うおぉ!?」

 

 特に構えていたわけではない大型の戟を振るうには間合いが近すぎる。

 よってこの男に出来るのは避けるか受け止めるかのニ択。

 そしてこの男は俺の狙い通りに避ける事を選択してくれた。

 

「ぎゃぁ!?」

「いでぇっ!?」

 

 賊頭が避けた石は村に向かっていた賊たちに命中する。

 目の前の男を警戒しながらなので成果の確認は出来ないが多少なりともダメージを与える事が出来たようだ。

 

「ちぃ、このガキ。小細工をしてくれやがる」

「こっちは村を守るのに必死なんでな。目的を果たす為なら小細工だって弄するさ」

「減らず口を……とはいえ二度も同じ手は食わんぜ?」

 

 戟を構えて俺を睨みつける賊頭。

 どうやら俺の小細工がこいつを本気にさせてしまったらしい。

 出来れば子供と思って油断したままでいてほしかったんだが。

 

 少し離れてしまった村の様子を伺う。

 俺と村との間に男が仁王立ちしている状態だから村の様子と男の挙動の両方に気を配る事が可能だ。

 

 遠目から確認できる限り、まだ村の外で戦闘しているらしい。

 幾つか防柵が破壊されているが慎や激たちが頑張ってくれているようだ。

 

「おいおい、お前の相手は俺だぞ。よそ見なんぞしてくれるな。悲しくなっちまうぜ」

 

 賊頭のセリフと共に振るわれる戟。

 見た目からして相当な重量がありそうな代物を右手一本で振るう、典型的なパワーファイターだがその力は俺の予想を遥かに超えていた。

 武器が振るわれる度に風切り音が周囲に響き渡るのだ。

 迂闊に近づけば子供の身体など容易く真っ二つにするだろう。

 

「くッ!?」

 

 さらにあんな重量級の得物を振るっていると言うのにその一撃一撃には隙がなかった。

 普通、あんな得物を振るった後は得物を構え直す動作が必要であり、大なり小なり隙が生じる物だ。

 だがこの男、右手一本で武器を振るう事で完全に空いている左手を常にこちらの攻撃に対する備えとしている。

 無骨な鉄甲を付けたあの左手を盾代わりにしている為、防御される事が理解できてしまうから懐に飛び込む事が出来ないのだ。

 

 そしてなにより戦い方が随分と洗練されている。

 ただの山賊とは思えないほどに。

 

「さっきまでの威勢はどうしたぁ!!!」

「ちぃっ!」

 

 戟と拳では間合いが違いすぎる。

 このままではジリ貧だし、拮抗状態の村の戦況がどうなるかわからん。

 

 猶予は無い。

 ならばこちらの間合いまで持ち込んで一気に畳み込むしかない!!

 

「おおおおおぉっ!!!」

 

 足下の石を蹴り上げる。

 これ自体は先ほどやっていた事と同じだ。

 

「同じ手は食わねぇって言っただろぉが!!」

 

 戟を振るう際に生じる風圧が強く蹴りあげて勢いを付けたはずの石を逸らしてしまう。

 

 なんて馬鹿力。

 だが間合いは詰めた!!

 

「でぇえい!!」

「甘ぇんだよぉ!!」

 

 左手の鉄甲が俺の右拳を受け止める。

 鋭い痛みが右手に走る。

 やはり、どれほど鍛え上げても素手で鉄を砕く事は出来ないようだ。

 だがまだ次の手が……。

 

「ここまでだぁ!!!」

 

 次の一撃の為に賊の左腕を掴もうとした瞬間、俺が予想した以上の速さで俺の頭に戟が振り下ろされる。

 

「ぐはあぁっ!?」

 

 防御する暇もなく叩き込まれた一撃は、反射的に右に避けた俺の左肩を直撃。

 

 嫌な音と共に肩の骨をやられ、その一撃の勢いに巻き込まれた俺はそのまま地面に叩きつけられた。

 左肩から生暖かい感触が広がっていくのがわかる。

 やられた箇所から血が噴き出しているらしい。

 

「くははは、まさか鉄甲の上からこんなに痛みが走るなんてな」

 

 地面に文字通り沈んだ俺を見下ろしながら賊頭が呟く。

 

 ま、ずい……。

 頭が……ぐらぐら、して……指一本、動かせん。

 ち、くしょうが……。

 

「運がなかったな、小僧。あと十年、いや五年遅く遭ってたらお前が勝ってただろうに」

 

 ニヤニヤ笑いを浮かべながら左手で俺の首を掴んで持ち上げる賊頭。

 さっきの一撃の衝撃で身体がまともに動かない俺はされるがままだ。

 

「ぐぅうう……」

「おお、こえぇこえぇ。だがそんな狼みてぇな唸り声上げたって俺を殺せるわけじゃねぇんだぜ」

 

 俺の身体に戟の先端を向けた。

 どうやら串刺しにするつもりらしい。

 優越感に満ちた表情は見ていてひどくイライラした。

 

 まだだ!

 諦めるな!

 俺はこの程度で生きる事を放棄するような可愛い性格じゃないだろうがッ!!

 

 溢れんばかりの気迫を込めて睨み付ける。

 

「っつ!? おいおい、なんつう目をしやがる」

 

 どうやら多少なりとも効果はあったらしい。

 とはいえささやかな抵抗だ。

 視線だけでは相手を萎縮される事はできても殺す事は出来ない。

 

 だがその一瞬、男の意識が俺に集中した瞬間。

 風を切る音と共に一本の矢が賊頭の右腕を貫いた。

 

「ぐあぁああ!? なにぃ!?」

 

 肘から手首にかけてのいわゆる前腕と呼ばれる部分の肉を貫通したその矢には見覚えがあった。

 あれは多幻双弓用に特別、鋭利に研がれた矢だ。

 

「駆狼を離せ!!!」

 

 矢の持ち主の声に思わず状況も忘れて口の端がつり上がった。

 

「十年後でも五年後でもなかったな」

 

 首を掴む賊頭の左手首に震える右手を添える。

 そして手首の内側、一般に脈を計る橈骨動脈(とうこつどうみゃく)がある箇所に思い切り爪を突き立てた。

 

「ぐがぁ!? てめぇッ!!!」

 

 血管が集中している手首に穴を空けた事で血が吹き出す。

 尋常ではない痛みが伴い、賊頭は思わず俺の首を握っていた手を離した。

 

 こいつは今、両腕が使えない!

 勝機はここしかない!!!

 

「おおおおおおおおおっ!!!!!!!」

 

 地面に着地した瞬間、歯を食いしばり身体の震えを捻じ伏せて跳躍。

 全体重を乗せた右の肘打ちをヤツの胸板に叩き込む。

 

「ぐほぁッ!?」

 

 同時に賊頭の粗末な服の襟首を掴み、俺の方へ引き寄せて頭突き。

 

「あがぁっ!?」

 

 攻撃の衝撃で賊頭が強制的に空を仰ぐ。

 そのがら空きの顎に掌底をくれてやる。

 

「ガギッ!?」

「くたばれぇえええええええええ!!!!!」

 

 空いていた口を強制的に閉じさせ地面に倒れ込んだ賊頭の水月に止めのかかと落とし。

 賊頭の体に突き刺さる足が轟音を響かせた。

 

 攻撃した際の衝撃と激しい動きで左肩に激痛が走るが、歯を食いしばって耐える。

 

 大岩を打ち砕く足で思い切り地面に叩きつけたのだ。

 畳の上ならいざ知らず固い地面でなら、この世界の常識外れに対してでも十分な効果が望めるはず。

 

 土煙が晴れ、立ち上がった俺の足元には痙攣しながら口から泡を吹く賊頭の姿。

 完全に首の骨が折れ、さらに腹部は俺の足が貫通。

 おびただしい量の血を出している。

 どうみても即死だった。

 

「はぁはぁはぁ……」

 

 ふらつく足に活を入れて物言わぬ躯に背を向ける。

 まだ戦いは続いているんだ。

 気を抜くわけにはいかない。

 

「駆狼!!」

 

 駆け寄ってくる祭嬢の姿に苦笑いを浮かべる。

 足下がおぼつかないまま彼女に近寄ると正面から抱きしめられた。

 

 違う。

 俺の足がもつれて倒れ込んだんだ。

 祭嬢は倒れこんだ俺を咄嗟に抱きしめて支えてくれているだけ。

 

 足に力が入らなくなっている事に心中で舌打ちしながら、俺は彼女に声をかけた。

 

「祭……もう、大丈夫なのか?」

「ああっ!!! 私たちはもう大丈夫だ!!」

 

 『私たち』と言う事は塁嬢も立ち直ったと言う事なんだろう。

 それが良い事か悪い事かは俺には判断できない。

 だがそれが祭嬢たちの決断ならば俺から言う事はない。

 これからも苦言の一つや二つは言うかもしれないがな。

 

 ふふ。

 一つの山場を乗り越えたんだ。

 いい加減、年下だからと心中で『嬢』呼びするのはやめた方がいいかもな。

 

「村の……方は?」

「塁や母たちが全員、片づけた! だから安心しろ」

「怪我人、は?」

 

 村が無事だと聞いた途端、意識が混濁し始めた。

 まずい。

 安心するな。

 まだ気を失うには早い。

 

「何人が手傷を負ったがかすり傷だ。もう手当も済んでいるぞ!!」

「そ、う……か」

 

 絞り出すように返事をしたのを最後に俺の全身の力が抜けていく。

 

「駆狼!! いやだ、死ぬなぁ!!! 目を開けろ、駆狼!!! くろぉおおおおおおお!!!!!」

 

 震えながら叫ぶ祭に応える暇もなく、俺の意識はそこで途切れてしまった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六話 目覚め。現実を乗り越え進む

 俺が目を覚ましたのは倒れてから一週間後の事だった。

 

 どうやら俺はその間、生死の境を彷徨っていたらしい。

 肩の傷が熱を持ってしまった為に何度となく高熱を発してはうなされていたと言う話だ。

 

 わざわざ建業(けんぎょう)から医師を連れてきて診てもらったところ、どうにか回復にこぎ着ける事が出来たのだと言う。

 とはいえ高熱も治療も俺の意識が無い時の事なので実感がないんだが。

 

 かなりの量の血を流したせいで目を覚ましてからもしばらくは頭がくらくらして立つ事が出来ない状態だった。

 高熱と長時間ずっと横になっていた影響で体の節々は痛み、起き上がる事すらも億劫な有様。

 お蔭で一命を取り留めただけでも運が良かったのだろうと言う事がなんとなく理解できたが。

 

 皆が目を覚ました祝いだと猪やら熊やらを取ってきてくれたお陰で失った分の血と栄養を取り返すのは楽だった。

 

 体の状態としては全身の倦怠感は日々の生活をこなしていくうちに消えるとの事だ。

 ようはリハビリをしっかりする必要があると言う事になる。

 まぁ自身が感じるこの怠さから見るに、怪我をする前まで身体能力を取り戻すのは口で言うほど簡単ではない事が予想出来る。

 

 問題は左肩胛骨の怪我だろう。

 筋肉がグズグズになっていた上に骨が粉々になっているのだと言う話だ。

 指は僅かに動かせるが肩はまったく上げられず、傷の影響か腕を曲げる事も出来ない。

 実質、左腕を失ったような状態だ。

 

 医師からも回復は絶望的と言われている。

 

 一生物の怪我などとっくの昔に覚悟していたので俺はそれほどショックは受けなかったんだが、それを聞いた両親や祭たちはひどく落ち込んでしまった。

 

 なんとかならないかと医師に詰め寄る激と累に拳骨をくれてやったり、泣き出してしまった慎や祭をあやしたりと怪我人のはずの俺が事態の収拾に立ち回る羽目になった。

 

 そんな騒ぎが一段落した頃、怪我人の診察の為だけに遠路はるばる来てくれた医師が自分よりも腕の立つ者に俺の肩を見てくれないか頼んでみると言ってくれた。

 

 あまりに必死な激たちの様子に心打たれたのか、若くして体の一部が使い物にならなくなった俺を哀れんだのか。

 その辺りは想像の域を出ないが、とにかく彼が知る限り最高の医師を紹介してくれるのだそうだ。

 

 しかし性格に難があり、怪我の治療をするかどうかはその医師次第なのだとか。

 

 胡散臭いので断ろうと思ったのだが藁にもすがる思いで両親がその医師との繋ぎをお願いしてしまい断るタイミングを逸してしまった。

 その医師の話を俺がいろいろと疑問に思っている間に、何の躊躇いもなく話をまとめてしまったのだ。

 俺が気づいた時にはいつ頃連れてこれるかという所の話になっていた。

 

 慌てて治療費が馬鹿みたいにかかりそうだったから断ろうとしたのだが、両親は俺の話には耳を貸してくれず。

 

「治療費なんて一生かかってでも払う! 子供の為に全力を尽くせなくて何が親だ!!」

 

 父さんのこの言葉で俺が折れざるを得なかった。

 

 俺のためにここまでしてくれるのだ。

 嬉しくないわけがない。

 

 だが正直な所、治療の期待はしていない。

 はっきり言って俺の怪我は現在の医療技術では手の施しようのない程の物だ。

 前世の医療技術ですら完全に元の状態に戻す事は難しいだろう。

 そんな怪我を治せるような人物がこの世界に存在するかと言えば否だ。

 

 件の人物を紹介してくれると言う俺を診察してくれた医師は真摯な人間であるとは思うが、期待するには余りにもハードルが高い。 

 むしろ適当な治療だけして膨大な料金を請求するような詐欺師紛いのヤツが来た時にどう料理しようか考えているくらいだ。

 

「君くらいの大怪我を治した実績があるから、腕の方は心配しなくていいよ」

 

 俺の疑念を察したのか驚愕の事実を優しく語る壮年の医師。

 だがしかし、それでも俺にはその言葉を鵜呑みにする事は出来なかった。

 

 

 それから一ヶ月の間、動ける程度に回復した俺はなまっていた身体を叩き直す為に鍛錬を行っていた。

 左腕に負担のかかる事は出来ないため、やっているのは走り込みと右腕のみでの腕立て伏せ、スクワット。

 

 すべて俺の身長に見合った岩を紐で背中に背負って行っている。

 傷が開くからと言う理由で長時間の鍛錬は禁止されてしまったので最初は軽くやっていたのだが、寝ていた分の体力が戻ってくると鍛錬にならなくなってしまった。

 客観的に見てもう大丈夫だと言っているのだが、例の医師に診察してもらうまでは必要以上の鍛錬は禁止だと聞いてくれない。

 

 この身体の基本性能の高さは俺自身がよく知っている。

 よく知っているからこそ、このまま抑えた鍛錬をしているのは勿体ないと感じてしまうのだ。

 

 ならばと思い出したのは孫と見ていた漫画、アニメにあった鍛錬法である。

 短時間で身体を酷使するには、身体にかかる負荷を増やせばいい。

 長い時間ではないのだからと言う屁理屈だが、このまま身体が鈍っていく方が俺にとっては大きな問題だった。

 そして累に協力してもらい、今の俺の身長でも背負えるくらいの岩を運んでもらって今に至る。

 

 原始的ではあるが岩を背負って決められてしまった時間一杯まで鍛錬すれば最低限、足腰は鍛える事が可能だ。

 それもこのやった分だけ返ってくる規格外の身体があればこその方法であるが。

 

 勿論、最初は反対されたがなんと言われようとも続ける俺を見て両親も祭や慎もようやく諦めてくれた。

 無理をしていれば何がなんでも止められたのだろうが、鍛錬する俺の様子を見て本当に大丈夫だと理解してくれたのだろう。

 激と累は自分用の大岩探しに熱中していて俺を止めようとはしていない。

 

 しかし怪我をして以来、過保護になってしまった両親からは常に誰かと共に鍛錬する事を条件に出されている。

 つまるところいつもの面々を連れて鍛錬しろと言う事だ。

 俺からすればなんの問題もない条件である。

 最終的にはいつもの五人全員で大岩を背負って走り込むようになった。

 周囲から見れば非常に奇妙な光景だっただろう。

 

 

 周りがドタバタしていたその一ヶ月で、村を取り巻く状況にも変化があった。

 

 あの山賊の襲撃を受けて近隣の村と協力して有事の際の対策を取り始めたのだ。

 どうやら平和と言うものが何か起これば一瞬で瓦解するほど儚い物である事をようやく認識したらしい。

 

 この辺りの治安が良いのは領主が上手く治めているお陰だが突然の襲撃に対処するような政策は行われていない。

 自分の身を守るのはあくまで自分であるという事を彼らも理解したんだろう。

 

 周辺の農村は全部で五つ。

 俺が寝ている間にうちの村主導でそれぞれの村の責任者を集めて会合を開いたらしい。

 そしてそれぞれの村の若者を何人か選抜。

 最も戦い慣れしている父さんと豊さんが彼らを鍛える事になった。

 さらにそれぞれの村と連絡を取る為に日本で言う所の飛脚を走らせて頻繁に近況情報を交換し合い、村の周囲にも定期的な哨戒を立てる事が取り決められたと言う。

 

 危機感を募らせて慌てて集まった割にはまともな事項が決まっているように思えるが、この取り決め事項自体は以前から俺と父さんでまとめていた物だ。

 

 焦燥感にかられている所に筋の通った提案を行うとどんな内容であっても良案だと思えてしまう物だ。

 とんとん拍子に話が進んでいく様子を俺に話しながら父さんは複雑な顔をしていた。

 俺の怪我の原因が村全体の危機感の足りなさ、引いては自分の責任だと感じているのかもしれない。

 

 まぁとにかく『五村同盟』などと仰々しい名前が付けられた新しい体制が発足し手探り状態ではあるが色々と動いている為、大人たちは色々と忙しない日々を過ごしている。

 

 

 そしてそんな日々からさらに一ヶ月が経過したある日。

 壮年の男性とまだ七、八歳くらいの赤髪の少年が村を訪ねてきた。

 

「お前が肩を潰されたって小僧か?」

 

 畑仕事を終えて家に帰る途中の俺の姿を見て最初に男の口から出た言葉がこれである。

 

「は? ええ、まぁ……」

 

 なんて不躾な男だと心中で呆れていると、この男は何の気配も感じさせずに俺の間合いに入り込んできた。

 

「なっ!?」

「ふむ。なるほどな、こりゃ普通の医者じゃ無理だわな」

 

 驚く俺を全く気にせずにいきなり左肩を掴んで、軽く触れながら品定めをするように見る男。

 

「ししょー! けが人にいきなり何してるんですか!」

 

 そんな唐突な男の行動を慌てて止めに入る少年。

 

「なにってお前……診察に決まってるじゃねぇか。見りゃわかるだろ、凱(がい)」

「いやそりゃわかりますけど、いきなりそんなことされたらかんじゃさんが困っちゃいます!」

 

 舌っ足らずではあるが随分とはっきりとした話し方をする凱(恐らく真名だろう)と呼ばれた少年。

 どうやらこの年にして色々と苦労しているらしい。

 

「それにこの小僧は怪我人じゃねぇ。こんなに体中に氣が溢れているヤツにそんな言葉は似合わねぇよ」

 

 俺が怪我人じゃない?

 それに氣、だと?

 

「あの、今のは一体どういう意味ですか?」

 

 聞き捨てならない単語について思わず問いただしてしまった。

 

 特に後者の『氣』。

 まさか前世で時折、耳に入ってきたあの胡散臭い空想じみた力の事なのだろうか?

 とある漫画では惑星すら破壊できるような光線を放つ原動力にもなっていたが、まさかそんな物が存在すると言うのか?

 

 既にこの世界の事を規格外だと認識していた俺だが、もしも氣とやらが俺の想像通りの物ならばその認識は甘かったと言わなければならないだろう。

 

「あ~~、面倒だから説明するのは拒否する。だがお前の左肩は動かせるようにしてやるよ。それだけ氣が満ちてればさして時間もかからんしな」

 

 ちっ!

 それは暗に説明させるなら治してやらないと言っているようなものだろうに。

 しかし今後、起こりうる事態を想定すればこの機会を逃して左腕が使えないままという事態は出来れば避けたい。

 

 この男の自信は虚飾ではない。

 目を見ればわかる。

 あれは嘘偽りも過信もなく、自分の力に自信を持っている目だ。

 

 そんな目をした男が治せると言っている。

 肩の事はほとんど諦めていただけにこの機会を逃すわけにはいかない。

 

「……わかりました。治療をお願いします」

「聞き分けのいい小僧だ。お前くらいの年ならもっとわがまま言ってもいいんだがな」

「子供らしくないとはよく言われます」

「その受け答えもらしくねぇな」

 

 からからと快活に笑う男。

 勝ち誇ったその顔が妙にガキ大将っぽい。

 

「ししょー、いじわるしてないでおしえればいいじゃないですか」

「かっかっか! まぁ資質は馬鹿みたいにあるがな。それをこいつが扱えるかどうかはわからんだろ」

 

 ちぃ、また『資質はある』なんて気になる事を。

 まさか俺の心中を理解した上で、わざと言っているのか?

 

「あの……治療を」

「おお、悪い悪い。いやぁ普段は弟子としか話さないからよ。ついしゃべり過ぎちまう。反省反省」

 

 まったく反省してない表情と口調で言われても説得力に欠けるんだが。

 

「とりあえず小僧。お前が落ち着ける場所に案内しな」

「俺が落ち着ける場所? 普通、治療と言えばなるべく清潔な場所でするのでは?」

 

 疑問を口にすると男はニヤリと笑いながら答える。

 

「俺の治療は治療する相手の体調だとか精神的な揺らぎに左右されやすくてな。出来るだけ本人が落ち着ける場所がいいんだよ。まぁお前くらい氣の容量が多けりゃ気にする必要もないんだが万全を期して事に臨むのは当然の事だ。そうだろう?」

「……よくわかりませんがわかりました。なら家に行きます。ついてきてください」

 

 どうにもこの男、自分がわかるようにしか物事を説明出来ないらしい。

 相手が理解しているかどうかは二の次でとにかくまくし立ててくるから疑問を挟む隙がない。

 話し終えた後に質問してもこの男としては既に終わっている事だから答える気がないのだ。

 なんという自己中心的な男だ。

 正直、苦手なタイプだ。

 

「ごめんなさい。ぼくもせつめい出来るので聞きたいことがあったらあとで聞いてください」

「そうか? すまないな。えっと……」

「あ、姓は華(か)、字は元化(げんか)といいます」

「……俺は姓が凌、字は刀厘だ。よろしくな。元化と呼んで良いか?」

「はい! じゃあぼくもとうりんさんって呼びますね」

 

 俺は内心の驚きを表に出さないように必死にこらえながら驚きの名前を名乗った少年と笑い合った。

 

 しかしその名前は不意打ち過ぎるだろう。

 予想外にも程がある。

 

 華陀元化(かだげんか)。

 関羽、曹操を始めとして歴史に名を残した人材を診察したと言われている医師の名だ。

 前世で言うところの麻酔に当たる麻沸散(まふつさん)を開発したと言われ、それを用いた腹部切開手術を成功させ民衆に神医と謳われた人物。

 一説に寄れば百歳を越える年齢でありながら外見は若々しいままだったと言う。

確か史実では曹操と仲違いをした結果、投獄され非業の死を遂げたはずだ。

 

 そんな人物が師匠と呼ぶ男と共に目の前にいる。

 黄蓋や祖茂、韓当に程普までが幼なじみであるという時点で今更ではあるが、俺は歴史家が見たら狂喜するか卒倒するかの奇跡的な状況にいる事を改めて認識した。

 というか華陀が男であるという事実に途方もない安堵を感じているんだが。

 

「おいおい、仲良くするのは構わねぇが案内を忘れんなよ」

「おっと、そうだでした! それじゃとうりんさん。案内をおねがいします」

「ああ、わかった」

 

 自己中男の茶々を受けながら俺たちは歩みを再開した。

 

 

「うっし。それじゃ治療だな。悪いが親御さんたちは外で待っててくれ」

「元方さん、息子をどうかよろしくお願いします」

「あいよ。まぁそんな時間かけねぇし完璧に治してやるから安心しな」

 

 頭を下げる両親に軽く手を振って適当に応える『華陀』。

 この場合の華陀は自己中男の事だ。

 

 元化少年に聞いた話だと華陀という姓名は彼らが日々、研鑽する医療技術『五斗米道(ごとべいどう)』を学ぶ者に与えられる物なのだと言う。

 読み方は五斗米道ではなく『ゴッドベイドー』らしいのだが正直、俺にはどうでもいい話だ。

 

 ついでに言えば五斗米道と言うのは漢中(かんちゅう)に独立国家を築き上げたと言われる張魯(ちょうろ)が教祖の宗教団体の名前だったはず。

 人物が女性になっている時点で今更なのかもしれないが、史実や物語を裏切る出来事が大好きな世界で困るな。

 反応が『困る』程度になってしまっている辺り、俺も相当この世界に染まっている気がするが。

 

 閑話休題。

 基本的に一子相伝の形を取っている五斗米道の技術を学べる者は当然のように一人である。

 つまり師弟で同時に同じ姓名を持っているのだ。

 ややこしいので師弟間では真名で呼び合い、患者などに対しては師の華陀が華陀を名乗っているのだと言う。

 ちなみに自己中な華陀の字は『元方(げんぽう)』と言うらしい。

 この字は確か華陀の字の諸説ある中の一つのはずなのだが、もう突っ込むのも疲れてきた。

 

「さて小僧。疲れ切った面してないで服脱いで左肩を見せな。さっき触診して大体把握したが最終確認をしたいんでよ」

「わかりました」

 

 上着を脱ぎ捨て、肩の包帯を取る。

 青く晴れ上がった肩は右と比べるとひどく不格好に見える。

 見る人が見れば不気味だと思うだろうから普段は包帯を巻いた上で上着を羽織り、見えないようにしていた。

 

 最初に医師の診察を受けた時は筋肉と砕かれた骨が混ざりあって非常にグロテスクな有様だったのだと聞いているが、懸命な治療の お陰で左腕が腐るような事態にはならず切断は免れたとの事。

 治す事こそ出来なかったが俺を診てくれたあの医師も十分に優秀だ。

 そもそもこの時代の技術でそこまでの事が出来た事自体おかしい。

 

「なるほどなぁ。肩の骨が粉々になってやがるのな。鈍器で一撃ってところか。やったのはどんなヤツだったんかねぇ」

「この辺りを荒らしていた山賊の頭です。片手でとてつもなく重い戟を扱っていました」

「そんなのの一撃を受けてよく肩がちぎれなかったな」

 

 確かに俺もそれは思ったが、あの時は無我夢中だったからそこまで気は回らなかった。

 最悪、ちぎれる事も覚悟はしていたが。

 

「よし、それじゃ力を抜いて椅子に座れ」

「はい……、治療はソレでやるんですか?」

 

 指示通り、椅子に座りながら彼の手の中にある代物を見る。

 そこには彼の手にすっぽり収まってしまうくらい細く、しかしなんともいえない力強さを感じさせる鍼(はり)があった。

 

「おう。五斗米道が誇る鍼治療だ。俺のはちと独特だがな」

「へぇ、どう違うのか是非とも聞きたいですね」

「面倒だから嫌だ」

 

 いい加減、ぶん殴りたくなってきたんだが。

 

「ああ、とうりんさん。心をしずめてください。氣を使ったちりょうは医師もそうですけど、かんじゃの気持ちもえいきょうするんですから」

「……わかった。すまないな、元化」

「いいえ、今のはししょーがわるいですから」

 

 ほんとにこの子は苦労性だな。

 今からこんなに苦労を背負い込んでいるとその内、変な風に爆発してしまうような気がする。

 この子の将来が心配だ。

 

「よし、落ち着いたな。それじゃ始めるぜ」

「ふぅ~~~~……。はい、宜しくお願いします」

 

 そして俺は氣という物がどういう物かを身を持って知る事になる。

 五斗米道と呼ばれる医術が他の一般的な技術と一線を画す物であり、それを扱う華陀と呼ばれる者たちは正しく神医と呼ばれるにふさわしい実力を持っていると言うことも。

 

 

 

 あたしと祭は激たちが村の為に走り回ってる間、ずっと家で座り込んで震えてるだけだった。

 自分の武器を見るだけであたしが殺した人間の事がよぎって、出すものなんて残ってないのに吐き気がして動けなくなる。

 

「ごめんなさい、ごめんなさい……」

 

 誰に謝っているのか自分でもわからなかったけど、でも言わずにはいられなかった。

 

「ごめんなさい……」

 

 散々泣いてかすれた声で何かの呪文みたいに呟く。

 

「謝るくらいなら立てよ、馬鹿」

「あ……」

 

 頭上から響いてきた声に思わず顔を上げる。

 全身汗だくの激が立っていた。

 見下ろす目があたしを責めているように見えて、思わず俯く。

 

「いっつも俺と張り合ってたお前がずいぶんおとなしくなっちまったな、おい」

 

 見下ろしながら言葉をかける激。

 あたしは応える事も出来ないで俯いたままだ。

 責められるのが怖かった。

 それもずっと一緒にいる幼なじみに「なにやってんだ」って冷たい目で見られるのが怖かった。

 

「怖いってんなら別にそれでいいぜ。戦うのが無理ならなにも言わねぇよ」

「えっ?」

 

 口調はいつも通りに荒かったけど、その声に暖かさを感じて思わず顔を上げた。

 

「……戦えないヤツを守りたいって思って、俺はずっと身体を鍛えてきたんだ。戦えないヤツに無理させちゃ意味ねぇじゃねぇか」

 

 ぎゅって自分の拳を握りしめて激はあたしに笑いかける。

 

「だから心配すんな。お前は俺が守ってやるから。だからまぁ、なんだ……安心して待ってろ」

 

 それだけ言うと激はあたしに背を向けて家を出ていった。

 

「戦えない人を守りたい……」

 

 激の言葉を反芻する。

 

 そうだ。

 あたしもそうだった。

 鍛錬を始めた最初の理由はただ駆狼に負けたのが悔しかったから。

 でもそれがいつの間にか村の人たちの手伝いをするようになって本格的に身体を鍛えるようになって。

 

 あたしはなんで人を殺したの?

 

『村に手を出すなぁ~~~~!!!!!』

 

 その時の言葉を思い出す。

 そうだ。

 あたしは村を守りたくて、だから必死に槌を振るって人を殺した。

 あたしが望んで、自分の意志で人を殺したんだ。

 

 今、激たちはなにをしてるの?

 村を守るために動き回ってる。

 

 あたしは村を守りたいんじゃないの?

 こんな所でこんな風にふさぎ込んでいて村を守れるの?

 

 そんなわけない。

 

 人を殺してでも守りたいんでしょ?

 だったら震えてる場合じゃない!

 

「村を守るんだ!! 激たちの事だって守りたいんだ!!!」

 

 立ち上がって武器を柄を取る。

 あたしが殺した人間の血が付いていた。

 

「そうだ! あたしは人を殺した!! でももうふさぎ込んだりしない!!!」

 

 浮かび上がった記憶を見据えて武器を持ち上げた。

 

「負けない! 自分のやった事に負けてなんていられない!!」

 

 自分を励ますように叫んでからあたしは家を飛び出した。

 

 

 あたしが到着した時にはもう村の近くまで賊が来ていた。

 途中で合流した祭と別れてあたしは激と慎の元に駆けつける。

 

「なんだ、来ちまったのかよ!?」

「あたしだって村を守りたいんだから!!」

「助かりました、塁さん!」

「遅くなってごめん!」

 

 激と慎と軽く言葉を交わし、すぐに山賊たちに向かって大槌を振るう。

 

「村から出てけ、こんのぉおおおおお!!!」

 

 あたしは戦いが終わるまでただただ必死に人を殺し続けた。

 

 

 どうにか山賊を全滅させて疲れきった時に、駆狼を抱えた祭が現れた。

 

 山賊の頭を倒した駆狼が倒れたと泣き叫びながら。

 その言葉を受けて激と慎、豊おばさんたちが祭とぐったりしている駆狼の元に駆け寄っていく。

 

 あたしは……死んだようにぐったりしている駆狼を近くで見るのが怖くてその場から動くことが出来なかった。

 

 駆狼はその後、うちの村の村長の家にかつぎ込まれた。

 豊さんが馬を引いて医者を呼びに行き、私たちは傷から流れ出る血を止めるよう清潔な布を代わる代わる傷口に当てる。

 

 あたしたち四人は交代でずっと駆狼に付いていた。

 帰って寝ろって散々母さんやおばさんたちに言われたんだけど離れようとはしなかった。

 少しでも目を離したら駆狼が死んでしまうような気がしたんだ。

 

「う、うう……」

 

 うめき声を上げながら全身から汗を出す駆狼。

 その汗を拭きながらあたしたちは祈るように声をかける。

 

「死なないで、駆狼」

「死ぬなよ、手合わせの約束があるんだからな」

「刀にぃ、死なないで……」

「死ぬな……駆狼」

 

 一週間後。

 駆狼が目を覚ました時、あたしたちは涙を流して喜んだ。

 

 そしてあたしはこの時に誓った。

 駆狼一人に無茶な真似をさせないようにもっともっと強くなろうって。

 ただ負けたのが悔しいからって言う理由じゃない。

 駆狼だってあたしにとって守りたい人なんだから。

 一緒に無茶出来るくらい強くならないと守れないんだから。

 

 あたしはもっと強くなるんだ。

 




作中に出てくる氣及び五斗米道、華陀の真名については独自解釈です。
その事を踏まえた上で楽しんでいただければ幸いです。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七話 五体復活。村軍発足。

 治療は想像以上に常識外れな物だった。

 

 黄金色の光を放つ鍼を患部である俺の左肩に刺した瞬間。

 俺の身体の中を暖かな何かが駆け抜けた。

 刺された鍼から噴出した何か、『エネルギーのような物』が血管を通じて、何巡も何巡も身体を駆け巡ったんだ。

 

 活力が満ちると言えばいいのか、初めての感覚に俺はただただ呆然としていた。

 気づいた時には左腕は、まるで怪我をする前に時を巻き戻したかのように何の違和感もなく動かせるようになっていた。

 

 現代医学に喧嘩を売っているとしか思えない現象である。

 

 思わず「魔法か!?」と突っ込んでしまった俺は悪くないはずだ。

 なにせ前世を含めた医療技術を全否定するような治療を見せつけられてしまったのだからな。

 

「妖術って言われた事はあったがまほうって言い方は初めてだな。どういう漢字でどういう意味なんだ?」

 

 ニヤニヤ笑いながら聞いてくる華陀中年を治ったばかりの左手で殴ってしまったのは置いておくとして。

 

 

 五斗米道の治療は基本的に鍼に氣を込め、対象者の肉体に注入する事で行うらしい。

 肉体を活性化させ自己治癒能力を促進させる事で傷あるいは病を治す物なのだと言う。

 しかし華陀少年の話では鍼に込める氣にも様々な質の物があり、さらに注入の方法も怪我や病気の具合や患部によって異なるという話だ。

 さらに五斗米道を扱う人間にのみ病気の根元を『病魔』という目に見える形の脅威として捉える事が出来る物らしく、患者の証言とは別に症状を確実に見極めて治療を行う事が可能なのだそうだ。

 

 そして今回。

 俺の治療をするに当たって華陀中年は彼自身が編み出した技を用いたと言っていた。

 なんでも自分の氣を注ぎ込むと同時に肉体だけでなく俺の持っている氣を活性化、利用する事で鍼の効果をさらに高めたのだと言う。

 

 生物には血液を作るのと同じように氣を作成し体内に溜め込む性質があり、生涯をかけて生み出す氣の量は違えど誰でも氣を持っているらしい。

 ただ目に見える形で氣を利用できる者が少ないため、大抵は自身に氣がある事にすら気づかず生涯を終える。

 

 華陀中年が今回、用いた技は気づかれずに放置されている本人が持つ力を利用して通常の治療よりも治癒力を増強する物だ。

 

 そういう理論であれば、彼の技は己のみの力で不可能な治療を生物が持つ潜在的な力を利用して可能にすると言う実に理に適った技と言えるかもしれない。

 と言っても治療法その物が常識を破壊した理不尽な物である事に変わりは無いが。

 

 華陀中年の話では、どう少なく見積もっても人間が一生かかって集めるくらいの容量の氣が既に俺の身体に内包されていたのだと言う。

 この技の性質上、確実な治療の為には相手に相応の氣の量が無ければいけない。

 俺はその条件を満たして余りある程の容量の氣を内包していたので、何の問題もなく術を実行できたという話だ。

 推測の域を出ないが俺が転生している事と氣の容量の異常な多さは無関係ではないのかもしれない。

 前例が無い為、所詮は推測に過ぎないが。

 

 俺の事は置いておくとしても五斗米道が常識外れな医術である事には変わりない。

 むしろこの一派を医術と表現するのは医術という言葉に喧嘩を売っているような気さえする。

 意味合いとしては間違っていないのだが、どうしてもしっくり来ないのだ。

 魔法、あるいはこちらで言う所の仙術と表記した方が正しいと思えてしまう。

 

 

 五斗米道の二人は俺に施した治療の概要と氣についての説明をすると(説明したのは全部、元化少年だったが)一日だけ村に泊まり、早々に建業に帰っていった。

 

 両親のお礼の言葉を受けて得意満面な顔をする中年と謙虚に頭を下げる少年。

 これが逆だったら絵になったのにと失礼な事を考えてしまった俺に異論があるヤツは多分いないはずだ。

 

 その日は腕の完治祝いと言う事で盛大な宴が催された。

 あまり大事にはしてほしくなかったんだが、純粋に喜んでくれる家族や仲間たちの気持ちを考えれば反対など出来るはずもない。

 

 どさくさに紛れてまた酒に手を出そうとしていた祭と激には拳骨をくれてやったが。

 

 後になって行商人から聞いた話では俺の治療を終わらせた後、しばらくして華陀師弟は旅に出たらしい。

 元々、建業にも長期滞在するつもりはなかったらしく顔見知りに挨拶をしたらさっさと出ていったのだと言う。

 立つ鳥後を濁さずとはよく言ったものである。

 

 

 あれから三年。

 俺たちは今年で十七歳になった。

 

 開けた平野で胡座をかいて思考にふける。

 

 最近、村に来る行商人から『神医』の噂を聞くようになった。

 どのような病も傷も鍼一本で治療する流離いの医師がいる、と。

 

 どうやら彼らは元気にしているらしい。

 涼州で起きた小競り合いの怪我人の治療に関わったかと思えば益州で太守の病気を治していたりと手広くやっているようだ。

 

 華陀たちについて以外にも行商人の話の中に気になる物があった。

 

 この世界では女性だった孫堅が建業大守の不正を暴いた恩賞として朝廷から大守に任命されたと言う物だ。

 どうやら以前の太守は領内の村人が気づかないように少しずつ年貢の類を水増し請求していたらしい。

 顔も知らない人間ではあったが横暴な事はせず悪い噂も聞かなかった為、それなりに民衆の支持を得ていたのだが。

 

 蓋を開けてみればなんて事はない。

 太守は民の事を考えていたのではなく、不満が爆発しない程度の頻度で少しずつ搾り取っていたのである。

 小賢しい真似をしてくれた物だが、こちらもまったく気付いていなかったのだからあまり強く文句も言えない。

 出来た余分な金で豪遊していたと言うのだから腹立たしいのは腹立たしいが。

 

 この村が属している土地も領地に入っているので必然的に俺たちの村も新大守である孫堅の管轄になっている。

 だからと言って現状、急激に何が変わると言う事もない。

 村が自衛手段を持っているという事に関して動きがある事も考えられるが。

 

 ともかく孫堅が頭角を現し始めたという事自体は問題ない。

 むしろ歴史に語られる人物の名が上がった事にほっとしているくらいだ。

 

 歴史上の出来事とこの世界の孫堅の出世のタイミングがだいぶ食い違っている事はもう今更だろう。

 気がかりなのは孫堅が『建業太守』になったとと言う事だ。

 確か孫堅が太守になったのは長沙だった気がするのだが。

 俺の知る歴史とは大幅にずれ込んでいる以上、この誤差も許容範囲と言えば許容範囲なのかもしれない。

 

 だが俺が最も気になったのは名を上げているのが孫堅だけではないという所にあった。

 

 

 孫静幼台(そんせいようだい)

 江東の虎である孫堅の弟であり、彼の挙兵に合わせて同郷や一族の者たちをまとめ上げた知恵者。

 孫堅の死後は孫策の求めに応じて彼の軍に合流、年若い彼らの支え役になった。

 功績に対する恩賞に対して欲を全く示さず、孫策や孫権が官職を与えようとしても誰かを推薦するだけで応じず、孫権に強く薦められてようやく任官を受けたと言われている。

 孫堅が生きていた頃から総じて縁の下の力持ちに甘んじていた人物だ。

 

 

 その孫静が孫堅と共に名を上げているのだと言う。

 賊の討伐や乱の鎮圧などを孫堅が行い、内政を孫静が担う事で今では『建業の双虎』として遠くは涼州にまで名を広めているらしい。

 ちなみにこの二人は『姉妹』だそうだ。

 

 内政では孫堅の無二の友と呼ばれている周異(しゅうい)もその知略を存分に振るっていると聞くが、彼女については俺の中の知識はほとんどない。

 せいぜいが、かの周瑜(しゅうゆ)の父親であると言う程度だ。

 まぁこの世界では例によって女性だったわけだが。

 

 それはともかくこの三人が揃っていたからこそ小勢力の身でありながら二年という短期間で領地の運営を安定させる事が出来たと言われている。

 誰かが欠けていては出来なかっただろうとも。

 

 しかも孫静は今までに前例のない政策を打ち出しているらしい。

 本拠である建業を中心に月日が経てば経つほど他の大守が治めている都市との差が広がっていると聞く。

 具体的には農作業の効率化による作物の増加、都市内の見回り体制の一新による安定した治安、それに伴う行商人の増加。

 孫堅たちが治める前に比べて建業はずいぶんと人口が増えていると聞いている。

 さらには姉妹そろって気さくな性格らしく民からの人気も上々との事だ。

 

「そこまで語られる程の人物。仕える仕えないは別として機会があれば会ってみたいもんだが……」

 

 機会を待っているだけというのは性に合わんな。

 足を止めて考え込んでいては見えてこない物もある。

 ならどうするか。

 

「自分から行くしかないだろう」

 

 思考をまとめて立ち上がる。

 

「うぅ……」

 

 足下でうめき声が聞こえてきた。

 ああ、忘れていたな。

 

「今から十数える間に立ち上がって整列。出来なければ村の外を二十周だ」

 

 ノロノロと立ち上がり六人の男女。

 彼らは俺の部下にあたる者たちだ。

 

 例の五村同盟の関係でそれぞれの村に一定の戦闘要員を配置する事が決定し、彼らは俺たちの村にに派遣されてきた人員である。

 ちなみに男女比は二対四で女性の数の方が多い。

 派遣された当初は男の方が多かったのだが、とある事情によりこれだけしか残っていないのが実状だ。

 

 この村で戦いに長けているのは父さんと俺。

 しかし父さんは五村同盟全体の責任者になっているので自分の村ばかりを見ているわけにはいかない。

 そういう理由からこの村の防衛は俺が担当する事になり、彼らは俺の配下という形になった。

 

 祭たちはそれぞれ自分たちの親の部隊の副官として働いている。

 いずれは豊さんたちの後を継いでそれぞれの部隊を任される事になるし、本人たちもやる気は充分だ。

 そう遠くない内に隊長の世代交代が訪れるだろう。

 

 まぁそれはともかく最初は年下の俺が自分たちの上に立つと言う事で反発された。

 当然だがそんな風になるだろう事は予想済みだ。

 なので全員が納得できるよう勝負をする事にした。

 

 内容は単純だ。

 俺が毎日行っている鍛錬に付き合ってもらい俺よりも一瞬でも長く続けていられたら、その者が守備隊隊長になる。

 

 軽いだろうと高を括っていた十数人の男たちは例外なく途中で諦めた。

 俺のやっている鍛錬の半分も持たなかったのだから年上のプライドなんぞズタズタだろう。

 

 その場には他隊の志願者や父さんたちもいたのでどういう結果であれ言い訳など出来ない。

 勿論、そういう状況を作った上で勝負を持ちかけたのだが。

 

 しかし条件を飲んだのは自分たちだと言うのに逆ギレして襲いかかってくるヤツもいた。

 

「年下のガキの命令なんて聞けるか!!」

「俺の方が山賊を上手く倒せるに決まってる!!」

 

 大ざっぱだがこれが連中の主張だ。

 これを聞いた俺は痛いほどに理解した。

 

 こいつらに村を守る意志なんて物はない。

 ただ人と違う事がしたい、目立ちたいというくだらん願望だけで志願してきただけだと言う事を。

 

 クソガキどもの言い分の余りのガキっぽさに腹が立ち、かかってきた連中は容赦無しに叩きのめした。

 

 正当な理由もなく、説得力もない言葉で自分の主張を通そうとするような馬鹿に手加減などしてやるほど俺は優しくない。

 ついでに過ちを犯すとどうなるかと言う事を志願者全員へ明確に伝える事も出来るから一石二鳥だ。

 

「村を守る気概もなしにくだらん自尊心で後先考えずに動く馬鹿なんぞ邪魔だ。二度とその面を見せるな」

 

 肩を外してはめ直すという激専用のお仕置きで恥も外聞もなく泣き喚いた連中にとどめの一言。

 

「次は粉々で、二度と動けないようにしてやる」

 

 以降、そいつらは自分たちの村から出てこなくなったらしい。

 あの程度の痛みで引きこもるようなヤツらなど知った事じゃないが。

 ああいう輩は仲間の足を引っ張る。

 おとなしく畑仕事でもやっていた方が村にとっても本人たちにとっても幸せだろう。

 

「隊長、整列終わりました」

 

 フラフラになりながらもなんとか横一列に並んだ部下たち。

 八つ数える間に並べているので罰則は無しだ。

 

「今日の訓錬はここまで。一刻後、見回り番二名は所定の場所へ向かえ。他の者は畑仕事だ。酷使した体はしっかり解し、明日に疲れを残さないように。以上!」

「「「「「「はっ!」」」」」」

 

 何度も地面に叩きつけられたせいで体中、砂だらけになった状態で敬礼する隊員たち。

 見ていて清々しい程にその動きは統一されている。

 

 俺が元軍人であった為、訓練は父さんたちが想定した以上にスパルタになってしまい隊の規律も他の隊と比べ厳しい物になってしまった。

 両親や村長、祭たちにも注意されたが俺はこの三年間ずっと自分のやり方を貫いている。

 勿論、耐えきれずに逃げ出す者や逃げずとも他隊へ異動した者もいたがそれについては不問にした。

 

 戦いになれば訓練など比較にならない程に辛い目に合うのだから、逃げ出せるのであればそれも選択肢としては有りだろう。

 

 一度きりの人生なのだ。

 俺は後悔するような生き方を強制するつもりはない。

 

 それでも残ると言った自分に厳しい者たちには容赦のない訓練を課した。

 勿論、俺も同伴している。

 

 俺は彼らの隊長ではあるが同時に戦で肩を並べる戦友でもある。

 そんな彼らと苦楽を共にして親交を深めるのは当然の事だ。

 当然だが俺自身は彼らの訓練メニューの倍をこなしている。

 彼らには申し訳ないが俺の場合、メニューを合わせていては体が鈍ってしまうからな。

 

 俺が自分たちの訓練をこなした後に個人訓練を行っていると知った彼らの驚いた顔はなかなか見物だった。

 

 ともかくそんな部隊の在り方をしている為、俺の隊は他隊に比べて人数が少ない。

 豊さんたちと俺、父さんの六つの部隊の中で隊員数が一桁なのは俺の所だけである。

 次に少ないのは豊さんの弓部隊。

 こちらは弓を扱える人材が少ない事が原因で、五つの村すべてからかき集めて十三人。

 他四つの部隊は平均二十人。

 総合計で百人を越す程度である。

 その中で俺の部隊は俺を含めても七人しかいないのだから、どれだけ少ないかは子供でも理解できるだろう。

 

 だがその分、一人一人に密度の濃い訓練を行った為に練度は高くなっている。

 うちの隊の人間なら他隊の人間を三、四人同時に相手に出来るだろう。

 少数精鋭とはよく言った物だ。

 

 とはいえ練度で数を補うのには限界がある。

 豊さんたちと相談して隊の増員、そうでなければ他隊の練度を引き上げられる体制を整える必要がある。

 いっその事、俺の部隊を解体して他の五つの部隊にバランス良く配置するのも手の一つか。

 

「……どうするにしても休む暇はないか」

 

 だがこの日々に充実感を感じているのも否定できない事実である。

 我ながら不謹慎ではあるが。

 

「孫家の見物は折を見て考えるしかないな」

 

 まずは目先の問題からだ。

 気分を切り替えるように体を伸ばし、畑仕事の手伝いをする為に歩き出した。

 

 

 

 

「ふむ。しかしここまでの二年間はあっという間だったな、陽菜」

 

 月を見ながら杯を傾ける姉さん。

 その隣で私も老酒を飲み干す。

 

「姉さんが色々と急ぎ過ぎなのよ。民を守るために仲間を率いて賊を討ったと思ったら一ヶ月と経たない間に気に入らない大守に喧嘩を売って……文字通りの意味で叩き潰して」

「ふん。ヤツが私たちや民を食い物にしていたのが悪いのさ。とはいえ叩き潰した結果、自分が大守になるとは思いもしなかったがな」 

「むしろ国への反逆罪で処断されても文句は言えなかったのだけど……朱(しゅ)将軍には感謝しないとね」

 

 どれほど悪行を重ねていようとも仮にも相手は漢という国から土地を任された人間だ。

 そんな人間に手を出した私たちは本来なら打ち首になっていただろう。

 そうならなかったのは当時、内政監査の名目で建業に来ていた朱将軍―朱儁という私が前世で聞きかじった三国志にも出ている武将の一人―が取りなしてくれたからだ。

 元々、大守が不正を行っている事に気づいていた彼女は、民の立場から彼に鉄槌を下した私たちを賞賛し自分の権限と風聞を最大限利用して私たちの首を繋げてくれた。

 まさか姉さんを大守に召し上げるとは思わなかったけど。

 

 勿論、あちらにも思惑はあったんだろうけど、それでも私たちは九死に一生を得たのだ。

 幾ら感謝しても足りないくらいだろう。

 

「まったく。前大守の配下だった人たちが協力してくれなかったら何も出来なかったのよ?」

「ああ、それは言えてるな」

 

 なにせ自分たちは武力や知力はあるけれど所詮は民側の人間だ。

 領地の治め方などまったくわからない。

 だから前大守の目に見えない悪政を諫めた為に酷い扱いをされていた武官、文官に頭を下げて協力を求めた。

 

 彼らも私たちの殊勝な態度に感服した様子で協力してくれた。

 前体制で冷遇されていたからか、こちらが驚くほどあっさりと頷いてくれたのは嬉しい誤算だったわ。

 私たちの飲み込みが早かったお陰もあって三ヶ月も経つ頃には建業の生活は安定している。

 

 姉さんは勉強を嫌って何度も脱走したけれどその都度、周異公共(しゅういこうきょう)こと美命(びめい)か私が捕まえて椅子に縛り付けたりしていた。

 

「ほんとあの頃が一番大変だったわ。姉さんの脱走癖の相手が特に」

「うぐ!? いや、あれはな」

「大守として民を守る立場になったって事を自覚するまで大変だったものね」

「……むぅ」

 

 分が悪いと言うことがわかっているんだろう。

 先ほどまで豪快に椅子に座っていたのに、今は体を縮こませて居心地悪そうにしている。

 

「ふふ、二児の母とは思えないわね。こんな姿、あの子たちにはとても見せられないわよ?」

「ええい! そんなネチネチネチネチと言わなくてもいいだろう!? せっかくの酒が不味くなってしまうじゃないか!!」

「はいはい。私が悪かったからそんなにいきり立たないで」

 

 争いで平和を勝ち取る事が日常になっている時代。

 そんな怖い世界で、私はどうにか今日も笑っていられる。

 

 どうしようもなく心細くなる事があるけれど、そんな事を姉や親友に言う訳にはいかない。

 

 私一人だけが弱音を吐く事なんて出来ない。

 私一人だけが立ち止まる事なんて出来ない。

 

 もう私たちは私たちだけの為に生きる事が出来ない立場になってしまったのだから。

 

 ねぇ玖郎。

 私は人を殺めてしまったわ。

 人を殺す事と引き替えに生きていくようになってしまったの。

 今なら出会った頃の貴方の気持ちが本当の意味で理解出来るわ。

 

 貴方が今の私を見たらどう思うのかな?

 聞くのが怖いとも思う。

 同時に聞きたいとも思う。

 

 でもそれ以上に、どういう言葉を投げかけてきても構わないから。

 

「貴方に逢いたいよ……玖郎」

 

 私の掠れ声は自棄酒を始めた姉には届く事はなく、夜空に飲み込まれて消えていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八話 運命を変える出会い。分岐点

 出会いと言う物はいつでも唐突に訪れる。

 

 二度目の人生を生きている俺にとってもその認識はまったく変わらない。

 むしろ前世以上に突発的且つ予測不可能な出会いが多くて混乱する事も多いくらいだ。

 女性化した黄蓋や韓当を見て取り乱さなかった自分は本当に良くやったと思う。

 

 

 

 この日、俺は狩りをしに山に入っていた。

 俺、祭、塁が二十歳になった祝いをする為だ。

 

 この頃、誕生日を祝うと言う風習はなかったようで今までは俺が個人的に祝うだけだった。

 俺が始めた事をきっかけにいつの間にか定着して今では身内限定で盛大に祝うのが当たり前になっているのだが。

 

 まぁそれはともかく今年は日本における成人の年と言う事なのでいつもより派手に祝ってやろうと思い、こうして一人で山に入って食材を探しているのである。

 

 熊や猪はこの時代の村人から見れば貴重なタンパク質だし、特に熊は高級食材でもある。

 祝いの席には丁度良い。

 

 今の季節なら冬眠を終えて獲物を探しているだろうから適当に山の中をぶらついていれば自然に見つかるだろう。

 

「ついでに靴の威力も試せるしな」

 

 重々しい鉄製のソレで地面を軽く突く。

 俺は肉体的な成長が止まった頃を見計らい、武器について父さんに相談した。

 

 相変わらず手持ちの武器については思いつかなかったので、まず得意分野を強化する装備をどうにかする事でまとまった。

 そこで蹴りの威力を強化する為に鉄製の靴と膝までを覆う手甲ならぬ足甲を考案。

 父さんたちの武器の手入れを一手に引き受けている鍛冶職人に頼み込み、俺が直接経過を確認しながら作成してもらった。

 

 鉄製と言ってもただ鉄で作った靴では足を痛めるだけだ。

 故に普通の靴を履いた上で装甲を取り付ける形にしている。

 つまり平常時に履いている靴を緩衝材代わりに使うわけだ。

 靴部分だけでは装備として心許ない為、膝頭から足首までを覆うように足甲を追加。

 しかし足首や膝などの関節、人間の可動域を妨げるような作りでは問題外だ。

 試行錯誤の末、装甲を前と後ろで分けて作り、有事の際には前後から足に合わせて装着する形を取っている。

 手間はかかるが動きの妨げになる方が戦場での危険度は高い。

 

 そうして試作を重ねて完成した物を今、俺は付けている。

 やはり付け始めた当初は装備の重みで違和感を感じたが、動きを妨げると言う事はなかった。

 装備の重さも慣れてしまった今となっては問題にはならない。

 

 威力を計る為に前に普通の靴で打ち砕いた物と同じくらいの岩を蹴ってみた所、以前は足の骨に罅が入ってしまったのだが今回は衝撃で足が痺れる程度で済んでいる。

 鍛冶職人の男性には無茶な注文をしてしまったが、予想以上の出来映えだ。

 

 彼からは「創作意欲が刺激された、良い注文をしてくれてありがとう」と逆に礼を言われてしまったが。

 

 ちなみに俺の足甲に使われた鉄は俺が殺した山賊頭の使っていた戟を流用している。

 材料費もタダではない。

 既に血に塗れた代物を使う事に嫌悪感が無いわけではないが、やはり使える物は使うべきだろう。

 

 手持ちの武器の模索は今も続いている。

 格闘術だけでも戦える事は既に立証されているとはいえ、どのような不測の事態になるとも限らない。

 出来るだけ自分に合った武器を持ちたいが剣や槍、弓に塁の大槌なども試して見てもどれもしっくりこなかった。

 試した中では槍がもっとも使い勝手が良かったので進展としては長物の方が向いている事がわかったくらいか。

 

「まぁ武器については追々なんとかするとして……お出ましだな」

 

 鬱蒼とした木々に囲まれた山の中腹。

 山頂に向かう方向からこちらに向かってくる獣の唸り声。

 

「ん?」

 

 獣の唸り声に混じって何か甲高い声が聞こえてくる。

 それに獣の様子も妙だ。

 普通、餌を探す獣と言うのは息を潜めて獲物に近づく。

 姿が見える前からこんなに殺気立っているような事はそうそう無いはずだ。

 

 まさか……。

 

「こっちにまっすぐ来るか」

 

 右足を前に出し半身の体勢で腰を落とす。

 右手を伸ばして前面を睨みその時を待つ。

 

「なんで追いかけてくるのよ〜〜!?」

「おまえがおこらせたんだろう!? とにかく走れ!!!」

 

 茂みを揺らして飛び出してきたのは二人の少女だった。

 二人の後ろには唸り声の元である熊。

 もの凄く怒ってるのがその形相から伝わってくる。

 

 一体、なにしたんだこの子たちは?

 まぁいい。

 

「わ!? おじさんあぶないよ!?」

「ごじん、にげてください!!」

 

 目の前に現れた俺の存在に気付いた少女たちの言葉。

 どうやらこの子たちは自分よりも赤の他人である俺の身を案じてくれるらしい。

 

「心配はいらない、君らは逃げろ!」

 

 逃げるのに必死だろう彼女らにも意味が伝わるように短くまとめて声を上げる。

 

「え、でも!?」

 

 反論を待たず俺は地を蹴り、垂直に跳ぶ。

 彼女らとすれ違いながら狙うのは興奮しきりでこちらを睨みつける熊の頭部、その顎。

 

「はぁっ!!!」

 

 左足を振り抜いての浴びせ蹴り。

 相手の突撃の勢いをも利用したその威力は破格。

 ぐしゃりと言う腹の底に響く音、同時に足に伝わる顎を突き抜け頭蓋を砕く感触。

 

 熊はそのひしゃげた頭を仰向けにして断末魔の声を上げる間もなく倒れ込んだ。

 

 およそ十秒ほど、俺は倒れ込んだ熊を睨み付ける。

 完全に息が止まっている事を確認すると構えを解き、小さく息を吐き出した。

 

「……申し分ないな」

 

 本当にこの足甲は大した物だ。

 今度は手甲を注文してみよう。

 

 

 

「おじさん、助けてくれてありがとー」

「こら雪蓮(しぇれん)! もっとちゃんとお礼を言わないか!! この度はごめいわくをおかけしてもうしわけありません。そしてわたしたちの命を助けていただき本当にありがとうございました」

 

 桃色の髪に褐色の肌をした少女が無邪気な笑みで礼を言う。

 その横では艶やかな黒髪の褐色肌の少女が彼女を窘めながら恐ろしく馬鹿丁寧な謝辞を微妙に舌っ足らずな口調で述べている。

 

「どういたしまして、桃髪のお嬢ちゃん。黒髪のお嬢ちゃんはそう畏まらなくていい」

 

 俺は今、熊を背中に抱えて下山している。

 先ほど遭遇した二人の少女も一緒だ。

 

「おじさん、すごいね。こんな大きなくまを一発でたおしちゃうんだもん!」

 

 身振り手振りでその時見た物を表現する桃髪のお嬢ちゃん。

 どうやら俺の一撃は彼女にとってとてつもなく衝撃的だったらしい。

 

「だから雪蓮。おまえはもっとおちつきをもってくれ」

 

 黒髪の子は彼女の行動を諫めながらその年に似合わないため息を付いている。

 この年で苦労性か。

 華陀少年を思い出させるな。

 

「君たちくらいの年になる前から身体を鍛えていたからな。俺だけが特別に凄いわけじゃない」

「ええ〜〜、そうかな〜〜」

 

 俺の返答が気に入らなかったらしい桃髪のお嬢ちゃんが頬を膨らませながらじと目をする。

 

「そう言えば君たち、なんであんな山の中にいたんだ?」

 

 そこまで険しい山でもないが、何の目的もなく子供二人で山の中腹まで来るとは思えない。

 

「「あ……」」

 

 俺の疑問の言葉を受けて二人は揃って間抜けな声を出した。

 

「母様おこってるかな? 冥琳」

「……とうぜんだろう。文台様のことだ、きついおしおきがまってるはず」

「う……おばさま助けてくれないかな?」

「わるいのはわたしたちだぞ? むしろ一緒になっておしおきをしてくるやも」

 

 会話を進めていく内にどんどん顔色が悪くなっていく二人。

 身体が小刻みに震えているのは寒さが原因ではないんだろう。

 しかしお嬢ちゃんたちには悪いがそれよりも優先して気になる事が出来てしまったのでそちらを聞く事にする。

 

「聞き違いでなければ今、文台様と言ったか? 黒髪のお嬢ちゃん」

「えっ? あ、いやその……」

 

 俺に聞かれた事をまずいと思っているんだろう。

 妙に大人びている子だが、動揺して必死に言い訳を探す姿は年相応だ。

 

「別に言いたくなければそれでいい。ただの興味本位だからな」

 

 肩からずり落ちてきた熊を背負い直しながら思わず苦笑いする。

 

 様付けされる文台と言う人物などそう多くはないだろう。

 黒髪のお嬢ちゃんの正体はわからないが、文台と呼称される人物の事を母と言った桃髪のお嬢ちゃんの正体は俺の中では八割方、確定していた。

 

「あ、そうだ。おじさん、わたしのなまえは孫策伯符(そんはくふ)、真名は雪蓮だよ! 助けてもらったお礼に真名もあずけるね!!」

「ええっ!? 雪蓮!?」

 

 

 孫策伯符

 父親である孫堅亡き後に衰退した勢力を立て直した男。

 袁術の配下に甘んじて四、五年の雌伏の時の後に独立。

 瞬く間に江東一体を支配化に置き、当時から飛び抜けた勢力だった曹操、袁紹に追いつかんとしていた。

 だがどこかの勢力から受けた矢が原因で重傷を負い、孫権に後を託して二十六歳の若さで死んでいる。

 確か死因については道士・干吉(うきつ)に呪い殺されたとも言われているはず。

 江東の虎と呼ばれていた父親に肖ってか『江東の小覇王』と呼ばれ敬われていたと言われている。

 容姿端麗で闊達な性格だったという話だ。

 

 

 どうやら将来の小覇王はこの年から型破りらしい。

 動揺しながらもなんとか誤魔化そうと努力していた黒髪の子が不憫で仕方ない。

 

「名乗られたなら名乗り返すのが礼儀だな。俺は凌操刀厘、真名は駆狼だ。山を降りて少し歩いた所にある村に住んでいる」

「よろしくね、駆狼!」

「ああ。よろしく、雪蓮嬢」

 

 無邪気な笑顔でよろしくされてしまってはこっちとしては断れない。

 昔から子供には弱かったからな、俺は。

 それでも締める所はしっかり締めていたとは思うが。

 

「ああ、もう……ほんと雪蓮はかんがえなしなんだから」

 

 俺と雪蓮嬢のやり取りを見ながら年期の入った深いため息をつく黒髪のお嬢ちゃん。

 しかし『孫策』を名乗る人物に対してのこの気安い態度でしかも同年代とくればこのお嬢の正体も予想が付いてしまうな。

 

「おほん! わたしは周瑜公瑾(しゅうゆこうきん)ともうします。おんじんに名も名乗らずにいた非礼をおわびします」

「気にするな、公瑾嬢。熊を一撃で倒すような人間を警戒するなと言う方が無理な話なんだからな」

 

 ひらひらと右手を振って気にしていない事を伝えると周瑜を名乗った少女はほっと息を付いた。

 

 

 周瑜公瑾

 孫策、孫権を支え続けた名軍師。

 孫堅が存命の頃から孫策と親友であったとされ、その友情は『断金』と称されるほど篤かったと言われている。

 孫策が袁術からの独立に動いた際も、いの一番に駆けつけ彼を支え続けたと言う。

 孫策の死後、彼にとっても弟分だった孫権を支え、かの有名な『赤壁の戦い』では劉備の軍勢と協力。

 数の差をひっくり返して見事、曹操たちを撃退。

 しかし孫策同様、若くして急逝し孫呉の者たちを嘆かせている。

 美周郎(びしゅうろう)と評される程に見目麗しく、音楽にも精通していたとされる。

 

 

 しかしこの年にして随分と周りに気を配っている子だ。

 あの周瑜だとはいえ、この年でそんな生き方をしていてはそのうち倒れてしまうんじゃないかと心配になってしまう。

 

 ……まさかと思うが史実の早死の原因はこの性格のせいではないよな?

 

「あれ〜、冥琳は真名をあずけないの? いのちのおんんじんだよ?」

「う、いやそれはそうだが……」

 

 雪蓮嬢の疑問に言葉を詰まらせてしまう。

 チラチラと俺を伺いながら言葉を選んでいる様子を見るにこの子は俺のことを信用はしていても真名を預けるほど信頼しているわけではないようだ。

 

 その慎重さはさすが周公謹と言うべきか。

 山の中を迷子になるわ、熊に追い回されるわで混乱しているはずの頭でも冷静な判断力を失っていない。

 将来が実に楽しみな子供だ。

 

「こらこら、雪蓮嬢。真名を預けるかどうかは彼女自身が決める事だ。君がどうこう言う事じゃない」

 

 とりあえず将来の智将に助け船を出す事にする。

 あのままだとなし崩しに真名を預けられてしまいそうだったからな。

 

「でも助けてもらったのに……」

「その分はお礼を言ってくれたから問題ない。君も助けられたと言うだけで真名を預けたりするな。信頼してもらえるのは素直に嬉しいが、俺が何か下心を持って君たちを助けていたらどうするんだ?」

「あ……」

 

 おそらく俺が言った通りの事を危惧していたのだろう嬢が俺から目を逸らす。

 

「気にするな。君の行動は当然の事だ」

「……すみません」

 

 しゅんとして俯く彼女の姿を見ているとなにもしていないのに罪悪感が沸いてくる。

 見た目年齢に似合わずやたら頭が回るようだがその論理を受け止める感情の方が年相応に未成熟な為、行動と態度のギャップが激し過ぎる。

 

 一体、どういう環境にいたらこんな風になるんだか。

 

「気にするなと言っているだろう? まぁそうだな。それほど気にかかるなら公謹嬢と呼ばせてもらう事で手打ちにしないか?」

 

 俯いてしまった彼女の肩を右手で宥めるように軽く叩く。

 

「あ……はい、わかりました」

 

 蚊の鳴くような声で返事をする公瑾嬢に俺の言葉が本当の意味で届いていたかは定かではない。

 まぁ九割九分九厘、届いてなさそうだが。

 

 結局、話の輪から外されていた雪蓮嬢が背負っていた熊によじ登った挙げ句、俺に肩車を強要してきたせいで公謹嬢の暗くなっていた雰囲気は消し飛んでしまったが。

 

 

 

「なに? 君らは俺たちの村の視察に来たのか?」

「はい。雪蓮のお母様である文台様がごしさつに出るのに雪蓮が付いていくと聞かず……ごえいからはなれないと言うやくそくで同行をゆるされたのですが」

「護衛を撒いて散歩した挙げ句に山に入り、迷子になって憂さ晴らしに蹴った石がたまたま熊に当たって追いかけ回された、と」

「はい。そのとおりです」

 

 もはや型破りと言う言葉では収まらないな。

 良い意味でも悪い意味でも自由奔放過ぎる。

 

「と言う事は今頃、村の方は大騒ぎになっているかもしれんな」

「村を抜け出すところを君理(くんり)の部隊の人に見られちゃったからたぶんね〜」

「……わたしたちの行動は君理殿から文台様に伝わっていると思いますのでおそらくは。さいあくのばあい、文台様のしきの元、山狩りになるかもしれません」

「それはまた厄介な……」

 

 話を聞けば聞くほど村に戻った後の事で気が重くなっていく。

 この山は五村同盟にとって大事な狩り場だ。

 人捜しの末に草一本残らないような有様にされては今後の生活に支障が出てしまう。

 そこまでの事はしないと思いたいが、この子の性格と公瑾嬢の言葉から推察するとあまり楽観も出来ない。

 

「悪いが少し急ぐぞ。公瑾嬢の話を聞くにのんびりしている時間は無さそうだからな」

「どうなさるんですか?」

 

 今は昼を少し回った頃。

 このままのペースで山を下っていては村に着くのは大体、夕方になるだろう。

 原因は公謹嬢のペースに合わせて歩いているせいだ。

 

 山歩きは初めてなのだろう、彼女の足取りはどこかおぼつかない物だし息も上がっている。

 あれだけ汗を掻いていれば隠そうとしてもバレバレだ。

 

 この状況でなるべく早く帰るにはどうすればよいか。

 

「二人とも、すまんが少し我慢していてくれ」

「へ?」

「な、なにを!?」

 

 肩車をしていた雪蓮嬢を左肩に乗せ換え、横並びになっていた公瑾嬢を持ち上げ右肩に乗せる。

 状況が状況なので熊は降ろしている。

 恐らく他の獣に食われてしまうだろうが、今回は仕方ないだろう。

 

「しっかり掴まっていろ。振り落とされないようにな」

 

 俺の真剣な声音を感じ取ってくれたらしい二人は黙って従ってくれた。

 公瑾嬢に抵抗される事も覚悟していたんだが。

 まぁ今は素直に従ってくれた事を喜ぶべきだろう。

 

「行くぞ」

 

 深呼吸の後、俺は二人を抱えたまま駆け出した。

 これ以上の厄介事が起こらないよう祈りながら。

 

 

 

「太守様! 伯符様と公瑾様が村を抜け出してしまいましたぁ!!」

 

 あのアホ娘がぁ!!!

 

 涙目で報告しにきた深冬(みふゆ)の言葉に私は心中で絶叫した。

 

「……太守様? なにやら問題が起こったようですが大丈夫ですか?」

「ああ、いい。気にするな、公厘」

 

 頭痛轟く頭を抱えている私の様子に戸惑いながらも気遣う凌公厘と言う男。

 

 大守の突然の訪問にも動じない冷静な対応は村の代表として以上の高い能力を感じさせる。

 しかし今はこの男の事よりも冥琳を引き連れてどこぞへ行った馬鹿娘の事を優先させなければならなくなってしまった。

 

 まったく。

 目的を果たす前に騒ぎを起こしおってからに。

 

 思わず毒づくが起こってしまった事はもうどうしようもない。

 

 

 そもそも今回、私が自分の足で領地内の村の視察に乗り出したのには理由がある。

 

 少し前から建業に広がっている噂の真偽を確かめる為だ。

 噂の内容はこうだ。

 

 村同士が連携をとって独自の戦力を有しており、その実力は官軍に勝るとも劣らない。

 

 噂と言うのは大抵、尾ひれが付いてしまう物だ。

 現状、本来なら捨ておいても問題はないのだが私はこの噂を放置してはいけないと感じた。

 いつもの直感だ。

 

 私たちは余所に比べて武官、文官両面で人手が不足している。

 前の大守から私に鞍替えした連中を含めても余裕などない程に。

 まぁ成り上がりの大守だから仕方ないだろう。

 

 この噂の根元である村の集まりの戦力が実際はどの程度なのかはわからないが、使えるヤツがいたら引き抜いてみるのもいいと私は考えたのだ。

 

「あの蘭雪(らんしぇ)がこんなに説得力のある考えを示すなんて……」

「あの姉さんがいつの間にかこんなにも成長したのね。今夜はお祝いね!」

 

 親友と妹に私の考えを伝えたらこんな失礼な事を言われたがまぁそれは置いておこう。

 

 と言うか陽菜は時々、妹なのに母親のような事を言うので困る。

 目頭押さえながら「頑張ったのね」とでも言うような、小さな子供を褒めるような視線を送るのはやめてくれ。

 お前、ただでさえ達観通り越して老成した雰囲気出してるんだから。

 

 まぁとりあえず二人の協力を経て他の臣下を説得。

 こうして深冬と部下三十人を引き連れて噂の『五村同盟』の中心とされている村に出向いたのだが。

 

 娘たちの暴走でいきなりこけた。

 

 まぁ冥琳はうちのじゃじゃ馬を止められずに巻き込まれただけだろうが。

 むしろあの子を引き連れていったのなら最悪の事態じゃないと思うことにしよう。

 

 まったく。

 今年で九歳になったと言うのにあの落ち着きの無さは誰に似たのやら。

 やはり赤ん坊の頃、戦場に連れていったのが悪かったのか?

 陽菜に怒髪天を突く勢いで怒られたから一回しかやってないんだが。

 

「……太守様、本当に大丈夫ですか?」

「はっ!? ああ、済まない。少しぼうっとしていたようだ」

 

 頭を振って沈んでいた思考を切り替える。

 

「太守様、落ち着いて談笑している場合じゃないですよ!?」

「お前はもう少し落ち着け、君理。そんな体たらくで民を守るつもりか?」

 

 キツイ言葉と一緒に睨みつけてやる。

 今、この場にいるのが私と深冬だけならこの態度も咎めはしなかったんだが、ここには公厘がいる。

 守るべき民に対して浮き足立った様子を見せるなど言語道断だ。

 

「うっ、……はい。取り乱して申し訳ありませんでした。公厘殿にもお恥ずかしい所をお見せしました。申し訳ありません」

「いいえ、お気になさらず」

 

 やれやれ。

 やっと落ち着いてくれたらしい。

 こいつは戦の時はあんなに頼りになるのに、なんでこう平時は落ち着きがなくなるんだろうなぁ。

 

「それよりも太守様、ご息女が村の外に出られてしまったとの事ですが」

「ああ、そのようだ。正確には娘と親友の子供だが、まぁどちらも大事だから大して変わらん」

「この時期は山の動物たちの動きが活発になります。平野部ならまだしも、もし山に入ってしまうと獰猛な熊や猪、虎などが出る可能性があります。僭越ながらすぐにでも捜索された方がよろしいと思いますが」

 

 ふむ。

 言う事はまったくもって正論だ。

 反論のしようもない。

 

 しかしな、深冬。

 いくら言っている事が正しいからってそこまで激しく首を縦に振って同意するな。

 

 一応、この男は村人に過ぎなくてこちらは漢王朝に認められた大守の軍隊なんだぞ。

 さっきも言ったが体面って物を考えろ。

 いや私が言っても説得力ないかもしれんが。

 

「君理、連れてきた連中を三人一組で分けて捜索に出せ。日が落ちるまでに発見できなかったら一旦戻るように厳命してな」

「はっ!」

 

 慌ただしく出ていく側近の背中を見送る。

 

「もう少し五村同盟の話を聞いていたかったんだがな」

「事が落ち着きましたら幾らでもお話させていただきます。ですので今は子供たちの事だけをお考えください。そちらが良ければ山に詳しい人間を何人か随行させます」

「何から何まですまん。そして感謝する」

 

 凌沖の妻が用意してくれた茶を一息に飲み干し、私は席を立った。

 私に続くように凌沖も席を立つ。

 

 

 この後、組分けを行っていざ捜索に行こうとした瞬間。

 娘たちを肩に乗せた男が私たちの前に現れた。

 

 村で育ったとは思えない知性を感じさせる目をした男。

 その姿を見た瞬間、私の頭の中からは一瞬だけだが娘たちの事は消えてしまった。

 

 あの達観した性格の妹が纏う空気と同じ物をこの男に感じたからだ。

 

 そして直感する。

 この男は私に……否、私たちにとって無くてはならない存在になるのだと言う事を。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九話 覚悟と決断

「あーー!! 雪蓮様!! 冥琳様!!」

 

 村に着いた途端、甲高い声が俺の鼓膜を揺さぶってくれた。

 俺の両手はお嬢ちゃんたちを落とさないように支えに使っている為、塞がっている。

 耳がキンキンして仕方ない。

 

 物々しい様子の兵士たちを背景に目の前にいる女性二人を見つめる。

 片方が甲高い声の発信源だ。

 やたら落ち着きがない様子で、真名を知らない人間が多い場所で真名を絶叫している事にも気づいていないようだ。

 

 もう一人は桃色の髪に褐色肌の女性だ。

 髪は腰に届くまで伸ばしていて、彼女が身じろぎする度に左右に揺れた。

 横の女性の甲高い声が聞こえる前にしっかり耳を塞いでいる辺りに慣れを感じさせる。

 

 と言うか彼女らの後ろの鎧を来た兵士たちも耳を塞いでいるな。

 この女性が叫ぶのは日常茶飯事なのだろうか?

 

「やほー、君理。ただいま〜〜」

「ただいまもどりました。君理殿」

 

 ちゃっかり耳を塞いでいた二人を肩から降ろす。

 雪蓮嬢が脳天気に笑っている横で公謹嬢は神妙な面持ちだ。

 良くも悪くも対照的だな、この二人。

 しかしこの落ち着きのない女性があの朱治君理とはな。

 

 

 朱治君理(しゅちくんり)

 孫堅、孫策、孫権の三代に渡って仕えた武将。

 元は役人で当時、勢力を拡大していた孫堅の配下となった。

 孫策の頃には彼と共に袁術の元に身を寄せ苦楽を共にし、ヤツの非道な振る舞いを見て孫策に独立を進言したとされる。

 孫権の頃になると文官としての立ち位置に付き、張昭(ちょうしょう)らと共に彼を支え続けた。

 史実では八十年生きたと言われている。

 この時代の人間としては異常な程、長生きした人物だ。

 

 

「ほう。お前たち、君理には挨拶して私に対して何も言うことはないのか?」

 

 びくりと震えるお嬢ちゃんたち。

 迫力のあるドスの効いた声に兵士たちは一糸乱れぬ動きで声の主から距離を取った。

 君理、俺、桃髪の女性の順番に何度も視線を彷徨わせた子供二人は、やがて諦めたように怒気の発生源である女性と目を合わせる。

 

「え、えっと母様、ただいま」

「雪蓮を止められずもうしわけありませんでした。文台様」

「ふん。まぁ公謹はいい。どうせ馬鹿娘に連れ出されたんだろうしな」

「あう!?」

 

 ため息混じりに近づき、予備動作無しに雪蓮嬢の頭をひっぱたく女性。

 その手慣れた様子からしてやはり雪蓮嬢の奔放ぶりはいつもの事なのだろう。

 

「そっちのお前、娘たちを連れてきてくれて助かった。礼を言う」

 

 ただの一村民にわざわざ頭を下げる太守様。

 民から成り上がった彼女ならではの親しみやすさを感じる。

 どうやら噂に聞いた彼女の人柄に脚色はないようだ。

 

「いいえ、彼女らを見つけたのは偶然ですから。大守様に畏まって礼を言われる程の事ではありません」

 

 しかしだからと言ってぽんぽん頭を下げるのは為政者としてはどうなのだろうとも思ったので、やんわりと頭を上げるように促す。

 

「なかなか謙虚だな。しかし礼くらいは受け取ってくれないか? こんな傍迷惑なじゃじゃ馬でも大事な娘だ。その上に親友の子も助けてくれた以上、礼の一つもせんとこっちも収まりがつかん」

 

 そこまで言い募られてしまうと礼を受け取らない俺の方が悪者になってしまうだろうに。

 あちらもなかなかに頑固者のようだ。

 

「……そう言う事ならば謹んでお礼の言葉、お受けいたします」

「ふふ、物分かりが良い上に頭も切れるみたいだな。気に入ったぞ、お前」

 

 俺が折れると彼女はすぐに頭を上げて、してやったりという風に笑った。

 しかしその瞳は差し詰め獲物を見定めた獣のようだ。

 どうやら虎とあだ名されているのは伊達ではないらしい。

 

「もう気づいているようだが改めて名乗ろう。私の名は孫文台、真名は蘭雪(らんしぇ)だ。お前は?」

 

 初対面でこんなに簡単に真名を許すとは。

 雪蓮嬢の積極的な性格は母親譲りらしい。

 

 周りを窺うと兵士たちや君理は全員で「またか」と言う表情をしている。

 雪蓮嬢は「さすが母様」とでも言うような楽しそうな表情で公瑾嬢は額に手を当てて眉間に皺を寄せている。

 どうやら彼女が真名をこんなに簡単に許すのも日常茶飯事らしい。

 公謹嬢の苦労が偲ばれるな。

 

 仮にも大守がこんな軽い感じでいいのか?

 とはいえ名乗られたならば名乗り返さねばなるまい。

 

「私の名は凌刀厘、真名は駆狼です」

 

 大守の面前と言う事で膝を付いて礼をしようとした所、いきなり腕を捕まれた。

 

「畏まった礼などいいさ。ここは城じゃないんだし、私も元々はお前と同じただの民だったんだからな」

「しかし……」

「お前が私の部下なら締める所は締めるんだが、そうじゃないから構わんさ。それよりも、だ」

 

 ニヤリと形容するのがしっくり来る笑みを浮かべて俺の前世で『江東の虎』と呼ばれていた女性は俺にこう言った。

 

「駆狼。お前、私と一緒に来る気はないか?」

「……はっ?」

 

 いきなりのヘッドハンティングに俺は間抜けな返事を返すことしか出来なかった。

 

 

 

 とりあえず立ち話もなんだと言う事で場所を移し、今は村長の家にいる。

 座っているのは入り口から見て上座に太守様、右側に君理、雪蓮嬢、公瑾嬢、彼女らの護衛として男性兵士が三人。

 左側には村長、父さん、俺、騒ぎを聞きつけて来た祭、塁、激、慎。

 現在の五村同盟の中核を担う者たちが揃った形になっている。

 

 ちなみに祭たちの事も気に入ったらしく初対面で真名を許している。

 孫文台、この世界の常識をぶち壊す事を躊躇わないその清々しいまでの豪快さは性別を間違えたとしか思えない。

 いや俺の知っている歴史では男性だったわけだが。

 

「ふふ、わざわざ五村同盟の現部隊長を集めてくれるとはなかなか気が利くな、駆狼」

「いえ祭たちがここに来たのは偶然です。私が手配したわけではありません」

 

 なぜか知らないが俺は太守様にやたらと気に入られている。

 つい先ほど自己紹介をしたとは思えない程にその態度が砕けている事からもその事は窺えるだろう。

 とはいえあちらは何度も言うように大守である。

 その気安い態度にこちらが合わせてしまうのは良くないので俺は敬語だ。

 

「その余所余所しい口調はやめろ。むずがゆくて仕方がないぞ」

「そう言われましても……」

 

 助けを求めるように君理他、彼女の部下たちに視線を向ける。

 彼女は俺と目を合わせると顔をひきつらせながら目を逸らしてしまって話にならない。

 雪蓮嬢はなにもわかってない顔で笑いかけてくるし、公瑾嬢は申し訳なさそうに頭を下げてきた。

 こちらと数を合わせる為にこの会合に呼ばれた護衛の兵士たちは俺と視線を合わせると首をゆっくり横に振った。

 その目が雄弁に『諦めろ』と語っている。

 

 一応、村長たちにも視線で助けを求めてみたが結果は全員から目を逸らされる始末。

 

 当の孫堅様は心なしかわくわくしながら俺を見ている。

 俺が折れる事を期待しているのが嫌でも理解できた。

 

「……臣下の方々はよろしいのですか? ただの村人が自分たちの主に不遜な言葉遣いをしても」

 

 最後の足掻きにと君理に水を向ける。

 もちろん、さっき見捨ててくれた嫌がらせも兼ねている。

 

「うぇ!? え、えっと……わ、私としては主がお認めになった方なら構わないかと」

「ふふ、配下筆頭の君理が良いと言ったんだ。これで問題はないな」

 

 ち、足掻きが止めになってしまったか。

 まぁぶっちゃけた話、そこまで彼女に期待していなかったが。

 

「わかった。俺の負けだ。しかし許可したのはそちらだ。これが原因で何か起こってもこちらに害があるような事はないようにしてくれ。蘭雪様」

「ふふふ、潔し。様付けも気にいらんがそこは妥協するとしよう。それと安心しろ、この場のやり取りで五村同盟に害を及ぼす事は絶対にない。『建業の双虎』、その片割れの名に賭けて誓おう」

「ならば安心だな」

 

 俺の態度に村長は戦々恐々としている。

 大守の許しがある状態とはいえ俺の口調はかなり不遜な物だからな。

 なんらかの報復があるかもしれないと怖がるのも仕方がない事だろう。

 

「お前たちも気楽な口調で構わんぞ?」

「「「「は、はい……」」」」

「そう緊張するな、と言っても無理な話か。ま、慣れていけば肩の力も抜けるだろうさ」

 

 恐縮しきりの祭たちを見つめながら太守、いや蘭雪様はからからと笑う。

 

「さて雑談はこの辺にしてそろそろ本題に入ろう」

「そうだな」

 

 浮かべていた笑みを収め、真剣な眼差しで俺を見つめる蘭雪様。

 

「さっき外でも言ったが駆狼。お前に私の元に来てほしい。建業を、引いては領地に生きる民を守る力になってほしい」

「な、駆狼を!?」

 

 祭が驚きで思わず立ち上がる。

 他の面々も事前に話を聞いていた父さんを除いて全員が驚きに目を剥いていた。

 にしても祭は驚きすぎだと思うが。

 

「駆狼に限った事ではない。祭、激、慎、塁、お前たちにも出来れば来てほしい」

 

 自分たちの名が出た事にまたしても驚く四人。

 俺はと言えば蘭雪様が四人に真名を許した時点でこの発言は想定範囲だったので特に驚きはなかった。

 

「私たちは成り上がりだ。大守になって既に四年経っているが周りから見ればまだまだ基盤が出来ていない。都市部の治安は妹の政策や兵たちの頑張りでなんとかなっているが『呉』と呼ばれている領地全体に目を向けられるほどの余裕はないのが実状。単純な人手は志願者を募ればなんとかなるが突出した物を持つ者、部隊の頭、すなわち『将』になれる者が足りない。文官もここにいる君理などの少しでも教養のある武官を持ち回りでなんとかしているような有様でな」

「……人材不足、ですか」

 

 前世で孫堅に仕えていた黄蓋、韓当、程普、祖茂、そして凌操が在野にいる状態なのだ。

 噂の妹君と公瑾嬢の父親(こちらでは母親らしいが)である周異、さっきから動揺しまくっていていまいち名将の空気が感じられない君理を含めても手が足りないと言うのはわかる話ではある。

 

「お前たちが有望な人間である事は公厘から聞いている。特に駆狼、お前はこの五村同盟の草案を出した上に十四、五の頃から部隊を指揮していたそうじゃないか。うちからすれば喉から手が出るほど欲しい人材だよ」

 

 絶賛してくれるのは嬉しいがその目は相変わらず獲物を見つけた獣のままである。

 どうやら俺に関してはこの場で取り逃がすつもりがないらしい。

 

 とはいえ。

 はいそうですかと簡単に引き抜きに応じる事は出来ない。

 何故なら俺にとって重要なのはこの五村、引いては俺にとっての大切な者たちの平和が保たれる事だ。

 

 太守に仕えた結果、領地の平和が保たれると言うのならばそれは喜ばしい事ではある。

 だがその代償として村が滅びるような事は断じて認められない。

 

「孫文台様、三つ聞かせていただきたい」

「ほう。なんだ?」

 

 俺の畏まった態度と真剣な表情を見て、蘭雪様の顔付きが真剣な物に変わる。

 

「俺が部隊を率い戦う事を辞さない姿勢でいるのは村を、自分にとっての大切な物を守る為です」

 

 誰も喋らない沈黙の支配する空間で俺の声は響き渡る。

 

「私たち五人がいなくなれば一時的にせよ五村同盟は外敵への備えが疎かになります」

 

 部隊長全員が一斉に抜けるなど本来であれば許される事ではない。

 

 だが相手は領地を治める大守である。

 命令ではないとはいえ、その意向に一村人が逆らう事もまずいのだ。

 

 だが俺が戦う理由、その大前提を譲る事だけは出来ない。

 最悪の場合、俺の首が飛ぶ事も覚悟する必要があるだろう。

 

「備えが疎かになれば村の危険は増える。それを承知で引き抜きをしているのでしょうか?」

 

 蘭雪様は肯く。

 この上なく真剣な瞳からは虚偽は読み取れない。

 

「貴女は私たちに自分たちの守りたい物を見捨てろと言っている。そのご自覚はありますか?」

「な!? 刀厘殿、言葉が過ぎます!」

「母様はそんな事言ってない!!」

 

 俺の問いかけに反応したのは控えていた君理と雪蓮嬢。

 視界の端には言葉もなく俺の言葉に不快感を表している公瑾嬢の姿も見える。

 だが俺はそちらに見向きもしない。

 今、向き合うべきはただ一人なのだから。

 

「黙れ、お前たち。刀厘と話しているのは私だ」

「しかし!」

「こいつの言っている事にどこか間違っている所でもあったか?」

 

 俺から目を離さずに言葉だけ投げかける蘭雪様。

 君理はその言葉の意味を理解してすぐに黙り込んだ。

 

「先ほども言いましたが私たちが抜ければ同盟の戦力は著しく低下し、賊のつけ込む隙になります。もしその結果、村が滅ぼされてしまったならば……それは村を見捨てたに等しい」

「大本は私の発言。もしもそんな事になってしまえばそれは私の責任でもあると言う訳だな」

 

 俺を睨み付けていた雪蓮嬢、公瑾嬢が何かに気づいたように目を見開く。

 

「当然、決断をするのは私たち個人の意志。その結果、村が滅びたとしても貴女お一人だけの責任ではありません」

「だが大守であり、引き抜きをした張本人である私に責任が無いなどと言う事はありえない」

「それを踏まえた上で最後の質問です」

 

 この場に集まる者たち全員の視線が俺に集まる。

 

「貴女にはご自分の行動の結果を背負う覚悟はおありか? 私たちは貴女からのお誘いの決断の結果、自分の大切な物を失う覚悟を決めなければならない。ならばこそ、その決意に見合うだけの意志を今ここで貴女に示して頂きたい」

 

 俺は今、あの山賊頭と向き合った時を思い起こさせる程に気合いを入れて目の前の人物を見つめている。

 大守との口約束があるとはいえ俺の言葉を無礼と切り捨て、文字通りに首を落とされても不思議ではないのだから気合も入ると言う物だろう。

 

 周りから見れば今すぐに殺し合いを起こしてもおかしくない程の気迫だ。

 だが対峙する蘭雪様も同様の気迫をもって相対している。

 

「私の覚悟、か」

 

 彼女はそう言うと座る際に脇に置いていた剣を鞘から引き抜く。

 屋内にいた全員に緊張が走る。

 しかし俺は思わず立ち上がろうとする祭たちを手で制止し、彼女の挙動を見守る。

 

「ならばこの場で宣言しよう。お前たちが私と共に来てくれるのならばその代償として『私を殺す権利』をやる」

 

 どこまでも澄んだ瞳で彼女はそう言うと右手に持った剣で自分の背中にかかっていた艶やかな桃色の髪を切り捨てた。

 

「私たちと共に来た結果、お前たちが大切な物を失ったならばその時はお前たちの誰でもいい。私の首をはねろ。無論、私を殺した者に罪を科す事もない。この髪は誓いの証。この場にいる臣下たちが証人だ」

「……たかが村人の引き抜きにそこまでの覚悟を見せられますか」

「それだけお前たちを買っているのさ」

 

 さらさらと地面に落ちる髪に一瞥もくれず、彼女はさらに剣で自分の親指を浅く切る。

 

「私の覚悟は示した。お前も答えをくれるか?」

「……これはあくまで私個人の意志表示です。祭たちの意志は彼女ら自身に確認してください」

 

 差し出された剣で彼女に倣って親指を切る。

 そして親指同士をそっと触れ合わせ俺の決意を表した。

 

「我が名は凌刀厘。今、この時より孫文台様にお仕えし、その身命を賭して尽くす事を誓います」

 

 合わせていた親指を離し、その場で片膝を付いて頭を垂れる。

 

「ふふ。改めてこれからよろしく頼むぞ。駆狼」

「はっ、蘭雪様」

 

 改めて呼び合った真名には覚悟を背負った重みが込められているように感じられた。

 

 

 

 二人が己の覚悟を見せつけ合っているその様子を見つめながら儂は自分がどうすべきかを考えている。

 

 駆狼は言った。

 

「……これはあくまで私個人の意志表示です。祭たちの意志は彼女ら自身に確認してください」

 

 と。

 

 自分は太守様に仕えると決めた。

 だがお前たちはお前たち自身が決めろ。

 

 駆狼はそう言っているのだ。

 

 ならば考えなければならない。

 儂はどうしたいのかと言う事を。

 

 忘れもしない最初の殺し以来、儂は村を守る為に腕を鍛えてきた。

 儂らが暮らすちっぽけかもしれないが暖かい場所を守る為に、それまで以上に努力をした。

 そしてついに部隊を預かるまでになった。

 

 だが。

 駆狼がより大きな物を守る決意をするのをすぐ傍で見て、儂は自分が守る為だけに戦っていた訳ではない事を思い出した。

 

 そう。

 儂は駆狼に追いつく為に、あやつの隣に並んで戦う為に強くなろうと思い、鍛錬に明け暮れたのだ。

 

 その意志は守る為の決意よりも深く、儂の心の根幹に根ざしている。

 塁たち以外に聞かせれば笑われるか呆れられるかと言うような想い。

 だがこの気持ちはもはや儂自身にも止められない程の物だ。

 

 勿論、大切な物を守る為にと言う気持ちに偽りは無い。

 だが同時にあやつと共に在りたいとも想う。

 ならばその為に武器を取ろう。

 

 それが儂の正直な気持ち。

 その心に偽りは……無い。

 

「太守様、儂の決意を聞いてくださりますかな?」

 

 少しだけ砕けた口調で話しかける。

 駆狼に集中していた視線が今度は儂に集中する。

 しかし気後れする事などなく、儂は不遜に見えるだろう『いつもの表情』で笑った。

 

「ああ、聞かせてくれるか。祭」

 

 そしてこの日。

 儂は、いや儂たち五人は孫文台に仕える武官となった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十話 巣立ちの時。それぞれの決意

 俺は心の奥底で切望していた。

 前世の俺を知る存在を。

 

 新しい人生と割り切って過ごしてきた二十年。

 そこに嘘偽りはなく、無理をしてきたつもりもない。

 

 だがそれでも前世の記憶がある以上、考えてしまう事があった。

 

 俺が言う『前世』は本当にあった事なのだろうか?

 俺が生まれ、育ち、死んだ九十年間は俺が都合良く見た夢幻の類だったのではないか?

 

 俺以外の人間に聞いても答えなど得られないだろう疑問。

 ずっと考えないようにしてきた、しかしふとした瞬間に頭をよぎるソレ。

 

 俺よりも強かった山賊頭を前にした時でさえ抱かなかった恐れを内包したソレ。

 殺されかけた時も、左腕が治らないと告げられた時も抱かなかった絶望を内包したソレ。

 

 その疑問は少しずつではあるが確実に俺の精神を蝕んでいた。

 もしもこの疑問に対する俺なりの答えが得られなければ。

 

 そう遠くない日に俺の心が壊れるだろうと自身で確信出来る程に。

 

 

 

 俺たちが蘭雪様の元に行く事を誓ったあの日からの一ヶ月はあっと言う間だった。

 

 五村同盟という明確な組織の枠組みに含まれている人間が、突然いなくなる訳にはいかない。

 この一ヶ月間は俺たちがいなくなってもいいように引き継ぎに奔走していた。

 

 さすがに事が事だけにそれぞれの部隊にも動揺が広がったが最終的に沈静させる事が出来た。

 

 ちなみに俺たち五人の代わりの部隊長はすべて俺の隊の人間を置く事でまとまった。

 実力が部隊の中で抜きん出ていた事がその理由だ。

 

 最初は突然の就任に戸惑っていたが一ヶ月後の現在は、なんとか部隊をまとめられている。

 我ながら急ピッチな対応になったがどうにか形になって良かったと思う。

 

「駆狼、そろそろ行くぞ」

「ああ、先に外に出ていてくれ。すぐ行く」

「あんまり待たせんなよ?」

「すぐ行くと言っただろう?」

 

 出立の時を控え、妙にそわそわした様子の激を追い出した俺は自分の部屋を見つめる。

 前世の頃に比べてお世辞にも快適とは言えなかったが、そこは確かに俺の居場所の一つだった。

 

 最後になるかもしれないのだ。

 挨拶くらい一人で静かに済ませたい。

 

 一度だけぐるりと部屋を見渡す。

 二十年を共にした場所を目に焼き付ける為に。

 

「……行ってきます」

 

 誰もいない空間に俺の声が響く。

 返答などもちろん返ってこない。

 だがそれでも俺は満足していた。

 

 

「遅いぞ、駆狼」

「激、刀にぃにも色々あるんだから」

「まぁ塁も昨日は親父さんたちに抱きついて大泣きしてたしな。駆狼もその口か?」

「なに人の秘密ばらしてくれてんの、バカ激ーーー!!!」

「おいおい、いよいよ出発と言う時に痴話喧嘩なんぞするな、二人とも」

「「誰と誰が痴話喧嘩してるって!?」」

「いや激と塁以外いないと思うんだけど」

 

 いつも通りに騒がしい限りだ。

 今日が人生の岐路だとはとても思えん。

 

「ふふ、なんだかこのやり取りを見ているとこれから先も安心だって思えるわね、泰空」

「まったくだな、楼」

 

 もう四十歳になる両親。

 前世では見る事が出来なかった二人の年老いた姿は、俺がこの世界でやってきた事が無駄ではなかった事の証でもある。

 

「さすがに建業に行ってもこの有様だと問題ですよ。父さん、母さん」

「その辺りはお前が締めてくれればいい。皆もお前がいるからああしてはしゃいでいられるんだ」

「そうよ、駆狼」

 

 俺たちのこれからにまったく不安を抱いていない様子の両親に俺は肩を竦めた。

 両親からの揺るぎない信頼がくすぐったくて、口元が緩んでいるのを誤魔化す為だ。

 

「やれやれ。先が思いやられる」

 

 口から出た言葉は無愛想だったが、それはただの照れ隠しに過ぎない。

 二人もそれを理解しているから笑顔のままだ。

 

「皆の諫め役は大変だと思うが頼むぞ、駆狼君」

「まぁ出来る限りの事をやらせてもらいますよ、豊さん」

 

 人を食った笑みを浮かべる豊さんに苦笑する。

 この人も初めて会った頃から変わらない。

 言い方は悪いが不気味なくらい若々しいままだ。

 祭と並ぶと姉妹にしか見えない。

 何か一族特有の不老の秘密でもあるんだろうか?

 

「あと個人的に祭の事を頼むよ」

「何度も言っていますけど俺にその気はありません」

 

 何かにつけて祭を嫁に取らせようとするのも相変わらずだ。

 

「むぅ……祭は君にぞっこんなんだがなぁ」

「だからと言って俺の気持ちは変わりませんよ。これは祭にも伝えた事です」

「ううむ……」

 

 

 そう俺はこの一ヶ月の間に祭に告白されていた。

 

 しかし俺には生涯ただ一人と決めた人がいる。

 七十年近くを連れ添ってきた番(つがい)。

 

 この世界に彼女が存在するとは思っていない。

 俺がこういう境遇だからと言って彼女も存在すると考えるのは余りにも短絡的で楽観的過ぎる。

 とはいえ『いない』と完全に言い切れない辺り、俺は心のどこかで『もしかしたらの再会』を願っているんだろう。

 

 我ながら女々しいとは思う。

 しかし未だに彼女を想っていると言うのに別の女性を想うと言う事が俺には出来なかった。

 それは陽菜に対する裏切りだから。

 そして陽菜の事を未だに想っている俺が覚悟を決めて想いを告げてくれた祭に応えるのは彼女に対しての裏切りにもなる。

 

 そんな不義理な事は俺自身が認められない。

 だから俺は既に想い人がいる事を告げて祭の告白を断った。

 祭は寂しげに笑いながらこう言った。

 

「儂の想いに真剣に答えてくれてありがとう」

 

 足早に去っていく彼女を追いかける事など出来るはずもなく。

 俺は彼女の姿が見えなくなるまでその場から動けなかった。

 

 次の日、普段と変わらぬ様子の祭に少なからず驚いたが。

 それは彼女の中で折り合いを付けられたという事なのだろう。

 

 折り合いがついていないのはむしろ俺の方だ。

 情けない且つ傲慢な話ではあるのだが、どうやら俺は自分が思っている以上に祭を好いていたらしい。

 その好いていると言う想いを『愛』と言えるかどうかと聞かれれば、やはり首を横に振るが。

 

 

「しかし君にもうそんな人がいるとは思わなかったな」

 

 俺が祭を振ったという話は既に村中、というか五村同盟全体に広がっている。

 あの時は祭にだけ意識を集中させていたせいで気づかなかったが、どうも塁と激が覗いていたらしい。

 真剣な彼女の想いに答える為とはいえ、隠れている気配に気づけなかったのは不覚だった。

 

「誰にも話していませんでしたし、そんな素振りも見せませんでしたからね」

 

 そもそもその相手とは今世では一度も会っていないのだから素振りも何もないのだけどな。

 

「しかし気を付けろよ、駆狼君。祭は諦めてないからな」

「はっ?」

 

 猫のような笑みを浮かべて爆弾発言をすると豊さんは唖然とする俺を放置して娘の元に行ってしまう。

 

「大変だろうが強く生きろ、駆狼」

「不誠実な事だけはしないでね」

 

 両親の言葉がやけに重く俺の耳に響いた。

 

 

 

「そろそろ行くとするか」

 

 別れの挨拶も一通り済んだ頃、俺は荷物の入った麻袋を肩に担いでそう言った。

 俺とて名残惜しくない訳ではないがいつまでもここに留まっているわけにはいかない。

 

「ああ、そうするか」

「そうね」

「うん」

「そうじゃな。名残惜しいが行くとしよう」

 

 四人がそれぞれに荷物を持って頷く。

 最後に俺たちの見送りに集まってくれた親しい者たちを見つめる。

 

「皆、息災でな」

「村長もお体には気を付けて」

 

 目を細めて笑う村長に言葉を贈る。

 

「では凌刀厘以下五名、これより出立します」

 

 俺が敬礼するのに合わせて祭たちもそれぞれに礼をする。

 元俺の部隊員をしていた人間たちが俺の敬礼に返礼してくれたのが妙に嬉しく感じられた。

 

「行ってきま〜〜す!」

「たまには帰るからさ。皆、それまで元気でいろよ!」

「行ってきます!」

「ま、適当に頑張ってくるとしようかのぉ」

 

 まとまりのない連中だな。

 割といつもの事だが。

 

「お互い、健康でありますように」

「ああ、お互いにな」

 

 最後に父さんと笑い合い、俺たちは村に背を向けて歩き出した。

 

 

 

「そういえば俺と塁ってでかい街には行った事ないけど建業までどのくらいかかるんだ?」

「村を出たのが昼過ぎだから、歩きで三日と言った所になるな。馬だと一日なんだが」

 

 激の疑問に答えてやる。

 

「こういう時、馬がないのはやっぱり不便だね」

「確かに馬がいれば楽だがな。乗れるのが俺とお前だけじゃあな。それに俺は馬無しでも特に不便はない」

「塁はなんでか動物に嫌われてるからなぁ。祭は単純に乗る機会がなかっただけだけどさ。と言うか駆狼、お前はなんで馬と同じ速度で走れんだ!? 前に馬に乗った慎と並走してたの見たけどあれおかしいだろ!?」

「日頃の努力の賜物だ」

 

 野郎三人で雑談していると女二人で談笑していた塁が話に入ってくる。

 

「あたしだって好きで動物に嫌われてるわけじゃないよ!」

「触ろうとしただけで逃げられておったからの。あの時の馬の怯えようと言ったらなかったな」

 

 その時の馬の様子を思い出してか、目を吊り上げて激を怒る塁を見ながらからからと笑う祭。

 

「確かに、あれはなかったな」

 

 猫に追い回される鼠ですらあそこまで必死にはならないだろう。

 今、思い出してみると塁が近づくだけで馬がびくびくしていた気がする。

 

「う~~、それならあたしみたいに馬に嫌われてるわけでもないのに乗れない激はなんなのさ!?」

「ばっ、俺は乗れないわけじゃねぇ!! 俺と相性の良い馬がいねぇだけだ!!」

「ふぅ、激。言い訳は見苦しいよ」

「んだとぉ慎! 少しばかり馬に乗れるからって調子に乗んな!!」

 

 元気なのは良い事なんだが、混じるにはちと騒がしすぎる。

 歩きながらわいわい騒ぐ三人から距離を取った。

 

「なぁ駆狼」

 

 不意に祭の声が俺の耳に届く。

 

「なんだ、祭」

「お前、儂の告白を断った事を気にしとるじゃろ?」

 

 思わず横を歩く祭の顔を見た。

 さっきまではしゃいでいたはずの陽気な表情はもう消えていた。

 

「……ばれてたか。もしかしてわかりやすかったか?」

 

 虚偽は許さぬと無言で訴えるその視線を前に俺は早々に折れる。

 

「そうでもない。気づいていたのは儂と慎、泰空殿に楼殿、それにうちの母くらいじゃったと思うぞ」

 

 形になっていない苦笑いを浮かべる祭。

 なるほど、案外少なかったな。

 まぁ塁と激の単細胞コンビが気づくとは思っていなかったが。

 

「まぁ誰が気づいていたかはこの際どうでもいい。せっかく慎がお膳立てしてくれたんじゃ。時間は有効に使わんとな」

「お膳立て?」

 

 前方を見ると三人は随分と先に進んでいた。

 少なくとも俺と祭の声が聞こえるとは思えないほど遠くに。

 つまり今この場は俺と祭、二人だけの空間になっていると言う訳だ。

 

「なるほど、お膳立てか」

「そういう事じゃ。後で慎に礼を言っておけよ」

 

 まさか祭と二人きりになるように話を誘導していたとは。

 慎のヤツ、随分と人の扱いが巧くなったな。

 しかしここまでして二人きりにされてしまったのだからな。

 どんな結果になるにせよ覚悟を決める必要があるな。

 

「さて駆狼」

「ああ」

 

 小さく深呼吸をし、祭の言葉を待つ。

 

「お前は儂を振った」

「……ああ」

 

 祭の声はとても静かでそこに俺を責める意図はなかった。

 

「別に恨み言を言いたい訳じゃない。振られる事も予想しとったしな」

 

 雲一つない空を見上げながら祭の言葉は続く。

 

「お前は儂を、いや儂等を子供のように見ている節がある。同年代じゃと言うのに年の離れた、それこそ親子か祖父と孫であるかのように、時に儂ら自身がそう錯覚してしまう程にそれが染み着いている」

 

 それはそうだろう。

 肉体年齢はともかく精神年齢は今年で百十歳になるのだ。

 俺から見れば祭たちは親子通り越して曾孫を見ているような気さえする。

 

「少なくとも儂の事を女として見てはいなかったじゃろ?」

「お前からすれば甚だ失礼な話だがな。俺はお前に対して友人としての親愛以上の感情は持ち合わせていなかった」

 

 これは本当の事だ。

 女性として日に日に美人になっていく祭を見ていても俺には男としての欲求は生まれなかったのだから。

 

 部隊の男連中や激、慎までも成長した塁や祭の姿に大なり小なり反応していたのだが、俺はまったくそういう劣情を抱かなかった。

 自分で言っておいてなんだが雄としては終わっている気がする。

 どうも俺は彼女らの事を女性である以前に『年の離れた子供』であると認識してしまっているらしい。

 

 だからこれは正しく親愛であり、友愛。

 それ以上には発展しない感情だった。

 

「今までそんな素振りを見せなかったから想い人がいると言われた時は正直、疑ったよ。儂に諦めさせる為の嘘なんじゃないかとな」 

「……真剣な想いに応える為に嘘を付くような真似はしない」

「わかっとる。お前はこれ以上ないほどに真剣に儂に応えてくれていたよ。たとえ答えが儂の望む物でなかったとしてもな」

 

 その目はどこまでも澄んでいた。

 本当に後に引いている訳ではないのだろうか?

 

 俺の事を罵っても罰など当たらないと言うのに。

 今まで築き上げてきたこの気安い関係が壊れても仕方が無いとすら思っていたというのに。

 それくらいの事は覚悟して、俺はお前を振ったのだと言うのに。

 

「儂は大丈夫じゃ。じゃからお前も気にするな」

 

 九十歳も年下の人間に慰められるとはな。

 本当に人生というヤツは何が起こるかわからない物だ。

 

「……ああ、わかった」

「今のうじうじしているお前は嫌いじゃからな。いつも通りの不遜なお前にさっさと戻ってくれ。儂が惚れたお前に、の」

 

 にんまりと笑いながら祭は俺の額を人差し指で付く。

 突きつけられた指は痛くも痒くもないが、浮かべられた笑みはとても美しく感じられた。

 

「善処するさ」

 

 ため息を一つ付き、俺たちはいつの間にか向かい合って止めていた足を動かし始めた。

 

「それと勘違いのないように言っておくが……」

 

 するりと祭が俺の右腕を取った。

 不意打ち気味の胸の感触に一瞬、硬直すると今度は頬に暖かい感触。

 

「儂は諦めたわけではないからな」

 

 耳元で艶っぽく囁くと祭は俺から逃げるように走り出してしまった。

 

「あ~~~……」

 

 遠ざかる祭の背中を呆然と見送りながら頬に触れる。

 祭の唇の暖かさが感じられた気がした。

 

「やられた」

 

 自分でもよくわからない呟きを口から吐き出し、俺は赤くなっているだろう顔が早く戻る事を願った。

 

 

 

 

 儂は駆狼の事が好きだ。

 

 一体いつからそうだったのかはわからない。

 

 ただ自覚したのは儂等が初めて人を殺した日。

 山賊たちの親玉と一騎打ちをした駆狼が死にかけた時。

 

 ずっと一緒だったあやつが血塗れになっている様を見て血の気が引いた。

 頭が怒りで真っ白になり、気づいた時には狩りで身につけた動きで自然と弓を引いていた。

 

 儂の攻撃で出来た隙を付き、駆狼はどうにか勝利した。

 けれどその身体は見るからにボロボロで、駆け寄った儂は思わず息を呑んだ。

 

 そんな有り様なのに先に村の皆を気にかける駆狼に儂は言ってやりたかった。

 

 もっと自分を大切にしろ、と。

 

 まるで死んだように意識を失った駆狼を抱えて村に戻る時、浮かぶ涙を抑えられなかった。

 駆狼を失う事への恐怖から浮かび上がる想いを留める事が出来なかった。

 

「(お前が死んだら儂らは、儂は!!)」

 

 それが想いを自覚するきっかけだった。

 

 それからの六年間、儂はずっと駆狼を見てきた。

 自分なりに拙いながらも色々と積極的に動いていたように思う。

 

 二人で狩りに出た時は心の臓が口から飛び出るのではないかと言うくらいに緊張した。

 酒の席でその場の勢いに任せてしなだれかかったりした時は自分でもわかるくらいに顔が熱を持っていた。

 早くから儂の想いに気づいた母や慎がそれとなく気を遣ってくれたりもした。

 

 しかしそうしてあやつを見ているうちに儂は気づいてしまった。

 

 駆狼の目が儂等をどのように見ているかを。

 

 あやつは厳しく、そして優しい。

 しかしそれは誰に対してでもそうじゃ。

 友人である儂らにも、自分の部隊の人間にも、村の子供たちにも。

 年上である儂の母や大守である蘭雪様にも遜りはしても自分の意見はズバズバと言うからの。

 例外はあやつの両親くらいじゃろうな。

 

 それはすなわち誰もを同列に扱っているからに他ならず。

 つまりあやつの中で儂は特別な存在ではないと言う事でもあった。

 

 その事に思い至った時、傷つかなかったと言えば嘘になるじゃろう。

 しかしあやつが儂をどう思っていようと儂はあやつが好きじゃった。

 想われていないからと諦められるような軽い気持ちではなかった。

 

 じゃから儂はあやつに振られる事を理解しながら告白した。

 いつまでも抱え込んでおくにはこの想いは重過ぎた。

 

 ましてやこれから儂たちは大守に仕える身になる。

 今まで以上に忙しくなり、戦による危険も大きな物になるだろう。

 

 想いを告げるのは怖かった。

 断られる前提で言うのだ。

 普通のソレよりも恐怖は上じゃろう。

 じゃがそれ以上に年月と共にこの想いが風化していくのが恐ろしかった。

 儂のこの六年越しの想いが行動せずに消えていくのがこの上なく嫌じゃった。

 

 

 結果を言えば儂の告白はあっけなく断られた。

 真剣な儂の想いに、自分を偽ることなく真剣に答えてくれた駆狼には感謝している。

 さすがに心に決めた人がいるとは思わなかったが。

 

 しかし想い人に想いを伝えた事で儂の心は晴れていた。

 吹っ切れたとでも言うのかの。

 断られた事で新しい目標も出来た。

 

 『あやつを振り向かせる』と言う目標がな。

 

 告白をして感じた事じゃが、あやつは儂の事を嫌っているわけではない。

 ならば後は儂のやる気次第じゃろう。

 例え駆狼の想い人とやらがどのような女性であろうとも負けるつもりなどない。

 

 一度の告白を断られたからなんじゃと言うのか。

 儂は絶対に諦めん。

 覚悟しろ、駆狼。

 

 唇に残るあやつの頬の感触に笑みを浮かべながら儂は慎たちの元へ走っていった。

 




これにて第一章は完結です。
次回からは任官してからの話になります。

以前、投稿していた分がまだ尽きていないので今しばらくは一週間に2回の更新を基本に投稿していきます。

今後もよろしくお願いします


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

キャラ紹介
転生編


この作品に出演する主要キャラクターの紹介です。
章ごとにキャラ紹介は追加していきます。

タイトルの通り、転生編に登場するキャラの紹介になります。



姓名 凌操(りょうそう)

字  刀厘(とうりん)

真名 駆狼(くろう)

 

男性

 

プロローグから登場

 

本作品の主人公。

戦争への参加経験を持つ日本人。

青空道場を設立し、戦後の先の見えない暗い空気を払拭すべく尽力した。

九十歳まで生き、家族や友人知人に囲まれて死去。

何故か三国志の時代に転生。

 

天寿を全うしている為、基本的に落ち着いた性格。

しかし現代日本の倫理観も持っている為、その差異に苦しみ悩む事も多い。

老成している為、実年齢を誤魔化しているとよく言われる。

自他ともに認める子供好きであり、非常に面倒見が良い。

 

武器:全身

道場を開いていたお蔭で、様々な格闘技の経験があり拳、蹴り、頭突きなどの他にも関節技などを使用する。

流派の名は『精心流(しょうじんりゅう)』、『昨日の己に克つ』という言葉を標題にしている立ち技、足技、関節技と様々な技をごちゃまぜにした実戦拳法。

 

姓名 凌沖(りょうちゅう)

字  公厘(こうりん)

真名 泰空(たいくう)

 

男性

 

プロローグから登場

 

凌操の父親。

やや無口で孫堅から『ただの村人とは思えない』と評されるほど冷静な性格。

しかし家族相手の場合、そのキャラが崩れてデレデレになり凌操は赤ん坊時代から見ている為、その事を知っている。

村では武力による防衛を担当している。

有事の際には矢面に立つので実質的な村の代表。

家族の事を誰よりも愛している。

 

武器:

 

 

姓名 清香(せいこう)

字  不明

真名 楼(ろう)

 

女性

 

プロローグから登場

 

凌操の母親。

外見は凌操の前世と同じ。

村人とは思えない程に聡明、だが天然でもある。

凌操は勿論、黄蓋たちも含めて子供を慈しみ、その成長を微笑ましく見守っている。

黄蓋が凌操の事を好きだと言う事にもっとも早く気づき、影ながら応援していた。

彼女が振られた後も彼女を応援している。

 

武器:

 

姓名 孫静(そんせい)

字  幼台(ようだい)

真名 陽菜(ひな)

 

女性

 

第二話から登場

 

前世での凌操の妻だった女性。

凌操よりも先にこの世を去ったのだが転生時期は同じだったらしく現世では同年代になっている。

前世では看護師をしており、彼とはその時の患者の一人として出会った。

彼女曰く一目惚れだったらしい。

誰もが羨むおしどり夫婦で、お互いがお互いを支えあっていた。

最後は凌操同様、家族や友人知人に囲まれて最愛の夫に手を握られながら死去。

 

三国志の時代では孫堅の妹として転生。

姉や友人に己の倫理観を少しずつ広め、現代日本寄りの常識を叩き込んでいる。

親兄弟や友人には度々、権力者としての自覚を持てと諭されているが一庶民としての前世での生活が災いして馬の耳に念仏状態である。

 

武器:無し

 

 

姓名 黄蓋(こうがい)

字  公覆(こうふく)

真名 祭 (さい)

 

女性

 

第一話から登場

 

凌操の前世の歴史では孫呉に仕えた忠臣として名を馳せた武人。

凌操の隣村に住んでおり親同士の交友から韓当、程普、祖茂を含めた幼馴染。

下手な男よりも男らしい豪快な性格。

母親への憧れから一人称が『儂』になっている。

 

異性として凌操の事を好いており、村が山賊に襲われた時にその事を自覚した。

孫堅に見初められ建業に士官する折に告白するも前世の妻である陽菜を今でも愛している凌操に振られている。

しかし諦めるつもりなどなく、それ以降もアプローチを続行中。

 

武器:弓

 

 

姓名 黄匠(こうしょう)

字  不明

真名 豊 (ゆたか)

 

女性

 

第一話から登場

 

黄蓋の母親。

誰かを率いる事に秀で、暮らしている村の代表を務めておりその弓の腕前は村一番。

娘に輪をかけて豪快な性格であり、夫である松芭(まつば)を尻に敷いている。

家族の事は勿論大切だが、だからこそ強くなってほしいと考え娘を鍛え上げた。

凌操を掛け値なしに良い男だと認めており、娘の婿にと虎視眈眈と狙っている。

 

武器:弓

 

 

姓名 祖茂(そもう)

字  大栄(だいえい)

真名 慎 (しん)

 

男性

 

第二話から登場

 

凌操の前世の歴史では孫呉に仕えた武将の一人。

凌操とは韓当、程普、黄蓋を含めた幼馴染であり凌操と共に他三人のお目付け役である。

心優しく知恵も回るが、それ故に優柔不断な性格。

凌操を兄として慕っており、彼と肩を並べる事が出来るよう様々な修練に明け暮れている。

 

武器:双剣

 

 

姓名 韓当(かんとう)

字  義公(ぎこう)

真名 塁 (るい)

 

女性

 

第一話から登場

 

凌操の前世の歴史では孫呉に仕えた武将の一人。

凌操とは祖茂、程普、黄蓋を含めた幼馴染。

トラブルメーカーその1であり、周囲を明るくするムードメーカーでもある。

幼少期から凌操に対して高い競争心を持っており、親友であると同時に好敵手だと認識している。

何故か動物に嫌われる為、馬に乗る事が出来ない。

程普とは村に住んでいた頃から無自覚に夫婦のような振る舞いをしていた。

 

武器:大槌

 

 

姓名 程普(ていふ)

字  徳謀(とくぼう)

真名 激 (げき)

 

男性

 

第二話から登場

 

凌操の前世の歴史では孫呉に仕えた武将の一人。

凌操とは祖茂、韓当、黄蓋を含めた幼馴染であり、トラブルメーカーその2である。

物言いは少々荒いが、人を思いやる事が出来る熱血漢。

同年代に比べてとても落ち着いた性格だった凌操を最初は頼りにしていたが、月日が流れると共に凌操に頼りにされるようになりたいと考えるようになった。

韓当とは村に住んでいた頃から無自覚に夫婦のような振る舞いをしていた。

 

武器:拳、弓

 

 

姓名 孫堅(そんけん)

字  文台(ぶんだい)

真名 蘭雪(らんしぇ)

 

女性

 

第二話から登場

 

新進気鋭の建業太守。

当時の建業太守が行っていた不正を見抜き、地方豪族をまとめ上げて反逆。

幸運も相まって太守の座を得た。

夫との間に孫策、孫権、孫向香の三人の子供を儲けているが死別している。

孫静の姉であり、自他ともに認める妹大事(シスコン)。

 

予知もかくやの類まれなる直感、その激しく猛々しい気性、人との間に垣根を作らない性格から領民にも慕われており、孫静と合わせて『建業の双虎』と言う異名で呼ばれている。

戦いの中で興奮すると理性の箍が外れて凶暴性が増し、敵と見なした者を問答無用で蹂躙する悪癖を持っている。

 

妹と親友の周異、昔から自分に付いてきてくれる宋謙たちと共に建業の発展と民の平和の為に尽力している。

しかし豪放磊落な性格な為に公私の区別がつけられない、仕事をさぼるなどの事で周異に説教される事も多い。

 

武器:直剣

 

 

姓名 華陀(かだ)

字  元方(げんぽう)

真名 ??

 

男性

 

第六話から登場

 

後の世にその名を轟かす神医(しんい)の名を持つ男。

旅で鍛えられているはずだが見た目は中肉中背のただのおっさんであり、一見すると医者には見えない。

しかし特殊な針治療によって人を救う流派『五斗米道(ゴッドベイドー)』では上位の腕前である。

マイペース且つ自己中心的な性格で、愛弟子である凱も患者も振り回しながら日々を生きている。

一つ所に留まる事をせず、常に大陸中を流れて生活している。

 

武器:無し(強いて言えば鍼)

 

 

姓名 華陀(かだ)

字  元化(げんか)

真名 凱(がい)

 

男性

 

第六話から登場

 

後の世にその名を轟かす神医(しんい)の名を持つ少年。

華陀元方の弟子であり幼くして既に華陀を名乗る事を許されている才気溢れる子供。

しかし性格は至って謙虚であり、苦労性。

元方の放浪癖に付き合わされての生活に慣れてしまった為に、本人の意図しないところで肉体が鍛えられている。

現在も師について回って大陸中を回っているが、第一章終了時点では近々独立する事になっている。

 

武器:無し(強いて言えば鍼)

 

 

姓名 朱治(しゅち)

字  君理(くんり)

真名 深冬(みふゆ)

 

女性

 

第八話から登場

 

凌操の前世の歴史では孫堅の配下。

太守になる前から孫堅に仕えており、孫静、周異とも親しい間柄。

 

基本的におとなしい性格で突発的な事態に直面すると慌ててしまい頼りない。

しかし戦場や公共の場では平時の態度が嘘のように沈着冷静になる。

公私を分けているというよりなんらかのスイッチによって切り替わる模様。

本人は自分の二重人格のような性質を自覚しておらず、指摘されても治す事が出来ないでいる。

 

武器:剣

 

 

姓名 孫策(そんさく)

字  伯符(はくふ)

真名 雪蓮(しぇれん)

 

女性

 

第八話から登場

 

孫堅の長女。

母親そっくりの自由奔放さを持った娘。

彼女の行動には時として孫堅すらも頭を抱える程。

家族や仲間を大切にし、周瑜とは無二の親友。

彼女の血を色濃く継いでおり、幼いながらも孫家特有の勘の鋭さを持っているが同時に悪癖の片鱗も見せている。

 

武器:剣

 

 

姓名 周瑜(しゅうゆ)

字  公瑾(こうきん)

真名 冥琳(めいりん)

 

女性

 

第八話から登場

 

周異の一人娘。

孫策同様、自身の母親そっくりの真面目な性格。

幼馴染であり無二の親友である孫策に毎日のように振り回されながらも母親の力になろうと勉強に励む健気な子供。

周異から既に国を支える為の教育を受けており彼女自身の持つ明晰な頭脳も相まって将来に期待されている。

しかし年相応に未成熟な子供としての内面と教育内容の差に苦しんでいる。

 

武器:鞭



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

孫呉任官編
第十一話 建業到着。そして再会


 建業に到着したのは村を出て五日後の昼を回った頃になった。

 

 俺たちの目の前には外敵から身を守る為に高く積み上げられた石の壁が立ちはだかっている。

 四方に設けられた出入り口の内の北口だ。

 そこにある関所の前で激が深いため息を付いた。

 

「あ~、ったく。ずいぶん遅くなっちまったなぁ」

 

 激のぼやきが示す通り、俺たちは村を出た当初の予定である三日より二日も到着が遅れてしまっていた。

 

 理由は賊の襲撃。

 まあそこそこ良い治安状態とはいえ護衛もなしに五人ばかりの人間が歩いていれば、山賊たちからすれば正に『鴨がネギ背負ってやってきた』ように見えたと言う事だろう。

 

「どうするの?」

「蘭雪様なら事情を話せばわかってもらえると思うがの」

 

 しかし五村同盟が成って約六年。

 賊の撃退件数は二桁を越えている。

 その度に迎撃に出ている俺たちにとっては賊の襲撃自体はそこまで驚く事ではないし、慌てるような事でもなかった。

 

「この辺りの賊としては規模が大きかったけど返り討ちに出来たしね。むしろ手柄として認められるかも」

「こっちの人数が少ないからってやつら完全に俺たちを舐めてかかってたからなぁ」

 

 とはいえ今の俺たちには部隊がない。

 たった五人だけで百人もの賊を真っ向から相手にするのは厳しい。

 真っ向勝負でも俺たちならばどうにか出来るとは思うが、必要以上に危ない橋を渡る事もない。

 なので地形を最大限利用しての迎撃奇襲戦法を取る事にした。

 全力の逃走を行って敵集団に取り囲まれないように森へ飛び込み、木々に紛れて敵を分断、各個撃破という作戦である。

 しかし森へ入ってからは一昼夜かけての持久戦になった為、想定した以上に時間がかかってしまった。

 

「証人も連れてきているから事情は汲んでくれるだろう。他の人間への示しもあるだろうからなんらかの罰はあるかもしれんがな」

 

 あらかじめ蘭雪様には正式な任官に一ヶ月前後の期間を見てもらっている。

 多少の日数超過は事情を話せばわかってもらえるだろう。

 

「はぁ……処罰されるかもしれんと思うとほんと余計な手間をかけさせてくれたもんじゃな、こやつらは」

 

 全員で後ろを振り返る。

 そこには両腕、両足を縛り付けた状態で座らせている男がいた。

 全身に激の打撃痕、慎の剣による切り傷、さらにその背中には塁の大鎚の痕がくっきり残っている。

 

 この男は俺たちを襲った賊の頭だ。

 返り討ちにされる部下たちを見て怖じ気付いて逃げようとした所を捕まえた。

 

 その表情には俺たちへの、特に俺への恐怖が張り付いている。

 激たちが叩きのめした後、賊の情報を吐かせる為に指の骨を一本ずつへし折って尋問したのがよっぽど堪えているらしい。

 

 目を細めてそいつを睨んでやると、がくがく震えながら首を横に振った。

 口を布で縛り付けているのでしゃべる事は出来ないが、あの怯えた目を見れば俺たちに逆らう事はまずないだろう事が理解できる。

 

「お前、これでもかってくらいにボコボコにしたもんなぁ」

「ま、自業自得だから同情はしないけどね」

 

 その時の光景を思い出しているんだろう。

 激と塁が遠い目をしているが重要な事ではないので無視だ。

 

「無駄話もこの辺にしてとりあえず街に入るぞ」

「そうじゃな。蘭雪様も首を長くして待っておるじゃろうし」

 

 俺の頭に玉座の間で頬杖を付きながら欠伸をしている蘭雪様が浮かぶ。

 仮にも大守としてあるまじき態度だが、村での印象から考えると違和感はなかった。

 

「それじゃ僕が衛兵と話をしてくるよ」

「俺も行こう。どちらかの顔見知りなら話を通しやすくなるだろうからな。祭たちはそいつが逃げないように見張っていてくれ」

 

 慎と二人で門の関所に向かって歩き出す。

 

「おう、心得た」

「さっさと終わらせてこいよ~~」

「行ってらっしゃ~~い」

 

 三人の緊張感に欠ける声を背に受けながら。

 

 

 城内への入場手続きは思いの外、手早く済ませられた。

 先んじて蘭雪様が手配してくれていたらしく、俺たちの名前を出すだけで特に問題もなく済んでしまったのだ。

 

 山賊頭の引き渡しも滞りなく終わり、俺たちは街に入る。

 俺たちの村にあった穏やかで緩やかな雰囲気とは違う、騒々しく雑然とした活気に塁と激が目を白黒させている。

 祭は俺の横で物珍しそうに周囲の店に視線を走らせていた。

 

「番の人に確認してもらったが今日は蘭雪様たちの都合が悪くて会えないらしい。明日の朝に改めて謁見してもらえるという話だ」

「遅れたのは儂らの方じゃからな。都合がつかんのも仕方ないわな」

「元々、期限は曖昧にしてましたしね。部隊の引き継ぎがどれくらいで終わるかわからなかったから」

「じゃあ今日はどっかに宿を取るしかないな」

「こんなに人が沢山いると宿取るのも大変なんじゃない?」

 

 雑談しながら露店を見る。

 香ばしい匂いを漂わせた焼き魚、どこの部位かもわからない肉の串焼き、出来立ての肉まんなどが湯気を立てている。

 この辺りは食べ物関連の露店が集まっている場所だ。

 

 建業の敷地は孫静の政策によってある程度の区画分けがなされており食品関連の店、服飾関連の店、雑貨屋や住宅街などがある程度、一箇所にまとめられている。

 当然、宿泊施設も同様で比較的城に近い場所に密集していた。

 

「腹減ったな」

「もう昼過ぎだからな。宿は俺の方で取っておくからお前たちは先に食事にしてくれ」

「え? いいの?」

「ああ。前に来た時に何処になんの店があるかは把握してあるからな。俺が一番早く済ませられるだろう」

 

 目を輝かせる塁に答える。

 こういう重要な仕事を大雑把で適当な塁や激にやらせるのは不安だからと言うのも理由の一つだが、そんな事を伝えてわざわざ無駄に事を荒立てる事もないだろう。

 

「刀にぃ、いいの? 僕がやってもいいけど」

「慎と祭はあの馬鹿二人が何かやらかさないか見張っていてくれると助かるな」

 

 そっちの方が宿探しよりも面倒だと思うが。

 俺の意図を理解した慎は問題児二人を見て納得したように頷いた。

 

 祭はなにやら不満そうな顔をしている。

 恐らく俺が距離を置こうとしているのに気づいているんだろう。

 しかし祭が俺の事を諦めていない事がわかってしまった以上、期待させるような行動は慎むべきだ。

 恨んでくれても構わない。

 だが俺は祭が諦めるまで何度でもこいつを振るつもりだ。

 

 祭の不満を意図的に無視し、俺は言葉を続ける。

 

「すまんが二人であいつらの手綱を握っててくれ」

「そういう事ならわかったよ。でもこっちは僕一人で十分だから祭さんは刀にぃと一緒に行ってくれる?」

「なに?」

 

 慎の申し出に驚く俺を尻目に祭は間髪入れずに頷いてしまう。

 

「わかった。ちと苦労するかもしれんがそっちは任せたぞ、慎」

「もう慣れたから平気だよ。そっちはそっちで食事を済ませてきてね」

「あいわかった。それじゃ駆狼、さっさと行くぞ」

「お、おい慎!? いや祭、ちょっと待て……」

 

 あっと言う間に進んでいく話に呆けていると祭に腕を掴まれて引きずられていく。

 俺の反論は完全に無視されていた。

 

「じゃ夕方にまたこの辺りに集合と言う事で」

 

 笑みを浮かべてひらひらと手を振って俺たちに背を向けた慎が憎らしく思えてしまったのは仕方のない事だと思う。

 

 

 

 既に食べる料理の物色に没頭している塁と激を慎に任せて俺は前に来た時の記憶を頼りに不本意ながら祭を連れて宿探しに向かった。

 

「ほら、駆狼。さっさと宿を探すぞ」

「はぁ……わかった。わかったから腕を組むのは勘弁してくれ」

 

 祭にがっしり腕を組まされて歩く俺たち。

 その姿ははっきり言って目立っていた。

 

 道行く男どもは美人の祭に色目を使い、仲睦まじそうにしている(ように見える)俺に殺意の篭もった視線を送ってくるから鬱陶しくてうんざりする。

 

「ええじゃろうが、これくらい。初心な男でもないんじゃし」

 

 元凶の祭は針のむしろのようなこの状況など気にも止めていないらしい。

 嬉しそうな顔をしてはしゃいでいる。

 

 俺とこうしている事を喜んでいるんだろう。

 その様子を見れば村を出た時に言っていた『諦めていない』という言葉が本当である事が良くわかる。

 

「お前がどれだけ俺の事を本気で好きになっても、俺はその気持ちには答えられないぞ?」

「告白した時にも言っていたな? 想い人がいると」

 

 腕を組む手を離さずに俺を見つめる祭。

 肯定の意味合いで俺は頷いた。

 

「教えてくれんか? お前の想い人がどんな人物なのか。勿論、無理にとは言わんがの」

「……どうしてそんな事を知りたがる?」

 

 突然と言えば突然の質問に聞き返すと祭は俺から顔を逸らしながらこう答えた。

 

「朴念仁で唐変木のお前が惚れ込んでおる人の事じゃ。気になるじゃろ」

「……好き勝手に言ってくれるな」

「事実じゃからな」

 

 しれっと言い切ってくれる祭に眉間に皺が寄った。

 右手は祭のせいで自由に動かせないので左手で眉間をほぐす。

 

「それで? 教えてくれんのか?」

「まぁいいだろう。だが先に宿を見つけてからだ」

 

 雑談していて宿を取れなかったとなれば三人に何を言われるか。

 慎はねちねちと文句を言ってくるだろうし、激と塁にはぎゃーぎゃーと喚かれるのは目に見えている。

 塁などは大槌を振り回してくるかもしれん。

 それはまずい。

 俺個人としても街まで来ておきながら野宿など御免だ。

 野宿もそれほど嫌いではないがせっかく街にいるのだからしっかりした寝床で寝たい。

 

「おう、楽しみにしとるぞ!」

「そう楽しい話になるとも思えないんだが」

 

 祭がどういう意図で陽菜の事を知りたいと思ったのかがわからんな。

 

「ふふ、そうと決まればさっさと宿を決めてしまうぞ!」

「わかったから引っ張るな! と言うかお前はどこに宿があるかなんてわからんだろう!? どこに行く気だ!!」

 

 不思議な事に祭と話し込んでいる内に周りの視線は気にならなくなっていた。

 

 視線が消えた訳ではない。

 むしろきつくなっているように思う。

 だと言うのにこうして祭に引っ張られながら会話していると連中の事がどうでも良くなってしまう。

 

 野郎の嫉妬まみれの視線を気にするより見目麗しい幼馴染みと話している方が精神的に良いのはわかる。

 だが本当にそれだけなのかと自問してしまうのは、俺が祭に幼馴染み以上の感情を抱いているからなのだろうか?

 

 いかんな。

 どうも頬にキスをされてから自分で思っている以上にこいつの事を意識してしまっているらしい。

 

 告白を断った上にこれからも拒み続けると公言している癖になんて体たらくだ。

 自己嫌悪しながらも俺は宿探しを再開した。

 

 

 宿探しは問題なく済ませられた。

 男三人、女二人のそれなりの人数ではあったが運良く男女別で部屋を取れる宿を見つける事が出来たのだ。

 

 値段はそれなりにしたがどうせ一泊しかしない上に明日からは恐らく城の兵舎住まいだ。

 路銀はここで使ってしまっても問題はない。

 残しておくに越したことはないので豪勢な宿ではないが。

 

「いやぁなかなか良い宿が取れたな」

「お前が男女一緒の一部屋でいいと言い出した時は気が気じゃなかったがな」

 

 子供の時ならいざ知らず二次性徴も終えて久しい年代の俺たちが男女一緒の部屋なんて論外だ。

 塁と激は同じ部屋でも良いかもしれんが。

 

「別に構わんだろうに」

「慎みと言う物を持て。お前たちは美人なんだから無闇に男を引き付けるような真似をするな」

「いたぁっ!?」

 

 右手の甲で祭の額を叩く。

 宿の出入り口で頭を押さえて呻き声をあげる祭。

 

 少々力が入ってしまったようだがそれは仕方がない事だろう。

 どうも祭と塁は異性に対して無防備な所があるからな。

 実力を考えるとこれから将として表に出る事も多くなるだろう。

 些か手遅れかもしれんが矯正出来る部分は矯正するべきだ。

 

「ほう、お前から見ても儂らは美人なんじゃな」

「そこに喜ぶな、馬鹿者」

「あいたっ!?」

 

 立ち上がってニヤニヤ笑う祭にもう一撃くれてやる。

 まったく……少しは懲りてほしいもんだ。

 

「ほら、飯を済ませに行くぞ」

「うぅ、手甲で殴るのはやめてくれ」

「それほど強く叩いたつもりはない。ほら行くぞ」

 

 いつまでもしゃがみ込んでいる祭の右手を掴んで無理矢理立たせる。

 

「はぁ……俺が惚れた奴の話を聞きたいんじゃないのか?」

「む、確かにそれは聞き逃せない情報じゃな」

 

 まだ文句がありそうな顔をしている祭だが陽菜の話を持ち出すと自分の足で歩き出した。

 現金な奴だ。

 

「何をしているんだ、駆狼。早く行くぞ!」

「はいはい。やれやれだな、まったく」

 

 なんだか街に入ってから加速度的に疲れが増している気がする。

 

「しかし、陽菜の事か。話したくないわけじゃないが……気が重いな」

 

 ありのまま全てを話すことは出来ない。

 そんな事をしてしまえば俺が二度目の人生を過ごしている事などのややこしい事までばれてしまうからだ。

 色々と嘘を交えて調整する事になってしまうだろう。

 

 必要な事だとは思う。

 だが俺の事を好いている人間に虚実を混ぜた話をするのは躊躇われた。

 

 必要とあらば突き放す事もやむを得ないと考えて実際に実行してきたはずなんだがな。

 

「どうしたんだ、駆狼?」

 

 足を止めて考え込んでいた俺を下から覗き込むようにして見つめる祭。

 

「なんでもない。いい加減、腹が限界だ。さっさと飯を食うとしよう」

「むぅ……まぁそうじゃな!」

 

 どこか腑に落ちない表情を一瞬浮かべた祭だが特に追求はしてこなかった。

 その代わりとでも言うかのようにまた腕を組んできたが、もう引き剥がすだけの気力もない。

 

「どうかこれ以上、余計な事が起こりませんように」

 

 思わず呟いた言葉は横にいた祭にすら届かず消えていった。

 

 

 

 その日の夜。

 街が寝静まった頃、俺は宿を抜け出して外に出ていた。

 

 激たちは夕食を食べた後、部屋に戻ったらすぐに眠りについてしまった。

 どうやら自分たちが思っていた以上に旅の疲れが溜まっていたらしい。

 

 外出する時、祭と塁の部屋の前を通ったが物音一つしなかった事から恐らくあいつらも寝ているんだろう。

 

 よって今は俺一人だ。

 昼間、祭にせがまれる形でかつての妻についての話をしたがそれからどうも調子が上がらない。

 

 祭に語って聞かせながらあの世界の事を思い出してしまったからだろう。

 ホームシックと言うかなんというか。

 俺が死んでから家族や友人たちはどう過ごしているのだろうだなんて埒もない事を考えてしまっていた。

 

 答えなど誰も持っていないと言うのに。

 ずっと前にこの世界で生きる事を決意したと言うのに。

 

 なんだか無性に自分が情けなくなってしまった。

 

 

 当てもなくふらふらと歩いているといつの間にか街の外れにまで来ていた。

 

 この辺りは確か……祝い事や祭りの時に使われる広場だったか。

 

 実際に使われている所を見たことはないが、蘭雪様に子供が産まれた時などはここで盛大な宴が催されたらしい。

 城内ではなく、わざわざこんな場所を用意して行ったのは民と喜びを分かち合いたいと言う孫姉妹の想いがあったと言う話だ。

 

「……子供、か」

 

 前世の息子と最後に触れ合った自分の左手を見つめる。

 既に二十年もの時が経っているのにあの時の息子の泣きそうな顔を初め、同じように涙をこらえた顔をした孫夫婦とその胸に抱かれて俺を見つめていた曾孫の姿まで鮮明に思い出せた。

 

 まだ二歳足らずだった曾孫には俺がどういう状態かも理解できていなかっただろう。

 名付け親になった身としてはすくすくと育ってくれていればいいと思う。

 

「駄目だな。思い出せば出すほど、あの頃に戻りたいだなんて考えてしまう」

 

 しっかりしろ、凌刀厘。

 今の俺は蘭雪様に仕える武将なのだろう。

 これから訪れるだろう乱世をそんな事で乗り越えられると思っているのか?

 

 昔を思い出すのは良い。

 むしろ忘れる事などあってはならない。

 

 だが昔日の郷愁を引きずり、今を放棄する事などあってはならない。

 それは俺の人生に関わってきた者たちに対しての裏切りだ。

 

「見据えるのは常に前。過去は見つめ直す物であって囚われる物であってはならない」

 

 前世からの口癖を言葉にする。

 丸々とした月を捕まえようとするように腕を掲げ、拳を握った。

 空を睨み付け、揺らぎかけた心を律するように呟く。

 

「俺は前へ進む。お前たちも前へ進め」

 

 息子へ、孫たちへ、曾孫へ、友へ。

 俺と関わった者たち全てに届かない想いを告げて俺はきびすを返した。

 

 いい加減、寝るべきだろう。

 あいつらが何かの気まぐれで起きて俺の不在に気づかれても面倒だ。

 

 そんな事を考えながら来た道を戻ろうと歩きだした所で、俺は前に人影がある事に気づいた。

 

 月明かりに照らされてその顔はよく見える。

 桃色の髪に褐色の肌。

 一瞬、蘭雪様かと思ったがあの人は目が切れ長なのに対して目の前にいる女性は優しげな目元をしている。

 それに纏う空気が蘭雪様とは違いすぎる。

 人懐っこい虎が人の形を取ったような雰囲気の彼女に対してこの人物はまるで長い年月を経た大樹のような空気を纏っていた。

 

「夜のお散歩ですか?」

「ええ、少し眠れなくて」

 

 鈴の音のようなコロコロとした声音。

 かけられた声に俺は妙な親しみを感じながら答えた。

 

 近づいてくる女性。

 特に身構えもせず彼女が来るのを待つ。

 俺の前にまで来ると女性は浮かび上がる感情を堪えるように俯いてしまった。

 

 驚きと言うのは一定値を越えると逆に冷静になると言うが、俺の今の状態が正にそれだろう。

 

 俺は既に目の前の人物が『誰か』を気づいている。

 理屈などなく、俺の心が目の前の女性が『彼女』である事を告げていた。

 

「久しぶり、になるな」

「っ!? ええ!!」

 

 俺の言葉に堪えきれなくなった彼女が抱きついてくる。

 俺の背中に手を回して胸に顔を埋めるその仕草は見た目こそ変わったが『あの頃』と何も変わっていなかった。

 

 二度と会うことはないと諦めていた人。

 そんな人との意図せぬ再会の衝撃は俺の中で一生忘れる事の出来ない物になるだろう。

 

 だってそうだろう。

 今、生きている時代から遙か未来で生きてきた記憶を保持したまま生まれ変わるなんて希有な事態に見舞われている人間が他にいると誰が思う?

 

 しかもそれが自分の縁者であり。

 ましてや生前、最も愛した人であるだなんて。

 そんなご都合主義も甚だしい幻想を抱けるほど、俺は楽観的な考えは持っていない。

 

 心のどこかで『もしかしたら』と思った事があった事は認める。

 けれどそれが実現するなんて考えもしなかった。

 

「玖郎……」

 

 だが今俺の胸に中にいる彼女の暖かさは紛れもなく本物であり、この再会が夢や幻ではない事を俺に教えてくれている。

 

「陽菜……」

 

 涙を流しながら俺の背に回した手の力を強める陽菜。

 俺も倣うように彼女の背中に手を回す。

 

「逢いたかったよ。ずっと……ずっと!」

「すまん。……俺はこうしてまたお前と逢えるとは思っていなかった」

 

 それは紛れもない俺の本心。

 再会に水を差すような言葉ではあったが、最愛の人である陽菜に嘘を付きたくなかった。

 

「ふふ、変わらないね。その気の利かない所も、不器用な所も」

「お前は……美人になったな」

「それはお互い様」

 

 他愛のない言葉しか出て来ない事がもどかしい。

 だがそのもどかしさすらも愛おしいと感じてしまっている自分がいる事もわかっていた。

 

「お前が孫幼台だったんだな」

「貴方が凌刀厘だったのね。姉さんが興奮しながら話していたわよ」

 

 お互いに顔を見合わせて笑い合う。

 名残惜しいとは思ったが抱き合うのをやめて近くにあった屋台の土台に寄り添うように座った。

 

「こんな夜中に街に出て来ていいのか? お前も今や建業にとって重要人物なのだろう?」

「ここから見る星が好きだから。姉さんほどじゃないけど時々、城を抜け出すの」

「星が好きなのも変わらないな」

「貴方はこっちで三味線はやってるの?」

「……あれは俺が撥で弾く、お前が弦を押さえるって分担してやった一種の芸だろう。一人で弾けるよう練習しようにもこの時代じゃ三味線はない」

「わからないわよ? この世界は私たちの世界の歴史とは随分と違ってるみたいだし」

「まぁ……そうだな。肉まんなんかがもう存在するしな。そう考えるともしかしたらどこかにあるのかもしれんな」

「もし手に入ったらまたやりましょうよ」

「ああ。ただし練習して勘を取り戻してからだぞ? あとせっかく両腕があるんだ。もし手に入ったら一人でも弾いてみたい」

「弾けるようになったら沢山聞かせてね?」

「ああ、勿論だ」

 

 湧き水のように言葉が出てくる。

 とめどなく続く会話がとても心地よかった。

 

「明日からよろしくね、玖郎」

「ああ。だが俺の真名は駆ける狼と書いて駆狼だからな。響きは一緒だが間違えるなよ」

「少し変わったのね。わかったわ。私は変わらないからそのまま陽菜って呼んでね」

「そうだな。俺たちの間柄じゃ真名を許しあうなんてのも今更だが」

「ふふ、そうね。結婚して子供も作って、孫も見て、大往生したものね」

 

 俺たちの会話は途切れる事なく続き、星と月だけがその様子を柔らかく見つめていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十二話 仕官完了。前途多難な初日

 陽菜との再会を終えた翌日。

 

 俺は気持ちを新たに祭たちと共に建業城を訪れた。

 

 昨日の段階で話が通っていた為、本人を示す証明として一ヶ月前に君理からもらっていた身分証明書(竹簡だが)を渡すだけですんなりと入城出来た。

 今は待合室のような部屋に全員でいる状態だ。

 

 偶にこの部屋にまで誰かを呼ぶ声や駆け足の音が聞こえてきている。

 朝から多忙なのか、俺たちと顔を合わせる人間を集めるのに手間取っている様子だ。

 窓がガラス張りになっているわけでもないので外の喧噪は筒抜けである。

 

 その様子を耳で聞いているだけでも俺たちがかなりこき使われるだろう事が予想出来てしまう。

 

「なんぞ外が騒がしいな」

「どうも蘭雪様を探してるみたいだね。大声で呼んでる声がするし」

「他にも真名っぽいのが何人か呼ばれてるぜ。雪蓮様も呼ばれてるな」

「……また公瑾嬢を引っ張り回しているんじゃないだろうな、雪蓮嬢は」

「否定は出来ないわね。蘭雪様と雪蓮様って自由奔放だから」

「これから俺たちはそんな自由奔放な主君に仕えるんだ。他人事でいられるのも恐らく今の内だけだぞ」

「違いない。苦労しそうだな、俺ら」

 

 これからの生活に思いを馳せながら談笑していると戸をノックして君理が部屋に入ってきた。

 この時代にノックの習慣なんてなかったと思うが……もしや陽菜の影響か?

 

「お待たせしました、黄公覆殿、祖大栄殿、程徳謀殿、韓義公殿、凌刀厘殿。孫文台様以下、建業を支える臣下があなた方をお待ちになっております」

 

 一ヶ月前に出会った時とはまるで別人のような君理の雰囲気に俺たちは驚いた。

 

「えっと……君理、じゃよな?」

 

 不意打ちだった為につい確認してしまったのは祭だ。

 しかしその疑問は俺たち全員に共通した疑問でもある。

 正直、双子だと言われても信じてしまえるほどの変貌ぶりだ。

 公私を完全に切り分ける人間と言うのはどこにでもいる物だが、それにしてもここまで雰囲気が変わる物じゃない。

 

「? 黄蓋殿、確認されるまでもない事だと思いますが? 一ヶ月前にお会いしましたでしょう?」

 

 怪訝そうな顔で応える君理。

 どうやら彼女自身は自分の雰囲気の変化を認識していないようだ。

 

「いや雰囲気変わり過ぎでしょ……」

「双子とかじゃねぇよな?」

 

 彼女に聞こえないようヒソヒソと小声で話すのは塁と激。

 その気持ちはよくわかる。

 俺も同じ事を考えたからな。

 

「もしや気づかぬ内に礼を失するような事をしてしまいましたか?」

「いいえ、お気になさらず。今後の生活に想いを馳せて緊張していただけですので」

「大栄の言う通りです。君理殿にはなんら落ち度はありません」

「そう……ですか? であればよいのですが」

 

 とりあえず俺たちの言葉で納得してくれた君理は居住まいを正し、俺たちに部屋を出るよう促す。

 

「では改めましてご案内させていただいます。私についてきてください」

「手間をおかけしますが宜しくお願いします。お前たち、行くぞ」

「ふふ、楽しみじゃなぁ」

「はい」

「お、おう」

「緊張するな〜〜」

 

 誰でも緊張して萎縮してしまうだろうこんな時ですら、いつも通りにまとまりがない幼馴染たちの発言に俺はため息をつく。

 さらに先頭に立つ君理が苦笑いしたのを感じ取ってもう一つ大きなため息をついた。

 

「蘭雪様たちに何か粗相をしないか心配になってきたな」

「我が主はご存じの通りの豪気なお方ですので、心配するような事にはならないと思います。貴方方は真名も預けられておりますし、どうかお気を楽に」

 

 君理のフォローは非常にありがたいが一ヶ月前と比べて、彼女自身がこんなに豹変した状態で言われても説得力はない。

 ぶっちゃけ俺たちが緊張している原因の半分は無自覚に雰囲気を変えている彼女のせいなのだし。

 

「そう言ってもらえるとありがたい」

 

 そんな風に考えている事を悟られないように、俺はいつにもましてポーカーフェイスを維持しなが君理の先導に従って玉座の間を目指して歩いた。

 

 

 

 村育ちの人間から見れば信じられない大きさの一室。

 目測だが高さ三十メートル、奥行き四十メートルと言った所だろうか。

 

 玉座の間と君理が呼んだその場所には、今の建業を支える者たちが俺たちを待ちかまえていた。

 

 君理に目で促され、俺たちはずいぶんと高い場所にある玉座と向き合うように整列する。

 左右にはいかにも文官と言った風体の男やら顔以外を鎧に包んだ武官などバラエティに飛んだ格好をした者たちが並んでいる。

 彼女自身は俺たちを案内した後、左右に並ぶ者たちの列に混じっていた。

 

 しかし妙な事に。

 建業の政(まつりごと)に携わる主だった面々が集まっているだろうこの場に関係者であるはずの幼台……陽菜の姿はなかった。

 

「よぉ、久しぶりだな。お前たち」

 

 玉座から整列した俺たちに手を振って挨拶する蘭雪様。

 

 ……陽菜の事は気になるが、とりあえず今は目の前の事に集中するべきだな。

 

「文台様もお変わりないようで何よりです」

「相変わらず固いな、駆狼。ここにいる面々は全員、私の真名を知っているぞ? 敬語は仕方ないとしても真名で呼べ」

 

 相変わらず大守という責任ある立場にいるとは思えない気安い態度だ。

 これから仕えるとなると少し不安だが、今は馴染みやすい環境にいる事を素直に喜ぶべきだろう。

 

「文台、お前と言う奴は。……仮にもこれから配下になる人間に対して威厳をもって接しろと言っただろう! 示しが付かないだろうが!!」

 

 蘭雪様に対してこめかみを押さえながら意見するのは玉座の右側に立っていた女性だ。

 公瑾嬢を彷彿とさせる雰囲気と蘭雪様に対する気安い態度から推察するに恐らく彼女が周異なのだろう。

 

 彼女の言い分は尤もだ。

 だがその配下になる人間の前で太守たる蘭雪様を叱りつける事も十分示しが付いてないと思うのは気のせいだろうか?

 話がややこしくなるだろうからわざわざ指摘したりはしないが。

 

「あ〜、うるさいうるさい。身内に、それも内輪だけの席で固い態度になっても肩が凝るだけだろうが」

「お前なぁ。……もういい。この件については後で幼台と一緒に追求する事にしよう」

「はぁ〜〜、またか。もう何度も話し合ってるだろうに」

「定期的に抗議せんとお前の頭は都合の悪い事を記憶してくれんからな」

 

 げっそりとした顔で玉座にもたれかかる蘭雪様。

 そんな姿を晒してしまった時点で威厳も何もないだろう。

 

「ん、ごほん!」

 

 空気が緩んでいる事を察した女性は、わざとらしい咳払いを一つすると俺たちに真っ直ぐな視線を向けてきた。

 

「主が失礼な態度で申し訳ない。私は周公共。今は席を外しているが文台の妹である幼台と共に政務、軍事全般を取り仕切らせてもらっている者だ。文台が見つけてきたその腕、大いに期待させてもらうぞ」

「凌刀厘です。ご期待に沿えるよう働かせていただきます」

 

 目の前にいる周異以外に集まった者たちにも聞こえるよう玉座の間に響くよう俺は声を張り上げる。

 

「黄公覆じゃ。儂の腕、見事使いこなして見せてくだされ」

「祖大栄です。色々と至らない事も多いと思いますが宜しくお願いします」

「韓義公よ。自分で言うのもなんだけど頭を使う仕事って向いてないと思うからそこんところよろしく」

「程徳謀だ。なんでも出来るようにしていくつもりだから頼める事はなんでも振ってくれ」

 

 俺に続いて祭たちも名乗る。

 不遜な物言いに集まった人間が不快感を抱かないか不安になったが、俺が見ていた所ではそういう仕草は見られなかった。

 俺が見れたのはあくまで表向きだけなので、心中でどう思っているかまでは察せなかったが。

 

 とはいえ蘭雪様があんな気風で配下にも多大な影響を与えているだろう事を考えれば、態度や言葉の裏側を勘繰る必要はあまり無さそうだ。

 

「ああ、しっかりこき使ってやるからしっかり働いてくれ。ああ、それと真名の扱いは各々に一任する。預けたくなったらその時に預けろ。皆もそれでいいな」

「「「「「「はっ!!」」」」」」

 

 広い室内に俺たちと居並ぶ建業の武官、文官の声が唱和するのを小気味良いと感じ、これからさらに忙しくなる事を意識する。

 

 せいぜい気張って生きていこう。

 この混迷としていくだろう戦乱の時代を。

 

 適度に張り詰めたこの空気の中で、俺は改めて決意した。

 

 

 

「よし、それじゃ解散だ。今日もしっかり仕事しろよ、お前たち」

 

 並び立っていた者たちが主の言葉に従って退出していく。

 その様子を後目に蘭雪様は俺たちに最初の命令を飛ばした。

 

「さて……駆狼たちにはまず城の中の案内と仕事の説明をする。適任のヤツがいるんだが、ちょっと遅れていてな。少しここで待っていろ」

「すまんな。仕官して早々、ドタバタとしてしまって」

 

 カラカラと笑いながら言う蘭雪様とため息を付きながら謝罪する公共。

 

「お気になさらず。人手が足りないと言う話は既に聞いております。それも折り込み済みで俺たちはここに来たのですから」

「そう言ってもらえるとありがたい」

 

 苦労人気質の公共はとりあえず気が楽になったようで年期の入った苦笑いを微笑に変えていた。

 

「おいおい、早速仲が良くなっているじゃないか。駆狼、お前意外と女ったらしなのか? 駄目だぞ。公共には既に夫も子供もいるんだからな」

「そんなつもりは毛頭ありません。俺には心に決めた人がいますので」

「ほう、そいつは初耳だ」

 

 よっぽど俺の言葉が意外だったのか蘭雪様は目を丸くしている。

 横を見れば公共も同じような反応だ。

 なぜだろう、失礼な事を考えられた気がしてならない。

 

 

 そんな風に談笑を始めて大体、五分程度が経った頃。

 この部屋に近づいてくる足音が聞こえてきた。

 

「姉さん、入るわ」

「おお、来たか?」

 

 つい昨日、聞いた声が俺の耳を打つ。

 嬉しそうな顔で俺たちが背を向けている出入り口を見る蘭雪様。

 

「すまんな、幼台。彼らを出迎える為とはいえ仕事を押しつけてしまって」

「ふふ、気にしないで。公共」

 

 近づいてくるその声に鼓動が早くなる。

 柄にもなく緊張しているらしい。

 

 昨日、散々話したと言うのに。

 もしかしたら再会の時に感じた衝撃の余韻がまだ残っているのかもしれない。

 俺もまだまだ修行が足りないようだ。

 

「貴方たちが新しく入る人達ね? 私は孫幼台。文台の妹よ。よろしくね」

 

 振り返れば笑顔で俺たちに頭を下げる陽菜の姿。

 

「あ、ああ。こちらこそよろしくお願いします」

「よ、宜しくお願いします」

 

 最初から親しげな態度で接してきた蘭雪様とも異なる、まるで俺たちと自分が対等であるかのような態度を取る陽菜に激と慎が困惑している。

 

 祭と塁は目を丸くして頭を下げた陽菜を見つめている。

 

「ほら、陽菜。こいつらが混乱してるだろ。お前、私以上に普段は上に立つ人間の雰囲気ないんだからこういう時くらいしゃんとしろ」

「姉さんにだけは言われたくないなぁ」

「まったくだな」

 

 蘭雪様の物言いに苦笑いする陽菜と公共。

 穏やかになった空気に当てられて俺まで気が抜けてしまう気がする。

 

「ほぉ? 駆狼。お前、そんな風に笑うんだな。なかなか良い顔をするじゃないか」

 

 目敏い蘭雪様の言葉を聞いてその場にいた者たちすべての視線が俺に集まる。

 幼馴染たち四人は鳩が豆鉄砲を食らったような顔で俺を見ていた。

 

 思わず口元に手をやる。

 口の端が釣り上がっているのがわかった。

 どうやら無意識に顔を綻ばせていたらしい。

 

「こういう席でお前が笑うとは、珍しい事もあるもんじゃな」

「村にいた時も仕事の時は笑わなかったのに……」

「言っちゃなんだが不気味だな」

「なんか悪い物でも食べたの、駆狼?」

 

 祭と慎はともかく激と塁の失礼千万な台詞は許容出来んな。

 後でぶん殴るとしよう。

 

「はぁ……偶にはそういう事もある」

「はいはい、下手な誤魔化し方しないの。素直に気が緩んだって白状しなさい」

 

 いつの間にか横合いから近づいていた陽菜に右頬を掴まれ、ぐいぐいと引っ張られた。

 

「幼台様、お戯れが過ぎます」

 

 予想外の陽菜の行動に対して素にならずに苦言を呈す事が出来た自分を誉めてやりたい。

 

「他人行儀禁止よ、駆狼」

 

 しかしそれも儚い抵抗に過ぎなかったようだ。

 あまりにもわかりやすく不機嫌な顔をして俺を見つめる陽菜。

 公然とした頑固者である所の彼女は自分の意見を通すと決めた時は妙に言葉少なく、自分の要望を口にする癖がある。

 

「……今は」

 

 そして残念な事に。

 こうなった陽菜に俺が勝てた試しは数える程しかない。

 

「今は私の家族と貴方の家族しかいないでしょ?」

 

 思わずここが玉座の間である事を忘れて陽菜を見つめてしまった。

 なぜか蘭雪様たちはおろか祭たちまで水を打ったように静まり返っていて援護は期待できそうにない。

 

「……わかったよ、陽菜」

「よろしい、駆狼」

 

 してやったりと笑って手を離す陽菜。

 俺は眉間に浮かんだ皺をほぐしながら彼女を睨む。

 俺の睨みなんてどこ吹く風だろうが、それでも自分の意志は示さないと碌な事にならない。

 

「「……駆狼」」

 

 もう手遅れだったようだが。

 底冷えのする静かな声音と発散される雰囲気に怯えながら恐る恐る後ろを見る。

 

 そこにはこの場が戦場であるかのような気迫を放つ蘭雪様と祭の姿。

 いつの間にか玉座から降りてきていた蘭雪様に右肩を、祭に左肩を掴まれる。

 どこから出しているのかわからない万力の力で握り締められ俺の両肩は悲鳴を上げた。

 

「陽菜。お前、刀厘と親交があったのか?」

「ええ。今まで黙っていたのは姉さんが暴走するのがわかってたからなのだけど」

 

 おいそこ。

 俺の状況を無視して和やかに談笑してるんじゃない。

 そして塁たちも興味津々な顔で耳を傾けるな。

 

「陽菜、火に油を注がないでくれ」

「いいじゃない。今までずっと会えなかったのだから少しぐらい羽目を外したって」

「その被害が俺に来るからやめてくれと言ってるんだが?」

「大丈夫よ、貴方だから」

 

 その根拠はどこから来るのだろうか?

 

「ふむ。ちなみに二人はどう言った関係なのだ? ただ真名を預けあっただけの関係と言う訳ではあるまい?」

 

 完全に面白がっている公共は笑みを浮かべながら追求してくる。

 心なしか両肩にかかる力がさらに増した気がした。

 もちろん気のせいではないわけだが。

 

「私たちの関係はね……」

 

 そこでわざわざ溜めを作るな。

 にっこり笑って俺を見るな。

 

 ああ、まったく。

 この時ばかりは七十年の連れ添いである事を恨みたくなった。

 何を言いたいかが見つめあうだけで伝わってしまうから。

 

 どうやら観念するしかないらしい。

 正直、握り締められている両肩がどうなってしまうかが心配だが、だからと言ってこれから口に出す言葉を言わない訳にはいかない。

 

 何故なら俺たちは共に在る事を誓い合った『夫婦』なのだから。

 

「生涯を共に在ると誓い合った仲だ」

「生涯を共に在ると誓い合った仲だよ」

 

 俺と陽菜がまるで示し合わせたように紡いだ言葉は、この広い玉座の間に思っていた以上に大きく、鮮明に響き渡った。

 

 

 こうして俺の仕官初日は。

 仕えるべき君主とかれこれ十七年近い付き合いの幼馴染との命がけの鬼ごっこと言う壮絶な始まりで幕を開けた。

 

 余談だがこの鬼ごっこの話は城内はおろか街にも瞬く間に広まってしまい、俺の名は『虎をして仕留められなかった男』として不名誉な形で広まる事になる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十三話 それぞれの仕官一ヶ月。遠征準備

 俺にとって悪夢に近い任官初日から早一ヶ月。

 俺たちは建業での新しい暮らしにそれぞれ馴染み始めていた。

 

 塁は武官として隊を一つ預かり、調練を行いながら建業一帯の警戒任務に当たっている。

 自警団をしていた頃は二十人程だった部下が一気に百人以上になった為、最初は勝手がわからずに悪戦苦闘していた。

 人数が増えると言うことはそれだけ上司として塁が見なければならない部分も増えると言う事だ。

 村にいた頃と同じ要領でやると言うわけにはいかない。

 だがそこは考え込む暇があれば行動する性格の塁だ。

 失敗を物ともせずに自分のやり方で突き進み、その姿に頼もしさを感じた部下たちとは少しずつではあるが打ち解け、一ヶ月後の現在は完全にとけ込んでいる。

 

 激は武官として塁と祭の手が届かない所の補助をする傍ら、文字の読み書きをここの文官に教わっている。

 熱心に頼み込むあいつに文官連中が戸惑った顔をしていたのが印象に強く残っていた。

 勉強のべの字も嫌いそうな雰囲気の激から頭を下げて教えてくれと頼まれたのがよっぽど意外だったんだろう。

 粗野っぽい言動で勘違いされがちだが、あいつは俺たちの中で一番勤勉で貪欲な性格だ。

 武力も知力もまだまだこれからの激は諦めさえしなければ確実に伸びていくだろう。

 

 慎は読み書きが出来る事とそのめっぽう広い視野を買われて君理改め深冬と共に文官寄りの武官として仕事をしている。

 国からすれば小さな集団である村から出て来てすぐに政治、軍事について考えろと言うのは無茶ぶりも良い所で、さすがの慎も手こずっているようだ。

 しかしあいつの至らない部分は深冬が上手く補助している。

 まだ一ヶ月しか経っていないが、性格的な相性も良いらしく二人が一緒にいる所をよく見かける。

 ただの文官同士と言うには仲が良いように見えるが、ようやく慎にも春が来たのだろうか?

 

 祭は塁と同じく隊を一つ預かっている。

 塁が外回りが多いのに対して城内や城下町などの建業の内回りの警備についている。

 こちらは塁と違って初日に隊員たちと酒飲み大会なんぞを行い、たった一日で部下の心を掌握した。

 この要領の良さはさすがは祭と言った所か。

 あとは俺と陽菜の関係を知ってからどうにも俺を避けている節がある。

 夢にまで出てきそうな鬼の形相で蘭雪様と一緒に追い回してきたのが嘘のように静かだ。

 俺の想い人が突然、現れた事がその態度の要因になっているのはまず間違いないだろう。

 それを寂しいと感じてしまっている事には我ながら呆れている。

 

 俺は陽菜の事を愛している。

 だが最近、自分が祭の事をどう思っているかがわからなくなってきていた。

 

 それはともかく。

 俺は任官してからずっと調練漬けの日々だ。

 

「隊長! 全員揃いました!!」

「よし。ではいつも通りにまずは走り込みだ。総員、駆け足!!」

「「「「「「「はっ!!!!」」」」」」

 

 先頭を切って走り出す俺に続くように配下の兵士たちが続く。

 

 俺は塁や祭と同様、武官として配下を持ちその調練に励んでいた。

 しかし俺が任命された役割は彼女たちの任務とは異なり遠征を主眼に置かれている。

 普段、目の届かない遠い場所で賊が出没した場合の討伐、定期的な領内の村の巡回、他の大守が不穏な動きを見せた時に牽制する事が主な仕事、になる『予定』だ。

 

 今、蘭雪様が持っている『呉』と呼ばれる土地は他の領地に比べてかなり広い。

 建業に腰を据えているだけでは見えてこない部分を見る為に以前から遠征専門の部隊の立ち上げは考えられていたのだが、将が足りないという致命的で切実な要因で今までは企画倒れになっていた。

 

 しかし俺たちが正式に任官した事で在る程度、人材に余裕が生まれた事を機に遠征部隊の立ち上げを改めて打診。

 テストケースとして部下二百人が俺に任される事になった。

 本来ならば信頼の厚い古参の武官、たとえば深冬などが遠征部隊を指揮する事になるのだろう。

 新参者もいいところの俺が何故、こんな重要な仕事についたかには非常に私事な理由がある。

 

 その理由とは蘭雪様である。

 俺が陽菜と想い合っているのは任官初日に伝わっているが、武将としての実績がない俺に妹を譲る気はないらしく「とっととでかい手柄を立ててこい!」と今回のお役目を押しつけてきたのだ。

 確かに手柄を立てるにはどう足掻いても最前線に出なければならない遠征部隊はうってつけなのかもしれないのだろうが。

 

 正直、公私混同も甚だしいと思う。

 公共が冷静に評価して俺ならばやってくれるだろうと後押したので一応、独断ではないらしいのだが。

 

 まぁそんな経緯で俺は任官二日目にして遠征部隊の指揮官をする事になってしまったわけだ。

 

 とはいえ遠征を行うにはまず部隊の準備が整わなければ話にならない。

 しつこいようだが新人である俺が何の下準備もなく、作られて日の浅い部隊で遠征しても成果など挙げられるわけがない。

 なにせ未知とまでは言わないまでも馴染みの薄い土地を場合によっては月単位、年単位で行軍しなければならないのだ。

 

 部隊としての練度を高め、俺を含めた隊員同士が信頼関係を築かなければ良い結果など望むべくもない。

 そして個人単位ではなく部隊で動く以上、食料や飲み水が十分に確保出来ていなければ論外だ。

 

 必要な物資の手配は公共たちがやってくれる事になっている。

 期間三ヶ月を目処に領地をぐるっと一周する想定だそうだ。

 行軍の間に立ち寄る事になる村から大守への要望、治安の現状の聞き込みが第一の任務になると言う。

 なんらかの騒動があった場合は部隊長である俺の裁量で出来うる限りの対応をする事になるのでその責任は非常に重い。

 下手な対応はそのまま蘭雪様の、引いては建業の評判を落とす事に繋がるのだから。

 

 とはいえ物資の手配が完了するまでには当然のように時間がかかる。

 なので俺はその間、可能な限り調練に励みながら軍事を共にする部下たちと友好を深める事に腐心していた。

 

 

 俺を含めた部隊員全員が城下町を含めた建業と言う都市を丸々すっぽりと取り囲んでいる外壁に沿ってひた走る。

 ただでさえ広い外周部は普通に走るだけで相当な体力を消費する。

 しかし今、俺たちは一人の例外もなく重い鎧兜を着込んでいる状態だ。

 体力の消費は普通に走るよりも遙かに激しい。

 

「走る時は膝を腰よりも上に上げるよう意識しろ。地面を蹴る時はつま先に力を込めろ!」

「「「「「「「はっ!!!」」」」」」

 

 しかしこれくらいの訓練に着いてこれないようでは戦場では役に立たないと俺は考える。

 戦場では何日も何日も剣林弾雨(この時代に弾丸と言う物はないと思うが)の中を突き進まなければならない事も有りえる。

 そんな終わりの見えない戦場で生き延びるにはまず体力が、そしてどんな状況でも諦めないだけの気力が必要不可欠だ。

 

 彼らは大守の軍、それも実力で成り上がった者たちと言うこともあり、村の自警団の連中と比べて格段に練度が高い。

 だが根本的な面で俺や祭、慎や深冬たちのような『名のある武将』に比べるとどうしても見劣りしてしまう。

 

 俺はその格差を埋める事ができないかという点に着目した。

 武将となるだけの力を持つ者とそうでない者。

 この差を少しでも縮める事ができれば、部隊の総合的な戦力は格段に伸びる事になる。

 

 真っ先に思いついたのが基本的な体力強化と、俺の流派にある肉体を効率よく動かす為の技術、そして前世の知識による肉体維持の医療技術の伝授。

 何百年と先の技術の中には足運びなどの体の動かし方も当然のようにある。

 それを彼らの体に教え込むだけでも個人の強さは格段に変わるだろうと考えたのだ。

 

「声を張り上げろ! 我らは建業を代表して領内全体の治安維持に務める事になるのだ。半端な気合いで事に当たる事などあってはならん!!!」

「「「「「「応っ!!!」」」」」」

 

 そして今現在はすぐに着手出来る体力強化を優先して調練を行っている。

 

 着任当初、主君のお墨付きがあるとはいえぽっと出である所の俺たちが隊を預かり、政に関わる事をよく思っていない人間は多いだろうと俺は考えていた。

 特別扱いされる人間が出れば、例えそれが理に適っていようとも感情面で納得できない者は必ず出てくるものだ、と。

 

 しかし蓋を開けてみればこの二週間の間に俺が懸念したような人間が出てくる事はなかった。

 

 ここの連中は皆、蘭雪様や陽菜の影響をもろに受けている。

 蘭雪様は実力主義だし、陽菜は前世でそういった考えとは無縁の生活だった為に差別などを嫌う。

 故に実力があり、性格が軍に馴染めさえすれば新参者でも特に気にしないのだ。

 武官文官だけでなく兵士たちにもその気風が浸透している為、恐ろしく庶民的で農村出の俺たちですら簡単にここに馴染む事が出来た。

 

 前世でガチガチの軍隊を体験している身としては、蘭雪様の軍の在り方には尋常ではない違和感があるのだが。

 とはいえここがそういう場所なのならば合わせるべきは俺の方だ。

 

 締める所はきっちり締めて、最低限の節度くらいは身につけさせたいと思っているがそういう部分については公共や慎、古参の文官たちと相談するべきだろう。

 いざ他の領主、大守、官軍などと関わる事になった時の為に最低限の節度と言うものは必要になるからな。

 

 

 日が真上に昇る頃までただひたすらに走り込みを続ける。

 この一ヶ月間延々と続けてきたお陰で最初は城壁の外回りを十周が限界だったが今では二十週は持つようになっていた。

 

 部下たち自身も自分たちの成長が実感出来ているようで、最初こそ単調な調練に不満を抱いていたが今は俺の調練方針に従ってくれている。

 

「朝の調練はこれで終了する! しっかり体を解した者から昼食を取れ! 一刻後に城内の調練場へ集合!!!」

「「「「「「はっ!!!」」」」」」

 

 唱和するはきはきとした返答を聞いてから俺は彼らがストレッチをする様子を見守る。

 柔軟運動のやり方は最初の鍛錬の時に俺が教えて実践して見せている。

 彼らにとっては馴染みの薄い行為ではあったが、その効能が確かな事がわかると率先して行うようになり、他部隊に勧める人間も出てきたので少しずつではあるが軍全体に浸透してきている。

 とはいえやり方を間違えると逆効果に成りかねない為、慣れるまでは俺が監督する必要があるんだが。

 

 勿論、俺も後でしっかり柔軟を行う予定だ。

 他者に気を配りすぎた結果、自己を疎かにするのは論外なのだから。

 

「こら、賀斉(がせい)。腕をそんなに曲げると逆に筋を痛める。それと柔軟はゆっくりと丁寧にやれ」

「は、はい」

「お前は力は強いが加減が出来ていない。加減が出来ないと言う事は行動の一つ一つに余計な力が入ってしまうと言う事だ。必要な時に必要なだけの力を出せるように心がけろ」

「む、難しいけど頑張ります!」

「よし」

 

 恐縮しきった様子で返事をする十四、五歳ほどの少女。

 

 彼女の名は賀斉公苗(がせいこうびょう)。

 史実では派手好きと言われているが、目の前の彼女にはそんな様子は見られない。

 逆に引っ込み思案なくらいだ。

 年不相応に背が高く、スレンダーな体つきに反して馬鹿みたいに力が強いがそれを持て余して畑仕事も満足に出来なかったらしい。

 そんな彼女の噂を聞いて公共が引き抜いて以降、兵役に付いていると言う話だ。

 有り余っている力をどうにか自分で制御出来るようになれば日常生活は元より武将としても大成出来るだろう。

 先が楽しみな子である。

 とはいえ俺の知る史実では孫策の代の頃から呉に仕えていたはずなのだが。

 

 

「宋謙殿。貴方は体力、筋力共に申し分ありませんがどうにも筋肉が固まりやすいように見受けられます。腿や腕の筋肉を揉むだけでもずいぶんと柔軟になり、疲労を身体に溜めにくくします。日に一度、定期的にやってみてください」

「ふむ、わかりもうした。しかし隊長殿はまこと博識ですなぁ」

「ただ人が知らない事を知る機会に恵まれただけです」

「いやいやそれは謙遜と言うものです」

 

 顔以外を分厚い鎧で包んだ強面の男性が物静かな笑みを浮かべながら、指示通りに筋肉を揉み解し始める。

 

 宋謙(そうけん)

 字は無し。

 賀斉同様、史実では孫策が挙兵した頃から仕えた武将。

 その活躍は韓当や黄蓋に負けない程と言われたが彼自身が表舞台に出る事は少なかったと言う。

 二メートルを越える長身に無骨な鎧を着込んだその姿は見る者すべてを威圧するかのようだ。

 話してみれば意外に気さくな人柄だったが。

 年は三十五歳で妻がいる。

 休日は仲睦まじく二人でひなたぼっこをしているらしい。

 訂正。

 年齢よりも遥かに老成しているように見受けられる。

 

「隊長、柔軟終わったら一緒に飯行きましょ、飯」

「お、そいつはいい。幼台様との馴れ初め、今度こそ聞かせてもらいますぜ」

「あ、それあたしも聞きたい!」

「飯はいいが馴れ初め話は却下だ。談笑するのはいいが柔軟をサボるなよ?」

「「「へ〜い」」」

 

 がやがやと騒ぎ立てる部隊の面々。

 さっきまで一糸乱れぬ動きで走り込みをしていた連中とこいつらが同一人物だとはにわかには信じられないだろう。

 

 俺も、こいつらも人間だ。

 常に気を張り、緊張した状態を維持する事など出来はしない。

 緩められる時に緩めてこそ、有事の際に全力を出すことが出来るのだ。

 

 だから今はこれでいい。

 今、この時は彼らと俺の立場に差などない。

 肩書きに沿った言動はあっても、こいつらはこいつらなりに俺と接し、そして俺は俺なりに彼らと接する。

 そうして生まれる信頼が時に勝敗すらも左右するほど強い力になるのだ。

 生き延びる為の『力』に。

 

 二百人の部下たちは『武将』である俺にとっては手駒だ。

 甚だ不本意だが隊を預かる者としてそのように割り切って考える事が必要になってくるだろう。

 だが同時に彼らは俺と苦楽を共にする『戦友』でもある。

 

 村での調練の時も考えていた事だが、俺はそんな彼らを可能な限り死なせないようにしたい。

 

 だからこそ調練そのものを過密で厳しい物にしている。

 村の自警団では余りの厳しさに逃げ出す者も多かったが、新しい部下たちには他隊へ異動を申し入れる人間はいなかった。

 どうやら彼らは俺の意図を正しく理解し、納得してくれているようだ。

 

 俺にとっては嬉しい誤算だ。

 誤算と言えば部隊に配属された二百人以外の兵士や武官、文官たちからも俺は最初から一目置かれていた。

 訳がわからなかったので聞いてみた所、例の任官初日の事件で蘭雪様から逃げ切った事が思った以上に評価されている事がわかった。

 

 蘭雪様に仕える面々の間ではあの方の妹絡みでの暴走は有名らしく、大抵の人間は被害に遭うか現場を目撃した事があるのだそうだ。

 戦場で率先して最前線に立つ豪傑である蘭雪様が、妹である陽菜の事で暴走するとそれはもう手が付けられなくなるのは周知の事実。

 そしてそうなった彼女から逃げられた者は今までおらず。

 俺は偉業を成し遂げた唯一の男として一目置かれる事になったのだそうだ。

 

 俺としては釈然としない物を感じないでもないが。

 そのお陰でこうして滞りのない部隊運営が出来ているのだからあの告白も無駄ではなかったのだろう。

 

「で、最近はどうなんですか? 幼台様とは?」

「……黙秘だ」

「二人だけの秘め事って訳ですか? 羨ましいですねぇ」

 

 しょっちゅうそれをネタにからかわれるのが厄介だが、これは身から出た錆か。

 俺は部下たちの執拗な追撃をいつも通りに捌きながら柔軟の監督を続けた。

 

 心の片隅で陽菜と、そして祭の事を考えながら。

 

 

 

 駆狼と陽菜様(真名は話してすぐに預けてくださった。姉妹揃って豪気な人物じゃな)が玉座の間で自分たちの関係を暴露した日。

 儂は駆狼自身の口から想い人の事を聞いた翌日にその本人が登場するという怒濤の展開に頭がついていかず、つい怒りと嫉妬心の赴くままに蘭雪様と一緒に駆狼を追い回してしまった。

 

 心の底から安らいだ顔で、あやつは陽菜様を見つめていた。

 陽菜様もまた心の底から楽しそうな顔で、駆狼を見つめていた。

 

 『お似合い』と言う言葉があの場にいた全員の頭によぎったはずじゃ。

 それくらいに二人が共にいる事を自然だと感じた。

 

 負けたと思った。

 ずるいと思った。

 なぜ儂じゃないのかと思った。

 自分でも理不尽だとわかる怒りが湧き出てくるのを止める事が出来なかった。

 

 結局、追いかけ回している内に頭が冷えて途中で追いかけるのはやめたのじゃが。

 儂の心は敗北感で一杯じゃった。

 その気持ちをずっと引きずってこの一ヶ月、ずっと駆狼の事を避けてしまっている。

 自分が情けなくて仕方がなかった。

 

 どうにかこうにか仕事にこの気持ちを持ち込む事はなかったんじゃが、正直それもいつまで持つかわからん。

 塁たちには心配をかけてしまっているが、こればかりはどうしたらよいかさっぱりじゃ。

 

「あら? 祭」

「あ……陽菜、様」

 

 夜、どうしても寝付けずに宛もなく城の中を歩いていた儂は偶然、陽菜様に出会った。

 出来れば今は会いたくない方だった。

 

 あやつの想い人であり、儂が仕えている方の妹君。

 初日に暴れてしまった事もあって、どう接していいかわからなかった。

 

「……丁度よかった。貴女とはゆっくり話がしたかったの。今、いいかしら?」

「わ、儂と話、ですか?」

「ええ。慎たちともいずれ機会を見て話を聞きたいとは思っていたのだけど、その中でも貴女とは一番最初に話をしておきたかったのよ」

「わかり、ました」

 

 儂と話。

 最初は五村同盟の事を聞きたいのかと考えた。

 じゃがそれなら駆狼に聞けばいい。

 あやつが同盟の立役者なのだから。

 

 特別、儂を指名して話がしたいと言われると心当たりは一つしかない。

 

 駆狼個人の事じゃろう。

 誰がどう見ても特別に親しい間柄の二人を見て儂が嫉妬に狂った様子をこの方はしっかり見ておるのだ。

 

 自分の特別な人に言い寄る女なんぞいたらそれは気になるじゃろう。

 もしかしたら儂に『駆狼に近づくな』と釘を刺すつもりなのかもしれんな。

 

 届かぬ想いを諦めきれずに横恋慕していたのは儂の方じゃ。

 なにを言われても仕方がない、か。

 

「ん、ここでいいかしらね」

 

 鬱々と考え事をしていた儂はいつの間にか中庭に来ている事にようやく気が付いた。

 

「ほら、座って」

「は、はぁ……」

 

 わざわざ儂の分の椅子を引いてから対面の椅子に座る。

 そんな気を遣うような立場ではないと言うのに。

 儂にはそんな心遣いを受ける資格なんぞないと言うのに。

 

「まどろっこしいのはあまり好きじゃないからいきなり本題に入るけれど」

 

 儂は心中で身構える。

 どんな罵声が来ようとも耐えられるように。

 しかし彼女から出た言葉は予想していた物とは違っていた。

 

「貴女、駆狼の事好きでしょ?」

 

 優しい声音、優しい顔、優しい笑みで彼女はそう問いかける。

 その言葉が疑問ではなく確認である事は察するまでもなく理解出来た。

 

「ふふ、私が駆狼を奪おうとしてるとか考えてたんじゃないかな?」

「あ、いや……そんな事は」

 

 そのものずばりの指摘を受けて口がうまく回らない。

 

「大丈夫。駆狼も貴女の事、好きみたいだから。片思いじゃないわよ」

「……えっ?」

 

 その言葉に今度こそ儂の思考は止まってしまう。

 駆狼が儂の事を好き?

 

「……駆狼と私はね。少し普通とは違う経験をしているの。その経験のお陰で家族よりも長い付き合いがあって、深くお互いを理解している。私たちがお互いに想い合っているのは家族すら知らない繋がりが私たちにあるから」

 

 それは儂に語りかけると言うよりも独白に近い物だった。

 しかし陽菜様は儂から目を逸らさず、優しい顔のまま話を続けていく。

 

「私たちはその経験を『前』と言っている。私たちの関係は『前』からの続きなの。普通の人は持っていないから持っている人に縋る。言ってしまえば依存に近い物。それでも私が駆狼の事を好きなのは変わらないけど」

 

 一度、言葉を切って困惑している儂を見つめる陽菜様。

 優しさの中に寂しさが紛れた不思議な笑みを浮かべていた。

 

「私はずっと駆狼を想って生きてきた。辛い時も悲しい時も心の拠り所にしてきた。でも駆狼は違う。任官する前の日に偶然、一足先に再会して話をした時に気付いたのだけど『前』ではなく『今』と向き合って生きていた。生まれてからずっと『前』に縋って生きてきた私とは大違い」

 

 羨ましそうな顔で陽菜様は私を見つめる。

 

「貴女は駆狼にとって『今』の象徴なの。『前』とか『今』とかの言葉の意味はわからないだろうから掻い摘んで言うけれど駆狼にとって貴女は特別、大切な人なのよ」

「儂が……駆狼の特別?」

 

 呆然と呟く儂に陽菜様は真剣な眼差しで頷く。

 その表情に嘘や冗談など見られない。

 

「駆狼は肝心な所で不器用で気が利かないから、『前』の私と『今』の貴女を比べてしまっている。人の想いなんて比べられる物じゃないのに。わざわざ自分が傷ついてまで出来もしないのに比較して、一人で答えなんて出せないのにむりやり答えを出して、それが正しいと思い込んで……貴女を遠ざけようとしてる」

 

 最近の駆狼の態度を思い出す。

 面と向かって儂に言った『拒絶』の言葉。

 諦めないと公言し、心で定めても面と向かって否定されて儂は何度となく傷ついた。

 涼しい顔で言葉を紡ぐ駆狼に恨み言を浴びせた事もあった。

 

 だが今の陽菜様の言葉を聞いてこう思った。

 

 もしかしたらあの時、駆狼は。

 儂が傷つく以上にずっと自分を傷つけていたのではないかと。

 

「人の想いを測ろうとするなんて無理よ。たとえそれが自分の気持ちでもね。でも駆狼はむりやりそれをやっている。私を想ってくれるのは嬉しい。でもね、だからって駆狼にやせ我慢なんて強いたくないの」

 

 一途に駆狼を思う陽菜様は月明かりの中、途方もなく美しく見えた。

 

「だから貴女にお願いしたい。駆狼を助けてあげて」

「で、すが儂は……」

「貴女でなければ『今』の駆狼に本当の意味で声が届かないの。『前』の私じゃ絶対に出来ない事なの。駆狼を想っている貴女じゃないと……身勝手なお願いをしているかもしれない。けどこのまま駆狼が我慢するのは見ていられないの」

 

 優しい顔をされていた陽菜様はもういない。

 目からはすでに涙がこぼれ落ち、頬は濡れている。

 自分と同年代のはずなのに、一回り幼くなってしまわれたようにすら思えた。

 しかし陽菜様の言葉、大半は理解できなかったが一つだけわかった事がある。

 

「貴女は本当に駆狼を愛しておるんじゃなぁ」

「勿論よ。生涯を共に誓い合った仲だもの」

 

 目を赤く腫らしながらきっぱりと言い切る。

 思わず儂は笑みを浮かべていた。

 

「貴女はなんとも思わないですか? 儂が駆狼を好いている事に」

「むしろ嬉しいくらいよ。貴女のような人が駆狼を好きになってくれて」

 

 ははは、まったく豪気なお方じゃな。

 自分の良い人を取られるかもしれんと言うのに。

 

「奪い合うよりも共有する方が私としては嬉しいしね」

「……さらっとすごい事をおっしゃいますな、陽菜様」

 

 気持ちよく笑っていたと言うのに頬がひきつってしまった。

 

「別に好き合ってるなら一夫多妻でも良いと思うのだけど。『前』もそう思ってたんだけど」

「あっはっはっは! まったく陽菜様は大胆な事をおっしゃる」

「そこまで大笑いするような事かなぁ? ああ、でも誰でも一緒でいいわけじゃなくて駆狼をしっかり見れて止められる人じゃないと駄目よ」

「ああ、なるほど。それは確かにそうですな。有象無象が自分と同じ立場に立つなど気分が悪くなりますぞ」

「そうよねぇ」

 

 ああ、まったく。

 なんてお人だ、陽菜様は。

 儂がさんざん悩んでおった事をぶち壊して、道まで示してくださるとは。

 これは是が非でも願いを叶えて差し上げねばなるまいよ。

 

 そして駆狼。

 覚悟しておけ。

 儂はもう躊躇わん。

 儂と陽菜様はお前と共にいなければ幸せにはなれんのだからな。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十四話 二人の妻との幸せを。遠征開始

 俺は街を適当に歩きながら目に留まった店を覗いていく。

 時々、街の住人に声をかけられ立ち止まっては軽い談笑。

 そんな平和な一時を噛みしめながら俺は城下町ぶらり行脚を続ける。

 

 今日は俺が任官してから初めての休暇だ。

 

 基本的に調練に明け暮れている俺たちだが、休日は当然のように存在する。

 部下たちにもローテーションで休暇は与えているが、俺の場合は管理職な事もあってさらに少ない。

 現在の勤務体制は彼らが週休二日なのに対して俺は週休一日程度だ。

 

 前世の日本ならば訴えれば確実に勝てる程の休日頻度である。

 尤もこの世界に労働基準法なんて気の利いた法律は存在しないので訴えられるような事はないだろうが、そこは俺個人の気持ちの問題だ。

 

 とはいえそうでもしなければ手が回らない程に遠征軍は急ピッチで準備を進めなければならないのが現状なので止むを得ないと諦めてもいる。

 物資の手配が終わるまでに部隊を最低限の形に整えておかなければならないのだから。

 

 周異たち文官勢が本来ならもっと時間がかかる三ヶ月分の物資を二ヶ月とかからずに調達してしまった事が俺たちの準備をさらに急がせる結果になっている。

 

 その手配の手際の良さにはさすがと感心した物だ。

 しかし調練をもう少し腰を据えてやりたかったと言う思いがあるのも事実である。

 

 とはいえ早急に領土全体の状況を把握したいという我らが主の言い分もよくわかる話。

 だからよほどの無茶でなければ文句など言うつもりはない。

 

 そしてなにより。

 今回のこれは無茶ぶりとしてはまだ軽い方だと俺の勘が告げている。

 この程度、乗り越えて見せろと言う蘭雪様の私念(誤字にあらず)も感じられるのでここは一つ期待通りに、いや期待以上の働きをしてみせようと俺は覚悟を決めていた。

 部下たちも君主の無茶ぶりには諦めているらしく、不満は出ていない。

 

「それでも強行軍には違いないがな」

 

 そんな事を考えて調練を進めてさらに二週間ほど。

 いよいよ遠征出発の時が迫ってきていた。

 

 今日は遠征を控えたガス抜きの一日でもあるのだ。

 故に俺の部隊は全員が今日は休暇になっている。

 各々が思い思いに休みを満喫しているだろう。

 

 俺も勿論、この休日を静かに過ごす予定だった。

 ……休みの前日までは、だが。

 

「おお、来たな駆狼」

「待たせたか?」

「いいや、それほどでもないぞ」

 

 晴れやかな笑みを浮かべる祭。

 

「確かにそんなに待っていないけれど女性よりも後に来るようじゃ駄目よ?」

「……すまんな」

 

 静かに微笑む陽菜。

 

 どこからか休暇の話を聞きつけたこの二人のせいで俺の予定は潰された。

 

 まぁ二人とも建業にとって重要な立場にある人間だ。

 俺が黙っていてもいずれ休暇の話は聞かれていただろう。

 

「ほれ、なにを黄昏れているんじゃ。しばらく会えぬのじゃから今日は騒ぐぞ!」

「そうよ! そんな辛気くさい顔してないで楽しみなさい!!」

 

 片腕ずつを彼女たちに抱え込まれ引っ張られる。

 仕方なしに自分で歩き始めるが二人は腕を離してはくれなかった。

 

 端から見れば美女二人を侍らせているろくでなしに見えるだろう。

 実際、公然と二股をかけているのでろくでなしには違いないが。

 

 

 そう。

 俺はつい先日、陽菜を愛する身でありながら祭を受け入れた。

 

 陽菜に祭を振る理由に自分を使うなと怒鳴られ。

 祭には俺がどれだけ否定しても、拒否をしても決して『自分の思いは折れない』という意志を見せつけられ。

 

 そして俺は陽菜だけでなく、祭の事も想っている自分の心に気付かされてしまった。

 

 ずっと目を逸らしてきたと言うのに。

 陽菜の存在が明らかになった事でようやく祭が諦める所までこぎ着けたと言うのに。

 

 結局、俺は最後までその意志を貫く事が出来なかった。

 正確には祭と陽菜に意志をへし折られたと言うべきか。

 

「別に妻が二人でもいいじゃない? どっちとも両想いなんだから」

 

 二人の女性を想うという決して許されない事をしている俺に向かってあっけらかんとした顔で告げる陽菜。

 

 その言葉を聞いた時は俺の苦悩はなんだったのかと怒りすらこみ上げてきた物だが。

 

「『前』の事を言い訳に持ち出すのは無しよ。貴方は私にとっては玖郎だけど、『今』は凌刀厘であり駆狼でもある。『玖郎』として私を愛してくれるのは嬉しい。でもそれなら『駆狼』として祭にも応えるべきよ」

 

 倫理感も常識もあったものじゃない。

 俺にとって陽菜のその言葉は悪魔の誘惑にもほどがあった。

 

 心中を完全に見破り、俺の想いを理解した上で諭そうとする陽菜。

 そして長く続いた俺との中途半端な関係を終わらせる為に不退転の覚悟を決めた祭。

 

 俺にとって万の軍勢にも勝る程の難敵だった。

 

 最終的に口では勝てず、俺は追いつめられて武力行使にすら及んだ。

 しかし揺れる心のままに振るった力で祭に打ち勝つ事も出来ず。

 必死に守ってきた心の壁は祭の拳で突き崩された。

 

 仰向けに打ち倒されて無様を晒した俺。

 こんな無様な人間に幻滅してくれれば良いと最後の足掻きにそう思った。

 

 しかし祭と陽菜は、俺から離れようとはしなかった。

 否、俺を離そうとはしなかった。

 

「お前が倒れても儂らが起こしてやる。膝と着きそうになったら肩を貸してやる。お前がずっと気を張っている必要はないんじゃ。儂はずっとお前と共におるから。儂はどんなお前だって受け入れるから……だから」

 

 倒れ込んだまま呆然とする俺を抱き起こしながら祭は語る。

 震える声で意を決し、村を出立する前と同じ意味の言葉を。

 

「お前も儂を受け入れてくれ」

 

 心の壁を打ち壊された俺に断る事など出来るはずがなかった。

 

 

 

「おい、どうしたんじゃ駆狼?」

「さっきからずっと黙り込んでるけれど」

 

 左右から顔を覗き込むようにして俺を見つめる二人。

 二人の声で我に返った俺は軽く頭を振って意識を『今』に戻す。

 

「……こんな風に収まった時の事を思い出していた」

 

 前世の頃よりもさらに勘が鋭くなった陽菜と長い付き合いの祭を誤魔化そうとする気にはならず、正直にぼうっとしていた理由を話す。

 

「ああ、儂の『長年』の想いがようやく実った日の事じゃな」

「わざわざ長年を強調するな。俺が悪いのは理解している」

「じゃあ当然、お前に冷たくあしらわれていた頃の埋め合わせはしてもらえるんじゃろうな?」

「……ああ」

 

 その時の事を引き合いに出されては俺に拒否権はない。

 肝心な事を誤魔化し続けて祭を傷つけてきたのは俺だ。

 これは俺の蒔いた種なのだからな。

 

「祭にばかり構うのは許さないわよ。私たち二人をしっかり面倒見てね」

「それもわかっている。決めたのは俺だからな」

「よろしい」

 

 不満げにしていたかと想えば一転、満足げに笑う陽菜。

 年老いてもその感情表現豊かな性格は変わらなかったが、生まれ変わってもそのままだ。

 

「さっさと行くぞ、今日は俺の奢りだ」

「ほう、言ったな駆狼。もう撤回させんぞ?」

「撤回するくらいなら最初から言わん」

「それじゃお言葉に甘えて贅沢させてもらおうかしらね」

 

 想い人と連れ添いあいながら歩く。

 諦めていたはずの光景がある事を嬉しく思う。

 多少、自分が思い描いた形とは違ってはいるが、それでも今この時の俺は幸せだった。

 

 俺は争いが耐えないこの世界でより一層気合いを入れて生きていく事を誓う。

 両腕に感じる異なった温もりを喪うことがないように。

 

 

 そして翌日。

 俺は鍛え上げた二百の兵と共に建業を出立する日になった。

 まずは北へ、そして長江に沿って東へ進路を取り、海沿いに領地内の村を見て回るという行程だ。

 他の領土との国境沿いはなるべく相手側を刺激しないように進んでいく事になる。

 俺たちは領地を上手くまとめられているが、それでも他の領土と事を構える程に余裕があるわけでもない。

 今は何よりも『地盤を固めるべき』というのが文官勢の共通した認識だ。

 

 その地盤固めの政策の第一歩が領内を巡回する軍の派遣。

 俺が想定した以上に今回の任務は重要度が高い。

 だからと言って俺がやる事が変わる訳でもないが。

 

 

 見送りはいらないと言ったのだが、君主も軍師もまるで聞き入れてくれず主だった武官、文官は出立場所である建業の北門に集まっていた。

 

「まったく、大袈裟な……」

「そう言うな、駆狼。ようやく取りかかれた新しい政策だ。幸先が良いように派手に見送りたいのさ」

「そういう事だ。これも兵たちの志気を少しでも上げる為の策さ」

「失敗する要素は可能な限り排除して事に当たりたいのですよ」

「まぁ話としては理解出来ますが、ね」

 

 後ろに居並ぶ部下たちには聞こえないように会話をするのは俺と蘭雪様、公共改め美命と深冬だ。

 

「お土産、よろしくね。駆狼〜〜」

「遊びに行くわけではないんだが。一応承知したと言っておく、雪蓮嬢」

「駆狼殿、道中お気をつけて」

「ありがとう、冥琳嬢。そちらはしっかり勉強に励めよ」

 

 調練の合間に談笑していたらいつの間にか心を開いてくれた公瑾嬢改め冥琳嬢とさらに懐いた雪蓮嬢の頭を撫でる。

 君主と筆頭軍師の子供に対してかなり慣れ慣れしい態度を取っているのだが、誰も咎めない。

 

「なんかあったらすぐに伝令寄越せよ。お前がどこにいたって出来る限り手助けするからよ」

「ああ。その時は頼りにさせてもらう、激」

「おう!」

 

「海沿いに行くんだから新鮮な魚とかお土産よろしくね」

「塁、魚はどうにか出来るかもしれんが新鮮なのは無理だぞ。海は行軍の前半部分だからな」

「ええ〜〜、なんとかしなさいよ〜〜〜」

「無茶を言うな」

 

「刀にぃ、気をつけて。成果、期待してますから」

「ああ、せいぜい期待に応えられるよう気張るよ、慎」

「言う必要はないと思うけれど、功を焦ったりしないでね」

「愚問だな。自分の身勝手で部下に余計な負担などかけんさ」

 

 幼馴染みたちからかけられる言葉に返答し、離れて見守っていた二人に俺から近づく。

 

「祭、陽菜。行ってくる」

「駆狼、しっかりお勤めを果たして来い」

「任せろ」

「体には気をつけてね。変な物、拾い食いしたら駄目よ?」

「俺は子供か? お前こそ護衛も付けずにぶらぶらと街をうろつくなよ?」

 

 いつもと変わらないやり取り。

 お互いがお互いを信頼しているから、態度を変える必要はない。

 俺は生きて帰ると二人に誓ったのだから。

 

 とはいえ最近、この二人にはやりこめられてばかりだからな。

 たまには攻勢にでも出てみるか。

 

「祭……」

「ん、なんじゃむぐッ!?」

 

 不意打ち気味に祭の唇を奪う。

 すぐに離して次の目標へ。

 

「え、んむっ!?」

 

 俺の行動に、珍しく目を見開いて驚いている陽菜の唇も奪う。

 

「うわぁ、駆狼ってば大胆」

「ば、馬鹿、雪蓮!! そんな食い入るように見る物じゃない!?」

 

「おお、派手にやったなぁ駆狼」

「まさか兵たちの前で接吻とは。沈着冷静だと思ったが案外、熱烈なのだな」

 

「うちの大将は秘めた熱血漢だからなぁ」

「そうだね。って言ってもさすがに吃驚したよ」

「それだけ二人の事が好きって事でしょ。いいなぁ、祭と陽菜様」

 

「ううむ、若いですなぁ。隊長殿も黄蓋殿も陽菜様も」

「あ、あわわわわ。す、すごいです隊長」

 

外野が何か言っているが、ここは聞き流す所だろう。

 

「それじゃ行ってくる」

「う、うむ……」

「い、行ってらっしゃい」

 

 顔を真っ赤にして視線を明後日の方向に向ける二人。

 その微笑ましい様子に自然と口元を緩ませながら俺は振り返り、配下二百人に命じた。

 

「これより凌操隊二百名は呉領内への遠征を開始する!!! 誰一人欠ける事なく再びこの建業の地を踏むぞ!!!!」

「「「「「「おおーーーーー!!!!!!」」」」」」

 

 男女合わせて総勢二百名の唱和を心地よく感じながら俺は隊の先頭を切って足を踏み出した。

 

 

 

「まったく駆狼のやつ」

 

 顔を赤くしたまま遠ざかる凌操隊を見送る祭と陽菜を見やる。

 出立前に好き勝手やっていきおって。

 もしかしたら今日は役に立たんかもしれんな、あの二人。

 

「どうした、蘭雪?」

「いや、本格的に妹を取られてしまったと思ってな」

 

 ずっと私を支えてくれた、手助けしてくれた妹。

 私が婚儀を上げた時も率先して式の手配をして祝福してくれた。

 子供が生まれた時も子育てなんぞした事がない私に付き添って雪蓮や蓮華(れんふぁ)、小蓮(しゃおれん)の世話をしてくれた。

 

 ずっとずっと私と一緒だなんて、なんとなくそう思っていた。

 

「ふふふ。いい加減、妹離れをしろと言う天命だろう」

「そんな軽い天命があってたまるか」

「ははは、まぁそうだな」

 

 笑い続ける美命を睨み付けるが、一向にこいつは笑みを消そうとはしない。

 

「しかし私は陽菜が見初めたのが駆狼で良かったと思っているよ。あいつならば陽菜を大切にしてくれる……そう思う」

「……二股かけてるヤツにそんな事ができるか?」

 

 これはただの八つ当たりだ。

 あやつは祭と陽菜、二人を幸せにして余りある事が出来る男だと私は認めている。

 ただそんな男であっても妹を取られたと思うと軽く嫉妬してしまう。

 我ながらなんと幼稚な事か。

 

「それは本心ではないでしょう? 妹を取られた嫉妬なんてみっともないわよ。三児の母だと言うのに」

「やかましい。わかってるよ。あんな妹の顔、見てしまっては認めないわけにはいかんだろうが」

 

 普段から雰囲気に流されず、空気を読み、時に頑なに自分を貫く頑固者である陽菜があんなにも無防備な姿をこれだけの人間の前に晒している。

 それだけ駆狼の接吻が効いたと言うことだろう。

 

「あいつは私の幸せを願ってくれた。なら私があいつの幸せを願わないわけにはいかないからな」

「だったら駆狼が戻ってきたら義姉と呼ばれる覚悟を決めておきなさい」

 

 それだけ言うと美命は私の傍を離れていった。

 もう既に皆、仕事に戻って行っている。

 

 ここに残っているのは長話をしていた私たちと未だぼうっとしている祭と陽菜、護衛の者たちだけだ。

 

「まったく好き勝手言ってくれる。……こら、祭! いい加減目を覚ませ!」

「うひゃうっ!? ら、蘭雪様?」

「ったく、こら陽菜!! さっさと政庁に戻るぞ!!!」

「わたっ!? ね、姉さん痛い……」

 

 ぐいぐいと二人の手を引いて北門を抜ける。

 一度だけ門の外に振り返り、絶対に聞こえていないだろう駆狼に告げる。

 

「さっさと成果をあげて帰ってこい。義弟(おとうと)よ」

 

 まだ事態が飲み込めていない二人を引きずりながら私は政庁に向かって歩きだした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十五話 錦帆賊という者たち。

この話は主人公が最後にしか出てきません。
今更ですが史実改変、時期の変更など独自要素に溢れています。



 かの者は義に篤く己の意志を貫く。

 決して他者に誇れる立場にはないが、それでもかの者は弱き者を守る。

 例え賊徒と蔑まれようとも。

 

 

「国が人を守られねぇってんなら俺が人を守る。国の兵士が人を守らねぇで逆に虐げるってんなら俺は賊で構わねぇ」

 

 玉座でふんぞり返っている男を睨み付けて告げる。

 

「虐げる? 私は彼らを守っているだろう? 賊に襲われた村に救援を出し、日頃仕事に精を出す彼らを慰撫する為に街を出歩く。どこに虐げるなどと言う言葉が出てくるのだ?」

 

 獣でさえ怯む俺の眼力を受けても平然とする男。

 全然、悪びれもせずにてめぇの都合の良い解釈を言い募るこの領地の長に殺意が増す。

 

「あんたの認識じゃ村が滅ぶか滅ばないかの瀬戸際に部隊を送り込むのを救援って言うのか?」

「……」

「あんたの認識じゃ部隊を引き連れて嫌がる連中からむりやり税を徴収する事を慰撫って言うのか?」

「……」

「答えろや、刺史様よぉおおおお!!!」

 

 俺の怒声が玉座の間に響き渡る。

 しかし劉表(りゅうひょう)もその取り巻きどももだんまりを決め込んだまま。

 

「くくく、まさか私が、荊州刺史であるこの劉景升(りゅうけいしょう)が一兵卒風情にここまで噛み付かれるとはな」

 

 肩を震わせて笑う劉表。

 反省の気配なんて微塵も感じられねぇその態度が俺の神経を逆撫でする。

 

「黄祖(こうそ)、この男の名は?」

「甘寧(かんねい)と言います。腕っ節だけの無頼漢です」

「無頼漢ねぇ。人から搾り取る事にご執心の獣と同類にされるよりゃ遙かにマシじゃねぇか」

 

 一応の上官である黄祖の俺を見下した言葉を鼻で笑う。

 いざ戦に出た時はなにもかもを部下に丸投げするようなヤツだ。

 敬う部分なんてまったく見えやしねぇ。

 そんなヤツに使う敬語なんてねぇ。

 

「それで? 甘寧。私に対してそのような暴言を吐いたのだ。覚悟は出来ているのだろうな?」

「けっ! やっぱり俺らの言葉に耳を貸す気はねぇわけかよ」

「なにを言う。しっかりと聞いてやっているではないか。私に対する暴言をこの両の耳でな」

 

 わざわざ耳を指さして劉表は答える。

 

 その態度で俺は確信した。

 こいつは民から搾取するのをやめないんじゃない。

 こいつにとって民から搾取するのは当たり前の事なんだ。

 

 歩くのと同じくらいに。

 腹が減ったら飯を食うのと同じくらいに。

 

 こんなのが刺史として働いているって事実に、抑えきれない怒りを覚える。

 

「さてここに乗り込むまでに貴様は立ちふさがった兵を全て叩きのめしたな? これは私に対する明確な反逆だ」

 

 笑わせやがる。

 陳情なんて見もしねぇで握りつぶす癖に。

 どんだけ『俺たち』が荊州の有様をなんとかしようと足掻いていたかも知らねぇで。

 

「黄祖、韓嵩(かんすう)、蔡瑁(さいぼう)。この愚か者を殺し、その首を市中に並べよ。なぜそうなったかをありのままに書き記した張り紙も忘れるな。私に逆らった者の末路を民に知らしめてやれ」

「「「はっ……」」」

 

 返事をし、剣を抜く三人の将軍。

 俺も自分の愛刀『凜音』を抜き、威嚇するように息を吐き出す。

 

「劉景升、てめぇは俺が殺す!!」

「ここで死ぬ貴様には出来ぬよ」

 

 蔑みと嘲りを含んだ言葉に俺は盛大に口元を歪めた。

 

「ざけんな、てめえら如きに俺がやれるかぁ!!!!」

 

 

 

 体が揺らされ、俺は夢から解放された。

 

「父……」

 

 小さなその声が俺の耳に届き、俺はゆっくり目を開く。

 俺を見つめる丸々とした一対の目が不安げに揺れていた。

 

「思春、どうした?」

「……うなされていました」

「ああ。昔、国に仕えていた頃を夢に見た」

 

 今でも思い出すだけで腸が煮えくり返る。

 あのクソ野郎の劉表は黄祖どもが俺を殺せないとわかると伏せていた兵に俺を追い立てさせた。

 

 さすがに多勢に無勢過ぎてその場から逃げ出した俺は荊州中に賊として手配され居場所を失い、這々の体で揚州に落ち延びた。

 血気勇んだ結果、俺はなにもかもを失った。

 

 奴らに刃を向けた事に後悔はねぇ。

 えげつないやり方で民を生かさず殺さず搾取していたあいつらを斬り捨てる事は俺にとっては当然の結論だったからだ。

 

 後悔しているとすれば、奴らを殺す事が出来なかった事だろう。

 今は俺がいた頃よりも遙かに力を増した劉表たち。

 

 その影では平和に暮らせるはずの人間たちが泣かされているんだろう。

 俺が仕えていた頃に見せつけられた惨状が繰り返されているんだろう。

 

 だと言うのに俺は前のように奴らの所に乗り込む事が出来ない。

 国の不正で居場所を無くした連中をまとめあげて、義賊として力を蓄えていた十年の間にそれだけの力の差が出来ちまった。

 てめぇの力の無さに怒りが湧いてくる。

 

 だが十年と言う時間は俺自身の在り方を変えるには十分な時間だった。

 一度、離れて時間を置いた事で前とは違った物の見方が出来るようになった。

 

 調べてみたが俺が仕えていた頃に劉表が搾取していた幾つかの村は、本当にどうしようもないくらいに終わっていた。

 土地がどうしようもないくらいに干上がっていたんだ。

 作物は育たず、税はおろか日々の糧も得られず。

 辛さに耐えきれずに逃げ出す者が後を絶たず、そして残った人間だけではさらに仕事が出来なくなっていく。

 そんな悪循環の中に在った。

 

 劉表はそんな奴らからさらに税を引き出そうとした。

 だがあの狡猾な男が、ありもしない税を搾り取ろうと軍まで動かすだろうか?

 頭が良くなきゃあんな地位にはいないだろう。

 なら何か思惑があったはずなんだ。

 

 それがなんなのかまではわからねぇ。

 

 今はもう村は無い。

 ほとんどの人間が村を放棄するか、最後の一時までを村と共にして死んだ。

 そしてそれを待っていたかのように劉表は軍を動かし、残っていた建物は解体されて今はただの更地だ。

 村があったという痕跡も残っていない。

 たぶん流れ者が住み込まないように対処したんだろうが本当にそれだけか?

 

「父……」

「悪ぃな。怖がらせた」

 

 どうやら無意識に顔が険しくなっていたらしい。

 娘が不安そうに俺を呼び、服の袖を掴んできた。

 

 その母親譲りの紫色の髪を撫でてやる。

 この十年の間に新しく出来た大切な者の一つ。

 

 もしも想(おもえ)と出会わなかったら、思春が生まれてこなかったら、俺に付いてくる奴らがいなかったら。

 昔のように後の事なんて考えないで突っ走る事が出来たんだろうかねぇ?

 

「んっ……」

 

 気持ちよさそうに目を細める思春に俺も釣られて笑う。

 俺を心配しながらも甘えてくるその様子はただの子供だ。

 

 しかしこいつは俺よりも遙かに強くなれる素質がある。

 親特有の身内贔屓もあるだろうが、それを差し引いてもこいつは強くなるって確信している。

 既にその武の片鱗は見えてきている。

 まだ数えで六歳だって言うのにな。

 

「さて、ちっと早く起きすぎたな。もうすぐ日が昇る頃か」

 

 窓から外を見ながら今の時分を推測する。

 微妙に山向こうから光が漏れている事からほぼ間違いないだろう。

 

「父、いっしょに朝日を見ましょう」

「そうだな。夢見の悪さを偉大なるお天道様に癒してもらうとするか」

 

 思春の小さな手を握り、連れだって部屋を出た。

 嬉しそうに俺の手を握り返し笑いかけてくる思春。

 

 普通に親子をしている俺たちを見て江賊だと思う奴は果たしてどれくらいいるんだろうな。

 

 そんな意味のない事を考えながら俺たちは船の甲板に出た。

 日の出まではもう少しかかるか。

 

「お頭、お嬢。おはようございます!!!」

「おう、おはようさん!! なんか異常はあるか!?」

「いいえ、特には。いつも通りの朝ですぜ!」

 

 見張り台の上から降りてくる声に大声で返事をする。

 

「わかった。交代まで気ぃ抜くなよ!!」

「わかってまさぁ!」

 

 頼もしい返事を聞き届けてから俺たちは船首まで歩く。

 国から弾かれた連中の集まりである所の俺たちは、国から街を預かる大守たちからすれば滅ぼすべき『敵』だ。

 

 何度か討伐軍を送り込まれた事だってある。

 一番、多かったのは建業からだったか。

 とはいえ連中、数は多かったが水の上に慣れているヤツはいなかった。

 だから連中の二割程度しか戦える奴がいない俺たちでも迎撃が出来た。

 

 撃退する度に俺たちの悪評が増えていったが、長江の近くの農村は俺たちが義賊だと知っている。

 俺たち以外の江賊や海賊、山賊から村を守っている事を知ってるからだ。

 

 本当なら大守の軍がやらなきゃならねぇ仕事だ。

 動きが鈍い奴らから仕事を代行(勿論、許可なんぞ取ってないが)して、しかも見返りは最小限。

 連中よりも俺たちが慕われるのもまぁ当然の事だろうよ。

 

「父! 日がのぼります!!」

「おお、今日も綺麗だなぁ思春」

「はい! とてもきれいです!!」

 

 こんな殺伐とした場所で育ったってのに思春は真っ直ぐに成長してくれた。

 そいつはすげぇ嬉しい事だ。

 けどこのまま義賊としてやっていく事に迷いや不安がないわけじゃねぇ。

 

 俺は劉表を殺し、荊州の連中を助けてやりたい。

 しかしこのまま義が付くとはいえ賊徒としてやっていってその目的が果たせるのか?

 たぶん無理だ。

 

 建業の大守が入れ替わったお陰で討伐軍は来なくなったが賊って奴はどこにでも現れやがるし最近、規模もでかくなってきている。

 正直、俺たちだけじゃ手が回らなくなってきた。

 このまま行けば数の差でいずれ俺たちは負けるだろう。

 

 だが教養のねぇ俺の頭じゃ数の差を逆転出来るような策なんざ思い浮かばねぇ。

 

 どっかに仕えりゃまた話は違うのかもしれねぇが、俺たちは国に切り捨てられた連中の集まりだ。

 国への、引いては大守への不信は拭えない。

 だから踏ん切りがつかない。

 このままじゃやばいって言うのは俺たち全員が理解している。

 だがそれでも国が絡む連中に対して警戒し、身構えてしまう。

 

 それはたとえここ四、五年ばかりで評判が鰻登りになっているあの『建業の双虎』であっても変わらない。

 

 民の身で反逆し、大守の座に収まったという成り上がり者。

 民の立場からすればもっとも身近に感じられる大守。

 実際、何人か建業に偵察に向かわせたが治安は良好。

 税金も余所の所と比べれば、全然少ねぇらしい。

 聞いた事のない政策で、街はすげぇ勢いで豊かになっているってのも聞いた。

 

 そしてなにより仕えている連中も大守たちも民との交流って奴を大事にしている。

 

 そんな連中が本当にいるのかって俺たちはそう思った。

 けど実際に行ってきた連中が興奮した様子で語った言葉に嘘なんて見えやしない。

 

 あいつらは建業の双虎ならば信じられるかもしれないとまで俺に言った。

 国に失望した連中で作られた俺たちの仲間にそこまで言わせる建業の新しい大守。

 俺らみたいな奴らからすれば正に希望の星って奴だろう。

 

 だが結局、俺はいまだに動いていない。

 この根強い不信感を消す術を俺は知らなかった。

 

「父、かんがえごと?」

「……ああ、ちょっとな」

 

 このままだと俺たちは遠からず滅ぶ。

 なにか切っ掛けが欲しい。

 俺を含めた全員が抱く国への不信感を消しちまうようなでかい切っ掛けが。

 

 

 

「お頭!」

 

 さっき朝の挨拶をした見張り番の慌てた声に俺は我に返った。

 

「どうした!?」

 

 尋常ではないその声音に俺は見張り番のいる見張り台を見上げて声を荒げる。

 

「前方の河岸に軍隊がいる!!」

「なんだと!? 旗は見えるか!!」

 

 見張り番が指さす方にある河岸に目を凝らす。

 しかし日の光が邪魔をして何十人という人間がいる事はわかっても細かい所までは確認できない。

 

「旗は……『凌』だ!」

「『凌』? 聞いた事がねぇ……いや待てよ?」

 

 確か建業に新しく仕官したって五人組の中にその文字が入っている奴がいたって聞いた気がする。

 

「ち、うだうだ考えても仕方ねぇか」

「父……」

 

 不安そうに俺の服の裾を掴む思春。

 俺はこいつの不安を消そうといつも通りに笑いかけてやる。

 

「思春、悪いが寝てる連中を叩き起こしてきてくれ。場合によっちゃやり合うって事も伝えてな」

「はい!」

 

 慌てた様子で甲板を駆け降りていく思春を見送る。

 

「お頭! 連中、武器は抜いちゃいないようです。なんかこっちを見ながら旗を振ってますぜ!」

「やり合う気はねぇって事か。どんくらいいる!?」

「見える範囲じゃあだいたい二百、多くても二百五十くらいです!」

「少ねぇな。討伐軍なら千は寄越すはずなんだが……」

 

 どたどたと船の中があわただしくなる。

 思春に叩き起こされた連中が甲板から上がってきたんだろう。

 

「「「「「お頭ッ!!!」」」」」

「おう、てめえら。久しぶりに大守の軍が来たみたいだぜ」

 

 旗を振り続けこちらに何かを訴えている連中を指さしてやる。

 

「あいつら、何をしてるんでしょうか?」

 

 前までの大守軍とは違う行動を取っている奴らに部下たちも困惑してやがる。

 

「少なくともいきなり殺しあうって事にはなりそうにねぇな」

 

 船は河の流れに沿って今も進んでいる。

 当然、少しずつだが俺たちと連中の距離も縮まってきていた。

 

「てめえら! すぐに船を動かせるように準備しておけ!!!」

「「「「「おうっ!」」」」」

 

 後ろが慌ただしく動き始めるのを感じながら俺はじっと連中を見つめる。

 

 そしてお互いの顔がぎりぎり見えるくらいまで近づいたその時。

 連中の先頭に立っている男と目が合った。

 

 俺はそいつを睨みつけた。

 男の方は静かに見つめ返してきた。

 

 派手な口上の一つでもかましてやろうと考えていた俺が口を開くよりも早く、男が声を上げる。

 

「我が名は凌刀厘!! 建業大守孫文台様にお仕えする者!! 貴殿らはこの辺りを根城とする義侠の徒『錦帆賊』とお見受けする!! 相違ないか!?」

 

 日が昇りきった長江に大音声が響き渡る。

 後ろで部下たちが息を呑む声が聞こえた。

 無理もねぇ。

 こんなにも心に響く真っ直ぐな名乗りなんて聞いた事ねぇだろうからな。

 

 それにこいつは俺たちを錦帆賊と呼んだ。

 俺たちが他の賊とは違うんだと言う事を教える為に名乗った俺たちの誇りをこの男は呼んだんだ。

 

 そして今までただ賊として扱われてきた俺たちを義侠の徒と言った。

 それは少なくとも目の前の男が俺たちを認めていると言う事に他ならねぇ。

 

「ああ、俺たちが錦帆賊だ!! 俺が頭の甘興覇!! 『鈴の甘寧』だ!!!」

 

 凌刀厘と名乗った男に気圧されないように俺も叫ぶように名乗る。

 自然と口の端がつり上がっていくのがわかる。

 自分がひどく興奮していくのがわかる。

 俺が思った以上にでかい『切っ掛け』が向こうから来てくれた事を俺は心の底から喜んでいた。

 

 

 これが錦帆賊と長い付き合いになる男との出会いであり。

 俺たちが孫呉という大きな家族を得る切っ掛けとなる出来事だった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十六話 錦帆賊と鈴の甘寧と。

 俺たち凌操隊が建業を発って早くも二日が経った。

 

 遠征と言う初めての本格的な任務に部下たちも緊張を隠せないでいる。

 賀斉などこの二日間、ずっと手と足が左右で一緒に動いていた。

 逆に宋謙殿などは気負った様子もなく平時と変わらないように見える。

 年期と経験の差と言う奴なのだろう。

 こればかりは早めに慣れてもらうしかない。

 一応、緊張している者たちに関してはフォローするようにしているがそれも完全ではないからな。

 

 

 俺自身はと言えば特に動きが鈍るほどの緊張は無い。

 前世で海外へ出兵した事もある身だ。

 たかが歩いていけるような土地への行軍では過度の緊張などない。

 

「地図によればそろそろ長江が見えてくる頃ですが……」

「そうですな。ほぼ全軍が歩兵で構成されておると言うのにこの行軍速度はなかなかの物です」

 

 呉の領内では馬は貴重だ。

 五村同盟で繋がっていた村ですら全体で二頭とその子供の計三頭だけしかいない。

 軍事に使用される馬などはさらに稀少だ。

 俺たち遠征軍には有事の際の早馬として五頭預かっているが、この数はそのまま建業軍全体の馬の半分にあたる。

 

 今の建業には馬を買うツテがないから馬の数が少ないのは仕方のない事だ。

 しかし今後、起こりうる群雄割拠の世を考えるならば軍馬の購入、飼育の本格化は急務でもある。

 美命や陽菜、蘭雪様も馬の重要性は充分に理解しているのでそちらは任せようと思っている。

 

 俺たちに出来るのは現状の戦力をいかに有効に扱うかであり、間違っても無い物ねだりをする事ではないのだから。

 

「鎧を着ての行軍訓練はこの一ヶ月でみっちり仕込みましたからね。とはいえ俺も含めてまだまだ未熟です。一ヶ月の練度でこれほどならばもっと伸ばす事が出来るでしょう」

「いやはや隊長殿の飽くなき向上心にはまっこと感服致しますぞ」

 

 雑談を交えながら、しかし歩く速度は落とさない。

 いわゆる早歩きによる行軍だが、これでなかなか体力を消費する。

 しかし二百名からなる凌操隊の面々は息切れ一つしていない。

 部隊の真ん中には食料と水を運ぶ荷車部隊がいるが先ほど確認した限り、荷車を引いている面々にも疲れはさほど見えない。

 体力強化と同時に筋力強化にも取り組んでいたお陰だ。

 

「あ、あの隊長!」

「どうした、公苗?」

 

 おどおどとした様子で俺の左隣に近寄ってくる賀斉。

 宋謙殿は彼女の事を娘のように思っているらしく、微笑ましげに彼女を見つめていた。

 

「澄んだ水の匂いがします。もうすぐ水場に着きますよ!」

「そうか、わかった。とりあえず今日中に最初の村に到着出来そうだな。公苗、皆にもうしばらくの辛抱だと伝えて回ってくれ」

「は、はい!」

 

 駆け足で去っていく彼女の背中を見送る。

 人見知りの激しい少女だったが調練漬けにした二ヶ月ばかりの間に部隊の連中とはどうにか話せるくらいにはなっていた。

 いろいろな意味で一歩前進と言った所だろうか。

 

「公苗も段々と隊の面々と打ち解けてきたようですな」

「そうですね。とはいえやはり緊張は解けていないようですが」

「なぁに、彼女を含めた我が隊はまだまだこれからの者たちの集まりですからな。地道な努力を怠らなければぐんぐんと伸びていきましょう」

「ええ、俺もそう思います」

 

 俺が任官する以前から隊の者たちと共にいた宋謙殿。

 蘭雪様や美命らとも長い付き合いである彼の俺たちを見る目はまるで父親のように優しかった。

 

「おお、見えてきましたな。大陸を流れる偉大なる大河『長江』が」

 

 俺たちが出たのは長江を見下ろす事が出来る高台だった。

 

「これが……長江」

 

 俺は初めて見る圧倒的な大河の姿に圧倒された。

 河幅がとてつもなく広く、向こう岸に渡るには小さな船では心許なく見える。

 かの赤壁の戦いでは数十万という曹操軍の兵とそれに相対する蜀、孫呉の連合軍がこの場所に船で並び合ったと言う。

 この雄大な大河は、戦の中にあっても勝敗の如何に関係なく死者を飲み込んだのだろう。

 まぁこちらの世界では赤壁の戦いは起こっていない訳だが。

 出来る事ならあの戦いを起こす事なく乱世を終わらせたい物だ。

 

「この雄大な景色を見ていると疲れなど吹き飛んでしまったように感じます」

「ふふ、まったくですな」

 

 部隊の誰もがしばし無言で長江の姿を見つめていた。

 

 

 予め美命たちが集めていた情報によれば、長江の近隣には村が幾つか点在している。

 村同士の交流が活発で長江で取れる魚などは取りまとめて近くの都市に売りに出しているらしい。

 水上交易も盛んだ。

 近隣の村同士のみならず上流から河の流れに乗って大陸の外の者たちが交易にくる事もあると言う。

 故に大陸にはない珍しい物が取り引きされる事も多いのだそうだ。

 そしてこの河は大陸に恵みをもたらす大切な水源でもある。

 なので長江の近隣には自然と豊富な水源を利用しようと人が集まり、必然的に村が多くなるのである。

 

 その村一つ一つを回るのも俺たちの任務だ。

 

 俺たちは今、長江近隣の比較的、大きな村に駐屯している。

 さすがに村の中に居座るわけにはいかないので、彼らの生活の邪魔にならない程度に離れた場所に即席の陣を敷いた。

 人数分の天幕と簡易的な柵しかない物だが夜を凌ぎ、次の場所に素早く移動する為には最適な代物だ。

 

 陣を敷いた後、俺と公苗、宋謙殿は村の村長宅にお邪魔している。

 他の隊員は周囲の警戒と村人からの情報収集に当たらせた。

 突然の来訪に最初は驚いていた彼らだが、俺たちが建業の孫堅配下の者だとわかると歓迎してくれた。

 この四年間の蘭雪様たちの治世が彼らに信用されていると言う証拠だろう。

 

「呉の領内にある村は全部で十。やはり上流から下流に下りながら見て回るのが最も効率的だな」

「そ、そうですね」

「村長、村の場所ですがこの地図の場所で合っていますか?」

「地図をお見せください。確認致しますので」

「お願いします。墨で点を打ってある場所が我々が把握している村の場所になります」

 

 白髪混じりの四十半ば程の男性に地図を手渡す。

 地図の見方に慣れていない彼に位置を説明しながら目を通してもらう事しばらく。

 村長は地図の内容に驚嘆のため息を漏らした。

 

「おおよそはこの通りで間違いありません。正直、これほど正確な情報をお持ちである事に驚きました」

「有能な軍師や文官がおりますので」

 

 返してもらった地図を改めて見つめる。

 この時代、地図と言うものは非常に貴重だ。

 飛行機や人工衛星があるわけでもないから上空から見た図などが取れるわけではない。

 人の足で行脚し、地理を把握し、それを地図にする。

 ノウハウなどまったくないその作業は口で説明するよりよっぽど難しい。

 

 基本的に地図は国が管理し、定められた厳重な規定を満たした者しか持つことが出来ない。

 国に対して邪な思惑を持つ人間の手に渡るのを防ぐ為だ。

 

 そしてその規定を満たした上で手に入れるには莫大な費用がかかる。

 だから貴重品に分類されている訳だ。

 

 勿論、俺が今持っている地図は国が管理している物ではない。

 美命を中心とした文官たちによる情報収集の成果であり自作の代物だ。

 国が管理すると定められてはいるが、それは国が『地図と認めた物』に限った話だ。

 こんな『落書き』を国は地図と認めはしないだろう。

 そもそも国の上役連中には落書きの一つ一つを調査して地図の精度を確かめる程の暇はない。

 こちらから国に報告を上げなければこれは落書き以上の物にはなり得ないのだ。

 

「ご協力感謝します。では次に……」

 

 その後、賊の被害や国に対する要望などを宋謙殿が一通り竹簡に書き記していく。

 しかし長江近隣は賊の被害が驚くほど少ない。

 美命が言っていた『義賊』の存在が治安の安定に一役買っていると見てまず間違いないだろう。

 

「では最後に『錦帆賊』について聞かせていただきたいのですが」

「き、錦帆賊についてですか?」

 

 その名前に村長の表情が強ばる。

 心なしか場の雰囲気も張り詰めたように感じられた。

 

「先に断っておきますが、我々は錦帆賊を捕まえようと考えているわけではありません」

 

 恐らく村長が考えているだろう推測を潰しておく。

 

「そう、なのですか?」

「はい。しかし先の言葉だけでは誤解させてしまうのも無理はありません。私の言葉が足りませんでした。申し訳ありません」

 

 あからさまにホッとした様子の彼に俺は言葉足らずを謝罪した。

 

 以前の建業大守を含めて長江に近い都市を任された者たちは一時期、錦帆賊討伐に躍起になっていた。

 彼らは義賊としてその名に恥じるような真似は決して行わなかったにも関わらず。

 

 俺たちとて建業と言う都市の一軍。

 錦帆賊討伐を再開したかと勘ぐられるのも仕方のない事だろう。

 

「私たちは錦帆賊と話がしたいだけです。彼らに対して害意はありません」

 

 蘭雪様以下、建業を預かる者たちとしては彼らを討伐する気などさらさらない。

 民の味方として行ってきた数々の功績から彼らを慕う者も多いのだ。

 そんな錦帆賊を討つとなれば民の反感を買うだろう事は容易に想像できる。

 

 色々と政治的な思惑が絡んでいるが実の所、それらは二の次だ。

 建業にとって何よりも重視される事実として、うちの君主様は彼らのような民の為に立ち上がる事が出来る者たちが『大好き』だという点だろう。

 討伐など彼女が建業大守である限りは絶対に行われる事はないと自信を持って言える。

 それでも蘭雪様の意思では、という注釈が必要になるが。

 

『錦帆賊と上手く会えたら同盟を結んでこい。長江の守りを私たちと協力して行う代わりに私たちは食料や武器を提供するって条件だ。勿論、あっちにはあっちの考えもあるだろうから断られたらそこまで。間違っても強引に事を進めようとするなよ?』

 

 あのシスコン暴走君主の素敵な笑顔と共に下された命令を思い返す。

 秘密裏にと言うのは世間的に賊である彼らと繋がりを持った事が他領地に発覚した場合、それを理由に攻め込んでくる可能性がある事に起因している。

 

『お前に限っては余計な心配だと思うが、接触はくれぐれも慎重に頼む。彼らの大半は不当な罪で国に追われた者。我々のような立場の人間は敵と言っても過言ではない。出来れば我々に降ってもらいたいがそういう事情からこちらの言う事にすぐ首を縦に振るとは思えん』

 

 次いで我が建業が誇る筆頭軍師の言葉を思い出す。

 

『重要なのはこちらの懐の大きさを見せつけ、今までの大守との違いを認識させる事であちらの信を得る事だ。初任務でなかなか難しい事をさせようとしているとは思うが、お前ならばやってくれると考えている。……期待を裏切ってくれるなよ?』

 

 最後の言葉は冗談めかしてはいたがその目は決して笑っていなかった。

 

 まったく、無茶な事を言ってくれる物だ。

 とはいえそこまで期待されているのならば、それに応える為に精一杯努力するべきだろう。

 

「……わかりました。私が知る限りの事をお話します」

 

 しばらく押し黙っていた村長だが、俺の目をじっと見つめた後、錦帆賊について語ってくれた。

 

 彼らが長江の村の暮らしを守るためにどれほど尽力してくれたのか。

 そして気さくで剛毅な人柄で通っている『鈴の甘寧』と彼を慕う気の良い配下たちの事。

 

 彼らの事を熱く語る村長の姿からこちらが所有している情報に間違いなどなく、彼らは正しく義賊なのだと言う事がよくわかった。

 

 そして最後に。

 村長は彼らが今の時期に長江を通じて下流へ移動する事も教えてくれた。

 どうやら定期的に長江を行き来する事で他の賊を牽制、威圧しているらしい。

 定期的にと表しているが、規定の日には必ず来ると言うだけで、実は他の日に抜き打ちで巡回に来る事もあるのだ。

 賊たちが巡回パターンを読んで行動した場合を考慮し、どうしても目立ってしまう船以外の移動手段で村に接触する事もあると言う。

 

 そして明日は定められた定期巡回の日であり、俺たちにとっては彼らと接触する絶好の機会だ。

 陣へ戻り、隊の者たち全員と相談。

 俺たちは長江の河川が見渡せる高台に陣を移し、錦帆賊が現れるのを待つ事にした。

 

 無論、何があってもおかしくない上に情報が浸透しにくいこの時代では口約束や習慣を根拠にした百パーセント信頼できる情報と言うものはほとんどない。

 故に不測の事態によって彼らが明日、現れない可能性も考えなければならなかった。

 集団で動いている以上、彼らをただずっと待ち続けるわけにはいかない。

 水は長江で補充可能、食料もある程度は現地で補填出来るだろうが村の狩り場を不必要に荒らすのは避けるべきだ。

 

 熟考した末、期限を三日と定めた。

 それだけ待って現れないようなら、副官でありその発言に説得力を持たせられる宋謙殿を含めて何人かを残して遠征を再開するつもりだ。

 

 結局、決めた期限も後の対応も翌日の明け方、村長の話通りに彼らが現れた事で意味がなくなったわけだが。

 

 

 

 俺と宋謙殿、部下数名は彼ら錦帆賊の甲板に上がっていた。

 義賊とはいえどう動くかわからない相手の領域に入るのは危険でないかと言う意見も出たが、こちらから出向く事で相手側の警戒を少しでも緩和する必要があると説き伏せている。

 

 俺たちと対峙するように集まっている錦帆賊たちは武器こそ構えてはいないがその目は警戒心に満ちている。

こちらが対応を間違えれば即座に切りかかってくる事は容易に想像出来た。

 

 唯一、俺たちに対して警戒心を露わにしていないのは錦帆賊の頭である『鈴の甘寧』を名乗る男だけだ。

 

 こちらが国の軍であると言うのにその態度には過度の緊張は見られない。

 良くも悪くも自然体のこの男はこの中でもっとも動向が読み辛く、手強い相手になるだろう。

 

「それで? 建業の双虎の遣いが俺たちに何の用だ」

 

 甘寧興覇(かんねいこうは)

 若い頃から気概に溢れ遊侠を好み、それが講じて仲間たちと錦帆賊を作ったとされる。

 もっとも錦帆賊と言う存在については演義の創作であったと言われているが。

 武将として歴史上に現れたのは劉表の部下である黄祖の元にいた頃だったか。

 もっともその頃は武よりも文を重んじる劉表に軽んじられ、大役につく事は無かったらしい。

 その後、紆余曲折あって孫権に降り、最終的に『孫呉に甘寧あり』と唄われる程の名将として歴史に名を刻む事になる。

 かなり激しい気性の持ち主ではあるが財貨を軽んじて士人を敬う人物であったと言う。

 

 

 俺が彼の歴史の中で最も重要視しなければならないのは『甘寧が凌操の死に関わっている』と言う史実だろう。

 色々と状況が違っているので、もはや俺の持つ三国志の知識は『未来予知』から『予備知識レベル』にまで価値を落としているのだが。

 とはいえさすがに自分の死に関わると言う知識に関しては軽視する事は出来ない。

 

「長江近隣の治安の現状についてふがいない大守達に変わって守ってきた貴殿らの意見をお聞きしたい」

 

 甘寧他、錦帆賊の目が驚きで点になる。

 たぶん事前に打ち合わせていた宋謙殿を除いて後ろに控えている者たちも似たような顔をしているだろう。

 

「おいおい、本気か?」

「冗談は時と場合を選ぶ主義です」

 

 俺が本気である事を察したのだろう甘寧は頭を掻きながらさらに言い募る。

 

「俺たちは義賊を名乗っちゃいるが国とは敵対してるんだぞ? 前の建業大守の軍とはやり合った事だってある。そんな俺たちに治安についてなんて普通聞くか?」

「賊から長江の村を守ったのは紛れもなく貴方達の功績です。むしろ前大守が貴方達を討伐しようとした事、今更ながらではあるが謝罪させていただきたい」

 

 俺はその場で膝を付き、頭を甲板の木板に押しつけて土下座した。

 

「真に申し訳なかった。そして本来、我々がしなければならなかった民の身を守ってくれた事、本当にありがとう」

 

 甘寧を含めた錦帆賊の面々が俺の行動に面食らっているのが見なくても理解できた。

 

「……あんた、変わった軍人だな」

「俺は民上がりの成り上がり軍人ですので」

 

 土下座をやめ、頭を上げて甘寧と目をあわせる。

 突き刺さる視線は相変わらず警戒心に満ちているが、戸惑いのような物が混じっているように感じられた。

 

「とりあえず立ちな。あんたが誠意って奴を示してくれたのは痛いほど伝わったからよ」

「わかりました」

「しっかし思ってた以上に面白いのな。建業の双虎が民側の事を考えた政治をしてるってのは聞いてたが、部下であるお前も負けず劣らず、だ」

 

 立ち上がる俺を見て笑いを堪えるように口元に手を当てて話す甘寧。

 

「聞きたいのはこの辺りの治安だったな。いいぜ、ちと長い話になるから腰を据えて話そう。ついてきな。後ろで警戒してる連中も一緒にな。結構、広い造りになってるからそっちから五人、こっちも五人で釣り合いが取れるだろ」

「お言葉に甘えさせてもらいます。宋謙殿、人選をお願いします」

「承りましたぞ、隊長殿」

 

 後ろで宋謙殿が指示を飛ばす声を聞きながら俺は甘寧と目を合わせる。

 

「なぁ、凌隊長って呼べばいいか?」

「刀厘で構いません。こちらも興覇殿と呼ばせてもらいますので。それで、なんでしょう?」

 

 甘寧は俺を真っ直ぐに見つめながら告げる。

 

「お前には守りたい物ってあるか?」

「あります」

 

 即答する俺に目を見開く興覇。

 やがて頬を掻きながら苦笑いした。

 

「俺は守りたい物を守り抜く為に生きていくと決めています」

「あははははっ! そうか、愚問だったな」

 

 笑い声を上げた後、彼は腰に差していた湾曲刀を俺に突きつけてきた。

 周りの空気が一気に緊迫した物に変わる。

 宋謙殿や部下達が武器を抜こうとするのを後ろ手で制止し、俺は彼から目を離さない。

 

「俺にも大事な物がある。もしもお前がそれに手を出したら……俺はお前を殺すぜ」

 

 本気で事を荒立てる意図がない事は彼の目を見ればわかる。

 これは錦帆賊と言う一団をまとめる者としての恫喝だ。

 組み易しと侮られ、こちらに都合の良いように利用されない為の甘寧の手管なのだろう。

 相手を選ぶ手段ではあるが俺相手ならばベストではないまでもベターな手段だ。

 ならば俺も建業遠征軍を預かる人間として、気圧される事などないように本気で応える必要がある。

 

「その言葉、そのまま返させていただきます。俺の大事な物に手を出したら地の果てまでも追いかけて……殺す」

 

 彼が突きつけている湾曲刀の切っ先に手甲を当て軽く弾く。

 キンっと言う甲高い金属音と共に俺たちは同時に緊張を解いた。

 

「腕も良いみたいだな?」

「鈴の甘寧に誉めていただけるとは光栄です」

 

 刀を腰に差し直した興覇に俺は右手を差し出す。

 意図を理解した彼は獰猛な獣のような笑みを浮かべると差し出した俺の手を握った。

 

「これからよろしく頼む」

「長い付き合いになる事を祈ります」

「俺もそう思う」

 

こうして俺こと凌刀厘は甘興覇と言う新しい友と出会った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十七話 錦帆賊との交流。

 甘寧達、錦帆賊と協力関係を結んだ日。

 俺たちは早速、彼らから長江近隣の治安状況を教えてもらい、さらに村長から聞いた情報を合わせてまとめ上げた。

 その報告書(紙は貴重な為、竹簡だが)の数、前世で言うところのA4用紙にして実に二十枚以上である。

 

 彼らが持っている情報は有用ではあるが長江近隣全てという膨大な範囲についての物である為、情報量がとてつもなく多く定期報告用にと用意していた竹簡の三分の二を使い切る事になった。

 

 報告時に読みやすく且つ解りやすいように地域毎にまとめていた為、朝から翌日の明け方までずっと臨時会議室(甘寧が貸してくれた大きめの船室の事だ)に籠もりきりになる羽目になっている。

 当然、作業に使える人間をすべて使った人海戦術を駆使して、だ。

 そうまでしなければ終わらないほどに報告すべき事柄が多かった。

 

 彼らから話を聞いていた時など、まったく知らなかった情報、知っていなければならない情報の多さに俺や宋謙殿が目眩を覚えた程である。

 

 長江近隣でどれほどの民が生活をしているか、どれほどの江賊が活動し、被害が出ていたか。

 他の大守が長江近隣でどのような行動を起こしているかなど、挙げれば切りがない。

 

 一応、建業でも隣接する領地などには定期的に偵察を送り込んでいるらしいのだが、そういった人材が少ない俺たちの軍では情報量は限られた物になってしまうのが現状である。

 

 しかし今回、知る事が出来た情報は今までの情報不足を補って余りある物だ。

 さすがに情報の鮮度は落ちるだろうが、『この時にはこんな事になっていた』、『あの時はこんな事をしていた』と言う情報があると言うのは今後の動向を推察する判断材料としてとても有用であり貴重な物になる。

 この情報が聞けただけでも錦帆族と繋がりを持った事には大きな価値があったと言えるだろう。

 

 

 俺はまとめ上げた情報を建業に報告すべく預かった五頭の馬の内、特に足の速い馬三頭を使用して伝令を出した。

 ここからならば休憩を含めて一日走らせれば建業に着くだろう。

 

 勿論、錦帆賊と結んだ協力関係についても報告書に詳細に書いてある。

 この関係をどう整理し、これからの政治に活かしていくかを考えるのは俺ではなく蘭雪様や美命、陽菜たちの仕事だ。

 まぁ建業首脳陣の意見が彼らの討伐と言う話にだけはならないだろうが。

 彼らが正しく義賊である事も当然、報告する内容に入っているのだから。

 

 竹簡は三頭に対して均等に分配したが、それでもかなりの量がある。

 さらに報告する項目一つ一つについては大雑把ではあるが口頭で俺の所感と補足説明をするように伝えている。

 伝令として出した彼ら三人は平均以上の兵士であると同時に文官予備軍と評価出来る程の頭の回転を持っているから報告に不備があるという心配はしていない。

 だが説明などの時間を加味すると報告を終えて戻るまで早く見積もっても三、四日はかかるだろう。

 最悪を見積もるとおよそ一週間前後と言った所か。

 

 俺たちは彼らが戻るまでの間、基本方針としてはここに居続ける事になる。

 しかしその間、ただ時が過ぎるのを待つと言うのは論外だ。

 俺たちは自分たちに出来る事に全力で取り組まなければならない。

 あまりにも時間がかかるようなら数人をここに置いて遠征を再開する予定でいるが。

 

 そして今出来る事は、錦帆賊との友好関係をより親密な物にする事。

 その第一歩はお互いがお互いを理解する為に積極的に交流を持つ事だろう。

 たった四日足らずでどこまでの事が出来るかはわからないが、『わからないからやらない』と言う事にしてはならない。

 

 

 人生とは一寸先の闇を恐れながらも、探りながら進んでいく事で成り立つ物だ。

 それを放棄する事は生きる事をやめる事に等しい。

 時に立ち止まり、後ろを振り返る事はあっても最後には踏み出し、また歩き出す。

 何かに躓いて転んだならば立ち上がる努力をしよう。

 立ち上がれない程の窮地に立たされたならば周りを見渡し、共に歩む者たちを頼ればいい。

 苦労して歩み、苦労して進む。

 

 それが人生と言う物と考えている俺としては『わからないからやらない、出来ない』と言うのはただの言い訳に過ぎない。

 

 勇気と覚悟を持って未知に足を踏み入れる。

 その積み重ねを経験と呼び、経験を積み重ね自らの血肉とした者だけが成長し、大成するのだ。

 

 

 閑話休題。

 ほぼ完徹で睡眠を求める頭を長江の浅瀬で水を被ることで叩き起こしていた所に、後ろから声がかかった。

 

「おはようさん。昨日、……ああいや今日までやってたんだったか。まぁとにかく遅くまでご苦労さんだったな、刀厘」

「ああ。おはよう、興覇」

 

 挨拶もそこそこにもう一度、水を被る。

 村で貸してもらった水桶を脇に置き、用意しておいた布で水を拭き取っていく。

 最初は殿付けに加えて敬語を使っていたのだが、むずがゆいからやめろと拒否されたのでお互いに呼び捨てになっている。

 

「昨日まで赤の他人だった奴によくそこまで無防備でいられるな、お前」

「『昨日までは』だろう? 今の俺たちはきっちり話し合った上での協力関係にある。それも双方の全員が同意した上で、な」

「そりゃそうだが……仮にも大守の軍隊、しかも責任者がそんなんでいいのか?」

 

 呆れを隠す事なく興覇は質問を重ねてくる。

 軽い調子ではあるがその言葉には俺と言う人間を見定める意図が込められていた。

 

 当然の事だろう。

 粗野っぽい風貌と言動ではあるが彼は紛れもなく一つの集団の長だ。

 そう易々とこちらの事を信じる訳にはいかない。

 彼の決断一つで彼の部下たちの運命が決まるのだから。

 

「はぁ……読めねぇ男だ」

「褒め言葉として受け取っておこう」

「褒めてねぇ。ったく、や〜れやれ。朝からしみったれた話しちまった」

「話を振ってきたのはお前だろうに」

 

 俺は服を着込み、布を絞って拭き取った水を絞り出し、後ろにいた彼の方を振り返る。

 

「さてそろそろ朝飯だ。お前はどうする?」

「ああ? なんだ、お前の所で食わせてくれるのか?」

「軍の保存食と昨日森で取った猪の余りしかないが、それで良ければな」

「へぇ、猪か。朝から豪勢だな」

「余りだからな。お前が今考えているような豪華な物じゃないぞ」

 

 他愛のない雑談をしながら俺たちは遠征軍の野営地へ向かって歩き出した。

 

 

 

 食事は錦帆賊の面々も交えて賑やかな物になった。

 昨日、治安状況について昼夜ぶっつづけで会議を行っていたせいか、俺たちに対する警戒心はそれなりに解消されたらしい。

 うちの連中と競い合うように飯をがっつき、たまにおかずの取り合いをするくらいには打ち解けたようだ。

 

 俺は興覇と共に食事を取っている。

 談笑しながらの食事中に娘だと言う六、七歳くらいの少女を紹介された。

 

「俺の娘だ。姓は甘、名は卓。字はこいつが十歳になったら付ける事になってるからまだ無い。俺の生まれ故郷の風習でな」

 

 胡座を掻いて座っている興覇の幅広の背中に隠れながら、おっかなびっくり俺を見つめてくる少女。

 

「そうか。……甘嬢。姓は凌、字は刀厘と言う。よろしく頼む」

 

 彼女と目を合わせたまま頭を下げる。

 きっちり二秒数えて頭を上げると甘親子は目を瞬かせながら俺を見つめていた。

 

「一回り以上、年下の小娘にそこまで礼儀正しくするか? 普通」

「礼儀に年齢は関係ない。初対面なのだから尚更、丁寧に対応するべきだろう」

 

 例外がある事は認めるがな、雪蓮嬢とか。

 

「逆に恐縮するっつーの」

「そうか?」

 

 などと話していると甘嬢が興覇の背中から離れ、俺に近づいてきた。

 

「あ、あの甘卓、です。よろしくおねがいします」

 

 たどたどしく震えながらではあったが、しっかりと言葉を紡ぐ少女。

 なるほど、どうやら親に似ず真面目な良い子に育っているらしい。

 どことなく孫権嬢と似ている印象を受けた。

 

「今、すっげぇ失礼な事考えなかったか? 刀厘……」

「気のせいだろう。甘嬢、よろしくな」

 

 もう一度、短く頭を下げると彼女が自身の小さな手を恐る恐る差し出してきた。

 意図を確認する為に甘嬢を見つめると、俺の右手と顔を交互に見つめてくる。

 

 親である興覇に意見を求めるべく視線をやると、にやにや笑いながら俺たちを見ている。

 口だけを動かして「握手してやってくれ」と言われたので俺は、彼女の小さな手を軽く握った。

 

 彼女の手の震えが止まる。

 緊張に強ばっていた表情が年相応に綻んでいくのがわかる。

 

「……♪」

 

 この時の彼女の表情は、彼女が生まれてからこれまでで最も嬉しそうな笑顔だったとその日の晩、酒を呑みながら絡んできた興覇から聞かされた。

 その事が原因で俺は顔を合わせる度にこの親バカに絡まれる事になるのだが、それは余談だろう。

 

 

 朝食を終えた俺はこの時代の操船技術について錦帆賊に指導をお願いした。

 興覇たちが快く引き受けてくれたので、今は幾つかの班に分かれて説明を受けている。

 俺と公苗、そして部下数人の班にはこうは自ら説明役を買ってでてくれた。

 

 建業には現在、水軍は存在しない。

 正確には水軍としての形を保てるほどに水上戦に秀でた武将、兵士が存在しないのだ。

 

 前建業大守と蘭雪様との争いの際、水軍が軒並み前大守に付いた事が原因である。

 気分が高まると荒事大歓迎になり敵と見なした者に手加減する事が出来ない難儀な蘭雪様の性質が災いして、誰かが止める間もなく物の見事に皆殺しにしてしまったらしい。

 

 これは大守交代に置ける蘭雪様たちが犯した数少ない失敗の中で最も大きな物と言われている(言っているのは勿論、美命を初めとした文官たちだ)。

 

 しかしいつまでも水軍不在では対処出来ない事柄が出てこないとも限らない。

 

 興覇たちの話を聞いた今となっては尚更、後回しに出来る問題ではない事を俺たち全員が感じているはずだ。

 さらに俺は遠い未来に大規模な水上戦がある事を知っている。

 だからこそ、皆よりも強く水軍の復活が急務であると感じていた。

 

「船ってのは河って言う名前のでけぇ生き物の中を突き進むもんだ。船がどんだけ大層な代物でも河の気分を理解してない奴が操船したら上手く動かねぇ」

「生き物に気分、か」

 

 この時代の船は俺が生きていた時代の物のように動力を積んでいるわけではなく、全て人力だ。

 その速度は風や河川の流れによって左右され、流れに逆らって進むにはかなりの人員と力量を求められる。

 

「雨が降りゃ河の水は増える、日照りが続けば水は減る、風が吹けば河も荒れる」

「なるほど。そういう状況の変化をまとめて『河の気分』と言っているんだな」

「そうよ。俺たちは別に河を従えてるわけじゃねぇ。その時その時の河の気分に合わせて船を上手く動かしてるだけなのさ」

 

 感覚的な物言いで俺には理解しにくいが、錦帆賊の操船技術は確かな物だ。

 それはこの十年もの間、ずっと長江と共に在った経験で培われた物なのだろう。

 

 経験に裏打ちされたその自信に揺るぎはない。

 しかし彼らは自分たちの技術を過信する事もない。

 

「河の気分を読み切れねぇで今まで何人も命を落としてる。十年経った今でもな。だから俺たちは船を出す時はいつも真剣勝負だ。命かかった勝負事で油断する馬鹿はいねぇだろ」

 

 彼らとて最初からこれだけの技術を持っていた訳ではない。

 失敗を繰り返し、何度となく被害を出し、その結果としてここまで神懸かりじみた能力を持つに至ったのだ。

 

「無理矢理、流れに逆らうってんなら死にものぐるいで漕ぐしかねぇ。けどよ、その度に自然の力って奴の偉大さを嫌って程、味わってんだ。手懐けようなんて考える事も出来ねぇ程の力の差って奴をな」

 

 露橈(ろとう)と呼ばれる種類の船の中を案内しながら興覇は自然と向き合い続けてきた事を誇らしげに語る。

 

「俺らが持ってる船は三種類。今、乗ってる中型船の露橈と斥候(せっこう)、あと小型船の先登(せんとう)が二艘で全部だな。俺らはお尋ね者だ。常に周りを警戒出来るようにどの船にも高めの物見台を設けてあるから船の大きさ以外にはそこまで大きな違いはねぇよ」

「随分、立派な船だな? 言い方が悪くなって済まないが、国と敵対する賊が簡単に手に入れられる物とも思えないが」

「ああ、先登二艘については俺たちのお手製だよ。斥候と露橈は襲撃してきた連中から奪い取った」

 

 なんでもない風に言っているが奪い取るのも造り上げるのも口で言う程、簡単な事ではないだろう。

 

「船を造るのは大変だったぜ。俺も含めて全員が慣れない大工仕事に四苦八苦した。長江の上流から来た流れの技師が手を貸してくれなかったら船は完成しなかっただろうよ。奪う方のが幾らか楽だったな。お前等の前で言うのもなんだが前の建業大守の水軍は軍としちゃ名ばかりでな。水上戦云々の前に夜襲に対する警戒がなってなかった。どうもやり合う前から勝った気になってたみてぇでよ、お陰で簡単に奪えたって訳だ。まぁこんな立派な露橈を持ってりゃ油断するのもわからねぇでもねぇが」

 

 現建業軍である俺たちに気を遣って可能な限り、言葉に選ぶ甘寧だが俺としては同じ軍を名乗っている身としてどうにも情けない気持ちになる。

 同時にかつての軍がどれほど腑抜けていたのかを知り、怒りや苛立ちで顔が険しくなるのが自分でもわかった。

 

「それはまた、なんとも情けない。そんな体たらくでは名ばかりと言われても仕方がないな」

「……お前、自分の任官前の事とはいえ同じ軍に容赦ないな」

「同じ軍だからこそ容赦しないんだ。質の良い軍であろうとするなら過去の汚点から目を逸らす事などあってはならない。悪い点は指摘して直していかなければいずれ足下を掬われる事にもなりかねないんだからな」

 

 悪い事から目を背けたがるのは人の性質(さが)だ。

 誰にだってそんな部分はあり、それは俺とて例外ではない。

 

 だが自覚する事で向き合う事が出来る。

 そして人を守り、人の上に立つ者になる俺たち軍人はそんな悪い所に真っ先に向き合わなければならない。

 

 仮にもこの世に生きる者の中で二番目に年長者(精神年齢的に)なのだ。

 そんな俺が真っ先に汚点と向き合えなくてどうする?

 

「大した気構えだな。感心するぜ」

 

 本気で感心した風に感嘆する興覇。

 公苗たちは目を輝かせながら「さすが隊長……」などと言っている。

 

「言っておくが俺が今、言った言葉は隊の方針でもある。お前たちにも自分の至らない点には嫌と言うほど向き合ってもらうぞ」

 

 ちょっとした脅しも兼ねて意地の悪い笑みを部下たちに向けながら言ってやる。

 俺の部隊にいる以上、半端な真似は許さないと目で語ると賀斉以外は皆、顔を引きつらせた。

 

「が、頑張ります……!」

 

 公苗はおどおどしながらそれでも両手を胸の前で握り込み、むんとやる気をアピールした。

 女性である公苗の様子に奮い立った部下たちも次々と声を上げる。

 若干、顔が青いのはまぁ大目に見てやるべきだろうな。

 

「あっはっはっは! 好かれてるなぁ、刀厘。良い部下じゃねぇか。付いていくって気持ちがこれでもかってくらい伝わってくるぜ!!」

「気概があるのは認める。だがまだまだこれからだ。強い気持ちをもって努力を続ければ今よりも強くなる。俺も、こいつらも」

 

 高らかに笑う甘寧に、まだまだと告げる。

 すると彼は唐突に笑みを引っ込めて真剣な眼差しを向けてきた。

 

「お前等と敵対しなくて改めて良かったって思うぜ。俺の気持ちとしてもそうだが、『この辺を守る義賊』としてもお前等を敵に回すのは良くねぇって事が話していてよくわかった」

 

 やはりこの男、粗暴な外見とは裏腹に頭が回る。

 そうでなければ名ばかりとはいえ大守の軍勢を寡兵で撃退出来るわけがないだろうが。

 

「仮にやり合っても五体満足で済ませられるとは思えねぇ。俺たちが勝ててもボロボロになってるだろうよ。そして今、そうなるわけにはいかねぇ。お前等や建業の双虎も多分そう考えてんだろう? ……違うか?」

「……今まで賊から村を守ってきた錦帆賊あるいは巷で噂の建業軍が大打撃を受けて満身創痍。そんな事になれば今までおとなしくしていた賊がこぞって動き出す事になる。江賊や山賊、盗賊も問わずに」

「お前等と俺らが正面からやり合うならかなりの激戦になる。黙っていてもいずれどこなりと知られちまうだろう。そうなりゃ全部とは言わねぇがかなりの村が襲われて被害が出る」

 

 右手を握り込み、顔の前にかざしながら言葉を続ける。

 

「そいつは絶対に避けないとならねぇ。そんな事になっちまったら俺たちが今までやってきた事の意味がなくなる。俺らは身を守る術のねぇ弱い民を守りたくて義賊を名乗ってんだからな」

 

 長の力の入った演説に頷く錦帆賊の面々。

 そんな彼らを見つめながら俺は胸中で錦帆賊と協力関係を結べた事を改めて喜んだ。

 

 この男が率いる者たちならば民の害になる事はないと理解したから。

 『民を守る』と言う共通の目的を持っている限り、彼らが俺たちと敵対する事はないと理解したから。

 

 これだけの考察を披露する彼の意識の根幹にあるのは『民を守る』と言う意志だ。

 言葉の端々に見え隠れする意志はとても苛烈で猛々しく、その意志に殉じる覚悟がある事を雄弁に語っていた。

 

「先の言葉、こちらも同じ言葉で返させてもらう」

「なに?」

「錦帆賊と敵対しなくて良かった。理由も同じだ」

「……そうかい」

 

 満足げに笑う甘寧に釣られて俺も笑った。

 少しはお互いに対する警戒心を和らげる事が出来ただろうと言う小さな達成感を覚えながら。

 

 

 

 刀厘こと駆狼が遠征に出て三日が経った。

 特に問題がなければそろそろ長江に到着する頃のはずだが。

 果たしてあいつは上手くやれるだろうか?

 

 つい二ヶ月前、蘭雪に見初められて(意味が違う気がするが間違っているわけでもないだろう)仕官したあの男の能力が高い事は知っている。

 たった二ヶ月で預けた部隊を遠征に耐えられる程に鍛え上げたその手腕は恐るべきと表現しても良い物だ。

 

 こういう事は言うべきではないが一緒に仕官した四人とは比較にならない。

 一人だけ言葉通りの意味で格が違っている。

 はっきり言って元村民と言うのが信じられないくらいだ。

 

 私たちは親からある程度の教育を受け、自分でも学べる環境にあった。

 下地が出来た状態でさらに自分たちで努力し、多少の運に恵まれた結果、こうして領地を持つまでに至ったのだ。

 

 だがあいつは違う。

 元々が平凡な村の出自でその両親にも軍事や政(まつりごと)に関わっていたという情報はない。

 蘭雪が言うには父親は只者ではなかったそうだが、武ならば在野にいても鍛えられるからそれはいい。

 

 しかし智とはただの村人がたやすく身に付けられる物ではない。

 私たちのような恵まれた環境がなければ容易に限界が見えてくる物だ。

 基本となる知識がなければ知恵は生まれないのだから。

 

 しかし祭や塁、慎や激に聞いてみれば駆狼には幼少の頃から知識があったように思える。

 ではその知識はどこで身に付けたのか?

 まさかなにもない所から湧き出てくる物でもあるまい。

 

 だから私はあいつを『普通ではない』と、そう思わざるを得なかった。

 不気味と称しても差し支えないだろう。

 

 本来ならあいつの存在は今の私たちの手に余る物だ。

 それを遠征軍を任せる程に、『あいつならばやってくれるだろう』と考えられるまでに信頼するようになったのは蘭雪とその子である雪蓮、蓮華、私の子である冥琳、駆狼と深い仲である陽菜、そしてなによりあいつ自身の人柄のお陰だろう。

 

 

 蘭雪は自分の勘を信じて疑わない奴だ。

 故にその直感に基づいた判断で引き入れたあいつを疑う事はない。

 大守と言う立場を無視して気軽に接する姿を何度も見つけては頭痛を感じた物だ。

 実の所、あの蘭雪の警戒を解くのは難しい。

 傍目にはそうは見えないが手負いの状態で周りを警戒する獣並みに警戒心が強い。

 そんなあいつがそれほど長い付き合いでもないのに警戒を解くと言うのはとても珍しい事だ。

 恐らく一目惚れしたあいつの夫以来になるだろうな。

 

 

 雪蓮もまた自分の勘を信じる正に蘭雪の娘と言える子だ。

 そんな子が熊に襲われていた所を助けられた事もあり、駆狼にはもの凄く懐いている。

 それはもう流行り病にかかって亡くなった蘭雪の夫が見たらさぞ悔しがっていただろうと思える程の懐きっぷりだ。

 あの子にじゃれ付かれてどう扱っていいのか困っている駆狼はなかなかに見物だった。

 本能的、直感的に敵味方を判断するあの子が命を救われたとはいえ、あそこまで懐く辺りは奴自身の人柄によるところが大きいだろう。

 

 

 蓮華は母や姉があんな性格な為か、七歳だと言うのに警戒心が目に見えて非常に強い子だ。

 そして他人の意見に流されない芯の強さを持っている。

 慎重と言うか臆病と言うかそんな性格とその強い警戒心が災いして、最初は仕官してきた五人全員となかなか話す事も出来なかったのだが。

 なぜか真っ先に駆狼と打ち解けた。

 具体的に何があったかは聞いていないが、いつの間にか『おじさま』と呼んで慕うようになっていたのには驚いた物だ。

 後は駆狼を介して他の四人とも話す機会を得て、今ではすっかり警戒心など消えている。

 一度、懐に入れてしまえばどこまでも信頼する辺りはやはり蘭雪の子だと思う。

 特に激とは仲が良く、一緒に勉強している姿をよく見かける。

 前に激が蓮華に文字の汚さを指摘されて落ち込んでいたがなかなかに面白い絵面だったな。

 

 

 陽菜は元々、あいつとは深い仲らしく警戒心なんて物は微塵もなかった。

 むしろあの蘭雪の前で仲の良さを見せつけると言う駆狼にとって災難にしかならない行動を起こす始末。

 それも駆狼が蘭雪の餌食にならないと信頼しての行動なのだからその仲の良さは推して知るべしと言った所か。

 二十年近く一緒にいた幼なじみで男っ気など蘭雪や私以上になかったはずの陽菜にあれほど想い合う男がいたのには本当に驚いた。

 完全に相思相愛の様子で邪魔するのもはばかられる。

 あれほど好意を露わにする陽菜を見ていると警戒している自分が馬鹿らしくなってくる程だ。

 

 

 最後に冥琳。

 私が駆狼を信頼し始めたのはあの子のお陰と言えるだろう。

 冥琳は蓮華とは別の意味で駆狼を警戒していた。

 私の今までの教育がいけなかったのだが、あの子は軍師としての私の考え方を理解しながら子供の感性を持つという酷い歪みを持ってしまっている。

 そんな娘は私から学んだ軍師としての考え方に基づき、不気味な駆狼を警戒していた。

 しかし同時に雪蓮と一緒に熊から助けてもらった事を感謝する想いもあったのだ。

 感謝と警戒心との思考の板ばさみになり、どうしたらよいのかわからずに苦しんでいたのだ。

 そんな無理をしている娘に私は何もしてやれなかった。

 あいつの気持ちを聞いてやる事くらいは出来ただろうに。

 私はあの子にどうしたらよいかと聞かれた時に軍師として答えればよいのか、親として答えればよいのかわからなかった。

 だから冥琳が苦しんでいる事を知りながら、何もしなかった。

 情けない限りだ。

 敵対する者を陥れる策は思い付くと言うのに娘の揺れる気持ちを諭してやる事も出来ないのだから。

 

 そんなあの子から駆狼は全幅の信頼を受けるようになった。

 冥琳は私の前では滅多に見せなくなった子供としての表情と共に語ってくれた。

 

『公謹嬢が至らない所は公共殿や蘭雪様、陽菜たちが怒ってでも止めてくれる。お前はまだ幼いんだ。世話をかけながら、失敗を繰り返しながら成長していけばいい。失敗を恐れるな。お前の周りにはお前を案じてくれる人たちがいるのだから』

 

 冥琳が語った駆狼の言葉。

 それは私の言えなかった言葉、子供に伝えなければいけない言葉だった。

 

『大人が子供の手の届かない所を助けるのは当然の事だ。だから相談する事を迷惑だなどと考えなくていい。迷惑をかけた分は成長しながら少しずつ返していけばいいんだ』

 

 それをあいつは私の代わりに伝えてくれていた。

 警戒されている身であると言うのに、あいつは冥琳の心を一番に案じていたのだ。

 

「冥琳、お前はまだ刀厘を警戒するか?」

 

 嬉しそうにあいつの言葉を語った娘に穏やかな心持ちのまま聞く。

 冥琳は少し考えるような仕草をすると、はっきりとこう答えた。

 

「しんじたい、と思っています」

 

 迷いのない瞳に見つめられ、私は笑いながら娘の頭を撫でてやった。

 

 親として駆狼に負けたと思った瞬間だった。

 子供もいない上に祭と陽菜の間で揺れ動いている駆狼に負けたのは地味に屈辱的だったがそこには目を瞑る事にする。

 

 なにはともあれ私が駆狼を信頼するようになった最も大きなきっかけはこれだろう。

 

「……物思いに耽り過ぎたか」

 

 深い思考から現実に帰ってきた時にはすでに日が傾いていた。

 

「失敗したな。まだこんなに残っている……」

 

 今日中ではないが早めに終わらせるに越した事はないのだが。

 

「はぁ……仕方ない。今日はもういいか」

 

 冥琳と一緒に食事にでも行くとしよう。

 家族として出来る事は多くないが、『だからやらない』と言う事にしてはいけないだろう。

 まぁこれは駆狼の受け売りだが。

 

 冥琳が駆狼を信じると告げた翌日、私もまた奴と対談し最後には真名を預け合った。

 他愛のない世間話、互いの幼少の頃の暮らし、私たちが立ち上がった頃の話と色々な話をした。

 

 冥琳たちの教育方針については特に白熱した。

 母親である前にまず軍師としてあろうとする私とまず家族足らんとする駆狼では考え方がまったく異なった為だ。

 最終的には蘭雪と陽菜、祭や慎たちにに止められるまで議論は続いた。

 私たちは議論に夢中でまったく気づいていなかったが城中に響き渡るような大声で語り合っていたらしい。

 

 お互い示す方針が完全に平行線だった上に妥協するつもりも無かったので壮絶な言い争いになったわけだが、色々と考えさせられる事が多かったのも事実だ。

 

 時に柔軟に新しい考えを入れるのも軍師足る者の務め、だなどと言うのは言い訳にしかならないが。

 

 娘の世話をするのは母親として当然であり、そこに軍師である事を考慮する余地などない。

 言われてみれば実に当たり前の事だが、私は無意識に軍師である事を言い訳にして母としての責任から逃げていた。

 多忙なのは事実だ。

 だが時間を捻出出来ないわけではない。

 深冬や慎たちも頑張ってくれているから今は私一人が頑張るような状況でもない。

 ならば家族の事を第一に考えても構わないだろう。

 

「随分と毒されたな、私も」

 

 不気味と称した男は、こうして私たちから信頼されるようになった。

 やんわりと諫めるだけかと思えば、一歩も引かずに意見をぶつけてくる事もある。

 ただ流される訳ではない揺らがない芯を持つ男。

 

 また深みに沈もうとした私の思考を引き上げるようにコンコンと戸を二回叩く音が聞こえる。

 妙に低い所で戸を叩いている様子から私の脳裏によぎるのは三人ほどの人物。

 どれも警戒する必要のない者ばかりだ。

 だから気持ちをゆるめて入室を許可した。

 

「入れ」

「はい。母上」

 

 予想通り、現れたのは娘だった。

 少し挙動不審なのは私が仕事中だと考えているからだろう。

 

「あの、そろそろ食事の時間なので……」

「ふむ。そうだな」

 

 私は皆まで言わせずに席を立ち、入り口で私を期待と不安の入り交じった瞳で見つめる冥琳の手を優しく握る。

 

「今日の仕事は終わった。一緒に食事に行こう、冥琳」

「あ……はい!」

 

 最近になって増えた娘の笑顔に釣られて頬が緩むのを自覚しながら私たちは連れだって食堂までの道を歩いていった。

 

 翌日、信頼する男から期待以上の成果が報告されてくる事を知らずに。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十八話 錦帆賊との別れ。

 錦帆賊と接触して五日目。

 太陽が西に沈みかける頃に伝令三名が戻ってきた。

 彼らに寄れば報告を受けた建業の方は慌ただしく動き出したと言う話だ。

 我らが誇る建業の頭脳たちが報告した情報をどう捌くのかは気になる所ではあるが、今の俺たちが気にするべき事ではないので頭の隅に追いやっておく。

 

 伝令たちと馬を休ませる為にさらに一日を過ごし、俺たちは行軍を再開する事にした。

 

「長いようで短い六日間だったな」

「ああ、そうだな。世話になった、礼を言う」

「礼を言うのはこっちの方だ。お前等のお陰で今の煮えきれねぇ状況を変えられるかもしれねぇんだからな」

 

 長江を一望できる高台。

 俺と興覇はそこで肩を並べて巨大な大河を眺めていた。

 

「それはそれとして、だ。本当に乗せていかなくていいのか? 長江の下流までならお前等の予定してる行軍順路とそう変わらねぇだろうし、速度も船の方が早いと思うんだがよ」

 

 納得し切れていない顔で質問する興覇。

 その表情は俺たちを怪しむ物ではなく、自分たちの手助けを拒否する事への不満が浮かんでいた。

 

「ああ、俺たちは予定通り陸路を行く。河路を行けば楽にはなるんだろうが、それでは見えてこない物もある」

 

 そもそも興覇たちと出会う前は、彼らが俺たちの遠征にまで協力を申し出てくれるとは思いもしなかった。

 軍隊である俺たちに対してここまで好意的になってくれるとは考えていなかったのだ。

 

 彼らの『軍隊』や『領主』、特に荊州の劉表に向ける恨みはかなり深い物だと予想していたし、実際に話を聞いて回った限りでは予想通りだった。

 その憎しみや恨みが直接的に関わっていないとはいえ同じ立場である俺たちに向けられても不思議はないと俺は考えていた。

 

 当然の事だろう。

 自分たちを害した者と同じ立場であると言う事実は、虐げられ陥れられてきた者たちから見ればただそれだけで警戒に値するのだから。

 

 だが彼らは劉表たちと立場を同じくする蘭雪様とその配下である俺たちに対して警戒こそすれど恨みや憎しみをぶつけてくる事はなかった。

 友好関係を築いた今では警戒心も目に見えて薄まり、気安い態度で接してくる者も多くなっているくらいだ。

 

 

 俺が想定した最悪のケースを良い意味で裏切ってくれた彼らの心情に今まで蘭雪様たちが行ってきた善政が絡んでいるだろう事は簡単に想像できる。

 

 領地が金で手に入り、人の命すらも物を捨てるような軽々しさで失われるような時代だ。

 領主が領民から税を搾り取り、虐げる事すらも日常的に行われるこの世の中で民の暮らしを考えた政治を行う者は少ない。

 

 噂の域を出ないが士官してからの二ヶ月で聞いた話では涼州西平の太守である『馬騰(ばとう)』、同じく涼州にて馬騰と戦力を二分する存在であるらしい武威太守の『董君雅(とうくんが)』が挙げられる。

 黄巾の乱も起きていない段階でこの二者の名前が為政者として挙がっていると言うのには驚いた。

 知識では馬騰は領民に慕われていたが為政者としては可もなく不可もなくであったという認識であるし、董君雅に至っては彼の子である『董卓(とうたく)』による非道な行いの数々の方が印象に残っている為、その人柄や能力についての知識がまったく無いからだ。

 

 他には官位自体は金で買ったらしいがその治世は民を想う物であると言われている『曹嵩(そうすう)』、十常待と対等の立場というこの世界に置ける最高位の存在として政界に君臨する老翁『曹騰(そうとう)』の曹親子。

 前世の知識と照らし合わせても彼らの有能ぶりに違和感はないのでこの情報に関してはかなり真実に近い噂と見ていいだろう。

この上、彼らの下にはいずれ頭角を表してくるだろう曹操がいるのだからこの一族は本当に規格外だと思う。

 

 そして名門袁家に名を連ね、漢王朝の官制において最高位に位置する三つの官職『三公』に次ぐ『六卿』の司空(しくう)の地位を持つ『袁逢(えんほう)』、元南陽太主にして同じく六卿の司徒(しと)に付き姉を支える『袁隗(えんかい)』姉妹。

 袁逢は後に曹操と関わりを持ち一大勢力を築き上げる『袁紹』の母親、袁隗は史実を知る身としては良い印象を持つことが出来ない暗君『袁術』の母親である。

 この二人も自らが所有する領地で人心を考えた政治をしていると言う。

 やはりこの二人も性別が反転していたがもういい加減慣れた。

 

 余談だが司馬家の者や劉備、『呂布(りょふ)』などはまだ台頭していないようだ。

 孫堅が長沙ではなく建業の太守であったり、馬騰や董君雅の名が既に太守として売れていたりと史実を無視した事が数多くある世界だが、どうにもすべてに置いて俺の知識が役に立たないわけでもないらしい。

 とはいえ彼らがどのような時期に姿を現すかは知識を元には予測できないのでは、やはり俺の知識の有用性はそれほど高くはないと見るべきだ。

 その微妙さ加減には苛立ちを覚えるが、そこに文句を言うのは贅沢な話だろう。

 

 

 話が逸れたが今、挙げた面々が噂通りに善政を敷いていたとしてもその数は六人。

 そこに蘭雪様を加え、さらに噂に上がらない領主の中にそういう良識を持った人間がいたと仮定しても人を尊ぶ政治を行っているのは恐らく十人を越えた程度しかいないと俺は考える。

 

 

 沢山の石ころの中にあるたった一つの宝石は、沢山の宝石の中に紛れている宝石よりも輝いて見えると言う。

 恐らく興覇たちの心境はそれと共通する所があるのだろう。

 

 高官の不正が公然とした事実になり、官位が売り買いされ、民が搾取される事すらも容認されている世の中で、先ほど名を挙げた者たちが治めている郡は比喩なく輝いて見えるはずだ。

 虐げられている者たちから見ればその反応はより顕著だろう。

 

 その心理が錦帆賊の警戒心を緩和させるのに一役買っているのだ。

 彼らと協力関係を結ぶ事を目的の一つとしていた俺たちからすれば実に好都合な話である。

 己の意志で善政を敷いている蘭雪様たちからすればこんな考え方は唾棄すべき物だろうが。

 

 とはいえ誰かが人間の負の部分についても考えなければならない。

 建業でならそれは美命を筆頭にした軍師、文官たちの仕事だ。

 そして遠征軍でその位置に当たるのは隊長である俺と副官である宋謙殿になる。

 同じく副官である公苗はそういう部分に目をかけられるほど精神的に成熟していないので頭数には入れていない。

 今後の成長に期待だ。

 

 

「楽できる時は楽する方がいいと思うがねぇ」

「一理あるとは思うが、今回は遠慮する。この遠征は行軍訓練も兼ねているからな」

 

 船上訓練と言うのも有りだとは思うが、水軍のいろはを錦帆賊から学んだばかりの俺たちにはまだ早いだろう。

 あまり詰め込みすぎても訓練の成果が上がるとも思えない。

 

 『船乗りとしての動き』は俺たちが考えている以上に難度が高い物であると言うことを実感出来ただけでも十分な成果と考えるべきであり、ここで水軍に関連した事柄は一度中断して本来の役割へと切り替えるべきだ。

 

 そしてなにより。

 全体の一割にも満たない行程で楽に走る事などあってはならないのだ。

 だからこそここで興覇の好意に甘えるわけにはいかない。

 

「ま、無理強いはしねぇさ」

「せっかくの好意を不意にしてすまないな」

「気にするな」

 

 ひらひらと手を振りながら快活な笑みを浮かべる興覇。

 釣られて俺も控えめに笑った。

 

「父! とうりんさま!」

 

 少女の声に何事かと振り返る。

 息を切らせながら駆け寄ってきた甘嬢は走ってきた勢いそのままに体当たりするように甘寧の腰に抱きついた。

 

「っとどうしたんだ、甘卓?」

「とうりんさまたちが今日たびに出るってこうびょうさまに聞いて……」

「いても立ってもいられないで走ってきたってわけか」

「んっ……」

 

 父親の言葉に小さく頷く甘嬢。

 興覇の腰に抱きついたまま、その体で自身の顔を隠すようにしながらちらちらと俺を見つめてくる。

 

 

 初対面の挨拶以来、何かと一緒にいる事が多かった彼女は傍目にわかるほどに俺に心を開いてくれていた。

 基本的に興覇と共にいる彼女とは話す機会を多く持つ事が出来たのだ。

 興覇の子供と言う事もあり俺自身が意識して話しかけるようにしていた事も親しくなる事が出来た要因だろう。

 

 

 甘嬢は錦帆賊と俺たちが真剣な話をしている時には必ずどこかに行っている。

 最初は難しい話がわからず、つまらないからどこかで遊んでいるのかと思っていた。

 だがその行動が父親の邪魔をしないようにと言う気遣いだったと言うのは彼女と会話をしていくうちに理解出来た。

 

 この子は蓮華嬢と同じで年の頃に似合わない程に生真面目だ。

 この年の子供ならもっとわがままになってもいいだろうに、父親の邪魔になりたくないと考えこんなにも幼いと言うのに強く自分を律している。

 もはや手の掛からない子供だとかいう次元ではなかった。

 

 だから俺はおせっかいだとは思いながらも彼女の事が心配になり、意識して彼女と話すようにした。

 気が付けば戦い方の手ほどきをするようになり、最終的な結果はこの通り別れを悲しんでもらえる程に好かれるようになっていた。 

 

 前世から子供好きを自認している俺としては彼女と親しくなった事自体に不満などないが馬鹿親(こうは)が絡んでくる事だけが面倒だった。

 子供を可愛がるのは理解できるが、こんな危険な時代である事を差し引いても興覇は過保護が過ぎる。

 

「お前、ほんっと卓に好かれてるな。親父としてはすげぇ複雑なんだが」

「そう言われてもな」

 

 口では言い表す事が出来ないくらい本当に複雑そうな顔をする興覇。

 この五日間の間ですっかり見慣れた表情だ。

 

「……甘嬢、別れの挨拶が遅くなってすまないな」

「うっ……いえ」

 

 そっと片膝を付いて彼女と視線を合わせて謝罪する。

 大きめの瞳を潤ませながら俺を見つめる甘嬢。

 泣かないように唇を軽く噛んでいる姿は、なんともいじらしく年相応の可愛らしさに満ちている。

 視界の端っこで馬鹿親(こうは)が拳を握りしめて俺を睨んでいるが無視だ。

 

「また近いうちに会う事になる。それまで教えた事を忘れないようにな。父親と仲良くするんだぞ?」

「はい。とうりんさまもどうかお元気で」

 

 こぼれそうになった涙を拭う彼女の頭をそっと撫でる。

 すると感極まってしまったのか俺の腹に顔を押しつけて抱きついてきた。

 

「うっ……ぐす」

 

 嗚咽混じりの吐息が服一枚を隔てて俺の腹部をくすぐる。

 俺は大昔に自分の息子や孫をあやした時の事を思い出しながら彼女が泣きやむまでそっと彼女の背中を撫で続けた。

 

 愛刀に手をかけて寒気のする笑顔を浮かべている興覇を意図的に無視しながら。

 

 

 

 

「行ったな」

「はい……」

 

 俺の手を握りながら去っていく凌操隊の背中を見送る思春。

 じっと見つめているその先にいるのはこの五日間で仲良くなった凌操だろうな。

 もしかしたらその副官でよく話をしていた……賀公苗だったか、かもしれねぇが。

 

 思春はこの五日で少し変わった。

 今までは錦帆賊の中でも生まれた頃から一緒にいた連中にしか懐かなかったのに。

 刀厘や公苗と関わってる内に連中の部下たちともびくびくしながらだが話すようになった。

 

 俺たち錦帆賊全体にとって刀厘たちの存在が現状打破の為のきっかけになったように、思春にとってもあいつらとの触れ合いが今の自分を変えるきっかけになったんだろう。

 

 親として娘の成長は素直に嬉しい。

 俺よりも年下の男がきっかけって言うのは親として負けたような気分になるが。

 

「欲を言えば俺の手で一から十まで育てたかったんだがなぁ」

 

 もう豆粒になった男たちの背中を飽きもせずに見つめ続ける思春に聞こえないように呟く。

 

 刀厘から軽く戦闘の手ほどきを受けた思春はちょっとした技術を身につけた。

 

 有効な足運びや武器の振り方。

 あいつが娘に教えたのはその程度の事だったって話だったが。

 

 たったそれだけで思春はより戦い難い相手になった。

 別に剣を振るう速度が上がったわけじゃない。

 力が上がったわけでもないから武器の威力が変わったわけでもない。

 

 だと言うのに軽い気持ちで模擬戦をしたら危うく負けそうになった。

 今までの思春の剣には振り下ろすか振り上げるか突くかくらいしか攻撃の型が無かった。

 それがどうだ。

 刀厘から手ほどきを受けたあいつは剣の柄尻や自分の足、拳すらも攻撃に利用してきた。

 

 今まで『剣』だけで戦ってきた思春は手ほどきされた四日(それも一日での時間はせいぜい一刻って所だ)で自分の持てる技術全てを利用して戦うようになっていた。

 

 戦いは生きるか死ぬか、殺すか殺されるか。

 意識を突き詰めていけばそれしか残らず、純然たる結果として勝ちか負けだけが鎮座するもんだ。

 

 戦いってのは綺麗事じゃない。

 

 思春が鍛錬をするようになってから口を酸っぱくして教えてきた事だったが実戦経験って奴がないあいつにとって俺の言葉はやはり伝わり難いもんで、どうしたもんか悩んでもいたんだが。

 どうやったか知らないが刀厘は思春に俺の言いたかった事を意識させる事に成功していた。

 

 昔の俺みてぇに実戦で痛い目を見ながら学ばせるしかねぇかと諦めていたってのに。

 手ほどきの内容までは聞いてなかったから模擬戦での動きは俺にとって完全な不意打ちで奇襲だった。

 

 実の娘に度肝抜かれる事になるとは思いもしなかったぜ、まったく。

 親としての意地でどうにか勝ちを拾ったが、あれは本気で肝を冷やした。

 

 その後、あいつを問いただしたら少し手ほどきしたとほざきやがったし。

 あれだけ動けるようになっているのに『少し』だと?

 じゃあ本格的に思春をあいつに預けたら一体、どうなっちまうんだ?

 

「父……」

「お、おう。どうした、思春」

 

 悶々と考え事に耽っていると思春が俺を見上げてなにか言いたげにしている事に気づいた。

 

「わたしはつよくなれますか? 父をまもれるくらいに」

 

 真剣だが不安げに揺れる瞳。

 たぶん刀厘に手ほどきされた上で俺に負けたのが悔しかったのかねぇ?

 親としてそう簡単に負けてやるつもりはねぇし、守られてやるつもりもないんだが。

 

「そうさな。このまま毎日鍛錬してりゃ強くはなれるだろうぜ」

 

 俺の言葉に無言だが、嬉しそうに顔を綻ばせる思春。

 ったくこういう時の顔はほんとに子供だ。

 俺と想の最愛の娘だ。

 

「だが俺を守ろうなんてのは十年早い。俺より強くなってから言え」

 

 思春と額を合わせてニヤリと笑ってやる。

 からかわれたと思った思春はむっと頬を膨らませるが、まぁ怖くはねぇな。

 むしろ可愛いだけか。

 

「さあて見送りも済んだし、俺たちも行くぞ!」

「あ、はい!」

 

 不満そうな顔が、ただの子供の表情が消え、錦帆賊頭の娘として引き締められる。

 その切り替えの早さを見て先が楽しみだと思うし、同時になんか寂しいとも思う。

 

 複雑な内心を隠して俺たちは船に乗り込んだ。

 

「俺たちは予定通り、長江を下る! いつも通り賊が村を襲えねぇようにしっかり睨みを効かしに行くぜ!!」

 

 長江中に響かせるつもりで声を張り上げる。

 誰一人の例外もなく仲間は俺に視線を集中させている中で俺はさらに檄を飛ばす。

 

「だがこれからはさらに気合いを入れろ!! 俺らは十年の苦しい時間を乗り越えて肩を並べられる新しい仲間を得たんだからな! あいつらが俺達と肩並べた事を誇れるように! 俺らがあいつらと胸を張って横並びでいられるように! 今まで以上に気張って見せろ! わかったか、てめえらぁあああ!!!」

「「「「「「おおおーーーーーー!!!!!」」」」」」

 

 そして俺達はいつも通り、船を駆って水上を突き進む。

 その胸に今までとは違う想いを乗せて。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第十九話 行軍と訓練と。とある老人の静かな決意

前話から試験的に「SIDE 〇〇」と言う語句を入れずに投稿してみました。
誰の視点かがわかればこの語句は必要ないと思うので、とりあえずは数話続けて問題なければ投稿済みの話も修正していきます。

それでは以降もお楽しみください。


 鬱蒼とした森の中を走る。

 鎧を着込んだ状態で進路に立ちふさがる木々を避けながら、速度を落とさないように意識して。

 

 ただ考え無しに走るだけでは規則性のない生え方をした木々の間をくぐり抜ける事は不可能だ。

 前方を見据え、視界全てに意識を向け、どの位置をどのように進むかを常に考えながら走らなければならない。

 

 無論、口で言う程に簡単な事ではない。

 偉そうに講釈を述べている俺自身が十年以上もこうやって訓練を重ねながら今も尚、試行錯誤を続けているくらいなのだから。

 

 当然、俺よりも経験が乏しい部下たちでは俺に追いつく事は出来ないだろう。

 少なくとも普通に追いかけているだけでは。

 

 一度、立ち止まり背後を見やる。

 およそ十人ばかりの人間が俺の後を追いかけてきているのが見えた。

 しかし予想通り、いずれも俺に追いつく程の速度ではない。

 

 俺は追いかけてくる存在がいる事を確認すると前に向き直ってまた走り出した。

 

「昼飯抜きまであと半刻っ!!!」

 

 森全体に響かせるように、空に向かって叫ぶように告げるのを忘れずに。

 部下たちが今まで以上に必死になって追いかけてくる事を気配で感じ取りながら俺はさらに速度を上げて森の中を突き進んでいった。

 

 

 俺達が遠征に出て早十二日。

 隊全体がそれなりに遠征の空気に慣れてきたので遠出しなければ出来ないような特殊訓練を実施している最中である。

 

 内容は五十人一組の班に別れ、森の中に潜んでいる俺を捕まえると言う物だ。

 

 一つの班の所要時間は半刻(およそ一時間)。

 その限られた時間の間、俺はあらゆる手を尽くして森の中を逃げ続け、班員たちはあらゆる手を尽くして俺を捕まえる為に奔走する。

 

 余談だがこの時代の時刻の計り方が日本は江戸時代の頃から行われていた物だと知った時は驚いた。

 ある程度は知っている方法だったので利用する事に違和感はないが、やはり時代背景を考えると疑問が残る。

 

 それは置いておくとして。

 この鬼ごっこには時間内に俺を捕まえられなければその班は食事抜きと言う罰則がある。

 ただでさえ遠征で食事には一定の制限がかかっていると言うのにここにきて一食抜きと言うのは兵士たちからすれば非常に厳しい物だろう。

 

 人間と言うのは厄介な物で環境に慣れていくと心のどこかで油断や慢心が生まれてしまう。

 その例に漏れる事無く遠征を開始した当初は緊張で心を引き締めていた彼らだが、今は慣れてきた事で気を緩めてしまっていた。

 

 宋謙殿などの俺よりも古株の者たちはそうでもないが、公苗などのこの遠征が初の本格的な軍務になる者たちは目に見えてわかる程に舞い上がっているのがわかる。

 錦帆賊と良好な関係を築く事が出来た事も彼らが舞い上がるのに一役買っているんだろう。

 任務を一部とはいえ考えうる限り最良の形で完遂した形になるのだから興奮するのはわかるし、その喜びや達成感が尾を引くのも仕方のない事だ。

 

 とはいえ仕方が無いで済ませてしまえば、取り返しのつかない失敗を犯す事になるかもしれない。

 なので気を引き締める意味合いを込めて罰則付きの訓練を実施すると言う結論に至ったのである。

 

 宋謙殿も皆に気の緩みや興奮が伝染する事を懸念し、同意してくれた。

 自分も罰則の対象になる事も笑って受け入れてくれる辺り、やはりこの人は優れた軍人であると俺は再確認する。

 

 精神年齢は俺の方が上だが『この時代の現役軍人として』大先輩である彼の存在はこの部隊にとって欠かす事の出来ない物の一つだ。

 

 

 訓練の方は既に三組が実施し、全ての組が罰則の犠牲になり朝飯抜きになっている。

 今やっている面々は朝食後なので罰則は昼食抜きと言う訳だ。

 

 唸り声を上げながら食事をする他の面々を睨みつけて空腹を押さえつけている罰則者たちの様子を見て、『一食くらい大丈夫だ』と楽観視していた最後の組の者たちも考えを改めている。

 当然だが副官である宋謙殿も公苗も班の一員として参加している。

 公苗は意気揚々と一組目として参加し、朝食抜きという無惨な結果になった。

 副官相手でも罰則が変わらない事が他の面々へ緊張感を与えたのは言うまでもない。

 

 ちなみに俺が捕まった場合も罰則として食事抜きになる。

 

 一回捕まれば一回分の食事抜きだ。

 しかし俺の場合は二回捕まれば二食分の食事抜きである。

 森の中での移動に関しては俺の方が慣れている為に、ハンデとして自分に課した罰則だ。

 

 とはいえ二回、ないしそれ以上の回数の食事抜きなんぞ必要に迫られた時以外は絶対に御免である。

 なので俺自身、手を抜いて訓練に当たるような余裕はないのだ。

 

 肉体を全力で使用し、頭を全力で働かせながら俺は四組目になる部下たちを振り切って森を抜けた。

 

 森を抜けた先にあるのは野営と昼食の準備をしている隊の皆の姿がある。

 そして俺が森から抜け出した直後。

 苦笑いを浮かべながら(恐らく四組目の犠牲者たちに同情しているんだろう)部下の一人が時間切れを告げるべく用意していた小型の銅鑼を叩いた。

 

 

 

「うう……おいしいです」

 

 目尻に涙を浮かべながら配給された料理を食べる賀斉。

 じっくり噛みしめるように味わうその様子に宋謙殿は苦笑いし、俺は成果が上々である事を確認してほくそ笑む。

 

「一食抜いた後の食事じゃからな。空腹は最大の調味料と言うしそりゃ美味いじゃろうよ」

 

 ぽんぽんと彼女の肩を叩く宋謙殿。

 公苗は彼の言葉にうんうん肯きながらいつもと変わらない味の食事を実に美味しそうに食べている。

 

「良い機会だ。食事が出来ると言う事のありがたみを知っておくといい。本拠駐屯の部隊と違って遠征軍にとって食糧難などの物資不足は非常に身近な問題だ。毎日食事にありつけるなんて考えだといざと言う時に保たないぞ」

「ご飯が食べられない事がこんなに辛いなんて思いませんでした。骨身に沁みて理解しました」

 

 朝食抜きになった連中が公苗と一緒に頷いている。

 

「その気持ちを忘れるな」

 

 俺はさらに言葉を続ける。

 

「飢えは人の気持ちを不安定にさせ、人の欲というものを剥き出しにする。今、世間を騒がせている大体の賊がそうだ。錦帆賊のように自分たちの意思で賊と呼ばれるようになった者などほとんどいない。日々の食事もままならず飢えを凌ぐ為に他者を襲う。一度、そうなってしまえば二度目への躊躇や良心の呵責は少なくなり、さらに繰り返していけば行為に対する忌避感など麻痺していき、それが当然の事であるように思い込むようになる」

 

 好き好んでなりたかったわけではなく、ならざるをえなかった。

 そんな境遇の人間が、賊として処断されていく。

 彼らはただただ生きるために必死になっただけだと言うのに。

 

「彼ら賊が民を虐げる以上、俺たちにとっては敵だ。しかしそこに止むに止まれぬ事情があるならば、その行為を悪と言い切る事は出来ない。国に仕える俺たちは国の政の犠牲者である彼らを糾弾してはいけない」

 

 黙り込み真剣な表情で俺の言葉に耳を傾ける一同。

 

「ほんの少し境遇が違ったら俺たちも賊として他者を襲う存在になっていたかもしれない。一食抜いて飢餓の恐ろしさを、辛さを一片だけでも感じ取ったお前たちなら理解出来るはずだ。その辛さを年単位で味合わされてしまえば良心などよりも本能が勝ってしまうだろう事がな」

 

 俺の物言いに何人かが険しい表情を浮かべるが反論は出てこなかった。

 そうなっていたかもしれないという可能性を肌で感じ取り、理解したからだろう。

 

「彼らは『もしかしたらの俺たち』だ。だが情けをかけろなどとは言わない。いざと言う時の躊躇いは自分だけではなく部隊全体を危険に晒してしまうかもしれないからだ。だが忘れるな。お前たちは兵士だがその前に一人の人間だ。そして『相手』も人間だ。どんな理由があろうとも相手の立場がどうであろうとも敵対する者を殺せば俺たちは『人殺し』だ」

 

 前世でも今世でも俺は人殺しだ。

 その事に言い訳などしないし、これからも必要とあらば人を殺す。

 敵も味方もない屍の上を歩いて生きていく。

 陽菜や祭、そして俺と共に歩んでくれる者たちと共に。

 

 そしていつか。

 どんな形であれ俺もまたその屍の一部になり、誰かに踏み越えられていくだろう。

 

 そうなる事がこの奇妙な時代に二度目の生を受けた俺が自分に課した覚悟だ。

 

「実戦経験の浅いお前たちには難しい事を言っているかもしれない。だが今伝えた事を忘れないでくれ」

「「「「「「「はい!!!!」」」」」」」

「よし! 午後からは行軍を再開する。食事が終わった者から後片付けを始めろ!!!」

 

 俺の号令に全員が起立し、両足を揃えて右手を額に当てて敬礼する。

 俺もまた彼らと共に起立し、彼らの敬礼に対して返礼する。

 

 場の空気が一拍だけ硬直した後、俺たちは手早く食事を終わらせて移動の準備を始めた。

 

 

 行軍を再開し、長江の流れに沿って歩く途中、宋謙殿に声をかけられた。

 

「なかなか様になった演説でしたな。この年にして考えさせられるお言葉でした」

「現実を知らない若造の戯言です。良い機会だと思いその場の勢いを借りて語ってしまいましたが、下手をすれば兵の士気を下げる事にもなりかねない危険な物だったと今は猛省しています」

 

 首を振って彼の絶賛の言葉を否定する。

 雰囲気に流されてしまうとは俺もまだまだ甘いと自嘲する。

 

「いいえ、隊長殿。貴方の言葉には確かな経験に裏付けされる重みと説得力がありました。それこそ幾多の修羅場を潜ってきたかのような、この老骨をも飲み込んでしまう程の意思を感じましたぞ。確かに弁舌を振るうには時期尚早であったかもしれません。しかしご自身の言葉を戯言と言い切ってしまうのは些か卑下が過ぎましょう」

 

 俺の言葉を諫め窘めるその言葉には強い意志が籠められていた。

 その言葉にもう一度、首を横に振ってしまう事は先の言葉がただ上辺だけの美辞麗句を並べた飾り言と化してしまうと理解出来た。

 

「時期は間違いであったかもしれませぬ。しかし結果を見れば士気は下がるどころか天井知らずに上がっております。その上、彼らの中にあった浮き足だち、不安定だった心は程良い緊張を取り戻している。これ以上の成果を望むのは欲張りと言う物でしょう」

「しかしそれは結果論でしょう?」

「ですが純然たる結果です。よもやそうであったかもしれない可能性に怯えて足を止めるおつもりですか?」

 

 俺の心を射抜くような鋭い視線と言葉。

 しかし俺は間髪入れずに首を振った。

 

「そんなつもりはありません」

「で、あるならば時期を逸していたかもしれぬ事についてはしっかりと反省し、次に活かすようになされるように。間違いを起こさぬ人間などおりません。であるならば過ちを糧により高みを目指されるように。貴方はまだまだこれからの人なのだから」

 

 力強く感じられた言葉が不意に優しくなり、彼の放つ空気が緩められていくのがわかる。

 そして俺は彼の言葉に納得していた。

 

 完璧を求める事はいい。

 しかし万事に置いて完璧な人間などいない。

 誰もがなにかしらの欠点を持ち、失敗を経験し続ける物だ。

 己が得意とする分野ですら失敗の可能性は常に抱えている。

 失敗の可能性に怯えていては何も出来はしない。

 そして既に起こった失敗に対していつまでも『ああすればよかった、こうすればよかった』などと考え続けている事に意味などない。

 無論、反省はしなければいけない、失敗と向き合う努力を怠ってはいけない。

 しかし囚われてはいけないのだ。

 

 わかっていたはずだ。

 精神年齢およそ百十年の人生の中で理解してきた事柄だったはずだ。

 しかし宋謙殿に指摘された事で理解がより深まったと感じる事が出来た。

 

「……ありがとうございます」

 

 ありったけの感謝を込めて言葉にする。

 すると彼は四角く無骨な表情を小さく緩めて笑った。

 

「いえいえ。老骨の戯言でございますよ」

 

 皮肉混じりの言葉に俺も小さく苦笑いを返した。

 

 

 俺はやはりまだまだ未熟なのだろう。

 舞い上がっていたのは彼らだけではなく、俺自身もだったのだから。

 

 なんでも出来るとまではいかないまでも俺が考え抜いた行動ならば上手く行くはずだと何の根拠もない自信を持ってしまっていた。

 

 それは正しく自惚れだった。

 こんな年になってそんな事を考えてしまうとはまったくもって不覚である。

 

 取り返しのつく所でその事を俺に教えてくれた宋謙殿には幾ら感謝してもしたりない。

 

 彼からの言葉を胸に刻み、二度と同じ失敗をしない事を誓った俺はより強く地面を踏みしめながら眼前に広がる広大な大地の先に目を向けた。

 

 

 

 

 

 文台様の旗揚げ―――と言うよりもあれは反乱と言った方が正確じゃな―――に付き合い、家臣として彼女らに仕えるようになって四年と少し。

 

 彼女らよりも長く生きた経験を買われて部隊の育成を任されてきたが、ここ最近は我が隊長殿の補佐を行っている。

 

 非常に充実した日々だ。

 彼が優秀であると言う事も勿論、そうだが彼は見ていて飽きない。

 元農村の出身とは思えない学のある物言い、卓越した武を持ちながらもそれを鼻にかけない謙虚な態度。

 民は勿論、部下にも気を配るその姿勢。

 

 上司としては正に理想と言えるだろう。

 

 しかし彼は時折、その態度と年齢がちぐはぐになる事がある。

 彼の年で知る機会などあるはずのない事柄についての知識を持っていたり、まるで子や孫を見守る老人のような目を公苗や部下たち、果ては雪蓮様や蓮華様たちに向ける事があるのだ。

 

 そして何より。

 見た目はどう考えても二十前後の若造だと言うのに。

 その言葉には何十年もの年月を生きた者のみが出せる説得力があった。

 

 しかし彼の在り様は見方によってはひどく歪な物である。

 加えて何か小さなきっかけで壊れてしまうかもしれないと不安にさせるような脆さを感じさせてもいた。

 

 だから私は彼の副官に志願したのだ。

 もしも彼の心が折れるような事があった時に、彼を支える者である為に。

 

 

 彼の弁舌を反芻しながら思う。

 やはり私の目に狂いはなかった。

 

 我らが隊長、刀厘殿の存在は兵を強くしその結果、国を強くする。

 しかしそれだけの力を有しながらも彼は脆く不安定なのだ。

 確かな決意に裏打ちされた言葉を部下たちに語って聞かせながら、既に過去の事である失敗の可能性に怯えてしまうような小さな心の持ち主なのだ。

 

 

 老骨の身で何が出来るかとずっと考えていた私だが今、ここで改めて決意する。

 この若く輝かしいが未だ昇り立つには至らない未来の光を全身全霊を持って支え続けよう。

 

 例えこの命、朽ち果てようとも。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十話 賊の襲来と少女の決意

 隊の全員が空腹の苦しみを理解したあの日からさらに一週間と二日。

 俺たちは予定通りに行軍を続けた。

 

 既に長江付近に存在する村については全て回った。

 彼らが抱える問題や要望を書き留めた竹簡は、伝令が建業に送っている。 

 作物が実るだろう水捌けの良い土地についても、大雑把にではあるがまとめてあるので今後の農耕に役立つはずだ。

 

 あれほど巨大な河が近くにあると言うのは農作業の活性化に置いて大きな利点になる。

 勿論、治水と開墾が上手く出来ていなければ活性化なんぞ夢のまた夢だろうが、そこは優秀な軍師たちがやってくれるだろう。

 

 前世での敗戦後、国では戦後処理に手間取った結果、水害による被害が多発した地域があった。

 俺と陽菜は水害による被害を受けた事がある。

 だからそれがどれほど恐ろしい物かをよく知っている。

 

 長江とは比較にならないほど小さな河ではあったが、それが氾濫しただけで一帯は水浸しになり、酷い所では家すらも流されて住む場所すらも失う事があった。

 

 人の命をも否応なく飲み込む『それ』は、人の身ではあらがう事の出来ない無慈悲で圧倒的な力である。

 その脅威を知る陽菜が水害対策を怠るはずがない。

 

「陽菜様の事、すごく信頼されているんですね」

 

 前世での経験についてをぼかしながら水害の脅威と治水の大切さを説明すると公苗はそんな当たり前の事を言ってきた。

 

「補足するならば祭の事も信頼している。夫婦なのだから互いを信じるのは当然の事だ」

「そ、そうですか。お二人が羨ましいですね……」

「お前にもいずれそういう人が出来るだろうさ。お前ほどの器量良しなら引く手数多だから相手については心配しなくていい」

「こ、光栄、です……」

「まぁ、お前が良い人を選べるかどうかまではわからないが、な」

「良い人……隊長や陽菜様、祭様のようなお互いに信頼できる夫婦。ッ〜〜〜〜!?!?」

「ふははは! 公苗には少々刺激が強い話だったようですな!」

 

 顔を真っ赤にする公苗を微笑ましげに見つめ、からからと笑う宋謙殿改め豪人(ごうと)殿。

 

 一定の緊張感を保った中で談笑しながらの行軍。

 隊の皆も周囲への警戒を怠らない範囲でそれぞれに仲間たちとなんでもない雑談をしている。

 そんな中、周囲の空気が変化してきた事に最初に気づいたのは公苗だった。

 

「あ、隊長。風に紛れて塩の匂いがしてきました」

「塩? と言うと……海が近いのか」

 

 談笑を止め、思い切り鼻から息を吸い込む。

 なるほど、僅かではあるが海水独特の塩辛い匂いがした。

 

 しかし集中しなければわからないようなこんな僅かな違和感に気づく事が出来ると言うのは稀有な事だろう。

 状況の変化に敏感とでも言えば言いのか。

 そういう意味では公苗は斥候や偵察として非常に優秀な人材だ。

 嗅覚が犬にも劣らないと言うのは正直、才能の一言で片づけてはいけない気がするが、そういう人間もいるんだと言う事で納得しておく。

 この時代の人間についてはある程度の所で割り切っていかないと突っ込みに際限がなくなるからな。

 

「公苗、何人か足の速い者を連れて先に行け。地図によればこの先に岬があるようだ。そこからなら辺りを一望出来る」

 

 俺は部下の能力を見極め、それに見合った仕事を指示するだけだ。

 

「はい!」

 

 先ほどまで顔を真っ赤にして慌てていたのが嘘のような真剣な表情で返事をする公苗。

 気持ちの切り替えが上手く出来るようになってきたようだ。

 まだ顔が赤い事は大目に見ておくとしよう。

 命令を実行するべく近くにいた部下たちに声をかけて先行する彼女の背中を見送る。

 

「ここまでの行程は順調ですな」

「そうですね。むしろ二、三日早いくらいです」

 

 早い分には何の問題もない。

 物資と想定した期限に余裕が生まれると言う事は気持ちの上でプラスに働くだろう。

 余裕を持ちすぎて気を緩める事のないようにしなければいけないが、その辺りは心得ているつもりだ。

 

「この調子で万事上手く行けば良いですな」

「そうですね」

 

 本当にそう思うが、そうそう上手く行かないのが世の中というものだろう。

 ならばどのような事態にも対処できるように心構えをしておくべきだ。

 

 そして体感時間にして数分後、慌てて戻ってきた部下の報告で俺は自分の思考の正しさを実感する事になる。

 

「ご報告!!! 海賊と思われる船数隻が海辺の村に向かっています! 錦帆賊とは船の編成が違う為、恐らくは賊だと思われます!!」

 

 隊全体に緊張が走る中、俺は即座に指示を飛ばした。

 

「荷車の管理に五十名を残し、残りは駆け足!! 偵察隊は移動しながら詳しい状況を報告しろ!! 荷車隊は近隣の森で目立たぬように待機。追って指示を出す!!!」

「「「「「「はっ!!!!!」」」」」」

 

 指示を受けて淀みなく動き出す面々を確認し、俺は一足先に駆け出す。

 追従する面々を引き離す事がないようにある程度、速度を加減しながらそれでも可能な限り急いで。

 

「公苗はどうした?」

「既に何人かと村に入り、村人に避難するよう呼びかけをしております。しかし報告も急務なので村に入った段階で賀副隊長に許可を頂き、自分だけ報告に戻りました!」

「妥当な判断だとは思うが公苗の指示じゃないのか?」

「賀副隊長は村人の避難を最優先されており、報告まで気が回っておりませんでした。ですので私の方で判断を」

 

 なるほど。

 早い話が海賊の接近を察知した焦りで俺たちへの報告などすっぱり頭から消えたと言う事か。

 

 偵察向けの能力を持っているが、事に対して冷静に対応するところまでは出来ないようだ。

 もっと場数を踏ませ、口を酸っぱくして言い聞かせないといけないだろう。

 

「わかった。賊の編成は?」

「艇(てい)が三隻と先登(せんとう)が二隻。賀副隊長によれば先登にはそれなりの人数が乗り込んでいるのが確認できたとの事です!」

「賊が村に到着するのと俺たちが村に到着するのとどちらが早い? おおよそで良いが希望的観測は可能な限り捨てて答えろ」

 

 備えるべきは最悪の可能性。

 その為には『こうなっていればいい』と言う甘い考えはすっぱりと切り捨てなければならない。

 建業での調練の間に俺の考え方は部下全員に周知し、徹底させている。

 

「この速さならば賊よりも早く到着出来ます! 馬ならばほんの少しではありますが余裕を持てるかと!」

「よし。ならば騎馬兵五名は先行して公苗たちと合流。村人の避難を手伝え!」

「「「「「はっ!」」」」」

 

 俺の言葉を並走しながらで聞いていた騎馬兵たちが馬を本気で走らせていく。

 あっと言う間に遠ざかるその背を追いながら後ろの面々を怒鳴りつけた。

 

「調練の成果を今こそ見せてみろ!!! 賊から民を守り抜いたと言う結果を出す事でだッ!!!!」

「「「「「「おおっ!!!!!」」」」」」

 

 俺の声に彼らは全力で返事を返した。

 

 

 

 

「す、すみません。村長様はどこにいらっしゃいますでしょうか!?」

「はっ!? あの、どちら様でしょうか?」

 

 突然、村に入って慌てて質問する私に困った様子で聞き返してくる村の女性。

 

「も、申し遅れました。私は賀公苗。建業に所属する軍の者です!」

「け、建業の軍の!? そんな方がどうしてこのような辺鄙な村へ?」

「わ、私たちは今、治安調査の為に領内の村を回っているんです! 行軍の途中、あちらの岬からこの辺りを偵察していた所、この村に海賊船が迫ってきているのがわかったので避難してもらおうと駆けつけました!」

 

 私の慌てながらの説明に女性は顔を青くする。

 良かった。

 私の拙い説明でもちゃんと海賊の事は伝わったみたいだ。

 

「わかりました! 村長は村の奥の自宅にいらっしゃると思いますので私がご案内します!」

「お願いします!」

 

 女性に頭を下げてから私は付いて来てくれた人たちを振り返る。

 

「すみません、皆さんは村の人たちに海賊の事を伝えて避難させてください! 私も村長様に事の次第を説明したらすぐに手伝いに行きますので!」

「「「「はっ!」」」」

 

 バラバラに動き出した部隊の仲間を見送る中、一人だけ私に声をかけてきた。

 

「賀副隊長、村人への対応も大切ですが凌隊長たちへこの事を伝える事も必要だと思います」

「あっ!?」

 

 村の人たちを危険から引き離そうと焦って本来の任務をすっかり忘れていた。

 

「す、すみません! 忘れていました!」

「いいえ、焦られるお気持ちもわかりますので」

 

 真剣な表情のその人のお陰で私は慌てていた心を落ち着かせる事が出来た。

 

「すぅ〜〜はぁ〜〜……それじゃあ隊長たちへの報告をお願いします。出来るだけ詳細に。隊長たちの足なら海賊たちよりも早くここに到着できるはずですから」

「はっ!」

 

 深呼吸を一つしてから出した指示に彼は隊長から教わった敬礼を返すと走り去っていった。

 そして私は焦りながらも私たちのやりとりを見守っていた女性に改めてお願いする。

 

「軍の本隊も追って到着します。その前に事の次第だけでも村長様に!」

「わかりました。こちらです」

 

 女性の先導に従って私は駆け出す。

 

 力が強いだけでそれを扱う術を知らなかった私。

 持て余していた力で両親や生まれ故郷の村のみんなに迷惑ばかり掛けていた私。

 

 そんな私を拾って下さった美命様。

 歓迎すると笑いかけて下さった蘭雪様。

 こんな私の為にお忙しいのにわざわざ時間を作って会いに来て下さった陽菜様。

 時々、調練場に遊びに来られた雪蓮様と連れて来られた冥琳様、蓮華様。

 

 自分に自信が持てなくて軍に入ってからもずっとびくびくしていた私に目をかけて下さった豪人様。

 要領の良くない私に力の扱い方を根気強く教えて下さった隊長。

 

 優しく暖かいあの方々のご恩に報いる為にも、私はもっと努力するんだ。

 私が今持ってる力で出来るだけの事をするんだ。

 それが部隊の皆さんの助けになるんだから。

 

「こちらです!」

「はい!」

 

 私は女性が案内してくれた木製の大きな家に飛び込み、いきなり現れた私に目を白黒させている村長らしい男性に突然の無礼を頭を下げて謝りながら事の次第を説明し始めた。

 

 村長様は私からの説明を聞き終わると、とすぐに村全体に避難するようにと道案内をしてくれた女性に指示を出した。

 こちらで先に避難の誘導を行っている事を伝えたらすごく感謝されたけれど、私としては勝手な事をしてしまって申し訳ない気持ちで一杯だった。

 

「それだけ事態が切迫していると言う事なのでしょう? 一番大切なのは村の皆の命です。私に遠慮などなさる必要はございません」

「そう言ってもらえるとありがたいです。それでは私も避難を手伝いに行きますので! あちらから部隊が到着しますので村長様たちも避難はそちらの方へお願いします!」

「わかりました、我々もすぐに。……どうかこの村をよろしくお願いします」

 

 深く頭を下げる村長様と一緒に頭を下げている女性。

 

 その姿を見て、私は思った。

 誰かに何かを頼まれると言う事はこんなにも重かったのかと。

 

 その事を怖いとすら思った。

 だって私たちが海賊たちを退けられなかったらこの人たちは住む場所と平和な生活を無くす事になる。

 

 失敗は許されない。

 訓練とは違う、重苦しい緊張を感じて嫌な汗が背筋を伝うのが鮮明にわかってしまった。

 けれど。

 

「はい! 私たちが皆さんをお守りします!」

 

 そんな私の情けない内心を村長様たちに見せるような事はしなかった。

 

『守る立場である俺たちが守るべき民の前で弱さを見せる事は有ってはならない。民を不安にさせるからだ。常に堂々と胸を張れ。たとえそれが虚勢であっても』

 

『まず守るべきは民の心だ。その為に行動できる強い意志を持て。実力はこれからつけていけばいい、いや無理矢理にでもつけてもらう』

 

 隊長が就任した当初に語った言葉が私の脳裏によぎったからだ。

 

「それでは!」

 

 村長様のお宅を出て行き、岬から確認できた海賊船が迫ってきている方向に向かって走り出す。

 

 隊長たちと合流するまでの間、頭には『私』の心を守って下さった人たちの顔が浮かんでは消えていった。

 

 

 

 俺たちが村に到着する頃には既に村人の避難はほとんど完了していた。

 

 俺たちが村に入るのと入れ違いになるように村を出ていく人々。

 彼らを先導していた部下に荷車部隊の場所を教え、そちらへの村人たちの誘導を任せる。

 荷車部隊の場所までは護衛として二十人程、同伴させて万全を期している。

 

「あなた方の身の安全の為とはいえしばらく不自由を強いる事、先に謝罪させていただきます。申し訳有りません」

「い、いえいえ! これほど手厚く保護していただいていると言うのに不満などあろうはずがありません! どうか顔を上げて下さい!」

 

 恐縮しきりの村長の言に従い、下げていた頭を上げる。

 

「建業遠征軍総勢二百名、海賊の討伐及び貴方方の護衛に全力を尽くします」

「宜しくお願いいたします」

 

 村長以下、村人一同に対して敬礼しすぐに背後に控えた部下たちに向かって指示を出す。

 

「作戦を伝える。まず俺と三十名は海辺から乗り込んでくる海賊を迎撃、しかしこの組の目的は時間稼ぎだから敵を倒す事に拘る必要はない。残り百名は二手に別れて村を大回りし、連中を囲い込むように動け。そちらの指揮は賀副隊長、宋副隊長に任せる。俺たち時間稼ぎ組が上手く敵を引きつけた所を一気に攻め込んでほしい」

「心得ました」

「や、やってみます! あ、いえ……やって見せます!」

 

 二人の同意を得た上で俺はさらに話を進める。

 

「奴らを逃がすとまたいつ村が襲われるかわからん。ここで確実に全滅させる為にも有力な逃亡手段である船は奪うか、最低でも航行不能にする必要がある。如何に早く船を無力化出来るかが鍵だ。その事をしっかり心に留めて動け」

「「「「「おおっ!」」」」」

 

 俺と豪人殿、公苗の前に自発的に部隊が分かれて集まっていく。

 俺の部隊は作戦の要であり最も危険だ。

 よって成功率を上げる為に部隊全体の中でも精鋭で構成されなければならない。

 その辺りは言うまでもなく心得ているようで指示を出すまでもなく流れるように組分けは完了した。

 

「では三十名は俺に続け。俺たちが作戦の肝である以上、失敗は許されない。敵を引きつけると言う性質上、もっとも困難な役割だ。一瞬の気の緩みが死に直結すると思えッ!!!」

「「「「「はっ!!!!!」」」」」

 

 俺たちは各々に課した役割を果たすべく動き出した。

 

 

 この村は海に面している。

 地形としてはここまで俺たちが行軍してきた平原と海賊たちが航行している海とで挟まれる形だ。

 村の規模はそこそこ大きい物で人数は七十名程度。

 海に面して南北方向に民家がぽつぽつと並んでいる。

 

 公苗が賊を確認した岬は村から見て北側に当たる。

 そこから彼女にはこの村と村に迫る船が見えたのだと言う。

 岬から村までは俺の体感時間で十分とかからない位置だ。

 今、村からその岬を見上げてみても充分に村の様子を確認できる距離だろう。

 

 しかし近づいてくる船が海賊船であると識別出来るかと言えば首を傾げる。

 公苗によれば興覇たち錦帆賊と比べて、明らかに人相が悪く船の使い方が荒いとの事だ。

 

 しかしそんな細かい部分まで確認出来ると言うのは余りにも人間離れし過ぎているんじゃないか?

 面と向かって言ってしまうと彼女を傷つけてしまうから言わないが。

 

 村長たちから聞いた話では甘寧たちは既にこの村を巡回し、さらに南へ移動してしまった後だとの事だ。

 巡回していない大陸南方の海辺に村が点在している事から考えても彼らが引き返してくる理由は無いと言う。

 

 賊と目されている連中と彼らとでは船の編成が異なるので違うだろうと当たりは付けていたが、近づいている海賊が錦帆賊ではないという事は村長らの情報でほぼ確信出来た。

 

「……ここまで近づいてくれば俺たちでもヤツらが見えるな」

 

 海賊船は既に船上で動いている人間を目視出来る距離まで近づいていた。

 奴らが浜辺に到着するまでもう五分とかからないだろう。

 

「……まずは敵の目をこちらに引きつける。奴らが浜辺に上陸してきたらその進軍速度に合わせて下がるぞ」

 

 方針を確認しながら一瞥。

 部下たちが無言で頷くのを確認し、視線を前方に固定する。

 

「遠慮はいらねぇぞ!!! 金目のもん、女、なんでも好きなだけ奪い取れぇっ!!!!!」

「「「「「うおおおおおおっ!!!!」」」」」

 

 聞こえてくる声。

 追随する叫び声。

 まるで獲物に飛びかかる獣のようだと俺は考え。

 彼らは自分と同じ『人間』であるのだと思い直し。

 

 そして。

 彼らを叩き潰す事を改めて誓い、拳を握り締めた。

 

 

 

 楽な襲撃になるはずだった。

 

 錦帆賊の連中がいなくなったのを見計らって村を攻める。

 この日の為に、連中の動きを徹底的に洗った。

 

 何日も何日も村に偵察に出て連中がいなくなる時期を確認してようやくだ。

 奴らさえ邪魔しなけれりゃ俺たちをどうにか出来るような奴はいない。

 

 国の軍なんてただ威張り散らして、税金を絞り出すような見かけ倒しだけ。

 いざって時に何もしない、出来ない。

 兵士なんてただ鎧が大層なだけで、何の役にも立たねぇ奴の集まりで。

 運悪く出くわしても荒事で馴らした俺たちの敵じゃねぇ。

 

 この間、別の村を襲った時も奴らはなにもしなかった。

 お陰でこっちは楽しませてもらった。

 『楽しんだ後』の女を売ったお陰で金も結構ある。

 金が無くなった時の為に買い手が付いているガキを一人残してるから二、三週間は全然持つはずだ。

 

 全部、俺たちの思い通りだ。

 この時まではそう思っていた。

 

 

 最初は順調だった。

 ようやくやってきた絶好の機会で俺たち全員が気合い充分だったから、国の軍らしい連中がいたのにも構わず突撃した。

 突撃したら連中、こっちが近づく前に下がっていきやがった。

 臆病者どもがって罵りながら俺たちは良い気分で奴らを追い立てる。

 村の中までなんの抵抗もないまま来れた。

 

 この村には若い女が多かったから楽しめるかって期待してたんだが人の気配はまったくしない。

 たぶん目の前で逃げてる軍の連中が逃がしたんだろう。

 余計な手間かけさせやがってと舌打ちした。

 

 イライラしながらいつまでも逃げ続ける連中を追いかける。

 

 一応の警戒として船に残っていた仲間たちもどんどん俺たちに続いて船から降りてきたからもうこいつらにはどうしようもできねぇ。

 そう思って気分良く笑った瞬間だ。

 

「もうそろそろいいか」

 

 逃げていく軍の最後尾にいた男が呟いた声が聞こえた。

 追い立てられてるってのに妙に落ち着いた呟き声が耳に残る。

 

 次の瞬間、連中は逃げ回っていたのが嘘のようにこちらに向かって突撃してきた。

 

「へっ?」

 

 間の抜けた誰かの声が俺の耳を打つ。

 思わず呆然とするくらい奴らはいきなり動きを変えていた。

 情けなく逃げまどっていたはずの、役立たずどもだと思っていた連中が、今は俺たちを目だけで殺そうとするような恐ろしい視線を向けてきている。

 

「一人残らず叩き潰せぇえええええ!!!!」

 

 男の吼え声のような大音声。

 俺たちがその声に気圧されて今までの快進撃が止まった瞬間。

 足幅で十歩は離れていたはずの俺と吼えた男の距離が無くなり。

 ゴキリと言う腹に響く音と一緒に目の前が真っ暗になった。

 

 

 

「まず一人」

 

 完全に油断しきった海賊たち。

 その先頭にいた一人の無防備な横面に体重を乗せた裏拳を叩き込み、顔の骨をへし折った。

 

 手甲越しに感じる骨を折った感触を無視し、自分が死んだ事も理解していないだろう首が九十度曲がったままの体勢で吹き飛んだ賊が砂浜に叩きつけられる。

 

 仲間が一瞬にして殺された事で棒立ちになった海賊たちを前に俺は右手を掲げる。

 

 それを合図に俺の後ろから数十本の槍が飛翔。

 意識の空白を突かれた海賊たちの最前線は悲鳴を上げる事も出来ずに槍の雨の餌食になった。

 

「一気に蹴散らせぇ!!!」

 

 叫ぶと同時に槍が突き刺さって倒れた海賊を踏み越えてさらに槍の被害を免れた海賊を殴り飛ばす。

 その頃になってようやく自分たちの置かれた状況を認識し、動き始めた賊たちだがその動きに俺たちの猛攻から逃れられる程の素早さは無い。

 

 そして部下たちは槍のような長物を扱う場合の足運びをしっかり調練している。

 砂浜と言う踏み込みに適していない足場であっても、それなりの威力を誇れるようにぬかるんだ沼地で武器を振るう訓練までしたのだ。

 その威力は隙だらけの賊を一蹴するに申し分ない。

 

「「「「「うおおおおおおおお!!!」」」」」

 

 賊たちを威嚇するような大声と共に腰だめに両手で握った槍を構え部下たち十人が走り込み最前線にいる俺よりも前に出る。

 ようやく正気に戻り、武器を構え出した賊たちは既に渾身の一撃を放つ体勢の彼らから見れば格好の的だ。

 

「放てッ!!!」

「「「「「はぁあああああ!!!!」」」」」

 

 合図と共に彼らは前方に槍を突き出す。

 

「「「「「ぎゃぁあああああっ!!!!????」」」」」

 

 自分たちの前方にいた賊を一刺しにした十人は俺の指示を待つまでもなく武器を構えた姿勢のまま後ろに下がる。

 無事だった賊たちは反射的に彼らを追いかけようと走り出し。

 

「放てッ!!!」

「「「「「やぁああああッ!!!!」」」」」

「「「「「うぎゃぁああああああっ!?!?!?」」」」」

 

 槍撃部隊の第二陣の餌食になった。

 そして残りの十人が敵の断末魔を合図に畳みかけるように矢を放つ。

 時間差で最初に見事な突きを見せた槍撃第一陣が武器を持ち替えて矢を放つ。

 

 針鼠ならぬ槍鼠と化した者、体に槍で風穴を空けられ倒れ伏した者、彼らと同じように矢に穿たれて命を散らす者。

 等しく訪れる死と言う結果を前に海賊たちの志気は無いに等しいくらいに低下する。

 四十、いや五十人は殺しただろうか。

 数の上ではまだあちらが圧倒的に上だが形勢は既に逆転していた。

 

「な、なんだ。こいつら、馬鹿みたいにつえぇぞ!?」

「こんなのかなうわけねぇ。逃げろッ!!!」

 

 不利と見るや否や彼らは脇目も振らずに逃げ始めた。

 

「一人も逃がすな!」

「「「「「「はっ!!」」」」」」

 

 しかしこれだけ海岸から引き離された状態で引き返す決断をするのは愚策だ。

 どうやら奴らには俺たちが何故、最初から攻勢に出なかったのかは気づかれていないらしい。

 それならそれで構わない。

 奴らが知るのは自分たちの敗北と言う結果だけで良いのだから。

 

 そして彼らは海岸に辿り着くまでの追撃でさらに仲間を失い。

 

「あ、ああ……!!」

「う、うそだろぉっ!?」

 

 そして既に宋謙分隊、賀斉分隊によって制圧あるいは沈められている自分たちの船を見て絶望する事になった。

 

 

 錦帆賊からもらった情報によれば船舶は大型であればあるほど鈍重で頑丈、小型になればなるほど速度を上げる為に脆弱な造りになると言う。

 先登と艇はこの時代の船としては小型な部類だ。

 彼らが所有していた露橈かそれ以上の大型の船ならば無理だが、それ以下の型の船ならば航行不能にするくらいに破壊する事は難しくない。

 

 水上戦になれば今の俺たちでは勝利するのは難しい。

 だが今、連中は船を停泊させている状態ですぐに動かすことが出来ない。

 奇襲で船底に穴の一つでも空ける事が出来ればそれで終わりである。

 ちなみに公苗の持つ大型の棍棒とそれを振るう腕力ならば同じ箇所を数撃叩けば穴を空けられるだろう。

 豪人殿の大剣でも同様の事が可能だ。

 

 

 俺たち凌操分隊が敵を引きつけたお陰で敵はそのほとんどの戦力(目視確認で大体、百五十人と言った所)を船から離してしまった事で奇襲に抵抗する事も出来なかったようだ。

 

 先登は一隻を航行不能、一隻をほぼ無傷で確保。

 艇は三隻全てを航行不能にまで破壊し、乗組員は無力化させた。

 制圧した船には隊を象徴する『凌』の牙門旗が突き立てられている。

 

「貴様等に残された道は二つ。武器を捨てて投降するか死を覚悟して抵抗するか、だ。あいにくと腰を据えて考えさせる時間はやれん。五つ数える間に武器を捨てなければ容赦はしない」

 

 淡々と告げる。

 既に退路が無い事を察した海賊たちは武器を捨てていく。

 全員が武器を手放した事を確認した所で俺はヤツらを拘束するよう指示を出した。

 何人かを縄など拘束に使えそうな物を捜しに行かせ、その間に俺たちは海賊たちを村から遠ざけ一カ所に集めて包囲する。

 

「くれぐれも妙な気を起こすな。例え一人の行動であってもそいつ一人を処断するだけで済ませるとは限らないからな」

 

 要約すれば誰かが逃げようとすれば何人かを殺すと言っている訳だが。

 

 意図は伝わったらしく妙な動きをしようとしていた奴もおとなしくなった。

 と言うよりも周りの奴らがそいつを押さえつけて無理矢理おとなしくさせていた。

 

 誰でも自分の命は惜しい。

 既に逃げる事を諦めた者と自分だけでも助かろうとする者。

 意識の違いによる仲違いで既にこいつらの仲間意識は疑心暗鬼でズタズタだ。

 例えこいつら全員をなんらかの理由で取り逃がしたとしても二度と一つの海賊団として機能する事は出来ないだろう。

 

 そして一刻後。

 完全に海賊たちを拘束、遠征軍初の戦闘は軽傷者十数名を出しながらの敵勢力完全無力化と言う限りなく理想に近い結果で終わりを迎えた。

 

 

 

「隊長。船の中に少女が一人捕らえられておりました。ずいぶん弱っている様子でしたので保護しようとしたのですが……」

 

 奴らの悪行を象徴する心の傷を抱えた少女との出会い。

 この子との出会いによって俺は知識として知っていたこの時代の無法の一端をまざまざと見せつけられる事になる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十一話 囚われの少女

幼い子供の喋り方に違和感があるかもしれません。
試行錯誤しましたが変換した漢字も含めて独断です。
子供っぽさが出ていればよいのですが。
それでは本編をどうぞ



 船の倉庫らしき場所にその少女はいた。

 

 倉庫の隅で身体を守るように身を丸め、ガチガチと歯を噛み合わせながら震えている。

 精一杯、こちらを睨みつける瞳には来訪者である俺への警戒心となにをされるかわからない事への恐怖が浮かんでいた。

 

 見た目は七、八歳と言った所だろうか。

 猫の耳があしらわれたフードを被って威嚇するように喉を鳴らす姿は正に猫その物のように見える。

 少女は口を開く事なくただ部屋に足を踏み入れた俺を睨んでいた。

 

 

 俺がこうして直接、海賊に囚われていた彼女の元に来たのには理由がある。

 

「我々は建業の軍隊の者だ。君を連れ去った海賊は、我々が捕らえた。だからどうか安心してほしい」

 

 出来る限り丁寧に、そしてゆっくり言葉を紡ぎながら一歩ずつ彼女に近づく。

 俺と少女の距離が近づいていくにつれて彼女の身体の震えが増していくのがわかった。

 

「こないで!!!」

 

 幼い子供が出したとは思えない金切り声。

 俺はその言葉に従ってその場で足を止めた。

 

 目尻に涙を溜めながら喘ぐように荒い呼吸を繰り返す少女。

 苦しそうに、嗚咽を漏らすその様子を見て、俺は彼女に気づかれないように下唇を噛んだ。

 

 彼女はアレルギーもかくやと言う深刻な症状の人間不信に陥っていた。

 

 最初に見つけた部下の報告によれば連れ出そうと手に触れた瞬間、暴れ出したらしい。

 幼い少女相手に必要以上に強引な手段に出るわけにもいかず、俺に報告を上げてきたとの事だ。

 何人かが彼女をここから出そうと話しかけたが結果は同じ。

 そしてそれは俺が出向いても変わらなかった。

 

 仕方のない事だろう。

 彼女がどのような仕打ちを受けたのかは想像するしかない。

 しかしこんな年齢の少女が誰彼かまわずに反射的に怯えてしまうような、非人道的扱いをされていた事は察する事が出来るから。

 

「すまない」

 

 俺がこの場で出来るのはただ謝罪する事だけ。

 彼女が怯えないで済む出入り口付近まで下がり、俺はその場で土下座した。

 

「君を守る事が出来なかった。助ける事が出来なかった。本当に、すまない……」

 

 船の床に頭をこすり付けたまま謝罪する。

 こんな事しか出来ない自分の力の無さが腹立たしかった。

 

「食事はここに持ってくる。君はここから出たくなった時にここを出るといい。君の行動を阻む人間はもう誰もいないから」

 

 出来るだけ丁寧な言葉を使う。

 脳が沸騰する程に煮えたぎる怒りを彼女に感じ取らせないよう心の内に押し留める為だ。

 近づいてくる人間のあらゆる行動に敏感になってしまっている少女をこれ以上、刺激するわけにはいかない。

 

 立ち上がり、彼女と目を合わせる。

 少女は変わらず怯えながら俺を睨みつけていた。

 

「……」

 

 無言の少女にもう一度だけ頭を下げ、静かに部屋を後にした。

 部屋の戸の前で俺を待っていた部下たちに戸越しに彼女を刺激しないよう目でここから去るよう伝える。

 

 幼い子供の足で船の外に出るのは難しい。

 甘嬢や雪蓮嬢たちのように常日頃から動き回っているなら話は変わるだろうが、ずっとあの倉庫部屋に押し込められていた彼女では船内を動き回る事さえ辛いはずだ。

 どの道、甲板に出る為の出入り口は一カ所しかない。

 ならばそこに最低限の見張りを付けておけば彼女の動向は把握出来るだろう。

 

 精神的に不安定になっている今の状態で彼女を一人にするのも危険だが、先ほどの態度から判断すると今は他人が近くにいる事こそ危険だ。

 『自分の近く』に人がいる事こそ今の彼女にとって害なのだから。

 

 食事などの最低限の接触を除いて近づかない方が良いだろう。

 

「公苗と何人か女性の兵士に船の見張り、いや彼女の護衛に付くように伝えろ。彼女は人に怯えている。必要以上の接触は彼女にとって悪影響になると言う事を周知するのを忘れるな」

「はっ!」

 

 部下を引き連れて船を下りながら指示を出す。

 

「荷車部隊は今どうしている?」

「つい先ほど村人たちを護衛しながら村に到着したそうです」

「なら家屋の修繕作業に入るよう伝えろ。逃げられないようにする為とはいえ村の奥まで敵を引きつけたからな。どこなりと壊れているはずだ」

「了解です」

「とりあえず材料には破壊した船を使え。それと死体の回収は終わっているが血痕は残ったままだから、そちらの処理も忘れるな。家屋や道具に血が染み込んでしまっていたら最悪、その部分は剥ぎ取って修繕しろ。住民にはなるべく血を見せないよう配慮しろ」

 

 散会していく部下たちを見送り、俺は生け捕った海賊たちの元に向かう。

 あの少女をどこから連れ去って来たのかを聞き出さなければならない。

 

「本来なら奴らの扱いに関しては村の住人の意見を聞いた上で蘭雪様たちの指示を仰がなければならないんだが……」

 

 正直な所、あんな少女の有り様を見せられた今となっては理性的な対応が出来るかどうかわからなかった。

 俺はあんな小さな子供をまるで物のように扱った馬鹿者どもに情けをかけられるような聖人君子じゃないのだから。

 

 戦とあらば最前線に立つ人間である俺が、前世で戦争の悲劇、惨劇を生み出した事もある俺が、こんな事を考える資格などないのかもしれない。

 だが奴らを許せないと言う思いはどんどん俺の中から沸き上がっていく。

 何より今も尚、苦しんでいるんだろう彼女に何もしてやれない自分への怒りでどうにかなってしまいそうだ。

 

 拳に力が入る。

 握り込み過ぎて爪が皮膚を抉り、血が手を濡らしていくのがわかる。

 自傷行為で八つ当たりでもしていなければ、海賊たちの姿を視認した瞬間に殴りかかってしまうだろう。

 

 俺は海賊たちを隔離した広場に到着するまでの間、拳の痛みと共に自分の無力さを噛み締めていた。

 

 

 

 

 

 慈明おばさまにさそわれてちかくの村にあそびに行った。

 そこにはおなじくらいのとしの子がたくさんいて、わたしとも友だちになってくれた。

 

 おばさまもおかあさまもわたしが友だちとあそんでいるのを見てとてもよろこんでくれた。

 

 でも。

 夕方になるまで村の外であそんで、もうかえろうとしたらきゅうに知らない人にだきしめられて……。

 

 

 おきたら暗いへやの中にいた。

 あたまがいたくてそこをさすってみる。

 ずきずきしてたんこぶができてるのがわかった。

 

 へやの中にはわたしだけじゃなくて友だちも一人いた。

 あと知らないおねえさんが三人。

 

「こわいよぉ、ぶんじゃくちゃん」

 

 ぎしさいちゃんがわたしにだきついてふるえている。

 よくわからないけど、このへやにいる人はみんなふるえていた。

 おねえさんの中には泣いている人もいる。

 

 なんで?

 

 すぐにわかった。

 

「いやぁあっ!! 離して!!」

「うるせぇ! 売り物は黙って買われていきゃいいんだよ!!」

 

 こわいかおをしたおとこの人におねえさんがつれて行かれるのを見たから。

 

 ひっぱられてつれて行かれるおねえさんはとてもこわがっていた。

 わたしもぎしさいちゃんとだきあってふるえながら泣くしかなかった。

 夜はぎしさいちゃんとだきあってねむる。

 でもこわくてねれなくて泣いてしまうことも多かった。

 

 

 すごくすくないごはんを分けあって食べる。

 もうおねえさんたちはみんなつれて行かれてしまった。

 わたしとぎしさいちゃんはずっと引っ付きながらふるえていた。

 

 ごはんをもらうときいがいでこのへやに人がくるときはだれかがつれて行かれるとき。

 だから人のあしおとがきこえてくるだけでからだがふるえた。

 

 そして。

 とうとうぎしさいちゃんがつれて行かれることになった。

 

 ぎしさいちゃんがつれて行かれるとき、わたしはおとこの人の手にかみついた。

 すぐにぶたれて、らんぼうにひっぱられて、気が付いたらへやにはだれもいなくなっていた。

 

 わたしは友だちをたすけられなかった。

 ぶたれたほっぺのいたさとだれもいなくなったことでさびしくなってわたしは泣いた。

 

 一人だけのへや。

 だれもいない暗いばしょ。

 わたしたちをどこかにつれていくこわい人たち。

 

 こわい。

 いやだ。

 みるな。

 くるな。

 

 ぎしさいちゃんがいなくなってながい間、ずっと一人で。

 ごはんをたべたらすぐにねるようになった。

 

 一人でできることなんてなにもなかった。

 

 目をさますといつもとなにかがちがう気がした。

 

 ずっとゆれていたへやが止まっていた。

 それにいつもなら天井の上からどたどた物音がするのに今日はしずかだ。

 

 わたしもつれて行かれるのかな?

 

 からだがふるえてきた。

 足音がきこえる。

 いつもくる人とはちがう足音。

 

 でもきっとこわい人の足音。

 

 戸があけられる。

 わたしはへやのいちばんおくのかべにひっついてすわりこんだ。

 

「ここは……倉庫かなんかか?」

 

 きいたことのないおとこの人の声だった。

 思わずそちらをみる。

 

 前に家で見た国のぐんたいの人が着ているような服を着たおとこの人が立っていた。

 

「ん? おいおい、こんなとこに女の子だと?」

 

 わたしを見てびっくりしながらこっちにあるいてくる。

 

「大丈夫か? どっか痛くないか?」

 

 今までへやに入ってきたこわい人とちがうやさしい人だった。

 

 でも。

 その人がわたしの手にさわったら。

 おねえさんたちやぎしさいちゃんがつれて行かれたときのことがあたまにうかんできて。

 

「いやぁあああああああああああああっ!!!!!!」

 

 今まで出したことない大きな声が出た。

 

「お、おい!? お嬢ちゃん、どうした!?」

「いやぁっ!!! こわぃいいいいい!!!! さわらないでちかづかないでつれていかないでえええええええええええっ!!!!」

「ちょっと、まて暴れるな!?」

 

 おとこの人はわたしの手をはなした。

 わたしは座り込んでふるえる。

 

 こわい人につれて行かれるぎしさいちゃんやおねえさんたちののかおがあたまにうかんで、目の前の人のことがこわくなってしまった。

 

「だ、大丈夫か?」

 

 首をよこに振る。

 

「……そっか。外に出られるか?」

 

 もう一度、首をよこに振る。

 

「わかった。悪かった、無理に連れ出そうとして」

 

 やさしい声であやまるとその人はへやを出ていった。

 

「なん、で?」

 

 今の人はこわくなんてなかったはずなのに。

 手にさわられたら、急にこわくなってしまった。

 

 それから何人も人が来てわたしに声をかけてきたけど。

 だれにもついていけなかった。

 

 さわられるとなにもかんがえられなくなってあばれてしまう。

 それはおとこの人でもおんなの人でもおんなじで。

 

 どうしたらいいかわからなかった。

 でもちかづかれるとこわくなる。

 さわられるとあばれてしまう。

 

 こんなくるしいきもちになるなら。

 だれもわたしにちかづかないで。

 

 またこのへやの戸があいた。

 

 もうこないで。

 

 

 

 海賊たちは彼女の事をあっさり話した。

 豫州(よしゅう)の潁川(えいせん)群にある村で遊んでいた所を誘拐したらしい。

 涼州や幽州、益州ほどではないがそれでも現在の交通手段を考えるとかなり遠い場所だ。

 奴ら曰く誘拐する場所と売る場所は遠ざけるのが鉄則なのだと言う。

 『商品』の友人知人がいない場所なら逃げられる心配も半減するらしい。

 余談だがそんな人に誇れるような事ではない知識を得意げに語った奴については即刻ぶちのめしている。

 彼女以外にもその近隣から何人か誘拐し、既に売り払っている事も聞き出した。

 

 買っていった人間については奴らも詳しくは知らないらしい。

 連中に取引先の事を黙っているような義理堅さがあるとは思えない。

 二、三人締め上げても口を割らなかった事から本当に知らないと見ていいだろう。

 

 船に残っている少女については呉と隣り合っている会稽(かいけい)群で取引を行う事になっていたとの事だ。

 

 彼女だけでも売られる前に助ける事が出来た事を喜ぶべきなのだろうか?

 だがあんな状態になるまでに助ける事が出来なかった事実、そして既に売られてしまった少女たちの事を考えるととてもではないが喜ぶ事など出来ない。

 

 駄目だ。

 これからの彼女の生活を考えるとどうしても考えが後ろ向きになってしまう。

 

「凌隊長殿、この村を守っていただきありがとうございます」

「いいえ、民とその暮らしを守る事が私たちの仕事ですから」

 

 深く頭を下げて礼を言う村長に当たり障りのない言葉を返した。

 『彼女』の事がなければ素直に礼を受け取れたのだろうが。

 守るべき物が守れた事への喜びや達成感も今は薄れてしまっていた。

 

 俺だけではなく部下たちも同じ心境だ。

 公苗や女性の部下たちは彼女の事を聞いてすっ飛んでいったし、家屋の修繕や海賊たちの監視に従事している者たちからは戦勝に対する興奮は既に無くなっている。

 

「……話は宋副隊長殿から聞き及んでおります。今がどれほど酷い時代かと言う事を改めて思い知らされた気分です」

「そう、ですね。こんな愚かな真似が横行する……本当に酷い時代です」

 

 だが時代を嘆く事は出来ても、時代をどうにか出来る力は俺にはない。

 自分が知覚出来る範囲を自分が持っている力で守る事しか俺には出来ない。

 人間一人の知覚範囲なんてちっぽけなものだ。

 現に今回のように知覚した時には既に手遅れになっている事もある。

 

 それが限界であり、現実だ。

 前世の頃から体験してきたどれだけ味わっても慣れる事などない無力感。

 それを俺は生まれ変わったこの世界でも味わっている。

 やり切れない物だ。

 

 別に俺は恵まれた身体能力があるからと言って、全ての人間を守れると思っているわけではない。

 だが今回のような事を目の当たりにしてしまうと、もっと力が欲しいと願わずにはいられなかった。

 

 だが闇雲に、我武者羅に強さを求めても駄目だ。

 何も考えずに強さを求めるだけでは現実逃避と変わらない。

 

 大切なのは逃げない事。

 味わう無力感を心に刻み付けて、死ぬその時までを必死に生きていく事。

 何のために強くなるのかを常に考え、その上で強くならなければならない。

 

「しかし貴方方のお陰で私どもは一人の被害者も出さずに済みました。重ねてお礼を言わせてください。ありがとうございます」

「……お礼の言葉、確かにお受け取りします」

 

 言葉の中にある俺たちへの気遣いを受け取る。

 

 いつまでも今回の事を引きずるわけには行かない。

 今回の事を悔いているならば繰り返さないように努力するしかないのだから。

 

 努力し続けてもこぼれ落ちる物は決して無くならないだろう。

 だがそれでも限りなく少なくする事は出来るはずだ。

 

「それでは私は修繕作業に戻ります」

「はい。長々とお引き留めして申し訳ありませんでした」

 

 村長と頭を下げあい、俺はその場を後にした。

 

 

 日が暮れた頃、俺は再び少女の元に向かった。

 倉庫の入り口には彼女の護衛に付いた女性兵士がいる。

 あまり近くにいるとそれだけで彼女を刺激してしまうと予測したのだが、同性である事が幸いしたのか今のところ彼女が拒否反応を示すような事態にはなっていない。

 だから少女との距離感についてはこいつらの裁量に一任する事にした。

 

 兵と目礼を交わし、中にいるだろう少女が怯えないほどの強さで戸を二回ノックする。

 

「入らせてもらってもいいだろうか? 食事を持ってきたんだが……」

 

 返事は無い。

 しかし人の気配は感じるのでいなくなったと言う事ではない。

 警戒して返事をしないだけだろう。

 

「美味しくないかもしれないが……食べられるなら食べて欲しい」

 

 部屋の奥で座り込む少女に声をかけながら持ってきた汁のお椀と食べやすいように骨を取り除いた焼魚の木皿を置く。

 

 人間不信が食欲にまで影響していなければ食べられない物ではないはずだ。

 出来るなら固形物ではなく食べやすいお粥にしたかったが、米の持ち合わせが残っていなかった為に断念している。

 

「では失礼する。食器は後で取りに来るからそのまま置いておいてくれればいい」

 

 じっとこちらを、いや湯気の出る暖かい食事を見つめる少女。

 僅かばかりではあるがその瞳に生気が戻ってきたように見えて、俺は少しだけほっとした。

 

 食事をする意欲があると言う事は生きる気概を無くしたわけではないと言う事だから。

 

 それが確認出来ただけでも来た甲斐はあった。

 回復するのにどれだけの時間がかかるかはわからないが傍にいる間くらいは自分に出来る事で彼女を助けて行こう。

 

 そう考えながら俺は倉庫を後にする。

 見張り番の兵に頃合いを見て食器の回収を頼むことを忘れずに。

 

 

 村長の好意で貸してもらった家屋の机で今回の海賊襲撃について報告書をまとめながら考えを巡らせる。

 

 捕えられていた少女については特に詳細に伝える必要があるだろう。

 賊は豫州の村で捕まえたと言っていたが村の子供にしては着ている服が上等であったように思う。

 賊の言った言葉がどこまで信用できるかわからないが、もしかしたらどこかの貴族の子を誘拐している可能性もある。

 

 この時代の貴族については話に聞くだけで詳しくは知らないが、家柄が一つの才能のように重視される物である事はわかる。

 そして家柄によって引き起こされる騒動の被害が馬鹿にならない事を知識で知っている。

 その事を鑑みると彼女の存在が呉になんらかの不利益をもたらす事になるかもしれない。

 あの子自身は被害者でしかないと言うのに、だ。

 

「本当に、酷い時代だ」

 

 考えたくもない事を考えなければならず、さらにそれを実行しなければならないのだから。

 心の底から出た苛立ちの声は幸か不幸か誰にも聞かれる事はなかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十二話 邑へのアフターケア。その頃の建業

 海賊たちによる人身売買の詳細。

 捕らえられていた少女、そしてあの少女以外に売られた者たちについて。

 

 賊を締めあげて手に入れたそれらの情報を伝令二名に報告に行かせて既に一週間。

 何事もなければそろそろ建業に到着する頃だろう。

 報告にどの程度かかるかがわからないが、そこから馬と伝令自身を休ませこちらに戻ってくるには到着後から換算して最速でもさらに一週間ほどかかるだろう。

 

 さすがに遠征を続けていると建業との距離が離れていくから、報告を送るのにも時間がかかってしまう。

 交通手段で最速なのが馬なのだから当然だろう。

 時速百キロ越えも可能だった前世が、本当に恵まれていたと言う事を実感出来る。

 無い物ねだりをしても仕方ないが。

 

 村の被害は思った程に酷くはなく、修繕についても材料は取り壊した船で事足りている。

 一週間経った今では作業自体はほぼ完了した。

 

 生き残った海賊七十人については蘭雪様たちの判断を聞くまでは生きていてもらわなければ困るので最小限の水と食事を与えている。

 

 しかし連中も馬鹿ではない。

 このままでは自分たちが生き延びる可能性がほとんど無い事を理解している。

 だから夜闇に紛れて逃げ出そうとする輩が後を絶たない。

 

 現在、七十人いたはずの賊は四十人にまで減っている。

 逃げ出す奴を容赦なく処断した為だ。

 それでもまだ残りの連中は逃げ延びる事を諦めていない。

 そのバイタリティには頭が下がるが、だからと言って逃がしてやるつもりはない。

 

 奴らを逃がしてしまえば、また悪事を働くからだ。

 何度か尋問と称して話をしたが奴らに更正の余地はない。

 全員が全員、賊である事を楽しんでしまっている事が言葉の端々から感じ取れた。

 口では「反省している」だの「二度としない」だのと言っているが、その目に言葉通りの感情は見られない。

 生きてこの場を乗り切る為の方便以上の意志が無いのだ。

 

 逃がせば同じ事を繰り返す。

 そしてそれはつまりあの子のような犠牲者が増えると言う事に他ならない。

 そんな事を許すわけにはいかない。

 絶対に。

 

 だから逃げ出した奴には容赦はしない。

 そして十中八九、蘭雪様たちにも奴らを生かす意図はないはずだ。

 

 

 捕らわれていた少女の様子だがそれなりの時間が経過し、さらにしっかりと食事を取らせているお陰で身体的には回復してきている。

 

 相当に切り詰められた食事を強制されていたらしく、見つけた当初は子供である事を差し引いても病的なまでに痩せていたから血色が良くなってきたのは良い事だ。

 

 しかし食事以外の接触では誰が相手であっても怯えるのは変わらず。

 精神的な回復はまだまだ遠い様子だ。

 公苗たち女性陣に対して男が相手をする時に比べて怯えが少ない事だけが救いか。

 気に懸けていて思った事だが、発見当時よりもその傾向が顕著になっているように思えた。

 そして他の人間よりも多く会いに行っている事が功を奏したのか、俺に対しても怯えが少ない、らしい。

 『らしい』と言うのは俺自身には彼女の態度に明確な差異を感じ取れないせいだ。

 

 食事を持っていっても未だに俺が出て行ってからでないと手をつけないので気のせいじゃないかとも思うのだが、公苗たちに言わせると態度は確実に軟化していると言う。

 正直、その辺りの感覚はよくわからない。

 ただあいつらがそう思っているのなら頭の片隅に置いておくくらいはしておくべきだろう。

 

 まぁどちらにせよこれからも時間の許す限り、会いに行くつもりではいるのだが。

 

 しかし警戒、嫌悪する相手が異性に固定される傾向が出てきたのは問題かもしれない。

 これから彼女がどのように生きていくのかはわからないがその過程で異性と関わる事がないと言う事はありえない。

 そんな時に今回のように近づかれる事、触れられる事にすら過剰に反応するようでは最悪、生活や仕事に支障をきたす事になるかもしれない。

 

 さすがに考え過ぎだろうか?

 

 とはいえ少しずつでもいいから異性にも怯えない程度には慣れさせていかなければならないだろう。

 彼女の境遇を考えれば男という存在全体に対して嫌悪感を持ってしまっても仕方がないと思うのだが。

 

 なにかしらきっかけでもあれば良いのだが、彼女が外に出ようとしない事もあって食事を持っていく以外の接点を作れていない。

 俺が焦ったところで上手く行かないのは目に見えている。

 もどかしく思うが、今はゆっくり彼女の警戒を解いていくべきだろう。

 

 

 問題はまだある。

 襲われた村人たちだ。

 彼らは海賊に村を襲われた事で日々の生活に不安を抱くようになってしまった。

 

 賊の襲撃と言う身近になかった出来事が自分たちに降りかかってきたのだ。

 不安が膨れ上がるのも当然の事だと言える。

 

 彼らの心の安定を図る為にもしばらくはこの村に駐留する事にした。

 あの少女の事もある。

 

 行軍予定は大幅に遅れ、遠征任務自体にも支障が出るだろうがそれは既に仕方のない事と割り切っている。

 俺たちの役割は民を守る事であり、手柄を挙げる事でも名声を得る事でもない。

 目的を履き違えてはいけないのだ。

 

 部下たちには一度、話をして納得してもらった。

 元々、あの少女については隊全体が気にかけていたし、村の様子にも気づいている者は多かった。

 反対意見を出した者たちについても別に少女や村の事をないがしろにしている訳ではなく、任務遂行も大切だと意見したに過ぎない。

 最終的にはしばらくここに駐留すると言う結論でまとまった。

 

 

 少女については可能な限り気長に行くしかない。

 となると今出来るのは村人たちの不安を取り除く事になる。

 

「近隣に三十名、哨戒に出す。賊徒があれだけとは限らん。気になる事はどんなに小さな事でも記憶に留め、報告しろ」

「「「「「はっ!」」」」」

 

 不安を取り除くにはどうしたらいいか?

 確固たる安全を目に見える形で証明しなければならない。

 

 こんな時代だ。

 絶対に安全な場所など究極的には存在しないと言ってもいいだろう。

 西方では異民賊によって城を落とされた場所もあると聞く。

 治安向上に取り組んでいるこの呉の地ですら、今回のように建業から離れれば賊が現れる事があるのだ。

 

 では安全を保証する事は出来ないのか?

 そんな事はない。

 

 重要なのは彼らの不安を取り除く努力をする事。

 しかしただ努力をするだけでは駄目だ。

 村の平和を守る為にどういう根拠を持ってどの様に対応するのかを具体的に示し、実行する。

 

 行動する者の姿は人を惹き付け、時に安心感を与える。

 過去の経験から俺はその事を知っている。

 

 あの時は最初、俺と陽菜だけしかいなかった。

 しかし今の俺たちは二百名からなる部隊なのだ。

 精力的に動く俺たちの行動は、彼らの不安を緩和する事に繋がるだろう。

 まずはそこからだ。

 

「二十名は俺と共に来い。見晴らしの良い場所に物見櫓(ものみやぐら)を建てる。幸いな事に材料には事欠かないからな」

「どの辺りに建てますか?」

「何ヶ所か目星は付けているが皆の意見も聞いて決めたい。数はしっかりした造りの物を最低でも二つだ。建業に出した伝令が戻るまでに一つは組み上げるつもりだ。そのつもりでかかれ」

「「「「「はっ!」」」」」

 

 一糸乱れぬ動きで敬礼を返す部下たちに返礼する。

 次の指示を出すべく副官である豪人殿に声をかけた。

 

「豪人殿。今、見張りに付いている者たちを含めた八十名を率いて海賊たちの監視をお願いします」

「ふむ。賊の数は捕縛した当初に比べてかなり減っております。八十名は些か多いと考えますが?」

「未だ連中は逃げる事を諦めていません。それに村人たちは奴らの存在を怖がっていますから。安心させる意味合いもあります」

「成る程。そういう事ならば確かに納得ですな。承りました。……志願する者は私に続け!」

 

 豪人殿の低いがよく通る声に従い、部下たちが彼の後ろに並ぶ。

 

「公苗は残り七十名と共に村の警邏だ。女性兵はあの少女の近辺を気にかけてやってくれ」

「わかりました!」

 

 元気の良いハキハキとした声で俺の命令を受ける公苗。

 あの少女の有様や海賊との戦いで何か感じる事があったのか最近は特に気合いが入っているように思える。

 

「それでは各自、自分の役割を果たせ。散開!!」

「「「「「応っ!!!!」」」」」

 

 突き抜けるほどに青い空の下、兵たちの返事が響き渡った。

 

 

 

 あれからさらに六日が経過した。

 やる事があると時はあっと言う間に過ぎていくと言うが、まったくもってその通りだと実感する。

 

 二ヶ所に建造した物見櫓はほぼ完成している。

 安全第一で頑強さを重視して造ったお陰で鎧を着たごつい男が五、六人登っても大丈夫だったので強度としては申し分ないだろう。

 欲を言えば物見台に小型の鐘を取り付けて有事の際に速やかに情報伝達が出来るようにしたかったのだが、さすがに鋳造技術などは持っていないので断念した。

 海賊たちは相変わらず逃げ出す者が後を絶たず、その度に処断されていった。

 生き残っている賊は十二人にまで減っている。

 

 日替わりで周囲の哨戒を行っているが、賊と呼ばれるような者たちは今のところ見つかっていない。

 その事からとりあえず近隣で人災に遭う事はないと考えていいと見ている。

 

 得られた情報については村長を通じて村人たちに周知してもらっているので、彼らの不安も少しずつではあるが払拭されてきているようだ。

 物見櫓が完成した事も彼らを安心させるのに一役買っている。

 

 

 そしてこの日、まるで全ての作業が一段落するのを見計らったかと思えるようなタイミングで伝令二名が建業からの指示と共に戻ってきた。

 

「凌隊長! ただいま戻りましたぁ!!!」

「まいど〜。吉報と朗報をお届けに上がりましたよ、隊長〜〜!」

「元代(げんだい)、公奕(こうえき)。長旅ご苦労だったな」

 

 かなり飛ばしてきたのだろう馬共々ヘトヘトであるはずだと言うのに、そんな様子を見せずに笑う二人の部下に俺も釣られて笑った。

 

 

 董襲元代(とうしゅう・げんだい)

 会稽群出身の武官志望の女性だ。

 部隊の中でも飛び抜けた身長の持ち主で、男女間での意識の違いが起こす摩擦に対して進んで解決に乗り出す物怖じしない姉御肌な気質を持っている。

 そんな性格のお陰で男女問わず仲が良い。

 姉御肌な性格とその身長が災いして二十歳を越えていると勘違いされる事が多いが、実は彼女はまだ十七歳である。

 武については公苗同様に発展途上であり、まだまだこれからだが磨けば光る物を持っていると豪人殿にも見込まれている。

 史実では孫策、孫権と二代に渡って仕えた忠臣であり特に孫権には重宝されていたと言う。

 確か最後は曹操軍との戦いの折、自身が乗っていた船が転覆。

 その際、脱出するだけの時間がありながら将軍としての責任を果たす為に残り溺死したとされている。

 

 

 蒋欽公奕(しょうきん・こうえき)

 間延びした口調と商人のような語り口が特徴の男性だ。

 口調の通りの飄々とした性格だが、見た目や雰囲気程に軽い男ではなく思慮深く物事を見る目を持っている。

 言動から教養のある人間だと思われがちだが、実家はただの農家なのだと言う。

 聡明である事は間違いないので今後しっかりと学を身につけていけばどんどん伸びていくだろう。

 どちらかと言えば前線よりも指揮官向けの人間だと思われるが武力についても並の人間相手ならば引けを取らない。

 一旗揚げる為に兄弟揃って建業に仕官しており、弟もこの部隊にいる。

 史実では周泰(しゅうたい)と共に孫策に仕え、袁術に身を寄せていた頃からの側近だと言われている。

 呂蒙(りょもう)と共に勉学に励む事で教養を身につけ、孫権に讃えられた事でも有名だ。

 荊州を巡った劉備(りゅうび)との抗争の折には水軍を率いて関羽を背後から襲撃し呂蒙と共に見事勝利したと言う。

 

 

「疲れている所、悪いが報告を頼めるか?」

「この程度、あたしは平気だよ。こいつはどうか知らないけどな」

「おやおや〜〜、そんな事をおっしゃられると僕も男として意地でも大丈夫と言わざるをえませんねぇ」

 

 この二人、性格的な相性の問題なのか妙に仲が悪い。

 仕事は仕事としてしっかりやってくれるのだが、何かにつけて言い争いが耐えないのだ。

 

「はぁ……喧嘩は報告の後でしてくれ」

「はい!」

「はい〜〜!」

 

 誰かが諫めればすぐにやめてくれるので、どちらも本気でお互いを嫌っているわけではないとわかるのだが。

 

「とりあえずお前たちは先に会議小屋へ行って待機だ。俺は宋副隊長たちを集めてから行く」

「隊長がやるような事じゃないだろ、それ。あたしが行くよ」

「そうっすねぇ〜〜。そういう雑用は下っ端にやらせて隊長にはどっしり構えていてもらうべきだと僕は思いますよ〜〜〜」

「……いや、お前たちほど疲れているわけではないからな。雑事だろうとなんだろうと体力が余っている人間がやる方が効率的だろう」

 

 普段、言い争いが耐えないのに俺を立てようとする所だけ意気投合するのだから俺も扱いに苦慮している。

 

「だぁかぁらぁあたしは平気だっての! ほら、行くよ!」

「はいはい〜〜、それじゃ隊長、先に会議小屋に行ってて下さいね〜〜〜」

「お、おい……」

 

 俺の制止の声なんぞ馬耳東風と言わんばかりに無視し、二人は馬に乗って走り出してしまった。

 

「はぁ、まったく。隊長思いの部下を持ったものだ」

 

 俺を気遣う前に俺の意見に耳を貸してくれてもいいと思うんだが。

 とはいえもう行ってしまった彼らを無視して俺が豪人殿たちを召集するのは二度手間になってしまう。

 今回は俺の方がおとなしく引き下がろう。

 

 気合いを入れる為に手で頬を叩く。

 小気味良い音で緩んでしまった気を引き締めると俺は会議小屋(村長の好意で貸してもらっている家屋の事)に向かった。

 

 

 

 刀にぃから錦帆賊と協力関係を成立させたと言う報告をもらってから建業での政務は忙しさを増していた。

 

 原因は報告の折にもらった長江近隣の情報。

 僕たちの方で知らなかった事柄について詳細にまとめられたそれらを整理するのに文官は一人の例外もなくてんてこ舞いになっていた。

 

 僕も深冬さんも激も例外じゃない。

 文官寄りの武官として政務にも携わっていた僕たちが、猫の手も借りたいこの状況で駆り出されるのは当然と言えた。

 

 あの蘭雪様でさえ文句を言わずに仕事をしている事からどれだけの仕事量で、その仕事がどれだけ大切な物か察する事が出来ると思う。

 だから仕事を振られる事に不満なんてない。

 ないんだけど。

 

「皆、仕事ご苦労だった!! 今日は呑むぞぉおおお!!!」

「「「「「おおおおおおっ〜〜〜〜〜」」」」」

 

 蘭雪様の音頭で大広間に集まった臣下たちがお酒の注がれた杯を片手に叫ぶ。

 臣下の中には祭さんや塁、激の姿も当然のようにあった。

 しかも祭さんの横にはお酒が樽で置いてある。

 

 

 三日に一度、仕事の鬱憤を晴らす為にこんな規模の大きな宴会を開くのはやめてほしい。

 別に仕事が一段落しても明日の仕事が無くなるわけでもないんだから。

 とは言っても溜まりに溜まった鬱憤を晴らす場が大切な事もわかっている為、止めるに止められないのが現状なんだけど。

 

「「「……はぁ」」」

 

 僕と美命様、深冬さんのため息が唱和する。

 

「すまんな。慎、深冬。また貧乏くじを引かせた」

「いえいえ、美命様が謝られるような事ではありません」

「そうですよ。僕たちは僕たちで楽しませてもらっていますから。それに昔から貧乏くじを引くのは慣れていますし」

 

 小さな杯で軽めのお酒をちびちびと飲みながら談笑する。

 

「昔からと言うのは仕官する前の事か?」

 

 僕の言葉に美命様は興味を持ったらしい。

 

「ええ、そうです。あの頃から祭さんたちが騒ぎを起こして僕と刀にぃが止める、そんな流れが出来てましたから」

「た、大変だったんですね。慎さん」

 

 深冬さんが当時の様子を想像して同情してくれる。

 確かにすっごく色々あったから疲れるけど、そこまで同情されるような事でもないと思う。

 なんだかんだで慣れていたし、それに。

 

「一番大変だったのは刀にぃですよ。昔から頼りがいがあったから僕たちも甘えている所がありましたし」

「ああ、成る程な。まぁあれほどの男が傍にいてはな。甘えてしまうと言うのはわかる話だ」

「ええ、本当に。いつまでも俺を頼るなって怒られるまでずっとそうでしたからね」

 

 あの時の事はきっといつまでも僕の心に残るだろう。

 むしろ決して忘れてはいけない事だ。

 あの時、突き放されたお陰で僕はこうして今も刀にぃを追いかけていられるんだから。

 あの背の隣に立とうと努力し続ける事が出来るんだから。

 

「ほう。流石は駆狼と言うべきか。身内にも手厳しい事を言うな」

「すごく駆狼さんらしいと思います」

 

 美命様と深冬さんの言葉に苦笑する。

 

「刀にぃが厳しいのは誰であれ変わりませんよ。美命様もよくご存じでしょう?」

「まあ、な」

 

 冥琳様たちの教育方針で真夜中だと言うのに城中に響き渡る声で口論していたのは記憶に新しい。

 その時の事を言われていると理解したんだろう、美命様は眉を寄せた。

 もしかしたらその時、言われたことを思い出したのかもしれない。

 

「軍師である事を言い訳に母親としての責務から逃げるな」

「「えっ?」」

 

 美命様の呟きの意味がわからず僕と深冬さんは聞き返す。

 

「あの日、駆狼に言われた中で最も堪えた言葉さ。今、思い出しても思うが本当にあいつは容赦がないな」

 

 ため息を付きながら、でもその事を不快に思っている訳ではないとわかる微笑みを浮かべた美命様。

 

 その笑顔があまりに綺麗で。

 僕は少しの間、呆けてしまった。

 

「……!!」

「いたぁッ!?」

 

 急に耳に激痛が走って僕は正気に戻った。

 見れば深冬さんが不機嫌そうな顔をして僕の右耳を引っ張っている。

 

「なにするんですか、深冬さん!」

「美命様に不埒な視線を向けた罰です!」

「ふ、不埒ってそんな事……」

 

 なんで不機嫌になっているのかわからず困惑しながら弁明する。

 けれど深冬さんはそもそも話を聞いてくれなくて掴んだ耳も離してくれなかった。

 

「痛い! 痛いですって!?」

「正当な罰です」

「ふふふ、お前たちも仲が良いな。……うん、良い事だ」

 

 なんだかよくわからないけれど満足そうに呟いた美命様の言葉。

 その言葉は確かに僕の耳に届いていたけれど、深冬さんを宥めるのに必死ですぐに意識から外れてしまった。

 

 

 この翌日。

 僕たちの元に刀にぃから新しい報告が届き。

 その対応の為に僕たちはさらに忙しく仕事をする事になる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十三話

 元代たちが持ち帰ってきた建業からの書簡。

 今後についての最低限の方針が書かれたそれは彼女たちが建業に届けた物とは比較にならない程に少なかった。

 まぁそれとは別に未使用の竹簡が持ち帰られているので報告書が足りなくなると言う事態にはならないはずだ。

 

 書かれていた指示をまとめるとこうなる。

 

 海賊たちについては可能な限り情報を引き出した後、処断せよ。

 俺、いや俺たちからすれば是非もない指示だ。

 ここ数日の脱走騒ぎで奴等に掛ける情けなどもはや一片たりとも残っていないのだから。

 

 この村には近隣を含めた治安維持の為に俺たちとは別の部隊を派遣。

 俺たちは派遣される部隊が到着するまでの間、この近辺に駐留する事になった。

 長期間の駐留に備え、生活環境を整えておけと言う事だ。

 砦かそれに類する駐屯に適した施設を造る必要がある。

 

 未だ名前も知らない少女については手厚く保護せよと言う話だ。

 具体的な方法については俺の判断に任せると言う事になっている。

 新しい部隊が来るまでの間、俺たちは身動きが取れない。

 これからも焦らずゆっくり彼女と関わっていくとしよう。

 建業の方でも彼女や既に売られてしまった者たちについては調査を行う方針が決まったと言う。

 向こうの調査で少しでも身元に繋がる情報が集まればいいんだが。

 

 

 翌日、豪人殿を含めた古参の者たちには村の警護をお願いした。

 残りの百五十名には海賊たちの処刑に立ち合うよう命じている。

 

 物々しい空気で武器を持って近づいてくる兵士たちの姿を見て奴等も俺たちがなにをしに来たのかを理解したのだろう。

 

 縄で縛り付けられ身動きが出来ない身体を必死で動かす者、唯一動く口で精一杯の怒声や罵声を上げる者、涙を流しながら平身低頭で命乞いをする者。

 

 様々な行動で生きようと足掻くその姿を俺は不様だとは思わない。

 こいつらも、いや彼らも俺たちとなんら変わらない人間なのだから。

 

 だがだからこそ殺す事を躊躇いはしない。

 

 人間として越えてはいけない境界を踏み越え続けたこいつらには償わなければならない罪がある。

 どうしようもなかったのかもしれない。

 他の方法など無かったのかもしれない。

 

 だがだからと言って他者を虐げた事実は揺るがない。

 たとえどのような理由があろうとも、だ。

 

「本日ただいまより貴様等を処刑する。例外はない。抵抗も命乞いも無駄だ」

 

 勿論、それは俺たちにも該当する事だ。

 民を守るため、国を守るため。

 どれだけ理由を取り繕うとも。

 俺が今までやってきた事、そしてこれからやる事は人殺し。

 人間として踏み越えてはいけない境界の一つ。

 恨まれ、憎まれ、怨まれ、呪われる所業だ。

 

 だから俺は彼らの言葉を一字一句逃さず聞くように耳を傾ける。

 それがどれほど聞くに耐えない罵詈雑言であってもだ。

 これから俺たちが彼らの命を奪うのだから。

 

「死ね……」

 

 俺が握り締めた拳を振るい目の前にいた男の顎を砕くのを合図に。

 槍が、剣が、海賊たちの身体に突き刺さっていく。

 

 痛みに仰け反り呻き声を上げる者の首を足裏で踏み砕く。

 生きている可能性など万に一つも残らないよう念入りに、確実に殺す。

 

 驚くほどあっさりと命が消えていく。

 一分とかからずに賊たちはその命を例外なく大地へと還していった。

 

「遺体は残さず火葬する。最後まで気を緩めるな」

「「「「「はっ!!」」」」」

 

 血塗れになった骸を掴み、持ち上げる。

 まだ生きていた頃の体温の残る死体。

 生理的嫌悪を催させる生暖かさが残ったソレを広場の中央に重ねるように置いていく。

 

 無言で俺に続く部下たち。

 力を失った身体は生きていた頃に比べて酷く重い。

 三人がかりで一人を運ぶ者もいるくらいだ。

 

「忘れるな。今、感じている生温い感触と重さを……」

 

 自分たちが殺した人間を運ぶと言う苦行に何人かは青ざめ、顔を歪めながら俺の言葉を聞いている。

 

「それが殺人と言う罪の重さ。そして彼らの断末魔は、俺たちに訪れるかもしれない一つの可能性だ」

 

 誰も何も言わない。

 

「俺たちは民を守るために人を殺した。そしてこれからも殺すだろう。相手がどれほどの悪人であろうと、あるいは善人であろうとも殺すかもしれない。決して忘れるな。俺たちが『人殺し』だと言う事を」

 

 何人かが胃の中の物を逆流させた。

 

 ここにいるのは新兵だけ。

 先の海賊迎撃戦で初めて実戦を経験した者も多い。

 迎撃戦の後もすぐに家屋の修繕や物見櫓の作成にかかっていて自分のした事に向き合う時間などなかったし、忙しさを理由に目を背けていた者もきっといただろう。

 

 俺はそんな彼らを賊を殺す場に集め、死体の処理をさせる事で人を殺した事実と無理矢理に向き合わせた。

 

 褒められた手段ではないかもしれない。

 伸び盛りの彼らの心を折る馬鹿な事をしているかもしれない。

 だが今、ここでこいつらが『勘違いする事』がないようにする責任が俺にはある。

 『人を殺す事を当たり前だ』などと考えるようにならないように。

 『悪人だから殺すのが当然だ』などと考える事がないように。

 

 『人を殺せば恨まれる』と言う当然の事を心に刻みつける為に。

 

 無言で死体を運ぶ。

 十二人の死体を何人かに分けて並べる。

 その上に薪と乾いた葉を被せ、松明で火を付けた。

 

 少しずつ燃え広がり、賊たちの身体を灰へと変えていく炎。

 風が吹き込みその勢いがさらに増していく中、肉が焼ける異臭が俺たちの鼻を突く。

 

 誰かが呻き声を上げ、風下から逃げるのが気配でわかる。

 だが俺はその場を動かなかった。

 それが軍人として自分の指示で殺めた者たちに対しての務めだと思っているから。

 

 

 俺の行為を自己満足に過ぎないと言う者もいるだろう。

 少しでも自分が人を殺したと言う事実を軽くする為の方便だと思う者がいるはずだ。

 

 だが。

 どう思われようと構わない。

 俺の行為を偽善と言いたければ言えばいい。

 自己満足だと声高らかに叫びたければ叫べばいい。

 

 それでも俺は変わらないだろう。

 齢百二十年も生きてしまえば性格の根っこなど変わりようがないのだから。

 

 恨みたければ恨めばいい。

 殺したければ向かってこい。

 俺は誰に殺されようとも受け入れる。

 人を殺した者として当然の覚悟を生涯抱き続ける。

 

 再び軍人として生きると蘭雪様に誓ったあの日から、俺は『どういう形であっても死ぬ事』を覚悟したのだから。

 

 尤も。

 向かってきたからと言って殺されてやるかどうかは別の話だがな。

 

「全ての骨が入る程度の穴を掘ってくれ。残りの者は燃え残った骨を集めるぞ」

 

 無言の作業が続く。

 部下たちが今、何を考えているかはわからない。

 この作業に嫌気が差しているかもしれない。

 あるいは何も感じず作業は作業と割り切っているかもしれない。

 全員が全員、顔を青くしているのでそれはないと思うが。

 

 

 死と向き合う事で軍にいる事を恐れるならばそれでいい。

 別に軍で戦う事が人生の全てではないのだから。

 

 ここで彼らが軍を辞めると言うのならそれはそれでいい。

 人を殺す事に耐えられないと言う事は恥でもなんでもないく、人として当たり前の感情なのだから。

 

 むしろ慣れてはいけないのだ、こんな所業には。

 

 埋葬が終わったのは日が暮れる頃だった。

 解散を告げると一人また一人と足早に去っていく。

 そんな中で俺は最後まで残っていた。

 

 何人かは俺の事を気にしていたが、俺が動かない事を察すると気を遣って村に戻っていった。

 

 俺は周囲に誰もいなくなったのを確認し目星を付けておいた大きめの石を骨を埋めた場所に置く。

 

 粗末ではあるが墓石の代わりだ。

 そして石の下に眠る者たちの冥福を祈る為に日本の儀礼に則り目を閉じて両手を合わせる。

 

「いずれは俺もそちらに行く。恨み辛みはその時に必ず受け止めてやる」

 

 俺は自分のした事から絶対に逃げない。

 とはいえ地獄や天国があるかどうなど俺にはわからない。

 俺自身はどちらかに行く事もなく転生してしまったからな。

 この行動も言ってしまえば自己満足なんだろう。

 

 

 しばらくして合掌を終えた所で近づいてくる気配を察知した。

 毎日、会いに行っていたお陰で覚える事が出来た子供の気配。

 彼女から離れた場所には今日、彼女の護衛を担当していた部下の気配もある。

 

「船から出られるようになったんだな。おめでとう」

「……」

 

 俺の言葉には答えず、背を向けたままの俺に近づいてくる少女。

 少し足取りが乱れているように感じるのは人間不信の影響なのだろう。

 俺に近づく事に怯えているのだ。

 

「無理はしない方がいいぞ。辛いんだろう?」

「……ごめんなさい」

 

 大体二メートルくらいの距離で立ち止まると彼女は俺に謝罪の言葉を言った。

 

「なぜ謝るんだ?」

 

 お前が謝る理由などないだろうに。

 

「ずっとちゃんとしたごはんを持ってきてくれたのに、お礼も言えなくて……言いたいのに、言えなくて……こわくない人だってわかってるのにずっと、ひっく、こ、こわく、て……う、うう」

 

 言葉の後半は嗚咽混じりで支離滅裂になっていたが彼女の気持ちは痛いほど伝わってきた。

 俺は振り返り、彼女の泣き腫らした瞳と目を合わせる。

 

「いい。もうわかったから。恐がりたくないのに身体が勝手に反応してしまってお前自身もその事がずっと辛かったんだな? 俺たちを避けた事をずっと気にしていたんだな?」

「うっぐ、えく、はい」

 

 泣きながら肯定の返事をする少女。

 

 俺は勘違いをしていた。

 誘拐した者たちと同じ『大人』、特に同じ男である俺たちは憎まれて当然。

 だから避けられていると思っていた。

 

 本当はその逆。

 この子は俺たちが世話を焼いている事を感謝していて、だが身体が勝手に俺たちを拒絶していた。

 その事をずっと気に病んでいてずっと苦しんでいたのだ。

 

「すまないな。お前が俺達に感謝している事、気づいてやれなかった」

「ご、めん、なさい……ずっとありがとうって伝えだがっだのに」

「謝らないでいい。もう伝わったから」

 

 泣きじゃくる彼女をなんとかしたくて刺激しないようにゆっくりと近づき、少し離れた位置から腕を伸ばしてその小さな頭を撫でてやる。

 髪に触れた瞬間、彼女の全身がびくりと震えたが手を払われる事はなかった。

 

 この子は助けた当初、俺達を警戒し拒絶していた。

 だが今はもうそうじゃない。

 具体的にいつからかはわからないがいつの間にか俺達に心を開いてくれていたんだ。

 

 今、俺がやっているようにほんの少し強気に踏み込めば受け入れてくれるくらいに。

 むしろ俺達が腫れ物を扱うように彼女に気を遣った事で逆に不安にさせてしまっていた。

 

 距離を縮めるきっかけは既にあったのだ。

 それを潰していたのは他ならぬ俺達の方。

 なんて間抜け。

 

 子供好きを自認する癖に子供の感情の機微に気づくことが出来ないとは情けない。

 

「俺からも礼を言わせてくれ。俺達に心を開いてくれてありがとう」

 

 膝を付き視線を合わせ俺は少女にお礼を言った。

 酷い目に遭ったと言うのに、それでも誰かに心を開くと言う勇気ある行動をした彼女に。

 

「わ、わだじも、ひっく、助げで……くれで、えっぐ、ありがどうございまじだ」

 

 伝わった想いを改めてしゃくりあげながら告げる少女の律儀さに、俺は口元を緩め彼女が泣き止むまでそっと頭を撫で続けた。

 

 

 

「すぅ〜〜、すぅ〜〜」

 

 そして俺は今、何故かこの少女と一緒に寝床にいる。

 いや一応、こうなった経緯はわかっているんだがどうも理不尽且つ非常に強引に話を持っていかれた気がしてならない。

 

 あの後、船にいる必要がなくなった少女の事を村長や豪人殿たちに相談した所、少女自身の意向により可能な限り俺の傍に置く事でまとまった。

 さすがに軍務にまで同行させるわけにはいかないのでそういう時は村にいてもらう事になっている。

 

 手を出すつもりなど微塵もないが、さすがに小さくとも少女。

 寝床くらいは同性と一緒の方が良いと思ったのだが。

 

 俺の服の裾を掴んで離れない少女の様子を見て、何を思ったのか公苗や元代などの女性陣がやたらと奮起した。

 あっと言う間に俺の天幕を広くし彼女の寝床を増設してしまったのだ。

 さらに今日は自分たちが俺の分の仕事をするので彼女と一緒にいてあげてくださいなどと言われる始末。

 

 妙な圧力に屈する形になった俺は彼女と共に天幕へ行く羽目になった。

 彼女は横になってから眠るまでが異様に早かったが、恐らく泣き疲れたのだろうと思う。

 問題は俺の服を掴んで離さない事だろう。

 派手に動いてしまえば起こしてしまうかもしれないので下手な事も出来ず。

 

 俺も結局、諦めて彼女を起こさないよう横になる事にして現在に至る。

 

「やれやれ」

 

 静かに寝息を立てる少女。

 今まで食事中に見せていた怯えた表情は今はもう無い。

 安心しきったその顔は正しくこの年の子供の持つ物だ。

 

 だが忘れてはいけない。

 この子が苦しんでいた事実を。

 苦しむ前に助ける事が出来なかった事実を。

 

「ありがとう」

 

 守ることが出来なかったふがいない俺達に心を許してくれて。

 

「荀文若(じゅんぶんじゃく)」

 

 幼い少女が教えてくれた名前を呟く。

 まさかこんな少女が『王佐の才』と謳われた文官だとは考えもしなかった。

 

 

 荀彧文若(じゅんいくぶんじゃく)

 名門荀家に生まれ、曹操を支えた名文官。

 若い頃から『王を助ける才を持つ』と称され各地を転戦する曹操の留守を守り続けたと言われる。

 袁紹との決戦である官渡の戦いでは戦に直接参加する事はなく洛陽にて行政を仕切っていたが、それでも遠方から弱気になった曹操を励まし政務を取り仕切る文官の身でありながら他の軍師と共に献策を行う事で彼を勝利に導いたとされている。

 しかし赤壁の戦いの後、なりふり構わず覇権の追求に走った曹操と対立。

 病死とも曹操との仲違いを苦に服毒自殺したとも言われている。

 

 

 そんな曹操軍にその人ありと言われた人間が今、自分の服を掴んであどけない表情を見せていると言う事実に俺は困惑していた。

 歴史に名を残すような人間の性別が変わっているのは正直、今更の事なのでそこまで気にしていない。

 

 だが俺の知識を信じるならばこの子はいずれその才能を開花させ、大陸を統一せんとする曹操に付き従う事になる。

 それはつまり孫呉に敵対すると言う事であり、俺は自分たちが助けた少女に刃を向ける事になるのだ。

 

 そして知識通りの力をこの少女が持っているならば非常に強大な敵になる。

 呉のこれからを考えるならばこの場で殺す方が良いとさえ思える程の才気を持っているはずなのだ。

 

 だが前世の知識通りに未来が進む保証はない。

 歴史に名を残す武将や軍師、文官、武官の性別が異なり、年代も士官する時期もバラバラだと言うのに。

 

 そんな曖昧な知識を指針にこんな幼い子供を手に掛けるなどして良いはずがない。

 

 目を閉じる。

 少女と距離を縮められた事への喜びはいつの間にか消えていた。

 

 

 

 一日に何回も会いに来てくれた人。

 ずっとこわくて、へやに入ってきたときはいつもはなれていたのに。

 それでもやさしく声をかけてくれた人。

 あたたかいごはんをくれる、やさしい声ではなしかけてくれる人。

 

 こわい人たちが来なくなってから来るようになった人たち。

 おとこの人もおねえさんも、わたしに会いに来た人はみんなあたたかかった。

 

 だけど人がちかよってくるとどうしてもこわくなって。

 わたしはお礼も言えなかった。

 かなしくてくるしくて。

 

 でも今日やっとお礼が言えた。

 くるしくなったけどがんばれた。

 

 

 あの暗いへやをでて、お船からおりて。

 

 ずっと付いてきてくれたおとこの人が、あのおとこの人がいるところまでつれていってくれた。

 わたしがこわがらないようにはなれながらずっと。

 

 おとこの人はわたしにせなかを見せていた。

 ぼうっとしているみたいでぜんぜん動かなくて。

 

 わたしはゆっくり男の人にちかよろうとおもった。

 

「船から出られるようになったんだな。おめでとう」

 

 こっちをぜんぜん見ないで声をかけられてびっくりした。

 

「無理はしない方がいいぞ。辛いんだろう?」

 

 わたしをしんぱいしてくれるやさしい声。

 でもちかよるとくるしくなってきて、やさしいはずのそのせなかがこわくなってくる。

 

 でもいやだった。

 こわがってなにも言えないのはもういやだった。

 

「……ごめんなさい」

「なぜ謝るんだ?」

 

 ずっと出せなかった声が出る。

 うれしかった。

 

「ずっとちゃんとしたごはんを持ってきてくれたのに、お礼も言えなくて……言いたいのに、言えなくて……こわくない人だってわかってるのにずっと、ひっく、こ、こわく、て……う、うう」

 

 でもいままで声を出せなかったことがもうしわけなくて。

 うれしいはずなのに、さびしくないのに泣いてしまった。

 これじゃおとこの人にお礼が言えなくなっちゃう。

 でもがんばってるのになみだは止まってくれなかった。

 

「いい。もうわかったから。恐がりたくないのに身体が勝手に反応してしまってお前自身もその事がずっと辛かったんだな? 俺たちを避けた事をずっと気にしていたんだな?」

「うっぐ、えく、はい」

 

 わたしのきもちを伝えたくて首をたてに振った。

 

「すまないな。お前が俺達に感謝している事、気づいてやれなかった」

「ご、めん、なさい……ずっとありがとうって伝えだがっだのに」

「謝らないでいい。もう伝わったから」

 

 おとこの人はわたしの頭をそっと撫でてくれた。

 あたたかいてのひらがとってもきもちよくて。

 なんでかわからないけれど、その時だけはさわられてもこわくならなかった。

 

「俺からも礼を言わせてくれ。俺達に心を開いてくれてありがとう」

 

 じっと目を見てお礼を言われて、わたしもお礼を言わないとっておもった。

 

「わ、わだじも、ひっく、助げで……くれで、えっぐ、ありがどうございまじだ」

 

 しゃっくりになった時みたいに声がうまく出せなかったけど、それでもお礼を言えた。

 ずっと撫でてくれたおとこの人の手が「よくやった」ってほめられているように感じて、とてもうれしかった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十四話

 建業からの指示を受けた俺達建業遠征軍は一昨日、命令の一つである賊の処断を完了させた。

 新兵たちは俺や豪人殿、古参の兵に弱音を吐きながらも自分たちの所業と向き合い概ね乗り越える事が出来たようだ。

 

 しかし全ての人間が乗り越えられたわけではない。

 新兵十名が軍を辞める意思を固めて俺に報告をしてきた。

 俺は豪人殿の立ち会いの元で彼らと話し合う場を設け、一人一人の意思を改めて確認した。

 

 辞める意思を伝えに来た時、彼らは何度も俺達に謝っていた。

 本当は辞めるなどと言う決断はしたくなかったのだろう。

 

 どうしても死に触れた時の恐怖が忘れられないと言っていた。

 自分が戦う事を想像しただけで足が竦んでしまうのだと。

 

 そしてそんな体たらくの自分たちがこのまま軍に所属していても足手まといにしかならない。

 自分たちのみならず仲間たちに迷惑をかけたくないと、彼らはそう言っていた。

 

 個人的には彼ら自身の意思を尊重したい。

 だが軍という組織の性質上、そう簡単に辞めさせる訳にもいかない。

 

 だから戦闘部隊から彼らを外してしばらく様子を見る事にした。

 次の定期報告を建業に出す際、辞職を申し出た十名について報告し指示を仰ぐ形になっている。

 

 次の伝令を送るのは一週間後。

 それまでに彼らの心境が良い方向に変化すれば良し。

 そうでなければ俺から十名の辞表嘆願を蘭雪様に出すつもりだ。

 

 

 そして俺達は軍の生活環境を整える為の農作業組と駐屯地の工事を行う工作業組とで別れて作業を行っている。

 

「一回一回腰を入れて鍬を振れ! 我々の兵糧を賄う為の重要な作業だ。気を抜いた作業などしていたら連帯責任で班ごと罰するぞ!!! 」

「「「「はいっ!!!」」」」

 

 作業中の部下たちを激励し、自分も鍬を振るい土地を耕す。

 ちなみに鍬は村人たちに借り、作物の種は村長に分けてもらった。

 

 

 この辺りの土地は海が近い代わりに河は遠い傾向にある。

 長江から枝分かれした小さな河が流れているが、その河は村との間にそれなりの距離があり水を汲むには不向きだ。

 

 定期的に農作業で撒く水に海水は利用できない。

 塩害などの影響で農作物が育たない傾向にあるからだ。

 

 しかし前世の記憶では海水に含まれるミネラルに着目し、それを肥料として使う事で味が良くなったと言う話を聞いた事がある。

 海水は可能であればそちらの品質改良面で利用する事にしよう。

 確か収穫する一ヶ月前に畑や田んぼに海水を撒いていたはずだ。

 化学肥料を作れる環境がない以上、色々と試して品質を良くしていくしかないだろう。

 

 

 基本的に飲み水などは大昔に掘った井戸に頼りきりになっている。

 村長が言うには生活用水の事情はこの村に限った話ではなく、この辺りに住む者たちに共通した物らしい。

 

 調べてみたがこの辺りの井戸は大体が浅井戸だ。

 長江と言う大きな水源に比較的近い場所であるこの近辺は掘れば水が出てくる程度に地下水が豊富らしい。

 

 しかし浅井戸ではいつか枯渇する可能性がある。

 そして井戸の数が少ないのも問題だ。

 村人が過ごす分には浅井戸が一ヶ所あれば十分に賄えるが、さすがに軍隊が駐屯生活をするとなると心許ない。

 

 井戸を新しく造るか、あるいは海水淡水化の方法を考えるか。

 今の所、思いつく対策としてはこの二つだ。

 

 井戸の製造には時間がかかる。

 それにどの程度、掘れば水が湧くかがわからないと言う問題がある。

 

 海水淡水化について前世の知識では蒸留して造る方法が一般的に知られている。

 だがこの方法だと一回一回に出来る淡水の量が少ない。

 さらに蒸留の為に毎日のように火を使う為、薪などの燃料の消費が激しくなってしまうのが難点だ。

 

 どういう手段を取るにせよ、なるべく早く解決しなければいずれ大きな問題になるだろう。

 俺は村から少し離れた場所で畑を耕しながら考えられる問題点を洗い出していった。

 

 

 

 太陽が真上に昇る頃。

 昼食を作っていた蒋欽たち持ち回りの炊事班が食事を運んできた。

 

「まいど〜〜、おいしいおいしい昼飯をお届けに上がりました〜〜〜」

「よし! 作業は中断! それぞれしっかり柔軟を行った後、食事を取るように!!」

「「「「「はっ!!!」」」」」

 

 一斉に持っていた農耕道具を地面に置き、思い思いの場所で柔軟運動を始める部下たち。

 勿論、俺もやっている。

 

 座った状態で開脚し、体を前に倒す。

 昔からやっていた成果で俺の体は胸を地面に付ける事が出来るほどに柔らかい。

 

「はぁ〜〜、相変わらず馬鹿みたいに柔らかいですねぇ。隊長の体」

 

 驚くと同時に呆れているような口調で話しかけてくる公奕に俺は苦笑いを返した。

 

「毎日の柔軟の成果だ。お前たちも続けていればこれくらいは出来るようになる」

「いやぁ〜〜そこまでべったり胸を地面に付けられる所にまで至る自分が想像出来ないんですがねぇ。弟と違って僕は体が硬いみたいですし」

 

 頬を掻く公奕。

 だが俺は知っている。

 

「それでも毎日の柔軟運動で確実にお前の体は確実に柔らかくなっているさ。自分でもわかっているんだろう? 成果の現れ方は人それぞれだから結果の出方を気にして隠れてやるような事でもないぞ」

「ありゃりゃ、ばればれですか。急に体が柔らなくなったって皆を驚かせたかったんですがねぇ」

「俺を驚かそうとするならもっと徹底的に隠す事だ」

「肝に銘じときますわ」

 

 雑談しながらも俺は柔軟を続ける。

 右腕を伸ばしたまま胸の前に持っていき、左腕で体にゆっくり、丁寧に、時間をかけて押しつけていく。

 柔軟としては基本的な物だが、力仕事が多い事を考えれば肩凝りの対処は必須だろう。

 

「身体の柔軟性が増せば増すほど動作の一つ一つを俊敏にしなやかにする事が可能だ。身体能力にはどうしても個人差が出る物だが、そこで諦める必要はない。その差を補えるように努力すればいいだけだからな」

「その努力の一つの形がこの柔軟運動ってわけなんですねぇ。いやぁ隊長の飽くなき向上心と発想力には驚かされてばっかりですよ」 

「考えれば誰だって思いつく。この場所で最初にやり始めたのが俺であったと言うだけの事だ」

「謙遜ですよ、そいつは」

 

 話し込んでいる内に柔軟が終わったようで炊事班の周りに群がるように集まる農作業班の面々。

 

 俺も立ち上がり、さっそく昼食を頂戴した。

 なぜか二人分の量だが。

 

「公奕、どう見ても一人分の量ではないぞ?」

「荀お嬢ちゃんの分も含めているんですよ〜。あの子、隊長が来るまで自分の食事に手を付けませんからねぇ。先に持っていっちゃうと冷めてしまいますし。ですんで隊長が一緒に持っていってあげてください」

「……そうか、やっぱりあの子は俺が行くまで食事を取っていなかったのか。困った物だな」

 

 彼女が俺の天幕で寝泊まりするようになってから既に二日。

 他人に対する極端な拒絶反応を起こす事がなくなった文若だが、代わりと言うか何というか別の問題点が浮上してきた。

 

 俺に依存してきているのだ。

 先に公奕と話した通り食事は可能な限り俺と一緒に取ろうと待ち続け、休憩時間などは俺から離れようとしない。

 

 今まで自分から人と距離を取らざるをえなかった事への反動なのだと思う。

 その対象が俺になったのはもっとも積極的に彼女と関わりを持っていたからだ。

 そういう理由があると理解しているからこそ、その行動を無碍に扱う事も出来ない。

 

「傍目から見ていると完全に親子ですからねぇ。お二人はおぶぅっ!?」

 

 にやにや笑う公奕の腹に裏拳を叩き込む。

 腹を抱えてプルプル震えて声もなくもだえている馬鹿者を放置し、俺は彼女が待っているだろう自分の天幕へと歩きだした。

 

 

 じっと俺の天幕の中で平面の板と板の上にある木駒を見つめて考え込んでいた文若に声をかける。

 

「すまないな、文若。少し遅くなった」

「とうりんさま! おかえりなさい!!」

「ああ、ただいま」

 

 二人分の食事を乗せた皿を地面に敷かれた布の上に置き、自分も腰を下ろす。

 食欲をそそる良い香りが鼻をくすぐったのか、ご機嫌な様子で文若が俺の対面に座った。

 

「ではいただきます」

「いただきます」

 

 胸の前で手を合わせる。

 告げる言葉には食事が取れる事への感謝を込めて。

 

「うむ。鹿の骨で出汁を取ったがなかなか美味いな」

「この湯(たん)はしかを使っているんですか?」

「ああ、ここから少し離れた山で狩ってきた。もっとも狩ったのは公苗だが」

 

 首がへし折れてぐったりした鹿を二頭も肩に担いで帰ってきたその姿に周りは怯えていた。

 どうも素手で狩ってきたらしい。

 山中での足の速さは時に馬をも越える鹿をどうやって捕まえたのかは気になる所だ。

 本人が一仕事終わらせたと言わんばかりの笑顔だったのも周囲を怯えさせた要因だろう。

 

 昼前辺りまでほとんどの人間が彼女から距離を取っていた事からもどれだけその光景が恐ろしかったかわかるだろう。

 俺とて公苗だから特に気にしなかったが、怯えていた連中の気持ちもよくわかった。

 可愛らしい見た目にそぐわなかったからな、担いでいた鹿の存在が。

 あの姿を見て普段と変わらない調子だったのは豪人殿と俺、元代くらいか。

 本人が仲間たちの態度に気付かなかった事が救いだ。

 

 鹿を狩る際は一撃で息の根を止め、食料としての品質をあげるならば血抜きを即座に行わなければならない。

 と言う事を以前、教えこんではいたが俺が調理する時に確認した限り鹿の処置は完璧だった。

 食事の大切さを体に叩き込んで以来、公苗は一食一食に対して妥協しないようになっている。

 これが良い事か悪い事かは判断しにくい所だが。

 

「肉を削ぎ取った後の骨をじっくり時間をかけて煮る事で出汁を取るんだが、時間がかかるのですぐに食べられる訳ではない。だが時間をかけた分だけ味は上等な物になる。お前の口には合ったか?」

「はい! とても食べやすくておいしいです」

「そうか」

 

 にこにこ笑いながら汁をすする文若。

 その姿に俺も思わず破顔しながら麦飯を口に入れる。

 

「これが終わったらしばらく休憩だ。お前が夢中になっているそれの相手をしよう」

 

 元代たちは建業からの指令の他に幾つかあちらの人間から個人的に預かった物を持ち帰ってきた。

 

 文若が夢中になっている木の板とそれに付属する小さめの木駒もその一つ。

 いつ作ったのかはわからないが祭と陽菜が作ってくれた一種の遊び道具だ。

 

「ほんとうですか! ありがとうございます!!」

 

 善は急げとばかりに汁をかき込むように口に入れる文若。

 しかし勢いよく口に含んだせいでむせてしまった。

 

「まったく。焦らなくとも俺も『将棋』も逃げはしないぞ」

「えほっ、けほっ……うう、ごめんなさい」

 

 背中をさすりつつ、水亀から水を取って渡してやる。

 

「食事は焦らずしっかり取る事。遊ぶのはその後だ。わかったな?」

「はい……」

 

 しゅんとしてしまった彼女の様子に罪悪感を覚える。

 だがそれでも駄目な事は駄目だと言って聞かせなければいけない。

 優しいと甘やかすと言うのは似ているようで違うのだ。

 

 それからは静かに食事が進み、体感時間でおよそ十分後に俺たちは箸を置いた。

 

「「ごちそうさまでした」」

 

 両手をあわせて食事が取れた事に感謝する。

 食器を片づけて天幕の端に置く俺を期待を滲ませた表情で見つめる文若。

 

「それでは始めようか」

「はい! よろしくおねがいします!!」

 

 可愛らしい笑顔で礼を言い、食事ではなく平面の板『将棋盤』を挟んで相対する文若。

 先ほどまでの子供そのものの柔らかい顔立ちは変わらない。

 だが真剣な表情で盤面を睨むその様子には『智を力にする者』の片鱗が見えるように思えた。

 それが彼女が『荀文若だから』感じる錯覚なのか、そうでないのかは俺には判断できない。

 

 

 彼女が将棋を知ったのはつい昨日の事。

 俺が元代から祭、陽菜から届け物だと渡されたソレを物色している時にこれが何かを聞いてきた。

 

 物珍しげに将棋盤と木で作られた駒を見つめる彼女が微笑ましくつい教えてしまったのが始まり。

 

 この時代にも駒を使った遊びは存在したはずだが。

 それらと趣が違ったからなのか、彼女はルールを一通り説明したらすぐにのめり込んでしまった。

 

 この辺りの覚えの良さは教養のある人間ならではだろう。

 彼女自身の飲み込みの早さも勿論あるだろうが。

 

 とはいえさすがにルールを覚えたばかり。

 これまで三回ほど指し、結果は俺の全勝。

 一応は飛車、角、金将、銀将の六枚落ちでやったのだがそれでもまだまだ余裕だった。

 

 子供相手に大人げないとも思ったが彼女が手加減しないようにと最初に釘を差してきたのでそれは出来なくなってしまった。

 とはいえそれではさすがに勝負にならない。

 なので手加減はしないが駒を幾つか落とす事にしたのだ。

 

 それにも不満そうではあったが、そこだけは俺も譲らず。

 最終的にはこの子も納得してくれた。

 最初の一回だけ手加減なしの全ての駒で勝負し、その結果が散々な物だった事で。

 歩以外の駒はほとんど奪わせずに勝つと言うまさに完勝と言う形だったので、文若にも実力の差が嫌と言うほど伝わったのだろう。

 

 さて先手は文若だ。

 今日は朝食を食べてからずっと盤と睨めっこをしていたが、果たしてどういう手を打ってくるか。

 幼い少女の打つ手がなんなのか、年甲斐もなく内心でわくわくしながら俺は勝負に意識を集中させた。

 

 一ヶ月と言う長いようで短い時間。

 俺たちはこうしてゆっくりとした時の流れに身を任せて過ごす。

 日々の行動の成果を感じ取りながら。

 

 

 そして一ヶ月後、俺たちは紆余曲折の果てに建業に帰還する事になった。

 

 理由はこの子。

 彼女の生家である荀家から彼女を引き取りたいと言う打診が建業大守の蘭雪様宛にあったのだと言う。

 なんでも荀爽(じゅんそう)と言う今の荀家の代表から直筆の書状が届いたと言う話だ。

 

 さすが名家と言うべきか。

 俺たち建業軍が縁者を保護しており、さらに売られた者たちの事を調べている事に気づいたらしい。

 

 一領土の代表である蘭雪様とはいえ貴族相手に迂闊な真似は出来ない。

 権力に連なる者の機嫌を損ねれば己だけでなく領地に関わる全ての人間に害を及ぼす可能性があるのだ。

 

 幸いにして荀家は権力を笠に着て理不尽な真似をすると言う話は聞かない。

 

 だがだからこそこちらも礼節を持って対応しなければならないのだ。

 彼らのような人格者として讃えられている人間へ、不義理な真似をしたとあれば周辺諸侯が黙っていない。

 これ幸いにといちゃもんを付けてくるだろう。

 最悪の場合、それを理由に領土を奪い取りにくるかもしれない。

 

 そんな横暴がまかり通るような世の中なのだ、今は。

 

 恐らく美命や古参の者たちは貴族との関わり方を心得ているはず。

 故に遠征を中止にしてでも彼らへの対応を優先したのだろう。

 

 

 一応ではあるが駐屯地は形になり、井戸も突貫工事ではあるが造る事が出来た。

 畑だけは収穫期にならなければ判断を下せないので、心苦しかったが近隣の村の人間に判断をしてもらえるよう頼み込んだ。

 

 作物を育てると言う点に置いては俺たち兵役についている人間よりも彼らに一日の長があるからだ。

 彼らも快く引き受けてくれた。

 

「我々はあなた方に生活を守っていただいております。この程度の事を恩返しと言うのもはばかられますが、我々が少しでもお役にたてる事があるならば是非もありません」

 

 実にありがたい話だ。

 

 

 派遣される駐屯軍への引継は豪人殿を含めた百人を残して対応する事になっている。

 引継を終わらせたら彼らも建業に引き上げる予定だ。

 

「豪人殿。皆も。負担をかける事になるがよろしく頼む」

「はっ、万事抜かりなく」

「「「「「「はっ!!!!!」」」」」」

 

 帰還する日。

 皆を集めて激励する俺の後ろで公苗たちと一緒にいた文若が前に出た。

 

 彼女の突然の行動に戸惑う部下たち。

 俺は事前にやる事を聞いていたから驚きはない。

 

「みなさん! わたしを助けてくれてありがとうございました!!!」

 

 そう自身に出来る限りの声で叫び、頭を下げた。

 呆気に取られた部下たちの様子を見つめながら俺はこちらに駆け寄ってくる文若と目を合わせる。

 やり遂げたと満足げに笑っている彼女につられて俺も笑った。

 

「皆、心に刻み込め!! 俺たちが守った物を!! 決して忘れるな、この子の感謝の言葉を!!」

 

 沈黙は一瞬。

 次いで爆発するような肯定を示す声が怒号のように辺りに響き渡った。

 

 そして俺たちは。

 遠征を中断すると言う良くない結果を抱えながらも意気揚々と建業への帰路に着いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十五話

「凌刀厘他百名。只今、帰還いたしました」

 

 ここは建業の玉座の間。

 俺は部屋の奥にある玉座に座る蘭雪様に片膝を付き、頭を垂れた姿勢のまま報告をする。

 

 蘭雪様の両隣には陽菜と美命。

 俺を挟み込むように左右に並ぶのは深冬を筆頭とした臣下たち。

 勿論、祭や激、慎や塁たちもそこにいる。

 

 俺と共に帰ってきた公苗や公奕たちは鍛錬場で待機している。

 報告を終えた後に正式な辞令を持って今後の部隊の動向を決めなければならない。

 故に建業城に帰ってきた所で、すぐに解散と言う訳にはいかないのだ。

 

 俺たちは帰還命令が出てから、少しばかり急ぎ足で建業へ帰ってきている。

 言うまでもない事だが俺を含めた全員が相当に疲労していた。

 出来ればすぐにでも休ませてやりたいのが本音だ。

 

 しかし残念ながら軍隊としての規律を軽んじる理由として『すごく疲れました』と言うのは少々弱い。

 だから彼らには報告が終わるまでのもう少しの間だけ気を張っていてもらわなければならないのだ。

 流石に遠征を終えた部隊にすぐさま通常任務に就けとは言わないだろうが、それでも気を抜いて良い事にはならない。

 

 文若については建業に到着した後、すぐに貴族と関わった事がある古参の文官に身柄を預けている。

 迎えに来たのが女性、それも穏やかな風貌の老婆であった事が幸いしてか、例の拒絶反応は起こっていない。

 

 建業への行軍の最中、何度か旅商人の団体などに出くわしたが彼女は一度として姿を見せなかった。

 たまたま彼女を見かけた公苗によれば、荷車の中でじっと息を殺していたのだと言う。

 俺や部隊の人間とは打ち解けてくれた彼女だが、例の症状は緩和されただけであり未だ完治には及んでいないのだ。

 

 しかし老婆にはあの子も素直に付いていってくれた。

 不安そうではあったが、それでも文句を言わなかったのは幼くも聡い性格故だろう。

 

 老婆が自分に危害を加える人間ではないと察したのだ。

 同時にここで彼女を拒否する行動を取れば、この後に報告に向かわなければならない俺に余計な負担をかけると思ったのだろう。

 文若は俺に懐いてくれているが、ただ甘えてくるわけではない。

 甘えるのにも状況を考えて配慮して行動しているのだ。

 あれで十歳にも満たないと言う事実には驚嘆する。

 先が楽しみと言うか末恐ろしいと言うか。

 俺は気遣いをありがたいと思うと同時にあの年齢の子供に気を遣ってもらっている事を情けないとも思っていた。

 

 

「任務ご苦労。凌隊長、お前たちは当初の予定とは異なるが考えうる限り最前の結果を持って帰ってきた。胸を張り、誇れ! だが今回の結果に慢心する事なく日々の訓練に励めよ。部下たちにもそう伝えろ。重ね重ねになるが任務、ご苦労だった。しばらく、と言っても二、三日程度になるが休みをやる。各々好きに休み、羽を伸ばすといい」

「はっ! ありがとうございます!!」

 

 儀礼に則りつつも親しみの篭もった君主の言葉に心中で苦笑いする。

 ちらりと見やれば美命はあからさまにこめかみを押さえて頭痛を堪えていた。

 恐らく最初はもっと形式張った言葉になる予定だったんだろう。

 隣で陽菜が子供を見守るような笑みを浮かべている事からもその事は容易に想像が付いた。

 

 懐かしいなどと感じるほどここを離れていたわけでもないと言うのに。

 彼女らのいつもと変わらない様子を見て俺は帰ってきた事を実感していた。

 

「報告は定期的に受けていたが、お前の所感を改めて聞いておきたい。『鈴の甘寧』を筆頭とした錦帆賊の事、調査した領内の村の生活、そして例の人身売買とお前が保護した荀家のお嬢ちゃんについてな」

 

 最後の言葉で俺は帰ってきた実感で緩みかけていた気持ちを引き締めた。

 

「わかりました。ではまず……」

 

 俺は蘭雪様が言ったとおり自身が見た事、聞いた事、感じた事を正確に伝えられるよう慎重に言葉を選んで報告する。

 この言葉をどう感じ、どう捉えるかは報告を受ける側の問題ではあるが可能な限り詳しく、しかし簡潔に伝えられるように努力しなければならない。

 

 たまに居並ぶ面々が蘭雪様から発言の許可をもらって質問し、俺がそれに答えていく事があったが大きな問題が起こる事はなかった。

 

 報告が終わったのは開始から二刻ほどが経過し、日が暮れかかる頃。

 蘭雪様の目配せを受けた美命が玉座の間に響くように解散の言葉を言い放ち、俺を含めた臣下全員が揃って礼を返す事でこの報告会は終わりを告げた。

 

 去り際に俺に労いの言葉をかけてくる同僚たち。

 俺も一人一人に言葉を返し、同僚たちとの久しぶりの会話を楽しんだ。

 

 そして最後まで玉座の間に残ったのは蘭雪様と美命、陽菜。

 そして祭を初めとした幼馴染たち。

 

「ふぅ、やれやれ。やはりこういう形式ばったやり取りは慣れんなぁ。肩が凝ってしまう」

「はぁ……いきなり気を抜く奴があるか。馬鹿者」

 

 玉座にもたれ掛かり、わざとらしく肩を叩く蘭雪様。

 その様子を見て頭痛を堪えるように額に手の甲を当ててため息をもらす美命。

 

 これまた『いつも通り』の二人に俺は肩の荷が降りた気分になった。

 

「……相変わらずのようで安心しました」

「駆狼、それは皮肉か?」

「いいえ、今の素直な気持ちです。お二人のやり取りのお陰で適度に肩の力が抜けましたので」

「そういうのを皮肉と言うんだが?」

 

 肩を落としながら俺を睨みつける美命。

 だがそれも数瞬の事だ。

 

「ふっ……お前も元気そうで何よりだ。……色々と遭ったようだから気落ちしているかと思ったが、その調子なら大丈夫のようだな」

 

 公務から私事に気持ちを切り替え、柔和な笑みを持って彼女は労いの言葉を紡ぐ。

 美命の変化を合図に俺の後ろで控えていた幼馴染たちが待っていたとばかりに駆け寄ってきた。

 

「駆狼、ご苦労さん!」

「刀にぃ、お勤めお疲れさまです!」

「お疲れ様ね、駆狼!!」

 

 労いを込めて激、慎、塁に次々と体を叩かれる。

 

「ああ、ありがとう。しかし俺がいない間、そちらも大変だったんだろう? 苦労したのはお互い様だ」

 

 俺を囲い込むように集まる三人に俺は笑みを浮かべながら応えた。

 

 俺たちが遠征任務をこなしている間、定期的に建業に報告を送っていた。

 報せられてきた事柄は報告する側の俺が言うのもなんだが多岐に渡る。

 それらに対して激、慎、美命に深冬、陽菜を筆頭とした文官たちはどう対処するのかをずっと考えてきたのだ。

 それも俺たちが報告を送る度に考えなければならない事柄は加速度的に増えていく。

 その苦労は俺たちと同等、あるいはそれ以上かもしれない。

 

 そして文官勢が大わらわになっている間も祭や塁たち建業の守備を担当する部隊は常時取り組んでいる治安維持に従事し続けなければならない。

 恐らく激や慎、深冬たちが文官として動いている間、その穴を埋める為に奔走していたはずだ。

 それは口で言うほど楽な仕事では断じてなかっただろう。

 

「それはそうですけど……一番大変だったのはやっぱり刀にぃですから」

「……何度も言うが苦労したのはお互い様だ。ただその苦労の形が違うだけでな」

 

 俺を讃え労ってくれる慎の気遣いはありがたいと思う。

 だがそれを素直に受け取れるほど、俺は自分たちの報告で建業の皆が被った苦労を軽く見ていない。

 

 それぞれに抱える苦労が異なる為、単純に比較出来る物ではないのだ。

 そうであるが故に、時にお互いの問題が見え難くなる事があり、それが元で不平や不満、そして不和へと繋がる事もある。

 前世でも現場の判断と上層部の決定が噛み合わずに軍が軍として機能出来なくなった事があったのだから。

 

「ほんと、駆狼ってば真面目過ぎよね」

「ったくせっかく俺たちが労ってんだから、もう少し力抜いて気持ちを受け取りゃいいんじゃねぇか?」

「頭ではわかっているんだがな。恐らく無理だ」

「自分で恐らくとか言うか」

「でもすっごく駆狼らしい気はするね」

 

 塁と激が呆れるのも当然だと思うが、こればかりは性分だから仕方ないと思ってもらうしかない。

 

 こいつらも俺の性格はよくわかっているはずだ。

 その証拠に呆れてはいるが否定したりはしない。

 昔は自分が気に入らない事があるととにかく突っかかってきた物だが、この二人もしっかり成長していると言う事なのだろうな。

 

「なんか失礼な事考えてねぇ?」

「気のせいだろう」

「……ほんとに?」

「……」

「駆狼てめぇ、目を逸らすんじゃねぇよ!?」

 

 勘も良くなっているようだ。

 ふむ、頼もしい限りだ。

 

「っと、俺らからはこんなもんだろ」

「うん、言いたい事も言えたしね」

「そうだね」

「? 何の話だ?」

 

 三人の会話の意味がわからず聞き返す。

 

「俺たちはここで解散ってこった。他にもお前と話したい奴はいるし」

「『私的なお話』を立ち聞くのは良くないですしね」

「それが甘ったるい話になるってわかってるんだから尚更よね」

 

 意味深な目配せをすると三人は俺たちのやり取りを笑いながら見守っていた蘭雪様たちに頭を下げる。

 

「刀にぃ、また明日にでも」

「お疲れさん、駆狼」

「それじゃあね、駆狼」

 

 三者三様の言い方で俺に声をかけ、慎たちは玉座の間を後にした。

 なんなんだ、一体?

 

「さて、私たちも邪魔だろうから消えるとしようか」

「言っておくが仕事はまだ終わっていないからな。消えるのはいいが執務室に直行だぞ?」

「はいはい、わかっているさ。……ちっ」

「舌打ちするな。それじゃあ陽菜、祭。久方ぶりの殿方との逢瀬だ。今まで我慢してきた分、たっぷりと楽しむといい」

 

 不満げな表情の蘭雪様の引きずりながら美命も玉座の間を出ていく。

 

「ふふ、ありがとう美命、姉さん」

「あ、ありがとうございます。蘭雪様、美命殿」

 

 残されたのは俺と陽菜、祭の三人だけ。

 

 ああ……そう言う事か。

 まったく。

 気を遣ってくれているのはわかるしありがたいのだがこうもあからさまにされると、何とも言えない気分になるな。

 と言うかまさか陽菜たちを含めた全員が共犯とは。

 面白半分で加担しているのが何人かいるな。

 

「あの、じゃな。えっと……」

 

 なるほど、祭が慎たちと一緒に話しかけてこなかったのはこの為か。

 逢瀬のお膳立てをされてしまった状態で柄にもなく緊張してしまい、いつもの調子で俺に話しかける事が出来なかったわけだ。

 もしかしたら遠征に出る直前に置き土産(不意打ちの接吻)を残したのがまだ効いているかもしれない。

 

「はぁ、やれやれ。……まずは、ただいまになるな。祭、陽菜」

 

 しかしまぁ、わざわざ主君や同僚たちが用意してくれた機会だ。

 有効活用するべきだろう。

 

「う……あ、ああ。お、おかえり、駆狼」

 

 顔を赤くしてどもりながら応える祭。

 

「ふふ、お帰りなさい。駆狼」

 

 いつも通りに応える陽菜。

 対照的な二人。

 俺の想い人たち。

 

「そう緊張するな、祭」

「いや、あのその、な、なんだか皆にせっつかれてしまうと、変な感じになってしまってな……」

 

 身振り手振りで自分の精神状態を説明しようとする。

 だがまぁ自分の今の気持ちが整理し切れていないらしく説明らしい説明にはなっていない。

 

 俺は陽菜に視線を送った。

 苦笑いしながら彼女が頷くのを確認し、祭を落ち着かせるべく行動に移る。

 

「わひゃぁっ!?」

 

 そっと祭の体を抱きしめる。

 悲鳴が聞こえるが知った事ではない。

 

「く、くくく駆狼!?」

「黙っていろ」

 

 さらさらの銀髪を梳きながら囁く。

 

「う、あう……」

 

 先ほどよりも顔を赤くしながら祭は金魚のように口をぱくぱくとさせる。

 しかししばらくすると落ち着いたのか俺の背に手を回してきた。

 

「ふふふ、駆狼。次は私にもお願いね」

「お安い御用だ」

 

 自分を差し置いて目の前で仲睦まじくしていると言うのにまったく変わらない様子の陽菜。

 この場に嫉妬して咎めるような者などいないと言うのに。

 昔は俺が女性と話しているだけでむくれた物だが、さすがに九十年も前と比べるのは失礼か。

 

「駆狼……ああ、駆狼」

 

 うわ言のように俺の名を繰り返し、背中に回していた手に力を込め自分の身体を俺に押し付ける祭。

 感極まった様子で潤んだ瞳を俺に向ける。

 

「どれだけ離れていようとも、儂はお前の事を……」

「皆まで言うな。わかっているつもりだ」

 

 耳元で囁く祭に同じように囁きで答える。

 

「俺はお前と陽菜……」

 

 視線を陽菜に移し、言葉を続ける。

 

「お前たち二人を愛している」

 

 俺は幸せ者なのだろう。

 俺を一人の男として想ってくれる人が二人もいるのだから。

 紆余曲折はあったが、こうしてそんな二人と共に在るのだから。

 

「儂も愛しているぞ」

「勿論、私もよ。駆狼」

 

 我慢できなくなったのか陽菜は俺の背中に抱きついてきた。

 猫のように俺の背中に顔を擦り寄せる。

 鎧こそ脱いでいる物の筋肉質な男の背中などごつごつとして固いだけだろう。

 

「背中に顔を押し当てても痛いだけじゃないのか、陽菜?」

「そんな事ないわ。暖かくて気持ち良いわよ」

「……そうか」

 

 俺たちは久方ぶりの逢瀬を楽しんだ後、玉座の間を後にした。

 とはいえお互いに燃え上がった状態での逢瀬がこの程度で済ませられるわけがなく。

 

 部下たちへ今後の指示などの仕事を終わらせた俺は部屋で待つ二人と昂った心のままに肌を合わせる事になった。

 

 翌日、つやつやの肌をした二人と疲れ切っている俺の姿を見た蘭雪様たちが何かあったのかを察し、散々にからかわれる事になる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十六話

 昨日、祭と陽菜との熱い逢瀬を存分に楽しんだ俺は休みである事を利用し仕事で会う事が出来なかった子供たちに会いに行く事にした。

 

 まず向かったのはその幼さから未だ養育係が付きっきりになり、滅多に城外に出る事が出来ない小お嬢(ちいおじょう)の所だ。

 

 

 孫向香(そんしょうこう)

 孫堅の子供であり、孫策、孫権の妹だ。

 歴史書などでは孫夫人(そんふじん)と言う名で通っており、政略結婚で劉備に嫁いだとされている。

 その人柄には諸説あるが、夫婦仲は良くなかったとされている事が多い。

 流石に年齢差が三十近くもある相手との婚姻ではお互いにやり難かったと言う事なのだろう。

 実の所、彼女に関して記述されている事はほとんどなく、その最期も記されていない。

 劉備との仲が良かったと書かれている書物では、蜀と呉による国家間のいざこざの果てに母国に帰国。

 後に劉備が戦死したと言う報告を聞いて絶望し、長江へ身投げしたと言う。

 この世界で劉備との婚姻があるかどうかはわからない(なにせ劉備の性別が変わっている可能性があるのだ。しかも今までの傾向から言って歴史に名を残すような人物であればあるほど可能性は高い)が、知識を参考にするならろくな事にはならないだろう。

 

 

「あ、くろ〜〜!!」

 

 勉強に飽きていたのだろう彼女は、俺が来るとすぐに文字通りの意味で胸元に飛びつき遠征の土産話をせがんできた。

 養育係の老人も彼女の態度に苦笑いしながら、休憩と称して俺と彼女が話す時間を設けて席を外している。

 俺の首にぶらさがって離れようとしない小お嬢の状態では勉強に身が入らないと思ったのだろう。

 

「ねぇねぇ、くろ〜。すずのかんねいってつよいの?」

「ええ、とても強く勇ましい男です」

 

 男らしい頼りがいのある笑みを浮かべた興覇の姿を頭に浮かぶ。

 その威風堂々とした態度に虚飾はなく、隙も俺が見る限りまったくなかった。

 以前からあった討伐軍を返り討ちにしてきたという評判の通り、対峙すれば一筋縄では行かない事は容易に察する事が出来る。

 

「ふぅ〜ん。くろ〜とどっちがつよいの?」

 

 天真爛漫と言う言葉が人の形を取ったかのような陽気さを持つ彼女の言葉は年相応に単純で直接的だ。

 そういう性格であるから俺たちは出会ったその場で彼女自身から真名を許されている。

 しかし雪蓮嬢たちと比べてさらに幼い彼女に許されたからと軽々しく真名を口にするのは憚られた。

 美命たちにその事を相談したところ、古参の人間から許可が出るまで真名では呼ばないようにするという方針になっている。

 小お嬢はこの決定に不満のようだが、責任能力があるかもわからない年齢なのだから妥当な判断だと俺は思う。

 

「さて……そう安々と負けるつもりはありませんが軽々しく勝てると断言も出来ません」

「え〜? さいとげきをいっしょにたおしちゃったくろ〜でもかてないかもしれないの?」

 

 彼女が言っているのは以前に行った隊同士の合同訓練の事だろう。

 確かにあの時、俺は祭と通りかかった激を同時に相手にして勝利している。

 しかしあれはほとんど遊びのような物。

 お互いに全力の半分も出していない本気とは程遠い物だ。

 勝ちは勝ちだとは思うが胸を張るような物でもない。

 

 とはいえわざわざ訂正する必要もないだろう。

 そもそも見た物をそのまま信じているこの子にあの時はお互いに本気を出していなかったと伝えても信じるかどうか怪しいのだ。

 

「はい」

「すっごいなぁ〜〜、すずのかんねい」

 

 そんな俺の微妙な心境を理解する事なく、ただ無邪気に笑う少女に苦笑いを返す。

 しばらくの間そうして遠征で起こった話を語って聞かせ、俺は彼女の元を後にした。

 

 話と言っても子供が喜ぶような笑い話になる事だけで、人身売買や山賊たちの事には触れていない。

 建業大守孫堅の三女とはいえまだ数えで六つの少女が知るにはあまりにも残酷な所業だろう。

 

 手入れの行き届いた中庭を歩きながら考える。

 出来れば今後もこんな血生臭い事柄には関わってほしくない。

 しかし彼女の立場上、それはありえない。

 権力者の子として生まれた彼女には既に相応の義務が課せられてしまっているのだから。

 

「生まれた時から気づかず背負わされる義務、か。やり切れない話だ」

 

 自分よりも遙かに小さな子供を取り巻く子供らしくない環境、それを知りながらなにも出来ない自分に思わず自嘲する。

 

 駄目だな。

 こんな暗い顔では雪蓮嬢や冥琳嬢、蓮華嬢や荀彧たち察しの良い子供たちに心配をかけてしまう。

 気分を切り替えるように首を振り、俺はいつの間にか止まっていた歩みを再開した。

 

 

 

 冥琳嬢は建業城の資料室にいた。

 勤勉な彼女はよくここを利用し、自分の知識を増やすべく努力している。

 毎日、朝から夕まで読書に励んでいる事はよく知っていたので足を運んでみたのだがどうやら正解だったようだ。

 遠征前は雪蓮嬢に「さいきん冥琳が遊んでくれない」などと頬を膨らませて愚痴られていたが、どうやらその勤勉ぶりは良くも悪くも変わらなかったらしい。

 

「久しぶりだな、冥琳嬢。元気そうで何よりだ」

 

 読書の邪魔にならないよう、ゆっくり近づき声をかける。

 

「え? あ、駆狼殿! お帰りなさい!」

「ああ、ただいま。別にそんなに慌てる必要はないぞ?」

 

 慌てて本を閉じて座っていた椅子を倒す勢いで立ち上がる冥琳嬢。

 集中していた彼女は俺が声をかけてようやく俺の存在に気付いたようだ。

 

「あ、は、はい……すみません、気付かずに」

「気にするな。むしろ俺の方こそ読書に集中しているとわかっていたのだからもっと気を遣うべきだった。すまないな」

「い、いえ……」

 

 恐縮し切りで緊張している冥琳嬢。

 俺たちが任官してから既に三ヶ月が経過する。

 その間、彼女とはそれなりに親交を深めてきたのだが。

 ある時を境に俺への態度が硬化してしまっていた。

 

 何と言うか無意味に緊張していると言うか。

 まるで天敵と相対する時の獣のように気を張るようになってしまったのだ。

 警戒されるような事をした覚えはないのだが、正直どうすれば良いか検討が付かない。

 一度、美命や陽菜に相談してみたのだが。

 

「しばらくあの子の好きにさせてやってくれ。別にお前の事を嫌っているわけじゃないさ」

「少し戸惑っているだけよ。自分の気持ちに、ね」

 

 などと意味深な事を言うだけで対処法を教えてはくれなかった。

 なので俺はなるべく自然体で会話し、彼女の態度を気にしないようにしている。

 嫌われているわけではないと言うのは俺にもなんとなくわかるのだ。

 こちらがよそよそしくなってしまっては彼女を傷つけてしまう事になるだろう。

 

 机には彼女が読んでいた物以外にも何冊もの本が重ねて置かれていた。

 その一冊を手に取り、適当にめくってみる。

 

「……今は政治経済に関する本を読んでいるのか」

「はい」

「俺が遠征する前は軍略関係、確か孫子を読んでいたな? あちらはもう読み終わったのか?」

「もちろんです!」

 

 はきはきと嬉しそうに、そして誇らしげに返事をする彼女の笑顔は実に溌剌とした物だった。

 見ているだけでこちらまで元気になれる、自然にそう思わせてくれるほどに。

 

「凄いな。まだ十歳になったばかりだろうに。感心するぞ」

 

 素直にそう思う。

 十歳の子供が、大人でさえ興味がなければ読まないような本をこんなにも短い時間で読破し、その内容を自分の知識として吸収して いるのだから。

 確実に俺よりも頭が良い。

 将来が実に楽しみだ。

 

「私は早くちしきを身につけ、母上たちや駆狼殿の手助けをしたいのです!」

 

 その母親譲りの生真面目さは貴重だ。

 なにせ君主とその長女の破天荒ぶりが酷いからな。

 未来の側近候補は堅物なくらいの方がバランスの良い塩梅になるだろう。

 

「それは楽しみだ。だが根を詰め過ぎると役立つ前に倒れてしまう。適度に休む事も必要だ。最近は朝早くから篭もっていると聞いている。毎日、こんな生活をしていてはいずれ体調を崩すぞ?」

 

 彼女のやる気は素直に褒めるべき所だが、やり過ぎは身体を壊す事に繋がる。

 諫めるべき点は諫めなければならない。

 諫められ、叱られ、怒られなければ『してはいけない事』と言う物は伝わりにくいのだから。

 

 これは幼い頃から言い聞かせていかなければならない事であり、大人が子供に対して持つ数ある義務の一つだと思っている。

 

「は、はい。申し訳ありません」

 

 先ほどまで喜色満面だった表情が諫められた事で消沈、俯いてしまう冥琳嬢。

 むぅ、こんな風になるほど強く叱ったつもりはなかったのだが。

 

「偶にでいい。本に触れない一日を作ってみろ。お前はまだ幼い。ずっと机に座り込んでいる必要はないんだ」

「で、ですが、その……私が役に立つにはちしきを身につけて母上たちのほさが出来るようになるのが一番、早いように思えるのですが」

 

 なるほど。

 この子なりに自分に出来る事を模索した結果が今の読書漬けの生活と言うわけか。

 だが結論を出すにはまだ早い。

 

「焦るな、冥琳嬢。お前に出来る事が政治、軍略『だけ』だと決めつけるな。お前はまだまだこれから知らなければいけない事がそれこそ山ほどある。そしてそれらはただ本を読めば学べると言う物ではないんだ」

 

 確かにこの子は頭が回る。

 あの『周瑜』であると言う事を差し引いても十分に優秀だ。

 だがだからと言って、こんな幼い頃から必要不必要と言う判断基準で物事を考える必要はない。

 俺たちのように守る手段として武力を選ばなければならない状況ではないのだから。

 子供はもっと伸び伸びと生きるべきだろう。

 

「今だけしか出来ない事をやればいい。為になる、ならないではなくやりたいと思う事に熱中すればいい」

「……」

「その結果が読書だと言うなら俺は止めない。だが今、それを決められるほど色々な事に挑戦してきたわけじゃないだろう?」

「……はい」

 

 腰まで届く黒髪を撫でながら言い聞かせる。

 

「なら試せばいい。前に言ったな、失敗を恐れるなと」

「いたらない所は母上や蘭雪様たちが止めてくれる、ともおっしゃられていました」

「覚えているならば躊躇う必要はないはずだ。子供から世話をかけさせられて迷惑に思う大人はここにはいない」

 

 そこまで話して撫でていた手を離す。

 

「迷惑をかける事を怖がるのは仕方がない事だ。けれどそれを理由に立ち止まってくれるなよ」

「はい」

 

 さてこれ以上、ここに留まるのも悪いか。

 言いたい事も言えたし、最も重要な帰還の挨拶も出来た。

 少々、説教などしてしまったが気を悪くしてないだろうか。

 

「駆狼殿……ごしどうありがとうございました」

「指導なんて重たい物じゃないさ。だが心に留めておいてくれると嬉しい。ではまたな」

 

 席を立ち、冥琳嬢に背を向ける。

 俺が退出するまでずっと頭を下げっぱなしにしてるだろう冥琳嬢の姿を頭に浮かべながら俺は少々乱暴に自分の頭を掻いた。

 

 

 

 次に俺がやってきたのは孫権こと蓮華嬢の部屋だ。

 

 

 孫権仲謀(そんけんちゅうぼう)

 孫堅の息子であり、後に三国に名を連ねる孫呉の大帝。

 孫堅の死後、孫策が早死にした後に孫呉を継いだ若獅子。

 劉備と曹操に比べると保守的な人物と言われているが、それは親兄弟から継いだ孫呉を守るたいという想い故の行動だった。

 最終的に牙を剥いた曹操に対して劉備と同盟を組み、かの有名な赤壁の戦いにて彼の軍を退ける。

 三国の世を作り上げた人物の一人と言ってよいだろう。

 

 

 さてそんな蘭雪様の血を引いている蓮華様だが、彼女はやや内向的な性格をしている。

 何も言われなければ日がな一日を自室で過ごす事も多いくらいだ。

 逆に必要とあれば、どこにでも出歩くのだが。

 いざと言う時の行動力は、やはり孫家の血が入っていると実感させられた物だ。

 

「激、ここ字がまちがってます」

「うぇ!? ほ、ほんとだ……ち、ちくしょう。次だ次!」

「ここもです」

「……なんてこった」

「あ、まだありました」

「ぐはぁっ!? お、俺から頼んどいてなんだがほんと容赦ねぇよな。蓮華様」

「わるいところをしてきする時はきびしくするべきだとおじさまが言っていました」

「駆狼の影響かよ!? いや厳しい方が俺の為にはなるんだけどさ!?」

 

 ノックをしようと手の甲を彼女の部屋に向けた所、中からこんな声が聞こえてきた。

 勤勉な幼なじみと蓮華嬢の話し声の内容から察するにどうも恒例の報告書添削の真っ最中らしい。

 

 聞こえてきた会話だけで中の光景が想像できてしまった。

 二十を越えた青年が床に手を付いて膝をつき、それを椅子に座って呆れながら見下ろす少女の図。

 微妙に犯罪臭漂う光景である。

 

「まあ大丈夫だろう。ここでは日常茶飯事だ」

 

 とりあえずノックをする。

 蓮華嬢が「どうぞ」と入室を許可するのを待ち、俺はそっと戸を開けた。

 

「失礼する。蓮華嬢」

「あっ! おじさま!」

「お〜、駆狼。昨日ぶりだな」

 

 椅子から立ち上がりパタパタと近づいてくる蓮華嬢と机に広げた竹簡の内容を手元の竹簡に書き写しながらおざなりに声をかけてくる激。

 激の俺に対する対応がおざなりなのは蓮華嬢に添削を厳しくするように言い含めた事が原因かもしれないな。

 

「およそ三ヶ月ぶりになるが元気そうで安心したぞ」

「おじさまも隊のみんなもごぶじで何よりです!」

「ああ、ありがとう」

 

 明るい笑みに釣られて俺も笑いながら彼女の頭を撫でる。

 無言で、しかし嬉しそうにはにかむ蓮華嬢を見ていると元気が出てくるように感じるな。

 

「で、どうしたんだ、駆狼。お前、今日は休暇だろ?」

 

 嬉しそうにはにかむ彼女に和んでいると激が声をかけてきた。

 相変わらず視線は二つの竹簡を言ったりきたりしているが。

 

「昨日は軍務としての帰還報告しか出来なかったからな。休みを利用して蓮華嬢たちに会いに来たんだ」

「なるほどねぇ。相変わらずマメだな、お前」

「わざわざ会いにきてくださるなんて……ありがとうございます」

 

 恐縮した様子で蓮華嬢が頭を下げる。

 だが俺としてはそこまで感謝されるような事でもないと思っている。

 

 蓮華嬢は主君と仰いでいる人間の娘であるのだから帰還の挨拶にこちらから出向くのも当然の事だ。

 君主の命令で公の場以外での堅苦しい言葉遣いを禁じられてしまったのでいつも通りに話させてもらってはいるが、それでもその辺りの分別は付けるべきだろう。

 

 まぁそんな堅苦しい理由などなくとも子供の事を気にかけるのは俺や陽菜にとっては当然の事なんだが。

 

「さて取り込み中だったようだが出直した方がいいか?」

「ああ、それは大丈夫だ。もう一通り添削してもらったからよ」

「はい。後はげきがまちがえた字を直すだけです」

「それくらいなら自分の部屋で出来るからな。俺が部屋出るからお前は蓮華様に土産話を聞かせてやれよ」

 

 そう言うと激は机の上に広げていた竹簡を手早く畳むと手に持っていた物と併せて脇に抱えた。

 

「それじゃ俺はこれで。毎度毎度、すみませんね。蓮華様。俺の仕事手伝わせちまって」

「ううん。気にしないで。あとげきはどんどん字うまくなってきてるよ。まちがいだってへってるもの」

「うっす、ありがとうございます。そんじゃ駆狼、蓮華様は任せた」

「ああ。お前はしっかり仕事に励め」

「あいよ〜〜」

 

 空いた手をひらひらと振りながら激は部屋を出ていった。

 俺たちは顔を見合わせて笑いあうと円形の机を挟んで椅子に座る。

 

「さて……遠征の土産話を用意したんだが良ければ聞いてくれるか?」

「はい! お願いします!!」

 

 小お嬢に勝るとも劣らぬ輝く笑顔を見つめながら俺は遠征での出来事を語り始めた。

 と、このまま話が終われば良かったのだが。

 

「……」

「……」

 

 今、俺を挟んで蓮華嬢と文若が睨み合っている。

 二人とも俺の腕を握りしめ絶対に離さないと言わんばかりに相手を無言で睨み付けていた。

 

「なぁ、二人とも?」

「なんですか、おじさま?」

「とうりんさま、なんですか?」

 

 それまで睨み合っていたのが嘘のような笑顔を向けてくる。

 

「……」

「……」

 

 だが双方、声が被った事が気に入らないのかまた睨み合いに戻ってしまった。

 

「……恨むぞ、ご老体」

 

文若と蓮華嬢を引き合わせ、二人の間の雰囲気が怪しくなると同時に逃げていった老婆の顔を思い浮かべ両腕を拘束する二人の少女に聞こえないように毒づいた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十七話

「ほらほら、駆狼。こっちこっち!」

「ああ、わかったから引っ張らないでくれ」

 

 俺の腕を引っ張る雪蓮嬢に苦笑いしながら街を歩く。

 

 

 蓮華嬢と文若の俺を挟んだ睨み合いは、何の前触れもなく現れた乱入者の登場であっけなく終わった。

 乱入者と言うのは今、俺を引っ張り回している雪蓮嬢ではなくその親である蘭雪様と陽菜の孫姉妹だ。

 

 ノックしてから部屋に入るまでにまったく間を作らず。

 目の前に飛び込んできた俺が二人の少女に挟まれているというよくわからない状況をじっくり五秒ほど観察すると。

 姉妹間で意味深なアイコンタクトを一瞬で済ませて行動を開始した。

 

「よし、蓮華。今日は母さんと飯に行くぞ!」

「へっ!? 母様っ!?」

「文若ちゃんも一緒に行きましょう。建業のおいしいお店を教えてあげるわ」

「えっ? あ、あの……」

 

 驚きと困惑の入り交じった表情を浮かべる二人を軽々と自分の腕に抱き上げる孫姉妹。

 

 人に対して拒絶反応を起こすはずの文若だが、陽菜に抱かれても取り乱しはしなかった。

 人に触れられた事への怯えや恐れよりも事態の急転に戸惑う気持ちの方が大きいんだろう。

 陽菜が彼女の状態は把握しているのも大きい。

 可能な限り体の力を抜いて意識を穏やかに保った状態で文若に触れている。

 優しく包み込むように抱きしめているお陰で彼女が怯える事を避けているのだ。

 俺たちに慣れていた事も良い方向に作用しているだろう。

 

 少女たちを抱き上げてなにやらご満悦な二人であったが、この急展開にすっかり取り残されてしまった俺の事を無視するつもりはなかったらしく戸の前で俺に向き直った。

 

「駆狼。お前は雪蓮を連れて私たちを追いかけて来い。いつもの店と言えばあの子が知っている」

「あんまり遅いとお昼ご飯無しって伝言もお願いね?」

「は、はぁ……わかりました」

 

 生返事を返す俺に満足げに頷くと二人は子供たちを抱き上げたまま部屋を出ていく。

 

「あの子、また辺りを散策しているみたいだから捜すのは大変かもしれないけど」

「あれは散策だなんて綺麗なもんじゃない。ただの放浪癖だろう。まぁとにかく雪蓮の捜索、頼んだぞ」

 

 去り際に厄介事を押しつけて。

 

 

 いや蓮華嬢と文若の諍いを止めてくれたのだからこの厄介事はその代価だ。

 そう思えば文句を言うのは筋違いだろう。

 

 それから俺は気を取り直して二人に言われた通り、雪蓮嬢を捜しに出たのだが。

 彼女を見つけるのは大変だった。

 

 なにせ猫のように気まぐれで奔放なのだ。

 城壁に登っているのを見たと聞いて行けば、今度は城の中庭で昼寝をしていたと聞く。

 振り回されると言うのは正しくあの時の俺の事を言うんだろう。

 

 俺が捜している事を知っていて逃げ回っているのではと思えるほど彼女はあちらこちらとふらふら歩き回っていた。

 

 最終的に調練場で祭や塁と一緒にいる所を捕まえる事が出来た。

 頼まれた時間から既に一刻が経過した後だったが、まるで計ったかのように昼飯時の時間になっていた。

 

 ここまでの流れを狙ってやっているのだとしたら恐ろしい姉妹である。

 

「ほら! そこだよ、駆狼」

 

 雪蓮嬢に声をかけられ現実に意識を戻す。

 俺の手を掴んで歩く彼女は人気の少ない静かな路地の端の店を指さして楽しそうに笑った。

 

「ほう、この路地に食事処があったのか」

「このお店は建業に母様が来る前からずっとやってたんだって!」

「老舗と言う事か」

 

 なら味も期待できるな。

 まぁ蘭雪様たちの行きつけの店と言う話だし、外れと言う事もないだろう。

 値段と相談になるだろうが良さそうなら今度は宋謙殿や賀斉、蒋欽ら部下たちを連れてきてみるのもいいかもしれない。

 

「雪蓮嬢を捕まえるのに余計な時間がかかったからな。蘭雪様たちも待ちくたびれているだろうし、早く入ろう」

「ぶ~、いじわる言わないでよ~~」

「ならばまず勉強から逃げないでくれ。やるべき事をやってくれれば俺も文句なんて言わないで済むんだからな」

「え~~」

 

 不満顔で頬を膨らませる彼女の懲りていない様子にため息をつきながら俺は目前に迫った店の戸を開けた。

 

「邪魔をする」

「いらっしゃいませ……」

 

 戸がない住宅や店などが多いこの時代でさらに珍しい引き戸を開ける。

 同時にかかる、店内に良く通るが低い来店を歓迎する声。

 声の出所は店の奥、番台のようになっている場所に座っている老人のようだ。

 

「先客がいるはずなんだが……」

「お客様のお名前は?」

 

 奥まった場所にある小粋な料理屋の店番とは思えない堂々とした態度と鋭い視線に俺は思わず気を引き締めた。

 しかし敵意や殺気は感じられない。

 恐らく常日頃からこの人物はこういう態度なのだろう。

 隣の雪蓮嬢が老人の方を見てにこにこと笑っている事からも推察出来る。

 

「俺は凌刀厘と言う。こちらは……」

「孫伯符だよ。おじいちゃん、ひさしぶり!」

「お久しぶりですな、伯符様。文台様方は奥の間に上がられておりますのでどうぞ」

「うん、ありがと!」

 

 雪蓮嬢は繋いでいた手を離すとパタパタと駆け足で番台の横通り過ぎて店の奥に向かっていく。

 その様子を目で追いながら俺も後を追うべく店の中を歩き出した。

 しかし番台を通り過ぎると言う所で老人が声をかけてきたので足を止める。

 

「貴殿が近頃、噂になっている武官様ですな。お会いできて光栄です」

 

 老人は枯れ木のような細い体を流れるように動かし、俺に深く頭を下げた。

 

「俺は蘭雪様に見込まれて城に仕えさせていただいている成り上がり者です。さらに言えば俺の立場は兵卒よりも上である程度。伯符様はともかく俺に敬語は必要ありません」

 

 領主の娘である雪蓮嬢に対してならいざ知らず、仕事ではない時の俺にこんな丁寧な姿勢で応対する必要はないだろう。

 

「あまりご謙遜なさりませんよう。貴殿は呉の民の平和の為に尽くされております。既に貴方は建業では知らぬ者などいないほどに有能な将。君主を得てわずか三ヶ月の間にこれほどの成果を挙げられる方など建業ではとんとお聞きしません。過分に胸を張るのは良くありませんが、しかしご自分を必要以上に低く見せる事が良い事とも限りません」

 

 それは自身の体験を踏まえたような酷く実感の篭もった言葉だった。

 じっと見つめる鋭い視線には俺を咎め、諫め、諭す真摯な意志が篭められている。

 やはりこの老人、只者ではない。

 

「……ご忠告、ありがたく心に留めておきます」

「いいえ。こちらこそ、ただの飲食店の店主が過ぎたお言葉を言いました。ご無礼の罰はいかようにも」

 

 俺が頭を下げると合わせて老人は番台を降り、あろう事か地面に平伏した。

 まるでこれが俺が認識するべき将としての立場であり、民との違いなのだと伝えようとするように。

 

「貴方の言葉は俺を想っての忠告です。それを無礼と切って罰する事など出来ません。顔を上げてください」

「……心の広いお方ですな」

 

 ゆっくりと頭を上げ、番台へ座り直す老人。

 

「礼には礼を、と心がけているだけです」

「ふふふ、左様でございますか」

 

 老人は先ほどまでの刺すような雰囲気を解き、ほんの僅かに表情を緩めると雪蓮嬢が消えていった奥へ視線を向ける。

 

「奥へどうぞ。皆様がお待ちです」

「建業の大守が常連になるほどの味、楽しみにさせていただきます」

「もったいないお言葉です」

 

 俺は頭を下げ、彼の横を通り過ぎて奥へと向かった。

 

 

 

 ぐつぐつと出汁が沸騰する音。

 具材が沸騰した鍋。

 沸騰する出汁に揺らされる様子が食欲をそそる。

 

 そしてそれを黙ってじっと見つめている五対の瞳。

 俺よりも先に店に入っていた面々なのだが、俺が入ってきた事にも気づかず鍋に集中していた。

 

 しかし驚いた。

 まさか屋内で鍋料理とは。

 

 野営する時の大人数用に大鍋を囲って食事をする事はあるが、それは周りに火が燃え移る心配がなく野ざらしの屋外なら鍋をかけた火の熱や煙が篭もる事もないからだ。

 

 前世のように換気扇などの空調設備などがない以上、密閉状態の室内でやるには難がある。

 今の時代なら厨房以外で火を扱うのはせいぜい鍛冶屋くらいな物ではないだろうか。

 だと言うのにこの店はそれを行っている。

 

 しかもだ。

 部屋の温度は少々高く感じられるが十分に許容できる範囲。

 火をかけている鍋は部屋の中央に造られた釜戸の上にあるが、これは随分としっかりとした造りの物だ。

 店を出してから配置したと言うよりも最初からこの場所で造られていたような印象を受ける。

 さらに煙を外に出す為なのだろう釜戸の裏から鉄製の筒が部屋の天井にまで伸び、排煙機能も完備されていた。

 

「こんなに設備が整った店があるとは」

 

 やはりこの時代はどこかおかしい。

 まぁこの店の場合、店主と蘭雪様たちが古い仲のようなのでその付き合いの間に陽菜が入れ知恵した可能性もあるが。

 

「まぁ今はどうでもいいか。それよりも……」

 

 この今にも鍋に飛びかかりそうな連中をどうにかしなければいけないな。

 俺はため息をつきながらこの妙に緊張した空気を破壊する為に右手を振り上げた。

 

 

 

「っ~~。普通、主の頭に拳骨をするかぁ!?」

「なんで私まで!? 姉さんだけでも良かったでしょ、駆狼!」

 

 子供と同じ視線で鍋を見つめていた保護者二人が頭をさすりながら文句を言ってくる。

 

「子供を窘める立場の人間が一緒になってはしゃいでいるのが悪いと思いますが」

 

 文句を言う大人に苦言を言いながら、良い具合に煮えた具材を栄養バランスを考えて椀によそう。

 

「ほら、蓮華嬢。熱いから気をつけてな」

「はい!」

 

 小さな両手で包み込むように椀を受け取る。

 箸で掴んだ野菜を自分の息で冷ます様子を後目に次の椀に具材をよそっていく。

 

「文若、慌てずにな」

「ありがとうございます!」

「雪蓮嬢、しっかり食べろ」

「ありがと、駆狼!」

 

 子供たちに椀を渡し終えた所でまだぶつぶつ文句を言っている大人二人を見つめる。

 そして見せつけるように椀に肉多めでよそい、差し出すように二人の前に突き出す。

 

「いらないんですか?」

「食べるに決まってるだろう!」

 

 飢えた獣のような素早い動きで椀をかっさらっていく蘭雪様。

 今の姿を美命に見られていたら間違いなくお小言をもらっていただろう。

 『平時でも主としての威厳を持て』だとかそういう事を言われていたはずだからな。

 

「やれやれ……」

「駆狼、私の分もお願いね?」

「わかっているさ。野菜多めに、だろう?」

「ふふっ! よろしく」

 

 肉よりも野菜が好きだった前世の味覚は今世でも健在か。

 俺も味の好みは前と変わっていなかったから、たぶん大丈夫だとは思っていたが気を利かせて問題なかったようだ。

 自分の分をよそいながら昔と変わらない事がある事になんとなくほっとする。

 

「……お前等はこんな所でも見せつけてくれるのか。鍋よりもお前等の熱で熱くなって周りが困ってしまうだろう」

 

 わざとらしく手で自分の顔をパタパタと仰ぐ蘭雪様。

 

 やれやれ。

 また俺たちをからかうつもりか。

 

 俺と陽菜の仲を認めた途端、我らが主君は何かにつけて俺たちをからかうようになった。

 帰還した昨日もそうだったし、今朝も俺たちの様子を見るや否やなにがあったかを察して玩具を見つけた子供のようにはしゃぎながらせっついてきたが。

 どうやらまだまだ飽きていないようだ。

 

 俺と陽菜に関して言えばからかわれて照れるような初々しさは、とうの昔に卒業してしまっているのだから黙って流してくれれば良いものを。

 よりにもよって子供たちの前で露骨にからかってくるとは。

 この年頃の子と言うのは好奇心の塊ですぐに真似をするのだから、せめてこのような席ではやめてほしいものだ。

 

 この場に居合わせてしまった子供たちを様子を窺う。

 

 雪蓮嬢はワクワクした様子で俺たちを見ていた。

 蓮華嬢は食事に集中して俺たちの事を気にしていない風を装いながらチラチラとこちらに視線を送ってくる。

 文若は俺たちの会話の内容が飲み込めていないらしく首を傾げながら俺を見つめていた。

 

 ……どうやら既に二人に悪影響が出ているようだ。

 早急に場を納めなければならない。

 子供たちの健やかな成長のために、な。

 

「蘭雪様、お代わりはいりませんね?」

 

 空になった自分の椀を見つめて苦々しい表情を浮かべる蘭雪様。

 俺が何を言いたいのかを察したのだろう。

 

「……お前、からかいをさらっと流した上に胃袋押さえてくるなんて鬼か?」

「子供たちに悪影響を及ぼす言動をする主に容赦するつもりはありません。それで、どうされます? お代わりされますか?」

 

 椀を持つ手とは逆の手で自分の髪をがりがりと掻く彼女に畳みかけの言葉をかける。

 すると蘭雪様はしばし沈黙すると敗北を認めるようにため息をついた。

 

「わかった、わかったよ。今回は私の負けだ」

 

 がっくり頭を垂れながら、それでもしっかりとした手つきで椀を差し出す辺り懲りていない事がよくわかる。

 また次の機会に何か言われるだろう事がわかっているのでここでは少々、追い打ちをかけさせてもらうとしよう。

 

「おや、何か勝負などしていましたか? 俺には覚えがないのですが」

「ぬぅ……自分の君主を相手にならんと言い切るとは。駆狼、性格が悪くなってないか?」

「つい先日、義姉と呼ぶ事を許されましたのでね。家族に遠慮は不要でしょう?」

「ぶはっ!?」

 

 俺の切り返しが予想外だったのか蘭雪様は口に入れていた野菜を噴出した。

 食事をしながら話を聞いていた陽菜や雪蓮嬢たちも驚きで手を止め俺を見つめている。

 

「今後は主従としてと同時に義理の姉弟として改めてよろしくお願いしますよ。義姉上(あねうえ)」

「お前、こんな場所でそんな重要な宣誓をするのか? しかもそんな場ですら直前まで平気で義姉をこき下ろしているし。まったく……こんな非道な弟が出来るなんて今日は人生で五指に入る酷い日だな」

 

 ため息と共に大げさに肩を落としてうなだれた。

 だがその手にはしっかりと椀が握りしめられているので実の所そこまで落ち込んでいるわけでも、本気で今の言葉を言っているわけでもない。

 

「俺の性格については諦めてください。陽菜が見限らない限り、そして貴方が『最初の誓い』を破らない限り、俺がこの場所から離れる事はありませんから」

 

 最初の誓いと言う言葉が何を指すのかを察したのだろう蘭雪様は真面目な表情で俺を見つめた。

 

「それをここで出すと言う事は、今のは嘘偽りのない言葉と言う事だろうが……いくらなんでもひねくれ過ぎだろう、駆狼」

「そんなに褒めても何も出ませんが?」

「微塵も褒めていないんだがな?」

 

 してやったりと俺が笑うと釣られるように蘭雪様も笑みを浮かべた。

 

「安心して、駆狼。たとえ誰が貴方から離れても私は貴方から離れないわ。むしろ離さないわよ?」

 

 俺たちの会話を黙々と食事しながら聞いていた陽菜が口を挟む。

 

「ありがとう」

「どういたしまして」

 

 いつも通りの雰囲気で、生涯を共にすると言う重大な誓いをする。

 先ほどの俺と同じ事をする陽菜に笑みを深めながら礼を言った。

 

「お前等、結局お熱いんじゃないか」

 

 もはやからかう気も起こらないらしくただただ呆れる蘭雪様を見て俺と陽菜はもう一度、笑いあった。

 

 

 

 それから食事はおよそ三十分ほど続いた。

 文若と蓮華嬢が積極的に会話をしていたのが印象に残っている。

 あれほど仲が悪かったように見えた二人だったから余計にだろう。

 俺と蘭雪様のやり取りを見て何か感じ取ったのかもしれない。

 

 なにやら陽菜と蘭雪様が微笑ましそうに彼女たちの会話に口を挟んでいたのも気になる所だ。

 

 

 俺はと言えば彼女らの談笑には入らず雪蓮嬢と話をしていた。

 文若と蓮華嬢は俺が間に入ると何故かお互いを牽制し合うようになるので、下手に手を出して今の雰囲気を壊したくなかったのだ。

 

 雪蓮嬢との話は大半が俺が遠征していた頃の建業の話だ。

 

 遠征が始まってから三日ほど、俺の置き土産のせいで祭と陽菜が使い物にならなかっただとか。

 塁が観世流仁瑠を振り回して訓練場の地面や壁を穴だらけにして美命の怒りを買い、武器を一ヶ月間倉庫預かりにされた上に罰として禁酒を言い渡されただとか。

 武官と言うよりも文官になりつつある慎と深冬の仲が良くなって最近ではいつも一緒にいるようになっただとか。

 文官修行中の激は文官連中に毎日しごかれ、蓮華嬢には文字の間違いを突っ込まれ、涙目にならない日はなかったのだとか。

 

 こうして聞いていくと激の不憫さが際だっているな。

 まぁ自分を磨く為の必要経費だと思えば安い物だろう。

 何に置いてもそうだが強くなる事に楽な道やまして近道などないのだからな。

 

 しかし慎と深冬は性格的に相性が良いとは思っていたが、俺がいない間にそこまで進展していたんだな。

 弟分に春が来て俺としてもとても嬉しい。

 

 塁はもう自業自得としか言えないな。

 自警団をやっていた頃からあれほど訓練であの馬鹿でかい大鎚を考え無しに振るうなと怒鳴ったと言うのに。

 

 祭や陽菜については俺の責任だが、まさか三日も引きずるとは思わなかった。

 色々と振り回された事への軽い意趣返しのつもりだったんだが今後は自重しよう。

 

 

「あとさいきん冥琳があそんでくれないの。いっつも本読んでばっかりで」

 

 そして話の内容はいつの間にか冥琳嬢に対する愚痴に変化していた。

 冥琳嬢への不満をぶつけるように鍋をがっつく。

 

 その様子はなんとも微笑ましいのだが、内容がまるで仕事が忙しくて構ってもらえない夫に不満を持つ妻のようで年齢とのギャップがひどかった。

 

「聞いてる!? 駆狼! 冥琳ったら忙しい忙しいってそればっかりで……」

「ああ、聞いているから安心して話していい」

 

 まぁなんだ。

 こうして文句は言っているが冥琳嬢が何を考えているかなんてこの子もわかっているんだろう。

 だから書庫に篭もる彼女を無理矢理外に連れ出したりはしないのだ。

 

 だが理解しているから不満がないと言うことではない。

 物事が上手くいかない歯がゆさや悔しさは心の底に溜まっていく。

 それはいつか最悪の形で爆発するかもしれない危険な燃料にも成り得る。

 

 だからこういう場で発散させなければならない。

 この程度のガス抜きなら幾らでも付き合うし、こういうのも年長者の役目だろう。

 

「それでね、もぐもぐ……冥琳ってばね! おかわり!!」

「あんまり食べると太るぞ?」

「いいの! 育ちざかりだから!! もっとお肉入れて!!」

「はいはい」

 

 いつの間にか愚痴よりも食べる事に集中し始めた雪蓮嬢。

 どうやら適度に不満を発散させる事が出来たらしい。

 

 明日には、いやもしかしたらこの後すぐにでも冥琳嬢に声をかけに行くんだろう。

 冥琳嬢が俺が今朝言った事をしっかり理解していれば、かなり高い確率で雪蓮嬢の誘いを受けると思うがな。

 

 俺たちの昼食はこうして騒がしくも楽しい物になり、恐らくそれぞれにとって為になる物となって終わった。

 

 

 さて午後はまず豪人殿の奥さんに挨拶に行くとしよう。

 彼が駐屯する判断を下したのは俺なのだ。

 俺の口から説明をしなければなるまい。

 

 俺は陽菜たちよりも一足先に鍋料理亭『虹』を後にし今後の予定を思案しながら街を歩きだした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外之一_祖茂

 刀にぃたち遠征部隊の半分が帰還してから既に一週間が過ぎていた。

 三日間の休みを終えた刀にぃは遠征で得た知識を武将に伝えて回り、その後は遠征前と同様の部隊の調練に励んでいる。

 

 遠征での経験が良い刺激になったみたいで、ただの調練であるにも関わらず部隊の人たちの士気はすごく高い。

 毎朝、太陽が真上に上がるまで行っている走り込みの時の声出しは部屋で書類を書いていても聞こえるほどだし、組手は実戦さながらの気迫で見ていて圧倒されるほどだ。

 

 そしてそんな人たちを一手に引き受けて時に叱咤し、時に激励する刀にぃの姿が僕にはとてつもなく大きく見えた。

 

 追いつくべき背中との距離が遠のいたように思えるほど。

 置いていかれそうなくらい遠くに感じてしまった。

 

「……いや、そんな事ない」

 

 くじけそうになる心を励ます為に声を出す。

 

 そうだ。

 刀にぃが凄い事なんて分かり切っていた事だ。

 昔からそうだったんだから。

 だから頼り切りになって、甘えて、そしてその事を一度こっぴどく怒られたんだ。

 

 その時、決めたはずだ。

 刀にぃに頼るんじゃない。

 頼られる男になるって。

 差が開いたくらいで諦めるくらいの気持ちなら、とっくの昔に諦めてる。

 その差を無くす為に毎日政務で忙しくても時間を作って、双剣での戦い方を磨く修練を欠かさなかったんだ。

 

「今日は……もう政務はなかったはず」

 

 何か緊急で対応しなきゃいけない事項が出てこなければ、今日はもう自由にしていいと美命様には言われていた。

 突然、仕事がなくなってしまったから何をしようかと考えていたけど。

 

 ふと今の自分がどこまでいけるのか試したいと思った。

 両腰に一本ずつ帯びた剣。

 昔から愛用しているそれらの柄を握り締める。

 馴染んだ感触に安心感を覚えながら、指示を出している刀にぃを見つめる。

 

「でも……さすがに調練中に割って入るのはまずいよねぇ」

 

 これからやろうとしている事は僕の個人的な都合から来る物だから、真剣に調練を行っている人たちの邪魔をするわけにはいかない。

 

 仕事が終わるまで待とうと思った所でふと調練の指示を出していた刀にぃと目が合った。

 

 僕が目を見開いて驚くと刀にぃはほんの僅かだけ口元を緩めて手招きをする。

 僕は一も二もなく刀にぃの元に走った。

 

 あの目はこう言っていた。

 試合おう、と。

 

 高揚感が全身を巡っていく。

 今の自分がどこまで近づいているのか。

 あの遠いと思った背中にどこまで追いすがれるのか。

 

 それがはっきりわかる絶好の機会。

 激や塁、祭さんには悪いと思ったけどこんな機会を逃すつもりはなかった。

 

 調練場に辿り着くと既に調練は終わり部隊の皆はばらばらに陣取って柔軟運動を始めていた。

 

 そんな中で刀にぃは俺の姿を見つめ、拳を握りしめたままだ。

 

「準備運動は……いらないか?」

「……はい!」

 

 それが合図だった。

 

 まるで虎が獲物目がけて駆け寄るように身体を前に伏せ、前傾姿勢のまま一足飛びで僕の間合いを侵略する刀にぃ。

 僕は左腰の剣の柄を右手で掴み、引き抜くと同時に水平に振るう。

 

 刀にぃは剣が届く一寸前の位置で立ち止まってすぐさま飛び退き、僕の間合いから逃れていった。

 

 逃がさないように追いすがろうと一歩前に踏み込む。

 同時に風を切る僅かな音がして、僕は駆けだそうと前のめりになった身体を無理やり後退させた。

 

 まるで蟷螂(かまきり)の腕のように鋭い何かが眼前を通り過ぎる。

 それが回し蹴りだと気付いたのは無防備な背中を晒しながら右足を軸にその場で回転している刀にぃの姿を見てからだ。

 

「相変わらず蹴りの出が速いね。当たったら首が飛んでたよ、刀にぃ!」

「避けておいて良く言う」

 

 僕が追撃するよりも遥かに早く正面に身体を戻し、僕を見据える。

 

 左足と直線上になるように右足を前に出し、右手の平をまるで剣のように地面に対して垂直にしっかり伸ばし、左手は腰に添える。

 攻撃と防御、どちらも素早くこなせる刀にぃの攻防一体の構えだ。

 

「まさか今ので終わりじゃないだろう?」

「勿論!」

 

 両手に剣を持ち、右を垂直に左を水平に十文字になるように重ねて構える。

 

「ふっ!」

 

 一歩踏み込み、左手に構えていた剣を横一文字に薙ぐ。

 摺り足と言う独特の歩法で無駄なく、ほんの少しだけ後ろに下がる事で僕の攻撃はかわされる。

 

「はぁっ!」

 

 右手の剣を縦に振り下ろすがこれも後ろに下がってかわされてしまう。

 だけど、まだだ!

 

「せっ!」

「むっ!?」

 

 振り下ろした剣を途中で止め、手首を返すようにして突きを放つ。

 さすがにこの距離での突きを避ける事は出来ないようで、刀にぃは構えていた右手の手甲を盾になるように突き出した。

 

 響き渡る金属同士が擦れ合い、弾き合う甲高い音。

 

 でも勢いよく突きを繰り出して当たったっはずなのに。

 

 手応えがほとんどない!?

 

「えっ!?」

 

 むしろ突きを繰り出すために踏み込んだ分、前につんのめって行く。

 まるで刀にぃに引き寄せられているみたいだっ!?

 

 

 この現象が切っ先と手甲がぶつかり合う瞬間にぶつかり合った右手を引き戻す事で突きの衝撃を受け流した結果なのだと言う事を教えてもらったのはこの試合が終わった後の事。

 

 

 あまりの抵抗の少なさで伸び切ってしまった僕の右腕とそれに引きずられるように前のめりになる身体。

 刀にぃにすれば、絶好の勝機。

 

「おおおおっ!」

 

 防御に使った右半身を刀にぃは思い切り後ろに捻る。

 強力な一撃を放つ準備。

 

 けど。

 

「その隙は逃さない!」

 

 左手の剣を横一文字に薙ぎ払う。

 

「甘い」

 

 けどその一撃は刀にぃの左拳とぶつかって止められてしまった。

 

 右上半を捻った勢いで反対に前に出る左上半身から繰り出される左拳。

 振りかぶるより威力は落ちるけれど、僕も咄嗟に左の薙ぎ払いを仕掛けたから威力は五分。

 

「うっわ!?」

 

 でもしっかりとした姿勢で拳を放った刀にぃと無理な体勢で咄嗟に斬りつけた僕とでは一撃の重みに差が出てしまった。

 左手の剣がぶつかりあった衝撃で手から離れる。

 

「しっ!」

 

 一瞬、手の痛みと吹き飛ばされた剣に意識が向いた瞬間。

 背筋に寒気が走った。

 

「がっ!?」

 

 僕の腰にとてつもない衝撃を伴った一撃が突き刺さった。

 

 宙に浮かぶ奇妙な感覚。

 回る視界。

 

 蹴り飛ばされたのだとどこか他人事のように冷静に認識し、僕は地面に叩きつけられた。

 

「ここまで、か?」

 

 身体に奔る衝撃で悲鳴も苦悶も上げられない僕を見下ろしながら刀にぃが告げる。

 

「ま、だ……まだ」

 

 本当に一瞬。

 刀にぃの蹴りが僕に当たる刹那の時。

 衝撃に逆らう為に踏ん張るんじゃなくて、衝撃に逆らわないように後ろに跳ぼうとしたお蔭で僕はまだ戦う事が出来た。

 

 戦闘なら上を取られて隙を晒した時点で僕の負けだ。

 

 だけどこれは試合。

 自分と相手の力量を確かめ合う場。

 

 僕が刀にぃとどれだけ実力の距離を詰められたかを計ろうとしているように。

 刀にぃもまた僕の実力の全てを計ろうとしているんだ。

 

 この程度の事で負けを認めて、『こんなものか』だなんて思われたくない。

 いつまでも届かない背中に手を伸ばし続けるわけにはいかない。

 

 さっき感じた遠のいていく背中がただの錯覚だったんだと証明する為に。

 

 僕にも、意地があるんだから!!!

 

 ふらつく足、揺れる視界を無視して立ち上がる。

 刀にぃは明らかに隙だらけの僕を攻撃しないでおよそ十歩分くらいの距離を取って立っていた。

 

「さっき大げさなくらい右半身を捻ったのはそっちに意識を向ける為の罠だったんだね?」

 

 一本だけになった剣を両手でしっかり握る。

 昔、刀にぃが教えてくれた正眼の構えを取る。

 

 いつも万全の状態で戦えるとは限らないから、その備えとして剣一本でも戦えるように修練してきた。

 万が一に備えて無手でも自分の身が守れるくらいには戦える。

 無手に関しては刀にぃは勿論、祭さんや激、塁の誰にも勝てないけれど。

 

「そうだ。強力な一撃の準備を行っているという素振りをすれば反射的に身体が警戒する。激しく動いていれば動いているほど一瞬の判断は直感頼りになるから尚更だ。そして反射的に警戒したその一瞬の間だけ、警戒した事柄以外の事は置き去りになる」

 

 淡々と語る刀にぃの目は普段、見せている面倒見の良い僕らの兄貴分としての物ではない。

 目の前の敵と言う名の獲物を確実に仕留めるべく機を窺う、真名の通りの狼のようだ。

 

「その瞬間に次の手を講じる。先のやり取りの場合は左半身を使った拳、そしてその拳を振りぬく勢いすらも利用した蹴り」

「全部が囮で全部が本命。……ちなみにだけど、もし僕が蹴りを止めるか避けるか出来ていたらどうしていたの?」

 

 興味本位で聞いてみる。

 あの攻防の先をどこまで考えていたのかを。

 

「止められていたなら逆の足で足払いし倒れた所に関節技、避けられていたなら蹴りの軌道をむりやり変えて爪先を鳩尾に叩きこんで吹き飛ばしていたな。あの一瞬で考えていたのはこの二手だけだ」

「……二手『だけ』? 二手『も』の間違いでしょ?」

 

 あの状況、ほんの少しの間に二手も考えておいてそれで満足していないなんて。

 思わず呆れてしまった。

 

 でも……そうか。

 そういう事を念頭に置いて戦わないといけないんだ。

 相手との実力が伯仲していればしているほど、一手一手に『意味』を持たせないといけない。

 刀にぃは僕にそれを教えてくれている。

 この試合で僕にそれを叩きこもうとしている。

 僕ならば出来ると信じてくれている。

 

「……理解したようだな?」

 

 僕の心を読んだみたいに刀にぃは満足そうに笑いながら言う。

 その顔を見て気付いた。

 

 刀にぃにとってこの試合は力を確認すると同時に僕への指南でもあったんだ。

 

「やっぱり凄いな。刀にぃは……」

「安心しろ。俺の意図をこの程度のやり取りで察する事が出来るお前も十分凄い」

「でもやっぱり悔しいな。まだまだ刀にぃの方が強いってわかっちゃったし」

「簡単に追いつかれるような努力はしていないからな。だが……」

 

 刀にぃは両足で地面を踏みしめ、腰を落とした。

 

「お前に教えられる事はこれで最後だ」

「えっ?」

 

 突然の言葉で僕は試合中である事も忘れて間抜けな声を上げた。

 

 刀にぃは僕が茫然としている間に攻撃の態勢に入っていった。

 右拳を握りしめて腰の位置まで下げ、左半身を前に出し左手を開いた状態で僕の前にかざして告げる。

 

「元々、剣については多少の心得と構え方しか俺に教えられる事はない。そして今、勝つ為に絶対に必要な『考えて戦う』という事も身体に叩き込んだ」

 

 まるで弓を引き絞るかのように全身を捻らせ、右拳を放つ姿勢を取りながら刀にぃはまた満足げに笑った。

 

「あとはお前が考えて『自分の戦い方』を作れ。そして俺と並び、いずれは追い越してみせろ」

「っ!?」

 

 僕は息を呑んだ。

 

 『越えられるその時を待っている』と。

 言外にそう言われたからだ。

 

 刀にぃが僕の事を『自分を越えられる可能性を持っている人間だ』とそこまで見込んでくれていた事に、僕はこの時になってようやく気付いた。

 

「長話はここまでだ。もうじき日も暮れる。次で終いにするぞ」

 

 構えたまま告げられる言葉。

 僕は高揚する気分と気を抜けば溢れそうになる涙を堪えながら大声で応えた。

 

「はい!」

 

 刀にぃにそこまで見込んでもらえていた事への喜びと、追い越すのにはまだまだ時間がかかりそうな自分への不甲斐無さとが頭の中を蹂躙する。

 今の僕に物事を深く考える事が出来ない。

 情けないと思う。

 

 でもだからこそ出来る事がある。

 

 両手でしっかりと剣を握り込み、上段に振りかぶる。

 この高揚感に従って、全力でただ一振り。

 

「小細工無しの真っ向勝負!!!」

 

 僕の言葉を合図に同時に駆け出す。

 十歩分あった距離は一瞬で詰められ、お互いの間合いへ。

 

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!」

「はぁあああああああああああああああああああああああああああッ!!!」

 

 一撃に全てを懸ける。

 今まで心に燻っていた煮え切れない気持ちも、嫉妬にも似た恥ずべき感情も、今この時に感じている喜びも。

 何もかもを込めて剣を振るう。

 

 剣の一撃が刀にぃの肩に食い込む。

 刀にぃの右拳が僕の腹を貫かんばかりに叩きこまれる。

 

 そして僕は。

 意識が吹き飛ぶほんの一瞬、遠かった背中と並んで笑っている自分の姿を見た気がした。

 

 

 

 

 これより後、祖茂は『敵の攻撃を防がない』独自の戦い方を編み出して戦場を駆ける事になる。

 敵の攻撃は避けるか、あるいは攻撃が当たるよりも早く己の一撃を叩きこむと言う一歩間違えれば捨て身のような戦法。

 攻撃を避けようとせずに敵を斬り伏せるその戦い方は確かに異質ではあったが、同時に孫呉の兵に不退転の意思を伝播させ士気を天井知らずに向上させたと言う。

 彼は生涯、この戦い方を変える事はなく。

 

 そして彼が戦場で死ぬ事はなかったと言われている。

 

 孫呉にて名を馳せた五人の忠臣の一人『祖茂大栄』。

 彼の本当の意味での飛躍の時は兄と慕った男と肩を並べたこの日から始まっていたのだ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十八話

荀彧の親である荀緄についてですがコンの漢字が携帯で見ると文字化けするようです。
本来は『糸』に『毘』なのですがこの作品では『昆』で統一させていただきます。



 出会いがあれば別れがある。

 

 望んだ出会いがあれば、望まない出会いがあるだろう。

 望んだ別れがあれば、望まない別れがあるだろう。

 

 生きていれば当たり前の事。

 一期一会を繰り返し、和を広げていくと言う事は生きているならばきっと切っても切り離せない事。

 

 かつての世で一度、自分の和を全て失った俺。

 陽菜との出会いをきっかけに広げられていった縁と言う名のかけがえのない物。

 今の俺にとってそれは忘れられない大切な物だ。

 

 

 そして今世で祭や慎たち、二人の華陀や建業の皆と作り上げていった和も。

 かつての和と比較する事の出来ないほどに大切な物だ。

 

 もちろん、その中には。

 お前との出会いや共に過ごしてきたこれまでの生活も含まれている。

 

 たとえ未来で敵対するとしても。

 殺し殺される関係になるのだとしても。

 

 俺はお前と出会った事を後悔する事はないだろう。

 

 だからそんな泣きそうな顔をするな、文若。

 いや……『桂花(けいふぁ)』。

 

 

 

「荀家の現当主から書簡が届いた」

 

 建業城の玉座の間。

 集まった武官文官たちの前で蘭雪様は手に持っている書簡を指し示しながら告げる。

 

 ついに来たかと俺は心中で呟く。

 

 以前、文若を引き取りたいと言う書簡が届いたのを切っ掛けに俺達は遠征を中断して帰還した。

 

 しかしその後、彼らから前言を撤回する書簡が届いた。

 内容は『彼女が落ち着くまではそちらに置いておいてやってほしい』と言う物。

 

 あちらでどのような方針変更があったかは想像するしかないが、しかしこれは文若にとっては都合の良い事だった。

 未だ彼女の『人間不信』は根強く残っているのだ。

 実の家族相手ならいざ知らず正直な所、あちらにいる大多数の人間には拒否反応を示すと簡単に予想がつく。

 少しずつ慣らしていく意味でも俺達の傍にいた方が都合が良かった。

 

 荀家の方針に逆らうのも蘭雪様の立場を考えれば良くない事。

 だからこの提案は彼女の事を慮れば正に渡りに船と言えた。

 

 しかし落ち着くまでの期限はあちらに一任していた。

 何を持って頃合いと判断したかは不明だが、俺たちに預けておく必要がなくなったと判断したのだろう。

 

「文若を迎えに彼女の母親が来るそうだ」

「母親……と言うと確か荀昆と言う名でしたかな?」

 

 こちらに来てから文若の世話役をしていた老婆が主に問う。

 

「ああ、その通りだ。この書簡とは別にそいつが書いたらしい感謝状が届いている。成り上がりの私たちに随分と丁寧な文言だったな」

 

 蘭雪様の目配せを受けて美命が持っていた書簡を老婆に差し出す。

 恐らくそれが文若の母親からの物なのだろう。

 一礼して受け取った老婆は素早く目を通すと「確かに」と呟き、隣の文官に書簡を回した。

 

 普通なら君主が話している場面で他の事を並行して実施するのは不敬に当たる行為だろう。

 しかしそこは礼儀など最低限で済ませてしまう蘭雪様だ。

 それが必要な事であれば、特に咎められる事はない。

 

「荀家からは迎えを送るのに関連して呉の領地に入る為の許可と護衛を派遣してほしいと要請があった」

 

 美命の言葉を聞いていると書簡が俺の手に回されてくる。

 俺は蘭雪様や美命たちの言葉に耳を傾けながら書簡に目を通し始めた。

 

 確かに娘を助けた事への感謝が丁寧な文面で記載されている。

 実際に助け出した俺とその部下への感謝が特に多いように見受けられた。

 直接、会ってお礼を言いたいとまで書かれているのには正直驚いたが果たしてこの文面を素直に受け取っていい物か。

 

 こちらは一領主に仕える武官、あちらは由緒ある歴史を持つ貴族。

 この時代の常識で考えればこの差は余りも大きい物のはずだ。

 見下すのが正しいとも思わない。

 しかしこれほどの感謝は過分だ。

 疑惑の目で書簡を読み直せば、その文面は些か大袈裟でわざとらしいとも取れる。

 杞憂であればいいとも思うのだが、そうも言っていられない。

 

「許可については当然、出すとして。護衛についてだが」

 

 読み終わった書簡を隣の祭に渡して蘭雪様に目を向ける。

 

 護衛か。

 順当に行くならば遠征経験のある俺になると思うが。

 相手が貴族である以上、慎重に事を運ぶ必要がある。

 それを含めての人選となると……貴族と接した事のある文官が必要だろう。

 

「……今回は美命と慎、激に行ってもらう。塁と祭、駆狼には二人が空いた穴埋めを任せる」

 

 なるほど。

 武官であると同時に文官としての心得も持っている慎と激なら確かに適任かもしれない。

 荀毘様との直接的なやり取りは美命に任せるのだろうが、生来の気性から人を立てるのが上手い慎と文官としての姿勢を身につけた激なら下手な事にはならないだろう。

 

「え、俺ぇ!?」

 

 本人は何故、自分が選ばれたかわかっていないようだが。

 意外と謙虚な激だから、貴族を相手にするのに自分で良いのかとかそんな事を考えているんだろうな。

 

「僕、ですか」

 

 慎の方は選ばれた事には驚いているが、落ち着いている。

 あの試合を経て、どことなく風格のような物を身に付けた慎はこの短期間で今まで以上に頼れる男に成長した。

 今までが頼りなかったわけでは断じてないが、それでも地に根を張った巨木のような落ち着きを感じさせる。

 

「ああ、お前たち二人なら護衛としての腕も申し分ないし、文官としてあちらさんを不快にさせる可能性も低いだろうからな。祭や塁だと実力は兎も角その辺りには不安が残る」

 

 美命のきっぱりとした物言いに塁と祭が面白くなさそうな表情をする。

 だが自分たちがそういう相手に対する礼儀に疎い事も理解しているのだろう。

 特に反論する事はなかった。

 

「駆狼はついこの間に遠征を行ったばかりだからな。あまり重要な仕事を一人に任せても他が育たないし、今回は外させてもらった」

 

 蘭雪様の言う通りだろう。

 俺ばかりが重要な仕事をしていては他が育たない。

 そして重要な仕事を一人が行っていてはいらん不満が募る可能性もある。

 

 なぜあいつばかりが重用されるのかと。

 

 そう言う不満が出ないようにと言う意味も含めて考えた結果が今回の仕事の割り振りなのだろう。

 

「納得しました。お役目、しっかりと果たして見せます」

「うへぇ~、今から緊張してきた。けど俺もやらせていただきますよ。任せてください」

 

 苦い顔で愚痴をこぼすのは一瞬。

 素早く意思を表明した慎に続き、真剣に応える激。

 

 なんだかんだで責任のある立場が板に付いてきているようだ。

 

「うむ。なら美命と慎、激は早速準備に入ってくれ。先方を待たせるわけにはいかんからな」

「御意」

「「御意です」」

 

 

 三人の応えが玉座の間に響く。

 そして三人はそのまま足早に広間を出ていった。

 

 それを見送りながら蘭雪様は話を続ける。

 

「さて三人が抜けた穴を埋める為の人員配置だが……」

 

 それから一刻ほど朝議が続き、俺たちはそれぞれの役割を果たすべく城中に散って行った。

 

 

 今回の荀毘来訪に際して俺達、建業側が気をつける事項は大きく分けて三つ。

 

 一つ目は彼らの機嫌を損ねぬように礼節を持った態度で応対する事。

 二つ目は荀毘他、文若を迎えに来る者たちの身の安全。

 三つ目は文若の身の安全。

 

 一つ目は正直、気をつける以上の対策が取れるわけではない。

 せいぜいそういう礼節に不勉強な連中を彼らから遠ざけるくらいの事しか出来ないだろう。

 これについては既に取りうる対策は取ったのでこれ以上、どうこうと言う話ではない。

 最も多く彼らと応対せねばならない蘭雪様、美命、陽菜の健闘を期待する他ないのだ。

 

 

 二つ目、三つ目の身の安全と言うのは山賊などの賊徒たちからと言う意味は勿論、建業の発展を妬んでいる、あるいは危険視している者たちから守ると言う意味合いも含まれている。

 

 建業は領主が交代してから目覚ましい発展を遂げてきた。

 それこそ周りの太守から見れば異常と取られかねない程に。

 

 出る杭は打たれると言う諺がある。

 今、まさに建業という場所は出る杭と言えるのだ。

 

 周辺諸侯は俺たちの成果の秘密を探ろうと密偵の類を派遣し、隙あらばと粗探しをさせている。

 城下までならともかく城内への侵入はさせていないが、それも俺達が認識している限りの範囲だ。

 恐ろしく腕の立つ者がいるのなら俺達に気付かせずに侵入する事も可能なのだろう。

 

 静かに、しかし確実に俺たちを陥れようとする策は見えない場所で蠢いているのだ。

 

 そして文若を保護してから策謀の影は加速度的に濃くなっている。

 貴族の娘を建業が保護したと言う話その物が彼らには面白くないのだろう。

 この事実を足がかりに荀家と友好関係を築き上げれば、今の地位よりもさらに上を目指す事も可能だからだ。

 

 こちらに地位向上を望むような野心が無いと伝えた所で意味がない。

 彼らは僅かでもある可能性を危険視しているのだから。

 

 そして厄介な事に。

 連中の中にはかなりの強硬派もいる。

 

 文若を殺す事で俺達の力量不足を触れまわり、弱体化あるいは建業自体の略奪を狙う者たち。

 そういう考えのやつらが差し向けてきたと思われる暗殺者の数は密偵の総数のおよそ三分の一と言った所か。

 

 その時々で標的は異なるが、もっとも多いのはやはり文若を狙ったものだ。

 他にも蘭雪様や陽菜と言う建業の旗印とも言うべき者を狙った物、美命などの力のある筆頭文官を狙った物もある。

 

 悉くを未遂で捕らえてきたが、全ての者は尋問をするよりも先に自ら舌を噛み千切って自害している。

 お蔭でどこからの差し金なのかが未だに確定出来ないでいる。

 

 候補として挙がるのは隣の領地である会稽(かいけい)、新都(しんと)、丹陽(たにゃん)、廣陵(こうりょう)、淮南(わいなん)の太守の一派だ。

 

 大陸でも異例の勢いで領地を発展させている事から他の州からも密偵の類が来ているらしいと言う事は美命から聞いている。

 だが強硬手段に出るほど危機感を持っているとすればそれは近くにいる者たちである可能性が高い。

 とはいえ、それも所詮は推測の域を出ない物だ。

 

 見せしめの意味も兼ねて徹底的な報復を行う事も議論されたが、どこからの刺客なのか確定出来ていない状況では報復した郡の民に余計な混乱を招くだけと言う結論で保留されている。

 

 

 まったくもって厄介な話だ。

 そして今回の荀家から文若を引き取りに来るという話。

 この話に置いて俺達は刺客から守る対象が増える事になる。

 今回の引き渡し(言い方が良くないが)を成功させれば、蘭雪様はより明確に荀家との接点を得る事になるだろう。

 蘭雪様自身はそれほど貴族との接点に固執している訳ではない(せいぜい無いよりもあった方が良いだろうという程度だ)がそれは他の諸侯にとって見逃せない事柄だ。

 

 同時に蘭雪様を陥れる絶好の機会でもある。

 

 もしも荀家からの迎え、あるいは文若を守れず死なせてしまったとする。

 貴族を守れなかったとして諸侯は周囲に吹聴し、俺達の落ち度を囃し立てるように広めるはずだ。

 荀家の覚えは当然悪くなり、そこから悪評が広がれば、最悪は建業太守の立場の剥奪に繋がる。

 

 先の強硬派ならばやりかねない。

 この時代では前世であったような科学捜査は無い。

 何もかもが人の言葉に左右されてしまうのだ。

 

 荀家への暗殺指令がどこから出されたのかがわからなければ、暗殺が諸侯の画策である事を証明出来なければ事の非は全て建業側が被る事になる。

 

 権力に通じる者ほど発言力は大きく、身内を守れなかったとすれば今の所は友好的な荀家も手の平を返すだろう。

 所持している権力を用いて俺達に報復をしてくる可能性もある。

 故に今回の護衛では失敗する事は許されない。

 

 

 個人としても文若の身内を守る事に否などない。

 あの子は苦しんできたのだから。

 

 俺が見える範囲、手の届く範囲にいつ間は守るつもりだ。

 それが彼女を助けた俺の責任なのだから。

 

 

 

「お母様が……」

「ああ、これから公共たちが迎えに行く事になっている」

 

 彼女は今、部屋で椅子に座りながら俺の言葉を聞いていた。

 

 以前は舌っ足らずの言葉で呼んでいた母の事を今でははっきりとした口調で呼ぶほどに文若は成長した。

 同年代の子供たち、蓮華や冥琳たちと勉強した事がお互いに良い刺激になったのだろう。

 彼女たちは真綿が水を吸い込むように、すさまじい勢いで言葉を、そして知識を身につけていた。

 

「心配、かけてしまいました」

「素直に謝ればいい。ごめんなさい、とな。そして会いたかったと抱きつけばいい」

「う、……はい」

 

 俺の言葉を実行している自分を想像したのか彼女は恥ずかしそうに俯いた。

 それでもようやく親と再会出来る事への喜びは隠し切れていないが。

 

「もうすぐお別れ、なんですね」

 

 全身から発散されていた喜びの気配がその言葉で消えてしまった。

 

「寂しいか?」

 

 愚問だろうと思う。

 貴族と言う民草と一線を画した出生の為に同年代の友人に恵まれずに過ごしてきたのだ。

 初めて出来た友達だと言う戯志才は文若と共に賊に攫われ、先に船を降ろされて以降、行方が知れない。

 そういう意味で彼女は同年代の友人に、気兼ねなく会話できる存在に餓えていたのだろうと思う。

 

 雪蓮嬢のように身体を動かす事が得意ではないこの子は同じ傾向にあるの冥琳嬢や蓮華嬢と一緒にいる事が多くなった。

 蓮華嬢とは出会った当初は険悪だったが、今はお互いがお互いを好敵手と見ている節がある。

 

 冥琳嬢とはいわゆる知恵比べをする仲で、俺が教えた将棋を睨みあいながら行っている姿をよく見かける。

 偶に雪蓮嬢に引っ張り出されて、外で走り回っている姿も見られるがその時も終始、笑顔が絶えなかったように思える。

 

 同年代の子供たちと同じようにはしゃぎ回る。

 貴族だ民草だという線引きが所詮、大人の都合でしかないと言う事を証明するかのような穏やかな光景だった。

 

「はい……」

 

 蓮華嬢たちと肩を並べて勉強をしている内に、彼女は自分の立場をより明確に理解するようになった。

 今、こうして立場も年齢も無視して友と呼べる者たちが出来る事自体が偶然に偶然を重ねた極めて確率の低い事だと言う事を。

 

 本当ならもっとここにいたいだろうに。

 せっかく出来た友達と離れ離れになどなりたくないだろうに。

 けれど同時に無理やり引き離された家族と共にいたいとも思っているはずだ。

 

「恐らくお母上殿がここに到着するのに最低でも二週間程度はかかる」

 

 頴川郡から呉までは片道で二週間の行程だ。

 その中で廣陵郡の端から呉領内での護衛を引き継ぎ、建業に到着するのに通常の行軍でおよそ三日になるだろう。

 

 刺客が現れるとすれば引き継ぎ後から建業に到着するまでが最も可能性が高い。

 今まで文若を、あるいは蘭雪様たちを暗殺しようと送られた刺客は全て捕らえている。

 

 その事から隙のない建業の敷地内で事が成るとは連中も考えていないだろう。

 となれば行軍中の最中、なんらかの混乱のどさくさに紛れる方が成功率は上がると考えるだろう。

 

 護衛を引き継ぎ、貴族相手に浮足立っている状況ならば確かに隙は生じるだろう。

 さらに率を引き上げるなら賊に情報を流し、連中が襲撃すると同時に仕掛ける事を考える。

 

 とはいえ既にその可能性は美命や深冬たちの手によって検討されており、万全を期すための布陣を敷いている。

 万全だからと油断すると言う事もない。

 

 慎も激も誰かを守る事に全力を尽くす事の出来る人間だ。

 熱くなって目的を履き違える事はない。

 

 心に定めた一本の芯がぶれる事はない。

 塁や祭も勿論そうだ。

 それだけの強さを持っていると信頼している。

 

 だから護衛はあいつらに任せておけばいい。

 こちらはこちらの出来る事に全力を尽くすだけだ。

 可能性の話で言えば建業に刺客が送られる事も十分にあり得るのだから。

 

 ようやく家族に会えると喜び、友人と別れる事を寂しがる目の前の子供に。

 これ以上の悲劇など味合わせてたまるものか。

 ずっと傍で守る事は出来ない。

 ならばせめて建業にいる間くらいは、守らなければならないだろう。

 その為に軍人になったのだから。

 

「それまでやり残す事がないように、悔いのないように過ごしなさい。桂花(けいふぁ)」

 

 はっと俯いていた文若改め桂花が顔を上げる。

 

「駆狼様……はい」

 

 建業での桂花の暮らしが落ち着いた頃、俺は彼女と真名を交換している。

 俺以外にも建業で知り合った同年代の子供たちや陽菜、祭や慎たちとも真名を交換したと聞いていた。

 

 真名交換はこの世界に置いて信頼を最も確かな形で示す手段と言ってもいいだろう。

 

 預けてもらえる程に慕ってくれている事が嬉しかった。

 そして誰かに真名を預けようと思えるほどに、自分自身で信頼を形に出来るほどに回復した事が自分の事のように嬉しかった。

 

「お母上殿御一行が到着するまでの間、桂花の護衛を蘭雪様から仰せつかった」

「えっ?」

 

 ニヤニヤと笑いながら命令を出した蘭雪様の顔が頭に浮かぶ。

 思わず苦笑いしながらぽかんとした顔をしている桂花を見つめた。

 隙だらけの頭を慈しみながら優しく撫でる。

 

「お前が胸を張って帰る事が出来るように俺も出来る限りの事をしよう」

「あ……はい。ありがとうございます」

 

 ふわりと子供らしくはにかむ桂花の笑顔を俺は眼を細めて見つめた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外之二 周異と周瑜

 わたしは自分の部屋で机に向かって日課の読書をしている。

 でもわたしは本を読みながら、その内容とは別の事を考えていた。

 

 

 物心ついた時から母上は、蘭雪様のほさをしていて忙しくわたしが眠るまでに帰ってこない事が多かった。

 

 あそんでもらえない事をつまらないと思った事はあったけれど、畑仕事を早めに終わらせた父上がいつもいっしょにいてくれたからさびしくはなかった。

 それに時々、母上が早めに帰ってきてくれて家族三人でいっしょにいられることもあった。

 だからわたしは幸せだった。

 

 

 父上は母上のように頭が良いわけでも、蘭雪様や豪人殿のように武に長けているわけでもない。

 

「出来る事ならずっと美命の傍で守ってやりたいって何回考えたかわからないよ」

 

 わたしが言葉を話し始めて字を習うようになったくらいの時、父上はそんな事を話してくれた。

 

「僕には美命を傍で手助けする事が出来るだけの力が無いんだ。本当に悔しいし情けないと思うけれどね」

 

 畑仕事に精を出し、わたしの話し相手をしながら、家の仕事をすべて一人で引き受けて父上は笑う。

 

「けれど美命の、そして冥琳の為になる事は出来る。だから傍にいられない事を寂しがったり、力が無い事を悔しがっている時間があれば自分に出来る事を探そうと、自分に出来る事を増やそうと思ったんだ」

 

 その時はまだ言葉の意味をよく理解していなかったから、私はたぶん首を傾げながら父上の話を聞いていたんだと思う。

 

「自分に出来ない事がある事を嘆いて立ち止まっていたんじゃ駄目なんだ。自分に出来る事が無いか手探りでもいいから探さないと。僕と美命は夫婦なんだから、どちらかがどちらかに頼りきりになってはいけない。お互いに支え合うのが家族なんだから」

 

 それでも何故か、その言葉は私の耳に、心にしっかり届いていた。

 意味はわからなかったけれど、それでもその言葉が大切な事なのだと、そう思えた。

 

 

 わたしに字を教えながら父上が話した言葉。

 その時は何を言っているのかわからなかった。

 

 けれど父上がとても真剣な目をして話していたから、わたしはその言葉を意味もわからないまま書き留めていた。

 

 わたしの部屋には今も父上の言葉を書き記した竹簡が残っている。

 今ならば言葉の意味もわかるから時々、内容を見返して父上の気持ちをかくにんしている。

 

 家族を大切にしていた父上の言葉。

 民として日々を生き続けた父上の言葉。

 民を守る立場になった事で身近ではなくなってしまった父上の言葉。

 

 母上にもないしょにしている父上の残した言葉の数々。

 わたしにとってお金なんかよりも大切な物だ。

 

 私が六つになった頃に流行り病で父上が亡くなってからは、その気持ちがそれまでよりもずっと強くなったように思う。

 

 

 父上の事をひ弱だ、なんじゃくだと悪口を言う人もいたけれど。

 私にとっての父上はあたたかくてやさしくて時に母上よりも強い、そんな人だった。

 

 

 そんな父上が残した言葉とおぶさるととても暖かかったあの背中が、駆狼殿のおっしゃる言葉とあの大きな背中に重なる事がある。

 

 

 父上と駆狼殿。

 父上は線が細く、武器を持つ事など似合わない『やさおとこ』。

 駆狼殿は逆に大柄でたくましい『いじょうふ』。

 私が覚えている父上と駆狼殿を並べてみると頭一つ分は駆狼殿の方が体が大きい。

 ずっと民として家族の為に働いていた父上と武官になれるほどの力をお持ちの駆狼殿では比べられっこない。

 

 外見はまったく似ていないはずの二人。

 でも……どことは言えないけれどどこか似ている二人。

 

 初めて出会った時の、熊から助けていただいた時の真剣な顔が。

 あの方にどう接してよいかわからなかった時にやさしく励ましてくださり、でもきびしくまちがっていた事をしてきしてくださった時の声が。

 

 わたしが勉強をしていることをほめてくださったあの時。

 なでてくださったあの大きな手の暖かさが。

 

 わたしに二人が似ていると思わせる。

 

 駆狼殿や祭殿たちが正式に士官されてから三ヶ月。

 あの方と話をすればするほどに、そのお姿に父上が重なっていった。

 

 駆狼殿に声をかける時、つい『父上』と呼んでしまいそうになった事もあるくらいに。

 

 

 自分でもわかっている。

 わたしはたぶんあの方のことが好きなんだ。

 

 父上と同じくらいに。

 父上とお呼びしたいくらいに。

 

 まったくの他人を父と呼びたいと思うなんて。

 

 死んでしまった父上といくら似ていても、違う人だとわかっているのに。

 

 この気持ちはわたしをあいしてくださった父上に対してとても失礼なことだ。

 あんなにも大切にしてもらったのに。

 あんなにもやさしくしてもらったのに。

 

 でも。

 このままではいけないとわかっているのに、どうすればいいかがわからない。

 

 

 もうわたしは本を読んでいなかった。

 わたしの頭に浮かぶのは父上と駆狼殿のことだけだ。

 

「ごめんなさい、父上」

 

 返事が返ってこないことがわかっているのにわたしの口からは勝手に言葉が出ていた。

 

「ごめんなさい、駆狼殿」

 

 お二人にしてはいけないことをしている。

 そんな気がして、わたしはそれから何度も何度もお二人にあやまり続けた。

 

 なぜか流れてきた涙を手でぬぐいながら、眠りにつくまでの間ずっと。

 

 

 

 

 娘と昼餉でも、と思いあの子の自室に来たら戸越しにそんな言葉が聞こえた。

 

「ごめんなさい、父上。ごめんなさい、駆狼殿」

 

 その弱々しく嗚咽が混じった声を聞いて戸を叩こうとした手を止めてしまう。

 

「冥琳?」

 

 娘の名前を小さく呟き、耳に入ってきた言葉の意味を考える。

 

 

 あの子が父上と呼ぶのは勿論、私の夫の事だ。

 冥琳が生まれる前から家事を一手に引き受け、私が帰った時に暖かく迎えてくれた最愛の人。

 あの人と巡り合えた事は、私の生涯で五指に入る幸運だったと今でも自信を持って言える。

 

 私は仕事で家にいない事が多くて当時は冥琳にほとんど何もしてやれなかったが、夫はあの子の傍にずっといてくれた。

 ずっと夫があの子の世話をしてきた。

 子育てを夫に頼り切りにしていた私は親としては失格……なのだろうな。

 

 だが夫は冥琳が6歳の頃に病にかかって死んだ。

 蘭雪の夫や当時住んでいた村の人間は男女問わず十人前後が同じ病にかかって死んでいる。

 

 病にかかって生き延びる事が出来たのは豪人殿、冥琳、蓮華の三人だけだ。

 豪人殿が生き延びたのは奥方殿の身を削る献身と彼自身の武官としての強靭な肉体があればこその結果だ。

 冥琳と蓮華はかかったのが病が猛威を奮っていた最後の頃だったから医者にもこの病に対する対応策が出来ていた為だ。

 

 力を入れれば折れてしまいそうな小さな鍼を刺し「元気になれーー!!」と叫びながら氣を流し込む治療が果たして正しい対応策と言えるのかはわからないが。

 冥琳たちは結局、あの医師に巡り合えた事で救われたと言う事なのだろう。

 

 とにかく夫はその時に死んだ。

 その頃からは私は今まであの人がやってくれていた事を含めてすべてを自分で行ってきた。

 豪人殿の奥方殿や家族を養う先達の手を借りる事は多かったが、それでも出来る事は全て自分でやった。

 

 やらなければいけないんだと、そう思っていた。

 

 私が忙しいという事をその幼い頭脳で理解して、私に心配をかけまいと無理やり笑う娘の姿を見てしまったから。

 大好きな父親を亡くしたと言うのにあの子が涙を見せずに、だが心で泣いている姿を見てしまったから。

 

 何もかもを自分で頑張ろうとした結果、教える事が偏ってしまいあの子を苦しませる事になってしまったのだから情けない話だが。

 

「しかし……」

 

 顎に手を当てて冥琳の言葉を反芻する。

 

 今でも大好きなのだろう父の事を何の気なしに呟くはわかる。

 隠しているつもりだろうが部屋の棚の中に生前、夫に聞かされたのだろう言葉の数々が書き記されている竹簡が幾つも収められている事は良く知っているからな。

 

 だが何故、あの子は父に謝ったのだろう?

 しかもその後に駆狼の名前まで出てきている。

 

 言葉の繋がりを見るにどうも父と駆狼に謝った事は関係があるようだが。

 

 冥琳に気取られないように部屋から離れ、考えをまとめる為に宛てもなく歩きながら考える。

 

 冥琳が駆狼の事を好いているのは知っている。

 好いていると言っても敬愛や親愛の方だ。

 

 と言うより城にいる子供で駆狼の事を嫌っている者などいないと言って良いだろう。

 まぁ子供に限定しなくてもあいつを嫌っている人間などここにはいないだろうが。

 ああ、やつの堅苦しさが苦手な人間はいるかもしれないな。

 

 ともかくあれほど面倒見の良い男を私は知らない。

 しかも自分の仕事をしっかりこなした上で子供たちに目をかけているのだから頭が下がる。

 

 いまだに仕事逃走癖が直りきらない君主に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ。

 忙しさを理由に実の子供とまともに触れ合っていなかった私が言えた事ではないか。

 

 冥琳の場合、最近になって親愛の感情が強くなりすぎてしまい、あいつと接する時に過度に緊張してしまっているのは知っていたが。

 まさかその辺りが関係しているのだろうか?

 ゆっくり心が慣れていく物と思って傍観していたのだが、実は深刻な状態になっているのだろうか?

 

 いかん。

 考え出すと不安になってくる。

 

「今晩にでも聞いてみるか」

 

 流石に今すぐに聞きに行けるほど私も頭の整理が出来ていない。

 とはいえあの子が声を聞いただけでわかるほどに思い悩んでいるんだ。

 話を聞くのは親である私の仕事だろう。

 

「陽菜に少し話を聞いてみるか」

 

 駆狼同様、公務を終わらせた後やその合間に子供たちの面倒を見ている彼女なら私の知らない冥琳の悩みについて何か知っているかもしれない。

 

 駆狼は冥琳の悩みの元だから今回の事は相談できないだろう。

 と言うか冥琳の自分への態度に戸惑っているあいつでは恐らく相談相手にはなるまい。

 何より母親としてそう何度も親でもない、女でもないあいつに諭されては立つ瀬がないじゃないか。

 

「愛娘の事だ。気合いを入れて挑むとしようか」

 

 まるで軍略を練る時のような気持ちで私は陽菜を探すために廊下を歩き始めた。

 

 

 

 陽菜は中庭で祭と塁とお茶会をしていた。

 落ち着いているように見えてあれで中々、突拍子もない事を始める陽菜だから、見つけるのは骨かと思ったのだが今日は大丈夫だったようだ。

 

「陽菜、祭、塁。楽しんでいるようだな。……同席させてもらってもいいか?」

「美命様? ええ、どうぞ」

「美命様なら大歓迎ですよ。ささ、どうぞ!」

「塁の言う通りよ。遠慮なんてしないで。今、お茶のお代わり頼んでくるわね」

 

 少し離れた場所にいた侍女に陽菜は私の分のお茶を入れてくるよう命じる。

 いやあれは命じると言うより頼みこんでいると言う方が正しい。

 

 蘭雪には人の上に立つ人間としての自覚が足りない。

 しかしまだあれには直す見込みがあるのだが。

 

 陽菜は人の上に立つ気概に欠けている。

 命令すると言う事を拒否しているのだ。

 

 昔から朴訥として穏やかな気性をしていた子だったから。

 人の上に立つと言う事に最初は戸惑うだろう事は予想出来ていた。

 だが建業君主の妹として筆頭文官の席に私と共に就いた後も、彼女の気性は変わらず。

 今の立場になってそれなりの時間が経過した今も尚、まるで己の立場など無い物として民と話をし、まるで友人であるかのように侍女や兵たちと接している。

 

 どこから引っ張り出したのかわからない知識による独自の発想力と、どうすれば民が暮らしやすくなるかと言う点を主眼に置かれた献策。

 陽菜はこの建業の発展に最も貢献している人間だと言っても過言ではない。

 だと言うのに彼女は決してその数々の成果を誇ろうとはしなかった。

 

 誇示する事が正しいとは言わないが。

 それでも「最終的に実行するのは兵士や民自身なのよ? ただ提案だけしている私がふんぞり返るのはおかしいでしょ?」と言うのは些か謙虚過ぎるだろうに。

 

「お待たせ。はい、温めで良かったわよね?」

「ああ……ありがとう」

 

 いかんな、別の事に思考を向けてしまった。

 今はこの事は置いておこう。

 相談する前に説教などしてしまっては本題が切り出しにくくなってしまう。

 

「儂らは席を外した方が良ろしいですかな?」

「いや気にしなくていい。むしろお前たちの意見も聞きたいから用がなければいてくれると助かる」

「はぁ……まぁあと半刻くらいは大丈夫ですから、いていいならいますけど」

 

 遠慮して席を離れようとする祭に残ってもらうよう頼む。

 私の神妙な様子に困惑しながらも塁は椅子に座りなおして姿勢を正す。

 

「それで冥琳ちゃんがどうしたの?」

 

 用件を切り出そうと口を開く寸前、出鼻をくじく絶妙な所で陽菜は微笑みながらそう言った。

 

「へっ?」

「はっ?」

 

 塁と祭は陽菜の突拍子のない陽菜の発言に間抜けな声を上げて聞き返している。

 

「……どうして冥琳の事だとわかった?」

 

 私はため息を一つつき、眉間を解しながら質問した。

 

「気が付かなかったの? 今の貴方、母親の顔だったわよ」

 

 くすくすと淑やかに笑いながらしてやったりと陽菜は続ける。

 

「あと最近、冥琳ちゃん思い詰めてると言うか何と言うか少し様子が変だったから、ね。たぶんその事かなって」

 

 この子は……蘭雪も大概だが本当に勘が良いな。

 と言うよりこの子の場合は察しが良いと言うべきか。

 

「その通りだ。先ほど冥琳の部屋を通りかかった時に気になる事を言っていた事もあってな。本人に問いただす前に頭を整理したかった。第三者がいてくれれば私ではわからない事に気付いてくれるかもしれない」

「だから私たちに相談、と言う事ですか」

 

 祭の言葉に頷き、私は頭を下げた。

 

「うむ。身内の事に巻き込む事になるのは申し訳ないと思うのだが、出来れば手を貸してほしい」

「えっと、私みたいな武一辺倒な女が役に立つかわかりませんけど、それでよければ」

「儂も及ばずながら無い知恵を絞らせていただきますぞ」

「ありがとう」

 

 新参ではあるがこの建業のために尽くしてくれる武官二人の頼もしい言葉に礼を言う。

 そして唯一、手伝うと明言しなかった陽菜に私たちの視線が集まる。

 

「ん? 勿論、私も手伝うわ。当然でしょ」

 

 気負いもなく、それがさも当然であると言う答え方をする陽菜に私は口元を緩めながら先ほどの出来事について話し始めた。

 

 

 

 その夜。

 私は冥琳と食事をする為に城下に繰り出していた。

 手を繋いで歩く冥琳は楽しそうにかがり火の付けられた街の様子を見つめている。

 

 しかしあんな震えた涙声を聞いてしまった後だとこの楽しげな表情が偽りではないかと思えてしまう。

 

「何が食べたい? 冥琳」

「激殿に教わったおいしいらーめんの店がこの辺りにあると聞きました。母上がよければそこにしませんか?」

「拉麺か。そうだな、そこにしよう。案内を頼む」

「はい!」

 

 時折、私たちを見て頭を下げようとする者がいるが今はただの親子としている。

 聞き出したい事もあるし、蘭雪ではないが今は堅苦しい空気を作りたくはなかった。

 

 頭を下げようとする店主や客たちに自分たちの事は気にしないように首を振る。

 察してくれたようで皆、私たちから視線を外してくれた。

 

 彼らの臨機応変な対応を見ていると蘭雪や陽菜の気風が浸透している事がよくわかる。

 他の領地ではこうはいかない。

 

「あ、めん屋『灯高(ともたか)』、ここです!』

「ほう、ここか」

 

 そこはより多くの客を入れる為に席を外にも出している開放感のある店だった。

 夕餉時と言う事もあってほとんどの席が埋まっているようだが外から見ても二人分程度なら席が空いているのがわかる。

 

「ちょうどよく空いているようだな。別の店を探す必要はなさそうだ。……二人だが空いているか?」

 

 注文を取っていた店員と思しき男に声をかける。

 

「へい、いらっしゃい! お二人様ですね。いやいや運がいいっすね。ついさっきそこの二人掛けが空いた所っすよ」

「ほう、ならそこで頼めるか?」

「へい! お二人様、お入りです!!」

「「「いらっしゃいやせ~~」」」

 

 気さくだが野太い店員たちの歓迎の声が怖かったのか、冥琳がびくりと震えたのが繋いでいる手を通して伝わってきた。

 手を握り返して安心させてやりながら店員の示した奥の席に座る。

 

「採譜をどうぞ。ごゆっくり~~!」

「ああ」

 

 受け取った採譜にかかれた料理を娘と隣り合って見つめる。

 

「ふむ。なかなか種類が豊富だな。激から何かお勧めは聞いていないか?」

「とんこつらーめんがおいしいと言ってました」

 

 冥琳の言葉を聞いてとんこつの項目を指で探す。

 

「ほう、味付けと具によって値段が異なるのだな。あとは後付けで具を付け足す事も出来るのか」

 

 なかなか上手い売り方だな。

 具と麺の味付けを分けておけばある程度は個人の趣向に合わせた料理にする事が出来る。

 恐らく激がこの店を押したのはその自由度を楽しんでいるからだろう。

 

「私は激の薦めのとんこつを野菜盛りにするか」

「わたしもとんこつにします」

 

 注文が決まったので手を上げて店員を呼ぶ。

 手早く注文を済ませて姿勢を正し、愛娘を正面から見つめる。

 

 幸いにも店の中は騒がしい。

 この状況で私たちが多少内緒話をしていても聞かれはしまい。

 否、聞かれた所で頭には残らないだろう。

 ここでなら料理さえ来てしまえば誰かの耳に入る事もない。

 

「お待たせしました。とんこつ野菜盛りと普通のとんこつでっす」

 

 店に入る時に声をかけた妙に気安い雰囲気の青年が湯気の上り立つ器を二つ、慣れた手つきで席に置いた。

 

「ほう、速いな」

「うちは熱々を速く、美味く、安く出すのがモットーなんですよ。ちなみにモットーってのは信念とか方針とかそんな意味っす」

「聞いた事のない言葉だが、誰から教わったんだ?」

「凌隊長さんっすよ。あの人には建業に仕官される前から何度も足を運んでくださってもらってるっす」

 

 店員の口から出た駆狼の名に自分の前に出された拉麺を食い入るように見つめていた冥琳の瞳が揺れた。

 予想外の所で悩みの種になっている人間の名前が出た事で動揺したか。

 

「あ、あの……凌隊長殿はよくここに来られるのですか?」

「ん? ああ、常連さんっす。なんでも店の名前の読みが自分のお気に入りの店と一緒だったってんで食べに来たのが切っ掛けらしいっす。モットーって言葉も色々話してるうちに教わったんすよ」

「色々な所に影響を及ぼす男だな、あいつは」

 

 流石に呆れるぞ。

 

「はは、そうっすね。あの人が贔屓にしてくれるってんで興味持ったお客さんが結構来てくれますし、美味い飯の礼だってあの人とその部下の人たちが巡回とは別に暇な時にこの辺を見回ってくれてるんで前以上に治安が良くなりましたよ。今じゃ物盗りなんてなくなって、騒ぎなんて言っても酔っ払い同士の喧嘩くらいで平和なもんっす」

「……そういえば少し前に治安維持巡回の増員提案と街の要所への交番の設置案が出されていたな」

  

 あいつは今の巡回体制では万全ではない事を民から聞き、自分の目で見ていたのだな。

 そして案が通るまでの間、足りない部分を自分の取れる方法で補うつもりでいたわけだ。

 

 民と同じ視線で、民の暮らしを見て、民の事を感じる。

 

 私や蘭雪たちは一応は名のある豪族の出だ。

 その弊害か、少しばかり民と価値観に溝がある。

 陽菜は数少ない例外だ。

 蘭雪にしても陽菜と一緒にいるうちに今のように分け隔てなく接するようになったに過ぎない。

 

 我々は民は守るべき物であり、故に我々が民を束ねねばならぬと考えている。

 幼い頃から親や仲間たちが抱いてきた意識は我々に中にも根強く在るのだ。

 そしてその意識は領土を持った今、より顕著な物となっている。

 

 数字でしか知らない年貢、文面でしか知らない民の声がその証拠。

 

 あいつを含めた五村の出の五人は元が村民であるからか民を守るべき物であると認識すると共に、共に生きる者たちだと考え行動している。

 だから私たちが建業に入った当初よりも遥かに早く街に溶け込んでいた。

 

 私たちと違い民との間に溝がないのだ。

 それは良い事でもあるし、悪い事でもあるだろう。

 

「それじゃごゆっくり」

 

 駆狼の事を楽しげに冥琳に語っていた店員は他の卓から注文が入った事を切っ掛けに私たちから離れていった。

 

 ふむ、随分と気さくな若者だったな。

 初対面だと言うのにに気難しい所のある冥琳とあれほど話を弾ませるとは。

 まぁ今回の場合、冥琳が駆狼の事を聞き出そうとしていた事もあるだろうが。

 

「では頂こうか」

「はい!」

 

 話は食事を終わらせてからで構わないだろう。

 でないと麺が伸びてしまうしな。

 

 

 

 

 母上から夕餉を一緒に取ろうとさそっていただいた。

 駆狼殿たちが建業に士官されてからふえたけれど、やっぱり母上と食事ができるのはとてもうれしい。

 

 激殿に教えてもらったらーめんもとてもおいしかった。

 母上もおいしいと言って下さったし、また今度おいしいお店を聞いておこう。

 

「さて冥琳。少し真面目な話をしようか」

 

 ごはんでお腹一杯になったところで母上はそう言った。

 とても真剣な顔をされていたのでわたしは背中をぴんと張って椅子に座り直す。

 

「はい、なんでしょう?」

「ふむ……」

 

 少しの間、母上はわたしの顔をじっと見つめるとこう言った。

 

「お前は昼間の自室で、なぜ父上と駆狼に謝ったのだ? 今にも泣きそうな声で」

 

 その言葉に身体がびくりとふるえた。

 

 母上に聞かれていた?

 父上と駆狼殿を重ねてしまっている事を?

 

 血の気が引くと言うのはこういう事なのだとわたしは身を持って知った。

 

「昼餉に誘いにお前の部屋に行った時に、な。中から震える声で謝るお前の声が聞こえてしまった。立ち聞きしてしまったのはすまない」

 

 頭を下げる母上。

 ああ、あやまらないでください。

 わたしの方があやまらないといけないのだから。

 

「聞こえたのは謝っている所だけだった。だから何故、謝ったのかが私にはわからない。最近、お前が悩んでいるのは知っていたがそれに関係する事か?」

 

 寒くもないのにふるれる身体を自分で抱きしめながらわたしは小さく首を縦に振った。

 

「……そうか。本来なら相談されるまで黙っていようと思っていたのだが」

 

 静かにため息をつく母上。

 

「昼間の声を聞いてしまって私が想像した以上にずっと思い詰めているのだとわかった。お前が良ければだが……私に話してくれないか? 何を悩んでいるのかを」

 

 本当に静かに、でもその目はすごく真剣で。

 わたしを心配してくださっている事がわかった。

 だからわたしはすぐにでも話したいと思った。

 

 でも……洗いざらい言ってしまいたいと思っているのに。

 本当に言ってもいいのかが不安で言葉が出ない。

 

 父上と母上がどれだけお互いの事を想っていたかを知っているから。

 父上と駆狼殿を重ねてしまっている、なんて母上にだけは言いたくなかった。

 

「……」

 

 でも心配してくれる母上の気持ちは嬉しくて。

 口を開けば全部を白状してしまいそうだったから。

 わたしは口を閉じてだまっている事しか出来なかった。

 

「そう、か。私ではお前の力にはなれないんだな」

 

 そう言う意味でだまっているわけじゃないんです。

 母上がわたしの力になれないなんて事はない。

 

 さびしそうにする母上の顔を見て、そう言ってしまいたくなった。

 

 でもこの気持ちは……伝えてしまって良い物なのかどうかが私にはわからない。

 伝えて母上がどう思うか、それがこわくてしかたがない。

 

 駆狼殿は「失敗をおそれるな」、「迷惑をかけてもかまわない」とおっしゃったけれど。

 その言葉にしたがって、わからない事や出来ない事は母上や陽菜様たち大人の方に頼ってきたけれど。

 

 この事ばかりは……どうしても誰かに話す事が出来なかった。

 

「いい。何も言うな。そんな泣きそうな顔をさせたくて問い詰めたわけじゃないんだ」

 

 わたしの顔を手拭いでやさしくふいてくれる母上。

 冷たくぬれたその布を見てわたしは自分が泣いている事に気付いた。

 

「……母上、ごめんなさい」

「謝らせたいわけでもないんだが、な」

 

 悲しそうな母上の顔。

 そんな顔をしてほしくなくて、でもどうすればいいのかわからない。

 

 父上……教えてください。

 あなたのように母上を笑わせるにはどうすればよいのでしょうか?

 

 駆狼殿……教えてください。

 わたしが母上を笑わせるにはどうしたらよいのでしょうか?

 

 頭の中に尊敬するお二人のすがたが思い浮かぶ。

 

 お二人の事でなやんでいるのにお二人に助けをもとめている自分に腹が立った。

 

「ふぅ……すまないな。せっかくおいしい料理を食べたと言うのに。こんな話をしてしまって」

 

 さびしそうにあやまる母上。

 その悲しそうな顔を見て自分ののなさけなさにもっとはらが立った。

 

 こんな事でいいのか?

 とそう思った。

 

 母上はさびしそうにしている。

 まるで父上が亡くなった時のように。

 わたしが何も話さないせいで。

 

 自分で自分に問いかける。

 今までずっと前に出さなかった足を自分の心の中に進めていく。

 そうすると、まるでさいしょからわかっていた事のようにするすると。

 

 話していまえばいいんじゃないのか?

 

 なぜ母上がこんなにも心配してくださるのに話さない?

 怒鳴られても、怒られても、それでもわたしの事で母上がかなしむよりもずっと良いんじゃないのか?

 

 わたしはこわがっているだけじゃないのか?

 

 こうしていっしょに食事をするようになった母上とけんかをして、駆狼殿たちが来られる前にもどってしまうのがいやなんじゃないのか?

 

 あっという間に答えが出てしまった。

 わたしは……母上に怒られるのが、きらわれるのが怖かったんだと。

 

「母上……わたしは」

「んっ?」

 

 こんな事ではいけないと強く思った。

 今までに感じた事がないくらいに強くそう思った。

 

「駆狼殿と父上を重ねています」

 

 気付けばあれほど口に出せなかった言葉があっさりと出ていた。

 水を注がれていた器に手を伸ばしていた母上の手が止まる。

 たぶんわたしの言葉におどろいたのだと思う。

 

「あの人と駆狼を?」

「はい」

 

 ずっと言えなかった言葉を言ったせいか。

 その後はまるで器からこぼれていく水のように次々と言葉がうかんで、母上に言ってしまう。

 もう言うのをやめる事はできないと、そう思った。

 

「……そう、か」

 

 ふとした瞬間に父上と駆狼殿が似ているとかんじる事。

 駆狼殿の事を父上と呼んでしまいそうになる事。

 すべてを気持ちのままに母上に話した。

 

「……そうか、お前は餓えていたんだな。父に」

 

 どこかすっきりしたような顔をする母上。

 怒られる事をこわがっていたわたしの頭にそっと手を置く。

 

「よく、話してくれた。すまないな。私はまたお前の気持ちに気付いてやれなかった」

「……う、ぁ」

 

 髪をすきながらやさしくなでられてぐすりと鼻を鳴らしてしまう。

 ああ、だめだ。

 涙をがまんできない。

 

「私に遠慮するな。お前があの人の事を想っている事は知っている。駆狼を慕っている事もだ」

 

 がまんできなくなったわたしは椅子から立ち上がって母上に抱きつく。

 背中に手を回してぎゅっとすると母上もわたしの身体をぎゅっと抱きしめてくれた。

 

「わたしとあの人はな。お前に幸せになってほしいと思っているんだ」

 

 静かに呟く母上。

 

「お前が自由に過ごすのに自分の存在が枷になっていると知ったらあの人はどう思う?」

「で、でもわたし、駆狼殿を父上って……思って、しまって。わたし、には……父上がい、いる……のに」

 

 泣いているせいでうまく話せない。

 

「それのどこが悪い? お前は子供なんだぞ?」

 

 どこまでもやさしくて、まるですき通った水のような言葉。

 

「寂しいと思うのは当然の事だ。父親が欲しいだなんて思うのは当たり前の事だ」

 

 あれほど頼りになる男が傍にいれば尚更だろうな、と母上は続ける。

 

「だがな」

 

 そして。

 

「お前が駆狼の事を父と呼んでも、あの人はお前の父親だ。お前はその事を忘れないのだろう?」

 

 そんな当たり前の事を母上は告げた。

 

「あ……」

 

 その通りだった。

 わたしがあのやさしい父上の事をわすれるはずがない。

 思い浮かべるたびに心をあたたかくしてくれる父上の姿を、その声を、その言葉をわすれるはずがない。

 

「それでも寂しいと感じる事もあるだろう。あの人がもう傍にいない事は事実なのだからな」

 

 母上のおっしゃるとおりだ。

 わたしは……父上がいない事がさびしくて。

 だから似ていると感じた駆狼殿を。

 

「私は構わんぞ。あいつ本人が許すなら呼べばいいさ。それでお前が元気になるならな」

「で、ですが……母上」

 

 本当にいいのだろうか?

 

「寂しい子供の心を『あの二人』が、いや『皆』が理解しないはずがないだろう?」

「……そう、ですね。父上と同じくらいにおやさしいあの方たちなら、きっと」

 

 また涙が出そうになる。

 服の袖でらんぼうに目をこすった。

 

「ほ~~う、なるほど。冥琳がなにやら思い詰めていたのはそういう事だったわけか」

「「!?」」

 

 突然、頭の上からかけられた言葉にわたしも母上も声を上げてしまった。

 

 いつの間にか。

 本当にいつの間にかわたしたちが座っていた卓の横に蘭雪様が立っていた。

 

「ら、蘭雪!? いつからそこに!?」

「お前たちが食事を終えた辺りからだな。声をかけようと思ったんだが、なにやら深刻そうな話を始めたのですぐ傍の卓で聞き耳を立てていたんだよ」

 

 しれっと言い切ってニンマリと笑う蘭雪様。

 

「わ、わたしの悩みはすべて聞かれていたと言う事じゃありませんか!?」

「はっはっは! いやいやすまなかったな、冥琳」

 

 ぜんぜん反省してないじゃないですか!

 あやまり方にせいいが感じられません!!

 

「しかし、あの美命が私の気配に気づかないとはなぁ。それだけ娘に一点集中していたという訳か?」

「ぐ、くぅ……不覚だった。誰かが通りかかる可能性もあったと言うのに」

「奥に座っていたから普通は気付かんだろうさ。私は面白い事があると言う勘に従ってわざわざ店主に頼んで奥に来たからな」

 

 さすが孫家の血筋。

 まさかそんなおおざっぱな事に勘がはたらくなんて。

 

「ええい、まったく! 話はもう終わった!! 冥琳、店を出るぞ!!」

「え、あ、わわ!」

 

 がっしりと母上に手をにぎられる。

 少しいたいくらいの強さだったけれど、すぐに力は抜いてくださった。

 

「あ、おい! 逃げるな、美命!!」

「煩いわ! 少しは自重しろ!」

 

 顔を真っ赤にして歩き出す母上。

 いきなりさわぎだしたわたしたちに困った様子の店員に「釣りはいらん!」と強引にお金を渡して外に出る。

 

「まったく、あの馬鹿者め……」

 

 ぶつぶつとつぶやきながら城への帰り道を歩くわたしたち。

 先ほどまであふれそうだった涙はもう止まっている。

 母上もなんだか活き活きとしているように見えた。

 

 もしかして蘭雪様は、この為に声をかけてきたのだろうか?

 

「ふぅ……まったく。馬鹿者め」

 

 わたしと同じ事に思い至ったのか、母上は苦笑いを浮かべていた。

 

「帰ろう、冥琳。そして明日、駆狼に聞いてみればいい。父上と呼んでいいか、とな」

「……はい!」

 

 

 

 

 この翌日から駆狼は冥琳に父上と呼ばれるようになり、城ではちょっとした騒ぎになった。

 未亡人である美命の子供である彼女が駆狼を父などと呼びだしたのだからその真意を知らない人間から見れば駆狼と美命が夫婦になったと捉えるのが普通であるのだから、それも当然の事。

 

 

 駆狼は祭や塁たちに問い詰められ、蓮華、荀彧、果ては小蓮(しゃおれん)までもが駆狼を父と呼ぶ冥琳を羨ましがる始末。

 唯一、事情を知る部外者である蘭雪は雪蓮と共謀して事態を面白おかしく引っかき回す事に精を出し。

 駆狼の部下である蒋欽や賀斉たちを初めとした者たちが騒ぎ立てるのを切っ掛けに騒ぎは加速する。

 

 この話題は一か月もの間、建業中を小さな混乱に陥れる事になった。

 陽菜は当事者たちから早々に事情を聞き出すと事態を静観し続けていたと言う。

 

 

「あ、あの父上……この兵法の意味についてなのですが」

「ああ、これはだな」

 

 以降、本当の親子のように書庫で語り合う二人の姿が目撃されるようになる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第二十九話

 正直な話、仕官してから特に功績らしい功績を上げてない俺が、貴族の護衛なんて大層な仕事を任されるなんて思わなかった。

 

 理由を聞いてみれば確かになって納得させられたし、そもそもこんな大任を任されるくらいに認められてたって事がわかったのはすげぇ嬉しかったんだけどな。

 だから絶対に失敗なんてしねぇって気合いを入れて任務の準備を始めたんだ。

 

 準備の最中に蓮華様や雪蓮様たちが激励に来てくれたのはなんかむず痒かった。

 一緒に来た桂花ちゃんに「お母様をお願いします」って頭を下げられて、絶対に守り切らねぇとって覚悟を決めた。

 賊に攫われてその後もずっと苦しんできたこの子を、これ以上悲しませるわけにはいかねぇってそう思った。

 

 心のどっかが張り詰めて、自然に身体に力が入ってくのが自分でもわかった。

 

 

「遠征というほどではないが、兵糧にはある程度余裕が必要だろう」

「そっちは俺が確認しておきますよ。適量としちゃこれくらいの量だと思ってるんですけど、どうです?」

「ふむ。……不測の事態を考えれば妥当なところか。慎はどう思う?」

「僕も行軍に支障をないけど、食料としては充分だと思います」

 

 美命様や慎と護衛軍の編成やら、兵糧の手配について話し合う。

 村を守るとか、山賊のねぐらに攻め込むとかそういう戦いはやった事があるんだが要人警護ってヤツの経験は無い。

 

 下手を打つと俺達だけじゃなく蘭雪様たちにも迷惑をかけちまうし、何より桂花ちゃんの家族だ。

 どんな仕事だって気を抜くなんて真似はしねぇけど、今回は特に真剣に取り組んでいるって自覚があった。

 

 

 俺がやっていた文官の仕事は、俺に文官のなんたるかを叩き込んでくれた老先生(師事する時にこう呼べと言われた。実は真名はおろか本名も知らない)に引き継いである。

 今回の任務を割り当てられたって事で仕事の引き継ぎの後に礼儀作法についてはみっちり復習させられた。

 

 俺が失敗した時の蘭雪様の立場ってヤツを考えての事だと思う。

 

 貴族って立場がどんだけ偉いかは聞いた限りの事しか俺にはわからない。

 けど住む世界が違うなんて言葉をよく聞くし、機嫌を損ねる事がすげぇやばいっていう悪い話は耳にタコが出来るほど教え込まれた。

 桂花ちゃんを見てるとそうは思えないんだけどな。

 あの子がまだ子供だからそう感じるんだろうって言ったのは、確か美命様だったか。

 

 護衛する荀家の連中には桂花ちゃんと話す時みてぇに気安く接するのはやめろって厳命された。

 同時に桂花ちゃんに対しても今までのように接する事を禁じられた。

 

 人と人とが関わる所に民草だ貴族だなんて意識はいらねぇって俺は思う。

 けど俺の気持ちはどうあれ、そうしないといけない。

 

 その事になんか腹が立った。

 そして貴族が面倒だとかそういう事よりも、今まで普通に接してきた俺らに他人行儀にされなきゃいけない桂花ちゃんがかわいそうに思えた。

 雪蓮様たちと遊んでいるあの子の顔は俺達が子供の頃と何も変わらなかったから。

 だから余計にそう思う。

 

「なるほど。いきなり酒を持って俺の部屋に来たのはそういうやるせない気持ちを吐き出したかったからか」

「ああ、そうだよ。なんつーか塁とか慎にはこういう愚痴はし難いし、祭とだと飲む量ばっかり増えちまうからさ」

 

 卓を挟んで対面に座る駆狼の言葉に頬を掻きながら杯に注いだ酒を飲み干す。

 

「まぁそれでお前の気持ちに区切りが付くなら付き合うさ」

「悪い」

「気にするな」

 

 空いた杯に駆狼が注いでくれたので俺も駆狼の杯に継ぎ足す。

 

「桂花ちゃんは、ずっと貴族でいなきゃならねぇのかな? 対等に話す事も出来ないような、ここに来るまで友達もいねぇような寂しい場所にいなきゃならねぇのかな?」

 

 何度か一気に呷って軽くなった口から言葉が漏れる。

 

「……わからない。貴族と言ってもその地位は昔に比べて衰えているらしいからな。あるいは今後、そう遠くない内に貴族と言う特権階級は無くなるかもしれない」

「衰えている、ねぇ。ならその内、今までみたいになんの気兼ねもなく桂花ちゃんと話が出来るようになるのかねぇ?」

 

 本当はそんな簡単な話じゃなくて、すげぇ大変な事なんだろうけど。

 子供らしく生きられないあの子を見てるとそう思わずにはいられない。

 蓮華様や冥琳様もそうだけど、桂花ちゃんはそれ以上に寂しい生き方をしてるから。

 

「それもわからない、な。俺達がどうこう出来る話じゃないって言うのもそうだが……あの子の環境にとって貴族であると言うのは生活の一部、言ってみれば四肢のように身近な事だ。突然、それが無くなるとどうなるか、それが彼女にとって本当に良い事なのか、それは俺達では判断出来ない事だ」

「……四肢の一つを無くすような事態になっても平然としてたお前が言っても説得力ってもんがねぇよ」

「……」

 

 初めて山賊と戦ったあの日。

 駆狼は医者が匙を投げるほどの深手を負って左腕が動かなくなった。

 医者からその事を聞かされた時、俺達はみんな大騒ぎしていたってのにこいつはただ静かに事実を受け入れていた。

 元方って鍼で治療するおっさんがいなけりゃ左腕はずっと動かなかったはずだ。

 

 一生物の怪我を「そうか」の一言で受け入れる。

 俺には真似できないって当時は思ったもんだ。

 

「戦うと決めた時から五体満足でいられるとは思っていないからな。だが桂花はそうじゃない」

「そう、だな。俺達みたいな戦えるヤツと同じように考えちゃいけねぇな」

 

 ただの武官が話し合った所で意味がないんだろう愚痴を交わし合う。

 

「あの子だけに限った話じゃねぇけどさ。やっぱ子供たちには武器を持たせたくねぇよな」

 

 それは俺の本心だ。

 戦って、人を殺して、折れそうな心を奮い立たせてまた戦って、また人を殺して。

 そんな事、あの子たちにはしてほしくない。

 

「……俺も同じ気持ちだ」

「だろうな」

 

 いや。

 建業の誰よりも子供たちの面倒を見てるこいつは、たぶん俺以上にあの子たちを戦わせたくないって考えてるはずだ。

 

 けどこのまま領土争いだとか賊の横行が続くなら、いずれあの子たちは戦場に立つ事になる。

 守ってやるだなんて口で言うのは簡単だが、それを貫き通すだけの力は俺にはまだ無い。

 祭にも、慎にも、塁にも、駆狼にすらもまだ無い。

 

 一体、どれだけ努力すれば守りたい物を全部守れるくらいの力が付くのかなんて全然わからねぇ。

 だからって足踏みしてたらあっという間に時間が過ぎていくだけだ。

 

「なら我武者羅にでもやってくしかねぇよなぁ」

「強くなるのに近道なんて都合の良い物はないからな。安心しろ、誰もが手探りだ……俺もな」

 

 俺の独り言の意味を完全に見透かした言葉を吐きながら駆狼は杯を呷る。

 

「今は自分に出来る事に全力で取り組むしかない。先の事を考え過ぎて目の前の事を疎かにする訳にはいかないだろう?」

「だな。差し当たっては今回の護衛任務を成功させる事を考えないと」

「気負い過ぎるなよ?」

「わかってるさ」

 

 話はそこで途切れた。

 それからしばらくは無言で酒を飲み進めて、持ってきた酒が空になった所でお開きになった。

 

「色々話してすっきりしたぜ。ありがとな」

「気にするな。俺もお前と話して色々と考える事が出来た。俺の方こそありがとう、だ」

「そっか」

 

 駆狼の部屋を出て、自分の部屋に向かって歩き出す。

 酔いが回って火照った顔に当たる風が気持ち良くて思わず頬が緩む。

 

「『ありがとう』か。色々とまだまだな俺でもお前の力にはなれてるんだな、駆狼」

 

 俺達よりも一歩も二歩も先を行く駆狼。

 だが遠い背中にも声は届くんだって事が確信出来た。

 

 追いかけるのも楽じゃない。

 いつまでも追いつけなくて苛々した事も数えきれないくらいある。

 けど、思ったよりもあいつと俺の距離は遠くないって事がわかった。

 声が届く距離なら、走ればすぐそこ。

 なら後は俺の頑張り次第って事だ。

 

「やってやんぜ」

 

 拳を握る。

 

 あの子たちが戦わないで済むようにする方法なんて全然、見えてこない。

 世の中が平和になればいいんだとは思うんだが、どうやら良いのか話がでかすぎて検討も付かねぇ。

 

 なら見える所からやっていくだけだ。

 

「まずは……任務をやり切って桂花ちゃんと親御さんを会わせる」

 

 今、俺が考えるのはそれだけでいい。

 

 

 

 

 激の愚痴に付き合った二日後。

 美命、激、慎は荀家の護衛のために建業を発った。

 護衛を引き継ぐのは廣陵郡と呉の領境(りょうざかい)になる。

 

 向こうに付くのにおよそ三日。

 そこから建業に戻るのに通常の行軍でさらに三日。

 

 何事もなく済めばいいんだが、恐らく何かしらの動きが見られるはずだ。

 具体的には賊、あるいはそれに偽造した襲撃。

 

 こちらも警備を強化して侵入者を警戒しなければならない。

 祭の部隊が城内を、塁の部隊が街の外を警戒すると言う事になり、俺の部隊は城下の見回りをする事になった。

 

 俺は自分、公苗と公奕、豪人殿と元代の三つに部隊を分け、それぞれに見回る範囲を限定して警戒に当たる事にした。

 一人では不意打ちに対応出来ない可能性がある為、二人一組で行動する事を厳命。

 俺は公奕の弟である公盛(こうせい)と、そして君主命令で桂花と行動を共にしている。

 

「大将、この辺はいつもと変わりないみたいですね」

「そうだな。文若、朝から歩き詰めだが平気か?」

「はい! ぜんぜん大丈夫です!」

 

 俺の手を握って離さない桂花。

 言葉通り、疲れた様子もなく周囲に落ち着きなく視線を動かしている。

 城内では自由に行動を許されている(それでも最低一人はお付きがいるが)桂花だが、城下に出た事はなかった。

 

 初めて歩く建業の街。

 落ち着き無く周囲に視線を巡らせ、香る焼き魚の良い匂いに鼻をひくつかせ、客寄せの威勢の良い声に驚く彼女の様子は見ていてとても微笑ましい。

 

 危険が付きまとう警邏に連れていけと言う命令に俺は最初、猛反発した。

 当然だろう。

 護衛対象を狙われやすい外に連れていくなど愚策も良い所だ。

 だが桂花自身に城下を見てみたいと言われてしまい。

 必死な様子で懇願され、俺が折れざるをえなかった。

 

 桂花が胸を張って帰れるように出来る限りの事をすると約束した手前、彼女の要望には可能な限り応えたいと言う思いがあったからだ。

 

 俺と公盛で周囲を最大限に警戒し、離れた所でも何組かに俺達に近づく人を監視を頼んでいる。

 加えて桂花にも俺から離れないようにという条件を飲んでもらっていた。

 

 これが桂花の願いと安全とを両立させた妥協案だ。

 些か不安が残るが、そこは現場でなんとかするしかないだろう。

 

「そろそろ昼になるな」

「ですね。どっかで適当に休憩しましょうか」

「ならこの先の広場にしよう。旅芸人が催し物でもしているかもしれない」

 

 公盛の言葉に頷き、休めそうな場所を提案する。

 しかしこのやり取りは事前に取り決めていた事だ。

 この先の広場には常に何人かが見回りに付いているから何か起こった時に対処しやすい。

 だから自然な流れで向かうように会話しているだけだ。

 

「旅芸人、ですか?」

「歌や踊り、芸で周りを楽しませる人たちの事だ」

「そんな人が……駆狼様、私見てみたいです!」

「都合良く今日いるかはわからないが今日の主役であるお前の希望だ。見に行くとしよう」

 

 話を聞いて目を輝かせる桂花に引っ張られるように広場を目指す。

 

 見晴らしの良い場所の方が護衛がしやすいと言うのもある。

 勿論、そんな雰囲気を壊すような事を言うつもりはない。

 この子には城下の様子を純粋に楽しんでほしいからな。

 

 もっとも聡いこの子がなにかに気付いている可能性もあるんだが。

 

「今日は露天商の類が多いな」

「あちゃあ、広場が露天で埋め尽くされちまってちゃ催しは期待できませんね」

 

 当てが外れたと額に手を当てて落胆する公盛。

 

「まぁ仕方ない。適当な所で飯にしよう」

 

 前世での公園に倣いこの広場には幾つかベンチのような長椅子が配置されている。

 その一つに俺と桂花が並んで座った。

 

「公盛、すまないが……」

「了解です。適当に美味そうな物買ってきますよ。文若ちゃんはなんか要望あるかい?」

「え、えっと……お魚が食べたい、です」

「あいよ。任せときな」

 

 人懐っこい公盛の態度に戸惑いながら希望を言う桂花。

 要望を受けて男らしい笑みを浮かべると俺と目を合わせてから、露天にたむろす人混みの中に消えていった。

 

 桂花は公盛と他の人間に比べれば関わりはあるのだが、どうもその積極的過ぎる性格が災いしてまだ慣れていないらしい。

 

「ふぅ……」

 

 長椅子の背もたれに身体を預けるとため息が漏れた。

 今の所、周囲に妙な動きはない。

 護衛対象を引き連れて見回りに出るという愚行が、逆にあちらを警戒させているのかもしれない。

 俺が襲撃者の立場だったならこんな状況、まず罠を警戒する。

 そういう意味では心理を突いた策と言えない事もない。

 

「楽しいか? 桂花」

「はい!」

 

 打てば響くような弾んだ返事に俺も自然と口元が緩む。

 こうして過ごせるのもあと僅か。

 ならばその少ない時間をこの子にとって宝物と言えるくらいに楽しい物にしてやりたい。

 

 その為にも。

 『この視線の主』には早々に退場してほしい所だな。

 

「……」

 

 こちらをじっと窺っている気配が一つ在る事にはとっくに気付いていた。

 しかしどうやらこの視線の主が見ているのは桂花ではなく俺のようだ。

 邪魔者から排除しようと考えていると見るべきか。

 それにしては動く気配がないのが気になる。

 

 公盛が離れてからより明確にその気配が感じとれるようになったのは誘いのつもりなのかもしれない。

 だが視線の主の考えがいまいち読み切れない為、誘いに乗る事が出来ないでいた。

 

 だがそのまま見られているだけと言うのも相手を調子付かせるだけだろう。

 ならば……。

 

 数秒だけこそこそと俺達を見ている者の方向に視線を向ける。

 偶然で片付けられる事が無いように視線に殺気を混ぜて。

 

 するとどうだろう。

 今までただ遠目から監視するだけだった何者かは自分からこちらに近づいてきた。

 ゆっくりとこちらに近づいてくる気配。

 

 その姿は普通の農民のような風体をした男だった。

 この場で、そこにいる事に何の違和感もない服装。

 しかしこの男、殺気を向けられたと言うのにに動揺がまったく見られない。

 暖簾に腕押しと言う言葉の通りに受け流しているのか、その顔は涼しげなままだ。

 

 隣で無邪気にはしゃぐ桂花と談笑しながら、正面から近づいてくる男から意識を外さない。

 

「少し道をお尋ねしたいのですがよろしいですか?」

 

 一般人を装って話しかけてきたその男。

 ここで事を荒立てるつもりはないと言う意思表示のつもりか、それとも単に隙を窺う為の駆け引きか。

 俺は座っていたベンチから立ち上がり、さりげなく桂花を隠すように男の正面に立つ。

 

「っ!?」

 

 見知らぬ男に話しかけられた事で俺の腕を掴み、背中に隠れるように抱きつく桂花。

 ほんの少し震える身体が、彼女のトラウマがまだ癒え切っていない事を示していた。

 

「どこに用があるんだ?」

 

 何食わぬ顔で対応しながら桂花の震えを少しでも抑える為に彼女の頭を撫でる。

 勿論、男から目を離すような愚は犯さない。

 

「宿がどこにあるか知りたいのですが……」

「宿ならこことは真逆の区画にあるな。北の道を真っ直ぐ行って突き当りを右に行けばいい」

 

 指で方向を指し示し、簡単にではあるが道を教える。

 

「なるほど。逆方向でしたか。ありがとうございます」

 

 軽く頭を下げて礼を言う男。

 まるで波紋のない水面のように落ち着いた声。

 切れ長の目はどこか狐を彷彿とさせる。

 そしてその動作一つ一つには隙がまったく見られない。

 

 先ほどまでは市中に溶け込む為に隠していた『訓練を受けた者』としての姿を惜しげもなく晒してきたのだ。

 

 俺の警戒心が跳ね上がる。

 目の前の人物だけでなく周囲に対しての警戒も怠らない。

 

 こうまであからさまに実力を晒すような真似をする意味。

 『囮』の可能性を考慮しなければならないからだ。

 

「……お見事です」

 

 男は俺にだけ聞こえるように小さく呟くともう一度だけ頭を下げ、自身の懐から竹簡を一つ取りだした。

 

「正文(せいぶん)様より凌刀厘殿へお届けするようにと預かった書簡です。お納め願います」

 

 丁寧に、しかし素早く書簡を俺に差し出す。

 

「お母様から!?」

 

 思わぬ所から出た家族の名前に弾かれたように声を上げる桂花。

 しかしやはり目の前の男が怖いのか、俺の背中から出ようとはしない。

 未だこの男の正体が判然としない今、彼女が出てこなかったのは俺にとって都合が良いと言えた。

 

「はい……」

 

 桂花の言葉に男は慇懃に頷く。

 しかしそれ以上、言葉を発する事はなく俺が書簡を受け取るのを静かに待つだけ。

 必要以上に物を語らない姿勢はただただ淡々としている。

 

 しかし俺が受け取らなければこの男は梃子でも動かないのだろう。

 俺に書簡を渡す事がこの男にとって最も重要な事なのだから。

 

 俺は差し出された書簡にゆっくりと手を伸ばす。

 書簡に毒やら刃物やらを仕込む事が出来ない訳ではない以上、慎重になるに越した事はない。

 

 ゆっくり十秒程の時間を置いて俺は書簡を受け取った。

 

「それでは私はこれで」

 

 用が終わればそれまでと言外に含ませて男は背を向けて歩いていく。

 一見、無防備に見えるその背中だが、やはり隙は微塵も見られない。

 たとえば今ここで隠れて俺達の様子を監視していた建業見廻り隊の連中や公盛が仕掛けても無駄だろう。

 軽々と倒されるとは思わないが、恐らく逃げられてしまうはずだ。

 

 ならば監視を数名付けて、それ以上のちょっかいをかける必要は今はない。

 

 広場のあちこちに散ってこちらを窺っていた部下たちに目で合図を送る。

 何名かが男を追いかけていくのを見届け、俺はベンチに腰を下ろした。

 

「駆狼様……」

「ふぅ……安心しろ、桂花。特に何かされた訳でもない」

 

 あの男との間にあった緊張感を察してくれたのか心配そうに俺を見つめる桂花に苦笑いしながら応える。

 

「さすがにこんな所で内容を確認するわけにはいかないな。桂花、すまないが一度城に戻ってもいいか?」

「もちろんです」

 

 書簡の内容が気になるのは彼女も同じだ。

 

「なら行こう。これの内容次第だが時間があればまた外に来たい。まだ連れて行きたい所が沢山あるんでな」

「はい! 楽しみにしてます!」

 

 俺達は昼飯を買って戻ってきた公盛と合流し、歩き食いをしながら城へと戻っていった。

 

 

 

 

 凌刀厘殿から付けられた監視を巻き、早々に建業を出る。

 しばらく走った先にある森に飛び込み大きめの木を背もたれにした所で、私はようやく安堵の息を吐いた。

 

 噂では聞いていたが。

 なるほど、あれが新進気鋭筆頭と名高き人物か。

 

 意図的に出したとは言え俺の気配に気づき、場の雰囲気に溶け込む為の擬態を見抜く観察眼。

 言葉尻で相手の意図を察する頭の回転には俺も内心、舌を巻いていた。

 いつの間にか建業の兵士たちに遠巻きに囲まれていると気付いた時には肝を冷やしたものだ。

 

 今回の接触で彼の人物の全てを見抜けたとは思わない。

 恐らく実力の半分も見せていないはずだ。

 

 それでも見えた物もある。

 その隙の無い所作、何の動作もなく部下を動かす統率力。

 そしてあの底知れぬ瞳。

 

 あれほどの人間が建業の双虎の元にいる事実は、大陸の今後の勢力図を大きく変える事になるやもしれない。

 

「来たか、明命(みんめい)」

 

 物想いに耽っている間に、どうやら娘も到着したようだ。

 まだまだ未熟ではあるがなかなかの隠行で俺の背後から近づいてくる。

 

「はい、父上!」

 

 まだ幼い子供らしく無邪気な笑顔を向ける娘に、安堵で緩んでいた口元がさらに弧を描いた。

 

「見たな?」

「はい!」

 

 キッと真面目な表情を浮かべる娘に俺も緩んでいた雰囲気を引き締めながら頷く。

 

「あの男が凌刀厘、そして傍にいた娘が我々の護衛対象である荀文若様だ」

「わたしと同じくらいの女の子でした」

「そうだ。あのような娘が命を狙われる……貴族の世界も薄汚れているのは変わらん。だが……」

 

 思い出すのは鋭い瞳。

 慈しむように少女を撫でながら俺を睨む頼もしい男の姿。

 

「彼と共にいる間は、彼女の身の心配はいらないだろう」

「父上はあの方を気に入られたのですか?」

 

 俺の物言いを疑問に思ったのか小首を傾げながら質問する明命。

 

「気に入った、と言えばそうかもしれないな。あのような男はなかなかいない」

「そうですか! 父上に友達が出来てよかったです! にへへ~~」

「別に彼と友人になるつもりはないんだが……」

 

 無邪気に喜びながら理論を飛躍させた事を言う明命にため息をつく。

 どうやら俺の言葉は聞こえていないらしい。

 

 仕方のない子だ。

 猫と俺の事になると耳に何も入らなくなるのは悪癖だ。

 少しずつでもいいから修正していかねばな。

 

「明命、仕事はまだ終わっていないぞ」

「はっ!? そうでした、申し訳ありません!!」

 

 窘めると正気に戻ってくれた。

 まったくやれやれ。

 

「一応、確認する。俺達の仕事は荀文若様の護衛。彼女及び合流する彼女の縁者を無事に頴川まで連れていくのが仕事だ」

「でも基本的には手を出さず、遠目からのかんしのみに集中する」

「その通りだ。もしも護衛対象に生命の危機が迫った場合のみ我々は直接的な介入を行う。いいな?」

「はい!」

「お前は今回が初仕事だ。仕事の空気を感じ取り、身体を慣れさせるだけでいい。無理だけはするな、いいな?」

「わかりました、父上!」

「では建業へ戻るぞ」

 

 俺達は家に伝わる隠行術で建業へ侵入。

 己の仕事を果たすべく街の中への消えていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十話

 荀家の人たちを護衛する為に建業を出て二日。

 三日の行軍予定を僕たちは想定以上の速度で進軍していた。

 

 合流する予定の他領軍が派遣した荀家護衛軍はまだ姿を現さない。

 僕たちはすぐに撤収できるよう簡易的な陣を敷き、四方に広がる広野に油断なく視線を巡らせる。

 

「今んところは特に何も起こらねぇな」

「そうだね。でも油断は禁物だよ?」

「そんな事ぁわかってるよ」

「うん。その調子でよろしく。僕は美命様の所に行ってくる」

「あいよ」

 

 周囲の警戒を激の部隊に任せて僕は天幕の一つに入る。

 中ではこの辺りの地図を卓に広げている美命様の姿があった。

 

「慎か。周囲の状況はどうだ?」

「今の所、動きはありません。激の部隊が交代で監視を続けています」

「そうか。……ふむ」

 

 広げられた地図には幾つか筆で丸印が付けられていた。

 持ってくる前に確認した時には付いていなかったから、ここで広げている間に付けた物なんだろうと思う。

 

 今回の任務に関係がある事なのだろうか?

 でも丸印の場所は何の変哲もない平野ばかりだ。

 襲撃に適した箇所の印かもと考えたけれど、幾つかの場所はここから随分と離れているから今回の任務とは関係ない事のようにも思える。

 

「……ここも、使えるか」

 

 呟きながら美命様はさらに別の箇所を円で囲う。

 

 丸印の共通点はどの場所も他領との国境沿いになるという事と建業よりこの簡易駐屯地からの方が位置的に近いという事だけ。

 これだけの情報ではどういう意図があるのか僕にはわからなかった。

 

「……どうした、そんなに食い入るように見て?」

「え? あ、ああ、すみません。地図の中に書き込まれた印の意味を考えていました」

 

 どうやら僕は意識せずに美命様を見つめながら考えを巡らせていたみたいだ。

 これでは見られていると誤解されても仕方がないし、美命様にとても失礼だろう。

 

「ふふ、そうか。てっきり私の後ろ姿に見惚れでもしたのかと思ったぞ」

「か、からかわないでください」

 

 女性の艶やかさを含んだ悪戯っぽい笑みに僕の顔に熱が集まった。

 美命様は美麗な方だからそういう表情をされるとたとえ冗談だとわかっていても緊張してしまう。

 

「はははっ、すまない。お前はからかい甲斐があるからつい、な」

「はぁ……しかし何故、僕にだけこういう事を? 激や駆狼にぃとか標的になりそうな人は他にもいると思うのですが」

 

 本当にそこが解せない。

 男だからと言う理由なら激や駆狼にぃでもいいし、そうでなくても男の武官や文官だって結構いる。

 なのに美命様はこういう事をする相手は決まって僕だけなんだ。

 

「激はすでに塁と熟年夫婦もかくやの関係だからな。私も一途な二人をからかうほど底意地の悪い女ではないよ。駆狼の場合はあやつがその手の悪戯に慣れているのか、からかい甲斐がまったくない。他の武官や文官たちに手当たり次第こんな事をしていたら私がただの恥知らずになってしまう。だから口が堅く、この手の事に初々しい反応が望めるお前が標的になっているというわけさ」

「懇切丁寧なご説明ありがとうございます。でもできればやめてください」

「善処するさ」

 

 善処するだけでなくきっぱりやめてほしい。

 美命様にからかわれると深冬さんの機嫌が何故か悪くなってしまうし。

 

「ふふふ。さて話を戻すが地図に書き足した円についてだったな? とりあえずお前がわかっている事を言ってみろ」

「え? ああ、はい。その円が廣陵や淮南などとの郡の境目にある事はわかるのですが、他には特筆するべき所はありません。今回の任務とは到底関係なさそうな遠い場所にまで円があるので今回の任務で重点的に警戒する場所という訳でもないようですし……」

 

 僕がわかっている事を列挙していく。

 それほど多くの事を言ったわけではないけれど、美命様は僕の回答に満足したように微笑んで頷いた。

 

「そこまでわかっていれば十分だ。地図が全て見える場所に来い。説明しよう」

「はい」

 

 言われて地図が広げられた卓に近づく。

 天幕の出入り口からでは見えなかったけれど、僕が確認した個所以外にもかなりの印が付けられていた。

 

「まず言っておくとこれは今回の任務とは関係無い。次以降の献策の下拵えと言った所だな」

「下拵え、ですか」

「他郡がこちらに攻め込む事がないようにする為の監視用の砦を作りたくてな。この印はその場所の候補地になる」

「なるほど。だから砦の建設に不都合のある山間部などを除外した特筆すべき点のない平野部に印がついてるんですね」

「そういう事だ。既に手が空いた何人かに印を付けた場所が本当に建設に適切な場所かを調査してもらっている。さすがにここから遠い場所の調査は無理だろうが近隣くらいなら可能だろう。その情報を踏まえて戻った後に詳細を詰める予定だ」

 

 本当にこの方は凄い。

 貴族の方たちの護衛だなんて細心の注意を払わなければいけない事柄を前にして、さらに先の事を考えて行動するなんて。

 僕たちも文官として物事を一歩離れた場所から見る事には慣れてきたつもりだったけれど、ここまで冷静に物事に当たるなんてまだ出来ない。

 

「そこまで考えていらっしゃるなんて……」

「なに。成り上がりである私たちだ。何事も先を見据えて考えねばどこから足元を掬われるかわからん。とはいえ目の前の事柄を疎かにするつもりもない。荀家の護衛にも勿論、全力を尽くすさ」

 

 先ほどと同じ微笑みのはずだと言うのに今の美命様にはどこか凄みと言うか底知れなさと言うかそう言う物を感じた。

 

 なんて事はない。

 僕はまだまだ未熟で。

 僕よりも先を行く人は駆狼にぃの他にも沢山いて。

 ここにも一人いたと言うだけの話だ。

 目指すべき目標はまだまだ遠いけれど。

 

「ん? 誰か来たな」

 

 周りに聞かせるようなドタドタとした足音。

 

「公共様、祖隊長。北方より砂塵を確認。こちらに近づいてきています!」

 

 天幕越しの報告を受けて談笑で緩んでいた空気が引き締まった。

 

「旗はあったか?」

「はい、官軍旗を掲げておりました!」

 

 その一言で椅子に座っていた美命様は立ち上がり、足早に天幕を出る。

 勿論、僕もそれに続く。

 

「どうやら荀家とその護衛軍が到着したようですね」

「そのようだ。報告、御苦労。引き続き周囲の警戒を続けてくれ」

「はっ!」

 

 報告に来た兵士が去っていくのを尻目に僕たちは報告にあった北方に足を進める。

 

「やはり通常よりも早く姿を見せたな。小賢しい真似をする」

「建業で言っていた他領からの嫌がらせ、ですか?」

「恐らくな。私達よりも早く合流地点に来れば貴族を待たせた不心得者として私達を糾弾出来ると考えたのだろう」

 

 建業には敵が多いと言う事は知っていたつもりだ。

 日々、暗殺者や諜報員が送り込まれているんだから嫌でも意識せざるをえない。

 しかしこうして他者を利用してでもこちらに害を為そうとする連中がいると言う事実にはため息をつきたくなる。

 

「しかし、子供の嫌がらせのような物だが効果が見込める以上、馬鹿に出来た物でもない。まぁ私が指揮を執っている以上、付け入られる隙など作らんがな。あらゆる事態を想定し、対策を取ってこその軍師だ」

 

 確固たる自信に満ちて歩くその姿はとても綺麗だが、同時に敵に回した時の恐ろしさがあった。

 そんな美命様の様子に僕は思わず身震いしてしまう。

 

「さぁここからが本番だ。気を引き締めてかかれ、大栄」

「了解です。公共様」

 

 先に報告を受けていたのだろう激の背中が見えてきた。

 

 さぁ、ここからが本番だ。

 頑張ろう。

 

 

 

 

「なんとも厄介な事になったな」

 

 城に戻った俺は公盛を蘭雪様たちへの報告に走らせ、自室で桂花とあの男から渡された書簡に目を通していた。

 

 内容は端的にまとめるならば警告と謝罪だった。

 

 桂花を中心とした今回の騒動の裏には荀家内での内輪揉めとでも言うべき物があると言う事。

 

 現当主である荀爽や荀昆を頂点に置いた者たちとそれに同調する者たちの派閥、そしてそれに敵対する者たちの派閥。

 なぜ家が真っ二つに割れるような事になったかと言えば民草への考え方の違いらしい。

 

 荀爽たちは民草を共に歩む者と考え、反対する一派は自分たちに尽くして当然の『物』と考えているとの事だ。

 

 この子をしばらくこちらに預けていたのはこの派閥争いに幼い子供を巻き込む事を荀爽が危惧した為らしい。

 証拠はないが桂花が人攫いに遭ったのも反対派が荀爽の一派を混乱させる為の陰謀だった可能性もあると言う。

 もしもこれが本当ならば子供一人の人生をくだらん権力争いの生贄にした事になる。

 口減らしとして子供を捨てる、あるいは殺す親もいる時代だ。

 言ってはなんだがこの程度の事は当然のようにあるのだろう。

 

 しかし俺からすればふざけた話だ。

 

 この数カ月の間に派閥争いが落ち着いてきたので桂花の返還を申し出たという話だったのだが。

 この子の返還に動き出した途端、おとなしくなっていたはずの反対派の動きが活性化したので慌ててこちらに事情を説明する書簡(今、俺たちが読んでいる物だ)を荀昆が独自に雇っている密偵(俺に書簡を渡した男の事だ)に頼んで送ったと言う。

 

 その反対派の連中が今回の騒ぎに乗じて密接な繋がりを持っている廣陵郡の軍を使って何か仕出かす可能性があると言う事を教えたのが警告、荀家の内輪揉めに巻き込む形になって申し訳ないと言うのが謝罪の内容だ。

 

「ふむ……」

 

 内容を吟味するようにもう一度、読み返す。

 桂花も俺の横で椅子に座り、じっと何かを考えているようだ。

 

 

 今の時代の風潮を考えればこの反対派と言う連中のような考え方とて間違っているとは言えない。

 しごく平凡な民側の感性を持っている人間としては当然、良い気分などしないが。

 とはいえ手紙に書かれたこの情報が真実であるのかどうかが、相変わらず俺には判断が出来ない。

 荀昆が自分たちに都合の良い事を書いている可能性も十分にあり得るのだから。

 

 本音を言えば桂花の家族を疑いたくはないが、しかし何も考えずに信じる事が出来るような立場でもないのだ。

 判断一つ間違えれば最低でも自分と部下たちの命を危険に晒す事になるのだから。

 ならばこそ慎重に考えなければならない

 

 荀家についてこちらが掴んでいる情報は現当主が民を慈しむ人物である事と、かなり広い範囲に人脈を持っている事。

 よって成り上がりである建業側は遣いの者や今回のような一団に細心の注意を払って応対しなければならず、彼らの不評を買うという事は蘭雪様にとって命取りになりかねない。

 

 お家騒動の類についてはまったく掴めていなかったが、果たしてこれが事実なのかどうか。

 

 まぁお家騒動の有無がどうあれ、警戒するに越した事はない。

 現に何度となく桂花は命を狙われているのだから。

 

「しかし廣陵郡か。美命の情報収集は流石だな……」

 

 今回、荀家が桂花を迎えに来るに当たって美命は前もって廣陵郡を中心に情報収集をさせていた。

 そして今回の騒動が始まってから、こちらに話を通していた荀家護衛の人数を遥かに超える量の物資を集めている事を掴んでいる。

 荀昆からもたらされたこの情報が正しいと仮定するならば護衛の他に人員を動かすつもりなのはほぼ確実だろう。

 

 いや逆だな。

 こちらが掴んだ情報が正しいとすればこの書簡の情報の信憑性が上がるわけだ。

 少なくとも廣陵郡の連中がなんらかの企てをしている事はほぼ確定した。

 それが荀家絡みの物なのかどうかは関係ない。

 

 そして荀昆からもたらされた情報が全て正しかったとしても嘘が混じっていたとしても当面、俺達がやる事に変わりはない。

 今回の護衛で荀家一行を守り、そして桂花を無事に家族の元に帰す。

 

 結局の所、俺達がやる事はそこに帰結する。

 

「駆狼様……」

「どうした、桂花?」

 

 泣きそうな顔で俯く桂花。

 ああ、きっとこの子は俺達を巻きこんだと思っている。

 優しいこの子は自分が原因であると思い、俺達に申し訳なさを感じているのだろう。

 

 こうなる事は予測できたし、だからこそこの書簡は見せたくはなかった。

 しかしあの密偵が桂花のいる前で俺に書簡を渡したせいで誤魔化す事は出来ず、そのまま共に見る羽目になってしまった。

 その結果が小さな身体で精一杯、責任を背負い込んで震える少女の姿だ。

 

 俺もあの男も迂闊だったとしか言えない。

 しかし聡いこの子は遠からず事の次第を知ってしまうだろう。

 そう考えると今知った事が良い事なのか悪い事なのか……。

 

「駆狼様、申し訳ありません」

「……」

 

 懺悔にも似た絞り出すような声での言葉を俺は沈黙したまま聞く。

 

「私達の家の事で、建業の方たちに迷惑をかけてしまいました。助けていただいたご恩も満足に返せていないのに、この上さらに……ご迷惑を重ねてしまう事、本当に……申し、訳、あり……ません」

 

 謝罪の言葉が涙で滲む。

 それでも言葉を続ける桂花。

 こんな子供がこんな言葉を言わなければならない貴族社会と言う物に俺は本気で嫌悪感を覚えた。

 

「謝るな。俺達は打算でお前を助けた訳じゃない」

 

 その小さな頭を優しく撫でながら俺は言葉を続ける。

 

「そんな悲しい顔をしてほしくて助けた訳じゃない。苦しんでいたお前を助けたかっただけなんだ。貴族だなんだと言うのは所詮、後付けでしかない」

「う、ふぇ……」

 

 こんな気休めしかしてやれない自分の事を情けないと思った。

 

「だからお前が責任を感じる必要はない。これ以上、背負い込むな」

 

 そっと抱きしめ髪を梳くようにして頭を撫でる。

 本当ならば親でもない俺がするような事ではないのだろうが、この子が感じている重荷を少しでも軽くしてやりたかった。

 気休めに過ぎないとわかっていても、やらずにはいられなかった。

 

「ぐす……うう……」

 

 小さな手が俺の背中に回される。

 俺の胸に顔をうずめながら桂花は静かに泣き続けた。

 

 

 

 建業城に幾つかある会議室の一つに公盛から報告を受けた蘭雪様が主だった面々を招集していた。

 とはいえ仕事中の皆を全員集めて指揮系統に不具合があっては意味がない為、集まったのは蘭雪様、深冬、塁、俺だけだ。

 

「なるほどな。仕掛けてくるのは廣陵郡の連中か」

「まだ可能性が高いと言う段階なので断言するのは早計でしょう。これに乗じて他が動かないとも限りませんので」

 

 陽菜は文官側の職務に、祭は俺の代わりに城下の巡回に出ている為、今回は出ていない。

 勿論、この会議で決まった事柄は会議後に手分けして広める事になっている。

 

「確かに。もし他領からも襲撃があった場合、数の差で押し切られる可能性がありますね」

 

 俺は深冬の言葉を肯定する意味で頷く。

 

「それならやっぱり援軍が必要なんじゃ? 美命様に前もって言われていたから一応、援軍を出す準備は出来てますけど」

 

 続いて塁が案を出す。

 確かに増援を送るのは、数の差で追い込まれるような状況になった場合の対応策としてもっとも単純で有効だろう。

 美命もその可能性を考慮して準備をしていたのだろうからな。

 

「確かに塁の提案が現状で最も有効だろう。だが建業の守りを手薄にしたと思われるのも良くないだろう」

 

 しかし迂闊に軍を動かす事も出来ない。

 増援を出せばそれだけ建業の守りが薄くなると言う事でもあるからだ。

 どれだけの人数を動かすかにもよるだろうが、今も城下に蠢いているだろう間諜の類がこれを機に動き出す可能性もある。

 警備は厳重にしているが対策が万全だと胸を張る事は出来ない。

 何事にも完璧と言う物はないのだから。

 

「う、……それはそうだけどさ」

「かと言ってこのまま何もせずにいると言うのも……」

「ふむ……」

 

 塁と深冬の発言に顎に手を当てて考え込む蘭雪様。

 部屋が一時的に静まり返ったその時。

 ドタバタとこの部屋に近づく足音が全員の耳に飛び込んできた。

 

「ん? 誰か、来たようだな。随分、急いでいるが……」

「あ、私が様子を見てきます」

 

 塁が部屋の戸を開けて廊下に出る。

 

「韓隊長!」

「あ、どうしたの?」

 

 廊下に出た所で声をかけられたのだろう兵士に塁が応じる。

 

「美命様より遣わされた早馬より報告です!」

「っ!? わかったわ。文台様たちが中にいるからそこで報告して!」

「はっ!」

 

 塁が部屋に戻り、後ろに兵が続く。

 俺達も塁の後ろの兵士に注目した。

 彼は俺達を見て頭を垂れると前置き無しで本題に入る。

 

「ご報告! 公共様方は無事に荀家の護衛を引き継ぎ、これより建業に帰還するとの事! 尚、盗賊を名乗る者たちから二度襲撃を受けるも被害は無し。問題なく撃退しております!」

「ほっ、良かった……」

「さすがは公共様たちですね」

 

 塁と深冬は胸を撫で下ろすのを尻目に俺と蘭雪様は険しくなった目を見合わせる。

 

「やはり襲撃されたか」

「盗賊を名乗る者たち、と報告したと言う事は少なくとも美命は襲撃者を盗賊とは思っていないと言う事ですね。やはり偽装された軍隊だったのでしょう」

 

 今、受け取った情報を元に俺達は淡々と現状を整理する。

 

「『二度』と回数を報告してきたと言う事は美命はまだ襲撃されると考えているな」

「恐らくは。わざわざ『問題なく』と報告させた辺り、また襲撃があっても人数はそう多くないと考えていると思われますが」

「そうだろうな。……よし、盗賊に二度も襲撃されどちらも相手にならなかったという情報をすぐに城下に広めさせよう」

「あとは警備の強化だな。侵入してくる連中は勿論、城下から出る連中にも目を光らせておいた方がいいだろう」

 

 塁と深冬を見ると先ほどまで安堵で緩んでいた表情は既に引き締められ、俺達の言葉を一字一句逃さぬように耳を傾けていた。

 

「ではそのように。俺は文若の周りをより一層注意しておきます」

「ああ、あの子の事はお前に任せる。聞いていたな、義公! お前は警備を強化しろ! 君理、お前は今もたらされた情報を触れ回れ。こちらにとって有利な脚色をしてな!」

「「御意!」」

 

 返事を唱和させて二人が部屋を出ていく。

 報告に来た兵士も塁たちと共に出て行った。

 

「俺も行きます。桂花に家族が無事だと言う事を伝えなければなりませんので」

「ああ。……油断はするなよ? 私の勘では次に狙われるのはあの子だからな」

 

 孫家の勘。

 それは蘭雪様の代から出現したある意味で超能力のような代物だ。

 超能力のようと俺が表現したのはその精度。

 彼女らが勘と表現して告げた言葉は今まで外れた事がないのだ。

 

 実際に俺も何度か雪蓮嬢や蘭雪様がその勘を当てている姿を見た事があるから、その信憑性はかなり高いのだろう。

 とはいえ何の根拠もないソレを全面的に信用する事は俺には出来ない。

 指針の一つとして頭の隅に留めておく程度だ。

 

「心に留めておきます」

「ああ、頼んだぞ」

「御意」

 

 一度、蘭雪様に最敬礼を行い部屋を出る。

 目指すは桂花のいる鍛錬所。

 見知った兵が多く一目に付きやすい場所は暗殺には不向きだ。

 だから俺は公盛に他の兵たちを何人か共にして桂花とそこに行くように指示を出しておいた。

 

「美命、激、慎。皆……無事で戻って来い」

 

 呟いた言葉は風に流れて誰の耳にも届く事なく消えていった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十一話

「シュゥッ!」

 

 迫ってくる山賊の風体をした敵の額に左拳を叩き込む。

 伸びきった腕をすぐに引き戻して悲鳴も上げられずに倒れ込んだ雑魚の横合いから迫ってくる別の敵の胸に右拳を叩きつける。

 

「おらぁっ!」

「げふっ!?」

 

 骨が折れる音と衝撃を拳越しに感じながら次の相手に肉薄、無防備な顎を左拳で突き上げる。

 

「次ぃっ!!」

「なんだ、こいつ!?」

 

 あいつらと訓練しながら色々と教わっている内にわかった事だが。

 俺は駆狼のように全身を武器にして戦う事が出来ない。

 祭ほど弓の腕が良いわけでもなく、塁みてぇに身の丈もある大槌を振り回すような怪力も無いし、慎のように剣を自分の身体のように自在に操る事も出来ない。

 

 だから俺は上半身を攻撃の手段に、そして下半身を移動だけに使うよう徹底する事にした。

 器用にもなれない、強引な力技も無理だってんなら自分の身体の使い方って奴を大雑把にでも決めてそのやり方を極めるべきだって考えたんだ。

 

 最初は常に意識して身体を動かした。

 普段、意識しない事をやると疲れるってのは話には聞いていたが自分でやってみると本当に辛かったのを今でも覚えている。

 だがその試みは結果的に功を奏した。

 

 攻撃に使うのはこの両拳と、祭には劣るがそこそこの腕前になった背中にかけている弓。

 

 駆狼の接近戦のようなあらゆる状況に対応するような柔軟性はない。

 だがそうやって訓練し、実戦を積み重ねていく内に俺は駆狼にも、慎にも、祭にも、塁にも負けない武器を手に入れた。

 

「速すぎて腕が見えねぇ! なんだよそれ、わけわかんねぇ!?」

「じゃあわけがわからねぇまま殴られろ!!」

 

 それは速さ。

 

 俺の拳は訓練をしている内に見つけた打ち方をする事によって仲間内でも簡単には見切れねぇほどの速度を身につけた。

 

 両拳を自分の肩よりも上で構える。

 相対する奴から見ればまるで頭部を庇うような情けない構えに見えるだろう。

 だがその構えから腕の力だけで拳を突き出せばその速さは振りかぶって放つ拳を超える事が出来る。

 さらに相手に当たるまでの時間をより刹那に近づける為、拳に力を入れるのは目標に拳が当たる瞬間だけ。

 

 勿論、上半身だけでなくこの時の下半身の動きも重要だ。

 そもそもこの構えからの最速の拳は相手の懐に入り込まなけりゃ使えない。

 幾ら拳の動きが速くても届かないんじゃ意味がねぇんだ。

 相手の攻撃を掻い潜るにはどれだけ無駄を無くした踏み込みが出来るかにかかっていると言ってもいい。

 

 左足を一歩前へ出し、脚幅を肩幅の広さに開く。

 こうする事で前後左右どこにでも素早く、一歩で標準的な槍の届く範囲くらいを動く事が出来る。

 そして常に前方に体重をかけ、目の前の敵の懐に飛び込めるようにする。

 

 拳の打ち方のコツを掴み、速く動く為の姿勢を決めるにはかなり時間がかかった。

 まだ俺達が村にいた頃から色々と試して、完成したのは仕官仕立ての頃だ。

 

 これらを無意識に出来るまで身体に染み込ませるのに万でも収まりきらねぇくらいの打ち込みをやり、どんな状況でも姿勢を崩さないよう沼地やら滝の中、偶に人混みに紛れてこの基本姿勢を取り続けて身体を慣らし続けた。

 慎や駆狼、部下たちと派手な組み手をやり、実戦でも自然に出来るように修練し続けてきた。

 

 その結果がこれだ。

 

 まだ駆狼相手に負け越してるが、この武器を昇華させ続ければ俺はあいつに出来ない事が出来るようになる。

 

 俺だけの強さで、あいつと並ぶ。

 子供の命を狙うようなくだらねぇ謀略に手こずる訳にはいかねぇ。

 

「っつう訳だからとっととやられろぉ!!!」

「なに言ってぶげらっ!?」

 

 最後の一人の顔面を右拳で打ち抜く。

 ぐらりと上体が揺らぐが、そいつは歯を食いしばって踏ん張った。

 剣も手放してねぇ。

 雑魚だと思ってたが少しは骨のある奴だったみてぇだな。

 

「ぐ、のやろぉっ!! くたばげぴゃっ!?」

「けどとろいんだよ!!」

 

 右手を引き戻すと同時に左拳を突き出す。

 頬を捉えた一撃でそいつは今度こそ倒れた。

 

 俺は注意深く周りを見渡す。

 最後の一人はまだ意識があるから勿論、そいつからは意識は外さない。

 

「程隊長! ご無事ですか!!」

 

 俺が最前線で戦っている間、露払いをしていた部下たちが駆けつけてきた。

 

「ああ、俺は平気だ。そっちはどうだ?」

「こちらも賊の迎撃は完了しました。怪我人が数名出ていますがいずれも軽傷です」

「そうか。手当はきっちりやれよ。小さな傷でも化膿するとやばい事になるからな」

「心得ています」

「よし。それとそこの賊はまだ意識がある。すぐに尋問にかけるから縛り上げて公共様たちの所へ連行してくれ」

「はっ!」

 

 仰向けに倒れてうめき声を上げている賊を二人がかりで手早く縛り上げる部下たち。

 そいつらの作業が完了するまで俺は周囲を警戒し続けたが、特に問題なんかは起こらなかった。

 

「よし。本隊と合流するぞ。総員駆け足!!」

「「「「「「はっ!!」」」」」」

 

 三度目の襲撃も無事に片付いたか。

 出来ればこれで終わりにしてほしいもんだが、どうなるかねぇ?

 

 俺は両肩を回して解しながら部下たちに合わせて走り出し。これ以上の襲撃が無い事を願った。

 

 

 

「やれやれ。まさか引き継ぎが終わって一刻と経たずに三度も襲撃してくるとはな。気の早い事だ」

「それでもしっかり対応出来ましたけどね」

「遮蔽物のない平野をただ愚直に攻めてくるのだからな。予め準備が整っていれば迎撃は容易い。物量差で押し切られる懸念も今回の襲撃に関しては取り越し苦労だったようだ」

「これが歩兵だけではなく騎馬兵だったら例え数が少なくとも危険だったでしょうね」

「そうだな。しっかりとした陣を敷いているわけでもないから馬の突進力を利用されればただでは済まなかっただろう」

 

 荀家の方々の馬車を兵で取り囲む陣形を取った我々は行きに比べておよそ半分ほどの進行速度で建業に向かっていた。

 途中の襲撃は激の部隊が対応しており、先ほど伝令が賊と思しき者たちを返り討ちにしたと報告されている。

 そう時間がかからずに激たちは合流するだろう。

 

 現状はほぼ予定通りと言って良い。

 唯一、想定外だったのは荀家から来た者たちの人数が思った以上に少なかった事だ。

 

 挨拶に出向いた際に桂花の母親である荀昆に教えてもらった所、一族の人間は荀昆のみで子飼の護衛が五十名しかいない。

 彼女から事情を聞いた所、荀家内部で思想の違いによる派閥争いが発生しており、彼女や現当主の荀爽は敵対派閥の親族から命を狙われているのだそうだ。

 よって身内を無条件に信用する事が出来ず、護衛は信頼できる者に絞り込んだと。

 私の想定では最低で百人は連れてくる物だと考えていたのだがな。

 しかし想定外の事とはいえ我々からすれば悪い事ではない。

 護衛する人数が少なければそれだけ負担は減るのだから。

 

 しかし五十人程度なら自分たちの手の届く範囲にいる内に制圧してしまう事も出来ただろう。

 少なくとも私が奴らの立場ならばそうしていた。

 廣陵郡の領地で荀家の人間たちを拘束ないし殺害し、それをさも建業の失態であるかのように見せかける。

 多少、危ない橋を渡る事になるだろうが不可能ではないはずだ。

 

 それを思いつかない程度の頭しか持ち合わせていないのか、そこまでの度胸がなかったのかは定かではないが廣陵郡の連中は機を見るのがよほど下手と言う事になる。

 こちらからすれば好都合以外のなんでもないが。

 

 

「あの……公共殿」

「どうかなさいましたか? 正文様」

 

 ああ、そう言えば想定外な出来事はもう一つあった。

 

 貴族と言うのは基本的に自分を民草よりも上と定めている者たちだ。

 漢王朝の設立に活躍した者たちがその功績を認められ、その一族に与えられた生涯の栄誉と言える。

 故に自らを特別視する者は多く、それ自体は別に間違っていない。

 彼ら無くして王朝は建たなかったと言えるのだから。

 

 しかし私は過去の功績をあたかも己が成したかのように語り、驕り、胡坐を掻く彼らを好ましいとは思っていない。

 なにせ私が知る限り、現在の貴族は真っ当に職務を行っていないのだから。

 ただ過去の偉業に踏ん反り返り、権利のみを奮う愚物。

 何度か実際に貴族と顔を合わせた事があるが故に、私は彼らを心底嫌っていた。

 便宜上とは言え敬称すら付けたくないと思ったのは、恐らく彼らが初めてだっただろう。

 当時は本気でそう考えたくらいだ。

 

 この上、貴族の中にはより皇帝に近い存在として皇族と呼ばれる者たちまでいる。

 貴族ですらここまで嫌悪感を持ったと言うのにその上までいると言う事実に、当時は本気で嫌気が差した物だ。

 それはともかく。

 

 桂花は純朴で頭の良い子供だ。

 だがそれは貴族の教育による選民思想にまだ染まっていないからだと言えるだろう。

 前もって情報を集めてはいたが彼女の親が本当はどのような奴かは直接会うその時までわからない。

 顔には決して出さなかったが内心で身構えてもいた。

 

「我々の家の騒動に巻き込む事になってしまい、本当に申し訳ありません」

 

 蓋を開けてみれば、当の貴族殿は今までに見たことがないほど腰が低かった。

 身構えていた自分にとってこの丁寧で真摯な対応は、些か居心地が悪いし正直なところ困惑している。

 初対面で字呼びを許されてしまった事も私の困惑に拍車をかけている。

 

「気にされる必要はございません。我らは我らの役割を果たす為にここにおります故」

「それでも、です。貴族だからと言って他者を見下して当然などと考えるなど、人として恥ずべき事です。功績とてもはや過去の物だと言うのにいつまでも縋りつく事しか出来ない。いつ無くなるともしれない物に頼っていては遠からず待つのは滅びのみです」

 

 勿論、表情には出さないようにしているが、本当に彼女が貴族なのかと疑ってもいる。

 民草が荀昆の名を騙っているか、従者辺りが代理として名乗っていると言われた方がまだ納得出来るぞ。

 

 しかも丁寧な口調で儚げな雰囲気を持っていると言うのに意外と言動は辛辣だ。

 その辺りは桂花との血の繋がりを感じさせる。

 あの子も蓮華や雪蓮、冥琳と騒いでいる時は容赦なく物を言うしな。

 

 しかしどこで誰が聞いているかわからないような状況で迂闊に肯定の言葉を返す事も出来ない。

 貴族批判に同意したなんて話が万が一にも広まってはまずいのだ。

 

「ご心労、お察しします」

 

 この程度の言葉を言う事しか今の私には出来ない。

 

「ふふ。お気遣いのお言葉、ありがとうございます」

 

 流石に聡明だ。

 明確な回答ではなかったとはいえ私の心情はしっかりと伝わっているらしい。

 文官の立場から言えば敵対する可能性がある相手は単純であった方がやり易いのだがな。

 

「恐らくこれ以上の襲撃はないと思われます。建業まではあと二日で到着する予定ですので、それまでご不便などあればお申し付けください」

「……ありがとうございます」

 

 彼女と話していると陽菜と話しているような錯覚をする事がある。

 まだ短い期間しか会話をしていないが、この女性はあいつと同じような常識のずれ方をしているような気がしてならない。

 

 今のやり取りでもそうだ。

 私が謙った物言いをした瞬間、一瞬だけ悲しそうな顔をした。

 己に傅かれる事を良しとしていない。

 いつまでも上に立つ者としての態度を取らない陽菜と同じ。

 

 あんな物の見方をする貴族なんて存在するのか?

 

 ……まだ結論を出すのは早い。

 だが彼女とその一派となら良い関係を築けるかもしれない。

 

 正文様の乗る馬車から降りる。

 周囲を見張っていた私の部下を無言で促し、馬車の傍を離れた。

 馬車を取り囲むように護衛している荀家の私兵たちは私達をずっと監視している。

 自分たちの主に粗相や危害を加える事がないかをずっと見ていたのだ。

 

 当然の事だが、しかしその視線には早く出ていけと言う意思が多分に含まれている。

 平民が我らが主に気安く話しかけるなとでも言いたいのだろう。

 

 私も本当なら私兵に伝言をお願いして速やかに任務に戻るつもりでいたのだが。

 しかし伝言をお願いした所、本人が面会したいと所望した為に彼らの不機嫌そうな視線に晒される事になったのだ。

 

 彼女自身と周りの人間でこうも意識の差があるのは良い事とは言えないだろう。

 しかしそこは荀家の問題で私が口出ししてよい物ではない。

 

 もしも本当に民と貴族に差など無いと考えているのなら、いずれ彼女らの一派がなんらかの対応をするはずだ。

 尤も簡単な話とは言えない上に長い時間がかかるだろうがな。

 

「公共様!」

「なんだ?」

 

 激の部隊からの早馬が私の前に現れた。

 馬を降り私に一礼すると報告に移る。

 

「賊の撃退を完了しました。それと程隊長により賊の一人を意識を残したまま捕縛。現在、こちらに移送中です」

「なるほど。まずは賊の迎撃御苦労。捕らえた一人についてはそのまま連れてこい。自害などされないように気をつけてくれ」

「はっ!」

 

 素早く馬に乗り直し、部隊の後方へと走り去る。

 そのなかなか様になった後ろ姿を見送りながら私は心中で呟いた。

 

 捕縛した奴が有益な情報を吐くかはわからんが、な。

 

 建業まであと二日。

 これ以上、厄介事が起こらない事を祈りつつ私は起こりうる厄介事の内容とその対処について考え始めた。

 

 

 

「桂花……貴方が無事で、本当に良かった!」

「お母様……立花お母様ぁ!!!」

 

 涙を流しながらお互いの身体を抱きしめる親子。

 その姿を優しい視線で見つめる主だった武官、文官。

 

 ここは玉座の間。

 荀昆の一行は無事に建業に到着。

 荀昆は領主である蘭雪様に挨拶に、私兵団については深冬と文官何人かで宿舎に連れて行った。

 私兵団の人間は荀昆の護衛として何人か同伴すると申し出たのだが、本人が拒否している。

 俺達を信頼しての行動なのか、それとも身内がいると出来ない話をするつもりなのかは定かではない。

 

 しかし今はただの母親として子供である桂花の無事を喜んでいた。

 俺としては余計なしがらみなどなしにこの光景を見ていたかったが、そうも言っていられない。

 そんな自分が少し嫌になるがそれも含めてこの道を選んだ以上、呑みこまねばならない弱音だろう。

 

 

 荀昆正文(じゅんこんせいぶん)は儚げな雰囲気を持つ女性だった。

 今まで俺が関わってきた異性ではいなかったタイプだろう。

 思慮深くはあっても活発な性格ばかりだからな、うちの連中は。

 

 服装もこの時代の貴族が着る物としては余計な装飾のない質素な物だ。

 その服の生地は初見でも見てとれる高級品だが、むやみやたらに着飾る趣味はないらしい。

 思えば初めて会った時に桂花が着ていた服もそうだった。

 背は成人女性としては低めだ。

 前世のメートル法で表現するならおよそ百五十センチと言った所だろう。

 桂花自身は今後、どうなるかわからないが母親がこうだと背は低くなりそうだ。

 しかしこの世界の女性で歴史に大なり小なり名を残す人間はなぜ美人ばかりなのだろう?

 荀昆もご多分に漏れず色白の肌と儚げな雰囲気とが相まってとても綺麗だ。

 髪の色は薄めの亜麻色で桂花にも受け継がれていると見える。

 

「皆様、私の娘を助けていただき今日まで守っていただいた事、荀家を代表して改めてお礼を言わせていただきます。本当にありがとうございました」

 

 抱きしめていた桂花を離し、この場に集まった全員に頭を下げる荀昆。

 直接貴族と関わった事のある古参の文官たちはあからさまに動揺し、武官たちとも自分たちが考える貴族の印象とまったく異なる対応をする彼女に困惑している。

 

「特に凌刀厘様。娘を助けていただいただけでなくお世話までしていただき本当にありがとうございます」

「私は私が最善だと思う行動を取ったに過ぎません」

「そのお蔭でこうして元気な姿の娘と再会する事が出来ました」

 

 儚げな雰囲気とは裏腹に案外、頑固な性格でもあるらしい。

 相手の立場を考えれば下手な謙遜などせず、素直に礼を受け取るが妥当か。

 

「感謝のお言葉、ありがたく頂戴いたします」

 

 頭を下げて言葉を受け取る。

 その事に彼女がその雰囲気に見合った微笑を浮かべたのがなんとなくわかった。

 

「ありがとう。そして孫文台様、建業を代表する方々。これから貴方がたを巻きこんでしまった荀家の内部抗争についてお話します」

 

 またしても動揺と困惑が場に広がる。

 

「誤解のないように先にお断りしておきますがこれは意図せぬ事とは言え貴方がたを巻きこんでしまった事への謝罪であり、それ以上の意図はありません。この情報をどのように扱うかは貴方がたに一任します」

「恐れながら申し上げます。荀家の内部事情を聞かせたくないと考えておられるのなら我々としても無理にお聞きするつもりはございません」

 

 口を挟んだのは美命だ。

 恐らく事情を聞いた事によって生じる不利益を考えての事だろう。

 既に巻き込まれている事とはいえ貴族の内部事情にこれ以上の深入りをするのは建業にとって手に余る可能性が高い。

 

「これは荀家にとって恥ずべき事柄。確かに家の者以外に話すのは本来、憚られる事ではあります。ですが所詮、恥ずべきと言う想いですらこちらの事情でしかありません。私どもの事柄に巻き込み、あまつさえ軍を動かして護衛までしてくださった貴方がたには知る権利があると考えております」

 

 やはり彼女は相当の頑固者らしい。

 そして誠実な人柄だ。

 しかし誠実であると言う事が俺達にとって良い事になるかは場合によりけりであり、今回はどちらかと言えば悪い事に当たる。

 

「そこまで私どもの事をお考えの上での決断なのですね?」

「はい」

「ならば私から言う事はもうございません。過ぎた事を申し上げた事、謝罪いたします」

 

 美命が引き下がる。

 内心では相当に苦悩している事だろう。

 彼女の話を聞いた結果、事態がどう転ぶかが読めないからだ。

 

 既に密書であらかたの内部事情を知っているとはいえ、公式の場で建業の主たる面々に説明すると言うのは訳が違う。

 

 他領がこの件をどう捉えるか。

 これが劇薬になり、今まで以上に苛烈に動く可能性が高い。

 貴族と建業の仲が深まったと考え、逆に鎮静剤にもなりえるがこの可能性は低いだろう。

 

 荀昆の誠実な人格とその行動が、建業の今後を左右するのだ。

 どうやらまだしばらくこの騒動は続くようである。

 

 

 

 そして荀家御一行が到着して三日。

 俺達は桂花との別れの時を迎えていた。

 

「またね、桂花」

「……ええ。雪蓮も、元気で」

 

 ここは俺の部屋だ。

 公的な場で真名を言いながら別れの挨拶をする訳にはいかない。

 形式ばった言葉で別れるのは子供たちにとって辛い事になるだろう。

 だから先に私的な場で周りの事など気にせずに別れられるよう俺と蘭雪様、美命に正文とで取り計らった。

 

「冥琳、貴方との知恵比べ。とても楽しかったわ」

「私もだ。またいつか勝負しよう」

 

 握手する冥琳嬢と桂花。

 部屋に集まった子供たちは例外なく目元が潤んでいる。

 何か切っ掛けがあれば決壊してしまうだろう事が予測出来るほどに。

 

「シャオ、貴方からもらった腕飾り、大切にするわ」

「うん。ぐす、桂花もげんきでね」

 

 小さな身体で涙をこらえる小蓮嬢の背中を撫でてやる。

 我慢できなくなった彼女は俺の足にひっつき自分の顔を押し付けて涙を押し殺した。

 

「蓮華……」

「桂花……」

 

 この中で最も桂花とぶつかり、そして仲が良かっただろう蓮華嬢。

 二人は向かい合うと見つめ合ったまま動かなかった。

 恐らく二人にしかわからないなんらかのやり取りが行われたいたんだろう。

 この二人は傍目から見て間違いなく親友と言ってよい仲になったのだから。

 

「貴方には負けないわ」

「私も同じ気持ちよ」

 

 お互いに目を離さない。

 剣呑なように思えて、しかし親しみのある口調。

 親友であり、好敵手。

 お互いを高め合える理想の関係。

 ほんの少し羨ましいと思う。

 

「元気で……」

「ええ、絶対にまた会いましょう」

 

 二人が手を握り合う姿の先に、俺は今よりも成長した彼女らの姿を幻視した。

 

 

 

「お別れ、なのですね」

「そうだな。長いようで短かった」

 

 子供たちは既に席を外している。

 荀家一行が建業を出るまでもう一刻もないだろう。

 

「お前が元気になって本当に良かったよ」

「皆の……駆狼様のお蔭です」

 

 俺の胸に飛び込むように抱きつく桂花。

 俺の首に小さな手を精一杯回して、最後になるかもしれない抱擁をする。

 

「わ、わだしは……ずっと貴方の事をわずればぜん」

 

 我慢していた涙を溢れさせる桂花の頭を優しく撫でる。

 

「ああ、俺もお前の事を決して忘れない。またいつか必ず会おう」

「ばい……ありがどうございばず」

 

 今まで共に過ごしてきた時間に比べれば遥かに短い時間。

 大切なこの時間を俺達は時間が許す限り噛み締め続けた。

 

 

 

「行ったな、桂花は」

「ああ……」

 

 荀家御一行が去って行った方角を城壁から眺めながら話す俺は祭と話す。

 

「やはり寂しいの。あの子は……こう言うのは恐れ多いが蓮華様や雪蓮様となんら変わらぬ子供じゃった」

「別に恐れ多いような事じゃない。子供は子供だ。取り巻く環境が違うだけだ」

 

 出来る事なら権謀術数の渦巻く貴族社会に桂花を戻したくはなかった。

 友と笑い、親と笑う世界で生きてほしかった。

 

「お前はまたそうして抱え込もうとするんじゃな」

「……やはりわかってしまうか」

 

 読まれる事は正直、予想していた。

 祭と陽菜は俺が心を通わせた二人なのだから。

 俺の頑なな心をこじ開け、弱さを曝け出させた二人なのだから。

 

 右腕を抱きしめられる。

 俺の内心の悲しみを取り除こうとするような温もりが感じられた。

 

「大丈夫じゃ、駆狼。あの子は儂達が考えるよりもずっと強い」

「それはわかってるつもりだ。それでもやり切れない思いがある」

 

 強い事が良い事かどうかはわからない。

 あの子は『荀彧』なのだ。

 歴史に名を刻んだ文官と同じ名を持つ子で、その名に恥じないだけの智の片鱗を既に見せ始めている。

 今後、俺の知識通りに歴史が進む保証はない。

 だがそれでもあれほどの力を持つ人間が埋もれると言う事はまず無いだろう。

 

「あの子がどのような形であれ戦いに出る日が来るかもしれないと思うと、自分の力の無さが恨めしくなる」

「……それは儂達全員が抱えている想いじゃよ」

「わかってはいるんだよ、俺も」

 

 こんなにも残酷な世界で、これからも人が死ぬ。

 そのうちの幾らかは俺達が殺すのだ。

 割り切らねばいつか潰れる。

 

 割り切ったつもりでいてもふと現実を見つめ直した時に、今まで割り切ってきた想いが重圧として蘇る。

 

 ああ、俺は弱い。

 身体と共に心も鍛えていると言うのに。

 まだまだ俺は未熟者だ。

 だから俺と共に在る温もりに逃げたくなる。

 

 祭の身体を抱き寄せる。

 決して離さないように、決して離れないように、強く。

 

「ありがとう、祭。傍にいてくれて」

「弱さも強さも、どんなお前だって受け入れる。前に言った通りの事を実行しておるだけじゃ。今更礼など不要じゃ」

 

 日が落ちるまで俺達、そのままお互いの温もりを感じ続けた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十二話

 桂花が建業を去ってから早い物でもう半年が経過した。

 

 当初は仲の良い友達がいなくなって沈んでいた子供たちだったが、蓮華嬢や雪蓮嬢を筆頭に気持ちを切り替え始めた。

 彼女らに引きずられるように冥琳嬢や小蓮嬢も立ち直り、大なり小なり落ち込んでいた俺の部隊の人間や慎、塁たちも彼女らに負けていられないと今まで以上に仕事に励み出し。

 一週間が経過する頃には仕事に関しては正常な機能を取り戻していた。

 

 個人的には蓮華嬢が最初に立ち直ったのが意外だった。

 精神的に大雑把な気質な孫家の中で、彼女はかなり繊細で悪く言えば神経質な性質だから。

 喧嘩するほど仲が良いを地で行っていた関係の桂花がいなくなった事でしばらくは引きずると思っていた。

 実際には三日と経たずに意識を切り替え、勉強に勤しむようになったが。

 

 桂花と蓮華嬢。

 お互いに負けないと誓った別れの言葉の重みを俺は甘く見ていたらしい。

 本当に、二人は良い意味での好敵手になった物だと思う。

 

 

 さて呉の状況だが、荀家が領地を離れた事によって侵入してくる工作員の数がかなり減った。

 一時期は一日に十数人ひっ捕らえる事もあったのだが今は多くても一、二人と言う所だ。

 

 しかしそれで気を緩めて良いと言う訳ではない。

 現在も警備体制については日々、話し合いが行われ強化されている。

 城内に入る間諜の類は確実に捕まえる必要があるのだから。

 

 城下の方は基本的に泳がせている。

 見られただけで害になるような情報は桂花たちが去った今となってはほとんどないのだから捕まえる意味はほとんどない。

 故に妙な動きを見せないかの監視に留めているのが現状だ。

 

 

 建業の守備については塁が張り切っている。

 あいつも桂花の境遇には思う所があったようで、今まで以上に真剣に警備に励んでいるようだ。

 激から聞いたが最近は酒を飲む量をかなり減らしているらしい。

 祭と一緒に水のように酒を飲んでいただけに悪い物でも食べたかとも思ったが、激曰く心配いらないと言う事らしい。

 

 まぁ塁と告白もしてないのに熟年夫婦のような雰囲気を発散する奴が言うのだから問題ないだろう。

 もしも手に負えなくなれば相談してくるはずだ。

 迷惑をかけるからなんて水臭い理由で相談するのを躊躇うような間柄でもない。

 

 

 子供たちは総じて自分のやりたい事に今まで以上に取り組むようになった。

 特に変化が大きかったのは冥琳嬢と蓮華嬢だろう。

 

 二人は今まで以上に勉強に取り組む傍らで雪蓮嬢と一緒に外で遊び(本人たち曰く鍛錬)を積極的に行うようになった。

 知識の収集だけでは駄目だと感じたと言う事だろう。

 無理をしないかだけが心配だが、そこは俺達大人が目をかけてやればいい。

 雪蓮嬢と小蓮嬢は相変わらず自由奔放な振舞いを続けている。

 とはいえ二人の心境にも変化はあったらしく、教師からは逃げる癖に独自に勉強はしているようだ。

 隠れてこそこそと蔵書室に入り、本を片手に唸っている姿を何度も見かけている。

 その真剣な表情を見た後だと、なぜ定められた教師との勉強を真面目にこなせないのか不思議に思う。

 

 

 荀家との交流は今も続いている。

 表向きには桂花を返した事によって疎遠になった事になっているが、正文らとは以前俺に書簡を届けに来た密偵を介して書簡でやり取りをしている。

 勿論、秘密裏のやり取りではあるが公的に蘭雪様に宛てられた物だ。

 しかしそれとは別に俺個人に宛てられた書簡が来る事もある。

 

 俺宛の書簡の内容は正文による桂花の近況報告だ。

 俺から教わった将棋を桂花が自分で作り荀昆に教えてたのだだとか、誘拐される前は室内にいる事が多かった桂花が外で運動をするようになっただとか、本当に個人的な内容の書簡。

 

 俺宛によこす意図がいまいち読めない。

 なにせ俺が目を通した後は蘭雪様らや子供たちにもこの私信を見せているのだから。

 全員に情報が行き渡るならばわざわざ俺に宛てずとも蘭雪様に渡せば済むだろう。

 

 彼女の行動には幾つか解せない部分がある。

 俺のような新参の武官と文通もどきをしてあちらが得る所があるとは思えないのだ。

 

 桂花の事を考えると気は進まないが今後も荀家の動向には注意が必要だろう。

 

 

 

 例の密偵についてだが俺達と荀家の橋渡し役になったので正式に名を聞いている。

 

 彼の名は周洪勇平(しゅうこうゆうへい)。

 一つ所に留まる事の無い流浪の民(五胡とは異なるらしい)出身。

 しかし妻が身籠った事を切っ掛けに一族と袂を別ち、以降は定住生活をしているのだそうだ。

 他の一族は海を渡り、大陸の外に旅立って以来、連絡も取っていないらしい。

 雇い主を変えながら日銭を稼ぐ生活をしており、今は荀爽に雇われている。

 金払いが良い事もあり荀爽、荀昆らとはかれこれ四年ほどの付き合いがあると言う。

 優れた隠行は一族に伝わる物で、周洪はいわゆる免許皆伝の腕前らしい。

 

 比較対象がいないので彼の流派については聞いた限りの事しかわからないが卓越した腕を持っている事は事実だ。

 

 ちなみにこのプロフィールについてはこの役割を荀爽に依頼され、彼が挨拶に現れた時に語られた。

 ご丁寧な事に主要の面子が集まる朝議の席に音もなく紛れ込むと言うパフォーマンス付きで、だ。

 

 俺は一度、接触して周洪が放つ独特の気配を覚えていたから何食わぬ顔で紛れ込んでいるこの男に気付く事が出来たが。

 そうでなければ誰も気付けなかったのではないかと思えるほどに、彼の隠行は優れていた。

 

 彼らの一族が敵でなくて良かったと心の底から思う。

 昼間ですら見失いかねない技を持って、夜闇に紛れられたらと思うとぞっとする。

 若干二名は勘で気付きそうだが、一般人にとってはとてつもない脅威だ。

 

 しかし逆に敵対していない状態でこの男のような存在を知る事が出来たのは僥倖でもある。

 

 人間とは基本的に知らない事柄に対処する事が出来ない生き物だ。

 どれほど現実的な事態を想定していても、実際にその状況に陥らなければ本当の意味で危機感を覚える事は出来ない。

 その場で対応するにしても取りこぼしなく完璧に対応できる人間など滅多にいないだろう。

 

 俺や陽菜とて過去の経験から色々と先回りをした発言が出来るが、前世で経験していない事を想定する事は難しい。

 現に俺は俺達が感知できない程、隠密に長けた存在を考慮していながら勇平の存在に驚き、その存在に焦りを覚えている。

 

 予め想定していたはずの俺ですらそれほど驚愕したのだ。

 他の皆、取り分け自分の武に自信を持っていた者たちにとっては凄まじい衝撃だったに違いない。

 良くも悪くも危機感を持ったはずだ。

 

 現に美命や慎たちはこの男の存在を危険視している。

 いつ寝首をかかれるかわからない上に寝首をかく事が可能な存在を認識したのだからそれも当然の事だろう。

 勇平が雇われ者である事も不信感を煽っている。

 俺達の立場から見ればいつどう転ぶかわからないこの男の存在は不安要素でしかないのだ。

 

 しかしそれでも彼に対して暗殺などの強硬的な対策は取れない。

 何らかの行動を起こせばそれはそのまま彼への雇い主である荀家に対する敵対行為と取られかねないからだ。

 故に今、俺達に出来る事は警戒と監視しかない。

 

 彼には城に入る前に街中で俺や祭などの部隊長に声をかけてもらい、入城時は兵士の誰かしらが同伴するように段取りを取り付けた。

 建前は荀家に仕えている者(雇われているだけだが、重宝されていると言う意味では変わりは無い)を丁重に迎え入れる為だが、実質的には勇平が妙な真似をしないかの監視だ。

 

 彼自身、己が信用されていない事は理解しているのだろう。

 感情を見せない無機質な表情からもそれは容易く読み取れる。

 だから彼は無駄な諍いを避けるように所用が終わればすぐに建業を去っていくのだ。

 

 朝議に紛れ込むなんて手の込んだ事をしなければこちらの警戒はここまで厳しくはならなかっただろう。

 自らの危険性をわざわざ教えるような真似をした理由が俺にはわからなかった。

 

 自分の能力の高さを他者に誇示して悦に浸るような単純な性格とは思えない。

 俺達を信用はしても信頼はしないと言う意思表示か、はたまたいつでも俺達を殺せると言う遠回しな恫喝か。

 あるいはその両方か、もっと別の意味も含まれているのか。

 正直な所、推測すればきりが無い。

 

 書簡を届けに来た際に何度となく聞いてみた物の、のらりくらりとはぐらかされてばかりいる。

 まぁそう易々としゃべるとも思ってはいない。

 たとえヤツから情報を聞きだしたとしてもそれが本当の事なのか俺たちが疑うのは目に見えているという事もある。

 

 そんな一癖も二癖もある人物を介した荀家との接点。

 呉と言う領地が抱える数ある問題の中で、かなり厄介な部類の物だろう。

 とはいえ現状、どうしようもない事でもある。

 精々、あの男と話をして少しでも友好を深めていくしか俺に出来る事はない。

 疑心暗鬼で常に緊張しているのはよろしくないしな。

 

 

 そして最も厄介な問題が一つ。

 最近、荊州の襄陽(じょうよう)で妙な動きがあるらしい。

 

 甘寧から聞いていた劉表という領主。

 この男が自分の領地で動きを見せているとの事だ。

 なんでも他領との境目に近い村に他とは比較にならない程の重税を課しているらしい。

 

 劉表がただの暴君であるのならば、この行為も己の欲望を満たす為の行動と取るのだが。

 美命や俺たちはそう単純には考えていない。

 軍師として、武官としてあらゆる事態を俯瞰的に見るが故の判断だ。

 俺の場合は前世での前知識からの違和感も多分に入っての判断だが。

 

 

 俺の知識の中では劉表は決して暴君などではない。

 黄巾の乱が終息した折、荊州に赴き不穏分子を鎮圧。

 あっという間に荊州の北半分を支配下に置き、その政治手腕を存分に振るった。

 戦続きであった群雄割拠のこの頃に民が大量に流れ込んだ事で急速に発展。

 戦時中の中で学問を奨励し、後に彼の領地から名のある学者が何名も輩出されている。

 劉備が頼ってきた事で曹操と真っ向から事を構えるようになるが、何度となくその侵攻を跳ね返している。

 だが曹操が本格的に荊州侵攻を開始する頃に病死。

 三国に至るまでの群雄割拠の時代で戦について消極的だった事と後継者争いの失敗(これも大勢が次男を跡継ぎに認めていた状況で劉備が長男を盛り立てた為と言われている)により決断力に欠けると言われているが戦時中さえでなければ彼の堅実な政治はもっと評価されていたはずだ。

 

 

 そもそもの話。

 重税を課した所で碌に管理もされず、ぎりぎりの生活をしていた連中が支払える訳がない。

 それがわからない程度の愚か者ならば、そもそも荊州の中心になど昇り詰める事は出来ないはずだ。

 

 事実、劉表は狡猾で効率の良い手管を持って領地の運営を行っている。

 人心を排した政策の為、民の反感は大きいが力を着実に付ける政策を行っているのだ。

 

 甘寧が言っていた暴君としての傲慢な態度とは裏腹に、状況を冷徹に見定め行動する政治手腕を持つ男。

 そんな奴が自分に益のない無意味な行動を取るはずがない。

 

 現状、分かっているのは課せられたありえない税に我慢の限界を迎えた領民が他領への逃亡を行っている事。

 逃亡場所は基本的に隣り合う領地だが北は全ては劉表の息がかかった土地で武陵などの南側は治安が悪い。

 それを理解している領民たちは荊州の外、さらに言うならば東にある揚州にまで流れてきていた。

 さすがに揚州の中でもさらに端にある呉にまで来る者はなかなかいないようだが。

 

 そして何故か逃げていく領民に対して追っ手を差し向ける、領境に検問を敷くなどの対応が一切行われていない。

 領民がいなければ税を取る事は出来ない。

 だと言うのに大切な労働力を自分から手放していると言う。

 

 なんらかの意味があるのだろうが、その意味が読み取れない。

 はっきり言って俺には不気味な行動としか言えない。

 そして文官たちも調査を行っているが今の所、明確な答えは出ていない。

 

 荊州のこの動きが嵐の前の静けさでなければいいのだが。

 

 

 襄陽以外では今の所、大きな動きは見られない。

 荀家の騒動の時には偽装された軍勢を送り込んできた廣陵も今はおとなしい物だ。

 どうせまた何か企んでいるのだろうが。

 

 

 俺の部隊は次の遠征に向け、日々の訓練を重ねている。

 前の遠征の時に除隊を申請してきた十名は文若が去った後に軍を辞めた。

 自分の村に帰る者、この建業で軍関係以外の仕事に就く者。

 その進路も含めて可能な限り、相談に乗り、援助をしたつもりだ。

 これからの彼らの人生が少しでも幸せになればいいと思う。

 

 残った百九十名の隊員については日々、高い士気で訓練に臨んでいる。

 初めての任務を不本意な形ではあったが完遂した事による自信が彼らを良い意味で成長させてくれた。

 特に公苗改め麟(りん)や元代改め弧円(こえん)、蒋欽改め絃慈(げんじ)や蒋一改め克己(かつみ)などの俺の隊の中で特に若い連中の力がどんどん伸びていくのは見ていて面白い。

 

 

 今は俺自身の鍛錬も兼ねて隊員全員との組手の真っ最中だ。

 

「痛たたたたっ!!!! 隊長、痛いって!?」

「さっさと振りほどけ。振りほどけないならしばらくこのままだ」

 

 今日の最後の相手である弧円に腕拉十字固め(うでひしぎじゅうじがため)を決めて淡々と告げる。

 開始数秒、木剣を空振りして隙だらけになった彼女に飛びつき、うつ伏せに倒す過程で腕を取りこの体制になった。

 右腕に対して決めているのでこちら側の腕には力がまったく入らない状態だろう。

 無理に動かそうとすれば痛みが増すだけだ。

 左腕も精々、俺の足までしか届かない。

 刃物を携帯していれば話は変わるだろうが、唯一の武器である木剣を手放した状態では逆転の目はほとんどない。

 

 麟も関節技で捻ってやったが、こういう絡め技に対してこの世界の人間は初見だと大抵、力技で対抗する。

 決められた部位に力を入れて引き剥がそうとするのだ。

 しかし関節技を相手にそんな事をすれば状況は悪化するだけ。

 関節技は腕力の有無を無視して相手を無力化する最たる技の一つなのだから。

 この世界の人間は知らないだろうが。

 初見殺しとはよく言った物だ。

 

「んん~~~~!!! くっそ、なんでほどけないんだ!? 腕力ならあたしの方が上のはずなのに!!」

「力技でなんとかしようとしている限り、この技からは逃げられんぞ」

「うっがぁ~~~~~!!! くっそおおおお~~~~、あいたたたたた!?」

 

 決めている方の腕に込める力を上げる。

 じわじわと増していく痛みに両足をばたつかせるが振りほどく事が出来ない弧円。

 ふむ、これ以上は無理か。

 

「今日はここまで!! 各自、己が負けた原因について考え一刻以内に俺に報告しろ! 報告を終えた者から上がってよし!!」

 

 関節技を外して立ち上がり滝のように流している汗を腰につけていた布で拭う。

 一対一を二百回も行えば疲労は溜まるし、汗も掻く。

 前世なら四十人持てば良かったくらいの体力が、今は二百人組み手をこなしても体力的な余裕があった。

 やはりこの身体の恩恵は凄まじいと実感する。

 

「「「「「はい!!」」」」」」

 

 倒れ込みながらも返事だけは威勢が良い部下たちに俺は思わず苦笑いしながらその場を後にする。

 ぶっ通しの組手で流れた汗は布一枚でふき取れる物ではなかったので井戸で軽く汗を流す為だ。

 

 

 俺は人に何かを教える事が好きだ。

 前世では道場で、今世では軍隊で。

 教え方や教える内容に違いはあるが他者の成長を促すと言う意味では本質は変わらない。

 教え子たちが成長し、壁に当たり、その壁を乗り越えてまた成長する。

 その様をすぐ傍で実感出来ると言うのは、とても幸せな事だ。

 

「……私塾でも開いてみるか」

 

 一般の文字普及率を上げられれば出来る仕事の幅は広がる。

 即効性は無いが長期的な目で見れば、悪くはない。

 とはいえ武官として仕事をしている限り、俺自身が授業をすると言う事は出来そうにないが。

 しかし俺自身が授業をするかどうかは別として献策してみる価値はある。

 

「道場は……老後に取っておくか」

 

 この世界に老後なんて概念があるかはわからないが……ああ、隠居ならあるか。

 

「まだまだ先の話だが……そもそも俺は老後を迎えるまで生きていられるのか?」

 

 戦は時が経てば経つほどに厳しく辛い物になっていく。

 その中で俺を含めた部隊の者たち全員が生き延びる確率は限りなく零に近いのだ。

 

 

 到着した中庭の井戸から水を汲む。

 汲み上げた水に布を入れ、絞った布で顔と上半身を拭く。

 冷たい布を心地よく感じながら思う。

 

「何もかもを背負って生きて何もかもを背負って死ぬ。口にすれば前世と同じだが……預かっている人数は桁違いだな」

 

 そんな事は無いと言うのに肩が重くなった気がした。

 だがこの重みから逃げる事は出来ない。

 

「ふぅ~~~」

 

 最後に頭から水をかぶる。

 温くなった水だが、沈み込んだ思考を中断するには充分だ。

 

「……来たか」

 

 どどどどと足音が幾つか聞こえてくる。

 俺への報告の為に部下が来た音だ。

 

 さて今日は誰が最初か。

 

「たいちょ~~~」

「隊長ーーー!!!」

 

 絃慈と麟の声がする。

 だが足音は二人以上いる事から察するに、走る事に集中しているのが他にも何人かいるな。

 

 勉強熱心なようで何より。

 それでこそしごき甲斐があると言う物だ。

 

「ああ、俺はここだ!」

 

 俺の声を聞きつけてさらに近づいてくる足音を聞きながら。

 

「生き延びるぞ、全員で」

 

 現実的ではないがしかし心の底から想う目標を俺は決意と共に呟いた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十三話

「ここがあの双虎が治めてる建業、か。なるほど、話には聞いてたがすげぇ活気だ」

「すごい人ですね。父」

「そうだな。逸れるかもしれねぇからしっかり手握っておけよ。思春?」

「はい!」

 

 愛娘の手を握り、城下に入る。

 

 しかしすげぇな。

 城下の出入り口にはご丁寧に案内板があるから初めて来た人間にもわかりやすい。

 市場やら住居やらがきっちり区画分けされてるから行きたい所にすぐ行ける。

 歩いてみりゃ一定の間隔で兵士の詰所っぽいのがあって、民の安全を考えてるってのがわかる。

 詰めてる兵士たちも別に周りを威圧してるわけじゃなくて自然体だから、民が気圧されているって事も見た限りじゃ無さそうだ。

 

 お、道を聞かれて普通に応えてやがる。

 随分と親しみやすい兵士だな。

 

 物盗りなんて迂闊な真似はそうそう出来ねぇな、こりゃ。

 そんな事しようもんならよほどの腕利きでもなけりゃ四半刻と待たずにとっ捕まんだろ。

 情報だけでしか知らなかった治安の良さにもこれなら納得出来るってもんだ。

 

 俺がいた頃の荊州、劉表の所も物盗りは無かった。

 四六時中、俺達兵士が街を睥睨してたからだが、こっちほど賑やかでも穏やかでもなかったけどな。

 挙句、太守が脅迫紛いな事をしてやがったんだからある意味、物盗りが起こるよりもひでぇ状況だった。

 まぁ、そんな所とここを比べるってのはここの連中に失礼か。

 

 

 

「っと刀厘との待ち合わせの店は……」

 

 俺が思春を連れて建業に来たのは刀厘に頼み事をしにきたからだ。

 あいつを通して建業の双虎と繋がりを持った俺達、錦帆賊は定期的に情報の交換を行っている。

 だから荀家のお嬢ちゃんを保護した事から始まった建業のいざこざについてもある程度は知っていた。

 

 本当の所、刀厘への頼み事はもっと前から考えていた事だったんだが。

 流石に貴族がいる所に賊と呼ばれてる俺達が訪ねるってのは外聞が良くねぇし、建業の方がいざこざで慌ただしかったから時期を見る事にしなきゃならなくなった。

 そこまで急いでるわけでもなかったってのもある。

 

「日高……ここか?」

「らーめんのお店ですね、父」

「あいつが常連になってる店らしいな。ついでに腹ごしらえも済ませちまおう」

「……はい」

 

 どうも思春は刀厘と会うのに緊張してるみたいだな。

 

 思春はあいつの事を尊敬している。

 親の俺が面白くないなんて思っちまうくらいに。

 少しの間とはいえ、結構な人見知りが災いして他人に対して無愛想に振舞う思春が懐いて、しかも手解きを受けた相手だから尊敬するってのはわかる話なんだけどなぁ。

 

 俺より年下の相手に敬愛とか親愛で負けるって親の面目丸潰れじゃねぇか。

 あ~、ちくしょう。

 

「「「「いらっしゃいませ!!」」」」

 

 威勢の良い店員の野太い声が俺達を出迎える。

 子供が驚きそうな声のでかさだったが、思春は錦帆賊の仲間たちとのやり取りでこういうのには慣れてるからな。

 特に怯えたりはしねぇ。

 ただ人見知りのせいでいつにもまして表情が動かなくなっちまうから、とにかく変な子供だって見えちまう。

 

「いいねぇ、気合いの入った声じゃねぇか」

「うちの売りの一つっすからね。気持ちよく飯を食べてもらうにはまず気持ち良い挨拶からっす。あ、こっちの二人席にどうぞ」

「あ、待ち合わせしてんだ。出来れば四人くらい座れる席にしてくれるか?」

「わかりやした。奥に四人席が空いてますんでそっちに案内しますね」

 

 若くてはきはきした店員は俺の要望に嫌な顔一つせずに対応してくれる。

 

 やっぱいいねぇ。

 手慣れてるって言うかそつがねぇって言うか、こんな風に客の要望に流れるように応えるってのは良い店の基本だ。

 これが出来ない所は、味が良くても常連は付きにくい。

 ま、単純に味だけで勝負してるような所は違うんだろうけどな。

 俺はこういう店の方が好きだ。

 

「じゃこちら菜譜になります。注文決まったら近くの店員に声をかけてください」

「おう、ありがとよ」

「いえいえ、ごゆっくり~」

 

 水を置いて採譜を手渡すと店員は他の客から注文を受ける為に足早に去っていった。

 しっかし今の奴、なんか動きに無駄がねぇって言うか……ただの店員じゃねぇ気がするな。

 

「まぁ気にする事はねぇか。思春、決まったか?」

 

 隣り合って座り、菜譜を眺めながら娘に聞く。

 ほう、叉焼やらメンマやらは追加料金で自由に付け足せるのか。

 なら汁の味だけ気を付けとけば量で物足りなくなるって事はなさそうだな。

 

「……ん、みそらーめんにします」

 

 じっと菜譜を吟味して自分が食べる料理を決める思春。

 真面目な顔だがどこか微笑ましく感じるのはやっぱ俺が親馬鹿だからかね?

 

「じゃあ俺はとんこつにしておくか」

 

 同じ味じゃつまらないしな。

 味噌の汁がどんなのかは気になるから少し貰うか。

 

「おーい、注文頼む!」

「少しお待ちくださいっす」

 

 さっきとは別の店員に注文を済ませる。

 注文が来るまでの間、どこかそわそわした様子の思春とこの街の印象について話し合った。

 

 思春が生まれた時はもう俺達は錦帆賊だった。

 賊として荒々しく生きていた俺達の中にいる事が当たり前だった思春は、生まれた時から今までほとんどを生まれた時から知っている人間としか過ごしていない。

 こいつにとっての世界ってのはちっぽけな船の上がほとんどで、見知った人間しかいない狭い場所しか無い。

 

 だから初めて会う人間の前だと怖がるか警戒するかして無愛想になっちまう。

 刀厘達が来た時だって俺が引っ張って紹介しなかったら、こいつはあいつらがいなくなるまでずっと船倉に引き篭もってたかもしれねぇ。

 

 俺は……俺達はいつまでも一緒にいてやれるわけじゃない。

 寿命か、それとも戦か、あるいは病かもしれない。

 だが必ず、いつか別れる時が来る。

 

 いざその時が来た時、今のままのこいつだと後の事が心配で仕方ない。

 だから俺は……今のうちにこの不器用な愛娘にしてやれる事をしておきたいんだ。

 

「父? どうかしましたか?」

「んっ!?」

 

 思春に声をかけられて、俺ははっとした。

 どうやらつい物思いに耽っちまってぼうっとしていたらしい。

 不思議そうな顔をして俺を見つめていた思春と目が合って慌てて誤魔化す。

 

「あ、ああ……いやあいつはまだ来ねぇのかと思ってな」

「……約束はお昼時ですからまだ早いですし。……それにお仕事が忙しいのかもしれません」

「そ、そうだな。まぁ気長に待つか」

 

 なんとか誤魔化せた事に内心でほっとしながら考え事を再開する。

 

 想(おもえ)と俺の大切な一人娘。

 いずれは武で俺を越えていくだろう先が楽しみな未熟者。

 

 そう、未熟者だ。

 俺に勝てないのも勿論そうだが、それ以上に思春はあらゆる面で経験が足りない。

 その中には他人と関わる事への経験も入っている。

 いや最も足りてないと言って良い。

 

 他人と関わる事を忌避する傾向にある思春はこのままだと『未熟』なまま年を取ってしまう。

 きっとそれは思春にとって良くない事だ。

 

 人ってのは案外、面倒なもんで一人で生きていく事なんて出来ない。

 劉表の所から逃げ出してから俺は二年を一人で過ごしてきたが、もしもあのまま一人だったら本当の意味で賊に成り下がり、獣とそう変わらない所にまで身を堕としていたと思う。

 一人でいるって事はそれだけで人を追い詰めていくから。

 

 今の思春は下手をすれば、そんな風になりかねない。

 親としてそんな道に進まないようにする義務が俺にはある。

 

「お待たせしました、ご注文の品です!」

 

 一番、最初に話をした身のこなしが妙に鋭い店員の声に意識を向ける。

 卓に置かれる立ち上る湯気と良い匂いに思わず頬が緩んだ。

 思春を見てみれば、自分の眼前に置かれた拉麺に目を輝かせている。

 

「おお、美味そうだな。それじゃ食うか」

「はい!」

 

 言葉少なに同意を示して箸を握る思春に苦笑いしながら俺も自分の拉麺に箸を入れた。

 刀厘が来たのは俺達が食事を終わらせた頃だった。

 

 さてあいつは俺の頼みを聞いてくれるだろうか?

 

 

 

「すまない、遅くなった」

「少しの遅れくらい問題ねぇよ。先に腹ごしらえはさせてもらったがな」

 

 軽い謝罪を受け取った興覇は目で座るように促してくれる。

 俺は軽く頷き、彼らと対面する席に座った。

 

「久しぶりだな。色々と騒がしかったみたいだがどうだ、調子は?」

「ある程度、落ち着きはしたが相変わらず忙しい日々だよ。そちらはどうだ?」

「ここ一年ばかりで江賊や海賊は数が減ってきてるみたいでな。少なくともでかい船同士の戦闘ってのはねぇよ。今の所、俺達の敵は長江って名前のでかい自然だけだ。つってもそれは船を出してる時はいつもの事だがな」

「そいつは重畳」

 

 弾む会話に自然と気分が高揚する。

 錦帆賊と関わりを持ったあの時にそれなりの信頼関係を築いたお蔭だろう。

 俺は幼馴染たちとはまた違った気安さを興覇に感じていた。

 

「……」

 

 何故かはわからないが緊張で固まったまま俺を見つめている甘嬢。

 話しかけてほしいと思っているのだろうと考え、声をかける事にした。

 

「甘嬢も元気だったか?」

「あ、はい! 父の元、船を動かすためのちしきと武をまなんでいます!」

 

 やはり緊張しているらしく、少し声が上擦っている。

 

「そうか、頑張っているんだな。しかし身体には気をつけるんだぞ?」

「はい、ありがとうございます……」

 

 先ほどは元気の良かった声が、今度は尻すぼみの小さな物になってしまった。

 顔を俯かせて手を膝の上でもじもじと遊ばせている。

 これは、恥ずかしがっているのだろうか?

 

 彼女の父親に視線で問いかけると、嫉妬なのか羨望なのかよくわからない視線が返ってきた。

 駄目だ、こいつは役に立たん。

 

「……少し、背が伸びたか? この年の子供の成長はやはり早いな」

 

 頭の中に蓮華嬢や冥琳嬢と会話をしている時の事を思い浮かべ、参考にしながら会話する。

 甘嬢は彼女らと一緒で少し繊細な所があるから会話も慎重に進めないといけない。

 子供が気分良く話が出来るように配慮するのは大人の仕事だ。

 

「あ、あの……その」

「ん、どうした?」

 

 甘嬢と俺が談笑している横で興覇が怒りを我慢した顔で拳を握りしめているが無視だ。

 俺との会話に集中している様子の甘嬢は気付いていないだろう。

 

 ここまで俺の事を慕ってくれているとやはり嬉しい物だ。

 横の親馬鹿が鬱陶しいが、慕われる事への対価があれなら私的にはどうって事はない。

 

「またお時間がある時にしゅうれんを見てもらえませんか?」

「俺が、か?」

 

 問い返しつつ親馬鹿に視線で問う。

 彼らがどれだけこの街に滞在するかわからない以上、仕事の都合も考えると即答は出来ないからだ。

 

「……刀厘。こいつの事も含めてお前に頼みたい事がある」

「今の話も無関係じゃないのか?」

「ああ、まあな。とりあえず静かに話せる所はないか。ここはちょっと騒がし過ぎる」

 

 誰が聞いてるかわからない所で話せる事じゃないと言う事か。

 ならば。

 

「わかった。ああ、すまないが会計を頼む!」

「っと凌隊長じゃないっすか。いつもご贔屓にしてもらってありがとうございます。どうぞ、お釣りです」

 

 金を受け取り、丁寧に頭を下げる店員にお礼を言って俺達は店を後にした。

 後ろからかけられた「「「ありがとうございました!」」」と言う威勢の良い声を聞きながら。

 

 

 

 俺が二人を案内したのは建業で住居をまとめている区画。

 そこの城に程近い場所にある一軒家。

 

 ここは俺、陽菜、祭の家だ。

 俺達が遠征を行っている間に蘭雪様の指示の元に造られた物である。

 

 なんでも俺達への祝いなのだそうだ。

 まさか家を祝いの品として出してくるとは思わなかった。

 豪快と言うか何と言うか。

 

 とはいえ実の所、この家はまだあまり使っていない。

 遠征から帰ってからはずっと桂花にかかりきりで城の部屋で寝泊まりをしていたからだ。

 あとは状況が安定しない為に誰も家の事を俺には伝えなかったから家の存在自体、俺は知らなかったな。

 結局、そういう事情で俺が家の事を知ったのは桂花が帰ってからの事だ。

 だからまだここはそれほど使われていない。

 

「静かな場所と言ったが、まさかお前の家に案内されるとは思わなかったな」

「客人を持て成すのなら自宅だろう?」

「そりゃあ、そうだが……俺はてっきり兵士たちの詰所にでも行くもんかと思ってたぜ」

「お前は今、錦帆賊としてではなく俺の友人として建業に来ているんだ。ただの友人を何故、詰所に連れていく必要がある?」

「あ~、いや……その通りだな。ありがとよ」

 

 恥ずかしそうに、そして嬉しそうに礼を言う甘寧に俺は気にするなと首を横に振った。

 そわそわしながら部屋のあちこちに視線を移している甘卓に視線を向ける。

 

「おおい、思春。あんまりきょろきょろするなよ。気になるのはわかるけどな」

「は!? 父、私は何を……」

 

 父親に指摘されるまで自分が何をしていたかもわからない程に落ち着きが無くなっているらしい。

 さすがにここまで挙動不審になると家に招いたのは失敗だったかと思ってしまうな。

 

「無自覚かよ。家の中、すっげぇ見回してたぞ」

「す、すみません。父、刀厘さま。な、なんだか落ち着かなくてつい周りを見てしまいました……」

「おいおい、そんな落ち込むなって。こいつも俺も気にしてないから。な、刀厘!」

「ああ、気にしてくていい。見られて困るような物を置いているわけでもないしな」

 

 しゅんとする甘嬢を二人がかりで慰める。

 

「いつも船の中が家だったからな。こういう一軒家は外から眺める事はあっても中に入るって事は無かったんだ。仕方ねぇから気にすんな!」

 

 掌で軽く彼女の頭を叩きくしゃくしゃと髪をかき交ぜるように撫でる興覇。

 頭を撫でられて沈んだ気分が払拭されたのか、はにかみながら頷く甘卓。

 

 良い家族だ。

 見ていて微笑ましく思う。

 

 

 

 二人を見ていると前世の家族を思い出す。

 

 息子はやんちゃに育って、近所の子供たちを率先して遊びに誘っていた。

 

 俺から学んだ精心流でいじめっこから年下の子を助けて。

 そんな事を繰り返している内に自然と子供たちの輪の中心にいるようになった。

 

 力加減を間違えてやり過ぎる事も少なくなかった。

 その時は親として叱り、相手には頭を下げて、もちろん息子にも頭を下げさせた。

 

 息子から疑問や不満の声が上がる事も少なくなかった。

 

 「なんで俺が謝るんだ」と「悪いのはあいつらなのに」と。

 

 そして俺は高校に入る頃に息子に理由を話した。

 

 正しかろうと間違っていようと力を振るえば傷つく者がいる。

 正しいから力を振るって良いわけじゃない。

 間違っているから力を振るって良いわけじゃない。

 

 力を使うと言う事は、その結果に責任を持つと言う事だ。

 どういう結果になろうともそれが結果ならば受け止めなければならない。

 正しいと思った結果、人から罵声を飛ばされる事も少なくないのだから。

 

 

 兵役についていた俺などは正にそう。

 国の正義を信じて戦った結果、あの時攻め入っていた国から向けられるのは憎悪、侮蔑、嫌悪の感情だった。

 当然の事だろう。

 理由があろうとなかろうと俺はこの手でかの国の人間を殺めたのだから。

 もしかしたら俺が死んだあの時も、俺を恨みながら生きている人間がいたかもしれない。

 

 勿論、悪い結果ばかりがあったわけではない。

 

 俺と同じ部隊に配属された人間は、常に前線で戦っていた俺に感謝していた。

 死がすぐ傍にあるそこで、仲間たちを俯瞰して指示を出す事が出来た俺は彼らから見れば頼もしかったんだろう。

 何人も死んでいった、けれど何人も生き延びた。

 

 生き延びて共に終戦を迎えられた仲間たちは生活が落ち着いた頃、全員で俺を訪ねてきた。

 皆が今の生活に馴染んでいた俺の姿を喜び、陽菜との事をからかいながら祝福し、今後の生活に想いを馳せていた。

 

 俺が戦う事で守れた物も確かに在ったのだ。

 

 自分の苦い経験を話すのは少なからず苦痛が伴う。

 けれど息子が間違えない為にも必要な事だった。

 

 戦争など話でしか知らない息子は、恐らく話した事の半分も理解できていなかっただろう。

 それでも、その後からすぐに暴力を振るう事は無くなった。

 結果的に暴力に走る事はあっても、謝る事に不満を漏らす事はなくなった。

 

 きっと自分なりの答えを見つけたんだろう。

 

 

「おい、どうした刀厘?」

「刀厘さま、どうしたのですか?」

 

 ……物思いに耽り過ぎたみたいだな。

 心配そうに似た者親子が俺を見つめている姿を見て口元を緩みながら努めて明るく返答した。

 

「少し考え事をしていただけだ」

「それにしりゃえらく遠い所を見てたみたいだが……」

「お前と甘嬢のような家族になりたいと思っていただけだよ」

 

 納得いかないと言う顔をしている興覇に苦笑いをしながらからかってやる。

 

「ばっ!? てめぇ、何恥ずかしい事を言ってやがる!?」

「何が恥ずかしいんだ? 仲が良い親子で羨ましいぞ、俺は」

 

 顔を真っ赤にして怒鳴る興覇をさらに煽ってやる。

 鈴の甘寧なんて呼ばれる江賊の代名詞が顔を赤くして照れ隠しに必死になる様子はとても面白く感じられた。

 

「こ、このやろ」

「父……どうして仲が良いとほめてもらったのに怒っているのですか?」

「う、いや思春、これは、な。あの……よ」

 

 首をかしげながら愛娘に聞かれてなんと答えて良いかわからず視線を右往左往させながら呻く父親。

 

「甘嬢。興覇は照れているだけだ。必要以上に大声を出してるのは恥ずかしさを隠したいだけだ。だから怒っているわけじゃない」

「あ、そうなのですね。良かったです」

「ちなみにこういうのを照れ隠しと言うんだ。覚えておくといい」

「はい! 刀厘さま!」

「人を出汁に娘の教育してくれてんじゃねぇ!? 決着つけてやっから、表ぇ出ろ刀厘ゴルァア!!」

 

 剣に手をかけながら凄む大人気ない興覇だが、顔が真っ赤なままでは威圧にはならない。

 

「さて甘嬢も適度に緊張がほぐれたようだ。興覇、そろそろ本題に入ろう」

「お、お前、人をあんだけおちょくっておいて何事もなく進めやがるのかよ……」

 

 ぷるぷると震えながら声を絞り出す興覇。

 しかしすぐに諦めたようにため息をつくと座り直した。

 

「わかった。要件ってのは今後の錦帆賊についてだ」

「……どういう事だ?」

 

 興覇の話をまとめるとこうなる。

 

 江賊による略奪行為が少なくなってきた事を好機と見て、最大の勢力である錦帆賊を討伐しようと言う動きが近隣諸侯に出始めたと言う。

 このままではそう遠くないうちに今までで最大規模の討伐軍が派遣される事になるらしい。

 

 その情報を知った興覇は多勢に無勢になる状況を理解し、その前に錦帆賊は解散する事を決定。

 しかし国を相手に理不尽を強いられて集まった錦帆賊の面々は戦う事を諦める事だけは出来なかった。

 故に大きな騒ぎになる前に建業に投降、いや帰順する事にしたのだと言う。

 

「なるほど。荀家関係の騒ぎの後に急にここへのちょっかいが少なくなったのはそれも関係あると見るべきだな」

「ああ、こっちにも影響はあったのか。聞いた限りじゃ長江を領地に置いてある所は全部、軍を出すらしいぜ」

「……それだけの大軍勢か。確かにそれだけの戦力差では錦帆賊がどれほど勇猛でも厳しいな」

「悔しい話だけどな。俺が我を忘れて無茶やらかしてあいつらを無駄死にさせるわけにはいかねぇ」

 

 軽く言っているがその眼には悔しさと怒りが混ざり合って危険な輝きを発している。

 本当にぎりぎりの所で、こいつは自分の下に付いている仲間たちの事を考えて玉砕覚悟の突撃を踏みとどまったのだろう。

 

「賢明な判断だ。さすが錦帆賊をまとめ上げる男だな」

「ありがとよ。とは言え、だ。俺達がただ投降しても周りは納得しねぇだろ。あいつら目線で見りゃ俺達は国を脅かした悪党だからな。処刑しろと命じられるか、差し出せと言われるか。最悪だと俺達をだしにしてお前たちにちょっかいをかける可能性もある」

 

 冷静に興覇は可能性を上げていく。

 まったくもってその通りの話だ。

 反論など出来ない。

 彼が言った言葉一つ一つが起こりうる可能性で、どれもが一歩間違えれば建業を破滅させかねない問題だ。

 

「そんな迷惑をかけるなんてこっちとしても御免だ。そこでまずこいつを含めたうちの若い連中を建業に仕官させたい」

「甘嬢を含めて、だと? 君はこの話を聞いているのか?」

 

 父親の隣で黙って話を聞いていた彼女に目を向ける。

 

「わたしたちは全員で話し合いました。そして刀厘さまととくに関わりがふかかったわたしが先に来たんです」

「ここにいると言う事はそれを承知したと言う事で、いいんだな?」

「はい。そうです」

 

 真っ直ぐな言葉には躊躇いが無かった。

 しかしどこか身体に力が入っている印象がある。

 

 当然だ。

 この子は生まれた時から常に船と、錦帆賊と共にあり、そして父親と一緒にいた。

 生まれてからずっと共にいた父親としばしとは言えども、別れると言う事が不安で無いはずがないのだ。

 

「お前たちが話し合って決めたと言うのなら俺からは何も言わない」

 

 それが錦帆賊と言う集団の決断ならば、それを尊重するべきだろう。

 

「若い連中なら鍛錬はしていても実戦には出てないから顔も売れてねぇ。まずはこいつらをお前たちの所で新兵としてこき使ってやってほしい」

「古参の面々やお前はどうする?」

「俺らはしばらくはこのまま活動する。その間にお前らも他の奴らと同じように錦帆賊討伐軍を組織してくれ」

 

 そうか。

 そういう、事か。

 

「俺達にお前たちを討伐しろ、と言う事か」

「そうだ。その時に死ぬ連中については気にしなくていい。本気で殺しにかかってきてくれ。下手に加減してると他の連中が疑ってくるかもしれねぇからな」

 

 その言葉は、今までの話の一部に嘘が混じっている事を俺に教えてくれた。

 

「可能な限り替え玉を用意するつもりだが、それでも死ぬ奴は出る。その犠牲についてはお前たちは気にしなくていい。そこも全員で話し合って納得済みだ。そして他ならぬお前らの手で『鈴の甘寧』の首を取れ」

「本気か? 死ぬぞ?」

 

 戦場の乱戦の中で上手く生き延びられる器用な人間など早々いない。

 この策は穴だらけだ。

 若い連中を生き延びらせる為に、古参の者が犠牲になると言っているだけだ。

 古参に関してはうちに仕官するという未来を自ら閉ざしている。

 

 無駄死にではないんだろう。

 だが犠牲が余りにも大き過ぎる。

 挙句、それを俺達で為して功績にしろと言っているのだ。

 

「かもな。だが俺達が死んでも俺達の意思が残る。お前も、建業の連中も俺達の事を知っていてくれる」

 

 意思と言うのは甘嬢を含めた若い連中の事だろう。

 俺達の事を知っていると言うのは彼らがどんな想いを抱き、どんな行動を取ってきたかを正しく理解していると言う意味だ。

 

 わかっている。

 わかってはいるが、これでは余りにも。

 

「賊徒として死ぬ事も覚悟の上と言う事なんだな?」

「俺達は良くも悪くも名が売れ過ぎた。この辺で消えておかないと俺達が望んでもいねぇ騒動が起こる。それで苦労するのは民草だ。そうだろう?」

 

 興覇は、いや錦帆賊の者たちは覚悟をもう決めてしまっている。

 

 娘の前で自分が死ぬ可能性を否定しなかった事がその証拠。

 話し合ったと言うのは自分が死ぬ事に付いても話し合ったと言う事なのだろう。

 

「俺の一存では決められない。……時間をくれ」

「わかってるよ。俺達は一週間ばかり建業にいるから。出来ればその間に決めてくれると助かる」

「……わかった」

 

 恐らく細部は変更されるだろうけれど、大筋はこの男の案が通るだろう。

 興覇達が死ぬ事は協力体制を取っている俺達にとってはマイナスだろうが、錦帆賊討伐への参加を拒否すれば賊と通じているといういらない疑いをもたれる可能性が高い。

 仮に参加の要請が来た場合、参加しないで済ませるのは現状では厳しい。

 

 個人的感情を抜きにするならば参加せざるをえない。

 

 だが。

 娘の前で親が殺される事を認めろと言うのか?

 娘の前で親を殺す事を認めろと言うのか?

 思わず噛み締めた歯に力が入り、ぎしりと軋む。

 

「ありがとよ。刀厘。俺らの為に悩んでくれてよ」

 

 気まずそうに、しかし嬉しそうに笑う興覇の言葉で俺は自分が酷い顔をしている事に気付いた。

 どうやら俺は思っていた以上に、この男の事を信頼していたらしい。

 死なせたくないと考えるほどに。

 

「俺は……子供を置いて逝くなんてほざく馬鹿な親に呆れているだけだ」

「そんなお前だからこいつらを任せられる」

「……馬鹿が」

 

 自分の顔を右手で鷲掴みにして潤み出した瞳を隠す。

 

「お前の案が通るかはわからない。だが若い連中は必ず引き取る。それだけはこの場で約束する」

「ありがとよ。ああ、ついでだ。俺の真名を預けとくぜ。我儘を聞いてくれた礼だ」

 

 居住まいを正し、男は真剣な表情を作る。

 俺も合わせて姿勢を正した。

 

「姓は甘、名は寧、字は興覇。真名は深桜(しんおう)だ」

「ならば俺も返礼する。姓は凌、名は操、字は刀厘。真名は駆狼だ」

「わたしも名乗ります! 姓は甘、名は卓。字はありません! 真名は思春です!!」

 

 やり切れない物を抱えながら、俺達はお互いに信頼を預け合う。

 こんな話の後でなければきっと気持ちよく笑いあえただろうに。

 俺は自分の表情からどうしても苦味を消す事が出来なかった。

 

 

 

 後日、深桜からの提案を蘭雪様たちに伝えた。

 俺の予想通り、ほとんどがあいつからの発案通りになった。

 ただし方針として可能な限りの錦帆賊を生け捕りにし、鈴の甘寧についてはこちらでも替え玉を用意して極力、死なせない方向にする事が決まった。

 

 戦力としても勿論だが、彼らの実情を知っている蘭雪様はたとえ国からの命令であっても彼を殺す事は許さないと吼えたのだ。

 文官たちからの反論をその気迫で捩じ伏せ、事の次第の確認を厳命し、同時に準備を進めるように号令を発した。

 

 ここまで気合の入った蘭雪様は俺たちを勧誘したあの日以来、初めて見るかもしれない。

 俺は慌ただしくなってきた城内の様子を感じ取りながら、深桜達の元に事の次第を伝えに向かった。

 

 

 

 数日後。

 

「甘卓です! よろしくお願いします!!」

 

 小さな身体で精一杯の声を出す甘嬢。

 次々と名乗りを上げる錦帆賊から預かった若い連中。

 

 深桜の要望通りに彼らの軍への士官は認めさせた。

 俺の元に置くと言う条件付きだったが、それはさして問題は無い。

 

 俺が友人に頼まれた事だからな。

 元々、俺の隊で引き受けるつもりでいた。

 

「新しい隊員たちだ。日が浅いのは仕方がないが、甘えさせるつもりはない。全員、しっかり付いて来い!!! そして俺よりも強くなれ!!!」

「「「「「はい!!」」」」」

 

 全員の声が唱和する。

 勿論、甘嬢の幼い声もあった。

 

「鎧を着たらいつも通り走り込みだ。新入りについては着るのを手伝ってやれ!! 甘卓などの子供たちについては身体が出来ていないからまだ鎧は無しとする!!」

 

 きびきびと準備を始める部下たちを尻目に甘卓に近づく。

 初対面の人間が多い場所にいる事で、いつも以上に表情が固まっているように見えた。

 

「甘卓。緊張するのはわかるが落ち着いていけ」

 

 落ち着けるように肩を優しく数回、叩く。

 慈しむように静かに、しかし意思が伝わるように。

 

 他の子供たちにも同じように激励すると、個人差はあるがどうやら落ち着いてくれたらしい。

 目に見えて身体から緊張が抜けていくのがわかった。

 

「隊長、準備出来ました!」

「いつでも行けますぞ」

「それじゃ~、ぼちぼち行きましょうか~」

「兄貴、もうちっと真面目な声を出そうや。新入りに舐められるぜ?」

「隊長! さっさと始めましょう!!」

 

 うちの部隊の顔とも言える麟、豪人殿、絃慈、克巳、弧円の言葉に俺は右腕を天にかざして応える。

 

「昨日の自分に打ち勝て! 駆け足、始め!!!!」

「「「「「「「おおおおーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!」」」」」」」

 

 空に響き渡る大音声を合図に俺達は走り出す。

 これから訪れるだろう暗雲を切り裂けるだけの力を手に入れる為に。

 




年末で職場がごたごたしそうなのでおそらく今年はこの話が最後の投稿になります。
修正をしながら投稿していた為か、今年中にストック分を出し切る事は出来ませんでした。
来年も定期的な更新を目標に執筆に励みますのでよろしくお願いします。

皆様、良いお年を。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外之三_韓当

遅くなりましたがあけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

新年初投稿が番外編になりましたが楽しんでいただければ幸いです。


「ふっ! ふっ! ふっ! ……」

 

 一心不乱に鍛錬場で御世流仁瑠を振るう。

 

 昔から難しい事を考えるのが苦手だった。

 ごちゃごちゃと物事を考えるよりはさっさと動くようにしていた。

 

 でも流石に今回のは堪えた。

 自分の気付かない所で子供が酷い目に合っていたと知ってしまったから。

 

 こういう世の中だってわかってたはずなのに。

 私だって村にいた頃から色々と有った。

 理不尽な出来事もそれなりに味わってきた。

 

 いつ襲われるかわからない『理不尽』って敵を叩き潰す為に駆狼は自分を鍛えていた。

 

 あたしは村にいた最初の頃は、ただ駆狼に追いつきたい一心で鍛錬していたし、それは祭達も同じ気持ちだった。

 

 でも母さんに自分の腕を認めてもらえてすごく嬉しかった。

 初めての賊の襲撃で戦う事が怖くなった。

 そして何の前触れもなく現れた蘭雪様から推挙されて建業に仕官する事になった。

 色んな事が起こってその間にどんどん鍛錬の目的が変わっていった。

 

 『駆狼に追いつきたい』から『村の皆を守りたい』に。

 そして『村の皆を守りたい』から『関わってきた人達を守りたい』に。

 

 守りたい物がどんどん増えていったんだ。

 

 でも……。

 『あの子』に起こった事を知って。

 あたしは自分が知らない所には鍛え上げた力なんて何の役に立たない事を思い知らされた。

 

 駆狼に助けられた桂花ちゃん。

 建業にいる初対面の人間全てに怯えていた。

 ひどい時は悲鳴を上げて泣き叫ぶくらいに心が傷ついていた。

 

 怯えるあの子の姿を見て、あたしは自分が何も出来なかった事を知った。

 そもそも彼女が攫われたって事も知らなかった。

 だから助けようと考える事も出来なかった。

 

 あたしが建業を守ろうって部隊の皆と訓練や見廻りに精を出していた頃に、あの子は守られる事もなく独りで泣いていたんだ。

 

 その事実にあたしは足元が崩れていくような感覚を、大事な物が無くなっていくような感覚を味わった。

 

 一人で出来ない事でも仲間で力を合わせれば出来るって信じてたから。

 どれだけ頑張っても出来ない事があると言う事実を認めたくなかった。

 

 でも認めるしかなかった。

 

 だって知りたい事を全部知るなんて事は出来ないし、知ってるからってここからずっと離れた場所で起きてる事まであたし達じゃどうしようもないから。

 

「はぁ……全部知ってたはずなのになぁ」

 

 ずっと頭の中を暗い考えがぐるぐると回っている。

 呟いた言葉通り、全部知ってたはずなんだ。

 

 村にいた頃から遠くの村が山賊に滅ぼされたって話を聞いた事だってある。

 その時も怖いと思ったり、山賊に腹を立てたりとかしてたはずなのに。

 

 こんなに深く考え込む事はなかった。

 

 きっとあたしたちがあの時と違って大人になって、立場も変わったから。

 物事の受け取り方って言うか……とにかくそういう物が変わったんだと思う。

 

 だから出来ない事を考えて、出来ない事に落ち込んで、出来ない事に苛々してる。

 

 割り切れてるつもりだったのに。

 桂花ちゃんのあんな姿を見てしまったから。

 本当にそれでいいのかわからなくなっちゃった。

 

「っ……!!」

 

 両手でただがむしゃらに振るっていた槌が手からすっぽ抜けて地面に突き刺さってしまった。

 

 ため息をつきながら垂れてきた額の汗を拭うと思った以上に自分が汗だくだった事に気付く。

 服も随分と汗を吸っていて身体にぴったり張り付いていた。

 

「うわぁ……こんなになるまで気付かないって」

 

 空を見上げれば御世流仁瑠を振り始めた時は真上にあった太陽が沈み始めていた。

 

「あ……く、はぁはぁはぁ……」

 

 時間が過ぎていた事を意識した途端に身体が疲れを訴えてきた。

 

 手が震えて、足もがくがく。

 身体がふら付いて、立っていられない。

 

「あ、……ま、ずい」

 

 いつもならこんな程度で倒れたりしないのに。

 身体が鉛みたいに重くなって意識が遠のいていく。

 

 仰向けに倒れそうになったあたしは。

 背中を優しく支えられて倒れずに済んだ。

 

「だ、れ……?」

「まったく。無茶をしよるなぁ」

 

 この年寄りっぽい言葉遣いは。

 

「祭……」

「寝とれ、馬鹿者め」

 

 呆れてため息を吐く祭を一瞬だけ視界に入れてあたしは意識を失った。

 

 

 

 起きて最初に目に入ったのは墨の付いた筆片手にあたしの身体に馬乗りになっている雪蓮様の顔だった。

 勿論、顔はお互いに引き攣っている。

 

「……」

「……えっと、やほ~」

 

 あたしが無言で半眼になると雪蓮様は気まずそうに、今やろうとした事を誤魔化すように声をかけてきた。

 

「とりあえずその筆置いて、上から降りてください」

「むぅ、……はぁい」

 

 つまらなそうに口を尖らせる雪蓮様にため息が出た。

 桂花ちゃんが帰ってから少しはおとなしくなったと思ったのに、ちょっと安心して油断したらこれだもんなぁ。

 

「なに、そのため息!? 倒れたって祭に聞いたから心配して来たのに!!」

「あ、そうなんですか。……それはありがとうございます」

 

 ぷぅっと頬を膨らませる雪蓮様に慌ててお礼を言う。

 窓から外を見ればもう真っ暗になっていた。

 鍛錬場で気絶してからちょっと時間が経ってるみたい。

 

「でも悪戯はやめてくださいね」

「うっ……ごめんなさい」

 

 それはともかくとして釘を刺すのは忘れない。

 視線を泳がせて謝る雪蓮様に思わず笑ってしまった。

 

 そして。

 無邪気なこの子が少し羨ましいと思った。

 

「ねぇ、塁。なんだか泣きそうな顔してるよ? やっぱり具合悪いの?」

「え? あ……いえいえ、大丈夫ですよ。ほら、こんなに元気です!!」

 

 ぐっと腕に力を入れてむんっと気合を入れてみせる。

 わざとらしいって自分でも思ったけれど、やっぱり雪蓮様にもそう見えたらしい。

 眉をへの字に曲げて不機嫌そうな顔になってしまった。

 

「ごまかそうとしてるでしょ。すっごくうそっぽいよ?」

「うぐっ……」

 

 いや、自分でもわかってたんだけどね。

 

「むぅ……わたしには言えない事?」

「そう、ですね。言えないです」

 

 言える訳がない。

 認めたくない現実から逃げたくて子供の無邪気さを羨ましがったなんて。

 情けないったらありゃしない。

 

「わかった。ほんとに話したくないみたいだからもう聞かないよ」

 

 なんだか不気味なくらい今日の雪蓮様は物分かりが良かった。

 

「いますっごく失礼な事、考えなかった?」

「不気味なくらい素直だなって思いました。いつもなら駄々を捏ねてる所ですし」

 

 勘が鋭いから気付くとは思ってたので素直に全部言ってしまう。

 

「う~~……」

「あはは。ごめんなさい、雪蓮様。ちょっと意地悪でしたね」

「ふん!」

 

 からかい過ぎたせいで唸りながら涙目になってしまった雪蓮様。

 慌てて謝るけれど、相当にご立腹みたいでそっぽを向かれてしまった。

 

「そんなにへそ曲げないでくださいよ。あたしが悪かったですから」

 

 どうやって機嫌を直してもらおうか……。

 

 頬を膨らませている雪蓮様の事を考えているとふと気付いた。

 さっきまでの暗い気持ちが幾らか和らいでいる事に。

 

「……ありがとうございます。雪蓮様」

「? なんでお礼を言うの?」

 

 ああ、やっぱり狙ってやったわけじゃなかったんだ。

 目をぱちくりさせながら首を傾げる雪蓮様を見て思わず苦笑いをする。

 

 言葉を続けようとしたらどたどたとこちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。

 ああ、この足音は間違いない。

 激だ。

 

「激が来たみたいだね」

「そうみたいですね」

 

 騒がしい足音はけっこう特徴的だから、城の人間なら誰でもこれが激だって事はわかる。

 村にいた頃から有名な話だったし。

 

 聞こえてきた足音が部屋の前で止まる。

 数瞬の微妙な間を置いて戸を軽く叩く音がした。

 

「おい、塁。起きてるか?」

 

 心持ち小さな声。

 たぶんあたしが寝ていた場合を考えたんだと思う。

 一見すると粗野でがさつに見える激だけど気配りはあたしや祭なんかより全然出来る方だ。

 

 なんだか女として駄目な気がするけど今更だから気にしない。

 

「起きてるよ、激。入っても大丈夫」

「そっか。なら失礼して……」

 

 そっと戸を開けて入ってくる激。

 

「はぁ……倒れたって聞いたんだが意外と元気そうだな」

「まあ、ね。心配してくれてありがと」

 

 ため息を吐きながら力が抜けたように肩を落とす激。

 あたしが元気だったからほっとしたんだと思う。

 

「あれ? 雪蓮様?」

「雪蓮様、ここにいたのか?」

 

 いつの間にか部屋の中にいたはずの気配が消えていた。

 窓に足をかけた跡があるからそこから外に逃げたんだろうけど。

 それにしても素早い。

 

「うん。さっきまであたしと話をしてたんだけど……」

「さっき蘭雪様が捜してたらしいからまたなんか仕出かしたんだろ。……誰か呼ばれると思って逃げたんだな」

「見舞いのついでに隠れてたのね」

 

 やれやれって顔で窓の外を見る激。

 あたしも同じように窓の外を見る。

 けれで見える範囲にはもう雪蓮様はいなかった。

 

「まぁ別に俺は雪蓮様を見つけろとは言われてないし。そろそろ駆狼も動くだろうからそっちはいいだろ。それよりも……だ」

 

 じっと真剣な顔で激はあたしを見つめる。

 

「嫌な事があった時に鍛錬に走るのはいつもの事だからまぁいいさ。けど倒れるまでってのは見過ごせねぇ」

「……心配かけてごめん」

「なにがあった?」

 

 追及されるのはわかっていた。

 自分でも限界がわからなくなるくらい没頭してしまったんだ。

 あたしはこれでも部隊を預かる武官。

 そんな人間が無茶して倒れたなんて放っておける話じゃない。

 

 たぶん激が聞きに来たのはあたしが一番話しやすい相手だからだと思う。

 仕事に関する相談事なら駆狼にしてきたけど、私事はほとんど激にしてきたから。

 

 なんとなく駆狼には話しづらかった事も激相手ならするっと話せる事が多いから。

 駆狼はきっと相談されたらどんな内容であっても親身になってくれると思うけど、だからこそ頼り過ぎないようにしたかった。

 それで激に相談してるんだから誰かを頼ってるって意味じゃどっちもどっちなんだけど。

 

 じっと激の真剣な表情を見つめる。

 あたしからの言葉を待つその顔は、初めて人を殺した時にあたしを励ましてくれた顔と雰囲気がそっくりだった。

 

「あたしね。自惚れてたんだ」

 

 あたしは観念して話し始めた。

 

 関わってきた人達を守りたいって思った。

 でも桂花ちゃんはあんな風になっていた。

 今こうしてる時もどこかで桂花ちゃんみたいに泣いている人がいるかもしれない。

 その人達を助ける事はあたしにも、皆にも出来ない。

 助けたくて身に付けた力なのに使う事すら出来ない。

 

 現実を認めたくなくて、どうしたらいいかわからなくて我武者羅に鍛錬して。

 

「そしたら倒れたと」

「うん」

 

 全部話し終えるまで激はただ黙って聞いていた。

 情けないあたしの顛末をただじっと聞いていてくれた。

 

「俺もお前ほどじゃねぇけど、自分が無力だって感じてたぜ」

 

 がしがしと頭を掻きながら激はゆっくり語る。

 まるであたしにと言うよりも自分自身に言い聞かせようとしているかのようにゆっくりと。

 

「文官として動き回ってると他の領地で何が行われているのかなんてのを知る機会も多いんだ。まぁ報告されている内容以上の事はわからねぇけど、それでも苦しんでいる人間がいるって事とそんな連中に何もしてやれないって事はわかっちまう」

 

 ため息を零しながら激は言葉を続ける。

 

「俺には苦しんでる人間がいるって事を知る事は出来ても助ける事は出来ないってその度に思い知らされて、無力な自分が嫌になる」

 

 その言葉はあたしと同じ物だった。

 同じ想いを持ってる人がいた事への喜びはまったくない。

 それはすごく不謹慎だし、傷の舐め合いにしかならないと感じたからだ。

 

「でもな」

「え?」

 

 言葉が続く事に思わず驚く。

 

「それは慎も、祭も、美命様も、蘭雪様も、陽菜様も、駆狼も、老先生も。皆、大なり小なり思ってる事だ」

「あっ……」

 

 そうだった。

 なんであたしは自分だけが悩んでるなんて思っていたんだろう。

 自分だけが苦しいだなんて思っていたんだろう。

 あたしが知ってる人達ならあたしと同じ事に思い当たって、あたしと同じように悩む事なんて分かり切っていた事のはずなのに。

 

「皆、表には出さないけどよ。色々と考え込んでるみたいだ。まぁ悩んでるって事だけどさ」

 

 そこで言葉を止めて座っていた椅子の背もたれに背中を押しつけながら天井を見上げる。

 

「まぁなんだ。お前は一人じゃないからさ。抱え込まないで一緒に悩めばいいんじゃねぇか?」

 

 確かにあたしは一人で悩んでた。

 仲間が一緒だから出来る事があるってわかっていたはずなのに一人で考え込んでいた。

 

「溜め込むくらいなら誰か捕まえて愚痴ればいい。まぁ部下連中に愚痴るのは立場的に拙いだろうけど。祭とか陽菜様とかなら気軽に聞いてくれると思うぜ。それで少しは楽になるだろうよ。俺だって慎だって駆狼だって誰かを相手にやってる事だ」

 

 効果はあったぜって笑いながら激は言った。

 あたしは自分の情けなさに泣きそうになっていた。

 

「溜め込んだもんを吐き出して気持ちが軽く出来たらよ。自分に出来る事を考えりゃいい」

「うん」

 

 両手で顔を覆いながら首を縦に振る。

 下手に声を出すと、泣き出してしまうから。

 

「お前は情けなくなんてねぇよ。皆、悩んで苦しんでるんだ。お前よりは器用だから上手く折り合い付けてるだけ。本当にそんだけだ」

「うん、うん!」

 

 一人じゃないって思ってた。

 でもいつの間にか自分から一人になっていた。

 あたしが周りを見なくなっていた。

 

 でもあたしの傍には激がいた。

 祭がいて、駆狼がいて、慎がいて、今ではもっと沢山の人がいてくれる。

 

 悩みを一人だけで抱え込む必要なんて全然なかった。

 

「あり、がと。……馬鹿みたいだね、あたし。一人で悩んでた。一人じゃないって知ってたのに」

「間違えた事が悪いんじゃない。間違えた事を認められない事が悪い。まぁ駆狼からの受け売りだけどな。ようは同じ事を何度も言わせるなって事だ」

 

 あたしがもう大丈夫だと思ったのか。

 激は部屋を出ていこうと立ち上がった。

 

「あ、待って」

 

 思わず引き止めちゃった。

 あ、まずい。

 本当にただ引き止めただけで何も考えてない。

 

「どした? もう大丈夫だと思ったんだがまだなんか気になる事があるのか?」

 

 首を傾げながら振り返る激に何か言わないとって焦りながら言葉を探す。

 

「えっと……見舞いに来てくれたお礼にお酒飲まない?」

 

 あたしが指を刺したのは水瓶の隣に置いてある酒樽。

 中には村にいた事からのお気に入りのお酒が入ってる。

 

「酒の誘いなんてしてくるって事はある程度すっきりしたって事か。ああ、いいぜ。今晩は付き合ってやるよ」

 

 そう言うと激はさっきまで座っていた椅子にまたどっかりと座り直した。

 楽しそうに笑う姿になんでかあたしまで嬉しくなる。

 

 あたしは寝台から立ち上がって部屋に置いてある杯を二つ出した。

 酒樽から杯に注ぎ、片方の杯を激に渡す。

 

「それじゃ塁の調子が元に戻った事を記念して」

「これからも激があたしの愚痴を聞いてくれる事を記念して」

 

 「なんだよそれ」なんて軽く文句を言う激を無視してあたしは軽く打ち鳴らした杯の中の酒を一息に飲み干した。

 

「ぷっはぁ……相変わらずお前のお気に入りは美味いな」

「当たり前。酒に煩いあたしが自分の目で見て買ってるんだから」

 

 どうでもいいような世間話を肴にあたしたちはその日ずっと酒盛りを続けた。

 

 明日からはきっといつも通りのあたしになれるってそう思いながら。

 激にありがとうって思いながら。

 

 

 話はこれで終わり、じゃなかった。

 

 肩の荷が下りたって言うのかとにかく気が楽になった反動で酒を進めていたらいつの間にか、その、激とそういう雰囲気になって。

 朝、目が覚めた時はお互いに裸で抱き合っていた。

 

 勿論、都合良くその時の記憶がなくなっているわけじゃないから。

 何があったかは鮮明に覚えていて、目を覚ました激とはなんだかこそばゆい雰囲気になってしまった。

 

 お互いに相手の事が好きなのはなんとなくわかっていた事だから。

 あたしたちはそのままの流れで夫婦になる事にした。

 

 色々と過程をすっ飛ばしてるような気もしたけど。

 なんとなくあたしたちらしいかなって思って納得した。

 

 とは言ってもまだ誰にも話していない。

 からかわれるのがわかってるし、今はそこまではしゃぐ事も出来ないから。

 だから今は気持ちが通じ合っている事だけで満足しておこうって思ったんだ。

 

 さて気持ちを切り替えよう。

 

 そして今日も頑張ろう。

 皆と一緒に喜びながら苦しみながら。

 それでも前に進めるように。

 

 あたしは一人じゃないんだから。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十四話

「シっ!!!」

 

  突き出される鍛練用に刃引きされた木剣を右の手甲で受け流す。

 

「はっ!!!」

 

 お返しとばかりに左拳を突き出す。

 だが相手は俺の拳が届くよりも早く後方に飛び退き、着地と同時に剣を正眼に構えた。

 

 どっしりとしたその構えに隙は見られない。

 何度も何度も行った素振りなどの基礎訓練の末に身体に染み込ませた剣の基本型。

 相変わらず見事な物だ。

 

「流石ですね。豪人殿」

「まだまだ若い者に負けてはおれませんからな」

 

 闊達な笑みを浮かべ賛辞を受け取る建業最古参の武将。

 史実では蜀の黄忠は『老いて益々盛ん』と言われていたらしいが今、目の前にいる豪人殿も決して負けていないだろう。

 正直、この人が五十越えて衰えるイメージが俺には沸かない。

 

「新しく入ってきた連中はどうですか?」

「それなりに馴染んできたようですな。麟たちが部隊の人間との間に上手く立っているお蔭でしょう」

 

 

 甘嬢や錦帆賊の若者たち総勢百余名が兵に志願してから二週間。

 建業で特に厳しいと自他共に認める俺の部隊の訓練に彼らはよく付いてきていた。

 

 長江と言う巨大な自然を相手に船を動かしてきた彼らの気合いと根性は、新兵が必ず根を上げると不名誉な事を言われている俺の隊の調練にも耐えられる程の物だったらしい。

 今の所、脱落者はいない。

 

 一番、幼い甘嬢ですらも訓練後に疲れ果てた姿は見せても弱音を口にした事はない。

 実戦経験がないとは言えど叩き上げと言って差し支えないだけの訓練をしてきたと言う事なのだろう。

 

 

 豪人殿が言ったように部隊の仲間たちも彼らと打ち解けてきている。

 

 錦帆賊を迎え入れる事について幾らか懸念事項はあった。

 

 賊だった彼らに、うちの連中がどう接するか。

 また彼らの方が俺たちという『国の軍隊』を警戒して不和を起こさないか。

 

 だがそれらの懸念は麟や豪人殿、蒋兄弟、弧円らが筆頭になって解決してくれた。

 

 解決方法としては実に単純な話。

 彼らは率先して元錦帆賊の若者たちに声をかけていったのだ。

 

 副隊長の立場である豪人殿や霖に加えて部隊内で上から数えられる実力者である絃慈達。

 そんな連中が彼らと打ち解けてくれたお蔭で他の者たちも気構える事なく接するようになったのだ。

 こちら側から積極的に交流を図った事である程度は構えていたのだろう元錦帆賊達たちも緊張を緩めてくれている。

 

 俺が新兵である彼らを過度に気遣えば、それは贔屓に見えてしまっただろう。

 たとえ俺自身がそう考えていなくとも、この場合は周りからどう見えてしまうかと言う点が問題なのだから。

 だからこの問題に対して俺は積極的に動く事が出来なかった。

 

 しかしまさか相談もしていないうちに、何が問題であるかに気付き解決に乗り出してくれるとは。

 俺は本当に良い部下、仲間を持ったと改めて思う。

 

 そして俺は一人で出来る事など限られていると言う事を改めて認識する事が出来た。

 その事についても彼らには感謝しなければならないだろう。

 

 前に祭や陽菜に言われたが、どうも俺は無意識に問題を抱え込む性質(たち)であるらしい。

 だからふとした時に事象を意識するのは大事な事だ。

 

 まぁ俺の事は置いておくが結論として賀斉たちの心配りのお蔭で現在、特に部隊の運営に関して問題は発生していない。

 

 

 豪人殿との模擬戦を終え、部隊の隊舎に向かいながら考えを巡らせる。

 

 錦帆賊の討伐については今の所、目立った動きは無い。

 美命たち頭脳労働担当が細作を放つ事で周辺諸侯の動きには特に目を光らせているのだが、派兵するための準備を匂わせる物はないとの事だ。

 

 正文との文通(緊張感のない言い方だが適切な表現がこれしか思いつかない)で、それとなく現在の首都である洛陽で賊討伐に関する動きが無いか聞いてみたが心当たりは無いと言う話だ。

 

 彼女の意図するところが不明な為、その言葉を全て鵜呑みにする事は出来ない。

 しかし静かすぎる現状を鑑みるにどうやら友人と殺し合うまで、まだ時間的猶予があるらしい。

 少なくとも彼女からの文と勇平からの話によれば国が勅命を出すのはまだ先であると予想出来た。

 

 とはいえあくまで『まだ』でしかないのが辛い所だ。

 前世での経験も含めて俺は気心の知れた友人と殺し合った事は無い。

 軍人として自分の意に沿わぬ命令で、心にしこりの残る形で命を奪った事はある。

 だが敵対する者と面識があり且つ仲が良かった事は無かった。

 

 

 未だ活動を続けている深桜と錦帆賊の面々は賊として討伐される事になったならば本気で戦うつもりだろう。

 俺たちが相手だったとしても、だ。

 

 身代わりを用意していると言う話だが、恐らく手柄を求める他勢力との混戦になるだろう戦いの最中で上手くすり替われる可能性はかなり低い。

 故に彼らは既に死兵として後の無い覚悟を決めているのだ。

 

 年若く、まだ先のある者たちをこちらが受け入れた時点で彼らは満足している。

 彼らが今考えているのは自分たちが生き延びる事ではなく、如何に敵を道連れにして果てるかどうかと言う所だろう。

 

 生き延びる事を恥として、自ら退路を無くしたのだ。

 死んだ後に残される者たちの悲しみがわからないわけがないと言うのに。

 

 子を持った事のある親として、彼らと関わった一人の人間として玉砕覚悟の思考など馬鹿げていると思う。

 

 討伐された後の錦帆賊が歴史に残すのは事実とは異なる悪名だけだろう。

 今の朝廷にとって都合の良い事だけが後世に残るはずだ。

 

 いやそもそも錦帆賊と言う名が残るかどうかも定かではない。

 数多の賊の一部として討伐されたと言う事実だけが残るのかもしれない。

 

 俺にとって後世と言う自分のいない世の中で自分の事がどのように扱われようと知った事ではない。

 ただただ『今』の最善を尽くし、自分にとっての最善の結果を求めて戦うだけだ。

 

 他者の評価によってその人間の価値が決まる事も多いこの時代で、俺の考えは将として異端なのだろう事は理解している。

 しかしやはり人の命と誇りや武勲では命の方が重く思えてしまう。

 これは前世の記憶を持っている弊害と言えるかもしれない。

 

 

 閑話休題。

 個人としての葛藤とは別に俺は合理的な思考を持って錦帆賊討伐について考えてみる。

 

 深桜は紛れもなく有能な人物であり、錦帆賊はこの時代に置いて貴重な『力のある集団』だ。

 そんな彼らを武勲や風評を得る為だけに手にかけると言うのは余りにも短絡的ではないだろうか?

 

 さらに朝廷や周辺諸侯、前建業太守らは認めなかったが彼らには義賊として民を助けてきた実績がある。

 討伐などしようものならそれは民心を無視した事になり、軽くない反発を招く可能性が高い。

 

 こちらにとって都合の良い部分、悪い部分をまとめると討伐への参加は即答で頷ける物ではないと考える事も出来るのだ。

 

 実の所、この件については蘭雪様が深桜たちを救う事を明言してからも何度となく議論が行われている。

 

 意見は大きく分けて三つ。

 一つ目はなんらかの理由を付けて討伐に参加しないと言う物。

 二つ目は建業の安全を第一と考え、個人的な感情を一切排して本気で討伐を行うと言う物。

 三つ目は討伐には参加するがどうにか他の諸侯を出し抜いて錦帆賊を可能な限り捕縛、こちらの傘下にすると言う物だ。

 

 

 蘭雪様としては協力者である彼らを切り捨てる算段はありえないとしている。

 先に俺が考えていたように錦帆賊と実際に関わりを持っている長江近隣や海沿いの村は、彼らが義賊である事を身を持って知っている。

 故に建業が錦帆賊討伐に参加すると激しく反発される事が容易く予想出来る。

 民の事を考えると錦帆賊討伐に参加する事は逆効果になりかねないと言うのが一つ目の案を唱えた者たちの主張だ。

 

 しかし周辺諸侯がわざわざ連合を組んでまで錦帆賊を討伐する為に動き出すとなれば、賊である所の錦帆賊を庇い立てる行為その物が現政権への反発と取られ蘭雪様の立場を悪くしてしまう。

 最悪の場合、朝廷に対して翻意ありと見なされ今の太守としての立場を剥奪される可能性もある。

 

 否、もしも錦帆賊討伐に参加しなければ確実にそうなるだろう。

 今は沈静化しつつあるとは言え、俺達を陥れようとする動きは消えた訳ではないのだから。

 

 二つ目の案は蘭雪様を、引いては今の建業を守る為ならば最善と言えるだろう。

 しかしこれは前述した通り少なくない民と、俺の部隊にいる元錦帆賊の面々などの反発を招く事になる。

 実行するに当たって民への根回しや説得が不可欠になるだろうし、個人的に賛成しない者も多い(これには俺も含まれている)。

 

 そして三つ目の案だが。

 これを実行するとなると一つ目に比べて格段に難易度が高くなり、被る損害が増える事を覚悟しなければならない。

 

 建業太守が変わってからおよそ二年と半年。

 幾ら新進気鋭を売りにしているとは言えど、地盤固めが万全とは言い難い状態ではどうしても出来る事は限られてくるのだ。

 問題点は多く、その対応にはどうしても時間がかかってしまう。

 俺が駆り出されていた遠征も地盤固めの一環であるし、未だ領地に置ける治安は『他の領地よりも良い』程度であって『民が安心して暮らせる』ほどではないのだ。

 

 正直なところ、新米太守にしては異常なほど上手く土地を治められているくらいだろうが。

 

 この状況で錦帆賊討伐に無理をすれば治安悪化に繋がる可能性が高い。

 隊の練度ならば余所に負けるとは思わないが、ただでさえ限られた人数だ。

 無理をさせて再起不能者が出てしまえば、その数によっては軍が軍として保てなくなる可能性すらある。

 

 蘭雪様が義を重んじて、錦帆賊を助けようとする事には個人的に賛成したい。

 しかし策も無しに頷くにはリスクが高すぎる為、軍人としては諌めなければならないのだ。

 

 

 およそ三日に一度、錦帆賊の件については会議が行われている。

 とはいえ完全に真っ二つに割れた意見をぶつけている為、なかなか結論には至れない。

 しかし会議に参加する者たちはその誰もが錦帆賊が義賊であり、治安維持に貢献している事実を知り、彼らを認めている。

 個人的感情を挟むかどうかで主張は異なっているが、彼らがいたからこそ維持されてきた物がある事を理解している。

 だからこそ余計に話が長引いているのだ。

 

 

 とはいえそろそろ意見をぶつけあうのも限界だろう。

 俺の予想ではそろそろ美命辺りから出尽くした意見の折衷案が提示されるはずだ。

 俺や慎、激や深冬は会議以外の場で個人的に意見を交わしあっているからその内容にも察しが付いている。

 

 結論だけ言えば錦帆賊は可能な限り助ける方向になるだろう。

 しかし賊頭である『鈴の甘寧』については……首を取らなければならない。

 少なくともこちらからあいつを生かす方向で工作をする事は無い。

 あいつ自身が討伐に対して取っていると言っていた対策と今まで軍を退けてきた経験に賭けると言う事になるだろう。

 

 錦帆賊討伐の大きな目的は彼らの存在の抹殺。

 目的を果たす為に最も効果的なのは頭の死だ。

 

 集団と言うのは総じてなにかしら飛び抜けた能力を持った者が頭になる者だ。

 当然、頭と言うからには一人でありその人物が集団の精神的支柱である事も多い。

 そして頭がいなくなればどれほど強力な集団であっても脆いと言うのが定説である。

 

 つまり『鈴の甘寧』さえ殺してしまえば他はどうとでもなると考えられていると言う事だ。

 故に甘寧の首を取る事で彼らは戦意喪失したとして、帰順した事にしようと言うのだ。

 

 実際に対峙した俺達はそうは思わないが周辺諸侯は彼らをたかが賊と侮っている者も多いと聞いている。

 よって頭の首を取る事で討伐を完了させようとする者も少なくないと美命は分析していた。

 

 恐らく紛糾している会議を終わらせるには妥当な案なのだろう。

 

 しかし俺は。

 短い間だが確かに言葉を交わし笑い合った深桜の事を、彼を頭と慕う部隊の仲間たちの事を、父を慕う甘嬢の事を考えると。

 どうしても彼らの誰かを犠牲にする案に賛成する事が出来なかった。

 

 とはいえ表立ってこの案に反対はしていない。

 美命たちとまとめた折衷案が現状での最良を追求した結果だとわかっているからだ。

 

 錦帆賊は良くも悪くも名が売れ過ぎた。

 下手に庇えば討伐に参加しなかった時と同等かそれ以上の隙を周辺諸侯に見せる事になる程に。

 よって殺さないで済ませる方法が少なくとも今の所は存在しないのだ。

 

「……ああ、まったく。本当に上手くいかない世の中だ」

 

 避けて通れないだろう未来を思い浮かべて、分かり切っていた世の不条理さを実感しながら。

 俺は長い廊下で一人呟いた。

 

 

 

 

 思春や若い連中は元気だろうか。

 流れる風を甲板で受けながら空を見上げる。

 

 俺達が建業にあいつらを預けてからもう一ヶ月が経った。

 

 仮にも長江やら海の大自然と戦ってきた奴らだ。

 軍隊の訓練で情けない姿を晒すような事はねぇと信じてるが、あっちに馴染めているかはまた別の話だ。

 

 俺たちは不当な罪で国を追われて住む場所を失くした。

 

 建業の連中がやったわけじゃないし、あいつらは今までの軍隊とは違う。

 頭じゃそうわかっていても、わだかまりってのは残るもんだ。

 上手くやれてるか少しばかり心配にもなる。

 

「まぁ駆狼たちならなんとかしてくれんだろ」

 

 遠く離れた船の上にいる俺には心配する以上の事は出来ねぇんだ。

 最近はこの辺にも国の細作連中が顔を出してきやがるからな。

 他に気を取られてそっちの始末をしくじるわけにはいかねぇ。

 なら上手くやれてるって信じた方が何をするにも気分は良いだろうよ。

 

「頭、また俺らを張ってたのを捕まえやしたぜ」

「おう。やっぱあれか。捕まったら何も言わずに舌噛み千切ったか?」

 

 細作の連中は見つかったら自分の命を捨てる。

 持ってる情報を誰にも渡さない為に。

 自分が仕える人間を不利にさせない為に。

 

 尋問やらで口を割るような軽いヤツはまずいねぇ。

 いたとしてもそいつの口から出た情報は裏が取れるまで信用しないのが原則だ。

 その情報が嘘である可能性ってのが残るからな。

 

 仮にも国に仕えているような人間が、口を割るんだ。

 苦し紛れかなんかの作戦かは別としてその情報の真偽ってのはまず疑う。

 軍人崩れの俺だが、その辺は心得てる。

 

「へぇ。きつく縛り上げたら何を言うでもなくくたばりましたぜ。相変わらず徹底してやす」

「だろうな。で、そいつの持ち物は調べたか?」

「調べやしたが今回もこれと言って収穫は……」

 

 さすがにその辺も徹底してやがるか。

 

「これで今月に入って何回目だったか?」

「確か十回は越えてると思いやすよ」

「前よりかなり増えてやがるな。こりゃ討伐の前準備と見るべきか」

 

 よくもまぁこんだけ送り付けてきたもんだ。

 こっちで把握してる限りだから、俺らの網に引っ掛からなかったのもいるんだろうが。

 

「あいつらを駆狼の所に送り出せて良かったぜ。これで俺達の意思は残る」

「お嬢たちならきっと俺達には出来なかった事をやってくれやすぜ」

「だな」

 

 俺が駆狼に語った錦帆賊の帰順。

 実の所、あの話の半分は嘘だ。

 

 若い連中を建業に仕官させる所は本当だし、実際にもうやってる。

 けど俺達が替え玉を使って生き延びるってのは嘘だ。

 

 だらけて荒んだ国の連中とは言え、悪名高い錦帆賊が突然姿を消したなんて事になれば躍起になって探そうとするだろう。

 そして頭である俺や古参の連中は大暴れの代償として顔が割れてる。

 そんな俺達が建業の世話になれば連中はこれ幸いにあいつらに無理難題を吹っ掛けるだろう。

 例えば俺達の身柄の引き渡しだが、それで済めば良い方だ。

 最悪、俺達がやってきた事の責任が今の建業の奴らに押し付けられるかもしれない。

 

 時期が合わねぇから普通はありえねぇ事だ。

 だがそれが賄賂で幾らでも出来ちまうのが今の世だ。

 

 建業の連中はただでさえ善政を敷いてて他の領地に睨まれてる。

 だが民が笑って過ごせる数少ない場所だ。

 そんな危ない橋を渡らせて、民を泣かせるような事があっちゃいけねぇ。

 

 なら俺達は今まで通りに振舞って、あいつらが攻めてきた時に本気で抵抗して。

 そしてあいつらに討たれて武勲になってやるべきだろう。

 

 あの時の駆狼の顔を思い出す。

 俺の言葉の裏なんて完全に見切っていたから出た俺たちを想い悩んだあの顔。

 死ぬ覚悟を決めた俺を否定する顔で、俺を友として案じた顔だ。

 

 あんな風に悩んでくれるとは思わなかった。

 

 けどまぁそんな奴だから。

 俺は安心して思春たちを預けていられるんだ。

 

「頭、倉庫に置きっぱなしのあれはいつ刀厘の旦那に渡すんです?」

 

 声をかけてきた部下の言葉に空を見上げながら俺は答えた。

 

「そろそろやばくなってくるからな。ぼちぼち誰か伝令を送るぜ。そん時に渡しちまおう」

 

 俺達の中じゃ使いこなせる奴がいなかったものすげぇ癖の強い棍(こん)。

 

 俺からの餞別って奴だ。

 使いこなしてやってくれや、駆狼。

 

 あんなもんを渡されて戸惑うだろう友人の顔を思い浮かべて、俺は声に出して笑った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十五話

 とうとう錦帆賊討伐の動きが本格化し始めた。

 それも朝廷からの勅命と言う、拒否できない絶対命令として。

 大した数でもない賊を退治するのに勅命が出るとは思わず、話を聞いた時は自分の耳を疑った物だが。

 美命が言うには十常侍に顔が利くこの辺りの領主が彼らに金を積んで勅命を出させた可能性が高いらしい。

 

 錦帆賊が義賊である事は彼らが関わってきた地域では公然の秘密だ。

 地方領主が独断で動けば民の反感を買うのは目に見えている。

 だが国と言う誰も逆らう事が出来ない絶対的権力者から命令を出させる事で内心はともかく表立っての批判や反感を抑えつける事が出来る。

 この勅命はそう言う意図で出された物と見てまず間違いないだろう。

 

 漢王朝を支える中心である存在が金次第で如何様にも動くと言う現実をはっきりと思い知らされ、世がどれだけ荒んでいるかを俺は改めて実感した。

 そしてその事実が、俺には遠からず王朝が崩壊する予兆のように思えた。

 先に起こる黄巾の乱からの群雄割拠の事を知識として知っているから、余計に。

 

 

 勅命として錦帆賊討伐の命令が出た事で、俺達が討伐に参加しないと言う選択肢は完全に断たれたと言って良いだろう。

 勅命に逆らうと言う事はそのまま朝廷へ翻意ありと見做されるからだ。

 

 毎日のように行っていた会議の席で討伐に参加しないと言う意見は既に少数になっていたから、これ自体はさして問題ではない。

 

 問題は朝廷から錦帆賊討伐の陣頭指揮を取る将軍が送られてくると言う話だ。

 朝廷の命を受けて地方領主の軍がそれぞれで動くのであれば、討伐を達成するに当たってある程度の自由があった。

 

 しかし朝廷から指揮官が差し向けられる事になった今、戦をするに当たっての方針は全てその将軍の指示を仰がなければならない。

 その誰とも知らぬ将軍から出される命令に逆らう事もまた、朝廷への翻意と見做されてしまうからだ。

 どのような人格の将軍が送られてくるかにもよるが、今まで立ててきた錦帆賊を可能な限り生かす策を実行する事が出来なくなる可能性が高い。

 頭の痛い問題だ。

 

 将軍の采配次第で俺達は武勲を上げるどころか深桜の望んだ戦場に立つ事すらも出来ない可能性がある。

 考えうる限り、最悪のケースだが充分にありえる。

 しかし俺達が将軍を選ぶ事は出来ない。

 己の利益を最優先にして他をないがしろにするような人間が送られてこない事を祈る他ないのだ。

 

「ふっ! はっ!」

 

 解決策の見つからない問題を思案しながら、俺は鍛錬場で『武器』を振るう。

 深桜からの使者(勿論、見た目は農民に偽造されていた)から近況を報告する竹簡をもらった時に渡された物だ。

 

 この時代で主流になっている直剣と同程度の長さ(目算だがおよそ三尺ほどだろう)で直径が一寸一分(約三センチメートル)の円形の棍が四本。

 それが渡された武器だ。

 

 正直、初めて手に取った時は使い方がわからず首を傾げた。

 叩きつけると言う棒状武器の特性上、直剣よりも強度はあるがやはり細く、頼りなく見える。

 戟などのこれ以上に太い武器を受け止めれば容易く折れてしまうだろうと予想出来た。

 

 最初は折れる事も想定して四本あり、一本ずつばらばらに使用する物だと考えたが。

 四本の棍それぞれの両端が特殊な形状をしている事に気付き、俺はこの武器が恐ろしく癖の強い物である事を理解した。

 

 この四本の棍は棍と棍とを連結させる事が出来るのだ。

 しかも組み合わせを選ばない。

 どの棍同士であっても連結させられるよう連結部分が全て同じ構造で作られているのだ。

 四本すべてを連結させる事も可能で、全てを繋げた時の長さはおよそ十二尺(およそ三百六十センチメートル)になる。

 既存の武器ではなかなかお目にかかれない長さだろう。

 

 状況に応じて使い分ける事を念頭に置かれている物と考えられる。

 しかし逆に言えば状況に応じて使い分ける事が出来ない人間がこれを使ってもただの四本セットの棍以上の意味がないとも言える。

 一本で戦うも、二本を両手で用いて戦うも、連結させて戦うも、使い手の技量次第。

 そして何より常に己の状況を見定め、使い分ける冷静さが求められる。

 

 武器とは一般的に万人が使用出来て且つ誰が使用しても一定の成果を上げられる物が優秀だと言われているが。

 この武器はその真逆。

 使い手に自分を使いこなすだけの技量を求めている非常に偏屈な代物だ。

 

 製作者は一体、どのような考えでこの武器を作ったのか。

 どうやってこの時代の技術でここまで機能が完成された物を作る事が出来たのか。

 疑問は尽きない。

 

 この武器についてはとりあえず俺が所有する事になった。

 それが深桜の意思であるし、連結すれば槍などと同じ長物に分類される武器なので相性としては悪くない。

 そもそも既に扱う武器を定めている慎や祭たちには不向きだと言う事情もある。

 

 

 閑話休題。

 こんな物を『餞別』として送りつけてきた深桜の意図は理解している。

 残された時間が少ないと言う事を理解しているんだろう。

 恐らく今回の接触を最後と決めたのだ。

 

 その証拠に竹簡にはいつもの倍以上の文章が書かれていた。

 まるで何かに追い立てられているかのように。

 己の死期を悟った老人が残される者たちへ遺言を残すかのように。

 

 書かれていた文は俺の元にいる元錦帆賊の者たちを心配する物と、錦帆賊討伐に関連した近隣の村への根回しについて。

 どうやらこちらが事情説明と説得に動くよりも早く深桜たちが自分達が討伐される事、それに建業が参加する事とその意図について彼らが関わりのある村に話をして回ってくれたらしい。

 村の人間達も国に逆らう事が出来ない俺達の立場について納得は出来ないまでも理解はしてくれたとの事だ。

 

 勿論、全ての反発を抑えられた訳ではない。

 しかしその辺りは事が終わった後に俺達の手で責任を持って対処する事だ。

 むしろそこまで深桜たちにやらせてしまっては俺達の立つ瀬が無いだろう。

 

 そして文章の最後は俺や建業の人間への感謝で締めくくられていた。

 

「ふぅぅうう、せいっ!!!」

 

 やるべき事は未だ山積みだ。

 この癖の強い武器を使いこなす為の鍛錬。

 もちろん部下たちとの日々の調練もこなさなければならない。

 そしてあからさまに動き出した周辺諸侯への警戒を兼ねた領内の哨戒に建業の警備。

 錦帆賊討伐に向けた戦略会議と必要な物資の確保も慎達と手分けして行っている。

 軍事的な仕事だけでもかなり多い。

 

 これらの仕事に加えて俺は個人的に作物の品質向上を目的にした家庭菜園を作っている。

 俺の記憶では黄巾の乱勃発の前後に大飢饉が起こり、国中が餓えに苦しむ事になる。

 その対策が出来ればと思って始めた物だ。

 とはいえこれについてはまだまだ手探りで、結果が出るには時間がかかる。

 農業については広く浅い程度の雑学しか持っていない以上、成果を上げるには時間をかけてじっくりやっていくしかないだろう。

 大飢饉に間に合うかどうかは現段階ではわからないが、対策を講じる事を無意味とは思わない。

 

 前世では三十路を越えた頃から身近な環境は非常に恵まれた物であり、飢饉や深刻な食糧不足とは無縁の生活が出来た。

 だが今の世では何が原因で食糧難になるかわからない。

 それこそほんの少し雨や日照りが長続きするだけでも作物が取れないと言う事もあり得る。

 

「やぁ! えいっ!!」

 

 まだ幼い子供の声が俺の耳に届く。

 父親譲りの反り返った刀で素振りをしている甘嬢改め思春に視線を向けた。

 

 家族とも言える繋がりを持つ錦帆賊の討伐が正式に決まった日。

 俺は元錦帆賊の面々と思春を自分の家に集め、事の次第を改めて話した。

 

 彼らの身内を討伐する事になるのだ。

 事情を正確に知り、自分の行動を選択する権利が彼らにはある。

 建業を見限り去っていく決断をしても、咎める気も罰するつもりも無かった。

 

 彼ら自身、兵役に就く事になった時点でこうなる事は理解している。

 だから俺が説明した後も激昂する様子もなく、少なくとも表面上は冷静に事態を受け止めていた。

 

 しかし俺は錦帆賊と言う集団が強い絆で結ばれている事をこの目で見ている。

 だから静かに俺の話を聞いていた彼らの様子が、歯を食いしばって堪えているようにしか見えなかった。

 そんな彼らの中にいて思春は不自然な程に感情を見せなかった。

 

「駆狼様。わたしたちは大丈夫です。ずっと前にわたしたちはかくごを決めましたから」

 

 むしろ討伐に参加する以外の選択肢が無い自分達の無力さを謝罪した俺を気遣って見せた程だ。

 

 だが俺にはその姿が泣くのを我慢しているようにしか思えなかった。

 家族として過ごす深桜と思春の姿を知っているから、やせ我慢をしているようにしか見えなかったのだ。

 

 元錦帆賊の面々の中では最年少である思春。

 この子と同年代でありながら飛び抜けた知性を持つ子供を俺は何人か知っている。

 

 自分が幼い事など関係ないと言わんばかりに、理性的に物事を判断している彼女らはどこか危うい。

 

 特に思春はその剣の腕と身体能力も飛びぬけて高く、将来を期待したくなる頼もしさを感じる。

 だが余りにも張り詰めて見えるその様子には何かの切っ掛けで崩れてしまう脆さが目に見えてわかってしまう。

 

 泣きたい時に泣けなくなると言うのは、あまりにも辛すぎる事だ。

 溜まりに溜まって爆発する前にどうにかして吐き出させなければならない、この子の気持ちを。

 

「思春」

「はい! なんでしょう、駆狼様!!」

 

 一心不乱に振っていた剣を止め、真剣な表情で声を張り上げて返事をする彼女を見つめる。

 

 額から流れ落ちる汗は思春の紫色の髪を伝って地面に落ちた。

 昼食を取ってからずっと剣を振るっていた為に服にも汗が染み込んでまるで頭から水をかぶったかのような有様だ。

 恐らく今、着ている服を絞り上げれば汗が滝のように流れ出る事だろう。

 

 普通に気遣ってもこの子の性格上、なんでもないの一点張りになるのは目に見えている。

 自分の事となると一度、こうと決めれば非常に頑なになる傾向が強いのだ。

 一体、誰に似たのやら。

 

 そんな頑固な人間を素直にさせるにはどうすればよいか。

 幾つか方法はあるが、そのうちの一つを使うとしよう。

 多少、骨は折れるがこのまま素直な気持ちを心の底に溜めこんでしまうとこの子自身が危険だ。

 子供の未来のために惜しむ骨身など俺には無い。

 

「これを使った対人戦の訓練をしたい。悪いが付き合ってもらえるか?」

「えっ? 私が、ですか?」

 

 自分を指で示して子供らしい丸々とした瞳をぱちくりする。

 俺の提案が予想外で、驚いているのだろう。

 最近は誰かと鍛錬をするよりも武器の使い方の研究を優先させていたからな。

 この子が驚くのも無理はない。

 

「ああ。一通り試してこれで出来る事を把握した。後は実戦で鍛えたいから相手を頼みたい」

「わ、私のようなみじゅく者でよければよろこんで!」

「……そう気負う必要はないが、よろしく頼む」

 

 尊敬してくれるのは嬉しいと思う。

 だがどうもこの子の場合、行き過ぎているように思える。

 まるで一時期、俺と会話するのにも緊張していた冥琳嬢を彷彿とさせる態度だ。

 変に緊張し過ぎる所までは行っていないようだが、この辺りも早めに矯正しないと拙いかもしれない。

 

 しかし今はそれは置いておき、お互いに距離を取る。

 思春は刀を逆手に構え、俺は四本のうち二本を連結させた棍を両手で縦に構えた。

 残り二本の棍は両腰に紐でぶら下げている。

 

「いざ……」

「まいります!!」

 

 示し合わせたように同時に声を上げ、俺達はお互いの獲物を振りかぶった。

 

 

 

 私にはあこがれている人が二人いる。

 一人は父。

 そしてもう一人が今、たんれんの相手をさせていただいている駆狼様だ。

 

 お二人とも私などでは遠く及ばない武を持っておられ、さらに智にも長けている。

 その背中の大きさをわたしは身を持って知っている。

 

 いつか並びたいと願って止まないその背中。

 こんなにも近くにいるのに、実力の差はとても大きくて遠い。

 幼いころは父に、建業に来てからは駆狼様に、その事を日々のたんれんで思い知らされている。

 

 それでもあきらめようとは思えないのは、お二人の人柄を知っているからだ。

 

 

 父は自分の強さに『誇り』を持っている。

 たたかいとなれば常に一番前に出て、皆を引っ張って敵をたおす。

 父がたたかって負けるところをわたしは見た事がなかった。

 

 でも錦帆賊の皆には常々、こう言い聞かせている。

 

「俺が強くなったのはお前らがいてくれたお蔭だ。一人じゃどっかで野垂れ死にしてたさ」

 

 私には信じられなかった。

 たしかに父は仲間と家族を大切にする人だけど、父なら一人でもずっと生きていけるんじゃないかと思っていた。

 

「人間ってのはな、一人で生きてくには限界ってもんがある。どこかで誰かに、あるいは何かに寄りかからないとぶっ倒れてそのまま死んじまう。そういう弱い生き物なんだぜ?」

 

 私の頭を強くなでながら空を見上げて父は言った。

 

「俺はそれにぎりぎりの所で気付いた。気付かせてくれたのは想だったな」

 

 力強く笑ったその顔が、私にその言葉を信じさせてくれた。

 その日からますます父の事をうやまうようになって、そんな父にたよってもらえるようになりたいと言う新しい目標が出来た。

 

 

 駆狼様は自分の強さをけっして他人にじまんしない方だ。

 けれど日々のたんれんを決してなまけず、いつも真剣にやっている姿はすごく……格好いい。

 

「俺は家族や友を守るためにどうすればいいか考えて、ずっと努力してきた」

 

 守りたいと思い、自分に出来る事をずっと考えて最初に思いついたのが身体をきたえる事だったと言っていた。

 

「だが自分に出来る事は限られてくる。身体を鍛えても手の届かない所が必ず出てくる。それを補う為に何をすれば良いかを今度は考えた」

 

 そうしている内にせんじゅつやせんりゃくを考えるようになり、さらには生活を良くする方法を思いついたと言っていた。

 

「どんな事でも良い。昨日の自分に打ち勝つ事。それが俺の生涯の目標だ。恐らく死ぬその瞬間までこれは変わらない」

 

 まるで今日はここまで歩いてみようとでも言うかのような軽々しさで、あの方は生涯の目標を語ってくださった。

 

 しかしその目は口調とはちがってすごく真剣で。

 その言葉がうそではないとわたしにはそう思えた。

 初めて出会ったあの日のあの時から、その言葉がずっとわたしの心に残っている。

 

 

 そんなお二人が私にとっての目標で、あこがれになるのは当たり前の事だった。

 特に駆狼様へのあこがれはこうして建業に仕官してから日に日に強くなっている。

 

 けれど。

 決して口には出さないけれど。

 私はお二人がたたかわなければならない事をこわいとも思っていた。

 

 少し前にその時が近づいている事をわたしたち錦帆賊だったみんなは駆狼様の口から聞かされている。

 みんな、その事に何か言ったりはしなかったけれど。

 仲間とたたかう事がいやだって思っている事がよくわかった。

 駆狼様も父たちとたたかうのをいやだと思ってくださっている。

 

 私もそうだ。

 そんけいするお二人がたたかう。

 そしてどちらかが……死んでしまうかもしれない。

 その場に私がいるかもしれない。

 

 そう考えるととてもこわくて……でもみんなが同じ気持ちだから誰にも言う事ができなくて。

 駆狼様もなにかに苦しんでいるご様子で父からのおくり物だと言う武器を振っていた。

 真剣だけど、いたみをがまんしているようなご様子で声をかける事も出来なかった。

 

 そんな駆狼様から相手をしてほしいと言われた時はすごくびっくりした。

 じゃまをしてはいけないと思って、でもなんとなく近くにいたくて傍で剣を振っていたのだけど。

 声をかけてもらえるとは思わなかった。

 

「いざ……!!」

「まいります!!」

 

 今までの素手でのたたかいかたとは違う、駆狼様の新しいたたかいかたが見れる。

 そう思うと不思議と今までの不安が消えていくように思えた。

 

 勝負は長くは続かなかった。

 今までのたたかいかたも、足、手、全身を使って何をされるかわからないこわさがあった。

 でもこの棒が新しく加わった事で、どういう攻撃が行われるかがわたしにはまったくわからなくなっていた。

 

 二本の棒をつなげて突きを放ったと思えば、まるで自分の放った突きを追い抜くようなはやさで矢のようなけりが放たれる。

 けりをかわせたと思ったら、腰につけていた棒をようしゃなく投げつけられ。

 それを剣でなんとか弾いたと思えば、その手をうでで絡め取られ、気が付けば身体が一回転して地面に叩きつけられていた。

 

 何が起きたのかまったくわからないまま、わたしは負けていた。

 

「ふぅ、すぅ、……まだまだだな」

 

 深く息を吸って吐き出しながら、魚が釣れなかった時の父を思い出させるふまんそうな顔で呟く駆狼様。

 

「これ、で、まだまだ……だなんて……」

 

 あんまりな言葉に大の字で地面に転がったまま息を整えるわたしを見下ろしながら駆狼様は手を差し出した。

 

「大丈夫か、思春」

 

 ああ、やめてください。

 その父と良く似た顔をするのは。

 私を愛してくださる父のような、まるで私を包み込もうとするかのようなその温かい手を差し出すのは。

 

 がまんが出来なくなってしまうではないですか。

 

「う……ありがとう、ございます」

 

 思わずのどがひくついて目元がゆるんでしまう。

 こぼれそうな涙をこらえながら手を貸して下さったお礼を言う。

 

 声がふるえてしまっているのが自分でもわかった。

 でもだめだ。

 みんなが苦しんでいるのにわたしだけ弱音を言うわけにはいかない。

 ごつごつとした温かい手をお借りして立ち上がると汗を拭うふりをしながら目から出そうになった涙を拭く。

 

「気にするな」

 

 服に付いた土を軽く叩いて落としてくださる駆狼様。

 ふれる手の温かさが気持ちよくて、されるがままになっていると駆狼様の右手がわたしの頭に置かれた。

 

「もう良い時間だ。俺は汗を流したらそのまま食事に行こうと思うが良ければ一緒にどうだ?」

「あ、えっと……私がごいっしょして良いのでしょうか?」

「俺が行こうと誘っているんだ。良いのか、なんて聞き方はしなくていい。勿論、お前が嫌でなければだが」

「そんな事はありません! わかりました、ごいっしょさせていただきます!!」

 

 私が駆狼様の事をいやがるなんてありえない。

 そんな思いで声を張り上げてしまった。

 

「そうか、なら汗を流した後に城下の案内板の場所で待ち合わせよう」

「あ、あう……わ、わかりました!」

 

 思わず上げてしまった大声が恥ずかしくなってわたしは逃げるように鍛錬場を出て行った。

 

 

 駆狼様からはなれると、さっきまで消えていたこわい気持ちがまた出てきた。

 

 父と駆狼様。

 どちらかが死んでしまうかもしれないというこわさを思い出してしまった。

 

 どちらにも死んでほしくない。

 だってどちらが上かなんて比べられないくらいに私はお二人の事をそんけいしているから。

 

「う、うう……」

 

 頭に感じていた温かさを思いだして、今はそれが無い事がすごく心細かった。

 涙が出そうになるのをがまんして、駆狼様をお待たせする事がないよう汗を流す為に井戸に向かって走り出した。

 

「あっ!?」

「きゃっ!?」

 

 前をよく見ないで走っていたせいでだれかとぶつかってしまう。

 ずっとたんれんをしていて疲れていたせいで、わたしはぶつかった相手に弾かれるように尻もちをついてしまった。

 

「ご、ごめんなさい……」

 

 あわてて相手にあやまる。

 なんだかなさけない気持ちになってさっきまでとはちがう気持ちで泣きたくなってきた。

 今にも出そうになる涙をぎゅっと抑え込んで立ち上がろうとするけど、足がふるえて上手くいかない。

 またなさけなくなってぶつかった人に顔を見られないようにうつむいた。

 

「わ、私は大丈夫よ。それよりも貴女は平気?」

「えっ? あ……」

 

 いきなりぶつかってきた相手を心配しながらそっと手を差し出す相手。

 その予想外の手の小ささにわたしは思わず声を上げて顔を上げてしまう。

 

 そこには同じくらいの年の、でも私なんかとは全然ちがうふんいきの女の子がいた。

 

「どうしたの? やっぱりどこか痛いの?」

 

 その子、いやその方の事は知っていた。

 建業に来てから何度か遠目で見た事があったから。

 守るべき人として教えられていたから。

 

「孫仲謀、様……」

 

 わたしにとってこの日は。

 一生を共にする友人であり。

 守りたい人であり。

 そしてお仕えする主を見つけたとても大切な一日になった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十六話

お久しぶりです。
色々とリアルの事情でごたついており、作業が遅れておりましたがどうにか投稿が出来ました。
今後もペースは大幅なダウンが見込まれますので、気長にお待ちいただければ幸いです。



 手早く身支度を整えて思春との待ち合わせ場所で待つ事、およそ四半刻(三十分)。

 人の流れを眺めていると困惑した表情の思春が姿を現した。

 蓮華嬢に手を引かれて。

 

「驚いたな」

 

 蓮華嬢の方は笑顔で彼女の手を引きながら俺に手を振っている。

 その笑顔は姉妹と言う事もあり、雪蓮嬢や小蓮嬢に良く似て無邪気な物で、俺は思わず目尻を緩めて和んでしまった。

 

 俺の記憶が確かなら思春と蓮華嬢に接点は無かったはずだ。

 仮にあったとしてもせいぜい見かけた時に挨拶を交わすくらいな物だと思う。

 

「そんなあの子と手を繋いでくるとは……蓮華嬢もやるもんだ」

 

 元々、蓮華嬢は同年代で兵卒をしている思春を気にしている様子だった。

 だが思春の方は蓮華嬢や雪蓮嬢たちの事を雲の上の人間だと思っている節があり、どちらかと言えば避けている。

 自分が錦帆賊であると言う事が身分ある人間に対する負い目や引け目になっているのかもしれない。

 

 満面の笑みで手を振る彼女に軽く手を振り返しながら、俺は孫家の血の為せる奔放さを改めて思い知らされた。

 

 未だに困惑した様子の思春が少し不憫に思えたが、これも良い機会と見るべきだろう。

 幼い身の上で気を張り詰め続けているこの子に肩の力を抜く事を教えるには。

 

「おじさま。遅くなってごめんなさい!」

「駆狼様、遅くなって申し訳ありませんでした!」

 

 駆け寄ってきた二人が勢い良く頭を下げてきた。

 細かい時間を指定して約束したわけでもないのに律儀と言うか真面目と言うか。

 そういう所はよく似ている二人だ。

 

「気にしなくていい。俺も今、来たところだ」

 

 ある種の常套句を口にして二人に頭を上げさせる。

 一応、それとなく周囲に視線を巡らせるが、今のところ特に間者らしい姿は見られない。

 ただの一般兵である思春だけならともかく蓮華嬢が来ている以上、警戒は必要だ。

 

「しかし蓮華嬢はなぜここに? 確か今日は政治についての勉強をしていたと思うが……」

「お昼までの分の勉強はもう終わりました。飲み込みが良いと婆やにもほめられました!!」

「あの滅多に人を褒めない老先生がか? それはすごいな」

「はい!!」

 

 蓮華嬢が婆やと呼ぶのは建業に蘭雪様たちが入るよりも以前から仕えていた文官の一人の事だ。

 優しげな風貌とそれに見合った丁寧な言葉遣いをする人物だが、他者に非常に厳しい性格をしており一度でも関わった者からは恐れられている。

 しかし人に物を教える事を生業にしていた事がある俺や不特定多数の人間の介護や看護をやっていた事がある陽菜から見ると、彼女の厳しい態度が期待の裏返しであるとわかる。

 自分が嫌われ恨まれようとも若者の成長に貢献しようとするその姿勢は、見習わなければと自然に思わせる物だ。

 

 彼女は成り上がり者であるところの孫家の人間に対して偏見などがなく、むしろ多大な期待を抱いている。

 蘭雪様や陽菜、美命はもちろんその血族である雪蓮嬢や冥琳嬢たちに対しても同じであり、蓮華嬢もそんな彼女の期待を背負い丁寧で厳しい授業を受けているというわけだ。

 

 さらに彼女らよりもさらに後から建業に入った俺たちに対してもある種の期待をしているように思える。

 激や慎など文官として政治にも関わる事がある者には特に。

 

 建業太守の妹と婚姻を結んだ立場になる俺も彼女のしごきを受けている。

 もっともこれまでの村での経験と前世の知識のお蔭で飲み込みが良かった俺は、早々に彼女からこれなら安心だと太鼓判を押されているのでしごかれている期間は短かったのだが。

 

 そんな老先生が面と向かって人を褒めると言うのは正直なところ非常に珍しい。

 褒めないと言う事はないのだが、いつも遠回しな物言いをするので素直に褒められたと認識できる人間が少ないのだ。

 特に子供たちには彼女の言葉の意味する所は伝わり難い。

 彼女の教えを受けている子供は基本的に皆、聡いのだが雪蓮嬢や小蓮嬢は難しい言い回しをする彼女を苦手としている。

 冥琳嬢は彼女の言葉の本意を察する事が出来るので、彼女との仲は良好だ。

 

 しかし蓮華嬢が言ったように率直に褒められるような事は俺の知る限りは無い。

 それだけ蓮華嬢が頑張ったと言う事なのだろう。

 

 まぁあの人の事はいい。

 とりあえず蚊帳の外になっている思春を話の輪に加えなければな。

 

「甘嬢、行こうか。俺の奢りだが何か食べたい物はあるか?」

「え? あ、えっと……その」

 

 蓮華の手を握ったまま、意味もなくもう片方の手を振り回して慌てる思春に苦笑いする。

 

「遠慮するな。仕事が忙しくてなかなか金を使う機会がないから余裕はあるぞ?」

 

 実際、生活費を除けば二人の妻への贈り物か部下たちへのちょっとしたご褒美くらいにしか金は使っていない。

 他の面々に比べれば遥かに蓄えがある。

 

「あの、部隊の人から肉まんがおいしいお店があると聞いたのですが……」

「ほう……ならそこに行くか。蓮華嬢もそこでいいか?」

「はい、おじさま! あ、甘卓はこっちね?」

 

 俺の言葉に頷くと蓮華は自分が握っていた思春の手を俺の右手に握らせ、自分は俺の左手を握った。

 子供たちに挟まれ、両手を掴まれている状態だ。

 

 蓮華嬢は鼻歌混じりに楽しそうに歩き出し、引っ張られるような形で俺が足を進め、それに釣られて思春も歩き始める。

 当初の予定とは異なる形になったが、まぁそれは仕方ないと割り切るとしよう。

 むしろ蓮華の存在が思春に良い影響を与えてくれるかもしれない。

 

 思春に場所を聞きながら俺たちはゆっくりと歩を進めた。

 

 

 

「はふはふ……おいしいですね、駆狼様、甘卓」

「ああ、美味いな」

「は、はい。おいしい、です」

 

 三人並んで広場のベンチに座り、仲良く出来たての肉まんを頬張る。

 

「良い店だったな。教えてくれてありがとう、甘嬢」

「い、いえ! 私は聞いただけですので」

 

 黙々と、しかし顔を綻ばせながら肉まんを食べていた思春に礼を言う。

 口に入れていた分を呑み込んでから謙虚な態度を取る彼女を見つめながら苦笑いした。

 

「教えてくれたのはお前だ。感謝くらい素直に受け取っておけ」

「は、はい……」

 

 思春ははにかみながらもそもそと残った肉まんを口に入れる。

 礼を言われた事が嬉しい気持ちを隠し切れていないのが微笑ましい。

 

「甘卓、照れているの?」

「あ、あう……その……」

 

 ここぞとばかりに機会を窺っていた蓮華嬢が話しかけてくる。

 彼女は思春に興味津々らしい。

 まぁ思春は仕えるべき人間に押せ押せで声をかけられてとても戸惑っているが。

 元々、寡黙な方である思春に今の蓮華嬢の相手は酷だ。

 

「蓮華嬢。もう少し落ち着いて話せ。甘卓が困っているだろう」

「えっ! も、もしかして迷惑だった?」

「そ、そんな事はありません!!」

 

 不安げに瞳を揺らしながら聞く蓮華嬢の言葉を慌てて否定する思春。

 しかし自分への態度が釣れないからか、蓮華嬢は思春の言葉を信じられずに重ねて問い返す。

 

「……本当に?」

「本当です!!」

「そう、良かった」

 

 思春が力強く言い切った事でようやく彼女の言葉を信じられたらしい。

 蓮華嬢は花が咲くような明るい笑顔を浮かべながら残っていた肉まんを平らげた。

 それに倣うように思春も肉まんを口に入れる。

 

 一足先に食べ終わっていた俺はようやく話をする取っ掛かりを得た二人の様子を微笑ましいと思いながら周囲を眺めていた。

 

 今の所、特に怪しい人物はいないようだ。

 その途中で何度か部下たちとすれ違い、こちらの状況は伝わったんだろう。

 部下たちがすぐに察してくれたお蔭で街に繰り出した時はいなかった護衛が俺が認識する限り五、六人いる状態だ。

 万全とは言えないと思うが通常勤務として建業を見回っている奴らを含めれば、相手の行動を抑止出来るくらいには厳しい警戒態勢だろう。

 

「甘卓は空いている時間に何をしているの?」

「と、刀厘様の部隊の一員として日々、たんれんをしています」

「ううん。そうじゃなくて調練がおわった後の時間よ」

「?? ですからたんれんを……」

 

 話が微妙に噛み合っていない。

 というかまさか思春は自由な時間ですら鍛錬に当てていたのか?

 建業軍に入った錦帆賊の面々の中で一人だけ飛び抜けたペースで調練に馴染んでいたが、軍務以外の時間も鍛錬していたとするならそれも頷ける話だ。

 

 ただでさえあの幼さで強さが頭一つ抜きん出ていると言うのに、息抜きもせずにひたすら鍛錬をしていれば、な。

 

「もしかして、遊んだりしてないの?」

「あそび……えっと、こちらに来てからはぜんぜんやっていません」

「そ、そうなの?」

 

 しまったな。

 錦帆賊の面々に関しては部隊の皆が建業での生活に馴染んできたかを確認してきたんだが。

 この子以外の者たちが割と早い段階で馴染んだ様子だったから、てっきりこの子もそうだと考えていた。

 まさかここまで鍛錬漬けの日々を送っていたとは。

 

「……甘卓。調練以外の時間はずっと一人で鍛錬をしていたのか?」

「はい。私たちは建業の方々に助けていただきましたから、早くお役に立てるようになりたいと思いまして」

「……そう、か。無理な鍛錬はしていないな?」

「刀厘様にも父にも疲れたら休むように言われていますので、大丈夫です」

 

 真面目な思春の事だからこの言葉は信じても良いとは思う。

 だがどうしても不安が残るな。

 

「なら良い。ただ出来れば鍛錬以外にも何か自分が楽しいと思える事を見つけた方が良いな。あまり根を詰め過ぎて肝心な時に倒れるようでは兵士失格だぞ」

「はい、気を付けます!」

 

 背筋を伸ばして俺の苦言を受け取る思春。

 その様子を見るともはや肩の力を抜くと言う事を知らないとすら思える。

 真面目な性格が災いしているのだろうが、これは根が深いな。

 今日一日でどうこう出来るとは考えない方が良いか。

 結果を急いでこちらの思惑を押し付けたところで、この子の張り詰めた心を解きほぐす事など出来ないだろう。

 

「おじさまもこうおっしゃっているのだし。甘卓、今日は少しあそんでみましょうよ!」

「え? あの、仲謀様?」

 

 俺の言葉に活路を見出したのか、またしても押せ押せになる蓮華嬢。

 思春は大きめの瞳をパチクリさせながら、両手をがっしり掴まれて捲し立てられて困惑している。

 

「そうだな……まだ時間はある。食事の腹ごなしにその辺りを歩くか? 気分転換にはなるだろう」

「それは良い考えですね、おじさま! 甘卓はどう、まだ時間はある?」

 

 太陽はまだ真上、昼飯は食べ終わったがまだ午後の訓練までは時間がある。

 

「と、刀厘様がよろしいとおっしゃるなら……」

「じゃあ決まりね! 行きましょ!! おじさまも早く立ってください!」

「は、はい」

「ああ、わかった。わかったからそう急かさないでくれ」

 

 いつになくはしゃいでいる蓮華嬢が俺と思春の手を引く。

 思春は相変わらず彼女の態度に戸惑いながらも、ベンチから立ち上がる。

 俺も彼女らの足に合わせて歩き出した。

 息を潜めている、あるいは人ごみに紛れている護衛たちに目で合図する事を忘れずに。

 

 

 その後は何事もなく俺たちの散策は無事に終わった。

 子供たちは存分に楽しんでいたようで、城に帰る頃には思春も幾分か肩の力を抜いて蓮華嬢と話が出来るようになっていた。

 

 真名を預けあい、完全にじゃれあう様は完全に仲の良い友人のそれである。

 それでも様付けと敬語は抜けなかったが、これは彼女の生真面目な性格故に仕方のない事だろう。

 敬語や様付けなど気にしないくらいに蓮華嬢も思春の事を知る事が出来たようだし。

 

 あの二人の友人関係はまだ始まったばかりなのだ。

 これからもああやって話をして仲を深めていけばいい。

 基本的に俺が手を出す必要はなくなったと思っていいだろう。

 初々しい二人の様子を見守りながら必要と感じたら、あるいは助けを求められたらその時は助言をするようにしよう。

 必要以上に干渉するのは無粋だ。

 

 

 

 

 今日は建業に来てから一番楽しい一日になりました。

 短い時間ですが駆狼様と仲謀様と一緒に町を歩き回ってあそんだのです。

 

 おいしそうな食べ物を駆狼様に買っていただいたり。

 広場で旅芸人の方が歌ったり、おどったりしているのを見たり。

 たいまつを両手に持って振り回したり、頭の上に投げてもう片方の手で受け止めるのをくりかえす芸(駆狼様はおてだまと呼んでいた)をしていたり。

 長江に、船の上にいた時には見れなかったものをたくさん見る事が出来ました。

 

 仲謀様にとっても、駆狼様にとっても、そして私にとっても。

 今日という日はとても楽しい一日になりました。

 

 私は仲謀様の事を守るべきお方で、お日様のように『いる事は知っていても手の届かないところにある物』だと思っていた。

 でも今日、初めてお会いして、初めてお話をして、初めていっしょにあそんで。

 このお方が手を伸ばせば届く場所にいる、『私たちと何も変わらない人』である事を知りました。

 

 時間があるかぎりたくさんのお話をしました。

 仲謀様は私と同じお年で、とても明るいお方。

 

 そして私と友だちになりたいとおっしゃってくださった初めての人。

 

 私の周りには同じ年の子供はいなかった。

 父や仲間たちがいたからさびしいと思ったことはありません。

 その事を気にした事も今まではありませんでした。

 

 でもさびしいと思ったことはなかったけれど、友だちがほしいと思った事は私にもあります。

 だからこそ初めての同じ年のともだちが私がお仕えしている方のお一人である仲謀様だなんておそれおおいとそう思いました。

 

「友だちになるのにおそれおおいとかそういう物はかんけいないわ。私は甘卓と友だちになりたいの。貴方は……いや?」

 

 その言い方はずるいと思います。

 だって私には友だちが今までいなかったのに。

 

 こんなにも私の事を気にかけてくださって、私の事を知ろうとしてくださるお方。

 そんな方と友だちになりたくないわけがありません。

 

「そ、そんな事、ありません。私も……仲謀様と友だちに、な、なりたい、です」

 

 声がふるえてつっかえつっかえになってしまったけれど。

 それでも私の気持ちを伝える事が出来ました。

 

「じゃあ私たちはもう友だち。わたしの真名は蓮華よ、これからよろしくね」

「わ、わたしの真名は思春です。よろしくおねがいします。れ、蓮華、様」

「友だちなのだから様なんていらないわ。かしこまった言い方もやめて」

「あ、あう……えっと、すみません」

 

 初めての友だち。

 でも私が守るべき人である事には変わりがないから様を付けて呼んだのだけど。

 蓮華様はほっぺをふくらませてしまった。

 

「この子は真面目だからな。そこは勘弁してやってくれ」

「むぅ……」

 

 駆狼様が言い聞かせてくださったから、きげんを直してくださったけれど。

 うう、どうすればいいんだろう?

 

 今度、駆狼様にどうすればよいか聞いてみよう。

 もっと蓮華様と仲良くなるために。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十七話

 あれから半年が経過した。

 

 思春は蓮華嬢との関わりを切っ掛けにして雪蓮嬢や冥琳嬢、小蓮嬢たちとも接点を得ている。

 少しずつ自分なりの輪を広げる事が出来ているようだ。

 

 建業全体としては錦帆賊討伐の為の軍備を整えながら、治安維持に努める日々だ。

 

 民の生活は安定し、領土全体の治安も安定し始めている。

 どことも知れない間諜の類は未だに建業の情報を手に入れようと潜入を試みてくるが、警備隊が水際で防いでいる状況だ。

 

 勇平が仕事のついでにと片づけていく事もある。

 伊達に毎回、建業の警備を潜り抜けてくるわけではない。

 彼にかかれば建業の警備はザルと変わらないと言う状態だ。

 相変わらずその心中は読めない。

 

 しかし彼が城下町の警備をまさに挑発するかのように出し抜いてくる現状は悪い事ばかりではない。

 警備隊の面々は上手い具合に対抗心を刺激されているらしく、その能力や団結力は日を追うごとに上がってきているのだ。

 少なくともヤツ以外で警備隊を出し抜くような存在は今の所、確認されていない。

 さらに最近は今まではまるで掴めなかった勇平の影を察知する事が出来るようになった者もいる。

 捕まえる事こそまだ出来ていないが、元々はまったく気付く事が出来なかったのだ。

 その進歩は相当な物だと思う。

 

 まさかと思うが自分に敵愾心を持たせる事で、こちらの総合能力を底上げする事が狙いなのだろうか?

 

 そこまでする理由がヤツには無いのだが。

 雇い主である荀昆にもそこまでこちらに目をかける理由は無いはずだ。

 意図するところが読めない事が、俺たちに彼らの存在を警戒させる。

 

 本当の意味で彼らに心を許す事が出来ないこの状況すらもあちらの思惑通りだとするなら。

 彼らは一体、何を目的としているのか?

 その真意は未だ不明のままだ。

 

 

 そしてとうとう。

 都から錦帆賊討伐の号令が正式に発表された。

 

 派遣されてくる総大将の名は朱儁(しゅしゅん)。

 そしてその副官には盧植(ろしょく)が付いていると言う。

 

 

 朱儁公偉(しゅしゅん・こうい)

 幼い時に父を亡くし、貧しい生活を送っていたが義を好み財に執着しない性格が幸いしてか紆余曲折を越えて出世した男。

 交州刺史に抜擢された事から戦場にも出て、幾つもの乱を平定している。

 俺の知識では黄巾の乱の際に皇甫嵩らと共に各地を転戦、自分と同じ揚州出身の孫堅を召し出している。

 董卓が洛陽に入るようになってからは彼と敵対し、朝廷からは距離を取ったと言う。

 最終的には董卓を警戒して、劉表を頼り出奔。

 董卓の死後に天子から招聘を受けて入朝するも李傕や郭汜の内紛に憤り、病を発症。

 同日のうちに病死している。

 既に形だけの存在と化していた天子からの要請で今まで共に歩んできた者たちと袂を分かち入朝する事が出来る辺り、漢王朝へ捧げる忠誠は相当の物だと考えられるだろう。

 

 

 盧植子幹(ろしょく・しかん)

 後漢末期に文武の才能を見込まれ立身した人で、黄巾の乱の追討にて功績を上げた武将の一人として知られている人物。

 身長が八尺二寸と二メートル近いが粗暴と言う事はなく、古今の書を読みほどき博学で節度のある性格であり人望も厚かったとされている。

 幽州琢郡にて学舎を作り、劉備や公孫瓚たちに学問を教えている。

 黄巾の乱の際に監察として派遣された宦官に賄賂を要求されたが、これを断った為にある事無い事を当時の帝である霊帝に報告され彼の怒りを買って官職剥奪の上で収監された。

 董卓の行動に面と向かって反対し、処刑されかけたがその人望の厚さ故に複数の識者の取り成しで助命されている。

 その後は隠居していたのだが冀州牧となった袁紹に招かれて軍師となり、しばらくして病死している。

 

 

 まさか漢王朝にその人ありと謳われた二人を派遣してくるとはな。

 よほど錦帆賊の存在が目障りなのかと俺たちは考えたが、美命の見解は違っていた。

 

 正確には俺が考えた側面も確かにあるが根本的な理由としては十常侍(じゅうじょうじ)と派遣されてくる二人に加えてもう一人の人物『皇甫嵩(こうほすう)』との不仲にある。

 

 

 十常侍(じゅうじょうじ)

 後漢の時代において霊帝の寵愛を受けて絶大な権力を振るった宦官たち。

 特に張讓、趙忠と言う人物は勢力が大きかったと言われている。

 自分たちの権力を最大限利用して親族の多くを地方官に取り立て、人民から搾取し続けている。

 この横暴に王室の将来を憂い、対立する者も多かったがその多くは漢王朝に対する反逆者として処断されている。

 逆にその絶大な権力におもねり、官職を得ようとする者も多かったと言う。

 黄巾の乱の際に内通者が出現した為に勢力が衰え始め、彼らの権力の外から台頭してきた大将軍何進が現れ、宮中は真っ二つに割れる事になる。

 その後、何進は張讓達の罠にかけられ殺害されるが、その蛮行に激怒した袁紹によって宦官とその陣営の者たちのほとんどを殺害している。

 張讓などの一部の人間は皇帝の子である劉弁、劉協を連れて逃げるが追手からは逃げ切れないと判断し自殺したとされている。

 

 余談だが宦官によって政治を席捲された事を鑑みて後漢から禅譲を受けた魏においては宦官に権限を与えない政治をするようになったと言う。

 

 

 皇甫嵩義真(こうほすう・ぎしん)

 若い頃から文武に優れ、読書を好み弓馬術の習得に励んだ人物。何度となく出仕するよう打診されるも何かしら理由を付けては辞退を繰り返し、霊帝から招聘されようやく太守になった出世欲の薄い人物。

 本格的な活躍は黄巾の乱の際であり、黄巾の武将を何人も(有名どころでは波才、張梁、張宝)を屠っている。

 その功績で冀州牧になり、民の負担の軽減、部下に対しての恩寵、汚職した官吏にすら温情をかけ信望を集めた。

 黄巾の乱後の力無き漢王朝討つべしと言う風潮に流される事無く、王朝への忠義を尽くした。

 董卓とは犬猿の仲であり、董卓が実権を握った後に逮捕投獄される。

 処刑こそされなかったが以降は董卓に逆らう事も出来ずに頭を垂れる他なかった。

 李傕たちが乱を起こした頃に病になり、没している。

 

 

 現在の皇帝を手中に収める事で朝廷の中枢を握る十常侍。

 彼らに真っ向から意見が出来て且つ彼らの一存で叩き潰す事が出来ないだけの権力を持った存在は少ない。

 

 彼ら三人はその数少ない人間らしい。

 水面下では馬騰や曹家、袁家などとも十常侍と確執があるらしいが現在、特に力を持っているのがこの三人なのだと言う。

 史実では皇甫嵩が力を持つのは黄巾の乱の後だったと思うのだが、既に朝廷にその人ありと言われているとはな。

 

 とにかく世間を騒がす賊を討伐すると言う大義名分の元、目障りな存在を一部だけでも朝廷から引き剥がし、自分たちの権力基盤をさらに強固にする事を考えての十常侍の策なのだと美命は読んでいた。

 

 奴らからすれば賊討伐すらも権力闘争の道具になるらしい。

 まったく、ご苦労な事だ。

 尤も皇甫嵩や曹一族、さらに袁家までもが都で睨みを利かせている状況で奴らの思い通りに事が進むかは微妙な所らしいが。

 

 

 建業から出陣する将は四名。

 蘭雪様、美命、俺、祭に決まった。

 残った者たちは領地の見回りと、建業の警備、政務を取り仕切る事になる。

 

 俺は討伐軍に組み込まれる事が決まった後、すぐに部隊の皆を集めてこの事を伝えた。

 そして改めて今回の戦に参加するかどうかを一人一人に問いかけ、その答えを求めている。

 もし少しでも躊躇いや迷いがあるのなら作戦から外す事を明言した上でだ。

 

 俺たちは民から直接、錦帆賊のやってきた事を聞き、そして彼らと直接の面識がある。

 さらに部隊の三割は彼らの元にいた者たちだ。

 

 いざ戦場で切っ先が鈍れば、傷つくのは己だけでは済まない事を考えれば、必要な事だと俺は思う。

 この日を迎えるまで何度となく繰り返してきたやり取りではあった。

 しかしそれでも俺は問いかけ続ける。

 それが彼らの覚悟を侮辱する行為だとわかっていてもだ。

 

 錦帆賊『討伐』と言う命令が下った以上、表立って深桜たちを生かす為に動くことは出来なくなってしまったのだから。

 

 そして今回の戦いで建業軍に置ける先鋒は俺の部隊と祭の部隊だ。

 俺たちの部隊は他部隊と違った訓練方式により練度が高くなっている。

 現在の建業軍の中では突出した戦力になっていると言っても過言ではない程だ。

 

 いや一度は俺たちを建業に残す事も考えられたのだが、他の参加者の目があり激戦が予想される事から最大戦力を外す事は出来なかった。

 だからこそ昔の、いや今も仲間である人間に刃を向ける事の是非を問い続けた。

 

 結果は聞くまでもない。

 皆が皆、『覚悟はもう決まっている』と口を揃えて言った。

 

 事此処に至って、ようやく俺はこれ以上の問答が必要ないのだと理解し、そして納得する事が出来た。

 

「ならば心しておけ。俺たちがこれから行く場所にあるのは……仲間を殺す現実だ」

「「「「「「はいっ!!!」」」」」

 

 呆れるほどに唱和した声を受けて、俺も覚悟を決める事が出来た。

 

 

 

 錦帆賊討伐軍として結成された部隊が建業を出立する日。

 俺たちは玉座の間で出陣前の激励を受けていた。

 

「我々が不在の間、建業は頼んだぞ。深冬」

「はい、美命様。こちらはお任せください。くれぐれもお気をつけて」

 

「祭、駆狼の事よろしくね」

「勿論です。お任せくだされ、陽菜様」

 

「そっちは任せたぜ、駆狼。色々とキツイ事になりそうだが……無理だけはすんなよ?」

「駆狼兄ぃ、こっちは僕たちに任せて。お役目の事だけ考えてください」

「ああ、こちらは任せた。……あちらは俺たちに任せておけ」

 

「母さん、駆狼たちにめいわくかけないでね?」

「お母様、一人で飛び出したりしないでくださいね?」

「おいおいおい。お前たち、私に対してなんだか厳しくないか?」

「だって、ねぇ? 蓮華」

「そうですね、お姉さま」

「……お前ら、誰かに似てきたな」

 

 それぞれの言葉を受け取り、言葉を返す。

 

 心情的に厳しい戦いになる事は誰もが理解している。

 軽口を叩く者たちも、緊張からか声が上擦っていた。

 

 他の太守や朝廷に派遣された軍の目を掻い潜り、どこまでこちらの想定通りに事を進められるか。

 不安要素は多い。

 最悪の場合、何も出来ずに錦帆賊が蹂躙される様を眺めるだけで終わる可能性もあるのだ。

 

 派遣されてくる朱儁将軍と盧植将軍が噂に違わぬ高潔な人物である事を祈るのみだ。

 朱儁将軍については蘭雪様たちを取り立てた人物と言う事もあり、一定の期待が持てるのだがそれも絶対ではない。

 実際に現地に行き、自分の目と耳で確かめる他無いのだ。

 

 自分たちの力の無さが恨めしい。

 

 力を付けなければならない。

 権力を振りかざす理不尽に立ち向かう為にも。

 恐らく、俺だけが思っている事ではないはずだ。

 

 

 

 錦帆賊討伐軍の合流地点は荊州の襄陽(じょうよう)。

 何の因果かその場所は、興覇がかつて仕えていた劉表が太守を務めていた場所だった。

 

 俺たちが到着した時、既に陣が敷かれ漢の旗が立てられていた。

 出遅れたかと俺は内心で舌打ちをしたが、不意打ち気味に俺たちの前に現れた人物に目を見開く羽目になる。

 

「久しぶりだなぁ、文台!」

「これはこれは。朱将軍直々のお出迎えとは恐縮ですな」

「くくく! あのお前が世辞を覚えるとは。とても後先考えずに建業太守を切り捨てた女とは思えんな! 成長したと言う事か?」

 

 年の頃、三十前半と言ったところか。

 闊達とした男臭い笑みを浮かべたその女性の名が朱儁だった。

 討伐軍の総指揮官である人間の軍ならばどっしりと構えて時間に間に合わせる程度で現れると思っていたんだが。

 まさか誰よりも早く集合場所に到着しているとは恐れ入った。

 しかも随分と蘭雪様に友好的な態度の人物のようだ。

 

「お久しぶりです、朱儁将軍。変わらずご健勝のようで何よりです」

「おう、公共も一緒か! 久しいな。しかし……むぅ、幼台はおらんのか?」

「あやつは護身程度の武しか身に着けておりませんからな。留守を任せております」

「なるほどな。まぁ当然と言えば当然か。話をしたかったのだがなぁ、残念だ」

 

 祭も俺の隣で蘭雪様たちと談笑している朱儁将軍を見つめて呆気にとられている。

 官軍と関わる事が無かった身としてはこれほどフレンドリーに接してくるとは思っていなかったのだ。

 この荒んだ時代だと、どうしても腐敗した政治家や軍人のイメージしてしまうから余計に。

 

「まったく、お前たちが来てくれて助かった。他の連中は動きが鈍くてな。まだ俺と子幹しか来てないんでどうしたものかと思ってたんだ」

「盧将軍も既にいらっしゃるのですか? ならばご挨拶に向かいたいのですが」

「おう、やる事も無くて暇だしな。俺が案内してやるよ。ただその前に……そっちの二人はお前らの部下だろ? 紹介してくれ」

 

 矛先が俺たちに向いた。

 横で祭の身体がびくりと震えるのがわかるが、とりあえず俺はご指名に応えるべく一歩前に出て頭を垂れる。

 

「お初に目にかかります、朱将軍。建業にて武官を務めている凌刀厘と申します」

「……ほう? お前が『建業の懐刀』か。顔を上げろ」

「はっ」

 

 何やら気になる名称があったが、とりあえず頭の端に追いやり言われた通りに顔を上げる。

 じっと見つめてくる彼女と視線を合わせ、俺は微動だにせずただ見つめ返した。

 

「なるほど、良い面構えをしているじゃないか」

「都にその人ありと謳われた貴方様にお褒めいただけるとは光栄です」

 

 一分とはかからないだろう時間の見つめ合いで満足したのか、彼女は俺から視線を外した。

 なにやら小声で「面白い男だな」などと言っているのが聞こえたが、どういう意味だろうか。

 

「そっちは?」

「黄公覆と申します!」

「ほう、建業の新進気鋭二人を連れてきたか。……兵の練度も高いし、どうやら今回の討伐について建業は本気のようだな」

 

 俺たちが呑気に話している間に、陣を作り始めた部下たちの姿を見つめる朱儁将軍。

 その目は部下たちの動きを値踏みするように観察していた。

 

 俺と祭が朱儁将軍に挨拶する様子を黙って見ていた蘭雪様が不意に口を開く。

 

「……今なら他の領地の連中もおりませんから、この際はっきり聞いてしまいましょうか」

「ほう、何をだ?」

 

 猛烈に嫌な予感がした。

 蘭雪様は思いついたままに物を言う人の上に立つ人間としてはかなりまずい悪癖がある。

 

「朱将軍、錦帆賊の本当の姿はご存じですか?」

「文台様っ!?」

「文台、お前何を!!!」

「……止める暇もなく、か」

 

 間髪入れずに発せられた言葉に美命と祭は目を見開いて驚愕の声を上げる。

 俺は額に手を当てて頭痛を堪らえ、言葉を向けられた朱儁将軍は目を瞬かせた後にニヤリと笑って見せた。

 

「本当の姿と言うのは、彼らが民を守る義賊だという事か?」

「ええ」

 

 やはり都側でも調査を行っていたのか。

 

「勿論、知っている。しかしだからと言って討伐を止める事はもはや不可能だ。朝廷からの勅命が出てしまった今となっては、な」

「手心を加えて彼らを逃がす事は?」

「今回の戦に出るのが私たちとお前たちだけであれば手の打ちようがあったかもしれん。だが他の領地の連中がこぞって辛酸を舐めさせられた錦帆賊討伐に乗り気の状況では、な。手心を加えたところで残党狩りが起こるだけだ。私としても錦帆賊ほどの気高さと強さを持った連中を討伐するのには反対なのだが、下手に戦自体を長引かせるような真似をすれば宦官どもが何を仕出かすかわからん」

 

 事実上の八方塞がりか。

 勅命の威力はやはり大きいな。

 蘭雪様も覆しようのない状況を察したのか、苦虫を噛み潰した顔をして押し黙ってしまった。

 

「わかっちゃいるがこればかりはどうしようもない。お前や公共なら彼らの事に勘付くだろうとも思っていたが迂闊な真似はしてくれるな。下手をすれば錦帆賊の次に『逆賊孫堅を討伐』なんて事になりかねん」

「くっ……」

「これ以上の問答は意味がない。私でも、子幹でも、義真でも手が出せない状態だからな。……さっきの言葉は聞かなかった事にしておいてやる。……その顔では挨拶など無理だな。子幹への挨拶は後にして気持ちに整理をつけろ」

 

 踵を返し、朱儁将軍は去っていく。

 蘭雪様は去っていく彼女の背中を見る事なく俯いて唇を噛みしめていた。

 

「……蘭雪様、覚悟を決めてください」

「駆狼?」

 

 蘭雪様が錦帆賊を気に入っている事は痛いほどに知っている。

 しかし事此処に至っての悪あがきは剣先を鈍らせることにも繋がるだろう。

 あらためて選択しなければならない。

 建業の今後と錦帆賊の未来を。

 

「錦帆賊の皆も既に覚悟を決めています。大勢の官軍を道連れに首を差し出す覚悟を」

「わかってはいるんだ。だが、どうしても納得が出来ない。未熟だと自分でも思うが」

 

 自嘲気味に笑う蘭雪様。

 俺が思っていた以上に、彼女は錦帆賊討伐を嫌がっているようだ。

 しかしそれでは駄目だ。

 

「甘えないでいただきたい。建業の総大将がそんな事ではそれこそ無意味な人死にが出る。そんな有様で今後、迫られるだろう太守としての決断が出来るとでも? 出来ないと言うのなら今すぐに太守の座を美命か雪蓮嬢に譲って隠居してください。はっきり言って邪魔です」

「駆狼……」

 

 俺の言葉に祭が目を瞬く。

 蘭雪様に対して厳しい言葉を投げかけるのは俺たちが勧誘された時以来だから驚いたのだろう。

 

「……些か言葉はきついが駆狼の言う通りだろうな。蘭雪、気の向くままに気に入らない敵を屠ってきた豪族時代と同じではいられん。今回の事で太守と言う役割に嫌気が差したと言うなら、それも選択肢としてはありだろう」

 

 じっと君主と仰ぐ人物を見つめながら言葉を続ける美命。

 しかし蘭雪様の結論がわかっているのか、その瞳は妙に穏やかだ。

 

「ふん。そこまで臣下に喝を入れられてしまっては、迷いだなどと言っていられんな。美命も思ってもいない事を言うな。私が太守になる時にその事は嫌になる程に話し合っているんだ。今更引くつもりはない。ああ、そうだ。決断しよう。私は建業とそこに住む民を守る為に……錦帆賊を討つ」

「それでこそだ、蘭雪」

 

 満足げに笑う美命と不貞腐れたように口を尖らせる蘭雪様。

 俺の懸念が杞憂に終わったようで何よりだ。

 とはいえけじめは付けなければならない。

 

「過ぎた事を言いました。この懲罰は如何様にもお受けします」

 

 首を差し出すように頭を下げる。

 君主への暴言への罰なのだ。

 打ち首もやむを得ないだろう。

 

「懲罰、なぁ。……なら駆狼、建業軍の先鋒として前に出ろ。そして出来れば……『鈴の甘寧』とはお前がやりあえ」

「……了解」

 

 友として、真名を許し合った人間との殺し合いを懲罰とする、か。

 なまじ前世の記憶がある分、俺にはこの上ない罰になるな。

 だが恐らく蘭雪様にその意図はなく、単純に友の手で終わらせてやろうと言う一種の気遣いの意味合いしかないのだろう。

 覚悟を決めろと言ったのは俺だ。

 ならば俺も今まで自問し、何度となく結論を出してきた事に対して、今この場で改めて覚悟を決めよう。

 

「さて、内輪の話はこれで終わりだ。盧将軍のところに挨拶に向かうぞ」

「そうだな。あちらに出迎えさせるするわけにはいかん。誰かの弱音を聞いていたら遅くなってしまったなどと言い訳をするわけにもいかんしな」

 

 皮肉を利かせた美命の言葉にばつが悪そうに蘭雪様は顔を背ける。

 助けを求めるように視線を向けてきたので俺と祭は一瞬だけ視線を交わして無視する事にした。

 

「そうですね。行きましょう」

「そうですな。参りましょう」

「お、お前ら……助けろよ」

 

 恨みがましい主の言葉に俺たちは揃って肩を竦めながら歩き出す。

 全員が改めて確固たる覚悟を固めた為かその足取りは力強かった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十八話

 盧植将軍は陣の中央に置かれた天幕の中で地図を見つめていた。

 挨拶に来た俺たちの事を伝える見張り番に応える声は思いの他低く、年相応の圧力を感じさせる。

 

 彼は朱儁将軍よりもさらに年上の男性だった。

 理知的な瞳、見事な口髭。

 文官が着るようなゆったりとした服装の上に鎧を着込んだその姿は静謐さの中に戦場を生きる者の苛烈さが見え隠れしている。

 

「貴殿らが建業の孫文台殿とご一行ですな? お初にお目にかかる、盧子幹と申す」

「既にご存じのようですが改めて名乗らせていただきます。孫文台と申します」

「建業にて政務を取り仕切っております、周公共と申します」

「建業にお仕えしております。武官の凌刀厘です」

「同じく武官の黄公覆です」

 

 地図から目を離し、一部の隙のない動作で俺たちを正面に見据える。

 朱儁将軍もそうだったが、彼も俺たちを見定めるように見つめていた。

 

「……うむ。噂に違わぬ力強い面差しだな。多少の運に恵まれていたとはいえ建業を発展させてきた実力に偽りは無いようだ」

「盧将軍にそのように言っていただけるとは。光栄ですな」

「ふふ、公偉の言っておった通り、あまり世辞は得意では無さそうだな。腹芸の一つでも身につけねばこれから先、いらぬ災いを呼び込むことになるやもしれんぞ?」

「……精進いたします」

「よろしい。……情けない話だが他の領地の者たちの集まりが悪いようだ。申し訳ないが一先ずは陣を敷き、そこで待機していてもらえるだろうか。追って伝令で指示を出そう。最悪の場合、我々だけで討伐に出る事も考えられるのでそのつもりでいてほしい」

「わかりました。それでは失礼いたします」

 

 代表して美命と蘭雪様が頭を下げ、俺たちも連れだって天幕を後にする。

 挨拶としては無難だっただろう。

 与えらえれた指示も現状では当然の物だ。

 しかしまさか勅命での初動がここまで遅れるとは、他の領地の連中は何をしているのか。

 

 

 結局、廣陵や他の領地から討伐軍が到着したのは俺たちが到着した翌日の事であった。

 彼らが到着する前の段階で、朱儁将軍らが秘密裏に出していた密偵により遅れた理由も判明している。

 

 奴らの一部は手柄を立てる為に功を焦り、合流する前に錦帆賊に襲撃をかけていたのだ。

 結果は惨敗。

 長江を知り尽くしていると言っても過言ではない錦帆賊相手に水上戦を挑んだ者たちは船を失い、戦力の三分の一を失うと言う散々な結果になったと言う。

 這う這うの体で逃げ出し、合流地点に来た彼らの姿は実に痛ましい物であったが原因がわかった今となっては同情の余地などなかった。

 

 奴らは山賊と交戦した為に合流が遅れたなどと言い訳をしていたが、奴らの軍に紛れ込ませていた間者によりあっさりと真実が露見。

 三つの領地から派遣された軍の責任者は処罰を受ける事となった。

 

 この事は朱儁将軍たちの早馬が都に伝えていっている状態であり、皇甫嵩将軍経由で朝廷に伝えられるだろう。

 これが十常侍への直の報告なら賄賂なりで独断専行の事実を握り潰される可能性もあるのだが、皇甫嵩将軍から曹家、袁家を含めた十常侍と敵対する一派に話が伝えられた上での報告ならば正しく情報を伝える事が可能なのだと言う。

 

 当事者たちは良くて罷免、悪ければ極刑もあり得るという話だ。

 なにせ朝廷が指名した指揮官の指示を待たずに行動した上に失敗したのだから。

 

 討伐軍として派遣されてきた者たちは既に顔面蒼白だった。

 自分の未来が良い物ではない事を理解していたのだろう。

 

 

 しかしあらかじめ自分の息のかかった者を余所の軍に紛れ込ませるとは、流石に朱儁将軍たちは抜け目が無い。

 軽々しく信用も信頼も出来ないこの時代だ。

 最低限の備えとしてそういう手段も必要だろう。

 

 恐らく建業にも間者がいるはずだ。

 明日は我が身と考え、間者によって行われる埋伏の計などにも気を付けなければならない。

 美命がその辺りを抜かるとも思えないが、この戦いが終わった後に今後の課題として相談するべきだな。

 

 

 功を焦った者たち以外は準備に手間取った為に合流が遅れたと言っていたが、正直な話これも怪しい。

 独断専行した者たちと錦帆賊たちが戦った後の漁夫の利を狙って先行したが、『錦帆賊の強さが予想以上だった』あるいは『先行した官軍が思った以上に弱かった』などの理由で手を出さずにこちらに合流したと言う可能性が高い。

 

 しかしそちらについて朱儁、盧植両将軍は言及しなかった。

 必要以上に戦力を減らす事を良しとしなかった事、出陣前にこれ以上どたばたして軍の士気を下げる事を危惧したのだと思われる。

 

 しかし勅命に対して独断専行を仕出かすとはな。

 前世の軍隊と比べるのは酷なのだろうが指揮系統がまるでなっていない。

 

 今回の事で情報伝達手段の少なさが不正を許す一因を担っているのは間違いない事がわかった。

 

 とはいえ通信手段の確保など不可能である以上、どうしても出来る事は限られてしまう。

 何か手段はない物だろうか。

 

 

 

 天幕に集まった各軍の指揮官たち。

 一応は軍議の席だが、実質的には独断専行を起こした者たちを糾弾する場となっていた。

 

 各陣営から参加する者について特に言われていない為、建業からは全員参加している。

 必要な指示は既に出しているし、部下たちならばきっちりと自分たちの仕事をこなしてくれるはずだ。

 

「朝廷からの勅命に反し、勝手な行動を取った愚か者どもに背中など預けられん。貴様らはすぐに各々の領地に戻れ。追って正式な沙汰を下す。それまで勝手に処断する事は許さんと貴様らの主にも伝えておけ」

 

 天幕の中に響き渡る静かな声。

 抑えきれない怒りが視線に乗せられ、問題行動を起こした淮南、廣陵、丹陽軍の責任者を射抜く朱儁将軍。

 その横に控える盧植将軍は怒りではなく、侮蔑を込めた視線を向けていた。

 

 問題行動を起こした者たちを糾弾しようと集まった他の領地の者たちは二人の将軍の発する圧力に飲まれてか、冷や汗を流しながら動向を見守っている者が多い。

 中には俺たちのように静かに状況を見定めている者もいる。

 

 

 朱儁将軍の視線がよほど恐ろしいのか、三人の武将は地面に顔をこすりつけて平伏しながら顔を青くして震えている。

 いずれも戦場に出る者としては若干、過度な装飾を施された鎧を身に着けている。

 見る限り、武芸に秀でているようには見えない。

 兵卒よりは心得があるように見えるし身体も鍛えられているようだが……一軍を率いる者としては足りないと感じた。

 

「以上だ。速やかに去れ」

「お、恐れながら申し上げます!」

「……なんだ?」

 

 話は終わりだと退去を促す言葉に真ん中にいた武将が声を上げる。

 奴は確か淮南の軍を率いている人物だったはずだ。

 

「淮南に仕える者としての誇りにかけてあのような賊徒に後れを取ったまま終わるわけには参りません!! 私どもは破れましたが奴らの戦力、戦術をつぶさに観察し、その全てを理解いたしました!! 二度と負ける事はありません。どうか私どもに再戦の機会をお与えください!!」

 

 往生際が悪い男だ。

 既に勅命に反し、独断専行という罪を犯しているというのに。

 自らの罪を帳消しにする為に手柄を立てる機会をよこせだなどと良く言えた物だ。

 このままでは未来が陰惨な物になる事が確定しているから形振り構わなくなっているのだと思うが、それにしても厚顔無恥にも程がある。

 

 蘭雪様、美命、祭は男の言葉に眉間に皺を寄せている。

 盧植将軍は相変わらず無表情だが、その瞳からはもはや侮蔑すらも読み取れなくなっている。

 そして朱儁将軍は。

 

「……ならば貴様の兵を率いて今すぐ錦帆賊を討ってこい」

「はっ?」

「再戦の機会をやろうと言っているのだ。貴様らの兵だけで、な。奴らの戦力、戦術を理解したのだろう? 二度と負ける事はないのだろう? ならば俺たちと共に行く必要などなかろう?」

「そ、それは……」

 

 恐らく男は口八丁でこの場を乗り切り、討伐軍本隊をどうにか出し抜いてなんらかの成果を上げて独断専行の件を有耶無耶にする腹積もりだったのだろう。

 

 酷く浅はかな考えだ。

 朱儁将軍は勿論、この場に集まったほとんどの者たちはこの男の考えを読み切っている。

 戦力と戦術を見切ったと言う言葉が虚勢に過ぎない事も。

 そもそもそのような慧眼を持った人物ならば功を焦って独断専行などしないし、仕込まれていた間者の存在をそのままにするはずがないのだから。

 

 将軍は相当怒っているのだろう。

 他軍と共に襲撃した結果、敗北していると言うのに今度は一軍でやれなどと言う辺りからも彼女の怒りは容易に読み取れる。

 

「どうした? 勅命に反する行動を取った貴様に機会を与えてやると言ったのだぞ? もっと喜べ。……それとも先ほどの言葉は虚言か? まさかな、朝廷より指揮を預かった俺と子幹に対して面と向かってそんな事を言えばどうなるかわからんはずがない。そうだろう?」

「あ、う……」

 

 浅慮が招いた結果と言えばそれまで。

 男の言葉と問いかけに即答できないその態度は、もはや道化にしかならなかった。

 

「本来なら貴様のような不忠者は即切り捨てる所だ。だが貴様の罪はもはや貴様だけの物ではない。貴様のような愚か者を勅命からなる討伐軍によこした淮南太守の罪でもある。先ほど言った言葉をもう一度だけ伝える。沙汰は追って言い渡す。それまで貴様らは己の領地にて謹慎していろ。貴様らに下される罰は朝廷が決める。自害など許さんし、勝手に裁く事も許さん。主君にもそのように伝えろ。勝手な真似をすれば朝廷への翻意と見なすともな……良いな?」

 

 奴らに同情などするつもりはまったくない。

 何もかもが自業自得なのだから。

 しかしあんな武将に従わなければならなかった、そしてその為に命を落としたのだろう兵士たちは不幸だと言わざるをえない。

 

「もう言う事はない。というより言わせるな。疾く去ね」

 

 もはや語る事は無いと顎をしゃくり、天幕の出入り口を指す朱儁将軍。

 蒼白を通り越して真っ白な顔に脂汗を流しながら三人の男は重い足取りで天幕を出て行った。

 

「この際だから言っておく。あんな醜態をさらすような奴はいらん。勅命を果たす自信が無い奴は今すぐこの場を去れ。邪魔だ」

 

 天幕の中に集まった者たちをねめつけるように睥睨する朱儁将軍。

 その視線に多少気圧された者はいるようだが、その場から去ろうとする者はいなかった。

 

「……ふん。まぁ去れと言われて去れるような立場の人間などいないか。だが俺は足を引っ張る輩が一番嫌いだ。錦帆賊は長年、各領地の軍を退けてきた手練れ。そんな連中を前にして足並みを揃えられない、指揮に従えないような奴は……即刻の打ち首も考える。忘れるなよ? 俺にとって貴様らの首を飛ばす事など容易いのだと言う事をな」

 

 一応の部下に放つ物としては過剰とも言える殺気。

 心臓の弱い者ならば倒れてもおかしくない程の物だ。

 それだけ今の言葉を本気で言っていると言う事だろう。

 

「さて改めて錦帆賊討伐についての戦略を立てる。子幹が説明するから意見がある者は言え」

 

 天幕の外から聞こえる追い出された武将たちの悲鳴のような退却命令を耳にしながら、ようやく本題へ話が進んだ。

 しかし先ほどの事もあり、将軍に対して意見するほどの気概がある者はいない。

 

 軍議は淡々と進んだ。

 二人が立てた策としてはこうだ。

 まずは長江の下流で船による待ち伏せを行い、錦帆賊の進路を遮る。

 複数の船で連中の船を囲い込み陸地に誘導、待ち伏せた本隊にて叩き潰す。

 水上戦では奴らに一日の長があり、数で有利とは言えども先走った連中のように返り討ちにされる可能性が高い。

 それほど水上戦の練度に差があるのだ。

 よって如何にして水上で戦う事を避けるかどうかがこの作戦の肝になる。

 

 どれだけ素早く彼らの船の動きを封じ込めるか。

 長く水上にいればそれだけ彼らに有利になるだろう。

 包囲を突破されればおそらく追い付く事は出来ないはずだ。

 

「先行した馬鹿のせいで船がいくらかやられている。当初の策では数で無理やりにでも奴らを囲い込むつもりだったのだがそれは出来なくなった、些か心許ないが最悪、船をぶつけてでも水上での奴らの動きを止める。多少でもいい、水上戦の心得がある者はいるか?」

 

 手は上がらない。

 ここで彼女の問いかけに答えると言う事は『錦帆賊との水上戦』に駆り出される事を意味するのだから。

 誰もが周囲と目を見合わすだけだ。

 

 俺に目を向ける蘭雪様と美命。

 そして二人の目配せの意味を理解した俺以外は。

 

「……僭越ながら申し上げます。多少ならば我々には船の扱いの心得があります」

 

 天幕の中の視線が全て声を出した俺に集まる。

 値踏みするような、見下すような、下卑た視線にさらされるが今は関係ない。

 俺は真っ直ぐ朱儁将軍のみに視線を向ける。

 

「ほう、凌刀厘。お前が名乗りを上げたか。文台と公共はどう思う?」

「確かにうちの軍で一番、船について知っている者はこやつでしょうな。朱儁将軍さえよろしければこやつに錦帆賊を地上へと追いやる役は任せていただけませんか」

 

 朱儁将軍の言葉にこぞって異を唱え始める参加者たち。

 

「新参者にこのような役割は荷が重い」

「もし失敗したら責任はどうとるつもりだ」

 

 などと後ろ向きな発言ばかりで、代替案の一つも上がってこない。

 ただ俺のような若造が出しゃばった事が気に入らないだけのようだ。

 なんという無駄な時間だろう。

 

「おい、貴様ら。我こそはと言う奴はおらんのか? 錦帆賊との直接対決だぞ? 文句を垂れるだけなら稚児でも出来る。こやつが先陣を切る事が不服なら代わりに名乗り出てみせろ!!」

 

 将軍の鶴の一声で俺や建業の人間に向けられていた怒声や意味のない中傷はなくなり、沈黙が天幕を支配する。

 

「ふん、名乗り出る気概が無いなら最初から異議など唱えるな。時間の無駄だ。……異議はないな? ならば錦帆賊を陸上に誘導する役割は凌刀厘に任せる。船がある者たちはこやつらが上手く奴らを抑えた所を見計らい、船で身動きが取れないよう囲い込んでもらう。意見のある奴は言え。ただし文句だけしか出てこないなら口出しするな。さっきも言ったが時間の無駄だ」

 

 先ほどから思っていたが朱儁将軍は随分と強引な話の進め方をする人物だな。

 自身が持っている権力を最大限利用して、有効な手段を取る。

 今この場にいる者の中で彼女と対等と言えるのは盧植将軍のみなので基本的にその言葉に逆らう事は出来ないからこその手管だ。

 

 異議を力で抑えつけるのは確実ではあるが、それでは正当性の是非を問わず不平不満は溜まっていくだろう。

 どうやら朱儁将軍は権力を背景にした今回のような手段を使う事に慣れ過ぎているようだ。

 

 今は俺たちに対して害意が無いからいいが、もしも何か不利な事を同様の手段で命令されれば断る事は出来ない。

 

 うちは太守も含めて中心人物のほとんどが新参者なのだから。

 太守になるにあたって助力した朱儁将軍は後ろ盾と言えるが、結局の所なにかしらの思惑があっての事。

 今の軍議の様子を見る限り、こちらの手綱が握れなくなったと判断すれば権力による強制を躊躇う事はないはずだ。

 

 現状ではどうしようもない事なのだが、これは建業の大きな弱点だ。

 今後どうにかしなければ真の意味での建業の安定は保障されない。

 朱儁将軍を後ろ盾にせずとも、建業を守れるようにならなければならないのだ。

 

 同じ事を考え弱点の克服がどれほど難題かを想像したのだろう、美命は苦い表情を浮かべていた。

 

 

 

 朱儁将軍の号令のもと、行動を開始した錦帆賊討伐軍。

 最初から躓いた形になってしまった為、行軍当初の士気はお世辞にも高いとは言えなかった。

 

 しかし長江で各々が用意した船に乗り込む頃には、軍全体に程よい緊張感と興奮に満ちた理想的な状態にまで持っていく事が出来た。

 他の軍はどうか知らないが、建業に関して言えば兵糧の開発も進めている。

 試験的に塩で味付けて長く保存出来るようにした保存食も持ってきているのだ。

 食の大切さを叩き込んだ俺の部隊を筆頭に、その士気は高い所を維持できているだろう。

 

「……隊長、錦帆賊は来るでしょうか?」

「来るさ。前菜代わりに雑魚を蹴散らして、あちらはもう臨戦態勢だろうからな」

 

 船頭で目の前に広がる長江。

 前面から目を離す事なく、麟の言葉に答える。

 

 元錦帆賊の部下たちは船の運航に集中してもらっている。

 船については俺たちよりも彼らの方が扱いに慣れているので任せている状態だ。

 いずれはそのノウハウも軍全体で共有しなければならない。

 

 勿論、思春もそちらの集団に混じっている。

 その時が来れば彼らにも戦ってもらう事になるだろう。

 

 

 錦帆賊の面々が正面から来るかどうかはわからない。

 見張り番には四方八方全てを監視するよう厳命した。

 加えてわざと長江の中心に船を走らせる事で、周りに監視を遮るような物はない状態だ。

 

 不審な船の姿があれば、すぐにわかる。

 俺たちと船二つ分程度距離を置いて行動している他軍の面々も警戒は密にと朱儁将軍から厳命されている以上、それなりにはやってくれるだろう。

 能力的に信用し切れないのが悲しい所だ。

 誰かが無能な味方ほど厄介な者はいないと言っていたが、今それを実感している。

 

「正面より船が三艘、接近中!!」

 

 今までの思考を頭の隅に追いやり、正面に目を凝らす。

 すると確かに船らしき影が近づいてくるのがわかった。

 

「来たか、錦帆賊。公苗、戦闘準備だ。他の連中にも敵襲来の合図を」

「はい!」

 

 徐々に近づいてくる船の影を見据える。

 恐らく俺と同じように船頭に立っているだろう男を思い浮かべながら。

 

 

 

 

 

「来たな……」

「三日前に来たのと同じ官軍の連中ですかね?」

 

 十を超える船が横並びになって正面に並ぶ姿は見ていて壮観だ。

 これで俺たちを仕留めようって連中じゃなけりゃ、良い肴になったかもしれねぇな。

 しかし俺たちを討伐しに来た連中だとわかっている以上、物見遊山って気分になれるわけがない。

 

「いや一艘だけ先行してる。あの走り、上手く上流からの河の流れを活かしてやがるな。あんな真似が出来るのは……」

「あ~、俺らの走法っすね。となると刀厘さんたちか若衆か、どっちにしても建業軍しかいませんね、そりゃ」

「ああ、前の雑魚とは違う。『敵』のご登場だ。……お前ら、手加減なんて考えるな。あとただで首をやるんじゃねぇぞ」

「わかってますよ、それじゃ最期の号令をお願いしやす」

 

 腰に下げていた愛刀を肩に担いで振り返る。

 今までずっと一緒に錦帆賊をやってきた仲間たち。

 操舵をやってる奴ら以外は皆が甲板に集まっていた。

 よく見りゃ並走している二艘に乗っている連中までこっちを見てやがる。

 ほんと最高の仲間たちだよ。

 

 

 敵とも呼べない雑魚を相手に完勝したところで何の意味もない。

 俺たちへの手向けは、『真実を知る者たちがいると言う事実』と『死力を尽くした敗北』だ。

 

 

 駆狼には苦しい言い訳をしちまった。

 

 替え玉なんて都合の良いもん用意するわけがねぇ。

 仮にそんなもんを用意出来たとしても、使わなかっただろう。

 俺たちはこの戦で散るつもりなんだから。

 

 あいつも指摘してこなかったが、気付いてるはずだ。

 

 ここで無様に逃げ延びて、それがばれれば被害は俺たちだけに留まらず、余所の領地やらその辺の村にまで飛び火するかもしれねぇって事を。

 『錦帆賊狩り』と称して、悪さを働く奴が必ず出るはずだ。

 

 だから俺たちは『全員』死ななければならない。

 今まで派手にやってきた代償として。

 

 今更、死ぬことは怖くない。

 危ない橋も、修羅場も潜り抜けてきた。

 何度も何度も戦って、仲間は次々に死んでいったし俺も傷を負ってきた。

 

 仲間たちも同じ気持ちだ。

 逃げるなら今のうちだと、若い連中をあいつの所へやる前に言ったがこいつらは逃げようとしなかった。

 最期のその時まで錦帆賊として生きたいだなんて嬉しい事を言ってくれた。

 

 なら俺がどうこう言う事じゃねぇ。

 

 俺が今から考えるのは二つだけ

 雑魚をなるべく叩き潰す。

 そして出来れば……駆狼と本気でやり合う。

 

 

 駆狼は強い。

 初めて出遭ったあの時から知っていた事だ。

 そんなあいつと本気で殺し合い、その果てに敗ける。

 

 その様を思春に見せてやりたい。

 お前の父親は最期まで誇りを持って逝った、と。

 死ぬその瞬間まで戦い抜いたぞ、と。

 

 それが俺の最期の望み。

 

 あいつと、昔の仲間たちと、そして思春が討伐軍に組み込まれてるのは知っている。

 周勇平とか言う、明らかに斥候という空気を纏った男が教えてくれた。

 普段ならそんなぽっと出の男の言う事なんて信用しない所だが、奴の情報と俺たちのかき集めた情報に違いがなかった事からその腕については信用する事にした。

 

 俺たちの為に今にも泣きそうな顔をした駆狼が。

 あれだけ義理堅くて律儀な男が、俺たちとの直接対決を避けるとは思えねぇってのが一番でかい理由だが。

 

 まぁもしもあいつらがいなかったらそれはそれで運がなかったと思う事にするさ。

 今更、引けるわけもねぇ。

 

 

 思春は駆狼を好いている。

 悔しいが俺に対してと同じくらいに親愛の情であいつの事を慕っている。

 

 俺がいなくなっても、駆狼が思春を支えてくれる。

 そういう確信があった。

 親としちゃ大人になるその時まで一緒にいてやりたかったけどな。

 

 

 駆狼。

 思春に俺の生き様を見せる為にも。

 殺されないように本気で俺たちを殺しに来い。

 

「野郎どもぉおおおおおおおお!!! 派手に行くぜぇえええええええええええええええええええ!!!!!」

「「「「「「「「「「おぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッ!!!!!!!」」」」」」」」」」

 

 錦帆賊最後の怒号が長江中に響き渡った。

 

 

 もし駆狼が俺に殺されたら、その時は。

 ……その時になってから考えるか。

 勝負事に絶対はねぇからな。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第三十九話

 三艘のうち真ん中を走る露橈から興覇の雄叫びが聞こえた。

 そしてその声に長江を揺るがさんとばかりの怒号でもって応える錦帆賊の皆。

 付き従うように露橈の左右斜め後ろを走る先登(せんとう)二艘からも吼え声のような怒号が轟く。

 

 友を殺す戦いの始まりだ。

 

「このまま突っ切れ!! 公苗、元代、公奕、準備は出来ているな?」

「公苗、問題ありません!」

「元代、問題ありません!」

「公奕、問題ありません~!」

 

 向かい合う形で船を走らせる。

 お互いの相対速度から接触までの時間は俺の感覚で二分と掛からないだろう。

 

「無茶な策を考えられましたな」

「錦帆賊の技量で高速で動き回る三艘の船全ての動きを止めるにはこれくらいしなければと考えたまでです」

「最悪、この船がバラバラになりますな」

「その可能性を減らす為に一番大きく、重量があるこの船の各所を不恰好になるのも構わず補強しましたので」

 

 俺は視線を正面に固定したまま、豪人殿の言葉に答えた。

 

 船体を補強したお蔭でこの露橈は、重量だけなら艦(かん)並みになっている。

 あちらも露橈級の船が一艘あるが現在の重量ではこちらが圧倒的に上回っているはずだ。

 

 正面から近づいてくる船を見据えながら豪人殿は俺の横に立つ。

 これから戦いが始まると言うのにその態度は常と変わらぬ冷静そのものだ。

 こういう人間がいてくれると言うのはそれだけでありがたい。

 

「……来るぞぉおおおおおおおお!!!!」

 

 見張り台に立っていた部下が叫び、緊張が高まる。

 既に船の上の人間の姿も確認出来るほどの距離。

 俺の並外れた視力が捉えたのは船頭に立つあの男の姿。

 こちらを見つめ、甲板で仁王立ちするその姿は奴の部下たちからすればとても頼もしい物に見えるはずだ。

 

「錦帆賊の露橈と右の先登(せんとう)の間をすり抜けるように船を進めろ!! 狙いはお互いが並ぶ直前だッ!!」

 

 前もって説明した通りに部下たちが動く。

 ばたばたと忙しなく動き回る彼らを尻目に俺はもうすぐ傍にまで迫った錦帆賊の露橈から目を離さない。

 俺の言葉を受けて櫂(前世でいう所のオールだ。読み方はかい)を漕ぐ部下たちが一斉に櫂の漕ぎ方を変えた。

 

「突っ切る。狙いは予定通り露橈だ。外すなよ!!」

 

 ごくりと唾を飲む音が自分の耳に届く。

 その時はすぐに来た。

 

「鉤縄、放てぇえええええ!!!」

「やぁあああああああ!!!」

「おおおらぁあああああ!!!」

「ほいさぁああああああああっ!!!」

 

 俺の合図と同時に俺たちから見て右側を今まさに通り過ぎようとしていた錦帆賊の露橈に向けて、何重にも編み込んで人の胴体ほどの太さになった縄が数人がかりで放たれる。

 

 公苗たちが放った物は露橈のマストに上手く絡みつく。

 元代たちが放った物は甲板に届き、お互いの距離が離れる過程で櫂を保護する壁板に鉄鉤の部分が突き刺さった。

 公奕たちが放った物は船にこそ届かなかったが、相手の船の突き出た櫂に幾つか巻き込んで絡みついた。

 

 縄の先端は忍者道具の鉤縄と同じように鉄鉤がついている為、上手く引っかかればそう易々と取れる事はない。

結果は上々だ。

 

「公盛、宋謙殿! 錨を下ろせっ!!」

「「了解ッ!!!」」

 

 甲板の両サイドに回っていた二人が自分たちの船に繋いでいた大きな錨を何人かの部下と協力して長江へ落とす。

 この策の為に作った特性の錨だ。

 

 

 この時代の船には錨は存在せず、船を止める時は櫂を上手く使って減速するか、浅瀬に向かい自然に止まるのを待つのが一般的だ。

 知識のない止まり方を想定できる人間などいない。

 その心理的盲点を存分に突かせてもらう。

 

 

 長江の河底に打ち込まれた錨が俺たちの露橈を急停止させる。

 俺たちの船が停止すれば特大の大縄で繋がっている錦帆賊の露橈も引きずられる事になるだろう。

 大縄は既に限界まで伸びきっている。

 何重にも重ねて編み込んだ成果で今の所、千切れる様子はない。

 

「全員、何かに掴まれ!! 船から振り落とされるなよ!!!」

 

 あちらの露橈は河の流れに沿うようにして操舵されている。

 船全般に言える事だが、錨の概念もない事から急に止まる事など考慮されていない。

 

 そしてあいつの事だ。

 このまま俺たちを引きずってでも船を進めようと考えるだろう。

 水上戦での彼らの利点である立ち回りの良さが無くなれば、数に物を言わせた討伐軍に包囲され状況が不利になる事は目に見えているのだから。

 

 しかしこちらの突然の急停止にあちらは引っ張られて停止せざるをえなくなる。

 錨を降ろし、操舵に影響のないギリギリの範囲で重量を増やした船は錦帆賊の船がそのまま走行を続けても、引きずられていくような事にはならない。

 

 そして推進力は状況の急激な変化にはついていけない物だ。

 

 今まで進行方向に向けていた推力。

 行き場を強引に止められたその力は新しい吐き出し口を探し、向かいやすい方向に流れていく。

 

 俺たちの船自体が巨大な楔になり、奴らの露橈は鉤縄の限界距離から弧を描くようにして走行する羽目になる。

 一時的な操舵不能状態だ。

 俺たちは三艘が横並びになった彼らの編隊の右側の先登と露橈の間に船体を滑り込ませていた。

 そして船同士が並走する瞬間に、左側にいた露橈へ鉤縄を投げつけ、その進行を強引に止めている。

 

 力の逃がしどころを求めて、勝手に左に弧を描くように進む露橈。

 俺たちの船を中心にぐるりと水上を一周したその先には後ろを進んでいた先登がいる。

 

 事態に気付いた興覇が俺たちを繋いでいる大縄を切断しようと刀を振り上げているのが見えたが、もう遅い。

 たとえ三本の縄を切り離す事が出来たとしても船の勢いは既に止められないところまで来ている。

 

「ぶつかるぞぉおおおおおお!!!」

 

 悲鳴のような怒号が錦帆賊の露橈と先登から上がり、次の瞬間に先登の横っ腹に露橈が激突する。

 重量差から先登へのダメージが酷く、外から見ても航行不能になった事が窺えた。

 

 逆に露橈の方はほとんどダメージが無さそうだ。

 元々、大きさからしてかなり違う船だからこれは仕方のない事だろう。

 露橈を振り回していた運動エネルギーも先登との衝突で消えたらしく、先登に突き刺さった状態で停止した。

 

 そして露橈の停止した場所は、本隊が待機した陸地から程近い浅瀬だ。

 陸地の本隊が直接、乗り込むには距離があるが船が動き出す事を防ぐには充分過ぎる。

 

「隊長、やりました! 成功です!!」

「落ち着け。まだまだこれからだ」

 

 こちらの想定通りに物事を進んだ事に興奮している公苗を諌めながら両腰に二本ずつ下げた棍に触れた。

 そう、ここからが正念場だ。

 

 衝突して動きを止めた二艘に船を寄せる。

 そして逆方向からは被害を免れた錦帆賊の先登も近づいてきていた。

 やはりここを死地と定めている彼らに『逃げる』という選択肢は無いようだ。

 

 お互いの船が隣接したところで錦帆賊の面々が武器を構えて、こちらを睨んでいる姿を確認する。

 その中には協力関係になったあの時からの見知った顔がかなりいた。

 

 これから俺たちは……彼らを殺すのだ。

 

 最後に興覇と目が合う。

 奴は明らかに不利な状況だと言うのに、不遜な笑みを浮かべていた。

 

「各自、得物を構えろ。奴らの船を……制圧する!」

「「「「「「「「「「「了解!!!」」」」」」」」」」」

 

 部下たちの返事を聞きながら、俺は錦帆賊の露橈に飛び込んでいった。

 

 

 

 戦う事には慣れてきたはずだった。

 海賊を相手にした時に、初めて人を殺す事への怖さを感じたけれど。

 兵士として仕えている間に、何度となく経験したその怖さに慣れていく自分に私は気づいていた。

 

 でも隊長はこの日を迎えるまでに何度も私たちに問いかけてくださっていた。

 どれだけ大丈夫だと私が言っても、それでも隊長は機会があれば今回の戦いが辛い物になると言っていた。

 

 その意味を私は今、本当の意味で理解した。

 

「やぁっ!!」

 

 軍に入ってからずっと扱ってきた大剣が……重い。

 使い慣れた重さなのに。

 短い間だったけれど笑い合った相手を傷つける度に重くなっていく。

 

 涙を流さないように唇を噛みしめて堪える。

 崩れ落ちていく錦帆賊の人達は、誰一人として手心なんて期待していない。

 全力で向かってくる相手に、手加減出来るほど私は強くない。

 

 だから、がむしゃらに大剣を振るった。

 彼らを……殺していった。

 

 息が苦しい。

 身体も思うように動かない。

 でも、ここで手を止める事だけは出来ない。

 

「……そんな顔をすんなよ、副隊長の嬢ちゃん」

 

 錦帆賊の中で一番言葉を交わした同じ年くらいの男の人が目の前に立っていた。

 その手に直剣を携えて、苦笑いを浮かべながら、でも真剣な目をして。

 

「う、ふ……うっ、うっ……」

 

 もう私は言葉を交わす事も出来ない。

 口を開けば泣き叫んでしまうだろうから。

 

 国賊を討つのを、悲しむ事は出来ない。

 だからせめて声を上げて泣き叫ぶ事がないようにと、口を噤みながら剣を構えた。

 

「嬢ちゃん。悪いが手は抜かねぇからよ。派手な一撃頼むぜ」

 

 心の底から申し訳なさそうに言いながらその人は飛び掛かってきた。

 私は迎え撃つ為に大剣を構えて、そして斬った。

 

 また身体が重くなった気がした。

 

 

 

「悪いなんて思うなんて今更だよなぁ」

「ええ、そうですねぇ。ここまで来て謝るのは筋違いでしょう。隊長とあっちの大将の中ではもう話が付いてるんですし。我々も事の次第は散々聞かされてましたから」

 

 身体の底に溜まっていく、気を抜けば噴出してしまいそうな苛立ちを無理やり押さえつけながら向かってくる『敵』を倒す董襲と蒋欽。

 普段、事あるごとに罵り合う仲である二人がお互いに背中合わせで死角を補い合うように戦っていた。

 彼らの周りには既に息絶えた錦帆賊たちの姿がある。

 

 そんな躯の中に混じる見慣れた鎧を着た兵士たちの姿に董襲は歯噛みし、蒋欽も沈痛な顔をした。

 

「何人かやられたな。流石、その辺の賊とは格が違う」

「わかってた事でしょうが。何年も国からの討伐を躱してきた方々相手に無傷でいられるはずがないって」

「ああ、わかってた。兵士なんてやってんだ。こうなる事はとっくに覚悟してたよ。けどな……こんなお互い嫌な思いしかしないような戦場で仲間が死んでいくなんて……覚悟しててもやり切れないだろうが!!!」

 

 怒りに任せて振り下ろした剣が流れ矢を叩き落とす。

 

「何から何まで同感ですがねぇ。それを表に出しちゃいけませんよ。やり切れなさを抱えてるのも苛立ってるのも泣きたいのもアンタだけじゃないんですから」

「……ああ、わかってる。すまん、八つ当たりだった」

「別に愚痴るのは構いませんよ。ただアンタの声でかいんで、周りに妙な勘繰りされないように抑えてください」

「……重ね重ね悪かった」

 

 向かってくる相手を見据える。

 誰もかれもが不退転の意思を宿した瞳で、敵対する者を睨みつけていた。

 

「おっしゃ来い! 建業は凌操隊が一の兵、董元代が相手だ!!」

「同じく凌操隊、蒋公奕と申します。返り討ちになりたい方からどうぞかかってきてくださいな」

 

 獣のように吼える董襲と、静かに不遜な言葉をかける蒋欽。

 似て非なる凸凹コンビに向かって、錦帆賊たちはどこか楽しげに飛び掛かっていった。

 

 

 

 表情の見えない兜を被り、一見すると無表情で敵を討っている宋謙。

 そんな彼に追従しながら剣を振るう蒋一は、苦い表情を隠せていなかった。

 

「あ~くそ。わかっちゃいましたがキツイですね、これ」

「公盛、思っていても口にしてはならんぞ。彼らの気持ちが無駄になりかねないからな」

「……すいません、宋副隊長」

 

 この日を迎えるまでの間、隊長たる凌操が口を酸っぱくして隊員たちに言い聞かせていた事がある。

 

 

 今までは最初から敵として想定していた相手との戦いだった。

 しかし今回は違う。

 かつて笑い合った相手に刃を向ける。

 こんな時代だ、こんな事態になる事が今回限りだとは限らない。

 お前たちが今考えている以上に、俺が今話している以上に、現実を前にした時の衝撃は大きいと思う。

 敵を倒せなくとも責めはしない、しかし無駄死には許さない。

 駄目だと思ったら引け。

 これは何よりも優先される命令だ。

 

 

 その言葉通り、蒋一は今こんな戦いをやめて逃げ出したい心境にあった。

 言葉遣いは荒いが優しい性根の青年は、知り合いを殺しているという現実に心が折れる寸前になっていたのだ。

 

「心が痛むか、公盛」

「……すいません。でも大丈夫です。甘ちゃんや新入り連中が泣くの堪えて歯を食いしばってんのに俺が逃げるわけにはいきませんから」

 

 自分よりも辛い立場のはずの彼らが戦っているのだ。

 自分だけが逃げるわけにはいかない。

 そんな意地にも似た気持ちが彼を戦場に押しとどめていた。

 

「彼らの為に泣けるのは建業に帰ってからだ。それまでは耐えてみせろ」

「了解、です」

 

 苦々しさを隠しきれない表情に自分にはない若さを感じた宋謙は戦場の喧噪に紛れるように小さく溜息を零した。

 

 

 

 父からゆずり受けた曲刀で、笑い合った人たちに斬りつける。

 私が斬りつけた傷から血が出て、痛そうに顔をしかめるのがわかった。

 

「お嬢、腕を上げられましたなぁ」

 

 苦しそうに、だけどうれしそうに笑うその人は私に船での生活の仕方を教えてくれた人だ。

 父と同じくらいお世話になった人で、父と同じくらいにしたっている人だ。

 

 その人に私は今、刃を向けている。

 こうなる事はわかっていた。

 こうなる事を覚悟していた。

 

 なのに私は言い様の無い痛みを感じている。

 

 ズキズキズキズキと。

 むねがいたむ。

 

「お嬢……行きますぞ!」

 

 槍の穂先が突き出される。

 駆狼様の放つ昆の一撃に比べれば止まっているように見える突き。

 

 私はその一撃をよけて、そして……おじさんを斬った。

 なぜか涙は出なかった。

 

 

 

「よぉ、随分と無茶な真似したじゃねぇか」

「お前たちの首をどうしても俺たちの手で取っておきたかった。その為の策だ」

 

 そう俺たちが錦帆賊を倒す為の、な。

 他の軍に手柄なんてくれてやらない。

 これはこいつらが俺たちの為にお膳立てしてくれた戦いなのだから。

 

「くくっ! ったくどこまでも律儀な奴。ああ、ほんとお前を、建業の連中を信じて良かったぜ」

 

 愛用しているのだろう曲刀を構える興覇。

 俺も腰に下げた棍を二本、両手に持って構えた。

 

「へぇ、そいつを使うのか。こりゃ楽しくなりそうだ」

「ああ。錦帆賊、そして『鈴の甘寧』の最期の晴れ舞台だ。盛大に楽しませてやるよ」

「はははっ! そいつはありがてぇな!! なら……行くぜぇ!!!」

 

 こうして俺は友と打ち合った。

 どちらかが死ぬまで止まらない戦いの始まりだ。

 

 

 

「はっはっは! まさかここまで鮮やかにやってみせるとはな! ほんとあいつには驚かされる!!」

 

 戦場の推移を森の中に潜んで見守っていた蘭雪は駆狼たちの見事な采配に大笑いしていた。

 

 彼らによって動きを封じられた二艘の船、接舷する駆狼たちの船と被害を受けなかった錦帆賊の先登。

 怒涛の展開に付いていけず、唖然としていた他領の船が今更ながら動きだし彼らを包囲しようと四苦八苦している様子がここからはよく見える。

 

「笑いたくなる気持ちは分からなくもないが声を抑えろ、文台」

「これが笑わずにいられるか、公共! どれだけの軍が奴らに煮え湯を飲まされたと思ってるんだ!? そんな奴らをたった一艘で、たった一部隊で手玉に取ったんだぞ!! やはりあいつを初めて見た時の私の勘は間違っていなかった!!!」

 

 孫家の持つ戦闘本能が刺激されているのか、瞳を爛々と輝かせながら蘭雪は私と祭に熱弁を振るう。

 祭は想い人を心配する気持ちとその鮮やかな手際に感心する気持ちとがない交ぜになった複雑な顔をして事態の推移を見守っていた。

 私は二人の様子に片手で頭を抑えながらため息をつく。

 

「我々が行動するには朱将軍からの号令がいるから一人で突撃だけはしてくれるな。それに……敵が奴らだけとは限らん。他領の連中が何か仕出かすかもわからんのだからな。そちらに目を光らせておけ、公覆」

「御意。では少々、周りを窺ってきますぞ」

 

 命を受け、二人に頭を下げると祭は部隊の人間に指示を出す。

 私は彼女の後姿を見送りながら会話を続けた。

 

「……ふむ、そうだな。本当ならすぐにでも突撃したいんだが、少々、将軍を急かしてくるか」

「迂闊な事はするな。こちらから催促なんぞしたら将軍たちはもちろん他領の連中に対しても角が立つ。あちらからの指示を待て」

「……はぁ、仕方がないとはいえまどろっこしい事この上ないな」

「それが政治という物だ」

 

 忌々しそうに舌打ち一つして戦場に視線を戻す蘭雪。

 そんな彼女の姿を見守りながら私は口には出さずに思考を巡らせた。

 

「(今回の件で間違いなく建業は、そして駆狼はさらに名を上げる。これまで以上に諸侯の風当たりはきつくなるだろう。あいつへの引き抜き、我らに対しての離間計略に暗殺。考えられる工作を挙げればキリがない。あいつの性格を考えれば計略の類に引っかかる可能性は限りなく低い。だが縁者を狙われれば……」

 

 それは最悪の予想、しかし容易に想像が出来る可能性だ。

 

「戻ったら対策会議だな。まったく……良くも悪くも話題に事欠かん男だ」

 

 錦帆賊との協力関係を確立させたと思えば、海賊団を一つ潰す。

 貴族の娘を保護したと思えば、その一族とも懇意になる。

 

「しかし、それでもあの男を手放そうとは思わん」

 

 そう、あの男は建業に無くてはならない男なのだから。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十話

お久しぶりです。
色々とリアルの事情でごたついておりましたが投稿が出来ました。
VS錦帆賊の決着編です。
楽しんでいただければ幸いです。


 二本の棍を繋げ槍並みの長さになった武器を水平に薙ぎ払う。

 興覇はまるで軽業師のような身軽さでバク転して回避し、着地と同時に突きを放ってきた。

 

 手甲で受け流し、薙ぎ払った勢いを殺さないよう胴体を回して棍を横薙ぎに振るう。

 避けきれないと見たのか、甘寧は曲刀の横っ腹で棍棒の一撃を受け止めた。

 

 

 強い。

 かつて村を守る時に戦った山賊の頭なんぞよりもずっと。

 あの時よりも遥かに死を身近に感じる。

 

 ヤツの放つ一撃一撃が、俺の命を刈り取る事が可能な攻撃だ。

 一瞬の気の緩みが死につながる事が理解できる。

 

「おおおおおおおおっ!!!」

「だぁああああああっ!!!」

 

 鉄と鉄がぶつかり合う不快な音が鳴る。

 お互いの攻撃は未だに相手にかすり傷一つ負わせていない。

 

 俺が手数の多さを武器にしているのに対して、興覇は一撃一撃が驚異的な威力を持っている。

 こちらの攻撃は受け止められ、あちらの攻撃は避けられる。

 一進一退の攻防と言う奴だ。

 

 もはや推進機能を失い、ただ水の上を漂う事しか出来なくなった露橈。

 その甲板はつい先ほどまで錦帆賊、討伐軍が入り乱れた乱戦の場だった。

 他の錦帆賊は全て隊の人間が倒した。

 今や武器をぶつけ合っているのは俺とこいつだけだ。

 

 戦いが始まってから俺の体内時計では二時間程度が経過している。

 未だに決着が付かないのはお互いの実力が伯仲しているからだ。

 

「ふぅ、ふぅ、ふぅ……」

「はっ、はっ、はっ……」

 

 武器が届かない間合いで、荒くなった息をほんの僅かに整える。

 そして再び激突。

 

 俺が放った棍による突きの連打を刀で受け流される。

 そのまま棍の腹を滑らせるようにして刀が俺に迫る。

 躊躇わずに棍を手放し、斬りかかる際に前のめりになった興覇の腹に左の蹴りを見舞う。

 

 髪を数本切られ、さらに耳に掠り傷を負った。

 腹を狙った一撃は奴の左腕が防ぎ、大きなダメージにはならない。

 蹴りの衝撃を利用してヤツが後退し、またしても距離が開く。

 

「ようやく傷らしい傷が付いたかよ」

 

 刀を肩に担いで興覇は獰猛な笑みを浮かべる。

 

「まだまだ……致命傷には程遠いぞ」

 

 右半身を前に出し、右手の甲をヤツに向ける。

 左手は軽く握り、腰のすぐ横へ。

 

「そうだよな。お互い……まだまだこれからだよなぁ!!!」

 

 俺の目をじっと見つめていた興覇は、怒号を上げながら刀を上段に構えて走り込んでくる。

 殺意ではなく闘志に満ちたヤツの身体は、かつて横に並んだ時よりも遥かに大きく見えた。

 迎撃するべく俺も駆け出す。

 

「おおおおおらぁあああああああっ!!!」

 

 間近で振り下ろされる刃。

 消えたようにすら見える程の速度のソレを俺は右手の手甲で受け流す。

 想像以上の攻撃に右手に痺れが残った。

 

「はっ!!」

「っのやろッ!?」

 

 勢いを殺し切れずに前のめりになった奴の身体に向けて腰に添えていた左拳を突き出す。

 確実な隙をついたと思ったこの一撃も先ほどの蹴りと同様に左腕で止められた。

 

 しかしこれこそ俺の狙いだ。

 止められた左腕を奴が防御に使った左腕に絡める。

 

「なっ、にぃいい!?」

 

 絡めた腕を起点に思い切り力を込めて引き寄せる。

 お互いが顔を突き合わせる程の距離

 刀や剣を振るうには近すぎる間合いだ。

 

「せぇっ!!」

 

 痺れが抜け切れないまま放たれた右の掌底。

 絡め取った左腕は使えず、武器を持った腕での防御は間に合わない。

 

 俺の一撃は吸い込まれるように今度こそ興覇の腹部に突き刺さった。

 

「ごはっ!?」

 

 痺れが残っているせいで仕留める事は出来なかったが、今までにない確かな手応えを感じた。

 だが同時に俺の左腕に激痛が走る。

 

「ぐあっ!?」

 

 思わず絡め取っていた腕を離してしまった。

 距離だけは取られまいと踏み込むが、顔面に刀での突きを放たれその場に留まらざるをえなくなった。

 立ち止まらなければ突きを避けられず、避けられなければ顔面に穴が開いていただろう。

 

「つぅ、……まさか噛み付いてくるとはな」

「形振り構ってられなかったんだよ。あのままじゃ確実に殺されてたからな」

 

 左腕から血が滴る。

 一体どんな顎をしているのか、食い千切られはしなかったものの傷はかなり深いらしい。

 こういう時の為に常備していた紐を左肘に巻きつけ、思い切り締め付けてとりあえずの止血を済ませた。

 興覇は口元の血を拭い、噛み付いた時に口に入った血を唾液と共に甲板に吐き捨てている。

 

「ち、息をするたびに腹がいてぇ。よく腹をぶち破られなかったもんだな、おい」

「こっちは左腕を噛みちぎられるかと思ったんだがな」

「口の中が気持ち悪いわ。大昔に飢えて生で動物の腹食い千切って以来だぜ、この味」

「……まぁこんな時代だし、そういう事もあるな。俺にも経験がある」

「はっ、お前もかよ。ほんと、色々と底が見えない奴だなお前」

 

 口に入った血液の感触は前世で体験している。

 生きていた時の体温を感じさせる生温さだけでも、口に入れるような物ではない。

 それを飲み込む時の感覚は、筆舌に尽くしがたかった。

 かつての戦場での出来事からもう七、八十年経っていると言うのに思い出そうと思えば思い出せる。

 出来れば二度とごめんだ。

 

 だが必要に駆られれば俺は躊躇わず実行するだろう。

 この戦いに勝つために躊躇わなかったこいつのように。

 

「続き、行くぜ?」

「いい加減、終わらせるぞ」

「そうだな。俺の勝ちで終わらせてやるよ」

「やってみろ。譲るつもりはない」

「上等だぁっ!!!」

 

 何度目かの接敵。

 お互いの間合いを侵略する為に走る。

 

 血が沸騰しているかのように身体が熱い。

 目の前の友であり、敵である人間を倒す事しか考えられなくなっている自分に気付いた。

 

 生き残る為に必死になる事はあっても、敵を倒す事に死にもの狂いになった事はなかった。

 こんな自分もいたのかと、頭の端の冷静な部分が驚いているのがわかる。

 

 戦う事を楽しいと思った事は無い。

 とどのつまり、相手を殺す事を、相手を陥れる事を楽しむという事だから。

 前世でも、そして今世でも、そんな風に考えた事はない。

 

 だと言うのに。

 こんなにも身体が熱い、そして頭だけはどこまでも冷静に目の前の男の動きを考察している。

 次の動きを読もうと思考を巡らせ続けている。

 

「おおおおおらぁあああああああッ!!!!」

「はぁああああああああああああっ!!!!」

 

 怒号と共に感情が溢れた。

 獣のように走り回り、何度も接敵し、その度に傷を作る。

 狭い、あまりにも狭すぎる甲板上を足を止める事無く駆けずり回った。

 

 周囲の時間の流れすら遅く感じる世界で、俺はなんとなく察した。

 次の接敵が最後になる。

 

「「はぁ、はぁ、はぁ……」」

 

 額から流れ落ちている血のせいで右の視界が利かない。

 代わりに奴は左足を負傷した為、あの場から動く事は出来ないだろう。

 動こうとすれば左足を引きずる形になり、その隙は致命的だからだ。

 

 ばれないように平静を装っているが、遠巻きにしている者たちならいざ知らず戦っている相手である俺は誤魔化せない。

 かといって明らかに見えているその弱点を突くつもりは今の俺には無かった。

 

 弱点を突いたとしても奴が怒る事は無いだろう。

 むしろ当然の事だと笑うかもしれない。

 

 他の誰との戦いでも、おそらく俺は弱点を見つけたら容赦せずにそこを突くだろう。

 誰に咎められようと、そこに利点があるなら躊躇わない。

 だがこの男との戦いで、それをする気は起きなかった。

 真っ向から倒さなければならない、と自然とそう思う。

 

「ケリ付けるぞ」

「ああ……」

 

 無事な右拳を握り締める。

 上段に刀を振りかぶる興覇。

 

 合図は無かった。

 俺が、俺のタイミングで駆け出す。

 刀を握る奴の手に、さらに力が入るのが見えた。

 

 音が消える。

 

 奴の大ぶりの一撃を右の手甲で受け流す。

 先ほどよりも鋭く重い一撃を捌き切った。

 刀の流れに逆らわないように右腕を下げてしまった為に、この腕はすぐに攻撃に使う事は出来ない。

 

 しかし超接近したこの距離から離れる事は許されない。

 ここで距離を取ろうとすれば斬られる。

 ならば。

 

「がっ!?」

 

 歯を食いしばって自分の額を相手の額に叩き込む。

 ヤツの上体が衝撃でぐらりと仰け反った。

 

 下げっていた右腕で棒立ちになった興覇の右腕を掴む。

 意識が飛ぶほどの衝撃を受けたと言うのに武器を手放さないその執念に感服しながら、俺は奴の足を払いその身体を背負い、そして自分の身体ごとその場で跳び、遠心力を味方に付けて甲板に叩きつけた。

 

 相手を制するのではなく殺す為の背負い投げ。

 

「かはっ!?」

 

 ヤツが喀血する。

 甲板の丈夫な木板に罅が入る程の一撃。

 普通の人間なら背骨が粉々になっているはずだし、そのショックで死んでいるだろう。

 しかしこいつは手酷いダメージを受けてはいるもののまだ生きている。

 呆れるほどに丈夫な奴だ。

 

「……あ~、負け、た……か」

 

 呼吸の音がか細い。

 息をするのも辛い顔で言葉を紡ぐ興覇。

 俺は黙ったままその言葉に頷いた。

 

「そうか。……なぁ、駆狼」

 

 腰に下げていた三本目の棍を手に取ろうとしてやめた。

 青白い顔で、俺を見つめる男にもう先は無いのだとわかったからだ。

 

「俺は娘に何か残せたと思うか?」

 

 死を目前にして出た疑問が置いていく娘の事か。

 本当に、筋金入りの親馬鹿め。

 

「ああ、きっと。お前の伝えたかった事は、伝わっている」

 

 それだけが心残りだったのだろう。

 深桜は口元を引きつらせながら息を吐いた。

 どうやら笑おうとして失敗したらしい。

 もうそれだけの行為が出来ない程に虫の息と言う事だ。

 

「あ、りがと……よ……駆、狼。無二の、親……ゆ、う…………よ」

 

 前世で死の間際の陽菜の手を取った時、その手から力が抜けていった瞬間の喪失感を思い出した。

 心にぽっかりと穴が空いたような気持ち。

 恐らくこの気持ちを埋める手立てなど無いんだろう。

 陽菜の時もそうだったのだから。

 

 眠るように逝った男から周囲に視線を巡らせる。

 俺たちの戦いを手を出さずに眺めていた討伐軍の面々の姿。

 睨みつけるように周囲を睥睨し、俺は最後の仕事として鬨の声を上げる。

 

「錦帆賊の長『甘興覇』は太守孫文台の将『凌刀厘』が討ち取ったぁああああああああッ!!!!!!」

 

 俺はこの日、名声と勝利を得る事と引き換えに友を殺した。

 

 

 

 

 相手の船の制圧まで実に鮮やかな手並み。

 そして錦帆賊という大陸中に知れ渡る程の猛者たちを相手に互角に立ち回った凌刀厘。

 

 その男を従えている建業の文台を軽んじる者は、もうこの討伐軍にはいないだろう。

 

 あの男は面白い事をすると直感でそう思った私だが、ここまでの事をやってのける程とは思っていなかった。

 まだまだ私も甘かったらしい。

 

「子幹、この一騎打ちには決着が付くまで手を出す事を禁じると全軍に触れ回ってくれ。手を出した奴はその部隊まとめて首を刎ねるともな」

「……承知した」

 

 部下に指示を出した後、また私の横に並んでいたこの大男は目の前の血沸き肉躍る光景を見つめながら声をかけてきた。

 

「そこまで気に入ったか。あの青年を」

「いいや、別にあいつに限った話でもないぞ。そもそも文台を建業太守にと口添えしたのも私だしな」

「口添え? 前太守と軍を壊滅させた彼女らの首を繋ぎ、太守に召し上げたその功績は口添えの域には留まらんだろう」

 

 俺の立場を持ってしてもそれは危うい行動だった。

 表には出ていないが建業を文台に引き渡す為に、義真にも大きな借りを作っている。

 今回の錦帆賊討伐に義真ではなく、俺が駆り出されたのもその時の借りが尾を引いた結果だった。

 そこまでの無理をしてでも、あいつらを俺は召し上げた。

 その意図を知っているのは今の所、この仏頂面だけだ。

 

「今のままじゃ朝廷も帝も民も宦官どもの食い物にされて終わってしまうからな。大陸に新しい風を吹かせる為にも強い意志を持った連中が必要だと思ったんだよ。……ようやく見つけたんだ、多少は優遇しても罰は当たらんさ」

「ふむ。自分の首すらも賭けての大博打。しかも結果が出るのは己の死後かもしれんとは……相変わらずの物好きめが」

「くくっ、良いのさ。このままだといずれジリ貧で負けちまう勝負だしな。大体、お前も人の事は言えんだろ?」

「……まあな」

 

 子幹が才能ある人物に私塾(というには規模が小さい物だが)を開いている事を暗に突いてみると、あっさりと認めてしまった。

 なんてからかい甲斐の無い奴だ。

 

「盧将軍、全軍に送った伝令が戻りました。指示はいずれも漏れなく」

「よし。別命あるまで待機せよ」

「はっ!」

 

 下がる子幹の部下を視界の隅に捉えながら、いよいよ決着が付きそうな一騎打ちを見つめる。

 ああ、見ているだけで興奮する戦いももう終わりか。

 不謹慎ではあるが残念に思う。

 こんな戦い、生涯で何度も見れる物ではないからな。

 

 鈴の甘寧が一人になった時点で、この戦は討伐軍側の勝利は確定していた。

 仮にあの男がこの一騎打ちに敗れたとしても、その時は控えていた者たちが奴に矢の雨を降らせればそれで終わる。

 他の領地の連中は兎も角、建業の連中やうちの部下たちが、機を見誤るとは思っていない。

 

 だからこそこんなにも呑気に談笑し、この戦の先を考える事が出来るだけの余裕が持てた。

 

「文台に目をかけて正解だった。これほど先が楽しみな奴がまとまっている所なんてそうはない」

「まとまり過ぎていても困る事があるのだがな。これから先の彼らの苦難を思うと、やはり不安だ」

「だからお前はお前で手を打てばいいさ。誰の手が日の目を見るか、人生を賭けての大勝負。楽しいじゃないか」

「俺は賭け事をする気はない」

「堅物め」

 

 そして終わりの時が来る。

 仰向けに倒れた甘寧。

 その死を見届ける凌刀厘。

 

 錦帆賊の真実を知るあの男からすれば、複雑な思いがあるのだろう。

 その目はやり切れなさを抱えているように見えた。

 

「錦帆賊の長『甘興覇』は太守孫文台の将『凌刀厘』が討ち取ったぁああああああああッ!!!!!!」

 

 世の理不尽を叩き壊さんとするかのような怒号が辺りに響き渡り、その鬨の声に応じるように建業軍が雄叫びを上げる。

 戦いは終わった。

 だがこれだけの武功を上げた建業の連中にはこれからも苦難が待っているだろう。

 

「乗り越えて見せろよ。お前たちに俺の人生を賭けてるんだからな」

 

 俺の言葉は長江に響き渡る怒号の中に消えて誰の耳にも届かなかった。

 

 

 

 

「大丈夫か!? 刀厘!!」

「ああ」

 

 駆け寄ってくる祭の言葉に、俺は言葉少なに頷く。

 俺自身、状態はあまり良くなかった。

 受けた傷は多く、長時間の一対一の戦いによる疲労でもう立っている事も辛い。

 

 祭に肩を貸してもらいながら甲板を離れる。

 一度だけ友の亡骸を振り返る。

 かける言葉など思いつかない。

 だからただこの目に焼き付けて、その場を後にした。

 

 何か言いたげに俺を見る部隊の仲間たち。

 特に元錦帆賊の者たちは、感情の揺れが目に見えてわかった。

 

 当然だろう。

 何度となく言ってきた事で、覚悟を決めろと言ってきたが、それでも俺は深桜を、かつての彼らのリーダーを殺したのだ。

 父のように、兄のようにあいつを慕っていた者もいる。

 恨むなと言う方が無理な話だ。

 

「……撤収する。総員、駆け足!」

「「「「「「「「「応っ!!!」」」」」」」」」

 

 それでも俺の言葉に背筋を伸ばして答える部下たち。

 普段の調練の成果と言う奴だ。

 

 ドタドタと騒々しい足音と共に、皆が持ち主のいなくなった船から立ち去っていく。

 俺と祭もまた、彼らに続いて船に飛び移る。

 

 軽く息を吐くと、膝から力が抜ける。

 

「すまん。少し座らせてくれ」

「あ、ああ。わかった」

 

 そのまま祭に抱えられて甲板の縁に寄りかかるように座り込む。

 部下の前でこれは情けないと思うが、せめて陸地に着くまでのほんの少しの間だけでも緊張を解いていたかった。

 

「大丈夫か? 刀厘」

「……少し疲れただけだ。そう心配するな」

 

 幸か不幸かいつかの山賊と戦った時と違って、傷は多いものの意識ははっきりしている。

 身体はボロボロだが話す分には問題ないし、陸地に戻る頃には歩ける程度に回復しているはずだ。

 

 バタバタと慌ただしく露橈の上を人が行き交う。

 ゆっくりと船が動き出す。

 背後を振り返り、縁越しに接舷していた錦帆賊の船が遠ざかっていくのを眺めた。

 

「刀厘様」

 

 声をかけられ、視線を錦帆賊の船から外す。

 戻した視線の先にいたのは部隊の中で最年少の少女。

 

「……甘卓」

 

 正直、何を話せばいいのかわからない。

 実の父親を殺した俺に、話しかけてきたこの子の意図がわからない。

 彼女に慕われていた自覚はある。

 今更、言い訳などするつもりもない。

 

 俺を見上げる彼女の目は溢れ出しそうになる涙を堪えて潤んでいた。

 

「父は……」

「ああ」

 

 喉を引きつらせながら、言葉を紡ぐ思春。

 俺は彼女の言葉を待つ。

 

「父は……満足していたでしょうか?」

 

 あいつの、深桜の最期。

 表情を動かす事に失敗していたが、確かに笑おうとしていたその顔。

 

「ああ、あいつは満足していた。お前に自分の全てを見せられたと。俺に託せたと。全力で戦う事が出来たと」

 

 お互いに全力を出して戦ったからか、俺はあいつの気持ちを理解していた。

 

 奴の攻撃を捌き、俺の攻撃を奴が捌いたその一瞬一瞬で相手の想いを理解できた。

 相手の手を読もうと神経を研ぎ澄まし、刹那の間に最良の一手を捜す。

 戦いの果てに分かりあうだなんて言うのは、漫画の世界だけだと思っていたんだがな。

 

「そう、ですか。……とう、りん……ざま」

 

 俺の言葉を聞いた事が引き金になったのだろう。

 堰を切ったように思春の瞳から涙が溢れ出した。

 俺の名前も嗚咽が混じって上手く呼べていない。

 

「ありがどうございまじだ……」

 

 震える足に喝を入れて立ち上がり、そっと思春を抱きしめた。

 この子の親を殺した俺に、こんな事をする権利なんてないかもしれない。

 しかしそれでも、涙を流す彼女に何かしてやりたかった。

 偽善だと、誰に言われるまでもなく理解している。

 

 だが俺は縋り付くように俺の背中に手を回す少女を見てこの行動が間違っていなかったと、そう思った。

 今はただこの子が感情を爆発させる様をただ受け入れるだけ。

 

 祭が思春の頭を優しく撫でる。

 彼女に倣って思春の背中をそっと撫でながら、陸地に着くまでの短い時間を父親を亡くした少女の為に使った。

 彼女の心の傷をほんの僅かにでも癒せるように願いながら。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十一話

1年と半年もの間、放置する形になってしまい、大変申し訳ありませんでした。

恐らく今後は一話一話の量が短くなると思いますが一ヶ月に一度くらいの頻度で更新していけると思います。

更新が出来ない時は活動報告にて報告するようにいたします。



 戦いが終わったその日の夜。

 執り行われた軍議の席で建業軍は錦帆賊討伐における最大の功労者として朱儁将軍からお褒めの言葉を頂いた。

 もっとも軍議に出たのは蘭雪様と美命だけで、俺は祭と共に軍の再編を行っていたのだが。

 

 錦帆賊は俺たちと友好を結んでいた。

 しかし自分たちの命がかかったあの乱戦の中で手心を加える余裕などあるはずがない。

 少なくない被害を受けた軍を手早くまとめる為にも俺は怪我を押して奮闘していた。

 部下たちも、祭も、思春も、俺の身を案じてくれた。

 しかし建業へ帰り着くまでの間に何か起こる事も考えれば、少しの時間も無駄には出来ない。

 

 俺たちの意思で帰還する事が出来るのであればまた話は違うのだが、錦帆賊討伐の為に結成されたこの軍の命令は総大将である朱儁将軍が下す物だ。

 錦帆賊討伐が終わり普通ならば解散の流れだろうが、彼女が何らかの意図で軍事行動を続けると言い出す可能性もある。

 そうなった時、俺たちに逆らう事は出来ない。

 王朝から直々に派遣された総大将に逆らえば、最悪の場合俺たちの首が飛ぶ事にもなりえる。

 彼女自身が建業軍の意見を尊重してくれたとしても、他の領地の連中が良くは思うまい。

 ただでさえ功績を上げる場のほとんどを俺たちに奪われた形になった連中だ。

 それこそ蟻が地面に落ちた飴細工に群がるように、こちらを悪しようにこき下ろし、他領土にもこの話を広げ、最悪は朝廷に告げ口をするだろう。

 

 事が終わった今だからこそ、そのような隙を見せるわけにはいかない。

 俺たちが本当の意味で気を抜く事が出来るのは建業の地へ無事に帰り着いた後だ。

 

 

 

 軍議が行われる天幕。

 朱儁将軍は右肩上がりで高揚していた気分をポーカーフェイスで隠してこの場を仕切っていた。

 とは言うものの軍が合流して執り行われた軍議の席では怒りに満ちた鋭い双眸が今は随分と穏やかになっており、察しの良い者ならば彼女の機嫌を推し量る事も可能だろう。

 彼女の後ろで控える盧植は気持ちを隠しきれていない彼女の様子にそれとわからぬ苦笑いを浮かべていた。

 

「錦帆賊討伐の任ご苦労だった」

 

 しかし彼女の内心とは裏腹に労いの言葉の語気は気の緩みを許さぬ語調で。

 これで一段落と考えていた者たちを叱咤するその声音に、集まった者たちの背筋が一斉に伸びた。

 

「貴殿らの尽力により奴らは壊滅した。仮に逃亡した者がいたとしてごく少数、船は全て破壊した今となってはその力など微々たる物だ。討伐は成った。これにて貴様らの此度の任は完了となる」

 

 ゆっくりと噛み締めるように告げられる言葉に、蘭雪は無意識に拳に力を入れ、美命は錦帆賊の最期を想いそっと目を伏せる。

 数瞬の間のみの彼女らの感情の発露に気付いた者は幸いな事にいなかった。

 

「討伐における褒章は追って伝える故、この場では言及せん。まぁ自分たちがどの程度の戦功を上げられたのか、など自分たちが一番良くわかっているだろうが……。貴様らから何か上申すべき事はあるか?」

 

 褒章について言及しないという言葉に、何人かが不満げな顔をするが朱儁の視線に晒されるとすぐに不満を飲み込み表情を取り繕う。

 いくら今は上機嫌だと言っても進んでその機嫌を降下させるような真似をするわけにはいかない。

 彼女の苛烈な性はここにいる全員がその目で見ているのだ。

  

「これにて軍議は終了とし討伐軍は解散とする。各位、己が領土に帰り付くまで油断などせぬようにな」

 

 その場に居合わせた十数人の男女が同時に彼女に向かって礼をする。

 その様子を見届け、朱儁は盧植を伴って天幕を後にし、それに続くように集まった者たちが出て行く。

 蘭雪と美命は彼らが全員退出するまでその場から動かなかった。

 

 元より新参者として文字通りの意味で出入り口に近い末席にいたのだ。

 通行の邪魔になどなりようがなく、そして退出する者たちの目に必ず留まる位置になる。

 出て行く者たちのいずれもが彼女らに視線を向けてから出て行く。

 その視線に込められているのは彼女らを危険視する物であったり、妬む物であったりと何かしら含む物を感じさせる。

 そして全ての人間が天幕を後にした後、二人は目配せをして何事かを確認すると退出。

 

 誰もいない天幕はやがて朱儁の軍に解体され、やがて人が集まっていた痕跡は消えていった。

 

 

 

 錦帆賊の討伐。

 長江を荒らし回り官軍を返り討ちにしてきたとされる江賊の壊滅は、同じく賊として括られている者たちに戦慄を与えた。

 朝廷が本腰を入れれば、賊など一溜まりもない。

 そう印象付けるのに充分な出来事だと言えた。

 

 大陸中を駆け回るこの情報によって恐れを為した山賊や盗賊の行動は沈静化し、邑や町の被害は減っていく事になる。

 一時的な物ではあるが、大陸に平和が訪れたのである。

 これにより各領土の長たちは自分たちの力を高め、勢力を強める事に従事出来るようになった。

 各々の勢力は近隣領土の者を探り、あるいは牽制し、己の力を高めていく。

 建業の孫堅たちもまた力を貯え、民の暮らしを良くする為に日々仕事に努めていく事になる。

 

 しかし平和は繁栄だけではなく腐敗をも招く。

 民に重税を課し、搾取する者たち。

 孫堅を含む一部諸侯が善政を行っていようとも、彼らの身勝手な行動によって大陸全土に不満の種は広まっていく。

 

 そしてそれは数年後、孫策ら次世代の者たちが凌操の前世における成人を迎えた頃に爆発する事になる。

 黄色い布を纏った者たちの手によって。

 それはまだ先の話ではあるが、決して遠い話ではなかった。

 

 

 それはともかく建業の新参太守の軍が、錦帆賊討伐の立役者だと言う事実はあっという間に大陸に広まった。

 朱儁が虚偽報告などするはずもなく、さらに美命や陽菜の画策により噂という形で市井にも流布される。

 孫堅、そしてその臣下である凌操の名前は、噂話特有の尾ひれがつきながら広がり続け、文武問わず力のある者の耳へと届く事になる。

 

 

 

 涼州は西平の太守『馬騰(ばとう)』

 

「錦帆賊の頭領を討ち取った男、ねぇ。さぞかし強いのだろうが……そんなのを臣下にしている建業の双虎、将来的に化けるかもな。ん~、惜しいな。もっと近ければ直接顔を見に行けたのに。仕事は文約(ぶんやく)にやらせればいいんだが、相手がいるのが建業じゃ流石に遠すぎる」

 

 心の底から残念そうに語る彼女の姿に、臣下たちがほっと胸を撫で下ろしていた事実には幸か不幸か本人は気付かなかった。

 しかし黙っていられない人物もいる。

 

「おい、平然と仕事を押し付けるのやめろ。俺は俺で忙しいんだからよ」

「え~、適材適所って言うだろ」

 

 仕事を押し付けられそうになった韓遂文約である。

 

「あのなぁ。仮にも城主やってんだから自分の仕事くらい自分でしろよ。軍の調練だって部下たちの仕事だってのに隙を見つけりゃ仕事さぼって混ざろうとするし。ほんといい加減にしろよ、お前」

「いいじゃないか。身体を動かしたいんだよ私は」

「やる事をやってからしろっつってんだよ!!」

 

 馬騰と韓遂のいつも通りのやり取りの始まりである。

 この時、馬騰はまさか先ほどまで話題に上げていた男の方から涼州に来るとは思いもしなかった。

 

 

 

 同じく涼州は武威の勇『董君雅(とうくんが)』

 

「そうか。あいつは友に後を託して逝ったか」

 

 執務室で書簡に目を通しながら、彼は今は亡き友を想う。

 

「……ヤツが命懸けで託した物。無駄にしてくれるなよ、凌刀厘とやら。あいつの見る目が正しかったって事を身を持って証明してみせな」

 

 独白は本人以外の耳には届かない。

 

「っとそろそろ池陽君(ちようくん)の様子を見に行かないとな。最近は特に調子が悪いようだし、なるべく傍にいてやらないと」

 

 己が妻の体調を案じ、おそらく今日も一緒にいるだろう妻に似た儚げな娘を思い、董君雅は父の顔をして執務室を出て行った。

 

 

 

 十常侍と肩を並べる曹家の父『曹騰(そうとう)』

 

「ふぉふぉふぉ。どうやら南には面白き芽が出始めておるようじゃな。果たして我が孫『華淋(かりん)』にとってこやつ等はどのような存在となるかのぉ?」

 

 彼の脳裏に浮かぶのは出来すぎるくらいに出来る孫娘の姿。

 出来が良すぎる為に、物事を斜めに構えるようになり、身内以外に碌な異性がいなかった為に同性に目をかけ始めている彼女の目に『新進気鋭と噂される彼』はどのように映るのか。

 楽しみが増えたと皺だらけの顔で笑う。

 

「お爺様。お時間よろしいでしょうか?」

「おお、華琳か。入りなさい」

 

 噂をすれば、と笑みを深くし彼は孫の入室を許可する。

 金髪の少女が両脇に同年代の少女二人を伴って入ってくる姿を見つめながら、老人はさてどのように話そうかと考えを巡らせるのだった。

 

 

 

 名門荀家の一角『荀毘(じゅんこん)』

 

「やはり彼女らの勢いは凄まじい。偶然とはいえ繋がりが持てたのは天運と言えますね。荀家の将来、引いてはあの子の為にもこれからの世の動きには特に注意しなければなりませんね……」

 

 考えるのは今の世の流れ。

 宦官の横行がまかり通り、私欲を満たす為にのみ注力する者が多い昨今。

 そんな世を憂い手を打ってはいる物の、その効果は芳しくない。

 

「しかしやらねばなりません。あの子たちの将来の為にも親である私たちが……」

 

 あらためて決意し、彼女は愛娘の明るい未来を想った。

 

 

 

 荊州を治める冷徹『劉表(りゅうひょう)』

 

 かつて部下だった男の死。

 反逆され命を狙われたと言うのに、その死に思うところは何もないと言わんばかりの態度で彼は錦帆賊討伐の報告を聞く。

 

「ふむ。孫文台とやらは私が考えていたよりもずっと良い臣下に恵まれたようだな。とはいえまだまだ発展途上。あまりにも目障りならばその時は消すが……今は放っておけばいい。あちらがこのまま大成するのであれば……いずれ相見える機会も来るだろう。建業についてはもういい。他の諸侯について報告せよ」

 

 あくまで一領土の情報として孫堅たちの事を処理し、次の報告を催促する。

 そこにあるのは自らの実力に裏づけされた余裕でも、他者を見下すような驕り昂ぶった者の慢心とも違う。

 感情の起伏を伴う事無く、淡々と問題に取り組む姿は機械的で、かつて甘寧が見たと話していた民から搾取する事を当然とする傲慢な姿とは随分と違っていた。

 

「支えきれぬ民の切り捨ては終わった。……全てはここからだ」

 

 どこを見るとも知れぬ硝子のような無機質な瞳は、誰にも聞こえない程に小さな独白を零した。

 

 

 

 物語が大きく動くのは数年後。

 黄巾賊の乱が起こったその時から、大陸は群雄割拠の激動の時代を迎える事となる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

キャラ紹介
孫呉任官編


この作品に出演する主要キャラクターの紹介です。
章ごとにキャラ紹介は追加していきます。

タイトルの通り、孫呉任官編に登場するキャラの紹介になります。


姓名 凌操(りょうそう)

字  刀厘(とうりん)

真名 駆狼(くろう)

 

男性

 

プロローグから登場

 

本作品の主人公。

戦争への参加経験を持つ日本人。

青空道場を設立し、戦後の先の見えない暗い空気を払拭すべく尽力した。

九十歳まで生き、家族や友人知人に囲まれて死去。

 

何故か三国志の時代に転生。

天寿を全うしている為、基本的に落ち着いた性格。

しかし現代日本の倫理観も持っている為、その差異に苦しみ悩む事も多い。

老成している為、実年齢を誤魔化しているとよく言われる。

自他ともに認める子供好きであり、非常に面倒見が良い。

 

孫静と黄蓋、二人の女性を愛している自分に苦悩するが最終的に当人たちと拳を交えた話し合いを行い、二人を妻として娶る。

どちらが上でも下でもなく、『二人』を愛する事を誓っている。

 

武器:全身

道場を開いていたお蔭で、様々な格闘技の経験があり拳、蹴り、頭突きなどの他にも関節技などを使用する。

流派の名は『精心流(しょうじんりゅう)』、『昨日の己に克つ』という言葉を標題にしている立ち技、足技、関節技と様々な技をごちゃまぜにした実戦拳法。

 

 

姓名 孫静(そんせい)

字  幼台(ようだい)

真名 陽菜(ひな)

 

女性

 

第二話から登場

 

前世での凌操の妻だった女性。

凌操よりも先にこの世を去ったのだが転生時期は同じだったらしく現世では同年代になっている。

前世では看護師をしており、彼とはその時の患者の一人として出会った。

彼女曰く一目惚れだったらしい。

誰もが羨むおしどり夫婦で、お互いがお互いを支えあっていた。

最後は凌操同様、家族や友人知人に囲まれて最愛の夫に手を握られながら死去。

 

三国志の時代では孫堅の妹として転生。

姉や友人に己の倫理観を少しずつ広め、現代日本寄りの常識を叩き込んでいる。

親兄弟や友人には度々、権力者としての自覚を持てと諭されているが一庶民としての前世での生活が災いして馬の耳に念仏状態である。

 

凌操と再会し、お互いの愛情を再確認。

転生した後もおしどり夫婦ぶりは健在。

さらに黄蓋を凌操を愛する同志として認め、彼を共有する器の広さを見せる。

 

武器:無し

 

 

姓名 黄蓋(こうがい)

字  公覆(こうふく)

真名 祭 (さい)

 

女性

 

第一話から登場

 

凌操の隣村に住んでおり親同士の交友から韓当、程普、祖茂を含めた幼馴染。

異性として凌操の事を好いており、村が山賊に襲われた時にその事を自覚。

孫堅に見初められ建業に士官する折に告白するも前世の妻である陽菜を今でも愛している凌操に振られている。

しかし諦めるつもりなどなく、それ以降もアプローチを続行。

凌操と孫静が再会を果たした事で、一度は諦めようと思ったが当人の孫静に発破をかけられる形で想いを成就させる。

女性としてはかなり豪快な性格で自らを儂と呼称する人物だが、料理上手。

 

武器:弓

 

 

姓名 祖茂(そもう)

字  大栄(だいえい)

真名 慎 (しん)

 

男性

 

第二話から登場

 

凌操とは韓当、程普、黄蓋を含めた幼馴染であり凌操と共に他三人のお目付け役である。

凌操を兄として慕っており、彼と肩を並べる事が出来るよう様々な修練に明け暮れている。

 

士官後は文官の仕事をする事が多くなり、周異や朱治といった建業の頭脳たちの補佐に回っている。

鍛錬は怠っていないが、今のところ部隊を持っていない。

朱治とは仕事を共にする中でお互いを異性として意識し合っているが、奥手な為になかなか進展せず周囲の方がやきもきしている。

物腰柔らかで気配りのできる優しい性格だが前述の通り奥手。

 

武器:双剣

 

 

姓名 韓当(かんとう)

字  義公(ぎこう)

真名 塁 (るい)

 

女性

 

第一話から登場

 

凌操とは祖茂、程普、黄蓋を含めた幼馴染であり、トラブルメーカーその1である。

村に住んでいた頃から凌操に対して競争心を高く持っており、親友であると同時に好敵手だと認識している。

 

何故か動物に嫌われる為、士官後は馬の機動力を必要としない拠点防衛の要として部隊を率いている。

字が読めなかった事から書類仕事が苦手だったが、程普に教わりながら少しずつ仕事をこなせるようになっている。

周囲を明るくするムードメーカー。

程普とは村に住んでいた頃から無自覚に夫婦のような振る舞いをしていた。

 

仕官後は建業周辺の防衛隊に配属。

男気溢れるコミュニケーションによって隊員たちの気持ちをがっちり掴み、日々の調練と鍛錬に勤しんでいる。

士官してから凌操と孫静、黄蓋たちのやり取りを見ている為、少しずつ程普への感情を自覚してきている。

 

武器:大槌

 

 

姓名 程普(ていふ)

字  徳謀(とくぼう)

真名 激 (げき)

 

男性

 

第二話から登場

 

凌操とは祖茂、韓当、黄蓋を含めた幼馴染であり、トラブルメーカーその2である。

同年代に比べてとても落ち着いた性格だった凌操を最初は頼りにしていたが、月日が流れると共に凌操に頼りにされるようになりたいと考えるようになった。

 

士官後は文字の読み書きや物事の考え方を建業の文官に教わりながら、武官文官両方の仕事を無理のない程度に兼務している。

やれる事はすべてやる、出来ない事は出来るようにするという意識の元に勉強を続ける建業随一の努力家。

物言いは少々荒いが、人を思いやる事が出来る熱血漢。

韓当とは村に住んでいた頃から無自覚に夫婦のような振る舞いをしていたが、建業に士官してから凌操と孫静、黄蓋たちのやり取りを見ている為、少しずつ韓当への感情を自覚してきている。

 

武器:拳、弓

 

 

姓名 孫堅(そんけん)

字  文台(ぶんだい)

真名 蘭雪(らんしぇ)

 

女性

 

第二話から登場

 

新進気鋭の建業太守。

当時の建業太守が行っていた不正を見抜き、地方豪族をまとめ上げて反逆。

幸運も相まって太守の座を得た。

夫との間に孫策、孫権、孫向香の三人の子供を儲けているが死別している。

孫静の姉であり、自他ともに認める妹大事(シスコン)。

 

妹と親友の周異、昔から自分に付いてきてくれる宋謙たちと共に建業の発展と民の平和の為に尽力している。

しかし豪放磊落な性格な為に公私の区別がつけられない、仕事をさぼるなどの事で周異に説教される事も多い。

 

予知もかくやの類まれなる直感、その激しく猛々しい気性、人との間に垣根を作らない性格から領民にも慕われており、孫静と合わせて『建業の双虎』と言う異名で呼ばれている。

戦いの中で興奮すると理性の箍が外れて凶暴性が増し、敵と見なした者を問答無用で蹂躙する悪癖を持つ。

 

妹大事をこじらせ、仕官したばかりの凌操に重要な仕事を無茶振りする。

「さっさと功績上げて諸手を挙げて妹と結ばれろ」と言っているが、心中としては「これくらいこなせないやつに妹はやらん!」と思っている。

その複雑な胸中を知る周異は苦笑いしている。

 

武器:直剣

 

 

姓名 周異(しゅうい)

字  公共(こうきょう)

真名 美命(びめい)

 

女性

 

孫堅が建業太守になる前、豪族であった頃からの親友。

現在は建業の政務を取り仕切る筆頭文官。

日々、破天荒な真似をする孫堅やその他の対応に追われる苦労人。

 

頭脳明晰であり冷静沈着、常に先を見据えて考えを巡らせる事が出来るまさに文官に相応しい能力を持っている。

孫堅同様、元豪族と言う事もあり荒事の心得も持っている。

夫との間に周瑜を儲けているが孫堅同様、当時の流行病で死別している。

 

夫との愛の結晶である娘の事をとても愛している。

しかし軍師や文官としての教育と普通の娘に施すような教育がごっちゃになってしまい精神的に歪な成長を遂げてしまった娘に罪悪感を抱いていた。

筆頭文官としての仕事が忙しかった事もあり、娘との間に妙な距離を置くようになってしまい、その事をずっと気にしていた。

凌操らの士官のお蔭で仕事の負担が分散されるようになり、加えて凌操と教育についての壮絶な舌戦を繰り広げた事で己の親としての在り方を見つめ直した。

今では誰がどう見ても仲の良い親子である。

 

武器:鞭

 

 

姓名 朱治(しゅち)

字  君理(くんり)

真名 深冬(みふゆ)

 

女性

 

第八話から登場

 

建業太守孫堅の配下。

太守になる前から孫堅に仕えており、孫静、周異とも親しい間柄。

 

基本的におとなしい性格で突発的な事態に直面すると慌てる頼りない。

しかし戦場や公共の場では平時の態度が嘘のように沈着冷静になる。

公私を分けているというよりなんらかのスイッチによって切り替わる模様。

本人は自分の二重人格のような性質を自覚していない。

 

武官と文官を兼任していたが凌操たちの士官により武官の人員不足が解消されて来た為、現在は文官寄りの仕事を多くこなしている。

凌操たちが仕官してくれた事に周異と共にほっとしている。

孫策の奔放ぶりに振り回されてきたが現在はその被害が凌操たちに分散され、負担が減った事に内心で喜んでいる。

武芸よりも政治方面の素質があると評されているが、武芸についても平凡と言うわけではなく凌操らに比べ一歩劣る程度である。

祖茂と共に仕事をする事が多く、彼に惹かれている。

 

武器:剣

 

 

姓名 孫策(そんさく)

字  伯符(はくふ)

真名 雪蓮(しぇれん)

 

女性

 

第八話から登場

 

孫堅の長女。

母親そっくりの自由奔放さを持った娘。

彼女の行動には時として孫堅すらも頭を抱える程。

家族や仲間を大切にし、周瑜とは無二の親友。

 

彼女の血を色濃く継いでおり、幼いながらも孫家特有の勘の鋭さを持っているが同時に悪癖の片鱗も見せている。

 

叔母に想い人がいて、それが自分が気に入っている凌操であった事実に驚きつつも凌操なら叔父になってもいいと認めている。

母親の凌操への無茶振りに呆れながら、自身は凌操に着々と懐いている。

模擬戦に付き合わせるもその度に軽くあしらわれてしまう事を悔しく思っており、今まで以上に鍛錬に打ち込んでいる。

 

武器:剣

 

 

姓名 周瑜(しゅうゆ)

字  公瑾(こうきん)

真名 冥琳(めいりん)

 

女性

 

第八話から登場

 

周異の一人娘。

孫策同様、自身の母親そっくりの真面目な性格。

幼馴染であり無二の親友である孫策に毎日のように振り回されながらも母親の力になろうと勉強に励む健気な子供。

周異から既に国を支える為の教育を受けており彼女自身の持つ明晰な頭脳も相まって将来に期待されている。

しかし年相応の未成熟な子供の内面と教育内容の差に苦しんでいる。

 

凌操たちの任官後も内面の葛藤は変わらず苦しんでいた。

ただ凌操と激論を繰り広げた周異から歩み寄る形で子供らしくある事が出来るようになった。

自分と母親の仲を取り持ってくれた凌操に感謝しており、頼れる男性として懐くようになった。

母のように智に優れ、凌操のように柔軟な思考を持つ人物を目指し今日も勉学に励んでいる。

 

武器:鞭

 

 

姓名 宋謙(そうけん)

字  無し

真名 豪人(ごうと)

 

男性

 

第十三話から登場

 

建業太守孫堅の配下にして孫家に仕える人間としては最古参の人間。

孫堅にとっては師のような存在で、彼女はもちろん周異たちからの信頼も厚い。

建業でもっとも指揮官としての経験が豊富で頼りになる存在である。

士官したての凌操たちにとっても良き先達としてしばらく世話を焼いていた。

字が無い為、姓名で呼ぶ者が多い。

 

現在は凌操の部隊で副隊長として彼を支えている。

既婚者で妻をとても愛しているが、子供には恵まれていない。

同隊の賀斉を娘のように思っており、夫婦揃って可愛がっている。

 

武器:大剣

 

 

姓名 賀斉(がせい)

字  公苗(こうびょう)

真名 麟(りん)

 

女性

 

第十三話から登場

 

凌操隊に配属された女性兵士。

女性とは思えないほどの腕力を持て余し、畑仕事も満足に出来なかった。

役立たず扱いされていたところを周異に拾われ、兵士になる。

凌操の部隊に配属され彼に身体の使い方を一から丁寧に叩き込まれた事で、持て余していた腕力を使いこなせるようになった。

腕力だけならば建業で一、二を争うほど。

 

役立たず扱いされていた過去の経験からやや卑屈で内向的。

しかし凌操隊での経験を積むうちに少しずつではあるが自分に自信を持てるようになってきた。

そんな自分を拾い上げてくれた周異となにくれと世話を焼いてくれた宋謙、懇切丁寧に肉体の使い方を指導してくれた凌操の事を慕っている。

 

武器:棍棒

 

 

姓名 甘寧(かんねい)

字  興覇(こうは)

真名 深桜(しんおう)

 

男性

 

第十五話から登場

 

長江周辺を縄張りにしている江賊にして義賊。

かつて劉表の元に仕えていたが、余りにも横暴な主と兵士たちの行いに激怒し、劉表に面と向かって啖呵を切った。

逆賊として処刑しようとした兵たちを全て返り討ちにして逃亡。

紆余曲折の果てに同じような境遇の仲間たちを集め、錦帆賊として立ち上がる事になった。

同じ境遇の仲間の最初の一人で後に妻になる想(おもえ)との間に甘卓を儲ける。

 

娘を溺愛しており、その成長を命続く限り見守りたいと思っている。

建業と協力関係を結ぶ切っ掛けとなった凌操を特に気に入っているが、娘に懐かれている事に嫉妬もしている。

 

武器:湾曲刀

 

 

姓名 甘卓(かんたく)

字  無し

真名 思春

 

女性

 

第十五話から登場

 

甘寧の娘。

生まれた時から錦帆賊という環境に身を置いている船と共に育った少女。

それ故に身内以外には人見知りの毛があり、遭遇した凌操隊の人間とも中々打ち解ける事が出来なかった。

しかし接触する機会が多かった凌操に戦い方の指導を受ける程度に懐く。

その事に実の父親が内心で嫉妬している事には気付いていない。

凌操の助言を受けた結果、今まで勝てなかった父に迫る事が出来た事で彼の事を父に並ぶ凄い人物と認識し、親愛の念を抱くようになった。

仲間を守る為、父を守る為、今日も鍛錬に余念がない。

 

武器:湾曲刀

 

 

姓名 荀彧(じゅんいく)

字  文若(ぶんじゃく)

真名 桂花(けいふぁ)

 

女性

 

第二十一話から登場

 

名門荀家の一員『荀毘(じゅんこん)』の一人娘。

荀毘の視察に好奇心から同行したところ、そこで意気投合した『戯志才(ぎしさい)』と名乗った少女と共に賊に拉致された。

奴隷商人の類であった賊たちと不自由な船での生活、次々と消えていく同じ境遇の女性、少女たちの姿がトラウマとなり、男性にとって特に顕著な対人恐怖症となってしまう。

凌操隊によって賊は討伐され、命は救われたものの当時は彼らに対してもトラウマの影響で怯え、話もままならない状況にあった。

凌操を始めとした者たちの可能な限りの介護によって、彼らに限定して心を開くようになる。

特に凌操に対しては尊敬と敬愛の入り混じった感情を抱いている。

 

武器:なし

 

 

姓名 董襲(とうしゅう)

字  元代(げんだい)

真名 弧円(こえん)

 

女性

 

第二十二話から登場

 

凌操隊に配属された会稽群出身の女性兵士。

女性ながら極めて高い長身を持ち竹を割ったようなさっぱりした性格。

男女間の摩擦を率先して解決に乗り出す姉御肌で面倒見が良い。

凌操の事を実力、人柄ともに惚れ込み慕っている。

ただ蒋欽とは性格的に相性が悪いらしく仲が悪い。

 

武器:三節棍

 

 

姓名 蒋欽(しょうきん)

字  公奕(こうえき)

真名 絃慈(げんじ)

 

男性

 

第二十二話から登場

 

一旗上げる為に弟ともども建業に仕官し、凌操隊に所属している男性。

間延びした口調と飄々とした姿勢を崩さず、しかし隠れて修練を重ねる努力家。

聡明である事は間違いないが、教養があるわけではなく実家はただの農家である。

腕っ節はそこまでではないが隊をまとめるなどの団体行動を指揮するのが上手く、ゆくゆくは独立した部隊を率いる事を期待されている。

 

武器:弓

 

 

姓名 孫向(そんしょう)

字  香(こう)

真名 小蓮(しゃおれん)

 

女性

 

第二十六話から登場

 

孫三姉妹の末っ子。

その生まれ持った天真爛漫さで周囲を巻き込む少女。

勉強よりも運動、運動よりも悪戯が好きな女の子である。

幼さ故に楽しい事に目が無く、その無邪気さからくる我儘で周囲の人間を振り回している。

孫堅の娘としての義務感などはなく、周瑜や孫策に比べ、ただただ年相応に子供らしい子供である。

 

武器:弓

 

姓名 孫権(そんけん)

字  仲謀(ちゅうぼう)

真名 蓮華(れんふぁ)

 

女性

 

第二十六話から登場

 

孫三姉妹の次女。

長女、三女と破天荒な姉妹に挟まれた為か、この年齢としては非常に生真面目かつ頑固な、有体に言えばお堅い性格の少女。

孫堅の性質を色濃く継いだ孫策に対して劣等感に近い物を抱いていた。

しかし凌操たちが仕官し、今まで出来なかった事を出来るようになろうと努力する姿に触発され、より様々な分野に手を伸ばし姉や妹には無い長所を持とうと前向きに考えるようになった。

以降、彼らに懐くようになる。

子供に対して世話を焼く性質の凌操には親愛の情を、常に努力をかかさない程普には親近感を抱き特に懐いている。

 

武器:直剣

 

姓名 蒋一(しょういち)

字  公盛(こうせい)

真名 克巳(かつみ)

 

男性

 

第二十九話から登場

 

蒋欽の一つ下の弟。

弟だが体付きは彼の方が逞しく、年齢を逆に勘違いされる事も多い。

兄の飄々とした沈着冷静な性格とは真逆の熱い激情家。

凌操隊の一番槍としてその腕っ節を生かしている。

日々の街の見回りや調練の監督など率先して引き受ける為か、自隊のみならず街でもそれなりに顔が知られている。

 

武器:打棒

 

 

姓名 荀毘(じゅんこん)

字  正文(せいぶん)

真名 立花(たちばな)

 

女性

 

第三十一話から登場

 

名門荀家当主を影に日向に支える貴族内での傑物。

荀彧の母親。

儚げな雰囲気のおしとやかな女性だが、聡明で思慮深くもある。

知れず策謀をめぐらせているためその本質は強かで頑固者。

荀家の勢力が二分されている状況、民を人と思わぬ貴族意識が蔓延している現状、十常侍や太守たちによる賄賂などの横行が罷り通る世の中をを心底憂いていおり、どうにか出来ないか日々、考えを巡らせている。

しかし桂花の前では只の母親である。

凌操を初めとした建業の者たちには娘を助けてもらった恩義を感じており、とても友好的。

 

武器:なし

 

 

姓名 周洪(しゅうこう)

字  勇平(ゆうへい)

真名 修(しゅう)

 

男性

 

第三十二話から登場

 

荀家当主の荀爽に雇われている密偵。

狐目に何を考えているかわからない面差しの優男だが、しかしその実、大陸の腕利きですら気付かせないほどに優れた隠行の技を持っている。

一つ所に留まる事の無い流浪の民の出身で、妻が身ごもった事を切っ掛けに現在の大陸に腰を落ち着けた。

その独特の隠行は一族特有の物で非常に高度だが優れており、故に密偵としての腕前も破格である。

娘がおり、彼女にこの隠行を継がせている。

このような仕事をしている事からいずれ命を散らすだろう事を受け入れており、その後に残された娘が路頭に迷うような事がないよう我が子の士官先を探している。

第一候補はもちろん建業である。

 

武器:長刀

 

 

姓名 朱儁(しゅしゅん)

字  公偉(こうい)

真名 不明

 

女性

 

第三十七話から登場

 

皇甫嵩、盧植と並んだ黄巾の乱の頃に漢王朝に仕えていた忠臣の一人。

孫堅に似た豪放磊落な性格ゆえか、彼女の事を気に入り太守に推薦し、召し出した張本人。

建業に何かを期待するような言動が多く、その男臭い笑みの裏で何を考えているかは窺い知れない。

他の女性武将と同様、既に四十歳を回っているにも関わらず若々しい。

 

武器:直剣

 

 

姓名 盧植(盧植)

字  子幹(しかん)

真名 不明

 

男性

 

第三十八話から登場

 

皇甫嵩、朱儁と並んだ黄巾の乱の頃に漢王朝に仕えていた忠臣の一人。

この時代の人間としては異例なほどに背が高く、さらに寡黙なせいで傍にいるだけで独特の威圧感を与える。

錦帆賊討伐後、都を離れて幽州琢郡に異動し、かつてやっていた学舎を再開している。

 

武器:槍



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

孫呉発展編
第四十二話


この話からしばらく黄巾の乱までの間、真恋姫本編に入る前の話になります。

この話から文頭の段落分けを行っております。
投稿済みの話には誤字脱字の修正と文頭への段落空けを行う予定です。



 錦帆賊討伐から早一年。

 建業では比較的、平和な日々が流れていた。

 偶にある賊の討伐、日々行われる献策への対応、部隊の調練。

 忙しい日々の中で、彼らを取り巻く環境も変わっていった。

 

 

閑話の壱『二回目の出産』

 

 その日は俺と陽菜にとって二度目の特別な日だった。

 

 この時代としては非常に清潔にされた部屋。

 そこにある唯一の寝台で陽菜は横になっていた。

 

「陽菜」

 

 お疲れ様という気持ち、ありがとうと言う気持ち、大丈夫かと言う気持ち。

 色々な気持ちを込めて、俺は彼女の名を呼ぶ。

 

「ふふ、駆狼。私、もう一度あなたの赤ん坊を産めたわ」

 

 彼女が寝ている寝台の横に一回り小さい寝台が置かれている。

 その中にいるのは安らかに眠る赤ん坊。

 俺と陽菜の子供だ。

 

「ああ。良く、頑張ったな」

 

 出産前よりも少しやつれた顔。

 しかしその表情は晴れやかで、満足そうで、俺も釣られて笑みを浮かべた。

 

 やつれた頬をそっと撫でる。

 くすぐったそうに、嬉しそうに陽菜は笑みを深めた。

 

「抱いてあげて。私たちの息子を」

「ああ」

 

 安らかに眠っている我が子をそっと抱き上げる。

 とても懐かしい感覚だった。

 場所も、境遇も、時代すらも違うと言うのに。

 それでも俺は今また陽菜との子供をこうして抱き上げている。

 その事がとても嬉しかった。

 

「……う~っ」

 

 俺に抱き上げられた事で起こしてしまったらしい。

 俺たちの子供はぐずりながらその目を開ける。

 泣かれるかと身構えたが、そんな事はなかった。

 俺の顔をじっと見つめ、不思議そうな顔をしている。

 こんな強面の男の顔を見ても泣かないとは、赤ん坊ながら肝の据わった子だ。

 

「ふふ、お父さんがわかるのよ」

「そうだと、嬉しいな」

 

 ゆっくり慈しみながら我が子の頭を撫でる。

 

「きゃ、きゃ!」

 

 俺の気持ちを察してくれたのか、この子は俺に笑いかけてくれた。

 

「生まれてきてありがとう。玖龍(くりゅう)」

 

 『黒く美しい龍のようにあれ』という意味を込めた真名を呼び、俺は我が子『凌統(りょうとう)』を優しく抱きしめた。

 

 

閑話の弐『妻二人、子二人』

 

 建業城の中庭。

 午前中の仕事を一段落させた俺は、陽菜、祭は示し合わせたようにそこに集まっていた。

 二人の子供は、今は乳母というか世話係というか、とにかくそういう役割の人に預けている。

 先ほど偶々出会った蓮華と思春が子供たちを連れて来ると言って出て行ったから、すぐにでも家族水入らずになりそうだ。

 

「祭、身体の調子はどうだ?」

 

 出産を終えてまだ数日しか経っていない。

 驚くほどに頑強な身体をしている祭だが、それでも何かしらの不調が起こるかもしれなかった。

 出産とはそれだけ大きな事で、母体にも負担をかける物なのだ。

 

「う~む。色々と鈍っておるな。まぁ一月も身体を動かしておらんからのぉ。早く鍛錬に戻りたいものじゃ」

 

 俺の心配を他所に祭の態度は普段と変わらない。

 手をしきりに握り開きしながらの不満げな表情は、子を産んだとは思えない程に子供っぽい。

 

「もう、祭? 子供を産んだばかりなのだからもうしばらくはおとなしく療養していなさい」

「しかし陽菜様。儂は部隊を預かる武官じゃから身体が鈍るのは死活問題じゃぞ……」

「こういう時くらい、仕事は男たちに任せればいいのよ。女と違って出産の苦労はないのだから。ね? 駆狼」

 

 からかい混じりに水を向けられる。

 言っている事はしごく尤もだ。

 それにこんな時くらい旦那に甘えてくれた方が個人的にも嬉しい。

 

「そうだな。祭、腕が鈍るのを気にするのもわかるが、今は身体を休める事だけを考えてくれ。今のお前の仕事は休む事だ」

「ううむ。それは、そうなんじゃろうが……」

 

 納得できないと顔に出ている祭の頭を撫でる。

 

「武官としてお前が戦場に出る為に、必要な休息なんだと納得してくれ」

「う、むぅ……。まぁあの子の世話もしておるし、今しばらくはこのぬるま湯のような生活を享受するとしよう」

 

 俺に撫でられ、くすぐったそうに笑いながら祭は俺に身体を預けてきた。

 

「せいぜい今のうちに甘やかしてもらおうかの」

「別に出産休暇以外にも甘えてくれて構わないがな」

 

 預けてきた祭の身体を支えながら綺麗な銀髪を梳いてやる。

 

「うふふ。もちろん私も甘えさせてくれるのよね?」

「勿論だ」

 

 悪戯っぽい顔で笑う陽菜に、間髪入れずに応える。

 どちらが上だとかは無い。

 俺にとって二人は等しく大切な存在なんだから。

 もちろん。

 

「駆狼様! 凌統様と黄然(こうぜん)様をお連れしました!」

「きゃっきゃっきゃ!!」

「いたたたっ!? ちょっと凌統、そんなに髪を引っ張らないで!」

「あう~、う~~!」

 

 祭との子供を危なげなく抱えながら走り寄ってくる思春と、凌統に桃色の髪を引っ張られ四苦八苦しながら近づいてくる蓮華も、彼女らの騒々しさを微笑ましげに見つめながらついてきた乳母代わりをしている俺の両親も、もちろん子供たちも、俺にとって大切な存在だ。

 

 

閑話の参『空気にあてられて』

 

「駆狼にぃ、子供が生まれてから目に見えて幸せそう」

「そ、そうですね。祭さんと陽菜様もとても幸せそうです(わ、私も慎とあんな風になりたい……!)」

 

 家族と過ごす駆狼の幸せそうな姿を自分の事のように喜ぶ慎。

 その横ではなにやら考え込んでいる深冬もいる。

 既に周りから恋人同士と認識されている二人だが、実の所付き合ってすらいなかったりする。

 

 慎は慕っている駆狼と肩を並べるべく日々の鍛錬は元より、日々の政務にも精を出しており、他に気が回っていない。

 深冬は普段のおとなしい性格が災いして、積極的なアプローチが出来ず、生真面目な性格であるが故に仕事にかかりきりになる事も多い。

 慎とて深冬の事を憎からず思っているのだが、恋人になるというつもりはまだ無く。

 それが深冬を焦らせていた。

 

「(もしかして慎は誰か好きな人がいるのかも……)」

 

 思いを告げる事もなく、恋人でもない彼女には慎が、誰かと付き合う事を否定する権利などない。

 しかし一途に慎を想う彼女としては理屈としてはわかっていても感情が追いつかない。

 

「(慎が誰かの、恋人に? そ、そんなの……)」

 

 慎の気持ちを知っている激や駆狼からすれば彼女の苦悩は一人相撲も良い所なのだが、彼女自身はその事に気付いていなかった。

 

「(わ、私が頑張らないと! 慎を誰かに取られたくない! 私は慎の事がす、好きなんだから!!)」

 

 多分に駆狼たちの空気にあてられた事もあってか。

 いつにも増して積極性を増した彼女は思い立ったが吉日とその日の夜、愛しの彼の部屋へと押しかけ告白した上に色好い返事を貰い、さらにその勢いで一夜を共にするという快挙を成し遂げた。

 

 この翌日に彼らの仲がようやく収まる所に収まった事を知った駆狼たちは祝福すると同時に深冬の焦りからくる暴走に呆れていた。

 

 

 

閑話の四『子供たちによる変化』

 

 俺と陽菜、祭の子供が生まれた事を一番喜んだ子供は自分より年下の人間がいなかった孫尚香こと小蓮嬢だった。

 彼女の真名についてはこの一年の間に世話役から許可をもらっているから気兼ねなく呼ばせてもらっている。

 

「うわぁ、うわぁ!! ちっちゃい! くろう、さわらせてさわらせて! 頭なでさせて!」

「ああ、わかったからそう飛び跳ねるな。落ち着け、小蓮嬢。俺もこいつも逃げやしない」

 

 片膝をついて彼女が手を伸ばせる位置に玖龍を差し出す。

 

「わぁ……かわいい~~」

 

 大き目の瞳をキラキラと輝かせながら、それでも慎重に赤ん坊の頭を撫でる。

 

「今度は抱っこしたい!」

「お前が思っているよりこの子は重いぞ?」

「だぁーいじょーぶ!」

「もう、そんな能天気な事を言って、手を滑らせたりしないでよ?」

「もう、おねーちゃん。シャオはそんなことしないよ!」

 

 小さい両手、小さな身体で小蓮嬢が俺から渡された玖龍を抱え上げる。

 

「わ、わわわわっ!?」

 

 赤ん坊の予想外の重さにふらつくも、「それ見た事か」という顔をした蓮華嬢が慌てて小蓮嬢の対面に立ち、彼女の手に自分の手を重ねて支える。

 

「び、びっくりした……」

「もう! おじ様の子供なんだから慎重にしてっていたたたたっ!?」

 

 烈火のごとき蓮華嬢の怒声が、すぐに悲鳴に変わる。

 目の前に垂れてきた彼女の髪を我が子がその小さな手で掴み、あろう事か引っ張ったのだ。

 

「ちょ、ちょっ! 凌統、痛い! 痛いから引っ張らないで!」

「あはは、もしかしてこわーいお姉ちゃんからシャオを助けてくれたの? ありがとう、りょうとう!」

 

 髪を引っ張られて涙目になる蓮華嬢。

 それでも子供が心配だから小蓮嬢と一緒に支えている手は離さないのだから、この子は本当に優しい子だな。

 そんな姉の配慮に気付かず、小蓮嬢は嬉しそうに赤ん坊に頬ずりしながら礼を言う。

 

「それにしても……なぜ玖龍は蓮華嬢にだけあんな事をするのか」

 

 玖龍は蓮華嬢の髪をよく引っ張る。

 俺たち家族にもやるんだが、それにも増して何故か彼女を標的にする事は非常に多い。

 彼女が抱き上げると必ずと言っていいほどやる。

 髪が長いと言う理由ならば冥琳嬢や雪蓮嬢たちも該当するはずだが、被害に遭うのは今のところ蓮華嬢だけだ。

 

「蓮華の事、特に気に入っているのよ」

「そう、なのか? お気に入りの玩具のような扱いを受けてるように見えるんだが……」

「いやいやあれは大層気に入っておると見るぞ。一目惚れというヤツかの?」

「ふふ、そうかもしれないわね。良かったね、蓮華。将来は安泰よ」

 

 二人が騒いでいる姿を見守りながら俺と祭、陽菜は談笑する。

 話のネタにされて恥ずかしかったらしい蓮華は顔を真っ赤にして声を上げた。

 

「お、おば様! 祭も! からかうのは止してください!」

「うわわっ!? お、おねえちゃん!? しっかり支えてよ! りょうとうが落ちちゃう!!」

「わわわっ!? ご、ごめんなさい!?」

 

 最近はこんな風に仁を中心に騒がしい日々が多い。

 子供が元気なのは良い事だ。

 

 

 

「黄然。お前からもこの馬鹿に許可もなく放浪するなと言ってやってくれ」

「め、冥琳。お願いだから愚痴を黄然に言うのやめてくれない? この子が私をじっと見てるとなんだか責められてるような気持ちになるんだけど」

 

 黄然こと奏(かなで)。

 『自らを鼓舞し、他者を励ます者となれ』という意味を込め、祭の文字から連想してこの真名を名付けた子供だ。

 しかしこの子は玖龍と対照的に非常におとなしい。

 

 俺や祭、陽菜や両親が抱きかかえると安心するのかすぐに眠ってしまう。

 ただそれ以外の人間が抱いている時は、何が面白いのか抱いている人間をじっと見つめている事が多い。

 

 何を言っても黙って聞いているから冥琳嬢や美命などストレスを抱えているような人間は、この子相手に自然に愚痴を言ってしまう事も多いようだ。

 あと後ろめたい事がある時に奏にじっと見つめられると居た堪れない気分になるらしい。

 雪蓮嬢や蘭雪様が何か仕出かした時に奏を抱かせると自主的に反省を促せるという事で、冥琳嬢や美命からは意外と重宝されている。

 

「ふん、この子の無垢な瞳を見る事が出来ないという事は……また何かしたな、雪蓮?」

「い、いやぁねぇ。そんな事あるわけないじゃない?」

「ふふふ、目が泳いでいるぞ? ああ、思春。すまないが黄然を頼むよ」

「はっ!」

 

 蓮華嬢たちとは打って変わって冷静に奏の相手をしつつ雪蓮嬢を追い詰める冥琳嬢。

 冷や汗を流して逃亡しようとする雪蓮嬢をじっと見つめる生真面目な思春とその手の中にいる奏。

 責め立てるような三対の視線にさらされて、雪蓮嬢は顔を引きつらせながら金縛りにでもあったかのようにその場から動かなくなった。

 

「どうやら観念したようだな」

「奏が生まれてから雪蓮様はずいぶんとおとなしくなられたのぉ」

「自業自得の部分が強いから擁護も出来ないわね」

「兵士たちが雪蓮嬢の捜索に駆り出される事も減ったしな。ありがたい話と割り切っておこう」

 

 相変わらず俺たちは子供たちのやり取りを傍観している。

 二人は出産を切っ掛けにして仕事の一部を他の臣下たちに振り分けられるようになり、前までよりは余裕が出来たからこうしてゆっくり出来るようになっている。

 とはいえ子供たちの世話役も無事に決まったから、祭たちはそろそろ本格的な現場復帰になるだろう。

 俺は自分の仕事はきっちり済ませてからこうして休んでいるからなんら問題はない。

 最近は食物の生産効率化や長期間の貯蔵に向いている食物の生産について色々と試行錯誤されている。

 俺も個人的な畑で色々と試している最中だが、具体的な成果はまだ出ていない。

 

「ちょっとおば様、駆狼、祭! 暢気に見てないで助けてよぉ!!!」

 

 俺の思考遮るように雪蓮嬢が助けを求めてくる。

 しかし俺たちは揃って手を振って冥琳嬢に引きずられながら執務室に連れ去られる雪蓮嬢を見送った。

 

「う、裏切り者ぉおおお……」

 

 がっくりと顔を俯かせながらそれでも悪態を出す辺り、まだ余裕があるし懲りてもいないな。

 どうせまた何か騒動を起こすに決まっている。

 まぁあの子はこのやり取りすらも楽しんでいる節があるから、よほどの事にならなければこれでいいんだろう。

 適度な騒ぎなら娯楽になって、兵たちの刺激にもなるのだし。

 

「ああ、まったく平和だな」

 

 

 

閑話の五『両親』

 

「ふふ、貴方が赤ん坊の頃を思い出すわ。駆狼」

「そうだな。あの頃は私の名前を最初に言わせたくて、まだ文字も読めなかったお前に自分の名前を記した紙を見せたりしたものだ」

「貴重な紙でそんな事をしていたんですか、父さん(そういえばそんな事してたな。あれからもう二十年以上経つのか……)」

 

 俺たちが談笑する隣のテーブルで向かい合うように座っているのは俺の両親である凌沖と清香だ。

 子供が生まれた事を機に建業に引越してきた二人は、俺たちの子供の乳母代わり兼教育係として城に勤める事になった。

 俺や陽菜、祭が推挙したが、美命や文官たちが最低限の身元確認で認めてくれた事には正直驚いた。

 身内びいきと言われればそれまでで、駄目元で言ったんだが。

 

 もちろん両親を城に入れたのには理由がある。

 俺と言う存在が目立ちすぎた影響で、俺の生まれ故郷の村になんらかの工作が行われる可能性を危惧したのだ。

 端的に言えば俺をどうこうする為に両親を人質に取る、などがありえるという。

 

 出る杭は打たれるという言葉の通り、俺と建業軍は錦帆賊討伐でやり過ぎてしまった事から諸侯に睨まれてしまったからな。

 故に次善の策として巻き込まれる可能性が最も高い俺の両親については手元に置いておき、かつての五村同盟の村の傍には砦を作り、駐屯軍を置く事になった。

 欲を言えば豊さんや松芭さん、塁たちの家族にも建業に来て欲しかったが村を放って置くことは出来ないと拒否されたという話だ。

 

 今のところ、村には何も起きていないらしいが今後も注意が必要だろう。

 

「ふふ、あの頃は私たちも舞い上がっていましたからね」

「そのような事をしておられたのですな、義父殿、義母殿」

「祭ちゃんにそう呼んでもらえると嬉しいな、楼」

「そうね。まさか二人も娶るなんて思わなかったけれど。誰も不幸になっていないようだし、駆狼もしっかり二人を幸せにするつもりのようだし。親としては万々歳ね」

「い、いや、その……そこまで手放しで喜ばれるというのも、なんだか恥ずかしいのぉ」

 

 からかおうとしたつもりが構い倒される結果になり、祭は顔を赤くしながら俯いてしまった。

 結婚の報告をして、嫁を見せて、孫を抱かせる。

 どれも前世では親にしてやれなかった事だった。

 

「父さん、母さん」

「うん?」

「どうしたんだ、駆狼」

「俺たちが忙しい間は、子供たちをよろしく」

 

 唐突な俺の言葉に目を瞬かせる両親。

 しかし二人はすぐに優しく笑いながら頷いてくれた。

 

「任せておきなさい」

「ああ、安心して仕事をこなしてそして無事にあの子達の所に戻ってきなさい。祭ちゃん、陽菜様もですよ?」

「も、勿論じゃ!」

「うふふ、はい」

 

 俺は前世ではありえなかった幸せを噛み締めながら子供たちが騒いでいる方へと視線を戻した。

 気を抜けば涙が出そうになるのを必死に堪えながら。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十三話

あけましておめでとうございます。
本年も遅い更新となりますが『乱世を駆ける男』をよろしくお願いいたします。


 以前から研究していたサツマイモ、トマトの生産に成功した。

 長江を下ってくる異国の商人たちからサツマイモのつる苗とトマトの苗を購入できたのは僥倖だった。

 なぜあるのか、という疑問については深く考える事を放棄している。

 わからない事はいくら考えてもわからないからだ。

 

 サツマイモはじゃが芋と違って物自体に毒性はなく繁殖能力が高い。

 さらに痩せた土地でも育ち、それなりに長く保存できるという優れた食材だ。

 こいつを量産して痩せた土地に配り、その土地でさらに繁殖させ、いくらかを保存食として管理するよう指導していけば長い目で見れば食糧問題の緩和に繋がるだろう。

 さっそく上申し、量産に向けた手筈を美命たちと相談した。

 食糧問題と言うのは領地にとって避けては通れない問題だ。

 それを緩和できるかもしれないとなれば、力も入るという物。

 熱心に取り組んでくれている為、準備さえ整えば広めるのもあっという間だろう。

 

 一仕事を終えた俺はその日確かな満足感と共に妻たちや息子たちと過ごしたのだが。

 その翌日、休む暇もなくとある任務を受け涼州は西平への旅に出る事になった。

 

「馬の買い付けですか」

「ああ、はっきり言って建業やその周辺では馬は貴重だ。なかなか手に入らない上に世話をするだけの知識を持たない者も多い。我々の元にある馬の数も人が乗れる大きさとなると十と少しと言ったところだ。それを軍馬として仕込むのも難儀している」

「涼州の西平、というと馬家ですか」

「涼州騎兵の精強さは大陸で一、二を争うと言われている。中華の外と接した土地である涼州は異民族相手に常に戦いを繰り広げてきた事から軍隊の練度は非常に高いと聞く。最優先目標は馬の買い付けと馬の育成について必要な知識の収集だが、お前には交渉を担当する文官の護衛と可能であれば彼らの実力の程を見定めてきてほしい」

「これは建業太守から西平太守への正式な取引、という事でいいんだな?」

「ああ、こちらの要望をまとめた書簡を領主である太守へ渡す。その上で文官とお前にはあちらがごねた場合に妥協点を引き出して欲しい」

「なかなか難しい仕事だな。お前や深冬を連れて行く事は出来ないのか?」

「私たちは新たに国より賜る予定の領土について色々とまとめなければならないので同行は難しいんです」

「ああ、海の隣接しているあの土地だったな。確か今までの功績を評してという理由だったか?」

 

 しかしもらった領土『曲阿(きょくあ)』ははっきり言って治安が良くない土地だ。

 前領主は賄賂で己の立場を維持し、身の安全を図る人物。

 しかし領土を治める資質は著しく欠けていたようだ。

 賄賂すらも払えない程に領土の運営に困窮し、最後には自身の家族や直属の人間のみを連れて夜逃げ。

 碌でもない人間の残した負債は逃亡した前領主の命と持ち出された金品によって返されたという話だが、領土の困窮は当然のように治まっていない。

 民は窮状を脱する為に賊へ身をやつし、組し易しと見て他領土からも山賊や盗賊の類が侵入し無法を働く。

 放って置くことなど出来ない非常に厄介な状況と言えるだろう。

 

 そこで隣り合っていて且つ領土を上手く治められている俺たちにその領土を渡してなんとかさせようとしている。

 正直なところ厄介払い以外のなんでもない。

 しかし国、正確には十常侍から指名されての事となれば建業側に拒否権は無い。

 領土を引き渡された後、どれほど早く的確に土地を治め、平定していく事を考えるしかないのだ。

 

「そういう事なら仕方が無いが……その文官はしっかり仕事をこなせるのか? もちろん俺も全力を尽くすが所詮は武官だ。交渉は得意ではないぞ」

「わかっている。しかし相手もまた名の知れた武人。新進気鋭と言われているお前の存在を知り、噂通りの人物だと知れば多少なりと譲歩を引き出せるだろう。武人とは武に敬意を表す者であるが故に、な」

「つまり俺を連れて行くのは護衛以上に交渉を少しでもこちらに利する物にしたいから、という事か」

「まぁ事を荒立てぬ為に部隊を連れて行けないから護衛はなるべく腕が立ち、涼州が遠方であるが故に旅慣れている人物でなければならないからな。必然的にお前に白羽の矢が立ったのだよ。さてこの仕事、引き受けてくれるか? 駆狼」

「俺がいなければならない理由を挙げておいて受けるも何もないだろう。まったく」

 

 こうして俺は新たな仕事を頂いた。

 目指すは涼州。

 今回は前の遠征以上に長旅になる。

 しっかり準備しなければならない。

 

 この時、俺は新たな任務の重要性にばかり目が行き、肝心の文官が誰であるかについて聞きそびれていた。

 その事が後々、俺を唖然とさせる出来事に繋がる事になる。

 

 

「まさかお前が俺が護衛する文官だとはな」

「ふふ、私だってしっかり仕事はするわ」

「そこは疑っていないが……まさかとは思うが職権乱用などしていないだろうな、陽菜?」

 

 隊長業の引継ぎやしばらく戻ってこない事への挨拶回りを済ませ、離れる家族への精一杯の家族サービスを行った後。

 同行する文官を知らされ、俺は年甲斐もなく呆然とした。

 

「そんな事しーまーせーん。私が行くのは馬太守殿への誠意の表す意味合いが強いのよ。建業の双虎の片割れが交渉に出向いたって事はそれだけ重要な要件という事になるもの」

「お前が護衛対象なのは良い。理由を聞かされれば納得も行く。領主の片割れを遠方の交渉に使うのはどうかと思うが……だが」

 

 俺は自身の背中に括りつけられたおんぶ紐が緩んでいない事を確認し、背中にいるもう一人の同行者に目を向ける。

 

「なぜよりにもよって玖龍まで連れて行く事になっているんだ。蘭雪様は俺の抗議なんぞ聞く耳持たずで最後には『ごちゃごちゃ言わずに嫁と息子を守って任務を果たして戻って来い』などと言う始末だぞ。他の連中も諦めろとでも言わんばかりの顔で俺を見るばかりで誰も味方にはなってくれなかったし」

「私も言ったのだけど、ね。この子を連れて行った方が良いって勘が働いたらしいわ」

「また勘か。あの方の勘が馬鹿に出来ん物だという事は知っているがまだ一歳になったばかりの子供をこんな長旅に同行させるのはどうなんだ?」

「もう決まってしまった事だからぐちぐち言っても仕方ないわ。それに今回の勘は姉さんだけじゃないわ。雪蓮ちゃんも同じ事を言っているのよ」

「直感なら蘭雪様に勝るとも劣らぬ雪蓮嬢も、か。それが決め手という事か」

「そうね。事前に通る経路については調査は行われているからそこそこ安全なはずよ」

「その調査も絶対じゃない。……まぁ確かに旅がもう始まってしまった以上、文句を言っても仕方ないんだが」

 

 そう既に俺たち三人は旅立っていた。

 子供も同行させるのだと蘭雪様に押し切られ、いつの間にかまとめられていた荷物を幼馴染たちに押し付けられ、祭にはしばらく会えないからと強引に唇を奪われて呆然としている間に放り出されたのだ。

 思い返してみると実に酷い話である。

 

「帰ったら覚えていろよ。蘭雪様、雪蓮嬢」

 

 元凶に報復する決意を胸に俺たちは子連れで任務をこなす事になった。

 

「思春、そちらは大丈夫か?」

「はい。凌統様の世話係り兼護衛の任、この思春全力で勤め上げさせていただきます!」

 

 前世の同年代の少女なら一歩も歩けなくなるような大荷物を背負いながら、それでも背筋を伸ばしてはきはきと答える思春。

 言葉通り、この子は俺たちが仕事で手が離せなくなった場合に凌統を世話し護衛するという任を蘭雪様から受けていた。

 思春の性格なら事前に俺と打ち合わせしようと考えると思うのだが、どうも美命に『先達に意見を求めるのも大切だが、自身で考えて行動出来るようにならなければ駆狼のようにはなれんぞ』と説得されたそうだ。

 他の子供たちも同じような事を吹き込まれており、当日である今日まで蓮華嬢や冥琳嬢たちを交えて旅での護衛や世話について相談しながら考えていたらしい。

 俺を慕っている事を利用した大人たちの汚い話術である。

 

「ああ。よろしく頼むぞ」

「よろしくね、思春」

「はい、お任せください!!」

 

 いつになく気合の入った様子で握り拳を作って力む彼女の様子は年相応に微笑ましい。

 

「あー、うー!」

「凌統様のお世話のみならず何かありましたら私にお任せてください!」

 

 元気を出してと言わんばかりの息子の声と思春の頼もしい言葉だけが今の俺にとっての癒しだ。

 

「俺たちは豫州(よしゅう)、司州(ししゅう)、雍州(ようしゅう)を通り涼州に向かう予定だ」

 

 歩きながら涼州までの道程を確認する。

 思春はもちろん陽菜も俺の言葉に頷いた。

 真剣な空気を察したのか玖龍はぐずる事も無くおとなしくしている。

 

「荊州から行くのは劉表の事も考えると良い手とは言えない。何を企んでいるかイマイチ見えてこないが、州全体を立て直したその手腕は恐るべき物だ。迂闊に近づきたい土地じゃない。だから大陸の真ん中を突っ切るような形で涼州へ向かう事になったわけだ」

 

 治安も比較的良い街を回り、領地の治安もなるべく調べながら行く事になる。

 子供もいるから目立つような真似は極力控えるつもりだが、それでもなるべく情報収集しておかなくてはならないだろう。

 

「特に質問はないな? では予定通りこのまま豫州に行く。馬もないんだ。基本的には野宿、運が良ければ村なり街で宿を取る事になる。夜は俺と思春で寝ずの番だ」

「はい、心得ております」

「あら、私は?」

 

 旅における苦労を自分だけ免除されるのが不満なのか、陽菜は面白くなさそうな顔をしている。

 しかしお前には俺たちよりもきつい仕事をしてもらう事になるんだ。

 これくらいさせてもらわないとむしろこっちが申し訳ない気持ちになる。

 

「陽菜には玖龍の面倒を見てもらうからな。寝ずの番くらい免除しないと身が持たないだろう?」

「あ、そうか。それもそうね。駆狼、ありがとう」

 

 俺の意図する所を理解してくれたらしい陽菜ははっとして俺の背中にいる我らが子の頭を撫でる。

 

「休み無しで歩いていく事になる。かなりきついが陽菜は大丈夫か?」

「これでも体力を落とさないように訓練は欠かしていないわ。確かに戦いは不得手だけど自分の身くらいは守れるもの。貴方たちの足手纏いにならないよう頑張るわ」

「なら良い。とりあえず今日中に揚州と豫州の国境にあるうちの砦に行くぞ。そこで夜を明かす」

「ええ」

「わかりました」

 

 よろしいと俺は頷き建業手製の地図と周囲を見回しながら歩みを進めた。

 予定通りに国境沿いの砦で一夜を明かし、俺たちは豫州へと足を踏み入れ、既に数日。

 玖龍の夜泣きくらいしか問題は起こらず、中々のペースで進んでいると思う。

 

 豫州に入ってから既に3つの小さな邑に立ち寄っている。

 ざっと見る限り特別寂れているというわけではないようだ。

 この辺りの領主の名は知らないが、大きな発展こそないものの今の水準を維持する力はあるのだろう。

 問題は今の状況で不作の年を乗り切る程の備蓄があるかと言う点と、賊の類に邑を襲撃された時に防衛が可能かどうかだが。

 

「不作を乗り切るのは無理だと思うわ。食料を備蓄できる施設らしき物はなかったから領主側で対応はしていないだろうし、個々の家が保存していたとしても何年も持つとは思えないもの」

「賊の襲撃に対処する事も無理だと思われます。建業付近の邑には常に何名かの兵士がおりましたが、豫州の村にはそれがありませんでした。あれではいざという時にすばやく行動する事は出来ません」

「……そうだな。近くに砦などの施設もない。あの状況だと村人がいくら頑張ったところで数日持つかどうか、といった所か」

 

 ここが自領であったならばすぐにでも対応するよう美命たちに要請するところだが、あいにくここは俺たちが手を出す事が出来ない他者の領土。

 なるべく目立つ行動を避けねばならない以上、領主に物申すなんて持っての外。

 村人たちに多少の意見は出来ても、生活を一変させるような事は出来ない。

 

「やるせないな。まったく」

「仕方が無い、とは言いたくないわね」

「領主は何をやっているのでしょう?」

「さぁな」

 

 しかし今のままでは長続きはしないだろう。

 一度でも賊の攻撃を受ければ、領土全体が無防備である事を思い知る。

 民は自分たちを守るよう領主に要請するだろう。

 それに応えるだけの力がありそれを維持する能力があるなら、領土の防備について既に何らかの対応はしているはずだ。

 

「治安は悪くないが、何事か起きれば瓦解しかねん。なるべく急いでここを離れるぞ。我ながら非情だとは思うがここに残っていても出来る事はない」

「ええ、行きましょう」

「悔しくはありますが……わかりました」

 

 こうして俺たちは急ぎ足で豫州を抜けていった。

 十数日後、司州の国境付近で聞いた話だが、俺たちが立ち寄った邑の幾つかが賊の襲撃に遭い、領内は混乱の只中だという。

 

「悪い方の予想ほど良く当たるな。嫌な気分だ」

「気持ちの良い物ではないわね」

「……」

 

 胸にしこりを残しながらも俺たちは涼州への旅を続けた。

 途中で遭遇してしまった賊を八つ当たり気味に片っ端から叩き潰し、『更正の可能性がある者を建業に送る』という行為を繰り返しながら。

 この時はまさかこの時の俺たちの行動が噂として広まるとは考えもしなかった。

 名乗りもせずやりたい事だけやって去っていく。

 客観的に見て軍隊の仕事を横取りしているような連中。

 その領土の軍にとって面白くない存在だろう。

 だからその存在は徹底的にひた隠しにされるだろうと予想していたのだが。

 俺はこの行動をしていた当初、忘れていた。

 人の口には戸が立てられないという事を。

 情報はどこからでも漏れ、商人たちや旅人たちの手によって広まっていくのだという事を。

 『子連れの夫婦狼(つがいおおかみ)』などという恥ずかしい異名を俺たちが知る事になるのは、しばらく後の事だ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十四話

 俺たちは涼州目指して旅を続ける。

 行く先々で賊に身を落とした者たちを時にねじ伏せ、時に説き伏せながら。

 

 賊の中には少数ながらもその土地で幅を利かせていた悪名高い者もいた為、それらを叩き潰している『子連れの夫婦狼(つがいおおかみ)』の噂は大陸中に広がっていた。

 

「まぁ噂が広まろうが俺たちが『噂の人物』だと気付く事が出来るわけではないんだがな」

「確かに今まで我々がやっている事を知って声をかけてくる人間はほとんどいませんでしたね」

 

 人が通い詰めていた為に自然と出来た道。

 整地などされていないが、人がその足で踏み締め続けたが故に出来た年月を感じさせるそこを歩きながら話す。

 話題は大陸に広がっている俺たちの事だ。

 

「人が見ているところで大立ち回りをしたわけではないものね」

「噂なんて知らないうちに尾ひれが付いていくからな。そんな不確かな情報から真実だけを導き出せるような人物が果たしてどれほどいるか、そしてそんな人物と遭遇する可能性のどれだけ低い事か」

 

 俺たちは正体を隠して旅をしている。

 中央から離れた場所とはいえ目立つ行動が多い建業の人間が、領土の外を旅しているだなんて知られればいらん厄介事がやってくるのは目に見えているからだ。

 好奇心や警戒心ならまだいい。

 俺たちを疎ましく思う者ならば、それこそ直接的に手を出してくる事も考えられる。

 敵は無法者だけではないのだ。

 

 とはいえ実際に俺たちがやっているのはせいぜいが名を隠し、普段のイメージとかけ離れた服を着ている程度の変装だけだ。

 写真でも出回っていればばれる程度の物だが、この妙な進化を遂げた文明の世の中であっても流石にカメラなんて物は存在しない。

 正体を隠そうとするだけならばこの程度で充分だ。

 

「いくら変装しているからってやり過ぎもまずいと思うわ。噂のせいで私たち、行く先々で奇異の篭った視線に晒されるのよ?」

 

 おんぶ紐で背中に固定した玖龍をあやしながら、俺にじと目を向ける陽菜。

 

「悪いな。俺の我侭に付き合わせて」

 

 本来なら目立つ行動は控えるべきなのだ。

 目立てばそれだけ動きづらくなり、目的を達成しにくくなる。

 

 しかし。

 そんな事情を抱えていても、俺には目に見えている民の危機を放置する事は出来なかった。

 俺は軍人。

 たとえ他所の土地であろうとも民を守るのが仕事だ。

 いくら自国の任務があるとはいえ、本分を疎かに出来るわけがない。

 自国に迷惑をかけるつもりはないが、そうならない範囲で民を助け守るのを躊躇うつもりはなかった。

 

 とはいえ賊はどこにでもいるし、どこからでも生まれるような世の中で、目の前の脅威だけを払ったところで果たしてどれほどの効果が望めるか。

 次の襲撃までの時間に俺たちが助けた邑や街はどれだけの対策を立てられるか。

 直接、邑や街の管理、運営に関わる事が出来ない俺ではどうする事も出来ない部分だ。

 

「ですが駆狼様の行いは正しかったと思います」

 

 きりっと瞳鋭く前を見据えながら思春は俺の行動を肯定してくれる。

 

「私もね。別に人助けするな、なんて言わないわ。けれど、目立たないようにしていても目立ってしまうようになってしまったし。少し大きな街に立ち寄った時、声をかけられる事もあったでしょう?」

 

 陽菜が言っているのは司州を抜けて雍州に入って間もなくの頃の事だ。

 どこから聞きつけたのか滞在した街の町長とでも呼ぶべき立場の人間が、俺たちが泊まっている宿までやってきた。

 用件は街を守る為の戦力として俺たちを雇い入れたいと言う物だった。

 『なぜ俺たちを?』と聞くと、あちらは『俺たちの事を知っている』と言っていた。

 果たして本当なのかどうか、今となってはわからない。

 

 当然、俺たちは断った。

 目的があり、そこに行かねばならないとぼかして伝えた。

 しかしあちらも必死だ。

 こちらが折れるよう街の現状を語り、同情を誘い、落ち着いた語調だったのは最初だけで後半は半ば脅迫じみた物になっていた。

 それでもこちらとしても首を縦に振らず。

 最後には罵声を浴びせながら去っていった。

 

 翌日には街を見捨てた口だけ武芸者という話が広がっており、誰も彼もが俺たちに怒りや侮蔑の篭った視線を向けてきた。

 当然、町長の差し金だろう。

 あちらも必死だったのだから、何を言われてもすげなく断った俺たちを恨むのは当然の流れだったと思う。

 

 思春が態度を急変させた街の人間に怒りを爆発させそうだったのでその街はさっさと出て行ったが。

 

 まぁそんな出来事があってから俺たちは邑や街への滞在を最小限にする事にしていた。

 一日休む事すらせずに食料などを買い込むだけで離れる事も多い。

 

「野宿に不満はないけれど。これからもあの程度で済むかどうかはわからないし、もう少し気をつけないといけないと思うわ。……もう手遅れかもしれないけれど」

「……そうだな」

 

 それからは他愛ない談笑をして歩く。

 元々、鍛え上げていた俺と思春は一日どころか一週間行軍が続こうが変わらず歩いていけるだけの体力がある。

 鍛えていたとはいえ外での訓練はご無沙汰だった陽菜と赤ん坊の玖龍の存在が行軍速度を鈍らせていた。

 とはいえそれも俺が陽菜を、玖龍を思春が背負う事で解決して久しい。

 

「ふふ、なんだかこういうのも楽しいわね」

「やれやれ。思春、玖龍は頼むぞ」

「お任せください!」

 

 気合充分な少女の返答に笑いながら、俺たちは雍州の大地を歩く。

 多少の困難など足を止めるほどの意味を持たなかった。

 

 

 

 そして俺たちは一ヶ月もの時間をかけてようやく涼州は武威の地に足を踏み入れた。

 それまでの道程の中、知らぬ間に未来で名を馳せる人間と出会っていたという事に気がつくのは彼女らが名を上げる事になる今から数年後の事だ。

 

 

 さて涼州という土地についてだがここは総じて『無頼漢の集まりである』と言われている。

 しかしこれは都付近の領地から見た時の偏見であり、正しい見解とは言えない。

 常に異民族との戦いが起こる可能性を持つ、非常に戦いが身近にある州であるが故に、その場所で生きる者たちは良く言えば逞しい、悪く言えば粗暴だ。

 しかし粗暴とは言う物の、人としての矜持は持ち合わせている。

 竹を割ったような真っ直ぐな気質が多い事は、むしろ中央にいる狡猾な宦官どもよりも個人的に好感が持てるくらいだ。

 

 たとえば今、酒場で騒いでいる男たち。

 一部女性も混じっているようだが、お互いの仕事を讃え合う姿は、華美な服装で行われるお堅い宴会よりも俺には数段輝いて見える。

 活力に満ち溢れた姿は、建業の街で見られる物と同じだ。

 

「楽しそうですね、駆狼様」

「ああ。建業と似てる空気が、少し嬉しくてな」

 

 遅い夕食を食べながら談笑する。

 

「ふふ、あっちが恋しくなったの?」

「ふ、そうかもな」

 

 いつも通りの陽菜のからかいに肩を竦めて合いの手を入れておく。

 実際の所、ホームシックにはなっていないが。

 

「あう、あう……」

「ああ、お前もお腹が空いたのか?」

 

 俺の背中にいる玖龍が俺の頬を叩いて何事かを訴えてきた。

 おんぶ紐を外し、息子を手の中に抱きかかえる。

 筋骨隆々な男たちが騒ぐ酒場など、赤ん坊なら泣き叫ぶような場所だろうに。

 この子はとても静かだ。

 

「はい、この子用のご飯よ」

 

 渡された小鉢と小さな木製スプーンを受け取り、小鉢の中身を玖龍の口へ運ぶ。

 小さな口を一杯に開けてスプーンに乗せた磨り潰したサツマイモを食べる。

 雛鳥のように口をパクパクとしながら、俺の手を叩いて次を催促する元気一杯な我が子に苦笑いしながら次の一口を食べさせる。

 玖龍の食事はあっという間に終わった。

 

「今日もよく食べられましたね」

「うふふ、食欲があるのは元気な証拠よ」

 

 げっぷするよう優しく促してしばらくすると玖龍がうとうとし始めたので抱きかかえる役を陽菜へ譲る。

 

「陽菜、頼む」

「ええ、もちろん。寝かしつけてしまうわね」

 

 そっと我が子を胸に抱き、椅子に座ったまま身体を少しだけ揺らす。

 揺りかごのようにゆっくりと。

 

「お二人ともすごいですね」

 

 俺たちの様子を黙って見ていた思春は、感嘆の言葉を漏らす。

 

「何がだ?」

「以前から思っていたのですが。お二人とも玖龍様のお世話をする様子が……なんというかすごく手馴れているというか。父と母が私を育てる時は夜泣きはよくするし好き嫌いが多かったとかで大変だったと……仲間のおじいさんが言っていました」

 

 言葉の後半は自分の恥ずかしい過去を明かす事と、もういない仲間を想ってか尻つぼみになってしまっていた。

 それでも言い切ったのはこの子なりに錦帆賊の事を受け止めたという事でいいんだろうか?

 

「夜泣きも好き嫌いもこの子がしないだけだ。別に大した事じゃない。子供は元気が一番なんだ。むしろ夜泣きなんて元気が良い証拠だろう」

 

 俺はこの子の世話に四苦八苦する深桜を思い浮かべて笑う。

 どれだけ面倒をかけられてもあいつはたぶん笑って喜びながら世話をしたんだろうから。

 

「それに、親にとって子供に面倒をかけられるというのは親冥利に尽きるんだ。迷惑をかけたなんて思って申し訳ないだなんて考える必要はないぞ。少なくとも深桜はお前の事を大切に思っていた。それは断言する」

「あ、はい。ありがとうございます」

 

 嬉しさで緩む顔を隠そうと腕で顔を覆ってしまう思春。

 俺の言葉もくぐもってしまっているが俺も陽菜もそれを無礼だと気にする質ではない。

 

「さて西平まであと少し。今日は久方ぶりの宿なんだ。ゆっくり休んで明日に備えよう」

「そうね。あ、思春ちゃん。今日は一緒に寝ましょうか?」

「ええっ!? あ、いやその……えっと」

 

 突然の言葉にあたふたと慌て出す思春。

 おそらくただの兵士である自分が恐れ多い、だとかそういう事を考えているのだろうが。

 まぁ陽菜だし仕方ないと諦めてもらおう。

 

「たまには人の体温を感じながら寝たいの。駆狼はごつごつしているし、玖龍はまだまだ小さくて抱いて眠ると潰れてしまうから」

「抱き枕扱いするな。ただまぁ、ほどほどにしてやれ」

「と、とめてはくださらないのですか駆狼様!?」

 

 あわあわとしている間に陽菜は思春の手をがっしり掴み、片手で眠っている玖龍を危なげなく支えながら席を立つ。

 俺は勘定を支払うと荷物を全て持ち上げ、出て行く妻の後を追った。

 

 俺と、なぜか思春に向けられた強くもないが弱くもない視線の主と一度だけ視線を合わせてから。

 

 

 

 

「軽く殺気を交えて睨んだんだが……良い目をしていたな」

 

 杯に満ちた酒を一気に飲み干しながら男は呟く。

 人の上に立つ風格を感じさせる男は周りの喧騒から隔絶した奥のテーブル席に一人で座っていた。

 

「何者かはわからんが、相当な手練れだった(おそらく何らかの命を受けた兵(つわもの)。隣にいた女の護衛という線も考えられるか)」

 

 顎に手を当てて思案にくれる。

 その間ももう片方の手で酒を器に注ぎ、一息に飲み干すのはやめなかった。

 

「(護衛にしては、あの場にいた奴らは仲が良いように感じたが。まさか……最近、噂の『子連れの』か?)」

 

 最後の一杯を飲み干し、勘定を支払う。

 

「おい、親父。ここに置いておくぞ」

「へい、いつもありがとうございます!」

 

 気風の良い男の声を背に、店を出る彼に走り寄ってくる小柄な影が一つ。

 

「お父様! また城を抜け出して! 詠(えい)ちゃんがカンカンですよ!」

 

 精一杯、肩をいからせて怒っていると表現する少女。

 まるで似ていないがこの二人は親子のようだ。

 

「おお、月(ゆえ)か。ふふ、俺を追いかけてきたって事はお前も城を抜け出してきたんだろう?」

「あ、えっとそれは……お、お父様が心配だったからです!」

「はっはっは! すまんすまん、少しからかっただけだ、許せ。とはいえさすがに一人で外に出るのはやめておけよ。俺と違ってお前には知はあっても武はまだまだ未熟なのだからな」

「うう、お父様の馬鹿」

 

 夜の帳が下りる街の中を武威太守『董君雅』とその娘である『董卓』が歩く。

 己らが治める街を眺めながら。

 二人はこの後、城門で仁王立ちして二人を待ち受けていた少女に揃って怒鳴られる事になる。

 

「(いずれ機が巡れば面と向かって話す事もあるか)」

 

 娘の親友の説教を聞き流しながら、董君雅は酒場で見かけた男の事を思い出していた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十五話

今回、西平に到着しました。
最初の接触はあの子です。

楽しんでいただければ幸いです。


 涼州の西平。

 馬騰寿成(ばとう・じゅせい)が太守をしている名の通り、大陸の西に位置する領地だ。

 

 頻繁に現れる異民族との諍いが絶えない民族戦争の最前線の一つと呼べる場所であり、そうした争いの中で鍛え上げられた勇猛果敢な涼州騎兵は文字通りの意味で一騎当千と謳われている。

 なにせ他の領地に比べて実戦をする機会が多い。

 その練度はただ訓練をこなしただけの兵士とは比較にならないだろう。

 

 さらに涼州という地域は北は匈奴(きょうど)、俺が生きた時代でいうところのモンゴルがあり、加えてシルクロードが伸びている大陸東西の交易路として流れ者の商人たちがこぞって利用している。

 長江にも船を利用して大陸外の商人たちがやってくるが、陸路であるこちらの方が流通の便としては上かもしれない。

 

 つまるところこの場所と縁を持つ事が出来ればそれは建業にとってとても有益な物となるのだ。

 まぁ目的地に到着した今、まず考えるのは今後の関係よりも今回の目的である軍馬育成関連のあれこれの達成だが。

 

「ひとまずは身なりを整えて城へ行き、面会の申し入れをしなければな」

 

 今の世の中において、馬は一つの財産だ。

 そんな物を大量に買い付けようとすれば必ず足が付く。

 個々の邑で取引をするのならば役人が目くじらを立てる事も少ないだろうが、今回の件は規模の大きな取引になる。

 領地の役人に気付かれずに事を済ませる事はほぼ不可能だ。

 

 それに首尾良く馬を手に入れる事が出来たとしても、軍馬として育てる為のノウハウは建業には無い。

 育成の為の人員までを求めるとなると馬の買い付けとは別の話であり、土地勘やこの土地での交渉に不慣れな自分たちでは条件を満たせる人員を探すのにすら時間がかかるだろう。

 

 馬の買い付けと育成の人員の確保、可能ならば軍馬育成の知識収集。

 これらを満たすにはどうすれば良いか。

 

 顔が利く人間から交渉してもらうのがおそらく最も早いはずだ。

 この場合の『顔が利く人間』とは馬騰以下、この西平の役人たちの事を指す。

 つまり馬騰たちと顔合わせし、こちらの欲しい物を手に入れる為の交渉をするという事になる。

 西平に比べれば現体制になって日が浅い建業は侮られても仕方の無い立場だ。

 最悪の場合、門前払いされる可能性もある。

 しかし戦力を整える為にもこの交渉は必ず成功させなければならない。

 

「長期滞在になるかもしれないから宿も取らないとね」

 

 長丁場になる事も俺たちは覚悟している。

 軍馬の有無は今後の建業の戦力を大きく左右するほどに大きな問題なのだから。

 

 

 

 客引きの威勢の良い声を聞き流しながら、中央へと向かう道の端でひとまず落ち着き、俺たちは今後の予定を話し合っていた。

 

「まずは私が城に行くわ。流石に玖龍を連れて行くわけにはいかないから駆狼、この子と宿の方をお願いね」

「そうするか。では思春。お前には陽菜の護衛を頼む。建業の双虎の片割れを無下にするなんて事はないと思うが、無体を強いるような輩には容赦するな」

 

 あちらは戦いが大陸東部よりもより身近にある連中だ。

 荒事で慣らしているが故にそういう事に向いていないと人目でわかる陽菜では軽んじられる可能性がある。

 十代の半ばというまだまだ成長の余地を残す年頃でありながら腕の立つ思春が睨みを利かせる事で陽菜への重圧を少しでも減らせれば交渉を僅かでも優位に進められる、かもしれない。

 

「はっ! お任せください!」

 

 少々強気というか荒々しい激に、しかし思春は生真面目に頷いた。

 心なしかいつもよりも気合が入っているように見える。

 

 涼州に足を踏み入れてからこっち、兵士たちは大陸内部に比べて血気盛んというか粋が良いと表現するのに相応しい者が多いように思えるし、これくらい気合の入った状態の方が相手との釣り合いが取れるだろう。

 思春はむやみに挑発するような子ではないしな。

 

「集合場所はこの先にある広場で良いな」

「ええ。くれぐれも玖龍から目を離さないようにね」

「わかってるよ。手放すつもりも、目を離すつもりもない」

「それでは駆狼様、行って参ります!」

「陽菜を頼むぞ、思春」

 

 最小限の荷物と護身用の武器を持ち城に向かう二人を見送ると、俺は玖龍を背負い直し残った荷物を肩掛けにする。

 

「さて宿はどこだろうか……」

 

 そうして街の中をぶらぶらする事しばし。

 運の良い事に宿はすぐに見つかった。

 まぁ取れた部屋は四人部屋が一つだけだったが、野宿で身を寄せ合う事もある俺たちにとって同部屋など今更な事だ。

 

「さて……どうするか」

 

 予想外に早く宿が取れてしまい、手持ち無沙汰になってしまった。

 外に出る事も考えたが、玖龍の負担を考えると休める時に意味もなくぶらぶらするのも憚られる。

 陽菜と思春がどれほどかかるかわからないが、指定した広場で待ちぼうけしているというのもな。

 

「あう、あう~~」

 

 寝台に寝かせていた我が子が俺を見つめて声を上げた。

 

「どうした、玖龍?」

 

 傍に寄って抱き上げると玖龍は俺の服の裾を強く引っ張りながら窓を指差した。

 何度も窓を示し、服を引っ張るその仕草は、まるで外に出たいと意思表示しているように見える。

 

「……そうか。もっと外が見たいのか、お前は」

 

 子供ながらの我侭が俺の行動を決定した。

 

 元々、待ちぼうけしているつもりもなかったんだ。

 玖龍自身が外を見たいと言うなら親の俺はその我侭を叶えつつ、散策をするとしよう。

 ついでにこの街の様子を見て、領主である馬騰の人柄や兵士たちの性質を窺わせてもらおう。

 

「では行くか。玖龍」

「だぁ!」

 

 元気の良い我が子を背に、俺は取ったばかりの宿を後にした。

 

「まさか散策に出て数分で荒事に巻き込まれるとは思わなかった……」

「おいおい、おっさん。何をぶつぶつ言ってやがる? 弟分をこんな目に合わせやがってただじゃ済まさねぇぞ、おい」

 

 俺の目の前にはいきり立っている推定二十歳程度の青年。

 ごくごく一般的な槍を肩に担いでこちらをねめつける姿は俺の知るヤンキーや不良その物だ。

 彼の後ろにはうつ伏せになって痙攣している同年か少し下ぐらいの青年。

 

 事の経緯としては簡単だ。

 俺が散策していたところ、痙攣している青年がすれ違った。

 この時、青年はすれ違い様に俺から金を盗み取ろうとしていたのだが。

 懐に手を入れたところを捕まえて足払い。

 お仕置きも兼ねて中空で一回転させて受身を取れなくしてから地面に叩き付けてやった。

 

 その光景に町民たちが唖然としていたところに目の前の青年が現れ、因縁をつけてきたというわけだ。

 既に野次馬が出来上がり、その中からは「子連れの男の勝ちに賭けるわ」、「じゃあ俺はあの若造が勝つ方に……」、「大穴にも程があんぞ、お前」などという賭け事らしき声もしている。

 厄介な事に相当目立ってしまっていた。

 もう少し穏便に済ませれば良かったと今は後悔している。

 

 今までどうにか人目に付く事を抑えてきたと言うのに、ここに来ての大失態。

 どうやら俺は西平に辿り着いた事で気が緩んでいたらしい。

 こうなれば見回りやらの兵がこの場に駆けつける前に片付けて逃げるしかない。

 

「……人の財布に手を出したそっちの青年が悪い」

「んだと、こら! てめぇ俺が誰だか知らねぇのか!!」

 

 ずいぶん脅し文句を言う姿が板についている様子から見るに、この手の荒事には慣れていると見えるが。

 正直に言ってしまえば息巻いている割に実力は大した物ではない。

 うちの兵士でも一人で瞬殺出来るだろう程度だ。

 

 よほど運が良かったんだろうな、この男は。

 自分よりも強い相手とかち合う事がなかったんだから。

 

「知らん。誇る武もなく息巻くだけの餓鬼になんぞ興味もない」

「て、めぇ……」

 

 怒りに染まった声を上げる男。

 俺は構える事もなく、ただ男を冷めた目で見つめる。

 

「おっさん、あんた終わったぜ。その舐めた口今すぐ閉じさせてやる」

 

 槍を構える。

 割と堂に入っているそれを俺は意外に思ったが、やはり脅威など感じられない。

 

「っしゃぁ!!」

 

 腰溜めに構えられた槍から放たれる突きは、あまりにも遅く、そして弱々しい。

 本人が渾身の一撃だと確信しているその勝ち誇った表情が、この男の滑稽さに拍車をかけていた。

 

 槍の一撃を一歩右に動いて避ける。

 左脇腹のすぐ横を通り過ぎる槍の半ばを肘と膝で挟み込みへし折った。

 

「へっ?」

 

 そして間抜けな顔をする男の脳天に右の拳骨を叩き落とす。

 勢いそのままに男は顔面から地面に叩きつけ、ぴくりとも動かなくなった。

 

「ふむ……」

 

 念の為、首筋に手を当てて脈を取る。

 余りにも手応えがなかった為に、手加減しても生きているか不安になってしまった。

 

「……うん、問題なし」

 

 生存確認を済ませて、俺は何が楽しいのかきゃっきゃと笑っている玖龍を後ろ手で軽く撫でてからその場を後にする。

 なるべく自然な流れで、気取られないように。

 

「さっきの凄かったね。お姉さま!」

「ああ、思わず見惚れるくらいに無駄のない動きだったな、蒲公英!」

 

 聞こえてきた声に妙な胸騒ぎを感じながら。

 

 

 

「ねぇねぇ、おじ様はどこから来たの?」

 

 目をキラキラさせて俺に話しかけてくるのは少し薄い茶色、亜麻色が近いか? の髪をポニーテールにした小柄な少女だった。

 この年の少女には不釣合いの長槍を軽々と持ち歩いている姿から、思春や雪蓮嬢たちの同類だと思われる。

 

 あの騒ぎの後、速やかにその場を後にした俺は、真っ直ぐに待ち合わせ場所である広場に向かった。

 あまりウロウロしているとまた何か厄介事が起こりそうな気がしたからだ。

 

 そして何事もなく到着した広場で出店の類を見て時間を潰してしばらく。

 不安は杞憂だったかと俺が考え始めた頃に、この子が話しかけてきた。

 どうやらさっきの騒動を遠くで見ていたらしい。

 俺の動きにいたく感激したとの事だ。

 さっきまで姉のような人と一緒だったらしいが、その子は家の用事で呼ばれて先に帰ったのだと言う。

 どうやら話す事が好きなようで、俺が聞いたわけでもないのにこの子は色々と話してくれている。

 

「俺は揚州から来たんだ」

「へぇ! 東の方から来たんだ。しかも揚州って中央のほぼ反対側だよね。ここまで大変だったでしょ?」

「ああ、かなりの長旅だったぞ」

 

 どうやらこの子はそちらの州から来た人間と会った事がないようだ。

 興味津々と語っていた瞳の輝きが増している。

 

「私って涼州から出た事がなくて、だから他の州の事って聞かされる話しか知らないんだ。良ければ教えてくれないかな?」

「そういう事か。ああ、構わないぞ。どうも待ち人が来るまでまだ時間がありそうだからな」

 

 人懐っこいと言うか、精神的に隙だらけと言うか。

 初対面であるはずの相手にずいぶんと積極的だな、この子は。

 ああ、でも雪蓮嬢や小蓮嬢を見ると別に珍しくもないのかもしれない。

 

「え、誰か来るの? おじ様、背中の子と二人で来たわけじゃないんだ」

「ああ。この子の他に家族二人と一緒に来たんだ。今は用事で別行動中だけどな」

「あ、奥さんいるんだ。ってそりゃそうか。そんなちっちゃい子供がいるんだもんね」

 

 おんぶ紐で背中に抱えていた玖龍を胸に抱き直し、お嬢ちゃんに見せてやる。

 

「うわぁ、可愛いなぁ~~。えっとちょっと触っても良い、かな?」

「いいぞ。まぁこの子が嫌がらなければだがな」

 

 俺の許しを得て、彼女はそっと人差し指で玖龍の頬を突いた。

 恐る恐ると言った手つきで頬を押された息子は、不思議そうな顔でお嬢ちゃんの顔を見つめている。

 

「はう……可愛い」

 

 なにやら恍惚とした表情を浮かべる少女。

 いつだったか深冬が同じような顔をしていた気がする。

 

「ああ、そう言えば俺たちはまだ名乗りあっていなかったな」

「……へ? あ、ああ! そう言えばそうだった!」

 

 俺の言葉に正気を取り戻したらしいお嬢ちゃんはぱたぱたと慌てながら名乗りを上げた。

 

「私は馬岱(ばたい)って言うの。おじ様は?」

 

 驚いた事に今まで親しく会話をしていた少女は、俺たちが接触しようとしていた馬氏の一族であったらしい。

 

 それにしても馬岱か。

 確か三国志演技や馬超について語られる書物に記述が残っている武将だったはずだ。

 印象としては常に馬超の傍にいたという風に描かれていた気がする。

 ともあれ相手が馬氏であるならば俺もしっかり名乗らなければならないだろう。

 俺たちの仕事の内容を考えるとここで身分を偽れば、後々に禍根を残す事になりかねない。

 

「俺は凌刀厘だ。西平には仕事で来た。この子は俺と妻の子で凌統と言う。よろしくな、馬岱嬢」

「……え? 凌、刀厘? あの建業の? おじ様が……建業の懐刀? ええっ?」

 

 ぽかんと口を開けて驚きに固まった馬岱嬢が我に返るまでの間、俺は玖龍をあやし続けていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十六話

 俺の名乗りに混乱した馬岱を落ち着け、改めてベンチに座って向かい合う。

 先ほどまでの気さくな様子が鳴りを潜めてしまい、緊張からか俺の言葉に対する返答もどこか硬くなってしまっていた。

 天真爛漫な姿を見ている俺としては、そう肩肘張って接して欲しくはないんだが。

 

「そんなに緊張するな。今の俺はただの子連れの旅人だ。西平を纏め上げた馬家の人間が畏まる人間じゃないぞ」

「え、えっと……そう言われても」

 

 困ったような顔をする馬岱。

 他領地の顔が売れた人間に粗相をしないようにという意識と、立場が明らかに上の人間からの要請に応えなければならないという意識の板ばさみになってどうしたらよいかわからないんだろう。

 まぁまだ難しいんだろうな、こういう相手の思考に合わせた臨機応変な対応という物は。

 何より俺が敵か味方か、彼女にはまだ判断できないというのが大きい。

 

「すまない。君を困らせるつもりはなかった」

「あ、あう。えっと……こちらこそごめんなさい。おじさ……えっと、刀厘様」

 

 それにしても普段、冥琳嬢や雪蓮嬢のような年齢不相応の冷静さや豪胆さを見ていると、こういう当たり前の反応がなんだか微笑ましく思えてくるな。

 

「気にしなくていい。自分たちがそちらから見れば扱いづらい立場の人間だという事は理解している」

 

 恐縮しきりの馬岱嬢に苦笑いしながら腕の中の玖龍を構うのを忘れない。

 腕の中の我が子は当然だが状況を理解できていないから、急に自分を構わなくなった馬岱を不思議そうに見つめていた。

 

「うう……」

 

 純真な赤ん坊の瞳に見つめられ、馬岱は居心地悪そうにうめき声を上げる。

 視線が右往左往して手をわきわきと忙しなく動かしていた。

 ……もしかして玖龍の頬の感触でも思い出しているのか?

 

「……」

 

 試しに彼女にも見えるように息子の頬を軽く突いてやる。

 玖龍はきゃっきゃと笑いながら俺の指を小さな手で掴んだ。

 

「っ!!」

 

 玖龍の行動の微笑ましさに声もなく悶え始める馬岱。

 おそらくこの子は子供の面倒を見た経験はないんだろう。

 まぁ自分で産まない限り、世話をする機会は早々ないだろうから仕方ないと言えば仕方ない事か。

 しかしいつまでもこの微妙な距離感を保つと言うのもな。

 

 話を打ち切ってこの場を離れてしまうと言うのも一つの手だが、せっかくの出会いだ。

 大人の汚い打算を抜きにしても、今後も続けていきたいと思える物にしたい。

 となればこちらから行くべきだな。

 

「先にも言ったが、今は非公式の場だ。ここにいるのはただの旅人で、その旅人が連れている幼子を物珍しさで可愛がる事に躊躇う必要はないだろう?」

 

 とどめとばかりに玖龍を馬岱に無理やり抱かせる。

 強引な方法だとは思うが、我慢のし過ぎは身体に毒だ。

 やりたい事は他人に迷惑がかからない範囲で楽しませるべきだろう。

 

「うわっとと!? ふわぁ……あ、ありがとう。あ、ございます」

 

 俺が出した案に彼女はしばし考え込んだ末に折れた。

 どうやら好奇心というか我が息子の愛らしさにこの子は勝てなかったらしい。

 馬岱はベンチに腰掛け、人肌の温もりでうとうとしている玖龍の頭を先ほどよりも慎重に撫でる。

 

「あう~~」

 

 馬岱が触れてくれた事が嬉しいのか、目を瞑りかけていた玖龍はぱっと笑みを浮かべて馬岱の小さな手で触り始めた。

 

「っ~~!? 可愛過ぎるよぉ~~!!」

「そこまで感動する事か?」

「だってだって! 私が物心付いた時にはこんな小さな子は周りにはいなかったんだもん!! 皆、私より年上か、年下でもそう離れてなくて!!」

 

 俺や自分の立場を考えて気を遣おうとしていた先ほどまでの姿はなんだったのか。

 すっかり名乗りあう前の態度に戻った馬岱は、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。

 

「うちって年齢がそこまで重視されない実力主義なの! だからとっても強いお姉様なんか私と三つ違うだけだけど今度一軍を任されるんだよ!! で私はいっつもお姉様のお目付け役なの!!」

 

 ブレーキなど壊れてしまったかのようなマシンガントークだ。

 なんというか今のこの子の姿が、蘭雪様の事で愚痴を零している美命を連想させる。

 既に玖龍は俺の手の中に戻しているが、そうする事で身体の制限が解けた為か語り口に大げさな身振り手振りが加わっていた。

 

 普段の生活でストレスでも溜まっているのだろうか?

 初対面で出会って少ししか経っていないというのに心配せずにはいられない。

 

 なにせ会話の内容の七割が『お姉様』と『叔母様』と彼女が呼んでいる人物への愚痴なのだから。

 俺は口を挟まず、玖龍をあやしながら話に聞き入り、タイミングよく相槌を打って彼女が話しやすくなるように努めた。

 吐き出せるだけ吐き出させておくべきだと判断しての行動なのだが、聞けば聞くほど酷い。

 

 具体的には『お姉様は猪突猛進過ぎて付いていくのが大変』だとか、『叔母様は自分たちに黙って勝手に遠乗りに行って心配をかける』だとか。

 あの馬岱がここまで親しげに話す人物なのだから、おそらくは同じく馬家の人間だと推測できる。

 名前こそ出てこない物の、少なくとも『叔母様』なる人物は会話の内容から言ってもほぼ間違いなく馬騰だろう。

 となればその娘だという『お姉様』についても幾らか候補は絞られてくる。

 史実で名前が出ている人物ならば『錦馬超(きんばちょう)』と称えられた馬超、その弟である馬休、馬鉄と言ったところだろう。

 しかし建業(うち)の君主とその娘と同等の奔放さを持つ人物が、同じような立場で存在するとは思わなかった。

 目の前で玖龍を構いながら愚痴を言い続ける馬岱とまだ見ぬ馬一族に振り回されているのだろう彼女らの部下、家族、仲間たちには心の底から同情する。

 

「うちも似たような物だ。領主が破天荒過ぎて苦労している」

「おじ様の所もそうなの!?」

「ここだけの話だぞ? とはいえ俺の場合は適度に発散しているからな。どうにかこうにかやっていけている」

 

 多方面に色々とやっているとストレス発散をする場には困らないからな。

 偶にやり過ぎてしまう事もあるが、しっかりフォローできる範囲に留められているから問題ないだろう。

 

「発散……発散かぁ。おじ様はどんな風にしてるの?」

 

 なんだか悩み相談かカウンセリングでもしている気になってくるな。

 まぁ若者の相談に乗るのは年長者の務めだ。

 ここまで来たなら今日はとことんこの子に付き合うとしよう。

 

「ふむ。たとえば無心になって身体を動かす。これがなかなか良い鬱憤発散になる。あとは本気で怒らせない程度に愚痴の対象に悪戯をする、とかな。まぁこれは相手の立場や関係によっては難しいとは思うが」

「へぇ~。建業の懐刀なんて呼ばれてる人も悪戯なんてするんだね。なんか意外」

「実力に関しては確固たる自信があるぞ。噂に見劣りするつもりもない。だが私生活でどんな事をしているか、なんて事は噂じゃ読み取れないだろう。武なんて物は所詮、その人間の一部分でしかない。それだけで性格や人間性は測れない」

「ああ、それわかる。叔母様も一騎当千の兵だなんて呼ばれてるけど、割とおっちょこちょいだし。お姉様も錦馬超なんて呼ばれてるけど政務とか頭を使う事が大の苦手だし」

 

 今更だが、内部情報駄々漏れ過ぎるぞこの子。

 俺に気を許してくれたのは嬉しいが、特定できる情報を言い過ぎだ。

 

「んっ?」

 

 ふと視界の端を見知った姿が過ぎった。

 紫色の髪をお団子にした小柄な少女と褐色肌に桃色の長髪の女性。

 間違いなく俺の待ち人たちである。

 あちらも俺たちの事に気づいたのか思春が陽菜に断りを入れてこちらに小走りで近づいてきた。

 

「凌操様。お待たせして申し訳ありません」

 

 馬岱がいるからか、思春は真名ではなく姓名で俺の名を呼ぶ。

 同年代の少女が現れた事に馬岱は愚痴を止めて目をぱちくりさせている。

 

「この子も俺も気にしていないさ。甘卓こそ孫静の護衛、ご苦労だったな」

「いえこの程度の事で苦労など」

 

 労いの言葉に首を振る思春。

 まったくこの子は生真面目過ぎるな。

 

「ふふふ、この程度だなんて謙遜よ。ばっちり私の事を守ってくれたじゃない。ありがとう、甘卓」

 

 歩み寄ってきた陽菜が思春の頭を撫でながら微笑む。

 慈しみ、労うそのゆっくりとした所作に思春は硬直して顔を真っ赤にした。

 

「そ、孫静様! わ、わたしなどにそのような事をされては!」

「もう。頑張ってくれたのだからお礼を言うのなんて当たり前でしょう? そんなに照れなくてもいいじゃない」

「こ、これは別に照れているわけでは……!」

「はいはい。もう、可愛いんだから甘卓は」

 

 陽菜と思春が戯れる様子を微笑ましく見守っていると、服の裾を引かれた。

 話に入れず、所在なさげにしていた馬岱である。

 

「おじ様。この二人が連れの人なの?」

「ああ。妻の孫幼台と家族兼護衛の甘卓だ。見たところ、甘卓はお前と年が近い。機会があれば仲良くしてやってくれ」

「えっ? そ、幼台ってまさか建業の双虎の!? えええええええっ!?」

 

 俺と陽菜とを交互に見比べながら絶叫する。

 その様子に広場にいた人間の視線が集まってしまった。

 おそらく馬岱は立場的にこの街では顔が売れているはず。

 そんな人間の絶叫だ。

 何かあったと勘繰って兵士に報告する人間も出てくるだろう。

 未だに思春を可愛がっている陽菜も含めて、この状況をなんとかしなければならないな。

 俺は騒がしい周囲の喧騒など構わず寝息を立てている我が子を起こさないよう、ベンチから重い腰を上げた。

 

 

 

 あの後。

 どうにかその場を収め、馬岱とは別れた。

 別れ際、元気一杯に手を振っていた彼女の姿は、見ているこちらも元気が出てくるような活力に満ちていた。

 愚痴を吐き出すだけ吐き出して楽になったのであれば嬉しい。

 そして今は取った宿で食事を取り、部屋でくつろいでいる。

 

「それでどうだったんだ?」

「ええ。突然の来訪をあちらは驚いていたようね。外から見ていてもかなりドタバタしていたわ」

 

 自分のベッドに玖龍を寝かせ、ぐずっている息子をあやしながら陽菜はあちらの対応について報告する。

 

「でもそうね。こちらに悪い印象を抱いている風ではなかったわね。応接室、というより待合室みたいなところに通された後、付きっ切りで給仕する人を付けてくれたし。思春ちゃんと同じぐらいの年頃の女の子だったのだけど思春ちゃんとは違う可愛らしさがあったわね」

「ひ、陽菜様。……コホン。どうやら突然、我々の相手をするよう言われてきたらしく、終始おどおどと落ち着きがありませんでした。しかしその所作は武を嗜む者、それもかなりの腕前と感じられました」

「名前は聞いていたか?」

「……馬孟起(ば・もうき)と名乗っていました」

 

 その名を聞いて俺は口元に持っていっていた水を吐き出しかけ、咽る事になった。

 思春が慌てて走り寄り、背を撫でて落ち着かせてくれる。

 

「げほ、げほ! 思春、もう大丈夫だ。……しかし大陸にも名の知れた錦馬超に新参領主の使いの給仕をさせるとは。……何と言っていいか、ずいぶんと破天荒な事をするな、あちらの領主は」

「私もその名を聞いた時は思わず同情してしまいました。武官でありながら重要人物とはいえ他所の領地の人間の給仕を押し付けられるとは、と。何故かあちらは顔を真っ赤にして涙目になっていたのですが何故でしょう?」

「それは……まぁあまり気にするな(同情が堪えたんだろうな。この子は無愛想だが、割と雰囲気で感情が読みやすいから馬超にも嫌というほど伝わったんだろう)」

「? そうですか?」

 

 馬超の顔も見ていないというのに関連するエピソードがどんどん手に入る事に、俺は奇妙な仲間意識を感じずにはいられなかった。

 『誰かに振り回される同士』というあまり増やしたくない仲間ではあるが。

 

「さて話を戻すけれど。正式な顔合わせは三日後という事になったわ。なんでも西平の首脳陣が何人か今遠征に出ているそうで、彼らが戻り次第に行う、との事よ。それまでの間、城に部屋を用意するとも言われたけど。こちらも突然やってきて部屋まで借りるのは図々しいから一先ず辞退させてもらったわ」

「そうか。なら明日、明後日は西平の中を見て回るとしよう。本来の仕事が始まるまでの休息だと思って観光気分で羽根を伸ばすとしよう(俺たちとの会合の場を準備しているあちらには申し訳ないがな)」

「ふふ、そうね。顔合わせの結果如何ではすぐにここを出て行かないといけなくなるだろうしそれくらいはしても罰は当たらないわよね」

「私はお二人にどこまでもついていきます!」

「思春、そこまで気負わなくて良い。お前も休暇だと思って楽しめばいいんだ」

 

 今後の予定を修正しながら、夜は更けていく。

 そして三日後。

 俺たちは馬騰が出した出迎えの人物の案内で、改めて西平を収める者たちが集う城へと向かう事になる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十七話

 今回から登場する武将『ホウ徳』のホウの漢字は環境依存文字で携帯やスマフォでは見れない為、他ゲームでの表記を参考に『鳳』とさせていただきます。
 ご理解のほどよろしくお願いします。
 それでは本編をお楽しみください。


 俺たちの出迎えに現れたのは俺たち全員と顔見知りになっていた馬岱。

 そして彼女の供として着いてきた男性だった。

 華のある彼女とは良い意味で対照的な『大柄で無骨な風体をした男性』は名を『鳳徳』と名乗った。

 

 

 鳳徳令明(ほうとくれいめい)。

 馬騰に付き従い、羌族などの異民族を撃退する事で名を上げた勇将。

 一説によればその実力は他の軍勢にも高く評価され、人材マニアであったとされる曹操も欲したと言われている。

 馬騰の死後は馬超に付き従っていたが、袂を分かち曹操に帰順。

 短いながらも彼の元でその腕を存分に振るい、最後は関羽とぶつかり合い敗れ去った末、降伏を良しとせずに討たれたと言われている。

 

 

 名乗られたのでこちらも改めて名乗る。

 当然だが会ったその場で真名を交換するような者はいなかった。

 

 そして馬岱は昨日の事もあってか無邪気に声をかけてくれているが、鳳徳は彼女の護衛も兼ねているようで彼女の後ろから俺たちをじっと監視していた。

 俺たちが怪しい動きをすれば即対応出来るように。

 

「鳳さんが無愛想でごめんね、おじ様。あたしたちにもあんな感じだから気にしないで!」

 

 どうやら彼に愛想がないのはいつもの事のようだ。

 だが俺たちにはわかる。

 馬岱を見つめる鳳徳の目には保護者が持つ暖かさがあるが、俺たちに向けての視線にはそんな物は存在しない。

 

「それじゃ着いて来てね!」

 

 馬岱が率先して前を歩き、俺たちを城へと案内する。

 思春はどうやら俺たちの後ろにいる鳳徳の監視を警戒して俺と陽菜と鳳徳の間に陣取り、常に武器に手を添えていた。

 元々、鋭い瞳は一層鋭く雰囲気もピリピリとしている。

 

「馬岱ちゃん。わざわざお迎えありがとう」

「そ、そんなお礼を言われるような事じゃないです! 叔母様に頼まれただけですし!」

「あーう~」

「うふふ、ほら凌統も貴方にお礼を言ってるわ」

 

 この雰囲気に気付いているのかいないのか、前方の二人は実にのんびりとした会話をしている。

 

「おじ様。この二日間は何をしていたの?」

「家族皆で街を見て回っていたぞ。活気があって良い所だな、ここは」

「でしょでしょ! やっぱりおじ様は話がわかる!!」

 

 馬岱に振られる話題に応えながら、後ろの二人の挙動を警戒する。

 心配なのは監視である鳳徳に対して思春が過剰反応しないかどうかだ。

 良くも悪くも思春は幼く精神的に未熟で、心理的な駆け引きはまだ無理。

 俺たちを守ろうとする余り衝動的に武器を抜いて交渉に支障を出すなどあってはならない。

 

「甘卓。そう殺気立つな。彼は監視はしていても危害を加える事はない。俺たちは一応客だからな」

「……しかし」

「一先ず武器から手を離せ。彼は当然の事をしているだけだ」

 

 前の二人が談笑している間に、思春を諌める。

 渋々と武器に添えていた手を離す彼女に、俺はため息を零した。

 

「令明殿、護衛役が失礼をした」

「いえ……。私の態度が彼女の警戒心を煽ってしまったので。こちらこそお客人に対して失礼をしました」

「あ……こ、こちらこそ申し訳ありませんでした」

 

 歩きながらではあるが頭を下げる彼に、思春は慌てて頭を下げ返す。

 そんなやり取りに気付いた陽菜と馬岱がこちらを振り返った。

 

「あら、どうかしたの?」

「? あ! もしかして鳳さん、何かしたの!?」

 

 声をかけてくる二人になんでもないと三人で誤魔化す。

 そんな先行きが不安になるようなごたごたを交えながら、俺たちは西平城目指して歩き続けた。

 

 

 

 城に到着してからはあっという間に謁見の間に通された。

 華美な装飾の見られない内装は、やはり建業と近い。

 生粋の武人と噂されている馬騰の性質は、どうやら本当の事のようだとわかる。

 

 そしてその場で待ち構えていた者たちはいずれも眼光鋭くこちらを見つめていた。

 心臓の弱い者では耐えられないだろう威圧感があるが、こちらもそれ相応の力は持っている。

 陽菜も前の世界で生きていた頃から異様に図太い神経で、こちらで生きるうちにその太さに拍車がかかっている。

 ぶっちゃけた話、建業の連中と大差ないので今更気圧されるような神経はしていない。

 思春と俺もそう変わらない。

 俺に至っては地元に帰ってきたような安心感を抱くくらいである。

 ちなみに玖龍は城にいた世話人に預けている。

 と言ってもこの場にいないわけではなく、邪魔にならないよう隅に控えて子の面倒を見てもらっている状態だ。

  

「突然の来訪、まずは謝罪をさせていただきます。そしてこのような席を設けていただけた事に感謝を。私は孫幼台。浅学非才の身ではありますが建業にて政務に携わっている者です」

「あたしがここをまとめている馬寿成だ。あんたらの噂はこっちまで届いてる。非才なんてな、謙遜が過ぎるというもんだぜ」

 

 玉座に座る女性は挑発的で子供っぽい笑みと共に名乗りを上げた。

 馬岱と同じ長髪をポニーテールにし、戦場で鍛え上げらても尚、女性らしさを損なわない見事な身体をした女性。

 しかし見た目に騙されれば痛い目を見るというのはこの世界の名のある者に共通した事項だ。

 現に目の前で玉座に座っている彼女からは並々ならぬ強さが感じ取れる。

 おそらく蘭雪様と同等。

 あの方がこの場にいたら即座に試合の申し入れをしていただろう。

 男なら放って置かないだろうが、彼女にも年頃の娘がいる。

 と言う事は事は少なくとも俺よりも年上で最低でも三十路は越えているはずなのだが、どれほど失礼な見方をしても二十代後半にしか見えない。

 蘭雪様や美命、祭の母親の豊さんといい、どうしてこの世界にはこうも年齢詐欺な女性が多いのか。

 

「でこっちの二人が……」

 

 俺のどうでもよい疑問など露知らず。

 馬騰は両隣に控えていた男女に視線で挨拶を促した。

 

 先に前に出たのは野暮ったい無精ひげに髪を後ろで束ねた中年の男性だ。

 

「韓文約だ。寿成の補佐をしている」

 

 なるほど。

 この男があの韓遂か。

 

 

 韓遂文約(かんすいぶんやく)。

 後漢末期における涼州・関中軍閥の中核を担った人物であり、その生涯に亘って涼州の覇権争いを続けた豪の者。

 中央とも敵対を続け、皇甫嵩や董卓とも刃を交えた事がある。

 馬騰とは董卓の乱以降に意気投合し、義兄弟の契りを結ぶほどに親しい関係だった。

 しかし涼州の覇権を巡って敵対、韓遂は争いの最中に馬騰の妻子を殺害している。

 紆余曲折あって馬騰と和睦するものの、馬騰は後に死去。

 その子である馬超と共に曹操と敵対したが、曹操の仕掛けた離間の計によって馬超に曹操との仲を疑われ敗退。

 最期は曹操に帰順しようとする一派に殺害され、首を差し出されたらしい。

 個人的な感想としては史実に残るほどの戦果を残しているが、あまり注目はされない人物だ。

 

 

 俺の知る歴史の流れでは孫呉と関わる事はないが、決して油断は出来ないだろう。

 今回の交渉が上手く行けば今後も関わるのは間違いないのだから。

 領土の長を補佐する立場を公言できるほどに馬騰の信頼も篤いのだ。

 その実力も信頼されていると見て良い。

 

「あ、あたしは馬寿成の娘の馬孟起です!」

 

 緊張に声を上ずらせる少女。

 母親をより幼くした顔立ちにお揃いのポニーテール。

 馬騰と生き写しと言っても過言ではないほどに似た空気を纏う少女だが、緊張でぎこちない所作になっている姿はむしろ微笑ましい。

 彼女が将来の五虎将軍の一人か。

 

 

 馬超孟起(ばちょうもうき)。

 その雄姿から錦馬超と呼ばれた三国志時代で有名な将軍の一人だ。

 父である馬騰の死後、関中における独立軍閥の長の座を父から引き継ぎ曹操に服属していたが、後に韓遂と共に反乱を起こす。

 離間の計によって曹操に敗れてからは各地を放浪し、その末に益州の劉備の下に身を寄せ、厚遇を受けた。

 実の所、劉備に帰順するよりもそれ以前の方が史実に残っている武将だ。

 漢中攻防戦以降、彼の動きは精彩を欠いていたと記されている。

 曹操暗殺に関わった事で一族のほとんどを殺されている事から彼への憎しみは根強かったという記述は多い。

 

 

 そんな向かい風の多い人生を送る人物が、こんな少女だという事実に俺は何度目かのやり切れない気持ちを抱いた。

 どうしてこう俺よりも年下の少女ばかりが三国志という激動の時代を生き抜く立場になってしまっているのか。

 ここは俺の知る歴史の世界ではないと割り切らなければいけない事はわかっている。

 しかしこうして事実を目の当たりにするとどうしても思ってしまうのだ。

 未だに残る俺の悪い癖だ。

 

 俺の気持ちを他所に謁見は進む。

 

「噂は西の果てであるここにも届いてるぞ。お前の事ももちろんだが双子の片割れである孫堅に側近である周異、そして錦帆賊討伐にて一気に名を上げたそこの男の事もな」

 

 そこまで言い、馬騰は俺へと視線を向ける。

 好戦的なその視線を受け止め、俺は深く頭を垂れて名を名乗った。

 

「凌刀厘と申します。此度、私は幼台様の護衛をしております。こちらは同じく護衛の甘卓」

「甘卓と申します」

 

 俺の挨拶に続き、思春は頭を垂れたまま最低限の言葉を発する。

 その声が僅かに震えている事が俺にはわかった。

 馬超のように声が上ずる事はなかったが、やはりこの子も領主との顔合わせに緊張しているのだ。

 

「おう、よろしくな! 建業の双虎とも会いたかったがお前とも会ってみたかったんだよ、私は。何用で来たかは知らんが西平はお前たちを歓迎しよう」

 

 驚くほど素直に感情を乗せて言葉を紡ぐ馬騰。

 

「では我々が来訪した目的についてこちらの書簡をご覧ください」

 

 この場にいる全員の目に見えるようにゆっくりと懐に仕舞っていた竹簡を取り出し、最も近くにいた文官に差し出す。

 文官は慎重にその書簡を受け取り、異常がない事を確認するといそいそと馬騰の元へ向かい恭しく差し出した。

 

 受け取った書簡を無言で開き、目を通し始める馬騰。

 沈黙した広間に書簡が床を叩く乾いた音だけが響く。

 

「なるほどなぁ。文約、ほら」

「おう」

 

 後ろ手に突き出された書簡を慣れた手つきで受け取り、最初から読み始める韓遂。

 馬騰は内容を頭の中で吟味しているのか、神妙な表情で考え込んでいる。

 

「ふむ。なぜこの時期にこんな所まで遠出したのかと思っていたが、軍馬の買い付けと調教師の技術提供とはな」

「涼州が最も得意とする分野だと考えれば、遠出する理由としては充分でございましょう?」

「過信でもなんでもなくうちの馬は大陸一だからな。その技術を欲するという気持ちはわからんでもない。しかし……」

 

 馬騰は俺たちの真意を見透かそうとするかのように鋭い瞳を向けてきた。

 

「軍用に使えるヤツを百頭、さらにその百頭の世話とその技術を伝授する調教師のそっちへの貸し出し。これに対してお前たちが出す対価は食料の提供と長期保存可能な作物の育成方法の伝授。長期的な目で見ればこちらがかなりの益を得る事になると思われるが……これはどういうつもりだ?」

 

 西平は荒れた土地だ。

 食料自給率は中央や南の領土とは比べ物にならないほどに低く、よって食料の備蓄もスズメの涙ほどしかない。

 よって食料のほとんどを他領土からの輸入に頼っている状況だ。

 そうであるが故に他領土に強く出れず、便利屋のように使われる事も多い。

 このままでは飢饉などの食糧難が起きた時に酷い被害を被るだろう事は明白だ。

 

 この食料問題が解決すれば、単純な食料の備蓄問題のみならず今まで下手に出ざるを得なかった交渉で、多少は強く出る事も可能になるだろう。

 食料の生産が安定するまで時間はかかるが、その将来的な効果は絶大だ。

 

 自分たちに有用過ぎる交渉をしてきた事。

 そこにあるだろう理由を馬騰は問いただしたいのだ。

 

 そんな彼女の圧力の伴った問いかけに思春が身体を硬直させる。

 陽菜と俺は柳に風とばかりにその圧力を受け流している。

 

「建業としては今回の件が上手くまとまった場合、西平との末永い付き合いを望んでおります。この交渉はその為の第一歩でございますれば、持ちかけたこちらが譲歩するのは当然の事です」

 

 陽菜の発言に、周囲で話を聞いていた者たちがざわめき出す。

 馬騰たちも明け透けな陽菜の言葉に、目を丸くして驚いていた。

 

「そいつは建業として西平と同盟を組みたいって事でいいのか?」

「その通りです、文約殿」

 

 慎重な韓遂の問いかけにも陽菜は即答だ。

 真意はともかく、こちらが西平との同盟を望んでいる事は理解したのだろう。

 韓遂は何事か考え込む為に目を閉じ、会話から外れた。

 

「……正直なところを聞きたいな。この三日ばかりでここを見て回ったと聞いたがどう思った? ああ、刀厘。お前も答えてくれ」

 

 突然の馬騰の言葉に俺たちは揃って驚く。

 何を思っての言葉か、その裏は読み取れないが問いかけには答えるべきだ。

 

「民に活気がございました。活気の良い客引きの声、辺りを駆け回る子供たち、兵士たちと談笑する民。民と兵に垣根の少ない親しみやすい場所なのですね」

 

 陽菜の手放しの賞賛に、傍に控えていた馬超が誇らしげな顔をした。

 

「恐れながら……その実、売られている物の値段は他の領土に比べてやや高い傾向のようですね。他からの輸入に頼っている為でしょう。貧富の差はさほど無く今は落ち着いているようですが、だからこそ皆が同じ苦しみを味わっている状態と言えます。それでも暴動や不満が出ないのは貴方方、城の人間たちも同じ状態であると垣根を作らないが故に民も知っているから、でしょう。苦労を分かち合うと言えば聞こえは良いのでしょうが、しかし今の状態では飢饉などの大きな問題が起これば信頼関係が一気に瓦解する恐れがあると愚考します」

 

 続けての俺の言葉を韓遂、馬騰以下の文官たちは難しい顔をして聞いている。

 馬超や馬岱は酷評とも言える俺の言葉に不満げな顔をしているが、指摘された事に心当たりがあるようで俺に食って掛かるような事はなかった。

 

「何かが起こる前に対処する案としての作物の代価、か。そこまで先を見据えている。どうやらこの話は本気と見て良さそうだぞ、寿成」

「そうだな。これだけこっちに良い条件だと私としては腰の据わりが悪いんだが……まぁこの借りは同盟が成ってから返させてもらうとするか。こいつら見る限り、すぐに破棄するような軽い関係で終わりそうにないしな」

 

 韓遂との相談を終え、俺たちを見つめてニヤリと笑う馬騰。

 その楽しそうな笑みと態度、そして言葉が、交渉が一段落した事を俺達に教えてくれた。

 

 

 

 謁見が終わり、俺たちを取り囲んでいた武官文官が自身の仕事へと散っていった後。

 この場には俺たちと馬騰、韓遂、馬超、そしてなぜか馬岱と鳳徳が残っていた。

 

「さて、畏まった席は終わった。お前らも普段通りにしていいぞ」

「お前、ほんといい加減にしろよ。まだ客人がいるだろうが」

 

 気を抜いて玉座に背を預けて伸びをする馬騰に、韓遂が頭痛を堪えるように右手で額を押さえながら苦言する。

 

「いいんだよ。もうこいつらは客人じゃない。同盟相手だからな。同士に遠慮なんぞいらんだろ」

「今、目の前にいるのは一国の代表としている人間だぞ。親しい仲にも最低限の礼儀ってもんがあんだよ、馬鹿」

「こいつらはそんなの気にしないっての。大体、刀厘の方には姪っ子が世話になったんだ。その礼くらい西平太守としてじゃなく親族として言わせろよ」

「えっ!? 私!?」

 

 突然の名指しに馬岱は素っ頓狂な声を上げる。

 視線が自然と彼女に集まり、慌てて右往左往している姿はなんとも微笑ましい。

 

「ああ。何か悩んでいたのは知ってたんだがな。何に悩んでるか聞いてもはぐらかすばっかりでどうしたもんかと思ってたんだよ。それが三日前から急に元気になっちまって……何があったか調べてみれば赤ん坊を連れた逞しい男と話してたって言うじゃないか。その男ってのはお前の事だろう、刀厘?」

 

 疑問ではなく確認と言った調子の言葉に、まぁ隠す必要もないので俺は肯定の意を返した。

 

「三日前、彼女と話していた子連れの男と言うのはほぼ間違いなく私でしょう。ただ私は彼女が子供に興味を持った様子だったので少し話をしただけです。息子も彼女の事を気に入った様子ではしゃいでおりましたし、お礼を言うのはこちらの方です」

「あ、そんな事はないです! 私、刀厘様とお話出来てとっても嬉しかったし、気が楽になりました!」

 

 顔を真っ赤にして恐縮する馬岱。

 その様子をニヤニヤとしながら見ている馬騰。

 視界の端にはなぜか面白くなさそうな顔をした思春が見えた。

 

「ま、そういう事だ。こいつが感謝してる。実際、目に見えて調子が良くなった。だから家族として礼を言わせてくれ。ありがとう、刀厘」

「……そういう事なら、今この場だけは一個人として家族を思う寿成殿の感謝の言葉、受け入れさせていただきます」

 

 そう言って頭を下げるも、馬騰は何が不満なのか唇を尖らせて唸り声を上げる。

 

「まだ堅いぞ。普段通りでいいって言っただろう」

「……文約殿、いかがすればよろしいか?」

 

 流石にここまでしつこく言い募られると困ってしまう。

 一先ず補佐である人物に水を向けると、彼は眉間を揉み解しながらこう言った。

 

「あ~、すまん。他の連中には俺の方から広めておくからこいつの道楽に付き合ってやってくれないか? いつまでもこれじゃ話が進まん。この件を理由に俺たちが建業に何かする事はないと涼州豪族を纏め上げる者として誓う」

「……なんと言いますか、苦労されているのですね」

「すまん。同情が逆にキツイ」

 

 そんなやり取りを経て俺たちは公の場以外ではその場に集まった者たちへの敬語や畏まった態度を取らないという事になった。

 常に緊張する必要はなくなったが、どこまでなら許されるのかのという線引きが曖昧で逆に気を遣う事になるかもしれんな。

 

 少しばかり今後に不安を残しつつも交渉は無事に成功した。

 しばらくは城に滞在する事になる。

 既に宿は引き払い済みだ。

 

 宛がわれた部屋は質素ながらも、生活に必要な調度品は揃っていた。

 これならば玖龍もストレスを感じる事はないだろう。

 

「ふぅ~、まずは第一段階完了というところかしらね?」

 

 陽菜は長いため息と共に寝具の上に寝転がった。

 毅然とした態度で交渉に当たっていた陽菜だが、別に緊張していなかったわけではない。

 ただひたすらに顔に出さないようにしていたというだけだ。

 

「お疲れ様だな。上手くやれていたと思うぞ」

「うふふ、ありがとう」

 

 疲れた顔で笑う陽菜。

 そんな彼女の胸の中にいた玖龍が、その小さな手で母の頬を撫でる。

 

「だ~う~」

「あらあら、玖龍も私を労ってくれるの?」

 

 微笑ましい親子のやり取りを見つめながら、俺と思春は用意されていた木製の椅子に腰掛ける。

 

「駆狼様。一つ質問があるのですが」

「なんだ?」

「交渉が無事に成功し、今回の遠征の目的は果たしたはずです。なのに何故、第一段階なのでしょうか?」

「簡単な事だ。同盟まで漕ぎ着ける事は出来た。だがそれは所詮、これから先の西平と繋がりを持つ為の最初の一歩に過ぎない」

「あ……そう、ですね。申し訳ありません。こちらの要求が通り、口約束とはいえ同盟も確約された事で全てが終わったつもりでおりました」

「一つの区切りではあるから気にするな。この関係が円満な物になるか、どこまで続けられるか。全てに俺たちが関わるかはわからないが先はまだまだ長いぞ。お前にも苦労をかける事になるが、付き合ってもらう事になる」

「どこまでもお供させていただきます」

 

 生真面目な思春の言葉を頼もしく思いながら、俺は今後の西平での生活と俺たちの帰る国に思いを馳せた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十八話

 俺たちが西平城に移り住んでから一週間が経過した。

 この一週間、俺はひとまず作物の育成について教授するべく動き出していた。

 

 作物の育成については俺が最も詳しい。

 正式な同盟締結はまだ先だが、こちらの誠意を示すという意味で触りだけでも先に教え始める事にしたのだ。

 代価の話は事前に美命に聞かされていたから、サツマイモのつる苗は持ち込んである。

 後は最低限の土地さえ貸してもらえればよいという状態で韓遂に適当な土地をいただけるよう打診したのだ。

 

「おいおい、もう始めるってのか? 仕事熱心っつうかなんというか……まぁわかった。手配しておくぜ」

「よろしくお願いします」

 

 彼はこちらの要望にすぐに応えてくれた。

 さほど城から離れていないところに用意された土地。

 ありがたく貰い受けた俺はさっそく畑の整備を開始した。

 

 土造りのノウハウなどこの世界には存在しない。

 しかし可能な限り環境を近づけて畝(うね)を作る。

 さらに苗を植える前日に水が溜まるくらいに土を湿らせておく事を忘れない。

 

「というか収穫はどう足掻いても夏場を越える必要がある。もしやそれまで俺たちは西平にいる事になるのか?」

 

 交渉を無事に済ませるという任務以外、俺たちは請け負っていない。

 既に馬騰側が交渉成立とその内容を記した書簡を持った早馬を建業に出してくれているから追って指示が出るとは思うが好きにしろと言われた場合、陽菜はともかくとして俺は残るつもりでいた。

 なにせ西平での初めての栽培だ。

 不足の事態が起きないよう出来れば最初の収穫までは立ち会いたいというのが今の俺の気持ちだ。

 もっとも必要とあれば途中で誰かに引き継ぐというのも考えてはいるが。

 

「刀厘様。苗の植え方はこれでよろしいのでしょうか?」

 

 黙考する俺に声をかけてきたのは初老の男性。

 こちらはこの土地の持ち主で韓遂が交渉した張本人である。

 自分たちの土地で新たな作物の栽培を始めるという事で、その技術を学ぶ第一陣として立候補した人物でもある。

 この時代、新しい事を始めるというのはとても大変な事で、誰もが尻込みする物だが彼は民草とは思えぬチャレンジャー精神を持っていた。

 俺が他所の土地の武官と知りながら積極的にサツマイモの栽培について質問する事からもその神経の太さと大胆さは察する事が出来るだろう。

 

「どれどれ……ああ、大丈夫だ。これで持ってきた苗は全て植え終えた。あとは日々の確認だな」

 

 ちなみに苗の植え方は家庭菜園などでもよく使われていた水平植えだ。

 あとは定期的に様子を見に行き、除草や土寄せなどを行うだけだ。

 ああ夏場になったらツルを返す必要があるな。

 試し掘りして馬騰たちに振舞うとしよう。

 

「注意点を教えていただければ私どもの方で行いますが……」

 

 彼は民草の中でも一角の人物らしく配下と呼ぶべき者たちがいる。

 彼と違い、俺と話すときは恐縮しきりでなかなか話が進まない事も多い。

 それが当たり前なのだろう。

 彼らからすれば武官など遠くから見るだけ、顔だけでも知っていれば御の字な人物。

 機嫌を損ねれば切り捨てられるという事すらありえるような権限を持った人物。

 そんな相手に謙りながらも話す事が出来るこの老人の胆力は、誰もが持っている物ではないのだ。

 

「一月ほどは俺も共に見るさ。その後は貴方方に任せきりになるからよろしく頼む」

「はい。お任せください」

 

 建業ならば武官や文官は他の領地に比べれば遥かに身近だ。

 気安く声をかけたところで切り捨てるような人間はいない。

 しかしそれは建業だけの特異な状況なのだと俺はこの旅で実感していた。

 

「(あいつらも理解していると思うが、その辺の認識の差には気をつけないとな)」

 

 今後の懸念事項について考えながら、俺は畑を見ている彼らに一声かけてその場を後にした。

 

 

 

 俺は畑を離れた後、少し遅い昼食を食べ西平城へと戻ってきていた。

 一先ずの仕事が終わったので午後は鍛錬にでも当てようと鍛錬場に向かった所、丁度良く模擬戦をしている馬超と馬岱を見つけた。

 他の兵士たちも鍛錬をしながら彼女らがぶつかり合う様子をちらちらと窺っている。

 中には自身の鍛錬の手を止めて眺めている者もいた。

 

 二人の戦いは見ていて面白い物だった。

 その性質が現れた真っ直ぐな豪撃で攻め続ける馬超。

 そんな彼女の一撃を真っ向から受けるような真似はせず、しなやかに受け流しまた避けながら反撃の機会を窺い、隙を逃さずに打ち込む馬岱。

 

 地力では馬超が圧倒的に上のようだが、馬岱は自身の得意とする所をよく理解しているらしい。

 戦い方を工夫する事で馬超を相手に善戦している。

 

「くっそ! 蒲公英、お前いつからこんな戦い方するようになったんだ! いつにも増してやり難いぞ!!」

「私は私らしくって考えたら自然に身体が動いてるのよ! 今日こそ一本取らせてもらうわ、お姉様!!」

 

 白熱した二人の戦いの見物客は次第に増えていく。

 周囲の変化など見えていないとばかりに相手のみを見て攻防を続ける二人。

 その中にはいつの間にか馬騰の姿もあった。

 

「そう、簡単に負けてやれるか!」

「簡単にじゃなくていいから今日こそ負けて!!」

「そうはいくかよ!!」

 

 どうも弁舌では馬岱の方が上のようだ。

 馬超は馬岱に比べて語彙が少ない。

 

 などとどうでもよい事を考えている最中、勝敗は決した。

 元々、限界が近かったのだろう。

 回避しきれずに受け流そうとした馬超の攻撃。

 それを捌き切る事が出来ずに馬岱は己の武器を手放してしまった。

 くるくると宙を舞う彼女の槍は何故か真っ直ぐに俺の方に飛んできた。

 慌てて飛び退く見物客の前で俺は槍の柄を握り込むようにしてキャッチする。

 鍛錬をすればするほどに着実に強化されるこの恵まれた身体だから出来る軽業だ。

 

 今更ながら俺も相当に人間離れしてきている。

 

「あ~、今日こそいけると思ったのに~」

 

 常に相手の動きを読み、推測し、次の一手を考え、動き続けた馬岱。

 武器を手放した事で心身ともに限界に達したらしく、その場に座り込んでしまった。

 

「いやほんとに今日は危なかった。お前、ほんとにどうしたんだ? いや妹分が強くなったのは嬉しいんだけどさ」

「えへへ~、なんていうか吹っ切れたって言うのかな? 詳しい事はお姉様にはな~いしょ!」

「む、なんだよそれは~。蒲公英の癖に生意気だぞ~~」

 

 年頃の少女らしいじゃれあいが始まり、見物客たちは馬岱の健闘を口々に褒め称えた。

 照れて顔を紅くする馬岱に彼らは良い物を見たという表情を浮かべ、満足げに自分たちの仕事へと戻っていく。

 俺は野次馬が散っていく中で彼女たちに近づいていった。

 

「あ、刀厘おじ様!」

 

 近づいてくる俺に気付いた馬岱は跳ねるように立ち上がって手を振ってきた。

 明るい笑みに釣られて俺の口元まで綻ぶ。

 

「訓練お疲れ様だ。馬超、馬岱」

「うん! おじ様もお仕事お疲れ様」

「あ、えっとお疲れ様です。刀厘様」

 

 彼女と反比例するかのように馬超は俺の姿に緊張して身を固くしてしまった。

 俺に対して未だに緊張が解けずにいるのだ。

 当然の事だろう。

 俺たちが城に来てまた一週間しか経っていないのだから。

 

「おじ様、おじ様! どうだった!? 私、もう少しでお姉様から一本取れるってところだったよ!」

「こ、こら蒲公英!!」

 

 ぴょんぴょん跳ねながら抱きついてくる馬岱を受け止める。

 まだまだ成長途中の少女だ。

 その突進を受け止めたくらいで揺らぐような軟な鍛え方はしていない。

 

「ああ、途中からだが見させてもらっていた。相手の虚を突くのが上手くなったな。惜しかったぞ。ほら、槍だ」

 

 逆に馬岱は俺に懐き過ぎているように思える。

 真名こそ許されていないが、正直それも時間の問題ではないかと思えるほどの懐きっぷりは逆にこちらが不安になってくるな。

 

「やった! これもおじ様の教えのお蔭だよ!」

「えっ? 蒲公英、刀厘様に手ほどきなんて受けてたのか?」

 

 聞き捨てならない言葉に所在無さげにやり取りを見ていた馬超が口を挟む。

 

「手ほどきだなんて本格的な事はしていない。俺は5日ほど前に『自分に合った戦い方を見つけるべきだ』とこの子に助言しただけだ。そこから自分に何が出来るかを考え実践するようになったのは馬岱自身の行動の結果で、この子の頑張りの成果だ」

 

 労うように慈しむように馬岱の頑張りを評価する。

 

「よく頑張った。でもまだまだお前はこれから強くなれる。……ここで満足なんてするんじゃないぞ」

「お、おじ様。……うん! 蒲公英、頑張るよ!!」

 

 両手を握り、真剣な面持ちで決意表明する馬岱は幼いながらも頼り甲斐のような物を感じさせる。

 

「う~、なんか蚊帳の外だなあたし」

 

 視界の端で唸り声を上げる馬超をどうするか頭を回しながら、俺は馬岱の頭を軽く撫でた。

 このまま穏やかな時間が過ぎるかと思っていたのだが。

 

「はっはっは! いやいや大したもんだな、刀厘!」

 

 そんな俺の思いは武器を片手に大笑いしながらこちらに近づいてくる馬騰の姿に真っ向から叩き潰される事になった。

 

「寿成殿。お疲れ様です」

 

 本来なら片膝をついて礼をしなければならない所なのだが、馬騰本人に堅苦しい礼は不要と言われているので立ったまま一礼する。

 

「うんうん。多少なりと堅さが取れてきたようで私としちゃ嬉しい限りだ。で、だ。ちょいと運動でもしてみないか?」

「……それは手合わせをご所望という事で?」

「察しておいて何を言ってる? ここの連中は血気盛んでな。誰も彼もが噂に聞くお前の腕前がどれほどの物か気になってるんだ。だと言うのにお前と来たらこの一週間ほとんど畑にかかりきりで鍛錬場にも顔を出さない。仕事熱心なのは良いが、私たちは今か今かとこの時を待ってたんだぞ? なぁ、お前ら」

 

 ニヤリと笑う寿成殿。

 彼女の視線を追ってみれば彼女と同じような好戦的な笑みを浮かべた兵士たちの姿があった。

 俺の事が気に入らない一部の人間は合法的に痛めつけられるとでも思っているのか下卑た表情を浮かべている。

 頭が立派な人物だからと言っても、下の者までその限りではない。

 集団が大きくなればなるほど、リーダーの意思が行き届かない部分という物は出てくるもの。

 これはウチも他人事ではない。

 

「……私としても鍛錬をしたいと思ってここに来ましたので。模擬試合する分には一向に構いません」

「お! そう来なくてはな! ならさっそく私と……」

「寿成殿はまず文約殿に許可をもらってきていただけますか? 流石に私の一存で太守様と闘う事は出来ませんので……」

 

 そのままの流れで闘えると思っていたのだろう馬騰は喜色満面だった表情を面白いほどに苦みばしった物に変えた。

 

「げっ……え~、あいつに許可を取るのかぁ。絶対ごねるぞ、あいつ」

「しかし万が一の事があってはいけませんので」

 

 一応、大丈夫だと言う事は韓遂にも太鼓判を押されているが、それを踏まえても模擬とはいえ刃を交えるのは相談が必要だろう。

 

「う~ん。仕方ない。おい、ちょっとひとっ走り行って文約を連れてきてくれ」

「はっ!」

 

 好戦的に俺を見つめていた兵士の1人を使い走りにして馬騰はその場にどっかりと座り込んだ。

 

「私が戦うのはまだ駄目みたいだが……他の兵たちについては私が許可する。存分に闘ってお前の実力を見せてくれ」

 

 どうやら俺の模擬試合をすぐ傍で観ていくつもりのようだ。

 

「では……我こそはという者からどうぞ」

 

 鍛錬場の中心に移動し、念のため手甲と足甲のチェックをする。

 

「よっしゃ。まずは俺から行くぜ」

 

 闊達に笑いながら強面禿頭の男が前に出てきた。

 

「噂が本当なら手加減なんていらねぇんだろ、刀厘殿」

 

 どこか皮肉げな言葉だが、これはまぁ噂とやらが信用できないが故の探りだろう。

 西平に来るまでに幾らか建業についての情報も集めていたが、俺という人物についてはかなり持ち上げて伝わっているようだった。

 

 曰く『建業太守が頭を下げて仕官してもらった』。

 曰く『彼の部隊はまさに一騎当千』。

 曰く『彼の武は揚州最強』。

 曰く『領地の民の為に尽くす賢人』

 

 聞いた時は思わず天を仰いだ。

 噂の一部は美命たちの差し金のはずなのだが、持ち上げられ過ぎていて正直居た堪れなかった。

 

 信憑性皆無の噂話を頭から信じるような輩はいないと思うが、それを踏まえても気に入らないという人間が出てきて当然だろう。

 挙句、俺はこれまでの一週間、実力を示すような事をまったくしてこなかったのだ。

 俺としても噂を全て肯定するつもりはないが、見劣りするつもりはないがその機会を自分で潰してきた事も事実。

 

 噂ほどでもないという侮りを払拭し、口だけでも噂だけでもないという事を示すには良い機会なのだろう。

 ならば思う存分に暴れさせてもらおうか。

 

「両者、構え!」

 

 ノリノリで手を掲げ場を仕切る寿成殿。

 先ほどの好戦的な表情のまま己の剣を構える禿頭の兵士。

 俺は左半身を前に出し、右手を軽く握り込みながら踏み込み足である左足に力を込める。

 

「始めっ!」

 

 振り下ろされる手を合図に俺は思い切り踏み込む。

 あっという間に縮まる距離に男は目を剥いて驚いた。

 

「っだぁ!!」

 

 しかしそこは異民族と常に敵対する地域の兵(つわもの)。

 動揺は一瞬だけ。

 即座に構えていた直剣を突き出してきた。

 

 胴体に向かって突き出された剣先を左手の手甲で身体の外側へ逸らす。

 激突したはずだというのに手応えがないという味わった事がない感覚に驚き、思わず前につんのめった男の無防備な額に右の掌を叩きつけ、さらに左拳で顎の下を掠めるように打ち込む。

 

「お、ぐぉ……」

 

 一撃目の衝撃が脳を突きぬけ視界が真っ白になった所に、さらに二撃目で脳を揺らされて棒立ちになった男に、止めとして右拳を叩きつける。

 悲鳴を上げる事すら出来ず男は放物線を描いて吹き飛び、地面に叩きつけられた。

 倒れた男はぴくぴくと痙攣するばかりで立ち上がる事も出来ないようだ。

 

「……勝負あり、だな。ほら、お前ら。呆けてないで次行け。あとそいつ鍛錬場の端に連れていけ。手加減されてるからしばらくすれば目を覚ます」

 

 あっさりと一番手が破れた事に唖然としていた兵士たち。

 そんな彼らと違い、ますます好戦的に瞳をぎらつかせる寿成殿。

 君主の言葉に呆然としていた者たちが立ち直り、慌しく動き出す。

 そんな中、二番手の男性が俺の前に出てくる。

 

「……一手、ご指南願います」

「喜んで」

 

 どうやらこの男は実力の差を察したらしい。

 それでも尚、挑むのは兵士としての誇りか、それとも男としての意地か。

 いずれにしても目の前の人物は潔くそして将来性のある兵士であるようだ。

 

 だからと言って叩き潰す事に変わりはないが。

 

「では……始め!」

 

 先鋒だった男は先手を取ろうと動いたところをさらに先に動いた俺に虚を突かれる事になった。

 二番手の兵士は俺が懐に飛び込んでくる事を警戒してか、こちらを注意深く観察しながら間合いを計る。

 

「同じ手は使えないか」

 

 思わず呟き、しかし構わず駆け出す。

 突撃する俺を見ても動揺せずに迎撃する体勢を取る。

 

 右拳を握り込み、振りかぶり、男が防御するのも構わずに真っ直ぐに振るう。

 何の小細工も無く真正面から迫る拳を男は慎重に剣の腹で受け止めた。

 しかし衝突の瞬間、剣が弾かれ宙を舞った。

 

「なっ……」

「フンっ!!」

 

 勢いの止まらない拳が男の腹部に突き刺さる。

 

「はっ、お……ふ」

 

 肺の中の空気を全て吐き出させ、男は崩れ落ちた。

 

「……防御をさせない高速の攻めかと思えば、防御を突き破るほどの威力の拳も持っているのか。ますます面白い。……おい、倒れたやつを連れて行ってやれ。あと次のヤツ出ろ!」

 

 ずるずると引きずられていく男を尻目に三人目の相手が前に出る。

 

「お前ら、馬騰軍としての誇りがあるなら勝てないまでももっと粘れよ!」

 

 野次のような激を飛ばす馬騰に兵士たちが応える。

 先ほど俺を痛めつけられると思っていた兵士たちもその目の色は既に変わっていた。

 

 まさかと思うが寿成殿は俺の存在を認めさせるために、これだけ人が集まった状態で模擬試合を申し出たのか?

 手を掲げ、合図を出そうとする寿成殿と目が合う。

 好戦的な瞳はそのままに悪戯っぽく片目を閉じて見せる。

 その仕草で俺の推測が当たっているらしい事が理解できた。

 

「始め!」

「うぉおおおおおお!!」

 

 開始の合図と共に槍を突き出す男。

 その槍に合わせて左足で蹴りを放ち、穂先を足甲で弾き、さらに槍の棒部分を足で絡め取る。

 

「なぁっ!? うぉおお!!」

 

 力任せに絡め取られた槍を引き戻そうとする動きに合わせて身体を支えていた右足で地面を蹴り、戻る勢いを乗せた浴びせ蹴りを叩き込む。

 盛大に吹き飛んだ兵士は仰向けに倒れ、白目を剥いて気絶していた。

 

「次、どうぞ」

「ほらほら、怖気づくような根性無しを軍に入れた覚えはないぞ! さっさと行ってあいつの余裕を失くして来い!」

 

 次々と前に出る兵士たちを思いつく限りの技の組み合わせで倒していく。

 まったく途切れない技のバリエーションの数々に後から出てくる者たちもまるで対処できずに倒れていく。

 文約殿がこちらに駆けつけてくる間に俺は優に五、六十人を倒していた。

 ちなみに馬岱は寿成殿の隣で俺の応援をしていて、孟起は真剣な面持ちで俺たちの戦いを見つめていた。

 

「うぉおおおおおおい! 寿成、お前は同盟結んだばっかりの相手に何をしてんだ何をぉおおおおおおお!!」

 

 悲鳴のような韓遂の叫びが鍛錬場に響き渡り、同時に放たれたドロップキックが寿成の後頭部を直撃。

 

「ぐっはぁあああああああ!?」

 

 彼女は為す術もなく錐揉み回転しながら地面を転がった。

 突然の事態に呆然とする俺たちを他所に文約殿は倒れた彼女に駆け寄り、襟首を両手で持ち上げて言い募る。

 

「お前は馬鹿か!? 馬鹿なんだな、そうだった馬鹿だった! なにこっちの食糧問題解決に尽力して疲れてるだろう相手をさらに疲れさせるような事してんだ!」

「う、ぐぐぐ。いいだろ、別に。あいつも了承したんだぞ!!」

「そりゃ了承せざるを得んだろうが。立場的にこっちのが太守の期間が長くて立場が上なんだからよ! そりゃ、生真面目な刀厘なら多少無理はしてでも提案されれば断らねぇだろうよ!」

 

 起き上がった寿成殿と文約殿が盛大な口喧嘩を始めてしまった事でなし崩しに模擬試合は終了した。

 

 俺はこの後、騒ぎを聞きつけた陽菜と彼女の護衛をしていた思春が現れたので彼らが騒ぐのを尻目に馬岱たちに断りを入れ、その場を離れた。

 

「ずいぶん汗を掻いてるわね」

「精兵を相手に勝ち抜き戦をしていたからな。特に疲れてはいないが身体を動かしたから汗は掻く」

「部屋に桶と水をお運びしますのでそれで身体を拭きましょう」

「ああ、そうだな」

 

 これ以降、俺の実力が噂通りかどうかはともかく自分たちを上回るものである事を理解できたのか、兵士たちから表立って見下すような視線を受ける事はなくなった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第四十九話

 俺の実力を示すべく寿成殿にお膳立てされた模擬戦をして以来、俺と思春は時間が出来れば訓練場の隅を借りて鍛錬するようになっていた。

 参加こそしないが陽菜と玖龍も鍛錬の時はいつも一緒にいる。

 

 俺たちが鍛錬している事に気付いて兵士たちが寄ってくる事もある。

 彼らはどうやら俺の闘い方を研究しようとしているようだ。

 それほど難しい事をした覚えもないんだが。

 地域柄、長物を使う人間が多いようなので拳や蹴りで闘う俺が珍しいんだろう。

 こちらとしても甘寧から貰い受けた棍の使い方を研究する一環として、長物の使い方を彼らの鍛錬から学ばせてもらっている事だし、お相子か。

 

 孟起や令明はあの一件を切っ掛けに声をかけてくる事が多くなり、馬岱などは人目を憚らず俺に鍛錬をねだるようにすらなっている。

 それなりに友好的な関係を築けているのだろう。

 

 しかし孟起たちはともかく、馬岱の態度に思春はなにやら思うところがあるようだ。

 普段からそこまで感情を顔に表さないあの子の表情が馬岱が来ると輪をかけて硬直している。

 どうやら不満を表に出さないように意識して仏頂面を維持しているようだ。

 

 なにやら一波乱起こりそうな二人の様子を俺は心配しているんだが、陽菜はそうでもない様子で。

 

「思春ちゃんは少し生真面目過ぎるから、色んな子と付き合って人生経験を積ませてあげましょ?」

 

 にっこりと笑う様子は何も心配ないと言外に告げていた。

 とはいえやはり難しい年頃の娘二人。

 何か起きるようならば、俺が止めて見せよう。

 

「心配性ねぇ」

 

 俺の密かな決意を見切った陽菜の苦笑いは、前世で息子との喧嘩を仲裁していた時の物と同質の物だった。

 

 

 

 畑は経過待ちの状態で俺にはやる事がなく、使者としての立場がある陽菜に西平の書類仕事などを手伝わせるわけにはいかない。

 思春は主な任務は陽菜の護衛で、常に陽菜の傍にいるが他領土の重要人物に無体を働くような馬鹿は少なくとも城内にはいなかったようだ。

 偶に文約殿や寿成殿から声をかけられるくらいで至って平和な日々が続いている。

 そこで今日は一日、家族と共に過ごす事にした。

 もちろん事前に許可は取っている。

 

 そして思春に午前中に何をしたいか聞いたところ、遠慮がちにではあるが自分の修練に付き合って欲しいと言われたので。

 今、こうして相手をしている。

 

「やぁっ!」

 

 甘寧が持っていた物と同種類の反り返った刀が振るわれる。

 

「ふっ!」

 

 日々の鍛錬で着実に威力を上げていく少女の一撃を手甲で受け流し、返しの蹴りを放つ。

 思春は俺の一撃を刀の柄で受け止めるも体重の差で後方に吹き飛んだ。

 しかし彼女は吹き飛びながらも体勢を立て直して着地し、俺の追撃を迎え撃てるよう逆手で武器を構えて鋭い眼差しで威嚇する。

 良い牽制だ。

 とはいえ汗だくで息も絶え絶えの状態では、触れれば切れるようなピリピリとした威嚇もあまり意味はない。

 

「今日はここまでだな。思春、しっかり身体をほぐしてから休め」

「はい。ありがとう、ございました」

 

 俺が構えを解くと、最後の力を振り絞って礼を言い、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。

 荒げた呼吸を必死に整える彼女に見学していた陽菜が、予め用意してもらっていた水差しから杯に移した水を差し出す。

 

「はい、思春ちゃん。ゆっくり飲んでね」

「はっ、はっ、はっ……ありがとう、ございます。陽菜様」

 

 か細い声で礼の言葉を紡ぎ、差し出された杯を一気に飲み干す。

 朝餉を終えてから始めた鍛錬は既に昼に差し掛かっている。

 それまで休憩なしでずっと動き続けてきたのだから思春がこれほど疲れるのも当然の事だろう。

 

「と言うか陽菜。玖龍と一緒に部屋で待っていても良かったんだぞ。朝から昼までぶっ続けの模擬戦など見ていても退屈だろう?」

「あら、そんな事はないわよ。だって貴方はいつも動きが違うから見ていて飽きないもの」

 

 俺と話をしながらも彼女は思春の世話を焼くのをやめない。

 甲斐甲斐しく世話を焼かれ、彼女の腕に抱かれている玖龍の小さな手でまるで労われるように撫でられる思春は、未だに世話を焼かれる事に慣れていないようで、「あうあう」と可愛らしい鳴き声を上げながらされるがままになっている。

 おそらく今、思春の頭の中では仕えるべき人物に世話を焼かせている事への恐れ多さと、主の行動を妨げるという行為が主への不忠になるのではないかという考えとで揺れているのだろう。

 生真面目な思春だから仕方ない。

 陽菜としてはただ孫のような娘のような子を可愛がっているだけなんだがな。

 

「陽菜。思春がまた困っているぞ。その辺にしておけ」

「あらあら。疲れている時は大人を頼っていいのよ?」

「え、ええと……私は貴方様方をお守りするのが役割でして。そんな私がご面倒をおかけするなど……」

 

 必死に正論を紡ぐ思春に、しかし陽菜は聞く耳を持たない。

 

「もう。子供が遠慮なんてしちゃ駄目だって言っているでしょう?」

「あ、いえですから、その……」

 

 立場的にはどう考えても思春の方が正しいんだが。

 元来の世話焼き気質と色濃く残る前世の性質が相まって今の陽菜に正論では意味を為さなくなっている。

 不憫といえば不憫だが。

 実の両親、長年共に過ごした年長の仲間が死去した思春には、気兼ねなく甘える事が出来る人間がいない。

 そう考えると陽菜の世話焼きは、年長者の温かみをこの子に忘れさせないようにするという意味では有効なのかもしれなかった。

 

「うふふ。ほら、頭を出して。汗塗れにしたままじゃせっかくの綺麗な紫髪が台無しになってしまうわよ」

「ふあっ!? そ、そんな恐れ多い! わ、私より駆狼様のお世話をされた方が!」

 

 玖龍を片手に抱いたまま実に器用な手つきで思春の頭を手ぬぐいで拭いていく。

 俺も別に用意しておいた手ぬぐいで上半身の汗を拭き取っていった。

 

「俺はいい。陽菜、せっかくだからしっかり身なりを整えてやれ」

「ええ、勿論。さ、私の旦那様であり、貴方の上司からの許可も出た事だし観念なさいね? あ、駆狼。この子お願いね」

「ああ」

 

 本格的に髪を手入れする為に陽菜は玖龍を俺に渡す。

 片手で受け取ると玖龍はきゃっきゃと笑い出した。

 元気すぎる我が子の頭を撫でてやる。

 玖龍は小さな手で自分の頭に乗せられた俺の手に触る。

 

「お前はいつも元気だな、玖龍」

 

 西平に来るまでにも繰り返されてきたやり取りを尻目に俺は自分の汗を拭き取りながら我が子をあやし続けた。

 

 

 

 午後は陽菜の提案で街に繰り出した。

 本来なら陽菜を中心に護衛である俺と思春が両脇を固めるのが正しいはずだが。

 しかし現在、俺を中心に右側を陽菜が左側を思春が固めていた。

 しかも陽菜は俺の右腕に自身の腕を絡めているし、何を吹き込まれたのか思春は顔を真っ赤にしながら俺の左手を握っている。

 とてもではないが護衛とかそういう仕事が出来る陣形ではない。

 

「私たち、城に出入りしているのは知れ渡っているのだし、どう足掻いても目立つもの。なら開き直ってもいいじゃない? ほら、思春ちゃんも恥ずかしがっているけど、貴方と手が繋げて嬉しそうよ」

「い、いえ……私は、その……」

 

 話を振られた思春は今までよりもさらに顔を真っ赤にして俯く。

 しかし握っている手は決して離すまいと力を強くしていた。

 こうしていたいのだと、言葉よりも雄弁に語っていたので俺の方からもしっかり握り返してやる。

 

「あ……」

 

 ほっと安心するように息をついた思春の様子に満足し、二人を引き連れて歩く。

 注目の的も良い所だが、この街で顔が知られている馬岱や令明と共に城に行った姿はこの辺の住人にも当然見られている。

 一角の人物だと認識されているのは間違いない以上、注目される事はもはや諦めざるをえない。

 

「さてどこに行くか。以前、見た時は露天が賑わっていたはずだが」

「そうね。この辺り特有の面白いものが見つかるかもしれないし、適当に冷やかしに行きましょうか」

「思春はどこか行きたいところはあるか?」

「え? ええっと私は……」

 

 しどろもどろになりながら必死に考えを巡らせる子の意見も取り入れながら俺たちは休日を満喫した。

 

 

 

 そして翌日。

 俺たちは寿成殿に呼ばれ、謁見の間に来ていた。

 

「よう、来たか」

 

 迎え入れる寿成殿の言葉は今までと変わらず気安い。

 しかし発散される雰囲気は鋭利な刃物を思わせ、既に集まっていた彼女の臣下たちもピリピリとした雰囲気だ。

 陽菜も思春も彼女らの雰囲気が平時と異なる事を察しているようで、背筋を伸ばしている。

 

「また異民族が俺らの領地に手を出してきやがった」

 

 文約殿の言葉を受け、なるほどと俺は納得した。

 涼州は異民族との戦いの最前線。

 俺たちがいる間に、連中が仕掛けてくる可能性は高かった。

 その時がとうとう来たのだ。

 

「当然、撃退に動く。既に孟起たちが討伐軍の準備を進めている」

 

 どうやら今朝、妙に城内が騒がしかったのは軍の準備をしていた事が原因らしい。

 しかしただ賊を討伐するという話であれば、俺たちには適当に事情を話す人間を派遣すれば済む話だ。

 わざわざ軍議も兼ねているだろうこの場に呼び出したと言う事は。

 

「刀厘。お前には私たちと一緒に討伐軍に参加して欲しい」

 

 半ば予想通りの寿成殿の言葉に、俺はその場で顎に手を当てる。

 

「何故俺を、とお聞きしてもよろしいですか?」

「お前たちは異民族、『五胡(ごこ)』を実際に見た事がないだろう? 話に聞くより一目見た方があの連中がどういうヤツかわかる。どういう連中がこの大陸を狙っているのかって事を自分の目で見て欲しいんだよ」

「……異民族がどういう連中か、ですか?」

 

 非漢民族の者たちを一まとめに括った五胡と呼ばれている者たち。

 位置づけとしては外の大陸からの侵略者という事になるが、それがどこまで本当なのか俺は知らなかった。

 

「で、出来れば連中の戦い方を見て危機感を持って揚州に帰り、連中の事を正しく広めて欲しいんだよ。正直、中央はあいつらを舐め過ぎている。下手な内輪揉めはやつらに利するだけだって事を理解していない。決して、舐めてかかれる相手ではないというのに楽観視している」

 

 事を重要視しているらしい寿成殿のため息は重苦しい。

 しかし長い間、異民族を撃退してきた彼女が、これほど危険視する存在。

 それは確かにこの目で見ておかなければならないだろう。

 

「……幼台様。私は寿成殿の要請に従おうと考えております」

「刀厘……」

 

 公式の場であるが故に真名を呼ばず、陽菜に己の意見を言う。

 陽菜はそんな俺の目をしっかりと見据え、考え込むように目を閉じた。

 

「お願いします。涼州の勇をしてあそこまで言われる者たちの姿、今知らずにいる事はいずれ巡り巡って建業へ不利益をもたらす事になるやもしれません」

「……わかりました。凌刀厘の護衛の任を一時的に解き、寿成殿の討伐軍への参加を孫幼台の名において命じます。侵略者たちの姿をその目に焼きつけて戻ってください」

「御意に」

 

 片膝を付き、陽菜に向かって頭を下げる。

 寿成殿へと向き直り、再度その場で膝を付いた。

 

「討伐軍へ参加要請、受けさせていただきます」

「そうか。急な要請になってすまんがよろしく頼む。刀厘の代わりにこちらから幼台の護衛を手配させてもらう。お前はさっそくで悪いが準備に入ってくれ。文約、後は頼むぞ」

「御意。それじゃ刀厘、一緒に来てくれ」

「はっ!」

 

 謁見の間を出て行く文約殿の後に続く。

 危機感を持たせたいと言った寿成殿の言葉を元にこれから見(まみ)える事になる侵略者の姿を頭に思い描きながら。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十話

 異民族の討伐軍。

 大将を韓文約、副将として馬孟起が指名された。

 さらに孟起の下に馬休、馬鉄という馬家の人間が付き、俺は基本的に文約殿と行動を共にする事になっている。

 陣形としては孟起、馬休、馬鉄の部隊が先陣、文約殿が率いる本隊とも言うべき部隊が後ろを固めるという布陣だ。

 

 今回、基本的に大将である文約殿が戦いに参加する事はない。

 普通の、そう『普通』の大将は部隊の後方でどっかりと構えて的確な指示を飛ばすよう努めるのが常識なのだから。

 うちの蘭雪様や、寿成などが例外なだけである。

 

 よほど苦戦しなければ孟起たちの部隊だけで片を付ける方針なのだそうだ。

 文約殿が纏め上げる本隊が最初から突撃すれば、今回のような小競り合い程度の戦力の敵ならば文字通りの意味で踏み潰す事が可能。

 しかしそれでは馬超たち、若い人材が成長する事ができない。

 

 彼ら西平の人間にとって異民族との戦いは暮らしを守る為の最優先事項である。

 しかし同時に新しい兵(つわもの)を生み出す為の命を賭けた実戦訓練の場でもあるという。

 故に孟起が率いる八十人からなる新兵隊を前に置き、先陣として一番槍を任せているのだ。

 

 それなりに練兵されているとはいえ、実際に戦場に出た事があるのは中核を担う孟起、馬休、馬鉄くらいの物で彼女らも隊を率いての実戦は初めて。

 

 正直、今回の戦いで彼女らが置かれている状況は良い物とは言えない。

 獅子は我が子を千尋の谷に落とすという言葉の通りに、命の危険のある戦場の最前線へと新兵を叩き込んでいるのだ。

 正直なところ俺にはその方針に諸手を挙げて賛成する事は出来ない。

 

 しかし涼州ではそのような強引な真似をしてでも常に戦力を整えておかなければならないのだという。

 異民族が本気で攻めてくる可能性を念頭に置けばこれくらいの事をしなければならないのだと。

 涼州他、一度でも五胡と戦った事がある者であれば知っているのだそうだ。

 

 そんな話を文約殿は道中で俺に語ってくれた。

 それが意味するところを俺はこれから知る事になる。

 

 

 

 正面から迫る揃いの仮面で目元を隠した集団。

 馬にこそ乗っていないが、その一糸乱れぬ隊列と攻めの勢い、そして圧倒的な人数でもって攻め立てられるというのはただそれだけで脅威だろう。

 ざっと見てあちらは二、三百人はいると思われる。

 対してこちらは馬超隊の人数は八十人。

 数の差は明らかだが、こちらは全員が騎兵で構成されている。

 

「馬超隊、突撃するぞ! あたしに続けぇえええーーーーー!!!」

「「「「「「おおっーーーーーーーーーーーーー!!!!」」」」」」

 

 馬乗りとしての自負と確固たる自信を胸に、彼女らは臆する事無く突っ込んでいった。

 

 全員が馬を自分の手足のように操り、武器を片手に突撃していく。

 馬に乗った兵士を相手取るというのは数の多い歩兵を相手にするよりも難しい。

 特に勢いに乗った馬を迎撃するのは。

 

 槍衾(やりぶすま)を突撃してくる相手に向けるか、弓矢などの遠距離攻撃で馬の足を止めるか。

 とにかく突撃の勢いを殺さなければどうにもならないのだ。

 それくらいは五胡もわかっていて、何かしらの対策をしているものかと思っていたんだが。

 

 俺の予想に反してやつらは相手が騎兵である事など関係ないとばかりに突撃してくる孟起たちに向かっていった。

 そして一糸乱れぬ隊列は彼女たちの突撃の前に為す術なく切り裂かれ、縦に分断されていく。

 勢いに乗った騎兵隊と歩兵隊のぶつかり合いの結果としては当然の物だろう。

 

「なんだ?」

 

 しかしあまりにもあっけない。

 俺の疑問の声を聞いていたのだろう横に並んで馬に乗っている文約殿が難しい顔のまま答えた。

 

「五胡の連中の本領はこっからだ。よく見とけよ、刀厘」

 

 隊同士の力の差は今の攻防で明らか。

 だと言うのに文約殿には油断など微塵も見られない。

 いつでも突撃できるよう馬の手綱を握り締めてすらいた。

 

「……」

 

 彼に倣って俺もいつでも馬を動かせるようにしておく。

 

 繰り返される馬超隊の突撃と蹴散らされる五胡の歩兵隊。

 そんな攻防が二度ほど行われたところで俺は気付いた。

 

 突撃で何度となく両断されていった五胡の兵士たち。

 彼らが何度となく立ち上がり、怪我などまるで意に介さずに馬超隊に攻撃を仕掛けていると言う事に。

 

 切り捨てられた上に馬に踏みつけられるなど、明らかに致命傷と思われる攻撃を受けた者たちはまるで人形のように力なく地面に倒れたままだが。

 身体を動かす事が出来る程度の怪我の者は例外なく立ち上がっていた。

 しかもその動きは怪我を負っているとは思えないほどに機敏だ。

 まるで痛みを感じていないかのようだ。

 

「これは……」

 

 突撃した馬超隊は馬の機動力を最大限に活かし、五胡の部隊から距離を取る。

 彼女らを追う五胡の連中は、馬に追いつけないという当たり前の事を理解した上で走って追いかけ出した。

 何人かは己の武器を投げつけ、馬の足を止めようとしているようだ。

 

 馬超隊の何人がは馬かあるいは自身が投げつけられた武器を受けてしまい、馬から放り出されて地面を転がる。

 

 手の届く所に現れた獲物に対して五胡の兵士たちの行動は苛烈にして残酷だった。

 何人、いや何十人で囲い込んでの袋叩き。

 武器を持っている者は武器を、そうでない者は素手で。

 明らかに既に息絶えているだろう馬超隊の兵士に対してこれでは足りないと言わんばかりに攻撃が加えられた。

 

 そんな狂気じみた行動を行っている五胡の兵士たちの表情は、仮面のせいで窺えない。

 人間として持っているはずの感情が削ぎ落とされたような、人間というよりも機械だと言われた方が納得できる。

 それが五胡の兵士たちへの俺の印象だった。

 

 孟起は部下たちが惨たらしいほどの攻撃を受けて殺された事に歯を食いしばり、激しい怒りを瞳に灯して部隊に指示を出す。

 

「突撃だァ!! 続けぇ!! あいつらの仇を取るんだぁあああーーーー!!!」

 

 仲間を殺された事で臆するかと心配したが、どうやらそれは杞憂だったようだ。

 

 何度目かの突撃が敢行される。

 またしても両断され数を減らす五胡の兵士たち。

 しかし明らかな負け戦であるにも関わらず、五胡側の動きには淀みはなく怖気づく気配も逃げようとする挙動も見当たらない。

 

 そのとても機械的な様子を見ていると、言い表せないほど強烈な不快感がこみ上げてくる。

 俺は思わず拳を握り締め、目の前の光景を睨み付けた。

 

「……あれが五胡の兵士の実態だ。ヤツラは自分たちがどうなっていても止めを刺さない限り攻撃してくる。足が動かなけりゃ腕だけで足を掴んでくる。腕が動かなけりゃ体当たりしてくる。両手両足が使えなけりゃ噛み付いてくる事すらもある。そしてな。敵も民も関係ねぇ、目についたこっち側の連中を根こそぎ殺そうとしてくる」

 

 文約殿の言葉を頭に刻み込みながら、俺は目の前の戦いから目を逸らさない。

 

「ヤツラと対峙する際は一人一人を確実に殺す気でいかなければならない。でないと死体だと思っていた相手に妨害されてしまう。最悪の場合、こちらが致命傷を負う事もありえるという事ですね」

「その通りだ。実際、俺も寿成も今の孟起みたいに何人も部下を、仲間をやられた。俺なんぞは結構な重傷を負わされた事もある」

 

 その光景を想像して俺は眉間に皺を寄せた。

 相手を殺す事のみを考える捨て身の兵士。

 

 かつて『お国の為に』と特攻した仲間たちが俺の脳裏を過ぎり、すぐに彼らとヤツらは別物だと否定した。

 五胡の人間たちの戦い方には敵への殺気は合っても、愛国心や自身の身を切ってでも守りたい物への想いが無いのだ。

 

「さっき見た通り、敵を攻撃する様は屈強な戦士すら恐怖するほどに念入りだ。一度囲まれれば部隊を任されるくらいの腕利きじゃなけりゃ生き延びるのも難しい」

「……」

「だからこそ、新兵であるうちにヤツラと戦わせ、その狂気を体験させておかなけりゃならない。たとえ何人やられてもな。俺たちが一番に相手しなけりゃならん相手に気圧されてちゃ話にならねぇからよ」

 

 理屈はわかる。

 五胡との争いに言葉はない。

 勝てば生き延び、負ければ死ぬという動物同士の生存競争に近い戦いなのだ。

 

「……強さとは違う脅威。確かにこれは目にしなければ理解できませんね」

「おう。中央は撃退出来ている事を理由にヤツラを侮る。だがそれを理由にしちゃいけないんだよ。ヤツラを倒せなけりゃ俺たちは生きちゃいないんだからよ」

「道理ですね」

 

 俺たちが会話している間も、五胡は蹴散らされていく。

 しかし確実に馬超隊にも犠牲が出ていた。

 五胡と比較するとその被害は十分の一にも満たない。

 だが人の死は単純な数の問題ではない。

 人間に替えなどいないのだ。

 

「伝令! 文約様に伝令!」

「おう、こっちだ!」

 

 周囲を警戒させていた斥候が戻ってくる。

 その声音には緊張と焦りが見られた。

 

「ご報告! ここより北方から五胡の歩兵部隊が接近! その数、およそ三百!!」

「……ち、第二陣か。今回はそこそこやる気みたいだな、あちらさんはよ」

 

 文約殿は舌打ち一つして気持ちを切り替える。

 

「全隊! この場は馬超隊に任せ、第二陣の迎撃に向かう!! 伝令、お前は孟起にこの事を伝えてあっちの隊に合流だ!」

「「「「「はっ!!!!」」」」」

 

 馬を走らせようとする文約殿の視線が俺を捉える。

 

「お前はどうする? 怖気づいたってんならここにいても構わねぇが……」

 

 五胡のやり方をまざまざと見せられた事への緊張を解す為か、茶化すように聞いてくる文約殿。

 俺はふっと口元を緩めて応えた。

 

「もちろんご同行します。あんな物をただ見ているだけすごすご帰るというのも気分が悪いので」

 

 やらなければいけない事があれば、その為には時に目の前で命が消えるのを見届けなければならない。

 しかしだからと言って何も感じないなどと言う事はない。

 

「……っ」

 

 文約殿が俺の怒りの形相に息を呑むのがわかった。

 五胡がどういう存在かを理解する為に怒りに蓋をし、ひたすら冷静であるように努めてきたが。

 その時間はもう終わった。

 

「先に行きます」

「うぉっ!? おいおいおい! 俺らを置いていくんじゃねぇよ!!」

 

 馬を走らせる俺。

 一拍遅れて文約殿たちが馬を走らせるのがわかった。

 

 前方に砂塵が見える。

 目を凝らせば例外なく特徴的な仮面を被った軍団の姿があった。

 

「八つ当たりも入っていて悪いが……一人残さず倒させてもらう」

 

 馬の背から力一杯跳ぶ。

 一瞬、やつらは突っ込む馬と中空に跳んだ俺のどちらに注目すべきか迷い、視線を右往左往した。

 機械的だと思ったが、それでも誰を標的にするか迷う程度には人間味が残っているようだ。

 その意識の空白に付け込み、腰にぶら下げていた棍を2つ、先頭の兵士に投げつけた。

 

「ぎっ!?」

「がっ!?」

 

 短い呻き声を上げて吹き飛ぶ様子を見届け、俺は手元に残ったもう2本の棍を繋げて槍並みの長さにする。

 

「フンっ!」

 

 敵陣の真っ只中に突っ込んだ俺を囲い込もうとする五胡の兵士たちに向けて振り回す。

 俺が乗り捨てた騎馬は走り抜けてどこかへ行ったようだ。

 

「俺に集中していていいのか?」

 

 俺の忠告がヤツらに届くよりも早く、文約殿たちが突っ込んできた。

 

「オラオラオラ! 韓遂様のお通りだぁっ!!」

 

 手綱を強く握りながら振るわれる片手剣が敵陣を切り裂き、続く韓遂隊の面々が切り開かれた道を押し広げていく。

 

「無茶してんじゃない、刀厘!!」

「別に無茶じゃありませんが……」

「ったく。野郎ども! ヤツラを生かして帰すなぁ!! 一人残らず仕留め、俺たちの土地に土足で入ってきた事を後悔させてやれぇっ!!!!」

 

 剣を掲げて激を飛ばす文約殿に俺を含めた韓遂隊が雄叫びを上げる。

 俺たちの咆哮に何も感じる事なく五胡の兵士たちは武器を構え、思い思いに飛びかかる。

 

「はぁっ!!」

 

 槍と同等の長さになった棍を突き出し、飛びかかってきた兵士の腹部を打ち抜く。

 引き戻す勢いそのままに背後から襲ってきた兵士の顔面に棍を叩き込む。

 文約殿たちは馬を巧みに操り、己への攻撃を避け五胡の包囲を食い破っていく。

 

 しかし彼らの機動力に馬から降りてしまった俺が追随するのは難しい。

 

 一瞬、文約殿と俺の視線が交わる。

 視線で包囲の外を示し、俺の事は気にしないようにと伝える。

 僅かに眉間に皺を寄せるが、彼は俺の意図を汲んでくれたようで包囲の外へと馬を走らせ続けた。

 

 そして彼らがもう一度突撃する為に馬をUターンさせるまでの間、敵の囲いの中に俺一人が取り残される時間が出来る。

 

「……来い」

 

 俺の言葉など聞いていないだろう五胡の兵士たち。

 しかしそれでも大多数の兵士は、俺の言葉を合図に唯一手の届く所に残った哀れな敵に向かって無言のまま武器を振りかぶった。

 

「うぉおおおおおおっ!!!」

 

 繋げていた棍を切り離し、片手に片方ずつ持って前へ駆け出す。

 正面にいた兵の剣が振り下ろされるよりも早く脇腹に一撃食らわせ、勢いそのままに吹っ飛んだ。

 真横に吹き飛んだ兵士は他の兵士も巻き込み、囲いの隙間に全力で飛び込む。

 、

 受けに回ればハリネズミのように串刺しになって俺は終わりだ。

 常に動き、自由に動けるスペースを作り続ける。

 それだけがこの異様な集団を相手に、文約殿の再突撃が行われるまで俺が生き延びる道だ。

 

「ぜぇっ!!」

 

 投げつけてから地面に転がっていた棍。

 足元に落ちていたそれを蹴り上げ、剣を投げつけようとしていた兵士の腕にぶつける。

 衝撃で武器を取り落とした相手に飛びかかり、膝蹴りを顔面に叩きつけて倒す。

 手頃な所にいた次の標的二人の脳天に両手の棍を叩きつけ、右の兵士に回し蹴りを放つ。

 

 三本目の棍をさらに接続。

 大型の戟と同じくらいの長さになった棍を肩に担ぎ、その場を旋回。

 射程の延びた棍の間合いにいた者たちをまとめて薙ぎ払った。

 

「踏み潰せぇ、野郎どもぉおおお!!!」

「「「「「おおおおおおっーーーーーーーー!!!!!」」」」」

 

 畳み掛けるように戻ってきた文約殿たちの突撃。

 俺を囲い込むために崩れていた隊列を打ち砕いていく。

 

「だぁっ!!」

 

 伸ばしていた棍。

 その手元に近い箇所の接合部分を外す。

 二本の棍が繋がっている方を右手に、一本だけの方を左手に持つ。

 

 右手の棍で正面の敵を突く。

 片手で引き戻しては別の敵を突き、引き戻す際の隙を狙った攻撃は左手の棍を直剣のように使用して受け止める。

 

「ふんっ!!」

 

 隊の横っ面を韓遂隊に打ち抜かれ、五胡は隊列を乱れに乱れていた。

 

「部隊の半数は五胡を囲い込め! 残り半数はこの場で敵を蹴散らすぞっ!!」

 

 韓遂は指示を出しながら馬の腹を蹴る。

 鼻息荒く鳴き声を上げながら、文約殿の馬は後ろ足で自身に切りかかろうとしていた兵士を蹴り上げた。

 馬上で扱う事を意識して作られたと思われる長く太い彼の剣による頭上からの打ち下ろし。

 それを受けた五胡の兵士の鎧は砕け、その身体を斜めに両断された。

 さらに彼の動きと騎馬の動きは、言葉も交わしていないというのに互いの死角を自然に補いあい、敵の攻撃を寄せ付けない。

 

「これが話に聞く人馬一体というヤツか」

 

 四本目の棍を回収し、一本だけだった左手の棍に繋げる。

 俺は槍並みの長さの棍を両手で構え、周囲を薙ぎ払った。

 

「……痛みは表情に出ないようだが、人間らしさが全て欠如しているわけでもないようだな」

 

 動きが目まぐるしく変わる俺の攻撃に、表情こそ変わらないものの五胡の兵士たちは戸惑っていた。

 しかし遠目での印象と変わらず、受けた攻撃に対して痛みを感じているかどうかを窺い知る事は出来ない。

 

 攻撃を受けて悲鳴を上げる事はなく、表情もまったく変わらないのだ。

 

 ここまで徹底していると麻酔のような薬で痛覚を無くしている疑いも出てくる。

 というよりもそれしか考えられないレベルでこいつらの精神と肉体は痛みに対して鈍感だ。

 これが一人二人ならば痛覚を感じないという症状を持つ『無痛症』とも考えられるが、韓遂から聞いた話によれば『痛みを感じていないような行動』と言うのは今まで敵対してきた五胡の兵士に共通した特徴だ。

 これだけの人数が全て無痛症というのは流石に考えられないだろう。

 

「何人か偵察に出せ! 第三陣か来ないとも限らん!! 残りは火を起こす準備だ! こいつらが消し炭になるまで絶対に油断するな!! 死にぞこないにやられるような間抜けはうちにはいらねぇぞ!!」

 

 最後の兵士を切り捨てた文約殿が手早く指示を出す。

 未だに警戒を解かずにいるのは、五胡の敵を殺す事のみに特化した執念を警戒しての事だ。

 

「文約殿。火を起こすというのは、こいつらの死骸を焼いてしまう為ですか?」

「ん、おう。お前なら説明しなくともわかると思うが、万が一生き残りがいる事も考えるとな。流石に一人一人確認するのは時間の無駄だ。仮に生きていたとしても炎で骨にしちまえばもう動かねぇだろう?」

「念には念を、という事ですね。勉強になります」

 

 俺の言葉が琴線に触れたらしく、文約殿は苦々しい顔をすると搾り出すような声で言う。

 

「……以前、こいつらを埋めてやろうとしたヤツが、虫の息だったヤツに手を噛み切られてからの教訓ってヤツだ。虫の息だった五胡の兵士は俺たちが止めを刺すまでもなく死んだ。そんで手を噛み千切られた仲間はその時の怪我が元で腕から腐って死んじまった」

 

 瞳に悔恨の念を宿し、当時の記憶を思い返しながら韓遂は俺と目を合わせた。

 

「あいつが甘かったって言えばそれまでの話かもしれねぇけどな。だが同じように無残な死に方するやつを減らす努力はしねぇとな。その為なら俺は五胡やら周りから『死体を燃やす悪鬼』だなんだと言われたって構わねぇ」

 

 それは俺を通して自身に語りかけているような調子だった。

 おそらく彼は俺に肯定的な回答を求めてはいない。

 他者に語る事で、自分の意思を固めたのだ。

 

「俺も。語る舌を持たない敵対者よりは身内を守ります。文約殿、俺は貴方を支持いたします」

「……はは、そうか。ありがとよ、刀厘。実際、俺のやり方は孟起たち若い連中には受け入れられちゃいねぇしな。理由を教えてやっても死に体のヤツに鞭打つのには納得出来ないって言われちまった。だから賛成してくれるのはけっこう嬉しいぜ」

 

 会話はそこで途切れる。

 この後、五胡兵の死骸を焼く際に生きていた者がいたようで襲われる者が出たが警戒していた事が功を奏したようで怪我人がこれ以上増える事はなかった。

 

 俺は五胡の火葬が行われている間、ずっと怪我の治療を受けていた。

 絶えず足を止めずに動き回っていたとはいえ、多勢に無勢の状況で全ての攻撃を避ける事は出来なかったのだ。

 かろうじて軽傷の域に留まっているが、割と体中に傷が出来ている。

 治療してくれた女性も、最初は傷の多さに慌てていたが、そこは慣れたものでしっかり止血し、包帯を巻いてくれた。

 

 合流した孟起たちにもひどく心配をかけた。

 しっかり傷はほとんど浅く後も残らない事を伝えて安心させておく。

 あまり心配をかけさせないでくださいと孟起に涙目で怒られてしまったが。

 

 

 

「ふぃ~~、とっとと帰って酒でも飲みたいぜ。なぁ?」

 

 焼き後の確認を済ませ、西平へ戻る道すがら。

 隣で馬を引いていた文約殿がぼやきながら声をかけてきた。

 

「そうですね。流石に疲れました。早く帰って幼台や息子、甘卓の顔が見たいです」

「八面六臂の大活躍しといて疲れただけかよ。しかもそんな痛々しい状態で惚気る余裕まであるたぁな。ったく大したもんだぜ、お前は」

 

 甘すぎる物を食べて胸焼けした時のような顔をされたが、家族に会いたいという言葉は掛け値なしの本音なので俺は気にしない。

 全身包帯や血止めの布だらけだが、既に血は止まっているから西平に戻るまでには外せるはずだから何も問題はないだろう。

 

「いえいえ、隊を率いる事に長け、個人の武にも優れている文約殿には及びません」

「やれやれ、良く言いやがる。まぁ褒められて悪い気はしねぇがな」

 

 ニヒルな笑みを浮かべながら、文約殿は馬に乗ったまま後ろを振り返る。

 自分に続く者たちを数瞬見つめると、すぐに前へ向き直った。

 

「お前がいてくれたお蔭で死ぬかもしれなかったヤツが助かった。それは間違いない。だから改めて言わせてもらう。ありがとよ、刀厘」

 

 そのお礼の言葉には文約殿からの精一杯の誠意が込められている気がした。

 謙遜でこの言葉に込められた想いを有耶無耶にするような真似はしてはいけない、と俺はそう思った。

 

「どういたしまして」

 

 お礼の言葉を確かに受け取る回答をする。

 俺の言葉を聞いて韓遂は満足げに笑った。

 

「なぁ戦場で肩を並べて生き抜いた友よ。俺の真名、受け取ってくれるか?」

 

 同盟相手である俺に向けていた一歩引いた心の距離が消える。

 ならば俺も相手を格上の同盟相手ではなく、一個人として見た上で応えなければなるまい。

 

「……勿論だ。俺の真名は駆狼。駆ける狼と書いて駆狼だ」

 

 率直に気安さを表す為に敬語を外す。

 韓遂は俺の口調の変化に驚いたようで目を瞬かせるが、すぐに嬉しそうに笑った。

 

「俺は雲砕(うんさい)。雲すら砕く、なんて大層で俺には不釣合いな真名だろう?」

 

 自身の真名について笑い話にするように語る目の前の男の言葉を真剣に否定する。

 

「いや……お前にぴったりだよ、雲砕」

 

 韓遂は前方を見つめたまま、俺の言葉を噛み締めるように目を閉じた。

 

「ありがとよ。お前もよく似合ってるぜ、駆狼」

「ああ、ありがとう」

 

 行き来するにも時間がかかるような地で。

 俺はこの日、新たな友を得た。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十一話

 俺たちは無事に異民族討伐を終え、西平に帰りついた。

 余計な心配をかけないように孟起や雲砕たちに口止めをし、街に入る前に体中の包帯を外して帰還した俺だったが。

 もう塞がっているとはいえ体中に傷をこさえているのがばれてしまい、思春や馬岱に泡を食って心配された。

 

 二人とも目尻に涙を浮かべて俺の身を案じてくれた。

 傷が全て浅い物だと知ると胸を撫で下ろしてほっとしていた。

 

 こういう風に心配されるのが心苦しいから重傷に見える包帯を予め外して根回しをしておいたんだが結果的に無駄だったな。

 自分では大丈夫だと思っていても相手から見ればそう見えない事もある。

 

「身体の傷は男の勲章だぞ? しかもこいつはこれだけの傷に見合う戦果を上げたんだ。心配するくらいならもっと讃えてやれ!」

 

 寿成殿は雲砕たちを労う傍らで心配する2人にこんな茶々を入れていたが。

 

 

 

 陽菜はその場では思春たちを落ち着かせるよう宥めるのを手伝ってくれた。

 だがそれは別に俺の事を心配していなかったわけでも、軽傷とはいえ怪我だらけで帰ってきた事を怒っていなかったわけではない。

 あくまでも子供たちを落ち着かせる事を優先し、自身の感情に蓋をしていたに過ぎないのだ。

 身内だけになれば、蓋をした感情が爆発するだろう事は予想できた。

 

 西平の乳母に玖龍を預け、思春には馬岱たちの元へ行くように言い、あえて2人きりになるようにしておく。

 お膳立てが功を奏したらしく、自室で2人きりになった瞬間、陽菜の我慢は決壊。

 俺の背中にくっついたまま離れなくなった。

 

 陽菜は前世の頃から甘えるというのが苦手だった。

 俺が年下だったというのもあってか、遠慮が目立ち付き合うようになってからも気恥ずかしさの方が上回っていたのかそういった寄りかかりたい、気を抜きたいという気持ちを我慢する事の方が多かった。

 それ故に我慢のし過ぎで癇癪を起こす事も少なからずある。

 一度、腹を割って話し合ってからはそういう事も少なくなったが、それまでの我慢の反動なのか自分の好きなように甘やかされる事を望む事が多くなった。

 2人きりになれば特にその傾向が強い。

 

 その性質は今世でも健在、というわけだ。

 

「まったく。貴方はどうしてそんなに無茶しぃなの。祭からも昔の事色々聞いてるわよ?」

 

 背中に出来た切り傷を撫でながら呟く陽菜。

 その声は安堵と心配で震えていた。

 

「心配かけてすまない」

「謝るくらいならしないで! ……って言えたらいいんだけどね。私もわかってはいるのよ、貴方は武官。こんな怪我、日常茶飯事だし切った張ったなんて当たり前の世界だもの。姉さんたちだってそう。私にも経験がないわけじゃない。……でも」

 

 声の震えが大きくなる。

 陽菜は瞳を潤ませながら顔を背中に押し付け、背中側から俺の腹に両手を回して抱きしめた。

 

「それでも心配な物は心配なのよ。あなただけじゃない。姉さんの事も、祭や美命の事も、雪蓮たちの事も……」

「ああ、わかってる。だから俺は謝るんだ。お前に心配をかけた事を。任務で外に出る度にな」

「うん、わかってるわ。わかってるの。本当よ?」

「ああ。お前が辛いのを我慢してるのはよく知ってる。昔からそうだからな。だから落ち着くまでそうしていろ。俺はここにいるから」

「ええ……。ありがとう、駆狼」

 

 この世界に転生してから、陽菜はずっと我慢していたのだと思う。

 前の世界の常識が異端とされる世界。

 そんな世の中で己を貫き続けるというのは、想像以上に辛いものだ。

 

 俺はまだ折り合いをつけられていた。

 向こうで既に人を殺め、戦場を経験していた事がこちらの世界に馴染むのに一役買ってくれたからだ。

 

 しかし陽菜にはそんな経験はない。

 生まれた時から記憶を持っていたのならば尚の事。

 前世とのギャップを埋めるのに苦労したはずだ。

 

 本人が大丈夫だと本気で思っていたとしても、その負荷は無意識に溜まっていった事だろう。

 冗談交じりに甘えさせてと言ってくる事は今までもあったし、実際に甘やかしてきたつもりだったが、どうもそれだけでは足りなかったようだ。

 

 俺が傷だらけで帰ってきた事で溜め込んでいた不安が表面化したと言った所か。

 逆に考えれば今回の事は良い切っ掛けになったとも言える。

 

 これからはもっと意識して陽菜の事を見なければ。

 

 そう心に決めながら俺は正面から陽菜を抱きしめ、出来る限り優しく慈しむように彼女の頭を撫でる。

 陽菜は何も言わずに目を閉じ俺の手に身を委ねた。

 

 

 陽菜を甘やかした分は祭にも何かしてやらないといけないな。

 

 俺にはもったいない2人の妻。

 誰がいつ死ぬともわからない世界だからこそ、俺は家族や友人を大切にしたい。

 

 そんな事を考えながら俺は陽菜を抱きしめたまま目を閉じた。

 

 

 

 異民族討伐を終えてからしばらく。

 西平では穏やかな日々が続いた。

 と言ってもそれはあくまで西平に限った話だ。

 

 

 武威では太守である董君雅が病に倒れ寝たきりになった。

 どうやら先日なくなった妻と同じ病気にかかったらしい。

 寿成殿が娘たちと見舞いに行き、帰ってきた時の様子を見る限り先は長くないのだろう。

 今は子である董卓が武威の政務を代行しているらしい。

 

 

 西平には現れていないが異民族の襲撃自体も何度かあった。

 すべて他領の軍が片付けているようだ。

 あの人間らしさの欠如した異民族の軍を容易く撃退できるあたりはさすが戦多き涼州の者たちと言ったところか。

 とはいえ、こうして無事に撃退出来ているという事実が異民族は取るに足らないと中央に認識される要因なのだから、なかなか世の中は上手く回らないものだと思う。

 

 

 建業の方については使者として董襲がこちらを訪れた時、馬騰たちへの書簡とは別に近況報告の書簡をくれたのであらたかの状況は把握できた。

 それによれば建業の治安は皆の尽力によって安定しているが、治安の悪い他所からの難民が最近増えているらしい。

 そして新たな領地である曲阿の治安回復に難航しているらしい。

 民の生活の困窮、賊の横行など前領主の負債は多く、どれ一つとして疎かにするわけにはいかない。

 いくら建業から派遣された面々が優れた能力を持っていても、そう易々と片付けられる問題ではないという事だ。

 領土の民たちから失った信用を取り戻す為にも根気強く事に当たらなければならない以上、安定させるにはまだまだ時間がかかると見るべきだろう。

 

 

 朝廷は相変わらず十常侍が実権を握り、好き勝手やっていると聞いている。

 ただ曹家、正確には曹操が彼らと揉めたらしい。

 詳しい事はわかっていないがどうにもかなり内々の事らしい。

 

 しかしあの十常侍を相手に揉めて尚、無事に済んでいるという辺り、曹家の力は強い。

 いやこの力はおそらく曹家の基盤を作り上げたと言われる曹騰の力による物だろう。

 個人的に皇帝に目通りする事すら可能な彼の権力は十常侍に匹敵すると言ってよい。

 既に老体であろうにその力は未だに健在というわけだ。

 

 西平から帰る事になったら曹家が関わっている領土『陳留』を見てみるのも良いかもしれない。

 堅実な政策による安定した土地がどのような物か見ておくことは建業にとってプラスになるはずだ。

 

 もしかすれば今回の一件で中枢の権力争いが本格化しているのかもしれない。

 俺としては荀家が、いや荀彧たちが巻き込まれていないかが気がかりだ。

 しかし中央の権力闘争に関して力になる事など不可能である以上、無事である事を祈るしか出来ないのがもどかしい。

 最近、荀毘の間者である周洪の姿を見ないのも何かの予兆ではないかと思えてくる。

 今後も中央の情報はなるべく新しい物を仕入れたいところだ。

 

 

 

 さて肝心の俺たちだが。

 董襲からもらった書簡には近況の他に今後の方針が書かれていた。

 それによれば現在、建業から俺たちに続く人材を選抜しているとの事だ。

 俺たちはこれから来るだろう第二陣と入れ替わりで建業に戻る事になる。

 

 ただこれは早くとも秋の初め、今からおよそ三ヶ月ほど後になるというのでそれまで俺たちはここに留まり、西平との友好に努めてほしいのだそうだ。

 俺としては初めての栽培を収穫まで見届けられそうで安心した。

 

 つまるところこれからやる事は何も変わらない。

 作物栽培に尽力し、自分と思春の腕を磨き、西平に住む人間たちから話を聞く。

 その過程で雲砕に引き続き、寿成殿や馬岱、孟起とも真名を許しあっている。

 友好関係は着実に積み上げられていると考えて良いだろう。

 

 もしもまた異民族が攻め寄せてくるような事があれば俺はまた出るだろう。

 友人と呼んでよい関係になった者たちが戦場に向かうならば、俺も全力を持ってその手助けをするつもりだ。

 何よりもヤツらは危険過ぎる。

 

 使者としてやってきた董襲に渡した返事を認(したた)めた書簡には異民族の脅威についても事細かに書いておいた。

 筆頭武官と言われている俺の強さは建業の皆が知っている。

 その俺が異質な強さと評した異民族。

 その脅威を皆はきっと理解し、『もしもそんな連中が襲撃してきたら』という事態を想定した対策を練ってくれるはずだ。

 

 俺はその対策をより磐石な物にする為に可能な限りヤツラについての情報を集めるつもりだ。

 

 

 

 今後やるべき事を確認するという『暇潰し』を終えた俺は地面から立ち上がる。

 服の尻に付いた砂を適当に払い、軽く足を開いてアキレス腱を伸ばしながら目の前に転がっている人間たちに声をかけた。

 

「休憩は終わりだ。さっさと起きてかかってこい」

「うう、くそ。まだまだ!!」

 

 唸り声を上げながら真っ先に立ち上がったのは孟起改め翠(すい)だ。

 続いて彼女と似た顔立ちの馬岱改め蒲公英(たんぽぽ)、次いで馬休、馬鉄が得物を杖代わりにして立ち上がる。

 

「うう……。おじさま、強いことは知ってたつもりだけどこれはちょっと強すぎるよぉ」

「文句を言う元気があるのなら、俺から有効打を取る方法を考えろ。この様子ではただでさえ朝抜きになったというのに夜も抜きになるぞ」

 

 そう俺は今、馬家の将来を担う若者たちと模擬戦の真っ最中である。

 

 

 この模擬戦を言い出したのは馬家の頭領である寿成改め縁(えにし)だ。

 

「駆狼よ。一つ頼まれてくれないか?」

 

 朝議を終え、畑の様子でも見に行こうとしていた俺を呼び止めた彼女は真剣な面持ちで翠たちを集め、この模擬戦を提案してきた。

 

「色々理由はあるが、まず第一にうちの連中の中で強いのは昔からの身内ばかりでな。性格も手の内も互いに知ってる。だから本当の意味で緊張感のある模擬戦、真剣な戦いってのがしにくい。今までの調練や個々の鍛錬でこいつらが気を抜いてるとは思っていないが、それでもどこか身内ゆえの甘えがなかったとは言い切れない。だから外部から来て多彩な戦い方が出来て、かつ鍛錬の類で手心なんぞ一切加えないお前にこいつらの相手をしてほしいんだよ。無論、ぼこぼこに負かしてくれていい」

「ちょっと待ってくれ、母上! そりゃ今の私じゃ駆狼さんには勝てないだろうけど、ボコボコってそこまで実力差があるだなんて……!!」

「あるんだよ。はっきり言うがお前と蒲公英、馬休に馬鉄が一斉に掛かったって一矢報いられれば良い方だ。これは別にあんたたちを軽んじているわけでも駆狼を過大評価してるわけでもない。その理由が知りたけりゃつべこべ言わずにこいつと闘え」

「なぁっ!?」

 

 自分の武に特に自信を持っていただろう翠は怒りで顔を真っ赤にした。

 実戦で一部隊を率いた事もある自分が、その戦歴を知っているだろう母親に侮られたとあっては怒らないはずがない。

 その言葉に嘘や冗談などの虚実や安い挑発がまったく含まれていないともなれば尚更だ。

 

 しかし。

 縁は頼むと言ってはいたが、こんな断れない雰囲気を作られては俺としても無碍には出来ず。

 結局、模擬戦は翌日の明朝から行う事にした。

 

 ようは真剣さながらの緊張感があればいいのだろうと理解した俺は相手である翠たちに朝食は抜いてくるように言い含め、いざ闘うとなった場でこう言った。

 

「俺に目に見えて有効打とわかる一撃を入れた者から抜けてよし。それまで各自、飯は食えんと思え」

 

 縁の言葉と朝食抜きという状況に不満げだった彼女らは俺の言葉に、とりあえずやる気を出したようだ。

 しかしこの段階で彼女たちは自分たち四人が相手でも負けないと言われた事が尾を引き、何が何でも一対一で倒そうと思っていた。

 昨日の縁の言葉を俺が否定も肯定もしなかった事も、この子達なりのプライドを刺激していたと思う。

 しかし血気勇んで一対一を挑んできた彼女たちの結果は惨敗。

 

 夜が明けきり、兵士たちが鍛錬場に訪れても彼女たちが俺に一撃を浴びせる事は出来ずに悉く地面に叩きつけられている。

 既に女性としてどうなのかというくらいに彼女らの身体は砂塗れだ。

 

 太陽が真上に昇った頃には俺の方から四人で来るよう命じ、既に各人を三回ほど叩きのめしている。

 彼女らは息も絶え絶えだが、俺の方は多少呼吸が荒れて、動いた事で汗を掻いているだけでまだまだ余裕があった。

 

 実力差は誰が見ても明らかだった。

 

 とはいえ、これは別に俺が身体能力で彼女たちよりも優れているという事ではない。

 体力ならば誰にも負けない自信があるが、腕力やら瞬発力やらは正直そのうち翠辺りには追いつかれ、追い抜かれるだろう程度だ。

 

 地力にそこまでの差は無いという事は彼女らにもわかっている。

 ならばなぜ四対一という圧倒的に有利な状況でさえも、俺にこうも手も足も出ないのか。

 

「う、おおおおっ!!」

 

 翠は腰溜めに構えた槍の渾身の突きを放つ。

 俺の胴体を狙った必殺の威力を誇る一撃はその切っ先を俺の右手甲で体の外側に逸らす事であえなく無意味な物になる。

 

「っ」

 

 彼女は反撃を警戒して数歩後退。

 しかし反射的に行っただろうその後退は、他の人間の身を危険に晒す行為だ。

 

「「はぁっ!!」」

 

 左右に別れていた馬休と馬鉄が俺の足元と頭部を狙って槍を薙ぎ払う。

 

 その場で軽く両足をあわせて跳び、足元の一撃を避ける。

 頭部を狙った薙ぎ払いは左の手甲で受け止め、俺はあえてその一撃の勢いに逆らわずに身を委ねた。

 俺の体はその場から薙ぎ払いの力を受けて中空を移動し、その勢いを利用して背後から俺を狙っていた蒲公英に回し蹴りを浴びせる。

 

「きゃあっ!?」

 

 攻撃しようとしていたところに出鼻をくじかれ、彼女は思わず悲鳴を上げる。

 しかしそこは少女と言えど立派な武官。

 鼻先を掠めた蹴りに怯えたのは一瞬だけですぐに槍を構え直した。

 

 だが体勢を立て直す為の数瞬の硬直は俺相手には致命的な隙だ。

 跳ぶと同時に手に取っていた棍を一つ、蒲公英の腹部目掛けて投げつける。

 

「が、ひゅっ……」

 

 整えていた呼吸を乱す腹部への一撃に彼女は後方へ吹き飛ぶ。

 さらに左手に持っていた棍を翠へ投げつけ、馬休に向けて駆け出す。

 

「う、わぁっ!?」

 

 槍の間合いを侵略され、思わず悲鳴じみた声をあげる馬休。

 それでも槍を振るおうとしたのは、普段の鍛錬の賜物だろう。

 ただしそんな反射的に繰り出された一撃は単調であり、能力に差がある人間相手ならともかく互角かそれ以上の人間にはこの上ない隙を晒すだけだ。

 

 突き出そうと下げた槍を持つ腕を握り、足を払う。

 確保した腕の肘を始点にして彼女の身体を自身の背中に背負い、地面へと投げつける。

 変則的な背負い投げだ。

 

「がっ!?」

 

 地面に背中から叩きつけられ、呼吸が出来なくなったのだろう馬休はその場で身体を抱きしめるように蹲った。

 

「どうした? ……さっきまでと展開が何も変わっていないぞ? このまままた全員床で寝て休憩するつもりか?」

 

 馬鉄は翠の横まで下がり、こちらを牽制するように槍を構えている。

 しかしその顔は馬休のやられる様を見た為か、青褪めており完全に俺に飲まれているのがわかった。

 

「な、何でだ? 私たちとあんたでそこまで力の差なんてないはずなのに。なんでここまで良い様にされちまうんだ!?」

「その理由はまぁ色々とある。だがとりあえず翠、お前については単純にして明快だ。なんで、どうしてと疑問は抱いてもその先を考えていない。だから文字通り良い様にされるんだ」

 

 才能があり、その才能に驕る事無く努力してきた彼女ら。

 おそらく、いや間違いなく今まで縁や雲砕などの一部を除いて敵無しだったんだろう。

 故にいざ戦場で自分よりも強い人間と遭遇した時に、何をするべきか、どうすればよいのかわからない。

 

 格上の相手との真剣勝負の経験が圧倒的に不足しているんだ。

 これはたぶんこの世界の才ある人間全員に大なり小なり言える事なのだろう。

 いや、まだ勝てない人物が身近にいる分、翠たちはまだ恵まれている方なのかもしれない。

 

 少なくとも俺たち五村同盟の五人は実力伯仲の人間が周りにいた。

 勝った負けたと繰り返すうちに相手の行動を読む癖が自然と身に付き、自身の最善手を常に意識し、相手の最善手を潰すという事も意識できるようになった。

 

 しかしこの子たちにはそれが無い。

 

 少なくとも自分よりも強い、ないし互角の相手に何も考えずに自身の最善手だけを繰り出して勝てると思っている限りは、近いうちにこの子たちは死ぬだろう。

 あるいは格下の相手に策で翻弄されて殺されるかもしれない。

 今まで手ほどきのような事をしてきた蒲公英は、そういった考え方を持った上で従姉妹である翠と戦った事もあるのでその限りではない。

 だが他の三人はその辺りをまったく考えずに戦っている。

 行き当たりばったりと言うか、最善の一手を模索してもその先を考えていない。

 

 だから常に状況に応じた最善手を三手も四手も先まで模索し実行する俺には勝てない。

 身体が反射的に動く事すらも計算に入れられるよう、『勝つために考える事』を小さな頃から身体に叩き込み馴染ませてきたのだ。

 そう易々と負けるわけにはいかない。

 

 まぁ俺とて人間だから、身体能力が圧倒的に上の相手と戦うとなれば、今のように余裕ぶってなどいられないだろうが。

 その時はその時でやり方を変えるだけだ。

 

「ええ、なんだよそれっ!!」

「悪いが、これ以上は俺からは言えない。自覚して自分で直さん事にはどうにもならないからな。それよりもどうする? 諦めるか?」

 

 挑発するように言ってやれば二人の瞳に力が入った。

 飲まれていると思っていた馬鉄ですら、上から見下ろすように言う俺への敵愾心で飲み込み返したらしい。

 どうやらまだまだやる気は残っているようだ。

 

「刻限は日が落ち切るまでだ。それまでに俺から有効打を取れなければ夕飯はないぞ」

 

 足元に転がっていた棍二本を拾い、両手に構える。

 

「上等だぁっ!!」

「絶対倒して見せますよっ!!」

 

 気炎を上げて地を蹴る二人。

 俺の背後で立ち上がろうとするもう二人の気配を感じる。

 

 気迫は充分。

 鍛錬も十二分。

 あとこの子たちに必要なのは『自分より強い人間が相手でも勝ってみせるという気概を持つ事』と、『戦闘中であっても相手を倒す方法を考えるよう意識せずに出来るようになる事』だ。

 

 思春は既に出来ている。

 ならこの子たちも気付きさえすればあとは自然と出来るようになるだろう。

 とはいえ蒲公英以外の子にはまだまだ厳しいだろうがな。

 

 

 この後、結局彼女たちはタイムリミットであった日が落ちるまでの間に俺に有効打を当てる事は出来ず。

 その日一日ずっと腹の虫と戦いながら寝台で寝返りを打ち続ける事になる。

 

 さらにこの日から俺たちが西平を去るまでの間、この食事抜きスパルタ模擬戦は続く事になる。

 最終的には勝利条件を『有効打』から『勝敗』にまで引き上げたのだから、彼女たちは充分成長したと言えるだろう。

 俺にとっても手練の槍使いたちとの模擬戦は充分な経験になった。

 

 これからしばらくはこんな時代においては驚くほど平穏な日々が続く事になる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十二話

 それなりに長い時間を過ごしてきた西平での日々も終わりを迎える時が来た。

 俺たちに代わる第二陣がやってきたのだ。

 彼らに俺たちが西平でやってきた事を伝え、これからもやらなければならない事を引き継げば、ここを出る事になる。

 

 第二陣を率いてきたのはコミュニケーション能力と判断能力に優れた蒋欽と人懐っこく腕っ節に優れた蒋一が派遣されていた。

 さすが美命、しっかりとした人選をしてくれたものだ。

 これが粗忽者な董襲や幼馴染組みの脳筋担当……いや力仕事担当の塁だった場合、俺は心配でもうしばらくここに残ろうとしていただろう。

 

「お久しぶりですねぇ、隊長、幼台様、甘卓ちゃん。いずれもお元気そうで何よりです」

「隊長と奥方、お嬢! 俺ら一同、心配してたんすよ!」

 

 商売人風の優男は俺と顔合わせの場で眉尻を下げて安堵し、兄よりも筋骨逞しい男は破顔一笑して俺たちの無事を喜んでくれた。

 

「ああ、お前たちも元気そうだな」

「二人とも、遠い所ご苦労様」

「お久しぶりです!」

 

 俺と陽菜が緩い雰囲気で迎え入れ、思春がきっちりと直立不動で頭を下げる。

 あちらでは見慣れていただろういつもの光景に、蒋兄弟は顔を見合わせて笑っていた。

 

 こんなやり取りをしながら、引継ぎは何の問題もなく終わらせる事が出来た。

 二人とも元はただの農民だった身だ。

 サツマイモの栽培については建業にいた頃から多少教えていた事もあり、地元民との協力体制にも憂いはない。

 買い付けた百頭の馬と技術提供の為に同行する調教師については現在、選考中であり俺たちがここを出た後に建業に送り込まれる事になるだろう。

 軍事関連で縁や雲砕に度々呼ばれていたが、それもここ数日はなくなっている。

 

 荷造りも当然のように済ませてある。

 よって俺たちはいつでもここを出る事が出来る状態になったと言えた。

 

 そしていざ建業への帰還を縁たち建業の主だった者たちの前で告げた日の昼。

 

 なぜか思春と蒲公英、俺と縁が模擬戦をする事になった。

 

「はぁ……まったく最後の最後に面倒な事を……」

「まぁいいだろう! 最後の景気づけってヤツさ」

 

 手甲と足甲の具合を確かめながらため息を零す俺に対して新しい遊びを見つけた子供のような目をする縁。

 どれだけ楽しみにしていたのやら。

 

「何をどう景気づけるつもりだ、まったく。単純に戦いたかっただけだろう?」

「はっはっは! わかってるじゃあないか! なら四の五の言わずに構えろよ!!」

 

 今までずっと俺と戦いたいと暇を見ては呟いていた事は知っていたが、一時の別れがすぐそこまで来た事で限界に来てしまったようだ。

 今更模擬戦の勝敗一つで同盟が壊れると心配するような仲ではないから、俺もこちらに来た当初のように渋らずに模擬戦を受けた。

 そうこちらは問題ない。

 問題はもう一方の二人だ。

 

「……」

「……」

 

 お互いの戦いの邪魔にならないようにと、それなりの距離を取って構えている思春と蒲公英。

 しかしお互いを見る目が、……完全に『敵を見る目』になっていた。

 雰囲気もこちらに比べて圧倒的にピリピリしている。

 

 あの食事抜きスパルタ模擬戦をしている時よりも真剣な眼差しの蒲公英。

 そんな彼女の目を真っ直ぐ見据え、しかし何か思うところがあるのか妙に強い視線で彼女を睨む思春。

 

 はっきり言って模擬戦の空気ではない。

 しかし縁は二人の雰囲気を特に気にしていないようだ。

 正直、俺の方が気が気じゃない。

 

「ふむ。おい、蒲公英、思春。色々お互いに思うところがあるし、周りに人がいたら吐き出せない思いもあるだろう。お前ら第二訓練場でやれ。存分にな」

 

 縁の言葉に二人は一瞬だけ俺を見つめ、深く頷くと彼女に礼を言った。

 

「叔母様……うん、ありがとう」

「縁様……お心遣い感謝いたします」

「構わん構わん。ただまぁ、一応やり過ぎんように鉄心をお目付け役にさせてもらう。鉄心、こいつらを頼むぞ」

「御意に」

 

 そして鳳徳、真名を鉄心(てっしん)を引き連れて……やはり何かこう模擬戦とは思えないほど鮮烈な闘気を発しながら二人はその場を後にした。

 

「どうしたんだ、あの二人は……」

 

 思わず呟くと縁が声を上げて笑った。

 

「はっはっは! まぁあの子達なりに色々あるんだよ。あの子達を娘のように可愛がっているお前だ。気になるのは仕方ないさ。だが……」

 

 肩に担がれていた槍が振り下ろされる。

 刃引きされたとはいえその重量を片手で持つ事ができる常識外れの腕力から繰り出される一撃だ。

 地面を砕き、飛沫が周囲に飛び散る。

 視界を覆い尽くす飛沫を大きく飛び退いて避けるとそこには戦意をむき出しにした戦士が一人。

 

「仮にも西平騎兵の頭である私を相手に他に気を取られる余裕などあると思うなよ?」

「……そうですね。確かに思春たちの事は心配ですが……今は貴方に集中しなければこちらが危ない」

「ふっ、せっかくの機会だ。どちらが強いか言い訳もできんぐらいきっちり白黒付けよう」

 

 両手でしっかり槍を握り、こちらに突き出す姿に隙はない。

 気持ちを切り替えて構えを取った俺を見て、縁は満足げに頷くと地面を蹴った。

 

「行くぞっ!!」

 

 縁の気合の入った踏み込みを合図に、俺たちの模擬戦は開始された。

 

 

 

 

 最初、私は自分がどうしてこいつの事を気に入らないかわからなかった。

 

 打ち合う相手を睨みつけ、どうやって相手を倒すかを考えながら、その思考の隅っこでぼんやりと考える。

 

「えいっ!!」

 

 鋭い突きから斜め上に薙ぎ払う連続攻撃。

 駆狼様からの手ほどきを受けるようになって数ヶ月で見違えるほどに力強い物になったソレを背後に跳ぶ事で避ける。

 

「しっ!!」

 

 薙ぎ払いで晒した隙を狙って突きを放つ。

 しかし薙ぎ払いの勢いを利用した石突きによって私の刀の軌道はたやすく弾かれてしまった。

 

 強い。

 いや、強くなった。

 あの方のご指導を受けて、こいつは……蒲公英はとても強くなった。

 気遣いに長け、その明るい性質はまるで周囲を照らすかのよう。

 無頼な私とは大違いで、そして唯一勝っていると思えていた武もこうして追いすがってきている。

 私には武以外に何もないのに。

 

 その事実が、なぜか無性に腹立たしい。

 

「せぇえええっ!!」

 

 胸の内に広がる怒りに似た、しかし別の……どす黒い何か。

 自分の中から溢れ出てくる、見たくない、知りたくないソレを振り払うように私は叫び、武器を振るった。

 

 

 

 

 私にとってその子はお姉様みたいな憧れだった。

 

「うっ!?」

 

 振るわれる刀をどうにか受け止める。

 

「えいっ!!」

 

 近づかれすぎれば槍の力は半減する。

 突きからの薙ぎ払いでとにかく距離を取った。

 でもすぐに追いすがるように踏み込んできての突きが来る。

 

 「しっ!!」

 

 上に薙ぎ払った槍の勢いを利用して石突きを刀にぶつける。

 刀を手放させる事は出来なかったけれど、怯んだ思春は間合いを離した。

 

 汗一つ掻かずに武器を構える姿が憎らしい。

 

 ほとんど年が変わらないのにすごく強くて、国の重要人物の護衛を任されている子で、そして駆狼おじ様と陽菜おば様、玖龍君がとても信頼している子。

 

「ううっ……」

 

 たった三回、連続で攻撃されただけで痺れ始めた腕が、私の気持ちも知らずに自分の限界を教えてくる。

 

 悔しい。

 そう、私は今この子に負けている事がとても悔しい。

 お姉様に負けた時はこんなに悔しくなかった。

 心のどこかで『負けて当たり前』みたいに考えてたから。

 

 思春はお姉様にすら勝つことが出来る腕前。

 普通に考えたら私じゃ勝ち目なんて全然ない。

 でもおじ様に教えてもらって、単純な強さじゃ勝敗が決まらない事を実感できた。

 だからもう当たり前なんて考えない。

 勝って何が変わるのかって思わないでもないけど。

 

 でもこの子には負けたくない。

 私が心の底から羨ましいと思う場所にいるこの子には。

 全幅の信頼っていうものをおじ様たちに向けられているこの子には。

 

 絶対に負けたくない。

 

 勝ったからって何が変わるわけじゃないのもわかってる。

 この子が強いから護衛になっているんじゃないって事は、あの人たちとこの子のやり取りを見てればわかるもん。

 

 今までなんとなくで避けてきて模擬戦も思春とはやらなかった。

 でもたぶん今やらないと自分の気持ちが収まらない。

 

 この子にとっては迷惑な話だけど。

 今回だけ、私からの悪戯だって事で諦めてもらうね!!

 

「たぶんこれっきりだからっ!!」

「むっ!?」

 

 足元を狙って横薙ぎにした槍を思春が避ける前に後ろに引き、無理やり突きに変える。

 咄嗟に足を上げていたから態勢が定まらず避けられないと思った思春は私の一撃を刀の横腹の裏に左手を添えて受け止めた。

 瞬間、両足を踏ん張って突き出した槍をさらに前へ押し出す。

 体重を加えて勢いを増した突きを受けた思春は、踏ん張りきれずに後ろに吹っ飛んだ。

 

「ぐっ」

 

 苦悶の声を上げながら、着地する。

 思春の両手は痺れて震えていた。

 

「先の言葉。何を言っているかわからんが……今のは良い一撃だった。翠にも勝るとも劣らない強い一撃だ」

 

 お世辞なんかじゃない言葉に、頬が思わず緩んだ。

 

「そう? 嬉しいな、お姉様の好敵手にそう言われたら自信が付くよ」

 

 この言葉に嘘はない。

 心から嬉しいってそう思ってる。

 

「……私はお前が羨ましい」

「えっ?」

 

 

 

「……私はお前が羨ましい」

 

 同性の私から見ても可愛らしい笑顔を見て、私の口からぽろりと言葉が漏れていた。

 

「……どういう意味?」

 

 私の言葉の意味がわからなかった蒲公英は首をかしげた。

 ああ、言うつもりなどなかったと言うのに。

 こんな感情を、私が持っているなど認めたくなかったのに。

 

「お前は私にない物を沢山持っている。でも私には武しかない。そしてお前の武は駆狼様のご指導を受けて格段に上がっている」

 

 静かに話すよう努めながら、ゆっくりとしゃべる。

 一度漏れてしまえば話した方が楽だ、とさえ思えてきた。

 

「私は……お前のようにあの方たちを楽しくさせる事など出来ない……!」

 

 ああ、そうだ。

 私はあの方たちに笑いながら感謝されているお前が。

 私がいた場所に一時でも居座る事が出来るお前が。

 

「妬ましいのだ、私は!!」

 

 感情の荒ぶるままに武器を振るう。

 心なしか感情の籠もった刀は今までよりも速く空を滑っていた気がした。

 

「きゃあっ!?」

 

 それを蒲公英は悲鳴を上げながらも受け止める。

 お互いの距離が近づく。

 押し出してやろうとする私と押し返そうとするこいつの力が拮抗する。

 

「なによ……」

 

 このまま押しつぶしてやると荒れ狂う心の命じるままにさらに力を込めようとする私の耳に、小さな声が聞こえた。

 

「?」

 

 思わず眉をひそめる。

 声は蒲公英からの物だ。

 

「なんなのよ、それ!!」

「う、うわっ!?」

 

 蒲公英の声が耳を打ち、次いで今までにない力で交差させている武器ごと身体を押し返された。

 

「妬ましい? そんなの私だって言いたいよ!! 思春、あんたずっとおじ様やおば様と一緒にいるし、鍛錬も一緒だし、玖龍君も預けてもらえるし、すっごく皆に信頼されてるじゃない!!」

 

 まるで兵士の群れが襲い掛かるような言葉の嵐に、私は模擬戦をしている事も忘れて目を瞬いた。

 

「私がどれだけあんたの事を羨ましいって思ったか知ってる!? もう自分だって数え切れないくらいなんだからね!!!」

「う、嘘を言うな。私にお前が羨むような事など……」

「今、言ったでしょ! 言っとくけどあんなのまだまだ序の口なんだからね! まだまだ沢山あるんだからっ!!! ほんと信じらんない!!」

「え、あ、う……」

 

 な、なんだ。

 よくわからんが蒲公英に気圧されて言葉が出てこない。

 

「あーもう! よし、わかった。私たち模擬戦なんてしてる場合じゃないって事がよくわかった!」

 

 そう言うとあいつはあろうことか武器を放り捨てた。

 鍔迫り合いをしていた私は思わずたたらを踏む。

 

「な、何のつもりだ!」

「いいから! はい、思春も武器納めて!! それともやる気なくした私を攻撃する?」

「い、いや、そんな事はしない!」

 

 そんな風に言われては攻撃なんて出来ない。

 私は武器を納める。

 蒲公英は満足そうに頷くと自分の武器を拾って私の手を取った。

 

「よし。それじゃ行こうか、思春」

「い、行くってどこへ……」

「私の部屋。そこできっちり腹を割ってお話しましょ。あ、心さん! おじ様やおば様たちに模擬戦は引き分けで終わったからって伝えといて~」

 

 思い出したように立会人であった鳳徳殿に言伝を頼むと蒲公英は歩き出してしまう。

 当然、手を握られている私はされるがまま引っ張られて歩き出していた。

 

「な、なんだ? どういう事だ?」

「いいから来る!!」

「は、はい!?」

 

 な、なんだろう。

 今の蒲公英には逆らえる気がしない。

 

「了解した。お嬢」

 

 私たちの前では決して表情を変えなかった鉄心殿が苦笑いする様子を驚く暇もなく。

 私は引っぱられるままに蒲公英に着いて行った。

 

 

 その後の事はよく覚えていない。

 なんだか本当に色々な事を話したから話の内容まで覚えていない。

 ただあんなに勢いに任せて同年代の人間と話した事はなかったかもしれない。

 

 そうただ何も考えず思った事を話していただけ。

 ただそれだけの事なのに、今まで蒲公英に向けていた妬む気持ちは気が付けばなくなっていた。

 

 蓮華様とは違う殴りあう事も肩を抱き合う事もできる距離感。

 私にとって今まで関わってきた誰とも違う感覚がただただ心地よかった。

 

 余談だが私たちが語らっている間に、駆狼様と縁様の勝負は決着。

 縁様の最も得意とする騎馬を使わずの模擬戦だったがその実力は伯仲。

 白熱した戦いは紙一重で駆狼様に軍配が挙がったそうだ。

 

 翠にその時の様子を興奮した様子で語られ、私はそんな闘いを見損ねた事を残念に思った。

 だがそれ以上に蒲公英と語らえて良かったと思う自分がいた。

 

 

 翌日。

 陽菜様に「蒲公英ちゃんと仲良くなれたの?」と微笑みながら聞かれた。

 

 「はい。あいつは私の親友です」

 

 私は何の気負いもせず、ごく自然にそう答えていた。

 

 同じ頃。

 縁様から同じ質問をされた蒲公英が示し合わせたわけでもないのに私と同じ答えを返していた事を私は知らない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十三話

今年最後の投稿になります。
楽しんでいただければ幸いです。

加えて現在、姓名字について呼び方の記述についての修正を行っております。
修正後の投稿は一気に行う予定です。
話の内容には変更はありません。

それでは皆様。
今年一年、復活してからのご愛顧ありがとうございました。

良いお年を。

来年もよろしくお願いいたします。


 さばさばとした気風の西平の面々との別れは最後の挨拶の時までまったくの普段通りで、しめっぽさなどとは無縁な物になった。

 

 印象深かったのは翠や蒲公英たちには次に会う時は1対1で打ち勝ってみせると啖呵を切られた事か。

 雲砕には道中にでも飲めと西平の地酒をもらい、縁はまた試合しようと口約束をさせられている。

 思春や陽菜もそれぞれに別れを済ませていたようだが、そこに悲しみや寂しさは感じられなかった。

 

「お互い生きてまた会おう。今度は陽菜の姉とも、駆狼のもう一人の嫁とも会ってみたい」

「うちの主となら意気投合間違いないでしょうね」

「おいおい、こいつの同類が増えるのは勘弁だぜ」

 

 軽口交じりの応酬にはここにいた間に築き上げてきた確かな絆を見る事が出来る。

 それこそが俺たちの任務における最大の成果だろう。

 

 俺たちは住み慣れて来た西平を離れ、建業への帰路に着いた。

 と言っても、まっすぐ帰るわけではないのだが。

 

「曹孟徳のところを?」

「ああ。帰る前に彼女が治めているところを見ておきたい」

 

 この世界では例によって女性であるらしい曹操が若くして治める地がどうなっているか。

 できればそこから彼女の性質を見極めておきたい。

 

 俺の知る史実通りならば乱世の奸雄と呼ばれる存在が、乱世における台風の目とも言える存在が、この世界ではどのような存在なのかを知っておきたいのだ。

 

「遠回りって言うほどじゃないし私は構わないわよ」

「私はどこまででも付いていきます!」

 

 かたや柔らかに、かたや気持ちよいほどに生真面目に俺の寄り道に同意してくれた。

 その言葉に甘え、俺たちは陳留を目指す。

 

 俺の知る歴史では曹操は陳留の太守にはなっていないはずなのだが、この世界ではそうなっている。

 しかもずいぶんと若い年齢でその役職に就いたという話だ。

 蓮華嬢と同じ年という事は就任当初はせいぜい十四、五歳という事になる。

 そんな年齢で領土を任され、これまで問題なく運営できているという事実が彼女の実力を物語っている。

 

 まぁ事実を誇張あるいは捏造した情報操作の可能性もなくはないのだが。

 しかしその辺りの事実確認も兼ねて見に行って損はないはずだ。

 

 

 幾つかの邑や街を経由し、十数日が過ぎた頃に俺たちは目的地へと到着した。

 街に入る為の手続きを終え、巨大な門を通り抜ければ、そこにはここまで来る際に立ち寄ってきた街と何もかも異なる街並みがあった。

 威勢の良い客引きの声に、賊の脅威など考えた事も無いとわかる笑顔で走り回る子供。

 井戸端会議でもしているのか楽しげに会話をする人々の姿。

 そんな西平からこちらに来る間、見かけることが出来なかった光景が広がっていた。

 

「……なるほど。西平や建業とは違うが、栄えているみたいだな」

 

 建業や西平は民が良い意味で自由に、悪い意味で奔放に振舞える環境と言える。

 民同士の諍いすら一種のコミュニケーションであり、よほど度が過ぎなければ兵士は止めない。

 無論、犯罪行為には容赦しないが。

 

 翻ってこの陳留はその辺りを徹底的に取り締まっているようだ。

 街に入ってすぐに但し書きが書かれた立て板に、この街で行ってはいけない事項が記されていた事からもその事がよくわかる。

 目に見える形での周知があるから、それを行えば処罰される。

 当たり前の事だが、こうも明確にしていてかつ兵士の見回りが頻繁に行われていれば馬鹿な真似をする人間もそう簡単には出ないだろう。

 規則などあってないようなこの時代で、有言実行を徹底するというのは難しい。

 

「そうね。私たちのところみたいに伸び伸びとしているわけではないけれど。しっかり管理されているんだと思うわ。住んでいる人たちは安心して生活しているみたい。これは噂に違わぬ手腕の持ち主という事かしら?」

 

 同じ事を感じ取ったのだろう陽菜の言葉に頷く。

 同時に気になる事が出来た。

 それについても調べなければならないだろう。

 

「一先ず宿を取るぞ。その後はもう少しこの街を見て回ろう」

「ええ」

「はい!」

 

 まだまだ陳留の入り口だ。

 より詳しくこの街がどういう場所かを知る必要がある。

 気になっている事が杞憂なのか、そうでないのかの確証も欲しい。

 

 

 宿は何の問題もなく取れた。

 一部屋に寝台が二つあれば充分過ぎるだろう。

 

 宿と併設していた食堂で昼食を取り、一息ついた俺たちはさっそく街を見て回る事にした。

 

 街の中はやはり賑やかだ。

 建業に比べれば静かだが、それは環境の違いがもたらす差異でしかない。

 

 街の端から端まで見て回るとわかる。

 一定の距離で置かれた交番、随所に置かれた立て札によるお触れ。

 この街には建業で行われている中で、特に効果があった政策が行われているのだ。

 さらに言えば、栄え具合で言えば西平に向かう前の建業よりも上だろう。

 

 俺たちの領地は常に他所からの間者が入り込んでいる。

 街の様子についての情報は隠すつもりもないから、かなりの部分が外に流出しているだろう。

 真新しい政策を報告し、上の人間が効果的だと判断すれば取り入れるのも当然の事。

 そう考えれば政策に似た部分が出てくるのは仕方ないだろう。

 とはいえ今まで立ち寄った街や村では、建業の政策を思わせる類似点は見られなかった。

 

 だからこそ『本当にそうなのかどうか』を確かめたい。

 もしかしたら俺たちと同じ『前世を持つ者』が献策に一枚噛んでいないとも限らないからな。

 

 一人だと思っていたら二人だった。

 ならば三人目、四人目がどこかにいてもおかしくはない。

 

 いや本来なら一人でもいる事がおかしいんだがな。

 

「良い所だな」

「そうですね。今まで立ち寄ったどの場所よりも……もしかすれば建業や西平よりも平和かもしれません」

 

 俺の独り言に相槌を打ちながら、思春は自分の感じた事を言う。

 眉を寄せ不満げに搾り出された言葉には、うちが負けている事への悔しさが滲んでいた。

 

「俺も同じ事を思った。うちもまだまだという事だな。逆に言えばこれからもっと良くする事が出来るという事にもなる」

 

 眉間の皺を揉み解してやるように人差し指でついてやる。

 すると彼女を挟んで逆隣を歩いていた陽菜も、思春の気持ちを落ち着かせるように紫色の髪を梳くように優しく撫で付ける。

 

「そうよ。まだまだ先は長いのだから、悔しく思ってもそこで立ち止まっちゃだめ」

「駆狼様、陽菜様。……はい! 頑張ります」

「あ~、う~~!」

「ほら、玖龍も頑張れって励ましてるわよ」

「あ、ありがとうございます」

 

 何を言っているかわからないだろう玖龍に対しても律儀に頭を下げて礼を言う思春。

 微笑ましいと思いながら口元を緩めていると、前方からこちらを窺うような視線を感じた。

 

 それまでの様子から打って変わり、思春は陽菜たちに向かう視線を遮るように前へ出る。

 視線の先を見れば水色の髪の、おそらく思春くらいの年齢の少女がいた。

 

 敵意はない。

 あくまで俺たちに興味を抱いて見ていただけのようだ。

 だがただの民草とするには上質すぎる服装と戦う者特有の隙の無い所作が、只者ではない事も教えてくれている。

 

 少女は俺と目が合うと、小さく口元を僅かに綻ばせながら小さく頭を下げた。

 釣られて俺も頭を下げる。

 

 礼を返された事が意外だったのか、少女は年相応に目を丸くして驚く。

 だがそれも一瞬の事ですぐに気持ちを切り替えたようだ。

 先ほどまでの隙のない佇まいで、こちらに近づいてくる。

 

「駆狼様……」

「いい、彼女に害意は無いようだ。陽菜たちを頼む」

「はい……」

 

 小声で最低限のやり取りを済ませ、少女を待った。

 

「もし。少しよろしいですか?」

 

 怜悧な表情そのままに俺を真っ直ぐ見据えて問いかける少女。

 

「はい。構いませんが」

 

 身なりの良さからおそらく立場のある人間なのだろうと当たりを付け、敬語で対応する。

 

「私は夏侯妙才(かこう・みょうさい)と申します。良ければお話をお聞きしたいのですが……」

 

 夏侯妙才、この子があの夏侯淵か。

 

 

 夏侯淵妙才(かこうえんみょうさい)

 曹操の臣下の中でおそらく一、二を争うほどに有名な武将の一人だ。

 曹操の従兄弟に当たり、同じく従兄弟である夏侯惇と共に曹操軍の主将と言える。

 軍拠点間の迅速な移動や速さを生かした奇襲攻撃、兵量監督などの後方支援を得意としている。

 戦勝を上げる武将ではあったが無鉄砲さも目立っていたらしく、曹操に『勇気だけでなく臆病さも必要だ』と戒められる事もあるらしい。

 最後は定軍山にて劉備(りゅうび)と黄忠(こうちゅう)の軍に破れ、戦死したと言われている。

 

 

 この世界では夏侯惇とは姉妹らしいが、性別が違うからと言って実力が俺の知る歴史を下回るとは考えない方がいいだろう。

 

「……太守様の片腕と言われているようなお方が、私どもに何の御用でしょうか?」

 

 その場で膝をつき頭を垂れようとする。

 しかし俺の行動を彼女は手を広げて制した。

 

「私に頭を垂れる必要はありません。凌刀厘殿、孫幼台殿」

「人違いでございます。私どもはただの子連れの旅人でしかありません」

 

 俺たちの名をずばり言い当てる少女の言葉を陽菜は間髪要れずに否定する。

 

「いいえ。私は確信を持って声をかけさせていただきました。私どもは他領への間諜に力を入れております。新進気鋭と謳われている建業の方々については特に……」

 

 だがしかし少女は陽菜の言葉に苦笑いを浮べながらさらに否定して見せた。

 おまけにスパイで常にこちらの動向を注視している宣言までされる始末。

 

 と言うか偶に感じていた視線が、どこの手の人間か気になってはいたが。

 夏侯淵、いや曹操配下の者たちだったようだ。

 ヤツに及ばないまでも視線の出所が掴めずにいたんだが、良い間諜が手勢にいるらしい。

 

 俺たちがその人物だと完全に確信している涼しげな目をそのままに、目の前の夏侯淵を名乗る少女は言葉を続けた。

 

「我が主『曹孟徳』も、もし会う事があれば話をしたいと常々おっしゃっておりました。そちらの都合がよろしければぜひ我が主と会ってはいただけないでしょうか?」

 

 物腰こそ静かだがその目は『是が非でも』という決意に満ちていた。

 この場で俺たちを逃すつもりは無さそうだ。

 しかし主命による物、というにはどうにも言葉の端々に並々ならぬ必死さというか熱意を感じられる。

 

「幼台様、どうなさいますか?」

 

 一応は公の場に当たるので陽菜の事を字で呼び、視線を夏侯淵から離さずに意見を求める。

 

「そうね。せっかくのご招待ですもの。受けない事こそ失礼に当たるわ。夏侯妙才殿、私たちを曹孟徳様の元へ連れて行っていただけるかしら?」

 

 慎重さも何もない即決に、思春が動揺で身体を震わせるのが気配でわかった。

 対面している夏侯淵もあまりにあっさりと同行してもらえた事に驚いている。

 

「あー、コホン。では、こちらへ。主の屋敷へご案内いたします」

 

 気を取り直すように一度咳払いする姿は年相応で。

 こんな子も武将の名を持つ少女なのだなと思い、こちらに来て何度目かのやるせない気持ちを抱いたまま先導する彼女の後に続いた。

 

 この後、彼女同様に並々ならぬ熱意を視線に込める黒髪の少女と金髪を縦ロールにした小柄な少女との出会いで、やるせない気持ちなど吹っ飛んでしまうことになる。

 

 

 

 

 華琳様が建業と、そしてかの御仁を気にし始めたのはいつだったか。

 

 そう、あれは連合軍による錦帆賊討伐が為された後だった。

 より正確に言うならば華琳様の祖父であり、中央への発言力を持つ季興(りこう)様からお話を伺ってからだろう。

 

 思えば我らの周りにいる異性と言うのは、ひどく頼りなく利己的な者ばかりだった。

 例外と言えるのは季興様と華琳様のお父上である『曹嵩巨高(そうすうきょこう)』様くらいなものだ。

 巨高様にしても保守的な方であり、陳留の今を守る事に執着し新しい事を始める意欲には薄い方であった。

 あの方の場合はご家族を守りたいという想いが強すぎたが故の守りの姿勢であると私は理解しているのだが、華琳様や姉者にとってその姿勢は弱腰に見えていたのだろう。

 口にこそ出さなかったものの不満を抱いていたのは隣にいてよくわかった。

 

 異性に失望するばかりであった私たちの元に振って沸いた『強い男』の話。

 そんなものを『認めている異性』である季興様からされたとあっては、私たちが食いつくのは当然の事だった。

 

 思慮深い季興様の事だ。

 私たちの気持ちを察した上で、男を見下す価値観が固定されないようにする為の一手としてかの御仁の事を話したのかもしれない。 

 

 それから華琳様は当時からいたご自分の手勢を使って建業についてお調べになるようになった。

 調べてみれば次々と明らかになる珍しい政策、その結果として安定した領土、民の暮らしの向上。

 最初こそ敬愛する季興様が見込んだ者として調べていた華琳様は、すぐに建業に、そして凌刀厘殿に興味を持たれた。

 

 建業の双虎と謳われ武において他者を引き連れ前に立つ孫文台殿、その類まれな発想力で持って新しい政策を打ち出す孫幼台殿という上に立つ者たち。

 筆頭軍師たる周公共殿を頂点に、かつての太守に仕えていた文官たちを含めた文官たち。

 その元に集った民上がりなれど確かな実力を持つ凌刀厘殿を初めとした武将。

 彼らが揃った事によって建業は爆発的な力と勢いを得た。

 

 建業を支える者たちはその誰もが侮る事が出来ない力を持っている。

 しかしその中でも凌刀厘殿は別格と言えた。

 孫幼台殿と同等と思われる発想力、少数精鋭の部隊を育て自ら先頭になって率い、ここ最近は新しい作物の栽培にすら着手していると言う。

 その幅広い行動力に、私たちは驚愕し、そして華琳様と私が戦慄したのは記憶に新しい。

 

「建業の者たちは誰も彼もが輝いて見えるけれど……是が非でも欲しいと思った『男』は彼が初めてね」

 

 華琳様が調書を読みながら悔しそうに呟く姿を私は知っている。

 おそらくあの時の華琳様は、なぜかの御仁が自分の元にいないのかという悔しさと、男でありながら欲しいと思わされた事へのちょっとした敗北感を抱いておられたのだろう。

 

 巨高様から華琳様が譲り受けたこの陳留。

 元より足場が完全に固まった状態で太守を引き継がれた華琳様が、ここでこれまで行ってきた政策に効果がなかったなどとは言わない。

 しかし建業が行ってきた政策とその効果と比べてしまえば霞んでしまうというのが正直なところだろう。

 

 その事に華琳様は気付いておられる。

 だからこそあの方は間諜に建業の政策についてその粒さに報告させ、その意図を読み解く事に力を入れるようになった。

 そして陳留でも効果が見込める物を適用するようになった。

 自身では及ばぬ域の政策を思いつき実行する建業への賞賛。

 自らを至らぬ者と認め、その悔しさを糧にあの方も我らも力をつけていった。

 

 

 我々と異なり、姉者(あねじゃ)は錦帆族の頭領を打ち倒したという凌刀厘殿の武勇に惹かれているようだ。

 いつか相対した時、自身の武でもって打ち倒せるようになってみせると息巻き、今までよりもさらに鍛錬に打ち込むようになっている。

 頼もしい事だが、もう少し政務にも目を向けて欲しいところでもある。

 一途に武を高めようとする姉者は可愛いが。

 

 私もまた季興様をして『先が楽しみな面白き芽』と評し、他に類を見ない効果的な政策を打ち出す建業の方々には武官として領土を持つ者に仕える者として一定以上の敬意を抱いていた。

 

 機会があれば武器を交えるのではなく、言の葉を交してみたいとそう思っていた。

 よもやこれほど早くにそのような機会に恵まれるとは思ってもいなかったのだが。

 

 建業の方々のお姿は間諜たちから聞いていた。

 何がしかの目的で涼州へ向かい、今まさに建業への帰路についている事も知っていた。

 

 しかしそれでも陳留にいるところに偶然出くわす事になろうとは。

 おそらくだが、朝早くから屋敷に不在だった私と彼らの来訪を報告しに来た間諜とがすれ違ってしまったのだと思う。

 

 あまりにも特徴的だったので、一目見て彼らがそうなのだと確信できた。

 腕に覚えのある者が二人、一目を引く南方に多く見られる褐色肌の妙齢の女性、さらに加えて子連れ。

 その足運びや隙のない佇まいを見ても間違える方が難しい。

 

 ちらりと背後を窺う。

 私への最低限の警戒を残したまま談笑している姿が見えた。

 冷静に考えればひどく失礼な態度を取った私に対して含む所もないようだ。

 むしろ。

 

「直接、面識がもてる機会が来るとは思わなかったわね」

「そうだな。ここで彼女と会えたのは運が良かった」

「いえお二人とももう少し危機感をお持ちになってください」

 

 偶然の出会いを歓迎している節すら見られる。

 なんとも器が広い。

 私としては護衛の甘卓の発言に同意したいところなのだが。

 

 しかし私の視線に気付いた時の動きから見ても、噂通りに腕が立つと見て間違いない。

 堂々とした態度は何かあってもどうにでもできるという自信の裏返しなのだろう。

 

「もうすぐそこです」

 

 私がそう告げるとお二方は談笑をやめて前を向く。

 屋敷の入り口がすぐそこに来ていた。

 

「改めまして強引なお誘いをしてしまった事を謝罪いたします」

 

 彼らに向き直り深く頭を下げる。

 そして顔を上げると同時に歓迎の言葉を続けた。

 

「そしてようこそ、曹孟徳のお屋敷に。私どもは貴方方の来訪を歓迎いたします」

 

 常日頃、表情が変わらないと言われている自身の顔に意識して笑みを浮かべながら、精一杯の歓迎の意を言葉に乗せる

 いずれ相対する時が来るだろう、しかし尊敬している方々に向けて。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十四話

 屈強な門番二人は夏侯淵が事情を話すと俺たちに恭しく頭を下げ、一人が屋敷の中へ消えていった。

 

 俺たちは数瞬の間を置いて移動を促す夏侯淵に従い、屋敷の中へ足を踏み入れる。

 屋敷は門番が中に入ってから、外からでもわかるほどに騒々しくなっていた。

 おそらく俺たちの来訪は彼らにとっても想定外だったのだろう。

 だがここまで空気が浮つくとは思わなかった。

 

 通されたのは待合室と言うには豪華な造りの部屋だ。

 用意された椅子に俺と陽菜が腰掛け、対面の席に夏侯淵が座る。

 思春は俺たちの護衛という事で俺と陽菜の後ろで直立不動だ。

 

 そして対面に座った彼女は控えていた侍従に目配せした。

 おそらく飲み物でも持ってこさせようと言うのだろう、彼女の視線を受けた侍従はこちらに一礼して姿を消す。

 

「お呼びたてしておきながら大変申し訳ありませんが、しばしこの部屋にてお待ちください」

 

 心底申し訳なさそうに頭を下げる夏侯淵に気にするなと答え、しばし彼女も交えて歓談する。

 やがて届いた飲み物をありがたくいただき、喉を潤しながら俺たちはその時を待った。

 

 彼女は俺たちが待ちぼうけしないようにと様々な話を振ってくれ、退屈する事はなかった。

 気遣うのが上手いというか、フォローが上手いというか、非常に手馴れている。

 普段から誰かを気遣う事に慣れているんだろう。

 

 しばらく談笑していると屋敷を包み込んでいた慌しい雰囲気が収まり始める。

 やがて屋敷全体が静謐を取り戻した頃、部屋に控えていた侍従とはまた別の女性が会釈と共に静々と部屋を訪れ夏侯淵に何事か耳打ちした。

 

「準備が出来たようです。孟徳様の元へご案内しますのでどうぞこちらへ」

 

 夏侯淵の先導に従い、それまで待合に使われていた部屋を出る。

 忙しなく周囲を睥睨する思春の落ち着かない様子に陽菜と共に苦笑いしながら彼女の後についていった。

 

 やがて夏侯淵の歩みは、豪奢な造りが為された両開きの扉の前で止まる。

 

「孟徳様。妙才です。凌刀厘様、孫幼台様、その護衛の者をお連れしました」

「ええ、入って頂戴」

 

 想像通りの若い声に夏侯淵が頷き、そっと扉を開く。

 そのまま開いた扉の前へ立ち、会釈しながら右腕で部屋の中を示して無言のまま俺たちに入室を促した。

 

「初めまして。建業の方々。私は陳留の太守を任されております曹孟徳と申します」

 

 座っていたのだろう椅子から立ち上がり、金髪を縦ロールにした少女が名乗る。

 その瞳には、彼女が曹操である事を納得させるだけの苛烈な意志が宿っていた。

 

 

 曹操孟徳(そうそうもうとく)

 三国志で一、二を争う知名度を誇る人物だろう。

 おそらく三国志を知らなくとも名前だけなら知っているという人間も多いはずだ。

 若い頃から機知に富んでいたが素行は決して良くはなかったと言われているが、それでも彼の周囲には人が集まり賢人たちは彼を評価したと言われている。

 『治世の能臣、乱世の奸雄』という評価はこの頃に受けた物だと聞いた事がある。

 黄巾の乱から端を発した乱世を駆け抜け、その人生は波乱万丈。

 華北を支配する王朝として曹魏を造り上げた男であり、家柄や品行にとらわれず才能ある人材を積極的に登用。

 権力者すらも規律に従い罰するという当時の風潮からすれば破天荒な事を平然と為したとされている。

 文武両道を地で行くある種の完璧超人の体現者だが、そうであるが故に他者との衝突も少なくなくまた敵も多かった。

 群雄割拠の世で勝利と敗北を最も経験し、それでもなお病死するまで激化する歴史の中心に身を置き、その才覚を存分に発揮したと言われている。

 

 

 そんな曹操と俺たち。

 現在の地位といい本人の持つ家系といいどう考えてもこちらの方が格下のはずなのだが、彼女の言葉の端々には夏侯淵にも感じた俺たちへの並々ならぬ敬意が込められていた。

 何故と疑問に思いながらも返事を返そうとするが、俺が行動するよりも早く彼女の隣にいた黒髪の少女が動いた。

 

「わ、私は夏侯元譲(かこう・げんじょう)と申します! お会いできて光栄です!」

 

 何故か、曹操以上の尊敬の念と共にキラキラとした瞳で名乗られた。

 この子があの夏侯惇か。

 

 

 夏侯惇元譲(かこうとんげんじょう)

 夏侯淵同様、曹操の配下の中でおそらく一、二を争うほどに有名な武将の一人だ。

 曹操が挙兵した頃から一部隊の将として付き従い長い戦いの日々を共に過ごしてきた男で、軍の遠征中であっても行く先々で師を迎えその授業を受けていたほど勤勉だったと言われている。

 しかし同時に苛烈な気性で少年期に学問の師を侮辱した男を殺したとも言われている。

 左目に流れ矢を受けて見えなくなっても尚、武将として他武将に劣る事はなかったとされている。

 清貧で慎ましやかな性格だったようで自身が贅沢をする事はほとんどなく、余財が出るたびに人々へ分け施し己が死した時の埋葬品は一振りの剣だけだったという逸話を持っている。

 

 

 まぁ今までも性別が反転している例は幾らでもいたし、俺の知識と性格その他に大きな違いがある人間もいた。

 今更、この程度のギャップで驚くような事もない。

 有体に言えば慣れてしまった。

 とはいえだ。

 彼女らに共通して感じ取れる俺たちに対する尊敬の念は一体なんなのだろう?

 

「他領の太守様に名乗られてしまってはお応えせねば礼を失する事になりましょう。私は孫幼台。建業にて政務に携わっている者でございます」

 

 玖龍を俺に預けてから、屹然とした態度で名乗り立場の差を考えてその場に膝を付こうとする陽菜。

 しかしその行動はやはり彼女らに遮られてしまう。

 

「ここは公式の場ではございません。私のような小娘に貴方方が立場を理由に謙(へりくだ)る必要はございません」

 

 一本芯の入った語調は気の弱い者が聞けば威圧的に感じるものだが、それでも精一杯に抑えようとしているようだ。

 だが何故そうまでして俺たちを立てようとするのか、疑問は膨らむばかりで流石の陽菜も首を傾げている。

 

「うふふ。そう。貴方がそう言うのなら少し楽に話させてもらうわね?」

 

 しかしそこは陽菜だ。

 彼女の言葉にこちらを害しようとする意志がないとわかれば相手に合わせてすんなりと態度を改めてしまった。

 

「刀厘。貴方も彼女のご厚意に甘えておきなさい」

「……一介の武将程度が太守様に対してそのような事は出来かねます」

 

 彼女らが俺たちに敬われるのを望んでいないという事は今の会話でわかっている。

 しかし言質くらい取っておかなければならないだろう。

 俺とてくどいやり取りは好きではないが、それでも必要な事だ。

 

「その太守様直々の要請なのだから、受けない事こそ失礼に当たるわ」

「……よろしいのですか?」

 

 疑問の言葉は曹操への確認だ。

 彼女はこちらの意図を読み、真剣な表情で頷いた。

 

「では少し気安くさせてもらおう。もしも無礼と感じたら言って欲しい。こちらのやり方が合わない事もあるだろう」

「いえ。突然のお呼び出しに加えてこのような不躾なお願いを聞いてくださった事、感謝いたします」

 

 どこまでも真摯な回答は噂に聞く十常侍と一悶着起こしたという曹操とも、俺が知識として知っている曹操とも異なる。

 一体彼女は俺たちに何を見ているのか。

 

「妙才、椅子をお出しして」

「御意」

 

 部屋にあった造りの良い椅子が俺と陽菜の後ろに差し出される。

 そっと腰を下ろし、テーブル越しに曹操たちと向かい合った。

 俺たちが向かい合うのを見計らって控えていた侍従が人数分のお茶を座卓に載せた。

 

「そちらがよろしければご子息は侍従がお預かりしますがどうなさいますか?」

「ではお言葉に甘えさせてもらおうか」

 

 曹操の提案を受けてこちらに近づく侍従の女性に玖龍を預ける。

 赤の他人の手に入ったというのにこの子は泣く事もなく、新しい人物を興味深げに見つめていた。

 我が子ながら肝が据わっている。

 部屋の隅へと下がる侍従から目を離し、改めて曹操たちと向かい合った。

 

「まずはこうして直接お話できる機会をいただき感謝いたします。そして貴方方が疑問に思っているであろう事についてお話します」

 

 あちら側もこちらが内心で疑問に思っている事は承知の上だったようだ。

 俺たちは背筋を伸ばし椅子に座りながら緊張を解く事なく対面する曹操を見つめ、その後ろに控える夏侯惇、夏侯淵を視界に収める。

 

「私は貴方方の、建業のこれまで行ってきた治世という物を見てきました。太守交代からこれまでの建業の躍進を。他に類を見ない発想の政策を。それらを実行する行動力を……」

 

 じっとこちらを見据える曹操の言葉は少しずつ熱を帯びてきている。

 

「知れば知るほどに私は貴方方への尊敬の念は増し、敬意を抱くようになりました。それが私たちの貴方方への態度の理由です」

 

 彼女瞳の奥に尊敬の念に隠れて嫉妬や悔しさといった感情が見えていた。

 

「私にはどれも思いつく事はなかった。治安向上の為に兵の詰め所を街中に一定間隔で配置するなんて事は……」

「太守交代をしてすぐの頃の政策ね。建業は前太守の着服金の用途に困っていたから全て公表した上で街の区画整理と併せて盛大にやらせてもらったわ」

 

 曹操の語り口から当時の様子を思い出し、懐かしげに陽菜は語る。

 

「資産を思い切りよく扱う事が出来るという事そのものが今の太守の中でどれだけの人が出来るか。……私の父も保守的な人でしたから……そのような資金があったとしても『もしもの時の為に』とでも言って使おうとはしなかったでしょうね」

 

 父親に対して思うところがあるらしい。

 引き合いに出す辺りで、口調に苛立ちが混じった。

 嫌っている、というわけではないようだが……俺たちと比べて父親を不甲斐ないと思っているといったところか。

 

「保守的な事その物は決して悪い事ではないわ。悪い所に見て見ぬ振りをするというのとは違うもの」

「それでも肝心な所で腰が引けてしまっては他者に出遅れてしまいます。いいえ、既に貴方方に出遅れている。今の陳留の安定も貴方方の政策について分析し、理解し、流用してようやく形になってきたものです。……このままでは駄目なのよ」

 

 最後の言葉はつい口をついて出たような呟きだった。

 何かに急かされているような、生き急いでいるような、焦燥感に満ちた言葉だ。

 その言動はどこか不安定で危なげに聞こえ、控えている夏侯淵の表情が心配げな物に変わる。

 

 ここまでの曹操の言動から、どうやら彼女は俺たちへ強い対抗意識を持ち、それが空回りしているように見受けられた。

 具体的に言うならば俺たちの出した成果ばかりに目がいき、自分たちの足元が見えていないと言うべきか。

 これは良くない。

 

「陳留の街を少し見たが……」

 

 曹操の言動の熱を下げる為に、そしてこの子の初対面の自分たちですら感じ取れる焦燥に歯止めをかける為に。

 俺は口を挟む事にした。

 部屋の中にいる人間の視線が俺に集まる。

 

「この街は良く管理されている。各所に置かれた立て板で取り締まる事柄を明記し、その傍には兵の詰め所を置く。さらに定期的な巡回によって犯罪を起こす隙を失くす。結果、民は犯罪行為に怯える必要なく伸び伸びと暮らしているように見えた。曹太守、俺たちは治安維持の面で建業は陳留に劣っているという話すらしていたんだぞ」

「えっ?」

 

 俺の言葉がよほど意外だったらしい。

 少女らしい声と共に彼女は目を見開いた。

 

 これはもしかしなくとも敵に塩を送る行為なのかもしれない。

 彼女の表情を見ている俺の脳裏にそんな考えが過ぎった。

 しかしその考えは俺の口を閉じさせるほどの効果はない。

 曹操は建業にとって確かに敵になる可能性が高い。

 しかしこの陳留を治めている彼女は確かに民の生活を考える名君だ。

 このまま潰れてしまうのをただ見ているというのは、民を見捨てる事に繋がる。

 それは、やはり俺には許容出来なかった。

 

「もちろん劣ったままで済ませるつもりはない。この場所で行われている事については粒さに見させてもらい、うちに使える事は吸収させてもらう予定だ」

 

 侍従が持ってきてくれたお茶に口をつけ、彼女らに言葉の意味を吟味する間を設けながらゆっくりと言葉を続ける。

 

「先ほどからの君の言動には焦りを感じる。それが俺たちへの対抗心や競争心から来ているのならば……自分の治世に自信を持つ事だ。君のやった事は間違いなくこの地を発展させている」

「ですが私には貴方達のような発想力がありません。……新しい作物の栽培、少数精鋭とはいえ部隊の一人一人の実力向上。今の私は……貴方にはとても敵わない」

 

 執念すら感じられる瞳に、羨望と嫉妬の色が濃くなる。

 

 違う。

 俺は君の考えているような完璧な人間でも距離が測れないほど遠い人間でもないんだ。

 それを伝えられるよう俺は殊更にゆっくりと、己で噛み締めるように言葉を紡ぐ。

 

「考えてもどうにもならない事はある。どれだけ必死にやろうとしても出来ない事もある」

 

 俺があの娘たちを救えなかったように。

 

 思い出されるのは桂花と、そして桂花よりも先に人身売買に出された者たちの事。

 今も捜索は続けられているが、既に一人を除いてその死亡が確認されていた。

 桂花が友達になったという戯志才(ぎしさい)という子の消息だけがまだわからない。

 

 俺が救えなかった数多い者たちだ。

 

「君は強い人間だ。無論、単純な腕っ節の話じゃあない。しかしだからこそ知らない事も多いんだ。周りを見渡しなさい。傍で支える者の気持ちを知りなさい。君に感謝している民の言葉を知りなさい。君が為した事の結果をしっかりとその目で見なさい」

 

 俺の言葉がどこまで通じたかはわからない。

 しかしじっと考え込むように黙り込んだ彼女から目を逸らす事だけは出来ない。

 

「俺たちが民にとって効果的な政策を行えたのは民の立場から何を望んでいるかを具体的に知っていたからに他ならない。日々の生活の中で民と積極的に関わってきた成果であり、俺などは民上がり。何が必要か何に困っているかなどそれこそ自分の事のように考える事が出来た。不満など昔からあったんだ。決して閃きや天啓などではない。失礼な言い方になるが、書面あるいは外側からでしか民の生活を知らない君たちでは及ばぬ着想という事になる」

 

 ただただ曹操という名の少女との話に集中する。

 

「知っているか知らないかの違いなのだから、知る努力さえ怠らなければ君たちにも出来るはずだ。誰かが言っていた。無知は罪ではない。知ろうとしない事が罪なのだ、と。この僅かなやり取りでも君の聡明さは理解できた。だからこそ俺たちを気にするあまり足元を見ることを疎かにしてはならない。視野を狭めてはならない」

「……」

「何度でも言う。君たちは現時点で俺たちよりも上手く領地を治めている。自信を持ちなさい」

 

 その言葉にどのような意味を見出したかは曹操本人にしかわからない。

 わからないが、俺を見つめる瞳から焦燥感のような物は見えなくなっていた。

 

「熱くなってしまいました。申し訳ありません。……ご忠言はありがたく」

 

 静かな言葉だ。

 冷静になったとは思うが、まだ頭の中では色々な考えが渦巻いているのだろう。

 すぐに解決する物ではない。

 ここからは彼女と彼女たちが考える事だ。

 

「謝るのはこちらだ。初対面の身でずいぶんと知った風な事を言ってしまった」

 

 お互いに軽く謝罪し、それを切っ掛けに話を切り替える。

 

「曹太守。君は知っているか? 大陸の外から襲ってくる脅威を……」

「それは……異民族の事でしょうか?」

 

 神妙な表情を浮かべ確認する曹操に頷く。

 

「俺たちも所用で西平に行った時に初めて対峙したのだが……もしもヤツラと相対する事があったなら気をつけてくれ。ヤツらは強さとは違う異質さを持っている。そしてその異質さは隙を見せれば大陸を蹂躙する脅威となりえるほどの力を持っている」

 

 俺は西平で見た異民族の全てを彼女らに語った。

 信じ難いほどに漢民族を殺す事に執着した異質な行動を。

 どれほど重傷であろうとも食らいつく、己が命すらも投げ捨てる異質な行動を。

 

 彼女たちは話した当初こそ俺たちが語る異民族という存在が信じられなかったようだが、俺たちの真剣な様子に少なくともただの戯言として聞き流すような事はしなかったようだ。

 

「一人一人は決して強くはない。だが何をおいてもこちらを殺す事を優先し、その為ならば自身の命を平然と捨てる事ができると言うのは脅威だ。だから気をつけてくれ」

「なぜその事を私たちに?」

「これが領土を越えたこの大陸全体の問題だと考えているからだ」

「彼らの漢民族に対する殺意は、大陸を血の海にしても収まらないわ。きっと、少なくとも仮面の彼らに限って言えばこちらを根絶やしにするまで止まらないし止まるつもりもないのだと思う。だから一人でも多くの人たちにその脅威を知って対策を取って欲しいの」

 

 難しい表情で話に聞き入っていた曹操たち。

 そこで異民族についての話はそこでお開きになった。

 真の意味で俺たちの言葉を理解する為には、実際にヤツラと対峙しなければならない。

 これ以上言える事がないのだ。

 

 話が一段落した瞬間、今までずっと話を聞くだけであった夏侯惇がずぃっと前に出た。

 

「凌刀厘様! 錦帆賊頭領『鈴の甘寧』を打ち倒したという貴方にお手合わせをお願いしたい!!」

 

 今までの流れを完全に無視した発言に俺は目を瞬く。

 勢い込んで俺に話しかける夏侯惇の鼻息は興奮で荒く、その目は今まで以上にキラキラ輝いていた。

 

「ちょっと、元譲! 不躾よ!」

「姉者、我慢できなくなったのか……」

 

 夏侯惇を諌める曹操。

 夏侯淵は額に手を当てて、天井を仰いでいる。

 

 陽菜も思春も驚いて目を瞬いている。

 だが思春は素早く正気に戻り、俺と夏侯惇の間に割って入ろうとする。

 

「きさまっ……!?」

 

 俺は護衛の役目を全うせんとした彼女の肩を抑えて止める。

 

「いい、甘卓」

 

 俺が制した事で彼女は渋々ではあるが引き下がり、俺と陽菜の後ろへと戻った。

 

「元譲殿。手合わせするのは構わない」

 

 俺が同意するとぱぁっと彼女の顔が明るくなった。

 

 なんだろうな。

 周りには年の割りに大人っぽい子供が多かったから、こういう反応はなんだか新鮮だ。

 

「しかし今日はもう日が暮れる時刻だ。だから明日、日が昇った後に改めてでも良いか?」

「「「「あっ……」」」」

 

 甘卓と曹操たちの声が唱和する。

 窓の外が薄暗くなっている事に彼女たちは俺に言われるまで気付いていなかったようだ。

 

「そ、そうですね。ご配慮ありがとうございます」

 

 勢い込んで約束を取り付けた事が恥ずかしかったのか、夏侯惇はぱたぱたと曹操の後ろへと戻っていった。

 

「はぁ、凌刀厘様。部下が失礼をしました」

「いや、失礼と言う程の事ではない。では続きは明日という事で今日はここまで、でいいか?」

 

 部下の暴走に蟀谷を押さえながら、曹操は咳払いを一つして頷いた。

 

「わかりました。では明日は日が昇った頃に妙才を迎えにお出しします」

「わかった。宿の場所は西門の傍にある宿だがわかるか?」

「存じ上げております」

 

 夏侯淵が頷くのを確認し、曹操は次に夏侯惇を見る。

 

「では元譲、孫幼台様たちを宿までお送りしなさい」

「はいっ!」

「……あまり張り切り過ぎないようにね」

 

 背筋を伸ばしてはきはきと返事をする夏侯惇の姿に、曹操はまたしてもため息を零す。

 その年季の入ったため息だけで、この子が暴走するのが割と頻繁にある事のようだとわかった。

 

「あ、そうだ。私の事は真名で呼んでちょうだい。陽光の陽に山菜の菜で陽菜って言うの。次からはそれで呼んでね」

「幼台様!?」

 

 物のついでのように真名を預ける陽菜に思春が目を剥いて驚愕の声を上げる。

 

「あらあら、そんなに驚かなくてもいいでしょう? 私が許したくなったというだけだもの」

「そういう事ならば俺も名乗っておこう。真名は駆ける狼と書いて駆狼だ」

「刀厘様まで!?」

 

 思春は咎めるように叫ぶが、自分の真名を預ける事にそれほど抵抗のない俺たちとしてはまぁこんな物だろう。

 あちらが預けるかどうかはまた別の話だからな。

 

 とはいえこちらの真名を預かった事はあちらにとってかなり衝撃的な事だったようで、あちらも喜んで真名を預けてくれた。

 曹操が華琳(かりん)、夏侯惇が春蘭(しゅんらん)、夏侯淵が秋蘭(しゅうらん)なのだそうだ。

 ちなみに彼女らは思春にも真名を預けている。

 どうにもこの子の実力についても間諜の類から報告を受けているらしく、その腕前は真名を許せる程度に認めているという事らしい。

 

 そして思春も渋りはした物の相手から預けられた事もあって最終的に真名を預ける事になった。

 

 余談だが真名についてのごたごたのせいで屋敷を出る頃には完全な夜になっていた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十四話之裏

 可能ならばあの方たちと話をしてみたいと考えていた。

 

 武において建業一と言われ官軍の悉くを返り討ちにしてきた『鈴の甘寧』を倒した凌刀厘様……もとい駆狼様。

 たった数ヶ月で遠征軍を一から造り上げた実績、彼らを従えて賊を討伐した成果、作物の栽培すらも行える豊富な知識。

 武だけに留まらぬ力を持つあの方がどのような人物なのか、私はこの眼で確かめたいと思っていた。

 

 そして様々な方面にて新しい着想をもって政(まつりごと)を行い、領土に平和をもたらすべく尽力する孫幼台様、もとい陽菜様。 

 豪族上がりで太守の座についた姉である孫文台様を、親友である周公共様と共に陰に日向に支え続けた忠臣。

 おそるべきはその頭脳が生み出す発想力と柔軟性。

 恐らくこの方の存在が無ければ、建業は太守交代から今まで続く並々ならぬ速度の発展と領土の安寧はなかったとさえ思える。

 いえ孫文台様や周公共様たちがいれば発展はしただろうけれど、僅か数年でここまで飛躍する事はなかったはずだ。

 

 

 恥ずかしい事に、私はお爺様に言われるまで建業にさして注目をしていなかった。

 腐れ縁の麗羽(れいは)や劉表、そして首都で策謀を巡らせる十常侍や近隣諸国の間諜に力を入れていたからというのもある。

 その頃の私たちの周りにいる男というものは軟弱で媚を売り、口ばかりで何もできないそんな情けない存在の代名詞で蔑視の対象だった。

 だからそんな男を登用し、そんな男が名を上げている領土など高が知れているという侮りがあった。

 

 お爺様が私たちへ建業の話を聞かせなければ。

 実の父親すらも蔑視の対象としていた私は、そう遠くない未来で取り返しのつかない過ちを犯していただろう。

 

 いえ既に過ちは起こしている。

 陳留の、いや私の遥か先を行く政策を行い将来的に当時の私たちを歯牙にもかけないほど巨大な勢力になる可能性を秘めた存在を無視してきたという愚行だ。

 

 それから私と秋蘭は建業で行われている事をすべて間諜に調べ上げさせた。

 城への潜入は出来なかったが、市内については間諜が入りこんでも手出しする事はないらしい。

 見て取れる政策についてはどんな小さな事でも報告させてきた。

 

 前例のない政策。

 月日が流れれば流れるほどに安定する街の治安。

 そして力をつける兵士たちの情報がこれでもかと報告された。

 

 愕然とした。

 なぜこれほどの勢いに乗った存在を今まで無視できたのかと己を思いつく限りの言葉で罵倒した。

 

 衝撃を受けた私たちにさらなる追い打ちになる言葉を間諜が告げる。

 

 間諜たちは市内に潜伏している間、生きた心地がしなかったと言う。

 なぜなら巡回の兵士たち、交番という街中に等間隔で置かれた兵士たちの駐在所にいる者たち。

 末端の兵士たちである彼らは間諜たちの存在に気付き、あろうことか武力を伴った警告までしてきたのだと。

 

「恐るべき事に、ヤツラは我らが街にいる事を許容しております。城に入りこまず、また領民に手を出すような真似をしなければあえて手を出すつもりはない。主にそう伝えよと、言付けられた我らは総出で一度捕縛され、そして全員が叩きのめされております」

 

 そう言った間諜の身体には少なくない打撃による痕が付いており、その唇は捕まった挙句に見逃された悔しさに噛み締められていた。

 私たちが手塩にかけた間諜たちの存在を見切り、あろうことかあえて見逃す。

 その行動から読み取れるのは街から取れる情報では自分たちを害する事は出来ないという意志と、言伝られた事項を破ればただでは済まさないという意志だった。

 

 末端の兵士一人一人にまで間諜の見分け方を仕込むなど一体どのようにすれば出来るというのか。

 

 

 それからの私たちは他への間諜をそのままに建業の行動を常に注視しながら、彼らの政策を分析し領土に取り込めないか考え、ソレとは別により効果的な新しい政策を考える日々を送った。

 ただ我武者羅に、ひたすらに、遠いその背を追うように。

 

 そしていつしか私よりも先を行く発想力や行動力への悔しさや嫉妬心を内包したその気持ちは、尊敬の念へと昇華されていた。

 

 父から太守を譲り受け、自らの手で領土の安定に乗り出してからはますます持ってその尊敬の念は強くなっていった。

 面と向かって会った事もないと言うのに、いつの間にか建業の方々には常に敬意を払うようになっていた。

 

 敬意を払わなければいけないと感じるだけの差があると私は確信していた。

 ただこのままでは絶対に終わらないという競争心も私の中にはある。

 そしていつか必ず追いつき、追い抜き、建業のすべてを私の配下に収めてみせるという野心も。

 

 その為にも私はこれからも強くあらなければならない。

 そんな気持ちを胸に私は日々を過ごしていた。

 

 

 

 

 その日、春蘭は部隊の調練に。

 秋蘭は朝から交番の兵士たちへの抜き打ち監査の為に外出。

 私は今の民の暮らしと今後役に立つ政策について自室で思案していた。

 

 そんな『いつも通り』が変化したのは太陽が西に傾き始めた頃。

 帰ってきた秋蘭の報告を伝えてきた門番の言葉に、思わず耳を疑ってしまった。

 

「悪いのだけどもう一度言ってくれる?」

 

 門番を勤めている目の前の男の言葉が信じられず思わず聞き返す。

 

「妙才様が孫幼台様、凌刀厘様とお二人の若君と思しきお子と護衛の者を屋敷にお連れしました」

 

 先の言葉と一字一句違えずに復唱する門番の言葉に、私は弾かれたように気を取り直し動き出す。

 

「貴方はすぐにこの事を屋敷中に周知してきて。その後は春蘭を呼びに行ってちょうだい!」

「御意」

 

 頭を下げすぐに行動を起こす。

 寡黙だが、課せられた職務はきっちりこなす有能な男だ。

 

「誰かある! 応接室にお客様をお迎えする準備を。塵一つ見逃さない心積もりで行いなさい」

「御意に」

 

 傍付きの侍従が頭を下げて部屋を出る。

 

「あとは……私が気持ちを落ち着けるだけね」

 

 指示をしている間も、私の心の臓は五月蝿いほどに早鐘を打っていた。

 こんなにも緊張した事は過去に数度しかない。

 結婚式場から花嫁を攫ったあの時ですら楽しむ余裕があったと言うのに。

 

 なんて無様な。

 何も知らない生娘というわけでもないというのに。

 

 自嘲しながら私は深呼吸をして心を落ち着ける。

 どたばたと廊下からこちらに向かってくる足音が聞こえてくる頃には、いつも通りの私に戻っていた。

 

「春蘭……あの子はまったく」

 

 騒音があの方々に届いたらどうするのか。

 

「華琳様!」

 

 両開きの扉を力任せに開き、その目を輝かせながら私の名を呼ぶ。

 私の大事な片腕であり、愛おしい子の一人である春蘭だ。

 

「落ち着きなさい、春蘭」

 

 ため息を零しながら注意をする。

 この子は私の言う事にはなんでも従ういじらしい子なのだが、思慮が浅いのが偶に傷だ。

 

「あの方々がいらっしゃったというのは本当ですか!」

「私がこんな嘘を貴女につくはずがないでしょう。それよりも落ち着きなさい」

 

 鼻息の荒い彼女をやや強引に諌める。

 この子があの方々の前で暴走するのはどうにかして抑えなければならない。

 

 そうこうしている間に、準備が出来たと侍従が伝えに来た。

 春蘭が暴走しないかはまだ不安だけれど、あまりお待たせするわけにはいかない。

 

 侍従には秋蘭への言伝を言い渡し、私たちは応接室へ。

 応接室に向かう足取りは心なしかいつもより早くなってしまっていた。

 私自身がまだ完全に落ち着いたわけではないようね。

 自分が浮き足立っているのだと再認識する。

 

 掃除の行き届いた部屋で平静を保つよう自らに言い聞かせながら、秋蘭とお客様方が来るのを待った。

 

 

 

 直に対面したあの方々は私たちが知った情報通りの人物であり、想定を超える人物でもあった。

 

「陳留の治世が建業よりも安定している、か」

 

 私を見つめたお二人の言葉に嘘はなかった。

 それなりの地位を持つ私や都にて未だ衰えぬ権威を誇る祖父に媚を売るような意図は見えず。

 その言葉からは心の底から私を賞賛し、そしてそこから学び取ろうとする強い意志のみが感じ取れた。

 

 あの方々に評価された自分を誇らしく思い、今まで必死に彼らの治世を調べ上げその意図を理解しようとしてきた努力が報われたような気がした。

 

 彼らに認められるために政をしてきたわけではないと喜びに震えそうになる己を戒める。

 その言葉が本当なのか疑う気持ちを捨て切れずに埒もない反論をしてしまった。

 

 しかしらしくない私を、無礼と言ってよい態度を取った私を。

 あの方々は冷静に、真剣に宥めすかしてくれた。

 

 初めて顔を合わせた人間にああも感情的になってしまうなんて私もまだまだという事かしら。

 

 己を嘲るように笑う。

 なんとも形容し難い気持ちは、会合を終えた今も私の心に燻っていた。

 

「華琳様。姉者が陽菜様方をお送りして戻りました」

 

 部屋の戸越しに声をかけてくる秋蘭。

 

「そう。報告ご苦労様。悪いのだけど今日はもう休ませて貰うわ。あの子も明日に備えてもう休むようにと伝えてくれるかしら」

 

 私はそちらに視線を向ける事無く労い、暗に部屋に入らず休むように言う。

 今は誰かと顔を合わせる気分ではなかった。

 

「……はい。それでは華琳様。お休みなさい」

「ええ、お休み」

 

 おざなりな返答。

 あの子は聡いから私がどんな気分なのか、ある程度は察しているんだろう。

 ほんの少しの間、戸の前に留まっていたがやがて気配は遠ざかっていった。

 

「……」

 

 無意識に窓へと近づき、覗き込むように空を見上げる。

 夜闇を照らすように輝く月が目に入った。

 薄暗い部屋を照らす綺麗な月の柔らかな光が心地よい。

 

 その光は、私に話を聞かせる時のお優しいお爺様の姿を思い描かせた。

 次に脳裏を過ぎったのは私に陳留太守の座を譲った父の顔。

 

「私は私の治世を恥じるつもりはない。こうしてお前に引き継ぐ事が出来たのだから」

 

 その言葉を受けた時は、我が父ながらなんと情けない言葉かとそう思った。

 己で飛躍する事を諦めた弱者の言葉など聞きたくも無いと。

 

 あれは本当にそうだったのか。

 父は己の分を弁え、それでも出来る事をやり遂げたのではないかとなぜか今はそう思えた。

 

『考えてもどうにもならない事はある。どれだけ必死にやろうとしても出来ない事もある』

 

 駆狼様の言葉が頭の中で何度も反芻される。

 

『君は強い人間だ。無論、単純な腕っ節の話じゃあない。しかしだからこそ知らない事も多いんだ。周りを見渡しなさい。傍で支える者の気持ちを知りなさい。君に感謝している民の言葉を知りなさい。君が為した事の結果をしっかりとその目で見なさい』

 

 あの方の言葉にはなぜか聞かなければならないとそう自然に思わされる重みがあった。

 長い年月を過ごした人物のみが持つ重みを感じるのだ。

 

 無礼ながらも私を諌めるように言葉を言い放つあの方の姿は私にお爺様を連想させた。

 いまだ陽菜様や駆狼様の言葉に納得は出来ていない。

 しかしだからこそ考えなければならない。

 

「私がさらに飛躍する為に」

 

 決意を込めた声音で紡いだはずの言葉は、自分でも不思議だと思うほどに弾んでいた。

 

「まぁいいわ。一先ずのところは明日の春蘭と駆狼様の手合わせがどれほど凄い物になるか楽しみにさせてもらいましょう」

 

 寝台へ潜り込み目を閉じる。

 

 寝つきは良い方ではなかったが、この日はすんなりと眠りに付く事が出来た。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十五話

 曹孟徳、いや華琳たちとの会合の翌日。

 俺たちは宿で朝食を取り、華琳が言っていた迎えが来るのを部屋で待っていた。

 

「駆狼様……なぜヤツの不躾な願いを聞き入れたのですか?」

 

 納得行かないという思いが込められた不満げな声音で問いただす思春。

 俺はなんとも子供らしい姿を見せてくれる彼女に苦笑いを返しながら答えた。

 

「建前としては彼女らからの頼みをたとえ非公式の場であっても断るのはまずいと思ったからだ」

 

 それは建業の立場を考えれば自然と行き着く答えだ。

 ただまぁ彼女らは本心からこれを気にするなと言ってくれていた。

 自分でも言ったようにこれは建前でしかない。

 

「本音は単純に彼女の実力が知りたかったんだ」

 

 曹孟徳の片腕にして陳留随一の武官。

 彼女の力を知る事は、華琳たちの力を計る指針となるだろう。

 

「華琳たちは……昨日話した様子から見て、いずれ建業と敵対関係となる可能性がある。だからこそ春蘭の実力を測ろうと思ったんだ」

「なるほど。そのようなお考えが……」

 

 納得する思春だったが実の所、これで理由の全てというわけではない。

 むしろ言わなかった部分こそが最も大きな理由だ。

 

 他所にいる同じ年の人間がどれほどの強さを持つのか、思春には出来るだけ多くを知っていて欲しい。

 

 この子はそう遠くない将来、建業を担う武官になる。

 その時に対峙する可能性がある相手が、どれほどの物か見せておきたかったんだ。

 

 涼州ならばそれは翠や蒲公英たち。

 この陳留ならば、それは春蘭と秋蘭だ。

 華琳も相当な実力者だろうが、武官として前線に出る人間というわけではない。

 

 流石に俺たちの方からああいう事を申し出るわけにはいかなかったから、春蘭からの申し出はまさに渡りに船と言えた。

 

「護衛として俺たちに危険が及ぶのを防ごうとするお前の気持ちはわかる。だがそこを押して今回は堪えてくれ」

「……わかりました」

 

 思春はまだ不満げな語調ではあったが、それでも納得してくれたようだ。

 

「すまないな」

 

 そんな話をしていると迎えとして秋蘭がやってきた。

 

「お待たせしました。参りましょう」

 

 彼女は静々と俺たちに会釈し不快にならない絶妙な先導をしてくれる。

 手馴れたその所作には、やはり年齢不相応の気苦労を感じさせた。

 昨日も思った事だが、俺よりもおそらく十歳は年下のはずだと言うのにここまで気遣いが出来ると言うのはそれだけで一つの才能だと思う。

 もっとも彼女の場合、周りを止めなければならない環境から自然とそうなった可能性が高いが。

 

「あの、何か?」

 

 蘭雪様に振り回されている事が多い俺たちと被る部分があったからか、つい労わるように見つめてしまっていたらしい。

 

「なんでもないさ。そういえば彼女の調子は万全か?」

 

 戸惑ったように声をかけてくる彼女に首を振って応え、話を変える。

 わざわざ言う必要もないくらいに詮無い事だからな。

 

「え、ええ。近年稀に見るほどの気迫で夜明け前に起きて鍛錬場で素振りをしていました。屋敷の者たちが素振りの風切り音で軒並み起こされる程度には気合が入っております」

 

 その時の様子を思い出したのか、秋蘭は年季の入ったため息を零す。

 俺はそんな彼女の言葉から、あの子が俺との模擬戦をよほど楽しみにしている事を理解した。

 

「ソレは凄いな。俺も一層、気を引き締めるとしよう(少なくとも彼女の期待に沿える程度には)」

「そう言っていただければ幸いです。姉者も今の言葉を聞けば喜びます」

 

 そんな話をしているうちに昨日訪れた華琳の屋敷へと到着。

 既に持て成しの準備は出来ていたようで、俺たちはすぐに華琳の待つ部屋へと通された。

 

「本日はこの子のお願いを聞いていただき、本当にありがとうございます」

 

 着いて早々に深く頭を下げる華琳。

 こちらが了承したとはいえ、部下の突飛な行動をまだ気に病んでいたらしい。

 彼女の礼に追随するように春蘭が勢い良く頭を下げ、秋蘭もまた静かに頭を下げた。

 

「こちらは了承しているんだ。そこまで気にする必要はないぞ」

「そう言っていただけるのはありがたいのですが、こちらの無作法は事実です」

「ではその謝罪を持ってこの件については終わりにしよう」

 

 彼女らがこの一件に対して真剣な事は理解したが、いつまでも引きずられてはたまらない。

 手打ちにする旨を伝えると、華琳は難しい顔をしながら渋々と頷いた。

 こちらがこれ以上の謝罪を望んでいない事を理解してくれたのだ。

 

「……わかりました。皆様の広いお心に感謝します」

「ああ。それじゃあさっそくだが模擬戦をする場所へ案内してくれ」

 

 俺が移動しようと腰を上げると、春蘭が目を輝かせて動き出した。

 

「!! ご案内します!」

 

 先ほどまで身体を動かしたくてうずうずしている様子が見て取れていたが、なかなか欲に忠実な子だな。

 

「春蘭……貴女って子は」

「姉者……」

 

 華琳と秋蘭の春蘭を見つめる目には呆れと諦めのようなものが入り混じっていた。

 

「ん? どうかなさいましたか、華琳様? どうしてそんな呆れたような顔をしているのだ、秋蘭?」

 

 そして当の本人は色々と無自覚のようだ。

 彼女の武官としての今後が心配になるが、まぁそこは華琳や秋蘭に頑張ってもらうとしよう。

 既に諦めが入っているので矯正は望み薄のようだが。

 

「では春蘭、案内を頼む」

「はい!」

 

 心底、嬉しそうな顔は実年齢以上に幼く見えた。

 だがしかしその身のこなしを見ればよく鍛えられている事は理解出来る。

 今のところ、思春や翠と同じ程度の実力と見込んでいるが……油断や慢心は即敗北に繋がるだろう。

 スキップでもしそうなほどに楽しげに先導する春蘭を他所に、俺は気を引き締めた。

 

 

 

 鍛錬場は屋敷の裏手にあった。

 屋敷の敷地が丸々もう一つあるくらいの広さがあり、普段は彼女らの部隊の人間が鍛錬に勤しんでいるのだろう。

 今はその広い空間には誰もいない。

 おそらく華琳が事前に人払いをしておいたのだろう。

 

「これから行われる事は私事ですので。おおっぴらにならないように手を回させていただきました」

「私たちにも配慮してくれたのでしょう? ありがとう、華琳ちゃん」

「あ、いえ……どういたしまして」

 

 背後で行われている陽菜と華琳の会話が俺の推測が正しいものだと教えてくれた。

 

「すまないが身体を動かす時間をくれないか? 少し身体を解しておきたい」

「それで万全の状態の貴方と試合が出来るのでしたら喜んで! どれほどお待ちいたしましょうか!!」

 

 威勢よく話す春蘭に早くも慣れ始めてきたな。

 

「では四半刻で頼む」

 

 気負い事無く最低限必要な時間を提示してすぐにその場で準備運動を始めた。

 

 大きく息を吸い、そして吐く。

 何もない空間に拳を、蹴りを繰り出す。

 頭に浮べた仮想敵に対して間合いを計り、有効な攻撃を考え、そして放つ。

 風を切る音を置き去りにする気持ちで身体を動かす。

 付け入る隙を与えぬように動き続ける。

 

 昨日の己よりも速く、鋭く。

 昨日の己よりも強く。

 

 見つめる視線を意識から完全に外し、俺は敵にのみ意識を集中した。

 体内時計で四半刻が過ぎた頃、俺はぴたりと動きを止める。

 大きく息を吐き緊張を維持したまま周囲を見回すと、陽菜と玖龍を除いた面々の食い入るような視線と目が合った。

 

「そろそろ時間か。待たせてしまってすまなかったな、春蘭」

「……」

 

 声をかけられた少女はなぜかごくりと生唾を飲んだ。

 

「どうした?」

「あ……はい! さほど待っていませんでしたので大丈夫です!」

 

 慌てて返答する彼女の様子に首を傾げるが、まぁいいだろう。

 

「それじゃあ始めよう。誰か審判を、それと開始の合図を頼めるか?」

「それでは僭越ながら私が……双方構えてください」

 

 秋蘭が俺たちの間を区切るように立ち、右手を掲げる。

 彼女の所作で気持ちを切り替えたらしい春蘭は刃引きがされた曲線型の大太刀を両手で握り締めた。

 俺は肩幅ほどに足を開いて拳を握る。

 

「それでは……始め!」

 

 合図と共に下ろされる右手。

 俺たちは示し合わせたように同時に前へ踏み込んだ。

 

 

 

 踏み込んだのは同時だった。

 しかし春蘭が一歩踏み込む間に駆狼は両足で一歩ずつ、つまり合計二歩の踏み込みを行っていた。

 

「(速い……!?)」

 

 同時に行われた動作の僅かな差。

 しかしその一歩の差はそのまま行動の速度へ、そして攻撃の威力へと還元される。

 

「っ!!」

 

 春蘭は咄嗟に大太刀を振り下ろさず刀身を地面に垂直に立てることで自身の胴体を守る盾にした。

 真っ直ぐに胴目掛けて放たれた右掌底が盾となった大太刀とぶつかりあう。

 

 次の瞬間、防御の上から響く轟音と共に彼女の身体は吹っ飛ばされた。

 

「がぁっ!?」

 

 思わず声を上げるが、防御が間に合ったお蔭で痛みはない。

 彼女は危なげなく着地すると同時にすぐさま体勢を整える。

 正眼に構えた武器の切っ先は、威嚇するように右手を突き出した姿勢の駆狼へと向けられた。

 

 おそらくただの兵士が対峙すれば戦意を喪失するほどの気迫を今の彼女は放っている。

 だが目の前の相手はそれを感じ取っているかすらも定かではないほどに表情を動かさない。

 ただ静かに相手である春蘭を見つめていた。

 

「(咄嗟の反応が速いな。初めの頃の翠なら今ので終わっていたんだが……)」

 

 その表情の裏で、彼は春蘭の実力を分析していた。

 

「(現段階での身体能力はおそらく俺が関わった若者では雪蓮嬢と同等。様子見は長く続けられない。そして長期戦になればどうなるかわからん)」

 

 彼我の戦力を比較しながら彼は次の行動を模索する。

 

「うりゃぁああああ!!」

 

 気迫と共に放たれる横薙ぎの一閃。

 徒手の間合いの外から放たれた一撃に対して、駆狼は後方へ飛び退く。

 それを隙と見做した春蘭は、垂直に構えた大太刀で地面を割らんばかりに踏み込み、突きの一撃を放った。

 だがその一撃は彼の手甲によって手応えもなく、彼の身体の外側へと逸らされてしまう。

 

「うっ!?」

 

 視覚的には攻撃が当たっているはずなのに、その手には手応えがないという不可思議で未知の感覚。

 春蘭は初めてのその感覚に呻き声を上げながら刀を引いた。

 

 それがいけなかった。

 

 彼女のこの行動を勝機と見た駆狼は、彼女が引いた太刀を追うように地を蹴る。

 

「っ(懐に入られるのは拙い!?)」

 

 度重なる鍛錬と類稀な才能が生んだ直感が彼の行動の危険性を伝え、春蘭は両手で握り込んだ大刀を己が最も得意とする大上段に持ち上げる。

 そこからの振り下ろしは彼女最大の攻撃だ。

 最も信頼し、最も自信を持つ一撃。

 太刀を引く際に一度は後ろに引いた足を彼を迎え撃つ為に前へ出す。

 その踏み込みは日々の鍛錬で数えるのも馬鹿らしいほどに反復してきた基本にした理想的な物だった。

 

 身体に叩き込まれた基本がここに来て活きたのだ。

 

「ずぁあああああっ!!!」

 

 そして踏み込みの勢いを最大限活かした振り下ろしが放たれる。

 多少の運に恵まれはしたが、それは彼女にとって過去最大の一撃と自負できるほどの一撃だった。

 

 しかしその一撃は。

 彼女が振り下ろす瞬間に彼女の懐深くに踏み込んだ男が振り下ろしたタイミングの二の腕を掴んだ事で無意味な物になった。

 最大の一撃に高揚していた彼女の意識が目の中の自分が見えるほどに近い男の顔を見て急激に冷えていく。

 春蘭の背筋に危険を知らせるぞくりとした感覚が走るが、彼女が反射的に動くよりも速く駆狼は詰めに入っていた。

 

 踏み込んだ彼女の足が払われる。

 浮かんだ身体は制御できず無防備になった襟首を蛇のようにしなった右手に取られてしまう。

 彼女は本能的に首を後ろに引くが、がっちり握りこまれた右手はその程度の抵抗ではびくともしなかった。

 二の腕を掴んだ左手、襟首を握った右手によって彼女の身体は彼が向けた背中へと引き寄せられる。

 彼女の振り下ろしの勢いすらも利用した、無駄なくそれでいて鋭い勢いを持って戦いの中で昇華された駆狼の『一本背負い』が完成した。

 

「ごっ!? はっ……」

 

 次の瞬間、背中から地面へ叩きつけられた春蘭は今までに受けた事のない衝撃にすべての酸素を肺から吐き出す事になる。

 

「うそ、でしょう」

 

 そう呟いたのは華琳だった。

 しかし審判を買って出た秋蘭も目を見開いて固まっている。

 声にこそ出さなかったものの内心では華琳と同じ気持ちなのだろう。

 頭は弱くとも武ならば曹操軍随一のあの夏侯元譲が、終始押され続けた上に何も出来ぬままに負けたのだ。

 心に受けた衝撃に、彼女らは呆気に取られていた。

 

 

 対して付き合いの長い者たちはこの結果がどういう物かを正確に察していた。

 陽菜は楽しげな表情を浮かべ、思春は眉間に皺を寄せて対峙していた2人を見つめている。

 

「本気で撃退したわね。駆狼は春蘭ちゃんを手加減出来ない相手だと判断したって事かしら?」

「……それほどの実力を持っていると判断されたのだと思います」

 

 思春の言葉は硬く、その真剣な面持ちにはどこか苛立ちのような物が見え隠れしている。

 

「単純に考えて翠ちゃんと同じくらいには強いのね、あの子。思春ちゃんや翠ちゃんたちもそうだったけれど、最近の若い子は凄いわね。頼りになるわ」

「いえ、私など駆狼様や慎様たちには遠く及びません」

 

 二人の談笑を他所に、春蘭はふらつきながらも立ち上がる。

 背を強かに打ち付けてはいるが、そこは元より常人以上に頑丈な身体。

 一度投げられたくらいで動けなくなる事はない。

 しかし己の最高と自負した一撃をあっさりと返された事実への精神的な衝撃は未だに収まっていなかった。

 

「……っ」

 

 動揺から構えられた太刀の切っ先は揺れ、その表情からは焦りにも似た感情が鮮明に浮かび上がっている。

 誰が見ても読み取れるほどに。

 武器を構えてはいるものの彼女は完全に及び腰になっていた。

 こんな春蘭は付き合いの長い華琳たちも見た事がない。

 

「落ち着け。致命傷を受けたわけではないんだ」

「っ……」

 

 叱責する男の声からはその表情と同じく生来の気安さが抜け落ちており、どこまでも重く春蘭の心にのしかかる。

 

「両足には力が入るだろう? 両手で武器を握れるだろう? 相手の姿を見る事が出来るだろう? これは模擬戦だ。ならばやる事は一つじゃないのか?」

「……すぅー、はぁーーー」

 

 春蘭は深呼吸をすると自分の額を右手で殴りつけた。

 鈍い音が周囲に響き渡る。

 

「……ふぅ~~、申し訳ありませんでした。もう少し胸をお借りしてもよろしいでしょうか?」

 

 駆狼に向けられた切っ先に揺れはもうなくなっていた。

 

「構わない。お前が満足するか俺の体力が尽きるまで付き合おう……」

「ありがとう、ございます!」

 

 言葉が終わるか否かのタイミングで、春蘭は駆け出す。

 

「せいっ!!」

 

 姿勢を低く保った状態で腰を狙った横薙ぎの一閃。

 駆狼は迫る脅威に対してその場で垂直に跳躍。

 

「ふっ!」

 

 跳躍の時に折り曲げた足の下を刀が通り過ぎていった。

 

「隙有り!」

「うぐっ!?」

 

 横薙ぎの勢いを利用した回し蹴りが、中空にある駆狼の身体に突き刺さる。

 咄嗟に両手で防御したが、浮かんでいた身体は衝撃によって吹き飛ばされた。

 ごろごろと地面を転がるも彼はすぐに立ち上がる。

 起き上がった彼が視線を春蘭がいた場所に向けると、大太刀を振り上げた春蘭の姿があった。

 

「(真正面から攻撃を返されたことを警戒したんだな。だから相手の体勢を崩し確実に当てる状況を作ってきた)」

 

 その対応の早さに駆狼は内心で舌を巻く。

 振り下ろされた大太刀に対して、彼は不完全な体勢のままだ。

 

「(カウンターで合わせるのは無理、か)」

「どりゃぁっ!!」

 

 初手の一撃以上の気迫と共に放たれた一撃。

 駆狼は迫る刃を凝視しながらも、右掌で刀の柄を殴りつけた。

 目前にまで迫った刃はその衝撃で逸れてしまい、勢いのままに地面を打ち付ける結果になる。

 轟音と共に訓練場に土煙が舞い、両者の視界が遮られた。

 

「くっ、しまった!?」

 

 春蘭は駆狼がいただろう箇所に闇雲に武器を振るう。

 しかし風を切る音と共に土煙が晴れるだけだった。

 そこに駆狼の姿はない。

 

「どこ、にっ!?」

 

 横合いから左脇腹に突き刺さった拳に、彼女の言葉が止まる。

 春蘭は土煙の中から弾き出され、受身を取る事も出来ずに地面を転がった。

 

「まだっ!」

「ちっ!?」

 

 しかし攻撃に吹き飛ばされる瞬間。

 彼女が意地で繰り出していた蹴りが追撃しようとしていた駆狼の頭部を狙う。

 その場から後方に飛び退いた結果、彼の目前を蹴りが通過しただけに留めた。

 だがその意地は駆狼の追撃を防ぎ、彼女が立ち上がるだけの時間を稼ぐ事に成功していた。

 

「まだ、まだ……」

 

 大太刀は未だに握られたまま、集中を妨げる脇腹の痛みを意志の力でねじ伏せ、彼女は真っ直ぐに駆狼を睨みつける。

 

「来い」

 

 その意を汲んだ駆狼はただ一言告げ、その言葉に弾かれたように春蘭が動く。

 

「うおおおおおぁあああ!!!」

 

 この後、模擬戦の域に収まらないほどに戦いは過熱。

 食事も抜きに戦い続けた二人の身体を案じた思春、秋蘭、華琳が総出で止めるまで続く事になる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十六話

 俺と春蘭の模擬戦は太陽が傾く頃に終わった。

 俺は彼女の攻撃を一撃たりとも受ける事は無く、周囲から見れば余裕を持って相手をしていたように見えただろう。

 

 だが現実はそうではない。

 一撃でも当たっていれば俺は負けていた。

 春蘭の攻撃は一撃一撃が必殺の威力を持っている。

 受け流す度に腕の痺れでどうにかなりそうだった。

 どうにか無表情を取り繕っていたが、途中から受け流すのではなく避ける事に集中していなければ両腕はしばらく使い物にならなくなっていただろう。

 

 それに彼女の得物が模造刀、つまり太刀の形をした『鈍器』だったからこそ切り抜けられた場面も多々あった。

 実戦で対峙するともなればもちろん刃引きなどされていないだろう。

 そうなれば斬り捨てられていたと予想出来る局面があった。

 

 『模擬戦』という形式によって俺は命を救われていたんだ。

 深桜からもらった『変節棍』を使わずに戦った俺にとって、今回の戦いは『俺がまだまだ未熟である』という知る事が出来た大いに勉強になる結果と言える。

 こんな風に冷静に考えられるのは既に模擬戦が終わり、過熱し切っていた頭が冷えたからこそなのだが。

 

「本日は私の不躾なお願いを聞いていただき本当にありがとうございました!」

 

 九十度の深い一礼と共にお礼を言う春蘭。

 

「ああ。こちらも勉強になった。まだまだ先は長い。お互いこれからも精進するとしよう」

「はい!」

 

 本人の気質が愚直なまでに真っ直ぐである事も相まって、俺は目の前の子の事を内心では『先が楽しみ』と言うよりも『先が怖い子』だと思っている。

 もちろんそんな思考を察知されるほど表に出す事はないが。

 

 しかし思い返してみると俺は夏侯惇や甘寧、馬超や馬騰など色々と前世で名を馳せた武将と対する機会が多い。

 前世で知った歴史とのずれはどんどん増していき、知識がどこまで役に立つかはもはや未知数。

 だが武将として名を馳せた者たちは、その悉くがただの兵士とは一線を画する強さを持っているという事だけはほぼ間違いない。

 

 であれば彼女らよりも、いや三国で最も武に優れていたとされる『あの男』は一体どれほどの実力を持っているのか。

 ふとそんな事が気になった。

 あと個人的に性別がどちらなのかも。

 

 

 春蘭との白熱した模擬戦が終わり、彼女らの好意で夕餉を頂いた後。

 俺は話がしたいという華琳に呼ばれ、彼女の自室へ足を運んでいた。

 

 彼女は俺と話す前に陽菜とも『個人的な話』をしていたが。

 わざわざ一人ずつと対面して会話したいと願い出るその意図は読めない。

 

 しかし断る理由もなかったので俺は特に気負う事もなく勧められるままに椅子に座り、対面に腰掛けた彼女と見つめ合った。

 

「申し出を受けていただきありがとうございます」

「俺としてもここを出る前に聞いておきたいことがあったんだ。だから気にしないで良い」

 

 そんな会話から始まった一対一の談笑。

 話題は主に今日の模擬戦についてだ。

 彼女から見て、春蘭が為す術もなくやられたというのは、とても衝撃的だったのだという。

 

「私は春蘭が本気を出して負けた姿など見た事がありませんでした。私を相手にした時はどうしてもその真っ直ぐな私への忠義故にあの子が手加減をしてしまうので……秋蘭との訓練は気兼ねなくやってはいるようですが、そもそもあの二人は互いが相手の時に本気を出しておりませんから。兵士の中にそのような兵(つわもの)はおりませんし」

 

 ほうっとため息を零す華琳。

 出会った当初からまだ一日しか経っていないが、当初の緊張やこちらに対する過剰とも言える敬意は多少緩くなったようだ。

 聞いている言葉には適度な柔らかさがあり、俺に対して素直に言葉を返してくれているように見える。

 

「春蘭は今よりももっと強くなるだろう」

 

 いずれは俺を越えるかもしれない、という事は黙っておく。

 そう易々と抜かれるつもりはないという決意を己に課す為に。

 

「あの子にとって万の賞賛に勝るお言葉です。その言葉を励みにあの子はさらなる高みへ登り詰めてくれるでしょう」

 

 右腕とも言うべき少女が褒められた事が嬉しかったのだろう。

 華琳は年齢相応に微笑みながら、俺の言葉に応えた。

 

「偶にはそうやって気を抜いて笑うといい」

「!?」

 

 俺の言葉が予想外だったらしく、彼女はびくりと身体を震わせて表情を硬直させた。

 どうやら自身が笑っていた事実に気付いていなかったらしい。

 何かを確かめるように武器を握るにしては小さいその手で自身の顔を撫でている。

 

「肩の力を抜いて初めて見えてくるものもある。それに……生きている限り、ずっと気を張り詰めている事など出来はしない。どれほど人間離れしていても、な」

「……それは」

 

 俺の言葉に、華琳はなにやら不安げな表情を浮かべながら口ごもった。

 反論しようとしたにしては、その態度は弱々しい。

 

「強くあり続けようとし、行動できるのは立派な事だ。しかしそれだけでは駄目だ」

 

 目を閉じて思い出されるのは両親、祭や陽菜たち、部下たちの顔。

 さらに遡れば前世の道場に集まった仲間たちや門下生、軍にいた頃の同僚たちの姿が思い浮かんだ。

 

 前世でも今世でも、俺は多くの人に支えられて生きている。

 彼らになら俺は己の弱さを曝け出す事が出来る。

 

 しかしこの子は。

 強くあるが為に誰かに弱音を吐き出す事が出来ない。

 弱音を吐けるほどに親しい者たちがいると本人が理解しても尚。

 

「お前は己の中に全てを溜め込んでしまう。お前ならそれを一生背負い込んで生きていく事も出来てしまうかもしれないが……それはあまりにも辛く苦しい事だ」

 

 彼女は誇り高く、そして獰猛な野心を内に秘めている。

 まさに俺の知る『曹操』の気質を持っていると言っていいだろう。

 しかしだ。

 それでも今、俺の目の前にいる華琳は雪蓮嬢や蓮華嬢たちと同じ年頃の少女なのだ。

 

 彼女の生き方を否定する権利など誰にもない。

 だがその為に自身の内にある弱さ全てを否定する必要はないんじゃないのか?

 

 俺は子を持つ親として、一度人生を全うした一人の人間として、これが余計なお世話であり、己のエゴに過ぎないと理解していても彼女に言葉をかける事をやめられなかった。

 

「……」

 

 しばしの沈黙。

 華琳は言葉を選ぶように一度、ぬるくなってしまったお茶で唇を濡らしてから口を開いた。

 

「あなた方はなぜ、私などをそこまで親身に気遣われるのですか?」

 

 搾り出すような華琳の言葉は心の底からわからないという疑問の声だった。

 

「西平の馬氏と異なり、同盟を組んでいるわけでもない他領地の小娘。いずれ敵対する事も容易に想像できますでしょう? あなたがたは私の野心にすら気付いている節があります。それがどれだけ危険な物か、わかっていらっしゃっていても尚……なぜここまで私の身を案じてくださるのですか?」

 

 一度口をついた言葉を皮切りに、矢継ぎ早に問いを投げかける華琳。

 その必死な様子はまるで、見知らぬ場所で道に迷って泣くのを堪えている子供のように見えた。

 

「不敬も覚悟の上で言わせてもらおう。……俺にとって、いや俺たちにとってお前は領主である前に守るべき子供なんだよ。子供を助け、折れぬように支えるのは大人である俺にとって当たり前の事だ」

 

 華琳の息を呑む仕草が見える。

 

「無論、戦場で敵対してしまう時がくれば、こんな甘い事は言えなくなってしまうだろう。俺の手で支えた者を倒す事もあるかもしれない。支えた子供が俺の大切な物を奪う事もあるかもしれない。……建業が滅ぶ一因となる事もあるかもしれない」

 

 その事を想像すると怖くもなる。

 だがしかし、それでも。

 

「それでも。目の前で苦しむ子供を見てみぬ振りなど出来ない。そしてそれこそがお前を気遣う理由だ」

 

 桂花を助けたときに俺は決めたのだ。

 相手の立場や立ち位置などに惑わされないと。

 

「……それはともすれば己を高く見積もった人間の傲慢な言葉になります」

「そうだな。だが、それでも……」

「それでも貴方はその在り方を続けると?」

「その通りだ。……俺は今この時も俺の言葉に悩んでいるお前を心配している」

 

 彼女の瞳が動揺に揺れ動いた。

 

「出会って数日も経っていない、さらに明後日にはここを発つ俺の言葉をどこまで信じるかはお前次第だ。身分違いの身の程知らずの戯言と切り捨てても構わない。だが……」

 

 そこで俺の言葉は途切れた。

 対面に座っていた華琳が俺の胸に抱きついてきたからだ。

 何事かと思ったが、それも一瞬。

 背に回った、この年の少女らしい小さな腕が震えていたから。

 俺はそっと彼女の肩に手を置いてされるがままにされる事にした。

 

「この密着状態なら短剣の一本もあれば貴方を殺せます」

「震える声で、する気もない事を言わなくて良い」

 

 見事なツインテールの髪を、そしてその頭を優しく撫でる。

 びくりと震えはしたものの彼女が嫌がる素振りはなかった。

 

「実の父すらも軟弱者と切り捨てた私が……誰かに甘える事など許されないと思っていました」

「それは違う。お前がそう結論付け、そうあり続けただけだ。案外、お前の父親はそんなお前を心配していたかもしれないぞ」

 

 ぼそぼそと告げられる言葉に答える。

 

「……私はあなたがた、建業といずれ対峙します。戦場で、相対する者として」

「覚悟の上と言ったはずだ。その時は全身全霊を持って迎え撃とう」

 

 背に回っていた彼女の手の力が緩む。

 

「だが今この時だけは、ただ大人に甘える子供でいればいい」

 

 緩みかけていた手が止まる。

 

「俺は曹孟徳ではない、ただ一人の少女である華琳を抱きしめているつもりだ」

 

「っ……くぅ」

 

 押し殺した声が顔を胸に押し付けていた彼女の口から漏れる。

 ただの少女が泣き止むまでの間、俺は彼女を黙って抱きしめ続けた。

 

 

 

 互いに今日の事は黙っておくとして俺は彼女の部屋を後にする。

 既に夜も更け、月が真上に昇っていた。

 そろそろ寝なければ明日に響くかもしれない。

 

 ぼんやりとそんな事を考えながら、俺たちに割り当てられた部屋へ向かう。

 その途中、物憂げな表情をした秋蘭を見つけた。

 

 いや見つけたというのは語弊がある。

 彼女は俺たちの部屋と華琳の部屋とを繋ぐ廊下で壁にもたれかかりながら、『誰か』を待っていたのだから。

 

「こんばんは、秋蘭」

 

 俺が声をかけると彼女は閉じていた目をゆるりと開き、俺に向かって深く一礼する。

 

「駆狼様、ご夜分遅くお疲れとは思いますが……すこしお時間をいただけますか?」

「わかった。どこかで腰を据えて話すとしよう」

 

 思い詰めた表情をする彼女の言葉に俺は即答する。

 

「あ、ありがとうございます。こちらへどうぞ」

 

 あまりにもあっさりと返答した俺に動揺しつつも、彼女は昼にも使っていた応接室へ先導を開始する。

 ほどなく部屋に着き、互いに向かい合って座る。

 その構図は先ほどまでの華琳の状態とまったく同じだ。

 

「私は自惚れていました」

 

 しばしの沈黙を経て、秋蘭は自嘲するように笑いながら口火を切った。

 

「華琳様と姉者。幼い頃より共に過ごしてきた二人の事なら知らぬ事はない、と。しかしそれは間違いだった」

 

 秋蘭は語り出す。

 

「華琳様が強くあろうとし、弱さを隠そうとしている事に私は気付いていました。しかし私はそれが華琳様のご意志ならばと見ぬ振りをしてきた」

 

 淡々と語る彼女の姿はまるで懺悔のようだった。

 

「しかし貴方の前で弱さを曝け出したあの方のお姿を見て、私は今までの己の判断を悔いております」

 

 今まで我慢してきた物が噴き出した彼女は、本当にただの少女のように泣きじゃくっていた。

 その姿にこの子は思うところがあったという事か。

 しかし、それを知っていると言う事は。

 

「見ていたのか?」

「申し訳ありません。駆狼様の事は信頼しておりましたが、様子が少し変だった華琳様が心配でいてもたってもいられず……」

「いや、それが当然だろう。気にしなくて良い。お前は臣下として主君を案じただけだ」

「寛大なお心に感謝いたします」

 

 話の続きを視線を促すと、彼女は静かに口を開いた。

 

「華琳様が陳留を治めるようになってから私は姉者が負けるところを見た事がありませんでした。負けた姉者があそこまでか弱くなる事を知りませんでした。そして貴方に叱咤激励をされた後に見せた苛烈さも……私は知りませんでした」

 

 昼間の模擬戦を思い出しているのだろうその様子に俺は口を挟まない。

 

「戦った後の……顔を腫らしながらも清々しく笑い貴方に礼を言う姉者の姿は痛々しいはずなのに今までにない魅力に溢れていた」

 

 春蘭は己の価値を高め、主へと捧げることを至上とする武官の鏡と言える気質を備えている。

 推測になるが俺と戦ったことで生まれたあの笑顔は、『これで私はさらに強くなる』という決意と『これでさらに華琳様のお力になる事が出来る』という喜びが混ざった物だ。

 

 俺も歴史の本でしか見た事はないが、戦国時代の武者などが近いのかもしれない。

 まぁここが戦国とさほど変わらない殺伐とした時代である以上、あの子のような人間は珍しくもないのかもしれないが。

 

「正直に言ってしまいます。私はお二人のまだ見ぬ一面を引き出した貴方に嫉妬しています」

 

 どこか澱んだ目で俺を見つめる秋蘭。

 その口から聞かされる言葉も、彼女の今の感情を表すように仄暗い響きを持っていた。

 しかし。

 

「そうか。安心した」

「っ!?」

 

 俺の返しが予想外だったのか、彼女は切れ長の瞳を見開いて声もなく驚いた。

 意味が分からない、とその目と表情が雄弁に語っている。

 

「お前は初めて会った時から努めて冷静であろうとしていたな? 華琳たちもそうだが、良い意味でお前は特に子供らしくなかった。だから安心したんだ。嫉妬するほどに俺たちに心を開いてくれた事に」

 

 言われて初めて気付いたのだろう。

 彼女の頬が瞬く間に赤く色づき、何かを堪えるように口元を抑えて、顔を背けられた。

 

「安心していい。お前が今持て余している感情は正常なものだ。そういった感情と折り合いをつけ乗り越えていくことでお前は今よりも先に進むことが出来る。ああ、何も一人で乗り越える必要はないぞ。難しいと思ったならば周りを頼れば良い。誰もがそうしていくものだからな」

「い、いえ、あの……私は別にそのような、その……」

 

 言いたい事はあるのに、先の言葉で頭が真っ白になって上手く言葉に出来なくなってしまったらしい。

 混乱の只中にある秋蘭のその様子が微笑ましく思えて、俺は思わず彼女の頭を撫でてしまった。

 

「あ、あの……」

「ゆっくり自分の中で整理していけば良い。その果てに俺が憎いと思ったのなら、その感情を俺にぶつけるといい。その時は決して逃げないと約束する。倒されてやるかは別だがな」

 

 優しく彼女の肩を叩き、俺は席を立つ。

 振り返る事もなく出て行ったが、呼び止められることはなかった。

 

 

 

 残された少女はしばらくの間、呆けていたがやがて気を取り直して自室へと戻っていった。

 その頬は未だ赤い。

 

 その心に宿った暖かさがなんであるか。

 主君たる少女に向けている物と似て非なるその感情を少女が理解するにはまだまだ時間がかかるのだろう。

 

 

 こうして彼らの陳留への寄り道は終わった。

 この会合が曹操たちにどのような影響を与えたか。

 それがわかるのは黄色い布を巻いた集団が大陸で暴れ出す頃の事である。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十七話

 駆狼らが陳留を出て建業への帰路についている頃。

 とある場所では一人の少女に過酷な運命が課せられようとしていた。

 

 この時代の貴族、賢人の物としてやや質素な屋敷。

 その中の一室で妙齢の女性が目を伏せていた。

 

「……よもやこのような真似に出るとは。このような事まで罷り通る程に朝廷は腐り果ててしまっていたと言うのですね」

 

 彼女は手に持っていた竹簡、そこに書かれている勅命の内容に歯噛みしながら己の見通し不足を恥じる。

 

「お母様……」

「桂花……」

 

 普段、自身の前では決して見せないだろう母の様子に少女は物問いたげな様子だ。

 しかしそんな愛しき我が子に対して気を遣う事が今の彼女には出来なかった。

 桂花のこれからを思うと、表情を取り繕うことが出来なくなるのだ。

 

「貴方を2人の皇太子様の世話役として宮廷に招きたいと……」

 

 幼い少女たちの、この漢王朝を担う者の養育。

 字面だけを見ればこれ以上ないほどの名誉であり、誇らしい仕事のはずだ。

 しかしそれがただの口実でしかない事を彼女も、そしてこの少女も知っている。

 現在の国の長たる霊帝が宦官たる十常侍の傀儡である事は漢王朝で役職を持つ者はもちろん、今や民草ですらも知っているような事だ。

 傀儡であり政治にまるで関与しない皇帝が息女である二人の教育係として桂花、荀家の才女として頭角を現し始めた『荀彧』を指名する。

 裏には確実に十常侍が関与している。

 奴らの思惑はこの二人には見え透いている。

 自分たちに何かと反抗的な『荀家』に対する人質だ。

 今、荀家で最も才気に溢れ、底の見えない伸び代を持つこの少女を手元に置く事で、反抗的な彼女ら一族に対する楔とし将来的な家の力を削ぐことが狙いだろう。

 

「(幸い既に我が家で出来る教育は全て済んでいる。この子は手塩にかけた、どこに出しても恥ずかしくない自慢の娘になってくれた。この子自身の想いも手伝って……)」

 

 愛娘が賊に連れ去られたと聞いた時は彼女自身、目の前が真っ暗になるほどの衝撃を受けたものだがそれもとある者たちのお蔭で事無きを得た。

 絶望的な状況すらも覆すほどの天運を味方につけ、それすらも己の糧へと変えてみせた我が子。

 その才覚故に『この時代の悪意』に目をつけられてしまった。

 

「桂花。どうやら貴方は十常侍の目に留まってしまう程に目立ちすぎたようです。迂闊な母を、貴方を守る事が出来ない母を、恨んでくれて構いません」

「いいえ、そのような事はありません。私が『親友たち』に負けぬようにと、『あの方たち』から受けた恩に応えようとした事が原因です。せめてもっと周囲に気を配っていれば良かった。……これは私の失態です。お母様を恨むなど筋違いでございます」

 

 己の進退のかかった重い問題を前にも桂花は、俯く事無く背筋を伸ばして毅然とした態度を取る。

 頼もしいと感じ、彼女の心を救ってくださった『建業の方々』へ彼女は母として改めて感謝の念を抱いた。

 

「でも、不安なのでしょう。私の前でくらい弱い所を見せてください。私は貴方の母親なのですから」

 

 彼女はそう言いながら、そっと我が子の手を握る。

 桂花は己の動揺を隠そうと努力していたが、それでも僅かな震えまでは抑えられなかったのだ。

 手を握れば彼女にもその震えが如実に伝わる。

 いくら聡明であろうともこの少女はまだ子供なのだと言う事が伝わる。

 

 そして自身にはそんなか弱い我が子を守る力すらもないのだと、荀毘いや立花は再認識してしまう。

 

「ごめんなさい、桂花。私たちにもっと力があれば……十常侍を糾弾するだけの力があれば……」

 

 勅命に逆らう事は出来ない。

 彼女の立場では許されない。

 

「(このような事になる前に建業の、信頼に足る凌刀厘殿たちの元へこの子を紹介しようと考えていたというのに……一足遅かった。)」

 

 この命に逆らえば彼女だけではない。

 一族そのものが罪に問われるだろう。

 そうなれば自身や姉はもちろん互いの子や親族たちの全ての者たちが犠牲になってしまう。

 

「お母様。私は大丈夫です。この任、やり遂げて見せます」

 

 人身御供である事に聡明な少女が気づいていないわけがない。

 だと言うのに決意が身体の震えを止め、この子供の目は真っ直ぐに母の目を見据えていた。

 

「ごめんなさい。そしてありがとう」

 

 桂花は荷造りをする為に何人かの侍女を連れて部屋を後にした。

 

 

 

 一人自室の机に向かい、立花は今の情勢を考える。

 

「(結局、私たちでは無法を正す事は出来なかった。僅かな抵抗ではどうにも出来ない事を実感させられただけ)」

 

 もっと劇的な変化を起こさなければならない、と彼女はそう考えていた。

 

 既に王朝の力は誰が見てもわかるほどに衰退しつつある。

 各地を治める者たちの横暴が目に付くようになってきたのは、『好き勝手やっても大丈夫だ』という王朝への侮りがもたらしている物だ。

 事実、賄賂さえ贈れば領地でどのような事をしていても、朝廷は見てみぬ振りをする。

 建業を初めとした少数の領地で行われている善政も、至る所で行われている悪政さえも。

 より近い位置にいてその様子を見る事が出来た立花は、だからこそ長くは持つまいと確信していた。

 

「十常侍……貴方方の天下は遠からず終わる。どのような形であれ」

 

 貴方方のやり方ではこの大陸に芽吹き始めた新芽を刈り取る事は出来ない。

 民草の不満は、何らかの切っ掛けを伴って爆発するだろう。

 火種はどこにでもあるのだ。

 

「勇平殿」

「ここに」

 

 私の呼びかけに応えて前触れも無く部屋に現れ、私の前で膝を付き頭を垂れる男性。

 姉と私が雇っている密偵である。

 その腕前と人柄を私たちは信頼している。

 

「貴方にお願いがあります」

「私は貴方方に雇われた者ですからお願いなどとおっしゃらないでください。私は仕事をきっちりこなすだけでございます」

「ふふ、貴方も相変わらずですね。お願いと言うのは……桂花の事です。影ながらあの子を守り最悪の事態を防いでいただきたい。私たちよりもあの子の、引いては霊帝やそのご息女方の身を守って欲しいのです」

 

 彼女の命令に、周洪は元から細い目をさらに細める。

 この命令が口で言う程、容易い物ではない事を察しているのだろう。

 

「この命令は姉の許可を得ております。そして幾つ物年を跨いで続く長い期間に渡る物となり、そして危険も伴うでしょう」

 

 じっと彼の目を見つめる。

 静かな瞳と視線が合わさった。

 

「それでもやっていただけますか?」

「……」

 

 しばしの沈黙。

 僅かな間、目を閉じた彼はその瞳に確かな決意を表しながら頷いた。

 

「謹んでそのお役目お引き受けいたします(このお役目にあの子を連れて行くわけにはいかない。預けるとすれば……やはりあそこしかないだろうな)」

「ありがとう」

 

 勇平はすぐにその場を後にした。

 彼にも準備が必要だという事だ。

 その様子に全力でこの職務に臨むという意志を感じ取り、荀毘は安心感を覚える。

 

 しかしすぐに切り替えるように首を振り、緩みかけていた心を引き締める。

 

 これでもまだ完璧ではないのだろう。

 腐っても国の中枢を担う者たち。

 

「(なんらかの策略にあの子も含めて利用しようと企むはず。……しかし私にはもはやあの子が魔窟であるあの宮中で上手く立ち回れる事を祈る事しか出来ない)」

 

 おそらく桂花は太子様方と共に限りなく隔離に近い扱いを受けるだろう。

 世俗から切り離された場所で、孤立無援を強いられる我が子の未来には暗雲が広がっている。

 時に雨を降らせ、雷を呼ぶいつ晴れるとも知れない暗雲。

 切り裂く事は出来ずとも、雨避けにくらいはなれるようにと。

 彼女は改めて決意し、その為の準備に励む。

 

「どうかあの子が未来にある暗雲を切り裂く事が出来るよう」

 

 通じるかわからぬ祈るは虚しく部屋に響いた。

 

 

 

 愛娘を都へと送り出して数週間後。

 何者かに盛られた毒で生死の境を彷徨いながら、彼女が最後に思った事は。

 

「(桂花を……どうかよろしくお願いします。凌刀厘様)」

 

 貴族としての責務などかなぐり捨てた、たった一人の母親としての願いだった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十八話

 陳留を後にしてから俺たちは特にトラブルに見舞われる事などなく。

 想定通りの行程で建業へと帰り着く事が出来た。

 

「帰ってきたな」

 

 城下に入る為、外と中とを区切っている巨大な門に近づきながら言葉を紡ぐ。

 どうやら涼州に行く前、およそ九ヶ月前と変わらぬ城下の騒々しさが、街の外からでも感じ取れる事に俺は少しばかり気を緩めているようだ。

 

「ええ。思春ちゃんも駆狼もお疲れ様」

 

 並んで歩く陽菜と思春の顔にも隠しきれない安堵が窺えた。

 お互い完全に気を抜いたわけじゃないが、それでも肩の荷が下りたような気分になっているのは間違いないだろう。

 

「いえ私などお二人に比べれば! 陽菜様、駆狼様こそ任務お疲れ様でございます!」

「ふふ、ありがとう」

 

 二人の声にも家に帰ってきた事への安心感と喜びが乗っている事が手に取るようにわかる。

 玖龍は俺の背中で眠っているが、故郷が近いことがわかっているのか思いなしかその寝顔は旅の間よりも穏やかな物に見える。

 こいつは早いところ、城の部屋で寝かせてやらないとな。

 

 髪型やら服装を適当にいじっただけの変装を解きながら、街に入る人間を検査する門と併設された関所の一つへ向かう。

 俺たちの事に最初に気付いたのは街の外を警戒している番兵だった。

 

「あれは……幼台様と隊長にお嬢っ!?」

 

 門の上からこちらを指差し、大声を張り上げているのが俺たちにもよく聞こえた。

 俺の事を隊長と呼ぶという事は、俺がいない間は各部署に分散された俺の隊の人間なんだろう。

 ここからだと流石に誰かまではわからないな。

 

 俺の隊は他の隊より人数が少なく、故に練度は他よりも高い。

 だから現在は一時的に隊を解散し、他所の人員強化に宛てられている。

 

「みんな、陽菜様と隊長のお帰りだ! 城に伝令急げ! 街にも触れ回れよ!!」

 

 誰かが騒ぎ立て始めれば、あっという間だった。

 俺たちが関所につく頃には関所にいた人間と周辺の警邏をしていた兵たちがこぞって俺たちの出迎えに出てきている有様だ。

 街に入ろうとしていた外部の人間は何事かと困惑しながら、出迎えられている俺たちを見ている。

 

「幼台様! 大将! お帰りなさい!」

「隊長殿、お疲れでしょう! 荷物は俺がお持ちしますぜ!」

「あんた、これから巡回だろうが! 幼台様、お荷物をお持ちします!」

「甘お嬢! 護衛任務お疲れ様でした!!」

 

 寄って来る人、人、人。

 俺たちの事を知っていても気後れせずに親しげに声をかけてくる人たち。

 外から見れば異質な、しかしこの場所だからこそ日常的な光景。

 

「ああ。帰ってきたな」

 

 その様子が嬉しくて、俺は先に言った言葉を実感を持って繰り返した。

 

「ふふっ、そうね」

「はい!」

 

 俺たちは集まった民や部下たちにもみくちゃにされながら門を潜る。

 家族が待ち、職場でもある城を目指して。

 

 

 

 俺たちが帰ったという話は既に城に伝わっていた。

 城の門前では集まった城の警備兵たちから道中でも何度となく聞いてきた帰還を喜ぶ声を聞き、すぐに謁見の間へと通される。

 広間には集まれるだけ集まった建業の武官文官と玉座に座る蘭雪様の姿があった。

 

 玖龍は謁見の間への道中で母に預けている。

 会議中に起きて騒がれるのは良くないから先に部屋に寝かせておいてもらう事にしたのだ。

 

「凌刀厘、孫幼台、甘卓。涼州馬家との交渉と同盟の任を終え、帰還しました」

 

 片膝を付き、頭を下げて帰還の口上を述べる。

 

「全員、無事に戻ったな。思ったより全っ然元気そうで何よりだ」

「蘭雪様も、皆もお変わりないようで。安心いたしました」

 

 玉座での正式なやり取り故に姿勢を崩さずに応答していると、彼女は片手をかざしてこちらの言葉を遮ってきた。

 

「ああ、もう楽にしていいぞ。ここからはいつも通りだ」

「あら、もういいの? 弛んでるって美命に怒られるわよ? 姉さん」

「あいつは『曲阿』の平定に勤しんでいてここにいない。だからヤツの雷が落ちる事もないさ」

 

 からかいながら姉に微笑む陽菜に対して、飄々とした笑みを浮かべながら応える蘭雪様。

 今の発言から読み取るに、美命は今もあちらで大忙しなのだろうな。

 

「こちらは今、どうなっているんですか?」

 

 俺は領主のお許しに従い膝を付いた姿勢から立ち上がり、こちら側の近況について改めて問いただす。

 俺たちが知る建業と曲阿の状況は、涼州にいた頃の報告で止まっている。

 あれからここに戻ってくるまでの間、何か起こった事も充分に考えられる。

 

「もう察しているとは思うが曲阿は変わらず大忙しだ。美命、深冬に加えて手が足りないという事で慎と祭も援軍として行った。それでも領土を落ち着けるには至っていない。前領主のいらん置き土産は思った以上に民の心身を傷つけているんだそうだ。かと言ってこれ以上、あちらには回せん。こっちもこっちで最近、活発になっている賊の討伐で忙しいんだ」

 

 忌々しげに現状を語る蘭雪様。

 自分の髪を手で弄びながら気のない様子で話しているが、その目には隠しきれない苛立ちが浮かんでいる。

 

 しかしそうか、祭は曲阿に行っているのか。

 久しぶりに会えるかと思ったが残念だ。

 

 だがお互い忙しい身の上の武官。

 仕事で予定が合わないことなどざらなのだし、この程度の事で落ち込んでもいられない。

 

「賊の活発化についてはおそらく領土が増えて浮き足立っている隙を狙っての事と考えられます」

 

 聞き覚えのあるその声の方に視線を移す。

 成長期らしく一年にも満たない時間で背が伸びた冥琳嬢が、俺たちを挟み込むように並んでいた臣下の中から発言していた。

 俺のおよそ半分の年齢でありながら、これだけの人間を前にしてその揺るがない堂々とした態度は実に頼もしい。

 

「領土が増えた事でそちらに人手を割いた事が、今まで手をこまねいていたヤツラには好機に見えたという事か……」

「面倒な事だが、それ自体は賊の浅はかな考えで済むはずだった。こっちもそういう事態になる事を考慮して精鋭に領地の巡回を命じていたんだが……浅はかな考えをした連中が思った以上に多くてな。個々の力は大した事はないんだが手が足りていないのが実状だ」

 

 うんざりした顔で蘭雪様は語る。

 普段から戦わせろ戦わせろと鬱陶しいくらいに訴えるこの人がこんな態度になるとは珍しい。

 どうやら戦闘好きの彼女をして現状は辟易する事態のようだ。

 

「建業は他領土に比べて豊かです。これは近隣諸国に放った密偵からの報告を見ても明らか。賊からすればさぞ魅力的な獲物に見えるのでしょう。それこそ多少無理をしてでも襲いたくなるほどに」

 

 そう語るのは俺たちに城での仕事について叩き込んでくださったご意見番の老婆だ。

 その言葉には経験に基づいた重みがある。

 

「頭の回るお前の事だ。ここまで言えば私がこれから何を命じるかわかると思うが……」

「そうですね。……どうやら旅の疲れを癒やす暇はないようだ」

 

 まぁそういう仕事を選んだのは俺だ。

 文句も愚痴も飲みの席にでも取っておくとして今は命じられる職務を遂行する事を考えよう。

 そう決意し、俺は新たな任務を主から告げられるのを待った。

 

「凌刀厘、各所に散った自分の部隊を召集、率いて我が領地に出没する賊どもを討伐せよ」

 

 形式に則った任務の言い渡しに、俺は居住まいを正して応じる。

 

「主命、確かに承りました。ではさっそく準備に入ります」

「おう。任せた。部下たちと呼吸を合わせる時間も含めて五日後には出立できるようにしろ。今、出ている激の部隊がその頃に帰って来るからそれと交代で出るように」

「了解」

 

 深く頭を下げ、俺は踵を返し謁見の間を後にするべく玉座に背を向ける。

 

「陽菜、玖龍と奏を頼む」

「ええ。頑張ってね、駆狼」

「思春、行くぞ」

「はっ!」

 

 去り際、陽菜に息子たちたちの事を頼み、思春に付いて来るよう指示しておく事を忘れない。

 頭には既に次の仕事に向けてやるべき事を並べていた。

 意識を完全に切り替えていた俺に出鼻を挫くような一言を告げられる事になる。

 

「ああ、それと今回の任務だが、お前の部隊に雪蓮を連れて行ってくれ」

「……」

 

 思わず足を止め、振り返る俺を諌める者はその場にはいなかった。

 なにせ命じた主君以外の全員が俺と同じような顔をして、恐らくは同じ思いで突拍子のない事を抜かした彼女を見つめていたからだ。

 

「おいおい、そんな呆れたような顔をするな。心配せずとも足手纏いにはならんよ」

「姉さん。皆が心配しているのはそこではなくて……『戦に酔う性質の暴走』を心配しているんだと思うわよ?」

 

 孫家の血筋が持つ性質。

 戦場で極度の興奮状態に陥り暴走するという迷惑極まりないもの。

 蘭雪様と長女である雪蓮嬢に色濃く継がれたこれは、ひとたび発症すると敵と認識した者を殺し尽くすまで止まらない。

 しかもその状態の彼女らを諌めようとすると敵と認識され、襲われてしまう。

 現に俺と祭、慎はその状態になった雪蓮嬢を止めようとして攻撃された。

 それぞれが自身の得物で彼女を気絶させることで事なきを得たが、あの時は冷や汗ものだった。

 

「言っただろう? あれについては戦場に出て慣れさせるしかないってな」

 

 この症状は年月と共に、経験を積んでいくうちに自制が効くようになるとは蘭雪様の弁だ。

 少なくとも蘭雪様自身は二十歳を超えた辺りから、諌めた相手にまで襲いかかる事はなくなったという。

 これについては周りの人間も証言しているので信憑性は高いんだろう。

 どちらにしても現段階では危ない性質である事は揺るがないが。

 

「だからお前のようにあいつの暴走を手早く止められる奴の下に置くのが理想なわけだ」

 

 文句を言ったところでこの決定は覆らない。

 蘭雪様の目は俺にそう告げていた。

 

「はぁ、わかりました。雪蓮様のお目付け役も含め、しっかりこなして見せましょう」

「ふ、任せた。駆狼」

 

 にやりと笑う蘭雪様に俺は苦笑いを返しつつ思春を連れて今度こそ玉座の間を後にする。

 

 やれやれ。

 長子の面倒を任されるほどに信頼されていると前向きに考えるべきか、面倒事を任された事を嘆くべきか。

 

 俺は複雑な胸中に蓋をして、己の部隊を招集するべく回るべき場所を頭に列挙しながら歩き出した。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第五十九話

 新たな仕事をもらった後、俺は手始めに建業中に散った俺の部隊の人間を集めるべく関係各所に顔を出した。

 俺たちが帰ってきた事は既に知れ渡っており、俺の部下たちは部隊の再結成を告げると待ってましたとばかりに喜び、今取り掛かっている仕事の引継ぎにかかりだす。

 声かけを手分けする事にして途中で分かれた思春の方も、反応としては同じようなものだったと合流した時に嬉しそうに語ってくれた。

 

 慕われているのは知っていたが、こうして即応してくれる様子を見ているとなんだかくすぐったい気分になるな。

 そんなむず痒い気持ちを抱きながら関係各所を巡り終えた頃には既に夕方になっていた。

 

 俺はその足でもう一人の我が子がいるだろう部屋へと向かう。

 

 祭との子である『黄然』こと『奏』。

 俺たちが涼州に行っている間は両親が面倒を見ていた。

 おそらく今は玖龍ともども陽菜が見ているんだろうと思うが。

 子供たち用の部屋に着いた俺は最低限の身なりを確認し、木戸をノックする。

 

「誰かいるか?」

「駆狼? 入って良いわよ」

 

 陽菜からの許しを得て、戸を開ける。

 中には陽菜と母さんがおり、それぞれ子供を抱きかかえてあやしていた。

 

「お帰りなさい、駆狼」

「ただいま、母さん」

 

 笑みと共に言葉を交わし合い、俺は母さんが抱いている奏の顔を覗き込む。

 どうやらまだまだ元気なようで俺が視界に入るとじっと見つめながら手を伸ばしてくれた。

 その小さな手に人差し指を差し出して握らせる。

 まだまだ弱い力で俺の指を握りながら、奏はまるで花が咲いたように笑った。

 

「父親が帰ってきてくれて嬉しいのでしょうね。私たちと一緒にいた時と比べものにならないほど素敵な笑顔よ」

 

 母さんの言葉に面映い気持ちを抱きながら、捕まれている手と逆の手でそっと奏の頭を撫でる。

 寂しい思いをさせてしまったお詫びに離れていた分の愛情を注ぐように、ゆっくり心を込めて。

 撫でられる内にうとうとしだした奏を母さんに預ける。

 そして陽菜に抱かれたまま眠っていた玖龍の頭も同じように撫でてやる。

 子供たちとのスキンシップを楽しんでいると、席を外していた父さんが戻ってきた。

 

「お帰り、駆狼」

「ただいま、父さん」

 

 母の時と同じように笑みを交わす。

 

「既に城のみならず街の中もお前たちが帰ってきたという話題で持ちきりだったぞ。人気者だな、お前も陽菜様も」

「そう言われるとなんだか気恥ずかしいな」

 

 からかうように告げる父に苦笑いを返した。

 

 親子の再開を終えた後、眠りにつくまで俺たちは旅の話などをして過ごした。

 家族水入らずというには一人欠けている状態であるが。

 

 今度は祭もいるときにこんな風に過ごしたい。

 この場にいないもう一人の妻の事を想いながら、俺にとっての幸せを噛みしめつつその日は眠りについた。

 

 

 

 翌日、俺は向こうでの仕事の間におざなりになっていた鍛錬をするべく城門の前へ向かっていた。

 太陽が昇る頃からの城外周部のランニング。

 朝食までの時間、鎧を着た状態でただひたすら走り続けるそれは、建業にいる間は欠かさず行っていたものだが旅の途中はもちろん、涼州では実行を控えていた。

 

 久方ぶりの通常メニューの鍛錬に向けて柔軟運動をしていると続々と人が集まってきた。

 どいつもこいつも見覚えのある顔、俺の部隊の人間ばかりだ。

 

「正式な招集は昼からだったはずだが?」

「隊長なら翌日からここに来るだろうと思いまして」

 

 俺の疑問に答えたのは賀斉だ。

 

「どうせなら鍛錬からご一緒したいと思いましてこうして着たというわけです」

「老骨ではございますが、まだまだ若い者に遅れを取るつもりもありませんからな」

 

 董襲が、宋謙殿が賀斉に続くように答えてくれる。

 やはり俺は良い部下に恵まれたようだ。

 

「そういう事なら何も言うことはない。お前たちが俺がいない間、怠けていなかったか確認させてもらおうか」

「隊長こそ仕事にかまけて弱くなったりしてませんよね?」

 

 挑発的な董襲の言葉を鼻で笑ってやる。

 

「生意気な事を言う。いいだろう、いつもの鍛錬が終わったら貴様ら全員と模擬戦だ。俺の腕が落ちたかどうか直接確かめてみるといい」

 

 自分でもわかるほどに獰猛に笑ってやると望むところだと言わんばかりの笑みが返ってきた。

 

「私たちだって隊長がいらっしゃらない間、何もしていなかったわけではありませんから!」

 

 皆の気持ちを代弁する賀斉の力強い言葉。

 普段、積極性に欠けるというか引っ込み思案な彼女の珍しい強気な言葉。

 そこにある確固たる自信を感じ取り、俺はそんな彼女の成長が嬉しくて気持ちを高ぶらせながら笑みを深めた。

 

「お前がそこまで言い切るお前たちの成長、楽しみにしてるぞ」

 

 雑談をそこで区切り、俺を先頭にして全員が自然と列を作る。

 

「総員駆け足!!」

「「「「「はっ!!」」」」」

 

 俺の号令に全員の返答が唱和し、朝の鍛錬であるランニングを開始した。

 

 

 

 走り込みと柔軟を終えた後、俺たちは修練場に場所を移し宣言通りに隊員全てを相手取った一対一の模擬戦に移った。

 久方ぶりの部下たちとの腕比べ。

 いつも通り順番など決めず思い思いに名乗り出た者から相手取る。

 

 結果、結論から言えば賀斉の言葉に嘘はなかった。

 俺がいない間、別の部隊に配属されていた時も基礎鍛錬は怠っていなかったようでその実力は涼州に行く前に比べて確実に上がっている。

 賀斉や董襲、宋謙殿、そして思春との試合は特に白熱した内容になった。

 誰も彼もが俺を倒そうという気迫に満ちていた。

 

 俺は戦いを楽しむような性質を持っていないが、それでも食らいつこうとする部下たちの気迫は心地よく感じられた。

 

「とはいえたやすく負けてやるつもりはない」

 

 周囲にはかかってきた部隊の面々が例外なく倒れ込んでいる。

 息も絶え絶えの者、俺の拳や投げ技で気絶した者など様々だ。

 

「ぎゃーっ!! 隊長、腕ぇっ!! そっちは曲がんない方向ですってぇ、隊長ぉおおおお!!」

 

 そして俺は最後の対戦相手だった董襲の腕を極め、彼女の体を地面に押しつけて身動きを封じている。

 この状態で無理に動けば腕は折れるだろう。

 それがわかるから、彼女は無理に動けない。

 

「勝負ありだな」

「くっそぉおおお!!!」

 

 解放してやると地面に手を叩き付けて悔しがる。

 

「俺は涼州で向こうの連中と切磋琢磨してきたんだ。そう易々と追いつかれはしない」

 

 悔しげに視線を落としている部下たちを見回す。

 宋謙殿はそんな彼らを微笑ましげに見ているようだ。

 視線がかち合うと目で話の続きを促されたので、目礼して応じる。

 

「……だがお前たちは間違いなく強くなった。一撃一撃が勝負を決める俺の立ち会いにお前たちは前よりも遙かに長い時間付いてきたんだからな」

 

 彼らに強くなったことを実感してもらう為に、俺は言葉を紡ぐ。

 

「これで満足してもらっては困るぞ。俺はこれからも強くなる。その努力を惜しむつもりはない。そんな俺の隊にいるんだ。お前たちには俺についてこれるだけの努力をしてもらう。そして俺を越えたいと思っている者たちには、俺を越えるだけの努力をしてもらう。改めて覚悟を決めて、そして俺に付いてこい」

 

 俺の言葉を受けた彼らの目に今まで以上の力が籠もるのがわかる。

 全員が痛む体を押して立ち上がると、俺の影響で行うようになった最敬礼の体勢を取る。

 

「「「「「はいっ!!!!」」」」」

 

 久方ぶりの手合わせは、俺にとっても部下たちにとっても有意義なものになった。

 

 とここで終わっていれば良い話だったのだが。

 

「叔父様! 思春!! お姉様がそっちに!」

「駆狼殿! 危ない!」

 

 聞き覚えのある声が警告するのとほぼ同時。

 俺は背後から殺気と共に放たれた一撃を腰の棍一本を引き抜いて受け止めた。

 

「ひっさしぶりね、駆狼!」

 

 また背が伸びたらしい雪蓮嬢が、妙にうきうきした声で話しかけてくる。

 その手に剣がなければ、そして今まさに俺の棍と鍔迫り合いをしていなければ俺も笑顔でその言葉に応じていただろう。

 

「ああ、久しぶりだ。で? これはどういうつもりだ、雪蓮嬢?」

「部隊の皆の腕試ししてたんでしょ? 私も混ぜてよ!」

 

 実に活き活きとした様子で彼女は右の蹴りを放つ。

 常人の骨ならたやすく折れてしまうだろう一撃を、俺は空いている手で受け止めて素早く掴んだ。

 そのままジャイアントスイングの要領で修練場の真ん中へと水平に放り投げる。

 

「うわっと!」

 

 雪蓮嬢が俺に襲いかかってきた時点で修練場の端に部下たちが待避している事は確認済みだ。

 

 彼女は勢いよく投げ飛ばされたというのに空中で姿勢を変え、危なげなく着地する。

 その様はまるで猫、いやここまでの行動から見れば猫などよりよほど獰猛で危険な豹のようだ。

 

「こ、こら雪蓮! 駆狼殿にいきなり不意打ちするなど何を考えている!」

「お姉様! おやめください!」

 

 追いついてきた蓮華嬢と冥琳嬢が彼女に怒声を上げて諫めようとする。

 だが当人はぎらついた目で剣を構えて俺を見据えるだけでその声が聞こえているかも定かではない。

 いや聞こえていたとしても無視しているんだろう。

 どうにも今の彼女には俺しか見えていないようだ。

 

「最初はね。今度の遠征について行くからよろしくっていう挨拶だけしようと思ってたのよ?」

 

 女の細腕からは想像できない力で両刃の直剣を軽く振りながら、雪蓮嬢が語り出す。

 

「でもお母様から押しつけられた竹簡を確認したりとかしてたからこんな時間になっちゃってさ。それでいざ見に来てみればすっごく楽しそうな事してて。こう、血が騒いじゃったのよ」

 

 母親譲りの桃色の長髪を揺らしながら、剣をこちらに向ける。

 母親そっくりの美しい顔立ちに、幽鬼めいたおどろおどろしい雰囲気が相まって妙な圧力を放っている。

 

「だからね、駆狼。話をするにもちょっとこの興奮を収めないと厳しいから、相手してちょうだい」

 

 ふざけた物言いの中に含まれる真剣な声音。

 それを読み取ってしまった以上、こちらに否はない。

 冥琳嬢も蓮華嬢も、今の言葉で彼女が歯止めがきかず言葉で諫める事が出来ない状態になっていることに気付いたようだ。

 申し訳なさそうに俺に視線を向け、『姉/親友が済みません』とでも言うように頭を下げる様子は、いつもの事ながら年齢不相応に年期が入っている。

 

「はぁ……いいでしょう。ただしやるからには全力でどうぞ。こちらも加減はしませんので」

「うふふ、鍛錬だからって手を抜かないから貴方との試合は面白いのよねぇ」

 

 雪蓮嬢の言動とうっとりとした表情に、俺はもう一度溜息を付きながら俺は両手に棍を一本ずつ構えた。

 

「あははっ! 楽しみましょうね、駆狼!」

「楽しくなるかはお嬢次第だがな!」

 

 踏み込みからの袈裟斬りを俺は左手の棍で受け、反撃に右の棍を突き出す。

 雪蓮嬢は僅かに体を横に傾けて脇腹を狙った一撃を回避しながら、抑えられた剣を引き戻しお返しとばかりに突きの連撃を放った。

 

「そらそらそらぁっ!」

「なんのっ!!」

 

 残像すら見える攻撃を全て両手の棍で受け流す。

 だがしかし有効打こそ受けていないが雪蓮嬢の攻撃は苛烈さを増していき、俺は反撃の糸口が見えずにいた。

 

 右手にあった剣を曲芸のような動きで左に移しての斬撃は俺の目を攪乱し、隙とみれば蹴りが放たれる。

 極めつけは戦いの最中でありながら、彼女の攻撃は少しずつ鋭さを増してきている事だ。

 恐ろしいことに彼女はこの戦いの中で成長しているらしい。

 

 しかし日々の鍛錬がなければここまで競り合う事は出来ない。

 この子もまた俺がいない間にも努力を怠らなかったのだろう。

 その事実が、なし崩しで戦っていた俺の気持ちを昂ぶらせていた。

 

「防御しているだけじゃ勝てないわよ!」

「言われなくとも承知している!」

 

 彼女の振り下ろす一撃に対して、俺は下から掬い上げるように棍を振り上げる。

 それぞれの攻撃が激突すると思われたその瞬間、俺は棍を手放した。

 

「えっ!?」

 

 それは誰の疑問の声だったか。

 あるいは見ていた者たち全員の声が唱和していたかもしれない。

 棍は俺の手からすっぽ抜け、勢いよく頭上へ飛んでいく。

 俺は自由になった右掌を驚いた顔をしている雪蓮嬢の剣の柄尻を下から叩いた。

 

「うぁっ!?」

 

 かち上げられた衝撃による痺れで止まった雪蓮嬢の腕をひっつかみ、自身の体へ引き寄せる。

 

「まっず!?」

 

 慌てたところでもう遅い。

 雪蓮嬢の体を巻き込み、腰に乗せ、相手の内ももを自分の右太ももで跳ね上げる。

 柔道の内股である。

 投げられた雪蓮嬢の体を容赦なく地面に叩き付けた。

 

 普通の人間なら下手をすれば大怪我ものだが、この世界の人間は総じて頑丈だ。

 ましてや俺の知る武将の名を持つ者たちならこの程度では呻き声を上げる程度で済んでしまう。

 

「いったぁ~~~!!」

 

 雪蓮嬢は地面を転げ回りながら、腰やら背中など強打した部分を撫でさする。

 痛いのは事実だろうが、思った以上に元気そうだ。

 予想通り特に後を引くような怪我はしていないな。

 

「ここまで、だな?」

 

 言いながら先ほど放り捨てた棍を拾って腰に差す。

 

「う~、わかったわよ」

 

 不満げに唇を尖らせながら、雪蓮嬢は立ち上がる。

 同時に冥琳嬢の鞭に後頭部をはたかれ、頭を抑えながら蹲る羽目になった。

 

「しぇ~れ~ん~……!!」

「お~ね~え~さ~まぁ~……!」

 

 ドスの効いた妹と親友の声を効いた雪蓮嬢は蹲っていた姿勢から素早い動作で立ち上がると俺の背中に逃げ込んだ。

 

「や、やぁね。冥琳も蓮華もそんなに怒らないでよ」

「建業の筆頭武官と言える駆狼殿にいきなり斬りかかるような真似をしている次期領主に怒りを抑えなければならない理由があるのか?」

「叔父様を背後から強襲するような姉を叱らない正当な理由でもあるんですか!?」

 

 なかなかに迫力のある形相の二人が俺の後ろに隠れている雪蓮嬢に言い募る。

 俺の背に隠れて顔だけ覗かせた雪蓮嬢はそんな二人に引きつった笑みを浮かべながら、言い訳を始めた。

 

「ほら、私しばらく駆狼の部隊にいるわけでしょ? なら隊員たちとの交流って大切じゃない?」

「一理あるが、それは俺に奇襲をかける理由にはならないな」

 

 苦しい言い訳を述べる雪蓮嬢に突っ込むと、すごい形相をしていた二人が肯定するように頷いてくれた。

 

「え~、普通にやっても駆狼ってばすげなく躱しちゃうじゃない。それじゃ面白くないし、何より一年ぶりに駆狼と手合わせしたかったんだもん」

「もんなんて子供のような言い方はやめてください! 示しが付きません!」

 

 開き直って本音をぶちまける彼女に、大声で怒鳴りつける蓮華嬢。

 しかし雪蓮嬢に反省の色はなく。

 

「や~ん、妹が怖いわ~。駆狼、庇ってよぉ」

 

 などとおどけながら俺を盾にして身を隠す始末。

 俺はいい加減話が進まないので溜息を付きながら、俺の背を押すようにしていた雪蓮嬢の腕を掴んだ。

 

「きゃっ? ってあいたっ!?」

 

 反射的に捕まれた腕を振りほどこうとした彼女の頭に拳骨を落とし、二人に差し出すように前に出した。

 

「奏のところに連れて行って問い詰めてやれ。それで少しは懲りるだろ」

「そうですね。そうします。……ゆっくりと話す時間も取れずに申し訳ありません」

 

 雪蓮嬢を自分の鞭で縛り上げつつ、俺の提案に疲れたように肩を落としながら冥琳嬢は頷く。

 俺は律儀に謝罪する彼女の肩を労るように軽く叩いた。

 

「気にするな。遠征に出る前にこちらで話せる時間を作るさ。もちろん蓮華嬢、小蓮嬢ともな」

 

 俺の言葉に二人は目に見えて顔を明るくする。

 慕われている人間が喜ぶ姿というのは、こちらの気分も良くなるな。

 

「あ、ありがとうございます。それと遅くなってしまったけどお帰りなさい、思春」

「勿体ないお言葉、ありがとうございます。蓮華様」

 

 いつの間にか俺の傍らで直立不動になっていた思春が蓮華嬢に頭を垂れた。

 俺は昨日のうちに帰還の挨拶だけ彼女らにしていた。

 だが途中から手分けして部下たちに声をかけて回っていた為に、思春は昨日のうちに蓮華嬢に会えていなかったようだ。

 しまったな、俺の方で気を遣うべきだった。

 

「しかし二人はどうしてここに? 二人ともは蘭雪様の執務の補助として一日かかりきりだと思ったが」

「お姉様が剣を持って鼻歌交じりにどこかに向かっていると聞きまして……嫌な予感がしたので冥琳に声をかけて一緒にお姉様を捜していたんです」

「結局、この馬鹿者を止められませんでしたが」

「ちょっと冥琳~、もう逃げないから鞭で縛った上に縄で縛るのはやめてぇ~。ちょ、あなたたちもなんで冥琳を手伝うのよぉ!」

 

 領主の縁者としてあるまじき簀巻き状態になっている雪蓮嬢。

 手慣れた手つきで冥琳嬢を手伝い、彼女を簀巻きにしているのは賀斉と董襲だ。

 

 遠巻きにしている兵士たちもいつもの事だとでも思っているんだろう。

 その視線が生暖かいものなのが、実にいたたまれない。

 

「ふぅ。それじゃ俺は調練に戻るぞ」

「はい、邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした」

「お姉様にはこの後、言い聞かせておきます」

「気にするな。お前たちが悪いわけじゃない」

 

 礼儀正しく頭を下げて、二人は簀巻き状態の雪蓮嬢を引きずってその場を後にする。

 俺は引きずられながらあう~などと謎の鳴き声を上げている彼女に声をかけた。

 

「雪蓮嬢は今後しばらく俺の隊で預かることになる。明日からは朝の調練から参加してもらう事になるので寝過ごす事などないようにな」

「えっ!? 嘘、私も朝から走るの!?」

「部隊に同道する以上、部隊の人間と同じだけの事はしてもらうつもりだ。ちなみに蘭雪様の許可はもらっている。せいぜいしごいてやってくれと言われたぞ」

「お母様~~!!」

 

 そんな悲鳴をあえて無視し、俺はいつの間にか並んでいた部下たちに向き直り、指示を出し始める。

 賊討伐に出るまでの僅かな時間の予定を考えながら。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十話

今年最後の投稿になります。
今年も『乱世を駆ける男』の閲覧ありがとうございました。
来年も私の作品をどうぞよろしくお願いします。



 部隊の面々と同行する雪蓮嬢を交えて調練をする毎日。

 一時解散していた部隊の連携における呼吸合わせを目的としたこれは問題なく進んでいると言って良いだろう。

 遠征に関して気になるところは今のところ無いと見ていい。

 気になる点があるとすれば、それはもっと別のところだ。

 

「塁。調子はどうだ?」

 

 ここは以前、祭と陽菜が世話になった妊婦用にと用意された部屋。

 陽菜や俺の要望により他の部屋と比べて格段に清潔な状態を維持されており、この時代で可能な限り出産に適した環境が整えられていると言える場所だ。

 

「ああ、駆狼。おかえりなさい」

 

 寝台の上で上半身だけ起こす彼女はひどくやつれていた。

 寝台の脇には世話役の侍女が二人控え、俺に頭を下げると気を利かせて席を外していく。

 その気遣いに礼の意味を込めて目礼し、侍女が座っていた椅子に腰掛ける。

 

 こいつは今、激の子供を妊娠している。

 それだけならただただ喜ばしい事で、陽菜たちの時の実績を元にしてより安全な出産を行う準備を整えるだけの話だっただろう。

 だがこいつは少々、厄介な症状に見舞われていた。

 

「久しぶり。ごめんね、出迎えにも行けなくてさ」

「気にするな。それよりお前が思ったよりも元気そうで良かったよ」

 

 本当にそう思う。

 個人差があることは知っていたが、頑丈さは折り紙付きだと思っていたこいつがここまで酷い事になるなんて思いもしなかったのだから。

 

「と言ってもまだまだ先は長いんだけどね。祭も陽菜様もそこまでじゃなかったって言ってたから油断してたわ。まさかこんなにも『悪阻(おそ)』がひどいなんて」

 

 そう塁は妊娠した人間が大なり小なり見舞われる『悪阻』または『つわり』と呼ばれる症状に苦しんでいた。

 妊娠初期から体調が激変し、武官としての仕事は出来なくなり、用を足すにも人の手が必要なほどだ。

 なまじ問題なく出産までの十月十日を終えた陽菜と祭を見ていた為に、今の状態に陥った彼女の取り乱し方は酷い物だった。

 旦那である激が必死に励まし、諫め、抱きしめ、傍に居続け、加えて陽菜や蘭雪様、美命を初めとした建業の皆の協力による出産に対する体制構築によってようやく落ち着かせる事が出来たのだ。

 

 正直なところ、賊討伐に出ている激は出来ることなら出産まで塁に付いていたいと思っているだろう。

 しかし建業を取り巻く状況がそれを許してくれない。

 ただでさえ賊討伐と曲阿の平定で人手が足りない状況で、塁自身が妊娠の悪阻で武官として働けなくなった。

 この上、激までが動けなくなるわけにはいかないのだ。

 

 塁はもちろん傍にいない激の気持ちを理解している。

 最愛の人が傍にいない事での心細さはもちろんあるだろう。

 だが彼女もまた建業に仕える武官だ。

 そんな弱音を軽々しく口にする事はない。

 しかし滲み出る気持ちというのは少し勘が良い人間ならば察することが出来てしまうもの。

 塁と近しい人間は、ほぼ全員が彼女の心細さを察し、激の変わりとまでは言わなくとも心の支えになろうとしていた。

 

「症状には個人差があるからな。ともかく安静にな? もうお前一人の身体じゃないんだ」

 

 もちろん俺もこいつらの力になりたいと思っている。

 だから面会可能になったこいつにすぐに会いに来たのだ。

 

「ええ、わかってるわよ。この子が無事に産まれるその時までどんな苦しみにも耐えてみせる」

 

 やや大きくなった自分の腹を愛おしそうに撫でながら、塁は握り拳と共に決意の言葉を告げる。

 

「あ、もちろん産んだ後は武官に復帰するつもり。だからそれまでは迷惑かけるけどお願いね」

「迷惑だなんて思っていないさ。というかまだ先は長いっていうのにもう産後の事を考えてるのか?」

「当たり前でしょ。子供を産んで、そこで終わりにするつもりなんて私には微塵もないわ」

 

 悪阻で誰よりも苦しんでいるというのに、これからも出産まで予断は許されないと言うのに。

 不安がないはずがないと言うのに、これほど前向きな考え方が出来るこいつには頭が下がる思いだ。

 

「安心した?」

 

 悪戯げに片目を閉じて笑う塁。

 こちらが気遣っている事に対する意趣返しのつもりだろう。

 心配しなくても大丈夫だという意思を示し、自分の仕事に集中しろと俺に言ったのだ。

 

「ああ、安心した。出産までには戻る。それまでしっかりな、お母さん」

 

 最後の激励を終え、俺は椅子から立ち上がって出入り口へ向かう。

 

「ええ。気をつけて。祭や陽菜様を泣かせるような事ないようにね」

 

 向けられた言葉に軽く手を振って応え、俺は部屋を出ていく。

 俺は外で控えていてくれた二人の侍女にあいつを頼むと頭を下げ、今日の調練の為に修練場へ向かった。

 

 

 

「今日こそ勝たせてもらうわよ、駆狼!!」

 

 放たれるのは攻撃後の隙を極端に少なくした突きの連撃。

 掴まれれば負けるというのは今までの負けから嫌というほど学んだ故、腕を取られない為の策なのだろう。

 実際、大振りの斬撃なんぞ手の届かないところからの攻撃をするか、よほど速く鋭くなければ、俺にとって腕を取る為の隙でしかないのだから、その判断は正しい。

 

「やれるものならやってみろ」

 

 突きの嵐から逃れるように大きく飛び退きながら、腰の棍を三本連結する。

 南海覇王より長くなった棍で放つ突きは、槍のソレと同等の射程距離を持つ。

 剣ではとても届かず、近付かせないように最小限の動作で放たれる突きは距離を詰める事を許さない。

 

 しかし果断なく放つ俺の突きを雪蓮嬢は避け、受け、こちらの隙を窺うように鋭い視線を向けてくる。

 

「ああもう、相変わらずやりにくいわね、駆狼の戦い方!」

「当然だ。自分が全力を出せる場を作ると同時に相手に全力を出させない場を作る。それが自力で勝る相手との一対一で勝つ為の唯一の方法だからな」

「悔しいけど私ってまだ貴方より弱いわよね!」

「日頃から徹底しないでいざという時に使える訳がないだろう」

「徹底してるわね、ほんと。見習い甲斐があるわ!」

「ああ、存分に見習って吸収してくれ」

 

 軽口の応酬をする間にも攻防は続く。

 

 三本連結した棍にさらに一本連結し、通常の槍を越える長さになった棍を腰溜めに構えて水平に薙ぎ払う。

 薙ぎ払いと言うのは武器を大振りに振るう攻撃であるが故に威力は大きいが、攻撃後の隙は大きくなる攻撃方法だ。

 しかし長い間合いを取って振るう事で相手が懐に入る事を防ぐことが出来る。

 さらに振るった際に生じる遠心力を利用し、棍を腰を起点に回し勢いをつけてさらに一撃。

 同じように二撃、三撃。

 相手を近づけさせず、攻撃の威力と薙ぎ払う速度は上がり続ける。

 風を切る音が大きくなり、見た目にも凶悪な威力になるそんな攻撃に対処し続けなければならない相手は、いずれ押し切られる。

 

 ちょうど今、自分が攻撃できない事に苛立ち無理矢理攻撃を弾こうとして逆に南海覇王を吹き飛ばされ痛みで痺れた腕を涙目で抑えている雪蓮嬢のように。

 

「いったぁ~~~~!!! ちょっと何よ今の! 私、何も出来なかったんだけど!」

「そういう攻撃だからな。とりあえずやられて覚えて対処法を見つけてくれ。お前たちもだ!」

 

 俺と雪蓮嬢の組み手というにはあまりに荒々しい攻防を固唾を呑んで見守っていた部下たちに、何かやっていると聞きつけて集まってきた他の部隊の兵士たちに、集まっていた全ての兵士に声をかける。

 

「俺の攻撃は俺しか使えないわけじゃない。自分で使えると思った物は盗め。やり方が知りたかったら聞け。教えられる事は教える。自分が生き残る為に、兵として民を守る為に、自分が守りたい物を守る為に強くなれ!」

 

 俺の激励への返答は唱和した歓声だった。

 

 

 

「ああ、もう。ここまで良いようにあしらわれるなんて自信無くすわよ、まったく」

 

 ぐちぐちと文句を言いながら負けた罰である素振り千回をこなす雪蓮嬢。

 型のない剣の使い方をする彼女はこういう機会でもなければ、型にはまった素振り(あくまで俺の主観での剣道の素振りの事なのでこの世界で広まっているものではない)をしようとしない。

 これも良い機会だと思い、俺が思う正道の剣というのに触れてもらっている。

 気質的に合わないのは目に見えているので、あくまでこういう型も存在すると教え込んでいるだけだ。

 単純に剣を振るう体力も付くからやって損するわけでもない。

 

 ちなみに常の彼女の訓練は実践形式で飛び跳ね、転がり、相手を倒す訓練に終始している。

 手頃な相手がいなければ目の前に強い敵がいると想定して動き回るような訓練。

 最近の仮想敵は動きから見るに俺だ。

 余談だが想像上の俺にも負け越していると言うのはその訓練を偶々見ていた蓮華嬢に教えてもらった事だ。

 

「ほんと悔しいわね」

 

 一度使った手を驚異的な勘で察知して回避する雪蓮嬢。

 建業に属する兵たちは本人の身体能力、剣の腕前、そしてこの異質な能力によってあっという間に追い抜かれていた。

 今や賀斉や宋謙殿たちを相手にしても互角かそれ以上の腕を彼女は持っている。

 だが経験と練度の差で、俺たち武将を相手にしての勝ち星はない。

 

「なら悔しさを糧に強くなれ。世の中には俺など相手にならないほど強い人間が必ずいる。俺のような絡め手を使わずに地力だけで全てを叩き潰すような豪傑がな」

 

 思い浮かべるのは三国志において最強と謳われた武人『呂布』。

 この世界の彼あるいは彼女がどれほどの力を持つのかはわからない。

 しかし今まで出会ってきた俺の知る三国志の人間は例外なく強者だった。

 性別こそ未知数だが、強い事だけはほぼ確実だろう。

 

「そんな人いるの?」

 

 素振りしながら疑わしげな視線を向けている雪蓮嬢。

 聞き耳を立てていた思春たちも信じられないとでも言いたげな雰囲気だ。

 

 そうだな、ここは一つ思い切り大袈裟に言って危機感と競争心を煽っておくか。

 

「いるさ。少なくとも俺は一人知っている。ただ単純に戦えば負けると確信出来てしまうほどの強さを持つ人間をな」

 

 まるでその光景を思い出すように目を閉じ、真剣で重苦しい口調で語る。

 

「とはいえ、仮に戦うことになっても負けるつもりはない。いや誰が相手だろうとも俺は武官としての自分の役割を果たす。……たとえ相手が呂布であろうとも」

 

 そこで目を開けると、辺りは静まり返っていた。

 何事かと訝しみながら周囲を見回すと、先ほどまで半分おちゃらけていた雪蓮嬢の表情は真剣でありながらどこか剣呑としている。 思春は言うに及ばず、いつの間にか来ていたらしい冥琳嬢や蓮華嬢までが険しい顔だ。

 

「へぇ、呂布っていうのね。駆狼に勝てないと言わしめるような相手の名前は」

 

 なにやら底冷えするような声音の雪蓮嬢は、それ以上何も言わず罰の素振りに戻っていった。

 

「隊長! 私たちはどこまでも隊長についていきます! どんな人間が相手でも、たとえどれほどの戦力差があろうとも!」

 

 勢い込んで語る賀斉の言葉に皆が同意を示し、自分たちの武器を掲げてみせる。

 

「その呂布よりも強くなってみせます! 絶対に駆狼様には手を出させません!」

 

 そう言ってくれる思春の頭を軽く撫でて礼を言っておく。

 なにやら思った以上に効果があった事に戸惑いながらも、話を区切る為に手を叩いた。

 

「この話題はここまでだ。各々の訓練に戻れ! 数日中に激たちが戻り、俺たちが遠征に出る事になる。気合いを入れて訓練に臨め!」

「「「「「はっ!」」」」」

 

 この切り替えの早さは間違いなく俺譲りだな。

 唱和する返答に満足していた俺は気付かなかった。

 

 いつの間にか冥琳嬢と蓮華嬢の姿が消えていたことに。

 二人が俺より強い呂布という存在を俺が思っていた以上に強く意識し、危機感を抱いていた事に。

 二人が上申した事により蘭雪様にまで呂布の存在が知られ、大々的に呂布の調査が行われていた事を俺が知ったのは今から一ヶ月後に遠征から戻った後。

 数枚に渡る調査書を見せられた時の事だ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十一話

遅くなりましたがあけましておめでとうございます。
今年もこの作品をよろしくお願いいたします。


 予定通りに戻ってきた激とのやり取りは何の問題もなく終わり、俺たちはその翌日には遠征に出立する事になった。

 話を聞いた限り、散発的な賊の襲撃はあったが全て蹴散らしている。

 いずれもが大した集団ではなく、余所の土地から流れてきた者たちだったと聞いている。

 賊の証言によれば手頃な邑は貧困で奪える物が無く、仕方なしに他の領土まで足を伸ばしたのだという。

 『余所より建業の邑の方が賊達に魅力的に見える』という推測の信憑性がかなり上がったと思っていいだろう。

 無論、賊の言葉を全面的に鵜呑みにすることは出来ないが。

 そんなこんなで遠征情報共有を終え、準備を整えた俺たちは遠征当日を迎えている。

 

 

「じゃあ行ってくる」

「気をつけろ、駆狼。奴ら、数だけは多いし統制なんざ取れちゃいないから一気に壊滅ってのが難しいぞ」

「ああ。お前が掴んできた情報、無駄にはしない。だから激、お前は塁にしっかりついていてやれ」

「言われなくても、だ」

 

 互いの右拳をぶつけ合い、俺たちは笑い合った。

 

「駆狼、気をつけてね」

「ああ。陽菜もな。玖龍、奏、行ってくるよ」

 

 陽菜を軽く抱きしめ、母さんと父さんに抱きかかえられてこちらを見つめている息子達の頭を撫でる。

 

「蓮華嬢、小蓮嬢。行ってきます。土産話に期待していてください」

「叔父様、お気をつけて」

「面白い話期待してるからね、駆狼!」

 

 対照的な姉妹の言葉に律儀に頷き返した。

 

「駆狼殿。ご武運を……」

「冥琳嬢も。根を詰めすぎて無理をしないようにな」

 

 俺がいない間に文官としての風格を身につけた無理しがちな少女には苦言を呈しておく。

 

「成果を期待しているぞ、駆狼」

「必ずや」

 

 君主との短いやり取りを最後に俺は振り返って歩き出す。

 

 横には俺同様に出立の挨拶をしていた雪蓮嬢の姿がある。

 蓮華嬢、冥琳嬢に釘を刺され、小蓮嬢に無邪気に土産を頼まれ、蘭雪様には背中を叩かれるなんとも彼女らしい挨拶だった。

 

 街の内外を行き来する見上げるほどに大きな門を出る。

 関所の番兵たちにも「ご武運を!」と言われ、敬礼をもってそれに応えながら外へと出る。

 建業のすぐ外、そこには既に出立準備を整えた部隊の皆が待っていた。

 

 思春と麟、弧円、豪人殿。

 

 俺は建業に戻ってから私的な場では彼女らを真名で呼ぶようにしていた。

 理由は彼女らに問い詰められたからだ。

 真名とは神聖な物であり、預けられると言うことは信頼の証である。

 

 では預けたはずの名が呼ばれないという事は何を示すのか。

 俺は前世に存在しなかったこの風習を言ってはなんだが重要視していない。

 ただ大切な物であるという漠然とした意識はあるので、滅多な事では呼ばないように注意してきた。

 

 部下たちに対しては特にだ。

 個人的親交がある者たちとは違い、部下たちとは私的な付き合いはあっても上司と部下という線引きがある。

 故に気をつけて呼ばないようにしていた。

 

 それが麟たちには不服というか不安だったらしい。

 

 「もしかして隊長は自分たちを心の底では信用も信頼もしていないのではないか?」と、そんな不安があったのだそうだ。

 そんな事はないとすぐにその考えを打ち消そうとしたが、一度浮かんでしまった疑念というのは厄介な物でなかなか消えはしない。

 俺が涼州に言っている間、時折、この不安が脳裏に過ぎってしまいあいつらはずっと悶々としていたらしい。

 建業に戻り、いたっていつも通りに過ごす俺を見て、麟と弧円は今までのもやもやとした気持ちも手伝って半ば勢い任せに真名の話題を出してきた。

 そして俺は請われたのであっさりと彼女らの真名を口にしたのだ。

 ある種の覚悟を持って話を振った麟と弧円はあまりのあっけなさに、間抜けな顔をして呆然としていた。

 様子を窺っていた豪人殿が心ここにあらずの彼女らを正気に戻すために俺と真名で語り合い、我に返った二人が慌てて俺を真名で呼び俺もまた彼女らに真名で呼びかけるようになった事でこの『真名を巡る部隊間のちょっとした騒動』は終わった。

 

 しかし真名という概念がない世界で過ごしてきたせいか、俺はついついこの風習を蔑ろにしてしまう事が多い。

 正確には自身の真名についての扱いが非常におざなりだ。

 麟と弧円は俺に真名を呼ばれないことを相当に重く捉えていた事にも気付かなかった。

 この風習が神聖な物であることは知っていたはずだったが、認識が甘かったと言わざるをえない。

 そもそも俺は自分から真名を許した事がほとんどない。

 思えば相手から真名を名乗られ、名乗り返して真名交換を為してばかりだった。

 これからは信頼できる人間には自分から真名を許すという事を意識してみようと思う。

 そしてもっと重要なのは既に真名を許し合っている者たちの真名は呼べる時にはきちんと呼ぶようにする事だろう。

 とりあえずは今頃、涼州で頑張ってる蒋欽、蒋一兄弟には帰ってきたら俺の方から真名で呼びかけてみようと思う。

 

「総員、敬礼!」

 

 今までの思考を脇に退け、しばらく離れる建業に向かって敬礼する。

 戻ってからこうして遠征に出るまで共に調練に励んでいた雪蓮嬢も、やや動作がぎこちないがきっちり敬礼している。

 数秒の沈黙を持って一斉に振り返り、これから俺たちが向かう先の地平線を睨み付けた。

 

「出発!」

「「「「「はっ!」」」」」

 

 俺の号令を受けて部下達は一糸乱れぬ動きで進軍を開始した。

 

 

 

 

「ねぇ、最初はどこに行くの?」

 

 進軍を開始してしばらく経ち、建業の姿が見えなくなった頃。

 徒歩、というにはいささか早いペースで歩き続ける事に飽きたらしい雪蓮嬢が、俺に実に今更な疑問の言葉を向けた。

 

「まずは激から聞いている賊が出現した付近の邑へ向かう。……と言うか、だ。どういう行動方針かは昨日伝えていたはずなのだが?」

 

 言葉の後半は「なぜ覚えていないのか?」という意味合いが含まれているが、彼女はばつが悪そうに顔を背けてしまう。

 

「ほ、他の仕事が忙しくて……」

「仕事? 仕事とは冥琳嬢を巻いて街に繰り出し、店を冷やかして回っていた事を言っているのか?」

「……」

「それとも仕事以外では塁の部屋から片時も離れない激をからかったり、蓮華嬢の鍛錬に乱入して彼女を疲労困憊にさせたりする事を言っているのか?」

 

 ここ数日の自分の行動を俺が把握している事に、明後日の方向を見ていたこの子の顔に冷や汗が浮かぶ。

 

「自分の仕事を完遂させた上で、他の者を気遣ってくれるならば俺も小言を言わないで済むのだがな」

「えっ?」

 

 何故ソレをと口では無く表情で示しながら彼女は俺の顔を凝視する。

 

「普段通りに破天荒に振る舞う事で気持ちを軽くする。雪蓮嬢にしか出来ない事だろうな。あと少なくとも、激と塁はその気遣いに気付いているぞ」

 

 「変なところで不器用だよな、次期君主様は」とは激の言葉だ。

 その辺りも包み隠さず全て伝える。

 するとどうやら雪蓮嬢は自分の気持ちに気付かれているとは思っていなかったらしく、非常に珍しいことに耳まで真っ赤にして俯いてしまった。

 

「上手く隠しているつもりがばれてしまっていて恥ずかしさ半分、自分の事をわかってくれて嬉しさ半分と言ったところか?」

「冷静に分析しないでくれないっ!?」

 

 ばっと顔を上げて叫ぶ雪蓮。

 彼女は俺にしか意識が向いていないようだが、今は行軍中である。

 俺たちは二人並び立って歩いているが前後にはもちろん部隊の皆がいる。

 今までの会話は筒抜けであり、それはつまり雪蓮の気遣いが近くにいる者たちには知れ渡ってしまったと言うことでもあるのだ。

 

「雪蓮様、皆さんを振り回しながら気を遣っていたんですね」

 

 麟は感動し目をキラキラと輝かせながら雪蓮嬢を見ている。

 

「ふふ、そのようなところは若き日の蘭雪様にそっくりですな」

 

 豪人殿は彼女の様子に蘭雪様を思い出してどこか懐かしげに頬を緩めていた。

 弧円と思春は行軍を先導する為に先頭を歩いている為、隊列の中央にいる俺たちの会話は聞いていないが他の部下達が伝えてしまうだろうから、この事が知れ渡るのは時間の問題だろう。

 

 雪蓮嬢は先ほどまでと違い、羞恥一色で赤面し何かを堪えるようにぷるぷる身体を振るわせている。

 何かもう一押しあれば爆発するだろう事が容易に察することが出来た。

 

「最初の目的地までは二日後の朝に到着する予定だ。無駄に体力を減らして予定を遅らせる事の無いように」

 

 素知らぬ振りをして釘を刺すと、雪蓮嬢は自分がおちょくられた末のあからさまな話題転換にすねてしまい、口をアヒルのように尖らせて俺を睨み付ける。

 頬が赤いままなので怖くもなんともない。

 

「く~ろ~う~、あなたね~!」

 

 爆発寸前だったところの機先を制されてしまった彼女の不満げな声音に俺は思わず笑みを浮かべる。

 隊の皆との雑談混じりの行軍は予定通りのペースで進み、想定した期日通りに邑に到着した。

 

「野人、ですか?」

「はい。つい先月、この邑の北にあります森に住み着いた人間がおりまして。村人の何人かが森に木の実や野草を取りに入ったところを襲われました。襲われた者の話では「出て行け」としか言わず、一人きりで逃げる者を追うことはしなかったため、賊とは違うと思われます。追い返される以上の被害がありませんので」

「それで野人と」

「はい。しかしどうやら森を自身の縄張りとしたようでその出来事の後から森に入ろうとする度に石や硬い木の実を投げられ追い返されてしまうのです。これからの冬を考えるとあの森が使えなくなるのは……」

「なるほど。わかりました。我々の方で対処いたします」

「おおっ! ありがとうございます!!」

 

 まさか到着してそうそうに厄介事に見舞われる事になるとは思わなかったが。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十二話

お待たせしました。
およそ二ヶ月振りの更新になります。
正直、仕事が忙しくて今月も厳しいかと思っていたのですがどうにか投稿出来ました。
楽しんでいただければ幸いです。


 村長から聞いた森は邑からそう遠くない場所にある。

 幾つかの部隊に分かれて森の周囲をぐるりと偵察したが、いざという時の食料補充の場としては使えるが常に頼るには小さい場所だ。

 村の人間達が言っていた通り、冬を越す為に必要な物を補充するために確保しておいた場所なのだろう。

 とはいえ年に何度か必ず使う場所である事は間違いない。

 そんな場所を占拠されたとあっては彼らが不安がるのも当然だろう。

 

「……しかし森に入らなければ襲ってこないというのは本当の事のようだな」

「そうね。私たちが森の傍をうろついても何もしてこないし」

 

 むしろ何か行動してもらいたかった、と言外に含み明らかにつまらなそうな顔をする雪蓮嬢の頭を軽くはたいて諫めておく。

 とはいえ森に近付いた段階で「誰だ!」とでも聞いてくれれば話が早かった事も事実ではある。

 

「ですが何度かこちらを窺う視線を感じました。こちらの存在には気付いていると見て間違いないかと」

「これだけの人数で周囲を回っていればな。……さてどうするか。何か意見はあるか?」

 

 思春の言葉に頷きながら俺はどうするべきか考えを巡らせながら、偵察後に集まった実力者と呼べる者たちに聞く。

 集まった雪蓮嬢、思春、豪人殿、麟、弧円は俺の言葉にそれぞれ考える素振りを見せる。

 

 俺としてはまず刺激せずに話し合いの場を持ちたいところだが、というとりあえずの方針を口にするよりも早く雪蓮嬢が口を開く。

 

「とりあえず森に入っておびき寄せてみない?」

「あ、そういう事でしたら先方は任せてもらえますか、隊長!」

 

 そんな誰が見てもわかるレベルでわくわくした顔をするな、雪蓮嬢。

 同意してうきうきするな、弧円。

 

「皆様が出るまでもありません。私が野人とやらを引きずり出してきます」

 

 腰の得物に手を添えながら物騒な事を言うな、思春。

 

「刺激しないように話したいと言うのでしたら、少数で森に入りあちらと接触をするのが良いかと」

「あとは森に入る前に話したい旨を相手に伝えてはいかがでしょう? こちらを窺っているのはわかっているわけですし」

 

 豪人殿と麟の意見が一番建設的かつ平和的だろう。

 

「では俺が行ってこよう」

「なっ! 危険です、駆狼様!」

 

 俺の言葉に真っ先に否定の言葉を上げるのは思春だ。

 

「早とちりするな、思春。当然、護衛は連れて行く。とはいえお前は今回、雪蓮嬢の護衛として残ってもらうがな」

「えっ!? あ、そうでしたか。申し訳ありません」

 

 この子の猪突猛進ぶりは少し心配だ。

 真剣に俺の身を案じての物なのだが、それでも矯正は必要だろう。

 

「雪蓮嬢は例の病気があるから話し合いにならない可能性がある。よって森に入る者たち以外の部隊を預けるので外で待機だ」

「えー……」

「えー、じゃない。俺たちに何かあった時の対応は任せる。豪人殿、弧円。雪蓮嬢の抑えを頼む」

 

 血の気の多い弧円、そんな二人を宥める事が出来る豪人殿を待機組に回す。

 弧円は渋々、豪人殿は心得たとばかりに頷いた。

 

「麟、お前は俺と共に森に入るぞ。だが俺が許可するまで自衛以外の手出しは禁止だ」

「はい、わかりました!」

 

 両足そろえて背筋を伸ばす麟に頷き、今も続く視線の元がいる森を見つめる。

 

「こちらに戦闘の意志はない。話をしたい。姿を見せてもらえないだろうか!」

 

 決して怒鳴るようにならないよう意識しながら大声で視線の主に声をかけた。

 十数秒、返答を待つが回答はない。

 

「反応は無し。では公苗、行くぞ」

「はい!」

 

 軍を指揮する者として部下である賀斉に命じる。

 棍棒を持っている手に目に見えるほど力を入れて返事をする彼女を率いて俺は皆が見守る中、森の中へと入っていった。

 

 

 

 予想されていた相手側からの行動は、俺たちが森に入り込んでほどなくして起こった。

 掌サイズの硬い木の実、枝や石をどこからともなく投げてくるという村人達から聞いていた行動だ。

 

 無論、素直に当たってやるような事はしない。

 俺も麟も危なげなく投擲された物を受け止め、あるいは叩き落として肩を並べて森の奥へと歩みを進めていく。

 

「出て行け!」

 

 ただただ突き進む俺たちに業を煮やしたらしい、相手はとうとう声を上げた。

 同時に投げつけられた人の頭くらいの大きさの石を蹴り砕く。

 

「話がしたい。そのままでいいから聞いてほしい」

 

 あくまでゆっくりとした調子で相手に言い聞かせるよう心がけ、声がした方向に語りかける。

 

「出て行け! 出て行け!」

 

 しかし声の主は応じる事無くさらに数回、物を投げつけてきた。

 投げつけられた物の中にはどこから拾ってきたのか、壊れた鎧の一部などもあったが俺も麟も武器で軽く叩き落として防ぐ。

 

「私の名は凌刀厘。ここから南に行ったところにある街で兵士をしている。君の名前はなんというんだ?」

 

 叩き落としながら質問を投げかけてみる。

 しかし返事はなく、物を投げつけられるばかりだ。

 

「隊長、これでは埒が明きません!」

「ああ。声と物が投げられる方向から相手の位置はだいたい掴めた。相手に応える気がない以上、やむを得ん」

 

 俺たちはその場で立ち止まって身構える。

 

「お前の攻撃は俺たちには通用しない。観念して話を聞いてほしい」

 

 最後通告だという意味を含めて問いかける。

 しかしその返答は。

 

「出て行け!」

 

 拒絶の言葉と共に投げつけられる木の実だった。

 

「もう見切っている……!」

 

 俺は顔面目がけて迫る木の実を掌で押し返すようにして跳ね返した。

 跳ね返った木の実はより勢いを増した状態で真っ直ぐに主の元へと戻る。

 そして麟は俺の行動を見るや否や、木の実を投げつけた人物の元へと駆け出す。

 

「っっ~~~……!?」

 

 自分が投げつけた物が跳ね返されるとは思っていなかったのだろう。

 がつんという音が茂みの奥で聞こえた事から、跳ね返した木の実は命中したと思われる。

 そこに麟は畳みかけるように飛び込み、痛みで怯んだ襲撃者に正面から掴みかかる。

 

 彼女の腕力は建業随一だ。

 そんな麟に掴まれてしまえば抜け出すのは至難。

 俺が追いつく頃には、彼女は野人と呼称された人物を完全に地面に押しつけ抑え込んでいた。

 

「隊長! 対象を無力化しました!」

 

 きりっとしたその表情には、少し前まで見られなかった自己に対する自信が垣間見える。

 立派な武官へと成長した部下の事を実感し、俺は仕事中にも関わらず僅かに頬を緩めてしまった。

 

「良くやった」

「はい!」

 

 労いも程々に彼女が捕らえた人物を見つめる。

 まったく手入れなどされていない長髪、水浴びすらしていないのだろう肌には垢が溜まっており肌の色がよく見えない。

 およそ3m程度の距離を置いていると言うのに匂いが酷い事から、何年も身体を洗っていないのだろう。

 加えて衣服はまるでぼろ布のよう、いやかろうじて身体を覆い隠しているだけの布という有様のそれは服とはとても呼べない代物だろう。

 年の頃は十四、五歳といったところだろうか?

 蓮華嬢や思春、桂花辺りと同じ年齢だろう。

 しかし150㎝程度の見るからにやせ細った身体が彼女らと違って痛々しさを感じさせる。

 その特徴的な真紅の瞳は血走っていて目には隈も出来ているようだ。

 地面にうつぶせに抑えつけられた状態で上目のまま俺と麟を睨み付け、口からは「うー、うー」と獣じみた威嚇の声を上げている。

 必死にもがいているが、ただがむしゃらに力を入れて抜け出そうとするその姿には人間らしさがまるで窺えない。

 野人と言った村人たちの評価に、俺はただ納得した。

 

「手荒な真似をしてすまない。だが話を聞いてくれ。そちらが攻撃しなければこちらも何もしない。約束する」

 

 両手を上げて手を出さない意思表示をしつつ、少女に語りかける。

 

「出て行け! 出て行け!」

 

 しかし少女は俺の言葉には応えてくれなかった。

 何度も叫んだためか、声を嗄らせながらそれでも叫び麟の拘束から抜け出そうとしている。

 呼びかける声など聞こえていないかのようなその態度に、ある考えが俺の頭を過ぎった。

 

「もしかしてこちらの言葉を理解していないのか?」

「えっ!?」

 

 俺の口から出た呟きに驚き、こちらを見る麟。

 動揺しても拘束を緩めないのは流石だ。

 

「……公苗、彼女を離してくれ」

「は、はい……」

 

 俺は麟に拘束を解くように命じる。

 戸惑いながらも麟は彼女を解放すると、自由になった事を好機と見たのか野人少女は目の前にいた俺に飛びかかってきた。

 

「たいちょっ!」

「遅い……」

 

 麟の慌てた声を遮るように呟き、俺は少女の身体を胸に抱え込むようにして受け止める。

 顔目がけて全身をぶつけようとするかのような体当たりだが、やせ細った身体では効果が薄く受け止める事は容易だった。

 

「うー、うーっ!!!」

 

 腕の中で暴れようともがく少女に俺は静かに問いかける。

 

「君の名前はなんという?」

「出て行け!」

 

 やはり彼女には俺の言葉を聞いている様子はない。

 というよりも自分に話しかけられていると理解していないように見えた。

 

「どうしてこの場所にいる?」

「うー!」

 

 威嚇するような唸り声を上げる少女。

 言葉を無視しているというよりも、これはやはり言葉を理解していないが故に自分に向けられた言葉ではないと思っているようだ。

 しかし一つ疑問が残る。

 俺の推測通りに言葉を理解していないのならなぜ『あの言葉』だけは用途通りに使い、こうして呆れるほどに繰り返しているのか。

 それはつまり自分に向けられたから、その言葉が何を示すのか理解していると言うことではないか?

 

「……出て行け」

「!?」

 

 推測を確認する為にその言葉を口にする。

 特に強い調子で言ったわけでもないというのにその言葉の効果は劇的だった。

 少女は全身を震わせると先ほどまで唸り声ばかり上げていた口を閉じ、目に見えて怯えだしたのだ。

 この子の境遇の大筋が見えてきたな。

 

「た、隊長。この子は一体? どうしてこんな急におとなしく……」

「おそらくだが……この子は家族に捨てられたんだろう」

「あ……やっぱり、そうなんですか?」

 

 俺の言葉にやるせないとばかりに眉を顰める麟。

 こいつは自身の腕力を持て余して、村八分されかねない扱いを故郷で受けてきたと聞いている。

 野人少女の境遇に自分を重ねるのも無理はない事だろう。

 

「こちらの言葉を理解していない様子から見るに、ろくに言葉を覚える事も出来ない環境だった。しかしそれでも意味はわからずとも聞き慣れた言葉があった。それが唯一この子が使える言葉なんだろう」

「出て行け、ですか」

 

 麟が呟くように漏らした言葉に少女は目尻に涙を浮かべだした。

 

「自分が村を追い出された時に言われた言葉。誰かを追い立てる、追い返す為の言葉。これしか知らないからあれだけ連呼していたんだ。そして自分で使う分には問題ないようだが、自分に向けられるのは過去の経験も相まって『怖い』とそういう事なんだろう。そんな状態にありながらこの年まで生きていられたのは驚嘆すべき事だ。本当の野生児という奴だな」

「そんな……」

「さて捕まえる事は出来たが、どうしたものか」

 

 俺が思案顔をすると、麟は不安げに俺と借りてきた猫のようにおとなしくなってしまった少女とを交互に見比べた。

 それを余所に俺はどうすべきかを考える。

 

 この子の境遇はこの時代ではありふれている。

 俺たちはそうではなかったが、余所では生きるための手段の一つとして当然のように考慮されている事柄だ。

 

 しかし蘭雪様や陽菜は民の事を考え、自らの治世においてこのような事は起こらないようにと日々の生活改善に努めている。

 俺たちもまたその治世を実現するために日々仕事に励んできたのだ。

 

 だがこの子の存在はそれが未だ完全ではない事の証明だ。

 ならばこれは俺たち土地を治める者たちの不始末であり、その俺たちがこの子の存在を見過ごす事は出来ない。

 あまつさえもみ消す事など俺個人が許さない。

 

 ならばやることは決まっている。

 

「この子は連れて帰るぞ、公苗」

「はい! わかりました、隊長!」

 

 俺は来た道に向き直りながら少女を優しく抱きかかえるように姿勢を変え、その背中を優しく撫でてやる。

 驚き弾かれたように俺の顔を見つめる少女の手入れのされていないざらざらした髪に俺は軽く手を置いた。

 

「俺たちにお前を助けさせてくれ」

「?」

 

 言葉の意味がわからなかったのだろう少女は俺の言葉に首をかしげるが、頭に乗っている俺の手を払いのけるような事はしなかった。

 むしろ俺の行動に何を感じ取ったのか、その後はなぜかおとなしく抱えられたまま僅かにだが服の裾を握ってきてすらいた。

 彼女のこの行動が、俺に少しでも心を開いてくれた証なら良い。

 そう考えながら俺と麟は森の外へと歩を進めた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十三話

 森から連れ出してきた少女の姿は、待機していた面々から驚きの声をもって迎えられた。

 思った以上に幼い野人の正体とそんな少女を平然と連れてくる俺に、という意味で二重に驚かれたのはまぁ当然の流れだろう。

 

 俺たちは簡易的な野営地にて今後の方針を話し合っていた。

 話し合いの話題がまずこの子の処遇になったのは言うまでもない事だ。

 とりあえず被害にあった村には野人は捕縛したとだけ伝え、人相には触れないようにしよう。

 

「その子が事の犯人なのはわかったし、予想できるこの子の事情もわかったけど。……どうするつもりなの、駆狼?」

 

 背中にひっついて離れなくなった野人少女が雪蓮嬢の言葉にびくりと震える。

 どうやら言葉の意味こそわからないまでも自分について何か言われている事を察する事は出来ているようだ。

 

「この子は俺が預かる。最終的な判断はもちろんこの子自身の問題だが、今はまだ自己の進退をどうこうするだけの知識がない。それまでは俺が面倒を見よう」

 

 幸いにも蓄えは充分にある。

 私財の多くは新しい作物の栽培やら、流れてきた民への吹き出しの一部に使っているが、それを差し引いても家族が生活しても余る程度の余裕が我が家にはあった。

 少女が一人増えたところで何の問題はない。

 陽菜や祭が反対する事もないとわかっている。

 

 決して安請け合いするというわけではない。

 

「善悪の概念が何もない、ただ生きる事だけに執着せざるを得なかったこの子を罪人と裁く事は俺には出来ない」

 

 困惑した様子で俺と少女を見つめ続けていた雪蓮嬢と部下たちを前に俺ははっきりと告げた。

 

「とはいえ俺が預かることが出来るかどうかは上の判断を仰がなければならない。よって今俺が話したのはこの遠征の間の処遇となる。そしてこの事は正式な報告として上げて建業側の沙汰を待つ。筆と竹簡を持て」

 

 俺の指示を受け何人かが荷馬車へ駆けだしていく。

 その間も少女は俺にしがみついて微動だにしない。

 

「それと董襲は村へ『野人は捕縛、しかしその処遇は建業の法にて決定する』と報告してきてくれ」

「了解です!」

 

 少女と俺とを見比べ、心得たとばかりに笑うと弧円は何人かの部下を伴って村へと向かった。

 

「建業の沙汰を待つって言うけど、貴方の中じゃその子を引き取るのってもう決定事項でしょ?」

 

 呆れたように、どこか引きつった笑みを浮かべながら言う雪蓮嬢に俺はずり落ちそうになっている少女を背負い直しながら言う。

 

「建業の領内で生活に困っている流民を保護しただけだ。何も問題は無い」

「その子が浮浪者を装った間者の可能性は?」

 

 雪蓮嬢の問い詰めるような言葉に、黙って俺の後ろに控えていた思春が身じろぎをした。

 いやただでさえ強かったこの野人少女への警戒心を強めたのだ。

 何かあれば即座に斬り捨てるという殺気が抑えきれていない。

 

「確実に無いとは言えないだろう。万に一つという物はどういう事柄にもありえるものだからな」

「なっ! 駆狼様、それならば今すぐその女を背から下ろしてください。そして厳重な隔離の上での監視を!」

 

 間者ではないと言い切らなかった俺に、思春はいつでも抜けるよう刀に手をかけた状態で俺に言い募る。

 しかし俺は彼女の進言を首を横に振って不要だと否定した。

 

「思春、保護するべき民一人が間者の可能性があるというだけで過度の警戒を行い、本来兵士がするべき職務に尻込みするような事はあってはならない。そして何より……俺は自分の直感とこの子自身、そして俺の部下たちならばどのような状況になっても乗り越えられると信じている。だからたとえこの子が間者だったとしても問題は無い」

 

 どれだけ論理的に言葉を交わそうと思春は俺を守るためなら反論を続けるだろう。

 しかし同時に忠誠心の塊と化しているこの子は、俺からの全幅の信頼に弱い。

 加えてこの子が万に一つ間者だった場合は対処すると言外に示した。

 この子の性格上、俺がそこまで言えばこれ以上追求は出来なくなるはずだ。

 

「ぅっ、……承知しました。何かあったら私が必ず駆狼様をお守りいたします」

 

 やや赤くなりながらうめくように、しかし何かあれば自分がなんとかするという確固たる決意で俺の方針を受け入れる思春に狡い大人ですまないと心中で謝罪する。

 

「ではさっそくで悪いが軽くこの子を洗ってやりたい。野営地に戻り今日はそこで休息とする。伝令を頼む」

「はっ! ご指示、迅速に伝えて回ります!」

 

 敬礼をすると思春は一足跳びで宋謙殿や賀斉に指示を伝えに行った。

 俺と思春がそんなやり取りをしている間、話の発端であった雪蓮嬢はというと。

 

「ねぇねぇ、名前もわからないの?」

 

 背中の野人少女に絡んでいた。

 先ほど間者の可能性を口にしておきながらこの子は俺の結論を聞いて早々に気分を切り替えてしまったらしい。

 

「う……」

 

 背中側から回っている少女の手に力が籠もる。

 しかし怯えているというより邪気の無い問いかけに困惑しているように見える。

 人との関わりがあまりに少なかった弊害なんだろうな。

 

 俺は指示に従って動く皆に遅れぬよう歩き出しながら、雪蓮嬢を諫める。

 

「雪蓮嬢。この子はそもそも『名前がなんなのか』すらわからないんだ。言葉での受け答えもほとんど出来ないと言っていい。そういう事から教えていかなければならない」

 

 言ってしまえば身体が大きな赤ん坊なのだ、この子は。

 とはいえこの年になるまで碌に他者と関わる事無く生きてくる事が出来たその身体能力は脅威であり、同時に今まで制御してこなかった力故に危険でもある。

 人並みに何かを教えて込むにはおそらく年単位で長い時間が必要だろう。

 

「身体だけ大きくなった赤ん坊って事か。この子を見てると自分の生まれがどれだけ恵まれているかって言うのがわかるわね」

 

 雪蓮嬢は俺と同じ結論に至ると悲しそうに眉を下げ、少女を怯えさせないように頭を優しく撫でる。

 長年、そのままにされてきた身体の汚れが雪蓮嬢の手を汚すがそれを気にするような素振りはない。

 

「こういう事、なくなるようにしたいわね。出来れば私が領主のうちに、私で駄目だったらせめて蓮華の代のうちに」

 

 以前から考えていた決意が、少女の境遇を知ることによって漏れ出たらしい。

 撫でる手と逆の手は力強く握り締められ、その言葉には蘭雪様に勝るとも劣らぬ圧力を感じさせた。

 

「そう思うなら日々の政務にも力を入れてくれ」

「ちょっとぉ……なんで真面目なところで茶化すのよぉ」

 

 不満そうに頬を膨らませながら文句を言う雪蓮嬢に明確な回答は返さずに、俺はただ優しく笑った。

 

 

 あの後、この村での顛末とここまでは順調であるという旨を書いた竹簡を伝令に任せ建業へと走らせた。

 建業から出てさほど時間は経っていなかった事もあり、伝令は2日と経たずに戻ってきた。

 

 返信として持ってこられた竹簡の内容は簡潔なものだ。

 『そのまま任務を続行せよ』だ。

 さらにあの子についても書かれていた。

 まぁ内容は『俺の裁量で任せるが元々の軍務である賊討伐に支障がないようにせよ』なんて『俺に全て任せる』という意味を固い表現にしただけなんだが。

 

「……うーっ」

 

 そして渦中の少女はというと。

 野営地の片付けを行う俺の服の裾を強く握って俺から離れようとしないひっつき虫と化していた。

 その姿は発見当時に比べてずいぶんと綺麗になっている。

 

 伝令が戻るまでの間、部隊は休息を取っていたのだが、そこでこの子は麟や弧円たち女性の隊員たちに身体をしっかり洗われ遠征部隊として出来る範囲で身なりを整えられていた。

 少女は最初の垢落としの時こそ暴れたものの優しい手つきで洗われているうちにおとなしくなったと麟は言っている。

 お陰で身体の垢や髪の汚れは完全に取れ、身体に纏わり付いていた匂いもある程度マシになっている。

 

 身なりを整えてわかった事だが、彼女の褐色の肌と瞳が赤いのは元からだったようだ。

 豪人殿が言うには瞳が赤いという特徴は大陸の外によく見られる特徴らしく彼女はそちらから流れてきた可能性があるとの事だ。

 彼女の出身がどこであるかについて俺はそこまで気にしていない。

 だが今後は大陸の外の民がこの子のように流れてくるかもしれないという情報は報告しておく必要があるだろう。

 

 陣を解体する様子を監督しながら歩く。

 まるで兎のような瞳が今も後ろから俺をじっと見つめているのがわかった。

 

「隊長、宋謙隊、撤収準備出来ました!」

「同じく賀斉隊、撤収準備完了です!」

「董襲隊、万全です」

 

 それぞれの隊から報告を受け取る。

 俺が誰かに声をかけられる度にあの子はそのやり取りを飽きる事もなく見つめていた。

 

「駆狼様、隊列整いました!」

 

 最後に全体を確認した思春の報告を受け取り、俺は目の前に整列した隊員を見回す。

 

「良し。では野人騒動は彼女の保護を持って解決。これより我らは賊討伐の遠征を再開する。今回は僅かな被害で解決出来たが次もこうなるとは限らん。気を引き締めて事に当たれ!!!」

「「「「「はっ!」」」」」

 

 俺の激に一糸乱れず唱和する返答。

 俺は全体を一度見回し、頷くと号令を発した。

 

「出発!」

 

 こうして俺たちは少女の保護と村の貴重な資源の確保という結果を持って遠征最初の数日間を終えた。

 

 

 

 一方その頃。

 

「もうすぐ建業かぁ。おじさまにおばさま、思春に玖龍君。元気にしてるかなぁ」

 

 物思いに耽りながらもその手綱捌きに乱れはない。

 ポニーテールを揺らしながら馬を走らせる少女に、前を言っていた少女から注意が飛ぶ。

 

「こら、蒲公英! あたしたちは遊びに行くわけじゃないんだぞ!」

「わかってるよ、お姉様! でもお姉様だっておじさまたちに会うの楽しみにしてるでしょ!」

「うっ、いやそれは……そうだけどさ」

 

 負けまいと言い返す少女と似た出で立ちの少女は妹分の反撃に図星を付かれ言葉を濁した。

 

「二人とも、浮き足立つな」

「わ、悪い。鉄心」

「ご、ごめんなさい。心さん」

 

 静かに、しかしなぜか良く通る低い声に諭されると二人はまるで借りてきた猫のようにおとなしくなった。

 

「我々の仕事は百頭の馬と馬術の技術提供を行う調教師の護衛。そしてあちらの者たちの見極め。必要以上に気を張る必要はないが大きな失敗などして涼州馬氏の名を貶める事のないように」

 

 少女二人が神妙な顔で頷くのを確認し、鉄心と呼ばれた男は進行方向を真っ直ぐに見つめる。

 

「(ここの酒を土産に買ってこいと言われたが、果たしてあの二人の舌を満足させられるような酒があるだろうか? 折を見て駆狼殿に相談するとしよう)」

 

 鉄面皮の裏で彼もまた浮き足立っていたという事実に少女たちはおろか誰も気付いていなかった。

 

 

 

「ここが建業。今この大陸で一、二を争う発展と安寧を兼ね備えた土地、ですか(そしてもしかしたらあの子の手がかりを持っている人が……あの凌刀厘が仕官している場所)」

 

 癖なのか眼鏡の縁を指で撫でながら呟くかっちりとした服装の茶色がかった黒髪の少女。

 

「噂でしか聞いていなかった故、実際はどれほどの物かと思ってはいたが。なるほど噂に違わぬとは正にこの事か」

 

 少女の身の丈ほどの長さの槍を携え、動きやすさを重視したが故に男の目を引いてしまうような服を着た灰色がかった青色の髪の少女。

 

「確かに凄いものですねぇ~。かの曹操さんすらも政策を参考にしているという噂を聞きましたが~~。この街の様子を見れば信憑性が出るというものです~」

 

 頭に妙な人形を乗せ、妙に長い裾の服を着たウェーブの入った金髪の少女。

 

 三人はいずれも目を引くような美少女である事から視線を集め、しかし本人たちはいつもの事と気にする事なく城下へと足を踏み入れていった。

 

 

 

 騒動の種は着々と建業に集まりつつあった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十四話

 行軍は順調そのものだ。

 散発的な賊徒の襲撃はこれまで二度だけ。

 それも少数による襲撃のみで、撃退は容易く。

 

 それからさらに数日が経過した現在、襲撃は鳴りを潜めている状態だ。

 討伐に乗り出した身としては、ここまで平和であるのはそれはそれで考え物なのだが。

 まあともかく軍務は今のところ順調と言えるだろう。

 

 しかしそれとは別のところで問題が発生している。

 

「うーっ」

 

 行軍中ですらひっついているこの子についてだ。

 襲撃の時も俺から決して離れない。

 いつぞやの桂花を彷彿とさせる。

 しかし今までは思春や麟たちだけでも賊に対処出来ているが、今後もこれだと問題だな。

 さらに俺はソレとは別に『とある事』でここ三日ほど悩んでいた。

 

 

 ほんの数日前の記憶を思い返す。

 

「うーん、この子ってなんて呼べばいいのかしらね?」

 

 俺の悩み。

 それはこの子を引き取る事になったその日に雪蓮嬢が言った言葉に端を発している。

 

「名前がどういうものかも知らない。つまりこの子の親はこの子に名前すら与えなかったか……一度も呼ばなかったって事ですよね?」

 

 麟が気遣わしげに少女を窺う。

 彼女の気持ちを知ってか知らずか、少女の方は麟にはそれなりに心を許しているのか目が合って嬉しそうに笑った。

 釣られるように麟も笑う。

 

 しかし雪蓮嬢の疑問はしごく尤もな言葉だ。

 これから少なくない時間を共に過ごす間柄で、いつまでも呼び名がないというのは問題だろう。

 

 皆が微笑ましげに麟と少女を眺めている中、俺はこの子の名前を考え始める。

 俺がそんな事をしている間に話は進み、弧円が良いことを思いついたとばかりに手を叩く。

 

「いっそ隊長が名付けてみたらどうです? 保護するのを決めたのも隊長ですし」

 

 弧円の言葉に隊員たちは一斉に俺に視線を向ける。

 

「それはいいですな。名前は一生の物。良き名前を考えてあげればこの子も喜びましょう」

 

 豪人殿が少女を見つめながら柔らかく笑う。

 元々、考えていた事とはいえこうも期待されると人一人の名付けをする責任の重大さが改めて理解できるな。

 自分の子供に名付けるのとはまた別の責任だ。

 

「ああ。しっかり考えてこの子が気に入る物になるよう努力しよう」

 

 この子を保護すると決めた以上、名前は必要だ。

 自分が名を呼ばれ、名を知る者がいるという事実は意識的にも無意識的にも心の支えになる。

 自分自身をしっかり認識すれば、周りにいる者たちにも今まで以上に興味を示し意識を向けるはずだ。

 

「隊長、私がこういうのも変な話ですけど。どうかこの子にぴったりの名前をお願いします!」

 

 勢いよく頭を下げる麟。

 その様子を不思議そうな顔で見つめる少女。

 

「任されよう」

 

 重々しく頷き、麟の想いを受け取り、決意を込めて少女の頭を撫でる。

 

「……」

 

 そんな俺たちの会話に雪蓮嬢は珍しく口を挟まなかった。

 何をしているのかと横目で窺えば、口元に指を当ててじっと何事か考え込んでいるのがわかる。

 何を考えているかまではわからないがその様子は驚くほどに真剣だ。

 

 しかし考えに没頭しているところを邪魔して問いただす事もないだろう。

 何かあればあちらから言ってくれるはずだ。

 俺は俺で考えなければならない事が出来た事だしな。

 

「よし、では休憩終了だ。今日中に四つ目の村に到着する予定だ。各自、気を引き締めるように!」

「「「「「はっ!」」」」」

 

 立ち上がると少女は俺の背中にしがみついてくる。

 見た目年齢にそぐわず体重は軽いままなせいでよろける事も無く立ち上がれたが、やはり軍を率いる上でこのままだと示しが付かないな。

 

 

 そんな事があったのが三日前の事。

 俺は軍務の合間にこの子の名前を考えていた。

 

 名前とは一生物の事柄。

 じっくり考えた物をプレゼントしたいと思うのが人情だろう。

 候補は幾らか絞られており、真名に至っては確定している。

 

 自分の中で考えはまとまりつつある。

 遅くても明日の夜には決めるつもりだ。

 

 そう思っていたこの日の夜。

 建業領内における最後の村に到着し、村長他から近隣の情報収集を終えて隊員たちを交代で休ませている頃。

 

 俺の天幕に雪蓮嬢が現れた。

 ちなみに少女は俺と同じ天幕で過ごしている。

 これもいつかの桂花同様、俺から離れたがらないが故の処置だ。

 

「どうしたんだ、雪蓮嬢」

「あのね、駆狼。この子の名付け、私がやってもいい?」

 

 俺は真剣な顔で申し出る彼女の言葉に驚いた。

 

「何故だ?」

「うーん、上手く言えないんだけどね。ただこの子の為に何かしたいなって思ったのよ。次期領主として、そして一人の雪蓮として、ね」

 

 じっと『野人だった少女』を見つめるその目は真剣で、しかし優しくもある。

 何が雪蓮嬢の琴線に触れたのかはわからないが、俺にはこの子の為にという気持ちに嘘は無いように見えた。

 とはいえ、俺が保護した責任の第一歩としての名付けをそう簡単に譲って良いものか。

 

「……」

 

 じっと少女を見つめる。

 何もわかっていないが、それでも自分に関係する何かを感じ取っている瞳と目が合った。

 この子自身の事だ。

 出来ればどうしたいとこの子に問いかけたい。

 しかし何の知識も持たないこの子から明確な是非の答えは返ってこない。

 ならばこの選択を責任を持って行うのも保護する俺の務めか。

 

「わかった」

「ありがと、駆狼」

 

 緊張していたらしい雪蓮嬢はふっと息を吐きながら礼を言う。

 

「もう決まっているのか?」

「ええ。で、良ければなんだけど真名は貴方が決めてくれない?」

 

 その申し出に俺は二度目の驚きを覚えた。

 

「いいのか?」

「ええ。貴方は保護する者の責任として真名を、私はこの土地の領主の娘としての責任として姓名と字を与える。名を与えたこの子の生涯に私たち二人で責任を持つ。駄目かしら?」

 

 俺の悩みを見透かして責任の等分配を申し出たって事か。

 まだまだ子供と思っていたが、そういう気遣いも出来るようになったんだな。

 気遣われた自分が情けないが、しかしこの子の成長は嬉しくも思う。

 前世を含めて過去に何度も感じてきた思いに、懐かしさと寂しさを感じた。

 

「わかった。そうしよう」

「ありがとう、駆狼。それでこの子の名だけど……」

 

「姓は陳、名は武、字は子烈よ」

 

 告げられた名に妙な納得をしていた。

 

 そうか。

 この子は孫呉の武将の名を冠する事になるのか。

 

 

 陳武子烈(ちんぶしれつ)

 孫策の頃に家臣となった人物で任官当時十八歳でありながら身長が七尺七寸(およそ177cm)と高めだったとされている。

 孫権の代にも彼に仕え、思いやりがあり人に対する気前が良かったと民に評価を受けている。

 曹操軍との合肥の戦いにおいて命を駆けて奮戦して戦死している。

 孫権は彼の死を大いに悲しみ、葬儀には直接参加したと言われている。

 

 

 名付けが意味を為すというのなら、この子は今後孫呉に仕える武将となるのかもしれない。

 無論、名がそうだからと言ってそうなるように育てるつもりは俺にはない。

 しかしこの子が望むなら俺はそれを最大限、手伝う事になるだろう。

 子供の手の届かない所に手を貸すのは大人として当然の事だ。

 

 ならば俺はこの子のこれからに輝くくらいの幸福があることを祈り、その想いをこそ真名としようと思う。

 

「真名は福煌(ふーふぁん)だ」

 

 未だ名の意味もわからない少女は俺と雪蓮とを見比べるように眺めていたが、やがて意味もわからずに屈託なく笑った。

 翌日、この子に付けられた名は部隊に周知され、その名は知れ渡る事になる。

 真名についてはこの子がその辺りの知識をしっかりと持つまでの間は、決めた俺が責任を持って預かる事になった。

 俺自身も含めて預けるかどうかの判断は慎重に決めていこうと思う。

 

「うー」

「どうした、子烈?」

 

 服の裾を引っ張る彼女に応えると、彼女はある方向を指差した。

 その方向を見やれば、何らかの報告を持ってきたのだろう思春が駆け寄ってくる姿がある。

 

「凌隊長へご報告! 賊の迎撃は完了。現在、逃げる者に追跡をかけ本拠地が無いか探りを入れさせています」

「わかった、甘卓。引き続き、周囲の警戒を頼む。領内の村回りはこれで最後。これからは賊徒に対して攻勢に出るぞ。各隊にその旨を伝えておけ」

「はっ!」

 

 報告を終えた思春は子烈の頭を軽く撫でると、伝令へと走って行く。

 

「うーっ!」

 

 撫でられた頭を自分で触りながら嬉しそうに笑う子烈に俺を釣られて笑った。

 あの子もあの子なりに子烈と関わるようになったのは喜ばしいことだ。

 

 遠征開始からかれこれ三週間ほど経過している。

 そろそろ蹴りを付けて建業へ戻る算段を付ける頃合いかもしれない。

 

 今まで訪れた領内の村で得た情報、襲撃してきた賊たちの証言。

 加えて俺たちの故郷である五村で、豊さんたちから今この地で暴れている賊徒のほぼ全てが他の領地から来ている者たちだという情報を得られたのは行幸だった。

 最近、祭や陽菜とはどうなのかとからかわれたものだが、その分の価値は十二分にあったと言えるだろう。

 あとは今回の追跡で根城が領内にあるかどうかを確認できれば、今後の方針が確定する。

 

「さて忙しくなるな」

 

 俺は子烈の歩調に合わせて歩き出す。

 ここからが賊討伐の本番と気を引き締めて。

 

 

 

 その日はあいつが安定期に入ったという事で世話を駆狼のお袋さんたちに任せて見回りがてら昼飯を食いに行った。

 どうせなら飯も塁と一緒にって思ったんだが、当の本人が気分転換してこいと俺を追い出しやがったのでやむなく外に出る事になっちまったんだ。

 

「ほんの少し前まで死にそうな顔してた癖になぁ」

 

 ぼやきながらも俺は自分の顔が笑っている事を知っている。

 あいつが俺を気遣う空元気なんかじゃない『本当に元気な姿』を見せられるくらいに落ち着いた事が嬉しいんだ。

 

「……久し振りにあそこ行くか」

 

 言いながら歩く先にはあいつの世話でしばらく縁がなかった拉麺屋。

 相変わらず繁盛しているみたいだ。

 具材や汁の組み合わせを客の好みで変えられるって珍しい試みを始めてから、この店から客足が遠のくのを俺は見たことがない。

 あんまり盛り過ぎると値段が馬鹿にならんが、それでもそこそこ安いってのも客側からしたらありがたい話だ。

 今では暖簾分けした奴らがここ以外にも店を出すなんて、大胆な事考えてるなんて噂も聞くくらいだ。

 

 まぁ繁盛している店だから、偶に余所から来た馬鹿に嫌がらせされることがあるんだが。

 ただここは俺ら城の兵士たちにとってもありがたい場所だ。

 大体、兵士の誰かが飯食うために来てるから騒動を起こせば即鎮圧されている。

 

 そういう意味でもこの店は今の建業で一番安全に飯が食える場所なのかもしれねぇな。

 

 そんな事を考えながら外に出された席で飯を食っている客たちをすり抜けて暖簾を潜る。

 

「おーい、一人なんだが席空いてるか?」

「お、程隊長! 久し振りっすね。こっちどうぞ!」

 

 顔見知りの店員が俺を見て喜びながら席に案内してくれる。

 周りも俺が来た事に気付いたのか口々に声をかけてきた。

 

「おお、程隊長。そのお顔を見るに韓隊長の具合は良いようですね」

「ああ。だいぶ落ち着いてきたぜ」

 

 俺の答えにほっとした顔をするのは交番勤務の兵士たちだ。

 こいつらは元が同じ農民出だからか、俺たちをすげぇ慕ってくれている。

 別に豪族出身の宋謙のおやっさんとかを毛嫌いしてるとかはねぇから慕われるの自体は別に好きにすりゃいいんだが、なんというかこれが結構気恥ずかしくていつまでも慣れないんだよなぁ。

 

「今度、韓の姉御が元気になったら是非、この店にどうぞ!」

「言われなくてもそうするさ。あいつもここの拉麺は好きだからな。ほい、豚骨の叉焼大盛り頼むわ」

 

 渡された採譜を見もせずにいつものを注文する。

 店員も心得たもんで採譜を受け取り、注文を奥の厨房に告げた。

 

「豚骨の叉焼大盛り、入りましたぁ!」

「「ご注文ありがとうございます!!」」

 

 奥から聞こえる気合いの入った声が耳に心地よい。

 久し振りの拉麺が来るのを心待ちにしていると不意に視線を感じた。

 

 探るような、というよりはあからさまに挑発的な視線。

 偶に雪蓮様や塁たちが見せるのと同一の、いわゆる『戦いたがり』な連中のソレ。

 

「俺に何か用か?」

 

 振り返りながら問いかける。

 視線の主はすぐ後ろの席に陣取っていた。

 三人組の雪蓮様か蓮華様くらいの年齢のお嬢ちゃんたち。

 

 その中で冗談かというくらいメンマが盛られた器に手を付けている奴が視線の主だった。

 正直、挑発的な視線がどうこうよりも麺なんざ見えないくらい盛られたメンマの器の衝撃の方が大きい。

 思わずそっちを凝視しちまった。

 

「ふむ。不躾な視線を向けて申し訳ない。いきなり現れた強者につい興味をそそられてしまいましてな」

 

 飄々とする割に真剣な瞳で謝ってくるメンマの少女。

 挑発してきた割には冷静みたいだな。

 いきなり襲いかかるような阿呆じゃないようで何よりだ。

 

「(しかし構わない、と言っちまうのは一応建業で隊を預かる人間としちゃ駄目だよなぁ……)次からは気をつけな。俺だから声をかけるだけで済ましたが、血の気の多い奴だったらきっと騒ぎになるからよ」

 

 具体的には雪蓮様とか塁とか雪蓮様とか機嫌が悪いときの祭とか、だ。

 

「ははは、本当に申し訳ない。しかし偶然にも同じ店で食事する仲になったのです。これも縁、一時の談笑など如何ですかな?」

 

 最初からそれが狙いだったのに臆面もなく言うな、この子。

 彼女と同席している二人の少女も俺の返答に期待しているみたいだし。

 まぁいいか。

 

「構わねぇよ。ただ俺は既に妻がいて近々子供も生まれる予定だ。惚れられても応える事はないからそのつもりでな」

 

 ただその思惑に乗るのも癪なんで、ついらしくもない事を冗談めかして言ってやる。

 少女たちの様子を窺ってみると例外なく年相応に目を丸くして驚いていた。

 

 意趣返しが成功した事に内心で笑いながら、俺は席ごとその子たちの方に振り返る。

 

「さぁてまずは名乗ろうか。俺は程徳謀。建業に仕える武官の一人だ」

「建業が誇る武官四天王のお一人がご謙遜を。私は趙子龍(ちょうしりゅう)。しがない流れ者ですな」

 

 俺の名乗りに対してまずメンマの少女が名乗った。

 

「その名に恥じない働きをするつもりではいるが、初対面の人間に言われるとなんか照れるわ」

 

 俺たち五村を故郷に持つ四人を指した四天王という異名。

 蘭雪様は俺たちの将来性を期待してこう名付けてくださった。

 俺たちは全員がそれに応えるだけの働きをするつもりでいる。

 

「私は程立(ていりつ)と申します~」

 

 視線を移すと頭に人形を乗せた少女が名乗る。

 最後の一人、眼鏡をかけた少女を見つめると彼女は一度深呼吸をしてから名乗った。

 

「私は戯志才(ぎしさい)と申します」

 

 俺は『覚えのある名前』が出た事で、思わず席から立ち上がりそうになった。

 なんとか堪え、眼鏡の少女の顔を見つめる。

 こいつが名乗った名前は僅かな情報を頼りに駆狼が今でも捜している桂花ちゃんと一緒に人攫いされた同じ年の少女の名だ。

 

 流石にこの子がそうなのかどうか俺には判断出来ない。

 いや仮にこの場に駆狼がいたとしても、自称戯志才が本物かどうかなんて判断は出来ないだろう。

 なにせ俺たちは顔すら知らないのだから。

 

 とりあえず、この子については様子を見るか。

 もしも何か意味があってこの名を名乗っているなら、どっかであちらさんから動きがあるはず。

 

「さて話すっつったが何を話すんだ? あいにくと俺には一回り年下と盛り上がれる話題ってのは思いつかんぜ?」

 

 俺は暗にあちらから話題を振るよう促し、会話の主導権をあえて譲った。

 このただの旅人というには身なりが良くて、隊を預かる人間を相手にしても動じない肝が座ったお嬢ちゃんたちの事をその言動から少しでも知るために。

 

 そうして始まった談笑は本当にただ拉麺を食べながらの世間話だった。

 

 元々は戯お嬢ちゃんと程お嬢ちゃんの二人旅だったんだそうだ。

 まぁ普通に可愛い子たちだからな。

 治安の悪いところで見事に賊に襲われ、その時に助けてくれたのが子龍で、そこからの付き合いらしい。

 かれこれ一年くらいは一緒に旅をしているって話だ。

 

 しっかし他の領地の話をどこにも属していない人間の口から聞けるって言うのはありがたいな。

 うちの密偵連中の情報と摺り合わせれば、情報の正確性を上げられる。

 

 

 俺の方からは仕官した時の話やら仕えてからの他愛ない話をしてやった。

 領主自ら俺たちを求めたって話は噂程度に聞いていたらしく、そこについては全員が食いついて聞いてきた。

 自分の長く綺麗な桃色の髪と自身の命を対価に、しかも片方を先払いしてまで俺たちに仕官してほしいと言われたって教えてやると、蘭雪様の破天荒で型破りな行動に美少女にあるまじき顔をしていたな。

 

 さすがに仕官してからの城での日々については色々とぼかして話した。

 機密に引っかかりそうだし、俺の情けない話ばっかり出てきそうだし。

 

 仕官話について話したのは蘭雪様が余所の領主と良い意味でも悪い意味でも違うって事を印象づける為だしな。

 久し振りの拉麺を食べ終わるまでの間、俺はこの若者どもとの他愛ない話を楽しみ、そして何事もなく別れている。

 

「なんか楽しそうね、激。食事を外で取ったのは良い気分転換になったの?」

 

 病室で薬草を煎じた温めの茶を飲む塁に、俺は笑顔で頷いた。

 

「面白そうな子たちがいたんだよ。きっとお前も会ったら気に入る。ああ、それよりお前は子龍とは戦いたがるかもな」

「へぇ、面白そうな話ね。教えてよ、その子たちの事」

 

 その後は日が暮れるまで活力溢れる若者たちの話に花を咲かせた。

 

 

 塁の部屋を後にして自室に戻る間、俺はしばらくこの街に滞在すると行っていた三人組の一人を思い出す。

 

 時折、思い詰めたような顔をする戯志才と名乗ったあの子。

 ちょっと調べた方がいいか。

 あとはあの子たちがいる間に駆狼が戻ってきてくれればいいんだけど。

 

 あいつが自分の罪だと抱え込んでいる事柄に、大なり小なり関係していると思われる少女。

 

「先に文で教えるか? ……いや流石に今は軍務に集中させないと駄目だろ」

 

 あーでもないこーでもないと考えながら、俺は眠りについた。

 この翌日、兵士志願と称して子龍たちが兵舎に駆けこんでくるなんて思いもしないで。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十五話

 追跡部隊が掴んだ賊の根城は天然の洞穴だった。

 ほど近い山の麓、領地同士が重なる辺りに流れる長江の支流の川辺。

 ぽっかりと口を開いている出入り口から中へは一本道でほどなく広い空間に出るのだ。

 人が百人いて尚も余裕があるその場所は、雨風を凌ぎ息を潜めるには絶好の場所と言えるだろう。

 そんな天然の隠れ家が『複数』点在し、それら全てに賊が隠れていた。

 

 俺たちはそれらを一つ残らず探し、そこにいる賊徒を一人残らず叩き潰さねばならない。

 それなりの距離を取って点在している洞穴を一つずつ潰していくのでは、そう遠くないうちに賊は自分たちが襲撃されている事実に気付くだろう。

 

 なるべく気付かれないようにするには一つ一つの襲撃の合間を無くす他ない。

 敵に感づかれるよりも早く事を為すには『拠点を一つ制圧、賊が異常に気付くよりも速く次の拠点へ向かうという事を繰り返す』か『部隊を分けて同時に襲撃、制圧する』必要がある。

 どちらも強行軍ではあるが、襲撃に感づかれ散り散りに逃げられる訳にはいかないのだ。

 

 幸い思春と弧円たちによって周辺の拠点は全て洗い出されている。

 賊が碌な装備を持っておらず、指揮官たり得る人材もほとんどいない烏合の衆だという点もあり、俺たちは部隊を分けての同時襲撃を行う事にした。

 

 

 結論から言えば策は成功した。

 点在する四つの拠点に対して凌操隊、宋謙隊、賀斉隊、董襲隊に別れて襲撃。

 

 連中は最近、まるで成果が上がらず仲間がやられている現状にすっかり意気消沈しており、かつ拠点を絶対的な安全地帯だと勘違いして完全に油断していたようで、襲撃に対して混乱するばかりで抵抗もごく僅かだった。

 こちらの被害は怪我人が数名という理想的な結果と言える。

 

 出入り口が一つで警戒するのも楽であったはずにも関わらず、潜入は非常に簡単だったとは思春の弁だ。

 

 それは賊の頭がいた拠点でも同じだった。

 思春が潜入して空洞の奥に陣取っていた賊の頭の言動や態度について粒さに報告してくれたお陰で本拠地とも言えるこの場所の制圧も容易く行えた。

 今回の賊討伐に最も貢献したのは文句なしでこの子を初めとした密偵役をこなした者たちだろう。

 

 

 さて出入り口が一ヵ所しかないという事は逃げる為にもそこを通るしかないという事。

 襲撃の一手目はどの拠点も共通して油壺を投げ込み、そこにさらに松明を投げ込む事で引火、炎上させる事から始まった。

 前もって確認していた賊の荷に火が燃え移れば、水気のほとんどない炎を止める術はない。

 後は奴らが逃げ惑いながら外に出たところを叩けばそれで終わり。

 戦闘と呼べるような物はこの本拠地でさえもほとんど起きなかった。

 

「た、頼む。見逃してくれ! 足を洗うから! もうこんな事はしないから!」

 

 捕縛用の荒縄で後ろ手に縛り上げられた近隣の山賊の元締めだったその男は、青く腫れ上がった顔を地面にこすりつけて懇願する。

 恥も外聞もないその行為には、確実に命を落とすとわかっているからこその必死さが感じ取れる。

 

 そこにあるのは何がなんでも生き延びるという意志だ。

 それを無様だとは思わない。

 

 しかし。

 今までの悪事と密偵として先行した思春たちが隠れて聞いていたこいつの悪行を愉しむ言動を考慮し、こうして実際に言葉を聞いた上でもっての俺の返答は既に決まっていた。

 

「お前の言葉には木の葉一枚分の重みも、誠意も感じ取れない」

 

 右の握り拳に力を込める。

 巨岩を破壊するほどの前世では決して出せない領域の力を。

 

「お前はここで死ぬ。お前が捨て駒にした配下と同じ屍になるんだ」

 

 俺に何を言っても無駄と悟った男は悲壮感を滲ませていた形相を豹変させた。

 

「う、うぁあああああ! くそ、くそくそくそ! ふざけんな!! なんで俺があいつらと同じように死ななきゃいけねぇんだ! 俺は強いんだよ、凄いんだよ! あいつらまとめて良い思いさせてやったのは俺なんだぞ! そんな俺だからあいつらを盾にして生きていいんだよ! それがなんだよ、全滅ってよぉっ!? 役立たずどもが、ふざけんな。てめえらも人が気持ちよく生きてんの邪魔すんじゃねぇよ、ふざけんなぁ! ふざけんなふざけんなふざけんなぁあああああ!!!」

 

 実に自分勝手で、自分にだけ都合の良い理屈を絶叫する男。

 先の殊勝な態度が単なる化けの皮であった事の証明。

 聞く者の大半が顔を歪ませるだろうその言葉を俺はただ無言で聞き届ける。

 喉が枯れて男が荒い息を整えるまでずっと。

 

「言いたい事は全部言い切ったか?」

 

 握っていた拳を奴にもわかるように高く振り上げる。

 男は憎しみに満ちた形相で俺を見つめ、枯れていた息を僅かな唾を飲んで潤すと尚も口を開いた。

 

「したり顔で見下してんじゃねぇぞ、くそ! 呪ってやる呪ってやる、てめえの事を末代まで呪ってやる!」

「好きにしろ」

「っ! この……」

 

 尚も続けようとした男の顔面に振り下ろした拳を叩き込む。

 勢いよく背中から地面に倒れ込んだ男は頭蓋骨を俺の腕と地面とに挟まれぐしゃりと音を発てて潰れた。

 真っ赤な血しぶきが上がって地面を汚す。

 最期まで世を恨み、邪魔者であるところの俺を恨み続けた賊どもの頭は口を開いたまま鼻から上を失って絶命した。

 

「……他の賊と共に火にくべ、遺骨は同じ場所へ埋める。各自、準備に取りかかれ」

「はっ!」

 

 後ろで見守っていた思春が返事をし、他の死体を集めてある場所へと向かう。

 俺は目の前の死体の腕を取り持ち上げた。

 半壊した頭蓋からぐずぐずになった肉塊や血が地面に垂れるが、俺は気にせずそのまま運ぶ。

 身体にはまだ生きていた頃の体温が残っており、少しずつ冷めていくのがわかった。

 何度となく感じてきた命を奪ったという事を心に刻み込み、俺は即席の火葬場まで死体を運ぶ。

 

 これでこの任務は完了だ。

 またどこかから賊が流れてくる可能性がある以上、またこういう任務に出る事になるかもしれない。

 だが元を絶った上で末端まで叩きつぶした以上、しばらくは平和になるだろう。

 俺はまだまだ続くだろう仕事の中で、確かな達成感を感じていた。

 

「半数で死体の処理を継続、もう半数は撤収の準備だ。長居は無用。事後処理後は速やかに建業へ帰還するぞ!」

 

 ほどなくして到着した死体が並べられた場所。

 俺は動き回っている部下たちに再度指示を出しながら、持ってきた死体を安置する。

 本拠地になっていた山の麓の洞穴で戦った者たちの屍、その数およそ百人ほど。

 それなりの数である事から、火にくべる為の薪集めはやや重労働になっているようだ。

 しかしこれでも想定よりはだいぶ少ない数だ。

 

 激が何度かぶつかって人数を削っていた事、これまで散発的に仕掛けてきた賊を倒し続けていた事、拠点四つに分かれて隠れていた事の結果だ。

 お陰で決戦とも言えるこの戦いで戦った人数は想定よりも遙かに少なくなっていた。

 直接対峙していない者たちも含めると賊の総数はおそらく千を超える数だっただろう。

 

「どうやら人を集める手腕こそあれど、集めた戦力を運用する能力は無かったようですな」

 

 いつの間にか隣に来ていた豪人殿の言葉に俺は頷いて返す。

 視線を周囲に巡らせば宋謙隊はもちろん、賀斉隊、董襲隊と分けた者たちも合流しているようだ。

 

「思ったよりもずっと早く他の拠点は片付いたようですね」

「烏合の衆である上に策もなく、頭もおらず、何より士気も低い。これだけこちらにとって好条件でありましたからな」

 

 誇るほどの物ではない、当然の結果だと暗に示す豪人殿に俺は大きく頷いた。

 

「しかしあちらに軍師役になり得る人材がいたら、こう簡単には終わらなかったかもしれませんな」

「そう単純に行くとは思えませんね。頭だった男の身勝手な本性では仮にそのような存在がいたとしても有効に使えたかどうか」

「軍師役となる者が如何にあの男を操るか、と言ったところでしょうかな? さらに言えば乗っ取ったその軍師役に人を集める腕が無ければ今回の賊徒の軍勢は空中分解していた可能性もありますな。……何がどう動くかわからないものです」

「まったくです」

 

 雑談する間も作業が続く。

 

「隊長! 準備出来ました」

 

 駆け寄ってきた弧円から火付けの為の松明を受け取る。

 

「子烈はどうしている?」

「今は麟が見てますよ。離れるのがよっぽど嫌だったのか、ぶすっとしてましたけど」

 

 今、子烈は俺から引き離している。

 理由はもちろん俺が直接、血生臭い事に関わるからだ。

 

 この有様を何もわからない少女に見せるのは躊躇われた。

 だから言葉がわからなくとも根気よく言い聞かせて、しばらく俺から離れる事を了承してもらい後詰めの隊員に預けたのだ。

 

「この後、しっかり相手をしなければなりませんな」

「そうですね。……その前に最後の役目を果たしましょう」

 

 松明を地面に擦り合わせ、その摩擦で火を付ける。

 

「火と共に天に昇れ。その後、地獄に落ちるかはお前らの所業次第だ。……いずれは俺もそちらに行くから恨みを晴らすつもりなら待っているといい」

 

 誰にも聞こえないほど小さい声で囁き、俺は組まれた薪に火を付けた。

 火はあっという間に燃え上がり、賊の骸を焼き払っていく。

 人肉の焦げる異臭に顔を歪める者は多かったが、それでもその場から立ち去る者はいなかった。

 土葬が主流の今の世でこの行為はさぞ異質に見えるだろうに。

 俺が殺した者の死を忘れぬようにと行っているこの行為に、部下たちは文句も言わずに従っていくれる。

 それが何よりもありがたかった。

 

 

 

「いきなりだな。お前ら」

 

 今日の仕事について責任者と協議しようと兵舎に来ていたら、いきなり「たのもう!」とか大声上げて乗り込んできた子龍。

 その後ろには当然のように戯お嬢ちゃんと程お嬢ちゃんもいる。

 

 すわ敵襲かと槍片手に飛び出す兵士たちと一緒に向かうと兵舎の出入り口で仁王立ちしているこの子たちがいたわけだ。

 兵たちはともかく俺は肩から力が抜けたぜ、まったく。

 

「いえこちらで兵を募集していると聞きまして。仕えるかどうかは別として路銀を稼ぐ為にも雇っていただけないかと」

「それならそうともう少し穏便にやってくれよ。大声でたのもうとか普通に阿呆の襲撃かなんかの陽動だと思ったわ」

 

 心底呆れたという視線を向けてやるも気まずげに頭を下げるのは戯お嬢ちゃんだけだった。

 子龍はまったく悪びれてないし、程お嬢ちゃんはうつらうつらと舟漕いで頭の上のへんてこな人形が今にも落ちそうになっている。

 

 俺は頭痛を堪えるように米神を軽く叩きながら人騒がせな三人娘を見つめる。

 

「で、うちでしばらく働きたい、と。臆面も無くしばらくだなんて言うからにはほんとにただの一兵士として雇う事になるぞ?」

「それで構いません。まぁ……私の実力を見込んで客将に召し上げていただけるなら喜んで受けますが」

 

 自信ありげにしかし角が立たないよう戯けたように笑いながら言う子龍。

 しかしうちに武官は十分すぎるほどいるからな。

 正規に仕えるってんならともかく、そうでないなら別になぁ。

 とりあえずはっきり断っとくか。

 

「うちの兵士数人分の実力じゃ客将は無理だ。その待遇にしてほしいなら腕を上げて出直してこい」

「なぁっ!?」

 

 ばっさり切られたのがよほど意外だったのか、子龍は素っ頓狂な声を上げた。

 自信満々なところ悪いが、雪蓮様以下蓮華様と同等程度の実力じゃあうちでの武官としての扱いなんてそんなもんだ。

 まだまだ伸びそうではあるんだけどな、まだ足りん。

 

「あと戯お嬢ちゃんと程お嬢ちゃんはどうすんだ?」

「それなりに学はありますので文字を書く必要のある雑務などがあれば是非とも。この子も同様です」

 

 はきはきと答える戯お嬢ちゃんは、隣で寝てるとしか思えない程お嬢ちゃんの分まで売り込みをしてきた。

 この子はなんて言うか自分が雇われる側だって理解してるみたいだな。

 丁寧に、しかし簡潔に自分たちの長所を説明してくれている。

 

「なるほど、わかった。とはいえ当然だが資料関係を見せるのには監視付きになるぜ。お前らもうちに正規に仕官したいわけじゃないんだろ?」

 

 どうもこの子たちは仕える場所を見定めようとしているみてぇだし、余所に行く時の為にも余計なしがらみは残さないようにしといた方がいいわな。

 俺の気遣いに気付いたのか、申し訳なさそうに戯お嬢ちゃんが頭を下げて礼を言う。

 

「ご配慮感謝します。ほら、程立からもお礼を言って!」

「おおっ!? はい、程将軍、ありがとうございます~」

 

 起こされて驚く程お嬢ちゃん。

 だが舟を漕いでいたとは思えないほど正確に事の推移を把握して礼を言ってくる様子を見るに狸寝入りしてたらしい。

 俺は完全に寝入っていると思ってたんだが、そうでなかったってんだからこの子は中々に曲者だな。

 

「よし。それじゃ仕事を割り振る前に筆頭文官に面通ししないとな。二人とも、悪いがあの婆さんに落とされたら諦めてくれ」

 

 脳裏に浮かぶのは俺らが任官したその時からずっと世話になっているあの人。

 偏屈でいつまでも名前を名乗らない、しかし建業で最も信頼厚い婆さん。

 

「で、子龍。自分の実力が下に見られてると思うなら、うちの兵士とやり合ってみろ。そこのお前、調練所に案内してやってくれ」

「はっ!」

 

 詰め所の兵士は俺の言葉に背筋を伸ばせて返事を返す。

 

「三人、多くても四人で相手してやれ。一人じゃ無理だが、それくらいで丁度良く押さえ込めるはずだ」

「程将軍。流石にそこまで明け透けに我が武を侮られるのは心外ですぞ」

 

 僅かに殺気立つ子龍。

 だが俺の見立てが合ってれば本当にそれくらいで丁度良いんだから仕方ない。

 

「文句があるなら実力で示せ。俺の見立てがとんだ見当違いだったとお前が誇る武で証明して見せろ」

「……」

 

 不満そうな顔をしているが、ここまで言われたら逆に引き下がるしかないだろう。

 

「とりあえずうちに来て一年以上の奴を当ててやれ。流石にそれ以下の年数だと基礎がなってきたばかりだろうしな」

「了解しました。それではこちらへ」

「承知した。ではまた後で。程立、戯志才もな」

 

 飄々と兵士について行く子龍。

 だが槍を握った手に不必要な力が入っているのを俺は見逃さなかった。

 

「三人もいらなかったかもしれねぇな」

 

 物問いたげな戯お嬢ちゃんの視線をあえて無視して婆さんがいるだろう執務室へ向かう。

 

 結論から言えば子龍は俺の見立て通り、三人の兵士を相手にして敗北した。

 その事が本人としてはめちゃくちゃ衝撃だったらしく、それなりに付き合いがある戯お嬢ちゃんたちも驚くほどの塞ぎ込みっぷりだったって話だ。

 その日はそれまでだった。

 だが次の日に建業の兵士を侮っていた事と自身の傲慢な物言いを謝罪し、改めて一兵卒で雇ってほしいと頭を下げてきた。

 

 今まで培ってきた力への自信が粉々にされた割には元気そうだったのが印象に残ってる。

 だからか、俺は子龍の言を全面的に受け入れ、仕事としては何人かと組ませての城下巡回をやらせる事にした。

 

 さらに俺の権限で駆狼作成、監修美命様の新兵訓練に参加する事を許可した。

 この新兵訓練は初期案の段階でお試しと称して俺や塁、慎に祭がやらされている。

 それなりに鍛えていた俺たちでも慣れるまで食事をする事が出来なくなるほど酷い内容だった。

 いや、ほんと今思い出しても酷かった。

 お陰で強くはなったんだけどな。

 

 初期からはだいぶ調整されて今では新兵がぎりぎり耐えられるくらいにはなっているんだが、それでも厳しい内容なのは変わりない。

 

 

 でそれをこなして他の兵たちと一緒に地面とお友達になっている子龍だが。

 

「私の力はまだまだだったという事が骨身に染みてよくわかりました。むしろ今、知る事が出来た事に感謝いたします。程将軍」

 

 負けた事と俺らが常日頃やっている自分がへとへとになる訓練。

 これらを子龍は思ったよりもずっと前向きに考えてた事には驚かされたもんだ。

 

 兵士志願の新人の中には調練に耐えられなくて、あるいは俺ら武官とやり合って力の差を思い知った事で逃げ出すような根性なしがいる。

 中途半端に強い奴ほどそういう傾向が強い。

 そんでそういう奴は最初は良くてもいずれ周りを巻き込んで失敗する可能性がある。

 だから俺たちは志願した連中についてはまず真っ先に実力差を知らしめるようにしている。

 

 その程度の現実で諦めるような惰弱な輩はいらん、ってのは蘭雪様の意見であり建業の総意でもある。

 どうやらこいつはそういう惰弱な奴らにはならなかったらしい。

 

「それじゃ約束通り、これからは一兵卒としてこき使うからそのつもりでな。子龍」

「はっ! どうぞご随意にこき使っていただきたい」

 

 ぎらついた目にはこのままでは終わらないという強い意志が感じ取れた。

 まぁどこまで行けるかは知らないが、頼もしい若者が増えたって事にしておこうか。

 

 俺は笑いながら明日からの仕事に思いを馳せた。

 駆狼が戻ってきた事で『戯志才を名乗る少女への懸念』が復活してまた頭を抱える事になるんだが、それはもう少し先の話だ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十六話

 建業周辺に集まっていた賊は壊滅させた。

 俺たちは確かな達成感を胸に、建業への帰路についている。

 俺の背には少しの間、離れていた時間を埋めるように子烈がしがみついて離れない。

 

 もう既に背中にこの子が張り付いている状態は、見慣れられてしまっている為に誰もが微笑ましげに見るようになっていた。

 別に嫌というわけではないが、この状態のままにしておくのも問題だろう。

 かといってすぐにどうこう出来るような案があるわけでもない。

 今までの境遇と相まって今はただこの子のやりたいようにさせる事にしよう。

 

「ねぇ、ちょっと駆狼~~」

 

 暇潰しがてら色々と考え事をしていると隊列の後ろから俺を呼ぶ情けない声が聞こえてきた。

 あえてその声を無視してずり落ちそうになった子烈を背負い直す。

 

「うーー?」

 

 情けない声の主に応えなくていいのか、と聞くかのように服を引っ張る子烈。

 無視し続けるのはこの子の教育に良くないか。

 

 俺は溜息を一つこぼすと後ろで行軍時に水を入れておく大きな水瓶を背負って歩いている雪蓮嬢に顔を向けた。

 

「勝手に離れちゃったのは謝るからもういいでしょ~。なんかこっちを窺ってる怪しい子がいたんだもん、何してるか聞こうとしたら逃げられちゃったし、そんなの追いかけるしかないじゃない~~」

 

 雪蓮嬢は本拠地への襲撃の際、俺と分かれて数人連れて洞穴の外に張り込んでいた。

 手筈通りに賊を拠点から追い出し、逃げ惑う奴らを叩く段階で飛び出す想定だったのだがこの娘はその時、別の場所にいたのだ。

 有り体に言えば伝えていた指示を無視しての独断行動である。

 今やっているのはそれについての罰の一環だ。

 

「怪しい人物を追う事その物は構わない。ただその事を俺たちに伝令するのを忘れて追いかけっこに夢中になり、挙げ句に撤収準備が終わっても戻ってこなかったのは見過ごせん。建業まで水瓶背負い行軍は変わらんぞ」

「え~~」

 

 報告、連絡、相談は軍人だろうと社会人だろうと基本的な事だからな。

 

 唇を尖らせてぶーぶー言っている雪蓮嬢を無視して歩く。

 俺たちは賊の火葬後にも姿が見えない彼女を「あの病気のせいで我を忘れてどこかに行ったのでは?」と心配していた。

 国境が近かったと言うのもあり、もう少し戻ってくるのが遅ければ捜索隊を組むという所まで話は進んでいたんだ。

 けろっとした顔で戻ってきても、事が大事になる所だった罪は無くならん。

 

「も~、伝令送らなかったのは悪かったってば駆狼~~。あの子、すばしっこいだけじゃなくて気配を消すのが凄く巧かったんだもの。こっちに探りを入れてるどこかの間者だって思ったのよ。結局、逃げられちゃったけど……」

「小柄で腰まで届く長い髪、細長い形状の剣らしき獲物を鞘に入れて背負っていた女の子、だったか?」

「そうそう。私と駆狼が鍛えた数人とで追いかけたのに逃げ切られたの。……勘で何度か追いついたんだけど、すぐに視界から消えちゃうのよ? 明らかに只者じゃないじゃない。だからこそね、ちょっと熱が入っちゃったというか……」

「付いていった者たちからは確実に病気が発症していたと聞いているぞ。剣片手に殺気振りまきながら追いかけ回されてその子も運が無いな」

「ちょっとちょっと! なんでその子に同情してるのよ!」

「同情はしていない。ただ発症している時の雪蓮嬢はそれだけおどろおどろしい雰囲気を出しているのは事実だ。止める方の身にもなれ。……そりゃあ逃げる方も必死になるだろうさ」

 

 周りに視線を向ければ、うんうん頷いている者の多いこと多いこと。

 

「うう……。なによなによ、もう!」

 

 部下のほとんどが俺に同意している様子にとうとう涙目になる雪蓮嬢。

 建業の若者たちの中では冥琳嬢と並んで最年長であるこの子はおちょくる側に回る事が多い。

 だからこうしておちょくられる側になるというのも良い罰だろう。

 まぁこれはあくまで個人的なお仕置きで、水瓶行軍は建業まで続けさせるのは変わらないんだが。

 

「まぁ冗談はこれくらいにするとして。だ。あの状態の雪蓮嬢を撒くほどの能力を持った間者。あの男以外でそんな奴がいるなら放置するわけにはいかないな。戻ったら調べるとしよう」

 

 思い浮かぶのは見えているのかすらわからない狐目で薄く笑う顔。

 荀家当主の荀爽や荀毘からの密使を請け負い、ふらりと兵士たちや町民たちに紛れて現れる。

 俺が知る限りで最も優れた隠密能力を持つ男、周洪。

 

 まさか関係者か?

 

 先も言ったように雪蓮嬢を撒ける時点で並大抵の腕じゃない事は確定だ。

 そして今まで捕られてきた間者で最も腕の立つ者は周洪で間違いない。

 次点で華琳の所の間者だが、周洪との間にはかなりの実力差がある。

 なにせ華琳たちはもちろん奴以外の間者には市街までならともかく城内への侵入は、俺が知る限り一度として許していない。

 しかし周洪はこちらがどれだけ警戒しようとも最終的に潜入されてしまうこと数知れず。

 蘭雪様や雪蓮嬢の勘も周洪の発見に役立つ事はあっても、潜入を阻めた事はない。

 

 今回、雪蓮嬢が追いかけて取り逃がした少女はその実績から見るに周洪未満、華琳たちの間者以上の実力を持っているという事になる。

 安易に繋げるのは良くないが……可能性として考えておく必要があるだろう。

 やはりなるべく早めの調査が必要だな。

 

 

 任務が終わった余韻も冷めぬまま、増える新たな懸念事項に俺はそっと溜息をこぼしながら子烈を背負い直した。

 

 

 

「あ、あの、すみません」

 

 あと数日で建業に到着するというところまで来た日の夜。

 子烈を寝かしつけて報告用の竹簡の内容を精査していたところで、天幕の外から声をかけられた。

 

 聞き覚えのない少女の声だ。

 俺は即座に子烈を背に庇うように立ち、天幕の入り口を睨み付ける。

 

 俺がいる天幕は部隊の中央に位置し、ここに辿り着くには周囲で寝ずの番をしている部下たちの目をかいくぐらなければならない。

 だというのに周囲からは侵入者が出たと騒ぎ立てる様子はない。

 つまりこの子は誰にも見つからずにこの場所に到着したという事になる。

 警戒は当然の事だった。

 それでも侵入者が来たことを大声で叫ばなかったのは、あちらに敵対する意図が見えなかったからだ。

 

 仕事に集中していたとはいえ、俺自身も声をかけられるまで彼女の存在に気付く事が出来なかった。

 不意打ちしようと思えばいくらでも出来たはずの状況で、あえて声をかけてきたという事は襲撃とは別の意図があるはずだ。

 

 俺は慎重に言葉を選び、外の誰かに声をかける。

 

「君は誰でどういった用件だ? わざわざ天幕に近付くところで気配を出して声をかけてきたんだ。どこぞの間者が夜襲してきたという訳ではないのだろう?」

 

 天幕内には蝋燭立てが一つあり、やや大きめのソレの灯火で周囲を照らしている。

 その灯りによって天幕のすぐ外にいる声をかけてきた誰かの影が揺らめきながらもよく見えた。

 

 長い髪に小柄な体躯、背に背負われた獲物らしき物は俺の記憶にある刀、それも日本刀に近い形状をしているようだ。

 これらの特徴は雪蓮嬢が話していた少女と一致する。

 

「えっと……私は周勇平の娘で姓は周、名は泰、字を幼平と申します。夜分に申し訳ありません。本日は凌刀厘様にお願いがあって参りました」

「……」

 

 ずいぶんと丁寧だが弱気な印象を受ける話し方をする子だな。

 そしてこの子の言葉を信じるならば、この卓越した隠行は周洪譲りという事になる。

 以前、関係者かもしれないという推測は立てていたが当たりだったようだ。

 

「お願いというのはあの男から俺に、という事か?」

「い、いえ私のお願いも入っていると言いますか……不躾なお話で大変恐縮なのですが」

 

 要領を得ない説明だが、どうも腰を据えて話した方が良い話題らしい。

 とはいえ未だに警戒は解けない。

 

 なぜなら彼女はわざわざ姿を隠して俺に会いに来たのだから。

 含むところが無いなら普通に見張りに立っている兵士に声をかけて、俺に報告が行くのを待つのが常道。

 そうでなくても昼間の行軍中にでも声をかければいい。

 あえて俺だけと話をしようとするところの意図が俺だけを狙った回りくどい暗殺ではないという保証はないんだ。

 

「なぜわざわざ俺以外に姿を眩まして接触してきた?」

 

 揺さぶりもかねて直球で尋ねてみる。

 すると天幕の外の影はぶるりと身を震わせた。

 

「あ、あの私。何日か前は昼間に時期を見て接触しようと思っていたんです。ただ、その……孫伯符様に見つかってしまって。事情を話そうと思ったんですけど、何でか非常に殺気立ってらっしゃったので話を聞いてもらえないと思って思わず逃げてしまい……その、追ってくる時の伯符様があまりにも恐ろしい形相で、何度かお付きの兵士さんたちに先回りされて掴まりそうになったりしたので……面と向かうのが少し怖かったと言いますか」

「……なるほどな」

 

 説明するうちにその時の光景が頭を過ぎったのか、身体が寒さを訴えるかのように震え始め、説明の声も心無しか涙声になっているように聞こえた。

 なるほど、あの子の狂乱状態と部下たちに追い込まれた事が原因か。

 追われた事自体はこの子の自業自得と言えるが、狂乱状態の雪蓮嬢に関しては申し訳なさを感じる。

 彼女のあれについては落ち着くまではこちらでフォローする事になっている。

 ある意味ではこちらの監督不行き届きと言えるだろう。

 

「事情はわかった。その背中の武器を天幕の外に置くのであれば入ってくるといい」

「は、はい! ありがとうございます!」

 

 中に入れる事がそんなに嬉しいのか、弾むような声で礼を言うと彼女は躊躇いなく背中の武器を地面に置いた。

 これが演技なら大したもんだ。

 

「失礼いたします」

 

 そっと天幕の出入り口から入る少女。

 歩く際の足音は無く、その所作には隙が無い。

 武器が無くとも油断できる相手ではないのだと再認識し、一先ず眠っている子烈を背に庇うように座り、対面に座るように促す。

 

 素早く腰を下ろすと少女はほっと息を付く。

 俺は水瓶から柄杓で中身を椀に注ぎ、自分と少女の前に置いた。

 

「ここまで緊張しっぱなしだったんだろう? これでも飲んで気を静めるといい」

「あ、あの。お気遣いなど不要です! こんな夜更けに訪ねた私などに」

「構わん。伯符の癇癪もどきを放置していたのはこちらの責任だ」

 

 こちらとしては気遣いの一環として出しただけで、飲まないならばそれで構わないからな。

 しかしこの子が飲みやすい状況を作る為に、自分の椀に口を付け毒など入っていない事は示しておく。

 俺が飲んだのを見届けると彼女は椀を両手で大事そうに抱えて口を付けた。

 相当に喉が渇いていたようで、嚥下される様子が妙に力強く見える。

 

「さて用件を聞こうか」

 

 椀の中の水を全て飲み干すのを待ち、落ち着いたのを見計らって声をかける。

 

「はい」

 

 居住まいを正し、少女は一介の兵士へと意識を切り替えた。

 この子が『周泰』か。

 

 

 周泰幼平(しゅうたいようへい)

 史実では孫策の頃から仕えていた側近。

 孫権に気に入られ、彼の配下に収まって様々な成果を上げる。

 最たる物としては孫策が江東を平定した事で放逐されたことを恨んだ袁術の襲撃からその身を挺して孫権を守り抜いた事だろう。

 その際に全身に十二もの傷を付けられたが、それでも赤壁の戦い、劉備たち蜀漢との激突など様々な戦いに参戦し続けた剛の者。

 その傷がもたらした孫権との絆はとても深く、周泰を軽んじていた武官たちを孫権が傷の由来を教えて説き伏せたと言われている。

 

 

 強者ではあるんだろうが、イメージが真逆過ぎるな。

 そんな意味のない感想を心中で呟きながら俺は目の前にいる周泰の言葉に耳を傾けた。

 

 そして翌日。

 

「新しく建業に仕官する事になった周幼平だ。正式な仕官は建業に戻ってからになるが仲良くしてやってくれ」

「若輩者ですが皆様よろしくお願いいたします!!」

 

 行軍の準備が終わり、いざ出発というところで周泰嬢を紹介した。

 俺の紹介を受けて礼儀正しく勢いよく頭を下げる周泰嬢。

 

 部下たちは例外なくぽかんとした顔で俺と頭を下げている周泰嬢を交互に見つめている。

 雪蓮嬢の動揺は特に酷く、水瓶を背負った状態で周泰嬢を指差して口をぱくぱくさせていた。

 

「ええええええええっ!?!?」

「なぁああああああっ!?!?」

 

 雪蓮嬢と思春の甲高い声を皮切りに荒野の真ん中に部下たちの驚きの声が響き渡った。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十七話

 涼州往復の旅路に比べれば遙かに短いおよそ一ヶ月の遠征。

 それを終え、頼もしい部下として周泰を新たに加えた俺たちは建業へと帰還した。

 

 まぁ帰りの行軍で周泰を勝手に配下に加えた事については雪蓮嬢や思春から物言いがかかったが。

 

 思春は周泰を親の敵と言わんばかりの態度で警戒していた。

 この子の隠行に気付けなかった自分のミスをかなり重く捉えて警戒心やら出し抜かれた不甲斐なさやらで八つ当たりも入っていたと思う。

 その様子を見て俺は気を許しあうにはそれなりに時間がかかるだろうと思っていた。

 いたんだが。

 

「ふむ、やはり周泰の隠行は凄いな。少し視線を外すだけでこんなにも容易く視界から消えるとは……」

「む、昔から父に人の死角を探る癖を付けるようにと言い聞かせられてきましたので」

「やはり日々の積み重ねが大切なのだな。どういう鍛錬をしていたか教えてもらってもいいだろうか? もちろん一族の秘伝だというなら無理にとは言わない」

「確かに全てを教えるという事は出来ません。ですがどういうところが死角になるのか、などの基本を教える事は出来ます。それでよろしければ……」

「本当か! いや、しかし私ばかり教えてもらっては申し訳ない。周泰、お前の方から私にやって欲しいことはあるだろうか?」

「え、えっと……では基本を教える代わりに私の鍛錬相手になってもらえませんでしょうか? 私は父から仕込まれた隠密行動にこそ自信がありますが、恥ずかしながら真っ向からの打ち合いの経験が少ないんです」

「そうなのか? わかった。私で良ければ」

 

 それが建業に着くまでの僅かな間にこうなった。

 思春の殺気立つ様子は鳴りを潜め、積極的な交流を図っている。

 

 俺が建業に戻ってからの段取りを豪人殿としている間に一体何があったのか。

 

「あ~、あの二人はですね隊長。自分の父親の話ですごい盛り上がったんですよ。いやぁ話を振ったのはあたしですけどあんなに上手くいくとは思いませんでした」

 

 疑問が顔に出ていたのか、弧円が二人が仲良くなった理由を話してくれた。

 

「お嬢が殺気立ってて周お嬢ちゃんが泣きそうになってたんでなんか話の種をと思いまして……あたしたちに気付かせずに隊長のところまで辿り着いた隠行って父親に習ったのって聞いたんですけど。そこからあの子、お嬢に怯えてたのが嘘みたいに饒舌に父親の事語りだしまして。でそれにお嬢が触発されて」

「親の事を話して語り合ううちに打ち解けたと」

「そういう事です(まぁお嬢が話していたお父さんには隊長の事も入ってたんだけど)」

 

 思春にとって父親である深桜は比肩する者などない偉大な存在だろう。

 誇らしげに父親の事を語る周泰に対抗意識を燃やしてもなんら不思議ではない。

 

「父を尊敬しているという共通点が思春の敵意を取り払ったか。良い事だ」

 

 俺は二人が打ち解けた事を素直に喜んだ。

 横で弧円が何か言いたそうにしていたのが気になったが。

 

「雪蓮嬢はどうした?」

「水瓶行軍の刑で周泰殿に声をかけるどころではないようですな。行軍の最後尾を汗水流して歩いております」

 

 気がかりその二について報告を求めると豪人殿がその様子を伝えてくれる。

 

 雪蓮嬢は人一倍大きな驚きの声を上げた後、取り逃がした借りを返そうと周泰に絡もうとした。

 しかし周泰の方が苦手意識全開で彼女から逃げてしまったのだ。

 

 その逃げっぷりは実に見事で、最初こそ見ているだけだった俺たちはその技に感服した。

 

 雪蓮嬢にどれほど追いつかれても周泰は捕まらない。

 

 身体能力では雪蓮嬢が上だ。

 それは間違いない。

 だが周泰は身体能力の差をその独特の隠行の技術で補ってみせた。

 

 わざと追いつかせ緩急を付ける事で次の行動を容易く読ませないようにされた動き。

 視線や身体の向き、動きその物で相手を誘導する見ている側だからこそわかる無言の駆け引き。

 

 一朝一夕では決して出来ない、身体に叩き込まれた技術。

 そこには何が何でも生き延びるという思想が見え隠れしていた。

 

 そんな彼女の技に俺は柄にもなく見惚れていたと言っていいだろう。

 

 しかし一度逃した屈辱を晴らすべく襲いかかっても尚、翻弄されているという事実に雪蓮嬢は自身の中の鬼とも言うべき性質の火を点けてしまった。

 まぁ火が点いたと同時に俺が組み伏せて水を差したので大事には至らなかったが。

 

 とはいえこれ以上はまずいと思って止めたのだが、一度そうなると自力で止まれないのが雪蓮嬢だ。

 水瓶行軍の刑で溜まっていたのだろう鬱憤も相まって標的を俺に変えて襲いかかってきた。

 

 なんとか鎮圧し、暴走のペナルティとして水瓶を二つに増やしての行軍を言い渡して今に至る。

 水瓶一つでもそれなりに体力を消耗していたが、それが二倍になったのだ。

 流石の彼女でも周泰にちょっかいをかける余裕は無くなったのだろう。

 

 

 そんな騒動を挟みつつ、俺たちは遠くに見え始めた建業への帰路を変わらぬペースで歩き続けた。

 さほど長くもない遠征ではあったが、もうすぐ帰り着くのだという確かな安堵を感じながら。

 

 少しはゆっくり出来るかという俺の思いがあっけなく砕かれると知らずに。

 

 

 

 俺は建業に戻ると、部隊には兵舎での待機を命じさっそく蘭雪様に遠征の結果報告に向かった。

 現在、玉座の間に集まっている人間は蘭雪様、冥琳、激、老先生のみだ。

 雑務を文官たちに任せてどうにか必要な人間だけをこの場に集めたと聞いている。

 陽菜は子供たちが珍しくぐずってしまったらしく、母さんと一緒にあやしているらしい。

 

「こちらが周泰から預かった周洪……元を辿れば荀家当主荀爽からの書簡となります」

 

 賊討伐の報告を終え、一番最後に回していた事柄に触れる。

 当事者である周泰以外の部下たちの誰も知らない事。

 

 彼女の用件は建業への仕官の他にもう一つあったのだ。

 それがこの書簡を孫文台に届ける事。

 俺はその辺の事情を彼女から聞いた上で書簡を預かり、主に必ず届けると約束していた。

 

「ふむ。あの化生じみた男からの書簡か。嫌な予感しかせんな」

「しかしかの者の情報は良い事であれ悪い事であれ我らにとって有益でありましょう。君主様が嫌な予感がするというのならば尚の事、内容を検めなければなりますまい」

 

 俺が差し出したそれを老先生はそっと受け取り躊躇いなく開く。

 主に渡すにあたって念のために仕掛けの有無こそ確認したものの、内容までは俺も知らない。

 

 読み進めるうちに老先生の顔はどんどん険しさを増していく。

 一体どんな悪い事が書かれていたのか

 俺たちもまたいつになく鋭い目で黙読する彼女を緊張した面持ちで見つめる。

 やがて彼女は持っていた書簡を畳むと、それを『俺』に渡した。

 

 待て、渡す順番がおかしい。

 

「なぜ蘭雪様より先に私にこれを……?」

「……君主様へは私から一字一句違えず説明いたします。貴方はどこか広い場所でそれをお読みなさい」

 

 その言葉が俺への気遣いなのはわかる。

 しかし意図が読めない。

 これに何が書かれていると言うのか。

 

「普段、偏屈で礼節や形式に五月蠅いこいつがそんな事を言うんだ。言う通りにしておけ。私が許す。それがいいんだろ?」

「ええ。恐らくは」

 

 なにやらわかり合っている蘭雪様と老先生。

 俺は嫌な予感だけを増大させ、結局は言われるがままに玉座の間を後にした。

 

 

 そして俺は持ってきた竹簡を読み進め、そして老先生の気遣いの意味を知る。

 老先生は俺が書の内容に怒り狂い、感情のままに玉座の間の物に当たり散らす事がないようにあの場から遠ざけてくれたのだと言うことを。

 

 

 この日、城中に轟音が響き渡る事になる。

 

 慌てて駆けつけた者たちはすり鉢状に空いた大穴と、右手から血を流しながら鬼のような形相をした俺を見た事だろう。

 

「桂花……」

 

 竹簡に書かれていたあの子の『人質としての上洛』、そして『彼女の母親の毒殺』、さらに『あの子と荀毘の家の全焼』。

 それらは俺に今世で三指に入るほどの激情を、何も出来ない自分自身に対する憤怒を抱かせた。

 

 自分自身でも驚いている。

 俺は確かに『あの子に幸せを』と祈っていた。

 しかし敵対する事になろうとも仕方ないと割り切っていたはずだ。

 『そのつもりでしかなかった』と言うことなんだろう。

 

 事の次第を知って頭が真っ白になった。

 

 その後の事はよく覚えていない。

 ただ陽菜に引っ張られて自室に戻り、傷の手当てをされてそのまま眠った……らしい。

 

 

 翌日、朝のランニングに向かうと部隊の皆が気を遣ってくれた事が隊長として情けなくて申し訳なくて、しかし俺個人としてはただただありがたかった。

 

 

 桂花。

 いつか必ず助けに行く。

 だからどうか、それまで己を見失わず生き続けてくれ。

 

 悪辣無道な十常侍が全てを牛耳っている都に人質として送られて無事に済むはずがないとわかっている。

 それでも今の俺には願う事しか出来ない。

 

 それが何より不甲斐なく悔しかった。

 

 

 

 駆狼が去った後、事の次第を老先生が語る。

 そしてなぜあいつを追い出したのか理解出来た。

 

 桂花ちゃんが都に連れて行かれた。

 普通なら栄転って奴なんだろう。

 だがその実体は荀家に対する人質で、碌な扱いは望めないんだと。

 挙げ句、お母さんは殺されて家も原因不明の火災で焼け落ちたと来た。

 

 桂花ちゃんを我が子も同然に接していたあいつが知ればどうなるか。

 怒るのは間違いないと思う。

 だがあいつがどういう行動に出るか俺にはわからなかった。

 

 あいつは小さい頃から妙に落ち着いていたから。

 怒鳴る事はあるし、怒る事もある。

 しかしそれでもどこか冷静ですぐに感情を抑えちまう。

 今回もそんな風に怒りを抑え込んじまうんじゃないだろうか、ってそう思っていた。

 

 そんな事を考えながら蘭雪様たちと今後の事を話し合っていると。

 

 大銅鑼でも出せないだろう轟音と共に大地が揺れた。

 

「「なんだ!?」」

「近いぞ、庭か!?」

 

 冥琳様と老先生が驚きの声を上げ、蘭雪様が場所を推測する。

 俺はいち早く音源の方向に駆け出した。

 

 場所は蘭雪様が言った通り、城内の庭だった。

 そこには大穴が空いていた。

 

 何かが破裂して周囲を吹き飛ばしたような大穴。

 そしてその穴の中心には右手から血を滴らせた駆狼がいた。

 その様子は先の轟音があいつが右手で地面を殴りつけた物だと示していた。

 

「……」

 

 あいつは何も喋らない。

 その形相は幼馴染みである俺たちの誰もがおそらく見た事がないほどに怒り猛っていた。

 

 あんな表情の奴の事を『修羅』って言うんだろうな、って驚きで棒立ちになりながらぼんやりと考える。

 

 警邏の兵たちが武器を片手に集まってきた。

 皆、庭の有様と駆狼の様子に困惑しその形相を見た中には恐怖で顔をこわばらせている奴もいる。

 その中には思春嬢ちゃんを初めとしたあいつの部隊の連中も、蓮華様や雪蓮様、冥琳様たちもいる。

 だが誰もがあいつの様子に驚き気圧されて話しかける事が出来なかった。

 

 蘭雪様ですらそうなった。

 

 あいつは周りがざわついている事に気付いた様子もなく右腕を振り上げる。

 目の前の大穴を開けた一撃がもう一度来ると思い、周りで様子を窺っていた奴らは例外なく身構えた。

 俺は気圧されていた足を無理矢理踏み出しながら叫ぶ。

 

「よせぇっ!! 駆狼! あんな威力の拳をまた地面にぶつけたらお前の手が壊れちまう!」

 

 あらん限りの声で駆狼を止める。

 殴りつけてでも止める覚悟で拳を握り締めながら。

 

 だが俺があいつの元に辿り着く前に陽菜様があいつを後ろから抱きしめた。

 駆狼の右手が振り下ろされる事はなかった。

 

「駄目よ、駆狼。それ以上は駄目」

 

 小さいが、強い意志が込められた言葉。

 駆狼は握り込んでいた右手を力無く下ろした。

 

「部屋に戻りましょう。怪我の手当もしないと、ね?」

 

 優しく、しかし有無を言わさない言葉に駆狼は心ここにあらずの状態のまま従って移動していった。

 俺はその力の抜けた背中に声をかける事が出来なくてただ見送る。

 

 

 何が怒りを抑え込んじまうんじゃないだろうか、だ。

 自分の楽観的な推測に舌打ちし、拳を握り締める。

 

 あいつがこうなっちまうのは当たり前だろう。

 あの子の幸せを誰より願っていたのはあいつなんだ。

 実の子供とも遜色ないくらいにあの子を大切に想っていたんだ。

 

 自分ではあの子を助けられない。

 そんな自分の無力さが何よりも許せなくて、自分の身体に八つ当たりしちまうくらいに。

 

 『今も』あの子を大切に想っているんだ。

 

 親友の心根を軽く考えていた自分が腹立たしくて仕方ねぇ。

 けどそんな内心に蓋をして、俺は事態の収拾に取りかかった。

 

 あいつの無念が滲み出たその背中を胸に刻みながら。

 都を我が物顔で牛耳る顔も知らない宦官どもへの怒りを燃やしながら。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十八話

今年最後の投稿となります。
更新がまちまちのこの作品にお付き合いいただき本当にありがとうございます。
来年も今作をよろしくお願いします。


「ふん!」

 

 俺は握る拳で何もない空間を裂く。

 正しい構えからの正拳突きを何度も何度も何度も何度も。

 

 桂花の件から早数日。

 俺はそれから毎日、日が昇り始める頃合いにただただ無心で拳を振るう時間を作っていた。

 

 この行為は俺にとって『自分の中の怒りと向き合う時間』だ。

 

 今すぐにあの子を助ける事が出来ない事への怒り。

 権力によって横暴がまかり通る都の、いや中華の現状への怒り。

 理不尽に立ち向かう力が無い自分への怒り。

 

 その他様々な怒りに拳を振るう事で向き合う。

 そして決意を新たにする。

 

 俺が前世で戦後に作った格闘技団体、ただの青空道場から皆の力で一つの流派となった『精心流』。

 我流で知りうる格闘技をすべてちゃんぽんしたようなソレは本当ならば流派などととても言えないものだっただろう。

 しかし唯一掲げた表題『昨日の己に克つ』という言葉。

 その言葉だけはあの頃から死ぬまで、そして生まれ変わった今でも尚、胸を張って掲げている。

 その言葉に俺は救われて、その言葉で立ち上がる人がいて、その言葉に集まった人たちがいたんだから。

 

 

 俺は桂花の一件を鑑みて一度初心に戻ることにした。

 怒りに任せて庭を破壊してしまったのは、俺が自分自身の心を正しく理解していなかったからだ。

 

 だからこうしてゆっくりと型を繰り返す中で自分の心と向き合うことにした。

 今も尚決して収まらない怒りや他の感情と向き合い、それらを理解する。

 これは鍛錬では無い。

 自分自身を理解する為の、いわば儀式だ。

 

 しかし最近、思春や部下たちや明け方の巡回の兵士たちが俺を見張っている姿を見かけるようになった。

 傍目から見て奇行に走っているように見えるから仕方ないと言えば仕方ない。

 心配をかけているんだろう事はわかっているが、俺にとってこの行為は必要な事だ。

 迷惑をかけているがやめるつもりはない。

 

 どうせ時間を使わせてしまうなら今度から俺を窺っている連中を鍛錬に誘ってみるか。

 ただ俺を見ているだけでは退屈だろうし、それだけで時間が過ぎてしまうのは勿体ない。

 

 こうして俺の朝の儀式は、数日とかからず希望者による朝の鍛錬の場と化していく事になる。

 その中にいた見知らぬ少女があの『趙雲』であると知る事になるのはもう少し先の話だ。

 

 

 

 私は建業に来るまで自分の武に自身を持っていた。

 真面目に売り込めばあちらから仕官の話をよこすだろう、と思うくらいには。

 そんな私を徳謀殿は制圧するのに兵士三人いれば十分だと言い捨て。

 手合わせをしてみれば結果はまさにその通りになった。

 

 悪い夢だと思った。

 一対一ならば倒せると確信している相手が三人に増えたところでどうだというのだ、などと高をくくっていた。

 結果、彼らの息の合った連携に容易く破れてしまう。

 連携を断ち切り各個撃破すればいいと攻め立てたが、それがまったく出来なかったのだ。

 

 終わって気付く。

 

 一対一ですら倒せると言っても一蹴出来るほど彼らは弱くないと知っていたはずなのに、なぜ三人に増えたところでどうとでもなるなどと思ってしまったのか。

 

 その日は宿で寝ることが出来なかった。

 目を瞑ると手合わせの光景が思い浮かび、負けた悔しさや自分の不甲斐なさで目が冴えてしまったのだ。

 

 だが日の出までの長い時間、手合わせの内容を思い返し続けたお陰で私は目を反らしていた事実をしっかりと見定める事が出来た。

 私は油断していたのだ。

 私は慢心していたのだ。

 私は驕っていた。

 

 その結果の敗北。

 なまじ今まで敵無しだった為にこんな簡潔な結論を出すのにも夜通しで悩み続けなければならなかった。

 

 しかし認めてしまえば後は簡単だった。

 兵士たちに徳謀殿に自分の言動や愚かな態度を謝り、自分を鍛え直すためにも一兵士としての雇用を改めてお願いした。

 

 私の熱意が通じたのか話はあっさり通り、徳謀殿のご厚意で兵士たちがやっている鍛錬に参加出来るよう取りはからっていただけた。

 訓練の内容は地味だが身体全体を余すこと無く酷使する苛烈な物で、私は体力が続かずに息荒く顔も上げられない無様を晒した。

 同時に建業の兵士たちが屈強な理由が理解できた。

 これを日常的に続けていれば武の才覚の有無など関係なく一定の水準まで鍛え上げられるだろう、と。

 

 

 日々の城下巡回で同僚となった者たちとはそれなりに打ち解けられたと思う。

 私がどういう経緯で今の仕事に就いたかなんて知っているだろうに、彼らは気にした様子もなく私をその和に入れてくれた。

 

 器の差を思い知った気がした。

 

 まったく。

 この場所は自分を甘やかしていた私にはひどく手厳しい場所だ。

 だが私は今、この場所にいられる幸運に、徳謀殿を筆頭とした健業の方々の温情に感謝している。

 『自分が未熟である』という事実を突きつけ、それだけでなく自分を鍛えられる場を与えてくれたのだ。

 仕える場所としては、まだわからない。

 ただその温情には応えなければならないとそう思っている。

 

 

 

 さてそんな決意と共に建業での日々を送っていた私だが。

 日も昇り切らないほどの早朝にとある御仁の稽古を建物の影から窺っていた。

 

 御仁の名は凌刀厘。

 この建業にて孫呉四天王と称される方のお一人であり、建業の双虎の懐刀とまで言われている方だ。

 私がこの地にきて出会った徳謀殿とは故郷を同じくする幼馴染みであり、武芸を磨き合う好敵手なのだと巡回仕事をしていて仲良くなった同僚から聞いている。

 

 そんな方が賊討伐の遠征から戻られたと聞いた時、私は当然のようにその姿を一目見ようとした。

 結局お帰りになられたその日に出会う事は叶わなかったが。

 

 翌日、同僚に巡回中に何やら良くない情報をお聞きになったかの人物が中庭に大穴を空けたと聞かされた時は耳を疑った。

 同僚たちは事の経緯を細かくは知らないようだが、その様子は遠目から見ていても尋常ではなく運良く――いやこの場合は運悪くと言った方が良いか――彼の顔を見ることが出来たらしい同僚はその時の御仁の形相を思いだして青ざめていた。

 

「俺たちが知っている凌隊長って怒る時こそ静かなんだよ。出店から品物巻き上げようとした馬鹿とか食い逃げとか度が過ぎた喧嘩とか引っ捕らえた時のあの人はそりゃもう静かに淡々と説教してたし。そんなお方が……逆鱗に触れられた龍かって顔してた。何があったんだよほんと」

 

 同僚はそんな風にこぼして身震いする。

 建業の兵士たちは総じて心身共に頑強だ。

 そんな彼らが青ざめる形相とは一体どれほど苛烈な物だったのか。

 怖い物見たさの好奇心が疼いた。

 

 しかしそんな騒動があった以上、これはしばらく機会を待つべきかと思っていたのだが。

 日も上がりきらぬ頃に起きてなんとなく城下町をぶらついていた所でどこかに向かう彼を見つけた。

 

 ただ歩くだけだというのに背筋が伸びるような堂々とした姿。

 明らかに只者ではない隙のない所作。

 好奇心が疼き思わず建物に隠れて後を追った。

 

 その時は建業に仕える武官のお一人なのだろうとしか思い至らなかった。

 

 

 かの御仁は城下にある広場に着くとその場でただただ拳を放ち始めた。

 決められた型に従い拳を突き出す、槍や剣でいうところの素振りと同様の鍛錬なのだろう。

 

 彼は驚くほど緩やかな動作で腰を落とし拳を握り、拳を放つ、という動作を反復し続けていた。

 その洗練された動きに私はただただ感嘆する。

 一連の動作が驚くほどに美しかったからだ。

 放たれた拳の威力も驚嘆すべき物だ。

 

 一撃放たれるたびに空気が弾かれたように音を発てるのだ。

 遠目から覗き見ている私にすら聞こえる異音。

 

 私があの一撃を受ければおそらく骨まで粉々になるだろう事が嫌でも理解できる。

 

 

 彼は日が昇り切るよりも前に鍛錬を切り上げ、城へと戻っていく。

 私は彼に声をかけようとした。

 したのだが後ろから顔の真横に曲刀を突き出され、思わず硬直する。

 

「刀厘様をずっと窺っていたな? 何者だ、貴様」

 

 私と同じくらいの年齢の女の声。

 私はその女の気配をまったく感じ取れなかった事に戦慄して硬直した。

 そしてこの女の言葉からあの御仁が凌刀厘殿なのだと思い至った。

 

「私は建業に兵として雇われた者で趙子龍と申します。疑われるのなら徳謀殿に確認をお願いします」

 

 内心の動揺を押し殺し、努めて冷静に後ろにいる誰かに声をかける。

 なぜ今まで気付かなかったと思ってしまうほどの殺気は収まらない。

 

「……ああ。武人を自称した挙げ句、うちの兵士三人に抑え込まれたという奴か」

 

 やや考え込むように沈黙し、私の事を盛大に皮肉った言い方で伝えてくる。

 後ろの『誰か』はなかなかきつい性格の人物のようだ。

 

「はっはっは、まさにその通り。悔しさを糧に今まさに鍛錬中の身ですな」

 

 とはいえ言ってる事は尤もで否定する事は出来ない。

 だから笑いながら誰かの発言を認めると、今だに顔の横にあった刀が消えた。

 

「ふん。あの方に妙な真似をすれば命はないと思え」

 

 声はそれっきり聞こえなくなった。

 私はゆっくりと背後を振り返る。

 そこに誰かがいたという痕跡は見られない。

 

 私は額から垂れてきた冷や汗を拭うとその場で息を吐いた。

 

「本当にここは退屈しない場所だ」

 

 ただここで日々精進し続ければ、今までよりも遙かに成長する事が出来る。

 その確信を深める事が出来た。

 

 

 私はこの日から夜明け前に起きる事が出来た日は、この広場を訪れるようになった。

 どうやら刀厘殿は毎日ここに来ているようだ。

 

 そしてそんな彼を見張るように数名の兵士が私のように物陰から窺っている事にも気付いた。

 しかし見張る彼らの表情は彼を心配しているもの。

 見張りというよりはその身を案じて様子を窺っているという方が正しいようだ。

 部下たちにも慕われているという話はそこかしこで聞いたことがあるが、この様子を見ると納得だ。

 

 巡回の同僚や顔見知り程度の兵士たちもよく見かける。

 いずれも私がここにいる事を咎めるつもりはないようだ。

 

 ただ話しかけようとするとどこからか向けられる殺気混じりの視線で牽制されてしまう。

 

 話しかけるのを阻止したあの女だと思われるがそれと思しき姿はまったく見当たらない。

 しかし私が行動しようとする度に牽制されている以上、どこかで私を監視しているのだろう。

 

 本当なら今すぐあの御仁に話しかけたいのだが、これでは落ち着いた話など望むべくもない。

 悔しい限りだが今の私ではこの殺気の出所を探る事も、この監視の目をくぐり抜ける事も出来ない。

 

 だから私は話しかけるに当たって一つの目標を立てることにした。

 刀厘殿に話しかけるのは私の背後を事も無げに取り、その姿を見せることなく去って行ったあの女の気配とその姿を捉えられるようになってから、と。

 完全に無防備な背中を取られたという事実をなんとしても払拭せねばならない。

 誰かもわからないそいつに一泡吹かせた上で、気持ちよくあの御仁との会話を楽しみたい。

 

「いずれ私の方からお声をかけさせていただきます。凌刀厘殿」

 

 目標を新たに私は今日も彼の鍛錬を見学しながら、周囲へ探るべく感覚を研ぎ澄まし続けた。

 この後、同僚たちと共に刀厘殿直々に鍛錬に誘われ、目標を達成する間もなく彼と話す機会を得てしまう事になるとは思いもせずに。

 

 

 

 徳謀将軍のご厚意に甘えて建業で働き始めて数日。

 初日から色々と問題を起こした星と比べ、私と風は至って順調に頂いた仕事をこなしていた。

 

 自らを『老先生』と呼ぶようにと申しつけた老婆の文官は、私たちが客分に過ぎないと理解した上で適切な書類のみを割り振って処理させてくれている。

 渡された物は既に採択が済まされ、合意の文面を書く書類ばかりで内容も民からの陳情などの軽い物のみ。

 外部に漏らしてはいけない情報の統制は徹底されており、やらせていただいているこちらも安心して回されてきた物を処理できる。

 この方は上司として素晴らしい判断力と選別眼をお持ちだ。

 

 この数日、風はいつも通り眠そうに仕事をしている。

 しかし処理した書類に不備はなく以前に路銀稼ぎの為に仕官した先に比べれば遙かに早く丁寧に仕事をしているように見える。

 老先生の配慮とご厚意に彼女なりに応えているんだろう。

 

 私もまた彼女と同じく回されてきた書類を手早く処理する事に従事していた。

 お陰で今だ数日しか経っていないが文官の方々には良い意味で顔を覚えられている。

 余所と違い建業では文官も武官も平等に扱われており、成果には正当な評価が下されるというのは非常にありがたい。

 平等と口にするは容易いが、実行するには難しいもの。

 この場所はそういう意味では実に仕え甲斐があると言えた。

 まだ正式に仕官すると決めたわけではない身としては、この場所は非常に魅力的だ。

 

 まぁ仕えるかどうかは別として置いておこう。

 

 私は風たちと違い建業に一つの目的があってやってきた。

 私の古い友人であり、今使っている『偽名』の本来の持ち主『戯志才』の行方を知るという目的だ。

 

 あの子を攫ったと思しき集団を叩き潰し、女児を保護したという『凌刀厘』殿の話は聞いている。

 かの御仁があの子の手がかりを持っているかもしれない。

 真偽も含めてどうにかして聞き出したい。

 その為ならば身体を差し出す覚悟も出来ている。

 

 

 幼い頃、同じ年の子供が少なかった村で私と戯志才は唯一と言ってもよい友人だった。

 ところがある時、両親と数日村を空けていた間に彼女は行方不明になってしまったのだ。

 彼女の両親は泣き崩れ、方々を捜索したが手がかり一つ見つからず。

 流れの商人から女子供を狙った人攫いが出没しているという話を聞いた。

 ご両親は娘が攫われたと考え、自分たちは最愛の娘を失ったという失意のあまり床に伏せってしまい、そしてそのまま帰らぬ人となってしまった。

 

 私は戯志才が、私をさんざん振り回した元気一杯なあの子が死んだだなんて信じなかった。

 あの子は私とは比べ物にならないほどに身体が丈夫で元気な人だ。

 絶対にどこかで生きている。

 帰ってこない事には理由があるはずだ。

 もしかすれば帰り道がわからないのかもしれない。

 ならば私から探しに行けばいい。

 

 数年の日々を経て私はこうして自分が仕えるべき主を探す旅に出た。

 親から継いだこの頭脳と学び取って得た知識を武器に仕えるに足る主の元で智を振るうと決めている。

 その主を見定めるこの旅路で中華中を渡り歩けば、いずれあの子とも巡り会えるはず。

 自分の名前が使われていると知れば、あの子の事だ。

 特徴的な赤い目を怒りで釣り上げながら私の元に現れるはず。

 

 あの子に怒られたその時に謝りながら自分の名前を名乗りたい。

 そんな期待と希望がない交ぜになった想いで私はこの名前を名乗り続けている。

 あの子と再会する為ならばなんでもすると誓ったのだ。

 

 遠征から戻られたという凌刀厘殿とは今だ面会は叶っていない。

 ですが近いうちに必ずその機会を掴んでみせる。

 私は日々の雑務を丁寧に消化しながらそう決意した。

 

 ひとまずは星が既に接触しているらしいので、そちらを取っかかりに出来ないか考えてみるとしよう。

 それが駄目なら最悪、仕える際にお世話になった徳謀殿を頼る事も検討するべきか。

 

 私は接触する為の手段を仕事を片付けながら模索する。

 しかし。

 

「おう、刀厘。この子が戯志才だ。中々優秀な文官候補だってあの婆さんが褒めてたぜ」

「あの老先生に褒められるとは。それは結構な有望株だな。初めまして、この建業で武官の末席に加わっている凌刀厘だ」

「わ、私のような流れ者に頭を下げないでください!」

 

 まさか改めて決意して色々と考えを巡らせた翌日に目的の人物と引き合わされるとは思いもしませんでした。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十九話

遅くなりましたがあけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いいたします。


 桂花の件で俺が落ち着くのを見計らって激から面白い三人組が来ているという話を聞いた。

 

 程立、趙雲、そして戯志才。

 どれも俺の知る三国志において有名な人物であり、そして戯志才という名は俺にとってその中でも特別なものだ。

 激はもちろんその事を知っている。

 だからこそ桂花の件の動揺から立ち直るまで時間を置いてから俺に教えてくれたんだろう。

 

 三人について激の知る限りの情報を教えてもらい、接触を図るべく動き出す。

 主に歴史に名を残すかもしれない名将、智将がどういう人物かという興味が理由だが、戯志才に関してはやはり桂花と共に人攫いに遭い唯一その生死が確認できていない子と同じ名前であるという点が強い。

 もしも本人であるならば、事情を説明した上でどうにかしてあの子と引き合わせてやりたい。

 

 

 三人の中で最初に接点を持ったのは趙雲だった。

 激に聞いたところ趙雲は最初こそ自分が強いという自信から来る慢心があったが、初日に建業の兵士三人に容易く制圧された事を切っ掛けに今ではずいぶんと謙虚な姿勢を取るようになったという。

 人との距離の取り方が上手いというべきか、仕官は最近だと言うのに配属された巡回部隊の人間たちとは軽口を叩き合う程度には打ち解けているらしい。

 どうやら付き合いやすい性格と言えばいいのか、気難しい人物とも生真面目な人物とも時間さえかければ打ち解けられる人種のように思える。

 その腕前は天狗になっていた期間があるせいで俺たちとはかなりの差があるらしい。

 しかしそれは裏を返せば伸び代がまだまだあると言う事でもある。

 ここでの経験で彼女の実力が上がりその上で仕官してくれれば最高なんだが……残念ながら趙雲には今のところうちに仕官するつもりはないらしい。

 

 

 そんな彼女との接触は例の朝の儀式が、皆による朝の鍛錬に変わってそう経っていない頃の事だ。

 

 朝の鍛錬に精を出し、気の済むまで正拳突きを繰り返した後。

 俺は周りで素振りをする者やその場にいる者と組み手に励む者たちを見回した。

 俺の自己満足とも言える行為に付き合ってくれる者たちに恩返しをしたいと思った。

 集まった面々を観察し、俺がわかる範囲で鍛錬方法について指導していく。

 必要であれば組み手を交え、実戦でのイメージを付けやすいように相手をする。

 

 変節棍のお陰で俺は剣から槍まで様々な間合いに対応出来る。

 どのような距離の武器であっても間合いの再現が出来るのだ。

 流石にその間合いの本職には適わないが、仮想敵として緊張感を持たせる事くらいは可能だ。

 俺自身が様々な間合いで変節棍を振るう事に慣れる意味合いもある。

 

 この鍛錬を経て俺たちはそれぞれに力を付けていければいい。

 『昨日の己に克つ』という表題の通りに。

 

 この日の最後から二番目の組み手の相手が趙雲だった。

 他は全員一度は顔を見た覚えがあったから尚更、見知らぬ彼女については印象に残っている。

 声をかけられて妙に動揺している姿を俺は訝しんだが、彼女の方はすぐに落ち着きを取り戻し組み手を了承した。

 

 そこからは集まった他の面々と同様にひたすら組み手だ。

 

 最初は素手で戦った。

 次は変節棍を一本だけ両手で持つ、剣道で言うところの正眼の構えで嵐のような槍の連続攻撃を受け続けた。

 次に雪蓮嬢や蘭雪様から学び取った片手剣の動きで翻弄した。

 変節棍二本を両手で持っての我流二刀流で攻め立てた。

 二本の棍を連結して槍の間合いを侵略し、さらに三本目の棍を連結して間合いの外から打ち込んだ。

 四本目の棍を連結し、対処出来なくなった彼女を薙ぎ払った。

 

 俺の変化に追いつけず趙雲は何度となく吹き飛ばされる。

 しかしその度に立ち上がり、気炎を吐いて武器を振るう姿は兵卒たちと何も変わらない『強くなりたい』という意志が垣間見えた。

 

 特徴が激の言っていた物と一致している事に気付いたのは鍛錬終了後に崩れ落ちて呼吸を整えている彼女を同じ隊だという兵士が名前で呼びかけているのを聞いた時だった。

 なんとも間抜けな話だ。

 

 彼女はこれ以降の朝の鍛錬に必ず現れるようになり、それなりに談笑する程度の仲になった。

 このさらに翌日からなぜか殺気立った思春が鍛錬に参加するようになる。

 声をかけるわけではないんだが、俺が趙雲の相手をする時の視線には彼女への殺気が滲んでいるのが見て取れる。

 二人に別々で理由を聞いたんだがはぐらかされてしまっている状況だ。

 蒲公英と思春でも似たような事があったが、いつの間にあの二人は接点を持ったのだろう?

 

 それはともかくとして俺自身が関わってみた所感はとぼけたような、ふざけているような人をからかう言動を良く取る。

 しかしそれはどうやらポーズのようでその性根はなかなか真っ直ぐのようだ。

 とはいえ人を煙に巻くような言動も相手の反応を見る手段として意識して使い分けているようで強かな面も強い。

 礼儀などを堅苦しいと語りながら飄々と振る舞い、武人としての誇りや力を重んじているがさりとて敬う相手を軽く見る事はない。

 相手との距離の取り方が上手いようで巡回部隊の面々とは既に打ち解けている。

 入隊してからそう時間は経っていないはずなんだがなかなかに馴染んでいるようだ。

 美人ではあるんだが武人気質が強いせいか隊の人間も女性として意識している者より戦友、同僚だと思っている者の方が多い。

 なかなか得がたい人材だと思う。

 ただ雪蓮嬢や小蓮嬢とは会わせたくない。

 おそらく相性は良いのだろうが、逆に良すぎて何をしでかすかわからなるだろう。

 

 

 程立と戯志才は激の他政務に携わる文官たちが口を揃えて本格的に仕官して欲しいと思う程に優秀で彼らの負担軽減に貢献してくれているそうだ。

 二人とも与えられた仕事はきっちりこなし、態度も至って謙虚。

 貴族出身だとか親や親戚などの血の繋がりだとかで能力もない奴が賄賂で文官になるような昨今で、彼女らのような者は非常に珍しい。

 

 程立と俺の出会いは中庭の日の当たる場所で寝ている姿を目撃したのが最初だ。

 癖の強い長い金髪を揺らしながら日向ぼっこする姿はまるで猫のように見えたが、しかし無防備に過ぎたので思わず俺は声をかけていた。

 肩を掴んで揺すり起こすと案外、彼女はあっさり目を開ける。

 

「おおっ……どちら様ですか~?」

 

 寝ぼけ眼を装っていたが彼女は俺を警戒していた。

 無防備そうに見えて心配したが、どうやらいらない心配だったと気付いたものの見た事の無い娘だったのでそのまま会話をする。

 

「貴方が噂の凌刀厘殿でしたか~。失礼をいたしました。私は程立(ていりつ)と申します~~」

 

 間延びしたのんびりとした口調で名乗る少女。

 別にサボっているわけではないらしいが、俺が出会う時には大抵昼寝しているところだ。

 それからは寝ている彼女を見つける度に起こすのが日課になった。

 

 このどこでも眠る癖だけが規律が緩む要因になり得ると言われている。

 批判的な意見と言ってもその程度のもので、その評価は概ね良好と言えた。

 とはいえ彼女らもまた仕官先を見定めている最中で、今までの姿勢からここに仕官する気は薄そうだという話だ。

 それだけ優秀ならば多少無理をしてでも抱え込みたいと思うのが普通なんだが、蘭雪様はそこまでしてこの子たちを欲しいとは考えていないらしい。

 

「無理矢理仕官させて十全の力が出せなくなるんじゃ意味がない。おまけにそんな事して反感を買えば内部に不和の種を抱え込む事になる。そんなのはごめんだ」

 

 という事だ。

 俺たちが仕官する時は半ば強制だったと思ったが、あの時の蘭雪様は自分の命を対価として提示していた。

 つまるところ蘭雪様は彼女らにそこまでするほどの価値を見出していないという事なのだろう。

 建業の頂点がそんな調子なせいか、逆に文官たちの方がやたら積極的に登用に動いているらしいとも聞いた。

 それでも望み薄だと言うのだから彼女らの仕官基準が相当高いか、何か損得とは違う特別な拘りがあるのか。

 いずれにしても一筋縄ではいかない者たちなのは間違いない。

 

 戯志才との接点は激によってもたらされた。

 ある日、書類を片付けて休憩がてら激と中庭に行こうとしていたところ、良い機会だからと彼女らが共同で使用している執務室に案内されたんだ。

 幸か不幸か程立はおらず、戯志才が一人で政務に励んでいるところで激は雇った縁もあってか気さくに彼女に声をかけた。

 

「よぉ、戯志才。今ちょっといいか?」

「これは徳謀殿。はい、何か御用でしょうか?」

 

 俺にちらりと視線をよこしてから深々と頭を下げる眼鏡をかけた少女。

 思い返すとその名前もあって俺はかなり不躾な視線を向けていたと思うが彼女はそれに言及する事はなかった。

 

「おう、刀厘。この子が戯志才だ。中々優秀な文官候補だってあの婆さんが褒めてたぜ」

 

 わざとらしく感じるくらいに持ち上げながら激が俺に水を向ける。

 話す切っ掛けを作ろうとしてくれるのはありがたいんだが、あまりにもわかりやす過ぎるだろう。

 

「あの老先生に褒められるとは。それは結構な有望株だな。初めまして、この建業で武官の末席に加わっている凌刀厘だ」

「わ、私のような流れ者に頭を下げないでください! わ、私は戯志才と申します!」

 

 激の紹介に乗っかって挨拶するとものすごく慌てられた。

 それでも名乗り返してくれる辺り、生真面目で律儀な子のようだ。

 これだけでも趙雲とは正反対と言って良い性格なのは感じ取れる。

 

「ははは、今は落ち着きないけど仕事中はすげぇてきぱき書類を捌いてくれてな。俺らが仕官したての頃とは比べ物にならないぜ」

「いえいえ。私などまだまだです」

 

 謙遜しつつも俺にちらちらと視線を向けてはそらす戯志才。

 どうやら彼女からも俺に思うところがあるらしい。

 これは良い機会かもしれない。

 

「俺たちはこれから休憩なんだが戯志才もどうだろう?」

「え? お、お誘いは光栄なのですが私がご一緒してもよろしいのですか?」

 

 遠慮気味だがそれでも食いつく戯志才に俺たちは目配せして意思疎通をする。

 

「俺は全然構わないぜ」

「で、ではご一緒させていただきます」

 

 緊張した様子で俺たちの後に着いてくる戯志才。

 

「そういえば戯お嬢ちゃん。程お嬢ちゃんはどこ行ったんだ?」

 

 緊張をほぐす意図で激は彼女に軽く話題を振る。

 

「程立は老先生に連れられて先に休憩に行きました。あの方はどうやらあの子の眠り癖をどうにかしたいらしく……」

「ああ、なるほど。あの婆さんは規律に厳しい方だからな。あの子の癖が目に余ったか」

「あの人自身が気になったというのもあるんだろうが、おそらくその子の今後を考えて良くない癖を矯正しようとしているんだろうさ。ここならば仕事をしっかりしていればそこまで気にされる事じゃないが、彼女の求めた仕官先がその癖に寛容かどうかはわからないからな」

 

 建業は個人の趣味趣向に関して寛容だ。

 主と第一後継者が戦場で血に酔う悪癖持ちの為か、政務や軍務に影響しなければ良いだろうというのが暗黙の了解となっている。

 『妙な性癖持ちであっても一番質が悪いのが主たちのあれだから問題ない』というこの時代にあるまじき緩さだ。

 とはいえ流石に政務の最中に昼寝などされては本人はもちろん他の面々の気の緩みに直結しかねない。

 だから老先生自ら矯正に乗り出した。

 目に余る癖を持つ彼女の身を案じるが故に。

 そこまで面倒を見ようと思うほどに彼女は老先生に気に入られているという事だ。

 

「なるほど、その通りですね。しかし言ってはなんですがあの方はなぜそこまで正式に仕官したわけでもない我々に肩入れしてくださるのでしょう?」

 

 困惑した様子で聞く戯志才の様子に俺たちは顔を見合わせて笑う。

 

「あの人は面倒見が非常に良い。ただその反面、非常に厳しい人でもある」

「あの人の厳しさは目をかけているって事の裏返しなんだよ。それだけお前らを買っているって事なんだろうな。仕官先がここかどうかなんてどうでもいいくらいに。だから癖やらなんやらの能力とは関係ないところで潰されたくないって世話焼くわけだ。俺たちの時もそうだったからな」

「それは……光栄です」

 

 俺たちもあの人には政務に必要な事柄についてそれはもう厳しく仕込まれたからな。

 そしてそれが期待の裏返しだって事も分かっている。

 

「ん?」

 

 他愛の無い談笑をしながら中庭に向かっていると前方から女中がやってきた。

 あれは確か塁の側仕えをしている人だ。

 

「徳謀様、義公様がお呼びです」

「義公が? わかった。ちょっと行ってくるから戯お嬢ちゃんは頼んだぜ、刀厘」

「え?」

 

 間の抜けた声を上げる戯志才。

 しかし俺は意味ありげに視線をよこす激の行動からこれが俺と彼女を二人きりにする為の仕込みだと理解した。

 

「わかった。任せておけ。彼女が嫌じゃなかったら、だがな」

「おう。……この子を頼むぜ」

 

 小声で頼まれた俺はしっかり頷いて激と別れ、事態の推移に混乱する戯志才を連れて中庭に向かった。

 

 この後の会話で俺は『凜(りん)』の目的を聞き出す事に成功し、特徴を教えてもらった『本物の戯志才』についての情報を集める事になる。

 俺の為であり桂花の為だった捜索の理由に凜の為という新しい理由が加わった、それだけの事だ。

 

 騒がしい日々は同盟している西平から翠、蒲公英、鉄心殿たちがやってくる事でさらに加速する事になる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第六十九話之裏

 まさかいきなり目的の人物と接触出来た上に二人きりの状況になってしまうとは思いませんでした。

 私は緊張で上擦りそうになる喉を必死に落ち着けながら刀厘殿の後に続く。

 

「ここだ」

 

 そうかからずに到着したそこは手入れの行き届いた中庭でした。

 私自身、休憩と称して老先生や同僚の方々に連れてこられた事があります。

 

 いつ見ても良い庭ですね。

 植えられた草花には無理に切り詰めて作られた物がなく、初めからここに生えていたかのような瑞々しさに満ちています。

 華美な装飾はまったく無く、置かれている椅子などはその自然の中に紛れ込むような薄めの色合いで作られている事から作られた庭にある違和感がとても少なく感じされます。

 

 聞いた話ですとこの中庭は文台様が建業を手に入れた頃は廃れていて庭とも呼べぬ有様だったといいます。

 これを為したのは文台様の妹君、『建業の双虎』の片割れたる幼台様だというお話を聞きました。

 

 建業の治政に東奔西走している頃、少ない自由な時間をかの方は庭の手入れ、いや再生に注いでいたそうです。

 口で言うほど簡単な事ではないはず。

 だというのに当時、とても楽しそうに事に当たっていたと聞いています。

 

「そこに座るといい」

 

 私がこの庭の由来に思いを馳せている間に刀厘殿は中庭の席に着かれました。

 対面の席を勧められ、会釈と断りを入れてから座らせていただきます。

 

「「……」」

 

 それほど狭くもない庭ですが……今はとても静かです。

 この心地よい静寂を壊す事を躊躇ってしまい何を話したら良いか迷って無言でいる私を余所に、刀厘殿はだらしなくならない程度に力を抜いて対面に座っておられる。

 

「ここはどうだ? それなりに良い所だと自負しているつもりだが……」

 

 庭を眺めながら投げかけられた言葉。

 あちらからわざわざ垂らしていただいた会話の糸口に私は一も二も無く飛びついた。

 

「ええ。今までそれなりに中華を巡ってきたつもりですが賑わい振りは五指に入ると思います」

 

 これは過大評価でもなんでもない純然とした事実です。

 

 強大な権力を持つ、という観点で見れば建業は中華中の城主の中で低位、あるいは中位の下程度の身分になるだろう。

 

 しかし上に立つ者が、政に携わる者たちの一致団結した雰囲気の良さ。

 そして何よりも民の生活の安定が保たれているという意味で見ると評価は一変すると言っていいでしょう。

 

 城主の為に搾取される立場、という度し難い認識が蔓延している昨今。

 彼らの生気に満ちた笑みというのが今の中華でどれだけ貴重である事か。

 あくまで噂でしか聞いていなかった建業の民こそを大切にする治政。

 眉唾な噂だという気持ちがあったのは事実です。

 だからこそあの子の事を抜きにしても、その治政を確かめるという思いを胸にここへ来ました。

 しかしこうして実際に関わった今はむしろ噂以上とすら思えます。

 

「五指、か。外からの意見でそれならなかなか高評価だな」

 

 顎に手を当てながら刀厘殿は一つ頷かれる。

 この時勢で権力の背景もなくこれだけの評価を受けたというのにそれを喜ぶ様子はありません。

 

 雇われの身である人間の評価故に本気にしていないのか、本心を見せないようにしているのか。

 その表情からは内心を窺う事は出来ませんね。

 

「我々も良くしていただいております。居心地の良さという意味ではここほど伸び伸びと出来る場所はない、と思います」

 

 しかしそれでも私は、今のところここに仕官するつもりはなかった。

 ここの文官方は老先生を筆頭にそれとなく、しかし熱心に勧誘してくださっていると言うのに贅沢な事を言っていると自分でも思う。

 ですが厚顔無恥と罵られようとも譲れない物があるのです。

 

「なるほど、参考になるな。他には何か意見はあるだろうか? 文官として言える事があれば教えて欲しい」

「はい。そうですね……兵同士の横の繋がりが強い事はもちろんそうなのですが文官と兵士、武官と兵士たちの距離も近いようです。多くが気軽に雑談をしている様子にも驚かされました。余所ではまず見れない光景でしょう」

 

 おそらくこの点が余所と建業の最も大きな違いでしょうね。

 

 領主と将軍、上司と部下。

 そういった上下関係その物をしっかりと構築していながらも、彼らはそれを強く主張しない。

 下の者は必要以上に畏まらず、上の者は必要以上に大きく振る舞わないのだ。

 

 この時代の当たり前から逸脱した状態と言って良いでしょう。

 私も風も星も、遠目から見た建業の在り方には驚きを通り越して仰天しました。

 こうして働かせていただいた僅かな間に、その『あり得ざる光景』に慣れてしまってきている私たち自身にも驚いているほどです。

 

「最上位の文台様が寛容というか大雑把だからな。……それに俺たち『孫呉の四天王』は元々生粋の民上がりでその辺りに疎かった。『上司としての振る舞い』に少なからず違和感を覚えていたんだ。だから振る舞い方を一から老先生たちに教わってもそれは無くならなかった。だからこうしたいと皆に伝え、話し合った結果として今の気安い環境が出来たと言えるだろう」

 

 いくら文台様直々に仕官させた方々とはいえ、慣習の変換、いや改革など容易く申し上げられるはずもありません。

 意図して軽くおっしゃっているけれど、おそらくこの方をして己の首をかけての献策だったはずです。

 

「貴方は、いえ建業の方々は見ている場所が違うのですね」

 

 どこがどう違うのか、具体的な所はまだ断言出来ない。

 しかし国に、そして主に仕え、主にこそ有益な政をする為にこそ己の智を使いたいと考えている私とは『考え方』が違うのだと言う事はなんとなくわかりました。

 

「……そうだな。今、この中華にあるだろう数多の領主、領土の中でここははっきり言って異質だろう」

 

 見方を変えれば酷く無礼なはずの私の物言いを、しかしこの方は笑って受け入れてしまわれる。

 

「だが異質である事がどうした? 異質という言葉一つで新しい試みが忌避されると言うのなら、俺たちは異質でもいい。余所が足踏みしているそのうちにせいぜいその良さを持って先へ行くだけだ」

 

 やはり違う。

 特にこの方はそれが顕著です。

 そしてそんなある種の粗暴さを含んだその物言いに、しかし巨大な木に寄りかかるような安堵を覚えてしまう。

 だからこそ私は駆け引きも何も無しという軍師を目指す者にあるまじき事をしてしまいました。

 

「私は己が仕える場所を探す事と同じくらい大事な事があります」

「……」

 

 居住まいを正して真っ直ぐ視線を向ける私に、刀厘殿もまた居住まいを正して応じてくださる。

 たかだか雇われ者の言葉を蔑ろにしないその姿勢が私にはとてもありがたく、しかし余計な重荷をこの方に背負わせる事になりかねない事実に罪悪感が募った。

 しかしそれでもここまで言った以上は止まれないのです。

 

「私は私が偽名として名乗っている名を持つ同年代の少女を、私の親友である『戯志才』を捜しています」

 

 そこから私は洗いざらい事情を話した。

 話し出したら止まらなくなってしまったのだ。

 

 私が十を数える年になる頃に攫われた友達。

 そのご両親が既に死に絶えている事。

 数年の準備を経てこうして旅に出た事。

 手がかりを求めて刀厘殿にお会いする機会を窺っていた事。

 

 刀厘殿は私の矢継ぎ早な言葉には一切口を挟まず、相槌を持って応えてくださった。

 全てを語った私は肩で息をしながらかの方を窺う。

 もしも何か知っているならば、教えて欲しいという恥知らずな願望を乗せて。

 

「そうか」

 

 彼は納得したかのように頷き、視線を頭上へと向けた。

 

「あの子以外にも彼女を知る人間がいたんだな。……良かった」

 

 その言葉の意味は残念ながら私には分からなかった。

 

「俺が知っている事を教えよう」

 

 静かに語り出す刀厘殿。

 その言葉を私は身を乗り出して一字一句逃すまいと聞き取ろうとする。

 

「俺たちが保護した少女と戯志才以外に攫われた者の死亡が確認している。彼女らの共通点は領土を持つ権力者や貴族に売られていた事。遺体は特に隠す事もなく敷地の外へ放り出されていたという話だ」

「っ!?」

 

 私は口から零れそうになる呻き声を自身の手で押さえる。

 次いでそんな有様になったあの子を想像してしまい、頭から血の気が引いていった。

 思わず自分を抱きしめるように手を回して俯くと、そっと気遣わしげに肩に手を置かれた。

 

「落ち着け。まだ話は終わっていないぞ。座って深く呼吸をして落ち着くんだ」

「は、はい……」

 

 言われた通りに私は椅子に座り直し、見本を見せる彼に倣ってゆっくり大きく息を吸い込み吐き出す。

 それを繰り返すうちに嫌な想像で早くなっていた鼓動が落ち着いていった。

 

「落ち着いたか?」

「……はい。ありがとうございました。もう大丈夫です」

 

 彼は一つ頷くと中断してしまった話を再開される。

 

「どこにいるかは残念ながら不明だ。その生死も……。だが俺たちがあの子を保護してから数えて二年後、赤い目に赤茶色の髪の子供を連れた商人が幽州に向かったという情報を得ている。保護した子から聞いた特徴と一致する事からもしかしたら運良く流れ流れて生きている可能性がある……」

「赤い目に赤茶色の髪! それは確かに戯志才の特徴です!!」

 

 しかしまさか幽州とは!

 星が次の目的地にと提案していた場所ではありませんか!

 

 またしても興奮で椅子から立ち上がってしまった。

 しかしこの方はそんな私を視線だけで制してしまう。

 その揺らがない瞳が私に冷静さを取り戻させてくれた。

 

「期待させて済まないが確証は無い。こちらでも各地の情報収集の傍ら、無理を言って頼んでいるがこれ以上の情報は掴めていないのが実状だ」

「……申し訳ありません。確かにその通りですね。我を忘れてしまいました」

 

 手がかりが何もない状態からの思わぬ進展に興奮した事を恥じ入るばかりです。

 私もまだまだ未熟ですね。

 

「いやそれだけ戯志才の事を想っているんだろう。偽名の件といい徹底している。それだけ会いたいという気持ちは伝わっているさ」

 

 そう告げた刀厘殿の目は先ほどとは一転して暖かな柔らかさに満ちていた。

 まるで親が子の行動を見守るような暖かみを感じて気恥ずかしくなってしまう。

 

「こほん」

 

 思わず咳払いなどして誤魔化そうとするが、そんな事が通用する御仁ではないだろう。

 

「大切な事を忘れておりました」

 

 しかしそこを押して無理矢理にでも話を進めさせてもらいます。

 私はその場に立ち上がり、椅子を丁寧に避けて刀厘殿に深く頭を下げた。

 

「姓は郭(かく)、名は嘉(か)、字は奉孝(ほうこう)と申します」

 

 改めて名乗らせていただくと彼は目を瞬いて驚いていた。

 どうやら私はここに来てようやくこの方から一本取れたらしい。

 こんな事で、と自分でも思うけれど。

 ちょっとした子供っぽい優越感に慕りながら話を続ける。

 

「そして貴方への信頼の証として私の真名である稟(りん)をお預けいたします。どうかお受け取りください」

 

 膝をつき頭を垂れながら刀厘殿の応えを待った。

 しかし待つというほど時間が経つ間もなく、かの方は私の肩にそっと手を置き立つように促す。

 促されるままに立ち上がり彼の顔に視線を向けると真剣な面持ちと目が合った。

 

「確かに受け取った。そして返礼として俺も真名を預けさせてもらおう。駆ける狼と書いて駆狼だ。受け取ってくれるか? 本物の戯志才をどういう形であれ必ず見つけると決めた同士としても、な」

 

 これほどのお方に信を預けられた。

 戯志才を捜す私の覚悟を認めていただけた。

 その事が私には万の援軍よりも心強く、勇気付けられた気がした。

 

「はい。私は必ず戯志才と再会します。そしてあの時預ける事が出来なかった真名を今度こそあの子と交換したい」

 

 心のどこかにあったあの子がもういないんではないかという最悪の可能性。

 この方から戴いた勇気でその最悪の想定を真っ向から打ち破るという決意を込めて、私はその想いを言葉にした。

 

 待っていて、私の親友。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十話

 稟たちがここに来た事は建業にとって良い意味で刺激になったんだと思う。

 趙雲、彼女の強くなる事へのひたむきな姿勢は、うちの兵士たちの元々高かった向上心をさらに高めてくれた。

 程立と稟は曲阿平定のために派遣された人員の穴を埋めて余りあるほどの働きを見せてくれた。

 

 お陰で俺たち武官が文官たちの手伝いに駆り出される事はなくなり、それぞれが己の領分に集中出来るだけの余裕が出来た。

 部隊同士での演習など大掛かりな鍛錬への着手が本格化出来るようになったのは彼女らを含めた文官勢の尽力あってのことだ。

 その事を俺たち武官はしかと受け止め、決して無駄にはしないと日々励んでいる。

 

 曲阿もだいぶ落ち着いてきたようで、近々視察として蘭雪様を含んだ何名かで訪れる事になっている。

 美命が君主を呼び寄せてもいいと判断していると言うことはそれだけ落ち着いたという証明だ。

 

 俺たちは誰一人としてあいつの判断を疑わず、彼女らによって平定された曲阿がどのような場所になったのかと想像を膨らませている。

 蘭雪様や雪蓮嬢が楽しみにしている様子にはやや不安が残るが、母親の成果を見る事を誰よりも楽しみにしているがそれを必死に隠そうと澄ました顔を取り繕っている冥琳嬢を見ているとそんな気持ちが不思議と安らいでいく。

 蓮華嬢や小蓮嬢も、もちろん俺たちも美命や祭、慎や深冬たちが出した結果を直に見たいと思っている。

 

 しかし。

 誰が行くかを決めるのは今すぐにという訳には行かなくなった。

 

「く、ろ、う、おじさまぁあああっ!!」

 

 朝の鍛錬中に背後から抱きついてきた蒲公英と、慌てて追いかけてきた翠。

 そして二人の後を余裕のある歩調で追う鉄心。

 つまりは西平からはるばる来てくれた者たちの応対の為に。

 

 

「まだそれほど時間は経っていないが。元気そうだな、蒲公英」

「えへへ~~っ。うん! 蒲公英は元気だよ!」

 

 背中に抱きついた彼女の頭を後ろ手に軽く撫でてやると、彼女は猫のように首筋に頬摺りし始めた。

 鍛錬の相手をしていた兵たちや趙雲が突然現れた彼女の態度に口を大きく開けて呆然としているのが妙に面白い。

 

「思春とか陽菜おば様、玖龍君も元気?」

「私はこの通り何も変わらん。というかお前はいつまで駆狼様にくっついているつもりだ」

「きゃっ!?」

 

 抱きついたまま会話を続けようとする蒲公英のポニーテールを、これまたいつの間にか背後にいた思春が思いきり引っ張る。

 女性らしい細腕が首から離れ、背中に感じていた僅かな重さと暖かな体温が消えた。

 思春の容赦の無さに思わず苦笑いしながら振り返れば、ポニーテールの付け根を両手で押さえながら涙目になって座り込んでいる蒲公英の姿がある。

 

「ちょっともう少し手加減してよ! 髪が取れちゃうかと思ったじゃない!」

「そんな柔な身体ではなかろう。四人がかりとはいえ駆狼様の猛特訓を乗り越えたお前たちがこの程度でどうにかなるはずがあるまい」

 

 ただ純粋に蒲公英や翠の実力を信じている思春の真っ直ぐ過ぎる言葉。

 実直過ぎる故に言葉を飾らないこの子ならではと言えるだろう。

 

 直撃を受けた蒲公英は言葉の意味を理解した途端に顔を真っ赤にした。

 ようやく追いついた翠も妹分を諫めるのも忘れて、気の毒なくらい紅くなった顔を手で覆ってしゃがみ込んでいる。

 

「え、あ、その……うん。なんかありがと」

「? 何故礼を言ったのかわからんが……まぁいい。久し振りだな、蒲公英」

「うん、久し振り! 元気そうで良かったよ、思春」

 

 ここで引きずらずに気持ちをすぐに切り替えられるのは蒲公英の長所だ。

 翠はまだ駄目らしくこちらに背中を向けて気配を殺している。

 普段決してやらないだろうレベルで気配が消えているから二人は気付いていない。

 だが後ろから歩み寄っている鉄心や視界に入ってしまっている俺、あとついて行けていない故に周りが見えている鍛錬参加者たちにはばっちり見られているからあまり意味はないぞ、翠。

 

「しかしお前が建業に来るとは……駆狼様、陽菜様が交渉した件か?」

「うん、それ! あと勉強がてら余所の領地見てこいって叔母様が言ってくれてね! これは言われなかったけど、たぶん遠征に慣れさせたいって言うのもあると思う。涼州からあんまり出ないからさ、私たち」

「異民族を相手に領地を守っていたからな。長期の遠征なんて早々出来るものではないだろう」

 

 会話に入り込むと、二人は自然と俺に視線を合わせる。

 

「近場の領地と対異民族の同盟を組んだから少しだけ余裕が出来てね。そっちは叔母様とか雲砕おじ様がやってる。なんか凄く良い同盟相手がいたらしいんだ。おじ様に教わったサツマイモを取引材料に使ったらけっこう楽に交渉出来たって言ってたよ」

「……そうか。さっそく役に立ったようで何よりだ」

 

 そうして話しているとようやく復活したらしい翠が鉄心と共に近付いてくる。

 

「こら、蒲公英。こんな往来でぺらぺら喋るな。っとお久しぶりです、駆狼さん。思春も」

「お久しぶりです。駆狼殿、思春殿。早朝の鍛錬を邪魔して申し訳ない」

 

 まず蒲公英を諫める彼女には適度な気負いを感じる。

 以前はなかった責任感はこの遠征を率いる者としての物だろう。

 

 俺に挨拶している様子は年頃の少女らしさを感じさせるが、武官として抑える所を弁えている。

 鉄心殿は相変わらずの鉄面皮のようだが、その声には僅かにだが喜色と申し訳なさが感じ取れる。

 言葉通り、俺たちとの再会を喜ぶ気持ちと蒲公英の乱入で鍛錬が止まってしまった事への謝罪。

 

 そこで同じ事に思い当たった蒲公英と翠も慌てて頭を下げた。

 

「ご、ごめんなさい。私、嬉しくってつい! 皆さんも鍛錬の邪魔しちゃってごめんなさい!」

「あたしからも謝らせてくれ! すまなかった!!」

 

 周りで話の流れについて行けていなかった者たちに勢いよく頭を下げて回る二人。

 一応、彼女らは涼州馬氏を代表して来ているんだがこんなに腰が低くていいのだろうか?

 

「他の相手ならばたとえ同盟相手であろうともっと毅然とするでしょうし、させます。しかし貴方方の建業だからこそあの子たちはああして敬意を示している。やや行き過ぎではありますがそのうち勝手も掴めましょう。今はあれで構いません」

 

 俺が言いたい事を読み取ってくれた鉄心殿の言葉に一先ず納得しておく。

 目に余るようなら彼が手綱を握ってくれるだろう。

 

「正式な挨拶は城の方で改めて行わせていただきます」

「了解した」

 

 やや形式ばったやり取りを鉄心殿としていると、彼女らが戻ってくる。

 俺たちの前まで来ると姿勢を正しわざとらしい咳払いで仕切り直しながら俺を見据える。

 

「建業との盟約に従い西平の馬騰の名代として来ました馬孟起です」

「同じく馬岱です」

「同じく鳳令明です」

 

 膝こそ付かないがこの場で出来る最敬礼をしながら彼女は続ける。

 

「同盟者たる建業の領主孫文台様へお目通りをお願いしたい」

「承知した。文台様への取り次ぎはこの凌刀厘が請け負おう」

 

 この後、俺から建業の上層部に話を届け翠たちは正式に建業の客人として迎え入れられる事になる。

 それに伴い三人以外の軍馬や調教師、その護衛として引き連れてきた部隊も城の敷地に迎え入れられた。

 彼らは建業の外、それなりに距離を置いた場所で野営していたらしい。

 

 まず翠たちが挨拶と部隊の入城許可を取る為に先行したのだと言う。

 いきなり部隊単位で来られても混乱するだろうという事だが。

 それなら行軍中に伝令をよこせば良かったんじゃないかと突っ込むと、翠と蒲公英は揃って顔を逸らした。

 我先にと建業を見たかったから適当な口実が欲しかっただけらしい。

 職権乱用の罰としてそれぞれに拳骨を食らわし、待ちぼうけを食らっている部隊をさっさと連れてくるよう言い付けて追い出してやった。

 

 すぐに部隊を引き連れてやってきたが、五割以上があちらで鍛錬の際に叩きのめした顔見知りだったことには驚いたものだ。

 後で翠に聞かされた話だが、彼らは俺の実力に惚れ込んでいるらしくそんな俺が仕えている建業の兵士たちを自分の目で見たくて志願したらしい。

 

 一つや二つ騒動が起こりそうな者たちの来訪。

 こちらの対応を終えなければ曲阿の視察は出来ないだろう。

 

 もうしばらく待っていてくれ、祭。

 建業に帰ってから一度も見ていない妻に心中で謝りながら俺は今日も軍馬の調教、日々の世話についての教習を受ける。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十一話

 西平遠征軍を受け入れた事で、建業は賑やかさを増した。

 彼らは屈強ではあり野性的であり、そしてとても義理堅い。

 俺たちとの同盟によってもたらされた食料問題の改善によって生活が楽になった事を実感している為に、俺たちに向ける敬意は並々ならぬ物があった。

 

 加えて俺や激が鍛え上げた兵士たちとは一度派手に衝突と言う名の調練をするとすぐに打ち解けた。

 彼らはその土地柄から見目や肩書きよりも実力をこそ重視するからだ。

 ぶつかり合い、お互いの実力を認め合った彼らは俺や思春、翠たちが仲介する必要もないほどあっさりと意気投合した。

 

 城下に出てみればそこかしこで西平の兵士たちと談笑する民やうちの兵士たちを見かける。

 夜ともなれば肩を組みながら飲み歩いている姿もあった。

 彼らの存在は建業に新たな活気をもたらしている。

 

 偶に酔いが回りすぎて騒ぎを起こす者もいるが、そこは交番勤務の者たちや夜警部隊が即鎮圧している。

 馬鹿な真似をした者は翌日の訓練で俺と激、翠や蒲公英たちに酷い目に合わされるため、一度しでかせば同じ人間は二度と酒での過ちは犯さなくなっている。

 彼らが来て一ヶ月も経てば、その恐ろしい訓練の様子に自然と自重するようになっていた。

 

「うちの部下たちはそっちで上手くやってるか?」

「蒋さんたちはよくやってくれてますよ。サツマイモも何かあった時の為の蓄えに出来るくらい豊作だって言ってました」

「うちにもすっかり馴染んでてね。なんか建業から来てくれた人だって事、たまに忘れそうになるくらい」

「あ~、あたしもそう思った。なんだろう、あの二人ってすごく親しみやすいんだよ」

「うんうん、わかるわかる」

 

 どうやら蒋欽、蒋一兄弟は西平に馴染んでいるようだ。

 しかし志願してきたにも関わらず兵士としてではなく開墾方面で重用してしまっている事は申し訳ないとも思う。

 

 翠たちが戻る時に労いとして何か渡すように頼もう。

 それまでに何か良い物を考えておかないとな。

 

 俺は目の前の死闘と間違うほど気合いの入った手合わせを見つめながらそんな事を考える。

 

「へぇ、流石。見知らぬ地への遠征を任されているだけの事はあるわね、馬孟起」

「そっちこそ。建業の次期後継ってのは肩書きだけじゃないって事か。孫伯符」

 

 戦っているのは翠と雪蓮嬢だ。

 

 なぜ戦っているかと言えば純粋な力比べがしたいという事なのだが。

 妙な事に話の成り行きで『俺との鍛錬権』という謎の権利が賭けられている。

 勝った方が今日の俺との鍛錬を独り占め出来る、という話なのだが俺は一切その話に関与していない。

 

 

 二人が揉めていると伝えに来た蓮華嬢によれば鍛錬していた翠に雪蓮嬢が声をかけたらしい。

 最初は特に何事もなく談笑していたらしいのだが、だんだんと話の雲行きが怪しくなった。

 

「あたしは駆狼さんに鼻っ柱へし折られて、そして今は前よりだんぜん強くなった」

「私はあの人が空いてる時に付きっきりで相手してもらって今も強くなってるわ」

 

 自分の強さを誇るというか、どう俺と関わったかを自慢し合うよくわからない会話になっていったらしい。

 だんだんとお互いに睨み合うようになり、その様子を見ていた他の兵士たちが自軍側のお嬢の応援に回ってしまい、よくわからなんが試合する流れになったのだという。

 

 蓮華嬢が俺を鍛錬場に連れてきた時にはその話が鍛錬場にいなかった兵士たちにも広がって野次馬がやたら増えていた。

 そしてこの勝負はもちろん、この後に控えている俺本人の予定にまったくないはずの俺との鍛錬にも期待されてしまっている様子だった。

 俺が現れると兵士たちはこぞって道を空け、最前列にまで連れて行ってくれるような有様だ。

 

 まぁ今日は特に急ぎの仕事が無かったからみっちり隊の調練をするはずだったんだが、その予定はなし崩しで書き換えられてしまっている。

 とはいえここまで話が広がってしまった以上、それに文句を言っても仕方ない。

 この二人の勝負というのは見物であるし、雪蓮嬢にはそろそろガス抜きが必要だとも思っていた。

 だから俺は申し訳なさそうにしている蓮華嬢の頭を撫でながら、予定を勝手に書き換えられた事は気にしない事にして二人の勝負を見学することにした。

 

 

 俺の体感だがそろそろ四半刻は経つだろう。

 中々に白熱している勝負だ。

 まだ互いに有効打の一つも取れていない。

 

「叔父様、どちらが勝つと思われますか?」

 

 硬い声で問いかけるのは蓮華嬢だ。

 視線は目の前の勝負に釘付けだが、それでも意識は俺に向けられており俺の答えを待っている

 

「……難しいところだが、おそらく雪蓮嬢だ」

 

 どちらも若く、才能に恵まれているからか成長速度は非常に高い。

 俺が西平からこちらに戻ってきてまだそれほど経っていないというのに翠や蒲公英の実力は飛躍的に向上していた事からもそれは明らかだ。

 

 ただそれならば雪蓮嬢とて負けていない。

 いやむしろ俺たちに負ける度に反省と復習を繰り返し行う彼女の方が伸びるだろう。

 

 総合力や今後はどうなるかわからない。

 しかし今はまだ強くなる為の環境はうちの方が上だ。

 

「しかし翠も流石です。勝負が始まってからただの一度も雪蓮様の剣を受けていない」

 

 思春の言葉に同意しながら試合を見守る。

 事態はそこからすぐに動いた。

 

 雪蓮嬢は同年代の強敵に瞳をぎらぎらと輝かせながら剣を振るう。

 大木を両断しうる斬撃を翠は後方に飛び退いて回避。

 追随するように駆け出し、突きを放たんとする雪蓮嬢を彼女は槍で牽制する。

 牽制とは言う物の当たればただでは済まない突きの連打だ。

 雪蓮嬢の視点から見ればまさに槍の穂先が壁のように見えているだろう。

 思わず彼女の足が止まる。

 翠は着地と共に踏み込み、間合いの外から腰の入った本気の槍撃を放つ。

 牽制の一撃一撃が拳銃ならば、この一撃は大砲と言っても過言ではない。

 真っ向から受ければ負ける。

 見ている者たちがそう判断する中、雪蓮嬢は槍の穂先に剣を触れさせ、そして直撃の瞬間に力を外へ逸らした。

 

 この場にいる誰もが驚いただろう。

 しかし最も驚いたのは相手をしている翠か、あるいは俺だろうな。

 まさか俺が手甲でやっていた受け流しを剣で出来るほどに物にしているとは思わなかった。

 

 翠は渾身の一撃が流され、身体が前につんのめりそうになるのを踏ん張る事で抑え込む。

 それ自体はほとんど一瞬の事だ。

 だがそれは強者からすれば確かな隙だった。

 

 地を這う豹が駆ける。

 一足で槍の間合いが侵略され、翠の首筋には雪蓮嬢の剣があった。

 

 誰がどう見ても勝負ありと言えるだろう。

 

「私の勝ちね?」

「ああ、あたしの負けだ」

 

 『しくじった』と言わんばかりの苦々しい表情で翠は負けを認めた。

 

「よっし! さぁ駆狼! 出てきなさい! 貴方との鍛錬の権利は私の物よ!」

「くっそ~~! まさか剣で受け流されるなんて! あたしもなんで警戒出来なかったんだよ!? 駆狼さんにさんざんやられた手だったのにっ!?」

 

 勝ち誇り、子供のように飛び跳ねながら俺を手招きする雪蓮嬢。

 女性らしく艶めかしさすら感じるほどに成長した身体で飛び跳ねるせいで色々と目に毒な有様だが、大喜びしている当人は果たして気付いているのかいないのか。

 

 とりあえず息を一つ付いてからご指名に応えるべく彼女の方へ歩き出す。

 すれ違う翠の肩をお疲れ様と言いながら叩き、鍛錬場の真ん中へ。

 ぐっと身体を伸ばしながら俺が自分の前に立つのを今か今かと待ち受ける雪蓮嬢。

 

「こうして戦うの久し振りよねぇ」

「まだ一ヶ月しか経ってないんだが……?」

 

 実際、この子の悪癖『戦闘狂』を抑える為に俺や激、時には思春などが定期的に模擬戦を行っている。

 最近は激と俺が仕事に時間を取られていたから、ご無沙汰ではあったのだが。

 年々、悪化しているとは思っていたがまさか一ヶ月も持たなくなっているとは思わなかった。

 

「とはいえ子供に過度な我慢を強いるつもりもない。今日はとことん付き合ってやる」

 

 腰を落として構えを取ると彼女は不機嫌そうに口を尖らせた。

 

「もう……まぁた私を子供扱いするの? もうそんな年齢じゃないんだけど?」

「そうか? 俺には落ち着きのない子供にしか見えないんだが……」

 

 正直なところ。

 俺にとってはどれだけ成長著しくとも子供である。

 しかしそれはなにもこの子に限った話ではない。

 自由奔放が過ぎる雪蓮嬢も、誰かの役に立つ為に自分を出す事を我慢する冥琳嬢も、姉たちに追いつこうと背伸びしている蓮華嬢も、我が儘で周りを引っかき回す小蓮嬢も等しく子供なのだ。

 まぁ特に子供っぽいと思っているのが雪蓮嬢なのは間違いないが。

 

「あ、何か今すごくいらっとした」

 

 米神を抑えて機嫌を急下降させている彼女に対して俺は肩を竦めて笑う。

 勘が良すぎるのも困りものだ。

 

「じゃあこうしましょ! 私が勝ったら子供扱いをやめるって事で!」

「俺が勝ったらどうするんだ、それは?」

「駆狼の言う事なんでも聞くって事で!」

 

 またこの子は突拍子もない事を言う。

 ほら、見学者たちの輪の中から「お姉様!」と諫める声が聞こえてきた。

 まぁ本人はもう俺しか見えていなくて聞こえていないらしいが。

 

「そういう言動を直せば子供扱いしないんだが……」

「それだとなんか納得できないのよ!」

「理不尽じゃないか、それは?」

 

 こうして話している間にも彼女の興奮は高まっていく。

 俺は雑談を切り上げるべく、左手の甲を向けて手招きするように挑発した。

 

「来い」

「あはっ!! そういう話が早いところ、大好きよ! 駆狼!!」

 

 そういう台詞は心に決めた人に言いなさい、と言う間もなく俺たちの勝負の幕が上がる。

 それから日が落ちるまでの間、手合わせという名の壮絶な戦いは続いた。

 

 結果だけ言えば俺の勝ち。

 彼女は負けた後、おそらくずっと見ていたのだろう冥琳嬢に鞭で縛られて連行されていった。

 

「駆狼さん! 明日はあたしと試合してくれ!」

 

 引きずられていく雪蓮嬢を見送っていると翠が勢い込んで試合の申し入れをしてくる

 別に試合くらいやっても構わないのだが、ただ明日は俺ではなくこの子の都合が悪いはずだ。

 

「お前は明日から蒲公英と交代で軍馬関連の教練だっただろう。まさか西平の代表として来た仕事を忘れたわけじゃないだろうな?」

 

 俺が指摘すると翠は愕然とした顔をして頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。

 

「あ、あああ~~、そうだったぁ。せっかく駆狼さんとかち合う時間があったのに。くっそぉ、伯符に邪魔されたせいでぇ~~~」

 

 涙目になりながら雪蓮嬢へ恨み節を述べる翠の頭を軽く叩く。

 

「仕事をしっかりこなしたら、その後で時間を作るさ。俺は逃げないからまずはきっちり片付けてこい」

「あはは! はい!」

 

 叩かれた頭を撫でながら翠は妙に幼い笑みを浮かべ、俺に頭を下げると鍛錬場を出て行った。

 

 まだ鍛錬を行っている者たちに先に上がる事を告げて、城内へ向かう。

 

「(騒がしい日々だ……。だがとても充実した日々でもある)」

 

 こつこつと一人で歩く彼の足音が静かな廊下に響く。

 

「(このまま領地の平和が保たれればいいと思うが……そうもいかないんだろうな)」

 

 思い出されるのは人間としての感覚をどこかに置いてきたような異民族の軍勢。

 そして凜としていながらも、どこか道に迷った幼子のような雰囲気を見せた危うい少女『曹操』の姿。

 

「(いつ、なにが起こるかわからないがこの世界はおそらく今までにない激動の時代に突入するはず。備えなければならない。後悔する事がないように)」

 

 どれだけの事をすれば完璧な備えとなるかなんて俺にはわからない。

 だがそれでも出来るだけの事はしたい。

 

「(最初は家族のため、村のための仕官だった。それもずいぶん昔の話になったな)」

 

 俺には守りたいと願う物が沢山ある。

 取りこぼすかもしれない不安はいつまでも付きまとい、決して消える事はない。

 逃げると言う選択肢は最初からない。

 

 ならば立ち向かう為に努力し続けよう。

 

「(人を励ますために立ち上がったあの頃と同じように)」

 

 かつての世界に思いを馳せる。

 戦争に負けて荒んでいた、疲れ果てていた場所で、確かに輝いていた青空道場。

 溢れてた笑顔はあの頃も今も変わらない。

 

「駆狼? 今日もお疲れ様」

「ああ。ただいま、陽菜」

 

 奏を抱き上げながら俺に笑いかける陽菜。

 俺も笑い返し、うとうとしていた奏の頭をそっと撫でる。

 手の感触に驚いたのか、ぱっちりと目を開くと奏は俺を見てそして嬉しそうに笑った。

 

 俺は何にも代えがたいこの笑顔を守るために後悔しない努力を続ける決意を強くする。

 

「寝るか、陽菜」

「ええ」

 

 俺の気持ちをなんとなく察してくれたらしい彼女は二つ返事で了承した。

 奏を俺に抱えさせ、自分はもう眠っている玖龍を抱きかかえて寝台に入り込む。

 俺も陽菜がやりたい事を察して奏を抱いたまま寝台に入った。

 俺たちはそれぞれに子供を抱きながら互いの手を握り合って眠りについた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十二話

 建業に戻ってきてしばらく。

 俺が遠征中に拾ってきた孤児『陳武子烈』は、俺の元から離れていた。

 正確には遠征後の諸々や馬超たちの来訪などのごたごたで俺自身が彼女に構ってやれなくなっていた為、俺の次に懐いている賀斉こと麟が一時的な預かり人を申し出てくれたのだ。

 情けない話だがあの時の俺にとってその申し出はとてもありがたい物だった。

 

 俺が忙しいという事を理解してくれていた子烈は寂しそうにしたが、それでも麟と共にいる事に納得してくれた。

 麟も機会を見ては俺に子烈の様子を報告してくれたので大過なく過ごしている事も知っている。

 

 俺の方もようやく落ち着きを取り戻した。

 彼女は今は無事に俺の元にいる。

 陽菜には遠征から戻ってきてすぐに話し、了承を得た。

 手紙で祭にも許可をもらっている。

 

 彼女はこれで俺たちの正式な養子という事になる。

 子供たちや陽菜との顔合わせについてはやや不安があったが、蓋を開けてみればこれも問題はなかった。

 むしろ子烈は自分よりも小さな子供に興味津々で積極的に世話を焼こうとすらしていた。

 言葉は未だに話せないし書けないが、それでも俺たちとの関わりがこの子の情緒を成長させているようだ。

 まぁそれでも一番懐いているのは俺のままのようで、俺の様子を窺い大丈夫そうだと判断したら背中に引っ付いてくるのは変わらない。

 出来ればそろそろ言葉を勉強させたいのだが。

 いっそ子供たちと一緒に勉強させる方が良いかもしれないな。

 

 子烈の、そして玖龍たちの今後の教育に考えを巡らせながら俺は執務机に置かれた三篇からなる報告書を読み進める。

 

 

 遠征に行く前、俺は三国志に名高い『飛将軍呂布』について皆に語った。

 それは一重に俺自身の警戒心の表れであり、自分たちを向かうところ敵無しだと思い込みかけている皆の安易な考えを諫める意図があった。

 

 結果として団結力と競争心を適度に煽れたと思っていたのだが。

 どうやら俺が言った言葉は俺が思った以上に皆の心に響いてしまっていたようだ。

 

 背中に子烈を引っ付かせながら、俺は当時の自分の軽はずみな発言を反省していた。

 今、読んでいる竹簡は呂布奉先の経歴についての調査報告なのだから。

 

 

 呂布奉先(りょふほうせん)

 おそらく三国志という物語において劉備や曹操、孫堅、孫権、孫策などと同じくらいに有名な武将。

 その武は三国一とされ、特に弓術、馬術に秀で飛将と呼ばれたとされる。

 演義においては方天画戟(ほうてんがげき)という超重量の武器を軽々と振るうだけの腕力を持っている。

 赤兎馬に跨がり戦場を蹂躙する姿はまさに天下無双だ。

 だがその人生は裏切りに満ちており、義父の丁原(ていげん)、董卓、劉備と裏切った人物も有名所が多い。

 本人の気質を誰かは「虎の強さを持ちながら英略を持たず、利益だけが眼中にあった」と評したと聞いた事がある。

 最後は曹操に捕らえられ、最後まで付き従った陳宮(ちんきゅう)と共に処刑された。

 

 

 人物像としては、決して良い人物ではない。

 しかし作品によって扱われ方が違い過ぎるため、俺自身この世界のかの人物がどのような存在なのか測りかねていた。

 

「強さは俺が思った通りのようだが……しかし思っていた人物像とずいぶん違うみたいだな」

 

 調査報告書には呂布の外見的特徴や普段の行動なども書かれている。

 

 やはり女性だった彼女は現在、丁原の元にいる。

 武官として仕えているものの部隊はない。

 彼女について行ける者が丁原の元には誰一人としていないのだそうだ。

 馬を駆っても本人の足で走らせても他の者を置き去りにしてしまうらしい。

 丁原の元の騎馬隊すらも彼女についていけないというのは、騎馬隊が情けないのか彼女が凄すぎるのか、判断に困る。

 結果、たった一人で部隊として動くという常識外れな行動をしている。

 だが彼女が動いた戦場で敗北はない。

 立ち向かった者は例外なく殲滅され、その容赦の無さに戦意を喪失した者はこの時の経験によって二度と武器を握れなくなったという。

 その力を目撃して影響を受けたのはなにも敵に限った話ではない。

 呂布の力に魅入られ傅くようになった者、逆にその力を恐れ距離を取った者。

 かの人物の力は様々な影響を及ぼしている。

 

 しかし戦場の苛烈さとは裏腹に彼女の日常生活はひどく穏やかなものだ。

 同列の武を持つ者がいないからか、鍛錬をしている姿は見られない。

 その代わりというべきか街の食事処や出店の類いによく出没してはその体躯に見合わない量の食事を取って去って行く。

 彼女に付き従うようについていく犬や猫などの動物を見たという話もよく聞くらしい。

 

 人によっては食事処に現れる少女と呂布が繋がっていない者も多く、町人たちからは微笑ましい目を向けられている事すらある。

 その力故に軍内からは孤立、いや自ら出向き一人で片付けてしまう孤高とも言える姿勢を考えれば別人のようにすら思えてしまうかもしれない。

 

 

「なんとも面妖な人物なのだな、この世界の呂布は……」

 

 思わず呟いた言葉に俺の思いの全てが込められている。

 背中に引っ付いたまま寝息を立て始めた子烈を落ちないように抱きかかえてやる。

 

 

「敵対する事があれば……俺は、いや俺たちは果たしてこの子に勝てるのか」

 

 赤い目に褐色の肌という子烈に似た特徴を持つ少女に思いを巡らせながら俺は執務室を後にした。

 

 

 

「長いようで短かったな」

 

 月を見上げながら杯の中の酒を飲む。

 こうして落ち着いて酒を楽しめるのも一先ずの嵐が過ぎ去ったお陰だ。

 

 翠と蒲公英、鉄心殿たちによる軍馬に関する技術提供に目処が立ち、彼女らは帰還する事となった。

 今日は同盟を結んでからの二回目の取引が無事に終わったことを記念しての宴会を行う事になる。

 真っ昼間から始まった宴会に冥琳嬢や蓮華嬢はおろか祝われる側であるところの翠たちも困惑していたが、そこは我らが君主様と後継者が押し通してしまった。

 

 宴会は上から下まで無礼講の大騒ぎ。

 兵たちも武官も君主すらも関係ない(なにせ君主の方が率先して酒を注いで回って潰していたからな)乱痴気騒ぎと言っていい有様だった。

 

「……」

 

 今はその後。

 俺は場所を会議に使用するそれなりに広い部屋に移し、窓から城下を眺めながら一人で晩酌をしていたのだが、最初に稟が現れ、次に冥琳嬢と蓮華嬢が来た。

 稟を捜してきたらしい程立改め風(ふう)、趙雲改め星(せい)も現れ、そこからは続々と示し合わせたかのように集まって二次会のような有様になってしまった。

 

「静かだな……」

 

 独りごちる俺の周囲には蒲公英と翠、稟と風、星に思春や麟に弧円、冥琳嬢や雪蓮嬢、蓮華嬢にいつの間に現れたのか周泰改め明命(みんめい)までもが酔い潰れて眠っている。

 

「うふふ、そうね」

 

 俺の言葉に同意を返してくれたのは陽菜だ。

 彼女も彼女で背中には子烈を引っ付かせ、そして膝には蘭雪様の頭を乗せている。

 姉の見事な桃色の髪を愛おしげに梳く姿は月明かりと相まって実に絵になる光景と言えた。

 

「しかし……この子たちはずいぶんと無防備だな」

 

 周りを見渡す。

 この子たちは俺を信頼しているのだろうが、仮にも男がいる密室でこれは無防備過ぎるんじゃないだろうか?

 

「それだけ貴方を信頼しているという事よ」

「……そうか」

 

 まぁ贅沢にも愛する妻が二人もいて、さらに子もいる身で無体を働くつもりなど微塵もないが。

 

 俺は一度、杯を置いて立ち上がる。

 用意しておいた毛布(というには薄い代物だが)を一人一人にかけてやった。

 改めて陽菜の横に腰を下ろすと、彼女はそっと俺の肩に頭を寄せてきた。

 彼女の好きにさせながら俺はまだ残っていた酒を杯に注ぎ、夜闇に浮かび上がる丸い月を見上げる。

 

 しばらくそうしていると肩にかかる重みが僅かに増した。

 陽菜を見やれば目を閉じて小さな寝息を立てている。

 

 どうやらこの場で起きているのは俺だけになったようだ。

 

 十人十色な酔い潰れ方をしている様々な立場の子たちがいると、遠征から帰ってきてからの慌ただしい日々を思い出す。

 俺は月を見ながら注いだ酒を一気に呷り、この子たちとの出来事を思い返し始めた。

 

 

 

 そして翌日、翠たちは今回の遠征の成功という結果を引っ提げて意気揚々と西平へと帰っていった。

 お互いの健勝と再会を願いながら。

 

 翠は雪蓮嬢と冥琳嬢、蒲公英は蓮華嬢と思春、小蓮嬢と特に別れを惜しんでいたように思う。

 小蓮嬢はいつの間に蒲公英と仲良くなったのだろう?

 まぁ確かにこの二人は馬が合う気はしていたんだが。

 

 二人は俺や陽菜とも別れを惜しんでくれている。

 特に蒲公英はやや瞳が潤んですらいたが、それに触れるのは憚られた。

 

 鉄心殿とは固い握手をし、視線を合わせるだけで別れのやり取りを終えている。

 俺が薦めた建業の酒を大切に袋に入れて背負っていた。

 

 彼とは男同士と言うことで激も交えて滞在中に何度か飲んだ。

 彼はの鉄面皮が故に初対面では誤解されがちだ。

 だがその実体はなかなか乗りが良く、話のわかる御仁である。

 お蔭で激ともすぐに打ち解けた。

 今度は是非とも慎も交えて飲みたいものだ。

 

「駆狼さん、またいつか必ずお会いしましょう!」

「おじさま、またね!」

 

 年相応の笑みと共に告げられた再会の言葉に、俺もまた笑みと共に応じた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十三話

 西平軍が帰ってすぐのこと。

 俺たちは留守を陽菜と冥琳嬢、雪蓮嬢、激たちに任せて曲阿に来ていた。

 思春には建業で残った皆の護衛を任せているので今回は留守番だ。

 

 子烈は俺の両親に預けている。

 俺と似ている事が功を奏してか、両親に対して子烈は初めて会った時も怯える事は無かった。

 そこからは二人の人柄のお蔭であっという間に懐いてくれている。

 建業での生活でだいぶ他者に慣れてきたくれたようで、豪人殿たちにも出会えば近付くくらいにはなっていた。

 今後にも期待できる良い傾向だと思う。

 

 

 それはそれとして。

 曲阿に来た目的は勿論、馬家の来訪によって先延ばしになっていた視察だ。

 視察に参加する面々は蘭雪様、俺、蓮華嬢に加えて護衛部隊のみ。

 かなり人数を絞っているのは本拠地の守りを手薄にするわけにはいかないというのが大きな理由だ。

 今後も少人数を代わる代わる視察に出すという事になっていて今回はその初回になる。

 

 今後の展望としては近いうちに曲阿を蘭雪様の後継である雪蓮嬢か蓮華嬢に任せる事になっている。

 今回の視察はその為の準備の一貫と言うことだ。

 美命たちの能力は信頼しているが、だからこそこの視察はしっかり念入りに各人の観点でもって行わせたい。

 そう進言したのは陽菜と俺だ。

 

 無礼者は手打ちに、気に入らない事は切って捨てるというのが当たり前な時代だ。

 権力を行使するのは支配者側の正当な権利だが、その様が民にどう見えるかわからない。

 畏怖ならばいい、だがいたずらに恐怖を振りまくような事になってはいけない。

 

 ならばどうするか?

 権力を行使するような要素を事前に排除する、だ。

 

 だが俺や陽菜だけがいくら気をつけてもそんな不安要素を見つけられるわけではない。

 

 ただでさえ不確定なものを探ろうとしているんだ。

 見逃す可能性なんてものは絶対に無くならないだろう。

 ならせめて見逃す可能性を極端に減らしたい。

 その為の複数回に渡る視察というわけだ。

 

 とはいえこの一回目に関しては少々、乱暴な手段を使わざるをえないんだが。

 

 

 曲阿の城下は建業には劣るが、それなりに栄えていた。

 この領土が与えられた頃は前領主のやりたい放題の結果、城下には浮浪者が溢れる笑顔とは無縁の無法地帯だったと聞いていた。

 そんな場所をここまで立て直したのだという事実そのものがここに派遣された美命たちの並々ならぬ尽力を表している。

 

 民は俺たちが城下を通過する際、どよめき遠巻きにしてこちらを窺っていた。

 しかし事前に通達でもされていたのか、過度な反応ではなく俺たちに敵意や害意を持っているようには見えなかった。

 

 城の玉座には曲阿に派遣した皆が揃って俺たちを出迎えてくれた。

 

「久し振りだな、祭、美命、慎、深冬」

 

 空座になっている玉座に蘭雪様が座り、彼ら一人一人の顔を見て声をかける。

 労いを受けた面々も含めて俺たちは皆が膝をつき、その言葉を聞いた。

 

「ここに来るまでに大通りを歩いたが中々景気は良さそうだったな。よくここまで短時間で復興してくれた。お前たちは建業の、そして私の誇りだ。これからもよろしく頼む」

「「「「はっ!」」」」

 

 その場に集まった臣下の声が唱和し、広間を震わせた。

 そして次の瞬間。

 

「ん、よし。堅苦しいのはもういいぞ。ほら、お前ら顔上げろ、顔」

「身内しかいないとはいえ仮にも余所の土地なのだからもう少し緊張感を保て、馬鹿者がっ!!!」

「へぶしっ!?」

 

 美命の鞭が蘭雪様の頭部に叩き付けられた事でそれまでの緊迫した雰囲気は霧散し、建業の空気がその場を包み込んでいった。

 

 

「おい、美命。もう少し手加減してくれ。視界がまだ明滅してるんだが?」

「これから元からここにいた文官たちや仕官した者たちと目通りしなければならないというのに気を抜くお前が悪い」

 

 涙目で訴える蘭雪様に、冷たい眼差しで冷たい言葉を言い放つ美命。

 長い付き合いだからこその掛け合いなのだが、よく知らない者が見たら彼女の謀反を疑う所だろう。

 

「鋭すぎる突っ込みは健在だな。壮健で何よりだ、美命」

「お前たちもな、駆狼。そして蓮華。こいつと雪蓮の世話は大変だっただろう?」

「お気遣いありがとうございます、美命。でも冥琳たちもいましたからそれほど苦労はしていません」

「そうだな。あの二人から解放されたとはいえ慣れぬ土地の復興に当たっていたそっちの方が苦労していただろう。祭、慎、深冬が脇を固めたとはいえ、な」

 

 名指しした妻と幼馴染み、そして古馴染みと言っていい付き合いの忠臣は俺の言葉に苦笑いを浮かべた。

 

「確かに。ここに来た当初、民は疲れ切っておった。お上が自分の事しか考えぬ輩であったという事実は儂らの想像以上であったよ」

「当時はどこから手を付けたらいいかも悩むくらいに問題だらけでしたし、民からも残ってくださった文官の皆さんからも信用なんて欠片もありませんでしたからね」

「何もない所から信用を得る事がどれほど難しいか嫌というほど思い知らされたもんじゃ」

 

 祭と深冬が当時を思い出しながら重い言葉を漏らす。

 報告書を読んで当時の惨状と言っていい曲阿の状況は俺たち全員が知っている。

 

 城下を歩けば誰もが家の中に隠れ、城主の不徳によって家族を失った者など自暴自棄になり兵士や祭たちに石を投げつける事すらあったという話だ。

 

「だからこそ今、城下の人達が笑顔で生活出来ている事が嬉しい。僕らが頑張って、そして彼らが受け入れてくれんだって、そう思うんだよ。駆狼兄」

 

 俺を兄と慕う男の顔には確かに事を成し遂げたという自負と自信が感じられた。

 

「そうだな。儂たちはやり遂げた。ああ、いや遂げた、などと終わらせたつもりになってしまってはいかんな」

 

 慎の言葉に祭は頷くも、自分の言葉を否定する。

 

「これからもこの曲阿の治政は続くからな。お前たちの努力を思えば達成感を否定するつもりはないが、ここで満足してもらっては困るぞ。まだまだ先は長いんだ」

 

 そう言ったのは玉座からこちらを見下ろしている蘭雪様だった。

 

「つい口走ってしまいましたな。もちろん心得ておりますとも」

「それは私たちも同じです。今後もたゆまぬ努力を続けていく事を」

「僕もです」

 

 美命の下で曲阿の平定に尽くしてきた三人の言葉は力強く、そして重い。

 俺はこいつらの言葉に身が引き締まるような感慨を抱いていた。

 

「俺たちも負けていられないな。蓮華嬢」

「はい……」

 

 俺の言葉に噛みしめるように返す彼女の表情は、その心が俺と同じ物を抱いている事を雄弁に語っていた。

 

「こほん」

 

 美命は俺たちの会話を区切るように咳払いし、場の視線を自身に集める。

 

「久方ぶりの語らいの中、すまない。深冬、慎。この場所の平定のために協力してくれた者たちを連れてきてくれるか?」

「「御意」」

 

 二人は一礼すると玉座の間を出て行く。

 

「ここからは今一度、気を引き締めてくれ。彼らの大部分は今も尚、我々を見定めている所なのでな」

 

 きりっと柳眉を立てる美命の言葉に、しかしよりにもよって彼女が背にしている玉座から反目する声が上がった。

 

「ほう。自分たちだけでは復興すら覚束なかったというのに、こちらを値踏みしようとはな」

「……彼らがいなければここまでの速さで復興出来なかった事は紛れもない事実だ」

「ふぅん。まぁいい……どうするかはそいつら次第だ」

 

 不穏なやり取りに隣にいた祭は口元を引きつらせた。

 

「駆狼。まさかとは思うがこの視察……」

「あちらが建業を値踏みするつもりでいるように、こちらもまた彼らが使えるかどうかを値踏みし、既に値踏みが終わった者については切り捨てるつもりだ。お前たちにとっては苦楽を共にした仲の人間をこのように扱われて良い気分はしないだろうが……すまんな」

 

 謝罪はするが、俺たちの方針は変わらない。

 美命は手を貸してくれた文官たちに礼を尽くしつつもその裏を取っていた。

 結果、何人もの人間が真っ黒な裏を持ち、今度はこちらに牙を剥く可能性がある事が判明している。

 今回の視察の最も大きな目的は『そういう連中の排除』なのだ。

 

「いいや……確かに戦友と呼べる者、頼りになる先達、先が楽しみな者もおる。しかしこちらに取り入らんとしている者もかなりおった。そういう者を切り捨てなければいずれこちらに不利益をもたらすじゃろう」

 

 深冬と慎が出て行った出入り口を見つめる祭の瞳は揺らがない。

 

「彼らの行く末は蘭雪様のご判断にお任せするつもりじゃが……もしも儂らが目をかけている者をも切り捨てんとした場合は直談判させてもらうつもりじゃ。……その時、お主はどちらに付く?」

 

 祭はどこか挑発するような戯けた調子で俺の言葉を待った。

 

「もちろんお前と蘭雪様の間を取り持つ」

「……久方ぶりの語らいなのじゃからそこは全面的に儂に味方する、と言って欲しかったのぉ」

 

 不満げな言葉を上げつつ、口を尖らせながら俺を睨み付ける祭。

 だがすぐににっこりと笑いながら両手で俺の右手を取りそっと自身の頬に触れさせてきた。

 

「しかし……下手な慰めも言い訳もしない答えは実にお前らしいと思うぞ」

 

 猫のように右手に頬摺りする祭。

 俺はされるがままだった右手を自分の意志で彼女の頬をそっと撫でる。

 いつの間にか蓮華嬢は俺たちからそっと距離を取っていた。

 無言の気遣いが気恥ずかしいが今はとてもありがたい。

 

「元気そうで安心した」

「ああ。お互い様じゃ」

 

 俺たちは離れていた時間を埋めるように僅かな言葉と触れあいでお互いの健勝を喜び合った。

 

「おい、そこぉ! もう少し人目を憚らんかぁ! と言うか美命もなんであやつらに鞭を振るわん!」

「あの二人はきちんと場を弁えてくれるからな。今この場には本当の意味で身内しかいないんだ。あの程度なら止めるほどではない」

 

 こちらを指差して糾弾する蘭雪様だが、美命は俺たちの味方をしてくれるようであっさりとしたものだ。

 

「特に祭はこちらの都合で子供とも離ればなれにしているようなものだ。この程度で祭の頑張りに報いたなどと言うつもりはないが少し早い褒美の一貫だとでも思っておけ」

「ぐ……む? 来たようだぞ」

 

 美命を苦虫を噛み潰したような顔で睨む蘭雪様だが、こちらに近付く気配にすぐに表情を改めた。

 俺たちもそれまでのやり取りを収め、玉座に対して正面を空けて二列に並ぶ。

 

「文台様。お連れしました」

「ああ。入れ」

 

 深冬の声に鷹揚に頷き、蘭雪様は入室を許可する。

 入ってきたのは年配の男性が五人、俺や慎と同年代くらいの男性が三人、年配の女性が二人。

 そして彼らに比べて一人だけやたらと若々しい、いや先の彼らと比較すると幼いとさえ言えてしまうくらいの少女が一人。

 

「……」

 

 今この場はそれなりに緊迫した雰囲気だ。

 現に他は例外なく顔を強ばらせ足音すら忍ばせながら腰を低くして歩いてきている。

 そんな平身低頭の見本のような彼らと違い彼女だけはそれに感化される事なく穏やかな空気を纏っており、その薄緑色の髪も相まって一人だけ異様に目立っていた。

 見知った人物の中では風に最も似ているだろう。

 体つきは正反対のようだが。

 

「私が建業領主の孫文台だ。まずは復興に忙しい中、この場に集まってもらった事に感謝しよう」

 

 感謝すると言ってはいるが、その雰囲気は戦闘時にも勝るとも劣らぬほどに殺伐としたものを感じさせる。

 今この場で抜刀してもなんら可笑しくない、と思わせるには充分すぎるものだ。

 少なくとも初対面の人間には。

 

 彼らは俺や祭たちに挟まれる形で自分たちにとって領主の前へ歩み出て膝をついて傅いている状態だ。

 蘭雪様を値踏みしようとしていたと思われる年配の男女は、彼女の圧力に負けて真っ青な顔をしている。

 俺たちと同年代の男たちはさらに酷く遠目でもわかるほどの冷や汗で足ががくがくと震えていた。

 ここでもやはりあの少女だけがのんびりと自分のペースを維持している。

 

「さて早速だがお前たちの今後の進退について話をしようか」

 

 思わず顔を上げる少女以外の者たち。

 今後の自身の栄達に関わる事となれば怯えてばかりではいられないという事なのだろうが、その判断は早計だったな。

 

 蘭雪様の目は未だに彼らを見据えていた。

 見据えられた彼らは彼女と目を合わせてしまい、哀れにも全員が「ひゅっ」というか細い呼吸のような悲鳴を上げる。

 

「ああ、安心しろ。別に捕って喰うつもりなどないさ。……ただ」

 

 勿体ぶるように言葉を止めると蘭雪様は美命へ視線をよこす。

 その意図を正確に読み取った彼女は眼鏡の縁に手を添え、冷たい視線で彼らを見据えその手に持っていた竹簡を広げた。

 

「貴様らの中に罪人が紛れている」

 

 冷徹な視線そのままの平坦な語調で語られる言葉に、彼らのうちの何人かは呼吸すらままならぬ有様でありながらも動揺に視線を彷徨わせた。

 

「過去の領主を唆し、民からの搾取を誘導。領主の横暴の影で自らも配下を用いて民の財を不法に略奪、挙げ句に自らの罪をも領主になすりつけて追放した不心得者。その数、六名。名を……」

 

 名を呼ばれ、さらにその罪科の具体的な内容までもを告げられた者たちは先ほどにもまして顔色が悪くなっていく。

 一部はこの後に自分たちがどうなるかを予測し、ガタガタと震えている始末だ。

 

「貴様らは領主を、そして領民を食い物にする毒虫だ。そんな輩はこれからの曲阿には不要」

 

 蘭雪様の淡々とした言葉は彼らにとっては正しく死刑宣告と言える。

 

「復興に積極的に手を貸せば、恩を売れると思ったか? 情けをかけてもらえると思ったか? あるいはこちらが隙を見せる、とでも考えていたのか?」

 

 もはや彼女は殺気を隠そうともしなかった。

 先ほどまでにもまして重い空気が場を支配する。

 

「……虎とその配下を侮った事、とくと後悔するといい」

 

 その言葉を引き金に金切り声のような悲鳴を上げて名を呼ばれた六名が例外なくその場から逃げ出した。

 妙に華美な装飾が施された服が乱れるのも気にせず、逃げ出す彼らを俺たちは見送る。

 

「彼らの処遇は如何様に?」

「捕えたら個人資産を洗いざらい吐かせろ」

 

 恐怖から後先考えずに逃げ出した彼らだったが、そもそもここから無事に逃げる事など出来ない。

 なぜなら俺たちの護衛として連れてきた建業の兵士たちが玉座の間を囲って警備をしているからだ。

 『怪しい動きをする者は例外なく捕縛せよ』と命じてある。

 身なりの良い文官だからと言って目こぼしをする事はない。

 建業から直接連れてきた者たちであるが故に、曲阿の兵の何割かのように奴らに袖の下を握らされるなどの余計な心配も必要ない。

 

 その場で見逃すよう交渉された所で応じる事はない。

 そういう人材を選りすぐって連れてきたからだ。

 

「さて罪人の炙り出しは終わった」

 

 これまでのやり取りで自分たちはどのような目に合うのかと不安がっていた彼らに蘭雪様は穏やかに声をかけた。

 

「改めて話をしよう。この曲阿と貴殿らの今後についてだ」

 

 こうして曲阿の今後についての話し合いが始められた。

 悪事を暴かれて逃げ出した末に捕えられたあの者たちには無い未来の話を。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十四話

 陸遜伯言(りくそん・はくげん)

 後漢末期に揚州を中心とする江南にて勢力圏を築き、後に孫呉を建国したは孫権に仕えた文官であり軍師。

 確か呂蒙と並んで関羽討伐の立役者の一人だったはずだ

 蜀を起こした劉備が関羽が討たれた復讐の為に孫呉に攻め込んだ際に大都督としてそれを阻んだと言われている。

 周瑜亡き後の孫呉を支えた賢人と言えるが、後継者問題の際に孫権と対立し、後の彼の行動に憤慨したまま亡くなったと言われている。

 もっとも孫権の彼への疑念懸念は彼の死後に息子の陸抗(りくこう)が全て晴らし、孫権は彼の手を握りながら陸遜へ謝罪したとされていた。

 

 

 そんな人物が蘭雪様による制裁が行われたあの場で唯一マイペースを維持していた子だった。

 

「性は陸、名は遜、字は伯言と申します~。今後ともよろしくお願いいたします~」

 

 妙に間延びした口調の挨拶に、新たな臣下を見定めようと気を張っていた蓮華嬢は毒気を抜かれている様子だった。

 しかし毎度の事ながら俺の知る人物との違いには驚かされてばかりだ。

 

「この子は、私が直々に召し抱えた。というより陸家とは豪族時代に縁があってな。役に立つだろうと寄越されたというのが正しい。実際の所、あちらが自信を持って薦めるに相応しい人材、いや逸材だよ」

「いえいえ、そんな~~。私なんて誰も思いつかなかった政策を次々と世に出した建業の方々には遠く及びません~~」

 

 照れというよりは純粋にそう思っている語調で語る陸遜。

 なかなか謙虚だな、好感が持てる。

 

 俺が笑みを絶やさずに話す少女を見つめていると、美命が硬い声で話を続けた。

 

「ただ、な。この子自身も認識している悪癖があるんだ」

 

 悪癖、という言葉に俺と蓮華嬢は思わず身体に力が入る。

 蘭雪様は逆に興味深げに陸遜嬢を見つめていた。

 

「それはこの場にいる曲阿の者なら誰でも知っているのだが……」

 

 俺を見て些か言い淀む美命。

 深冬は笑みが引きつり、慎は何故か顔を赤くして目を反らした。

 祭は笑みを浮かべたまま、手に異様に力が籠もっている。

 曲阿に元からいた文官の方々まで緊張感を無くしてため息をつく始末。

 

 なんだこの反応は?

 蘭雪様たちのような血に飢える習性とは違うようだが、一体どういう悪癖があるというんだ、この子には。

 

「こいつは知識欲と性欲が一体化している」

「「「……はっ?」」」

 

 俺と蘭雪様と蓮華嬢の間の抜けた声が玉座の間に響き渡る。

 頭痛を堪えるように米神を押さえながら美命は悪癖の詳細を語り出した。

 

「簡単に言うとだ。こいつは本を読むだけで発情する。自分の知らない知識を知った時、つまり知的好奇心が疼いている時が特にまずい。幼台が立案、施工した交番制度などの話をした時などもそうなった。だから基本的に男と二人きりで仕事はさせないようにしているんだ。実際、発情すると相手が老人であろうと関係ないらしくてな。ここにいる男は刀厘以外は一度襲われている」

「……なるほど、大栄が顔を赤くしたのはそれが理由か」

 

 かろうじて俺は冷静に言葉を紡いだが、果たして声は震えていなかっただろうか?

 蓮華嬢は発情と襲われるという単語に顔を真っ赤にしている。

 蘭雪様はそういうのもあるのか、と物珍しげに陸遜嬢を見ていた。

 話に上がった慎はおそらく襲われた時の情景でも思い出してしまったんだろう。

 両手で顔を覆い隠してその場に座り込んでしまった。

 恋人である深冬の顔が真顔のままなのが地味に怖い。

 

「あはは~、その節はご迷惑をおかけしました~~」

「豪族上がりで荒事にもそれなりに心得があってな。大栄は自分でどうにかしたが、他の方々は力任せに抑えつけられあわや喰われるという所までになった事もある。全て公覆が止めてくれたがな」

 

 隣の祭に視線を来ると疲れ切ったため息をついていた。

 

「流石に好いてもおらん男相手に性癖でとはいえ発情して処女を散らすというのは……のう。あまりにも哀れじゃから気をつけて見ていてやったらいつの間にかお目付役にされておったわ」

「本当に公覆様にはご面倒のかけ通しで申し訳ないです~~」

 

 本人としては悪癖を認識しているし反省もしているのだが、それでも根本的な解決方法は見つからず。

 かといって書物から離すと欲求不満でたまに暴走するという。

 蘭雪様の悪癖はほぼ戦場限定だが、この子は日常生活と直結しているのか。

 今後も彼女は文官であり軍師として働く事になるだろう。

 となるとこの悪癖はかなり厄介かもしれない。

 

「しかしその頭脳は優秀だ。贔屓目を抜きにしても建業で五指に入る頭脳と言っていい。公瑾と合わせてやれば互いに切磋琢磨出来るだろう」

「公瑾嬢と切磋琢磨出来るだけの頭脳か。それは確かに凄いな」

 

 彼女と知力で対抗出来るのは親である美命と今は遠くにいる桂花、そして客分の風、稟くらいなものだからな。

 俺と陽菜はそもそもずるをしているようなものでスタートが他と違う。

 それでも頭の回転で彼女に勝てるとは思っていないというのが正直な所だ。

 

「効率を重視する公瑾と遠回りになっても民に考慮する伯言。方向性が異なるがな。だからこそ上手く噛み合うと思っているぞ」

 

 彼女に関してはこれまで通りに祭預かりのままで本を読む時は同性の同行者を一人以上付ける事が義務づけられた。

 同行者がいる場合は異性を同行させてもいいという事にもなっている。

 

 しかし祭と深冬が肩を砕かれんばかりの力で握り締めて『夫(恋人)の傍で発情したら……わかるな?(意訳)』と言って彼女が目尻に涙浮かべながら頷いている姿を見るに俺や慎が彼女の被害に遭うことはないだろう。

 こちらも最大限注意するようにするが。

 

 

 彼女と俺たちのやり取りで他の面々の緊張も適度に解れたようで、彼らの今後の身の振り方についてはすんなりと決まった。

 年齢を理由に曲阿を復興した後に引退するつもりの年配男性一名については退職を許可し、今後の生活についてもそれなりの援助を約束した。

 同じく年配の男性は動けなくなるその時まで孫文台に仕えるとその場で宣誓し、俺たちと同年代くらいの男性二名も彼に続いて頭を垂れた。

 

 最初に仕えることを誓った年配の男性は張子綱と名乗った。

 

 

 張紘子綱(ちょうこう・しこう)

 孫策が挙兵した頃に仕官した人物で、頭に血が上った孫策や一時的に傍にいた曹操を諫め続けたという印象を持つ文官。

 軍の陣頭指揮を取ろうとした孫策には「総大将たる者が最前線に立つべきではない」、孫策の死後、その隙をついて攻めようとした曹操には「他人の喪に付け込むべきではない」と主張したと言われている。

 孫権からの信頼は厚く、張昭(ちょうしょう)と共に計略や外交に当たった。

 この張昭と二人で『江東の二張』と称される書物もあるという。

 孫権の母である呉夫人(ごふじん)からも孫権の事を託され、彼の日常的な振る舞いについても諌言し、その行状を改め続けていたとされるいわゆるご隠居様のようなイメージを俺は持っている。

 文章作成の能力に長けていたため、文書の起草や史書の記録に携わり詩や賦といった文学作品も多く残した文化人としての側面もある。

 最期は建業への遷都の折、孫権の家族を迎えに行く途中、病に倒れまもなく死去している。

 死の直前、子に託した遺書を見た孫権は涙を流したと言われている。

 

 

 この世界ではどうやらここから孫家に仕える事になるようだ。

 

「我が身命を賭してお仕えさせていただきます」

 

 そう言って蘭雪様を見つめるその瞳には年老いたとは思えない気迫に満ちていた。

 

「貴殿らのご厚意に感謝する。皆と共にこれからも私を支えてくれ」

 

 蘭雪様の言葉に俺たちを含めたその場の全員が整然と頭を下げる。

 こうして今回の視察最大の目的はこうして果たされたのだった。

 

 ちなみに逃亡した挙げ句、あっさりと引っ捕らえられた者たちだが。

 彼らはその財産の全てを没収され、僅かな食料と共に曲阿から追放された。

 財産については五割を元から曲阿に仕えていた四人へ分配され、残りの五割は復興及び今後の繁栄の為の資金とされる事になる。

 民から搾取された資金を受け取る事に彼らは異を唱えたが、そこは蘭雪様と美命が諫めて受け取らせた。

 

「今までの苦労への労いとこれからも苦労をかける事への謝意として受け取ってくれ。どうしてももらう事に抵抗があるならば民のためにそれを使えばいい。くれてやった金をどう使うかはお前たちの好きにせよ」

 

 渡す事は変わらないのだ、という暴力的な理屈だった。

 しかし使い方には言及しないというお墨付きでもある。

 彼らはそれでようやく納得し、受け取る事を了承した。

 

 

 視察は順調に始まり、そして予定通りに終わった。

 子綱殿たちとも短いながらも交流を計る事は出来たし、順調と言えるだろう。

 

 しかし催された小さな宴の席で彼らが語った話が少し気になった。

 話によるとこの曲阿には張昭もいたらしい。

 いた、と過去形である理由は前太守の横暴を糾弾したところ追放されてしまったからだ。

 以降、『彼女』は行方知れずなのだという。

 十年以上前の事で子綱殿と変わらぬ年齢だった為、もはや子綱殿以外は彼女の生存を諦められていると言う。

 

「あの女化生がそうやすやすと死ぬはずもない。上手くやって何食わぬ顔で竹簡でも眺めているだろうよ」

 

 常に敬語を崩さなかった子綱殿は張昭の話をする時だけは饒舌で、そして彼女を語る時だけは口調が崩れていた。

 良い意味でも悪い意味でも彼にとって張昭という存在は忘れられないのだろう。

 

 しかし、だ。

 俺は子綱殿ほど高齢で腕の立つ、さらに言えば得体が知れないとも言える文官を一人知っている。

 祭も慎も深冬も美命も蘭雪様も蓮華嬢もこの話を聞いて思い浮かぶ人物が一人いた。

 

「……まさか」

 

 思えば俺たちはあの人『老先生』の経歴を知らない。

 蘭雪様が建業に来たという頃には既にそこにいたという事しか教えてもらっていなかった。

 今の今まで経歴を知らないという事実にも気付いていなかったと言うことが、あの方の老獪さを表している気もする。

 思い起こせば過去に纏わる話をする時、彼女はいつも巧妙に話の矛先を自身に向けないよう誘導していた節があった。

 

 彼女を、老先生を知る面々は尚も弁舌を振るう子綱殿(やや酔いが進んでいる模様)の言葉を聞きながらも視線を合わせる。

 そこには共通して『戻ったら聞き出してやろう』という想いがあった。

 今更、彼女の経歴が判明したからと言って俺たちの彼女への信頼が揺らぐ事はない。

 

 ただもしも張昭が老先生で、古馴染みである子綱殿に会いたいという気持ちがあるなら会わせてやりたいとそう思っただけだ。

 あの方には世話になりっぱなしだから少しでも恩返しがしたい。

 無論、老先生の意志をないがしろにするつもりはないが。

 

 

 さて話は戻すが次の視察は雪蓮嬢と冥琳、激を予定している。

 その後は陽菜、出産を無事に終える事が出来たならば塁、そこに明命と思春も同行させたい。

 とりあえずこの三回の視察の結果を話し合い、曲阿の領主を蓮華嬢か雪蓮嬢のどちらにするかを決める予定だ。

 

 またしばらくは忙しくなる。

 仕事ももちろんそうだが個人的にやっている作物についてもそろそろ次にかかるべきだろう。

 

 サツマイモの栽培は軌道?に乗り、蒲公英たちの話を聞いた限りでは西平の方も上手く根付いているようだ。

 開発に成功して以来、維持に専念していたトマトについてもそろそろ栽培方法を広めて浸透させていくべきだろう。

 

 これから取りかかる事柄を指折り確認しながら、俺は寄りかかって眠っている祭の髪を優しく梳いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十五話

今年最後の投稿となります。
今年一年、なかなか更新頻度が上げられない作品にお付き合いいただきありがとうございます。

次回、小話を挟まなければ原作へ突入します。
あくまで真・恋姫の原作ですので出ないキャラ、出てもキャラが違うなどありますが楽しみにしていただければ幸いです。


 俺たちの曲阿視察から半年。

 その間に色々とあった。

 

 まず塁が無事に出産を終えた。

 可愛らしい女の子を抱き、やつれた顔でありながら晴れやかに笑うあいつの姿に俺たちは揃って安堵の息をついたものだ。

 激は妻と子を抱き締めながら号泣。

 塁を励ます為に抱え込んでいた不安や出産が無事に終わった安堵がない交ぜになって爆発したんだろう。

 前世での俺もそうだったから、その気持ちはよくわかった。

 

 塁は出産後、すぐに武官へ復帰するべくリハビリに励んでいる。

 悪阻が無くなった事で本人の精神もかつての強さを取り戻したらしい。

 あっという間に風邪も引かない頑強な身体を取り戻した。

 子供の面倒を夫と交代で見ているというのに疲労を感じさせず、既に部隊の調練にも復帰している。

 一部で「妊娠中の弱々しさは仙人が見せた幻だったのでは?」とすら言われている事を知っている。

 

 あいつは今、新兵たちを相手に人体を丸々潰してしまえるほど巨大な大槌を振り回している。

 あの大槌も妊娠中は部屋に飾られているだけだったから、気のせいか持ち主に再び振るわれるようになった事で輝きを増している気がする。

 

 そもそも悪阻の症状が重く武官への復帰も危ぶまれていた為に、塁の部隊は解散し他隊に振り分けられていた。

 俺の時のように一声かければまた招集する事も出来ただろうが、あいつ自身がそれを望まなかったのだ。

 心機一転とばかりに新たな建業防衛の部隊を立ち上げる事を提案し、その全てを兵役一年程度の新兵で固めている。

 

「私自身、腕が鈍ってるし。新しい隊で新しい人達と一緒に鍛えていこうと思ってね」

 

 手慣れた所作で子供をあやしながら言うその顔は生気に満ちていて、これなら問題無さそうだと心配していた俺たちを言葉もなく納得させた。

 今日も元気に隊の調練に励んでいるあいつのいる場所からは兵士たちの叫び声と悲鳴が絶えない。

 

 

 

 次に老先生が張昭である事が判明した。

 これは本人に聞いたところ、しごくあっさりと認めた為だ。

 子綱殿が気にかけていたと伝えたところ。

 

「あのド阿呆め。存外、元気そうじゃないか」

 

 普段は決して聞く事が出来ないような悪態をつくあの人の姿は実に新鮮だった。

 その口元が嬉しそうに綻んでいた事には触れなかったが。

 

 

 張昭子布(ちょうしょう・しふ)

 若い頃から学問に励み、知謀に長けていた人物。

 董卓の専横などで中央が乱れると、江南へと移住し、孫策が挙兵した際にその参謀として招かれている。

 孫策からの信任は厚く、政治・軍事の一切の裁断を張昭に任せたと言う。

 孫策は出陣するとき、張昭と張紘のどちらか一人を伴い、もう一人に留守を任せていたとされている。

 この事からも『江東の二張』がどれほど彼に信頼されていたかがわかるだろう。

 私事では孫策が張昭の家へと赴き、張昭の母へ挨拶をするなど家族同然の付き合いをしていたとも言われている。

 孫策の急死に際して枕元に呼ばれ孫権の補佐を任され、さらに「仲謀に仕事に当たる能力がないならばあなた自身が政権を執ってほしい」と頼まれていたという話もある。

 孫権にも内政の事は張昭に相談せよと命じるほどだ。

 彼はただひたすらに真摯に孫呉を支え孫権に意見し続けたが、それ故に孫権と意見を違えて対立する事も多かったと言われている。

 この時代ではなかなか見られない八十歳という高齢でこの世を去っている。

 

 

 老先生は元から頼りになる人物だったが張昭の史実を思い出すと、さらに頼りがいが増した気がする。

 

「紆余曲折あったが、まぁ同じ主に仕える事になったんだ。そのうち顔を合わせるだろうさ。わざわざ会いに行くつもりは私にはないよ」

 

 俺が子綱殿と面談する機会を設けるかと聞いたところ、妙に砕けた口調で拒否された。

 どうやらこの方はこの方であちらの事を特別視しているらしい。

 悪い意味ではないと思うが、直接対面すると一悶着起きそうな予感がする。

 

 

 

 次に星、風、凜の三人が建業を発った。

 うちは能力に応じて給金を払っていた為、彼女らの目的であった路銀は充分すぎるほど貯まっている。

 どうやら戯志才が幽州にいる可能性を俺が示した事で凜は出立の相談を二人にしていたようだ。

 

 なるべく迷惑にならない時期を見計らっていたらしく、曲阿視察が終わり政務が落ち着いた所で暇乞いをされたのだと美命が語っていた。

 彼女としても優秀な文官として風と凜を気に入っていたため、しごく残念な顔をしていたがそれでも無理に引き留めようとはしない。

 強引にここに縛り付けても良い事はないという蘭雪様の言を理解しているからだ。

 

 俺としても彼女らを止める理由はない。

 とはいえ短い間とはいえ共に過ごした間柄だ。

 お世話になりましたと挨拶に来た彼女らを快く送り出したものの、『余所で不当な扱いを受けないだろうか』という親心にも似た心配はある。

 そうやすやすと好きなようにされるような子たちではないので、これは俺が心配性なだけかもしれないが。

 外に出している密偵が拾ってくる情報に彼女ららしき人物の事があるのは俺の心配を察した彼ら(主に明命)の心遣いなのだろう。

 

 

 最後に曲阿には蓮華嬢が派遣される事が決まった。

 新しい地にて自らの性質に見合った統治をしてみせろという蘭雪様の意向だ。

 彼女に追従するのは明命と思春。

 蘭雪様が来る前から曲阿にいる人員と美命、陸遜、祭はそのまま曲阿の統治に尽力する。

 慎と深冬に関しては一度建業に戻す事になった。

 

 これだと軍部の人員、つまり荒事担当が不足気味なので年単位で武官を入れ替わり派遣する事が決まっている。

 最初の一年は俺とそのまま残っている祭だ。

 一年後、祭は俺と共に建業に戻る事になる。

 

 この武官派遣はあくまで曲阿の兵力が整うまでの方策。

 蓮華嬢を主体とした統治に関して口を出す事は基本的にはないもの。

 ここから俺の知らない『孫仲謀』の治政が始まると思うと感慨深いものがある。

 当人が俺の事を叔父と慕ってくれているから、雛が巣立ちを迎えるような心境でもある。

 

 

 ちなみに建業の統治も時期を見て蘭雪様から雪蓮嬢へと移る予定だ。

 蘭雪様はそれがいつかは明言していないが、そう遠くないだろう事は俺には理解できた。

 孫家特有の直感が何かを感じ取っているのだろう。

 

 それは俺が知る世の乱れが近い事を示しているのかもしれない。

 

 

 

 こうして建業と曲阿のみを見てみると案外平和なのだが、大陸全土を見るとそうでもない。

 

 大きな出来事としては名門袁家の当主が相次ぎ没した事によって変わり、その後継である者たちが一般的に暗君と呼ばれる者であった事か。

 今まで彼女らの親の代までで積み立ててきた財を湯水のように浪費してやりたい放題しているらしい。

 袁紹本初(えんしょう・ほんしょ)と袁術公路(えんじゅつ・こうろ)。

 それぞれ独自の領地を持つこの二人について俺たちは『行動力のある愚か者』として何をしでかすかわからないから警戒を厳にしている。

 特に袁術は前世の知識によれば孫策とかなり密接な関わりがあるので、俺としても注意しておきたい所だ。

 

 

 民の扱いも変わらない。

 権力者から搾取される民の悲鳴、怒号、怨嗟の声がそこかしこから聞こえている。

 

 民の生活も考慮した善政を敷く領地ももちろんあるが、大半の領主はまず我が身の立身出世に集中し民を蔑ろにしている。

 そして民の不満は加速度的に高まりを見せ領主に反抗した結果、賊徒に身を落とす者が増えていた。

 

 領主に逆らう者が少数ならば象が蟻を踏み潰すように一瞬で終わってしまうだろう。

 だが領主に反抗する者の数が多く、勢いがあれば話はまた変わっていく。

 それだけの数の民がこの大陸には存在し、それらが領主への不満という一つの目的に対して団結すれば蟻は象すらも倒しうる存在へと変わる。

 そうして落ちた領土が少なからず存在する事は既に報告されていた。

 

 今の段階でもそうなのだ。

 かの黄巾賊の台頭の始まりと言える大飢饉が起きたら、世がどれほど乱れる事になるのか。

 想像するだに恐ろしい。

 

 

 涼州では未だに異民族の襲撃が起こり、縁たち馬騰軍が対処しているらしい。

 馬超、馬岱の活躍も風の噂で届いている。

 元気そうで何よりだと彼女らを知る者たちは笑った。

 

 華琳たち陳留も安定した治政によって評判を上げている。

 賊徒は曹操を恐れ陳留を避けているとすら言われているそうだ。

 順調に名を上げている彼女らに向ける想いは正直複雑だが、それでも元気そうだとわかるのは嬉しい。

 

 中央の情報はほとんど入ってこない。

 十常侍の悪行はそれこそ鬱陶しいくらいに入ってくるが、俺が本当に欲しい桂花の事は掴めていなかった。

 いつか必ず助け出す。

 その決意は俺の中で今も変わらず硬いものだ。

 

 

 サツマイモの生産は軍内でも軌道に乗っている。

 しかし領民をすべて賄えるかと言えば正直いくら備蓄していても不安が残るというのが正直な所だ。

 これから起こる大飢饉がどれほどの物なのか、予想も付かないからだ。

 経験した事のない事象に対して、どれほど対策を練っても不安が残るのはある種当然の事ではある。

 だからこれで大丈夫だろうと満足するのではなく、まだまだ足りないのだと思って準備を進めている方が個人的には安心するのだ。

 

 サツマイモと同時期に手に入れていたトマトの生産は俺が個人で生産する分には安定してきている。

 ただ元々、トマトは年単位で備蓄するのに適した食材ではない。

 今、軍内あるいは民にこれを広めても飢饉によって全てが塵芥と化す可能性が高い。

 飢饉を切り抜けてこそ、痩せた地ですらも根付くその生命力の凄まじさが輝く時だと俺は考えている。

 だから今は安定した生産の為のノウハウを個人で収集するに留めていた。

 トマトについては蘭雪様や美命には相談して時期を見る事を許可してもらっている。

 隠し事が発覚し無い裏を探られて不和を招くような事をするつもりはない。

 

 懸念事項は今を持っても数多い。

 これからも新たな問題が俺たちの前に立ち塞がるんだろう。

 俺たちはそれらを粉砕してでも進まなければならない。

 守りたいと思う物を守るために、救いたいと願う物を救う為に。

 

 精心流の表題『昨日の己に克つ』の言葉に従い、仲間たちと、家族と共に歩み続ける為に。

 

 

 時間にして三年の月日が経ち、蓮華嬢たち、雪蓮嬢たちの統治が安定してしばらく経った頃。

 大飢饉を引き金として大陸全土に黄色い布を巻き付けた者たちを筆頭に賊徒があちらこちらに出没するようになり、不穏な空気が付きまとう大陸を憂う占い師が『天の御使い』と呼ばれる者の存在を示す事になる。

 

 

 ここから俺が知っているようで知らない、もはや三国志と呼んで良いかもわからない戦乱の世が始まる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十六話

めちゃくちゃ遅くなりましたがあけましておめでとうございます。
スタートから出遅れてしまいましたが今年も『乱世を駆ける男』をよろしくお願いいたします。


「はあぁっ!」

 

 ぶつかり合う鋼。

 雪蓮嬢と蘭雪様の剣は火花を散らし、二人の互いを射貫く視線を表すかのよう。

 

 並々ならぬ気迫でもって行われているこれはただの訓練では無い。

 蘭雪様が自身の後継者として雪蓮嬢を見定める為の、いわば儀式のようなものだ。

 

 雪蓮嬢は蓮華嬢が曲阿に派遣されてから、割とすぐに建業の太守の座を母から移譲された。

 しかしこれは建業太守を譲り渡したというだけであり、孫家の当主の座については未だ蘭雪様の元にあった。

 

 母として孫家当主として蘭雪様にどのような考えがあったか俺にはわからない。

 勝手な推測で語るには孫家という一族について知っているわけではなく、時を待つと言った蘭雪様に当人である雪蓮嬢が文句を言わない以上、身内ではあるものの出しゃばるような事ではないとも思っていたからだ。

 

 そしてその時というものがどうやら今日だったらしい。

 

 突然、謁見の間で朝議をしている所に蘭雪様は武器を持って現れた。

 南海覇王という雪蓮嬢に受け継いだ直剣とまったく同じ造りの剣を携えて、誰に憚る事も無く殺気を放ちながら。

 戦闘時の血が騒ぎ立てた興奮状態の時とは違う、どこまでも静かで鋭い眼差しはただ真っ直ぐに長女を見据えていた。

 

「雪蓮、死合うぞ」

 

 それだけを告げる母親に、雪蓮嬢は何の躊躇いもなく頷いて立ち上がる。

 その場に集まった政務に携わる面々は陽菜と美命以外はひどく混乱していたが、二人はそんな俺たちなど見向きもせずに謁見の間を出て行こうとしていた。

 

「陽菜、駆狼。お前たちが見届け人になれ。他の者はこの誰かが良いというまで絶対に鍛錬場に近付くな」

 

 突然の事で呆然としていた者たち(情けない事に俺を含む)が正気に戻って二人を制止しようとすると、まるでそれを見越していたかのように蘭雪様は俺と陽菜を名指しで呼びつける。

 有無を言わさぬ、とはまさにこの事だろう。

 

 俺は訳も分からず遠ざかる二人を慌てて追いかけるべく同じく呼ばれた陽菜の手を掴んで走った。

 二人を追いかける中、陽菜に聞いたのだが孫家は昔から次代に当主の座を委ねる際には決闘という形を取っているのだという。

 虎を継ぐ者は老いた虎を越える実力を持たなければならない、という暗黙の決まりだそうだ。

 

 孫家の人間はそれを言葉にされずとも理解できる。

 だから雪蓮嬢は二つ返事だったし、蘭雪様も拒否されるなどと考えてもいない。

 

 それでも立ち会い人を求めたのは、この儀式がどちらかの命を奪いかねない物だと考えているからだと陽菜は言った。

 

「私たちの父はその時、姉さんが付けた傷が元で亡くなったわ」

 

 事も無げに、しかし寂しげに語る陽菜の表情を見た事で、俺は流されている現状の事を一先ず置いておくことにした。

 

 俺は陽菜の夫だ。

 ならば陽菜を悲しませるような事を許すわけにはいかない。

 二人の決闘そのものを止める事が出来ないというのなら、いざという時の歯止め役は絶対に果たす。

 

「安心しろ。義姉と姪は死なせない」

「っ……ええ。お願いね、駆狼」

 

 陽菜は俺の言葉に安心して笑ってくれた。

 その心からの笑みを絶対に裏切らない。

 

 

 そう誓い、二人が鍛錬場で合図もなく戦いを始めてから体感で三十分ほどが経過した。

 戦いはまだ続いている。

 

 数えるのも馬鹿らしいほどに打ち合う二人の姿はどこか楽しげで、しかしいつでも相手を斬り捨てんとする殺気が包み込む空間で浮かべている笑みは凄絶に過ぎた。

 

 人払いをしておいて正解だったな。

 

 この二人の戦いを見続けるのは兵士たちには荷が重過ぎる。

 戦場故の狂気ですら笑い飛ばせてしまうほどの濃密で寒気がする気迫が放たれる様はトラウマになりかねない。

 

 俺とて恐怖は感じている。

 だが気圧されるわけにはいかない。

 いつでも割って入れるように構えたまま俺は二人の戦いを見据え続ける。

 

「「はぁっ!!!」」

 

 使う武器は剣だけじゃない。

 拳が、蹴りが、剣の舞の合間を縫うように相手へ吸い込まれ、致命傷とはいかないまでもかなりの数の手傷を付けていた。

 

 身体には青痣、斬撃のかすり傷が、頬からも血が滴り落ちてきている。

 それでも二人は戦いをやめない。

 どちらも引かず、疲れなど感じていないかのようにその動きもまったく衰えない。

 ように見える。

 

「っ……」

 

 俺には決着はもうすぐ付くだろう事がわかった。

 

 戦いの最中、蘭雪様がふと笑ったのを見たからだ。

 『よくぞ、ここまで』と満足げに。

 

 しかし相対する雪蓮嬢はそんな母親の表情が見えていない。

 目の前の強敵を『殺す事』しか考えていないのだ。

 

 止めなければならない。

 でなければ待っているのは『義姉の死』だ。

 

 腰に佩いた根を両手に飛び出す。

 

 蘭雪様が繰り出す斜め下からの切り上げ。

 上段から縦に振り下ろされる雪蓮嬢の唐竹割り。

 

 両者の一撃を横から殴り飛ばすつもりで棍を叩き込む。

 乾いた音が周囲に響き渡った。

 

 時が止まる。

 先ほどまでの殺気が『片方だけ』霧散した。

 

「……ああ、これ以上は無理だったか」

 

 自分の身体の限界にようやく気付いた蘭雪様は、俺に助けられねば死んでいた事実に思い至りその場にどさりと座り込んだ。

 

「よく止めてくれた、駆狼。あやうく娘を私と同じ親殺しにする所だった」

 

 立ち上がる気力もなく精魂尽き果てた弱々しい声の礼の言葉に、しかし俺は応えない。

 否、応える余裕がない。

 

 戦いを止めたのは『蘭雪様だけ』なのだから。

 

「う、あぁっ!!!!」

 

 『獣』は俺と蘭雪様を順繰りに見つめ、乱入してきた俺の方に狙いを定めた。

 いつにも増して鋭い踏み込みと共に放たれる刺突を、俺は棍で身体の外へと受け流す。

 

「しぇ、れん……?」

 

 蘭雪様は娘が自分を負かすほどに強くなった事にばかり目が行っていたようで、今になって娘の異様な姿に気付いたらしい。

 か細い声で疑問の声を上げるが、その声が今の雪蓮嬢に聞こえているかは怪しい。

 

 なにせ彼女の目は血走って真っ赤になり、その口元には喜悦の笑みが張り付いているのだから。

 凶相、と言っていい顔をした雪蓮嬢。

 その目にはもはや蘭雪様など映っていない。

 

 攻撃を受け止めた俺を『殺しがいのある獲物』と見做している。

 

 今までこの子が戦場酔いをする事は何度もあった。

 迷惑をかけられたことも数え切れない。

 それが孫家の人間には付き物であり、年齢を重ねて落ち着かせていくものだという事も聞いている。

 

 だが、今回の『これ』はそういう次元の症状じゃない。

 

 この子は、いや『こいつ』は今、血に飢えている。

 誰かを殺さなければ止まらないほどに。

 俺が知る戦場酔いは結局のところ、戦いを楽しむという性質だった。

 相手が賊だったなら殺すところまでを楽しんでいるようだったが、身内に襲いかかるときは『戦いその物』を楽しんでいるのだ。

 

 今のこいつは相手が身内であるにも関わらず殺すところまでを楽しもうとしている。

 

 おそらく今まで俺たち相手にこうなった時は、暴走しそうになる意識を心のどこかで抑えていたんだろう。

 我を忘れて獣になってしまわないように頑丈な鎖で『最後の一線』である『身内殺し』だけはしてしまわないように自身を縛り付けていたんだ。

 

 しかし。

 実力伯仲の親と生死を賭けた殺し合いをした事を引き金にして縛り付けていた鎖は砕けてしまった。

 有り体に言って理性が飛んでしまったのだ。

 

 今のこいつははっきり言って危険だ。

 

 俺が義理の叔父であるだとか、母を主と仰ぐ武官であるだとか、それなりに仲が良いだとか、暴走を抑えるのに一役買うだろう自分との関係など今のこいつはすっぱり忘れている。

 いやもしかしたらそれらをしっかり認識した上で尚、俺を殺そうとしているのかもしれない。

 

 であるならば今までと同じと考えれば殺されるのは俺だ。

 

「陽菜、蘭雪様を頼む」

 

 視線を雪蓮嬢から外さずに棍を腰に戻し、拳を構えながら陽菜に主の事を頼む。

 茫然自失状態の彼女を放っておくわけにはいかない。

 

「ええ。……駆狼、雪蓮ちゃんをお願い」

「任された」

 

 

 

 俺の言葉を開始の合図と取ったのか、雪蓮嬢は南海覇王で斬りかかってくる。

 容赦のない斬撃を手甲で受け流す。

 こちらがカウンターを入れようとしている事を見切ったのか、雪蓮嬢は斬りかかってきた勢いそのままに腰を狙った鋭い蹴りが放たった。

 理性が飛んでいるはずだというのに戦いを組み立てる戦闘的な部分は恐ろしく冷静だ。

 

 蹴りを足で受け、斬りかかって伸びきっていた剣を持った手を掴み上げる。

 そこからの関節技、投げへの派生は俺がいつも使う手だ。

 

 当然のようにそれを読んだ雪蓮嬢は、掴まれた手とは逆の手で俺の顔目掛けて拳を突き出す。

 ご丁寧に指を伸ばした上で爪を立てた抜き手の形のそれは完全に目を潰すつもりで放たれていた。

 無論、その手も掴み上げる。

 しかしこの超密着状態からでは投げには派生できず、関節を決めるのも難しい。

 というか仮に関節を決めたとして、今の状態の彼女では関節を外して抜け出すくらい平気でしそうだ。

 

 ここからどうするか考えるのは一瞬。

 即座に目の前にある雪蓮嬢の顔に向けて頭突きを入れる。

 

「ぐっ!?」

「うっ!?」

 

 目の前に火花が散り、視界が明滅した。

 どうやら雪蓮嬢も同じように頭突きをかましてきたようだ。

 まったく綺麗な外見と裏腹にうちの女性陣は思い切りがいいのが多すぎる。

 頭突きで眩んだ視界の中、俺は拘束していた右手を放し、肘を振り上げ素早く打ち下ろす。

 

「あぐっ!?」

 

 肩口にぶつけられた一撃に何かをしようとしていた彼女の左腕がだらりと垂れ下がった。

 人体急所の一つへの一撃だ。

 これで左腕はしばらく使い物にならないだろう。

 

 その間に勝負を決めなければならない。

 長引けば長引くだけこちらが不利になる。

 

「あああああっ!!!!」

 

 至近距離での絶叫が俺の鼓膜を直撃する。

 もはや武器と言っても差し支えないそれに俺は顔をしかめ、身体は一瞬だけ硬直してしまった。

 

 その隙を見逃すような『獣』ではない。

 

「がぁああああああああっ!」

「ぐっ!?」

 

 再度の頭突きに俺の拘束が緩み、密着していた身体が離れてしまう。

 『獣』の武器を持った右手を自由にしてしまった。

 明滅する視界に太陽光を反射した剣撃が迫る。

 

「まだまだだっ!!!」

 

 自分を鼓舞するように言葉を声に出し、俺は一歩前へ踏み込む。

 間違えれば首を刎ねられるだろう一撃を前に、俺はさらにもう一歩踏み出す。

 

 それは俺にとって拳を放つ為の予備動作としてまさに会心の踏み込みだった。

 

 昔どこかの賊にやられた時、二度と使い物にならないと言われた左肩に鋼の刃が食い込んだ。

 だがそれは同時に踏み込みによって最高の状態になった俺の右拳が、雪蓮嬢の鳩尾に直撃する事を意味していた。

 

 当たる瞬間に捻り込むように拳を勢いよく捻る。

 捻った勢いそのままに雪蓮嬢の身体は、宙を回転しながら鍛錬場の壁へ激突。

 轟音と共に壁面がひび割れ、数秒の間をおいてバラバラと崩れていった。

 

「……っ、はぁ……はぁ……」

 

 俺は止めていた息を吐き出し、あえぐように新鮮な空気を取り込む。

 思い出したように一撃が入った左肩を見ると、服が破け血が滴って腕からこぼれ落ちていた。

 上手く剣の鍔よりの切れ味の鈍い部分が当たったお蔭でさほど深くはないが、怪我としてはそれなりに大きい部類だろう。

 

「……」

 

 雪蓮嬢が倒れている場所を眺めているとそこから破片を払うようにしてフラフラと立ち上がる影が浮かんだ。

 

「容赦、ないわね。駆狼……」

 

 恨めしそうに、しかしほっとしたかのような穏やかな声音。

 目の血走りは鳴りを潜めて、衝突の折に作ったのか額の傷から流れる血を拭い、口元を尖らせて戯ける姿はいつもの『雪蓮嬢』だった。

 ゆっくり近付く。

 剣は傍に落ちており、とりあえず戦闘を続ける気はない事だけは間違いないだろう。

 

「馬鹿な事をしでかしたんだ。お仕置きの一つもしなければ、な」

「あははは……。そうね、あやうく叔母様や妹たち、親友に、皆に泣かれるところだったわ」

 

 陽菜が蘭雪様の傷の手当てをしている様子を見つめ、雪蓮嬢はほっと息を吐いた。

 

「ごめんなさい。なんだかとっても眠いから……あとよろしくね」

「世話のかかる義姪だな、まったく」

「こど、も、あつかい、しない……で」

 

 足元が覚束ずどこか舌足らずな子供のような口調で文句を言いながら、雪蓮嬢は俺の胸に身体を預ける。

 

「子供扱いされたくなかったら、しっかり自分を律する事だ。でなければ一生お嬢呼びは取れんぞ」

「みて、なさいよ。すぐに、こんな性質、……乗り越え…て…る、んだか……ら」

 

 声に嗚咽が混じり、言葉がつっかえつっかえになっていく。

 雪蓮嬢は俺に決して顔を見せないように胸にすがりつきながら泣いていた。

 

「ごめ、ん。ごめん……なさい。私、貴方を、殺そうとしてしまった……傷つけてしまった」

 

 彼女の身体が震える。

 それが自分の性質への恐怖か、俺を失ってしまったかもしれない事への恐怖かはわからない。

 

 雪蓮嬢は今、俺が知る限りで初めて自分の所業に恐怖していた。

 

「どうってことはない。俺はお前の叔父、家族だ。迷惑をかけられたくらいで見放す事などありえない。お前が納得しないなら、お前が迷惑をかけたと後悔しているならソレを次に活かせ。その為の手伝いならいくらでも手伝うさ」

「っ……ふふ、厳しいのか甘いのかわからないわよ。……ありがとう」

 

 嗚咽を漏らしながらも笑い、人肌の温もりを感じて意識が一気に落ちてしまった雪蓮嬢はそのまま眠ってしまった。

 

 

 この件については蘭雪様直々に他言無用、詮索無用として戒厳令を敷いた。

 俺たち立ち会い人と本人たち、そして美命と冥琳、老先生(張昭である事がわかっても尚、俺たちはこう呼んでいる)のみが事の次第を知っている。

 

 いずれも関わりが深い者たちだが、雪蓮嬢の暴走については今までにない事だったからか皆にも動揺が走っていた。

 

 今は落ち着いているし、本人は必ず乗り越えると誓っているとはいえ、やはり『次』があるかもしれないという不安が心に残るというのが正直なところだろう。

 問題を抱えているのがこの建業の、ひいては孫家を引っ張る人間である事も事の重大さに拍車をかけている。

 

 騒動が起きた日の夜。

 一目を忍び蘭雪様の私室に集まってどうするべきか相談していた俺たちだったが由々しき事態に沈黙してしまった。

 

「私は雪蓮の意志を信じるさ」

 

 そんな俺たちの耳に、我らが主の言葉はよく響いた。

 

「あいつは今回の事で知った。あの性質に身を任せる事の恐ろしさを。であるならば乗り越えるはずだ。私が親殺しから立ち直ったようにな」

 

 語られる言葉は、鉛のように重いが故の説得力を持っていた。

 

「とはいえあいつも今回の事で衝撃を受けたはずだ。冥琳、すまないがしばらく意識してあいつの傍にいてやってくれ。お前になら弱音の一つも零すだろうさ。私や陽菜、駆狼が相手では強がるのが目に見えている」

 

 その顔はもはや孫家当主ではなかった。

 今まで当主の顔の合間に僅かばかり覗かせる程度だった、母としての顔だ。

 少なくとも俺は今まで見た事がない表情に、少なからず驚かされた。

 

「はい、わかりました」

 

 冥琳嬢は蘭雪様の思いをしかと受け止め、了承の意を込めて深く頭を下げる。

 

「それと当主自体は今日をもって孫文台から孫伯符へと継がせた。それは変わらん。お前たちにはあの至らぬ娘をこれからも支えてやって欲しい。まぁ私とてすぐに楽隠居しようなんて考えてはいない。武官の一人とでも思ってこき使ってくれていいさ」

 

 冗談めかして言う蘭雪様の顔には一片の不安も見えなかった。

 あやうく殺されるところだったというのに、数時間後にはこれなのだから肝が据わりすぎているというかなんというか、女を捨てているレベルで剛胆というか。

 

「おい、義理の弟。今、ひどく気に障る事を考えなかったか?」

「女を捨てていると表現できるくらいに剛胆だなと思いましたが何か?」

 

 鋭い視線を送られるものの、孫家の勘の前では誤魔化しは意味がないのではっきりと思っていた事を言ってしまう。

 すると蘭雪様だけでなく、周りの皆までも顔を引きつらせてしまった。

 

「お前、正直過ぎるだろう。もう少し目上を立てる物言いをしろ」

「誤魔化しが効かない人間が何を仰いますか」

 

 そんな俺たちのじゃれ合いで、場の空気は完全に緩み解散の流れになる。

 

 就寝の挨拶を手早く済ませ、誰ともなく蘭雪様の部屋を出て行く中、意図したわけではないが最後に出る俺の耳に蘭雪様の言葉が届いた。

 

「……あいつらを頼む」

 

 心の底からの想いが込められたその言葉に、俺ははっきりと答えた。

 

「皆で支えましょう。孫家に仕える皆で……」

 

 背を向けたままの俺には彼女の顔は窺い知れない。

 ただ確かに微笑んだとそう感じた。

 

 

 

 しかし俺たちの心配や危惧とは裏腹に、雪蓮嬢はこれ以降ただの一度もあの症状を出す事はなかった。

 それは戦場であっても、鍛錬中に俺たちと試合をした時であっても、だ。

 その片鱗すら見られなくなった。

 

 それを俺たちは疑問に思った。

 あの烈しさを直接味わった俺は特にそうだ。

 ただ疑問を上げる前に冥琳嬢からこう言われた。

 

「あいつはあの性質を御そうとしているんです。必死に」

 

 どうやら彼女だけは雪蓮嬢の心中を正確に把握しているようだった。

 

「二度と身内を襲うなどという事にはしない、とそう言っていました。……お願いします、この件はどうか雪蓮自身と私に任せてください」

 

 そう言われてしまえば俺からどうこう言うことは出来ない。

 俺は最低限の警戒だけを心の底に残し、この件には触れない事を冥琳嬢に約束した。

 その事は彼女を経由して雪蓮嬢も知ったらしく。

 

「見てなさいよ、駆狼」

 

 胸の真ん中を軽く手の甲で叩きながら、気高くも美しい瞳で挑戦的に笑いかけてきた。

 これなら心配は要らないと無条件で信じられる力強さがそこにあった。

 

 

 俺が彼女が影でどれほどの努力をしていたかを知るのはこれよりさらに先のこと。

 彼女がどれだけ自分の性質を恐れ、そして俺を襲ったという事実に傷ついたかを知るのも。

 そして俺との『お嬢呼びをやめる』という軽い口約束にどれほど重きを置いていたかを知る事になるのも。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十七話

 孫家当主の交代。

 これは建業を中心とした楊州に少なくない影響を及ぼした。

 

 孫文台を恐れ息を潜めていたならず者たちがこれをチャンスと見て領内で暴れる、孫文台に付き従っていた者が孫伯符に従う事を良しとせずに傘下から離脱する、など世代交代にありがちな混乱だ。

 

 まぁだからこそ予想出来た事でもある。

 うちの知恵者たちがいつ世代交代が起こってもいいように備えていた為、混乱その物は早期に収束されていた。

 水面に投げ入れられるはずだった石が砂粒になってしまえば波紋などほとんど発たない。

 それくらいこの件の混乱はあっさり片付いた。

 他領土から見れば隙とも言えないほどだろう。

 

 とはいえ耳が早い者たちは行動を起こしてもいる。

 

 まずは縁たち西平。

 世代交代を祝う書状が届けられた。

 縁の当主としての書状の他、翠から雪蓮嬢個人へ向けた物。

 そして蒲公英から俺宛に送られた近況報告のような物。

 

 届けてくれたのは鉄心殿率いる精鋭騎馬隊。

 足の速さを優先したのか隊員の数は五十と非常に少ない。

 しかし馬を含めて選りすぐりの者たちのようで、大々的に当主交代についての情報を流してから、わずか二週間足らずで彼らは建業へとやってきた。

 『どこよりも早く同盟者の世代交代を祝いたかった』とは鉄心殿に聞いた縁の言葉だ。

 その言葉自体はこちらとしても嬉しいものなのだが、ここまで相当の強行軍だったにもかかわらずまだまだ余力を残している様子の精兵たちの存在は頼もしくもあり驚異的でもあると俺たちには映った。

 

 やはり馬術に関しては未だ歴然とした差があると再認識し、俺たちはさらなる軍備の強化を誓う。

 実際の所、だいぶ形にはなってきたが孫策軍全体の騎馬隊はまだまだ規模が小さい。

 軍馬の買い付けや育成、それにかかる費用の捻出とやることは多い上に人が乗った上で戦う事が出来るようにするまでの道程の長さと言ったら。

 ようやく百騎の隊として成立したのは同盟が結ばれてから三年後の事だ。

 

 これでも西平の協力を受けたからかなり早い方というのだから、俺たちにとってこの同盟がどれだけプラスになったかがわかるというものだろう。

 零から始めていたら一体どれほどの時間がかかっていたのか。

 あるいは途中で諦めて騎馬隊の質を落としていたかもしれない。

 

 あちらの食糧事情も提供したサツマイモがしっかり根付いたお蔭で改善したらしい。

 こちらに戻ってきた蒋欽たちはあちらで揉まれてきたお蔭で、今の建業において慎に次ぐ卓越した馬術を身につけてくれた。

 彼らが身につけた馬術のノウハウは確実に建業に広まっている。

 

 馬の数が足りないために全員が馬を扱う事は出来ないが、馬術に秀でた人材が増えれば誰かにだけ役目が集中する事を防げる。

 ローテーション出来るというのはそれだけでも負担を分散させるという利点が生まれるのだ。

 ありがたいことにうちには誰かに任せきりの状況を良しとするような者はいない。

 誰もが精力的に技術を習得すべく日々励んでいる。

 

 

 話が逸れた。

 西平以外にも周辺諸国からも文は届いている。

 内容は孫家当主交代の祝辞という名の慇懃無礼な脅しだったが。

 

 要約すれば『成り上がりの若輩者は由緒あるこちらに従うべき』とそんな内容だ。

 今までちょっかいを出しては悉く返り討ちにされてきたというのに、こんな大口を叩けるのだから大層分厚い面の皮をお持ちの方々だ。

 示し合わせたかのように全ての書状が同じような文面で、こちらとしても失笑する事しか出来ない。

 

 それらすべて冥琳や美命が懇切丁寧に返答をしている。

 そう返答と共に懇切丁寧にそれぞれの城や城主の屋敷の間取り、暗殺を狙いやすい場所に×印を付けた書簡と領地でやっている政策の駄目だしを添えて。

 

 意味は『貴方方の事はお見通しですので口の利き方にはお気をつけを。いつでも殺せますからね。あと政策の穴、多いですよ』とそういう事だ。

 これまた慇懃に返したものだから読んだ連中は血管に青筋浮かべて怒るか、何もかも把握されている事に青ざめるかのどちらかだろう。

 

 ちなみにこんな事をする前に朝廷に関してはきっちり根回しをしているため、奴らが朝廷に密告して俺たちの処罰を願い出た所で握り潰されるだけだ。

 なにせ内心はともかくとして俺たちは十常侍が牛耳る都に対して極めて従順な態度を取っているのだから。

 賄賂の質も他とは比べ物にならない。

 仮にあちらが賄賂を送り、こちらの足元を見てさらなる賄賂を要求されたところで対処出来る自信がある。

 人的資源を要求されたら突っぱねる予定だが、今のところそれだけは行われていない。

 

 俺たちは、それを朝廷内に僅かにいる十常侍反対の派閥を警戒して外から人が入ることを避けていると見ている。

 下手をすれば自分たちの懐に政敵を招き寄せる事になるのだ。

 病的なまでの慎重さで中央の人材を管理する十常侍は、やはり腐っても国を担う者たちと言う事なのだろう。

 

 中央内部の情勢についてはまだまだ未確定な部分が多い。

 あの子がどこにいて無事なのかどうかも掴めていない。

 明命や思春率いる密偵部隊は頑張ってくれているが、都の中心の情報収集は中々に厳しいのが実状だ。

 

 曲阿との行き来も含めてあの子たちにはかなり負担をかけてしまっている。

 もう少し密偵に割ける人員を増やせればいいんだが専門職故になかなか適正者が見つからず、加えて鍛え方も特殊とくれば自然と人員は絞られてしまって結局は少数精鋭にせざるを得ない。

 焦っても仕方がない。

 少しずつ鍛え上げて増やしていく他ないのだ。

 

 

 個人的に驚いたのは『曹操』から祝辞が届いた事だろう。

 領主同士の面識がないにも関わらず、丁寧に綴られた言葉には他の領主にはなかった新たな当主への敬意が確かに感じ取れた。

 しかし同時にいつかどこかで出会う未来を見越した挑発とも取れる言い回しが見られ、これ書状があちらからの祝辞であると共に敵と見做した者への牽制なのだと察する事が出来た。

 

「早く会ってみたいわね。それが戦場で相対してなのか肩を並べてなのかはわからないけど」

「曹孟徳、油断出来る相手ではありませんね」

 

 雪蓮嬢は書状を眺めながら不敵な表情で笑っていた。

 虚勢と侮りに満ちた書状をあらかた打ち捨てた後であったからか、雪蓮嬢はまるで宝物でも見つけたかのような喜びようだ。

 

 逆に冥琳嬢は厳しい視線を書状の先にいる彼女に向けていた。

 建業、曲阿同様、彼女の治政が領地を豊かにしている事を知っている。

 今後の仮想敵としての曹孟徳を警戒しているのだろう。

 

 

 さて建業で当主交代によりドタバタが起きている頃。

 曲阿は蓮華嬢を中心に粛々とまとめ上げられつつあった。

 

 古参の兵たちが交代で派遣されているとはいえ、そのどっしりと地面に根を下ろした治政は確実に領土を栄えさせている。

 革新的な政策こそないものの堅実。

 いつだったか蘭雪様や雪蓮嬢が言っていた。

 

「蓮華は治める事に向いている。攻め入る事に向いている私や雪蓮とは違う」

「領土を広めるのは私、治めるのは蓮華。あの子があの子らしくあるとわかっているから私は無茶無謀が出来るのよ」

 

 二人はあの子の才覚を見抜いていたのだ。

 だからこそ自分たちの真似ではなく、『自分らしい為政者』となる事を彼女に求めた。

 

 為政者の在り方について、そして自分の性質についてあまりにも長女や母と違う事で悩んでいた蓮華嬢。

 しかし実際に領地を一つ任され、色々と試す事でその性質の方向性を自覚出来たのだろう。

 まだまだ荒削りな所は多いが、彼女は彼女らしく頭角を表し始めている。

 

 彼女らの方で独自に人材収集もしているらしく、見込みのありそうな者を自ら召し上げたという話も聞いている。

 陸遜こと穏(のん)の配下という事で文官の仕事を学んでいる彼女の名は『呂蒙(りょもう)』と言う。

 非常に勉強熱心な子で思春や明命との仲も良好との事だ。

 

 今度、曲阿へ行く事があれば会ってみたい。

 俺が知るあの呂蒙とどう違うのか楽しみだ。

 

 

 治める事は蓮華嬢の方が向いていると言い切った雪蓮嬢だが、だからと言って己の領土の治政に力を抜くということはもちろん無い。

 幼い頃から共にいる冥琳と二人三脚で政治に励んでいる。

 ちくちくとみみっちい攻撃をしてくる他領土に対して、攻撃的なところが彼女らしいと言えるだろう。

 

 方向性がまるで違うが実に頼もしく、仕える甲斐のある『主たち』である。

 

 

 

 その時は訪れた。

 虫の大量発生による飢饉、作物の凶作。

 あらかじめ備えていた建業や曲阿ですらも、これらの対応にはとてつもない労力を割いた。

 それでも被害は他とは比べ物にならないほど少ない。

 

 内政により力を入れ、外からの侵入者を警戒して過ごす一年。

 最も厄介だったのは作物への甚大な被害と領主からの搾取に耐えられずに流民となった民だった。

 少なくとも揚州近隣の流民は、そのほとんどがうちに流れてきたと見て良い。

 それらの受け入れこそがここ数年で一番の大仕事だったと言い切れる。

 それほどに数えるのも馬鹿らしいほどの数の疲弊した民の受け入れは大変だったのだ。

 

 これを乗り越えられた事実は俺たち建業、曲阿にとって確固たる自信に繋がるだろう。

 なにせ他領は乗り越える以前に対応する事にすら四苦八苦しているのだから。

 

 

 そしてそんな民の悲鳴にすら気付かず何も変わらず民への要求だけを繰り返す者たちに民の怒りが爆発する事になる。

 黄色い布を身体に身につけた集団による漢王朝への一斉蜂起。

 後の世で黄巾の乱と呼ばれ、時代の移り変わりの切っ掛けとなったと言われる出来事。

 

 俺たちは望む望まざるに関わらず、これからの激動の時代を駆け抜ける事になる。

 




次回投稿は最低でも5月になります。
私事で忙しいというのもあるのですが、キャラ設定と各話タイトルに副題を付ける為です。
話数だけだとその話がどんな話だったか分かりづらいと今更ながら思いまして。

ですので最新話の投稿はしばらくお待ちください。

それではまた。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

黄巾騒乱編
第七十八話


大変遅くなりました。
今回から黄巾の乱編となります。



「また余所の領地で賊の襲撃があったようです」

「また例の連中か?」

「……黄色い布を巻いた賊、『黄巾党』ですね」

 

 会議室にてお手製の周辺地図を広げながら俺は冥琳嬢と話し合う。

 話題は大飢饉の後から急激に増え始めた賊についてだ。

 

「共通しているのは『張角』、『張宝』、『張梁』の名を様付けで叫び、讃えながら襲ってくる事」

 

 頭痛を堪えるような仕草で彼女は頭を抑える。

 その仕草があまりにも母親に似てきている事に俺は苦笑いを漏らしそうになった。

 

「信奉具合にはかなり差があるようだな。若い人間はもはや狂信と言っていいほどの熱狂ぶりだが、年齢が上がっていくとそこまでの熱意は感じられない。仕方なく合わせているという態度の者もいる」

「おそらくあの集団に交じって略奪行為へ参加する為に話を合わせている者が一定数いるのでしょう」

「例の三人を信奉する者の数が相当だからな。紛れ込めればそれだけで事が楽になるだろう」

 

 実際、領地で迎撃した黄巾党の中にはそういう者がいる。

 というより熱心な信奉者以外は『張角』、『張宝』、『張梁』の顔すら知らなかったくらいだ。

 

「逆に顔を知っていると思われる信奉者たちは何をされても三人の外見や居所、何を目的としているのかを吐きません」

「あれは素直に大したものだと思うぞ。元はただの村人や町民のはずだというのにどれほど痛めつけられても脅されても屈しない。どころかいよいよまずいと思ったときは自害すらしてみせた」

 

 拷問を受け続け、それでも呪文のように張角らの名を讃える様はまさに狂信者のそれだ。

 間違ってもただの農民からの賊徒がしていい態度ではない。

 

「一体何者なのでしょう。この張角らは……」

「正体不明の扇動者。最初は宗教家の類かと思ったが、奴らの熱気は方向性が違う気がするな」

 

 ただ狂信者ではあっても、奴らの目は俺が知る前世からの狂信者のそれとは異なる。

 

 俺が知る狂信者は死しても救われると信じる者たちだ。

 だから死を恐れないし、躊躇わない。

 かつての俺自身がそうであったように国のためにと命を懸ける者たちが近いかもしれない。

 俺たちは誰かの未来のために力を振るった。

 そうすることで国とそこに住まう人々の未来を救えるのだと信じて。

 自分たちには死後に安寧が訪れると信じて。

 滅私奉公の精神は度が過ぎれば一種の狂信と言えるだろう。

 

 奴らはこれとは明確に違う。

 奴らは既に救われているようだった。

 いつ終わるともしれない苦しい日々から救ってくれたのだと、希望をくれたのだと。

 張角たちへの感謝を叫び、張角たちの行為を無条件で肯定し、そしてその為にやる事の全てを自分の中で正当化していた。

 明確な存在への奉仕行為、その為に誰がどうなっても構わないという身勝手な思考。

 

 正直、こいつらの行いは本当に相手の為の行動なのかという点には疑問が残る。

 しかし重要なのは張角らの意志ではなく、黄巾党という奴らの信奉者がこの行為を正しいと信じている事だ。

 

「奴らの目的がなんであれ、大陸全土を騒がせ、無法を繰り返しているという事に変わりはありません」

「もちろんその通りだ。奴らに、と言うより張角たちにどのような目的があるのかは知らないが、俺たちがそれに付き合ってやる義理はない。理由を問いただすのは捕えてからでいい」

 

 既に被害は至る所に出ているのだから。

 

「それに奴らが騒ぎ立て、混乱を引き起こしている現状を好機と見て大陸の外の連中が押し寄せる可能性もある。この『黄巾の乱』は可及的速やかに収拾しなければならない」

「ですが朝廷からの指示は未だありません。奴らが台頭して既に半年。あまりにも対応が遅すぎる」

 

 俺たちは朝廷から領地を預かり運営している。

 この場所は君たちのもの、あちらの領地は誰々の物と大陸を率いる上司によって定められているのだ。

 故に領地への侵略者へは対処出来ても、俺たちが管理を任された土地では無い他領土までは手が出せない。

 手を出せばそれが例え賊の討伐であろうとも、朝廷からの取り決めを軽んじたと見咎められ罰せられる危険性があるのだ。

 

 勿論、領主同士で正式に同盟を結んでいればその限りではないが、周囲の領土は建業、曲阿を疎んじている者ばかり。

 仮にこちらからの救援を受け入れたとしても、やるだけやらせて難癖付けてくるだろう。

 あちらの領民を思えば歯がゆいが、こちらとしても付け入られる隙を見せるわけにはいかない。

 

 故に余所も巻き込むような大掛かりな事を行う時はお伺いを立てるか、上からの指示を待たなければいけない。

 かつての錦帆賊討伐の時のように。

 

 今回の騒動は大陸中で広がっているほどの大事だ。

 大陸中央部が主な戦場ではあるものの、涼州や幽州、交州にすらも少くない黄巾党が出没している。

 事は現在の都である洛陽ですらも起きており、即座に『乱の鎮圧』の勅令が発せられなければおかしい。

 

 それが未だに無い。

 

 そのせいで俺たちは領土へ侵入する賊を迎撃するという消極的な対応しか『表向き』は出来ていないのだ。

 無論、いつ正式な討伐令が出てもいいように軍備を整える事は忘れていないが。

 

「『信奉者以外の連中の家族の保護』はどうなっているんだったか」

「今回の激殿、塁殿の出撃で五度目となりますね。流民としての受け入れには問題ありません。流民用の仕事斡旋も問題はないと報告を受けています」

 

 そう、俺たちは秘密裏に信奉者の中に紛れている本当に窮して略奪者へ身をやつした者たちの家族を保護していた。

 大体がうちの領地の外の者であるため、秘密裏にしかし迅速に事を進めなければならず対応は慎重に慎重を重ねて行われている。

 

 切っ掛けは迎撃して引っ捕らえた黄巾党の連中の一部が話がしたいと願い出た事から始まる。

 俺たちは賊の申し出をもちろん怪しんだが、あちらの剣幕と賊に落ちた自分の命はいらないという言に雪蓮嬢が興味を示し、慎と深冬を同伴者として話し合いが成立した。

 相手は両手を拘束し、牢の中と外という状況での対話であったが。

 

 そして申し出られたのは今も自分たちの帰りを待つ家族の保護だった。

 元々は隣の領地に住む農民であったという男は自身の境遇を語る。

 

「俺たちは飢饉のせいで食料が何もなくなった。領主は何の対応もせず年貢だけは例年通り収めろの一点張り。そんな事を続けられて邑が持つわけがない。邑にはもはや麦の一房もない。木の根を囓って僅かに餓えを凌ぐ日々だ。もう余所から略奪しなければどうにもならない。かといってただ俺たちだけで余所の邑を襲ったところでそこにだって食料はない。だからでかい街も襲う奴らに紛れ込んでその成果を横取りしたかった」

 

 だが俺たちに迎撃されてこうして虜囚となり、もはやどうにもならないと思った男の一派はこうして賭けに出たのだと言う。

 

「俺たちはどんな理由があろうとも罪を犯したことには変わりない。こうなることも覚悟して略奪に参加したんだ。だがどうか俺たちの家族には、邑で俺たちが成果を上げるのを待っている者たちにはお情けをいただけないだろうか。ほんの僅かでいい。飢餓で苦しむあいつらにどうか! どうかお願いいたします!」

 

 そう言って伏して申し立てる男の姿に嘘は無かったと俺は後から慎に聞いている。

 実際、その言葉を直接聞いた雪蓮嬢も男に嘘は無いと感じ取ったようで。

 

「貴方たちの処遇は後ほど決めるわ。隣というと会稽かしら? 邑の詳しい場所を教えなさい。祖茂、話を聞いたらちょっと一軍率いて見てきてくれる?」

 

 そんな軽い調子で言われた言葉に慎は真剣な面持ちで頷き、準備を整えて自身を含めた騎馬兵十騎と馬車一台という少数精鋭で男が示した辺りの邑へと向かう

 果たしてそこには飢餓に苦しみ、罪悪感に苛まれながらも賊に身を落とした家族の成果を待つ他ない人々がいた。

 

 痩せ細り、木の根すら囓って必死に生き長らえようとする彼らの姿はある程度予想していたとはいえ慎たちの心を大きく揺さぶったのだろう。

 あいつは彼らを説得し、一人残らず邑から連れ出した。

 元々は少なくない食料を運ぶ為のものである馬車に、村人十数名がすし詰め状態になって帰投する事になる。

 

 当然、彼らも手放しで連れ出される事に同意したわけではない。

 生まれ育った邑を捨てる事を拒む者もいた。

 しかし慎はそんな人達も誠心誠意言葉を尽くして合意の上で連れ出していた。

 

 穏和な性格の慎にしては珍しく、どれほど危険性を訴えても動こうとしない住人たちに厳しい事も言っていたと同行した部下たちから聞いている。

 それだけ彼らを救う為に必死だったんだろう。

 武官として仕えてかなりの年数が経っていても尚、あいつが人としての優しさを忘れずに生きている証と言える。

 

 邑から連れ出された民たちは、賊徒と化した家族が不当な扱いを受けていない事を確認すると連れ出す時に慎と交わした約束通り彼らと共に建業へ引っ越す事に同意し、賊徒側の説得に協力した。

 結果、賊徒とその邑の関係者は流民扱いで建業に迎え入れられる事になった。

 

 無論、ただで衣食住の面倒を見るわけではない。

 流民対策に作った城下外周の共同住宅(長屋が一番イメージに近い)に入居してもらい、今も尚拡大中の畑を耕し収穫する労働力として働いてもらっている。

 働く事で生活の保障が得られる事に彼らは大いに感謝し、来た端から積極的に仕事に取り込んでくれている。

 今までの生活が最低過ぎた事が、建業の保護を受け入れてからの生活の活力になっているというのだから因果な物だと思う。

 

 

 俺たちは『こんな事』を既に五回も行っていた。

 しかし行動した全ての邑の住人を助けられたわけではない。

 

 俺たちが部隊を向かわせた頃には既に滅亡していた邑もあった。

 雪蓮嬢は部隊を派遣した結果を彼らに偽ること無く伝えている。

 結果、罵声を浴びせられることもあったがそれすらも受け入れ、何のために賊に身をやつしたのかと絶望している者たちは処断した。

 生かしてどこかに放逐したところで禍根を残し、自暴自棄になって誰かに害を為すと判断したからだろう。

 必ず己で手を下す彼女の顔は冷徹その物だ。

 

「恨み辛みはすべてここで吐き出して家族の元へ行きなさい」

 

 しかし祈るように呟く姿にはどれほど冷徹を装っていても隠し切れない感情が見える。

 まったくうちの主はいつの間にか多くの物を背負い込むようになった。

 そんな彼女の負担を減らすべく今日も俺たちは駆けずり回っている。

 

 とはいえ一領土の奮戦だけで収められるほどこの乱は甘くはなく。

 未だに張角らの居所は掴めず、朝廷の動きは鈍いままで、俺たちは秘密裏に動き回る事を余儀なくされている。

 

 余所の領土もそのあまりにも多い数に苦戦している。

 同盟を結んでいる西平は内陸の黄巾党から攻め入られ、その上に外部からの異民族の対応も行わなければならない二面での戦を展開する事を強いられていた。

 言ってはなんだが西平の、馬騰こと縁配下の兵士たちは騎兵が大半を占めるためその足の速さは勿論だがそもそも精強な軍勢だ。

 黄巾党が数を頼みに攻めてきただけであれば容易く蹴散らせるだろう。

 

 ただ常日頃から警戒しなければならない異民族の存在に黄巾党の数に任せた苛烈な攻めが合わさると厄介になる。

 それでもどうにか対処出来ているのはそれだけ馬家を筆頭とした西平の兵士たちが優れているが故の事。

 しかし数の差はいかんともしがたい。

 このままの情勢が続けばいずれ息切れする可能性は極めて高いだろう。

 軍議では同盟相手へ援軍を送る事も何度か検討されているが、領土防衛と秘密裏の救助活動に人手を割いている為に援軍の都合を付けるのに手間取っているのが実状。

 自分たちから手を伸ばした事で同盟者への支援が滞るとは情けない限りだ。

 せめて黄巾党の勢いを削ぐ事が出来れば、他に手を回す余裕が生まれるのだが。

 

 しかし賊の現状を知り、『彼ら』を見てしまった我々には見捨てるという選択肢を取る事が出来なかった。

 それに雪蓮嬢は自分の判断で余所の領土の彼らを救う事を決断した以上、最後までやり通すと苦言を呈した蘭雪様や冥琳嬢に啖呵を切っている。

 

「見捨てられた民を拾い上げるくらい広い器を持たなければこの先に進めないわ。それに私の元に集った皆にはそれだけの力がある。私は建業太守として命じます。必要なモノは何を使っていい。出来る限りの民を救いなさい!」

 

 力強いその言葉に応えずしてどうして臣下を名乗れるだろう。

 

「ご報告!」

 

 会議室の戸が乱暴に開かれた。

 激と一緒に出撃した兵士が二人、入室と同時に開いた戸の前で片膝を付いてこちらを窺う。

 

「どうやら次の仕事のようだ」

「はい、参りましょう」

 

 冥琳嬢が気持ちを切り替えるように眼鏡の縁に触れる姿を横目で捉えながら俺は入ってきた二人に報告を促した。

 

 

 

 所変わって建業からそこそこ離れた場所。

 俺はそこで軍を率いて戦っている。

 

「ぎゃぁっ!?」

 

 俺が振るう拳に迷いはない。

 どういう理由があろうとも、この地で略奪行為に及んだ以上は覚悟してもらうのは変わらないのだから。

 

 もんどりうって倒れ込み呻き声を上げながら蹲る黄巾党を余所に俺はその場にいた賊徒数人を一撃で叩き伏せていく。

 一人一人は大した事がないので制圧には10秒もかからなかった。

 残心を胸に周囲を油断なく見回しているとこちらに駆けつけてくる者の姿を確認する。

 

「隊長!」

「どうした、賀斉?」

 

 駆け込んできた副官は真剣な顔で報告する。

 その後ろに付いてきた部下たちは手早く倒れている賊徒たちを縛り上げている。

 

「こちらは終わりました。捕えた者たちは一箇所に集めて宋謙様が数名と監視しています。少しお耳を……」

 

 どうやら戦闘終了以外に報告する事があり、それは周囲で呻いている黄巾党に聞かれてはまずいことらしい。

 俺はやや身を屈めながら賀斉に左耳を差し出す。

 

「捕えた者の数名は、家族のために賊に身を落とした者がおりました」

「またか。わかった、後で別に話を聞こう。他に何か情報はあったか?」

「いいえ。自分たちは張角らに心酔している者。張角たちの為に今の世を壊すのだ、この大陸を張角様たちにお渡しするのだ、だとか……」

 

 つまるところ今まで通りの狂信者集団という事だ。

 無駄に統制が取れているのは、結局の所はこの統一された目的意識にある。

 群れとして最大限の機能を発揮できる状態にある今の黄巾党はあまりにも危険だ。

 

 しかし足並みが1度崩されるとそのまま連鎖的に自壊する可能性も高い。

 幸いな事に崩すために最低限必要な情報は揃っているのだ。

 切り崩すのに必要なのはもう少しだけ深い情報。

 張角らの人と為やこの乱の目的。

 それが掴めれば状況は一変する。

 

「今はまだ出る杭を打ち続けるしかない。賀斉、皆。他の者と合流するぞ」

「はいっ!」

「「「「御意っ!」」」」

 

 西に落ちていく日の光に照らされながら俺たちは歩き出す。

 ふと見上げた空に流れ星が一つ見えた気がした。

 

 そういえばこの乱世を救う一助となる『天の御使い』という存在は流星に乗って現れるんだったか。

 

「そんな事が出来る奴がいるなら会ってみたいもんだ」

 

 過度な期待を背負わされるだろうそんな肩書き、俺ならばどれほど金を積まれても名乗るのはごめんだがな。

 いや……その名を背負って守りたいものを守れるのならば名乗るかもしれない。

 

 俺の小さな独白と言葉に出さなかった思いに応える者はいない。

 

 

 

 

 

 

「目を覚ましたら快晴で見た事無いくらい広い荒野の真ん中で。いきなりいかにも山賊みたいな奴らに身ぐるみ狙われて。どうにかこうにか倒して途方に暮れている。……やばい、起きた出来事まとめても訳分からん」

 

 太陽の光を照り返す白い装束に身を包んだ少年が、荒野のど真ん中で呟いていている事を知る者はいない。

 彼がどこの誰で何者であるか知る者もいない。

 目を覚ます様子のない三人の男はこの時代では考えられないほど綺麗な服を着た少年を世間知らずの貴族か何かだと思って襲いかかったのだが、剣を持っていたにも関わらず彼らは実にあっさりと返り討ちにされてしまっていた。

 言葉を交わす余地などなくあっさりと、だ。

 故に少年の氏素性を彼らはまったく知らない。

 

 そう今はまだ誰も『突然この世に現れた少年』の事を知らないのだ。

 

「一体ここはどこなんだよ?」

 

 途方にくれた彼の言葉に応える者はいない。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第七十九話

 建業に朗報が届いたのは五度目の民の保護が上手くいってから程なくの事だった。

 

「ようやく動いたか」

 

 朝廷からの使者が携えてきた指令書には『大陸を騒がせる賊徒を殲滅せよ』という主旨の言葉が書かれていた。

 

 大陸全ての領地を持つ者たちに向けての勅命。

 もはや檄文と言っていいほどに苛烈な文面には並々ならぬ感情が込められているように思える。

 今まで無関心だったのは何だったのかと疑問に思うほどの激情を、だ。

 

 しかし発せられた令によって、ようやく俺たちは諸手を挙げて黄巾党討伐に乗り出す事が出来るようになった。

 これなら他領土への討伐も黄巾党討伐の名目である程度の融通が利くようになるだろう。

 少なくとも朝廷がこの行為を見咎める心配はない。

 少なくない賄賂の成果がここでも存分に発揮されるだろう。

 

 朝議の席にて後顧の憂いがなくなった事を雪蓮嬢に語られ、俺たち五村同盟からの戦友たちに出撃の命が下された。

 

 今はそれぞれが自分の隊の元へ向かう途中。

 同じ領地にいても忙しさから軍議以外でなかなか顔を合わせられなかった俺たちは久方振りの雑談に花を咲かせていた。

 話題はもっぱら今後の軍務についてであり、朝廷からの命令についてである。

 

「準備してきた軍備が無駄にならずに済んだな」

「この半年、まったくの無関心だったのに急にあんな怒りに満ちた激しい書き方の文を叩き付けてくるなんて何か洛陽であったのかもしれないね」

 

 皮肉げに笑う激に、檄文の裏事情を推察する慎。

 

「確かにお膝元である洛陽の城下すらも被害に遭っていたというのに我関せずだった。事態を動かす切っ掛けがあったのかもしれん。たとえば十常侍自身が何らかの明確な被害を受けただとかな」

 

 重い腰をようやく上げたとするには、違和感が際立つほどに性急で苛烈な檄文だった。

 何かがあったと邪推せずにはいられない。

 しかし出来るならば宮中で今も戦っているだろう桂花にとって『それ』が良い事である事を願う。

 

「洛陽の事は美命たちも気にしていたぞ。思春や明命たちを調査に向かわせたと聞いた」

「そう言っておったな。つまり儂らはあやつらの報告を待てば良いという事じゃ」

「こっちは目の前の賊に集中すればいいって事ね。わかりやすくてとってもありがたいわ」

 

 気合い充分に首を回す祭。

 日頃から大槌を振るっているとは思えない細い指をパキパキと鳴らす塁。

 

 自由に動けるようになった事実に、俺たちは水を得た魚のように活き活きとしていた。

 既に出陣の指示もそれぞれが受けている。

 

「今更言う事でもないが、油断や慢心などしてくたばってくれるなよ」

 

 廊下が終わり、俺たちは各々の部隊の元へ向かう。

 別れ際に告げた俺の苦言にあいつらは笑みと共に言葉を返してきた。

 

「心得ておるさ。末は家族と大往生と決めておる」

「祭に同じく。孫が良い人連れてくるくらいまで生きるのが目標なんでな。まだまだ先は長いぜ」

「勿論、可能な限り部隊の被害も減らすつもりだよ。駆狼兄」

「そういう駆狼も足を掬われたりしないでよね。知らない所でこの中の誰かがいなくなるのなんてごめんよ」

 

 まったく頼もしい奴らだ。

 こいつらが幼馴染みで良かったとふと心の底から思った。

 

「ではお互い無事に任務を果たすぞ。城下が、邑が、そしてそこに済む民が安心して暮らせるようにする為に」

「「「「応っ!!!!」」」」

 

 全員が示し合わせたかのように右手を突き出し、五人の拳が合わせる。

 お互いの決意が拳を通して伝わるような心地に俺は口元を緩めるのを止められなかった。

 

 

 

 一度動き出せば近辺にいる賊を一掃するのはあっという間だった。

 建業、曲阿に寄ってくるような賊はそもそも勅が出る前から可及的速やかに対処している。

 少し前から意図的に噂を流布する事で賊に『うちに来ればただでは済まない』と思わせる事で、そもそも寄りつかないようにしているくらいだ。

 それでも他領へ表立って入り込む事だけは出来なかった。

 

 それも勅命が出た今は違う。

 領の境目に逃げ込む小賢しい賊徒たちは、しかし俺たちの追撃を受けて壊滅していく。

 もちろんその黄巾賊のみならず、大陸の乱れに乗じて動き出した名も無き賊徒たちも諸共にだ。

 

 しかし同時に他領土には決して長く留まらない事も徹底している。

 迂闊に他領の軍と遭遇しては、どんないちゃもんを付けられるか分かったものじゃないからな。

 

 時間が経てば経つほど勢いを増す黄巾賊相手に足の引っ張り合いなどしている暇はない。

 そもそも本格的な討伐を始めるまでこの上なく出遅れているというのに。

 

 あと純粋に相手をするのが面倒だということもある。

 何度か書簡越しにこてんぱんにした記憶があるのだが、それでも奴らは孫家の領地へのちょっかいをやめないのだ。

 その諦めない精神というか執念というかには呆れを通り越して、ある種の尊敬すら抱いている。

 まぁそれを真似しようと思わないが。

 

 まぁそういう連中なので直接対面してしまえば何くれと重箱の隅を突くような文句を鬼の首を取ったかのような顔でやるだろう事は目に見えている。

 ならばそもそも接触しないように動くのは当然の事だ。

 

 そうして行く先々で賊を討伐ないし説得して回り、それなりに月日が経った。

 建業ではそろそろ遠征も視野に入れるべきかという段階に来ている。

 派遣するのは勿論、同盟相手である馬寿成率いる涼州は西平。

 危惧した通り、黄巾賊と異民族による意図せぬ挟み撃ちにあい、負けないまでも苦戦していると聞いている。

 特に異民族の勢いがいつにも増して強いらしい。

 大陸の混乱を好機と見ての行動なのだとしたら、それは前線の兵士たちに感じた機械や人形のような無機質な印象とは裏腹に機を見る事が出来るだけの頭脳を持つ者が存在する事を示している。

 傷つくことも死ぬ事も恐れない兵士に優秀な頭脳が加わるとなれば油断など出来たものじゃないだろう。

 相対する縁や雲砕、翠たちの苦労を少しでも軽くする為に、雪蓮嬢は部隊の派遣を決めた。

 

 派遣されるのは慎、深冬、激辺りだろう。

 慎と深冬は建業で文字通りの一、二を争う騎馬隊の隊長、激はあれで中々臨機応変に対応出来る人材だ。

 あちらに合わせるという意味では激が、あちらと足並みを揃えられるという意味での慎あるいは深冬。

 他の皆とて実力で劣っているとは思わないが、西平の優秀な騎馬隊と合わせられるかとなると必然的に人選を絞られた結果だ。

 

 

 誰を派遣するかも含めて準備は着々と進行しているとついこの間来た伝令が伝えてくれた。

 俺たち凌操隊は黄巾賊討伐に乗り出してから、かれこれ三ヶ月ほどをずっと自領の外で過ごしていた。

 

 建業内で最も遠征慣れしている俺たちは補給のための帰還を一度もせずに黄巾賊討伐に従事している。

 情報収集の為に立ち寄った邑から厚意で分けてもらったものもありがたく使わせてもらっているが、それも邑側の生活に差し支えない程度に抑えているため、基本的に隊は隊員たちの自給自足によって賄っている。

 遠征の度にサバイバル訓練も行っていたお蔭で、現地での食料、飲み水の確保も慣れたものだ。

 

 実に頼もしく成長してくれた。

 弧円や麟、絃慈たちはそろそろ独立させて自分の隊を作らせてもいいかもしれない。

 こいつらならきっと自分らしい部隊を作ってくれるだろう。

 

 

 そんな部下たちの未来を想像しながら、今日も討伐する賊を捜して行軍する。

 この先、黄巾党討伐のさらに先に訪れるだろう時代の波を見据えながら。

 

 

 そして俺たちはこの黄巾の乱で様々な人物と出会う事になる。

 出会いだけではなく再会も含まれるが、そんな事は些細な事だろう。

 

 

「やはり貴方方もこの場所に辿り着きましたか。お久しぶりですね、刀厘様」

「俺とお前たちだけという状況だ。あえて謙るのはやめてこう返させてもらおう。久し振りだな、孟徳」

 

 金色の髪をツインテールにした少女はその愛らしい見目にそぐわない覇気をあの時よりもさらに強くしていた。

 

 

「以前は腕を競い合うような状況ではなかったな。此度はどちらが敵を倒すか競うというのはどうだ、甘卓」

「くだらん。そのような遊びに付き合う義理はない。貴様も武官ならば口を開くよりも得物を振るって武を示してみろ。夏侯元譲」

 

 視線で火花をばちばちと散らしながらも、本気で毛嫌いしている様子はなく。

 二人は目前の敵を前に正に競うように飛び出していった。

 

 

「お初にお目にかかります、黄公覆殿。音に聞こえし貴殿の弓術に我が弓がどこまで届くか、不躾とは思いますが試させていただきましょう」

「はっはっは! 実に良い気迫じゃ。その隙あらば食らおうとする目、そしてその不遜な物言いも実に良い。かかってくるがよいわ、夏侯妙才。容易く届かせるほど、我が腕は安くはないぞ」

 

 己の弓術に絶対の自信がある二人は、静かに闘志を燃やし矢を番える。

 

 

 

 そして新たな出会いもまたすぐそこまで迫っていた。

 

「は、初めまして。義勇軍を率いている劉玄徳です!」

「玄徳様の義姉妹、関雲長と申します」

「玄徳姉者の義妹の張飛なのだっーーー!!」

 

 戦乱の世は加速していく。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十話

ギリギリですがどうにか10月中に投稿出来ました。
楽しんでいただければ幸いです。


 

 台風の目という言葉がある。

 激しく動く物事の中心にあり、物事の行く末を左右する、あるいはそれを引き起こす原因となる人や物の事を指す言葉だ。

 

 三国志という物語の中でそういう人物は多い。

 今起きている黄巾の乱の首魁である張角。

 この乱の後に続くさらなる混乱の原因である董卓。

 たった一人の武勇でもって乱世をかき乱した呂布。

 

 彼らはいずれも台風の目と称して差し支えない人物だろう。

 

 しかし俺は三国志には特に大きな台風の目というものが少なくとも二人いると考えている。

 

 一人は既に出逢い、なぜか交流を深める事になった『曹操孟徳』。

 治世の能臣、乱世の奸雄と称されるこの人物は三国志の中に置いて良くも悪くも周囲に影響を及ぼす大人物と言える。

 事前に仕入れていた歴史的な知識から、俺は直接会うその時まで彼女を最も警戒していたし、それは出逢い交流を深めた今もまた変わらない。

 

 彼女は少女であったものの、その気質は俺の知る歴史上の曹操を彷彿とさせるもので。

 今後もこの大陸で様々な騒動を引き起こすだろう事が容易に想像出来てしまった。

 俺の大きな台風の目であるという認識は彼女と出会った事で確信に至ったと言っても過言ではない。

 

 俺たちを尊敬していると語った彼女とその臣下たちの言葉に嘘はない。

 しかし敬う人物だから戦わないという事にはならない。

 むしろ入念な準備を整えて万全を期し、全力でもって挑みかかってくるだろう。

 

 戦って打ち倒す以外に曹操を止める手段はない。

 彼女の目指す覇道とはそういうものだ。

 

 そしてそのやり方に、孫呉が無抵抗で屈する事もない。

 こちらを従えさせたければ屈服させろと啖呵を切るのがうちの主であるが故に。

 

 いずれ必ずぶつかり合う。

 それが俺の出した結論。

 そこで曹操を暗殺しようという発想にならない辺り、俺は自分でも失笑してしまうほどに甘い。

 だが俺は知ってしまった。

 覇道を目指す者としての曹操と、自らの覇道のためにひたすら押し殺された華琳という少女の事を。

 あの弱々しい姿を知って、それでも非情に徹することが俺には出来なかった。

 

 

 話が逸れた。

 もう一人の台風の目と目する人物。

 彼の名は『劉備玄徳(りゅうび・げんとく)』。

 黄巾の乱の頃から世に姿を現し、義兄弟である『関羽雲長(かんう・うんちょう)』、『張飛翼徳(ちょうひ・よくとく)』と共に時代を駆け抜けた男。

 俺が生きた時代に残る三国志の書物では、この男が主役の物が主流だった。

 曹操と比較して義に厚い善人として描かれる事の多い彼だが、歴史の中を見ると意外とそうでもなく、俺の中では彼の存在は泥臭く足掻き続け、歩みを決して止めずに多少の運を味方につけ、遂には栄光を掴んだ人物という印象が強い。

 

 その人生はまさに波乱万丈。

 民草から領地の主、そして三国として孫呉、曹魏と肩を並べる蜀漢という国を作り上げるところまで辿り着く確かな偉業を打ち立てた存在だ。

 黄巾の乱に端を発した大陸の動乱の最中、周囲を巻き込みながらもこれだけの事を為した彼の存在は間違いなく台風の目だろう。

 

 孫呉に仕える者として赤壁の戦いの切っ掛けにもなる彼の存在は決して放置は出来ない。

 

 この世界での彼らの情報がなにもないという事からも、俺は彼らを警戒していた。

 頭角を現すこの乱の最中、他領土の軍についてはもちろん自ら立ち上がって戦う義勇軍の類についても可能な限り情報収集するよう進言したのは、掘り出し物の人材を集める以外にもこの頃は無名であるだろう劉備らにいち早く気づく為でもある。

 

 彼らが刻んだ俺の世界での歴史がこの世界に通用するかはわからない。

 しかし知ってしまっている以上、参考にしない理由もなかった。

 

 しかし黄巾の乱が始まってそれなりに時間が経っている今も、俺は彼らについての情報を得る事が出来ないでいた。

 

 

 

 俺たちはいまだ一度も建業に帰還することなく黄巾党の討伐に従事している。

 既に揚州を離れて久しく、幽州に足を踏み入れて幾日が過ぎている。

 

 ここまで来てしまうと建業に帰還するにも時間がかかるため、不測の事態に見舞われない限り乱が一段落するまで戻らない方針を雪蓮嬢たちには既に伝えている。

 サバイバル技術に関して俺の部隊が他の追随は許さないほどの練度であるからこそ出来る強行軍だ。

 

 賊を発見、戦闘し、その中に一定数いる『訳あり』を見極めて説得。

 彼らの邑の援助を行い、その事を報告し、次の賊の捜索に向かう日々。

 

 ただでさえ拠点に戻らない行軍に加えて、終わりが見えず気が滅入るような作戦行動を続けている自覚はある。

 しかし俺が見る限り、部下たちに無理をしている者は今のところいない。

 

 むしろ俺が気遣っている事に気づいて「まだまだやれます」とアピールする余裕すら見せてくれる。

 実に頼もしい部下たちだ。

 彼らの言葉と作戦行動中の奮闘に後押しされ、俺は幽州でも変わらず黄巾党の捜索を続けている。

 

 

 

 とある日の夜。

 野営の天幕の中で俺は思春から大陸の情勢についての報告を受けていた。

 

「そこそこ力があり歴史のある領土は順調に黄巾党討伐を重ねている、か。しかしその中でも曹操は別格。精力的に、そして何より上手く動いている、か」

「はい。逃亡者は1人も許さず、壊滅させた者たちの情報はしばらく黄巾党本隊に届く事はないでしょう。奴らの手並みは迅速にして鮮やかなものでした」

 

 思春がいつも以上の仏頂面で語るのは曹操たちの作戦行動に関する評価だ。

 それが身内以外の者へ高い警戒心と敵愾心を抱く彼女の目から見ても、曹操たちの行動には非の打ち所がないという事を意味する。

 

「お前がそこまで言うんだ。この乱の間、遭遇するかどうかはわからないが最大限警戒はしよう。もし出遭う事があればついでにその用兵術を盗ませてもらうとするか。思春、お前たちも何か使える技術があれば積極的に盗みに行くように」

「心得ております」

 

 相手の良い所を参考にする、なんていうのはいつの時代も当たり前の行動で『昨日の己に克つ』という標題を生涯掲げ続けた俺にとって息をする事と同義の事だ。

 これを徹底的に意識させる事で俺、いや俺たちはこれからも成長を続けていく。

 たとえ戦時中で、相手が他所の軍隊であろうとも関係ない。

 

「それと申し訳ありません。洛陽の調査は未だ……外はともかく内部となると侵入することも難しく」

 

 自分の唇を噛みしめ、自らの力不足を心の底から悔しがっている思春の頭を俺は軽く撫でて諫める。

 

「長年都を支配してきた十常侍のお膝元だ。一筋縄ではいかない事は重々承知している。明命たちと協力してじっくり腰を据えて調査してくれ。決して焦るな。焦りは判断を鈍らせ、取り返しのつかない失敗を招くぞ」

 

 眉間に寄っていた皺を人差し指で軽くほぐしてやると、気恥ずかしさに彼女は耳まで赤くして慌てだす。

 

「わ、わわ、わかりました! 駆狼様のお言葉、この胸にしっかり刻み、必ず洛陽の情報を奪い取ってまいります!!」

 

 そう言って思春は「そ、それではこれで!」と頭を下げて逃げるように天幕を出て行ってしまう。

 着々と腕を磨き、隠密としても武官としても立派に成長した彼女だが、ああして子供らしい一面を見ると守りたいと思う気持ちが湧き出てくる。

 武官を相手にしてこんな思いを抱くのは侮辱なのかもしれないが、それでも抑えきれない物があった。

 

「気を付けてな」

 

 そんな内心を表に出す事なく、俺は天幕の中から遠ざかるあの子に言葉を贈った。

 

 

 

 定期的に送っている伝令たちから領土の状況や他討伐隊の成果などを聞き、他領土の密偵を行っている思春や明命から情報をもらい、それらを総合して判断するに。

 黄巾党は最初の頃の勢いを失いつつあるようだ。

 

 数と士気では圧倒的と言えた黄巾党だが、その動きはいたって単純で単調。

 そして何より彼らを構成する人員はそのほとんどが訓練などと無縁の民だ。

 それなりに軍略に優れた者が自力の高い兵士を従えれば、数の劣勢を覆す事は容易い。

 大局を見据えた動きが出来るわけでもない彼らは、局地的な勝利を取ることが出来たとしてもその後が続かないのだ。

 

 野戦一度に勝利しても戦利品を得られなければ勢力は維持出来ない。

 軍隊とはただそこに存在する為だけに物資が必要なのだから。

 

 まっとうな集団ではない黄巾党に進んで物資を提供する者が果たしてどれほどいるか。

 なんらかの思惑で彼らを援助する者がいないとは言えないが、限り無く少ないと言えるだろう。

 提供元の宛てがないのならば邑や都市から略奪するか、あるいは敵対する軍隊に勝利する事で必要な物を入手するしかない。

 しかしこれまではそれで上手く立ち回っていた彼らは現在、ろくに物資を補充出来ないでいた。

 

 都の十常侍が重い腰を上げた事で諸手を上げて討伐に乗り出した各領土の部隊が奮戦している為だ。

 たとえ数の暴力によって戦そのものに負けてしまっても、物資を奪わせずに撤退してしまえば黄巾党側は骨折り損のくたびれ儲けにしかならない。

 苦労しても奪われるくらいならばと物資を燃やすなどして使えないようにされてしまえば結果は同じ。

 

 そうして物資が行き届かなければ彼らの士気は落ち、武器が無ければそもそも戦えない。

 彼らがいずれ今の勢力を維持できなくなるだろう。

 

 さらに彼らに追い打ちをかけるように各地で領主に頼らずに立ち上がった義勇軍。

 自ら立ち上がっただけにそれなりに戦を心得ている者もいるようで、そんな彼らによって黄巾党は散発的に撃破され始めている。

 

 民は未だ不安の只中にいるが、戦況に明るい者ならば黄巾党の勢力が弱まっている事実を読み取れる。

 未だ首魁の正体は掴めていないが、しかし乱の終わりは既に見え始めていると言えた。

 

 もっともこのまま自然崩壊するにはまだまだ年単位で時間がかかることも読み取れるだろう。

 だから今の流れを敏感に読み取ることが出来る諸侯は、乱の収束を己の手で付けるべく計略を巡らせ始める。

 そして同じ事を考える者たちは自然と敵の本拠地を掴み、そして一堂に会する事になる。

 

 あえて関わりを避ける者もいるだろうが、そこまで辿り着く事が出来る者たちこそ、さらに先の戦乱で注意すべき者である事は疑うべくもない。

 

 

 

「前方に砂塵! 黄巾党と何者かが交戦している模様です!」

 

 とてつもない視力を持つ賀斉の報告に何も言わずとも全員の行軍速度が上がる。

 

「なにやら取り囲まれている様子で、旗も掲げていない事から旅の者あるいは義憤から戦っているものと思われます!」

「戦局は?」

「数の差を手練れが覆しているようですが……やはり囲い込まれている為にそちら側が不利と思われます!」

 

 そこまで聞いたところで俺は馬の速度を上げる。

 追随する者たちも一拍遅れて速度を上げたのだろう。

 後ろを見ずとも引き離されることなく付き従う部下たちの気配でわかった。

 

「このまま横合いから突撃し、黄巾党部隊を噛み砕く。可能な限り、黄巾党側に重傷者を出さぬように考慮せよ。しかし抵抗激しければ止む無しとする」

 

 黄巾党と相対する前に必ず部下たちに聞かせる口上を述べると、俺は手綱を離して馬の背に立つ。

 拳を握り、一度開き、もう一度握る。

 そして俺はこちらに気づいて怒声を上げる賊徒たちを見据え、馬の背を蹴って宙へとその身を躍らせた。

 

「戦闘開始!」

「「「「「はっ!!!!」」」」」

 

 腹の底から響く部下たちの唱和を背に思い切り振りかぶった右足の蹴りを跳躍の勢いも載せて手近なところにいた賊に叩き込む。

 なかなか体格の良かった賊は棒状の武器で俺の攻撃を撃退しようとしたが、足甲によって武器は粉々にされてしまう。

 勢いを殺す事すらもできずに鳩尾に俺の蹴りを受け、男は自分の仲間たちを数人巻き込んで吹き飛んでいった。

 

 突然の乱入者に賊と呼ぶにはあまりにも身なりのよい恰好をした桃色の髪の少女は、妙に豪奢な剣を正眼に構えたまま驚いて目を大きく見開いているが、今は構っている暇がない。

 

 他にも二人が彼女の傍に立って武器を構えている。

 こちらは武の心得があるらしく、背丈に見合わぬ蛇矛(だぼう)を振り回す少女と青龍偃月刀で敵を寄せ付けない少女だ。

 脇を固めている二人がそれなりの腕であるためか、最初に顔が見えた少女は武器こそ持っているもののあまりにも無防備に見えた。

 戦う気概の薄いその姿に思わず「なぜ戦場(こんなところ)にいるのか!」と怒鳴りつけたい衝動にかられるが、奇声を上げて向かってくる黄巾党を撃退する事でその気持ちをやり過ごす。

 

「速やかに下がりなさい!」

 

 端的な指示だけを伝え、俺は賊を一掃するために踏み込む。

 俺が攻撃を開始するのに続くように、追いついてきた部隊の皆が黄巾党へと襲い掛かった。

 俺の奇襲からダメ押しの部隊による突撃によって敵側に大勢を立て直す余裕などあるはずもなく。

 既に二桁を超える回数になる黄巾党討伐は体感にして僅か十分程度で終わった。

 

 そしてこれがこれからたびたび顔を合わせる事になる劉備玄徳、関羽雲長、張飛翼徳との出会いであった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十一話

今回のお話は劉備たちに厳しい描写があります。
次に出る時の成長に期待してこの作品の彼女らを見守っていただければ幸いです。

公孫賛のさんの字は環境依存文字であったため、真・恋姫の公式で扱われている賛の字を使用いたします。


「捕らえた賊から情報を引き出せ。長居は出来んから手短にな」

「心得ております! しばしお待ちを!!」

 

 数名の部下を引き連れて賊を捕縛した場所へと向かう麟の言葉は実に力強く頼りがいを感じさせる。

 自分の力を制御できず、自分自身に怯えていたという過去があったなど今の彼女からは想像もできないだろう。

 

「他は出立の準備だ」

「「「「はっ!」」」」

 

 ここは幽州。

 本来、我々が介入する事が出来ない土地である。

 勅命によってある程度、融通が利くようになったとはいえ、この辺りの領地を任された者たちからすれば俺たちは存在しない、もっと言えば存在してはいけない立場となる。

 何度となく隊の皆に言い聞かせ、厳命してきたようにあちらの目に留まれば面倒な事になりかねない。

 軍と鉢合わせなど持っての他だ。

 故に速やかな移動を心掛けていた。

 

 それにだ。

 今までの結果を鑑みるに望み薄ではあるが、何か黄巾党に関する有力な情報が得られた場合を考えれば早く動けるに越した事はない。

 

 体感で数分と経たないうちに移動の準備は整う。

 あとは今回叩き潰した黄巾党の処遇を決めるだけだ。

 

「隊長!」

 

 そんな事を考えていた時、タイミングよく駆け寄ってきたのは弧円だった。

 

「どうだった?」

「今回は一人だけです。それももう邑は滅び、ただ一人食い扶持を求めて黄巾党に入ったようです」

「そうか。裏を取る。故郷の場所は聞き出せたか?」

「捕まって自棄になっているみたいで、こっちが問い質すまでもなく話してくれました。……それで、なんですが」

 

 声を潜め、身振りで耳を貸すように訴えられ、俺は請われるまま弧円に左耳を差し出す。

 周囲に素早く目を光らせてから彼女は口元を両手で覆い、差し出した俺の左耳だけに届くよう小さめの声が告げた。

 

「そいつが黄巾党の、親衛隊? 近衛?……まぁつまり親玉たちに特に心酔している連中がいる場所を吐きました」

「なにっ……? 場所は?」

 

 思わぬ情報に思わず声を上げてしまった。

 それが本当ならば、いや『今も変わらない正しい情報』であるならば張角たちに肉薄する足掛かりになる貴重な情報だ。

 俺は波だった頭を即座に落ち着かせると意識して声を潜め、弧円に続きを促す。

 

「冀州の中央付近に特に熱狂的な黄巾党が集まる砦があると話していました。情報をくれた奴は若くて体格にも恵まれていたので使いっぱしりとしてそいつらにこき使われていたらしいです。ただ信奉者のような熱意は無かったから張角たちに近づけてはもらえなかったらしくて、三兄弟の顔は知らないと言っています」

 

 俺の記憶には残念ながら黄巾党の根城などの情報はない。

 それなりに三国志は読んでいたが、代表的な人物や有名な出来事は覚えていても、その詳細すべてが頭に残っているわけではなかった。

 故にもたらされた情報の正しさを現段階で判断する事は出来ず、自分たちの足でそれが正しいのか間違っているのかを調べなければならない。

 まぁ仮に前世の記憶の中にこの情報があったとしても、この世界でそれが通用するかはわからないから裏を取らなければならない事なんだが。

 

「……賀斉とお前を含めて数人、足の速い者を選抜しろ。それとは別に建業と曲阿に伝令を出せ。ただし現在、情報の確度は調査中だという点は念押しさせろ」

「御意……!」

 

 弧円は一礼して足早に去っていく。

 俺は無言のまま今後の行動をどうするべきか考え始めた。

 

 この場から離れるのは決定事項であるから、まずは冀州への移動する。

 その後、手配した弧円と麟が選抜した偵察隊を出し、俺たちは冀州のどこかに身を潜める必要があるな。

 伝令や弧円達の偵察部隊との合流場所について頭に入っている地理情報から候補を思い浮かべるが、さすがにこれだけの人数が身を隠せるような都合の良い場所は出てこなかった。

 彼らが役目を終えた後の合流場所を決めなければ入れ違いになってしまう。

 携帯電話やら、トランシーバーの類があればこんな懸念は不要なのだが、あんな便利な代物はこの時代で求められたものではない。

 となれば俺たちがその土地の駐屯軍に目を付けられないような息を潜められるような場所が必要だ。

 いやいっその事、伝令は無しにして偵察隊以外は揚州に帰還するのもありかもしれない。

 どこかで一度戻らなければならないとは考えていたのだ。

 完全に身を隠せるような場所がない以上、無理をして他所の土地に留まるよりはリスクが少ないだろう。

 

「もし身を隠すなら冀州のどこがいいか……」

 

 幸いにも偵察隊を出す冀州も、建業や曲阿のある揚州も南だ。

 途中までは同行する事も可能。

 それまでに良い隠れ家が見つかれば、そこに身を隠す事も候補に入れられるが……。

 

「隊長殿……少々お耳に入れたい事がございます」

 

 これから先の行動を思案している俺に気難しい顔をした副官が声をかけてきた。

 

「宋謙殿? 何か?」

 

 鸚鵡返しに聞き返すと厳めしい顔が困ったように顰められる。

 

「先ほど賊に襲われていた少女たちについてです」

 

 話を聞くと彼女らは自分たちへの同行を申し出ているという話だ。

 

「同行? 我々が軍事行動の真っ最中であると知った上でですか?」

「はい。ならば尚更、と言わんばかりの様子でしたぞ」

 

 であるならば。

 

「彼女らは襲われた旅人ではないと?」

「自分たちは義勇の徒であり、今の黄巾党の無法を許せず立ち上がったと言っておりました。近隣の邑で有志を募り、百人程の仲間がいるとの事です」

「百人? 先ほどは三人しかいませんでしたが……」

「偶々、付近の情報収集に三人で出ていたところを襲われたそうです。仲間たちはここから程近い場所で訓練に励んでいると聞いております」

「なるほど」

 

 その志は立派な物だ。

 たった三人と募った百人で大陸を蹂躙しようとする暴威に立ち向かうなど並大抵の決意ではない。

 しかし『どうやって立ち向かおうとしていたのか?』という点が俺には引っかかった。

 それは目の前で渋い顔をしている宋謙殿も同じなのだろう。

 

「……問い質す方が早いか」

「お会いになるのですか?」

 

 暗に自分から断りを入れると言ってくれている彼に、俺は肯定の意味で頷いた。

 

「志は認めますが……俺たちに同行しようとするあちらの意図次第では物騒な事になるかもしれません」

「では尚の事、私だけで行くべきでは?」

 

 引き留めようとする彼に首を横に振る。

 

「面と向かって話を聞きたい。これは俺の我儘です」

 

 言いながら俺は、宋謙殿の先導で彼女らがいる場所へと向かった。

 

 

 三人は俺が宋謙殿を引き連れて現れると、俺をこの部隊の責任者と見なしたのかまず頭を下げてきた。

 

「この度は助けていただき本当にありがとうございます!」

 

 そして桃髪の少女は開口一番で礼を言われる頭を下げる。

 

「ご助力、感謝いたします。あなた方の介入が無ければ数に押し切られていたかもしれません。単独での奇襲からの本隊突撃、実に見事な戦術と感服いたしました」

 

 続くのは美しい黒髪の青龍偃月刀の少女の堅苦しい賛辞。

 しかし言葉の端に「かもしれない」などと自分たちだけでも対処出来たのだという意図の言葉を使っている辺り、自分たちの武力への自信が窺える。

 

「助けてくれてありがとーなのだ!」

 

 もう一人の蛇矛使いの少女に関しては、含むところなど何もないと言わんばかりの笑顔での感謝の言葉を頂いた。

 並んでみればしっかり者の長女、天真爛漫な次女、腕白な三女と三姉妹のようにも見える。

 

「感謝の礼、確かに受け取った。申し訳ないが軍事行動の最中故、時間が押している。本題に入りたいのだが構わないだろうか?」

 

 俺の言葉に三人は居住まいを正した。

 

「私はこの部隊を預かる者で『刀功(とうくん)』だ」

 

 現在、我々がやっている軍事行動は非公式のものだ。

 勅命ありきで多少緩くなっているとはいえ、この地の軍隊にばれれば余計な諍いを招くというのは何度となく反芻している事でもある。

 

 俺の名は有名になり過ぎた事もあり、記録に残さない今回のような行動では偽名が必須。

 故に部下たちには姓名字を含まない『隊長』呼びを厳命し、己が名乗る時は予め決めていた名を名乗る手筈となっている。

 

「は、初めまして。義勇軍を率いている劉元徳です!」

「元徳様の義姉妹、関雲長と申します」

「元徳姉者の義妹の張飛なのだっーーー!!」

 

 あれほど探しても見つからなかった劉備たちとのまさかの接触に、俺は引きつりそうになる頬を必死に抑え込む羽目になった。

 

「それで同行したいという申し出を受けたが……」

「はい!」

 

 実に元気のよい返事を返してくれる劉備だが、俺が求めた応えはそうじゃない。

 

「理由を聞かせてもらえるか?」

 

 俺はあえて場に緊張感をもたらすよう高圧的で硬い口調で問い質す。

 横の関羽(黒髪)が俺の態度に警戒を露わにするが、そうしてもらおうとした事なのだから気にするような事ではない。

 俺はただ真っすぐに劉備を見つめ、問いの答えを待った。

 

「私たちは黄巾党に襲われて邑や街に住む人たちが傷つくのを止めたいんです!!」

「真っすぐな言葉だ。だがそれならば自分たちで立ち上げた義勇軍を率いて村々を見回り、襲い来る脅威から守ればいい」

 

 決意の言葉をすげなく受け流されて劉備は怯んだ。

 だがそれも一瞬の事。

 

「黄巾党の本陣を、首魁の人たちをなんとかしないとこの乱は終わらないと思います!」

「その通りだ。故に正規軍は必死に張角たちの行方と正体を追っている」

 

 あえて煙に巻くように言葉を返すも、彼女はめげずにすぐ次の言葉を紡ぐ。

 

「だから私たちもその手伝いをしたくて!」

「どうやって手伝うんだ?」

 

 俺は圧力を増して問いかけた。

 関羽が劉備の前に立ちはだかり、鋭い目で俺を睨みつけるがそんな事は知った事じゃない。

 

「どうやって手伝うんだ?」

 

 もう一度、ゆっくりと噛みしめるように同じ言葉で問いかける。

 

「私たちと義勇軍を戦列に加えていただきたいんです!」

「貴方方の澱みない戦闘を拝見し、一角の武将とその配下の方々と見込んでの事です。おそらくあなたがたは敵の首魁に近づける可能性が最も高い」

 

 劉備の言葉足らずを関羽がすかさず補足する。

 敵の首魁に近づける云々は、あからさまに俺を持ち上げる甘言だ。

 それ以外にも所々に世辞が混じるのはこちらからの心証を少しでも良くしたいという気持ちの表れだ。

 どうにかして同行したいが、なるべく自分たちにとって有利な条件にしたいという思惑があるんだろう。

 

「た、戦える人数が増えれば黄巾党と戦う時に一人一人の負担が減りますよ!」

 

 反応が鈍い事に慌てて関羽を押しのけて前に出た劉備が付け足す言葉。

 圧力が増した俺に見据えられても、多少つっかえながらでも自己主張が出来たというのはいい。

 だがその内容はあまりにも的外れで、俺の目は自然と鋭さを増していた。

 

「そもそもお前たちの義勇軍は俺たちと足並みを揃えられるのか?」

「その為の訓練をしております。劉備姉者の志に共感した彼らは士気も高い。正規軍相手でも易々と遅れは……」

 

 口出ししてきた関羽の言葉を遮り、部隊の行軍速度を告げる。

 

「夜明けから日没まで足を止めずに鎧を着たまま走り続ける我々に遅れず同行出来ると? 言っておくが睡眠以外に休みなどないが、義によって立ち上がったとはいえ元々は鍛錬など無縁だっただろう民にそんな事が出来るのか? 我々とて日々の厳しい調練を経て可能になった事なのだが?」

 

 関羽は押し黙る。

 俺の目と、口調と、そして僅かにでも部隊の力を見た彼女は俺の言葉が見得でも誇張でもない真実だと察したようだ。

 そして選んだ沈黙の意味が、同行が不可能であるという事を言外に示している。

 

「ついてこれない兵を引き連れて何をどう手伝うというのか。そもそもお前たちは百人もの人員を動員して参戦するだけの蓄えはあるんだろうな?」

「そ、それは……」

「ない、などとは言わせないぞ。軍事行動する隊に同行しようというのならば、自軍の維持など言われるまでもなく最低限出来なければならない事だ。よもやこちらが兵糧を提供する事を期待しているわけではあるまいな?」

 

 疑念をわかりやすく言葉にし、視線に込めると劉備は慌てて否定する。

 

「ち、違います!!」

「それは良かった。あれは我が主の領土の民たちが払う税によって賄われた物。それを無償で提供させようとするなど賊徒の略奪となんら変わらない。義侠を語る者がそのような事を期待していないと知る事が出来て安心したよ」

 

 皮肉を交えた俺の言葉に関羽は視界の端でそっと目を伏せた。

 劉備はそんな事を考えていなかったのだろうが、関羽は口に出さずともそうなることを期待していたという事。

 明らかに腹芸など向いていない善性の塊のような劉備では出来ない打算的な部分を彼女が受け持っているという事か。

 

 だが仮にも義勇軍の頭領は劉備のはずだ。

 それが打算もできず、汚い部分に目を向けていないと言うのは……。

 

「だが我々の行軍速度についてこれないのならば足手纏いだという他ない。君たちを抱え込んだ結果、行軍が遅れれば助けられていた民が黄巾党の餌食になるかもしれないという事を理解してほしい」

「そんな……」

 

 尚も食い下がろうと視線を右往左往させて言葉を探す劉備に俺は止めを刺す事にする。

 

「もっと厳しく言おう。百害あって一利無しだ、と。同行は断る」

 

 にべもない回答に劉備は言葉を失った。

 善意で立ち上がり拙いながらも自分たちの軍隊を作り上げた事には敬服する。

 しかし俺たちと行動を共にするには、彼女たちはあまりにも力不足であり、自分たちを売り込む内容もお粗末に過ぎる。

 

「お待ちください!」

 

 話は終わりだと、俺は彼女らに背を向けようとしたところで関羽が俺の前に立ちふさがる。

 無視する事も出来た。

 だが武器を地面に突き立てその場に膝を付き、あまつさえ首を差し出すように頭を垂れるその姿を見れば俺は足を止めざるをえなかった。

 

「私とこの張飛の武力を貴方のお好きなようにお使いください! 我らは腕が立ちます故、決して貴方がたの足手纏いにはなりません! それでどうか我らの同行を許していただきたいのです!」

 

 あまりにも必死に訴えかけるその姿は、気高く美しいだろう。

 見る者が見れば胸を打たれ、絆されたかもしれない。

 

 しかし俺が彼女に向ける視線は冷ややかだ。

 

「話を理解していなかったのか? 俺はお前たちが『足手纏い』だと言ったんだが? まさかお前たち義姉妹は『自分がその中に入っていない』とでも思っているのか?」

「なっ!?」

 

 思わず顔を上げる関羽の顔には『信じられない』という言葉が浮かび上がっている。

 

「お前たちの実力は一人当たり、うちの隊員三人~四人程度。劉玄徳に至っては賊と打ち合う事すら難しい実力しかない。俺や副隊長ならばたとえお前たちが三人で来たとしてもさほど手間もかけずに制圧可能。その程度の戦力を売りに足手纏いを抱え込めなどと交渉とも呼べない。笑いを取るための言動ならば笑ってやろう。真剣にやっているのならば実に腹立たしく不快だ」

 

 俺はあえて厳しく汚い言葉を選んで彼女たちを罵る。

 

「百歩譲って、いや千歩譲って同行を許可したとしよう。お前たちがいたせいで救援が遅れ、民が傷つく結果になった場合の責任をどう取るつもりだ?」

 

 だんだんと語調に熱が籠っていくのがわかった。

 

「彼らに謝るのか? それで事が済むはずがないだろう。『お前たちが遅れなければ』と、『もっと早く来てくれれば』と罵声を浴びせられ、石を投げつけられる。殴り掛かられるかもしれないな。我々は既にそれを経験している。自分たちに出来る最大限の事をしていても、嘆き苦しむ民から罵声を向けられる事もある。しかし勘違いをするな。それは我々からすれば『当たり前の事』だ。民に安全を約束する代わりに税を頂いているのだからな!」

 

 関羽は膝を付き俺を見上げたまま目を見開いて動かない。

 視線の矛先を移す。

 視線を向けた劉備もまた何も語らない。

 口をはくはくと動かし、何かを言おうとしているように見えるが結局何も言葉に出せない。

 

 張飛は話に加わることもなくじっと俺を見つめている。

 出会った当初に腕白な三女と評した少女の姿はそこにはなかった。

 俺が劉備や関羽に無体を働くようなら、その蛇矛が俺に向けられていたのは火を見るより明らかだ。

 最初からこの子は自分の役割を理解していた。

 話し合いにおける役割などないと割り切り、ただひたすら二人の護衛のためにここにいるのだ。

 この場における自分の立場を最も理解していたのはこの子だろう。

 

「民を守る為に立ち上がったと嘯くならば、言及するまでもないと思っていたがあえて問おう。自らの失敗の責任を取る覚悟くらいはあるのだろうな?」

 

 その言葉に明確な回答は返ってこなかった。

 

「あまりにも愚かしい。劉玄徳、お前は既に百人もの同士の上に立つ立場でありながら、自らの行動に伴う責任を理解していないのか?」

「あ、う……」

 

 意識して怒りの形相を作り、彼女を睨み付けると怯えて言葉が出てこない。

 それでも足が後ろに下がる事だけはない点だけは評価しよう。

 

「その百人をお前がどのように勧誘したかは知らないが……彼らは個々の思惑は別としてお前に従う事を良しとした。お前の行動の犠牲となる事を覚悟した。彼らの決意を無駄にする事だけは許されないと心得よ」

 

 俺は膝を付いたままの関羽を押しのけ、宋謙殿を引き連れて今度こそその場を後にした。

 引き留める声はなく、俺たちも彼女たちの話題を出す事はなく。

 俺たちは冀州への移動を開始する。

 

 結果を見れば当初の予定通りとなった。

 それ以上、言葉にする事は何もない。

 

「中々強い言葉を使われましたな。何か彼女たちに期待するものがありましたか?」

「さて……どうでしょうね」

 

 宋謙殿の言葉に俺はとぼけて答えを濁し、彼女たちの事を頭の片隅に押しやると冀州での作戦行動について宋謙殿、麟、弧円たちと話し合い始めた。

 

 彼女らと再会するのはこれから半年後。

 幽州の公孫賛(こうそんさん)の客将となっていた彼女らと黄巾党の首魁に肉薄する戦場での事となる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十二話

今年最後の投稿となります。
今年も一年、この作品をご覧いただきありがとうございます。
ペースが遅い作品ではありますが来年もよろしくお願いいたします。


 劉備たちとの予期せぬ会合の後。

 俺たちは予定通り、冀州へ向かった。

 その途中、情報提供者となった若者の故郷の邑を訪れ、飢えによって死に絶え野ざらしにされていた人々を埋葬している。

 

 彼は埋葬作業の最中に泣き崩れた。

 故郷の惨状を冷静な状況で改めて受け止めてしまったのだろう。

 

 宋謙殿がなにも言わずに抱きしめ、それが止めになったのか彼をさらに声を上げて泣き叫んだ。

 誰も生き残っていない邑に彼の慟哭が空しく響く。

 それがまた人と人が関わり喧騒が絶えなかったはずの場所が無くなった事実を俺たちに言葉もなく教えてくれた。

 

 埋葬が終わり、再び冀州へ向かう折、彼はそのまま邑に残る決断をした。

 黄巾党についての情報の正確なところはともかく、彼の故郷についてはこうして確認が取れた以上、同行させる必要はない。

 故に彼の意思を尊重し、一週間分にはなるだろう食料を渡し、俺たちは任務へと戻っていったのだ。

 

 これから彼がどうするか俺たちにはわからない。

 俺個人といての想いとしては出来れば真っ当に生きてほしいと思うが、こればかりは当人の意思次第だ。

 

 俺たちは数日の行軍の末、冀州に到着する。

 しかし結局、部隊を丸々隠せるような場所は見つからなかった。

 幾つかの方針の一つの通り、偵察隊のみを黄巾党本隊の調査に向かわせ、一度建業に戻るという結論になった。

 

「偵察である以上、無事に戻って結果を伝えるまでが仕事だ。くれぐれも無理をするな」

 

 麟と弧円、そして選抜された十人を送り出す。

 

「承知しております! さほど待たせるつもりはありません!!」

「隊長。建業で皆と吉報を待っててください!」

 

 胸を張って駆け去る部下たちを見送り、俺たちは建業への帰路についた。

 それから建業までは何事もなく、諸手を上げてとは言えないが凌操隊は本拠地への帰還を果たす。

 

 そして戻った俺たちは首脳陣にそれまでの報告を行い、偵察隊が戻るまでの僅かな時間を休息に費やす事になる。

 はずだったんだが……。

 

 

 俺は今、本当に久しぶりに帰ってきた自宅でとある男と対面している。

 

「いやはやお久しぶりです。明命は元気ですかな?」

「俺に聞くくらいなら会ってやればいいだろうに……」

 

 目の前の男、周洪の言葉に俺はため息交じりに答えた。

 そしてなんとなく、本当になんとなくこの男の来訪の意図を察する。

 

「それは出来ません。あの子は今、この建業に仕え、よくやっている。わざわざ親がしゃしゃり出る必要などないほどに」

 

 その目は我が子の成長を喜び、慈しむ優しさに満ちていた。

 俺はこの目をした男を1人知っている。

 

 この男はいつかの『甘寧』、いや『深桜』と同じ目をしていた。

 

「……お伝えしたい事がございます。おそらくこれが貴方と会う最後の機会となりましょう」

 

 俺は周洪から『既にいない彼女からの遺言』と、そして『今を必死に生きる彼女からの伝言』を聞く事になる。

 

「最後となりますが我が愛しき娘、明命の事をこれからもどうかよろしくお願いします」

 

 締めくくる言葉を俺は拒否した。

 最後だと言うのなら尚更、自分で我が子に声をかけていけと怒鳴りつけた。

 しかし男は俺の怒りを軽く受け流して薄く笑うだけ。

 

「明命の事を想ってそう言ってくださる貴方だから、私は安心出来ます」

「勝手な事を言うな! 残される彼女の気持ちを考えろ……!!」

 

 俺の言葉から逃げるように、先ほどまで対面して話していた事がまるで幻であったかのように男は目の前から消えていた。

 残されたのは出迎えに出してやった茶の器だけ。

 律儀に飲み干されたその器だけがあの男がここにいた事を示していた。

 

「馬鹿親がっ……!!」

 

 密偵である事、親である事。

 その二つを、どちらも手放してはいけない物であると言うのに天秤にかけた男に俺は精一杯毒づく。

 しかし卓を叩きながらの俺の声はただただ空しく部屋に響くだけ。

 

 ああ、まったく。

 今日は辛い出来事が多すぎる。

 

 何年も前から用意されていたという荀毘の『娘を頼む』という遺言。

 都にて今も孤軍奮闘している中で俺たちを慮り、『私の事は気にするな』というこちらを慮るばかりに自分をないがしろにした桂花の言葉。

 そして『我が子を頼む』という周洪の親としての願い。

 

「ああ、くそう。ああ、まったく……受け止めるしかないだろう、こんなにも大きな想い。頼まれたって捨ててなどやらない」

 

 託された想いを噛みしめながら、決して忘れぬよう心に刻む。

 

「だがすまない、桂花。お前の想いは確かに受け取ったが、その言葉通りにしてはやれない」

 

 必ずお前を自由にする。

 お前を束縛するすべてを噛み砕いてやる。

 その後、お前がどうするかはそれこそお前が決めればいい。

 その結果、巡り巡ってあの子が俺たちと敵対する事になる事も覚悟しよう。

 

「その為にも……さっさと黄巾党を片付けなければな」

 

 直近の目標を声に出して確認する事で、俺は情報量に茹っていた頭を冷やす事に成功した。

 

 そして冷静になって気づく。

 あいつが座っていた場所に置かれていた竹簡に。

 

「こんなものにも気づかないほどに頭に血が上っていたんだな、俺は……」

 

 苦笑いが浮かびそうになる顔を意識的に抑え込み、俺は一応何も細工されていない事を確認し、それを開いた。

 

 

 

 そして俺たちは錦帆賊討伐の時よりも大規模な部隊をもって、黄巾党討伐に繰り出す事になる。

 

 周洪からもたらされたのは奴らの本拠地の情報だった。

 それは期せずして帰還した麟たち偵察隊の報告と同じ内容。

 

「張角らは冀州にあり」

 

 しかし周洪のそれはさらに一歩踏み込み、張角らの正体にまで言及していた。

 

「頭が痛い話だ」

「まったくですね」

 

 口をついて出た俺の言葉に隣で馬に乗っている冥琳が心の底から同意する。

 

 まさか大陸を混乱に陥れた黄巾党の実態が、『旅芸人である張三姉妹の歌の熱烈極まるファンの集団』だなんて誰が予想できるか。

 あいつに限って誤情報という事はないだろう。

 もちろん確認する必要はあるが、わざわざ黄巾党の首魁の情報を偽る理由が周洪にあるとは思えなかった。

 

 とはいえこの情報を知る人間は限定している。

 情報の真偽がどうあれ、大陸を蹂躙せんと目論む敵という認識からあまりにもかけ離れた情報のため、これからの決戦に対する士気に関わると判断されたのだ。

 故に最低でも部隊長でなければ張三姉妹の正体については知らされていない。

 

 後ろに付き従う配下たちには聞こえないよう意識して声を潜め、俺は話を続けた。

 

「ふざけているとしか思えない。思えないが……」

「縋る物がない人間からすれば、たかが歌でも救いになる事もありましょう。それだけ今の世の中が民に厳しいという事の証明と言えるかもしれません」

「そうだな。俺たちとて黄巾党と同じ立場であれば果たしてどうなっていたか」

 

 冥琳の言葉に俺は頷きを返す。

 何かしらに縋らなければ生きていけない人とはいるものだ。

 

 この時代、迷信は力を持ち、宗教もまた一定の力がある。

 何かに縋らなければ生きていけない人間がいる限り。

 

 俺が知る知識にある黄巾党はまさにそういう宗教の力だった。

 寄りかかる物が宗教の教えから、歌に変わっただけと考えればありえない事でもない。

 

「だが今の状況はこれだ。ただ自分たちの歌を広めたいと行動した結果、彼女たちは不用意な言動で国そのものと敵対する立場に祀り上げられる羽目になった」

 

 地獄への道は善意で舗装されている、とはよく言ったものだ。

 しかし結果的に張三姉妹が大陸を脅かす存在となった事実に変わりはない。

 

 彼女らを処遇を決める権利は俺にはない。

 だが捕まえなければならないだろう。

 それが偶発的な結果であっても責任というものは発生するのだから。

 

 罪を裁く権利は俺にはない。

 だが罪を突き付ける事は出来る。

 

「隊長、あと数日で冀州に着きます」

「ああ。俺たち以外にも本隊の居所に気づいた者がいるかもしれん。黄巾党はもちろん、そいつらにも付け入る隙を見せるな。皆に厳命しておけ」

「はっ!」

 

 弁解も命乞いも交渉も、まずは捕まえてからだ。

 

 部隊を隊列を維持しながら俺たちは進む。

 雪蓮嬢に、冥琳嬢という今の孫呉を率いる者たち。

 部隊の主軸として俺と祭、慎。

 それに加えて曲阿から呼び寄せられた陸遜嬢。

 さらに後から都の偵察を行っていた思春と明命たちも合流する手筈になっている。

 

 曲阿は変わらず蓮華嬢主導の元で運営され、建業は蘭雪様、美命に任せている。

 建業太守の座、孫家当主を譲り渡したとはいえあの方ならば何も問題はないだろう。

 お目付け役もいる事だしな。

 

 俺たちは黄巾党本隊の撃滅だけを考えればいい。

 

「数ある乱世の波、その一つを無事に乗り越えられるか」

「乗り越えて見せましょう。必ず」

「そうだな」

 

 力強い冥琳嬢の言葉に、俺は頷いて返す。

 

 乱世はまだ始まったばかり。

 大陸の平和への道は未だに終着点など遠すぎて見えない。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十三話

今年に入ってから初めての投稿となります。
リアルの事情が次々と荒れてしまい、一話投稿するのにずいぶんと時間がかかってしまいました。
申し訳ありません。

例年以上に投稿が安定しませんが、今年もこの作品をよろしくお願いいたします。


 冀州中央へ何事もなく到着した俺たちは現在。

 黄巾党本隊の根城と目されている砦から離れた森で息を潜めていた。

 大部隊を率いての行動のため、それなりに距離を取らないと相手側に気取られる危険性が高いが故の位置取りだ。

 

 もちろん、ただ隠れているだけではない。

 途中で都への調査から呼び戻された思春や明命たちによって黄巾党本拠地への偵察が行われている。

 

 今回の場合、警戒する相手とは砦の黄巾党はもちろんだが『冀州に黄巾党本隊あり』という情報を嗅ぎ付けた他の領土の勢力の事も指している。

 思惑は領主によって異なるため、安易に仲間意識を持つ事は残念ながら出来ない。

 背後から刺されない為にも、先んじて情報を握る為にも部隊の位置を隠さなければならないのだ。

 とはいえ今回の部隊規模から言えば完璧な隠蔽は不可能であるし、痕跡を消し続ける事も長くは出来ないだろう。

 

 人がいれば生活の痕跡がどうしても残る。

 これだけの規模ともなれば猶更だ。

 偵察部隊には迅速に任務をこなしてほしいが、連中の警戒がどの程度の物かによるから難しい所だろう。

 

 本隊での真っ向突撃でもそうそう遅れは取らないと自負している。

 しかし馬鹿正直に突撃しては被害が馬鹿にならない。

 相手に最大の痛手を、味方には最小の損害を、軍を率いる人間としては当然の思考だ。

 被害を最小限に抑えようとするならばきちんと策を練らなければならない。

 

「隊長……」

 

 息を潜めた賀斉の声に俺は考え事を脇に追いやり、耳をそばたてる。

 

「どうした?」

「甘卓、周泰他偵察部隊が帰還しました。彼女らの報告を受けながら策を練るので集まれと、伯符様からのご命令です」

「了解した。周囲の警戒を頼む」

「はいっ! お任せください」

 

 俺たちは現在、森の奥に簡易的な陣を敷いている。

 そこが集会の場所であり、雪蓮嬢、冥琳嬢の寝床でもある。

 俺や祭、慎に部下たちは野宿だが問題はない。

 

 遠征する事が多い俺はもちろん、二人も部隊の皆も手慣れたものだ。

 火を使えば遠目からでも煙が目に付き、森に何かが潜んでいる事が露見するので使用できない。

 食事は保存食のみで、身を清めるのも最低限にしている。

 

 徹底して身を隠すというのは不自由なものだが、今のところ不満は上がっていない。

 雪蓮嬢、冥琳嬢もいつもと変わらず、いざ開戦した時の戦略を慎たちと練っている。

 現孫家当主とその最も近い側近は実に頼もしい。

 

 俺が来た事に気づいて荷馬車の中で広げていた地図から顔を上げる雪蓮嬢、冥琳嬢、祭と慎。

 いずれも数日の不自由な生活で疲労した様子は見られない。

 そして数日ぶりに姿を見る、戻ってきたばかりの思春と明命の姿がある。

 

「来たわね、駆狼」

「お疲れ様です。駆狼様」

 

 雪蓮嬢、冥琳嬢が不敵に笑いながら出迎える。

 その様子を見れば思春達が攻め入るのに必要な情報をきちんと収集してきたという事がわかるというもの。

 俺もまた不敵に笑い返した。

 

「お待たせしました。ではこの黄巾の乱を終わらせる為の戦略を話し合いましょう」

 

 今回の部隊の総指揮官二人に敬語で会議をするよう促す。

 その場にいる全員が俺の言葉に頷き、改めて広げられている地図へと目を向けた。

 

「ではまず私と周泰から偵察の結果をご報告させていただきます」

 

 口火を切ったのは思春だった。

 

「本隊と呼ばれるだけあり、砦の規模、人間の数は今まで撃退した部隊の軽く数倍はありました。あくまで私の目測ですが人員だけでも軽く万を越えております」

 

 流石に今まで撃退してきた連中と本陣とでは格が違うな。

 人数だけを聞くだけでもそれがわかる。

 

「反面、装備は貧弱でした。手入れも行き届いていない槍や剣、鎧も打ち直された形跡が見られずボロボロです。鍬や木の棒に適当な鉱石を括り付けた粗末な斧などの方が多かったです」

 

 思春の言葉を引き継ぎ、明命もまた見てきた物を語る。

 

「そもそもが民の反乱。武器の手入れについて知っている者も少なく、鎧の整備など出来る者など早々いないだろう」

「とはいえ鎧を貫く事は出来なくとも、見えている皮を傷つける事は出来る。軽装の者には決して油断しないよう通達すべくでしょうな」

「もちろん心得ておりますよ。祭殿」

 

 然もありなんと顎に手を当てて頷く冥琳嬢に、祭は釘を刺すものの当人はその苦言すらも想定していたようで鷹揚に頷いて見せた。

 

「ふむ。余計な口を挟んでしもうたようじゃの」

「いいえ、必要なお言葉です。お気になさらず今後も口出しをお願いします」

「あい分かった」

 

 さらりと交わされるやり取りは彼女ら特有の信頼の証だ。

 雪蓮嬢が建業領主を受け継ぎ、冥琳嬢がその側近として付いてからだったか。

 祭と冥琳嬢は建業の治政や警備の関連で会話する事が急激に増えた。

 それまで会話をしていなかったわけではないのだが、そこまで深く関わり合う事もなかったのだ。

 それが今ではこの二人は軽口のような応酬でやり取りするほどに互いに心を許している。

 この二人の間に余人を交えない確かな信頼関係があるという証だ。

 

「張角たちが直接労っているようでその士気はとても高く、正面から事に当たれば無用な被害を被る可能性があります。聞き取った会話の内容から本当に一部の者は現在の戦局が劣勢に傾きつつある事を理解しているようです」

 

 これには驚いた。

 張角たちという美酒に酔って考える力などないものと予想していたからだ。

 

「負ける状況が見えてきても、それでも乱をやめる気はないという事かい?」

 

 慎が眉間に皺を寄せながら疑問を口にする。

 

「……おそらくもう引き返せない所まで来ているんだろう。『負けるからやめよう』なんて言ったら、張角たちの力が今の世の朝廷に負けたと認める事になる。狂信者はそんな気弱な発言を絶対に認めない」

 

 狂信者というのは自分が信仰する存在を否定する者を許さないのだから。

 

「信仰の為に自分が破滅しても周りの仲間が死んでもいいって事、なんだね……」

 

 俺の言葉に慎は辛そうに目を伏せて零す。

 戦う事を否定せず、しかし戦う事を忌避する慎には厳しい状況だろう。

 だがこちらの心情を汲み取る事があちらに望めない事もまた事実だ。

 

「奴らのほとんどは既に死兵であり、張角らに仇なす者はたとえ差し違えても、と考えていると思われます。逆に冷静に戦局を見れる者たちは奴らの間では鼻つまみ者のように扱われているようです」

「そこまで盲信している連中しか張角達の傍にはいないわけね。そんなに良い物なのかしらね? その子たちの唄や踊りって……」

 

 雪蓮嬢は黄巾党の有り様に呆れつつも、その気配には油断も慢心もない。

 理解できないと考えても、軽視する事はない。

 

「この世の中で心の拠り所に選ぶくらいだ。良い物ではあるんだろうさ」

 

 冥琳嬢が適当に応えると、雪蓮嬢もそれ以上この話題を続ける事はなかった。

 

 黄巾党の連中は気付いているのだろうか?

 張角たちを想って立ち上がった自分たちの行動で、旅芸人の踊りと唄は有名になった。

 しかしそれは優れた芸に対する称賛ではなく、前代未聞の乱を起こした首謀者たちの使う怪しげな術として、だ。

 黄巾党と言う存在の真意はどうあれ、この名声は血塗られた物でしかない。

 

 この乱の末に張角たちがどうなるかはわからない。

 だが捕まれば都に連れて行かれ、晒し首だろう。

 女性である以上、辱めを受ける可能性も高い。

 

 仮に逃げおおせたとしても、だ。

 その先の人生で張三姉妹は二度と己の名を名乗れず、追っ手や民の目に常に怯えて過ごす事になる。

 

 今のままでは全てが終わった時、どう転んでも張三姉妹に明るい未来は来ないのだ。

 

「黄巾党については以上です。次に砦の周辺についてですが……我々の他に部隊を展開している勢力が複数ありました」

 

 全員の目の色が変わる。

 黄巾党本隊の情報を頭に残しつつも、自分たち同様にこの場所に辿り着いた今回の競争相手について意識を切り替えたのだ。

 

「具体的にそれが『どこの誰か』はわかったか?」

「一つ確実な勢力があります。他については憶測交じりになりますが……」

「話してくれ」

 

 冥琳嬢とのやり取りを経て、思春は一度深呼吸をして間を置いてから話し出す。

 

「一つは漢軍旗ではなく自身の名と想われる『曹』の旗を掲げておりました。さらに私が個人的に見知っている顔を見かけました。旗に掲げられた一文字も合わせれば答えは明白となりましょう」

 

 そこで言葉を切ると思春は俺の顔を見る。

 俺にもここまで聞かされれば相手が誰であるか予想が付いていた。

 

 今の時代、領土を持つ者はすべて漢王朝という国の兵であり、旗は漢で統一されている。

 そこをあえて違う旗を掲げるという事は漢王朝という枠組みの中にあって己を誇示するという事になる。

 この時代では生半可な覚悟では出来ない事と言えた。

 そんな事が出来る『曹』を持つ者、加えて思春が個人的に見知っているとなればかつて陳留で出会ったあの三人のいずれかだろう。

 

「「曹孟徳の軍勢」」

 

 俺と思春は意図せず同時に勢力の正体を口にした。

 

「夏侯妙才、夏侯元譲の指揮する姿を見かけました故、まず間違いないかと」

 

 どうやら戦場での最初の再会は肩を並べての物になりそうだ。

 

「ふぅん、やっと会えるのね。あの曹孟徳に」

 

 雪蓮嬢の気配が、剣のような鋭さを持つ者に変わる。

 

「雪蓮……気持ちは分からなくもないがそう逸るな」

「どうせすぐに戦場で相見える事になりましょう。今からそう殺気立つ事もありますまい」

「……そうね」

 

 鋭い気配が鎮まるが、それは外に出さないようにしただけでこの子の中では未だに剣が入念に研がれている事だろう。

 

 まぁ戦意が高い分にはいい。

 暴走されるのは困りものだが、最近ではあの病気はまったく出てこなくなっている。

 あの誓いもあるし、ここでの心配は無意味だろう。

 

「曹孟徳がいる事はわかった。他の勢力がどこかわかっているのか?」

 

 話を変えるように俺から思春に水を向ける。

 彼女は一度咳払いをすると自身が注目されたことを確認して他勢力について語りだした。

 

「他はすべて漢軍旗のみのため、推測交じりになります。まず騎馬兵がすべて白馬で構成されていた事から幽州の勇『公孫賛(こうそんさん)』」

「おお、趙雲たちが向かった先ではないか」

「もしかしたらこの場にも来ているやもしれませんね。公孫賛は北部の山賊へ備え、実戦経験も豊富な勢力と言えましょう。特別に調練された白馬による行軍の速さは幽州随一。油断していい勢力ではありません」

 

 

 公孫賛伯珪(こうそんさん・はくけい)

 後漢末期の動乱で有力な将軍として頭角を現し、後の世にて群雄の一人として立つ事になる北方の勇将。

 北の異民族から領地を長年守り続けた存在で、異民族からは白馬長史と恐れられていたと言われている。

 黄巾の乱、反董卓連合以降の群雄割拠の時代で以前から確執のあった劉虞や袁紹と敵対。

 転がり落ちるように勢力を落とし、最後は袁紹に攻め入られた折に自らの居城に火を放ち、家族ともども自害したとされる。

 彼が敗れた要因の一つとして、彼が迫害した名士層が袁紹に付いた事が挙げられている。

 伝え聞く人格としてはそこまで善良でもない。

 自身が優遇した豪商人は至る所で悪さを働いたと言われている事から、人を見る目はなかったと言われている。

 公孫賛は人事に自身の私情を挟むことが多かったらしく、それが結果的に自分の首を絞める事に繋がった印象が強い。

 一説では盧植の元で劉備と共に学んだとされ、劉備三兄弟を一時期配下に置いていたと言われている。

 

 

「西方には大規模な軍勢。こちらは漢軍旗と共に『皇』の旗があったことから正式に黄巾党征伐の命を受けた『皇甫嵩』将軍だと思われます」

「都の正規軍……それも名声轟く皇甫嵩殿か。朝廷、いや十常侍の討伐への意気込みはどうやら本物のようだな」

「朱儁殿と肩を並べる漢軍が誇る将軍の筆頭、いえおそらく最も実力を持つかの方をこの役割に置いたわけだしね。遊びは一切ないって事よね」

 

 蘭雪様の代からの縁を持つ朱儁将軍。

 彼女を押しのけ、漢へ忠誠を誓う猛将として最初に出る者『皇甫嵩義真(こうほすう・ぎしん)』将軍。

 そんな彼を遣わせたという事実が、朝廷の本気を物語っている。

 

「まぁ十常侍の一角が『黄巾党と思しき人間』に殺されたのならば、いくら世俗に興味がない連中と言えど全力になるだろうさ」

 

 冥琳嬢は暗に『そこまで目に見える形で自分たちに直接的な被害が無ければ十常侍は未だに黄巾党の事など気にも留めなかっただろう』と言いたいのだ。

 この場にいるすべての人間が彼女の言葉の意図する所を把握している。

 

 十常侍が我関せずだった黄巾党討伐に乗り出した理由。

 それは冥琳の言葉通り、黄色い布をつけた人間によって十常侍の一人が殺害された事が原因だった。

 お供を引き連れて都の外へ出ていたらしいそいつは、今まさに都を襲おうとしていた黄巾党の一団と遭遇してしまったのだ。

 

 これがもしもどこかの領主の軍隊であったならば、異様に豪奢な馬車と護衛する身なりのよい兵士の姿を見れば何かを察して頭を垂れただろう。

 名うての賊の類であったならば連中に対して手を出すべきではないと冷静に、そして狡猾に判断して回れ右をするかもしれない。

 

 しかし黄巾党はそのほとんどが農民の集団だ。

 彼らから見た場合、政権を牛耳る十常侍と言えども身なりの良い貴族としか見えず、むしろ『格好の獲物』でしかない。

 権威を見せつけようと無駄に豪華な武装をした護衛もまた同様。

 むしろ十常侍と聞いても、それが何を示すのかわからない可能性すらあるだろう。

 加えて他者からの強奪に酔いしれていたとすれば『目に見えない権威』など通用するはずもない。

 

 結果、 いつも通り居丈高に振る舞った十常侍は数の暴力で蹂躙されてしまう事になる。

 身包みをはがされた上に、たかが農民と侮蔑する態度が彼らの不興を買う事で死んだ後の身体すらもズタズタにされてしまった。

 十常侍の身元が割れたのは、這う這うの体で逃げ帰った『護衛』の報告があったからこそだ。

 そうでなければ誰が誰だかわからない状態だったそうだ。

 

 黄巾党は高慢ちきな貴族を自分たちの手で倒した事に気を良くし、戦利品を手に意気揚々と帰ったのだろう。

 それが自分たちの滅亡の要因になるだなんて考えもしなかったはずだ。

 

 これらの情報を俺たちは周洪からの密書で知った。

 とはいえこの事件には違和感がある。

 例えば数の差は明らかであったにも関わらず『都合よく報告が出来る程度に無事な状態の護衛が逃げ出したこと』などがそうだろう。

 勢い任せとはいえ、彼らの上流階級に向ける怒りは本物だ。

 そんな彼らの執拗な追跡から逃れられるような者がいたという事実には作為的なものを感じる。

 どこの誰の謀かまではわからないが『十常侍の重い腰を上げさせる為に仕組まれた出来事なのではないか?』と考えられている。

 少なくともこの場にいる面々の中ではこれは共通認識である。

 

「それと皇甫嵩将軍の軍勢の中で異なる旗を掲げた軍勢がありました。旗は『呂』」

 

 明命の補足に雪蓮嬢と祭が首を傾げた。

 

「『呂』? ……皇甫嵩傘下にそんな姓を持って戦場に出る人なんていたかしらね?」

「いないとは言い切れんが……自分の旗を掲げる事を認められているほどの強者、あるいは権威を持つ者となると儂には思い当たる節がないな」

 

 冥琳嬢は目を細めて顎に手を当てて無言のまま思案し、慎は米神をとんとんと叩きながら記憶を掘り起こしている。

 俺は少なくとも片方にすぐ思い当ってしまったわけだが。

 

「確か今の代将軍何進(かしん)の命を受けて都に『丁原』が来ていたな?」

 

 俺の言葉を受けて『呂』の旗の正体に思い当ったのだろう。

 場の空気が緊張を増していく。

 

「なるほど、噂の『呂布』が黄巾党討伐に派遣されたのか」

「何進が丁原を都に呼び寄せた理由は十常侍との確執だろうが、十常侍を経由して帝から戦力を派遣せよと命じられれば丁原に拒否する事は出来ない。呂布は調査した性格ならば要請を断る事はないでしょう。可能性は高いですね」

 

 厄介な味方が現れたと言わんばかりの冥琳嬢の言葉には苦笑いするしかない。

 なにせ入手した情報だけ見ても、人間離れした能力を証明している。

 戦場を荒らすだけ荒らす人型の台風。

 下手をすれば手柄を根こそぎ奪われるという事もありえるほどの能力は早い物勝ちのような今回の戦いでは実に厄介だ。

 

「つまり今回の戦は、より迅速に事を為す必要が出てきたわけじゃな」

「元からそういう方針だったけど、思ったよりも他の軍勢が多いからね。奇襲目的で痕跡を隠して潜んでいたけれど、これは事を急がないと何も出来ずに終わるかも……」

 

 祭と慎の懸念は正しい。

 あちらもまだ様子見ではあろうが、隠れる事なく布陣している様子を見るに黄巾党側を挑発する意図が少なからずあるのは明白だ。

 追い詰められている自覚の有無は兎も角として黄巾党は憎き官軍がそこに在れば釣れてしまうだろう。

 

「雪蓮嬢、冥琳嬢。あまり悠長に構えてはいられない状況になってきた。これから俺たちはどう動く?」

 

 俺は意見具申する前にあえて今回の主役である二人に水を向ける。

 俺の言葉を切っ掛けに皆の視線が二人へと集まった。

 

「冥琳、私たちが手柄を立てる策はあるかしら?」

 

 臣下の視線を真っ直ぐに受け止めた雪蓮嬢は、傍にある最も信頼する朋友へ問いかける。

 

「無論だとも。その為には……刀厘殿、貴方に少し骨を折っていただかねばなりません」

 

 俺を名指した言葉に対して、俺は地面に片膝を付いて手を組み頭を垂れて応えた。

 

「何なりとご用命ください」

 

 この四半刻後、俺は祭と思春を伴い、自分の隊を率いて『曹』の旗を掲げる軍勢の元へと向かうことになる。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十四話

 俺は隊の精鋭五十人と祭、思春を引き連れて『曹』の旗の軍勢の元へ馬を走らせる。

 

 俺たちが華琳の元に向かうのは交渉を行う為だ。

 今この場にいる諸公は自ら出向いた以上、黄巾党討伐において一定の成果を求めているのは間違いない。

 

 しかし皇甫嵩将軍が現地にいるというのが厄介な問題となる。

 朝廷直属の正規軍最高責任者の強権によって手柄を取った所で横からかっ攫われる可能性がある為だ。

 朝廷から領土を賜っている立場の俺たちは、どうしたって彼よりも立場は下であり、これを拒否する権利は無いのだ。

 よって中途半端な介入では手柄どころか、黄巾党本隊と戦ったという事実すらも正式な記録に残らないかもしれない。

 この辺りは皇甫嵩将軍の性質にも寄るが、過度な期待はしない方が賢明だろう。

 

 となれば『誰が見てもわかる形』で手柄を上げなければならない。

 皇甫嵩将軍に対して従順に対応すれば、少なくともこの場にて参戦した事実だけは確実に残るだろうが。

 それで良しと出来るかどうかはまた別の話だ。

 

 うちは勿論、華琳もそうだろう。

 生半可な成果で終わらせるつもりはない。

 そしてその為に他勢力を利用する事に躊躇いはないだろう。

 

 錦帆賊討伐の際には朝廷から『朱儁将軍を頭領とした討伐軍を結成する事』を命じられていた為、一つの軍隊として足並みを揃えて行動する必要があったが今回、朝廷から出たのは『討伐せよ』という命令のみ。

 よって『討伐そのものが早い者勝ち』という構想が成り立つのだ。

 

 であるならば。

 黄巾党、より厳密に言えば張角らの首級を取る為にそうと悟られないように他勢力同士で足を引っ張り合い事も充分に考えられる事。

 

 俺たちが交渉によって取り付けたい約束は三つ。

 黄巾党本陣へ切り込むまでの協力体制の確約。

 張角らの首をどちらが取るかは早い者勝ちである事の確約。

 その結果について互いに物言いを付けない事の確約。

 

 華琳ならば自らの誇り高さ故に、例え口約束であっても取り付ける事が出来れば破る事は無いだろう。

 約束事の裏を掻く事は充分にあり得るが、それはお互い様だ。

 

 動いているのは別に俺だけでは無い。

 雪蓮嬢、冥琳嬢は皇甫嵩将軍への顔合わせに向かっている。

 ここが戦場とは言え上位者への挨拶を怠るわけには行かないのだ。

 戦場では何が起こるかわからない。

 敵対する意志がない事を示す意味でも顔合わせは必要だ。

 

 相手からすれば我々は十把一絡げの諸侯に過ぎない。

 名の一つも覚えてもらわうにはこういう営業活動のような事もしなければならない。

 そして彼女らが時間を稼いでくれている間に俺たちは華琳の元へ、慎は陸遜嬢を伴って公孫賛の元へ根回しに向かっているわけだ。

 公孫賛については顔見せと軍の分析も兼ねているため、直接顔を合わせる使者とは別に明命が隠密行動を取っている。

 残った部隊はいつでも出られるよう準備しており、合図一つで合流可能だ。

 

 

 

 そして今、俺たちは近付いてくる不審な部隊を前に迎撃体制を整えた『曹』の旗を持つ軍と相対している。

 

「何者かっ!」

 

 この場を取り仕切る隊長の言葉に馬を下り、その場に片膝をついて頭を垂れる。

 

「建業太守孫伯符の名代として参りました。凌刀厘と申します。黄巾党討伐の勅命を賜った同士と見込み、ご挨拶に伺いました。お目通り願えますでしょうか」

 

 俺に倣って祭、思春、部隊の皆もまた片膝をつき頭を垂れる。

 

「建業太守……それに凌刀厘!?!? 顔をお上げください! おい、将軍と太守にこの事を伝えろ! 急げ!!」

 

 名乗りに不備はなかったと思うのだが、あちらは何やら慌てて動き出した。

 とりあえず許可が下りたので立ち上がる。

 

 俺や隊員たちが立ち上がるのとほぼ同時におそらく報告に向かったのだろう兵士を引きずりながら、砂煙を上げて春蘭が現れた。

 

「お久しぶりでございます! 凌刀厘様っ!!!」

 

 俺の前に来るなり、引きずっていた兵士から手を離して九十度のお辞儀。

 お辞儀の勢いで砂埃が発った。

 この子は相変わらず何事にも全力だな。

 勢い余って手を離された兵士がごろごろ転がっていく姿が哀愁を誘っているが。

 

「お久しぶりにございます、夏侯元譲殿。しかしここは公の場であります故、対外的に示すべく態度という物を弁えるべきかと……」

 

 あえて謙りながら諫めると、春蘭はあからさまに「しまった」という顔をして周囲を見回す、いや睨み付ける。

 周りの兵士たちは上司の睨み付けを『今見た物は無かった事にするべきもの』と理解を示し、無言のまま素知らぬふりでそれぞれの職務に戻っていく。

 上司の理不尽極まりない要求に実に手慣れた対応である。

 うちの雪蓮嬢の扱いと被るものがあるな。

 

「ごほん、失礼した。用件をお聞きする故、名代とその護衛の者は私に続かれよ。我が主の元へご案内する」

「よろしくお願いいたします」

 

 やれば出来るんじゃないかという言葉を飲み込み、俺は返事を返す。

 目配せで祭、思春に同行するよう伝えてから彼女の後に続いた。

 

 

 彼女がいる場所は陣としては非常に簡易な天幕だった。

 外から見ても真ん中の柱と支柱を倒せば簡単に崩せる事がわかる。

 天幕としている布も雨風だけを凌げれば良いという考えが伝わるほどの布切れしか使われていない。

 彼女ほどの名家ならば布一つとっても相当の物が扱えるし、今の時代は見栄が張れるという事も一種の格となっているのだが。

 『それ』をこうも容易く省いたのは単に迅速な撤収作業のため。

 見栄よりも実益という辺りが実に『彼女』らしいと俺は心の中で笑う。

 

「曹操様! 建業太守孫伯符殿の名代とその護衛二名、お連れしました!!」

 

 天幕の入り口に立ち、軽く頭を下げて声をかける春蘭。

 無駄に力の入った声は天幕の中はおろか陣地一帯に響いているだろう大きさだ。

 どこかで聞いているだろう彼女の妹がまた額に手を当ててため息をついているのが目に浮かぶ。

 

「入りなさい……」

「はっ! どうぞ、中へ」

 

 天幕の入り口が中にいたのだろう兵士によって左右に開かれる。

 春蘭に促され、中に入った。

 おそらく事前に言い含められていたのだろう、中にいた兵士たちが俺たちと入れ替わるように外へと出て行った。

 

 天幕の中で最初に目に入るのは簡易的な木製机だ。

 その上には作戦に関連するんだろう資料が広げられている。

 

 そして机を挟んだ奥にあの時と変わらない彼女がいた。

 わざわざ座っていた椅子から立ち上がって俺たちを視線で迎え入れると、春蘭が自身の横に着くのを待ってから口を開く。

 

「やはり貴方方もこの場所に辿り着きましたか。お久しぶりですね、刀厘様」

 

 人払いは俺たちと気兼ねなく話をする為の物だったようだ。

 であるならばこちらもそれに倣うべきだろう。

 

「俺たちとお前たちだけという状況だ。あえて謙るのはやめてこう返させてもらおう。久し振りだな、孟徳」

 

 いや変わっていないというのは語弊がある。

 金色の髪をツインテールにした少女は、その愛らしい見目にそぐわない覇気をかつて陳留を訪れたあの時よりもさらに強くしていた。

 俺の気軽な挨拶に少女らしくくすぐったそうに華琳は笑い、次いで付き従う祭へと視線を向ける。

 

「そして初めまして、黄公覆様。陳留太守曹孟徳と申します」

「孫伯符が臣下、黄公覆と申します。かの曹家ご当主にそこまで畏まられるなど恐れ多いのですが……」

「私どもは建業と曲阿を支え発展させ続ける貴方方に敬意を持っております。戦で相対したとしてもこの敬服の念が曇る事はないでしょう。どうか未熟な若輩者の言として受け入れてはいただけませんか」

 

 頭を下げる華琳に対して祭は春蘭、俺、そしてまた華琳と視線を彷徨わせてからやがて一つ頷くとカラリと笑った。

 

「そこまで言われてしまえば、こちらが折れるべきでしょうな」

 

 その表情はすぐに引き締められる。

 

「とはいえただ向けられる物を受け取るだけでは儂の気が済みませぬ。故にその敬意を受ける返礼として曹太守らの尊敬の念を受けるに値する者で居続ける為にも、高みを目指し精進していく事を誓いましょうぞ」

 

 その言葉に華琳は面食らったように目を瞬かせると、すぐさま上に立つ者に相応しい凄みのある笑みを浮かべた。

 

「私の言葉にそれほどの覚悟を持って応えていただけた事、望外の喜びです」

 

 言葉の意味そのまま喜んでいるのは間違いない。

 しかしそれ以上に『そうでなくては』という感情がこの子の笑みには宿っていた。

 この子はやはり己を頂点とした覇道を行く者であり、それを遮る者は須く叩き潰すつもりであり、そして立ち塞がる者には強くあって欲しいと願っているのだと理解できた。

 であるならば俺も追随するべきだろう。

 

「公覆の言葉はここにいる俺たちの総意と受け取ってくれて良い。甘卓もそのつもりだろう?」

 

 黙り込み、護衛としての任に集中していた思春。

 華琳と春蘭から視線を向けられた彼女は軽く頭を下げて黙礼すると、俺の言葉に一点の揺らぎもなく応えてくれた。

 

「無論です。むしろ誰かの敬意など無くとも私は生涯、『昨日の己に克つ』を心に精進してゆく所存」

 

 三者三様の言葉をどう受け取ったのか、華琳は実に楽しげな顔をしていた。

 それに釣られてか春蘭もまた楽しそうに笑っている。

 雰囲気が軽くなったのは良いことなのだが、とはいえ雑談ばかりしている訳にもいかない。

 

「さて再会と初対面の挨拶はこれくらいにして……用件に入ろう」

 

 俺の言葉に場の雰囲気が引き締まる。

 

「はい」

 

 この後の話し合いには偵察に出ていたらしい秋蘭も合流した。

 相変わらず涼やかな雰囲気を纏った彼女は俺たちの存在に驚いた素振りもなく挨拶を交わし、華琳の傍に付いて話し合いに参加していた。

 気のせいでなければ俺と話す時には僅かに気が揺れていたように見えたが、あれは何だっただろう。

 

 それはともかく予定していた三点の約束については滞りなくあっさりと取り付ける事が出来た。

 

 どうやら皇甫嵩陣営に呂布がいる事が分かっていたため張角らの身柄を押さえるにはどこかの勢力との協調が必要だというのは最初から考えていたらしい。

 最終的に早い者勝ちになるのは彼女たちも理解しているが、それでも協力出来る勢力が我々であるのは心強いと全幅の信頼を寄せられている。

 

 最後まで共に、とはいかない。

 いずれ敵対する事もほぼ確定してしまった。

 しかしそんな殺伐とした間柄ではあるが、今この時向けられる信頼には応えたいと俺は思った。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十五話

 華琳と約束を取り付けたすぐ後。

 公孫賛の元へ向かっていた慎たちからの伝令として明命がやってきた。

 先に雪蓮嬢、冥琳嬢の元へ行っていたらしく、あの子たちからも言付けを預かっていたようだ。

 

 最初から華琳たちにも聞かせる腹積もりだったようで、曹操軍の本陣までやってきたあの子は華琳たちに頭を下げると誰に憚れる事なく言付けの内容を口にした。

 

「凌隊長及びその部隊は『合図』と共に黄巾を遊撃せよとの事です。祖隊長、伯言殿及びその部隊は公孫太守の陣を既に立ち、森に待機させた部隊と合流。隊を二つに分け、それぞれ本隊及び凌隊長との合流を目的に移動中です」

「主と軍師は如何様に?」

「部隊共々このまま将軍の元に残り、黄巾党の根城に正面から攻め入るとの事です。将軍直々に直掩に命じられたと……」

 

 雪蓮嬢たちの状況に俺と華琳の眉が上がる。

 

「将軍直々に直掩? 孟徳、目をかけられた事を素直に喜ぶべきだと思うか?」

 

 俺の懸念を理解してくれた彼女は、肩を竦めながら即応する。

 

「他の太守ならば自前の勢力を傷つけない為の体の良い壁扱いでしょう」

 

 そうだろうな、と俺は同意する意味で頷く。

 

「都の正規軍からすれば、うちは格下の領主でしかない。少しでも消耗を少なくするために利用しようとするのが妥当というか順当な扱いだろうな」

 

 納得は出来ずとも理解できる話だ。

 俺の言葉に天幕にいる面々が真面目な顔で頷き返すと華琳は話を続けた。

 

「あるいは私のように家柄の権力を持っていれば上手く言って単独行動する事も可能でしょう。しかし直接命じられた事、孫伯符殿の立場を考えれば、その行動は相当に制限されるものと推察出来ます」

 

 華琳は自分たちが既に皇甫嵩将軍とお目通りをしており、曹家としての力を使って官軍の指揮下に入る事態を逃れている事を告げる。

 その手が俺たちに使えない事など知った上での発言には、力の差を知らしめて心理的に優位に立とうという思惑の軽い牽制が込められていた。

 その上で彼女は自らの発言を翻す。

 

「しかし皇甫嵩将軍は麾下の精鋭と呂奉先を連れている状況。足並みの揃わない外来部隊を壁扱いであっても直前に引き込む意味はありません」

 

 華琳の推察に今度は祭が口を挟んだ。

 

「そうじゃな。普通ならわざわざ息の合う自前の部隊があるところに異物を混ぜる意味はない。漢王朝が誇る将軍ともあろう人物がそれをわからない訳がないだろうしの」

 

 現在の漢王朝における最高戦力と言っても過言ではない軍勢。

 そんな中に生半可な戦力、あるいは息の合わない戦力を新たに加えた所で足手纏いでしかない。

 俺が劉備たちの協力を蹴ったのと同じ理由だ。

 

 精強だという自負はあれど、皇甫嵩将軍側にそれがどこまで伝わっているかは未知数。

 だというのにあえて雪蓮嬢たちを同道させる理由とは何か?

 

「他の思惑があると考えます。それが何かまでは私にはわかりませんが……」

「おそらくそうなんだろうな。とはいえこちらも別の意図があったとしてもそれを読むには情報が足りないのが正直な所だ」

 

 華琳の意見は大筋で俺と一致していた。

 

 ただ彼女が知っているかどうか定かではないが、あるいは朱儁将軍から何か聞いている可能性があると俺は考えている。

 錦帆賊討伐の折に多少なりと縁を結んだ女傑は、皇甫嵩将軍と轡を並べる存在だ。

 蘭雪様が率いる俺たちに何かしら思うところがあった彼女が、彼に何か口添えしている可能性はあるだろう。

 だがこれについてはあえて口に出す必要はない。

 何から何まで情報共有するつもりはないのだ。

 それは華琳とて同じ事。

 まぁ朱儁将軍と孫文台との繋がりは割と有名だから知っている可能性は高いし、そこから口添えられたかもしれないという事にも華琳たちなら容易く辿り着くだろうが、それは置いておこう。

 

「必要とあればどういう意図かしっかり調べる必要があるが……今は心の片隅に置いておくくらいでいいだろう。調べるだけの時間もない」

「人の壁としてだとしても、他に意図があるのだとしても、先陣を切らされるというのであれば伯符様からすれば望みの展開じゃろうしの。あちらに合わせてこちらも動くわけじゃし」

 

 雪蓮嬢はあの病気こそ見なくなったものの根本的に戦を好む性質なのは変わらない。

 戦いになる事に内心浮き足立っているだろう事は想像に難くなかった。

 

「俺たちは命令通りに遊撃として動く。俺と思春で近接戦闘の隊を指揮、祭には弓主体の遠距離部隊を任せる」

「御意に」

「応さ」

 

 命令通りと言っても言われている事は遊撃しろの一言だけ。

 ならばどう行動するかはこちらに一任されているという事なので、今回の場合は隊が最高の状態で行動できるよう分けるくらいな物だ。

 

「そちらはどうするつもりだ?」

 

 水を向けると華琳は気品があり、しかし猛々しいという矛盾した笑みで応じた。

 

「せっかく共同戦線を確約したのです。こちらからも遊撃に部隊を出させていただきますとも。元譲! 妙才!」

「「はっ!!」」

 

 控えていた二人の声が唱和する。

 

「二人と麾下の部隊を同行させます。刀厘様の部隊に元譲、公覆様の部隊に妙才がよろしいかと」

「承知した。ではこちらも準備に入るのでお暇させてもらおう」

 

 一度深く礼をし、天幕を後にするべく背を向ける。

 俺の後に続く祭、思春。

 天幕を出る瞬間、華琳から激励の言葉が届いた。

 

「ご武運を」

「お互いにな」

 

 簡素に、しかし意図は伝わるだろう返答をして俺は改めて気を引き締めた。

 

 俺たちが遊撃に出ている間に華琳たちも独自に張角らの確保に動くのだろう。

 そちらへの警戒を目配せで明命に任せる事を忘れずに。

 

 

 それぞれ出撃の準備を行い、別行動の隊が合流して一刻ほどの時間が経過した頃。

 大銅鑼の音が戦場になる空間に響き渡った。

 いよいよ皇甫嵩将軍の本隊が動くようだ。

 

 次いでそれに合わせて甲高い音を立てて空を飛ぶ矢が一本。

 煙を放ちながら天に昇るそれはやがて大きな音を立てて爆ぜた。

 

 あらかじめこちらが用意していた『合図』の一つだ。

 本数によって伝える意図が異なり、一つだった場合は単純なものだ。

 意味は『攻めろ』。

 

「凌操隊、出撃ぃいいいいいいいっ!!!!!!!」

 

 大銅鑼に負けぬ俺の叫びに、隊の皆が鬨の声が応える。

 三国志という歴史において始まりであり、漢王朝の終わりの切っ掛けと言えるだろう乱を終わらせる為に。

 

 

 大銅鑼は黄巾党討伐混成軍への合図である。

 しかし今回は味方だけではなく、敵にも影響を及ぼしていた。

 具体的には銅鑼の音に黄巾党の軍勢までも釣られて砦から飛び出してきたのだ。

 

 無論、こちらがやる事は変わらないのでそのままぶつかり合う正規軍と黄巾党を横合いから殴りつけにかかったわけだが。

 

「うお、なんだてめぇらっ!?」

「敵以外の何に見えるっ!!」

 

 一対多の戦いは素手よりもこの変節棍が有効だ。

 両手に一本ずつ持って殴りつけ、二本繋いで胴を突き、三本繋いで振り下ろし、四本繋いで薙ぎ払う。

 武の心得を持たない者がほとんどを占める黄巾党の者たちはこの変幻自在の間合いに対応する事が出来ず、ただただ倒れ伏していくのみだ。

 勿論、俺だけが戦っているわけではない。

 

 

「以前は腕を競い合うような状況ではなかったな。此度はどちらが敵を倒すか競うというのはどうだ、甘卓」

「くだらん。そのような遊びに付き合う義理はない。貴様も武官ならば口を開くよりも得物を振るって武を示してみろ。夏侯元譲」

 

 視線で火花をばちばちと散らしながらも、本気で毛嫌いしている様子はなく。

 二人は目前の敵を前に正に競うように飛び出していった。

 

 二人の通り過ぎた後には草のように命を刈り取られた黄巾党の亡骸しか残っていない。

 先が楽しみというか末恐ろしいというか。

 とはいえこの二人に触発されて精を出す辺り、俺もまだ若いという事のようだ。

 

 

 

「改めましてお初にお目にかかります、黄公覆殿。音に聞こえし貴殿の弓術に我が弓がどこまで届くか、不躾とは思いますが試させていただきましょう」

「はっはっは! 実に良い気迫じゃ。その隙あらば食らおうとする目、そしてその不遜な物言いも実に良い。かかってくるがよいわ、夏侯妙才。容易く届かせるほど、我が腕は安くはないぞ」

 

 出撃前にこんな挨拶を交わしていた祭と秋蘭。

 己の弓術に絶対の自信がある二人は静かに闘志を燃やして矢を番えていたが、実に的確な射撃だ。

 二人の放つ矢は真っ直ぐに仲間たちの間をすり抜けて正確に敵のみを貫く。

 

 味方として援護を受けるとこの上なく心強い。

 逆に黄巾党側からすればどこからともなく飛んできた矢にいつ射貫かれるのかと戦々恐々だろう。

 黄巾党を慰めてやるつもりはない。

 しかし相手が悪すぎた事には欠片ほどの哀れみを抱いていた。

 

 

 

 俺たち遊撃隊がその役目を全うしている間にも戦況は動く。

 皇甫嵩将軍率いる討伐隊は遠目からでも分かるほどに圧倒的な力でもって黄巾党を蹂躙した。

 正面突撃を敢行した自信は伊達ではなかったという事の証明だった。

 

 そしてその中に文字通りの意味で黄巾党を吹き飛ばす者がいた。

 誰に言われなくともわかる。

 遠目でありながらその闘気は凄まじく、武器を振るう際の風切り音はこちらにも届くほど。

 

 ただなまじ力を付けていた俺にはわかった。

 あれが『本気で武器を振るっていない』という事が。

 むしろ周りの味方を巻き込まない為か、『かなり力を抜いている』のだと言う事が。

 

「『呂布』……」

 

 呂布について俺は以前、その力を大袈裟に脚色して雪蓮嬢たちに話した事があった。

 しかし実際の強さを見て思う。

 脚色などとんでもない。

 むしろまったくもって話の内容が不足だった事を痛感していた。

 三国志最強と謳われた武将は、俺の想定を遙かに超える桁外れの実力を持っている。

 

 呂布の強さを目の当たりにした黄巾党は戦意喪失して逃げだそうとするも、皇甫嵩将軍の部隊に追撃されあえなく命を落とす。

 戦意を失い、脇目も振らず逃げ出そうとする様を無様と見下す事は出来ない。

 それほどの闘気はお味方にすらも恐れられており、一部が呂布から距離を置いている様子も見て取れた。

 いつかの調査情報で連携が取れず、一人で部隊として扱われているという話があったが、それも理解できる人間台風ぶりだ。

 

 我ら孫伯符率いる軍勢でも直接対峙すれば気圧されないとは言い切れない。

 

 ただ俺は彼女の力を凄まじいものだと感じる反面。

 『それでも負けるつもりはない』と何の根拠もなく胸を張って言い切れるだろう自分がいる事にも気付いていた。

 

 呂布の見た目が義娘である福煌に似ていたからかもしれないし、子供を無条件で恐れる事を父親としての俺が忌避したからかもしれない。

 誰もついて行けない武を振るう彼女の姿に、寂しさを感じたからかもしれない。

 

 自分でも言葉にまとめられない不可思議な気持ちではあるが、俺はそれを否定しなかった。

 むしろこの気持ちを抱き続ける事が出来るよう、より一層の精進を心に決めていた。

 

 あの力に追いつくことは難しいかもしれない。

 だが勝つことは不可能では無い。

 ならば畏怖や敬意を持っても恐怖する必要は無い。

 

 

 まぁ個人的な感想は置いておこう。

 現状はあの人間台風とも言える武力は味方なのだから。

 巻き込まれないように注意しつつ、遊撃の任をこなすのみ。

 可能ならばあちらの動きを読み、誰よりも早く張角たちに肉薄、捕えられれば言う事はない。

 

 俺は自身の役割を再確認し、部隊の皆に声をかけて戦場を駆け回る。

 

 途中、公孫賛軍の中に武官になっていたらしい劉備たちを見かけた。

 とはいえこの場で関わるのは面倒この上ないので、気付かなかった事にして役割に徹し速やかに離れている。

 悪い意味で顔を覚えられている可能性が高い上に、絡まれると張角たちの身柄確保に影響するかもしれないが故の対応だ。

 

 趙雲や郭嘉、程立は見かけていない。

 武官志望の趙雲はどこかにいるかもしれないが、郭嘉と程立は内政向けだから領地に残っている可能性が高いだろう。

 

 そうして戦を続けることしばらく。

 皇甫嵩将軍、公孫賛軍が砦を制圧するべく閉ざされた正門をぶち破る事に成功する。

 

 ほぼ同時に砦から逃げ出す集団ありという報告が届き、本命である張角たちの身柄を巡っての早い者勝ち争いの火蓋が切って落とされる事になる。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十六話

 砦の正門が皇甫嵩将軍らの部隊によって破られた報を受けた俺は即座に頭に入れていたこの周辺の地図を脳裏に引き出す。

 この砦は平原のど真ん中にある。

 俺たちが潜んでいた森などもかなり距離が離れており、砦の四方に隠れる場所はほぼ存在しない。

 

 故に見晴らしの良さから敵の接近には非常に気付きやすく、砦の上からならばその動きも丸見えで対策も取りやすい。

 砦その物も下手な都市並みに大きく、なおかつ外壁は厚く造られており、防備に専念されると中々に厄介な堅牢さを持っている。

 物資が整っているという前提なら籠城戦などされてしまえば、攻め手側が撤退する事も充分にありえる場所だった。

 黄巾党がどうやってこんな場所を手に入れたかは知らないが、ここを拠点としたその判断は正しいと言えるだろう。

 

 しかしそこから逃走するとなると話が変わる。

 砦からの見晴らしの良さは、翻って逃げ出す者たちの動向をも容易く追っ手側に把握されてしまうからだ。

 

 砦からとある方向に飛ばされる矢が戦場の空を飛ぶのが見える。

 赤が交じった煙が尾を引いて伸びるそれは建業軍が取り決めた合図の一つ。

 意味は『矢が飛ぶ方向に標的あり』だ。

 

 それを見た俺たちの判断は速かった。

 

「矢の先へ向かうっ!! 黄蓋は宋謙殿含め、半数とこの場の鎮圧をっ!!」

「御意に。ここはお任せを」

「任せておけ」

 

 俺の言葉に宋謙殿と祭以外の返事はない。

 しかし意図が伝わった事は部下たちの一糸乱れぬ動きが示してくれる。

 

「矢を追い抜く気概で走れ!!」

 

 先陣を切って馬を走らせれば、無数の蹄の音が続いた。

 

「おおお、こいつらを止めろぉおお!!」

 

 戦場をぶった切るように進む俺たちを足止めするように立ち塞がる黄巾党。

 しかししっかり調教された軍馬は、よほどの事がなければ止まる事はない。

 

「邪魔だっ!」

 

 四本連結した棍に馬の速度を乗せた横凪ぎ。

 呂布ほど派手ではないが、通せんぼしていた黄巾党はまとめて吹き飛んでいった。

 

 だが敵も中々にしつこい。

 すぐ様、空いた穴を埋めるように数人が武器を振り切った俺の隙を突こうと飛びかかってきた。

 それに対処するべく俺の後ろから飛び出す二つの影。

 

「あたしらの道を阻むんじゃないよっ!!」

「どいていただきますっ!!」

 

 董襲の三節棍、賀斉の棍棒が賊徒を叩き落とし、その間に俺は速度を落とす事無くその場を駆け抜ける。

 

 矢によって示された方角を見やれば、そう遠くない位置に戦場から遠ざかろうとする一団が見えた。

 逃走するにしてはあまりにも鈍足なその一団。

 お粗末にも馬の一頭もないようだが、周囲を警戒しながら進む姿は至る所でぶつかり合う戦場において目を引き過ぎた。

 

「あれかっ!!」

 

 同時に同じくらいの速度で一団に向かう者たちが見えた。

 旗は『曹』。

 夏侯惇、夏侯淵は俺よりも後に動き出した。

 思春と祭が僅かでもさりげなく足止めしてくれたお蔭で、俺たちよりも初動は遅いはずだ。

 あれは曹操麾下の、張角捕縛の為に伏せていた部隊だろう。

 やはり簡単に出し抜かれてはくれないな、あの子は。

 

 今のところ、お互いに標的に辿り着く速さは同じ程度。

 突撃後の乱戦でどちらが早く張三姉妹に接触出来るか。

 運を天に任せる、というのは性に合わないが。

 

「全力を持って突撃っ!!」

「「「「「おおおおおおおおーーーーーっ!!!!」」」」」

 

 雄叫びを上げながら俺たちは逃亡する部隊へ突撃した。

 

 

 

 結果だけ言えば、俺たちは張三姉妹を取り逃がした。

 張角らは曹操の部隊が捕縛、その場で処刑したと『聞いている』。

 

 張角らを直接守る立場にいる黄巾党は、他と比較して確かに強かった。

 張角たちを守るべく鍛えていたんだろう。

 加えて彼女らを逃そうとする気迫も凄まじい物があった。

 つたない技量を心で補った彼らはあの時、自分の実力以上の力を発揮していただろう。

 

 しかし、それでも俺たちの敵ではなかった。

 一合で蹴散らされていく彼らの信じられないと言わんばかりの表情は良く覚えている。

 

 俺たちにとって黄巾党は壁にもなりえなかった。

 だが俺たちは運の悪い事に、張角たちのいる場所からもっとも離れていた場所に『先陣を切って』攻撃してしまったようだ。

 

 敵は俺たちに群がり、張角たちは俺たちと反対方向に逃れていくのは当然の流れ。

 曹操の部隊にももちろん敵は向かっただろう。

 しかし一番最初に甚大な被害をもたらした俺たちの方により多くの敵が吸い寄せられてしまった。

 

 俺たちと曹操たちの部隊の明暗はそこで分かたれた。

 

 より早く突破した曹操の部隊は遠ざかろうとする一団を瞬く間に追い詰めていく。

 俺たちはそれを手の届くような距離で見つめながら露払いに専念する事しか出来なかった。

 

 

「してやられたの、流石は曹操と言ったところか」

 

 張角たちの討伐が為されたという情報が戦場を駆け巡り、完全に戦意喪失して逃げだそうとした黄巾党の追撃を終えた頃。

 苦笑いと共に現れた祭に、俺も同じように苦笑いで返した。

 

「ああ。あちらの方が上手だった。闇雲に攻め入ったつもりは無かったんだが……」

 

 運とは言ったが、冷静な頭で思い返してみれば今回の失敗はそれだけが要因ではなかった。

 俺は冷静に彼我の能力を見極めていて、だから先制突破が可能と判断した。

 実際、敵に関しては誤差はあっても俺の定めた最悪にはとうてい届かない力だった。

 

 しかし戦局とは生き物のように行動一つで変化する物。

 俺が行動した結果、戦場は曹操たちに利する形になってしまった。

 せめて同時に仕掛けていれば結果は分からなくなっていただろう。

 あるいは祭たちによる弓の奇襲で逃亡する一団の動きを止めていれば。

 

 後からなら状況に対処する策はいくらでも沸いてくる。

 これがあの戦場の真ん中で思い浮かばなかった事こそが敗因だろう。

 文句の付けようもない敗北だ。

 

「見事だった。今回は俺の、引いては建業の負けだ」

 

 張角たちの首をこちらの手勢で討ち取るという最大目的は果たせなかった。

 

「凌刀厘殿、黄公覆殿」

 

 涼やかな声に呼ばれ、そちらを見れば自らの手勢を率いた夏侯淵の姿。

 

「我々は孟徳様の元へ向かいます」

「承知した。お主らの鍛え抜かれた弓技、そして夏侯妙才の見事な指揮、しかと見せてもらったぞ」

 

 にやりと笑う祭に秋蘭は「もったいないお言葉です」と軽く頭を下げる。

 

「何か主へ言付けはございますか?」

 

 俺を見つめそう告げる秋蘭に、俺は顎に手を当てて数秒だけ考えるとこれだけを伝える事を頼んだ。

 

「見事だった。だが次は勝たせてもらうぞ」

 

 秋蘭はとても嬉しそうな顔をして頷き、馬を走らせて去って行った。

 

 この笑顔は伝言を受け取った華琳とその場に居合わせた春蘭も同じだったらしいが、俺がそれを知るのはだいぶ先の話だ。

 

「では俺たちも本隊と合流するか。一先ず砦に向かう」

「おうさ。さてあやつらの方はどうなったかのぉ」

 

 ぐっと伸びをする祭に釣られて首を回して凝りをほぐす。

 

 黄巾党との戦いはこれで終わりだろう。

 だが乱世はまだ始まったばかり。

 

 これから大陸がどう動くのか、その中で俺は何をどう決断するのか。

 隠居などまだまだ先の話になるだろうな。

 

「総員騎乗!」

「「「「「おうっ!!」」」」」

 

 俺の声に唱和し、一糸乱れぬ動きで馬に乗り込む部下たち。

 彼らを引き連れ、横に祭を連れて、俺は砦を目指して馬を走らせた。

 

 

 

「……似てる」

「呂布殿、どうかなさいましたか?」

「……なんでもない。ちんきゅー、早く戻る」

「はい、皇甫嵩将軍の下へ戻りましょう!」

 

 遠くから俺を見て何事かを呟いている三国志最強の武将がいた事など露とも知らず。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十七話

 俺と祭は一応の護衛を数人連れ、隊の事は賀斉と董襲に任せて砦の中へと入っていく。

 

 砦の中は制圧されたにしては綺麗な状態だった。

 圧倒的な実力差があったからか、黄巾党の死体はあるが討伐軍と思しき死体は見られない。

 斬り付けるような一撃で命を奪われた死体が多いのは、雪蓮嬢や春蘭のような実力の高い武官が最前線を駆け抜けたからだろう。

 

 しばらくして皇甫嵩将軍から直掩の任を解かれたらしい雪蓮嬢、冥琳嬢と合流する。

 

「皆、無事~~?」

「ご無事で何よりです」

 

 緊張感のない雪蓮嬢とかっちりとした冥琳嬢の言葉に俺は自然と笑みを浮かべた。

 

「そちらも無事のようで何より。軽い報告ですが我ら側の被害は軽微ですな。怪我人の応急処置も既に終わっております。儂と刀厘については見ての通りじゃ」

 

 祭の報告に冥琳嬢がほっと安堵の息を付いた。

 

「しかし首魁の首級を取り損ねました。申し訳ありません。曹孟徳らの誘導に気付かず利用された己の未熟を恥じるばかりです」

 

 今回の遠征における最重要の目的を果たせなかった事を詫び、その場で頭を垂れる。

 建業軍で最も張角たちに肉薄していながら、その顔を拝む事すらも出来なかった。

 この失敗の罰、その沙汰を聞くために俺は頭を垂れたまま雪蓮嬢たちの言葉を待つ。

 

「それだけあちらが上手だったって事でしょう? 次に同じ事を繰り返さなければいいわ。貴方だってこのままで済ませるつもりはないんでしょ?」

「無論です」

「ならいいわ。そうね、罰があるとすれば今回の責を負って貴方が軍を辞める事を建業太守として、そして孫家当主として許さない。これが貴方への罰よ」

 

 罰にもならない罰を告げると、雪蓮嬢は頭を垂れた俺の肩を軽く叩き立つように促す。

 促されるままに俺は立ち上がり、してやったりと猫のように目を細めて笑う当主殿の顔を見つめた。

 俺が決意を込めて笑い返すと彼女は満足したように頷く。

 

「既に撤収する許可は皇甫嵩将軍より頂いております。この砦は将軍麾下の兵が調査の上、接収するとの事。手早く軍をまとめて建業へ帰還いたしましょう」

 

 俺たちの会話が一段落したところを見計らった冥琳嬢の言葉に全員の返事が唱和する。

 即座に俺も含めた各員が撤収作業のために散る。

 その慌ただしさの中、俺は雪蓮嬢のぼそりとした声を拾っていた。

 

「……曹孟徳。良いように利用してくれた借りは必ず返すわ」

 

 本当に頼もしくなったものだと、俺は口元を綻ばせていた。

 

 

 

 そんな朗らかな気分で撤収準備をしていると、公孫賛の軍勢とすれ違う。

 無礼にならぬよう通行させるための道を空け、通り過ぎるのを待った。

 

 先頭を歩く薄桃色の髪の女性が白馬長史と謳われる公孫賛か。 

 一軍を率いる姿に余計な気負いは感じられない。

 自領で異民族や山賊を相手取っているが故の慣れか。

 

 そんな公孫賛のすぐ後ろに見知った顔がいた。

 彼女、趙雲もこちらに気付いたらしい。

 面白そうに目尻を下げて、目線だけで頭を下げる。

 俺も返礼するように軽く目線を下げると、それだけで満足したのか俺から視線を外す。

 趙雲がどういう立場にいるかは知らないが、自分が会話するために軍の動きを乱すような真似はしないという事だ。

 おそらく皇甫嵩将軍に会いに行こうというところなのだろう。

 気持ち駆け足気味に目の前を通過していく彼女らを尻目に、俺もその場を後にしようとする。

 

 公孫賛の一団の最後尾にまたも顔見知りがいる事に気付いた。

 彼女とその麾下の者たちが堂々とした振る舞いをしているからか、最後尾にいる少女らははっきり言って浮いていた。

 そう、何があったか公孫賛のところにいるらしい劉備たちだった。

 

 正直なところ、以前の接触が接触だったために公的な立場を持った今のような状況では会いたくない手合いだ。

 声をかけられ、あまつさえあの時の事を言及されるなどただただ面倒な事にしかならない。

 

 俺は気付かなかったという事にして無視する、という結論を弾き出してその場を去って行った。

 

 劉備は気持ち駆け足の公孫賛たちに付いていくのが精一杯でこちらに気付かなかったようだが、関羽と張飛はやはりこちらに気付いた様子だった。

 しかし公孫賛軍の一員としての責任感か、または別の思惑からか声はかけてこなかった。

 

 俺としては内心はどうあれ、この場で声をかけられなかったのはありがたい。

 この後、絡まれる可能性を考えてさっさと撤収準備を終えてしまおう。

 

 

 

 そう思った矢先に別の人物に絡まれてしまった。

 

 隊の者たちの撤収を指示していたところ、彼女は背後から何の前触れもなく声をかけてきた。

 戦場での鬼神が如き雰囲気は無いが、大体の兵が黄巾党相手に振るわれた武勇を見ているためにその正体を知っている。

 

「……ねぇ」

「! これは失礼をいたしました。なにか御用でしょうか、奉先将軍」

 

 振り返りその人物が誰か理解した俺は膝を付き、頭を垂れながら用件を窺う。

 あちらの方が圧倒的に立場が上のため、公的な軍人として動いている今は謙る必要があるが故の態度なのだが。

 

「顔上げて。礼も要らないから立っていい」

 

 彼女はどういう訳か、俺の態度が不服らしい。

 抑揚の薄い声だが、それでも声には会話する事が初めての俺ですら分かる不機嫌さが宿っていた。

 

「では失礼いたします」

 

 何故という疑問はさておき、言われるままに立ち上がる。

 俺の方が背が高いから彼女は立ち上がった俺を見上げる形になる。

 人によっては見下ろされる事を嫌う事もあるが、この少女にはそういう事はないらしい。

 凪いだような感情が読みにくい、義理の娘と同じ紅色の瞳がじっと俺を見つめていた。

 

「……」

 

 それから彼女は何を言うでもなく、ただ穴が空きそうなほどと表現できるほどにじーっと俺を見つめてきた。

 

 賀斉や董襲も最初こそ何事かと警戒していたが、本当に何もしないで俺と睨めっこしている呂布に困惑している。

 気の済むまで眺め終わったのか、納得したように何度も彼女は頷いた。

 

「……似ているんじゃない、そっくり」

 

 その言葉が何を指すのかは俺にはわからない。

 

「名前、教えて。私は呂布。呂布奉先」

 

 改めてあちらから名乗った事に驚くが、硬直する事なくすんなりと名乗り返す事が出来た。

 

「姓は凌、名は操、字は刀厘と申します」

「わかった。……またね、凌操」

 

 彼女は遠くから自分を呼ぶ声に気付き、俺にまた会いたいという旨の言葉を告げて去って行った。

 妙に親しげな彼女の態度にこちらは混乱してばかりだ。

 

 ただ彼女が言った『そっくり』という言葉から、俺は彼女の知る『誰か』に似ていて、だから気に入られたらしいのだという事は理解した。

 三国志最強の彼女と意図せず結ばれたこの縁が今後どうなるかは残念ながら今の俺には予想も付かない事だった。

 

 俺同様、呂布のよくわからない行動に困惑していた部下たちだがそこは日頃の訓練の成果か、すぐに気持ちを切り替えた。

 撤収作業はその後の頑張りで予定通りの時間に終わらせる事が出来た。

 その頃には陸遜や周泰たちとも合流、怪我人こそ多数いたものの死者はなく、兵士たちも実戦の経験として充分なものを得る事が出来たようだ。

 

 撤収の最後の段取りとして、雪蓮嬢と冥琳嬢が皇甫嵩将軍へ挨拶に窺い、黄巾党討伐軍としてやることをすべて終えた俺たちは建業への帰路につく。

 

 皇甫嵩将軍と会う機会は無かった。

 ここまで来たら一目会えないかと思っていたのだが、そこまで都合良くはいかないようだ。

 雪蓮嬢たちの挨拶に付いていく事も考えたが、今回の主役はあくまであの二人。

 ここで出しゃばるような真似はするべきではないと考えて付いていくのは自重した。

 

 そういえば俺たちが撤収作業をしている間、華琳が雪蓮嬢に会いに来ていたらしい。

 雪蓮嬢、冥琳嬢から見た華琳たちの印象を聞いてみたが。

 

「出来る女だったわね。今まで見てきた限り、一番の強敵。あとあれね、友好を結ぶにしても敵対するにしても一度本気でやり合わないと駄目だと思ったわ。どちらが上かはっきりさせないと据わりが悪いもの。間違いなくあっちもそう思っているはずよ」

 

 雪蓮嬢からは高評価だが、おそろしく物騒な感想が返ってきた。

 

「私たちに己の野心を隠そうともしない態度。彼女は私たちが自分の前に立ちはだかるだろう事を理解しています。同時にそれを望んでもいる。であるならばこちらも全力を持って相対するべきでしょう。今後の動向次第でどうなるかわからない皇甫嵩将軍や公孫賛殿よりも明確な敵、それもとびきりの難敵です。周囲を固める者たちも夏侯姉妹を筆頭に強者揃い、準備を怠れば飲み込まれるのはこちらです。まぁそうならぬように備えるのが私たち軍師の仕事ですのでお任せください」

 

 冥琳嬢はあくまで軍師という立場から彼女を危険視し、最大限の警戒と戦うための準備を約束した。

 結論として優秀である事は二人から見ても明らかであり、その野心から敵対は避けられないと感じたと言う事だ。

 

 華琳たちと戦う事に躊躇いがないわけではないが、それでもあの子と戦う時は全力を持って相対しなければならない。

 俺もより一層の覚悟を持たねばならない。

 

 

 黄巾党の乱は終焉を迎える。

 だがこの大陸での戦いはこれからも続いていく。

 太平の世は未だに遠い。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十八話

「凌刀厘様、お待ちください!」

「うん?」

 

 いざ帰路に就くというところで、俺を呼び止める声が聞こえた。

 そちらを見やれば三つ編みの長髪を揺らしながらこちらに駆け寄ってくる銀髪の少女の姿。

 顔や身体に無数の傷を持ち、胸当て、手甲、足甲の動きやすい装備をした彼女の顔は見覚えのある物だった。

 

「文謙(ぶんけん)!?」

 

 まさかあちらから会いに来るとは思わなかった人物の出現に俺は思わず声を上げた。

 何事かと部下たちが見ている中で乗っていた馬を降り、彼女が近付くのを待つ。

 目の前まで来た彼女は出会った頃より背が伸び、体つきもとても良くなっていた。

 あれからそれなりに時間が経っているのだから成長しているのは当然の事だが、子供の成長を見るのはやはり感慨深いものがあるな。

 

「お、お、お久しぶりです! お元気そうで何よりです!!」

 

 頬を紅潮させ、緊張に上擦った声でありながら、真っ直ぐ九十度の礼をする少女。

 相変わらずの生真面目さに俺は笑みを浮かべた。

 

「ああ。手ほどきして以来だが、そちらも元気そうだな」

「はい! その節はご指導ありがとうございました!!」

 

 またしても深い深い一礼。

 彼女の言葉と態度に込められた俺への敬意を感じ取ったのか、武器を取り出しかけていた部下たちは毒気を抜かれたようだ。

 害意がないとわかった途端、今度は俺と彼女の関係に興味津々な雰囲気が出ている。

 

「ふむ、刀厘。こやつはいったい誰なんじゃ?」

 

 祭が馬を降りながら皆を代表して疑問を投げかける。

 俺は彼女の横に立ち、軽く肩を叩きながら妻にこの子を紹介した。

 

「この子は楽進文謙(がくしん・ぶんけん)。俺たちが西平に向かう旅の途中で立ち寄った邑で出会った少女で、俺と同じく格闘を主とする事から手ほどきをした少女だ。もっとも弟子と言うほど長い時間、一緒にいたわけじゃないがな」

 

 この子とあと二人、幼馴染みだという子たちもいたが一番熱心に教えを請うたのはこの子だった。

 当時、滞在していた邑では思春と陽菜には子供の世話を任せていたのでこの子とはあまり接点はないが、二人としても俺が手ほどきした相手としてくらいは覚えているかもしれないな。

 

「弟子などと恐れ多いです。しかしほんの一週間ほどではありましたが、刀厘様からご教授いただいたお蔭でこうして仕官出来るほどに腕を上げる事が出来ました。黄巾討伐に参加されていたという事を我が主よりお聞きし、どうしてももう一度お礼を、とこうして追いかけた次第です」

 

 「お騒がせしてしまい、建業の方々にはご迷惑をおかけしました」と頭を上げる楽進。

 どこまでも真面目な態度に祭は納得するように頷いた。

 

「なるほどのぉ。この黄巾党討伐に加えられているならばお主の腕は疑いようもない。お主の主も良い目を持っているようじゃ」

「はい、邑の義勇軍であった我々を取り立ててくださったご恩に報いる為、日々励んでおります!!」

 

 あの頃、彼女らは建業からかなり遠い場所に住んでいた。

 故郷から連れ出すのは気が咎めたから、特に勧誘はしていなかった事が悔やまれる。

 彼女の名があの『楽進』だと思い至ったのも邑を出た後だったからな。

 

「その言、その気骨、ますます気に入った!」

 

 祭はすっかり楽進を気に入ったようだ。

 

「すまないが賀斉、俺は少しこの子と話をしたい。後から追いつく故、お前たちは先に行け。董襲、伯符様方への伝令は任せたぞ」

「承知しました!」

「お任せください!」

 

 手早く隊をまとめて去って行く部下たちを見送る。

 

「祭はどうする?」

「ふ~む。まぁここはお主に任せようかの。ではな、楽進。次に会う時はおそらく敵じゃろうが、存分にかかってくるといい」

 

 年長者としての余裕として、あえて上から見下ろすように語り、祭は賀斉たちの後へ続いて去って行った。

 

 

 俺と楽進だけになったところで俺は一応の確認の為、彼女の仕官先を言い当ててみせた。

 

「今は曹孟徳殿の元にいるんだろう?」

「ご、ご存じでしたか」

 

 そう『楽進』とは俺の知る三国志において曹操軍に身を置く武将の名前だった。

 実はこの子の事は思春と明命が曹操の戦力を調べた時には既に把握していた。

 今は幼馴染み二人と共に三羽烏(さんばがらす)と言われており、主に領地の防衛に尽力しているらしい。

 相変わらず仲が良いようで何よりだ。

 

 

 楽進文謙(がくしんぶんけん)。

 曹操が董卓に反抗して挙兵する際にその下に馳せ参じた武将。

 武将といってもこの頃の彼は記録係だったらしい。

 ある時、出身郡で兵を集めさせたところ、千もの兵を引き連れて帰還した事で武将として起用されたと言われている。

 それから反董卓連合、官渡の戦い、劉表征伐、その他本当に様々な戦で最前線を走り抜け続けたまさに勇将。

 当時からしても小柄だったと言われているが、激しい胆気を持つ人物と伝えられている。

 

 

「あそこならお前の実力に見合った仕事を任されるだろう。今に満足せず今後も精進するといい。お前ならそれが出来る」

「は、はい! これからも『昨日の己に克つ』を胸に鍛錬し続けます!!」

「っ!!」

 

 俺は彼女の口から飛び出したその言葉に驚いた。

 俺がその言葉を彼女に語ったのは一度きり。

 この子たちの邑を去るその時に、ただ強くなる為の心得として語った言葉だ。

 つまりこの子は数年前のあの時からずっと流派の標題を心に刻み続けてくれていたという事になる。

 ならば俺はあの言葉を撤回しなければならないだろう。

 

「すまない。一つ訂正させてくれ」

「? 何をでしょうか」

 

 自分が何か粗相をしてしまったかと不安げになる楽進に手を横に振りながら違うと示し、そして告げた。

 

「お前は俺の流派の心得を忘れずにいてくれた。ならばたとえ手ほどきした時間が短くても、今は主を違えていても、お前は俺の弟子だ」

 

 驚きで楽進の目が見開かれる。

 

「お前は流派『精心流』の、凌操刀厘の弟子だ。名乗るかどうかはお前に任せる。ただ流派唯一の標題『昨日の己に克つ』という言葉だけはこれからも忘れないでほしい」

 

 悪感情ではない感情で、瞳を潤ませながら楽進は震える声で俺に問いかける。

 

「……わ、私なんかが弟子を名乗って本当によろしいのですか?」

「『精心流』が求めるのは標題を追い続ける心持ちだけだ。それをこの数年意図せずとも持ち続けたお前が名乗ってはいけない道理はない。お前が良ければ使ってくれ」

 

 自分の子供にするように慈しむ気持ちを込めて楽進の頭に手を置く。

 

「う、あ……」

 

 彼女の瞳から涙が零れる。

 どうにも感極まってしまったらしい。

 しばらく押し殺したような嗚咽を漏らしながら、静かに泣き続けた楽進はやがて深呼吸をするとその場に片膝を付いた。

 

「私、楽文謙は『精心流』の門下としてこれからも恥じぬ振る舞いを続けると誓います。たとえ仕える主が違っても、たとえ貴方と敵対する事になっても」

「その気持ちを忘れないでくれればそれでいい。……ありがとう」

「こちらこそありがとうございます。……お師匠様」

 

 目を赤く腫らしながら浮かべられた満面の笑みに、俺も自分が出来る最高の笑みで応えた。

 

 

 

 この後、曹操軍にて凌操刀厘の弟子を名乗る武官の存在が広まる事になる。

 風の噂で幼馴染み二人はもちろん、華琳や春蘭、秋蘭たちにも相当追求されたらしいことを知った。

 誰憚る事無く、胸を張って弟子を名乗ったと聞いている。

 

 俺の方もまた雪蓮嬢や冥琳嬢はもちろん、思春や蓮華嬢や小蓮嬢、部下たちに果ては蒲公英や翠などにも問い詰められる事になる。

 それなりに慌ただしい時を過ごす事になるが、それでも楽進が弟子であるという事を俺は肯定し続けた。

 「俺が認めた、『精心流』の弟子だ」と。

 そうしているだろうあの子に負けないよう胸を張って誇らしく。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第八十九話

遅まきながら明けましておめでとうございます。
今年もこの作品をよろしくお願いします。


 張角を首魁とした大規模な民衆の反乱、通称『黄巾の乱』は終わった。

 しかしこの乱は大陸のそこかしこに反乱の火種を残す事になる。

 

 お上への不満、生活への不安などにより困窮した民。

 彼らに黄巾の乱は反逆の前例として記憶されてしまった。

 

 鎮圧こそされたものの、この乱は確かに大陸中に大きな混乱という影響を与えているのだ。

 

 民や賊徒の一部はこう考えた事だろう。

 『朝廷は黄巾党に手を焼いていた。なら黄巾党よりも巧くやれば世の中をひっくり返せるのではないか?』と。

 

 そして領土を預かる者たちもまた大陸を牛耳る者たちの影響力が低下しつつある事を実感している。

 国への忠義よりも己の野心を燃え上がらせる者が現れても不思議ではない。

 『十常侍を追い落とし、自らが王権を握るという野心すらも夢ではない』と。

 

 朝廷は、十常侍は乱が鎮圧されたという事実のみを受け取っただろう。

 この後に及んでも彼らにとって領土を預かる者も民も取るに足らない存在で、自分たちが搾取する立場である事は揺るがないと大多数の人間は思っているのだ。

 

 自分の足元が砂上の楼閣となりつつある事に気付いている者が果たしてどれくらいいるか。

 

 ともかく黄巾の乱より以前に比べて大きな被害を出しかねない火種がいつ爆発するとも知れず燻っているというのが現在の大陸全土の状況だ。

 厄介な事に客観的に状況を理解していたとして、事前に火種を取り除くのは非常に難しい。

 なにせ火種は民から領主までと実に様々な立場の人間が抱え込んでいるのだ。

 彼ら彼女らすべての野心や野望、その他様々な感情から来る行動を的確に対処していくなど神ならぬ身では絶対に出来ない事である。

 

 大陸を取り巻く不穏を察知する者に出来る事など、せいぜいが火種の爆発に巻き込まれた時の被害を可能な限り抑え込むくらいだろう。

 あるいは自らの野心のままに動き出すかもしれない。

 

 そんな状況にあって建業、曲阿を有する俺たち孫家はというと。

 まぁ外の情勢を注視しつつ、自分たちに出来る事を行っている。

 

 つまるところ、自分たちの勢力をより盤石の物とする為、日々励んでいる。

 いつも通りという事だ。

 

 

 変わった事も勿論ある。

 まず俺の隊の賀斉こと麟と董襲こと弧円が自分の隊を持つことになった。

 今回の黄巾討伐に連れ出され、実戦経験を得た兵士らの一部を従えて新しい隊とする事になっている。

 二人とも自分の隊を持つことに前向きだ。

 正式な辞令が下されるまでの間に俺や宋謙殿から改めて隊を持つにあたっての教えを請うてきている。

 

「隊長の下にいた事を胸を張って言えるように、そんな隊を作りたいんです!」

 

 そう言った麟の目には決して折れない確固たる決意が見えた。

 俺はあの子の熱意に応える為、自隊の調練の合間に隊を構える為に必要だと思う知識を教え込んでいる。

 

「隊長を越えるためには背中を追うだけじゃ駄目だって思ったんです。横に立てるようになりたい。だから俺も隊を率いたいと思ったんです」

 

 弧円は教えを請う事はそう頻繁ではない。

 ただ隊員となる者を自分で厳選するつもりなのか、これと見込んだ者に自分から声をかけているという話を聞いた。

 

 必要な知識を仕入れるべく先達に教えを請う麟と人員の確保を優先する弧円。

 同時に隊を作る事を命じられた二人だが、それに伴う行動にはそれぞれの性格が出ていて面白いものだ。

 この二人が作り上げる部隊がどのような物になるのか、俺と宋謙殿は今からとても楽しみにしている。

 

 ソレとは別に蓮華嬢が直接登用した人材として呂蒙(りょもう)が曲阿に加わっている。

 俺とはまだ直接の面識はないが、蓮華嬢からの手紙には共に学んでくれる良き仲間だと書かれていた。

 あの子と馬が合うなら、雪蓮嬢のような性格ではないんだろう。

 孫家にあって唯一静かな性質な彼女と合わせられるなら、同じ生真面目な性格と見ているが果たしてどうだろう。

 今度、曲阿に行った時の楽しみとしてあれこれ予想を立てている。

 

 人事に関しては他にも色々考えられているらしい。

 建業の雪蓮嬢の元に誰を配し、曲阿の蓮華嬢の元に誰を配するかは定期的に協議されている事だが今回はかなり大掛かりな異動が考えられている。

 

 これから何が起こるかわからない。

 であるならば、あらゆる事態に対処出来るようにしたいというのが雪蓮嬢の方針だ。

 その警戒の先には間違いなく華琳がいるのだろう。

 

 華琳は自領に戻ってから領地の運営にますます力を入れているらしい。

 なにやら『派手な芸人三姉妹』を引き入れ、兵士たちの労を労いつつ新しい兵の獲得もしているとの事だ。

 彼女らの唄や踊りに活力を得る兵士が多いという話を聞いている。

 

 ただ俺はこの芸人三姉妹については色々と引っかかるところ、もっと言えば思うところがある。

 しごく個人的な事なので機会が巡って来なければ、あえて言う事もない。

 だがもしも話す機会が出来たなら、その時は物申すつもりだ。

 

 話が逸れた。

 警戒するべきはなにも華琳だけではない。

 黄巾討伐後、なにやら水面下で動いているらしい袁紹。

 なぜか建業に目を付けているらしい袁術。

 黄巾討伐に積極的に動かず、しかし着実に力を付けている劉表。

 公孫賛の元を離れ、領土を持つに至った劉備。

 影響力が下がったとはいえ朝廷の動きも注視する必要があるだろう。

 十常侍の一派と何進の一派の帝を巡った対立がいよいよ激化しているという話だ。

 流石に警備が厚く、詳細な情報は得られていない。

 周洪から訪ねてきた時の書簡の情報が最新という有様だ。

 現在の帝である霊帝のお子の養育係をしている桂花の事も分かっていない。

 

 

 西平との同盟関係は順調そのもの。

 定期的にお互いの部隊を派遣し合い、相手先の調練に混ざらせてもらう形で兵士たちの交流を行っている。

 血気盛んな性質の人間が軍内に多いせいか、いつの間にかぶつかり合う事で切磋琢磨するのが交流の基本になってしまっていた。

 お互いの最上位権力者がその気質な為に、むしろ殴り合いが推奨されているほどだ。

 それで上手くいっているのだから、まったくもって似たもの同士だと思う。

 

 西平との関係は良好だが、ソレとは別に気になる事がある。

 涼州にて勢力を保っている董卓が朝廷にちょっかいをかけられているらしい。

 縁らとはそれなりに交流があるため、派遣されてきた翠や蒲公英が董卓を気に懸けていた。

 董卓と俺たちは同盟相手の同盟相手というやや遠い関係性だ。

 こちらとしては交流に前向きでその事は馬騰たちから伝えてもらっているのだが、あちらから色よい返事は未だにない。

 閉鎖的とも言える姿勢を崩す手段が今のところないのが実状だ。

 その要因の一つとして董卓の姿が不自然なほど徹底的に隠されている事に関係しているのはほぼ間違いないだろう。

 

 前世の頃の歴史では董卓こそが次の台風の目となる存在だ。

 しかしこちらでは周囲との関係がだいぶ違っているようにも思える。

 今後は優先度を上げて注視しておくべきだろう。

 

 

 変化が起きているのは何も仕事関係に限ったことではない。

 

 子供たちはすくすくと成長し、玖龍と奏は一人で歩けるようになった。

 最近は勝手に出歩いては父さんたちや小蓮嬢を振り回しているようだ。

 陳武こと福煌と共に3人は少しずつ言葉を覚え始めている。

 最初に言えるようになった言葉が俺を示す『父』を指す言葉で、陽菜、祭を示す『母』を指す言葉であった時の感動は筆舌に尽くしがたいものだ。

 

「ちちうえー」

「おとーさん」

「おとうさん」

 

 今もこの子たちは文字の勉強が終わってすぐに俺の執務室に来ている。

 扉の前から声をかけてくる子供たちは、俺からの返事と入室の許可を待っていた。

 俺を気遣ってくれる様は贔屓目抜きで幼いながらも聡明だと思う。

 

「ああ、おいで。玖龍、奏、福煌」

 

 日課の雑務はこの子たちの勉強が終わる頃には終わらせるようにしている。

 緊急の仕事でも入らない限り、俺がこの子たちの入室を拒む事はない。

 

 俺の言葉に三人は嬉しそうに笑うと対面にあった机を回り込んで俺の胸に飛び込んでくる。

 どうやら今日の真ん中は奏らしい。

 この子はそのまま身体を捻り、俺の腹を背もたれ代わりに座る。

 玖龍は俺の右腕に、福煌は左腕に引っ付き、硬いだろう腕に頬摺りしながらご満悦だ。

 

「よっと」

「「わ~~っ!」」

 

 椅子に座ったまま両腕を肩より上に持ち上げる。

 ぶら下がったまま足が浮く玖龍と福煌は、怖がる事なくきゃっきゃとはしゃいで足をぶらぶらさせた。

 福煌は玖龍たちと違って身体は年相応に成長しているからやや高めに腕を上げなければならないが、こうして笑ってくれるなら苦でもない。

 

「ん~~~っ」

 

 奏は俺たちの様子を見つめながら、俺に体重を預けて鼻歌を歌っている。

 ご機嫌な猫のような子供を俺は玖龍が掴んでいる方の手で撫でてやった。

 

 子供たちとこうした日々のやり取りができる事の幸せを噛みしめながら、俺は迎えが来るまでこの子たちを構い倒す。

 こんな日々が一日でも長く続くよう願いながら。

 

 

 各勢力が水面下で力を蓄え、他領の様子を見定めるこの期間はまさに嵐の前の静けさと言えた。

 そしてそれは長くは続かないと、少しでも聡い者ならば予感している事だろう。

 

 そしてその予感は的中する。

 都にて霊帝が崩御。

 跡継ぎ問題を巡って十常侍と何進の対立が激化し、とうとう十常侍が何進を殺害する。

 それに激した袁紹が都へ進撃し、これを天子様方と共に十常侍は逃れた。

 何の縁からか董卓を頼るも、かの人物は彼らを天子誘拐の罪にて処断する。

 帝の子らを救った董卓はその功績を持って都入りを果たした。

 これら激動の出来事によって新たな戦いへの火蓋が切って落とされる事になる。

 




次かその次から反董卓連合編に突入します。


目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

番外之四_受け継がれる物

 俺は今、長江の一望できる高台にいた。

 武官としての、ましてや隊としての行動ではない。

 しごく個人的な用事で、何よりお忍びだから部下たちはいない。

 

 用事の内容は墓参り。

 と言っても目的の人物の墓があるわけじゃない。

 

 長江で戦い、そして死んでいった『錦帆賊』とその頭領である『鈴の甘寧』であり俺の友である深桜。

 俺は彼らの事を忘れない為に、かつて戦場になった場所を見下ろせる高台に訪れては花を手向けている。

 

 墓石が置かれているわけでもないその場所に花束を置く。

 長江近辺は強烈な突風が吹く場所が多い。

 この花もそう時を待たずに風に煽られて散ってしまうだろう。

 

 俺は忙しくなければ一年に一度はここに足を運んでいる。

 俺以外にも時期はバラバラだが、孫家に仕えている元錦帆賊の者たちは暇を作ってここを訪れていると聞いていた。

 

 朝廷への反逆者、罪人とされている錦帆賊。

 そんな立場の彼らの死を追悼する行為は決して褒められた物じゃない。

 これが余所の諸侯に露見すれば、俺の身ならず孫家の皆まで反逆の意志ありと見做される可能性すらある。

 そうでなくとも今や孫呉にその人ありなどと言われるようになった俺が一人で行動している事を知られれば、暗殺を狙われる可能性もあった。

 

 そんな危うい行動を皆は黙認してくれていた。

 だから俺は迷惑をかけないように同じ時期にここには来ないようにしているし、『凌操刀厘は変わらず城で仕事をしている』というように工作する事を欠かさない。

 

 毎回、そうまでしなければ友人たちの死を悼む事すら出来ないやるせなさを抱えながら、忙しい政務の合間を縫って俺はここにいる。

 

 錦帆賊の汚名を晴らす事が出来ないかと考えた事は数え切れない。

 しかしそれは朝廷によって課せられた罪状が過ちであったと突きつけるものであり、宦官どもは当然として諸侯も認めはしないだろう。

 帝もまた自らの名で出された勅に誤りがあった事を認める事はおそらくない。

 俺たちは彼らの汚名を晴らすどころか、朝廷に弓引く者として同列の逆賊として扱われるだろう。

 まして錦帆賊討伐の功労者として俺たちは名を挙げている。

 錦帆賊の真実を触れ回ったとしても、錦帆賊との癒着を疑われるだけだ。

 まぁ友好を結んでいたから癒着というのはあながち間違いではないかもしれないが。

 

 俺たちは彼らの命はおろかその名誉すら踏みつけて生きている。

 覚悟を持ってそれを為したんだ。

 後悔はしていない。

 だがどうしても考えてしまう時がある。

 

 俺にとってこの墓参りは自分の罪を見つめ直す為の儀式でもあった。

 

 

 

「駆狼様」

 

 俺は珍しく時期が合った為に護衛という名目で同行している思春に視線を向けた。

 いつもは凜とした切れのある声も、この場所では張りが無いように思える。

 

「思春」

 

 俺と場所を入れ替わると、彼女もまた持ってきた物を花束の横にそっと置いた。

 それは小さな鈴。

 風に煽られて揺れるソレは小さいながらもチリンチリンと鳴っている。

 

「父よ。貴方が亡くなられてから数年が経ちました……」

 

 墓石もない、高台から長江を見下ろす形で思春の独白は続く。

 

「貴方から教わった事は我らの中で生き続けています。これからもずっとです。どうかこの偉大なる長江にて我らの事を見守っていてください」

 

 呟かれる彼女の祈りの言葉を聞きながら俺も心中で深桜に語りかける。

 

「(……また忙しくなりそうだ。次はいつ来られるか分からない。だが必ず生きてまたここに来る。そして思春は絶対に死なせないと改めて約束する)」

 

 あいつが安心して見ていられるように誓いを新たにする。

 しばらく俺たちは黙ってその場に立っていた。

 

 ふと風が吹く。

 それは手を顔にかざしてしまう程の突風だった。

 

「「っ!?」」

 

 俺も思春も腕で顔を庇い、ほんの数瞬だけ視界を遮ってしまう。

 風に揺られて思春が置いた鈴が鳴り、花が散らされていく音が聞こえる。

 

『爺婆になるまでこっちに来るんじゃねぇぞ』

 

 音に交じってあの男の声が聞こえた気がした。

 

「父っ!」

「深桜っ!」

 

 俺たちは顔を覆っていた手を引き剥がして叫ぶ。

 そして開けた視界に飛び込んできたのは、花と鈴が置かれていたはずの場所に突き立てられた一本の刀剣だった。

 

「これは……深桜が使っていた」

「父の鈴音(りんね)、です」

 

 錦帆賊壊滅の後、深桜の遺体は船と共に長江に沈んでいる。

 もちろんあいつの愛刀も一緒に、だ。

 ここにあるはずもない。

 長江に沈んでから何年も経っているはずの刀身がまるで万全の手入れがされているかのように光り輝くはずもないというのに。

 

 俺たちが目を離した十秒にも満たない時間で、音もなくこれをこの場所に突き立てた何者かがいるというのか?

 物理的にあり得ないだろう。

 

 だが現実として鈴音は確かな存在感を持って今ここにある。

 

「思春、俺にはあいつの声が聞こえた」

「私にも聞こえました。爺婆になるまでこちらには来るな、と」

「お前にも聞こえていたなら幻聴じゃ無さそうだな」

 

 刀剣から目を離さずに思春と会話をする。

 超常現象と言っていいだろう出来事を前にしても俺は不思議と平静を保つことが出来ていた。

 

 それは生まれ変わりという特大の超常現象を体験しているからか。

 それとも深桜なら、あの親馬鹿ならこんな事もやりかねないと信じているからか。

 

「思春、あいつからの贈り物だ。受け取ってやれ」

「……はい」

 

 思春はごくりと唾を飲み込み、緊張した面持ちで突き立てられた刀剣の柄を逆手に握り込む。

 

「……ふんっ!」

 

 大きく深呼吸をすると彼女は力を込めた。

 半ば深くまで地面に突き刺さっていたそれは驚くほど軽く地面から引き抜かれ、傍目から見てもまるで思春のために誂えられたかのようにその手に収まる。

 その手にある感触を確かめるようにその場で彼女は素振りをする。

 刃が風を切る音は鋭く、振るう思春の瞳からは滴が零れた。

 

「父……」

 

 素振りをやめた彼女は鈴音の柄を自身の額にそっと押し当てて瞳をきつく閉じる。

 次から次へと溢れる涙を堪えるように瞼が震えていた。

 

「鈴音、確かに受け取りました。私はこれと共にこれからの戦を必ず乗り越えて見せましょう」

 

 震える声の宣誓に対して風が一層強く吹く。

 それはまるであいつの返事のように。

 娘の背中を押すように。

 俺の弱さを叱咤し、励ますように。

 

 強く強く風が吹き続けた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

反董卓連合編
第九十話


 霊帝の崩御、十常侍の処刑により政治体制は大きな変化を迎えた。

 

 様々な視点、立場から十常侍を邪魔だと思う者は多かった。

 いずれ誰かが動くだろうことも予想出来た事だ。

 それを為したのが偶々、今回は董卓だっただけだ。

 そういう意味では董卓に天運があったという事なのだろう。

 

 都は今、十常侍の魔の手から天子様二人を守った董卓が取り仕切っている。

 しかし十常侍が振るっていた権力を握らんと思っていた者にとっては相手が十常侍から董卓に変わっただけ。

 つまるところ、今度は董卓を追い落とすべく奸計を巡らせ始めたのだ。

 

 都から離れている揚州ではその辺りのいざこざは対岸の火事と言ってもよかった。

 どんな影響が出るかわからないので警戒はしていたし、渦中にいるだろう桂花の身を案じない日はない。

 だが十常侍から董卓に変わった事で俺たちがなにか被害を被った事はなかった。

 

 三国志における董卓は、暴虐の化身として描かれている。

 どういった書物であれ程度の差はあれど変わらない扱いを受けているだろう。

 

 董卓が主権を握った後の都はその暴威に晒され、あっという間に荒廃した挙げ句に遷都までされてしまうのが俺の知る未来だ。

 しかし思春たちによる調査によれば十常侍の頃の圧政がなくなり、過ごしやすい場所になっていることが分かっている。

 

 西平の皆から聞いていた通り、この世界の董卓は俺が知る暴君とは違う存在なのだと結論づけるのはそう遠い事ではないだろう。

 桂花も董卓らが都を仕切っている間は、十常侍の頃より遙かにマシな扱いになっているはずと、そう思っていた矢先。

 

 

 袁紹から『董卓討つべし』という檄文が各地に届けられた。

 内容はこうだ。

 

 都で暴虐の限りを尽くす董卓許すまじ。

 捕らわれた霊帝のお子たちと都に住まう民を救うため、漢王朝の未来を想う者は我が旗の下に集まれ。

 

 都の実状を知っている者たちが見れば失笑するような内容の文面。

 それが例に漏れず、建業にも届けられている。

 

「これ、本気かしら?」

「文面から自分が招集を掛けたのだから応えるのは当然という驕りが読み取れる。袁紹自身はいたって本気なのだろうさ」

「どう見ても董卓への八つ当たりか意趣返しじゃない。使者もこちらを見下していたし、こんなの参加なんてしたら袁紹の口車に乗った愚か者の一人として後世にまで伝えられちゃうわ。嫌よ、そんなの」

 

 使者には返答用の書簡を用意する為に今日迎賓用の部屋にお泊まりいただいている。

 専属の使用人をつけ、何不自由なく過ごしているはずだ。

 同時に何か妙な真似をしないよう監視を付けている。

 

 今、玉座の間に集まっているのは身内だけだ。

 だから雪蓮嬢はだいぶ好き勝手に言っているが、この場にいる人間は誰も否定しない。

 直接やり取りしている冥琳嬢と同じく、大なり小なりあの使者とこんな檄文を出した袁紹に思うところがあるからだ。

 

「とはいえ返事をしない訳にもいかない。相手は現当主が阿呆であっても、あの袁家なのだからな」

「不参加の返事なんて返したら、それはそれで面倒な事にならない? 董卓に与する者だ、なんて言い出してこれを口実に周辺諸侯がこっちを攻めてくる、なんて事にもなりかねないと思うわ」

 

 冥琳嬢の眉間を揉みながらため息と共に告げれば、あっさりと回答次第での今後の展開を言い切る雪蓮嬢。

 ポンポンと行われる会話の応酬は実に小気味よい。

 

「大いにあり得る話だな。袁家の発言力は十常侍がいなくなった今、現勢力で間違いなく上位と言える。奴が黒と言えば白い物も黒くなる、くらいに考えておくべきだ」

 

 俺が口を挟むと二人は同意の頷きを返してから同時にため息を零すと居並ぶ俺たちを見回した。

 

「皆の意見を聞かせてくれる? 正直、私はこの檄文に応えるのは反対。建業太守としてなんの旨みもないから」

「私は条件付きで参加する必要があると思っております。理由は先ほども申しましたが、董卓側だと糾弾されればその尻馬に乗って周辺諸侯が表立って敵に回る可能性が高いからです」

 

 二人の意見は対立している。

 俺たち臣下は目配せで視線を合わせてからこの一件の個々人の意見を出し合う。

 

「儂は董卓討伐への参加は反対する。董卓は我らが盟友である西平にとって良き相手と聞いておる。不確かな言を鵜呑みにして行動しては彼らに申し訳が立たん。参戦すると返事をするだけして行かないとするか、あるいは途中で撤収してしまえばいい。もちろん糾弾されぬよう事情をでっち上げる必要はあるがの」

 

 まず声を上げたのは祭。

 馬騰たち西平の面々への配慮を怠ってはならないという意見だ。

 彼らとの同盟関係に亀裂が入る可能性を考えてのものと言える。

 

「僕の意見は条件付きでの参戦です。より正確に言えば今回のこれに同意し、参加する者たちがどういう者たちなのか調べる為ですね。本当にこんな袁紹の主観の一方的な主張を信じるような者がいるならば、それは馬鹿です。為政者としての才覚すら疑うべきでしょう。だからこれに乗っかるような人達にはそれぞれの狙いがあるはず。直接対峙し、彼らの性質を見極められればいずれ建業、曲阿にとって脅威となるかどうかを計る指針になるかと。あと最も大きな理由は、袁紹たちの具体的な動きをすぐ傍で見られるので、彼らに先んじて行動しやすくなる事です。条件は決して我々が矢面に立たない事。何があっても袁紹が主導した、としておくべきかと。余計な責任を背負わされれば、またそれが新たな火種になるかもしれませんから」

 

 慎の意見は董卓討伐よりも先を見据えたものだ。

 なるべく被害を被らず、集まった諸侯の情報を入手する。

 董卓討伐が不当であると確認出来たならば、確かに内部にいた方が手を打ちやすいだろう。

 慎重に動かなければならないが、そういう考え方の元に動くのであれば確かにいくらか利がある。

 

 その後も次々と意見が交わされ、意見の総評はほぼほぼ半分ずつ分かれているという状況で最後に俺の番となった。

 全員の視線が俺に集中する。

 

「この檄文を逆手に取って董卓側に付くのはどうだろうか?」

 

 董卓討伐への参加か不参加ではなく第三の選択肢に皆が驚く中。

 雪蓮嬢は面白そうだと笑い、冥琳嬢は我が意を得たりと口元を緩めた。

 

「まずこの内容は袁紹にだけ都合の良いものだ。実際、都で悪政、圧政は行われていないし、民の生活は十常侍がいた頃よりも格段に良くなっている。これからも良くなっていくんだろうと推測出来る程度には善政だ」

 

 調査に当たっていた思春、明命たちを見つめる。

 二人は俺の言葉に頷いた。

 

「袁紹は都に攻め入り董卓から実権を奪い取る為に実状と異なる内容を流布した。確かに袁家は権勢の上位に当たる名門だ。権力争いなどすれば言い方は悪いが建業は相手にもならないだろう。しかしそれは袁家に進言出来る存在がいるだけで変わる」

 

 董卓が圧政を行っていないのならば、彼ら側に付く事で俺たちは大きな後ろ盾を得られる可能性があった。

 

「霊帝のお子。つまりは次の帝にこの嘘偽りが書かれた檄文をお届けし、袁紹の言を否定していただく。袁家の権威は強大だが、それでも帝には敵わない。目に見えて王朝としての力が失われつつあっても、漢王朝に属する者ならば帝の存在こそが最上位なのだから」

 

 この大陸の最上位存在を利用する策。

 下手をすれば十常侍と同じ事をするとすら思えてしまう意見に大半の者が難しい顔をした。

 それでも否定しないのは、上手くいけば領地をより盤石に出来るだけの利益が得られるからだ。

 

「もちろん十常侍のような事はしないし、してはならない。そもそもそんなことが出来るような権力はうちには不要だろう」

 

 実のところ、孫家が一番に求めているのは一族や一族が治める地の安寧だ。

 曹操のような天下の覇権を求めるような野心はない。

 劉備のような無力な人々をすべて守りたい、平和な世を作りたいという夢はない。

 

 あくまで孫家という一族が出来る範疇を目的とし、それを達成する為に全力を尽くす。

 俺たちとて元を正せば自分たちの邑を、家族を守りたいという想いから仕官したのだ。

 

 俺の優先順位は変わらない。

 まぁ家族の範囲や守りたい場所がどんどん増えているし、軍人として一般人……いや民を守るのは当然の事だ。

 

 それはともかく自分を中心とした大陸など望まない孫家に、帝を擁する事ですべてを牛耳る事が出来る権力などいらない。

 牛耳った誰かが何かしようとするなら対応出来るよう策を二重三重に施すし、これからも対応策は増えていくだろうが、すべてを動かす事に魅力を微塵も感じてないのがうちの長たちの気風だ。

 孫家にあって静かな気質である蓮華嬢ですらも、その性質は変わらない。

 

「あくまで俺たちは袁紹とそれに乗っかった連中がどういう名目で動いたかをお伝えし、そのご判断を仰ぐだけだ。だから董卓から帝に繋いでもらわなければならない。馬氏を経由して董卓、は無理としてもその名代と話をして董卓側に付く事に同意してもらう。だが元から繋がりのある馬騰たちはともかく、そう易々と俺たちを信用してはくれないだろう。今までも馬騰たちを通して交流を図ろうとしてきたが、色よい返事がない事からも簡単に想像出来る。信頼関係を築く為に董卓討伐に賛同した者たちとぶつかり合うくらいはしなければならないだろう」

 

 おそらくほとんどの諸侯は袁紹に付くだろう。

 それらを相手に上手く立ち回り、帝へ事の次第を伝えご決断いただく時間を稼がなければならない。

 

「だが事が為った時、あちらに付いた諸侯と袁紹の評判は地に落ち、逆にこちらの評判は上がる。どのような状況であれ、帝からの決断に逆らえば、それこそ王朝への反逆となる。少なくとも袁家の人間は名門として権勢を誇ってきた故に自らの愚行をそれ以上続ける事は出来ない」

 

 袁家が名門たり得るのは、より上位の存在にそうだと認められているからだ。

 この世界の袁家は母親の代までそれはもう漢王朝の繁栄に尽力し、その功績を認められてきた。

 そのお蔭で十常侍をして手を出せない存在として存在感を示し続けてきたのだ。

 暗君だと言われている袁紹が自分の持つ肩書きについてどこまで理解しているかは不明だが、名門であると認めてきた帝を庇護してきた董卓に私情で弓引いた事が公に認められれば、たとえ彼女自身がどう振る舞おうとしても周りがなんとしても止めるだろう。

 

「袁紹はその後、今まで通りに動く事は出来なくなります。そして我々の領地に手を出してくる袁術はほぼ確実に袁紹と同じ陣営になります。勝ち馬に乗るといえば狡猾なように見えますが、袁術の気質はお祭り好きの賑やかし。特に考えもせずに袁紹に付くでしょう。その上でこちらの想定通りに事が進めば、最終的にそちらの行動の抑止にも繋がります。もしも袁術が動かなくとも、同じ袁家としての風評被害は避けられません。まぁ本格的に侵攻してきたところで現状の我々の戦力ですら奴の勢力に敗北するとは思えませんが、それはそれとして少しの時間おとなしくさせておく間に、完膚なきまでに叩き潰す準備を整えられるのは利点と言えます」

「あいつら本腰入れる気がまったく感じられない散発的な攻めをする癖に撤収する時の逃げ足だけは早いからな。しばらくでもおとなしくさせられるのはありがたい話だ。物量だけはあるから、回数だけは多くて相手取るのも面倒だし……」

 

 俺の理論を補強し、さらなる利点として袁術について語る冥琳嬢。

 それに同意を示すのは今この場に集まっている面々でもっとも袁術の勢力と相対している激だ。

 

「意見は出尽くましたかな?」

 

 老先生が手を叩き、意見がもうない事を全員に確認する。

 

「ではご当主。ご決断をお願いいたします」

 

 臣下を代表した彼女の言葉を受けて、全員の視線が雪蓮嬢に集まる。

 彼女は目を閉じ、しばらく考え込むように沈黙すると自らの結論を口にした。

 

「この一件についての孫家の方針。それは……」

 

 俺たちは慌ただしく動き出す。

 新たな戦乱がすぐそこに迫っている事を感じ取りながら。

 これからの激動に備える為に。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十一話 戦支度。その頃の他勢力

 俺たち孫呉は袁紹が放った董卓討伐の檄に対して行動を開始した。

 

 使者は丁重に扱い、返事を認めた文を預けて帰って頂いている。

 内容は幼き帝をお救いする為に参じるというものだ。

 ここで大切なのは『参じるのが袁紹の側である』と明言していない事。

 

 屁理屈ではあるがいざという時に糾弾を避ける工作はどのような小さな事でもやっておいて損はない、とは冥琳嬢と美命の言葉だ。

 

「西平から返事は来たの?」

「我々に賛同してくれるそうだ。その証として娘と甥っ子を先にこちらに寄越すと」

 

 計画の為の準備を急ぐ中、何度目かの会議での雪蓮嬢と冥琳嬢のやり取りに俺たちは安堵の息を付いた。

 

 大多数が袁紹に付く中で、数少ない味方として気心の知れた軍勢が来るというのは非常にありがたい事だ。

 しかもあちらは『決して裏切らない』事の証明として人質代わりに血縁者を躊躇いなくこちらに送り込んでくれた。

 流石殴り合いで絆を深める涼州の猛者集団と言えるだろう。

 うちも余所の事を言えないが。

 

 それはともかくとして彼女らがこちらについて裏切る事など疑っていなかったが、馬騰たちは信頼していいという認識を俺たちは改めて共有する事が出来た。

 

 さらにありがたい事に。

 馬騰たちは俺たちに協力する返答をするのと平行して洛陽に使者を送り、董卓側と交渉を進めてくれていた。

 俺たち建業軍に対しては相変わらず懐疑的なようだが、長年の友祖を結んでいる馬家の顔を立てる形で彼らは俺たちを洛陽側に招き入れることを認めている。

 

 馬家への義理立ては勿論あっただろう。

 しかし重い腰を上げた最も大きな要因は、味方があまりにも少ない事だろう。

 現在、分かっている範囲でも名だたる領主たちは概ね袁紹に付いている事が分かっているのだ。

 

 公孫賛、袁術、劉備、劉表、陶謙(とうけん)、孔融(こうゆう)、鮑信(ほうしん)、劉岱(りゅうたい)など。

 そして反董卓連合で最も危険な存在である曹操。

 

 名だたる勢力が袁紹側となれば、四の五の言ってもいられない。

 董卓の思惑としては『信用できなくとも使えるものは使うしかない』と言ったところか。

 

 こちらの計画を遂行するための最初の取っかかりは得られたので、ひとまずはそれくらいの認識で良いだろう。

 董卓たちに胸襟を開くほど、こちらも信用しているわけではないのだから。

 

 お互いを信用できるようになるには時間が必要だ。

 

 

 さてどうにか洛陽入りの算段は付いた。

 今度は誰があちらに赴くかを決めなければならない。

 

 激戦になる事は確定的だ

 無傷で事を済ませられるとは思っていないが、目的を達成し且つ可能な限り被害を少なく出来る人選をしなければならない。

 これについては雪蓮嬢と冥琳嬢の方で選抜済みで、今回の会議はその発表の場でもあった。

 もちろん人選に問題があると感じれば意見するつもりだ。

 

「まず私ね。孫家の主たる私が行かなきゃ始まらないわ。それくらいしなければ董卓の信用なんて得られないだろうし、帝へのお目通りなんてもっと無理よ」

「私も筆頭軍師として同行いたします」

 

 まず雪蓮嬢、冥琳嬢が向かう事は確定か。

 

「蓮華、小蓮は残ってちょうだい。蓮華はこのまま曲阿を、小蓮には建業を預けるわ。小蓮はわからない事があったら母さんたちに聞きなさい」

 

 孫家直系の二人を残した理由。

 それはもしも雪蓮嬢が戦死した場合の後継を残す事。

 暗黙の了解なのだろうその配置に反論する者はいなかった。

 蓮華嬢は雪蓮嬢を物言いたげに見つめていたが、自分の中で納得したのか口を開くことはなかった。

 

「私たちと同行するのは……駆狼、祭、慎、激、塁」

 

 孫呉の四天王、孫呉の懐刀。

 そんな風に言われ、武官の顔と言っても過言ではない俺たちをすべて動員するという決断。

 それは勝利する為の采配であるが、深冬や老先生、陽菜たちを建業と曲阿に残す事で俺たちに何かあっても後の事を任せられる采配でもあった。

 

「「「「「御意っ!」」」」」

 

 俺たちに反対意見はなかった。

 

「思春と明命にも裏方としていろいろ動いてもらう。お前たちの仕事は多岐に渡る。苦労もかけるだろうが、やり遂げてみせろ」

「「はっ!」」

 

 若い二人の透き通る声は気合いに満ちていた。

 

「あちらに行かない者たちは建業、曲阿の治安に全力を尽くしてもらうわ。詳細な配置は後で冥琳から聞いてちょうだい」

「主戦力が領地を離れた隙を狙う者どもに対処する為、戦力の配置換えをいたします。竹簡に書き記しましたので後ほどお渡しします」

 

 冥琳嬢の隣に積まれた竹簡は、人員配置について記載した物だったようだ。

 

「我々の計略が為されるまでの間、少なくとも二度、いえ三度は戦わなければなりません」

 

 いよいよ最も重要なあちらでの行動に話が及ぶ。

 

「一度は董卓側の信を得る為の戦。二度目は袁紹側の勢いを徹底的に削ぎ落とし足止めする為の戦となるでしょう」

 

 どれほど言葉を重ねても、誠意を見せ合っても、勢力同士の信頼関係を結ぶには時間が掛かる。

 袁紹たちが動き出すまでという時間制限がある中で、何の憂いもなく背中を預け合う関係になる事は残念ながら不可能だ。

 

 故にあえてこちらから背中を晒す。

 こちらは必要ならば信用出来ないお前たちにも無防備になれるぞ、という気概を示す。

 貴様らが寝首をかかんとしたところで恐るるに足りんのだ、と傲慢とも言える意志を示す。

 さらに追い打ちとして貴様らにはこんな事は出来ないだろう、と挑発する意志を示す。

 

 俺が生きた時代では、このような挑発は受け流されてしまうかもしれない。

 しかし今の時代ならば、見栄や度胸、誇りが大切にされる今の世ならば。

 ここまでされて尚、発憤しない者はいない。

 

「逆にこれだけ虚仮にされても動かないのなら、西平の方々には申し訳ありませんが、董卓はとんだ腰抜けだと言う事になります。董卓自身が動かなかったとしても、主に忠誠を捧げる配下が我々の行動を果たして看過出来るとは思えません」

 

 そんな事を言いながら笑う冥琳嬢の顔はおとぎ話の魔女か、男を堕落させる悪女か。

 まぁうちの筆頭軍師なので、頼もしいと思いはすれども怖じ気づく道理はない。

 嫁の貰い手がなくなりそうだな、などと失礼な事を考えてしまったのは絶対に言えないな。

 

「この戦いでは袁紹側の勢いは残しておかねばなりません。あちらの足を止めさせなければなりませんが戦力の差からして、苦労する事は目に見えております。難しい事ですが、どこまで撃退し、どこで引くのかその境界を見極めねばなりません」

 

 ただ勝つだけでは駄目、ただ負けるだけでも駄目。

 普段の賊討伐では決して気にしない事柄を意識して戦場を動かなければならない。

 

「二度目の戦いは、帝が袁紹を糾弾する準備を整えるまで時間を稼ぐ為にひたすら耐え忍ぶ戦いとなるでしょう。あの手この手でこちらを抜こうとする敵軍のすべての計略をその時が来るまで受け止め、あるいはいなし続けなければなりません」

 

 いつ終わるともしれない根比べ。

 味方の神経はすり減り、下手をすれば内部分裂も起こりうる。

 敵はもちろんだが、今までよりも自軍を御する事を強いられる難しい戦いだ。

 

「最後の三度目はどのような戦になるんじゃ? 冥琳……」

 

 俺たちを代表して質問する祭の問いかけに、冥琳嬢は切れ長の瞳を一層鋭くして告げる。

 

「三度目。それは敵を食いちぎり、戦う意志を根こそぎ奪い、帝が全ての者に声が届くように、つまり糾弾する為の場を整える戦です」

 

 耐えて耐えて耐え抜いて、その上で敵を叩き潰す。

 口にするのは容易い。

 だが間違いなく過去最高の厳しい戦いになるだろう。

 

 誰のともしれない唾を飲み込む音が静まり返った会議室に響く。

 

「厳しい戦いになるわ。どれだけ策を練っても、戦場がどう動くかはやってみないとわからないもの」

「我らの中には故郷の地を踏む事が出来ない者も出るでしょう。それは将とて例外ではありません」

 

 死。

 かつて味わった何もかもが消えていく感覚を俺は二人の言葉で思い出していた。

 

「それでも私たちは行く。孫呉の安寧のために。貴方たちにはその為に命を賭けてもらうわ。でも安心して、私も命を賭け、戦場を共に行く。それが配下である貴方たちに出来る私なりの誠意よ」

 

 淡々と、しかしどこか熱く語る雪蓮嬢の熱が、死の恐怖を吹き飛ばし室内を熱意で満たしていく。

 

「命は賭けても安売りする必要はないわ。袁紹たち如きに軽々しくくれてやる命なんて一兵卒にだって無いもの」

「我らは事を為してこの後の世も生きる為に戦いましょう。迫る死など撥ね除け薙ぎ払ってしまえばいいのです」

 

 雪蓮嬢は腰に佩いていた剣をゆっくり抜き、眼前にかざす。

 

「この劣勢甚だしき戦(いくさ)。勝って我らの名を大陸中に轟かせる!!」

 

 君主に応える俺たちの雄叫びが会議室はおろか城中に響き渡った。

 

 

 

 

 時を前後して陳留では。

 その手に握られた竹簡の内容を咀嚼するように何度も読み直す少女が居た。

 

「華琳様……」

 

 玉座の間に集う家臣を代表して声をかける夏侯惇。

 その声に、主たる少女は瞑目したまま応える。

 

「愚かだ愚かだと思ってはいたけど、ここまでとはね」

 

 高飛車女の高笑いが彼女の脳裏に浮かぶ。

 

「浅はかも極まっているけれど、だからこそ厄介。十常侍が消えた事で、麗羽(れいは)は何もかもを思い通りに出来る立場を得たのだから」

 

 袁紹という人物と曹操は幼い頃からの腐れ縁である。

 本人はノリと勢いで物事を進める阿呆であり、それは今も大して変わらない。

 しかしこれに袁家の力が噛み合うと、何もかもを意のままに動かしてしまうというろくでもない相乗効果を発揮するのだ。

 曹操自身、それとなく彼女を先導して美味しいところを掻っ攫った事もある。

 

 割を食っても翌日にはけろっとして気にしない性質はある意味での大器と言えるかもしれない。

 

「本人が機を見ているわけでもないというのに、最上の時機を狙い澄ましたように突く。今回もそうね。意図せず董卓に手柄を横取りされた時は愉快だったけど、巡り巡ってこうなるとは。これだから麗羽は……」

 

 十常侍がいない、自分の頭を抑えられる者が誰もいない。

 己の八つ当たりを正当な物として押し通せる環境が整ってしまっている。

 

「董卓には同情するわ。勢いに乗ったあの馬鹿は止まる事の無い暴れ馬。偶然とはいえ、それに目を付けられてしまった以上、自分の気が済むまで追いかけ回され、追いつかれれば踏み潰されるだけ」

 

 ここまで事が進んだ状況では袁紹は、降伏以外は会話にもならないと彼女は断言する。

 理不尽にも程がある。

 

「どうなさいますか?」

 

 静かな問いかけは夏侯淵からのものだ。

 

「袁紹の暴走により、黄巾の乱で明らかになっていた王朝の衰退はより明確になった」

 

 彼女の中で漢王朝はもはや風前の灯火であり、自らの覇道の礎となる踏み台でしかなかった。

 故に董卓側に付こうなどと彼女は考えない。

 

「己が認めた貴族の筆頭の好き勝手を許してしまう哀れな帝をお救いするのも一興ね」

 

 しかし、帝については今後のためにも自分たちが丁重にお救いせねばなるまいとも考えていた。

 

「董卓の配下にはあの呂布もいるとの事ですが……」

 

 懸念の一つをあげる臣の言葉に彼女は口の端を釣り上げる。

 

「使えるようなら首輪でも付けて持って帰るわ。ただ強いだけの獣だったなら首を刎ねるだけよ」

「承知しました」

 

 油断も慢心もない、気高い自信を持って呂布などどうとでもなると断言した。

 

 呂布の武勇など、所詮は長江に浮かぶ小舟でしかない。

 大きな流れを変える事などとうてい敵わず、ただただ翻弄されるだけなのだと。

 

「これより我が覇道が始まる。立ち塞がる者はすべて蹴散らし、平伏させて進むと心せよ。……ついてきなさい」

 

 静かな言葉への答えは綺麗に揃った肯定の言葉であった。

 

 

 

 

 黄巾党討伐時、学友だった公孫賛の元で一定の成果を上げた劉備。

 彼女らはその功績を認められ、公孫賛と一時期行動を共にしていた曹操の推挙により平原の相に任命されていた。

 今は諸葛亮孔明(しょかつりょう・こうめい)、鳳統士元(ほうとう・しげん)という頭脳となりうる人材を仲間に加え、平原の治安維持に勤めている。

 

 身一つで立ち上がった義勇軍だった頃からすれば破格の躍進と言えるだろう。

 しかし劉備の頭の片隅には黄巾の乱の際に出会った人物との会話が棘のように刺さったままであった。

 

「……」

 

 政務を終えた劉備は景観の良い中庭で、一人で勉学に励んでいる。

 彼女は相に任命されてから、一日に一度必ず一人になる時間を作っていた。

 

 公孫賛の元で黄巾党討伐に励んでいた頃は、ただただ必死で落ち着いて考える時間など取れなかったが今は違う。

 勉学の時間というのも半ば一人になるための方便でしかない。

 

 頭に浮かぶのは『刀功』と名乗った三十路は越えているだろう男性。

 隙の無い佇まいで隊を率いる彼から投げかけられた容赦の無い現実を突きつける言葉の数々。

 

「(あの時、私は協力し合えば戦いが楽になるって本気で思ってた……)」

 

 彼女の言葉への回答は協力拒否。

 それも自分たちは足手纏いだと、その理由まで丁寧に提示されてしまった。

 ぐうの音も出ないほどの正論で打ち負かされた記憶。

 

「(私、仲間と一緒に戦うって言ったのに。仲間たちの上に立つって事を何も分かってなかった)」

 

 彼女は『刀功』の言葉について考えるうちに自分の中にとても許容出来ない考えがある事に気付いてしまった。

 

「(愛紗ちゃん、鈴々ちゃん、仲間になってくれた義勇軍の人たち。すべての人が苦境に立たされた時、私は義妹たちを優先しちゃう。もし愛紗ちゃんたちより義勇軍の人たちの方が危なくても……)」

 

 劉備は身内への情が人一倍強い。

 しかしそれは身内とそれ以外とで無意識に優先度を付けているという事でもあった。

 

「(兵士の人たちが亡くなったら悲しい。だけど……愛紗ちゃんたちが亡くなった時ほどじゃない)」

 

 この大陸を平和にしたい、全ての人が平和に暮らせる場所を作りたいと願い立ち上がった劉備にとって、この思考はとてもではないが許せるものではなかった。

 

 義勇軍を立ち上げる時の必死の呼びかけで集まってくれた百名の民。

 劉備は彼らを自分たちの盾としてしか考えていなかったのだと、そんな風に考えてしまっていた。

 

 実際、黄巾の乱が終結した頃には彼らのうち半数は亡くなっているのだ。

 劉備は彼らの名前すら知らない自分が、彼らの命を糧にして生きている自分が、酷く醜い存在のように思えていた。

 

 これは大なり小なり誰の心にあるはずのものであり、戦場に立って誰かに命じる立場ならば誰もが経験している事である。

 しかし彼女は誰かと自分とを比較する事が出来ず、自分の中のものだけを見つめていた。

 

「どうすればいいの?」

 

 平和な世を作りたい少女は、その思想に共感してくれた仲間に自らの醜さを見せる事に怯えていた。

 故にその苦悩を誰にも相談できずにいる。

 

 彼女はこの苦悩を抱えたまま、反董卓連合へ参加する事になる。

 そしてそこで『刀功』と名乗った人物が何者であるかを知る。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十二話 洛陽にて

 同盟相手の西平から裏切らない証として寄越されていた翠、蒲公英、お目付役としての鉄心殿。

 彼女らは精鋭騎馬隊と共にこの時代の行軍速度としてはありえないほどの速度でやってきた。

 

 西平と建業は大陸中央を挟んで真逆と言っていい場所だ。

 最短距離を真っ直ぐ突っ切る事が出来るわけではなく、何より俺たちも含めて董卓に与する陣営はその動きをなるべく秘匿しなければならない。

 気をつけなければならない事柄が多い中での行軍で神経をすり減らしただろうに到着した者たちは、長旅の疲労など感じさせなかった。

 

「涼州馬氏の名代として同盟である建業は孫家に加勢に来た! 馬孟起です」

「同じく馬岱です!」

「同じく鳳令明です」

 

 無論、彼らとは気心の知れた仲だ。

 堅苦しい名乗りを返せば、お互いに屈託無く笑い合える。

 よく見れば精鋭騎馬隊も以前来た事がある者か、俺があちらで見た顔ばかりのようだ。

 

 こちらとの連携がやりやすい顔見知りで固めてくれたのだろうその心遣いを台無しにする事は許されない。

 否、そんな真似は俺たち自身の心も許容出来ない。

 

 西平側を休ませている間に軍備の最終確認を終え、『建業、西平同盟軍』は一路、洛陽を目指して出立。

 洛陽までの道程には相当に気を遣わなければならない。

 間違っても反董卓連合側の軍勢と接触する事がないように。

 

 偵察部隊を日に何度も先行させて道中の安全を確保させた。

 時に予定されていた経路を遠回りし、時に部隊を分散して行軍する。

 

 それだけ慎重に行軍しつつも、袁紹らが動き出すよりもなるべく前に洛陽に到着しなければならない。

 

 なにせ洛陽に到着した後こそ本番なんだからな。

 董卓軍との折衝、軍議、その方針に従っての行動。

 軍の維持なども含めれば思いつくだけでこれだけの事をやらなければならない。

 

 それも董卓軍とはほぼ間違いなく衝突する事になるだろうし、それにどれだけ時間を取られ、その後の軍略にどれほど影響するかも未知数だ。

 ならばこそなるべく時間的余裕を確保する為に急がなければならないのだが、だからといって洛陽到着前に問題を起こすわけにもいかない。

 

 急がなければならないからこそ慎重に。

 慎重に動きつつもなるべく最短の道を。

 

 俺たちの戦いはもう始まっている。

 

 

 そうして到着した洛陽は、まぁ事前の調査通り平穏そのものだった。

 そこかしこに十常侍の民を顧みない政(まつりごと)の爪痕が残っているようだが、当時の情報と照らし合わせれば民の生活水準は雲泥の差だということがわかる。

 

 いざ都入りするという段で、俺たちは董卓側からの出迎えと接触する事になる。

 

「出迎え。呂布……」

「うちは張文遠。西平の馬家、そして建業の孫家。皆様からの此度の援軍、感謝いたします。洛陽を預かる董卓の名代として我らは貴方方を歓迎いたします」

「西平馬家の名代。馬孟起です」

「建業は孫家当主。孫伯符よ」

 

 以前の接触で抜群のインパクトを俺に与えた呂布、そして三国志にて有名な武将の一人である張遼(ちょうりょう)が出迎えであった。

 

 

 張遼文遠(ちょうりょう・ぶんえん)

 丁原→何進→董卓→呂布→曹操と数多の勢力を渡り歩いた武将。

 武力の高さを丁原によって見出されたのが歴史に現れた最初だったか。

 有名どころの戦働きは曹操の元にいる頃が最も多い印象だ。

 袁紹と曹操の決戦である官渡の戦いで顔良(がんりょう)の軍を打ち破り、合肥の戦いでは孫権をあと一歩のところまで追い詰めたと言われている。

 武勇伝として最も印象深いのは張遼が来る事を恐れた敵軍が『遼来遼来』と彼を恐れて言っていた事か。

 一部では『遼来来』と書かれる事もあったとか。

 

 

 呂布はコミュニケーション能力に欠けている為か、出迎えの段取りはほぼすべて張遼がやっていた。

 

「とまぁ堅苦しい挨拶はここまでや。これからはしばらく背中を預けるんやさかい。お互い肩の力抜いていこうや」

「あら、話が合うじゃない。そういうの嫌いじゃないわ」

 

 この世界の張遼はノリの良い関西訛りの女性のようだ。

 その不快に感じない明け透けな態度に雪蓮嬢がさっそく意気投合し始めた。

 

 しかし明け透けだが、軽い態度の中にもこちらに対する礼節が感じられる。

 とても親しみやすく、快活な性質はうちや西平の殴り合い親睦向けだとすぐに読み取れた。

 まぁそれでも交流のあった翠たちと比較して建業軍に対する警戒はかなりあるように見受けられたが、それは想定内の事だ。

 

「ほな、城に案内するわ。申し訳ないんやけど、今日入るのは代表とその護衛としての武官のみにしてほしいんや……」

「そうでしょうね。建業からは私と周瑜、凌操、黄蓋、祖茂、程普、韓当が入城するわ。悪いけど他の皆は軍の統制をよろしくね」

「西平は私と鳳徳だ。馬岱は軍の取りまとめを頼む」

「はぁい!」

 

 簡単に自軍の今後の行動を打ち合わせる。

 城に入る人数を絞られる事も予想されていたから、すんなりと入る者を上げる事が出来た。

 

「軍の誘導はうちの部下に対応させるわ。という訳で頼むで」

「はっ!」

 

 こちらの方針に対して張遼も予め決めていたのだろう指示を出す。

 彼女の部下の誘導に従い、今日は入城しない面々は動き出す。

 

 ここまでは張遼の親しみやすい人格以外は想定内だったんだが。

 

 

 想定外だったのはこの後の呂布の行動だった。

 前からそうだったが、何故か彼女は俺を異様に気に入っている。

 いやもはや懐いているといっても過言ではない。

 

 雪蓮嬢や祭たちに対しては興味が無いように見えて、その一挙手一投足に反応出来るようにしているというのに。

 何故か俺に対しては挙動を監視するような気配が一切無いのだ。

 

 それどころか、仕事中にもかかわらず話が一段落していざ移動するという流れになると、俺の背中に回って抱きつき、あまつさえ頬摺りなどし始める始末。

 これにはその場の誰もが、もちろん俺も含めて唖然とした。

 

「呂布殿?」

「思った通り。とっても落ち着く……」

 

 おまけに俺の背中を堪能するのに夢中で会話にもならないと来た。

 誰かに似ているから興味を持たれたのだと推測しているが、それにしたってここまで無防備な行動をするとは思っていなかった。

 いったい何が彼女の琴線に触れたのか、ここまでの事をされる理由は流石に検討も付かない。

 

 助けを求めて、彼女の同僚である張遼に視線を向ける。

 こんな姿の呂布を見た事がないのか下手すると俺たち以上に困惑していた。

 

「奉先~、仕事そっちのけは感心できんで? 仕事終わってからにしぃ」

 

 それでも呂布を注意出来るのはこの場で自分だけだと分かっているのか、すぐに対応してくれたのはありがたかった。

 

「…………わかった」

 

 しかし混乱の原因である呂布は名残惜しげに俺から離れるも、離れがたいのか俺の服の裾を掴んだままだ。

 彼女が三国最強と謳われた武将だと信じる者が果たしてどれほどいるだろう。

 右手の方天画戟が無ければ、ただの少女が猫のようにじゃれついているだけにしか見えない。

 

「いやあんさん。なんで呂布にここまで懐かれてんねん」

「大変申し訳ないのですが、私にはとんと心当たりがありません」

 

 張遼もそうだが、俺も困惑するばかりだ。

 それでも移動する事が出来るようになったので気を取り直して移動を始める。

 尚、この間にも呂布は俺の服の裾を掴んだままである。

 

「お主、いつの間に鬼神をたらし込んだんじゃ?」

「いや本当にに心当たりがない。前に会ったときも確かに俺に対して好意的だったんだが、なぜそうなったかはさっぱりだ」

 

 子供が親に甘えるような態度のため、色恋感情ではないと祭も察して追求はどこか軽くからかい交じりだ。

 

「いやでもほんとすごく懐いているよ、この子」

「雰囲気が子烈ちゃんとよく似てるせいでいつもの光景に見えてきたわ、あたし」

「同感だ。なんでこんな違和感ないんだ?」

 

 気心知れた幼馴染みたちも混乱の度合いは少ないが、何故という気持ちは取れない。

 

「なぁ伯符殿。あないに奉先が懐く理由なんか知っとる?」

「う~ん、理由はさっぱりね。ただ奉先将軍の態度には見覚えがあるわ」

「ほ~ん? そらいったいどこで?」

「うちの城で、刀厘の執務室に集まって父親に群がる子供たち。父親に触れて安心してる子供と同じよ、今の呂将軍の顔」

「そうですね。刀厘殿の子供たちと同じ顔です」

 

 雪蓮嬢の表現とまったく同じ印象を俺も抱いている。

 今の呂布の態度は俺に構ってもらって喜ぶ子供たちと同じだ。

 だがやはりそこまで好意を向けられる理由がわからない。

 

「なぜ貴方は私をここまで?」

 

 結局、考えてもわからないならば聞くしかないだろうと開き直って聞いてみることにした。

 

「優しいし、暖かい……」

 

 物言いが感覚的で聞いてもよく分からなかった。

 ただ俺に何か感じ取っている事は間違いないようだ。

 

「誰かと同じ雰囲気だから、という事でしょうか?」

 

 前の接触の時に言っていた似ているという言葉からの推測を口にすると、彼女は音が付きそうな勢いで首を横に振った。

 

「似ているとは思った。とても、とても似ていると今もそう思う。でも触ってみてそうじゃないってわかった」

 

 服の裾を握っていた手はいつの間にか俺の手に移っていた。

 何度も握って開いて、手の感触を確かめるような行動をしている。

 その行動すらも楽しいのか、呂布は無邪気に笑う。

 

「貴方の近くは、すごく心地良い。似ているのと心地良いのは関係ない」

 

 その顔と行動で漠然と彼女の心境を理解した。

 

「本気でただただ気に入られた、という事ですね」

 

 興味を持つ切っ掛けこそ誰かに似ている事だったようだが、今こうして俺にべったり引っ付いているのはこの子自身が俺を気に入ったからに他ならない。

 理屈無用な一目惚れに近いものに論理的な思考を求めても無駄だ。

 であるならば、俺としてやることは一つだろう。

 

「今はお互いに仕事をいたしましょう」

 

 俺の手を玩具にしている少女の手を諫めるようにそっと抑える。

 

「私どもはしばらくここにおります。仕事のない時になら、手遊びでも話し相手にもなります。約束いたしましょう」

 

 嫌がられたのかと思って不安そうにしている少女と目を合わせ、ゆっくり言い聞かせるように告げる。

 

「……約束」

 

 そう言って自分の右手の小指を差し出される。

 俺の心に動揺が走った。

 それを表に出さないで済んだかはこの時の俺にはわからない。

 

 この世界で初めて見るその動作を、俺はよく知っている。

 『この世界に存在しないはず』のその約束の仕方を俺は知っている。

 

「それ、は……?」

「指切り。約束を守る事を誓い合うおまじない。教えてもらった」

 

 『なぜ、それを』という意味で聞いた俺の言葉を『何をするのか』という意味で捉えたらしい呂布が説明してくれる。

 同じように小指を出せと視線で催促され、俺は言われるままに自分の小指を差し出す。

 彼女は嬉しそうに目を細め、武器を持つとは思えない細い小指を俺の無骨な指と絡ませた。

 

「ゆーびきーりげーんまん、うそついたらはりせんぼんのーます。指切った!」

 

 棒読みながら、それでも無邪気におまじないの文句を唱えて呂布は小指を離す。

 

「約束」

「はい、約束しました」

 

 動揺を無理矢理抑え込みながら、彼女の言葉に応える。

 満足げに一度頷くと、無邪気な少女のふわりとした雰囲気が掻き消え、いつかの戦場で見た鬼神呂布が姿を現した。

 

「ついてきて。張遼、行く」

「はいはいっと。まったくやりたいことやって満足しおってからに。ほな、ちょっと色々あったけど改めて案内するわ、ついてきてや~」

 

 呂布の奇行をいつもの事と切り替えたらしい張遼の先導に従い、俺たちは董卓の待つ城へと歩みを再開する。

 物言いたげな妻と幼馴染み、主と筆頭軍師の視線を受けながら。

 

 当初想定していたものとまったく方向性の違う疲労感と緊張感を抱えながら、俺は一先ず向けられている視線の全てに気付かないふりをしながら少しずつ近付いてくる城を見上げる。

 

 指切りを呂布に教えた『誰か』が何者なのかを考えながら。

 呂布が俺に似ていると言っていた『誰か』が何者かなのかを考えながら。

 

 勝ち筋の極めて難しい戦だけでなく、『別の何か』が起こる予感を抱きながら。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十三話 董卓たちとの会合。そして問答

 呂布のいう俺に似ている何者か。

 彼女に指切りを教えた誰か。

 

 懸念するべき事項は増えた。

 しかし俺は城の中に足を踏み入れた時点でこれらについて一先ず頭の片隅に置き、気持ちを切り替えている。

 最優先するべきはこの戦争に勝利する事だ。

 そこを履き違えてはならない。

 

 そして通された玉座の間。

 来訪者を迎え入れる一つ高い位置にある玉座には儚げな雰囲気をした薄紫色の髪の少女が座っていた。

 玉座にてこちらを出迎えているという事はおそらくあの少女が董卓なのだろう。

 彼女の隣にはきつい目つきをした緑色の髪の少女が立っている。

 

 そして玉座の下で横向きに並ぶ白に近い紫色の髪の女性武官が一人。

 そこに俺たちを先導した張遼、呂布が並んだ。

 

 自分たちの命運を左右する人間たちとの会合をするにしては人数が少ない上に武官に偏っているように思えた。

 自分の勢力の誇示、そして相手への圧力も兼ねてこういう場では横向きに並ぶ文官と武官くらいはもっといてもよいと思うが。

 

 少数精鋭ということなのか、それとも信用出来る者が今いる者たちしかいないのか。

 あるいは反董卓連合への対応に追われ、この場にいることすら出来ないほどに忙しいのかもしれないな。

 俺の深読みである可能性も含めて考えておこう。

 

「連れてきたで~」

 

 張遼はだいぶ砕けた、というか下手をすれば無礼打ち待ったなしの軽い言葉を階上の二人に告げる。

 

「ありがとうございます、文遠さん。奉先さんも……」

「うん……」

「気にせんといて。これはうちらの仕事やし」

 

 外見の印象そのままの柔らかで優しげな労いの言葉に呂布は言葉少なに、張遼は彼女らしく応じた。

 

 先頭にいた雪蓮嬢、冥琳嬢が膝を付いて頭を垂れるのに倣い、俺たちも同じように膝を付く。

 献帝、現在の帝の代行者とはすなわちこの中華の最高責任者。

 翠たちと違って見知った仲というわけでもないのだから、謙った態度を取るのは当然の事だ。

 

「お初にお目に掛かります。建業太守、孫伯符です」

「建業筆頭軍師、周公瑾です」

「配下の凌刀厘です」

「同じく黄公覆です」

「韓義公です」

「祖大栄です」

「程徳謀です」

 

 続けて翠たちが名乗りを上げる。

 

「西平太守馬寿成の名代、馬孟起です」

「その配下、鳳令明です」

 

 俺たちが名乗り終えて数秒の沈黙。

 

「顔を上げてください」

 

 彼女に言葉で促され、俺たちは頭を上げる。

 

「建業太守、孫伯符殿とその配下の方々。西平太守名代、馬孟起殿とその配下の方々。私めは董仲穎(とうちゅうえい)。恐れ多くも献帝の代行として司空の位をいただき、都を取り仕切らせていただいております。改めましてようこそ、洛陽へ」

 

 不思議とこの空間に響く静かな声には、惹き付けられるものを感じる。

 前世で残虐、冷酷を絵に描いたような存在として語り継がれていた董卓とはまったく結びつかない。

 しかしそれはそれとして蘭雪様や雪蓮嬢とは別種の上に立つ者としての才覚が彼女にあるように感じた。

 今まで黙っていた董卓の隣に立っていた少女が口を開く。

 

「私は賈文和(かぶんわ)。政務を取り仕切っているわ」

 

 董卓の元に、それも側近と呼べる立ち位置に賈駆がいるとは思わなかったな。

 

 

 賈駆文和(かくぶんわ)

 曹操の忠臣として名を残す文官。

 董卓軍に所属するというより、その配下に甘んじながらも上手く人を操っていたという印象が強い。

 長安に遷都した後、董卓の死により都が荒れた頃、献帝を脱出させるのに一役買ったと言われている。

 その後、張繍の元で辣腕を振るい、紆余曲折あって曹操の参謀へと収まっている。

 以降、馬超と韓遂を離間の計にて分断する、跡継ぎ問題に長男の曹丕を推すなど、曹魏の将来に多大な影響を与えている。

 

 

 きつい目をさらに鋭くし、俺たちを睨みながら彼女は言葉を続ける。

 

「それぞれ思惑はあるだろう事は分かっている。それでもあえてこの場で聞かせてもらいたい」

 

 硬い口調で彼女は切り出した。

 

「袁本初の檄文によって私たちは圧制者に祭り上げられ、この大陸の諸侯のほぼ全てを敵に回しているわ」

 

 身を切るように現在の状況を語る。

 こんな状況になるまでに手を打てなかった己を責めるように。

 

「武官の質はともかく、兵士の数は圧倒的に不利。こちらに与する事に利などないとさえ言える状況で、お前たちがこちらに付く理由はなに?」

 

 話しているうちにこちらへの猜疑心が表面化したようで、言葉の最後はもはや詰問となっていた。

 都の玉座で、帝の権利を代行する者を前にして、誤魔化しは許さないという意図なのだろう。

 領土を預かる者として今後を考えれば董卓に与するなどありえないと賈駆は考え、俺たちの真意を問いただしている。

 

 そう思うのも当然の事だ。

 大多数の領主たちの中には袁紹を毛嫌いする者だって存在する。

 そんな者ですら、あちら側に付いたのはこの戦いの後の影響を考えたからだ。

 董卓が悪政を働いているという悪評の流布により、董卓に付くということは悪政を肯定するという事になってしまった。

 本当の所がどうなのかという話ではない、民が事の真偽を確認する術はほとんどないのだから。

 

 仮に董卓側に付いた結果、無事に戦を切り抜けて領土に帰る事が出来たとする。

 しかし帰った後に待っているのは民による暴動か、あるいは『董卓に付いた悪漢に領土を預ける事は出来ない』という大義名分の元に行われる余所からの侵略である。

 民の暴動は結局、当人たちが領土でどのような治政を行っているかによるが、侵略に関してはほぼ確実に起こるだろう。

 なにせ義は完全に侵略する側にあるのだから。

 

 

 彼女の問いかけに応えるのは当然、代表者でなければならないだろう。

 

「私は、私たちは仲穎が悪政なんてしないことを知っている」

 

 先に口を開いたのは翠だった。

 司空という立場の人間を字で呼ぶのは、親しい間柄だからだろうが聞いてるこっちは冷や冷やものだ。

 

「私は西平の代表だ。母上とも一族の皆とも意見を交わして、その上で総意としてここに来た。馬家も兵士たちも、民衆すら含めての総意だ。お前たちに被せられた汚名を晴らす。最後の最後まで、私たちはお前たちと運命を共にする。たとえ後世にどのような悪名が残ろうと。馬家の名が地に落ちようとも」

 

 気持ちの良い真っ直ぐな言葉に嘘偽りは一切ない。

 疑心に凝り固まっていただろう賈駆は、唖然として二の句が告げないようだ。

 董卓は今まで意図して無表情を保ってきたのだろう、翠たち西平からの信頼に口元が綻んでいる。

 

「ただ状況が状況だからな。お前たちが私たちを疑うのも当然だ。監視を付けるなら付けてくれ。疚しい事は何もないから何も変わらない」

 

 翠はふんと鼻息荒く行動で示すと断言した。

 張遼はそんな彼女が気に入ったか、けたけた笑っている。

 呂布はいまいち感情が読みにくいが、印象が悪いという事は無さそうだ。

 もう一人の武官は翠の言葉にしきりに頷いているようで、どうやら同じ系統の直情型らしい。

 

「……文和ちゃん」

「分かってるわよ。……馬孟起殿、同盟が為る前からの信頼を疑った事、謝らせていただきます」

 

 董卓に窘めるように名を呼ばれ、賈駆は観念したように翠に頭を下げた。

 

「気にするな」

 

 言いたい事を言ってすっきりした顔をして翠は雪蓮嬢に視線を向ける。

 次はこちらの番という事なのだろう。

 

 俺たちと翠とは立場が違う。

 前もって積み上げた信用もない以上、この問答の結果如何は今後の行動にも影響が出るだろう。

 さて我らが主は、賈駆いや董卓に何と返すのか。

 

「私は貴方たちがどういう人間かこっちで調べた事しか知らないわ。まぁそれはそちらも一緒でしょう?」

 

 自分に視線が集まる中、雪蓮嬢が口を開く。

 

「はっきり言ってしまえば、私たちは貴方たちを助ける為だけにここに来たわけじゃない。こちら側に来た大きな理由は司空が貴方でいる方が都合が良いから」

 

 董卓と賈駆の顔は強ばり、武官たちはやにわに殺気立つ。

 白紫髪の武官などは今にも飛びかかりそうだ。

 

 あちらが雪蓮嬢の言に我慢ならずに飛び出してきた場合に備える。

 

「この街は少し前まで荒れ果てていた。宦官どもが帝を操り、やりたい放題していたからね。地方でも賄賂の横行なんて当たり前。私たちも少くない品物を送っていたわ」

 

 話の風向きが変わったからか、張遼と呂布から殺気が薄れる。

 

「うちは余裕があったから、負担にもならなかったけど他の領地は違う。賄賂なんかで立場を保つような奴はまず治政そのものが上手くない。結果、様々な負担は民に直結するわ」

 

 まともに統治出来ていない場所の領主は賄賂で立場を買っているという事も珍しくなかった。

 問題は賄賂を捻出する負担がどこにかかるか、と言うことだ。

 何をするにも税がかかり、税を払うのはそこに住む民である。

 

「貴方たち、十常侍を潰した後、洛陽の立て直しはもちろん賄賂の類を極端に減らしたわよね」

 

 董卓たちは十常侍が溜め込んでいた財を利用しての立て直しを図ると同時に、常習化していた賄賂の受け取りのほとんどを取りやめている。

 現在に至っては一切の受け取りを拒否してすらいた。

 

「さらにわざわざ賄賂を渡しに来た連中のそれは突っぱねてもいる。他にも狙いはもちろんあったんでしょう。けれど自領だけじゃない民の負担を考えて賄賂の受け取りをやめたのよね?」

 

 疑問系の形ではあるが、雪蓮嬢は自分の推論を確信しているようだ。

 見据えられた董卓は、彼女の不遜な態度を気にする事無く、目を閉じてその言葉に頷いた。

 

「……そうです。自分でも強引な手段であったと思います。けれど黄巾の乱が起きた背景、その時犠牲になった民の事を思えばこそ、少しでも負担を減らしたかった」

「そうやって上から民の事を見れる人間だから、私たちとしては貴方が今の立場を維持してほしいのよ。袁本初? 十常侍よりはいいんだろうけど、そもそも十常侍が最悪なのに比較でそれより上だってだけの人間が治めたところでねぇ? 私自身と妹たちに限って言えば別に大陸をどうこうしようなんて野心はないもの」

 

 興が乗ってきた為に明け透けになってきた主の言葉に冥琳は頭を抱えた。

 翠はどうすればいいのか分からないらしく、しきりに俺や祭、鉄心殿に視線を向けている。

 董卓はぽかんとしており、賈駆は声を上げようとしては適切な言葉が出てこないのか口をぱくぱくさせている。

 張遼は声を上げて笑うのを必死に堪えて肩が震えているし、呂布に至っては雪蓮嬢の言を問題ないものと判断したのか、興味を無くしたのか今にも眠りそうだ。

 白紫髪の武官はわかりやすいほどに困惑しており、頭の上に?が浮かんでいるようにすら見えるので話を理解できてないかもしれない。

 

「ば、馬鹿じゃないの!」

 

 奇妙な沈黙をぶち壊すように賈駆が絶叫した。

 おそらく色々と抱え込んでいたんだろう彼女は雪蓮嬢の物言いに溜め込んでいたものを抑えきれなくなってしまったのだろう。

 

「仲穎が民を思った治政をしているからって、それだけでこんな泥船に乗るなんて信じられるわけないでしょうっ!? あんた、もしもの時の後継がもういるからって軽はずみが過ぎるんじゃないの!! 今の私たちの状況はほとんど詰んでいるようなものなのに! 出来るだけ時間を稼いで、主上と仲穎の安全を確保出来るかどうかも分からないような状況なのに!」

 

 どれだけ悩み、苦しんできたのか、その一端が伝わるような悲痛な叫びだった。

 聞いていて居たたまれない気持ちになる。

 冥琳嬢は特に彼女に共感する部分も多いだろう。

 この子も自分より主、親友である雪蓮嬢を最優先に考える子だからな。

 

「私たちは勝算があってここに来ているの。そんなの当たり前でしょう?」

 

 賈駆の癇癪を握り潰すように、雪蓮嬢は圧力の篭もった言葉を臆面も無く言い放つ。

 

「はっ? え……」

 

 金切り声で叫び続けたせいで賈駆の声は掠れ、目尻には涙すら浮かんでいた。

 

「もちろん無傷とはいかないでしょう。私たちも、孟起たちも、貴方たちもね。もしかしたら今より状況は悪くなるかもしれないわね。……でも」

 

 今、この場を支配している猛将は目つき鋭く、この場の全員に問いかける。

 

「上手く行けば今の状況を全てひっくり返せる。貴方たちは無事で、私たちは望んだ結果を手に入れられる。勿論、やるというからには死に物狂いよ。それくらいはしてもらわなきゃひっくり返すどころか五分にだって出来やしないでしょ?」

 

 賈駆から董卓へ雪蓮嬢は視線を移す。

 

「董仲穎様。我ら建業は貴方方を今の立場を維持していただくために参りました。袁本初の妄言からの暴走を止め、洛陽の、引いては主上の安寧のため力を尽くしましょう」

 

 先ほどまでの礼節をまるで無視した言動から打って変わったそれは、公的な建業太守という立場から司空へ向けた献策だ。

 つまりはこれが受け入れられた場合、駄目でしたは許されない。

 結果がどうなったとしても、献策を行った建業太守として責任を持たなければならないのだ。

 背水の陣と言っていいだろう。

 

 信用はなく、時間もそう多くはない。

 そんな状況で自分たちが逃げないという事を最低限保証するものと言えた。

 

 場が沈黙に包まれる。

 雪蓮嬢の言葉に応えられるのはただ一人。

 

 彼女らは見つめ合う。

 賈駆は心配そうに董卓を見つめているが、口出しはしなかった。

 

 やがて董卓の口が開かれる。

 雪蓮嬢の覚悟をどのように受け取ったのかは彼女にしかわからない事だろう。

 

 しかし彼女の返答によって、反董卓連合とぶつかり合う為の最低限の状況は整う事となる。

 

 とりあえずこの後、俺たちが最初に心配するべきなのは礼儀も何もあったもんじゃない雪蓮嬢の言動で処罰されないかどうかという事だろう。



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十三話 実力を確かめ合う

 巨大な武器が振るわれる。

 地を蹴り、大きく後ろへ下がると先ほどまで俺の身体があった場所をそれが通り過ぎていった。

 当たれば下手をすれば胴が千切られかねない、とんでもない鋭さと破壊力を併せ持った攻撃。

 それを放った義娘によく似た少女は無表情のまま俺を見据える。

 

「避けられた……。一瞬、強くなった? でも今は弱い?」

 

 無表情ながら驚き戸惑っている心情は、目とそして何よりその口から語られている。

 どうにも素直というか、悪気無く思っている事を口に出してしまう性質(たち)のようだ。

 

 敵対する者や弱者を見下す、という前情報はあったが。

 この子、さては相手が自分より弱いというただの事実を素直に口に出しているだけで、相手を見下すだとか侮るだとかそういう事は考えていないな?

 

 などとどうでもいい事を考えながら、あちらが戸惑いと警戒からじっとしているのを良いことに俺はちらりと周囲に視線を巡らせる。

 ここは洛陽の敷地内にある訓練場。

 ど真ん中には俺と相手である呂布。

 訓練場の端っこには邪魔にならないように観戦者たちが控えている。

 手に汗握るという風に食い入るように見ている翠と蒲公英、激と塁、慎がまず視界に入る。

 その横には同じく食い入るように見ているが、自分ならこうする、ああすると脳内で相手を自分に置き換えて疑似戦闘をしているのだとわかる鋭すぎる眼差しの雪蓮嬢と祭がいる。

 さらにその横にはやんややんやと野次を飛ばしながら観戦しているがその実、先の二人同様の眼差しを向ける張遼。

 祭と張遼は先ほどまでやり合っていたというのに随分と元気な様子だ。

 訓練場の隅っこには先に慎と戦い、こてんぱんに叩きのめされた謁見の間にいた白髪の将である華雄(かゆう)が転がっている。

 周りには董卓軍の兵士たちの他、俺たちが連れてきた兵士たち、翠たちのところの兵士たちもいた。

 

 なぜこうなったのか。

 俺は呂布とこうして模擬戦をする事になった経緯を思い出す。

 

 

 

 それは謁見の間でのやり取りの翌日。

 強行軍の疲れを一日で癒やし、今日から本格的に動くべく、城の主要箇所を案内されていた時の事。

 

「お互いに協力し合う事は確約したのだし、お互いの将同士で腕試しでもしない?」

 

 これから数日の簡単な打ち合わせをして謁見の間を後にし、城内の案内を買って出てくれた張遼に対して雪蓮嬢がそう提案した。

 

「おー、そりゃ楽しそうやな。お互いどの程度出来るか分からんと安心して背中も預けられんし、ええんとちゃうか?」

「そうこなくっちゃ! うふふ、貴女なら乗ってくれると思ってたのよねぇ」

 

 さっそくその辺で捕まえた兵士に伝令を頼む張遼。

 早い内にお互いの実力の把握は必要だから、俺たちに否はない。

 とはいえ止める間もなくとんとん拍子に話が進んだのは、おそらく董卓側もこうなるかもしれないという事を想定していたからだろう。

 

 こちらも、もちろんあちらも噂話や実際の戦果などから実力の推測は行われている。

 しかし百聞は一見にしかずという言葉の通り、あれやこれやと想像するより直に接する方が確実だ。

 雪蓮嬢の提案は双方に取って渡りに船と言える。

 案内された訓練所には、既に華雄や呂布がおり、さらに彼らの部下たちに加えて俺たちの軍の兵たちも揃っている状態だった。

 お膳立てが完璧すぎた事からこちらが提案しなくても、こうなる流れだったのは想像に難くない。

 

 まさか到着して二日目からこうなるとは思わなかったが、これはそれだけ董卓側に余裕がないという事なのだろう。

 もし謁見の間でお互いに信を置くという事にならなかった場合、この場に引きずり出され適当にぶちのめさせて追い出されるか、最悪始末されることになったという事も考えられる。

 まぁそうはならなかった未来については脇に置いておこう。

 

「あ~、まだ疲れとるんなら日ぃ改めるか?」

 

 俺が黙々と考え込んでいるのを行軍の疲れだと思ったらしい張遼が提案する。

 その言葉に俺は素早く幼馴染みたちに目配せする。

 一瞬の意志疎通だが、上手く意図が伝わった。

 

「構わんさ。時間は有限だ。何よりあの程度の行軍で疲れるような柔な将はウチにはいない」

 

 やや大袈裟に肩を竦めておどけてみせれば、張遼は納得する。

 

「はは、ええねええね。これは楽しい手合わせが出来そうや。ほな、ウチらと建業軍で仕合おうか」

 

 あちらは華雄(ここで謁見の間にいた白髪の将の名前がわかった)、張遼、そして呂布が出るとのこと。

 こちらは雪蓮嬢、冥琳嬢は真っ先に除外された。

 その事に当然のように雪蓮嬢が文句を言ったが、流石に軍の旗頭を腕試しとはいえ出すわけにはいかない。

 翠も除外された。

 そもそも建業軍ではないというのに本人はやる気だったのだが、董卓側からしても俺たちからしても彼女の実力はある程度分かっているから、実力を見る必要がないのだ。

 雪蓮嬢同様、とても不満そうではあったが正論なので納得するしかないという様子だった。

 

 協議の結果、華雄の相手は慎、張遼の相手は祭、呂布の相手は俺という事になった。

 呂布の相手には自分から立候補している。

 以前、俺は呂布について敵に回せば脅威であるという風に建業の皆に触れ回った。

 俺が考えていた以上に俺の発言を重く見た皆によって呂布について調査が行われているのには驚いたが、軍隊にも匹敵する一騎当千ぶりは紛れもなく脅威だ。

 であるからこそ、その力に自分の力がどこまで通用するのかを今のうちに確認したかった。

 

 各々思惑がある中、準備は終わり、太陽が真上に昇った頃。

 模擬戦は開始された。

 

 

 正直なところ、華雄と慎の戦いに関して俺は一つ不安な事がある。

 前世で見た三国志の書物の一部で、『祖茂を殺したのは華雄である』とされていたからだ。

 この世界はもはや俺の知識通りに進む物ではないという事はわかっている。

 しかし知識通りになった出来事は数多あり、それが幼馴染みで、家族同然で、同僚である慎の生死に関わる知識である以上、無視する事は出来なかった。

 

 最悪の可能性を考えていた俺は周りから見てもピリピリしていただろう。

 慎は漠然と自分を案じているのだと気付いていたようで、試合の直前にふわりと笑ってこう言った。

 

「駆狼兄ぃの不安、払拭してくるよ」

 

 それは弟分としての言葉であったが、訓練場の中央に進むその背中は武官としてのものだった。

 気を遣わせてしまった事を情けないと思いつつ、俺は幾分か軽くなった気持ちで試合の始まりを待つ事が出来るようになった。

 

 そして一戦目、祖茂対華雄は始まり。

 

「我が戦斧の一撃で砕け散るがいい!!」

 

 華雄は模擬戦だというのにまったく加減をする気のない一撃を放とうと身の丈ほどの大斧を振りかぶる。

 

 振りかぶった瞬間。

 慎に一歩で間合いを詰められ、鞘に収まったままの右の直剣で顎をかち上げられ、左の直剣で横っ面をぶん殴られ、勢いの乗った回し蹴りで足を払われその場で一回転して顔面を地面に強打して意識を失った。

 

 祖茂の勝利宣言までの体感1分程度の出来事だ。

 

「えーっと……大丈夫ですか?」

 

 あまりにも綺麗に決まってしまった為に倒した慎自身が華雄を心配したが、当人は完全に意識が飛んでいるのでもちろん返事はない。

 

「あ~、頑丈さはピカイチやから端に転がしとけばそのうち起きるで」

 

 そう言ってぴくりとも動かない華雄を引きずって訓練場の端、もはや観客席のように人が屯している場所へ連れて行く張遼。

 手慣れた様子だが、それでも同僚が瞬殺された事には驚いている様子だ。

 

「一応、こいつ力だけならウチより強いんやけど、まさかこんな一蹴されるやなんて……な」

「単純に相性の問題だろう。祖茂は力が強い方ではない。打ち合えば力負けする事も多い。だから『受けずに倒す』戦い方になった。仮に先手で倒せなかったとしてもその場で足を止める事はなかっただろうな」

 

 慎は初手で倒せなければ、離れて相手の攻撃に合わせて受けずに反撃するカウンターも編み出している。

 先の先を取り、後の先を抑えるその戦法を初見で対処するのは難しい。

 圧倒的な身体能力によるごり押しが最も効果的なんだろうが、曲がりなりにも武官として鍛え上げている慎と比較して圧倒的な身体能力を持つ武将はそうはいないだろう。

 翠や思春、春蘭などを相手にしても圧倒的と言えるような差はないと俺は見ている。

 であれば現状、この大陸でそれに該当する武将は俺が知る限りではたった一人だけだ。

 

「馬鹿力ででかい獲物振るう華雄は、祖茂はんにはただの獲物やったって事かいな。あいつの攻撃も別にそこまで遅いわけでもないっちゅーのに。恐ろしいやっちゃで」

 

 引きずっている華雄を哀れみ、次いで慎に視線を向ける張遼。

 敵意ではない、好奇心に満ちたその視線に血が昂ぶっているんだろうなと確信する。

 

 張遼と入れ替わりにこちらに戻ってきた慎に怪我はなく戦う前と何も変わらない。

 

「どうだったかな?」

 

 三十路を越えるにしては幼い顔で、してやったりと笑う弟分に俺は釣られて笑った。

 

「文句無しだ」

 

 掌を慎に向けて右手を掲げる。

 意図を察した慎が同じように右手を挙げ、手を合わせて打ち鳴らした。

 乾いた音が周囲に響き渡った。

 

 

 二戦目。

 祭と張遼の戦いは白熱した。

 大弓と戟(飛龍偃月刀という名は本人に教えてもらった)。

 本来なら使用する距離が違いすぎて勝負として成立しない武器同士だ。

 無理矢理勝負をするならば張遼は間合いを詰めて薙ぎ払おうとするし、祭は間合いを取りながら射かけるという展開になるだろう、と普通なら予想する。

 

「ちぇい!」

「うぉうっ!?」

 

 祭は最初から大部分の人間の予想を裏切る。

 初手で得意の二本同時撃ちを行った祭は、放った矢を追い越すかのような勢いで張遼との間合いを詰めたのだ。

 

 気迫の声と共に繰り出されたのは強弓による横凪ぎ。

 必殺の矢を避ける張遼への追撃を彼女はからくも受け止めた。

 祭の弓は特別硬く、それで殴りつける事そのものが立派な攻撃になるのだ。

 俺たちは祭を除いて皆、近接武器を主な攻撃手段としているが故にその対抗策の一つとして生み出されたのが弓その物の武器化だ。

 元々、同時撃ちを可能にするほどにしなやかで頑丈な造りの弓だからこその戦法と言える。

 さらに弓を持ったまま出来る格闘も会得している。

 

 本職には間違いなく劣るだろう。

 本領である弓術ほどの実力にはならないのは間違いない。

 だが一瞬の攻防で勝敗が決まる戦闘において、選択肢が増えるというのはただそれだけで脅威になるのだ。

 

 先手の不意打ちを捌いた張遼は、即座に切り替えて反撃に転じる。

 飛龍偃月刀の長物としての攻撃範囲の広さは、一足飛びで射程外へ逃げる事を許さない。

 祭は間近で振るわれる暴風を大弓で受け流し続ける。

 張遼は祭が飛龍偃月刀の間合いよりもさらに内側に入ろうとしている事に気付き、己にとって都合の良い距離を取りつつ攻撃し続ける。

 観戦者側からすれば、祭が圧倒的に劣勢に見えるだろう。

 苛烈な攻めをかろうじて受け続けているように見える。

 

「……あいつさぁ」

 

 激が呆れた顔をしているが、おそらく俺も同じ顔をしているだろう。

 というか『祭を知っている人間』で、今の祭を心配する者はいない。

 翠と蒲公英は戦っている祭との関わりは薄いから苦戦しているように見えるあいつを応援するように声を張り上げている。

 鉄心殿は二人に比べれば冷静に、戦い全体の推移を見守っている。

 

 冷静に攻撃一つ一つを目で追いかけ、丁寧に受け流している祭は今、この戦いを心の底から楽しんでいた。

 雪蓮嬢や蘭雪様の悪癖に目を向けがちだが、祭はあの二人に続く戦闘狂なのである。

 戦闘行為全般で暴走する前者二人と違って、祭は強者が相手の時限定で、それも暴走ではなく逆に極めて冷静になる性質(たち)だから気付かれにくいだけだ。

 

「くっ、おらぁああああああ!!」

 

 張遼は攻め続けさせられ、体力を消耗させられていたという事実に気付き、長引かせてはまずいと感じたのだろう。

 心に沸いた焦りの感情を振り払うようにこの試合一番の威力だろう突きが放たれる。

 いくら頑丈だとはいえ弓で受ける事は出来ないと誰の目にも明らかな一撃。

 

 それに対して祭は、後ろ腰に取り付けていた短めの鉄鞭で打ち合った。

 前もってタイミングを図っていたのだろう、それは刃の切っ先、その真横にぶつかり、その軌道を僅かに逸らす。

 あれだけの勢いで振るわれた超重量の武器を弾いた反動で鉄鞭は祭の手を離れてしまうが、役割は充分に果たしていた。

 身体の横を紙一重で通り過ぎる突きに顔色一つ変えずに、祭は至近距離で矢を番える。

 しかしそこは相手も然る者。

 必殺必中の一撃を放たんとする祭に対して、恐るべき速さで突きを放った腕を戻し、再度の攻撃姿勢に入っていた。

 互いの一撃が放たれんとしたその時。

 

「それ以上は、駄目……」

「これ以上は試合ではなくなるぞ」

 

 同時に動いた俺と呂布によって強制的に止められた。

 

 お互いに試合の範疇を超えた必殺の一撃を放とうとしていた事に気付いた二人は、同時に大きく息を吐きながら武器を下ろす。

 

「この勝負は引き分けだ。異論はあるか?」

「儂には無いな」

「同じく」

 

 決着を付けられたなかった事を不服としつつも、引き分けという結論を二人は受け入れた。

 

「この決着はいずれ、やな」

「応。その時はお互いに全力でやろうぞ」

 

 戦闘の興奮が収まっていない故に殺気を滲ませた言葉だが、まぁそのうち沈静化するだろう。

 

「祭、ほらこれ」

 

 吹っ飛ばされた鉄鞭を造作もなく受け止めていた塁が放り投げる。

 特注品でかなり重量があるそれを難なくキャッチし、祭は目を細める。

 

「罅が入っておるな。やはりあれを受けて無事とはいかなんだか……」

 

 飛龍偃月刀とぶつかった鉄鞭の先端から持ち手にかけて罅が入っていた。

 使えない事はないが、そう遠からず壊れる事は誰の目にも明らかだ。

 

「これは俺が籠手で受けていたら最悪腕ごと持って行かれているな」

「味方でいる分には頼もしい限りじゃ」

 

 どうやら戦闘の興奮が収まってきたようだ。

 もう大丈夫だろうと労いの意味で肩を叩き、俺は既に訓練場の中央に移動している呂布の元へ向かう。

 

「……よろしく」

「こちらこそ」

 

 審判となった兵士の合図。

 駆け出そうとした俺は直感で大きく飛び退く。

 先ほどまで俺の身体があった場所をそれが通り過ぎていった。

 

「……」

 

 予想を遙かに上回る一撃に冷や汗が出る。

 一筋縄ではいかないというのは分かり切っていた事。

 しかし何故か懐いてくれているこの子に、どこか甘い部分が出ていた事も否定出来ない。

  

「避けられた……。一瞬、強くなった? でも今は弱い?」

 

 攻撃を躱された事に首を傾げる呂布。

 ここまでの経緯をまるで走馬燈のように瞬時に回想した俺は気持ちを改めて構えを取る。

 前世で三国最強と言われ、今こうして対峙して知識と遜色のない武を誇る彼女に。

 俺は猛然と挑みかかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十四話 試合の決着

 振るった拳は受け止められる。

 あちらに目に見えたダメージはない。

 

 反撃に繰り出された戟を紙一重で躱す。

 こちらは判断一つ誤って一撃をもらえばそこで終わりだ。

 

 だからこそ必死に避ける。

 常に最適解を放ち続ける最強の攻撃を捌き続ける。

 

「……」

 

 呂布は俺を仕留めきれない事が心底不思議な様子だが、その攻撃には容赦というものがまったく感じられない。

 しかし俺はギリギリのところではあるが、なんとかその攻撃を受け流す。

 受け流した攻撃の勢いを利用して身体を半回転させ、反撃の蹴りを見舞う。

 俺に比べて小柄な身体は踏ん張る事も出来ずに吹き飛ぶのだが、決して有効打にはならない。

 なにで出来ているのか甚だ疑問だが、呂布の身体が単純に頑丈すぎて効いていないのだ。

 呆れるほどに理不尽な強さだ。

 

「呂布相手にここまで打ち合えるやなんて、な。……正直、孫呉の懐刀舐めとったわ」

 

 張遼の呆れたような、賞賛するような声が耳に届く。

 だが律儀に反応を返す余裕など俺にはない。

 

 俺は自慢ではないが最大5日程度は昼夜問わず走り続ける事が出来る。

 夏侯惇、いや春蘭と日が落ちるまで試合った実績もある。

 

 武力に関して安易に他者より上であるなどという自信を持つ事はない。

 だが体力に関しては自分が桁違いのものを持っている、というよりこれまでの人生で鍛え上げてきたという自負があった。

 

 そんな俺が彼女と打ち合い続けるだけでここまで消耗させられている。

 圧倒的な武力になんとかついて行けるのは打ち合う瞬間に全身全霊を持って攻防を行っているが故に普段の数倍の消耗を強いられているのだ。

 それだけの事をしてたったの一刻、打ち合うのがやっととは。

 流石は後世にまで伝わる三国志最強の武将『呂布奉先』だ。

 

「……っ!!」

 

 鋭い呼気から繰り出される一撃が、訓練場の地面を引き裂きながら迫る。

 大きく後ろに飛ぶ事で、からくも避けた俺を追随しようと呂布は、身体を前に倒して踏み出そうとする。

 俺は右手で腰の棍を一本引き抜き、追いすがろうと駆け出す彼女に投げつけた。

 真っ直ぐ向かった棍はいとも容易く方天画戟によって弾かれてしまう。

 しかし弾かれた初撃に隠れるように左手で放っていた二本目の棍が前に踏み出していた彼女の眼前に迫っていた。

 

「……っ!!」

 

 避けられるタイミングではない二撃目の棍を、彼女は武器を持っていない左腕で弾く。

 邪魔はもうないとそう思ったのだろう。

 

 俺に追いすがろうと足を出した瞬間。

 さらに放っていた三本目の棍が踏み込んでいた足に突き刺さった。

 

「……ぅっ!?」

 

 小さな呻き声と共にようやく彼女の足が止まる。

 足の指は痛みにとても敏感で、鉄の塊がそんなところを直撃したのであれば、硬直するのも当然の事。

 心なしか目尻に涙が出ているように見える。

 

 どうやら身体の硬さと痛覚は関係ないようだ。

 そういうところの人体構造はちゃんと人間のようで安心する。

 半ば破れかぶれの一手だったんだが。

 

 卑怯だとは思うが、彼女が硬直したその数秒の間に俺は一度深呼吸をした。

 たった一度、深く肺の奥まで浸透させるような心持ちで行ったそれによって俺は荒れ狂う嵐のような攻撃に上がっていた息を、己にとって最善の状態へと引き戻す。

 かつては決して出来なかった化け物じみた、冗談みたいな事が出来るこの身体に深く感謝する。

 とはいえ疲労が消えたわけではなく、圧倒的に不利な現状が変わったわけではない。

 

「……」

 

 その場で俺が構えれば、意図を理解したのだろう呂布も方天画戟を大上段に構えた。

 

 このままずるずると打ち合っていては、直に押し負けるだけ。

 これ以上、戦いを引き延ばす事は、彼女に勝利を献上する事にしかならない。

 ならば次の打ち合いで勝負を決する。

 

 勝率など考えるのも馬鹿らしいほどに低いのは目に見えている。

 しかしこのまま打ち合いを続けていてはその低い勝率すら無くなるのだ。

 ならば無茶でもなんでもやるしかない。

 

「……」

「……」

 

 耳が痛くなるほどの静寂。

 あちらの瞳に映る俺が見えるほどに集中した状態。

 ほんの僅かな相手の動きすら捉えられる極限の集中力。

 何でも出来ると錯覚してしまいそうな高揚感を感じる。

 ついつい突撃してしまいそうになるその気持ちを宥めながら俺は、次の一手による勝機を探った。

 

 それは当然のようにあちらも同じ事で。

 奇しくも動いたのは同時になった。

 

 振り上げられた方天画戟を振るう様はまるで稲妻のように速かった。

 しかし極限の集中の為せる技か、俺の目はその一撃を完璧に目で追い、身体は思う通りに動く。

 振り下ろされる稲妻を恐れず、その懐へと踏み込み、彼女の視線から隠すように後ろへ引き絞っていた右の拳を放った。

 

 その一撃を呂布は読んでいて、方天画戟を振るう逆の手が俺の拳を掴もうと動いているのがわかる。

 だが俺の『拳』を想定したその動きでは遅い。

 

「ぐぅっ!?」

 

 右手に握り込んだ四本目の棍のお蔭で拳より射程が長くなった俺の攻撃が、呂布の腹部へ突き刺さる。

 怯んだ一瞬に左肩を呂布の胸に無理矢理押し込み、行きがけの駄賃とばかりに顎に左の肘をかち上げるように打ち込む。

 突き込んだ四本目の棍を手放し、素早く強く引いた右手を開き、その掌を腹部に突き刺さったままの棍目掛けて突き出した。

 

 掌の勢いによってまるで釘打ち機のように棍がさらなる衝撃を持って彼女の身体に突き刺さり、空気が爆ぜる音と共に呂布の身体は後方へと吹き飛んだ。

 だが俺の身体もほぼ同時に真横からの衝撃で吹き飛ばされてしまう。

 かろうじて視認出来たのは、吹き飛ぶ直前に横薙ぎに振るわれる方天画戟。

 間に合った両腕での防御が俺の意識を繋ぎ止めてくれたが、それだけだった。

 受け身の一つも取れず俺は地面を転がり、訓練場を囲む壁にぶつかったところでようやく止まる。

 極限の集中の代償か、身体に力が入らない。

 もう立ち上がる事は出来そうになかった。

 

「……負けた、か」

 

 最後の打ち合いからずっと詰めていた息を吐き出し、客観的な事実を口にする。

 

「ご無事ですかっ!?」

 

 いつの間に訓練場に来ていたのか。

 朝から今後の協議をする為に賈駆らと会議室に詰めているはずの冥琳嬢の声が耳を打った。

 立ち上がる事も出来ずに仰向けに横たわっていた俺の視界に心配げに目を揺らす彼女の顔が入る。

 上体をそっと起こして支えてくれた冥琳嬢にどうにか苦笑いで応えると、ほっと息を付いた。

 

 まだ身体が上手く動かせないので目だけ動かすと、祭たちがこちらに駆け寄ってくる姿が見える。

 どうやら思った以上に景気よく吹っ飛ばされたらしい。

 先ほどまで戦っていた位置から、目測でも20メートルほど離れているのがわかった。

 

「勝負は俺の負け、だな」

 

 身体は少しずつ動かせるようになってきたが、とてもではないが戦える状態ではない。

 勝敗は火を見るより明らかだろう。

 

「いえ、それはどうでしょう? あちらをご覧ください……」

 

 冥琳嬢が示した方向になんとか視線を動かす。

 だいぶ離れているが、それでもそこに大の字で寝転がっている呂布がいる事が確認出来た。

 

「私は最後の打ち合いしか見ておりませんでしたが、呂布もあの様子では戦闘は不可能でしょう。私の目には引き分けに見えます」

「破れかぶれの賭けに勝ったか……」

 

 それでも引き分けが精一杯だった。

 我ながら情けないが、また同じ事をしろと言われても無理だと自信を持って言えるギリギリの勝負だった。

 

「無事か、凌操っ!」

 

 慌てて駆けつけてきた祭に右手を挙げて答える。

 冥琳嬢と話しているうちに自力で立てるくらいには回復したようだ。

 

 俺はまだ震えている足で立ち上がり、しかしふらついたところを祭に支えてもらう羽目になる。

 

「無理をするな、まったく……」

「まったくです。肝が冷えました」

「すまない」

 

 自分では行けると思っていただけに、これは祭と冥琳嬢に平謝りする他なかった。

 

「ともかく、だ。これ以上の戦闘は無理だな」

「そうじゃの。お主がここまで追い込まれるとは……。飛将軍呂布、噂通り……いや噂以上の強さじゃ」

 

 悔しげに唇を噛む祭を諫めるように、そっとその頬を撫でてやる。

 そのまま祭の肩を借りながら、倒れ込んだままの呂布の元へ歩き出した。

 

 あちらには張遼が駆け寄っていたようで、彼女が手を差し出しているところだった。

 呂布は差し出された手を握り、あっさりと起き上がる。

 やはりこちらより余裕があるようだ。

 

「あちらはまだ余力があるようだ。俺はもう戦えない。……これで引き分けは無理があるな」

 

 悔しさを紛らわせるように、自分自身に言い聞かせるつもりで呟くと、聞き取っていたらしい呂布と目が合った。

 

「……最後の攻撃を受けた後、私も動けなくなった。動けなければ、戦場では殺されてる」

 

 あっという間に俺の目の前まで移動してきた呂布の言葉。

 負けた者への慰め、ではない。

 ただただ純粋にそう思って、その気持ちを俺に伝えているということがその真っ直ぐな眼差しから読み取れた。

 

「試合は引き分け。……あの時、刀厘は一瞬、私より強かった。貴方は私が今まで戦ってきた誰よりも強い」

 

 既に最強と名高い呂布が俺を強いと認めた。

 どよめきが訓練場を満たす中、俺は彼女の言葉を素直に受け取る。

 

「賞賛の言葉、ありがたく頂戴いたします。奉先殿は噂に違わぬ強さでございました」

 

 俺が呂布の目を見つめ返して言うと、呂布はくすぐったそうに笑みを浮かべた。

 

「ありがとう」

 

 その顔は、鬼神の如き強さとはまるで不釣り合いなほどに幼く純粋で、そしてとても可愛らしかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十五話 戦を前の一悶着。約束の一時

 先日、行われた交流試合。

 あれは良くも悪くもお互いの将の実力を把握するという目的以上の効果を発揮している。

 

 董卓側の兵士からこちらを侮る空気が霧散し、一定の信用が得られた事。

 将に対しては目に見えてわかるほどに敬意を持って接してくるようになった事。

 こちらの実力が自軍の将と拮抗する物であると董卓軍筆頭軍師である賈駆が認めた事により、これからの戦いで取れる戦略の幅が広がった事。

 呂布の専属軍師を名乗る陳宮(ちんきゅう)に目を付けられ、ことあるごとに絡まれるようになった事。

 交流試合の相手となった張遼、華雄から鍛錬やら試合の申し込みが行われるようになった事。

 

 この中では鍛錬やら試合の申し込みとだけが面倒くさいが、状況が状況である事から適当に流してしまえばよいとこの時は思っていた。

 実際、張遼は場を弁えており、こちらの都合にも配慮し、今の切迫した状況も理解しているのでお互いに余裕があればと約束する事で問題は無かった。

 陳宮に絡まれるのも面倒事には違いないが、正直あの子の因縁の付け方がお姉さんを取られると思った妹の嫉妬のようなものにしか見えず微笑ましい気持ちで受け流しているので気にならないのが実状だ。

 

 問題は華雄だった

 奴は呂布と引き分けた俺と自分を一蹴した慎に呆れるほどに執着し始めた。

 俺たちがいる場所がどこだろうとお構いなしにやれ今すぐ勝負しろだのなんだのとやかましく言ってくるようになったのだ。

 あまりにも頻繁に挑んでくるため、俺と慎の方が根負けして勝負を受ける事にしたほどだ。

 

 そして意気揚々と試合の臨む華雄を俺たちは一蹴した。

 他にやらなければならない事が山ほどある状況で、子供の癇癪のように言い募ってくる華雄に苛立って容赦なく対応した俺たちにも悪いところは間違いなくあっただろう。

 

 華雄はあまりにもあっさり自分が負けた事を認めようとしなかった。

 自信があったのだろう自分の武があっさりねじ伏せられた事が信じられなかったんだろう。

 俺たちがもう少し華雄に花を持たせるように戦っていれば話は違っていたかもしれないが後の祭りでしかない。

 

 こんなはずはない、何かの間違いだと言いながら、俺たちに対してさらに執着するようになった。

 酷い時は軍議の真っ最中に大斧片手に恫喝してきたほどだ。

 ここまで事が大きくなると、俺たちと華雄という個人の話では済まなくなった。

 

 慎に負けたのが悔しいというのも、敵無しと謳われている呂布相手に引き分けた俺に興味を持つのもわかる話だ。

 だがそんな一個人の意思を、主人や洛陽の進退がかかっている場にまで持ち込む奴に将の資格などないと俺は思う。

 

 董卓も賈駆も張遼も華雄の暴走に頭を痛め、被害者である俺たちや君主である雪蓮嬢に正式に謝罪した。

 己の愚行で主が下げなくてもよい頭を下げているのを目の前で見た事で、ようやく奴も自分の過ちに気付いたようだがはっきり言ってもう遅い。

 戦士として抜きん出た力を持っているとはいえ、自分の事しか考えられない奴に背中を預ける事など出来ない。

 

 余所の、それもこちらよりも上の立場である董卓らの人事に口出しするのは憚られたが、華雄に関しては放っておくとこちらにも飛び火するだろう事が簡単に予想出来てしまう。

 結局、雪蓮嬢から建業太守として正式な抗議をさせてもらう事になった。

 

 董卓と賈駆はこちらの気持ちに配慮し、華雄を武官から罷免。

 張遼の麾下に部隊丸ごとを吸収する形で配属する事になった。

 張遼には災難な話だが、あれが暴走しないようしっかり手綱を握っていてほしいというのが俺たち建業側の総意だ。

 

「此度の配下の無礼、真に申し訳ありませんでした」

 

 華雄を信じていた董卓の悲しげな視線と俺たちに向けてかけられた謝罪の言葉。

 主君の言葉から自身に向けられる悲しみを感じ取ってか、それまでの猪突猛進ぶりが嘘のように、魂が抜けたかのように力なく沈黙する華雄。

 奴が呂布によって引きずられるように外に連れ出される姿に迷惑をかけられた俺として溜飲が下がる気持ちだったが、俺はそれを顔に出さないように最大限頑張ったつもりだ。

 これ以上、こいつの事で面倒事が起きるのはごめんである。

 

 

 華雄の件が片付いた後。

 諸々の準備に目処が立ち、反董卓連合もまた動きを見せ始めた頃。

 俺は指切りでの約束通り、呂布の邸宅に招待された。

 雪蓮嬢を筆頭に、誰もが特に心配などせずに送り出してくれている。

 

「まぁあれだけ懐いている呂布なら滅多な事はないじゃろうが、これ以上妻を増やすような事にはするなよ~」

 

 祭からはだいぶ軽い言葉を送られていた。

 まぁそれも呂布の俺に対する気持ちが親愛である事に気付いているからだが。

 

 そうして教えられた場所は洛陽の端にある一軒家だった。

 外から見てもそれなりに大きいが、家よりも庭の方が大きい造りのようだ。

 庭で鍛錬することを考えての造りなのかもしれない。

 

 呼び鈴やインターホンなんてものは無いので家の敷地の前から中に向けてそこそこ大きめの声をかけた。

 

「呂奉先殿! 凌刀厘が参りました!」

 

 

 庭にいた複数の気配が俺の声に反応してこちらに向かってきているのがわかる。

 現れたのは大小様々な犬や猫だった。

 

 彼らは見知らぬ人間を前に怯える事無く、まるで何用かと問うようにこちらを静かに見つめる。

 

「騒がせてすまない。この家の主に用があるんだが、呼んでもらえるだろうか?」

 

 一際大きい赤茶色の毛を持った大型犬が、俺の言葉にまるで返事をするかのように一度吼えると庭の奥へと下がっていった。

 しばらく待つと犬と一緒に呂布が出迎えに来てくれた。

 

「来てくれてありがとう。入って。……この子はセキト」

 

 この子と会う度に思うのだが、無表情だというのに感情がわかりやすいな。

 俺が来た事が嬉しいという感情が表情こそ変わらないのに雰囲気で伝わってくる。

 誰が見てもわかるほどだ。

 

「お招きいただきありがとうございます。セキト、ご主人を呼んでくれてありがとう」

 

 気を抜けばほんわかとしてしまいそうになる心を抑え込み、招かれた事に礼を述べる。

 彼女を連れてきてくれた忠犬には礼と共にそっと頭を撫でてやると喜んで尻尾を振ってくれた。

 主人に似て人懐っこいようだ。

 

「こっち……」

 

 俺の手を引いて家の中へ。

 一人で暮らすには大きい家だと感じたが、手入れは行き届いているようだ。

 彼女自身は私生活に気を遣うような性質では無いように思えるため、陳宮辺りが家の管理を手配しているのかもしれない。

 

 案内された居間にてそれなりに大きいテーブルを挟んで椅子に座る。

 招待を受けたのはいいが用件は聞いていないので話を促すように彼女を見つめるも、呂布は俺をじっと見つめるだけで一向に口を開かなかった。

 というよりこの子、何が楽しいのか俺とこうして見つめ合っているだけで楽しいらしく、何もするでもなくただただじっと視線を向けてくるだけだった。

 何をするでもなく向かい合って見つめ合う謎の空間が出来上がるも、不思議と気まずいとは感じない。

 この場所は今だけ、洛陽に来てからの慌ただしい時間から切り離されていた。

 

「手、触りたい」

 

 心地よい静けさの中、請われるままに自分の右手を差し出すと、呂布は俺の手を両手でそっと包み込むように握る。

 その気になれば俺の右手を握り潰す事も出来るだろう手は、ただ無邪気に俺の手に触っている。

 無表情ながらその口元を小さく綻ばせている様子は見ていて微笑ましい。

 

 俺はこの子がただただ俺と一緒にいたい為に自宅に招いたのだという事を理解した。

 であれば今ここにいるのは洛陽の将軍でも、建業の懐刀でもない。

 ただの呂布という少女と凌操という男であるならば、畏まる必要もないだろう。

 

「くすぐったいぞ」

 

 窘めるように言いながら、俺は空いている左手で呂布の頭をそっと撫でる。

 俺の右手を自分の頬に当てながら、撫でられるままに彼女は目を閉じてふにゃりと笑った。

 

「気持ち良い……」

 

 心の底から安心している少女の姿は建業にいる子供たちを思い起こさせる。

 

 呂布についての調査書によれば、武官として名を上げるまでの経歴がはっきりしない事がわかっている。

 その外見から大陸の外から流れてきたという推測があるが、それはつまり俺たちのように邑で平和な暮らしをしていた可能性が低いという事を示していた。

 天賦の才としか言い様がない理不尽な身体能力も加味すれば、福煌と同じように親というモノとは縁の薄い幼少期を過ごしていたのかもしれなかった。

 

 この子は甘えられる相手がいなかったのかもしれない。

 そしてこうも思うのだ。

 この子はずっと無条件で甘えられる相手を探していたのかもしれない。

 

 憶測に憶測を重ねた結論ではあるが、この甘えっぷりを見ればあながち間違っているとも言い切れない。

 俺が甘える相手に選ばれたのは、色んな理由が重なった結果なのだろうけれど。

 

 それでも選んでくれたのだから出来うる限り応えたいと俺は思うのだ。

 だから彼女の気が済むまで、自分の子供にするように甘やかし続けた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十六話 数奇なる運命

 俺たちは外界から切り離されたような、そんなゆるりとした穏やかな時間を過ごしていた。

 

 しかし気を抜いていてもそこは戦いを生業にする者。

 特に気配を消すわけでもなく、堂々とこの家に近付いてくる気配にはすぐ気付いた。

 

「客人か? 恋(れん)」

「ううん、友達。恋の家の掃除とかあの子たちの世話をお願いしてる。あとご飯が美味しい。前に話した駆狼に似てる人」

 

 穏やかな時間を過ごしている間に彼女は俺に真名を預けた。

 俺も真名を返す事に否はなく、気負う事もなく預け返している。

 それがこの子によりいっそう甘えられる結果になったのは言うまでもない。

 

 今やテーブル越しではなく椅子を隣り合わせて俺の腕に抱きついて頬摺りしている有様だ。

 俺の子供たちと違い彼女は成熟した女性なのだが、邪な気持ちはまるで沸いてこない。

 俺が妻二人に首ったけな事もあるが、それ以上やはりこの子の雰囲気が幼い事が原因だろう。

 だからついつい幼子を甘やかすように頭を優しく撫でて、その背をあやすように軽く叩いてしまう。

 恋はされるがまま微睡んでいたのだが、友人だという人物が近付いてくる気配で泳いでいた目がしっかりと開いた。

 

「俺に興味を持った理由、か」

 

 俺を誰かに似ていると言っていた彼女の言葉を思い出す。

 

「おーい、恋! 今晩のご飯の食材とセキトたちの餌買ってきたぞ!」

 

 家の外から聞こえてきたのは若い男、いや青年の声。

 どうにもあちらは客人がいるとは思っていないようで、大きな声で真名を呼びながら家に入ってくる。

 

「真名を許しているのにただの友達なのか?」

 

 少しからかうように声をかけると恋は首を傾げた。

 

「友達は一緒にいたいと思ってる人、名前で呼んでほしい人の事。だから合ってる」

「……そうか。うん、確かに合ってるな」

 

 誇らしげに自分の認識を披露する恋。

 咄嗟に話を合わせたが、正直なところこの子の幼さを舐めていたと言わざるをえない。

 こんな世界だ。

 年頃の少女に施すような真っ当な情操教育など領土を持つような者や貴族ですら望めるか怪しい。

 この子は武によって身を立てた者であり、そういう教育とは無縁であった事など想像するまでもなく分かる事だ。

 恋と愛の違いや、愛の中でも親愛や友愛、恋愛などの違いが分からないのも当然と言えた。

 

 不躾だった自分の言葉を反省していると、手製なのだろう籠を背中に背負った青年が居間に入ってきた。

 

 薄めの茶色がかった髪に、整った顔立ち。

 細身だがそこそこ鍛えられているように見える。

 服はこの時代の一般的なものだが、それがどこかしっくり来ない妙な違和感を残していた。

 髪と同じ茶味がかった瞳は俺と恋の近すぎるだろう距離にぎょっとしているようで見開かれている。

 俺は彼の顔立ちとこうして目前で見て改めて感じた気配を『かつての子供に似ている』と感じた。

 

「おかえり」

「た、ただいま……」

 

 恋にあまりにも普通に出迎えられ、どもりながら挨拶を返すものの彼の視線は俺に誰?と問いかけていた。

 

「恋。友達が困っているだろう。少し離れてくれ」

「…………わかった」

 

 無言だがとても不満だと沈黙を持って俺に伝えながらも、恋は抱きついていた俺の腕を離してテーブルを挟んで逆側に改めて座り直した。

 俺は椅子から立ち上がり、彼に向かって頭を下げる。

 

「お初にお目にかかります。姓は凌、名は操、字は刀厘と申します」

 

 丁寧に名乗ると彼は慌てて背負っていた籠を床に置いてお辞儀しした。

 

「お、俺は北郷一刀って言います。恋とは友達ですが、ただの根無し草で雇われの丁稚なので武官の方に頭を下げられるような人間じゃ、人間ではありません」

 

 慣れない敬語に四苦八苦しながら辿々しく彼は名乗る。

 その名前に『ああ、やっぱりそうなのか』という妙な納得が俺の心に広がっていった。

 

「ふふ、そう緊張しなくてもいいぞ。俺は今、武官としての凌操はお休み中なのでな」

 

 この世界で『その名』を聞かされた内心の衝撃を押さえ込みながら口調を崩して語ると、彼はほっと息を付いて肩の力を抜いてくれた。

 

「今まで政(まつりごと)に関わるような人と接する機会なんて恋を含めてほとんどなかったのでそう言ってもらえるとありがたいです」

「そういう言い方になるということは恋が将軍だと言う事も知らなかったんだな。まぁ今のような彼女の姿しか見てないなら、それも仕方ないだろうが……」

 

 俺と彼が話している姿を見て、何やらうんうん頷いている恋を見ながら言うと、彼は頬を掻きながら頷く。

 

「恥ずかしながら、そうです。恋とあったのはこの街でなんですけど、仕事をしてたらたまたまセキトに懐かれたのが始まりで……その時はこの子がそういう職業だとは全然思いませんでした。すっごく無口だけどなんでか見ず知らずで得体の知れない俺を置いてくれる優しい子って感じで」

「この子は仕事をしている時とそうでない時とでまるで印象が違うからな。おそらく無いとは思うが戦場では不用意に近付かないように」

「戦場に行く事なんてないと思いますけど、肝に銘じておきます」

 

 恋に対して割と失礼な内容を話しているというのに当の本人は、やはりどこか満足げで嬉しそうに俺たちを見ているだけだ。

 

「でさ。さっきからどうしたんだよ、恋? ずっと俺たちを見てるけど……」

 

 そんな彼女の視線に耐えかねた彼が水を向けると、恋は目元を緩めて微笑む。

 

「やっぱり、似てる。実は兄弟とか親子?」

 

 嬉しそうに声を弾ませながら聞かれた言葉に俺は苦笑いを返した。

 惜しいという気持ちを隠すように。

 

「いいや。俺は一人っ子だし、子供は三人だけだ」

 

 否定はすれども、それはあくまで『今世』での事だった。

 嘘は付いていないという事で勘弁してもらおう。

 

「俺は両親と妹がいますけど……流石に血の繋がりはないと思うぞ、恋。世の中にはそっくりな人が三人はいるって言うからそれだよ、たぶん」

 

 彼は前半の言葉は俺に向けて、後半を恋に向けて言う。

 そうだな、普通はそう考えるだろう。

 

「でも……」

 

 恋の手が俺と彼の手をそっと握って、俺たちの手の甲同士を摺り合わせるように触れさせた。

 

「ほら、暖かさも一緒」

 

 それは彼女特有の野性的感覚からの言い分で、あいにく俺や彼にはわからないものだったが。

 心の底からそう思っている彼女の言葉を否定するつもりはない俺たちは、示し合わせたように目線でやり取りし同時に肩を竦めて笑った。

 

「褒め言葉として受け取っておこうか」

「ありがとうな、恋」

 

 今日だけで何度見たかわからない、恋の綻んだ笑みに自分たちの判断の正しさを確信した。

 

 

 夕飯をご馳走になった後、俺は建業に割り振られた宿舎への帰路についていた。

 恋には泊まっていかないかと引き留められた。

 不満げに、しかしやたら力強く服の裾を握られて説得には苦労したが、また今度だという事を二度目の指切りで約束する事で切り抜ける事が出来た。

 

 今日はどうしても一人で整理したい事があった。

 

「北郷一刀。まさか、こんな巡り合わせがあるなんてな」

 

 『北郷』とは、俺の『前世の名字』だった。

 そして『一刀』とは『前世の孫』に自分の子供が出来た時の為にと強請られて俺と陽菜が考えた名前だ。

 そして何よりあいつの顔は若い頃の息子や孫にそっくりだった。

 もっともそれらの論理的な根拠はただの後押しに過ぎない。

 俺の心は出会った瞬間からあの子を血の繋がった家族であると確信していた。

 

「夫婦揃って輪廻転生しただけでもあまりにもあれだったというのに、まさか曾孫と会うことが出来るなんてな」

 

 俺が死んだ時はまだ孫のお嫁さんのお腹の中だったあの子がこうして成長した姿を見ることが出来るとは思わなかった。

 つくづく自分は数奇な運命の中にいるんだなと自嘲する。

 

「今の年齢は俺が死んでからだいたい十数年後、高校生くらい。恋に指切りを教えたのも一刀だった。時々、あの時代の言葉が出ていた事も合わせて考えれば……信じがたい話だが俺や陽菜とは違って生きたままこの世界に来てしまった可能性が高い」

 

 この世界で生きてきた人間とは雰囲気や所作、そして何より考え方が違いすぎる。

 この時代の子供としては所作が綺麗すぎて見る者が見ればその浮き世離れした雰囲気も相まって貴族か何かだと勘違いする者もいるだろう。

 それらが単に国民の受ける義務教育の賜なのだとわかるのは俺と陽菜だけだ。

 本能的に自分たちと何かが違うと感じる人間も多いはずだ。

 

 あちらからすれば俺は何の関わりもない、今日出遭っただけの他人。

 突っ込んだ身の上話なんてする仲ではない。

 だからあくまで気の合う人間として友好を深めるに留めた。

 

「自分から名乗るつもりもない。……それでも元気な姿を見ることが出来た。これは本当に喜ばしい事だ」

 

 しかし洛陽は今、戦火に包まれようとしている。

 あの子がどういう経緯でこの世界に来たかはわからない。

 元の世界に戻れるのかもわからない。

 

 ならばあの子の居場所を守る為にも、この戦は負けられない。

 

「戦う理由が増えたな」

 

 静かな決意をあえて言葉にし、俺は月明かりの中を歩いて行った。

 

 

 

 

 俺、北郷一刀は、ある日目が覚めたら中国の三国志時代に似た世界にいた。

 寝て起きたらだだっぴろい荒野の真ん中だったのである。

 意味が分からなかったし、頭が付いていかなかった。

 

 だが現実って言うのは容赦がないもので。

 しばらく呆然としていたら抜き身の剣片手に身ぐるみ置いていけって脅してくるような不良なんかより桁違いに恐ろしい山賊と遭遇する羽目になった。

 

 結果的にそいつらはどうにかなった。

 奴らは襲ったり脅すのには慣れていても、戦うのには慣れてなかったんだ。

 

 本物の刃物を向けられた事は正直怖かった。

 でも常日頃からじいちゃんと乱取り稽古や面と向かった剣道試合(ルール無用)なんかをしていた俺は、そいつらの身のこなしが武術を学んだ人間ではないという事に気付いた。

 だから冷静に相手の動きを見る事が出来たし、上手く誘導して三対一の状況を一対一を三回する状況にして返り討ちに出来た。

 この日ほどじいちゃんのスパルタ修行に感謝した日はないと思う。

 

 ただ伸した連中から情報収集したものの、今度はこっちが隙を突かれてあっけなく逃げられてしまった。

 街がどこにあるかというのと、この世界で見慣れられた服を手に入れる事が出来たのは不幸中の幸いだったけど。

 どうやら俺が着ていた聖フランチェスカの制服は、この世界基準でとても珍しく貴重な物であるらしく着てるととても目立ってしまうらしい。

 まぁ1000年以上先の技術で作られた服だから物珍しくて目に止まるっていうのは当たり前と言えば当たり前だよな。

 

 山賊のリーダー格の男も『服が日の光に反射して輝いて見えた』から俺に目を付けたって言っていたし。

 だから山賊たちの中でサイズが合う奴の服を頂戴して、他の奴らも逃げられないようにいったん身ぐるみ剥がした(弁明すると武器はともかく、服に関しては聞きたい事聞けたら俺が着ているやつ以外は返すつもりだった)んだけど。

 まさかぶんどった武器も何もかも捨てて素っ裸で逃げるとは思わなかった。

 

 まぁそれはともかく、服装を変えてしまえば俺はこの世界におけるただの農民に早変わり。

 そして一番近い街だった洛陽に流れ着いて、どうにかして地に足をつけようとした。

 

 山賊どもが置いていった剣が二束三文だけど売れたから街について数日はなんとかなったけど、三食何かしら腹に入れていたらすぐに尽きてしまった。

 

 着替えたお蔭で悪目立ちする事は避けられたんだけど、なにせ勝手がわからない世界。

 お金もない、身を立てるようなものがない俺が雇われるのも難しかった。

 

 まぁ俺の方の事情がなくてもこの頃の洛陽って十常侍が幅を利かせてて城下の治安はかなり悪かったら、そもそも仕事してる人達に新しい人を雇うだけの余裕もなかったらしいだけど。

 それを知ったのは俺が落ち着いて暮らせるようになってからだ。

 

 脱いで隠し持っていた制服を売る事も考えてた。

 ただ俺があちらで生きていた事を示せる唯一の証であるそれを手放したくなくて、そうして生活か故郷との繋がりかと悩んでいるうちに何も進展せず、路地裏で人目を割けて暮らす浮浪者になっちまった。

 とはいえそういう人間は大きな街でも珍しくもない事だったらしい。

 路地裏に転がっていた餓死したんだろう人の死体を見て「俺もいつかこうなるんじゃないか」って戦々恐々としていた。

 

 死にたくない、ってただそれだけを考えて過ごしていた。

 でもそんなひどい生活をしている中でも、誰かが困っているとどうしても放っておけなかった。

 『誰かを助けられる男になれ』ってじいちゃんに言われた事を思い出して、そんな余裕なんてないのに恐喝みたいな事をしていた輩と出くわしたら助けるような事をしていた。

 

 結果的にそれが良い方に転がった。

 助けた子供たちには懐かれて、あっちだってギリギリだったのに大人の何人かは恩を感じて食糧を分けてくれるようになった。

 彼らと打ち解けて浮浪者のコミュニティ? 寄り合いみたいなものに入れてもらえて、少し腕の立つ用心棒みたいなポジションに収まる事が出来た。

 

 その日暮らしがそれなりに板に付いていた時、洛陽で政を仕切っていた十常侍が殺され、董卓が都入りしたって話を聞いた。

 董卓という名前を聞いて、ようやく俺はここが三国志の時代なんだと気付いたけど、だから何が出来るって訳でもない。

 ただ董卓は都で悪政を布いていたって事は覚えていたから、ここから出て行く事も覚悟して日々を過ごしていた。

 

 けど俺の不安とは裏腹に董卓は悪政どころか民の税金を減らして街の治安改善に尽力してくれた。

 俺たちみたいな浮浪者に働ける場所(城壁の修繕とか新しい住居の設営とか畑仕事とか)を斡旋するよう手配してくれた。

 俺が知っている歴史とまるで違う暴君と呼ばれた人の行動に驚いたけど、それはそれとして出来た働き口には仲間たちと一緒に食いついた。

 そこからさらに時間が経つと俺や浮浪者仲間たちは、長屋みたいな集合住宅に住まわせてもらえるようになった。

 

 今までと雲泥の差の境遇に皆で一緒に喜んだ。

 ようやく俺は地に足を付けることが出来たんだって実感したんだ。

 

 そうして過ごしていたある日、俺は赤茶色の毛の大型犬と出会った。

 何が気に入られたのかは未だによくわからないんだけど妙に絡んできたから、満足するまでわしゃわしゃ撫でたりブラッシングもどきをしたり、仲良くなった子供たちがふくれっ面になるくらい構い続けて数日。

 

 その子、セキトの飼い主である恋がやってきた。

 セキトが懐いてるから興味を持ったみたいな事を言って家に担ぎ込まれ(めちゃくちゃ力が強くて抵抗するとかしないの次元の話じゃなかった)、あれよあれよという間に動物王国だった恋の家の管理を任されるようになった。

 斡旋された仕事よりかなり実入りが良かったから一も二もなく頷いた。

 まぁセキト筆頭にした動物たちの世話はけっこう大変だから、給金とは釣り合っているような気はする。

 

 そんな新しい生活ルーチンが始まってしばらくして、恋があの三国志最強の『呂布奉先』だって知った。

 だけど俺にとってこの子は口数が少なくて力は強いけど子供っぽいというか感性が幼い女の子でしかなかったから俺の知る歴史と性別が変わっている事にこそ驚いたけどそれだけだった。

 

 この時にこの世界には心を許した相手にしか呼ぶことを許さない、そんな事しようもんなら首を刎ねられても仕方ないという真名という決まり事があるという事を知った。

 というか恋、セキトが懐いていたからって理由だけでそもそも最初の名乗りから真名だったんだよなぁ。

 それもあって服装から雰囲気まで明らかに一般人じゃない恋の正体を知るのは、家の管理を始めて一ヶ月くらい経ってからだった。

 

 呂布だという事を知ったけれど、恋は畏まられる事を望んでないように見えた。

 だから口調や態度も変えずに接したらなんかますます気に入られた。

 とはいえ武官とか文官とか、ましてや領主なんて人達は俺たちみたいな一般人から見れば基本的に遠目から見るだけで直接関わる事のない天上人だ。

 恋とこうして関わっていくなら、どこかでそういう人と出会ってしまう事もあるかもしれない。

 現に今日、恋と仲が良い人が家に訪ねてきていたし、失礼な事をしないように敬語とか作法とか学んどいた方がいいかもしれない。

 

 浮浪者生活で図太くなったせいか、相手が武官だって言われてもそんなに動揺はしなかったけど、やっぱり敬語とか慣れてないからきちんと対応出来てなかったしなぁ。

 寛大な人だから良かったけど、今後出会う人がそうとは限らないし。

 

 恋に頼まれて家の管理と動物たちの世話を任されているって事は恋が俺の雇い主って事になるんだ。

 俺のやらかしは恋に迷惑をかける事になる。

 今まではいまいち実感がなかったけど、これからは気をつけないと。

 

 恋はちょっとこういう礼儀作法の話には向いてないだろうし、聞くなら『音々音(ねねね)』かな。

 

 頭に浮かべたのは陳宮と名乗ったちびっ子。

 恋の事が大好きな女の子だ。

 しょっちゅう跳び蹴りしてくるけど、あいつのあれってめちゃくちゃ派手だけど威力は全然大した事無いし、いちいち叫ぶから大体避けられる。

 あんまり身の危険は感じないからあいつなりのコミュニケーションだと割り切ることにしていた。

 あれが呂布に最後まで仕えて一緒に処刑されたと言われてる文官なんだもんなぁ。

 

 外見だけ見たらほんとにただの子供なんだけど、頭が良くて教養があるのは間違いないし呂布である恋と一緒にどこかに仕えてるんだから礼儀作法とかにも詳しい、はず。

 それに俺が気に入らなくて毎回突っかかってくるけど、最近は挨拶代わりに一発かました後はおとなしく恋やセキトたちと戯れてるか、俺が作る飯を野次を飛ばしながらもおとなしく待ってるからだいぶ丸くなってきてる。

 どういうタイミングだったか全然覚えてないけど、いつの間にか真名も預けてくれたし聞けば教えてくれそうだ。

 今度会ったら聞いてみよう。

 

 

 恋の家の縁側で月を見上げながら、今までの出来事を思い返して今後やることに目星を付けていく。

 膝に乗っているセキトをお手製の櫛でブラッシングしてやりながら。

 俺の背中に自分の背中をくっつけて眠っている恋は、俺がしょっちゅう身動ぎして身体が揺れるにもかかわらず可愛らしい寝息を立てていた。

 どちらも気持ちよさそうに唸っている事に自然と目尻が下がる。

 

 セキトの毛の手入れをしながら、来客の男性を改めて思い浮かべた。

 

 あの人の顔を見た瞬間、じいちゃんの顔がフラッシュバックしたんだ。

 

 如何にも荒事に慣れているとわかる厳つい角張った顔立ち。

 背も俺より20センチくらい高かったと思う。

 俺の細い身体なんてデコピンで吹き飛ばせそうな引き締まった身体付きは誰がどう見ても武人だって思うだろうな。

 

 じいちゃんは俺より背が低かったし、枯れ枝みたいな身体付きだったから外見は似ても似つかないはずなんだけど。

 

 でも俺を見て驚いたように目を丸くして、その後に一瞬だけ優しく細められたその顔に。

 『昨日の己に克つ』っていう道場の教えを優しく語っていたじいちゃんが被って見えた。

 

 恋にはなんでもない風に他人のそら似だって言ったけど。

 本当のところは見た目じゃないけど、この人と俺が似ているって俺自身も感じてた。

 そして俺はそんな人がいる事に、そんな人と会えた事になんでだかとても安心したんだ。

 

「……ああ、なんかちょっと」

 

 突然、意味も分からず来てしまった三国志によく似た異世界で、元の世界を思い出させる人にあったせいかもしれない。

 

 この世界にいない家族を、父さん、母さん、妹、じいちゃんを思い浮かべて。

 及川や先輩、友達たちを思い浮かべて。

 目まぐるしい日々を乗り越える為に蓋をしていた気持ちが溢れて。

 

 俺はこの世界に来て初めて泣いた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十七話 月下の再会

 反董卓連合への対応と平行して、俺は桂花との接触の機会を窺っていた。

 軍議で一緒になることが多い賈駆に霊帝の崩御の後、献帝と名乗った帝のお子とその周囲についてそれとなく聞いてみたが、どうやら董卓の側近である彼女ですらも謁見する機会は早々ないようだ。

 

 献帝自身が宮の奥に篭もっており、政の全権を董卓に委譲してからは特にそうだと言う。

 月に一度だけ董卓を呼びつける事があるらしいが、同行者は許されておらず。

 謁見の内容を当事者以外が知る事を許さないと取り決められているという話だ。

 

 当然、教育係として都入りを果たし、現在は教育係をしていたお子が帝となった為にそのまま傍仕えをしている桂花の事もわからない。

 徹底した情報規制と接触の制限は、おそらく帝の身を守るための物なのだろう。

 

 董卓に全権を委任しているのはまだ幼い献帝が政治に関わるのは荷が重いと判断されたのか。

 あるいは何者かによる意思、それこそ霊帝が崩御した際にかの人物が何か言い含めていた可能性もある。

 

 最後にもらった手紙で、あの子は自分の事を『死んだものとしてお考えください』と綴っていた。

 それほどの覚悟が必要だった十常侍の影響化にあった宮中の様子など想像も出来ない。

 

 俺は反董卓連合への対応を見据えながら、水面下で桂花の様子を探り続けた。

 

 それは別に俺だけに限った話ではなく。

 祭たちはもちろん、雪蓮嬢や冥琳嬢もまた徹底的に隠された宮中の奥の様子を探っていた。

 思春や明命も探ってくれているが、あの子たちには反董卓連合の内偵もしてもらっている。

 そちらを優先しなければならない状況、宮中については流石の警備の厳重さもあってどうしても二の足を踏んでいるのが現状だ。

 

 対反董卓連合の準備を整える為に東奔西走することかれこれ三ヶ月ほど。

 しかし明確にこれだという情報を、俺たちは誰一人として未だ見つけられていなかった

 

 

 その日、いよいよ動きだし始めた反董卓連合に対して、こちらも本格的に軍を動かす事になった。

 

 第一陣の選抜が終わり、数日後には出兵。

 俺たち孫呉の四天王が指揮する建業軍、翠を主体とした西平軍、張遼率いる洛陽軍。

 洛陽軍の張遼を総指揮官に置いた混成軍となる。

 

 反董卓連合が洛陽へ攻め入るに当たって攻略しなければならない要所は二箇所。

 汜水関(しすいかん)、そして虎牢関(ころうかん)だ。

 

 この二つの関所は、歴史上だと同じ場所の事を指していると言われている。

 二つの関所となったのは三国志演義の創作らしい。

 しかしこの世界では反董卓連合を阻むように立地される洛陽東方を守る二つの砦。

 大軍で洛陽に向かうならば汜水関、虎牢関の順での攻略が必要であり、避けては通れない場所だ。

 

 この戦に勝利する為の一手として、まずこの汜水関でなるべく長い時間、敵軍の足止めを行う。

 奴らには『最終的に虎牢関まで来てもらう必要がある』ので、ここで求められるのは勝ちすぎず負けすぎない事。

 相手が攻める気概を失う事なく、さりとて容易く関を抜かれてはならない。

 

 呆れるほどに物量に差がある反董卓連合相手にこれを行わなければならない。

 字面だけみればなんとも無謀な事だが、これでもただでさえ薄い勝ちの目が高い方なのだから、改めて董卓を取り巻く状況の悪さが理解できるというものだろう。

 無茶無謀を押し切ってやり遂げてみせなければ、この戦いで俺たちが求めている結末は訪れないのだ。

 

 

 俺は出兵が決まった事で昂ぶった心を静める為、夜更けに訓練場で一人鍛錬を行っていた。

 いつも通り頭に思い浮かべた仮想敵を相手に拳を、蹴りを、棍を振るう。

 

 思い浮かぶ限り、予想出来る限りあらゆる状況を想定して。

 集中し過ぎた俺は、月が真上に昇る頃にようやく身体の疲れを自覚して動きを止めた。

 同時に訓練場の外からこちらを見つめる者がいる事にも気付いた。

 

「……何か御用でしょうか」

 

 月明かりから隠れた物陰に視線を向けずに声をかける。

 洛陽は目上の人物の城なので、誰がいるかわからない。

 故に身内のみの場以外は敬語を心がけていた。

 

「……」

 

 しかし俺を見ていた誰かは沈黙したまま話さない。

 この洛陽へ不当に侵入した者の可能性を考えるが、それなら鍛錬に夢中になっていた愚か者の事など捨て置いてこの場を離れるはず。

 

「……」

 

 お互いに沈黙する事しばらく。

 虫の声すら聞こえない真夜中で、僅かに聞こえるのはお互いの小さな吐息のみ。

 やがて観念したのか、それとも覚悟を決めたのか物陰の者は、ゆっくりと俺に見える位置に姿を現した。

 

 出てきたのは蓮華嬢と同じくらいの背丈の女性だった。

 薄めの亜麻色の髪、肌を極力晒さない薄い青色を主体とした服に濃い緑色のぱっちりとした瞳が印象的だ。

 

 俺は成長したこの子の姿を見れた事を喜ぶ気持ちが溢れ、万感の思いを込めて彼女の名を呼ぶ。

 

「桂花……」

 

 俺が名を呼ぶと、あちらはひどく動揺したように瞳を揺れ動かし、口を開いては閉じるという行為を数回繰り返す。

 声をかける事を躊躇い、名を呼ぶことを躊躇っている。

 俺は辛抱強く、彼女からの応答を待った。

 

「駆狼、様……」

 

 この子はずっと自分に向けられる悪意に耐えてきたのだろう。

 上擦り震えながら紡がれた言葉だけで、それが伝わる。

 信頼して許された真名一つ口に出す事にすらも、これだけ時間をかけて躊躇する。

 そんな環境にこの子はいたのだ。

 

「成長したな。お母上に似て綺麗になった」

「っ……」

 

 嗚咽を漏らさぬように唇を噛み締める桂花。

 それでも目元が湿り気を帯びていく事が止められない。

 泣く事すらも律し続けてきたのだ、この子は。

 

 俺はゆっくりと彼女に近付く。

 涙が零れそうになっている桂花をそっと胸に抱き寄せた。

 

「俺は今、ただの置物だ。誰も聞いていないのだから……お前は泣いていい」

 

 言い終わるよりも早く、桂花は俺の背中に手を回して胸に顔を押し付けた。

 触れる事でわかるこの子の身体の病的な細さに、俺は最大限の注意を払いながら抱き締める手に力を入れる。

 決して声を漏らさぬように、誰にも知られないように、けれど今までずっと我慢してきたものを吐き出すように。

 声ならぬ声を意図的に無視し、俺はただ桂花を労るように抱き締め、その小さな頭を撫で続けた。

 

「当主が死し、実質的な人質として宦官どもの元に行った娘の事など、過去の思い出ごと葬り去って欲しかった」

 

 目を腫らしながら桂花は言う。

 

「私のことなど手の届かぬところにいったものとして忘れて欲しかった」

 

 独白のように言葉が続く。

 

「貴方方が忘れてくれれば……私もまた桂花という人間を殺し、帝の教育係という名の人間として生きていく事が出来ると思いました」

 

 少女である事を捨てる決断。

 そこまでしなくてはならない環境など俺には想像もつかない。

 しかしそんな悲痛な覚悟の中に彼女はいたのだと、俺は天を仰いで助ける事が出来なかった悔しさに歯噛みした。

 

「私は霊帝のご子息を、陛下を悪意からお守りするため、八方手を尽くしました。決して口に出せぬような事もしてきました。……駆狼様たちが聞けば失望するような事もしてきたのです」

 

 聞いているだけで悲しくなる、身を切るような言葉。

 正しく懺悔のように語る桂花を抱き締める腕に少しだけ力が入った。

 

「貴方方の元にいた桂花はもういないのです」

 

 この子にそんな言葉を言わせた宮中に、俺は改めて強い怒りを覚えた。

 

「だから……だ、から……」

 

 その先は言わなくてもわかる。

 あの手紙の通りに、今繰り返して告げたように。

 自分の事を死んだものとして扱えと言うのだろう。

 

「言わなくてもいい。これ以上、お前に傷ついて欲しくない」

 

 より強くこの子を抱き締め、嗚咽交じりに紡ごうとした言葉の続きを封じる。

 

「俺はお前が大切なものを奪われていくのをただ見ている事しか出来ない自分が憎かった」

 

 母親を亡くし、思い出の詰まった家を焼かれ、上洛という人聞きの良い言葉で自由を奪われたこの子を俺は助けられなかった。

 助けたいと願っても、何も出来ない。

 孫呉の懐刀などと呼ばれても、大切な子を理不尽から救う力はないという事を思い知らされた。

 

「自分の言葉で自分を傷つけなくていい。俺は、俺たちは……決してお前を傷つけないから」

 

 隠れて様子を窺っている者たちにも届くように告げる。

 俺は牽制する為に周囲に視線を巡らせながら、桂花が落ち着くのを待った。

 名残惜しげに俺の身体から手を離し、向き合う彼女の目を見つめる。

 

「今はどうだ? 十常侍がいなくなってお前は少しでも楽になったのか?」

 

 宮中の情報など外部には漏らせば、お互いにただでは済まない。

 だから俺は桂花の近況のみを、抽象的に問いかけた。

 

「はい。私どもを取り巻く環境は改善されました。貴方様の変わらぬ優しさに感謝いたします」

 

 だが桂花の顔は暗いまま。

 今も尚、懸念事項があることは明白だろう。

 

「十常侍が消えた後、董卓が都入りした事で宮中は平和になりました。董卓は献帝様とそれに連なる我々に最大限の敬意と尊重を持って仕えてくれております。お蔭で私どもに危害を加える者はおりません。……反董卓連合を除いては」

 

 桂花は語る。

 袁紹は帝や洛陽の民を救うのだと謳い、董卓誅すべしと反董卓連合を立ち上げた。

 だがそれはようやく十常侍の支配から抜け出し、董卓という安全な守護者を得た帝たちからすれば余計なお世話でしかないのだと。

 

「董卓が厳しい状況に立たされている事を知った陛下は、彼女に助力しこのまま洛陽に残せないかとお考えになりました」

 

 今の帝は董卓がいる今の状況を変えたくないのならば、ますます袁紹の行動は朝廷の意図に背く反逆になる、か。

 しかし今まで接触を董卓のみに制限して、帝や宮中の情報を外に漏らさぬよう徹底させてきたというのに、今ここでこれだけの情報を個人的親交があるとはいえ、ただの一武官に話す桂花の意図はなんだ?

 話してくれるというのならば、その内容はありがたく受け取らせてもらうが、俺への敬愛だけでこんな事はしない。

 否、してはいけない立場に桂花はいるんだ。

 

「一応の確認だが、陛下から袁紹を糾弾する文を出せばこの戦いは始まらずして終わるという事にならないか?」

「……今の陛下の言葉は董卓が言わせているだけ。天の意思をねじ曲げる董卓の悪逆は名門たる我が名に置いて許さぬ、との事です」

 

 半ば予想していた事だが、献帝の言は握り潰されたのだな。

 つまり董卓を悪とする今の情勢では帝本人の言葉すらも受け入れられる事はないという事だ。

 全てが『董卓のせいである』とされてしまう。

 なんともあちらの都合の良い悪役に仕立て上げられたものだ。

 

「となれば、そんな言い訳が通用しない状況を作らなければならないんだな」

 

 その為にも、やはり戦は避けられない。

 場を作るという意味でも、今後の暴走を抑止する為にも、連中の戦力を削らなければいけなくなった。

 結果的にではあるが、建業でさんざん話し合った計画通りの流れになったと言える。

 

 とはいえ、想定される流れの通りに物事を進めるには董卓軍のみでは圧倒的に戦力が足りない。

 どれほど精強な軍を持っていたとしても、一騎当千の武将がいたとしても、物量の差がこれほど大きいとなればいずれ待つのは敗北。

 

 ああ、なるほど。

 

「俺たちが董卓側に付くようにそれとなく誘導したのはお前の策だったんだな」

「……はい。私は陛下の願いを叶える為にさんざんお世話になった恩人である貴方方を巻き込みました」

 

 ここまで細かい事情を俺に話したのは先の話とはまた別の、勝ち目の限り無く薄い戦へ俺たちを巻き込んだ事への懺悔だったのだ。

 

 しかし告げる言葉に謝罪はない。

 罪悪感はあるのだろうがそれでも必要な事として実行した以上、頭を下げる事は許されないと考えているのだろう。

 

 おそらく建業に来た袁紹の使者辺りが洛陽の息のかかった者だったのだろう。

 あの男、建業の返事を袁紹に届けてから一ヶ月と経たずに職を辞したらしい。

 将来的な安定がほぼ確定している名門袁家の配下に収まりながら、特に失敗などしていないというのに去って行くという不可解な行動が引っかかっていたが、そもそも間者で役目を終えて撤収したと考えれば納得がいく。

 

「思えばあの書簡は雪蓮嬢と俺たちの反感を的確に煽る内容だった。お前が監修したのなら納得がいく。流石は冥琳嬢が好敵手と認めた智だ」

「ご明察です」

 

 俺の推測が正しい事を肯定し、暗い顔のまま桂花は語り続ける。

 

「厚顔無恥と軽蔑される事も承知の上。舌の根の乾かぬうちに貴方様の好意を、善意を利用して目的を果たそうとする私は……」

「言ったはずだ。自分の言葉で自分を傷つけなくていい」

 

 桂花の言葉を遮り、何度でも分かるように告げる。

 

「俺はお前を助けたいと思っている。それは今こうして会ってからも変わらない」

 

 泣き腫らして真っ赤になっていた桂花の瞳がまた潤み始める。

 

「誇れ、とまでは言わない。だが自分を卑下するな。お前は帝のために奔走出来る立派な忠臣だ」

 

 権謀術数の宮中に疲れ果てたこの子の心を少しでも慰める為に俺は言葉を重ねた。

 

「そしてそんなお前がこの状況を打開する為の手段として俺たちを選んだ。それだけ俺たちを買ってくれているという事。帝を手助けできるなんて大役を授かるなんて後世にまで自慢できる。ほら、俺たちにも利益があるだろう?」

 

 だからいいんだ、気にするなと言い続ける。

 そうして俺は桂花から帝の考えを伝えられ、俺から雪蓮嬢たちに伝える事を約束する。

 

 

 そして。

 

「……孫呉の皆様が董卓側に付いてくださった事、私はずいぶん前から存じ上げていました。しかし私は陛下の住まう宮から出ないように、どうしても外に出なければならない時は鉢合わせる事がないように裏に手を回して出会う事がないように避け続けてきた」

 

 小さかった子供が年月を感じさせるほどに成長した姿での再会。

 その終わりをを惜しむ俺に桂花は告げる。

 

「本当なら今、私が伝えた計画は董卓からお伝えする予定でした」

 

 俺に接触をしてきた時の澱んだ空気はもうない。

 吹っ切れたその表情は目が真っ赤である事を除いても年相応の可愛らしさに満ちていた。

 

「でもどうしても、貴方に一目お会いしたいという想いを抑える事が出来なかった。たとえその結果、嫌われるとしても……」

 

 桂花は昔と変わらぬ猫耳が付いたフードのような物を被って頭を下げる。

 

「ありがとうございます。私を慈しんでくれて、私を信じてくれて。……次は戦いが終わった後にお会いしましょう」

「その時は出来れば皆も一緒にしてほしいな。お前を独り占めにしてしまっては、あいつらにどやされてしまう」

「はい。勿論です」

 

 再会を誓い合った俺たちを月が優しく見守っていた。

 

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十八話 出陣の時

 桂花と月下での語らいをした翌日。

 董卓や翠たちとの合同軍議の前に身内だけで集まった席で、俺は彼女の言葉と教えてもらった献帝側の思惑を建業軍の皆に共有した。

 

「ふむ。あの子が無事であったのは何よりじゃな」

「僕たちが想像出来ないような苦労をしてきたのだろうけど一先ずは安心かな」

 

 あの子が無事でいる事については皆、安心したということで意見は一致している。

 

「私としてもあの子が思ったよりも元気だったのは嬉しいわよ」

 

 雪蓮嬢もまた彼女と関わった者の一人として喜んでいる。

 

「でもそれはそれとして、よ。私たちを董卓を都に残すために利用したというのに関してそのままにはしておくわけにはいかないわよ」

 

 しかし意識が切り替わった事で孫家当主としての意見を出し、あの子の無事に安堵して緩んでいた場を引き締めた。

 

「軍師として言わせていただくなら完全に術中に嵌まった形になりますので、意趣返しはしておきたいですね」

 

 眼鏡の位置を直しながら威圧的な雰囲気を作る冥琳嬢はさながら魔女のようである。

 

「ま、せいぜいこの戦いであちらが褒美に困るくらいに戦果を上げてやりましょう」

 

 雪蓮嬢が茶目っ気たっぷりに片目を閉じて笑う。

 桂花を糾弾するつもりなど端から無かった事がよくわかる物言いだ。

 

「最初からそのつもりだったんだろうに」

「これは会えなかったのを絶対根に持ってんな。なんなら建業にいた頃、桂花ちゃんに囲碁で全戦全敗してる恨みも入ってるんじゃないか?」

 

 俺と激が小声で囁き合い、やれやれと肩を竦めていると雪蓮嬢が「何か言った!?」と賊も裸足で逃げ出す眼光を向けてくる。

 聞こえてないのに自分について良くない事を言われている事には気付くのだから、この一家の直感は本当に高性能だな。

 

「さて話を戻しましょう」

 

 胸の前でパンと手を鳴らし、冥琳嬢がその場の空気を改めて変えていく。

 

「この戦の終わり。我々の目指すところと献帝陛下の目指すところは一致しました。董卓もまた陛下の思惑に乗ることに同意している。であれば後顧の憂いはほぼ無いと見てよいでしょう」

 

 そう俺たちは桂花からもたらされた情報によって、献帝側の思惑を把握する事が出来た。

 有り体に言えば、寝首をかかれる心配をする必要が無くなったという事になる。

 まぁそれでもこれからの情勢によってあちらの方針が変わる事も考えられる以上、最低限の警戒は必要だろう。

 それでも最低限で済ませる事が出来るようになったというのは、それだけ労力を他に回せるという事なので僥倖と言えた。

 

「出撃は三日後に決まりました。既に準備は万全と自負しておりますが、出撃する方々にはそれぞれでも入念なご確認をお願いします」

 

 冥琳嬢の指示に俺、激、慎、塁、祭が頷く。

 

「建業軍の大将は祭殿にお願いします。汜水関を捨てる時機の見定めと他軍との連携はくれぐれも慎重に」

「承った」

 

 俺たち五人の中で大軍を率いた指揮に最も秀でているのは祭だ。

 獲物が弓であるが故の視野の広さ、俯瞰しての戦況分析など俺たちが持っていない物を持っている。

 慎と激が祭の補佐を、塁は拠点防衛に注力する事になっている。

 そして俺は今まで少数精鋭を率いる事が多かった為に遊撃に回る。

 作戦に従って動くつもりではいるが、指揮下を離れた臨機応変な対応が求められる。

 むしろ今まで熟してきた仕事を考えれば妥当な采配だろう。

 

 判断を誤れば部隊ごと敵陣で孤立しかねない危険な役割だが不満はない。

 戦の果てに必ず目的を果たすという覚悟があるからだ。

 それはこの戦場に立つ友軍全てに言える事でもある。

 

「雪蓮と私は後追いで虎牢関に向かいます。……可能であれば董卓らや陛下も共に」

「帝のお力を借りるどころか戦地へご足労願う以上、失敗は許されない。時機を見誤るなよ?」

 

 俺の言葉に冥琳嬢は自信を持って笑って答える。

 

「無論です」

 

 作戦内容の確認は続く。

 

「思春、明命の主要な仕事は反董卓連合への工作や情報収集だ。難しく危険な仕事をしてもらう事になる。無茶は許すが無理はするな」

「「御意」」

 

 隠密として実力が特に高いこの子たちとこの子たちが率いる隊のやることは多岐に渡り、その負担は計り知れない。

 しかし当人たちの顔に曇りはなく必ず成し遂げるという気迫に満ちていた。

 多少の無茶は致し方ない状況に萎縮した様子もないのは実に頼もしい。

 

 おそらくは身内全員が揃っての軍議はこれが最後になるだろう。

 戦が終わったとき、この中の何人かが欠けている事も考えられる。

 

 それを恐ろしいとは思う。

 しかし逃げようとは思わない。

 

 俺たちが望む結果を得る為に。

 守りたいと願う者たちの為に。

 恐怖を見据え、恐怖に打ち勝ち、必ず全員で帰ると誓う。

 

「必ず勝つわよ、この戦」

 

 軍議を締めくくる雪蓮嬢の言葉は、その場に集まった者たちの総意だ。

 

 

 

 最終確認に奔走していれば洛陽を発つ日はすぐに訪れた。

 城内に整列する混成軍の姿は壮観の一言だが、これでも反董卓連合と比べればあまりにも少ないのが現実。

 勝率が低い、などという事は分かり切っている事だ。

 いよいよこの時が来たのだと、場の緊張は最高潮になっている。

 

 出陣の号令を今か今かと待つ俺は、ふとこちらに近付く気配を感じ取りそちらに視線を向けた。

 城内に入る為のかつて暮らしていた日本を基準とすればあまりにも横に広い階段。

 その先にある玉座の間から『彼女ら』は姿を現した。

 

 静かながら堂々と董卓が歩き、そのすぐ横に侍るように賈駆が。

 彼女らの後ろを付き従うように雪蓮嬢と冥琳嬢、恋と陳宮が続く。

 

 自分たちの遙か上の存在が現れた事に気付き、浮き足立つ兵士たちによってざわめきが場に広がっていく。

 

「皆さん。私は司空、董仲穎です」

 

 だが彼女の静かながらよく通る声によってざわめきは一瞬で消え去り、その場にいる全ての人間が耳を傾ける。

 

「洛陽を、都を、引いてはこの中華の民を守る為に、恐れ多くも私は陛下に政の全権を任せられております」

 

 まさか董卓が今この場所にいる経緯を本人から聞かされるとは思いもしなかった兵士たちの困惑は察するに余りある。

 

「私は陛下にこの大陸の安寧を誓いました」

 

 身振り手振りもない、粛々と語られる言葉には並々ならぬ決意が宿っている。

 

「しかし袁本初を筆頭とした反董卓連合は陛下のご意志をねじ曲げ、あまつさえ自分の利益の為に利用しようとしています。かつての十常侍と変わらぬ愚行です。私たちはこれを止める為に此度の戦いに挑みます」

 

 彼女の必ず勝つという意思が言葉によって兵士たちに伝播していく。

 

 暴君と伝えられた俺の世界の董卓とは違う、為政者として他者を引っ張る力を感じる。

 もしも蘭雪様よりも先に彼女と出会っていれば、彼女の下にいたかもしれない。

 俺が思わずそんなもしもを想起するほどに、その言葉には引き込まれるものを感じた。

 

 俺などよりも立場がより近い上に立つ者である雪蓮嬢は、彼女の演説に何を感じているのだろう。

 

「皆さん。この戦いは皇帝陛下に認められたものであり、私たちは帝の意思の代行者であり、この大陸の平和を担う者です。私たちは必ず勝利します。勝利する事が皆さんが大切だと思うモノを守る事に繋がります。ですから、どうか信じて付いてきてください」

 

 一兵卒からすれば、天上人と言っても過言ではない董卓がひたすに丁寧にこの戦いの正当性を語った。

 そして勝利を誓い、自分に付いてこいとまで言ったのだ。

 これに奮起しない者はいないだろう。

 

 静まり返っていた場は、いつの間にか喝采に包まれていた。

 俺たちのように外から来た人間でも、背を押してもらったような安心感があるのだから、これは当然の反応だろう。

 

「いよいよ、じゃな」

「ああ。彼女の言葉を嘘にしない為にも頑張るとしよう」

 

 必ず勝つという煮えたぎるマグマのような熱い気概を身体の中に抑え込んでいる祭に、同様の気持ちを抑え込みながら目を合わせ、不敵に笑い合う。

 

 歓声を一身に受け止める董卓の脇に控えている雪蓮嬢に視線を向ければ、まるで示し合わせたかのように視線がかち合った。

 その目が「勝ってきなさい」と言っている気がして、俺は「お任せを」という意思を込めてしっかりと頷く。

 僅かに口元が笑っていた事から俺の言葉はしっかり伝わったのだろう。

 

「出陣!!」

 

 総司令官である張遼の言葉を受けて、俺たちは整然とした列のまま歩き出す。

 背を向けた遙か階上の玉座の間から誰かがこちらを見ている気がした。

 

 

 都を出るまでの間、洛陽の民たちが不安げにこちらを見ている姿が視界に入った。

 混成軍出陣の行進が行われた事によって戦いが始まる事が分かってしまったのだろう。

 

 俺はそんな彼らの中に一刀の姿を見つける。

 じっとこちらを見つめ、彼の服を握り締めている子供たちを宥めているようだった。

 

「(不安がらせてしまってすまない)」

 

 自分だってきっと不安を抱えているだろうに、それでも自分よりも小さな子供を優先する優しさをあの子は持っている。

 その事が不謹慎ながらとても嬉しかった。

 

「民に安寧の日々を取り戻す為に! 我らの手に勝利を!」

 

 俺は少しでも彼らの不安を和らげる事が出来ればと檄を飛ばす。

 俺の部下たちが、建業軍の仲間たちが、馬超の軍の気心知れた連中が、「応っ!」と叫ぶ。

 

「あちらさんに気合いで負けてられん! うちらも気張るんやで!!」

 

 張遼が俺の檄ににんまりと笑って乗り、配下を鼓舞する様子を尻目に周囲を窺う。

 俺たちの突然の行動に民はとても驚いたようだ。

 もちろん一刀もその口で、最初に声を上げた俺を見ていた。

 ばっちりと目が合ったので片目を閉じてしてやったりと笑いかけてやれば、あちらにも伝わったらしく笑ってこちらに頭を下げた。

 これで少しは気が楽になっていてくれればいいが、な。

 

 城下街をあっという間に通り抜けていく。

 振り返るような事はせず、行軍は淀みなく。

 

 ここから見据えるのは前だけ。

 目指すは汜水関。

 この戦いの最初の戦場。

 

 首を洗って待っていろ、反董卓連合。

 最後に笑うのは俺たちだ。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第九十九話 汜水関、開戦の時

 汜水関へは軍を複数に分け、さらに夜間に入った。

 可能な限り人目を避けて、敵に汜水関にいる我々の総数を気取られないようにする為だ。

 

 敵対する相手の総数が分からないというだけでも精神的に違うもの。

 戦になる前の事前準備はもちろんそうだが、駆け引きとは面と向かって戦端を切る前からもう始まっているのだ。

 

 汜水関に入った者たちは隠蔽など考えずに、籠城戦の準備をしている。

 人が集まる場所の喧噪とはよほど意図して消さなければ伝わってしまうものだ。

 ましてや今回の相手は軍としての距離は目と鼻の先。

 具体的に何をしているかまでは分からないだろうが、砦が騒がしくなったという事は筒抜けだろう。

 よほどの節穴でなければ、だが。

 

 こちらとしては相手がボンクラであるならその方がやりやすいし、とてもありがたい。

 だが仮にも『帝を悪漢から取り戻そう』とする集まりが揃いも揃ってそんな間抜けであるはずがない。

 少なくとも直接面識があり建業の総意として『強敵認定』している曹操がいる時点で、油断など出来るはずがない。

 

 汜水関の外壁から遠目に見える反董卓連合の野営地を見つめながら、俺はこれからの戦について考える。

 

「こちらと比較して大軍なのは理解していたが、動きが想定した以上に遅い」

 

 思春や明命の報告によれば、砦の目の前に来ているこの状況で『総大将が決まっていない』らしい。

 普通であれば、あれだけの勢力を扇動した袁紹が暗黙の了解で矢面に立つのが自然だ。

 でありながら袁紹は自分から名乗り出る事はなく、しかし『自分が総大将である』という態度で軍議を取り仕切っているという。

 ふざけた話だが誰かが自分を総大将に推薦するのを待っているようだ。

 事ここに至ってまさか見栄を最優先するとは集まった諸侯も思わなかっただろう。

 これで正義は我にありなどとよく言えたものだ。

 

 だが厄介な事にこの件をくだらないと一蹴する事は出来ない。

 なにせ袁紹は腐っても現在の漢王朝で指折りの名家の当主なのだ。

 これに意見をするにはただ正論を唱えればよいという事でもない。

 黒と言えば白さえも黒に出来ると言っても過言ではない力を持つ者に対して必要なのは正論ではなく、如何に『乗せられるか』という事なのだ。

 その上で推薦した事で『推薦した責任を押し付けられる事態』を回避しなければいけない。

 

 集まった諸侯には同情する。

 無能な味方は時に有能な敵よりも厄介だ。

 

「まさか反董卓連合の最上位者である袁紹が頭一つ抜けたボンクラとはな」

 

 こちらにとってはありがたい事ではあるのだが、仮に自分があちらの陣営にいたらどこかで袁紹暗殺を考えるかもしれない。

 

「曹操が沈黙しているのは、こちらが動くのを待っていると見ていいな」

 

 集まった諸侯の中で袁紹に陣容、権力の両方を併せ持った対等に話せる人間として曹操が真っ先に上がる。

 しかし彼女は、今日まで袁紹の一人舞台に口を挟んでいない。

 袁紹に呆れているというのもあるだろうが、董卓側の動きを静観しているのだろう。

 

 俺たち建業が董卓側に付いている事に、彼女は気付いていると見ていい。

 俺とは個人的に会合し、黄巾の乱の際には共闘、雪蓮嬢たちとも顔を合わせており、俺たちの性質に触れる機会が多かった。

 それを踏まえてこうなる事を推測、そして今あちらに建業の勢力がいない事で確信されている事だろう。

 

 余談だが初期の案として両軍に建業の軍勢を加える事は上がっていた。

 しかし董卓とも袁紹とも信頼関係を築けていない状況では、これを行ってもどちらからも背信の可能性を疑われて最悪の場合は袋叩きにされて終わりだ。

 両軍に回すだけの戦力を確保出来なかった事もあり、この案は没になっている。

 

「警戒が特に強く曹操の野営地への侵入は出来なかった事からも相当警戒されているのがわかる。しかしそれはそれで打つ手はある」

 

 大軍の中の一勢力である今、曹操に直接手を出す必要はない。

 大軍の利点はその数だが、自身が頭でない場合、個々の軍としての動きが鈍くなるという欠点を持つ。

 董卓軍が勝利するにはその欠点を徹底的に突くしかない。

 

「あっちがもたついている内にこちらの体制は整ったが……戦端はあちらに切ってもらわないとならない」

 

 『自らの大義を旗印にしてこちらへ攻め入る反董卓連合』という事実が後々の状況に必要な俺たちは、いつ攻められても良いように備えた上でその時を待っている。

 はっきり言って今の状況はもどかしいが、それでも待つしかない。

 

 ふと、とある猪武者の顔が頭を過ぎる。

 もしもさんざん迷惑をかけてきたあの女がそのまま武官であった場合、自分の裁量で動かせる軍で早々に突撃をかましていたかもしれない。

 あまりにも生々しくその様子が想像出来てしまったせいで寒気を感じた。

 

 出陣の前に罷免できて本当に良かった。

 張遼の指揮下にあるあの女は張遼が認めなければ出撃できない。

 もし勝手な事をした場合、容赦なく後ろから撃つという事を董卓から認められているという話だ。

 わざわざ書状で作成されたその認可に、華雄はここまでされるほどに自分が信用されていない事実に崩れ落ちたらしい。

 自業自得としか言いようがない。

 逆にそこまでされなければ暴走する懸念がある自分の普段の行動を顧みてくれ。

 

 ここまでされて心を入れ替える事が出来ないなら、奴もまた袁紹と同じく『無能な味方』の烙印を押されるだろう。

 流石にあそこまで消沈している姿を見ているとそうなる可能性は限りなく低いとは思う。

 しかし万が一にもそんな事になった時は……俺も速やかに動くつもりだ。

 

 それはそれとしてあえて先手をあちらに委ねているとはいえ、緊張感を維持しつつ待ち続けている状況は長引けば兵士たちの士気が下がりかけない。

 

「率先して戦場に出る趣味はないが……とっとと動け」

 

 見張り番に聞こえないように小さく悪態を付き、俺は彼らに挨拶をしてから汜水関の中へ戻っていった。

 

 

 

 この日からさらに一週間後。

 ようやく反董卓連合が動き出し、俺たちも汜水関での作戦行動を開始する事になる。

 

 軍議にて今後の作戦行動を最終確認した後、俺の足は自然と外壁へと向かっていた。

 外の様子を見下ろせるこの場所は、その高い位置のお蔭で相手の動きがわかり且つ相手からこちらの様子を容易に探れない絶好の会談場所だった。

 特に示し合わせたわけでもないのに建業の武官が全員集まってきた事に、同じような考えだったのが分かって顔を見合わせて笑い合う。

 談笑して時間を潰していたら張遼まで来るとは思わなかったが。

 

 祭から聞いたが馬超たち西平軍は既に馬に跨がって出陣の時を今か今かと正門の前で待っているらしい。

 この場に集まっているのは出陣を前にしたただの雑談で、別に集合をかけた訳でもない。

 だからここにいない事は問題じゃないんだが、馬超にはもう少し落ち着いてどっしり構えていてほしいもんだ。

 順当に行けば馬騰の跡継ぎとして領主になるのだから、な。

 

 閑話休題。

 眼下に広がる敵の陣容を見つめる。

 

「まさか漢の旗が一本もないとはな。お蔭で誰が来ているかわかりやすいからいいが……」

「自分たちが負けるだなんて考えていないから出来る事よね、これ」

 

 見ていていっそ清々しい光景に俺と塁はため息を付いた。

 漢王朝が董卓の手に落ちているが故に漢の牙門旗を掲げるつもりはないという意思表示なのかもしれないが、それにしても迂闊ではないかと思う。

 今回、俺たちは漢王朝の長である皇帝陛下から戦う事を許可された立場となっている。

 よって掲げる牙門旗の半数が『漢の旗』だ。

 相手側は大体の勢力が君主あるいは隊を預かる武官の姓の一文字を記した旗のみのため、目が良ければどこにどの軍勢がいるかが手に取るようにわかる。

 

「一番前は『劉』やな。劉表は反董卓連合には参加せんかったっちゅー話やし、あれは新進気鋭と噂の劉備やろな」

「部隊の先頭に青龍偃月刀を持った黒髪の女がいる。あれはおそらく『美髪公(びはつこう)』だとか言われている関羽だ。……まず間違いないだろうな」

 

 黄巾の乱の時に見かけた関羽の姿を見れば、あれが劉備の軍勢である事はほぼ確定だ。

 しかし一緒にいるだろう劉備と張飛は前線にいないようだ。

 黄巾の乱時点で戦闘能力がほぼなかった劉備が最前線に出る事はおそらくない。

 本人が出たがったとしても、周りが止めるはずだ。

 張飛はそんな彼女の歯止め役兼護衛として傍にいるのだろう。

 

「それにしてもあの程度の戦力で一番槍買って出るんか。ずいぶんと豪気やな」

 

 讃える言葉とは裏腹に張遼の顔には呆れが見て取れる。

 硬く閉ざされた門を破る為の装備もお粗末なもので、兵士の数は余所の勢力よりも目に見えて少ない。

 武官がどれほど強くとも城攻めに必要な手数と手段としてはギリギリ可能という程度に見える。

 

 そんな劉備軍のすぐ後ろには『公孫』の旗を掲げた一軍。

 こちらはおそらく公孫賛だろう。

 異民族から『白馬長史』と恐れられた白毛の騎馬隊とその後に続くように歩兵部隊が、上から見ても一糸乱れぬ綺麗な布陣を敷いている。

 劉備とは旧知の間柄らしく、黄巾の乱の際には身を寄せていた事から援護を買って出たというところか。

 

「公孫賛が後詰めに付いているとはいえ準備不足が外から見ていてよく分かる。自発的に一番槍を買って出たとは思えないな」

 

 俺が持つ劉備の印象からすれば、先陣を切るような性格ではない。

 だが領主として他と比べて経験が少なく権力を持たない彼女らは、袁紹に命じられれば出陣せざるを得ないだろう。

 

「貧乏くじを引かされたというところか。まぁこちらには関係のない話じゃな」

 

 祭が劉備たちの置かれている状況をばっさりと切って捨てるも、それに反論する者はいない。

 

「敵側に同情するだけの余裕はないですしね。運が悪かったと言う事でこちらの戦略の糧になってもらいましょうか」

 

 慎の言葉が俺たち董卓軍の総意と言えた。

 見下ろしていた光景から目を離し、張遼の視線が俺たちに移る。

 

「ほな、あちらさんが口火を切ったら動くで。軍議で話したけど先陣は足の速いうちと馬超たちの騎馬隊。祖茂と程普は第二陣の歩兵部隊。守りは黄蓋、韓当。凌操は出陣はうちらと合わせて後は好きにしてええ。背中は任すで」

 

 軽い口調の中に抑えきれない闘気を感じる。

 俺たちは最終確認の言葉に肯定の意味で頷いた。

 

「聞け、汜水関を守る軍勢よ。我が名は関雲長!」

 

 関羽の前口上が聞こえてくる。

 

「都を私利私欲によって蹂躙する悪漢董卓は我らが討ち果たす! 貴様らに民を憂う気持ちがあるのなら降伏し、開門せよ!」

「……あいつはうちがやる」

 

 漏れ出ていた闘気はあっという間に殺気へと変じてしまった。

 敵対している以上、相手を罵倒するなんてありきたりな事だろう。

 ましてや世間一般の董卓は関羽の言った通りの風評なのだから仕方の無い事だ。

 

 しかし董卓の配下が納得するかは別の話だ。

 俺たちでさえ真っ当に都の為に奔走している同盟相手を悪く言われれば怒りがこみ上げてくるのだ。

 彼女の国への献身を、その苦労を俺たちより間近で見てきた張遼が殺気立つのは当然の事だろう。

 

「作戦を崩さない範囲なら好きにするといい。儂らがお主を止める事はないから安心せい」

 

 その気持ちを慮り、祭がその背を押すと張遼は凄みのある笑みを浮かべて礼を述べた。

 

「おおきに」

 

 気合いを入れるように、俺は胸の前で両手を合わせて打ち鳴らす。

 乾いた音と共に怒りを飲み込み、平静な状態に保った意識で自分の部隊の元へと走り出した。

 後に続く仲間たちの足音を聞きながら、敵である大軍勢と己のやるべき事を思い浮かべる。

 

 さぁ、開戦の時だ。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百話 汜水関の戦い その一

 関羽が汜水関を前にして行った見栄切りは、汜水関側の矜持をこの上なく刺激し彼らを引きずり出す事に成功した。

 当初の反董卓連合側はそう思っていた。

 

 速やかに開かれた門から現れる騎馬隊の姿によって降伏の為の開門ではない事に、そう上手くはいかないかと彼女は落胆する。

 

「(いや、普通に攻め込むには難のある汜水関を開門させ、兵を一部でも引きずり出せただけでも良しとせねばな)」

 

 そんな事を考えるくらいに、この時の関羽には余裕があった。

 

「馬を相手に正面から矛を交える必要は無い。槍と楯で相手の攻撃をいなし、突撃の勢いを削ぐ事に集中せよ!」

「「「「「応っ!」」」」」

 

 気持ちを切り替え、騎馬隊を迎え撃つべく指示を出す。

 速やかに行動する兵士たちの動きは淀みがなく、日頃の訓練の成果を存分に出していると言えた。

 

 程なくして迫る騎馬を前に武器を構えた彼女は、真っ直ぐに己を目指してきた騎馬隊の先頭を行く良く似た得物を持つ張遼とぶつかり合う。

 

「「はぁっ!」」

 

 ぶつかり合った武器が空気を弾き飛ばす。

 そのまま騎馬の機動力を殺す事無く横を通り過ぎた張遼は、弧を描くように馬を走らせ関羽への再突撃を狙う。

 その際に行きがけの駄賃とばかりに周囲の雑兵を斬り伏せていった。

 そして彼女に倣うように他騎馬隊の面々もまたその場で迎え撃とうとしていた劉備軍の兵士たちに襲いかかる。

 

 彼らは迫り来る騎馬隊に対して関羽の指示通りに馬上から振るわれる武器を楯で防ぎ、槍を馬の眼前に突き出す事で動きを封じようとした。

 だがしかし。

 

「横ががら空きだぞっ!!」

 

 張遼隊を正面に据えて対応しようとしていた劉備軍を真横から馬超隊が強襲。

 楯は正面に構えていなければ効果は望めず、槍を馬超隊に向けてしまえば張遼隊の突撃に対応出来ない。

 関羽が指示を出そうとするが、再度突撃してきた張遼の攻撃によって遮られてしまう。

 

「あんたはうちだけ見とけやぁっ!!!」

「ぐっ!? 貴様っ!!」

 

 馬から飛び降りて張遼の戟と関羽の戟が交差し、鍔迫り合いの様相を呈する。

 こうなってしまえば関羽は隊へ指揮をする余裕を失い、目の前の敵に集中せざるをえない。

 短い攻防ながら、彼女らは互いの実力が拮抗していると感じ取っているが故に。

 

「これほどの力に、その偃月刀。貴様が張遼か!」

「やったらどうした?」

 

 張遼は武器を引き、横に薙ぎ払う。

 関羽はその攻撃を刃で受け流し、反撃の突きを放つも避けられてしまう。

 だが彼女の狙い通りに距離を取る事には成功していた。

 互いの距離が離れるのを幸いに関羽は口火を切る。

 

「これほどの力を持ちながら、自ら名乗りを上げる武人の矜持を持たぬか!」

「阿呆が。こっちは後が詰まっとるんや。なんでたかが一勢力の一武官を相手にいちいち名乗らなあかんねん」

「なんだと! 貴様、私だけでなく劉備様も愚弄するかっ!」

 

 にべもなく切り捨てるその言葉に関羽は激昂するも、それを見つめる張遼の目は冷ややかだ。

 

「うちを相手にするのが精一杯なあんたには部下の声が聞こえへんか?」

「っ!?」

 

 嘲笑すら滲ませた指摘に関羽が慌てて周囲を見回せば、張遼隊と馬超隊に蹂躙され陣形を崩された自軍の姿があった。

 思わず軍の立て直しに意識を取られたしまった関羽は指揮官としてならば正しかったのだろう。

 

「陣形を立て直せ! 敵を倒す事より合流する事を優先し、がぁっ!?」

 

 しかし意識を散らされたその隙を張遼が見逃すはずもなく。

 かろうじて武器による防御は間に合ったものの、吹き飛ばされて地面を転がってしまう。

 

「余所に構ってる余裕なんぞうちがやるとでも思っとるんか? ああっ?」

 

 追撃の振り下ろしに髪を何房か持って行かれながら立ち上がる関羽にドスの効いた声でがなり立てる張遼。

 戦いの流れを張遼に持って行かれているのは誰の目にも明らかだった。

 

「(まずい、このままでは……)」

 

 あまりにも早すぎる状況の変化に関羽は戦慄し、冷や汗が頬を流れ落ちる。

 

「終わりか? ならとっとと死ねや」

 

 一貫して自分の事を歯牙にもかねない態度を取る張遼に怒りがこみ上げるが、自身が追い詰められている事を彼女は理解していた。

 故に関羽は目の前の敵から意識を外すことなく、この状況を打開する手段を必死に模索する。

 

「(私が生き残っても兵たちが壊滅しては意味がない。どうにかして張遼を抜けなければならないというのに、隙が無い)」

 

 しかしそう易々と覆せるほどに相手は甘くない。

 攻撃する事も、引くことも出来ず。

 関羽は結果的に何も出来ないまま時だけ過ぎていき、その間にも部隊がどんどん追い詰められていく様に焦りを募らせていく。

 

「……そろそろやな」

 

 それ故に張遼が口の中で転がした言葉を聞き取る事が出来なかった。

 

「関羽!」

 

 立ちこめていた敗戦の空気を切り裂くように現れたのは趙雲率いる騎馬隊だった。

 彼女以外の軍馬の全てが白い毛並みをしている事から公孫賛率いる白馬隊の一部なのだろう。

 

 関羽と張遼が睨み合う間の空間を走り抜け、張遼へ騎馬の速力を加えた槍が振るわれる。

 

「ちっ……」

 

 張遼は危なげなくその一撃を回避した。

 しかし通り過ぎる騎馬の群れによって引き起こされた土煙によって視界が遮られてしまう。

 そしてそれが晴れた頃にはもう関羽はおろか乱入してきた者たちもその場に残っていなかった。

 

「(思ったよりも骨があったな。あいつも軍も……やがそれよりも)」

 

 見回せば関羽側の兵士たちも上手く引き剥がされてしまっている。

 幾らかは倒れたまま残っているが、思ったよりも少ない。

 これは劣勢に立たされた兵士たちが死に物狂いで戦った結果でもあるのだろう。

 関羽にしてもついぞ有効打を与える事は出来なかった。

 

「公孫賛。ええ動きしよる」

 

 何よりも的確に味方だけを救出していった騎馬隊の手腕は相当なものだ。

 

「(馬超たちを出し抜いてこっちに来ただけでも大したもんやけど、あんな僅かな時間で生きてる関羽の部下たちを回収していくやなんてな)」

 

 思考を回しながら部下たちに集まるよう指示を出していると、戦いが一段落した事を察したのか愛馬が駆け寄ってきた。

 乱戦下の戦場で騎手が飛び降りたというのに逃げるでもなく、一番に自分を考えてくれるいじらしい相棒の鼻先を張遼は一撫でするとその背に飛び乗る。

 

「っしゃぁ! 次行くでっ!!」

「「「「はっ!!!」」」」

 

 主を悪し様に罵られた分の落とし前は付けたと判断し、意識を切り替えた張遼と配下は次の獲物を求めて駆け出した。

 

 

 

「抜けられたか。やるなぁ、公孫賛」

「いや、あれだけしか抜けなかったし、抜けたのは子龍のお蔭さ。そっちも大したもんだよ、馬孟起」

 

 馬上で武器を向け合いながらの会話は、不思議な事に和やかなものだった。

 

 馬上にて長槍が閃き、直剣が迫る閃光を叩き落とす。

 馬は依然として走り続け、まるで速度を競い合うように追い抜き追い越しを繰り返す。

 距離が近付けば互いの武器がぶつかり合うのだ。

 互いに騎馬戦が本領である故か、馬の足を止める事はない。

 進行方向で打ち合っている兵たちがいても、視線は相手に固定したままだ。

 馬を跨いでいる足の僅かな動作だけで意思を伝え、あるいは馬自身が主の意を汲んで進行方向にある障害物を避けていく。

 その避け方も主の邪魔には決してならない。

 いったいどれほどの時間を共に過ごせばこのような事が出来ると言うのだろう。

 両者は人馬一体を戦いの中で示し続けた。

 

 これが二人だけの舞台であったなら、観客の誰もが目を離せない演舞になっていた事だろう。

 

「(っと、こいつと戦うのは楽しいけど。かかりっきりになる訳にはいかない)」

 

 熱くなりやすい性格の馬超であるが、この戦いの目的を履き違えたりはしない。

 戦いを楽しむ性質ではあるが、それ以上に他者との繋がりを大切にする彼女は、この戦が交友の深い董卓たちの今後を左右する大一番である事をきちんと弁えているのだ。

 

「公孫賛、またなっ!」

「なんっ!?」

 

 突然、踵を返す馬超に驚きながらも即座に追撃しようとする公孫賛。

 しかし馬超との間に絶妙なタイミングで放たれた矢によって彼女は動きを止めざるを得なかった。

 

「くそっ! 誰かある!? 状況を知らせろ!!」

 

 あまりにもあっさりと後退する馬超と彼女に合わせて引いていく彼女の部隊の背を見つめながら、公孫賛は声を張り上げて部下を呼びつける。

 

「趙雲将軍の手引きにより関羽らは下がっております。しかし別働隊によって劉備軍の本陣は強襲を受けました」

「なんだと!? それで劉備や諸葛亮たちはっ!?」

 

 関羽の無事に喜んだのもつかの間、友人が襲撃された事実に公孫賛は声を荒げる。

 しかし事の次第を伝えている兵士は努めて冷静に話を続けた。

 

「ご無事です。ただ軍はかなりの損害を受けております。再編しなければ反撃もままならないとの事。強襲した軍は劉備軍の本陣を通過し、一部が連合本陣へ向かった模様です」

「動きが早い。いや早すぎる。これは最初からそうするつもりだったな。本陣への伝令は?」

「送りましたが、敵の方が到着は早いものと」

 

 それは仕方ないと割り切った公孫賛は、馬を本陣へと向けて走らせ始めた。

 

「白馬義従は連合の本陣へ合流する! 本陣と挟み撃ちして強襲部隊を叩くぞ!!」

 

 その号令に彼女の配下が答えるよりも早く。

 

「そいつは待ってもらおうか」

 

 戦場の合間を縫うように走り込んできた男の拳が公孫賛の馬の横腹を叩いた。

 

「うわっ!?」

 

 悲鳴を上げ、思わず上半身を持ち上げた愛馬から振り落とされないように踏ん張ろうとする彼女の無防備な腹部に追撃の拳が突き刺さる。

 

「ごふっ!?」

 

 強制的に腹の中の空気を吐き出され、彼女は馬上から叩き落とされてしまった。

 幸いな事に受け身を取る事が出来て、即座に立ち上がる事は出来たがそのダメージは大きく苦痛に顔が歪んでいる。

 

「公孫賛様っ!? うぐっ!?」

 

 配下が主の助けに入ろうとするよりも、襲撃者が矢を放つ方が早かった。

 武器を持っていた方の肩を貫かれ、伝令は傷口を抑えて苦悶の表情を浮かべる。

 

「もう少しこの場に付き合ってもらおうか、白馬長史。もっとも、取れるようなら取らせてもらうがな」

 

 短弓を腰に下げた男は返事など聞いていないとばかりに地を蹴った。

 孫呉の四天王が一人『程普徳謀』が公孫賛に襲いかかる。

 

 

 

 公孫賛は関羽の救援に向かうに当たり、部隊を三つに分けていた。

 公孫賛自ら率いる騎馬隊に対応する部隊、趙雲率いる関羽救援の部隊、戦場にて遊撃に当たる部隊。

 

 どの隊も速やかに目的を成し遂げる速度が求められたが、白馬義従はこれを満たす事が出来る。

 実際のところ公孫賛、趙雲率いる部隊は定められた役割を果たしたと言えた。

 

 しかし遊撃に当たる部隊はその動きを完全に封じられてしまっていた。

 それを為したのは二本の直剣を振るう男とその配下たち。

 

「遅い」

 

 最初の一人はあまりにも速く、攻撃しようとした瞬間に斬り伏せられた。

 

「遅い」

 

 次の一人はあまりにも鮮やかに攻撃をいなされ、何をされたか分からぬままに倒された。

 

「遅い」

 

 次は複数で挑み、その次は弓も合わせて。

 その場で考え得る限りの攻撃は、しかしいずれも男に通用しなかった。

 

 遊撃隊は何をしても通用しない目の前の男を恐れて後退った。

 そしてその恐怖が動きを鈍らせ、男の配下に容易く蹂躙されていく。

 

 部隊の指揮を任された男が最後に目にしたのは孫呉の四天王が一人『祖茂大栄』の剣の閃きであった。

 

 

 

 汜水関の門は都へ続く要所という事もあり、とてつもなく頑強な造りをされている。

 破城槌(はじょうつい)を用いても破壊するまでには相応の時間を要するほどに。

 

 故に門が開けっ放しにされているという状況は、罠を疑いつつも見逃せないものであった。

 

 劣勢に立たされた関羽軍、運良く馬超隊をやり過ごす事が出来た公孫賛軍は目の前にぶら下がる餌に一も二もなく飛びついた。

 罠など食い破って見せるという気概と共に。

 何より一番槍を任されておいて、成果の一つも上げられずに終わるわけにはいかなかった。

 そんな思いでがら空きに見える門扉の中へと飛び込んだ彼らは、僅か数秒後に外へとぶっ飛ばされる事になる。

 

「はいはい、お帰りはあちらよ」

 

 身の丈を越える巨大な大槌をまるで普通の兵士が持つ直剣のように軽々と振るう女が門の奥から現れる。

 その後ろに槍を構えた兵士たちを従えて。

 

「こんな見え透いた罠にかかるなんて、余裕なさ過ぎでしょ。まぁこっちがそうなるよう誘導したんだけどさ」

 

 女の言葉に飛び込むのが遅れた為に助かった兵士たちは己の浅はかさを嘆いた。

 罠だと疑っていたというのに、同時に好機だと思ってしまった己を呪った。

 

「あんたたちは不用意に近付き過ぎた。ここから自陣まで退却するにはあたしたちと砦の上からの弓射から逃れないといけない」

 

 まぁ無理ね、と続けると女は鎚を地面へと叩き付ける。

 罅割れる地面に恐れおののき、戦意など既に喪失した彼らに孫呉の四天王が一人『韓当義公』が告げる。

 

「選びなさい。生きる為に引いて一縷の望みを掛けるか、立ち向かってぶっ潰されるか」

 

 

 

 張遼と関羽がぶつかり合っている頃。

 劉備の本陣は関羽と公孫賛の部隊を無視して回り込んできた部隊による強襲を受けていた。

 

「張飛ちゃんっ!」

「義姉者っ! 孔明と下がるのだ!」

「はわわっ! 張飛さん、機を見て貴方も下がってください!!」

 

 張飛は蛇矛(だぼう)を威嚇するように振りかざし、襲撃してきた兵士たちを威嚇しながら旗頭である劉備と筆頭軍師である諸葛亮孔明(しょかつりょうこうめい)を配下と共に下がらせる。

 諸葛亮の公算では敵が関羽、公孫賛の軍を無視する事は道筋の一つとして考慮されていた。

 故に本陣には張飛を含めた選りすぐりの兵士で固め、出来うる限りの仕掛けを施していたのだ。

 

 襲撃を受けたとしても返り討ち、そうでなくとも足止めは確実に出来る。

 諸葛亮、そして今後の計略の為に他勢力の陣へ行っている鳳徳令明(ほうとくれいめい)の二人が自信を持って考え抜いた陣形を敷いていたのだ。

 

 それが戦が始まってから短時間で破られ、敵が劉備の眼前まで迫り来るという非常事態になってしまった。

 襲撃者たちは何故か劉備たちが張った罠を、迎撃の布陣を、まるで全てを知っているかのように対処して見せたのだ。

 

「劉元徳、覚悟っ!」

 

 飛びかかる複数の兵士を張飛が迎え撃ち、何名かがその豪撃によって吹き飛ばされていく。

 だが敵も然る者と言うべきか。

 彼らは大した怪我もなく立ち上がり、行く手を阻む張飛に武器を向けた。

 

「なんなのだ、お前たち!」

 

 目の前の兵士たちの練度が張飛基準で高すぎた。

 一蹴して劉備たちの後を追おうと考えていた張飛は、思惑通りに進まない状況に思わず声を荒げる。

 

「うわっ!?」

 

 目の前で武器を構える兵士たちの間を縫うように何かが投擲された。

 風切り音と共に迫るそれを張飛は反射的に蛇矛で弾く。

 蛇矛を構え直す僅かな間に正面ではなく、彼女の背後に現れた男の拳が振り下ろされた。

 

「ぐっ!?」

 

 それに反応し、咄嗟に背後に振り返って防御できたのは彼女の持つ反則的な身体能力故だろう。

 

「がぁっ!?」

 

 だが無理矢理の防御は姿勢が定まっていなかった為に完全ではない。

 そして小さな身体は続けて放たれた拳に堪えられず吹き飛ばされる結果となった。

 

「張飛は俺が抑える。お前たちは劉備を追え」

「「「はっ!!」」」

 

 指示を受け、速やかに行動する兵士たちを尻目に指揮官と思しき男は張飛を見つめ続ける。

 

「どく、のだぁっ!!」

「どかしてみろ」

 

 風を引き裂きながら振るわれる蛇矛だが、男にあっさり回避され受け流されてしまう。

 超重量の武器が何度も何度も振るわれるも、義姉を案じる焦りも相まって目の前の男へ有効打を与える事が出来ない。

 しかも男は彼女との位置を意識し、劉備たちが逃亡した方角と張飛の間を阻むように動いており、一当てして逃げる事も許さなかった。

 

「く、義姉者ぁっ!」

 

 悲痛な叫びに顔色一つ変えず、孫呉の懐刀『凌操刀厘』は配下が事を成し遂げるまで張飛をこの場に釘付けにし続けた。

 

 

 

「やれやれ、うちの連中はどいつもこいつも人使いが荒くて困るのぉ」

 

 汜水関の城壁の上。

 戦場を俯瞰するその場にて女と、彼女の配下が矢を打ち続ける。

 

 土煙の中、常人には米粒のようにしか見えない人の中から友軍と敵軍を見極めて矢を放ち、その狙いが百発百中とくればその腕が尋常ではない事がよく分かるというものだ。

 そして地上側からも矢が放たれ、それが身体のすぐ傍を通り過ぎても彼女は動揺の一つもせず。

 味方への援護を、敵への追撃を粛々と続けていく。

 そうしているうちにあっという間に第一陣の矢が底を付いてしまった。

 

「ふむ、ここまでじゃの。最後じゃ、あれを持て!」

「こちらにっ!」

 

 山のような矢を補充して回っていた兵士が予定していた最後の矢を差し出す。

 風を切りながら音が鳴る笛が取り付けられたそれを孫呉の四天王が一人『黄蓋公覆』は空へ向けて番えた。

 

「初戦の最後じゃ、派手な音色を響かせると良い!」

 

 飛翔する矢から奏でられる甲高い音が戦場へと響き渡り、それは戦いの終了を告げる合図となった。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百一話 次戦への準備

 甲高い音を立てて飛翔する一矢を持って、汜水関での最初の戦いは終了した。

 

 汜水関防衛軍は速やかに退却。

 最も敵本陣に近付いていた張遼隊、馬超隊、俺たち凌操隊も敵の追撃をかいくぐって大部分が生還する事に成功している。

 とはいえ被害はもちろん出ているので手放しで喜ぶ事は出来ない。

 

 汜水関に戻ってすぐ隊には休息と怪我人の治療を命じ、主要武官は会議室に集まった。

 集まった面々の顔には隠し切れない疲れが見える。

 

 当然だろう。

 敵への威圧も兼ねて可能な限り相手を圧倒するように動き、それでもやり過ぎないように気を付けていたのだ。

 こちらが意図した部分に気付かれるわけにはいかず、あちらは全力で抵抗してくるのだから普通に戦う以上に体力も気力も消耗する。

 本当ならすぐにでも休みたいぐらいだ。

 

 しかしその疲れを押して速やかに次の作戦について意識合わせをしておく必要があった。

 初戦は綺麗にこちらの想定通りに進められたが、その混乱がいつまで続くのかが分からない。

 さらにこちらの準備をあちらが待つ必要はなく、勢力の差からその気になればすぐにでも軍を送り込めるのだから。

 

「公孫賛軍と劉備軍は半壊した。主要武将、軍師は存命だが軍としてすぐに動くのは難しいだろう」

 

 激の言葉に祭が頷く。

 

「足止めと物資の浪費を狙ってわざとほどほどの怪我人を増やしたんじゃ。公孫賛はどう動くか読み切れんが、劉備はその掲げる理想と今の軍の状況から彼らの治療を優先する。一先ずはおおよそ一軍分の戦力を行動不能に出来たと考えて良いじゃろうな」

 

 戦いの成果について認識合わせを終え、今度はそれぞれの隊の被害報告へ移っていく。

 

「被害についてだけど防衛に回った私のところと黄蓋隊は軽い怪我人だけだから大丈夫ね」

「祖茂隊、程普隊は怪我人がそれなりに出ていて、死者も数人。隊としてはまだこのまま行けます」

「張遼隊は怪我人がそこそこおる。やから次は待機している人員と入れ替えて治療に専念させる予定や」

「馬超隊はだいたい半分が大なり小なり負傷してるから治療を優先したい。騎馬隊が必要なら鳳徳の隊を出すよ」

 

 簡潔にそれぞれの隊の状況が語られていき、最後に俺に視線が集まった。

 

「凌操隊は怪我人が十数人。本陣まで劉備を追って切り込んだ者たちが軒並み重傷だ。全員が戻ってこれたのは本当に運が良かった。重傷者はこのまま休ませ、次は動ける者だけで動く」

 

 本陣まで劉備を追い立てていた者たちは不幸な事に撤退してきた関羽、趙雲らと鉢合わせてしまった。

 そして主を守らんと死に物狂いで奮闘する関羽によって重傷を負わされている。

 あいつらの傷は深く、兵士として再起する事は難しい状態だ。

 だがそれでも殺される事なく戻って来れたのは、あいつら自身の実力で日頃の鍛錬の成果そのものだ。

 そしてその奮闘によって一騎当千の武将一人をその場に釘付けにした結果、張遼隊と馬超隊はより自由に動く事が出来た。

 彼らの尽力によってこちらの被害を抑え、相手側の被害を増やす事が出来たんだ。

 歴史に名を残すような武人を相手に役割を全うした部下たちを俺は誇りに思う。

 

「あいつらの奮闘、決して無駄にはしない」

 

 最後に決意表明を行い、俺の被害報告は終わった。

 

「あちらさん、次はどう動くと思う?」

 

 被害報告が終われば、本題へと焦点が当たることになる。

 

「まず董卓側に俺たち建業と馬超たち西平が付いている事は広まっただろうな。袁紹が俺たちの事を知っているかは分からないが、まぁあっちには俺たちを目の敵にしている近隣諸侯がいるんだ。楽観的な考えは捨てて考えるべきだろう」

「伝え聞いてる袁紹の性質から鑑みて初戦に思い切り泥を付けられたと言える状況だろ? なら次の攻撃は血気に逸って攻め込んできそうなんだが……」

「他勢力は……たぶん大部分が袁紹の言葉に従うだろうね。ただ今回の実質的な敗戦を受けて最前線に出たがる軍がどれくらいいるかが重要かな」

 

 この戦い、反董卓連合に集った陣営の大多数の目的は『悪を討伐する戦いに参加したという実績を得る事』と『あわよくば戦果を上げる事』だ。

 

「開始前の隠密隊の報告からやる気があったのは劉備と公孫賛だけという話じゃったからな。そんな奴らを手の内を晒す前に奇襲出来たのは実に運が良い」

 

 祭の言うとおり、思春たちからの報告で俺たちは前もって奴らの士気が偏っている事を知っていた。

 

 袁紹が正義は我にありと唱え、反董卓連合は通常では集まる事などないだろうほどの大軍となっている。

 負ける事などあり得ないとすら思える陣容に加わった大多数の連中は、やる前から勝利を確信してしまっていた。

 袁紹の後ろでただ戦場にいるだけで勝てると思っていた。

 

 その甘い見通しと慢心を俺たちは嘲笑うように叩き壊したという状況になるわけだ。

 

 自分たちは劉備、公孫賛とは違う。

 容易く負けるような事はない、返り討ちにしてくれよう。

 

 あちらの天幕では口々にそんな事を言っているんだろう。

 しかし奴らの中に率先して前に出ようとする者はほとんどいない。

 この戦いが自軍の消耗を考慮したものになると思っていなかったのだから。

 既に手柄を得た気になっていたところに水を向けられて、率先して動けるほど士気が高い者は今回の戦に限って言えばそういない。

 

「今ある情報から考えれば袁紹自身が出てくる可能性が高い、かな?」

「他はその後ろに様子見しながら続くんやろな」

 

 現状、一番可能性が高いのは慎と張遼が言った流れだろう。

 

「冷静になる事が出来る者がどれくらいいるかによっちゃあ、攻め入ってくる陣営は変動するが行動その物は変わらないだろうな」

「好き勝手やった上で亀のように閉じこもったこちらに対して出来るのは真正面から攻める事だけじゃからのう。門を攻撃するか、砦の外壁に取り付くかくらいしか差はないじゃろうな」

「閉め切った汜水関の門を短時間で開ける事は出来ない。壁を登るにも近付かなければ不可能。何をどうしたところで見張り番が近付いてくる奴らを見つけてくれるから、俺たちがそれを念頭に置いていれば奇襲は成立しないからな」

「少なくとも今は……やな」

 

 先にも言った事だが、反董卓連合として集まった大多数の連中にとってこの戦いは勝ちの決まったものだった。

 故に計略など考えず数の差で押し切ろうという程度にしか考えていない。

 

 今もそれは同じだろう。

 一番槍の劉備、公孫賛が半壊したのは『大軍勢をわざわざ小分けにして送り込んだからだ』とでも考えているんだろう。

 

 だがこれから時間が経てば経つほど、楽観的な考えはなくなっていく。

 反董卓連合が全力で攻略しにくれば汜水関はいずれ落ちる。

 これは俺たち防衛側の共通認識だ。

 

 汜水関が落ちるまでの時間が長ければ長いほど良い俺たちとしては、奴らが全力にならないように戦局を操らなければならない。

 

 初戦はこちらがあちらの先鋒を相手に善戦した。

 戦いを長引かせるには次にどうすれば良いか?

 

「戦の中での判断が最優先だが、ひとまずは予定通りにあちらに花を持たせるぞ」

 

 せいぜい気持ち良く戦ってもらうとしよう。

 

「冷静な連中がどれくらいで動き出すかには常に警戒しろ。袁紹と同等の発言権を持ちながら表立って動いていない曹操は特に、な」

 

 その後、今後の方針に関してお互いの認識に差異がない事を念入りに確認し、それぞれが休息を取る為にその場は解散となった。

 

 警戒していた夜襲はなく翌日、早朝に反董卓連合が動き出す。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百二話 汜水関、籠城戦

今年最後の投稿となります。
今年一年、この作品にお付き合いいただきありがとうございます。

来年も同程度の頻度で更新させていただく予定ですので、引き続きよろしくお願いいたします。


 俺たち洛陽連合軍が汜水関に退却した翌朝。

 反董卓連合の進軍開始が報告された。

 その最前線には袁紹が立っているとの事だ。

 

 ここまでは昨日の軍議での想定通りだった。

 しかし前線には出ないと思われていた他軍が袁紹の後ろではなく横に幅広く布陣されているようだ。

 

 やる気がないと思われていた連中を焚き付けた者がいたのか。

 あるいはぽっと出の劉備がその成果はともかくとして、一番槍を買って出た事に奴らの矜持が刺激されたのか。

 

 そこまで推測したところで、俺は明確な答えを得る事が出来ない思考を放り捨てた。

 俺たちが考えるべきは、より多くの軍勢を相手にする事になったこの局面をどう乗り切るかという点だけでいい。

 

「……騎馬隊を出す時機は慎重に見極めないと駄目だな」

 

 騎馬隊を出すにはどうしても開門しなければならず、一度開門すれば閉めるのにも時間がかかる。

 昨日は最前線が劉備軍、公孫賛軍だけだったお蔭で門前を守り切る事が出来た。

 しかし見渡す限りでその五倍はいるだろう敵軍が相手では物量で押し切られてしまうだろう。

 開門した状態で門を制圧されてしまえば砦の頑強さに意味はないのだから。

 

「一先ずは籠城かのう」

「韓当、黄蓋の隊で外壁の守りに付いて俺と凌操は手が足りなくなった時の補充要員になろう。祖茂、張遼、馬超たちは門の内側で待機。折を見て開門して突撃……ってところか?」

 

 壁を登ってくる用の梯子、正門を破壊する攻城兵器が幾つも見える以上、あちらは本格的な砦攻めを目論んでいると見ていい。

 こちらの戦力を考えれば、激の采配は文句の付けようがない的確なものだ。

 

「とは言うてもあんだけずらりと並ばれて、門の前に陣取られたら開門なんて無理やろ」

 

 張遼の言う通りだ。

 顔を突き合わせた全員が難しい顔をする中、俺が声を上げる。

 

「現状では門を抜かれる可能性を考えて待機する隊も必要だろう。もしもその機会が訪れた時にすぐに動くためにもな」

「騎馬隊はいざという時の運動量が大きい。身体を休めていざという時に出れるように、ここは我慢しろって事ですね。じれったいとは思うけどこの状況じゃ仕方ないです」

 

 俺に同意する翠の言葉を受け、納得の雰囲気が出来ていく。

 

「先も長いしね。ここは私たち守備隊に任せてもらうわ」

「かなりの数が来るじゃろうが、取り付いてきそうな連中を優先して迎撃じゃな」

 

 塁と祭の言葉を最後に、その場は解散。

 各々が役割を果たすべく動き出す事になる。

 

 

 

 曹操は数に任せて砦攻めを行っている袁紹らを冷静な目で観察している。

 彼女のすぐ傍にいる夏侯惇、夏侯淵もまた静かに戦場の推移を見守っていた。

 いつでも動けるようにと厳命された彼女らの部隊が緊張感を保ったまま整然と並ぶ様子は壮観の一言だ。

 

「良いようにあしらわれているわね」

「仰るとおりかと」

「あのような単調な攻めでは無駄に時間を掛けるだけです」

 

 砦へ矢を射かけ、外壁をよじ登り、門を攻城兵器で叩く軍勢を三人は酷評する。

 曹操などはもしもあれをやっているのが自軍であったなら即座に責任者を呼び出してこの攻めの意図を問いただし、何も考えずに行われていたならば首を刎ねていただろうとすら思っていた。

 

 しかしそれを止めないのには理由がある。

 一番は己の華々しい戦場に泥を付けられたと頭に血が上っている袁紹が聞く耳を持たないから。

 二番はこの単調な攻めそのものは無駄が多く最適解ではないにしても、一定の効果が見込めるものであるから。

 

 反董卓連合の戦力、とりわけ発案者である袁紹のそれは集まった全ての軍勢の中で最も多い。

 本来ならその軍勢だけで董卓軍単体を飲み込みかねないほどだ。

 

 そこに他の軍勢が加われば、それはまさに大津波の如く何もかもを壊していくほど。

 如何に頑強な砦を有していても付け入る隙もないほどに休みなく攻め立てられれば、いずれは疲弊し最後には打ち砕かれていくだろう。

 これは董卓側に多少の増援があっても覆る事はない戦力差だ。

 

「このまま何事もなく攻め続ける事が出来たならば……汜水関は持って二週間というところかしらね?」

「勢いを止める事が出来なければさらに短くなるかと……」

「しかし西平は馬家の嫡子馬超。董卓軍でその名を轟かす張遼。さらに孫呉の方々まであちらに付いている以上、このまま何もないとは思えません」

 

 一番槍を請け負い、してやられた劉備と公孫賛から聞き出した相対した者の特徴から曹操たちは敵対者が誰であるかを正確に把握している。

 袁紹らを上手く焚き付けて砦攻めを主導させ、その非効率な攻城戦に口出しもせずにいる最大の理由。

 それはいずれも一筋縄ではいかない傑物たちの動向を探る為であった。

 

「何もしないまま終わる事だけは有り得ない。ただ今すぐ動くとも思えない。この膠着はしばらく続きそうね」

 

 それでも彼女は一定の緊張を保ったまま戦場を見つめ続け、配下たちは一人の例外もなくいつでも動けるように佇み続けていた。

 

 

 

 防衛戦が始まって早くも一週間が経過した。

 

「わらわらと鬱陶しいのぉ」

 

 祭が心底うんざりした語調で呟く。

 しかしその口調と違い、その弓射に侮りや慢心は一切ない。

 放たれる一射が大楯を持つ歩兵に隠れて進む梯子の運搬兵の命を散らしていく。

 さらに次の一矢は攻城兵器を引っ張る歩兵の足を射貫いた。

 

「やっぱりこれじゃ祭ほどの飛距離は出ねぇな」

 

 ぼやきながらも激の短弓は外壁の下にまで迫ってきた兵士たちに確実な手傷を負わせている。

 軽い手つきで放たれる連射が悲鳴を量産し、奴らに与えた被害は祭に勝るとも劣らないだろう。

 

「とりあえず撃ちゃ当たるような状況だが、やっぱり数が違いすぎる。この一週間で結構殺ったはずなんだがまるで減った気がしねぇ」

「適当に何かを投げつければ当たるんだが、な!」

 

 俺は激の言葉に同意しながら、外壁に取り付こうとする兵士の頭目掛けて予め用意していた拳大の石を投げつける。

 俺たち三人にはまだまだ余裕があるが、防衛隊は怪我や疲労によって何度も入れ替わっていた。

 戦死者こそ出ていないが重傷者も出ている。

 少しずつ、だが確実にこちらの戦力も減らされている状況だ。

 

 外壁に常駐する射手を狙って放たれるあちらの射撃が空を切って迫る。

 

「ふんっ!!!」

 

 俺は四本連結させた棍を振るい、風を引き裂きながら迫る矢の雨を全て叩き落とした。

 

「攻撃が呆れるくらいに単調なお蔭で一矢漏らさず叩き落とせているが……この状況がいつまで持つか」

「連射されるようになればこのやり方を続けるのは難しいじゃろうな。とはいえ、こちらの反撃を恐れておるせいで今のところ後が続いとらんの」

 

 俺の独白に応えながら、祭は矢を放った一団目掛けて一の矢、二の矢と放つ。

 遠目に見ても直撃した兵士が倒れるのが見えた。

 祭が的確に射手を返り討ちにしているからか奴らは及び腰になっている様子で、同じ一団がその場に留まって二射目を撃つことが出来ないでいる。

 

「最初に比べてだいぶ弓兵隊が増えてきたな」

「ふむ。これ以上は厳しそうじゃの」

「ああ、一週間も稼げればまずまずの結果だ。あちらも自分たち優先の砦攻めを楽しんだだろうし、予定通りに一度迎撃を止めるぞ」

 

 外壁に棍を何度か叩いて音を鳴らす。

 銅鑼などで合図をしてしまえば、何かあると相手に気付かれてしまう。

 これはこちらの兵士たちにのみ通じるようにと考えた合図だ。

 

 意味は『撤収』。

 

 兵たちは残った矢を放った後、嫌がらせに空になった矢筒に石を入れて壁の下に投下する。

 下から聞こえる悲鳴を聞き流しながら、最低限の見張りを残して俺たちは外壁の守備を放棄して砦の中へ下がっていった。

 

 

 

「動きが変わった?」

 

 戦場の変化を真っ先に察したのは夏侯惇であった。

 程なくして曹操、夏侯淵もそれに気付く。

 

「外壁からの迎撃が無くなったわね」

「好機と見た袁紹らが勢い付いているようです」

 

 最前線から離れた後方から俯瞰しているが故に、彼女たちには前線の高揚が手に取るようにわかる。

 だからこそ汜水関防衛側の不自然な行動もよく見えていた。

 

「……正門は未だ閉じられたままである以上、諦めたとは思えません」

「間違いなく誘いでしょう。とはいえ好機には違いないし、麗羽たちは食いつくでしょうね」

 

 この一週間、ただ反董卓連合の攻撃を防ぐだけだった董卓連合。

 物量戦に対して防戦一方という風に、ただただ真正面から防衛を続けてきた。

 

 単調で変化のない戦場を見て、山賊討伐の方がまだ張り合いがあると夏侯惇は吐き捨てている。

 

 だがだからこそ曹操たちは慎重になった。

 初戦であれほど派手に立ち回った者たちが、このまま大人しく終わるなど有り得ない。

 しかし彼女らの警戒を嘲笑うように防衛側は愚かにも消耗戦の末に、とうとう息切れをし始めている『よう』に見える。

 

「麗羽の調子に乗った高笑いが聞こえてくるようね」

 

 この一週間、馬鹿の一つ覚えのように『優雅に、華麗に、突撃しなさい』と言い続けてきた一応の総大将の笑い声が曹操の脳内に木霊する。

 

「梯子がかかりましたが……それでも迎撃はないようですね」

 

 夏侯淵は顎に手を当てて考える。

 抵抗が無くなれば堅牢な外壁を乗り越え、意気揚々と砦の中へ侵入する者が出る。

 外からでは砦の中の様子までは分からないが、こうも次々と砦内にまで入り込まれてしまえば程なくして開門されてしまうだろう。

 開門されてしまえば、その物量で雪崩れ込まれて敗北は確実となる。

 しかし曹操はこの状況でも尚、疑念を深め静かに思考を巡らせていた。

 

「この状況を逆転するならば……」

 

 彼女はこの戦いが董卓連合にとってとてつもなく不利な物である事を理解している。

 多少無茶な事をしなければ勝つことが出来ない事も、だ。

 故に曹操は自分がそういう状況に置かれた場合を考えて答えを出す。

 

「私なら相手が勝利を確信した瞬間を狙うわ」

 

 この一週間、多少の被害を出しながら戦い続けてきた。

 その苦労が報われるとなった今。

 

「麗羽たちは気を緩める。……春蘭、秋蘭、出撃よ」

「「はっ!!」」

 

 そして彼女らが最前線に到達する頃に事態は急変する。

 

 汜水関の巨大な門扉が押し開かれていく。

 侵入者を拒絶していた冷たく大きな門が、自分たちを出迎えるようにゆっくりと開門されていく。

 自分たちの勝利を確信した者たちが、勝利に酔いしれながらその時を今か今かと待っている。

 そんな彼らの前に現れたのは侵入した反董卓連合の兵士ではなく、門から弾き出されるように飛んできた巨大な岩であった。

 

「えっ?」

 

 予想外の光景に誰かが上げた間抜けな疑問の声は、飛んできた岩石によって文字通りに押し潰されてしまう。

 尚も岩石の勢いは止まらず、戦場のど真ん中を転がっていく。

 兵士たちは慌てて進路上から蜘蛛の子を散らすように思い思いの方角へ逃げていく。

 陣形も何もあったものではない混乱が、戦場の空気を掻き乱していった。

 

 そして開け放たれた門の奥から多数の蹄の音と共に騎馬隊が飛び出す。

 

「今や! 蹂躙せいっ!!」

「異民族相手に猛威を振るってきた私たちの力を奴らに思い知らせろっ!!」

 

 張遼と馬超が先陣を切り、転がる岩石を追い抜きながら方々に散った反董卓連合に襲いかかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百三話 汜水関の戦い その二

大変遅くなりましたがあけましておめでとうございます。
今年も拙作をよろしくお願いいたします。


 不意打ちと混乱用にと門をぎりぎり通れるくらいの大岩を砦に搬入したのは俺の提案だ。

 

 汜水関へ万全の状態で入城する必要があったため、機動力を落とす投石機はすべて洛陽の守護に回している。

 だからこれは本来なら無用の長物。

 だがそれは『投石機並みの腕力を持つ人間』がいれば話が変わる。

 

 前世を覚えている俺と陽菜からすれば冗談のような前提だ。

 ただ幸いなのか不幸なのかの判断に苦しむが、この世界ではこの前提を満たす人間は割と多い。

 その人間に俺も含められるという現実には割と笑うしかない。

 

 まぁその辺りを材料に持ち込みを認めさせて、汜水関への道中で拾ってきたのがこれだ。

 

 そして俺たちは今、正門の裏にいる。

 大岩を一番前に配置し、いつでも出撃出来るように、だ。

 ちなみに城壁をよじ登ってきた連中はもれなく捕縛済みだ。

 

 今回の策は『押し負けて門を制圧された振り』をして気が緩んだ反董卓連合に奇襲する、というものだ。

 ただ初手で少しでも相手を混乱させる為にまず大岩を弾き飛ばす事にした。

 

「まさか実際にこういう使い方をする事になるとはなぁ」

 

 横で呆れるようにぼやく激。

 まったく同感だがそろそろ切り替えろという目で睨むと、「へいへい」と気のない返事ながらも空気を引き締めてくれた。

 

「最終確認だ。門が開いた瞬間に俺が大岩を吹き飛ばす。飛んでいったら3つ数えて騎馬隊、歩兵隊が順に出撃。いいな?」

 

 無言だが全員の意思が統一されたのを感じ取る。

 ゆっくりと開く巨大な門扉から差し込む外の光を前にしても、俺たちはただ地に伏して獲物を待ち構える狼のようにその時を今か今かと待ち構える。

 

 そして。

 

「っ!!!」

 

 俺の両足が地面を叩いて振るわせる。

 その踏み込みによって余す事無く力が注ぎ込まれた両手の掌底が大岩に触れた瞬間。

 轟音と共に巨大な砲弾になってそれは門を飛び出していった。

 

「三っ!」

 

 飛び出した大岩に唖然として動きが止まる反董卓連合軍。

 隣で激が腰を落とす。

 

「二っ!」

 

 正面にいた兵士たちが潰されても尚、大岩は転がっていき、兵士たちは蜘蛛の子を散らすように大混乱に陥る。

 背後で馬のいななき、誰かが息を吐く声が聞こえた。

 

「一っ!」

 

 俺を追い抜くように騎馬隊が飛び出していく。

 

「今や! 蹂躙せいっ!!」

「異民族相手に猛威を振るってきた私たちの力を奴らに思い知らせろっ!!」

 

 その背を追うように俺もまた戦場へ飛び出した。

 

 

 

 気付いた時、彼女の目の前に男はいた。

 

「っ!?」

 

 不意を突かれた事を踏まえてもその剣閃は鋭く、袁紹軍にて二枚看板を張っている彼女をして防御に全力を注がなければ危ういところだった。

 

「……」

 

 襲撃してきた男は無言のまま二振りの直剣で斬りかかる。

 

 彼女も負けじと大槌を横薙ぎに振るうべく腰を落として構える。

 受ければ何の変哲も無い直剣など粉々に出来るという確固たる自信を持って迎え撃たんと。

 

「……っ!? やぁっ!」

 

 しかし彼女が大槌を振るう直前。

 相手の左の直剣が大槌を叩いた。

 彼女はその一撃が自分の身体に当たっていない事を認識し、構わずに大槌を振り抜く。

 その一撃はあっさりと避けられてしまい、大振りの隙を突くように右の直剣による突きが迫る。

 

「ううっ!?」

 

 なんとか引き戻した大槌の身体でその突きを防ぐも、衝撃まで殺しきれずに弾き飛ばされてしまう。

 幸運にも開いた間合いを維持しながら、彼女は襲撃者を改めて観察する。

 

 自分の攻撃を止められた事などなんとも思っていない事だけが伝わる感情を読み取らせない表情をした男は、流れるように次、そのまた次と双つの剣による連撃を放つ。

 開いた間合いはあっという間に詰められてしまった。

 しかし詰められた間合いを彼女の剛力による攻撃によって強引に取り直す。

 

 付かず離れず剣の距離を求めて行われる苛烈な攻め。

 それに対して小回りの利かない大槌という相性が悪すぎる武器で彼女、『顔良(がんりょう)』は精一杯善戦していた。

 

「顔良っ!!」

 

 相棒のピンチに駆け寄ろうとしていた『文醜(ぶんしゅう)』の前に、顔良のものよりさらに巨大な大槌を持った人物が立ちはだかる。

 

「あんたの相手は私だよ。余所見していたら叩き潰すからそのつもりでね」

「(あの人は劉備さんたちの部隊の人が言っていた汜水関の門前をを守っていた人。そして私の前にいるのは公孫賛さんの白馬隊に被害を及ぼした人。孫呉の四天王『韓当義公』と『祖茂大栄』!!)」

 

 顔良は自分たちを襲撃してきた人物をその特徴から正確に当てていた。

 直接ぶつかり合った数手だけで相当な手練れである事を読み取った彼女の頬を汗が伝う。

 

「はっ!!!」

 

 祖茂の攻撃は面と向かって相対してみれば対応出来ないほど速いわけではなかった。

 だというのに顔良は何故か攻撃に転じる事が出来ない。

 彼女が攻撃を繰り出そうとする瞬間に、あちらの攻撃を挟み込まれて出鼻を挫かれてしまう。

 それを無視して力押しで攻撃するが、それは全力を出し切れていない中途半端な攻撃になってしまっているのだ。

 

 これが祖茂の先の先を取り、後の先を突く戦法。

 華雄との模擬戦のように先手で相手を倒せるなら容赦なく倒しにかかるが、本来の彼の戦闘スタイルはこういうものなのだ。

 相手は戦いの流れを完全に祖茂に握られ、思い通りに戦う事が出来ない気味の悪さに平時の能力を発揮する事が出来なくなってしまう。

 特に顔良のような思慮深い人間は。

 

「うぅっ……(違う。今まで対峙してきた相手と何かが違う。まるで手を伸ばしても掴む事が出来ない、触れる事も出来ない水面に映った月のよう。自分の調子が狂わされていくのが嫌でも分かっちゃう)」

 

 自分を見据える祖茂の冷たい視線によって、顔良が感じる得体の知れなさを増長させていく。

 まるで何をやっても無駄だと語りかけているようで、戦意や闘志がガリガリと削り取られていくのだ。

 

「どりゃぁああああ!!」

「そぉおらぁああああ!!」

 

 そんな彼女の視界の端に大剣と大槌がぶつかり合う様子が映る。

 押し負けて弾かれたのは文醜の方であった。

 その背中が偶然にも顔良の方に飛ばされ、思わず隙を晒すのも構わずに受け止める。

 

「文ちゃん、大丈夫!?」

「あはは! 顔良、ありがとな!!」

 

 旗色が悪いのに、こんな時でも彼女はいつも通りの調子を崩さない。

 そんな彼女のお蔭で顔良は気圧されて怯んでいた心に活が入った。

 

「なにやってるのさ。この二人は分断して戦う手筈だったでしょ?」

 

 その感情の乗った言葉が、相対していた人から放たれたという事実に顔良は目を見開く。

 恐ろしく冷たく正確にこちらを翻弄した剣技から想像出来ないとても柔らかな声だった。

 

「ごめんごめん。つい力加減を間違えたよ」

 

 呆れた視線を向けられながら悪びれた様子もなく彼の横に並ぶ韓当は文醜とよく似た雰囲気の明るい人物だった。

 なんとなく文醜の奔放ぶりに振り回されている自分が想起され、妙な既視感を覚える。

 お互いに隣り合って向かい合っているとまるで鏡映しのようだとすら思えた。

 

「まぁなったものは仕方ないだろ?」

「それはそうだね。それに……やることは変わらない」

 

 しかし次の瞬間、眼前の二人の気迫が増す。

 今まで本気ではなかったのだと理解させられ、顔良と文醜は顔を引き攣らせた。

 

「「それじゃ続けようか?」」

 

 顔良は声をかけられた瞬間、自分の死をはっきりと幻視して全身から汗が噴き出した。

 それでも武器を握る手に力を込めて構える事が出来たのは、彼女にとっては精一杯の虚勢であり、武官としてのなけなしの矜持でもあった。

 

「……顔良、頑張って生き延びような」

 

 相方の声の震えを指摘する余裕もない。

 彼女らは迫り来る死の予感を掻き消すために叫び声と共に武器を振るった。

 

 彼らの狙いが最初から標的を自分たちに絞った時間稼ぎであり、主である袁紹を自分たちから引き剥がすことであった事に気付いたのは全てが終わった後の事。

 完全に手玉に取られて翻弄されたという苦い苦い記憶と共に建業に対する複雑な思いを抱く事になる。

 

 

 

「ここから先は通さんぜ、お嬢ちゃんたち」

 

 程普の目の前には三人の少女がそれぞれ武器を構えている。

 全身に傷を持つ白髪の少女『楽進』、眼鏡をかけた直剣二刀流の少女『于禁(うきん)』、ごつい絡繰りを持った少女『李典(りてん)』。

 曹操配下で三羽烏と呼ばれている者たちだ。

 

「おじさん誰なの?」

「阿呆か! 孫呉の四天王程徳謀はんやろ! あの独特の掌包んどる手甲と腰の短弓は間違いないわ!」

「曹操様に特に警戒しろと言われてる方のお一人だぞ。あと相対している武官相手にそんな呼び方をするんじゃない!」

 

 幼馴染みだという三人のやり取りに自分たちのそれと似た軽妙さを感じ取るも、それを顔には出さずに拳を握る。

 

「これでも一児の父親なんでな。君らからすればおっさんだろうから呼び方なんて気にしなくていいぜ。ああ、もちろん手加減なんて期待してくれるなよ。そっちが俺を知っているように俺もそっちを知っているんだからな」

 

 侮りも慢心もない、と言外に示す彼の静かな気迫にふざけている場合ではないと感じた三羽烏はそれぞれの得物を構え直す。

 

「孫呉が四天王、程徳謀。俺の攻撃は速いぜ?」

 

 挑発的に言い放ち、軽い音と共に彼は地を蹴った。

 最初の標的は李典。

 空気が爆ぜる音と共に放たれた拳は、武器を真正面にして待ち構えていた彼女の視界から身体ごと消えてその横っ腹を叩いた。

 

「はっ……? ぎゃんっ!?」

 

 正面から突撃してきたはずの相手が突然消えたように李典には見えていただろう。

 それは言葉にしてしまえば一歩目の踏み出しで正面に踏み出し、二歩目で急激に進行方向を変えただけの事。

 ただそれらの動作があまりにも速い足捌きで行われた事によって、相対している彼女からは目前から消えたように見えるという、言ってしまえばただの錯覚である。

 しかしその効果は覿面であり相手が消えるという予想外の事態で生じた隙は、程普の拳を受けるにあたって自殺行為でしかない。

 

「ふっ!!」

「ぎっ、あだっ!? な、この!……うぐっ!?」

 

 程普の両拳が繰り出されるたびに空気が爆ぜ、李典が武器で防御しようとするその上からすり抜けて刺すような痛みが叩き込まれていく。

 武器の腹で幾らかの攻撃は防げている、いや防がされている為に、彼女は攻撃に出る事が出来なくなってしまっていた。

 反撃に出る為に武器を振ろうにも、相手の乱打が激しすぎて身動きすらも封じられてしまう。

 

「李典ちゃん!!」

「今、助けるっ!」

 

 楽進と于禁がそんな一方的に攻撃されている親友を放っておくはずがない。

 

「てやぁっ!!」

「お覚悟っ!!」

 

 曹操の元で鍛えられたのだろう直剣の攻撃は充分に速く、凌操の弟子でもあり本人が生真面目に鍛錬に励む気質の楽進の跳び蹴りは鋭い。

 しかし程普を慌てさせる事はない。

 

 速い剣も鋭い体術も、彼は身内から嫌と言うほど味あわされてきている。

 そして彼女らのそれは程普が味わってきたものより現段階では劣るのだ。

 そんなものが攻めてきたところで、恐れるに値しない。

 

「ほらよっ!」

「うあっ!?」

 

 しっかり握っていたはずの于禁の直剣が腕に走る激痛と共に宙を舞う。

 次いで鳩尾に容赦ない拳が打ち込まれ、彼女は叩き付けられるように地面を転がった。

 

「于禁!」

 

 仲間が吹き飛び、楽進は思わず声を上げる。

 

「隙ありやでっ!!」

 

 僅かな間だけ標的から外れていた李典が好機と見て絡繰りの槍を繰り出す。

 だが胴体を突こうと繰り出されたそれは避けられ、反撃の拳が李典の頬を打ち込まれる。

 

「あ、が……」

 

 脳に直接届いた衝撃に視界が真っ白になった李典はそのまま倒れ込んでしまう。

 

「李典っ! くっ!?」

 

 流れるまま楽進に襲いかかる程普であったが、凌操の弟子としてその薫陶を一部ながら受けた事がある彼女は、視界から消えて真横から迫る拳を反射的に受け止める事が出来た。

 

「おお、防御出来たか。流石はあいつの弟子だな」

 

 軽く振るわれたように見えるがとても重い拳を引き、距離を取った程普に対して楽進も構えを取る。

 

「だが受けているだけじゃ勝てんぜ」

「存じ上げております(とはいえ、隙がない。私一人じゃ時間を稼ぐ事も難しい)」

 

 直情型ではあるが、考えるだけの頭はあり、三羽烏の中ではもっとも戦いに向いている楽進は、戦場の空気に当てられて荒れ狂っている頭をどうにか宥めて今置かれている状況を整理する。

 

「しかし敵わずとも、引く事は出来ません!」

「その意気やよし!」

 

 両手を頭の上に上げて握り、前傾姿勢を取る独特の姿勢から程普は楽進目掛けて突撃する。

 実力は伴わずとも気迫だけは負けぬと大きく吼え、楽進は疾風へ挑みかかった。

 

 

 

「ちぃ! 噂に違わず、いやそれ以上に強いな! 張文遠!!」

「そっちもやるやないか。夏侯元譲!!」

 

 袁紹たちの混乱に乗じて騎馬隊で戦場を蹂躙していた張遼は、救援に駆けつけた夏侯惇の隊に捕まっていた。

 馬上では張遼に部があったのだが、夏侯淵の援護射撃によって生まれた一瞬の隙を突かれて馬から引きずり下ろされてしまっている。

 今や正面切っての武と武のぶつかり合いだ。

 小手先の技術ではなくただただ純粋な、恵まれた才能と日々の鍛錬の成果を思う存分に発揮する武人にとっての晴れ舞台。

 両者ともこの一週間は様子見に徹していた為、その意気は天井知らず。

 さらに相手が実力伯仲の相手ともなればその盛り上がりは尋常なものではない。

 

 大剣が、偃月刀が風を裂いて地面を砕く。

 両者とも目に見えた手傷は見えないが、一撃でも当たれば勝敗に直結するシーソーゲームだ。

 

 彼女らの周囲ではそれぞれの部下たちも武器を交えている。

 今のところ将軍同士の対決も含めてほぼ互角といったところだろう。

 

「あの方と戦場で相対する事こそ最大の目的としていたが、それは驕りであった! 貴様らを侮ったこと謝らせてもらう!」

「顔つき合わせて武器向けあっとる相手になんやねん、それ。馬鹿過ぎるやろ」

 

 まるで猪かと思うほどに夏侯惇の気質は真っ直ぐだった。

 わざわざ敵を相手に自分の内心を話して自分が間違っていたと謝る相手などそうはいない。

 だからこそ張遼は呆れつつも、夏侯惇に対して好感を抱いていた。

 彼女はこういう馬鹿が大好きな人間だったからだ。

 

「まぁええわ。退く気はお互いにないんや。どっちかがぶっ倒れるまでやり合おうや、なぁっ!!」

「望むところだっ!!」

 

 好戦的な暴風がぶつかり合い、その煽りを受けた周囲の兵士が吹き飛んでいく。

 しかもこの二つの暴風はお互いしか見えていないのか、戦場を移動しながらぶつかるので巻き込まれる者が続出し、逃げ遅れた者たち(主に袁紹軍)への被害は拡大していった。

 このぶつかり合いは彼女らの間に凌操が割って入るまで勢い衰えることなく続く事になる。

 

 

 

「所詮は袁紹の勝ち馬に乗るために来た烏合の衆。どさくさで本陣にちょっかいかけられるかと思ったのは甘かったかぁ」

 

 目の前で自身の身の丈を越える鉄球を構える桃色の髪を左右で団子にまとめた少女と彼女が従える部隊を前に馬超は自分の浅はかさを悔いていた。

 

「へっへー! ここから先は通さないよ」

 

 活発に笑う少女の姿だけ見れば、邑や街で見かける元気一杯な子供そのものだ。

 彼女の名は『許緒仲康(きょちょ・ちゅうこう)』。

 曹操軍親衛隊に所属する武官であり、その怪力は夏侯惇に競り勝ってみせるほどの猛者だ。

 

 馬超隊は張遼隊と出撃後、すぐに二手に分かれていた。

 張遼隊は混乱する最前戦を引っかき回す役割を、馬超隊は逃げようとする者たちへの追撃を主な役割として行動している。

 

 馬超たちは大岩による奇襲の混乱が思ったより大きく、指揮もなにもなく逃げ惑う者たちへ襲いかかり、物のついでにと未だに事態を把握出来ていない本陣へ強襲をかけようとした。

 そこに巨大な鉄球が飛んできたことで、それ以上進めない状況に陥ってしまったのだ。

 

「そうかぁ、通す気はないか」

「うん!」

 

 笑顔でとても元気の良い返事に馬超は思わず破顔する。

 妹たちよりも小さい子供にちょっと気を許してしまいそうになっていた。

 とはいえ相手は現状では敵なので、それ以上絆される事はないのだが。

 

「じゃあ……押し通らせてもらおうか」

「返り討ちだよ、お姉さんたち!」

 

 日常生活であれば気が合いそうな二人の武器が激突する。

 冗談のような鉄球を軽々と振るう許緒も尋常ではないが、飛んでくるそれを真っ向から槍で迎え撃つ馬超も常識外れの力である事が分かるだろう。

 

「そりゃぁあああーーーー!!」

「おりゃぁああああああっ!!」

 

 彼女らの気迫の声を合図に配下たちも雄叫びと共に突撃し乱戦へと突入した。

 

 

 

 馬超に付き従っていた馬岱は、足止めされた馬超の指示で隊の半数を率いて許緒を避けて戦場を大回りして本陣へと進もうとしていた。

 しかし程なく許緒の鉄球に勝るとも劣らない大きさの巨大な円盤が回転しながら進路の地面を削り取り、部隊は丸ごと足を止めざるを得なくなる。

 部隊の進路を噛み砕くように走る円盤の破壊痕に馬岱は顔を引き攣らせながら、攻撃してきた少女とその後ろに控える兵士たちに視線を向けた。

 

「あっぶないなぁ……。あ、曹操親衛隊の子だ」

「私の事、ご存じなんですね。光栄です、馬岱さん」

「そっちも私の事知ってるじゃん、典韋(てんい)ちゃん」

 

 少女はきりっとした顔で戻ってくる円盤を受け止め、威嚇するように振りかぶって構える。

 薄緑色の髪が揺れ、それに合わせて額にかかる髪に付けられたリボンも揺れた。

 彼女の名は典韋(てんい)。

 許緒とは親友であり、その縁で曹操軍に加入するとあっという間に頭角を現し、許長同様に親衛隊に上り詰めた少女だ。

 あまり外部には知られていないがその料理の腕前も美食家の曹操に認められている。

 

「う~ん、事前に話は聞いてたけど相性が目に見えて悪いなぁ」

 

 超重量の武器とそれを手足のように操る典韋に対して手数と頭を使って戦う馬岱。

 純粋な腕力にここまで明確な差があるというのは、それだけで不利である事を彼女は義姉や叔母、そして親友のお蔭でよく知っている。

 

「ここから先に進まず、引いてくだされば私から攻撃する事はありません。私たちの役目は本陣へ向かう董卓軍の妨害ですので」

 

 意外な言葉に馬岱は大きな目をぱちくりと瞬く。

 まさか引けば見逃すなどと言われるとは思わない。

 普通なら舐められていると取られても仕方の無い発言だ。

 そう受け取った背後の部下たちがいきり立つが、馬岱はそれを片手で制する。

 典韋の真剣な眼差しに侮りなどの色がないこと、相手の発言を自分の中でしっかり咀嚼して受け流す事が出来る元来の性格から彼女はその言葉をそのまま素直に受け止めていた。

 

「ふふ、敵の愚痴にそんな真剣に応えなくていいよ。ごめんね、なんか気を遣わせちゃって」

 

 この短いやり取りで馬岱は目の前の彼女がとても真面目で堅い子なのだと理解していた。

 対峙している相手の戯けた愚痴にこんな対応をするのならば筋金入りの良い子である。

 

 同時にこうも思った。

 『そんな子であるならばやりようはある』と。

 

「まぁはいそうですか、って引くわけにはいかないから。……戦おっか」

「……分かりました」

 

 槍を上に掲げ、ゆっくり下ろして中腰に構える馬岱。

 いつでも円盤を放てる体勢を取る典韋。

 

「(仕掛けるのが私とは限らないんだけどね)」

 

 その思考を読んだようなタイミングで、彼女たちの間に頭上から何かが降ってきた。

 

「えっ?」

 

 まったく想定していなかった乱入物に典韋は間の抜けた声を上げて、落ちてきた物を見つめる。

 導火線に火が付いた丸い物体は、どう形容しても爆発秒読みの何かであった。

 

「っ!? 皆さん下がってください!」

 

 彼女がぎょっとして思わずそう指示を出し、後方に下がったとしても仕方ない事だろう。

 

「(ありがとう、徳さん!)」

 

 対して馬岱はそれがどういうもので、誰が投げ入れたかを理解しているからこそ心中でお礼が言えるほどの余裕があった。

 事前の打ち合わせで幾つかの遭遇に対処する方法が周知されており、これはその一つのパターンにがっちり当てはまるものだったからだ。

 伝授者に曰く『時間がかかる相手との遭遇時の場の荒らし方その三』。

 尚、別にこれを使う事は強制ではなく、基本的に各自の考え方に任せている。

 なので今のところ馬岱以外の面々は遭遇した名のある武官に対して真っ向勝負しているのだ。

 

「はっ!」

 

 馬岱は目の前の爆発物を槍の石突きで上空へ跳ね上げた。

 放物線を描いたそれは典韋たちの頭上へと飛んでいく。

 

「しまっ……」

 

 そこで導火線の火が本体へ辿り着く。

 すると球体が一瞬で燃え上がり、周囲に勢いよく黒煙を撒き散らし始めた。

 あっという間に視界が煙に遮られる。

 典韋は想定外の事態に慌てて自分の武器で煙を払いのけようと振り回すが煙の勢いが強すぎて意味がない。

 そうして他の事に気を取られてしまった彼女とその部下たちは、馬岱たちの次の行動を許してしまう事になる。

 

「全軍突撃ぃっ!!」

「「「「「おおおおおーーーーーっ!!!!」」」」」

 

 この煙に乗じて仕掛けてくるのか、と典韋たちが視界が悪い中で警戒する中。

 蹄の音が遠ざかっていくのがわかった。

 

「あ! あの人、私たちを無視して本陣にっ!?」

 

 気付いた時には手遅れであり、より勢いを増した煙のせいで追いかけるのも容易ではなく。

 典韋たちは完全に出し抜かれた敗北感に臍を噛む事になる。

 

 

 

 反董卓連合による反撃が始まってほんの僅かな間に各所で激戦と駆け引きが始まっている。

 しかしそれもまたほんの一握りに過ぎず、それと知られぬよう水面下で動いている者もいる。

 

 勘の良い者、思慮に富んだ者は既に気付いている。

 どのような形であれ汜水関の戦いは大詰めを迎えようとしている事を。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百四話 汜水関の戦い その三

 汜水関の門の正面。

 大岩による奇襲からの襲撃によって混乱する戦場にあって、ここは特に大混戦となっていた。

 門が開けっ放しである為に反董卓連合側は混乱の中にあっても逆転の一手を求めて誘蛾灯のように吸い寄せられ、董卓連合側は近付いてくる者たちを相手に防戦に奔走する。

 

 敵を油断させるために一時的に撤収していた城壁の防衛部隊は、大岩が発射されたタイミングで戻り、矢の斉射や投擲を行っている。

 その陣頭指揮を執りながら、戦場全体を俯瞰して状況を見定めている者が一人。

 孫呉の四天王『黄蓋公覆』である。

 

 彼女が放つ矢は必殺必中。

 さらにはその射手として最上と言える視野の広さ、視力の高さによって射るべき相手を正確に狙い撃ちにする事を可能にしている。

 彼女が今優先しているのは大岩の奇襲による場の混乱を少しでも長引かせる事。

 その為に混乱から立ち直りつつある者を優先的な標的としていた。

 汜水関を攻略したと気を抜いていた最前戦の兵士たちのうち、少しでも立場が上と思しき人間(着ている鎧の豪華さや兵へ指示を出している姿から判断)は粗方彼女の射撃によって負傷している。

 しかし彼女が射貫いた者の中に名だたる武将や武官は入っていない。

 そう易々と傷つけられると思えない彼ら彼女らは今回、狙撃の優先順位としては下げられていた。

 

 この圧倒的不利な戦いに勝利する為の策の一環として、この戦いでは『なるべく多くの者を負傷させる事』を目的としている。

 黄蓋らの射撃は目的を果たす上で最も有用な手段である。

 董卓連合側の武官の多くが名だたる武将たちと激突し、騎馬隊が強引にでも敵の本陣を目指す最たる理由は、彼女たちへの注目を少しでも逸らす為だ。

 

「今のところ、順調じゃが……」

 

 下で派手に暴れ回っている同僚たちの姿を順繰りに確認する。

 誰一人として欠けていない事を確認して安堵の息を吐くも、即座に切り替えて次の一矢を放つ。

 今のところ敵の意識は城壁の防衛部隊から上手く逸れているようだ。

 城壁の弓兵に構っている余裕がないほど地上の武官同士のぶつかり合いが加速している。

 特に夏侯惇と張遼が周囲の被害などまったく気にせずに戦っている事が大きい。

 

 だがそろそろ横槍が入るだろうと黄蓋は推測し、より注意深く戦場を観察する。

 そして戦場の荒々しい空気に紛れ込む、こちらを狙う僅かな戦意に気付いた。

 

「全員、攻撃止め! 隠れよっ!」

 

 黄蓋の指示に対して部下たちは迅速に従った。

 しかし何人かが今まさに矢を射る寸前であった者たちの行動が遅れてしまう。

 そこで明暗が分かれた。

 

「がっ!?」

「うぐっ……」

 

 飛んできた矢の雨に出遅れた数人が射貫かれてしまう。

 

「ち……、負傷者を砦の中へ! 決して身体を壁から出すな!」

 

 返事を待つ事無く黄蓋は、隠れる寸前に確認した飛んできた矢の方角へ威嚇として適当に矢を射る。

 素早く状況を確認した彼女は自分を真っ直ぐに見つめる者と目が合った。

 

「やれやれ、やはり貴様か。夏侯妙才」

 

 自分を見つめる涼しげな瞳に、獰猛な笑みを浮かべながら黄蓋は矢を番える。

 

「黄蓋様! 怪我人の救助終わりました!」

「良し。では儂の視線の先へ射撃、そして防御の準備じゃ。射撃手は儂が射るまで撃つでないぞ」

「「「「はっ!」」」」

 

 一糸乱れぬ動きで配下たちの準備が整うまで、黄蓋はただ一人で視線の先にいる夏侯淵を威嚇する。

 対する夏侯淵側は既に次の一斉射の準備が完了していた。

 

「総員……」

 

 無論、彼女らに黄蓋たちを待ってやる理由はない。

 

「放てっ!」

 

 自らが放った一矢に部下たちが続いて矢を放つ。

 主戦場である正門前からかなりの距離があるにも関わらず、矢の群れは城壁の上にいる彼らに勢いよく向かってくる。

 しかし黄蓋たち弓を構えた者たちは矢を番えて無防備な姿を向かってくる矢に対して晒したまま動かなかった。

 

「防御班!」

「「「「応っ!!」」」」

 

 矢を番える彼女らを隠すように両端を槍で結ばれた黒い布のような物が黄蓋たちに迫る矢の間にばっと広げられた。

 今まさに飛来する矢の群れの威力ならばただの布では壁にもならない、はず。

 次の矢を番えながら訝しげに状況を見守る夏侯淵。

 しかし彼女の予想は裏切られ、城壁に降り注ぐ矢は布に受け止められてしまった。

 

「なっ!?」

 

 自分の放った矢は勿論、部下たちの矢も威力は申し分ないはずだ。

 第一射で彼女は自分たちの放った矢が城壁にいた人間を射貫いた事からもその認識は間違っていないはずである。

 それを見た目がただの布にしか見えないもので止められたとあっては驚きの一つもするだろう。

 

「くっ、総員散れ! 敵の射撃が来るぞ! やり過ごせた者は各自の判断で攻撃を続行しろ!!」

 

 指示を出しながら夏侯淵は馬の腹を軽く蹴ってその場から離れる。

 自分を狙う矢が彼女が先ほどまでいた場所に突き刺さる。

 

「まったく、貴方方はこちらの予想を軽々と超えてくる!」

 

 矢の雨のお返しに何人かの部下が逃げ遅れた姿に、顔を歪めながら夏侯淵は番えたままの矢を放つ。

 しかしその矢は城壁に届く前に正面から向かってきた矢に弾かれてしまった。

 

「勝負じゃ、夏侯妙才。儂の方が有利な状況ではあるがそこは戦の常と飲み込んでもらうぞ」

「互いに一進一退と言うところ。しかし状況はまだまだ動く。最後に笑うのは我々ですぞ、黄公覆殿」

 

 互いの声は届いていない。

 だが矢を持って言葉を交わす一級の射手同士は確かに意思のやり取りをしていた。

 

 

 

 董卓連合は汜水関の正門を守る部隊にかなりの数を割いていた。

 大岩の奇襲である程度追い散らす事が出来たとはいえ、汜水関に侵入されてしまっては意味がない。

 最低限、飛び出していった者たちが戻るまでこの砦は守り切らなければならないのだから。

 

 そんな部隊の中に元董卓軍の武官だった『華雄』の姿はあった。

 彼女がその立場のままであったならば張遼らと共に飛び出し、好きなように暴れ回った事だろう。

 

 だが今の彼女にそれは許されない。

 主との信頼は消え失せ、同僚や同盟相手からの目は不信に満ちている。

 

 正門を抑えようと挑みかかってくる敵を片っ端から戦斧で叩き伏せながら、彼女の脳裏を過ぎるのはこの作戦が始まる直前の会話。

 張遼から指示された『何も考えずに汜水関を守れ』と言われた時の事だ。

 

「華雄、あんたはうちらが出た後に汜水関の正門を守れ。敵は一人たりとも通すな」

 

 奇襲のための準備をする為に相手に気取られないように可能な限り音を殺して動き回る砦の中、呼び止められてかけられた言葉。

 意識して感情を殺して言われた内容に、華雄は目に見えて歓喜していた。

 

 防衛戦においての守りの要を任されたのだ。

 張遼は自分に汚名返上の機会をくれたのだ。

 彼女はそんな風に考えていた。

 

 しかしそんな楽観的な思考は、張遼の冷たい眼差しと冷え切った言葉で叩き潰される事になる。

 

「何が起ころうが他の事はやらんでええ。いやはっきり言うわ。絶対にやるな」

 

 その子供に言い含めるような念押しには華雄の考えていたような温情などないと理解させるには十分であった。

 与えられた役割だけをこなせ、と。

 余計な事をするな、と。

 お前に出来る事はそれだけだという現実を彼女に突きつけるモノだった。

 

「あんたに求めとんのはその斧振り回す事だけや。たとえ大将首が目の前に現れようと、相手がどんだけあんたを馬鹿にしようと、董卓様を悪しように罵ろうと、どんな状況になったとしてもお前の判断で行動すんな。……ええな?」

 

 信用を失うという事がどんなものであるかを、華雄はこの時になってようやく心の底から理解した。

 

 幼い頃から雇われて戦う傭兵稼業を生業としていた集団にいた彼女は戦って勝つ事で信用を得る事が常であった。

 そして大概の事をなんとか出来てしまう武力を持っていたが故に、今までそうして得た信用に余すことなく応えてこられた。

 

 大きくなった傭兵団を率いる事になった時も。

 その武勇が賈駆の目に止まり、董卓軍に士官した時も。

 華雄はその力だけで突き進んできた。

 突き進んでこられてしまった事が、一兵士にまで落ちぶれた最も大きな原因だったのだろう。

 

 何もかもを力でなんとかしてきた彼女は、結局のところ傭兵団の頃から何も変わる事が出来なかった。

 董卓に力とは違う威厳を感じ、惹かれ、心から忠誠を誓っていた事に嘘はない。

 しかし武官として弁えなければならない事があると知らず、そして知ろうともしなかった。

 

 自業自得だと今の彼女は理解している。

 だから彼女は張遼に「承知した」と彼女にあるまじき慇懃な口調で応えて頭を下げた。

 

 頭を上げた頃には、もう張遼は彼女に背を向けている。

 本来なら少ない時間の中で奇襲の準備を整える必要がある中、一兵卒に声をかける暇などない。

 そこを押して自分に声をかけてきたという事が何を示すのか。

 絶対に勝手な真似をするな、という釘刺しである事は疑いようもなかった。

 

「(失った信用を取り戻す、などという厚顔無恥な事を思う資格など私にはない)」

 

 武官として何もかもが足りなかったから罷免されたのだから。

 

 身の振り方を考えるのは、この戦いが終わった後の事。

 

「(忠誠を誓った主の為に、一兵卒として与えられた役割を果たす。それだけが私に許された事だ)」

 

 それだけを胸に華雄は次々と迫り来る敵に戦斧を振り回し続けた。

 たった一つの命令にのみ迷いなく振るわれる戦斧の閃きは、彼女にとって皮肉な事にかつてないほどの鋭さであったという。

 

 

 

 大岩によって引き起こされた混乱の中、殊更に悠々と戦場を駆け回る男がいた。

 既に彼の部下は戦場に散らばっており、それぞれ独自の判断で遊撃を行っている。

 故に今の彼は正真正銘、一人で行動していた。

 

 董卓連合軍による畳みかけるような強襲の中、喧噪に紛れ込むように可能な限り気配を殺した彼の存在に気付く者はほとんどいない。

 気付く事が出来た兵士らが何らかの行動を起こす前に彼自らが始末してしまうのだから尚更だ。

 しかしそれも程なく終わりを迎える。

 

 烏合の衆だと言われている反董卓連合ではあるが、それはあくまで一つの勢力としての事だ。

 各勢力ごとの統率ならば、差こそあれども取れている。

 奇襲が成立してからおよそ一刻が経つ頃には、混乱は収束しつつあった。

 混乱が収まっていけば戦場を客観的に見る事が出来る者ならば、武官同士がぶつかり合う裏側で兵士がやられている事に気付く。

 そして自軍の混乱を一早く収め、状況を冷静に分析する事が出来る者を少なくとも凌操は一人知っている。

 

「ようやく捕捉出来ましたね」

 

 予想通りの人物『曹操孟徳』と彼女麾下の親衛隊が彼の前に立ちはだかる。

 

「流石だ。……もう少し数減らしをしておきたかったんだがな」

 

 たった一人の人間を確実に囲い込む為に鶴翼の陣を敷きながらゆっくりと近付いてくる曹操に対して、凌操は観念したように言葉を返す。

 

「お一人で音も無くこれだけ暴れられてしまっては、こちらも黙っているわけには参りません」

 

 曹操が派手な戦いに隠れながら兵士に狙いを絞って襲撃されている事に気付いたのは、その被害が目に見えて多くなってからだった。

 傍観していた戦場に飛び込んだ当初、彼女は混乱に乗じて反董卓連合の旗頭である袁紹が狙われると考えた。

 側近である夏侯惇に敵の武官の迎撃、夏侯淵に汜水関の弓兵隊の対処を指示して別れた後にどうせ戦場のど真ん中に意地でも居座っているだろう袁紹の元へ向かう。

 しかしそこにはキーキー喚いているとても元気な袁紹とそれをなんとか諫めようとしている兵たちの呆れるほどに元気な姿しかなかった。

 大混戦の状況であるにも関わらず不自然なほどに袁紹の周りに被害が出ていないのだ。

 曹操はその時点で反董卓連合の狙いが『総兵力を削る事』であることに気づき、それぞれの軍のぶつかり合い以外で倒された兵士がいないかの索敵を開始。

 彼女の指揮の下、精鋭部隊は瞬く間に戦況を洗い出し、董卓連合側の兵士だけが倒されている箇所を複数発見した。

 

 見つかった死体の多くは一撃で倒されており、逃げる暇などなかった事が見て取れる。

 悲鳴すら上げられず、何が起きたかも分からずやられた者も少なくなかった。

 

 予想していたとはいえ報告される被害の量にぞっとしながら曹操は、攻撃された場所を照らし合わせ、次の襲撃がどの辺りで行われるかを推測。

 今、こうして下手人を捕捉する事が出来たのだ。

 

「このまま包囲を狭めつつ追い詰めよ! 相手は一人だが、決して油断はするな! 万の兵を相手する心積もりで当たれ!」

 

 もしもこの場に袁紹などがいれば曹操が出した指示に驚いただろう。

 迅速果断、大胆不敵の体現者である彼女がたった一人の相手に臆病とすら言える慎重な指揮を執ったのだから。

 指示通りにじりじりと距離を詰める親衛隊を相手に、凌操は包囲されないように後退していく。

 そして程なく凌操は汜水関の絶壁に追い込まれ、逃げ場を失ってしまう。

 

「問答をする気はない、か」

「貴方が我々の本陣へ来ていただけるのであれば幾らでも……。ですのでどうかおとなしくしていただきますよう」

 

 彼の戦績と実際に話した時の印象が、どれほど有利な状況であっても油断や慢心をしていい相手ではないと思わせていた。

 曹操は凌操に『時間を与える事』をこそ危惧していたのだ。

 包囲は慎重に慎重を重ね、しかし相手に何かをする時間を与えない。

 

 曹操は現状で凌操を捕える為に出来る最適解を実行していた。

 

「断る」

「弓兵隊! 殺すつもりで射よっ!」

 

 曹操の号令による一斉射。

 凌操は三本連結した棍を風車のようにその場で回す事ですべて叩き落とした。

 

「流石です。ですが絶壁を背後に背負われた状態でこの包囲を抜けられるとお思いですか?」

「真っ正面から突破する必要はない」

 

 あえて外していた四本目の棍を背後の壁に投げつける。

 土壁に上手く突き刺さった事を確認し、凌操はその壁目掛けて駆け出した。

 

「なにを……っ!? 弓兵、彼は上から包囲の外へ跳ぶつもりよ! 撃ち落としなさい!!」

 

 曹操の声を背に、彼は壁に突き立てた棍目掛けて地を蹴って跳躍。

 その間、散発的に飛んできた矢は棍と手甲でもって叩き落としていた。

 そして突き刺さっている棍を右手で掴むと、腕の力だけで一回転して手を離す。

 彼は回転の勢いを利用して曹操の包囲の遙か頭上を飛び越えてしまった。

 

「追いなさいっ!」

「「「「はっ!」」」」

 

 曹操は想定外の行動で逃れられた事への驚愕を瞬時にねじ伏せ、後を追うよう指示を出す。

 親衛隊が走り出し、足止めにと矢を放つのを横目に彼女は歯噛みした。

 

「ここであの方を逃しては、被害がさらに広がってしまう。なんていうことっ!!」

 

 完全に出し抜かれた屈辱に、彼女は八つ当たり気味に絶壁を睨み付ける。

 突き刺さったままの棍の一部だけがそんな彼女を見下ろしていた。

 

 

 

「はぁ、はぁ、はぁ……。なんとか、逃げ切れた……な」

 

 曹操の包囲網を逃れた後、彼は脇目も振らず汜水関まで撤退していた。

 彼女は戦場に紛れてまた他軍を襲うだろうと戦場の中を捜索していたのだが、その予想に反して真っ直ぐ撤退する事を選んだ為に撒くことが出来たのだ。

 

 曹操には決して気取られないように余裕のある態度を装っていたが、実のところ彼は限界に近かった。

 彼女に捕捉されるまでずっと戦場を走り回り、目に付く反董卓連合の兵士を倒してきたのだからそれも当然だろう。

 少なくとも曹操軍の親衛隊とぶつかる選択肢が取れない程度には疲労困憊であった。

 

 砦内に置いてある水樽から柄杓で水を掬い、頭から掛けながら物理的に興奮状態の心を宥める。

 

「無事に戻ったか、凌操」

 

 背後から聞こえてきた妻の声に、彼は疲労で震える手を軽く挙げて応える。

 

「ああ。曹操に追われたよ。あの子はこちらの思惑に気付いているぞ。思ったよりずっと早く見つかったから間違いない」

 

 柄杓で掬った水を飲み干しながら、彼が掴んでいる戦況を指揮官である黄蓋へ伝える。

 

「ふむ、そうか。あちらの本隊は馬家の部隊が上手く牽制してくれておるから本格的にこちらに来るのはまだ少し猶予があるじゃろうが……」

「……そろそろ捨て時か? 総指揮官殿」

 

 予定されていた汜水関の放棄、撤退。

 汜水関の戦い、その幕引きの時。

 

 黄蓋は戦闘が始まる前に張遼と話し合い、形としての総司令は張遼としつつも軍の指揮の頂点を黄蓋とする事でまとまっていた。

 張遼本人の気質が前線向けの為、いざという時に周りを見るだけの余裕があるか分からない。

 だからこの戦いに限って張遼は総指揮の権限を現場の判断で黄蓋に譲っていたのだ。

 よって汜水関での進退は黄蓋の判断によって決められる。

 

「武官同士で張り付くのはそろそろ限界じゃろう。もう少しと欲を掻いて次へ響くような事になっては元も子もない」

 

 戦はここで終わりではないという前提からの言葉は些か不満な声音だが、彼女はしごく冷静に現状を見極められていた。

 

「よし、汜水関を放棄する。すまんが凌操、休憩が終わったらまた出てくれるか。可能な限り味方を連れ戻してくれ。無論お前も無事に戻ってくるんじゃぞ」

「了解。引きずってでも連れ帰ってくるさ」

 

 最後に水を顔にぶつけるようにかけてすっきりさせると、凌操は汜水関から出撃していった。

 程なくして汜水関における全ての戦いが終わりを迎える。

 結果だけを見れば董卓連合は砦を捨てて退却、反董卓連合の勝利となった。

 しかしその結果だけを見て勝利に酔うような軍勢はほとんどいなかったという。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百五話 汜水関の戦い その四

 汜水関の放棄は予定通りに行われた。

 韓当、祖茂、程普は黄蓋による合図を見て、即座に戦闘を切り上げて撤退。

 

 馬超、馬岱も騎馬隊の機動力を遺憾なく発揮して敵本陣から帰還している。

 反董卓連合からの追撃は当然行われたが、馬家の騎馬隊に追いつけるほどの速さを持つ軍はいなかったようだ。

 唯一、馬家に対抗出来ただろう白馬長氏を初戦で半壊させた事が功を奏した。

 公孫賛を除いて足が速いだろう曹操軍が戦場に散らばった俺たちに対して自軍を散らばらせて対応した事も良い方に転がっただろう。

 

 しかし全てが上手くいったわけではない。

 流れるように撤退していく董卓連合側に対して、反董卓連合側は何がなんでも重要人物を捕えようと動き出す。

 夏侯惇との一対一の勝負でお互いしか見えないほどに白熱していた事が原因で、張遼隊というか張遼が敵陣に孤立してしまったのだ。

 撤退する気配がない者がいれば、蟻のように群がるのは当然だろう。

 

 しかし一対一に熱中する二人を取り囲み、いざ捕まえようというところで反董卓連合側に誤算が生じる。

 あまりにも熱を持ちすぎた張遼と夏侯惇には誰の言葉も届かなかったのだ。

 決闘を止めようと不用意に近付いた者、その悉くが暴風と化した二人によって吹き飛ばされてしまう有様。

 曹操に対して揺るがぬ忠誠心を持っている夏侯惇に主の言葉すらもまったく届かなかったというのは、彼女を知る者からすれば驚きだ。

 彼女の親衛隊ですらも被害の及ばない距離を取って包囲する事しか出来ない状況になってしまっていた。

 袁紹軍など一部の兵士たちは懲りずに止めにかかったが、枯葉のように吹き飛ぶのみ。

 

 大岩での奇襲とはまた別の混乱が戦場を支配する中、俺は聞く耳持たずの隊長に懸命に声をかけ続ける張遼隊に先に戻るように声をかけて回った。

 張遼は引きずってでも連れ戻す事を建業と主の名、自分の二つ名に誓い、後ろ髪を引かれる思いの彼らを説き伏せてその時を待つ。

 

 もう何度目になるかわからない武器の交錯。

 互いに押し合いへし合い火花を散らす攻防。

 そんな激突の合間に息継ぎするかのように互いの距離が開いた瞬間。

 俺は包囲の外から張遼隊から借りた投げ縄を投げ込んだ。

 次のぶつかり合いのために足に力を込めていた張遼の腕に頑丈で太い大縄が絡みつく。

 絡みついたタイミングで俺が渾身の力で引っ張ると彼女の身体は宙を舞った。

 

「なんやぁっ!?」

 

 張遼は素っ頓狂な悲鳴を上げる。

 彼女の馬が主の後を追って走ってくるのを確認して放物線を描いて落ちてくる彼女を受け止めた。

 即座に下ろすと口頭注意するよりも先に、不満げな表情をしている張遼の額にデコピンをお見舞いする。

 

「いったぁっ!?」

 

 悶絶する彼女に努めて冷静に告げる。

 

「撤収の時間だぞ、張遼将軍」

「うっ……、おおきに」

 

 やや嫌みったらしく役職を強調して呼んでやれば彼女の頭は瞬時に冷えたようだ。

 彼女は近付いてきた愛馬に飛び乗り、俺もその後ろに乗り込むと汜水関目掛けて駆け出す。

 当然ながらすぐ後ろには反董卓連合の兵士たちが大挙して押し寄せてきていた。

 

「まぁてぇっ!!!」

 

 先頭は夏侯惇。

 決闘に水を差された為か、恐ろしくドスの利いた叫び声だ。

 彼女の横に付いた夏侯淵が姉を宥めているが効果は望み薄だろう。

 

「結果的にだがお前のお蔭で隊全体を撤退させる時間は充分稼げた。あとは俺たちだけだからとっとと逃げるぞ」

「了解や」

 

 全速力で汜水関の門へ向かう張遼の愛馬。

 そんな俺たちに足止め、あわよくばそのまま射殺すつもりなのだろう追っ手からの容赦ない矢の雨が降り注ぐ。

 それを三本連結した棍でまとめて弾きながら、俺は腰に下げていた掌サイズの袋を手に取りそのまま後方へと放り投げる。

 

 その袋を汜水関の外壁から黄蓋の放った鏃に火のついた矢が貫いた。

 ずっと援護の機会を窺っていたのだろう妻には頭が上がらないな。

 

 袋の中身は油だ。

 そんなものに火が付けばどうなるかは自明の理。

 あっという間に油に火がつき、重力に従って地面に落ちた油が火柱を上げて広がっていく。

 

 動物は本能的に火を恐れる。

 突発的に発生した炎に対して人間は気合いで怯まずにいられたとしても馬が驚かないというのは難しい。

 

「ぬっ!? 落ち着けっ!」

 

 目の前に広がる炎の壁から逃れるように前足を挙げてその場に急停止する夏侯惇とそれに続いていた騎馬兵たち。

 それを尻目に俺は自分の分に加えて駄目押しとばかりに張遼が持っていた油袋も燃え上がる火に向けて投げつける。

 

 炎が広がった油によって蛇のようにのたうちながら地面を奔る様に他の騎馬隊の足も止まっていった。

 その隙を逃さず張遼は馬の速度を上げる。

 追っ手も即座に止まった騎馬の足を動かすが、一度止まってしまった馬の速力は風に乗った張遼の愛馬に追いつくには足りない。

 

 しかしそれでも敵は諦めないようだ。

 お互いの距離が開いていく中、夏侯淵が弓を構える姿が見える。

 狙いは俺でも張遼でもなく騎馬の足だ。

 

「せいっ!」

 

 後ろ足を狙った矢を棍を腕ごと伸ばして弾いた事で馬に乗っている俺は前のめりになって体勢を崩してしまう。

 それを好機と見たのか、炎を飛び越えて迫り来る影。

 

「お師様、お覚悟っ!!」

「楽進かっ!」

 

 落下速度と体重を乗せた渾身の跳び蹴り。

 あの一撃を騎乗した状態で受け止めれば、俺や張遼はともかく馬が持たないだろう。

 

「俺に構わず撤退しろ」

「はっ!? おい、ちょっ……」

 

 馬の尻に思い切り手を付き、その反動で跳躍する。

 崩した体勢のままで跳躍した俺は、迫る蹴撃に対して下から掬い上げるように蹴りを放って迎え撃つ。

 

 蹴りと蹴りがぶつかり合う。

 しかし無理に放った蹴りでは威力が足りず、押し負けた俺は地面に叩き付けられた。

 

「ぐっ!?」

 

 だが只では転ばない。

 地面に叩き付けられる寸前、俺は逆の足で楽進の腹へ蹴りを打ち込んだ。

 

「がはっ……」

 

 楽進が吹き飛んだのを確認する時間も惜しい。

 叩き付けられた背中の痛みに顔をしかめながら素早く立ち上がる俺に夏侯惇が迫る。

 

「凌操様、お覚悟をっ!」

「こなくそっ!」

 

 馬上から水平に振り切られる大剣。

 受け止める事は出来ない強力な一撃を手甲でどうにか受け流すも、その衝撃で俺は後方へと吹き飛んだ。

 これ幸いにと流れに逆らわず地面を転がりながら距離を取る。

 ぐらぐらと揺れる視界を気合いでねじ伏せて立ち上がればすぐに次が来ていた。

 

「ちょおおりゃぁあああああっ!!!」

「てぇえええいいいいっ!!!」

 

 許緒の馬鹿でかい鉄球と典韋の冗談のような大きさのヨーヨー。

 それらが地面を削りながら並走して迫ってくる。

 

「ふっ!」

 

 目前まで迫ってきた鉄球に両の掌底を叩き込む。

 その打ち込みで鉄球の進路をずらし、狙い通りにヨーヨーにぶつかった結果、両方の進路が俺から逸れていった。

 

「嘘やろ。あんだけの攻撃全部捌きよった」

「化けもんなの……」

 

 失礼な事を言う三羽烏の二人を視界の端に捉えたが、俺には突っ込んでいる余裕はない。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 

 足を止めた俺はあっという間に囲まれた。

 目だけで周りを見回せば曹操軍だけでなく袁紹軍や他の軍勢もいる。

 まぁ董卓連合の武官が一人取り残されればこうもなるか。

 俺でも敵側の武官相手なら同じようにするだろう。

 

「おーほっほっほっ! ずいぶんと好き勝手やってくれたようですがここまでですわねっ!!」

 

 絵に描いたような金髪縦ロールお嬢様が神輿?のようなものの上の豪華な椅子に座って現れる。

 無駄によく通る声だな、とどうでもいい感想を持ちながら俺は大きく深呼吸を一つ。

 

「武器を捨ててその場に跪きなさいっ! そうすれば命だけは保証しますわっ!」

 

 曹操軍の緊迫した表情に気付かず、余裕綽々な態度で包囲の中に入る袁紹の神輿。

 無防備過ぎるだろう、馬鹿なのか?

 

「ちょちょ、袁紹様!」

「今は駄目です。ここは曹操さんたちに任せて下がってください!」

 

 慌てて主を諫める側近らしい武官が二人駆け寄ってくる。

 たぶん文醜と顔良だろう。

 彼女らの言葉をまったく意に介さず、さらに近付いてくる袁紹の姿。

 俺はこいつが超が付くほどの馬鹿なのだという事を確信した。

 

 人質に取ってくださいと言わんばかりの無防備さだが、しかし現状で俺が動くのは難しい。

 包囲して安心し切っている他はともかくとして、曹操軍は一兵卒に至るまでもが俺の一挙手一投足を警戒していた。

 先ほど曹操の包囲を出し抜いた事、そして今さっきの攻防を切り抜けた事でその警戒心はうなぎ登りなのは間違いない。

 迂闊な行動一つすれば即攻撃されるだろう。

 

「袁本初、一つ忠告だ」

「? 帝を誑かす一味がこの私に何を忠告するというんですの?」

 

 しかしそんな状況でも俺は袁紹に声をかけた。

 総大将へ敵対者からの問答という形を取れば、見栄に拘る傾向が特に強いだろう袁紹は応えざるを得ない。

 そして問答が成立した今の状況では、いくら警戒していたとしても曹操たちには手出しが出来ない。

 このやり取りを遮ってしまえば、総大将の顔に泥を塗ったと言うことになりかねないからだ。

 

 俺の不遜な物言いに不快そうに眉を顰めながら、首を傾げる阿呆。

 曹操たちが苦虫を噛み潰したような顔をしている事に気付いた様子はない。

 

「自分の周囲を任せる兵士の顔ぐらい覚えておく事だ」

「「はっ?」」

「えっ?」

 

 次の瞬間、神輿が真っ二つに斬り捨てられた。

 神輿の近くにいた『袁紹軍の兵士の格好をした甘卓』の一撃だ。

 

「な、なぁあああああっ!?」

 

 神輿から転げ落ちて地面を転がる袁紹の悲鳴が周囲に混乱を振り撒いていく。

 さらに包囲の外から幾つもの影が煙を放物線上に残しながら降り注いだ。

 ボトリと落ちたそれらは導火線に火が付いた球体。

 

「っ……うわぁああああああっ!?!?!?」

 

 曹操軍を除いて勝ちを確信して油断していたのだろう。

 突然振ってきた爆弾にしか見えない物体に兵の一人が、後退り悲鳴を上げて逃げ出し始める。

 それを引き金にして恐怖が伝染して包囲はあっという間に崩れていった。

 

 同時に導火線が本体に届き、球体は黒煙を噴き出す。

 一つでもかなりの量の煙が噴き出すというのにこの数だ。

 あっという間に視界は真っ黒になってしまう。

 

「凌操様!」

「甘卓!」

 

 よく知る声に応えると手を取られ、そのまま誘導されて走り出す。

 この方向にいた武官は許緒だ。

 

「どけっ!」

「わっ!?」

 

 攻撃を警戒して楯のように構えていた鉄球を甘卓が弾く。

 

「ふんっ!」

「うわぁああああっ!?」

 

 次いで俺が武器を頭上にかち上げられて隙だらけになった少女の腕を掴み、彼女が気を取り直す前にそのまま引き込むようにして背負い投げで後ろに投げ飛ばした。

 小柄なせいで冗談のようにぽーんと飛んでいく許緒を尻目に速度は緩めない。

 

「追いなさい!!」

 

 曹操の鋭い声が響く。

 しかし兵士たちはともかく武官たちから即座に攻撃される事はない。

 俺を逃がさない為に自軍の武官を分散して囲んでいた為に、煙で周囲が確認出来ない今の状況では同士討ちする可能性があるからだ。

 少なくとも許緒の鉄球、典韋のヨーヨー、夏侯惇の大剣、曹操の大鎌はこの状況で攻撃するには大振り過ぎる。

 夏侯淵の弓は狙いを付けられれば危ない。

 だが流れ弾の危険性が高いこの状況では、そうそう射られる事はないはずだ。

 

 だからこそ煙が晴れる前になるべく距離を取らなければならない。

 俺たちは出来うる限りの速度で走り続けた。

 駆け抜け様に目に付いた兵士は打ち倒し、足元に転ばせて追っ手への障害物に仕立てる事も忘れない。

 

「そちらの首尾は?」

「我々の工作は万事予定通りに。袁紹麾下に潜り込まれた事が露呈しましたので今後内通者の炙り出しが行われると思われます」

「総大将が被害を被ったんだ。炙り出しは徹底的に行われるだろうから、多少は時間は稼げそうだな」

 

 数少ない接触の時間を無駄にするわけにはいかない。

 俺と甘卓は走りながら情報交換を行う。

 

「張遼が戻った時点で汜水関の門は閉じました」

「当然だな。他の皆は?」

「無事に撤退しております」

「周泰や隠密隊は?」

「煙幕の投擲後、それぞれ隠れる手筈となっております。それとこちら汜水関の程普様より投げ渡された物です」

 

 誰かに聞かれてもよいように最低限の言葉でやり取りし、さらに程普から預かったという物を受け取った。

 門を潜らずにこの場から逃げる為の道具だ。

 

「では俺はこのまま撤退する。無茶はいいが無理はするな。周泰たちにも伝えておいてくれ。お互い次も無事に会うぞ!」

「はいっ! 皆様もどうかご無事で!」

 

 すぐ前を先導していた甘卓の姿が消える。

 黒煙があるうちに敵の中に紛れて身を隠したのだ。

 

「……とっとと逃げるか」

 

 俺は緊急脱出の手段として用意していた物を両手に一つずつ持ち、汜水関ではなくその横にそそり立つ絶壁へ向かう。

 走りながらもう一度大きく深呼吸し、俺は気合いの声を上げながら絶壁目掛けて全力疾走する。

 

「おおおおおおおおおおおおおっ!!!!!」

 

 走る勢いそのままに持っていた鉄製のL字型ピッケルもどきを絶壁に左右交互に突き立て勢いよく登り始めた。

 原始的も原始的で且つこの世界の恵まれた身体能力があってこそ成り立つ脱出方法だ。

 万が一の最終手段として用意していたものだが、準備しておいて本当に良かった。

 

 俺は敵から矢を射かけられる前に登り切ろうと限界が近い腕を必死に動かして崖登りを続けた。

 俺の必死な想いが伝わったのか、矢が放たれる事はなく絶壁を無事に登り切るとそこから汜水関の外壁へと跳躍して乗り移る。

 

 こうして反董卓連合は武官を一人として失う事無く、汜水関から撤退する事が出来たのだった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百六話 戦い終えて。しばしの平和

「……ふぅ」

 

 白み始めた空を窓から見つめながら息を付く。

 董卓連合側による汜水関の放棄から既に三日が経過していた。

 

 

 殿を努めた俺はギリギリまで砦の外で待っていてくれた馬超たちと合流し、そのまま虎牢関へ撤退。

 ただし俺はその道中で意識を失ってしまい、気付いた時には虎牢関で宛がわれていた私室で横になっていたのだが。

 

 気絶した原因は分かっている。

 簡単に言えば疲労困憊だ。

 連日の防衛戦に加えて最後の殿では曹操軍の名だたる武将ほぼ全てを相手取る羽目になったせいだろう。

 そこに逃げ切れた安堵と相まって気が抜けてしまったというところだろう。

 

 

 馬上で意識を失ったはずだが、それによる怪我はしていなかった。

 あの時、並走していた馬超たちが上手く受け止めてくれたんだと聞いている。

 

 と言ってもそれまでの戦闘で身体は傷だらけになっていたから落馬して怪我が増えたところで今更というのが俺の感想だ。

 身体に負った傷はこの三日の休息でほとんど塞がっているから特に問題もない。

 前世と今世の回復力の差には未だに違和感が拭えないが、そういうものと受け入れるしかないんだろうな。

 

 俺は目を覚ました後、色々と無茶をしたという事を理由にとりあえず休めという意味合いでの謹慎を申しつけられた。

 虎牢関にいる武官、文官の満場一致という話だったが俺自身に否はない。

 身体が限界だった事、心配をかけた事の反省を込めてこうして篭もっているという訳だ。

 1日の終わりに誰かがその日の報告をしてくれるから、俺一人だけ状況に置いて行かれる事も無いので不便でもない。

 

 

 虎牢関の現状は悪くない。

 だが何もなかった訳でもない。

 

 まず撤退時に引き際を弁えられなかった張遼が自主的に謹慎した。

 まぁ彼女が夏侯惇との決闘に熱中してしまい、撤退の時機を逃した事は問題だ。

 それのせいで俺が殿として一度、反董卓連合に包囲される羽目になったのだから。

 しかも張遼は本来なら己を律して陣頭指揮を執らなければならない立場だ。

 どういう形であれ、罰は必要だろう。

 

 今、虎牢関の陣頭指揮は建業代表として黄蓋が執っている。

 一応、当初は董卓の配下が指揮を執るべきだという話になったらしいのだが、虎牢関にいる中で張遼と同等の武官である呂布はこういう事には向いておらず、文官の陳宮は全体の指揮をするにはやや力不足。

 賈駆は董卓やお嬢たちと共に色々と動いているが、まだ決行には時間がかかるようで洛陽を離れる事が出来ない。

 

 

 結局、張遼自身の現場判断で汜水関の時と同じく黄蓋へ一時的な権限委譲をしたとの事だ。

 黄蓋自身はあくまで代理として出しゃばるような真似はせず、反董卓連合への備えに関しては常に董卓軍、西平軍と協議し、合意を取った上で動くようにしている。

 祖茂や程普、韓当たちが補助しているし、陳宮や馬超たちも協力的なので当分の体制としては問題なさそうだ。

 

 汜水関を占拠した反董卓連合だが、こちらも今のところ軍に動きはない。

 まぁよりにもよって大将である袁紹の軍に内通者がいた事が判明したんだ。

 外からは窺い知れないが内部は大混乱だろうし、今頃他に内通者がいないか躍起になって調べているところだろう。

 そして袁紹がそうなってしまった以上、事は反董卓連合全体に波及する。

 大多数の勢力は自分たち、いや味方である他の諸侯全てに大なり小なり疑心を向けるだろう。

 

 内通者が一人や二人である保証はない為に、『勢力ごと内通者である』という最悪の可能性を否定出来ないのだから。

 

 僅かに話した印象だが、袁紹は自分を侮られる事に我慢ならない性質だ。

 そんな性格の人物が自分の配下となっている者たちの前で内通者の存在を露見させられたとなれば。

 十中八九、『恥を掻かされた』と怒髪天を衝くほど激怒しているだろう。

 

 曹操が連合全体の手綱を握ろうにも、ここまで事態が荒れてしまっては難しい。

 あの手の直情型の人物は無駄に行動的でかつ自分が納得するまで徹底的にやる。

 仮にも大将であり、単体の勢力としても対等である袁紹が相手では流石の曹操と言えど首根っこ掴んで大人しくさせる事は出来ない。

 反董卓連合が軍事行動を起こすまで少なく見積もっても数日は時間が稼げるだろう。

 

 なので総合して現在の虎牢関は平和なものだ。

 お蔭で俺個人としてもゆっくりと休む事が出来た。

 体調は既に万全だ。

 

 寝台から降りて、窓越しに登る太陽を見つめながら呟く。

 

「そろそろ起こすか」

 

 外に出たらまずこの鈍った身体を戻さないとな。

 朝の報告担当である賀斉にもう大丈夫だと伝え、ざっくりとした今日の予定を立てながら。

 俺の寝台に潜り込んですやすやと眠っている呂布を起こしにかかった。

 

 

 

「次っ!」

「はいっ!」

 

 虎牢関の訓練場に俺と隊員たちの声が響く。

 復帰初日という事でほとんど動かしていない身体を丁寧に解すつもりで虎牢関内の修練場にやって来たのだが。

 俺の復帰を聞きつけた自隊の隊員たちが混ざり始め、最終的に組み手合戦へと変わっていった。

 

 気持ちの良い汗を流しながら、飛びかかってくる隊員を殴り、蹴り、時に投げ飛ばす。

 最初こそ俺が病み上がりである事を考慮して手加減をしていた様子の隊員たちだが、俺がいつも通りに動いている事が分かってからは本当に普段通りに攻撃してくるようになった。

 実際に自分で思っていたよりも鈍っていなかったのでその判断はありがたい。

 なので容赦なく組み手相手を打ち倒していくと、喧噪に気付いて寄ってきた余所の隊も混ざり始めた。

 顔見知りの建業関係者たち、馬超隊から始まり、最終的には張遼隊や呂布隊までも。

 

 武官や文官がいないのは定例軍議に出ているからだろうな。

 

 次々と襲いかかる兵士たちを順繰りに倒していく。

 どの隊もしばらくすれば立ち上がってくる奴ばかりで、かれこれ一刻は戦いっぱなしだ。

 身体中から汗が流れっぱなしで俺はずぶ濡れになって重くなった上半身の服を脱ぎ捨てている。

 いつ終わるともしれない戦いはかなりきつい。

 だが組み手をし続けたお蔭で僅かにあった身体の違和感、気怠さのようなものは消えていた。

 

「うぉおおおっ!」

 

 次に迫ってきたのは華雄だった。

 一兵卒に降格されたが故に軍議に出る事はなく、こちらに来ていたらしい。

 

 大斧を半身になって避け、右拳を振るう。

 手甲でその攻撃を受け止められるが、そのまま相手の左腕を絡め取って引き寄せる。

 同時に足を払い、相手が踏ん張れない状態を作っての背負い投げ。

 

 しかし投げ飛ばす直前に華雄は斧を手放した。

 斧の分の重量が無くし、身軽になった華雄は空中で体勢を立て直して着地する。

 

「ほう?」

 

 以前の模擬戦の時と比べて動きが段違いに良くなっている。

 武器を無くしても拳を握って向き合う彼女と改めて対峙してみれば、彼女が纏う空気からして以前と変わっている事がわかった。

 俺たちに模擬戦を挑んでいた頃と比べて、周囲構わず撒き散らしていた暴力的な気配が抑え込まれている。

 一挙手一投足が研ぎ澄まされ、力の向け先が定まったとでも言う印象を受けた。

 どんな心境の変化があったかは分からないが、良い方向に変わったと見ていいだろう。

 

「「……っ!!」」

 

 特に語る言葉もなく、俺たちは同時に地面を蹴る。

 起き上がった他の隊員たちが乱入してきた為に一対一の時間はそう長くはなかったが、華雄が心身共に改善したという事実は頭の片隅に残った。

 機会があれば張遼に伝えてもいいだろう。

 董卓軍の人事に介入するつもりはないが、あくまで『個人の所感』を伝えるだけならば問題ない。

 華雄の件で迷惑をかけられた俺たちがいるこの戦いの間は、こちらへの示しもある為に武官への再起は望めないだろうしな。

 

「とはいえまだまだ甘い」

「がふっ……」

 

 華雄の拳を捌き、軽く顎を打ち抜いて昏倒させる。

 そこからさらに一刻ほどで修練場にはそこかしこに兵士が倒れ込むという、ある意味でとんでもない光景が広がることになる。

 

「今日の鍛錬はここまで。各自、しっかり身体を解しておけ。疲れたならしばらく寝たままでもいい」

 

 流石に他部隊も含めた連続組み手は疲れた。

 とはいえ今できる限界まで身体を酷使するという荒療治で、鈍っていた身体はすっかり元通りだ。

 

 俺はある種の開放感に満たされながらも、上がった息を整えるように深呼吸する。

 そしてその場で座り込み、柔軟を開始した。

 見慣れている建業と馬超隊の面々は俺の行動に倣ってそれぞれ動き出すが、董卓軍の関係者は俺たちの行動に戸惑っているようだ。

 まぁ運動の後の柔軟が身体に良いだなんて概念がない時代だ。

 戸惑うのは当然だろう。

 

「一朝一夕で効果が出る物ではないが、続けられれば間違いなく自分の為になるぞ。もちろん強制はしない。騙されたと思ってやってみようと思うなら柔軟について教えよう」

 

 俺の言葉に何人かが寄ってくる。

 その中にはいつの間に復活したのか華雄も混じっていた。

 

 この後、騒ぎに気付いた首脳陣に復帰初日から飛ばしすぎだとお叱りを受ける事になる。

 呂布は盛大に拗ね、馬超を初めとした身体を動かすことが好きな面々からは「次は自分も!」と強請られた。

 いずれ戦場になるはずの場所ではあるが、今この時は確かに平和な時間が流れていた。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百七話 その頃の汜水関

 汜水関陥落。

 反董卓連合に取って喜ばしい事のはずだが、砦を包み込む空気は悪い。

 既に三日もの時間が過ぎているが、この空気は未だ無くならず今日も袁紹の金切り声が響き渡って昼夜を問わずとても騒々しい。

 

「まったく麗羽はいつまでも飽きもせず……」

 

 袁紹の癇癪を嫌った曹操は奇襲を警戒するという名目で砦の外に陣を張っていた。

 名門からの覚えを少しでも良くしようという諸侯たちが毎日侍って必死に宥めているものの、彼女の怒りは静まる様子を見せない。

 今の袁紹を相手に何を話した所で聞き入れない事を曹操はその腐れ縁でよく知っていた。

 故にまるで話が進まない彼女らの軍議とは名ばかりのやり取りを一歩引いて呆れながら眺める事に終始していた。

 

 今日も軍議という名目で集まった面々の前で内通者を見つけ出して自分の元へ引きずり出してこいというばかりであった。

 絵に描いたような狂乱ぷりはいっそ清々しいほどだが、それを宥める側であるところの配下たち、媚び売りに精を出す諸侯からすれば溜まった物ではない。

 

 しかし袁紹の言動はともかく『内通者の存在』は自分たちの身の安全に関わる重大事項でもある。

 各勢力も全力で当たっているだろう。

 だがそれを他の諸侯に悟らせるのは愚行でしかない。

 なにせ今は『反董卓』という旗の元でまとまってはいるが、この協力関係はとても限定的なものだ。

 弱みになり、侮られる事に繋がりかねない内通者の調査など表沙汰にするはずもない。

 

 調査は極秘裏に行われ、結果のみを袁紹に伝えるしかない。

 とはいえ仮に自軍に内通者が見つかったとして、それを『素直に報告する者』はまずいないだろう。

 繰り返す通り、弱みになるような事を敵になるかもしれない相手にわざわざ知らせる者などいないのだから。

 

 曹操は袁紹の機嫌が浮き沈みの激しいものである事を知っている。

 良くも悪くも深く物を考えず、勢いで押し通す袁紹は熱しやすく冷めやすい。

 今回は未だかつて無い屈辱だっただろう事を考慮しても、一週間もすれば勝手に自己完結して気を取り直すというのが彼女の読みだ。

 だからこそ曹操は袁紹の癇癪が終わるまでの間に連合内の地盤固めとさらに先を見据えて動く事にしている。

 否、既に動き出していた。

 

 

「さて……」

 

 曹操はお供に許緒を伴い、とある天幕へ向かっている。

 彼女同様、砦の外で警戒に当たっていた公孫賛の陣だ。

 無論、事前に話をする機会を求め、あちらが承諾している。

 

 天幕の中には灯りに揺らめく人影が二つ。

 外には武官が二人、出入り口を固めていた。

 仏頂面の関羽と笑みを称えながら曹操の様子を窺っている趙雲だ。

 

「入ってもよいのかしら?」

「しばしお待ちを。伯珪殿、曹孟徳殿がいらっしゃいましたぞ」

 

 趙雲が天幕内に声をかける。

 外と内を隔てる垂れ幕が上げられる。

 

「わざわざご足労いただき感謝する。孟徳殿」

「こちらこそ誘いに応じてくれて感謝するわ。伯珪殿。許緒、貴方は外で待っていなさい」

「はーい!」

 

 桃色の髪の女性、公孫賛自らの出迎えに曹操は眉一つ動かさず社交辞令を交わす。

 彼女に促されるまま、曹操は許緒の元気の良い返事を背に天幕の中へ入っていった。

 

「曹操さん……」

 

 天幕内には意気消沈した様子の劉備が所在なさげに座っていた。

 

「ずいぶんと弱っているわね。董卓連合に良いようにしてやられた事が堪えているのかしら?」

 

 持ち込んだ瓢箪を横に置き、劉備の対面に座る。

 彼女には特に意識したわけではなかったが、その言葉から圧を感じ取った少女は華奢な身体をびくりと震わせた。

 

 劉備の煮え切らない、目に見えて迷っている様子に曹操は目を細める。

 

「(そういえばこの戦が始まる前から様子がおかしかったわね。黄巾党の乱の時の方が覇気があった)」

 

 仮にも自分を相手に強かな交渉をして幾つもの黄巾党を撃破した人間と目の前の弱々しい姿が結び付かない。

 少なからず目を掛けていた相手の有様に曹操は苛立ちを覚えるも、それを言葉にする事はなく公孫賛が座るのを待った。

 

「待たせたな。軽い物だが良ければ食べてくれ」

 

 ほどなくつまみというには細やかな干し肉や乾物を皿に載せて持ってきた彼女が劉備と曹操の間に座る。

 皿を囲んで円形に座った3人。

 曹操が持ってきた酒が杯に注がれ、語らいの時間が始まった。

 

「このままだと反董卓連合は負けるわ」

「「ぶはっ!?」」

 

 いきなり飛ばしてきた曹操の発言に劉備と公孫賛は口に含んだ酒を噴き出す。

 そんな反応を想定していたのか、元凶はその辺にあった水樽の蓋で霧状の酒を防いでいた。

 

「はぁ……そんなに驚く事でもないでしょう? 汜水関の戦いを客観視すれば自ずと分かる事よ」

 

 全ての事実を照らし合わせれば局所的には互角であったり、押し返せていた戦局はあった。

 しかし全体を見れば反董卓連合は董卓連合に翻弄され続けて終わっている。

 汜水関の占拠ですら、あちらが放棄したから手に入っただけに過ぎない。

 

「その上、今や反董卓連合は内通者の存在で疑心暗鬼。正しく数が多いだけの烏合の衆と化した。恐らく虎牢関には最強の武人と名高い呂布も待ち構えているでしょう。攻め入った瞬間に出鼻を挫かれれば、いくら数が揃っていたところで士気なんて根こそぎ砕かれる。あとは適当に時間を稼がれて董卓側が決定打を放って投了ね」

 

 あっという間に酒を乾しながら、どこか嬉しげ眼差しで彼女は自身の予想を告げる。

 二人は返す言葉が見つからない。

 曹操の話した未来予測が彼女らから見てもかなり現実的なものに思えていたからだ。

 否定出来る要素が見当たらなかった。

 

「私たちがここでまごまごしている間にもあちらは着々と準備を進めているでしょう。時間もあちらの味方ね」

 

 その言葉一つ一つの意味は分かる。

 このままではまずいという焦燥感が劉備の中で強くなる。

 しかし目の前の女傑が、この状況をまるで他人事のように言っている事が引っかかった。

 

 仮にも董卓の悪政を糾すという目的で集まったというのに、このままでは目的も果たせずに終わってしまうというのに。

 その思いが劉備の口から絞り出される。

 

「どうして曹操さんは……それだけの事が分かっていて動かないんですか?」

 

 彼女の弱々しい言葉を問われた側は一笑に付した。

 

「動かない? 本当にそう見えているの? だとしたら今の貴方、本当に余裕がないのね」

 

 挑戦的で傲慢な視線、柔らかく笑っているのにまるで刃を突き立てるような声だった。

 

「……いいか?」

 

 言葉を続けようとした曹操を遮るように口を開いたのは公孫賛だ。

 噴き出してしまった酒を処理してから、ずっと考え込んでいた彼女の目は静かなものだった。

 曹操は面白そうに興味を彼女に移し、視線で先を話すよう促す。

 

「あちらが着々と進めている準備というのはこの戦争を終わらせる為のもの。この戦の発端である袁紹の大義名分を切り崩す準備という事で良いんだな?」

「ええ。少なくとも私はそう考えているわ」

 

 そもそもこの戦は袁紹の『董卓が帝を操り、暴政を敷いている』という言いがかりが正当化された事で成り立っている。

 大多数の勢力はそんな袁紹の勝ち馬に乗って『帝を救うために戦ったのだ』という実績を求めてここに集まったのだ。

 

 例外はそれこそこの場の三人だけ。

 曹操は袁紹を出し抜いて帝救出の手柄を得る為。

 公孫賛は袁紹がやり過ぎないよう監視し、いざという時に止める為。

 劉備は『董卓が帝を操り、暴政を敷いている』という言の真実を確かめる為。

 

「大陸中に流布された董卓の悪評。名門袁家の影響力を覆すとするなら、それは……」

 

 公孫賛は一度言葉を飲み込むも、曹操が我が意を得たりという顔をしているのを確認し、眉間に皺を寄せながら結論を口にする。

 

「「帝その人による逃げようない状況での勅命」」

 

 公孫賛と曹操の結論は一字一句違わず一致していた。

 劉備は驚きに息を止めた。

 

「その流れになるという事は、だ。……これが実現した場合、反董卓連合こそ悪となる。曹操、お前は董卓、そしてそちらに付いた馬家、孫家が帝を連れ出す段取りを付けられる状況にある、あるいはその目処を立てられていると考えているんだな?」

 

 少なくとも公孫賛と曹操は袁紹の大義名分が偽りだと言う事を確信している。

 悪評が間違いである事が証明されれば、どちらが悪いとされるかなど火を見るより明らかだ。

 

「……貴方、私の結論と似た読みが元々出来ていたのね? そうでなければその問いかけは出来ないもの」

「まぁ可能性の一つとして、な。私だって汜水関での戦いについては何度も思い返したんだ。そうしているうちに『各所の戦いの全てが計算されたもので何かを待っているんじゃないか』って思ったんだ。なら『何を待っているんだ?』ってところを考えて、ってところだ」

 

 誤魔化すように笑う公孫賛に今度こそ曹操は表に出して感心した。

 

「正直、侮っていたわ。私が思っていたよりもずっと頭が回るのね」

 

 からかうような曹操の言に劉備は失礼だと思いながら心中で同様の感想を抱いていた。

 

 同じ私塾に通った学友。

 領地を持っても変わらぬ人柄で、自分たちを助けてくれた。

 権謀術数に長けているという印象は彼女の中でまったくなかった。

 友人が立派なのは知っていた。

 けれど自分との差を改めて思い知らされた気がした。

 

「まぁ褒められたと思っておくよ。恥ずかしながら昔からこうだったわけでもないしな。今、領地を任せてる奴らの影響で色んな事を考えるようになったのさ」

 

 失礼な物言いだったはずだが、公孫賛は苦笑いして言葉を返す。

 

「良い出会いがあったという事ね。深くは聞かないわ」

「そうしてくれ。話を戻そう」

 

 公孫賛は笑みを消し、真剣な表情になる。

 

「私と劉備にここまで丁寧に状況を話した、お前の意図はなんだ? 曹操」

 

 その問いかけに曹操は満面の笑みを浮かべて口を開いた。

 

 これより一週間後。

 反董卓連合は虎牢関へ進軍を開始。

 両軍、様々な思惑を胸に戦いは虎牢関へと移る。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百八話 迫る決戦の時

 虎牢関を目指して進撃する反董卓連合軍。

 しかし目的地に辿り着く前、何度となく董卓連合側の騎馬隊による襲撃を受けることになる。

 

 ただでさえ袁紹の癇癪を宥めるのに一週間もの時間を費やしてしまった反董卓連合。

 汜水関から虎牢関までの順路には身を隠すような場所はほとんどない。

 ただただ広い平原である為、奇襲する事は不可能だった。

 彼らの大多数が『汜水関を撤退した以上、董卓連合は虎牢関で待ち構えている』と考えていた。

 故に張遼、馬超を中心とした騎馬隊による襲撃への動揺と混乱は当然のものと言えた。

 

 

 虎牢関方面から巻き起こる砂塵。

 迫り来る何かに最初に気付いたのは意外な事に袁紹軍の兵士であった。

 袁紹自身はともかく兵士たちや諸将は汜水関での戦いが限り無く敗戦に近いものである事を理解している。

 彼らの心には圧倒的な軍勢を手玉に取った董卓連合に対する恐怖心にも似た警戒心があった。

 それが功を奏した形だ。

 

「その程度の軍勢で襲撃なんて片腹痛いですわっ!」

 

 報告を受けると袁紹は止める顔良や文醜らを無視してまでわざわざ近付いてくる軍勢を確認しに最前戦まで出張るという暴挙に出る。

 どうやら予備があったらしい神輿の上でふんぞり返りながら迎撃指示を出す姿は友軍から見ても滑稽だ。

 とはいえ兵士たちに彼女へ苦言を呈する事が出来るはずもなく、げんなりしながらも槍や楯を構えて騎馬隊を待ち受けた。

 

 いよいよ激突かというところまで近付いた両軍。

 しかし襲撃者は最大限警戒する反董卓連合軍を確認するや否や、そのまま突っ込む事無く左右に別れて大軍を避けるように走り抜けた。

 激突を覚悟していただろう反董卓連合は肩透かしされた形になるが、騎馬隊は弓射による追撃が行われない程度に距離を離すと弧を描くように反転。

 軍勢の背後を突こうと再度の突撃を敢行するも、今度は余裕をもった弓兵隊による迎撃を受ける事になる。

 すると騎馬隊は一射目が届くかどうかの距離であっさりと突撃を中断し、軍勢に対して一当てする事無くまた距離を取った。

 

 この時点で聡い者たちはこの襲撃がただの揺さぶりであちらに積極的な攻撃を仕掛ける気はないのではと考え始める。

 その予想を裏付けるように数度の突撃の後、騎馬隊は悠々と撤退していった。

 

 袁紹は即座に追撃を指示し、諸侯は慌てて自軍の騎馬隊を派遣するも大陸で上位に位置する張遼、馬超たちに追い付く事は出来なかった。

 結果として被害は矢の消耗のみで、互いに人的被害は無し。

 程なくして止まっていた行軍は再開され、袁紹は何の成果も上がらなかった鬱憤を逃げ帰っていく騎馬隊、引いては董卓連合をあらん限りの言葉で罵倒する事で溜飲を下げる事になる。

 もちろんそれは袁紹に限った話であり、軍の大部分は今回の襲撃の意図を読み取る事に努めていた。

 

「春蘭、どう思う?」

「戦う事そのものが目的ではありません。間違いなく時間稼ぎ、揺さぶりの類です。ただ……」

 

 既に見えなくなった騎馬隊の背を追うように夏侯惇は視線を動かす。

 襲撃者の中に張遼を見つけた瞬間、反射的に駆け出そうとした彼女だったが主である曹操に強く制止されてしまえば動く事は出来なかった。

 行軍最中で全軍が一塊になっている今の状況で汜水関の時のような一騎打ちを始められてしまえば、本人たちより周囲への被害が馬鹿にならないのだから曹操の判断は正しいだろう。

 

「張遼、馬超という精鋭を使ってまでやる事なのかという点が引っかかっています」

 

 その引っかかる点を具体的な言葉に置き換える事が出来ず、彼女は眉間に皺を寄せて唸る。

 

「秋蘭はどう?」

「姉者と同じ意見です。ただ最初の突撃時と比べ、騎馬隊が軍の背後に回り込んだ時、そして撤退した時。それぞれで騎馬隊の数が僅かながら減っているように見受けられました」

「数が、減っている?」

 

 それは弓矢という遠距離武器を使用する為に、近付いてくる軍勢に対して可能な限り全体を見るようにしていた彼女だからこそ気づけた事だろう。

 曹操は秋蘭の言葉が事実である前提でその意味を考える。

 

「今回の襲撃、本命はもしかして『そちら』なのかしら?」

 

 今から『どこか別の目的地に向かった騎馬』を追いかけようにも具体的な行き先が分からないのであればどうしようもない。

 どこに向かったか方角だけでもが確認出来ていればと思うも、今更の事だと言葉を飲み込むと正面に向き直る。

 

「(秋蘭の言うようにこの襲撃に乗じて別の場所へ向かった者がいたとして、その目的は……汜水関への襲撃はまずありえない。あそこにもかなりの数の兵を残している以上、私たちを無視してまでそっちに戦力を割く余裕はないはず)」

 

 幾つもの考えが曹操の頭を駆け巡る。

 

「(向かった先が汜水関ではないのなら他の領地? 伝令、工作兵の類だとするならわざわざ突撃隊に組み込む意味は? ……ああ、こうして気付いた人間に考え込ませる事こそが狙いなのかもしれないわね)」

 

 そこまで考えたところで結論を出すにはあまりにも情報が足りないと判断した彼女はこの思考をいったん頭の隅に追いやることにした。

 消えた騎馬隊の目的がなんであれ、恐らく直接自分たちに危害を加える策ではない。

 となれば影響が出るのは所有する領地の方と考え、最低限の指示を出す。

 

「秋蘭、自領へ伝令を。市中への警戒を強化するように。何らかの異変が起きた場合、即座にこちらに伝えるように手配して。どんなに小さい事でもよ。可能なら他の領地についてもね」

「はっ!」

「(残した者たちなら領地になにかあっても対処は可能。想定外の何かが起きたとしてもその時の情報を握っていればこちらから指示を出すことも出来る)」

 

 最低限の対策は取ったと判断した曹操は意識を切り替えて行軍へ集中する。

 同じ頃、彼女と近い結論を出した者たちも動き出す。

 

 この後も襲撃は日を跨いで何度も行われる事になる。

 だが全てにおいて互いの被害はほとんどなく、前哨戦は静かに終わりを迎える。

 虎牢関はまだ見えない。

 

 

 

「まぁ完全な嫌がらせなのだがな……」

「せいぜい深読みして頭痛にでもなればいいわ」

 

 この策を予め指示していた周瑜、賈駆の顔は反董卓連合の識者があーだこーだと考え込む様子を思い浮かべているのか愉悦の笑みを浮かべていた。

 ここ連日の激務で精神的にだいぶ来ている二人の形相は鬼か悪魔かと言うほど酷いものになっている。

 もしも今の二人の様子を目撃していた者がいたならば、音を発てないよう最大限注意しつつも可及的速やかにその場から逃げ出していただろう。

 

「こちらの準備は順調だ。とはいえやはり強行軍だからな、予定よりは早く終わりそうだが……それでもまだ時間がかかるだろう」

「元々無茶な事をしているんだもの。多少予定を繰り上げられるならそれだけでよくやってくれているわ」

 

 二人は会議室を目指しながら今できる情報交換を始める。

 

「こちらの担当分も概ね予定通りね」

「概ね、とは?」

 

 賈駆の言葉に引っかかりを覚えた周瑜はすかさず聞き返す。

 想定通りに事が進んでいない状況を面白くないと感じているのだろう賈駆は不満を隠しきれず、語調を荒くしたまま彼女に応えた。

 

「曹操の領地、そして自領に篭もっている劉表の領地については成果が芳しくないわ」

「曹操は対策している事を予想していたが……反董卓連合へ参加の意思を示しながら領土の荊州北部に広がった病を理由に直前で取りやめた男か。……どう見る?」

 

 周瑜が問題の人物について持っている情報を提示すると、賈駆は眉間に皺を寄せて唸り声を上げる。

 

「十常侍がのさばっていた頃、奴らの呼び出しに応じて都を訪れた事があると陛下のお世話役筆頭から聞いているわ。言葉を交わす事はなく、陛下の名代として顔合わせに同席したらしいのだけど……感情がまったく読めなかったとおっしゃっていたわ。おまけに十常侍の命をにべもなく断り、後日差し向けられた間者は潜ませていた間者で返り討ち。悠々と自領に帰還し、以降は呼び出しに応じる事もなく都に寄りつかなかったそうよ」

 

 陛下、現在の献帝の『お世話役筆頭』とは、つまり荀彧の事だ。

 周瑜は自分と互角の知恵者と認識している彼女をして『感情がまったく読めなかった』という評価をしている事実に目を細める。

 さらに当時、中華を牛耳っていた十常侍に対して恭順とは真逆の対応を取り、しかし袁紹のように十常侍の排除に動く事も無いその姿勢。

 賈駆に釣られるように周瑜の眉間にも皺が寄った。

 

「面倒な相手だという事は分かった。とりあえずこんな相手が意図は分からずとも反董卓連合へ参加していない事は幸運だったかもしれんな」

「ええ。単純な勢力としても袁紹に引けを取らないというのが私の考えよ。配下の大将『黄祖(こうそ)』なんかは長年その地位を預かる名将だし、広大な領地を治める兵力も相当なものだもの。戦わずに済むならこちらからすれば儲けもの、なのだけど……」

「やはりその意図が読めないのは引っかかるな。その上、こちらの工作が上手くいかないとなれば尚更だ」

 

 この戦いが終わった後も警戒する必要がある。

 劉表の存在を頭の片隅に刻み、周瑜はこの男の話を切り上げることにした。

 

「今やっている下準備に劉表たちはそこまで関与しないだろう。工作を撥ね除けられたのなら深入りしない方が良い」

「何が琴線に触れるかも分からない相手なのだし、そのつもりよ。藪をつついて蛇を出しては元も子もない。曹操のところもそうする予定だし、正直一つ一つの領地に固執して時間をかけるだけの余裕もないもの」

 

 軍師の語り合いはいつまでも続き、会議室に到着する事には二人の頭の中で既に今後の行動方針がまとめられていた。

 阿吽の呼吸と言ってもよい掛け合いで軍議に参加する面々にそれらが伝えられ、軍議そのものは驚くほどすんなりと進む。

 懸念事項は多々あれど、今ある最善を求めて洛陽では着々と『その時』に向けた準備が進められている。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百九話 決戦に向けて

明けましておめでとうございます。
本年も拙作『乱世を駆ける男』をよろしくお願いいたします。


 反董卓連合との激突を目前に控えた軍議の席。

 

「先陣は呂布殿で決まりですぞー!!!」

 

 虎牢関にいる主だった武官、軍師が揃っての第一声はふんすふんすと鼻息荒い陳宮のものだった。

 呂布自身も最初からそのつもりのようで、直属の軍師の言葉にむんと両手を握り込みながら頷いている。

 

「まぁ一番槍を呂布が行うというのに異論はない。前々から最有力の手として候補になってたわけだしな。思い切り暴れて奴らの士気を砕いてくれ」

 

 代表した俺の言葉にちびっ子軍師は「当然ですな!」と満足げに頷く。

 

「ならウチと馬超は呂布の後詰めやな」

「応っ!」

 

 努めて冷静にしている様子の張遼に対し、気合十分の馬超。

 

「俺たち凌操隊は馬超たちが出る時の馬に相乗りさせてもらう。適当なところで降りた後は戦場の攪乱だ」

 

 基本的な役割は汜水関と同じだが、さんざんやられているあちらの警戒は跳ね上がっていると見ていいだろう。

 間違いなく難易度を上がるはずだ。

 

 特に俺は汜水関で目立ち過ぎている。

 反董卓連合側からすれば、要警戒対象であり、優先度の高い排除対象だろう。

 正直なところ、今回は相当危険な役割だ。

 だがだからこそ衆目を集めて引き付けられれば他が動きやすくなる利点にもなる。

 

「砦の守備は我ら孫呉が受け持つ」

「よろしゅう。申し訳ないんやが全体の指揮は引き続き黄蓋にお願いするで」

「承った」

 

 今までの軍議でどう戦うかさんざん話し合い、それぞれに出来る事を煮詰めてきた。

 反董卓連合が目前に迫った今回の軍議はいわば最終確認の場だ。

 

「反董卓連合は洛陽に近付き過ぎた。今後、旗色悪しと判断したとしても易々と撤退は出来ないほどに。経緯はどうあれ汜水関を奪ったという実績もある以上、これからしばらくは精神的にも撤退を選択する事は難しいと思われます」

 

 その場の全員が神妙な顔つきで祖茂の言葉を聞いている。

 

「さらにあちらには間者も忍ばせているので汜水関の時のように、そちらからの援護も期待出来ます」

 

 甘卓や周泰たち隠密部隊は『今も』あちらに潜んでいる。

 こちらの状況に応じて手を打ってくれるだろうが、出来れば『本来の役割』に集中して欲しいところだ。

 

 そんな風に会議が進む中、呂布だけはいまいち分かっていないようで目を泳がせている。

 

「あー、呂布殿。つまりしばらくの間はどれだけ劣勢になってもあちらさんは尻尾を巻いて逃げるって事が出来ない。蹂躙し放題だから思う存分やっていいぜって事だ」

 

 呂布の様子を見かねた程普のフォローの言葉に彼女は目を輝かせてうんうんと頷く。

 理解したという態度ではあるが、おそらく本当に理解できたのは「蹂躙し放題」の部分くらいなんだろうな。

 まぁそれで問題があるわけでもない。

 良いところで切り上げさせるのも俺たちの仕事だろう。

 

「暴れるのは良い。だが止められたらそこで速やかに戻る事。これを忘れないように、な?」

「うん」

 

 ついつい子供に言い聞かせるように伝えると、とても素直な返事が返ってきた。

 思わず頬が緩んでしまったが、頭を撫でるのは自重して深呼吸を一つして心を落ち着かせる。

 

 いかんな、彼女の純粋さに引っ張られて気を緩めるところだった。

 戦の時が迫っている状況で、これは流石に良くない。

 

 俺は気を引き締める意味を込めて手をパンと軽く叩く。

 会議室の注目が俺に集まった。

 

「戦場は常に動くもので勝負に絶対は無い。どうしても残る不安要素は行動でねじ伏せるぞ。勝つのは俺たちだ」

「「「「「おおっ!」」」」」

 

 それから数刻の間、俺たちは綿密な段取り確認を続ける。

 「勝利のために最善を尽くす」というの意識を共有している実感を抱きながら、刻一刻と迫るその時の為に。

 

 

 

 ところ変わって反董卓連合。

 虎牢関を目前に控えた最後の駐屯地の一角。

 その天幕の中に曹操、劉備、公孫賛の陣営の主だった者たちが勢揃いしていた。

 

「虎牢関で開戦となる直前、袁紹は必ず董卓連合に舌戦を仕掛けるわ。『汜水関を取った我々への抵抗は無意味だ。今、負けを認めれば悪いようにはしない』とそんな的外れな事を言うでしょう」

 

 曹操による傲慢そのものと言っていい袁紹の発言予想に顔を強ばらせる者、引き攣った顔をする者とその反応は様々だ。

 だが袁紹ならばありえそう、というところで内心は統一されている辺り、集まった面々の袁紹への評価が分かるというものだろう。

 

「私たちの軍は袁紹が埒もない会話をしている間に殿から最前戦へ突撃する。これは舌戦が終わると同時に仕掛けてくるだろう反董卓連合を受け止め、軍全体の即時瓦解を防ぐ為よ。はっきり言って今、最前戦に出るつもりでいる袁紹や諸侯に彼らを止める事は出来ない。初手での被害を抑え、士気を保つにはそれくらいしなければならないわ」

 

 曹操、劉備、公孫賛らは袁紹によって虎牢関での戦いは最後尾に配置されていた。

 袁紹はその配置を『汜水関方面からの奇襲に備えるため』だなどと宣っていたが、それを言葉そのままに受け取っている者はいないし、名采配だと思う者もいない。

 なんならその指示を出す主君に文醜、顔良は顔を真っ青にしていた事を鑑みれば、配下から見てもこれが悪手であると認識されているほどだ。

 

 しかし劉備と公孫賛はともかくとして曹操はその采配を一蹴する事が出来た。

 あえて異を唱える事なく、こうして『同盟相手』と密会しやすい環境に身を置く事にしたのだ。

 

「夏侯惇、夏侯淵、許緒、典韋隊には呂布を止めてもらうわ。もし呂布が出てこなければ虎牢関の門前制圧に動くように」

「「「「はっ!」」」」

 

 主の命に迷い無く四人は頷く。

 

「公孫賛軍からは趙雲隊を出す。一番槍、頼むぞ」

「大役承りましたぞ」

 

 飄々としながらも自信に満ちた笑みを浮かべる彼女に、公孫賛は頼もしいとばかりに頷く。

 客将という立場ではあるが、趙雲の強さとその働きは信頼に値すると公孫賛軍の誰もが認めるところでこの采配に文句は出ない。

 

「劉備軍からは関羽隊、張飛隊を出します。お願いね、二人とも」

「御意に」

「任せるのだっ!」

 

 未だ己の進むべき道に迷い続ける劉備。

 その迷いに答えを出すためにもこの戦いから逃げる事は許されないと考える事で今この時だけは立て直していた。

 しかし彼女のそれは親しい者たち、それなりに関わりを持った聡い者たちには一時的な物、虚勢に限り無く近いものであると思われてもいた。

 

 そんな彼女が指名したのは自軍の二枚看板にして誓いを立てた義妹たち。

 彼女らの返事に込められた気迫の心強さに劉備は無意識にほっと息を付いていた。

 

「汜水関での戦いを見ればただ虎牢関の堅牢さに頼った籠城戦に留まらないでしょう。必要なのはどんな手を使われても冷静に対処する事。数だけならこちらが圧倒している以上、あちらの手を一つ一つ丁寧に潰し続けられればこちらの勝利よ」

 

 味方を鼓舞する曹操の姿は自信に満ちており、対等の同盟者として彼女の横にいる劉備と公孫賛の顔にも不安は見当たらない。

 集まった者たちはそんな主たちの姿に後押しされ、汜水関での借りを返すのだという意志をより一層固める事が出来た。

 

「何があっても私たちを信じて付いてきなさい。その先に勝利があるわ」

「「「「「おおおおおっ!!!!」」」」」

 

 その激励の言葉にある『含み』に気付いている者は半分にも満たない。

 

「「……」」

 

 この集会を外から窺う者たちの存在に気付いている者はさらに少ない。

 

「上手くいっていると判断していいと思いますか?」

「いや……最後まで警戒を怠らない方がいい。劉備と公孫賛はともかく曹操はこちらが隙を見せれば容赦なく食いついてくるぞ」

「了解です。ではこの事はその時まで秘匿するように」

「ああ」

 

 様々な思惑が錯綜し、集約する場所『虎牢関』。

 その時は刻一刻と迫っている。

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十話 虎牢関の戦い その一

 戦前の最後の軍議を終えた翌日。

 太陽が真上に昇る頃に、反董卓連合が虎牢関に到着した。

 

 即座に展開される軍勢の合わせて、こちらも予定通り呂布隊が虎牢関の門前に展開。

 俺を含めた孫呉の面々は門の上にある物見から様子を窺っている。

 張遼と馬超は出撃の時を馬に乗った状態で今か今かと待っているのでここにはいない。

 

 両軍睨み合いの状況になってすぐ神輿もどきに腰掛けたまま袁紹は最前戦に出てきた。

 汜水関で不意打ちを受けた事をまったく反省していない様子に、董卓連合側は呆れ返っていた。

 必死に止める二枚看板の姿が哀れで仕方が無い。

 

「董卓連合に告げます。これ以上、由緒ある袁家の覇道を阻むのはおやめなさい。取り返しのつかない事になりますわよ」

 

 そしてこの発言。

 これが帝に忠を尽くしその名を轟かせる袁家の現当主の姿か。

 先代は相当出来た人物だったはずだが、子育ての才能は無かったのかもしれない。

 

「今ならこの私が広い心で貴方方の「話が長い」……はぁっ!?」

 

 どこまでも続きそうな袁紹の演説をぶった切ったのは呂布。

 方天画戟を地面に突き立てた際の轟音が袁紹の良く回る口を強制的に閉じさせる。

 

「つまらない話がしたいなら人形相手にでもやっていて。戦いの邪魔……」

 

 呂布の言葉に温度はなく、その目はまるで路傍の石を見るかのようだ。

 そんな視線で、心の底から自分の事をどうでもいいと言わんばかりの言葉を向けられた袁紹の声は恥辱と憤怒でわなわなと震えている。

 

「わ、私の言葉を遮るだなんて!「五月蠅い」 ……こ、このっ!」

 

 またしても台詞をぶった切られてしまい、彼女はもはや言葉が出ないようだ。

 まぁこんな風に蔑ろにされた経験などないんだろうし、思考が止まるのも当然と言えば当然か。

 

「両軍相対しての舌戦をここまで見事に叩き切られるなんて、馬糞を顔に投げつけられたような気分じゃないかな?」

「生まれも育ちもお貴族様だしなぁ。呂布ちゃんは素で言っているんだろうし、それがまた酷い」

 

 祖茂と程普の会話が今の戦場の空々しい空気を物語っている。

 

 どうやら袁紹と呂布は性格的に相性最悪のようだ。

 名門を笠に着て我を通してきた袁紹から見れば呂布の言動は不可解で信じられないものなんだろう。

 逆に力でもって身を立ててきた呂布からすれば名門だの名家などという実戦で役に立たない『威光』をこれ見よがしに語る袁紹は意味のわからない存在と言える。

 お互いの価値観が違い過ぎて話が噛み合っていないという事だ。

 

「隙だらけにも程があるのぉ。ここであやつを殺してはならんというのは分かっておるんじゃが……」

「黄蓋の撃ちたいって気持ちはよく分かるけど、ここは耐えてよ?」

「俺個人としては今ここで脳天を撃ち抜いてしまっていいと思うんだが、後々の事を考えるとな」

 

 俺たちが物騒な会話をしているなどと知る由もなく、眼下では噛み合わない舌戦が続いている。

 

「この私をここまで虚仮にした以上、貴方も董卓連合にも未来はありません! しかし私は心が広いので地に頭を擦りつけて許しを請うなら慈悲をかけてあげてもよろしくてよ!」

 

 渾身の決め台詞を言い放つ袁紹。

 仮にも袁家当主なので本来ならかなり恐ろしい発言のはずなんだが、直前までのやり取りのせいで滑稽でしかなかった。

 

 そしてこの言葉に対する我らが呂布の返答は。

 

「戦うの? 戦わないの?」

 

 いい加減焦れてきたのか、僅かに苛立ちが感じ取れる声音でのこれである。

 ここから袁紹の細かい表情は見えないがまぁ顔を真っ赤にして青筋でも立てているんだろうなという予想は出来た。

 

「おーっほっほっほっ! この私をここまで馬鹿にした相手は初めてです! いいでしょう、もはや問答無用。反董卓連合はここで叩き潰して差し上げますわ!」

 

 それは開戦の合図と取れてしまう言葉であった。

 ただでさえ意味のない問答に飽きていた呂布からすれば、「もう暴れて良いですよ」という許可に他ならない。

 

「そう。じゃあ行く」

「へっ?」

 

 呂布の踏み込みで地面が砕ける。

 目測だが30メートルはあっただろう袁紹との距離が瞬く間に縮まり、超重量の凶器が振り上げられる。

 その一撃は神輿ごと袁紹を叩き潰すのに充分すぎる威力を持っていた。

 

「させるかぁっ!」

 

 だがその一撃は最後尾から突撃してきた夏侯惇によって防がれてしまう。

 

「んっ……」

「呂奉先っ! 貴様の相手はこの私だっ!!」

 

 方天画戟と夏侯惇の愛刀『七星餓狼(しちせいがろう)』が何度もぶつかり、火花を散らした。

 二人が戦っている傍ら、二枚看板によって引きずられるようにその場から下がらされていく袁紹。

 その反対に騎馬で近付いてくる幾つかの武官とその部隊。

 近付いてくる隊には夏侯淵、許緒、典韋、趙雲、関羽、張飛の軍旗が掲げられていた。

 

 名だたる武官が呂布というたった一人に差し向けられている事から、呂布の警戒度がよく分かる。

 とはいえこちらとしてもここで呂布を抑え込まれるわけにはいかない。

 

「俺たちが出る。……砦の防衛は任せた」

「「「「おうっ!」」」」

 

 俺は同僚たちにこの場を任せ、物見から飛び降りる。

 目指すは虎牢関の門。

 いつでも出られるように、そして戦に出る時を今か今かと待っているだろう馬超たちにとっての朗報を届けに。

 

 

 

「ちょおおりゃぁああああっ!!」

「でりゃぁあああああっ!!」

「んっ……」

 

 地面を砕きながら迫る許緒の鉄球が武器で弾かれ、張飛の横薙ぎの一閃はその場から飛び退いて軽々と避けられてしまう。

 

「はぁあああっ!!」

 

 着地の隙をついたはずの関羽の突きは方天画戟の腹で受け止められた。

 

「くらええええっ!!」

 

 夏侯惇の大振りの振り下ろしは下から掬い上げるように放たれた一撃とぶつかり合って相殺。

 大立ち回りの隙間を縫うように放たれる夏侯淵の射撃も当たらない。

 

「てやぁあああああっ!!!」

 

 さらに典韋の巨大ヨーヨーを真正面から難なく受け止める。

 

「せいっ!!」

 

 ヨーヨーの影から飛び出した趙雲の頭部狙いの突きもまた避けられてしまった。

 

「っ……!?」

 

 だがこれまでの攻防で体勢が悪かった為、槍の先端が呂布の頬を掠めた。

 これだけの強者による波状攻撃によってようやく与えた手傷である。

 

「……お前たち、強い」

 

 呂布は大きく後退し、全員を睥睨する。

 

「でも全員、『私たち』より弱い」

 

 どこか緩んでいた呂布の目に力が入った。

 瞬間、全員の背筋に悪寒が走る。

 

 今までよりも力の籠もった方天画戟が薙ぎ払うように振るわれる。

 地面が爆発したかのような衝撃と轟音、土煙が舞い上がり視界を遮ってしまう。

 武官たちは奇襲を警戒し、その場から後退せざるを得なかった。

 

「この音……あちらの増援か」

 

 大量の馬の蹄が前方、虎牢関の方から聞こえてきた事でそれぞれが警戒を強める。

 

「まずいっ!」

 

 自分たちに迫り来る脅威に最初に気づいたのは趙雲だった。

 それは近付いてくる気配がとても見知った物であった為で、彼女自身がその気配の主を意識して警戒していた為だろう。

 彼の狙いは関羽だった。

 

「させませんぞっ!!」

 

 彼女は関羽の背後を強襲した人影が放つ拳を槍で弾く。

 

「む……」

「逃しませぬっ!!」

 

 関羽と人影の間に素早く割り込み、すかさず突きの連撃。

 しかしそれは手甲によって受け流されてしまう。

 当たっているのに手応えがないというその矛盾した感覚を彼女は嫌というほど知っていた。

 

「お久しぶりですな、刀厘殿」

 

 土煙の奥へ後退した人影に向けて、趙雲は笑みを崩さず語りかける。

 

「そちらも元気そうで何よりだ。子龍」

 

 応答の声と共に人影は後方へ飛び退いた。

 そして風切り音と共に土煙が晴れていく。

 

 反董卓連合の名だたる武官たちの開かれた視界に映ったもの。

 汜水関で大立ち回りを繰り広げ、反董卓連合で優先排除対象の一人。

 凌操が呂布と並びあって立っていた。

 

 呂布というたった一人を相手に名だたる武官が揃ってようやく互角という状況だった。

 そこに武官複数を相手取れる難敵の出現。

 反董卓連合側からすれば、それは絶望的な情報であった。

 

「ここからは……」

「俺たちがお相手しよう」

 

 胸の前で両拳を合わせ、手甲を打ち鳴らす凌操。

 その様は狼が獲物を前に喉を鳴らす威嚇のよう。

 

 そしてどこか楽しげな雰囲気で方天画戟を構える呂布。

 その様は虎が獲物目掛けて今にも飛びかからんとするかのよう。

 

 虎牢関攻略の為に避けては通れないと目されていた二人が反董卓連合に立ちはだかった。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十一話 虎牢関の戦い その二 二つの武、戦場に舞う

 この時代の武を志す者は根本的に一人で戦う者である。

 

 隊を率いる武官となれば指示を出す事はあるだろう。

 同じ陣営の者、互いの利害の一致から共闘する事もあるだろう。

 長い付き合いか、あるいは戦いの相性によって息の合った連携を見せる者もいるだろう。

 

 たとえばそれは実の姉妹であり同じ主を頂く夏侯惇と夏侯淵であったり、義姉妹として旅をしてきた関羽と張飛であったり、幼馴染みである許緒と典韋であったり。

 

 しかし武力で身を立てる者とは、強者と呼ばれる域にいればいるほど、戦いにおいて協力という言葉から遠ざかる。

 己の力に自信を持つが故、その心にある武の頂きを目指す者としての矜持が自分の力のみでの勝利を求めるのだ。

 

 同じ標的に対して互いに息を合わせる事は出来る。

 しかし誰よりも強くという思いによって、意識的にか無意識的にか連携には僅かながら綻びが生じる。

 さらに彼らはそんな状況を当然の事だと受け入れている節があった。

 

 これは私生活でどれだけ仲が良いとしても例外ではない。

 長い時間を共にし、同じ職場で働き、主観的にも客観的にも仲が良い孫呉の俺たちであってもだ。

 

 しかしそんな武人の習性、本能といってもいい『それ』を理解し、制御出来るとすればどうなるか。

 

 

 

「はぁっ!!」

 

 呂布の横薙ぎの一撃はとても強力だが大振りなもので、受け止める事はともなく避ける事は難しくない。

 ましてや今この場に集まった者たちはそれぞれが一騎当千の兵だ。

 その隙を逃すほど甘くはない。

 

 しかしその隙を俺が埋めるのであれば話は別だ。

 

「くっ!?」

「うわっ!?」

 

 呂布の隙を突こうとした関羽に突撃、腹部目掛けて拳を放つ。

 俺の攻撃から義姉を庇おうと動く張飛は棍棒の一つを投げつけて足止めする。

 よって関羽は自分で俺に対処しなければならない。

 

 拳が届くよりも早く俺を薙ぎ払おうと青龍偃月刀を振るった。

 その攻撃を俺は後方へバク転、いわゆる後方倒立回転する事で避ける。

 だが俺の手が掴むのは地面ではなく、俺を壁にして突撃していた呂布の両肩だ。

 

「なっ!? ぐあっ!!!」

 

 関羽は俺を標的に放った攻撃を彼女に弾かれる。

 そして呂布の背後を狙っていた趙雲目掛けて俺はバク転の勢いそのままに上下逆さまで蹴りを放った。

 

「ふんっ!!」

 

 趙雲は俺の一撃を上手く受け止め、呂布のがら空きに見える背中に突きの一撃。

 しかしそれは俺が彼女の両肩を強く握り、持ち上げた事で空振りに終わる。

 呂布は俺に持ち上げられるままに身体を回転させ、俺たちを囲い込もうとしていた武官たちの輪の外へと跳ぶ。

 投石のように放物線を描いて飛翔した呂布は、その勢いで包囲に参加せず隙を窺っていた夏侯淵に襲いかかった。

 

「妙才っ!!」

「行かせると思うかっ!!」

 

 思わず妹の方へ意識を向けた夏侯惇に踏み込み、至近からの右拳。

 それは受け止められたが、すかさず武器を持つ手を掴んで引き寄せながら逆の手で首を狙う。

 

「ぐぅっ!!」

 

 首を狙った手は残っている手で弾かれてしまった。

 さらに力任せに俺を押しのけようとする夏侯惇。

 しかしそれこそ俺の狙いだ。

 

「な、はぁっ!?」

 

 俺は踏ん張っていた力を抜き、自ら後ろに倒れ込む。

 拮抗していた力が無くなった事で前方につんのめり慌てる彼女の腹部に左の足裏を押し当てて勢いを付けて真後ろへと放り投げる。

 巴投げだ。

 

「許緒、避けろぉおおっ!!」

「うわわわっ!?」

 

 吹き飛んだ彼女は今まさに俺を攻撃しようとしていた許緒の真上だ。

 仲間が俺への攻撃の直線上に割り込んでしまった為に、許緒は自慢の鉄球を放つ事が出来ずに夏侯惇を受け止める事になる。

 それは大きな隙になった。

 

「うぐっ!?」

 

 立ち上がった俺が投げつけた二本目の棍棒が夏侯惇を受け止める為に無防備になった少女の腹部に突き刺さってその場から吹き飛んだ。

 

「やああああああっ!!!」

 

 典韋の冗談のように巨大なヨーヨーが周囲に誰もいなくなった俺の元へ地面を削りながら迫る。

 その場で受け止める体勢を取った俺に対して左右から挟み込むようにして迫る関羽と張飛。

 

 三方向からの攻撃。

 俺は最後の棍棒を腰から引き抜きながら絶対絶命の危機に身構える。

 だがそれも一瞬の事。

 ヨーヨーが真横からの攻撃によって明後日の方向へ吹き飛んでいったからだ。

 

「きゃあっ!?」

 

 超重量の武器が吹き飛ぶ勢いがあまりに凄まじく、典韋は引っ張られて姿勢を崩してしまう。

 俺は手に持っていた棍棒を容赦なく彼女に向けて投げつけた。

 しかしその効果を確認する暇はない。

 

 俺は関羽を迎撃するべく左を向き、逆から迫る張飛に対して背を向ける。

 それは張飛を無視したという事ではなく、典韋の攻撃を弾いた呂布が相手をしてくれると確信しての行動だ。

 果たして俺の確信通り、呂布が俺と背中合わせになる形で張飛と向かい合うように割り込む。

 背後でとんでもなく重く鈍い金属同士の激突音が響いた。

 

 俺も関羽と数合の攻防を繰り広げる。

 だが徒手空拳の俺と青龍偃月刀の関羽とではそもそもの射程距離が違いすぎた。

 

 俺の距離まで接近すれば勝ちだが、入り込めなければあちらの勝ち。

 相手もその事を理解しているが故に必要以上に踏み込まず距離を取る戦い方をしている。

 

 唯一の投擲武器である繋げる事で長物となる棍棒が手元に残っていない俺に対して関羽は最適の戦い方を選択していた。

 しかしそれは俺が一人であった場合の話だ。

 

「ふんっ!!」

「くっ!?」

 

 対面する俺ばかりを意識していた関羽は味方である俺すらも巻き込むように振るわれる方天画戟によって強制的に距離を取らされてしまう。

 俺は背中合わせの呂布にぴったり合わせて動く事で薙ぎ払いから逃れるように移動し、必然的に対面した張飛目掛けて距離を詰めるべく駆け出す。

 

「うりゃりゃりゃりゃりゃっ!!!!」

 

 張飛の蛇矛の連撃が近付く俺を阻む。

 攻撃一つ一つの必殺性に対して俺は怯む事なく勢いのままに張飛の足元へ滑り込んだ。

 

 虚を突かれ、驚きに目を丸くする張飛の足を払い、俺目掛けて倒れ込む無防備な腹に手を添える。

 

「かはっ……」

 

 掌底により内蔵に直接届いた衝撃で強制的に息を吐き出させられ身体を震わせた彼女の顎を打ち抜いた。

 小柄な少女の身体は葉っぱのように宙を舞い、受け身を取る事も出来ずに地面へと落ちる。

 

 すぐ立ち上がり警戒しながら周囲を見回せば関羽を圧倒する呂布の姿が見えた。

 離れた場所で息荒く膝を付いている夏侯淵と典韋。

 許緒と夏侯惇はその二人を背に庇いながらも戦意に満ちた眼差しを向けている。

 俺は劣勢の関羽の加勢に向かおうとする趙雲の前に立ち塞がる。

 

「いやはや、ここまでとは。……参りましたな」

 

 いつもの調子で声をかけてくる趙雲。

 しかし顔に浮かぶ疲労は隠しきれず、声にも恐怖とも畏怖とも取れる感情が読み取れる。

 

「まだまだこれからだ」

 

 趙雲の背中目掛けて棍棒が飛んでくる。

 戦いの最中、拾っていたそれを呂布が投げつけてきたのだ。

 間一髪でそれに気付いた趙雲は横に飛び退いてそれを避ける。

 真っ直ぐ飛んでくる棍棒を俺は掌底で受け止め、壁にぶつかって跳ね返るボールのように横っ飛びしていた趙雲目掛けて弾き飛ばす。

 

「次から次へとっ!?」

 

 真っ直ぐ迫る棍棒を彼女は不安定な姿勢のまま武器で弾いた。

 その瞬間走り寄っていた俺は趙雲が武器を持つ手を両手で掴み、腕力に任せてハンマー投げの要領で振り回す。

 

 これまでの戦いを見る限り、夏侯淵と趙雲がこの中でも周りを見て行動している。

 こっちの消耗を少しでも抑える為に、ここらでいったんこいつには退場してもらおう。

 

「お前は邪魔だ。しばらく退場していてくれ」

「な、何をぉおおおおおおおおーーーーーっ!?!?」

 

 二回、三回と身体全体を使って振り回し、たっぷりと遠心力を与えてから放り投げた。

 先ほど巴投げした夏侯惇の比ではない勢いで吹っ飛んでいく趙雲を見送りながら、俺は呂布に吹き飛ばされてこちらに飛んできた関羽の背中に跳び蹴りを見舞う。

 

「がはっ!?」

 

 ピンボールの球のように蹴り飛ばされた関羽だったが、当たりが浅かったようで転がりながらもすぐに立ち上がった。

 彼女はそこでようやく義妹が倒れている事に気付いたらしい。

 

「益徳(えきとく)っ!!」

「自分の心配をしろ」

 

 気が逸れた関羽へ走り込む。

 真正面から迫る俺に対して関羽は武器を構えるが、咄嗟の判断とはいえ『俺だけ』を警戒してしまったのは悪手だ。

 

「隙あり……」

「ぐっ!?」

 

 呂布の方天画戟に対して青龍偃月刀を盾に出来ただけでもこいつの超人的な能力の証明と言える。

 だが防ぐ事は出来たものの踏ん張る事は出来ず、枯れ葉のように吹き飛んでしまう。

 そして身動きが碌に取れない空中にいる彼女を俺は渾身の右拳をもって地面に叩き付けた。

 

「く、そぉ……」

 

 心底無念だと分かる呻き声を上げながら関羽は意識を失う。

 

「安心しろ、殺しはしない。まぁ死なない事は別に救いにはならんだろうが、な」

 

 戦で倒されながらも相手に見逃されたとなれば、武人としての誇りは傷つくだろう。

 しかしこっちの思惑の為にも名のある武官には可能な限り生きていてもらわなければならない。

 

 誇りを優先して自害するなんて事も十分あり得るが、流石にそこまで面倒は見切れんし、その程度の器だったと切り替えるだけの話だ。

 

「はぁ……はぁ……はぁ……」

「……疲れた?」

「ああ。……お前はまだまだ元気そうだな」

「うん」

 

 まだまだ元気そうな呂布に肩を竦めながら同意する。

 こちらは今までの攻防でかなり息が上がっているんだが、この子はなんなら楽しそうにすら見える。

 本当に規格外だな。

 

「これ、拾っといた」

「助かる。ありがとう」

 

 その辺に転がっていただろう棍を二本、呂布から受け取り腰に佩く。

 一度、深呼吸をして溜まった疲労を抑え込み、この会話の間に体制を立て直したらしい曹操軍の諸将たちを見る。

 

「まだ日は高い。このまま引き付けるぞ。可能なら死なない程度に叩き潰す」

「うん」

 

 未だ戦意を失わぬ敵に俺たちは同時に襲いかかる。

 

 

 

 俺たち二人が現在、彼らを圧倒出来る絡繰りは説明してしまえば簡単な事だ。

 

 俺と呂布。

 どちらかに警戒を傾ければ、もう片方に強襲される。

 

 呂布の圧倒的な存在感を無視する事は出来ない。

 何をするか分からない俺を無視する事も出来ない。

 

 敵側の認識を利用して頭で考える最適な行動と危険に対して起こる反射的な行動に差が出るように誘導したのだ。

 

 目の前の脅威を無視する事は出来ず、しかし武人としての感覚が迫り来る別の脅威も認識してしまう。

 よりわかりやすく言えば頭は目に見えない敵の事も考えるが、身体はまず自分に迫る脅威に反応するという事。

 

 反射を理性で押さえ付ける事は難しい。

 長年、力を磨いてきた者であればこそ咄嗟の反応というのは速いのだから。

 

 少なくともこの戦いの中でそれが出来るようになるとは思えない。

 なぜなら同じ事を解説した上で訓練として一週間ほどやっている黄蓋や馬超たちですら未だに対応出来ないのだから。

 

 事前情報無しで戦いの中、この絡繰りに気付く事は難しいだろう。

 もしもそれが出来るとすれば、戦いを俯瞰的に見た上で冷静に判断出来る者。

 今戦っている者の中では射手として周囲を観察する事に長けている夏侯淵と、本人の性質から一歩引いて周りを見る事が出来る趙雲。

 

 俺の中でこの二人は可能な限り早く排除する事になっていた。

 現状、俺たちの戦いは全て思惑通りに進んでいると言って良い。

 

 ただこの優位性はいつまでも持つ物ではない事も俺は知っている。

 武人と呼ばれる者たちの成長性に限界はない。

 本人が諦めさえしなければ無限に伸び続けると言っても過言ではないと俺は考えている。

 

 俺自身も肖っている『それ』を過小評価する事はない。

 

 持って数日、あるいは明日にでも、もしかしたら今日の戦いの最中に。

 論理的に理解する事が出来ずとも対応する可能性があるのが武人という生き物だ。

 

 出来る限り長い時間、戦いの流れを握り続ける事。

 それが最初の目標だ

 その為にも相手には俺たちの方が圧倒的に強いと誤認し続けてもらわなければならない。

 

 戦いはまだ始まったばかり。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む


しおりを挟む

第百十二話 一日目の終わり

「くっそ、思っていたよりずっときついぞ……」

 

 馬超が思わず馬上で呟いた声は戦場の喧噪の中に消えて誰の耳にも届かない。

 

 彼女の率いる部隊はだだっ広い平原という騎馬の機動力を最大限活かす事が出来る場所を縦横無尽に走り回っている。

 しかし彼女たちは具体的な戦果をほとんど上げていなかった。

 

 本来の彼女たちなら自分たちの絶対的優位と言えるこの状況であれば、敵対者の一部隊や二部隊は軽々と殲滅出来るだけの力がある。

 だがこの虎牢関での初戦において彼女たちの目的は『敵を倒す事』ではない。

 警戒するべき諸将が『呂布と凌操に集中している間』に、他の勢力を狙って動き続ける事こそが今の彼女たちの役割だ。

 

 故に強敵を相手に真っ向勝負をしていた汜水関での戦いよりも高度な戦いを要求されていた。

 

 今まで『可能な限りの敵部隊とぶつかり合い、両者の被害を抑える』などという巫山戯た戦いをした事がないのだ。

 そんな慣れない戦い方は、馬超たちにただ敵を倒す時よりも大きな負担をかけている。

 

 しかしこの苦労の甲斐あって派手に戦場を動き回りながらも反董卓連合への被害はほとんど出ていないという『少しでも聡い者』が見れば違和感を抱く状況になっていた。

 あくまで今のところの話ではあるが、反董卓連合の狙い通りの展開になっている。

 

 しかしこれは相手側、より正確に言えば『馬超たちが直接、襲撃する勢力』に手心を加えている事を気付かれないようにしなければならない。

 そしてこちらの事情など考慮する必要がない反董卓連合側は全力で自分たちを迎撃してくるのだ。

 

 隊全体の疲労、被害は相当なものになっている。

 思わず愚痴とも弱音とも言える台詞が口から出てしまうのも仕方ない事ではあった。

 同じ事を行っている張遼隊も、同じような状況である。

 

 彼女たちなりにその役割に務めて早数時間が経過し、既に日は傾き始めている。

 馬超隊の隊員に返り血や跳ねた泥、少なからず受けた傷で無事な者は一人としていない。

 その総数もたった一日で減ってしまっていた。

 

「(……すまない)」

 

 西平は常に異民族の襲撃が隣り合わせの土地だ。

 そんな場所で戦いに生きる者たちには、一つの共通した想いがあった。

 

 死ぬのならばせめて精一杯暴れてから死ぬ。

 

 捨て身と言い捨てられるような想いを胸に彼らは武器を取り戦ってきたのだ。

 そんな彼らの想いに蓋をさせて、この戦いに勝つ為に精一杯戦わせる事も出来ず死なせている。

 

「(この戦いの結果、私たちは反董卓連合の連中に侮られるだろう。そうなるように立ち回る事が必要だからだ)」

 

 『攻めあぐねて逃亡する』という事を繰り返す馬超隊、張遼隊。

 襲撃された者たちは汜水関での戦いに比べて、驚くほど被害が少ない結果を見て自分たちの実力を過信するだろう。

 そして董卓連合を、少なくとも直接対峙した馬超隊、張遼隊を見下す。

 

 そうなるように行動しているとはいえ、本懐を遂げる事も出来ず侮られたまま死んでいく仲間たちを見送らなければならない。

 この事実もまた馬超隊の心を蝕んでいた。

 音が出るほどに歯を食いしばり、軋む心身に活を入れる。

 

「(全て話し合って決めた事だろう! 私たち全員が納得したんだ! 私が今やるべきはあいつらの死を無駄にしない事。この役割を全うする事だろうがっ!!)」

 

 自らを叱咤し、次の標的を求めて馬を走らせる。

 さらに時間が経ち、空が赤くなる頃。

 汜水関でも良く聞いた甲高い笛の音が戦場に響き渡った。

 作戦終了の合図だ。

 

「脇目も振らず走れ!!」

「「「「「おうっ!!」」」」」

 

 撤退という言葉を使わなかったのは、これが敗走ではなく作戦なのだという事を自分たちに言い聞かせる為であった。

 

 

 

「……」

 

 今の凌操を指す言葉として『死んだように眠る』という表現がこれほど似合う言葉もないだろう。

 呼吸すらも最小限で鼾もなく、僅かに上下する胸だけが彼が生きている事を外界に教えてくれている。

 日が落ちるまでの間、ずっと反董卓連合の諸将たちを相手取っていた結果が今の彼の状況だった。

 

 撤退の合図の後、凌操は呂布と共に即座に踵を返した。

 勿論、敵は二人を逃がすまいと追いかけてきたのだが虎牢関からの援護と途中で合流した馬超隊、張遼隊の馬に相乗りする事が出来たお蔭で無事に戻ってくる事が出来た。

 

 だが呂布はともかく、あらゆる場面で気を張り巡らせて戦っていた凌操は無事に門を潜り抜けたところで力尽きてしまった。

 今回も相乗りしていた馬岱が上手く受け止めてくれたお蔭で地面と激突するような事態は回避出来た。

 しかし声をかけても何一つ反応が返らないせいで慌てて医務室に運び込まれる事になる。

 

 疲労困憊が極まった失神と判断され、今もこうして眠り続けている。

 医師の診察では命に別状はないが、最低でも一日は目を覚まさないだろうと言われている。

 

 彼の現状は今回の戦いがそれほど厳しい物であった事を示していた。

 なのだが、それは董卓連合の面々にある疑問を抱かせていた。

 

「なぜお主はそんなにぴんぴんしておるんじゃ?」

「? 楽しかったから?」

 

 目の前で倒れた凌操の姿によほど慌てていたのか彼を支えていた馬岱ごと担いで医務室に連れてきたある意味での功労者である呂布は軍議にも出ずにずっと凌操の傍にいる。

 

 今は倒れた凌操と動かない呂布を除いた将たちが明日以降の戦いの為に会議室に集まって話し合いに臨んでいる状況だ。

 

「まぁ呂布ちゃんはこのままあいつの傍で休ませておけばいいだろ」

「どのみち明日はあの子も凌操も出番はない予定だしね」

 

 空気を切り替えるべく張遼が咳払いをする。

 

「うちの隊は今日一日でかなり被害が出とる。馬超隊もやろ?」

「ああ。怪我人は隊の半分以上。十数人は今回の戦でやられてる。出撃出来ないくらいの重傷者もいる」

 

 話の水を向けられた馬超も疲労が濃い顔で隊の状況を説明する。

 相手に気を遣いながら戦って無事で済むわけがないのだ。

 これでも被害は可能な限り抑え込んだとも言える。

 

 決して本意ではないが、それでも最後に勝利する為に飲み込んだ犠牲。

 ここにいる全ての人間が彼らの奮闘に敬意を表している事だけが、馬超と張遼にとって救いだった。

 

「馬超隊、張遼隊も明日は休ませるべきじゃな。薬や包帯、治療に必要なものは気にせず使ってくれ。辛いとは思うがまだまだ先は長い」

 

 馬超と張遼は黄蓋の言葉に神妙に頷く。

 戦いはまだ一日目が終わったばかりなのだ。

 

「明日は俺たち建業が出るぞ」

「皆が今日、頑張ってくれたお蔭でこっちの被害はほとんどありません。大船に乗ったつもりで任せてください」

「だからしっかり治療と休息してちょうだい。あ、あと気が向いたら凌操と呂布の様子を見にいってあげて」

 

 この後、およそ一時間ほど話し合いは続いた。

 その間、凌操は一度として目を覚ます事はなく、深い眠りについたままだった。

 

 彼が目を覚ますのは翌日の戦いが始まった頃の事。

 しかし起床はしたものの身体の至る所が筋肉痛に苛まれた彼は、碌に動く事も出来ないままその日をかつての要介護者のような扱いを受けて過ごす事になる。

 

 

 

 一方その頃。

 一日目の戦が董卓連合の撤退によって終わった後、袁紹は即座に軍議を招集して戦の報告を求めた。

 殿を代表して曹操は全体の軍議に参加。

 しかし時間にして一刻とかからずに自分たちの陣地に戻ってきた。

 そしてすぐに裏同盟である劉備、公孫賛らを招集した。

 

「完全にしてやられたわ」

 

 集まった面々を前に彼女は開口一番こう言った。

 

 呂布を抑える為に自身の勢力の主力部隊を派遣した曹操、公孫賛、劉備。

 その結果は『呂布と凌操の二人を相手に終始圧倒される』という散々なものであった。

 とはいえこの二人を自由に暴れさせた事で発生する被害を考えればまだマシだと言える。

 これだけであれば手の内を探る為の初戦と考えて割り切る事が出来た。

 

 問題は主戦力が釘付けにされた場所以外の戦場。

 彼女ら以外の勢力が馬超と張遼に強襲されながらも大した被害もなく迎撃に成功したという情報が入った事で変わってしまう。

 

「結果だけを見れば私たちは殿の役割を無視して最前戦に割り込んだ挙げ句に大した成果を上げられなかったという事になるわ」

 

 汜水関でさんざん煮え湯を飲まされた二大騎馬隊。

 本来なら相応の勢力でかからなければ為す術なく圧倒される相手だ。

 少なくとも袁紹の腰巾着ではどうにもならないはずで、これは推測ではなく汜水関の戦いを分析した末の結論である。

 それがこの一日の戦いの結果で覆ってしまった。

 

 勿論、聡い彼女の陣営と集まった劉備、公孫賛たちはこの結果が董卓連合側による計略だと気付いている。

 そしてそこから導き出せる答えは一つ。

 

「董卓連合の初戦の狙いは連合内での私たち、いや孟徳殿の発言力を奪うこと、か」

 

 公孫賛の言葉が沈黙する陣地に嫌に大きく響いた。

 この中で袁紹と渡り合えるだけの背景を持つのは曹操のみ。

 その発言力を少しでも削ぎ、動きを制限する事が狙いだと公孫賛は読んでいた。

 

 実際に成果を上げたと舞い上がり増長した者たちは声高に自分たちの手柄を誇った。

 

「馬超、恐るるに足らず」

「張遼、恐るるに足らず」

「董卓連合、恐るるに足らず」

 

 呂布、凌操と直接戦ったわけでもないというのに彼らはこぞって『呂布と凌操を抑え込む事しか出来なかった曹操たち』を見下したのだ。

 それがどれほどの難行であるかも知らずに。

 

 もちろん曹操を相手に表立ってそんな事を言える者はいなかったが、目は口ほどに物を言うものであり彼らの感情の機微を読み取れない彼女ではない。

 曹操ならばその場でそんな者たちを論破する事も出来た。

 あえてそれをしなかったのは『そんなどうでもいい事』に時間を使っている余裕が無かったからだ。

 

「本初は私たちをこのまま最後方の守りに回したわ。明日は絶対に前線に出てくるな、だそうよ」

 

 単純な袁紹は増長した者たちの言葉を見事に鵜呑みにした。

 汜水関から虎牢関までの道中、ずっと袁紹にとって面白くない結果が続いていた事が、今回の都合の良い内容の報告を受け入れる後押しになったのだろう。

 長年の腐れ縁から何を言っても袁紹がこの愚かな決断を覆す事はないと察した曹操は、最低限の返答だけして軍議そのものを切り上げてきたのだ。

 

「貴方たちは今日の戦いをどう思ったのかしら?」

 

 水を向けられた劉備と公孫賛は、伝えるべき内容をまとめるために僅かに沈黙する。

 言いたい事がまとまったのか先に劉備が口を開いた。

 

「私たちは最後尾の輜重(しちょう)部隊の守備をしていました。董卓連合が奇襲してくるかもしれないから、気合いを入れて警戒していたんですけど……こちらにはまったく襲撃はありませんでした。遠目に見ていた前線に比べて不自然だと感じるくらいに平和でした」

 

 劉備が己の所感を語り、隣にいた自分の軍師である孔明、鳳統に目配せする。

 主の意を受けてまず孔明が己の考えを話し始めた。

 

「董卓連合の目的は汜水関の頃から続いている疑心暗鬼の増強だと思われます。恐らく汜水関での戦いの段階であちらにとって厄介な相手として私たちは目を付けられていたのでしょう。私たちが汜水関で温存されていた呂布が投入されると読む事も主戦力を対呂布に振り分ける事も想定していたと思われます」

 

 小柄ながらもその瞳に確かな智を宿した少女の言葉。

 それにとんがり帽子を目深に被っている鳳統が帽子のつばを握りながら続く。

 

「わ、私たちの配置をどこまで読んでいたかまでは分かりません。総大将の命令を無視し、戦線の指揮系統を乱したと言われても反論は出来ません。孟徳殿の仰るとおり、それだけの事をした上で報告すべき戦果もない。お聞きした本陣の方針を合わせればこれからの動きを制限されたのは間違いない、です」

 

 軍師たちの所感が出揃ったところで、公孫賛に視線が集中する。

 彼女は一つ咳払いをすると語り始めた。

 

「前線の事は報告を受けたが、今回の結果には疑問しか沸かない。騎馬隊最大の持ち味は騎馬の速度を利用した突撃だ。それを馬超と張遼は間違いなく理解している。今回のような結果になる事はまずありえない。そりゃ突撃をいなせる奴がいないとは言わない。だが今日あいつらが戦った相手にそれが出来る部隊がいたとはとても思えない」

 

 公孫賛は馬超隊と汜水関で戦っている。

 ぶつかった時の印象と感じ取った武力を考えれば、袁紹にごまをすっている諸侯では太刀打ちできないというのが彼女の評価だ。

 さらに馬超に関しては接触した事である程度の性格も分かっている。

 その上で考えれば今日の戦いは違和感だらけでしかなかった。

 

「言ってはなんだが私たちの白馬陣はその色合いからして戦場ではとても目立つ。だというのに輜重部隊周りを警戒して走っていた私たちに寄ってくる敵はほとんどなく奴らの影を踏む事もなかった。……間違いなく私たちは避けられていた」

 

 公孫賛は言葉を続ける。

 

「諸葛亮の言っていた通り、指折りの武官で呂布を速やかに抑えるというこっちの策は見切られていたんだろう。呂布に戦力が集中した事で少しでも馬超と張遼が動きやすい、いや普通に戦えば負ける事はないだけの状況を作った。その上であいつらは『戦いを挑んで敗走した』かのように振る舞った。口で言うほど簡単な事じゃない。兵の心情としても受ける被害を考えてもな」

 

 集まった面々が息を呑む。

 自分の腕に自信がある武人が、敗北の屈辱をあえて受け入れたという事実。

 その裏にあるだろう彼らの覚悟を感じ取ったのだ。

 曹操は満足げに頷く。

 

「そうね。『自分たちに犠牲を出してでも敗走したかのように振る舞う』だなんていくら計略であっても普通はやりたくはないわ。工程での被害を飲み込めるほどの信頼関係が出来ているという事よ。さらに損害を想定するほどの策である以上、初戦での狙いこそ『私たちの発言力を奪うこと』だとは思うけれど、それだけの為とはとても思えない。おそらく他にも狙いがあるわ。少なくともそう考えて私たちは動かなければならない」

 

 集まった者たち、特に知恵者たちの目は鋭い。

 その脳内ではこの戦いで張られた布石、そして董卓連合の狙いについて考えを巡らせているのだろう。

 

「明日以降の戦略は大幅な変更を余儀なくされたわ。知恵者たちは自分たちのすべてを絞り出して事に当たりなさい。これからの難局、乗り越えなければ未来は無いわ」

 

 曹操の重々しい言葉を噛み締めながら、彼女らの会議は続いた。

 

 

 

 『呂布と凌操と戦った武官』はこの会合から外されている。

 今後戦えないほど怪我をしたわけではない。

 しかし彼女らは勢力問わず示し合わせたかのように自分たちの中で今日の戦いについてまとめる時間が欲しいと言ってこの場を辞退していた。

 

 これが相手に言いようにされた敗北感から来る発言であるならば、公孫賛、劉備はともかく曹操は問答無用でこの場に連れ出しただろう。

 だが自分の配下である夏侯惇たちの目は決して敗北者のものではなかった。

 

「私たちは必ず呂布と、あの方の戦い方の謎を掴んでみせます。記憶が新しい今でなければいけないのです。故にしばしお待ちください」

 

 代表して申し出た夏侯惇の覇気は、『今もまだ戦っているのだ』と言わんばかりの気迫に満ちていた。

 

「(貴方たちは貴方たちの為すべき事を為しなさい)」

 

 声に出さずに可愛い部下たちを激励しながら、曹操は自らが今為すべき事に全力を注ぐべく飛び交う言葉に集中し始めた。

 

 



目次 感想へのリンク しおりを挟む




評価する
一言
0文字 ~500文字
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に
評価する際のガイドライン
に違反していないか確認して下さい。