いろはす・あらかると (白猫の左手袋)
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一色いろは生誕祭2018
――そんな、今年の誕生日。


一色いろはさん、今年も誕生日おめでとうございます。


 

 

 我ながら、ずいぶんと尻の軽い女だと思う。

 ついこの前……クリスマスの頃までは、わたしは毎日のように葉山先輩葉山先輩と口にして憧れのイケメンを追いかけていたくせに、今はせんぱいせんぱいと別の『先輩』を追いかけている。

 軽いかもしれないけど、大好きになったから追いかけている。

 他の誰かに奪われたくはないから、わたしは追いかけている。

 あのひとの周りには素敵な女の子たちがいるから。なんとか追いつきたくて、あの手この手で必死になって。

 けど、奪うもなにも、もともとわたしのものなんかではなくて、なんならわたしのほうが略奪者のような存在で。

 効果があるなんて思ってない。なのに、ほんの少しだけ心のどこかでなにかに期待して。ばかみたいに無駄なアピールをしてみたり、アピールのために葉山先輩や仕事をダシにしてみたり。

 ……効果があるどころか逆効果かもしれないのに、ほかにどうすればいいのかがわからなくて。

 

 誕生日だってそう。

 そんなものに何の意味があるのかわからないけど、つい気にしてもらいたくなって、つい気にしてしまう。

 いつか便乗して無駄アピールしたわたしの誕生日を、あのひとは今も覚えてくれているだろうか。

 今日、あのひとはおめでとうって言ってくれるだろうか。

 忘れ去られていないだろうか……。

 

 そうして今日も不安になって、わたしはいつものように生徒会の手伝いを依頼した。

 

 

「ねえ、先輩」

 

 二人きりの生徒会室で、暖かな陽射しに照らされた大好きな人。その横顔へ、そっと声を掛ける。

 作業の手を止め気だるそうに振り向く姿が、少し憎らしく同時に愛おしい。

 

「……おん?」

「先輩って、どうしていつもわたしのこと手伝ってくれるんですか?」

 

 なんとなく、そんなことを聞いてみる。

 別に理由はなんだっていい。嫌々だったとしても、こうして手伝ってくれて一緒の時間を過ごせることがすごく嬉しい。

 ほんのちょっとでもいいから、一緒の時間になにかを期待していてくれたらいいなって、わたしは密かに期待して。

 ――せんぱいが実際どう思っているかは関係なく。あまりに傲慢で自分勝手。

 

「どうしてって、そりゃ一色が手伝ってくれって頼むからだろ」

 

 ……あたかも、頼まれたら請けるのが当然と言わんばかりに。

 だからわたしは、茶化して問い直す。

 

「別に義務じゃないんですし嫌なら断れるじゃないですかー。けど、なんだかんだで先輩っていつも手伝ってくれますし、実は仕事が大好きだったり?」

「ばっか言え、お前俺が仕事大好き人間に見えるか? 将来の夢はあくまで専業主夫、社畜じみた人間にはならないことが目標だ」

 

 そんなふうにうそぶいて、せんぱいは再び書類整理の手を動かす。

 けれど答えは答えになってなくて、わたしは三たび投げかける。

 

「いつも頼んどいてこんなこと言うのもあれですけど、もし迷惑なのを我慢して手伝ってくれてるんだとしたら、なんか色々と申し訳ないなー……なんて」

 

 その質問に、せんぱいは質問でわたしに返した。

 

「じゃあ逆に聞くが、どうしてお前はいつも俺に仕事を依頼するんだ?」

 

 いつの頃からか自分でもわかんないけど、せんぱいのことを大好きになっていたから。

 ――なんて想いを、じっとわたしを見据えるせんぱいに向けて言葉にする勇気は、いまのわたしにはない。かつて葉山先輩に告ったときの勢いでいまも動ければいいのに、どうしてか、それができないでいる。

 

「まあ、他に依頼できそうな人いませんし」

 

 これは嘘。頼めば下心で手伝ってくれる男子はたくさんいる。

 他に依頼できそうな人がいないんじゃなくて、依頼したい人が先輩以外にいないだけ。

 

「そんなことないだろ。戸部とか便利に使えそうだし、副会長の仕事量を倍増させたって働くだろ。……それに、葉山ならお前が半泣きで頼めば確実にやる」

「確かに、それもそうかもですね。あまり戸部先輩には依頼したくないですけど」

「まあ戸部だしな」

 

 べーべー言いながら動き回る戸部先輩の姿でも想像したのか、せんぱいは苦笑を浮かべる。

 けれども、その表情はすぐに真面目なものへと変わった。

 

「なんつうんだろうな。責任、みたいな感じか」

「責任……? なにがですか?」

「いや一色、お前が言ったんだろうに。責任とってくれって」

 

 思い出すのは、せんぱいの前でみっともなく泣き顔を晒したあの日のモノレールでのできごと。

 確かにわたしは、責任とってくださいって言った。

 ……言ったけど、それがなんだというのだろうか。本物が欲しいという発言を偶然耳にして影響を受けてしまったこと、そのせいで色々とせんぱいのことが気になるようになったこと。それと手伝いは別のはず。

 

「だから一色がもう不要だと言わん限り、俺はお前から頼まれた仕事をできる限り手伝う。それが俺の……一色が俺たちに依頼した『最初の依頼』を達成できなかったことへの責任の取り方だ」

 

 せんぱいへの最初の依頼。

 ――わたしが生徒会長にならないようにしてほしい。

 いつしかすっかり忘れていて、いまでは生徒会長であることが当たり前になっていて、生徒会長としてがんばる姿を見てもらいたいとすら思っていたけど……。このひととの出会いはそれがきっかけだったのだ。

 そしてその依頼は結局、こうして達成されることがなかった。

 

「けど、依頼が達成されなかったのはわたしが取り下げたからですよね。先輩が取る責任なんてなくないですか?」

 

 生徒会長になることのメリットをせんぱいから色々と提示され、わたしはそれに乗っかった。体よく落選する依頼を取り下げて。

 

「……嫌われる覚悟で言う」

 

 ぼそりと、せんぱいはつぶやいた。

 わずかに怯えのような色を濁った瞳に映し、それでもしっかりとわたしを見据えて。

 

「本当はあのとき、俺は一色を利用するつもりだった」

「利用?」

「あの頃の奉仕部は崩壊寸前だった。原因は俺で、俺の言葉が足らないから、俺はあいつらのことがわからないしわかりあえなかった。……それでも、だとしても、俺にとってあの空間はどうしても必要なもので、どうしても守りたい大切なものだった」

 

 せんぱいが言っていることに関して、わたしは詳しいことをまったく知らない。

 ただ、はじめて奉仕部を訪れたときに感じた空気はどこか暗く寒々しいものだったし、その後に接してゆく中で危うそうな雰囲気を感じたことが度々あったのも色濃く記憶している。

 

「そんな中でお前が奉仕部を訪ねてきて、依頼の達成方法を模索するなかで雪ノ下が生徒会長に立候補してしまった。あいつが生徒会長になれば部活は存在し得なくなる。……俺は怖かったんだよ。だから一色に依頼を取り下げさせて生徒会長を押し付ければ、雪ノ下が会長になる必要もなくなって奉仕部も存続できる……。って」

「だから、生徒会長を押し付けた責任を取って手伝ってる、ってことですか?」

 

 つまりせんぱいは、わたしの手伝いを『背負った義務』としてやっていると言うのだろうか。

 だとしたら。

 ……ほんのちょっとくらい、せんぱいも何かを期待してくれていたらいいなって。そんなことを考えていたわたしが憎らしい。これでは負担をかけているだけだ。

 

「いや、そんなものよりもっと最低だな。最初はこうして責任を取るなんて考えてなかったし、選挙が終われば関わり合うこともないと思っていたし。使い捨てじゃないが……、正直悪かったと思ってる」

 

 生徒会役員選挙から数ヶ月を経て、せんぱいはあの時の裏事情を告白し頭を垂れた。

 それでも、どういう理由であれわたしは先輩を非難するつもりはないし嫌うつもりもない。だから、謝られていることが逆につらい。

 

「それ言ったら、わたしだってそうです。最初は『ちょっとムカつく先輩のことを利用してやろう』くらいに思ってましたもん」

「やっぱりな」

 

 ふっと小さくせんぱいが笑う。

 決して笑顔ではなくて、何か疲れたような苦笑を浮かべて。

 

「……けど、いまはもう違いますからね」

 

 いつの間にか止まっていた作業を再開しながら、伝えたいことをせんぱいに。

 全てを伝える勇気はやっぱりないけど。ちょっとだけ、ちょっとづつ。

 

「先輩に依頼したいって思ってるから、わたしは先輩に依頼してるんです」

 

 この意味が届くだろうか。

 女の子が誕生日に、仕事にかこつけて二人きりの時間を強引に作った意味が、せんぱいには届くだろうか。届けばうれしい。

 届かなければ、いまはまだそれでもいい。

 

「そうかい」

 

 いつもと変わらぬ気だるな声でそれだけ呟いて、せんぱいは黙々と作業に戻る。

 届いたかどうかなんてわからない。定かじゃない。

 けど、いまはまたそれでもよかった。

 

 

     *

 

 

 最終下校時間も既に回り、わたしたちは学校を後にする。

 うす暗くなりつつある団地の通りを、駅に向けてゆっくりと歩いた。

 

「今日も助かりましたー。いつもありがとです」

「おう」

「やっぱあれですね、先輩がいると一人力って感じです」

 

 ――なんて、一色いろはらしい甘ったれた声音で冗談めかして感謝の気持ちを伝えてみれば、せんぱいも比企谷八幡らしい捻くれた声音でぼそぼそと返してくれる。

 

「いや待て、百人力じゃないのかよ。っていうか一人になっちゃってるし」

「けど、先輩って一人のほうがお好きですよねー?」

「まあな」

 

 何が嬉しいのか、一人が好きという言葉にドヤ顔。

 ちょっと滑稽で、どこかちょっと憎らしくて、それでもやっぱりせんぱいのことは憎めない。

 こんなやりとりがいつまでもできればいいのに……なんて、考えることはそんなことばかり。

 

「けどまあ、一色にこき使われるのも案外悪くはない」

「なんですかそれ」

 

 こき使うって……。さすがにそこまで悪い扱いはしてないよね?

 え、してる? してるかも。やっぱり申し訳なくて、内心でせんぱいに頭を下げる。

 

「なんですかって、ほれ。さっきのことだよ」

 

 せんぱいはわたしの視線から顔を逸らすように、陽光で朱く染まったマリピの建物を見上げてぼそぼそと小さな声で続ける。

 

「……俺も、一色だから手伝ってる。今はもう責任とかそういうんじゃなくてな」

「それって……」

「なんも不安に思ったり遠慮したりする必要はねえよ。頼みたいことがあったら俺に頼めばいいし、連れ回したい用事があるなら連れ回しゃいい。正式な生徒会の仕事でもプライベートな買い物の荷物持ちでもなんでも、一色の思う存分働いてやる」

 

 どうしてそこまで言ってくれるのか、わたしにはわからない。

 せんぱいもわたしのことを想ってくれているのだとしたら――なんていうのは都合良すぎるわたしの身勝手な解釈で、けれどそれ以外の理由なんて想像もつかなくて、しかしそんな都合のいいことがあっていいはずがなくて。

 

「だから、まぁ。今後も一色が俺に頼みたいって思うんなら、これからも俺に好きなだけ頼め。本来なら小町にしか行使させないところだが、特別に一色にも権利をやるよ」

 

 照れくさそうに「誕生日だしな」と付け加えて。

 今度こそ、わたしはその意味を自分の都合がいいように解釈して、大好きなせんぱいからのプレゼントとして受け取って。

 

 これからも、一緒に並んで歩ければいいなと思った。

 ――そんな、今年の誕生日。

 

 




いろはすもお年頃の女の子ですもの。
色々なことが不安になったり、色々なことに期待してみたり、ちょっとしたことで嬉しくなったり落ち込んだり。そんなことがあるものです。
きっと。たぶん。知らんけど。


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一色いろは生誕祭2017(&小町生誕祭2017)
前編)プレゼントにはカーディガンを。


比企谷小町生誕祭2017記念SSです。
が、わたしはいろはスキー。単純に小町が出てくるわけではありませんので、ご承知おきください。



 キンコンカンコンと、最終下校時間が近いことを知らせるチャイムが鳴った。

 普段ならこの時間帯の普通棟校舎は、部活や委員会帰りの生徒が行き交う音で賑々しく、昇降口のすぐ前にある生徒会室にも喧騒が入り込んで響く。

 嫌なものではない。その騒がしさも、生き生きとした高校生たちの青春の一コマなんだと考えると微笑ましいものだし、わたしだって他の人から騒がしいと思われることだってあるだろうから。

 けれども今日は珍しいことに、いつもの日常が嘘であるかのようにしんと静まり返っている。

 今日から、学年末試験前一週間の部活動・委員会禁止期間がはじまったのだ。

 各教室や部室が立入禁止とされるし、多くの生徒は予備校や自宅で自習をするので居残る生徒はそうそういない。最終下校ぎりぎりのこの時間まで校舎内に留まるのはごく一部の図書室自習組と、来年度入学式へ向けた準備をしなきゃならないわたしくらいものだろう。

 それだけに、戸締まりの準備を終えて生徒会室を出た時、見知った顔が昇降口で待ち構えていたのには驚かされた。

 ――先輩だ。

 どういうわけか知らないけど、先輩がひとりぽつんとそこに居た。

 しゃがみこんでロッカーに寄りかかり、どこか寂しげに俯いてただじっと床を見つめている姿には哀愁が漂っている。まるで、遊ぶ約束をすっぽかされて拗ねている子供のような。

 ……これはもしや、ふくよかに癒やしてあげるチャンスなのでは――?

 つい頬が綻ろんでしまう。

 んふ。

 

「せーんぱいっ。どうしたんですか~?」

 

 いつもの調子よりも幾分か砂糖を増した甘さで声をかけると、先輩は瞬間的にびくりと震えてから顔をこちらへと向けた。

 もうすぐ最上級生という立場のくせに、堂々とした雰囲気は微塵もない。それがまた先輩らしくて可愛らしいなぁと、わたしは思う。わたしは、ね。

 

「う、うす。……その、大事な話っつうか、ちょっといいか?」

 

 少し緊張した面持ちで、先輩は歯切れの悪い言葉だけを残して背を向け、わたしの返答も待たずにずんずんと歩きはじめた。

 もとより人気のない校舎の中でもより人目を警戒するような話なのか、わずかに残った図書室自習組すら通ることのない特別棟への渡り廊下へと向っていく。

 ん? 人目を警戒するような大事な話?

 …………えっ。

 うそでしょ。えっ? 嘘。

 このぎこちない態度で『大事な話』、しかもこれってわざわざわたしを待ってたってことでしょ……? え、もしかしてあれ?

 まって、待って! や! えっ、だって、どうしよう……。やばい……。

 この先に起こりうる可能性を想像してしまい、まさかの状況にむしろこっちが緊張でどうにかなりそうだけど、とにかく先輩についていく。

 つかつかと先を進む先輩は特別棟へ向かい、階段の踊り場まで進んだところでようやく立ち止まった。

 やがて、ゆっくりと振り返ると、一文字に結んでいた口を開く。

 

「一色……」

 

 視線を少しだけ外し、わたしを呼んだ。

 表情こそこわばっているものの、わずかな照れがあるのかうっすらと赤く色づいている。

 やっぱり、これは――。

 

「……は、はい」

 

 わたしのほうこそ、ひどい表情をしているかもしれない。指先も少し震えているような感じがする。

 自慢じゃないけど、わたしはこれまでもけっこうこういう経験はしてきたほうだ。けど、いままでこんなふうに緊張したことはないのに。

 互いにぎこちない状態のまま、しばらく視線のみが交錯する。

 そしてしばしの間を置いて、先輩が思い切ったように続く言葉を口にした。

 

「妹の誕生日プレゼントを選ぶのに、アドバイスが欲しいっつうか……」

「こちらこそよろしくおねが………………は?」

 

 

               ×   ×   ×

 

 

「はあ、なるほど……。まあ事情はわかりましたけど……」

 

 立ち話ではなく、ちゃんと座れる場所で詳しい話というか事情を聞こうと生徒会室へ連れ込……もとい戻って、いまは炬燵に足を突っ込んで向かい合っている。

 なんでも、妹さんは明日・桃の節句は三月三日がお誕生日。

 先輩曰く――これまでは毎年、妹さんが欲しがっていた小物やCDなんかをプレゼント代わりに買ってあげていたけど、今回は中学校の卒業祝いと総武高入学祝いを兼ねて、ちゃんとした豪華なものを誕生日当日に渡すまで内緒で用意したかった。しかし全く思いつかん――とのこと。

 ちなみに、緊張した様子だったのは、単にわたしに相談するのが恥ずかしかったから。奉仕部の二人ではなくわたしに相談した理由も、あまりに成績がやばくて留年寸前な結衣先輩を雪ノ下先輩が自宅でしばき上げることになっているから、ということらしい。

 ふん。先輩め、期待させおってからに。

 ……勝手に勘違いしただけだろってツッコミは禁止で。

 

「けど、その当日って明日ですよねー。時間的に超やばくないですか?」

 

 全く思いついていないということは、ゼロから考えなきゃいけないということ。

 この時期の最終下校時間は十七時半で、つまりもうその時間になる。いまから考えてモノを探してとなるとまったく全然時間が足りない。仮に南船橋のららぽや海浜幕張、津田沼、あるいは千葉へ出るとしてたって、だいたいどこも平日の商業施設は二十時前後に閉まっちゃうから、猶予は二時間あるかないかだ。

 

「ほんとヤバいんだよ……。最初はちゃんと自力で選ぶつもりだったんだが、ざっくりしたイメージすら浮かばないまま今日になっちまったし、つーかそもそも女子ってどんなもん貰えば喜ぶのかなんて俺知らねえし、このままじゃ間に合わねえんだよ……。ほんと、なにがヤバいってまじヤバい死ぬ……」

 

 悲壮感ある口ぶりで、先輩は文字通り頭を抱えるジェスチャーを見せた。

 以前から聞いている感じだと、かなーり妹さんのことが好きというかシスコンの気があるし、仲も良いのかもしれない。だとすれば、当日プレゼントなしっていうのは妹さん的には悲しいしムカつくよね。

 なら確かに、間に合わせないとまじやばい。先輩、しばらく妹さんから根に持たれちゃうまである。

 

「そういう感じだから、なんかこう女子的に、実の兄から貰って嬉しいモノ的なのとか、一緒に考えてくれ……」

 

 改まったように、先輩が頭を軽く下げた。

 独りで行動する傾向が強い先輩が、こうして人を頼ること自体珍しいことかもしれない。なんかあまり頼み慣れてない感じがするし。

 わたしとしては、あくまであのお二人の代わりとはいえ、こうして頼ってもらえたのはすごく嬉しいし応えてあげたい。けど、けどなぁ……。

 わたし一人っ子だし、『実の兄から貰って嬉しいもの』って聞かれても、いまいちイメージが湧かないんだよね。先輩から貰って嬉しいものならいくらでも思いつくんだけど。

 

「んー……。ていうかわたし、そもそも先輩の妹さん知らないじゃないですか。だから、何をするにもまずは基本的な情報がほしいっていうか」

「基本的な情報?」

「はい。どんなタイプなのかとかー、見た目とかー、趣味嗜好とかー」

 

 贈るものが勉強道具などの日用品にしてもファッション関係のものにしても、その人の外見やタイプ、趣味嗜好にあったものがあるんじゃないかと思う。だから、せめて外見が知りたい――と思っていると、

 

「写真ならあるぞ」

「え、あるんですか……」

「ほれ」

 

 さも当然といった様子で、先輩はスマホを操作して一枚の画像を見せてきた。

 実妹の写真をスマホに保存してる兄って……。ちょっと呆れちゃうところだけど、まあ先輩ですしねー(呆れ)。

 内心呆れながら画面を覗いてみると、どこかあざといウインク顔と裏ピースをキメた、なんとなく先輩の面影が感じられるセーラー服姿の女の子が映っている。目は全然腐ってないどころかぱっちりで、顔立ちもかなり可愛く整っていて、頭には先輩と同じ特徴的なアホ毛がぴょこんと立っている。

 

「なるほど、かわいい子ですね。タイプ的にはどんな感じですか?」

「タイプっつうと、あざとかわいい感じっていうか、あれだな。清楚版一色いろは」

 

 んなっ。なんですと? 先輩はわたしが清楚じゃないと?

 

「…………色々と気になることがありますけど、まあだいたいわかりました。つまり、わたしと同じで、清楚で超かわいい感じなんですね」

「もうそういうことでいいけどさ」

「そういうことならまあ、わたしでもなんか思いつきそうっていうか……」

 

 高校へ入学するにあたって準備するものは色々あると思う。

 例えば、勉強道具。

 けど、そういった必需品はだいたい中学時代のものをそのまま使ったりするものだし、買い足すとしてもご両親が用意してくれたり、自分の小遣いで買ったりするはず。ものによっては、うちの生徒会やPTAのほうでも記念品として準備するし。だからそういうのはまず除外しよう。

 次に、ぱっと思い浮かぶのがアクセサリー系。

 総武高はそれなりに自由がきくから、わたしや結衣先輩、三浦先輩がそうであるように、ピアスやネックレス、リングなどをつけたりもできる。アクセを身に着けているかいないかでスクールカーストのランクが決まったりするものだし、それに贈り物にアクセっていうのはけっこう定番だと思うし。

 ……でも、下手なアクセとかを贈って気に入ってもらえなかったらダメージ大きいだろうし、実兄が実妹へ贈るプレゼントとしてはちょっと違和感あるよね。なにより先輩チョイスのアクセを他の女の子が付けるっていうのもちょっとね。嫉妬するよね、わたし的に。

 そういえば、それなりに自由っていうと、総武高って制服の着崩しもかなり自由だよね。生徒会長からして着崩してるし。その生徒会長ってわたしだけど。

 んー、着崩し。着崩しか……。確か今なら千葉のそごうに……。

 ――よっし、思いついた。

 

「先輩、ご予算ってどのくらいありますか?」

「一万は用意した」

 

 どや顔で即答された金額に驚くわたしがいる。実妹へのプレゼントに一万って、先輩妹さんのことどんだけ好きなの……。

 けどま、それだけ予算用意してるなら、よほど高価なものでもない限りはなんでも買えるだろうし、選択肢の幅は広がる。

 

「……ふむ。わかりました」

 

 もう十八時を廻ってるから、結局どこの店に行って何を買うにしても時間がない。買う買わないは別として、見に行くなら早いほうがいいよね。

 もぞもぞと炬燵から出て、スクールバッグを引っ掴み立ち上がる。

 

「じゃあ、行きましょっか」

 

 言うと、先輩は呆気にとられたように口を開けた。

 

「え……?」

「時間ないですし、急いで千葉行きましょ?」

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 総武高から千葉海浜交通の路線バスに乗って十五分ほど、稲毛駅でちょうどタイミングよく来た総武線快速の電車に飛び乗って約三分。おなじみ千葉駅東口バスロータリーの8番乗り場前へとやってきた。

 といっても今日の用事は、以前先輩とデートしたC-oneの通りやナンパ通りのあるこの東口側ではなくて、外房線の線路を超えた向こう側、京成千葉駅がある南口側になる。

 先にこの東口に来たのは、自転車下校の先輩との待ち合わせのためで、いまは待ちぼうけだ。駅やバスから吐き出され吸い込まれと、右へ左へ行き交う人々をぼーっと眺めながら、はやく先輩来ないかなーなどと心のなかでつぶやく。

 それからしばらく、待てども待てども先輩はやってこない。三十分ほどが過ぎ、途中で事故にでも遭ってないだろうかと少し不安になってきたところで、ようやく人混みの中に先輩の姿を見つけた。

 

「せーんぱーい、おっそーい!」

 

 つい待ちきれずにこちらから駆け寄ると、心底申し訳なさそうに眉をひそめて先輩が言う。

 

「あー、いや、マジすまん。いつもの駐輪場が満車で、開いてるところがないか探してた」

「……そですか。まあ、ならしょうがないですよね」

 

 千葉駅周辺にはいくつか市営の駐輪場があるけど、学校帰りの高校生が遊びに立ち寄る平日の夕方ともなると、東口などの繁華街に近い駐輪場は特に混みあうらしい。こればっかりはしょうがない。

 それよりなにより、三十分近いロスをしてしまったことが、わたしの中でちょっとした焦りになっていた。

 スマホで時計を確認すると、時間はもうすぐ十八時半。急がなきゃやばい。

 

「とりあえず、行きましょっか。こっちです」

「うす」

 

 いつものように、先輩の袖をきゅっとつまんで歩き出す。

 さて、と。

 放課後制服デートのはじまりだ!

 

「ん? なに、そごー行くの?」

 

 モノレールと京成の改札階向かうエスカレーターに乗ったところで、すぐさま先輩は今向っている場所がそごー千葉店だと気づいたらしい。

 まあ、南口ってそごーくらいしかないしね、お店。

 

「まあ店は任せるけど、結局どんな感じのもの買えば良いんだ?」

「高校に入学する時、色々と用意するものってあるじゃないですかー。その中で、女の子が特に『欲しいな』って思うものってなんだと思います? ヒントは衣類です」

 

 ちょっとしたクイズっぽく投げかける。

 先輩はしばし黙り込んで考えると、よくわからんとばかりに肩を竦めて見せた。

 

「衣類っつうか、女子のファッションとか疎いからな……。ぼっちにはそういうのすげえ難しい」

 

 少なくとも今の先輩はぼっちじゃないし、あんな美少女二人と仲良くしてるのになにいってんだってツッコみたくもなるけど、それはぐっと抑えて。

 

「じゃ、もひとつヒントあげます。毎日、学校へ着ていくものですよ」

 

 再度投げると、こんどはすぐに言葉が帰ってくる。

 

「制服か? いや、けど制服はこんどの土曜に採寸だし、金は親父が出すから関係ないよな。……え、まさか下着?」

「は? 先輩、思春期の実妹に下着贈るつもりですか? セクハラですか?」

「ばっか、ちげえよ。お前が毎日学校へ着ていくものっつうから……」

 

 思わず溜息が出る。いくらなんでも下着はないでしょ先輩……。や、確かに高校入学前に大人っぽい下着に買い替えたりするけどさ。ていうか下着って学校へ着ていくものってより、基本的には毎日常時着用するものだし。

 それに、兄じゃなくて彼氏とか旦那さんとかでも、さすがにいきなり誕プレや記念品として下着なんて贈られたらゴミ箱行きでしょ。きもいもん。

 

「仕方がないですね……。最大のヒントです。いまのわたしとか、そこらへんいる女子高生の制服姿を見てピンときませんか?」

 

 ちょうど下校時間帯ということもあって、そごーへつながる駅のコンコースは、学校帰りに遊びに来た女子高生や高校生カップルの姿を多く見かける。

 彼女たちが着ている学校の制服はもちろん一種類じゃなくて、グループごとに、あるいはグループ内でも異なる、いくつもの学校のものだ。それはあたかも制服の見本市といった感じ。

 それぞれがそれぞれの校則の範囲内で上手に可愛く着崩したりしていて、中でもブレザーの制服を着た子たちにはいずれにも共通するものがある。いまのわたしも、この点で一緒だ。

 わたしに言われた通り、先輩はわたしや周囲の女子高生たちをちらちらと眺めた後、合点がいったのか「あぁ、なるほど……」と声を漏らした。

 

「わかった、カーディガンとかセーターか」

「ぴんぽーん。正解です」

 

 女子中学生にとっての『華の女子高生になったらやりたいこと』は色々あるけど、特に上位に位置するのが『可愛い制服の学校に通って、可愛くおしゃれに着こなすこと』だ。

 もちろん、全ての学校が可愛い制服指定や()()()()()()()()可って訳じゃないし、着崩せるかどうかは校則にもよる。ミニスカ禁止だったりとか、タイを緩めるの禁止だったりとか。だから思い通りに着こなせる訳じゃない。

 けど、セーター・カーディガンやニットベストは別だ。

 指定品や黒・紺以外禁止といった厳しい学校も一部にあるだろうけど、公立高校なんかだとそこそこ自由に選んで着れる。ベージュやキャメルといった定番色から、わたしも良く着るチェリーレッドやミルキーピンク、他にもサックスやライトパープル、ライムグリーンなどなど、その色は多岐にわたる。

 単にそれだけじゃなくて、Heaventeen(ヘブンティーン)などのティーンズ誌でもカーディガンは制服着こなし特集記事でよく取り上げられるから、余計に『憧れ』の品になっている面もある。

 わたしにとっても、可愛い制服やカーディガンっていうのは憧れだったし、先輩の妹さんがわたしと似たタイプだというのなら、きっと同じだろう。

 

「けどあれだぞ。この前、小町の制服採寸予約するのにカーディガンも欲しいとかどうとか言ってたし、被んねえか?」

「カーデなら何着あっても困らないですよ? いつも同じなのもなんかあれですし、コーディネート感覚っていうか気分で変えられますし。実際わたしや結衣先輩だって何色か着てきてるじゃないですか」

 

 むしろいまどき、ニット類着用自由の学校で一着しかカーデを持っていない女子高生のほうが少ないかもしれない。

 わたしや結衣先輩だけじゃなくて、総武高の女子ならみんな何着か着まわしているはずだし、雪ノ下先輩も何色か持っていたような覚えがあるし。

 

「結局なんにしたって考えてる時間ないですし、とりま誕プレとしてカーデ買って、もし他に思いついたら後で入学記念を別に買ってもいいじゃないですか」

「まあ、必ずしも無理に一つにしなきゃいけないってことはないしな」

 

 実際問題ほんとに時間はないのだ。あと一時間半くらいの間で、広い千葉駅周辺をうろうろと彷徨い歩いたところで、これだ! っていう品が見つかる保証はないから。

 

「つっても、そういう制服用のカーディガンってそごーなんかで売ってんの? そごうって本館のほうは百貨店だし、ジュンヌ館のほうはあれだろ、いかにもリア充してる連中向けに、リア充店員がリア充っぽい服売ってる店ばっかりなんじゃねえの? ……けっ」

「いや、先輩……。リア充恨みすぎじゃないですかね……」

 

 そんなに先輩ってリア充苦手なのか……。

 わからなくはないというか、実を言えばわたしもあまり得意なほうじゃないけどさ。

 

「ま、それはいいんで、とりあえずついてきてください」

 

 こんな無意味なやり取りをしていても時間がもったいないだけなので、先輩の袖をぐいぐい引っ張って急がせる。

 そもそもここに来たのは、ちゃんと目的のお店があるからなのだ。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 頭上をモノレールが走るデッキを進み千葉そごー本館に入って、エスカレーターで七階へ。主に子供向けファッションを扱ったエリアへやってきた。

 

「え、ここ子供服でしょ……?」

 

 先輩が怪訝そうにしているけど、気にせずぐいぐい引っ張ってフロアを進む。

 小さなサイズが可愛らしいブレザーやスーツなど、フォーマルな子供服がいくつも展示されていた。ほとんどがきっと、入学・卒業式や結婚式向けなどとして売られているものだけど、その先の催事コーナーには子供服じゃないものがある。

 新入学期間のみ全国各地に臨時出店されるショップで、わたしが考えた品もそこにある。

 

「これってあれか、なんちゃって制服だっけ?」

「そです。それです」

 

 WESTBOYなどと並ぶ、女子中高生の定番ブランドのひとつ、SONOMi。

 以前はWESTBOY一択という感じだったっぽいけど、最近だとティーンズ誌の特集記事や広告を通して知名度が上がり、他ブランドより女子高生の心をつかむものがあってすっかり人気ブランドになった。

 売っているものは、いわゆるところのなんちゃって制服。自由服の高校へ通う生徒向けのブレザーやチェックプリーツスカートをはじめとして、スクールシャツ、ネクタイ・リボンタイ、ソックス、スクールバッグ、ローファーなど色々。どれもが女の子にとって、ある種の憧れの品だ。

 先輩の妹さんがわたしと同じタイプの女の子なのであれば、SONOMiの品物を貰って嬉しくないわけがない。

 ――などと、ハンガーに掛かっている品々を見ながら先輩にざっくり説明する。

 

「じゃあ、お前のそのカーディガンもここの?」

「そですよ」

「ほーん。なるほどね……」

 

 こういうの興味ないかと思ったけど、先輩は存外興味深そうにブレザーやスカートなどを手にとって、しげしげと見はじめた。

 

「なんか、生地とかしっかりしてんのな。本物の制服と変わらないつうか」

「そりゃそうですよ、本物の学生服メーカーがやってるブランドですし、コスプレ用じゃなくて通学用ですし。そのぶん、それだけ値段もしますけど」

「……うおっ、これ二万超えかよ」

 

 手に取っていたブレザーの値段を見て、慌てたようにハンガーラックへ戻す。その慌てっぷりがちょっと微笑ましい。

 けどま、わかるわかる。わたしも去年の今頃にカーデ欲しさで原宿の直営ショップへ見に行ったとき、値段見てびっくりしたし。

 

「なに、女子ってこういうのに金使ってんの? 小遣いどんだけ貰ってんだ……」

「そんなに貰ってないですよ……。自由服の学校通ってる子はさすがに親御さんが一式買ってくれてると思いますけど、そうじゃないと憧れはあってもなかなか手は出せないです。ちょっとカーディガン買い足したりするだけでもけっこうお金飛びますし」

「え、カーディガンも高いの……」

 

 恐れ慄くように、先輩が少し顔をひきつらせている。

 そうです先輩。こういうの、高いんですよ?

 

「まあ、さすがにブレザーほど高くはないですけど、ウニクロとかで売ってるような安いカーディガンと比べたらそりゃ高いですよね」

 

 白に灰、紺、黒、茶、薄茶、ライムグリーン、緑、ラベンダー、ミルキー系ピンク、ルビーレッド、オレンジ、レモンイエロー、カナリアイエローなどなど、色とりどりに揃ったカーディガンの中から、ひとつ取って先輩に渡す。

 色はベージュで、左胸に小さくブランドロゴのエンブレムがあしらわれている。

 

「それなんか、まさに定番のベージュって感じです。ほら、結衣先輩がこの色よく着てますよね。たぶん別のブランドのやつですけど」

「そういや由比ヶ浜がよく――って、これ七千円? カーディガンが七千円……。女子こわい……」

「や、こわいとか言ってる場合じゃないですから。特に他に候補ないんですし、とりあえずカーディガンなら間違いないです。妹さんに似合いそうな色、選んであげてください」

 

 もうアドバイスというより誘導って感じになっちゃってるし、わたしがすべきはここまでだと思う。せめて色くらいは先輩が選ぶべきだから。じゃなきゃ、先輩じゃなくてわたしが選んだ贈り物になってしまうし。

 もっと時間があれば、色々なお店を見て一緒に探すこともできたんだけど。

 

「小町に似合いそうな色……、色……。わかんねぇ……」

「妹さんが着てるところ想像してみて、これだなって直感があればそれです」

「つってもなぁ……」

 

 女の子の服を選ぶ――なんていうのは、リア充かそうでないかは関係なく、なかなかしない経験かもしれない。なら悩んでしまうのも当然なのかも。

 他の店をのんぼり見て回る時間はなくても、閉店まではちょっとある。なら、ここで色を焦って選ぶ必要はなさそうだ。

 

「じっくり考えていいですよ。わたし、その間にリボンとか紺ハイでも見てるので」

 

 わたしが背後でぴったりくっついてると、余計なプレッシャーを与えちゃうかもしれない。

 そう思って、わたしは背を向けた。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

「まあ、なんだ……。今日はサンキュな」

 

 そごーからの帰り道。北口の駐輪場での別れ際、先輩がふいにいつぞや聞いたようなことを言った。

 人から感謝されることなんて滅多ないから、それがどうにも照れくさく感じる。ちょい恥ずくて、むず痒い。

 

「い、いえ。いまいち役に立てたかわかんないですけど……。それより、妹さん喜んでくれるといいですね」

「それなんだよなぁ……。『え~』とか言われたら死んじゃうまである」

 

 結局あのあと先輩は一時間近くも悩んだ末、閉館のアナウンスが流れ始めたところでようやく踏ん切ったように、一つのカーディガンをひっつかんでレジへ向ったのだった。

 先輩が選んだ色はライムグリーンで、明るい薄緑色のもの。

 どうしてその色を選んだのかと聞いてみたら、『お前と同じであざとい感じだから、あざとい色が似合いそう』とか『なんとなく小町は緑っぽいイメージ』とかなんとか。

 

「大丈夫ですよ。ライムみたいな色って、可愛いだけじゃなくて清楚感もありますし、きっと妹さんに似合います。喜んでくれると思いますよ?」

「……あー。そう言ってくれると少し気が楽だけど、それでもやっぱ緊張するわ。告白並みに緊張する。むしろ告白だわこれ。小町愛してるッ!」

「はいはい。先輩が妹さんのこと大好きなのはわかりましたから、ちょっと黙りましょっか。周りの人に変人だと思われたらやですし」

 

 ここまで先輩に愛される妹さんがどれほど可愛い女の子なのか、早く実際に会ってみたい。そう思うのと同時に、ちょっと嫉妬。

 わたしも先輩の妹だったら、こんなに大切にしてもらえたんだろうか――と。

 わたしは妹じゃなくて後輩だから、そんなことを考えたって仕方がない。そんなことはわかっているけど、どうしても妹さんのことが羨ましく思えてしまう。

 

「そだ、先輩。……これ、妹さんに」

 

 余計な思考は捨てて、手にぶら下げていた買い物袋から、包装紙でラッピングしてもらった小袋を取り出す。

 中身は大したものじゃなく、ワンポイント入りの紺ハイ。先輩が大量のカーディガンの前でうんうん唸ってたときに、こっそり買っておいたものだ。

 

「え、お前まだ面識ないけど、いいのか……?」

 

 わたしが妹さんへのプレゼントを用意したことが存外だったようで、先輩は遠慮するように戸惑う。

 ぐっと押し付けるように手渡した。

 

「誕生日というか、先輩にお世話になってる後輩からの、個人的な合格祝いってことで」

「なんか、悪いな」

「いえいえ。今後お近づきになるでしょうし、よろしくお伝えください」

 

 妹さんにはちょっぴり変なライバル心も湧くけど、来月になればわたしの後輩だ。きっと関わり合うようになっていくんだろうし、仲良くなりたい。

 だから、いまから来月が楽しみだなって。

 

「じゃあ、妹が飯作って待ってるし、そろそろ行くわ」

「はい。今度、妹さんが喜んでくれたかどうか教えてくださいね?」

「ん、了解」

 

 別れの言葉を残して、先輩はよっこらせばかりにと自転車に跨り、ゆっくりと走り出した。

 ちょっと頼りなさげな猫背が、少しずつ遠ざかっていく。

 確かに、先輩は男の子としてはちょっとダメダメなところもある。けど、いざという時はすごく頼りになる、優しい心を持った人なのだということを、わたしは知っている。

 まだ付き合いの浅いわたしですら、先輩を知る中で惹かれていったのだから。ならばきっと、ずっと一緒に暮らしてきた妹さんにとって先輩は、それこそかけがえのない大切な存在に違いない。

 ――決して先輩はぼっちでも、ひとりでもないんですよ。

 暗い北口の路地へと消えてゆくまで、いつまでも先輩の背中を見つめながら、ぼんやりと、そんなことを思った。

 

 

 

   了

 

 

 

 

 




なぜ小町生誕祭記念SSがいろは生誕祭の章にあるのかというと、この作品の設定を使った作品があるからです。

というわけで、続きます。


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後編)やはり、俺が可愛い後輩のために誕生日プレゼントを探し回るのはまちがっている。と思うの。

比企谷小町生誕祭2017記念SSから続いて、いろはす生誕祭2017記念SS(第2弾)。
小町へのプレゼント選びを手伝ってくれたお礼に、ちょっと奮発したプレゼントを贈ろうと思い立ったけど、やっぱりなにを贈ればいいのかわからなくて悩む、そんな八幡です。



 

 

 誕生日。

 人がなぜ誕生日というイベントを祝うのかは知らないが、誰であれ自分が祝ってもらえるのであれば、多少なりとも嬉しい気持ちになれるのではなかろうか。

 ま、他人にとっての誕生日がどういったものなのかは、ぶっちゃけこの際どうでもいい。俺にとって重要なのは、俺に親しい人物の誕生日のみだからな。

 さて、先月三日は我が愛すべき妹・小町の誕生日だった。

 直前も直前は誕生日前日まで何を買えばよいものやら全く思いつかず、誕生日祝い兼高校入学祝いのプレゼントを見繕うことができずにいた情けない俺だったが、恥を忍んで一色いろはに相談してみたところ、彼女のサポートの甲斐あって無事に乗り切ることができた。一色の見立てどおり、人気ブランドのスクールカーディガンは女子の心をぐっと掴むものだったようで、以来今日まで小町はとってもご機嫌な様子。おかげさまで兄妹仲も好調好調、絶好調だ。

 ともあれば、一色にお礼を兼ねて何かするべきなんだろう。ちょうどその一色の誕生日が目前に迫っていて、タイミングも抜群。ひとつ問題があるとすれば、どんなものを贈ればいいかということだな。

 単なる先輩男子からのプレゼントと考えるなら、ぱっと思いつくものはけっこうある。例えば、勉強が捗る便利アイテム各種とか、お勧めの参考書とか。しかし、これではダメだ。一色はもう単なる後輩ではなく、それなりに親しい距離感となった愛すべき後輩であって、お礼も兼ねた品なのだから。

 それを踏まえて思い浮かんだものもある。ティーカップだ。

 一色はいつのまにやら奉仕部室のマスコット的存在になっていた。もうあいつはお客様ではなく、いわば準・奉仕部員とでも言えよう。だが、それくらいの頻度で入り浸っているにもかかわらず、未だにひとりだけ紙コップを常用しているのはもったいないし、なにより仲間外れ感が激しい。書類上ではもちろん部員ではないわけだが、現実的には一色いろはもう奉仕部の一員、俺の大切な後輩だ。ティーカップくらいあってもよかろう。

 ところが、これには大きな問題がある。

 何が問題かって、ティーカップは雪ノ下と由比ヶ浜が二人で一緒に選びそうな気がする。たぶん来週、部活終わりに奉仕部で誕プレを買いに行くことになるだろうし。だから今、俺が先回りして買ってしまうのはよろしくない。

 うーん、二ヶ月も連続してプレゼント選定で頭を悩ませることになろうとは。

 リビングダイニングの食卓で深く腰掛け、うんうん唸りながら頭を悩ませてみる。

 うむ、さっぱり全く思いつかないな。

 困ったなぁ。誕生日プレゼントねぇ……。

 うーん、うーん……。

 一色いろはが好きそうなもの。

 一色いろはというか、偽装ゆるふわ系女子高生が好みそうなもの。

 ……光り物?

 それなり以上にお値が張る指輪とかネックレスとか、そういう系統? なんなら、純金のぶっとい延べ棒とか巨大ダイヤモンドとかあげたら、目をきらっきらに輝かせながらめちゃくちゃ喜びそう(偏見)。というか、そんなの俺でも舞い上がるし、むしろ俺が欲しい。

 ぱっと思いついたのはこんなもんだが、まずそもそも男がアクセサリー的なものを買って贈っても、嫌がられずに受け取ってもらえるもんなんだろうか。勘違い野郎とか気持ち悪い奴って思われたら嫌なんだよなぁ……。

 こういうとき、小町でも居てくれりゃ何かしら相談もできるんだろうけども、生憎あいつは先日入学式を迎えたばかりで、今日は高校に入学して初めての週末。さっそく仲良くなった同級生たちとお買い物やカラオケにでも行くとかで、朝早くから渋谷だか原宿だかのほうへ出かけてしまった。残念ながら頼ることはできない。

 ……そうだな。頼れない以上、ぼやっとしていても仕方がない。

 とりあえず街にでも繰り出して、女子高生が欲しがりそうなものでもリサーチしてみますかね。そんでもって良さげなものがあったら買ってしまおう。

 休日に出かけることは得意ではない。なんなら休日とは家でごろごろするためにあるもので、わざわざ好き好んで出かける奴らの気が知れない。……とでも普段なら言っているところだが、今日は不思議と足腰が軽やかだ。さっそく外行きの服に着替えて、財布とあいぽんだけを持った身軽な装備で家を出る。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 たまには電車で行こうと、自転車は乗らずに住宅街の道をのんびりと。名も知らぬご近所さん邸宅の庭で咲き誇る染井吉野はとても美しく、春のぽっかぽかな日差しにメジロのさえずりが心地よい。春ですねぇ。

 ちょろっと歩いて、JR幕張駅に着いた。

 切符を買うべく券売機の前で財布をゴソゴソやってみるが、小銭がなかった。紙幣を崩してしまうのももったいない。どうしようかと一瞬考え、まだSF残額が残っているはずのICカードを使うことにする。

 SuicaならばSuicaならば問題ないっ♪ とばかりに、スイッピッと改札ラッチを華麗に通り抜ける。と、ちょうど到着したところだったのか、秋葉原・三鷹方面行きの発車メロディが耳に届いた。エスカレーターを少し早足で昇って手近なドアから乗り込む。少しの間を置いてドアが閉まり、ぐぐっと電車が動き出した。

 平日の朝方や高校下校時間は混み合う都心方面行きだが、休日昼間ともなれば車内はガラガラだ。せっかくなので座らせてもらう。

 さて。

 都心方面へ向かってこそいるが、どこへ行くかは決めていない。なんなら何も考えてないまであるわけで。電車賃も馬鹿にならないから都内までいくわけにもいかないし、テキトーな駅で降りてあてもなく何時間もうろつくのはアホらしいし。とりあえず津田沼か船橋あたりで降りるとして、今のうちに情報収集でもしておくか……。

 スマホを取り出し、ブラウザを立ち上げる。

 

  [女子高生 誕プレ  ][検 索]

 

 ――といった感じで検索窓にテキトーな語をつっこんで、検索ボタンをタップすると、すぐさま結果が表示された。テキトーにリンクをタップして開いてみる。

 おーん、なになに……?

 

 

『絶対恋愛成就! ケンケンのプレゼント選び〝成功〟体験記‼』

 このブログではトップリア充になるまでの道のりを、順を追って綴っていきます!

                          All rights reserved ©kenken

 

 

 お、おう……。君、就職体験記に飽き足らず恋愛コラム記事まで手を出してたのね……。

 見える、見えるぞ。成功体験記のはずが全然成功せず、読み進めるに従って内容が薄っぺらく、そして悲惨になっていって、最終的には相手や周囲の対する暴言で終わるんでしょ?

 ケンケンには悪いが、こんなコラム読んだところで参考になるとは思えない。時間がもったいないので、戻って別のサイトを開こう。

 

 

『現役JKちむたすの恋愛ブログ!』

   このブログは現役JKコラムニストちむたすが

   みんなの恋愛や友だちずきあいのお悩みを

   ぱぱぱーっと解決しちゃうよっ!

 

 

 ちむたす、友だち付き合いな。『ず』じゃなくて『づ』。あと、この妙にくりんくりんしたフォントがうざい。読みづらい。

 ……別にそこらへんは良い。いかにもおバカなJKっぽいミスがちょっと可愛らしいと思わなくもない。だが、いかにも金かかってそうなWebフォントを使っている当たり、中年オヤジの商売人ライターが書いている可能性もあるんだよなぁ。

 このちむたすとやらがリアル現役JKであることを信じて、しばし読み進めてみる。

 

 

   女の仔なら誰だって

   きれいに飾りたいと思ってるよ

   でも

   かわいい指輪やおしゃれなネックレスは

   普段の少ない小遣いじゃ買えないんだ

 

 

 まあ、女子高生の小遣いなんてたかが知れてるしな。

プチプラだったか、それなりそこそこの品質を安価で実現した、メイクやアクセサリー、ファッションのブランドも増えていると聞く。だが、いくらプチプライスといえども、やっぱりそれなりそこそこの値段はするのだろう。小町もよく母ちゃんとそんな話をして、色々おねだりしているし。

 

 

   だから 誕生日とか記念日のプレゼントは

   人気ブランドのアクセサリーとか

   贈られたら堕ちちゃうかも♡

 

 

 はあ、そうっすか。ビッチかよちむたす。

 世の中の現役JKとやらはこんなもんなんですかね。雪ノ下や由比ヶ浜がこういうタイプだとは思わんが、一色か……。一色はなぁ……。奴はあれだな、金の延べ棒ちらつかされたらころっといきそう。俺もころっといくから、誰か金の延べ棒いっぱいちょうだい!

 

 

   みんなの参考になればいいな

   あたしの欲しいものリスト書いとくね?

   3位! Hamantha Tiaraの花びらモチーフネックレス 3万円くらいのやつ

   2位! THE FRANCEKISSのゴールドリング 3万円くらいのやつ 

   1位! 0℃のオープンハートネックレス 3万円くらいのやつ

 

 

 なめとんのか! 自分で買え!

 なんだよ『3万円くらいのやつ』って。欲しいアクセサリーの詳細を指定するんじゃなくて金額指定しちゃうのかよ。

 これってあれでしょ、別にそのネックレスとかが欲しいわけじゃなくて、貰ったプレゼントをメルカリ的な場所で売り捌いて儲けるつもりなんでしょ? クリスマスとかホワイトデーの直後に大量出品されてるあれでしょ? 八幡知ってる!

 おー、怖っ。女子、マジ怖い。女子大生とかに多そうだよな、こういうの。大学進んでもリア充女子とかサークルの姫には近寄らんとこ……。

 女子という生物の現実を垣間見て恐れ慄き、さて次のサイトでも見てみようかなと思ったところで、『まもなく、津田沼、津田沼。お出口は……』と継ぎ接ぎ感ある女性の自動放送が耳に届いた。残念ながら、参考になるものが見つけられないまま、目的の街に着いてしまったようです。

 ドアが開いて、他の乗客たちに続いて俺も降りる。

 さて。どうしようか。ここは手堅く、ハルコでも行ってみるか……? いや、けどあそこはまさに女性向けファッションビル。男の俺が一人で女性向け専門店を見て回るのは辛い。困ったな、マジ困った。

 ……とりあえず、先に飯食ってから考えるか。

 などと先延ばししつつ、俺は北口のラーメン屋へ向かうことにした。

 久しぶりに、なりなりたけたけしちゃおーっと♪

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 やっぱなりたけって最高だわ!

 腹ごしらえを終え、こってりこてこて大満足で店を出て駅へ向かう。

 さて、帰るか。

 改札口へ向かい、Suicaを懐から出したところでふと気づく。

 いや帰っちゃダメだろ。まだ何も用事済んでねえよ。

 や、やっぱりあれですかね。ハルコの専門店見て回ったほうがいい系ですかねこれ。俺、そんな勇気ないんだけどなぁ。不審者扱いされて通報されちゃったりしないよね!?

 こんなことなら一度くらいはリア充を経験しておくんだったぜ……。

 けれども俺はぼっち。これまでずっと独りだった人間であり、んなこと言ったところで今は何の足しにもならないのだ。勇気を振り絞って、女性たちで賑わうファッションビルへ突撃するとしますか。

 しぶしぶながら、足をハルコへ向ける。

 西進ハイスクールや川合塾などの予備校がひしめき合うビル街を通り抜けると、駅前通りに面したファッションビルが姿を表した。連絡橋を挟んでA館とB館の二館構成になっているこの商業施設は、千葉の葭川公園にあった千葉ハルコが閉店して以来ますます若い女性やデートのカップルで賑わっていると聞く。

 ここが敵の本丸、リア充どもの巣窟か……。あれだな、やっぱり一人で攻め入るのは気が引けるなぁ……。

 がんばれ八幡♡(CV. Saika Totsuka)。

 うん! 八幡がんばる!

 脳内戸塚に背中を押してもらって、いざ店内へ!

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 ……俺はもう、死にました。

 ハルコの中は至る所にリア充リア充またリア充。どいつもこいつもおててつないで腕組んで、いちゃこらいちゃこらしやがってクソ。なんで週末に制服デートしてる連中がこんなにいるんだよ、予備校でも行って勉強してろ勉強。

 すっかり気分はげっそり落ちこんで、とぼとぼとハルコを後にする。

 特にこれといってよさげなものは見つからなかったというか、まず俺が中に入れるショップがなかった。だいたい、若い女性向けのファッションなんてとんと知識がなければあまり興味ないし、なんなら若い女性向けで興味があるのは下着とか女子高生の制服くらいだ。無理があるというもの。

 まさかランジェリーショップを覗くわけにもいかないしな。俺好みの下着をつける一色いろはとか想像してみると……うむ。めちゃくちゃ興奮するものがあるな! だが、下着なんてプレゼントしたら社会的に死ぬこと確実である。

 一応ちむたすブログを参考に、一瞬だけジュエリーショップ的な店も覗いてみたものの、まず俺の手持ちで買えるような品は置いてなかった。あんなもん恋人や婚約者、嫁さんなどに贈るもので、高校生が親しい後輩女子に贈るものではない。

 そうだ。

 俺はまちがっていたのだ。なにも一色が女子だからと、ファッション的なものを贈る必要はないわけで。

 やっぱり文房具とか日用雑貨で、けれども単なる先輩後輩のプレゼント的なテキトーな品ではなく、ある程度感謝の気持ちを伝えることができるようなもの。あるいは、いまはさほど役に立たなかったとしても、将来的に色々と役に立つような品。そんな感じのものは、何かないだろうか。

 とりあえず新津田沼のヨーカトーやイオソモールの方にでも向かいつつ、ひとつひとつ整理しながら考え直してみよう。

 まず、一色のことから。

 一色いろはといえば?

  ・あざとい

  ・かわいい

  ・ゆるふわ清楚(系隠れビッチ)

  ・希少な亜麻色の地毛の持ち主

  ・幼さが残る華奢な印象や身体が魅力

  ・細いふとももに小ぶりなお尻

  ・撫で下ろしやすそうな控えめな胸

 おお、こうして特徴を並べてみると、一色ってすげえ逸材だな。やっぱ妹系美少女アイドルとかやれば、業界トップを目指せるんじゃねえのあいつ。みんなのアイドル、いろはちゃんだよー♡ とかやりゃ、そこらの男は全員いちころだろ。

 あとはあれか。

  ・サッカー部の美少女マネージャー

  ・美少女生徒会長

  ・実は意外と仕事ができる

  ・実は意外と真面目らしい

  ・実は意外と頭も良さそう

  ・将来は数年腰掛けての寿退社志望で、編集者と結婚したいらしい

  ・俺に就職先として編集者をおすすめしている

 おいおい、あいつまさか、俺を編集者にして仮面夫婦になって実質奴隷化した上で悠々自適な生活を送るつもりじゃ……。怖い、いろはすにおちんぎん搾られちゃう、やだ怖い!

 まあ冗談はそのくらいにしておくとして、つまり一色は意外や意外にデキる女なのかもしれないな。要領掴むのも早くて上手いし、わからないことでも指示さえ受ければ見事にこなしていける能力がある。やる気を出したときのあいつは雪ノ下や由比ヶ浜ですらびっくりの凄さを見せることすらあるのだ。生徒会の仕事も、ちゃんと頑張っているようだし。

 だとすれば、最適なものは長く使えるビジネスアイテム系?

 万年筆的なもの……は、いくら仕事といえども、生徒会だけでなく将来の就職後もたぶん使わないよな。

 事務用品的なものは、生徒会なら生徒会、将来なら将来に経費として買うべきもので、俺や個人が買っちゃダメだ。

 将来必需になる品で、長く使えて、けれども自分じゃなかなかきちんとした品は買わないもの、なんかないか……?

 ……そうだ、あるわ。そんな品物が。

 印鑑、とかな。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 印鑑と一口にいっても、色々あるだろう。

 認印、訂正印、銀行印、実印、公印などの用途別から、三文判、手彫り印、高級象牙印、シヤチハクのXスタンプ、百円ショップのお手軽スタンプ印などのつくりの別も含めると、俺の未だ知らないものまで五万と存在するかもしれない。

 中でも、将来的に必需になるであろう品といえば、家常備か持ち歩く用の認印、銀行印・実印、そして仕事で使えるシヤチハクの9ミリ。事務や営業などの職で働くようになればシヤチハク6ミリの訂正印も必要になる。

 この中からプレゼントとして贈るのに適したものを考えると、個人情報である銀行印・実印用の印鑑はまずいから除くとして、認印用・シヤチハク9ミリの二本セットなんていいのではないだろうか。いや、一色がハンコなんて貰って嬉しいかどうかは知らないが、必ず役に立つものであることはまちがいないのだ。

 それに、一色は生徒会長として色々書類チェックとかもやっているだろうし、判を押す機会があるかどうかは知らないが、もし生徒会で使えるなら使ってもらいたい。

 ――ということで、プレゼントとして贈るものは決まった。

 やってきたのは、駅近くのはんこ屋さん。ここでぱぱっと彫ってもらうことにする。

 昔ながらの店とは違いチェーン店と思わしき店内は、事務用品や文房具を扱った店のように整然としていた。特に先客はいないようで、店員の姿が一人見えるのみ。ずいぶんとさっぱりしているなぁという印象。

 シヤチハク9ミリの回転式陳列棚から、『一色』の印を探す。すぐに見つかり棚から引き抜いて、続けて認印用の彫り印を探す。

 シヤチハクはそれなりの価格なので、認印用の印鑑はそれほど高いものは買えない。千円前後で良さげなものがないかなと、ショーケースに展示された見本を覗いてみる。

 アクリルかプラスチックか、材質はわからないが、天然石のように透き通った各色の印鑑に、実用的な黒や白、女性向けらしく柄が入ったものもある。その中で、ひとつ、ひときわ目を引くものがあった。

 桜色のボディに、白いプリントで桜花や散る花弁が小さくいくつも散りばめられた、可愛らしいデザイン。素材は見たところでよくわからんが、ちゃんとしたものらしい。お値段一本、彫刻代と、同じデザインの印鑑ケース込みで二千五百円。

 四月生まれという季節的にもぴったりだし、淡いピンクのカーディガンを愛用している一色いろはのあざとかわいいイメージとも合致する。

 だいぶ予算オーバーな感じだが、これにしよう。

 サラリーマン風にスーツを着た店員に声をかけ、ついでに自分用の認印でも作ってみるかと一本彫刻代込み五百円の黒い印鑑を一緒にお願いする。比企谷って珍しい姓だから、こういう機会じゃないとなかなかハンコ手に入らないしな。

 店員から、「パソコンで印影を制作して、工場にある自動の彫刻機にデータを転送して削る」とかなんとか説明を聞き、自宅へ宅配で受け取りは木曜日になることがわかった。なので、今日のところはこれで撤収だ。お代を先払いして、シヤチハクだけ持って店を後にする。

 うーん、とりあえず買ってみたはいいけど、これ喜んでもらえるものかどうか……。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 金曜日。

 一色の誕生日は、残念ながら日曜日でお休み。一足早いが、今日のうちに渡しておこうと思って、生徒会室へとやってきた――のだが。

 今日は生徒会本部の定例会があったらしく、一色は副会長ほかいつもの生徒会役員メンバーと書類を忙しそうにチェックしていて、うっかりその場にやってきちゃったもんだから、用事を伝える暇もないまま俺も手伝わされる羽目になってしまった。おかしい……こんなことは許されない……。頼みかたが可愛かったから許しちゃうけどね。ちょろい、俺!

 それからしばし、紙をぺらぺらばさばさどんどんといじくり回す作業を続けてから、ようやく終わって解散となった。副会長たちは先に帰って、部屋に残るは俺と一色のみだ。

 

「はー……。先輩のおかげで早く終わりましたー。ありがとうございますー」

 

 ここ最近ずっと生徒会仕事あって疲れちゃいましたー、などとぶつくさ愚痴りながら、一色は炬燵にもぞもぞと入り込む。こいつが持ち込んだ生徒会室に似合わぬ家具は、春になった今もまだまだ活躍中であるらしく、シンプルな淡いピンク色のもこもこ毛布が実に暖かそうに俺を誘っていた。

 一色をまねて、俺ももぞもぞと炬燵の住人となる。中はとってもあったかい。

 あ~、アイラブ炬燵。

 

「……って、そういえば先輩、なにかご用でしたか?」

「それ、先に聞けよな……」

 

 ちょっと文句を言いたくなるような気もするが、せっかくの誕生日祝いの品を渡す前にいらんこと言うのも憚られる。

 昨晩家に届いて、すぐにチェックしてカバンに入れていた白いケースを取り出し、炬燵天板の上に置く。見て首を傾げている一色に伝えた。

 

「ちょっと早いけど、十七歳の誕生日おめでとさん。それ、貰って嬉しいかはわからんけど、とりあえず俺からのプレゼントな」

 

 聞いて驚いたのか、一色は「えっ、マジですかマジですか!?」とか騒ぎながら、びっくりしましたと言わんばかりのジェスチャーを見せた。

 

「マジもなにも、ほれ、この前小町の誕プレ探すの手伝ってもらったろ。お礼も兼ねて、四千円だぞ」

「四千円……。うっ、先輩ありがとうございます。けどそれなんかプレッシャー凄いです」

「プレッシャー?」

「わたしも先輩の誕生日奮発しなきゃですよね」

「いや、別に気にすんな。なんなら何もなしでも構わん」

 

 お礼のお返しのお返しのお返しの……の無限ループになっても困るし、お返し目的で奮発したわけではないから、そこらへんは逆に自重してもらいたいところではある。というか俺の場合、百均のお安い商品一個でもプレゼントとして貰えたら、それだけでもじゅうぶん嬉しいのだが。

 

「中身、見てもいいですか」

「ん。つっても期待するなよ、気に入るものではないだろうし」

「えー、それ逆に中身超気になるじゃないですか」

 

 わくわくと期待した面持ちで、一色が包装の白い紙ケースの蓋を開けた。

 華奢な指先がつまむようにして持ち上げたのは、黒い印鑑。

 ……ん? あれっ?

 やっべ、俺、カバンに入れてくる箱まちがえた……。

 

「比企谷……えっ」

 

 一色が印鑑の印面を見て、なぜか顔を真っ赤にする。

 明らかにプレゼントと別のモノをまちがっているパターンだし、これはもしかしなくても激怒させちゃったかしら。

 と、思ったのだが。

 

「ひ、ひき、比企谷って、これなんですか! ま、まさかあれですか! お前に俺の苗字をやるから嫁になれ的な感じのあれですか! 全然心の準備ができてないんですけどめちゃくちゃ嬉しいですし今断ったらもうこんなチャンス二度とこないと思うので受けますこちらこそ結婚してくださいよろしくおねがいします!」

 

「お、おう、よろしく。……は?」

 

「ちなみに結婚届はいつ出しに行きますか? ふたりとも大学卒業してからですか? それとも高校卒業してからですか? わたし的には先輩の十八歳の誕生日がいいなーとか思うんですけどどうですか? あ、それよりまずはお互いのご両親に挨拶して許可貰ってこなきゃですよね! 先輩がお暇な日ならいつでも――」

 

 真っ赤な顔のまま、あたふたと身振り手振りでマシンガンのように言葉を続ける一色の姿を眺めつつ、ふとこんなことを思った。

 この子、自分が何言ってるのかわかってるのかしら。あとで死にたくならないでね。と。

 ……この様子じゃいまさら、実は誕生日プレゼントと自分用間違えて持ってきました、なんて言えないよなぁ。

 けどまあ、一色がその気なら、俺としては悪くない。とは思う。

 がんばって編集者になってやるから、結婚しようぜ!

 

 

 

    了

 

 

 

 

 




お察しの通り、最後のオチが書きたかっただけである部分は多分にあるようなないような。そんな感じです(意味不明)。

原作の刊行がストップして二年、アニメ続も終わってからだいぶ経っているのに、未だファンも多くこれだけの数の二次創作が作られ続け、公式グッズもコンスタントに販売・再販されているあたり、俺ガイルという作品もいろはすというキャラクターも多くの人から愛されているんだなぁと、しみじみ思います。
来年もまた、みんなでいろはす生誕祭を祝えるといいですね。

さて、次話もいろは生誕祭記念。こんどは全く別のお話となります。


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好きな人ができてしまった。

2017年04月16日・いろはす生誕祭2017の記念SS。
実はこちらが第1弾。内容的には八→色です。




 

 好きな人ができた。

 いや、好きな人ならこれまで何度だってできた。幼稚園の頃、小学校の頃、中学校の頃、視界に入った見た目かわいい女子にすぐ惚れて、好きだと思って、告白したことだって何度もあった。

 けれどもそれは、今考えてみれば、恋と言えるものだったのかどうか自信がない。ただかわいいから好きだと思ってしまって、あるいはただ話しかけてくれたことで勘違いしてしまって。そんなもの、ただの未熟者の勘違いで、恋なんて言わないのではないか――と。

 だから俺は、以来ずっと気をつけてきた。

 勘違いしてはいけない。自意識過剰になるな。それは恋ではない。恋愛感情としての〝好き〟とは異なる感情だ――と。

 なのに、好きな人ができてしまった。

 俺なんかでは全然釣り合わないほどの美少女で、世界一かわいくて、あざとくて。

 手を伸ばそうにも、決して届くことがない場所にいて。

 あいつは葉山に気があるはずだから、俺なんて論外に決まっているのに。

 だから俺は、こんな気持ちはただの勘違いだと。妹を大切に思う気持ちと同類の感情でしかないと。心の中で、何度もそう否定してきたのだ。

 だが結局、好きになってしまった。

 中学時代の勘違いと似たような感情を、あの頃よりもずっとずっと強く確かに抱いてしまっている。これも勘違いなのか、それともこれこそが確固たる恋愛感情なのか、わからないけれども。

 とにかく、大好きなのだ。

 

 一色いろはのことが。

 

 不思議なもので、一度でも好きだと思ってしまうと、以降はもう否定しようとすればするほど一色いろはの存在を強く再認識させられ、更に大好きになってしまうのだ。なんなら世界で一番愛してるまである。今なら、一色いろはのかわいいところや大好きなところを二十四時間ぶっ続けで語れそう。誰かに聞かせたい、この熱く昂るいろはす愛!

 さて。

 となればやることは、ただひとつだ。

 告白である。

 タイミングがいいことに、一色の誕生日が来週日曜に迫っている。考えたのは、誕生日プレゼントとして良さげなものを用意して、渡すついでに告白しちゃおう作戦。当日はお休みだし、月曜は奉仕部で誕生日会があるから都合が悪く、念のため金曜を予備日として、少し早いが木曜日に実行しようという計画だ。

 めちゃくちゃ浅はかな考え方だろうが、どうせ振られるならば、いっそのこと捨て身の告白といこうじゃないかと思ったのだ。ばっさり振られてしまえば諦めもつくというもの。プレゼントも、要らないなら売っぱらってもらえばいい。

 というわけで、春休み中に久々のアルバイトをして、稼いだお金で奮発して、いんたーねっとさんを参考にあるものを用意した。

 モノがモノだけにドン引きされる可能性大だが、喜んでもらえたらいいなぁとちょっとだけ期待しつつ、忘れないようにカバンに収めておく。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 実行当日、昼休み。

 事前にちょろっと伺っておいたところ、一色は近頃いつも生徒会室でぼっち飯と洒落込んでいるらしい。俺にとってのベストプレイスが寒くてバッドプレイスと化しているうちに、一色は年中快適なベストプレイスを手に入れていたということで、なにそれずるい。俺もご一緒したい。

 何はともあれ、ならば好都合だ。昼休みのうちに生徒会室へ突撃して、高まるこの想いをあいつの薄い胸にぶつけてしまおう。

 昼飯のあま~い菓子パンをマックスコーヒーでぐぐっと流し込み、頃合いを見計らってカバンを引っ掴んで席を立つ。教室を出て廊下を進んで、生徒会室前へとやってきた。

 目の前に、こちらとあちらを分け隔つ扉。開ければそこに奴がいる。

 さながら、プレイ開始直後のはじまりの街がいきなりラスボス部屋だったようなもので、ゲームバランス崩壊なんてレベルじゃない。きっと俺は、即死することになるだろう。

 しかし不思議なことに、緊張といったような感覚はない。手もそれほど震えないし、心臓もそれほどバクバク鳴っていない。どうせ振られるとわかっているからこその落ち着き――とでもいうんだろうか。それとも、告白なんて行為は久しぶりのことだから、感覚でも麻痺しているのか。

 念のために一呼吸置いてから、こんこん、と扉をノックする。

 すぐさま「はーい」と間の抜けた声が聞こえ、続けてガラス窓の向こうに一色の姿がひょこっと現れた。あぁ、かわいい。

 

「あれ? 先輩、こんにちはー」

 

 扉を開けながらのご挨拶。

 ただ挨拶しているだけなのに、なんてかわいいんだ……。

 

「……うす。ちょっといいか?」

「はい、どぞどぞ」

 

 生徒会室を、それも昼休みに訪ねたことが珍しいからだろうか。不思議そうに首をくりっくりっとしきりに傾げながら、一色が俺を招き入れる。なにその仕草、超あざとかわいい。

 一色の横を通り抜けるようにして、奥へと進む。瞬間、ふわっとフレグランスやトリートメントの甘い香りが鼻に届いた。

 今日もいい匂いだなぁ……。なんで一色、こんなにいい匂いするんだろうなぁ……。一色と同じア スイのフレグランス使ったら、毎日好きなだけ一色の匂いを嗅げるのかなぁ……。

 これから告白しようって時に、なに変態なこと考えてるんだっつうね。けどしょうがないよね。俺、純粋な男の子だもん!

 

「それで、どうしたんですか? あっ、もしかしてー、わたしと一緒にお昼ごはん食べたくなっちゃいましたかー?」

 

 ピンク色カーディガンの萌え袖を口元に当て、くすくすといたずらっぽく一色は笑う。見れば机の上には小ぶりな弁当箱が置かれていて、中身はもう既に空だ。一緒に食べるも何も、こいつもう食い終わってるし……。

 あー、しっかしムカつくなーこいつのこういうところ。何がムカつくって、このいたずらっぽい笑顔もかわいすぎてムカつく。けどかわいいし一色だから無条件で許しちゃう。懐深い、さすが俺。

 

「生憎、俺も今日の昼飯はもう食っちまったんだが……、もしも俺が『これから毎日一緒に昼飯食ってくれ』とか返したらどうするんだ。食ってくれんの?」

 

 聞くと一色は、しばしぽけーと考えた後に、これまた誂うような笑顔で言う。

 

「ふふっ、そうですねー……。いっつもぼっちごはんの可哀想な先輩のために、わたしが腕によりをかけてお弁当作ってきてあげましょっか?」

 

 なにそれ、ぜひ宜しくお願いしますと口を大にして言いたい。が、ひとつ誤解があるようなので訂正したい。こればかりは譲れないのだ。

 

「俺は可哀想な存在じゃない。一人で率先してぼっち飯してるんだ。ていうか、お前だってここでぼっち飯してるだろ」

「わたしはここが落ち着くからなんとなくここで食べてるだけで、ぼっち飯してるつもりじゃないですしー。誰かと食べようと思えばクラスで男子が一緒に食べてくれますもん」

 

 つんと唇を尖らせて、心外だとアピールする。

 くっ、ゆるふわ隠れビッチめ。わたしは先輩と違ってモテますよアピールかよ。

 けどそれって、男子からはモテても、一緒に昼飯食ってくれる女子は一人も居ないってことですよね……。

 この様子だと例の生徒会役員選挙や先日のクラス替え以降も、学年内での『一色いろは』の立ち位置はあまり変化が起きていないのかもしれない。ていうか、一色ってあまり自分のこと語らんから、いじ――悪ノリが続いているのか解消したのかもわからんしな……。仮に一色へのアンチが解消したとしても、ヘイトを解消することは不可能だろうし。一度逆恨みして憎んだ相手を好きになれ、なんて簡単なことではないのだから。

 まあなんにせよ、限度を超えて一色を傷つけるような奴が今後現れたとしたら、俺がそいつをぶっ殺してやる。……あくまで社会的にね? 俺はよほどのことがない限り、暴力には頼らないよ?

 などと強く意思を固めたところで、感触を掴む意味でも、ためしに言ってみる。もし反応が悪いようなら、この後の告白も望み薄だろう。

 

「なら、仕方がないな。手作り弁当はさすがに悪いし遠慮しておくけど、これからは俺がここで一緒に飯食ってやってもいいぞ。お前も俺もぼっち飯回避できて、WIN-WINだろ」

 

 それある! そうしようぜ!

 

「いや、なにドヤ顔で誇らしげしてるんですか。言ってること超情けないですよ……」

 

 呆れ半分お情け半分といった表情で、一色は小さくはぁと溜息を吐いた。

 しかしすぐさま「仕方がないですね」と言って、きゃるっとあざとく表情を変える。なんだそれ、めちゃくちゃかわいいなお前。

 

「明日から、一緒に食べましょうね?」

「え、マジで?」

「こんなことで嘘なんてつきませんよ」

「それで明日俺がここに来たら、鍵かかっててお前来なかった的なオチは?」

「先輩、過去にどんなトラウマ抱えてるんですか……」

 

 ごめんね。色々あったんだよ、色々と。

 しかしそれにしても、マジで明日からここで飯食っていいのか? ほんとに? ……なんつうか、マジで嬉しいよ、俺。

 いや待て、待て待て。こんな事で喜んでちゃだめだろ。ここに何しに来たんだよ。達成してないうちから達成した気分に浸ってどうする。

 けどもし振られちゃったら、明日からの昼飯はまたぼっち飯なんだよな……。せっかく一色とふたりきりの昼休みを手に入れたのに、無駄にしていいのか? だが一方で、告白しなかったら今後もずっと片想いのままになってしまいかねない。このために用意したプレゼントだって渡しそびれてしまう。

 ……あー、もう。我ながら情けねえなほんと。

 よし。

 いっちょ、やりますか。

 カバンを長机に置いて、中から小さな紙袋を取り出す。更にそこから白い箱を。青いリボンでシンプルに飾られたものだ。

 突然がさごそはじめた俺を訝しんで見ている一色へ、箱を突き出してやる。

 こういう時、まずは何と声をかけるべきなのだろうか。

 わかんねーよ。

 わかんねえけど、わかんないなりに。

 

「次の日曜、誕生日だろ? 少し早いけど、万が一にも明日とか月曜に忘れちゃうとあれだから先に渡しとくわ」

 

 つっけんどんな口ぶりになってしまったかもしれないが、俺としてはまずまずだろうと自己評価。一色がどう思うかは知らん。

 さて反応はどうでしょうかと、顔色を伺う。

 一色の視線は、俺が突き出す白い箱の隅っこ、ブランドロゴマークが印刷された場所をぽけっと見つめて、そのまま固まっていた。

 

「…………」

「っと、どうした?」

 

 お気に召さなかったのかしらと不安になる。

 女子高生はこういうの喉から手が出るほど欲しいって、ぐーぐるさんが紹介してくれたブログが言ってたんだけどなぁ。一色の好みではなかったのかしら。

 やっぱ、この選定は失敗だったか? ドン引きされたか? 告白に辿り着く前に気持ち悪い奴扱いされたら嫌だなぁ。どうしよう、時間巻き戻してなかったことにしたい!

 今になって胸の奥から後悔の感情が湧き始めたところで、突然と一色が我に返ったように頭を上げ、しゅばっと距離を取った。

 

「な、な……」

「……な?」

 

 憤慨しているのか顔を真っ赤に染めて目に涙を溜め、口をぱくぱく動かしている。言葉を出したいけど声が出ないといった感じらしい。が、すぐにいつものあれがはじまる。

 

「なんですかなんですか! ま、まさかあれですかプロポーズでもするつもりですか、いきなり0℃のアクセとか渡されて結婚申し込まれても困るのでひとつひとつ手順を踏んでからもう一度プロポーズしてもらっていいですか、ごめんなさい!」

 

 いきなり振られちゃったんですけど。まだ告白してないのに!

 ん? 振られたのか? いや、振られてはいないな。いきなりプロポーズすんなって言われただけだもんな。なら全然まったく問題ない。むしろ、振られなかったということは、まだまだチャンスがあると見ていいまである。勝ったな、ガハハ!

 なお、これから振られる模様。

 

「別にプロポーズはしてないんだが……」

「え、あ。っていうかそういう問題じゃないですよ! なんですかこれ、0℃のアクセですよね……? わたしなんてただの後輩でしかないのに、こんなすごいの誕プレでもらっちゃっていいわけないじゃないですか」

 

 ずいぶんと萎縮した様子で、ぶんぶんと手を振って受け取らない意思を見せる。

 箱の中身は、若い女性に人気のブランドが出しているアクセサリーで、高校生からすればちょっとお高い品物だ。

 

「……ただの後輩に、こんな高いもん贈るわけないだろ」

「け、けど、それって……」

「とりあえず、なんだ……? 中身確認してから受け取るか受け取らないか判断するってことじゃダメか?」

 

 外の箱だけではなく、中身を確認してもらいたいもの。

 俺のセンスなんて当てにならんし、ズレまくってるかもしれんが、恥を忍んで千葉そごうまで行って一色に似合いそうなものを選んできたのだ。受け取ってもらえなかったとしても、せめて感想くらい聞きたい。

 

「……わ、わかりました。開けちゃいますよ?」

 

 ごくりと唾を飲む仕草を見せて、一色は俺よりもずっと緊張した様子で箱を手にした。

 机に置いて、しゅるとリボンを解き、上蓋が外される。

 

「えっ、えっ……」

 

 戸惑ったように左の萌え袖で口元を抑えながら、収められていたケースにそっと触れる。

 透明なアクリル製と思わしき蓋はダイヤモンドカット風にきらめいていて、ケースそのものは鈍い金色に着色されている。そんな、バースデープレゼント向けの専用ケース。

 ちなみにケースだけでも二千円弱である。アホか俺は。はい、アホです。

 

「ま、待って先輩……。これ以上無理。先輩殺してわたしも死にます」

「おい、いきなり物騒なこと言うな。意味わからん」

 

 一色が取り乱しているので、代わりに俺が蓋をぱかっと外してやる。

 覆い隠すものが一切なくなり、現れたもの。

 透明感あるシルバーの、シンプルなオープンハートネックレス。ハートのチャームの中央には、ダイヤモンドとアクアマリンが、どちらもサイズこそ小粒ながらも美しく輝き、しっかりと存在感を放っている。

 見た瞬間から絶句してしまっている一色に、とりあえずコンセプトだけでも伝えようと、俺はぼそぼそ声を出す。

 

「ほれ、この真ん中にところにぶらさがってる水色の石がさ、明るく可愛らしくきらきら輝いてるだろ? そんでもって、シルバーのチャームも鎖も、余計なデザインがない感じが、着飾りすぎない透き通った水みたいな感じで、一色いろはに似合うんじゃないかと思って……」

「…………ちなみに、これ、おいくらでした?」

「本体とケース、合わせて二万弱とかそんな感じ」

 

 ごまかさず素直に伝えると、一色は再び溜息を吐いた。

 

「先輩ばかですか……。どうしてこんな高いもの……」

 

 驚きが過ぎ去って、回り回って呆れるしかないという感じなのだろうか。だがこの程度で呆れられちゃ困る。これから俺は、もっと呆れられてしまうであろうことをするのだから。

 回りくどいことはもう必要ない。

 あとはもう、単刀直入に。ストレートに。ド直球で。

 

「なんつうか……。一色のこと、好きになっちまったから。んで、俺と付き合ってくれって気持ちを伝たかったんだが、なんか自分でもどうしていいかわかんなくなってさ」

 

 言うだけ言って、一色の言葉を待つ。

 どんな答えが返ってくるだろうかとかは、考えないでおく。考えれば地獄のような時間になるから。

 若干の間を置いて、一色が口を開く。

 

「……ありがと、です」

 

 それだけ呟くと、俯きなにやらもごもごと唇を動かしはじめる。微かに声が聴こえるが、言葉としてはっきりと捉えることは叶わなかった。眼前に垂れた前髪が邪魔になって、表情も見えづらい。

 やがて、一色は納得いったふうに顔を上げる。その頬には、一滴、二滴と光る物が伝い流れていた。袖からちょこんと出した指先でぐしぐしと拭いながら、むすっとむくれる表情を作った。

 

「告白の答えより先に、先輩に言っておきたい文句がいくつかあります」

「文句?」

 

 思いがけない台詞に、つい首を傾げさせられる。

 文句とはなんだろうか。やっぱり俺、何かまずいことでもしてしまったのだろうか、と。思い当たる節はある。

 

「ひとつ。高校生にとってこれは高額商品ですよね? こんなの突き出されながら告白されたら、大好きな相手だったとしても普通はドン引きです」

 

 お、おう……。やっぱそうだよね。一応、そうだろうなとは思ってはいたんだよ? ただ他に思いつかなくてね?

 

「ふたつめ。どうせなら、事前に誕生日デートを申し込んで、当日に告ってほしかったです」

 

 ひとつふたつと指折りしながら、諭すように一色が語る。

 ……デート? デートか。まったくさっぱり考えてすらいなかった。くっそ、その手があったなんて、なぜ気づかなかったんだ……。つってもあれだな、仮にデートするとしてエスコートできる気がしないが。

 

「それともうひとつ。これ、とにかくお値段的に高すぎますから、わたしからのお返しも同じくらい奮発しなきゃですよね? じゃないとフェアじゃないですし、受け取れません」

「い、いや、別にお返しとか見返りは求めてないんだが……。単に気持ちというか。それにもし要らないようならメノレカリとかで――」

 

 情けなく言い訳しようとする俺を遮るように、一色が真面目くさった表情で続ける。

 

「だから今日の放課後、部活終わった後とかでもいいんで時間作ってくださいね? 0℃のショップ行って、わたしチョイスでおそろいに見えるネックレス買ってあげますから。その代わり毎日欠かさず身に着けること」

「お、おう……」

「以上です。……答えはもう、いまので伝わりましたよね?」

 

 そこまで言い終えてから、一色はネックレスを指先で掬うように取り、手早く自らの首にかける。緩めたスクールシャツの胸元で、オープンハートのシルバーチャームと水色の石がきらりと光を反射した。

 

「どうですか?」

 

 上目遣いでじっと俺の瞳を見つめ、感想を待つ。

 生憎、俺はこういう性格なもんで、気の利いたことは言えそうにないが、思ったことをそのまま言葉にすることならできる気がする。

 

「……狙い澄ましたあざと可愛さって感じで、似合ってるな」

「それ褒めてるんですかね……」

「褒めてるんだよ。お前のあざと可愛い仮面の部分も素の部分も全部ひっくるめて、好きだって思ったの。何? 悪い?」

「や、悪態ついてどうするんですか。せっかくかっこいいこと言ってるなーと思ったのに、最後ので台無しです」

 

 今日一番の大きな溜息を、一色が肩を竦めて吐く。

 呆れられっぱなしの俺だが、それでも告白はOKの返事をしてもらえたらしい。ということはつまり、もう俺たちは恋人同士ということになるのだろう。

 恋人同士。

 ……え、うっそお前、なに、俺リア充になっちゃったの!? 恋人ってことはあれでしょ、そのうちお手々繋いで腕組んでデートしたり、ぎゅってしちゃったり、キスしちゃったり、いつかはそういうこともするようになるってことでしょ?

 どうするんだよ……。ヤバいだろ。まじヤバい。ていうかこの子、葉山のことは良いの? 俺なんかと付き合っちゃっていいの……?

 想定していたのは【告る→振られる】の流れのみで、振られなかった場合のことなんて考えてすらいなかった。

 思いがけない結果。

 けれども。

 俺なんかに、こんなに可愛い彼女ができたのであれば。

 とりあえずは、嫌われちゃわないように、そして一人前の彼氏として認めてもらえるように、頑張ってみようじゃないか。

 

 

   了

 




いくら好きな相手だからと、高校生が“よんどしー”のアクセを贈るかどうか謎ですが、ぶきっちょな八幡だからこそ前へと踏み出そうとした時、こういう感じの暴走気味な行動があってもいいのかなーと思って書きました。

まあ、なぜよんどしーなのかといえば、実はただ単純にわたしがあのブランドのデザインが好きなだけなんですけども。

(次のお話は、いろはす生誕祭2016記念SSとなります)


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一色いろは生誕祭2016
八幡がいろはすのブレザーとカーディガンに興奮するおはなし。


一色いろは生誕祭2016にあわせてSSを投稿しようと色々書いているうちに、その全てがいろはすのシリアス失恋モノになってしまい無事死亡、前日になってなんとか無理やり書き始め、当日00:00に強引に投稿したものがこの作品でした。
作者自身、読み直して「なんだこれ」な作品と言わざるをえないような。恥ずかしながら、すみません。

なので、丸々一年後の2017年4月16日にちょっとだけ改稿してみました。……が、基本的には元の作品のままですので、またいずれ内容を正していければいいなと。




 

   『つまりだ、制服を着ている一色は最高ってことじゃないか!』

 

 

「……ブレザーがある」

 

 土曜日。

 勤勉なのかなんなのか、休みなのに生徒会の仕事があるらしい一色から個人的に手伝いを依頼されてしまったので、こうしてわざわざ登校して生徒会室へやってきた訳だが。

 あろうことかその一色がいないし、それどころか誰もいなかった。

 まあ、もともと俺も今日は一色に大事な用事があったし、別に良いんだけどさ。でも、自分から呼び出しておいて居ないってどういうことよ。

 鍵はちゃんと開いていたし、蛍光灯もついているし、机の上にスクールバッグが置かれていて、椅子の背もたれにはブレザーとチェリーレッドのカーディガンがかけられている。襟の前合わせとサイズ的に、女子用のものであることは間違いない。そしてこの色のカーディガン。持ち主は恐らく一色だろうと思うんだが。

 平塚先生から呼び出されて席を外しているとか、トイレにでも行っているとか、まあそんなところだろうが、訪ねていきなり誰もいないっていうのはちょっと気が抜けるな。

 椅子に座って待っとくか。

 

 うん。

 しかし、なんつうの?

 これって、ただの布地なのに妙に気になるよな。

 別に誰彼構わず女子の制服ならなんでも興奮する変態男って訳じゃないぞ? 以前、由比ヶ浜と雪ノ下が部室を立った時にブレザーを脱いでいったことがあったが、その時はそれほど特にはエロい気分にはならなかったし、一色だからこそ気になるっていうかだな。

 それにほら、制服っていうものに興奮してるわけじゃなくて、どっちかっつうとアレだよアレ。好きな女子のリコーダー舐めたり、好きな女子の体操着を盗んだり的な?

 うっわ、なに言っちゃってんの俺。より最低だからねそれ。

 一応断っておくが、俺にはそういう経験はないぞ?

 単にあれだよ、あれ。あいつあざといけど見た目はめちゃくちゃ可愛いし、年頃の女の子らしいあどけないスタイルもなんかエロいし、俺にベタベタ甘えてくれるし、最近はあざといところも可愛いとか思えるようになっちゃってるし。わかるだろ?

 って、誰に言い訳してるんだよ俺。

 

 あー。にしても、なんでこんなに俺を誘惑してくるんだこの布地は。

 触っちゃうか?

 いやいや待て待て。ダメだろ。もしバレたら確実に一色から嫌われるし死ぬ。社会的な死じゃなくて俺が自殺するって意味で生物学的に死んじゃう。

 だが、一色のブレザーやカーディガンを好きなだけ触れるチャンスなんて、これを逃したら二度とあるかわからないよな……?

 待て待て、ほんと待て。落ち着け落ち着け。一色の制服なんかに興奮するな。俺が好きなのは一色の制服じゃなくて中身だろ?

 いや、やっぱ制服も大好きですねぇ、はい。

 

 あ、ということはつまり……。

 つまりだ、俺にとって〝制服を着ている一色〟は最高ってことじゃないか!?

 いかんまずい。変な気分になってるからテンションがおかしくなった。

 だいたいあれなんだよなぁ。何度も何度も振り回されているうちにいつの間にか一色のこと気になっちゃってたし、告白事件とかデートとか編集者の話とかチョコレート間接キス事件とか色々ありすぎて一色のこと意識しまくりだよなぁ。ブレザーだけでも興奮できるわ。いくらなんでもちょろすぎだろ俺。理性はどこへ飛んでいったんだよ。

 

 それにしても……。

 それにしても、だ。

 好きな女子の制服ってマジやばいっすね。

 すまん小町、お兄ちゃん誘惑に負けちゃいそうだよ。というか負けました。

 

「ちょ、ちょっとだけなら」

 

 誰に言い訳するでもなくそう言いながら、一色のブレザーやカーディガンが掛けられている椅子に近づいて、そっとそれをまとめて手に取る。

 …………なんだこれ。ほんと、やばいなこれ。ただ手で持ってるってだけなのに、これ興奮するなんてレベルじゃないぞ。

 しかも、まだ脱ぎたてほやほやなのか、カーディガンなんてほんわりと温もりが……。

 もしかして、これがあれか。一色の言うところのふくよかな癒やしってやつか。別にあいつふくよかではないけど、だいたいわかった! 癒やしなのに興奮って言葉おかしいけどね。

 

 せ、せっかくだし、匂いとか嗅いでみるか?

 いや、さすがにそれは。

 だが、今なら誰も居ないんだし、今のうちなら、一瞬なら……。

 

 しばし欲求と理性で戦った後に欲に完敗し、布地に顔を埋め擦りつけてみる。

 俺は誰かさんの言う理性の化物なんかじゃなかったらしい。あっさり崩壊。

 まずはブレザーの上から。すんすんと鼻を鳴らすと、ほんのちょっといい匂いがした。だけど、繊維や構造のせいでやっぱ生地固い感じがするわ。肌触りも決して良いわけじゃないし。

 ブレザーをめくって、やわらかなニットカーディガンの胸元に頬ずりする。

 

「……なんだこれ、超いい匂いする」

 

 これがワイシャツ越しに移った一色いろはという美少女の体臭なのか、それともボディーソープとアナ イのフレグランスの香りが混ざりあったものなのか、あるいは一色の部屋の匂いをニットの生地が吸ったものなのか、女子と恋愛関係になったことのない俺にはさっぱりわからず説明も難しいが、どこか優しげで甘い感じの香りがたっぷりと俺の鼻孔に広がった。

 さらに、いつも一色がたるっと余らせている萌え袖にも鼻をつけてみると、その袖先から一色が愛用するハンドクリームのシトラス系っぽい匂いがほんのりとする。

 

 ……こ、これ依存性高いな。

 やべえわ。っべー。マジっべー。戸部語が感染っちゃうくらいマジっべーわ。

 毎日っつうかずっとこの匂い嗅ぎ続けていたいこの香り! そのくらい依存性あるぞ。これはアレだな。一色いろはの匂いを禁止薬物に指定すべきだなこれは。

 つうか俺、一色の匂いで興奮しすぎて本当にやばい。我が息子もガッチガチになってるのが感覚でわかる。もうフルパワー状態。

 もっと堪能しよう。堪能しちゃおう。

 

 ――と、思った時だった。

 

 カシャという、カメラのシャッター音のような乾いた音が生徒会室の入口のほうから聞こえた。続けてドアが開かれる音。

 え、カシャ? カシャってなに。待っ、嘘……だろ?

 恐る恐るゆっくりと振り返って、音がした場所を見る。

 すると、ワイシャツ姿の一色いろはが、にっこにこなあざとい笑顔でスマホを手にして立っていた。

 

「せーんぱいっ! なにしてるんですか~?」

 

 お、おおお……、おああああああああああああああああああああああああああああああああああああああん!!

 ど、どうするんだよバカ! バーカバーカ! 死ぬ! これはもう死ぬしかない。いや、まだ間に合うかもしれない。なんとかはぐらかそう。って、なんて言って誤魔化すつもりだよ! 誤魔化せねえよ!

 

「な、な……なんでもねえ、ぞ?」

「そうですかー」

 

 一色の視線は俺の手元に向いていた。

 うん、完全に持ってます。俺、一色のブレザーとカーディガンを手に持ってますね。

 

「あ、そうだ先輩。今わたし超面白い写真撮ったんですけどー、見ますかー?」

「消してください! 許してください! なんでもしますから! どんな言うことでも聞きます!」

 

 ブレザーとカーディガンを椅子の背もたれに掛けてから、速攻で頭を下げた。

 だって誤魔化せないもん! もうどうにもならないから、謝って謝って謝ってなんとか許してもらうしかねえから。

 

「なんでも……? どんなことでも聞いてくれるんですか!?」

 

 顔を上げると、一色の嫌らしい笑み。

 これはあかん。でもしょうがない。俺が悪い。全面的に俺が悪い。

 

「先輩、今日って何月何日だかわかります?」

「何月何日って……、四月十六日だろ?」

 

 そう。今日は四月十六日、一色いろはの誕生日。

 俺が土曜なのに一色の手伝いを頼まれたのも、用意していた誕生日プレゼントを渡すのにちょうど良かったからなんだが……。

 死んでいいですかね。気になっている女子の誕生日に、とんでもないことをして、とんでもないところを見られたわけで。控えめに言って死ぬしかないマジで。

 

「はい正解です。今日は四月十六日、わたしの誕生日です」

「そう、だな」

「……ところで先輩、どんなことでも聞いてくれるって言いましたよね~?」

「お、おう」

 

 とんでもないこと言っちゃたよね俺。

 撤回はできないよな? というか撤回したら俺死ぬしかなくなるよな……。

 

「じゃあ、まずひとつ目なんですけど、なんでわたしのブレザーとカーディガンにいたずらしてたのか正直に話してください。理由によっては許してあげてもいいですよ?」

 

 ひとつ目? え、お願いっていくつもあるの? なにそれこわい。

 それにだいたい、正直になんて言えるわけねえだろ……。黒歴史増えちゃうし。あ、もう既にこれが黒歴史だわ。

 返答できずに黙っていると、ジトっとした視線で睨みつけられてしまった。

 

「……先輩、まさか話せないくらい変態で最低な理由なんですか?」

「そ、その、なんだ? なんつうか、アレだよアレ……」

「アレじゃわからないんですけど……」

 

 もう、言っちまうか。

 嘘をついたってよほどのことじゃ納得してもらえないだろうし、どうせ嫌われるなら、いっそのこと開き直ってから嫌われたほうがいい。

 

「……大好きな女子の制服が目の前にあったら、いたずらしたくなるだろ」

 

 俺が意を決してそう言うと、一色は驚いたように目をぱちくりと瞬かせた。

 

「は? え、だいすっ? え? あ、あの……だ、大好きって、わたしがですか?」

「他に誰が居るんだよ」

「わ、わかりました。そうですね。大好きな人のなら仕方がないですね」

「そうだな……。仕方がない……のか?」

 

 いやいや、仕方がないで片付いちゃうのかよ。一色は俺みたいな奴に制服をクンカクンカされても気にならないの? それとも一色も好きな奴のブレザーとか置いてあったら匂い嗅いじゃう変態さんなの?

 

「仕方がないです。仕方がないですから、彼女になってあげます。いまこの瞬間から、先輩はわたしの彼氏になりました。彼氏になったからには、ちゃんと彼女を愛する義務と責任があります。わかりましたか?」

「お、おう……。え?」

「それで、ふたつ目のお願いですけど、先輩の十八歳の誕生日、わたしを比企谷いろはにしてください。先輩が一色八幡になるってパターンでも超おっけーです。そういうことなので、これからよろしくおねがいします」

 

 一色はそう言うと、ぺこっとお辞儀をした。

 え……? ちょっと待って、どういうことよ。一色の彼氏になっちゃったの俺。しかも結婚まで話が進んじゃってない?

 なにかの冗談? ドッキリ的な? 違うか。むしろ一色をドッキリさせたのは俺だわ。クンカクンカ見られてるし。

 いや、ほんとなにこれ。全然わかんないし、頭が追いつかねえんだけど。

 

「お、お前さ、……葉山は?」

「……先輩、それ、本気で言ってます?」

 

 つい口からこぼれた俺の問いに、一色は冷たさすら感じる声音でそう投げかけてきた。

 その答えは、俺も薄々わかっていた。口では葉山先輩葉山先輩と言いつつも、なぜかずっと俺に過剰なほどべったりくっついてきていたし、それに確かマラソンの頃からだったか、三浦を後押しするかのような行動をとるようになっていたし……。

 ――あれくらいのほうが張り合ってて楽しい、だっけか。

 でもなぁ……、だからってなんで俺と結婚する方向で話が進んでるんでしょうか。この子って、以前から俺のことが好きだったの?

 となると、張り合ってもしょうがない相手っていうのは、もしかするとあいつらのことを指していたんだろうか。

 やっぱり一色ってよくわからん……。一色のことを信じたいし理解したいしわかりたいんだが、こいつは仮面を被りすぎてて全然わからん。

 いまの、このやりとりすらも、なにかの冗談じゃないかと不安になっている俺がいる。

 あんな最低な行為をして、それを見られてしまったのに、なぜか嫌われるどころか逆に嬉しい方向へ話が進んでいるとか、いくらなんでも俺にとって都合が良すぎる。

 

「これってある意味最高のチャンスですし、いま行かないならいつ行くんだって感じじゃないですか……。まあ、先輩にはさっぱり意味わからないかもですけど」

 

 自分自身に聴かせるように小さく零した一色だが、呆れたと言わんばかりに大きくため息をついて話を切った。

 少し経って何かを思い出したように、拳を握った右手で左の掌をぽんっと打つと、今度は首をちょっと傾げて、唇に人差し指を当てる。

 

「そうだ。三つ目のお願いなんですけど……。先輩、誕プレください!」

 

 あ、あざとい。こいつやっぱり超あざとい。でも超可愛い。

 っていうか一色、いくつお願いするつもりなの。もしかしてこのまま一生お願いを聞き続けなきゃいけない系なの? 奴隷なの? 許してくれたんじゃないの?

 

「一応、持ってきてるけど」

「えっ!? ま、マジですか? 持ってきてくれたってことは、わたしの誕生日覚えててくれたんですか?」

「そ、そりゃ、好きな女子の誕生日くらい……」

 

 言うと、一色は頬を赤く染めて俯いてしまった。

 

「……なんですかそれ。せんぱい、あざといです」

「あざといって、それはお前のことだろ」

 

 どうせ後で渡すつもりだったし、せっかく要求されてるんだから、今渡すことにした。

 自分のスクールバッグを開けて、中から赤い紙でラッピングされた箱を取り出し、一色に差し出す。宝石や指輪を入れるような小さな箱だ。

 

「……開けてもいいですか?」

「いいけど、引くなよ?」

 

 ラッピングの紙を破かないように丁寧に外し、小箱の蓋をゆっくりとあけた。

 その瞬間、一色の口元が少し緩んだような気がする。

 

「うっわ……、超めっちゃ引きました。これはマジないです」

 

 うん、そうだと思ったんだ。

 彼女でもない女子にこういうプレゼントを贈る男とか、普通に考えて超キモいもんな。だけどな、つい、お前に贈るならこれが良いんじゃないかと思っちまったというか、これ以外なにも思いつかなかったんだよ。

 あ、いまの一色はもう俺の彼女なんだよな? だったら別に問題ない、のか? いや、やっぱり大有りだわ。

 

「や、やっぱそうだよな。取り消しで」

 

 新たな黒歴史の誕生が恥ずかしくなって、俺が取り返そうと手を伸ばすと、一色は小箱をぎゅっと胸元で抱きしめた。

 

「や!」

「や、ってお前……」

「先輩がくれたプレゼントなのに、返すわけないじゃないですか。わたし先輩の彼女ですし、それにぶっちゃけ、大好きな人から身に付ける系もらえるのは超嬉しいことなんで」

 

 だ、大好き?

 え、これって要するに〝一色いろはは比企谷八幡のことが大好き〟っていうことで間違いなく正解なんだよな……? 俺の痛い勘違いとかじゃないよな? あんな姿を見られたのに? わかんねえんだよ怖いんだよ失敗するのが。

 それにまあ、返されても困るしな。俺は使えないし、穴開けるつもりもないから。

 やっぱりいまいちよくわからんけど、一色にこうして嬉しいって言ってもらえるなら、俺も嬉しいというかなんというか……。

 

「着けてみてもいいですか?」

「お……おう」

 

 一色は小箱を机の上に置くと、スクールバッグの中からメイクポーチを出して、中からコットンと小さなスプレーを取り出した。シュッとコットンに一吹きすると、小箱の中に収められていた金属を摘みあげて拭き、そしていま着けているものと片耳ずつ交換していく。

 それが両耳とも終わってから、左耳に掛かった髪を手でかき上げるようにして、ちょっとはにかみながら俺に見せびらかした。

 

「どうですか? ……似合ってます?」

 

 三ミリほどのボールピアスが、部屋の灯り受けてきらと輝いていた。

 ほんとこいつ、悔しいくらいピアス似合うよな……。

 

「ああ、似合ってるぞ」

「あぅ……。やっぱりずるいですよ、せんぱい……」

 

 ぽしょぽしょと小さな声で言いながら、再び顔を真っ赤に染めて俯けてしまった。

 そんな姿を俺に見られているのが恥ずかしくなったのか、一色は慌てて椅子に座ると、さっきまでつけていた白いボールピアスを小箱に入れて、ポーチと一緒にスクールバッグにしまって、ラッピングの紙を綺麗に畳み始めた。

 なにをするのかと思って見ていると、スクールバッグの中から生徒手帳を取り出して、小さく畳んだ紙を大切そうに挟んだ。……別にそれはとっておかなくてもいいんだけど。

 

「先輩……。わたし、このピアス大切にします。ちゃんと毎日着けます」

「あ、いや、別に無理に毎日着けなくてもいいんだぞ?」

「えっ、先輩がわたしにピアスを贈ってくれたのって、お前の身体は俺の棒が一生貫き続けるぜ~ぐへへ的な意味じゃないんですか……?」

 

 どんな意味だよそれ。ぐへへってお前変態かよ。こいつってほんとよくわからんな。

 いや、まあ確かにピアスだから耳たぶを貫いてるけどさ、その言い方だとアレがアソコを貫いてる的な感じになってないか?

 やばい、またちょっとエロい気分になってきた。やばいやばい。

 

「先輩、どこ見てるんですかね。目つきがエロいんですけど……」

「へっ? いや、べ……別に、どこも見てないけど?」

 

 どこも見てないならなんで声が裏返ってるんですかね俺。

 はい、完全に一色の太腿というかスカートというかそのあたりを見てました。

 だいたい、お前がそういうことを言いだしたら意識しちゃうでしょ……。

 そういえばアレだな。一色のワイシャツ姿を見るのって初めてだよな。なんというかアレですね……。うっすらと淡いピンク色のブラが透けて……。

 思っていたより意外にありますね。はい。

 

「先輩、目がやらしいです。目がえっちです。そんなに、したいんですか?」

「え? したいって、なにを」

「あれに、決まってるじゃないですか……」

 

 顔を赤らめたままの一色は、自らの身体を大切そうにぎゅっと抱きしめると、上目遣いで俺をじっと見つめてきた。

 あれって、アレだよな? 話の流れ的に。

 いや、ここ学校だし生徒会室だし、それに俺らっていまさっき付き合い始めた(?)ばっかりだし、それに避妊具とか俺持ってないし。

 で、でも。一色が良いと言うならば……。

 

「……せんぱいがしたいなら、わたし、いい……ですよ?」

 

 緊張で手が小さく震え、生唾をごくりと飲み込んでいる自分に気がついた。

 こ、これはもう、誘ってくれてるんだから、男としては勇気を振り絞るしかない。

 

「お、おう」

 

 ダメ押しの言葉に俺はつい欲求に負け、流されるように頷いた――のだが、それを聞いた一色の口元はなぜかニヤッと歪んだ。

 ……あ、あれ?

 

「え、一色?」

 

 ガタッと音を立てて一色は椅子から立ち上がると、近くの棚の上に山積みになっていた書類を持ち上げ、机の上、それも俺の目の前にどんと置く。それを続けて三回繰り返した。

 ちょっと待って、おかしくない?

 え、いまのってわたしとセックスしましょう的なお誘いじゃないのん?

 

「じゃあ先輩、この四つお願いしますねー。あと、一色じゃなくてちゃんと名前で呼んでください。先輩わたしの彼氏になったんですよね~?」

「あ、ああ……。え、これ、この大量なの俺がやるの?」

 

 ちょっと多すぎじゃない? これ一人でやる量なの?

「はい。わたしはあっちの書類が大量にあるので、先輩はそれを整理してください」

 

 一色が指差した先、少し離れたところにある棚の上にも、同じくらい山積みにされた大量の書類がある。

 いや、多すぎでしょ。なんでこの生徒会こんなに書類多いの。まだ年度が始まったばっかりだから?

 

「なあ、そういえばさ、他の役員ってどうしたんだよ。本牧とか藤沢とか稲村とか」

「今日は呼んでるわけないじゃないですかー」

 

 え、なんで決まってるの? こんなに仕事があるのに? 八幡ちょっとそれ理解できないかもしれない。

 

「わたしの誕生日、せんぱいと二人きりになりたかったんです。ほんとは今日、わたしから先輩に告るつもりだったので」

 

 自分のぶんの書類を取りに棚へと歩いて行った一色は、俺に背を向けたまま言った。その表情がどのようなものかはわからない。

 だが、書類の山を抱えてくるりと振り向いたときには、今までに見たどんな表情よりもあざとい、とびきりにいたずらっぽい満面の笑顔で、そしてこう言ってのけたのだった。

 

 

「全部終わったら、……後でいっぱい、ご褒美あげてもいいですよ?」

 

 

 

   了

 

 

 




お付き合いいただきありがとうございました。

次話からは、通常の短編各種となります。


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比企谷八幡生誕祭2017
① こうして比企谷八幡の夏休みは再び過ぎてゆく。


比企谷八幡生誕祭2017の記念SS、前編の1です。
何話か続きます。

(Pixivにも投稿しています)


 

 

 夏休み。

 地域や学校によってその期間に差はあるらしいが、首都圏の公立校ならば七月の海の日あたりから八月末頃まで、四十日前後の長期休暇として設定されていることが多いだろう。

 長期休暇、というからには休んでなんぼだ。

 そもそも夏休みという制度自体、もちろんお盆休みの帰省や家族旅行なども考慮しているだろうが、本来は猛暑対策という面が大きいものらしい。今でこそ学校へのエアコンやクーラーの設置が進んでいるが、かつてはそんな文明の利器など整備されていなかったから、当然ながら教室は蒸し風呂。そこで無理に授業をやったところで身につくものも身につかないし、熱中症などで倒れる生徒が出てしまう恐れもある。

 最も暑い時期くらいは無理をせず、家庭や旅先でゆっくり身体を休める。これこそが夏休みというわけだ。

 ……ところが、この世はそう単純な仕組みでは動いていないようだ。

 エアコンやクーラーの設置が進んだがゆえ、普段の授業を快適に受けることができるようになった一方で、「エアコンあるんだから夏休みいらなくね? いらないよね? 休み縮めて授業やろうぜ!」とかいう鬼畜な方針を打ち出す学校が増えてきているらしい。確か静岡だったか、夏休みを十日前後にする方向で動いている学校も出現していると聞く。なにそれ怖い、サラリーマンかよ……。

 我らが千葉市立総武高校は今のところ、夏休みを大幅に短縮する計画はない。

 が、ご多分に漏れず今年は授業時数の確保だとかで、二学期始業式が去年より五日ほど前倒しされちゃった上に、普通科三年に限ってクラスごとに毎週一回、我が三年A組ならば火曜または木曜、土曜のいずれかに登校して授業を受けなきゃならない『進学対策特別授業日』なるものが試験導入された。期間は大幅短縮されていないが、気持ち的には大幅減も同然である。

 しかも、三年の多くは予備校の夏期講習に通っている。俺が受講している教科はちょうど火木に被っているので、自動的に特別授業は土曜日を選ばざるを得ないのだ。夏休みなのに。それでなくとも週末なのに。おかしい……こんなことは許されない……。

 予備校は仕方がない。自分の意志で、必要だと思ったから参加しているのだから。けど、でもさぁ、こんなクソ暑い時期くらい、学校の授業はなしにしようぜ……。

 

「おい、比企谷。なにボケッとしてるんだ。98ページ10行目から読め」

「……うす」

 

 ……クソ、憂鬱だ!

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 待ちに待った放課後がやってきた。

 進学対策特別授業なるものは、ふだんの五〇分×7限授業と全く同じ時程で行われ、7限終了の一六時一〇分を迎えた時点で解散となる。辛いです……。

 夏場の最終下校時間はそれなりに遅く設定されているので、このまま学校に残って文化系の部活や自習に励むって奴もいるだろう。が、既に引退している元運動部連中を含め、大多数の生徒は炎天下へ躍り出て帰宅の途に着くか、あるいは街へ繰り出して夜まで遊んでから帰るかのどちらかだ。

 こと俺はといえば、居残って自習をするほど意識高くないし、遊んで帰るような親しい人間もいない。部活のほうも、国際教養科の雪ノ下は登校義務がないし、クラスの違う由比ヶ浜は授業が別の曜日なので、今日は出席しておらず開かれない。従って、このまま帰宅である。

 まあ、もうすぐ夕めし時、そろそろ腹の虫も泣く頃だ。今日は小町も友達と遊ぶとかで外出しているから、家へ帰ったところで食事が用意されている保証はない。このクソ暑い空の下で寄り道なんてしたくもないが、ファミレスかファストフードくらいは立ち寄らねばなるまいか。

 帰宅経路的に楽な稲毛で軽いものを食うか、それとも稲毛海岸か海浜幕張で美味そうなものを探してみるか。今日は自転車じゃないからいつも行ってる幕張の14号沿いサイゼには寄れないんだよなぁ。……とかなんとか考えながら昇降口へ向かっていると、進路上、昇降口の靴箱前に敵機視認。タリホー!

 触らぬ神に祟りなしとはよく言ったものだ。いや、この場合は藪をつついて蛇を出すのほうが近いか? まあどっちでもいいが、下手に関わるとろくなことがないってことだけは確かだろう。主に俺の安息が削られるという意味で。

 ならば、よし。

 気づかなかったふりをして、何食わぬ顔で横を通り抜けてさっさと帰ろう。気配を消し空気に紛れるぼっち固有スキルの発動だ。敵のレーダーに探知されないことにかけては、米軍最強のステルス戦闘機にだって劣らない。

 

「あ。せんぱーい!」

 

 ……あ、あれれー? おかしいぞー?

 俺の高度な技術よりも、奴ののほうがずっと上手だったらしい。向こうもこっちの姿を認識して、瞬間、にやぁ~っと崩れる表情。

 まさか、夏休みまで……エンカウントしちゃうなんて……。

 

「…………お疲れ。じゃ」

「って、なんで立ち去ろうとしてるんですか!」

 

 雑に呟いて撤退を目論むも、上手くいくはずがない。

 俺の態度を見て途端に頬を膨らませ不機嫌を露わにしたふぐはす……じゃなくていろはすが、とてぱたとこっちへ駆け寄って、逃さんとばかりにしがみついてくる。

 半袖でむき出しの我が右腕に、同じく半袖むき出しな白い素肌がぎゅむっと絡みついた。その距離ゼロミリ。

 一色の体温が直に伝わってくる密着度と、頬のチークに含まれるごく微量なラメのきらめきまでもが見えてしまうほどの距離に、心臓が跳ねる。

 ち、近いから、甘くていい匂いするから……。あと何かむにむに当たってます押し付けられてます控えめなくせにやわらかい……。

 あ、あざとい……。相変わらずあざとい。

 いや、あざといというか、このボディタッチいくらなんでも過剰じゃないですかね。いつもより激しいですね君……。

 

「なんでって、今から帰るからだよ。開放しろ」

 

 とりあえず近すぎるし、くっついてると暑いし、なんか通りがかりの連中からじろじろ見られてて恥ずかしい……。

 

「いやです。っていうか帰ろうとしてたのは見ればわかりますけど、ふつう仲良しな後輩の顔を見たらちょっとくらい会話しません?」

 

 仲良しな後輩……か。

 仲が良いっていう言葉は、ただの先輩後輩も含めるのか、それとも友達以上の間柄のことを指すのか、さっぱり俺にはわかりかねる。だが、一色からすれば、俺との間柄は『仲が良いもの』という認識らしい。

 なんてことない発言のはずなのに、どうしてかむず痒い。

 

「……そんな一般的な対応なんて俺にはできんな」

「なに開き直ってんですか……」

 

 一色は呆れたように眉を顰め、わざとらしく大げさに溜息を吐いて見せる。

 次から次へところころ表情が変わる奴め……。だいたいからして、ぼっちにまともな対応を求めることが間違ってるんだよなぁ。

 しかしまあ、とりあえず一色は俺に人並みの会話を求めているわけだ。ならまあ仕方がないし、てきとーに相手してやろう。

 

「つうか、お前なんで学校にいんの?」

 

 とは思えども俺は、そこらのリア充のように色々な話題を即座に作り出してやりとりできるほどコミュ力高くない。なので、ふとした些細な疑問を口にしておく。

 登校日は三年の普通科にのみ設定されているもので、従って一年や二年に登校義務はないのだ。なのになんで登校してんだこいつ。夏休みだぞ、休め。

 

「さっきまで生徒会だったんですよ」

 

 投げた言葉に、一色は表情を和らげてそう返した。

 

「生徒会って、夏休みもやってんのか?」

「ですです。夏休みって運動部の対外試合や交流が多いシーズンじゃないですか。だから部活動とかPTAとの連絡や調整が色々とありますからね、ちょくちょく出てきてます。っていってもあれです。みなさんそれぞれ用事があるんで、今日はわたしだけですけど」

「そうか……。なんか大変そうだな」

 

 思いの外うちの生徒会は、イベントシーズン以外でも忙しく働いているらしい。

 あの生徒会役員選挙事件すらなければ、リア充リア充してるこいつのこと、いまごろは親しい男友達とでも夏休みをたっぷり満喫していただろうに……。

 その選挙で一色を推してしまった手前、どうにもバツの悪い反応しか返せない。

 

「ま、いちいち学校まで来なきゃいけないのは面倒いですけど、それは特別授業のある先輩だって同じですしね。それほど大変でもないですよ?」

「ほーん……」

「それに、生徒会室もすごく快適で、過ごしやすいですし」

「そういやお前、色々私物の快適グッズ置いてるもんな。冷蔵庫とかクッションとか」

 

 一色生徒会の実働初日、戸部が模様替えの下働きとしてこきつかわれていたことがあったが、あの時に持ち込まれた私物はポスター類と冷蔵庫、ヒーターだけだった。ところが、以来いつの間にやら、もこもこラグ、炬燵、毛布、電気ケトル、お茶セット、大量買い置きのいろはす2リットルボトル、おやつ各種、簡易的なソファ、マカロンクッション……などなどと増えに増え続けている。

 おいおい、生徒会室は一色の家かよ。自由にもほどがあるぞ生徒会本部。

 

「っていうか、あんなに私物持ち込んで教師とか事務から怒られないのか?」

「仕事さえちゃんとやれば、ぜんぜんおっけーだそうですよ」

「そ、そうか……」

 

 T○KI○並みに発揮する環境適応力と、大人たちの甘すぎる対応に呆れ驚きいていると、突然なにやら一色がもぞもぞと身動ぎしだす。

 砂糖菓子のように甘くアナスイが香り、素肌が擦りつき、柔らかいものが擦りつき……、やめてもう動かないで! これ以上男の子を刺激しないで! 前かがみになっちゃったらどうしてくれるの!?

 

「ところで先輩」

 

 ポジションが定まったのかぴたりと動きを止めた一色は、さっきよりも低い姿勢から、何かを求めるような上目遣いで視線を送ってくる。

 

「……お、おん?」

 

 その仕草や態度のせいか、それとも物理的な距離のせいか、女の子という存在の魅力を意識させられてしまって、ついたじろいでしまう。

 

「やっと、会えましたね。先輩」

 

 その上さらに、まるで数年ぶりの再開を果たした恋人のごとき、ぐっときちゃう台詞まで加えて。

 なんのつもりか知らんが、こういうのは恋人にやれ、恋人に。うっかり惚れちゃったらどうしてくれるんだよ……。責任取ってくれるならいいけどよ。

 

「……やっと?」

「出不精な先輩のことだから、特別授業受けるなら平日だろうなって思って昇降口で待ってたのに、火曜日も木曜日もぜんぜん現れないんですもん。二週間も無駄しちゃいましたよ」

「待ってたって、なにしちゃってんの……」

 

 俺の知らないところで、俺を待ち続けていた物好きがここにいたらしい。

 一体どういうことなの……。

 

「ほら、先輩ってもうすぐ誕生日じゃないですか」

「……なんで私が八月生まれだと知っているのかしら。まさかあなた、ストーカー?」

「は? なんですかそれ、雪ノ下先輩の真似ですか?」

 

 じろりと、鋭くひと睨み。

 う、うーん、これ去年由比ヶ浜の前でモノマネした時はウケたんだけどな。

 

「似てなかったか?」

「ドン引きです」

「そ、そう……」

 

 おかしいなぁ。去年の今頃はあれだけ毎日、風呂に入るたび鏡に向かってモノマネ練習してたのに。すっかり鈍ってしまったらしい。

 

「ていうか、八月生まれっていうのは以前ちらっと耳にしてたんで。だから先輩を捕まえようと思って張ってたんですよ。そしたら一昨日、ちょうど帰り際の結衣先輩と会って、先輩の登校日は土曜ってことと誕生日の日付を教えてもらったんです。明々後日ですよね?」

「……まあ、そうだけど」

「せっかくですからお祝いしたいじゃないですか、誕生日」

 

 つまりこいつ、そんなことのために毎回俺を出待ちしてたっつうのか……。

 

「……そういうことなので、やっとです。二週間ぶりですね、先輩!」

「お、おう……」

 

 心底嬉しそうな、満面の笑み。

 全くあざとさや裏を感じさせない純粋な態度に、顔面がカッと熱くなる。

 なんで一色がこんな態度を見せるのかわからないが、そんなことはどうでもいい。思わずうっかり惚れかかってしまっている俺がいて、心の邪念を慌てて振り払う。あぶないあぶない……。危うく落とされるかと。

 

「っていうわけでちょっと早いですけど、もし先輩このあとお暇なら、今からお誕生日会しましょう!」

「……別に祝いなんていらんけど」

「まーた先輩はそういうつまんないこと言う……」

 

 一色はやれやれと首を振って、俺の腕に抱きついたまま肩を竦めるようなジェスチャーを見せる。

 

「いや、だってなぁ……。いままで誕生日なんて祝われたことねえし」

「……え、まじですか」

「マジだ」

 

 小町の誕生日は家族で盛大に祝うんだが、俺の誕生日は特にこれといって何かパーティ的なことをやったり、プレゼントをもらったりした覚えがない。これが長男たるものの宿命か……。ほれ、お兄ちゃんなんだから我慢なさい!ってやつ。

 さすがに小学生の頃まではケーキくらい食ったけどさ。けど母ちゃんが書いてくれたチョコレートプレートが『八番くんおたんじょうびおめでとう』だったんだよなぁ。誰だよはちばん。巾が足りないよ巾が。っていうか息子の名前間違えんなよ母ちゃん……。

 

「じゃあ、ほんとにいまままでパーティとかしたことなかったんですか? 去年、奉仕部とかで」

 

 不思議そうに、一色はくりっと首を傾げる。

 こいつがこれまでどういう交友関係を送ってきたのかは知らないが、一色にとって誕生日というものは、祝い祝われ盛大に騒いじゃったりするものなのだろう。実際、四月十六日の一色誕生日も、週末と被った都合で一日遅れだったが、奉仕部室でちょっとしたパーティを騒がしくやったし。

 しかし世の中、盛大なパーティなんてしてもらったことのない人間のほうがずっと多い。たぶんだけど。

 

「特に何もねえよ。っつか、俺のような人間はお前らリア充とは住んでる世界が違うからな。自分の誕生日を誰かに祝ってもらうなんて文化は存在しない」

 

 実のところを言えば去年の誕生日前、由比ヶ浜がパーティだの花火大会だのプールだの肝試しだのキャンプだのと、あれこれ提案してくれたことがあった。結局いずれも断ってしまったのだが。気恥ずかしかったし。

 けれども由比ヶ浜も引かず、ならば普通のことをしよう的な流れにはなったものの、結局千葉村だの何だのと色々あって誕生日会的なことは開かれなかった。

 

「そう言いますけど、住んでる世界なんて案外違わないもんですよ」

「そう……か?」

「去年、結衣先輩の誕生日にみなさんでカラオケ行ったんですよね? 夏休みに合宿行ったりもしたって聞いたことありますし、クリスマス前にもディスティニー行きましたし、初詣もみなさんで行ったんですよね? けっこう、先輩もリア充してるじゃないですか」

 

 ……まあ、確かに行きましたねぇ。カラオケも合宿もディスティニーも初詣も。

 経緯的に誕生日とは関係ないが、結局なんだかんだでキャンプっぽいことをしたし、脅かす側だったが肝試しもして、プールじゃないし俺は見ていただけだったが水遊びもして、花火大会にも行ったんだっけな。

 もしかして、俺、リア充? いや、それはねえな。

 

「だからそんなつまんないこと気にしないで、ぱーっと遊びましょう!」

「つまんないことって……。けど、遊ぶったって何するんだ?」

「先輩、今日ってなんの日か知ってますか?」

「今日?」

 

 突然の『クイズ! いろはす今日は何の日!』開催である。

 今日って何かあったかしら。一昨々日ならパンツの日なんだけどな。八月二日はおぱんつの日!

 んでもって、確か一昨日がはちみつの日だったっけか? テレビでなんかそんなことを行っていたような気がする。その語呂合わせの流れでいけば、八月四日なら箸の日、八月五日なら箱の日……とかになるんだろうか。知らんけど。

 

「……いや、わからんな。今日ってなんちゃら記念日的なのあったっけか?」

「記念日とかじゃなくてですね、イベントですよイベント。どーん!って」

「どーん……?」

 

 運動会的な? こんなクソ暑い時期にやるわけがない。絶対違うな。

 どーん……、どーん……。どーんってなんだ?

 あぁ、なるほど。その擬音で表すものにぴったりのイベントが、ひとつ脳裏に浮かんだ。

 

「花火か?」

「ですです、花火大会です。海浜幕張の!」

 

 一色は嬉しそうに、ぱあっと表情を綻ばせた。

 千葉市民が単に花火大会と言えば、それは例年千葉みなとの千葉ポートパークで開催されていた千葉市民花火大会を指すことがほとんどだろうと思う。今年は『幕張の浜』に会場が移り、幕張ビーチ花火フェスタとかいう愛称を冠して、より大規模に盛り上げて開催されることになった……とかなんとか、しばらく前にチバテレのニュースでやっていた。

 

「ほら、せっかくタイミングもちょうどいいことですしー、花火見ながらお祝いっ! 的な感じでー!」

 

 なおも嬉しそうに語る一色には申し訳ないところではあるが、花火大会……。うーん、花火ねぇ……。

 

「あー……。なんつうか、あんまり気乗りはしないな」

「えー、なんでですかー?」

「いや、なんでって、クソ値段高い有料の観覧席なら別だろうけど、花火とか人すげえ来るだろ、無料エリアはどこもすげえ混むだろ、すげえ蒸し暑いだろ、しかも蚊とか虫とかもいっぱいいるだろ。そんなの行くわけないだろ?」

 

 などと口にするが、そんなものは嘘だ。

 ……いや、人混みや暑さや虫が嫌なのは事実だが、気乗りしない本当の理由は別にある。

 去年の花火大会――由比ヶ浜と二人で出かけた日。

 あの当時はまだ移転前で千葉みなとだったが、会場に向かうべく乗った蘇我(そが)行きの京葉線からしてえらい混雑していて、ひどく億劫になったのは記憶に新しい。

 人が多いお祭りであるがゆえ、由比ヶ浜との関係性があまりよろしくない女子グループとばったり鉢会ってしまって、イケてない男子たる俺と一緒にいることを理由に彼女は嘲笑われるはめになってしまった。すし詰めのごとき会場では見物するためのスペースを探し出すことすら困難で、けれども俺はどうしてやることもできなかった。会話だって、弾まなかった。

 たまたま遭遇した雪ノ下さんが貴賓席こと特別観覧席へ招待してくれたから、結果的に最高の立地で夜空に咲く花々を見ることはできたけれども。しかし、そのときにあったやり取りは、俺と由比ヶ浜を相当に滅入らせるのには十分すぎるものだった。

 あれがもし、付き合いはじめたばかりの高校生カップルのデートだったら、あっという間に破局を迎えてもおかしくない散々な内容だっただろう。

 楽しかったかと問われれば、俺にとっても由比ヶ浜にとっても、決して肯定できるものではなかっただろうから。

 つまるところ、正直な感情として、花火大会というものに良い記憶はこれっぽっちもなくて、むしろ若干トラウマにも近いものがある。せっかくこうして祝ってくれると言ってくれていいる女の子には申し訳ないが、去年のあの時のような思いはさせたくないし、そうなってしまうのが怖い。

 

「先輩?」

 

 表情にでも出ていたのか、あるいは些細な機微から感じ取ったのか、一色は不安げな、あるいは寂しげな色を浮かべていた。

 

「あ、ああ……。まあ、なんだ。あまり人がいない穴場的な所でもあればな、花火見に行ってもいいんだけど……」

 

 気乗りはしないが、かといってこんな表情を見せられてしまうと、無下にすることもできない。歯切れの悪い返事だけが口をついて出る。

 それでも、一色はこんな情けない返しでも満足だったらしく、ころっと可愛らしい笑顔に戻った。

 

「じゃあ、こういう特等席ならどうですか?」

「特等席?」

「はい。例えばですね、特別協賛席みたいな場所と比較しちゃえば距離もちょっと離れてますけど、邪魔くさい観客がいない個室で、大きな窓から花火がきれいに見えて、エアコンも効いてて、お飲み物やお食事も存分に提供! 疲れちゃったらそのまま寝ちゃってもいい、そんな最高のロケーション! 汗を流したければお風呂もあります!」

 

 提示されたものがあまりに好条件すぎて怖い。なにそれ天国かよ。

 ざっと脳内をサーチしてみても、ロイヤルオークラかブルータワー、ザ・ニューヨーク、ナハリゾートといった、海浜幕張駅前に立地する高層建てのシティホテルくらいしか思い当たらん。

 ん? ホテル? 花火大会の夜に男女がホテル……? 浴衣をそっとはだけて、俺をベッドに誘う一色……? はわわっ! らめですご主人さまっ! 赤ちゃんできちゃいますっ><!

 

「……お兄ちゃんは若い男女が二人でホテルで一夜を過ごすなんて許しません!」

「先輩お兄ちゃんじゃないですし、だいたいそんな大金もってないですしわたし」

「そりゃそうだ……」

 

 高えもんな。花火が見やすい上階の客室なんて、一泊二日で一室4万だの8万だの12万だのするらしいし。まず高校生が気軽に用意できる金額じゃないし、仮に用意できたところで行かないけどね。恋人ならば別として。

 

「っていうか先輩、どんなことを想像したんですか?」

 

 にやぁっと崩した表情で、一色は誂うように問うてくる。

 おおかたこいつは、えっちぃことでも想像したんじゃないか――とか思っているのだろう。事実うっかり想像しちゃったが、正直にそんなことを伝える俺ではない。

 

「条件と立地的に、該当すんのなんて駅前のシティホテルくらいしかねえよなと思っただけだが」

「それだけですか?」

「それだけだが?」

「なら、なーんでそんなに頬っぺた真っ赤なんですかね~」

 

 指摘され、慌てて顔を逸らす。

 えっ、やだ、逸したら余計にバレバレじゃないか……。恥ずかしい……。

 

「ふふっ。先輩が恋人でもない後輩女子とえっちなことをするいけない想像をしちゃった件については、とりあえず置いておいてあげます」

「全然置いてないんだよなぁ……」

「けどまあ、さすがにシティホテルのスイートを用意するのは無理ですけど、人が少ないいい感じの穴場とか見つかるかもですし……。いっしょに、花火見に行きません?」

 

 一色は俺を見つめ、欲するような声音でおねだりしてくる。

 しばしどうするか頭を悩ませるが、こうやっておねだりされるとどうにも弱い。小町によって調教されてしまったクセなのか、あるいは一色の特技がすごいのか。

 しばしの後、ついに根負けして若干不承不承っぽい態度でこう伝える。

 

「……わかったよ。けど、あまり人が多すぎるようなら早めに帰るからな」

「やったっ! へへ、そしたらほらほら、さっそく行きましょう行きましょう」

 

 途端ににまにまっと崩れた笑みを浮かべた一色に、抱かれた腕をぐいぐい引っ張られて些か強引に歩かされる。

 色々と思うところもあるが、祝ってくれるっていう部分は素直に嬉しい。

 今日のところは、ちょっとくらいなら振り回されてやってもよかろう。

 

 




 前編の2へ続きます。


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② やっぱり女の子はちょっと強引なくらいのほうがいい。

比企谷八幡生誕祭2017の記念SS、前編の2。
まだ何話か続きます。

(Pixivにも投稿しています)


 

 

 普段は自転車の俺だが、このクソ暑い中まで無駄に体力を消費したくはない。

 というわけで今日は電車通学。このまま一色と電車に乗って海浜幕張(かいひんまくはり)へ行くには都合がいい……のだが、花火大会の開始は一九時三〇分。時計をちらっと見てみれば、現在時刻は一六時半なので、まだ三時間ばかり時間がある。

 リア充な一色のこと、一旦別れてから浴衣にでも着替えて再びどっかで落ち合う感じの流れなのだろうかとも思ったが、どうやらそうではないご様子。一色は昇降口で靴を履き替えるために俺の腕を離すと、すぐにまた抱きついて、ぐいぐいと屋外へ連行していく。

 外暑いから、密着してるとすごく暑いし恥ずかしい……。

 これ、傍から見たら高校生カップルっぽく見えちゃうのかしら。一色、クラスとかの知り合いに見られたら変に誤解されちゃったりしない? 嘲笑われちゃうよ? 大丈夫なの……? っていうかいつまで俺の腕に抱きついてるつもりなの? まさか今日ずっと……!?

 ……なんてことを考えながら、通用門から学校を後にして、すぐ目の前の歩道にあるバス停で稲毛海岸(いなげかいがん)駅行を待つ。

 六分ほどして、白い車体に青いラインが涼しげな見た目の海浜交通バスがやってきた。

 ここで再び一色の腕が俺から離れた。くっついていれば恥ずかしくて、しかし離れるとそれはそれで寂しさのような何か妙なものも感じてしまって、どうにも落ち着かない。

 ぷしゅーと音を立てて開いた前ドアから車内に乗り込む。運賃の支払いはSuicaを使ってスイッ・ピッ・ディーとスピーディーな毎日。そのまま車内後方へ進んで二人がけ座席についた。窓上の吹き出し口から降りかかる冷風が、とても心地よい。

 一色は続いて隣りに座ると、ごく自然な素振りでぴったりと寄り添って、俺の肩に頭を乗せてくる。髪の毛が頬に触れてくすぐったい。

 ……どうやら今日は本当にずっとこうして密着するつもりらしい。

 俺が二人がけの座席に座ってると、女子高生は絶対隣には座らないものなのに……。

 

「……なあ、まだちょっと時間あると思うんだが、それまでどうするんだ?」

 

 あまり人との会話は得意ではない俺だが、こうも一色の態度が妙だと何かしら喋っていないと心が落ち着かない。

 ついさっき思った疑問を、とりあえず声に出しておく。

 

「とりあえず、花火の前に腹ごしらえしましょっか。先輩、何食べたいですか?」

「別になんでもいいけどよ、あんまり長い時間外をうろつくのは嫌だぞ。暑いし」

 

 とかなんとか言ってからふと思う。いつぞやのデートとやらで一色に何を食べたいか聞いた時、返ってきた言葉は『なんでもいいですよ』だった記憶……。

 いかん……。あの時『なんでもいいですよ』の返しを内心批判していた俺だったのに、なんと俺自身も同族だった事が判明。ごめんねいろはす!

 

「大丈夫ですよ。わたしも外は嫌ですし、屋内ですから」

 

 そう口にした一色は、忌々しそうに窓の外、青く晴れ渡った空をひと睨みする。

 意外だった。てっきり外でぱーっと遊ぶタイプなのかと。リア充だし、以前にも千葉をぶらぶらしたことあったし、たまに生徒会の買い出しついでで買い物とか付き合わされるし。

 

「なんかインドアっぽい発言だな」

「別にインドアってわけじゃないですけど……。ほら、夏じゃなければ外をぶらぶらするのも楽しいですけど、これだけ強く陽が照りつけてるといくら日焼け止め塗っても足りないですし……。困るんですよねー、ちょっとでも焼けちゃうと肌痛みますし、色黒くなっちゃうの嫌ですし」

「ああ、なるほどね。さすがだな」

 

 理由が分かれば確かに納得だ。リア充女子だからこそ、お肌の調子を保つのも大切なことなのだろう。一色がハンドクリームを塗り塗りしたりしてお手入れする姿は、部室でも見慣れた光景だ。

 

「何がさすがなのかちょっとわからないですけど、現代の女子高生なら誰だって日焼け対策とかボディケアとか気にしてますよ。妹さんもそうじゃないですか?」

「そう言われりゃあれだな。小町も母ちゃんにけっこう値段高い日焼け止めとかコスメとか買ってもらって愛用してるわ……」

 

 っていうかあれだな、うちは母ちゃんも親父も小町に甘すぎだろ。俺にはちょっとしかくれない小遣いも、小町は数倍貰ってるしね! ひどい、不公平!

 

「けっこう色々と努力してるんですよ、女の子って」

「親の金だけどな」

「それを言ったら、先輩のラノベだってお小遣いじゃないですか」

「まあな」

 

 実にごもっとも。

 よその高校ならバイトで稼いでいる連中もいるんだろうが、総武高では少数派。つまり、殆どの生徒はお小遣い暮らしだ。かく言う俺だって一年の頃に何度かバイトに手を出したことはあったが、長期継続して働いたことはないし。……何か事情があったわけじゃなくて、労働や人間関係が嫌でバックレちゃっただけなんだけどね!

 しかし、とはいえども、あたり前のことだがいくらでも無限に小遣いを貰えるわけじゃない。人にもよるだろうが、月に三千円やら一万円やらの中から、あれこれ我慢したり削ったりやりくりして欲しいものを手にするわけだ。男子の使いみちなんて飲食だのゲーセンだのとたかが知れているが、女子は色々と金がかかるだろうし、それなりに悩み悩んで欲しいものを買うのだろう。

 

「ってわけなので……。会場とかにも色々食べれるものありますから、腹ごしらえはお手頃なお店にしましょうね」

「ご配慮いただきこれ幸い」

 

 そのお小遣いへの努力の一つとして、俺は昼飯代として英世さんをもらってワンコイン程度の価格で済ませるという手法を日々実践している。なので、安いお店にしてくれるというのであれば素直にありがたい。

 ……ほら、一色のことだからちょっとお高いお店でディナーとか言い出すんじゃないかと。昼飯だけで千円以上しちゃうようなお店は困るし。

 

「どうせ先輩のことですから、ごはん代を多めにもらって安いもの食べて、余ったお金でラノベ買ったりとかしてるでしょ?」

「……えっなに、お前エスパーかよ」

「もう半年以上も近くで見てきましたもん。そのくらいわかりますよ」

 

 冗談めかして、一色はくすっと笑う。

 こんなことまでお見通しということらしい。こいつはしっかりと俺のことを見ているというのだ。

 まったくもって情けない。一色が俺と接してきた時間は、当然俺が一色と接してきた時間と全く同じはずのものだ。同じはずなのに、こちとらまだまだわからないことが色々とある。むしろわかっていることのほうが少ないのだろう。

 わかりたいだの、わかり合いたいだの、いつぞや俺は願ったことがあった。だが結局それは口先だけで、実際はこれほど近くに居てくれる後輩のことすらわかることができていない。

 情けなくて、歯がゆくて、それがとても悔しい。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 千葉市湾岸部と葛南(かつなん)地域湾岸部の生命線こと、『風が吹けば電車が止まる。但し最近はあまり止まらず徐行運転』でおなじみ京葉(けいよう)線。

 この京葉線は、お前それ本当に東京駅って名乗って良いのかよってくらい、山手線や新幹線のホームからはどちゃくそ離れた半分有楽町って感じの地下深くにある薄暗いホームを起点に、ディスティニーでおなじみ舞浜や、ららぽーと最寄りの南船橋、マリンスタジアムやメッセの海浜幕張を通って、外房線・内房線と接続する蘇我(そが)駅までを結んでいるJRの路線だ。銀色の車体に濃いピンクの帯を貼った一〇両編成の電車が走っている。

 ちなみに京葉線は内陸側を通らないから、津田沼や千葉へ行く場合は注意が必要だ。あと、うっかり武蔵野線から直通してくるオレンジ帯の八両編成に乗っちゃうと、西船橋経由で知らないうちに埼玉や多摩のほうへ連れ去られて、十万石まんじゅうや押っぺし餅をひたすら食べさせられるハメになるからこれにも十分気をつけよう。

 さて、そんな京葉線に数ある駅の中でも、総武高最寄りの稲毛海岸は終点蘇我寄りの末端側にある。平日朝上り・夜下りのラッシュ時はもちろん混むが、日中や夕方の上りともなると都心から離れているがゆえ閑散としているのが常だ。

 にもかかわらず、稲毛海岸でバスから乗り継いだ快速東京行きの電車内は、いつもの週末よりも多くの家族連れや恋人たちで混雑していた。一つ行った検見川浜(けみがわはま)からもわんさか乗ってきてその賑わいは更に増し、さながら車内は民族大移動、ぷちラッシュ状態と化している。

 大きめのリュックを背負ってクーラーボックスを抱えるお父さんと、手ぶらで仲良さそうにおしゃべりに花を咲かせるお母さんと浴衣のロリっ子。

 この日を楽しみにしていたのであろう高齢のご婦人グループ。

 会社を早上がりしてきたと思わしき、スーツ姿のサラリーマングループ

 夏休みを謳歌している真っ最中の大学生っぽいグループに、中学生っぽいグループ。

 客層はてんでばらばらだが、皆一様に同じ目的地へ向かっているのだ。

 

「けっこうみんな早い時間から行くんですね」

「市民花火大会、毎年すげえ人出だからな。しかも今年は初めての海浜幕張開催で混雑の具合とか予想できないし、少しでも早く行って場所取りに走りたいってことだろ」

 

 花火大会の開始までまだまだ時間があるが、無料観覧エリアでいい場所を確保しようとするならこれでも遅いくらいなのかもしれない。

 きっとあの大荷物を持たされたお父さんは、より良い場所を求めてあちこち駆け巡ることになるのだろう。かわいそうに……。 

 

「恋人っぽい人もいっぱいですね」

 

 周囲の様子を見ながら、一色がぽつりと言う。

 言葉通り、雑多なグループの中にはいくつものカップルの姿がある。多くは浴衣姿だが、学校帰りにでもそのまま来たのか、制服姿の男女も何組か確認できる。 

 

「わたしたちも、そう見えますかね?」

 

 組んでいる腕にぎゅっと力を入れて身をより近くに寄せた一色は、何かを期待する色を含んだ瞳でじっと見つめてくる。

 まったく……。この子はどんな答えを求めているというのか。

 ボディタッチの範疇をとっくに超えた密着度に、驚くほど近い場所で見せるこんな表情。あざといとか小悪魔とかそういうレベルはとっくに超えていて、もうむしろ悪魔ともいえる。実に恐ろしい。

 並の男子なら一色の魅力に取り憑かれてうっかりころっと落ちちゃうかもしれないし、なんなら恋しない奴なんていないと断言してもいい。

 だが、俺はそうはならない。なってしまってはいけない。

 うっかりなんかじゃだめなのだ。勘違いや思い込みなんかではなく、きちんと知って、わからなければいけないのだ。相手の心を。そして自分の心も。

 

「……そんなの、俺にはわからんな」

 

 濁りに濁った答えだけ返しながら、なんとなく過去を思い起こす。 

 去年の大会の日、会場へ向かう電車の中。あれはたまたま電車の揺れによって起きた偶然だったが、今の一色と同じように、密着するほどの近い距離にあの子の顔があった。そしてあの時も、少し似たようなことを考えた。

 けれども、あくまで少し似ているだけ。俺の考え方はあの時とは違っていて、相手の人物も、関係性も、俺への接し方だって違う。

 

「その回答、女の子とのデートでそんなことやったら、一気に冷められて500くらい点数マイナスされますからね」

 

 一色は不満そうに表情を歪め、ふんと鼻を鳴らす。

 期待通りの答えなど、仮に思い当たったとしても俺にはできるはずがなかった。当然の減点である。それにしたって点数持って行かれすぎな気もするけど。

 

「ちなみにそれ、まさかと思うが何点満点だ?」

「もち100ですよ。100点満点からの減点方式です」

「って、それだと今の俺の持ち点マイナス400点になっちゃうんだけど」

 

 いまから頑張って500も加点してもらわねばならないらしい。

 いや別に満点取りたいってわけじゃないけどさ、せめて0点より上がいいです……。いつぞやみたいに10点とかさ、ちょっぴり甘い採点をお願いしたいなって思うの……。

 

「…………」

「ん? どうした?」

 

 突然会話に生まれた空白が気になって、一色の表情をうかがう。

 どういうわけか、ぼーっと呆けるようにして俺を見ていた。

 

「え……、あ、いえ。ちょっとした例え話というか今後の忠告のつもりで、今日のことを採点するつもりじゃなかったんですけど……」

 

 言われたことで気づく。

 一色は『女の子とのデートで』と前置きしていたわけで、つまり今後誰か女子とデートをするときにはそんなふざけたはぐらかしや態度はくれぐれもするなよと忠告してくれたわけだ。一方の俺は、一色が今日の俺に対して採点したのだと勝手に解釈して持ち点とか言っちゃったわけで。

 ……やだ、俺、なんか恥ずかしい。

 

「んふっ。先輩、わたしとデートしてるって認識でいてくれたんですね~」

 

 ご不満モードからころっと一転。一色はにまにまと笑みを浮かべて、俺の肩口に頬をすりすり擦り寄せじゃれつく。

 なにこれ、ほんとかわいいな。お前俺の彼女かよ……。

 こんなに可愛い彼女がいたらいいなーとか思っちゃったじゃないか。ちょっとだけだけど。

 

「べ、別にデートとか思ってないし……」

「実は先輩もほんとのところは、いまのわたしたちがカップルっぽく見えるとか思ってましたよねー?」

 

 うりうりーとか言いながら、俺の腕を抱いたまま指先で脇腹をちょんちょん突いてくる。

 かわいいが、ちょっとムカつくぞ。その『うりうりー』っていうの。

 

「ほれ、バカなこと言ってんな。そろそろ海浜幕張着くぞ」

「む? バカですと!? ひどいですよー」

 

 立腹をアピールするように頬をぷくっと膨らます一色だが、決して本気で怒っているわけではなくて、その実すごく楽げに心躍っているのは見ていてなんとなくわかる。 

 今日のお出かけを、過ごす時間を、純粋に楽しんでくれているのだろう。 

 俺は気を利かせて何か色々としてやれるようなデキる男ではないし、あらゆる求めに応じられるほど懐が広い人間でもない。けれども一色がこうして、楽しんで、期待して、求めてくれるのであれば。

 ちょっとくらいなら俺も、楽しんで、期待して、求めてもよいのではなかろうか。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 総武高校バス停を出てからちょうど二〇分。

 到着した海浜幕張の駅は、かなりの人数でごった返していた。

 いま俺たちが乗ってきた上り電車から降りた乗客だけではなく、ちょうど向かいのホームに到着していた下り電車からもぞろぞろと大量に降りてきていて、改札の処理能力がぎりぎりになっているのだろう。もしかすれば一本前の電車で来た客もまだ改札から出れていないかもしれない。そのくらいの状況だった。

 人波に飲まれるようにして階段を降りるだけでも一苦労で、数分かかってようやくなんとかラッチ外へ出る。花火会場は目の前のコンコースを左手に行った南側海沿いなのだが、この駅に不慣れな者も多数いるのか群衆は右往左往、半ば強制的に右手の北口へと流されてしまった。

 ところが、花火会場とは線路の高架を挟んだ逆側であるはずの北口バスロータリーも、見渡す限り人、人、人。常日頃、京成バスと幕張住民がドヤ顔で日本に誇る連節バスからもぞろぞろ降りてきていて、その人数は増えに増え続けている。

 おい、たぶん去年の千葉みなとの数倍すげえぞこの混雑……。マリーンズの試合とメッセの大規模イベントと通勤ラッシュが重なったってこんなに人いねえぞ。

 

「す、すごいですね……。さすがに、これほど混んでるとは……」

「まだ開始まで二時間半もあるんだぞ。そんなに近場で花火が見たいのか……」

 

 面食いを通り越してむしろ呆れ果てるほどの状況に、二人揃ってげんなりする。

 家族連れやリア充たちの行動力には、とてもじゃないがついていけそうにない。

 

「毎年こんなに混んでましたっけ、市民花火」

「混んでたことは混んでたが……。今年はあれだろ、こっちに会場移ったから、浦安とか市川とか、葛西(かさい)のほうからも見に来る人がいるんじゃねえの」

「あー、少し都心に近くなりましたしね……」

 

 以前の千葉ポートパーク会場は千葉駅からもほど近い場所だから、千葉市民が出かけるにはそれなりに良い位置取りだった。だが、千葉市民以外に目を向ければ、行動圏内に収まるのはせいぜい船橋や市原、佐倉あたりまでで、それよりも遠方から来る人は多くはない。しかも房総方面は人口も少ない。

 しかし海浜幕張ともなると話は別だ。千葉市の中でも最も東京都心寄りのエリアにあって、しかも人口過密集地の習志野や船橋、浦安、市川、東京都江戸川区なども圏内に収まってしまう。つまりここにいる観客たちの半数くらいはたぶん非・千葉市民。

 そりゃ、混んで当然だわ。

 

「……どうする? しょうがねえし、帰るか?」

 

 大きすぎる集団に立ち向かう勇気も元気もさらさらない俺はすぐさま、諦めるという選択肢を一色に提示することにした。

 当然、聞いて一色は、今日何度目かもわからない不満を表してみせる。

 

「なんで来たばっかりなのに帰宅を提案するんですか」

「だって、人めちゃくちゃ多いし」

 

 なによりこの人出じゃ行動のしようがない。

 先にどこかで軽く腹ごしらえするという話だったが、この様子じゃどの店も入れんだろう。

 花火のほうだって、一色の言うところの穴場とやらが本当に見つかるかどうかわからんし、その穴場を探すまでにこの人混みを歩きまわらなければいけないのだと考えただけでも億劫だ。

 

「確かに予想よりずっと人が多かったのは、わたし的にもけっこうキツいですし、申し訳ないなって感じですけど……。とりま先輩的にどっか行きたいところとかないんですか? お店とか」

「そうだな、そこの5番のりばか7番のりばなんていいんじゃないか」

 

 北口バスロータリーに屯する京成バスや東洋バスの群に視線を向けて、俺はささやかな希望を伝える。

 

「うっわ、それ幕張駅行のバス乗り場じゃないですか! もう……。家に帰るっていう考えは一旦捨ててくださいよ。それとも、わたしも先輩のおうちに付いていっていいんですか?」

「え、それはやめて、勘弁して……。八幡困る……」

「そんなに嫌がられるとちょっとショックなんですけど……」

 

 唇をつんと尖らせた一色の視線は伏していて、少し罪悪感が湧き上がってきた。

 悪気はないんだ。だが家に一色を連れ帰ったりなんてして、うっかり小町や母ちゃんにでも見つかったら、絶対にいじられて大変なことになるに違いないんだよ……。

 

「……なら、ちょっとだけ遠回りになりますけど、人混みから遠ざかる感じで移動してみるのはどうですか? お食事はちょっとおあずけになっちゃいますけど」

 

 一色は言うだけ言うと、俺の反応を待たずしてぐいぐいと引っ張り始める。

 はぐれてしまわないようにか、あるいは別の感情からくるものか、しっかりと密着するよう絡み直された腕組みはちょっとばかり歩きづらさすら感じる。それでも一色は緩めることなく、半ば意地でも張るように力を込め続けていた。

 そんな姿を見て、ちょっとだけ、胸がちくりと痛んだ。

 

 




前編の3へ続きます。


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③ いずれ比企谷八幡にも素敵な恋人がきっとできる。

比企谷八幡生誕祭2017の記念SS、前編の3。
まだ何話か続きます。

(Pixivにも投稿しています)


 

 

 花火会場のあるマリンスタジアム方面には向かわずスークの前を通って、幕張海浜公園Aブロックのプロムナード地区のほうへと特に目的地もないままゆっくりと進む。

 このまま海浜総合高校や若葉三丁目公園周辺のだだっ広い空き地エリアまで行けば、もしかすると人の数も減るのかもしれない。残念ながら、空き地なだけあって食うものも飲むものも店も何にもないけども。

 さていろはちゃんはどうするつもりなのかなと、引っ張られながら横顔を見る。他愛もない会話こそしているが口数はさっきまでより減っていて、表情も曇りつつあった。

 予想以上の人出などがあったことで、恐らく一色の中で大まかに立てていたであろう予定がごっそりと狂ってしまったのだろう。あるいは、誕生日を祝うという名目で連れ出したのに、全然お祝いムードを作れていないことに焦りでも感じているのか。そこらへんはわからないが、なんにせよ、俺としては祝おうとしてくれたっていう気持ちだけでもありがたい。別にがんばってもらわなくても、十分だ。

 それから更にしばし歩いて、京葉線の高架をくぐって南側へ出る。

 左手には幕張海浜公園Bブロックのにぎわい広場・大芝生広場ゾーンが広がっている。一色はその園内に向かって進路を変えた。すでに花火見物客で溢れている公園内の通路を警備誘導員たちの指示に従って縫うように抜けて、反対側のマンション街につながる歩道橋へと躍り出た。

 ここらは平成に入ってから十数年かけて開発された比較的新しめの居住街区で、中層階建てから超高層階建てまで様々なマンションが整然と並んでいる。確か300メートル四方程度の広さの中、至近距離で千葉市立小学校が三つもあるほどの人口だったか。物件的には千葉県湾岸部でも特出したかなりの人気エリアだ。

 西洋風を意識したデザインなのか、どの建物も外観はベージュやブラウンなどの暖色系を基調にしていて、街区内の歩道も暖色系のタイル調に舗装されている。いかにもお高い、小洒落た街並みといった感がある。

 そういや雪ノ下の家はすぐそこのタワーマンションだったっけな……、とか考えていると、そこでようやく一色が表情を緩めた。一呼吸してから、俺に声をかける。

 

「確かそこの先の通り、マンションの道路っ側に面した一階部分がちょっとした商店街みたいになってて、チェーンの喫茶店とかもあるはずなので」

「ほーん、詳しいな」

「つい最近、用事があってこっちのほう来たことあるんです。駅前のお店は混んでても、さすがにこっちはマンション街ですからね。少しは人の流れもマシじゃないかなって」

 

 言われて自分の思い込みを恥じたくなる。

 あてもなく歩いているだけのようでいて、一色はちゃんと休めそうな場所を考えてくれていたのだ。

 

「せっかくのお誕生日祝いなのに、なんかわたし全然だめだめで……。ごめんなさい」

 

 一色は申し訳なさそうに、どこか自虐げな笑みを見せた。

 らしくない。……なんて言葉が脳裏に浮かぶ。らしいだのらしくないだの、そんなのは俺の勝手なイメージでしかないのに。一色いろはという女の子が本当はどんな人間なのか全然わかっていないのだから。普段俺が思う『一色らしい』なんていうのは、一色いろはのある一面だけ、あるいは上っ面だけなのかもしれないのに。

 

「……そういう顔すんなよ。まだ花火始まってすらいないだろ」

 

 それでも、少しだけわかったことはある。

 一色いろはという女の子の実態は、俺がかつて一色の一面や上っ面を見て抱いてきた印象とはだいぶ異なっているということだ。

 あざといけど、それでいて純粋だ。

 可愛い子ぶったキャラを演じずとも、素のままだってすごくかわいい。

 俺を誂って面白がっているようにも見えるけど、それでいて真面目に俺を見てくれている。

 

「それにほれ、あれだ……。デートのとき、女子にそんな表情させる男はあれだ。マイナス1000点くらいだろ。俺はもうそれほど混雑とか気にしてないからよ、いつもみたいにあざとくニヤニヤ笑っとけ」

 

 相手の全てをわかることなんてできないのかもしれないし、わかるための道のりだって途方もないくらい長くて遠いものなのもしれない。

 けれども、少しでも、ほんのちょっとでもわかったことがあるのであれば、それをきっかけにもっと多くのことをわかっていけるはずだ。 

 なればこそ、俺なんかのことをわかろうとしてくれて、俺なんかのために何かを頑張ってくれようとする素敵な女の子が目の前にいてくれているのであれば、なんでもいいからできそうなことをやるべきだ。悲しい顔なんてさせてはいけない。俺も頑張ってやりたい。頑張らなきゃいけない。できないこともいっぱいあるが、できる範囲で、できる限り。

 

「……そう、ですね。デートのとき、そんなふうに男の子に気を使わせまくっちゃう女子は、マイナス10点くらいかもですね」

「え、マイナス10点? それなんかずるくない? 自分への採点だけ妙に激甘じゃないですかね……」

「そりゃそうです。女の子はずるいほうがいいんですもん」

 

 ずるいにも程がありすぎる主張をしてから、一色はぷっと吹き出すように笑う。

 色々なマイナスの感情に引っ張られた表情よりも、やっぱり笑顔のほうが似合っているし、こちらとしても心が落ち着ける。

 存外にも、俺はこいつの笑顔を気に入っているらしい。

 ……そうだな、ならやることは決まりだ。

 とりあえず今日のところは、この愛らしい笑顔を曇らせない方向でいっちょ頑張ってみますか。

 

「いくらずるいほうが女の子らしいからって、今日はずるしてメシ代たかったりするなよ?」

「今日は先輩のお誕生日祝いなんですからそんなことしませんよ。むしろ、喫茶店代くらいならわたしがおごっちゃうまであります」

 

 なんとかテンションを持ち直してくれたらしく、一色は楽しげに俺の腕を引っ張ってすぐ先の交差点の角っこに見えた喫茶店へとずんずん進んでゆく。

 次から次へところころ変わる表情や強引なところには少し苦笑させられるが、不思議と嫌な感じはしない。

 むしろ楽しさすらあって、ちょっとだけ、幸福だ。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 多くの花火客ですし詰めな公園からすぐの場所ではあるものの、大通りを隔てた高級マンション街に立ち入るというのは人々の心理にひとつの巨大な障壁として機能するらしい。あるいは駅前とは違って知名度が低く、隠れスポット的な場所になっているのかもしれない。一色の狙い通り、店内はほどよく空いていた。

 カウンターで手早く商品を注文して受取り、席に着く。

 メニューには色々と魅力的なものがあったが、この後も屋台などを巡る可能性があるし、そもそもここはメシ屋ではなく喫茶店だから色々頼むのはお互い自重。代金は一色が全て払おうとしてくれたが、さすがに女の子に奢らせるのは店員の目も気になってあれなので、割り勘ということにさせてもらった。……まあ今日は元々サイゼでの夕飯を想定していたから、当初と比べて予算的にはちときつくなってしまったけど。

 さて、頼んだものはハムチーズサンドとアイスティー、フレンチトーストとアイスロイヤルミルクティーである。

 

「男の注文と女の注文って感じですね」

 

 一色の言葉通りで、片や堅実にサラリーマンっぽい注文、片や甘くて甘い女子高生っぽい注文だ。

 いかにもすぎて、つい笑ってしまう。

 

「だな。……ちなみにやっぱ、写真とか撮んのか?」

「もちです」

 

 いつぞやのデートの経験から一応念のため聞くと、一色は愛らしく頷いてスマートフォンを取り出した。ぬるぬるくりくりくぱぁと白い国産ガラスマを操作し、暫時ラインか何かを確認してからカメラを起動する。

 そういえば今日俺と会ってからここまで、一色がスマホをいじる場面は一度もなかった。まあ、あれだけべったべたにくっついておしゃべりを続けていたらスマホなんて操作する暇はなかっただろうけど。……それだけ、俺と一緒に居るのが楽しいということなのだろうか。そんな余計なことを考えてしまって、むず痒くなった頬をぽりぽりと掻く。

 

「はい。じゃあ先輩、撮りますからピースです」

 

 一色は自撮りの体制で構えながら、俺にいつぞやと同じことを要求する。

 恥ずかしいのでポーズをキメるのはぜひとも遠慮させていただきたいところだが、ここで断ってもどうせ再度要求されるだけなので、恥を忍んで言われるがままにピースをしておく。

 ぴったりと肩をくっつけて、瞬間にちゃらり~んとスマホ特有のシャッター音。

 すぐさま画面に映し出されたのは、虚ろな目つきで顔を赤らめた変な男ととびきり美少女のツーショットだった。……ねえ、その写真消そ? 削除しよ?

 

「んふ。よく撮れてます」

 

 どこをどう見ればよく撮れていると思えるのかさっぱりわからんが、まあ一色がそれでいいなら良しとしよう。

 ……あと、なんでもいいけどそれSNSに上げたり誰かに見せたりするのだけはやめてね! んあことされたら恥ずかしくて引きこもっちゃうよ俺。

 

「食っていいか?」

「どぞどぞ。わたしもいただきます」

 

 どうにも気恥ずかしくてたまらんので、食って紛らわせることにする。

 ひとつつまんで、そっと口に入れた。じわっと染み出すカスタード液の濃厚な甘さと芳醇な香り。続けて冷たいミルクティーをひとくち。やっぱ甘いものは最高だ!

 

「……ほーんと、いかにも女の子の注文ですよね、それ」

 

 なんかハムチーズサンド片手に呆れながら俺を見ている後輩女子がいるが、知ったこっちゃねえ。ただ食いたいものを食うだけだ。

 フレンチトーストやミルクティーの甘いやさしさ、癒やし……。これは塩っぱいものや辛いものではでは代用できないのだ。これで飲み物がマックスコーヒーならなおさら良い。喫茶店の飲み物と違って安いし。

 

「美味しいですか?」

「おう!」

 

 至福のひとときについテンションが上がり、妙な勢いで返事をしてしまった。

 一色は一瞬ドン引きの色を見せたが、すぐに笑顔に変えて言葉を投げる。

 

「今度、フレンチトースト作ってあげましょっか」

「……え、マジで?」

 

 思いがけない提案に、うっかり乗りかけてしまう。

 いかんいかん。普段はクールな俺のくせに、甘いものにころっと釣られるなんて。いや、クールじゃなくて内向なだけだけど。

 でもなぁ、なんというかあれだな、なにその垂涎モノの提案。やだ、作ってほしい……。

 

「ぱぱっと手軽に作れちゃいますからね。作り方も簡単ですし、食べたくなったら言ってくれれば作ってきますよ」

 

 何か交換条件があるってわけじゃない……んだよな?

 今日の一色はそういった打算は排して、まっすぐに行動している。ということはつまり、本当に作ってきてくれちゃうということで。

 

「……なら、今度頼むわ」

「はい!」

 

 明るい笑顔で返事をして、一色は美味しそうにハムチーズサンドをぱくつく。

 もにゅもにゅと幸せそうに咀嚼する姿はうさぎやハムスターのようで愛らしく、見ているだけで心が癒される。以前なら一色に対してこんなことは決して思うはずもなかったのに、たったの数時間でこれだ。ちょろいな、八幡……。

 存外にも自分自身が心開いていることに気付かされた、とでもいうのか。どうにも不思議な気持ちだった。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 それからしばし、生徒会の仕事のことや副会長&書記ちゃんカップルのこと、俺の予備校のこと、生徒会の用事帰りに無理くり平塚先生に天下一品を付き合わされたこと、戸部先輩がオタク系清楚女子をデートに誘うコツを教えてくれとしつこい……などなどと、これといった意味もないおしゃべりを続けているうちに、いつの間にか一時間以上が過ぎていた。

 時間の経過が、妙なくらいに早く感じる。体感的にはまだ二十分ぐらいなのに。

 観測者の主観によって時間の概念は変化する……だったか。去年の夏休みに戸塚と遊んでいた時、そんなことを思った覚えがある。楽しかったなぁ戸塚とデート。フ、フヒッ。

 つまるところ、今の俺はこの時間を楽しんでいたのだ。にこにこ笑って色々なくだらん話をする一色の存在が、きっとすごく心地よいのだろう。

 

「……あ、やば! もうこんな時間!」

 

 たまたま俺の腕時計が視界に入ったらしく、目を疑うように文字盤を見てから一色は席から飛び上がった。

 花火大会の始まりまであと一時間。場所を探すにはちょうどよさそうな頃合いだが、かといって驚くほどのことでもない。

 どうしたのかと訝しんでいると、一色が俺の肩口をくいくいと引っ張る。

 

「先輩、そろそろ行きましょ」

「お、おう……」

 

 そんなに急がなくてもいいだろうに……。

 別に、花火を打ち上げ場所の至近で見る必要はない。人が少ない場所なら、海浜総合高校周辺の空き地でもいいんだけど。

 まあ、一色も何か考えていることがあるのかもしれないし、おまかせしてついていくことにする。

 トレイを返却して、店の外へ出た。

 

「う、うわ、暑っちいな」

「うーん、まだまだ暑っついですね」

 

 高い湿度とむわぁっとする熱気に、二人揃って同じ感想を漏らす。

 さすがに八月なだけあって、一八時半にも関わらず空はまだわずかに明るく、蝉の鳴く声も騒がしい。この蒸し暑さは、陽が完全に落ちてからもしばらく続きそうだ。

 このまま踵を返して店内に戻りたいってちょっとだけ思っちゃうぞ。戻らないけどさ。

 

「こっちに行ってみましょう」

 

 もうこうするのが当たり前であると主張するかのように左腕を俺に絡めた一色が、スクールバッグを持った右手で東のほうへ続く道の先を指差す。海浜総合や若葉三丁目公園がある方角だ。

 

「おう、エスコートはまかせるぞ」

「まかせてください!」

 

 冗談半分で言うと、一色は自信ありげな笑顔で返した。

 はてさて、一体どこへ連れて行ってくれるんでしょうかね。なにげ色々と考えてくれているらしいから、楽しみしておくことにしましょ。

 

「この時期の日没って何時くらいでしたっけ」

「そうだな……。確か夏至から七夕あたりが一番長くて十九時くらいだから、今日あたりならもうそろそろじゃねえか?」

「ならすぐに真っ暗になりますね。……花火、すっごく楽しみです」

 

 愛する恋人にでも語りかけるように、柔らかな声音で一色は話す。

 今の俺たちは、きっと誰が見ても恋人同士らしいと思ってしまう雰囲気をしているはずだ。その実態はどうあれ。俺が自意識過剰なだけかもしれないけど。

 もしも一色が恋人なら、毎日こんな甘いのだろうか。それはそれで疲れてしまうような気もする。こいつ俺よりずっと元気で明るいし。

 もしも今ここで告ったら、どうなるのだろうか。もしかしたら、もしかすると――。

 ……うわ、気持ちわりいな俺。なに考えてんだ。

 かわいい女の子を右手に侍らせてるからって、身の程知らずにイキってやがる。恥ずかしいやつだまったく。

 ぶつくさぶつくさと自分自身を批判して、緩んだ心をしっかり引き締める。俺の役目は甘ったれることじゃない。甘やかしてやることだから。

 

「あ、ここを左ですね」

「え、曲がるのか?」

「はい。あっちなので」

 

 喫茶店のある角っこから一つ行った交差点まで歩いたところで、突然一色が進む方向を変えた。信号を渡って、歩行者専用の並木道へと進もうとする。

 公園は今の道をまーっすぐ行って京葉線をくぐった先でしょ、そっち行ったら混んでる駅のほうへ逆戻りなんだけど……と困惑しながらもついていく。

 歩きながら見上げれば、このあたりの住居物件で最も背とお値段のお高いタワーマンションが聳え立っている。確か十五階に雪ノ下が住むあそこだ。お向かいの棟が十三、四階建てだから若干視界が遮られるかもしれないが、そこに目を瞑れば絶景のはず。もしかするとあいつも今日は花火を自宅からのんびりと見物……。

 ……ひっかかる。

 どこへ行くのか知らんが、わざわざ雪ノ下のタワマンの真ん前を通る必要はあるのだろうか。っていうか、そういえば今日学校で一色はこんなことを言っていたな。『特等席』と。

 

「ここです」

 

 誇らしげに設置された『CENTER GARDEN NORTH Makuhari Garden Tower』という大きな銘板の前で、一色はぴたっと足を止める。

 目の前には数段の階段と、その先にガラス張りの自動ドア。かつて一度だけ入ったことのあるエントランスだ。

 

「入りましょ」

「……おい、ちょっと待て」

 

 ぐいぐい引っ張ろうとする一色を逆に引っ張って留める。

 

「ここ、雪ノ下ん家だろ?」

「はい」

「え、なに、じゃあお前もしかして、実は最初からここが目的地?」

 

 にっこり微笑む一色に問いかけると、少し驚いたような表情を返されてしまった。

 

「あれ? ここらへんうろついた時点でとっくに気づいているかと」

「こりゃどういう余興だ……」

 

 疑問が色々と浮かび、次いで呆れる。

 いくらちょっと強引な節のある一色いろはといえども、アポなく突然雪ノ下の自宅へ押しかけるなんてことはありえない。こいつ本当はしっかり者で常識的だし。ついでにいえばちゃっかり者ではあるが。だからつまり、元々今日は雪ノ下の家で花火観覧会でもする予定があったということになる。

 ……ひどい! 由比ヶ浜も雪ノ下もそんなこと言ってなかったのに! いや、言ってないも何も、それぞれの都合があって夏休みに入ってから一度も顔合わせてなかったから当然だけどさ。

 

「まぁまぁ、そこらへんはお気にならずに~」

 

 一色が俺の腕をぱっと放して背後に周り、背中に手を当て力を入れてくる。気にするなって言われたってよ、気になるでしょ……。

 ずりずりと押っぺされながら、戸惑ったまま自動ドアの向こう側へと足を踏み入れる。高級シティホテルのロビーよろしくソファやテーブルがいくつも用意されたラウンジ横目に見ながらエントランスを進み、インターホンの前に立った。

 一色もすでに何度か訪れたことがあるようで、慣れた手つきで部屋番号を入力して呼び出しボタンを押す。

 わずかな時間を置いて、インターホンのスピーカーから凛とした声が聞こえた。

 

『どうぞ』

「はーい」

 

 浮わついた萌えボイスで答えた一色は、俺の手を引いてエントランス・ロビーと居住者エリアを区切る自動ドアへと進んでいく。

 かつてここに訪れた時、このオートロックの自動ドアを開けさせるのには少し苦労したものだったが。それが今日はこんなにあっさり。うーむ……。

 

「十五階です」

「ん」

 

 エレベーターは一階で待機するよう設定されているのか、全く待つことなく乗ることができた。指示通りに十五階のボタンをぽちり。動き出すとパネルに表示された数字はあっという間に増え、すぐに15に到達する。

 扉が開いてエレベーターを降り、内廊下へ。

 そこで一色が、ゆっくりと手を離した。

 だらんと垂れ下がった俺の腕を名残惜しそうに見ながら、小さな声で問いかけの言葉を零す。

 

「今日の()()()、どうでしたか?」

 

 スクールシャツの胸元に手を当て、不安と寂しさが綯い交ぜになった視線で俺を見据える一色は、ひどく儚く今にも消え入りそうなほどだ。

 まだ花火は始まってすらいない。なのに、一色はここで『終わりであること』を告げているのだ。きっと、二人っきりで過ごす時間の終わりを。

 

「……ま、よかったんじゃねえの」

 

 なんかいい感じのことを言ってやろうかとも思ったが、俺には似合わん。

 ぶっきらぼうな言い草になってしまったけど、嘘偽りはない素直な気持ちだ。一色と一緒にいて楽しかったし、なんか得体の知れない幸福感もあったし、色々な面に気付かされることもあったし、なにより、いくら俺といえど、こんなにかわいい美少女にべったべたくっつかれ甘えられて幸せじゃないわけがなかろう。一応これでも思春期男子やってんだから。

 じわりじわりと、俺の心を侵蝕されるこの感じ、なぜだか全く嫌じゃない。いつの間にかノーマルエンドくらいまで攻略されてしまっている感じだけど、それでもいい。むしろこのままグッドエンドでもベストエンドでもなんでも、なるようになれだ。

 だからこれは、嘘じゃない。偽りじゃない。一色にも色々と不手際があったけど、そんなもんこいつのかわいさを前にすればもう気にならない。

 素直に、よかったと思えたのだ。これで終わりになってしまうのが寂しくて、辛くて、手放したくないくらいには、よかった。

 

「なら、点数、ください」

 

 なおも一色は潤んだ瞳で答えを待っている。

 俺なんかが人様を点数で評価するなんて、あまりに申し訳がなくて仕方がない。けど、一色は待っているなら。

 

「100点満点からの減点方式で、あれだな。色々と強引すぎるところがマイナス10点。普通に二人で遊ぶだけかと思ったのに、実は最初から何か目的があったのを隠してたって部分でマイナス90点だな」

「0点になっちゃったんですけど……。まさか、いつかの仕返しですかそれ」

 

 むっとした様子で、鋭い視線を投げつける。

 悲しげな表情より、そっちのほうがマシだ。かわいい笑顔ならなお良し。

 

「けどまあ。楽しかったから、おまけで100点やるよ」

 

 いつか向けられた台詞を借りて、答えてやる。 

 あのときもらったおまけは10点だったが、今回は大盤振る舞いで100点あげてやっていい。

 こんな点数小町でも出せないぞ。喜べ。

 

「……ありがとです」

 

 回答を噛みしめるように一色は何度も頷き、やがて勢いを取り戻したようにくすくすと笑う。

 

「先輩も。なんだかんだでちゃんとわたしについてきてくれましたから、今日は100点満点にしてあげます」

「すっげえ甘い採点だな、お前」

「えー、わたしはいっつも超厳しい採点基準ですよ~?」

「そうかい」

 

 超厳しい採点基準なのに、ー400点から一気に大量加点されて100点満点。その心は……。

 わからないはずがないが、それは今は置いておく。

 きっとまた、二人でどっかに行くこともあるんだろうし、急ぐ必要もない。これからも共に時間を過ごして、もっともっと知って、わかっていければいいのだから。

 

 




後編の1へ続きます。


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④ たまには、こんな記念日も悪くはない。

比企谷八幡生誕祭2017の記念SS、第4話。後編の1です。
まだ続きます。



 

 

『雪ノ下』という楷書体の表札がしっかりと掲げられた扉の前に立ち、インターホンを押した。

 なんとなく、以前訪れた時は表札が出ていなかったことを思い出す。若い女子の一人暮らしではよくあることと聞くが、新たに表札を用意したのは心境の変化か、それとも家庭の事情が絡んでいるのか。どうにも細かいことが気になってしまう、僕の悪い癖!

 しばし待っていると、足音などは一切聞こえないままにガチャリとドアが開かれた。相変わらず防音がばっちりらしい。さすがオクションは違うな……。

 

「一色さん、比企谷くん、いらっしゃい」

 

 ひょっこり顔を出した雪ノ下は、髪の毛こそいつもと変わらず下ろしているが、服装がまさにザ・和服といったスタイルだった。

 藍紫の地に桜の花をいくつか配した着物と赤い長襦袢に身を包み、しっかりと締めた山吹の帯。そっと控えめに微笑む姿は、大和撫子といった感があり慎ましやかだ。持ち前の慎ましいお胸のおかげで、とっても和服が似合っているなとおもいます!

 

「……その、あまり見られると恥ずかしいのだけど」

「先輩、鼻の下伸びてます。びよーんって」

 

 困惑気味な視線と、しらーっと白い視線。

 慌てて咳払いして目を泳がせる。

 

「お、おう……。すまん」

 

 これはいったいどっちに対する謝罪なんだか。

 というか別に謝んなきゃいけないようなことしてないと思うんだけど、なんか罪悪感がぶくぶくと湧き上がってくるのはなんでだろう……。

 

「……とりあえず、あがって」

「おじゃましまーす」

 

 ぷいっと俺から顔を背けて、とてとてと玄関へと気軽に入っていく一色に置いていかれてしまい、しばし雪ノ下と向かい合うかたちになった。

 ……えーっと、これ俺も入っていいの? いや、いいんだろうけどさ。

 

「とりあえず入りなさい」

「お、おう」

 

 再度の許可を得て一歩また一歩と玄関へ立ち入ると、以前と同様ふわりとシャボンの香りが鼻に届いた。癒やしの香りだ。

 ちなみに確か雪ノ下はサボンのフレグランスを愛用していたはずだが、シャボンとサボンって音が似てるよね! どうでもいいけど。

 

「リビングで待ってて」

「了解」

 

 この家の間取りは3LDKで、廊下を進んだ一番奥にリビングがあったと思う。

 背後でカチャカチャと玄関を施錠する雪ノ下に言われ、そのリビングへ向かうべく廊下を歩く。ところで、先にあがった一色は何処へ消えてしまったのやら姿が見えないけど、どうしたのかしら。ここ人ん家だよ? いろはす?

 なんだかなぁ……と、どっかのラノベに出てくる冴えない[[rb:彼女 > ヒロイン]]のようなことを思いながら、廊下突き当りの扉をそっと開けた。

 その、瞬間。

 

「おわっ、なんだ!?」

 

 パン、パパパン、パン……、と乾いた音が前からも後ろからも鳴り響き、体中に何かもじゃっとしたものが絡みついて、一瞬パニックに陥る。

 続けざまに耳に届く、騒がしい声。

 

「ヒッキー! ちょっとはやいけどお誕生日おめでとー!」

「お兄ちゃんおめでとー!」

「おめでとうです先輩!」

「八幡おめでとう!」

「比企谷くん、おめでとう」

 

 一斉に声を上げているのに、台詞は全く揃っていなくてばらんばらん。

 しかし内容は全て同じもので。

 

「え……?」

 

 頭が追いつかず、状況把握に努めるべくゆっくりと周囲を見回す。

 去年と同じ薄桃色の浴衣に袖を通した由比ヶ浜が、無邪気に笑っている。

 いつの間にか母ちゃんにでも買ってもらっていたのか、黄色い浴衣で着飾った小町が、あざとくウインクをキメている。

 うっすら水色の下着が透けちゃってる夏服姿の一色が、にまにまと笑みを浮かべている。

 半袖にハーフパンツで肌の露出が眩しすぎる戸塚が、天使のような暖かい表情で見つめている。

 そして振り向けば、雪ノ下がいたずらっぽく微笑んでいる。

 ん? ……戸塚? 戸塚っ!?

 

「と、戸塚ぁ!」

「あはは。八幡、紙だらけだよ」

 

 戸塚……天使様……! 尊い……!

 じゃなくて、頭や肩に絡みついたもじゃもじゃを手で取ってまじまじと見る。

 ピンクや水色、黄色、オレンジといった色とりどりの細く縮れた紙テープは、パーティグッズとしておなじみクラッカーのものだった。

 

「……あー、なんか説明ないまま一色に引っ張られてきたんだが、これってもしかしてアレか? その、俺の誕生日祝い的な……」

 

 それ以外には考えられないわけだが、つい確認してしまう。

 これはいわゆるところのサプライズ誕生日パーティ的な感じのやつだ。中学の頃、誕生日の放課後に突然クラスの生徒たちが一斉にはっぴばーすでーとぅーゆーとか歌いはじめて、一人感動していたら全然関係ないイケメン男子の誕生日だったオチで、帰宅して部屋に閉じこもってひとり泣いた例のあれだ。

 

「それ以外ないじゃん! むしろなんだと思ったし」

「ほらほらお兄ちゃん、主役はこっちこっち」

 

 情けない質問を由比ヶ浜に呆れられながら、小町に腕を引っ張られる。

 広いリビングの中央には、三人がけと一人がけのソファが大きなテーブルの周りを囲うように配置されていて、俺は左側に置かれた三人がけソファの真ん中に座らされた。

 テーブルの上には、まだ温かいのかほかほかと湯気の漂う料理がいくつも並び、コーヒーカップやグラスなども裏返して用意されている。

 ……俺、こんなに盛大に祝ってもらっちゃっていいのか?

 

「揃ったことだし、それじゃあ始めましょうか」

 

 小町、戸塚とそれぞれソファに着いたのを確認してから、雪ノ下と由比ヶ浜、一色の三人がリビング脇の小部屋へと消えてゆく。数秒の後、由比ヶ浜と一色の愛らしい歌声が聞こえた。

 

「「はっぴばーすでーとぅーゆー♪」」

 

 二人は歌いながら、続いて雪ノ下が苦笑しながら、大きめのホールケーキを持って現れる。

 由比ヶ浜の手には、いかにも高級洋菓子店で売られていそうなチョコレートケーキ。

 一色の手には、淡いピンクで可愛らしいいちごクリームっぽいケーキ。

 雪ノ下の手には、輸送中に落下させた可能性大のちょっとぐちゃったショートケーキ。

 いずれにも火が灯って煌めく蝋燭が立っていて、いちごクリームっぽいケーキには一色が加えたのか手書きのメッセージチョコプレートが添えられていた。

 

「はっぴばーすでーでぃーあひっきー♪」

「はっぴばーすでーでぃーあせんぱーい♪」

 

 いや、そこの部分ぐらい歌詞合わせろよ。なんてついつい内心突っ込みながら、その光景を見る。

 

「「はっぴばーすでーとぅーゆー♪」」

 

 やがて俺の目の前にケーキが並べられ、ぱちぱちと拍手が沸き上がった。

 なにこれ、やだ、恥ずかしい……。照れる……。

 

「ほーらお兄ちゃん、ふーっ!ってしなきゃ」

「八幡、ふーって」

 

 最後に蝋燭ふーっをしたのは小学校三年生くらいのときだったか。四年生くらいからはもう恥ずかしくて嫌がるようになったし、中学生ともなると誕生日ケーキがコンビニのカット済みショートケーキだったりしたから、こういう役はどうにもやりずらい。

 五人の注目を一身に浴びて幾分か緊張しつつ戸惑いつつ、ゆっくりと息を吸って、三つのケーキに向かって順ぐり吐き出す。

 一つ、一つ、また一つと蝋燭たちは静まり、やがて全てから火が消える。あとに残るのは小さくくすぶり立つ黒い煙。

 

「おめでとー!」

「おめでとですー!」

 

 再び拍手と再び祝いの言葉をで、部屋が一気に騒がしくなる。

 すごく、リア充っぽい光景だ。

 だからだろうか、いま目の前でこうして祝ってもらっているはずなのに、自分自身でそれを体感しているはずなのに、夢でも見ているだけのようで。……現実なんだという実感が、なかなか沸いてこない。

 これはもう、子供の時からこれまで育ってきた中で俺という人間の心や脳に刻まれてきた、どうしようもないくらいにひねくれた何かなのだろう。友達がいないのが当たり前で、人から嫌われ忌まわしく思われるのが当たり前で、家族以外の誰も俺と接してくれないのが当たり前で、いつもひとりぼっちでいるのが当たり前で。

 素直に喜んで、素直に笑って、素直にノリノリになって、みんなで一緒にバカ騒ぎをすればいいだけのはずなのに。

 どうしてか、もやもやとよくわからない感情が胸にくすぶり。

 どうしてか、気づけば鼻をすすってしまっていて。

 どうしてか、

      ――涙がこぼれそうになる。

 

「……比企谷くん。あなた、ろくでもないことを考えているでしょう」

 

 そんな俺に、雪ノ下が穏やかな声音でそっと語りかける。

 

「過去のあなたの人間関係がどうだったのかなんて、それは私たちには関係ないことよ」

「あたしたちにとってのヒッキーは、あたしたちと知り合う前のぼっちのヒッキーじゃなくて、いまのヒッキーだもん」

 

 続けて、由比ヶ浜も優しく微笑みながら言葉を伝えてくれた。

 

「だね。ぼくたちの好きな八幡は、いまここにいる八幡だもんね」

「お兄ちゃんが思っている以上に、みんなお兄ちゃんのこと大切にしてくれてるんだよ?」

「あなたには良いところも悪いところもある。けれど、それでも今のあなたは、私たちにとって本当に大切な、立派な親友よ。あなたと知り合うことができてよかったと、今なら言えるわ」

 

 言葉は戸塚、小町と引き継がれ、そして再び雪ノ下に継がれ。

 

「だから先輩も、そーんな情けない顔してびーびー泣いてないで、堂々とばーんって胸を張ってください。ちょっときもいいつもの笑顔で、ふひふひ笑ってください。気張らなくても気にしなくても、わたしたちはそれでいいんですから」

 

 最後に一色がそう締めて、全員がにっこりと笑う。

 邪気のない表情で、心から俺を信じ受け入れてくれるように。

 なら、俺だって。

 一人ひとりに対する想いに差はあれど、こいつらみんなを大切な存在だと思っているのは、俺だって同じなのだから。

 

「……誰がびーびー泣いてるっつうんだよ。それにふひふひ笑ってないし、勝手に誇張すんなよな。お前こそ胸張ってもぺったんこなくせに」

「んなっ!? セクハラですよそれー! ぺったんこじゃないですし一応これでもCカップありますし!」

「っ!? そ、そんな……あなただけは仲間だと思っていたのに……」

「わーっ! なんかゆきのんがダメージ受けてる!」

「雪乃さん大丈夫です! 小町Bカップですから!」

「……ふっ。小町さんまで、私を裏切るというのね」

「ゆきのんしっかりしてー!」

「な、なんか変なことになっちゃったね……」

 

 わいわいがやがや、やれなんだと場は騒がしくなり、俺のせいでしんみりとした雰囲気は一気に盛り上がっていく。

 この期に及んでも、まだ『ありがとう』と素直に言えない自分の残念な性格には呆れちゃってしょうがない。けど。

 たまには、こんな記念日も悪くはない。

 とにかく、ただただ、感謝だった。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 さて、仕切り直しだ。

 花火の打ち上げ開始までまだ少し時間があるので、それまではおしゃべりと料理を楽しみつつ過ごすことになった。

 一色がケーキナイフでケーキ三種を各々に切り分け、由比ヶ浜がフライドポテトやフライドチキンなどの食事各種を取り分け、雪ノ下が飲み物を注ぎ……と三人がきびきび動いてくれて、主役の俺と『客人』の小町、戸塚はそれをゆったりくつろぎながら眺めていた。

 この様子からして、どうやら今日のこのイベントは一色たち三人が企画してくれたっぽい。気になることがいっぱいあるし、あとでしっかりと問い詰めてやろう。

 

「はい。ではみなさんお食事とお飲み物は行き渡りましたかー?」

 

 俺のすぐ右隣の席を陣取った一色が、シャンパンに見立てたいろはすスパークリングれもんのグラスを掲げつつ挨拶をはじめる。いわゆる乾杯の音頭ってやつだ。

 

「ちょっと今日は準備が急だったんで、プレゼントとかの用意が間に合わなくて先輩にはごめんなさいなんですけど、そのぶんおいしいお食事とおいしいケーキを用意しましたので、ぱーっとやってください! ぱーっと!」

 

 満面の笑みで口上を続ける一色は、とにかく活き活きとしすぎていてちょっとうざい。

 やあねぇこの子ったら。主役の俺の5000兆倍くらい楽しそうだわ。たぶん忘年会とかの幹事任せたらノリノリでやりそう。宴会芸とか。

 っていうか思ったんだが、いろはすがいろはす飲むとか共喰いかよ。まさかいろはす・千葉県産いろはすとかあったりするのん? まさかいろはすのエキス(意味深)入りなの? なにそれ飲みたい。いくらで買えますか!?

 

「ではでは、準備はよろしいですかー?」

 

 苦笑しつつ、予告に合わせて俺もグラスを掲げる。

 

「先輩の誕生日を――数日フライングですけど祝して! かんぱーい!」

「「かんぱーい!」」

 

 みんなでグラス同士をかち当てて、部屋に小気味よい音を響かせた。

 今日は初めての経験づくしだな……。どうしよう。楽しい!

 

「ん? 雪ノ下、お前はグラスん中炭酸じゃないのな」

「炭酸は苦手だから……。雰囲気だけ、ね」

 

 ただの水らしき無色透明な液体を見せた雪ノ下は、グラスを机に置くと紅茶を注いだカップに持ち替え、さっそく口をつけていた。

 んまあ、雪ノ下が炭酸ぐびぐび飲むイメージはねえな。一年ちょっと前まではファミレスのドリンクバーの使い方すら知らなかったような奴だし。

 一方その隣でガハマさんは、ビールを飲む新橋のリーマンよろしく、ぐびっと大きめにひとくちあおっていた。

 

「はー! おいしー!」

「……お前、うまそうに炭酸飲むのはいいけどよ、絶対ゲップすんなよ」

「し、しないし! っていうか女子にそういうこと言うとかほんとヒッキーデリカシーなさすぎ!」

 

 指摘に顔を真っ赤にして慌てて否定する由比ヶ浜だが、たぶん俺が言わなかったらあの調子でぐびぐびいって、そのうちげぷっとやってただろう。

 気をつけろよお前。女の子なんだから。

 

「けどそう言いますけど、結衣さん、たまに色々と無防備ですよ? 外とかじゃ気をつけてくださいねー?」

「う、うぅ。穴があったら入りたい……」

 

 年下にまで注意されてしまい、見事に小さく縮こまってしまった。

 ほー、『穴があったら入りたい』は知ってるんだな。えらいぞ由比ヶ浜。

 

「さてさて先輩」

「おん?」

 

 ちょいちょいと肩口を突かれて、一色へ顔を向ける。

 

「しゃべってばっかりじゃだめですよ。せっかく先輩のために用意したお食事なんですから、食べなきゃです」

「……ああ、そうだな」

 

 確かにそのとおりだ。せっかく用意してくれたのに、食べずにくっ(ちゃべ)ってたら意味がない。

 そしたらじゃあ、どれからいただいちゃおうかしらと、目の前の取り皿各種に視線を彷徨わせる。三種のケーキももちろん食いたいが、まずは食事からだな。

 大きめにざく切りされた皮なしのフライドポテトに、ナゲットのようなお手頃サイズのフライドチキン、ビーフシチューのような香りが豊かに漂うポットパイ。どれもこれもめちゃくちゃ美味そうで、見ているだけでも口内の唾液分泌が加速する。

 

「よし、いただきます」

 

 感謝の気持ちに手を合わせ、まずはポットパイからいただく。

 カップの上にかぶさったパイ生地をスプーンでさくっさくっと壊すと、うっすらと白い湯気が立つ。中に崩れ落ちた生地をシチューに浸けるようにして、ひとさじ掬う。

 ぱくりと。

 

「……おお」

 

 口の中で広がる赤ワインの香り。続けざま舌に感じるまろやかなコク。

 咀嚼すると、ほどよくシチューが染みた生地がさくさく音を立て、柔らかく煮込まれた豚肉がとろぉっと溶ける。香りも味も食感も、全てが素晴らしかった。

 

「フライドポテト、シチューに浸けて食べても美味しいはずよ」

 

 雪ノ下に言われて、箸でつまんだポテトをちょんと浸けてから口にする。

 きちんと油が切られていて、いわゆるところの外はカリカリ中はホクホクといった感じの、良い塩梅に揚がったポテトと、絡めたビーフシチューの相性はまさに抜群。絶品と言えよう。

 

「すごいな……。これ、そこらのレトルトなんかじゃねえよな。まさか高い料理屋にでも頼んだのか?」

 

 聞きながら顔を上げ気づく。

 ……なんで皆さん、そんな固唾を飲むように俺を見守ってるの? 毒味なの?

 一色を除く八つの瞳が、じーっと俺に集まっていた。ちなみに一色だけは面白そうににまにまと表情を崩している。お前ムカつくからマイナス1点。

 

「八幡、美味しい……かな?」

 

 緊張の面持ちで感想を求める戸塚を見て、思う。

 

「これ……。もしかして、戸塚が作ったのか?」

「う、うん。雪ノ下さんに教えてもらいながら、ぼくと小町ちゃんで……」

「美味い! 超美味いぞ戸塚! 最高だぞ戸塚っ! ありがとう!!」

 

 最高だ……。やっぱり戸塚は最高だ……!

 感激のあまり、このまま抱きついてしまいそうな勢いで感謝の意を伝える。むしろ勢い余りすぎて押し倒しちゃうまであるかもしれない。

 

「あの、お兄ちゃん。小町も作ったんだけど」

「ありがとよ。世界一素晴らしい妹だぞ小町は」

「うわー、扱いテキトーだなー」

「あ、あはは……。でも、八幡に美味しいって言ってもらえてよかった」

 

 緊張が解けたのか、戸塚は胸をほっと撫で下ろして微笑む。

 天使だ。やっぱり、戸塚は天使だ……。その表情とビーフシチューパイ、最高のプレゼントです!

 

「……ん? ってことは、これもしかして全部手作りなのか?」

 

 机の上に広がるケーキや食事。

 一見するだけだと、そこそこお高めのお店で売っているようでもあり、あるいはポテトに関しては冷凍食品をちゃちゃっと揚げただけのようでもある。しかしよくよく見れば、このポットパイに使っているティーカップは柄もデザインもバラバラだし、ケーキもどこか手作り感ある気がするのだ。

 俺の問いかけを、一色が頷いて肯定する。

 

「実はですね、みなさんで分担したんですよ。シチューを戸塚先輩と小町ちゃん、揚げ物とチョコレートケーキは雪ノ下先輩、そしてショートケーキは結衣先輩です」

 

 丁寧に指さし指さし説明され、なるほど納得。

 

「由比ヶ浜が……、どおりで」

「ちょ! ヒッキーなんか失礼なこと考えたっ!?」

 

 店から持ち帰る最中に落っこどしてしまったかのように崩れた、ちょっと残念なショートケーキ。クリームはべちょっているし、スポンジも潰れている。けれどもそれは、きっと由比ヶ浜が雪ノ下に怒られながら、頑張って頑張って形にしたものなのだ。

 雪ノ下が作り上げたという、高級洋菓子店で出してきそうな完璧すぎるチョコレートケーキと並んでしまうと天と地ほどの差があるし、みすぼらしくも思えてしまうが、心とやる気はたっぷりとこもっているのだ。

 

「いや、別に見た目はボロボロでもいいんじゃねえの。下手っぴでも下手っぴなりに形になってんだから、頑張った姿勢は十分伝わったよ」

 

 由比ヶ浜が最初に奉仕部へ訪れたあの日に、俺自身が言ってやったことだ。味や見た目が悪かろうと、頑張った姿勢が伝われば男心は揺れる――と。

 最初はジョイフル本田で売ってそうな木炭みたいな異物を作り上げてたのになぁ。めちゃくちゃ上達してんじゃんお前。それだけでもすげえよ。

 

「う、うん。ありがと」

 

 照れくさそうに、由比ヶ浜は俯く。

 ……だが、一応は念のために聞いておかねばならぬことはある。

 

「ちなみに食っても死なずに済むのか、それ」

「ひどっ!? 当たり前じゃんこれ食べ物だから!」

「いやだってお前、ケーキなんて作るのはじめてだろ。さすがになぁ」

 

 脳裏にね? よぎっちゃうんだ……。口に入れた瞬間顔面蒼白になってぶっ倒れる俺の姿がね……。

 

「大丈夫だよお兄ちゃん、小町と雪乃さんでしっかりと監視……じゃなくて監督してたから、味だけは保証するよ」

「小町ちゃんもしんれつだ!?」

「えっと……由比ヶ浜さん、辛辣と痛烈が混ざってるよ」

「さいちゃんまで厳しい!? うわーん、ゆきのーん!」

 

 わいわいがやがやと、まるで一年前の奉仕部のように騒がしくなって、由比ヶ浜は雪ノ下に泣きついて。

 去年の夏休み以来、色々あったがためにしばらく遠ざかっていた賑やかしい光景が目の前に広がっているのだと考えると、目頭が熱くなるようで。

 いや、さすがにもう泣かないけどさ。死にたくなるから。

 

「……よかったですね」

 

 懐かしさに浸る俺に、一色は遠慮がちな声を掛けてくる。

 さっきのにやついた笑みではなく、ぬくもりを感じる優しげな色を湛えて。

 

「ああ」

 

 一色が言わんとすることがなんなのかは、いまいちわからない。だが、たぶん俺の思うところとそう差異はなかろう。

 肯定だけ返してやってから、さっきからずっと気になっていたことに話を切り替えることにする。

 

「ちなみに、そのピンクのあざといケーキは一色か?」

「なんですかあざといケーキって……。普通にいちごのレアチーズケーキですよ」

「うっわ、あざとっ」

「何がですかー!」

 

 むぅー! とあざとくぷっくり膨らんだふぐはすの頬、指でずびっと突きたい。まあやらんけどさ。

 

「けど、あれだな。さすが一色だな。お菓子作りにかけては天才的ってか」

 

 ジュレってやつなのか、赤桃色に鮮やかな透明の膜で表面がなめらかにコーティングされていて、上にはむにゅっと絞られた生クリームと『せんぱい誕生日おめです♡』と書かれたいちごホワイトチョコ製らしきプレートが飾られている。

 ジュレの下には淡いピンクのチーズケーキ部分がたっぷり分厚くあって、刻まれたいちごがところどころに埋まっているのが外周の部分からでも見えた。最も下の部分に、クッキー生地のような薄茶色の層も見える。

 雪ノ下のチョコケーキもそうだが、そこいらの女子高生が手作りしたようには思えない出来だ。

 

「ま、まあ、料理とかお菓子作りは得意ですから、このくらい当然です!」

 

 少しだけ頬を赤らめつつ、勝ち誇ったようにドヤ顔を見せる一色。

 この子ったら褒めるとすぐに調子に乗るんだから……。ころころ変わりまくる表情と態度に付き合うのはちょっとばかり疲れるが、不思議と楽しさもあるから赦してやろう。

 

「大変だっただろ。これ作るのに何時間くらいかかったんだ?」

 

 シチューをいただきつつ問いかけると、一色はぴんと立てた人差し指を口元に当てて、考える。

 あざとい仕草だが自然なようにも見えて、なんか妙にかわいいのが癪だな……。

 

「えーっと、クッキー生地の部分は昨日のうちに作ったんであれですけど、ケーキの部分は五、六時間ですかね? 一五時前くらいに完成したので」

「けっこう時間かかるのな」

「チーズケーキの部分が完全に冷えて固まるのを待ってから、上のジュレの部分を流し込んで冷やして固めて……って順番にやらないと、飾り付けできないんで」

「なるほどねぇ」

 

 ケーキ作りってものは、手が込んでいて大変なものらしい。めんどくさがりな俺じゃ到底作れんだろう。わざわざ俺のために作ってくれたっていうのは嬉しいことだが。

 しかし、ということなのであれば。

 

「ってことはお前さ、つまり――」

 

 本題を切り出そうとした瞬間、防音がしっかりとしたこのマンションでもはっきり聞こえるほどの音量で、ドンと爆発音が響き渡る。

 

「あ! 始まっちゃったじゃん!」

 

 慌てて由比ヶ浜はレースカーテンを開け放ち、雪ノ下がリビングの照明を落とす。

 かろうじて互いの顔やテーブル上の食事が見える程度に薄暗くなった部屋を、浜辺で打ち上がる大輪の輝きが色鮮やかに彩った。

 

 

 

 




後編の終へ続きます


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⑤ きっともう彼と彼女は幸福を手にできている。

比企谷八幡生誕祭2017の記念SS、後編の終。
これでおわりです。

いつもと同じ、いろはすに甘い内容です。



 

 夜の潮風に木々が揺れ、マンション街を葉擦れのざわめきが支配していた。

 楽しいひとときは、あっという間に流れてしまった。

 最後の花火が上がってからしばらくが経ち、二十一時を少し回ったところでパーティはお開き。まだまだ余韻に浸りたいところだったが、あまり遅くなってしまってもあれなのでこればかりは仕方がない。

 後片付けとお勉強会を兼ねて、そのまま場の流れ的に雪ノ下の家でお泊まり会コースとなった由比ヶ浜と小町を残して、俺と戸塚、一色でタワーマンションを後にした。

 夜の帳が下りた……なんて表現が似合わないほど、まだまだ幕張海浜公園や駅周辺には多くの人が残っていて騒がしい。口から流れ星をおろおろやってる酔っぱらいや狂ったように大声を上げているDQN(死後)までいる始末。ああいう人間にはなりたくないものだ。

 

「戸塚、変なの大量にいるから気をつけろよ」

「ありがと、八幡」

 

 海浜幕張から電車だけで幕張や稲毛などの総武線沿線に出ようとすると、蘇我(そが)・千葉経由でも南船橋・西船橋経由でもどっちみちかなり遠回りをしなきゃならず、だいたいの場合は自転車や路線バス頼りになる。

 稲毛あたりに住んでいるらしい戸塚もバスで帰るようだが、稲毛駅行きの終バスはもう出る時間。名残惜しいが、ものすごく名残惜しいが! 寂しい気持ちをぐっと堪えて大天使の乗ったバスを見送る。

 くそ……。これからまた三週間くらい戸塚と会えないなんて……。

 

「わたしたちも帰りましょっか」

「ん、そうだな……」

 

 いつまでもロータリーでぼけっとしていても仕方がない。

 まだまだ楽しみたい気もするが、今日はこれにておしまい。きちんと切り替えていくことも必要だ。

 

「先輩も幕張までバスですか?」

「いや、歩きだな。バスもうねえし」

 

 海浜幕張からJR幕張駅の北口まで結んでいる東洋バスは一〇分ほど前、京成幕張駅行きの京成バスはもっと早く一時間ほど前で終わり。早えんだよな終バス……。幕張本郷駅行きは幹線なのでかなり遅くまで走っているが、それだと一駅だけだが電車に乗り換える必要がある。

 となれば、手段は徒歩だ。

 幕張まではそれなりに歩くが、かといって二キロもない。二、三〇分ほどだし、夜風のおかげで昼間より涼しくなったしな。

 

「なるほど……。じゃあ、行きましょっか」

「おう。……おん?」

 

 行きましょっかってお前電車でしょ……と思う間もなく、一色は数時間ぶりに俺の右腕を取ると自らの腕を絡め、更にゆっくりと指を絡める。

 俗に恋人つなぎとか貝殻つなぎとか称する関係の深い恋人同士が一般的にやる行為を、一色は躊躇する素振りもなく俺と行う。

 けれども俺と一色は恋人同士ではない。告白とかそういう手順だって踏んでない。実は未だに連絡先だって知らない。かといって、一色がこうしている意味がわからないほど俺は無神経じゃないし、拒絶する理由も意思もない。

 ただ思うのは、俺でいいの? ってことくらいで。

 

「はー……。終わっちゃいましたね、パーティ」

 

 幕張駅のほうへとつながる大通りをのんびりと歩きながら、名残惜しそうに一色が声をこぼす。祭りの終わりが寂しいのは俺だけではないのだ。

 

「なあ」

 

 せっかく二人きりなのだから、さっき聞きそびれたことを今度こそ聞いておきたい。

 聞きたいこと、知りたいこと、わかりたいこと。数えだしたらキリがないほどある。だからまずは、今聞けそうなことだけでも。

 

「結局、今日のあのパーティってお前の企画か?」

 

 マンションに連れて行かれたときから、ずっと気になっていたことだ。

 雪ノ下の家でパーティを開いてくれるというのなら、最初からそう言ってくれればよかったのに。花火を見に行こうなんて言葉で強引に連れ出さなくても。

 

「木曜日、結衣先輩と会ったって言ったじゃないですか。実はあのとき、いろんなことをおしゃべりしたんですけど、流れで雪ノ下先輩と小町ちゃんも交えてぱーっとパーティしようって話になったんです。ちょうど花火大会もありましたから」

「じゃあ今日はアレか。雪ノ下の家でケーキ作ってから、学校まで俺を捕まえに来たってわけだ。生徒会っていうのは隠すための嘘で」

「ちょっとサプライズっぽい感じにしたかったんで……ごめんなさいです。けどほら、最初からバラしちゃったら意味ないですし」

 

 ちょっとだけ申し訳なさそうに、俯き加減で目を伏して笑う。

 

「けど、木曜日まで知らずに先輩を待ちぼうけしてたのは本当ですよ? 先輩と会いたかったのも、お祝いしたかったっていうのも、二人で花火大会に行きたかったのも、デートが100点っていうのも。……そういうのは全部、嘘じゃありませんから」

 

 日頃の振る舞いよりもずっと真剣に、遥か遠くどこまでもずっと繋がり続く道の先をしっかりと見据えて、一色は語った。

 俺だって、それらが嘘でないことくらいわかる。今日一日、いや数時間ほどだが一緒に居て、常よりも濃密に接した中でまざまざと事実であることを見せつけられたのだから。一色いろはという女の子は真剣に俺のことを想ってくれていて、それはきっと俺が認識できている以上に深く強い。

 過去のように人の好意を曲解して跳ね除けるようなことは、もうしない。相手を傷つけ、自分も傷つけ……、そんなのアホらしい。

 

「本当はもっと早く雪ノ下先輩の家に行く予定だったんです。けど、もうちょっとだけ、あと少しだけ、先輩のことを独り占めしておきたいなって思っちゃって。ちょっとだけのつもりだったんですけど、いつの間にか時間けっこう経っちゃってたんですよね」

「……それであん時、時計を見てあんなに驚いてたのか」

「はい。料理が全部できあがるころ、六時ちょっと過ぎくらいに先輩を連れて行くって段取りでしたから。一〇分くらいならいいかなーとか思って、三〇分くらいオーバーしちゃった感じです」

 

 てへへっと舌を出して笑って見せて、じゃれつくように俺に擦り寄る。

 そんな一色がとてつもないほどにかわいくて、嬉しくて、愛おしい。ここまで俺に感情を表してくれる人なんてこの子がはじめてだから、余計に愛くるしくて仕方がない。

 単に俺がちょろいだけなのか、一色が魅力的すぎるだけなのか。

 今日学校で会うまでは、別に強い恋愛感情を抱いていたわけじゃなかったはずなのに、今はもう惹かれて、心掴まれて、逃れられない。

 元々俺は惚れやすい質だった。小学校の頃も、中学校の頃も、それで何度だって失敗してきた。だからもう二度と失敗しないようにと思って無理やり心が浮つかないように抑えつけてきた。なのに、一色は、簡単に俺の重石や蓋を取っ払ってしまった。取っ払われてしまったら、もう惚れることを防げない。

 ……たったの数時間で、すっかり俺の完敗、だな。

 

「今日はもう二人っきりにはなれないと思ってたんですけど、また二人っきりになっちゃいましたね」

 

 かなり甘さの増した声音で、一色が囁いた。

 元々の予定では、小町のお泊りはなかったはずだ。今朝はあいつは「今日友達と遊ぶから」的なことしか言ってなかったし、雪ノ下の家を尋ねる直前に一色が採点の話をしたのも、本来はあの場面で『デートは終わり』だったからだろうし。

 いくつかの予定が変わって、たまたまこの状況が生まれたのだ。

 

「先輩。どうですか、こういう甘いの」

 

 どこかしんみりとした雰囲気の中、恋人繋ぎで歩く、お祭り騒ぎの後の夜。

 俺になんて絶対に訪れることがないと諦めていた、人並み以上の青春の情景。

 今まさに俺は、その情景の中にいるのだ。

 甘くて、とにかく甘くて、酸っぱくも辛くもなくて。ただここにあるのは、甘くてひたすらに激甘い、一色いろはの素敵な何か。

 

「……甘すぎだな」

 

 本当に甘い。甘やかされすぎて、バカになってしまいそうだ。

 どちらか片方が甘えるのであれば、もう片方は甘やかす側の立場じゃなきゃバランスが取れない。これでは、お互い甘ったれだ。

 ……けど、それでもいいんじゃねえかなと、思いたくなる。

 

「けど、先輩は甘いほうがお好きですよね。マッ缶みたいな、すっごく甘ったるいのが」

 

 いくら激甘のマッ缶を愛飲しているからって、同じものばかり毎日毎日飲み続ければさすがに休憩をはさみたくなるし、少しは苦いものも取りたくなる。

 ……それでも、マッ缶を好きじゃなくなることはない。

 

「ああ。マッ缶みたいなやつがな」

「それなら、いいじゃないですか。こういう甘いの」

 

 すぐ近くで一色の美しい亜麻髪がさらりと揺れ、ふわっと甘い香りが漂う。

 今日はもう何から何まで甘いものづくしで感覚が麻痺してしまいそうだ。なのにけれども、その狂うほどの甘さを俺の心は、確かに求め惹かれている。

 手を繋いでいるだけで幸せで、声を聞くだけで愛おしくて、隣に並ぶだけで狂おしくて。なる。そんな青春じみた感情に、確かに囚われている。

 心臓の鼓動がいつしか、常よりずっと高まっていた。

 繋ぐ手に、汗を感じた。

 じわりと染み出したのは俺か一色か、それとも互いか。

 

「他の誰かから見て……、わたしたちって、恋人っぽく見えますかね?」

 

 夕方問われた言葉が、再び俺の耳へと投げかけられる。

 さっきはどう答えたんだったか。ただぶっきらぼうに「わからん」とはぐらかしたんだったか。

 人間の感情は、時間の経過とともに変わるものだ。さっきと今では違って当たり前で、きっと今とこの先でも違うことはある。なれど今は、今この瞬間だけであったとしても。

 

「お似合いかどうかはわからんけど、そう見えるんじゃねえの」

 

 たぶん、知らんけど。

 ――という逃げの語尾はつけない。個人的な感情として、そうであってほしいから。

 

「なんですか、もしかしてそれ口説いてます?」

「……お前が聞いてきたんでしょ」

 

 それはこっちの台詞だろう。

 口説いてるとしたら、それは俺じゃなくて一色だ。

 

「やっぱ先輩、ノリ悪いですね」

「どうノれってっんだよ……」

 

 つい短く溜息が漏れる。

 いくらなんでも無茶振りが酷すぎるというもんだ。そんなに明るい茶目っ気がある性格をしていたら、こんなに狭い範囲で人間関係完結していないし。

 

「そこはあれです。ほら、不審な感じに視線をうろうろさせながら『それ以外、何だと思ってんだよ……』みたいな感じで~」

 

 目を細めてぼそぼそと、一色は俺の仕草と口調をマネた。

 それムカつくからやめろ。……あ、つまりいつも俺はこういう感じなんですね。ムカつくなぁ比企谷八幡。

 

「お前なぁ……」

 

 文句でも言ってやろうかとも思ったが、かつて俺も本人の目の前で一色のモノマネをしたことがあったし、人のことは言えん。

 半年以上越しに仕返ししてくるとか、なにげけっこう根に持ってんなこいつ。

 感傷的な空気を壊すような突然の茶目っ気に、どうにも言葉にしづらいもやもやとした感情が心の中で渦を巻く。

 

「けど、ま。それは冗談としても」

 

 ふっと小さく笑った一色は、表情をぐっと引き締める。

 

「今なら口説かれても、いつもみたいにごめんなさいしませんよ?」

 

 どうしてこう、こいつはこんなに……。

 

「……いつもって、まず口説いたことなんて一度もないつもりなんだが」

「む……。それじゃ求めてた返しと違います。やりなおし」

 

 やりなおしって……。

 一体何をどうやりなおせというのか。もしかしてあれか? 本気で口説き文句でも言えって要求してんの? いや無理でしょ俺だぞ?

 だいたい、そもそも口説くも何もまだわかんねえよ。一色のことではなくて、俺自身のことがわかってない。なんかいいなーと思う感じとか、一緒にいて幸せな感じがするなーってところとか、それらは全部ただ単にこいつのかわいさや場の雰囲気に流されてるだけかもしれんのに。

 

「……ふん。このヘタレっ」

 

 いつまでも黙り込んでいる俺を、一色は拗ねたように鼻を鳴らしてじっとりと冷たい視線で睨んだ。

 

「おい失礼だな、俺はそこいらのギャルゲ主人公みたいなヘタレ野郎じゃねえ。慎重を期しているんだよ。ただ、ちょっとばかり慎重になりすぎて、石橋を叩いて叩いて叩き過ぎて破壊してるだけだ」

「それじゃ意味ないじゃないですか!」

 

 ほんとにそのとおりだ。安全を確かめるつもりでも叩きまくって壊してりゃ意味がない。その結果として、かつて実際に何度も女の子を悲しませてしまったのだから。

 繰り返しちゃいけない、もう繰り返さない。なんて思っていても実際にはこれだ。

 

「ほんとに先輩はまったくもう……。ここまで女の子のほうから膳を据えてあげてるのに、なーんで踏み留まっちゃうんですかね。据え膳食わぬはなんとやらって言いますでしょ? 時には場に流されるってことも重要なんです。ポートタワーのてっぺんから飛び降りる勇気くらい持ってください」

「いや、あんな高いところから飛び降りたら死んじゃうから……。だいたい、場に流されて~なんて無責任でしょ」

「はいはい、わかりましたわかりました。先輩ですしねー、仕方がないから今日のところはこのくらいにしてあげます。もうそろそろ時間切れっぽいですし」

 

 行く先に見えてきた国道14号との交差点を視線で指して、一色がやれやれと肩を竦める。

 俺の家や幕張駅までもうすぐ。今日のさよならまでは、残りわずかな道程しかない。

 

「……なあ」

「なんです?」

「宿題として、持ち帰ってもいいか?」

 

 掛ける言葉が思いつかず、どうにか絞り出して伝える。

 今すぐここで何かを決めるとか場の雰囲気に流されるとか、そういう無責任なのはなしだ。ちゃんと自分の感情を考えて、知って、わからなきゃいけない。

 だからこそ、考える時間が欲しい。ちゃんと一色と向き合っていきたいから。

 

「……いいですよ、それでも」

 

 やがて差し掛かった交差点を渡りきったところで、一色は足を止めて、そっと優しく微笑んだ。

 

「だって、あの先輩をこれだけ意識させられたんですもーん。それだけでも今日は予想以上の大収穫です!」

 

 俺の返答は求められていた返しとはかけ離れたものだったろう。

 それでもこうして、してやったりと言わんばかりに口角を上げて、一色は心の底から満足そうにして見せるのだ。

 

「けど意識させるも何もお前、以前はここまで俺にべったりってわけでもなかったろ。どうして急に……」

 

 元々ボディタッチが激しめというか、袖をつまんだり腕を掴んできたりするのはこいつのデフォだったけれども。

 

「いままでもけっこうじわじわ攻めてたつもりですよ。ちょっとずつボディタッチの回数とか密着度を増やしたりとか」

「……それはまあ、確かに」

 

 普段の生徒会絡みでもそれなりにボディタッチ的なことはされてるし、いつぞやのデートのときもけっこう服やマフラーを触られた覚えがある。

 が、それでも服の上からとか、手首を掴まれて引っ張られる程度だったが。

 

「あとは、先輩に気づかれないよう、制服にこっそりほーんのちょっぴりだけスイドリームス吹きかけておいたりとか」

「いや、なにしてくれちゃってんの」

 

 それってあれかよ、サブリミナル効果ってやつかよ……。

 

「けど、うーん……ま。今日、こうやっていつもより激しくしてるのとか、パーティ企画したのとか、そこらへんは色々とあったんですよ。色々と」

「なんだそりゃ」

「女の子の秘密でーす」

 

 これ以上は何も教えませーんとでも言いたげな素振りで話を切り上げで、一色は歩みを再開する。俺の腕をぐいっと引っ張って。

 物語は俺の前だけで動いているわけではなくて、知らぬところでも大きく移ろっている。全てを知ることはできないし、知らないことはあってもいいのだ。

 ……超知りたいけどねその秘密!

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 今度こそ、二人で過ごす時間はおしまいだ。

 京成千葉線の線路を渡ればJR幕張駅は目と鼻の先。一色はここから総武線各停で帰ることになる。

 タイミングよく電車でも通りかかってくれれば、踏切待ちのぶんだけ長く一緒にいられるわけだが、遮断器は跳ね上がったままで俺たちが立ち止まることもない。

 

「着いちゃい……ましたね」

「だな」

 

 名残惜しさで歩速は遅くなり、狭く細い駅前道路を一歩一歩噛みしめるようにゆっくりゆっくりと進んでいく。

 別にこれが今生の別れってわけでもないのに、どうしてこんなに心が寂しいのか。たった数時間でこんなになってしまうもんなのかしら人間って……。

 繋ぐ右手を離したくないし、なんならこのまま家までお持ち帰りしたいところだが、そういうわけにもいくまい。

 やがて道は終わり、行き止まりの小さな駅前転回場。目の前の階段を上がれば、もう改札口だ。

 さて。

 

「ここまででいいですよ」

「そか」

「じゃあ、またですね」

「……ん」

 

 言いつつも、手は離れない。

 なにこれ……。これじゃあ、よく駅前の改札とかロータリーとかでいつまでも別れずいちゃいちゃいちゃいちゃやってるクソうざいリア充みたいじゃん。

 俺が憎み忌んだ人種に、いつしか俺はなっていた。

 

「先輩、お手々離さなかったら帰れませんよ」

「いや、離そうとしないのはお前だろ」

「またまたぁ、先輩ですよぉ」

 

 離すどころか、逆に力を増してにぎにぎしてるのは一色であって、俺じゃない。たぶんね。

 とはいえ、いい加減離さないとこれ、電車が到着したら駅から出てくる客たちにすげえ視線で睨まれかねない。……さすがに自意識過剰か? けど、めちゃくちゃ恥ずかしいことしている自覚はたっぷりある。

 

「……よし、ならこうしよう」

 

 そうなる前に、ひとつだけ、ちっぽけな勇気を振り絞ってみる。

 

「……はっ!? も、もしや、お……お持ち帰りですか!?」

「なわけねえだろ。普通に親いるし」

「つまり親いなかったらお持ち帰り……と」

「しないから」

 

 っていうかその単語やめようね。色々考えちゃうと不自然な前傾姿勢にならざるを得なくなっちゃうから。むしろ君はお持ち帰りされたいの?

 真面目な話をしようとしたのに茶化されて、せっかくの俺の勇気が……。

 

「……その、だな」

「はい」

「ほれ、俺ら、未だに連絡先とか、知らんだろ」

 

 ぼっそぼっそな詰まった口ぶりが情けなくて恥ずかしいが、これが限界だった。

 中学の頃はなぁ、一瞬目が合っただけの女子に告ったりとかもしてたのに。すげえ勇気あったんだなあの頃の俺。

 

「さよならするのが寂しくて、わたしの連絡先がほしいわけですね」

「いやそうじゃねえよ。半年以上関わってんのに知らんほうがおかしいし、なんか不便だろ」

 

 素直に連絡先おせーてと言えば済むだけのことなのに、あれこれ理由をつけようとしてしまうのだから、この性格には我ながら困ったものだ。

 けど、一色はくすっと笑って気にすることなく流してくれる。

 

「ま、とりまラインとメールと電話交換しましょ」 

「……やりかたわかんないから、よろしく頼む」

「了解です」

 

 どちらからともなく自然と手は離れて、互いにスマホを取り出す。

 ぬくもりが消えてゆく手に寂しさはあるけど、不思議と充実した気持ちはある。……今日は右手洗わんとこ!

 託したあいぽんは一色の手によって素早く操作されてゆく。あっという間にメールアドレスと電話番号が追加され、『ひきがやこまち』しか登録されていなかった無料通話&メッセージアプリにも『いっしき』が加わった。

 

「はい、お誕生日プレゼントです」

「あんがとさん」

 

 冗談めかして言う一色から受け取った画面には、通話アプリの一色のプロフィール画面が表示されていた。

 そこにある、プリ画を切り取ったらしいプロフ画まじまじと見る。かわいいなお前。

 最高のプレゼントですありがとう。せっかくだから後で保存して、しばらく壁紙にでも設定おこう。……などとやましいことを考えてから。

 

「……じゃあ、帰りますね」

「ん……。気をつけろよ、夜道」

 

 今日のさよならの言葉を交わす。

 

「交換したからには、いっぱいメッセ送っちゃいますからね」

「気が向いたら返すわ」

「期待しないでおきます」

 

 名残惜しさのままに、ついつい会話を続けたくなってしまう。

 そんな気持ちは振り払って。

 

「それじゃ、また、あとでです」

「また、あとでな」

 

 最後にそうとだけ交わして、一色は俺に背を向け階段を上ってゆく。いつぞやと同じように、途中で一旦振り向いて小さく手を降って。そしてまた歩いて。

 愛おしい華奢な背中が見えなくなるまで見送ってから、俺も自宅へ向かって歩き出す。

 色々ありすぎて、今日は本当に疲れた。もうへとへとだ。

 なのに、けれども、幸せで幸せで仕方がない。

 素晴らしいパーティを企画してくれた親友たち。俺を落とそうと強引に責めてくるかわいい後輩。もう一生分の幸福を味わったんじゃないかってくらいで、感謝してもしきれない。

 いや、感謝って言葉もおかしいか。親友が親友のためにやってくれたんなら、感謝ではなく……別に何かずっとふさわしい言葉があるのかもしれないが、なにせ経験するのが初めてだから上手く出てこない。誰か俺に語彙力くれ。

 まあなんにせよ、今日のできごとは俺にとって一生忘れられない思い出になったことは間違いない。黒歴史とか嫌な思い出じゃなく、人に誇れる良い記憶として。

 ならば。

 後ろばかり見るのはもうやめて、きちんと前を――

 

「せんぱーい!」

「……は!?」

 

 とてぱたと後ろから追いかけてくる足音と声に振り向く。

 いや、あとでって言ったけどさ、メールとかのことじゃなかったのん……?

 

「なんか電車止まっちゃってるらしくて、いつ動くかもわからなくて帰れそうにないです」

 

 困惑した様子の一色の背後、ホームのほうから駅員による運転見合わせの案内放送が聞こえてくる。曰く、運転再開の時刻は未定。

 ……マジで止まっちゃってるらしい。

 

「京成は?」

「本郷と幕張の間の踏切で異音がなんとかで、その影響で京成も止まっちゃってますね」

 

 ちなみに、この駅から稲毛や千葉のほうへ行く路線バスは存在しない。

 

「……ってーと、つまり?」

「先輩のおうちへ行けたらいいなー、なんて……」

「…………いやダメだろ。ダメ。絶対ダメ」

 

 意図せずお持ち帰りコースとかマジやばい。

 どうしたもんかと思っても、もうすぐ一八歳未満の外出が咎められる時間。まさか一色を放っぽって帰るわけにもいかんし、歩いて雪ノ下の家まで戻らせるわけにもいかんし、割増料金のタクシー代なんて高校生じゃ厳しいし。

 ……しょうがないよね、緊急避難的な感じだもんね。決してこれはお持ち帰りじゃないから、誤解しないでよね!

 

「ったく……。こっちだ」

「はいっ!」

 

 一色の左手をしっかり握って、我が家がある方向へと一歩一歩。

 もういっそ今日はこの手を離さねえ、くらいの意思を持って。

 ……母ちゃんたちにはどう説明したものかと頭を悩ませつつ。

 

 愛おしい存在になってしまった女の子と一緒に、ゆっくり歩いて我が家へ帰ろう。

 

 

 

   了

 

 

 




この物語は八幡の一人称のみで進みますから、当然ながら八幡がいない場所で起きていることは描かれません。
けれども、八幡がいない場所や、2月から8月の間でも物語はずっと動いているわけですから、きっとそこで色々なやり取りがあったのでしょうね。いろはの言う「秘密」はきっとそれです。
三人娘たちはいったいどんなことを思って、どんなやりとりをしてきたのかなー、なんてことを考えながら書いていました。
(いまいち表現しきれていないのは、まさに力量不足で申し訳ないところですが)

……あと、「ヒキタニくんハピバ! うぇーい!」な彼をどっかで登場させようとしたけどやめました。ごめんよ戸部。っていうか誰だよ戸部。


さて、ここまでお付き合いいただきありがとうござました。
次話は以降は別の話(いろは生誕祭SSやその他短編各種)となります。


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【更新→】八幡視点の短編いろいろ
突然と、一色いろはが動き出す。


真面目(?)に書いたSSです。
この作品については、特定のカップリングはありません。



 

 かたかたと春の風が、部室の窓を叩いていた。

 その心地良いリズムを聞いて眠たくなったのか、目をとろんとさせて小さくあくびをした由比ヶ浜は、椅子ごと雪ノ下に擦り寄って甘えだした。雪ノ下は若干文句をいいつつも押し返さずに受け入れて、由比ヶ浜の相手をする。

 今の俺にとって、この光景はとても心を落ち着かせてくれた。

 生徒会役員選挙の頃のような、あらゆる感情や行動がすれ違ってギスギスしたあの重たい空気はもうここにはない。この部屋はとても暖かくて、穏やかで、雪ノ下と由比ヶ浜は相変わらずゆるゆりしていて(結衣だけに)、そして俺はその二人のいちゃこらをチラチラ見て二人から冷たい言葉をぶつけられる。なにそれ俺だけ明らかに損してない?

 そんな時間が流れるのは本当にあっという間で、明日はもう終業式。続く春休みが開ければ、俺たちはついに高校三年生。

 高校最後の一年間というが、受験生である俺たちにとって三学期など無いも同然で、実質的には一年も猶予はない。こうして奉仕部で過ごせる時間に終わりを告げられる日が刻一刻と迫ってきていることを考えると、なんとなく寂しさすら覚えるかもしれない。

 とはいえ、奉仕部という活動の場所を失ったとしても、自然と集まって受験に向かっての勉強会とかやったりするのかもしれないな。実は先日も学年末試験の予習としてゆきのん先生と俺の二人がかりで由比ヶ浜を相手にしたのだが、これがかなり苦労した。そして由比ヶ浜は見事に爆死した。むしろ留年しなかったことに安堵したレベル。こいつちゃんと大学行けるのかな……。

 そんなこんなで、いつもの放課後、いつもの奉仕部。

 雪ノ下が湯呑に入れてくれた紅茶をちょいちょいと口にしつつ、発売されたばかりの新刊を読みながら、ゆるゆりしている二人の様子をこっそり見る。相変わらず楽しそうでいいですね、ゆいゆき。

 そういえば最近、特に誰からも相談や依頼が来てねえなーとか、ふと思う。こうして暇をしていても、あくまで奉仕部は奉仕部なので、誰かしらから相談や依頼が来ればできる限り奉仕することになっている。まあ、別に特に何もなければのんびり過ごさせてもらうし、なんなら相談も依頼も来ないほうがいい。働きたくないでござる!

 ただ、気になることが一つ……というか一人。

 奉仕部員でもないくせに、お前ここに住んでるのってレベルの頻度で入り浸って何食わぬ顔で居座っていた、あの偽装ゆるほわビッチこと一色いろはが、お料理教室イベント以降というものさっぱりここに現れなくなったのだ。それどころか俺個人への生徒会の雑用依頼もない。いつものあざとい『せんぱ~い!』もだいぶ聞いていない。それが不思議で仕方がなかった。

 

「ねーねーヒッキー、ゆきのん。最近いろはちゃん、来ないね」

 

 不思議なことに、由比ヶ浜も同じことを考えていたらしい。一色とけっこう仲よさげだったし、やっぱり気になるのだろうか。

 

「お前、なんか聞いてないのかよ」

「え? あー……、そういえば、生徒会が忙しいとか言ってた……かも?」

 

 首を傾げる由比ヶ浜だが、それ今の今まで忘れてたってことかよ。

 実際いまは年度末だし、これからも入学式や新入生歓迎会、各種新入生向けオリエンテーリング&ガイダンス、生徒総会などなどイベントは目白押しで、生徒会はかなり忙しいだろう。 一色は個人的にも卒業式送辞という大役が与えられ、平塚先生に首根っこを捕まれ(比喩ではない)て連行される姿を先月何度か見かけたし。

 なるほど、そりゃここに遊びに来る余裕なんてないわな。

 ちなみにその卒業式、めぐり先輩が感動のあまりガチ泣きしていた。送辞の中にめぐり先輩個人に対する感謝の言葉(本音かどうかは知らん)を織り込んだいろはすあざとい。男子だけでなくめぐり先輩すらも手玉に取るとは恐ろしい。

 

「そもそも一色さんは部員ではないのだけれど……」

 

 少し冷たい言葉だが、一色の話になってから雪ノ下は明らかにソワソワしている。やっぱり雪ノ下も気にかけているのだろう。いろゆき、あると思います。

 だがまあ、雪ノ下の言うとおり一色は奉仕部の部員ではないのだから、本来ならここには居ないのが当たり前だし、何の用事もないのに居座っていたことこそがそもそもおかしい。というかなんであいつここに入り浸っていたんだ? 正直すごい気になる。

 

「なあ、そういやさ、なんで一色ってあんなにしょっちゅうここに来てたんだ? あの頃あいつ完全にサッカー部サボってただろ? いくら外が寒いからってなぁ……」

 

 一人で不思議がっていても仕方がないし、ちょっとした話の種にもなるだろうと口を開いたのだが、はぁ……と雪ノ下に深いため息を吐かれてしまった。

 

「やっぱヒッキーって……」

「さすがね。あなたらしいわ」

 

 いやなに君たち、その『こいつ頭おかしいんじゃねえの?』みたいな顔。そういう顔してもいいのは小町と一色だけだからね?

 や、一色はダメだな。あれ結構マジで精神的にダメージ大きいから。というか一色はやることなすことが全てが俺に多大なるダメージを与えてくれる。なにあの子最強クラスのボスキャラ?

 

「いや、純粋にわからんから疑問を口にしただけなんだけど。なんでそんな目で見られきゃいけないんですかね……」

 

 あ、もしかしてアレか。葉山とちょっと距離をおいて自分のことを心配させる作戦とか?

 葉山はなんだかんだ言って一色のことを気にかけているっぽいから、『最近いろは来ないな……どうしたんだろう』とかなんとか思っちゃってるかもしれないな。

 ほう……。さすがいろはすあざとい超あざとい。俺がそんなことされたら超気になっちゃう。されるわけないけど。

 

「……やっぱヒッキー、いろはちゃんのこと……気になるの?」

 

 由比ヶ浜は、どこか俺の顔色を伺うようにおずおずと言う。いや、てかなんでそんな不安そうな顔してんの。

 

「気になるっつうか、前にも言ったろ? あいつのことだから誰かに仕事押し付けてるんじゃないかと不安になるし、どうにもならない状態になってから俺に泣きつかれたって何もしてやれないからな」

 

 あいつが生徒会長になったのは俺の行動によるものだし、それならば責任は当然は俺が負うべきだ。実際そういう約束だしな。

 

「やっぱりいろはちゃんに優しすぎだし」

「どこがだ。俺の手に負えなくなったら突き放すまである。そのうち問題でも起こしそうで怖いんだよ」

 

 一色が何らかの問題が起こした時の責任は一色が自分自身で背負うべきであって、それを押し付けられるのは勘弁願いたいからな。その場合はいかに可愛い後輩の頼みであろうと俺は関知しない。

 ……あ、でも“デート練習”の時のアレを経費で落としてしまった横領ギリギリな件に関しては、うん。まあその、なんだ? なんというかアレだ。やっぱりちょっと責任感じちゃうかも。楽しかったし。

 

「あなたはもう少し一色さんの評価を上げてもよいのではないかしら。どこかの誰かさんの影響かは知らないけれど、彼女も大きく進歩したように思えるわ」

 

 葉山に少しでもいい所を見せたいという、その一色の行動原理には眼を見張るものがある。

 きっと一色は人から愛されたいのだ。そのための手段に大なり小なり問題はあるように思うが、愛されたいからこそ、がむしゃらに踏み出そうと行動する。俺にはそういう強さはないが、あいつはそんな強さを持っている。そんな一色を見ていて、俺は少し羨ましく思えるし、ついつい嫉妬してしまう。

 もし過去の俺が、人から愛されることを望み求めていたならば、俺もあいつのように強くなれたのだろうか。その場合の俺は幸せだろうか。そもそも、それは果たして強さなのだろうか。いまの一色は幸せなのだろうか。それは、考えるだけ意味のないことだ。今ある俺が俺自身なのだから。

 

「ふーん。つまり、恋する乙女に葉山効果は絶大ってわけだな」

 

 これは素直な感想だ。

 一色は葉山を想ったことで前へと向かって着実に歩いて行っているんだろう。

 確かに実際、生徒会長就任直後の頃は色々と酷いものだったが、先日の卒業式で送辞を読む一色の姿は大きく成長していたように見えた。

 恋って、凄いんだな……。

 ごめんね一色、ゆるほわビッチとか言っちゃって。普通にヤリまくりなジャグラーかと思っちゃってたけど、きみは一途で純粋な恋する乙女だったんだね……。

 うんうんと一人で勝手に納得し感心したのだが、由比ヶ浜と雪ノ下はその俺の態度が納得がいかないようで、じっと睨むように俺の顔を見てきていた。そして、二人揃って呆れたように大きくため息を付いた。

 

「ほんとに安パイだ……」

「……確かに、伏兵ね」

 

 え、なに? なんで?

 俺、なんかおかしなこと言った?

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 すっかり陽も傾き、そろそろ解散かといった頃合いだった。

 コンコン、とノックされる音。見ればドアの窓の向こうに、その待ち望まれていた一色の顔が見えた。

 

「……どうぞ」

「あっいろはちゃんだ! やっはろー!」

 

 いかにも冷静であるかのような声色で入室を許可する雪ノ下だが、いま一瞬あなた目元が緩んでましたね。いろゆき、あると思います。いろゆき、あると思います! 大事なことなのでなんとやら。

 由比ヶ浜にいたってはドアが開く前からめちゃくちゃ喜んでいる。ちなみにその様子は由比ヶ浜が愛用する顔文字で表現できると思う。\(>▽<)/イェイ!

 しかし、肝心の一色からは返事がない。

 無言のままドアはカラカラと開かれ、神妙な面持ちの一色がしずしずと部室へと足を踏み入れた。ドアを閉めたところで立ち止まって、じっと俺を見据えた。

 おかしい、何やら様子が変だ。いつもなら部室に来てすぐさまこう言うはずだ。『こんにちはー!』とか『せんぱ~い!』とか。なのに今日はそれがない。なんとな~く嫌な予感がしちゃうような気がしなくもない。これは結構ガチめにヤバめな玉縄的案件を持ってきたとかそういう系? まさかほんとに? やだ無理それ困る!

 俺たち三人が戸惑いながら一色の顔を見ると、一色は深々とお辞儀をし、背筋を伸ばすと言った。

 

「一年C組の、一色いろはっていいます」

 

 あたかも、はじめてこの部室を訪ねてきた赤の他人のような一色の行儀に、由比ヶ浜は状況が全く飲み込めないようで困惑げな表情を浮かべていて、雪ノ下は『あなた何をしたのかしら通報するわよ』とでも言いたげな視線を俺に送ってくる。

 いや、そんな目で見られたって俺だってわからないからね。俺なにもしてないから無実だからね? そもそもなんでこの子いまさら自己紹介してるの?

 その意図を読み取ろうと三人揃って一色の顔をじっと見返すと、続けて一色は口を開いた。

 

「今日は、依頼があって来ました。宜しくお願いします」

 

 一色は、俺たちの言葉をじっと待っている。由比ヶ浜は一色と俺、雪ノ下の三人の顔をしきりに伺っているが、どうやら雪ノ下は一色の意図を察したらしい。雪ノ下はすっと立ち上がると、相談者が座る位置に椅子を用意して、言葉を返した。

 

「わかりました。どうぞ、お座りください」

 

 着席の許可を得た一色が、軽くお辞儀をして座った。

 

「ご用件は」

 

 自分の席に戻った雪ノ下がそう問うと、一色はじっと真剣な表情で雪ノ下の顔を見据えた。

 

「大好きな人に、告白したいって思ってます」

 

 その言葉を聞いた瞬間、雪ノ下の表情がピクりと動き、由比ヶ浜の身体も小さく震えた。

 大好きな人――。つまり、一色は再び葉山隼人に告白をすると言っているのだろうか。

 俺の知る限り、一色と葉山の関係性にそれほど大きな進展や変化があったとは思えないし、現状では葉山に告白したとしても振られるのが関の山ではないかと思う。

 

「……そう」

「いろはちゃん……。告白、するんだ」

 

 二人の表情はどこか悲しげだった。

 当然だ。由比ヶ浜は葉山グループの一員だから最近の葉山の様子も色々とよく知っているだろうし、雪ノ下は古くから葉山を知っている。そして二人とも、奉仕部を通して一色ともそれなりに関係がある。どちらのことも知っているからこそ、結果くらい簡単に予想できてしまうだろうし、その予想される結果は一色にとって喜ばしいものではないはずだ。

 一色はその雪ノ下や由比ヶ浜の表情から言わんとしていることを読み取ったようだが、それでも決意はどこまでも固いようだった。

 

「まちがいなく振られちゃう、叶うはずのない恋だってわかってるんです……。けど、でも……。その人が、その人こそが、わたしが生まれて初めて欲しいって願った“本物”なので。それを伝えないとダメだなって、このままじゃ後悔するって思ったんです。それに振られたからって、なにもかもが終わっちゃうわけじゃないですし、振られてから踏み出せることもあると思うんです。……だから、ちゃんと振ってもらうために、わたしは告白します」

 

 雪ノ下も由比ヶ浜も、一色のその言葉をしっかりと噛みしめるように、じっと耳を傾けていた。

 一色は全てをわかっているのだ。わかった上で、本物を求めるために再び踏み出そうとしている。

 ……対して俺はどうだ。俺はいつだって弱くて卑怯で、疑り深い。由比ヶ浜や雪ノ下を傷つけてしまったこともあった。だから俺は、やっぱりその一色の持つ強さが、やっぱりちょっと羨ましくて、少し妬ける。

 

「なので、これは奉仕部――いえ、先輩への依頼です」

 

 二人が頷いたのを確認した一色は、俺へと向き直って続ける。

 

「先輩。どうかわたしの“本物”を知って、見届けてください」

 

 俺には、一色のために具体的に何かをしてやるということはできないと思う。しかし、それでも、葉山への告白をきちんと見届けるくらいなら、俺にだってできるはずだ。

 

「ああ。お前の求める本物、ちゃんと見させてもらう」

 

 俺の言葉を聞いた一色は、くすりと小さく笑った。

 

「……ありがとうございます。先輩」

 

 その表情や声色にあざとさなどはなく、きっとこれが純粋な一色いろはの反応なのだろう。

 ……やっぱり、素のほうが可愛いよ。お前は。

 一色はすっと椅子から立ち上がると、再び由比ヶ浜と雪ノ下の二人へと向き直って軽くお辞儀をする。そして、一色はゆっくりと踏みしめるように俺の前へと歩み寄ると、背筋を伸ばし、真剣な表情でじっと俺の目を見据えて……え、やだ。ちょ、ちょっと待って。そんな目で見つめられたらドキドキしちゃう。ココロがトキメいちゃう。こころぴょんぴょんしちゃう!

 

「あの、先輩……。大好き……です」

 

 ……………………はい?

 意を決したように開かれた一色の口から、ぽそりぽそりとこぼれ出た言葉は、あまりにも衝撃的なものだった。

 カーディガンのたるっと余った右袖からちょこんと出した指先は、その短いプリーツスカートの裾をキュッと摘み、左手は胸もとの緩ませたリボンの先端を握っている。瞳はうるうると潤んでいて、喉が何かを飲み込むようにこくりと動いた。

 

「わたしと、付き合ってください」

「……俺、と……?」

 

 数秒ほど見つめ合ったところで、一色の表情がだんだんニタニタしたものに変化していくことに気づいた。

 ……あ、これ、からかわれるやつや。これはあれだな。『なーんちゃって! 残念でした! 冗談ですよ~!』とかそういう系だなこれ。

 

「せーんぱいっ! いまのどうでしたか~? ときめいちゃいました? 惚れちゃいました?」

 

 いまにもどうだ引っかかったかとでも言い出しそうなほど、悪戯っぽい笑顔で俺の顔をニタニタしながら覗き込んでくる一色のその様子は、いままで見てきたどんなものよりも一段とあざとく見えた。

 こいつほんと先輩のことなんだと思ってるんですかねー。

 

「お、お……お前な! 年上をからかっちゃいけないって親御さんから教わらなかったのか?」

「なに言ってるんですか先輩。からかってませんよ? だっていまのガチ告白ですし」

 

 ちょっと腹が立って強めに言ったつもりなのだが、一色はけろっとした様子でそう言った。あくまで俺をイジり続けるつもりらしい。そういうところちょっと八幡的にポイント低いですね。

 

「だからな、そういう冗だ――」

「先輩のことが本気で大好きです。わたしと、付き合ってください」

 

 俺の言葉を遮るように再び告げられた言葉に、俺をからかいもてあそぶかのような色はなく、どこまでも真剣であるように思えた。

 ……え、じゃあ、なに?

 一色は葉山じゃなくて、本気で俺に告白してるってこと……?

 意識した瞬間、一気に顔が熱くなる感覚がした。呼吸も止まる。息をしようと思っているのに肺が思うように動作しない。時が全て止まったかのように部室はしんと静まり返っている。目の前に立つ一色も、ただただじっと俺の言葉を待っているようだった。

 必死に口を動かして、なんとか呼吸をしようとして、ようやく途切れ途切れに声を出す。

 

「……いっ、しき……。お前、なんで……」

「わたし、一色いろはは、比企谷八幡先輩のことが大好きです。いっぱい、恋してます」

 

 意味がわからない。なにが起きているのかわからない。それはあまりに突然過ぎて、だからわけがわからない。冷静な思考ができず、その真意を問うことができない。

 

「……すまん」

 

 自然と口から出た答えは、一色の言葉への拒絶だった。

 俺自身なぜ告白されているのか理解が追いつけていないし、そもそも俺と一色との付き合いはまだまだ浅いから、曖昧な言葉で濁したり無責任な返答をするべきではない。だから、いまは断るしかない。

 

「先輩、ありがとうございます。今度こそ、これでちゃんと踏み出せました。……ほんとに、大好きです」

「踏み出すって、なにを……」

 

 おかしい。一色は何を言っているのか。

 俺のことが大好きなんて、そんなはずがない。

 一色いろはには、葉山隼人という恋い焦がれる存在があったはずだ。お前は言っていたじゃないか、わたしも本物が欲しくなったと。なのになんで、お前はそんな言葉を俺に向かって言っているんだ?

 お前が踏み出すべきは葉山だろうが。お前はなに勘違いしているんだよ。お前が俺に興味を惹かれる理由など、想う理由など何一つとしてなかったはずだ。

 なのに。なのに、なぜお前は、そんなにも真剣な眼差しを俺に向けているんだよ……。

 

「わたしも、本物が欲しいですから。わたしあの日、言ったじゃないですか。振られるってわかっててもって。わたしがんばんなきゃって。……そのがんばる対象が、あの日とは変わっちゃいましたけどね」

 

 その瞳に、嘘や偽りの色など見えない。そこに宿るのは、ただ純粋に俺を求めようとする意志でしかないように思える。

 それでも、わからない。

 告白してくるということは、確かに一色は俺のことを好きでいてくれているのかもしれない。

 だが、それが一色にとって本当に〝本物〟といえるものなのか、俺にはわからない。当たり前だ。俺は一色ではないのだから、わかるはずがない。一色はなにか別の感情を恋だと勘違いしているのではないかと、一色が俺に好意を向けるなどあるわけがないのだと、そういった思考が頭の中をぐるぐると駆け巡る。

 互いを見つめ合ったまましばしの時が経ち、やがて一色は、ふぅ……と緊張を解くかのように息を吐いた。表情が和らぎ、次第にいつものきゃぴるんとした“一色いろは”のものへと変わっていく。

 

「はじめて自分の気持ちに気づいたときは、諦めなきゃって思ったんですよ~? けど、それってわたしの主義に反しますしー、いつまでも悩んでたって前には進めないですし、逆に開き直っちゃえって決意したんですよー。ほら、先輩に片想いしてる可愛い後輩って、ポジション的にも超オイシイ感じじゃないですかー」

 

 そこまで言って、一色はまた表情を切り替えた。

 真剣な眼差しで俺を見る。

 

「だから、今日はそれを伝えにきました。宣戦布告です。同時攻撃です。即時敗戦しちゃいましたけど」

 

 小さくくすりと笑い、さらに続ける。

 

「でも戦線からは撤退しません。むしろ最前線にぐいぐい出るつもりです。……あの日わたし、こうとも言いましたよね? 振った相手のことって気にしますよね、って。だから先輩、これからわたしのこといっぱい気にしてくださいね?」

「……善処する」

 

 俺の答えを聞いた一色は、由比ヶ浜や雪ノ下へと身体を向けた。

 

「結衣先輩、雪ノ下先輩。これからわたし、後悔しないためにも、本気で先輩を狙っていきますから。お二人も後悔しないようにしてくださいね?」

 

 あたかも雪ノ下と由比ヶ浜に何かを焚きつけるかのような言い回しに、二人は目を見合わせた後、決意したように一色へとこくりと頷き返した。

 その意味や意図が何かは俺には分からないが、二人にはわかったのだろう。

 

「それでは用事も済んだので、わたしは生徒会室に戻りますね。そろそろ平塚静とかいう鬼編集者が『在校生代表挨拶の進捗は!』とか言いながら襲い掛かってくるはずなので……。ではでは~」

 

 言うだけ言ってとてとてと部屋から出て行く一色が、去り際にちらりと俺に見せた伸びやかに明るい笑顔は、いままで見てきたどんな表情や振る舞いよりも可愛いと思えて。

 これから先、俺はこの笑顔に振り回されることになるんじゃないかと。

 ……そんな、予感がした。

 

 

 

 (了)

 

 




 お料理教室イベントの日に
①はるさん先輩が現れていない(あるいは爆弾を投下していない)
②母ノ下さんが現れていない
 つまり、奉仕部3人が10.5巻の頃のぬるま湯な関係を続けているifの世界線と、原作10巻以降にうっすらと描かれる『三浦や結衣・雪乃の背中を押すような行動をとるいろは』や『いろはを警戒しているかのような結衣・雪乃』のイメージを膨らませて書いたものです。
 ただ、いろはの性格や行動原理・目的に関しては、あくまで八幡一人称視点(しかも捉え方が捻くれている)である原作作中においては基本的に明らかにはされていないため、読者個々の解釈による差異や、議論の余地があるところかと思います。
 あくまで〝このSSでのいろははこう動いた〟とご認識いただければ幸いです。

 この後、SS作中での彼ら彼女ら四人の関係がどうなるかは八幡次第ですが、いろはスキー的にははいろはすが選ばれたらいいな~なんて思いますです。
(11巻のいろはとのやり取りで、八幡自身なにかしらを感じ取っているような描写はありますが、それをSSとして膨らませるのはまた別の機会にということで)


次のお話は別の短編、ネタ系です。


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いろはすが買うようです。

せんぱいへの好意と性欲が恥じらいを超越してしまったいろはさんは、ついにあるものを買おうと決意したようです。

※暇つぶしのネタとして書いたものでした。

えっちシーンやキスシーンなどの性描写はありませんが、下ネタ的なものが一部含まれます。苦手な方はご注意ください。


 

 いつもの放課後、いつもの生徒会室。

 俺が生徒会室に居ることが()()()になってしまっている現状が、社畜への門を既にくぐってしまっているように思えて怖くて仕方がないが、この入学式へ向けての生徒会手伝いも今月に入って以来すっかり()()()()()()になってしまった。

 いつもどおり一色は頭を悩ませながら、ノートパソコンのキーボードをかたかたして在校生代表挨拶を書いていて、いつもどおり俺は一色に言われるがままに作業を手伝う。

 ……ところで他の役員たちはどうしたんですかねぇ。これも今日に限ったことではないのだが。

 そんないつもどおりの光景の、いつもどおりの空気感の中、もうそろそろ今日の作業も終わろうかという時になって、突如として銃を乱射しはじめたのが、目の前の一色いろはだった。

 

「先輩、援交って興味ありますか?」

 

 ……いや、ある意味これもいつもどおりか。だいたいガソリンをぶん撒いて火を放とうとするのっていつも一色だし。

 

「なにいっちゃってんのこいつ」

「答えてくださいよー。興味ありますか? それとも興味ないんですか?」

 

 どういうわけか目をきらきらと輝かせて、興味津々といった面持ちで俺の顔をじっと見ている。

 

「いや、まず質問の意図がわからないからね? 答えようがないな」

 

 これはアレだな、俺をからかって遊ぼうという魂胆に違いない。

 

 1. 興味あると答える

   →「うっわー、先輩って変態ですね。まさか普段からそういうことしてるんじゃ……」

 2. 興味ないと答える

   →「うっわー、先輩って男なのに興味ないんですか? まさかホモなんじゃ……」

 

 この未来が容易に想像つく。どっちみち下手に答えたら社会的に死ぬ訳だ。ならば、聞かれたからといってたやすく答えるわけにはいかないな。

 さすが俺、失敗を未然に防ぐこの感の良さ! などと自身の危機察知能力に酔っていると、一色はうーんと首を傾げながらなにかを考えているご様子。なんじゃろかと思って見ていると、しばし経ってから口を開いた一色が、より殺傷能力の高いグレネードをころころんと転がしてきた。

 

「わたし、いま援交とか超興味あるんですよねー」

 

 その衝撃的な言葉は、酷く俺を驚かせた。

 一色は確かにビッチだが、そういうことを言うやつだとは思わなかった。俺の見込み違いだったのだろうか……? 内心ちょっと苛立ちはじめている俺がいる。

 

「……お前、身体を売るつもりかよ」

「なに言ってるんですか、違いますよ。わたしが自分を売るわけないじゃないですか~」

「なら、援交に興味あるってどういう意味だよ」

 

 お年ごろの女子が『援交』なんて言ったら、そういう意味合いにしか受け取れないのだが。何が違うと言うのだろうか。

 不審げに視線を送る俺に、一色はくすりと笑いながら、さらに威力の大きい爆弾を炸裂させた。

 

「わたしの身体じゃなくてー……。ほら、先輩って童貞じゃないですか~」

 

 ちょ、一色お前、なに俺が童貞である事実を声に出して言ってくれちゃってんの。

 つか笑うなよ! 童貞をネタにされて笑われるのは童貞風見鶏こと大岡だけで十分なんだよバーカバーカ!

 

「……お、俺が鮮度抜群のさくらんぼであることと援交がどう関係あるんだよ」

「初モノな先輩に値をつけるとしたらいくらくらいなのかなーって」

 

 え、俺が春を売ったらどのくらいの値がつくのかって話なの?

 なにそれ、一銭どころか一厘の値も付かないであろう俺への遠回し的な侮辱かよ。っべー、なんかちょっと傷つくわー。

 だいたいだな、女の子が童貞とか初モノとかそういうことを口にするんじゃありません。

 

「んなもんゼロ円だよ。むしろ逆に請求されるまであるな」

「まあまあそう言わずにですね、ちょっと想像してみてくださいよー。……例えば、例えばですよ? 例えば、わたしが先輩の春を買うとします」

 

 妙に繰り返して念を推した一色は、右手の人差し指を立ててちょいちょいと振りながら、真面目くさった顔で続けた。

 

「えっちはゴム無し・生中○しで、避妊はピル。えっちする日は原則としてわたしが生理の時を除いて毎日で、回数はわたしがやりたいだけやってOKで、わたしがしゃぶりたくなった時はいつでも好きなだけしゃぶってOK。オプションとして、彼氏としてわたしをいっぱい愛してくれる、登下校時には稲毛海岸駅や稲毛駅まで恋人つなぎで送り迎え、放課後の生徒会室で壁ドン頭ポンDキスなどの萌えシチュつき。デートは最低でも週3ですかねー。それと、たまに家とかで大学の受験勉強も教えてくれる感じで。……あ、交際の契約期間は甲乙の書面による同意なき限り無期限を希望します。さてこの場合、1日あたりの値段はいくらくらいになりますか?」

 

 つらつらと並べられた内容が濃すぎる上にやけに具体的すぎて、さすがの俺もドン引きである。

 うわー……。なに、いまの発言だと一色が俺を買いたがっているように聞こえちゃうんですがそれは……。まあ、ありえないけど。

 だいたい、なんで一色はそんな堂々平然と男子に向かってエロ発言してるの? おかしくない? あくまで()()()の話だから、本人的には恥ずかしくもなんともないのかもしれんが、少しは恥じらいを持つべきじゃありませんかね……。

 

「せーんーぱーいー! 答えてくださいよ~」

 

 いつまでも黙り込んでいる俺の態度が気に入らなかったのか、少しむーっと頬を膨らませて一色は言葉を急かしてくる。

 ……しゃあない。なんのつもりか知らんが適当に答えておくか。下手にはぐらかすと余計に面倒なことになりそうだし。

 

「例えその内容でもゼロ円だろうな。なぜなら、俺なんかの青春を買ってくれる人間などこの世には居ないから、値段がつけようがない」

 

 そんな都合良く居るわけがない。居たらとっくに俺はリア充してるっつうの。というかそもそも、確かに俺は専業主夫志望だが、身を売ろうとも買ってもらおうとも思っていない。

 まあ、俺を買うなんて言い出す人間が居たとしたら、そんな物好きの顔を拝んでみたいものだが。

 

「……なら、ほんとにゼロ円でいいんですか?」

「だってお前、一日千円で月額三万円ほどになりますって言ったところで、絶対俺のこと白い目で見るだろ」

 

 うっわーこの人自意識過剰すぎてキモいんですけどーとか言いそう。すごく言いそう。

 

「月額三万であの内容ならむしろ安すぎじゃないですかねー。五万でも喜んで買う人居ますよ、絶対」

「アホか、居ねえよ。……あー、じゃあアレだな。金は要らんから、昼休みの弁当とマッ缶だな」

 

 毎日美味い弁当とマッ缶がついてくるなら、それを代金と考えてもいいだろうな。

 

「なるほど。お弁当とマッ缶ですか。そうですか。……参考になりました」

 

 口元に手を当てて、なにやら思慮深い様子でふむふむと頷いている。

 参考ってなんの参考になったんだ? ほんと、何がなんだかさっぱりわからんな、こいつは。

 

「じゃあ先輩、もし本当に先輩の青春を買うって名乗り出る人が居たとしたら、その人に売ろうって思いますか……? もっと具体的に言うと、さっきの条件で先輩の春を買いますってわたしが本気で言ったとしたら、わたしに売ってくれますか?」

「あー……、なんつうの? 確かに魅力的ではあるかもしれんな。というかむしろ、本気でそんなことを言われたら魅力的すぎて売るわ」

 

 まあ、そんなことが現実として起こることなどありえないわけがないんだが。

 

「っしゃ! ……いま、売るって言いましたね? 言いましたよね!?」

「え、言った……けど」

 

 言質を取るかのようなその問いを疑問に思っていると、一色はブレザーとカーディガンを机の上にばさりと脱ぎ捨てた。そして、スクールシャツのボタンをひとつひとつと外しながらずいと俺のほうへと近づいてきて、薄桃色のブラジャーを露出した状態でぎゅっと抱きついてきた。

 小ぶりながらしっかりと存在を主張する幼げなふくらみ、そのハーフカップらしい布地に収まっていない上部の肌が直に顔へむにむにとやわらかく押し付けられ、先日一色がほくほく顔で買ってきていた新作のフレグランスがふわりと香り、俺の性欲をやたらと刺激する。早い話がぶっちゃけ勃った。

 ……え、ま、待った。なにこれ。待って。

 

「な、なに?」

「買います。本気で買います。……というわけで、さっそく今からお願いします。わたし処女なんで上手くできるかわかりませんけど、先輩と一緒に気持ちよくなれるように頑張るんで、よろしくです」

 

 言いながら、一色は俺の足元にしゃがみ込むと、俺のベルトをカチャカチャと外し、スラックスとトランクスを開はだけ――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このシーンは内容が過激であるため、削除されました。

 

               千葉市立総武高等学校 生徒会本部

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――乱れた制服姿のまま俺の上からゆっくりと立ち上がると、一色はぺろりと舌を出して、満足そうに蠱惑的な笑顔を見せた。

 

「ごちそうさまでした、先輩。明日からも毎日、いっぱいしましょうね?」

 

 

 

 

 

 おわれ。

 

 

 




もうこれ誰だよという感じですね。ただ書きたかったんです。


次は真面目に短編、3分割となります。


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お知らせ

というタイトルの、8/16 八色の日 記念SSです。
さくっと短めに。オチはありません。


お知らせ

 

 

 まだ上陸はしていないものの日本列島に台風が接近し、南関東でもばちゃばちゃとバケツを引っくり返したような大雨が降り始めた、ある夏の朝。

 警報でも出ていれば自宅待機になるのに、あいにく朝のニュースではこれといった情報は出ていかなかった。仕方がなく家を出る。

 夏とは思えないほど外は寒かった。夏服の半袖シャツに雨合羽の上着を羽織っただけではまったく防寒にならない。それどころか、前合わせの隙間や合羽帽子の隙間から水はどんどん入り込み、下半身は雨対策をしていないため無防備に濡れ、体温が奪われていく。そんなの中、鳥肌を立てながら自転車をぎこばたと漕いで走る。

 花見川のサイクリングロードは、強まりつつある風に木々が揺れ、折れた小枝がそこらじゅうに散っていた。どうやら利根川のほうの水量が増えているのか、印旛沼へと逆流した水を東京湾へ放水しようと、花見川の流れも黒々とした濁り水で荒れている。

 こりゃ、本格的に天候も悪化しそうだ……。出来ることならばこのまま自宅へ向かってUターンしてえな、などと憂鬱な気分になりつつも、自転車のペダルを蹴る力は決して緩めない……というより、緩められない。

 俺が通う千葉市立総武高校は、平日の朝6時までに千葉市または千葉市を含む地域に暴風警報、大雨・洪水・大雪などの特別警報が出ている場合、あるいは平日の朝7時までに京葉線・総武線各停・京成千葉線・京成バス・海浜バスのいずれかで天候不良による運休が発表されている場合に限って自宅待機、それが朝8時以降まで続くと自宅学習(臨時休校)となる決まりとなっている。ところが、俺が自宅を出た時点ではまだ警報が出ていなかったから、自己判断で自宅に留まってしまうと欠時扱いになってしまう。嫌でも行くしかないのだ。

 悪天候や天災のときくらい、仕事や学校休もうぜ……。ほんと日本人マジ社畜。

 我が国の腐り果てた〝勤勉〟文化に文句を内心でぶつくさ言いつつ、総武高につながる団地街の路地を突っ走った。

 やがて見えてきた通用門から校内へと進み、普通棟昇降口下のピロティに中庭にと突き進んで、特別棟下のピロティで自転車から降りる。既に混み合った駐輪場へと押し込んでから、もと来た道を戻るようにして昇降口へと向った。

 えっちらおっちらと外階段を登る。ちょうど最も生徒が多く登校する時間帯ということもあって、周囲はざわりざわめいていた。それをスルーしながら二階へとたどり着いて、ぐしょ濡れの靴を下駄箱に放り込む。上履きを濡らすのはさすがに抵抗があるので、くつ下のまま廊下へと進もうとしたところで、ふと、違和感。

 ざわめきが、いつもよりも騒がしい。

 周囲をぐるんと見回してみると、すぐ先の掲示板付近に人溜まりができていた。

 男子に女子に、真面目系にチャラ&ビッチ系に、先輩に同級生に後輩に、その集団に入り交じる彼ら彼女らのタイプは一定しない。みな一様に雨に打たれてずぶ濡れで、スラックスの裾から水をぼたぼたと垂らしている男子もいれば、ブラジャーがはっきりと透けてしまっている女子もいる。誰もが今しがた学校についたばかりの様子だ。

 はて、なんか重要な告知でもされているのかしら、と俺もその輪に近づいて集団の隙間から覗き見る。

 掲示板の手前に、立て看板。黒と赤のマッキー太字で乱雑に殴り書かれたA3ほどの紙が、ばーんと大きく張り出されていた。

 曰く、

 

 

       お 知 ら せ

               生徒部

 

   8時01分、気象庁より千葉市全域に

  大雨・洪水・暴風警報が発令されたため

    本日は 自 宅 学 習 とする

 

 なお既に登校した生徒は、屋外が危険なため

   全ての警報の解除まで校内待機とし

  10時以降も警報が解除されない場合は

   所属クラスで課題を受けるものとする

 

                以 上

 

 

 おいいいいいいいいいいいいいいいいい! もっと早く警報出せよ気象庁!!(激怒)

 いや、別に気象庁は悪くねえけど、だってなぁ……。

 頑張って頭や下半身をずぶ濡れにしてまで学校に来てさぁ、やっぱ今日は自宅学習でーす、なんてなぁ……。

 スラックスどころかボクサーパンツまでぐっちょぐちょなのに、これで椅子に座って授業を受けなきゃなんないわけで。まあ、昨日体操服を持って帰るの忘れたから、最悪それに着替えればいいわけだが。

 気が滅入る。というか滅入るなんてレベルじゃない。

 自己判断でサボりゃよかった。くそ。

 周囲の連中も同じ気持ちのようで、各々が各々みな似たように文句をぶつくさ言いつつ、それぞれの教室へ向かって散っていく。

 ……しゃあない。

 学校待機命令が出てしまっているのであれば、ここで踵を返すわけにもいかない。というかこの雨風の中、また自転車を漕いで家まで戻るっていうのも辛すぎる。

 文句は山ほどあるがぐっと堪えて、しぶしぶながらに教室へ向かうことにした。こんなところにいても仕方がないのだ。

 荒れた外の様子を窓から眺めながら、のたのたと歩く。

 気分が乗らねえし、寒いし……。せめてタオルかなんかで身体を拭ければいいんだが、そういった類のものは持ってないしな。小さなハンカチならあるけど。

 うー、寒い。風邪ひきそう。

 ぶわっと身体に悪寒が走り、思わず身震いする。困ったもんだと思いながら、外側が濡れたカバンからハンカチを取り出して、せめて頭だけでもと生地を髪に当てがい拭う。

 と――

「あ、先輩!」

 

 背後から聞こえた甘ったるい声に、ぼんやりと振り向く。

 

「先輩も学校来ちゃってたんですね……」

 

 俺や他の生徒たちと同様に登校しちゃった一色いろはが、疲れきったような顔色を浮かべていた。

 

「っていうかお前ひどいな。ずぶ濡れなんてレベルじゃないな……」

「あー、はい。モノレールの駅まで行く間に、風で傘がやられちゃって……」

「じゃあ、稲毛海岸の駅からここまで傘なしで?」

「です」

 

 しゅんと肩を落とす一色の亜麻髪やシャツの袖、スカートの裾などからは、透明な雫がぽたりぽたりと滴り落ち、薄いスクールシャツはぴたりと肌に貼り付いて下着がくっきりと透けてしまっていた。その姿は蠱惑的であると同時に、ひどく痛々しく気の毒にも思えた。

 この雨風の中を傘なしで歩いたら、こうなるのも当然だ。

 

「……ん」

 

 ハンカチを突き出してやる。

 カンタくんみたいなぶっきらぼうな態度になってしまって申し訳ない気持ちでいると、一色は俺を見て不思議そうに目を丸くした。

 

「ほれ、そのままだと風邪引くだろ。……俺の使用済みで悪いが、それでも構わんならせめて髪の毛くらい拭いとけ」

「……あ、はい、ありがとです」

 

 おずおずと手を出してハンカチを受取り、ぎゅっぎゅっと頭へ押し付けるようにして一色は髪の水気を取り始めた。しかし、小さなハンカチ、それも既に俺が使って湿っているものでは焼け石に水とでもいうのか、大して意味をなさない。相変わらずシャツやスカートからは雫が垂れ続けている。

 俺が風邪を引いたところで困る奴はいないだろうが、一色が風邪を引いて学校を休んでしまうようなことになると色々と困ったことになるかもしれない。

 

「なあ一色、お前、体操服とかって学校に置いてあるか?」

「いえ、今日は体育ないので……」

「……その、ちっとばかり汗臭いかもしれんが、俺の使うか?」

 

 昨日の体育で使って、しかも持って帰るのを忘れた汗臭いかもしれない体操着を、よりによって後輩の女子に貸そうってのかよ……。我ながら呆れるわ。

 ごめんね一色、でもあれだよね、言ってから『言わなきゃよかった!』って思うことって、よくあることだよね?

「あー、すまん。今のなしな。配慮が足りんかった」

 

 デリカシーのない発言を詫びつつ、さてどうしたもんかと考える。

 しかし、一色はそれでもよかったらしく、ぐっと俺に一歩近づいてこんなことを言った。

 

「せ、せっかくなので貸してください! ……あ、いえ、その、ちょっと汗臭いくらいなら全然気にしないですし、このままだと風邪ひきそうでやばいので。シャツもすけすけで下着があれですし……」

 

 いますぐ急いで着替えさせろと言わんばかりに、透けて見える薄桃色のブラジャーを強調するように胸を張って見せた。

 そんな仕草に男の性がくすぐられるが、なんとか理性を保って一色から顔を背ける。

 

「じゃあ、どっか着替えられそうなところ……、生徒会室ででも待っとけ。持ってってやる」

「はい!」

 

 軽くお辞儀をしてからとてぱたと職員室の方へと走っていく姿を見送った後、俺も止まっていた足をせかせか動かして教室へと向かった。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 ロッカーからシャツとハーフパンツだけごそごそと引っ張り出して、生徒会室を訪ねた。

 扉をノックしてから立ち入ると、暖かな風を感じた。どうやら暖房でも入れているらしい。冷えた身体にはありがたい。

 

「ほれ、持ってきたぞ」

「ありがとうございます」

 

 感謝しきりといった様子で、一色はあざとさ皆無の言葉を返した。

 手早く渡すだけ渡してから、身体を反転させて生徒会室を出ようとする。

 

「あ、先輩、待ってください」

 

 が、なぜかかかる制止の声。

 

「暖房入れたんで、ちょっとだけここでのんびりしていきません?」

「……それはありがたい提案だが、お前着替えるでしょ。とりあえず一回外出るから」

「そこでそっち向いててくれればいいですよ。廊下寒いですし」

「そ、そう……」

 

 答える間もなく、背後からもぞもぞごそごそびちゃぴちゃと、水音の混じった布擦れの音が聞こえてくる。

 ……う、うん、これ真後ろで生着替え中ってことですよね。

 意図せずちょっぴりドキドキなイベント発生中。いや嘘つきましためっちゃドキドキします困ります。

 しばしして、音が停まる。着替えが終わったのかしらと思ったがそうではないらしく、すぐになにやら深呼吸をするような、あるいは匂いを嗅ぐような、すーっとした呼吸音。それが数回。

 ……ちょ、ちょっと一色さん? あなた一体何を嗅いでますのん?

「ふぅ……。ちょっぴり汗くちゃいですね……」

「やめろ嗅ぐな。ちゃんと汗臭いかもしれんって断り入れたからな、俺」

「まあこのくらいなら全然おっけーですよ」

「……あそ」

 

 再びもぞもぞごそごそと音がして、やがて一色から着替え終わった旨の報告。

 念のためにゆっくりと振り返る。

 

「えへへ、ちょっとぶかぶかですね」

 

 少し恥ずかしそうに照れたような笑みを浮かべる、素足に体操服姿の超めちゃくちゃかわいい美少女が、そこにはいた。

 俺は男子の中でもだいぶ痩せているほうだが、それでも男子と女子、しかも同世代女子と比較して華奢で幼い体格の一色とでは、かなりの差が生じるらしい。シャツもハーフパンツもだぼだぼに余っている。

 あたかも、彼氏の体操着をパジャマ代わりにする年下彼女的なイメージになってしまっていて、色々とやばい。

 

「……制服と紺ハイ、そんなとこに放ってないでちゃんと干しとけ」

 

 少しでも一色のことを意識してしまうと劣情が高ぶってしまう気がして、それが察されないよう当たり障りのなさそうな方向へと話題を誘導する。

 

「椅子の背もたれにかけておけば乾きますかね?」

「エアコンの風が当たりやすい場所に椅子移動させときゃ、なんとかいけるんでねえの」

「じゃあそうします」

 

 生徒会室の真ん中あたりにガタガタと椅子を並べ、長机の上に脱ぎ散らかしていた制服をかける。

 ちょこまかちょこまかと動くそんな一色の後ろ姿を見て、俺はどうにも妙な感覚に捕らわれていた。

 小動物のようで微笑ましいような、幼い印象が可愛いような、それでいて大人びたところが蠱惑的なような……。

 これがまさに一色いろはの持つ、一色いろはならではの魅力なのだろう。が、その魅力に魅せられてしまっていることが、なんかちょっとだけ、悔しくて歯がゆい。

 ……そんなことを思いながら、俺の体操服に身を包んだ一色をしばしの間ぼーっと眺めた。

 

 

 

  (了)

 




仕事は仕方がないとしても、学校に関してはせめてもうちょっと悪天候への対応が柔軟になってほしいものですね……なんてちょっとだけ思います。無理は承知ですが。

次話はいろはす視点の短編SSになります。


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昼休み。

高校3年生になった八幡の新たな昼休みぃ……ですかねぇ……。



   昼休み。

 

 

 三年になってペースも上がったつらい授業をなんとかこなし、やってきた昼休み。俺はいつもどおりベストプレイスへ向かった。

 明けた新年度も既に一週間が過ぎ、新入生も在校生も新たなクラスで新たな友人をだいたい作り終えつつある頃だが、例によって俺は相も変わらず連日この場所のお世話になっている。俗にいう、ぼっち飯である。

 ただ、ぼっち飯といっても、誰も相手をしてくれない寂しい男というわけではない。クラスに居場所がないから独りで飯を食べているわけではないのだ。俺は冬眠から冷めたばかりの熊のように孤高な存在であり、であるからこそ自ら進んでここでぼっち飯をしているのだ。

 ……うん、本当はクラスの誰も俺を相手にはしてくれないだけなんだけどね。

 かくして、現実というものは、非常に厳しく非常に辛い。それこそ、赤ヘル軍団の新井さんがここぞのチャンスでゲッツーに倒れるのと同じくらい辛い。あまりに辛すぎてFA宣言しちゃうまである。つらいです……千葉が好きだから……。

 じゃあ、何が辛い現実なのかというと、つまりはこれである。

 

「そうそう、あれマジ無理だったよねww あのヅラ教師www」

「もう死ねよって感じwwww」

「さっきのあの発言とかキモすぎて草しか生えない」

 

 お、俺の、ベストプレイスが……。

 特別棟のピロティの影に隠れて見る、我が視線の先。

 あのさ、っていうかさ、ほんとちょっと待ってよ名も知らぬ女子たち。そこ俺のベストプレイスなんですけど? 誰の許可があってそこで飯食っとんじゃワレ! いや、誰の許可もいらないけどさ……。去年度までは俺以外誰もそこ使ってなかったでしょ……。

 ふと、女子たちの胸元を飾る制服のリボンに目が行く。総武高のリボンタイは持ち上がりの学年色で、今年度でいえば雪ノ下や由比ヶ浜たち3年が臙脂色、一色たち2年が花紺色なのだが、ギャハギャハとやかましいそこの女子たちはそのどちらでもない山吹色。先月卒業しためぐり先輩や、我が妹・小町の制服と同じである。

 なるほど、そこが俺の縄張りだということを知らない一年女子か。総武高の掟を知らん新入りには、ここいらで一度痛い目を見せてやらにゃならんようだな。フヒッ。

 ……どうしよ、飯。

 高校入学以来のベストプレイスを最終学年にして失った、どうも俺です。

 

「なるほど。新入生に取られちゃったわけですか、定位置」

「うぉっびっくりしたー……」

 

 あまりの衝撃と喪失感で立ち尽くしているさなか、突然右隣から投げかけられた女子ヴォイスに驚き振り向くと、一色いろはが至近距離で俺の顔をまじまじと覗き込んできた。近い……。

 きれいな亜麻色の睫毛やグロスで艶めいた唇、ほんの少しだけ乗せられた頬のチーク、そして香るアナスイなどに心臓がどくんと跳ね、気まずくなって視線を下へと彷徨わせ逸らす。

 見れば、いろはすの手にはいろはすとお弁当箱。共喰いならぬ共飲みかな?

 なるほどつまり、どうやらいろはすは俺に御用の赴きのようです。

 

「な、何? 顔に何かついてる?」

 

 未だじーっと向けられる視線に困って聞くと、一色は真面目そうに観察しながら言った。

 

「いえ。なんか今日の先輩、新小岩で飛び込む寸前の人みたいな顔してるなーと」

「……マジで新小岩しちゃうまである」

「いや、それ冗談になってないですから……」

 

 さすがにこれは悪い冗談としても、人間いつ何時に突然死を選ぶかわからないものである

 思えば俺のこれまで、並の人間ならとっくに崩折れてしまっていてもおかしくないレベルなのではなかろうか。ほら、小学校時代のアレとか、中学校時代のアレとか。数え切れないほどの黒歴史や嫌な思い出がある。考えるだけでも鬱になりそう。死。

 俺の思考はネガティブだとよく一色や由比ヶ浜なんかから呆れられるし、もちろん俺自身もその自覚はあるが、こう考えてみると存外実はポジティブなのかもしれないな。だって、じゃなかったらとっくに死んでいたかもしれんし。いや、マジで。

 

「で、なんで新年度早々ここにお前がいるの?」

 

 閑話休題。降って湧いた問題は次の二点である。

 一、俺のベストプレイス終了のお知らせ。飯を食べる場所がない。

 一、ここに一色いろはが出現。

 一色いろはといえば典型的リア充である。というかリア充の中のリア充たる存在で、去年の一時期は周囲の嫉妬やら何やら色々あって孤立ぎみだったようだが持ち直したらしく、2月頃からは性別学年問わず多くの生徒たちからチヤホヤされている姿を何度も見かけている。取り巻きではなく取り巻かれてる側、つまり一色いろはこそが真なるリア充JKといっても過言ではない。俺とは対極と言うか正反対のキャラクターなのだ。

 まあ、先々月に由比ヶ浜がベストプレイスの存在を一色にバラしてしまって以降、生徒会の仕事の相談や依頼絡みでちょくちょくここに来襲していた状況ではあるのだが、新学期も早々から孤高なぼっちたる八幡くんに何用だというね。クラスで昼飯食わなくていいのん? それとも新クラスではぼっちになっちゃったのん?

 っていうか今俺それどころじゃないんですけど。飯食べる場所探さなきゃいけないの……。

 

「寂しくぼっち飯の先輩と一緒に、ごはん食べてあげようかと思いまして」

 

 表情と声音をきゃるんと作って、ピンク色のハンカチに包まれた弁当箱といろはすを掲げてみせる。うん、共食いならぬ共飲みかな?

「別に寂しくはないから」

「またまたぁ、本当は寂しいくせに~」

 

 う、うぜぇ……。

 何がうざいって、そのニヤけ顔と声音がうぜえことこの上ない。調子ノリすぎてるときの小町かよお前は。

 

「……それより、そもそも見てのとおり食べる場所ないんだけど」

 

 視線で件の女子たちを指してやる。

 これは絶対に許さないノートが久々に更新されてしまう事態だ。ベストプレイスを占領する新入生を許すな!

 ところが、唯一ともいえる憩いの場を奪われた俺の気を知らない一色は、けろっととんでもないことを言ってのける。

 

「っていうか、そこで食べれなくても別の場所で食べればよくないですか」

「なん……だと……?」

「だって、あそこ以外の場所じゃごはん食べれないわけじゃないですよねー?」

 

 ……え、この子本気でそれ言ってんの? 冗談じゃなくて?

 思わず戦慄したわ。怖いよ。怖い。

 ああ、なるほど。OKOK。別にベストプレイスじゃなくてもトイレで食べればいいじゃないですかーってことか。それあるー!

 確かにぼっち飯の定番といえばトイレだもんな。個室の便座に座って独り寂しく世間や周囲への文句をぶつくさつぶやきながら弁当箱をつつく姿、惨めなぼっちにお似合いである。

 よーし俺も便所飯しちゃうぞー。

 

「……ってトイレで飯なんて食えるか!」

「は? トイレ?」

「あ、すまん何でもない。取り乱した。……で、何の話だっけ」

「だから、今日は仕方ないですし、あっちでごはん食べましょって話ですよ」

 

 心底呆れたように溜息を吐きつつ、一色はピロティの向こう、中庭を挟んだ更に先の普通棟を指差した。

 

「あっち……って、あっちに俺が飯を食べれる場所なんてないんだが」

 

 普通棟こと普通教室棟校舎には、その名のとおり普通教室(クラス教室)や職員室、校長室、昇降口などの基本的な部屋が配置されている。従って各種実験室や音楽室、家庭科室といった特別教室が中心に配置されているこちら側よりも生徒の数は圧倒的に多いし、空き教室のような場所もないから、ぼっち飯には向いていないのだ。

 一応、屋上への階段の踊り場など生徒の出入りが少ないエリアもあることはあるが、校舎の四階は一年生ゾーンだから、さっそく新入生によって占領されている可能性。騒がしいから行きたいとも思わない。

 

「ふふん。ところがですね、あるんですよいい場所が!」

 

 しかし、よほど自信があるのか大見得を切る。

 

「いい場所? そんなのあるのかよ……」

「はい。なのでせっかくですし、今日はわたしが先輩にですね、わたしによるわたしのための最高のお昼スポットを教えてあげます!」

「俺ですら知らないぼっち飯の穴場を知っているだと?」

 

 まさか一色お前、実はぼっち飯のプロか……!?

 去年末の孤立ぎみだったらしい頃に発掘した場所でもあるのだろうか。男子の視点では気付けない穴場とかも女子の視点なら見つけられるのかもしれない。

 ならばいいだろう、ついていってやんよ!

 平穏な昼ごはんタイムが約束されれば、俺としてはそれで十分だ。ここは一色にかけてみようではないか。

 

 

                    ×   ×   ×

 

 

「――で、ここは何だ?」

 

 とてとて歩いて先導する一色についてやってきた場所は、普通棟の2階、生徒昇降口すぐ近くの小部屋だった。

 さて。

 俺は見事一色に騙されてしまったのかもしれない。いや、これが俺の勘違いであればいいのだが、この部屋ってどう見てもどう考えても俺もよく知るあそこである。

 

「なにいってんですか、普通に生徒会室ですけど。いくらなんでもその歳でボケちゃったらちょっとまずいですよ……」

「仕事を押し付けようとか、実はそういう魂胆あったりして?」

「先輩、相変わらずわたしのことをなんだと……。別にそういうのないです」

 

 一色はやれやれとジェスチャーしつつ弁当箱といろはすを机に置くと、ミニ冷蔵庫から森の水だよりを取り出し、てきぱきと電気ケトルを使ってお茶の準備をはじめてしまった。

 そんな姿を半ば呆然と見てから、改めて生徒会室の中をまじまじと観察してみる。

 生徒会長に就任したばかりの頃から一色いろは流に模様替えされていった室内は、春休み中に大改良でもしたのか以前よりもずっと『女の子の部屋』感が増し増していた。

 小ぶりだが着替えなどを仕舞えそうなチェストっぽい家具然としたものもあるし、部屋隅の応接用ソファにはやはり一色が持ち込んだと思わしきパステルカラーのマシュマロクッションが複数個転がっていて、ピンク色の毛布も丸めて放っぽらかしてある。

 学校備品というシールの貼られた液晶テレビや、生徒会で使っているネット接続可能なパソコンなどもあることを考えれば、なにこれ一色にとっては天国なんじゃないの……。ここで楽しく生活できちゃうでしょ。がっこうぐらしなの? 万が一のゾンビの来襲にでも備えてるの?

「先輩、こちらへどうぞ。もうお湯湧きますよ」

 

 しゅごぉぉぉおお、というケトル内の激しい沸騰音が生徒会室に響く。奉仕部では見慣れ聞き慣れたものだが、部屋が違うとどこか新鮮にも思える。

 まあ、突っ立っていってもしょうがないし……。

 なんかこう、女子の部屋に招かれてしまった感じで落ち着かないが、ちょいちょいと手招きされたで席へとりあえず腰掛けさせてもらう。

 

「緑茶と紅茶とコーヒーがありますけど、どれ飲みます?」

「お、おお……。じゃあ、コーヒーで」

「あまいのがいいんですよね?」

 

 どうぞ、と小籠が手渡される。

 中にはミルクとガムシロがたくさん。

 

「お好みで使ってください。さすがにマックスコーヒー並みに使われると困りますけど」

「……なら何個かもらうわ。ありがとさん」

 

 続けて、小洒落たガラスのカップで淹れたてコーヒーが出された。

 一体いくつの私物を持ち込んでいるのかは知らんが、ここまで来るとなんかある意味尊敬しちゃいそう。さすが怖いもの知らずのいろはすである。

 

「じゃあ食べましょっか」

 

 さっそく俺が甘めなミルクコーヒーを作っていると、一色も自分用のコーヒーを用意してこちらへてとてとと近寄ってくる。椅子を引いて座ったのは、どういうわけか俺のお隣。

 なんで……。スペースは広く開いてるんだから、お向かいに座ればいいでしょ……。

 こっちの気をまったく気にせずハミングしながら弁当の包みを広げる一色は、ご機嫌のままに俺の弁当箱に視線を送ってくる。

 

「そいえば先輩、今日は購買のパンじゃないんですね」

 

 俺にとって昼メシといえば、昨日までは購買かコンビニのパンが常だった。基本的に親は忙しいから弁当を作ってくれる余裕はないし、当時小町が通っていた中学校は給食だったから、それでよかったのだ。

 だが、今日からは違う。総武高に入学した小町は、妙に張り切って弁当を自分で用意すると言い出したのだ。理由は単純で『みんなお弁当持ってきてたから小町自分で作るよ。朝ごはん作るついでにできるし』とのこと。

 で、作るなら一人分より二人分のほうが効率もいいからと、たっぷりと愛をこめて俺のためにも作ってくれたのだ。なにそれお兄ちゃん嬉しい小町マジ愛してる。

 

「小町のお手製愛妹弁当だ」

 

 おっと、小町の愛が嬉しすぎてつい頬が綻んでしまった。

 語尾にフヒッとかついてそうでマジやばい。……ついてないよね? いかんいかん。

 

「なんですかそのドヤ顔。っていうかその愛妹弁当って言い回しはさすがにちょっときもち……」

 

 俺の表情を見て呆れたように文句を言いかけ、しかしぴたりと動きも言葉も止める。

 これはもしやあれか、いつものアレ。

 

「はっ! もしかして口説いてますか? これから毎日俺のために愛をこめて弁当作ってくれとかそういう系ですか? 別にどうしても作って欲しいってことなら作ってきてあげてもいいですけど色々と実費がかかるのでそこらへんはちゃんと負担と将来的な関係性を確約してからにしてもらっていいですかごめんなさい!」

「いや、別に小町が作ってくれるから一色には頼まないし……」

「そうですか……」

 

 なぜか残念そうに肩を落として、じっと俺の弁当箱を見つめていた。

 

「え、なに……?」

「いえ、別になんでもないですけど」

「そう……」

 

 もしかして、弁当作りたかったの? まさか手作り弁当で俺から一稼ぎしようとか考えてないよねこの子。

 ちなみにだけど、それなり以上に料理が得意な女子高生(可愛い)が、自分用の弁当を作るついでで男子高校生(ぼっち)に手作り弁当を用意する場合、一食でいくらぐらい徴収できるものだろうか。これって余裕で千円以上いけるんじゃね?

 やだ、いろはすあざといにもほどがある!

「……まあいいです。いただきます」

 

 どうしても俺の弁当の行く先が気になるのか、しょっぱそうに唇を尖らせながら一色は自らの弁当箱を開けた。

 顔を見せたのは鶏・鮭・卵のシンプルな三色そぼろご飯に、ちょこんとケチャップがついたうっすら焦げ目色のウインナー、焼いた白身魚らしき小さな切り身、しっかり汁を切った筑前煮っぽい煮物が少し。

 

「なんか家庭的だな」

「そですか? 自分で作るお弁当ってだいたいこんなもんじゃないですかね」

「けど煮物とかけっこう大変だろ」

 

 小学校高学年の一時期ちょっとやった程度の経験しかない俺には、実際どんなもんなのかよくわからんが、こういう煮物は手間がかかるイメージがある。

 

「まあお魚も筑前煮も昨日の夜に作った残り物ですし、朝は案外それほど大変じゃないですよね。本当に時間がないときとか面倒な時は、てきとーにコンビニ寄ってますけど」

「ほーん……」

「先輩はどんな感じですか?」

 

 意外となんでも器用にこなす一色の万能さに感心する俺をよそに、一色の関心は俺の弁当に向き続けているらしい。早く蓋を開けて見せろと言わんばかりに、視線がじっと弁当箱を貫いている。

 

「そりゃお前、小町の心と愛のこもったザ・手作り弁当って感じのやつに決まってるだろ」

「はぁ……。よくわかりませんけど」

「イメージ的にはアレだ。たこさんウインナーに卵焼き、ミートボール、ふりかけご飯とか、そういう感じのやつだろ。たぶん」

 

 一色に負けず劣らずあざとい小町の性格的に、たぶんそんな感じのもんじゃなかろうかと機体をしながら、いざ、包みのハンカチを解き蓋をぱかっと御開帳。

 ――が。

 

「…………は?」

「……ぷっ。くく……ふひっ」

「え、ちょ、なに。待って。え、なにこれ……」

 

 弁当箱の左側、一面の黒。

 弁当箱の右側、ぎっしりつまった赤い球体。

 

「ふふっ、海苔弁とプチトマトっぐぐっ……。ふひひっ」

「……小町ちゃん? お兄ちゃんになんたる仕打ちなの? 新手のいじめかな?」

 

 半分泣いてます。おかしい。こんなことは許されない。

 や、手抜きとかそういうことじゃなくてね? 別に左側が海苔弁なのはいい。全然問題ない。なんなのこの右側。プチトマトプチトマトプチトマトプチトマトプチトマト!! 俺トマト嫌いなの知ってるよね小町。しかもトマトだけって……。他のおかずは? 酷くない?

「っていうか笑いすぎだから」

「だって、いくらなんでも……はひひっ」

 

 まあわかるけどね。これ他の人の弁当箱の中身がこれだったらそりゃ笑うわ俺だって。

 けど、これ俺の弁当なんだよなぁ。ちっとも笑えないんだよなぁ。

 

「っていうか、それなんですか?」

「ん?」

「そのお弁当箱の下のところ、なんか紙みたいなの」

 

 指摘されて気づく、弁当箱とハンカチの間に挟まった白い紙辺。

 引っ張り抜いて見れば、小町の字で何か書かれている。

 

『これからちゃんとお弁当作ってほしかったら、好き嫌いせずにトマト食べれるようにならなきゃだめだからね』

 

 鬼かよ。母ちゃんかよ。

 

「へー、いい妹さんじゃないですか。トマトは健康にいいですからね、『お兄ちゃん』のことをちゃんと考えてくれてるんですよ」

「考えてくれてるなら、ちゃんと普通の弁当作って欲しいわ……」

 

 いくらなんでもこれ強硬策すぎるでしょ。俺のこれから先毎日の昼飯を人質にトマトを食べろと脅してきているわけだ。ひどい、ひどすぎる小町……。

 

「で、どうしますか。トマト」

「どうするったって……」

 

 ヘタを取ってざっと水洗いしただけにしか見えないトマト軍団。

 あの喉や上顎に張り付きやがる不快な薄皮はそのままだし、中身の酸っぱくて気持ちの悪いじゅるじゅるな汁もたっぷりだろう。

 

「無理」

 

 大嫌いなものを食べるなんて、拷問じゃないんだから。食べるなんて選択肢は当然存在し得ない。トマトは放置で海苔とご飯だけ食うしかないでしょ。物足りないし味気ないけど。

 放課後、奉仕部で顔を合わせたら文句を言ってやろうと心を炎と燃やし、しぶしぶ板海苔に覆われたご飯に箸を突き入れる。いただきますという挨拶すら湧いてこない。いや、これでも弁当を食えるだけ幸せなのかもしれないけども。

 

「……はぁ。しょうがないですね」

 

 しかめっ面で海苔を突いていると、ふと一色が呆れきったように溜息を吐いた。

 なんだよこのやろ、とばかりに見やると、箸でウインナーを一つ掴んで俺の口元へと持ってくる。

 

「え、何?」

「あーんです。あーん」

 

 あ、あーん? えぇー……。なにその羞恥プレイ。

 それわざとなの? それともナチュラルにそういうことやっちゃうの?

「いや、自分で食べれるが……」

「おかずが欲しくばあーんです」

 

 ほう、つまり一色は羞恥プレイと引き換えだというのか。

 ……困る。だって恥ずかしいとかいうレベルじゃないでしょ。顔から火を吹いて死んじゃうかもしれないし。

 けれども、あーんしないとおかずをみすみす逃すことになる。

 ええい、以前だって間接キスのおまけつきで(意図せず)あーんされたんだから、今更意識することでもなかろう。でも気にしちゃうんだよなぁ……。

 

「ほらはやく、手が疲れちゃいます」

「わ、わあったよ……」

 

 疲れるなら俺の海苔弁の上に置いてどうぞ、とは言えず。

 結局恥を忍んでぎこちなくあーんする俺です。

 

「はい、どーぞ」

 

 口にえいっと突っ込まれるウインナー。唇や歯に僅かな時間だけ箸が触れる。

 あー、なんか熱くないですかねこの部屋。特に顔が熱い。なんでかな?

 ……っていうかその箸、これから君も使うんだよね? 大丈夫? 比企谷菌とかたっぷりついちゃってない? いやマジで、口内細菌的な意味で。一応ちゃんと歯は磨いてるけどさ、口内細菌をゼロにすることって不可能らしいじゃん? それ考えたらあれだな、キスとかセックスとかそういう濃厚な身体接触って互いのばい菌を交換しあってるようなもんだよな。やべえな。

 

「こういう感じの、どうですか?」

 

 おっと、うっかり思考が現実から離れてどっかに飛んじゃったわ……。

 こちらの色を伺うように不安げな表情で問いかけてくる声音に引き戻され、ようやくゆっくりと咀嚼をはじめる。

 ほどよく焼けて固くなった皮のパリポリとした食感。じんわりと広がるウインナー特有の塩気とケチャップの酸味が絡み合い、実に美味い。が、結局ただの焼いたウインナーである。

 どういう返事をしようか、ウインナーを飲み込みながら考えてみる。

 まさかウインナーを手作りしたわけでもあるまい。半分に斜め切りして焼いただけじゃないのん? ただのウインナーですねぇ。……という感想も一緒に飲み込んでおく。きっとたぶん『やりなおし』って怒られるからね!

 困った俺の答えはこれである。

 

「このウインナー、シャウエッセンか?」

「違います。やりなおし」

 

 ですよねぇ、知ってました。

 じゃあなんだろう。鎌ヶ谷にファイターズタウンがあることで千葉県民にはおなじみの日本ハムじゃないとすれば、丸大食品かな?

「先に言っときますけど、ウインナーの銘柄を当てるゲームじゃないですからね。ちなみにアルトバイエルンです」

 

 選ばれたのは伊藤ハムでした。

 いや、それは別にどうでもいいか。

 

「……まあ、いい感じに焼けてるんじゃねえの。冷めてるのにちゃんとウインナーらしい味するし、変にバサバサだったり水っぽかったりもしないし」

 

 当たり障りなさそうな言葉を選んで伝える。といっても、ただ単に他にどういった発言をすればいいのかわからんというのもあるが。

 すると一色は、やれやれといわんばかりのジェスチャーでまたも溜息を吐いてみせた。

 

「そうじゃなくてですね……。こういう場合、味の感想は普通に『ああ、美味いぞ』とかでいいんですよ。細かいことは更に聞かれたら言えばいいんです」

「そういうもんなの?」

「そういうもんです。料理評論家とか食レポとかってわけじゃないんですから、最初っからいきなり一から十まで細かく感想を言う必要はないんですよ。ただ『美味しい』って言ってもらえるだけでうれしいもんですし。……まぁソースはわたしですから、全ての人が必ずそうだとは言えませんけど」

 

 常よりもずっと真面目な様子で諭すように連ねられた言葉には、明確な根拠こそなくとも不思議と説得力がある気がした。

 確かに考えてみればそうかもしれない。自分が作った料理が美味しいと言ってもらえたら、よほど捻くれた人間でもない限り、ちょっとくらいは嬉しさを感じるものだろう。もちろん、単に『美味しい』というだけではなく、それこそ『めちゃくちゃ美味い!』とか大喜びしてくれたら一番だろうけれども。

 だから、重要なのは細かい評価じゃなくて一つの言葉だ、というのは理解できる。

 

「っていうか、それもわたしが求めてる感想とは違うんですけどね」

 

 だが、それでも未だ不満そうに一色は唇を尖らせていた。

 

「なんだそれ……」

「ほら、あれですよあれ。『かわいいかわいい後輩の美少女と密室で二人きりのお昼休み、手作り弁当をあーんしてもらう』っていうリア充的な甘々シチュエーションについて、先輩的にはどう思うか。ですかね」

 

 ……これはあれですか。いつぞやのデートの時とかバレンタインイベントの時に聞かれたようなやつですか。

 しかも自分で自分のこと『かわいいかわいい後輩の美少女』とか言っちゃってるしさ。実際かわいいし美少女だから別にいいけど。

 

「いくらなんでも難易度高すぎでしょ、その質問」

「そうですか? 思ってることを言ってくれればいいんですけど」

 

 その思ってることを口に出して言うっていうのが難易度高すぎなんだけど……。

 ただ、まあ。それでも言うなれば。

 

「……あれだな。俺には性に合わん。人種が違いすぎる」

「そですかね。普通にわたしと二人でお出かけしたりお昼休みを過ごしたりできている時点でそれほど人種も違わないというか染まってきたというか、案外こういうのもすぐに慣れちゃうかもですよ?」

「別に染まってないし、それとこれとは違……」

 

 とまで言って、ふと思う。

 染まってなくはないし、それほど違わないかもしれない。……と。

 意外と不思議なもので、気づけばいつの間にやら一色いろはという人間に慣れてしまっていたのは確かなのだ。タイプ的には真逆で、しかも常日頃から俺が最も警戒するキャラクター性の女子であるにも関わらず。

 はじめて一色を目撃したときも、はじめて一色が奉仕部を尋ねてきたときも、俺は内心で散々っぱら警戒し文句を垂れていたはずなのに。

 これまで半年関わってきた中で、それなり以上に互いのことを知ってきたからなのだろうか。……こいつ裏表めちゃくちゃ激しいくせに、けっこう本音というか裏を隠さずに見せてくるしなぁ。そういう意味では、一色のことは『わかる』部分も多分にある気がする。なんとなく程度でもわかることができれば安心もできるし、安心できればそれなり以上の近い距離で接することもできなくはないし。

 それとも、ただ単に一色が俺におどろおどろしい敵意を向けてくることがないからなのか。

 まあなんにせよ、とりあえず慣れとは恐ろしいものである。

 

「違いませんよ。だって、答えはもう出てるじゃないですか。先輩の性格的に、本当にダメならわたしのこと突き放しますよね?」

 

 核心をひと突きするかのごとく、鋭い視線が俺の瞳を捉えていた。

 しかしすぐにその視線は柔らかく変化し、一色は小さく吐息をふふっと漏らすように笑う。

 

「なので、ま、わたしってけっこう先輩から好かれてるんだなーって。嫌われてないってだけでも、全然素直にうれしいですよ」

 

 またこうやって反応に困ることを言い出すんだから、一色には手を焼かされる。

 

「……まあ、別に嫌いじゃないし嫌うつもりもないが」

「そこ、『ああ、大好きだぞ』的な感じで返すところですよ」

「いや言わないから。俺がそんな台詞言ったら気持ち悪いでしょ……」

 

 想像するだけで鳥肌が立っちゃう。気障ったらしい台詞を吐くのは葉山とかああいう連中の役目であって、俺じゃない。

 

「別に気持ち悪いなんて思いませんって。わたしもけっこう先輩のこと大好きですし」

 

 一色はさらりとそんなことを言う。恥ずかしがる素振りもなければ躊躇するように言葉を詰まらせることもなく、気持ちを伝えることがさも当たり前のことだとでもいうように。

 むしろ、面と向かってそんなことを言われた俺のほうがずっとこっ恥ずかしいし、戸惑わされる。

 いや、変な勘違いはしないけどさ。先輩後輩として大好きな関係性ってことだろうけど。この子って常に仮面かぶってるから、素になって色々とぶっちゃけられる相手なんて多くはないだろうし。ただほら、やっぱり可愛い女子から『好き』って言葉を向けられるとね。むずむずするよね。首筋とか目元あたりが。

 

「わたしだけじゃないですよ? 先輩が思っている以上に、先輩って色々な人から気に入られてると思うんですよね。結衣先輩や雪乃先輩、戸塚先輩、小町ちゃんもそうですし、三浦先輩や海老名先輩、川……川……あのちょっと怖い感じの先輩、それに戸部、葉山先輩、副会長たちもきっとそうです」

 

 一色が名前を挙げたその一人ひとりの顔が思い浮かぶ。

 実際に親しいかどうかは別としても、これだけの数の人間と関わり合ったのは事実だ。過去、高校一年の頃までの俺からしたら信じられないことだ。

 時には関係性が悪化しかけたこともあったが、それでもこの一年間継続してきた。好かれていると自信を持てるほどポジティブな思考は持ち合わせちゃないが、良かれ悪かれ多少なりとも気にしてもらっている自覚くらいなら俺にもある。

 

「気に入られてるかどうかは知らんが……。特に三浦と戸部」

 

 っていうかいろはす? いま先輩のことをナチュラルに呼び捨てたよね? 別にいいけど、戸部だし。

 

「ま、そういうことですから、結局のところ先輩って周囲から見ればもうすっかりリア充側の人間になりつつあるんじゃないかなって思うんですよね」

「リア充ねぇ……」

 

 どうなんだろうな、そこらへん。

 ただ女子の知り合いがいて、一緒に飯を食ったり、あーんされたりすることがリア充なのかと問われれば……。うん、あれだな。爆発しろ!

「というわけでリア充側の人間らしく堂々と。はい、あーん」

 

 言葉より実戦とばかりに一色は話を切り上げると、再び箸で自らの弁当箱からおかずをつまみ上げ、俺の口元へと差し出してくる。

 やっぱ、これ、やらなきゃだめ?

「ほら、あーん」

 

 口を開けずにいる俺の唇に押し付けそうな勢いで、一色はぐいっと更に近づける。

 ……あ、あーん。

 

「どうですか?」

 

 ぱくりと口にしたウインナーをもごもごと咀嚼しながら聞いた問いかけは、恐らくさっきの質問のやりなおしということだろう。

 答えかたは既に知っている。教えてもらったばかりなのだから実戦すればいい。だが、教えられた言葉をそのまま言うのも芸がない。

 

「ん。……まあ、こういうのも嫌いじゃない」

 

 言った言葉に、甘すぎだけどな……と付け足して。

 気の利いた言葉をかけてやるだけのコミュニケーション能力はないから、出てくるのはこんなもんだが。

 けれど、一色はこんなもんでも満足してくれたらしい。ふふっと愛らしく微笑んで、秘密めかしてこそこそっと言いやる。

 

「なら、これから大好きになっていきましょうね」

「……くっ! いっそ殺せ!」

「いやいや、どんだけ恥ずかしがってんですか。このくらいそこらのカップルとかなら普通ですよ普通」

 

 わっかんないかなー、この羞恥感。この男心。っていうかカップルじゃないし。

 今日これ家に帰ってから一人で冷静になったらヤバいんじゃないの俺。ベッドの上で発狂しながら転げ回る未来が見える。っていうかもう既に転げ回りたい……。

 

 

     *

 

 

 拷問のような羞恥ランチタイムをなんとか乗り越え、短いようで長かった昼休みも間もなく終わる。

 既に予鈴が鳴ったので、それぞれ教室へ戻ることと相成った。

 ……ああ、そうそう。ちなみにトマトは一色に食べてもらいました。

 

「それで、これからどうするんですか?」

 

 生徒会室から出ようすると、いきなり背後からなんのこっちゃ……。

 唐突に投げられた言葉の意味が理解できず、つい怪訝な顔を向けてしまう。

 

「お昼休みの定位置のことですよ」

「ああ、ベストプレイスか……。あれは確かに困った」

 

 憩いの場を奪われてしまった寂しさ、悲しさ。そして著しい日常生活への支障。

 このままでは昼休みを過ごす場所を完全に失ってしまいそうでまずい。かといって、あそこは俺の専有スペースではないのだから、まさか蹴散らすわけにもいかんし。

 

「明日からも生徒会室使います?」

「いいのか、それ」

「使うなら開けますけど」

 

 言って一色は生徒会室の鍵をブレザーのポケットから出すと、ちゃりちゃり振ってアピールしてみせてから扉を施錠した。

 というかこういう私用で使っちゃっていいのかしら。私物だらけにしても特に咎められてないっぽいから、問題ないのかもしれんけど。

 

「まあ、ここで食べていいっていうなら……」

 

 他にアテもないし、教室で食べるのも辛すぎる。

 奉仕部室で雪ノ下や由比ヶ浜、小町たちと食事をするのも考えようによってはアリかもしれないが、女同士水入らずの時間を邪魔するのもあれだしな。……いろはすもいないだけに水入らずってか。なにそれいじめ? 違うけど。違うよね……?

「じゃあ明日からもここ開けますねー」

 

 うんうんと頷きながら、一色が鍵をぽっけにしまう。小さく首を揺らしながら歌うハミングに、今の機嫌の良さが表われていた。

 

「それじゃ先輩、これからもよろしくです」

 

 ずるいくらいに甘ったるい声音で言い残して、俺の反応も待たずに一色はとてぱたと階段のほうへと走り去ってゆく。

 いたずらっぽい言い回しなのか、それとも素直に俺を受け入れてくれているのか、いまいち判断しかねるが。いずれにせよ、そうやって男心をくすぐって一色いろはという存在を意識させてくるあたり、憎まないけど憎たらしさもある。

 最強の後輩にして、最強のゆるふわJK。

 底なし沼のような一色のペースにすっかり巻き込まれてしまった以上、これから先もうどうあがいても這い出ることなんてできないんじゃないか、と。

 日々日々、そんなかわいい怖さを実感し魅了されつつある気がする、どうも俺でした。

 

 

 

   了。

 




SSと全然関係ないですが、12巻読みました。
いろはす登場シーンが全体に比して少なめなのは残念ですが、これあっかりは仕方がないです。あくまでサブキャラですもんね……。
しかし、その登場シーンがまた濃ゆくて濃ゆくてたっぷり萌えさせていただきました。あざとかわいいところは相変わらずめちゃくちゃ可愛いし、真剣な姿を見せるシーンはかっこいいし。10.5巻に続き、12巻もいろはすの魅力がたっぷり詰まった巻だと思います。八色もいろゆきもあるとおもいます。
まだお手に取っていない方、ぜひ12巻をお読みください。いろはす~。


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俺の世界は、桜の一色に染められた。

かつて某所で行われた企画での作品です。お題は「桜」。
「23:00からの60分間でどれだけ書けるか」というもので、プロット等の組み立てはなく一気に勢いだけで書いたものです。


 

 

「――桜色、か」

 

 四月も半ばに迫り、咲き誇っていた染井吉野の盛りもそろそろ終りを迎える頃。

 少し強い春風に乗って、花弁は空へと舞い上がり、桜吹雪となって降り注ぐ。数歩前を行く一色いろはの短いプリーツスカートも旗のようにぱたぱたとはためき、ちらっと桜色が見えた。

 いいですね、サテンの淡いピンク無地(川柳)。

 

「桜色……ですか?」

 

 突然ぽそりと呟いた俺の声が気になったのか、一色は立ち止まり振り返って、くりっと小首を傾げる。

 そうこうしているうちにも風はスカートの裾を泳がせ、少し光沢感ある桜色のサテン地が僅かに見え隠れしていた。

 フロントも無地とは、清楚感あっていいですね。最高ですね。

 

「……あー、いや。桜を見てたらな、ふと、一色っていつも淡いピンクのカーディガン着てるよなーと思ってな。好きなのか? 桜色的な感じの」

 

 まさか『お前のぱんつが気になって、幼げなお尻やふとももを凝視していました』なんて口が裂けても言えるはずがないので、頭を高速回転させててきとーに言い繕う。

 上手いこと誤魔化せたのか、一色は怪訝そうな様子は見せず、ごくごく自然な口ぶりで語りだした。

 

「ほら、わたし春生まれじゃないですか。だから、すごく桜って愛着感じるんですよねー。わたしが生まれた日も、こんなふうに咲いてたのかなーって」

 

 あたかも懐かしい記憶にでも思いを巡らせるかのように、一色が優しげな微笑みを浮かべる。少し細めたまぶたから覗く瞳は、俺とは比較にならないほど綺麗に澄んでいて、そこに邪気はかけらもない。

 

「そうか……。大切な色なんだな、桜色」

 

 ……ごめんね、大切な色を色欲で汚しちゃって。でも、俺は悪くないよね。お前のその華奢な身体やお前のぱんつが俺を色々と刺激するのが悪いのだ。だから俺は悪くない。

 

「はい。なので、カーディガンもこれがお気に入りなんですよね。って言っても、サックスとかパステルグリーンとか、そういう感じの色はぜんぶ好きですけど」

 

 なるほど、一色の下着は淡いピンク以外にも、水色や淡い緑色があると。ほかにはどんな色がありますか? 八幡とっても気になります!

 

「ちなみに先輩は、桜色ってお好きですか?」

「おう! 桜色というか淡いピンクは大好きだ!」

「そ、そうですか。ずいぶん食いつきがいいですね……」

 

 おっといけない。ついうっかり本音が出てしまった。

 ぱんつ、ぴんく、大好き!

 

「まあな。特にあれだな、お前みたいなかわいい系の女子が桜色とか身につけてると、いいよな……と思うぞ。うん」

 

 特にほら、今日の一色みたいな大人しめのデザインの桜色下着とか!

 

「かわい……そ、そうですかね。えへへ……」

 

 何がどうしたのかは知らないが、突然一色が頬を桜色に染め身を捩りながら照れ始めた。どうしたのこの子、頭大丈夫?

 

「やー、そうですかそうですか。っへへ。このお気に入り、似合ってますかねー?」

 

 言ってその場でくるりんと回転。亜麻色の髪やブレザーが大きく翻り、スカートもぶぁさっと広がり捲れ、暫時ぱんつ丸出し。最後にしゅたっと気をつけの姿勢を取って、とってもあざとく敬礼してみせる。はいはい、あざとかわいいあざとかわいい。

 お気に入りとはもちろんいつものカーディガンのことだろうが、ここまで堂々とぱんつ披露されちゃうと、もう求められているものはぱんつに対する感想としか思えない。

 Yes! 桜色ぱんつ! Iroha's ぱんつ!

 

「おう! 超めちゃくちゃ似合ってるぞ! 最高にかわいいまである!」

 

 ぐっと親指を立てて、最大限の賞賛を送る。

 似合ってます、超にあってます桜色! いや、ぱんつじゃないよ? カーディガンね? ほんとだよ?

 

「むふへっ、似合ってる……。ふふっ。かわいい……。えへー……」

 

 これ以上の笑みはないのではなかろうかと思うほどでれでれぇと頬を綻ばせた一色は、締まりのないその表情で何やらぶつぶつ呟いている。

 おお……。この子、ほんとどうしちゃったのかしら。

 今まで見たことのないデレMAXモードの一色の姿に驚かされ、同時にどう扱えばいいのかと戸惑わされる。とりあえずほら、自分の世界にでも入っちゃってる感じでさ、なんて声かけりゃ良いのかわからん。

 まあせっかく珍しいものが見れているわけだし、もうしばらくこのまま放っといてみるか――と、しばし眺めることにする。

 その時。

 びゅわっと、今日一番の強い風が吹き。

 

「きゃあっ!」

 

 一色のスカートが、勢い良く捲れ上がった。

 思わず引き寄せられる視線。そこにあるものは当然、無地桜色のサテン生地ぱんつ。

 そして、一色は気づく。

 

「……あっ。え、桜色って……!」

 

 俯き一気に紅潮させて、スカートの裾をぎゅーっと抑え、内股になってもじもじする。

 すみません。調子に乗りすぎました、ごめんなさい。

 

「ま、まさかですけど、先輩の言ってた桜色って、わたしのぱんつのことですか……?」

「…………まあ、そういうことになるな」

 

 潔く、罪を認める。だって、もうバレた以上は誤魔化せそうにないし。

 いや、ほんとすみません。ちょっと調子に乗って一色の桜色ぱんつに興奮しすぎました。ごめんなさい。

 

「そ、そ……」

 

 腕をぷるぷると震わせ、一色がゆっくりとその手を上げる。いまからぶん殴りますと言わんばかりに。

 

「そんなにぱんつが好きなら、見せるなり触るなり舐めるなり挿れるなり好きにすればいいじゃないですか! そのかわり、絶対責任とってくださいね!」

 

 言うが早いか、一色がスカートをがばっとたくし上げた。眼前に広がる、素晴らしき桜色のトライアングルゾーン。

 あぁ、そうか。俺の天国は、ここにあったのだ。一色のぱんつ……。桜色のぱんつ……!

 こんなの、いくら俺とて我慢することなどできるはずもない。俺は押し倒すように一色いろはのトライアングルゾーンに飛びかかり、俺の世界は桜の一色に染められていった(※屋外です)。

 

 桜一色、恋ぱんつ。

 なお、このあとたっぷり責任取らされ尻に敷かれるようになったのは、別のお話。 

 

 

 




失礼しました!


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いろは視点の短編いろいろ
雪ノ下先輩がかわいい。


いろはすとゆきのんのおはなし。
といっても、いろゆきガールズラブではありません。

以前ハーメルンでも投稿していた作品で、短編集形式とする際こちらにまとめました。



 

 

   『雪ノ下先輩がかわいい。』

 

 

 生徒会備品の買い出し。

 そんなもの学校で発注してくれればいいのに、総武高では生徒会役員が自ら買い出しに行ったり発注をかけたりする決まりらしい。自主性がどうとか。

 だからめんどうだけど、わざわざ放課後に南船橋までやってきた。

 ちなみに副会長と書記ちゃんは予備校、稲村先輩はバイトなので同行は頼めず、どっかのせんぱいは察知したのか帰ってしまい捕まらなかった。

 すなわち、今日はわたしひとりだ。

 

 北館一階の『東横ハンズ』で必要なものを揃え、用事を全て済ませてから、ららぽの中を彷徨く。

 放課後のららぽは制服姿ばかりが目立っていた。そのほとんどが女子グループかいちゃこらリア充で、わたしのように女子ひとりだけでぶらつく姿は見られない。

 ……どうせわたしゃ非リアですよ。

 

 せっかくここまで来たんだから、存分に楽しむことにする。

 まあ、手持ちは少ないから、あれこれたくさんお買い物ってわけにはいかないんだけどさ。

 ウインドウショッピングってやつだよね。見ているだけでもけっこう満足したりするし。

 

 まずは北館の二階『くらざわ書店』を覗いてみる。

 せんぱいがよく読んでいる萌え系ラノベとかをちょっと手にとって見て、試しにどれか買ってみようかと思い、けどやっぱり躊躇する。

 萌えラノベを読むわたし。

 うん、ちょっとないわー……。っべー、さすがにそりゃないわーいろはすー。

 想像してみた姿があまりに違和感ありすぎて、うっかり戸部語になってしまった。許すまじ戸部。ていうか誰だよ戸部。

 けどまあ、物は試し。

 食わず嫌いで判断するのはよくないし、なにより、せんぱいの好きなものがどんなものなのか知ってみたいという欲求が勝さった。

 とりあえず、『アニメ2期製作決定!』というポップが貼られたラノベを一冊取ってみる。

 浅崎暮人っていうイラストレーターさんが書いたらしい表紙イラストは、確かに萌え系の絵柄なのかもしれないけど、とても美麗に思えた。萌え系についつい感じてしまう嫌悪感のようなものはない。題名がちょっとアレだけど。

 これにしよう。

 そう決めて、レジへ持っていく。

 

 書店を出てからしばらく歩いて、同じ北館二階の『WESTBOY COMET(ウェストボーイ・コメット)』へ。

 女子中高生にとってウェストボーイっていえば、なんちゃって制服とかスクールアイテムの定番だよね。みんな“Venus(自由の女神)”の刺繍が入ったカーデとか紺ハイ履いてるし。

 けど、残念ながら店舗名に『コメット』って付いてる店は小学生などの親子向けがメインで、肝心の中高生向け制服関連のアイテムは少なめ。

 実際、あまり在庫はなかった。

 ざっとパステルカラーのベストやカーディガンを見て、店を出る。

 

 そのすぐとなり、同じく子供服メインの『ORIVE des ORIVE(オライブ・デ・オライブ)』。

 このブランドも、タンボ学生服からなんちゃって制服とかの中高生向けアイテムが出てるけど、学生服専門の販路っていうのがあるらしくて、こういう店舗には基本置いてないらしい。

 des猫のワンポイント刺繍が入ったカーデとか紺ハイ、すごく可愛いんだけど、取扱店が制服取次店ばっかりでなかなか入手難。こういう普通の店でも売ってると良いんだけど……。

 というわけでここはスルー。

 

 のんびり歩いてメガネ屋の『JONS』。

 目つきがアレなせんぱいも、伊達でいいから眼鏡をかけたら、ちょっとくらいは印象良くなったりして……。なんて失礼なことを考えてみる。

 

 そういえば、そろそろ今年の新作水着が出る頃かな……と、水着ブランド『二愛』のショップへ。

 ここは水着だけじゃなくて下着も売ってるのでついでに見て、せんぱいはどんな下着や水着が好みだろうか考え、そして色々と妄想をふくらませてみる。

 ……とても虚しい。

 彼女でもないのに、なにやってるんだろう。わたし。

 あまり好みのものはなかった。というわけで出る。

 プール行く友達もいないから、水着買う必要もないんだよね。そもそも。

 

 そこから『光の広場』を挟んだ先、『AMO'S SMYLE(アモ スマイル)』にも寄ってみる。

 お店の間口までいっぱいに飾られている色とりどりの布地。もちろん外まで丸見え。そのせいか、前を通る男性は逃げるように足早だ。ちょっと面白い。

 要するに、ここも下着屋さん。トランプのお店。十代後半から二十代くらいの女性向けって感じで、ギャル系の子が好きそうな派手めなデザインが多いかもしれない。レースいっぱいとか柄とか。

 なぜか下着屋さんのマネキンって中に電球が仕込まれていて光るけど、そんな光るマネキンには勝負下着っぽさのある黒いブラ・ショーツセットが着せてあった。結衣先輩、よくこういう下着つけてるよなー……などと。

 わたしはどっちかっていうとシンプルめなパステルカラーのサテンとかが好きなんだけどね。安いし。

 ていうかトランプとかって高いんだよね。ブラ・ショーツ1セットで5,000円とか、さすがに無理でしょ。

 ……だから、わたしは庶民の味方、安心価格な千草台のむらむらか小仲台のバシオスでいいです。最近は質とかデザインもかなりまともになったし、別に誰に見せるわけでもないし。それかネット通販。

 というわけで、冷やかすだけ冷やかして出る。

 

 そうこうしているうちに、けっこう時間が経っていたらしい。時計は19時半を指していた。

 今日は月曜日なので、ららぽのショップのほとんどは20時に閉まってしまう。

 もうあまり時間もないので、最後に『ディスティニーストア』へ寄ろうと、もと来た道を足早に引き返し、『子供の広場』のエスカレーターで一階に降りる。

 

 そして、すぐ先にあるディスティニーストアへ足を踏み入れようとしたところで――。

 

 彼女を見つけた。

 

 

               ×  ×  ×

 

 

 ランド・マッキントッシュ氏原作『Panda's-Garden』。

 またのタイトルを『Hello, Mr.Panda』。

 

 Malt Destiny(モルト・ディスティニー) Animation Studio(アニメーション・スタジオ)の人気キャラクターでもあり、日本では『パンダのパン パンダのパン ぷくぷくとした ちっちゃいパンダ~♪』の歌や、東京ディスティニーランドの超人気アトラクションでもお馴染み、パンダのパンさん。

 かわいいよね、パンさん。わたしも好きです。

 小さいころ、よくDVDを見せてもらった。『パンダのパンさん クリストファー・マッキントッシュをさがせ!』とか特に好きで、吹き替えの七代駿さんが歌う Forever And Ever(いつまでもずっと) なんて今でも涙が出そうになるし。わたしが生まれた数年後には七代さんが鬼籍に入られてしまったという意味でも……。

 

 そのパンさんの、デフォルメされたディスティニーつむつむ版『つむパンさん』ぬいぐるみ。

 以前に売り切れていたつむパンさん(はちパンVer.)のMサイズが再販になったらしく、店の間口すぐの広い棚にぽつりと三つだけ並べられていた。

 見る限り、在庫はもう残り少ないのだろう。

 ディスティニーストアは、店頭の在庫が減る前にどんどんこまめにバックヤードから補充すると聞いたことがある。なのに、表の在庫がこれしかないということは、売り切れ間近ということだ。

 

「…………」

 

 そんな棚の前で、つむパン(はちパンVer.)のぬいぐるみをじ――――――っと見つめている、総武高制服姿の女の子。

 しばしして、そっと手を伸ばしたと思いきやすぐに引っ込め、また手を伸ばしては引っ込め、そして自らに何かを言い聞かせるように首をふるふると振っていた。

 

「…………っ」

 

 しかし、ついには理性が弾けたのか、つむパンをひとつ手にとってしまった。

 そして、デフォルメされたつむつむキャラ特有の小っちゃなお手々の感触を、細く華奢な白い指先でむにむにと楽しみ――、

 

「…………!」

 

 はっと我に返ったのか、つむパンを元の棚に戻して、しゅんと俯いた。

 

 ――かわいい。

 かわいい! なんなのあの生き物……!

 せんぱい大変です! 雪ノ下先輩超かわいいですよ!

 

「…………」

 

 もしかすると手持ちがなかったのか。

 その横顔はどこか寂しげで、名残惜しそうに何度もチラチラとPOPの値札を見て、そしてため息を吐いている。

 

 ん~……。税込で1,944円かー……。

 財布を取り出してみる。

 まあ、そのくらいならある。

 思えば、雪ノ下先輩の誕生日、わたしなにも渡してないんだよね。

 あの時はまだそれほど親しくなかったし、そもそも1月3日が誕生日だったってこと自体知らなかったんだけど……。

 

 やがて諦めたのか、雪ノ下先輩は肩を落としてとぼとぼと店の前から歩いて行く。

 

 よし。決めた。

 ……今すぐ買えば、追いつけるよね。

 

 ディスティニーストアに駆け込んで、いちばん形の整ったつむパンを選んで取り、レジに並ぶ。

 いつもはランドやシーの前売りパスポート発券などで混んでいるレジだけど、平日のそれも閉店間近な時間だったこともあってか、あっさりと買うことができた。

 店を出て、雪ノ下先輩が向かった方へと急ぐ。

 思いの外すぐに見つかった。

 

 そのまま声をかけて渡すだけじゃなんかちょっとつまらない気がしたので、モノマネしながら渡してみることにする。驚いてもらえれば嬉しい。

 まだ雪ノ下先輩までは少し距離があるので、ここなら声は届かないはず。ちょっと練習。

 んんっ。七代駿さんをイメージして、ちょっと低めのゆる~い鼻声で……。

 

「あぁたいへんだ……。また酒がからっぽ。ほんの一滴しか残ってない……」

 

 ……っべー。似てないわーいろはすー。

 まあいい。似てなくても伝わればいいんだから、脳内戸部先輩は黙っててください!

 

 なるべく音を立てないよう距離を詰めて、そっと後ろにつく。

 つむパンさんのぬいぐるみを取り出して、準備は万端。

 七代駿さんの声まね、七代駿さんの声まね……。

 

「やあ、ユキノ・マッキントッシュ」

「っ――!?」

 

 手を伸ばして、つむパンさんだけを雪ノ下先輩の顔の前へ回りこませる。

 

「わぁたいへんだ……。元気ないけど、どうしたんだい……?」

 

 そして、言いながら、雪ノ下先輩の前に立つ。

 その顔は少し赤い。

 

「一色さん……。なんでも、ないわ」

 

 ちょっとむすっとした口ぶりで、ついとそっぽを向いてしまった。

 そんな態度が微笑ましくて、やっぱり可愛い。

 

「雪ノ下先輩。これ、プレゼントです」

 

 つむパンさんをそっと差し出す。

 雪ノ下先輩は目を丸くして驚き、一瞬だけ子供のように瞳を輝かせて、しかしぐっと堪えるように視線を伏した。

 

「プレゼント……? もらう理由はないと思うのだけれど……」

「さっき、ディスティニーストアでじっと見てましたよね?」

 

 またも驚いたように目を見開いた。

 

「……見ていたの?」

「はい。ばっちりと」

「そう……。恥ずかしいところを見られたわね……」

 

 こめかみのあたりに手をぽんと当てている。

 呆れたり困ったりした時に雪ノ下先輩が見せる癖だけど、どことなく考え事をしている時のパンさんの癖とも似ている気がする。

 

「けれど、だからといってもらう理由は――」

「わたしの誕生日、雪ノ下先輩からもらったじゃないですか。ティーカップ」

 

 もう先月のことになるけど、4月16日――誕生日プレゼントとして、雪ノ下先輩からティーカップをもらった。

 そのプレゼントはすごく嬉しかったし、それ以上にもっと嬉しかったのは、ティーカップを選んでくれた理由が『あなたも奉仕部の一員なのだから』というものだったこと。

 

「すごく、嬉しかったんです。……けど、わたしは雪ノ下先輩の誕生日、プレゼントをお渡ししてませんから」

 

 押し付けんばかりに、つむパンさんを差し出す。

 

「だから、これ。半年くらい遅れちゃいましたけど、日頃の感謝も込めて、プレゼントです」

 

 雪ノ下先輩の目をじっと見つめる。

 やがて、雪ノ下先輩はすっと手を伸ばし、つむパンさんを受け取った。

 

「本当に、いいの?」

「もちろんです。そのために買ったんですから。だから、もらってください」

 

 どっかの誰かと同じくらい捻くれてる雪ノ下先輩でも、ここまで言えば、ちゃんともらってくれるだろう。

 

「……ありがとう。一色さん」

 

 頬を染めて、雪ノ下先輩がはにかむ。

 その姿がとても愛らしくて、同姓のわたしでもちょっと胸がきゅんした。

 そして同時に、こんなに可愛い人相手に勝てっこないな……。などとついつい考えてしまって、ちょっと寂しさもある。

 

「けれど……。さすがにさっきのはないんじゃないかしら」

「……? さっきの、ですか?」

 

 や、やっぱアレかな。似てなかったかな……。

 

「ユキノ・マッキントッシュはさすがにないわ。それに、プエナ・ピスタ版の七代さんの声を意識したんでしょうけど、あまり似てなかったもの」

「う……。わかってますよー!」

 

 勢いでやっちゃたけど、いまになってめっちゃ恥ずかしくなってきた。

 しゃべりかたの再現は自信あったんだけどなー。そりゃ声は似てないよね。

 ……うん、封印だ。もうパンさんの声まねはやらないことにしよう。

 そう固く心に誓っていると、雪ノ下先輩がかろうじて聞こえるくらいの小さな声で、ぽしょっと呟いた。

 

「ふふっ。……パンのお馬鹿さん」

 

 ぎゅっとつむパンさんを抱きしめて。

 どこまでも眩しい笑顔で、ちっとも似てないクリストファー・マッキントッシュのモノマネをして。

 

 ――それは、わたしがはじめて見る、雪ノ下先輩の素敵な一面だった。

 

 

   (了)

 

 

 




「パンダのパンさん」はそのものズバリ「くま○プ=さん」パロということで。
すきです、八代プ=さん。


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だったら、あとは告るだけでゴールインじゃないですか。(短編3分割)
(前編)


渋と、こちらでも以前3分割で投稿していた短編作品です。
分割こそしていますが、全編で12,000文字程度ですので、さくっとお読みいただければと。

ちなみに冒頭部分など、一部で誰の視点でもないモノローグなしの台本形式を挟んでいますが、それ以外は基本的に各キャラ視点の小説形式(モノローグあり)となります。



 

「そういえば、ちょっと気になっていたことがあるんですよね~」

 

「気になっていたこと? なんだ?」

 

「先輩って、結衣先輩とあれから何度かハニトーデート行ってましたよねー? で、雪ノ下先輩ともパンさんグッズ買いにデート行ったりしてましたよね」

 

「デート? 別にそんなんじゃねえだろ。男女が二人で出かけたらデートなのかよ」

 

「いや、そういうのいいんで。あのお二人とそれぞれ何度も出かけてるのは確かですよね」

 

「まあ、そうだな。由比ヶ浜とはもともと約束もしてたし、雪ノ下も新しいグッズに興味を示してるっぽかったしな」

 

「……二股はよくないと思うんですよねー」

 

「お前、何言ってんの?」

 

「まあ冗談として、結局、先輩ってどっちと付き合うのかなーって」

 

「どっちとって、別に付き合うとかそういうのなくない?」

 

「なくない? って、なくないですかねーそれ」

 

「ん? よくわからんが」

 

「あのお二人が先輩に好意を寄せているのは気づいてますよね、さすがに」

 

「……まあ、別に俺は鈍感系でも難聴系でもねえからな」

 

「じゃあ、あのお二人のどっちかと付き合おうとは思わないんですか?」

 

「相手はあの雪ノ下と由比ヶ浜だぞ? 俺なんかとは釣り合わねえだろ」

 

「いや、外見的には十分釣り合うと思うんですよね。ちょっと目つきがアレですけど」

 

「だいいち、別に俺はあいつらのことをどうこうっつうのは」

 

「は?」

 

「なにそのゴミを見るような目……。そもそもだな、俺には戸塚と小町っていう」

 

「いや、そういうのいいんで」

 

「……そりゃ、好きかどうかと問われりゃ否定はできんけどな。けど、どちらのほうが好きかというとそれは違う」

 

「つまり、両方とも好きだから選べないと」

 

「そうは言ってねえだろ」

 

「…………二股はよくないと思うんですよねー」

 

「だから違うっての」

 

「けど実際、先輩がもしもあのお二人に『俺は二人が好きだ! 二人とも俺の彼女になってくれ!』って言ったら、ふたりとも受け入れてくれちゃうかもなんですよね。たぶん。あの二人、先輩のこと好きすぎですし」

 

「……けど、それじゃ二股だろ?」

 

「わたし的にはよくないと思うんですよね。二股」

 

「なら」

 

「でも、いまの曖昧な関係をずっと続けるほうが、もっとよくないと思うんですよねー」

 

「どうしてだ?」

 

「お二人とも、心のどこかでは期待しているはずなんです。もしかしたらって。いつかそうなれたらいいなって」

 

「はずって、断言できるだけのソースはあるのかよ。それ」

 

「ソースはわたしです。だって、わたしもそう思ってますし」

 

「……そうか、葉山か」

 

「けど、期待と反対に不安もありますよね。例えば、この想いが実るときなんて来ないんじゃないか……って」

 

「わからんでもないが」

 

「なら、もう曖昧な関係はやめて、ちゃんと二人と付き合っちゃえばいいんじゃないですかねー」

 

「いや。っつってもな、二股とか最低男のやることだろ」

 

「他人にとって最低男でも、あの二人にとって最高の男になればいいんじゃないですか? よくわかんないけど」

 

「よくわかんないけどって、お前なぁ。……つか、お前はそれでいいのかよ」

 

「っえ!? わたし、ですか……?」

 

「例えば葉山から、『いろはが好きだ。だけど優美子のことも好きだ。三人で恋人になろう!』なんて言われたら受け入れるのかよ、お前は」

 

「……は? 何言ってるんですか先輩アホなんですか。そんなこと言われたらいくら葉山先輩でも顔面殴りたくなるくらい無理です」

 

「だろ?」

 

「ていうか先輩、いまの全然葉山先輩に似てませんでしたよ?」

 

「似てないのはわかってるからほっとけ」

 

「けど、あの二人なら受け入れちゃうと思うんですよ」

 

「ソースは?」

 

「……ソースはわたしです」

 

「いや、いま否定したばっかりだろお前」

 

「それとこれは違うんです! ……とにかく、わかるんです。ソースはわたしなんです」

 

「全然わかんねえから」

 

「じゃあ、先輩はずっとこのままのほうがいいんですか? もしそうなら、そのうちわたしが余計にややこしくするかもですけど」

 

「俺だってずっとこのままって訳にはいかないことくらいわかってるし、それに、別にぬるま湯に使っていたいってわけじゃねえけど……。つか、ややこしくするってなんだよ。怖えよ。やめてくれよ」

 

「せっかく努力して沸かしたお湯だって、その温度に保とうと努力を続けなかったら、そのうち冷水に戻っちゃいます。……また、いつかみたいになるのは、わたしも嫌だなって」

 

「それは、まあな」

 

「もうすぐ夏休みですよ? 時間の猶予だって……」

 

「それを言ったら、お前はどうなんだよ。葉山とは」

 

「……まあ、それはそれです」

 

「自分のことは棚に上げて俺だけ説教されるの、いまいち腑に落ちないんだが……」

 

「わたしは別にいいんですよ。余計にややこしくなりますし」

 

「だからそのややこしくなるってなんなの……。怖いから」

 

「先輩、ほんとはわかってるのにわかってないフリしてません?」

 

「いや、ぶっちゃけお前の恋愛沙汰まで気にしてる余裕ないから」

 

「…………そですか。別にいいですけどねー」

 

「逆に、なんでお前は俺らのこと気にしてるわけ? 気にしたところで見返りがあるわけでもないんだし……」

 

「……大好きなんです」

 

「っは?」

 

「大好きなんですよ。先輩と、結衣先輩と、雪ノ下先輩と。三人が仲良くて、くだらない言い合いしたりして、暖かくて居心地がよくて。わたし、そんな奉仕部が大好きなんです。いつまでもそばで見ていたいなって。一人も欠けずに、ちゃんとみんな幸せになってもらいたいなって」

 

「だから、ついつい気にしちゃうんですよねー……。余計なお世話だってことくらいわかってるんですけど、最近の先輩たちを見てると、その関係のままで本当にいいのかな~って。先輩たち、三人とも捻くれてますから。ほっといたらずっとそのままか、それかおかしな方向へいっちゃいそうなんですもん」

 

「二股こそ、おかしな方向じゃないのかよ」

 

「どうなんですかねー。さっきも言いましたけど、あのお二人がよければそれでいいんですよ。それにきっと、たぶん。三人は三人じゃないと。一人でも欠けちゃったらダメじゃないですか。……だから、あとはお二人次第ですかねー」

 

「つってもなぁ。なんて言って告白すりゃいいんだよそんなの……。二股してくださいなんて言えるわけねえだろ。ハーレムゲーかよ……」

 

「ふふっ。お二人のことが大好きなのは、もう否定しないんですねー先輩」

 

「……えっ。いや、なに? これって長い誘導尋問だったの? 策士かよお前は」

 

「そういうつもりじゃないんですけど、けどまあ、先輩の気持ちがわかったのは大きな収穫でしたねー。先輩はあのお二人のことが大好きで大好きで夜もまともに寝れてないわけですね」

 

「いや、普通に寝れてるから。勝手に()んないでくんない?」

 

「でも、大好きなんですよね? 結衣先輩と雪ノ下先輩のこと」

 

「……まあ、な」

 

「だったら、あとは告るだけでゴールインじゃないですか」

 

「だからなんであの二人が受け入れる前提なんだよ」

 

「先輩、意味もなく話をループさせなくていいですから。さっき言いましたよね。わたしがソースだって」

 

「そのソース、薄すぎてソースとして認めたくないだけど。成分なさすぎてほとんど水じゃない?」

 

「じゃあ、先輩はどうしたいんですか? 他に方法ってありますかねー……」

 

「…………わかんえねよ。そんなの」

 

「なら、もう答えは出てるじゃないですか」

 

「答え、ね」

 

「あの日、先輩は自分の気持ちを打ち明けることができたじゃないですか。だから、きっと大丈夫ですよ」

 

「……まあ、家帰ったら、よく考えてみるわ」

 

「はい。……応援してますからね、先輩」

 

「……うす」

 

 

 

               ×  ×  ×

 

 

 

「……あ、あはは。ゆきのん。なんかすごいこと聞いちゃったね」

 

 どこか後ろめたそうに表情を歪めながら、由比ヶ浜さんが小さく零した。

 確かに、すごいことを聞いてしまった。

 いつものように奉仕部へ向かおうとして、渡り廊下を通りかかったらこれだ。まさか、通路下の中庭で、彼と一色さんが私たちのこれからについて話しているなんて思ってもいなかった。

 しかも、二股交際だなんて、考えたこともない。

 

「そうね……」

「ゆきのんは、どう?」

 

 どう、というのはつまり……。

 考えたこともなかったから衝撃的ではあったけれど、一色さんの言うとおり、他に方法もないのだろう。

 彼と私、彼と由比ヶ浜さん、そして私と由比ヶ浜さん。三人がこれまでどおり三人でともに歩むことができて、三人とも同じように想いを叶えることができる。そんなの、まちがった方法だとは思うけれど、これが唯一なのかもしれない。

 独占したいという欲がないといえば嘘になるけれど、それは由比ヶ浜さんも同じはず。

 

「……あたしはね。あたしは、それでいいかなって思うんだ。ゆきのんとも、ヒッキーとも、これからもずっと一緒にいたいから。それに、前みたいなの、やだし」

「由比ヶ浜さんが構わないなら……。私も……。私も、それでも構わないのだけれど」

「そっか」

 

 しかし、もしそれが唯一の選択肢なのであれば、一色さんはどうなるのだろうか。

 私の勘違いでなければ、恐らくきっと、一色さんも彼のことを想っているはず。

 一色さんの性格や行動を考えれば、好きでもない男子相手に気を許しそして気にかけるようなことはありえないだろうと思うし、それに、比企谷くんと会話をしている時の一色さんは実に楽しげで、嫉妬してしまいたくなるほどにまで可愛らしい。

 ――だからこそ、本当にそれでいいのか。

 

「けどさ、……いろはちゃんは、それでいいのかな」

 

 由比ヶ浜さんも、私と考えていることは同じだったようだ。

 私と彼、彼と由比ヶ浜さん。もし本当に三人で恋人になることがあったとして、つまり私と由比ヶ浜さんの想いが叶ったとしても、一色さんはそうではない。一色さんの好きな人が比企谷くんであればの話だけれど。

 ……そもそも、これが私たちの単なる思い違いで、一色さんは一色さん自身の言うとおり、葉山くんのことを好いているというのが事実なのかもしれない。本当のところはわからない。一色さんの心の中は、一色さんしか知らないのだから。

 けれど、もし私と由比ヶ浜さんの想いが叶う一方で、一色さんが一人身を引くことになってしまうのだとしたら。

 それでは、意味がないのではないだろうか。

 

「ゆきのんさ、……今度、話してみようよ。いろはちゃんに」

 

 

 

 

 




続きます。


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(中編)

3分割のまんなかです。
今回は各キャラ視点、モノローグありの小説形式が基本となります。



 

「そですか……。まさか、お二人に聞かれてたとは」

 

 親にいたずらがバレた子供みたいに、いろはちゃんが身体をびくっとさせた。

 うっかり聞かれちゃうとは思ってなかったみたい。

 そりゃそうだよね。あたしたちに聞かれちゃヤだから、あの日中庭で会話してたんだろうし。

 

「まあ、ぶっちゃけそういうことです。お二人ってどう見ても先輩のこと大好きですし、先輩もどう見てもお二人のこと大好きですし、いまさら一人欠けてもダメっぽい感じじゃないですかー。だったら、いっそ三人でくっついちゃえば、いつまでもぐじぐじ悩んで色々めんどくさ――じゃなくギスギスしたりすることもなく、まぁるく上手に収まるんじゃないかな~って」

 

 ……前から思ってたけど、いろはちゃんってけっこう黒いよね。

 けど、いつから気づかれてたのかな。あたし、そんなにわかりやすいかな……。

 

「あの、一色さん。あなたが私たちの気持ちに気づいたのって……」

「あー……。そりゃまぁ。最初からなんとなくそんな感じの危うい雰囲気だなーとは思ってましたけどー。確信できたのはフリーペーパーづくりの時、写真をお二人に見られちゃった時ですかねー。あの後しばらく、お二人ともわかりやすいくらいあからさまに反応してましたし」

「そ、それってっさ、喫茶店の写メ?」

「ですです」

 

 フリーペーパー……だっけ? あの時、いろはちゃんは色々なお店とかの写真とかを見せてくれた。

 その中に紛れ込んでいた一枚。超めっちゃ可愛い笑顔のいろはちゃんと、なんか照れた感じのヒッキーがツーショットで写ってたやつ。あれを見た時のことは、いまもはっきり覚えてる。

 一瞬ドキッとして、ズキズキチクチクと胸が痛くて、ちょっとムカってなって。きっと嫉妬だった。

 

「それ以外にもまあ、色々と、これは間違いないなーって思えることはいっぱいあったんですけどね~」

「……あたしたち、そんなに分かりやすかったかな」

「雪ノ下先輩はまだしも、結衣先輩はわかりやすいなんてもんじゃないと思いますけどねー」

 

 そう言って、いろはちゃんはあたしたちをからかうみたいに、にやって笑った。

 そんなにわかりやすいんだ、あたし……。

 

「……それで、お二人は、これからどうしようって思いますか?」

 

 いろはちゃんが、ぐっと踏み込んで聞いてくる。

 あたしたちの気持ち。

 いろはちゃんがヒッキーに言っていたことに、あたしたちも乗っかる。それはもう決まってる。だって、それ以外にあたしとゆきのんが一緒に笑顔でいられる方法なんてないと思うから。

 ……けど。

 

「質問に質問を返すのは反則だとわかっているけれど……。一色さん。あなたは、それでいいのかしら?」

 

 真剣にじっといろはちゃんの瞳を見つめて、ゆきのんが本題を振った。

 これを聞くために、いろはちゃんと三人で話す時間を作ったんだから、ちゃんと聞かなくちゃ。

 あたしたちの、これからのために。

 

「それで……?」

 

 なんのことかわからないって感じで、いろはちゃんは言葉を返した。

 

「あなたは、私と由比ヶ浜さんと比企谷くん、一人も欠けずに、みんなが幸せになれる方法だと言っていたわ。……けれど、ならばあなたはどうなるの?」

「わたしが、ですか?」

「いろはちゃんも、ヒッキーのこと、大好き……なんだよね?」

 

 まだとぼけているいろはちゃんに、ゆきのんに代わってあたしが聞いてみる。

 けど、いろはちゃんの反応はいまいち悪くて。

 

「……はあ。まあ、好きか嫌いかで言ったら好きなほうですけど。じゃなきゃあんなアドバイスしませんし」

 

 って言って、微妙そうな顔をした。

 でも、だけど。ヒッキーと一緒にいる時のいろはちゃんは、すごく楽しそうで、超可愛くて、あたしたちが嫉妬しちゃうくらい恋しているように見えて。

 ……あたしたちの、勘違いだったのかな。

 

「それに、わたしには憧れの人がいますからねー」

「それはつまり、葉山くんのことかしら?」

「ですです! やっぱ葉山先輩って超かっこいいじゃないですかー!」

「いろはちゃん、まだ隼人くんのこと……?」

「……はい。葉山先輩は、いまもわたしの憧れですから」

 

 さっきのゆきのんと同じように、いろはちゃんも真剣な顔でそう言った。

 

「そう……」

「……そっか」

 

 いろはちゃんの瞳には、声には、なんか決意っぽいものが見える気がして。

 だからこそ、いろはちゃんの言葉は本当のものなんだって思える。

 

「だから、お二人とも考えすぎですよ」

 

 いろはちゃんはにっこりと笑うと、くすっと小さく吹き出してから、また真剣そうな顔をして続けた。

 

「先輩、きっといますごく悩んでると思います。ま、堂々と二股かけろなんてアドバイスされたら当然だと思いますけど……。もしお二人にその気があれば、お二人の方からもアプローチしてみてください。きっと、悪い結果にはならないと思いますよ?」

 

 

 

               ×  ×  ×

 

 

 

 猪突猛進……じゃないけど。やりたいことがあったら、その目標や目的のために頑張って前を向いて進む。

 それが、かつてのわたしのポリシーだった。

 恋愛のことだけではなくて、……まあなんていうか、おねだりとかその他色々も含めて。

 ある目標や目的のためには人を巻き込んでいかなきゃならないとして、それをいちいち遠慮したり怖気づいたりしていたら、目標にも辿りつけないし、目的を達成することなんてできなくなってしまうから。

 けど、いまは違う。

 全然前を向いていないどころか、むしろ後退しているような気もする。

 怖気づいたっていうのか、それともヘタレたっていうのか。あ、それってどっちも同じか。

 

 だって。怖いから。

 

 結衣先輩たちに聞かれたとおり、わたしは先輩のことが好き。

 あんな捻くれ者なのに、気づけばなぜか惹かれていて。

 ふつうなら最悪なはずのデートだったのに、なぜか先輩だから許せてしまって。楽しかったと思えて。

 あんな先輩のことを、落としてみたくなって。ずっとそばにいたいって思えて。

 

 だからこそ、怖い。

 あんな三人の関係を見てしまったら。怖くてたまらない。

 わたしには、入る余地なんてないと思えてしまうから。

 

 ……それでも、恋人じゃなくても、友達としてなら。

 先輩の親友になれれば、これからも先輩のそばにいられるんじゃないかなって。

 だから、わたしは――。

 

 

 

               ×  ×  ×

 

 

 

「なるほどね。それでお兄ちゃんは悩んでるんだ」

 

 深夜に行われた誘導に次ぐ誘導な尋問が終わると、大きくため息を吐いてから、小町が呆れたような声色を零した。

 

「でも、確かにいろは先輩の言うとおりかもね。お兄ちゃんたちってさ、相互依存っていうのかな? お互いのことを想いすぎててさ、誰か一人でも欠けたらダメって感じでさ……。もう、どっちかを選ぶとかそういう次元じゃないじゃん」

「やっぱ、そう見えるもんなのか?」

「小町が部員になってまだ三ヶ月しか経ってないし、いろは先輩ほど奉仕部を見てきたわけじゃないけどねー。それでもさ、実際そう見えるし、いろは先輩がそういうアドバイスしたのもきっとそう思ったからじゃない?」

 

 小さい頃からずっと俺を見てきた小町が言うんなら、間違いなく奉仕部ってそう見えるのか。

 いや、別に一色を疑っているわけじゃないけどさ。実際そんな感じになってしまっているのは間違いないし。

 

「だってさ、例えばお兄ちゃんと結衣さんが恋人になって、雪乃さんが選ばれなかったとしたらさ、お兄ちゃんは雪乃さんへの気持ちがくすぶってて、結衣さんは雪乃さんに後ろめたい気持ちが残って、雪乃さんも当然辛い思いして。そんなの、三人とも不幸だし、崩壊確実じゃん。選ばれたのが結衣さんじゃなくて雪乃さんでも同じ」

 

 それもわからなくはない。

 一色に見抜かれたとおりで、俺は雪ノ下のことが好きであり、由比ヶ浜のことが好きだ。二人のことが好きだ。この気持ちに嘘偽りも勘違いもないし、今更もう否定しようとも思わない。

 だからこそ、そんな最低な感情を持ったまま二人のどちらかと恋人になるなんて、許されることではないと思っている。

 

「じゃあ、付き合わないでこのままっつうのは」

「別に、三人がいいなら、それでも小町はいいと思うよ? ……三人がお互いに依存してさえなければね」

 

 依存は、これも否定できない事実だろう。

 二月のあの出来事以降、俺も、雪ノ下も、そして由比ヶ浜も。そしてそれは、時間が経つにつれて強くなっていっている。それこそ現在進行形で。 

 

「お兄ちゃんたち三人の関係がきっぱりさっぱり片づいてさ、ただの仲良しな友達でいられるならそれでもいいじゃん。もしそうならさ、いつかそのうち結衣さんや雪乃さんにも恋人ができて、お兄ちゃんにもそう。でも、ぶっちゃけお兄ちゃんたちってそんなに器用じゃないじゃん?」

「まあ、器用じゃねえからぼっちやってるわけだしな。俺は」

「……まだ言ってるんだ。自称ぼっち」

 

 ……そりゃまあ、相互依存関係にあるということを考えれば、俺はぼっちではないというか、俺ら奉仕部三人がある意味ぼっちに類似した状態というか。

 

「それにさ。いろは先輩だって、相当な覚悟でアドバイスしたんだと思うよ」

「あいつが? なんで覚悟?」

「わかんないの?」

「いや、……まあ、二股かけろなんて、こいつ頭おかしいのかって思われても仕方がない意見だしな。それは覚悟も必要か」

「は?」

 

 俺が言うと、小町はあからさまに人を馬鹿にしくさったような態度を見せる。

 ……あの、小町ちゃん? 口がヘの字に歪んでますよ?

 

「あのさお兄ちゃん。まさかと思うけど、気づいてないの?」

「いや、そんなこと言われても、なんのことだかさっぱりわかんないんだが……」

「……それでもいいのかもね。いろは先輩的には。……そろそろ寝るね。おやすみ」

 

 含みのあるような言葉を残すと、小町は立ち上がってリビングを後にした。

 なんなのそれ。全然、わかんねえよ。

 

 

 

               ×  ×  ×

 

 

 

「あのね、ヒッキー。あたしはね、ヒッキーのことが好き」

 

「比企谷くん。私も、あなたのことが好きよ」

 

「どっちかを選べなんて、言わないよ? 選んでほしくなんて、ないんだ」

 

「おかしいかもしれないけれど。普通ではないけれど。それでも、私たちは……」

 

「これが、あたしたちの素直な気持ちだよ?」

 

 

 




もう1話だけ続きます。


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(後編)

3分割の最終話です。
今回もモノローグありの小説形式となります。



 

「……へー。それで、断ったと」

 

 昨日放課後のことになるが、俺は雪ノ下と由比ヶ浜から告白された。

 どちらかを選ぶのではなく、二人とも恋人にして欲しいと。

 

「いや、断ったっつうか、保留っつうか、なんつうか」

「なに考えてるんですか先輩バカなんですか? 向こうから二人セットで彼女にしてくださいって告ってくれたんですよね? だったら、あとはOKするだけでゴールインじゃないですか」 

「だからゴールインって……。つうかバカって、先輩に対してもうちょっと尊敬の念をだな……」

 

 なにも、断りたくて断ったわけじゃない。

 俺を想ってくれていること。それを伝えてもらえたことは素直に嬉しかったし、そもそもこっちから告白することだって考えていた。それで俺もここ数日悩んでいたんだし。

 だが、付き合うにしろどうするにしろ、その前に確認しなければならないことがある。

 だから、断った……というか、保留させてもらった。

 

「つうか一色、お前さ。ほんと、お前は一体なにがしたいんだよ、マジで」

 

 一色の目的。それがわからない。

 俺が小町から尋問されたのは一昨日深夜のことだし、一色から二股交際のアドバイスを持ちかけられたのもつい先日のことだ。

 ……展開がいくらなんでも早すぎるんじゃないか。

 このタイミングで二人が告白してきたのは、間違いなく一色の入れ知恵だろう。俺だけでなく、あの二人にも同じ話を持ちかけていたというところか。

 

「この前言ったじゃないですか。一人も欠けず、みんなに幸せになってもらいたいって」

 

 確かに聞いた話だ。『奉仕部のことが好きだから、これからも近くで見ていたい』といったようなことも言っていた。

 だが、果たしてそれだけなのか?

 それだけであれば、一色がなにもしなくたって、今のままの関係が続いたかもしれない。逆に一色が口を出したことで崩壊していた可能性だって、決してゼロとは言えないはずだ。

 一色にとっても、それなりの犠牲を払う覚悟をしなければならなかっただろう。その覚悟に対しての見返りなんて、ありはしないのに。

 それに、一色の話題になった時に見せた、小町の意味深な態度も気になる。

 

「そうじゃない。そういうことないんだ。……前にも言ったけど、俺らのことを気にしたってお前にはなんの見返りもない。なんの得もないだろ? なのに、なんで俺たちを後押しするようなことをするんだ。お前は」

「見返り……ですか。見返りは“先輩にとっての大切な記憶”って感じですかねー」

 

 一色の言っていることがいまいち理解できず、表情を読もうと視線を向ける。

 その一色の顔は、ただ淡々とした様子で。

 

「ぶっちゃけ、わたし、好きなんですよね。先輩のこと」

「……え」

「だから、ちょっとときめいちゃったり、盛り上がっちゃったりすることもありましたし、けっこうアピールもしてきたつもりなんですけどねー……。だけど、冷静に考えてみると、やっぱりわたしと先輩が恋人って、絶対無理なんですよね。……だって、先輩、あのお二人のこと大好きだし」

 

 ただただ淡々と、一色は語る。

 

「わたしがどんなに頑張ったって、わたしはあの二人に追いつくことも追い越すこともできないから」

 

 俺に恋をしていて、そして失恋していたと。

 

「けど、最初から無理だってわかってるなら、無理して追いかける必要なんてないかなって。恋愛対象として見てもらえなくたっていいから、友達とか後輩としてでもいいから、先輩の中でわたしの存在を認めてもらえて、わたしを大切な存在だと思ってもらえれば、それでいいやって。……そう、思ったんですよねー」

 

 その失恋を乗り越えて、自分の立ち位置を見つけようとしていると。

 

「ほら、わたしがきっかけで先輩たちが幸せになれたら、わたしって最高の恩人じゃないですかー。先輩はわたしのことを忘れられませんし、頭も上がりませんよね~?」

 

 言い終えて、一色は嫌らしくニヤニヤと笑ってみせる。そこにあるのは、いつものあざとい一色いろはの表情だった。

 俺の知らないうちに、一色は何度も辛い想いだってしたかもしれないのに、そんなことを一切感じさせないような……、 

 

「――――――っていうのはまあ冗談なんですけど~」

「……えっ? いや、え。冗談なの?」

 

 マジで? 俺ちょっとしんみりしちゃったんですけど……。

 返して、俺のシリアスな感情!

 

「わたし的に、先輩はわたしの大切な友達なんです。親友……なんです。もう関わりあうようになってから半年以上経ってますし。……ま、先輩がどう思ってくれてるかは知りませんけど」

 

 ……友達、親友、か。

 まあ確かに、俺とこいつの関係を言い表す言葉があるとしたら、その言葉のとおりなのかもしれない。もう、単なる先輩と後輩ではないだろうしな。

 どちらかといえば、悪友に近いような気もしなくもないが。

 

「それにほら、ラノベとかギャルゲー? っていうのはあまり興味ないんでよくわかんないですけど、だいたい主人公の背中を押してくれる親友的な存在って居るらしいじゃないですか。わたしもそういう立場になれたらいいなーって。それで先輩たちのことを見届けていきたいなって思うんですよね」

「お前、もしかしてお人好し?」

「違いますよ。ただの我侭です。わたしの理想を先輩たちに押し付けてるだけ。超傲慢で独善的で自己満足な、いつものずるいわたしと同じ、ただの我侭です」

「……そうかもな」

 

 確かに一色はずるい。狡猾で狡賢くて打算的であざとくて。あ、これ全部ほとんど同じ意味だな。

 正直、一色の態度が癇に障ることがなかったといえば嘘になる。

 けれども、そんな一色にも、素直で優しい一面や感情のまま流れてしまう女の子らしい一面があることを、俺はこいつと関わりあう中で見てきたから。

 

「けど、ま。お前の我侭に振り回されるのは、嫌いじゃないかもな」

 

 心から、そう思えた。

 

 

 

               ×  ×  ×

 

 

 

「で、なんでお前がいるわけ?」

 

 俺と雪ノ下と由比ヶ浜。俺たち三人で一色の口車に乗せられて、普通とは違うまちがった恋人関係が始まってから数日。

 既にデートを済ませ二回目のデートとなる今日は、二月のあの日以来、東京都江戸川区は葛西臨海公園駅前の待ち合わせ場所へとやって来た……わけだが。

 

「偶然ですね~先輩。ちょっと一人で気分転換に水族館でも行こうかなーって思って来たんですよねー」

「そんな偶然あってたまるかよ。つうか、あいつらはどうしたんだ?」

 

 なんで待ち合わせ時間過ぎてるのに、雪ノ下と由比ヶ浜の姿がなくて、居るはずのない一色がいるんですかね……。

 

「あ、お二人なら来ませんよ?」

「……は?」

「今日はわたしが先輩を借りることになってるんで」

 

 ……借りる? なにそれ。

 俺、レンタルビデオ屋のアニメ円盤になったつもりはないんですけど?

 

「帰る。さよなら。それじゃ」

「あっ! ちょ、先輩! 待ってくださいよ~」

「いや、だっておかしくない? なんなの借りるって。俺なにも聞いてないんだけど」

 

 その言い回しだとさ、一色とあいつらの間でなんらかのやりとりをしたってことになるんだが、どういうこと? わけがわからないんだが。

 

「ほら、先輩たち、バレンタインの日にここでデートしたらしいじゃないですかー? わたしだけ除け者とか酷くないですかね~」

 

 ぷくっと頬を膨らませて、ちょっと怒ってますよと無駄アピールを欠かさない。

 ほんとあざといよな、こいつ。

 

「別に除け者にしたつもりはないからね?」

 

 つうかそれはあいつらに言ってくんない?

 あの日だって、俺は呼ばれたから行っただけだし。

 

「まあそれはどうでもいいんで、先輩、エスコートしてください。デートなんですから」

「なんでだよ。あいつら来ないなら帰る」

「いいじゃないですかー。友達とは遊びに行けないっていうんですか先輩は」

「いや、お前いまデートって言ったよね? それって友達同士が遊ぶのと違くない?」

 

 浮気ってやつじゃないんですかねそれ……。

 だいたいこいつ、あの時は冗談だとって言ってたけどさ、あんなこと聞かされちゃうと……なぁ。

 やっぱり、本当のところが気になっちゃったりするわけでして。心に引っかかっているというか。

 

「そもそもだな、俺はあいつら遊ぶ約束でここに来たんだけど。なんでお前と遊ばなきゃいけないわけ?」

「……そですか。先輩は彼女×2となら喜んでお出かけするけど、友達なんかとは遊びたくもないと」

「違えよ。だったら事前にそう言っておけばいいでしょ……」

「事前に伝えたら絶対来ないじゃないですか、先輩」

 

 うん。行かないんだけどね。

 面倒くさいじゃん。出かけるのって疲れるし、彼女二人とのデートだけで精一杯。

 

「ああもう。先輩がエスコートしてくれないなら、わたしが振り回しますからね?」

「むしろ俺、お前に振り回されっぱなしな気がするんですが……」

 

 言ったそばから、一色は俺の腕を掴んでぐいぐいと引っ張りはじめた。

 ……マジで振り回されっぱなしだよな。こいつがはじめて奉仕部を尋ねた時から、それこそずっと。

 

「ほら、せんぱい! 水族館行きましょうよ、水族館!」

 

 実に楽しそうに、実に幸せそうに、一色はにこにこと笑顔を見せている。

 

 ほんと、なんなんだろうな、こいつ。

 やっぱり、一色のことはよくわからん。

 

 

 

 (了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ゆきのん」

 

「何かしら、由比ヶ浜さん」

 

「いろはちゃん、ちょっとヒッキーにくっつきすぎじゃない?」

 

「そうね」

 

「いろはちゃん、すっごく楽しそうだよね」

 

「ええ。幸せそうよね。ものすごく」

 

「……やっぱ、いろはちゃんって、ヒッキーのこと大好きだよね」

 

「間違いないわね」

 

「親友ポジション……安パイ……」

 

「伏兵……」

 

「……策士だ」

 

「……策士ね」

 

 

 

 

 

  了

 

 




お読みいただきありがとうございました。

次話以降は、また別の短編を追加する予定です。


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葉山隼人に彼女ができたらしい。という噂。
葉山隼人に彼女ができたらしい。という噂。(1)


Pixivと、以前こちらでも公開していたSS。
短編集としてまとめるにあたり、若干内容の修正を行っている箇所があります。

全体で2万文字程度ですが、ページが長くなりすぎないよう読みやすさなどを考慮し、念のため4ページほどに分割の予定です。



 

 これほどまでに年月の流れを早いと感じたことはなかった。

 記憶を巡らせれば、高校二年生になったのがつい先日のように思える。年度が変わってそれほど経たないうちに奉仕部へ連れて行かれて雪ノ下と出会い、すぐさま由比ヶ浜と出会い、今までの俺からは考えられないほど様々な経験をしてきた。

 楽しいと思えたこともあれば、幾度も衝突もあったし、あろうことかガチ泣きしてしまったこともあった。まさに黒歴史だ。恥ずかしい……。

 そんな高校二年生という時間は、ひと月もせずに終わる。

 もう、三月も一週間が過ぎたのだ。

 

 朝、一限がはじまる直前の教室も、いままでとは少し雰囲気が違っていた。

 誰しもが残り少ない時間への焦りあるいは寂しさを感じているのか、クラスにいくつかあるコロニーもどこかよそよそしい態度に見える。中でも目立つのが三浦グループと葉山グループで、いつもは合わさって授業ぎりぎりまでおしゃべりに興じているはずが、今日は少し距離を置いている様子だ。

 原因は、三浦と海老名さん……なんだろうな。

 バレンタイン前までもそうだったが、三浦は近いクラス替えに不安を抱いている。好きな男子と別のクラスになってしまうというのは、リア充にとっては相当辛いことなのだろう。そんな感情のせいで、どう接すればいいのかわからなくなっているというところか。

 海老名さんは、おそらく戸部が行動を起こす可能性を警戒していると見た。クラス替えより先に、ホワイトデーとかいうリア充イベントがあるわけだし。もし戸部が後押ししてくれとか相談に来たら蹴り出そう。戸部と海老名さんの恋愛模様、関わるべからず。っていうか誰だよ戸部。そんなやつ知りませんね。

 そういうことで、クラスの男女それぞれのカーストトップに君臨するグループがそんな様子なもんで、自然とクラス全体へと波及していく。あの相模グループまでもが暗く見えるのだから、クラス替えというのはよほどのことなのだろうな。

 ま、ぼっちな俺にはクラス替えなどどうでも――いや、待て。クラス替えってことはあれじゃね? 戸塚と別にクラスになっちゃう可能性もあるってことじゃね?

 やだ! そんなのやだやだ!!

 え、天使と別のクラスになっちゃうとか、そんなの無理なんだけど。唯一の癒やし……。

 気付かされた驚愕の事実。

 来る恐怖に心震えながら、今日も退屈な授業が始まった。

 

 数学Bだし寝よ。

 

 

               ×  ×  ×

 

 

 さて、昼休み。

 ここのところ寒くて近寄る気すら起きなかったベストプレイスだが、今日は春の到来を感じさせる陽射しのお陰で、ぽかぽか陽気な予感。冬眠から目覚めた熊のように、孤高な俺は重い腰をあげて、のそのそと太陽の下へとやってきた。……が、東京湾から吹き付ける潮風がまだ冷てえな。

 昼食代わりの菓子パンを食べ終え、スホルトップ(つめた~い)で一服する。ちなみにだが、マッ缶(あたたか~い)はあろうことか売り切れだった。おかしい。こんなことは許されない。

 いくら暖かくなってきたとは言えども、まだ季節的にはたかが知れてるわけで、おまけに冷たい風と冷たい飲み物じゃ、あっさり身体も冷える。今日は戸塚のテニス練習もないみたいだし、早めに切り上げて教室へ戻ることにする。

 かったるさで重たい腰を再び上げて、のそのそ廊下を歩く。やがて特別教室棟から普通教室棟への渡り廊下に差し掛かったところで、聞き知らぬ声がつんと耳につき、つい足が止まってしまった。

 

「ねえ聞いた? サッカー部の葉山先輩、彼女できたらしいよ」

「え、マジでー? ショックなんだけど……。相手誰?」

「わかんない。けど、三浦先輩らしいってみんな言ってる」

 

 おい、ちょっと待て。

 これってあれか? もしかして朝あいつらのグループがよそよそしかったのって、まさかその噂のせい?

 とりあえず胸元のリボンの色( (※) )的に一年生であるということしかわからない、どこの誰とも知らぬ女子たちの噂話なんて本来なら気にするまでもないのだろうが、その噂されている当事者たちと色々関わり合ってしまっているいまの俺には、気にしないほうが無理と言える。

 もしその噂が事実だったとすれば――。

 葉山と三浦のことは、ぶっちゃけどうでもいい。問題はあの二人のことではなく。

 脳裏に、あの日の一色が思い浮かんだ。涙を流し、健気にも一途な想いを語った一色の姿は、いまでも忘れることなく鮮明に記憶している。

 一年の女子がこうして噂しているということは、一色の耳にもまちがいなく届いているだろう。……あいつにとっては、相当つらい状態かもしれない。

 とりあえずは由比ヶ浜にでも真偽を確認してみよう。そう思い、教室へ急いだ。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

「あ、ヒッキーだ」

 

 2-Fの教室前へ辿りついたところで、後ろから由比ヶ浜の声がかった。

 右手には弁当箱が入っていると思わしきピンク色のポーチ。奉仕部でのゆいゆき昼食会から戻ってきたところらしい。

 ちょうどいいタイミングだ。

 そう思って口を開きかけたのだが、先に切り出したのは由比ヶ浜だった。

 

「あのさ、ちょっといいかな?」

「……ああ」

 

 恐らくは噂の件だろうか。由比ヶ浜について、もと来た廊下をしばし歩く。

 周囲を気にしてかしばらく無言でいたが、階段の踊り場まで進んだところで口を開いた。

 

「ヒッキーは噂、聞いた?」

「噂って、葉山と三浦の件か?」

「うん、それなんだけどさ……、あのね、半分、ほんとなんだよね」

 

 少し躊躇するように、由比ヶ浜は途切れ途切れに言う。

 

「半分……って、どういうことだ?」

 

 いまいち事情がつかめない。

 噂をばっさり否定するのではなく、むしろ肯定しているような発言が気になる。半分事実である、ということは、つまり葉山が誰かと恋人関係になったのが事実だということ? この場合、事実でないもう半分は『三浦が彼女』という部分になるが。

 

「えっとね。昨日の放課後なんだけどさ、優美子が隼人くんにね、告ったんだ」

「え、マジかよ」

 

 思わず驚き、声に出してしまった。

 確かに三浦の葉山に対する感情はかなりのものなんだろうが、それと同時に、今後の関係性やクラス替えに対して恐れを抱いている素振りも以前から見せていた――というのは、今朝にも思ったことだ。

 バレンタイン前のお料理教室イベントで、なんとかチョコを渡すまでには至っていた。けれども、それでもこれまで具体的な関係を求めることはしていなかったのだが。

 以前、海老名さんも『そうはならない。隼人くんはうまく避ける』と言っていたが、まさか予想に反してこのタイミングで三浦が動き、葉山も避けなかったとは……。心境の変化なのかは知らないが。

 校内で噂が広まっているのは、その告白のシーンを誰かが目撃でもしたのだろう。

 

「なら、つまりあれか? 半分事実ってことは、保留にでもされたってことか?」

 

 葉山に彼女ができたというのは事実ではない。けれども、三浦が葉山の彼女になったというのは『半分』事実ともいえる――ということはつまり、葉山は三浦を振らず、何らかの前向きな回答をした可能性が考えられた。

 俺の疑問を、由比ヶ浜は肯定する。

 

「うん。隼人くんね、必ず答えは出すからしばらく考えさせえほしい、って言ったんだって」

「なるほど。いまは事実ではないが、今後事実になる可能性がある……と。半分ほんとっていうのはそれでか。葉山がハナっから三浦を振るつもりなら、時間が欲しいなんて言う必要ないし」

「やっぱヒッキーもそう思うよね?」

 

 もとより拒絶が答えなのであれば、わざわざ時間を掛ける必要はない。告白した側にとっては、結論が出るまでの間、ずっと期待と不安が混ぜ込ぜになった状態のまま過ごすことになってしまうのだ。その上で結局振るようなことになれば、それこそ辛さを増幅させ遺恨を残しかねないのだから。

 あと、来週の月曜はいわゆるところのホワイトデーだ。奴の性格的に、イベントへ乗っかって何かをするようには思えないが、一応は捨てきれない可能性として頭に入れておいたほうがいいだろう。

 そして忘れてはならないのは、葉山の好きな女子のイニシャルが『Y』であるということ。氏がYなのか名がYなのかは知らんが、名だとすれば三浦優美子も該当する。

 これら三点を考えれば、三浦に対して葉山が前向きな回答を出す可能性は十分考えられる。

 

「ぶっちゃけ葉山のことはどうでもいいが……、まあ、なんだ。三浦にとっては良かったんじゃねえの?」

「ね。優美子、不安そうだったけどちょっと嬉しそうだったし、優美子的には良かったのかなって思うんだ。もし隼人くんからOKしてもらえたら、あたしも祝ってあげたいなって」

 

 言葉の割に、由比ヶ浜は顔を伏している。その声色もどこか寂しげだ。

 三浦と親友ってだけじゃなく、一色ともそれなりに親しくしているわけだし、色々と複雑なところなんだろう。

 

「……一色のこと、気になってるのか?」

「うーん……。そのことなんだけどさ。たぶん、いろはちゃんは大丈夫だと思うよ?」

「いや、けど、あいつも葉山のこと……」

「たぶんね? たぶんなんだけど……。いろはちゃんの好きな人って、たぶん隼人くんじゃなくて……」

 

 由比ヶ浜は、一体何を言っているんだ?

「あいつの好きな奴って、どう考えても葉山だろ……? 他の男なわけが……」

 

 そこまで口に出して、ふと思い出す。

 冬のディスティニーランド、白亜城前。葉山はあの時、なんと言っていた?

 確か、『いろはの気持ちは確かに嬉しい。でも違うんだ。それは、たぶん、俺じゃなくて……』だったか。あのときはその言葉の意味がさっぱり理解できなかったが、まさか葉山はあの時点で、一色の気持ちが自分ではない他の誰かに向いているのではないか、と見透かしていたとでも言うのか?

 けど、だったらなぜ一色は葉山に告白したんだ? あの日確かに一色は告白をして、振られて泣いたんだ。以降も、幾度となく葉山を攻略せんとする姿勢を見せていたはず。それが単なる強がりや嘘偽りだとも思えない。

 

「あたしの勝手な想像だよ? 本当のことはわかんないし。……けど、たぶんきっと、そうなんじゃないかなって」

「もしそうだとして、由比ヶ浜は思い当たることでもあるのか? その、一色の“本命”的な奴とか」

「うん。女の勘……じゃないけどさ、あたしわかるんだ。たぶんこの人だろうなって」

「すごいな、お前。俺にはさっぱりわからんな……」

「まあ、ヒッキーだもんね」

 

 呆れたように、由比ヶ浜はくすりと笑った。

 ていうか失礼じゃないですかねそれ。一色の『先輩DEATH死ね~』を思い出しちゃったじゃないか。……いや、一色はDEATHとも死ねとも言ってないけどさ。被害妄想だけどさ。

 

「……あ、けど、やっぱあたしの勘違いかもしんないし、本気でいろはちゃん落ち込んでる可能性だってあると思うし。だから、全然心配してないってわけじゃないんだけどさ」

「なら、一色の様子でも見に行ってやったらどうだ? あいつ、卒業式近いから毎日生徒会室に缶詰っぽいし、今日もいるんじゃねえの?」

「ヒッキー超バカだ……。あたしが見に行ったらいろはちゃんの味方してるみたいになっちゃうじゃん」

「あ、そりゃそうか……」

 

 

               ×  ×  ×

 

 




(※)総武高の女子制服はリボンの色が学年色なので、ここでもその設定だということで。
とはいえ、イラストやアニメでは一年も二年も三年もみんな赤ですが。


続きます。


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葉山隼人に彼女ができたらしい。という噂。(2)

続きです。



 カツカツカツ……と、白いチョークが黒板に叩きつつけられる音。しんと静まった教室にはそれだけが響く。

 午後の授業も既に三コマ目、七限も半ばに差し掛かっているが、あまり勉強に身が入らない。

 それもどれも、昼休みに由比ヶ浜が放った言葉のせいだ。

 

 ――いろはちゃんの好きな人って、たぶん隼人くんじゃなくて……。

 

 こういう言い方は悪いが、由比ヶ浜はいわゆるキョロ充タイプだ。自分の意見を強く主張するのではなく、常に人の顔色を伺い、意見や立場を相手に合わせることで居場所や人間関係を保っている。これは本人も認めているところだ。

 だからこそ、他人の細かな感情に気がつくことも多いだろう。由比ヶ浜の予想もまちがいだと否定することはできない。

 よくよく考えれば、一色が葉山に告白をしたのは十二月の半ば、もう三ヶ月も前のことになる。先月の時点で葉山へチョコを渡そうと動いていたことも考えると、それから三週間か……。

 一色とてリア充JKなんだから、三週間もあれば他の誰かに心変わりしてしまうことだってあるかもしれない。一度振られた相手を永遠に思い続けなければならない謂れなんてないのだから。

 一色の本命が葉山ではなく別にいる可能性、一応頭の片隅に置いておいたほうがいいのかもしれない。

 

 しかし。

 だとすれば、気にあることがある。

 

 もし仮に由比ヶ浜の予想が当たっていて、一色の想い人が葉山ではなかったとして、じゃあ一色の本命って誰なんだ?

 一色の交友関係なんて俺は知らないし、なんなら俺の前で見せるあざとく狡猾な姿以外の“一色いろは”を一切知らないほどだ。葉山以外の男なんて、想像すらつかない。

 普通に考えれば、普段から一色の周囲にいて、かつ一色とそれなりに親しい(?)男子なんだろうが……。

 戸部? いや、ねえわ。それは絶対ない。

 本牧……もないよな。あの副会長、ついこの前も書記ちゃんといちゃつきながら歩いてるの見たし。ムカつくよななんか。爆発しろ。

 会計の稲村もないだろう。稲村が書記ちゃんスキーなのは一色も知っているし、関係性も同じ生徒会役員っていうだけで特に親しくしているわけではなさげ。

 なら、サッカー部員の誰かか? いや、これもないだろう。一色は寒いからとかいう理由でサッカー部をサボりまくっているが、もしサッカー部に好きな男子がいるならサボらずに出ているは……ず……?

 おい。あいつってマジで葉山以外が本命なの?

 葉山のことが好きで、三浦というライバルがいるなら、三浦の目がないサッカー部で葉山との距離を縮めようとして然るべき。なのに、あいつ生徒会がないときは奉仕部へ遊びに来てばっかりでサッカー部全然行ってねえし……。

 ……奉仕部?

 いや、まさかな。それはさすがにありえんだろ。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 結局、まともに授業を頭に入れないまま七限が終わり、放課後。

 一色の本命は葉山なのかそれとも別の誰なのか、そこらへんの疑問については一度置いておいて、一応念のため一色の様子を見てやろうと、普通教室棟二階は生徒玄関近くの廊下へとやってきた。

 3mと離れていない場所に、生徒会室の扉がある……んだが、なんというか入りにくい。

 えーっと、なんて言って入ればいいんだ? 葉山の件で心配したから様子を見に来た、なんて恥ずかしくて言えないし、そんな下手に出るようなことを言ったら一色の奴つけあがるに決まってる。

 そういうわけで、しばしうろうろ。通りかかる生徒たちの視線が痛い。通報される前になんとかしなきゃ!

 つか、難しく考えすぎなんだよなぁ。こんなもん、なんてことない。

 来週月曜はホワイトデーとかいうリア充向けイベント日だが、同時に総武高卒業式が執り行われる日でもある。生徒会はその準備に追われているはずだから、その様子を見に来たと言えばいいわけだ。これでいこう。

 よし。

 気を引き締めて生徒会室の扉の前に立つ。 

 トントンと木製のドアを叩く――前に、扉上部にある四角い小窓からちらっと中を覗いてみる。一応あれだ、もし一色がいなかったらあれだし。

 ガラスの向こう側、室内中央付近に置かれた長机に、ひとり何やら作業をしている華奢な後ろ姿がある。その存在を確認してからノックすると、かったるそうな様子で一色がこちらへと振り向く。

 めんどくせーと言わんばかりの表情だったが、俺と目が合った瞬間、亜麻色の髪を揺らしながら飛び上がるように席から立ち上がり、慌ただしくどたばたと扉へ駆け寄って、勢い良く開け放った。

 

「せんぱーい、どうしたんですか~?」

「いや、お前、怠そうなの全然隠せてないから」

 

 たるっと余った右手の萌え袖を口元にあて、にっこにこの笑顔で甘ったれた声を上げている。

 しかし、俺はばっちり見ちゃったもんね。振り向いた瞬間『は? 誰だよクソ。めんどくせーなクソ』みたいな顔してたもん。

 

「はあ……。まあ、怠いのは確かですけど」

 

 そう言って、やけにあっさり認めてしまう。

 なにかしら誤魔化すか否定すると思っていたのだが、なんか拍子抜けするな……。

 

「それはそれとしてー、先輩どうしたんですか? 今日も部活のはずですよね~?」

 

 仕切り直して、一色がきゃるっと可愛らしく問いかけてくる。

 なんというか、ひどくあざとい。本来の意味のほうではなく、俗に言うところの『あざとい女の子』的な意味で、とにかくあざとい。

 こういう態度が男子を惑わせて地獄へ落としていくわけでですね。しかもこいつの場合、それをわかっていてやっている節があるという点で、余計に質が悪い。ウェイ系巨大サークルの姫として君臨できそう。

 

「まあ今日も部活はあるけど……、もうすぐ卒業式だろ? お前、かなり忙しくしてるんじゃないかと思ってな。だから由比ヶ浜に断って様子見に来た」

「はー……。えっ!?」

 

 信じられない物でも見たかのように目を白黒させると、次の瞬間に、ずざざ、と勢い良く後ずさる。

 

「それってもしかしてあれですか? お前のこと気にしてやってるんだぜ的なアピールですか? ちょっとっていうかかなり嬉しんですけど……。え、どうしよう……」

 

 なんだか知らんが、そこまで言い切ると一色は顔をみるみる赤く染めて俯いた。

 いや、なんなんですかねその反応。いつものごめんなさいってやつはどうした……。

 

「まあ、別になにも問題ないなら部活行くけど……」

 

 そんな態度をとられてしまってはどうにも気まずい。

 一色から視線を外してなんとなく生徒会室の奥を見ると、普段とは明らかに様子が違っていることに気づく。長机を挟んだ奥側が、大量のダンボールで埋め尽くされていたのだ。

 

「……え、ていうか一色。あれ、なに?」

 

 水を向けると、一色がはっと顔を上げる。

 そして、バツが悪そうに眉をしかめた。

 

「……記念品、ですね」

「記念品って、卒業式かなんかの?」

「です。窓側にあるやつがPTAの、真ん中らへんにあるやつが同窓会ので、廊下側にあるやつが学校が用意したやつです」

「ふうん……」

 

 まあ、卒業式だもんな。そりゃ記念品のひとつやふたつ用意されていて当然か。

 思えば、俺も小学校や中学校の卒業式でなんだったか記念品を貰った覚えがある。なにを貰ったのかは覚えてないんだが、まあ覚えてないってことは大した役にも立たないもんだったんだろう。そんなもんくれるなら図書カード1,000円分とかのほうが嬉しい。

 

「で、なんでそれが生徒会室にあるわけ?」

 

 卒業式だから学校・PTA・同窓会から記念品が贈呈される ←わかる

 学校・PTA・同窓会の品が生徒会室にぼこんと置いてある ←わからん

 

 PTAならPTAの、同窓会なら同窓会の部屋に置かれているべきだろうと思うんだが。そのためにPTA用や同窓会用の小部屋が割り当てられてるんじゃないのん? 学校のものならばなおさらで、職員室か倉庫にでも一時的においておけばいい。

 

「さっき急に厚木先生が来て、記念品の在庫確認と仕分けは例年生徒会の仕事だからよろしくって。それで業者の人たちがそこに置いていきました」

 

 生徒会っていうのは生徒の自治組織なんだから、当然ながら学校組織やPTA、同窓会とは別の独立した存在のはずだ。生徒会活動の範囲外において、学校事務や教職員、PTA、同窓会といった他の団体から指示を受ける謂れはないし、下請け組織のように機能することがあってはならない。当然、これは生徒会の活動なわけがないんだが。

 もちろん、生徒会が用意した記念品なら生徒会がやって然るべきだが、これはそうじゃないんだから。

 それに例年~っつっても、本当に例年そうしているのかは疑問だな。実際には例年なんてことはなく、厚木か別の誰かは知らんが、担当の教師がめんどくさくなって生徒会へ投げた可能性だって考えられる。

 

「ていうか、他の役員は?」

 

 既にPTA記念品のものらしいダンボールがひとつ開封されていて、その中身らしきものが机の上に並べられていた。

 さっき一色が何やら作業していたのはこれなんだろう。が、なんでこいつ一人でやってるんだ? 他の役員の姿が見えないのはどういうこっちゃ。

 

「今日、定例会も臨時会もないんで招集かけてないんですよ。だから三人とももう帰っちゃってて。わたしは、生徒会備品が届く予定なので、その受領確認のために残ってたんですけど……」

「それで一人でいるところに、厚木が余計なもんもってきたってことか」

「です……」

「ちなみに、これっていつまでにやればいいんだ?」

「今日中です。もし不足があったら明日のお昼までに発注掛けないと間に合わないらしいんで」

 

 はあ? なんだそりゃ。

 なるほど。つまるところ、一色が一人でやるしかないわけだ。これ全部を。

 厚木っつうか職員室は何を考えてるんだ? 頭おかしいのかな?

 

「で、俺はどれを何すりゃいいんだ」

「……え」

 

 聞きながら、一色の横をすり抜けるようにして生徒会室へ入り、ダンボール軍団の前に立つ。

 総武高は1学年10クラスで、1クラスは40名。留年者や転編入が発生していなければ、つまり卒業生は単純計算で400名となるわけだが、それにしてはダンボールの数が多いように思える。

 一色が机の上に並べたらしきPTA記念品は、VHSテープ(死語)ほどのサイズの白い紙箱なので、どうやらそんな感じの嵩張るものがダンボールの中にたっぷり詰まってるらしい。

 

「……なにしてんのお前」

 

 なかなか返事がないので気になって振り返ると、一色が扉の前で呆けていた。

 ぽけっと突っ立ってないでさっさと終わらせて帰ろうぜ……。

 

「え、いえ……。先輩、手伝ってくれるんですか?」

「手伝うもなにも、これ一人でやるつもりか? 絶対今日中には終わらんだろ」

「けど、先輩部活は……」

 

 申し訳なさそうにおずおずと肩を落とし、表情すらも暗く落ちていく。

 なんなんだ。一色らしくもない。そんな表情似合わねえよ。

 ……いや、一色らしい・らしくない、というのは俺の身勝手な押し付けか。こいつのことは、まだまだわからんことがいっぱいあるんだから。

 

「部活行ってる場合じゃねえし、断りの連絡を入れるような時間の余裕もないだろ。とにかく今はこのダンボールの山をなんとかするぞ。何をやれば良いのか教えてくれ」

「あ……、はい!」 

 

 元気よく返事をすると、嬉しそうな笑顔を見せてこちらへとてとてと駆け寄ってくる。

 悔しいことに、その表情がとても魅力的に見えてしまった。

 ……やばいな。うっかり惚れちゃうかと。いかんいかん。

 

 

               ×  ×  ×

 

 

 かなり急いで作業をしたものの、結局すべてが片付いたのは最終下校時間を僅かばかし突破してからだった。

 最終下校時間っつうことは本来ならもう生徒が残っていちゃダメなわけで。今回は例外ということで勘弁してもらいたいものだが、念のため目立たぬようこそこそと行動する。

 当然、生徒会室を出ると校舎の中はどこもがらんとしていて、普段の喧騒が嘘のように静まり返っていた。

 一色と共に職員室へ行き、ちょうど暇そうにしていた平塚先生を捕まえて作業終了の報告と鍵の返却、ついでに愚痴を伝えると、どうやら平塚先生は今回の件を知らなかったらしい。怒りを通してもはや呆れ返っていた。曰く、生徒会はPTAや同窓会の下請け組織ではないのに何を考えているのか、と俺の意見に見事一致である。そりゃそうだ。

 

 そういうわけで、ようやっと下校できる。

 二人並んで再び生徒会室の近く――つまり昇降口へやって来て、一度別れて靴を履き替えてから、なんとなくまた合流して外階段を下りてゆく。

 

「先輩、今日はありがとでした。手伝ってもらっちゃって」

 

 階段の下、ピロティの部分まで歩いたところで、殊勝にも一色が頭を垂れた。その妙に素直な姿がひっかかり、そこで俺が生徒会室を訪ねた目的を思い出す。

 俺は生徒会を手伝いにいったわけではない。葉山の件があって、一色の様子を見に行ったのだから。なんかバリバリ働いちゃってて忘れてたぞ……。

 

「……まあ、なんだ。気にすんな」

 

 こういう場合、なんと言葉を返してやればいいのかさっぱりわからん。

 悲しいかな、人から憎まれこそあれど、感謝なんてされることがほとんどないからな……って、それは別にどうでもいい。俺にはやらなきゃならないことがある。

 

「なあ、一色」

「はい?」

「よかったら、喫茶店でも行くか?」

「え……」

「お前、ここんところ仕事頑張ってるっぽいし、喫茶店ぐらいなら奢ってやるけど……」

 

 いや、待て。これはないだろ。

 なんだこれ。なんか不自然というか唐突すぎるし、なにより下手くそなデートの誘いかたみたいじゃん。もうちょっと上手くやれよ俺……。

 

「そ、それってもしかしてあれですか? デートのお誘いですか!? デートのお誘いなんですよね??」

 

 ずざざ、と後ずさりする一色。

 あれー……。なんかさっき同じような光景を見たような気がしますねぇ。

 

「いや、デートじゃないが……。嫌ならいいんだ。忘れてくれ」

「い、行きます! デートしましょう先輩!」

 

 ドン引きのような態度から一転、襲いかからんばかりの勢いでに食いついてくると、素早く俺の右隣に並んでブレザーの袖をくいっとつまんでくる。忙しいやつだなこいつ……。

 さて。どうしたもんでしょ。

 一色が内心落ち込んでいる可能性も考えられる → 女子は喫茶店とかのスイーツが好き → 喫茶店でも奢って様子を見てみる――という超単純思考から誘ってみたはいいが、どんな喫茶店につれていくかなんて考えてないぞ。マリピンのサソマノレクカフェでええのん? それともペソエ稲毛海岸のサンドッグイン兵庫屋でパン&コーヒー?

 

「あー、こっちから誘っといてアレなんだが、喫茶店行くとしたらどこがいい?」

「そんなの決まってるじゃないですか」

 

 え、決まってるって、なにが。

 女子高生御用達のお店とか、俺まったくわからんのだが。

 

「ほら、行きますよー」

 

 この奢りのチャンスを逃さないとでもいうのか、袖をくいくいと引っ張って一色はずんずんと歩きだす。馬の手綱じゃないんだけどなぁ。

 ていうか俺、自転車なんだけど……。

 

 

               ×   ×   ×

 

 

 




続きます。


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葉山隼人に彼女ができたらしい。という噂。(3)

喫茶店です。



 

「むふ。じゃあ、これとこれでお願いします」

「おい待て待て、ちょっと待て。おまえそれどっちも高いやつじゃねーか。やめてくれよ……」

「あれ? 喫茶店くらいなら奢ってやるって言ったの、先輩ですよね~? 男のくせに、ドヤ顔で発した言葉を一時間もしないうちに撤回するんですか?」

 

 くりっと小首をかしげて、さも奢られるのが当たり前であるかのように言う。

 

「いや、奢るって言ったよ? 言ったけど、確かに言ったけどさ、ちょっと無遠慮すぎないお前。ていうかなんでこの店? 値段みんな高い……」

 

 学校を発ってもうすぐ一時間。いま俺たちが居るのは、京成千葉中央駅のすぐ目の前、リッタスカフェという木目調な外観の喫茶店。二月のいつぞや一色に連れ回された日に寄った、千葉には場違いとも言えるオサレなカフェだ。

 自転車は学校に置いたまま、一色に袖をひっぱられて海浜バスに乗せられたときは、てっきり稲毛駅前あたりのチェーン店にでも入るのかと思っていたのだが……。どういうわけか通勤ラッシュで満員の上総一ノ宮行きに乗せられ、降りたのは千葉。そしてしばし歩いてやってきたのがこの店というわけだ。

 おかしいな。おかしいよね? スタバとかでよくない?

 

「先輩と喫茶店に行くなら、やっぱここかなーって」

 

 冗談めかしたように、くすりと小さく笑う。

 さすが小悪魔iroha。見た目まだまだ幼さが残ってるのに、どうしてこうも蠱惑的なんだこの子は。うっかり勘違いしちゃったらどうすんのさ。

 ……まあ、いい。たまにはこういうのも悪くないだろう。

 前向きに考えることにして、とりあえずは注文だけ済ませよう。一色がお高い商品を頼もうとしている件についてはいくらか文句も言いたいところだが。

 店員のお姉さん(可愛い)に声をかける。営業スマイルがとても可愛いと思います(可愛い)。

 

「ラズベリーとストロベリーのクリーム・シャーロットに、プリンス・オブ・ウェールズでお願いします」

「あと、ジェラートとブレンドで」

「かしこまりました」

 

 にっこり笑顔で一礼すると、店員のお姉さん(可愛い)が店の奥へと消えていく。

 それを待って、一色が言う。

 

「先輩、前もそれでしたよねー」

「しゃーなしだろ。メニューの文字列見てもなにがなんだかさっぱりわかんねえんだよ」

 

 なんなのクリーム・シャーロットって。プリンス・オブ・ウェールズは、まあネーミング的に英国のブレンド紅茶かなんかだろうが。

 むしろ、そんなわけのわからん横文字からどんな食べ物が出てくるのか理解できるお前に引くな!

 

「つーか、なんでお前はわかんの? メニュー、写真載ってないのに」

「家でけっこう色々つくりますからねー。自然と覚えるっていうか~、そんな感じです」

「ふうん」

 

 一色の趣味――かどうかは知らないけど――といえばお菓子作りだっけか。

 実際に一色がそれなりにそつなくお菓子作りをこなせるのは、先月のお料理教室イベントでわかったことだ。

 それを考えると、やっぱ一色ってかなり高スペックなのでは?

 あどけなさが存分に残っているという点で庇護欲など男心をくすぐってくるし、顔立ちはかなり可愛いく、体型も綺麗に整っている。女の子としての魅力を自ら意識して磨きまくっているっぽいし、甘え上手で、そして料理もできる……と。

 これだけの優良物件を振る葉山って、やっぱすげえんだな。なんかちょっとムカつく(妬み)。

 

「けど先輩、いくらメニュー見てもわかんないからって、前回と同じって」

 

 ぷぷっと吹き出すと、そのままけたけた笑う。

 バカにされているみたいで、なんかムカつくなぁ……。

 

「……つーか、なんでそんなどうでもいいこと覚えてるんだよ」

「どうでもいいことなんかじゃ、ないです」

 

 表情を変え、じっと真剣に俺の目を見据えて言う。

 亜麻色に透き通る瞳の向こうで、一色は何を考えているのだろうか。

 あの日俺がどんなものを頼んだかなんて、そんなの、どうでもいいことだろ……。

 

「ほら、前に言いましたよね? 思い出って大事だって」

 

 またも一色の表情が変わる。今度は、どこまでも優しげな微笑みに。

 

「先輩にとってはどうでもいいことかもですけど、わたしにとっては大切なことなんです。日々のひとコマひとコマっていうんですかねー。……だから、いま先輩とこうしてるのも、わたしにとってはすっごく大切な思い出になるんですよ?」

 

 口元を手で隠して、冗談めかして言う。

 ほんと、こいつは……。

 

 それからしばらく、他愛もない会話を交わしながら時間を潰す。

 会話を交わすといっても、実際に話しているのはほとんど一色で、俺は相槌を打ったり軽くツッコミを入れたりしている程度でしかないのだが。それでも、一色はにこにこと楽しそうに言葉を紡いでいる。

 なにが楽しいんだかね。俺なんか相手に。

 

 やがて紅茶の用意ができたようで、店員のお姉さん(可愛い)がお盆に紅茶とケーキを乗せてとことこっとやってくると、まずは一色のケーキセットをテーブルへ並べていく。

 

「こちらが、プリンス・オブ・ウェールズに、ラズベリーとストロベリーのクリーム・シャーロットでございます」

「わ、すごいですよ先輩! 期待以上です!」

 

 一色が無邪気な子どものようにきらきらと目を輝かせる。

 クリーム・シャーロットとやらだが、確かにこれはすごい。

 ラズベリーやストロベリーの果汁が練り込まれているのか、ピンク色に甘く染まったムースたっぷりの丸いケーキ。その外周を、何枚もの長方形のクッキーが桶状にぐるりと囲んでいて、崩れないようにするためか可愛らしい白いレースのリボンがきゅっと巻かれている。そして、ムースの上には、ジェラートと見目鮮やかな赤い果実がふんだんに乗せられていた。

 さながら、クッキーが壁で果実が屋根で、可愛いお菓子の家のよう。

 

「いや、マジですげえなそれ」

 

 さすが、値段がお高いだけのことはある……。

 っていうかけっこう大きいけど、これ一人で食べ切れるのん?

 

「こちらがブレンドと、季節のジェラート。今月は桃でございます。口の中でほのかに広がる甘い香りをお楽しみください」

 

 一方こちらは、コーヒーとひとすくいのジェラート。以上。

 いや、たぶんきっとかなり美味いジェラートだとは思うんだけどさ、一色のケーキに比べるとしょぼく感じてしまうのも仕方がないことだよね! 値段的にもすごい差があるしな。

 店員のお姉さんはしずしずとお辞儀をすると、身体を反転させた。それを留めるように一色が声を上げる。

 

「すみません。写真、お願いしてもいいですか?」

 

 懐から白いスマートフォンを取り出して、なにやらいじってから店員さんに渡す。

 ……これってもしやあれですかね。あれなんでしょうね。

 

「ほら、先輩せんぱい」

 

 机の上に身を乗り出すと、ばっちりキメ顔をつくって店員さんに向かってポーズをとった。

 

「はやくして」

 

 敬語どうした……。

 ただでさえ酷い一色式敬語だが、すっかりどこかへ飛んでしまったらしい。

 仕方がないので、思い切って一色の顔のすぐそばにまで近寄る。ふわりと鼻をくすぐるシャンプーの香りに、先月ここに来たときにあったことを鮮明に思い出した。

 あの時も、一色の香りとさらさらな髪の毛、そして近い距離に、思わずドキっとしたっけか。

 今回も、それは変わらない。数センチと離れていないところに一色の可憐な横顔があり、小さな息遣いもしっかりと耳に届く。それが、やたらと俺の心を揺さぶってくる。

 俺と一色の関係性は、俺が思っている以上にずっと近いものなのかもしれない。

 

                ×   ×   ×

 

 幸せそうに頬を緩ませてのんびりケーキをつつく一色を眺めながら、これからのことについて考えていた。

 葉山の件に関して、一色がいまどういう想いで居るのかはわからない。確かめてみたいとは思うが、さすがに直接本人に聞くのは憚れる。

 ただ、それだけではない。

 一色の想いを知ってしまうのが、触れてしまうのが、少し怖くなってきている。

 今日これまでの一色の様子を見る限り、たぶん、葉山の件で深く落ち込んだり大きくショックを受けたりといったことはなさそうなのだ。それどころか、俺が喫茶店を奢ると言ってからは、心から楽しんでいるかのようにしか見えない。

 ――そんなはずはないと思う。一色に限って、まさか。

 だが、もしもこれが俺の勘違いではなかったとしたら。自意識過剰じゃなかったとしたら。

 俺の存在が、一色いろはにとって特別なものになっているのだとしたら。

 

 馬鹿馬鹿しい。そんなことはありえない。ありえてしまっていいはずがないのだ。

 ていうか、なんなんだよ。これじゃ逆に、俺が一色のことを意識しているみたいじゃねえか……。

 

 思考を放棄し、黒々い液体に満たされたカップに唇をつける。

 豆の品種や産地にも相当こだわっているらしいブレンドコーヒーを口に含むと、香ばしさや深い味わいが広がる。苦さや酸みが舌を刺激し、甘っちょろい思考からはっと目が覚めたように思えた。 

 こういうときは、マックスコーヒーみたいな甘ったるいものよりも苦いほうがいい。

 

「あ、そうだ先輩」

 

 けれども、どうやら目の前でにこにこ笑顔を湛えているこいつは、砂糖もりもりの甘ったるいものほうがいいようで。

 

「はい、どうぞ」

 

 ジェラートとムースをひとさじ削り取ると、俺の口の前へずいと近づけてきた。

 俗に言う、あーんってやつである。

 いや、なにしてんの。そのスプーン、間接キスになっちゃうよね……。

 

「……やっぱり、こういうのってお嫌いですか?」

 

 戸惑いのせいで固まって反応しない俺に、いつぞやも問われたような言葉を投げてくる。

 その瞳は不安げに揺れていて、そこから一色の求めている答えが分かった気がした。

 ……あのときは、なんて返したんだったか。

 

「まあ、嫌いじゃねぇけど」

「じゃあ、口開けてくださいよー……。ほら、さっさとあーん」

「いや、あーんとか言わなくていいから」

 

 そんなの声に出されたら余計に変な意識しちゃうでしょ……。

 しかし、あれだな。いきなり口にスプーンを突っ込まれるならばまだしも、自ら意識して口を開けるというのは照れくさいものがある。なにより、とにかく心臓に悪い。黙って口を閉じていれば諦めるだろうか、などと考えてみるも、一色は引っ込めるつもりがないらしい。

 仕方がない。

 観念してゆっくりと口を開くと、にんまりと目元を緩めた一色がスプーンを俺の口へと突っ込んだ。はわわっ! おくちがおかされちゃいます><

 ぱくりとひとくち。

 

「どうですか?」

「……まあ、悪くないんじゃねえの」

「ですよねー!」

 

 その『ですよねー』っていうのがどういう意味なのかは置いておくとして、とりあえず味なんてわからんぞバカ。甘すぎなんだよ、ほんと。

 顔が熱くなるような感覚に、つい顔を逸らしてしまう。

 

「じゃあ先輩、こういうのはどうですか?」

 

 次なるいたずらでも思いついたらしい。

 今度はなんだよ、いいかげんにしろ、などと心のなかで悪態をつきながら、一色の顔へと視線を向けた瞬間。

 何も乗っかっていないスプーンを。

 つまり、俺の口から出たばかりのスプーンを。

 

「はむ」

 

 と、一色が口に咥えたのだった。

 

「……は!?」

 

 え、なにやってんのこいつ。

 バカなの? それ、たぶん俺の唾液しかついてないよね……?

 

「ふふっ。先輩、どうですか?」

 

 スプーンを口から話して、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべて問うてくる。

 表情だけ見ればかなりムカつくところだが、けれども、じわじわと紅く染まっていく一色の頬に気づいてしまうと、どうしてか怒る気も起きない。

 

「あ、もしかして意識しちゃいました? 後輩女子に下心持っちゃいました?」

 

 俺のことをからかうように、楽しげに言う。

 

「べ、別に意識なんて……」

「けど先輩、顔が赤いですよ?」

 

 それブーメランだから。お前も赤いから。

 変に意識しちゃうくらいならやるなよ……。

 

「……まあ、なんつうの? 俺だって一応は高校生男子だし、一切意識しないっていうのは無理だろ」

「先輩、やっぱ素直じゃないなぁ……」

 

 ぽしょっと出た声が、ひどく寂しげに感じられた。

 

 こいつは、一体何のつもりでこんなことをしているのだろうか。

 それはもう、まったくわからない疑問ではない。

 盛り上がっているのだ。あるいは盛り上げようとしているのか。

 

 きっと、一色いろはは――。

 

               ×   ×   ×

 

 

 




ちなみに、「ラズベリーのシャーロット」はフランス語風に言うと「フランボワーズのシャルロット」。
英国調の喫茶店で出されるときは英語風に前者、ケーキ屋さんや洋菓子メインの喫茶店だとフランス語風に後者で呼ばれたりしますね。

もう1話だけ続きます。


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葉山隼人に彼女ができたらしい。という噂。(終)

四話分割の最後になります。



 肩を並べて、C-one前をのんびりと歩く。

 時間はもう二十一時をすっかり過ぎているが、外房線の高架に沿って千葉駅まで続く商店街は人通りが絶えない。居酒屋や大衆飲み屋、カラオケに、キャバクラなどの風俗店も多い土地柄、むしろ平日はこれからが本番といったところか。

 やがて国道14号のスクランブル交差点に差し掛かった時、きゅ、とブレザーの左袖が引っ張られた。目をやれば、ついいましがたまで楽しげにおしゃべりに興じていた一色が、唇をきゅっと閉じて俯いていた。

 それが意味するところを、わからない俺ではない。

 いままで()()側の立場になったことは数あれど、()()()側の立場になったことはないが、それでもこれから一色がやろうとしていることは容易に想像がつく。もう、勘違いだ自意識過剰だなんだと自分を誤魔化している場合ではないのだろう。

 しかし、なぜこのタイミングで……?

 いや、それはいい。それは問題ではない。

 俺が知っている一色いろはは、甘い砂糖の味を忘れさせるほどに辛いスパイスまみれ、そして触れてみるまでわからない面倒くさい素敵な何かをおまけにつけた、あざとく狡猾で、基本的な性格がちょっとアレな女の子だったはずだ。

 もしもそこからスパイスがなくなり、たっぷりの甘いお砂糖と、そして触れて知りつつある素敵な何かだけになってしまったとしたら。素直な心を知ってしまったら――、

 その時、俺は一色いろはに、どういう感情を抱くのだろうか。

 その時、俺はどう答えを出せばいいのだろうか。

 

「先輩」

 

 くいくいと、袖を引っ張ってくる。

 俯いていた顔を上げ、覚悟を決めたように力の篭った視線で、じっと俺の瞳を見据えてくる。

 

「行きたいところがあるので、もうちょっとだけ付き合ってもらってもいいですか?」

 

 時間はもう遅いが、かといって断るまでもない。

 頷いて返すと、一色はほっとしたように小さく息を吐くと、ふっと微笑んだ。

 

「あっちです」

 

 相変わらず飼い犬のリードか馬の手綱のように袖を引っ張られ、スクランブル交差点の右手前へと曲がる。千葉街道と佐倉街道の起終点区間でもある一方通行の道路で、千葉市民がよく『ナンパ通り』と呼んでいる商店街だ。この先には、先日閉館してしまった千葉ハルコ、中央公園、千葉神社などがあるのだが、もう時間も時間だからどこへ向かっているのかはとんと見当がつかない。

 ま、まさか栄町あたりのホテル街じゃないよね? やだ、困る! ……んなわけないが。

 そのまま、無言の一色に引かれて進む。

 カラ館やなりたけなどを横目に見ながら進み、大通りの中央公園交差点に出た。すぐ頭の上で、轟音を立てながら、県庁のほうへと千葉モノレールが走り去って行く。

 交差点を渡った場所が旧ハルコや中央公園だが、そちらへ行くつもりはないらしい。右手に曲がり、モノレールの下に流れる川沿いを歩いて、すぐ目の前にあるモノレール葭川公園駅構内へのエスカレーターに乗った。

 

「先輩って、千葉みなとから京葉線ですよね?」

「千葉から総武線だが……」

「じゃあ、千葉まで買いますね」

 

 俺の手を離すと、一色が自動券売機の前に立った。

 

「え、いや、自分で買うが……」

「わたしの用事に付き合ってもらってるんですから、わたしが払いますよ。……さっきの電車賃と喫茶店代のお返しには全然足りませんけど」

 

 言って、一色は100円玉を2枚つっこんで切符を買い、続けて一色はパスケースからSuicaを取り出してチャージをはじめた。

 それにしても……、なんでわざわざここから千葉駅までモノレールに乗るんだ?

 さっきのスクランブル交差点からだと、千葉駅まで歩くのと、ここ葭川公園駅まで歩くのではほとんど距離が変わらない。それに、仮にここから千葉駅まで交通機関を使うとしても、路線バスならワンコインエリアだからモノレールより安くて本数も多いし、なんなら最初から千葉中央駅から京成千葉線に乗ってもよかったのだ。

 なにかしらの意図があるのだろうが、それがわからん。 

 

「どうぞ」

「ああ、悪い……」

 

 葭川公園→200円区間、と書かれたオレンジ色の紙片を受け取り、先導するように歩く一色に続いて改札を抜けて、ホームへのエスカレーターを上る。

 プラットホームは人っ子一人おらず、寂しげな雰囲気が漂っていた。

 モノレールの千葉から県庁前の区間は、実質メインの区間となっている千葉みなと~千葉~穴川~都賀~千城台と結ぶ路線から盲腸状に飛び出た支線のようになっていて、本数もそれほど多くはないので、利用者がほとんどいないのだ。この時間はなおさららしい。

 地上から高く上がった場所にあるモノレール駅の独特な構造もあって、 残冬の冷たい潮風が吹き抜けていく。長い時間待たされるのは辛いところだが、ちょうどタイミングが良いことに、もうまもなく次の千葉みなと行きが到着するようだ。

 やがて、時刻表の時間通りに、県庁前のほうから二両編成のモノレールがやってきた。ここから千葉駅まで、四分間の空中散歩だ。

 

「誰も乗ってませんね」

「だな」

 

 乗り込んだ車内はまさにガラガラ。あたかも空気でも運んでいるかのようだった。

 椅子に座るとすぐにドアが閉まり、ゆっくりと動き出す。

 

「今日は、ありがとうございました」

 

 所作正しく、一色がこちらへ向かって頭を下げる。

 そのまま、俺の言葉を待たずに続けた。

 

「葉山先輩の噂――ですよね? 先輩がわたしの様子見に来てくれたのって」

「……気づいてたのか?」

「まあ、タイミングが良すぎですし」

 

 こちらが一色を見透かそうとする時、一色もまた俺を見透かしているのかもしれない。

 ……なんてな。いや、ニーチェとかケンケンとかそういうネタではなくて、俺よりも一色のほうが数段上手とでもいうか。

 

「それで、どうなんだよ……。その、ほれ」

 

 これじゃ、俺が何を言いたいのかさっぱりわからんだろう。

 俺自身、わかっていない。どんな声をかけるべきなのか、そもそも聞いてしまっていいことなのか。だから、濁したような変な言葉になってしまう。

 

「まあ、そうですねー……」

 

 それでも、一色は汲み取ってくれたらしい。

 一度言葉を切って、逡巡するように黙り込む。

 

 そして――、

 

()()先輩」

 

 はじめて、一色は俺の名を呼び――、

 

「わたし、大好きですよ。……先輩のことが」

 

 はっきりと、その言葉を口にした。

 

 ガツンと鈍器で後頭部をぶん殴られたかのような、強い衝撃。

 もう確信していたことだが、それでも実際に言葉で伝えられると、現実をなかなか受け入れられない。

 告白、されたんだよな。俺。

 大好きっていうのは、そういうことなんだよな。

 

「なので、気にしてないですよ。噂のこと」

「けど、お前……」

 

 葉山のことを追いかけようとしてたんじゃないのか――、と続く言葉は出なかった。言ってしまってはダメなのだろうと思ったから。

 一色がこれまでどんなことをどんなふうに考えてきたのは知らないが、いまここにいる一色は、俺のことが好きだと言っているのだ。その気持ちは尊重するべきであって、否定するような言葉を投げかける必要なんてない。

 

「先輩の言いたいこと、わかりますよ」

 

 一色が自虐的に笑って見せる。どこか、自分自身に対して呆れるように。

 

「つい最近まで、わかんなかったんですよ、自分でも。葉山先輩のことが好きなはずなのに、気づけば先輩に惹かれているわたしがいて、いつもいつも先輩のことばかり考えているわたしがいて。……けどそれって、要するに、先輩のことが大好きってことじゃないですか」

 

 言い切ると一転して、今度はどこまでも輝くような屈託のない笑顔に表情が変わってゆく。

 きっとこれが一色の素の姿で、そしてきっとこれが一色の本心なのだろう。仮面やあざとい振る舞いで『一色いろは』像を演じているのではなく、ありのままの。

 

「ふふっ。……わかりますか先輩。これはわたしからの宣戦布告ですよ? 先輩への有効な攻め方なんです」

「……え」

「わたしみたいな、こんなにかわいい後輩から『大好き』って言われて意識しない人なんて、葉山先輩くらいですよねー?」

 

 冗談めかしてけたけたと笑う。

 同じ笑顔というカテゴリーの中でも、いくつもの異なる表情を見せる一色は、確かにとても魅力的な女の子だろうと思う。

 意識だって、して当然だ。むしろ意識しない葉山がおかしい。あいつもあいつで、過去に色々なものを抱えているからこそなのだろうけど。

 

「だから……。いつか、先輩に口説いてもらえるように、先輩が欲しいって思える存在になれるように、がんばんなきゃなんです」

 

 そこまで一色に言わせて、ようやく一色が告白の場にモノレールの車内を選んだ理由がわかった気がした。

 ディスティニーランドの帰り、葉山に振られて落ち込んだ一色に付き添って乗ったのが、千城台行きの千葉モノレールだった。その車内で、一色は自らの想いを吐露したのだった。

 これはきっと、あのときの再現だ。

 それも単なる再現ではなく、一色の新たな決意表明として。

 

「……なんつうか、その。ありがとな」

 

 情けないことだが、俺が言えるのはこれだけだ。

 俺は最低なことをしているのではないかと考えると自分が嫌になる。これから一色がどんなに頑張ったところで、俺が一色の虜になるという保証はない。もちろん、見事に一色に落とされてしまう可能性もないとは言えない。

 だから実質的には、これは告白に対する返事の先延ばしに過ぎない。今朝噂で聞いたばかりの三浦と葉山の関係と同じだ。いつか一色を振らなければならないときが来るかもしれないし、俺が一色に告白をする未来だってあるのかもしれない。いずれにせよ、そのときまで一色を期待と不安が混ぜ込ぜになった複雑な状況に置くことになってしまうし、一色いろはという女の子を縛りつけることにもなってしまう。

 けれども。

 一色が俺に対して抱いている感情と全く同じものか、それとも全く別のものかはまだ分からないが、俺の中でも一色に対しての好意は少なからずある。それはもう、否定しようがないものだ。

 ほんとうに不甲斐ないし、情けないことだと思う。

 なのに、一色はそんな俺を好きになってくれたのだ。それは、すごく嬉しい。家族以外の存在からこうしてはっきりと好意を口にされたのは、生まれて初めての経験なのだから。

 だから、いつか必ず、きちんと向き合って、きちんと答えを出そう。俺のことを大切に想ってくれている、俺の大切な人たちのために。

 

「せーんぱい」

 

 一色は愛らしく呼ぶと、優しげに微笑みをかける。

 そして、その顔をずいと俺のすぐ耳元まで近づけ、そっと囁いた。

 

「本気で行きますから、覚悟……してくださいね?」

 

 

 

 

  了

 




四話分割、お付き合いいただきありがとうございました。
原作10.5巻や11巻からしばらく経った頃のおはなし……をイメージして書いたものでした。といっても11巻ラストシーン以降の奉仕部三人の関係がどうなったのかは誰もわかりませんから、そこらへんは丸々無視しちゃってますが。

さて、作中に出てくる八幡好みの某こってりらーめん屋さんですが、みなさんご存知のように閉店しちゃいました。移転のような形で幕張の武石に新店舗がオープン。
聖地巡礼的にはちょっと寂しさがあるかもしれませんが、幕張在住の比企谷くんには朗報ですね(?)


では、このへんで。
また次からはまた別の短編となります。


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その他の八色短編いろいろ
小町が生徒会室を訪ねるおはなし。


ちょっとひねって、けどいつもどおりの八色です。



 

 

 

 すごく、かっこよかった――。

 

 私が総武高校に入学して、最初に思ったことがこれだった。

 ぱっと見は私と同じような普通の女の子で、それも制服を着崩したゆるふわ清楚系の、まだまだ幼さの残る可愛い女の子なのに、舞台上ではきはきと在校生代表挨拶をする二年生の先輩。

 一色さんという、総武高校の生徒会長さんだ。

 確か以前、会長になるのを嫌がっていた人だったような記憶が朧気ながらあるけど、もしかすると会長として仕事をしているうちに自信が持てたのかもしれない。新入生四百人や多数の来賓、保護者、先生たちの注目を一身に浴びる中でも堂々として見せる立ち振る舞いは凛々しく、さすが高校の生徒会長はすごいなと私に強い憧れの感情を抱かせた。

 私は中学の頃にも生徒会役員を経験したけど、あの頃とはぜんぜん違う。

 歳が一、二違うだけでも、これほどまでに大人っぽくてかっこいいんだと、憧れと同時に驚きもあった。

 あの生徒会長さんのようになりたい。彼女と親しくなって手本にすれば、きっと私も可愛くてかっこいい女子高生になれるのではないか……って。

 だから、私は入学式の翌日、生徒会役員選挙などの予定があるかどうか、選挙なしでも役員の補佐的な役割につけるかどうかなどを聞くべく、生徒会室を訪ねてみようと考えた。

 

 いま、私のすぐ目の前にあるこの扉を開ければ、そこは生徒会室。

 期待と希望に胸は膨らみ――まだまだ成長期はこれからだから――、緊張で心臓をばくばくさせながらドアノブに手をかけ、ゆっくりと押し開く。きっとそこに、あのかっこよくて凛々しくて可愛い美少女生徒会長さんがいるのだと信じて。

 

 ――ところが。

 

 

「ほーらー。先輩せんぱい、行きましょうよー」

 

「やだ。帰って撮りためてた冴えカノ一期の再放送とこのすば二期とプリキュア見にゃならん。あとセイレンで常木さん登場シーン見直してブヒブヒ萌えなきゃいけないの。それが俺に与えられた使命なの」

 

「録画したアニメなんてこんど一緒に見てあげますよ。けどけどカップル半額は今日しかやってないです」

 

「……か、カップルじゃないだろ」

 

「違いますけど、とりまカップルってことにして行けばいいんですよ」

 

「やだよなんか恥ずかしい。ていうかバレるだろ」

 

「そんなのうまくやればバレませんよー。それより、ほら、早くです」

 

「いや、けどさ、スイパラ的な感じのお店ってあれだろ、放課後は制服女子高生と制服リア充だらけなんだろ? 俺が行ったらめちゃくちゃ浮くでしょ? 俺、視線で呪い殺されちゃわない?」

 

「普通に堂々としてれば誰も先輩のことなんて気にしませんって。同化して紛れ込めばいいんです」

 

「無理だろ俺リア充じゃねえし。同化とかできないって」

 

「大丈夫ですよ。わたしがついてますから、どーんといけばいいんですよ。どーんと」

 

「や、でも俺ほら、甘い物あまり好きじゃないから」

 

「いや先輩甘い物超好きじゃないですかいまさら何言ってるんですか」

 

「けど、ほれ、やっぱ恥ずかしいから」

 

「そんなこと言ってるとおいしいもの食べれませんよ? 千円で一時間半ケーキ食べ放題、甘いもの好きの先輩的には垂涎モノじゃないですか~?」

 

「ぐ……。甘いもの、太るぞ」

 

「女子に向かって太るとかいい度胸だなって思いますけど、まあ許しましょう。それに、そんなのは食べた後に軽く街なかぶらついてカロリー消費すれば良いんです」

 

「やだよ、お前と街行くと別になんも買わないのに色々店連れ回されるだけ連れ回されるから疲れるんだもん」

 

「たまにはいっぱい歩き回らないと、自転車で家と学校往復するだけじゃ体力落ちちゃいますよ」

 

「気にせん構わん」

 

「わたしが気にするし構います。っていうか先輩、恥ずかしいからってこの機会を逃すのと、甘いのいっぱい食べて幸せな気分に浸るの、どっち取りますか?」

 

「………………まあ、そう言われるとあれだな。確かに甘いのは食いたいよな」

 

「次、いつ半額やるかわかりませんよ?」

 

「…………う、うむ」

 

「じゃあ行きましょう!」

 

「……ったく。いいけど、とりあえずお前がそのテキストの今日のぶん終わらせたらな」

 

 

 ――カチャリと。

 そっ閉じした。ドアを。

 

 まあね、そっ閉じはそっ閉じでも、だいぶ見てからのそっ閉じだけどさ。

 おかしいな。小町ね、生徒会役員になるための相談をしようと思って生徒会室訪ねたんだけどね? お兄ちゃんと生徒会長さんが完全に二人だけの雰囲気作っていちゃいちゃしてた。

 う、うーん……?

 あれかな、これって変な夢でも見てるのかな。あんなにデレデレしてるお兄ちゃん、萌えアニメに萌え狂ってるときくらいしか見たことないし。

 私、緊張しすぎて記憶が混乱?

 だって、ねぇー。放課後は奉仕部に居るはずのお兄ちゃんが生徒会室に居るわけないし、生徒会長さんといちゃいちゃしてるわけないし、現実の女の子相手にこんなふうにデレデレするわけないし。

 んん……。よし、気を取り直して。

 

 もう一度、ドアノブに手をかける。

 そう。この扉を開けると、きっとそこにはあのかっこよくて凛々しくて可愛い美少女生徒会長さんがいて、きっと生徒会役員の方々と学校生活をよくしていくための会議をしているに違いないから。

 期待と希望に胸を膨らませ――まだまだ成長期はこれからだから――、同時に緊張で心臓をばくばくさせながら、ゆっくりと押し開く。

 

 

「せーんぱーい、受験勉強つまんないですー。早くケーキ食べ放題行きましょうよ~」

 

「それ終わらせたら連れてってやるから」

 

「英語とか超無理です」

 

「けど英語はやっとかねえと。たぶん葉山が行くような大学ってやっぱ上位寄りじゃねえの。せめて今のうちから学力上げとけ」

 

「それめちゃくちゃ勉強しなきゃじゃないですか……」

 

「そりゃそうだろ」

 

「むぅ……。ちなみに、先輩の志望大学ってどんなもんなんですかー?」

 

「俺か? 俺はあれだろ、まだどこ受けるかは決めてないけど、まあやっぱり私立の文系上位だな。目標は高くってやつじゃねえけど、早慶あたりには入っとかないと大手出版社みたいな安定企業だと有利にならねえし、そのくらいは目標に考えてる」

 

「えっ、早慶!? わたしじゃ頑張っても無……はっ!? まさか先輩いまわたしのこと落とそうとしてました? 確かに編集者と結婚したいとか編集者おすすめですとか言いましたけどお互いまだ高校生ですし別に大学出ろとは言わないのでせめて近い将来に就職内定もらってからにしてもらっていいですかごめんなさい!」

 

「……はいはい。あざといあざとい」

 

「えー、なんですかその反応……」

 

 

 ――とか言ってるの。もう見てらんない。

 私の憧れのかっこよくて可愛くて凛々しい生徒会長さん、どこにいるの……!?

 んーとね、なんかさ、お兄ちゃんすごく楽しそうだし、一色さんって人も凄く幸せそうに甘ったれてるから、別にこれはこれでありなのかなーとも小町的には思うんだけどさ。けど、出鼻をくじかれたって感じ?

 ていうか、お兄ちゃん小町に内緒でいつの間に仲良い女の子作ってるの……? 結衣さん雪乃さん以外に仲良い人いたの……?

 話聞いてる感じだと、この生徒会長さんごめんなさいとか言ってる割に、結婚しましょうウェルカムですみたいなこと言ってない? 私の気のせい? 気のせいじゃないよねたぶん。

 

 ……はぁ。

 なんかよくわかんないけど、今度出直すことにして、今日はもう帰ろ。

 帰って、お兄ちゃんの嫌いなトマト大量に使って晩御飯作ろ。

 それでお兄ちゃん帰ってきたら、たっぷりじっくり尋問しよ。

 それでもって、生徒会長さんの情報収集してからもう一度生徒会訪ねてみよ。

 

 そう思って、私は身体を昇降口へと向けた。

 

 やはり私のあのお兄ちゃんが普通に青春ラブコメしてるのはまちがっている。

                            ……と、小町は思う。

 

 

 

 おしまい。

 



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