その日、比企谷八幡は自ら命を絶った。 (羽田 茂)
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プロローグ
その夜、比企谷八幡は自ら命を絶った。


初めて作品を投稿するということもあって、色々至らないところも多くあると思いますが
生暖かい目で見守って下さい。


八幡には最終的に幸せになってほしいです。


では、本編をどうぞ。






 

 

 

 

 

 

肌を刺す師走の冷たい風が、俺の口から吐き出される息を白く染めている。

 過ぎ去る景色に、俺の見慣れた千葉の住宅街や町並みはない。

今周りにあるのはジジ…と点滅を繰り返し今にも消えそうな、陰気な街灯だけだ。それは低く錆びれたガードレールに沿うようにポツポツと配置されている。中には命尽きた街灯も混じっている。

暗い夜道には凍った空気が充満しており、虫の声すら聞こえてこない。まるで自分の周りだけが全て死んでしまったようだった。

そんな冷たい空気と対照的に、俺は体に篭った熱を吐き出すように荒い呼吸を繰り返しながらペダルを踏む。

 

視界はボヤけてグチャグチャで、ガードレールのその先。その先に見える夜空と水平赤とを隔てる一本の線は酷く曖昧になっていた。

 そうなって当然だろう。嗚咽を嚙み殺す事もせず、涙を止めどなく流し続けているのだから。目の前が見えるわけがない。鏡を見るまでもない、今俺の顔は見るに堪えない悲惨な状態になってしまっているのだろう。

ボロボロと涙を流しながら、自転車をこぐ俺の姿は、さぞかし薄気味悪い出来に仕上がっているに違いない。

 

 ……思い返せば、逃げてばかりの人生だった。

 人間関係から。期待から。妹から。大切な人たちから。………果ては自分から。

 俺は一体どこで間違えてしまったのだろうか

 何度も自身に問いかけたが、結局答えが出ることの無かった問い。

 

気付けばハンドルを握り潰さんばかりに拳を固めていた。

何やってんだ俺は。俺は一度ハンドルから片手を離し、ぐっぱと手のひらを開閉する。

それが間違いだった。

ハンドルを支えていたもう片方の手から突然ーーフッと力が抜けた。

「うおッあ!?」

俺は慌てて離していたもう片方の手をハンドルに戻す。だが、一度崩れかけた態勢はそう簡単には戻らず、自転車はタイヤを擦りながら、右へ左へ蛇のように出鱈目な動きをしーー

 

そしてとうとう体勢が維持できなった俺は、思いっきり地面に叩きつけられた。

 

「……カハっ…」

背中に鈍い痛みが走り、肺から息が漏れる。

だが次の瞬間には、それが気にならなくなる程鋭く尖った痛みが俺を襲った。

「ひぃ…あカッ…ッヅあああああああああああああああああああ!!!」

激痛に口元を大きく歪める。

だが、人一人いない。車一つ通らない。雑踏から、日常から隔離された世界が声を拾う事は無い。

気がすむまで、痛みが引くまで喉を震わせ叫び続ける。

 

ここまでくるために、随分と長い時間自転車を漕ぎ続けた。

俺の脚、心臓、肺……身体全ては、すでに悲鳴を上げている。

額は割れ、頬を擦り、ボロボロの布切れのように惨めなその姿は、群れから追い出され、生きていく事が出来なくなった獣に似ていた。

「……」

冷えたガードレールにもたれ掛かっていると、少しずつ痛みが引いていく。

 

温度のない無機物を感じながら、俺はゆっくりと空を見上げる。

涙のせいで視界はぼやけてしまい、もう空に浮かび輝きを見る事は出来ない。

俺はのそりと起き上がり、倒れた自転車を起こす。

そして、

「……」

再び車輪を回し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 

 

 「はぁ……はッグぅぁあッ……!」

目的地に着いた瞬間、身体中から力が抜け、俺は自転車から転げ落ちる。自転車が倒れ、ガシャンと大きな金属音が鳴った。

 ここまで来るのに、随分と長い時間自転車を走らせた。ホントよく5時間も自転車を漕ぎ続けられたな俺……。もう、足バッキバキなんだけど。っべー。

 

 「はぁッはぁッ……」

もうダメだ、一歩も動けねぇ………! はっは……!はぁっは……!っは!っは!犬か俺は。

 火照った体に冷たい夜の風が気持ちいい。ずっとこのままこうしていたいくらいだ。だが、残念ながらそういうワケにもいかない。

時刻は深夜3時を過ぎている…あと数時間で朝がくる。

 

 俺は上半身を起こし、自分の視界に広がる景色に目を向ける。

 あたり一面に広がる星空。暗い海に鏡のように自らを映す満月。そしてすぐ目の前にある、錆のついたフェンスとありきたりな言葉。……自殺を呼び止める看板。

 

「…今日で終わりか」

独り言が随分増えたモノだと思う。なんとか木さんいわく人間強度も上がるし、エリートボッチとしては嬉しい限りである。

 俺は自転車のカゴから俺の手元まで転がってきたマッカンを拾い上げ、プルタブに爪をひっ掛ける。カシュっという小気味良い音がし、そのまま中身を喉に流し込む。

 

「……ンクッ……ッン…」と喉から声が漏れる。

 甘さとコーヒーの香りが口の中を一瞬で支配していく。

 飲んでいるうちに、涙が俺の頬を伝う

缶を口元から離して、手で覆うようにしながら体を小さく丸め、嗚咽を漏らす。

「…………ゥグうぁあッ………」

あまりに情けない姿だ………。無様だ、滑稽だ。

たった数日で俺の信念などはボロボロに砕けた。ここにいるのは由比ヶ浜と雪ノ下…一色いろは。あいつらに全ての鉛を背負わせて逃げ出そうとして、全部を投げ出そうとしている、臆病者だ。

分かっている。理解している。でも、もう俺が耐えられないんだ。

薄汚い負け犬そのもの。そんな自分の姿に。

 

「グッ……ヒグゥ………………

 

 ………ブフッ!………」

 

 笑い声が漏れた。

 

「ヒグゥッ、ヒっ!……」

「ああ……ひひはは、あははっ!!」

「…ハハ…ヒッ…ヒひひひひひぃあはははははッ!!」

自分でも何が面白いのか分からない。でも、笑えた。ただ笑えた。

 俺は顔を涙と鼻水でグチャグチャにしながらも、腹を抱え、笑い続けた。

腹が軋みを上げるまで笑い続け、息を吐くのも困難になった俺は笑うのをやめる。

「ハッ…はぁ……あー……」

最悪だ、最悪の気分だ。

 

俺は心の中でそう吐き捨て立ち上がる。

手から力を抜くと、まだ中身の入っている缶はコンっと高い音を立てながら地面に落ちて、地面にその中身を溢した。

とろとろと流れ出ている茶色の液体は、土に吸収され消えていく。

きっと俺の人生だって、こんなものだったのだろう。

俺は緩慢な動きで足を進ませ、フェンスの網目に指を掛ける。

そして、ゆっくりと登り始めた。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 

 

 フェンスの外側に立つと、只でさえ刺すようだった冬風が、更に冷たさを増したように感じる。

咽せ返らんばかりの潮の匂いが鼻を麻痺させた。

 

 

「お前ともここでお別れだな。」

そう呟くと、「そうだな」と、フェンスの向こう側にいる俺は笑いながらそう言った。

 

「……背中押してくれ。そのためにいるんだろ?」

「え、俺任せかよ」

少し面倒くさそうに返された声に、ふっと嘲笑にも似た笑い声が漏れた。

「悪いか?」

「いんや、全然?」

 

 何が面白いのか笑いだす俺。

 

「お前の分のマッ缶くらい買ってやればよかったな。悪い。」

 

 俺がそう心にも無い謝罪をすると、俺は「自分で溢しといて何言ってんだか」と小さく(ぼや)き、そしてまたカラカラと笑った。

 

 ……が次の瞬間、その表情が能面のような真顔に変わる。

 

「早く跳べよ」

 

 

 ″ああ、醜いな俺は〟そう心の中でポツリと漏らす。

 

 俺の手がフェンスの小さな網目を手がすり抜け俺の背中を「トン」と押した。

 

足元から地面が消え、代わりに浮遊感が俺を包む。冷たく刺す様な風が真下から俺を押す。

 

ああ、確か20m位の高さから飛び降りて水面に叩きつけられたら、どれ位の確率で死ぬんだっけ?足からで50%?

あれ?ここって何mだっけ。

この高さだったら、死ねるよな?

 

ああ、頼むからーー

 

 

 

 

ーー片道切符であってくれよ。

 

そう願いながら、俺はそっと瞼を閉じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

だがーー。

 

いつまで経ってもその瞬間は来ない。

聞こえてくるのは風の音だけで、時間的にとっくに落ち切っているはずだが。

″あ?おかしいな〟

そう思い、瞼を開けようとしーー。

 

 

 

「ーーーーーーーッッッ!!!」

 

上を向いていた筈の視界が激しくブレ、頭の中を火花が散った。

飛沫が舞い、文字通り叩きつけられ、四肢を千切られる様な痛みが全身を駆け抜ける。

 

凄まじい風音が消え、冷たい真冬の海水が俺を飲み込む。

「ガボッーーーッ」

にも関わらず俺が最初に感じたのは。

 

身を焼き尽くすかの様な熱だった。

 

「あ″ああああ″あ″あ″ああああああ″ああーーッッーー」

悲鳴の代わりに口から大量の泡が音を立てながら上へ上へと上がっていく。

海水が眼球を圧迫し、その表面に爪を立て掻き毟っているかの様な激痛を与えてくる。

腕の、脚の、腹の、顔の擦り傷から、そして背中の切り傷から水が皮膚の内側へと浸入する。

傷口に塩とはまさにこの事だろうな。そんな洒落にもならないことを、激痛の中俺はふと思った。

しかし、そんな片隅の冷静さなどは一瞬にして痛みに塗り潰され消えた。

 

溶かした鉛を体に掛けられ皮膚が炙られ爛れる様な痛みが全身を這い回る。

痛″い″。

焼ける。溶ける。爛れる。

 

海水に触れた全身の傷が叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。

今すぐ全身の皮膚を掻き毟り、削ぎ落としてしまいたい。

そんな狂気に染まった思考が頭を浸す。

だが、その狂気も次に遅れてきたモノに呑まれた。

 

寒い。

 

そんな、熱さとは相いれる筈のない矛盾した感覚に。

 

一本通行の呼吸により、とうとう肺を息苦しさが満たす。

本能が肺に酸素を取り込もうとし息を吸おうとする。だが、耳鼻から入ってくるのは水だけで、それは最初から分かっていたはずだった。

ギチ……ッ。

手が喉を絞め、皮膚に深く爪を立てた。

自分でも何をしているのか分からない。ただ、苦しくて。

苦しくて。苦しくて。

 

苦しくて。

 

「あーー」

口から出た気泡が、コポンッ…と音を立てた。

それはゆっくりと上がっていき他の泡と交ざっていく。

煙が上がると錯覚する様な熱は引いていない。だが、凍った水の冷たさが俺から感覚と体温を確実に奪っていっていくのを感じていた。

その証拠に、ほら。

次第に指先から、徐々に感覚が消えていっている。

 

喉に手を掛けながら、それを俺は茫と眺めていた。

気付けば首を絞めていた手からは力が抜けており、今にも筋肉が完全に弛緩しダランと垂れてしまいそうだ。

そんな事を酸欠に陥っている脳で考えていると、

脳内にズルとも言えぬグチャとも言えぬ、奇妙な音が聞こえてきた。

 

波に流されていく感覚の中でそんな音が何度も響き渡り、その度視界を赤が横切った。

薄い赤が。ゆっくり、ゆっくりと。水に垂らしたアクリル絵の具の様に。

 

もう、俺にはその赤が何なのか認識するための意識は残っていない。

だがそれでも俺は、眼前にある光景を瞳に映し続けるために眼を開き続ける。

 

突如、身体が小刻みに痙攣した。

 

痛覚と、無痛の間に引かれている筈の境界線が曖昧になっていく。

視界に映っている暗闇が、微かな月明かりが…全てが混ざり合い模糊となっていく。

 

そんな世界に。

「…っ」

 

彼はいた。

ただ一人だけボヤけ、黒く沈んだ世界から切り離されて。

 

それを見て、俺は薄く笑う。

一独りは怖かったんだ。

景色が、触覚が、聴覚が、嗅覚が、感覚が、痛覚が、意識が、俺を置いていく。

でも、もう、瞼を閉じても良いだろ?

お前はその程度で消えねぇよな。

 

俺をーー。

 

俺を独りにさせねぇよな。

 

頭蓋に響く様な衝撃が走る。

体の内側から、肺から、口の中から″コポ…ッ〟と音が聞こえーー俺の視界から色が消えた。

 

 

 

 

 

 ーーー最後に遠くで「じゃあな」と声がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「紅茶の香りはもうしない」

 

 そう、二度とすることはない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 これは

(比企谷八幡)が死んだ日の物語。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ーーよ………ったーー生きーーぞ!ーー早く!ーーにーー」

 

 ーーその日。彼は

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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過去
寒空の中、比企谷八幡はその声を聞く。









 

 

 

 

 

 窓から差し込む陽光で目を覚ます。

ガラスを通して見える空は雲一つない爽やかな快晴で、それを喜ぶかのような小鳥の囀りが聞こえてきている。

なんて気持ちの良い朝だろう。

 

 こんな朝は二度寝するに限るな!おやすみ!!

少しズレた布団の位置を正し、俺は二度寝の体勢に移ろうとする。

だが、悲しいかな……それと同時に、「ピピピッ」と起床時間をしらせるアラームの音が部屋中に鳴り響いた。

 

………神様は俺の事が嫌いなんだ。

 重い右腕を、ゆっくりと布団から伸ばしアラームを切る。

 そして、俺はそのまま意味もなく布団を体に巻きつけ、ベットの上をゴロゴロと転がり始める。

 

 ゴロゴローゴロゴロー……。あー、最近コロコロ見てねぇな。

ああ、そろそろ布団から離れなければいけないと分かりっているのに、俺は離れられることができない。

 恐るべき吸引力………!!らめぇ……!お布団しゅごいのぉ……!

 

 アホなことを思いながら、体を慣らすため転がっていると、コンコンと扉がノックされた。

扉が薄く開き、そこからマイスウィートエンジェルシスター小町が顔を覗かせる。お米じゃねぇぞ。

 

「おっ!兄ちゃッ………。……何やってんの?朝ごはんできてんだよ…?」

 小町ちゃん、なんかお兄ちゃんを見る目が冷たく無い?部屋入ってくる瞬間まで、あんなに笑顔だったじゃない。

 なんでお兄ちゃんを見た瞬間そんな目をするの?お兄ちゃん新しい何かに目覚めちゃうよ?いいの?駄目?駄目か。

将来嫁の尻に敷かれそうだなぁ…と遠い未来の専業主夫の自分の姿に想いを馳せながら、むくりと体を起こす。

 どうせお嫁さんにするんだったら。ぜひとも城廻先輩のような、めぐりっしゅぽわんぽわんなんがいいな。

 でも考えてみたら、あの人を外で社畜のように働かせるとか俺には無理だ……!最終的に俺が働いている未来が安易に想像出来てしまう。

 

「………はぁ……起きるか。」

 

 俺は溜息まじりにそう呟いて、ベットから降りようとする。

 

 すると、予想は出来ていたが体に鋭い痛みが走った。

 

「んグッァ……」

 

 そのせいで、口から呻き声が漏れる。そして漏らしてから気付く、今は小町が部屋にいるのだと。

ゆっくりと顔を上げ小町の方を見ると、彼女は訝しげな表情を俺に向けていた。

 

「…どしたの?お兄ちゃん?」

 

俺は自分の手を、小町から見えないように拳に固める。

皮膚に食い込んだ爪の痛みが、思考を少しだけクリアにしてくれる。

 

「いや……これからしばらくコイツと別れるのかと思うと悲しくて悲しくてな」

俺はわざとらしく、布団に視線を向け、そしてその表面を優しく撫でる。

小町が「はぁ〜〜〜〜〜」と息を吐きながら、俺にじとっとした目を向けてくる。おいおい、お兄ちゃんレベルになると、そういうゴミを見るような視線すらご褒美なんだぜ?いや、ごめん嘘です!普通にキツイっす!やめて!

 

「また朝からくだらないこと言ってぇ…。じゃ、小町は先に下降りとくね。早く来てねー、ご飯冷めちゃうから」

 そう言うと、小町は俺の部屋から出て行った。

 

 足音が遠ざかり一階に降りたのを確認してから、俺は「ハァ……」と深く溜息を吐いた。安堵からくる溜息を。

握っていた拳を開き、掌を見てみると、爪が食い込んでいた部分が薄らと赤い線を引いていた。そして掌全体は緊張から、じめっとした汗で濡れていた。

それを不快に思いながら下着で雑に拭き取ってから、俺は文字通り重い腰を上げてベットから降りる。

 

 さっさと飯食いに行くか。また小町になにか疑われる前に。

 

彼女も薄々勘付いてきているようだが、俺にはそれを延命治療のように先伸ばすことしか出来ない。

自身の非力さを歯痒く思う。

 

 

「学校行きたくねぇなぁ……」

 

 俺は天井を見上げながらそう一人呟いた。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

「ごみいちゃん遅い」

 

 リビングに足を踏み入れた瞬間に小町から辛辣な一言が飛んでくる。

しかたねぇだろ、身体がキツかったんだから。

 彼女からすればきっと何気なく言った一言だったのだろうが、俺はそんな一言にすら薄く苛つきを感じてしまった。

 

 そんな自分に嫌気がさし、より一層ネガティヴな気分になる。

「悪い、思った以上に布団が俺を離してくれなくてな。布団は俺を離したくないし、俺も布団から離れたくない。おお?これって相思相愛じゃ……」

「お兄ちゃん」

 自信を奮い立たせる為の道化……いや。お道化を小町の声が遮った。それにひんやりとしたものが背筋を流れる。

 

「あ?なんだ?」

「あのさ……。お兄ちゃん修学旅行のときからなんか無理してない?なにかあったの?」

 その言葉に、自身の動悸が微かに速くなったのが分かる。

 

まさか……気付いたのか?いや、小町は疑問系だった。

 まだ、気付いていないはず。シラを切り通す。

 

「何にもねぇよ、むしろあれだな。逆に俺の人生なんも無さすぎるまである。多少なんかあったほうが、上手くいくのかもしれねぇな。」

「……!!…………ねぇ、………何かあったんでしょ?」

 先程とは違って「何かあったのではないか」ではなく「何かあった」と確信して俺に言ってきた。

 

その事実に、俺の頭の中で警報が大声量で鳴る。

 

「…何でもねぇよ」

「お兄ちゃ…」

「先に学校行くぞ」

 これ以上詮索されるのは本格的に危険だ。

 そう思い、俺は小町の言葉を遮るように言い、リビングから出て行った。

 

 

 

 

 

 

 リビングを出る間際の、小町の悲しそうな表情が脳裏にこびりついた。

 

 

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 学校行くまでの道のりがひどく憂鬱だ。脚が痛い。腕が痛い。八幡、今すぐおうち帰りたい。

 しかし現実は非情だ。学校が見えてくる。自転車小屋に自転車をとめ、靴箱に向かう。

 

 そして自分の靴箱を開けた途端、大量のゴミが靴箱からあふれ出してきた。

 はぁ……やっぱ今日も入ってるよ……。毎回その大量のゴミはどこから来てるの?。

 そんな毎日たくさんお菓子食べてたら太っちゃうよ?犯人の健康面まで気を使ってあげてる俺マジ菩薩様。

 

 そんなことを思いながら、カバンから上履きを取り出す。どうせこうなることは分かりきっていたから、最初っから持ち帰っていたのだ。だから上履きへの汚れ等の被害はゼロ。

 それでも「……チッ」と口から舌打ちが漏れる。

 

 腹いせに俺の靴箱にはいっていたゴミを、即座に近くの戸部の靴箱に移す。…わるいな戸部。反省はしていない。

 上履きを履き、教室に向かう俺の足取りは重く、すぐにでも押し潰れ、倒れてしまいそうだった。

教室に近づくごとに連れ、脚の重さは増していく。

 これから起こることを考えると気分が悪くなり、吐き気がする。ああ……かえりたいよぉ。

 どうする?いっそ今からでも保健室に行ってしまおうか、などと考えている内に二年F組の教室が見えてきた。

 

 廊下まで聞こえてくる、クラスの喧騒。

 俺は教室の入る前に、扉の前でたっぷり深呼吸をする。

 スーハースーハーアアアああああああ!!おっしゃっらい!!ばっちこい!!やっぱくんな!!

 

 ………。

 

 はぁ……行くか。

 俺は取手に手を掛け、扉を開けた

 

その瞬間

 

 廊下まで聞こえていた喧騒が嘘のように止み、クラスメイトのほとんどが俺に凍てつくような目を向けた。

 歴戦のボッチ……。いや、ただの一般人にすら分かる、悪意と敵意の籠った目。

 俺は即座にその教室中を見渡す。その中に葉山率いるトップカーストの奴らと由比ヶ浜はいない。そのことにひとまず安堵した。

 どうやら今日も、彼女は依頼通り動いてくれているようだ。

 

 視線を感じながら、自分の席へ移動し鞄をおろす。

 

 周りからは、

「アイツまだ学校来てんのかよ」

「よく海老名さんと戸部にあんなことして、まだ学校来れるよな」

「文化祭のときも相模さん泣かしてたしね」

「マジキモいよね」

「死ねばいいのにな」

 と、わざとギリギリ俺に聞こえるかどうかぐらいの声量で俺への罵詈が聞こえてくる。

いつもの事とはいえ精神的にクルものがあるな。いや、いつもの事だからこそクルのだろう。

 

 自分の席に着席し溜息を吐きながら、横目にクラスメイト達を見ると、5人の男子生徒が席を立ちあがり、こちらに歩いてきているのが見えた。

身体の芯がひんやりと冷たくなっていく。

 

 おい、ステルスヒッキーマジでどこ行ったんだよ。どこ行きゃ買い直せるの?アマゾン?赤道直下?

 そんな現実逃避をしているウチに五人組は俺の席の前で脚を止め、俺を囲むようにしながら、図体の一番大きいヤツが口を開く。

「おい、ヒキタニ。昼休み体育館裏な。来ねぇと分かってるよな?」

 

 たったそれだけの言葉にも関わらず、身体が総毛立ち、呼吸が少しだけ早くなる。

 

黙ったままの俺に歪んだ笑みを向けながら、そいつらは自分の席に戻っていく。その足取りは悪を討伐する正義のように勇ましい。

連中が去ると、俺は机に突っ伏し、もう今日何度目になるかも分からない深い溜息を吐いた。

 

 今日もか……行きたく無い……。ああ、おうち帰りたい………おうち帰りたいよぉ……。あわよくば死にたい。

 

 クラスメイトからの悪意の籠った視線は絶えず俺に降り注いできている。

 その視線から逃げるように俺はイヤホンを付け、目を閉じた。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 文化祭の前までは、ここまで悪意の籠った目は向けられることはなかった。その頃はまだ全然クラスメイトから認知されてなかったしね俺。まだステルスヒッキーが健在だったあの頃が懐かしい。

 

 だが文化祭が終わった後から、あの視線を向けられる回数が一気に膨れ上がった。

 まぁ、原因は言わずとも俺が相模を屋上で罵倒したせいだろう。

 そのせいで俺はしばらくクラスメイト、文化祭実行委員の奴らからこの視線を向けられる羽目となった。

 

 だが、人の噂は七十五日。ステルス常備の俺だったら三十日くらいでこんな視線は無くなると思っていたな。事実。三十日経たずして、俺に悪意の籠った目を向ける奴らは、ほとんどいなくなった。

 

 だから、俺は勘違いしてしまったのだ。

 

 噂はほとんど力を失ったのだと。話題に出たとしてもせいぜい会話のネタ作り程度にしかならないだろうと。俺ともあろう者が人の悪意を甘く見てしまった。

文化祭の噂は小さく燻っていただけで、消えてなどいなかった。その燻りに愚かな俺は、わざわざ自分から燃料を投下したのだ。

 

 そう……修学旅行。

 

 ここで俺は戸部の告白を未然に防ぐために、戸部が海老名さんに告白をする前に海老名さんに告白し、彼女から振られた。

 つまり俺は戸部、海老名さん、二人の依頼を、解決ではなく先延ばしという形で解消させたわけだ。

 まぁ、ここまではいいんだ。

 問題はここからなのだ。

 

 どこからその情報が漏れたのか、俺は二人の甘酸っぱい恋愛を邪魔した、悪人としてクラスから吊るし上げられることとなった。多分大和か大岡あたりだろう。いくら戸部でも、自分の失恋も同義の話を吹聴するとは思えないからな。

 

 つまり、簡潔に言うと。俺は自分でいじめの引き金をひいてしまったのだ。

 

 きっと俺は、気付かぬうちに増長してしまっていたのだろう。

 鶴見留美の依頼、戸塚彩加の依頼、相模南の依頼。それを自身の策略で終わらしたことに。

 

 もっと慎重に行動すべきだったと、以前の俺だったら絶対に考えなかったであろうことを考える。

 そのことに自嘲気味な小さな笑い声が漏れ出した。

 

 ………俺もだいぶ弱ってきているようだ。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 一時間目から四時間目までの授業が終わると、50分間の昼休みがやってくる。

 

 世界で一番憂鬱な昼休みが。

 

 手が震えている。俺はそれを隠すため、手をポケットに突っ込みながら教室から出る。

 そうしてしばらく廊下を歩いていると、後ろから強く肩を叩かれた。痛い。

 

 顔をそちらに向けると。案の定、朝気持ちの悪いニヤケ面を浮かべていた連中がいた。

 冷たい汗が吹き出し、手の震えが大きくなる。

 今すぐここから逃げ出してしまいたい。

 

「おい、ヒキタニ今から体育館裏に来い。ちょっと付き合えよ」

 しかし、現実は非情である。

 

 それに短く「分かった」とだけ返事をすると、連中は満足したような表情をし、移動を開始する。

 

 そんなに何度も俺のほうチラチラ見んな。逃げねぇよ。男に熱い視線向けられても気持ち悪いだけだ。

 俺をチラチラ見ていいのは戸塚だけなんだよ。気持ち悪い。

 心の中で悪態をつきながら後ろを歩く。それが俺に出来る唯一の抵抗だから。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 体育館裏に着いた。あたり周辺からは冷たい冬の風が流れている。

 俺は壁に寄り掛かり、そっと目を閉じる。そして、

 

 

 

 

 ーーーーーー腹に容赦無い拳が埋まった。

 

 

 

 

「ーーーーーウ″ッ……!!」

 情け容赦が一切含まれていない、重く悪意の籠った拳が腹部にめり込む。平塚先生のソレとは違う、傷付ける為だけの一撃。

 

 痛みで吐きそうになるのを必死に堪えるため、そのまま地面に倒れこみ。唇を噛む。

 口の中に滑りとした鉄が流れ込んでくるとほぼ同時に、

 

 

 ーーーーーー力を込めた蹴りが、再び腹部に入った。

 

「オ″ァ!………ウ″ッオ″ええ″エ″エエーーー」

 今度は我慢することが出来ず地面に胃液が散乱し、周辺に酸の混ざった独特の臭いが立ち込める。

 

 昼休みになると暴力が振るわれるのは知っているため、朝食を作ってくれた小町には申し訳ないが、

 あらかじめトイレで朝食べた物は全て吐いている。一撃目で嘔吐を我慢したのは、俺のささやかな抵抗だ。

 

 

 痛みで地面に嘔吐を繰り返している俺を連中が

 

「ひひっ!!汚ねぇなあ」

「オラ!これで終わると思ってんのかよ立てゴミ!!」

「死ね!クズが!!」

 

 などと、貧相なボキャブラリーで口々に罵倒する。その間も彼等は脚を休めることは無く、俺の脚に、腕に、腹に、次々と蹴りを入れていく。

 

 その度俺は、口から「オ″ゥッうウ″うぅぅ……!」「オヴェぇ!!」と激しく嘔吐(えず)きながら涙を流し唇を噛む。

 

 

 涙で滲んだ視界で、連中を見る。そして、今更ながらさっきまでは5人だったはずの人数が、6人に増えていることに気付く。誰だ……?

 その1人は何もせずにただ突っ立ているだけだ。顔を見ようとするが、涙で視界がボヤけてしまっているせいで、上手くその顔を視認することが出来ない。

 そんな今更どうでもいい事を気にしていると。今日一番大きい蹴りが腹に飛んできた。

 胃が中の物を逆流しようとする。そのまま内臓までも出てしまうんじゃ無いかと心配するほどの嘔吐。

「オ″ウ″ェェェエえええエエエエ……ッーーーーーーー!!」

 

 

 彼等は腹によく蹴りを入れてくる。的が大きいし、蹴り心地も良いからだろう。

 ヤられている方からしたらたまったもんじゃない。

 

 俺が制服を着ているため連中は知らないが、俺の身体、特に腹部は埋めつくさんばかりの痣。内出血。場所によっては内出血で済まず血が滲んでしまっている。

 

 医療知識に疎い俺にも分かるほど、危険な状態。

 今この瞬間、内臓がイカれてしまってもなんら不思議ではない。血反吐をブチまけても。入院することになってもなんら不思議では無いのだ。

 

 そして………近いうち死んでしまっても。

 ……流石にそれは言い過ぎだろうか。

 最近自分の死について明確に考えることが増えた気がするな、とそんなことを頭の冷静な部分で思った。

 

 絶えることなく蹴りは飛んでくる。

 腕は蹴られる度にまるで釘を身体に捻じ込まれそのまま大きなハンマーで叩いたような痛みが。

 足はまるで皮膚を思いっきり引き剝がされているような痛みが。

 腹には熱した鉄を直接身体の中に注入され、その上を槌で乱暴に殴られたような乱暴な痛みが襲う。

 

 ぼやけた視界で火花が何度も散る。

 このまま意識を失ってしまいたい。このまま死んでしまえたらどんなに楽だろう。

 しかし、激しい痛みがそれを許さない。意識が飛びそうになる前に、鉛のように熱い痛みで現実に引き戻される。

 

「ーーーーーーーーーーーーーー」

だんだん俺の悲鳴が大きくなっていく。

 

 すると口を布で縛られ、声を封じられる。口内が粗い作りの布で擦れ、皮が剥けて血が滲む。

 

 比企谷八幡は叫び続ける。たとえ喉が潰れても。

 

 止まぬ暴力。終わらぬ地獄。

 

 

 嗚呼、死んでしまいたい。

 

 

 耳元で俺の嗤い声が聞こえる。

 

 

 そこで俺の精神は……擦り切れた。

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 最初は暴力もここまで酷くは無く、せいぜい子供のお遊び程度だった。

 しかし、俺が何をされても反撃しない事をいいことに、暴力は少しずつエスカレートしていき、気付けばこんなことになってしまっていた。おい、何も言うな。自分が一番驚いているのだから。

 

 蓄積されていく傷と痛み、そして暴力の質と量が、毎日比例するように増えていった。

 ただ、この中途半端なイケメン面に蹴りが飛んでこないのが唯一の救いだろうか。顔に傷あったら目立つもんな。そのため連中は外部から見て目立つ場所に暴力を振るわない。その分悪質だ。

 痛みで転げ回る俺を見る、連中のその表情はどこか満足げだ。

 

「彼らは青春の二文字の前ならばどんな一般的な解釈も、社会的通念さえも捻じ曲げて見せる。」

 自分の作文のとある一節を思い出す。

 ああ、まったくだ。その通りだ。アイツは暴力が悪という一般的解釈。社会的通念さえ捻じ曲げ、自らを正当化して暴力を振るってくる。自らの中で勝手に定めた歪んだ正義に酔いながら。

 

 俺があの日平塚先生に提出した作文の内容は、少しも間違っていなかった。寧ろドンピシャだ。

 まったく……自分の観察眼を褒めてやりたいね。人の醜い暗部を見ることにだけ長けたこの観察眼を。

 

 話は変わるが、

 葉山率いるトップカーストの連中と由比々浜はこのことを知らない。

 当然だ。善人の葉山がこのことを知っていて止めに来ないわけが無い、知れば葉山は絶対に俺を救いに来る。これは別に俺のうぬぼれではないと思う。

 葉山隼人ととはそういう人間だ。

 だからこそ、きっと動き出せば正義感から必ずどこかでミスをする。

 そしてそのミスはきっと、戸部が奉仕部にした依頼。海老名さんが俺と葉山に託した依頼。

 それぞれの内容が暴露されることに繋がる。そう確信出来る。理由なんてない、ただの俺の勘だ。だが、こういう嫌な予感だけはいつも当たっちゃうんだよな。

 

 修学旅行の真実が暴露されれば、きっと俺の受けているいじめは全て終わるだろう。

 だが、それは同時に葉山たち、トップカーストの崩壊を意味する。

 戸部は葉山を糾弾するだろう。どうしてそれを自分に教えてくれなかったのかと。アイツは薄っぺらい人間だが、本気で海老名さんのことが好きだったからな。海老名さんの嫌がることはしたく無かっただろう。知っていれば告白だって止めた。なのにその情報を葉山は言わなかったのだ。必ず諍いに発展するだろう。

 

 そして、依頼の全貌が明らかになってしまえば、あの空間に耐えられなくなる奴がでてくる。

 そうなった奴はまず自己保身に移るだろう。そんな奴がでてきてしまえばおしまいだ。

 自己保身に移った人間が何を行うかなんて安易に想像がつく。結果として、あっという間にあのグループはバラバラになり無くなる。

 

 だが……、だがそんなことはさせない。

 

 あそこには由比々浜がいる。

 由比々浜は優しい女の子だ。修学旅行の本質を知ってもアイツらとは友達でいたがるだろう。

 だが残念ながら他の奴らはそう思わない。彼女のコトを否定するだろう。その結果彼女は深い傷を負うことになる。

 あのグループは由比々浜が思っているよりもずっと、ずっと薄っぺらいのだ。

 それはもうチェーンメール事件で明らかになっている、証明するまでも無い。

 

 とにかく、そうなってしまえば他の奴らは確実に由比ヶ浜から離れていく。そして、そうなってしまえば由比ヶ浜はひどく悲しむ。

 ……それは嫌だ。あいつの悲しむ顔なんて見たく無い。

 

 

 

 

 

 だから、俺はある日海老名さんに接触し、彼女に一つ依頼をした。

「葉山たちを、由比ヶ浜を……俺から遠ざけてくれ」

 それが、俺が彼女にした依頼の内容だ。

 

 海老名さんは最初俺の依頼を聞いた時、酷く反対していたが、俺が土下座すると最終的には依頼を引き受けてくれた。

 何故俺が彼女に依頼したのか。それには三つ理由がある。

 一つ目の理由はトップカーストに所属し、あの三浦と葉山動かすことが出来るだけの発言力を持っているからだ。葉山は彼女の内面を知っているし、三浦は彼女が己(おのれ)から離れていくことをどこか恐れている、海老名さんの我儘も割とあっさり通るだろう。そして、三浦と葉山さえ動けば、由比ヶ浜を含んだあとの連中も流されるように動く。

 

 そして、二つ目は彼女は(さと)いからだ。海老名さんは、明るく腐った言動とは裏腹に、その実周りをよく観察していて、頭も切れ、言葉巧みに葉山達を動かすことが出来る。必要とあれば、事情を葉山に話すなど、臨機応変にもっとも効率的な手段をとることが出来るだろう。俺と根っこが似たタイプだ。そんな彼女のことだ、俺がいじめにあっていることにもすぐ気が付いたことだろう。

 

 そしてそれが三つ目の理由。

 俺がいじめを受けているのを「自分の責任だ」と、思い込んでいる節があるからだ。そんな彼女の罪悪感に漬け込んだ。彼女自身かなり追い詰められていたようだったからな。簡単だった。

 

 俺の依頼を受けたあと、海老名さんが悲しそうな顔で

 

「比企谷くんそれ以上自分で自分を傷つけないで。……比企谷くんを傷つけた私が言っていい言葉じゃないのは分かってる。でも………どうしても言わなきゃいけないと思ったの」

 

「……ごめんなさい。」

 

 そう、涙を流しながら言ってきた。

 同じような言葉を何度かかけられたことはあったが。まさか海老名さんからもその言葉を聞くとは思わなかった。

 

 だが、俺は自分のこの方法を変える気はない。

 効率が良い方法があればそれを採る。自己犠牲に勝るものがないのなら、自己を犠牲にして行動するしかない。

 

 傷つくのは自分だけでいい。

 

嗚呼、きっとコレはただの自己満足で、自分に酔っているだけなのだろう。中二病を発症して「俺カッコいい!」などと思い込んでいたあの頃から、何も成長しちゃいない。

 だが今は。それでいい。

 今回のいじめで、俺以外何も犠牲にせず、最も効率的な方法が時間が解決するという方法だけだったというだけの事だ。そう、それだけの話。俺は何も間違っちゃいない。

 

 そう俺は結論付けようとした瞬間。

 

「違うだろ?最も効率のいいのは、そのやり方じゃないだろ?」

そう、俺を馬鹿にするような声が頭の中で響いた。

 

その言葉に。その嗤い声に。

 

 

 

 徐々に意識が覚醒する。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 意識が覚醒したとき、連中はいなくなっていた。

 

「グゥっ……」

 

 身体を走る激痛に低い声を出しながら、必死で首と眼球を動かし周囲に連中がいないか確認する。

 

 誰もいない……。

 

 連中の姿が見えない事に安堵し、深く息吹く。

そして身体を芋虫のように引きずりながら、壁にもたれかかった。

 

ゆっくりと頭を上げ、空を見る。

 

 もう授業は始まってしまっているだろう。今日は平塚先生の授業はない。

 

「さぼるか…。」

 

 そう独り呟いて俺は目を閉じた。そして今度は自ら望んで意識を手放そうとする。

どうせ、ボロボロの体だ。少しくらいダメージをくらったて変わりゃしない。

体育館裏は、刺すように冷たい風が容赦なく吹いている。

 

 それでも。意識を手放すことに抵抗はない。

 目を閉じると、30秒と経たず目蓋が重くなってくる。

 

 

そしてそのまま比企谷八幡は意識を手放そうとした瞬間。

 

 

「違うだろ?最も効率のいいのは、そのやり方じゃないだろ?」

 

 

 あの言葉がもう一度、俺の耳元で聞こえた。

 

 

 

 

 

 

 その言葉に目蓋を開ける事は無く、

 

 今度こそ俺は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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比企谷八幡は暗澹に情を裂き、身を裂き。生を裂く。

「ん……」

体育館から聞こえる部活動の声で目が醒める。

どうやら放課後まで寝てしまっていたらしい。

……ん?放課後?

え、マジで?その時間まで誰も俺のことに気付かなかったの?

確かに体育館裏ってあんま人こないけどさぁ……。だからここに来させられてたんだけどさぁ………。

マジで今まで誰も来なかったのかよ。なに?ここ人除けの結界でも貼られてんの?

 

「ゔ……(さみ)ぃ…」

 

そう呟き、腕をさする。

うっわ…指先痛てぇ……これ霜焼(しもや)けですむかなぁ…。

 

しかし、俺はそこから動こうとしなかった。

ここから動こうという気が起きないのだ。

 

いっそ誰かが見つけてくれればいいのに。

 

そんな考えが脳裏に浮かぶ。

そのことに口元が吊り上がるように歪んだ。唇の皮が裂け血流れる。

 

自分からアイツらを遠ざけておいて、こんなことを思うだなんて何て矛盾だろう。結局俺も文化祭のときに逃げ出した相模と一緒じゃないか。

誰かに見つけて欲しくてここに座っている、だだのかまってちゃんだ。

 

いい加減覚悟を決めろ比企谷八幡、俺に許されるのは堪えることだけだ。それ以外の選択肢など最初からない。

誰かに助けを求めることも、望むことも。希望を持つ事さえ俺が……俺自身が許さない。そう決めたはずだろ比企谷八幡。

 

 

もう何度目になるか分からない、自らへの戒め。鎖と楔。

 

罪科(つみとが)のような夕暮れが世界が赤く照らしている。

 

口元から出ていた血は止まっていた。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

昼休みのリンチでボロボロの身体を、壁にもたれ掛からせるようにして、ゆっくりゆっくりと奉仕部の部室に向かう。

着けば俺は、痛む身体を無理やりにでも動し、いつもの八幡を……お道化を演じなければならない。

まぁ、部活動中は基本自分の椅子に座っていればいいだけだから、あまり体の苦にはならんのだが。……体にはな。

 

……ツライな。

 

少しずつ部室が見えてくる。

 

 

俺は扉の前で一度立ち止まり、そして朝と同じように深呼吸をする。

 

スーハー……スーハぁあああアアアアアアああああ!!!!やったろうじゃなーいのおお!!しゃらい!!かかってこいやぁ!!

やっぱくんな!! なんかデジャブ!!

 

……んむ。

ここんとこ教室、奉仕部に入るときいつも同じこと考えてる気がするな。

そろそろ新しいのを考えた方がいいのだろうか?

 

スーハー……スーハーぁああ!、戸塚ぁあ!!いい匂いだよぉおおッ!!とか?

普通にキモいね。うん

でも戸塚が可愛いのがいけない。全く、俺をこんなに夢中にさせるなんて。イケナイ子猫ちゃんだ☆

 

頭の中を戸塚でいっぱいにしながら、奉仕部の扉を開ける。

 

「うーす」

「あ、ヒッキー!やっはろー!!」

由比ヶ浜が笑顔でこちらに挨拶を飛ばす。

 

「あら、比企谷くん。今日は遅かったわね。」

雪ノ下が短く俺に言う。

 

 

俺はそれに「おう」と返し、自分の席に座り、背もたれに深く寄りかかる。

……あーー極楽、地獄。…極楽なのか地獄なのかはっきりしろよ俺。てか地味に語呂よかった気がするな。

 

最近は雪ノ下から罵倒の言葉が飛んでこない。

その変化を少し寂しく感じなが……ら……。あれ?もしかして俺、知らない間に調教されてね?一体俺はいつの間にM谷君になったのだろう。

そう思いながら、チラと雪ノ下に視線を向ける。

彼女はすでに手元の文庫本に目を戻してしまっており、遅刻をした俺に、叱言の類一つ飛ばす事すら無かった。

 

そのことに俺は、まるで彼女との間に大きな断絶ができてしまったような錯覚を感じる。

現実では数歩ほど歩けば届く距離にいるはずなのに、今その距離は途方もなく遠いように感じられ、不快感が胸を濁らせる。

 

 

灯籠の光。揺れる竹林。

 

「あなたのそのやり方、嫌いだわ。」

「もっと……人の気持ち考えてよ!!」

 

あの時、二人が俺に向けて言った拒絶の言葉。あの時、俺が二人に言わせてしまった言葉。

間違いなく、それが引き金だった。

 

冷たく凍り付いた部屋。

 

まさか、こんなことになるだなんて思ってもいなかった。

今考えれば、俺はあの時もっと慎重に動くべきだったのだ。

そうすれば、あの心地よかった空間を失うことは無かったのかもしれないのに。

 

俺にはもう、悔やむことしか出来ない。

そんなことをしても、なんの意味も無いのは分かっているのに。

それでもifという未練にしがみ付いてしまう。

 

温かく、心安らいでいた空間が、ずっと遠い昔のように感じる。

由比ヶ浜が喋り、俺が口を挟み、雪ノ下が返す。会話が止まった後の沈黙すら心地よかった空間。

きっと、もうそんな時間は戻ってこないのだろう。

 

今でも由比ヶ浜はよく喋るが、その会話には中身がない。まるで沈黙を恐れるように言葉を紡いでいく。

その姿が俺には、まるで暗闇に怯える幼子のように映った。

由比ヶ浜が話している時、雪ノ下は柔らかな笑みを彼女に向けている。

 

だが、俺は今までこんなにひどい笑みを見たことがない。

まるで、故人を慈しむような、もう戻らぬ何かを懐かしむような、そんな目だ。

 

その光景を見ていると、どろりとしたものが俺に溜まるのを感じる。

奉仕部をこんな風にしてしまったのは俺なのだと。その事実に罪悪感が湧き出てくる。

 

どうしてこんな事になってしまったのだろうか………。

いや、分かっているのだ。奉仕部がこうなってしまったのは、全て俺の…

 

「責任。…………そうだろ?」

 

………ッ!!?

 

突然聞こえた俺を嘲笑するような声。

その声に思わず、自分の状態を忘れて立ち上がる。

 

「ウグゥッ……ッ」

 

すぐに体に痛みが走り、俺は椅子に座り込んだ。

その一瞬の出来事に、二人が驚いた顔を俺に向けていた。

いまだ固まっている彼女達に問う。

 

「今、お前ら俺に何か言ったか?」

本当は聞かなくても分かっているのに。

 

「え…?ヒッキーには何もいってないけど?」

「どうしたのかしら比企谷くん、ついに頭でもおかしくなったの?」

 

やっぱりな、予想通りの答えが返ってきた。

 

「いや、何でもない。忘れてくれ」

 

そりゃそうだ、二人の声はあんなに低い男の声じゃないし、席自体離れている。耳元で聞こえるわけがない。

しかし、これはヤバイ。やっぱり近づいてきている。それもここ数日急激に。

 

ここのところ俺には声が聞こえてくる。いや、別に材木座みたいに中二病的な意味じゃなくてね?

聞こえてくるのは俺自身の声だ。

 

 

 

 

 

俺がこの声を初めて聴いたのは暴力が激しくなってきて、初めて意識を失ったときだ。

 

まぁ、そのときは凄く小さくて不明瞭なものだったがな。実際そのときはただの聞き間違いかと思っていた。

だがその声は、その後暴力を振るわれるたびに、少しずつ、ハッキリと聞こえるようになっていった。

そう、少しずつ。少しずつ。

 

ところが数日前、突然耳元で囁くような声が聞こえた。

 

今まで「ちょっと不明瞭だがどちらかというとはっきりした声」だったくせに、

突然「耳元ではっきり聞こえる声」にメガ進化したんだぜ?普通びっくりしたわ。びっくりし過ぎて、マジで気持ち悪い声出ちゃったからな。

蛇足だが、そのとき俺が出した声が気持ち悪いってことで、また腹を蹴られた。すっごく理不尽。うん知ってた。

 

まぁ…それはいい。今問題なのは、奉仕部でその声を聞いてしまったということなのだ。

俺が今までこの声を聞いたのは、決まって暴力を受けていたときだけ、それ以外の時間場所で聞いたことは一度も無かった。

だから、肉体的苦痛から自らが産み出した幻聴。そういうことにしていた。

 

だが、それが奉仕部で聞こえてしまったということは、

……きっとそういうことなのだろう。

 

俺は。奉仕部に。……この部屋に苦痛を感じてしまっているのだろう。

 

そのことを認識した途端、激しい嘔吐感が襲ってきた。

どろどろとしたものが内から溢れ出そうになる。

 

「……う″ッ」

……あ……気持ち悪い………。

 

いきなりすぎんだろ。心の準備くらいさせてくんない?

てか奉仕部が苦痛になってるって意識した瞬間、これって。俺メンタル弱すぎだろ、笑えねぇわ。

やべぇ……普通にキツイ。

 

「……悪い……ちょっと席外すわ」

 

そう言って俺は席から立ちあがる。

 

「……。どうしたのヒッキー。トイレ?」

 

立ち上がった俺に、由比ヶ浜が心配そうな顔を向けてくる。

自意識過剰だろうか。

 

耳鳴りが聞こえる。

空間が遠くなる。

 

何でだ?お前が居なくなるからだろ。

は?よく考えてみたら、お前は俺が居ない状態の奉仕部を知らない?

 

確かに、俺は俺が居ないときの奉仕部を知らない。だろ?あとは簡単だ。

 

こいつがお前にその事を聞くのは、お前がいない方が居心地がいいからだ。

 

そんなわけが。いや……でも。奉仕部がこうなった引き金を引いたのは……。

 

そうお前だ。でも……嫌だ。

 

嘘だ。そんな……そんなの認められな……

 

 

 

 

「ヒッキー?」

 

 

 

 

 

その声に意識が戻ってくる。

 

由比ヶ浜が不思議そうな顔で俺を見ている。その顔を見た瞬間、忘れていた吐気が再び襲ってきた。

 

「ウ゛っ…あ……いや、なんでもない」

 

吐気を抑えながらそう言って、俺は走ってトイレに向かった。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

「…ウプッ……ーーウ゛ォエエ゛えッ!!」

 

トイレの個室。もう何度目になるか分からない嘔吐。一度吐いた途端止まらなくなったのだ。

胃の中は空なのに、止むことなく吐気が襲ってくる。

 

ああ……キツい。キツイな……。

もちろん吐気だけのことじゃない。奉仕部のことも。そして自分自身のこともだ。

 

 

手に入れたいものがあった。

 

何も言わなくても通じて、何をしなくても理解できて、何があっても壊れない。

自己満足を押し付けあうことができて、それを許容し合える関係。

そんな現実とかけ離れた夢物語。

 

いつからそれを欲していたのか覚えていない。何が理由で欲し始めたのかも覚えていない。

ただ、奉仕部の崩壊を機に、俺は自分がソレを深く欲していることを自覚し始めた。

 

きっとそれを本物と言うのだろう。

そんなものは無いのかもしれない。それでも、そんな関係を手に入れようとする信念が、過去の比企谷八幡にはあった筈だった。

欺瞞を切り捨て、馴れ合いというぬるま湯に浸からず、

それを探し求める。今はもう失ってしまった信念が。

 

今の俺はどうだろう。上辺だけ取り繕った部屋で、ただじっと静かにその時が終わるのを待っている。

あれほど……欺瞞を、馴れ合いを嫌っていたのに。

 

本物が欲しいのならば、俺は切り捨てるべきなのだろう、あの場所を。

だが、それが出来なかった。

それほど俺の中で大きくなっていたのだ、奉仕部は。

 

その奉仕部に、俺は苦痛を感じてしまった。

偽物の関係でも価値があると、そう信じていたのに。信じ込もうとしていたのに。

 

苦痛を感じた事実が、罪悪感となって俺を苦しめる。

ああ…いったい俺が信じていたものはなんだったのだろう。

そんな自分自身への不信感が積もる。それを引き金にするかのように、再び吐気が襲ってきた。

「うぷッ……オ゛エぇえ゛え゛ぇェェえ゛ええ゛エエ………ーーーーーーーーー

 

 

 

 

 

 

嘔吐感が去り、個室から出て洗面所で手を洗う。

喉が胃酸のせいで焼けるように痛い。ヒリヒリする。

手を洗いながら、ふと鏡に映る自分を見る。

酷い顔だ。特に目とか腐ってるなんて生易しいレベルじゃない。なんかちょっと充血しちゃってるし。ヤベェな…知らない奴が俺見たら即通報レベルじゃん。いや、意識失うレベル?

俺はバジリスクかなんかかよ。そうじゃなけりゃバイオ兵器だ。……バイオ兵器……菌……ヒキガヤ菌……う…頭が…。自分で言っておいてアレだが、こじつけ感やべぇねぇな。

 

懐かしきあの日のトラウマを掘り返していると、ふと鏡の端に何かが映ったような気がした。

 

ん?なんだ?

 

俺はそちらに目を向ける。

 

瞬間ーー。

突然身体中が総毛立ち、身体中から汗が噴き出した。

そんな外側とは裏腹に、内側、口の中はパサパサに乾いていく。

 

唾液を飲み込み潤そうとするが、帰って来たのは喉に張り付く不快感だけだった。

高い耳鳴りが聞こえ、世界から音が消える。

 

俺の思考はそこで呑まれた。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

自分以外の全てが暗闇に侵されたような感覚。何か蓋が剥されていく、そんな錯覚。

 

この違和感は何だ?いつからそこにいた?何故気付かなかった?何故気付けなかった?

そもそも俺は鏡に何を見た?それが分からない。思い出せない。

 

まるで頭に靄がかかったかのようだ。

 

今俺の後ろにソレはいるのか?もしソレをもう一度見たら歪む。俺の何かが歪む。歪んでしまう。確信がある。見るな八幡。

 

見てはいけない。どうしてそう思うんだ?

思考を放棄しなければいけないのに。

 

絶対に後ろを向くな。どうしてそう思った?理由は何だ比企谷八幡?誰だ?

何をそんなに怯えている?早く見ろ。見ろ。

 

脳味噌がぐちゃぐちゃと音を立てながら、悲鳴を上げているような、優しい感覚。

 

見ろよ。見ろ。見るな八幡。見ろ。

止めろ八幡。見ろ。早く。後ろを向け。止めろ。俺を見ろ。

 

自身が何を考えているのかさえ分からなくなり、次第に意識が研ぎ澄まされるような、茫とするような。

神経を逆撫でするような感覚に吐きそうになる。

 

見ろ。見ろって。早く。見ろ。

 

胸を抑えつけるよにし、爪を深く突き立てる。

 

見ろ八幡。早く。早く。見ろよ。

 

視界に映るタイルが大きくなったり小さくなったりと、気持ち悪く蠢いている。

その様子は何故か俺に節足動物のコロニーを連想させた。

 

早く。早く俺を早く早く

 

恥の多い生涯を送ってきました。

一節が脳に浮かぶ。あの作品は何だったか……思い出せない。懐かしいな。

 

やく早く早く

 

左右の眼球が別々の景色を映しているのではと感じてしまい、林檎が磨り潰される、甘い匂い。匂い。臭い。

不快だ。酷く不快だ。

 

早くはやく

 

膝がガクガクと嗤い、俺は身体を支えることが出来なくなる。俺は歯を食い縛りながら洗面台にしがみつく。

 

早くはやく早く。

 

貴方達の息子は失敗した。貴女の兄は出来損ないだった。でもね、僕が悪いんです。全部。

 

早く。

 

脳味噌が卵白と卵黄のように、泡立って、スポンジが。潰れる。黄色い。吐瀉物。

 

早くはやく。

 

僕を見ろ。

 

早く……ーーーーー。

 

俺を見ろ」

 

…………。

 

 

…………。

 

 

…………。

 

 

…………。

 

 

「この臆病者。」

そう声が聞(そう俺は言った)こえた。

 

 

俺は勢いよく背後を振り返る。

しかし、そこには何もいない、ただ無機質なタイルの壁があるだけだ。

 

耳鳴りと共に世界に音が戻ってくる。

外から聞こえる部活動中の生徒の声。木々のざわめき。水道から流れる水の音。

そんな当たり前に、日常の一幕でしかないそれに、異常なまでの安堵感を覚えた。

 

しかし、荒く乱れた息は未だ直らない。

 

何も居なかった。何も無かった。何も起こり得なかった。

全部ただの思い違い。そうだ、そうなんだ。ただの気のせいだ。それで良いじゃないか。

 

ふと自分の言葉が蘇る。

「分からないという事は、ひどく恐ろしいことだから」

ああ…怖い。自分が怖い。分からないものは嫌いだ。大嫌いだ。俺は俺が大嫌いだ比企谷。

堰き止めていた涙腺が崩壊し涙が溢れ出す。嗚咽が()れる。無様だ。滑稽だ。

 

「ヒグゥッ……」

とんだピエロだ。とんだお道化だ。誰も理解などしてくれはしない。

俺の理解者は俺だけ。ぼっちだから、一人ぼっちだから。それでも俺には十分だった。十分だったのに。

 

「ア″ッ…ウ゛…」

なのに、今は自分自身すら理解者じゃないと、俺はそう気付いてしまった。

 

「やめろ、来るな。やめろ……やめてくれ……

暗闇が俺に伸びてくる。足元から、少しずつ、少しずつ俺を呑んでいく。俺自身が消えていく。

俺に囁き、嘯く。

 

「やめ″てくれよぉ……」

ついさっきまで怖かった声が今は恋しい。あの時もっと早く後ろを振り向くべきだったんだ。

 

俺は少しでもその場から離れようと、体を引き摺る。

出口は目と鼻の先にも関わらず、その2、3メートルが酷く遠く感じ、更に涙がボロボロと溢れた。

 

脚がいう事を聞かず、腕の力だけで必死に前へ、前へと進む。

「イヤ…だぁ……」

1秒、一瞬が俺の心臓を潰さんばかりに締め付ける。

廊下の光が近付くたびに、安堵感は消えていき、逆に黒い水が俺を呑み込んでゆく。

しかし、それでも。それしか縋るモノが無いのだ。そんな無機質しか、縋るものは無いのだ。

 

這う、這う。這って。這う。

右腕を前へ出し、体をひきずる。

「ヒッ…ひぁ…出してくれ……ッ!俺を出してくれぇ……」

交代するように左腕を前へ出し、体を引き摺る。

 

ズリ、ズリ、と音が聞こえる。何処からその音が聞こえているのかが分からず、それが恐怖心に拍車をかける。

 

気付けば、廊下の蛍光灯の光が、確かに俺の上半身を包んでいた。

「あ、ああ……あ…」

その事に酷い安堵感。

 

「あ、ああッ!」

 

では無く、酷い孤独感が、喪失感が内を黒い水で満たした。

どうしてだ。なんで、こんな筈では無かった。戻らなきゃいけない。そうじゃ無いと、俺は、俺は。

 

俺、はーー?

そこで、自分の身体の更なる異常に気付く。

 

「待てよ、……待てよッ!…おかしい、だろ」

命令を止めた筈なのに、体は勝手に前へと進んでいく。

 

おい、俺のモノだろ。俺のモノの筈だろうが。どして何だよ。

 

ホント、″何でだよ〟

光が身体を包んでいく。

それは今の俺にとって、何物にも耐え難い、拷問の様に感じた。

 

身体が光に包まれる。それと比例する様に、手足が動かなくなっていき、それと同時に意識が遠のいていく。

ああ、もう。どうにでもなれよ。

 

「この臆病者」

 

誰が言ったのだろうか。

俺はその言葉を聞きながら、意識を底に落とした。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

目を覚ましたとき、最初に目に飛び込んできたのは一色の顔だった。

なんだ、一色か。

……まったく、びっくりさせやがって。

俺は再び目を閉じる。

 

…………………。

 

…………………。

 

…………………。

 

って、ん?………一色?

再び目を開けてみると、そこには一色の顔……が……。

 

アイエエエエ!イッシキ!?ナンデイシッキ!?いや、マジでなんで?

「あ、…先輩?」

一色と目があった。どこか陰のある沈んだ表情。

「……おう、おはよう」

「………」

「………」

何この沈黙!気まずい!誰か助けて!!何でさっきから何も喋んねぇの!?

俺がそう思い始めていると一色がやっと口を開いた。

「先……ぱい…ですか?」

ん?なにこの娘、当たり前のこと聞いて。とうとうボケた?大丈夫?病院行こっか?もちろん頭の。

「お、おう……」

そんな脳内はおくびも出さずに返事をすると、一色の暗い表情に、少しだけ色が戻った気がした。

 

「………気分はどうですか先輩!?体調だいじょ「おい、一色」…なんですか?」

途中で話を遮られた一色が少しだけ眉を顰めた。

 

「いや、なんですかじゃねぇよ。」

男の子の夢のシチュエーションだけどね?いや、俺主観だと、さっきまですごいシリアスな展開だったと思うんだけど。まぁ、それはいい。今はそれよりも、だ…。

 

「なんで俺保健室じゃ無くて、生徒会室にいんの?てか……なんで膝枕されてんの?」

普通病人を運ぶとしたら保健室だろう?

「えー先輩、そんなに私の膝枕好きなんですかー?もう、そう思っているんだったら、そう言って……ハッ!まさか、そうやって膝枕して貰ってるから好感度高くて当然とか思ってるんじゃないですか、ごめんなさい。高いですけど、それだけで満足しないでちゃんと段階踏んでからもっと好感度上げに専念して下さい、ごめんなさい」

やだこの()話聞かない。

 

「いや、そういうの良いから」

何でコイツに会うたびに振られなきゃいけねぇんだよ。普通にダメージ受けてんだぞ。

「……てか、おい、脱線すんな。はぁ……。もう一度聞くぞ。 なんで俺は生徒会室にいんだ?」

「いやぁ、それがですね。先生方に資料の整理を手伝った帰りに、先輩が廊下に倒れてたから……」

……から?

「運んできました」

「成る程…そうかって。って、おい。じゃあ、それこそ何で保健室じゃ無くて生徒会室なんだよ」

まさか、考え無しに運んできたのか?もしそうならアホだろ。

 

「あーそれが。今日鶴見先生が不在で、保健室開いてなかったんですよー。って、まさか先輩私が考え無しに先輩を生徒会室に運んできたとか思ってましたか?」

失礼な、と言わんばかりに腕を組み、プンプン顔で俺を睨む一色。

思考を読まれ、俺はウ″っと言葉を詰まらせる。

そんな俺を見て、一色は「え″…マジで思われてたんですか……」と、ショックを受けたかのような顔をした。

「まぁ、なんだ。悪かったな」

謝罪する俺に鋭いジト目を向けてくる、後輩一色。

「ホントにそう思ってますか?誠心誠意心から?」

「あ、ああ。思ってるぞ。本当に悪かった」

 

必死に一色に向かって手を合わせ謝る。

すると、彼女は一度ふっと笑い、そのジト目を解いた。眉間に微かに寄っていたシワが消え、いつものあざとフェイスが戻ってくる。

 

そして、俺の頭をそっとひと撫でしてから言った。

「分かれば良いんですよ、分かれば」

「お、おう。悪かったな」

ジト目から開放された事に安堵を覚えると同時に、さり気なく頭を撫でられた事に、少し気恥ずかしい気持ちになる。

てか、マジなんで頭撫でたんだよ。あざといぞ後輩。並みの男子なら膝枕の時点で死んでるし、なんなら俺は死んでいるのかもしれない。

腹上死ならずの、膝上死。自分で言っといてなんだが語呂悪いし、人として普通に最低だ。反省、猛省。

 

「それと…あれだ。お勤め中迷惑かけたな」

「ほぇ?」

いや、″ほぇ〟って何だよ。普通に俺が何言いたいかくらい分かるだろ?

「ほら……俺をここまで運んだ事だよ。結構重かっただろ」

そう俺が言うと、一色が「ああ、そのこと」と、納得したような顔をした。

 

これでも、平均的な男子高校生レベルの体重はある。女子の一色にとってここまで運んでくるのはかなりキツイ肉体労働だったのでは。と、思っていると。

 

 「あ、それなら気にしないで下さい。運んだのは全部男子ですから」

不憫やで生徒会男子。

顔見知りである、生徒会男子の二人に頭の中で敬礼を送ると、ほろりと眼から塩水が垂れそうになった。一色いろは被害者のアイツらとは良い傷舐め会えそうだ。いや、やっぱ男に舐められるとか冗談じゃねぇからいいや。

 

「ところで先輩は、何であんなところで倒れたんですか?本当に心配したんですよ」

「ちょっと立ちくらみがしてな。まぁ、ちょっと疲れが溜まっているだけだから安心しろ」

「本当ですか?」

 何でお前がそんな不安そうな顔すんだよ。

「本当だよ」

 一色が俺の目をじっと見つめてくる。

 

「嘘です」

 

 そしてそう断言した。

先ほどまでと打って変わり、一色らしからぬ真剣な声音。

 

「私はどんなことがあっても先輩の味方ですから」

 信用出来ない。アイツらは俺から離れていった。

 

「だから……私を頼って下さい。お願いします。」

 それは無理だ。お前を巻き込むことになるから。

 

「分かった」

 そう俺が言ったとき、どこか一色は寂しそうな目で俺を見て、

「信じてますから……先輩」

 そう言った。

 

 

結局、その後は真剣な空気になる事もなく、一色と雑談をして過ごした。

その彼女と会話をしている間も、俺はずっとトイレで起こった事について考えていた。

 

 突然自意識が剥がれた。自分の思考に歯止めがかからなくなり、自分を見失いそうになった。

 一体俺はどうしてしまったのだろうか、と。

 

 さっき感じた、自分自身に対する恐怖が冷静になった筈の今でも(しこり)のように残っている。

 それが気持ち悪い。そもそも、俺の自意識が剥がれた原因は何だったのか。

 俺は鏡の端に何かを見た。確かに何かを見たはずなのに、それが思い出せない。見た後、俺を襲った負の感情。「怖い」

 あれは何だったのか。「怖い」自分自身の行動を制御出来なくなった。

背後を見てはいけないと、振り向いてはダメだと体に命じていた筈なのに。

「怖い」気付けば俺は背後を振り向いて見ていた。「怖いよ」あの感覚。

「怖い」俺の意識に無理矢理誰かが侵入してきたような感覚。

「怖い」「せん……ぱ…い…?」「怖い」俺は今自分が怖い。「怖い」分からない。

 視界がモノクロになる。

「怖い」「怖い、(ひとり)は嫌だ。」「………せ……ぱ…ッッ」(ひとり)は嫌だよな?

八幡?「ああ…嫌だ…」だよな?俺は臆病だもんな。

「見捨てないで」俺はお前を見捨てない。見捨てるのはお前だ。

見ろよ。俺を見ろ。(ひとり)が怖いんだろ?もういいじゃないか、

これ以上苦しまなくて。比企谷八幡。お前は十分耐えた。

頑張ったよ。だからさーーーー楽に………ーーーーーーーーー。

 

 

「先輩ッッッ!!!!」

 

 

 一色の叫ぶような声。

 

「え…あっ……いっしき?」

目の前に一色の顔がある。

「大丈夫ですか先輩!!?何度呼びかけても返事しないし……やっぱり……てっ、汗凄いですよ!?ホントに大丈夫ですか!?もしかして体調()!!?」

 うるさい。

「悪い……何でもない……」

「何でもないじゃないですよ!!さっきの先輩明らかに異常でしたよ!!?」

 うるさい。

「本当に何でもないんだ」

 うるさい。

「嘘ですよ!!!、だってッッ……!!!せんぱッッ「一色」……………ッ…………何ですか」

「悪い、ちょっと黙れ。頭に響く。″もう少しだったのに〟」

 自分でもびっくりするくらい、低い声が出た。

 

 それに一色は一瞬驚いた顔をした。だがすぐに、申し訳なさそうな顔をつくり言った。

「ごめんなさい。先輩は病み上がりなのに怒鳴ったりしてしまって」

「いや、俺もちょっと苛立って……その……悪かったな」

 居心地の悪い空気が漂う。

「あ…じゃ、悪い。奉仕部に戻るわ」

「……あ、あの先輩!!!!」

「何だ?」

 

「……どこにも行かないで下さい。」

 まるで捨てられた仔犬のような目で、一色は言った。

「あぁ?」

 もう一度体調について聞かれるのかと思っていたのでこの質問は予想外だった。

「どういうことだ?」そういう前に、無理やり背中を押され、俺は生徒会室から追い出された。

 

 

 生徒会室から追い出されるとき、一色が今にも泣きそうな顔で俺を見ていた気がした。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 今、私の膝の上では、先輩がひどく(うな)されています。うわ言のように何度も「やめろ」と呟きながら。一体先輩は何を拒んでいるんでしょうか。

 

 そんな先輩の姿を見ていると、胸が締め付けられるように苦しくなります。

 少しでも先輩の支えになりたい、その傷を癒してあげたい。でも、私がなにを言っても、先輩は絶対に弱音を吐いてくれないんでしょうね。先輩はそういう人だから。

 

 しばらく頭を撫でていると、先輩の目蓋(まぶた)が開きました。あ、やっと起きましたね先輩。

 

「あ!先輩、おはようございます!!まったくー心配したんですよー!!突然倒れて……「いろは」……どうしたんですか?突然呼び捨てにして。なんですか?く」

「お前さ…比企谷八幡のことどう思ってる?俺のこと好きか?」

私の言葉を遮るように、先輩が言葉を被せる。

 

「ふぇ?」

 

 その内容に頭の中が一瞬にして真っ白になった。

「な、なん、なな」

なんですか、口説いてるんですか?ごめんなさい。いつもの常套句。それが口から出てこなくなる。

 

え?先輩のことをどう思ってる!?てか俺のこと好きか?って……え!?……せ、先輩、そんな事聞くようなキャラでしたっけ!?ち、違いますよね!?

「な、な、突然なに言ってるんですか!?頭でもどこかにぶつけておかしくなったんですか!?」

 自分でもびっくりするくらい顔が熱い。きっと今の私の顔はゆでダコみたいに真っ赤になっていると思う。

「どうなんだ、答えてくれ……いろは」

「ヒゥッ!」

 先輩が真剣な表情をしながら下の名前を呼ぶ。その瞳のせいでさらに顔が熱くなる。

 先輩の名前呼び。普段は苗字のはずなのに、今は名前呼び。

 

これはアレですか?アレって?いや、アレですよ!!だってそうじゃないと、ありえないですもん!!あのヘタレチキンさんな先輩が突然私を名前呼びだなんて!!それに……あんな表情……!

 ……待って、落ち着きなさい、いろは。もしかしたら今日一日、名前呼びを奉仕部で強要されてる的なのかもしれないじゃない。むしろ先輩の性格からしてきっとそうに違いない。

 

『由衣……。』

『雪乃……。』

 

 由衣先輩と雪ノ下先輩のことを名前呼びする先輩。あ、想像してたらムカムカしてきました。

そのせいか少しだけ声にトゲが混ざる。

 

「なんですか?今日一日由衣先輩と雪ノ下先輩にでも、人を名前呼びするように強要されてるんですか?」

言い終えると、少しだけ虚しい気持ちになりました。

先輩が名前呼びされてるだけの、しかも妄想にイライラするだなんて……、なんか自分が大人気なくて悲しい気分になってきた。謝らないと。

 

「先輩、すいません!今のはたーー」

「何言ってんだ……今は、お前だけだよ。こんな風に呼ぶのは。」

「え?」

私の声を先輩が途中で切った。

 そして先輩の口から出たのは、先輩らしからぬ口説き文句のような言い回し。それに驚き、またポカンとした顔で先輩を見る。

 先輩が私の頬に手を添え、顔を近づけて言います。

 

「いろは、お前は比企谷八幡をどう思ってる?」

 

 近い近い近い近い近いです!!近いです!!どうして今日はこんなに積極的なんですか!!まるで別人みたいになってますよ!?

 先輩の顔を直視することが出来なくなって思わず目を瞑る。乙女か。乙女だ。

 

「え…あぅ…それは……。メールでまた……」

 私の口から出たのは完全な逃げの言葉。完全な逃げるコマンド。先輩の言う戦略的撤退。

「だめだ。今、いろはの口から聞きたい」

「ひゃぅッ!」

 しかし先輩からは逃げられない。それどころか顔を「ずいっ」と私に近づけて言ってくる。

 ちょ、それ以上は!それ以上は駄目です先輩!近いです、近いです!吐息……!吐息が!!ひゃあああああああああ!!

 もう逃げるという選択肢はない。というか、逃げられない。

 ええい!一色いろは!!覚悟を決めるのよ!

 

「ひゃ、ひゃい。……わたひは……」

 口がうまく動かず噛んでしまう。

 

「わたしは……しぇん輩の……。先輩のこと……。」

 言葉がつっかえ、舌が乾いていく。

……でも、言わなきゃ。

 

「……大切……に思ってます。誰よりも。」

 言った。

 初めて本気で好きになった人にした、本気の告白。少しもあざとくない私らしくない真剣な告白。

 身体中の血液が沸騰したみたいに熱い。この部屋暖房効きすぎですよ、汗が止まらないじゃないですか。

「いろは」

 先輩が私に顔を近付けてくる。ギュッと目を瞑る。

「……はい」

 自分の鼓動がうるさい。

 先輩からの返事は。

 

「ご愁傷様」

「はい!!…………はい?」

 

 最初の「はい」は先輩の告白がOKだと思っていた「はい」。

 二回目の「はい」は先輩が何を言ってるのか分からなかったからの「はい」。

 予想斜め上の返答をされた私の頭の中は一瞬でぐちゃぐちゃになりました。

え……?ご愁傷様?どういう意味?は?振られた?いや、この流れで?は?

 私は瞑っていた目を開けて先輩の顔を見る。

 

 その瞬間、身体中が一瞬にして粟立った。

 

 私が返答をする前とは全く纏っている雰囲気が違う。さっきまであったはずの先輩の暖かい雰囲気が消えている。

暖かい、なのに冷たい目だと思った。あの目じゃない。私の知っているあの目じゃない。

真っ暗な瞳は光を反射することなく、そのまま全て飲み込んでしまっているんじゃないか。そう錯覚すらする。

 コレは私の想い人ではない。むしろ何故今まで気が付かなかったのか。いや、分かってる。先輩に名前呼びされた事に自分が思ってた以上に舞い上がっていたからだ。

 まるで別人のような先輩に恐怖が肺を充満し、頭の中がさっきとは違う意味で真っ白になる。

声が出ない。怖い。

固まっている私に、先輩は語りかけるように喋る。

 

「いろは、比企谷八幡は諦めろ。どうやらコイツはお前のことを結構気に入ってるみたいでな。だから特別に忠告しといてやるよ。ーー諦めろ。後悔することになる。」

 まるで、自分自身のことを他人のような言い方をする先輩。

どうして?どうしてそんなこと言うの?どうしてそんなことが分かるの?

 

「分かるさ、比企谷八幡は俺だからな。」

 思っていたことを読まれた。口には出していなかったはずなのに。

そのことに、恐怖心が加速する。

「顔に出てたよ。今も出てる。てかいつもお前らが俺にやってることだろ?」

 そう言ってソレはケラケラと笑った。

ケラケラと。ケラケラと。

そして、何の前触れも無く再び倒れ込み、私の膝に綺麗に収まった。

 

規則正しい寝息が聞こえてくる。

「…え、あ……え?」

まるで最初から何もなかったみたいに。

 生徒会室には未だ状況をしっかり飲み込むことのできない私と、あどけない表情で眠る先輩だけが残された。

 

 

 結局、先輩が目を覚ますまでの30分間ーー私はぐちゃぐちゃになった頭を、抱えるようにして過ごした。

 

 

 



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必然的に、比企谷八幡は邂逅する。

 

 

 窓の外には薄墨が混じった夕暮れが広がっている。

 思った以上長い間、部室から離れてしまっていたようだ。

 早く戻らないと、雪ノ下に罵倒されちまう……。

 

 じくじくと痛む脚を無理矢理動かし、俺は早足で部室に向かう。

 

 

 

 

 部室の中からは楽しそうな二人の話し声が聞こえてくる。

 俺は雪ノ下の楽しそうな話し声が聞こえたことに驚いた。

 修学旅行以来、雪ノ下は前の様に喋らなくなったからだ。普段通りに振舞ってはいたが、少し陰が射していた。

 だが今の雪ノ下の声からはそんなものが感じられない。以前の。陰が射していなかった雪ノ下の喋り方。

 胸が熱くなる…口から思わず笑みが溢れる。

 なんだ、奉仕部は終わってなどいなかった。俺の思い違いだ。

 俺も早くそこへ……「早く行け。」耳元で声が聞こえた。

 うるさい分かっている。だから黙れ。俺は、俺はそこに。

「早く行け」奉仕部の扉に手をかける。「早く。早く。」うるさい。

 

 俺は奉仕部の扉を勢いよく開ける。

「悪い、遅くなった!」

高校に、いや、中学小学を合わせても、ここまで声を出したことは無かったかもしれない。

 

 しかし、俺の反応とは裏腹に、瞬間二人の楽しそうな声がピタリと止まった。

 え?何でだ?どうして?さっきまで、あんなに楽しそうだったじゃねぇか。なんで止めるんだよ。

 

二人が信じられないものを見るような。今まで俺に見せた事のない表情を向けてきている。

ただ、それが決して友好的な正の譜面を持っているものではないという事だけが漠然と分かった。

 

おい、何だよその眼。

なんでそんな目を俺に向けるんだよ。何で黙るんだよ。何で何も喋らないんだよ。

 

 ………俺が来たから?

 

 ………俺が来たからなのか?

 

 

 

 身体中を駆け巡っていた熱が急速に冷めていく。

 遠くから嗤い声が聞こえる。

 

「比企谷くん」

 雪ノ下の声

「明日は部活に来なくてもいいわ」

 

 地面がひっくり返り深い深い虚に落ちていく錯覚。

思考力が一気に剝がれ落ち、意識が遠退いていく。

 

 その後も雪ノ下は何か言っていたようだが、何も耳に入ってこなかった。

 そこからの記憶は曖昧だ。ただ、ポッカリと空いた記憶の中で、誰かが俺を掴んだのだけが分かった。

 

 

 

 

 気付けば家の前にいた。

頭の中が嫌に静かで、なんの思考も思案も浮かばない。

 

 鍵を開け、玄関で靴を脱ぎ、そのまま部屋に向かう。 自室に着き、ベットに倒れこむ。ベットがギシリと軋んだ。

 近くにあった布団を適当に掴みそれに包まり、幼子のように体を丸める。

 

 もう……疲れたな。休もう、八幡。「そうだな…」疲れ……た…な……。

 

 

 俺はその欲求と共に、そのまま意識を闇に沈めた。

 

 

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 冷たい空気に、ふと目が覚める。

 

 月明かりが部屋を薄く照らしている。ケータイで時間を確認すると短針が3を指していた。

 布団からむくりと起き上がり、大きく伸びをする。すると、冬の刺すような空気が肌を撫でた。それが妙に心地いい。

 寝惚けた頭が、少しずつ真冬の透き通った空気のように頭の中がクリアになっていく。 俺は伸びをやめ、ベットに座り込む。そして今日あったこと出来事を思い出すように、瞑目した。

 

 昼休みいつものように暴力を振るわれていたこと。

 奉仕部で声を聞いてしまって気分が悪くなってしまったこと。

 トイレで何かを見て倒れてしまったこと。

 倒れたところを一色が発見して生徒会まで運んでいてくれたこと。

 一色が一瞬見せた、今にも泣きそうな顔のこと。

 そして……。

「明日はこなくてもいい……か。」

 

 そう言われ頭が真っ白になったこと。

 

 もしかしたらアレは拒絶ではなく他に何か意図があったのかもしれない。

 そう思ってしまう。そんな甘い考えを依然として持っている自分に嫌気がさす。

 

 勝手にあいつらに期待して。勝手に考えを押し付けて。勝手に理解されなかったと失望して。勝手を重ねたがゆえに、最終的に見放された。

 何度も戒めた筈なのに何も直っていない。何も成長していない。

 つまり、そういうことなのだ。

 結局俺がトラウマを披露していたのも、ただのポーズにすぎない。俺は過去のことを忘れてなどいないと、だから同じ失敗はしないのだと。そう、何度も何度も自己暗示のように、自分に言い聞かせていただけなのだ。

 その証拠に、今でも俺はどこか奉仕部に期待している。 拒絶ではなく他に何か意図があったのかもしれない…っと、そう思ってしまったのがその証拠だ。

 そんな自分に反吐がでる。それでも、比企谷八幡は、

 

 奉仕部に、彼女達に期待してしまう。

 

 

「なぁ、八幡」

 背後から声が聞こえる。不思議と不快感は感じない。寧ろ今はその声がどこか心地良い。

「何だ?」

 優しい声で短く返す。

「…気付いてるか?。いや、気付いてるんだお前は…。お前が奉仕部に入り浸る理由はもう無い。 そこにお前の望むものはない。それでも……、お前がそこにいようとする理由は」

「あぁ、ただの依存だ」

 肺の空気を吐き出すように、俺は内側に溜まったものを吐露する。

「あの部屋に本物があるわけが無い。いや、たとえ俺以外の……二人が本物だとしても…。 俺が本物になれない……。俺があの二人に今抱えているのは、信頼とかそんな綺麗なモノじゃ無い。もっと……触れる事すらおぞましいなにかだよ」

「お前は怖いんだよな。孤りが。」

 再度ふっと嘲笑が漏れた。今度は溜息など含まれていない、完全な自分自身への。

「あたり前だろ。怖いに決まってる。真っ暗なんだよ。他人も、自分も。周りの全てが。何も分からないんだ。分かりたくても。」

 

 俺は分かりたい。知って安心したい。安らぎを得ていたい。分からないということは酷く恐ろしい事だから。

「あの二人のことを理解したかった。理解していたつもりだった。そうやって理解していると思い込んで、安らぎを得ようとした。」

 

 

「なぁ……教えてくれ。俺はどうすればいい?」

俺がそう問いかけると、ソイツは、

「   」

と、短く答えた。

それを聞くと、薄い笑みが顔に張り付いた。

 

 ああ、そうだな。その通りだ。

本当は最初から、その答えは分かっていたのだ。

 

 俺は息を吸い込み、後ろを振り返る。そして、

 

「はは……」

乾いた笑い声が漏れる。

「よう」

そこには毎日鏡で見ていた、目つきが悪く、いかにも幸薄そうな顔つきをした男がいた。

 大体予想できていた。

自分との邂逅。三流作家でももっとマシな内容を書くだろうと思ってしまう程、テンプレじみた展開に、思わず苦笑いが出た。

だが、それもすぐに別の感情に消える。

 邂逅、もう一人の俺。格好いい響きだ、そう以前の俺なら思っただろう。

だが、実際にその場面に立っているのが自分自身となれば話は異なってくる。

 

「なぁ、俺はこれからどうなるんだろうな」

頭に手を当て、そのままゆっくりと手を下ろし顔を覆う。

そう問いかける俺に彼は「さぁな」と短く返した。

 

「教えてくれ。俺は頭がおかしくなったのか?俺は狂ったのか?」

そんな分かりきった事を確認する様に聞く。今頃になって体が細々と震えた。

「だろうな、俺がいる時点でおかしいだろ。どう考えてもお前は、俺は頭がおかしくなっちまったんだろ」

ああ、やはり俺は壊れた、壊れたのだ。それはいくら言葉を変化させようとも揺るぎない事実で、真実で、現実なのだ。そんな事を今更ながら再確認する。

彼の軽い口調には、それだけの重さが込められていた。

「でもさ、もう良いだろ?俺は今日まで十分頑張ったよ。でもこれ以上耐えられるか?」

その問いに俺は左右に(かぶり)を振る。

 

 無理に決まってる。こんな日々が続けば、俺がこれ以上狂い、壊れるのは時間の問題だ。

「今、俺は自分が冷静…じゃないが普通の精神状態に近いと感じてる」

異常なほどに。こんなものが見えているにも関わらず脳の中は冴え冴えとしている。

では、何故?

ここ数日の俺の学校での精神状態は明らかに異常だった。何度も意識が飛んだし、頭が回らなくなったりもした。錯乱状態にも陥っていた。

それがいきなり解消された。

 

「一つ仮説を立てようか比企谷八幡」

目の前には立つ俺がそう言い、座った俺に目線を合わせる様に腰を屈める。

「仮説?答え合わせじゃないのか」

「当たり前だろ、俺はお前だ。お前が分かんねぇのに俺が分かるわけねぇだろ」

俺にそう返し、彼は俺に心底呆れたという眼を向けてきた。そして、「まぁ、少しはお前より詳しいが」と小声で付け足す。

 

「で、仮説だが。お前、もう諦めたんだよ」

 

は?諦めた……?

理解の追い付いていない俺を見て、彼は一度ふっと笑う。

「それで一周クリアしたんだ」

一周って…?その言葉に今度こそ俺は首を捻る。

意味が分からないと俺は言葉の先を待ったが、彼はそこで「以上」と言葉を切った。

いや、待て。コイツ…。

「一体何を言ってんだ?分かるように言ってくれ…」

「だから、お前は一周回って正気に戻ったんだよ」

正気なワケがあるか。俺は正気だと言うのなら、俺の前にいる幻覚(お前)はなんなんだよ。

そう俺が言おうとするより速く、彼が口を開いた。

「だから言ってるだろ、1周回ってってな。俺は景品なんだよ」

そこでやっと彼の言おうとした事が分かった。

ああ、成る程、そう言う事か。そうだな昔のゲームでよくあった。

 

「……全状態リセット…ついでに新しいアイテムの追加かってやつか?」

口元に歪んだ笑みが浮かぶ。

「ついでに、難易度上昇のタメの体力ゲージの減少も入れとくか?」

彼は冗談めかした口調でそう付け加えたが、それは俺に対し…最悪を意味している。

体力ゲージの減少だったら、周回クリアじゃなくてゲームオーバだろ。

 

「間違ってねぇよ。もう長くは保たない。すぐにまた限界がくる」

俺の思考を読んだかのように彼が言う。

「だから、また壊れる前に行動しとけ。その行動で壊れても…」

 

 ーーーーーーどうせ早く壊れるか。遅く壊れるかの違いだ。

 

「………ああ」

 

ゆっくりと頭を上げると、もう既にそこに(かれ)はいなかった。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 

 

 

 このとき、俺は自分が再び壊れるまでもう少し時間があると思っていた。

 周回されたことによって自分に少し余裕ができていると思っていた。

 

 甘えていたのだ。

日常と非日常を切り離す事によって、俺は心の何処かでそれを拠り所とし、安らぎを得ようとしてしまっていたのだ。

 

 

 

 痛みは。裏切りは。変化は。変悪は。

 

 次の日、いとも簡単に俺を壊した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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しかし、比企谷小町の想いは兄に届かない。

 

 

 

 

 

目を覚ますと肌寒い空気が頬を撫でた。それに俺はぶるりと体を震わせ、布団を一度寄せ集め体を縮める。

 

「朝か……」

そう一言だけ呟くと、すぐにのそのそと布団から這い出して伸びをする。すると、身体の節々が軋むように痛んだ。

 

それに「ハァ…」と溜息を漏らすと、ボンヤリとした白い煙が口から出た。うう、寒ぃ…痛ぃ…。

今日もまたあの痛みを感じなければいけないのかと思うと朝から憂鬱な気分になる。……死にたい。

 

俺はお腹の部分の衣服をつまみ上げ、改めて自分の傷の状態を確認してみる。

 

いつもは朝っぱらから傷を確認するようなマネはしない。

寧ろ忌避すらしている。しかし、今日は何故かそうするべきだと、そうしなければならないのだと、謎の義務感を感じたのだ。

 

改めて見た皮膚の色は、赤黒く変色しており、至る所から血が滲み出ている。ところどころに紫檀色や紅掛花色のまだ完全に赤に染まっていない痣も中にはあり、それがまた視覚的な痛々しさを強調させていた。

 

俺はその痣が痛まない程度に、そっと指を走らせる。

すると、沸々と身体の底から何かが滲み出るような、不思議な感覚を覚えた。不快感はない。

 

「…壊れる前に…か。」

ふと昨日俺が言った言葉を呟く。

 

長くは保たない。なら出来るだけ早くアクションを起こさないとな。まぁ、今日すぐにというコトは無いだろうから、また近日といったところか。

そんなことを考えていると、部屋の外から、一定のリズムで近づいてくる足音が聞こえてきた。

 

この足音…小町か……ッ!!

 

即座に衣服をつまんでいた手を離し、傷が見えないように服装を直す。

その数瞬後、バタンッ!と勢いよくドアが開かれ、そこから予想通り愛しのマイシスターが顔を出した。

 

「グッドモーーーーニングお兄ちゃん!」

 

「もうちょっと静かに起こしにこれねぇのかよ」

「いやぁーごめん、ごめ……え?」

 

少しずつ小町の表情が驚愕に染まっていく。目は見開かれ、口はポカンと空いている。

マジでどうしたんだ?

 

「あんだよ?」

「いや?……ほ、本物?……本物のお兄ちゃん?」

「何で疑問系なんだよ。どっからどう見ても本物の、お前が大好きな愛しのお兄ちゃんだろ?」

 

どうしたんだ妹よ、ついにただでさえ残念な頭が更に残念になってしまったのか、と心配していると、未だ驚愕の熱が冷めていないのか、目を見開いたままの小町が言った。

 

「いや、だって。お兄ちゃん……そ、その顔……。……自覚…無いの?」

そう言うと、小町は走って俺の部屋を出て行った。

 

てか、顔?俺の顔が何だ?

さっきの小町の反応が気になり、自分の顔に手を当てていると、

バタバタとした音が部屋に近づいてきた。

顔を出したのは勿論小町だ。ただ、その手には今、少し大きめの手鏡を持っている。小町はその手鏡を俺の前に突き出してきた。

 

鏡に自分の顔が映る。

「……ッ!?」

そして、その鏡に映った異常な光景に俺は驚愕した。

笑っているのだ、俺の顔が。しかもかつて見たことない程、爽やかに。そのあまりの光景に、コレが本当に自分なのかと疑ってしまう。

「何だよ……コレ……」

至近距離にいる小町にも聞こえないくらいの声でそう漏らす。

コレは直るのか ……?もし、直らなければどうなる。

その想像に鳥肌が立ち、背中から嫌な汗が流れる。

 

すぐに俺は自分の表情筋を元に戻そうとする。

すると、随分あっさりと、元の腐った目をした仏頂面顔に戻った。

 

……よかった、アノ顔が解けなかったら、マジでどうしようかと思った。

だがいつからだ?いつから俺は笑っていた?

 

「お兄ちゃん?」

何の反応も返さなかった俺を不審に思ったのか、心配そうに小町が俺を覗き込むように見る。

 

下手に小町に不信感を募らせるのは悪手だ。この状況を誤魔化さなくてはいけない。

 

「どうだ、小町!びっくりしたか?」

俺はわざと大きめの声を出しながら、小町にそう言った。

 

「え、え?」

未だ困惑気味の小町に捲したてるように言葉をぶつける。

 

「いやぁな、昨日雪ノ下と由比ヶ浜にニヤけ顏が気持ち悪いって言われてな。

俺自身は普通に笑顔を作っていたと思っていたから結構ショックで、それで今日から笑顔の練習を始めたんだ。うん。

にしても小町、驚きすぎだったぞ。鳩が豆鉄砲を食ったような顔して、そんなに俺が爽やかな顔してたのが驚きだったか?

お兄ちゃん普通に傷ついちゃうよ?おっと、もうそろ朝飯食わなきゃヤバイな。

いつもはこんな早く登校しなくてもいいんだが、今日はいろいろ……そう、いろいろあってだな!

だから、ほら、早く飯食うぞ!」

 

「………分かった、早く食べよう」

顔を上げ、小町の顔を見る。その目には憂慮と決意の色が混じっている。

 

「あと、朝御飯のとき、話があるから」

 

そう言葉を残し、小町は部屋から出て行った。

ドアがゆっくりと音を立てながら閉まる。静寂。部屋の中の温度が少し下がった気がする。

 

近くにあった枕に、顔を埋める。

どうしてあんな風に喋った、少しも俺らしく無い。俺はあんな風じゃ無かっただろう。

どんだけテンパってたんだよ、俺。

 

「……馬鹿が」

自分に向けてそう呟く。

 

だが後悔しても遅い、

小町は基本アホの子だが、普通に聡い。

勘付かれた何てもんじゃ無いだろう。小町からすれば、今の俺は真っ黒だ。必ず踏み込んでくる。

昨日の朝のように、俺を探るような物言いは何度もあった。だが俺がその言及を躱していたから、事無きを得ていた。

だが今日はそういかないだろう。

 

 

小町のあの、決意の色が混ざった目。ソレが頭に浮かんだ。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

階段を下り、一階のダイニングへ向かう。

そこにはすでに小町が座っていた。

俺は小町の向かい側の椅子に腰を下ろし、目の前にある飯を食い始める。

 

いつもあるはずの小町と俺の間での会話は無く、

ひっそりとした、それでいてどこか厳粛な空気が流れている。

掛け時計の、秒針を刻む音と食器の擦れる音。普段だったら気にも止めないような小さなその音が、この時はイヤに大きく部屋中に響いている感じがした。

 

ふと、小町の方を見る。

その表情は、垂れ下がった髪が邪魔して伺うことができない。

俺は再び自分の食器に目を向けようとした。

 

そのとき、小町の食器が一際大きな音を立てた。不快感を催す高い音が、部屋に響き渡る。

それを合図にしたように、部屋中の空気が更に張り詰めた気がした。

 

小町が箸を皿の上に揃えて置き、顔をこちらに向ける。

その顔には、俺に対してこれ以上の逃避を許さないという、小町自身へ向けられた強い意志を感じる。

 

どこか居心地が悪くなり、小町から顔を逸らすと、小町が口を開いた。

 

「ねぇ、お兄ちゃん」

 

その一言だけで、先程張り詰めていた空気が更に張り、気温が数度下がったような錯覚に陥る。

 

「何だ」

 

「小町に今お兄ちゃんが何を悩んでるか教えて」

小町は言葉に少しの捻りも加えず、直球で今自分の知りたいことを尋ねてきた。

 

「ソレは言えない」

 

遠回しに、自分は悩んでいるということを肯定する、俺らしくない台詞。

いつもの俺なら言葉を濁し、逸らし、勝手に完結させ会話を打ち切っただろう。

だがそんなことを今の小町にしても無駄なような気がした。そしてきっとその予感は当たっている。

 

「どうして?」

「どうしてもだ、理由なんかない」

「理由がないんだったら教えてよ」

 

分かってはいたが、今日小町は一歩も引く気はないようだ。

 

そんな小町と俺との間で、しばらく押し問答が続く。

 

それに少しずつ苛立ちが積もっていった。その所為だろうか

 

「うるせぇよ」

 

自分でも驚くほど低い、まるで怒気の篭ったかのような声が出た。

言ってから『しまった』と思ったが、もう遅い。

 

小町はその声にしばらく呆然としていたが、

しばらくすると、ワナワナと唇を震わせ、顔を真っ赤に染め、握り拳を作り思いっきりテーブルを叩いて立ち上がって言った。

 

「ねぇ、何で?」

 

普段の小町からは想像も出来ないほど低い声。

 

「何がだ?」

白けるように言う俺に痺れを切らしたのか、小町が怒気を含ませ、怒鳴るように言う。

 

「何でなにも教えてくれないのって言ってるのッッ!!」

鼓膜を震わせる大声。

 

小町はまるで俺を糾弾するかのように言葉を紡ぐ。

 

「お兄ちゃんはいつもそう、答えを自分の中だけで完結させてッ!!」

当たり前だ、世界は俺の、俺自身の主観だ。

問いは自分の中で完結させるしかない。

 

「もっと周りを見てよ!!今お兄ちゃんが傷つくのを見て心を傷める人達もいるんだよ!!」

 

きっとソレは奉仕部の二人のコトを指しているのだろう。

だが、俺は今その二人にすら深い疑念を抱いてしまっている。そして、その疑心は今、自分自身にすら矛先を向けているのだ。

今の俺はまるで、人の心を信じる事すら出来ない、かの邪智暴虐の王のように映るだろう。

しかし、俺を瞳に映し、内を探ろうとする人間など、精々探しても小町位だ。

 

 

「小町も今までは、そういう方法を見てもお兄ちゃんのことを理解してたから、何も言わなかったよ。

でもね、今回は見逃せない。そこまで傷ついたお兄ちゃんを見捨てられないッ!!」

 

そこまで言い終わると肩で息を吐きながら俯いた。しばらく深い呼吸を繰り返してから、小町はこちらに目を向けた。

 

その目には、先ほどまで含まれていた怒気などは含まれていない。俺に何かを懇願するような目。

 

 

「お願いだよお兄ちゃん……小町をもっと頼ってよ……」

小町が弱々しく。今にも消えそうな声で俺に言う。

 

それっきり小町は再び俯いてしまった。

 

ダイニングに俺が飯を食う音だけがこだます。

俺は最後に目玉焼きの黄身の部分を箸で裂き、それを口に含んで咀嚼して吞み込み終わってから、箸を皿の上に置く。

 

「なぁ、小町。ありがとな。そこまで俺のコトを想ってくれて」

 

「お兄ちゃん…?」

 

少し泣いていたのか、目元が微かに赤い。そして今俺に向けられている目は俺への期待を宿している。

そんな小町をどこか愛おしく思いながら言葉を続ける。

 

 

 

「でも、俺はお前に頼る気はない」

 

 

ごめんな小町。俺にお前の望む答えを用意する事は出来ない。

 

 

「どう…して………?」

冷たく突き放すような俺の答えに、小町は固まったように動かない。

 

しばらくすると、小町は唇を噛みながら絞り出すように言った。

 

 

 

「お兄ちゃんのバカァ……

 

 

もう……もうッ!!二度お兄ちゃんの顔なんて見たくない!!

どっか行っちゃえッッ!!!バカァあああ!!!」

 

絞り出すような声は次第に大きくなり慟哭に変わり、ダムが崩壊するように小町の目からは涙が溢れ出した。

 

「そうか…」

俺はそう呟くように言い、椅子から立ち上がる。

嗚咽を漏らす小町を、出来るだけ視界に入れないようにしながらダイニングと廊下を繋ぐドアを開けた。

 

 

「…どうして………」

ダイニングの方から、意識していなければ聞き逃してしまいそうなほど、小さい声が聞こえる。

 

 

 

 

 

 

 

 

俺は振り向かず、その言葉から逃げるように扉を閉めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




と、いうわけで6話でした。
過去編終了も近づいてまいりました、後二歩ほどです。

コレの前に、小町と八幡が仲違いしないものも書いたのですが、
そうしてしまうと、小町という拠り所が八幡に出来てしまうので、ボツにさせて頂きました。
どうでもいいですね。

あと2話ほど辛いものが続きますが、もう少しなので、それまで是非お付き合い頂けたら嬉しいです。

では、また次回投稿でお会いしましょう。


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比企谷八幡が壊れた日。

注意・今回は多大な胸糞、残酷要素が含まれています。



苦手な方は、ブラウザバックして下さい。

あと、読み終えた方は、もしよろしければ今回のあとがきに目を通して下さい。













 

 

 

 

 

「もう……もうッ!!二度お兄ちゃんの顔なんて見たくない!!」

 俺のことを否定する声。

「…どうして……お兄ちゃん…」

 学校への通学路、俺に向けられた哀しい目。朝のその光景が、何度もフラッシュバックのように脳裏に浮かんでくる。

 

 仕方がなかった。

 ちょっとした人間関係だったら、まだ小町に相談することも出来ただろう。

 だが、俺が今あっているモノはそんな優しいものじゃない。

 

 人の、集団の悪意がまるで粘着質な液体のように、グチャグチャに混ざり合った醜い集団心理だ。

 

 そんなものに小町を巻き込む事は出来なかった。

 そう、だから俺は、小町が差し伸べた手を拒絶した。拒絶するしかなかったんだ。

 

 だから。だから、俺は何も悪くない。

 

 終わることのない自己弁護を、心の中で何度も何度も繰り返す。

 自らその薄汚さに、その欺瞞に気付いていながらも止まらない。

 自己を正当化しようとする自分自身に吐き気がする。

 それでも、俺はソレを止めない。そうでもしないとまたすぐに壊れてしまいそうだから。

 

 そうして今度は、壊れるコトを理由にして、

 俺は再び終点の見えない自己弁護を続けようとしてしまう。

 

 ああ、俺は醜いな。

 

 肺から無理矢理空気を出すように、必要以上に深い呼吸を俺は繰り返しながら自転車を漕ぐ。

 

 そうでもしないと、

 汚泥のように奥底に溜まっていく感情に潰されてしまいそうになるんだよ。

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 (まと)まらない自己弁護と自己嫌悪を繰り返しているうちに、学校が見えてきた。

 

 途端に自転車を漕いでいた脚が重くなる。気の所為などいう言葉で済ませられない程、確実に。

 背中から汗が流れる。自転車を漕いでいたときに出てきた熱い汗ではなく、氷のように冷たい汗。

 

 自転車小屋に自転車を置き、靴箱を通って教室の前まで歩く。

 教室が近づいてくると、動悸が速くなり、呼吸が荒くなってきた。

 背中から流れるぬめりとした汗が止まらない。

 

 教室の扉に手を当て、扉を開けようとすると手が細く震えだした。

 

 どうなってんだ。昨日より……いや、今までより明らかに悪化してる。

 

 落ち着け……。落ち着け。深呼吸だ、深呼吸。

 そう自分に言い聞かせ、深呼吸をしようとするが、

 俺の体は脳の命令を無視するかのように、ただ教室の扉の前で突っ立ている。

 

 動悸が更に速くなる。呼吸がキツい。そのまま地面に座り込みたくなる。

 

 ああ……もう駄目だ。

 

 

 そう思った途端、

 

 少しずつ、ゆっくりと視界から色が消えた。

 

 耳に入ってきていた、生徒同士の姦しい声が少しずつ遠くなっていく。

 身体から熱が引いていく感覚。

 ドライアイスでもぶち込まれたように、冷静になっていく思考。

 

 モノクロに映った、色の無い世界。

 

 静謐に抱かれ、音の支配から隔離された廊下。

 

 そんな世界にゆっくりとした足音が聞こえてくる。

 その足音は少しずつこちらに近づいて来ているようだった。

 

 しかし、姿が見えない。

 それでも足音は止まることなく、一定のリズムを刻む時計のように、一歩一歩近づいてくる。

 

 そしてその足音は手を伸ばせば届きそうな距離で、ぴたりと止まった。

 

 

「失せろ、コレは僕の体だ。触れるな。」

 

 

 その声は一体何処から発せられたのだろう。

 

 研ぎ澄まされた世界の中で、

 その声だけがまるで場違いのように浮いて、(ぼう)としていた。

 

 顔に違和感を感じ、手を両頬にあて、顔を撫でる。

 口元が吊り上がっている感触。

 

 ……笑っているのか俺は。

 

 そう意識した途端、口元の吊り上がっていた感触が消えた。

 

 

 

 再び世界に音と色が戻ってくる。

 

 気付けば俺は扉に手を掛けていた。動機と荒い呼吸は止まっている。

 何だったんださっきのは……。足音の主は誰だ?また俺?いや、何故かアイツとは異質のものを感じた。

 いや、じゃあ誰だよ。何だよ。え?

 

 と、俺は混乱している勢いで、そのまま教室の扉を開けた。

 

 

 無遠慮な()めつけるような視線が襲ってくる。

 その視線に、さっきまでの疑問が嘘のように、頭から霧散した。

 

 しばらくするとソレは俺を嘲罵する声に変わり、

 まるで少量の毒を点滴で垂らすように、俺の精神をじわりじわりと(なぶ)っていく。

 

 するといつものように、顔をニヤつかせた連中がきた。

 

「今日の放課後、体育館裏に来い」

 

 それだけ言うと連中は自分のいた席へと戻る。

 その後ろ姿をじっと見つめたあと、

 俺は机に突っ伏し、寝たフリをした。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 比企谷くんがぼうっとした顔で、黒板の板書を見ている。

 

 今日一日、彼のコトを見ていたが、彼は一度も板書を写していない。

 一応、机の上には教科書、ノート、筆箱は出してあるし、手にシャーペンをしっかり持っている。

 でも、ずっと何処か虚空を見ているだけで、板書を写そうとはしない。

 

 比企谷くんからの依頼を受けたあの日から、

 私はずっと教室内で、結衣と隼人くん達を、彼と遭遇させないように気を配り続けてきた。

 

 それが私が彼に命じられた依頼だったから。

 

 きっと彼は、それで私の罪悪感を少しでも和らげてくれようとしたのかもしれない。

 けれど、私からすればそれは逆効果だった。

 

 彼のその優しさが、自己犠牲が、汚い私を糾弾するように責めるのだ。

 私は、彼の依頼で動けば動くほど、罪悪感は比例するように増していった。

 

 

 

 罪悪感に苛まれる日々が続いていた、ある日のことだった。

 放課後、体育館裏に比企谷くんが呼び出されていることを知ったのは。

 

 

 ソレを知ったのに私は体育館裏に行かなかった。

 私はそこで何が行われているのかを、知るのが怖かった。

 知ればきっと、私は罪悪感で潰れてしまうから。

 

 

 いや、何が行われているのかなんて簡単に予想がついていたのに、

 比企谷くんの依頼を免罪符にして、ずっとその事実に触れないようにしてきていた。

 そうして、目を逸らすたびに、また罪悪感が積もっていった。

 

 そして昨日、私はとうとうその罪悪感に耐え切れず、体育館裏に行ってしまった。

 そして見てしまった。

 

 何度も何度も嘔吐を繰り返しながら、地面に蹲り、今にも壊れそうな比企谷くんを。

 そして比企谷くんに笑顔で何度も何度も暴力を振るうクラスメイトを。

 

 私は驚愕のあまりその場から逃げるように離れた。

 自分の予想より遥かに悍ましい光景だが広がっていた。

 まさかあんなに酷いことになっているだなんて思ってもいなかった。

 

 今まで溜め込んできた罪悪感が一気に爆発したように私の内面を掻き混ぜた。

 

 ずっと目を逸らし続けていた分の罪悪感に潰されそうになり、

 視界がぼやけ、強烈な吐き気に襲われた。

 今すぐこの事を公けにしてしまいたかった。

 

 だから私は決めた。

 今日、私は比企谷くんが暴力に合っている現場を動画に収めて、

 そして、それをクラスで。学校で。

 明日その動画を拡散して、公けにする。

 

 

 

 比企谷くん、ごめんね。君との約束は守れそうにないよ。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 気付けば今日の授業は全て終わっていた。

 授業中は、ずっと何処か遠い所を見ていた気がする。

 

 鞄を持ち、席を立ち上がり廊下に出る。

 廊下をしばらく進んでいくと

「おい、ヒキタニ」

 後ろから声をかけられた。

 

 後ろを振り向くと、連中がニヤニヤした顔でこちらを見ていた。いつもの五人組。

 ソイツらの目を見ていると、これから起こることの恐怖が湧いてきた。痛みという恐怖。

 

 そして、こちら側に再び戻ってこれるのかという恐怖だ。

 

 そんな俺の内面など連中は知る由もなく。

「体育館裏に来い」

 そう無慈悲に告げた。

 喉が乾き、声が出なくなる。歯がカチカチと震えるのを無理矢理抑えつける。

 

 俺が何も言わなかったのを肯定と連中は受け取り、大股で体育館裏に向かっていく。

 それに、俺はついて行くしか無かった。

 

 連中と廊下を歩いている最中も、朝の小町の言葉が脳裏に浮かび上がる。

 今頃になって小町への罪悪感が湧いてくる。

 もっといい言い方があったのではないか。

 あの時あんな風に言っていれば、と。ありえたかもしれないIFが頭の中に何度も浮かんでは消える。

 そんな思考を頭を振ることで霧散させ、顔を上げる。

 

 見えるのは連中の背中だけだ。

 

 

 

 処刑場に近づくほど、手の震えは酷くなり、汗が背中を流れ、傷が激しく痛み始める。

 

 

 

 

 体育館までの道程が、まるで光も届かない程暗い深淵に向かっているような錯覚に陥る。

 

 徐々に視界から色が、聴覚から音が消えていく。

 今日、教室で、授業中で何度も体感した不思議な感覚。

 

 徐々に視界が暗くなっていき、

 

 気付けば何も見えなく、聞こえなくなっていた。

 足元が覚束なく、自分が本当に地面を歩いているのかさえ分からなくなってくる。

 

 まるでフラフラと夢の中を彷徨いているような感覚。

 

 これは現実からの逃避だと、そう確信する。

 

 思考の海に意識を投げ出していると。

 

 

 

 

 

 突如腹に不快感が走った。

 

 

 

 

 

しかし不思議と痛みと嘔吐感はない。

 

 なのにただ、自分が吐いている事は何と無く分かった。

 

 止まることなく、身体中に不快感が走る。

 自分はきっと今暴力を振るわれているのだろう。

 

 なのに。

 

 痛くない。楽だ。とても楽だ。

 

 未だ世界に光と音は戻ってこない。

 それが凄く心地よい。

 

 もうずっとこのままで俺はいいような気がする。

 

 そうすれば辛い思いをこれ以上する必要もないのだから。

 

 

 

 どんどんと意識が重くなっていく。眠たくなってきた。

 少し寝よう。そうすれば起きた時には終わってるさ。

 

 

 

 そう思い、意識を手放そうとしーーーーーーー

 

 

 

 

 ッグチ

 

 

 

 と、不快な音が身体の中に響いた。

 それに続くように、まるで肉に刃物を捩込まれるような感触が響く。

 

 

 

 

「え?」

 

 

 

 

 世界に色と音が、

 そして痛みが戻ってくる。

 

 

 激痛。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ッッッーーーーーーーーーーーーーー!!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 俺は背中に走ったあまりの激痛に目を開く。

 

 気付けば体はうつ伏せにされ、背中が剥き出しになっている。そして悲鳴が出ないように口に何かの布を噛まされていた。

 四肢は、それぞれ一人ずつが体の体重を全てかけるようにして、抑え込まれている。

 痣傷だらけの四肢それぞれに掛かる高校生一人分の体重。

 

 それがまた激痛となって激しく暴れるように体を(ひね)る。

 

 突然獣のように暴れ始めた俺に驚いたのか、俺の背中に乗っていた野郎が手を持っていたモノと一緒に、腕を滑らした。

 

 

 ソレは大きく線を描くように俺の皮膚を。肉を切り裂いた。

 

 いや、削り取った。

 

 喉が壊れるほどの絶叫が発せられる。涙が止まらなくなる。視界に火花が激しく散る。

 

 

 

 

 

「ッッッーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!」

 

 

 

 

 

 地面に何度も額を打ち付け、背中の痛みを和らげようとする。

 

 自ら自傷行為を行う、矛盾した行為。

 その姿はまるでよく知っている誰かのようで。

 

 

 

 

 

「うわ、コイツキモッ」

「自分から、頭打ち付けてるぜー」

「あー、文字削るつもりだったのにミスっちゃったよ」

「マジで?まぁ、この形だったら想像してたヤツより大きめに削ればいいだろ」

「んじゃ、次俺ねぇー」

 

 

 連中が何か喋っているようだが、その内容がまるで頭に入ってこない。

 まるで異国の言葉を喋っているように聞こえる。

 

 ふと、背中と右腕が軽くなる。

 体から少し力が抜けた、次の瞬間。

 

 

 

「ッッーーーーー!!!!」

 

 

 

 背中と右腕に鋭い激痛が走る。

 

 

「場所こうたーい」

「じゃ、次俺死の2画目削るねー」

「あいよ」

 

 

 またあの痛みがくる。

 俺は唸りながら、何度も首を横に大きく振る。

 

「ん?止めて欲しぃの?」

 

 笑いながら俺にそう言う声に、必死で首を縦に振る。

 その度に額がまた何度も地面に打ち付けられ痛みが走るが、その痛みを無視し必死で振る。

 

「んー、どうしようかぁ」

 

「いや、ここまできて止めるわけないだろ。てかお前分かって聞いてるだろ」

 

「まぁな」

 

 

 楽しそうな会話。しかしその会話の中身はまるで、

 ラノベの中の、売れない奴隷を拷問して遊ぶ奴隷商のようだ。

 

「あ、そうだ。今お前の背中に字を削ってる道具はこれでーす」

 

 目の前に差し出されたのは、

 

 

 彫刻刀だった。 その刃は俺の血を反射させながら鈍く光っている。

 

 

「おい、さっさとやろうぜ。時間あんまねぇんだし」

「あ、悪ぃ悪ぃ。んじゃ、2画目いっきまーす」

 

 

 止めろ。

 

 

 

 再び襲ってくる激痛。肉を抉られる痛み。

 どろりとしたものが中に溜まっていく。

 

「こうたーい」

「3画目いっきまぁす!」

 

 肉に金属が侵入してくる。

 

 何度も何度も額を地面に打ち付ける。

ぬめついた赤が視界に塗られる。

 

「明日は部活に来なくていいわ」

「はーい、4画目でーす」

 

 

 

 深く突き刺さる刃物の感覚。

 

 額から流れ出た血で視界に赤が乱れるように咲き広がった。

 

「5画目」

 

 背中に今までで一番長い激痛が走る。数秒が何時間のように感じられる。

 

 雪……ノ…た。

 どろりとしたものが溜まる。

 

「交代だぜ」

「おい、お前5画目と6画目間違えてるぜー」

「マジで!?まぁ。いいじゃん細かいこと、あくしろよ」

「二度とお兄ちゃんの顔なんて見たくない!!」

「はいよ、6画目だ」

 

 こ………ま………………。

 

 削られる。肉。背中に感じる生暖かい液体。肉。

 

 どろりとしたものが溜まる。

 

「じゃ、あと『ね』だな」

「もっと人の気持ち考えてよ!!」

「いやー、なかなか上手く書けてんじゃね?」

 

 思いっきり彫刻刀を抜いたからか、

 血が、頭を振り上げた俺の顔まで飛んでき、頬に赤い線を描く。

 

 ゆ………………が…は………………。

 

 どろりとしたものが零れ出す。

 

 

「縦いっぽーん」

「もうちょっとだぜー!」

 

 切れ味の落ちてきた刃が、

 削られる肉の周りを巻き込んで、引っ張りながら抉る。

 

「最後の一画だぜー」

「なぁ、今楽しいか」

 楽しいわけねぇだろ。

「キツイならさ」

 俺が俺の顔を覗き込むように見る。

「いい加減楽になれよ」

「いやー、頑張ったな」

「マジよ、彫刻刀もう切れ味落ちてるし」

「じゃ、最後の一画いっきまーす」

 

 肉がギチギチと音を立てている。

 

 

 ソレは削る、抉る、というよりも千切るという表現の方がしっくりとくるようだった。

 

 長い最後のカーブの部分で、俺の肉が彫刻刀の周りに挟まったのか連中は難儀しているようだった。

 身体中が不快な音を立て、共鳴しているような感覚。

 そして、遂に。

 

「よっしゃー出来たー!」

 

 

 彫刻刀が俺の肉から離れた。

 

 

「かんせーい!!」

「お疲れー」

「じゃ、今日は満足したし帰ろうぜ」

「だなー」

 

 そう連中は口々に言った、まるで俺に興味を失ったかのように去っていく。

 その中の一人の「今日は」という部分が嫌に耳に残った。

 

 額から溢れ出す血液の鉄の匂いが鼻に充満する。

 

 

 俺は悲鳴をあげている両手を動かし、口に詰まった布を取った。

 

 肩で粗い呼吸をしばらくしていると。

 口からくぐもった笑い声がでてきた。

 

「ヒ……ヴィヒ…………」

 潰れた喉ではそこまで大きな声は出ない。

 

「へヒヒ………ヒヒッ………ア〝ははハハハ………はハッッヒィ″…ひひヒーーーーーーーーーーーー。」

 それでも、俺は笑う。

 

 何も面白くない。最悪の気分だ。最悪だ。何もかも最悪だ。

 

 なのに笑いが止まらない。涙が止まらない。

景色が歪む。赤く歪む。

 実態を持たない、どろどろとしたものが溢れ出してくる。

 

 ああ、分かった。何で俺が笑ってるのか。

 

 やっと、見つけたんだ。俺が今やること。

 簡単なことだったんだ。

 

鼓膜が破けるのでは無いか。声。五月蝿いよ。

 

 耳元で、「死ねよ」と、声が聞こえた。

 

 

鉄錆の酸っぱい臭い。臭い。不快で。不快だ。不快が?

 

 

 その声に比企谷八幡は泣きながら答える

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「喜んで」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




明日で過去編八幡はラストです。


今回の感想欄でいささかやり過ぎではないかという感想が幾つか届いてしまったので、
この場で書かせて頂きます。


この彫刻刀の傷は、過去編後の記憶喪失編で大きく絡んできます。必須要素です。




明日とか言いつつ終わってません。本当に申し訳ないです。
過去編最後の投稿はもう少し先になります。



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呆気なく、比企谷八幡はその一歩を踏み出す。

 

 意識が浮上したときには、すでに廊下を歩いていた。

 

 彫刻刀で体を削られ……その後の記憶が無い。

 深い霧が掛かり掴むことの出来ない思考。

 今にも足元が崩れ落ちそうな感覚。

 鼻腔(びこう)を刺す錆び付いた鉄の香り。

 キャンパスに絵の具を叩きつけただけのような、境界線も曖昧なグチャグチャとした景色が網膜を通し脳に送られている。

 耳元からは絶えず、嘲笑と侮蔑を含み、俺を否定する声が聞こえ、その中には、奉仕部と小町……その他大勢の見知った人間の声も含まれていた。

 

 ああ、頭の中がグチャグチャだ……。ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ五月蝿い。うるさい。煩い。

 

 朝の廊下で体感した、静謐(せいひつ)に支配されたモノクロの世界とは真逆の、混沌と狂気と喧騒に満ちた世界。

 今すぐにでもここから飛び降りてしまいたい衝動に駆られるにも関わらず、その脚は歩むことを止めない。

 

 気付けば奉仕部の扉の前に立っていた。

 

 ぐちゃぐちゃとした思考を、苛立ちをぶつけるように力任せに扉を開ける。

 ガタンと大きな音が廊下に響き渡った。

 

 自ら立てたその音に、更に苛立ちが積もる。

 しかし、部室の中に入った途端。その苛立ちが、声が、感覚が、狂気が、喧騒が、突然嘘のように止んだ。

 

 静寂に沈んだ部室。

 外の世界とまるで切り離されてしまったような感覚に陥る。

 

 俺はふらふらと、いつもの定位置だった席へ歩き、自分の椅子に倒れるように座った。

 思考の霧が晴れて、視界がクリアになっていく。

 

 目を閉じ、深く息吹く。

 気付くと、涙が止めどなく溢れてきていた。

 いつの間に俺はこんなに弱くなってしまったのだろう。

 

「ヒグゥッ……ア゛ゥッ………」

 負の感情が底から次から次へと湯水の如く湧きあがろうとしてくる。

 涙は顔に着いた血を流しながらゆっくりと頬を伝い制服に落ち、制服に仄かな赤い滲みをつくっていく。

 

 俺の肩にそっと優しく手が置かれる。

 

「疲れたか?」

 その声に俺は俯き、涙を流しながら頷く。

 

「死にたいか?」

 その質問にも俺は頷く。

 

「逃げちまおうぜ」

 嗚咽を交えながら頷く。

 

「さぁ、行こうか」

 俺は席から立ち上がり、扉を開ける。

 人っ子一人いない。混沌と狂気からは無縁のいつも通りの静けさを取り戻した世界。

 廊下は夕明りで、世界を赤く染めている。

 

 廊下を歩きながら、クリアになった脳で考える。

 もし俺が死ねば問題は解決するだろうか、と。

 答えは否である。

 それを考える資格があるのは死後、自らの責任を果たす事が出来る者だけだ。

 しかしそんな事は万人に出来るはずが無い。

 つまり、考えるだけ無駄である。自分が死んだ後のことなど考えたところで、どうしようもない。

 俺がこの世界から消えても、世界は変わらず時を刻んでいくのだから。

 そして、その事に深い安心感を覚える。

 

 復讐なんて望まない。どうせ俺にはすぐ関係の無くなることだ。

 

 自分の内側から漏れ出すどろどろとしたものを無理矢理抑えつけ、見て見ぬフリをする。

 もう何度も繰り返した欺瞞(ぎまん)を塗り固める作業。

 

 廊下を歩きながら、ふと目を閉じる。

 すると、再び激しい睡魔が襲ってきた。

 歩く事は愚か、立っていることすら危うくなる。涙で滲んでぼやけていた視界が、更にぼやける。

「おやすみ」

 突然、隣を歩いていた俺が、そう言いながら背中を優しく叩いてきた。

 その衝動に、俺は糸の切れた人形のように床に倒れ込む。

 

 

 冷たい床の温度を肌に感じながら、俺は意識を手放した。

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 通学路を自転車で走る。

 自転車の籠には、学校の自販機で買ったマッ缶が音を立てながら転がっている。

 すれ違った通行人が、頭から血を流し顔を真っ赤に染めた男子高校生に、好奇の混ざった眼差しを向ける。

 その視線に俺は少しずつ苛立ちを溜めていった。

 

 ッチ……見世物じゃねぇんだよ。

 

 そう鋭く腐った眼を通行人に向けると、通行人は初めっから何も見ていませんよ、と言わんばかりに顔を逸らす。

 そんなコトを何度も繰り返しながら、やっとのことで家に着く。はぁ…やけに疲れた。

 玄関のドアを開くと、人の音がしない、静かな静寂が顔を見せる。

 小町はまだ帰っていないのか……。いつもならすでに帰ってきている時間の筈だ。

 ……。やっぱり朝の件引き摺られてんな。最後くらいは顔見たかったんだけどな。

 そう思いながら、俺は靴を脱ぎ、自室に直行する。

 そして、部屋に入ると、鍵を閉めた。

 

「さてと、じゃ…やるか。」

 

 比企谷八幡の特技、独り言を呟きながら俺は準備に取り掛かる。

 比企谷八幡は復讐なんか望んでいないと思っているようだが、俺はそう思わない。

 復讐してやりたい。今すぐ殺してやりたい。あの背中の皮膚を全て剥ぎ取り、苦しませてやりたい。

 比企谷八幡。お前自身が、俺が。

 

 一番の大嘘つきだ。

 

 俺はお前自身。

 俺が復讐を望んでいるということは、お前自身が復讐を望んでいることに他ならない。

 比企谷八幡はソレを意識の底深くに沈め、無理矢理その悪意に蓋をして抑えつけているだけだ。

 そんな醜い自分を認めたくないから、自分が優しいのだと思い込んでいたいから、だから自分に嘘を吐く。

 人の心理を読み解くことには長けているくせに、

 自分の心理になると、嘘で固めて、目を逸らして、別解を用意して、それが欺瞞と分かっていながらソレに逃げ込もうとする。

 由比ヶ浜を守る為だと、そう己に言い聞かせた。二人が望んでいるからだと罪を分散し、空虚な箱に身を置き続けた。

 そうした偽りの優しさ。偽りの自己満足に俺は浸っていた。

 

 そして今度は復讐など望んでいない、だ。

 馬鹿らしい。どうすればそんな結論に辿り着けるのだろうか。自分の事だが、怒りを通り越して呆れてものも言えない。

 言葉を送るなら、狂っている、だな。

 作業をする手を緩めず、再び一人呟く。

 

「お前は何の報いも与えられず死ぬ」

 俺は別に比企谷八幡が死ぬことに反対なワケではない。

 寧ろ、比企谷八幡に死ぬように唆しているのは俺だからな。

 ただ、俺はこの煮え滾る憎悪をどうにかしたい。お前が奥深くに閉まっていたこの悪意を。

 お前が悪意に蓋をすればするほど、どろりとした悪意は、行き場の無い悪意は俺の中に汚泥のように溜まっていった。

 悪意と偽善。相対する二つの性質が一つの器に耐えられるわけが無い。

 だから、もう一つの器が作られたのだ。いや、正しくは二つ…か。

 

 俺には時間がない。

 いつまでもこの肉体を使えるワケでは無い。そして、いつ追いつかれるかも分からない。

 悠長に時間を浪費するわけにはいかないのだ。

 だから復讐には、

 最もシンプルで。最も効果的な方法を使うことにした。

 

 俺は作業を一旦中断し、ケータイをポケットから取り出す。

 そしてSNSのアプリを開き、海老名さんからの画像を貼り付け、主犯格の連中の名前を打ち込んだ。

 ソレを明日0時に投稿するように設定して完了ボタンを押す。

 

 はい、終わり。たったこれだけ。

 

 コレが俺の考えた、最もシンプルで、最も効果的な方法。

 生涯治療不可の社会的致死率100%の猛毒。相手は死ぬ。

 窮鼠猫を噛む、だな。ついでにハンタウイルス肺症候群も付いてくる大サービスだ。やっぱり相手は死ぬ。

 よく聞く話だ。ネットで馬鹿やったヤツがリアル特定されて社会的に死にましたとさ。

 そして、よく聞くということはそれだけ爪跡を残すということ。特に語るべきことも無い。

 アイツらの責任なんて取りたくない。死ね。

 もし、俺に力が。比企谷八幡に暴力という力があれば、何か変わったのだろうか。

 

 そんなことを考えたところで、今更意味など無いけれども。

 ……さて、作業に戻るか。

 適当なノートから一枚千切った紙に、俺を今迄苦しめてきた連中の名前を書く作業に戻る。

 

 俺が死ねばこの部屋は小町か、両親か。それとも警察か。まぁとにかく、捜索対象となるだろう。

 そしたらこの紙が見つかる。小学生でも思いつきそうな安易なシナリオ。

 だからこそ、予想通りの流れを期待することが出来る。安心、確実が売りだな。

 

 黙々と作業をしていると、思いの外早く紙は埋まっていく。

 書き終えると、トップカーストを除く、クラスメイトのほとんどの名が書かれていた。

 ふぅ…。こんなものだろ。あ、後でパソコンのデータ全部消しとかないとな。

 そんなことを考えながら、俺はその紙を机の中段にしまう。

 あえて、少し探さなければ見えないところに置くのがポイントだ。

 何かの拍子で、比企谷八幡に見つかるワケにはいかないからな。

 

 次に、奉仕部の二人。平塚さん。いろは。戸塚。川崎。海老名に小町と親父と母親に、「ありがとう」とだけ書いた紙を机の上に置く。あ、ついでに材木座も書き足しとこう。

 

 たったそれだけ。

 たったそれだけの、あまりにも短い遺書。

 

 だが、これで十分だ。

 ようは、書かれた人達を加害者という立場から遠ざけることさえ出来れば良いのだから。

 それだけがこの紙の役割だ。

 本来なら奉仕部の二人も机に隠した紙の方に書くべきなのだろう。

 だがそれが何故かどうしても出来なかった。喉に小魚の骨が突っかかった様な違和感を感じる。

 しばらくその違和感の原因を探ってみたが、どうしても見つけることは出来なかった。

 

 その事に妙な不快感を感じたが、これ以上考えても時間の無駄だと判断し、頭から追い出すように深い吐息をする。

 俺は椅子の上で大きくぐっと伸びをした。身体中から悲鳴が聞こえ、背中がじくじくと痛む。

 

 俺は勢いよくベットに寝転ぶ。……ぐっ痛ぇ。

 目を閉じると、意識が急速に遠くなってくる。

 

 さて、じゃあ俺は特等席で観覧させてもらうよ。お前の最期を。

 

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 

 目が覚めると自分のベットの上だった。

 いつの間に家に帰ってきたんだ?最近俺の記憶が飛び過ぎてヤバい。

 そう思いながらベットから下りる。

 すると、ふと机の上に目がいった。そちらを見ると、手紙のようなものが二枚置いてある。

 

 なんだ……?

 俺はソレを手に取り、中身を確認する。

 

 そこには、俺の親しい間柄にあった人達へ『ありがとう』と一言だけ書かれた、シンプルすぎて遺書と言えるか、どうかも怪しい紙があった。

 いつの間に書いたんだ?全然記憶に無いんだが。

 俺が遺書に視線を落としながら首を捻っていると、ふと一つの可能性が脳裏を掠めた。

 

 いや……そんな馬鹿な…。まさか漫画やラノベじゃあるまいし……。

 ふと、背後から視線を感じ先程まで寝ていたベットの方に目を向けてみる。

 するとそこにはいつの間にか偉そうに脚を組んだ俺が座っていた。

 いつの間に湧いたんですかねぇ。あと、俺は普段脚組まないぞ?もう一人の僕的なのだったら、もっとそういう細かいとこ気を付けろよ。中途半端に差異とか付けて区別化してんじゃねぇよ。尚更中二病っぽいじゃねーか。

 そんなコトを思いながら、俺に問いかける。

 

「コレ、お前が書いたのか?」

「ああ、そうだ」

 肯定。

 

「え、何?お前俺の身体勝手に動かせんの?」

「ああ、動かせるぞ」

 肯定。

 っていうかそうかー。動かせるのかぁー。まさか予想当たっちゃったかー。

 何だコイツ普通に怖いんだけど。

 なんなの?マジで映画とかでよく見る第二の僕みたいなアレなの?中二病乙。

「アレなのはお前の頭ん中だろうが」

 やめて!!勝手に頭の中よまないで!!

 ん?今頃気付いたが、学校にいたときよりも、精神が安定しているような気がする。

 どんだけ俺の精神不安定なんだよ。ホント浮き沈み激しすぎるんですけどー。材木座の原稿レベルで急展開。

 

「何か気が楽なんだけど、コレもお前の仕業か?」

 そう言ってみると、もう一人の俺の肩が一瞬だけピクッと動いた。

「いやー。気のせいだろー」

 うっわすっげぇ棒読みだったぞアイツ。絶対なんかやっただろ。

 チッ、まぁいい。この事に触れるなと俺の危険信号がギャンギャン言っている。最後だし見逃してやるか。

 で、コッチの遺書はいいとして。問題は、

 

「このもう一枚の紙は何だ?」

「何って。お前の死に場所だろ?」

「あ?その為に、こんなトコまで行くのか?」

 携帯電話でネットを開いて調べながら言う、

 ふむ、ここからかなり距離があるな。てか普通に遠いぞ。

 ていうか今更どうでもい………全然よくないが、もう一人の自分的なサムシングが全力で俺を自殺に追い込もうとしている件について。

 まぁ、別に俺はいいんだけどさ。なんか。なんかなぁ……。

 

「お前、お袋と小町に死体見られて、二人にトラウマ植え付けてもいいのか?」

 俺はその言葉を聞いて、想像してみる。

 

 小町とは喧嘩中だ。朝アレだけ言われたのだから、きっと小町は今俺なんかに会いたく無いだろう。

 しかし、残念ながら朝俺を起こしにこなければいけない。だから必ず小町は俺の部屋にやってくるだろう。で扉を開くと、

 そこには体の筋肉が弛緩したせいで糞尿を垂れながし、振り子のようにロープで吊るされた俺の死体とご対面。うっわ、嫌な想像だ。遭遇したら絶対にトラウマものだな。20年は不眠症に悩まされるレベル。うん、ダメだ。

 あと、ナチュラルに親父が入ってないのはツッコまないぞ。

 

「ご理解いただけたか?」

 俺はそう目を弓のように細くしながら言ってきた。

「分かったよ。てかもう計画全部お前が立てていいよ」

 普通に有能だしな。もう全部アイツ一人でいいんじゃないか?

 

 俺はそう思いながらベットの方へ再び寝転がる。

 そしてそのまま枕に顔を擦り付けるように埋めた。

 眼から光が遮断され、視界が真っ暗になる。

「そうか、じゃあ出発は今日の22時にしよう」

「理由は?」

 俺は枕に顔を埋めたまま聞く。

 するとヤツは短く「なんとなくだ」と返した。

『なんとなく』か……。嘘だな。そう直感的に感じた。

 なにか明確な理由がある筈だ。だがそれが分からない。

 まぁいい。深く考える必要はないか。どうせあと数時間だ。

 

  …………。

 

 …………。

 

 …………。

 

 いつの間にか会話は途切れており、沈黙が部屋を支配している。

 埋めていた顔を上げ、横目に部屋の中を見渡す。

 気付けばすでにもう一人の俺は、姿を消しており、部屋の中には俺一人だけが残されていた。

 

 ごろんと寝返りを打つ。

 体が上を向く形になり、天井が目に入る。

 幾分かぼうっと天井のシミを意味もなく数えた後、再度静かに目を閉じた。

 俺が今までの人生の中で関わった、数少ない人たちの顔が、まるで走馬灯のように浮かんでは、消える。

 小町。 親父、お袋。 

「………。」

 戸塚。 平塚先生。 葉山。 陽乃さん。 

「………………。」

 留美。 折本。 めぐり先輩。 

「……………………。」

 一色。 海老名さん。

「………ァ…………………。」

 そして、由比ヶ浜と雪ノ下。

 

「ウグゥッ………ああ……」

 

 突然嗚咽が漏れ、頬から顎先にかけてぼろぼろと涙が滴る。

 身体の芯にかけて悪寒が広がっていく。歯がカチカチと擦り合うように鳴り、呼吸が苦しくなる。

 安定していた精神がぐらりと崩れる。

 豆腐すぎんだろ。

 奉仕部の二人のコトを思い出しただけなのに、このザマとか。

 

 自分の感情が制御出来ない。

 そのことに訳のわからない多幸感を感じる。

 口元が勝手に吊り上がる感覚。

 背中が熱を持ち始める。痛みと比例するように涙が溢れ出、ベットのシーツにシミを作っていく。

「ーーーーーーーーッ!」

 再び枕に顔を埋め、響かないようにあえて掠れた声で叫ぶ。

 何度も、何度も。

 

 

 

 …………。

 

 

 

 どれくらいそうしていただろうか。

 

 突然頭から冷水をかけられたように、思考が冷静になり涙が止まる。

 その姿を第三者が見たならば、人格が変わったようだとでも言うのだろう。

「そろそろ時間だな」

 そう言って、俺はベットから立ち上がる。

 俺は音をなるべく立てないように、ドアを静かに開け、そしてゆっくりと階段を下りる。

 明かりが漏れているリビングの横をそっと通り、靴を履いて何も言わず玄関から出た。

 

 あまりにも呆気なく。比企谷八幡は、死への一歩を踏み出した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 次の日も。

 その次の日も。比企谷八幡が見つかることは無かった。

 

 

 

     ×   ×   ×

 

 

 

 比企谷くんを助ける。決着を付けると、そう息巻いていたのに。

 

 今日に限って先生に呼び出されてしまった。

 ほとんど生徒が残っていない廊下を、

 八つ当たりをするように、力いっぱい殴るように走る。

 口から抑えることができず舌打ちが出る。

 

 どうしてこんな日に限って。

 そう思いながら上履きを脱ぎ捨て、靴箱にもしまわず靴に履き替える。

 そして体育館裏に向かおうとした瞬間。

 私の横を数人の男子生徒が通りすぎていった。比企谷くんに暴力を振るっていた人達。

 その人達が通り過ぎる。その際微かに鉄のような臭いがした気がした。

 嫌な予感がする。

 

 鼓動が速くなる。背中からじわりとしたものが流れ落ちる。

 私はその場から逃げるように走り出す。

 体育でもここまで本気を出して走った事は無い。そう確信できるほど全力で走る。

 肺が焼けるように熱い。

 体育館裏は目の前の曲がり角を曲がればつく。

 ほつれそうになる脚を必死に動かして、

 

 

 私は曲がり角を曲がりーーーー

 

 

 真っ赤に染まった比企谷くんを見た。

 頭と体から夥しい量の血と涙を流しながら笑う比企谷くんを。

 

 体から血の気が引いていく。頭の中が真っ白になる。目の前の惨状を頭が理解してくれない。

 脚がガクガクと震える。とてつもない嘔吐感が襲ってくる。視界がぼやけ涙がでそうになる。叫び出しそうになる。

 

「ああ、あ…、ひき……が……………やくん」

 空気を僅かに震わせる程度の普段の自分からは想像もつかないような情けない声が出る。

 しかし、その瞬間体が弾けるように動き出した。

 

「比企谷くんッッ!!!!」

 そう叫ぶように言って、私は比企谷くんのところまで駆けだす。

 

「ゃ……ああ、海老名?」

 掠れた声で比企谷くんが私の名前を呼ぶ。

 

「あ……、ああ、ごめんなさい……!……ごめんなさい……!!」

 もっと先にしなくちゃいけないことがあるのに、私の口から勝手に謝罪の言葉が涙と共に、とめどなく溢れ出る。

 そんな私を比企谷くんはじっと見ていた。

 胸が苦しくなって、吐きそうになって。私は体を抱え込むようにしながら俯く。

 体がまるで自分のものじゃないかのように動かない。

 呼吸が荒くなる。

 

 その時。体をそっと包み込むように抱き締められた。

「え?」

 頭をあげると、そこにはまるで別人のように、爽やかな笑みを浮かべた比企谷くんがいた。

 比企谷くんは固まっている私を他所に、頭に手を置き、幼子をあやすように優しく私の頭を撫で初める。

 

 どれくらい撫でられていただろう。気付けば、荒かった呼吸や嘔吐感は嘘のように無くなっていた。

 

「どうだ?落ち着いたか、海老名」

 私はその声に小さく首を縦に振る。

 

「それじゃあ、頼みがあるんだけどいいか?」

 今、私があなたの頼みを断れるわけがないよ。

 そんなコトを心の中で呟く。

「海老名、それじゃあ今から、今の状態の俺の写真を撮ってくれ」

 うん。

「で、その画像を俺に送ってくれ。以上だ。」

 うん……え?それ……だけ?

 呆けたような顔で見てくる私に比企谷くんは訝しげな顔を数秒向けてくる。

 しかし、その後何かに納得したような顔をつくり私に言う。

「あぁ、俺のメールアドレス知らないんだよな」

 そんな的外れなコトを言いながら、比企谷くんは自分の制服からケータイを取り出しこちらに投げてきた。

「じゃあ、俺はこの後行く場所があるから」

 そう言って比企谷くんはあっさり私への抱擁を解き、去ろうとする。

「ま、待って!比企が「あともう一つ」

 比企谷くんは私の声を遮るように声を重ね、頭だけをこちらに向けて言った。

 

 

 

「何もするなよ」

 

 

 

 その顔は、

 激しい憎悪と憤怒を刻みながら、口元を大きく歪ませ笑っていた。

 私が計画していたコトを全て知っていたかのような物言いに、その表情に。

 私は言葉を失くしてしまったかのように、口から掠れた声しか出なくなる。

 そんな声では、彼に言葉を届けるには、引き止めるにはあまりにも小さすぎた。

 私は寒空の中。その場に座り込んだ。

 

 比企谷くんの後ろ姿は見えなくなっていく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 体は動いてくれなかった。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 お兄ちゃんがダイニングから出て行ってどれ位経っただろう。

 玄関のドアを開ける音が聞こえてから10分は経っている。

 目元が涙のせいで赤く腫れていて、とてもじゃないけど学校に行けるような顔じゃない。

 

 私はソファーの上で体育座りをしながら、膝に頭をのせて卵のように丸くなる。

「何やってるんだろう小町。」

 

 自嘲気味に口から言葉が漏れた。

 今一番ツライ思いをしてるのはお兄ちゃんなのに。

 勝手に怒鳴って、ひどいコトを言ってしまった。

 たぶん、小町は焦ってしまっていたんだと思う。あんなに見ていて苦しくなる笑みを、今まで一度も見たことはなかったから。

 どこかお兄ちゃんがとても遠い所に行ってしまうような気がしたから。

 

 ほとんどの人たちはアレを爽やかな笑みだと思うんだろう。

 でも、小町はあそこまで心が騒めく。不安になる笑みはないと思った。

 きっと他の人たちには分からない。

 ずっとお兄ちゃんの妹をしてきて、ずっとお兄ちゃんコトを見てきた小町だから分かるんだと思う。

 

 そのせいで、コトを急いだ。

 

 お兄ちゃんの苦しみを少しでも和らげてあげようと。少しでも楽にしてあげようと思っていたのに。

 結局小町の口からお兄ちゃんに向かって出たのは、お兄ちゃんを否定する言葉だった。

 

 今考えてみても、自分が信じられない。

 

 お兄ちゃんが頑なに小町に言わなかったのは、きっと小町に心配を掛けさせたくなかったからだ。

 いや、優しいお兄ちゃんのコトだ。きっとそうなんだろうなー。

 小町はそんな優しいお兄ちゃんのコトを誇らしく、愛しく思う。

 そして、そんなお兄ちゃんにあんな言葉をかけてしまった自分に嫌悪感を覚える。

 朝のことがずっと頭の中でぐるぐると回っている。小町のばか……。

 

 ……………。

 

 ……………。

 

 ……………。

 

 どれくらいソファーの上で丸くなっていたんだろう。

 ふと時計を見てみる。短針は10の数字を刺していた。

 

 そろそろ、動かなきゃね。

 

 私はゆっくりい両手を頬に置き、そしてそのまま。

 

 

 

 

『パンッ!!』

 

 

 

 

 

 と、自分の頬を思いっきりぶっ叩いた。

 こてん、と体育座りのまま横に倒れる。

「うう……普通に痛い………」

 ひりひりするよぅ……。

 

 ………でも。

「うしっ!、気合い入った!」

 いつまでもうじうじしていられないもんね。アレはどう考えたって小町が悪い。

 そうだったら、しっかりと気持ちを込めて、誠心誠意、お兄ちゃんに謝ろう。

 

 でも、どうやって謝ろう。

 酷いこと言ってしまった手前、顔を会わしにくい。

 うーん、どうしよう……。

 ………決めた。

 今日は友達の家に泊めて貰って、少し相談に乗ってもらおう。

 確か桐乃ちゃんってすっごく兄妹仲良いらしいし。

 

 

 

 

 よし、そうと決まれば、そろそろ学校行こ。

 100%遅刻だろうけどね。

 

 

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷たい夜の風が吹き付けている。

その風からは、仄かに生臭い潮の匂いがした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ふと脳裏を掠めるあの日の記憶。

 

 

 

 

 

「明日はもう部活にこなくていいわ」

 

 

 

 

 

 

 あの後、雪ノ下と由比ヶ浜は俺に何を言っていたんだろうか。

 

 

 そんなもう意味の無い疑問が湧く。

 その事にニヒルな笑い声が口から漏れ出した。空虚な笑い声。

 

 

 

 自分から聞くまいと意識を闇に放って耳を塞いだ。

 言葉を受け止めることもできず、逃げ出した。

 そんな俺には疑問に思う資格など無い。

 

 

 

 

 少しだけ瞑目した後、俺は再び自転車を漕ぎ始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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その日、彼と彼女らは大きくすれ違う。

 

 

 比企谷君が体調不良で部室を出て行ってから、40分ほど経った。

 

 師走ということもあって暗くなるのは早く、空にはすでに橙色が混ざり始めている。

 彼が居なくなってから部室の中には、澄み渡る冬の空気と裏腹に、居心地の悪い空気が流れていた。

 

 依頼は何も来ておらず、私達は思い思いのことをしている。

 私は本に目を落とし、由比ヶ浜さんは携帯をいじる。

 けれどそれは自然とそうなったというわけではなく、まるでそうする事を。日常を再現する事を強要されているかのようだった。

 由比ヶ浜さんの席とは大きく距離が空いており、まるでそれが彼女との溝の深さを表しているかのようだ。

 

ふと、由比ヶ浜さんが携帯電話を見ながら呟いた。

「あ、いろはちゃんからメールだ」

「そう」

 特に言うことも無いので、本から目を離さず短く返す。

 それだけで会話は止まり、再び鼓膜を震わすのは本を捲る微かな音と、携帯電話のボタンを押す音だけとなった。

 

 

「ねぇ、ゆきのん」

 再び流れ始めていた息苦しい静寂に気不味さを感じていると、突然由比ヶ浜さんが真剣な声音で私を呼んだ。

 

 私は彼女の声音に驚く。

 言い方は悪いけれど、彼女は修学旅行以来から上辺だけを取り繕った、中身の無い空っぽな会話ばかりしていたから。

 いえ、人事のように言っているけれど私も同じだ。上辺だけを取り繕った会話ばかりしていたのは私も同様だったのだから。

 

 私はいつからこんなに弱くなってしまったのだろうか。

 この関係を壊すのが怖くて、いつもと変わらない自分をあの日から演じ続けている。それが、彼の言う欺瞞だと分かっているのに。

 

「なにかしら」

 

 私は読んでいたページに栞を挟み、そっと本を閉じる。

 顔を上げると、由比ヶ浜さんと目が合った。

 

そこにはさっきまでの弱々しい少女はいなかった。

 その表情は硬く、瞳は少し潤んでいる。そして、唇を戦慄かせながら言った。

 

「ヒッキーが倒れたって…」

 

 ………え。

「な!?そ、それは本当なのかしら!?」

比企谷君が……!そんな……。でも、最近の彼は………。いえ、今はこんな事考えてる場合じゃ無いわねッ。

 

「確か、メールは一色さんからのものだったのよね?では、今比企谷君は生徒会室に?」

「う、うん」

 

「ではッ早く行きましょう」

不安がどんどん胸で膨らんでいくのを感じる。私は早足に部室から出て行こうとした。

 

「ま、待ってゆきのん!」

そんな私を静止する声。

 肩を由比ヶ浜さんに掴まれ、足を止められる。

 

こんな時に一体何よ!?……速く、行かなくては……!

 

 口から思わず冷たい言葉が出そうになる。

しかし、私は由比ヶ浜さんの表情を見てそれを呑み込んだ。

 

その目は潤んでおり、その真っ直ぐな瞳に私は動けなくなる。

「一体……な「あのね。ゆきのん……」

 

由比ヶ浜さんが私の言葉を遮った。

彼女はそこで一度言葉を区切り、深く息を吸い込む。そして……、

 

「私ね……。ヒッキーのことが好き!!ううん、………大好きなの!!」

「は?」は?

 突然の告白。突然爆弾を落とした。

 頭の中が真っ白になってしまい、私はその場に立ち尽くす。

 そんな状態の私を気にせず、彼女は私に顔をずいっと近づけ言う。

 

「ゆきのんもヒッキーのこと好きなんだよね?」

「は?」は?

 

 第二の爆弾。

 私は言葉の意味を読み込むのにたっぷり60秒ほど掛かった。

 自分の顔が赤くなっていくのを感じる。

「え…あ、ゆ、由比ヶ浜さん。」

 彼女の名前を呼ぶだけでもつっかえつっかえになる。そんな自分を一度落ち着かせるために、再び深く呼吸をしてから、口を開き、

 

「由比ヶ浜さん、貴女は一体何を言っているのかしら。私が比企谷君を好き?冗談だとしても質が悪過ぎるわよ」

そう早口に捲したてた。しかし。

 

「ゆきのん顔真っ赤だよ」

「…ッ!!」

 私はバッと両手で顔を覆う。

 その指摘のせいで羞恥心が沸き上り、更に自分の体温が上がった気がした。

 

 

 

「ゆきのん、そのままでいいから聞いて」

そんな私に、由比ヶ浜さんが語り掛けるように言った。

 

「私ね、この部活のこと好きなの。ゆきのんとヒッキーがいるこの部活のこと」

 

「……でも、修学旅行から雰囲気悪くなって…そしたら、なんだか本音で話しづらくなっちゃって」

 

「ずっと、ヒッキーのいう……ギマン?とかそういう感じの会話ばっかりしてた」

 

「………そうなっちゃったの……私にも責任あるから……」

 

 

 

 そこで由比ヶ浜さんは言葉を一度区切り、自分の胸にそっと両手を置いた。少しだけ鼻が赤くなっている。

 

 

「……あのね。私押し付けちゃってたんだ」

 

「全部の責任ヒッキーに。方法は最低だったけど……でも依頼を解決したのはヒッキーだったのに」

 

「なのに私…ヒッキーにひどいこと言っちゃった。もっと人の気持ち考えてよ、って」

 

「馬鹿だよね……わたし。自分のこと棚に上げて、ヒッキーの気持ち何も考えてなかった……」

 

「告白のとき一番傷付いてたのはヒッキーだったんだって、少し考えればすぐ分かることなのに……!」

 

 

 そこまで言った彼女の顔は今にも泣き出しそうで。私は掛ける言葉を失う。

 

 

「ゆきのん、ヒッキーは問題を解決するとき、いっつも自分を犠牲にしてるよね。それって、すっごく苦しいと思うの」

 

「依頼が終わっても、ヒッキーいつもケロっとしてるから、そんな気にしてないんだろうなって勘違いしそうになっちゃう時もある……けど」

 

「……たぶんヒッキーはそういうの全部抑えつけてるだけなんだよ、強がってるだけなんだよ……ッ」

 

「ヒッキーは優しいから……!依頼が終わったあとも、絶対そのこと引きずっちゃってると思う……」

 

 

 

「だから心配だったの……」

 

「そうやって……自分の気持ち抑えつけ過ぎちゃってッ、体調崩さないか……」

 

 彼女の瞳からは、涙がぼろぼろと溢れていた。

 

「由比ヶ浜さん……」

 

「わたし……気付いてたのにッ……最近ヒッキーがどこかおかしかったの……。なのにっ……。なのに私、何も言わなかったの。ヒッキーに何も…聞かなかったの……。それで…、ヒッキー倒れたって……」

 

 泣きながら彼に謝罪する彼女の背中に手を回し、そっと抱きしめる。

 ああ……なんで彼女はこんなに強いのだろう。

 

「大丈夫よ由比ヶ浜さん、自分だけ背負いこむ必要はないわ。私にも責任はあるもの。私もあの日、彼にひどいことを言ってしまったわ……。彼の気持ちなど…何も考えずに……ッ。……そもそも………私は貴女とは違って、比企谷君の変化に気づくことすら出来なかった」

 

 きっと彼女が気付くことができたのは、空気を読む能力も合わさっていたというのもあるだろう。しかし、それも彼女が彼のことを深く見ていたからこそ気づくことができたのだ。

 

 結局、私は自分のことしか見ていなかったのだろう。彼女のように、あの日から目を逸らさず比企谷君を見続けていなかった。勝手に拗ねて、勝手に嫉妬して……。

 

 自己嫌悪に私が頭を俯かせていると、由比ヶ浜さんがぐっと私の肩に手を置き、まるで私を突き放すかのような形で抱擁を解いた。しかし、その手は私の肩から離れておらず、依然私の肩を力強く掴んでいる。

 そして、彼女は私の目を見据えもう一度問いかけてきた。

 

「ゆきのんも……ヒッキーのこと好きなんだよね?」

 

 二度目になるその問い。意図はまだ分からないけれど、一度目とは違い、その質問は誤魔化してはいけない大切なものだと感じた。

 

 比企谷君。私は彼の事をどう思っているのだろう。友達?いや、違う。以前彼に友達になって欲しいと言われたことがあったが、その時私は彼がその言葉を言い終える前に断ってしまった。まぁ、そんなことが理由で彼とは友人ではないと言っているわけでは無いのだけれど。

 

 では、私は比企谷君とどうなりたいのだろう。友達……?いいえ、友達になりたいかと言われたら、その答えは今でも『NO』だ。でも理由は以前とかなり異なる。だって、私が今彼と望む関係はーーー。

 

 短く息を吸い込み、由比ヶ浜さんの瞳を今度は私から見据え、

 

 

「ええ、私も比企谷君が好きよ」

 

 

 

ーーそう彼女に言った。

 

 

 その言葉に由比ヶ浜さんが「うん、知ってたけどね」と返す。その表情はすっきりとしている。

 

「ゆきのん……私思ったんだ。今、生徒会室に行っても…私達はヒッキーに何もしてあげられない。ううん、それどころかヒッキーに気遣わせちゃって余計疲れさせちゃうかもしれない……。ほら…!、私今目元とか真っ赤になっちゃってるし!」

 

 彼女の自惚れでもなんでもなく、比企谷君が今の由比ヶ浜さんを見たら、ひどく心配するだろう。

 ああ、今だったら由比ヶ浜さんが、私に今何を言いたいのかが分かる。

 

「あの……だから……。だから、ゆきの……「由比ヶ浜さん」

 

 彼女の言葉を遮るように、私の言葉を被せる。ごめんなさい由比ヶ浜さん、コレは私のただの我儘。自己満足。

 でも、ここから先の言葉は私が言わなくちゃいけない。

 そうじゃないと、ずっと立ち止まって由比ヶ浜さんに甘えたままになってしまうと思うから。

 

「紅茶、冷めてしまっているだろうし入れ直すわね。比企谷君が帰ってきたら笑顔で出迎えてあげなければいけないことだし」

 

 コレが私の奉仕部をやり直すための言葉。そして覚悟よ由比ヶ浜さん。

 

 私の言葉に、彼女は数秒きょとんとしていたが、しばらくすると、「うん!!」っと、満面の笑みで頷いた。

 由比ヶ浜さんが望んでいたことはただの仲直り。大きく、こじれてしまっていた私達の関係の修復。

 今私達に必要なのは彼を迎えに行くことじゃない。それをするのは彼を迎え入れる準備をした後のことだ。

 取り繕った言葉なんかじゃ駄目なのだ。彼が心に抱え込んでしまっている闇を溶かすためには、本物の言葉が必要なのだ。

 だから、彼女は私に打ち明けたのだろう。

 

 比企谷君が好きだと。そう打ち明けることで少しでも本物に近づこうとしたのだ。

 

 だから、彼女は私に問い質(ただ)したのだろう。

 比企谷君をどう思っているのかと。その事実を共有し本物に近づこうとしたのだ。

 

 方法は強引で、因果も因縁も関係無い。もしかしたら比企谷君はそんなこと望んで無いのかもしれない。

 それでも、

 必死に繋ぎ止めようとした。必死に守ろうとした。必死に元に戻そうとした。その気持ちは本物だから。

 

 私は由比ヶ浜さんのカップに紅茶を注ぎ終わったあと、自分の分を注いで席に座る。

 すると、彼女は自分の席と紅茶の入ったカップを、私の席の近くまで移動させてきた。

 その距離がとても懐かしく感じ心地よい。心が弾む。

 まったく、我ながら単純なものだと思う。

 

 修学旅行以来ポッカリと空いてしまった大きな溝が、埋まっていくように感じて、つい頬が緩んだ。

 

「ねぇ、ゆきのん。ヒッキー早く帰ってくるといいね。そしたら、全部元通りになるよね!」

「いえ、元通りにはならないわ」

 

 そう嬉しそうに言った由比ヶ浜さんの言葉を、ピシャリと切る。

 

 由比ヶ浜さんの顔が少し白くなる。

 大丈夫よ由比ヶ浜さん、貴女が恐れているようなことは言わないから。そう思いながら私は言った。

 

「だって、私達は恋敵(ライバル)でしょう?」っと。

 柄にも無い頭の悪そうな台詞を口にする。そして私は挑発的な笑みを浮かべ、由比ヶ浜さんに向かってニヤリと笑った。

 

 彼女はしばらくキョトンとした表情になっていたが、すぐ彼女も私と同じ、挑発的な笑顔を作り、

 

「私だって!!ゆきのんに負けないんだから!!」

 

 とこれまたニヤリ、というかニッコリと笑いながら私に言ってきた。由比ヶ浜さんニヤリとした表情の作り方下手ね。

 

「ふふっ……」

「えへへ……」

 

 その表情がおかしくて笑ってしまう。そんな笑っている私を見て、由比ヶ浜さんも頬を緩め笑った。

 

「ヒッキー早く帰ってくるといいね。そうだ!ヒッキーが帰ってきたら、おかえりなさいって言って出迎えてあげよう!」

 

 

「ふふっ…それはいいわね。何だか新婚さんみたいで」

 

 

 私がそう言った瞬間、由比ヶ浜さんの動きがピタリと止まった。

 

「ごめん、……ゆきのん。そこまで考えて言ったわけじゃなくて……」

 

 彼女のその言葉に自分の顔が急激に真っ赤になっていくのを感じる。

 

 

 

 

 

 そんな私達の間には、再び暖かい時間が、流れ始めていた。

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 どれくらい時間が経っただろう。随分長い間由比ヶ浜さんと喋っていた気がする。

 ふと外を見ると、夕暮れに少し夜空の色が混ざってきていた。

 私につられるように窓の方を見た由比ヶ浜さんがポツリと呟く。

 

「ヒッキー遅いね」

 

 そう呟いた彼女の顔には憂慮の色が混ざっていた。その顔を見て、私も心配になってくる。

 今からでも生徒会室に行ってしまおうかしら、と丁度そう思い始めていたとき。

 

 ピロンと由比ヶ浜さんの携帯電話が鳴った。音が鳴り終わるよりも速く、由比ヶ浜さんが携帯を取り出し、メールの内容を確認していた。

 画面を食い入るように数秒眺めたあと、彼女は深く溜息を吐いた。

 溜息と言っても暗いものではなく、安堵感からきているものだ。

 

「なにが書かれていたのかしら由比ヶ浜さん。私にも教えてくれると嬉しいのだけれど」

「あ、ごめんねゆきのん。えーとね、メールの内容は、ヒッキーが今コッチに向かってるっていうの」

 

 そのメールの内容に、私も肩から力が抜けていくのを感じた。

 ああ、本当に良かった。

 

「あ、そうだゆきのん。明日の部活休みにしない」

 

 ほっと息をついている私に由比ヶ浜さんがそう提案してくる。

 

「それは比企谷君の体調が心配だからかしら?」

 

 私の質問に、彼女は縦に何度も大きく首を振る。

 その大仰な仕草が何だか主人の心配をする仔犬みたいで可愛くて、つい「ぷっ」と吹き出してしまう。

 

 突然笑い出した私に由比ヶ浜さんは「なーに〜?ゆきのーん!!」と言いながら頬を膨らませた。

 その表情がフグのようで、また笑ってしまった。 ああ、楽しい。本当に楽しい。こんな気分は久しぶりだ。早く比企谷君は帰ってこないかしら。

 

 丁度そう比企谷君のことを思っていると、廊下の方から足音が聞こえてきた。

 その足音は、奉仕部の方へどんどん近付いてきているようだ。

 

 由比ヶ浜さんの目が輝き出し、彼女の顔が今日一番の笑顔になる。

 それが可愛くって、私は笑ってしまった。なんなら彼女に犬耳とブンブンと左右に勢いよく揺れる尻尾が見えちゃうレベル。そう私もつい頭の中で比企谷君のような言い回しを使ってしまう。

 そしてとうとう足音は奉仕部の扉の前で止まった。続けて扉がスライドし、ガラガラと音を立てながら開く。そして、

 

「悪い、遅くなった!」

 

初めて聞く、比企谷君の大きな声。

 

それに少し驚きながらも、嬉しさが込み上げてくる。

 私は腰を微かに浮かし、体を扉の方にまるごと向ける。

そして、「おかえりなさい」と、そう言おうとした。

 

が、入ってきた彼の表情を見た瞬間、喉元まで出かけていた、その言葉が出なくなる。

代わりに出たのは、「ヒュっ」という呼吸音のようなものだった。

 

 由比ヶ浜さんも私同様に声が出なかったのか、口をぱくぱくさせている。

その顔は驚愕に染まっていた。きっと私も今、彼女と同じような表情をしているのだろう。けれどもそれは仕方がないことだと思った。

 

 なぜなら……彼の顔に張り付いていたのは笑みだったのだから。

それも、いつものような皮肉げな笑みではなく、涼しげで爽やかな笑みだ。

 

 今まで彼を見てきた人間からすれば、驚くなと言う方が無理がある。

 そんな別人のような笑顔を張り付ける彼を見た私は、軽いパニックに陥っていた。

 

そして、無意識の内に口が開く。

 

「比企谷君、明日は部活に来なくていいわ」

 

 言ってしまってから気付く、この言い方では誤解させかねないと。

 自分のあまりの物言いに、頭が急速に冷えていく。

 

「ごめんなさい、比企谷君。誤解させるような言い方をしてしまって。………コレはアナタの体調を心配してのことなの。一色さんからアナタが倒れたというメールがきたから。だから、明日は部活を休んでゆっくり休養して貰おうということになったのよ。他意は無いわ」

 

「うん、そういうことなのヒッキー!もう!ゆきのん!流石にさっきの言い方は誤解させちゃうよ?」

 

 由比ヶ浜さんがめっと私を叱る。流石に今回は私が悪いわ。冷静さを失うだなんて私らしくない。逆を言えば、それだけの驚愕を受けたということになるのだが。

 

 そんな私達に比企谷君は、笑みを浮かべたまま言う。

 

「ああ、そういう事だったのか。驚いちゃったよ。じゃあ、僕はこの後用事があるからこれで失礼するよ」

 

 何故かその笑い方に私は総毛立った。

 口調がおかしい。まるで彼じゃないみたいだ。一体誰なの?けれど、顔は、声は比企谷君で……。

 

 由比ヶ浜さんも、そんな比企谷君に明らかに違和感を感じ、混乱しているようだった。初めて見る彼女の警戒するような表情。

 

 私と由比ヶ浜さんが彼に違和感を感じている間に、彼自身はテキパキと帰りの準備を進めていっている。

 そして準備が終わると、流れるような動作で鞄を肩に掛け、部室から出て行こうと扉を開ける。

 

「あ……、ちょっと待ちなさい!!」

 

このままでは彼が帰ってしまう……!

 私は自分の混乱を押さえ込み、背中を見せる比企谷君を呼び止める。

 

「ん?何かな?」

 

 比企谷君の顔は廊下の方を向いており、その表情を窺うことはできない。

それが私の中の不安を掻き立てる。

 

「あなた……誰?」

「本物のヒッキー?」

 

私達の口から出たのは、そんな言葉。自分でも頭の悪そうな事を聞いているのは分かっている。

けれど、どうしても聞かなければいけない気がしたのだ。

 

 そんな私と由比ヶ浜さんの言葉に、彼は少し間をおいからケラケラと笑いだす。少しだけ横を向いた彼の口は歪んでいた。

 

それだけのことにも関わらず、私は自身がパラレルワールドにでも迷いこんでしまったような錯覚に陥った。

 

彼は一通り笑うと、ほうっ…と息を吐き、

 

「どうしたんだ?雪ノ下、由比ヶ浜。まさかその歳でもうボケたのか?」

 

そう皮肉げに言って部室から出ていった。

 扉がガタンと音を立てて閉まる。

 

 奉仕部には、彼が出て行った扉を茫然と見ている私と、未だに驚愕の色が抜けない由比ヶ浜さんが残された。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今思えば私達は、あの時無理にでも彼を止めるべきだった。

 

 その違和感を問いただすべきだった。

 

 もっと踏み込むべきだったのだ。

 

 時というものを過信し、日常に溺れていた。

 

 

 

 

 

 でも、もう遅い。

 いくら後悔しようと、彼はもう戻ってこないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 比企谷君が行方不明になってから3年経った今。

 彼はまだ見つかっていない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




此処まで前提としておいて欲しいもの。

『よくある感想』

《奉仕部の面々といい、八幡の様子がおかしいの気付けよ》
 コレは単純に八幡が周りを騙して日常を演じるのが上手すぎたので気付けなかったというだけです。
多少おかしな言動があっても、関係がギクシャクしてるから、で片付けられる程度のものでした。
この話は時系列としてイジメが始まってからかなり時間が経ってからのものです。
他の人物が違和感を感じるほど八幡の異常が表層化し始めてから……八幡の精神の受け皿が壊れた後の様子を書いております。
それまでは上記であった通り、周りの人達が異常に気付けないレベルの演技をしていました。
そういう事にして下さい。お願いします。




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幕章
こうして、私達の青春ラブコメは幕を閉じる。上


 部活を休みにした金曜日から、土曜、日曜、月曜日と、三日間の休みを挟んだ火曜日。

 

「雪ノ下、今すぐ生徒指導室に行くように」

 朝登校し、教室に足を踏み入れた瞬間、担任が私にそう言った。

「…?」

 生徒指導室と聞いて、真っ先に出たのは平塚先生の顔。

 また愚痴か何かかしら……。いい加減相手を見つけて欲しいわ。どうしてあんなに格好良いのに結婚できないのかしら。

 原因は分かりきっているのだけれど、そう思わずにはいられない。

 

「…分かりました。では、すぐ向かいます」

 

 事務的にそう応えて、鞄を席に置こうと教室に入る。

 すると、慌てた様子で担任が言う。

「すまん。言い忘れていたが、鞄も全て持って行ってくれ」

 

 

 私はその言葉に首をかしげる。

 周りを見ても、私以外のクラスメイトはごく普通に鞄を鞄入れに仕舞って、ごく普通に友人間で会話している。

 誰一人としてその様にしていない。

 

「…それは、何故でしょうか」

 

 理由もなしにそんな事を言われても、納得できるはずが無い。

 これじゃあ、まるで私が何かやらかしたかのようではないか。

 

 私の質問に、担任は苦虫を噛み潰したかのような表情になった。

 

「……行けば分かる。来て早々悪いが、早く生徒指導室へ向かってくれ」

 これ以上何も言う気は無いということね。

「……はい、分かりました」

 

 私は踵を返し、教室から出て行く。つい溜息が溢れた。

 

 はぁ……平塚先生も朝から何なのかしら……。まぁ、どうせ奉仕部関連の事だと思うけれど…。

 ………奉仕部?

 頭に浮かんだ名詞に、ぴたりと足を止める。

 

 もしコレが奉仕部関連だったとしたら、比企谷君と由比ヶ浜さんもいるかもしれないわね。比企谷君が……。

 

 ………。

 

 ………早く行きましょう。人を待たすのは褒められた行為じゃ無いわよね。そもそも私は部長であるわけだから、比企が…いえ、部員より早めに行くのは当たり前の事よ。

 

 私は早歩きで廊下を進んで行く。

 

 突き当たりを曲がれば、目の前は進路指導室だ。

 私は高ぶる気持ちを抑えつけ、ルンルン気分で廊下を曲る。そしてそこには、

 

「平塚先生」

「……やあ、雪ノ下」

 

 私に気付いた平塚先生がひらひらと手を振る。

 

「おはようございます。それで、一体何の用件でしょうか」

 

 私がそう質問すると、途端平塚先生は顔を俯かせた。

 長い髪が微かに垂れ下がり、その顔に陰影が落ちる。

 

 普段の平塚先生では想像も出来ないその暗い表情に、昂っていた気持ちが一気に冷めていった。

 平塚先生が合コン、結婚関係で落ち込んでいる姿を見る事は多々あったが、今回の彼女の姿からは、明らかにそれとは違う何かが感じられたからだ。

 

「……平塚先生?」

「すまない雪ノ下……話は後だ。……入れ」

 

 彼女はそう言って、生徒指導室の扉を開け、中に入っていった。

 私もそれに続き入室する。

 

「ゆきのん!」

「由比ヶ浜さん」

 入室すると、突然由比ヶ浜さんが抱き付いてきた。これが彼の言うゆる百合という奴なのかしら。前聞いたときは不快に思ったけれど、今はあまり不快に思わなかった。

 由比ヶ浜さんを引き剝がし、改めて進路指導室を見渡すと、見知った顔がいくつかあった。

 戸塚君、葉山君、戸部君、三浦さん、川崎さん、海老名さん……私の面識の無い人もいる。

 しかし……その顔ぶれの中に比企谷君の姿は無い。それを少し残念に思った。

 

 

「雪ノ下。来てもらったばかりで悪いが、ここにいる生徒達全員を奉仕部へ誘導してもらって良いだろうか。見ての通り、この人数では狭くてな」

 確かに、あまり大きい面積とはいえない進路指導室は、生徒によりぎゅうぎゅうになってしまっており、みんな狭そうにしている。

 

 

「それと、幾つか長机を運んでおいてくれ」

「長机をですか?」

「ああ。少なくとも今日一日……もしかしたら数日程奉仕部で過ごしてもらう事になるだろう」

 平塚先生がみんなに聞こえるように言う。

 すると、この話は彼等も初耳だったのか、一斉に平塚先生に驚いた顔を向けた。

 

「授業はどうなるんですか?」

「て、いうか。どうして連れてこられたかの説明まだなんですけど」

「数日って、いつまでですか!?」

「奉仕部ってどこ……ていうかそれ何なんすか?……部活?」

 

 生徒指導室の中を、矢継ぎ早に質問が飛び交う。

 それに先生は大きく嘆息して、『パンッ』と手を叩く。

 

 その大きな音に、騒めいていた室内が静かになる。平塚先生は首をぐるりと動かし、それを確認してから再び口を開く。

 

「何故、どうしてという質問には解答できない。まだ私にはそれを言う権限がない。ただ、出席状況や授業については安心して良い」

 

 その言葉に、ところどころから、小さく安堵の声が聞こえる。しかし、同時に疑問の声も上がっていた。どうやら権限という言葉が引っ掛かっているようだ。

 それもそうだ。中身は分からないが、生徒指導としても大きく動きすぎている。にも関わらず、詳しい説明は一切無い。

 もしこちらに非があるのだとすれば、教師側ももっと高圧的に来るはずだ。しかし、そのような様子は一切無い。

 

 皆が違和感を感じる材料はたくさん出てくる。

 

「他に質問は」

 しかし、平塚先生がそう一言言うと、すぐに皆が口を閉じる。

 

 そんな私達の様子に、平塚先生は数秒瞑目した後、

「それじゃあ、私はもうすぐ会議があるので失礼するよ」

 と早口に言い、扉を開けて外に出た。

 

 そして、扉に手を掛けたまま、

「では雪ノ下、由比ヶ浜。後は頼んだ」

 と薄い笑顔で言った。その痛々しい笑顔が、私の中にあった追求の言葉を呑み込ませた。

 

「…………分かりました。後の事はお任せ下さい」

 

「ああ、助かる」

 そう言うと、彼女は私達に小さく手を振り、今度こそ出て行った。

 カツンカツンというヒールの音が遠ざかっていく。

 

「それじゃあ、私達も移動しましょうか」

「……うん」

 由比ヶ浜さんも、元気の無い平塚先生を気に掛けている様子だ。

 

「大丈夫よ、平塚先生の事だから次に顔を出したときはケロッとしている筈よ」

 心にも思ってもいない事を口にする。

 

 すると、由比ヶ浜さんはきょとんとした顔をした。

 しかし、それも一瞬の事ですぐに優しい表情になり、私の目をジッと見てくる。

「な、何かしら……?」

 それに、気恥ずかしいような、居心地の悪いような気持ちになり、思わず目を逸らした。

 

「うんん、なんでもない……ありがとうゆきのん!」

 ありがとう……?何故お礼を言うのかしら。

 

 そう私が質問するよりも早く、

「それじゃあ、そろそろ仕事しなきゃね!」

 と、強引に話を打ち切るように由比ヶ浜さんが言った。

 

 

 

 

 

   ×   ×  .×

 

 

 

 

 キンコンカンコンと、本日二度目の休み時間を知らせるチャイムが鳴り響く。

 

 それを合図とするように、静かだった部室内にざわざわと喧騒が広がっていく。

 一つの長机と三つの椅子しか無かった奉仕部室内は、この二時間程度で随分変わった。

 長机は3つまで増えており、一つの長机につき4〜5人程度の生徒が座っている。

 だだっ広いと思っていた室内が、少しだけ狭くなったように感じた。

 

「ゆーきのん!」

 隣から私を呼ぶ声が聞こえ、そちらに顔を向ける。

 

「何かしら」

「なにも〜」

 そう言いながら、彼女は私を横からぎゅーっと抱き締めてきた。……あったかいわ。

 ……ではなくてッ。

「由比ヶ浜さん、ちょっと良いかしら。一つ聞きたいことがあるのだけれど」

「なに〜」

 べったり張り付かれたまま、間延びした声で返される。

「ここにいる人達、私以外全員F組の生徒よね?」

「うん、そうだよ?」

 そう、朝生徒指導室に呼び出されていた生徒は私以外全員、由比ヶ浜さん、比企谷君と同じクラスの人達だった。

 

「なら、どうして私だけ、他のクラスの人に混ぜられたのかしら」

「うー、それは……」

 口に出した疑問に、由比ヶ浜さんは口をへの字に曲げ、むむっと難しい顔をした。

 

 

 授業中……といっても自習だったけれど、その時間私はずっとここに呼ばれた理由を考えていた。

 私がここに呼ばれた意味……その答えに辿り着くには、必然的に他の人達がここに呼ばれた意味も考えなくてはならなくなる。しかし、幾ら思案しても、その解が見えて来ないのだ。

 

「川崎さん、三浦さん、戸塚さん達だけならば、奉仕部に依頼をした人物、または奉仕部で関わりがあった人物が中心に集められたという可能性もあったのだけれど……」

「うん、ヒッキーがいないもんね」

 私の言葉を引き継ぐように、由比ヶ浜さんがポツリと言う。

 そう、その可能性は誠に遺憾ながら……誠に遺憾ながら比企谷君がいない時点で除外されている。

 

「そうね……だとすれば、比企谷君が呼び出されていないのはおかしいわよね」

「あ、それなんだけどね……。今日ヒッキー学校に来てないみたいなの。朝ヒッキーの席見たけどいなかったから。ヒッキーって普段朝は机に突っ伏して寝てるし」

 そして、最後に朝寝てるヒッキー見たのっていつ以来だったっけーと首をひねりながら付け足した。

 彼女のその言葉に私は落胆を隠すことが出来ない。

「そうなの……」

 残念だわ……、折角の平日なのに……。そう言えば、平塚先生は当分はここで過ごす事になるかもしれない、と言っていたわよね。

 もしそうなれば、また三人で奉仕部で過ごせるのは当分お預けということになるわね……。

 私はぷふーと空気を吐き出す。

 

「ゆきのん、そんなに落ち込まないで」

 由比ヶ浜さんが私の眼を見ながら、語りかけるように言う。

 その表情は聖母マリアに届き得るのではと思ってしまうほど慈しみに溢れ、優しいものだった。

 でもね、

「……あの、由比ヶ浜さん?そこまで落ち込んではいないのだけれど」

 いえ、確かに残念だとは思ったけれど。少し顔に出てしまったけれど。……けれど、そんな顔をされる程では無いわよ……?

「あなたは結婚したら、間違いなく夫と子供を甘やかすタイプね……」

「う…っ、言い返せない」

 そこは少しくらい言い返して欲しかった。そう思い、額に手を当てながら溜息を吐く。

 

 そんな私の様子を見て、「うっ」と由比ヶ浜さんが唸る。そして、わたわたと手を上下に動かしながら、

「そ、そういえばゆきのん!昨日突然学校休みになったよねー!」

 と、明らかに不自然に、急な話題転換を謀った。

 ここで掘り返すのも無粋よね……。まぁ、今回はその話題に乗ってあげましょう。

 

「そうね。朝6半時くらいに連絡網がまわってきたわ。それにしても妙よね、昨日は台風も何もなかった普通の平日だったのだけれど、どうして突然休校になったのかしら」

「うん、私も思った。それに、総武校以外の学校は、ちゃんと学校あったんだって」

 

 気の抜けたような顔で「不思議だよねー」と付け足す由比ヶ浜さん。

「そうなの?」

「うん、なんか昨日ね。同じ中学のクラスメイトに会ってねー」

 ちょっと待ちなさい。仮にも自宅学習となっていた筈よ。

 と、言っても。それを実際に守れている生徒がどれだけいるのかという話になるが。

「それでねー、綺麗なネックレス付けてたー」

 

 急激な話題転換が起こり、特に生産性のない、とりとめの無い会話が続く。

 

 結局その後も、昨日1日、家で何をしていたのか。という日常的な話題が続いた。

 そして、その途中で授業開始のチャイムが鳴った。

 

「チャイムなっちゃったねー」

 放送から流れる音に、シュンとした顔をする由比ヶ浜さん。

 

「そんな寂しそうな顔をしないでちょうだい。また次の休み時間があるじゃない。集中して取り組めば50分なんてすぐよ。たった50分そう考えれば良いじゃない」

「うー……。ねぇ、ゆきのん。もう少しお話しちゃだめ?」

 

 私の言葉に、由比ヶ浜さんは目をうるうると潤ませながら懇願(こんがん)する。

「ダメよ」

 鋭い眼光を向けながら、それをバッサリと切り捨てる。

 そして、今だに周りで騒がしくしている人達にも、同じ様に鋭い眼光を飛ばした。

 

 あっという間に部室内がシン、と静かになる。

 そして、

「………?」

 

 皆が窓の方へ目を向けた。

 

 外から喋り声が聞こえる。それも一人や二人では無く、何人もの大勢の声だ。

 と、いってもわざわざ席を立つ程ではない。こんなものなら、選挙直前に流れてくる立候補者のアピールの方が……言ってしまうのはなんだけれど、まだ煩いし耳に残る。

 

 視線を机上に置かれた自習課題に向け直す。

 私のその様子に、他の人達もしばらくは窓の外に視線を向けていたが、しばらくすると彼等も視線を課題に戻した。

 

 カリカリとペンを走らせる音が、時計の秒針の音と共に、室内にひっそりと響く。

 

 先程の私の睨みが効いているのか、それともスイッチが入ったのか、誰も喋らない。

 誰も喋らないからこそ、外から聞こえる声達がヤケに耳に入る。それが気に触る。

 その所為だろうか、少しずつ声が大きくなってきているような気がする。

 

 走らせていたペンを止め、耳を傾けーーー。

 

 

 

 

『比企谷八幡さんはどうなったんですか!!?この問題について、学校側は、加害者はどう責任をとるんですか!!?』

 

 

 

 

 突然、声が私達の鼓膜を震わせた。拡声器を通したようなノイズが混ざった声が。

 

 ーーーーーーえ?」

 

 その中に混ざっていた名前に、頭の中が一瞬にしてぐちゃぐちゃになる。

 私は反射的に椅子から立ち上がる。

 椅子が後ろに勢いよく倒れ、ガシャンと大きな音が鳴った。

 

 反比例するように静まり返る教室。そんな空間で、自分の心臓の鼓動だけが異常なまでに速く、大きく聞こえる。

 

「ど、どういうこと……?なんで、ヒッキーの名前が?……か、加害者って?責任って……なに?」

 由比ヶ浜さんの絞り出すような呟きは、皆の心の声を代弁していた。

 

 一方の私は、未だに混乱が解けず、口を動かすことすら出来ない。椅子から立ち上がったままの体勢で固まっている。

 口の中が乾いていき、鼓動が速くなっていくのが自分でも分かる。

 

 そんな私達を無視するように、声が聞こえてくる。

 

 

『進学校でのイジメの発生、証拠の写真まであるーーー』

 

 ……嘘。

 

『被害者の自室からは血痕が採取されーーー』

 

 ………嘘よ。

 

『刃物を使ってまでの暴力……傷害事件ーーー』

 

 ………そんな、だって彼は……。そんなこと……。

 

『主犯の学生達の処分はーーーーー』

 

 何も……相談してくれてな……。

 

『比企谷八幡さんは行方不明となっているようですが、これはーーーーー』

 

 身体の芯が一気に冷えてゆく。

 

 これ以上聞きたく無い。

 私は耳を(ふさ)ぎ座り込む。しかし、その行為はまるで意味を成さない。

 勝手に鼓膜は振動して、数多の情報を脳に伝えてゆく。

 歯の付け根がカチカチと音を立てながら震え、目が潤んだ。

 

『イジメ』『暴力』『刃物』『行方不明』『血痕』『加害者』『被害者』

 

 そして、『遺書(いしょ)

 

 まるで幼稚園児用のジグソーパズルでもしているかの様に、最悪の結末を繋ぎ合わせ作っていく。

 いや、パズルですらない。バラバラなように見えるだけで、最初からそれは完成された一つの解答だったのだ。

 

 暗く陰鬱な妄想が、頭の中を黒い水で浸す。

 

 呼吸が荒くなっているにも関わらず、口から吐き出される息は、氷のように冷たく凍っていく。

 

 そんなとき、誰かが私の手を握った。

「由比ヶ浜……さん」

 私の手を握る彼女の顔は、今にも泣き出しそうだった。

 

「ゆきのん……行こうッ!!」

「ど……こに?」

 由比ヶ浜さんが叫ぶように声を張りながら、座り込んだままの私の手を引っ張った。

 

「ヒッキーの……ヒッキーの家ッ!!はやく…早く……ッ!!」

 

 ………比企谷君の家に。

 別に光明が見えたわけではない。

 その言葉しか(すが)り付くものがなかっただけだ。

 

「………行きましょう」

 脚に力を入れて立ち上がり、私達は廊下に出る。

 朝よりも廊下の空気が冷たく感じた。それに思わず身震いする。

 

 由比ヶ浜さんに手を引かれながら、特別棟と本校舎とを繋ぐ廊下を抜ける。

 

 本校舎は、大混乱だった。

 

 授業中にも関わらず、騒がしい怒号が飛び交っている。生徒は野次馬のように窓にへばり付き、外を見ていた。

 歩きすぎる最後、どのクラスを覗いても、監督の教師はただ一人として付いていなかった。そのため、生徒は己の知りたいという欲求のままに行動している。

 

 靴箱玄関に向かう道すがらでは、

 

『すげぇ、アレテレビ局の車じゃね!?めっちゃカメラマン居んだけど!!』

『ウチの学校で傷害事件ってマジかよ、てかさ、ヒキガヤって奴死んだの?』

『先生達、めっちゃ頑張ってるわー』

『このまま当分学校休みになんないかなぁ?』

『これ進学とか響くんじゃない?マジ何やらかしてんの2F』

 

 などという声が絶え間無く聞こえてくる。

 彼等の会話はまるで、目の前に起きている現実では無く、遠い異郷の事を、フィクションを見ているようだった。

 そこに悪意は一切含まれていない。そこにあるのは、ただ残酷なまでの無責任と、中身のない器のように空虚な無意味さだけだ。

 聞いているだけで、気分が悪くなる。

 私は思わず口元を手で(おお)った。嘔吐感など無い。ただそうしなければという強い義務感があった。

 

 由比ヶ浜さんの歩くスピードが上がる。そして、私の手を握る力がグッと増した。

 彼女も一刻も早くここから離れたいのだろう。だが、鉛のように重い脚が、私達が足早に去ることを許さない。

 

 もし、今まで聞いたもの全てが真実だとしたら、私達は潰れてしまうかもしれない。

 きっと立ち直れない。

 ネガティブになった思考は、その上に更に暗い思考を塗り重ねていく。

 現実を直視する恐怖が、(まと)わり付いて離れない。

 由比ヶ浜さんの手を離さないように、キツくキツく握り返す。

 

 その時だった。

 

 私達の横を一人の生徒が凄まじい速度で通り過ぎたのは。

 揺れる亜麻色のセミロング。一瞬だけだったが、その髪の隙間から、必死の形相がチラと覗く。

 

「あの人は……確か……、一色さん…?」

 

 一色いろは。一年生にして、現総武校の生徒会長。

 彼女との面識はほとんどない。精々廊下で、たまにすれ違うことがあるくらいだ。

 ただ、それだけのものだったが、暗鬱(あんうつ)に歪んだその表情に、私は足を止める。

 

 しかし、それも一瞬の事で、

「ゆきのん!」

 と私をよぶ由比ヶ浜さんに、すぐ現実に引き戻された。

 

「あ…ごめんなさい」

「……どうしたの?」

 由比ヶ浜さんが心配そうな顔をしながら、私の顔を覗きこむようにしてくる。

 

「いえ……なんでもないわ」

 

 なんでもないと手を小さく振りながらそう答え、私は再び歩き出した。

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 学校の正門では、先生と報道関係者であろう人達とが、攻防を繰り広げている。

 大きなカメラを持った人間。テレビ局の車。

 

「人……いっぱい……。なら…」

 

 正面玄関から脱出するのは不可能だろうと考えた私は、彼等の視界に入らないように、ゆっくりと裏門へ回る。

 

 頭は恐ろしいほど冷え切っていた。

 いえ、冷静だと思い込んでいるだけで、全然冷静じゃないのかもしれない。

 だって、ほら。体がいう事をきかない。クラスメイトの静止を聞かず、気付けば走り出していたのだから。

 

 私はあの声から逃げたいだけなんでしょうね。

 あの声から。現実から。

 認めたくないんですよ。あんな言葉。あんな内容。

 

 だから、必死で否定材料を探している。

 

「小町…ちゃん」

 先輩の家に行けば。

 以前先輩が風邪を引いたときにお見舞いに行ったことがあった。だから、家の場所は知っている。

 

 裏門に着くと、そこには一人の教師が張り付いていた。

「平塚…先生」

 あまり接点があるわけではない。彼女は国語担当だが、それは2年生の話で、1年生の私にはあまり関係のない事だからだ。

 

 通して下さい。それがダメなら無理矢理にでも。そう私が言うよりも早く、

「行きたまえ」

 今にも泣きそうな笑みを浮かべ彼女は言った。

 いや、実際泣いていたんでしょう。その目元は赤く()れ上がって、眼は微かに充血している。

 

 私は平塚先生の言葉を聞いた瞬間、お礼も言わずに駆け出した。

 なんで通してくれたのか。深いことは何も考えなかった。

 

 通勤時間、登校時間が過ぎ、人気の少ない道を、ただガムシャラに走る。

 

 

「はぁッ……はぁ……ッ!」

 

 今ほど自分が運動部に入らなかったことを恨んだことは無い。

 息が上がり、乾いた空気を吸い込み続けた喉が、火で(あぶ)られたかのようなジリジリとした痛みを発している。酷使され慣れていない脚は、すでに悲鳴を上げていた。

 

 それでも走る。そうでもしなければ不安に押し潰されてしまいそうだから。

 

 私は信じたくないのだ。拡声器から飛び出たあの言葉を。

 

「ひぅッ!」

 足がもつれ、私はコンクリの地面に転倒する、手の平と膝を擦りむき、そこから薄く血が滲んだ。

「痛い………、……」

 それだけの事なのに、たったそれだけの事に、どうしようもないくらい泣きそうになった。

 漏れ出しそうになる嗚咽を、唇を噛むことで必死に殺しながら立ち上がる。息が切れ、フラフラとした足取りで歩を進める。

 

 記憶の中にある道筋通りならば、もう先輩の家は目の前だ。

「せん……ぱ…」

 無意識の内に口からそう溢れる。

 私は息を切らしながら十字路を曲がり。

 

「そりゃそう……です、よね……」

 

 脚から力が抜け崩れ落ちた。

 

 モノクロの警察車両。

 張られた黄色いテープ。

 それに群がるようにする野次馬。

 その口は醜く歪んでいる。

 

 当たり前だ。学校であんな事になっていたのに。

 ただ認めたく無かっただけ。

 

「……ヒグゥッ……あぁ……」

 抑え込んでいた、涙が、嗚咽が、突然止まらなくなる。

 周りからの奇異の視線など、少しも気にならなかった。

 

 もう……、もう充分だ。何もかもがどうでも良くなる。

 

 決壊した涙腺は絶えず涙が流れ落ち、乾いたコンクリートに黒いシミを作っていった。

「どうッ……してぇ……………どうしてッ……何も相談してくれなかったんですかぁ……」

 

 ああ、本当は分かっているのに。先輩は何も悪くないってことは。

 醜いよ、私。勝手に先輩の所為にして。

 

 あの日の放課後、何故先輩に踏み込まなかったのか。何故もっと早く、すぐ手を差し伸べなかったんだろうか。

 胸の中で行き場の無い憤懣(ふんまん)。自身への憎悪。意味のない後悔と自責(じせき)の念が膨らんでいく。

 

 胸に爪を突き立て(うずくま)る。

 

 今すぐこの衣服を、皮膚を破り、死んでしまいたかった。

 思いっきり噛み締めた唇から、赤が流れ出る。

 

 そんな意味の無い自傷行為が、更に自分自身への自己嫌悪を増幅させていった。

 周りに野次馬たちが集まってきているのを感じる。

 

 ああ、吐きそうだ。地面が揺れているような錯覚がする。

 意識がクラクラとしてき、本格的に嘔吐しそうになっていた、そのとき、

 

「いろはさん」

 

 正面から声を掛けられた。

 私は(かしら)を上げ、その声の主を見る。そして絞り出すように、

 

 

「小……まち……ちゃん?」

 

 その名を呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




・一色いろははオリジナルストーリーあり。記憶喪失編で語ります。
・今回は上中下。または上下構成になると思います。
・記憶喪失編書き直すために今一度全消ししました。(詳しくは6月あった活動報告で)

どうも皆様お久しぶりです!
そして、遅くなりまして本当に申し訳ありません!

いや、やってやりましたよ。考査から帰ってきてやりましたよ。
はっはっは!……はい。

幕章は全て1話分に纏める予定だったのですが、こう…書き始めると、思いの外量が増える増える。
ホント、濃ゆい内容を1話4000文字とかで纏めてる人達って凄い!と思いながら書いてました。
あと、今回は誤字脱字が目立つとコメントを頂きました。そういったものは容赦無く言ってくださると悦び……喜びます。

どうでも良いですけど、ホーンテッドキャンパス面白いっす。
もう!儺と森司が可愛い!!二人のカップリングが最高に可愛い!じゅる。


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こうして、私達の青春ラブコメは幕を閉じる。中

 キンッと高い接触音が部屋に落ちる。

 金属製のスプーンが枯茶の液体の水面に波を作り、垂らされた白がその表面に歪んだ円を(えが)いていた。

 

「あ、砂糖いりますか?」

「え?……あ、うん。……お願いします」

 

 比企谷家のリビングのカーテンは堅く閉じられ、外界から光を可能な限り遮断している。

 しかし、雑音まで消す事は出来ない。外から聞こえる不特定多数、大勢の声が私の耳を穿つ。

 それが少しずつ私の精神を削っていくのを感じていた。

 

「どうぞー」

 角砂糖の入った透明なガラスの瓶を、コップの横に置かれる。

 

 

「……ありがとう、…小町ちゃん」

「いえいえ、お気になさらずに!」

 薄く、薄く笑いながら、小町ちゃんが胸元で小さく手を振った。

 

 白い四角を多めに4つ程落とすと、水面にぽちゃんと丸い波紋をつくっていく。それはコップの縁に伝わると跳ね返り、他の波紋とぶつかり合い消えた。

 私はその光景を、ただジッと見つめる。部屋を沈黙が支配する。

 時計の長針の動く音が微かに聞こえる。

 

「五月蝿いですよねー、アレ」

 不意に小町ちゃんが呟く。

「…うん」

 私はそれに首を小さく振るだけ。

「冷めますよ?」

「…うん」

 短く返し、両手を使いコップを持ち上げ中身を喉に流し込む。

 喉を焼くような甘さが口内に容赦無く広がっていく。思わず咳き込んでしまいそうになるのを必死で我慢し、顔を俯かせる。

「………ッ」

 全て流し込み終えると、鼻の奥がツンとした。

 

 

 私が先輩に何か奢ってくださいとせがむと、彼は必ずと言っていいほど嫌そうな顔をしていたのを思い出す。

 それでも渋々といった感じで奢ってくれたところがポイント高かった。

 

 先輩に対して、何を買って欲しいか注文しない日がたくさんあった。そんな日彼は必ず甘い、甘いコーヒーを私に買って来た。

 その度、私は彼にぶーぶーと文句を垂れていたっけ。

 そして、一口だけ口を付けるとすぐに、これ以上飲めないと言い、彼にまだ中身のたっぷりと入っている黄色い缶を突き返していた。

 

 間接キス。

 

 我ながら乙女なものだと思う。

 その度、顔を真っ赤にしながらドギマギする先輩の姿が、可愛くて大好きでした。

 先輩は気付いてなかったと思いますけど、私もすっごく恥ずかしかったんですよ。そして、気付いて欲しかったです。

 

 ……気付いてほしかったです。

 

「………ウッ……ッ……」

 涙が再び頬を伝う。

 私が嗚咽を漏らしている間、小町ちゃんは何も喋らず、何も聞かずじっと座っていた。

 

 どれ位経っただろう。

 空になったコップを机の上に置き、顔を上げる。

 

「落ち着きましたか?」

「…うん」

 勿論嘘だ。

 気を抜けば今にも涙が流れてしまいそうなのを、意志の力で抑えつけている。内側に溜まった涙が枯れる気配はない。

 

「あ、どうです?おかわり注ぎましょーー」

 

「どうして……」

「はい?」

「……どうして、泣かないの?悲しく…哀しくないの?」

 私の問いに、彼女の動きが一瞬だけだがピタリと静止する。

 

「どうして、そう思うんですか?」

 小首を傾げながら彼女はそう私に問う。

「それは……」

 

 泣いた跡が少しもなかったから。そして、態度が思っていたよりずっと落ち着いていたから。

 

 黙りこくった私に小町ちゃんはまたも静かに薄く、それでいて苦く微笑んだ。

 

「まぁ、なんていうかですね。実感が沸かないんですよ」

「じっ……か…ん?」

 私の拙い鸚鵡返しに小町ちゃんは「はい」と返す。

 

「だってです、数日前まで兄は確かに居たんですよ…。ここに、居たんですよ。」

 彼女は言葉を止め、そっとカップに視線を落とした。そして、意味もなくその中身を掻き混ぜ始める。

 

「それが突然行方不明で自殺の可能性が高い、なんて言われてすぐに『はいそうですか』って呑み込めるわけないじゃないですか」

「……」

「頭の中がぐちゃぐちゃなんです。分からないんです」

 顔を上げ、虚空を見つめる彼女の顔はやはり微笑んだままだ。

 それが、酷く悲しかった。

「それ以上先を。あるところから先を考えようとすると、頭の中が真っ白になっていくんですよ。だから……。だからですかね」

 そこまで言い終えると彼女はカップを持ち上げ、ぐっとその中身を呷る。

 

 そして一息吐くと

「いろはさんは、どこまで知っているんですか?」

 私にそう問い掛けてきた。

「え?」

 どこまで……って何が?

 それがそのまま顔に出ていたのか、小町ちゃんが顔を上げながら「あー……」と声を出す。

「すいません。少し言葉足らずでした」

 自分で自分の頭をてへっと小突き、えーと、ですね。と付け足す小町ちゃん。

「いろはさんは今回の事件、兄の行方不明についてどこまで知っていますか。……どこまで情報を得れていますか?」

「……どうして、それを?」

「まぁ、疑問もいろいろあると思いますが、そこをなんと」

 彼女が言葉を発している最中、突然音楽が鳴り響いた。

 音源は小町ちゃんのポケットからのようで、重苦しい空間を嘲るように陽気な曲が鳴り響く。

 彼女はそれにはぁっと息吹くと、ポケットの中から携帯電話を取り出した。

 

「すいません、ちょっと電話出ていいですか?」

「…え、うん」

 

 疑問の声をあげる私に、彼女は小さく頭を下げる。

 そして、私がそれ以上何か言うよりも早く、リビングから出て行ってしまった。

 パタンと薄い音を立てながら扉がしまる。

「………」

 私は椅子の上で膝を抱え、膝の間に顔を埋める。

 そして、彼女の帰りをじっと待つ。ジッと。じっと。

 

 

 

 廊下を歩く音が聞こえてくる。帰ってきたのだろうか。

 顔を上げ時計を見ると、小町ちゃんが出て行ってから20分程時間が経過していた。

 〝いつの間に〟と思いながら、私はゆっくりと頭を上げ、脚を椅子から下ろす。

 

 足音が近付いてき、扉の前でピタと止まる。そして、ゆっくりと扉が開いた。

「小町ちゃん…、おかえ…」

 そこまで言いかけた所で、小町ちゃんの後ろに他の人影がある事に気付いた。

 

 

 首を垂れ、その顔全てを視認できなくとも私には分かる。

 いや、きっと総武校の生徒であれば、誰でも分かるだろう

 

 ″雪ノ下雪乃〟″由比ヶ浜結衣〟

 

 学校一の秀才。極め付けに美少女。

 学校一のトップカーストに所属。そして、やはり極め付けに美少女。

 

 彼女たちの顔を見て思う。

 

 酷い顔。

 

 垂れ下がった眉尻。二人とも憔悴仕切った顔をしており、目に絶望を湛えている。その眼は真っ赤に充血しており、まるで兎のようだ。

 隠し切れない嗚咽が二人の間から漏れ出し、涙が重力に従いぼたぼたと落ちている。

 

「ただいまです、いろはさん。あ、お二人もどうぞお好きな所に掛けてください」

 

「うん…ッ……ありがとう、小町ちゃ……」

 そこで由比ヶ浜先輩が私の存在に気付いた。肩がピクリと小さく跳ねる。

 その反応は、どうやら私のことを知っているようだった。だが、考えてみれば当たり前だ。私は総武校の生徒会長なのだ。

 

「……こんにちは」

 私は座ったまま小さく頭を下げる。

 

 

「すいませんいろはさん。えーこの二人はですね」

「あ、だ、大丈夫。知ってるから。……雪ノ下、雪乃先輩と由比ヶ浜結衣先輩……ですよね?」

 私の問い掛けに二人は首を縦に振る。

 それを見て小町ちゃんが、″面識があるのなら自己紹介は必要ないですね〟と言った。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 目の前にコップが置かれる。

「……ありがとう、小町さん」

 微かに白い湯気を表面から流すコーヒーカップに冷え切った手を当てた。

 

 何故一色さんがここにいるのかが分からない。

 彼女は暗く陽の翳った様な表情をしており、目元は酷く腫れ上がっている。そして強く噛み締めたのだろう、唇から微かに血が流れた跡があった。

 

 彼の長所は、優しさは他人には理解されにくい、その優しさに気付くには長い時間を要する。薄い関係の人物ならば、ここまで取り乱す事は無い。

 なら、彼女は彼の一体。

 

 頭の中に湧く疑問を打ち消すように唇をコップに付け、苦味に舌を委ねる

 それにより、頭のゴチャゴチャが少しだけ(おさま)った。

 

「…小町さんはどうしてあそこに?」

「あそこ?」

「道の途中で私達を待っていたわよね?」

 私達が比企谷君の家にだいぶ近付いてきていた道すがら、彼女が立っていた。

 当然、と言うとあれだけれど、私達は小町さんに連絡など入れていない。

 けれど彼女は、まるで最初から私達がくるのを分かっていたかのようにそこに立っていた。

 

 私の言葉に小町さんは「あー」と声を発っし、

「連絡を頂いたんですよ、平塚先生から」

 彼女の言葉に、一色さんの肩がピクリと動いた。そして、マジマジと小町ちゃんの顔を見る。

「……そう」

 疑問も解け、私はカップを一気に呷りその中身を飲み干す。

 別に疑問であればなんでも良かったのだ。ただ、少しでも頭を落ち着かせたかっただけ。

 しかし、依然鼓動は荒く、コップの縁を持つ手は震えている。

 

「どうやらみんな飲み終わったようですね。それじゃあ、そうですね本題に入りましょう」

 小町ちゃんはそう言うと、ポケットからスマホを取り出し、指を動かす。

 そして、

「コレをご存知ですか?」

 ひょいっと私達の目の前に、画面を突き出してきた。

 

 ……?

 

 私は身を乗り出すようにして画面を見る。

 映し出されているのは男性の背中。一人の男性の背中だ。

 

 

 それを目に映した瞬間。世界が茫と滲んだ。

 拒否。拒絶。

 

 

 脳の回転が急に鈍くなっていき、意識が緩やかになってゆく。

 

 例えるならば、貧血。

 例えるならば、目が覚めたばかりの暖かな朝。

 例えるならば、柔らかな脳を優しく掴まれたような。

 

 まるで境目に薄い膜が張られているようだった。

 

 高い。けれど決して不快ではない、こういうと矛盾を孕んでいる様に聞こえるが、静かな耳鳴りが頭の中を掻き混ぜる。

 耳鳴りに続くように、遠くで女性の…由比ヶ浜さんの悲鳴が聴こえた。

 

 私は机から身を乗り出すようにしながら画像を見る。

 

 写真の中の景色は冬。

 背景に並ぶ、寒々とした葉の生えていない樹々が私に教えてくれた。

 

 写真の中の舞台は学校。

 写真の端に映っている、見慣れた体育館の壁の色調が私に教えてくれた。

 

 写真の中の人物は学生。

 皺くちゃに汚れはだけた、写真の人物が着ている衣服が私に教えてくれた。

 

 写真の中の人物は。写真の中の人物は。

 

「誰……?」

 

 顔は見えている。横顔が見えている。目がこちらを見ている。

 なのに誰か分からない。……分からない…?

 

 いろはさんが口元を押さえながら、何処かに駆けて行く。

 

 

「あッ……」

 唇が細々と震える。

 …え?誰?…この人物は誰なの?

 

 私は口元を押さえる。目が潤む。

 

 背中に大きく書かれた文字。

 ただ、絵の具に水を含ませ過ぎたのか。

 重力に沿って、赤い線が下へ、下へと何本も。何十本も伸びている。

 

 真っ赤な背中。

 

「ヒッ…ィ…が……」

 喉が乾く。舌の湿り気が無くなって乾燥していく。

 

 

 痣。何故今まで気付かなかったのだろう。

 紫檀(したん)。葵。紫式部(むらさきしきぶ)。葡萄。燕脂(えんじ)色。朱殷(しゅあん)(しんく)(あかね)(あけ)栗梅(くりうめ)葡萄(えび)柘榴(ざくろ)深緋(こきあけ)

 

 赤黒く変色した皮膚が、彼が尋常では無い期間暴力を振るわれていた事を物語っていた。

 剥げた皮膚はピンク色に。その内側にはポツポツと雨粒のように照る血液が。

 

「あ…ッあ……」

 

 柔らかな脳に優しく触れていた指が、突然狂気をもって私の脳に爪を掻立てた。

 靄のかかった様な思考が嫌に透き通ってゆく。澄んでゆく。

 逃避をした私を逃さぬ、現実への片道切符。

 

「比企……が…君……」

 彼の表情。

 

「ああッ……」

 

 

 

 現実が私に追いついた。

 

 

 

「い…いや……ッ」

 

 膝が仔鹿の様に震える。

 私はその場から逃れようと、椅子から立ち上がり走り出そうとする。

 けれど脚がいう事を聞かず、私は椅子から転げ落ちた。受け身を取ることさえ忘れ、身体を冷たい床に打ち付ける。

「や……」

 瞳からボタボタと涙が溢れ、視界がグチャグチャになる。

 そこまで強く打ち付けたワケではないにも関わらず、そこはまるで熱釘を打ち込まれたかのような激痛を私に伝えてくる。

 

「イヤぁああ″あああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 

 喉から疳高い叫び声が発せられた。

 一瞬それが、本当に自分の喉から発せられたものだったのか分からなかった。

 喉がギチギチと音を立て、果てしない嘔吐感が襲ってくる。

 

 酷使される事に慣れていない喉はあっという間に熱を帯び、掠れた声しか出さなくなってしまう。

「ーーーーあああーーーーあ″ああーーーッ」

 それでも私は唾液を垂らしながら絶叫し続ける。

 

 不快感が私を窒息させようと、実体のない黒い液体で喉を満たそうと溜まっていく。

 ″怖い〟

 声を出さなければ、叫ばなければそれがあっという間に溺れ、窒息してしまいそうだった。

 

「ゥ゛あ……ぅッぅうあ゛ーーーーーーーーーーッ」

 

 知らなかった。何も知らなかった。彼が。彼がこんなになっているだなんて。

「やっぱりなにも知らなかったんですね」

 

 平坦な声を出しているにも関わらず、彼女の表情は笑みを浮かべている。そのアンバランスな光景が、腸を引き摺り出すように私の記憶を刺激した。

 

『もうボケたのか?』

 

 あの日の放課後、夕暮れに沈んだ部室。小町さんの表情は、あのときの比企谷君とどこか似ている。

 自然に吊り上がった口角。その表情は柑橘系のように爽やかな笑みにも関わらず、私にはそれがいっそ実体を持った悪意の様に感じられた。

 優しかった彼と同じ顔を模した別人のようだった。

 それを比企谷君だと認めたく無い、彼からは微塵も優しさなど感じられないから。

 

「羨ましいですよ先輩達が。内を吐き出せて」

 ″小町はそのやり方すら忘れちゃったみたいですから〟

 

「コレでこうなっちゃうんじゃ、今日はもう無理そうですね」

 私を、私達を見下ろしながら小町ちゃんが呟く。

 彼女がどこかに去ってゆき、足音が遠ざかっていく。

 

 ーー否、違う。コレは。

 

 

 

 そこで私の意識はプツリと途切れた。

 

 

 

    ×   ×   ×

 

 

 私の前を一人の男性が歩いている。

 

 

 だるそうにポケットに手を突っ込みながら歩む、猫背気味の背中。身長はごく平均的で体型は肥り気味でもなく、痩せ気味でもない。ごく一般的な中背中肉というものだ。

 頭からはぴょんとアホ毛が垂れており、それが彼の動きに合わせるようユラユラと揺れていた。

 

「比企谷……くん」

 

 彼との距離はかなりある筈にも関わらず、私の呟きが聴こえたのか、歩みを進めていた彼の足がピタと止まる。

 そして、ゆっくりとこちらを振り向いた。

 比企谷君の顔は夕焼けの逆光によって黒く染まっており、その表情を伺うことが出来ない。

 ただ、ただ……笑っている様だった。

 

「雪ノ下」

 

 彼は私の名前を呼ぶと体の向きを変え、こちらに歩いてきた。

 背の低い雑草が音を立てながら潰れる。

 

 彼が私の目の前に立つ。

 その距離は僅か10センチ程度のものになっている。しかし、依然その顔は深い影を落としその表情を隠す。

 いえ、影という言い方は的確ではないかもしれない。

 

 穴だ。彼の顔に真っ黒な空洞が空いているようだった。なのに、

 

「……どうして笑っているの?」

 

 私には彼が笑っている様に感じてならない。

 

 彼は私の背中に手を回し、ぎゅぅと私を抱き締める。

 すると、身体が触れ合った部分から″ぐちゃり〟と音が鳴り、そこから液体が垂れ出した。

 

 ぼちゃ、ぼちゃ、ぼちゃりと地面に衝突した赤は土に吸収されることなく、辺りに小さな水溜りを作っていく。

 

「憎い」

 

 彼がポツリと漏らす。

「憎いよ、雪ノ下」

 

 ぼちゃ、ぼちゃ、ぼちゃり。血溜まりは少しずつ少しずつその領土を広げていく。

 

 足元が全て真っ赤に染まった頃。

 突然、彼の身体がズルっと地面に落ち、熟れ過ぎたトマトのように外側が剥がれ、その内側を地面に散らした。

 飛び散った赤が、すでに真っ赤になった私の頬を更に赤く染める。

 そこに抽象性は一切無い。いっそ嫌悪感を感じるほどリアルな臓物が、あたり一面にまた違った色の水溜りを作った。

 

 ジッと下を見る。

 視線の先にあるのはただの肉塊。そこに比企谷八幡の尊厳は何一つ遺されていない。

 

 背中が熱を持つ。それに続く様に次々と身体中が熱を帯び始める。

 

 痛い。痛い、いたい。

 

 自分の皮膚がズルズルと垂れ落ちていく。

「あ……あッ……」

 それはなんの警告も無く、あまりにも突然の出来事だった。

 

 垂れ落ちていく部分から赤い肉が覗き、それが先程感じた嫌悪感を上回る嫌悪感を私に糊塗する。

「……イ…やぁ……」

 腕が″ぐじょっ〟と音を立て地面に落ち、そこから流れ出す鉄分と赤血球が、ジワジワと赤の面積を広げていく。腕から白い塊が 剥き出しになった。

「イヤぁああ………」

 目の前で比企谷君が嗤っている。

 

 彼はぐちゃぐちゃになった私に、人差し指を突き出しながら言う。

「もう、壊れたのか?俺はまだ保ったぞ?もう狂ったのか?俺はまだ保ったぞ?」

 

「あ……ああ″…ああ……」

 

 

 

 

 

 

 

 

「あぁああ″ああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」

 

「雪乃ちゃん!?」

 

 手を滅茶苦茶に振り回し奇声を発する。何処からか声がする。

 

 必死でそれに縋り付こうとするが、涙で歪んだ視界ではそれを探し出す事すら困難で、その手は空を切る。

 その度に焦燥が、恐怖が私の息を詰まらせる。

「誰かぁあッ!!誰かぁあああーーーーーーッ!!」

 瞼の内側を孤独感が埋め尽くす。

 

「誰かぁ…………」

 無意識の内に手を前へ前へと突き出す。何にでもいい、何かに触れなければ心が壊れてしまいそうだった。悪夢に囚われてしまいそうだった。

 

 突然、身体が暖かいものに包まれた。

「大丈夫だよ。大丈夫」

 柔らかい声に頭の中が一瞬真っ白になったが、すぐにそれを離さぬように力の限り抱き締める。

 爪を突き立て離さぬように、存在を確認するように手をせわしなく動かす。突き立てた爪がガリガリと音を立てた。

 

「雪乃ちゃん、大丈夫だから……」

 頭を撫でられる。優しい手付きだ。良い匂いがする。

 

 荒かった自分の息が、鼓動が少しずつ落ち着いていくのを感じ、身体から力が抜けてゆく。

 そこでやっと、私は自分の頭を撫でている人物が誰なのか気付いた。

 

「姉さん……」

「うん。落ち着いた?雪乃ちゃん」

 

 雪ノ下陽乃。私の実の姉で、私のずっと先を行く人。そして、常に余裕を崩さなーー。

 

「姉さん……?私はその、あの……」

 ″どうしてここに?〟そこまで言いかけたとき、喉が鋭く痛んだ。そのせいで最後まで言葉を言うことが出来なかった。

 私は姉さんの胸から顔を上げ、辺りを見渡す。

 

 白いシーツの敷かれたベット。本棚、机。そして、それぞれの上には大量のパンさんの人形が置かれている。

 見紛う筈もない、ここは私の部屋だ。

 しかし記憶では、私は比企谷君の家にいた筈だ。それが……何故。

 

「雪乃ちゃんは倒れたんだよ、比企谷君の家でね」

「倒れ…た?」

「そう、小町ちゃんから連絡があってね。迎えに来て欲しいって」

 

 あ……確か。私は……。

 

 呼吸と鼓動が再び速くなっていく。

 部屋の温度が酷く冷たい。身体中が粟立ち、細々と震えた。

 

「私は…わたしは………」

 抱きしめられる力が強くなる。

「大丈夫。雪乃ちゃんは何も悪くない。だから、大丈夫なの」

 私の背中を摩りながら、彼女は繰り返し″大丈夫、大丈夫〟と呟く。

 

 どれくらいそうされていただろうか、20分。1時間?いえ、もしかしたらもっとかもしれない。

 身体の震えと呼吸も落ち着き、ただ姉の温もりに身を委ねていた。

 

 そんな中突然姉が口を開いた。

 

「ねぇ……あの日、覚えてる?私と彼が初めて会った日」

 由比ヶ浜さんへの誕生日プレゼントを買いに行った日。

 

「私ね、羨ましかったの。私の側には現れなかったから彼みたいな人は。私の舞台に現れるのは、いつまで経っても上辺のみで人を判断する事しかできないモブばかりだった」

 でも……

「彼は、比企谷君は。人の本質を見抜くことは出来なくても、偽りだけは見抜くことができた。私の外側を否定した。…彼は偽りを、偽物を…いっそ憎んですらいたんだろうね」

 

「私みたいなのが言うのはなんだけど、……″不平等〟だって思ったよ。雪乃ちゃんの隣に私がずっと求めてたモノがいるって知った時。どうしようもない位妬ましかった」

 

 ″でも〟と彼女は言葉を区切る。

 

「それと同じ位、嬉しかった」

「…え?」

「安心したの。彼なら、彼ならもしかしたら雪乃ちゃんの理解者になってくれるかもしれないって……。本物になってくれるんじゃないかって…」

 そこで言葉を切り、深く息を吸う姉。

 

「それでも確信には程遠かった。だから、文実で彼を試した」

 

 それはきっと相模さんを怠惰の方向に焚き付けた事で。

 

「その顔、もう雪乃ちゃんも気付いてるみたいだね。なら、言うよ。いや、もしかしたらもう結論に辿り着いてるかな?」

 

 ーー尾に、″だったら私が憎いよね〟と付け足す姉。

 

「私が比企谷君を殺したんだよ」

 

 

 突然視界が真っ暗になる。

 姉が私の眼を自分の手で覆ったのだ。

 

「え……」

 私が掠れた声が出を出すと、姉さんは深く息吹いた。

 その息が酷く冷たく感じ、身体がブルッと震える。

 

「そのままの意味だよ。私が比企谷君を殺した。……間接的に…は私が殺したも同然なの。あの日、私が文実を掻き乱さなければ、比企谷君は周囲からヘイトを集めずに済んだ、目を付けられずに済んだーー死なずに済んだんだーーよッ!」

 

 次の瞬間。

 突然ベットに押し倒された。

 

 予想しなかった出来事に、私は反射的に眼を瞑ってしまう。

 そんな目蓋を再び姉の手が乱暴に覆った。

 

「…ッ!なに…を…」

「まだ彼は行方不明って事になってるみたいだけど……。まぁ、生存は絶望的だよね。いや、取り繕うのは悪い事だよね。彼、死んだんじゃない?」

 

 姉がハッと嘲笑を漏らす。さっきまでの暖かさは無く、底冷えするような声。

 けれど、その奥に確かな激情が渦巻いているのを感じる。

 

「なんで雪乃ちゃん達は気付いてあげられ無かったのかな?彼の家族を除いて、比企谷君の一番近くにいたのは雪乃ちゃん達だったよね?彼と同じ部活にいる時間、二人は一体何をしていたのかなぁ?」

 

 頭が冷水を浴びせられたように冷えていく。

 

「小町ちゃんも小町ちゃんだよね。今更どれだけ後悔したって壊れたって彼は戻ってこないのに。本当は叫びたいくらい、狂いたいくらいな癖にさ、自分を嘯いて壊れたフリしてるんだよ?あの()

 

 気付くのが遅すぎたのだ。

 頬が濡れていく。

 

「……あ…」

「見てて滑稽だったよ。ホント、いざとなったら何も出来ないくせに、失ってから嘆いて……。手の中にあるうちに、それの価値に気付かないんだもの。愚図ばかりよねッ!笑っちゃうわよ!!本当に大した悲劇……いや、いっそ一周回って喜劇かな!?」

 

 姉が叫ぶように笑った。私の目蓋を覆う手に力が増す。

 それと比例する様に、頬に湿り気は増していった。

「やめて……」

 

「由比ヶ浜ちゃん…だっけ?雪乃ちゃん見てた?迎えに来た母親に連れられてた時の、比企谷君の家から連れ出されてた時のあの子の姿。″ヒッキー、ヒッキー〟ってまるで何もかも喪った仔犬みたいな顔でブツブツ…ブツブツとさ!!本当に見てて笑っちゃうくらい憐れで、哀れで!」

 

 それはきっと近視感というもので。

 

「やめて…」

「やめて…?なにが!?そんなに友達が、比企谷君が悪く言われるのが嫌だった!?あんな自分自身の面倒も見ることすら出来ない凡俗共が何!?」

 

「やめて……姉さん、本当にそう思ってるのならーー」

 

 ーーどうして泣いているの?

 私はそう彼女に問う。

 

 ずっと私の頬を濡らしていた涙。それは姉のもので。

 

 彼女が息を呑んだのが分かった。

 

「は!?この私がなんでーー」

「演技が下手すぎよ、感情が全部表にでてるわ。……彼ならもっと上手く演じたわ」

 目蓋に掛けられていた圧迫感が緩まる。

 

 

 部屋に静寂が落ちる。

 

「それと、似ていた。重なったわ。比企谷君と姉さんが」

 重なったのだ、姉の姿と比企谷君の姿が。

 片や自らを上に見せる事でヒール役を務め、片や自らを下に見せる事でヒール役を務めた。

 方向は、ベクトルは真逆だったが本質は全く同じもの。

 

 姉がしたかったこと。それは自分に全てのヘイトを向けさせる事だった。何故その結論に至ったのか私には分からない。だが、彼女は確かにそれを実行した。

 

 ただーー。

 

「優しすぎたわ。私を抱き締めたのは明らかな悪手だったわね」

「そっか……はは…」

 姉の口から震える笑い声が漏れた。

 

 私は姉の手をそっとどける。

 暗闇が解け、姉の顔が映し出される。

 

「みな…いで…」

 

 文字通りぐちゃぐちゃになった顔。

 どうしてこんなに嬉しいのだろう。どうしてこんなに悲しいのだろう。

 

「……そっくりね、姉さんと比企谷君は」

 本当に二人は似ている。

 それが少しだけ、羨ましい。

 

「雪乃…ちゃ…」

「でも、そうやって全て自分に向けようとするのは、……二度と、二度とやめて」

 

 姉から「ヒュッ」と息が漏れた。

 

 彼女が何故あんな事を告白したのか。文実の事を思い出させようとしたのか。

 簡単な事だった。ただそれはとても難しい事で。

 とても悲しい事で。

 

「雪乃ちゃん……ッごめん……」

 声に嗚咽が混ざり始める。

 

 開けた視界でふと思う。

 今までの人生で、初めて姉の涙を見たかもしれない、と。

 

 そこに大胆不敵な姿は無く、…軒並みな言葉だが、弱々しい少女が一人いるだけだ。

 十数年間私の中で築かれた姉のイメージが、ずっと追い駆け続けていた背中が音を立てて崩れていった。

 

「……雪乃ちゃんの前じゃ、泣かないって決めたのに」

 私は姉をそっと抱き締めた。そしてまるで壊れ物を扱うようにゆっくり、ゆっくりと頭を撫でる。

 

「ねぇ…、どうして彼が、…ッ比企谷君があんな目に会わなきゃ…、ならなかったのかな?」

 嗚咽を交えながら姉が呟く。私はその問いに答えることが出来ない。

「酷すぎるよ…、あんな…あんな傷…」

 

 完成された一つの彫像。陶器のように真っ白な肌。しかし今その顔には、目元には深い深いクマが掘られていた。

 それが彼女が長らく眠れていない事を物語っている。

 

「あの写真がね、瞼にこびり付いて離れないの。悪夢を見る。……眠れない」

 

 悪夢。その単語が背筋を凍った舌で舐めた。ぐちゃぐちゃになった赤い肉片が頭の中で鮮明に浮かぶ。

 

「……眠るのが怖い。この雪ノ下陽乃がだよ?……笑っちゃう?それとも失望したかな?」

 眉尻を下げ、瞳からぼろぼろと涙を流しながら彼女は私に問う。しかし、その口元は引き攣るように笑っていた。

 しかしその顔を見せたのも一瞬の事で、彼女は私の首元に顔を埋め、

 

 ″……見捨てないで〟

 それは今にも消えてしまいそうな声で。弱々しく……けれど恐ろしい程重かった。

 

 

「ねぇ、もう分からなくなっちゃったの。どうしてーー……。比企谷君…ひがや…く、ん」

 

「……だいじょうぶ、だいじょうぶーー」

 私は一体誰に向かってその慰めを唱えているのだろう。

 それは姉に向けられたものであり、そして自分に向けられたものであり。

 

「…き…だったの、…なんで消えちゃうの……!?ど、なんでぇ…!?」

 

 支離滅裂に、要領を得なくなってゆく言葉に耳を傾ける。

 

「…ウッ……あぁッ……」

 感情が決壊したかのように泣き噦るその姿が、とても愛おしく感じた。

 

 私は自分の頬から涙が伝っている事にも気付かず、ずっと。ずっと頭を撫で続けた。

 

 

 ーーずっと。ずっと。

 

「大丈夫…大丈夫ーー」

 

 頭を撫で続けた。

 

 

 

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 雪乃ちゃんの罪悪感を少しだけでも和らげて、取り除いてあげたかった。

 私だけが苦しめば良いと思った。

 でも、結局。救われたのは私のようで。

 

 私に抱き着きながら眠っている妹の髪をそっと撫でる。

「ん……」

 外はまだ陽が昇ってないようで、部屋は薄暗いままだ。

 

「比企谷君……」

 私は一人呟くと雪乃ちゃんを抱きしめ返す。

 彼女の瞼から頬にかけては、涙の通った赤い線がまだ薄っすらと引いている。

 

 

 今日は悪夢を見なかった。

 

 

 私は再び目蓋を閉じる。

 

 

 

 

 

 

 ーーーーー。

 

 

 

 

 

 比企谷君が行方不明になって一ヶ月後。彼の自転車が発見された。

 その日から数日後、彼の″行方不明〟は″死亡〟に変わった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




遅くなって大変申し訳ありません。
そして、長々とした言い訳の前に感謝を。

GINさん、マークさん、FOOLさん、霧亜さん……誤字脱字報告本当にありがとうございました!
GINさんに至っては、10話まで全ての誤字脱字報告を頂きました。もう、本当にありがとうございます。

次に言い訳を。

実は先週日曜時点で陽乃さんのとこまでいっていたのですが、そこからいろいろ苦労しまして…。
シリアス陽乃さんの扱いの難しさを痛感させられる回となりました。没案だけで余裕にもう1話分くらいあります。ハハッ☆

さて、現在土曜11時。この後書きを空港で書いております。
それで、これから月曜午後までインターネットの使えない環境で過ごさねばならないので、誤字脱字手直し等遅れると思います。

とりあえず、鹿児島に帰ってきたら感想等目を通させて頂きますので、それまでの無反応はお許しください。



最後に、次回 幕章は最後になります。皆様のお待ちかねはここで。


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こうして、私達の青春ラブコメは幕を閉じる。下

雨音が鼓膜を穿つ。

 

布団の中に綺麗に収まっているにも関わらず、肌に触れる空気は必要以上に冷たく感じられ、思わずブルッと身震いする。

モゾモゾと身体を動かすが、睡眠によって下がった体温は中々上がらず、一向に布団も身体も暖まる気配はない。

 

手早く身体を暖めるのを諦め、意味もなく窓の外を見やると、濃い墨を流し込まれたかのような空が視界に入った。

眼に入る景色が普段より暗いのは、分厚い雨雲が微かな朝の陽光を遮断しているからだろうか。

鼓膜を震わせるつんざくような雨音と、湿気を含みじめついた空気が嫌に気になり、身をよじる。

すると、隣で寝ている姉の白いうなじが眼に入った。その肌はしっとりと汗が滲んでいる。

 

身体を抱えるように丸くし、震えながら涙を流す姉の姿は、すでに見慣れたものとなってしまった。

私は彼女の頭を胸元に抱きこみ、彼女の頭に手を置いてゆっくり、ゆっくりと撫で始める。

 

地面に叩きつけるような雨音を聴きながら、柔らかな髪を撫で続けていると、次第に姉の呼吸は緩やかになり、震えが治っていく。

そしてピクンとその身体が小さく跳ねた。

 

「……の……ちゃん?」

たどたどしいしい声。そして、弱々しい声。

「ええ、……おはよう姉さん」

 

むくりと姉が起き上がり、一度自分の髪を手で(くしけず)るように撫でる。が、すぐ今度はくしくしと眼をこすり始めた。

「また…かしら?」

拭えど拭えど、拭いきれず瞳から零れ落ちる滴。それでも姉は手を止める事なく、眼を真っ赤にしながら、コクンと小さく首を振った。

「……」

「眼が傷付くわよ」

姉は再び首をコクンと縦に振り、目蓋から手を離す。

行き場を失った手はダランと垂れ下がり。行き場を失った涙はボタボタとシーツに幾つものシミを作った。

 

姉は布団が身体にかかったまま、涙を伝せたまま身を起き上がらせ、ポツリと呟く。

「…死んじゃったね」

 

雨音に掻き消されてしまいそうな声に私はそうね、と短く返す。

「…今日だね」

そうね。

「早いけど、起きよう」

そうね。

 

姉が布団から這い出て、近くにある電灯のスイッチを押し、キッチンへ歩いて行く。

暗闇に慣れた目に明るい光が刺さり、思わず眼を手の平で覆った。

 

眼が慣れると、私もベットから起き上がり、パジャマの上から直接コートを羽織った。

 

勉強をして。食事をして。入浴をして。そして眠る。

ただ胸に底の見えない空洞を抱えながら、変わらぬ生活を繰り返すアリゴリー。

 

時間が解決する、という言葉があるが。私の胸に生まれた虚無感は、一向に治まる気配は無い。

それどころか、まるで餌を与えられたバクテリアの様にその空洞を広げ続け、私を苦しめる。

 

けれど、それで良いのだ。

 

きっといつか、皆忘れてしまうのだろう。比企谷八幡という一人の少年の事を。

無かった事になるのだろう。あの惨劇(さんげき)も、悲劇(ひげき)も、孤り苦しんだ彼の悲壮(ひそう)も、彼が被葬(ひそう)される事すら許されなかった事実も。

何もかも全てを、()ぎ去った()去の事になるのだろう。()ぎ去った(あやま)ちになるのだろう。

 

それでも、私は。私達は忘れない。彼の事を。

それが義務である事を、責任である事を。私達の罪悪感がそうさせている事は否定はしない。

 

けれど、そうじゃないのだ。それだけじゃないのだ。だって、私達は。

 

 

だから、問うのだ。

 

「姉さん。良い夢だった?」

 

卵を掻き混ぜていた姉の手がふと止まる。

「良い夢だったよ」

 

涙を止める事なく、彼女はそう返した。

 

 

 

 

「コレで…、最後ね」

蛇口から流れる水を止め、濡れた手でそのまま食器を乾燥器に詰め入れる。

そして、近くに(あらかじ)め置いてあったタオルで、付着している水滴を拭い取った。

 

閉じたカーテンの隙間からは微量と呼ぶのも烏滸(おこ)がましい陽光が入り込み、部屋の情景を靉靆(あいたい)と、かつ暗然(あんぜん)と浮かび上がらせている。

そんな部屋の中央にあるソファに横たわる影。

その瞳は閉じられておらず、何処を見ているのか分からない。ただ透明なガラス玉の様な瞳で、虚空を見つめていた。

「…食器片付け終わったわ」

 

姉が半身寝返りをうち、私と瞳が交差する。

 

彼女は数拍私に空虚な瞳を向けていたが、(しばら)くすると、

「うん…じゃぁ、そろそろ起きなきゃね」

ガラス玉に色を垂らしたかのように、その瞳に理性と知性を映しだした。

よっとソファから起き上がると、大きく伸びをし私に向き合う。

 

「さて、小町ちゃんはいつくるかな」

「少なくとも9時には迎えに来ると言っていたけれど」

姉がチラリと眼を上方斜めへ傾ける。私もそれに続く様に、視線を其方(そちら)に向けると、円形の形をした壁掛け時計が目に入る。

その短針は8と9の中間を指していた。

 

「うーん、小町ちゃんがくるまで、もう少し時間あるね」

「……そうね。でも、彼女の事だから約束より、30分程早く来るのではないかしら」

彼の様に。

「ん。私もそう思う」

姉がそう口にした瞬間、ピンポーンと高く、間抜けた音が部屋中に響き渡った。

 

「噂をすれば」

姉が玄関へゆっくりと歩いて行く。私も背中を追った。

 

「はーい」

「どーもです。陽乃さん、雪乃さん」

扉を開けると、そこに居たのは案の定小町さんだった。

 

あの日から、一ヶ月以上前から変わらぬ、薄い微笑みを顔に張り付けている。

「まぁ、立ち話も何だから入って、入って」

そう言った姉を制すように、小町さんは胸の前で手をひらひらと振った。

 

「いやぁ、ですね。来たばっかりで悪いんですが、これ以上遅く行くと見られなくなっちゃうかもしれないんですよー」

「その、小町さん。私達は今日何処に行くのか、まだ聞いていないのだけれど」

そう返した私に彼女は、またまたそんなー。と笑みながら言った。その眼は笑っていない。

「……雪乃さん達も知っているんでしょう?あの事」

小町さんが一歩踏み出す。コツッと靴が鳴った。

 

「うん、知ってるよ。やっぱり行くの?」

姉が腫れた眼を細め、彼女の瞳を覗いた。

「はい。それが、私が兄に出来る唯一の罪滅ぼしだと思っていますから」

人差し指をピッと立て、″それに〟と言葉を繋げる。

「兄を殺した人の顔、結構気になるんですよー」

一瞬だけ、小町さんの眉間に小さく皺が寄ったのを見た。

そんな小町さんに、「そう」と短く返す姉。

 

「それじゃ、今度は小町がお二人に聞きますけどー。…行かないんですか?」

首を斜めに倒し、小町さんが問う。

愚問だ。

「まさか、そんなワケないよ。必ず行くよ、何があってもね」

全て赴いた。分かる限りの、彼の死に関係する場所は。全て。

ですよね、と私達に返し、小町さんはくるっと体を180度回した。

その視線の先には、雨が降っているだけだ。

 

「ねぇ、小町ちゃん。…限界なんでしょ?」

姉がそっと問うと、小町さんは再び身体を180度回転させ、うん?と首を捻った。そしてにゃはっと笑う。

 

「突然どうしたんですか?てか、限界…?小町ちょっと陽乃さんが何を言っているか分からないですね〜」

「うん、だろうね。でも…」

姉はそこで言葉を区切り。そ小町ちゃんに向かって足を一歩踏みだす。そして、

「早かれ遅かれ……。必ず追い付かれるよ」

憐れむような、慈しむような。どちらともいえない様な。そんな声音で彼女に言った。

 

「そうですか」

「うん、そうだよ。……っとこれ以上時間を無駄にするのもアレかな。じゃ、行こうか雪乃ちゃん……、小町ちゃん」

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

住宅街は騒然としていた。

 

激しい雨が降っているにも関わらず、人混みは恐ろしい程肥大している。皆が傘、レインコートで雨を防いでいるため、雑然とした人混みがより一層雑然と映った。

 

ある者はこの日を待ちわびていたかのように、携帯を高く持ち上げ、餓えた獣のように眼を光らせ。

また、ある者は何事かと理解してないにも関わらず、周りの熱気に染され、やはりその手に携帯を構えた。

 

周りに張られた黄色いテープはまるで機能しておらず、野次馬は、マスコミは、その内側へと容赦無く足を踏み入れている。

警官達は、彼等を抑え止める様に両手を手を大きく広げていた。

いや、ただ抑えるポーズをしているだけで、誰一人として本気で彼等を食い止めようとしていない。

それは数の暴力からくる無気力によるものなのか。あるいは、故意的にそうしているのか。

 

「行きましょうか」

フードを深く被った小町さんが私達に言った。

 

「小町さん…貴女、本当に大丈夫なのかしら」

「大丈夫……?ああ、大丈夫ですよ。これだけの人混みなんですよ。私を判別出来る人なんて居ませんよ」

″彼等の興味は私ではなく、あそこにあるんですから〟と、彼女は付け足す。

「……そうは言っても、小町ちゃん。もし見つかったら間違いなく囲まれるよ。マスコミにとっては、貴女も等しく対象なんだから。だから、…くれぐれも気を付けて」

 

会話をしながら、黄色いテープを超える。警察は私達が侵入していたのに間違いなく気付いているにも関わらず、何もアクションを起こさず、ただ案山子のように立ちながら両手を広げていた。

 

内側に入ると人口密度はグンと増し、一月にも関わらず何処か生温い空気が辺りに充満している。

「………」

 

『お前も見たんだよな、あの画像』

『見た見た。マジヤバかったよ。俺マジ最初合成かと思ってたもん』

 

「雪乃ちゃん、小町、ちゃん。……手」

姉が私達の手をギュッとキツく握る。

「こんな場所で離れ離れになったら、…ね?」

姉の言葉に私達は頷き、その手を握り返す。

 

絶えず人混みに押され、擦れ。足を踏まれる。

 

『ちょっと、押さないでよ!』

『あ?この人混みで押すなって方が無理あんだろ』

『て、おい!俺のスマホ!あ、ああ!踏むな!壊れるだろうが!』

 

耳に入り込む雑音は聞くに絶えないモノばかりで。

「雪乃ちゃん…、顔色悪いよ」

「大丈夫よ…。それより、早く進みましょう」

普段なら30秒とかからない道程(みちのり)を、時間を掛けゆっくりゆっくりと進んで行く。

それは、私にとってはある種の拷問の様に思えた。

声が痛い。

 

「はぁ…ッ、はぁ……」

「もう少しだよ、雪乃ちゃん。もう目の前だから」

「ええ、もう着きましたよ雪乃さん」

 

肩で息をしながら、いつの間にか俯き気味になっていた首を上げる。

「…アレが……」

 

視線の先には、一軒の住宅があった。

乳白色の壁に茶色い玄関扉。何処にでもある一軒家。

「これ以上進むのは無理そうだね」

姉が肺の空気を吐き出すように、重々しく呟く。

 

目の前に張られている黄色いテープ。

ここまで来るまでにも一度見たものだが、コレはソレとは張られている密度と、面積が違う。

今度こそ本当の立ち入り禁止なのだろう。その内側にいるのは警官だけだ。

 

皆がその扉を凝視している。その光景は異常とも思えた。

どれくらいそうしていただろう。

遂に。

「あ…」

扉がゆっくりと開かれた。

 

パーカーを深く被った少年が扉の向こうから姿を表す。

両側に警官が付き、その少年をパトカーへと誘導しているが、その動きは酷く緩慢としている。

少年の脚はまるで千鳥足のように覚束ないものだ。

 

「アレが……()が…君を……」

無意識に口から漏れ出す。呼吸が荒くなり、唇が戦慄(わなな)く。

 

眼が合った。と、思ったのは私の自意識過剰か、それともただの錯覚なのか。

それは定かでは無いが、彼は間違いなく私達のいる方角に視線を向けていた。

 

ああ、あの感覚だ。

肺の奥から湧き出る黒い水が、喉を、気道を満たす不快感。

 

一瞬にして胸の内側に、厭悪(えんお)が根を張り巡らせた。

「……ア″……」

視界が微かにボヤける。

 

叫び出したくて堪らない。泣き出したくて堪らない。

 

姉は、柔らかな唇に犬歯を突き刺し、射殺さんばかりに血走った眼でソレを睨みつけている。

小町さんは、雨のじっとりとした空気と、人混みの熱気の所為か。その頬に汗を滲ませていた。

 

姉が下手くそに肺の空気を吐き出し、ギィと歯を鳴らした。

視線が交差する。

姉が口を開く。しかし、

「ねぇ、雪乃ちゃ……」

 

「帰りましょう」

ソレを遮るかのように、小町さんが溢した。

 

「小町さん、一体何…を…言っ……」

「早く」

 

低い声。深く被ったパーカーの隙間からは、依然と変わらず吊り上がっている。

しかし、その声には焦燥が…紛れもない焦りが含まれていた。

小町ちゃんに握られていた手に締め付けられる様な痛みが走る。

 

「早くッ!!」

彼女が叫ぶように言った。

そして、それとほぼ同時に。

 

″コッ〟と少し高めの接触音が鼓膜を小さく震わせた。

その音はまるで、骨を金属で叩いたかの様な…。

微かに耳に届いた、男の呻き声。

 

『ーーーーーーーーーッ!!』

そして、それに続くように鼓膜を警察官の怒声が震わした。

 

思わずそちらを振り向くと、警察官の足下(あしもと)で、手錠の掛けられた両手で右耳付近を押さえながら、歯を食い縛る少年が目に入った。

その足元で開封されていない缶が、コロコロと転がり、やがて路上の石にぶつかってその運動を止める。

 

『プフっ』

「…?」

 

頭を動かさず、視線を横へズラす。

すると人々が口元を歪め、クスクスと笑い声を漏らす光景が眼に入った。

 

『ナイス空き缶…!ってアレ?』

『あの缶中入ってね?うっわ、だとしたら痛いったそぉ〜」

『警官の人も、あんな奴の為にわざわざ怒鳴らなくて良いのに』

 

何故か自分が嗤われているような錯覚に陥いり、鼓動が速くなっていく。

 

そんな私の肩を、誰かがトンと叩いた。

「……雪乃ちゃん、小町ちゃん……、アレ…」

「………」

姉の言葉に視線を戻す。

 

顔を俯かせ、依然右耳付近を押さえながら、ゆっくりと立ち上がる男。

ブツブツと何か呟いている様で、その口から小さく言葉が漏れ出ている。

「…ん…なよッ」

 

そんな彼の姿が滑稽に映ったのか、野次馬の一人が、

『っぷ…、おーい、何言ってんだー?聞こえないよー?』

と、嘲笑を噛み殺した様な声で野次を飛ばした。

 

その瞬間、吠えた。ソレは、吼えた。

「ざ……ッけんなよ!!フザッけんなッ!!グソがッ!!グゾがぁッ!!」

突然の罵声に野次馬達が閉口し、(ざわ)めきが小さくなってゆく。

 

「お前ら…お前らなんなんだよ!!ジロジロ、ジロジロッ人の事見やがってよォッ!!俺がぁ……ッ俺が何した!?」

眼球が飛び出さんばかりに目を見開き、唾液を飛散させながら言葉を連ならせる。ソレ。

 

気付けば誰しもが沈黙していた。

辺りには、撒き散らされるのは口汚ない罵声と、(しずく)の弾ける音だけが落ちている。

随分と精神的に追い詰められる生活でも送ってきたのだろうか、ソレはその事にすら気付いていないようだった。

 

「殺してやるよッ!!殺してやるッ!!ブッ殺してやるッ!!」

 

顔中に皺を刻みながら手を振り回し、叫ぶ、姿は酷く醜かった。

 

「そもそも、全部!全部……アイ…つ…が……」

罵声が尻すぼみになっていく。

見開かれた眼は、地面を見つめ、その瞳に狂気を映している。

 

ゆっくりと口が動く、何かを確認するかのように。

「ヒキタニ」

呟く。呟かれた、その名前。

 

口から吐き出される息は白い。にも関わらず、生温かい汗が頬を伝った。

 

ソレは頬に爪を立て、そのまま皮膚を下へ引っ張るように、何度も顔を撫で始めた。そして、壊れてしまったレコーダーの様に、繰り返し、繰り返し彼の名を、蔑称を呼ぶ。

「ヒキタニ……。ああ、……比企谷ッ。…ははは、ひぁ、ヒキタニッ」

その瞳の狂気が濃さを増し、何が嬉しいのか、楽しいのか、喜ばしいのか、その口が狂喜に吊り上がる。

 

「そうだ、…元はと言えば!元はと言えば!全部ヒキタニィ…全部!全部ッ!ヒキタニッ!!そう、ヒキタニィッ!!全部ッ!!アイツが悪りぃんだろ!!」

 

視界にソレしか映らなくなる。身体が熱い。

 

「何で俺が悪りぃみてェなってんだよ!!あんな屑!…あんな屑なんざああなって当然だろ!!」

 

「俺が間違ってるってのかよ!?はは、な訳ねぇよな!!俺は正しい事しただろうが!!正しいだろうがッ!!あんなヤツなんざーー」

 

ふざ、けな……で…。

 

 

「ーー死んで当然だろォ!!?」

 

脳を金属で殴られたかのようだ。視界が一瞬グラリと傾き、黒い水は色を変え激情に変わる。

 

「ふざけるなああああああああああああああッ!!!!」

絶叫が聞こえた。

 

肩を誰かに撥ねられ、体がグラリと揺れ、

「あッ…」

私は地面に体を叩き付けられた。

激情が驚愕に塗り潰され、私の瞳はグラリと震え、自分の衣服が泥水を吸っていく様を見た。

 

「小町ちゃんッ!!」

それと同時に、姉の叫びが聞こえた。

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

「ただいまー!って……あれ?誰もいない?」

兄へのお土産、プレゼントを片手に帰ってきた私を出迎えたのは、玄関で毛繕いをするカーくんだけだった。

 

玄関に入った体を半分扉の外へ出すようにして、兄の自転車を確認する。

「ありゃ…出掛けてるのかな?」

普段の休日ならば、兄がリビングのソファに横になって居る筈なのに…。珍しい。

とは言っても、どうせラノベを買いに書店に行ったか、なりたけ辺りで外食にでも行っているのだろう。

靴を脱ぎ捨て、リビングの暖房を付ける。そして、ソファに思いっきりダイブする…前に。

 

「念のため…」

二階に上がり、薄くドアを開け、兄の部屋の中を確認する。

 

「いるわけないよね…」

案の定というか、当然というか。兄は居なかった。

そりゃそうだ。コレで兄がいたら、自転車が窃盗された事になってしまう。

 

力無い足取りで階段を降りる。そして、今度こそソファにダイブした。

ボフンと音を立ててソファが沈む。

 

手の中にぶら下がるプレゼントの中身は、何処にでもありそうなただの小物。

それでも、兄の好きそうなモノを桐乃ちゃんと一緒に時間を掛けて選んだ。

 

 

「早く帰って来ないかなぁ…」

早く兄に謝りたい、という思いと、許してくれていなかったら、という思いが葛藤となって私の心で蠢めく。

柔らかな感触に顔を埋め、目を閉じる。そうしていると、少しずつ眠気が襲ってきた。

 

暖房によってリビングは暖かくなってきている。寝ても風邪は引かないだろう。なら、

「…おやすみなさい」

私はそう独り言ち、睡魔に意識を委ねた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いつもだったらすぐ出るのに…」

何度携帯に電話を入れても、ただ無機質な女性の声がスピーカーから流れるだけで、兄と繋がる事はない。

秒針が静かに音を立てながら回る。

その音が耳に入る度に、少しずつ、しかし確実に焦燥と不安が積もっていく。

 

その不安から目を反らす様に、私はスマホのアプリや、ゲームを開く。

 

それでも秒針の音は、無機質に時を刻む。

心細さが胸を締め付け、スマホを持つ手に力が入りずらくなった様に感じ、普段ならしないような操作ミスを連発する。

 

「んあ……」

精神が疲労してきているのを感じ、声とも覚束無い吐息を吐いた。

 

時計の針が12時を越えた。

 

ソファに横になり、ただひたすら義務のようにスマホの画面を操作する。

開いているのは、某SNS。

しかし、開いているだけで内容に眼を通していない。意味も無くただ画面をスライドする。

 

だから、きっとそれは偶然で…、いやその様に見えただけで実際は必然というものだったのだろう。

流れていく画面の中に、一瞬兄に似た横顔を見たような気がしたのは。

 

「え?」

一瞬思考が停止した。

 

しかし、すぐにソレを見間違いだろう、と思い直す。

兄に似た人間だって探せば幾らでも…とはいかずとも、それなりにいるだろう。あの若さであの眼の濁り具合は、そう見かけられるものではないにしても。まぁ、私の父母の年齢ともなれば、稀にだが街中でも見かける。

そもそも前提として、兄が自分の写真をネットに挙げるような趣味を持っていない。

 

だから、きっとアレはただの見間違いで。私の意識過剰で。決して、そう決して兄では無いのだ。

 

頭の中でそう結論付ける。結論付ける、も。

「……」

気付けば私は、来た道を引き返すように、ゆっくりと画面をスライドさせていた。

内容の移り変わる画面を食い入るように見つめ、顔を近付ける。

 

さっきまで酷く近く感じていた針の音が、今は薄い膜を一枚隔てたかのように遠く感じる。

 

そうやって、しばらく画面を見つめていたが。

 

「……?見つからない」

 

兄のそっくりさんの画像は見当たらなかった。

 

やはり気のせいだったのだろうか。そう思うと、今度こそ肩にこもった力が抜け、はぁ、と深く息吹いた。

肩すかしを食らったような気分になったが、同時に不安が膨れ上がっていた胸から、空気が抜けたような気がした。

 

「そりゃそうだよね」

分かりきっていた事。

ソファに(もた)れ掛かり、欠伸をする。

「……はや。もう1時間経ってたんだ」

 

そうやって時間を確認すると、再び兄の行方が気になってくる。

それに、「ハァ…」と、今日もう何度目かも分からない溜息を吐くと、突然脚元に何か柔らかく、それでいて暖かいものが当たった。

「ん?…あ、カーくん」

「にゃ〜」

ソフアに深く凭れさせていた首を上げ名前を呼ぶと、カーくんはまるで返事をする様に鳴き、ソファの上にあがり私の隣に寝転がった。

「うぃー。カーくんどうしたの?」

いつの間にこんな近付いてきていたのだろうか。

柔らかい毛並みの首元をうりうりと撫でると、カーくんは気持ち良さそうに喉を鳴らした。

 

「心配…してくれてるのかな。ありがとうカーく……ふあぁ…」

手のひらに触れる温もりに、眠気が襲ってき、私は再び大きな欠伸をした。

 

もう寝なければいけない。

「また明日帰って来てなかったら、結衣さん達に聞こう」

と、独り言ち、そのまま立ち上がる。そして、部屋に連れて行こうとカーくんに手を伸ばした、その時。

 

スマホの着信音がなった。

 

「はい!お兄ちゃん!?」

私は着信名も確認せず、通話ボタンを押す。

そして、スピーカーから流れ出たのは、

 

「比企谷妹!!比企谷はどうした!!今、家に居るか!」

平塚先生の声だった。

 

「…え?あの…え…」

しどろもどろとした私に、彼女は荒い口調で問う。

「比企谷はいるのか!!どうなんだ!!」

それだけの問いから、どれだけの焦慮と憂懼(ゆうく)が籠められているのだろうか。

 

その異常な態度に気圧され、額から汗が滲んだ。

「いえ、まだ帰って……って、……いや、待ってください!!何が、何があったんですか!?兄に、何が!!」

一度口を開くと、感情の波が襲ってきたかのように、言葉が止まらなくなる。

「教えて下さい!!まだ、帰って来てないんです!何か、知っているんですよね!?」

「………ッ」

平塚先生が電話越しに息を呑む。

「まさか本当にッ!……本当に、何も知らないのか?………今、御家族は…ッ」

彼女は激情を抑え付ける様に言葉を切り、重々しい声で尋ねる。

 

「…私一人です」

「分かった…ッ。……今直ぐ君の家に向かう、だから私が着くまで、絶対にその場から動くな、何もするな。携帯電話に触れることすらだ。分かったか。今から向かう」

平塚先生はそれだけ言うと通話を切ったようだった。

ブツッという音と入れ替わる様に、甲高い無機質な電子音がスマホのスピーカーから垂れ流され始める。

 

私はスマホを閉じ、ソファに背中から倒れ込んだ。

それに驚いたのか、カーくんが一瞬ピタッと動きを止め、そして慌ただしく逃げるようにリビングから出て行った。ドタドタと階段を上がる音がした。

 

「あ…待って、カーくん」

 

私はカーくんを追いかけ、リビングを出て階段を上がる。

そして、それはすぐに私の目に入った。

不自然に開いたドア。

 

…兄の、部屋だ。

 

昼間は明るくて気付かなかったが、電気を着けっぱにしていたのだろう、開いた隙間から微かながら光が漏れ出している。

それに、昼帰って来た時には開いて居なかった。と、いう事は。

 

「っと、見つけた」

 

部屋に入ると、カーくんはすぐに見つかった。

兄のベットの上でしぺしぺと毛繕いをしている。

「ほら、カーくん下戻るよーっと、電気消さなきゃ」

私は未だ光を発し続けているスタンドライトを消そうと、勉強机に近付く。そして、

 

「…?」

 

卓上に置かれて、一枚のルーズリーフのようなもの、…それが目に入った。

 

机の上は、ヤケに…いや、いっそ不自然さを感じてしまう程綺麗に整理され、本一つ置かれていない。

その真ん中にそれは置かれていた。

 

…よく見れば、まるで中身を見ろとでも言っているかのように。スタンドライトの光が、丁度紙に当たるよう設置されている。

 

無意識に喉が唾液を飲み込み、コクンと鳴った。

私は綺麗に折り畳まれているソレを、壊れ物でも扱うかの様にそっと開き。

 

「なにコレ…?」

 

中身は、私や結衣さん達、そして見知らぬ名前が幾つか書かれ、最後にありがとうと綴られているだけだった。

ハッキリ言って、意味が分からない。

 

何故兄はこんな物を書いたのだろうか。

 

そう頭を捻っていると、インターホンの音が家中に響いた。

 

「あ、そうだ。…平塚先生」

ルーズリーフを折り畳み直し、ズボンの右ポケットに突っ込む。

そして兄の部屋を飛び出し、階段を下り玄関へ駆けた。

玄関扉の向こうから、「比企谷妹!居るか!?」と声が聞こえてくる。

 

「あ、はい!今開けます」

扉を開け、返事をする。

 

次の瞬間。ーー肩を掴まれた。

突然の出来事に眼を見開く。

 

「比企谷妹、本当に比企谷は帰って来てないのか…」

肩で息をしながら、平塚先生が問う。

 

「え、あ、はい…」

「……そうか」

彼女はそう一言言うと、彼女は頭を項垂れた。

 

「教えてくれますよね?平塚先生が何を知っているのか…ッ」

「ひき……ガヤは…」

今度は私が問うと、彼女はカハッと息を吐き出し、歯軋りを鳴らした。

平塚先生の異常な動作、緊迫した空気。その一つ一つが私の胸をざわめかせる。

「比企谷…は…ッ」

 

ーーそして。

 

「……比企谷はッ」

 

 

ーーその五分後。私はその場に崩れ落ちた。

涙は出ず、ただ渇いた笑い声が口から漏れ出す。

 

気持ち悪い。

 

本当に気持ち悪い。

 

崩れ落ちる最中(さなか)、右ポケットの中身が乾いた音を立てた。

兄からの遺書はポケットの中で″クシャ〟と、乾いた音を立てた。

私の何かがクシャっと音を立てて潰れた。

 

 

 

 

懐旧。仄暗く、濁ったセピア色の記憶。

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

「ーー死んで当然だろォ!!?」

 

頭の中で何かが不快な音を立てて弾けた。

 

 

液体を、空気を入れ過ぎた風船がどうなるか。

末路は誰だって知っている。破裂する、破裂するのだ。そして、その中身を周囲に撒き散らす。

 

ずっと、おぞましい産声を溜め込んできた。産声をずっと風船に詰め込んできた。

コップの器を、出口の無い風船に変えたのは私自身で。自分の感情が漏れ出さない様に自分を偽った。

 

その上、中身を見たくないから、気付きたくないから。そんな理由で白い部屋に佇む黒い器を、ペンキを使い白く糊塗した。

それは紛れもない自分に対する欺瞞で、おぞましい行為だった。

 

それを証明するかの様に、喉が破裂した器の中身を吐露するように。

 

ーー私はおぞましい声を上げ、

 

「ふざけるなああああああああああああああッ!!!!」

 

 

ーー白い部屋は、撒き散らされた黒によって、暗澹(あんたん)と染まった。

 

 

驚愕が周囲の空気から感じられる。誰かが息を飲み、誰かが声を上げ、誰かが眼を見開いた。

それを背中に感じながら、脚を前へ、前へと走らせる。

 

陽乃さんの言葉が頭を過る。

何度も忠告はあった。それに耳を貸さず、見て見ぬフリをした。そのツケがコレだ。

ほら、こんなに苦しい。

 

視界が微かに滲み、足がもつれそうになったが、それでもブレーキをかける事なく突進する。

 

「あ?」

そんな声が一瞬聞こえ、ソイツと眼が会った。

 

ああ、殺してやりたい。

右腕に激痛が走る。

 

拳は喉笛に当たったらしく頭上から「ゲッ」と、蛙が潰れたかのような声が聞こえた。

それと同時に体が傾いていく、一瞬の浮遊感。

速度を出した体は止まる事が出来ず、そのまま押し倒す様な形になる。

 

硬いコンクリートに、頭を強く打ち付けたソレが、くぐもった声を漏らした。

それでも手を止める事なく、私は馬乗りになり拳を振り上げ。

 

そして、振り下ろした。

 

鼻から血をダラダラと垂らしながら、ソレは「ッグ」と低い声で呻き、私を睨めつける。

「何なんだ!クソッ…ッてぇ…ッなあ!!」

叫ぶソレの顔面に拳を振り下ろし続ける。鈍い音が鳴り、手に赤が付いた。

「……ガッ……ッ」

 

「お兄ちゃんが何をしたんですか…」

拳を振り下ろす。

「っテェッ……ッ!お前……、……アイツの」

 

腕に衣服が張り付く。振り上げた拍子に水滴が散った。

「返してよ……」

言葉にする度、拳を振るう度。煮詰められた黒い感情は、粘着性を持った汚泥の様に私の内側にへばり付いていく。

 

「クソ………ッ、どけよッ!!!!」

 

私の頬を衝撃が打った。

殴られた。

「………ッ」

鼻の奥から生暖かい温度が降りてくる。

 

痛かった。

当たり前のように、痛かった。

そうだ、当たり前なのだ。痛いに決まってるのだ。もっともっと痛かったに決まってるのだ。

それこそ、死んじゃうくらいに。

 

「………ッ!!」

 

鼻からぽたりと赤いしみが拳に落ちた。

私はその拳を思いっきり振り下ろす。

繰り返し、繰り返し。

 

「グゾォア″ッ!離ぜ…ッ!!」

 

同時に殴り返された。

鼻腔を刺す鉄の香り。

それでも私は。

「がッ!!」

拳を振り上げ、振り下ろす。

 

「はぁ……ッ!はぁ……ッ!!おい誰かコイツを止めろッ!聞いてんのかよッ!?おい…ぐ!…ぎあッ!!」

 

誰も動こうとしない。誰も喋ろうとしない。

ただ、傍観しているだけだった。

 

彼の(わき)に立っていた警官さえ、棒立ちになり動かない。

その顔が何を刻んでいるのか、下を見る私には分からないし、分かる必要も無い。

ただ、この間違いを正され無ければ、この行為を止められなければ、拳を振るう事を()めさせられ無ければそれで良いのだから。

 

「離せクソがッ!!ぐぅ……ッ、くそ、があッ!!」

 

「返せ」

手錠の付けられた腕で顔を覆うソレ。その横面を思いっきり引っ叩く様に殴る。

朱がべっとり鉄錆臭い華を咲かせる。

 

「はな、せ!おい、離せよ!……ぎ、くそ、やめ……ッ!!」

 

「返せ」

グジュと、トマトの潰れたような音がする。

再びソレの顔に赤が飛び散るが、その顔はすでに殆ど染まりきっており、肌色を探す方が困難の様に見える。

 

それでも、鎮まらない。

止めるものか。帰って来ないのだ、兄は二度と。

「や…めろ……、やめてくれ!頼む、ぐう、か……ッ!!やめ」

 

「返せよ……」

 

 返せ。

「や、やめ……て、く…」

「お兄ちゃんを返せよおおおおおおおおおおおおーーーーーーーッッッ!!!!」

 

皮の摺落ちた拳から流れる血で手がグチャグチャに染まる。私の血液は周囲に飛び散り、赤黒い点を作っていた。

 

感情を喪った様だと。そう自分に嘯いてきたモノクロの日々。

どんなに空虚で。どんなに無意味で。どんなに無価値でも、理解より無理解の世界の方がずっと私にとって優しくて。暖かくて。

だから、それに身も、心も、日常も。全て委ねようとした。無理解でいられるのなら、きっと非日常も、日常だと偽れるから。

理解は冷たいのだ。そして、果てしなく汚い。

現実は決して優しくなく、何処までも理不尽でつらいものだから。

 

でも。

 

もう風船は破れた。

 

激情の産声は悲鳴に変わった。

 

部屋は黒く染まっている。

 

嘯く声は消えてしまった。

 

理解してしまった。

 

ーー現実は、私を心地よいぬるま湯から引き摺り下ろした。

 

近くに転がっていたそれを両手で握り、逆手に持つ。

そして、腕を高く振り上げる。

 

誰かが小さく悲鳴を上げた。

 

中身のたっぷりと入った。開封されていないコーヒー缶。

血だらけになった手から流れる赤血球が、腕を伝い赤く歪んだ線を(えが)いた。

「死ね」

そして、私はソレの頭部に腕を振り下ろし。

 

「だめッ!!小町さん!!」

その身体を引き剥がされた。

狙いがズレた鈍器はコンクリートに当たり、″ガッ〟と鈍い音と共に、縁に深く、酷く不格好な曲線を作った。

 

半身を捻り、私を羽交締めにしている人物を()め付ける。

 

「雪乃さん、離して下さい…ッ」

「……嫌よ」

その一言を聞いただけで、汚泥が喉から込み上がた。

 

「離せぇええええええええええええッ!!」

 

絶叫し、拘束を解こうと腕を振り回す。

「小町さん!!」

「何でですか!!どうして邪魔をするんですかッ!!?コイツが……ッ」

 

呑んでいた嗚咽が、這い出ようと込み上がる。

「コイツが兄を殺したんですよッ!!?コイツが兄を追い詰めたんですよッ!!?」

 

視界が歪んでいく。前が見えなくなる。

「雪乃さんも見たじゃ無いですか!!あの写真を!!なのに、どうして止めるんですか!!

 

身体から力が抜けていく。

「殺してやりたくないんですかぁッ!!?もう、もう……ッ!!」

 

もうーー。

「兄は…帰って来ないんですよ………ッ」

 

兄は二度と帰ってーー。

 

「貴女が汚れたら、私は比企谷君に…もう、二度と。死んでも顔向け出来ないわ…」

囁きかけるような…けれど叫ぶような声が狂気から私を暗い現実へ戻す。

 

 

「全部私の自己満足、貴女を止めたのも全部私自身の為。彼が何より嫌った、…欺瞞よ…」

行き場を失った腕は地面へ垂れ、雨水を叩いた。朱色に染まった手に、冷たい泥水が染み込んでいく。

不思議と、痛みは無かった。

 

「分かってる、私だって赦せない。殺してやりたい。でも、もう…。何をしても、貴女が、私が手を汚しても……ッ、」

 

ーー現実は何処までも残酷に、私の最愛の家族を奪った。

 

「彼は帰って来ないの…」

その言葉が雨粒の様に内側に染み込んでいく。

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

「彼は帰ってこない」

そうだ、彼は帰ってこないのだ。

もう彼は二度とあの部屋へ変えてくることはない。

 

憎い。

 

憎くて堪らない。

 

この男を、今すぐ殺してやりたくて堪らない。

 

でも、ダメだ。耐えなければいけない。

私は小町さんを止めた。

でもきっと、本当に止めたかったのは小町さんじゃない。

止めたかったのは自分自身なのだ。

 

だから。

 

「彼は、帰って……来ないの……ッ」

 

私は気が狂いそうな感情に犬歯を突き立て、私は自分にそう言い聞かせ続けた。

 

雨はまだ止まない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




八幡の誕生日だ!!八幡の誕生日だ!やべぇ!祭りだ!!今日は祭りだ!!
天使!八幡は捻デレ天使だから!!
てか八幡の捻っぷりマジ可愛いよね!!
何ていうか、赤面させたい!デレさせたい!!てかいちゃつかせたい!!
八結、八雪、八色、八沙、八廻、八折、八留、八陽、八オリ!全てがベストカップリングだから!!
みんな違ってみんな良いですから!



10/8
あと一週間で終わる……。あと一週間で俺の人生を左右する一大イベントが終わるんだッ!!
投稿は来月からだよ。全然プロット組む時間無いからね。


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喪失者
その日、彼は目覚め。歯車は人知れず回り出す。上


 俺より先を歩く人影が見える。真っ白な世界で、彼女達の姿がハッキリと映る。

 一人は流れる様な黒髪をしている女の子。

 もう一人は明るい茶髪を団子にし、それを頭の上で纏めているのが特徴的な女の子。

「あ…っ、ゆ…」

 俺はその子達の事を知っているのか、その名を呼ぼうとする。

 だが、それよりも先に、

「どうしたの?」

「どうかしたのかしら?」

 二人の少女が向日葵のような笑顔を浮かべながら、振り返った。

 

「あ……っ」

 途端、視界がじんわりと滲んだ。

 

「ちょ、大丈夫…ーキー!具合悪いの!?」

 突然涙を流し始めた俺に二人が心配そうな声を掛け、駆け寄ってくる。

 泣き顔を彼女達に見られたくなくて。無様なところを見られたくなくて。

 俺は思わず顔を俯かせ、手で覆った。

 

 ″なんでもない。安心してくれ〟

 そう言わなければいけないのに、二人を安心させなければいけない……なのに、喉からは嗚咽を噛み殺した様な声しか出てこない。

 

「え、先輩!?なんで泣いてるんですか!?」

「お、お兄ちゃん!?」

 え…?

 顔を上げると、そこには甘栗色の髪をした少女と、黒髪にアホ毛をピョコンと立てた少女が立っていた。二人ともさっきの少女の達のように心配そうな目を俺に向けていた。

 

 いや、彼女達だけではない……そこには彼女達の他にも大勢の人々がいた。

 薄い笑みを張り付けた赤縁色の眼鏡をかけた少女。

 困った様な笑顔を浮かべた金髪の青年。

 彼の隣では明るいロールを巻いた髪をした少女が、くるくると指で髪を弄っている。

 その後ろでは、どこか蠱惑的に微笑みを浮かべた黒髪の女性が立っていた。

 女性の足下には青みがかった髪をした小さな女の子が。その隣には女の子に優しい笑みを浮かべたポニーテールの少女が。

 青みがかった髪をした姉妹。三つ編みをしたおでこの明るい少女。

 

「あ…」

 思わずその光景から目が離せなくなっていると、

「比企谷、どうしたんだっ?」

 背中から声を掛けられた。肩にポンと手が置かれる。

「…か先、生…」

 白衣を着た女性。彼女は何処か困った様な優しい微笑みを浮かべていた。

「……何があったのかは分からないが。……よく頑張った」

 そしてそう言うと、ゆっくりと俺の頭を撫で始めた。

 暖かな温もりが掌を通して伝わってくる。

「……ッ」

 ぼたぼたと溢れる涙が衣服に薄いシミを作る。

 

「八幡…?もしかして、また何かムチャしたの!?」

「まさか!?おい、八幡!我達はいつでも手を貸すと言っていただろう?」

 横を向くと、今度はそこに二人の少年がいた。

 彼等は俺に怒った様な表情を向けている。

 だがそれも一瞬のことで、すぐに優しげな表情を浮かべ直し、二人は俺に手を差し伸べた。

「ほら、いこう八幡!今日はみんなでお出かけするんでしょ?」

「そうだぞ!八幡!」

「っああ……、そうだな…っ」

 

 俺はその手を取って立ち上がる。涙は止まらない。

 

「ほら、行きましょ!先輩!!」

 トン、と俺の背中が押される。

「ヒッキー、もう大丈夫だよ!」

 女の子は微笑みながら言った。

「そうだぞ、比ーー君!今日は辛いことなんて忘れて遊ぼっー!いつでもお姉さんが相談に乗ってあげるからさ!ね、雪乃ちゃん!」

「いちいちくっ付かないで頂戴、姉さん。でも、そうねーー企谷君、今日は全部忘れて遊びましょう?」

 隔てる壁などなかったかの様に、二人の姉妹は笑っている。

 いつか見てみたいと、けれどその日は来ないだろうと思っていたその光景が目の前にあった。

 ヤバいな…涙が止まらない。

 ぐしぐしと眼を擦っていると背中をポンと叩かれた。

 

「ほら!急ぎたまえー…企ーー。みんな待ってるぞ?」

「そうだよ、早く早く!お兄ちゃん!」

 二人が前の方へ駆けていく。

「それじゃ、ーー幡!僕たち先に行っとくね!」

「うむ、早く来るのだぞ!!」

 

「ああ」

 

「はーやーくー!!ハニトー食べるって約束したじゃん!もう!」

 茶髪の少女が黒髪の少女の手を引きながら走っていく。彼女について行く黒髪の少女は、疲れ顔だ。

「待って…っもう少しゆっくり走って……っ」

 しかし、とても幸せそうに見えた。

 そんな妹の後ろ姿をニコニコした顔で見ながら、その姉は前へと歩く。

「まったく、小さい頃からだったけど相変わらず体力ないなー。まぁそこが可愛い所でもあるんだけど」

「ですね〜。それじゃ!私も。先輩も早く来てくださいね〜!」

 甘栗色の髪をした少女はそう言うと、あざとく笑った。そして、彼女たちに続く。

 走り音、歩き音は遠ざかっていく。

 

「早く来な!ーーー。けーちゃんも待ってんだよ!」

「そうだし!チンたらすんな!!ーーオ」

「マジそれっしょ!ーーくん!」

 

 それらの声にコクコクと頷いた後、涙をグイっと一気に拭う。

そして前を向いて俺は歩き始めた。

 視界の先で、彼等が笑っている。

 

「今行く」

 俺はそう一言彼等に言い、走り出した。

 みんなは俺が走り出すのを見て、安堵した様ににっこりと笑う。

 そして、くるっと体を前へと半回転させ緩やかに歩き出した。その最中で何人かが再び「早く」と俺を急かす様に手招きをしていた。

 

 思わず口元が綻ぶ。頬を伝う涙など、眼の痛みなどまるで気にならなかった。

 早く、彼等と一緒に行きたい。それだけを思い地面を蹴った。肺が上下に呼揺れ動く。足幅を大きく。俺は走る。

 

 ーーだから、すぐその違和感に気が付いた。

「…え……あっ?」

 遠い。彼等が遠い。

 頭の中を疑問符が埋め尽くす。

 彼等は歩き、俺は走っている。なのにその距離が縮まる気配は一向にない。

 

「……ッ」

 いつの間にか彼等の背中には黒い影が差している。廊下の窓から射し込む陽は罪科の様に赤く、俺を、彼等を照らしていた。

 いつから廊下を走っていたのだろうか。いつの間にか陽が傾いたのか。

 そんな疑問が湧いたが、離れ行く背中への焦燥に塗り潰されてすぐに消えた。

 上履きが地面に擦れ、キュッと高い音が鳴る。

「………ッ待ってくれ」

 荒い息を吐き、足を動かしながら言葉を発する。

 だが、その声が聞こえていないのか、彼等は少しずつ、だが確実に前へと進んでいく。

「おいッ!!」

 語尾を荒らげ、走るスピードを無理矢理上げる。そして逆光のためか真っ黒く染まった背中を追いかける。

 痛み出した脇腹を腕で押さえ付けながら。

 

 その時。一番後ろを歩いていた少女の横顔がチラと見えた。

 その横顔を見て、

「え……あ……」

 突然頭が冷えていった。さっきまで胸中にあった嬉しさ消えていく。

 冷たい汗が噴き出し、体がグラつく。

 そして、脚同士が衝突し俺はそのまま地面に体を強く打ち付けた。

 大した痛みない。その筈なのに、ぽた、と収まりかけていた涙が再び零れた。

 胸の内を孤独感が這いずり、走ったばかりで息が上がっているせいか呂律が上手く回らない。

 

「……っ……待てよ…っ、待てっ…」

 ギッと歯ぎしりを鳴らし、深く息を吐き出す。

 腕に力を込め、俺は伏せた体を起き上がらせた。そして、遠ざかっていく背中を睨めつけ、

 

 叫んだ。

 

「待ってくれよッ!!!!」

その言葉が聞こえていないかのように、影達は遠く遠くへ進んでいく。

 視界が滲んでいるにもかかわらず、その姿がやけにハッキリと映る。目を逸らすなと。見ていろと、そう俺に言っているようだった。

それが自分の内側を抉り出すように痛く、その空いた穴を埋める様に喚き散らす。

 拳を握り、何度も地面叩く。

 

「なんで止まってくれねぇんだよッ!!なぁ!なん…で……」

 彼等、彼女達の影が搔き消える様に、長い長い廊下に融けていく。

 地面に叩きつけた拳から、ゆっくりと力が抜けた。

嗚咽を漏らしながら、消えた背中へと、廊下の先へと伸ばす。しかし、その手が何かを掴むことはない。ただ寒く冷たい、虚空を掴んだ。

その手が地面に落ち、地面に額を当て、膝を折り腕を垂らす。

 水滴が鼻筋を伝い、廊下を濡らす。

「…………頼む……から…」

先程まで胸にあった温もりはまるで嘘だったかのように消え、気付けば凍てついた真冬の水道水身体を浸したかのような圧迫感と、漠然とした不安が胸に張っている。

喉張り付き、鼻が痛い。

「嫌…ッだ…。俺を……」

 呼吸重い。感情が肺に溜まり呼吸が苦しい。

 それを吐き出す様に俺は叫んだ。

 

「俺をッーーーーー

 

 

 

 

   ×   ×   ×

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




大変遅くなりました。二ヶ月近く待たせてしまい、本当に申し訳ありません。

今回はキリの良いとこで切ったので、量がかなり少なくなっています。上下回です。
あえてあるものに内容に触れないようにしたらこうなりました。
そして、プロットが出来ました。やたー。このまま突っ切るぜ!
てなわけでして、ここからは削除無しで記憶喪失編終了まで突っ切らせて頂きます。
何度も削除を繰り返し、多くの方々に不快な思いをさせてしまったと思います。
本当に申し訳ありませんでした。

あと、最近どうにもモチベが上がらないので、当分は「短編」…恋ガイルを更新していこうと思っています。


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